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赤川次郎
幽霊散歩道(プロムナード)
目 次
第一話 幽霊|散歩道《プロムナード》
第二話 殺人犯、お呼出し申し上げます
第三話 危ない参観日
第四話 小雨に濡れた殺人
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第一話 幽霊|散歩道《プロムナード》
「しかし……まずいよ、これは」
と、私が言うと、永井夕子は、
「分ってるわよ。でも、私のせいじゃないわ」
と腰に手を当て、「怒ったのなら、ぶってもいいわ。けとばしても、殺してもいいわよ」
これは一般には「開き直り」と呼ばれる態度であるが、恋人同士の間では「仲直りのきっかけ」ともなるのである。
もっとも、その際、
「分ったよ」
と、ため息と共に折れるのは、専《もつぱ》ら四十男の私──宇野喬一の方だ。
「きっと分ってくれるって信じてたわ」
夕子はニッコリ笑って腕を絡めてくる。
この年齢《とし》で女子大生と恋を語ろうと思えば、少々のこと──いや、|相当の《ヽヽヽ》ことにも、我慢しなくてはならない。
「しかしなあ……」
と、私は未練がましくためらっていた。「TVに顔が出るんだろ?」
「嬉しい?」
「よせよ。もし課長にでも見られたら……」
私がごく当り前のサラリーマンだったら、大して問題ではなかったかもしれない。しかし、警視庁捜査一課に在籍する警部が、TVドラマのエキストラをやっていた、と分ったら……。これはやはり喜んではいられないのである。
──ヤシの木が茂り、月明りが射している散歩道。少々悩ましげなカーブを描いているその歩道はカラフルなタイルで飾られ、ところどころのくぼみには、恋人たちが身を寄せ合うのにちょうどいいサイズのベンチが置かれている。
「噴水、出して!」
と、誰かの声が響くと、シュルシュルという音がして、ぐるっとめぐる散歩道の真中の池から、水の柱がシューッと立ち上って、七色の光で照らされた。
「わあ、きれい!」
と、あちこちで声が上る。
「──大したセットだな」
と、私は夜空ならぬ、スタジオの天井を見上げながら言った。
この散歩道は、広いスタジオをぶち抜いて作られたセット。TVにしては大がかりなものである。
「──じゃ、テスト行きます」
と、ADと呼ばれる助手が丸めた台本を手に、大声をはり上げた。「エキストラのアベックの人たち! 集まって!」
夕子は、私の方へ身を寄せて、
「行きましょ」
と笑いかけたのである……。
「ちょっとね、アルバイト頼まれちゃって」
デートののっけにこう言われて、私は少々むくれていた。
「何やるんだ? 交通整理?」
「そうじゃないの。よく分んないんだけどね、ともかく簡単にすむからって」
夕子は、メモをバッグから出して広げると、
「ええと……TV局のスタジオね、これ、分る?」
メモを見て、私は肯《うなず》いた。
「知ってる。車なら三十分くらいかな」
自分のオンボロ車を、黄昏《たそがれ》の郊外の山へ向けて走らせる。山までは行かないその手前に、広い敷地のスタジオがあった。
今、これだけの敷地を、とても都内では確保できないのだろう。出演者にとっては不便かもしれないが。
「──何をやるんだって?」
道が曲りくねっているので、赤信号で止っているときに、私はやっと夕子へ訊《き》くことができた。警官が事故を起すわけにはいかない。
「本当に分んないの。『歩くだけだから』とかって言ってたけどね」
「歩くだけ?」
「うん。──すぐすむっていうから、引き受けちゃったんだけど」
凶悪犯には厳しい名探偵も、友だちに頼まれるといやとは言えない。そこがまあ、夕子らしいとも言える。
見た目は小柄、少々幼くさえ見えても、結構中身は「任しとき!」というところがあって、おかげで何度か危ない目にもあっているのだ。
「TV局のスタジオで歩くだけ、か……」
私は、このときから、ちょっといやな予感がしていた。しかし──今さら断るわけにもいかないってことは、どちらもよく分っていたのである……。
スタジオの駐車場は、さすがに広い。
すっかり夜になっていたが、半分近くのスペースに車が停めてあった。
「──さて、どこへ行くんだ?」
と、私はドアをロックして、夕子と二人で、あまりに広い敷地内を見わたした。
「第7スタジオ、ですって。──でも、どれ?」
「僕に訊くなよ」
郊外は風も少し涼しい。ブルル……。
車が一台──小型の、平べったい形のスポーツカーが、地を這《は》うように走って来ると、私の車の隣に並んで停った。もちろん、それはどうってことじゃなかったのだが──。
パッとドアを開けて、
「キャーッ!」
と、叫び声を上げ、女の子が転がるように飛び出して来たと思うと、何と私めがけて駆けて来て、胸にぶつかったのだ。
前もってぶつかりそうだな、と思っていたので、何とか支えられたが、そうでなければ引っくり返っていたかもしれない。
「──おい! 邦江! ──邦江!」
車の運転席から、若い男が出て来て、「どうしたんだよ、おい!」
「君……。この子に何かしたのか?」
私は、少し厳しい口調になって言った。
「へ?」
世の中には真直ぐ歩くことも、立っていることもできない若者がいるが、この男もその一人らしく見えた。
「何もしないよ。何だよ、おっさん。変なこと言うの、やめてくんないかな」
と、やたら肩を揺すりながら言う。
「じゃ、どうしてこの子はこんなに怯《おび》えてるんだ?」
「知るかい」
と、肩をそびやかして、「車の中で眠ってたんだぜ。そしたら、今、車を停めたとたんに『キャーッ!』と来てさ。こっちの方がびっくりだよ」
女の子は、少し落ちついた様子で、
「すみません……」
と、私から離れた。「もう大丈夫です。すみません」
「君──どうしたんだ、一体?」
と、私は訊いた。
「あの……」
と、女の子は当惑している様子で、「よく分らないんです、自分でも。何か……夢を見たのかもしれません」
「夢?」
「はい……。ごめんなさい」
と、急いで頭を下げると、一人でさっさと歩いて行ってしまった。
「おい! 待てよ、邦江! ──おい!」
と、若者の方は、女の子を追いかけて行く。
「──何だ、ありゃ?」
と、私はその二人の後ろ姿を見送って首をかしげた。
「確かに言えることが三つあるわ」
と、夕子が言った。「あの女の子の名前が邦江だってこと。それからこのスタジオの中をよく知っているってこと。女の子は迷いもせずに歩いて行ったわ」
「もう一つは?」
「男の方は黒川ケンジだってこと」
「誰だ、それ?」
「知らないの? 今、人気の出かかってる、お笑いタレントよ」
「あの落ちつかないのが?」
「お笑いタレントは落ちつかなくて普通でしょ」
「まあ、そうかね」
と、私はため息をついた。
「さ、行きましょ。あの二人が行った方だと思うわ、第7スタジオは」
と、夕子が私を促す。
歩きながら、私は、
「あの女の子に手を出してたのかな」
と、言った。
「違うでしょう。それならわざわざこんな所でしなくたっていいんじゃない? どこかで停めるとかしてやるのが普通よ」
「ふむ。──確かに女の子の服も乱れてなかった。しかし、あの怯え方は並大抵じゃない」
「それは確かね」
と、夕子は肯いた。「夢ぐらいで、あんなに怖がるわけないし」
「おい」
と、私は不安になって言った。「まさか、|また《ヽヽ》何か起るんじゃないだろうな」
そして──そう。今のところは、何も起っていない。
今のところは、だ。
「ええと、皆さん。固まらないように、ごく自然な感じで歩いて下さい」
と、ADが説明している。「ただし、強くライトの当っている所があります。そこは避けて、主役の二人がそこを通りますから、邪魔しないように気を付けて下さい。ベンチに座るのは……ええと、このカップル、それと、その二人! いいですね」
まくし立てるような早口で言うと、
「じゃ、一度歩いてみて下さい。いいですね。月夜の公園なんです。ロマンチックなムードでお願いします」
やれやれ……。私と夕子じゃ、絵になるかどうか。
しかし、「エキストラ」ということになった以上、やるしかない。
ゾロゾロと散歩道の方へと歩き出す。
「主役ってのが、さっきの何とかケンジ?」
と、私は訊いた。
「違うわよ。あの人は脇で出るんでしょ。主役は誰か──」
「主役は僕だよ」
と、声がした。
「え?」
夕子が振り向く。──二枚目です、と体中で言ってるような男が立っていた。
「永井君だろ?」
「ええ……。ああ! 金原君?」
夕子は目を丸くした。「じゃ──あなたが主役なの?」
「そうなんだ。初主演」
と、スラリとして|足の長い《ヽヽヽヽ》(私としては気になるところだ)若者が言った。
「驚いた! 何かオーディションに受かったって話は聞いてたけど」
と、夕子は面白がっている。「ふーん。なかなか|さま《ヽヽ》になってるよ」
「冷やかさないでくれよ。照れてんだぜ、これでも」
と、その二枚目は言って、「──君のお父さん?」
と、私の顔を見て言ったのである。
「逮捕してやりゃ良かった」
と、私はカッカしながら言った。
「よしなさいよ」
夕子はまだ笑いをこらえ切れずにクスクス笑っている。「──でも、あのときの顔ったら!」
「冗談じゃないぜ、全く」
「テスト」の最中であった。
私たちは腕を組んで、ぐるっと細長い円を描く散歩道を歩いている。カップルも、もともと本来の恋人同士というのが多いのか、結構ベンチに座って、しっかりラブシーンなど演じている。
「暑いね」
と、ため息をつく。「君があの二枚目と歩けばいいんだ」
「そうすねないで」
と、夕子は私の方へもたれかかる。「金原竜君っていってね、うちの大学の優等生なのよ。頭が良くて、顔もハンサム、足も長い」
「許せないね、そういう奴は」
「そうむくれないの。──でも、金原君もスターになるのか」
「大学はやめたのかい?」
「まだ来てるはずよ。でも、人気が出て来たらどうなるかしらね」
一番奥に当るカーブを曲って、私たちはゆっくりとスタート地点に向って戻る方向に歩いて行く。
「後で、彼が君に何かささやいてたろ。何を言ってたんだ?」
「ああ、あれ」
夕子は、またちょっと笑って、「大真面目な顔で手招きするから、何かと思ったら……。『不倫はやめた方がいいよ』ですって」
「不倫?」
「はた目には、私が『おじさま』の愛人やってると映るのかしらね」
「やっぱり逮捕するべきだった」
と、私は言った……。
「いやよ!」
と、女の子の声がした。「もう行かない!」
「おい……」
薄暗い中で、もめているのは、どうやらさっきの二人、黒川ケンジというタレントと、邦江とかいった女の子。
「やめましょう。ね、帰りましょう」
「馬鹿言うなよ。仕事なんだぜ。|ゲスト出演《ヽヽヽヽヽ》なんだ。人気の証明なんだからな。──お前だって、喜んでたじゃないかよ」
と、黒川ケンジの方は閉口している様子。
「そうだけど……怖いの」
と、邦江が黒川の腕をしっかりとつかんで、「もうこれ以上行けない」
「何だっていうんだ? 元の場所へ戻るだけじゃないか」
「分ってる……。でも、それだけじゃすまない」
「何のことだよ」
「誰か……|殺されるわ《ヽヽヽヽヽ》。この先に行くと。分ってるの、私」
──少し手前で足を止めていた私たちは、その邦江の言葉に、思わず顔を見合せたのだった。
「じゃ、|トラ《ヽヽ》の人たちは少し休憩して下さい」
と、ADが声を上げる。
「トラ」と言っても、動物の「虎」じゃない。
エキストラのことを略して「トラ」と呼ぶのである。警部でもそれくらいのことは知っている。
「──何だ、いつ本番になるんだい?」
と、私は言った。
「変ね」
夕子も首をかしげている。「すぐ終るってことだったのに」
「ま、これも経験だがね」
どうも、何かトラブルがあったらしいことは、私にも分った。ディレクターらしい男が、不機嫌そうに、
「全く! 何だってんだ!」
と、ぼやいているのが、いやでも耳に入ってくる。
「やあ、悪いね」
と、金原竜が夕子の方へやってくる。
「何かあったの?」
と、夕子が訊くと、金原は、
「うん……」
少し声をひそめて、「相手役が来ないのさ」
「誰?」
「戸沢ゆみ子。知ってる?」
「戸沢ゆみ子? この前、覚醒剤で捕まったんじゃない?」
「釈放されたんだ。証拠不充分でね。でも、正直、|クロ《ヽヽ》だったってみんな知ってる」
「何で自分の体をわざわざいためつけるのか分らんね」
と、私が言うと、金原はちょっと複雑な表情でこっちを見た。
私も、戸沢ゆみ子なら知っている。よくTVの刑事物に出ている子だ。ひところほどの人気がなくなって、その焦りで、クスリに手を出したのだろうか。
「戸沢ゆみ子にとっても、このドラマは大切なんだよ。事実上、この何か月かは何も仕事してなかったわけだからね。他のシーンは凄く真剣でね。ああ、よっぽどこりたんだな、と思ったんだけど……」
「遅れてるの?」
「うん。──連絡もつかない。ディレクターが苛立ってるよ」
当然だろう。主役がいなくては、収録のしようがない。
「や、金原さん!」
と、辺りの人がびっくりするような声を出したのは、あの黒川ケンジ。「頑張ってね!」
「どうも……」
と、金原は頭を下げた。
「──何であの人が出てるの?」
黒川が、あの女の子の肩を抱いてフラフラと行ってしまうと、夕子が金原に訊いた。
「あれも戸沢ゆみ子のからみなんだって。僕もよく知らないんだけど」
「知り合い?」
「らしいね。──恋人だった、って噂もあるよ」
「へえ!」
人は分らないものだ。しかし──あの邦江の言葉は何だったのだろう?
私には気になっていた。あの女の子は、どこか普通でない。
そして──ふと、思い付いた。|クスリ《ヽヽヽ》か?
何かをやって、正常な状態に戻っていないのだとしたら……。
夕子が化粧室へ行って、私はかの「二枚目」君と二人で残された。
「宇野さん……でしたか」
「そうだよ」
「そうですか」
何か言いたげだが、もじもじしている。
「君は自分で役者になりたかったのかい?」
と私は訊いた。
「え……。まあ、そうですね。うまく行けばって。──でも、まさかオーディションに合格しちゃうとは思わなかったんです。後は何だか分んない内に……」
と金原は言いかけて、「宇野さん」
「うん?」
「大きなお世話と言われるかもしれませんけど。──永井君と別れて下さい」
私は面食らって言葉が出なかった。
「もちろん、永井君はしっかりした子だし、自分のしていることは良く分ってると思います。でも、こういう関係は長くつづくものじゃないと思うんです」
「こういう関係ってね、君──」
「いえ、あなたと永井君が愛し合っていることは確かだと思います。でも──人間はやはり、周囲の人を傷つけちゃいけないと思うんです。自分たちさえ幸せならいいというのは……」
「だから僕は──」
「やっぱり年上のあなたから、別れるべきだと思うんです。永井君のことを幸せにしたいんだったら、やっぱりあなたの方から身をひくべきです。でなきゃ、あなたが奥さんと別れるかです」
と、金原は早口に言った。
「あのね──」
と、私がちょっと咳払いして言いかけると、
「金原さん! ディレクターが」
と、ADが駆けて来る。
「はい! ──失礼します」
金原はさっさと行ってしまった。
「何だ、言いたいことだけ言って」
と、私はむくれて独り言を言った。
すると──クスクスと押し殺した笑い声がする。振り向くと、何だか妙なサングラスをかけた若い女が立っている。
「何かおかしいことでも?」
と、訊くと、その女はサングラスを外して、
「今の聞いてさ。──あの金原君って、早とちりなの。おかしいわよね」
どこかで見たような顔だ。
「どういう意味?」
「あなたに奥さんがいるとも限らないじゃない? ──独身でしょ?」
「よく分るね」
「そのネクタイとか。男の趣味よ、どう見ても」
「そうかね……」
と、自分のネクタイを見下ろした。「──君、戸沢ゆみ子じゃないのか?」
思い出したのである。TVで何度か見た顔だ。
「しっ」
と、サングラスをかけ、「こっそりエキストラに紛れ込んでるの。黙っててね」
「しかし、捜してるよ、君を」
「分ってる。いいの。──いい気味だわ」
と、戸沢ゆみ子はちょっと鼻を鳴らして、ぶらっと歩いて行く。
エキストラたちの間に紛れて、戸沢ゆみ子の姿はすぐに見えなくなってしまった。
「──どうしたの?」
夕子が戻って来る。「今、話してた人、誰?」
「え? ああ。──戸沢ゆみ子だ」
「戸沢……。本人?」
「うん。──でも、黙っててくれとさ」
夕子は首をかしげた。
「妙な人ね」
「あの金原君ってのに教えてやったら?」
「黙ってましょ。こっちが口を出すことじゃないもの」
夕子の目がいやに輝いている。──私は、気が気でなかった。こんなときには、ろくなことが起らないものなのである。
「──黒川さん! 黒川ケンジさん!」
ADが大声で呼ぶと、即座に、
「はいはい!」
と、返事があった。「ご用かな?」
「ディレクターが……」
仏頂面のディレクターがやって来た。
がっしりした体つきの、声の大きな男である。
「どうも、山崎さん」
と、黒川ケンジがペコペコ頭を下げている。
私にはいつも不思議なのだが、こういう世界というのは、「どっちが上」ということを、どうやって決めるのだろう。──会社なら、はっきりと「課長」だの「部長」だのと肩書がついている。しかし、こういう「人気」がものを言う世界では、昨日のエキストラが、今日の主役かもしれないのだ。
「ゆみ子がまだ来ない」
と、山崎というディレクターはぶっきらぼうに言った。「もうこれ以上待てないんだ。頼みがある」
「何でも言って下さいよ。セリフの一つや二つ、アドリブでひねり出しますよ」
「そんなものいらん」
と、山崎はあっさりと言って、「君、女の子を連れてたな」
「邦江ですか?」
「名前なんか知らんよ。連れて来て」
「はあ……」
黒川は、わけの分らない様子で、ともかく邦江という女の子を手招きした。
「──うん、君がいい」
と、山崎は肯いて、「君、後ろ姿で、戸沢ゆみ子の代役をやってくれ」
邦江も黒川も呆気にとられている。
「君、名前は?」
と、山崎に訊かれて、
「伊東……邦江です」
「よし。じゃ、すぐゆみ子の衣裳をつけてくれ。ぴったりだと思う。ヘアスタイルをいじって」
「でも──」
「時間がないんだ! 急いでやらないと、金ばっかり食っちまう。時は金なりだ」
えらく古めかしいことわざを持ち出して、山崎は伊東邦江をスタッフに連れて行かせた。
「あの……僕のパートナーがいなくなっちゃうんですがね」
と、黒川が言った。
「そうか」
山崎は、キョロキョロと見回して、「あの子じゃどうだ?」
と、夕子を指さしたのである。
というわけで──私は結局、エキストラとして出演しなくても良くなった。
恋人たちが歩いている散歩道を、中年男が一人で歩いていたら、やはり異様だろう。
「──はい、スタンバイして下さい!」
にわかに、スタジオの中がざわつく。
やれやれ……。しかし、夕子があの何ともしまらない笑いをいつも浮べた黒川と腕を組んで歩くのかと思うと、それも面白くはない。
何度かテストがくり返されて、やっとディレクターの山崎も「OK」を出した。
「じゃ、今の感じで」
と、山崎が声をかける。「──噴水を出せ!」
私の位置からは見えないが、シューッと音がして、水が上ったのが分る。
「落ちついて」
と、あの二枚目──金原が伊東邦江という子に言っている。「大丈夫。うまく行ってるよ」
「でも……足が震えてる」
と、伊東邦江は見ても分るほど青ざめていた。
カメラはもちろん、後ろ姿だけを追う。前からの絵は、戸沢ゆみ子が現われてから、というわけである。
しかし──戸沢ゆみ子はこのセットのどこかにいるはずだ。どうして出て来ないのだろう?
「じゃ、皆さん、散って下さい」
と、ADが指示を出す。
すると、夕子があわてて駆けて来た。
「ちょっと来て!」
「何だよ?」
私は夕子に腕をとられて、面食らった。「『彼氏』はどうしたんだ?」
「いないのよ」
「いない?」
「急にどこかへ行っちゃったの。戻って来ないのよ」
夕子は、しっかりと私の腕に腕を絡ませると、「この方が、やっぱりしっくり来るわ」
「当り前だ」
と、私は言ってやった。
「はい! じゃ本番です。──五、四、三、二、一……」
TVの場合は映画と違って、「スタート!」という声がかからないものらしい。
散歩道を、恋人たちがゆっくりとめぐって行く。
ライトがあちこちから当って、様々な影のパターンを作り出す。風も吹いて来ていた。
「快適だ」
「悪くないわね。こんなデートも」
と、夕子は面白がっていたが、「──気になるわ」
「何が? あの女の子の言葉か?」
と、低い声で言った。
「あの二人の後ろにつきましょ。ちょっと立ち止って、やり過して」
夕子と私は木の影の中へ入ると、身を寄せ合った。私たちの後ろ、三組ほどのアベックをやり過すと、金原と伊東邦江がやってくる。
高いクレーンにのったカメラが、頭上からその二人を追って動いていた。
チラッと見えた邦江の顔は青ざめていた。ただの緊張とは思えない表情である。
金原の方は、単に彼女が「あがっている」だけだと思っているのだろう。やさしく肩に手を回して、しっかり抱き寄せながら、歩いて行く。
「カメラに入るわよ」
と、夕子が言うと、「顔が見えちゃまずいんでしょ」
「仕方ないだろ」
「見えないように、隠してあげる」
夕子はそう言うと、私にしっかりとキスした。──照れくさいが、ここはまあ、「ドラマ」だということにして……。
金原が心配そうにチラッと夕子の方を見て通って行った。
「──いかが?」
夕子がいたずらっぽく笑う。
「続きは二人きりで願いたいね。君の二枚目君は、まだ僕らのことを、不倫の仲だと思ってるぜ」
夕子がちょっと笑って、
「さ、行きましょ。あの二人から目をはなしたくないの」
金原と邦江の二人の背中を見ながら、ゆっくりと歩き出す。
「──戸沢ゆみ子はどうしたんだ?」
と、小声で言った。
「さあ……。黒川ケンジもね」
夕子は眉を寄せて、首を振った。
──散歩道が、一番奥へ来てぐるっと曲っている。
「そのまま追って」
と、山崎の声がする。「二人の上からの姿を追うんだ」
クレーンが大きく旋回した。
金原と邦江が、その半円形を描く道を回って行く。
「──今回は、声を上げないな」
と、私は言った。
「そうね。でも、緊張してる」
それは後ろから見ていても分る。金原の肱《ひじ》をつかんだ手にはギュッと力がこめられて、まるでそれで倒れるのを防いでいるみたいだ。
前から噴水の音が近付いて来て、ふき上げる水のてっぺんが目に入った。赤い照明が当っている。
|赤い照明《ヽヽヽヽ》? ──いや、そうじゃない!
「おかしいわ」
夕子も、目ざとく気付いていた。
「噴水だろ」
「そう。あの赤さ──」
|まさか《ヽヽヽ》! しかし……次の瞬間、
「キャーッ!」
と、邦江が叫び声を上げた。
足を止め、両手を口に当てて、噴水を見つめている。
「おい、何だ!」
と、山崎の怒声が降って来た。「せっかくうまく行ってたんだぞ。どうしたっていうんだ!」
夕子と私は、噴水の前へと駆けつけた。
「──何てことだ」
と、私は言った。
噴水がふき上げている「赤い水」には、血が混っているのだった。池の中に、戸沢ゆみ子が浮んでいる。血は小さな作りものの池を真赤に染めて、まるで戸沢ゆみ子を、赤く飾り立ててでもいるかのようだった。
「おい! どうしたんだ!」
山崎の声がセットの中に響きわたって、エキストラたちが少しずつ集まって来ていた……。
「こんな所に公園ができたんですか?」
と、不思議そうに言ったのは、原田刑事である。
「セットだよ」
と、私は言った。「やれやれ……。何もなきゃいいと思ってたんだ」
「そりゃ無理ですよ」
原田はあっさりと言った。「夕子さんと一緒にいたら、たいてい何か起りますよ」
「何か言った?」
夕子がポンと原田の肩を叩く。
「あ、夕子さん! いや、いつも変らずお美しくて」
こんなにスラスラお世辞の出てくる男も珍しいだろう。
しかし……とんでもない収録になってしまった。
今、セットの中は明るく照明が一杯に点いて、真昼のようだ。あのロマンチックなムードはふっとんでしまっている。
「──永井君」
と、金原竜がやって来た。
「とんでもないことになったわね」
と、夕子は言った。「でも、めげないで。必ず才能は認められるわ」
「君が励ましてくれると嬉しいな」
と、金原は苦笑した。「宇野さん、刑事さん?」
「捜査一課の警部なのよ」
「そりゃ凄いや」
と、金原は素直に目を丸くしている。「永井君が参っちゃうのも分るな」
「そう」
「うん。──でも、やっぱり不倫はいけないと思うよ」
何も言い返さない内に、ディレクターの山崎がやってくるのが見えた。
「警察の方?」
と、私のことを知って仰天している。「何か怪しいことでもあったんですか」
「何とも言えませんね。これは捜査の必要上、秘密でして」
「ああ、そりゃそうでしょう。しかし……このセットは、べらぼうに金がかかってるんです。しかも、あと三日でとり壊さなくちゃいけない。その間に、ここでとるシーンは全部やってしまわないといけないんです。何とか再開の許可をいただきたい」
「再開といっても……主演の戸沢ゆみ子が殺されたんですよ」
と、私は言った。「どうせ無理でしょう、収録は」
「いや、まだそれほど収録は進んでるわけじゃないんです」
と、山崎は言った。「今、プロデューサーと話しました。役者を変えます。金原君。これまでの、ゆみ子の出た分は、とり直しだ」
「分りました」
と、金原は肯いて、「でも──誰が代りになるんですか?」
「|あの子《ヽヽヽ》だ」
メイクの女性に連れられて、やって来たのは、伊東邦江である。
「あの子? 素人でしょ?」
「君と大して違わないよ」
と、山崎は言った。「話はした。やってみると言うから、僕の責任で採用した」
「はあ……」
伊東邦江は、金原の前に来ると、
「よろしくお願いします」
と、頭を下げた。
「どうも……」
「ADがついて、このシーンのセリフを入れる。君、相手をしてやれ」
「はい」
金原は、大きく息をつくと、「じゃ……やろうか」
と、邦江の肩に手をかけた。
「──素質がある」
と、山崎は二人を見送って、一人で肯いている。「間違いなく、やってのけますよ」
「山崎さん」
と、私は言った。「戸沢ゆみ子は殺されました。犯人をぜひとも捜し出したい。ご協力願えますか」
「は? ──あ、失礼。いや、もちろんです。何かお力になれることでも?」
私たちは、噴水の前へ移動した。戸沢ゆみ子の死体は、もう池から出され、ビニールに包まれていた。
「可哀そうに」
と、山崎はため息をついた。「やる気を出してたのにな」
「刃物で喉を切り裂かれて、噴水の池の中へ投げ込まれたようですね」
と、私が言うと、
「事件は、単純化することで、本当の顔が見えて来ます」
と、夕子が言った。「この場合は、セットだの、アベックたちだの、噴水だのといった余計なものを省くことです。要は戸沢ゆみ子が殺された、ということ。刃物を見付けるためには、一応ここにいる全員のボディチェックも必要でしょう」
「原田が手配してる」
と、私は言った。
原田は、池の中を覗き込んでいた。きっと魚でもいないかと思って、捜していたのだろう。
「そして、黒川ケンジ。どこへ行ってしまったんでしょう?」
「あいつ……」
と、山崎が当惑げに、「あの黒川が、ゆみ子を殺した、とおっしゃるんですか」
「人を殺すには、たいてい何か動機があるものです」
と、私は言った。「何か理由があったんですか、黒川ケンジには?」
「私は一向にその辺のことはうとくて……。おい!」
山崎が怒鳴ると、近くにいるADが三人も飛んで来た。
「黒川を見なかったか?」
と、山崎が訊くと、三人は顔を見合せて、首を振った。
「──出てくのをチラッと見たような気はしますが」
と、一人が言った。「でも、何しろ忙しかったからな」
「君たち、黒川ケンジと戸沢ゆみ子の間で、何か噂があったとか、聞いたことはあるかい?」
と、私が言うと、
「ええ。──どこで聞いたんだっけ? お前が言ったんじゃないのか」
「違うよ。俺もどっかで聞いたんだ」
と、互いに言い合っている。
「ともかく、何かあったらしい、と?」
「ええ、そんな話でしたね。どうして、あの二人が、って言ってたんですけど」
結局、それらしい噂があった、ということだけは分ったが、それが事実なのやら、分らずじまい。
噂というものは、時には捜査の方向を全く誤らせるものだ。刑事としては、あくまで「本当かどうか分らないもの」という事を肝に銘じておかなくてはならない。
「──黒川とゆみ子が」
と、山崎が首をかしげる。「どうしたってつながらんな」
ともかく、差し当って私は原田を呼んで黒川ケンジを見た者がいないかどうか、当らせることにした。
「──妙なことになったな」
と私は言った。
スタジオの中は、|本物の《ヽヽヽ》殺人事件というので騒然としている。しかし、不思議に現実感がないのだ。
こっちがそんなことを言っていてはいけないのかもしれないが、捜査に当っている人間も、何となくこれが現実のことかどうか、戸惑っている、という気配があった。
「このセットのせいよ」
何も言わないのに、夕子が私の心を読んでいる。
「うん……。そうかもしれないな」
と、私は肯いた。
この大きなセットの中にいると、あの事件までもが、ドラマの中の出来事のように思えてくるのである。
「──本当に死んだの?」
と、エキストラの女の子など、まだ言っている。
「どっきりカメラと違う?」
などという声も耳に入って来た。
「もう一つ、確かめなきゃいけないことがあるわ」
と、夕子が言った。
「え?」
ちょっと考えて、「あ、そうか。うっかりしてたぞ!」
「伊東邦江よ。──どうして『誰かが殺される』と叫んだのか」
「うん。忘れてた。ま、あの子がやったとは思えないけどな」
そう。機会の問題である。
戸沢ゆみ子は、私と金原が話しているのを聞いていた。つまり、そのときは生きていたわけで、その後、本番がスタートするまでの間に殺されたと見ていいだろう。
「誰にでもできたでしょうね」
と、夕子が言った。「セット全体は本番がスタートするまで薄暗かったし、みんなあの池の中を覗くなんて、しなかったでしょうしね」
そうだ。しかし、機会はあっても、女の子の喉を刃物でかき切るなんてことは、誰にでもできることではない。
ふと、私は、私と金原のとんちんかんな話に笑いをかみ殺していた戸沢ゆみ子の顔を思い出し、そして、あのとき彼女が言ったことで、何か気にかかっていたな、と思い当った。|何か《ヽヽ》。──でも、何だったろう?
そう……。何か言ったんだ。私に向って。何を言ったんだろう?
思い出せない。──私は苛立っていた。
「どうかした?」
と、夕子が訊く。
「いや、別に」
と、とぼけることにする。
大切なことを忘れたなんて言ったら、
「トシね」
と、やられるに決っているからだ。
「じゃ、ともかく伊東邦江を呼んで、話を聞こうか」
と、私は息をついて、言った。
「その前に、一つやってみたいことがあるんだ」
と、夕子が言った。
「何だい?」
「|あれ《ヽヽ》に乗ってみたい」
夕子が指さしたのは、カメラを先端にのせた、大きなクレーンだった。
「じゃ、動かします」
と、耳に当てたイヤホーンに声がする。
「本番のときと同じように動かして下さい」
と、夕子が言った。
「分りました」
私と夕子が、クレーンの上のカメラを両側から挟むようにして座り、耳にはスポッとかぶるような格好のイヤホーンと、小型マイクの一体になったものをつけている。
スッと体が持ち上った。
「何だか落っこちそうだな」
と、小さな腰かけの中でお尻をモゾモゾ動かすと、
「動くと、却《かえ》って落ちます」
と、声がした。「大丈夫ですから」
「どうも」
と、私は咳払いした。
クレーンをコントロールし、声を送って来ているのは、モニタールームである。
いつもはディレクターもそこからあれこれ指示を出すらしいが、このシーンに関しては、山崎も熱を入れていて、下へ降りて、じかに指示していた。
クレーンがゆっくりと動き出し、散歩道の上をなぞるように前進する。
足下に、セットの木立が次々と消えて行くのを見下ろしているのは、なかなか快感であった。
「──ずっと、こうやって金原君たちを追っていたわけね」
と、夕子は見下ろしながら言った。「でも──」
「何だ?」
「何でもない」
夕子は首を振った。「──全く同じ動きなんですか、これ?」
「そうです」
と、モニタールームから返事が返ってくる。「コンピューターで制御できるので、全く同じ動きを何度でも再現できます」
大したもんだ。──私は正直、びっくりするばかり。
何だか遊園地の乗物にでも乗っているような気分の内に、クレーンは元の位置に戻って来た。
「やあ、どうです、乗り心地は!」
原田が待っていた。
「お前じゃ、クレーンが上らないかもしれないぞ」
と、私はクレーンから降りながら言った。
「あの子は?」
「待たせてあります」
と、原田が肯く。
──スタジオの隅に、ソファを置いた小さな場所があり、伊東邦江はそこで待っていた。
「──ごめんなさいね」
と、夕子がソフトに呼びかける。「緊張してるところにね。すぐすむわ」
「いえ、いいんです」
と、邦江は首を振って、「何だか……申しわけなくて。戸沢さんがあんなことになって、その代りなんて」
「あなたが気にしても仕方ないわ。誰かが代りをやらなきゃ、ドラマそのものが流れてしまうでしょ」
「ええ……」
「戸沢さん一人が作ってたドラマじゃないんだから。大勢の人たちが仕事をしてるんだもの。その人たちのためにも頑張らなくちゃ」
夕子の言葉で、大分気が楽になったのか、邦江はしっかりした声で、
「はい」
と肯いた。
「それで、一つ訊きたいんだけどね」
と、私は言った。「君、あの角を曲ろうとして、『誰かが殺される』と言ったね。リハーサルのときだ」
少し間があって、
「はい」
と、邦江は肯いた。「でも──よく分らないんです。どうしてあんなこと言ったのか」
「分らない?」
「ええ……。変だと思われても仕方ないんですけど、本当です。何となく……そんな気がしたんです」
「その気持を、もう少し詳しく説明してくれない?」
と、夕子は言った。
「そう……。あの──こんなことってありません? 初めての場所なのに、前に来たことがある、って感じること」
「分るわ。『デジャ・ヴュ』っていうのよ。誰にでもあることだわ」
「そうですよね」
と、邦江はホッとした様子で、「良かった。何だか自分がまともじゃないのかと思ってたんです」
「大いにまともよ」
と、夕子は言った。「じゃ、このセットを見たときに?」
「そうなんです。──私、このスタジオに来たのは初めてなんですけど、何だか……。表で、車が停ったときも、凄く怖いことが|前に《ヽヽ》ここであった、という気がしたんです」
と、邦江は熱心に言った。「それから中へ入ったときも……。この散歩道を歩いたことがある、って感じました。どうしてか分りませんけど。そして、歩いて行く内に、はっきり見えたんです。あの噴水の池の中で、誰かが殺されているのが」
「噴水の池の中で? そこまで分ったの?」
「はい。──どうして、と訊かれれば分りませんけど。ともかく、目に見えるようだったんです」
そこへ原田刑事が大股にやって来た。
「宇野さん」
「何だ」
と、見上げて、原田の顔を見ると、大方の見当はついた。「黒川か」
「ええ」
原田は肯いた。「このスタジオの奥の小部屋で──。首を吊ってました」
邦江が息をのんだ。
「すぐ行く」
と、私は肯いた。「君は黒川と、どういう付合い?」
「あの……」
と、邦江が少し迷って、「そんなに親しいわけじゃないんです。ただ、私、アルバイトにコンパニオンをしていて、この間、パーティに黒川さんが来てたんです。酔うとしつこいんで、いやだったんですけど、ここの山崎ディレクターに紹介してやるよ、と言われて……」
「すると、恋人というわけでもなかったんだね」
「違います」
と、即座に否定する口調が少しきつ過ぎた。
黒川との間に|何か《ヽヽ》あったのは確かだろう。本人の意志がどうだったかはともかく。
私は原田と一緒に、物置のようになっている、その小部屋へと急いだ。
「──初め覗いたときは、荷物のかげになっていて、よく見えなかったんです」
と、原田が言った。
今は明りが点いて、天井のむき出しのパイプから下ったロープの影が、壁に揺れている。
「──死んでるな」
「もう完全に手遅れでした」
私は、冷たいコンクリートに横たえられた黒川の死体の上にかがみ込んだ。
上着のポケットを探ると、何か固いものに触れる。
「ビニール袋を」
と、原田へ言って、「──これか」
刃渡り十センチはある、登山ナイフだ。刃に、べっとりと血がこびりついていて、黒川の手を見ると、指先に血の汚れが見えた。
もちろん血液型を調べなくてはならないが、このナイフが戸沢ゆみ子を殺した凶器というのは間違いないだろう。
「指紋もよくチェックしてね」
夕子が、いつの間にやら後ろに立っている。
「もちろんさ」
夕子は、私を引張って行って、
「──ね、スタジオを使っていい、と許可しましょうよ」
「収録させるのかい?」
「そう。金原君の大切な初主演でもあるし、あの子にとっても、チャンスだわ。あの噴水の所だけ、何かで隠してしまえば、構わないでしょ」
夕子の提案には、どうやら|何か《ヽヽ》ありそうだ。
──私としては、この程度の責任を負うことに、ためらいはなかった。
「よし、山崎に話してみよう」
と、肯いて見せた。
「──OK! みんな位置について!」
山崎の声が響き渡る。
「どこにいるんだ?」
と、私はスタジオの中を見回した。
「ほら、あのクレーンの上」
夕子が指さす。なるほど、さっき夕子と乗った、あのクレーンに山崎が乗って、指示を出しているのだ。
マイクを通して、声はスタジオのあちこちのスピーカーから流れているので、当人がどこにいるのか、よく分らないのである。
「──永井君」
と、金原竜が顔を紅潮させて、やって来た。
「しっかりね。私たちは外から見てる」
「うん。あの子も、夢中でやってるよ」
と、金原は伊東邦江の方を見て、言った。
「君が話してくれたんだね、ありがとう」
「どういたしまして」
夕子はニッコリと笑った。──そりゃ、何があっても責任はこっちがとるのだ。
「じゃ……。宇野さん」
「頑張れよ」
「ええ! あの──永井君を幸せにしてやって下さいね。でも──やっぱり不倫はいけないと思います」
私が何も言わない内に、また金原は行ってしまったのだ……。
改めて、テスト。そして、本番。
もう朝に近い時間である。
はた目にも、金原と伊東邦江のカップルは、まるで以前からの本物の恋人同士のように、似合っていた。
「──人気が出るかもしれないな」
と、私は言った。
「そうね」
夕子が肯いて、「あの子が話してくれたわ。──黒川ケンジが、あのディレクターに紹介してやると言って、無理に飲ませて、何が何だか分らない内に、マンションに連れ込んだって」
「ひどい奴だな」
と、私は顔をしかめた。
「でも、不思議だと思わない? あの黒川が、いくら戸沢ゆみ子を恨んでたとしても、ここで殺して自殺するなんて。そんな風には全然見えなかったでしょ」
「そうだな」
私も同感だった。あの男が、女と無理心中するとは、とても考えられない。
「じゃ、本番」
と、声があった。
スタジオの中が一旦暗くなり、それから次々に照明が点いて、あの散歩道を照らし出した。
「──始まるわ」
と、夕子が言った。
「おい」
と、私はそっと言った。「もう犯人は分ってるんじゃないのか」
「もちろんよ」
と、夕子は言った。
クレーンがゆっくりと動いて行く。
金原と伊東邦江が歩き出すと、カメラがその頭上をすべるように追って行った。
私は、原田がやってくるのを見た。
「ちょっと──」
と、原田は小声で言って、そっと夕子に耳打ちした。
「ありがとう」
夕子が小声で礼を言う。
「──何だい?」
「何でもないわ。後で分るわよ」
と、夕子は言った。「もうじき、あそこを曲るわ」
そうだ。金原と邦江の二人が、散歩道の一番奥のU字の角を曲るところだった。
スタジオの中に、緊張が走るように感じられた。──何かが起ろうとしている。
「キャーッ!」
と、邦江の甲高い悲鳴が聞こえた。「人殺し! 人殺し!」
スタジオの中は大騒ぎになってしまった。私たちは、ポカンとして立ちすくむアベックたちをかき分けて、駆け出していた……。
スタジオの中は、静かだった。
もう、誰も残っていない。──誰も?
いや、一人、ぼんやりと散歩道のセットを眺めているのは、伊東邦江である。
足音が聞こえて、邦江が振り向く。
「あ……」
「やあ」
山崎が、邦江のそばに立つ。「もう落ちついたかい?」
「ええ……」
邦江が、恥ずかしげに目を伏せて、「すみません」
と、言った。
「いや……。少しびっくりしたけどね」
と、山崎は言って笑った。
「本当に申しわけなくて。せっかく声をかけて下さったのに」
と、邦江は、ため息をつく。
「君は充分にやれるはずだよ」
山崎は、セットを見て、「こんなセットはもう二度とできないだろう。君にとっては、一生に二度とないチャンスだ」
「はい」
と、邦江が肯く。
「やれるかい? もし大丈夫なら、明日、もう一度やり直してみよう。しかし──また|あれ《ヽヽ》が出るようだと、もう無理ってことになるよ」
邦江が、少しためらってから、
「私……やります」
と、しっかりした声で言った。
「その元気だ」
山崎が、邦江の肩を叩いた。「──どうだい、今、歩いてみないか」
「この道を、ですか」
「そうだ。あんなものは、慣れてしまえばどうってことはない。一度、無事に通れれば、自信がつくよ」
「そうですね……」
邦江は少し青ざめた顔で、じっと散歩道を見つめていたが、「──行きます。一緒に歩いて下さいます?」
「ああ、いいとも」
二人は、腕を組んで、歩き出した。
セットの中は薄暗い。しかし、歩くのに困るほどでもなかった。
「──君の成功が目に見えるね」
と、山崎が言った。「君はスターになる。大騒ぎされて、グラビア、表紙、TV、CM……。眠る間もないくらい、忙しくなる」
「そんなの……夢のまた夢です」
と、邦江は照れたように言った。
「いや、それぐらい夢じゃないよ。君ならできる」
「そうでしょうか」
二人は、散歩道の一番奥へと近付いていた。
「そうだとも。──君には未来が待っているんだ。輝かしい未来が」
山崎の手が、邦江の肩を抱く。邦江が──足を止めた。
「どうした?」
と、山崎が訊く。
「私……」
「大丈夫か?」
「前に……確かこんな風に……」
「何だって?」
「前にあったんです。|こんなこと《ヽヽヽヽヽ》が」
山崎は、邦江と正面から向き合うと、両手できゃしゃな肩をしっかりと押え、
「|何が《ヽヽ》あったんだ?」
と言った。「言ってごらん。何があったのか。──思い出してみるんだ」
「あの……肩が……痛いわ」
と、邦江が顔をしかめた。「手をはなして下さい」
「はなすもんか。──思い出してみろ!」
山崎は、別人のように、目を見開いて邦江を見つめている。「何があったんだ!」
「私……私……」
邦江が、山崎の手を振り切って、駆け出した。
「待て!」
「助けて! |人殺し《ヽヽヽ》!」
と、邦江が叫ぶ。
山崎は邦江の前に出て、行手をふさいだ。
「──憶えてるのか!」
「山崎さん……」
「そんなはずはない! 畜生! 何も憶えてないはずだ!」
と、山崎が叫ぶ。「殺してでも、しゃべらせてやるぞ!」
「そこまで」
と、|私は《ヽヽ》言った。
山崎がハッと顔を上げる。
私の声は、スタジオ中のスピーカーを通して、響きわたっていた。
「君の上だ」
と、私はクレーンの上から呼びかけた。「静かなもんだね。ずっと追いかけていたのに気付かなかったか」
夕子と私は、クレーンから、山崎と邦江を見下ろしていた。
「畜生!」
山崎が走り出す。あの角を曲ったところで──、
「ワッ!」
と、声を上げて、はね返されて転がった。
ぶつかったのは、もちろん戸沢ゆみ子の幽霊なんかじゃない。原田刑事の巨体である。
クレーンが静かに下りて、夕子と私は床に下り立った。
「大丈夫?」
と、夕子が訊いた。
「ええ……」
邦江は胸に手を当てて、「あれで良かったんですか?」
「そう。みごとにやってくれたわ」
夕子は、邦江の肩をそっと叩いた。
「山崎さんが……戸沢さんを?」
「そう。──黒川との噂というのは、山崎が自分で流したのよ」
と、夕子は言った。「他の女とのことで、戸沢ゆみ子とうまく行かなくなっていた。でも、戸沢ゆみ子は、山崎の痛い所をつかんでたのね」
「麻薬か」
「そう。覚醒剤とね。──邦江さん。あなたが乱暴されたとき、相手は黒川だけじゃなかったのよ。山崎が黒川を使って、仕組んだことなのよ」
「じゃ……」
「あなたに薬を射って、何も分らなくしておいて、ここへ連れて来た。でも、あなたは、きっと体質的に強いのね。少し意識が残っていて、かすかにこのスタジオを憶えていたのよ」
「そうか。しかし、わざわざここに連れて来て、何してたんだ?」
と、私は言った。
「|リハーサル《ヽヽヽヽヽ》」
「何だって?」
「ディレクターの習性ね。殺人のためにも、実際の場所でやってみなきゃ、気がすまなかった。しかも、戸沢ゆみ子と|よく似た《ヽヽヽヽ》女の子を使ってね」
「──呆れたな」
と、私は目を丸くした。
「マイクで指示を出しているから、どこにいても分らない。それを利用して、本番直前のわずかの時間に、戸沢ゆみ子を殺し、それから、後で話があると言って待たせておいた黒川を、自殺に見せかけて殺した」
「本番中に?」
「そう。あれこれ、指示を出しながらね。まさか誰も本人がその場にいないとは思わなかったんでしょう。でも、ナイフに黒川一人の指紋しかついてなかったこと、黒川がとても戸沢ゆみ子を殺そうなんて思えない、といった点を、考えてなかったわね」
「わざわざリハーサルをやったのか。それで君は殺される役をやったわけだ」
「そうだったんですね」
と、邦江は肯いた。「でも──生きてて良かったわ。スターになれなくても……」
「でも、このセットをむだにはしないと思うわよ」
と、夕子が言った。「ともかく、今日は彼が送ってくれるわ」
「え?」
と、邦江が振り向くと、金原が立っている。
「金原君、お願いね」
と、夕子が言った。
「ちゃんと送るよ」
と、金原が言って、「でも、その前に、食事くらい誘ってもいいだろ?」
「本人に訊いて」
と、夕子は笑った。
邦江は少し照れながら、金原と歩いて行く。
「──あ、そうだ」
金原が振り向くと、「宇野さん」
「あのね、僕と夕子は──」
「ええ、分ってます。本当に愛し合ってるのなら、不倫でもいいのかな、と思い直したんです。じゃ……」
私は、ため息をついて、
「いい加減に訂正しといてくれよ」
と、夕子に苦情を言った。
「そうね」
夕子は澄ましている。「でも、はた目に不倫のカップル、なんてのも、乙なもんでしょ」
「冗談じゃないよ」
と言っておいて、私は思い出した!
戸沢ゆみ子が、言った言葉……。
「いい気味だわ」
と、言ったのだった。
そうか。あの際、その言葉の相手は、山崎しかいなかったろう。もっと早く思い出していれば……。
「どうかした?」
夕子の問いに、私は、
「君のことを考えててね、ボーッとしてたのさ」
と、答えた。
いつも正直なのが一番とも限らない。
で、もちろん原田には、「夕子との打合せ」と告げておいて、私は夕子と二人で、スタジオを出て行ったのである。
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第二話 殺人犯、お呼出し申し上げます
「迷子のお尋ねをいたします。三歳くらいの、紺のセーターと赤のスカートの女の子さんのお母様。おいでになりましたら……」
頭の痛くなるような混雑のデパートに、アナウンスが響く。──娘がいなくなっても気付かない親というのがいるのか、と不思議な気がするのは、私が男で、かつ子供を持ったことがないからかもしれない。
「結構、子供をこういう所へ置いてっちゃう人っているんですってね」
と、永井夕子が言った。「いらないのなら、産まなきゃいいのよ」
「そうだな」
私はフーッと息をついて、「少し休まないか?」
話としてはつながっていないが、ともかく何の話題からでも、私はそう言わずにはいられなかったのである。
いや、目の前に指名手配中の殺人犯でも突っ立っていれば、どんなにくたびれていても、逮捕するだろうが、そうでもなきゃ、ともかくどこかに座ってひと休みしたい。それは切実《ヽヽ》な気持だった。
「あら、くたびれた?」
と、夕子はいとも平然としている。
そりゃ、私とて警視庁捜査一課の警部である。体は常に鍛えているつもりだし、女子大生の夕子とも付合えるほど気持だって若々しいつもりである。しかし、この混雑のデパートでの買物となると……。これなら、徹夜の張り込みの方がまだましだ。
「もうちょっと頑張って」
と、夕子は、両手一杯に紙袋をぶら下げた私にニッコリ笑いかけ、「あと、このフロアを見たら、どうしても必要なものはそろうの。それからゆっくり休みましょ。それでいい?」
いや、と言っても同じことだ。
「分った」
と、私は何とか平気な顔で肯《うなず》いて見せ、「ま、それほど疲れてる、ってわけでもないんだ」
とまで強がって見せたのである。
「頼もしい。大好きよ」
とか言われてニヤついている自分が少々情ないが、まあこれも「若い恋人」と付合うための試練の一つ……。
──刑事だって、デパートへ来て買物をする。当然のことだ。
同様に、殺人犯だってデパートに来ているんだろう、などと、夕子の後をついて歩きながら(歩くというより、人の間をすり抜けると言った方が正しい)私は思っていた。
夕子が足を止めて、
「ここで待ってて」
と言った。
「どうして?」
「ついて来てもいいけど、目のやり場に困るでしょ」
見れば、先は女性の下着売場。
「ここにいる」
と、私は肯き、通る人の邪魔にならないよう、わきへ寄った。
「すぐ戻るわ」
夕子は足早に行ってしまった。
私は息をついて、めまいを起しそうなほどの多彩なディスプレイを眺めていた。
──いつもこれだけの品物を並べておくというのも大変なんだろうな、と思う。
加えて、これだけの人が毎日のように出入りするのだ。どんな事件が起っても、不思議じゃない。
まあ……今、殺人事件だけは起きてほしくないものだが。
「迷子のお知らせを申し上げます」
またか。今度は男の子か女の子か。
「あの……ちょっとお待ち下さい」
アナウンスの声が戸惑っている。「これでいいの?」
と、誰かに訊いている声が、マイクに入ってしまっている。
何だろう? どうせ退屈でもあり、私はアナウンスの続きに耳を傾けた。
「あの……迷子のお知らせ……です」
と、何だか歯切れが悪く、「紺の背広にネクタイの、三十歳《ヽヽヽ》ぐらいの男性のお母様。いらっしゃいましたら、一階案内所までお越し下さい。くり返します……」
笑い声や、「ええ?」という声が、いくらか聞こえた。やはり、このアナウンスに耳を傾けていた客がいるのだろう。
しかし──私も|やっと《ヽヽヽ》びっくりした。「三十歳ぐらいの男性」の迷子?
どういうことだ?
しかし、もちろんアナウンスはその辺の事情まで、語ってはくれないのである。
「──ね、聞いた、今の?」
と、夕子が紙袋を手にやって来る。
「三十歳の迷子かい?」
「ね、面白そうじゃない。行ってみる?」
これだから、夕子と付合うのには骨が折れる。
「しかし、何も事件ってわけじゃないぜ。まさか手帳をちらつかせて、わけを訊くってこともできないだろ」
「それもそうか」
夕子はやや心残りの様子だったが、「じゃ、ともかく何か食べましょうか。上の食堂街へ行けば、色んな店が入ってるわ」
やれやれ! これでやっと休める。
今度は私の方が先に立って、上りのエスカレーターに向ったのである。
三十歳の迷子も、今ごろ「お母様」と再会できて、泣いて喜んでいるかもしれない、と思いながら。
「──生き返ったよ」
と、私は、熱いお茶を飲みながら言った。
「じゃ、今までは死んでたわけ?」
と、夕子がからかう。
「半分はね」
目の前に空の弁当箱。といっても、この洋食屋の定食風のメニューの一つ。私は、夕子が自分のメンチカツを半分も食べない間に、その弁当を平らげてしまったのだった。
「後で眠くなるんじゃない?」
と夕子が言った。「せっかくホテルに入っても、恋しい人がグーグー高いびきじゃね」
「誰が居眠りなんかするもんか」
と、私は主張した。「エネルギー源に燃料を補給したんだ」
「そう願いたいわね」
と、夕子は笑って、「でも、日曜日よ。どこも一杯かもね」
「大人をからかうもんじゃないぜ」
私は、お茶のおかわりを頼もうとした。すると、ポロンポロンとチャイムが鳴って、
「お客様のお呼出しを申し上げます」
と、アナウンスが流れた。
「あのね、お茶──」
「警視庁捜査一課の宇野様。警視庁の宇野喬一様。おいでになりましたら、お手近の売場へお申し出下さい」
「お茶……」
と言いかけて、「──今のは?」
「空耳じゃないらしいわよ」
と、夕子は言った。「誰かに言って来たの?」
「言うもんか。しかし──人違い、じゃないよな」
言うだけむだではあった。捜査一課に宇野喬一は二人いない。
「急ぎの用かもしれないわ」
と、夕子に言われるまでもなく、私は立ち上って、レジの方へと歩き出していたのである。
「やっぱり!」
と、とてつもなくでかい声が、私の鼓膜を打った。「絶対に宇野さんと夕子さんだと思ったんですよ」
謎はとけた。──原田刑事の巨体が、手狭な通路をふさぐように立っていたのである。
「お前……何してるんだ?」
「お二人を見かけたもんですから」
と、原田は返事にならない返事をした。「もちろん分ってます。非番だってことはね。ですから、大声で呼びかけようかと思っても、やめといたんですよ」
やめてよかった。原田の声で腰を抜かすお年寄りの二人や三人、出ていたに違いない。
「しかし、どうして俺を呼び出したんだ?」
そこは一階の売場の「裏側」と呼ぶのか、商品が山のように積み上げられた一画である。
「失礼します」
と、男が一人やって来た。
背広姿で、よくいる「課長タイプ」。少し頭は薄くなっているが、たぶん年齢は私より若いだろう。
「宇野様でいらっしゃいますか」
「そうですが……」
「売場の保安責任者の川本と申します」
と、その男は言った。「プライベートなお時間なのに、申しわけありません」
「まあそれはいいけど……。何かあったんですか?」
「こちらへいらして下さい」
と、川本という男は言って、狭い通路をさらに奥へと案内して行く。
私も夕子も、「何か」起ったことは確かなようだ、という予感を持って、その後をついて行くしかなかった。
「ここです」
と、川本が足を止めたのは、少し広くなった──といっても、日本間ならせいぜい十畳間くらいのスペースに過ぎなかったが──場所で、在庫品らしい段ボールに囲まれて、大分古びたオフィス用の机一つと椅子が三つ、置かれているだけだった。
しかし、その殺風景な場所に、一瞬、ギョッとするものがあった。──死体? いや、そうではないが、それを暗示するもの。大きな血だまりである。
「これは……何があったんです?」
と、私は言った。
「それが分らないんです」
と、川本が首を振る。「実は……」
夕子が、血だまりのそばへかがみこんで、私の方を見上げ、
「間違いなく、血?」
と、訊いた。
「見たところは、少なくともそう見えるね」
と、私は肯いた。「しかも、ごく最近流されたものだ」
──言い添えておくと、今の私は両手一杯に紙袋をさげてはいなかった。原田が全部持ってくれていたのである。
「先ほど、迷子の呼出しをしたのを、お耳にされましたでしょうか? ちょっと変った──」
と、川本が言った。
「三十歳くらいの迷子、ですか?」
「そうです」
川本は肯いて、「その『迷子』が、ここにいたはずなのです」
そこへ、
「お呼びですか」
と、派手な制服でやって来たのは、どうやら一階の正面入口に座っている案内嬢。
「ああ、君。話は聞いた?」
「はい。あのお客様……どうなさったんでしょう?」
「それが分らないんだ。──こちらは警察の方だ。たまたまご来店されていたのを、無理に来ていただいた」
夕子が立ち上って、
「私、この宇野警部の姪《めい》で永井夕子といいます。よく、この叔父の手伝いをしてるんです」
夕子のセリフに、聞いていた原田が妙な咳払いをして、私にジロッとにらまれている。
「久保早苗と申します」
いかにもマニュアル通りの仕草ではあるが、二十七、八と見えるその案内嬢はていねいに頭を下げた。少々奇抜なデザインの帽子をかぶっていて、それがいやに目につく。案内係としては、「目立つ」ことが大切なのかもしれない。
「あのお客さんのことを、話してさし上げてくれ」
と、川本が言うと、
「はい」
と、久保早苗は息をつくと、帽子を取った。
帽子を取ると、長い髪がフワッと肩にさがって、全く別の女性のように思えるから、不思議なものだ。
「あの……案内カウンターへおいでになったときは、別にどこといって妙なところのない方のように見えたんです。もちろん、デパートの案内には、色んな方がおみえになるので、どんな突拍子もないことを訊かれても、決してびっくりしないように言われています。でも、あのときには──」
「は?」
思わず久保早苗は問い返していた。「今、何ておっしゃいました?」
はっきり聞こえてはいたのである。しかし、その男性はいかにも人当りのいい、営業マンタイプの笑顔を見せて、しかもきちんと背広にネクタイ。その外見と、言葉とがあまりに一致していなかったのだ。
「母親《ヽヽ》ですよ」
と、その男はくり返した。「どこで母親を売ってるのか、うかがいたいんです」
「はあ……」
母親? ──久保早苗は、そういうネーミングの商品(最近はとんでもない名前をつけるのがはやっている)があったかしら、と必死で頭の中をかき回した。早苗は、そういう点、勉強を欠かさない方だが、どうしても「母親」という名の商品には思い当らなかった。
「お客様、恐れいりますが、それはどういう、その……お品物でございましょうか」
早苗の言葉に、今度は男の方が不思議そうな表情になった。
「どうといって……あなた、お母さんはいないんですか?」
と、逆に早苗に訊いて来た。
「母ですか。おりますが」
「じゃ、分るでしょう。ここに母親《ヽヽ》があるというんでやって来たんですよ」
「母親が──当店にですか」
「そう。どの売場へ行けば売ってるのか分らないんでね、案内の方に訊くのが一番だと思って。そうでしょ?」
どう見ても……真面目だ。しかも年齢は三十くらい。役者にしたいというほどじゃないにしても、なかなかいい男である。しかし、ここまで話を聞くと──独身の早苗としては少々残念だったが──やはり手もとの内線電話を取って、
「川本課長お願いします」
と言わざるを得なかったのである。
あいにく、川本が戻ってこのカウンターへやって来るまでに、十分ほどかかると分った。
「恐れ入ります。ただ今、係の者が参りますので、少々お待ち下さい」
と、早苗は少しこわばった笑顔を見せながら言った。
「はいはい」
と、男は愛想良く言って、カウンターのわきへ立つと、少し売場を眺めながら、口笛を吹き出した。どこかで聞いたことのあるメロディだった。
そこへ、足早にやって来たのは、吉井めぐみ。迷子のお知らせなど、館内のアナウンスを取り次いでいる係の子だ。早苗より少し年下で、ポッチャリした色白な子。
「早苗ちゃん、サンキュー。さっきの迷子、今、お母さんが来て、連れてったから」
「そう。良かったね」
と、早苗は言った。
「でもさ、相変らず『すみません』の一言もないのよ。照れくさいのかもしれないけど、こっちだっていやになっちゃうわよね」
と、吉井めぐみは首を振って言った。
見るからに「現代っ子」のめぐみがそう言うと、何となくおかしかったが、実際世間には信じられないような母親というものがいるのだ。
口笛が止った。と思うと──。
「迷子ですって?」
と、その男が、吉井めぐみの方へやって来たのである。
「は?」
「迷子の呼出しか……。そう! それがいいや」
「何ですか?」
と、めぐみは面食らっている。
「いやね、僕も迷子なんです。母親がこのデパートの中に|ある《ヽヽ》はずなんですけどね。呼び出して下さい!」
「は……。あの……それじゃ、こちらへどうぞ」
すっかり呑まれた感じのめぐみは、男にせかされるようにして行ってしまう。早苗は、声をかけようとしたが、ちょうど売場を訊きに来た年寄りの相手をしていて、かけそびれてしまったのである。
「参ったな……」
本当におかしいのかしら、あの人? 見たところ、あんなに「普通に」見えるのに。
肩をすくめて、川本課長が来たら話しておこう、と早苗は思った。そして思い出した。
あの口笛のメロディ。──あれはグリーグの「ペール・ギュント」の中の「ソルベイグの歌」だ……。
血だまりは、無表情に私を見上げているようだった。
「原田」
と、私は言った。「応援を。私服の刑事を五、六人よこしてもらえ」
「はい」
原田が紙袋をガサガサいわせながら、駆けて行く。
「──どうしたの?」
と、夕子が訊いた。
「『ソルベイグの歌』か……。もしかすると──」
と、私は言いかけて、「その吉井めぐみという子は?」
「めぐみさんですか? 席へ戻ってると思いますけど」
と、久保早苗が言うと、
「いや、戻ってない」
と、川本が首を振る。「今、連絡しようとしたが、ずっと席を立ったままだそうだ」
「あら。どうしたのかしら」
「すぐに呼出しをして下さい」
と、私は言った。「大至急!」
「分りました」
と、川本が戸惑いながら駆けて行く。
私はため息をついた。
「この血が、その吉井めぐみって子のものでなきゃいいんだが……」
久保早苗が息をのむ。
「──岡田浩士。若い娘を三人殺して逃亡中だ」
と、私は言った。「被害者はいつも色白で、少し小太りのふっくらしたタイプ。二十歳から二十四、五歳」
「めぐみさん……」
と、早苗が呟《つぶや》く。
「よく口笛で、『ソルベイグの歌』を吹くんだ」
「じゃあ……」
と、夕子は言いかけて、やめた。
「──ここには、その男がいたんだね」
「はい。その|はず《ヽヽ》です。川本課長が──」
「今、アナウンスしています」
と、川本が戻って来る。
「その男はここにいたんですね?」
「そうです。──あのアナウンスにびっくりしましてね。行ってみると、吉井めぐみ君が、そのお客を相手にしゃべってるんです。で、ともかく後でゆっくり話をしようと思い、吉井君に言って、ここへ案内させたんです」
川本は、話を聞いて仰天《ぎようてん》した様子だった。
「何てことだ! 吉井君に何か──」
「そうと決ったわけではありません」
と、私は言って、「ともかく、彼女が無事に見付かればいいんですが」
「ね。岡田浩士を捜さなきゃ」
と、夕子が言った。「TVモニターがありません? 各出入口を見張る」
「あります。三階の保安部に」
「そこで、出て行く客のチェックを。もし岡田が出ようとしたら、止められるわ」
「そうしよう。案内して下さい」
「こちらです」
──デパートの裏側《ヽヽ》を歩いて行くのは、それなりに面白い経験だった。もちろん、今は面白がっている場合ではないが。
「刑事が来たら、各出入口に一人ずつ行かせよう」
と、私は言った。「説明はそれからでもできる。──川本さん。デパートのガードマンや、万引き防止の巡回をしている方を集めて下さい。もし、吉井さんという方が見付からないのなら、捜す必要があります」
「はい、すぐに」
階段を駆け上り、私たちは三階へと足を踏み入れた。
「──分ったな。全員、岡田の顔は分ると思う。絶対に見逃すな」
私がマイクに向って言うと、ズラッと並んだTVモニターの正面で、刑事たちが小さく肯いた。
「──やれやれ」
と、私は息をついた。「まだ岡田が店内にいるのを祈るばかりだな」
「その前に、吉井めぐみさんが無事でいるのを」
「ああ。もちろんだ」
モニター室は狭苦しいので、ドアを開け放してある。ドタバタと足音がして、原田がやって来た。
「ご苦労。手配の方は大丈夫か」
「地下の駐車場と、上のレストラン街にも一人、行ってます」
と、原田は言って、「これ、どうしましょう?」
両手一杯の紙袋を持って駆け回っていたらしい。
「その辺に置いとけ」
「お預りしましょう」
と、川本が原田から紙袋を受け取り、モニター室を出て行く。
「どうです?」
と、原田がズラッと並んだTVを眺めて、「可愛い子、出てます?」
「TVのバラエティ物を見てるんじゃないぞ」
と、私は苦笑した。
「でも、気になるわね」
と、夕子が言い出した。
川本が持って来てくれた缶コーヒーを飲んでいる。
「何が?」
「岡田って男。このデパートに『母親が売ってる』と思って来た。本当にそう思ったのかしら?」
「狂ってんですよ」
と、原田は単純明快である。
「狂ってるとしても、何か理由があるはずよ」
「ある」
と、私は言った。「岡田は母親を捜してるんだ。──殺された子たちは、たぶん母親と似たタイプだったんじゃないかな」
「母親と別れてたの?」
「分ってる限りではね。ともかく、当人と直接話してるわけじゃないし、何しろあの案内の女の子が言ったように、スマートで、女の目をひきつける男なんだ。そんな話を奴から聞いた人間は、ほとんどいない」
「でも、分ってるってことは──」
「岡田は、実際に営業マンをやっている。二、三年だがね。そのとき、同じ部屋に住んでいた男には、結構あれこれしゃべってるんだ。そこで岡田は、自分が母親に捨てられた、と語っている」
「捨てられた?」
「父親と母親と三人の暮しだったらしいが、ある日、突然母親が出て行ってしまった。岡田はひどく寂しがったらしい」
「へえ。──その母親っていうのは?」
「どこへ行ったか、分らずじまいだ。もともと岡田自身、故郷を出てしまって、どこでどうしていたのか、ろくに分っていない」
「そう……。でも、女の人を三人も殺してるってことは──何かきっかけがあったのね」
「だろうな。三件の殺人は、どれもこの三年間のことだ。少なくとも、それまでは岡田も普通に勤めていたわけだ」
そこへ、川本がドタドタと駆け戻って来た。
「宇野さん!」
と、息を切らしながら、「今──例の口笛を聞いたという店員が」
私と夕子はパッとモニター前の椅子から立ち上った。
「どこです?」
「ワイシャツ売場です」
「行ってみましょう。原田。お前モニターを見てろ」
「こんなに沢山を一人でですか?」
「そこを見るのが刑事よ」
と夕子に言われて、原田は、
「目は二つですよ」
と、ブツブツ言いつつ、代って椅子に座った。「──胃は一つだし」
「特大のね」
と、夕子が、ポンと原田の肩を叩いて言った。
「ええ……。警備主任さんから言われてたんです」
と、ワイシャツ売場の責任者というその女性は落ちついた様子で言った。
「山崎君はこの売場で二十年のベテランですから」
と、川本が言葉を挟む。
山崎恵子というその女性。もう四十代も末という年齢だろう。いかにもプロフェッショナルという雰囲気を身につけた女性である。
「それで、例の口笛を聞いたというのは?」
「はい。こちらの方です」
山崎恵子が、ワイシャツ売場のわきの広い階段へと歩いて行く。
「ちょうど一人、お客様のお相手をしていました」
と、足を止め、「その方はオーダーでお作りになる、ということでしたので、こちらへご案内して、寸法をとり、ここへかけていただいたんです」
と、手でソファを示した。
首に巻尺をかけていて、手はほとんど無意識のようにそれを指に巻きつけたりしている。
「そして、伝票にサイズを記入しているときでしたわ。──階段の方から口笛が」
と、ちょっと言葉を切って、「すぐには気付きませんでした。口笛……。何か口笛のことを聞いたな、とぼんやり考えていて。そして、ふっと思い出したんです。そう。確か『ソルベイグの歌』だったわ、警備主任さんに言われたのは、と思って……」
山崎恵子は、ゆっくりと階段の方へ目をやった。
「そして、今聞いているのが、その『ソルベイグの歌』だと気付いたんです……」
「『ソルベイグの歌』か……」
と、夕子は言った。「その歌にも、何か意味があるのかもしれないわね」
「『ペール・ギュント』の中の一曲だろ? どんな話なんだ?」
と、私は訊いた。
──山崎恵子が、口笛を聞いたという階段を中心に、今、数人の刑事が、デパートの保安要員と共に岡田浩士を捜している。
私と夕子は幅の広い階段の踊り場に立っていた。──今のデパートでは、客のほとんどがエスカレーターかエレベーターで移動する。階段の辺りというのは、いわば「忘れられた空間」で、店内の混雑が嘘のように、人の姿が少ない。
「ペール・ギュントって男が、長い放浪の旅をするのよ」
と、夕子は言った。「冒険好きで、浮気で。ソルベイグっていう婚約者がありながら、色んな女に恋をして、何十年もたって無一文で帰ってくる。すると、ソルベイグが、年老いて、でも変らずに恋人の帰りを待っていてくれるの」
「ふーん」
「恋人だから、母親とは違うけど、岡田の中に、そういう女性への憧れがあるのかもしれないわね」
と、夕子は言った。
「そうかもしれないな。しかし──」
と言いかけたとき、靴音がして、山崎恵子がやって来るのが見えた。
「休憩時間なものですから」
と、山崎恵子は言った。「めぐみさんは見付かりまして?」
「いや、まだです。八方、手は尽くしていますが」
と、私が言うと、山崎恵子は眉をくもらせて、
「口笛を聞いたとき、私がすぐ捜しに行っていれば……」
と、口ごもるようにして、「どうしても、お客様を放り出して行けなかったんです」
「分ります。当然ですよ」
と、私は慰めた。
すると夕子が、
「吉井めぐみさんのこと、個人的にもご存知なんですか?」
と言った。
「え?」
山崎恵子が目をみはって、「どうしてそんな──」
「いえ、今、『めぐみさん』とおっしゃったので。『吉井さん』と姓の方をお呼びになるのが普通じゃないのかな、と思って」
「ああ……。以前、同じ係だったんですよ」
と山崎恵子は少し微笑を浮べて、「あの子が入社したとき、私の下に来て。まるで宇宙人かという感じでしたけど……。でも、いつの世にも、若い人はそう思われるものですわね。慣れてしまえば、どうということもなくて、めぐみさんも、とてもいい子ですわ」
「何とか無事に──」
と、私が言いかけると、原田がフウフウ言いながら階段を上って来た。
「宇野さん。もうじき鑑識が来ます。立ち合いますか」
「俺はここにいなきゃならん。お前、ともかく、あの血痕を調べさせてくれ」
「分りました。──今んとこ、岡田らしい奴の姿は見えません」
「分った」
と、私は肯いた。
「では、お仕事のお邪魔をしても何ですから──」
と、山崎恵子はワイシャツ売場へ戻って行く。
「いかにも、仕事のプロって感じの人ね」
と、夕子が言った。
「ああ。ああいう人が一人いると、売場の雰囲気が変るだろうな」
と、肯いたときだった。
「警部!」
と、部下の刑事が上の階から駆け下りて来た。「見つけました!」
私と夕子は一瞬目を見交わした。
「どっちをだ」
「吉井めぐみです。生きています」
私は思わず目を閉じて、息をついた。
「ただ──まるきり無事というわけでも……」
と、刑事が言いにくそうに、「裸にされてたんです」
「何があっても、命さえあれば」
と、夕子は即座に言って、「さ、行きましょう」
私は夕子と一緒に、部下の後について階段を駆け上って行った。
「ご心配かけて」
吉井めぐみは、思いのほか元気そうにしていた。
もちろん、裸にされて荷物の段ボールのかげに、気を失って押し込まれていたのだから、「元気」というのは当らないかもしれなかったが。
「──売物の服、着ちゃって」
と、吉井めぐみは休憩所でお茶を飲みながら、ポロシャツとデニム地のスカートという自分の格好を照れたように見下ろした。
「構やしないわよ」
と、久保早苗が言った。「ちゃんと川本課長の許可取ってある。お給料からその代金天引きされたりしたら、私が抗議するわ」
「ありがとう……」
と、吉井めぐみは言った。「あのとき、もっと早苗の話を聞いときゃ良かったんだよね。でも、あいつ、見たとこ凄く真面目だったじゃない」
「そうよね。まさか──こんなことになるなんて」
と、早苗が目を伏せる。
「ああ。でもね、心配しないで」
「え?」
「私、|何も《ヽヽ》されてないもん。もちろん、首絞められかけて、気を失っちゃったけどさ、何かされてりゃ分るわよ。そうでしょ?」
「そりゃそうよね。じゃ──本当に?」
「うん。別に恥ずかしがってるんじゃないの。やられてりゃ、ちゃんと言うわよ」
と、吉井めぐみは、アッサリした口調で言った。
「岡田は三人の女性を殺しているが、暴行してはいない」
と、私は言った。「君の場合、人が通りかかるかして、殺せなかったのかもしれないね」
「そうだとしたら、運がいいのかなあ、私」
と、吉井めぐみは言った。「でも、そもそもこんなことに巻き込まれるのが、運が悪いのかしら」
何とも呑気な子である。
すると夕子が、
「服は?」
と言った。
「え?」
「あなたの着てた服。暴行する気もないのに、なぜ脱がせたのか。そして、脱がせた服をどうしたのか」
「そうだ。──近くには見当らなかった」
「制服と──ブラウス?」
「それに下着です。そういえばどうして持ってったのかなあ」
と、吉井めぐみが首をかしげる。
「女装の趣味でもあったのと違う?」
と、早苗が冗談めかして言ったが、私にとってはジョークではない。
「|着るため《ヽヽヽヽ》に? ──そうかもしれない。そうだとすると……」
「女性の姿で、このデパートをもう出て行ったかもしれないわ」
「しかし──そうなると、調べようがないぞ!」
と、私はため息をつく。
ある意味では、もう岡田は逃げたも同然である。これからデパート内に、「殺人犯が潜んでいますので、どうぞご注意下さい」なんてアナウンスを流そうものなら、デパートの中がパニックに陥ってしまうに違いない。
「参ったな」
と、私は考え込んだ。
「でも、おかしいわ」
と、夕子が首を振って、「あの血は何だったの? それに、岡田はどうして警察が捜してることを知ったの? ──何かあるのよ。これだけじゃ終らないわ」
夕子の予言は、次の瞬間に当った。こんなに早く当った「予言」も珍しいに違いない。
けたたましいベルの音が、鳴り渡った。
「何だ?」
と、私が言うと、久保早苗と吉井めぐみが青ざめて、
「大変! 火事だわ」
と、同時に言った。
「お客さんの誘導!」
早苗が駆け出して行く。吉井めぐみも、
「私も売場に行かないと……」
と呟きつつ、足早に行ってしまった。
残った夕子と私は顔を見合せ、
「──どうする?」
「私の勘じゃ、本物の火事じゃないわね。でも、万一のために、外へ出ましょう」
「外へ出る、か……。やれやれ、岡田どころじゃないな」
と言って、「もしかすると──あいつが?」
「あり得ないことじゃないけど、先入観は禁物よ」
私たちは小走りに階段へと急いだ。すでに館内には、
「落ちついて、静かに外へ出て下さい」
というアナウンスが流れている。
そして、私たちが、売場へ出て行ったとき、天井のスプリンクラーが作動して、どしゃ降りの「雨」が降りかかって来たのである……。
「──タオル、どうぞ」
と、久保早苗がバスタオルを貸してくれる。
「ありがとう。しかし、君もびしょ濡れじゃないか」
「デパートの人間ですから。お客様が先です」
なるほど。──確かに理屈ではそうだろうが、懸命に濡れた客の間を駆け回っている久保早苗や吉井めぐみを見て、私は感心していた。
「何を見とれてるの?」
と、夕子がそばへやって来て、私の脇腹をつつく。
「何だい」
「久保早苗に見とれてたでしょ」
「いや、そうじゃないよ」
と、あわてて、「タオルは?」
「私、いいわ。そんなに濡れてないし」
夕子は、スプリンクラーの「直撃」を予知していたらしく、手近な売場のコートをつかんで頭からかぶっていたので、そうひどく濡れてはいなかったのである。
「宇野さん! 大丈夫でしたか」
と、原田がやって来る。
──何しろ売場も水びたし。もちろん商品も使いものにならないわけで、デパート側の損害は大変だろう。
「やあ。どうだった」
「おかしいですよ。警報は二階から出てるんですが、どこも火事らしいものは出していません」
すると、やはり、岡田が逃亡するためにやったのだと考えるべきだろう。
「もう岡田をチェックするのはやめさせろ」
と、私は言った。「どうせむだだ」
「分りました」
原田が戻って行こうとして、「──宇野さん、濡れたもんは乾かして使うんですかね」
「知らんね」
と、私は肩をすくめた。
上の方から、「お小言」を食らうとしたら、私である。岡田を追い詰めるのに、もう少しやり方があったのではないかと言われたら、言い返しにくい。
もちろん、事情は説明できても……。
「大騒ぎね」
と、夕子はのんびりと言った。
「そりゃそうさ。客だって、ずぶ濡れになって黙っちゃいないだろうし……。困ったな」
「あら、何が?」
「デパート側の責任とも言えないし、といってこっちの責任を問われてもね」
「岡田浩士の責任ってことですものね」
夕子は私の肩に手をかけて、「──元気出して。クビになったら、養ってあげるわよ」
と、慰めてくれた……。
「──どうも、とんだことになってしまいまして」
と、やって来たのは、やはり頭からずぶ濡れになった川本。
「けが人は出ませんでしたか」
「それは大丈夫でした」
と、保安責任者としてはホッとした様子で、「お客様もそう騒がず、大変スムーズに行動して下さって」
「火事じゃなかったようですね」
「そのようです。二階の火災報知機を、誰かが押したんですね」
川本はため息をついて、「この後始末だけで三日はかかるでしょう。──大損害です」
私は、その後刑事たちの話を聞いて、帰らせてから、やっと夕子と外へ出た。
もちろん、もう夜になっていて、お腹がグーッと鳴りそうな状態。
「どこかで食事しよう」
と言って、私はクシャミをした。
「──風邪ひくわよ」
と、夕子は笑って、「じゃ、こうしましょ。ホテルでゆっくりお風呂につかる。食事はルームサービス。いかが?」
「いいね!」
私はやっと、少し体があったまってくる気がした。「──原田の奴は呼ばないことにしよう」
ゆっくりと熱い風呂につかり、バスローブ姿で夕子と二人、食事をとる。
散々な日ではあったが、まあ、おしまいはそう悪くないか、と私は思っていた。もちろんどんなに「終り」が良くても、「すべて良し」というわけにはいかない。
「──お腹一杯」
夕子は、食事の皿を、ワゴンに重ねた。「よく食べたわねえ」
「これからに備えてさ」
「お皿洗う人が大変」
と、夕子は笑ってワゴンをドアの方へと押して行った。
私はダブルのベッドに横になって、ウーンと伸びをした。そして──見ると、夕子がドアの手前でワゴンを止めて、何やらぼんやりしている。
「どうかしたのかい?」
と、体を起すと、
「ね、お皿を洗う……。洗い落とすのよね、汚れを」
「そりゃあ……そういうことだよな」
「ね、デパートへ戻ろう」
と、夕子は何やら決然とした口調。
「何しに?」
「確かめたいことがある」
夕子は、もうそれが「何なのか分ってる」という顔をしていた。「ね、行きましょ」
「しかし……服が乾いてないぜ」
虚しいと知りつつ、そう言っている。
「岡田を逮捕できるかもしれないわよ」
そう言われては諦めるしかない。
私は、生乾きの服を、渋々身につけた。
──これで風邪引いたら、治療費は岡田に請求してやる!
デパートの周囲は、もちろんもう真暗である。
店内から流れ出た水が道に水たまりを作っていた。
「何を調べるんだ?」
と、私は言った。「もう誰もいないだろう」
「しっ」
と、夕子が私の腕を取る。「こっちへ隠れて」
荷物の搬入口。──さっき消防車が停っていた所である。
もちろん今は誰もいなくて、人が出入りしないようにロープが張ってある。しかし、中には人が残っているのか、明りが洩れ出ていた。
「ガードマンでもいるのかな」
と、私は言った。「──まさか岡田がどこかに隠れてるってわけでもないだろう」
もちろん、あの火事騒ぎの時点で、岡田は逃亡したはずだ。
「──やあ、ご苦労さんです」
と、ガードマンが出て来て言った。
もちろん、こっちへ声をかけたわけではない。
「いや、大変だったね」
と、答えて出て来たのは──。
「川本じゃないか」
と、私は言った。
「──じゃ、すまないけど、僕はもう帰る。よろしく頼むよ」
と、川本はガードマンに言っている。
「はい。ちゃんと見てますから」
どうやらガードマンは徹夜ということらしい。川本は台車を押していた。大きめの段ボールを積んでいる。
「手伝いましょうか」
と、ガードマンが言ったが、
「いや、大丈夫。そう重くないんだ」
と、川本は答えた。「これはね、お得意先用の品なんだよ。濡れちまった、じゃすまないからね。明日、朝一番で交換してくるのさ」
「ご苦労さんですね」
「ああ、明日から二、三日は眠る間もないだろうからね。今夜はゆっくり寝とくよ」
川本は、台車をガラガラと押して、道の反対側の駐車場へと向う。夕子が合図をして、私たちはその後をつけて行った。
川本は、自分の車の所まで台車を押して行くと、息をついて車のトランクを開けた。そして、台車の段ボールを、トランクへ移そうと……。
しかし、「重くない」はずの段ボールは、容易なことでは持ち上らなかった。
夕子が、ゆっくりと歩いて行く。
「重そうですね」
と、声をかけると──ギョッとした川本が段ボールから手を滑らす。
台車から段ボールが転り落ちて、もともときちんと封をしてあったわけでもないらしい。中からドサッと音をたてて飛び出したのは──背広姿の男だった。
「こりゃ驚いた」
私は、駐車場の明りの下でも、充分にその男の顔を見分けていた。「岡田じゃないか!」
しかし、岡田は返事をしなかった。
首の回りに、深々と食い込んだ赤い筋。それを見れば、岡田が紐のようなもので絞殺されたことは、明らかだった……。
「もちろん、この男が何者なのか、全く知りませんでした」
と、川本は言った。「しかし、デパートなんかにつとめていると、どんな風変りな客にもびっくりしなくなるもんです。ですから、この男をあの売場の奥へ連れて行って、待たせておき、私は他の仕事に戻りました」
デパートのガードマンの控室。──岡田の死体は、長椅子の上に横たわって、毛布をかけられている。
「そして、少ししてから、もう一度男の所へ行ってみると……。男は死んでたんです」
川本は青ざめた顔で言った。「本当です! 椅子にもたれてぐったりして……。そして足下に血だまりが……。もう、震え上ってしまいました。一瞬、どうしていいか分らなくなって……」
「首に何か巻きついていたのかね?」
と、私はややそっけない調子で訊く。
こっちに何かを隠していた人間には、「信じていないぞ」という意思表示をしておかなくてはならない。
「いいえ。この死体の通りです」
と、川本は首を振る。「気味悪くて、できるだけ触りたくない、と……。でも、もしこれを警察へ知らせたらどうなるか。そう考えるとゾッとしました。──デパートの中で人殺しがあったなんて! しかも、接客スペースでなく、裏側です。これはデパート内の問題になる。そうなると……」
「保安責任者としては、処分が当然、というわけか」
川本は、少し肩を落として、
「そうです……。ともかく、クビにならないまでも降格処分は覚悟しなくちゃなりません……。それで、つい──」
「死体を隠そうと思い付いた、ってわけか」
「そうです。──申しわけありません」
川本はすっかりしょげ切っている。
「しかしね、問題は殺人なら犯人がいる、ってことだ。それくらい分るだろ?」
「そう責めても気の毒よ」
と、夕子が言った。「でも、何か問題を起したとき、最悪の対処法はそれを隠すこと。それは身にしみたんじゃない?」
「全くです」
と、川本は額の汗を拭った。
「しかし妙だな」
と、私は首をかしげつつ、岡田の死体を覆《おお》った毛布をめくった。
「どうしたの?」
「確かに、死因は絞殺だろう。しかし、あの出血は? 岡田の体にはそれらしい傷は見当らないぞ。もし岡田の血でないとしたら、誰の血だったんだ?」
「見て」
夕子は、岡田の右腕を持ち上げると、上着の袖をまくり上げた。──白いワイシャツの袖口に黒ずんだしみが広がっている。
「これは血でしょ?」
「そうらしい」
私は、夕子の顔を見て、「すると──」
「岡田は何か刃物を身につけてたんだわ。そして、犯人が近付いて──たぶん後ろから首を絞めたとき、とっさに刃物で相手を刺したのよ」
「犯人の血か!」
「そう考えるのが自然でしょ。川本さん。誰が岡田を殺したのか、心当りはありません?」
「全くありませんよ」
と、川本はあわてて首を振った。「この男がそんな人間だったってことも知らなかったんですから」
「そして、岡田の死体を段ボールへ隠した……。どうするつもりだったんだ?」
「夜になって……運び出そうと思っていました。そしてどこか遠くへ捨ててしまえば、何も分らないだろう、と」
川本は首を振って、「ところが、死体を隠してから、床の血もきれいに拭き取るつもりでいたんですが、あの案内の久保君が、この男のことを気にして、見に来たのです。そして血だまりを見付けてしまった。そうなると放ってはおけません。久保君がちょうどちょっと前に案内したのが、刑事さんだったのを思い出し、その人を捜して来たのです」
それが原田で、原田は私と夕子を見かけたことを思い出した、というわけである。
しかし、原田の奴、デパートの売場を訊くのに、いちいち刑事だと名のったのか?
「──じゃ、ここにいて」
と、私は川本に言った。「今、鑑識の人間が来るから。そしたら、改めてゆっくり話を聞かせてもらう。いいですな」
「はい」
川本は、岡田に劣らず、死んだような顔をしていた……。
──私と夕子は、ガードマンの部屋を出た。
「本当のことを言っているようだな」
と、私は言った。「しかし、そうなると岡田を殺した人間がいる、ということになる」
「そうね」
夕子は肯いた。「分ってるような気がするけど」
「本当か?」
私は、いつもながら夕子の言葉にびっくりする役回りであった。
「──はい」
と、吉井めぐみは、電話を取った。「──もしもし? ──どなたですか?」
「俺だよ……」
少しかすれた男の声が、低く伝わって来る。
「え?」
「でかい声は出せねえんだ。──当然だろ。首を絞められちゃな……」
吉井めぐみは息をのんだ。
「──聞いてるかい」
と、男は言った。
「ええ……」
めぐみは、やっとの思いで言った。
「何とかしてもらわなくちゃな。病院へ行くったって、この傷の説明をさせられる。お前についてってほしいのさ」
「それは……」
「どうする?」
と、男は言った。
めぐみは、しばらく呼吸が平静に戻るのを待ってから、
「分りました」
と言った。
「よし。──じゃ、一緒に行って、医者に怪しまれないように説明してくれ」
「どうすれば?」
「今、あのデパートの近くの神社にいる」
「神社? ああ、分りました」
と、めぐみは肯いた。「三十分もあれば行けます」
「よし。その境内で待ってるからな。できるだけ急いで来い。いいな」
「ええ」
「待ってるぜ」
男はそう言って電話を切った。
めぐみは、そっと受話器を戻し、手の汗を拭くと、ゆっくり振り向いて言った。
「|あいつ《ヽヽヽ》からだわ」
神社といっても、都心にあると、完全に静かで人通りもゼロというわけにはいかない。
特に、境内を抜けると近道となることもあって、女性は遠慮してしまうが、帰りの遅くなった男性はよくこの中を抜けて行く。
めぐみは、コートのポケットに両手をしっかりと突っ込んで、足早に境内の中を進んで行った。──どこかでサイレンの音が聞こえる。
救急車かパトカーか。都会では、いつも何かが起っているものだ。
めぐみは、敷石に靴音をたてて歩いていた。
どうせ|向う《ヽヽ》は先に来て待っているのだ。こっそり入ったところで仕方ない。
少し湿った風。雨になるかもしれない。
境内の、広くなった辺りに来ると、めぐみは足を止めた。周囲を見回すが、人の姿は見えない。
といっても、やはり木立が多くて、その影の中へ入ってしまったら、全く分らないのである。おそらくあの男も、そこからこっちをうかがっているのだろう。
「──どこにいるの?」
と、めぐみは声をかけた。「出て来て。自分の方から呼んだんでしょう」
風に木々の枝がざわつく。──神社を出れば、真夜中でも車がひっきりなしに通っている。車の音は、境内にも絶えず入り込んで来ていた。
めぐみは、足を止めたまま、グルッと回ってみた。
すると──木立の間に何か動く物があり、目をこらすと、どうやら黒っぽいコートに手を包んだ男らしいと分る。
「──いたのね」
と、めぐみは言った。「病院へ行くんでしょ? 私も行くわよ。仕方なしにだけど」
男は何も言わない。
「口がきけないの? ──まあ、こっちもおしゃべりしたいわけじゃないけど」
と、めぐみは肩をすくめて、「正直……あんたを助けたいなんて思ってやしない。ただ|あの人《ヽヽヽ》のためだわ。あんたはどうせ捕まる身ですもんね」
男は、黙って身じろぎもしない。
「行きましょ──」
めぐみは、大股に男の方へ近寄って行く。
と──そこへ、
「危ない!」
と、鋭い声が飛んだ。「めぐみさん! 近寄ったら危ないわ!」
「山崎さん!」
めぐみは、山崎恵子がコートを肩からはおって駆けてくるのを見て、声を上げた。「何しに来たんですか!」
「気を付けて! 刃物を──」
と言いかけて、山崎恵子がよろける。
「山崎さん!」
めぐみが駆け寄る。
「刺される……。近寄っちゃいけない!」
と、くり返して、山崎恵子は、その場にしゃがみ込んでしまった。
「起きて来ちゃいけないって言ったのに!」
めぐみがかがみ込んで、「出血しますよ、また」
「私は……私はともかく、あなたまで……」
「そんなこと──。私は、ちゃんと承知してやってるんです」
「でも、もしものことがあったら──」
と、山崎恵子が言いかけて、呻き声を上げる。
「山崎さん!」
めぐみが、ハッと振り向くと、あの男がこっちへやって来るのが見えた。
「待って!」
と、めぐみは男の前に立ちはだかった。「この人に用なら、私が聞くわ」
「用があるのは、お二人に、です」
と、コートを脱いで、「ともかく、急いで山崎さんを病院へ運ぶことだ」
と、私は言った。
「──刑事さん」
「岡田は死にましたよ」
と、私は言った。「間違いなく、あなたが殺したんです」
山崎恵子は、顔を上げて、
「本当ですか?」
と言った。「でも、死体が──」
「川本課長が、責任を問われるのを恐れて隠したんですよ。──ああ、どうした?」
と、私は夕子がやって来るのを見て、言った。
「救急車が来てる。今、担架を持って来てくれるわ」
と、夕子は言った。
「そうか。今は傷の手当が先だ。山崎さん、話は後で」
私は、担架を手に駆けて来る救急隊員へ、
「こっちだ!」
と、呼びかけていた。
「じゃ、やっぱり」
と、夕子はコーヒーを飲みながら言った。
「そう。山崎恵子は岡田の母親だったんだ」
私は、喫茶店の明るく日射しの入る席で、夕子と向い合っていた。
「岡田は、古い知り合いから、母らしい女があのデパートに|いる《ヽヽ》と聞かされた。岡田は母のこととなるとまともじゃなくなってしまうんだ。で、『母がいる』というだけで、駆けつけてしまった」
「吉井めぐみが、岡田のことを知ってたのね」
「吉井めぐみの友人が、岡田に殺されてたんだ。山崎恵子は息子の犯行と知っていたので、それを聞いて、めぐみにやさしくしていたんだな」
「それで、岡田のことをどう通報したらいいか、山崎恵子の所へ相談しに行ったのね」
「二人で、岡田の所へ行く。山崎恵子は、吉井めぐみを外に待たせておいて──」
「岡田に近付く……。『お客様、ワイシャツの寸法を採らせていただけますか』ってね。岡田は愛想良く承知する。山崎恵子は『首回りを測ります』と|巻尺を《ヽヽヽ》岡田の首へ巻きつけて、ギュッと──。母として、自分の手で息子を死なせるべきだと思ったのね」
「ところが岡田はもがきながら、ナイフを手にして、山崎恵子を刺した」
「でも、力を緩めず、岡田は死ぬ。そこへ吉井めぐみが来てびっくり──」
「実は母親だったと知って、吉井めぐみは、山崎恵子を助けようとする。──何とか出血を止めたものの、制服は血で汚れてしまった」
「それで、自分が岡田に襲われたことにして裸になり、山崎恵子に制服を着せた、というわけね」
「しかし、そんな傷を負いながら、山崎恵子は我々と平然としゃべってたんだ。凄い女だよ」
と、私は言った。「しかし、あの火災警報は……」
「ホテルで気が付いたのよ」
と、夕子は言った。「お皿の汚れてるのを見てね。──あなたが、鑑識に血痕を調べさせると言ったでしょう。血液を調べれば、岡田のものでないことも分る。で、調べられる前に、|洗ってしまおう《ヽヽヽヽヽヽヽ》と思ったのよ」
「なるほどね。確かに洗い流されちまった」
「それに、岡田の死体が消えたのに吉井めぐみが気付いて知らせたので、山崎恵子は、もしかして岡田が死んでなかったんじゃないかと思ったのよ。だから、まだ捕まるわけにいかない、と……」
「そうだろうな」
私は肯いた。「ああいう息子にした責任が自分にもある、と、そう思ってたんだろうしな」
「どうして、山崎恵子が子供を置いて家を出たのか、分った?」
「ああ。結局、夫に女がいて、実際は追い出されたようなものだったらしい。幼い岡田には、その辺のことは分らなくて、母に捨てられたと信じ込んでいたようだ」
私は、ゆっくりとコーヒーを飲み干した。
「でも──回復しそう?」
「吉井めぐみが良く付添っているようだ。──岡田が死んでいると確かめられたら自首するつもりだったと言ってる。嘘じゃあるまい」
「大した刑にならないといいけど」
と、夕子は言って、「川本は?」
「クビにはならなかったようだ。一応口添えしてやったがね」
「やさしいのね」
と、夕子が言って、「恋人にも?」
「やさしくしてるだろ」
「態度で示してよね」
と、夕子はウインクした。
「何なら……今夜は少し早く出られそうなんだ」
と、私は咳払いして言った。
「そう? この間、ルームサービスで終っちゃったしね」
と言って、「あら。──この曲」
「え?」
喫茶店の中に、「ソルベイグの歌」が流れている。
「男なんて浮気だもんね」
と、夕子は澄んだソプラノに耳を傾けながら、「私だったら、何十年も男を待っちゃいないわ」
そしていたずらっぽく微笑むと、
「せいぜい今夜の八時頃までね」
と、言ったのだった……。
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第三話 危ない参観日
世の中には、色々「代理」というものがある。
「部長代理」「課長代理」なんて肩書もあるし、TVを見りゃ、「レコード何とか賞」を代理で受け取る奴もある。ちっとも嬉しくないだろうに、「ありがとうございます」なんて挨拶しなきゃならないのだから、大変だろう。
裁判にも代理人が出席したりすることはあるが、少なくとも私の仕事に関して言えば、「代理」ですませることはあまりない。──「殺人犯代理」とか「被害者代理」ってのはあまり聞かない。そりゃそうだろう。
「──何の代理ですって?」
と、永井夕子がチーズ一杯のオニオングラタンスープを少しずつ飲みながら言った。
「そのチーズの量を見ただけで、胸やけしてくる」
と、私は言った。
こっちはクリアなコンソメスープ。四十歳ともなると、いくら恋人同士とはいえ、女子大生と同じものを食べるというわけにはいかなくなるのである。
「父親の代理。気は進まないがね。仕方ないんだよ」
と、私は言った。
「へえ、誰かの赤ちゃんを引き取って育てるの?」
と、夕子はとんでもないことを言い出す。
「どうして僕がよその子を引き取って育てなきゃいけないんだ?」
「結構似合いそうよ。赤ん坊おぶって殺人犯を追う捜査一課のベテラン警部! マスコミで取り上げられるかも」
「その前にこっちの職を取り上げられるよ」
と、私は言った。「同期の奴が入院しててね。別に凶悪犯相手に格闘したわけじゃない。酔って階段を転り落ちて、骨折したってだけなんだがね」
夕子がふき出した。
「でも、人間くさくっていいじゃない。そういう刑事さんも必要よ」
「結婚が遅かったんで、子供が幼稚園なんだ。で、明日は親の参観日。必ず行くって子供と約束した手前、誰も行かないわけにはいかない」
「お母さんは?」
「働いてるんだ。お父さんが行くと思っていたんで、どうしても外せない仕事を入れちまったってわけさ」
私はスープ皿を空にして、息をつくと、「旨《うま》かった。──で、僕に代りに行ってくれないかって……。母親の方も、昔から知っててね。どうも断りにくいのさ」
「いいじゃない。たまには面白いかも、幼稚園でデートってのも」
スープ皿が下げられて、すぐ料理の皿が運ばれてくる。
「昼過ぎまでだから、午後はフルに使えるよ。この前みたいなことはないと思うし……」
「怪しいもんね」
と、夕子は微笑《ほほえ》んだ。
この小柄でチャーミングな女子大生と私が別に「不倫」の仲でも何でもなく、単なる男やもめと女子大生という「年齢的に|やや《ヽヽ》アンバランスな」恋人同士であることは、説明するまでもないと思う。刑事という仕事柄、私にとって「先の予定」を立てるのは極めてむずかしい。いや、たとえ休みを取ってもひとたび大事件が起ればデートの途中だろうと、お構いなしで呼び出される。
前回の夕子とのデートが正にそれで、今夜と同様のレストランで夕食、いささかワインで頬を上気させた色っぽい夕子をホテルのベッドへ運んで行った……までは良かったのだが、そこへ無情な呼出しのポケットベル。即刻、殺人現場へ駆けつけなくてはならなかったのだ。
もっとも、夕子の方は却《かえ》ってそうなると喜んでしまうという所があり、これにも困りものなのではあるが……。
「君、どうする?」
と、食事をしながら、私は訊いた。「参観が終るころ来るかい」
「あら、私も行くわよ」
私は目をパチクリさせて、
「君が、幼稚園の保育参観に来るのか?」
「構わないでしょ。あなた一人でボーッと突っ立ってるより、男女二人でいた方が自然」
「そりゃそうだけど……」
「何も『お母さん』って呼ばれようってんじゃないわ。親戚だって何だっていいじゃないの」
夕子がこう言い出したら、何を言ってもむだであることを、私は経験から承知していた。
「分ったよ。じゃ、ともかく、一緒に行こう」
「楽しそうね。私、子供って好きなのよ」
夕子は珍しくニコニコしている。「たまには生意気なのもいるけどね」
私はふと、夕子の幼稚園のころはどんな風だったのだろう、と考えた。きっと、とんでもなく生意気な子だったのではないか……。
「じゃ、ちょっと電話してくる」
と、私はナプキンで口を拭って、立ち上った。「一応返事をすると言っといたから」
私は、レストランの入口近くの公衆電話を使ってかけた。
「──もしもし」
「あ、宇野だけど」
「あら、どうも」
と、西沢洋子が持ち前の明るい声で言った。「どうかしら、明日? 大丈夫?」
「うん、行くよ。みどりちゃんにそう言っといてくれ」
「悪いわね。助かるわ! ──みどり、宇野のおじちゃんが明日、幼稚園へ行って下さるってよ。──え?」
西沢洋子が笑い出すのが聞こえた。
「どうしたんだい?」
「あのね、みどりが──できるだけお腹を引っ込ませて来てね、って」
私としては、単純に笑うというわけにはいかなかった……。
「そうそう。僕の──その、彼女《ヽヽ》が一緒に行くと言ってるんだ。構わないかな」
「まあ! もちろんよ。──わあ、残念、噂の宇野さんの恋人が見られないなんて」
「おいおい。そう冷やかさないでくれ」
と、苦笑する。「親戚、とでも言っとくよ、訊かれたら」
「そうね。お若いのよね」
「女子大生」
「ワァ! 負けるわ。宇野さんもしっかりね!」
何を「しっかり」すりゃいいんだか……。
「そうそう、宇野さん。みどりのクラスの受け持ちの先生、なかなか可愛いのよ」
「へえ」
「二十六、七かしら。武井|紀子《のりこ》先生っていうんだけど──。宇野さんなら気が付くかもね」
と、西沢洋子の声が少し抑え気味になる。
「気が付くって、何に?」
「武井先生、クラスの子の父親と不倫中って、専《もつぱ》らの噂なの」
「へえ……」
そりゃ、幼稚園の先生だって人間だ。恋に落ちることだってあるだろう。
「どの父親か、母親の間じゃ大変なの。もし、これ、っていうのに気が付いたら教えてね」
「分ったよ」
と、私は笑って言った。「じゃ、明日」
「よろしく、|お父さん《ヽヽヽヽ》」
と、西沢洋子はいたずらっぽく言ったのだった……。
「はい! それじゃ、お父様、お母様、ご自分の似顔絵を持って、お子さんの隣へ行って下さい!」
よく通る声だ。明るく、弾んで、子供ならずとも「はい!」と返事をしてしまいそうである。
しかし──「参観」というから、教室の後ろの方に立って、先生と子供たちが「お遊び」や「お勉強」をしているところを眺めていればいいのだとばかり思っていたのは、甘かったのである。
「親ごさんもご一緒に、一日を過していただきます」
若く、はつらつとして魅力的なその先生は、のっけからそう言って、やって来た親たちをのけぞらせた。
だが、みんな「我が子のため」となると弱い。──私など、困ってしまうのだが、
「仕方ないでしょ」
と、夕子につつかれて、ため息混りに肯《うなず》くしかなかった。
本来は「父親参観の日」で、日ごろ、子供の通っている幼稚園になかなか来る機会のない父親たちに、ここの様子を見てもらおうというのが趣旨だろう。ただ、「父親参観」とすると、父親のどうしても来られない子、それに離婚で母親しかいない子にとって不公平になるというので、単に「参観日」となっているのである。
──よく晴れ上って、園庭には光が溢《あふ》れている。教室は、二十人ほどの子供と、小柄ながら元気の塊のような武井先生、そしてやって来た父親母親で一杯だった。
私は、父親──もちろん西沢を描いた、みどりの絵を手にして、可愛い机のわきへ行った。
「じゃ、お父様、お母様はお子さんのわきにしゃがんで下さい」
と、先生が言った。
小さな机の間に、少々苦労してしゃがみ込む。──みどりが、
「ご苦労さま」
と、私に言ってウインクしてみせた。
全く、どっちの親に似たのか、面白い子なのである。それに少々こましゃくれていて可愛い。
「どういたしまして」
と、私は返事をした。
「じゃ、親ごさんは、ご自分の似顔絵を両手で持って下さい。──こう、絵の方を向うにして、そうです。そして、それを自分の顔の前に持って来て、絵で顔が隠れるようにして下さい」
お面でもつける感じだ。武井先生はポンと手を叩いて、
「はい、結構です。じゃ、一人ずつ、みんながお父さん、お母さんの名前を呼びましょう。そしたら、親ごさんは立って、後ろの皆さんに見えるように、絵を顔に当てて振り向いて下さい。それから絵をわきへやって、お顔を見せて下さい。さあ、誰のが一番似てるかな」
端の子から、立ち上って父親の名前を言う。すると、わきでしゃがんでいた父親が立って、顔をわが子の絵で隠して振り返る。それから絵を持った手を下ろすと、後ろで見ている母親たちや、他の子たちからワーッと拍手が起り、
「似てない!」
「そっくり!」
と、批評《ヽヽ》が飛ぶのである。
「──参ったね」
と、私はみどりに言った。「君のお父さんの絵だよ。おじさんにゃ似てない」
「いいよ。別にごほうびもらえるわけじゃないもん」
と、みどりはアッサリと言ったのである。
「──じゃ、西沢みどりちゃん」
と、武井先生が呼ぶと、みどりはパッと立ち上って、
「私のお父さん、西沢正幸です!」
と、はっきりした声で言う。
拍手の中で、私は立ち上り、仕方なく絵を顔に当てて後ろを向いた。きっと夕子が笑いをかみ殺しているに違いない。
そして絵をおろすと──まあ、似てるわけがない。西沢はがりがりにやせていて、私とは全然タイプが違うのだから。
何となく、みんな戸惑った様子。やはり、あまりに似てない、と思ったのだろう。すると、みどりが言った。
「お父さんも昔はやせてたって、お母さんがいつも言ってるので、お腹の出る前のお父さんをかきました!」
ドッと笑いが来て、拍手に包まれる。──やれやれ……。私は汗をふいて、夕子とそっと目を見交わし、元の通り、しゃがみ込んだ。
「はい、水島さつきちゃん」
隣の女の子である。みどりに比べると、少し大人びた感じの女の子だ。
「はい」
と、立ち上ると、「私のパパ、水島哲夫です」
ラフなセーター姿の中年男が、少し照れくさそうに立った。
「お父さんがいつも会社へ行くときの格好をかきました」
と、女の子が言う。
「そうね、きちっと背広にネクタイで、とってもすてき」
と、武井先生が言った。「よくかけてるわよ、さつきちゃん」
父親は絵をかかげていささか得意げに見せている。──確かに、うまい絵で、背広の柄だの、ネクタイの色まで、きちんとかけている。
当の水島という男は、絵の中より大分だらけた感じがした。私の印象では、勤め人というより遊び人のように思える。
しかし、子供の頭をなでてニコニコしているところは、心から嬉しそうだった……。
「──じゃ、次は……」
と、武井先生が言いかけて、「純子ちゃん、お父さん、少し遅れてるみたいね。もうちょっと待ちましょうか」
目のクリッとした、人形のように可愛い女の子だ。服装のせいもあるだろう。いかにも「お人形」のような服を着ていて、それがまた似合っているのである。
その子は、先生の言葉に何も答えなかった。黙ってちょっと目を伏せただけ。内気な子なのかもしれない。
「じゃ、次の……」
と、言いかけて武井先生は言葉を切った。
ガラッと教室の戸が開いて、中年の男性が一人、入って来たのである。急いで来たのか、息を弾《はず》ませている。
すると、「純子ちゃん」と呼ばれた人形のような女の子がパッと立ち上って、
「お父さん! 早く!」
と、手を振った。
「やあ。──遅れてすみません」
見るからにどこかの社長か重役という印象。スーツにネクタイも、その色合いといい、生地の感じといい、「超」の字のつく高級品だろう。
「どうぞ、倉田さん」
と、武井先生が言った。「純子ちゃんのかいた絵をお持ちになって下さい」
「お父さん、これ。──ちゃんとしゃがむんだよ」
「ああ、分った」
と、倉田という父親は笑ってしゃがんだ。
「純子がね、お父さんのこと紹介したら、立つんだからね。こうやって絵を持って」
「分ったよ」
と、肯く。「どうぞ進めて下さい」
「ちょうど純子ちゃんの番でしたの」
と、武井先生が言った。「じゃあ──純子ちゃん」
「はい!」
と、元気よく立ち上って、「私のお父さんです。倉田淳一です」
倉田は立ち上って、絵を顔に当てた。拍手が起る。──純子という子が、頬を赤くして喜んでいるのが、印象的だった。
「はい、とてもよく似ていますね」
と、先生が言った。「じゃあ、次は……」
私は、そっと夕子の方へ目をやった。夕子はこっちを見てはいなかった。なぜかむずかしい顔をして、母親たちの間に立ち、じっと武井先生を見つめているのだった……。
「おいおい!」
と、私は情ない声を出していた。「こんなはずじゃなかったぜ」
「仕方ないでしょ」
と、夕子は笑っている。
──参観はすぐに終ると思っていたのに、教室内でのお遊びがすむと、今度は外の運動。これにも、
「ぜひご参加下さい」
ということになってしまった。
帰る父親が大勢いたら、こっちも失礼しようと思ったのだが、何と一人も帰らない!
「今の父親は真面目だ」
と、園庭へ出て、まぶしい日射しに目を細くしながら、私は言った。
「あら、これで当然なのよ。こういうことを恥ずかしいとか思ってる方が、よほど不健康だわ」
と、夕子は言ってから、「──分った?」
「何が」
「あの先生の相手《ヽヽ》」
私は、園庭に白線を引いたり、小さな旗を持って駆け回っている武井紀子を眺めて、
「あの先生の? ──分るわけないじゃないか」
「そう? 男の目は節穴《ふしあな》ね」
と、夕子が肩をすくめる。「後からあの男性がやって来たときに、一瞬、あの先生の顔に浮んだ表情。あれだけで充分に分るわよ」
私は、教室から我が子と手をつないで出てくる親たちを見渡して、その中の一組──倉田淳一と純子を見付けた。
「あの──倉田?」
夕子が黙って肯く。
私は、じっと倉田淳一を見ていた。倉田の視線がどこを見ているか、観察したのである。
園庭には、若い女の先生たち七、八人が出て駆け回っている。倉田の目はその中の一人、武井紀子の動きにつれて、ぴったりと寄り添っている。
「なるほど」
「やっと分った?」
と、夕子が言った。「でも、あの父親、もう四十代も半ばでしょ。遅い子よね」
「うん……。確か、どこかの社長だろ。父母資料にそうあった」
──実らない恋か。
そういう目で見るせいか、武井紀子の姿にはどこかもの哀しいところが感じられるようだ。
「お待たせしました」
と、今度は男の声がした。「副園長の戸田です。皆さん、今日はご苦労様です」
三十歳そこそこか。坊っちゃんくささの残る青年である。トレーナー姿で、首に笛をぶら下げているのが、さまになっていない。
「この行事も毎年盛んになって参りまして、私どもも大変喜んでおります。お父様方には大変お忙しいのに、とても熱心にご参加いただき、本当に感謝いたしております……」
何とも場違いな演説を始めて、その場の雰囲気が白ける。武井紀子なども、はっきりいやな顔を見せていた。
「あれ、園長の息子なのよ」
と、夕子がそっと言った。「どこだかの営業マンやってたけど、お金使い込んでクビになったんですって」
「いかにもそんな風だな。でも、どうしてそんなこと知ってるんだ?」
「さっき、よそのお母さんに聞いたのよ」
全く、情報というものはたちまち広がるものである!
「本来、この幼稚園の精神は、健全な親子関係の育成を手助けするところにあります。そこの所は入園の際にも、園長よりよく説明があったかと思いますが──。あ、園長は現在、皆さんもご存知の通り、市会議員選挙に立つことになりまして、その準備に駆け回っております。皆さまにもぜひお力をお貸しいただいて……」
私のすぐ後ろで、
「何の宣伝?」
とグチっている母親がいて、私は吹き出しそうになってしまった。
どうやら、この戸田という副園長、さっぱり父母には人気がないようだ。
「戸田先生」
と、話の途切れたところで武井紀子が口を挟む。「皆様お忙しいので、早速始めたいんですが」
言葉はていねいだが、かなりきっぱりした言い方である。話を遮られた格好の戸田という男は、見た目にもはっきり分るほどムッとした様子だった。
しかし、父母の前でケンカもできないと思い直したのか、
「そうですね。では早速始めて下さい」
と、表面上は何とか愛想良く言って、退いた。
居並ぶ父母の間にホッとした空気が流れる。しかし、私はホッとしてなぞいられなかったのだ。
「では、お父様方、初めに『お馬さん』になって、お子さんを背中にのせて競走です!」
と、武井紀子が高らかに告げると、ワーッと子供たちは歓声を上げ、父親たちは一斉に青くなったのだった……。
「もう……だめだ」
私はヘナヘナとしゃがみ込んだ。
「何やってるの。みどりちゃん、そんなに重くないでしょうが」
夕子は他人事だと思って勝手なことを言っている。
「あのね……いくら軽いったって、五つの子だぜ」
教室の先、テラスになった場所にしゃがみ込んで少し休むと、息切れは治って来た。
「──しっかりしてよ。この後のデートは無理ね?」
と、夕子がわざと言い出す。
「大丈夫だよ。別に君を背中にのせて歩くわけじゃないからな」
ワーワー、キャーキャーとにぎやかなこと。今は母親たちが目かくしをして、子供の呼ぶ声を頼りに捜し物をするというゲームの最中である。
「あんまり張り切るからよ」
と、夕子も笑っている。
「だけど……『頼まれ父親』だからって、手を抜いたと思われるのもいやじゃないか。精一杯やんなきゃ、可哀そうだろ、あの子が」
私は「お馬さん」になって、大いに頑張った。そして、何と堂々の第一位!
みどりが感心して、
「お腹の出た馬でも速く走れるんだね」
と言ったのは少々気になったが……。
「そこがあなたらしいとこね」
と、夕子が楽しげに言った。「ね、手が汚れてるわ」
「そうだな。ちょっと洗って来よう」
私は、教室の中へ入った。
もちろん、今は教室は空っぽで、後ろの壁には子供たちのかいた、あの「お父さんの肖像」が貼ってある。
私は、教室の隅の洗面台で手を洗いながら、いつの日か夕子が自分の子供を幼稚園に入れ、教室の後ろに立って微笑みながら眺めている、そんな風景を目にすることがあるだろうか、と考えていた。
もっとも──肝心の父親は私ではないかもしれないけれど。
「何考えてるんだ、馬鹿め」
と、口の中で呟《つぶや》くと、ハンカチで手を拭く。「トシだな、俺も……」
そのとき、園庭とは反対側の廊下の方で、
「どういうつもりだ!」
という男の声が聞こえて来た。
かなり腹を立てている様子だが、どこかで聞いた声……。そうだ、さっきの「副園長」ではないか。
私は、廊下への出入口の戸を細く開け、そっと覗《のぞ》いてみた。
「親ごさんたちに聞こえます」
と、壁に背をつけて、低い声で言っているのは武井紀子だ。
表の方は他の先生たちが進めているのだろう。
「逃がさないぞ」
と、戸田は武井紀子の肩をつかんだ。「わざわざみんなの前で恥をかかせたな!」
「馬鹿なこと言わないで下さい」
と、武井紀子が言い返す。「後の予定が押してたから申し上げただけです」
「おい……。紀子。──どうして急に冷たくなったんだ?」
一転して、戸田は少々気味の悪い猫なで声になり、「前はあんなに大人しく付合ってくれてたじゃないか」
「やめて下さい」
キスされそうになって、武井紀子が顔をそむける。「こんなときに! ──それに、どうせ遊びじゃありませんか。奥さんと別れる気もないくせに!」
「そんなの初めから分ってたんだろ。すぐ喜んでホテルについて来たじゃないか」
「あれは──寂しかったんです。もうやめなきゃ、と決心したんです」
と、目を伏せる。「やめて下さい。もうおしまいです」
「じゃ、|あいつ《ヽヽヽ》なら遊びじゃないのか」
「何のことですか」
「分ってるんだ。評判になってるんだぞ。知らないっていうのか? 倉田淳一。──図星だろ?」
こういうことを言い当てたからといって、一矢《いつし》報いたと思うのは馬鹿である。これで相手が後悔したり、謝ったりすると思っているのだろうか。逆に反発されるのがオチである。
「あの人とは何もありません」
と、武井紀子は反発を|もろ《ヽヽ》に見せて言った。
「誰が信じる? 君たちが二人で夜遅く食事を取ったりしている所を、見られてるんだぞ」
「何もやましいことはありません」
と、武井紀子は言って、「もう戻らないと」
と行きかける彼女の腕を、戸田がつかむ。
「離して下さい」
「いいか、このまま引っ込んじゃいないからな」
と、戸田は脅すように、「君をクビにするぐらい、簡単なんだぞ」
「何ですって?」
戸田が歩いて行ってしまう。武井紀子は、一瞬、後を追おうとする素振りを見せたが、思い直した様子。
私は、戸を閉めて、急いで園庭へと戻った。
「──どうしたの?」
と、夕子が言った。「手を洗うのに、ずいぶん手間どったのね」
「ついでにちょっと立ち聞きして来てね」
「え?」
武井紀子が教室から出てくると、そばにいる私に気付き、
「あ、みどりちゃんのお父様ですね」
と、笑顔で言った。「凄かったですね。みどりちゃん大喜びでしたわ」
「どうも……」
と、いささか照れる。「あの──これは姪の永井夕子といいます」
「今日は」
と、夕子も愛想よく、「とっても楽しそう。私も将来子供ができたら、ここへ入れたいわ」
「そうですね……」
武井紀子は、ちょっと眉をくもらせて、「でも、ここもいつまでこういう雰囲気でいられるか……」
思いもかけず、暗い声である。夕子はチラッと私の方を見たのだった。
「──そういうことだったの」
と、夕子は私の「目撃談」に肯いた。「でもひどい奴ね、あの戸田って」
「全くな。わがまま男の典型だ。自分はちゃんと妻がいて、それでいて女にもてたい。厄介ごとはいやだが、女が他の男にひかれるのは許せない、というわけだ」
──園庭では、砂場を使って子供たちと何人かの親が「砂のお城」を作っているところだ。私は何とか引張り出されないですんだ。
「はい、お城が一つできました!」
と、先生の声が上り、ワーッと子供たちの歓声。
──ここまで来ても、ほとんど帰る親はいない。
あの倉田という男も、今は楽しげに上衣を脱いでよその母親に預け、ワイシャツを腕まくりして、砂の城作りに取り組んでいる。
「全く、みんなよくやるよ」
と、私は感心して言った。「これじゃ刑事は肩身が狭いや」
「充分広いわよ」
と、夕子が言った。
「どういう意味だ?」
「──やれやれ」
と、手を砂だらけにして戻って来たのは、私の次に絵を見せていた子の父親。
確か水島とかいった。
「動くと暑いですね」
と息をついて、「ちょっと手を洗って来ますよ」
「教室の後ろにありますよ」
と、私は教えてやった。
夕子は、倉田が娘と一緒に笑っているのを眺めていた。
「あの人も、武井先生のことを、果してどこまで大切に思ってるのか、よね」
「いくら心で思ってても同じだ。結局傷つけるしかない。それなら初めから手を出すべきじゃないね」
「そうね。でも、武井先生は自分でも覚悟の上でしょ。あの倉田って人となら分るけど、戸田じゃね」
と、夕子が肩をすくめる。
「そういえば、また武井先生の姿が見えないな」
と、園庭の中を見回す。
「そうね、ついさっきまで……」
と、夕子は肯いて教室の方へ目をやったが──。「ねえ! 見て!」
夕子の声にびっくりして振り向くと、さっき教室へ入って行った水島が、よろけながら出て来る。しかも、鼻血を出して、顔が血で汚れてひどい有様だ。
「どうしたんです?」
と、駆けつけると、
「誰かが……後ろから突きとばして──」
と言って水島は手で顔の下半分を隠した。
「ひどいな。ともかく横になって──」
「いや……。私はいいんです。中が……」
「中が?」
「倒れてます。誰かが……」
と、水島はやっとという感じで言った。
夕子が教室の中へ入って行く。
私はテラスのコンクリートの上に水島を座らせた。ハンカチを渡して、
「それで鼻の真中辺りをギュッと指で──。そうそう。しばらくそうやってると、止りますよ」
「どうも……」
声らしい声になっていない。
私が立ち上ると、夕子が出て来た。──私の見間違いでなければ、ただごとではない。
「どうした?」
「女の先生。──名前は知らないけど」
「倒れてるって?」
「それだけじゃないわ」
夕子は首を振った。「後頭部を殴られてる」
「何だって? 救急車を──」
「むだだと思う。死んでるわよ」
私は絶句した。
教室へ入って行こうとして、急に手をつかまれ、びっくりする。
「ね、次、一緒にやるんだよ、お父さん」
みどりが、私の手をつかんで言ったのだった。
「みどりちゃん」
と、夕子が言った。「武井先生は?」
「あそこにいるよ」
指さす方へ目をやると、確かに武井紀子が子供たちを並ばせている。
「呼んで来て。急いで。大切なご用ですって言って」
「うん」
みどりが駆けて行く。
「やれやれ……」
私はため息をついた。「こんな所で──」
「中を見て」
私は教室の中へ入った。
若い女性が、トレーナー姿で机の列の間に倒れている。確かに、うつぶせなので後頭部の損傷がもろに目に入る。救急車はむだだろう。
しかし、それだけではなかった。
教室の後ろの壁に貼ってあった、父親母親の似顔絵。あれがほとんどむしり取られて、床に散らばり、かつ引き裂かれていたのである。
「どういうことだ?」
「分らないわ。でも、ただ争っていて破ったってわけじゃないわね」
夕子は腕組みをして言った。
「ともかく、連絡だ」
と、私が言ったとき、
「何かご用ですか?」
と、武井紀子が入って来ると、「──まあ!」
まず床に散乱した絵を見て、息をのむ。
「どうしたんでしょう、これ?」
「それだけじゃないのです」
と、私は言って、わきへ退く。
倒れている同僚を見て、武井紀子の顔からサッと血の気がひいた。
「大丈夫ですか?」
倒れかかるのを、私はあわてて支えた。「──気絶したみたいだ」
「連絡は私がするわ」
夕子は急いで廊下へ出てかけ出して行く。
私が子供の机に武井紀子を座らせると、園庭ではワーッと子供たちの歓声がひときわ高く上ったのである。
「石川由利先生ですね」
私はメモを取った。「──お気の毒でしたね、全く」
武井紀子は、職員室の一画、ソファを置いた接客スペースで、まだ青ざめた顔ながらしっかりと背筋を伸して座っていた。
「殺人事件……なんですね」
と、武井紀子は言った。
「そういうことになります」
私は肯いて、「私は宇野喬一。西沢の同僚です」
「そうですか……。絵と似てらっしゃらないと思いました」
と、紀子は言った。「子供は親に『こうあってほしい』という気持を持っていて、それが絵になることもあります」
「すみませんね、名前をかたって」
と、私は言った。「悪気じゃなかったんですよ」
「そんなことは……」
と、口ごもって、「でも──どうして石川さんが……」
「妙なできごとです」
私は肯いた。「水島さんの話では、教室へ入って、絵が散らばっているのにびっくりして、それから石川先生が倒れているのに気が付いた。急いで駆け寄って──ああいう状態ですからね、ギョッとしていると、いきなり後ろから突きとばされた、ということです。残念ながら、犯人の姿は見ていません」
「ひどいわ……。何てひどい……」
と、首を振って、「──宇野さん、でしたかしら。お父様やお母様方、それに子供たちですけど、帰宅していただいてはいけませんか」
「お気持は分りますが、何分殺人事件です。何かを目撃された方もあるかもしれない。もう少し待って下さるようにお願いしたいのですが」
「分りました。では──私から、ご説明します」
「よろしく」
と、私は言った。
「──宇野さん」
と、床をメリメリ言わせながら、巨体の原田刑事がやってくる。「凶器を見付けましたよ」
「そうか」
私は立ち上った。武井紀子は教室へと歩いて行く。きびきびとして、もうショックを感じさせない。
「どこだ?」
「玄関わきの靴箱の裏です」
「玄関?」
私たちが行ってみると、床に置かれた足つきの重そうな灰皿に、鑑識の人間が粉をふりかけていた。
「これか」
「血と髪の毛がこびりついてます。犯人が逃げる途中、この裏へ放り込んでったんでしょうね」
と、原田は言った。
玄関から逃げた、か。──本当にそうなのだろうか。それとも外部の犯人と思わせるために、わざとここへ捨てたのか。
「よく足跡とか、捜してくれ」
と言って、中へ戻りかけると、
「何してるんだ?」
と、不機嫌な声がした。「何だ君たちは? 無断でこんな所に──」
あの副園長だ。
「戸田さんでしたね」
と、私は言った。
「そうですよ。あなたは──」
「さっきは父親《ヽヽ》でしたが、今は警視庁捜査一課の者です」
「警察? 一体何ごとです?」
「事件がありましてね」
「はあ……。しかし困りますね、勝手にこんなことをされちゃ。うちの評判というものが──」
「殺人事件ですのでね」
「だからって──。今、何とおっしゃいました?」
戸田はポカンとして、「殺人事件?」
「そうです。石川由利先生が何者かに殺されました」
「そんな……。この|中で《ヽヽ》ですか?」
戸田の言い方は、まるでここで殺されなきゃ構わない、とでも言っているようだった。
「あいにく、教室の中でです」
私の皮肉も通じないようで、
「そんなことが──。あの……」
「宇野といいます」
「宇野さんですね。あの、この事件、伏せといていただくわけに行きませんか」
「伏せる?」
「教室の中で先生が殺されたなんて……。それが知れたら、この幼稚園は潰れちまいますよ。ただでさえ子供の数が減って、今は大変なんです。何とかひとつ──」
「無茶を言わんで下さい」
と、私は呆れて、「殺人なんですよ。万引きやボヤとはわけが違う」
「そりゃそうでしょうが、子供たちのことを考えて下さい。いたいけな子供の純真な心のことを」
この男の口から出るセリフとしては、最低のものだったろう。私はよほど原田に言って、この男をつまみ出させてやろうかと思った。
「──宇野さん」
と、武井紀子がやって来た。「親ごさんたちには話をしました。──まあ、副園長、どこへいらしてたんですか?」
「どこだって? 用事だよ」
と、戸田は仏頂面になって、「忙しいんだよ、僕は。それより、僕がいない間、君がちゃんと責任持って気を付けてくれなきゃ困るじゃないか」
八つ当りである。
「すみません」
「親父はいないし……。ともかく、理事の方たちに連絡する」
戸田は急ぎ足で中へ入って行った。
「──呆れたな」
と、私は首を振って、「大変ですな、ああいう人の下で働くのは」
「どこでも、上に立つ人ってあんなものでしょう」
と、武井紀子はクールに言った。
「しかし──あなたはあの男とお付合いがあったようで」
「え?」
と、息をのむ。
「なに、さっき廊下で押し問答されてるのが耳に入っただけです」
「ああ……。そうでしたか」
と、頬を染め、「お恥ずかしいことです。私も寂しくて……。自分でこの道に一生を賭けて行こうという決心もつかない時期だったんですわ」
「今はもう迷いはない?」
武井紀子は、私の目を真直ぐ見て、
「はい」
と、言った。
「──武井先生」
と、やって来たのは、職員室の事務をやっている中年の女性。
「はい。何か?」
「あの……。実は今気が付いたんですけど」
と、口ごもって、「お金が……」
「お金?」
「給料日前で、ちょうど現金が金庫にあったんです。それが──なくなってます」
私は緊張した。現金が消えているとなると、話は変ってくる。
「いくらぐらいです?」
「はあ……。五百万円ほどですが」
「でも──金庫、閉ってたんでしょ?」
「そうです。今ももちろん」
「見せて下さい」
と、私は歩き出しながら言った。
「三つ事件があるわけね」
と、夕子が言った。
「石川由利が殺されたのが一つ。金が盗まれたのが一つ。──もう一つは?」
「あの絵が、散らばってたことよ」
「そうか。忘れるとこだった」
と、私は言った。「何しろ殺人に比べると大したことじゃないからな」
「そこが間違いよ。お金を盗む、人を殺す、それは何か理由があれば理解できる。でも、子供たちのかいた絵を破り取って、何の意味がある?」
「うむ……。確かに妙だな」
と、私は肯いた。「しかし、差し当って、これ以上子供と親たちを帰さないわけにいかないな。まあ、身許ははっきりしてるわけだから」
「本当のお父さんじゃない人もいたけどね」
と、夕子がからかうように言った。
職員室のドアが開いて、
「失礼します」
と入って来たのは水島である。
「やあ、どうです、具合は?」
「大丈夫です。鼻血も止りましたし」
と言いながら、まだタオルを顔に当てている。「あの──まだ引き上げちゃまずいんでしょうか」
「いや、今そのことでね……。武井先生が戻ったら、すぐ親ごさんたちにお話しに行きますよ」
「そうですか。ホッとしました。しかし──あの若い先生はお気の毒に」
「全くです。──細かい点とか、また改めてうかがうことになると思いますが」
「結構ですとも。お役に立てなくて申しわけも──」
と話しかけていると、またドアが開いて、
「よろしいですか」
と、入って来たのは倉田淳一だった。
「じゃ、私はこれで」
と、水島が出て行こうとする。
「何だ」
と、倉田が水島を見て、「君……。水島じゃないか」
水島はちょっと戸惑っている様子だったが、
「倉田さんですか。──いや、気が付かなくて」
と、目をパチクリさせている。
「おいおい、もう忘れたのか? 一年前まで上司だったのに。元気そうじゃないか」
と、倉田は笑顔になって、「ここに娘さんがいたのか。知らなかった」
「そうですね。いや、意外なところで」
「今どうしてるんだ」
と、倉田が訊くと、
「まあ、営業の仕事は色々ありますので」
と、水島は言って、軽く会釈し、「じゃ、失礼します」
と、出て行った。
「いや、どうもすみません」
と、倉田は一礼して、「よろしいでしょうか。──あなたが警部さんとうかがってびっくりしました。ソフトな印象の方なので」
「付添いがいいからです」
と、夕子が言った。
「そうかもしれませんな」
と、倉田は腰をおろし、「実は──お話ししておいた方が、と思いまして」
「武井先生とのことですか」
と、夕子が言ったので、倉田は目を丸くした。
「どうしてそれを──」
「分ります。私たちも恋人同士ですから」
夕子の言葉に、倉田は二度びっくりした様子だった。
「いや……。他の父母の間で噂になったらどうしようと心配していたんです。すると、気付かれていたんでしょうか」
「いや、他の人は知らないでしょう」
と、私は言った。「ただ、武井先生と、子供たちの父親の|誰か《ヽヽ》とが怪しいという話は広まっていますが、それが誰とは分っていないようです」
「そうですか」
「どうなさるんですか」
と、夕子が言った。「はっきりなさらないと、武井先生がお気の毒です」
「その通りです」
倉田は肯いた。「|とが《ヽヽ》は私にあります。妻がいながら、ついあの人と……。しかし、もう別れると決めて、話もしたのです」
「武井先生も納得を?」
「それは……スパッと割り切るわけにはいかないでしょうが、分ってくれています。──もし、他の人の口からお耳に入って、彼女が辛い思いをしては、と心配でお話しに来たのです」
「分りました。不必要に人のプライバシーを公表することはありませんよ」
「そううかがって安心しました」
と、倉田が立ち上りかける。
「倉田さん」
と、夕子が言った。「水島さんとはどういうお知り合いですか」
「え? ああ、私が社長をしている会社にいたのです。なかなかやり手でしたが、ちょっとトラブルがありましてね、一年ほど前に辞めて。しかし驚いたな。うちの子と同じ幼稚園とは知らなかった」
夕子は何やら考え込んでいた。倉田が、では、と出て行こうとすると、
「倉田さん」
と、呼び止める。
「何か?」
と、倉田が振り向いた。
「今日は会社からおいでになったんですか」
「そうですが……。それが何か?」
「いえ、何でもありません」
と、夕子は首を振った。
「──どうかしたのかい?」
と、私が訊くと、夕子は答えずに考え込んでいたが、
「ね、問題はやはり絵よ」
と言った。
「絵? あの、子供のかいた絵のことかい」
「そう……。全部集めてみて。みんなの分がちゃんと揃うかどうか」
夕子が何を考えているのか、私には見当もつかなかった。──いつものことだったが。
園長室で、戸田は電話をかけていた。
「──ああ、分ってる。何度も言ってるじゃないか。──うん、そうさ。これからのことを考えれば……。何だ?」
誰かがドアをノックしたのだ。
「私です」
武井紀子の声がした。
戸田は、急いで、
「またかける。──うん、分ってる」
と言って切ると、「入ってくれ」
と、椅子に座り直した。
「──失礼します」
紀子は中へ入ってドアを閉めた。
「あの刑事、帰ったか?」
「今、親ごさんたちを集めて説明をしていますわ」
「生意気な奴だ。税金で食ってるくせに」
と、戸田はふくれっつらで言って、「何だ? 君も文句でも言いに来たのか」
と、両足を机にのせた。
「いえ……。さっきはすみませんでした。つい──あんなことを言ってしまって」
「何だ、しおらしいじゃないか」
と、唇をひきつらせて、「どうせ俺は相手にするにゃ物足りないのさ」
「そんなことありません! 私……本当に好きだったんですもの」
と、目を伏せる。
「何が狙いだ? そんな話にゃのらないぞ」
紀子は、ちょっと息をつくと、
「──この幼稚園も大変だと思うんです。この事件で園児の数も減るでしょうし。そうなれば当然……先生も」
「まあ、そうだね、人件費を削るしかないものな、差し当って」
と、戸田は肩をすくめる。
「でも──私は残していただけますよね。これだけ働いて来たんです。キャリアも一番長いし……」
戸田はニヤッと笑った。
「その代り、給料も高い」
「でも──」
「まあ、そう心配するなよ」
戸田は机から足をおろして立ち上ると、机のわきを回って、紀子の方へ近付いた。
「僕は公平な人間さ。君が僕に肘鉄を食らわしたからって、クビにするようなことはしないよ」
と、なれなれしく紀子の肩に手をかける。
「ぜひ──」
「でもね、決めるのは理事会さ。僕がどう頑張っても、君を辞めさせろって声が強かったら、どうにもならない」
「そんな……。日ごろ見てらっしゃるのは、あなたじゃありませんか。私の仕事ぶりをちゃんと報告していただければ……」
「分ってるとも。君の期待には、ちゃんと応じようじゃないか」
紀子は、探るように戸田を見て、
「本当ですか?」
「その代り、君の方でもそれなりに僕の期待《ヽヽ》に報いてくれなくちゃね」
戸田の目が紀子の体をザッとなめ回すように見る。
「──よく分ってますわ」
「本当かい?」
「ええ……。以前だって、ちゃんとあなたの言う通りにしてたじゃありませんか」
「しかし、君の方が心変りしたんだぜ」
「仕方ないでしょ? あなたは奥さんもいるし……」
「今は構わないのか」
「もう、割り切れますわ」
「そうか」
戸田が紀子を抱き寄せる。紀子は軽く身をよじって、
「こんな所で……。人が来ます」
とは言ったが、そのままされるままに唇を合せた。
戸田は、いささか古ぼけたソファの上に紀子を押し倒すようにして──。
いきなり、紀子がパッと戸田を突き離した。
「おい──」
「これは何ですか」
紀子の手には、戸田のポケットから抜き取った紙があった。
「何するんだ! 返せ!」
顔を真赤にして、戸田は手を伸した。紀子がパッとドアを開ける。
「どうぞ、宇野さん」
私は、紀子と戸田の間へ割り込むようにして、
「一部始終、聞いてましたよ」
と言っておいて、紀子の手からその紙片を受け取る。「──なるほど。借用証ですか」
「おい、ひどいじゃないか!」
戸田は上ずった声で言った。
「金五百万円也、ね。何に使ったんです? 女か賭けごとか」
「大きなお世話だ」
と、戸田はそっぽを向いた。
「しかし、この金額と今日、この金庫から消えた額とが同じというのは、偶然とは思えませんね」
「そんな……。俺が泥棒だっていうのか!」
「白状した方がいい。このままだと、泥棒だけじゃなくて、殺人の方もそちらへ疑いがかかりますよ」
「そんな……」
「金を金庫から出そうとしているところを、石川先生に見られた。黙らそうとしたが、石川先生は走って行って人を呼ぼうとした。あんたは追いかけて、あの灰皿で石川先生の頭を一撃して……」
「違う! そんなことするもんか!」
「ちゃんと指紋が出てます。諦めるんですね」
「馬鹿言え! 金はとったけど、あの女を殴り殺したりしない!」
「なるほど。ちゃんと自白しましたね。金はとった、と」
戸田が青ざめ、よろけて、ドッとソファに腰を落とした。
「──いくら園長の息子でも、けじめというものが必要ですわ」
と、紀子は言った。「ここは一からやり直さなくてはならないでしょう」
私は、呆然としている戸田を残して、武井紀子と二人で園長室を出た。
「ご苦労様」
「いいえ。子供《ヽヽ》相手のお芝居は慣れていますの」
と、紀子は微笑した。
「問題は、これからだ」
「石川さんを殺したのは、あの人じゃないんでしょうか」
「そこは夕子の担当《ヽヽ》でしてね」
と、私は言った。
「あら、どうしたの?」
夕子が廊下をやってくる。
「自白したよ、あの副園長。殺しの方は知らないと言ってたが」
「そう。こっちもひと仕事すんだところよ」
と、夕子は言った。
私があの教室へ入って行くと、夕子は床に散らばっていた似顔絵を、ていねいに集め、机の上に並べて、ちぎれているものは合う紙片を見付けてつなぎ合せていた。
「風で飛ばさないでね、苦心の作よ」
と、夕子は言った。
「何か分ったのかい?」
「ええ。ここに揃えた分、壁に残っていた分、合せると、クラスの子全員に、一人分《ヽヽヽ》足りないの」
「足りない?」
「つまり、一人の子の絵だけ、持ち去られてるってことよ」
「誰だい?」
夕子が答える前に、園庭に出る戸がガラッと開いた。
「あら、さつきちゃん」
と、紀子が言った。「お忘れもの?」
もう、父母は子供たちを連れて帰宅していたのである。
「これ、お父さんが」
と、水島さつきが丸めた紙を差し出した。
「ありがとう」
「じゃ、さよなら」
と、手を振って、少女は駆け出して行く。
紀子は紙を広げた。──背広姿の水島の絵である。
「この絵がどうかしたのかな」
と、私は覗き込んだ。「──別に変ったところもないようだけど」
「そうでもないのよ」
と、夕子は言った。「さっき、倉田さんの上着を見てて、気が付いたの。えりについてる|会社のバッジ《ヽヽヽヽヽヽ》にね」
「バッジ?」
「その会社独特の図柄のね。さっき、倉田さんを見て、えりもとにきちっとバッジを付けてらっしゃるのが目に入ったの」
夕子は、水島の絵を指さして、「これにかいてあるのと|同じ《ヽヽ》バッジなのよ」
「そうだったか?」
「そう。さつきちゃんは絵が上手だから、ちゃんと正確にかいた。ところが、それがとんでもないことをひき起したのね」
夕子は、その絵を、水島さつきの机の上に置いた。
「──そうか」
私は肯いて、「水島は会社を辞めたことを、家族に言ってなかったんだな」
「おそらくね。──まさか娘の同じクラスに倉田さんの子がいるとは思わなかった。ここへ来て、娘のわきにしゃがんでいるとき、倉田さんがやって来た。水島は青くなったでしょう。もちろん倉田さんは水島に気付かなかった。何とか、うまくごまかせるかと思って……。でも、考え出すと心配でならない。園庭で遊んでいる間は、うまく倉田さんの目につかないように隠れていられる。でも、教室へ戻ったら?」
「この絵がある、か」
「顔は分らないでしょう。いくら似てても、子供の絵ですもの。でも、会社のバッジはこんなにはっきりかいてある。しかも目立つわ。金色でね」
「これに気付かれたら、と心配になったんだな」
「手を洗うふりして、教室へ入って来たけど、どうしたらいいのか分らない。壁から一枚だけ自分の子の絵をはがしてしまうのは簡単だけど、子供が妙に思うでしょう。迷っているところへ──」
夕子が言葉を切った。
教室の戸が開いて、水島が立っていたのである。
「──どうも」
と、軽く頭を下げて、「さつきの奴は今、家内に任せて来ました」
「水島さん、石川先生を……殺したんですか」
と、紀子が固い表情で訊いた。
「いや、私じゃありません! ──私は、今そちらのお嬢さんが言っておられたように、何とかさつきの絵を目立たないように外せないかと考えていたんです。すると廊下の方で騒ぎが……」
「騒ぎ?」
「たぶん、あなたが立ち聞きしたような、ね」
と、夕子が私の方を見て言った。
「そうか。戸田が石川由利に言い寄って──」
「金をとるのを見ていたんですね。で、戸田がおどしてました」
と、水島が肯く。「しゃべりゃクビだ、と。ついでに僕の言うなりになれば、ぜいたくに遊べるって……。石川先生が怒って戸田をひっぱたいたようでした」
「それで?」
「私は、見られてはいけないと思って──。何もしてたわけじゃないんですがね。つい、先生の机のかげに隠れましたが、いやというほど鼻をぶつけ、目が回りそうになりました。鼻血は出るし……。やっと立ち上ってみると……。石川先生が倒れてたんです」
水島は頭を振って、「すぐ助けを呼べば、あるいは……。でも、死んでいるとは思わなかったんです。気絶してるのかと思って。めまいがしていて、よく見なかったんです」
「分りますよ」
「ともかく今なら、絵が消えても同じ人間のやったことと思われるだろうと思って──。うちの子の絵をはがして折りたたみ、ポケットへ入れると、他の子たちの絵をどんどんはがして、破って床へばらまきました。うちの子のだけがなくなっていると気付かれないためには仕方なかったんです」
「でも、ひどいことですよ」
と、紀子が言った。
「ごもっともです。──後になって、何てことをしたんだろう、と……。後悔しています」
と、水島はうなだれた。
水島の中では、子供たちの絵を破ったことが、殺人と同じくらいひどいことと思えているのだ。それは悪いことではなかった。
「じゃ、戸田と石川先生が争ってたということを証言してくれますね」
と、私は言った。
「はあ。──家内にも、今失業中だと白状して来ました」
「何やってたんです、一年も?」
「パチンコです」
「パチンコ?」
「腕は相当なもんでして。景品を金にかえてあちこちで稼いでました」
「へえ」
夕子が呆れている。
「しかし、ちゃんとした仕事を見付けます」
と、水島は神妙な顔で言った。
「奥さんは何ておっしゃいました?」
と、紀子が訊く。
「笑ってました。しょうのない人だ、って。──あんなもんだと分ってりゃ、いちいちバッジ一つでこんな苦労しなかったんですけどね」
と、水島は苦笑した。
ホッとした表情である。やっと肩の荷がおりた、というところか。
すると、廊下の方で、ドタン、バタン、と音がして、原田が顔を出した。
「どうした?」
「何か逃げ出しかけてたんで、つい……。まずかったですか?」
原田がズルズルと引きずっているのは、のびている戸田だった。
「ちっともまずくないわ」
と、夕子が首を振って、「何なら、私も一発殴りたかったわ」
「私も」
と、紀子が言った。「でも、子供たちの手前やめときますわ」
「じゃ、もう一度じっくりとそいつの話を聞こうか」
と、私は原田に言った。
「水島さん」
と、紀子が言った。
「はあ」
「子供たちへの罪滅ぼしをして下さい」
「もう何でも! あの──パチンコでも教えましょうか」
「そんなことじゃなくて」
と、紀子は笑って、「絵のモデルになっていただきたいわ」
「モデル?」
「来週、大きなぬいぐるみに人が入って、狼とかカバさんとかをかくことにしてるんです。その中に入って下さい」
「はあ……」
と、水島が情ない顔で肯いた。
「体型からいって狼ですね。カバに入って下さる方、いないかしら」
夕子が、私の方へ目を向けてくる。
「おい、原田、あっちへ行こう!」
私はあわてて原田の背中を叩くと、その場を逃げ出したのだった……。
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第四話 小雨に濡れた殺人
「ハクション!」
派手なクシャミをしたのは、やはり年齢《とし》のせいか(?)、永井夕子ではなく、一緒に歩いている私の方だった。
「──大丈夫? 風邪ひかないでよ」
と、夕子が言った。
「好んでひこうってわけじゃないぜ」
と、私は言った。「小雨降る中のデートも悪くないって言い出したのは君の方だろ」
「まあね」
珍しく夕子が素直に認めたが、「傘忘れて来たのは誰よ」
ちゃんとやり返してくるところが夕子らしい。
梅雨でも、外を歩き回ることの多い刑事はたいてい傘を持って歩く。折りたたみといっても、以前は結構大きくて邪魔になったものだが、最近はコートのポケットへ入ってしまうくらい小さい傘があるので、ずいぶん楽になった。
いくら捜査一課の警部とはいえ、休みというものはある。梅雨の晴れ間で、夕方までは上天気だったのに、夕子と二人、食事をすませて外へ出てみると、この細かい雨。
コートを(ついでにポケットの傘も)忘れてきたと気付いたのはそのときで、上着のポケットには、昼間二人で入った美術展のクロークの〈預り札〉が空しく入っていたのである。
「プラスチックの札じゃ、傘の代りにはならないわね」
という夕子の皮肉にもめげず、
「ま、大した雨じゃないよ」
と、強がって見せ、夕子も、
「そうね。小雨に煙る並木道を、身を寄せ合って歩くなんてのもロマンチックか」
と、言ってくれて……。
しかし、やはりそういう場面はスクリーンやブラウン管の中でだけロマンチックだということに、二人で気付くのに時間はかからなかったのである。
「ハクション!」
と、私はまたクシャミをした。「参ったな」
「これじゃ、二人で熱出して寝込むわね」
と、夕子は言った。「私はいいけど、あなた、困るでしょ」
「君だってよかない。──ともかく、どこか雨宿りできる所……。タクシー来ないかな」
夜、八時過ぎ。人通りのほとんどない並木道。車はごくたまに通るだけ。
きれいな星空でも広がっていれば、いい場所なのだろうが、ま、現実はそううまく行かないものなのである。
「せめて木の下へ入ろう。少しは違うよ」
と、私は言った。
「でも、こんな雨、止まないわよ」
「ここにいろ。何とかタクシー捜して、連れてくる」
「だけど……」
夕子が木の幹にもたれて、「──いいわよ」
「いいって?」
「これもまた楽し。ね、ぴったりくっついてれば、暖まる」
夕子が両手を私の首の後ろへ回して引き寄せる。──私たちはスクリーンの美男美女(ちょっと無理はあったが)よろしく、小雨のヴェールの中でキスシーンを演じていた……。
咳払いの音で、私と夕子はパッと離れる。
「お邪魔して、ごめんなさい」
いつの間に来たのか、十三、四と見える女の子が、赤い傘をさして立っている。白いブラウスにチェック柄のスカート。目のクリッとした、可愛い子である。
「あなた、何してるの?」
と、夕子が訊くと、
「ママがね、呼んでらっしゃいって」
と、少女は言った。「二人で濡れて可哀そうだから」
「どうもありがとう」
と、夕子は礼を言って、「でも──どうして私たちのこと……」
「そこから見えるの」
少女が指さす方へ目をやると、雨に気を取られていて気付かなかったが、高い塀の向うにどっしりとした邸宅の明りが覗《のぞ》いている。
「そこ、あなたのおうち?」
「うん。ママと二人で住んでるの。どうぞ、おいで下さい、って」
利発そうな少女である。
私と夕子は顔を見合せた。──見ず知らずのうちで「雨宿り」というのは少々図々しいようにも思えたが……。
「ハクション!」
また私がクシャミをして、それが答えのようなものだった。
「──すっかりご厄介かけて」
私は恐縮して言った。
「いいえ」
と、その女性はにこやかに微笑《ほほえ》んで、「困っていらっしゃる方をお助けするのは当り前ですわ」
──ゆったりとした居間に、私はいた。
その女性──あの少女の母親だ──は、山里有紀子と名のった。
私は大理石貼りの豪華なバスルームでゆったりとお湯につかり、冷えた体は充分にあたたまっていた。そして着ていたものは乾かしていてくれ、その間、私はいささか「重い」と感じるほどの分厚いバスローブを身にまとっていた。
「お風邪をめさないとよろしいですけど」
と、山里有紀子は言った。
「いや、大丈夫です。あの立派な風呂に入れていただければ」
今、夕子が入浴中である。
「ずいぶんお若いですね、あの夕子さんという方。おいくつ?」
「は……。まあ──大学生です」
「そうでしょうね。ちょっとびっくりしましたわ。──あの、こんなことをうかがっては失礼かもしれませんけど」
と、山里有紀子は言った。「奥様がいらっしゃるんですか?」
私は少し戸惑ったが、
「ああ、いや──。私は男やもめで。あの夕子とは一応恋人同士という仲です。まあ、その内振られると覚悟してはいますが」
「そうですか」
と、山里有紀子はホッとしたように笑った。
たぶん四十前後か。色白な、ふっくらとした美人である。
「ママ、持って来た」
さっきの少女が盆にワインをのせて居間へ入って来た。
「ご苦労様。──娘は小百合といいます」
「やあ、僕は宇野喬一だ」
「今晩は」
と、小百合は改めて挨拶すると、「あのお姉ちゃんとは、不倫《ヽヽ》なの?」
「小百合」
と、山里有紀子が苦笑する。「失礼なこと言わないの」
「でも……」
「恋人同士。どっちも独身よ」
夕子が、居間の入口に立っていた。「これで納得していただけた?」
「どうぞ、ワインでも。体を中から暖めて下さい」
「どうも」
夕子は、ほてった顔で息をついた。「──ここにお二人で?」
「ええ」
と、山里有紀子は肯《うなず》いた。「夫は、行方不明になってしまったんです」
「行方不明……。どこか旅先ででも?」
「いいえ、この家の前でです」
と、山里有紀子は言った。「もう十年たちます。法律的には私は未亡人で……。でも、夫が死んだとはどうしても思えないものですから」
「今は行方をくらます人が毎年何万人もいるんですよ」
と、私は言った。
夕子がチラッとこっちを見る。刑事だと気付かれないように、というわけだ。こっちも分っている。夕子はこの「未亡人」に興味を持っているのである。
「不思議なことなんです」
と、山里有紀子は言った。「その夜もこんな小雨が降っていました。私と夫は車で出かけて──いえ、小百合も一緒でしたが、まだ四つでしたから、夜の十時を回って、もう車の中で眠っていました」
小百合は、ソファに座って、話を聞いている。
「車を門の前に停め、門を開けようとして、私が車を降りかけると、夫が『雨に濡れるから、僕がやる』と言い出しました。私は助手席から運転席へ移って、夫が門を開けるのを待ちました。ここの門は、古いものですから電動とかにすることができないんです」
「で、ご主人は車を降りられたんですね」
「ええ。少し手間どっているので、どうしたんだろうと思っていると、門が開きました。私は車を動かして、中へ入れ、ともかく玄関の前へ着けました。ひさしが出ているので、濡れることはありません。後ろの座席で眠っていた小百合を中へ運んで、夫が来るのを待ちました。ところが──」
と、山里有紀子は軽く息をついて、「いつまでたっても、夫がやって来ません。私は傘を持って、門の所まで行きました」
ゆっくりと首を振って、
「門は開いたままでした。夫の姿はなく、いくら呼んでも、返事がありません。──それきり、夫は消えてしまったんです」
夕子と私は顔を見合せた。──夕子の目がキラッと光るのを、私は見ていた。
「ご主人が自分からいなくなるような理由はなかったんですか?」
と、夕子は訊いた。
「色々調べましたわ、もちろん。警察へも届けましたし。でも──姿を消さなくてはいけないほどのことは、何も見付からなかったんです」
と、山里有紀子は言った。「もし──夫が生きていたら。そう思うと、他の男性とお付合いする気にもなれず……」
小百合がふと立ち上って、母親の方へ歩み寄ると、
「ママ」
と、肩に手をかけた。「私に気をつかってるのなら、いいんだよ。新しいお父さんができても、ぐれたりしないから」
山里有紀子がちょっと笑った。
「あんたは、そんなことに気をつかわなくてもいいの」
と、娘の手を取る。「あら、もうお召しものは乾いているかしら。小百合、見て来てちょうだい」
「うん」
小百合が足早に出て行こうとして──ちょうど電話が鳴り出した。
「私、出る」
と、小百合が歩み寄って、「──はい。もしもし?──どちら様ですか。──え? あの──」
小百合は……ポカンとした様子で、受話器を握って突っ立っている。
「どうしたの?」
と、有紀子が訊く。「どなたから?」
「ママ……」
と、小百合は受話器を持ったまま、「切れちゃったけど──男の人」
「男の人? 何だっていうの?」
「あのね……。『お父さんだよ。もうじき帰るからね』って……」
山里有紀子も夕子も私も、しばらく動くのを忘れてしまったようだった。
小百合だけが、ゆっくりと受話器をフックへ戻し、チーンという音が居間の静けさの中へじわりと広がって行った……。
「見付けたよ」
と、私はレストランのテーブルにつくと、言った。「──これだ」
封筒から折りたたんだ紙を取り出し、夕子へ渡す。夕子は早速それを広げて、
「山里征人……。当時三十四歳か。今は四十四歳ね、もし生きていれば」
「うん。──あ、僕はランチ」
「私も」
と、夕子は顔も上げずに注文して、「あの屋敷とか、奥さんと娘さんが充分食べていけるだけの財産はどうして作ったの?」
「もともと資産家の出なんだ。亭主の方がね。親から株だの債券だのを山と受け継いでる。その配当で、充分やっていけたんだよ」
「へえ。いいご身分、と言いたいけど、退屈で死んじゃうな、私なら」
「君ならね」
「何よ」
と、夕子はチラッと私をにらんで、それから笑った。「──ま、殺人事件でも適当に起ってくれなきゃね」
「問題の山里征人だ」
私は、ポケットから写真を取り出した。
「へえ。──どこで手に入れたの?」
「あの奥さんが届を出したときの資料さ。コピーしたんだ」
夕子は、写真を見た。
「──いい男ね。もてそう」
「女関係、という点ももちろん洗ってある。しかし、行方をくらますほどの仲だった女はいない、という結果が出てる」
「興信所でしょ?」
「うん。しかし、僕もよく知ってる所だからね。そういい加減じゃないと思う」
「男と女、どれくらいの仲かなんて、いくら他人に訊いて回っても、分らないわよ」
「じゃ、やっぱり女か? しかし、山里は姿を消すとき、一切現金も貯金も持ち出していない」
「なるほどね」
夕子は肯いて、「じゃあ……逆に、夫の財産、妻に恋人ってパターンは?」
「あの有紀子が夫を殺したとでも?」
「その方が理屈に合うでしょ? あの奥さん、夫の財産をほとんどそっくり引き継いだわけでしょ」
「うむ……。だが、もし殺されたとして、死体はどこにある? 門の前で急に消えたなんて……」
「それは有紀子さんの話だけよ」
「つまり……どこか別の場所で殺されたというのかい?」
「可能性はあるでしょ」
「しかし、あの小百合って子がいたんだよ」
「子供ですもの。少し薬でものませておけば、目を覚ますこと、ないわよ」
と、夕子が言うと、
「ううん。違うよ」
と、声がした。
「あら」
夕子が目を丸くする。「噂をすれば」
山里小百合がレストランへ入って来たのである。そして真直ぐに我々のテーブルへやってくる。
「今日は」
「やあ。この間はありがとう」
「どういたしまして」
小百合はおしゃまに言って、「風邪、ひかなかった?」
「うん、大丈夫だったよ」
「ちょっと、小百合ちゃん、私には訊いてくれないの?」
と、夕子が口を挟むと、
「だって、お姉ちゃんは風邪なんかひきそうもなかったよ」
さしもの名探偵もかたなしである。
「ママがね、ご用ですって。ぜひって」
「そうか。──じゃ、今夜でもうかがうよ」
と、私は言って、「しかし、ここにいるって、よく分ったね」
「捜査一課に電話したら、原田さんって人が教えてくれたよ」
「へえ。何も言って来なかったのにな」
「宇野さんは夕子さんと会うとき、多少は見栄張るから、きっとここだよ、って」
原田の奴! ただじゃおかない!
「小百合ちゃん。あの後、お電話とかあった?」
と、夕子が訊く。
「たぶん」
と、少女は肯いて、「でも、ママ、いつもコードレスの電話をそばに置いて、自分で出てるの。だから、私、聞いていないけど、ママの様子見てると、たぶん……」
「そう」
と、夕子は言って、「小百合ちゃん。さっき『違うよ』って言ったでしょ? あれはどういう意味?」
「十年前のこと、憶えてるもん」
「あの夜のこと?」
「うん。私、起きてたの。横になってはいたけど。──ママの言った通り、パパが車から出て、門を開けたんだ」
「間違いなく?」
「うん」
小百合はためらいもなく肯いた。
「ありがとう。助かるわ」
と、夕子は小百合に微笑みかけて、「──もう一つ教えてくれる? ママは、パパからっていう電話を取って、嬉しそう?」
小百合も、この問いには返事をためらったが、
「きっと……嬉しくないと思うよ。とっても心配そうっていうか、怖がってるっていうか──」
小百合の目は鋭い。確かにその通りなのだろう。
「じゃあね」
学校帰りなのだろう、小百合は鞄を手に足早にレストランを出て行った。
「あ、忘れた」
と、夕子が言った。「今のご招待は、あなただけ? それとも私も、かしら」
「どっちだって、行くんだろ」
「もちろんよ」
夕子もたまには非論理的なことを言い出すのである……。
夕子と二人、あの屋敷へ訪ねて行ってみる。
もう夜だ。しかし、有紀子は私たちをよほど待っていたとみえる。
「宇野さん! ──永井さんも、すみません、わざわざ」
と、玄関まで出て来て迎えてくれる。
「いや、そんなことはいいんです。この前、散々お世話になっているんですから」
と、私は上り込んで言った。「何かあったんですか?」
居間へ入ると、有紀子は、ひどく落ちつかない様子で、
「この間──憶えていらっしゃいますわね、ここへかかって来た電話」
「ええ。──あの後もかかって来てるんですね?」
「宇野さんが刑事さんとお聞きしたので……。どう考えていいものか、分らないんです」
有紀子はソファにくたびれた様子で座った。
「つまり、その電話の内容が──」
「私を殺してやると言うんです」
と、有紀子は言った。
私と夕子は顔を見合せた。
「正確には、『俺は帰って来たぞ。お前のことを生かしちゃおかないからな』と、こう言うんです。もう四回もかかって来ています」
と、有紀子は言った。
「『生かしちゃおかない』って──。何か、そんなに憎まれる心当りでもあるんですか」
と、夕子が訊く。
有紀子は、一瞬ためらって、
「いいえ」
と、首を振った。
|何か《ヽヽ》あるのだ。私にも夕子にも、それは分った。しかし、だからといって、本当に有紀子が殺される可能性があるとしたら、それを防がなくてはならない。
「奥さん」
と、私は仕事《ヽヽ》の顔になって、「その電話の声は、確かにご主人でしたか?」
「それは……分りません」
と、有紀子がため息をつく。「もう十年も前のことです。それに電話の声は、わざと押し殺したしゃべり方をしていますし、夫の声だとは言い切れません」
「それは分ります」
と、私は肯いて、「しかし、いたずらにしては手がこんでいる。用心に越したことはないでしょう」
「それでおいでいただいたんですの」
と、有紀子は言った。「ゆうべ、電話があったんです。いつものように、『お前のことは許せない。殺してやる』と言ってから、『明日の夜、迎えに行くからな。仕度して待ってろ。あの世までは遠いぞ』と、付け加えて切れたんです」
「つまり今夜──ですか」
「それで、ご迷惑とは思ったんですけど、こうして……」
有紀子は、居間の入口に、小百合が立っているのに気付いた。「小百合。聞いてたの?」
「うん」
「もう寝なさい。あなたには関係ないことだもの」
「いやよ」
と、小百合はムッとした様子で、「ママが死んだら、私だって困るわ。一緒にいた方が安全でしょ、何があっても」
「それはそうだけど……」
「奥さん、みんな一緒にここにいることにしましょう」
と、夕子が言った。「小百合ちゃんは眠くなったらソファで眠ればいいし。この広い屋敷の二階で、一人で寝かせておくのは却《かえ》って心配です」
「そうよ、そうよ」
と、小百合が加わったので、有紀子も笑い出してしまった。
「分ったわ。それじゃ、ここにいらっしゃい」
「やった!」
と、小百合がニッコリ笑う。
いささか重苦しくなりかけていた空気が、明るさを取り戻したようだった。
そのとき、チャイムの音が響いて、誰もが一瞬ギクリとする。夕子一人が平気な顔で、
「たぶん、誰だか分ってるわ」
と言った。
「──何だ、お前、どうしてここへ?」
私は、有紀子に案内されて入って来た原田の巨体を見て目を丸くしたが、もちろん答えは聞かずとも分っている。夕子が呼んだのだ。
しかし、こんな夜である。原田がいれば心強いことは事実だった。
「昼間、電話に出てくれたおじさんね」
と、小百合が言った。
「やあ、君か、かけて来たのは。──凄いうちだね」
「原田、腹の方は大丈夫か」
と、私が訊くと、原田はしばし考え込んで、
「──確か、夕飯は一回《ヽヽ》食べたと思うんですけどね。その割には、まだ入りそうだな」
考えなきゃ分らない、というのが原田らしいところである。
有紀子が、キッチンへ行って、ハムとパンでサンドイッチを作ってくれた。原田は幸せそのものという表情。
「──で、宇野さん、何が起きそうなんですか?」
「ママが殺されるかもしれないの」
と、小百合が言った。
原田が目をむいて、
「こんなサンドイッチを作れる人を死なせてたまるか! 任せときな、ちゃんとママを守ってやるからね」
「うん!」
小百合は、原田の、いかにも頼りがいのありそうな体格が気に入ったようだ。
「──あら、誰かしら、また」
「私、出る」
小百合が駆けて行き、じき戻ってくると、「──ママ、芝田さん」
「まあ」
有紀子がうろたえている。「どうしようかしら……。ともかく上っていただいて……。宇野さん!」
と、突然私の方へ駆け寄ってくる。
「何です?」
「すみませんけど、本当に。──今だけで結構なんです、私の恋人《ヽヽ》になって下さい」
「はあ?」
面食らっていると、
「失礼」
と、男が一人、居間へ顔を出す。「有紀子さん。──お客だったんだね」
三十代の半ばだろうか、すらりとして、一見モデルでもしているのかというスタイル。背広にネクタイという格好でも、「サラリーマン」には見えない。
「あの……芝田僚さんです」
と、有紀子が言って、我々のことを紹介した。
夕子は、いつもの通り、私の姪ということで自己紹介した。
「僕の来た用件は分ってるだろ?」
と、芝田という男は言った。「もう一か月だよ。君の返事を聞きたい」
「芝田さん、今は……」
と、有紀子が口ごもる。
「いいじゃないか。証人になる人がいてくれると思えば」
「でも──私──」
夕子が私の方をつついた。どうしろっていうんだ、全く!
私は咳払いして、
「芝田さんとおっしゃいましたか」
「はあ」
「今のご様子では、こちらの有紀子さんにプロポーズしておられる?」
「そうですとも」
「それは偶然ですね! 私もなんですよ」
芝田は目をパチクリさせて、
「私も……。私も、ですって?」
「そうです。どうやら我々は恋敵というやつらしいですな」
芝田の顔がこわばった。──有紀子の方を向くと、
「有紀子さん。──本当なのか、それは」
「ええ……」
「君は──この男の方を愛してるのか! こんな、中年の、腹の出て足の短い平凡な男を!」
私は、この芝田という男をぶん殴ってやろうかと思った。しかし、聞いていた夕子が必死で笑いをかみ殺しているのを見ると、本気で怒るのも大人げないような気がして来た。
「ともかく、芝田さん、今夜は帰って」
と、有紀子が言った。
「しかし──。このでかい奴は何だい?」
と、芝田は原田に気付いて、「君のとこで飼ってるのか?」
相手が悪かった。──原田が芝田を後ろからぐっとつかんで持ち上げる。
「おい! 放せ! 何するんだ!」
と、あわてて手足をバタつかせている。
「宇野さん。どこへ捨てます?」
「生ゴミだな。それとも粗大ゴミか」
「どっちですかね。ま、ポリバケツへ放り込んどけば」
見ていた小百合が笑い転げている。
「おい! 放せ! ただじゃおかないぞ、こいつ!」
と、芝田も口だけは達者だ。
すると──また玄関のチャイムが鳴ったのである。
「今度こそ、かな」
と、私は言った。「奥さん」
「はい、出ますわ」
と、有紀子が居間を出て行く。
原田がポイと芝田を放り出して、
「押売りでも来たんですか?」
と言った。
芝田が、床の上で腰を押えて呻いている。
「──今夜はどうしたのかしら」
と、有紀子が戻って来て、言った。「主人の妹です」
「石浜和恵です」
と、その女は言った。「──ずいぶん大勢いるのね、人が」
「和恵さん」
と、有紀子が言った。「どうしてこんな時間に?」
「だって──」
と、キョトンとして、「あなたでしょ、来てくれって連絡して来たのは」
「私が? いいえ」
「あら。──じゃ、誰なの?」
石浜和恵は、見たところ、いかにも派手な女である。有紀子が、地味でも本当にいいものを身につけているのとは対照的に、けばけばしいだけの安物で身を包んでいる感じだ。年齢はたぶん、有紀子とそう変らないだろう。
「あら、あなた芝田さんでしょ。一度、会ったことがあるわよね」
と、石浜和恵は芝田に気付いて話しかけた。「また有紀子さんを口説《くど》きに来てるの?」
「どうやら、ライバル出現でね」
と、芝田が面白くもなさそうな顔で言う。
「まあ。じゃ、有紀子さん、恋人ができたの?」
「和恵さん──」
「いえ、構わないのよ。兄も、もう行方をくらまして十年ですものね。あなたが別の人と愛し合うようになっても仕方がないでしょ」
と、和恵はいやにもの分りがいい。
もちろん、夕子も私も気付いている。和恵が金に困っているらしいこと。そして、兄の財産を、有紀子が一人で継いでいることを、面白く思わないはずがないということも……。
「そうじゃないのよ」
と、有紀子は言った。「ともかく……今夜、帰ってくるって電話があったの」
「帰ってくる? 誰が?」
「征人さんよ」
和恵はポカンとして、
「嘘でしょ」
と言った。
「それを聞いて、来たんじゃないのね?」
「そんなこと……。だって兄はもう──。生きてたの、それじゃ?」
「分らない。ともかく、妙な電話だけが何度かかかって来てるの」
「では──今夜、ここへ? まさか幽霊じゃないわよね」
「私も見てないから、知らないわ」
と、有紀子は言った。「辛いわね。どこかで征人さんが見てるかと思うと、何もできない。恋人作りも命がけよ」
「でも──今夜? 本当に今夜?」
「たぶん……。でも、何か恐ろしいことが起りそうなの。そんな気がする……」
と、有紀子は言って、小百合も雰囲気を察しているのだろう、眠気は一向に訪れないようだった……。
「──ピザが来たわ」
と、有紀子が居間へ顔を出して、「小百合、ちょっと手伝って」
「はあい」
と、小百合が元気に居間を出て行く。
「──妙なことになって」
と言ったのは、石浜和恵である。「夜食を食べに来たわけじゃないのに」
「全くね」
と、ふくれっつらなのは芝田である。
まだ腰が痛むのか、しきりに顔をしかめていた。もちろん、原田がそばにいるので、文句をつける気はないらしいが。
「──どうなるんだ?」
私は夕子へそっと囁《ささや》いた。
「さあ……。確かなことは、あの奥さんにも何か秘密があるっていうこと」
夕子も小声で答える。
「しかし、十年間も夫が行方不明のままだったら、男の一人や二人いてもおかしくないだろう?」
「もちろんよ。でも、もしそれが『秘密』なら、こんな風に|夫に殺される《ヽヽヽヽヽヽ》なんてことを心配するはずがないわ」
「なるほど。それはそうだ。すると──夫がいなくなったことにも係わってると考えた方が自然かな」
「そう。でも、夫が死んだかどうかは知らなかった、というところかしら。その場合、問題はどうして十年間も、夫が黙っていたのかってことよ」
「ふむ……。十年間か。その期間の長さに、何か意味がありそうだな」
と、私は肯いた。
「それと──石浜和恵がここへ来たのは、本当に誰かに呼び出されたからなのかどうか」
夕子は、興味津々という様子で、「もうじき十二時ね。今夜は夜明しになるかも」
「そう面白がるなよ」
と、私は苦笑いした。
「──お待ち遠さま」
小百合が宅配のピザの箱をかかえて入って来た。チーズのこげた匂いが居間に広がる。
「おいしそう! 熱いうちにいただくわ」
と、和恵が言った。
「僕ももらうよ。夕飯、まともに食ってないんだ」
と、芝田が半ばやけ気味に言った。
「私もちょうだいします」
原田が張り切って、指をポキポキ鳴らしたので、芝田がまたギクリとした。
まあともかく──妙な具合ではあったが、「真夜中のピザパーティ」ということになったのである。
「──主人は不動産の仕事をしてますの」
と、和恵が言った。「この不景気でしょ、もう大変。何でも金になることならやる、って言うから、言ってやったの。『じゃ、生命保険に入って、私にお金を遺すように死んでよ』って。結構本気にして、渋い顔してたわ」
和恵が言ったら本気に取られるかもしれない、と私は思った。
「さ、コーヒーをどうぞ」
と、有紀子はポットから私のカップへコーヒーを注いでくれて、「ブラックでいいのよね、|喬一さん《ヽヽヽヽ》?」
「う、うん」
慣れない「恋人役」にこっちも少々あがっている。夕子がニヤニヤ笑っていた。
「あら。まただわ」
と、チャイムの音に有紀子が腰を浮かす。「今度こそ主人かしら」
何だか、もうさほどびっくりしなくなっている。
「僕が出よう」
と、私が言って立ち上った。
「いえ、私が」
と、有紀子が止めた。「他の人が出たら、入って来ないかもしれないわ」
「なるほど。じゃ、少し離れて見ているよ」
有紀子が、まずインタホンに出た。
「──はい。──どなた?──どなたですか?」
くり返して、私の方を見て首を振り、「何も言わないわ。でも、確かに誰かいるみたい」
「じゃ、出てみよう」
「私がドアを開けるわ」
玄関へ行くと、有紀子は少し青ざめた顔でサンダルをはき、ドアの方へと歩み寄った。
「用心して。──ドアを開けたら、サッと退がりなさい」
と、私は上り口に立って言った。
「はい……」
有紀子が玄関のドアに手をかける。ロックがカシャリと外れて、一つ息をつくと、パッとドアを開けた。
サッと風が吹き込んで来た。同時に──屋敷の中の明りが全部消えてしまったのである。
「──原田!」
と、私は怒鳴った。「ペンシルライト!」
ドタドタと足音が聞こえて、原田が小さなペンシルライトで玄関先を照らした。
「──誰もいないな」
「何だったんでしょう? あの風……」
有紀子の声は震えている。
「風はただの風ですよ」
と言ったものの、私も首をかしげていたのである。
あの吹き込んだ風はすぐに止み、外へ出てみても風はたいして吹いていない。なぜあのとき、風が中へ吹き込んだのだろう?
「明りが消えたのはどうして?」
と、夕子が玄関まで出て来て言った。「奥さん、どこかにブレーカーがありますか」
「ええ。確か廊下の奥の方に。──見てみますか」
と、有紀子が言ったとき、まるでそれに答えるようにパッと明りが点った。
「──やれやれだ」
と、原田がホッと息をついて、「暗いってのはいやですよね」
原田がそんなことを言い出すと、ユーモラスでおかしい。
「居間へ戻ろう」
と、私は言った。「ともかく、今のは誰がやったのか──」
そう言いかけたとき、タタッと居間から小百合が駆け出して来た。
「ママ!」
「どうしたの、小百合?」
「今……あの人、|死んじゃった《ヽヽヽヽヽヽ》」
私たちは顔を見合せ、次いで居間へと一挙に駆け込んだ。
「私……何もしてないわ。本当よ」
と、石浜和恵が呆然として突っ立っている。「この人が──倒れて来たの。そう、本当なのよ」
床に突っ伏しているのは、芝田だった。
「どうして──」
「見ろよ」
私は、芝田のわきに膝をついた。そして、その体をゴロリと仰向けにする。
胸に刺し傷らしいものが開いている。血は上着とシャツをすっかり染め上げていた。
「──もう死んでる」
「私……知らないわよ!」
と、和恵がヒステリックな声を上げた。
「おばさん、落ちついてよ」
と、小百合が言った。「誰もおばさんがやったなんて言ってないよ」
「そ、そうね……」
和恵も、小百合の言葉に調子が狂ったのか、却ってヒステリーの発作を起さずにすんだようだ。
「原田。──連絡しろ」
と言って私は立ち上った。「みんな、ここから動かないで下さい」
「宇野さん」
と、有紀子が言った。「どうして──」
「その穿鑿《せんさく》は後です」
と、私は言った。「今は、犯人がまだこの家の中にいるかもしれない。そっちの方が問題なんです」
有紀子が小百合をしっかりと抱き寄せた。私は原田が電話し終るのを待って、
「おい、この中を捜索しよう」
と促した。「夕子、君はここにいてくれ」
「いいわよ」
と、夕子は肯いた。「でも、懐中電灯か何かを。また明りを消されるかもしれないから」
「台所にあります」
と、有紀子が言った。「取って来ますわ」
「原田、一緒に行け」
「はい」
夕子は、小百合のそばに腰をおろして、
「明りが消えたとき、どこにいた?」
と訊いた。
「私……そこのソファ」
と、小百合が指さす。
「で、芝田さんは?」
「ずっと同じ所。──その椅子に一人で」
「そう」
夕子は肯いた。
「どうした」
「ね、有紀子さんとあなたが出てって、それから明りが消えたわ。原田さんがあなたに呼ばれて行き、私もついて行った。──少なくともその時点では、芝田は生きてたと思うわ。刺されたらしい声も物音もしてなかったし」
「じゃ、ほんのわずかの間だな」
「そう……。妙よね。外から誰かが入って来て、あの人を刺して逃げるなんて時間があったとは思えない」
「しかし……」
そうなると犯人は? ──石浜和恵か小百合しかいないということになる。
「私、やってません」
と、和恵がムッとした様子で言った。「こんな人、殺す理由がないわ」
「私も」
と、小百合が言う。「この人に振られたなんてこともないもん」
「分ってるわよ」
夕子は小百合の頭をなでた。「振るなら、小百合ちゃんの方よね」
「うん」
「妙なことはそれだけじゃないの」
「というと」
「傷を見て。心臓を一突きでしょう」
「うん。即死だろうな」
「あの暗い中で、犯人はどうやって間違いなく心臓を刺すことができたのか。それが不思議よ」
私は肯いた。──有紀子と原田が戻ってくる。
「じゃ、宇野さん、行きますか?」
と、原田が言った。
「ああ。しかし──見付かるかな、犯人は幽霊かもしれん」
私の言葉に、原田は目をパチクリさせているばかりだった……。
「やれやれ……」
と、私は欠伸《あくび》をした。
「疲れが残るの? 中年ね」
夕子は時々こっちがドキッとするようなことを言ってくれる。
「くたびれるに決ってるだろ。ゆうべほとんど寝てなくて、しかも今日一日、捜査で駆け回って」
当り前の夕食時間はとっくに過ぎていた。夕子と私は、夜遅くまで開いている焼肉屋に入っていた。
「ま、くたびれていても、食欲のあるうちは大丈夫よ」
と、夕子先生の診断《ヽヽ》である。
「一番手っとり早いのは、君がさっさと犯人を見付けてくれることさ」
と、私は肉を焼きながら言った。
ジューッと肉が音をたてる。
「あら、そう。──犯人なら分ってるわよ」
私は、聞き間違えたのかと思った。
「今、犯人が分ってる、って言ったのかい?」
「そうよ」
「しかし……」
「証拠があるか? ない! 従って、もう少し待って」
「そんなことだと思った」
と、ため息をつく。
「でもね、少なくとも、幽霊が犯人じゃないってことは確かよ」
「そりゃ捜査に大いに役立つご意見だ」
と、たまにはこっちも皮肉を言ってみる。「しかし、あの風は? あの停電は? あれはどうにも理屈に合わないよ」
「合うわよ」
夕子は何にでも逆らうという、「いい趣味」を持っているのだ。──全く、どうしてこんな娘を好きになっちゃったのやら。
「それじゃ、どうすりゃいいんだ」
「一つ、行方不明になった山里征人のことを改めて徹底的に洗うこと。二つ、殺された芝田僚が金に困っていなかったか、調べること」
夕子はそう言って、ご飯を頬ばった。
「山里征人と芝田僚? ──あ、そうか」
と、私は手帳を取り出して、「そういえば、新しい証言が取れてるよ」
「どっちのことで?」
「山里さ。──金はあったが、結構悪い奴でもあったらしい。金を貸すのが好きだったというんだ。しかし、相手は専《もつぱ》ら若い女性に限られてたらしいが」
「貸すのが好き? つまり──」
「返せないときは、体で払ってもらう、ってわけさ。もういなくなって十年たつんで、口を開いた、という女性がいてね」
「山里にとっちゃ、大したお金じゃなかったのね」
「ああ。せいぜい五十万とか百万とか。しかし、貧乏OLにとっちゃ、返すのは大変なことだよ」
「許せないわね、そんな子たちにつけ込むなんて」
夕子が顔をしかめる。相当に怒っている証拠だ。
「しかも、それで帳消しにしてやる、っていうんじゃなくて、ただ待ってやる、ってだけだったっていうんだから。結構ケチでもあったのかもしれない」
「なるほどね。お金持ってケチなものよ。特に生れながらにいい暮しをして、貧乏暮しをしたことのない人間っていうのは、お金を失うのが死ぬほど怖いのよ。だから、自然とケチになる」
「貧乏なんて、してみりゃ大したことじゃないのにな」
「それが分るのは貧乏人だけ」
私は苦笑した。
「──しかし、山里はどこへ行ったんだ? 十年たって、帰って来ると言ってきたのは、本当に山里だったのか?」
「どうかしらね」
と、夕子は少し気を持たせる言い方をした。「もう一つの方も調べてね」
「何だ? ──ああ、芝田が金に困ってたかってことだね」
「そう。──かなりいい加減な男だった、って印象があるの」
「そりゃそうさ。人のことを足が短いだの腹が出てるだの。──大きなお世話ってもんだ!」
中年は、傷つきやすいのである。夕子がそれを聞いて、吹き出してしまった。
「どうも、その節は」
と、石浜和恵が頭を下げた。
「いやいや。──今、捜査を進めているところです」
と、私は言った。「どうぞ、お構いなく」
石浜和恵の夫が、奥から出て来た。
「宇野警部さんですか。どうも。──石浜広治と申します」
腰の低い男で、名刺を出して、何度も頭を下げる。
自宅を事務所にして、不動産を扱っているということだが、確かに景気が良くないというのは事実らしい。
「──いや、大変ですよ、この時期。同業者は青息吐息で」
と、古ぼけたソファに腰をおろす。
四十そこそこなのだろうが、頭の方はすっかり薄くなっている。こっちもつい無意識に手を頭へやってしまったりして……。
「犯人の目星はついたんですか」
と、石浜広治が言った。
「いや、どうもね」
と、私は首を振って、「これからですね、勝負は」
「しかし、芝田さんって人は、人から恨まれるようなことをしてたんですか?」
「そこなんですよ」
と、私は言った。「実は、芝田さんの手帳を調べていたら、こちらの名前と電話番号が出ていたんです」
「ここの?」
と、石浜は面食らった様子で、「おい和恵、お前、何か知ってるか」
「私? いいえ」
と、和恵が首を振る。「知ってはいたわよ、有紀子さんのことを口説いてた人だもの。でも、ここの電話番号なんて……」
「そうか。──いや、私も心当りはありませんね」
と、石浜は言った。
「そうですか。残念ですね。何かご存知じゃないかと思って伺ったんですが」
と、私は出されたお茶を飲む。
「──あなた、お電話」
と、和恵が言った。「山口さんよ」
「そうか。待ってたんだ」
石浜が、ソファを立って奥へ入って行く。──和恵は、夫が電話に出てしゃべっているのをチラッと見て、
「刑事さん」
と、小声で言った。「これ──内緒にしていただけません?」
「何です?」
「あの……芝田さんのことです」
と、口ごもる。「実は──主人には何も言ってないんですけど」
「芝田さんと何かあったんですか」
「ええ……」
和恵はチラッとまた夫の方を振り返って、「私……一度だけ、あの人と……。本当に一度だけなんですよ」
と、ため息をついて、
「主人も、あんな風で忙しいし、ちっとも構ってくれない。あるバーでバッタリと芝田さんに会って。あの人も、有紀子さんが相手にしてくれないと言って荒れていたんです。で、二人してグチをこぼし合っているうちに──。つい……」
「分ります。それで名前と電話が手帳に」
「たぶん……。でも、それっきりだったんですよ。ちっとも連絡なんかしてくれやしなかった。──あ、もちろん、待ってたわけじゃないんですけど」
と、あわてて付け加える。「主人が戻ります。お願い! 黙ってて下さい」
私は肯いた。
「やれやれだ」
と、石浜が戻って来て、「がっかりさせるよ。せっかくいい話だと思ったのに」
「あなた──」
「お茶、いれかえてくれ。刑事さん、どうです?」
「ああ、いや、もう結構」
「そうおっしゃらず。和恵、二人ともいれかえてくれよ」
「はい」
和恵が台所へ姿を消す。──石浜は、身をのり出して、
「刑事さん。これは──家内には内緒にしておいていただきたいんですが」
「はあ?」
まさか、芝田と「一度だけ……」なんて言うんじゃないだろうな! 私は一瞬、心の準備をした。
「芝田とは、一度だけ、|仕事を《ヽヽヽ》一緒にやろうとしたことがあるんです」
私は、ホッと胸をなでおろした。
「仕事というと?」
「何だか、遊園地の施設に資金を出すとかいう話で。──もちろん、後で考えりゃ、うちのような個人のオフィスで、何ができるわけもないんです。しかし、芝田ってのは、ともかく口の達者な男でしてね。女を口説くのがうまいというのも分りますよ」
と、石浜は苦笑した。「私も、つい口車にのせられた、というわけです」
「すると、お金を出したんですか」
「そうです」
石浜はチラッと奥へ目をやり、「これは、女房には秘密ですが……」
「分ってます」
「五百万ほど。──うちにとっちゃ大金なんですよ」
と、石浜はため息をつく。「今、その五百万があればね」
「で、戻らなかったんですか」
「もちろん! 結局丸損です」
「芝田に何も言わなかったんですか」
「言いましたとも。でも、初めは『見込み違いで申しわけない。儲かる話と思ってたんだ』と謝ってたんですが、少しでも返してくれと言いますと、開き直って、『奥さんに知れてもいいのか』と、こうです」
石浜は首を振って、「私も、もしそんな金をドブへ捨てるようなことをやったと女房に知れたら困りますからね」
「で、結局泣き寝入りですか」
「ええ。高い月謝だったと思っています」
と、石浜は情ない顔で言った。「刑事さん。お願いですから、女房には内密に」
和恵が、お茶をさしかえて来た。
「──よく分りました」
と、私は言った。「どうぞご心配なく」
どっちも、|自分が《ヽヽヽ》そう言われたのだと取っただろう。
チャイムを鳴らすと、しばらくして、
「はあい」
と、元気のいい返事が聞こえてきた。
「永井夕子よ」
と、夕子が答える。「小百合ちゃん、ママ、いる?」
「お出かけ」
と、小百合は言って、「でも、どうぞ」
「ありがとう」
玄関で物音がして、ドアが開く。
「今晩は。ごめんね、遅い時間に」
と、夕子は言った。「|この人《ヽヽヽ》も入っていい?」
もちろん、私のことである。
「いいよ。男の人だけだったら、入れないけどね」
小百合はしっかりしている。
私と夕子は、上って居間へ入った。
「──その後、電話は?」
「ないみたい」
と、小百合は言った。「何か飲む? アルコールはないけど」
「結構よ」
と、夕子は笑って言った。「お母さん、何時ごろ帰ってくるのかな」
「もう帰ると思うんだけど」
と、小百合が言ったとき、チャイムが鳴った。「きっとママだ」
「そう? 確かめてね」
「うん」
小百合がインタホンに出る。
「──あ、ママ、お帰り」
そして玄関へ。──小百合は、チェーンをちゃんとかけておいたのを、外した。
ガチャッとロックを外すと、ドアが開いて、
「ただいま。ごめんね──」
と、有紀子が中へ入ろうとして、「キャッ!」
|風が《ヽヽ》サッと玄関から吹き込んで、廊下を吹き抜けた。そしてピタリと止んだ。
「ママ……。今の、何?」
と、小百合が言った。
「分らないわ」
「この前のときみたい」
と、小百合が心配そうに、「居間にあの人たちがいるの。大丈夫かなあ」
「あの人たち?」
「お邪魔してます」
夕子が廊下へ出て行った。
「あ、どうも……」
有紀子は、ホッとした様子で、「どなたがみえたのかと思いましたわ」
「ご主人が帰って来たわけじゃないんです」
と、夕子が言った。「でも、風が吹き込むのは、難しいことじゃないんですよ」
「え?」
「要は、風が|抜けて《ヽヽヽ》行くだけのことです。つまり、たまたまドアを開けたとき、どこかの窓でも開いていれば、風が通るんです。そしてその窓を閉めると、ドアだけ開いていても、風は抜けません」
「夕子さん……」
「あのとき、風が抜けたのは、たぶん裏手のドアを開けたからでしょう」
と、夕子は言った。「そしてすぐに閉めた。──誰がそんなことをやれたか」
「証言は得てあります」
と、私は言った。
「宅配のピザ屋のバイトに、こづかいをやって、チャイムを鳴らさせて、それから裏に回って裏口のドアを開けてくれと頼んだんですね。もちろん、ピザを運ぶときにロックを外しておいた。そして、風が吹き抜けたら、すぐドアを閉めてくれ、と。──当人は何をしているか分らなかったでしょう」
と、夕子は言った。「さあ、入って下さいな」
夕子は玄関へ下りて、もう一度ドアを開けた。──石浜和恵が入って来た。
「和恵さん」
と、有紀子が言った。
「ごめんなさい。でも──隠し通せないわ、やっぱり」
と、和恵は言った。「あんな男だけど、やっぱり、いつまでも気になって……」
「ともかく上って下さい」
と、私は言った。
居間に集まったのは、原田をのぞけばこの前と同じ面々だが、もちろん芝田はここにいない。
「──傷が問題でした」
と、夕子が言った。「あの暗がりの中で、どうやって犯人は芝田の心臓を正確に刺せたのか」
「幽霊じゃないことは確かです」
と、私は付け加えた。
「暗い中で、正確に心臓を刺し貫くには、暗い中でも目が見えるか、それとも──」
と、夕子は少し間《ま》を置いて、「見る必要がないくらい、|そばにいるか《ヽヽヽヽヽヽ》、です」
和恵が、ちょっと目を伏せた。
「でも、近くにいる、というだけでは、とても無理です。ぴったりと体を寄せ合うようにして──。はっきり言うと、抱き合うくらいの格好でないと」
と、夕子は言った。
「暗がりの中で、思ってもいなかった相手から抱きつかれたら、普通、びっくりして押し戻そうとするでしょう。でも、芝田はそう|しなかった《ヽヽヽヽヽ》。つまり、相手が、抱きついて来てもおかしくない人間だった、というわけだ」
「そう。──石浜和恵さん。あなたが、芝田を刺したんですね」
和恵は、ため息をついて、
「そうです」
と、言った。「でも、私一人でやったことです。有紀子さんには何の罪もありません」
「そうはいかないわ」
と、有紀子が和恵の肩に手をかける。「この人は、夫に言えない借金を作って、芝田にずっと脅されていたんです。関係を続けるように強制されて」
「でも、有紀子さん……」
「黙ってて。──私、許せなかった。男というものに失望していたから、二度と結婚しようなんて思いませんでしたし」
「ご主人のことで、ですね」
と、夕子が言った。「ご主人も、お金で縛って、女の子に手を出していた」
「ええ……」
と、有紀子は目を伏せ、「小百合の手前、仲良く見せかけていました。でも……」
「仲の悪いの、知ってたよ」
と、小百合が言った。
「まあ」
と、有紀子が笑った。
「奥さん、ご主人は亡くなったんですね」
「そうです。──あの夜、夫がいつまでも来ないので、門の所へ行くと……。夫が倒れていて、女の子がそばに立っていました。手に握っていたのは、包丁でした」
「刺したんですか?」
「刺そうとしたんです。でも、夫は逃げ回り、そのうち、心臓が弱かったせいもあって、倒れて死んでしまったんです。──悪い遊びをくり返したせいですわ」
と、有紀子は言った。「その女の子はいくつだったと思います? 十六ですよ! ──あんまりです。いくらか包丁で傷ついていましたが、夫の死因は心臓でした。でも、私は、その少女を突き出す気にはなれませんでした。傷つけただけでも、その少女はただ無罪放免というわけにいかないでしょう。ですから、夫の死体を隠すことで、その少女を逃がすことにしたんです」
「なるほど」
「で──芝田のことを、和恵さんから聞いて、同情したんですね」
と、夕子が言った。
「そうです。和恵さんだけでなく、芝田も何人もの女性を弄《もてあそ》んでいます。和恵さんは、殺すしかない、と思い詰めていました。私は力を貸そうと思ったんです」
「それで、どうして我々を?」
と、私は訊いた。「わざわざ現場に立ち合せたんですね」
「そうです。和恵さんが疑われるだろうと思っていましたから。──ちょうど雨宿りされたお二人が警察の関係の方と知って、これが一番いい証人だわ、と思いました。夫が帰ってくるという話をでっち上げておいて、お二人をお呼びし、そこに芝田と和恵さんも招いて……。ピザ屋さんを利用したのも、私の考えです」
「ママは、アイデアマンだもんね」
と、小百合が自慢げに言った。
「有紀子さんと和恵さんが共犯なら、刃物などいくらも隠せるしね」
と、夕子は言った。
「でも……」
と、和恵が言った。「やってしまってから、やはり気が晴れないんです。芝田の自業自得だと自分へ言い聞かせても……。やはり自白しようと決心して」
「それがあなたの、芝田への勝利《ヽヽ》ですよ」
と、私は言った。「ご主人に対して気がねはいりませんよ。ご主人も芝田のせいで大損したのを、あなたに隠してたんですからね」
「──まあ」
と、和恵が呆れ顔。「じゃ……主人に話せば良かった」
「有紀子さん」
と、夕子が言った。「和恵さんと一緒に、お二人で出頭して下さい。私たちは何も聞いていないことにします」
「はい」
と、有紀子が肯く。「ありがとう、夕子さん」
「ところで、奥さん。ご主人の死体はどこです?」
「そばに置く気にもなれないので、夜中、こっそりもう一度出かけて、車で運び、川へ落としたんです。──結局、見付からなかったようですけど」
今さら川をさらうのか? ──私としても何とも言いようがなかった。
「──さ、引き上げましょ」
夕子に促されて、私は山里家を後にした。
また、外は小雨。──今日はしっかり傘を持っていた。
「おい」
と、私は思い出して、「あの最初の電話は? 小百合の取った……」
「ああ、あれ」
と、夕子は肯いて、「向うが何て言った? 『お父さんだよ。もうすぐ帰るからね』──子供が出たから、|かけ間違えた《ヽヽヽヽヽヽ》どこかのお父さんが、それと知らずに言ったのよ」
「かけ間違い?」
「それで、有紀子さんは死んだ夫を引張り出す手を思い付いたんでしょうね。──小百合ちゃんに、電話に出たら、まず『山里です』と言うようにしつけなきゃね」
夕子と、私。小雨の夜を一つの傘の下で歩いて行く。
ロマンチックで……同時に、ロマンチックでない「殺人」の話は、やがて霧のような雨の向うに、消えて行った……。
初出一覧(発表誌=オール讀物)
幽霊|散歩道(プロムナード) 平成四年八月号
殺人犯、お呼出し申し上げます 平成四年十一月号
危ない参観日 平成五年二月号
小雨に濡れた殺人 平成五年七月号
単行本 平成五年十月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成七年九月十日刊