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幽霊記念日
赤川次郎
目 次
第一話 幸い住むと、ポチが鳴く
第二話 白鳥の歌を聞くとき
第三話 幽霊記念日
第四話 裏の畑でミケが鳴く
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第一話 幸い住むと、ポチが鳴く
1
|また《ヽヽ》か。
坂田宏一は、暗がりの中で、かっと目を見開いた。──もう我慢できん!
布団から起き出した坂田宏一は、もうずいぶんすり切れて、冬用にしては薄手になってしまったパジャマの上に、古いオーバーをはおると、台所へ行った。
──どこだ? どこにしまってるんだ、あいつは?
やたらに、台所の戸棚や引出しを見て回って、当然大きな音を立てる。
「──何してるんですか? あなた」
隣の布団で寝ていた、妻のサト子が起き出して来た。六十を過ぎると、当然、人間は眠りも浅くなるのである。
「包丁だ! 包丁はどこにある?」
と、坂田宏一はわめいた。
「大きな声を……。二階に聞こえますよ」
と、サト子はたしなめた。「包丁なんか、どうするんです?」
「決っとるじゃないか! あいつをぶっ殺してやるんだ!」
坂田は、ハアハア息をついた。怒りで、顔が紅潮している。
「そんなに興奮して……。お医者様に言われてるじゃありませんか。興奮するのは禁物だって」
サト子がため息をつく。「さあ、お布団に戻りましょう」
「戻ったって、眠れるもんか! あの犬の奴を黙らしてやらん限りは……」
「だからって──うちの犬じゃないんです。お隣の犬なんですよ」
「だから何だ! 一晩中ほえて、眠れないのを我慢しなきゃならんというのか!」
「でも、それはお隣と話をして──」
「むだだ! あいつの喉《のど》をかっ切ってやらなきゃ、黙りゃせんのだ!」
「そんな……犬を殺すなんて。いけません、生きものですよ」
と、サト子は言った。
「それなら、俺はどうなる? 俺は人間だぞ! 寝不足で寿命を縮めたら、あの犬が俺を殺したも同じだ!」
──ふっと、二人は黙った。
唐突に、静けさが戻って来たのだ。
「ほら、もう鳴いてませんよ」
と、サト子は言った。「さあ、やすみましょう」
「いや、またその内に、あの甲高い声でわめき出すんだ。俺には分ってる」
と、坂田は言った。
「ともかく、|今は《ヽヽ》静かでしょ。さ、早く寝ましょうね」
と、サト子は、夫の背中を押して、台所から出してしまった。
「畜生め……。人間様と犬とどっちが大事だ」
と、まだ坂田はブツブツ言っている。
サト子は、夫が開けっ放しにした戸棚や引出しを閉めて回ったが……。ふと、一つの棚を開けると、
「あら」
と、目をパチクリさせた。「本当に包丁が……。あなた」
「何だ」
「包丁を取りませんでした?」
「どこに持ってるって言うんだ?」
と、坂田が両手を広げて見せる。「どこに隠してるのか、言ってみろ!」
「分りました、分りましたよ」
と、サト子は手を振った。「でも……変ねえ。どこに行ったのかしら? 確かにこの棚に差しておいたんだけど」
サト子は、夫の方を見た。
坂田宏一は、サト子に背中を向けていたが、なぜだか、よろけるように、後ずさって来た。
「どうしたの?」
と、サト子が訊《き》いても、坂田は答えない。
「あなた──」
夫の方へ歩いて行こうとして、それまで夫の体に隠れていた|もの《ヽヽ》がサト子の目に入った。
そこに立っていたのは、孫のミドリだった。九歳になるミドリは、可愛い人形の絵のついたパジャマを着ていたが、そのパジャマは、赤い|しみ《ヽヽ》で汚れていた。
そして右手には包丁を重そうに提《さ》げていて、その刃から、手首まで、べっとりと血が包んでいた。
「ミドリちゃん……」
と、サト子は言ったが、声は震えていた。「どうしたの、一体? おけがをしたの?」
「ううん」
丸っこい、可愛い笑顔が横に振られて、「おじいちゃんが、眠れない、って言うからね。お隣の犬を、静かにさせて来たの」
と、少し舌っ足らずな声で言った。
「犬を?」
「うん」
ミドリは、青ざめている坂田宏一に向って、「もう、ゆっくり眠れるよ、おじいちゃん」
と、言った。
「ミドリちゃん……。それをおばあちゃんにかしてちょうだい」
サト子は、ミドリに近付いて、手を出した。
「うん。──はい」
血塗られた包丁をあっさりとサト子に渡すと、ミドリは、「お手手、洗った方がいいかなあ?」
と、無邪気に訊いたのだった……。
「だから何だって言うんだね?」
と、私は言った。「確かにショッキングな出来事だけど、それだからって、その子が成長して殺人鬼になるってわけじゃあるまい」
浜中弓子は、私の言葉を聞いても、あまり安心した様子ではなかった。
「ええ……。それは分ってるの。でも、ミドリは私の子で……。信じられないくらいのショックだったのよ」
「当然だよ」
と私は肯《うなず》いた。「しかし、それはもう何年も前のことなんだろう?」
「ええ。三年前」
「じゃ、その間に、ミドリちゃんが何か他のことを?」
「いいえ、何も起していないわ」
と、浜中弓子は首を振った。
「それなら何も心配することはないさ。そうだろ?」
私としては、学生時代の友だちの相談に乗り、励ましてやるのが、やはり警視庁捜査一課の警部としての義務と考えたのである。
それが間違っていたとは思わない。そう。たとえ、永井夕子が、
「──ちょっと、失礼します」
と、突然、私と浜中弓子のテーブルに加わっても、だからといって私が間違っているわけでは、断じて──。
「あの……」
と、浜中弓子が戸惑っていると、
「私、永井夕子といいます。女子大生です」
と、夕子はさっさと自己紹介をすませてしまった。「実は、隣の席で、お話をうかがっていて。すみません。この後、この宇野さんと夕食をとる約束になっているので」
「あら──」
「宇野|喬一《きよういち》さんの恋人なんです、私」
夕子がこう堂々と宣言してしまっては、私も苦笑する他はない。
「まあ、宇野さん、やるじゃないの!」
と、浜中弓子は楽しげに言った。「どうして再婚しないのかしらって、よく古い友だち同士、会うと話してるのよ。これで分ったわ」
「永井夕子君だ。いや、もう自分で言ったね」
と、私は言った。「──君、ここへ、もう一つグラスを」
「私、シェリーを一杯いただくわ」
と、夕子は言った。
「じゃ、お邪魔しても悪いわね」
と、浜中弓子はハンドバッグを手にした。
「いいえ! 私、この人の代りにお話をうかがいます」
と、夕子が止める。
「あなたが?」
「この人より、よっぽど気がききます」
と、言いにくいことをはっきり言って、「必要に応じて、助手もします」
「僕が君の、だろ」
と、私は言ってやった。「浜中君、この子のことは信用してくれていい。口は固いし、捜査の手助けをしてもらうことも、|たまに《ヽヽヽ》あるんだ」
|たまに《ヽヽヽ》、というところを強調しておいたのは、やはり古い友人の手前、立場というものがあるからである。
「面白い方ね」
と、浜中弓子は笑顔で夕子を見ていたが、「──もちろん、宇野さんが正しいことは、私も分っているの。でもね……」
「どうして、そんなに心配なんですか?」
と、夕子は訊いた。
「言いたくないこともあるさ」
と、私が言うと、弓子は思い切ったように首を振って、
「いいえ。何も私が恥ずかしがることはないんだわ。そうでしょう、宇野さん」
「そうだとも」
と、私は言った。
「夕子さん──だったわね。私の夫は坂田啓介といって、殺人犯だったの」
「そうですか」
と、夕子は肯いた。
「私たちは、結婚して私の実家に暮していたの。夫は運の悪い人で、勤める会社が次から次に潰《つぶ》れて……。もともと、私の父は夫を気に入っていなかったので、失業していた夫と年中口論をしていたわ。確かに、夫は、すぐに目上の人と喧嘩《けんか》してしまうというところがあって、父はそういう性格を、『無責任だ、役立たずだ』とののしっていたの」
「それが昂《こう》じて──」
「ええ。お酒が入って、特にひどくやり合った晩があってね……。夫は夜中に包丁で父を刺し殺し、気が付いて悲鳴を上げた母も──」
「そして、自分は家を飛び出し、川へ身を投げて死んだんだ」
と、私は言った。「あの時、ミドリちゃんはいくつだったかな」
「六歳だったわ」
と、弓子は言った。「もっと小さければ、何も憶《おぼ》えていないでしょうけど、六つとなると……。血が飛び散った、凄惨なあの現場を、ミドリは見てるのよ」
弓子の重苦しい胸の内も、分らないではなかった。しかし私としては、大丈夫だよ、と無責任に慰めるぐらいのことしか、できないではないか。
「私は心理学者じゃありませんけど」
と、夕子が言った。「でも、人間は成長して、過去の辛い記憶を克服できる、と信じてます」
「ありがとう」
と、弓子は言った。「そうおっしゃって下さると、少し落ちつくわ」
「でも、どうして、その犬の事件から三年たった今になって、急に心配になったんですか?」
夕子は、私が気にしていることを、ちゃんと見抜いていたのだ。つまり、三年たって、ミドリは十二歳になっているはずである。
今、浜中弓子が、学生時代の友人を、わざわざ呼び出して相談するというのは、何かよほどの理由あってのこと、と思わなくてはならない。
「──夫が死んでから、ミドリと二人になった私は、夫の両親と暮していたの。両親はとてもいい人で、ミドリのことも可愛がってくれているわ。私が仕事を持っているので、ちょくちょく家を空けても、安心してミドリを任せておけるの」
「三年前の出来事については?」
「ええ、その時はショックだったようだけど、子供のしたことだから、というので……」
と、弓子は言った。「ミドリも、私が言い聞かせたら、犬が可哀そうだったと言って──もちろん、犬を殺されたお隣は大変でしたけどね──犬のお墓を作ったりして、分ってくれたようだったの」
「それなら……」
「ええ。もう三年たって、お隣の家も別の人が住むようになり、私もミドリも忘れかけていたわ。ところが──」
と、弓子は言葉を切った。
「何かあったのかい?」
と、私は訊いた。
「ええ」
弓子は肯いて、「|犬が鳴いたの《ヽヽヽヽヽヽ》」
と、言った……。
2
「犬ですか」
と、原田刑事は目をパチクリさせて、「犬にかける手錠ってのはありましたっけ? いや、犬は四つ足だから、足錠《ヽヽ》かな」
「お前は気にしなくていいんだ」
と、私は言った。「おい、食べないのか?」
「食べますとも……」
鍋ものをつつく季節になっていた。もちろん原田なら、季節に関係なく、いくらでもつつくだろう。むしろ問題は、他の人間のつつく分が残っているかどうか、という点だった。
「だけど──」
と、食欲にかけては原田に|ひけ《ヽヽ》を取らない夕子が言った。「弓子さんの心配には、あれ以上の|何か《ヽヽ》があるのよ」
「何かって?」
「それは分らないけど。ただ、隣の家で犬を飼った、っていうだけで、そんなに不安になるわけはないわ」
「そりゃそうだな」
と、私は肯いた。「しかし──おい、原田、少しは俺の分も残しといてくれよ」
「あ、すみません」
と、原田は頭をかいた。
まあ、いい。──今夜は、この間犯人を逮捕するのに、原田が大いに活躍したので、それをねぎらうために夕飯を食べにこの店へ来たのだ。原田が食べるのは当然というわけだった。
「しかし、彼女のいやな思い出につながっている、ってことは事実だな、犬の声が」
と、私は言った。
「あの彼女は、何の仕事をしてるの?」
と、夕子が訊く。
「うん……。学校の教師だよ」
「先生か。──美人よね。すてきね、知的な感じがして」
「そうだな。まあ、昔から、なかなか人気のある娘だったよ」
「夕子さんがですか? そりゃ、当然ですよ」
と、原田はトンチンカンなことを言い出す。
「いいから、お前は食べろ」
と、私は言ってやった。
「あなたも振られた口じゃないの?」
と、夕子が冷やかす。
「いや、僕は別に……」
と、私はとぼけた。
学生時代には、男の子たちの憧れを一身に集める女学生というのがいるものだ。確かに、浜中弓子はそういう女性だった。
しかし──その年代を過ぎると、たいてい、そういう女性は、全く別の世界の男と結婚する。
「ともかく、役に立てることがあれば、やってやりたいと思うよ」
と、私は言った。
店は結構混雑していた。忘年会、というには少々早いが、まあどの会社も仕事の忙しいころである。ちょっとした息抜きには、いい時期なのかもしれない。
「失礼いたします」
と、店の入口に立っている男が、私たちの席へやって来た。
「何か?」
「警視庁の宇野様でいらっしゃいますか」
「ええ……」
「お客様がお目にかかりたいと」
私と夕子は顔を見合わせた。──こういう仕事をしていると、いつどこで誰に狙われるか分らない。
どんな「お客様」なのか分るまで、用心に越したことはないのである。
「じゃ、こちらへ通して下さい」
と、夕子が言った。
確かに、表に出て、キョロキョロしているところをズブリと一突き、なんてこともないではない。もちろん、店の中なら大丈夫というわけでもないけれど。
「かしこまりました」
と、店の男が一旦《いつたん》戻って、連れて来たのは……。
「こんにちは」
と、|その女《ヽヽヽ》は言った。
いや、女《ヽ》には違いないが……。
「あなた……お名前は?」
と、夕子が目をパチクリさせながら、訊いた。
「浜中ミドリ」
と、その女──いや、少女《ヽヽ》は言った。「宇野さんの|奥さん《ヽヽヽ》ですか」
「いえ……。あのね、私は永井夕子。|これ《ヽヽ》が宇野さん」
「この大っきい人は?」
と、ミドリが目を丸くして、原田を眺めている。
「部下の原田刑事だよ」
と、私は言った。「ミドリちゃんか。よくここが分ったね」
「捜査一課っていう所に電話したら、たぶんここだって」
「おい、原田、お前しゃべったのか」
「さあ、よく憶えてませんが」
と、原田はとぼけている。
「ま、いいや。君もどうだい? 食べる?」
「いいの?」
と、ミドリは微笑《ほほえ》んだ。
もちろん私にはロリコンの気はない。しかし、そのミドリの笑顔を見た時、思わずドキッとしたのは、その笑顔が、昔の弓子を思い出させたからだろう。
「お腹空いてたの」
「じゃ、お姉ちゃんのそばに座って」
と、夕子が言った。「ね、少し追加しないと、足りないわ」
「うん」
私は、ほとんど空になっている鍋を見て、肯いた。俺はまだ大して食べていないのに……。
ともかく、私と夕子、原田に浜中ミドリという、はた目にはどういうグループか、見当もつかない夕食会《ヽヽヽ》とはなったのである。
「──おいしい」
と、食べ始めると、ミドリはにっこり笑った。
十二歳といっても、今の子は体も大きいし、どことなく色っぽいような雰囲気さえ、持っている。
「このおじさんに、何のご用だったの?」
と、夕子は少し落ちついたところで、言った。
「うん。私のこと、逮捕してもらおうと思ったの。手錠って、子供用もあるの?」
と、ミドリは訊いた。
「お騒がせしてごめんなさい」
と、浜中弓子は言った。「帰ってみたら、ミドリがいないから、びっくりして……。義父や義母も真青になって、捜し回っていたの」
「その間、当人はのんびり鍋をつついていたわけだ」
と、私は言った。
「ごめんなさい、本当に」
「いや、そんなことはいいんだよ」
と、私は首を振って、居間のソファでお腹も一杯になってスヤスヤと眠っているミドリへ、目をやった。
「ミドリちゃんの話は本当なんですか」
と、夕子が訊いた。「夜中にフラッと起き出して包丁を──」
「ええ」
と、弓子は、ため息をついた。「犬の鳴く声を聞いて、起き出したらしいの。それで、気が付いたら、包丁を握って立っていた、って……」
「そう本人が?」
「ええ。──本人が胸を痛めてるの。自分が何か恐ろしいことをするんじゃないかって。それが分るから、可哀そうで」
「困ったね、それは」
と、私は首を振って、「何度もあったのかい?」
「二度。──こんな風に、ぐっすり眠っている時は大丈夫みたいね」
「なるほど」
──玄関のチャイムが鳴る音がした。
弓子が立って行く。もう夜の十時半だ。坂田啓介の両親は、先に休んでしまっていた。
「──入って下さい」
と、弓子が案内して来たのは、五十がらみの、スラリとした紳士だった。
「宇野さん。こちら、お隣の西沢紘治さん……」
と、弓子が少し目を伏せがちにして、紹介した。
「──どうも」
と、その西沢紘治という男は、私の手を握って、「お噂《うわさ》はうかがっています」
いかにも、|そつ《ヽヽ》のない口調である。
「あの──」
と、弓子は、少しためらいがちに、「西沢さんと、近々結婚することになっているの、私」
「そりゃおめでとう」
私は、心からそう言った。「いや、実にすばらしい女性ですからね」
「同感です」
西沢は肯いて、「私も妻を亡くして、十年になります。息子が一人いますが……」
家の外にブルル、とオートバイの音がした。
「|あれ《ヽヽ》です」
と、西沢は言って、苦笑した。「二十七にもなって、オートバイに狂ってましてね。困ったもんですよ」
「でも──ご一緒に暮されるわけでしょう?」
と、夕子は訊いた。
「もちろん、そういうことになります。この──」
と、西沢は、眠っているミドリの方を見て、「ミドリちゃんとも一緒にね」
オートバイの音がやむと、犬の吠える声が聞こえて来た。
「紘一郎の奴、珍しく家で寝るのかな」
と、西沢は言った。「ともかく、ミドリちゃんに何事もなくて良かったね」
「ホッとしたわ」
と、弓子は肯いた。「心配かけて、すみません」
「何もなきゃ、それが一番さ」
と、西沢は、弓子の肩に軽く手をかけた。
「こんなこともあるし、早く一緒に暮そうと言ってるんですが、彼女は、来年の春の式までは、と言い張ってまして」
「私は教師よ」
と、弓子は言った。「けじめはきちんとしておきたいの」
「君のいいようにするさ」
と、西沢は微笑《ほほえ》んで、「じゃ、僕はこれで」
「送るわ」
──二人が玄関の方へ出て行く。
「いいムードじゃない」
と、夕子は言った。
「そうだな。しかし……。この子の話は本当かな」
「嘘をつく理由もないと思うけど」
「それはそうだけど……。まあ、当人が何でもないことだと納得すればいいことなんだろうな」
と、私は言った。
「ねえ、もし──」
夕子がその先、何を言うつもりだったのかは分らない。その時、表の方で、とてつもない大きな音がしたからだ。
私も夕子も、一瞬、唖然《あぜん》として突っ立っていた。
「──何だ?」
「爆発みたいだったわ」
「行こう!」
私は居間を飛び出した。もちろん、夕子もついて来る。
玄関から外へ出ると──隣家の前で炎が上っていた。火の塊《かたまり》になっていたのは、かなり大型のオートバイらしい。
「──宇野さん!」
と、走って来たのは、弓子である。
「どうした? 大丈夫かい?」
「ええ……。西沢さんを送って、あそこの玄関まで入ったところで──。突然ドカン、って……。何事かしら?」
「分らないけどね。しかし、ともかくけが人がなくて良かった」
「どうしたのかしら?」
と、夕子が呆《あき》れ顔で眺めている。
「さあ……。ガソリンが洩《も》れてて、火花か何かが引火したんじゃないか? 誰も乗ってないのに、妙ではあるけどね」
と、私は言った。
すると、玄関のドアから、若い女が凄《すご》い勢いで飛び出して来た。若い女? いや、男だ。
髪がえらく長いので、女かと思ったのである。
「──誰だ! こんなにしやがって! 俺の恋人《ヽヽ》に、何てことをしたんだ! ──畜生!」
その男は金切り声を上げたと思うと、その場に膝をついて、ワーッと泣き出してしまった。私は呆気《あつけ》に取られて見ていたが、
「あれが……」
「西沢紘一郎さんよ。一人っ子で、|少し《ヽヽ》甘やかされて育ったんだけど」
と、弓子は言って、不安げに、その若い男を見ている。
「何事だ」
と、西沢紘治が出て来た。「──どうしたんだね?」
と、私たちの方へやって来る。
「分りませんね。音を聞いて、びっくりして飛び出して来たんですが」
「おい、紘一郎」
と、西沢は顔をしかめて、「何だ、みっともない! オートバイが燃えたぐらいで泣くな」
「オートバイは俺の恋人なんだ!」
と、西沢紘一郎は、父親に食ってかかった。「父さんなんかに、何が分る!」
「泣きたきゃ泣け」
と、西沢は突っぱねるように、「ただし、家の中でな」
「俺は見届けるんだ。この彼女《ヽヽ》の最後を……」
グスン、とすすり上げたりしている。
まあ、バイクが恋人でも一向に構わないのだが、その泣き顔は、とても二十七歳には見えなかった。いいとこ、高校生である。
「手入れが悪かったんじゃない?」
と、言ったのは夕子だった。
「馬鹿言え! 俺は生命よりこのバイクを大切に──」
と言い返して、西沢紘一郎は、炎の明りに照らされた夕子に初めて気付いた。
そして、ちょっとの間、ポカンとして夕子を眺めていたが、
「君は?」
「紘一郎さん。私の古いお友だちの宇野さんと、永井夕子さんよ」
と、弓子が代って答えた。
しかし、紘一郎の方は、夕子から一瞬も目をはなさず、
「そうか! ──分ったぞ」
と、力強く肯いた。
「失礼ですけど、何が分ったの?」
と、夕子が訊き返す。
「僕のバイクが燃えて、代りに君が目の前に現われた! これこそ奇跡だよ!」
いつの間にやら、「俺」が「僕」になっていて、バイクの方にはもう目もくれず、
「君は、あのバイクの生れ変りなんだ!」
と、大|真面目《まじめ》に言った。
これには、夕子も私も、怒りも笑いもできず、呆然としてしまったのである。
西沢紘治が渋い顔をするのも無理はない。その時、
「わあ、きれい!」
パチパチ、と手を叩く音。──いつの間にやら、ミドリが外へ出て来て、燃えるオートバイを見物《ヽヽ》していたのだ。
「ミドリちゃん! 風邪《かぜ》引くわよ」
と、弓子があわてて、駆け寄った。
「ねえ、お母さん」
と、パッチリ目を開けたミドリは訊いた。「あれ、何ていう花火なの?」
一方、西沢紘一郎は、夕子の方へと歩み寄り、
「僕の愛《いと》しいバイク……。もう僕は君をはなさない!」
と、手をつかもうとする。
「何すんのよ!」
夕子がヤッと手を振ると、紘一郎の体は一回転して、地面にお尻をしたたか打ちつけていたのだった……。
3
「全く、もう!」
と、夕子がうんざりしたような声を出す。「いい加減にしないと、ぶっ殺してやるから!」
「おいおい」
と、私は苦笑して、「刑事の前で、そういう物騒な言葉を出さないでくれよ」
「だって……。何とかしてよ!」
夕子がむくれるのも、まあ無理はない。
土曜日の午後、私は坂田宏一から呼ばれて、坂田家へと向っているところだった。車の助手席には夕子。
大学の方は、自主休講──要するに、さぼっているのである。
そして、私と夕子の乗った車に、ずっとくっついて来ているバイク一台。言うまでもなく、西沢紘一郎である。
バイクの方は、誰かからの借りものか、燃えてしまった前のものより大分安物らしかったが、ともかく、夕子をこのところずっと追い回しているのだ。
「何を考えてんだろ、あの男?」
と、夕子もさすがに参っている。
「本当に君をバイクの生れ変りと思ってるのかもしれないぞ」
と、私は笑って、言った。
「冗談じゃないわ。私はちゃんとガソリンじゃなくて、血が血管を流れてるんだから」
「ま、放っとけよ。その内には諦めるさ」
と、私はハンドルを切って、「──この先だったな」
「でも……。坂田宏一さんが何の用なのかしらね?」
「知らないな。孫のことで、としか言わなかった」
「弓子さんには知らせたくないのかしら」
「うん。どうもそうらしい。だから、ぜひ昼間に来てほしい、ってことだったんだ」
夕子は、ちょっと首を振って、
「どうも、気になるわ」
と、言った。
名探偵は、いつもささいなことが、気になるものなのである。
「何を気にしてるんだい?」
「うん……。西沢紘治って、結構大変な人なのね」
「かなりの大物らしいな。僕もよく知らなかったがね」
「息子があれじゃ、後のことが心配でしょうね」
と、夕子はチラッと後ろを振り向いて、言った。
西沢紘一郎が、相変らずくっついて来ている。
それには構わず、車を坂田家の前に停め、外へ出ると、音を聞きつけたのか、坂田宏一が姿を見せた。
「どうも、わざわざ……。お入り下さい」
と、玄関のドアを開けて言った。
私たちが中へ入ると、坂田宏一は、
「女房は買物に出ていまして。私一人で、お茶も差し上げられませんが」
「いや、お構いなく」
と、私は言った。「ところで、ご用件というのは?」
「実は──」
と、坂田宏一はためらって、「二階へどうぞ。直接見ていただいた方が……」
階段を上って行く坂田宏一の足取りは、しっかりしていた。もう六十八──確か、それぐらいの年齢になっているはずだが、どうして、体つきもしっかりしたものである。
「今、私は二階で寝ていまして」
と、坂田は言った。「女房は下にいるんですが、私はむしろ、階段の上り下りをした方が、足も弱らずにすむのでね」
「なるほど」
「ここが私の部屋なんですが……」
と、坂田が戸を開けたのは、八畳間で、タンスや戸棚がいくつか並んでいる。
部屋の中央に、布団が敷かれていて、そして……。私も夕子も、一瞬、立ちすくんでしまった。
布団のど真中、ちょうど、普通に寝ていれば、人の心臓辺りに当るところに、包丁が深々と突き刺さっているのだ。
「──ゆうべのことです」
と、坂田宏一が重苦しい口調で言った。「夜中の三時ごろでしたか……。私は手洗いに起きました。二階にもあるのですが、水の流れる音で弓子さんが目を覚ましても、と思い、下へ降りたのです。そして戻ろうとした時……。ミドリがフラッと私の前を歩いて行くのです」
「あなたに気付かずに?」
「ええ、全く。もちろん、私はミドリの後ろにいたのですが、それでも、ちゃんと目が覚めていれば、気が付くはずです」
「それで?」
「ミドリの手に、この包丁が握られていました。──私は、ゾッとしましたよ。三年前の、あの夜の出来事を思い出しましてね」
と、坂田は肯いて言った。「しかし、ミドリは、至って落ちついた足取りで、階段を上って行きました。そして──見ていると、この部屋へ入り、布団にこの通り……」
私も夕子も、言葉がなかった。
「それから、ミドリは、自分の部屋へ戻って行きました。少しして覗《のぞ》いてみると、スヤスヤ眠っていましたよ」
と、坂田宏一は言った。
「弓子さんはこのことを?」
と、私は訊いた。
「いや、知りません。知らせるのは気の毒で……」
と、坂田は首を振って、「もし、あの子の中に、殺人者の血が流れているとしたら、それは私の息子のものですからな」
「軽々しく、そんなことをおっしゃるものではないと思います」
と、夕子が言った。「人間、誰でも一歩踏み間違えたら、人を殺すことだって、あり得るんです」
夕子の言い方は厳しかった。──もちろん殺人は憎むべき犯罪だが、その犯人への憎しみを煽《あお》り立てることは、殺人をなくす役には立たない。それは、直接、殺人事件に係《かかわ》っている私が、一番よく知っていることである。
「血の犯罪」──「殺人者の子供は殺人者」といった安直な考えに飛びつくのは偏見というものだ。
人間は弱いものなのだ。──それを忘れたら、刑事やジャーナリストはおしまいである。
「いや、確かに」
と、坂田は頭をかいて、「私も、ミドリがただ、ちょっとした病気なのだと信じたいのですがね」
夕子は、包丁を引き抜いた。
「──これはどこにあったんですか?」
「台所でしょう、もちろん」
「では、元の所へ戻しましょ」
と、夕子はあっさりと言った。
「しかし──」
と、坂田の家を出て、私は言った。「いいのかい、何か手を打たなくて」
「まだいるわ」
と、夕子は、少し離れた所にバイクをとめている西沢紘一郎を見て、ため息をついた。
車が走り出すと、夕子は言った。
「あの話は怪しいわね」
「何だって?」
私はびっくりした。「怪しいって、どういうことだい?」
「あの包丁の突き刺さり方よ。抜くのに、ちょっと力が必要だったわ。いくら夢遊病かもしれないけど、あの女の子の力で、あんなに深く刺せないわよ」
「すると……あの坂田宏一が、嘘をついてる、と?」
「たぶんね」
「しかし──なぜ、嘘をつくんだ?」
「それは知らないけど。でも、軽く刺しただけじゃ、布団の上に包丁が置いてある、ってことになって、ショックが少ないと思ったんでしょうね。力をこめて、下まで突き刺した……。でも、ちょっとやりすぎよ」
「分らないな」
と、私が首をかしげると、
「何か起りそうだ、ってことだけは、はっきりしたじゃないの。でも、たぶん……。私たちが考えているようなことじゃないと思うけど」
と、夕子は、いつもながら、わけの分らないことを言った。
「もし、あの坂田宏一が嘘をついてるとしたら……。何のためだ?」
「そんなことまで、いくら私でも分んないわよ」
と、夕子は首を振った。「でもね、考えてみて。あの子が眠りながら台所へ行って、包丁を持ち出す、っていうのはあり得ないことじゃないと思うのよ。三年前のことを、ミドリちゃんも憶えてるでしょうからね。でも、それなら当然、母親が包丁を|別の所へ《ヽヽヽヽ》置くと思わない?」
「なるほど。それもそうか」
と、私は運転しながら、肯いた。「すると、もしあの坂田の話が事実としても、包丁をミドリに持たせたのは──」
「私の見たところでは、坂田宏一ね」
「ふむ……。問題は動機か」
「目的《ヽヽ》よ。同じことだけどね。|なぜ《ヽヽ》、そんなことをしたのか」
「つまり……。おい、こりゃ大変じゃないか!」
と、つい声は高くなっていた。「もし、坂田が誰かを殺そうとしているとしたら」
「事前にあれを見せておいて、ミドリちゃんが眠っている間にやった、と思わせる」
「それだ。いや──そんなこと、簡単にゃできないが」
「やってしまってからじゃ遅いものね」
「うん。──どうしたらいい?」
「決ってるじゃないの」
夕子はあっさりと言った。
まあ、もちろん……。私にも、どうしたらいいか、というのはよく分る。しかし、私には捜査一課の警部としての仕事があり──。
もちろん、そんなことを、夕子が気にするわけもないのだが。
「分ったよ」
と、私はため息をついたのだった……。
「ちょっと」
と、夕子にわき腹をつつかれて、私は目を開けた。
「うん……。もう朝か?」
「何、寝ぼけてんのよ」
と、夕子は言った。「眠っちゃしょうがないでしょ、見張ってるのに」
そう言われてもね。──夕子は大体夜に強い大学生、私の方は昼間、他の仕事で散々歩き回って、ヘトヘトと来ている。
「何かあったかい?」
「今のところは何も」
と、夕子は言って、「コーヒー、持って来たの。飲む?」
と、スマートなデザインの魔法びんを取り出す。
「ありがたい! もらうよ」
と、私は大|欠伸《あくび》をして、「もう十二時か。ずいぶん夜ふかしだな」
──隣同士の、坂田家と西沢家。
どちらにも明りが点《つ》いている。もちろん、今どき、十二時ぐらいじゃ、「遅い」とは言わないのかもしれないが。
「はい、どうぞ」
と、プラスチックのカップに熱いコーヒーを注いで、渡してくれる。「ブラックでいい?」
「いいよ」
「待って、|一つ《ヽヽ》、加えてあげる」
「何を?」
車の中とはいえ、まああまり暖いとは言えない。夕子と私は大体、あったかい格好をして座っていたのだが──。
確かに夕子の優しいキスは、コーヒー以上の「目覚まし」だった……。
ブルル──。エンジンの音がして、オートバイが、私たちの車のそばを駆け抜ける。
「キャッ!」
夕子がびっくりして、「──また、あいつだわ!」
「西沢紘一郎か」
「しつこいんだから、本当に!」
と、夕子はうんざりしたように言った。
「ずっと追い回してるのか?」
「大学の門の前でも待っているしね。忠犬ハチ公なら、まだ可愛げがあるのに」
犬……。そうか。
例の西沢家で飼っている犬は、今のところは静かなようである。
「ね、西沢さんのとこの犬、見た?」
と、夕子が訊く。
「うん。立派な犬だ。秋田犬だろ」
「少し、他の犬の血も入ってるらしいけど。それより、名前を聞いて笑っちゃったわ」
「名前?」
「ポチ」
「まさか」
「本当よ」
「ま、犬だってことはすぐ分るだろうけどな……。それにしても、よくそんな名前をつけたもんだな」
と、私も笑ってしまった。
もちろん、犬自身《ヽヽヽ》はそんなこと、知りゃしないだろうが──。
「明りが消えたわ」
と、夕子が言った。
坂田家の一階の明りが消え、二階の窓が一つだけ明るい。西沢家の方は、まだ明りが点いていた。
そして、道の少し離れた所に、西沢紘一郎のオートバイのライトが見える。──何だか舞台装置を見ているような気分だった。
──夜はふけて行った。
一時、二時……。
夕子が起きている、というので、私は少し眠ることにしてシートを倒した。すぐに眠りに入る。どこでもパッと寝られなくては、刑事はつとまらない。
そして──。どれくらい眠っただろうか。私は目を覚ました。
別に銃声がしたわけでも、悲鳴が聞こえたわけでもない。ただ──|犬が鳴いた《ヽヽヽヽヽ》のである。
吠える、というより、どこか哀しげな、尾を引く鳴き方で……。何となく、私は落ちつかない気分になった。
そして、夕子に話しかけようとすると……。
夕子がいない!
私は完全に目が覚めてしまった。──どこへ行っちまったんだ?
夕子の無鉄砲さに、こっちは冷汗をかかされるばかりである。
車を出て、周囲を見回す。ずいぶん気温が下っていて、一瞬、身震いする。
暗がりの中に目をこらす。──といっても、何も見えない。
いつの間に出て行ったんだろう? もし、何か危険でも感じたのなら、私を起こして行くはずだし……。
私は、西沢家の方が、すっかり明りも消えて、坂田家の二階の一部屋にだけ明りが点いているのに気付いた。あの部屋は……。確か、坂田宏一の部屋ではなかったか。
私が坂田家の玄関の方へ、あまり足音をたてないように気を付けながら進んで行くと──。急に、ぐっと腕をつかまれた。
「ワッ!」
「静かに!」
夕子である。植込みのかげに隠れていたらしい。
「何してるんだ?」
「今、誰かが入って行ったの、この中に」
と、夕子は言った。
「起こしゃいいじゃないか。黙っていなくなっちまうから……」
「あら。だって、いかにもお疲れのご様子でしたからね」
と、夕子は冷やかすように言った。
「あの部屋に明りが点いてたぞ」
「そうなの。今まで消えていたんだけどね。──犬が鳴いたでしょ」
「うん。それで起きたんだ」
「心配だわ」
「何が?」
「分らないけど……。ともかく、何か起きるような気がする」
夕子は、不安げだった。「ね、不法侵入の責任取ってくれる?」
「僕が?」
私は、ため息をついて、「分ったよ」
「じゃ、入ろう」
夕子は先に立って、玄関へ。──鍵がかかっていない。それも妙だった。
「二階へ行きましょう」
と、夕子は囁《ささや》いた。
そっと玄関から、足音を忍ばせて、階段を上る。刑事としては、泥棒の気分を体験する、貴重な機会だった(?)。
「戸が開いてる」
と、夕子が言った。
昼間、坂田宏一が案内した部屋から明りが廊下に射していた。そして──人影らしいものが、チラッと動いた。
私と夕子は、その和室の中を覗《のぞ》いた。
──まさか! 私は思わずそう叫びそうになった。
それは、あまりに「できすぎた」光景だった。
坂田宏一が倒れている。胸を血に染めて。そしてその傍に立っているのは、包丁を手にした、パジャマ姿のミドリだったのである……。
4
やがて、夜が明けようとしていた。
少し空が乳白色に変り始め、私はその空を仰《あお》いで、息をついた。
「──どう?」
と、夕子は言った。
「やっと一段落だ」
と、私は肯いて、「しかし、最悪の展開になったじゃないか」
「そうとも限らないわよ」
と、夕子は言った。
「しかし──」
「ともかく、中へ入りましょ」
と、夕子は言った。「ね、あの人も連れて来て」
「あの人?」
夕子が黙って指さしたのは、相変らずオートバイにまたがって、離れた所に止っている、西沢紘一郎である。
ともかく、西沢紘一郎を加えて、浜中弓子とミドリ、そして呆然としている坂田サト子、西沢紘治の五人は、西沢家の居間に集まった。
「とんでもないことになって」
と、夕子が坂田サト子に言った。
「いいえ……」
サト子は夫の急死で、呆然として、まだ感情が麻痺している様子だった。
浜中弓子は、青ざめてはいたが、しっかりと娘を抱き寄せ、ソファに背筋を伸して座っていた。
西沢紘治は額に深くしわを寄せて、腕組みをしている。息子の紘一郎の方は、夕子の隣に座ろうとして、けとばされそうになったりしていた……。
「あと一人《ヽヽ》いれば、全員です」
と、夕子は言った。
「あと一人?」
と、弓子が不思議そうに言った。「誰のことです?」
「正確には一人《ヽヽ》じゃなくて、一匹。ポチのことです。それで、事件の関係者が全員ということになります」
「犬を連れて来るのかい?」
「その必要はないでしょ。犬は証言できるわけじゃないし」
と、夕子は言った。「西沢さん」
「はい!」
「あなたじゃなくて、お父さんの方」
と、夕子は素気なく言った。
「あ、そう……」
と、西沢紘一郎は、がっかりした様子。
「あのポチって犬ですけど、どうして飼われるようになったんですか」
「ポチかね? それは……」
と、西沢は少し戸惑って、「まあ、ここへ越して来て、やはりちょっと寂しい所だしね。用心の意味もあって」
「そうですか」
「それに紘一郎の奴が、気に入っているんでね。──ポチがどうかしたかね?」
「いえ、そういうわけじゃないんです」
と、夕子が首を振る。
なるほど、と私は思った。
ミドリが犬の声で夜中に起き出して、あんなことをやると知っていれば、当然、西沢は犬を飼うのをやめるだろう。
紘一郎が可愛がっているというので、弓子も、とてもそうは言い出せなかったのに違いない。
「宇野さん」
と、弓子が言った。「ちょっとお話が」
「僕に?」
「二人で。──お願い」
弓子の目は、何かを決心した者の目だった。
「分った」
私は肯いて、玄関を上った所の応接用の小部屋へと弓子を入れた。
「──あの子じゃないわ」
と、弓子は言った。
「うん……。まあ、僕も夕子も、ミドリちゃんが、包丁を持って立っているのを見ただけだ。刺すところは見ていない」
「そうでしょう? あの子じゃないわ、あの子は、そんなことやらないわ」
と、弓子は早口に言った。
「ミドリちゃんは何と言ってる?」
私の質問に、弓子はちょっと顔を曇《くも》らせて、
「何も憶《おぼ》えていない、って。──でも、だからって、やったとは限らないわ」
「もちろんさ」
と、私は弓子をなだめた。「心配するな。そう簡単に犯人を決めつけるようなことは、僕はしないよ」
「ごめんなさい」
と、弓子はため息をついた。「分ってるのよ。あなたが精一杯やってくれることは……」
「信じてくれ。──ところで、坂田さんは、何か財産とか、持っていたのかい?」
「義父が? ──そうね」
と、少し考えて、「まあ、強いて言えば、あの家と土地かしら。でも、そんなに大したものとは言えないわ」
「他には別に?」
「特に聞いたこともないわ」
「分った。──ともかく、後でどうするかはともかく、今は真相を探り当てるのが先決だ」
「ええ、分ってるわ」
と、弓子は肯いた。
少し落ちついた様子だ。
居間へ戻ろうとすると、夕子がヒョイと応接間へ顔を出した。
「何だ、どうかしたのか?」
「真犯人の告白は残念ながら、まだないわ」
と、夕子は言った。「弓子さん、ちょうどいい機会なので、うかがいたいんですけど」
「ええ……」
夕子は応接間のドアを閉めた。
「──謎《なぞ》はいくつかあるの」
と、夕子は言った。「どうして坂田家の玄関の鍵があいていたのか。それから、こっそりと坂田家へ入って行ったのは、誰だったのか。そして──」
「まだあるのかい?」
「なぜポチがあの時、鳴いたのか、ってことね」
と、夕子は言った。「弓子さん」
「何かしら?」
「どうしてここへ宇野さんを連れて来たんですか」
弓子は、面食らった様子だ。
「どうして、って……。ミドリの前で話したくなくて」
「宇野さんを誘惑するつもりだったとは思いませんけど」
と、夕子は言った。「本当に聞かれたくなかったのはミドリちゃんじゃなくて、坂田サト子さんの方じゃなかったんですか?」
弓子がハッとしたように息をのんだ。
「──どういうことだい?」
「つまり、あなたが、ミドリちゃんのやったことだと思っているのなら、自分がやった、と言うつもりだった。──違います?」
夕子の言葉に、弓子は目を伏せた。
「君がそんなことをやる理由がない」
と、私は言った。「そうだろう?」
弓子は夕子を見て、
「分っているのね」
と、言った。
「どうして、義父の坂田宏一さんが二階に寝ているのか。奇妙じゃない? 年齢の割には、がっしりして、体つきもしっかりしているのに」
「というと?」
「つまり──一緒に暮していれば、当然、息子の嫁を、女として見るようになる、ってこと」
「何だって?」
私は唖然として、「そんなことが……」
弓子は、固い表情で、首を振った。
「いえ、宇野さん、夕子さんの言う通りなのよ」
「じゃ、君は──」
「いいえ」
と、弓子は強く首を振った。「そんなことにはならなかった。私、ずっと拒んで来たの。──辛かったわ」
そうだろう。私にはとても想像がつかない。
「お義母《かあ》さんが気付けば、どんなに悲しむかと思って、私、決してそれを知られないように、用心していたわ」
「なるほど」
「でも、きっと分っていたと思うけど」
と、夕子は言った。
「時々、そんな気がすることもあったわ」
「──気の滅入る話だ」
と、私は首を振って、「しかし、君はやっていない。そうだろう?」
「ええ……」
「すると──一体誰だ?」
と、私は言った。
「ご苦労だったな」
と、|その男《ヽヽヽ》は、ポケットから出した金を相手に渡した。
相手も、その男と、全く同じ格好をしていた。
「これで、何もかも忘れろよ」
「分ってるよ」
と、相手の男は金をポケットへねじ込んで、自分のバイクにまたがると、「じゃ、引き揚げるぜ」
「ああ。また会おう」
と、西沢紘一郎は手を上げた。
「──会いたきゃ、留置場で会えば?」
と、夕子が言った。
「誰だ!」
西沢紘一郎が仰天して飛び上る。
「おい、馬鹿息子の役も似合うけどな」
と、私も声をかけた。「本当の馬鹿だな、お前は」
同じバイク、同じ服装の二人は、
「逃げろ!」
という紘一郎の声で、道の反対方向へと、バイクを捨てて駆け出した。
「待て!」
私が、紘一郎の仲間の方を足払いして、地面にねじ伏せる。
一方、紘一郎の方は? ──ご心配なく。紘一郎の逃げる前には、壁があったのだ。
ドシン、と音がして、紘一郎がはじき返され、みごとに一回転した。
「床上運動の練習かい?」
と、原田が言った。
「畜生!」
紘一郎が、拳《こぶし》を固めて、原田へ殴りかかるという、馬鹿なことをした。
「よいしょ」
原田が、紘一郎の腕をつかんで、体ごと持ち上げる。
「痛い! ──痛いよ!」
と、悲鳴を上げて、紘一郎が足をバタつかせた。
「じゃ、はなしてやるよ」
急に原田が手をはなしたので、紘一郎の体は地面に落下。──紘一郎は、そのままのびてしまった。
「情ない奴だな」
原田は首を振って、「ろくなもん、食ってないんじゃないですかね、宇野さん」
と、言った。
「西沢さん……」
と、弓子が言った。
西沢紘治は、何も聞いていない様子だった。
呆然としているのではなく、じっと固い表情で、現実に堪えているかのように、重い足取りで、居間から出て行く。
夕子は言った。
「あのポチを、好きなように鳴かせることのできたのは、西沢さん、あなたの息子さんだけでした。それに隣の家ですから、玄関の鍵穴から合鍵を作るのも、難しくない」
「──何てことかしら」
と、弓子はため息をついた。
西沢家の居間に、今は浜中弓子、そして夕子と私の三人だけが集まっていた。
ミドリは眠っている。──この家の二階で。
「しかし、なぜ坂田宏一のことを……」
と、私が言いかけると、夕子は首を振って、
「仲間割れだったのよ」
と、言った。
「仲間割れ?」
「坂田宏一は、弓子さんに惚れていて、西沢さんと結婚させたくなかった。紘一郎は、父親の財産を弓子さんに持って行かれる、というので、やはり結婚させたくなかった」
「なるほど。──それで手を結んだのか」
「三年前の事件を坂田から聞いて、紘一郎はミドリちゃんが、また同じような事件を起こせば、弓子さんが結婚を諦《あきら》めるだろう、と思ったのね。犬を飼い、その声に合わせて、夜中にフラッと起き出したミドリちゃんに、包丁を坂田が持たせたり……。確かに、ミドリちゃんには夢遊病の気はあるんでしょうけど、それと包丁とは別だわ」
「なるほど」
「ところが、坂田の方が、何かお金に困ったのか、紘一郎と喧嘩《けんか》になった。金を出さないと、計画のことを父親にばらす、とおどかして……。紘一郎としては、父親に知れたら、財産どころじゃなくなっちゃう。それで、坂田を殺すことにしたのよ」
「しかし、ミドリちゃんがやったように見せかけるなんて、ひどいな」
「そう……。しかも図々しいことに、|私を《ヽヽ》アリバイ作りに利用しようなんて!」
と、夕子は憤然として言った。
「すると、君を追いかけ回してたのも、計画の一部か」
「そういうことね」
夕子は肯いて、「夜になって、そっくりの格好をして、同じ型のバイクに乗った友だちに代役をやらせ、少し遠くにバイクを停めさせておけば、当然紘一郎だと思うでしょうからね。思い付きは悪くなかったけれど……」
「君の頭を、計算に入れてなかった、ってことだな」
私は、名探偵のプライドを、ちょっと、くすぐって見せた。
「そういうこと」
と、夕子は、澄まして肯いた。
「でも──」
と、弓子はホッと息をついて、「西沢さんには申し訳ないけど、ミドリがやったんでなくて、良かったわ」
すると、当の西沢紘治が居間へ入って来た。
「西沢さん──」
「聞いてくれ」
と、西沢は言った。「私は、一切のポストを退く。君の幸せを祈っている。それだけだ」
──しばらく、誰も口をきかなかった。
やがて……弓子が顔を赤くした。見る見る紅潮した。
そして、いきなり平手で、西沢の頬《ほお》を打ったのである。これには私もびっくりしたが、打たれた西沢の方も仰天しただろう。
「何をするんだ……」
「それだけ、ですって? それだけ? 冗談じゃないわ!」
と、弓子は凄い声を上げた。
「弓子……。落ちついて、君──」
と、西沢の方がオロオロしている。
「私はあなたと結婚します! 逃げようったって、そうはいかないから! 夜中に家の二階へ泥棒みたいに忍んで来て、私のベッドへ潜《もぐ》り込んで来たくせに! そんな格好いいこと、言わせないからね!」
西沢が真赤になって、
「分った! いや、何も君と結婚したくないと言ってるわけじゃ──」
「じゃ、いいのね?」
ぐっとにらまれて、西沢は、
「は、はい!」
と、肯いた。
「紘一郎さんのことは、育て方も悪かったのかもしれないわ。でも、あなたの息子なら、私にとっても息子よ」
「弓子……」
「やり直せるように、できるだけのことはしましょう」
「君がてっきり、逃げ出すとばかり……」
「私は、あなたみたいにいくじなしじゃありません」
と、弓子は言った。
──外へ出ると、もう午後である。
「ああ、気持良かった」
と、夕子は笑って、「女は強いのよ、いざって時は」
「いざ、って時でなくても強いのもいる」
と、私は言った。
「え?」
「いや、何でもない!」
と、私はあわてて言って、「どうだい、昼飯を」
「もちろん! それから、昼食後のお休みを二時間ほど」
「二時間も?」
「夜中に見張っていた労をねぎらってあげるわ」
夕子は、素早く私の頬にキスして、「二人きりで、優しくね」
「じゃ、五分で飯を食おう」
「勝手なこと言って」
と、夕子は笑った。
その時、すぐそばで犬が甲高い声で吠えたので、私たちはびっくりして飛び上りそうになった。
「ポチめ! びっくりさせるなよ」
「きっと、|やいてる《ヽヽヽヽ》のよ。私たちに」
「そうかい?」
「そういう目をしてるわ」
夕子は私の腕を取って、「さ、行きましょ」
と、歩き出す。
私は歩きながら、振り向いたが……。
見送っているポチの目は、ただ呆《あき》れているようにしか見えなかった。
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第二話 白鳥の歌を聞くとき
1
私は、ワイングラスを持った手を止めた。
いや、私が止めたというよりは、夕子の言葉が私の手を止めさせた、と言った方が正確であろう。
「今、何て言ったんだい?」
と、私は自分でも気付かない内に、訊《き》き返していた。
「聞こえなかったの? それとも、もう酔っ払ったの?」
永井夕子は、ちょっといたずらっぽく笑った。
「いや……。聞こえなかったわけじゃないけど。念のために、もう一度聞きたかっただけさ」
と、私は言って、グラスのワインをぐっと飲み干し、むせてしまった。
「──大丈夫?」
と、夕子が苦笑して、「落ちついて、飲んでよ」
「ああ……。大丈夫」
「私ね、留学しようかと思ってる、って言ったのよ」
「留学ね……」
と、私は馬鹿みたいにくり返した。
──クリスマスイヴである。
私のように、警視庁捜査一課の警部という職にある者が、世間の恋人たちのようにクリスマスイヴに恋人と食事がとれる、というのは、全く珍しいことでもあるし、まあたまたま凶悪な殺人事件が起っていないというせいでもある。
確かに、ここは「星いくつ」と、ガイドブックにのるほどのレストランじゃないが、一応、四人がけのテーブルに夕子と私、二人でついていても、
「相席をお願いします」
とは言われないし、子供の泣き声がうるさくて、話もできない、というわけでもない。
まあ、はた目には、私と夕子が恋人同士でなく、父と娘に見えたとしても、それは当人たちには関係のないことだし。
「留学って──」
と、私は言った。「外国に?」
「普通、留学っていったら、外国に行くんじゃないの?」
と、夕子は言った。
「うん……。そりゃまあそうだ」
私は、ちょっと咳払《せきばら》いした。「まあ君も──将来のことが色々あるだろうしね」
「そうなの。もちろん日本でも、やりたいことはいくらもあるわ。でも、外国へ出て、まるで違う世界の価値観とか、身につけて来るのも悪くないかな、と思って。ね、どう思う?」
どう思う、って訊かれても──結構じゃないか、とでも言うしかあるまい。で、
「結構じゃないか」
と、私は言ったのである。「どこか、その──具体的に考えてるのかい?」
「うん。ゼミの教授がね、紹介状を書いてくれる、っていうの。イギリスの大学に。一年間行ってみて、得るところがあると思ったら、また一年のばしてもいいし、って……」
ゼミの教授だか|セミ《ヽヽ》の教授だか知らないが、余計なことしやがって、と私はつい心の中で呪っていた。
「そうか。すると──まあ、これで当分会えなくなるってわけだな、ハハハ……」
私の笑顔は引きつっていたに違いない。何しろ自分でも分るくらいだったのだから。
夕子がフフ、と笑って、
「そんなにすぐには行かないわよ」
と、言った。「ちゃんとお別れしてからでないと、後で悔いが残るでしょ」
「お別れ?」
私はドキッとした。
四十にもなって、とは思うが、やはり夕子との間は、ただの「遊び」というわけではない。
「いやねえ、何を深刻な顔してるの」
と、夕子は苦笑した。「これっきり、って意味じゃないわよ。留学してる間ってこと」
「そうか……」
少しホッとした。──しかし、出て来た料理も、急に何だか味けないものに見えてしまう。
確かに、夕子にとって、この一、二年は、多くを吸収し、身につけて成長する(こんな言葉は夕子に似合わないが)いい機会ではあるだろう。しかし、こっちは男やもめの四十歳。
イギリスへ一年なり二年なり行ってくれば、当然、夕子には|あちらの《ヽヽヽヽ》ボーイフレンドや恋人もできるだろう。──日本に置いて来た(?)中年の「おっさん」のことなんか、やがて忘れてしまうに違いない。
しかし……それが自然なことなのだろうか。いつまでも、夕子を引きとめて、殺人事件なんてものに係り合わせておくなんてことが、夕子のためになるとも思えない。
──そうだ。
ここは、笑顔で夕子を送り出すのが、私の役目なのだ。
「まあ、いいじゃないか」
と、私は言った。「イギリスじゃ、探偵業をやる必要もないだろうし」
「そこなのよ」
と、夕子が難しい顔で肯いた。
「何が?」
「つまんないじゃないの、殺人事件のない毎日なんて。堪えられるかしら」
私は、つくづく我が身の罪深さを思い知ったのである。
──料理を食べ終えて、
「さて、デザートは何にしようかな」
と、夕子が息をつく。
私は、夕子の留学の話で、すっかり食欲を失っていたが、それでも料理の皿は空っぽになっていた。
「メニューをもらおうか。君、ちょっと──」
と、そばにやって来た誰かに声をかけた。
当然、ウェイトレスだと思ったのである。しかし、見ると、少し地味めのスーツを着た女性。
「あ、失礼。──どうもすみません」
と、あわてて謝ると、
「いいんです」
と、その女性は言った。「お店の人が話していたので」
「はあ?」
「警視庁の方だそうですね」
「ええ、まあ……」
私は、改めてその女性を見た。三十五、六歳だろうか。いや、実際はもっと若いのかもしれない。老《ふ》けて見えるのだ。
化粧っけがなくて、美容院にも行っていないのか、髪もボサボサのまま。肌にもつやがなく、病気上りなのか、大分やつれている印象である。
「殺人事件というのは、どこで担当されるんですか」
私は面食らって、
「それは捜査一課といって──私のいるところですが。しかし、何のお話です?」
と、訊いた。
「まあ、良かったわ」
と、その女性はホッとした様子で、「あなたなら、とても優しそうな方だし、と思いましたの」
「というと?」
「逮捕して下さい」
と、その女性は言った。「私、今、そこのトイレで人を殺して来ましたの」
私は、ため息をついた。世の中には、結構こういう手合いがいるものだ。
悪気はなくても、捕まりたい、という人間が……。まあ、「心の病」の内に入るのだろうが、こういう人間のおかげで、散々ふり回されることも珍しくない。
何といっても、「人を殺した」と言われたら、捜査しないわけにはいかないからである。
しかし、この女性はまあ、良心的(?)な方だ。中には、
「日本アルプスの山中に死体を捨てた」
なんて言い出すのもいる。
でたらめとは思っても、一応調べないわけにはいかない。
「──分りました」
と、私は言って、「そこのトイレですね。ともかく現場を見ましょう」
「ええ。でも──」
「何です?」
「女性のトイレですけど……」
夕子が笑いをかみ殺して、
「私もご一緒するわ」
と、立ち上った。「痴漢と間違えられたら困るでしょ」
かくて──三人で女子トイレに向うこととなったのである。
「一番奥です」
と、その女性は言った。「私、ここにいていいですか」
「ええ、まあ……。動かないで」
「分ってます。逃げたりしませんわ」
そりゃそうだろう。何しろ自分から言って来たくらいだ。
私と夕子は、女子トイレの中へ入って行った。
「一番奥ね。──扉が閉ってるわ」
「誰か入ってるんじゃないか」
夕子がノックしたが、答えはない。
「大丈夫みたいよ」
夕子が扉を押した。「──重いわ」
「どれ。──僕がやる」
グッと力をこめて押すと、中でドサッと何かが倒れる音がした。そして扉が開くと……。
女が一人、洋式の便器のわきの狭い隙間に倒れていた。首には紐《ひも》が巻きついて、深く食い込み、もう息絶えているのが一目で分る。
「──何てこった」
私は唖然《あぜん》とした。「君──見ててくれるか?」
「あんまりいい気持はしないけど、いいわ」
夕子も、少し青ざめている。
「連絡して来る」
私は急いで女子トイレを出て──。
私は足を止めた。あの女がいない!
「君!」
と、ウェイターに声をかけ、「ここにいた女は?」
「は?」
「女がいただろう。地味な格好の──」
「ああ、髪がボサボサの」
「そうだ。どこにいる?」
「何だか急いで出て行きました。電話はどこだ、とか訊いてましたが」
今度は、私が青くなる番だった。私はあわててレストランを飛び出した。
しかし……表に出ればクリスマスイヴの夜である。
通りはアベックやグループの若者たちで溢《あふ》れ、どこに女が消えたのやら、見当もつかない。
「メリークリスマス!」
誰かが、ポンと私の肩を叩いて、声をかけて行った……。
2
「そんなにがっかりしないで」
と、夕子が言った。
「そうですよ」
と、元気づけてくれるのは、自分自身が他の誰より元気な、原田刑事である。「何もこの世の終りってわけじゃなし。たとえクビになっても、何か仕事はありますよ」
ありがたいお言葉ではある!
私は休暇──といえば聞こえがいいが、要するに、
「自首して来た犯人を、逃がしてしまった」
というので、謹慎処分、というわけである。
「いい休みだよ、全く」
と、少々やけになりながら言いたくなるのも当然というものだろう。
──今日は暮れも押し詰った二十七日である。大方の勤め人は、明日が仕事納め。こっちは一足早く仕事納め、というわけだ。
暮れにしては暖い日で、原田と夕子で「宇野喬一を励ます会」をやろうということになり、軽く昼食を取って、外へ出たところだった。
「──じゃ、私はこれで」
と、原田が言った。
「何だ、もう戻るのか」
「ええ。地下の食堂で昼飯を食う約束をしてるんです」
と、原田はあっさりと言って、「じゃ、何か分ったら、連絡しますよ」
「ああ。俺の身の振り方でも考えてくれ」
私はポンと原田の肩を叩いて言った。──それにしても、あの体とはいえ、よく食う奴だ!
夕子は、クスクス笑って、
「そういじけないで」
「いじけたくもなるさ」
と、私は肩をすくめた。「少し歩くか」
「そうね」
夕子は肯いて、「この時間じゃまだ早いでしょ」
「ああ」
と、私は肯いて、「──何が?」
「どこかホテルにでも寄ろうかと思ったんだけど」
私は、咳払《せきばら》いして、
「こういうことに時間はあまり関係ないと思うがね」
夕子は笑って、
「その元気なら大丈夫。──ね、その前に行ってみたい所があるの」
「どこだい?」
「私も行ったことないのよ」
夕子は、わけの分らないことを言って「──どうやって行くのかなあ」
と、メモをバッグから取り出し、眺めている。
「どれ。見せてみろよ」
刑事なんて仕事は、住所だけで、目的地を捜し当てる訓練をしているようなものである。
「──下町の方だな。たぶん分るよ」
「そう? さすがね!」
と、夕子が腕を絡めて来る。
こんなことですぐニヤニヤしてしまうこっちも相当なものである……。
そして、電車を乗り継いで、約一時間。そのメモにあった住所を、みごとに捜し当てたのだが……。
「──ここ?」
と、私は言った。
「そう! 正にここよ。大したもんね、刑事の勘って」
珍しく夕子が感心してくれるのはありがたいが、しかし……。どういうつもりで夕子が私を「老人ホーム」へ連れて来のか。私にはさっぱり分らなかったのである……。
「入りましょ」
と、夕子は私を促した。
「まだ年齢的に、入れてくれないと思うぜ」
と、私は念のために(?)言った。
「当り前でしょ」
それにしても──これが「老人ホーム」か、と目を疑ってしまった。
目を疑うほど立派ならいいが、その逆で今にも壊れるかという、古ぼけた建物である。
日本の福祉行政の貧困を象徴するような建物、といえばぴったりかもしれない。
「誰だって老人になるのにね」
と、夕子が言った。
──壊れかけた柵の中へ入って行くと、何か歌声が聞こえる。女の声で、レコードかと思ったが、聞こえる感じが、少し違っている。
「カラオケかな」
と、私は言った。
「そうらしいわ」
「しかし、こんな所に何の用事なんだ?」
「あなたに会わせたい人がいるの」
「僕に?」
「別に再婚相手を紹介しようっていうんじゃないわよ」
と、夕子は安心させようとするかのように言った。
すると、中から、男が一人、顔を出した。
「どなたです?」
「失礼します」
と、夕子が言った。「今日、こちらに加賀ゆき子さんが慰問にみえてるとうかがったんですけど」
「ええ、みえてますよ」
と、三十歳そこそこに見えるその男は、肯いた。「今歌ってるのがそうです」
「ああ、やっぱりね。どことなく聞き憶えのある声だわ」
「どちらの方ですか、失礼ですけど」
と、その男は言った。「僕は区の福祉課の者で、久田といいます」
役人にしては、あまり堅苦しい印象を与えない、さっぱりした感じの男である。
「雑誌社の者です」
と、夕子が言った。「加賀ゆき子さんのことを、ちょっと記事にしようと思いまして」
「やあ、そりゃいいですね」
と、久田という男は笑顔になった。「こうやって、お年寄りを慰めに来てくれる人は、少ないですからね」
加賀ゆき子? ──私も、やっと思い出した。
一時、TVなどにも出ていた、演歌の歌手ではないか。一曲か二曲で消えてしまったと思ったが。
「ちょっと覗《のぞ》かせていただいていいでしょうか?」
「どうぞどうぞ」
──私たちは、庭先へ回って、ちょっとした広間を外から覗く格好になった。
板の間にござを敷いて、老人たちが、三十人もいるだろうか、みんな、多少眠そうな顔で、座っている。
そして、何だか安っぽいドレスを着た女性が、マイクを手にして、一曲歌い終ったところだった。
その女性が深々と頭を下げても、拍手する老人は、七、八人しかいない。たぶん、何を聞いているかも分らないという老人もいるのではないか。
しかし、その女性は、少しもいやな顔をせずに、
「ありがとうございました」
と、大きな声で言った。「じゃ──最後にもう一曲、歌いましょうね。何がいいですか? おじいちゃん、何か、リクエストはあります?」
化粧をしたその顔に、見憶《みおぼ》えがあった。
もしかして、あれは……。
「──分った?」
と、夕子が低い声で言った。「あの時、どこかで見たことのある人だな、と思ったの。一晩中考えてて、やっと思い出したのよ」
「はい、それじゃ、リクエストにお応《こた》えして……」
と、加賀ゆき子がマイクを握り直す。
「さっき歌った曲だ」
と、久田が苦笑して、「忘れちゃうんですよ、聞いてる方も」
──そう、間違いない。
あの女だ。あのレストランから姿を消した女。あの女が、今、マイクを手に歌っているのだった。
「しかし、驚いたな」
と、私は言った。「君、よく加賀ゆき子なんて知っていたね」
「私のボーイフレンドでね、彼女のファンがいたの。珍しいでしょ」
「なるほど。──だけど、どこへ消えたのかと思ってたよ」
もちろん、一曲、二曲、ヒットを出して、いつの間にやら忘れられてしまう歌手はいくらでもいる。決して珍しい話でもないだろうが。
私と夕子は、老人ホームの中の、〈応接室〉と書かれた小さな部屋で、加賀ゆき子が着替えて来るのを待っていた。
「私、聞いたことあるわ」
と、夕子は言った。
「何を?」
「加賀ゆき子のこと。プロダクションの人を知ってたの。──気の毒だったのよ。プロダクションの社長に、愛人になれと言われて、断ったもんで、すっかり干されちゃった、ってことらしいわ」
「ひどい話だな」
「ねえ。そんなこと、今の世にも、いくらでも残ってるのね」
と、夕子がしみじみと言った。
ガタつく戸を開けて、さっき会った久田という男が入って来た。
「今、彼女が来ますから」
と、久田は言って、「すみませんが、僕は役所へ戻らなきゃならないので」
「いえ、お手数をとらせて」
「──何だか、僕の知ってた女性がね、殺されたらしいんですよ」
と、久田は眉を寄せて、首を振った。
「殺された?」
「ええ。イヴの日に。──新聞で見ませんでしたか?」
「あの──レストランのトイレで」
「そうです。やっと身許が分ったとかで、連絡が来ているんだそうです」
「あなたのご存知の方だったんですか」
と、夕子が訊いた。
「仕事でね」
と、久田は肯《うなず》いた。「大江久美子というんですが……。亭主に死なれて体も弱いので、大変だったんですよ。子供二人かかえてね、仕事もなかなかなくて。──相談に来られて、色々力になっていたんです。ひどいことをする奴がいるもんだ、全く」
「そうですね」
「じゃ、僕はこれで」
と、久田が行ってしまうと、
「──やっと身許が割れたか」
と、私は言った。
「でも……。そんな女の人を、どうして殺すのかしら?」
と、夕子は言った。
「うん……。当人に訊こう」
と、私は言った。
「──お待たせして」
と、加賀ゆき子が、すっかり普通のおばさん風の格好で入って来て、「──あら」
私を見て、目をパチクリさせる。
「憶えてるかい?」
と、私は言った。
「もちろん! ──すみませんでした、あの時は」
あっさり謝られて、私は調子が狂ってしまった。
「君が、あの女を──」
「良かったわ、お会いできて」
と、加賀ゆき子は言った。
「良かった? どうして?」
「あなたのお名前をうかがってなかったので、捜しようがなかったし」
「しかし……」
私としては、何とも言いようがない。
「犯人を逃がしたっていうので、この人、謹慎処分になってるんです」
と、夕子が言った。
「あら、大変。すみませんね、本当に」
どうも、殺人犯が刑事を相手にしゃべっているとは思えない口調である。何だか、外出中に雨が降って来たので、お宅の洗濯物を取り込んどきましたよ、とでも言われて、お礼を言っている感じ。
「いえね。私、逃げるつもりじゃなかったんですよ」
と、加賀ゆき子は言った。「ただ、あなた方がトイレに入って行かれた後、思い出したんです。今日のこちらの約束を」
「何だって?」
「ここで歌うことになってるのを、思い出したんです。ここのお年寄りたちは、本当に私の歌を楽しみにして下さってるんですよ。がっかりさせたくなかったんです。それで、何日かのばしていただこうと思って」
一体、この女、本気なんだろうか?
しかし、まあ、間違いなく本人がここにいるのだから。
「じゃ、いいんだね、今日は」
と、私は念を押した。
「はい、もちろん」
と、加賀ゆき子はおとなしく頭を下げて、「手錠はかけますの?」
「よしましょうよ」
と、夕子が言った。「もし、ここのお年寄りが見たら、ショックを受けるわ」
「そうだな」
大体、手錠を持って来てはいないのだ。
「じゃ、参りましょう」
と、ゆき子は言った。
すると──目の前にヌッと一人の男が現われたのである。
「あ、斉木さん」
と、ゆき子が言った。「あの──ここのホームの所長をなさってる斉木さんです」
「どうも……」
私は、五十がらみの、頭の禿《は》げたその男に会釈したが、あまり友好的とは言えない視線が返って来ただけだった。
「どういうことです?」
と、斉木はぶっきらぼうに言った。「この加賀さんを逮捕する? とんでもないことを!」
「はあ?」
「どうしてもこの人を連れて行くとおっしゃるのなら、私が相手になります」
と、上衣を脱ぎ出した。
「ちょっと──待って下さい」
と、私はあわてて、「いいですか、この人は人を殺したと──」
「そんなこと、あるはずがない!」
「しかし、当人がそう言ってるんですから」
「当人の間違いです!」
そんな無茶な……。しかし、どうやら相手は、本気で私の「相手」になるつもりらしい。
「調べれば、犯人かどうか分ることですからね。──ともかく、警察で詳しい話をうかがいたいわけで」
と、極力穏やかに言った。
何といっても、今、ここに逮捕状があるわけじゃないのだ。
「では、どうしても?」
と、斉木という男は言った。
「仕方ありませんよ。一応連行して、話を聞くことになります」
と、私は言って──加賀ゆき子の腕を取った。
まるきり、思ってもいなかったのである。拳《こぶし》が自分めがけて飛んで来るなんてことは……。
3
「──大丈夫?」
と、夕子が言った。
「うん……。まあ何とか」
私は頭を振った。
「みごとにのびちゃったわね」
「感心してる場合じゃないだろ!」
と、私は言って、「いてて……」
思わず顎《あご》を押える。斉木のパンチがみごとに決ってしまったのである。
「斉木は?」
「そこにいるわ」
夕子が、廊下へ出て、「斉木さん」
と呼んだ。
斉木が、いやに神妙な顔で入って来た。
「──殺したかと思いました」
と、斉木はホッとしたように、「たいしたことがなくて良かった」
「ちっとも良かない」
と、私は渋い顔で、「分ってるんですか、何をしたのか?」
「はあ」
と、斉木は頭をかいている。「実は、ゆき子さんを逮捕すると聞いて、カーッとなりまして」
「しかしですね──」
と、言いかけた私の肩を夕子が叩いた。
「あのね、斉木さんは、昔プロボクシングの選手だったんですって」
「ミドル級のチャンピオンだったこともあるんです」
と、斉木は言った。「いや、たいしたことがなくて良かった……」
私はゾッとした……。下手すれば、顎の骨が砕けているところだ。
「いや──お怒りでしょう。私を、どうぞ逮捕して下さい」
と、斉木は言った。「しかし……ゆき子さんは、ここの老人たちにとって、太陽みたいな人なんです。あんなにやさしい人はいません。そのゆき子さんを──。それは何かの間違いか、無実の人間を陥れようとする陰謀だと思ったので、何としても彼女を助けようと……」
「当人に訊いて下さいよ」
「ええ。──話を聞いて、びっくりしました。私の早とちりで、申し訳ありません」
全く! 冗談じゃないぜ!
しかし、夕子が、
「いいんです。この人、とてももの分りのいい人ですから。ねえ?」
「しかし──」
「斉木さんが殴ったんじゃなくて、あなたの方が、斉木さんの拳にぶつかった、と思えばいいじゃない」
そんな馬鹿な話があるか!
「ね、このホームは斉木さんの力で、何とか潰れずに頑張ってるの。取り壊そうとしてるのに、必死で抵抗してるのよ。この人が逮捕されたら、きっと簡単に押し切られてしまうわ」
と、夕子は言った。「ここのお年寄りたちを路頭に迷わせたくないでしょ?」
ここまで言われたら、私もカッカしてばかりいられない。
「分ったよ……」
と、肩をすくめて、「しかし、今度から、手を出す時はよく考えて下さい」
「申し訳も……」
と、斉木はすっかり恐縮している。
確かに、悪い男ではないらしい。──まあ、顎の痛みがそれで治るわけじゃないにしても。
「それじゃ、加賀ゆき子を連れて──」
と、私は言って、見回した。「彼女はどこに?」
「ああ、玄関で待ってる、と言っていましたよ」
「分りました。──行こうか」
「ええ」
夕子が微笑《ほほえ》んで、「さすが、もの分りのいいおじさんね」
「よせやい」
と、私は苦笑して、玄関の方へ出て行ったが──。「どこにいるんだ?」
加賀ゆき子は、どこにも見当らない。
「おかしいな」
斉木は首をかしげて、「確かにここにいる、と……。待って下さい」
と、事務室へ入って行く。
少しして出て来た斉木は、何とも言いにくそうに、
「帰る、と言って、出て行ったそうですが……」
と言ったのだった。
「人を馬鹿にしてる!」
と、むくれる私を、
「落ちついて。名前も住所も分ってるんだから」
と、夕子はなだめてくれる。
しかし、|また《ヽヽ》逃がしたことがばれたら、それこそクビが飛びかねない。
「私が調べた住所だから、大丈夫よ」
夕子は、タクシーの運転手に、「その先を左へ」
と、指示すると、
「でも、妙ね。──あんな人が、どうして人を殺すのかしら。しかも、そんな困ってる人を」
「大方、男だろ」
と、私は言った。
「そういう先入観は捨てなきゃだめよ。思い込みが捜査を誤らせるんだから」
「分ってるがね……」
「斉木さんが彼女をかばうのは分るけど」
「かばう?」
「そうよ。斉木さん、加賀ゆき子に惚れてるわ」
私は唖然とした。
「確かかい?」
「もちろんよ。一目見りゃ分るじゃないの」
そう言われたってね、こっちは夕子ほど、「恋に詳しい専門家」じゃないのだ!
「じゃ、やっぱり、斉木が逃がしたんじゃないのか?」
「でも、本当に逃げる気じゃないと思うわ」
「それじゃ、なぜまた、姿をくらましたんだ?」
「他の約束を思い出したんじゃないの?」
と、夕子は言った。「あ、そこで停めて」
──私たちは、加賀ゆき子の家を捜し当てた。
しかし……何と凄い家か。
地震でも来たら真先に潰れるだろう。空家かと思うほど、ひどいあばら家である。
窓もこの寒さの中、割れたままだ。
「──こんにちは」
夕子が玄関の戸を開けて言った。「誰かいます?」
返事はなかった。
「幽霊だって、これじゃ住みつかないぜ」
と、私は言った。
「でも、確かに人が住んでるわ」
それは間違いなかった。生活の匂いはある。しかし今は誰も──。
ガタッと音がして、私は、びっくりして飛び上りそうになった。
「あら……」
と、夕子が言った。
七、八歳の女の子が、フラッと出て来たのである。
加賀ゆき子と似ている。子供がいたのだろうか?
「ママはいる?」
と、夕子が訊くと、女の子は黙って首を振った。「そう。──どこに行ったか、知ってる?」
女の子は、よろけるように私たちの方へやって来たと思うと、バタッと倒れてしまった。私と夕子は面食らっていたが、
「ね、この子を──」
「う、うん!」
私はあわてて女の子をかかえ上げた。
「おいしい?」
と、夕子が訊いた。
女の子──名前はルミといった──は、黙って肯いた。返事したくても、口の中は頬《ほお》ばったおにぎりで一杯である。
手も口のまわりも、ご飯粒だらけ、それにしても、よっぽどお腹《なか》が空いていたとみえる。
「しかし君、よく分ったな、この子がお腹空かしてるだけだってことが」
と、私は夕子に言った。
「あら分るわよ。女同士ですもの」
と、夕子は分ったような分らないようなことを言って、「──ママは、帰って来てないの?」
「ウン」
と、ルミは言った。
もう、おにぎりを食べ終えていたのである。
「困ったわねえ」
と、夕子が言うと、
「ママ、病気なの」
と、言った。
「病気?」
「そう。だから働けないの」
確かに、加賀ゆき子が、具合悪そうに見えたのは事実である。
今、私たちは、今にも壊れそうな家に上り込んでいたが、もう長いこと敷きっ放しらしい布団が、冷え切っているのが目についた。
「──しかし、どこに行ったんだろう?」
と、私は言った。
「さあね。でも、ルミちゃんがここにいる限り、必ず帰って来るわ」
と、夕子は言った。「あ、誰か玄関に」
「──ごめん下さい」
と、どこかで聞いた男の声がした。
「──あれ?」
久田である。「どうしてここに?」
「上って下さい」
と夕子は言った。「ゆき子さんを待ってるんです」
久田は、上り込んで、私たちの話を聞き、唖然とした。
「じゃ、加賀さんが大江久美子さんを?」
「しっ」
と、夕子は言って、ルミの方へ目をやった。
ルミは、お腹が一杯になったせいか、眠り込んでしまっている。夕子は、私のコートをルミにかけてやった。
「そうですか……。何てことだ」
と、久田はため息をついた。
「大江久美子と、加賀ゆき子の関係は?」
と、私は訊いた。
「何でも、一人の男を挟んで争っていたようですね」
と、久田は言った。「男が誰なのか、僕は聞いてませんが」
斉木かもしれない、と私は思った。大江久美子と斉木の間に何かつながりがあるか、調べる必要がある。
「一つ、うかがっていいですか」
と、夕子が言った。「ここ、どうしてこんなひどい暮しなんですか」
「ええ……。僕もね、心配で、時々来てるんです」
「具合が悪いんでしょ、ゆき子さん。生活保護を受けてないんですか?」
「本来なら、受けられるんですよ」
と、久田は言った。「でも、なまじ、頑張って老人ホームの慰問に回ってるでしょう。歌う元気があるなら、働けると言われてね、生活保護の申請を断られたんです」
「ひどいじゃありませんか!」
と、夕子が顔を真赤にして言った。
「同感です。でも、僕の方は担当が違うもんでね。心を痛めていたんですが」
「大江久美子さんは?」
「彼女は受けていました。しかし──殺されてはね。残された二人の子供は、施設へでも入れるしかないでしょう」
──普通に考えれば、同様に苦しい境遇にある大江久美子を、加賀ゆき子が殺すというのは、筋が通らないようだが、現実にそんなことはいくらもある。
考えただけでも辛いことだが。
「すると、加賀ゆき子さんも、捕まることになりますね」
と、久田が言った。
「仕方ないでしょう」
「ルミちゃんも可哀そうに」
と、久田が首を振って言った。
もちろん、私だって可哀そうだと思う。しかし──しょうがないじゃないか!
因果な仕事だ。つくづく、私はそう思ったのだった……。
「──寒いですね」
と、原田刑事が言った。
「そうだな」
私は少し素気なく言った。
確かに寒い。──パトカーの中とはいえ、ヒーターが入っているわけではないのだ。コートを着て、使い捨てのカイロをポケットに入れている。
もう夜中の十二時になっていた。──寒くて当然である。
「もう二十八日になったわけですね」
と、原田が言った。「仕事納めですよ」
「早く納めたいもんだ」
と、私は言った。
しかし、心は重い。──ルミが一人で母親の帰りを待っている。その家の前で、張り込みをしているのだ。
加賀ゆき子は、もちろん帰って来るだろう。しかし、母親が逮捕されて、あのルミという子は、この押し詰った年の瀬に、どうするのだろうか?
「おい」
と、私は言った。
「はあ」
「あの家の子だけどな」
「ルミとかいう……」
「うん。きっと寒いだろうと思うんだ。これを持ってってやれ」
私はポケットの中のカイロを二つ、原田に渡して言った。「まだ何時間かもつはずだ」
原田は、ニヤリと笑って、
「さすが宇野さんですね!」
「何を持ち上げてるんだ」
と、私は苦笑した。「さ、早く持ってけよ」
「こっちのも出します」
と、原田もポケットから取り出して、「二倍、あったかいでしょ」
私は、つい笑っていた。
原田が、パトカーを出て、あのボロ家の玄関へと歩いて行く。
その時、誰かが、暗い道を足早にやって来た。
「──原田、戻れ!」
と、私は言ったが、遅かった。
その人影はピタリと足を止めた。
「加賀ゆき子か」
私はパトカーを出て、言った。
「待ってたんですね」
と、ゆき子は言った。
「今度は逃げるなよ」
「すみませんでした」
と、ゆき子は言った。「仕方なかったんです」
「久田って人から色々事情は聞いたよ」
と、私は言った。「ルミって子にも会った。なあ、ともかくルミを連れて来ていいから、一緒に行こう」
ゆき子は、ホッと肩を落として、
「あなたは親切ですね」
と、言った。「珍しいわ。みんなお役人なんて、冷たい人ばっかりだと思ってた」
「色々いるさ」
「ええ……。でも──」
と、ゆき子は、少しためらってから、「ルミのことをよろしく」
と言うなり、突然、駆け出した。
「おい、待て!」
私はあわてて、後を追った。
道は曲りくねって、早く走るのは大変だ。
広い道へ出ると、ゆき子は、歩道橋を駆け上った。──下は国道で、この時間も、大型トラックが轟音《ごうおん》と共に駆け抜けて行く。
歩道橋の上で、ゆき子は足を止めた。
「──おい! もう諦《あきら》めろよ」
と、私は足を緩めて、「どうして逃げるんだ?」
「もう逃げません」
と、ゆき子は息を切らしながら、「ここで終点《ヽヽ》です」
私はゆき子が手すりからぐいと身をのり出すのを見て、目を丸くした。
「やめろ!」
飛び下りるなんて! 私は駆け出した。
しかし──間に合わなかった。私が駆け寄るより一瞬早く、ゆき子の体は、手すりの外《ヽ》へ消えてしまっていたのだ……。
4
「──どうも、朝早くから」
と、私は言った。
「いや、とんでもない」
と、久田は言った。
まだ少し寝ぼけているのか、ボーッとした顔のルミが、椅子《いす》にかけている。
「電話で聞きましたが……」
と、久田が言った。「本当に──」
「こちらへ」
私は、奥の部屋へ、久田を連れて行った。ドアを開けると、白い布をかぶせてある死体……。
「あれが?」
久田の声は、少しかすれていた。
「歩道橋から飛び下りましてね」
と、私は言った。「そこへ大型トラックが……。ひどいもんです。見ますか?」
「いや……。結構です」
久田はため息をついた。「可哀そうに」
「しかし、大江久美子を殺したんですから」
「そうですね。自分で自分を罰した、ということでしょうか」
「そんなところです」
と、私は肯いた。「しかし、一応誰かに、死体を確認してもらわなきゃいけないんですよ」
「いや、僕は──」
と、久田は言いかけて、しばらくためらっていたが、「他に、もっとふさわしい人がいますよ」
と言った。
「ほう。誰です?」
「斉木さんです」
「あの老人ホームの?」
「ええ。──あの人なんです、加賀ゆき子さんと、大江久美子さんの両方を相手にしていたのは」
「何とね……」
と、私は首を振って、言った。「じゃ、どっちも、斉木の……」
「結構金がありますからね、あの男は。大江さんも加賀さんも金に困ってましたし」
「じゃ、金で、言うことを聞かせたわけですか」
「いや……。こういうことは、はた目にはよく分りませんよ」
と、久田は言った。「加賀さんは本当に斉木さんを愛してたかもしれない。しかし、斉木さんの方が本気でなかったのは確かです」
「どうしてそれを、昨日言わなかったんです?」
久田は、肩をすくめて、
「個人的なことですよ。そうでしょう? 他人がとやかく言うことじゃない」
「なるほど」
「しかし二人とも死んでしまったとなるとね……。原因を作ったのは、斉木さんです。黙っちゃいられません」
と、久田はきっぱりと言った。
「分ります」
「何か……罪にならないんですか」
「さてね」
私は首をかしげた。「二人の女を相手にしていた、というだけではね。女同士、殺し合ったといっても、別に斉木さんがやらせたわけじゃないし」
「でも、放っておくなんて、許せませんよ」
と、久田は顔を真赤にして怒っている様子だ。
「気持は分ります」
と、私はなだめた。「しかし、社会的な制裁ってものがありますよ」
「ええ、それは──」
と、久田は言いかけて、口を閉じた。
振り向くと、|当の《ヽヽ》斉木が、怒りに顔を歪《ゆが》めて立っていたのだ。
「斉木さん」
と、私は言った。「加賀さんの死体の確認をお願いしたくて──」
「この嘘《うそ》つき野郎!」
斉木が怒鳴ったのは、久田に向ってだった。「俺がゆき子さんを──。何てことを言いやがる!」
と、久田につかみかかる。
「助けて!」
と、久田は逃げ出した。
「待て!」
斉木が久田を追いかけて行く。
「おい、原田! 止めろ!」
私は大声で言った。
が──原田は多少《ヽヽ》誤解したらしかった。
止めるには止めたが、逃げて来た久田を止めてしまったのだ。
おかげで、斉木が久田に追いつくと、
「こいつ!」
固めた拳を、久田の顔へ。バシッ、という音がして、久田は大の字になって、のびてしまった。
「何てことだ。──斉木さん」
「すみません」
斉木は手を振って、「しかし、あんまりひどいことを言うので……」
「暴行の現行犯ですぞ」
「分ってます」
斉木は、息をついて、「留置場なり、刑務所なり、好きな所へ入れて下さい」
「困りましたな、全く……」
と、私はため息をついた。
原田が斉木を連れて行くと、夕子がやって来た。
「あら、どうしたの?」
床でのびている久田を見て、「風邪《かぜ》引かない?」
と、訊いた。
──久田は、やっとこ起き上ったものの、殴られた顔は、はれ上って、頭がクラクラしているようだった。
「冷やしましょう」
夕子が、タオルを濡らして、久田の顔に当てる。
「どうも……。ああ、ひどい目にあった」
と、顔をしかめる。
「斉木さんが、加賀ゆき子さんの愛人だったんですね」
「そうです」
「どうしてそれを知ってるんですか?」
夕子が訊くと、久田は、
「彼女から、相談を受けたんですよ」
と、言った。「話を聞いてね、びっくりして。──何しろ少し前に、大江さんからも、同じ相談を受けてたんです」
「斉木さんのことで?」
「ええ。──しかし、まさか、同じ男が相手だと、二人には言えません。それで二人には、何とか生活が楽になるように手を尽くすから、と言って、斉木さんに話をしようと思っていたんです」
「それで?」
「でも、そこまで話さない内に、加賀さんは大江さんと斉木のことを知ってしまったんです」
「怒ったでしょうね」
「ええ。しかし、斉木のことを怒ったんじゃないんです。大江さんが、斉木さんを誘惑したんだ、と信じてましてね」
「それで恨んでたんですね」
「ええ……。でも、まさか人殺しにまでなるなんて」
と、久田は言った。「や、どうもタオルを……。大分楽になりました」
「ルミちゃんはどうなります?」
と、夕子が訊く。
「そうですね。親戚《しんせき》に引き取り手でもあればいいんですが……。どうしようもなけりゃ、どこかの施設へやることになるでしょう」
「でも、差し当りは?」
「年の暮れですね。──何か考えますよ」
久田は立ち上った。「じゃ、どうも……。仕事納めですから、今日は。役所へ出ないと」
「ご苦労様でした」
と、夕子は言った……。
久田が行ってしまうと、
「後味の悪い事件だな」
と、私は言った。
「|もっと《ヽヽヽ》悪くなるかもよ」
と、夕子は言った。
「何のことだい?」
「私、今朝、区役所へ寄って来たの」
「何か届でも出しに?」
「訊いて来たのよ。──あの老人ホーム、区の方じゃ、取り壊したいらしいわ」
「へえ」
「でも、斉木さんが頑張ってるでしょ。マスコミに訴えて、後へひかないんで、手が出せないみたいよ」
「年寄りたちはどうするんだい?」
「あちこちの施設へ、バラバラに入れる、ってことらしいけど……。せっかくあそこで楽しくやってるのにね」
「そうか……。しかし、斉木は人を殴ったんだぜ。僕のことはいいとしても」
「分ってるわ」
夕子は肯いて、「ね、ルミちゃんは?」
「うん。あっちにいる」
「原田さんに、お守りを頼んで、出かけましょ」
「どこへ?」
「あの老人ホーム」
と、夕子は言った。「予約しに行こうかと思って」
事務の女の子は、戸惑っていた。
「所長さんがいなくちゃ……。困っちゃいます」
「すぐに戻って来るわよ」
夕子が、また勝手に請け合っている。「じゃ、私たち、外にいますから」
「はあ……」
頬《ほ》っぺたの赤い、いかにも丈夫そうな女の子である。事務員といっても、その女の子一人しかいない。
「──どうするんだ?」
と、私は言った。
「決ってるじゃないの」
「うん……。しかし、こんな所にいたって──」
「やって来るわよ。|向う《ヽヽ》から」
と、夕子は言った。
私と夕子は、あの老人ホームを少し離れた所で、車の中から、見ていることにした。
陽射しが暖かいので、なかなか車の中は快適だった。
「──なあ」
と、私は言った。
「え?」
「いや……。留学のこと、どうするんだ?」
「ああ。考えてるわ。ある日突然思い立って、出かけちゃうかも」
「そうか」
「ねえ。日本にいると、却《かえ》って日本のことが分らないってこともあるわ。学生として、勉強することも山ほどあるし」
「分るよ。いや、ぜひ行くといい、と言おうと思ってたんだ」
大分、無理はしていたが、決して嘘ではなかった。
「やさしいのね」
夕子はニッコリ笑って、「留学しても、私の恋人はあなただけよ」
そんなこと言われてニヤついてるこっちも、相当おめでたい。夕子は、私の方へ身を寄せて来て、私たちは唇《くちびる》を重ねた……。
すると、遠くから、ガタガタと何やら機械の音が近付いて来る。
「何だ?」
「来たみたいね」
と、夕子は言った。
やがて……道をやって来る車が見えた。その車の後ろからやって来たのは、ブルドーザーだ!
「|あれ《ヽヽ》が、今年の仕事納めなのね」
と、夕子が言った。
私たちは車を出た。
あの老人ホームの前に車が停って、中から何人かの男たちが降りて来た。その中に、久田がいる。
「──どうしたんですか?」
と、あの事務の女の子が、びっくりして出て来る。
「これから、ここを取り壊すからね」
と、久田が言った。
「何ですって?」
と、女の子が目を丸くする。「そんなこと聞いてません!」
「今、言ったろう」
と、久田は突き放すように言って、「さ、すぐに、入居してる老人たちの荷物をまとめさせてくれ」
「待って下さい! 所長さんがいないんです!」
「いないよ。留置場だからな。一時間待つ。全員ここから退去するんだ。今日中にここを壊すんだからな」
「そんな無茶な!」
「本当なら、とっくに壊してるところなんだ。──早くしろ」
女の子が、あわてて中へ駆け込んで行く。
「よし。──仕度を始めてろ」
と、一人が言った。
ブルドーザーが、老人ホームの方へ向きを変えて停る。──あれで突っ込んだら、あのホームなど、アッという間にガラクタの山と化すだろう。
「一時間して出て来なかったら?」
と、一人が言うと、
「柵《さく》でもぶっ壊してやるさ。びっくりして飛び出して来る」
と、久田が言っている。
すると、老人たちがゾロゾロと出て来た。いやに早い。
しかし、荷物は何も持っていない。そして、久田たちの前に十五、六人が固まって、向い合って立った。
「わしらは出て行かん」
と、一人が言った。
「いいかい、追い出すんじゃない。もっときれいな所へ移れるんだ。こんなボロじゃなくてね」
「ここは居心地がいいんだ」
「そうだ!」
「|ここ《ヽヽ》にいたいんだ。よそへみんながバラバラにやられるなんてごめんだ!」
口々に老人たちが叫ぶ。
久田が苛立《いらだ》っているのが、はた目にも分る。
「これは決ったことなんだ! 早く仕度して出ろ!」
と、叫ぶように言ったが、老人たちは動こうとしない。「──そうか。そのつもりなら……。おい、その玄関の辺りを壊しちまえ!」
ブルドーザーが、ガタゴト音をたてて、進み始める。
その時──。
「待って」
と、|女の声《ヽヽヽ》がした。
久田が真青になる。──そして、老人たちの前に立った女を唖然として見つめた。
「ゆき子!」
加賀ゆき子だった。
「久田さん」
と、夕子が言った。「ゆき子さんはね、歩道橋から飛び下りたけど、トラックの荷台に落ちたの。ちょうど、柔らかい布団を運んでるトラックでね。──人間、心がけがいいと、神様が助けてくれるみたいよ」
「あなたは何て人なの!」
と、ゆき子が言った。「警部さん。大江久美子さんを殺したのは、この人です」
「馬鹿言え!」
と、久田が叫んだ。
「言うなりになれば、ちゃんと保護を受けさせてやる、と言って……。気の毒に、大江さんは子供さんたちのために……」
「嘘だ!」
「それを上司へ訴える、と大江さんが決心したんです。それでこの人は困って、私に話を持ちかけて来たんです」
「殺した罪をかぶれって?」
「ええ。──私、病気で、もう長くないんです。ルミのことも心配で、ついこの男の言う通りに……。でも、トラックの上に落ちて助かった時、気付いたんです。こんな風に死んだら、ルミが大人になって、どう思うか、って」
「そうですよ」
と、夕子は言った。「精一杯生きられるだけ生きるべきです」
「でたらめだ」
と、久田は言った。「こいつの言うことなんか……」
「諦めろよ」
と、私は言った。「大江久美子と君のことは、役所でも噂になってたそうじゃないか。──全く、ひどい奴だな、君は」
「斉木さん」
と、夕子が呼ぶと、斉木がやって来た。
「──もう一度、いかが?」
「いいですな」
と言うと、斉木のパンチが、久田の顎を捉えていた。
久田は、道の真中に、アッサリと大の字を書いた……。
「安心して!」
と、斉木は、老人たちに向って言った。「私のいる限り、このホームには指一本、触れさせないよ!」
老人たちが一斉に拍手する。
──ブルドーザーと車が行ってしまうと、原田が、まだのびている久田をかついで行った。
「ご心配かけて」
と、ゆき子が私に頭を下げた。
「いや、しかし……。病気の方は、何とかならないのかな」
「どうして私に言わないんだ!」
と、斉木が怒ったように言った。「いい医者に診せて、何とか方法があるものならやってみるんだ。ルミちゃんのためだよ」
「ええ……」
「君の歌が聞けなくなったら、ここの老人たちがどんなにがっかりするか、知ってるだろう」
ゆき子の目に涙が光った。
「じゃあ……病院へ入る前に、もう一度歌います」
「そうだ! 君に、白鳥の歌なんか歌わせないぞ」
白鳥の歌というのは、「最後の歌」ということである。
斉木に肩を抱かれて、ゆき子は、ホームの中へと入って行った。
「やれやれ……」
私は、青空を見上げた。「まあ──何とか後味もそう悪くなくてすんだじゃないか」
「そうね」
夕子は微笑んだ。「──もう一年も終りか。早いわね」
「また一つ、年齢《とし》をとる」
「それは誰でもよ」
夕子は、ホームの建物を見て、「いつか、こういう所のお世話になるのよ」
「そうだな。しかし……。差し当りは、昼飯を食べることを考えないか?」
と、私は言った。
「賛成」
と、夕子は言った。「でもね、二人きりってわけにはいかないわよ」
「まさか……原田も?」
一瞬、不安になった。
原田が一緒だと、かかる食費が全く違うのである。
「もっと|小さな《ヽヽヽ》友だちよ」
夕子が手を振ると、ルミが駆けて来るのが見えた。
「さ、お姉ちゃんたちと、何か食べに行こうね」
と、夕子がルミの手をとる。
「ママは?」
「ママはね、ちょっとお忙しいのよ」
「フーン」
ルミは肯いて、「デートなの?」
と、訊いた。
「そう……。たぶんね」
「そんじゃ、邪魔しちゃいけないね」
ルミの言葉に、私も吹き出してしまった。
もっとも、こっちのデートは、おかげで一見「家族連れ」になってしまったのだが。
まあ、これもいいか。
年の暮れ。──助け合う季節である。
ルミの両手を私と夕子でつないで歩き出すと、ゆき子の歌声が、追いかけるように聞こえて来たのだった……。
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第三話 幽霊記念日
1
「何だ?」
と、私は言った。「今日、お葬式だったのかい?」
それを聞いて、永井夕子はちょっと顔をしかめた。
「コーヒー下さい」
と、ウェイトレスへ注文しておいて、「大学でお葬式やるわけがないでしょ」
しかし──私としては決して恋人の悪口を言ったわけではない。夕子は、黒のワンピースを着て、実にしっとりとした、雰囲気のある可愛らしさで、私の目を奪ったのだから。
女子大生である夕子が、黒のワンピースを着て、きちんと髪をまとめていると、人妻と言ってもおかしくない「味」があった。──まあ、こっちは四十に手の届く中年男で、その点、恋人が少しでも「近付いて」見えてくれるのが嬉しかったのだ、と言えなくもない。
「悪いけど、少し待ってくれる?」
と、珍しく夕子が遠慮がちなことを言い出した。「あと一時間、出なくちゃいけないの、講義に」
「いいよ」
何しろ、警視庁捜査一課で警部なんて「商売」をやっていると、こと時間に関しては、午後三時が午前三時になっても驚きはしないのである。
「ここで待ってるか?」
「そうね……。よそで、っていっても」
と、夕子が首をかしげる。
「夕子! ここだったのか」
と、声がして、コロコロ太った女の子が、やはり黒のセーターにスカートといういでたちで、本をかかえてやって来る。
「やあ、めぐみ。かけない?」
「お邪魔じゃない? 不倫の最中に」
「不倫じゃないわ。この人、独身」
と、夕子は笑って、「友だちの佐々木めぐみ。──宇野さんっていうの」
「宇野喬一です」
と、ついていねいに挨拶《あいさつ》してしまう。
「へえ。確かに若く見えるわね。四十くらいにしか見えない」
「|それくらい《ヽヽヽヽヽ》よ」
「あら、失礼」
面白い子だ。私は、笑い出していた。
「いけないいけない」
と、夕子は首を振って、「今日は笑っちゃいけないの」
「え?」
「そうよね。何しろ講義が追悼の儀式と変るんだから」
「でも、こっちは楽ね。一時間黙って座ってりゃ、出席したことになる」
「そう? 私、いやだな。いくら何もしないったって……。この格好で、しめっぽい雰囲気でさ」
と、佐々木めぐみという子は顔をしかめた。
童顔なので、キュッと顔をしかめると、愛嬌《あいきよう》があって、可愛い。
「何の講義なんだい?」
と、私は多少好奇心を抱いて、訊《き》いた。
これがいけなかった!
「興味あるんだったら、一緒に来て」
と夕子が言い出したのだ。
「そう! 刑事さんなんでしょ」
なぜか、佐々木めぐみも私の職業を知っている。
「それが何か関係あるのかい?」
「水科恭子先生の講義なの。──ともかく、もう行かないと。途中で説明するわ」
パッと夕子が立ち上る。「あ、コーヒー」
飲みそこなってなるものか、という様子で、立ったままガブッと一気に飲んで、
「払っといてね」
まあ、そりゃね……。夕子に払わせようとは、こっちも思っていない。
「──水科恭子先生は、英文学の教授で、今年五十一歳」
夕子が足早にキャンパスの中を歩きながら言った。「あなたより|少し《ヽヽ》年上ね」
「大分上だ」
「息子さんがいたの。正治君といって、十八歳だった」
「|だった《ヽヽヽ》?」
「死んだの。三年前に」
と、夕子は言った。「あ、こっちよ。──正治君は、このT大学の一年生だったの」
「ふーん。つまり母親の教えてる大学へ入ったのか」
「そう。──父親は早くに亡くなったとかでね。母一人、子一人。水科先生も、息子さんにはとてもやさしかった。正治君も、やさしい子だったしね」
「ところが──」
と、佐々木めぐみが言った。「ある日、水科先生が304番教室へ入って行ったら……」
「これから行く教室よ」
と、夕子が付け加えて、「そこで、正治君は首を吊《つ》って死んでいた」
「自殺か! ショックだったろうな」
と、私は首を振って言った。
「水科先生、一カ月休んだかしら。でも、その後は、一度も休講せず、途中休んだ分も補講をやって、ちゃんと時間数は足らせてしまったの」
夕子は、やや古びた校舎の中へと入って行き、階段を下りる。「304は地下なの」
「それで、どうして自殺したか分ったのかい?」
「失恋」
「失恋?」
「かなり手ひどく振られたんでしょ。やさしくて、気の弱い子だったわ」
夕子は、廊下を歩いて行く。「でも問題は、相手が誰だったのか、ってこと」
「分らないのか」
「同学年の女の子ってことは分ってるの。つまり、私たちの学年」
「ふーん」
ほどなく、私にも分って来た。「──夕子、ちょっと」
と、私は夕子の腕を取って、佐々木めぐみには先に行ってもらった。
「何? キスしたくなったの?」
と、夕子は平然と訊く。
「おい……。そうじゃなくて、僕をどうして引張って来たんだ? |何か《ヽヽ》ありそうだと読んだな? そうだろう」
「もちろんよ」
と、夕子はあっさり肯《うなず》いて、「でなきゃ、若い女子大生の間に、あなたを入れたりしない」
「どういう意味だ?」
「ともかくね、今日は正治君の命日《ヽヽ》なの。分る? そして、毎年、水科恭子先生はこの日、息子を偲《しの》ぶ会をやる」
「講義中に?」
「今年、もし正治君が生きていたら、四年生よ」
その意味は、私にも分る。
「その息子を振った女は、もう卒業してしまう、ってわけだ」
「だから、|何か《ヽヽ》あるかもしれない、ってことなの」
「初めからそのつもりだったんだろ」
「まあね」
夕子は、ニッコリ笑って、「もしかすると、本業とも関係あるかもしれないでしょ」
と、私の腕をとり、廊下の奥の304教室へと急いだのだった……。
確かに、それは講義というより、告別式のような雰囲気だった。
五十人ほどの学生は、八割は女性だったが、全員黒のスーツかワンピース。中には佐々木めぐみのようにセーター姿もあったが、黒一色には変りない。
正面には、なかなか二枚目の、しかしちょっと甘えっ子風の男の子の写真が、大きく引き伸ばされ、黒リボンまでかけて、安置されている。
戸がガラッと開いて、黒いスーツの女性が入って来た。
水科恭子だな、と教室の後ろの隅に、目立たないように立っていた私は、すぐに思った。
教室内が静かになる。
「──今日は」
と、その教授《ヽヽ》は、穏やかに言った。「いつも、この日、この時間に、息子のために集まって下さって、ありがとう」
小柄だが、教壇に立つと、大きく見える。にじみ出る知性とか貫禄といったものがあって、大して大きな声でもないのに、よく通った。
「息子、正治が死んで、今日は三年目に当ります」
と、ゆっくり教室内を見回しながら、言った。
淡々とした言い方で、私は夕子が心配しているようなことは特別にないような気がした。
「早いものです」
と、水科恭子は続けた。「皆さんももう来年は卒業して行きます。息子を知っている学生さんたちは、いなくなってしまうわけですね」
学生たちは、静まり返っている。──今の大学はぺちゃくちゃとおしゃべりがひどくて、講義が聞き取れない、などという話をよく耳にするが、ここでは少なくとも、そんなことはなかった。
夕子は教室のほぼ真中辺り、通路へすぐ出られる席に座っている。──何を考えているのやら。
恋人とは言いながら、夕子のもう一つの顔──名探偵の方では、何を考えているのか、一向に私にもつかめないのである。
「個人的なことを、教室へ持ち込むことは、本来、私の好むところではありません。ですが今日一日ということで、お許しいただきたいと思います」
水科恭子は息子の写真を見やって、「正治も、皆さんと会えなくなると寂しいでしょう。とても寂しがり屋でした。私がいつも家にいないので、余計にそうだったのかもしれません」
と、静かに語り続けた。
まあ、確かに大学の講義の中で、死んだ息子の話をするというのは少々異例だったろうが、それでも水科恭子が学生たちに好かれていることは確かで、特にそのことに反発しているような学生は見当らなかった……。
そこへ、ドアをノックする音がした。
「──はい」
水科恭子が答えると、ドアが開いて、どっしりした体格の男が入って来た。五十代の後半にはなっているだろう。
「国崎先生。何か?」
と、水科恭子が訊く。
「水科先生」
と、国崎と呼ばれた男は、「ちょっとお話が」
「どうぞここで」
水科恭子は動かなかった。──何の話か分っているのだ、と私は思った。
「しかし──」
と、言いかけて、国崎はため息をつくと、「分りました。水科先生。あなたの息子さんを悼《いた》む気持はよく分ります。学生諸君も、正治君のことを知っていたし、特に抵抗はないでしょう。しかし、主任教授としては、これを講義とは認めがたい。分っていただきたいんですがね」
控えめな口調ではあったが、国崎はきっぱりと言った。
「分っています。──でも、もう今年で三年目ですわ。それならなぜ初めから、そうおっしゃらなかったんですか」
「私としては、あなたが思い止まって下さることを期待したんです。そのことで、話し合いもしたはずですよ」
「お話は分ります、と申し上げました。おっしゃる通りにするとは言っておりません」
水科恭子は引き退《さ》がる気配がない。「もう今年で最後です。この学年の人たちは、息子のことを知っていてくれるんです」
「いいじゃありませんか」
と、一人の女子学生が立ち上った。「勉強するだけが大学の講義じゃないわ。人の生命の尊さについて学ぶことは意味のあることだと思います」
他の学生たちから拍手が起った。──夕子はじっとして、事態を見守っている。
発言した女子学生は、きちんと黒のスーツを着込み、きりっとした顔立ちの、一見して優等生風。
国崎はちょっと苦々しげな表情でその女子学生を見ていたが、
「──分りました」
と、水科恭子の方へ言った。「しかし、この講義への出席を、出席と認めるかどうか、微妙なところですよ」
「どうぞ、ゆっくり審議なさって下さい」
と、水科恭子は動じる気配もない。
もちろん、大学の「上の方」であれこれもめても、この時間は事実上、終ってしまうのだから、後になって「中止しろ」とも言えないだろう。
「国崎先生」
と、もう一人、細身の男が顔を出した。
「大津先生か。何か?」
「お電話が。文部省からですよ」
「やれやれ」
と国崎が顔をしかめる。
大津というのも、大分タイプは違うが、国崎と大体同年代だろう。ただ、国崎のような貫禄はない。
「では、お邪魔しました」
と、国崎が水科恭子に軽く会釈して、大津と一緒に出て行く。
水科恭子は、ドアを閉じると、
「──色々と、うるさいことね」
と、言った。「幸代さん、ありがとう」
あの、発言した女子学生が少し頬を染めた。
「じゃ、正治のことを、もう少しお話ししたいと思います」
と、水科恭子が、教壇の中央へ戻ったときだった。
明りが一斉に消えた。──廊下の方も消えて、真暗になる。
私は、緊張した。本当に|何か《ヽヽ》起りそうなのか?
しかし、こんな暗闇の中では──。
学生たちがざわつく。
「静かに」
と、水科恭子の声がした。「ただの停電でしょう」
すると──誰かが、
「あれ見て!」
と、声を上げた。
暗い教室の真中辺り……。空中に、ほの白い、何だかよく分らないものがゆっくりと浮かび上って、漂い始めたのだ。
蛍光を発しているらしいそれは、教室の中をゆっくりとさまよっていた。
「──人魂?」
と、誰かが叫ぶように言ったのが、きっかけだった。
「キャーッ!」
「お化け!」
と、たちまち大騒ぎになってしまった。
「落ちついて! みなさん、落ちついて!」
水科恭子の声が、女子学生たちの声に埋れてしまう。それでも必死で、
「ちゃんと席について! 動かないで」
と、水科恭子は叫び続けていた。
すると、今度はパッとその白く光る|もの《ヽヽ》が消えた。と思うと──。
「キャッ!」
と、誰かが甲高い悲鳴を上げる。「助けて! 誰か!」
放っておくわけにはいかない! 私はその声の方向に見当をつけて、駆け出したが、たちまち他の机にぶつかって、派手に机ごと引っくり返ってしまった。
女の子の悲鳴はまだ続いている。
「じっとして! 誰も動くな!」
と、私は大声で怒鳴った。「誰か、明りを──」
突然、パッと明りが点《つ》いた。
「どこだ!」
と、私は起き上って言った。
叫び声を上げ続けているのは、ちょうど教室の真中辺りに座っていた子で──|血だらけ《ヽヽヽヽ》になっている!
「大丈夫か!」
と、私は駆け寄った。「けがは?」
その女の子は、やっと叫ぶのをやめたが……。私は、それが佐々木めぐみだと初めて気付いた。
「どっこも……。痛くない」
と、ポカンとしている。
「どうやら、血をかぶったんだな。──どういうことだ?」
私は教室の中を見回した。
「何があったんでしょう?」
と、水科恭子が、呆然《ぼうぜん》と教壇に立っている。
「先生」
と、夕子が立ち上った。「この人は警視庁の警部さんです。今日、何かあるといけないんで、来てもらったんです」
「何かあると、って……」
「水科先生を殺そうとしてる人がいる、という情報が入っていたからです」
と、夕子が言った。
私は唖然《あぜん》として、夕子の方を眺めたのだった……。
2
「ちゃんと話してくれなきゃ、困るぜ」
と、私は苦情を言った。
「だって、漠然とした話なんだもの」
と、夕子は澄ましている。
「しかし──何だったんだ、一体?」
私は、空っぽになった教室の中を見回して言った。
「──宇野さん」
と、教室へ入って来た巨体は、原田刑事である。
「どうだった?」
と、私は言った。
「誰かが、この区画の電源を切ったんでしょうね。特に細工したらしい跡はありません」
「そうか」
──色々大騒ぎはあったものの、結局誰が殺されたというわけでもないので、まさか本格的に捜査にかかることもできない。それでとりあえず原田を呼んだのである。
唯一の負傷者は、といえば、机にぶつかって膝《ひざ》をすりむいた私ぐらいのもんだ!
「あの、血を浴びた女の子は、たいていあの辺の席に座っているのかい?」
「いつもよ」
と、夕子は言った。「水科先生の講義のときは、座席が決ってるの。アイウエオ順。明快でしょ?」
「なるほど」
と、私は肯いた。「ともかくあの血を調べさせよう。たぶん、何か動物の血だろうけどね」
「こけおどし?」
「今のところは、そうだ」
私は肯いた。
佐々木めぐみが、教室に戻って来た。
「運動部の部室でシャワーを貸してもらった」
と、佐々木めぐみはすっかりむくれて、
「何で私があんなひどい目にあうわけ?」
もちろん、着ている服にも血がかかったので、体操着を着ている。
「こんな格好で帰んなきゃいけない」
と、情ない顔をしている。
「あのときのことだけど」
と、夕子は言った。「血がかかったとき、どんな感じだった?」
「どんなって……。全然何も見えないじゃない? だからじっとしてたら、突然、頭からパッと──」
「頭から? 上から降って来る感じだったのね?」
「そう……たぶんね」
と、佐々木めぐみは肯いた。「びっくりしちゃって、はっきりは憶えてないけど」
「まあ無事で良かった」
と、私が言うと、佐々木めぐみはムッとした様子で、
「ちっとも無事じゃありません!」
と、言った。
「原田、その血を鑑識へ回してくれ」
「はい」
と、原田は肯いて、「お化けの血ですか。血液型ってのがあるんですかね」
「よせよ」
と、私は苦笑した。
教室へ、誰かが入って来た。
「夕子、和田さん、見た?」
「あ、幸代」
さっき、立って発言した子である。
「和田琴美? 見ないわね、そういえば」
「初めはいたよね。──じゃ、逃げたな、途中で」
と、幸代という子は肩をすくめて、「名人だもんね。途中で消えるの」
「しかも、一番後ろの端っこじゃね」
と、夕子が笑って肯く。
五十音順だから、「和田」がラスト、というわけだ。
「後ろのドアのすぐそばの席。逃げろ、って言ってるようなもんね」
と、幸代が言った。「本、貸しといたんだけどな。──あの子、いい加減だから」
「琴美に何か貸したら、戻って来ないと思っていた方がいいわよ」
と、夕子が言った。「──あ、国崎先生」
「やあ」
さっき、講義中にやって来た男である。「大変だったって?」
「どうってことないです。幽霊が出ただけで」
と、夕子が平然と言った。
年中、本物の死体にお目にかかっているのだ。幽霊ぐらい、怖《こわ》くないのだろう。
夕子に言わせると、
「何も人に恨まれそうなことをしてなきゃ、幽霊なんて、ちっとも怖くない。人間の方がよっぽど怖い」
ということになる。
「おい、もう帰るのか」
と、国崎が幸代へ声をかけた。
おや、と思って見ていると、
「友だちと待ち合せ。お父さん、早いの?」
「もう少ししたら出る。あんまり遅くなるなよ」
「うん」
──あの国崎の娘か!
私は、びっくりして眺めていた。
「待ち合せじゃなかったの?」
と、夕子が言った。
「いいの」
と、国崎幸代は肩をすくめて、「どうせ帰ったって、何を話すわけじゃなし」
私たちは、国崎幸代と三人で、大学近くの、
「結構安くていける」
と、夕子が推薦した食堂で夕食をとっているところだった。
あれやこれやで、結構夕食時間としても遅い方だ。
「それより、私、お邪魔みたいね」
と、幸代が私と夕子を交互に眺めて、言う。
「そんなことないわよ。私たち、大人の付合いだから、もっと遅くならないと、気が乗らないの」
「へえ。夕子、大人なんだ」
幸代が感心している。「うちなんか大変よ。男から手紙でも来ようもんなら、父が青筋立てて怒る」
「珍しいね、今どき」
「自分の娘に幻想を抱いてる、って言うべきかな」
と、幸代は笑った。
一人っ子で、母親は年中出歩いているという。父親が可愛がるのも、分らないではない。
「そんな風に見えないね、君のお父さんは」
と、私が言うと、
「そうでしょう。大学にいると、『良識の人』を気どってるから、そういう気持を外へ出さないんです。だから、大学の中で、うんと反抗してやるの」
幸代という娘は笑ったが、その内側には、なかなか複雑なものを秘めている、と思えた……。
「ね、夕子、水科先生を殺すって、どういうこと?」
「知らないわ、詳しいことは」
と、夕子は言った。「昨日、昼休みに食堂にいたら、呼び出されたの。電話がかかってね。出たら、『水科先生は明日、講義中に殺されます』って言って、プツン」
「気持悪いわね」
幸代が顔をしかめる。
そう! これがまともな反応である。
夕子なんか、そういう話を聞くと、俄然《がぜん》、目が輝いて来るのだから!
「どんな声だった?」
と、私が訊くと、
「低く、かすれた声。わざと声を変えて、ハンカチか何かで送話口を覆ってたわね。あれじゃ、分らないわ。でも、大学内部の人だってことは確か」
「どうして分る?」
「あの学生食堂、つい最近直通電話入れたの、そこへかかってた。外からかけたら、普通、交換台通して、内線で回してくれるもの」
「なるほど」
「その人物は、水科先生のことを心配してかけて来たわけね」
と、幸代が言った。
「そうとも限らないわ。だって、普通そんな電話を受けて、本気にする? 水科先生がどこかの大統領か何かならともかく、そんな電話一本で、警官隊を連れて来るわけにいかないわよ」
「それはそうね」
と、幸代が肯いて、「じゃ、何のために、そんな電話をして来たの?」
「もし、水科先生が、事故に見える死に方をしたとき、それが殺人だということを、見落とさないでほしい、とかね」
「あ、そうか」
「だからね、もしかしたら、あれは水科先生自身の電話だったのかもしれない、とも思ってるの」
夕子の言葉に、国崎幸代はすっかり呑まれている様子。──ま、私の方は、慣れっこである。
「夕子って、そういうことになると、凄《すご》いのね」
「前半部分はどういう意味?」
と、夕子は笑いながらにらんだ。
「──あら、大津先生」
と、幸代が言った。
さっき、国崎を呼びに来た男である。誰やら、大学教授には似つかわしくない雰囲気の男と二人で、奥のテーブルにつく。
「銀行家かな」
と、幸代が言った。
「だとしても、ノン・バンクだ」
と、私は言った。「高金利のローン会社ってとこかな」
「お金が色々動いてるのよね」
と、幸代が首を振って、「お父さんも、やめときゃいいのに」
私が夕子の顔を見ると、
「今、幸代のお父さん、国崎先生と、あの大津先生の二人で、文学部長のポストを争ってるの」
と、夕子が言った。
「ふーん。しかし、選挙なんだろ?」
「色々大変なんです、私立ともなると」
と、幸代が言った。「父が毎晩遅いのも、そのこともあって」
「でも、国崎先生がなるのは順当よ。大津先生、それで大分焦ってるんでしょ」
「そんな噂《うわさ》ね」
幸代は、どうやら、その話に触れたくないらしい。大津たちは、早々に店を出て行ってしまった。
「──幸代!」
ポンと、幸代の肩を叩いたのは──。
「ああ、びっくりした! 琴美。捜してたのよ。どこにいたの?」
「だって、あんな陰気くさい話、聞いてらんないじゃない」
と、和田琴美は小首をかしげて言って、「停電を幸い、サッと逃げ出した」
「そんなことだと思った」
と、幸代は笑った。「──ね、私の貸した本──」
「ごめん! 今日、持って来んの忘れちゃったの。許して」
と、オーバーに手を合せる。「明日はちゃんと持って来るから! ね?」
「本当に、明日よ。あれ、もう絶版で、手に入らないんだから」
「うん。明日、絶対! それを言いたくて、幸代のこと、捜してたの。いいカンだったでしょ。──ね、何か面白いことあったんだって、あの後? いりゃ良かった。じゃ、明日ね!」
ペラペラと、古い言い回しだが、油紙に火が点いたよう、というのは、ああいうことを言うのだろう。一気にまくしたてて、さっさと出て行ってしまう。
「あれで明日は休んだりするのよね」
と、幸代は苦笑した。「あの本、古本屋にでも売っちゃってないといいけど。心配になって来ちゃった、私」
「もう持ってないかもしれないね」
と、私は言った。
やたら調子が良くて愛想のいい、ああいう手合は、大人でも少なくない。人から借金して返さない、というタイプ。
当人に、「悪いことをした」という意識がまるでないのが困りものである。
「貸すんじゃなかった!」
と、幸代はため息をついた。
三人でデザートを食べ、コーヒーを飲んでしまうと、幸代の方が、
「じゃ、もう遠慮しよ」
と、腕時計を見た。
「そうね。これからは〈大人の時間〉だから、お子様は帰って寝なさい」
と夕子がからかう。
「フフ、言ったな」
幸代も、夕子が相手だと大分気が楽なようだ。「さて、行くか」
と、立ち上りかけて……。
幸代の目が、食堂の入口に向って、ピタリと止る。
振り向くと──和田琴美が入って来ていた。
「どうしたのかしら」
と、幸代はポカンとしていたが……。
私は椅子が倒れるのも構わず、駆け出していた。
「夕子! 救急車!」
私が怒鳴ったときには、もう夕子は店のレジへ飛んで行って、電話をわしづかみ。
和田琴美は、わき腹を押えて、よろけた。押えた手の指の間から、血がふき出して来る。
「しっかりしろ!」
私は、その体を抱きとめると、手近なテーブルに横たえた。琴美は、苦しげに喘《あえ》いだ。
「テーブルクロス!」
と、私は怒鳴った。
ウェイターが、あわてて新しいテーブルクロスを抱えて飛んで来る。
出血を止めなくては! このままでは出血多量でショック死する。
「救急車、呼んだよ」
と、夕子が言った。
「押えててくれ。何とか──」
「夕子、私も何か……」
と、幸代が言った。
「表で、救急車が来るのを待ってて!」
「分った」
幸代が外へ出る。
食堂の中は、誰もが唖然として、この光景を眺めていた。
私は、もちろん必死で出血を止めようとしていたのだが、同時にこういうときはプロとして、冷静になる|くせ《ヽヽ》がついている。
落ちつかなければ、助けられるものも助からない、ということになってしまう。
「──何か言ってる」
と、夕子が言った。
和田琴美の唇《くちびる》が動いて、言葉が洩《も》れて来た。
「私じゃない……。私じゃないの……」
と、か細い声が、洩れた。
「琴美! 黙ってて。ね」
と、夕子が呼びかけると、かすかに目を動かし、
「私じゃない……。|正治の《ヽヽヽ》……|恋人は《ヽヽヽ》……私じゃ……」
そう言って、和田琴美の頭ががっくりと落ちた。
3
「やれやれ……」
私は欠伸《あくび》をして、ベッドに起き上った。
「──おはよう」
夕子が、テーブルの前に座っている。「朝ご飯よ」
コーヒーの匂いが鼻をくすぐる。
「いいね!」
と、私は頭を振って、「一つ、シャワーで目を覚ますかな」
「早くしないと、スクランブルエッグが冷めるわよ」
「今、何時だい?」
「もうじき十時」
「そんな時間か」
私はハッと気付いて、「どうした、あの子は?」
「さっき病院へ電話してみたわ」
と、夕子が言った。「何とか命はとり止めたって」
「良かった!」
と、息をつく。「やっぱり若さは強いな」
「あなたの応急処置が良かったのよ。何か賞状でももらえるかも」
「やめてくれ。警官だぞ。当り前のことをしたんだ」
私は、ホテルのバスローブをはおって言った。
「そこが、あなたのいいとこよ」
「珍しく、ほめてくれるじゃないか」
私は、夕子の頬に軽くキスした。
「ひげが、痛いわ。ちゃんと剃ってからキスして」
私は笑ってバスルームに入って行った。
ともかく良かった。──まあ、これから事件がどう展開して行くか分らないが、とりあえず、「殺人事件」にならずにすんだわけである。
手早くシャワーを浴びる。
このホテルは、ゆうべ夕子と泊ろうと予約してあったのだが、結局、泊ったことは泊ったものの、和田琴美を病院へかつぎ込んだり、彼女が刺された現場を捜したりで、ホテルに入ったのは夜中の二時過ぎ。
へとへとになっていた私は、風呂へ入ってベッドに潜《もぐ》り込むと、アッという間に眠ってしまったのだった。
すっきりして、バスルームを出ると──。部屋が暗い。
「どうした?」
「朝食が少し冷めても良ければ」
と、ベッドから夕子の声がした。「私も午前中の講義、サボるけど。──どうする?」
私は、コーヒーを一口だけ飲んだ。
──もちろん、後で、冷めた朝食をきれいに平らげたことは、言うまでもない……。
「──正治の恋人?」
と、水科恭子は顔を上げた。
「ええ。誰だったか、ご存知でしょ?」
夕子が訊くと、少し髪の白くなりかけた女性教授は、
「分っていれば……。こんなにいつまでも悔むこともなかったでしょう」
教授室は、水科恭子の人柄を反映してか、至って地味で、そしてきちんと整理されていた。
私は、
「和田琴美だったと思われたことは?」
と、訊いた。
水科恭子の表情は、捉えどころのないものだった。
「ゆうべ重傷を負ったそうですね」
と、肯いて、「確かに、あの子は一年生のころから派手な子でした。男の子との噂も絶えなくて」
「息子さんも?」
「どうでしょうか」
と、水科恭子は首を振って、「一、二度出かけたことはあるようです。でも、正治が夢中になるタイプだったかどうか……」
そればかりは分らない。──恋とはそんなものだ。
私と夕子だって、他人から見れば、およそ不つり合いなカップルだろう。
「──恨んでおられるでしょうね。息子さんを振った女の子を」
と、私は穏やかに言った。
「それは、まあ……。でも、恋はどっちが悪いとかいいとかいうものでもありません。それに、たとえ相手の女の子が分ったとしても、何ができます? 今さら、正治は戻らないんです」
淡々とした口調に、深く、いやされることのない悲しみが読みとれる。
「──一つ、うかがいたいのですが」
と、私は言った。
訊きにくいことだが、捜査のためには必要である。
「何でしょうか」
「正治さんの父親のことです」
水科恭子の顔がサッと青ざめた。
「記録を調べましたが、あなたは正式に結婚しておられない。正治さんは──」
「ええ、確かに」
と、水科恭子は遮《さえぎ》って、「あの子は私生児でした。それが何か?」
「いや、もちろんそれがどうというのではありません。父親は──」
「もう亡くなりました」
「本当ですか」
「もちろんです」
「お名前は?」
「それは申し上げられません」
水科恭子が、言えない、というのなら、とても聞き出すことはできまい。私は諦めることにした。
「しかし、一つ申し上げておきますが」
と、私は言った。「正治さんが、正式な結婚で産まれた子でないことは、誰でも調べれば、すぐに分ることですよ」
では、と一礼して、私と夕子は教授室を出ようとした。
夕子がちょっと振り向き、
「先生」
と、言った。「先生には何百人も、息子や娘がいます」
水科恭子は、黙って夕子を見つめている。
「失礼します」
夕子はドアを閉めた。
廊下を歩いて行くと、国崎教授がやって来るのに出会った。
「やあ、これはどうも。うちの学生の命を救って下さったそうで」
と、感謝されて、私は少々面はゆい気分だった。
「大変ですね。選挙だそうで」
と、こっちも少しお世辞(にもならないが)のつもりで言った。
「いや、まあ……」
と、国崎はちょっと目をそらすと、「どうしたもんかと思ってるんです。何しろ、学部長ともなると忙しくなりますからね」
「え?」
と、夕子が不思議そうに、「じゃ、立候補を取り消されるんですか?」
「あ──いや、そう決めたわけじゃないよ。ただ……迷ってるのは事実でね」
と、国崎はごまかすように笑って、「このことは内緒だよ」
「ええ、よく分ってます」
「では、失礼。ちょっと水科先生と話がありますので」
国崎が会釈して行ってしまうと、私と夕子は顔を見合せた。
「──様子がおかしいわ」
「うん。何かあったのかな」
「あの言い方は──。立候補を取り消すつもりね、きっと」
夕子は、不安そうに、「ゆうべのことが関係あるのかしら」
と、言った。
「というと?」
夕子は黙って首を振って、歩き出した。
──こうなると、「名探偵」は何も言っちゃくれないのである。
「じゃ、私、講義があるから」
と、夕子は表に出た所で言った。
「ああ、何か分り次第、連絡するよ」
私は肯いて、夕子と別れ、正門の方へと歩いて行った。
表の通りへ出て、タクシーでも拾おうかと思っていると、
「警部さん」
と、呼ぶ声がした。
「やあ、君か」
国崎幸代が、教科書を何冊かかかえて立っている。
「ゆうべは──」
「ああ、君もよくやってくれたね」
「助かりそうですか、琴美」
「うん。大丈夫だろう。ま、かすり傷ってわけにゃいかないが、『若さ』があるからね」
「良かったわ」
幸代はそう言って、「本、返してもらわなきゃいけないし」
と、笑った。
「何か話があるんだろ?」
夕子でなくても、それぐらいのことは分るのである。
「ええ……」
少しためらってから、幸代は肯いた。「実は──」
「立ち話も何だろ。どこかへ行こう。知ってるかい、静かな場所」
幸代は、ちょっといたずらっぽく笑って、
「甘いもの、お好き?」
と、訊いた。
「それで……」
と、私は見ただけで胸やけしそうなパフェを前にして、言った。「話っていうのは?」
「琴美のことで」
と、幸代は言った。
確かに、その甘いものばっかりの店は、今はガラ空きで、静かなものだった。お昼休みや、もう少し遅い時間になると、女子学生で大混雑になるらしい。
「あの血のこととか、何か分りました?」
と、幸代は言った。
「あれは血じゃなくて、香辛料を水でといたものだった。よく出来てるがね」
「なあんだ」
「全く、悪い冗談だよ。あの人魂といい、血の雨といい……。君は何か知ってるのかい?」
「あのことは何も」
と、幸代は首を振った。
言うべきかどうか、決心がつかないという様子だ。こんなときは待つに限る。言わせようとすれば逆効果だ。
「──宇野さん」
と、幸代は私の名前を言った。「水科先生の息子さん、正治君の恋人だったのは、私です」
「そうか」
「隠して、付合っていました。何しろ父が凄くうるさいので。でも、正治君の方も本気だったと……。私はそう信じてます」
「ショックだったろうね。自殺したときは」
「それはもう……。だって、そんな原因、全然なかったんですもの」
と、幸代が首を振った。
「というと──君が彼を振った、というわけじゃ?」
「違います」
と、幸代はきっぱり首を振った。「私たちの間では、喧嘩一つしていませんでした。──それで、却って父に気付かれずにすんだんだと思います。自分のせいだと思ったら、普通じゃいられません」
「それはそうだね」
「ショックで、しばらく何もできませんでした。でも──父は忙しくて、ほとんど家にいないし、母も出歩いてるし。ですから、どっちも、私の様子がおかしいことには気が付かなかったと思います」
「なるほど」
「ずっと──黙ってるつもりでした。水科先生は、正治君が死んだのは、『恋人』のせいだと思ってるでしょうし。でも、私、全く心当りがないんです」
「分るよ。他に何か理由があったんだろう」
「ゆうべ、琴美が刺されて──」
と、幸代は重い表情になった。「正治君の恋人が自分じゃない、と言ったって聞いて……。お話ししとかなくちゃ、と思ったんです」
「というと……」
「私、琴美に頼んでたんです。彼女と正治君が付合ってることにしといてくれって。あの子なら、他にも何人もボーイフレンドがいるし、誰も不思議だと思いません」
「カムフラージュ、というわけだね?」
「そうです。父に対しても、水科先生に対しても。──水科先生も、正治君のこと、そりゃあ可愛がってました。女の子が近付くのを、いやがっていましたわ」
「正治君もそれを知っていた」
「もちろん。でも、水科先生は、自分のことがよく分っている方ですから、最終的には正治君から離れたと思います。でも──あのころはまだ……」
「まあ、ああやって命日に『追悼の会』をやるってのはね、やっぱり普通じゃないよ」
と、私は言った。
「でも──どうなんでしょう。琴美、正治君の恋人だったと思われて、刺されたんでしょうか? もしそうだったら、私……」
幸代が、顔を伏せた。
そうか。──私にも、やっと少し分りかけて来た。
「大丈夫だよ」
と、私は言った。「犯人は逮捕してみせる。さあ、アイスクリームが溶けるよ」
顔を上げて、涙をためた目で幸代は私を見ると、やっと微笑《ほほえ》んだのだった。
4
「それで──」
と、夕子が言った。「二人は『甘い関係』になった、ってわけね」
「よせよ」
と、私は顔をしかめて、「それより、こんな時間に、何をするんだ?」
「いいじゃない。夜の大学って、静かで、ロマンチックなのよ」
「そうかね……」
まあ、静かであることは間違いない。しかし、ロマンチックと言えるかどうか。
──私と夕子は、あの教室──幽霊騒ぎのあった、304教室にいた。
夜の十時を少し回っている。もちろん、教室の中は空っぽである。
「誰か来るのかい?」
「そう。──もう来ると思うけど」
夕子は、のんびりと言った。「幸代の話で、はっきりしたわね」
「何となく見えて来た、って気はするがね」
「──水科先生は、いつも席を決めていた」
と、夕子は言った。「和田琴美は、後ろのドアに一番近い席。ということは、当人が出て行くのにも便利だけど、誰かが外から、教室の中へ入って来て狙うにも、一番便利なところにいた、ってわけ」
私は目をみはった。
「おい、それじゃ──」
「間違えないで。水科先生は、教壇に立ってたのよ。廊下へ出て、明りを消すことはできなかった、そうでしょ?」
「うん……。まあ、そうだな」
「犯人は、明りを消しておいて、中で幽霊騒ぎを起し、みんながそっちに気をとられている間に、和田琴美を刺そうとした。ところが、考えに入れてなかったのね。琴美がこれ幸いと途中からサボっちゃうとは」
「あの幽霊騒ぎは?」
「風船でしょ」
「風船?」
「風船に蛍光塗料を塗って、フワフワと飛ばしてやる。予《あらかじ》め、中に血みたいに見える液を入れておけば、そのうち、何かに当ってパンと割れ、中の液が飛び散る」
「なるほどね」
「風船なんて、割れちゃったら、ただのゴムの切れ端よ。特にそれで被害を受けたわけじゃないんだし、こんな教室、いくらでもそんな物、落ちてるしね」
と、夕子が言った。「めぐみには災難だったけど」
「しかし、和田琴美を殺そうとした、っていうのは……」
「幸代の話を聞いたでしょ? 琴美は、正治君の恋人役を引き受けてた。ということは、本当の恋人を知ってた、ってこと。そして、それをちゃんと黙っていられる性格じゃなかったってこと」
「そうか」
私は肯いた。「犯人が和田琴美を刺したのは、口をふさぐためだったんだな」
そして私はハッとした。
「おい! それじゃ和田琴美が危いじゃないか!」
「ちゃんと原田さんに連絡してあるわ」
と、夕子は言った。「しっ! ね、机の下に隠れて」
「何だって?」
夕子の返事を聞く必要はなかった。足音が、304教室へと近付いて来る。
私と夕子は、机の下へ潜り込んだ。
「腰が痛いよ」
「もう年齢《とし》ね」
小声でやり合っていると、ドアが開いた。
そっと顔を覗《のぞ》かせる。──コツコツと足音がして、教壇に上ったのは、水科恭子だった。
何をしてるんだ?
水科恭子は、机の上に手紙らしいものを置くと、持って来た包みを開けて、ロープを取り出した。
そして、その先を輪にして……。
おい! 首を吊ろうっていうのか!
出て行こうとすると、夕子が止めた。と、別の足音が聞こえて来た。
急いで、駆けて来る。そしてパッとドアが開くと、
「何してるんだ!」
国崎が、飛び込んで来て、水科恭子の手からロープを取り上げた。
「あなた……」
「馬鹿なことをするんじゃない! ──そんなことしたって、正治は戻らない」
「だからこそよ」
と、水科恭子は言った。「あの子の所へ行くのよ」
「やめてくれ」
と、国崎はロープを投げ捨てた。「君は……僕を苦しめたいのか」
「あなた……」
水科恭子は、国崎の胸に身を投げかけるように、もたれかかった。
──そうか!
やっと、私にも分った。
「君はこの大学に必要なんだ」
と、国崎は言った。
「でも──あなたは思ってるんでしょう。私があの子を刺したと」
国崎は何も言わなかった。
「──あなたに疑われて、この大学にいられないわ。当然でしょう」
と、水科恭子は言った。「私が死ねば、それで何もかも片がつくわ」
「そんなことは──」
と、そこへドタドタと、聞き憶えのある、大きな足音が近付いて来た。
あれは──。
「宇野さん!」
と、ドアが壊れそうな音をたてて、入って来たのは、原田である。「あれ? 部屋を間違えたかな」
「間違えちゃいないわ」
夕子が、立ち上った。
「永井さん!」
と、水科恭子が目をみはって、夕子と私を見た。
「先生」
と、夕子が言った。「言ったでしょ。先生には、何百人も何千人も、息子と娘がいるんですよ」
「でも……」
「原田さん、病院の方は?」
と、夕子が訊くと、原田はニヤリと笑って、
「ご心配なく。見張ってたら、現われましたよ。つかまえて、ちょっとひねったら、すぐ白状しました。誰に頼まれたのか」
「どういうことだね」
と、国崎が唖然としている。
「和田琴美さんを刺したのは、大津先生に頼まれた人間なんです」
「大津に?」
「でも、琴美さんには、刺される覚えがない。それで、正治さんの恋人は自分じゃない、と口走ったんです」
夕子は、静かに国崎たちを見て、「辛いことですけど、真実を見る必要があります。幸代さんも」
「幸代が……」
「ご存知だったんでしょ、国崎先生は」
と、夕子が言った。「正治さんと、幸代さんが愛し合ってたってこと」
──しばらく、沈黙があった。
「何てこと……」
と、水科恭子が呟く。「あの二人は──」
「ええ。分ってます。正治さんの父親は、国崎先生ですね」
国崎が、苦痛に満ちた表情で、肯く。
「腹違いの兄妹だったわけか」
と、私は言った。「しかも、同じ大学に来ていた。同じ学年で」
「まさか、あんなことになるとは……」
と、国崎が首を振って、「二人が付合っていて、しかも本気《ヽヽ》だと知って、唖然とした。しかし、止めても幸代は反発するだけだったろう」
「それで、話したんですね、正治さんに」
国崎は肯いた。
「幸代に話すよりは、と思った。──しかし、とんでもない間違いだった」
「ショックで、正治さんは自殺してしまった」
「あんなことになるとは……」
国崎は、水科恭子の方へ、「本当だ。考えてもみなかったんだ」
と、言った。
「──大津先生は、学部長選挙で、何かあなたの弱味はないかと調べているうち、和田琴美から、幸代さんと正治さんが付合っていたのを聞き出した」
と、夕子が言った。
「そうか」
と、私は肯いて、「後は、正治君が、私生児だということを調べ出せば、真相は容易につかめる」
「大津先生は、国崎先生に、選挙を下りろと言ったんでしょう?」
「ああ、そうだ。そうしないと、幸代にすべてを話す、と言った」
原田がそれを聞いて、
「どこにいるんです? ぶん殴ってやる」
と、怒っている。
「一方、大津は、和田琴美から、自分のやったことが洩れるのを恐れていたんです。琴美は、たぶん大津先生と遊んでて、裏で、暴力団絡みの借金があるのを、知っていた」
「それで、口をふさごうとしたんだな」
「自分で、廊下とここの明りを消し、頼まれた男があの後ろのドアに一番近い席の琴美を殺そうとした」
「ところが、当人は、暗くなったのを幸い、逃げてしまって、席にいなかったってわけだ」
「せっかくの細工も、むだになってね」
と、夕子は言った。「ちょうど、三年目の命日ということで、琴美を殺した疑いが、水科先生にかかることも分ってたんですよ」
「何て奴だ!」
と、国崎が顔を紅潮させて、「私もぶん殴ってやる」
「これで二発」
と、原田がニヤリと笑った。
「たぶん──」
と、夕子が言った。「さっきから廊下の方でチラチラ影が見えてるのが、大津先生じゃないかしら」
とたんにドタドタと足音がした。
原田と、国崎がワッと追いかけて行く。
私は二人に任せることにした。──三発目を殴るのは、|後でも《ヽヽヽ》いいだろう。
「──永井さん」
と、水科恭子が言った。「ありがとう」
「いいえ」
夕子は、微笑んで、「今度、一回だけ遅刻を見逃して下さいませんか?」
と、言った。
「──夕子」
と、声がした。
「幸代」
私たちは、大津が連行されて行ってから、遅い夕食をとっていた。──大学の近くの、例の食堂である。
「いい?」
と、幸代は座って、「すぐ行くから」
「いいよ、別に」
と、夕子は言った。
「聞いたわ、父から」
と、幸代が言った。「──馬鹿よね。|私に《ヽヽ》言えば良かったのに」
「正治君のこと?」
「あの子、凄く責任感の強い子だった。──私なら、ショックでも、何とか立ち直れたのにね」
と、幸代は目の涙が溢《あふ》れそうになるのを、何とかこらえている様子で、「あの少し前に……。正治は──泊ったの、私の所に」
夕子は黙って聞いていた。
「父は出張で、母も旅行に行ってたし……。私は寂しかったから……。正治、それを気にしてたんだね」
「やっぱり、両親とも、真面目《まじめ》だからよ」
と、夕子が言うと、幸代はちょっと笑った。
「真面目の二乗だね。──そんなことのために死んじゃうなんて」
「幸代──」
「大丈夫」
と、涙を拭《ぬぐ》って、「聞いて良かった。だって、ずっと気になってたの。理由が分らなかったでしょ。だから、もしかして、私に原因があったのかな、って」
幸代は、微笑《ほほえ》んだ。しっかりと、真実を見据える目をしていた。
「でも──もう大丈夫。私、正治のことは忘れないけど、新しい恋もできるわ」
と言うと、幸代は立ち上った。「ごめんね、食事のお邪魔して」
「構わないわよ。どう、一緒に?」
夕子が誘うと、幸代はためらったが、
「いいじゃないか。にぎやかな方が、食事は楽しい」
と、私が言うと、ニッコリ笑った。
「じゃ、遠慮なく、恋人たちの邪魔しようっと」
「お父さん、学部長になったら、また忙しくなるね」
「どうかしら。いつも、人に任せるってことのできない性格でね。それで苦労してるの。──今度は、細かいこと、全部、人にやらせるって」
「それがいいよ」
と、私は言った。「そうそう。細かいことって言えば、夕子、君にかかって来た電話ってのは?」
「ああ、水科先生が殺されるって電話? 当然大津よ。私に刑事の恋人がいるって知ってて、かけて来たんだわ。何か起っても、水科恭子の方へ注意が行くでしょ。それに、本人が、自分から疑いをそらすためにかけて来たと思わせることもできるし」
「細かいことをやりすぎると、失敗するんだ」
と、私は言った。「何を食べる?」
そこへ、
「ワッ! ずるい!」
と、大声と共にやって来たのは、佐々木めぐみである。「三人で仲良くやってるんだ」
「めぐみも食べない?」
と夕子が誘うと、めぐみはすぐに椅子《いす》を持って来て加わった。
──どうも、この佐々木めぐみを見ていると、誰かを思い出す。
そう! 原田だ!
「私、お腹ペコペコなの!」
勇んでメニューをにらみつける佐々木めぐみを見て、私は、財布の中にいくら入ってたっけ、と考えたのだった……。
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第四話 裏の畑でミケが鳴く
1
大宅は、その家の少し手前で、足を止めた。
気は進まない。──行ったところで、同じことだ。
だめと分っていて、訪ねて行く。これくらい、辛いものはない。しかし、ともかく寄るだけでも寄って行かなければ、課長の倉田にどやしつけられるだろう。
腕時計を見ると、四時を少し過ぎている。そろそろ社へ戻らなければ、会議に間に合わない。──大宅の勤めるマンション会社は、五時の終業ベルが、会議の始まりでもあるのだ。
ノルマ、ノルマ。
マンションを売るのが、大宅の第一の仕事だ。それもこの不景気では、とても思うように行かない。
大宅和男は、二十七歳。上司から見ると、
「|いくらでも《ヽヽヽヽヽ》働かせて大丈夫」
な年代、ということらしい。
今、大宅が立っているのは、畑の中の細い道である。その道が、古びた木造の一軒家に続いている。
そろそろ日が傾いて、ビルの影が、畑の上に長く落ちていた。
「どうせむだだ」
と呟《つぶや》いて、それでも大宅は歩き出していた。
皆川雄次郎。──この畑の持主は、今年五十五歳になる、独身の一風変った男である。
畑といっても……ここは東京都下の郊外というわけではない。港区の一等地。周辺はすべて開発されて、ズラリとビルが並んでいるのだ。
その中で、この一画だけが、畑になっている。道を通る人は、たいていびっくりして足を止めた。
こんな所に畑が? ただびっくりする者もいるし、懐しげに、土の匂いをかいで行く人も少なくない。
大宅和男とて、そういうビルの谷間に、黒々とした土と、緑鮮やかな畑があるという風景は、正直嫌いでない。しかし、問題は、この畑が決して狭い土地ではないこと──約二百五十坪もある──と、マンションを建てるための土地をこの辺に捜している大宅の会社にとって、正に絶好のロケーションを持っている点にあった。
しかし、皆川雄次郎には、全くこの土地を手放す気はなかった。当然、大宅の勤め先以外にも、十指に余る企業が、ここを買い取ろうとしたが、皆川は拒み続けた。
税金など、安くはないはずで、この畑から上る利益などでは、とても生活していけないに違いないが、その点、皆川は親譲りの財産をかなり持っていて、暮しには困らないらしいのである。
皆川は、周囲がどんなにモダンになろうとも、この古い木造の家に一人で──いや、正確には猫一匹と一緒に暮している。そして、日参する大宅は、いつも玄関で追い返されてしまうのだ……。
「──ごめん下さい」
曇《くも》りガラスをはめた格子戸越しに、大宅は声をかけた。「ごめん下さい。──大宅ですが」
名のるまでもなく、毎日来ているのだ。向うだって分っている。
「皆川さん。──ごめん下さい」
何度か呼びかけて、諦《あきら》めて帰ろうかと思っていると、ガラス越しに、
「ニャー」
と、猫の鳴き声が聞こえて来る。
「皆川さん。──いらっしゃいますか」
「誰だ?」
と、人影が曇りガラスの向うで動いた。
「大宅です。いつもどうも……」
たいていは言い終らない内に、「帰れ!」とやられるので、大宅も自然に言葉を切るくせがついている。
しかし、今日はいつもと少し様子が違っていた。
「おお、君か! 待ってたんだ!」
と、皆川の声がした。「入ってくれ!」
「あの……いいんですか?」
大宅の方が面食らっている。
「ああ、戸を開けて入って来てくれ」
「はい!」
何だか知らないが、皆川の気が変ったらしい。やったぞ!
大宅は、勢い込んでガラッと戸を開け、中へ入った。とたんに──。
ザーッ、と水が頭上から降って来て、大宅は、頭からずぶ濡れになってしまった……。
呆然《ぼうぜん》と突っ立っている、濡《ぬ》れネズミの大宅を眺めて、皆川が腹をかかえて笑っている。そのわきで、猫の「ミケ」が不思議そうに、飼主と、水をしたたらせている男を交互に見ていた。
「──ひっかかった! おい、いくら来てもだめだ。これでこりたろう。この次は何が降るか分らんぞ。帰れ!」
天井にバケツをぶら下げて、戸を開けると水がどっと降り注ぐという具合になっていたのだ。
大宅もさすがに頭へ来た。怒りで真赤になり、それから真青になったが……。
まさか、皆川を殴るわけにもいかない。
ぐっと腹立ちを抑えると、大宅は背筋をぐっと伸してから、
「失礼します」
と、一礼した。「またお邪魔します」
「ご苦労さん」
と、馬鹿にしたような皆川の言葉を背に、びしょ濡れのまま大宅は皆川の家を後にした。
靴の中にも水が入って、歩く度にグシャグシャと音をたてた。
「畜生……」
と、歩きながら、大宅は呟いた。「畜生! ──憶《おぼ》えてろ!」
日は傾きかけて、すれ違う人が、びしょ濡れの大宅を、不思議そうに振り返って見ていたのだった……。
「キャッ!」
夕子が、何かにつまずいたのか、よろけて私の腕にとりすがった。
「どうした?」
私は夕子の体を支えてやって、「大丈夫かい?」
と、訊《き》いた。
夕子が、右足を押えて、軽く顔をしかめたからである。
「何とかね……。その敷石が、少し持ち上ってるの。つまずいちゃった」
夕子がいまいましげに言って、足下を見下ろす。
──永井夕子と私は、遅い夕食を終えて、夜道をぶらりと歩き出したところだった。
デートコースというわけではないが、こちらは四十男の警視庁捜査一課の警部、夕子は女子大生とくれば、アベックだらけのデートの名所には行きにくいというものである。
時間は夜十時半過ぎ。ほんのりと暖い、春の夜である。
「なるほど、少し持ち上ってる。危いな」
私は、街灯の明りで、夕子のつまずいた敷石を見た。「直しとこう」
「待って」
と、夕子は止めると、かがみ込んで、その少し片側の持ち上った敷石を覗《のぞ》き込むようにした。
どうやら「名探偵」の勘を刺激するものがあったらしい。
「どうかしたのかい?」
「見て。──敷石のこっち側。下に小石を押し込んで持ち上げてある。これはわざとやってあるのよ。偶然じゃ、こうはいかないわ」
「なるほど」
私も苦労してかがみ込むと肯いた。「悪質だな、いたずらだろう、子供の」
「そんなにかがみ込むのが苦しいの? 少しお腹の出すぎと違う?」
「差し当り関係ないだろ! 今、食べたばっかりだからだ」
と、私は主張した。
夕子はちょっと笑って、
「後で、しっかりこの目でお腹の出具合を確かめてあげる」
と言った。「ね、その前に──」
「この石を直そうか」
「このままにして、少し離れた所から見ていましょうよ」
「何だって?」
「この敷石、相当に重いわ。子供の一人や二人じゃ、とても持ち上げられないわよ。つまり、やったのは大人。ということは、単なるいたずらじゃなくて、何か目的があってのこと、という可能性もあるわ」
「人をけつまずかせる可能性?」
「それを確かめたいの。──いいでしょ? どうせ時間はあるんだし」
「分ったよ」
名探偵には、しょせん逆らってもむだなのである。それに、
「後は一晩中、|ゆっくり《ヽヽヽヽ》お付合するから」
なんて腕を絡めて来られると……ついこっちもニヤついてしまう。──いつもこうやって、言うなりにされちまうんだからな、全く!
ともかく、私と夕子は、その場所から少し離れて駐車してあった車のかげに隠れて、様子をうかがうこと一時間。──仕事柄、張込みには慣れているから、苦にはならないが、しかし、あんな敷石一つに夕子がどうしてそう関心を持つのか、首をかしげていた。
一時間の間に二人、通りかかったサラリーマンらしい男が、あの敷石につまずいて転びそうになり、
「なんだよ……」
とか、ブツクサ言いつつ、行ってしまった。
そして──一時間を少し過ぎたころだったろうか。
一人の男が──そう若くはない。たぶん五十代だろう。ただ、体つきはがっしりしていて、肉体労働をしているのか、と思えた。
ジャケットを着込んで、ラフなスタイルだが、着ている品は悪くない。ただ、その男は、敷石が持ち上った側とは反対の方向からやって来た。
すると──その男とすれ違う方向で、一人の若い女がタッタッと足早に歩いて来る。会社帰りのOLという格好だが──。
「危いな」
と、私は言った。「つまずくかも──」
言い終らない内に、
「アッ!」
と声を上げて、その女が敷石につまずき、勢いよく歩いていただけに、前のめりに、かなり派手に転んでしまった。
ジャケットを着た男が、びっくりして女の方へ駆け寄ると、
「おい! 大丈夫かね」
と、かがみ込んで言った。
「すみません……。つまずいちゃって……」
女の方は、手をついて体を起したが、膝《ひざ》を打ったようで、「痛い……」
と、顔をしかめた。
「立てるか? ──さ、つかまって」
「すみません」
女は男の腕につかまって、何とか立ち上ったが、私たちの所から見ても、膝に血がにじんでいるのが見えた。
「こりゃ痛そうだ。医者へ行った方がいいよ。連れてってやろう。──といっても、この辺に病院はあるかな」
と、男は心配しながらも戸惑っている様子。
「いえ、大丈夫です……。何とか歩けますから」
と、女は髪を直して、「本当にもう」
「そうかい?」
女は、一人で歩き出したが、二、三歩もいかない内に、アッと声を上げてよろけた。
「ほらほら。だめだよ、無理しちゃ」
男が、女を抱きかかえるようにすると、「──俺の家がこのすぐそこだ。簡単な手当くらいできるけどな」
「でも……ご迷惑になります」
「そんなことはいいさ。ただ──俺一人だ。もしあんたが、いやなら──」
「そんなことは……」
「そうかい? じゃ、肩につかまりな。──そうだ、うちにゃ猫も一匹いる。メスだからな。大丈夫だ」
と、男は笑って言った。「歩けるかい? 痛そうだな。よし、おぶってってやろう」
「いえ……」
「構やしねえって。──ほら、背中へのっかりな」
男が、女の前にしゃがみ込んで、「俺は、いつも畑仕事をやってるから力があるんだ。心配するな」
実際、男は軽々と女を背負うと、歩いて行った。
二人の姿が、夜の中へ消えて行くと、夕子は、
「ふーん……」
と、肯いて、「何だかいわくありげね。そう思わない?」
「そうかい? あの男が、女を狙ってた、とか?」
「そうかしら? 私の目には逆に見えた」
「逆?」
「女の方が転んだのよ。男があの敷石に細工したとしても、女が引っかかる確率なんてわずかなもの。逆に女の方が仕掛けたとしたら、確実につまずくわけでしょ?」
「そうか。しかし……」
「あのけがは、結構本物だったわね。──考えすぎかな」
夕子は何となく心残りな様子だったが、「ま、いいや。じゃ、お待たせしました」
「行こうか」
私は、ホッとして夕子の腕をとり、歩き出した。
「あ、そうそう。忘れるとこだった」
「何だい?」
「あの敷石、元の通りに直しときましょ。つまずいてけがする人が出るといけないわ」
ということは──つまり、|私が《ヽヽ》やらなくてはならないのである。
私はため息をついて、あの歩道へと戻って行った……。
2
電話が鳴ったのは、夜中の二時近くだった。
もちろん、職業柄、夜中に叩き起されるのには慣れているが、それにしても、起し方というのがある。
「宇野さん! 起きてますか!」
受話器がビリビリ震動するかと思うほどの大声が、飛び出して来て、私は危うくひっくり返りそうになった。
「──もしもし?」
「俺だ」
と、私は、頭を振りながら言った。
「良かった。起きてたんですか」
「お前の声を聞きゃ、いやでも起きるさ」
と、私は原田刑事に言ってやった。「どうしたんだ?」
「畑でミケが鳴きまして」
「何だ?」
「ここ掘れワンワン。──いや、ニャンニャン、ってわけで。掘ったら死体が出たってわけです」
私は、詳しい話を後で聞くことにして、
「ともかく殺しなんだな。現場は?」
「港区です」
「畑があるのか、そんな所に。分った。すぐ仕度して行く」
「下でお待ちしてます」
「下で?」
「もうお宅の前にパトカーで来てるんです」
「早く言え!」
というわけで──ともかく十分後には、パトカーがサイレンを鳴らして夜の町を駆け抜け、その座席に私と原田刑事の巨体がおさまっていたのである。
「ビルの間に、ポツンと残ってた畑だそうです」
と、原田が言った。「そこの持主の飼ってる猫がいやにニャーニャー鳴いて、うるさいんで、ガードマンが見に行くと、畑の土が盛り上っていて、そこを少し掘ると、人の手が……」
「ふーん。人の手が、か」
「猫の手も借りたいっていうけど、本当に借りたわけですね」
と、原田が妙なジョークを飛ばす。
「ガードマンが見付けたってのは?」
「ええ、何しろ周囲はビルばっかりだそうで、個人の家は、その畑の真中の一軒しかないんだそうです。で、近くのビルのガードマンが、見回りをしていて……」
「──ええ、もともと猫は好きだったもんですからね」
そのガードマンは宇田川といった。
「よく、ここで見かけて、『ミケ、ミケ』って呼んでやると、駆けて来たんです。人なつっこい猫で」
──ビルの谷間といっても、結構な広さである。
その畑のど真中に、古びた木造の一軒家がある。──今は、畑も明るいライトで照らされている。が、夜ともなれば真暗だろう。
「持主は、皆川雄次郎という男です」
と、原田が手帳を見て言った。
「よく知ってますが、悪い男じゃないですよ」
と、ガードマンの宇田川が言った。「私と同年代──たぶん五十五、六じゃないかな。ま、こんな土地を売りもせずに畑仕事をやってたんですから、ちょっと変ったところはありましたが」
「その皆川の姿が見えない、と」
私は肯いて、「被害者は?」
「若い女です。OL風の格好ですね。今、あっちに布をかけて」
「拝見するか」
いつも、若い被害者の死体を見るときは胸が痛む。いや、もちろん若くなくても、殺された死体の哀れさに変りはないのだけれど、特に、まだこれから、人生の光も影も、すべてを受け取るべき世代の人間の死──無理|強《じ》いされた死は、痛ましいものがある。
「これです」
私はかがみ込んで、布をめくった。
土で汚れてはいるが、死に顔はきれいだ。
「背中に刺し傷があるようですね」
と、刑事の一人が言った。「検死官が今──」
待てよ、と私は思った。
この顔、どこかで見たことがある……。
「そうか」
と、私は呟いた。
夕子が、敷石につまずいたあの夜。あれから一週間──いや十日はたつか。
この女、確かあのとき、転んでけがをした女ではないか。足の方をまくって膝を見ると、すりむいた傷が、ほとんど治りかけている。やはりそうだ。
あのとき、この女をおぶって行った男……。
畑仕事をしていて、猫が一匹。──間違いない。
場所も、このすぐ近くである。
「宇野さん、どうかしたんですか?」
と、原田が言った。「昔の彼女にでも似てます?」
「何を言ってるんだ。──おい、夕子の所へ電話してくれ」
「は? 夕子さんですか」
「そうだ。すぐここへ来いって。お前の声なら目が覚めるさ」
「分りました。でも……いいんですか?」
「呼ばなきゃ、後で恨まれる」
と、私は言った。「そうだ。夕子にも言ってやれ。『裏の畑でミケが鳴いた』ってな」
「あれきりでは終らなかったようね」
と、夕子は死体を見て言った。
「つまり……皆川って男と、|何か《ヽヽ》あったわけだ」
「足跡は?」
「消して行ったようだ。土が柔らかいからな。消すのも簡単だろう」
夕子は、死体を覆う布を全部めくって、かがみ込んで眺めた。──こんなとき、夕子は女子大生ではなく、冷徹な外科医のように見える。
ニャー……。
鳴き声がして、いつの間にやら、猫が一匹、私の足下に来て、こっちを見上げている。
「何か言いたげだぞ」
と、私は言った。「犯人を見たのか、お前は?」
「ニャン」
と答えたのは、夕子《ヽヽ》だった。「──見ていても、猫語を解する人間はいないしね。何してるの?」
夕子は私に訊いたわけではない。その猫が、死体の方へ寄って行くと、被害者の右腕の真中辺りに鼻をこすりつけるようにして、
「ニャーニャー」
と、派手な声を出し始めたのである。
「どうしたんだろう?」
「どうやら、その辺りで何か匂ってるらしいわね」
と、夕子は言った。「分析してもらってね、忘れずに」
「分った」
そこへ、原田がドスドスと地面にクレーターの如き穴をあけながら、やって来た。
「宇野さん。──お客さんです」
「うん?」
振り向くと──あのときの男が、立っていた。
「皆川雄次郎さんですね」
と、私が声をかけても、まるで聞こえていない様子で、目は地面に横たわる女を見つめていた。
「皆川さん──」
「誰だ!」
と、突然皆川は叫んだ。「誰がこんなことを……。京子! ──京子!」
皆川は私を押しのけ、女の死体に突っ伏すようにして、ワーッと泣き出してしまった。
何しろ畑仕事できたえた腕である。押された私は、畑の柔らかい土に尻もちをついて、丸い穴を残してしまったのだった……。
死体についているという、皆川を何とかなだめて、家に上ったものの、何を訊いても、
「ああ」とか、「うん」とか言うばかり。
「これじゃ自白調書が取れちまう」
と、私は夕子にこぼした。「ズボンのお尻、汚れてるか?」
「大したことないわよ。そのままで一流ホテルのメインダイニングには入れないでしょうけど」
と、夕子は言った。「──ねえ、どう見ても、皆川雄次郎とあの『京子』って女は、関係があったのよ」
「そうだな。十日前の、あの出来事がきっかけになったか」
「でしょうね。──あれがもし、仕組まれたものだったら?」
「つまり、京子って女が、皆川をたらし込んだ、ってわけか」
「言い回しが古い! でも、そういうことじゃない? それには何か理由がある」
「そうだろうな。しかし、皆川は畑仕事をしてるだけの男だぞ」
「|そこ《ヽヽ》よ」
と、夕子は畑を見渡す廊下のガラス戸越しに、表を見て、「この土地、どれくらいの値打があると思う?」
「なるほど」
「それに、ここで畑仕事をやってられたというのは、何か財産を持っていたからよ。でなきゃとても──」
ミシッ。
天井の板がきしんで、パラパラと埃《ほこり》が落ちて来た。
夕子と私は顔を見合せた。
「天井にネズミがいるみたい」
と、夕子は少し大きな声で言った。「ね、あなた、拳銃の調子が悪いってこぼしてたじゃない。一発撃ってみたら?」
「ああ、そうだな。ネズミなら、射殺しても別に過剰防衛にならない」
「私にも撃たせてね」
「うん。──どの辺を狙うか」
と、やっていると、
「待って下さい! やめて!」
と、「ネズミ」が叫んだ。「ワッ!」
メリメリと板が裂けて、男が一人、埃だらけになりながら、ドシンと落っこちて来て、
「ウーン……」
と呻くと、気を失ってしまった。
「何です?」
と、皆川がやって来た。
「この男が天井から降って来たんですわ」
と、夕子が言った。「疫病神《やくびようがみ》ですかしらね」
疫病神にしちゃ、汚れてはいるが、背広姿の若い男である。
「何だ、この男なら知ってる」
と、皆川は言った。
「誰です?」
「不動産屋の社員だ。いつも、ここを売ってくれと言いに来る。確か……大宅とかいったな」
夕子が男のポケットから身分証を見付ける。
「マンション会社の社員ね。大宅和男。──どうして屋根裏に?」
「見当もつかんね」
と、皆川は首を振った。「このところ姿を見ないと思ったら、そんな所にいたのか……」
まさか、ずっと天井裏にいたわけじゃあるまい。
私は、原田を呼ぶと、バケツに水を一杯入れて持って来いと言いつけた……。
「よく濡れるんです、ここへ来ると」
借りたタオルで、大宅和男は頭を拭きながら言った。「今度は頭だけでしたけど」
「よく天井にも上るの?」
と、夕子が訊く。
「とんでもない! 天井があんなに埃っぽいなんて思ってませんでした」
大宅はそう言ってから、「あの──彼女《ヽヽ》が殺されたっていうのは本当ですか」
「彼女?」
「間《はざま》京子です」
私と夕子は顔を見合せた。
「見てもらおう」
と、私は大宅を促して立たせると、畑の方へ連れて行った。
「ニャー」
と、猫が足下で鳴いて、大宅はびっくりして飛び上り、
「ワッ!」
と──尻もちをついてしまった。
私は、大宅が二流《ヽヽ》ホテルにも出入りできなくなったな、と思った。
死体を見ると、大宅は青ざめ、よろけた。
「おい! しっかりしろ! ──この女を知ってるのか?」
大宅は、ゆっくりと肯いた。
「ええ……。京子……。どうしてこんなことになったんだ!」
大宅は、死体の前に膝をつくと、グスグス泣き出した。
夕子はため息をつくと、言った。
「しっかりしてちょうだい。どうしてこうなったか。──あなたがよく知ってるんじゃないの?」
大宅は、ゆっくり顔を上げた。
「それ……どういう意味です?」
「敷石をわざと持ち上げて、つまずかせたのは、あなたでしょう」
夕子の言葉に、大宅はうろたえた。──答えたのも同じだ。
「じっくりと話を聞こう」
私は、大宅の肩を叩いた。「まだ夜は長いよ、君」
「ニャー」
と、あの猫も同意(?)したのだった。
3
「すると──」
私は呆《あき》れて言った。「あなたもご存知だったんですか」
「ええ、まあ」
倉田という、大宅の上司に当る男は、いくらか気まり悪そうだった。
倉田は、四十代の半ばといったところだろうか。何だか大宅がそのまま太って禿《は》げたら、こうなるという「将来像」のように見える。
当の大宅もすぐわきに控えているので、比べていると、えらくよく似ているのである。
ひっきりなしに電話が鳴る。──マンション会社といっても、大して広くはない。しかも昼間のこの時間、ほとんどの社員は出払っているのだろう、残っている二、三人の女子社員が忙しく電話を受けては、ポケットベルで社員を呼び出している。
「つまり、どうしても皆川さんがあの土地を売ろうとしないので、大宅さんが一計を案じた、というわけですか」
私は、少々胸が悪くなった。「自分の恋人を使って、皆川さんを引っかけようと、ね。──よく彼女がOKしましたね」
「頼み込んだんです」
と、大宅は小さな声で言った。「もちろん……あんなことになると分っていたら……」
「当り前です。前から分ってたら、殺人なんか起きやしません」
と、言ってやる。「で、間京子さんは、皆川さんに近付いた、と」
「ええ……。うまく行きました。京子がつまずいて転び、皆川さんが手当をする。それがきっかけで……」
「ひどく転んだだろう」
「そうなんです。そこが計算違いで」
「どういう風に?」
「彼女は、あんなにひどく転ぶと思ってなかったんです。目があんまり良くないので、もう少し先の敷石だと思っていたらしくて」
「それで?」
「ひどく膝を打って、本当に痛かったらしいです。皆川さんは、京子をおぶって帰り、ていねいに手当してくれて……。京子は、皆川さんのやさしさに、打たれたんです」
「すると……」
「皆川さんは、こちらの狙い通り、京子に熱を上げ始めました。ところが、京子にしてみれば、皆川さんを騙《だま》しているわけですから、辛くなったんです」
「その時点でやめときゃ良かったな」
と、倉田が呑気《のんき》なことを言い出した。
「皆川さんが、京子に結婚を申し込んだんです」
と、大宅が言った。
私はびっくりして、
「出会ってまだ……」
「一週間です。しかし、皆川さんは真剣だった。京子は僕に、これ以上、あの人を騙《だま》していられない、と……」
「なるほど」
私は肯いた。「それは京子さんの方が正しい。──しかし、どうやって土地を売らせるつもりだったんだ?」
「彼女が、あんな畑の中の家はいやだ、とすねて、土地を売ってマンションへ越そうと言い出すはずでした。で、土地はうちが買い、うちのマンションを買わせる。そこで京子は姿をくらます、というわけで……」
よく恥ずかしくもなく、そんな真似ができたものだ。呆れてものも言えなかった。
「──何しろ、この業界、今は不景気ですからね」
と、倉田が言った。「少しやりすぎかな、とは思ったんですが、大宅君が、恋人も喜んで協力すると言っていると話してくれたので」
私は手帳を閉じると、大宅を見て、
「君は平気だったのか」
と、言った。
「は?」
「一週間とはいえ、その間、皆川さんと間京子さんの間に、|何も《ヽヽ》なかったわけじゃあるまい」
大宅はちょっと目を伏せて、
「それは……。何度か、皆川さんと寝たはずです」
「自分の恋人にそんなことまでやらせるのかね」
「しかし、大宅君は、我が社のためにやってくれたわけですから」
と、倉田が口を挟んだ。「会社が業績を上げ、大宅君も出世すれば、彼女のためにもなると……」
──日本の会社は狂ってる!
会社のためなら、恋人でも差し出すのが「美談」なのだろうか。
「課長、お電話です」
と、地味な印象の女性がやって来た。「3番に」
「分った」
「それから、大宅さん、〈N開発〉の小沢さんが、至急電話してくれと」
「そうか! ──すみません、失礼します」
「ああ」
私はため息をつきながら、出してくれた苦いお茶を飲んだ。
すると、二人を呼びに来た女性が、
「あの──私、永山マチ子と申します」
と、言った。
「は?」
「課長さんを責めないで下さい。何しろ、この会社も危いところなんです。次の決算で業績が上ってないと、クビ、と宣告されています」
私は肯いて、
「まあ、そういう事情はね、分らないじゃない。しかし、人間として、やっていい範囲というものがある。そうじゃないかな」
「ごもっともです。でも──刑事さんはクビになるわけじゃありませんでしょう」
淡々とした口調だが、そこにはちょっと皮肉な響きも聞きとれた。
私が何も言わずにいると、永山マチ子という女性は、また鳴り出した電話に出て、少し話していたが、
「──宇野警部さんですね」
「僕だけど」
「お電話が」
「ありがとう」
と、受話器を受け取る。「もしもし。──何だ、原田か。どうした? ──何だって?」
私は、思わず訊き返していた。
「──皆川さん、自白したの?」
と、夕子が言った。
「いや、まだだ」
私は、息をついて、「どうもすっきりしないなあ。悪いのは何といったって、大宅の奴だ」
「同感ね」
夕子は大学の帰りである。──この名探偵も、一応|人並に《ヽヽヽ》、レポートだのテストだのに苦労しているのだ。
ラーメン屋で軽い夕食をとりながら、私は言った。
「恋人のためとはいえ、好きでもない男と寝られるか?」
「|好きだった《ヽヽヽヽヽ》のかも」
と、夕子は言った。「そうでしょ? だからこそ、きっと間京子は皆川さんに告白したのよ」
「そうだな。しかし──皆川としてはショックだったろう」
「カッとなって……。でも背中から刺す、っていうのが分らないわ。あの力よ。首でも絞めるというのなら、分らないでもないけど」
「しかし、皆川の上着に血がついていた」
「当人は何と言ってるの?」
「ショックで飲み歩いていて、途中どこかで酔っ払いに絡まれて喧嘩になったそうだ。しかし、何しろ皆川は腕っぷしが強いからな。一発お見舞したら、相手はアッサリKO。そのとき向うの鼻血がついた、ってことだ」
と、私はラーメンを食べ終って、「今、その喧嘩相手ってのを捜してるけどね。見付かるかどうか怪しい」
「血液型とか、精密な鑑定はするんでしょ」
「時間がかかるよ、どうしても。一応、皆川は家に戻ってるが」
「逮捕するだけの決定的な証拠はないものね」
「そうなんだ。──あ、そうそう」
私は思い出して、「殺された間京子の右腕に、マタタビがついてたんだよ」
「マタタビ?」
「そう。それで、猫があんなに騒いでたわけだ」
「マタタビね……」
「犯人が、死体を畑へ運ぶとき、マタタビのついた手で、右腕をつかんだんだろうな」
「どうしてマタタビなんかが手についてたの?」
「そこまでは分らない」
「猫に用心したんでしょう、当然。ということは、死体をあそこへ埋めたのが、皆川さんじゃないってことよ」
「そうか。自分の猫だ。何も、そんな用心しなくてもいいわけだ」
「それに、自分の畑に埋めるなんて。どこか遠くへ運ぶのが普通でしょう」
「しかし、そういう犯人もないわけじゃないよ。殺しても、そばへ置いときたい、ということもある」
「皆川さんはそういうタイプじゃないと思うけどね」
夕子はラーメンの器を空にして、「お茶下さい! ──いずれにしても、犯人はカッとなって間京子を殺したんじゃないわ。マタタビを用意してたってことはね」
「それもそうだ。すると……」
「大宅がどうして天井裏に隠れてたのか、分った?」
「本当かどうか分らないが、間京子と言い争いになったというんだ。つまり彼女の方は皆川に何もかも打ちあけると言ってね。大宅は何とか少し待ってくれ、と頼んで、間京子も渋々承知したというんだが……。それで、別れてから、大宅は心配になった。やっぱり間京子が話しに行ったんじゃないか、とね。──で、夜、遅くなってあの家へ行ってみると、玄関が開いていて、中には誰もいない。入ってみて、中を見て回っていると、誰かが玄関から入って来た。それであわてて──」
「天井に上った?」
「ということだ」
と、私は肯いた。
夕子は首を振った。
「まだ、大宅は会社にいるわね、きっと」
「そうだろう。どうして?」
「これから皆川さんの家へ来るように言って。向うで待ってましょ」
「どうするんだ?」
「実験してみるの。──背広が埃だらけになるから、その覚悟で来て、と言ってね」
夕子はそう言って、注がれたお茶を一気に飲み干した。
ガラッと玄関の戸が開いた。
「ヤッ!」
大宅が柱にとりついて、よじ上ろうとしたが──顔を真赤にして頑張っても、一向に大宅の体は持ち上らない。ズルズルと逆に柱を滑り落ちて来てしまうだけだった。
「エイッ! ──ヤッ!」
それでも、必死に柱へとりついているところは、無器用なチンパンジーという図であった。
「もういい」
と、私は言った。「やめとけ。どう頑張っても、玄関が開くのを聞いてから、天井へよじ上って行くなんてこと、できっこない」
ドスンと尻もちをついて、大宅は、
「いてて……」
と、顔をしかめた。
「背広は汚れずにすみましたね」
と、夕子が言った。「実際のところは、どうだったんですか?」
大宅は、汗を拭くと、ちょっと情ない顔で皆川を見上げた。──皆川は、腕を組んで、じっと大宅を見下ろしている。
「分りました……」
大宅は、少しよろけながら立ち上った。「でも、そうでたらめを言ってたわけじゃありません。──本当ですよ」
「座って話そう」
と、皆川が言った。「心配するな。絞め殺したりしないさ」
大宅がドキッとした様子で、自分の首へ手をやった。
「僕は……ともかく京子と言い争いになったんです。京子は何もかも皆川さんへしゃべるというし、僕は色々言って、思い止まらせようとしましたが、彼女は聞きませんでした」
「待って」
と、夕子が言った。「京子さんと言い争ったのは、どこですか?」
「場所ですか? 会社です。──まだ残業していたし。でも、もちろんオフィスの中じゃありませんよ。京子が僕を呼び出して、裏の駐車場で会ったんです」
「それで?」
「ええ、それで結局は喧嘩別れということになったんです。僕は、もし彼女が皆川さんに何もかもしゃべったら、二度と会ってもくれなくなると思って……。急いでここへ駆けつけたんです。──彼女より先に着こうと思って。来てみると、中は誰もいなくて……」
「玄関の鍵は?」
「開いてました。それで上り込んで──ともかく、京子が何と言うか、聞きたかったんです。それで、台を持って来て天井に上り……」
「それで、皆川さんは?」
「ええ、十分くらいして戻って来ました。こっちはじっと天井で耳を澄ましていると、京子が来て……」
「で、皆川さんに告白した、と」
「そうです。──僕も止めるわけにもいかないし、もう京子とは終りだな、と思いました」
「当り前だ」
と、皆川は言った。「俺は、それを聞いて、どうしていいか分らなくなり、外へ飛び出したんだ」
「その後ね、問題は」
と、夕子が言った。「その後、|何が《ヽヽ》あったの?」
大宅は、ゆっくり首を振って、
「よく分らないんです」
と言った。「──皆川さんが出て行くのは分りました。残った京子が、泣いているのが聞こえて……。そして、玄関の方で音がしたんです」
「音が?」
「ええ。──誰かが入って来たのは確かです。でも、こっちは見えてませんから」
「皆川さんが出て行って、どれくらいたってた?」
と、夕子が訊く。
「さあ……。たぶん十分か、そんなものでしょう。そう長くはたっていなかった。それは確かです」
「で、何があったの?」
大宅の額に汗が浮んでいた。──しばらくたってから、やっと言葉を押し出すようにして、
「その誰かは──口をききませんでした。京子が、『何するの?』と言うのが聞こえました。そして、『やめて! 誰か!』と叫んで、何か倒れる音がしました……」
──しばらく、私たちの誰も口をきかなかった。
皆川が、顔を紅潮させて、
「じゃ……お前は、彼女が殺されるのを、放っておいたのか」
と、怒りに震える声で言った。
「いや……。だって、一瞬のことだったんです。本当です! 止めようもなかった……」
「そのとき殺されたのは間違いないのね」
と、夕子が静かに言った。
「たぶん……。悲鳴が──」
「何だって?」
と、皆川が言った。
固く握りしめた拳が、小刻みに震えている。
「いえ──あれは猫が鳴いただけかもしれません! きっとそうだ。まるで悲鳴みたいに聞こえただけで……」
大宅は、両手で頭をかかえた。
私は、大きく息をつくと、
「で、その後、犯人はどうしたんだ?」
「たぶん……京子を畑へ運び出して埋めたんだと思います。何かを引きずる音がして、外へ出て行ったことは分りました……」
「どうして、そのときに逃げなかったの?」
と、夕子が言った。「下で何があったか、見当がついてたからでしょう?」
大宅は、身震いした。
「怖《こわ》かったんです。──下りれば、殺人者と顔を合わせるかもしれないと思うと。動けなかった……。その内、時間がたって、あのガードマンが、畑の死体を見付けて──」
「ますます出られなくなったってわけか」
「考えてたんだろう」
と、皆川が言った。「見付かったら、どう言い逃れしようか、と。あの子のことなんか、もう忘れて」
「だって──自分の身が心配ですよ。そうでしょう? 誰だってそうだ」
皆川は答えなかった。その代り、止める間もない勢いで、拳が大宅の顎へと飛んだ。
もっとも、私とて止める気もなかったが……。
4
「全く、いやなもんだな」
と、私は言った。
夕子は、何やら考えながら、夜道を歩いている。
そう遅い時間ではなかったが、人通りは少ない。──何といっても、あの皆川の畑を除けば、この一帯はオフィス街である。
夜は閑散として、人の姿もない。
「本当に大宅は見てないのかな、犯人を」
「そうでしょう。見てればもっと怯《おび》えてるわ、きっと」
「そうだな」
と、私は肯いた。「殺された間京子も、哀れだな。恋人のため、か……。しかし、大宅でも皆川でもないとすると、犯人は誰なんだ?」
「そこが問題ね。──大宅の話だと、間京子は、『何するの』とだけ言った。『あなたは誰?』とは言わなかったんだわ」
「つまり、知っている人間だった、と」
「そうね。逃げようとして刺された。犯人は刃物を手にして入って来た、というわけね」
夕子がふと足を止めた。「──ね、聞こえなかった?」
「何が?」
と、私は振り向いた。
「今……誰かが呼んだような気がしたの」
「さあ。──空耳じゃないのか」
私たちは、表通りへ出て、もう閉めて暗くなったオフィスビルの前に立っていた。
しばらく耳を澄ましていたが、特に何も聞こえないし、車も通るので、決してそう静かではないのだ。
「やっぱり気のせいだよ。こういうビルは何となく──」
と、私が言いかけたとき、
「助けて……」
と、はっきり声がした。
「あそこだわ」
と、夕子が言った。
ビルの隙間《すきま》のような細い道から、フラッと出て来たのは──街灯の明りにも、青白い顔が分る──ガードマンの宇田川だった!
私が駆け寄るより早く、宇田川はその場に崩れるように倒れた。
「血だ!」
かがみ込んで、私は宇田川を抱き起こした。
制服の胸に、血が広がっている。
「救急車、呼ぶわ」
夕子が電話へと走って行く。しかし直感的に、もうだめだろう、と私は思っていた。
「おい。誰にやられた? ──分るか?」
と、宇田川の耳もとに呼びかけると、かすかに瞼《まぶた》が震えて、唇が開く。
「女……」
と、宇田川が、かすかな声で言った。「女が……」
──夕子が戻って来た。
「どう?」
私は、宇田川の体を冷たい路上に横にした。
「死んだよ」
立ち上って、私はため息をついた。「胸の刺し傷……。どうやら同じ犯人かな」
何てことだ。──気付くべきだった。
夕子はビルを見上げた。
「ここからは、あの畑が見下ろせる」
と、独《ひと》り言《ごと》のように呟く。
「そうだ。──宇田川は、あのミケの鳴き声で気付いたんじゃない。犯人が、死体を畑に埋めるのを見てたんだ」
「そして──この情報《ヽヽ》がお金になる、と思った」
「犯人をゆすったな。馬鹿なことを……」
私は首を振った。
当て推量に過ぎないが、まず間違いないだろう。
「犯人が誰か、言った?」
と、夕子が訊く。
「いや。『女が……』とだけ言ったよ」
「『女が』?」
夕子が眉を寄せた。「──変ね。もしゆすったとすれば、相手が誰か知ってるはずですものね」
夜の中を、サイレンが近付いて来る。
夕子は、宇田川の上にかがみ込んで、じっと死体を見つめていた。
「──失礼」
と、声をかけると、反射的に、
「いらっしゃいませ」
という言葉が返って来た。「──あ、警部さん。宇野さん……でしたわね」
「そうだ」
私は肯いて、「いい返事だなあ。そういう声を聞くことはめったにない」
永山マチ子は、ちょっと頬を染めて、
「何をおっしゃって……。何かご用ですか」
午前十時。──このマンション会社に残っているのは、ほとんど「電話番」の女性が三、四人である。
「あいにく、この時間は、大宅さんも倉田課長も出ているんです」
と、永山マチ子は言った。「昼近くには、たぶん一旦戻ると思いますけど」
「いや、いいんだ」
私は肯いて、「君に話があって来たんだよ」
「私に、ですか」
と、永山マチ子は戸惑ったように言った。
「少し時間をもらえるかな?」
「ええ、もちろん……」
永山マチ子は、「ちょっと待って下さい」
と、若い女性の方へ駆けて行き、少し話をしてから戻って来た。
「すみません。連絡事項、ちゃんと念を押しておかないと、忘れてしまうんで」
「大変だね」
私は、ガランとしたオフィスを見回した。「どこか、ゆっくり話のできる所はあるかな?」
──永山マチ子は、ビルの裏手、少しごみごみした通りにあるコーヒー店へ私を案内した。
「こういう店のコーヒーの方がおいしいんです」
と、椅子にかける。
店そのものが、「コーヒー色」とでもいうか、床や壁に貼った板が、コーヒーに染っているのか、地の色なのか分らないくらいになっている。
「──大宅は、ちゃんと仕事に行ったかね」
と、私が訊くと、
「目の周りを紫色にして」
と、永山マチ子は微笑《ほほえ》んだ。「休んじゃいられないんですわ」
コーヒーを頼むと、それから豆を挽《ひ》く。香りが粉のように舞っている感じだ。
「しかし、殴られても仕方ないよ。身から出た錆《さび》というやつだ」
「ええ。私もそう思います。──女として許せない、という気持になります」
「しかし、君、この間は同情的だったじゃないか」
「大宅さん個人は気の毒だと思いますわ。でも、そのやったことは、償うべきです」
三十代の半ばくらいだろう。──落ちついて、仕事をこなしている「プロ」というプライドがにじむ。
地味な化粧が、やや老けて見せているものの、なかなか整った端正な顔立ちをしている。しかし、「美人」と呼ぶのに少しためらいがあるのは、やはりどこかに「かげ」を感じさせるせいだろう。
「それで──お話というのは」
「ああ、すまない。実はね──これに見憶えは?」
と、私はハンカチでくるんだ物《ヽ》をテーブルに置き、広げた。
「ネクタイピンですね」
と、永山マチ子が言った。「少し汚れてます?」
「泥でね」
と、私は肯いた。「実は、あの間京子の死体を掘り出した後、あの下から見付かったんだよ」
「じゃあ……」
「犯人が、死体を穴の中へ入れるとき、外れて落ち、気付かない内に死体の下敷になった、という可能性が大きい。もしかしたら、君、これに見憶えがないかと思ってね」
「──ちょっと手にとっていいですか?」
「ああ。どうせ指紋は消えてしまってるからね」
永山マチ子は、そのネクタイピンをとり上げ、こびりついている乾いた泥を落とした。そして、眉を寄せると、
「そう……。何だか……似てはいます」
「見たことが?」
と、身をのり出した。
「ええ。──もちろん、あんまり特徴のない物ですし、これだとは断言できませんけど……」
「それで充分」
私は、じっと待った。
「あの……」
「言ってくれ」
永山マチ子は、ためらいながら、言った。
「大宅さんのしていたのと、よく似ていますわ」
「そうか」
私は、そのネクタイピンを、再びハンカチでくるんだ。
「でも──はっきりは分りません。そんなにジロジロ見てるわけじゃありませんから」
「分ってる。君の話は、あくまで参考だからね」
私の言葉に、永山マチ子は少しホッとした様子だった。
「あの……ゆうべ、またあの辺で殺人があったとか」
「うん。──目の前で倒れてね」
と、私は言った。「死体を発見したガードマンだよ」
「まあ。でも、どうして?」
「一人住いでね、調べてみると、このところ何十万円か、銀行へ入れている」
「どういうことですか?」
「ガードマンの宇田川は、犯人を見ていたんだな。素直に教えといてくれれば良かったのに、欲を出して、犯人をゆすった」
「ゆすった……。でも、何十万円ですか? その程度のお金──」
「長い間、絞《しぼ》り取るには、少しずつの方がいいのさ」
と、私は言った。「ありがとう。仕事の邪魔をしたね」
「いいえ。──早く犯人が捕まるといいですね」
とは言ったが……。
「君、もし大宅が犯人だったとしたら、信じるかい」
永山マチ子は、少し考えていたが、
「ああいう人は、追い詰められると、とんでもないことをしますから」
と、言った。
私は肯いて、伝票をつかんだ。
「そうそう。コーヒー、おいしかった」
話しながら、ちゃんと私はコーヒーを飲んでいたのである。
永山マチ子は、オフィスへ戻ると、机の上のメモを整理した。
三件、電話をかけなきゃならない。
電話が鳴り出した。
「はい。──あ、大宅さん」
と、永山マチ子は少し声を低くして、「どこにいるの、今?」
「K区の外れ辺りだ。どうして」
「会って話したいの。──あの警部さんが来たのよ、今」
「宇野っていったっけ? まだ殴りたりないのかな」
「とても大切な情報があるの。私、これから外出にして出るわ。──じゃ、あの公園に? 線路を見下ろす辺りで」
「ああ、そこへ戻る途中だしな」
と、大宅は言って、「いてて……」
皆川にパンチを食らったのが、当分は効いている感じだ。
「じゃ、三十分後に」
と、永山マチ子は言って、電話を切った。
「あ、課長」
倉田がくたびれた様子で、帰って来た。
「疲れたよ。──お茶、いれてくれるか」
「はい」
永山マチ子は、倉田にお茶を出すと、「ちょっと出かけて来てよろしいでしょうか?」
と、訊いた。
「ああ。何か仕事かい?」
「デートです」
と、永山マチ子は堂々と答えた。
ゴーッ、と音をたてて、眼下を電車が通り抜けて行く。
大宅は、まだ痛む顎や目の辺りを、そっと触ってみた。
「やれやれ……」
この顔で行くので、どこでも笑われてしまう。──好きで、こんな顔になったわけじゃない!
べンチに腰をおろしていると、立ちたくなってしまう。
公園といっても、ほとんど人はいない。
人のいない公園は、ただの荒涼とした空間のようだ。
──京子。──京子。
許してくれ……。大宅の胸は痛んだ。
「大宅さん」
気が付くと、いつ来たのか、永山マチ子が立っていた。
「ああ、何だ。──気が付かなかった」
大宅は首を振って、「どうかしたの?」
「ええ」
永山マチ子は、バッグを開けると、何かを取り出した。
大宅はポカンとして、そのナイフを見つめていた。
「それは……」
「ナイフ。あのガードマンを刺し殺したナイフよ」
大宅は青ざめた。──これは冗談でも何でもないのだ!
「立って。──痛い目にあいたい?」
「君……」
「誰も来ないわ。今、入口に〈工事中〉の札を置いて来たから」
「どうするんだ? ──やめてくれ」
立ち上った大宅はじりじりと後ずさって手すりの所まで来た。
その下は、線路。──十メートル近い高さがある。
「あなたは自殺するの」
「何だって?」
「罪の意識に堪えかねてね。そこから飛び下りるのよ」
「そんな……とんでもない!」
「あなたは恋人を見殺しにしたでしょ。死んでも当然」
「やめてくれ……頼む」
「電車が来るわ。刺されて死ぬ? それとも飛び下りる?」
と、永山マチ子が訊いた。
「どっちも、感心しないね」
と、|私は《ヽヽ》言った。
ハッと永山マチ子が振り向く。
「引っかかりましたね」
と、夕子が言った。「あのネクタイピンは、その辺で買った物。それを汚しておいただけです」
永山マチ子は、呆然として私と夕子の方を見ていた。
「──さあ。本当のことを話すんだね」
と、私は歩み寄って、彼女の手からナイフを取り上げた。
「死んじゃだめですよ」
と、夕子が言うと、マチ子はハッとした様子で夕子を見た。
「もう犯人は分ってる。今ごろ原田が逮捕に向っている」
マチ子は、地面にペタッと座り込んだ。
「──好きだったんですね。倉田課長が」
と、夕子が言った。
「課長が──どうしたんです?」
と大宅が言った。
「君の彼女《ヽヽ》を殺したのさ」
と、私は言った。
「まさか!」
「本当だ。──ガードマンの宇田川は、倉田が死体を埋めるのを見ていた。で、倉田をゆすり始めた」
「永山さんは、電話で、その脅迫を聞いてしまった。そして、倉田のために、宇田川を殺した。ネクタイピンを見せられて、大宅さんにすべての罪をかぶせるチャンスだと思ったのね。ここで、あなたを突き落とせば、犯人が自殺したと思われるだろう、と……」
「でも──どうして課長が京子を?」
「間京子が、君の頼みを引き受けたのは、実はもとから関係のあった倉田を助けるためだった」
「課長と京子が?」
「紹介したことがあるだろ?」
「ええ……。でも……」
「倉田は、京子が何もかも皆川にしゃべったと知って、殺すしかない、と決心した。カッとなって、じゃない。あくまで計算だ。死体を畑に埋めて、犯人が皆川だと思われるように仕組んだ。それであの土地が手に入るだろう、とね」
「狂ってるわね」
と、夕子は言った。「──行きましょう」
マチ子は両手で顔を覆って泣き出した。
「──|マタタビ《ヽヽヽヽ》がね」
と、夕子が言った。「あの猫は人なつっこかった。でも、あなたと一緒に、一、二度しかあの家へ行っていない倉田はそんなことは知らない。うるさく騒がれたり、引っかかれたりしては困ると、マタタビを用意した」
「宇田川が顔を知っていたのは、犯人があの家へ行ったことがあるからだ。ところが自分を刺した女の名前は知らない。あんたは、いつも外へ出ないからな」
と、私は、永山マチ子の方へ言った。「だから、宇田川は死にぎわに、『女が……』とだけしか言えなかったわけだ」
私は、永山マチ子の腕をとって、立たせた。
大宅は、呆然として突っ立っている。
「本当なら、あなたの罪が一番大きいのよ」
と、夕子が大宅に言った。
「僕じゃない……。会社のためだったんだ。彼女だって……」
大宅は、ほとんど独り言のように、ブツブツと呟いている。
「行こう」
私は、永山マチ子を連れて公園を出た。
夕子が振り向く。大宅が、まだ何かブツブツ呟いていた。
「一番|惨《みじ》めなのは、あいつかもしれないな」
と、私は首を振った。
「そうね」
夕子は、一緒に歩き出して、言った。「殺すことも、殺されることもできなかった、不幸な男ってとこね」
初出一覧(すべて「オール讀物」)
幸い住むと、ポチが鳴く 平成元年10月号
白鳥の歌を聞くとき 平成元年12月号
幽霊記念日 平成四年1月号
裏の畑でミケが鳴く 平成四年3月号
単行本 平成四年八月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成七年二月十日刊