文春ウェブ文庫
幽霊愛好会
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
第一話 名探偵の子守唄
第二話 青ひげよ、我に帰れ
第三話 赤い靴はいてた女の子
第四話 コウノトリは本日休業
第五話 殺された死体
第六話 幽霊愛好会
第一話 名探偵の子守唄
1
「××ランドで十二時にね」
という永井夕子の電話に、いとも気軽に、
「ああ、いいよ」
なんて答えてしまったのが間違いのもとだった。
休日の真昼の遊園地がどんなに|凄《すさ》まじい混みようになるものか、四十になっても子供を持ったことのない私には想像もつかなかったから、〈××ランド前〉という駅で電車を降り、家族連れに混じってゾロゾロと改札口を抜け、〈××ランド入口〉と書かれた矢印の方へ歩きかけて、入口と覚しきあたりから、延々と長蛇の列が続いているのを見て|唖《あ》|然《ぜん》としてしまったのである。
入園券を買うのに三十分近くかかって、やっとの思いで、象やらキリンやらの下をくぐって(むろん絵である)、園内へ足を踏み入れたのだが、そこでまた銀座か新宿の歩行者天国と見まがうばかりの人混みに|呆《あっ》|気《け》に取られてしまった。立て看板の案内図を見れば、その広いこと広いこと。――観覧車、メリー・ゴーラウンドといった|類《たぐい》ばかりでなく、フィールド・アスレチック、ボートの漕げる池、三六〇度回転のジェット・コースター、水族館……。
ともかく、一体どこに夕子がいるのやら、これでは捜しようもない。
「何てこったい、畜生!」
私は思わずため息をついた。――夕子も夕子で、こんなに広いと知ってりゃ、「××ランドのどこそこで」と言ってくれればいいものを、一回りするだけだって大変な運動である。
しかし、ボケッと突っ立っていても夕子が見付かるわけではない。仕方なく私は人波をかき分けながら歩き出した。
「休みの日」たるべき休日も、世の父親たちにとっては「休めない日」のようで、|大《おお》|欠伸《あくび》をしながら、子供の手を引いている姿が目に付く。――何もこんな混んだ日に来なくたって、と思うのは子持ちならぬ身の気楽さで、小さなSLやら飛行塔の前に列をなしている父親たちの顔には、朝の通勤時に、ホームで満員電車を待っている時の、あの悟りの境地にも似た、達観した表情が浮かんでいた。
遊園地の中へ入るにつれ、夕子の姿を見つけ出すのは、ますます絶望的になって来る。とてもじゃないが、この広い園内を歩き回ったら、いかに警視庁捜査一課の鬼警部といえども、ばててしまうこと、|必定《ひつじょう》であった。
私は〈コーヒーカップ〉の入口で切符を受け取っているおばさんに、
「ちょっと、呼び出しはどこで頼むんですか?」
と|訊《き》いてみた。相手はこっちの顔を見ずに言った。
「殺人[#「殺人」に傍点]」
私は聞き違えたのかと思った。
「――何です?」
「殺人屋敷だよ」
と、そのおばさんはうるさそうに、「そこの窓口へ行きな」
なるほど。〈殺人屋敷〉という場所があるのだ。納得してキョロキョロしながら歩いて行くと、体育館みたいな白い建物に、何だか吸血鬼ドラキュラがわさびのきき過ぎた寿司を食べて目をむいてるみたいな絵が大きく描かれているのが目に入った。
「あれだな」
入場料三百円と書いた窓口では、ちょっと可愛い顔の女の子が退屈そうに週刊誌をめくっていた。――子供連れはあまりこういう所には入らないのかもしれない。
「いらっしゃいませ」
|覗《のぞ》き込んだ私を見上げてにっこり笑うと、なかなかチャーミングである。何だか金を出さないと悪いような気がして、入場券を買うと、
「あの、ここで呼び出しを頼めるの?」
と訊いてみた。
「はい。――どなたをお呼びするんですか?」
と娘は快く|肯《うなず》いた。私は夕子の名を告げた。娘が傍のマイクへ向かうと、広い場内に、
「永井夕子様。――永井夕子様。お連れ様が〈殺人屋敷〉の前でお待ちでございます」
とアナウンスが響き渡る。私は思わず苦笑いした。夕子と殺人屋敷とは、正にピッタリだ!
「ありがとう」
と礼を言って、私は建物の前をぶらぶらした。夕子が遊園地の中にいれば、アナウンスに気付いてやって来るだろう。下手に捜し回るより手っ取り早い。
手持ちぶさたに、建物の前を四回ばかり行きつ戻りつした時だった。
「あの――」
と呼びかける女の声がした。振り向くと、二十五、六歳と見える、赤いワンピース姿の、いやにやつれて青ざめた顔の女が、赤ん坊を抱いて立っている。
「何か?」
「すみません。ほんのちょっとでいいんですけど、この子を抱いていて下さいませんでしょうか?」
私は目をパチクリさせた。女は何やら思いつめたような表情で、目つきも真剣そのものだ。何とも返事をしないでいると、
「すぐ戻りますから。どうか――お願いします!」
女はそう言うなり私の手へ赤ん坊を押しつけて来た。私は慌てて落としては大変、と抱きかかえて、
「しかし、あなた――」
と言いかけるのに耳を貸さず、
「すみません、すぐ戻ります!」
と女は言い捨てて、小走りに殺人屋敷の建物へと入って行ってしまう。
「あ、あの、ちょっと……」
と言葉が口から出かかった時には、女の赤いワンピース姿は、入口から消えてしまっていた。――結局、私はどうなったのか? 遊園地の真っただ中で、赤ん坊を抱いているという、とても知人には見せられないさま[#「さま」に傍点]になってしまったのである。
「参ったな……」
赤ん坊なんて自慢じゃないが抱いたことも生んだこともない(当り前だ)。おっかなびっくり抱いている、その赤ん坊の顔を覗き込んでみると、まだ生れて半年はたっていないらしい。きゅっと目をつぶり、それこそ超小型のクッションみたいに柔らかい頬は健康そうに赤々としている。どうやら今の所は眠っているようだ。しかし、あの、母親らしい女性が早く戻って来てくれないことには……。もし泣き出されでもしたらどうすればいいのか。
気が気でない思いで建物の方を見ていると、
「ごめんね!」
と背後で夕子の弾む声がした。「待った? 捜したのよ、私も。こんなに混んでるなんて思わないから――」
と言いかけて、振り向いた私がかかえているもの[#「もの」に傍点]を見て、ちょっと言葉を切った。
「これ……何?」
「ん? あ、ああ……。赤ん坊だよ」
夕子はしばらくキョトンとしていたが、やがてキッと目をつり上げると、
「そういう事だったの……」
と|凄《すご》|味《み》のある声で言った。
「おい! それは――」
「あなたが子持ちだなんて初めて知ったわ。誰に生ませた子なの!」
「冗談じゃないよ!」
私は慌てて事情を説明した。夕子はまだ半信半疑の面持ちだったが、
「ふーん。で、その母親は……」
「まだ出て来ないんだ。全く|呑《のん》|気《き》なもんだよ」
「本当でしょうね。もし私を|騙《だま》そうなんて考えたら……」
「おい、ちっとは恋人を信用しろよ!」
と私は頭へ来て言った。しかし、口論もそこまでだった。私の腕の中で、赤ん坊が火がついたように泣き出したのである。慌てて揺すってみたが、泣き声はさらにヴォリュームを上げるばかり。
「そんなんじゃだめよ!」
夕子が私の手から赤ん坊を抱き取ると、「ラグビーのボールじゃないんですからね。そんなに乱暴に扱えば泣くに決まってるじゃないの。――ああ、よしよし」
夕子が抱いてあやすと、赤ん坊の泣き声は大分静かになった。さすがに女は女だ。私はハンカチを出して額の汗を拭った。
「お腹が空いてるんじゃないかしら」
夕子が小指の先をそっと赤ん坊の口へ当てると、赤ん坊はすぐに指先をくわえてしゃぶりだした。「やっぱりそうよ。お腹が空いてるんだわ。あなた、|哺乳《ほにゅう》びんは預からなかったの?」
「おい、僕は乳母じゃないんだぜ」
「困ったわねえ。――まさかその辺の缶ジュースを飲ませるわけにも行かないし」
「すぐに戻ると言ったんだけどなあ……」
「捜して、呼んでらっしゃいよ」
「よし。ここにいてくれ」
私はさっき買った入場券を入口の箱へ入れて、〈順路〉と書かれた矢印に従って、薄暗い通路を歩いて行った。――〈殺人屋敷〉といっても、要するに西洋風のお化け屋敷でしかない。薄気味悪くこしらえた首のない死体だの、逆さ吊りにされた美女だの、どれを見たって、大したことはない。何しろ、こちらは年中、本物[#「本物」に傍点]にお目にかかっているのだ。てんで迫力が違う。
中にはほとんど客の姿がなかった。アベックらしいのが、一体どういう目的なのか知らないが、二、三組うろうろしているだけである。そう言えば、さっき私に赤ん坊を預けて行った赤いワンピースの女が入った後は、誰も客は入っていない。
しかし、一体あの女は何の用事があってこんな所へ入って来たのだろう? 赤ん坊を人に押し付けてまで、こんな陳列が見たかったのだとは思えない。それにあの女の表情には、もっと切迫した何かがあった。
〈死刑のいろいろ〉というコーナーへ入って行くと、私はため息をついた。ここにはまるで客がいない。――まああまり楽しい観物でないことは確かである。ギロチンの刃は今まさに恐怖に顔を|歪《ゆが》める罪人の頭上へ落ちようとしている。電気椅子の周囲ではやたら火花が飛んで電気が点滅する。ガス室では、ドライアイスを使っているのだろう、白い煙がもくもくと湧き上って死刑囚を包み込む……。
いかに人形と分っていても――いや、それがいかにも造り物めいているのが、|却《かえ》って、生々しい不快感を与えている。何とも悪趣味としか言いようのない代物だ。
こんな所は早々に素通りするに限る、と急ぎ足で歩き出すと、突然、ガタンと大きな音をたてて、ギロチンの刃が落下したので、仰天してしまった。どうやらそういう仕掛けになっているらしく、刃はまたブーンというモーターの|唸《うな》りとともに上って行き、ゴロリと落ちた罪人の首も元通りにつながった。
「人を驚かせやがって!」
と一人で文句を言って歩き出す。ギロチンの刃が落ちた衝撃のせいか、絞首刑にされている赤いワンピースの女の体がゆっくりと揺れているのがチラリと目に入った。
その部屋を出かかって……足が止まった。赤いワンピースの女[#「赤いワンピースの女」に傍点]……。
「――まさか!」
そろそろと後ろを振り向く。――本来の盗賊風の人形は足もとに転がっている。すると、あれは……人形ではないのだ。私は思わず|唾《つば》を飲み込んで、それから、ゆっくりとその揺れる「死体」へと近付いて行った……。
「何とも妙な話ですなあ」
地元署の山形という刑事は殺人屋敷の看板を見上げながらため息をついた。「殺人屋敷で自殺するとは……」
「自殺とは限らないよ」
と私は言った。しょぼくれた感じの山形刑事は目をパチクリさせて、
「と、おっしゃいますと?」
ここは少し捜査一課の貫禄を見せねば。
「よくは分らなかったが、首に縄だけでなく、指で絞めた跡らしいものがあったよ」
「はあ! すると殺人……」
「その可能性はあるね」
とむずかしい顔で肯いて見せる。「まあ検死官の所見を聞いて……」
と言っている内に、建物から検死官の中江が出て来る。五十歳前後、実直そうな公務員という感じの目立たない男だ。
「やあ、中江さん、どうだい?」
と私が声をかけると、
「うん?……ああ、あれは殺しだよ」
「やっぱりそうか!」
「手で絞め殺しておいて、あそこへぶら下げたんだ。――詳しいことは後で」
「そうなると一課の出番だな」
と言ってから、中江の顔色がいやに青白いのに気付いて、「どうしたんだ? えらく青い顔してるぜ」
「うん……」
とベテラン検死官は額の汗をハンカチで拭きながら、「どうもだめなんだよ。こういう所は弱くってね。……君は怖くないのか?」
早々に逃げ出してしまう検死官を、私は呆気に取られて見送った。本物の死体にはびくともしないのに、妙なものだ。
警察の人間がウロウロしているので、何事かと見物人が集まって来て、警官が、
「あっちへ行って!」
と声を|涸《か》らしてもあまり効き目はないようだった。――さて、夕子はどこへ行ったのかと見回すと、赤ん坊を抱いて、のこのこやって来た。
「やあ、何してたんだ?」
「赤ちゃんのいるお客さんに頼んでね、ミルクを飲ませたのよ。ついでにオムツもかえてね。――気持良さそうに眠ってるわ」
「へえ」
と私が赤ん坊の顔を覗き込もうとすると、夕子は向きを変えて、
「だめよ。あなたの顔見たら泣き出すわ」
「ひどいこと言うなよ」
「どうしたの、事件の方は?」
私は、あれが殺しだった旨を説明した。
「そう……。すると、犯人はあの女性より前に、この中へ入っていたことになるわね」
「そうだ。あの女性が入った後は、僕が入るまで、一人も客は来なかったからね」
「で、彼女を絞め殺しておいて、逃げる……。あなた、出て来る客には気が付いた?」
「さて、それなんだよ」
私は腕組みをして考え込んだ。「むろん、はっきり断言はできないんだが……僕も赤ん坊を抱いて気が気じゃなかった。早く母親が戻って来ないかと、絶えず出口の方を見てたつもりなんだ」
この建物は入口と出口が隣り合っている。つまり同じ所へ出て来るようになっているのだ。建物の前に立っていれば、入口も出口も一目で見えるというわけである。
「誰か出て来たという記憶はないんだよ。……いくら考えても思い出せない」
「あなたが入って行ってからも、出て来た人はいなかったわ。それは絶対よ」
「すると、犯人は、あの時中にいた客の一人か……それともまだどこかに隠れているってことも考えられるな」
「客は全部足止めしてあるんでしょ?」
「もちろんさ。その点は抜かりないよ。――よし、一課の連中が来たら、中を徹底的に調べよう」
「もう一つ問題があるわ」
「何だい?」
「これ[#「これ」に傍点]よ」
夕子は腕の中の赤ん坊に目を落とした。
「そうか……。ともかく被害者の身許さえ分ればなあ」
そこへ、さっき呼び出しのアナウンスをしてくれた入場券売場の女の子が浮かぬ顔でやって来た。
「あの……」
「やあ、さっきはありがとう」
彼女に警察への連絡を頼んだのだった。
「警部さんなんですね。ちっとも知らなくって……。事件の方はどうなんでしょう?」
「うん、まだしばらくは閉めさせてもらうよ。殺人事件ともなるとね」
「殺人! 自殺じゃなかったんですか?」
と彼女は目を見張った。「どうしよう! もうだめだわ!」
「だめ、って……何が?」
「クビになります。私の手落ちだと言われて」
とシュンとなっているので、ちゃんと上役には口添えしてあげるからと励ますと、彼女もやっと笑顔になって、
「すみません、気をつかっていただいて……。私、安原秋子といいます。そちらは……奥様ですか?」
と夕子の方を見る。面白くなさそうな顔をしていた夕子は澄まして、
「あら! 私、娘なのよ。ねえ、パパ」
「まあ、そうなんですか。とてもそんなお年に見えませんわ」
安原秋子が行ってしまうと、
「おい、いくら何でもひどいぞ」
と私は文句を言った。
「あら、可愛い子にはすぐ目尻を下げちゃうからよ」
そこへ、
「宇野さん!」
とだみ声がして、原田刑事が見物人をブルドーザーの如く押し分けてやって来た。
「やあ、早かったじゃないか」
「ちょうど近くへ来てたんですよ。やあ、夕子さん」
とニヤつきながら言ってから、夕子の腕の赤ん坊に気が付き、しばしポカンとしていたが、その内、顔を輝かせて、「――いやあ、知らなかったなあ! いつの間に?」
「何の話だ?」
「水くさいじゃないですか! ひとこと言ってくれりゃ――」
原田は吹き出すのをこらえている夕子のそばへ行って、赤ん坊の顔を覗き込むと、「ああ、こりゃ宇野さんにそっくりだ! ねえ、夕子さん!」
と言った。
2
「すると、この建物にはもう一つ出入口があるんだね?」
と私が訊くと、安原秋子は肯いて、
「裏口というか、従業員用の出入口です。でもいつも|鍵《かぎ》がかけてありますから」
「鍵は誰が?」
「事務所です。この遊園地の入口の別の建物で……」
「するとここにはないわけだね」
「ええ」
「他にどこか人の出入りできるような口は?」
「ないと思いますけど……。ああ、私のいる切符売場からは直接ドアで中へ入れますけど」
「そこから誰か出て来れば君は気が付くね」
「もちろんですわ。何しろあの狭さですもの」
「ふむ……。よし、それじゃ中を捜索するからね、君は悪いがまだこの辺にいてくれ」
「分りました」
私は原田を呼んで、
「おい、始めるぞ。お前は出口の方から入ってくれ。俺は入口の方から行く。床下や天井も見逃すなよ」
「任しといて下さい」
と原田はニヤリとした。私と原田はそれぞれ制服の警官三人ずつを連れて中に入った。人形の陰、台の下から、板に描いた窓や壁の裏側、天井へは強烈なライトを当てて、むき出しの鉄骨の隅々まで照らし出した。
もちろん人形そのものも調べた。人間が人形のふりをするなんて、まあ現実には考えられないことだが、それでも一応は念を入れなければならない。
少しずつ進んでいって、ちょうど部屋と部屋をつなぐ暗い通路へさしかかった時、
「ギャーッ!」
という悲鳴が響き渡った。原田の声だ!
「どうした!」
急いで死体のあった部屋へ駆けつけると、原田が三人の警官にかかえられて立ち上ったところだった。
「何かあったのか?」
「いや……ギロチンが急にドスン、と落ちて首が……」
と目をパチクリさせている。
「馬鹿! あれはそういう仕掛けになってるんだ。よく見ろ。ちゃんと元通りになるから」
「はあ……」
ギロチンの刃が上がり、人形の首が元の通りつながると、原田はホッとした様子で、「いや、びっくりした!」
「しっかりしろ! それでも捜査一課の刑事か!」
――しかし、結局、捜査は徒労に終った。建物の中には誰も隠れていないことがはっきりしたし、もう一つの出入口には鍵がかかって、こじ開けた跡もなかった。
「そうなると、犯人はあの時に中にいた客の中にいるってことね」
「僕が見逃していなければ、だ」
私は遊園地の入口の方へ歩いて行きながら言った。夕子は古ぼけた乳母車を押している。誰か客が置いて行ってしまった物だそうで、夕子が交渉してもらって来たのだ。大分ガタガタしてはいるが、まあ何とか使える。
「ご機嫌よさそうじゃないか」
と私は赤ん坊の顔を覗き込んで言った。
「優しい人は分るのよ、本能的にね」
と夕子は得意顔。
「その格好、なかなか似合うぜ」
と冷やかすと、
「あなたが押したら、もっと似合うと思うけど」
と夕子は言い返した。
「男かい、女かい?」
「女の子だったわ。――あなた、どっちがいい?」
答えに詰まっていると、後ろから、安原秋子が追いついて来た。
「……警部さん」
「やあ、君か」
「あの大きな刑事さんから伺いましたわ。警部さん、夕暮れ族なんですってね。|翔《と》んでるんですねえ!」
何だかよく分らないままに、私は|曖《あい》|昧《まい》に微笑んだ。
「その赤ちゃん、殺された女の人の……」
「そうらしいんだがね」
「可哀そうに。――何かお手伝いすること、あります?」
「ええ、あるわ」
と夕子が応じた。「この子をもらってやってくれない?」
安原秋子は目を丸くして、
「あの……じゃ、私、先に事務所へ行ってますから……」
と先に行ってしまう。
「おい、せっかく好意で言ってくれてるのに――」
「へん、だ!」
夕子はプイとそっぽを向いてしまった。女の|嫉《しっ》|妬《と》とは怖いものだ……。
遊園地事務所の一室に、三組のアベックがふくれっつらで集まっていた。――どれも二十歳前後の若い連中である。
「君たちは、殺人が起った時、あの建物の中にいた」
私はみんなの顔を見回して言った。「迷惑だとは思うが、一応身許などを訊いておかなくちゃならん。――いいね?」
「早いとこすまして下さいよ。忙しいんだからさあ」
と、革ジャンパーの下に赤いシャツをのぞかせた若者が言った。隣に座ったチリチリ髪の女の手をさっきから握ったままである。私たちの時には、人前で手を握るなんてとんでもない話だったのだが、世の中変ったものだ。
「君たちが協力してくれれば、早くすむ」
と私は言った。「まず、君らの中で、被害者の赤いワンピース姿の女性を見かけた人は?」
ちょっと間を置いて、三組のアベックの中では一番年長らしい、ツイードのジャケット姿の青年が、
「僕、見かけましたよ」
と言った。「何だかえらく急いでる様子で、追い越して行きました」
「ふむ。――それで、他には? 誰か後を追って行くような人間を見なかったかね?」
「さあ……。君、どうだい?」
と連れの女性の方を見る。
「分んないわ。だって、私たちキスしてて夢中だったんだもん」
とあっけらかんとおっしゃる。私は慌てて|咳《せき》|払《ばら》いした。原田刑事はポカンと馬鹿みたいに大口をあけている。他の二組は何も気が付かなかった、と肩をすくめる。何をしていたのかは、|訊《き》かぬが花というものだ。
「何かこう……逃げて行く人影とか、足音とか、そういうものに気付いた人は?」
今度は誰も返事をしないで黙りこくっている。――どうも、このアベックたちの中に殺人犯がいるようには見えない。私が気付かない内に、あの建物から出て行った人間がいるのだろうか?
ともかく被害者の身許も分っていないのでは、この中に関係のある人間がいるかどうか、割り出しようもない。――すると、さっきから手を握り合っていたアベックの女の方が、顔を上げて、
「ねえ、トイレ行っていい?」
「ああ、いいとも」
私は肯いた。「確か廊下の突き当りだったよ」
チリチリの髪の、派手な化粧の女は、やっと男と握り合っていた手を離して、立ち上がるとドアの方へ歩いて行った。――夕子は今やすっかり子守りよろしく、ドアの傍に赤ん坊を抱いて立っていたのだが、女がドアを開けようとしたとたん、どうしたのか赤ん坊がギャーッと泣き始めた。重苦しい静けさの中にけたたましく泣き声が響いて、みんな一瞬ギョッとした。部屋を出ようとした女もはっと赤ん坊の方へ顔を向けたのだが――その時、女の手から、床へパタッと落ちたものがあった。
「おい!」
私は鋭く叫んだ。「それは何だ!」
私の目は、それが二、三センチ四方のビニールの四角い袋で、白い粉末が中に入っているのを見て取っていた。女が息を呑む。
「畜生!」
男の方が席を蹴って立ち上がる。「逃げろ!」
女がドアを開けて廊下へ飛び出す。私は原田に、
「そいつを押えとけ!」
と男の方を任せて、女の後を追った。何しろ女はえらく|踵《かかと》の高いハイヒールをはいているから、走り出したものの、すぐに転んでしまって、あっさり降参した。
「チェッ! もうちっとでトイレに流しちまえたのに!」
とブツブツ言う女を引張って部屋へ戻ると、相棒の男の方は壁際でのびている。
「おい、原田、のしちまったのか?」
「いえ、逃げようとしたんで胸をドンと突いてやったんですがね、そしたら勝手に壁まで飛んで行ってぶつかっちまったんです」
と原田は真面目な顔で言った。「ところで、その落っこちてるのは何です?」
「ヘロインらしいな。――そうだろ?」
と私がいうと、女はふてくされた顔でデンと椅子に座って、
「そうだよ」
と開き直ったように言った。
「たぶんそっちの兄さんの方が|売《ばい》|人《にん》なんだろう。ヤクを手渡そうとした所に警官が来て、しまい込むわけにも捨てるわけにもいかず、ずっと手に握ってたわけか。道理で手をつないでるはずだよな」
赤ん坊の方は夕子にミルクを飲ませてもらって、おとなしくしている。
「おい、その哺乳びん、どうしたんだ?」
「さっき近くにいた警官に買って来てもらったのよ」
「人使いの荒い奴だな!」
「でも、この子のおかげでヘロインが見つかったじゃないの」
「それもそうだな」
私は、キュッ、キュッと音をたてながらミルクを飲んでいる赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「名探偵の素質があるのかもしれないわ」
夕子はまるで自分の子供みたいに得意顔である。私は女の方へ向き直って、
「おい、この殺しの方はどうなんだ? 素直に吐けよ」
女は真っ青になって、
「知らないよ! ほ、本当だよ! 殺しなんてやらないよ! 私はただこいつからヤクを買おうとしただけだよ、信じてよ、ねえ!」
「ゆっくり調べてやるさ。そう急ぐな」
と私は言った。ちょうど男がウーンと|呻《うめ》きながら起き上がろうとしていた。
「やれやれ、被害者の身許が分らんことにはどうにもならないよ」
私はコーヒーをすすった。――もう、暗くなりかけている。私と夕子は駅前の喫茶店で一息入れていた。
「そうねえ。……あのヘロインを持ってたアベックはどうも人殺しなんかしそうもないわね。すると残る二組――」
「一方はちゃんとした会社勤め、もう一方は学生同士。――まあ、動機次第ではあるが、どうもピンと来ないね」
「殺された女の人は何も持ってなかったの?」
「そうなんだ。バッグも何もなし」
「遊園地の中で落としたのかもしれないわ」
「一応、事務所へ届けられた落とし物を調べてみたが、あの女のものらしいのはなかったよ」
「そう……」
夕子は考え込みながら、傍に置いた乳母車の中の赤ん坊を眺めた。「ねえ、あなたが口をきいてくれると助かるんだけど……」
「全くだな。――しかし、この子をどうするかなあ。身許が分って、引き取り手があるまでは警察病院へでも預けておくか」
「あら、何言ってるの。この子のことは任せといて」
私はびっくりして、
「おい! まさか、君――」
「ちゃんと面倒みるわよ。ねえ、赤ちゃん」
夕子はいつも私に見せる皮肉な微笑とはまるで違う、優しい笑顔で言った。
「君が子供好きとは知らなかったね」
「あら、そう? だっていつも大きな子供と付き合ってるんだもの、慣れてるわ」
憎まれ口はやはり夕子そのものだ。赤ん坊がむずかって泣き出した。
「あら、おしめが濡れたんだわ。ね、あなた、その紙袋から紙オムツを出して」
「やれやれ……」
夕子は赤ん坊を傍へ寝かせると、割合慣れた手つきでオムツを換え、ビニール袋へ濡れたやつを入れた。
「なかなか巧いもんじゃないか。育てたことあるのかい?」
「実はね、私には娘が二人、孫が三人いましてね」
夕子は真面目な顔でそう言って、ニヤリと笑うと、「これでもう、いつ本番[#「本番」に傍点]になっても大丈夫よ!」
私は咳払いして、
「それじゃ、まあ……取りあえず結婚式を挙げてだね……」
「あら、式なんていいわよ、出来ちゃってからあげれば」
とゾッとするようなことを言って、「さっきからこの子の面倒みてると可愛くって。自分の子供が欲しくなって来たわ」
「また急に母性本能にめざめたもんだな」
と私は苦笑した。夕子は急にふっと顔を上げて、
「そうだわ! どうして気が付かなかったんだろう!」
「何をだい?」
「ねえ、あの殺された女性は、最初から[#「最初から」に傍点]バッグや袋のような物は持ってなかったのね?」
「そうだよ。つまり僕の知ってる限りでは、ってことだがね」
「妙ね。――赤ちゃんを連れて出る時は、必ずオムツのかえや哺乳びんくらいは持って出るものよ」
「それを持っていなかった、ってことは……」
「どこかへ置いて来たのか、でなければ、遊園地の近く[#「遊園地の近く」に傍点]から来たか、どちらかだわ」
「そうか! すると彼女、この近くに住んでいるのかもしれないぞ」
「きっとそうだわ。あなたがこの子を預かってから、私がオムツをかえてあげるまでにずいぶん時間があったわ。――きっとまだ、かえたばかりだったのよ」
「この近くには、そんなに家はないからな」
「駅前に並んでる民間のアパートあたりが可能性ありそうね」
「よし、写真の焼増を作らせて明日早速当ってみよう」
私はホッとしてコーヒーを一気に飲んだ。とたんにむせ返ってゴホン、ゴホンと咳込むと、夕子は笑いながら、
「ほら、赤ちゃんまで笑ってるわよ。――笑った、笑った。バア!」
いささか、名探偵のイメージに外れていると言わざるを得ない光景であった。
3
翌日、上司の本間警視へ事件を報告すると、警視はいつもの通り無関心そうに肯くだけだった。
「――そんなわけで、被害者の身許も、巧く行けば今日中に割れると思いますが」
「そうか。分り次第教えてくれ」
「はあ。それから――」
と言いかけて、私は言葉を切った。捜査一課の部屋の中に、けたたましく赤ん坊の泣き声が響きわたったのだ。
みんなが呆気に取られている中、夕子が、赤ん坊を抱いてあやしながらのこのこやって来た。
「おはようございます」
とにこやかに本間警視に笑いかける。「可愛い子でしょう?」
本間警視もむろん夕子のことはよく知っているが、さすがに目を丸くして、しばし口がきけないらしかった。
「お、おい、こんな所に連れて来ちゃ困るじゃないか」
と私が言うと、本間警視がジロリと私の方をにらんで、
「おい、宇野君。これはいかんぞ」
「はあ。どうも申し訳も……」
「こうまでなっとるとは知らなかった。こうなったら、すぐに結婚しろ。わしが仲人をやってやる」
「――ち、違うんですよ!」
私は慌てて説明した。
「何だそういうことか」
本間警視は笑って、「しかし、もしその用がある時は言ってくれ。仲人はつとめてやる」
「ありがとうございます」
夕子は平気なものである。私の方は冷汗をかいているというのに。そこへ、中江検死官が書類を手にやって来た。
「検死報告です」
「ああ、ご苦労」
「所見に変更はありません。絞殺しておいてぶら下げたんですな」
「するとかなり力がある奴の犯行ということになるね」
と私が訊くと、中江は肯いて、
「まあそうだね。しかし、あのロープはそう高い所にあったわけじゃない。普通の男の力なら、必死になれば何とかできたろう」
と言ってから、夕子の抱いている赤ん坊に気付いて、「――その子は、宇野君の?」
「昨日の被害者の子供だよ!」
私は憤然として言った。
「そうか……。可哀そうになあ」
中江はじっと赤ん坊の顔を覗き込んでため息をついた。「親の顔も知らずに育つわけか。――身許は分ったのかい?」
「いや、まだだ」
「そうか。この子にいい引き取り手が見つかるといいな」
何だか寂しそうにそう言うと、中江は行ってしまった。本間警視はタバコに火を|点《つ》けながら、
「中江は一年前に娘さんを亡くしとるんだ。二十二、三じゃなかったかな。地方の大学へ行っていたんだが、事故に遭ったとかでね。――確か結婚話もあったというから、生きていたら、今頃はこんな孫の顔も見られたかもしれんのにな」
「それで寂しそうなんですね……」
夕子はしみじみと赤ん坊の顔を見おろして、「あんたは元気に大きくなりなさいよ」
と言った。
私の机の電話が鳴るのが聞こえて、駆けつけて受話器を上げると、
「宇野さんですか?」
と原田刑事の声が聞こえて――いや、|轟《とどろ》いて来た。「分りましたよ、昨日の女! 宇野さんのお見立て通り、駅の近くのアパートにいました! さすがですねえ!」
「分ったから、少し低い声でしゃべってくれ」
と私はクラクラする頭を振って言った。
「何だか引っかかるわねえ」
また夕子のお得意のセリフが始まった。
「何が引っかかるんだい?」
と私は訊いた。――原田が見つけた、女のアパートへ向かうパトカーの中である。夕子は相変らず赤ん坊を抱いたままだ。子連れ探偵ってところか。
「絞め殺しておいて、あそこへ吊り下げたっていうんでしょ?――でもちょっと不自然じゃない? いつ見物客が来るかも分らないのに、そんな手間のかかることするかしら?」
「一か八か、夢中だったんだろ」
「いくら首を吊ったように見せかけても、後で調べれば分っちゃうのに、それぐらいのこと考えなかったのかしら?」
「殺人犯がみんな警察の科学捜査の水準に詳しいわけじゃないからね」
「それはそうだろうけど……。ああ、腕がしびれちゃった。ちょっと代ってよ」
「ああ」
私は夕子から赤ん坊を受け取り、おっかなびっくり腕に抱いた。
「軽いみたいだけど、ずっと抱っこしてると段々重くなって来るのよ」
と夕子は手を振った。「……それにね、もう一つ引っかかることがあるの」
「よく引っかかるんだな。何だい?」
「あら! ひっかかってるわよ」
「だから何が引っかかってるんだい?」
「ひっかかってるってば! ほら――」
「ワッ!」
慌てて赤ん坊を持ち上げると、生温かい液体が私の背広へ|滴《したた》り落ちて……。
「――やあ、宇野さん」
パトカーを降りると、原田がやって来た。
「あれ、上衣、どうしたんですか?」
「ちょっと濡れちまってな」
「ははあ……。流れたんですか、質屋で」
「つまらんことを心配するな」
私はワイシャツ姿で歩き出した。夕子はパトカーの座席で赤ん坊のオムツを取り換えている。パトカーを平気で託児所のかわりに使えるのは夕子ぐらいだろう。
「この〈安西〉って部屋ですよ」
と原田が言った。――ごくありふれたモルタル造りのアパートで、部屋は二階の取っつきだった。
「誰もいないのか?」
「ええ、若い亭主がいるようですが、留守だそうで」
「捜査令状を取って中を調べよう」
「分りました」
私は、そばに立っている隣の奥さんらしい中年の婦人へ、
「写真をご覧になりましたね?」
「ええ。確かにここの奥さんですよ。殺されたんですってね? 怖いこと!」
「ご主人は何をしている人です?」
「何だかブラブラ遊んでることが多いようですねえ。――どう見てもまとも[#「まとも」に傍点]な人じゃありませんわ」
こういう「どう見ても」は、かなりの先入観を伴っていることが多いので、割り引いて聞かなければならない。
「じゃ、毎日、出勤して行くという生活ではなかったんですね?」
「全然! 昼前に起きてりゃいい方だったんじゃないですか」
「よく暮らしていけましたね」
「何でも、お姉さんがいて、お金を出してくれてたようですよ」
「ご主人の方のお姉さんですか?」
「ええ、確かそう言ってましたね」
「夫婦仲は巧く行ってましたか?」
「いいえ、とんでもない」
とその婦人は顔をしかめた。「喧嘩しない日の方が珍しいくらいでしたよ」
「原因は何です?」
「さあ……別に注意して聞いてたわけじゃないですけど……」
「そりゃもちろんそうでしょう」
と私は肯いた。相手はホッとしたように、
「でもねえ、壁が薄いもんですから、よく聞こえるんですよ」
「なるほどね」
どうせ耳を澄ましていたに違いないのだ。早く言ってくれよ!
「で、どんな原因で喧嘩してました?」
「やっぱりお金のことが多かったですね。|稼《かせ》いでも、競馬や何かで一日ですっちまったりするらしいんですよ。――それに女ね」
「ご主人に愛人が?」
「年中だったようね。それにね――」
とちょっと声をひそめて、「この二人だって正式に結婚してたわけじゃないのよ」
「ほう。すると同棲してたわけですな」
「そういうことね」
「奥さんのことは何かご存知ですか?」
「さあ……。あんまり付き合いのない人でしたね。きっと家出か何かして来たんじゃないかしら。何かこう、人目をしのぶ、って感じでしたよ」
こういう女のカンは、よく当るものなのだ。確かに、あの赤いワンピースの女には、そんなイメージがあった。
「ご主人は安西――何というんです?」
「安西兼夫といいましたよ。『兼ねる』って字に『夫』ね。奥さんは『ふゆ子』」
「どういう字です?」
「『|布《ぬの》』に『由』です。布由子。――ちょっと変った名でしょう?」
「布由子、ね。分りました」
そこへ夕子が赤ん坊を抱いてやって来た。何だか十歳くらいの男の子を連れている。
「ねえ、ちょっと、この子が――」
「何だい?」
「ここのご主人を見たって言うの」
「本当かい?」
私はその子供の方へかがみ込んで、「君、ここの人、知ってるの?」
「知ってるよ。だってうち、この下だもん」
えらく汚れた子供は、グスンと鼻をすすって言った。
「そのおじさんをどこで見たんだい?」
「さっき、あの〈××ランド〉に入ってったよ」
「あの入口から? 確かにここのおじさんだったんだね?」
「うん。『おじちゃん』って言ったらびっくりしてたもの」
「いつ頃だい? どれくらい前?」
「今だよ。ほんのさっき」
「分った。いい子だね。アメでも買いな」
私は男の子へ百円やった。「――よし、すぐに調べさせよう。といっても……写真もないのか」
「うちにありますよ」
と隣の婦人が、部屋へ飛び込み、すぐに戻って来た。「ほら、これ、うちの主人の写真なんだけど、後ろの方に立ってるのが安西さんですよ」
あまり大きく写ってはいないが、一応特徴は見分けられる。私はその写真を借りて下へおりると、原田にそれを渡し、地元署の刑事の応援を頼んで遊園地の出入口を取りあえず固めさせるように言いつけた。
しかし遊園地は大変な広さである。あの中で一人の男を見つけるというのは容易ではない。今日は平日だから、そう混んではいまいが……。
「この子ねえ、真由子っていうんですって」
と夕子が赤ん坊を抱いて降りて来た。「安西真由子か。やっと名なしの権兵衛さんでなくなったわね」
「ともかくその亭主ってのが怪しいな」
「どうかしら。そういう甲斐性なしには人を殺す度胸なんてないものよ。それに奥さんを殺しといて、のこのこまた遊園地へ戻って来るかしら?」
「ふむ……。ま、そりゃそうだが」
と私も自信がぐらつき始める。「君はいつも僕を自信喪失させるんだからな」
「まあ仕方ないわね。凡人は天才を引き立てるためにあるんだから」
凄まじい自信である。
「ともかく奴の身辺を洗ってみるさ。それに、殺された布由子って女性のことも分るだろうし」
「もし|駆《か》け|落《お》ちでもして来たのだったら、偽名を使ってるかもしれないわね」
「その可能性はあるな」
「ともかく遊園地へ入りましょうよ」
「ええ? 赤ん坊を連れて?」
「そう、親子三人、水入らずの休日って図よ。これなら相手も警戒しないでしょ」
「しかしあの広さだぜ」
「ぶらぶら歩いてりゃ出会うかもよ」
夕子はパトカーから、オムツの換えやら哺乳びんをしまい込んだ手提げ袋を取って来ると、それを私に持たせて、「さて、行きましょうよ、パパ」
と言ってウインクした。
確かに、園内は昨日の混雑が嘘のような静けさで、これなら目指す相手を見つけるのも難しくないかもしれないと思えた。
昨日は気付かなかったのだが、入口のすぐわきで〈貸しベビーカー〉というのが開業していて、一日二百円、とある。何でも商売になるもんだと感心しつつ一台借りる。
昨日より、一段といい|日《ひ》|和《より》で、こうしてのんびり夕子と二人――いや、ベビーカーの赤ん坊と三人で歩いていると、まるで本当に、休日を家族で過ごしているような気になって来る。
馬鹿、これは仕事だぞ!――そう言い聞かせてみても、どうにも、心ののどかさは消えないのだった。
「なかなか……いいムードだね」
「何が?」
「ん? 何って……こう、家庭的でさ」
「そうね。これなら相手も油断するわよ」
私は肩をすくめた。どうも夕子の方はそういう気分ではないらしい。
「――そういえば、さっき何か言いかけたじゃないか」
「え? 何のこと?」
「ほら、この――真由子ちゃんが僕の上衣を濡らしてくれた時に、『もう一つ引っかかることがある』とか……」
「ああ、あれね。そうなのよ。大したことじゃないんだけど」
「何だい、一体?」
「あなたの話だと、あの殺された――安西布由子さんだっけ?――彼女、あなたに赤ん坊を押し付けて、そのまま〈殺人屋敷〉の中へ入って行っちゃった、ってことだったわね?」
「そうだよ」
「その時、彼女、入場券[#「入場券」に傍点]を買っていたのかしら?」
私はちょっと面食らった。
「入場券?――そうか。そう言えば……いや、彼女は券は持ってなかったはずだな。入る時に、入口の箱へも何も入れていなかったよ。しかし、それは急いでたから……」
「ええ、それはそうだと思うわ。ただ不思議なのはね、よく何も言われずに中へ入れたなってことなの」
「そりゃ確かに……切符売場の子が呼び止めなかったのは妙だけど……気が付かなかったんだろう」
「気が付かなかったのか、それとも、切符売場にいなかった[#「いなかった」に傍点]のか……」
「何だって? じゃ君はあの安原秋子って娘が何か――」
と私が言いかけた時、夕子は、はっとした表情で立ち止まった。
「ね、ほら! あそこに立ってる人……」
「え?」
夕子の視線を追って目を向けると、そこに安西兼夫が立っていた。
4
安西は、ひどく落ち着きのない様子で、回転木馬のそばでせかせかとタバコをふかしていた。――写真で見た感じより小柄に見えるのは、えらくおどおどして、背を丸めるように立っているせいだろう。
しかし、間違いなく安西だ。
「こうすぐ見付かるとはなあ」
「だから言ったでしょ。私たちと一緒ならすぐ見付かるって」
「そんなこと言ったか?」
「どうでもいいわよ。早く捕まえたら?」
「逮捕するってわけには行かないが、任意同行を求めるぐらいのことはできそうだな」
「気を付けて。ピリピリしてる感じよ」
「心配するな」
私は安西の方へと歩いて行った。――油断していたわけではないのだが、考えていた以上に安西は|怯《おび》えていたようだ。
「安西兼夫さんですね」
と声をかけると、カッと目を見開き、
「畜生!」
と一声、身を|翻《ひるがえ》して逃げ出したのだ。いつもなら逃がすものではない。
「待て!」
とこちらもダッシュして駆け出したのだが、安西は、目の前へ出て来た子供を抱いた若い母親を、猛烈な勢いで突き飛ばしたのである。母親は悲鳴を上げて転がり、子供は投げ出されて回転木馬の柵へもろにぶつかってしまった。はっとして足をとめ、気を失っている母親を抱き起こす。子供は地面に倒れて泣き出した。夕子が走って来て、
「私が引き受けるわ!」
「頼むぞ!」
私は安西の後を追って走った。しかし安西の方はもう大分先を走っている。向こうも死にもの狂いになっているので、なかなか差は縮まらなかった。
安西は、フィールド・アスレチックの方へと走っていた。自然の地形や、緑がかなりそのままに残してある丘で、そこへ入り込まれて、姿を見失ってしまったら厄介だ。しかしとても追いつけそうもなかった。
その時、
「宇野警部!」
と呼ぶ声がした。走りながら頭をめぐらすと、昨日会った地元署の山形刑事がやって来る所だった。
「そいつを追っかけろ!」
と私は大声で怒鳴った。山形刑事の方が、安西に近い位置にいたのだ。一瞬キョロキョロと周りを見回していた山形刑事も、すぐに安西に気付いて走り出す。
安西は追手が増えたとみると、向きをかえて、茂みの間へ道を駆け降りて行った。下はボートを漕ぐ池になっている。
巧いぞ! これなら追いつけそうだ! かなり息切れはしていたが、もうひとふんばりと自分を励まし、坂道を駆け降りる。
そして――池を見渡す所まで来て、足を止めた。安西の姿が見えない!
「畜生! どこへ行った!」
必死にあたりを見回していると、山形刑事が駆けつけて来た。
「いや……大丈夫ですか、宇野警部?」
と|喘《あえ》ぎ喘ぎ言う。
「ああ、死にやしないよ。それより……奴の姿が見えなくなっちまった」
「変ですなあ……。この池は低くなってるんで、今の道しかないはずですが……」
平日のせいか、池にはボートを漕ぎ出す恋人たちの姿もなかった。
「きっとどこかに隠れてるんだ。池の周囲を一回りしてみよう」
私と山形刑事はまだ肩で息をつきながら歩き出した。
「あの上は何だい?」
と私は訊いた。池の中央から二本の鉄骨が三十メートル近い高さまでのびて、ずっと上を通るレールらしきものを支えている。
「あれはジェット・コースターのレールですよ」
と山形刑事は説明した。「今流行の三六〇度回転ってやつで。乗ったことありますか?」
「いや、ないね」
「凄いもんですよ。私も子供にせがまれて一緒に乗りましたがね、こっちが気が遠くなりそうになって……」
「遊園地のPRはいいよ」
と私は言った。――そこへ、ゴーッと音をたてて、頭上をジェット・コースターの車両が駆け抜けて行った。
池の周囲を一巡りしたが、安西の姿はなかった。
「逃げられたかな」
「妙ですねえ。他へ逃げる時間はなかったと思いますが……」
「しかし実際にいないんだからな」
「はあ、そうですね。しかし三箇所の出入口は固めてあります。遊園地からは出られやしません」
「相手は必死だ。何をやらかすか分らんぞ。事務所へ連絡して遊園地から客を出してもらおう。子供を人質に取られでもしたらこと[#「こと」に傍点]だ」
「分りました」
池から坂を上りかけると、夕子がベビーカーを押してやって来た。
「ここにいたの。どうした?」
「おい、赤ん坊なんか連れて来ちゃ危いじゃないか」
「だって相手は父親でしょ。子供を見れば少しは落ち着かせられるかと思って……。逃がしたの?」
「ここまで追って来たんだが、見失ったよ。しかし、逃げられやしない。出口は見張ってるからな。――おい、どうしたんだ?」
夕子がずっと上の方へ目をやっているので、私は訊いた。
「あそこを見て!」
振り向いて、私は目を見張った。――安西が、あの高い鉄骨をよじ登っているのだ!
「あいつ、いつの間に。そうか、池へ飛び込んで鉄骨の下まで泳いで行ったんだな」
「どうするつもりでしょう?」
安西は、見かけによらない身の軽さで、ほとんど鉄骨を登り切っていた。
「どうするつもりも何もないんだ」
と私は言った。「追いつめられると、ともかくどこでもいいから駆け出したくなる。あんな所へ行って、逃げられっこないのに」
「レールの上を歩く気かしら?」
「気狂い沙汰だ!」
私は山形刑事へ、「おい、急いでジェット・コースターを停めさせろ!」
と怒鳴った。
「は、はい!」
山形刑事が慌てて駆け出す。そうする内に、安西は鉄骨を上りきり、狭いレールの上を、よろよろと歩き始めた。
「馬鹿め! 落ちるぞ!」
「しっ!」
夕子が鋭く言った。「音が……。ほら」
耳を澄ますと、ゴーッという響きが近付いて来た。
「大変だ、はね飛ばされるぞ!」
私は精一杯、大声で、「安西! 危いぞ! 下りるんだ!」
と叫んだ。しかし、安西の耳には全く届かないようだ。
「聞こえないのか!――安西! 下へぶら下がれ! はねられるぞ!」
「来るわ」
ゴーッという響きがぐんぐん近付いてきた。――その寸前に、安西はやっと振り向いた。しかし、もう遅かった。夕子が短い声を上げた。
安西の体は三十メートルの高さを一気に弧を描いて落ち、池へと突っ込んだ。水しぶきが上った……。
「やれやれ」
引き上げられた安西兼夫の死体に布をかけて、私はため息をついた。「その子もついに孤児になっちまったな」
「本当ね……」
夕子はベビーカーで、無邪気におしゃぶりをいじっている赤ん坊を見下ろして肯く。
「ともかく、これで事件の方は片が付いたわけだな」
「そうかしら?」
夕子は意味ありげに言った。「まだまだ分らないことがあるわ」
「というと?」
夕子が何か言いかけた時だった。警官の止めるのを振り切って、死体へ駆け寄った女がいた。布をめくって、
「兼夫!――ああ、何てことなの!」
と叫んだのは、安原秋子だった。
「この男は君の……」
と私が言いかけると、安原秋子は顔を涙でくしゃくしゃにしながら、
「私の……弟です」
と言った。そして両手で顔を覆うと、声を上げて泣き崩れた。
「大丈夫かね?」
私は、水の入ったコップを安原秋子に手渡しながら言った。――遊園地の事務所の一室。安原秋子は、青ざめてはいたが、もう自分を取り戻している感じだった。
「もう大丈夫です」
「いくつか質問していいかな?」
「はい」
「弟さんの名前は安原兼夫というんだね?」
「そうです。前科があったものですから、いやがって安西と名乗ってました。それに、あの――布由子さんの親ごさんに捜し出されるのもいやだったようで。二人は駈け落ちでしたから」
「昨日のことを話してくれないか?」
「はい」
安原秋子は少し間を置いてから口を開いた。
「弟は、あなたがみえる少し前に窓口へ来て、金を貸してくれと言いました。いつものことなのです。貸してやらない方が弟のためだと分ってはいても、布由子さんや赤ちゃんのことを考えると、つい負けてしまうのでした。――で、一万円だけ財布から抜いて渡しますと、『せっかく来たんだから、中を見て行くよ』と言って入って行きました。その後、あなたが来られ……。そして布由子さんが、あなたに赤ちゃんを預けて中へ駈け込んで行くのを見て、私、心配になったので、後のドアから中へ入りました。そして、あの奥の部屋に入って行った時、弟が布由子さんの首をしめていたんです」
安原秋子はちょっと目を閉じて呼吸を整えた。「――私は急いで止めました。布由子さんは苦しそうでしたが、死んではいませんでした。そして布由子さんの口から、弟が麻薬をあそこで買おうとしていたことを知ったんです。布由子さんがそれを止めようとしたので、カッとなった弟は彼女の首をしめたんです。布由子さんが話している間に弟はそっと逃げ出していました。私は気が付いて彼を追いましたが、弟は切符売場の所のドアから売場を抜けて逃げてしまいました。私は布由子さんの様子が心配でしたので、また中へ戻ってみました。すると……布由子さんが、首を吊って死んでいたんです!――私、どうしていいか分らなくなって、切符売場へ戻りました。入れ違いにあなたが中へ入られ……。後はご承知の通りです」
私は少し考えてから、
「すると、弟さんが布由子さんを殺したのではない、というのかね?」
「はい。布由子さんは生きていたんです! 弟は殺していません!」
「じゃ、誰が布由子さんを殺したのかね?」
「分りません。……私はてっきり、布由子さんが自殺したんだとばかり……」
「しかしそれは考えられないよ。検死の結果、布由子さんは手で絞殺された後で[#「後で」に傍点]吊るされたと分ってるんだからね」
「私……分りません」
安原秋子は低い声で言って、首を振った。
「――どう思う?」
安原秋子を隣の部屋へ行かせてから、私は夕子に訊いた。夕子は赤ん坊にミルクを飲ませながら、
「はっきりしてるじゃないの」
と言った。
「うん。弟を殺人者にしたくないんだろうが、いくら何でも無理だな。弟が殺してしまったのを見て、弟を逃がし、死体を自殺と見えるように吊るしたんだ。他に考えられない」
「それは変よ」
「どうして?」
「それなら最初から、弟が布由子さんの首を絞めたなんてことを認めるはずないわ。それに彼女の力で、死体をかつぎ上げて吊るすなんてことできないわよ」
「じゃ、今の話は事実だっていうのかい?」
「そうとしか思えないわね」
「すると殺したのは……そうか、あのヘロインを持ってた奴だな。話を立ち聞きしていて、警察へ通報されるのを恐れて――」
「それなら絞め殺すだけですむわ。ちゃんと他に容疑者がいるんですもの。わざわざ自殺に見せかけることないわ」
私はお手上げだった。
「じゃ一体、君が言う、その『はっきりしてる』っていうのは?」
「布由子さんは自殺だった[#「自殺だった」に傍点]のよ」
と夕子は言った。「ご主人に殺されかけて、絶望し、発作的に、目の前の絞首刑の人形を見て、首を吊ろうと決心したのね」
「しかし、検死の結果は――」
その時、部屋の隅の電話が鳴った。
「ちょっと代って」
夕子は赤ん坊と哺乳びんを私に任せると、受話器を取った。
「はい。――ええ、永井夕子です。――そうですか。やはり。――分ります。待って下さい」
夕子が私の方へ受話器を差し出した。私はまた赤ん坊を夕子へ返して、受話器を手にした。
「宇野です」
「検死官の中江だよ」
「やあ。どうしたんだ?」
「いや、さっき君の恋人から電話をもらってね。――彼女の言う通りさ」
「何が?」
「あの被害者は自殺だ。首に絞めた手の跡はあるが、死因は首を吊ったせいなんだよ」
「何だって? 君はそれを分ってて――」
「布由子は私の娘なんだ」
私は絶句した。
「布由子は一年前に、やくざな男と駈け落ちして姿を消したんだ。私は娘が事故で死んだとみんなには言っておいた。自分でもそう思おうとした。しかし、昨日――やつれ果てたあの子が首を吊って死んでいるのを見て……。やはり娘は娘なんだよ。自殺とは分っていたが、その前に誰かが首を絞めかけていた。きっと娘と一緒に逃げた男に違いない、と思った。そいつに何としても償いをさせてやりたかったんだ。自殺と報告を出せば、殺人事件ではなくなる。奴を殺人犯として追われるようにしてやりたかったんだよ。――奴は死んだそうだね」
「ああ……。死んだよ」
「そうか。――目的は果たした。報告書は書き直す。そして辞表を出すよ。厄介かけてすまなかったな」
「中江さんは今日、辞めたよ」
私は言った。夕子は肯いて、
「そう。――気持は分るわ。気の毒にね」
喫茶店の窓越しに、乳母車を押して行く母親の姿が見える。
「それにしても、自分の娘の検死をするはめになるなんて、偶然というにもあんまりね」
「警視庁に検死官は室長を入れても、五人しかいないからね。まあ中江さんが当ってもそう不思議じゃないよ。それにしてもよく分ったな」
「だって他に考えようがなかったのよ。――あの状況はどう見ても自殺だわ。安原秋子の話も嘘とは思えなかったし。そうなると、検死の結果が違っているとしか考えられないじゃないの」
「僕は考えもしなかった!」
「この世に絶対なものなんて存在しないのよ」
と夕子はちょっと哲学めいたことを言った。「それで、ふっと本間さんの話を思い出したの。中江さんに二十二、三の娘さんがいた、っていうのをね。で、本間さんへ電話してその娘さんの名を訊いてみると、『確かふゆ子だった』、って聞いてね。それですべて分ったわけ」
「やれやれ、気の重い事件だったな」
と私は大きく息をついた。「ところで、あの赤ちゃんは?」
「真由子ちゃんって名前があるのよ」
「これは失礼」
「中江さんが育てるらしいわよ。娘さんの忘れがたみですものね」
「そうか。警視、そんなこと何も言ってなかったぞ」
「でも……可愛い子だったわねえ」
夕子は窓の外をぼんやり眺めて、「ほんの二、三日でも面倒みると、情が移るもんなのね。中江さんに渡す時、ちょっと寂しかったわ」
私は一つ咳払いをして、
「ねえ、夕子。僕らも……そろそろ、どうだい?」
「え?」
「その……つまり……この辺でけじめ[#「けじめ」に傍点]をつけちゃどうかと思ってね」
「その事なら、私も決心してるのよ」
「本当かい?」
と思わず身を乗り出す。
「本当よ。あなたが停年になるまでには、けじめをつけようって決心したの」
夕子はそう言ってにっこり微笑んだ。
第二話 青ひげよ、我に帰れ
1
私は|大欠伸《おおあくび》をした。
永井夕子が見たら、きっとまた、「カバの親類だったの」とでも皮肉を言うだろう。
しかし、警視庁捜査一課の警部だって、欠伸ぐらいするのである。別に、暇で退屈で仕方ないから欠伸をしたのではなく、仕事、仕事で寝不足の日が続いているのだ。
しかし、この日は珍しく忙中閑ありで、一日中、電話待ちというわけだった。もちろん事件を抱えてのことだが、待っている電話が来ないことには、身動きが取れないのである。
「早く連絡して来ないかなあ」
私は立ち上って伸びをすると、ぶらぶらと原田刑事の机の方へと歩いて行った。しかし、原田は机に覆いかぶさるようにして、何やら必死で見つめている様子。もしかして――というのも変だが――証拠写真でも見ているのかと、いささか遠慮がちに、原田の、陸上競技場みたいな背中の後ろに立って、エヘン、と|咳《せき》|払《ばら》いをした。
原田は、振り向いて私の顔を見ると、
「宇野さん!」
と目をむいて、あわてて見ていた物を手で隠した。「な、何かご用ですか?」
「おい、隠すところをみると、さてはビニ本か何かか?」
私はニヤリと笑って、「そんなにあわてなくたっていいじゃないか」
「と、とんでもない!」
原田はむきになって、「私はそんな物は決して見ません!」
「じゃ、何だ? 見せてみろよ」
「いいえ、これだけは宇野さんには見せられません」
「俺には[#「には」に傍点]、ってのはどういう意味だ?」
「宇野さん、私を信じて、ここは黙って見逃して下さい。宇野さんのためを思って、見ない方がいいと言ってるんです」
本当に見せたくないのなら、これは最悪の説得である。そう言われりゃ、誰だって見たくなるではないか。もっとも原田は、わざと逆説を使って相手の好奇心をかき立てるなんて、器用な真似のできる男ではない。
きっと本心から「見せたくない」と思っているのだろう。
「いいから見せてみろよ」
「宇野さん、それならいっそ私を殺してから――」
「馬鹿! 新派じゃないぞ」
私は原田が隠していた物を、手を伸ばして素早く取り上げた。「――何だ、普通の週刊誌じゃないか」
いわゆる芸能週刊誌というやつで、私などから見ると、スターがくっついたり離れたりするのを、どうしてそんなに面白がるのか、全く理解できない。
「これがどうして俺と関係あるんだ?」
と言いながら、開いてあったページを眺める。記事不足を埋めるためか、ドーンと、見開きページを斜めにぶち抜いて、大々的な見出しがついていた。
〈芸能界の青ひげに四人目の妻?〉〈夫人三人を続いて事故で亡くした大谷進二(36)に女子大生の恋人!〉〈お熱いデート現場をキャッチ!!〉〈「私の大事な人です」と……〉
アホらしい。大体、大谷進二なんて聞いたこともないのだ。役者か歌手か、はたまた近頃よくある、〈タレント〉という意味不明の人種の一人か。これが俺と一体どういう関係が……。
ふと、そのスクープ写真なるものへ目を向けた。趣味の悪い上衣を着て、髪をだらしなくくしゃくしゃにした、骨ばった男が、若い女性と腕を組んで……。
私は、しばらく呆然と、その写真の女性に見入っていた。――永井夕子だった。
「宇野さん、大丈夫ですか?」
原田がそっと私の肩へ手をかけて、気味の悪い声を出した。慰めているつもりらしいが、怪獣がこれから食べる獲物へ、おとなしく食われろよと説教しているみたいだ。
「あ、当り前だ」
「胸中はお察しします」
どうも原田は肝心のときは察しが悪くなるくせに妙なところで察してくれる。
「これが夕子だってのか? 他人の空似だよ。こんなボヤけた写真じゃ――」
「でも名前が入ってます」
「ん?」
記事を見ると、なるほど〈問題の女性は、T大学四年生、永井夕子さん(22)で……〉とある。
「まあ、夕子だって、たまには変った相手と付き合いたくなるだろうさ」
「でも、結婚したいって話してるそうですよ」
「こんな記事、あてになるか」
私は席へ戻って、机に足を投げ出した。平静を装っていたが、やはり心中は穏やかでない。何しろ夕子は二十二歳。私は冴えない四十男と来ている。
そうなりゃなったで、潔く身を引くだけさ、と、私は自分へ言い聞かせた。しかし、夕子がよりによって、そんな軽薄の標本みたいなプレイボーイに|惚《ほ》れたりするだろうか?
電話が鳴った。――仕事、仕事。
「はい、宇野です」
「あら、珍しく真面目に働いてるのね」
「君か……。あの……今、仕事の電話を待ってるんだよ」
夕子である。何ともタイミング良くかかって来たものだ。
「あら冷たいのね。――あ、さては、読んだのね、そうでしょう?」
「な、何のことだい?」
「隠したってお見通しよ。週刊誌を見て、シットに狂ってんのね」
「馬鹿言え、そんな――」
「そのことでね、話があるの。今夜、九時にNホテルのバーで待ってるわ」
「今夜は仕事が――おい、もしもし?」
電話はもう切れていた。相変らずの夕子である。しかし、何の話だ? 別れ話なら、バーとはやけ酒にちょうどいい。
「殺人鬼だって?」
私は思わず声を上げた。
「シッ!」
夕子がたしなめて周囲を見回す。ホテルのバーは、空いていて、近くに客の姿はなかった。
「いやねえ、捜査一課の警部さんともあろう人が、そんな大声出して」
と夕子は私をにらんだ。
「ごめん、ごめん。しかし突然そんなことを言い出されたら、びっくりするよ」
夕子は、ぐっとシックな濃いブルーのワンピース姿で、カクテルのグラスを傾けた。
「すると――」
私は声を低くして言った。「大谷進二って奴が、誰かを殺したっていうのかい?」
「あの記事を読んだんでしょ? だったらピンと来なきゃ、警部なら」
私はちょっと詰まったが、
「君の写真に見とれてたもんだから、記事の方はあんまり頭へ入らなかったんだ」
と言った。
「それなら分るわ」
夕子はニッコリと笑った。大分扱いのコツを覚えて来た。
「大谷進二はね、ちょっと前の二枚目役者なの。でも、大してパッとせず、今はTVのメロドラマで憎まれ役なんかをやってるのよ」
夕子は、カクテルをもう一杯注文してから、説明を続けた。「ところが、彼のニックネームが〈青ひげ〉。知ってるでしょ、次々に奥さんを殺した――」
「青ひげぐらい僕だって知ってる!」
と私は腕を組んだ。
「威張らないの。――大谷と結婚した女性はね、三人とも交通事故で死んでるのよ」
「ふーん。財産家の娘か何かなのかい?」
「いいえ。そんな家が役者との結婚を許すはずはないじゃないの」
「それじゃ、殺して何の得が――」
と言いかけて、「そうか。保険金だな」
と肯く。
「そう。三人とも生命保険に入っていて、受取人は大谷だったのよ」
「しかし妙だな。いつのことだいそれは? そんな怪しい話があれば耳に入るはずだがね、それに、保険会社だって、そうたやすく金を払いやしないはずだよ」
「怪しまれるほど多額の保険金じゃなかったのよ。そこが頭のいいところね。それに、もちろん調査はあったはずだけど、事故という結論になったのね」
「――それを君は気に入らない、ってわけだね?」
「そう。――見て、これを」
夕子はバッグから手帳を出して、私の方へ開いてよこした。三人の女性の名前が書いてある。〈安藤(旧姓)紀子、25歳、結婚後三年。本田由美江、24歳、結婚後一年半。森奈美子、23歳、結婚後九カ月〉
「お気付きの点をどうぞ」
と夕子が言った。
「被害者の年齢が一つずつ若くなってるな。それから結婚して死ぬまでの期間が短くなって来ている」
「そう。――それはどういうことか、四百字以内で答えよ」
「よせよ、テストじゃあるまいし」
と私は顔をしかめた。
「あら失礼、いつも零点だったのを思い出させちゃったかしら」
「おい!――まあ、ともかく、言えることは、最初の一件は本当の事故かもしれん、ってことだな。殺す気で結婚したのなら三年は長すぎる。結婚してしばらくして殺したくなったか、それとも事故か。後の二つは怪しいな。最初の保険金で味をしめて、それ目当てに結婚したとも考えられる」
「そこで、問題は次なる被害者よ」
夕子はそう言って、頬杖をついた。「二十五歳、二十四歳、二十三歳、と来てるんだから、お次は……」
「二十二か。それだけの理由で、君はこの男に近付いたのか?」
「違うわよ」
夕子は真顔になって、「三番目の犠牲者になった奈美子さんは私の大学の先輩なの」
と言った。
「敵討ちかい? 相変らず物騒なことをしてるんだなあ」
「あら、だって、警察が何かしてくれるの?」
そう言われると弱い。しかし、だからといって、夕子がそんな奴の|罠《わな》へとみすみすはまりに行くのを見捨ててはおけない。
「しかしねえ……。奴に近付いて、どうしよう、ってんだ? 殺されるのを待つのかい?」
「それじゃ結婚しなきゃならないじゃないの。いくら何でも、そこまでやらないわよ」
「そ、そうか」
私はあわてて、「やめろ! 絶対に許さんぞ!」
と指をつきつけた。
「ご心配なく。今のところキスしか許してないわよ」
「何だって? 君はそんなことまで――」
「だって、それぐらいは仕方ないでしょ。捜査のためよ。やきもちやかないの。大人げないわよ」
「悪かったね。どうせ中年のひがみだ」
夕子はちょっと吹き出した。
「可愛いわね。そういうところが好きなのよ。――だから、今日はホテルへ来たんじゃないの」
私がキョトンとして夕子を見ると、
「部屋をとってあるの。久しぶりだから、泊って行きましょうよ」
と言って、軽くウインクした。若々しさと色気がちょうど最高のバランスを保っているようで……。コロリと参った。
「それじゃ、早速――」
「慌てないで。ゆっくり飲ませてよ」
と言って、夕子はふとバーの入口へ目を向けた。「ね、ちょっと席を移って」
「え?」
「早く! グラスを持って他のテーブルに!」
どうやら、見られてはまずい相手が入って来たとみえる。私はグラスを手に、目立たないように素早く二つ離れたテーブルへ移った。
そして何気ない仕草で、入口の方を見た。若い女が、バーの中を見回している。夕子に目を止めると、ツカツカと夕子のテーブルへやって来た。
長身で、スポーティな細身の女性である。ぴったり足へ貼りつくようなスラックス姿だ。美人ではあるが、見るからに勝気そうな顔立ちである。たぶん夕子と同じくらいの年齢だろう。
「ちょっと、あんた!」
とその女性は夕子へ挑みかかるように言った。「永井夕子っていうの、あんたね?」
「ええ、そちらは?」
どうやら夕子も初対面のようである。
「私はね、長山浩子」
「何か私にご用かしら?」
「あの人から手を引いて」
「あの人、って?」
「とぼけないでよ!」
急に大声を出して、長山浩子と名乗った女は夕子のいるテーブルをバンと手で叩いた。数人いた客が、びっくりして振り向く。――もちろん、こんなことでびくつく夕子ではない。
「大谷さんのこと? あなた、あの人とどういう関係?」
と夕子が|訊《き》くと、長山浩子はぐっと胸をそらして、言った。
「私はね、大谷進二さんの婚約者よ。何か言うことある?」
2
波が岩をかんで、しぶきが、崖の上まで強い風に乗って吹き上げられて来る。
大型クレーンが、崖の上から、その長い手を、灰色の海の上へと差しのべていた。下の岩の所へ下りていた連中が手を振る。
私はクレーンの方へ肯いて見せた。モーターが|唸《うな》り、クレーンの腕が細かく震えた。
ワイヤーがピンと張って、モーターに逆らった。モーターが、キリキリと音を立てながら、ワイヤーの抵抗にも|拘《かかわ》らず、巻き取り始めた。
下の海面を見ていると、やがて、ワイヤーが、半ば|潰《つぶ》れた車体を海の中から、引き上げる。海水が滝のように流れ落ちて、岩の上にいた刑事たちがあわてて散った。
クレーンの腕がゆっくりと上がり、かつ、ワイヤーも巻き取られて、車体はクルクルと回転しながら、宙に吊り下げられた。車が崖より上へ来ると、クレーンの操縦席が回転し始め、車体が崖の上へ近付いて来る。
それを少し離れて眺めていると、車の音がした。振り向くと、夕子がタクシーから降りて来る。
「よく分ったな、ここが」
と私は言った。「原田の奴だな?」
夕子はそれには答えず、車が――いや、かつて車だった鉄屑が、崖の上の道の端に静かに降ろされるのを見ていた。
「長山浩子さんは?」
と、夕子が訊いた。
「分らん。これに乗っていたらしいんだが……。調べてみないとね」
私は、車が下ろされると、急いで近付いて行った。車体は、崖から真直ぐに落ちて、下の岩へ激突、海へと転落したらしく、前半分はぺちゃんこだった。
「ひどいもんね」
と夕子は言った。「中に死体がある?」
私は|覗《のぞ》き込んで、首を振った。
「いや、ないようだ。ドアが開いてるからな、流されたんだろう。早速手配しよう」
「とうとう四人目か……」
夕子が、車を見ながら言った。
「下手をすりゃ、今頃君がこうなっていたかもしれないぜ」
「そうね、確かに」
と夕子は肯いた。「でも、これで少しは警察も動く気になってくれるでしょ?」
「そうだな。しかし……この長山浩子に関しては、ちょっと話が違うじゃないか」
「そうね。まだ彼女、大谷と結婚していなかったんですものね」
「それとも、もう保険へ入っていたのかな。調べさせよう」
あのホテルで、長山浩子を見かけてから、まだ一週間しかたっていないのである。
「例の大谷進二の家はこの道の先なのよ」
と夕子が言った。
「すると、彼女はそこへ行く途中だったのかな」
「そうでしょうね」
夕子は肯いて、「そして、このカーブでハンドルを切りそこねた――ってことになってるのよ。過去の三人の場合はね」
「三人とも?――三人とも、ここで[#「ここで」に傍点]事故を起こして死んだのか?」
「そうよ。知らなかったの?」
夕子が|軽《けい》|蔑《べつ》の目で私を見た。
「ふむ……」
私は気にしないふりをして、道路の曲り角に立ってみた。崖沿いの道で、確かに急なカーブではある。
「しかし妙だな。そう何度も事故を起こすほどのカーブとも思えない」
「そうね。――何かあるのかもしれないわ」
夕子は考え込みながら|呟《つぶや》いた。
「全く、僕はツイてない男なんです」
と、大谷進二は言った。「浩子とはやっと結婚の約束をしたところだったんです」
――大して売れていない役者にしては、海辺に優雅な家を持ち、ガレージには外国製のスポーツカーがあり、この居間も、どうしてなかなか大したものである。
「浩子とはこの一カ月ぐらいの付き合いです」
と大谷は言った。「世間の常識からみると早過ぎるとお思いでしょうが、芸能界ではこの程度珍しくもありませんがね」
「彼女はここへ来る途中だったんですか?」
「そうです」
大谷は肯いた。「昨夜はここへ泊るはずでした……」
「なるほど。到着しないので変だとは思いませんでしたか」
「思いましたが……まあ女性にとっては重大なことですからね。考えてやめたのかと思っていました」
大谷は正に一昔前の二枚目という感じで、今のTVや映画では居場所がないというのもよく分った。
ドアが開いて、二十七、八らしい女性が、紅茶の盆を手にして入って来た。
「妹です。――こちら、宇野警部さん」
「大谷晃子です」
兄に似れば、多少美人だったろうが、どうにも目立たない、地味な女性である。
ほとんど無表情のまま、紅茶を出してくれると、さっと引込もうとする。
そこへ玄関のチャイムが鳴って、大谷晃子が、急いで出て行った。やって来たのは、素知らぬ顔の夕子である。
「やあ、夕子さん」
と、大谷は嬉しそうに立ち上って迎えた。
「大変だったわねえ。気を落とさないでね」
「ありがとう」
大谷は、ちょっと|諦《あきら》めの微笑を浮かべて、「ともかく、もう女性はこりごりだよ」
と言った。
「ところで大谷さん」
と私は話を戻して、「あなたはこれまでに三度、奥さんを亡くされていますね」
「ええ、そうなんです。お考えは分りますよ。僕だって気味が悪いんです。しかも、みんなあの場所でカーブを切りそこねて転落死しているんですからね」
「何かお考えはありますか?」
「さあ……。あの道は空いていて、ついスピードを出したくなるのは事実ですがね。でもいつもあそこで事故を起こすというのは……」
と、大谷は首をかしげる。
「特に思い当ることはないんですね?」
「ありませんね」
「長山浩子さんは、ここへ来る途中、ガソリンスタンドへ寄っています。その時間と距離からみて、事故は昨夜の九時前後だったと思われます。――その頃、あなたはどこにいました?」
「撮影を終って帰って来たのが、八時頃でしたね。九時頃は……眠ってましたよ」
「眠って?」
「ええ、えらく疲れたもんですから、食事をしたら眠くなって。十二時頃にまた起き出したんです。浩子が来るのを待っていたんですが、いつまでも来ないので、結局四時頃にまた寝ました」
「間違いありませんか?」
と、私は大谷晃子へ訊いた。晃子は、私の声に、ハッと我に返った様子で、
「あの――すみません、何でしょうか?」
と訊き返して来た。私は、晃子が、大谷と夕子の方を、不思議な目つきで見ていたことを、心にとめておいた。
夕子は、すっかりしょげ返っている大谷にぴったりと寄り添って、あれこれと慰めている。それを見る晃子の目には、まるで恋人を奪われようとでもするような、暗い嫉妬の火が燃えているように、私には見えた。
「では、私はこれで失礼します」
と、私は玄関の方へ歩きかけた。そこへ、誰やら玄関のドアをドンドン叩く音がする。いやな予感がした。晃子が急いで出て行って開けると、案の定、原田刑事の巨体が、玄関を|塞《ふさ》いでいる。
「やあ宇野さん、よかった! 入れ違いになるかと思いましたよ」
とずかずか上がり込んで来る。「お知らせしたいことがあって――」
「分ったよ、いや外で――」
と言いかけたときはすでに遅く、原田は、夕子が大谷に寄り添っているのを見付けてしまった。
「夕子さん、いらしてたんですか! いけませんな、宇野さんを放ったらかして。夕子さんに振られたら、宇野さん、たちまち停年退職ですからね」
と、堂々と[#「堂々と」に傍点]声をかける。
私は天井へ目を向けてため息をついた。
「この馬鹿! 間抜け! オタンコナス!」
パトカーの中で私は思いつく限りの文句を並べた。
「すみません……」
原田はしょげて小さくなっている。いや、大きいままだが、小さくなろうと努力している、と言うべきか。
「仕方ないわよ」
夕子が笑って、「前もって言っとかなかったのも悪いわ」
と取りなすように言った。
「しかし、麻薬組織にでも潜入している刑事に、のんびり声でもかけたらどうなると思ってるんだ? 命に関わるんだぞ!」
「申し訳ありません」
「まあいい。やっちまったことは……。ところで、何だ、俺に言うことってのは」
原田は、しばしキョトンとしていたが、
「ああ、そうでしたね」
と肯いて、「何だったかなあ……」
と考え込んだ。――勝手にしろ、と私は腹を立てて腕組みをした。
「ちょっと私が|囮《おとり》になって調べるってわけにはいかなくなっちゃったわね」
と夕子が言った。「それとも、このままやってみるか……」
「向こうが敬遠するよ。刑事のヒモつきじゃね」
「あら、あなた私のヒモだってことを、やっと認めたのね?」
「君にジュース一杯おごってもらったことはないぜ」
私は苦笑して、「ともかく……長山浩子の死体が見付からないことにはね。それに事故でなかったという証拠が出ればなあ」
「四人も同じように死んでるのよ。何よりの証拠じゃないの」
「消極的な証拠でしかないよ。いま車を調べさせている。何かハンドルにでも細工がしてあれば……」
「そんな見えすいたことやるかしら?」
「じゃ、どうやったって言うんだい?」
「あのカーブは、そう急じゃないわね。ただ見通しは悪いわ。曲って、急に何かが目の前に飛び出して来れば――」
「カーブミラーがちゃんとついてるんだぜ。何かあれば見えるはずだ」
「そうなのよね」
夕子は考え込んだ。「でも、急ハンドルを切った跡があるでしょう。やっぱり何かあったのよ」
「思い出した!」
突然、原田が馬鹿でかい声を出して、私は飛び上がりそうになった。
「びっくりさせるなよ、おい」
「思い出したんです、用事を」
「自慢にゃならんぞ。何だ?」
「あの長山浩子って女ですが、前に大谷って男と結婚していた本田由美江の妹なんですよ」
「まあ、本当?」
夕子が思わず訊き返した。「じゃ、彼女もやっぱり調べてたんだわ」
「それを、大谷が知って、殺したんだ。だから彼女だけは結婚しないうちに殺された」
「そうかしら」
夕子は、ふと声の調子を変えて、「それなら、|却《かえ》って手を出さないんじゃないかしら。妹だってことは当然分るはずだし、それを殺せば、疑われるに決まってるもの」
「分っていても、犯罪者ってのは、前の罪を隠すために罪を重ねるものさ」
「でも殺す必要があったのかしら? 別れれば済むことでしょう」
「それはそうだな」
「それとも、彼女が何かをつかんでいたのか……」
原田が、
「宇野さん、ちょっと――」
と言い出した。
「何だ。考えがあるのなら言ってみろ」
「はあ。――腹が減ったんですが、何か食べて行きませんか?」
3
あんな男のことだ。つつけばすぐにボロを出すだろうという見込みは大|外《はず》れで、二週間が空しく過ぎていった。
こちらとしても、殺人であるという証拠が出て来ないので、捜査は難しくなりつつあった。――夕子は夕子で、例によって勝手にやっているらしかったが、こっちは気が気ではない。
全く、無鉄砲なんだから。それでも、生れつき、幸運が味方しているとでもいうのか、不思議にどんなピンチも切り抜けて来た。しかし、それがいつまで続くかは分ったものではない。
別に保証書の有効期限があるわけじゃないのだから。
「ぜひ、二人でお話ししたいのですが……」
と、大谷晃子から電話がかかって来たのはそんなときだった。ただ、私としては、警視庁へ来てもらうか、それとも近くの喫茶店ででも会いたかったのだが、どうも向こうが絶対にここ[#「ここ」に傍点]にしてくれ、というわけで……。
いや、別に言いわけする気ではないけれど、私とて妙な誤解を夕子に与えたくはないのである。
ともかく、仕方なく私はかなり名の知れたラブホテルへと出向いて行った。――昼間だというのに、よほどひまな人間が多いと見えて、駐車場は八割方埋っている。
タクシーを降り、入口の方へと歩きながら、何の気なしに、並んだ車を見ていくと、見たことのあるスポーツカーが停っていた。
車のナンバーにも見憶えがある。――大谷の所にあったスポーツカーだ。晃子が乗って来たのだろう。
フロントに訊いて、晃子の待っている部屋へ行く。六階だった。ドアをノックすると、少し間を置いてドアが開く。
「すみません、こんな所にお呼び出しして」
大谷晃子は、地味なスーツ姿だった。何となく私はホッとした。
まあ、大谷晃子はあまり女っぽさを感じさせないが、それでも女には違いない。ということは、怖い存在であるということだ!
「こんな所で妙に思われるかもしれませんが――」
と、晃子はどうにも趣味の悪い部屋の中を見回している私へソファをすすめて、「こういうホテルが、盗み聞きされないためには一番ですから」
「なるほど」
それは確かにそうかもしれない。「で、お話というのは?」
「この間いらしていた永井さんという方は、警部さんのお知り合いの方でいらっしゃるんですの?」
「ええ、まあ……」
私は|曖《あい》|昧《まい》にごまかすことにして、「ちょっと親戚から面倒を見てやってくれと頼まれておりまして」
「そうですか。――実は、このところ、兄とあのお嬢さんが、しじゅう会っているようでして」
「夕子がですか?」
私はびっくりした。大谷がなぜ、警察と関わりのあると分っている夕子と付き合うのだろう?
「お願いします。あの方を兄へ近付けないようにして下さい」
と、晃子は言い出した。
「しかし、子供じゃありませんしねえ……」
私とて夕子を大谷へ近付けたくないのはやまやまである。しかし、そんなことを言って、聞く夕子ではない。
「でも不思議だと思いませんか」
と私は言った。「四人の女性がみんなあの曲り角で転落死している。――あなたは何かご存知ではないんですか?」
晃子はしばらく黙ってうつむいていたが、やがて顔を上げた。何か、思い切ったような顔だった。
「申し上げますわ」
と、晃子は言った。「あの四人は、兄が殺したのです」
私は一瞬我が耳を疑った。だが、
「兄が手を下したわけではありません」
と、晃子が続けたので、何だ、とがっかりした。そう巧く行くはずはないのだ……。
「でも兄が死へ追い込んだも同様です」
「追い込んだ、とおっしゃると……」
「あれは自殺なのです」
「自殺?――なぜ自殺するんです?」
「兄は、あの人たちを少しも愛していなかったんです。それでも、彼女たちの方は、兄に夢中になりました。そしてある日突然――捨てられるのです!」
「じゃ、お兄さんはどうして愛してもいない女性と結婚したんです?」
「私の心をひくためでした」
私はさっぱり分らなくなった。
「どういうことです?」
「つまり、兄が愛しているのは――これまでも、今も、私一人[#「私一人」に傍点]なのです」
「しかし、あなたは――」
「私と兄は血のつながりはありません」
と、晃子が言った。「母は後妻で、私はその連れ子でした。子供の頃から、兄は私を可愛がっていました。そうして成長すると、女として私を愛するようになりました。でも、私は、そんなことは許されない、ときっぱり言ったのです。兄も、納得してくれたようでした。でもだめなのです。――結局、結婚しても、その相手を愛することはできないのです……」
「しかし……いくら何でも四人が四人とも同じ場所で自殺しますかね?」
晃子は寂しげに言った。
「あれは一つの伝説になりました。二人目の妻が同じ場所で死ぬと、週刊誌は早速、あれが呪いだとか運命だとか書き立てたのです。三人目の妻も、この間の|女《ひと》も、そのことはよく分っていたはずです……」
「一種の暗示になった、というわけですか」
「それしか考えられませんわ」
「しかし、この間の四人目――長山浩子さんは、明らかに何かをよけようとしてハンドルを切っているんです。自殺にしてはちょっと妙じゃありませんか」
晃子は肩をすくめて、
「私には分りません。でも……きっと自殺だと信じていますわ」
と言った。
私はしばらく待ったが、それ以上、晃子が何も言おうとしないので、立ち上って、
「どうも、話していただいて」
「あの永井夕子さんという方も、自殺するはめにならないように、どうかよく見ていてあげて下さい」
と、晃子が言った。
「そうしましょう」
私は肯いた。あの夕子が自殺?――夕子を知っている人間なら、誰も信じないだろう!
「タクシーを呼んで帰ります」
と晃子は言った。
「タクシー? 車でいらしたんじゃないんですか?」
「いいえ。あのスポーツカーは兄しか使いませんの」
「しかし……今、ここの駐車場にありましたよ」
「まあ! じゃ兄も来ているんですわ。気が付きませんでした。ここはよく芸能人が使うホテルなんですの」
私は言葉が出て来なかった。――すると、夕子があの大谷とここに?
大谷晃子がタクシーで行ってしまうと、私はホテルの前で張り込んだ。
張り込むといっても、恋人が他の男とホテルから出て来るのを待っているというのは、あまり、みっともいいものとは言えない。
夕子が……まさか、あんな男に本気で惚れるはずはない!
そう思ってはみても、そこは中年のひけ目の悲しさで、ついつい疑惑が頭をもたげて来る。
夕子のことだ、証拠をつかむために、大谷へ近付いているのだろうが、それにしても、ラブホテルへ泊るというのは行きすぎじゃないか、という気がした。
大谷は一向に出て来なかった。夜になる。腹は減るし、色々と連絡しなくてはならない用もあったのだが、ここから動けば、その間に出て来そうな気がして、どうしても電話一本、かけに行くことができなかった。
夜、九時をすぎた。――畜生! 明日まで泊って行くつもりなのだろうか。
私は大欠伸をした。
注意力が散漫になっていたのは、たぶん、空腹と疲労の相乗効果のせいだったろう。
誰かが背後に迫っている、と気付いたときは手遅れで、後頭部に何かがぶち当って、私は、そのまま気を失ってしまった。
「しっかりしてよ!」
耳元でがなり立てているのは、誰の声だろう? どこかで聞いたような声だが……。
「目を開いたわね。もう大丈夫だわ」
目を開くと、原田のでかい顔が、食いつきそうな間近に迫っている。
原田の奴、いつから女の声でしゃべるようになったんだ?
「イテテ……」
私は起き上って顔をしかめた。原田の後ろから、夕子がヒョイと顔を出す。
「君か! どうしてここに……」
見回せば、あのホテルの前である。「やっぱり大谷と一緒だったのか?」
「何を言ってるのよ。私はね、捜査一課でずっと待ってたのよ。ねえ、原田さん」
「ええ、そうです。あんまり帰りが遅いので心配になりましてね」
「机のメモのボールペンの跡を調べてここへ来たら、のびてたってわけよ。どうしたの、一体?」
「おい、原田。スポーツカーがあるかどうか見るんだ!」
「何のスポーツカーです?」
「俺が見るからいい!」
大谷の車は、もうホテルの駐車場から消えていた。
「――馬鹿らしい」
夕子は私の話を聞いて、吹き出した。「いくら探偵熱心でも、犯人とホテルへ泊るほど|翔《と》んでないのよね、私」
「それならいいが……。君は何をやるか分らんからな」
痛む頭をさすりながら、私は息をついた。原田とは別れて、二人で景気づけに――大した景気じゃないが――スナックで飲んでいた。
「私をそんなに信じられないの」
夕子がツンという感じでそっぽを向く。
「そうじゃないけど……。分ってくれよ」
「分ってますよ、おじいさんや」
と言って夕子は笑った。
「――でも、分らないわねえ。どうしてあんな場所で四人も死んだのか」
「まさか、晃子の話を信じやしないだろう?」
「そうねえ。暗示ってのは、ちょっと安直な感じね。でも、そうでも考えないと、説明がつかないってこともあるけど」
「カーブを曲った所へ、いきなり飛び出すってのは?」
「自分が死ぬかもしれないわ」
と夕子は言った。「そんな危いことやりゃしないわよ」
「人間でなくてもいい。犬とか兎とか」
「そんなもんじゃ、ブレーキはかけてもハンドルは切らないんじゃない? 記録を調べてみましょうよ」
「よし、じゃ明日早速――」
「今夜よ!」
と夕子は言った。
「今夜? そりゃ無理だ。資料室は閉ってるよ」
「じゃ、開けてよ」
「開けゴマ、じゃ開かないんだぜ」
「今夜、もし誰かが殺されたとしたら? あなた一生悔むことになるわよ」
どうして俺が夕子に脅迫されなきゃならないのか? その答えは、いつも出ないままに、私は言うなりになっているのである。
「やっぱりね」
夕子は、書き抜きを並べてご満悦である。
「ごらんなさいよ。前の三件も、全部、ハンドルをあわてて切っているわ」
「どういうことかな」
「それと、もう一つ、共通点があるわ。気が付いた?」
「いや、何だい?」
「どれもが、大谷の撮影中の時期に起きてるのよ」
「いつだって撮影中じゃないのか、役者なんて」
「分ってないのねえ。そんなの売れっ子だけよ、ほんの一握りの」
と夕子はいかにも芸能界に通じているが如くに言った。「大谷みたいな役者は、そうそういつも撮影があるわけじゃないわ。むしろそうでないときの方が多いでしょ。だって、撮影っていっても、あれこれ準備の方がよほど時間がかかるんですものね」
「すると、いつも事件が撮影中に起ってるってことは、偶然じゃないって君は言いたいのかい?」
「私が言いたがってるわけじゃないわ。真実がそう語ってるのよ」
どうも夕子はときどきえらく大げさになるときがあるのだ……。
4
「用意……スタート!」
監督の声が飛び、カチンコが鳴って、カメラが回り始めた。
私と夕子は、撮影所の一角に来ていた。所狭しと、板きれやらガラクタが放り出されていて、何とも薄汚れた所である。
作り物の川にかかった橋の上で、若い二人が何やらラブシーンの最中らしい。
「よくみんなの見てる前で、あんなことができるなあ」
と私はそっと言った。
「あら、いつだったか、私の大学のど真中で私にキスしなかったっけ?」
「あれは君が無理矢理に――」
「しっ!」
どうやら二人して川へ飛び込もうという場面らしく、手に手を取って橋に身を乗り出す。そこで、
「カット!」
と、監督の声。たぶん落ちる所は撮らないで、水の音か何かで済ませようというのだろう。
「もうちょっと考えてから飛び込んでよ。ね、死のうってんだからさ。そうそう簡単にゃ行かないだろ」
と監督が二人の役者へ注文をつけて、「オーケー、ちょっと休憩」
と言って、私たちの方へやって来た。
「警察の人ですか? 何の用です?」
四十がらみのぶっきら棒な男である。夕子を見て、目をパチクリさせて、
「この人も刑事?」
と訊いた。
「私、女子大生ですわ。卒論のために、警察の犯罪捜査について回ってるんです」
「そう、いや……いいねえ。ちょっとカメラテスト受けてみない? 君、いけるよ!」
私は咳払いをした。
「大場|紀《のり》|明《あき》監督ですね」
「|紀《き》|明《めい》と読んでよ。音読した方がカッコいいでしょ。何の用です?」
「あなたは、大谷進二さんの映画を何本か撮ってますね」
監督はちょっと胸をそらして、
「大谷が僕の[#「僕の」に傍点]映画に出てるんです。それが何か?」
なかなか難しいものだ。
「この間、長山浩子という女性が車ごと海へ落ちたのは、あなたの作品に彼が出ていたときでしたね」
「そうだよ。ちょうど出番の日だったな」
「それから三番目の奥さんが亡くなったときも、あなたの作品に出演していた」
「ああ、そうだった」
「よく憶えておいでですね」
と私は言った。
「そりゃね、騒がれたからな、あのときは。〈青ひげ〉だなんてね。――あんな頼りない青ひげじゃ、女に殺されちまうよ」
「他に何かありませんか」
「他に? 何か?」
「つまり、どちらのときも、何か撮影中に妙な事件があった、とか……」
「妙な事件ねえ……」
と、監督は考え込んでいたが、「そうか! そういえば、何だかいつもそんなことがあったな、と思ったんだ! あのときだった。そうだよ。確かにあった。今度も、前のときもね。言われるまで気が付かなかった」
「もしかして」
と夕子は言った。「撮影の道具を盗まれたんじゃありませんか?」
監督は目を丸くして、
「その通り! どうして分ったの、君?」
私が代って、
「この娘はシャーロック・ホームズの生れ変りでしてね」
と言った。「それはどんな物を盗まれたんです?」
「大したもんじゃないよ。いや、カメラとか金目の物ならともかくね、ドアの取手だの、電気のコード、それにレフ板ね」
「レフ……?」
「ロケのとき使うんです。光を反射させてね、光の足らないのを補う、大きな板です」
「ははあ。他には?」
「三脚とか、ちょっと金目の物で露出計とかね。そんなもんだったんじゃないかなあ」
「そうですか。――いや、ありがとうございました」
監督は、
「おーい! 本番行くよ!」
と怒鳴った。たちまち人が集まって、あの二人の恋人が再び橋の上に立つ。
「はい、ヨーイ! スタート!」
カチンコが鳴り、セリフのやりとりが進む。私と夕子はそれを眺めていたが、いざクライマックスとなって、二人が橋の手すりから身を乗り出す。そこへ、
「宇野さん!」
と、原田の大声が轟き渡った。二人の役者が、至ってアンバランスな姿勢のまま、ギョッとしたので、その体勢が崩れて、アッという間もなく川の中へ水しぶきを上げて転落した。
「おい! |撮《と》ったか?」
と、監督が叫ぶ。「いいぞ! 今のは使える! これこそ芝居だ!」
私は夕子の腕を取って、あわてて歩き出した。原田がドタドタとやって来る。
「ああ、やっと見付けた」
「どうしたってんだ?」
「大谷晃子から、至急お電話いただきたいって。――かなりあわててたようです」
「何の用だ?」
「急な用だそうです」
私は諦めて、
「よし、行こう」
と促した。原田は水から引き上げられている二人の役者を振り返って、
「大変ですねえ、役者っていうのは」
と言った。
「変だな」
私は受話器を置いた。「ずっとお話し中になっている」
「受話器が外れてるんじゃない?」
と夕子が言った。
「何かあったのかもしれん」
「行ってみましょう」
私たちは車を飛ばした。もうすっかり暗くなっている。道路は空いているので、スピードを上げた。
海岸沿いの道へ入ると、急に夕子が、
「ね、運転、代って」
と言い出した。
「僕の腕が信じられないのか?」
「いいから」
夕子にかかってはかなわない。私も仕方なく、一旦車を停めて、入れかわった。
夕子はぐんぐんスピードを上げた。
「おい、安全運転で頼むぞ!」
「あら、私と死ねば本望でしょ」
と夕子は澄ましている。
暗い道には、すれ違う車もない。
「もうすぐ、あのカーブだ。スピード落とせよ」
「平気よ」
「おい――」
「いいから。何が起っても、私に任せて」
「どういう意味だ?」
「私を信じてくれてりゃいいのよ」
夕子はじっと前方を見つめた。――海のざわめきが聞こえる。やがて前方に、あのカーブが見えた。
少しスピードが落ちたが、ほとんどそのままに近かった。カーブミラーの凸面鏡には、何も見えない。
夕子がカーブを切って、加速した。カーブを曲り終ったとたん、目の前に車のライトが光った。
「危い!」
もう間に合わない。ああ、これで俺の人生もおしまいか。もう一度焼鳥が食いたい!
夕子は真直ぐに突っ込んだ。――ガシャンと音がしたが、ほとんど何の抵抗もなかった。目の前のライトはかき消えていた。
夕子はスピードを落として停めると、
「いかが?」
と微笑んだ。
「今の車は――」
「戻りましょう」
夕子は車をバックさせた。――道のわきに、何やらひしゃげた大きな板が転がっていた。
「レフ板よ」
と夕子が言った。「これにつっかい棒をつけて、カーブを曲った正面に置いておくのよ」
「じゃ、あのライトは、自分の車のか!」
「そう。だから当然凸面鏡にも映らないし、急に目の前へ出て来て、仰天する。車が相手じゃ突っ込むわけにもいかないから、あわててハンドルを切る……」
「崖から転落ってわけか」
私は冷汗を拭った。「しかし、一体誰がこんなことを……」
「私たちを電話で呼んだのは誰だったかしら? あなたが、あの監督の居場所を問い合わせたのが耳に入って、遠からず真相を突き止められると思ったのね」
「すると……大谷晃子が……」
「そう。きっと、様子を見にここへ来るでしょ。待ってましょうよ」
夕子は車のライトを消して言った。
「しかし、なぜあんなことを――」
「たぶん、あなたに話したことの裏返しが真相じゃないかしら」
「ということは、つまり……」
「血のつながらない兄を、あの人は愛していたのね。だから、結婚した相手を次々にこの手で殺して行った。長山浩子さんのことは、きっと、本田由美江さんの妹と知って、殺したんだと思うわ」
「同じ手を使ってりゃ、そのうち、ばれちまうのに」
「だから、もう正常な状態じゃなかったんだと思うわ」
「でも、それじゃ、あのホテルの前で僕を殴ったのは?」
「晃子よ。あのスポーツカーでホテルへ来たけど、あなたに、私と大谷が親しくしていると吹き込んで信じさせるために、タクシーで一旦帰るふりをしたのよ。ところが、あなたが、いつまでたっても見張ってて、立ち去らないので、仕方なく殴って、気を失ってる間に、あの車で帰ったのね」
「畜生! しかし、どうして僕にあんな話をしたんだろう?」
「本格的に捜査に乗り出されるのが怖かったのね。それと、私が大谷へ近付くのを、邪魔したかったんでしょう」
夕子は息をついて、「遅いわね。行ってみましょうか」
と、車をスタートさせた。
大谷の家の前には、あのスポーツカーが停めてあった。玄関のドアが開け放してある。
「大谷さん!」
夕子が呼びながら居間へ入って、息を呑んだ。――天井の梁から、晃子が首を吊って死んでいる。足下に、大谷進二も倒れていた。
私は駆け寄った。
「こっちも死んでる。――青酸カリか何かだな」
「自殺?」
「らしいね。外傷はない」
私は、大谷晃子の体を下へおろした。もうこちらも、どうしようもない。
「きっと、どこかで、計画が私たちには失敗したのを見てたのね。それに、もしかすると……」
と夕子が言った。
「何だい?」
「大谷の方も、本当に晃子を愛してたのかもしれないわね。お互いに、自分の方だけが愛していると思い込んで……」
私は急いで電話をかけた。受話器を戻したとき、夕子が、
「まあ」
と声を上げた。――見ると、部屋の入口に、長山浩子が立っていた。
「助かったのね。あなた!」
「ええ。――車から投げ出されたんです。|溺《おぼ》れかけたとき、板きれにつかまって、そのまま気を失い、ずっと離れた所に流れついて、助けられたんです。でも、何日も意識不明で、やっと今日になって……。二人とも?」
「二人ともよ」
と夕子が肯く。
長山浩子は、二つの死体を見下ろしていたが、その顔は、ただ、哀しげだった。
夕子が、そっとその肩へ手をかけて、言った。
「生きていて良かったわね」
「もう危い真似はやめてくれよ」
私はレストランで夕子と向かい合って食事をしながら言った。
「あら、私の生きがいを奪う気?」
「生きがいはいいけど、死んじまっちゃ何にもならないぜ」
と私は言った。「しかし、あの大谷って男、どうして一つずつ若い女と一緒になったんだろう?」
「理由は簡単。男は年を取るほど若い女に憧れるのよ」
「へえ、そうかね」
「あなただって、そのうち、『僕は十七歳の女の子がいい』なんて言い出すんだから」
「よせやい」
そこへ、女の子の声がした。
「あの、すみません」
見れば十六、七の可愛い少女である。
「な、何か用?」
思わず私はどもった。
「教えていただきたいことがあるんです」
「というと?」
「友達とさっきからどっちだろうって話してたんですけど。――その頭の毛、カツラですか?」
第三話 赤い靴はいてた女の子
1
「もうそろそろ、いいんじゃないか?」
と私は言った。
私たちは結婚の話をしていた。私たち――警視庁捜査一課警部宇野喬一と、永井夕子の二人である。その夜は、珍しく財布の中が|潤《うるお》っていて、たまには、ちょっといい店で夕飯でも食べようよ、と夕子を誘った。夕子の方がその手の店には詳しいので任せておいたら、この青山のフランス料理の店へ連れて来られたのである。店自体は広くはなくて、テーブルが五つでほぼ一杯だったが、確かにやたら広くて生演奏がうるさくて、話をするのに大声を上げなくてはならないホテルの中のレストランよりも、よほど気が利いている。
「ね、いい店でしょ」
と、スタイルも気軽なスラックス姿の夕子は得意げに言って、「それにね、ここ安いの。あなたの財布にもそう負担にならないと思うわ」
やれやれ……。こちらは安月給とはいえ、四十すぎの大人である。二十二歳の女子大生とデートするのに、財布の中味にまで気をつかわれては、立つ瀬がないではないか。
まあ、こういうところが夕子のいいところでもあるのだが。
「結婚には時機ってものがあるのね」
食事を終えて、後はデザートを待つばかり、というころになって、ワイングラスを手に夕子がこんなことを言い出した。
「そ、そうだよ」
どうして急に夕子が結婚の話を始めたのか分らなかったが、私はすかさず言ったのである。
「もうそろそろ、いいんじゃないか?」
「いいわよ」
と夕子はニッコリ笑って肯く。
私の方が面食らった。今までも、ちょくちょく結婚の話は持ち出すのだが、いつも夕子にはぐらかされて来た。それが今夜に限ってこうもあっさりと……。まあ文句を言うことはないわけだが。
「そうかい? それじゃ、早速――」
「そうね。あなた何にする?」
「何にする……って?」
「私は……そうねえ」
夕子はメニューを取るとめくって、「私、このフルーツのグラタンっていうの食べてみるわ」
私はしばし戸惑って、
「――今、『いいわよ』と言ったのは、どういうつもりだったんだい?」
「あなたが、『そろそろデザートにしてもいいんじゃないか』って言うから、いいわよ、って答えたのよ。それがどうかしたの?」
夕子は不思議そうに私を眺めた。――どうも話がうますぎると思ったのだ。
「何でもないよ」
と、失望の色を押し隠して、メニューを|覗《のぞ》き、「僕はイチゴでももらうかな。――おい」
大声を出さずともいいのも、こういう小さな店のいい点である。デザートの注文を終えて、
「結婚の時機がどうとか言ってたのは、何の意味だったんだい?」
と訊いた。だが、返事はなかった。夕子はじっと、店の出入口の方を見つめている。
「どうかしたのか?」
「ね、見て」
夕子が少し声を低くして、「ほら、今、お金払っている女性がいるでしょ」
見れば、いかにも、金持の令夫人、といった感じの、おそらくはサンローランとか名のあるデザイナーのものであろうスーツを着た、中年のスラリとした女性が、会計をしているところだった。顔なじみの客なのか、店の主人が、何やらニコニコしながら、話しかけている。
その夫人は、現金で払わず、伝票にサインをした。
「あの女性がどうかしたのかい?」
「そばにいる女の子を見て」
おそらく、その女性の娘なのだろう、十五、六の女の子がガラス戸に手をかけ、早く外へ出ようというように、母親の方を見て待っている。十五、六といえば、もう体の方は大人並みが普通だが、この女の子は、やや小柄で、母親の身長に追いついてはいなかった。顔立ちはなかなか可愛らしい。
「あの女の子がどうかしたの?」
「足を見て」
「うん。――スマートだな」
「どこ見てんのよ」
夕子が馬鹿にしたような声を出す。
なるほど。――私もやっと気付いた。その少女の靴である。左の足に緑色の靴をはいている。それは別に構わないのだが、右の足には赤い靴をはいているのだ。
「あれは新しいファッションなのかい?」
と私は言った。
「まさか!」
夕子は首を振って、「妙ね、何だか」
と|呟《つぶや》く。一女子大生から、名探偵へと、頭の中で自動切替装置が働いたらしい。
一方、伝票にサインした母親は、
「|珠《たま》|絵《え》、先に出てていいわよ。ちょっと電話してるから」
「はあい」
その少女は、さっさとドアを開け、階段を駆け上って行った。この店は地下一階なのである。
母親の方は、会計のすぐわきにある赤電話へ十円玉を入れ、ダイヤルを回し始めた。そのとき、
「キャーッ!」
と悲鳴が聞こえて、ドドッと何かがぶつかる音。そして今上って行った少女が、階段を転がり落ちて来たのが、ガラス越しに見えた。
誰もが、一瞬、凍りついたように、動けなかった。夕子が素早く立ち上がる。私も一緒に席から飛び出した。
「|珠《たま》|絵《え》!」
母親が、やっと我に帰って、受話器を放り出すと、叫んだ。
ガラス戸を開けたのは夕子だった。珠絵と呼ばれたその少女は、階段の下で、ぐったりとして目を閉じている。
「珠絵! しっかりして!」
母親は真っ青になっていた。私は素早く少女の上にかがみ込んで、脈を取った。――大丈夫だ。しっかりしている。
「気を失っているんです。ともかく救急車を呼んだ方がいい」
と私は言った。
店の主人が、飛び出して来た。私はすぐに一一九番へ連絡しろと指示した。
「この人、刑事なんです」
と、夕子が注釈すると、店の主人が電話へ飛びつくのも、三秒は早くなったようだった。
「娘は……大丈夫でしょうか?」
母親の方が青ざめて今にも倒れそうだ。
「大丈夫だと思いますがね。外傷や内出血があるかもしれない。検査が必要ですね」
「どうしてこんな……」
母親は囁くような声で言って、娘の傍にかがみ込んだ。私は階段を見上げた。
確かに、急な階段ではあるが、それにしても、あの転げ落ちる勢いは、普通ではなかったように、私には思えた。
「ねえ」
夕子が声を低くして、「足を見て」
と言った。足?――折れている様子はないが、|捻《ねん》|挫《ざ》ぐらいしていよう。もちろん靴はさっき見た通り……。
私はふっと眉を寄せた。そして夕子を見ると、夕子の方もこっちを見て、微かに|肯《うなず》く。やはりそうか。夕子も気付いているのだ。
さっき、少女は左に緑の靴、右に赤い靴だった。ところが今、少女は左の足には赤い靴を、右には緑の靴をはいているのだ。さっきとは逆になっているのだった……。
2
「――何だい一体」
私は、警視庁に近い喫茶店へ入って行くと、夕子の姿を見つけて、向かい合った席にドカッと座った。
「大学の帰りなの」
夕子はいとも楽しげに、「椅子に座った音から察すると、また一キロは太ったね、ワトスン君」
「おいおい……」
私は苦笑した。「捜査会議をすっぽかして出て来たんだぜ」
「あなたの顔が見たくなったのよ」
夕子はちょっとすねたような声を出して、
「私に会いたくないの?」
と上目づかいににらんだ。
「いや――そうじゃないけど」
会いたくないのか、と|訊《き》かれれば会いたいに決まっている。何てったって、こっちが惚れているのが弱味である。
「じゃ、いいでしょ」
夕子はそう言うと、いきなり腰を浮かせてテーブル越しに身を乗り出すと、私の頬へキスした。私は真っ赤になってあわてて周囲を見回した。女子高校生らしい三人連れがこっちを見てクスクス笑っている。
「おい! 心臓に悪いことはやめてくれよ」
「だらしないんだから。はい、お見舞」
夕子が、まるで手品か何かのように、花束を私の前に突き出した。
「ぼ、僕に?」
「そんなわけないでしょ。持っててよ」
私はため息をついて花束を手に取った。夕子は立ち上って、
「さ、行きましょ」
「どこへ?」
「花束と来れば病院に決まってるでしょ。それぐらい推理しなきゃ」
「病院?」
「あ、払って来てね」
夕子はさっさと出て行ってしまう。私は仕方なく伝票を取って、立ち上った。俺は水も飲んでないのに!
「――じゃ、あの女の子の見舞に?」
とタクシーの中で私は言った。「気は確かかい? 僕は捜査会議を――」
「私と会議とどっちが大事なの?」
夕子の切札である。私は我が身のふがいなさに腹を立てながら黙り込んだ。そういう状態を尻に敷かれている、と称するのかもしれない……。
「――あの子の名はね、並木珠絵っていうの。ついてた女性は山辺智子。母親なんだけど、今は離婚して姓が戻ったのね」
夕子の話に私は面くらって、
「そんな話をどこで?」
「まあいいから。父親は並木朋也といって、Sグループ系列の事業家なの」
「Sグループの並木か。名前ぐらいは知ってる。いや、待てよ……」
私は考え込んだ。「何かあったんじゃないか? 何か事件が――」
「そう。よくできました」
「からかうなよ。そうか、思い出して来た。確か双子の姉妹がいて……」
姉妹は、なかなか寝つけなかった。
姉の名は|純《すみ》|絵《え》、妹は珠絵といった。一卵性双生児である。
台風が近付いている、とニュースが告げていた。窓を閉め、外の雨戸もきっちりと閉めてあるのだが、渦巻く風の唸り声や、時々、折れた枝が雨戸にぶつかって行く音は、|遮《さえぎ》ることができない。
十歳の少女たちとしては、恐ろしい夜だった。深い山奥に、二人きりで放り出されたような気さえする。
「お姉ちゃん……」
と、珠絵が言った。「起きてる?」
「うん、何よ?」
「お手洗いについてって」
双生児なのに、やはり妹の方は姉を頼りにしているのだ。それに、事実、性格的にも姉の純絵はしっかり者で、珠絵は気が弱かった。
「一人で行きなさいよ」
純絵が不機嫌な声を出して、
「いいじゃない。――ね?」
珠絵の方も、結局は姉がついて来てくれると分っているので、くり返して頼んだ。
「しょうがないんだから、もう……」
と言いながら、純絵がベッドから滑り出る。
「ありがと」
パジャマ姿で、二人は寝室を出る。寝室は、広大な並木邸の二階にあって、廊下を挟んで、両親の寝室があった。
|絨毯《じゅうたん》を踏みながら、二人は廊下をトイレへと歩き出した。トイレ、浴室は一階と二階、両方にある。
「ねえ、珠絵、知ってる?」
と、純絵が言った。
「なあに?」
「パパとママ、別々の部屋で寝てんのよ」
「うそ!」
「しっ!」
と純絵は指を口に当てて、「大きな声出さないで……」
「ごめん。――でも、どうして?」
「知らない」
と純絵は肩をすくめた。こういう仕草も、純絵はどことなく板に付いているようだ。
「でもね、最近、パパとママ、あんまりお話ししないでしょ」
「そう……かなあ」
「あんた、分ってないんだもん」
と純絵はからかうように言って、「ともかくね、パパとママ、仲悪いのよ」
そうなのか、と珠絵は思った。珠絵だって、姉が思っているほど鈍いわけではない。
パパとママが、「しっくり行っていない」ことは、察していた。この表現は、いつか、叔母さんが言っているのを小耳に挟んだのである。意味がはっきり分ったわけではないが、何となく、どういう意味かは察せられた。
それに、二人がベッドに入ってから、時々パパとママの言い争っている声が、向かいの寝室から、そして時には一階からでも、聞こえて来ることがあるのだ……。
「早く行っといで」
トイレの前で、純絵が言った。珠絵がトイレへ飛び込む。――風の唸りが、時には鋭い叫びのようにも聞こえて、珠絵をおびやかした。
「――ごめん」
トイレから出て来ると、純絵が、
「待ってたら、私も行きたくなっちゃった。ここにいる?」
「うん」
珠絵は、純絵がトイレへ入ってドアを閉めると、ホッと息をついた。廊下は、ひっそりと静かで、今夜はパパの声もママの声もしない。いや――まだ時間からいえば十二時ぐらいだろうから、二人とも起きているのかもしれない。
トイレは、階段の近くにあった。珠絵は、階段の所まで行くと、そっと下を覗き込んだ。廊下に、居間のドアから洩れた光が、帯を描いている。
やっぱり、まだ起きているのだ。
そのとき、アーッという叫び声が、珠絵を震え上がらせた。その声は男のようでも、女のようでもあり、ともかく声であることだけは確かだったが、誰のものとも知れなかった。
何だろう?――じりじりと階段から後ずさりして、それでも怖いもの見たさか、首をのばしていると、トイレの水が流れる音がして、純絵が出て来た。
「――早く行こうよ。どうしたの?」
「声がした」
「え?」
「下から、アーッ、って」
「誰の声?」
「分んない」
「ほんと?」
「嘘じゃないよ!」
二人は階段の上にしゃがみ込んで、そっと下を覗き込んだ。
「戸が閉まってる」
と、珠絵は呟いた。廊下へ洩れていた光は、見えなくなっていた。ドアが閉まったのである。
「開いてたんだよ」
「じゃ、誰かが閉めたんだね」
カチリ、とノブを回す音がして、居間のドアが開いた。二人はギクリとして首をすぼめた。光が幅広く帯を描いて、その中に、一つの影が立った。
二人のいる所からは、ドアそのものは目に入らないので、その長く伸びた影が、誰の影なのか、二人には分らなかった。すぐにドアが閉まった。そして、居間から出て来た人物は、そのまま玄関の方へ歩いて行ったらしかった。
玄関のドアが開いた。風が吹き込んで来て、廊下を駆け巡り、二人のいる階段の上にまでかすかに吹きつけて来る。
ドアが閉まると、また元通りに、静かになった。二人は顔を見合わせた。
「誰だと思う?」
と珠絵は訊いた。
「分んない。パパやママじゃないと思うな」
それぐらい珠絵にも分っている。パパやママなら、こんなときに出て行くはずはない。
後はずっと、静かなままだった。珠絵はちょっと身震いした。
「寒いよ」
「行ってみようか」
「え?」
「下に、誰かいるのかどうか……」
「いやだ。行くならお姉ちゃん、行って」
「フン、いくじなし」
純絵はちょっと口を尖らして言うと、階段を降りて行った。珠絵もあわてて後を追った。一人にされるのはいやだったのだ。
居間のドアは、ほんのわずかだが開いていた。近くへ行くと、少し光が|洩《も》れ出ている。
「入ってみる?」
と、珠絵は囁くように訊いた。
「だから来たんでしょ」
妹と一緒だから、ということもあるのだろうが、純絵はいささか無理をして、平気な顔でドアを押した。ドアは音もなく内側へと開いた。大きく開いて、居間の中を見回す。
別に、怪しい人影はなかった。明りはついているのだが、人の姿は――
「パパがいる」
と、珠絵がホッとしたように言った。
正面に、ソファの背が見えていて、そこから右の手が、ダラリと下がっている。見憶えのある部屋着の袖口が目に入った。
「本当だ」
正直なところ、純絵もホッとしながら、「パパ」
と呼びかけた。返事はなかった。
「眠ってるんじゃないの」
と、珠絵は言った。二人は、ソファへ近付いて行った。
「パパ……」
二人はソファのわきを回って、顔を出した。――パパは眠っていた。頭を少し前へ垂れて深い寝息を立てている。
「起こす?」
「寝かしとこうよ」
と、純絵は言った。「そっとしてさ」
「でも、さっき出て行ったのは……」
「パパのお客かもしれないよ」
「そうだね」
パパの所には、色々なお客がある。珠絵も、それはよく知っていた。中には夜中に来て帰って行くようなお客もいる。
二人は、パパを起こさないように、ゆっくりとソファから離れた。
ドアを、二人は大きく開け放したままにしてあった。ほとんど壁にぶつかる所まで開けてある。
二人が歩き出すと、ドアがそっと動き始めて、二人は足を止めた。
ドアが戻って来る。そして、ドアの陰から、見知らぬ女の顔が現れた。二人は悲鳴を上げようとしたが、声にならない。女は、まるで飛び出しそうなくらいに大きく目を見開いていた。そしてそのまま床に、崩れるように倒れてしまった。
二人とも、子供とはいえ十歳になっている。女の背中に、血が広がっているのを、はっきりと見て取っていた。
すぐ後ろにパパがいるのに、なぜか分らない衝動で、二人は居間から駆け出していた。
そして階段を駆け上がろうとして、母親にぶつかりそうになった。
「どうしたの、二人とも! もう夜中よ」
ネグリジェ姿の母親が|咎《とが》め立てするように言った。
「下に――女の人がいる」
純絵が早口に言った。
「女の人が?」
「死んでるんだよ」
珠絵も、やっとの思いで口を開く。
「夢でも見たんでしょう。パパがいるんじゃないの?」
「パパ、寝てる」
母親は、二人に部屋へ戻って寝なさい、と言って、階段を下りて行った。そう言われても、寝に行けるものではない。
純絵と珠絵は階段の上に座って、何が起こるか、じっと待ち受けていた。好奇心が燃え上って、眠気を吹っ飛ばし、恐怖を圧倒していた……。
「結局、殺された女は並木の愛人だったんだな」
と私は言った。
「そう。名前は大浜光代。並木の元秘書で、半年ぐらい前から関係があった」
「あの件は迷宮入りになったんだな、確か」
「並木が、別れ話を持ち出して泣き喚かれて殺したのか、それとも妻の智子が夫を奪われないために殺したのか……」
「決め手が何もなかったんだ。凶器も発見されなかった」
「でも、おそらく、夫婦、どっちかが殺したんじゃないか、ってわけね」
夕子は肯いた。
「僕は担当しなかったが、結構騒がれたからね。よく憶えてるよ」
「その後、夫婦は離婚して、姉妹の姉の方は父親、妹の方は母親が引き取ったのよ」
「ふーん、そうだったのか」
「ね、ちょっと面白いでしょ」
「何が?」
「それから五年。姉妹が十五歳になった今、突然、妹が命を狙われた!」
夕子の口調はまるでTVのナレーションである。
「命を狙われた?」
「あなたの目の前で起ったじゃないの」
「階段から落っこちただけじゃないか」
「突き落とされたのよ」
「どうして分る?」
「本人がそう言ってるもの」
「聞いたのか?」
「母親から私のところへ電話があったのよ」
「山辺智子から?」
「そう。あのときの刑事さんに、ぜひご相談したいことがあって、って言うからね、あの人にご用の場合は、すべて私を通すことになっております、って言ってね」
いつの間に刑事にエージェントがつくようになったのだろう?
「まあいいや。ここまで来ちゃ、捜査会議に出ようにも間に合わない」
「そう。男は諦めが肝心」
勝手なことを言ってるよ、全く。
「でも、山辺智子が、どうして君の電話を知ってたんだ?」
「救急車に乗るときに、彼女へメモを渡しといたの」
「名探偵の売り込みかい?」
「世はPR時代ですものね」
「しかし……あのとき、靴が反対になっていただろう。あの件はどうなるんだい?」
「そこなのよ」
夕子は哲学者の如き表情で言った。「だからこそ、私も電話番号を渡したのよ」
タクシーは病院の前に着いた。
私たちは受付で、並木珠絵の病室が三階にあるのを聞いて、エレベーターで上った。
ところが、何しろ四方八方に廊下がのびていて、どこが病室やら、さっぱり分らない。
「ちょっと看護婦をつかまえて訊いてみよう」
と私はキョロキョロと見回した。
「ねえ、ほら――」
と夕子が私の腕をつつく。
廊下を、赤いセーターにブルーのスカートという少女がやって来る。この間、階段から落ちた女の子だ。
「やあ、良かったね」
私は声をかけた。「もう何ともないの?」
少女は、ちょっと目をパチクリさせて、私の顔を見た。これは……もしかすると……。
「あなたは、並木純絵さん?」
と夕子が訊いた。
「ええ、そうです」
私は目を見張った。よく似ている! 正に瓜二つである。
「ああ、ママの言ってた警察の人ね」
少女は微笑んだ。
「ええ、そうよ。珠絵さんの病室に案内してくれる?」
「ええ、こっちです」
純絵は歩き出しながら、私を見て、「こっちが、永井警部[#「永井警部」に傍点]さんなんですか?」
と訊いた。
「わざわざ恐れ入ります」
と、山辺智子は頭を下げた。
「いや、これは仕事ですからね」
と私は言った。
山辺智子は、あのフランス料理店での、いかにも有閑夫人という印象から、至って平凡な母親に変っていた。もちろん、見るからに、暮し向きの豊かさは明らかだったが。
「やあ、具合どう?」
夕子が、いつもの人なつっこい笑顔で、ベッドの中の、並木珠絵に声をかける。この笑顔と声は、中年男性の心をくすぐると同時に、年下の少女をも心|和《なご》ませる効果があるらしかった。
「はい、大丈夫です」
と、ベッドの少女は、軽く肯いてみせた。
「――突き落とされたって聞いたけど、本当かい?」
私が訊くと、珠絵は、はっきりと、
「ええ、本当です」
と返事をした。
「――階段を上って行って、上り切る少し手前で、振り返ったんです。ママが出て来ないかな、と思って。そのとき、急にドンと突かれて……」
「誰がやったか、見たかね?」
「いいえ。そんなひまありませんでした」
「そして転げ落ちた……。上に立っていた人間は目に入らなかった?」
「下まで転げ落ちる間に、どこかで頭を打ったんです。気を失ったらしくて……」
「ふむ。――よく考えてくれ。これ以前にも、最近、何か危い目に遭ったことはあるかい?」
珠絵は、ちょっと考え込むように、天井をにらんでいたが、
「――一度、車にひかれそうになりましたけど」
「いつだい?」
私は手帳を取り出した。
「一週間か……二週間前だわ、きっと。ちゃんと横断歩道を歩いてたのに、車が走って来て……。でも、狙われたのかどうかは分りません」
「そのときは別に届けなかったんだね」
「はい」
「どんな車だったか、憶えてる?」
珠絵はちょっと考えて、
「いいえ……。白っぽい車だったと思いますけど、はっきり分りません」
と静かに言った。
「あんまりしゃべると疲れるわよ、珠絵」
と、姉の純絵が言葉を挟んだ。
「大丈夫よ、お姉さん」
珠絵が微笑んで見せる。
「時間は取らないよ」
私はそう言って、「最後にもう一つだ。――君を突き落とした奴に心当りは?」
一瞬、珠絵はためらいを見せたが、すぐにきっぱりと、
「特にありません」
と言い切った。
「わざわざおいでいただいて……」
病院の玄関口まで送りに来て、山辺智子は恐縮しながら詫びた。
「いや、もし誰かがお嬢さんを狙っているなら、充分に用心する必要がありますからね」
といって捜査一課が出て来ることもないがね、と心の中で付け加える。「お嬢さんのお年なら、当然ボーイフレンドもいるでしょうし、色々と喧嘩したりということもあるかもしれない。――まあ、何かありましたら、いつでもご連絡下さい」
「本当にお気遣いいただいて……」
では、と歩き出したところへ、一台のハイヤーが横づけになって、ドアが弾かれたように開くと、五十がらみの、いやに上等なスーツを着た男が出て来た。
「あなた!」
山辺智子がびっくりした様子で、「ニューヨークにいらしたんじゃなかったの?」
と目を丸くしている。
「並木朋也だわ」
夕子が囁いた。これが父親か。あの可愛い双子がよくこのいかつい男から生れたもんだな、と私は感心していた。
並木は山辺智子の方へと大股に歩いて行くと――私と夕子は息を呑んだ――いきなり平手で、かつての妻の顔を激しく打ったのである。
3
「赤い靴はいてた、女の子……か」
夕子は低い声で歌って、グラスを傾けた。
「靴の問題、迷宮入り殺人の問題、階段で突き落とした犯人……。色々と難問山積だな」
と私は言った。「おい、水割り、もう一杯」
「それにもう一つ」
「何だい?」
「あなたのクビがつながるかどうかの問題」
「よせよ、縁起でもない!」
私は苦笑した。「――しかし、あの珠絵って妹も、全部を正直に話しちゃいないな」
「どういうこと?」
「例の車の一件さ。あれは嘘だよ」
「はねられそうになったってこと?」
「うん。現実に訊問しててね、TVドラマみたいに、『あ、そういえば……』なんて思い出すことはまずないよ。あれはいかにも、その場の思い付きだな」
「人をいじめるのが専門の警部さんの言うことだから信用しましょ」
夕子は|愉《たの》しそうに言って、「では、なぜそんなでたらめを言ったのか?」
「子供はよくやるよ。自分をドラマの主人公のように見立ててね」
「だめねえ」
「何が?」
「その先まで推理しなきゃ」
「すると君は何か分ってるのかい?」
私はちょっとカチンと来て、言った。
「ある仮説はあるわ。でも、まだ公表の段階ではない」
もったいぶるのは、どの名探偵にも共通の欠点らしい。そしてさっさと、スナックを出て行ってしまう。
「おい、待てよ――」
私があわてて支払いを済ませて外へ出ると、なぜか、先に出たはずの夕子の姿が見えない。
「おい、夕子。――夕子」
キョロキョロしていると、
「こっち、こっち」
と声がする。見れば、白いスポーツタイプの外車が停っていて、窓から夕子が顔を出している。夕子がいつの間に外車を?
「おい、酒酔い運転は厳禁だぞ」
と私は声をかけた。
「飲んでませんよ」
反対側のドアが開いて、背広姿の男が出て来た。この車の持主たるに|相応《ふさわ》しい、エリートタイプの男である。四十歳前後――つまり私と同じぐらいの年齢であろう。
「宇野警部さんですね。私は金内周二と申します」
「どうも……」
「ちょっと伺いたいことがありまして」
「何でしょうか?」
「私は目下、山辺智子さんと婚約中でしてね」
「それはどうも……」
山辺智子の恋人か。なるほど、恋人にしておくには良さそうな男である。
「珠絵ちゃんが、けがをしたとか……」
「階段から落ちたんですよ」
「彼女、何か言ってませんでしたか」
「何か、というと?」
こういうときは、相手にしゃべらせるのが利口である。反応を見るのだ。
「つまりその……誰かに突き落とされかけたとか……」
と、金内周二はためらいがちに言った。
「あなたが突き落としたんですか?」
と私はズバリと言った。金内はギョッとした様子で、
「違います! とんでもない!」
と、むきになって否定する。
「ではどうしてそんなことを訊くんです?」
金内は、ため息をついて、
「いや、実はあの珠絵という子にはひどく嫌われているんですよ」
と言い出した。
「母親の恋人というのは嫌われるかもしれませんな」
「こっちは色々とプレゼントをしたりして、何とか打ちとけてもらおうと努力したんですがね……」
「じゃ、一つお見舞にいらしたら?」
と夕子が言った。「お花でも買って」
「ああ、そりゃいいかもしれませんね」
金内は笑顔になった。「病院へ案内していただけますか?」
「ええ、喜んで」
「警部さんもどうぞ、お乗りになって下さい」
あまり気は進まなかったが、その外車に乗り込んで、再び病院へと向った。
こんなスポーツタイプの車にはあまり乗ったことがない。いかにも金内あたりに良く似合う、キザな車である。白いスポーツカーなんて四十男の乗り回すものとも思えないが……。
白い車[#「白い車」に傍点]か。――もしかして、あの珠絵の言っていた車の件が事実だとしたら……。
「あの子は私が財産目当てに母親へ言い寄ったと思ってるんですよ」
車を運転しながら、金内が言った。
「かなりの財産なんですか」
「まあ大したもんでしょうね。しかし私も別に暮しに困っているわけじゃありませんから。彼女に養ってもらう気はないんです」
私は頭の中にメモを取った。金内周二の財産を調べること。見かけの派手な人間ほど、内情は苦しいものだ。本当の金持は大した格好をしてはいないものである。
途中、花とチョコレートを買って、病院へ着いたのは、面会時間の九時ぎりぎりだった。
廊下に、山辺智子がうろうろしていた。
「智子さん」
「――まあ、金内さん! お見舞に? すみません、どうも」
「具合はどうです?」
「ええ、大分いいようですの。捻挫だけで済んだようで。――明後日ぐらいには退院できそうなんです」
「そりゃよかった。今、会えるかな」
「え、ええ……それが……」
と、山辺智子が廊下を見回す。「いないんですの、ベッドに」
「いない?」
夕子が訊いた。
「ええ。ポットのお湯をかえて戻って来ると、ベッドが空で。どこに行ったのかしら」
そのとき、廊下の向こうから、車椅子を押して来る姿が見えた。車椅子に珠絵が座って、押しているのは純絵である。
「まあ、どこへ行ってたの!」
と、山辺智子がホッとしながら、腹立たしげに言った。
「ごめん。私が屋上へ連れてって、って頼んだの」
と、珠絵が言った。
「この夜中に? 風邪引くわよ」
夕子が笑いながら、「若いのねえ。このおじさんと違って」
どうして俺を引き合いに出すんだ、と私は不機嫌になった。
「珠絵君、大したことがなくて良かったね」
金内が、花とチョコレートの箱を珠絵の膝にのせる。
「いらないわ!」
珠絵は嫌悪の色を露わにして、膝の上から、花とチョコレートの箱を叩き落とした。
「珠絵!」
智子が驚いて、「何をするのよ」
「こんな人から葉っぱ一枚もらいたくないの」
珠絵は頬を紅潮させて、金内をにらみつけた。
「珠絵、やりすぎじゃないの」
さすがに、純絵がたしなめる。
「病室へ入れて。疲れたから寝る」
珠絵は固い表情で言った。
姉妹が病室へ入って行くと、智子が、金内に詫びた。
「いや、構いませんよ」
金内は笑いながら、「そう急になじんでくれるわけもないし」
「でも本当にあの子には困ったもので……」
夕子が、花束を拾い上げ、チョコレートの箱はどこへ飛んだかな、と見回していると、
「病院でも最近はバレンタインデーがあるんですか!」
聞き憶えのあるだみ声が、病院の静けさの中ではドラが鳴ったように聞こえた。
「原田じゃないか! 何してるんだ、こんな所で?」
原田刑事の巨体が目の前に立ちはだかっていた。――本当に「立ちはだかる」という感じなのだ。チョコレートの箱を手にニヤニヤしている。
「これは拾得物だから、一割はいただけるんでしょうかね」
「知るもんか。何か用なのか?」
「ええ、殺しです。宇野さんが行方不明だから捜して来いと課長から言われて来ました」
「よくここが分ったな」
「ずっとついて歩いてたんです」
「ついて歩いて?」
「ええ、あのスナックの前から」
「どうして声をかけなかったんだ!」
「腹が減ってたもんですから」
原田の言う理由は、どんな場合でも、ほぼ八割方がこれなのである。論理の飛躍というもはなはだしいが、敢えて追及しないことにした。
「よし、分った。ともかく現場へ行こう」
「そうですか。じゃこのチョコレートはどうします?」
「その人へ返せ!」
と私は、警視庁の面目にかけて命令した。
「はあ……」
原田は名残り惜しげにチョコレートの箱を金内へ渡すと、「殺されたのは小田切佳子というんです」
と大声で話を始めた。他人が大勢いる所で、こうだから、全く! もっとも、原田としては小声で囁いているつもりかもしれない。
「あの、待って下さい」
と、口を挟んで来たのは、山辺智子だった。
「何か?」
「今、小田切佳子、っておっしゃったんですか?」
「そうです」
原田が肯いて、「何か洋服屋だといってましたが」
「あの……ファッションモデルの小田切佳子ですか?」
「そう、それです」
ファッションモデルを「洋服屋」とは、原田らしい表現である。
「ご存知なんですか」
と私は訊いた。
「あの……夫の……いえ、並木の、今お付き合いしている方が、確か小田切……」
私と夕子は顔を見合わせた。
小田切佳子のマンションは、珠絵の入院している病院から、ほど近い所にあった。車なら五、六分の場所である。
六階の〈六〇五〉が小田切佳子の住居だった。――小田切佳子は寝室のベッドで、首を絞められて殺されていた。ネグリジェ姿である。
「死後、二、三時間だな」
というのが、検死官の推定だった。
「死体の発見者は?」
「居間です」
女一人のマンションらしく、やたら、赤や黄色の原色が目につく。夕子ももちろんくっついて来ていた。
「彼女、いくつ?」
「二十八歳だとさ。並木とは二十以上違う」
「いくつになっても男は若い|娘《こ》がいいのね」
夕子は、ちょっと冷やかすように私を見た。リビングルームへ入ると、ソファに並木朋也が座っていた。昼間、病院で見かけた姿、そのままで、ただ、今はひどく難しい顔をしている。
「――八時頃ですか、ここへ電話したんです。今から行っていいか、と。彼女が待っていると言うので、ここへ八時半ぐらいに着きました」
「病院からここまで五、六分じゃありませんか、車なら」
私の言葉に、並木はびっくりした様子で、
「どうして病院からだと――」
「たまたまお宅のお嬢さんのお見舞に行っていましてね」
私は簡単に事情を説明した。
「そうでしたか。いや……お恥ずかしい所をお目にかけました」
並木は顔を少し伏せた。
「どうして奥さんを叩いたりしたんです?」
「珠絵のけががずいぶんひどいように聞いていたものですから……。そばについていながら、何をしていたんだ、と思うと、ついカッとなりましてね」
それは父親の気持として分らないでもない。
「――ところで、さっきの点ですが、なぜ病院から三十分もかかったんです?」
「いや、一緒に晩飯でもと思いましてね、たまたま通りかかったうなぎ屋でいい匂いがしていたので、弁当を作らせて来たものですから」
並木は、傍の紙袋を指さした。――私の耳に、ゴクリという音が聞こえた。続いてグーッという、壊れたバグパイプみたいな音。原田の腹が鳴ったのだった。
私はあわてて咳払いして、
「ここへ来たとき、鍵はかかっていましたか?」
と質問した。
「いや、開いていました。チャイムを鳴らしても返事がないので、中へ入りました。うなぎをここへ置いて、寝室の方へと入って行くと、佳子があの状態で……。すぐに一一〇番したわけです」
「何かに触れませんでしたか?」
「いいえ。――あ、もちろん佳子の手首を取って脈を見たり、胸に耳を押し当ててはみました。まあ、一見して、生きているとは思いませんでしたがね」
「分りました」
私は肯いて、「何か妙なことに気付いたとか、そんなことはありませんか?」
「特に何も」
並木の対応は至って自然で、落ち着いていた。少し自然に過ぎるような気がした。愛人を殺された男としては、多少はおどおどしているのが、普通である。
すると、それまで、傍に立っていた夕子が、言った。
「並木さん。一つうかがってよろしいでしょうか」
「構いませんよ」
並木は、別に夕子が何者かと気にする風でもなく、肯いた。
「奥さんとなぜ離婚なさったんですか」
並木は、ちょっと間を置いて、
「あの事件ですよ」
と言った。
「大浜光代さんが殺された件ですね」
「そうです。――私は確かに方々に女も作ったし、遊びもしました。しかし、智子は別にそれを|咎《とが》め立てしなかった。まあ、男の勝手な言い草だが、智子への愛情は、いつも変らなかったのです。智子もそのことを分ってくれていた」
「それでも離婚なさった……」
「そう……。あの光代を殺したのは、私か、でなければ智子しかいない。お互いに疑惑を抱きながら過ごすのは堪えられなかったのです」
「でも、あなたが殺したのではないんでしょう」
「私ではありませんよ」
「それじゃ、奥さんということになりますね。その奥さんに、珠絵さんを任せたわけですか」
並木は、ちょっと微笑んだ。
「なかなか鋭いですな。そう、ちょっと妙に思えるかもしれません。しかし、たとえ光代を殺したのが智子だとしても、それは私の罪です。智子は別に殺人狂になったわけではない。たとえ智子が殺人犯だとしても、私は珠絵を任せて大丈夫と思ったのです」
不思議な夫婦である、それでいて、並木は小田切佳子、山辺智子は金内周二という恋人を持っている。いや、並木に関しては、「持っていた」と言うべきだろうが……。
「最後にもう一つうかがわせて下さい」
と、夕子は言った。「純絵さんと珠絵さんは、別々に暮らすのをいやがりませんでしたか?」
並木は、初めて表情を曇らせた。
「それだけが私と智子を苦しませましたよ。あの仲の良い二人を引き裂くことが、ね。泣いていやがりましたな。しかし、私も智子も、二人を両方失うことは堪えられなかったのです」
「定期的にお会いになっていたのですか?」
「努力はしていました。しかし、なかなかその機会はなくてね……。何しろ私は忙しい身ですから」
夕子はそれで引き退った。
「――では結構です」
と私は言った。「いつでも連絡が取れるようにしておいて下さい」
「かしこまりました」
並木は立ち上がると、うなぎ弁当の袋を見て、
「あの弁当、もしどなたか召し上がる方があればさし上げて下さい。処分していただいても結構です」
私は、原田の目がギラギラと輝くのを横目で見て、
「分りました。当方には〈処分係〉がおりますので、それに任せましょう」
と言った。
4
「出て来たぞ」
と私は言った。
小ざっぱりした住宅の門から、珠絵が出て来た。もう足取りは軽快で、捻挫は全快したらしい。
小田切佳子が殺されて十日ほどたった、日曜日である。事件の捜査は一向に進展を見ない。小田切佳子はかなり方々に恋人を作っており、並木はそのうちの一人に過ぎなかったらしい。
「タクシーを止めたぞ」
と私は言った。「十五歳の女の子が一人でタクシーか」
「文句ばっかり言ってると老け込むわよ。さ、後を|尾《つ》けて」
助手席の夕子が偉そうに肯いて見せる。こっちはまるでおかかえ運転手である。
タクシーの後を尾けて車を走らせながら、
「あの子を尾行してどうするんだ?」
と私は言った。
「まあ、いいから言う通りにしてよ」
まだやっと昼を過ぎたところで、朝寝坊の東京は人が出始めたばかりである。
「――問題はいくつかあるのよ」
と、夕子が言い出した。「まず、五年前の、大浜光代を殺したのが誰か、ってこと。次に、並木珠絵はなぜ色の違う靴をはいていたのか。そして階段から落ちたとき、なぜ靴は逆になっていたのか」
「はきかえたんだろう」
「靴の右と左は違うわよ」
「あ、そうか。いや……無理にはいてたのかな?」
「それなら見て分るわ。あれはちゃんとはきかえたのよ」
「しかし、それじゃ前の靴は?」
「そう。そこね。最初、珠絵は右に赤、左に緑の靴をはいていた。階段を落ちて来たときは、右に緑、左に赤の靴をはいていた」
珠絵の乗ったタクシーは、住宅街を抜けて行く。尾行して行く方も楽ではない。車が少ないから目立つのである。
「問題は、脱いだ右の赤、左の緑の靴をどうしたか、ね」
「その辺のどこかに隠しておいたのか……」
「何のために? それに、そんなことをしている時間はあったかしら?」
私はあのときのことを思い出してみた。
「難しいね……。上って行って、すぐに落ちて来たような気がする」
「そうでしょう?」
「するとどうなるんだい? 犯人が持って行ったのかな?」
「だったら、犯人の顔を見ているはずでしょう」
「そうか」
「どう? 上って行ったのと、落ちて来たのが、別の子[#「別の子」に傍点]だったとしたら?」
私は|呆《あっ》|気《け》に取られた。
「つまり……入れかわったって言うのかい? 珠絵と純絵が? しかし、それこそ時間がないだろう。服や何かが――」
「全部同じ物を着てればいいのよ、最初から」
「最初から?」
「たぶん二人でしめし合わせて……」
夕子は言葉を切った。「タクシーが停るわ。そのまま走らせて!」
タクシーは、ちょっと洒落た感じのブティックの前で停っていた。私は車を、少し先まで行ってから停めた。
「タクシー、まだ停ってるぜ」
「待たせてるのね。降りましょう」
「どうするんだ?」
「二人[#「二人」に傍点]に会うのよ」
「二人だって?」
夕子は構わず車を出ると、さっさと歩いて行ってしまう。私も仕方なくついて行った。
「いらっしゃいませ」
店に入って行くと、中年の上品な婦人が夕子を迎えた。「こちらは初めてでいらっしゃいますね」
「ええ……」
「どういったものをお探しでいらっしゃいますか」
「あの……」
夕子が店の中を見回していると、奥の、二つ並んだ試着室のドアが同時に開いた。そして、珠絵と純絵が出て来たのである。
いや、私の目にはどっちがどっちとも分らないのだが。
二人は夕子に気付いて、一瞬逃げ出しそうにしたが、
「こんにちは。どっちが珠絵さん?」
と、夕子が声をかけると、諦めたように肩をすくめた。二人揃って、である。双生児と分っていても不思議だった。
「私が純絵です」
と言ったのは、今日、珠絵が家から出て来たときの服装をした方だった。
「すると、ちょくちょく入れ替ってたわけなのかい?」
と私は訊いた。
そのブティックに近い、小さなケーキショップだった。およそ、警視庁捜査一課の警部が足を踏み入れる場所ではないが、仕方ない。食べてみると、またこれがなかなかうまいケーキなのである。
「だって、大人の勝手な都合で、私はパパの方、珠絵はママの方なんて決められるの、いやだったんです」
と純絵――らしい方が言った。「だから、時々連絡しあっては、交替していたんです」
「本当に瓜二つだものね」
と、夕子が感心したように二人を見比べる。
「結構大変なんです」
と、珠絵の方が言った。「髪を切るときなんかも同じぐらいにしておかないといけないし、太り過ぎも一方だけじゃ困るでしょ。ともかく、体重もまめに測って、大体揃うようにしておくんです」
「なるほどね。――で、ご両親は気付かなかった?」
「たぶん……。パパはあまり家にいないでしょう。それにママはずっと一緒だけど、ぼんやりさんだから」
二人は楽しそうに笑った。笑い声、笑い方までそっくり同じだ。
私は、こんな二人を無理に引き離してはいけない、と思った。
「いくらお母さんがぼんやりでも、靴の色が左右で違えば気が付くんじゃない?」
と夕子が言った。「あれは――単純な間違いだったのね」
「はい」
二人が揃って肯く。
「単純な間違い?」
と私は言った。「しかし……」
「私たち色弱なんです」
と、純絵が言った。「そんなにひどくなくって、ごく軽いんですけど、暗い所なんかでは、赤と緑の区別がつかなくなるんです」
「ああ、それで……」
私は肯いた。
「いつも、あのブティックのおばさんに頼んで、二人分、同じ衣裳を揃えてもらいます。そうしておけば、入れ替るのも楽でしょ? 着替える必要もないから。ところがあの日は、あのおばさんが急用で出かけてて、手伝いに来てた人が揃えてくれたんです。そしたら、靴だけが赤と緑になっちゃって……。一緒にワイワイ着ていたら、赤と緑、左右にはいちゃったんです。試着室二人で入ったんで足もとが暗くて分らなかったんですね」
「で、私、ママと待ち合わせてて、急いで先に飛び出しちゃったんです」
と、珠絵が言った。
「後で気が付いて、私、追いかけて行きました。食事する所は分ってたから、階段上ったところで待ってたんです。そしたら、先に珠絵が出て来たでしょ。階段上って来たところへ、わざとワッと声かけてやったら、珠絵ったら、怖がり屋だから、いきなり私のこと突き飛ばしたんです。で、私、階段を落っこちてしまって……」
「じゃ、入院してたのは、姉さんの方なの?」
と私は言った。「わざと突き落とされたわけじゃないんだね!」
「ごめんなさい」
二部合唱で一斉に謝られては怒るわけにもいかない。
「それで珠絵さんはびっくりしてどこかに隠れてたのね」
「はい。心配だったけど、もし入れ替りが分っちゃったら、今度はもう本当に二度と会えなくなるかもしれないと思って……」
珠絵は姉の方へ、「お姉さん、ごめん」
と頭を下げた。
「今さら言ってどうなるのよ」
と純絵は笑った。「大したけがじゃなかったし、ママに看病してもらって甘えられたし。妹っていいなあと思ったわ。つくづく」
「どうして、突き落とされたなんて言ったんだね?」
二人はちょっと顔を見合わせた。
「私がそうしようって言ったんです」
と珠絵――いや、純絵が言った。ああややこしい!
「ママにあの金内って男が言い寄って来てたでしょう。あの男を何とかして遠ざけてやりたかったんです。突き落としたのがあの人だって言うつもりでした。でも珠絵が調べたら、あの日、金内は大阪にいたんです。で、そうも言えなくなっちゃって……」
「どうやって調べたんだい?」
「探偵社に頼みました。お金は割合ためてるんです。行く行くは、二人で何かお店でも持とうと思ってるから」
今の子はしっかりしているもんだ、と私は感心した。
「お願いがあるんです」
と純絵が言った。
「何だい?」
「パパとママは本当は一緒に暮らしたいんです。でも、五年前の事件のことがあって、どうしてもだめなんです。――あの事件を解決して下さい。お願いします」
二人が一緒に頭を下げる。――そりゃ、できるものなら解決しているが……。
5
「何だって?」
私は電話を聞いて、思わず訊き返した。「死因が違ってた?」
「そうなんだ」
検死官はいとものんびりと言った。
「違ってたってどういうことだ。小田切佳子は絞殺だろう?」
「ほとんど同時に絞められてるんで、気付かなかったんだ。傷口も見つからなかったしね」
「傷というと?」
「少し太目の針のようなもので刺されているんだ。後頭部の、ちょうど髪の毛で隠れたところに小さな傷があってね。傷口がふさがって血がごくわずかしか出なかったんで、気が付かなかったんだよ」
「おい、しっかりしてくれよ、困るぜ、全く」
と私は苦情を言ってやった。
しかし、死因が変ったところで、犯人が分らないのは同じことだ。――第一の容疑者といえば、やはり並木だろうが、彼は通報者でもある。通報者が犯人である場合もないではないのだが、並木の場合、動機がないし、それに、何といっても大物であり、下手に取り調べるというわけにもいかないのだ。
凶器が使われたとなると、ますます並木の線は薄れる。一応現場で厳重な身体検査は受けているからだ。もちろんどこかへ隠したと考えられなくもないが。――太目の針のようなもの、か……。
そこへ夕子から電話がかかって来た。小田切佳子の死因を教えてやると、夕子は少し黙っていたが、
「ねえ――、ちょっと一緒に行ってほしいところがあるんだけど」
「どこだい?」
「並木邸。三十分したら警視庁の前に行くわ」
「でも――」
「それから、原田さんは連れて来ないでね[#「連れて来ないでね」に傍点]」
夕子は電話を切ってしまった。私はしばしポカンと受話器を見つめていた。
「ここに死体があったのね」
夕子は、並木邸の居間で、ドアの陰に立って言った。
「そうです」
肯いたのは純絵である。巧い具合に、並木は出かけていた。私の方は冷汗であった。
「どうしてここにあったのか……」
夕子は、居間の中央の方へ歩き出すと、いささか芝居がかった仕草で振り向いた。「ねえ、ドアの陰に隠れるのはどんなとき?」
「誰かが来たときだろう」
「そう。――たぶん、大浜光代も、自分で、そこに隠れたと思うの。でなければ、そんな場所に立つのは不自然だわ」
「すると?」
「来たのは、おそらく奥さん、智子さんね。すると、どんなことが起ったのか」
夕子は、ソファの一つに腰をおろした。「智子さんは、寝室で玄関のドアが開いて、誰かがやって来たのを聞きつけた。夫はまだ居間にいる。おそらく女だ、と智子さんは直感したのね。外での浮気ならともかく、家の中で、と思うとカッとなった。急いで下へ降りて行く。そして居間のドアを思い切り叩きつけるように開ける……。中では、大浜光代が、近付いて来る足音に気付いて、ドアのわきに隠れようとした。大浜光代は、並木さんを殺す気で来たんだと思うわ」
「何だって?」
「居間へ入る。並木さんは眠っている。ナイフを手に近付く。そこへ足音がする。大浜光代はあわててドアのわきへ身を寄せる。ナイフを持った手をこう後ろへ隠してね」
夕子は右手を背中へ回して見せた。「そして智子さんがドアを勢いよく開ける。ドアは大きく開いて、大浜光代にぶつかる……」
「その弾みでナイフが剌さったのか!」
「並木さんが目を覚まして……死体が見付かる。警察へ届ければ、殺人と思われるだろう。――そこで凶器を片付けて、死体もどこかへ隠してしまおうということになる。智子さんが、外へ出て、門が開け放していないか見に行く。ところがその間に、純絵さんと珠絵さんが、居間へ入ってしまい、死体が見付かってしまったのね。並木さんは眠ったふりをするしかなかった」
「それであんな中途半端なことになってしまったのか……」
私は肯いた。
「それじゃ、パパもママも人殺しじゃなかったのね! 良かった!」
純絵が小躍りして喜んでいる。
夕子は、何となく重苦しい顔で、純絵の喜びようを見ていた。
「まだ何かあるんだな?」
並木邸を出ると、私は言った。
「うん……。もう一つの殺人よ」
「小田切佳子か」
「大浜光代がどうして並木さんを殺そうとしたのか。たぶん、並木さんは根が冷たい人なんだと思うわ。女の心など一切考えずに、飽きれば捨てる。――いつも冷静沈着、でね」
「小田切佳子を殺した、というのかい?」
「小田切佳子にあのマンションを買ってやったのは並木さんでしょ? 今まであの人は、どの女にも、そんなことをしてやったことがなかったのよ。週刊誌の知識だけどね」
「モデルだったから、ネタにされたんだな」
「急に金回りが良くなった、とも出てたわ」
「それは事実だ」
と私は肯いた。「しかし、彼女は大勢ボーイフレンドがいて買ってくれるんだと話してたようだぞ」
「カムフラージュよ。事実は並木さん一人から出たお金だと思うわ」
「つまり――恐喝か」
私たちは、車に戻った。席につくと、夕子は続けた。
「小田切佳子がどうやって大浜光代の死の真相を知ったのかは分らないわ。もしかすると、全然別の、並木さんの秘密を知っていたのかも知れない。ともかく、彼をゆすっていたのは確かよ」
「それで、並木が小田切佳子を殺した。――どうやって?」
「刺し殺して、そのことを悟られないように首を絞めた。そして平然と警察に通報した……」
「証拠がない、と安心しているわけだな」
と私は言った。「しかし、確かに証拠はないぜ。それに動機も、恐喝が立証できないと苦しくなる」
夕子はしばらく黙り込んでいたが、
「警視庁へ戻って」
と言った。「証拠が届いてるかもしれないの」
夕子の言う証拠が何なのか、私は訊かなかった。自分で言い出さない限り、訊いてもむだだと分っているのである。
捜査一課の部屋へ入って行くと、原田が夕子を見付けて、嬉しそうにやって来た。
「夕子さん、今日も美人ですね!」
「ありがとう」
夕子はちょっと笑って、「――で、どうだった?」
と訊いた。
「ああ、ありましたよ」
原田はポケットから、竹の細い棒のようなものを何本か取り出して、「何でも取っとくくせがついてまして」
「何だ、それは?」
「あれですよ、宇野さん、この間もらったうなぎの串[#「うなぎの串」に傍点]。洗って取っといたんです。何かに使えるかと思って」
夕子は、先を鋭く尖らせた串の一本をじっと手に取って見ていた。
「これを全部調べたら、たぶん水で洗ったぐらいなら、まだ血液反応が出ると思うわ」
私はハンカチにそれを包んで、原田を見た。いかに鈍感な原田でも、これはちょっと……。
「宇野さん、その串、何かに使うんですか?」
「まあ、ちょっと、な……」
私は言うに忍びなかった。
そして、あの姉妹の顔を思い浮かべると、気は重かったのである。
「お宅でうなぎを焼くんですか? だったらぜひ呼んで下さい! 何人前でも引き受けますから」
私と夕子は、原田の無邪気な後ろ姿を眺めて、顔を見合わせた。
「当分、うなぎは食う気がしないよ」
と私は言った。
「いいじゃないの」
夕子はそう言って、「逆療法ってこともあるわ。思い切りうなぎを食べまくるってのはどう?」
私は急いで捜査一課の部屋を飛び出した。今度は私の財布が殺されそうだ。
第四話 コウノトリは本日休業
1
パトカーを降りると、池のほとりに、人が十人ほど集まっているのが見えた。
私は池に向って下って行く坂道を降りて行った。夏の陽射しが照りつけて、目を細めなくてはならない。
「――失礼」
と、近所の主婦らしい女性たちの間をかき分けて、「警視庁捜査一課の宇野ですがね」
と、同業らしい男へ声をかけた。
「あ、どうも。F署の林といいます」
とその刑事は愛想よく、「ご足労いただいて恐縮です」
「いや、それはいいんですが……」
と私は言って、「殺しですか?」
と|訊《き》いた
「いや自殺らしいんですよ。この池に飛び込んで。――深くはないんですが、死ぬ気で入れば……」
「すると私に何の用です?」
「はあ、実は……。|仏《ほとけ》をご存知じゃないかと思いましてね」
「私がですか?」
「ともかく、ご覧になって下さい」
布で覆われた死体の方へと歩いて行く。トットッと軽い足音がついて来た。
「おい」
私は永井夕子の方へ振り向いて、「パトカーで待っててくれと言ったじゃないか」
「あら、いいじゃないの。別に護送中の犯人ってわけじゃないんだし」
夕子は相変らず気楽な女子大生である。私の方は気重な[#「気重な」に傍点](?)四十にもなっている独身の刑事である。
林刑事が不思議そうに夕子を眺めている。まさかこのアンバランスな二人が恋人同士とは思ってもみないのだろう。
団地の中に造られた公園であった。
割合と大きな池を、散歩道がぐるりと囲んで、その外は、もう立ち並ぶ高層の住宅群である。私と夕子に劣らず、どこかアンバランスな光景だ。
「――この女なんですが」
林刑事が布をめくって顔を見せる。――年齢は三十五、六というところか。少しやせ形の、どことなく苦労を重ねたという顔立ちに見えるのは、死体になっているせいだろうか。
しかし、いずれにしても、私には見憶えのない顔であった。
「いや、知りませんね」
と私は言った。
「そうですか」
林刑事は、ちょっと意外そうな顔をした。
「どうして私の知人だと……」
「実はこれを――」
と、林刑事は、ビニールの袋を取り出した。中に、折りたたんだ手紙らしいものが入っている。
「遺書ですか」
「そんなようなものです」
と、林刑事は中から手紙を出して広げた。女文字――それもなかなかきれいな字である。
〈私に万一のことがあったときは、警視庁捜査一課宇野喬一警部にご連絡下さい〉
簡潔そのものの文面である。
「この女性の身許は?」
「この団地に住んでいた女で、千秋安代というんです。――子供が一人いて、夫とは死に別れたと近所の人には話していたようですが」
私は首をひねった。顔にも、千秋安代という名前にも、覚えはない。なぜ私に連絡してくれと手紙を|遺《のこ》したのか。
「でも変ね」
夕子が言った。
「何が?」
「手紙よ。『万一のことがあったときは』なんて、およそ遺書に見えないじゃないの。万一のことがなんて……まるで殺されるって予期してたみたいだわ」
やれやれ、何でもすぐに事件にしたがるのが、名探偵の悪い癖である。
「しかし、およそ外傷らしきものはない……でしょう?」
私は林刑事の顔を見た。
「はあ……」
林刑事は戸惑い顔で、「額に打ち傷のようなものはありますが、それはたぶん飛び込んだときにどこかで打ったんでしょう」
「それにね」
と夕子は周囲をぐるりと見回して、「こういう団地は夜でもかなり明るいのよ。見なさいよ、ずっと街灯が並んでて。それに、この公園は周囲の建物から見下ろせるようになってるわ。常に誰かに見られているようなもんだわ。私なら、こんな所で自殺したりしないわ」
「みんなが君のように論理的に考えて自殺するとは限らないよ」
と私は言った。
「もう一つ気になるのは子供のことね。遺書なら、なぜ子供のことを書いていないのか……。子供は今どうしてるんですの?」
「はあ……」
林刑事はすっかり呑まれた格好で、「近所の人に預かってもらっていますが」
「いくつですか?」
「確か六歳だと思いました。女の子で」
「六歳なら多少話が分るんじゃない?」
すっかり、夕子が指揮官みたいである。
「まあ、ともかく、その子に会ってみましょう」
と私は言った。
今の六歳といえば、私の感覚でいくと、小学校の三年生ぐらいという印象である。
その女の子は、また特に大柄なのか、どう見ても八歳ぐらいに思えた。
死んだ千秋安代の隣の部屋の人が預かっていてくれたらしく、林刑事に連れられて来た少女は、私の顔を見ると、ペコンと頭を下げた。
「やあ」
と私は微笑みかけた。
「千秋きょう子です」
「きょう子ちゃんか。どういう字を書くの?」
「ちょっと難しい字でね」
と林刑事が、メモに書いてみせた。
「へえ、〈喬子〉か。おじさんの名前もこの字なんだよ」
と私は言った。
喬子は、じっと大きな目を見開いて、私を見つめていた。
母親似の、割合大人びた顔立ち。母親が死んだとはもう聞かされているはずだが、実にしっかりしている。
夕子は少女の方へちょっとかがみ込むようにして、声をかけた。
「ねえ、このおじさんのこと、知ってる?」
「おい、夕子――」
「うん」
と、喬子が肯く。「宇野さんっていうんでしょ」
「そうよ。ママから聞いた?」
「うん」
喬子はつかつかと私の方へ歩いて来ると、私の手をギュッと握って、「――この人がパパなの!」
と言った。
「どうだ! いい加減に白状しろ! 素直に吐けばスッとするぞ!」
「おい、やめてくれ」
私は夕子を見て、言った。「冗談じゃないぜ全く」
「何よ、いつもやってるくせに」
夕子はカクテルをぐいとあけた。「――どう? 思い出した?」
行きつけのバーである。
今夜はアルコールの量も多かった。
「思い出せったって、知らないもんは知らないよ」
「じゃ、本当に覚えがないの?」
「ああ、誓ってもいい」
「酔って前後不覚になったときとか――」
「そんなに酔ったことはないよ。それにあの子が六歳だろ。七年前といえばまだ女房が生きてた頃だ。模範的亭主だったんだぞ、僕は」
「怪しいもんね」
と夕子はいたずらっぽく言った。「で、どうするわけ?」
「あの子の身よりを捜すさ。それしかないじゃないか」
「でも、たとえあなたの話を信じるとしても、よ」
「僕の話が真実だ!」
「まあ、落ち着いて。それにしても、なぜあの女性が、あなたのことを父親だと娘に教えていたのかが問題よ」
「うん……」
「少なくとも、あちらはあなたのことを知ってたわけだもの」
「さっぱり分らないよ」
と私は首を振った。「まあ、あの女性の身許を今洗わせているから、そのうち、何か分るだろう」
そこへ、
「宇野さん!」
と、凄い大音響が空気を震わせた。
顔を上げるまでもなく、音源[#「音源」に傍点]は分っている。原田刑事だ。
「やっぱりここでしたか!」
「おい、そんなでかい声を出すなよ。ここはバーだぜ」
「おめでとうございます!」
原田は私の注意などまるで無視して、「とうとうお父さんだそうで」
とニヤニヤしている。
アッという間に話は広まったらしい。
「で、夕子さん、予定日はいつです?」
「え?」
と夕子が面食らって、「予定日?」
「アルコールはお腹の子に悪いんじゃないですか?」
原田は大真面目に言った。夕子が笑い出して、私は渋い顔でグラスをあおった。
「――何だ、そうだったんですか」
事情を聞いて原田は照れくさそうに、「いや、宇野さんの隠し子だったとは……」
「俺の子じゃない!」
「静かに。ここはバーよ」
と夕子が言った。
「いないいない、バー[#「バー」に傍点]ですね。子供にぴったりだ」
原田がつまらない駄ジャレを言って一人で笑い出した。
「おい、原田、ところでお前、そんなことを言うためにここへ来たのか?」
「あ! そうだった!」
原田は、ビールの大ジョッキを半分ほど飲みかけていた。「――事件です」
「早く言え!」
「あの――例のですよ、ほらその千秋安代って女」
「彼女がどうした?」
「検死の結果、殺されたと分ったんだそうです」
「どこかで殴り殺されたらしい」
と、本間警視は言った。「それからあの池に放り込まれたのだ」
「はあ」
「なあ宇野君」
「何でしょう?」
私はいやな予感がした。本間警視が愛想良く話をするときは、ろくな話ではないのである。
「この件については君を外した方がいいという意見もあるんだよ」
「どうしてですか!」
「そりゃ分っとるだろう。君自身が関係者なんだから」
「私はあの女とは無関係です!」
「君を信じたいとは思うが、ともかく向こうは君を知っていたわけだ」
「きっと何かの陰謀です」
我ながら馬鹿らしいことを言う、と思った。こんなしがない男やもめの刑事に陰謀をしかけるヒマな人間もあるまい。
「まあいいだろう。――しかし、原田と常に行動をともにするようにしてくれ」
要するにお目付役がつくわけである。しかし原田では、あまりその役には立たない。本間警視だって、その辺のことは承知の上なのである。
ホッとして、早速原田刑事と行動を開始した。
「――一応、千秋安代の身許は確かですね」
と、原田が言った。「はっきりしないのは、あの喬子って子が生れる前の一、二年です」
「肝心のところだな」
「宇野さんが囲ってたんじゃないんですか?」
原田がからかった。しかし、こっちはそんな冗談に付き合っている気分ではない。
「|平《ひら》の刑事だぞ。安月給でそんなことができると思うのか?」
「それもそうですね」
と原田は肯いて、「それとも、宇野さんが食べさせてもらってた、とか……」
人をヒモ扱いである。
「おい! あの団地へ行くぞ!」
と私は言った。
「すると、昔のことは触れたがらなかったんですね?」
と私は訊いた。
「ええ、結婚前は何をしてた、とか、そんな話をしていると、彼女、ふっとどこかへ行ってしまったり、別の話を持ち出したりするんです。あんまり話したくない過去があるんじゃないかって、みんなで話してたんです」
千秋安代と親しかったという主婦の話である。どうやら、安代には、あまり心を許した友人というのはいなかったらしい。
「この団地に来て三年ぐらいいたわけですね」
「ええ、そうです。うちより少し後に入って来たんです」
「客はありませんでしたか?」
「さあ。――見たことないですわ、彼女の所に客が来てるのなんて」
「何をして生計を立てているのか、分りましたか?」
「実家から仕送りしてもらっている、と彼女は言ってました」
「いくらぐらいか、知っていますか?」
「いいえ。――でも、いつだったか、遊びに行ってるときに、現金書留が来たことがあります。割合分厚かったのを憶えてますわ」
「安代さん自身は、働いていなかったんですね?」
「ええ。結構のんびり暮らしてたみたいです。この辺はみんなたいてい何か仕事をしてますけど、彼女は、そんな広告なんか、目もくれてなかったし……」
「実家からそれだけ送ってもらってるんだったら、なぜ実家で暮らさなかったんでしょうね?」
「私もそう訊いたことがありますの」
「何と言ってました?」
「何だか、兄嫁と合わないんだとか言ってましたわ」
戸沢令子という、その主婦は、タバコをくゆらしながら言った。三十二、三歳か。千秋安代より少し若いだけだろうが、ちょっと派手な顔立ちで、大分若く見えた。
「どうも、お邪魔しました」
私が玄関へ出ると、
「あなたが、あの喬子ちゃんのパパなんですって?」
と、戸沢令子が訊く。
「いや、何かの間違いですよ。全く覚えがないことで――」
「あら。でももてる[#「もてる」に傍点]お顔ですわ。きっとどこかで――」
「失礼します!」
私は早々に逃げ出した。
原田の奴はどこに行ったのか、と表に出て見回すと、
「ほら見つけた!」
と女の子の声がした。
「原田さん、大きすぎて隠れないんだもの、だめよ」
と笑っているのは――夕子だった。そして、一緒に遊んでいる女の子は、千秋喬子だったのである。
2
「謎がいくつかある」
団地の中の食堂でラーメンをすすりながら、私は言った。喬子は店の外で、ソフトクリームをなめている。原田と並んでいると、あたかも恐竜とウサギという感じ。
「というと?」
「調べて分ったところでは、千秋安代は結婚したことはない。実家も、十七のときに家出して、それきりだ。両親も亡くなっている」
「仕送りはできないってわけね」
「そう。――つまり、全然働かずに、のんびり暮らしていられるだけの収入を、どこから得ていたのか?」
「男から。これがまあ常識的な線でしょうね」
「ところが、彼女はめったに家から出なかったんだ」
「分らないわよ。月に一回抱いて何十万円もお手当くれる社長さんがいたのかもしれないし」
「しかし、ともかく子供がいるんだ。外出といっても遠くには行けない。――この団地の中にいるとしたら……」
「それは無理よ。噂にならないはずがないもの」
夕子もラーメンをすすっている。「ラーメンってやっぱり高級な店より、こういう小さな所の方がおいしいわね」
「じゃ、男じゃないっていうのか?」
「男かもしれないわ。でも恋人とか愛人とかいう関係ではなかったわよ、きっと」
「他に何かあるのか?」
「鈍いのねえ、それでも警部?」
グサリと胸に突き刺さるようなことを言って、「恐喝[#「恐喝」に傍点]は?」
と私の顔を見る。
「そうか……」
まさか、という思いながら、その仮定は千秋安代のイメージによく重なって来る。
「その仲のいい奥さんの話だと、千秋安代は昔のことを話したがらなかったっていうことね? でも、本当に隠したいのなら、そんな風に席を立ったり、話をそらしたりしないわ。そんなことしたら、|却《かえ》ってみんなが勘ぐるだけだもの。むしろ、適当に話をでっち上げてしゃべるわよ」
「ふむ、なるほど。君もやっぱり女だね」
「あら、知らなかったの? 一緒に寝てるくせして」
私はあわてて周囲を見回した。全くもう、突然そんなことを……。
「――すると容疑者の幅も広がって来るね」
「誰が恐喝されていたのか。それを調べるのは楽じゃないわよ。一人とは限らないんだしね」
「いい手があるかな」
「彼女がたぶん、ノートのような物を持ってたんじゃない?」
私はゆっくり肯いた。
「すると……鍵は千秋安代の部屋だな」
「鍵、持ってる?」
「ああ」
「では参ろうか、ワトスン君」
夕子はラーメンのスープをゴクリと飲んで、立ち上った。ホームズがラーメンを食べたとは、とても考えられないが。
千秋安代の部屋は、十一階建の高層住宅の三階である。
私と夕子は、原田に喬子の相手を任せて、千秋安代の部屋へ入った。
「お葬式はどうなるの?」
「明日、ここの自治会でやるそうだよ」
「喬子ちゃんは?」
「さあ……。今、身よりを捜してるんだ。いつまでも近所の人に預かってもらうというわけにはいかないからなあ」
「そうね」
玄関を上って、居間のドアに手をかけた夕子は、「誰かいる!」
と鋭く言った。
「え?」
「中で物音が――」
「よし。どいて!」
私はドアを一気に大きく開け放った。――居間には人の姿はなかった。
しかし、ソファは引っくり返され、戸棚の引出しはぶちまけられて、見るも無残である。
「いないぞ」
「どこかにいるわ……」
夕子はゆっくりと居間の中を見回した。
「――危い!」
と、女性の叫び声が表から聞こえて来た。
「ベランダへ出たのよ」
と夕子が言った。
私は転がったソファを飛び越え、居間を突っ切ると、ベランダへ出るガラス戸を開けた。誰かが、手すりをまたいで、仕切り板の外側を、隣の家のベランダへ入ろうとしている。
「キャーッ!」
隣の主婦らしい悲鳴が聞こえた。
「おい! 戻れ!」
と私が怒鳴る。
下手に足をつかんだりすれば、下へ落ちるおそれがあるので、手は出さなかった。ところが、前後を挟まれて、あわてたらしい。
三階から下を見ると、割合にすぐ、ヒョイと降りられそうな気がするものである。
その人物も、エイッとばかり、忍者にでもなったつもりか、下へ飛び降りたのである。
「馬鹿!」
夕子が|呟《つぶや》いた。
「キャーッ」
下を見ていた主婦が悲鳴を上げた。
私たちは急いで玄関から飛び出し、階段を駆け降りた。
その男は、足をかかえて苦しげに|呻《うめ》いていた。幸い、植込みに飛び降りたから足で済んだが、これがコンクリートの上なら、命にかかわるところである。
「すみません!」
私はそこにいた主婦へ、「救急車を呼んで下さい!」
と叫んだ。
「――ねえ」
夕子が呆気に取られたような声を出した。私も、その男を見てびっくりした。
千秋安代の死体を見たときに会った、林刑事ではないか!
「それで簡単に中へ入れたのね」
夕子が言って、かがみ込んだ。「――彼女に脅迫されてたんでしょ?」
林は、苦痛で額に汗を浮かべていたが、夕子の話は分ったとみえ、肯いた。
「何をネタに?」
「私は……ちょっと浮気しただけなんです。ただ……相手が学校の先生で……ばれたら、スキャンダルになる、と……」
林は途切れ途切れに言った。
「写真でも撮られてたの?」
「そう……。一体どこで手に入れたのか……私と……その女教師がホテルに入るところを……」
「刑事ともあろう者が」
私は苦々しい思いで呟いた。「いくらぐらい払ってたんだ?」
「毎月……五万。私と、その教師とで半分ずつ負担して……何とかやりくりして来たんです」
五万円か。頭のいい絞り方だ。これが五十万、五百万なら、却って払う方も開き直ってしまうだろうが、五万円――その半分の二万五千円で、秘密が守れるなら、と誰もが考えるだろう。
「でも……もう二年間、払いつづけてるんです。秘密にするのも限界に来ていた……」
「それで殺したのか」
「違います!」
林は首を振って、そのせいでまた足が痛んだらしく、呻き声を上げた。
「違う?」
「私じゃありません! 本当です。私はやってない!」
「相手の女性の名は?」
と私は訊いた。
「それは……」
林は言い渋った。「言えません。それだけは――」
私は平手で林の顔を打った。
「甘えるな! お前は警察官だぞ!」
林はゴクリと|唾《つば》を飲み込んで、
「分りました……」
と呟いた。「名前は……|関《せき》|紀《のり》|代《よ》……」
私は名前と住所を控える。
「宇野さん、どうしたんです!」
原田がドタドタと芝生を踏み荒しながらやって来る。
「おい、救急車が来たら、ここへ呼んでくれ」
「はい。――何です? 夕子さんが|肘《ひじ》鉄砲でも食らわしたんですか?」
原田の発想はユニークにして、常に的外れである。
「その写真を捜してたのね?」
と夕子が林へ訊いた。
「そうです……」
「見付けた?」
「いいえ、だめでした」
林は首を振った。
「ゆすられてたのは、他にもいたんだろう。誰か知ってるか?」
と私は訊いた。
「いたのは確かです。でも、誰なのかは分りません」
「そうか。――分った」
やがて、遠くからサイレンが聞こえてきた……。
林が運ばれて行くと、私は夕子と顔を見合わせた。
「君の勘が当ったね」
「推理と言ってよ。まあ、そんなことは分ってたけど……」
名探偵は、あまり謙虚とは縁がないのである。
「あの分だと、まだ他に大分いそうだな」
私はため息をついた。「こりゃ大変だぞ。まずゆすられてたのが誰と誰だったかを捜して、それからその中に犯人がいるかどうか調べなきゃならない」
「きっと大騒ぎになるわね」
夕子がなぜか深刻な表情で言った。
「何が?」
「林刑事が盗みに入ったことよ。何しろ現職の刑事ですもの」
「うん……。まあ仕方ないよ。警官という身分上、それは当然だ」
「そのことじゃないの」
「というと?」
「あの喬子ちゃんのことよ」
「そうか……」
母親が人をゆすって生活していたことが知れたら……。まだ六歳とはいえ、世間の目を敏感に感じ取れる年齢にはなっている。それに、成長してからも、あの子の心に傷は残ることだろう。
「この団地から、早く出た方がいいんじゃないかしら」
と夕子は言った。
「そうだなあ」
私は肯いた。「――原田だ。おい、どうした?」
原田の広い背中で、喬子がぐっすり眠ってしまっている。
「遊び疲れちゃったらしいですよ」
と原田は笑って、「いや、こっちも疲れました。しかし、無邪気なもんですねえ」
軽い寝息をたてている喬子の寝顔を眺めて夕子が言った。
「――ねえ、あなた引き取って育てたら?」
「おい!」
私は目を丸くした。
一見して、いかにも教師らしい女性が、喫茶店に入って来ると、店の中を見回した。
三十歳前後か、きつい感じではあるが、なかなかの美人である。今は緊張のためか、顔がこわばって、青ざめていた。
「――あれね」
と夕子が言った。「じゃ、私、隣の席にいるから」
夕子が移っている間に、その女性――関紀代は、店の人間に声をかけていた。
彼女は私のテーブルの方にやって来ると、
「関紀代です」
と頭を下げた。
「宇野です。まあどうぞ」
コーヒーが来るまで、関紀代は口を閉じていた。まるで、話が|遮《さえぎ》られるのを恐れているかのようだった。
「――どうもありがとうございました」
と、彼女は言った。「終業まで待っていただいて。それに、学校から遠い場所を指定して下さったので、助かります」
「林刑事のことはご存知ですね」
「はい」
「私の目的はあくまで、千秋安代を殺した犯人を見付けることです。別にあなたの生活をめちゃくちゃにするのが本意ではありません。――まあ、林のことは、立場上、公になるのは仕方がないのですが、あなたの名は、よほどのことがない限り、表面には出しません。お約束しますよ」
「お願いします」
と、関紀代は顔を伏せた。「私は……自分のしたことですから、責任は取ります。でも、主人や子供には……」
「林とあなたの関係については、林からも聞いていますが、念のため、あなたからも伺いたい。どれくらいの間、続きました?」
「三カ月……ぐらいでした」
「二年前ですね」
「そうです」
「何回ぐらい会いましたか?」
「七回です」
「その後は一度も?」
「はい」
関紀代の話は、林の話とほぼ一致した。おそらく嘘はついていないだろう。
「千秋安代はあなた方以外にも誰かをゆすっていたでしょうね」
「ええ、たぶん」
「その中の一人でもご存知ありませんか」
「さあ……」
と関紀代は首をかしげて、「もちろんあの女からは話しませんし、私も訊いたことはありません。大体……お金も郵便で送っていましたし、ほとんど口をきいたこともありませんでした」
「そうでしょうね」
「ただ……」
と言いかけて、ためらう。
「何です?」
「一度……あの人が、意外な人としゃべっているのを見たことがあります」
「ほう」
「でも、決して、だからといって、その人が彼女にゆすられていたというんじゃないんです」
と関紀代はあわてて言った。
「分ってますよ。しかし、あなたは、そんな印象を受けたんでしょう?」
「ええ……漠然とですけど」
「誰です?」
紀代はためらった。
「あの……私が言ったとは……」
「決して言いません」
紀代は軽く息をついて、言った。
「桜田先生です」
「先生というと――」
「お医者さんです。あの団地の中で、開業しています」
なるほど、医者か。これはかなり絞りがいがありそうだ。
「あの先生は養子で、奥さんが強いと有名なんです。もし何か秘密をつかまれたら、きっと大金でも払うでしょう」
「なるほど。分りました。当ってみましょう」
関紀代が帰って行くと、夕子が席に戻って来た。
「――お医者さんか。狙い目ね」
「しかし、認めるかね、果して」
と私は言った。
「難しいところね。果して誰が千秋安代を殺したのか?」
私は考えこんだ。――何とかして、その桜田という医者に、うまくしゃべらせる手はないだろうか?
「不思議なことがあるのよね」
と夕子は言い出した。
「何だい?」
「安代はあまり外へ出なかったんでしょう? それでいて、どうやって、その脅迫のネタを集めたのか」
「うむ」
「それから、もう一つはあなたのことよ」
「おい! 僕は――」
「分ってるわ。でも、なぜあなたの名を挙げていたのか。そして子供に、あなたを父親だと言っていたか」
「そいつは見当がつかない」
「もし、あの子があなたの子だとして――」
「違うってば!」
「もしも、よ。――いい? あなただけはゆすられなかったのよ」
「それは……」
「もちろん、あなたは独りで、別にばらされて困る相手もない。でも、子供の養育費ぐらいは請求しそうじゃない?」
「そうだなあ……」
「やっぱり謎の一つよ」
夕子はそう言って、微笑んだ。「火のない所に煙は立たず」
「やめてくれ!」
3
「さあ、好きなものを食べてね」
と、夕子が言った。
「いただきます」
と、原田が言う。別に夕子は原田に言ったわけではないのだ。
「さ、お姉ちゃんと一緒に取りに行こうか」
夕子が、喬子の手を引いて、バイキングの料理が並んだテーブルの方へ歩いて行く。
原田が勇躍、その後からついて行き、結局私一人が残ることになった。
「やれやれ……」
子供には面白いのだろう。喬子は皿一杯にあれこれと料理をのっけて戻って来た。
「あなた、取ってきたら?」
と夕子が言って、「――あ、これお姉ちゃんが切ってあげるわ」
と、喬子の取って来た肉を切り分けてやる。
私は席を立って料理を取りに行った。何しろ今夜の払いはこの私なのだ!
喬子という女の子にとっては、母親を突然失ったというのは、並大抵のショックでないのは当然である。
だが、同時に、母親が殺された晩のことを、何か見た者があるとすれば、それは喬子の他にはいない。
しかし、今のところ、喬子は、その夜のことは何一つ語ってくれないのである。
そこで、少し喬子の気持をほぐそうと夕子が提案して、今夜の夕食となったのだった。
喬子は、こんな所が珍しいのか、せっせと食事に余念がない。この分なら、少し気持も楽になるかな、と私は思った。
自分の分を皿に取り分けていると、傍に、五十がらみの、小柄な色の黒い男が立った。陽焼けはたぶんゴルフか何かだろう、と思わせるタイプだ。
「失礼」
と私がわきへよけようとすると、その男が低い声で言った。
「宇野警部さんですね」
「え?」
「私は桜田といいます」
あの、関紀代の言っていた医者だ。私は面食らって、相手を見つめた。
「――何のご用です?」
「低い声で」
と桜田は急いで言った。「こっちを見ないでしゃべって下さい」
この男、どこかのスパイでもやってるのかな、と私は思った。
「一体何ですか?」
「金額を言って下さい」
「金額?」
「口止め料です」
「口止め料……」
私は|唖《あ》|然《ぜん》とした。しかし、どうやら、これは巧いチャンスである。こいつを利用しない手はない。
「それは相談の上ですね」
と私は澄まして言った。
「いくらほしいのか言ってくれ!」
「いくらなら出します?」
桜田は難しい顔で黙ってしまった。しばらく、目の前にあった鳥肉のローストを、皿に取っていたが、
「私は養子で、そうは出せん。分ってくれ。――百万ならなんとか」
「お話になりませんな」
と私は遮って、「また明日、ご相談に上がりますよ」
「病院はまずい!――看護婦は女房のスパイなんだ」
どうやら、この医師、かなり苦労人ではあるようだ。
「では、あの公園では? 池のほとり。お昼は休まれるんでしょう?」
「うん」
「一時でいかがですか?」
「――分った。正確に行けるかどうか分らんよ。女房に用を言いつけられるかもしれんからな」
「お待ちしますよ」
私はわざとらしい愛想笑いを浮かべて、言った。「のんびりと、ね」
席へ戻ると、夕子がきれいに皿を空にしていた。喬子も半分以上食べてしまっている。
「――原田は?」
「二皿食べて、また取りに行ったわ」
「呆れたな!――さて食べるか」
「桜田さんは何ですって?」
「うん、明日会うことに――」
私は夕子の顔をまじまじと見て、「おい! それじゃ君が……」
「私がね、ちょいと脅迫の手紙を出しといたの」
「おい! 僕は警察官なんだぞ」
「大丈夫。私が作った手紙よ。あなたのことは出していないわ」
「僕の名前を知ってた」
「調べたんでしょ。――でも話に乗って来たのね、その様子じゃ」
「ああ。しかし、まずいよ、これが、もし本間警視に――」
「私が勝手にやったんだからいいじゃない。それをあなたが利用した。それだけよ。私はクビにならないからいいの。名探偵のいいところよ」
夕子の無手勝流にも困ったもんだ。私は仕方なく食べ始めた。
「ねえ」
と喬子が顔を上げて言った。
「なあに?」
「お姉ちゃん、パパのこと愛してんの?」
さすがの夕子が、どぎまぎして赤くなった。
「そうねえ……まあ……」
「お姉ちゃん、優しいから好きだ」
「ありがとう」
「ママにしてあげてもいいよ」
さすがに夕子も、子供にはかなわないようで、
「次のお皿、取って来よう。一緒に行く?」
と立ち上った。
「うん!」
喬子も張り切ってついて行く。
私はその手をつないだ後姿を眺めた。
夕子とも、大分長い仲だ。――やがては夕子も大学を出て、何をする気か知らないが、もっともっと大人になって行く。そして――私の方は中年の半ばを通過するのだ。
夕子と結婚して、子供が生れて……なんて夢を見ることもあるのだが、しかし、十年後、二十年後のことを考えると、やっぱり夕子には、若い男がふさわしいのか、などと迷ってしまう。
四十男の分別と迷い。――いつになったらここから抜け出られるのだろう?
そんなことを考えながら食べていると、原田が両手に、料理を山盛りにした皿を持って戻って来た。
「さあ食うぞ!」
と指をボキボキ鳴らして、「宇野さん、まだ一皿目ですか? いけませんよ。それじゃもと[#「もと」に傍点]が取れません。頑張らなきゃ! 人生は食べることに尽きます!」
分別や迷いに縁のない男が、ここにいた。私は笑いながら、料理を口に運んだ。
午後一時。桜田医師は、ほぼ時間通りに、公園にやって来た。
「やあ、どうも」
ベンチで私は微笑んだ。
「――早く済ませてくれよ。看護婦が怪しむからな」
「千秋安代の死体がここで見付かったのは、ご存知ですね」
「ああ」
「実際は殴り殺されていたんです」
「そうらしいな」
「それをなぜわざわざここまで運んだんでしょう?」
「知るもんか」
「病院は、この池を挟んで、反対側にありますね」
「うん」
「あなたはここで彼女と待ち合わせたんじゃありませんか?」
「冗談はよせ」
と、桜田は目を見張った。
「あなたが、千秋安代にゆすられていたことは分っています。その種は何だったんですか?」
「君は知らないのか?」
「正直に言いますと、あなたを引っかけたのです。ただし――」
と、私は、桜田を押し止めて、「それにのって来たのだから、あなたはそれを認めたも同じことですよ。正直に話して下さい。奥さんの耳には絶対に入れません」
桜田は、がっくりと肩を落とした。
「分った……。言うから、女房にはくれぐれも――」
「お約束します」
「実は……もう五年ほど前のことだが、患者の一人を完全な手違いで死なせてしまったことがある。――私は酔っていて、誤診をし、おまけに注射液を取り違えてしまった」
「ひどいですね、それは」
「子供だった。――幸い親は、訴えることなどせず、私のいい加減な説明を|鵜《う》|呑《の》みにした。――二年ほど前に引越して行ったよ」
「そのことを、彼女が?」
「そうなんだ。どこで聞いて来たのか、患者の名前も、ちゃんと知っていた」
「でも、否定すれば済んだことでしょう」
「だが、あの女は、その噂を流すと言った。――訴えられるより、ある意味では怖いんだよ」
「分ります」
「こういう団地などでは、特に噂はあっという間に広まり、誰も寄りつかなくなるだろう。――言われるままに金を払う他はなかった」
「いくら払っていたんです?」
「毎月三十万だ。ゴルフやハイヤー代を節約して、何とか金を作った。大変だよ。うちは女房が家計を握っているのだからな」
「彼女が死んでホッとしましたか」
「まあ……正直なところね」
「あなたはあの晩どこに?」
「おい……君、私は本当に何もしてないんだ。他にもゆすられてる者はおっただろうが」
「それはそうです。しかし、あなたも容疑者の一人には違いない。それは仕方ありませんね」
桜田はため息をついて、
「女房にさえ知れなきゃいいよ」
と言った。
「やあ、ご機嫌だね」
と、私は言った。
例によって、原田が相手をしているので、喬子も明るく笑っているのである。原田という男、単純なだけに、子供とどこか心の通い合うものがあるらしい。
「夕子は?」
と私が訊くと、
「何か捜しに行ったよ」
と喬子は言った。
「捜しに?」
そうか。――大体、見当はついた。
千秋安代の部屋へ入って行くと、夕子が、居間の真中にペタンと座り込んで腕組みをしている。
「何してるんだ」
「捜した。考えた。分った――と来りゃいいんだけど」
「何が?」
「桜田さんの方は?」
私が話をすると、夕子はゆっくりと肯いた。
「ますますおかしいわね」
「どこが?」
「この団地に越して来る前の[#「前の」に傍点]事件を脅迫の種にするなんて、どう考えたって変よ。一体どこから聞いて来たのか……。共犯者がいたんじゃない?」
「情報提供者か」
「小さな子供のいる母親に、そんな情報を集める能力はないでしょう」
「それはそうだな」
「これは思ったより複雑な事件ね」
と夕子は言った。
名探偵のいけないのは、事件が複雑になると喜ぶということである。夕子も例外ではなかった……。
「何を探したんだい?」
「もちろん、安代のメモよ。きっと何かを残してたんだわ」
「もう盗まれたんじゃないか?」
「林刑事はともかく、他の人は、みんな別に玄人の空巣ってわけじゃないのよ。そう簡単に忍び込めるもんですか」
「そうか」
「林刑事が、あれだけかき回して見付からなかった……」
「それを名探偵は見付けてやろうってわけだな?」
「もう探したわよ。でも見付からなかった」
「すると……」
「ここにはないのよ」
夕子は断定した。
「じゃ共犯者が持っているのかな?」
「もう一つ、気になることがあるの」
夕子は私の疑問など全く無視して言った。
「今、全部の部屋を見て回ったんだけどね、大していい物は置いてない」
「いい物? 高い物ってことか」
「そう、だって考えてみて、今分ってるだけで、林刑事と関紀代から五万円、桜田医師から三十万円。三十五万円は最低収入があったわけでしょう?――それにしては、暮しぶりが地味すぎるわ」
「貯金は大してなかったよ。せいぜい七、八十万ってとこか」
「おかしいわ。ゆすり取ったお金は、どこへ行ったのか」
確かに、言われてみればその通りだ。すると、千秋安代は、金を誰かに貢いででもいたのだろうか?
「何かあるのよ。――すっきりしないわ、どうも」
夕子は立ち上がると、居間の中を見回して、そう呟いた。
玄関にドタドタと足音がした。あの重量感[#「重量感」に傍点]は原田に違いない。
「――おい、何だ?」
「宇野さん。あの子、来ませんでしたか?」
「あの子?――喬子って子か?」
「ええ」
「いないの?」
夕子が玄関へ出て来た。
「鬼ごっこしてたんですが、いくら捜しても見付からないんです。――ここへ逃げて来たかと思って……」
夕子はちょっと不安げに、
「捜しましょう。三人で!」
と急いで靴をはいた。
表に出ると、その棟の周囲を捜し回ったが、どこにも喬子の姿は見えない。
「喬子ちゃん!」
と夕子の声が、建物の間に反響した。
「――いませんね」
|呑《のん》|気《き》な原田が、さすがに心配そうである。
「公園を捜しましょう」
と夕子が言った。
私たちは坂道を降りて、池のほとりに出た。――夕子が、声を上げた。
「あそこに!」
池の、十メートルほど先に、白い物が浮かんでいるのが目に入った。
「原田、来い!」
と言うなり、私は池の中へと身を躍らせた。
4
「ごめんね」
と、喬子が言った。
「いや、いいんだよ……」
ずぶ濡れになった私と原田は顔を見合わせて、笑顔を作った。
「すぐ出てっちゃ面白くないと思って、ずっと隠れてたの。ごめんなさい」
「いいのよ」
と、私たちを池へ飛び込ませた、当の夕子は平気なもので、「警官はこれぐらいのこと、何でもないの。そのためにきたえてんだものね」
私は苦笑した。
「まあ無事で良かった」
と、原田がホッとした様子で言った。
「いい人だね、おじさんたち」
と、喬子は言った。
「ありがとう。――ともかく服を替えないと……」
「ママが言ったんだ。偉そうな人は信用しちゃだめって」
「偉そうな人?」
「うん」
「誰のこと言ってたんだろうね」
「知らない。でもね、おじさんのことはとってもほめてたよ」
「そりゃどうも。――ママは、おじさんのこと、どう言ってたの?」
「こんな人がパパならいいね、って」
私はホッとした。その意味は、つまり、私がこの喬子のパパでない[#「でない」に傍点]ということである。しかし、喬子には、その辺の微妙なことは分らなかったかもしれない。
これが本当のパパだと思っていたのかもしれないのだ。
「ママはどうしておじさんのこと知ってたのかなあ?」
「新聞で見たって。とっても立派なお巡りさんだって言ってた」
つまり、新聞で私のことを読んで、何かあったときは私に相談相手になってもらおうぐらいの、安代としては、そんな軽い気持だったのかもしれない。
それを喬子は真剣にとって……。
「ねえ、喬子ちゃん」
と夕子が言った。「本当にこんなおじさんがパパだったらいいわねえ」
「うん。それにお姉ちゃんみたいなママがいたらもっといい」
夕子は喬子の頭を|撫《な》でてやった。
「俺は役がないのかな」
と、原田が言った。
「おじちゃんはね、門番!」
喬子の言葉に、原田がずっこけた。
「ねえ、喬子ちゃん、ママのところへ良く来てた男の人知らない?」
と、夕子が言った。
「知らない」
「女の人は?」
「分んない」
「ママが――いなくなった夜のこと、何か憶えてる?」
喬子は、ちょっと首をかしげていた。
「――どこかに引越すって」
「引越し? 本当にそう言ったの?」
「一人でしゃべってたの。ママ、ときどきやるんだ。私が寝たと思って、一人でお話ししてるの」
「そのときは、引越ししようって、そう言ったのね?」
「うん。『もうこんなことよして、どこかへ引越そう』って……」
「こんなことをよして……。そう。ありがとう」
と夕子は言った。
ああ、やっと生き返った。
服を替えて来た私は、夕子と、官舎近くの喫茶店で待ち合わせていた。
「――よかったわね、解放されて」
と夕子が言った。
「え? ああ、あの子のことか。――もう少し調べてみるよ。どこかに身寄りがあるだろう」
「そうね。でも……ともかく犯人を見付けないことには」
「安代はもう恐喝をやめるつもりだったのかな」
「そうでしょうね。――もしかすると、最初から、やってなかったのかもしれないわ」
私は目を丸くして、
「何だって? しかし――やってなきゃ、やめるわけにもいかないじゃないか」
「だから私の考えではね、彼女は――」
夕子がそう言いかけたとき、私のポケットベルが妙な音をたてた。
「濡れて変な音になったな」
「風邪ひいたんじゃない?」
と夕子は笑って言った。
私は店の電話で、捜査一課にかけた。
「――原田か。どうした?」
「大変ですよ。千秋喬子が、池に落ちたんです」
私は、ちょっとポカンとして、
「おい、それはさっきのつづきか?」
と訊いた。
「違いますよ! 今度は本当に落ちたんです!」
原田の声は、受話器を突き破らんばかりであった。
私は叩きつけるように電話を切ると、夕子の手を引張って、店を飛び出した。千円札が一枚、後にヒラリと舞っていた……。
救急車で運ばれた病院を途中で問い合わせ、そっちへパトカーで急いだ。
病院の廊下に、原田の姿があった。
「おい! どうだ?」
「危いそうです」
原田が今にも泣き出しそうな顔をしている。一緒に遊んでやっているうちに、つい情もわくというものだ。
「どうしたのかしら、一体?」
夕子も緊張の面持ちだった。
喬子を預かっていた近所の主婦が、オタオタしながら駆けつけて来た。
「すみません……。私が用事で出かけていて。喬子ちゃんには、家にいるように言っといたんですけど……」
と涙ぐむ。
「いや自分を責めないで下さい。これは我々の責任です」
と私は言った。
偶然の事故か。それとも、故意の犯行か。
いずれにしても、警察の手で保護しておくべきだったのだ。
私は歯ぎしりする思いであった。
「――落ちるのを誰か見ていたの?」
夕子が原田へ訊いた。
「いいえ。見ていれば、すぐに助けられたんでしょうが、あいにく誰の目にも止まらなかったようです」
「助からないんでしょうか?」
と、喬子を預かっていた主婦も気が気でない様子だ。
「さあ……何とも……」
しばらく、重苦しい沈黙が続いた。
医師が足早にやって来るのが見えた。
「百万ちょうだいよ」
若い女は、タバコをくゆらしながら言った。
「無茶を言わないでくれ」
男は困った顔で言った。
「あら、いいじゃない、それぐらい。たった百万で、こっちから別れてあげようってのにさ」
「手切れ金か?」
「そう。今度結婚することになったから」
男は――桜田医師は戸惑い顔で、
「結婚? しかし……そんなこと、前には一度も言わなかったじゃないか」
と言った。
「あら、私の結婚のことをどうしていちいちあなたに話さなきゃならないの?」
女は冷たく突き放すように、「それに、年寄りのオモチャになってんのにも|飽《あ》きちゃったのよ」
桜田は、キョロキョロと、店の中を見回していた。団地のある駅前の喫茶店だったので、見知った顔があるかと気が気でないのだろう。
「百万、三日以内にね」
と女はタバコを灰皿へギュッと押し付けた。
「無理だよ!」
桜田は|唖《あ》|然《ぜん》として、「そんなにすぐはとても無理だ!」
「あら、前は、それぐらいのお願い、よく聞いてくれたじゃないの」
「それは……しかし、情勢が変ってしまったんだ」
「こっちも情勢が変ったのよ。いい? 三日以内に百万よ」
「できなかったら?」
「奥様にご挨拶に行くわ。いつもご主人にお世話になっておりますって」
「分った! 分ったよ」
桜田があわてて言った。
「三日以内よ」
「――何とかする」
と桜田は肯いた。
「それじゃ、ね」
と女は立ち上がると、「ここのコーヒー代、払おうか?」
と言った。
「いいよ」
「ごちそうさま」
――女が出て行くのを見送って、桜田は、ため息をついた。
桜田は、そのままタクシーで病院へ戻った。
まだ昼の休みで、看護婦は戻っていない。
桜田は、診察用の、自分の椅子の上にかがみ込むと、そのシートをはがした。
下から、小型の薄いノートが出て来る。
「誰がいいかな……」
桜田がページをめくっていると、
「そこに隠してたんですか」
と、突然、背後で声がした。
「誰だ!」
桜田が飛び上った。
私はゆっくりと、患者の脱衣用の仕切りから出て行った。
「君は……」
「そのノートを見せて下さい」
「ノート?」
「背中に隠してるノートですよ」
「これは……何でもない。ただの患者のメモだ!」
「ごまかしてもむだです。それはあなたが恐喝していた相手のメモですね」
「馬鹿な!」
「むだですよ、言い逃れても。――さあ」
「私は……ゆすられていた、被害者だぞ!」
「千秋安代との関係を探られる前に、自分の方から被害者だと名乗り出る。こちらの偽の脅迫状にうまく乗りましたね。しかし、調べれば分ります。あなたが若い恋人を作っては、金を使っていることがね」
「知らんよ、そんな……」
「最初はたぶん、患者さんの誰かから聞いた噂話あたりがきっかけでしょう」
私はゆっくりと桜田に近付いて行った。
「私は……」
「自分で自由になる金はごくわずか。――どうしても金が必要になったとき、ふと、耳にした秘密をネタにゆすりをやろうと思い付いた」
「嘘だ! そんな――」
「それが思いの他、巧くいった。医者として、その気になれば、方々から情報は集まる。しかし、あまりやったのでは、自分の正体がばれるかもしれない」
「近付くな! おい!」
後ずさりする桜田の背後に夕子が近付いていて、ヒョイとノートを取り上げた。
「あっ!」
桜田が叫んだ。
「そこであなたは考えた」
と夕子が続ける。「途中に誰か代理人[#「代理人」に傍点]を立てればいい、とね。つまり、自分の代りに、ゆすられている人たちの恨みを受ける人間がいてくれたら……。大体、ちょっと妙だったのはね――」
夕子はパラパラとノートをめくりながら、言った。
「恐喝者が、いやにはっきり姿を見せていること。安代が脅迫していることを、みんな知っていた。これは変だわ。同じ団地に住んでいて、年中顔も合わせている。それなら、恐喝者は、正体を隠そうとするのが当然だわ」
「つまり、安代は、桜田さんが身を隠すための存在だったんだな」
と私が言った。
「そう。その代り、毎月いくらか出してもらっていたのね。桜田さんは、彼女の秘密を何か握っていたんでしょう」
「私の知ったことじゃない!」
「じゃ、このノートは?」
「そ、それは……」
桜田の顔に汗が流れている。
「その手のノートが必ずあるはずなのに、安代のアパートにはない。それに脅迫してお金を巻き上げているのに、生活ぶりは至って地味。――結論は一つ。その金を吸い上げているのがいるんだってこと」
夕子は肯いて、「そう、あなたしかいませんよ、桜田さん。他の――林刑事や関紀代さんなんかにしても、そんなに金を使うことは考えられない」
「だが、桜田さんは、財布を奥さんに握られていて、自分の金で遊ぶとなれば、どこかで作る他はないわけだ……」
「でも恐喝なんて卑劣ですよ!」
夕子の言葉に押されて、桜田はドアの方へとジリジリ下がった。
「もう喬子ちゃんが小学校へ入る年齢でもあり、安代さんはこの仕事から手を引くと言い出した。あなたはそうさせまいとして、夜の公園で言い争った。そして――彼女を、殺したんですね!」
「違う!」
と桜田が叫んだ。「あれは弾みだ。ほんのちょっと突いただけで……足を滑らして、彼女は倒れた。そして頭を打って……」
桜田はガックリと、椅子に腰を落とした。
「――奥さんへ伝言は?」
と私は訊いた。
「やあ、元気がいいな」
私は病院の廊下をドタバタと駆けて来た喬子と、危うくぶつかりそうになった。
「おじさん、今日は」
「もういいの?」
「うん」
「心配したよ」
「ごめん」
と舌を出す。
これだから本気で怒れないのだ。
「どうして池に落ちたの?」
「ボールが坂を転がってっちゃったの。追いかけてったら、勢いがついて、止まんなくて……」
「やあ、疲れた」
原田が汗だくで追いかけて来た。「どっちが入院患者なんだか……」
「君のママの叔母さんが見付かったよ」
と私は言った。
「へえ! じゃ、ここに来るの?」
「うん。明日来る。楽しみだね」
「そうね。――何かおみやげあるかなあ?」
喬子の笑顔は屈託がなかった。
「喬子って子は、桜田の子なんだ」
と、私は夕子へ言った。
「それをタネに、逆に桜田へ、手を切ると言ったのね」
夕子は肯いて、「で、争いになった。――殺意があったのかしら?」
「その後、水へ投げ込んでるからね。過失とは言えないよ」
「結構」
夕子は安心したように言った。「やっと一件落着か」
「でも……なかなかいい子だったね」
と私は言った。
私たちは、夕方の町を歩いていた。
「なあ夕子。僕らも――」
「しっ!」
夕子は私の唇を押えて、「それは言葉で言うもんじゃないわよ」
「どこかへ行こうか?」
「いいわ。――でも、その結果は責任を取ってよ」
「いいとも」
「でもね、今日あたりはきっとお休みよ」
「何が?」
「コウノトリが」
そう言って、夕子は私の頬に素早くキスして、腕を取った。
第五話 殺された死体
1
溝内和也は、かじかんだ手をこすり合わせながら、夜明け前の道を急いでいた。
「寒いなあ、畜生」
と、|呟《つぶや》く。
辺りは多少明るくなっていたが、風が強くて、肌を見えない|剃《かみ》|刀《そり》が切って行くようだった。――三月に入って、暖くなったと思ったら、また冬に逆戻りだ。
奥多摩の山間の小さな町である。町、というより村と呼んだ方がよく似合うような感じである。取りあえずN町としておこう。
もっとも、溝内和也が歩いているのは、まだ町へ入るより手前の、山道である。
こんな時間に帰るのを、町の連中に見られたら、何と思われるだろう、と考えると気が重かった。溝内はN町の町会議長である。もともと小さな町で、知らぬ人とてない。
五十がらみの、少し|禿《は》げ上った赤ら顔。いかにも酒好きで、加えて、女好きでもあった。
隣の町――といっても、この山道を越えて、三時間近くも歩くのだが――へ、行って、昨夜のうちに帰るつもりだったのに、ついつい長居をして、こんな時間になってしまった。溝内を引き止めていたのは、要するに彼の好きなもの二つ――酒と女だった。
溝内が、隣町の小料理屋の女と「いい仲」なのは、N町の人間なら知らない者はない。ただし、赤ん坊と、幼稚園児ぐらいは除いてもいい。
「やれやれ……」
溝内は足を早めた。
山道を歩くのは、慣れているから、大して苦にもならなかった。ただ、寒さはこのところ、ぐっとこたえるようになっている。
やはり、もう若くはないのである。
もう少しだ、と思うと、やっと体の方も暖まって来たような気がする。もう一つ坂を上れば、後は下りで、町へと降りて行くだけである。
少し、おとなしくしとかんとな……。
溝内は、また町長の草田にどやされるかもしれないと思うと、苦り切った顔になった。
いやしくも町会議長たる者が、女のところへ行って、朝帰りの姿を町民の目にさらすとは何事だ!
――大体、言われることは分っているのである。
なに、草田町長だって、女がいないわけじゃない。ただ、都内の方のマンションに住まわせて、週に一、二度、公務にかこつけて会って来るので、町の連中の目にはつかない、というだけなのだ。
俺だって金持なら、そうするさ、と溝内は呟いた……。
もっとも、草田町長が少々ピリピリしているのも、分らないではない。町長選挙が、あと三日と迫っているのである。
これまでなら、草田町長の再選は当り前のことで――太陽が西からでも昇らない限り、草田は死ぬまで町長でいるはずだった。ところが今度ばかりは……。
「ん?」
溝内は足を止めた。
ちょうど、坂を上り切ったところに、一本松の木が立っている。何だか、いかにも〈峠の一本松〉という感じで、少々芝居の書割みたいなので、山の人たちはあまり好いていない。
しかし、町を見下ろす位置にあってちょうど目印になるので、抜いてしまうわけにもいかないのである。
夜が大分明けて来ていた。乳白色の空に、まるでバレリーナがピタリと動きを止めたような格好で、松の木がシルエットとなって浮かび上っている。
それだけなら、いつも見なれた光景なのだが、今日は少々様子がおかしい。
一番太い枝から、何かぶら下って、風を受けて揺らいでいる。――それが何なのか、溝内には、最初見たときから分っていた。
しかし、目が分っていても、頭の方が、それを受け容れようとはしなかったのである……。
人間だ。――誰かが、太い枝から、首を|吊《つ》っているのだった。
「そうカッカしないでくれよ」
私はため息とともに言った。「仕事なんだ。仕方ないじゃないか」
どうして俺が謝らなきゃならないんだ?
私は、車を走らせながら、心の中で散々グチを言っていた。――俺は十代のガキではないのだ、どうして、四十にもなって、仕事よりも恋の方が大切です、などとキザなことを言っていられようか。
男なら、仕事を優先させて当然だ!
「なあ、僕だって、君と一緒に旅に出た方がずっといいよ。しかし……そうもいかないんだ」
いくら、自分の方が正しいのだと分っていても、ついつい口から出るのは、言い訳ばかり。これも恋する者の弱味なのである。
突然、それまで仏頂面をしていた永井夕子が、声を上げて笑い出した。
「あなたも単純ね。本気で私が怒ってると思ったの? 平凡な旅行なんかより、事件に取り組む方がずっと好きだってことぐらい、分ってるでしょうに!」
これだから困るのだ、当節の女子大生は!――しかし、ホッとしたというのが、こちらの正直な気持であった。
「あんまり大人をいじめないでくれよ」
と私は苦笑しながら言った。
「――でも、私が[#「私が」に傍点]駆り出されるんじゃ、よっぽどの難事件なのね」
と夕子が言った。
「おい、誤解するなよ、駆り出されたのは僕だぜ」
「あ、失礼、言い違えたわ」
だが、どうみても、故意に間違えたとしか思えない。それはともかく――
「何だか、三日後には町長選挙があるとかで、極めて、微妙な情勢なんだそうだ。だから、あれこれ神経を使いながら、捜査を進めて行くには、僕のように、思いやりのある人間が適当なのさ」
「あ、そう」
「――何か不満そうだね」
「いいえ、別に」
と夕子は首を振って、「――今、現場には誰が行ってるの?」
「うん。原田が先に行ってる」
と答えてから、私は夕子と顔を見合わせた。
「――ねえ」
「うん」
私はアクセルを踏んで、スピードを上げた。
――原田が何も[#「何も」に傍点]しないでいてくれればいいが!
道は、次第に山の間をうねり始めた。もちろん、舗装道路とはいえ、簡易舗装というやつで、方々穴はあいているし、割れ目はできているし、ドシン、ガタン、と車はあたかもトランポリンをやっているかのように飛びはねた。
「痛っ! 気をつけてよ!」
「仕方ないだろ! 道が悪いんだ!」
と私が言い返す。
「危い!」
夕子が叫んだ。――急ブレーキを踏む。
角を一つ曲ったとたん、車が停っていたのである。
そのまま進めばドシン、と衝突は間違いなしであったが、私の足が良かった(というのも妙な言い方だが)のか、ブレーキがよく効いたのか、追突寸前、数センチの所で、停止した。
「ああ……死ぬかと思った!」
夕子がホッと息をつく。「こんな美女を乗せてるときは気を付けてよ!」
「それにしても誰だ、こんなところに……」
私は車を降りた。――やけに古ぼけた小型車で、およそ洗ってもいないようだった。よく動いてると感心したくなるようなポンコツである。
「――おい! 誰かいないのか!」
と大声で呼ぶ。
「ねえ、下――」
と夕子が言った。
「下?」
「車の下……」
ヒョイと|覗《のぞ》いて、ギクリとした。車の下から手が出ている。太くて、ごつい手である。まるで……。
アーアーと声がして、その手が動くと、原田刑事の顔が出て来た。
「やあ、宇野さんじゃありませんか!」
「何やってるんだ、そんな所で?」
「車がエンコしちゃったんです」
と、原田は車の下から這い出て来ると、汚れを払って、「全く、ボロ車なもんで」
この巨体が、よく車の下の隙間に入っていたものだ、と私はまじまじと眺めた。
「危うくぶつかるところだったぞ。急ブレーキをかけたのが聞こえただろう」
「そうですか? いや、下で横になってるうちに眠っちまったらしくて……」
原田はそう言うと、ニヤリと笑った。
ともかく、三人がかりで原田の車をわきに寄せ、私の車に原田も便乗して、先を急ぐことにした。まあ、原田が途中でストップしていたのなら、向こうが混乱している可能性はなくなったわけである。
「殺されたのは?」
車が、割合と真直ぐの道に入ったので、私は原田へ訊いた。
「女です。それも裸だったそうですよ」
「ふーん。俺は何も聞いてないんだが、殺しだってことは確かなのか?」
「じゃないですか? 捜査一課へ回って来るんですから」
理屈である。
「――現場は旅館か何かか?」
「そうらしいです。〈一本松〉っていうんですよ。女が裸だっていうし、きっと情痴犯罪ですな。美女をめぐって、男同士の決闘というわけで……」
「どうして美女だと分るんだ?」
「だって女で裸だっていうんですから……」
原田の脳裏では「裸」と「美女」は分かちがたく結びつけられているらしい。美女でない女は、風呂にも入らないと思っているのだろうか?
「男関係を洗えば、きっとすぐに犯人は割れますよ」
原田は至って楽天的である。
「そうかしら……」
夕子の方は、何やら考え込んでいる。
「どうかしたのか?」
「その複雑な事情って方とは、どう関連するわけ?」
「選挙のことかい?」
「そう。それが|絡《から》んでいるとすれば、そう単純には――」
目の前に何かが飛び出して来て、私は急ブレーキを踏んだ。夕子がフロントガラスにおでこをぶっつけて、悲鳴を上げる。
「何よもう! 私を殺す気なの!」
「おい、見ろよ」
と、私は言った。
道を|遮《さえぎ》っているのは、一人の若者で、手にした散弾銃の銃口は、真直ぐにこっちを向いていた。
「――誰だ!」
若者が近付いて来て、窓を開けろ、と手ぶりで示した。
「そういう物騒なものは、人に向けちゃいかんよ」
私が警察手帳を見せると、若者は銃を降ろして、
「――失礼しました」
と言った。「他の方も警察の……?」
「私はこの宇野警部の個人秘書、永井夕子」
と夕子が勝手なことを言い出す。「N町ってまだ遠いの?」
「車なら五分ですね。警察の方が来れば、もう大丈夫だ。一緒に乗っていいですか」
「どうぞ」
夕子が微笑んで、言った。私は面白くない。なかなかいい男なのである。皮ジャンパーにジーパンというスタイル。
「僕は伊垣透といいます。――今朝からずっとああして見張っていたんですよ」
と車が走り出すと、その若者は言った。
「一体どうしてなの?」
と夕子が|訊《き》く。
「町長の奥さんが殺されたんで、ともかく町が二つに割れて、大騒ぎなんです」
「町長さんの奥さん?」
夕子が目をパチクリさせて、「おいくつぐらいの方?」
「さあ……。五十五、六じゃないでしょうかね」
原田の想像はみごとに打ち砕かれたのである。
「今、選挙を控えて大変なときなんですってね」
「そうです。ともかく、N町は、〈草田町〉だと言われるくらい、草田町長の権力が絶大だったんです」
「じゃ、選挙も無風状態?」
「この前までは、ね」
と、その伊垣という青年は|肯《うなず》いた。
「というと……」
「今度も、選挙をやるまでもなく、草田の当選は確実と思われてたんです。ところが、三カ月ほど前に、突然事情が変ってしまいました」
「というと?」
「町の役場の職員だった、大野という人が、突然自殺してしまったんです」
「原因は?」
「遺書が、新聞社へ送られていました。草田が町の財政を利用して私腹を|肥《こ》やしているというものです。大野さんは、二十年間、草田の使い走りのようなことをしていたんですけど、ちょっとしたしくじりがもとで、クビだと怒鳴られ、自殺してしまったわけです」
「そして、町長の罪を告発したわけね」
「ええ。――大野さんが怒るのも無理はないんですよ。しくじりをやったといっても、何しろ、町長の愛人の女性に、贈り物を届けるのが一日遅れたってだけなんですから」
「ひどいわね、それは!」
「で、その一件は新聞の地方版でも取り上げられました。もちろん草田は否定して、でたらめだ、と怒って見せましたが、どうやら、調査を受けることはまぬかれないと知ると、今度は幹部二人をクビにして、その二人に、すべて、横領などの罪を押しつけてしまったんです。さすがに町の中でも、若い者が中心になって立ち上がり、リコールのための署名を始めました。草田は、選挙で信を問う、と決めました。数の上じゃ、負けないという自信があったんでしょう。ところが対立候補が出たんです。それで一気に事態は緊迫して来て――」
「かなりの強敵なのね」
「まあ、そうですね。――あ、町へ入りますよ」
私は、車のスピードを落とした。――小さな、静かな町という印象である。
しかし、その静けさは、どこか不自然で、ぎこちなかった。みんなが、家の中にひそみ、息を殺しているようだ。
「警察署は?」
「反対の外れの方です。この通りをずっと行けば、いやでも出くわしますよ」
伊垣透は、私が車を停めるか停めないうちに、ドアを開けて、さっさと出て行った。そして、夕子の方に、笑顔を向けて、
「じゃ、またお会いしましょう、夕子さん」
と手を上げ、歩いて行った。
「――何が、『夕子さん』だ! 気安いぞ、あいつ!」
と私は言った。
「フフ、|妬《や》いてるのね」
「馬鹿言え、あんな青二才に……」
「ともかく早く現場へ行かなきゃならないんでしょ」
「ああ、そうだった」
私は、やっと肝心の用を思い出して、車をスタートさせた。
「――ねえ、宇野さん」
と原田が言った。
「何だ?」
「こんな町に、旅館があると思います?」
――道路にパトカーが何台か停っているのが見えた。
私はゆっくりと車を停めた。
2
「――この木の枝から?」
と夕子が驚いた様子で訊き返した。
「そうなんです」
署長の松井は、肯いた。
「なるほど一本松か……」
と私は呟いて、原田の方を見た。
原田は、自分の勘違いなど、すっかり忘れている様子だった。
「この枝はずいぶん高いですね、宇野さん」
と、原田が言った。
「首を吊っていたとおっしゃいましたね」
「そうです」
「自殺とは考えられないのですか?」
と私が訊くと、松井署長は肩をすくめて、
「できることなら、私もそう考えたいのですが」
「そんなの無理よ」
と夕子が言った。「そんな年齢の女性に、あの高い枝まで登って行けるはずがないじゃないの。踏み台になるような物もないんだし――」
松井署長が、何だこの娘、という顔で、夕子を見ている。――こっちの立場というものを、もう少し考えてくれてもいいのに。
「しかし、どうしてまたこんな所に――」
と私が言うと、
「それが分らないから、あなたが来たんでしょ」
と、夕子が遮る。
全く困ったものである。
「発見したのは?」
「溝内さんといって、町会議長をしている人です。――遺体は一応、町長の家へ運んでありますが」
「検死の方はどうなっていますか」
「先程、小畑さんという方が……」
小畑か。まだ若い――といっても、三十五、六だが――検死官である。
「死体は枝からどれくらいまで下がっていたんですか」
と夕子が訊いた。
「地上、二メートルくらいでしょうかね」
「つまり枝からは一メートルですね」
と夕子は言って、ヒョイと松の木へ飛びついた。
「おい、何してるんだ?」
「木登りよ。任せといて、子供の頃から得意なの」
夕子はスルスルと木の幹をよじ登って、太い枝へと達すると、その上に、まるでトカゲよろしく這いつくばった。
「――縄の跡があるわ。ここがずいぶんこすれてる」
「おい、危いぞ」
「幹からは一メートルくらいあるわね。――ここから一メートル下か……」
夕子は、起き上がると、枝にまたがって、座った。お断りしておくと、幸い、夕子は今日はジーパンスタイルだったのである。
「ちょうど町が見下ろせるんですね」
と夕子は言った。
「そうです。ここは大分高いですからな」
松井が下から返事をする。
原田は、〈若い美人〉の予想が外れ、旅館〈一本松〉の予感が外れたので、あまり元気はなかった。
「あそこへ上ってみましょうか」
と言い出す。
「お前が上ってどうするんだ?」
「何キロの重さに堪えられるか、調べてみたいのですが」
「必要ないことまでやるな!」
妙な部下ばっかりいるもんだ、という顔で松井が同情の目を私に向けていた。
「じゃ、町へ降りて、少し関係者の方のお話をうかがいたいですね」
私は平静を装って、言った。
「はあ。町長さんのお宅に、みんな町の主な者は、集まっとります」
と、松井は、ねっちりした口調で言うと、先に立って、道を下って行く。
「おい、降りて来いよ」
と、私が呼ぶと、夕子は、ちょいと手を振って、枝から飛び降りようという構え。
「危いぞ!」
と声をかけ終らないうちに、夕子の身は、枝から下へ、ストン、と降り立った……のだが、
「痛い!」
夕子は悲鳴を上げた。
「おい、どうした!」
私が駆け寄ると、夕子は、その足首を押して顔をしかめている。「――無茶するからだぞ」
「そんなこと言ってないで……肩を貸してよ!」
原田が急いでやって来ると、夕子を軽々と背中におぶって歩き出す。
夕子はすっかりご機嫌である。私は無視して、歩き出した。
「あの――」
と原田が松井に訊いていた。「被害者は裸だったんですか?」
五十いくつの女性を裸にしても仕方ないだろう。一体、裸とか旅館とか、原田の情報網のどこから流れたのか。
ところが、松井が、
「そうなんですよ」
と答えたので、びっくりした。
「一体何のためにねえ……」
松井が首を振った。――私は原田の背中の夕子を見て、目を見張った。
夕子が私を見て、ニッコリ笑うと、片目をつぶった。どう見ても、足をくじいた顔ではない。
――また、何か企んでいるのだ。
草田町長の家は、確かに、この小さな町には、およそ不つり合いな豪邸であった。
門の前は、真っ黒だった。いや、別に墨をぶちまけたのではない。黒服の人々が、群がっているのである。
「大したもんですな」
と、私は目を丸くして言った。
松井署長が肩をすくめた。
「仕方ありませんよ。何しろこの町は草田さんが君臨してるんですから」
その松井の言い方には、おや、と思わせるような、反感めいたものが、含まれているようだった。
「表からじゃ、何時間待っても入れません。裏へ回りましょう」
松井について、私たちは、高い塀をめぐって、裏木戸の所へ出た。こちらは閑散として、警官が一人立っているだけである。
木戸から中へ入るときには、夕子も仕方なく原田の背から降りて、わざとらしく足をひきずりながら、歩いている。
私はおかしくて仕方なかった。
家の中ももちろん広い。――案内されて通ったのは、一番奥まった一室である。
草田の邸宅は、一応洋風の外見ではあるが、中は和室が多いようだった。真新しい建物だ。工費も、相当なものに違いない。
「やあ、小畑君」
と、私は声をかけた。
「宇野さん。遅かったですね」
「現場を見てきたんだよ。――ああ、原田は知ってるね。それからこっちが永井夕子――」
小畑は、見たところ、およそ検死官などという、無粋な職業とは思えない。
スマートで、いつも高級な三つ揃いを着こなしている。独身である。
「お噂はかねがね」
と、馬鹿丁寧に夕子へ頭を下げる。
「いいえ、どうも……」
夕子はあわてて言った。何となく調子の狂う相手なのである。
遺体は、白い布をかけて、安置してあった。
「どうかね」
と私は言った。
「みました。――しかし、変ってます」
と小畑が言った。
「というと?」
「松の木から首を吊ったそうですね」
「殺人らしいよ」
「それにしてもです」
小畑は首を振る。「この人は、もともと[#「もともと」に傍点]死んでたんですよ」
私は夕子と目を見交わした。
「――何だって?」
「あそこへぶら下がるより前に、死んでたんです」
夕子が、前へ進み出て来る。なぜか足の痛みは一時的にストップしたようである。
「つまり、死因は他にあるんですね?」
「そうです」
小畑は肯く。「――よく調べないと分らないけど、たぶん狭心症か何かでしょう。心臓が弱かったらしい」
「死んだのはいつ頃?」
「正確なところはどうも……。まあ、昨夜の早い時刻でしょうね」
「死んで、それから木の枝につるされた……」
「そうなんですよ。どうしてなんだろう?」
「そいつは、こっちの仕事だ」
私はため息をついた。――夕子の喜びそうな事件である。夕子にあまり張り切られても、こちらは困るのだ。
何しろ、無鉄砲なのだから。
「つまり、完全に死んでいたんですね、吊るされたときには?」
と、夕子が小畑に念を押した。
「そうですよ」
「ふーん」
夕子は顎を撫でている。
小畑が微笑んだ。
「なるほど」
「え?」
「いや、宇野さんが惚れるのも当然ですね。チャーミングだ」
夕子が、珍しく赤くなった。
|襖《ふすま》がガラリと開いて、入って来たのは、草田町長だった。いや、別に前から知っているわけではないが、一見してそうと分ったのである。
「草田です」
と、頭を下げる。
私は自己紹介をして、早速事件の話に入ることにした。こういうときは、事務的にやる方がいいのだ。
「奥さんの死因については――」
と言いかけると、
「許せん!」
と草田は突然、怒鳴るように言った。
「は?」
「犯人は見当がついとります。私が用心深いので近づけないからといって、か弱い妻を狙うとは……。卑劣な奴らです!」
「あの、草田さん」
と私は言った。「実は、小畑検死官の所見では――ウワッ!」
妙な声を上げたのは、夕子が、いやというほど私の足をつねったからである。
「本当に奥様のことはお気の毒でした」
と夕子が、さっさと割って入る。「で、犯人のお心当りがあるんですね?」
「もちろん、私の対立候補の一党です」
と草田は言った。「妻を殺して、私がガックリ来るとでも思ったのでしょうが、逆効果としか言えない。――妻の恨みを晴らすためにも、この草田草兵衛、必ずや勝って見せますぞ!」
どうやら、選挙演説と間違えているらしい。そして、立ち上がると、
「では、私は忙しいので、これで――」
と、出て行ってしまう。
私は呆気に取られて見送っていた。
「――おい、どういうつもりだい?」
と夕子へ、苦情を言った。
「黙って。真実は隠して、殺されたことにしておくのよ」
「だけど――」
「いいじゃないの。何も損するわけじゃないし」
およそ理由になっていないが、夕子が言うと逆らいがたい正当性を持つように聞こえるから、不思議である。
「面白い方ですな、夕子さんは」
と、小畑までニヤニヤしている。
これで、捜査一課に未来はあるのか、という気分である。
松井署長は、この部屋へ来てすぐ、また出ていったが、ちょうど赤ら顔の男を伴って戻って来た。
「こちらが死体を発見した、溝内さんです」
溝内は、一見して、草田の裾にぶら下って、おこぼれをちょうだいしているという印象の男だ。
「――死体を発見してから、どうしたんです?」
「ともかくあの高さでしょう。とてもじゃないが、あの松の木へは上れんし、それに死んでるに違いないと思いましたんで、ともかく、まず誰かを呼んで来ようと思いまして――」
「すると、町へ降って来られた?」
「そうです」
と、溝内は肯いた。「辛かったですが、町長さんを起こして、事情を話しました」
「それで?」
「二人して、あの松の木へと駆けつけ、町長さんが、やっとよじ上って、縄を切ったんです」
「そして遺体をここへ持ち帰った、と」
「そうです。まあ――本来なら、警察へ知らせて、手をつけてはいかんのでしょうが、ともかく町長さんの奥様で、しかも――裸でしたからな。人目にさらすには忍びなくて……」
「それはよく分ります」
「どうも……。一体誰があんなむごいことをしたのか……」
「奥さんは昨夜、ここに当然おられたんでしょうね」
「いや、違うと思います」
「違う?」
「選挙本部でしょう。草田さんの事務所が町の中央あたりにありまして、そこが本部になっていました。奥さんは、そこにたいてい、夜はつめていましたんです」
「それは大変でしたね。ところで奥さんのお名前は……」
「草田真佐美といいました。実にこう、真実と美に溢れた方で……」
「ははあ」
「ともかく、一刻も早く犯人を――」
「それはもちろん、努力します。しかし……奥さんを恨んでいた人間に心当りはありますか」
「そうですな……」
とためらう。
「町長さんは、反対派の一人だと信じておられるようですが」
「そいつはどうでしょうか。――まあ、可能性はありますが」
「すると、他に誰か?」
「いや、ともかく、町中の誰からも愛された方でしたからね」
私は肯いたが、もちろん、この溝内の話を信じたわけではない。
刑事稼業をしていると、世に「誰からも愛された人」など、いるものじゃないことが、よく分るのである。
「反対派というのは、何という男なんです?」
と私が訊く。
そのとき、襖がガラリと開いた。
立っていたのは、二十四、五歳ぐらいの、若い娘で、ジーパンにジャンパーという、あまり死人の前に出るには似合わない格好であった。
「これは忠代さん」
と、溝内が、あわてて頭を下げる。
「ねえ、どうして言わないの?」
と、その娘が言った。
「はあ?」
「母を殺す動機のあった人間よ。第一が父、第二があなた――」
「忠代さん、何を――」
「隠したってだめ。あなたが母の恋人だったことは、みんな知ってるわ」
溝内は青くなったり赤くなったりした。
その娘は私と夕子の前にピタリと正座すると、
「草田の娘の、忠代です」
と頭を下げた。
「どうも……」
夕子は、同年輩の娘とあって、すっかり気楽な感じで、
「今の話はどういうこと?」
と訊いた。
「はっきり言って、父と母はもう十年も前から、別居中だったの。で、溝内さんは、母の相手をしては、父から、手当をもらってたわけ」
溝内は、
「ちょっと用がありまして――」
と、逃げ出してしまった。
「だらしのない人なんだから」
と、草田忠代が言った。
「それで、お父さんが犯人の候補というのは?」
「何てったって妻ですものね。父には都内の方に女がいて、結婚してくれと迫られてるの。でも、母は別れる気はなかったし……」
「でも、今殺したりしたら、それこそ選挙にひびくでしょう」
「父がやったと分ればね。でも、町の人にとっては、まだまだ父は〈偉い人〉なのよ。まさか妻を殺すなんて思ってないでしょ。だから、却って、同情票を集めると思うわ」
「なるほどね」
「溝内さんが怪しいというのは?」
と私が訊いた。
夕子ばかりに質問させていては、立場がない。
「溝内さんが、いくらお金のためとはいえ、母のオモチャになってるのに、いや気がさしたのよ。無理もないけど。何しろ五十七だったんですものね、母は」
「よくもまあ……」
「全くよ。でも母の方は、溝内さんを追い回してた。溝内さん、閉口してたはずだわ」
何とも凄い話だ。――それに、そんなことをペラペラとしゃべっている、この娘も大したものだ。
「ねえ」
と夕子が言った。「さっき、犯人の候補に、第一、第二と挙げて、続けようとしたわね。第三はいるの?」
「いるわ。でも、それは父の言い分に従えば、の話」
「お父さんの対立候補ね」
「そう」
と、草田忠代は肯いた。「つまり、この私[#「この私」に傍点]の」
3
次の日に、私と夕子は、再びN町へやって来た。
昼を少し過ぎていたが、町へ入ると、いやに静かで、人の姿がない。
「また何かあったのかな」
車を停め、外へ出ると、何やら、ワンワンと響く声が、耳に入る。
「マイクを使ってるんだわ」
と夕子が言った。「――あっちの方ね」
私たちは、通りを歩き出した。
「しかし、妙な事件じゃないか」
と私は言った。「殺されてもいないのに、殺人事件か」
「いいじゃないの。謎があれば、解かなくちゃ」
「ところで足の方は?」
「え? あれ、もう治ったわ」
と、夕子はケロリとしている。
「――あの娘の言うこと、どこまで信じたもんかな」
「当てにしていいんじゃない? 町の若い人には大いに人気があるみたいよ」
「しかし、本当に、あの娘の支援グループに犯人が――いや、死人を吊るした奴がいるのかも――」
「目的は? そんなのマイナスになるばかりよ」
「本来なら、殺人じゃないから、僕の出る幕じゃないんだぞ」
「ともかく、異常な事件であるのは確かでしょ? それなら殺人と同じよ」
「ひどい理屈だな」
「あら、見てよ」
と夕子が笑いながら言った。
町の広場である。人だかりがしている――というより、町中の人間が集まっていたのだろう。
それが左右二つのグループに分れているのだ。一つは、草田町長の話に耳を傾け、一つは、娘の忠代の話に聞き入っている。
両方で同時に演説をしているのだ。何とも妙な光景であった。
「町の未来はこの私の手に――」
「町は清潔でなくてはなりません!」
「あんな小娘に、政治など分るはずがない!」
「あんなタヌキに化かされてはいけません!」
よくやるもんである。
ともかく、両方がハンドマイクを持って、やり合っている。両方の声が反響し、一緒になって、そのうち、何だか分らなくなってしまう。
「――死因をいつまで伏せとく気だ?」
と私は夕子へ言った。
「解決までよ。ともかく、なぜ[#「なぜ」に傍点]死体を吊るす必要があったのか。それが問題なのよ」
夕子は、そばで遊んでいた子供たちに声をかけた。「――あんた、町長さんのこと好き?」
「知らないよ」
と、男の子が答えた。「うちのママは好きだって。でもパパはあっちの女の子の方が可愛いってさ」
そりゃそうだ、と私は思った。
「ねえ、警察の人?」
と女の子が一人、寄って来た。
「そうだよ」
「もう犯人、捕まったの?」
八歳くらいか。なかなか、おませな感じである。
「まだだよ。でもきっと捕まえるからね」
「見たんだ、私」
「何を?」
「松の木からぶらぶらしてたの」
「へえ」
「ウチの窓からね、よく見えるんだよ」
と女の子は得意そうである。
「朝早かったの?」
と夕子が訊いた。
「うん。目が覚めて、オシッコに行ったとき、見たの」
「ママに言った?」
「ううん。だって、誰かが上って行くのが見えたもの」
「じゃ、町長さんと溝内さんね」
「うん、町長さんは分った。よく知ってるもの」
と女の子は言って、「もう一人は誰だったかなあ」
と首をかしげた。
「溝内さんよ」
「もう一人だよ」
「もう一人って……」
「だって、三人[#「三人」に傍点]いたよ」
夕子と私は顔を見合わせた。
「――ねえ、本当に三人だったの?」
「うん。本当だよ。三人、くっついて歩いてたよ」
「くっついて……。じゃ、三人に見えただけかしら」
「ううん、絶対に三人だよ!」
と女の子は強調した。
「――やあ、どうも」
と声がして、やって来たのは、昨日、散弾銃を持っていた、伊垣である。
「あら、伊垣さんね。あなたは草田忠代の運動員?」
「そんなとこです」
と、肯いた。「町長の奥さんのことで、ちょっと難しくなりましたね」
「忠代さんに不利?」
「もともと、年寄は、親に|楯《たて》つくというだけで反感持ってますからね」
「そうか。――ねえ、昨日、どうして散弾銃なんか持ってたの?」
「町長の側が、用心棒を雇ったとかいう噂があったんです。で、町に入れるもんか、というわけで」
「ただの噂だったの?」
「さあ、それが――」
と言いかけたとき、
「伊垣!」
と声がして、走って来たのは、同じような若者である。
「どうした?」
「おかしいんだ。仲山がいない」
「いつから?」
「昨日から誰も見てないんだよ」
伊垣は、ちょっと考えこんだ。
「妙だな。まさかとは思うけど……。よし、みんなで捜してみよう」
「どうしたの?」
と夕子が訊く。
「いや、仲山って、やっぱり草田忠代の運動員の一人なんです。そいつが、行方不明で」
「まあ、心配ね」
「例の用心棒たちが……」
と、駆けつけて来た若者が言う。
「まさかと思うけどな。よし、手分けして捜そう」
「だけど、もうあさってが投票だぜ。そんなことやってられないよ」
「そうか。――参ったな」
伊垣がまた考え込んだ。
「行方不明の人なら、警察で捜してくれるわよ」
夕子が私の顔を見て、「ねえ?」
知るもんか! こっちは人捜しに来たわけじゃないのだ。
ワーッと拍手が起った。演説が終ったのである。それも二人同時[#「二人同時」に傍点]に。
やはり、親子の血というのは、争えないものなのかもしれない。
「――ああ、疲れた」
忠代が、相変らずのジーパンスタイルでやって来た。「どう? 反応は変ってないみたいだったけど」
「良かったよ」
と、伊垣が肯く。
「――あら、昨日の刑事さんね。集まって、何の相談? 犯人は捕まりそう?」
「その前に人捜しらしいの。仲山さんとかって人が――」
忠代の顔が、さっとこわばった。
「仲山君がどうしたの!」
「いないんだ、昨日からずっと……」
と、伊垣が言った。「心配しないで。僕らが捜す。君はあさっての投票まで、頑張ってくれ」
「そう。そうね。でも――」
と言いかけて、忠代は一つ息をついてから、
「分ったわ。じゃ、午後から懇談会だから、その準備に、公民館へ行かなきゃ」
「お前、あっちを頼む。俺は仲山を捜すからな」
と、伊垣は、もう一人の若い男へ声をかけて、足早に走って行く。
「じゃ、ここで失礼します」
と、忠代は頭を下げ、歩き出そうとした。
「やあ、どうだ、調子は!」
と、そこへやって来たのは、父親の方である。「集めた人数は五分五分だったな、ええ?」
「お父さん!」
忠代がキッと父親をにらむ。
「な、何だ、そんな顔をして?」
「仲山君が行方不明なのよ。何をしたの?」
「――俺が知るか!」
「噂じゃ、暴力団を雇って乗り込ませる、っていうじゃないの」
「デマだ! そんなことをせんでも勝てるんだからな」
「分るもんですか!」
忠代はかみつきそうな顔で言った。「もし、仲山君に――大事な運動員に万一のことでもあったら、ただじゃおかないからね!」
忠代はさっさと歩き出す。そして、途中で足を止めて振り向くと、
「公民館での懇談会の邪魔はしないでよ!」
と叫んだ。
「――全く、はねっ返りで困ったもんだ」
と、草田は仏頂面で言った。
「草田さん」
と私は言った。「まさか、その噂は本当じゃないんでしょうな」
「とんでもない!」
草田はあわてて言った。「いくら何でも……。そりゃ、私も多少汚ないこともやったが、そんなことまでしませんぞ」
「それなら結構ですが。奥様のことで、反対派に仕返しなどとお考えにならんで下さい」
「今は選挙ですよ。それが済まんと、死ぬこともできませんよ」
これはいかにもぴったりの名文句だ、と思った。
草田が、支援者たちの方へ、
「やあ、どうもどうも!」
と、手を上げながら歩いて行くと、夕子が腕組みをして、
「どうやら、まだ何か起こりそうね」
「そんなに嬉しそうな顔をするなよ」
「失礼ね、誰が――。ま、いいや。でも、仲山って子に、あの忠代さん、惚れてたのね」
「そうかい?」
「見て分んないの? それでよく警部が勤まるわね」
夕子は|容《よう》|赦《しゃ》なくグサリと言うのである。
「じゃ、ともかく署長の松井さんの所へ行って、その後の進展を聞こう」
しかし、進展は、向こうからやって来た。
私たちが、町の警察署の前までやって来ると、一人の若者が青くなって、駆けて来る。中から、ちょうど松井署長が出て来るところに出くわした。
「大変ですよ!」
と若者が息せき切って、「殺されてる!」
「やあ、宇野さんでしたな。昨日はどうも――」
松井が私の方へ言ってから、「――何だと? 誰が殺されたって?」
と、若者の方へ訊いた。
「仲山です。家の裏手の庭で……死んでるんです」
若者は、息を弾ませながら言った。
私と夕子は、松井に続いて、駆け出した。
――仲山の家は、変哲のない一軒家で、いやに暗かった。
「両親は町長選の運動員なんです。もちろん町長派でずっと出ているんですよ」
と松井が言った。「――おい、どこだ?」
「こっちです」
と、若者が先に立って、家のわきを回って行く。
庭は、何だか雑草が伸びて、空家のようだった。
「あそこです。――伊垣と別れて、ここへ捜しに来たら……」
私たちは、庭の裏の方へ歩いて行った。
若い男が一人、仰向けに倒れている。首を絞められたのだ。縄が、まだ首に巻きついていた。
「ついに殺人か……」
と、夕子が呟くように言った。
あまり、嬉しそうな声ではなかった。
松井が急いで署へと戻って行き、私と夕子が死体のそばに残った。
「どう思う?」
と私は言った。
「今度は本当の殺人ね。――でも、妙だと思わない?」
「何がだい?」
「服装よ」
私は死体を眺めた。――いかにも当世風で、髪を長くのばしているが、着ているものは、ずいぶん地味な上衣とズボンだった。
「何だか全然合ってないでしょ。――おかしいわよ」
「そうだな。それに寸法も合わないようだ」
「きっとこの人の服じゃないのよ」
「見てみよう」
上衣の胸をめくると、〈仲山〉というネームは入っている。「どうやら父親の服なんだな」
「そうらしいわね。――どうして、父親の服を着てたのか……」
夕子は考え込んだ。
ダダッと足音が突っ込んで来た。
びっくりして振り向くと、草田忠代が、肩で息をしながら、立っている。
「――お気の毒だけど」
という夕子の言葉も耳に入らない様子で、忠代は死体へ歩み寄ると、真青になって、じっと見下ろしていた。
「許さないから……絶対に……」
と、独り言のように呟いている。
「――時間だよ」
と声がして、振り向くと、伊垣が立っている。「ここは僕に任せて。君は選挙があるんだ」
「分ったわ」
忠代は、気を取り直したように深呼吸して、クルリと振り向き、歩き去った。
「――気の強い娘だな」
と私は言った。
「そこが彼女の偉いとこですよ」
と、伊垣はため息をついた。「――とんでもないことになった」
「彼女はこの仲山君が好きだったのね」
と、夕子が言うと、伊垣は肯いて、
「そうらしいです。ともかく、彼女は、町長の娘だけど、ちっとも偉ぶってないから、みんなの憧れの的なんです。――可哀そうなことになったなあ」
松井署長が、警官を連れて、駆けつけて来た。
4
「本物の殺しですね」
死体をみた小畑が、立ち上って言った。「首を絞められてる。あの縄でやったのかどうかは、分らないけど」
「いつ頃だ?」
「はっきりしないね。少なくとも一日はたってる」
「すると、昨日の昼には……。じゃ、町長の奥さんが殺されて間もなくってことか」
「いよいよ、仕返しって線かしらね」
夕子が考えながら、言った。「――父親はどうしたの?」
「仲山の? 今、捜しとる。どうやら、草田にくっついて歩いてるらしい」
「呆れた。それじゃ、何も知らないのね」
「どうかな。たぶん署長の方から――」
と私が言いかけたとき、警官が一人、駆けつけて来た。
「大変ですよ! 公民館で――」
「公民館?」
「草田町長の派と、娘さんの方の派が乱闘になってるんです!」
私と夕子はあわてて駆け出した。
「――公民館ってどこ?」
足を止めて夕子が訊いた。
「そういや、僕も知らないぞ」
警官が、
「こっちです!」
と走って行く。後を、私たちは、あわてて追いかけて行った。
公民館といっても、大きな家、という外見である。
中から、ワーワーギャーギャーと声が聞こえている。
入ってみると、何が何やら……大混乱である。
「この人殺し!」
「暴力団!」
「親不孝者!」
と、怒号が飛び交っている。
つかみ合い、取っ組み合い、殴り合いに蹴り合い……。大体、相手が誰なのかも、よく分ってない感じで、どう見ても、同士討ちという組み合せもかなりあった。
草田もネクタイがひん曲り、ワイシャツの裾を出して、
「静まれ!」
などとわめいている。
「やっつけろ!」
と、叫んでいるのは、忠代である。
こういうときは女の声の方が、よく通るのである。それにしても、手のつけようがない。
「何とかしないと……」
と夕子も呟くものの、どうにもならない。
「参ったな」
一発威嚇射撃でもするか、と思っていると、
「何事です?」
と、背後で声がした。
「原田じゃないか! いいところへ来たな」
「やってますな。乱交パーティですか?」
「こんなパーティがあるか。お前、止めて来い」
原田はニヤリとして、
「ついでに二、三人のしてもいいですか?」
「馬鹿! お前は刑事だぞ!」
「そうですか……」
原田は、つまらなそうに言って、「じゃ、少し放り投げるくらいなら……」
「けがさせない程度にしろ」
「はい!」
原田は嬉しそうに、指をポキポキと鳴らすと、中へ飛び込んで行った。
取っ組み合っているのは引きちぎり(本当にちぎる[#「ちぎる」に傍点]という感じなのである)、殴り合っているのは、左右へ吹っ飛ばし、何人かかたまってもみ合っている所は、体当りでバラバラにして、さしもの混乱も、やっとこおさまって来た。
「――何だつまらない」
原田は息を少し弾ませながら、「もっと派手にやりたかったです」
「遊んでるんじゃないぞ」
と、私は苦笑した。
大広間は、まだ熱気がざわついている感じで、みんなハアハアと|喘《あえ》いでいる。
「一体何がきっかけだったんだ?」
と私は訊いた。
「私が、町の人たちを前に話してたのよ」
と、忠代が言った。「そしたら、突然、父の派の連中が、押しかけて来て、私を壇上から引きずり降ろそうとして――」
「そうじゃない!」
と、草田が言った。「大体、この時間は俺が借りていたのだ!」
「それがそもそもインチキじゃないの! 私にはたった十五分しか貸さないで、自分は一時間も使うなんて!」
「お前の方の申し込みが下手なのだ」
「故意に妨害したのよ。乱闘の責任はそっちにあるんですからね」
「かかって来たのはそっちじゃないか!」
「私を守ろうとしたのよ!」
と、つかみかからんばかりの勢い。
「まあ、落ち着いて」
私は遮った。「まあ、そっちはそっちでやって下さい。私の仕事は、殺人事件の方ですからな」
「仲山君を殺したのは誰?」
「俺が知るか!」
夕子が、割って入った。
「忠代さんは、仲山君って人が好きだったのね」
忠代は、ちょっと目を伏せて、
「ええ、そうよ」
と肯いた。「恋人同士だったわ」
「そんなこと初耳だぞ」
と草田が言った。
「お父さんに言ったって仕方ないじゃないの。どうせ反対したくせに」
「そうとも限らん」
「嘘ばっかり!」
「この辺で、少しはっきりさせた方がいいようですな」
と私は言った。「草田さん、あなたの奥さんは殺されたのではない。心臓発作で亡くなったのですよ」
草田も忠代も唖然とした様子だった。もちろん、演技でなかったとはいえないが。
「――つまり、誰かが、亡くなった奥さんの遺体を、あの松の木へ運んで、吊り下げたのです。奥さんとは別居しておられたんですね?」
「ええ、まあ……」
「あの前の晩は、会いましたか?」
「いや……私は……」
と、草田が言い渋っていると、
「私は会ったわ」
と、忠代が言った。
「あなたが?」
と夕子は言った。「何の用で?」
「仲山君との結婚のことを話しに行ったの。いくら仲が悪くても、母親ですもの。それに父よりはまだまし[#「まし」に傍点]だったし」
「一人で?」
「仲山君と二人よ、もちろん。そういう点きちんとしておきたいって言って……」
「だったら父親の所へ来い!」
と草田が言った。
「もう遅いわ。仲山君は殺されたのよ」
「そう」
と夕子が肯く。「二人とも[#「二人とも」に傍点]縄を使ってね」
「二人とも?」
と私は言った。
「分らない? なぜ、草田さんの奥さんの遺体を、わざわざあそこまで運んで、松の木の枝から吊るしたのか。――仲山君は、父親の服を着せられていたのよ」
「待てよ……」
と私は考え込んだ。「すると、松の木の枝に吊るされていたのは――」
「仲山君の方だったのよ」
と、夕子は肯いた。「溝内さんを、少しおどかしてみるのね。――きっとすぐ白状するわ」
「溝内は、仲山の死体を見付けてびっくりした。そして町へと駆け降りて……」
「町長さんの所でしょうね、当然、駆けつけたのは」
草田が、あわてて目をそらした。
「そして二人で急いで相談したんだな」
「発見したのが溝内さんじゃ、選挙での対立派が怒り出すに決まってるし、選挙にも影響するに違いない、と思ったのね。当然、同情票が忠代さんへ集まるでしょうし、町長さんの派が疑われたら、イメージダウンですもの」
「そこで、死体を入れかえることにした」
「前の晩に、奥さんが亡くなっていたのを、もちろん草田さんも溝内さんも知っていた」
「で、奥さんが殺されたように見せれば、同情票は町長へ集まる、か」
「もし、溝内さんが死体を発見したのが、夜中なら、こっそり片付けて隠せば良かったけど、もう辺りは明るくなりかけていたのよ」
「あの松は町からよく見える。誰かが見ているかもしれない、というわけだな」
「実際、子供が見ていたわけね。だから、死体そのものを、なかったことにはできない」
「そこで、奥さんの遺体を、町長と溝内で、運んだ」
「二人で両側から支えるようにして運んだので、子供の目には、三人[#「三人」に傍点]が歩いてるように見えたのね」
「そして、松の木から、仲山の死体をおろした。――男と女の違いは、遠くから、しかも朝になる前だから分らなかったろう。しかも髪が長かったしな」
「でも、仲山君は本当に裸で吊るされていたんでしょう。だから、奥さんの遺体も枝から降ろしたことにするために、裸にする他はなかった……」
「それで、仲山の死体の方は、仲山の家の庭へ置いて、家の中から、父親の服を出して着せた」
「薄暗かったから、サイズが違うなんて分らなかったでしょうね。大体、若い人なら、あんな服を着せたりしないわ。町長さんか溝内さんぐらいの年齢の人よ」
夕子は、草田を見て、「いかがです?」
と訊いた。
「――お父さん!」
忠代がキッと父親をにらむ。
「うん……。まあ、そんなところだ」
草田が渋々認めて、「しかし、俺は殺しやせんぞ!」
と、急いで付け加えた。
「奥さんが亡くなったのは、いつ分ったんです?」
「あいつから電話があったんです。あの前の晩、遅くだった。――きっとお前と仲山が行った後だな」
「何かご用だと?」
「その話をするつもりだったんだろう。ともかく、大事な話があるから、来てくれと言うんだ。それで出かけて行ったんです」
草田は肩をすくめて、「行ってみると死んでいたのですよ」
「確かめましたか?」
「もちろん。しかし――もう冷たくなりかけていた。用を片付けてから出かけて行ったので、少し時間もたっていたし」
「しかし、警察に連絡もしないというのは、まずいですな」
「その点は申し訳ない」
と草田は頭をかいた。「しかし、こっちもあまりに突然で、呆然としていたのです。選挙を控えて、どうしたものかと、一旦家へ帰って考えていた。そこへ、溝内が駆けつけて来たのです」
「その先は――」
「あんたの言った通りだよ。どうせ女房の死因は調べれば分る。こっちが疑われることはない」
「問題は仲山君の死体ですね」
「そこだ。それで、考えた挙句、仲山の家がいいということになった。あの夫婦はずっと私の本部につめていてくれたのでね」
私はため息をついた。
「――色々とまずいことになりますぞ。ともかく、選挙が終るまでは待ちますが……」
草田も、さすがに小さくなっている。
「それじゃ――」
と、忠代が言った。「誰が、仲山君を殺したの?」
「あなたにいつもついて歩いているのは?」
「――伊垣君ね」
「彼は、きっとあなたのことを好きだったんじゃない? そして、あなたと仲山君が、お母さんの所へ、結婚の話をしに行くとき、後をつけて行って、聞いてしまったのよ」
「伊垣君が?」
「町長さんが用心棒を頼んだとか、暴力団を呼んだという話を、言い出したのは?」
「私は……伊垣君から聞いたわ」
「そうでしょ? やはり自分が疑われるのが怖かったのよ」
忠代は青ざめた顔で、うつむいた。
伊垣は、罪が発覚したのを気付いたのか、町から姿を消してしまった。警官たちは、町の中を捜索したが、夜になっても発見できなかった。
「妙ですな」
と、松井が、広場に立って言った。「ご連絡があって、すぐに隣の町へも手配しました。町を出ていないと思うんだが……」
もう夜になっていたが、町の中は警官が行き来して、どことなく、ざわついている。
夕子が、
「あら、忠代さん」
と言った。
「――まだ見つからない?」
「そうらしいわ」
忠代は、月明りに、遠く、うっすらと見える一本松を見ながら、言った。
「あの晩、私と仲山君は、あの松の所で結ばれたの。――昔から、あそこが二人の会う場所と決まってたから。きっと、伊垣君、それを見てたのね。私が先に帰って、その後、一人で残った仲山君を……」
「きっと、ずっと前から、あなた方のことを嫉妬してたのよ。だから、あの松の木に、仲山君の死体を……」
「おかしいわ」
と、忠代が言った。
「何が?」
「松の木が……」
私は目を疑った。――あの一本松が赤く、明るい炎に包まれつつあった。
「燃えてる!」
と、忠代が呟いた。
町の人々が、通りへ出て来て、一斉に松の木を見上げた。
暗い夜空へ突き出た松が、まるで遠いかがり火のように、明るく燃え上っていた。
――その松の木の根元に、伊垣の、死体が見付かったのは、翌朝のことである。散弾銃で、胸を撃ち抜いていた。
「――足はどうだい?」
二、三日して、夕子と喫茶店で会った私は、そう訊いてやった。
「足?――ああ、この間のね? あれはお芝居」
「何だってあんなことをしたんだ?」
「分らない? 最初から、あの高い枝に死体が下がってたってのが妙だと思ったのよ。自殺に見せかけたはずもないし、といって殺す手段としては変でしょう。だから、溝内の話が嘘じゃないかと思ったの。死体をおぶって、あの道を降りられるかどうか、試してみたのよ」
「原田じゃ、実験にならないだろう」
「あなた[#「あなた」に傍点]がおぶってくれるかと思ったのよ」
と夕子は言って、微笑んだ。「中年男性の標準タイプとしてね」
「そうか。それじゃ……今からでもおぶってやろうか」
「いいわね。じゃ、銀座通りをおぶって歩いてくれる?」
私はあわててコーヒーをすすった。――こいつは、殺人事件よりも難題だ!
第六話 幽霊愛好会
1
片倉|敦《あつ》|子《こ》は、朝八時に起きて来た。
世に、金持は昼過ぎまで眠っているものだという俗説があるが、それに対する反証の一つが、片倉敦子であった。
片倉家は、部屋数二十という大邸宅で、内容の方もそれにふさわしい豪華さである。それでいて、台所の方も火の車でなく、余裕しゃくしゃくというのは、当節、珍しい本物の金持だと言わねばなるまい。
「おはようございます」
と、まだ新しいお手伝いの娘が、敦子に頭を下げた。
それから、先輩の注意を思い出して、あわてて、
「奥様」
と、付け加えた。
「おはよう」
敦子は微笑みながら言った。「朝食の支度は?」
「はい、できております」
「じゃ、すぐにいただくわ」
「コーヒーを暖めます」
お手伝いの娘は急いでキッチンへと姿を消した。
敦子は、西洋風――それも英国、フランス、スペインごっちゃまぜ風の広い居間へ入ると、ガウン姿のままで、ソファに座った。
敦子はこの片倉家当主の夫人である。もっとも、外の人には、当主の娘、と見られることが多かった。
何しろ片倉泰長は五十七歳、敦子は二十二歳なのだから、無理もなかったかもしれない。
「お待たせしました」
と声がして、朝食の盆が運ばれて来たのだが、運んで来たのは二十七、八の青年で、
「まあ、ありがとう、靖夫さん」
と、敦子は|愉《たの》しげに言った。
「どうして、いつも居間で朝食をとるの?」
と、敦子の年上[#「年上」に傍点]の息子が言った。
「怠け者だからよ」
と敦子は言った。「まだ出勤しなくてもいいの?」
「そう追い出さないでよ」
と、靖夫は笑ってソファに|寛《くつろ》いだ。「コーヒー一杯ぐらい飲んで行ってもいいだろ」
「ええ、もちろん」
靖夫がそばの電話へ手を伸ばすと、キッチンを呼んで、
「僕にコーヒーカップを持って来てくれ」
と言った。「――え?――違うよ、それじゃない。――そう、剣の模様のやつだよ。いい加減に憶えろよ、いいか」
敦子は自分のコーヒーをすすりながら、
「――あんまりガミガミ言っちゃ可哀そうだわ」
と言った。
「|苛《いら》|々《いら》するんだ、ああいう奴には」
と、靖夫は顔をしかめた。フフ、と、敦子が笑った。
「何がおかしいんだい?」
「そういう顔をすると、あなた、お父さんにそっくりね」
「そうかな」
と、靖夫は肩をすくめた。「じゃ、僕と結婚すればよかったのに」
そこへ、ドアが開いて、お手伝いの娘がコーヒーカップを手に入って来た。
「ああ、そこへ置いて。コーヒーは自分で注ぐよ。もう行っていい」
靖夫は、ゆっくりとコーヒーをすすりながら、「――今日は誰か客が来るんだったっけ?」
「私のお友達」
「へえ。昔の恋人?」
「馬鹿言わないで」
と敦子は笑った。「女の子よ。高校時代からの親友なの」
「美人?」
「可愛いわ」
「そりゃ、聞き捨てならないな。急に頭痛がして来たよ。今日は休暇を取ろうかな」
「お父さんがどう言うかしら?」
「冗談、冗談」
靖夫はコーヒーを飲み干して、「全く、朝八時に社長が出社してるなんて、やりにくい会社だよ。息子の僕も、遅刻一つできやしない」
「いいじゃないの。九時には出社するの、当り前よ」
「じゃ、行って来よう。――では、お母さん、その美人の友達によろしく」
靖夫はネクタイを直して、足早に出て行った。
敦子は、体中で息をついた。――夫の片倉は七時過ぎに出勤して行く。そして二人の子供たち……。一人は彼女より年上で、もう一人は一つ下の二十一歳。娘の片倉亜理沙である。
みんなが出かけて行くと、ホッとする。そして、自分が緊張していたことに気付くのである。
「さあ! 支度しよう」
自分を元気づけるように、敦子は声に出して言った。友人くらいは、手作りのケーキやお菓子でもてなしたい。
まだ九時前じゃ来るはずもない。そう分っていても、敦子は、ソワソワと、落ち着かないのだった。
「落ち着かないのね」
と、永井夕子は言った。「トイレはあっちよ」
全く、四十にもなる男を捕まえて、子供扱いである。
「そんなことじゃないよ」
と私は言った。「電話を待ってるんだ」
「あら、彼女から?」
永井夕子がからかうように言って、ストローでソーダをかき回した。
私が落ち着かないのは、ここがお花畑にでも迷い込んだのかと錯覚しそうな、可愛いティールームだからで、四十男としては、到底どっしり腰を落ち着けるというムードではないのである。
警視庁捜査一課の警部がこんな所でアイスクリームなどなめている姿は、凶悪犯には見せたくないものだ。
「|愛《いと》しい原田からの電話さ」
と、私は言った。「それ次第で、本庁へ戻らにゃならんかもしれん」
「あら、私との約束はどうなるの?」
「そんなことを言われてもね……。逃亡殺人犯に文句を言ってくれないか」
「大丈夫よ。あなたがいなくても、捜査一課は倒産しないから」
――二十二歳の女子大生という気楽な身分の夕子としては、世界は自分を中心に回っていると考えているのである。
「いつまで待つの? 友達には十二時頃行くって、電話しちゃったのよ」
「いや……もうとっくに原田から電話があっていい時間なんだが……」
「じゃ、いいじゃないの。便りがないのはいい便りよ。要するにあなたは不要になったの。あなたの時代は終ったのよ」
「胸を短刀でブスブス突き剌されてるみたいだよ」
「私に剌されりゃ本望でしょ」
夕子は澄まして言った。
そのとき、店の入口で、ドシン、ドシン、と象が縄とびでも始めたかと思うような音がした。
「ねえ、あれ――」
「うん。どうも原田らしい」
私は席を立って、店の入口の方へと歩いて行った。やはり思った通りで、原田刑事がその巨体を、入口のドアの前でジャンプさせているのである。
私は扉をぐいと引いて、
「おい、何やってるんだ?」
「あ、宇野さん!」
原田はニヤリと笑って、それから、目をパチクリさせた。「あれ? これ、自動ドアじゃないんですか」
「じゃ、お前、それで飛びはねてたのか?」
「ええ、軽すぎて開かないのかと思って……」
原田の体重で開かない自動ドアがあるとすれば、動物園の象かカバの|檻《おり》ぐらいであろう。
「――やあ、夕子さん! 相変らず美しいですね!」
夕子の大ファンである原田は、ソファをペチャンコにして座ると、言った。「宇野さんとはうまく行ってますか?」
「何とかね」
夕子はクスクス笑いながら言った。
「おい、原田、どうなったんだ、例の件は? わざわざやって来たところをみると、俺が行かないとだめなのか」
「あ、その件なら、ご心配なく。もう片付きました」
「――じゃ、どうして電話して来ないんだ?」
「電話ボックス捜して歩いてたら、ここまで来ちゃったんです」
私は絶望的な気分で、ため息をついた。捜査一課の平和のために、俺はまだ死ねない……。
「――夕子! よく来てくれたわね」
玄関だけで、私の官舎の部屋ぐらいは充分にある邸宅。夕子の親友というその娘は、夕子に言わせると、
「ファザコンなの」
ということだったが、なかなかの美人であった。
広々とした居間へ通されると、夕子が私を紹介した。
「――お互い、年寄りの相手は大変ね」
と夕子は口が悪い。
「でも、すてきじゃない? 大人の関係、なんて。それに私には二人も大きな子供がいるのよ」
と、片倉敦子は言って明るく笑った。「待っててね。今、ケーキを焼いてるの」
「こんなお屋敷じゃ、お手伝いさんいないと大変じゃない?」
「いるのよ。でも、今日はお休みをあげたの。夕子とゆっくり話したいし。――待っててね」
二人になると、夕子は言った。
「ホッとしたわ」
「何が?」
「どんな様子かな、と思ってたの。何しろ、五十過ぎの大金持の後妻でしょ。色々と気苦労多いだろうし」
「結構楽しそうじゃないか」
と私はソファに寛いだ。
「そうね。いくら装っていても、精神的な苦労って、様子に出るからね」
「しかし、よく思い切ったもんだね。僕が親なら猛反対しただろう」
「彼女、ご両親を早く失くしてるのよ。だから、年上の男性に父親の面影を見てるのね、きっと。それに、今のご主人の方が彼女にご執心だったのよ。毎日毎日彼女のことを大学の前で待ってるの。凄かったわよ」
「ふーん。それぐらいの年齢になってからの恋ってのは、却って燃え上がるのかな」
「それに、金持らしくない、いい人なの。とても誠実で。――片倉泰長。実業界ではかなり名の売れた人らしいわ」
「聞いたことはあるよ」
「問題はこれからね」
夕子が言う意味は分った。つまり、亡くなった先妻の子がいて、あの敦子という女性にも子供が生れたとき、事は一挙に複雑になって来る……。
「でも別に――」
と夕子はさりげなく言った。「問題ないんでしょ?」
手作りのケーキを味わっている最中である。訊かれた敦子は、ちょっと微笑んで、
「そうね。――まあ、大体はね」
と|曖《あい》|昧《まい》な言い方をした。
「どうしたの? 何かあるの?」
「あると言えば……主人が月に一度、先妻に会いに行くことぐらいかしら」
「先妻に?」
夕子は目を見張って、「でも――亡くなったんじゃなかったの?」
「そうよ。幽霊に面会に行くの」
私は、チラッと夕子の方を見た。「幽霊」と来ると、これまで大体ろく[#「ろく」に傍点]なことがないのである。案の定、夕子の目が危険信号の光を放ち始めた。
「それ、どういうこと?」
「うーん、何て言うのかな、要するに、死んだ人の霊と話をする所があるの」
「――降霊術みたいなもの?」
「科学的降霊術っていうのかな。そこの会員になってるのよね。で、月に一度、亡くなった奥さんと話をしに行くわけ」
「へえ! 本気なの、ご主人?」
「どうかしら」
と、敦子は首をかしげて、「半分本気、半分は冗談ってとこかな」
私には、何となく分るような気がした。科学者などが、往々にしてこういうゲームにのめり込むことがある。おそらく、片倉泰長のように、実業界で忙しく働き回っていると、そういう非現実的な世界に身を|浸《ひた》すことで、バランスを取る必要があるのだろう。
詩人や作家が、至って俗っぽい現実家であることが多いのと似たようなものだ。
「会員制でね、結構、名士っていわれる人たちが入ってるんですって」
「ちゃんと会費も払うの?」
「もちろんよ! 三十万円も取られてるわ、月に」
「三十万!」
私は目を丸くした。月給が吹っ飛んでしまうではないか。
「でも、変な秘密クラブとかに入られるよりいいしね。幽霊となら浮気もできないし」
と敦子は笑った。
「息子さんは、ご主人の会社に勤めてらっしゃるんだっけ?」
「靖夫さん? そう。でも怠け者で――二代目の典型ね」
「下は娘さんだったわね」
「下っていっても一つ違いよ、私と。亜里沙っていうの。とても気の優しい子よ」
「大学生?」
「そうなんだけど……」
と、ちょっと言い淀んだ。
「どうかしたの?」
「ちょっと病気があるのよ」
「病気?」
「凄い不眠症なの。一日二時間くらいしか眠れないのよ」
「へえ! それで大丈夫なの?」
「体は弱いわ。やっぱり疲れやすいしね。――普通にベッドへ入っても、眠りにつくまで何時間もかかるし、眠ったと思ったら、すぐ起きちゃうし……」
「それも辛いわね」
「だから家じゃ一番早いわ。四時には起きて、六時頃出かけて行くの」
「朝の?」
「もちろんよ」
「へえ! 私なんか八時間はぐっすり寝ちゃうけど」
「僕は五、六時間だよ、忙しくて」
と口を挟むと、
「あなたはいいのよ。トシ取ると、睡眠少なくていいんだから」
夕子は|容《よう》|赦《しゃ》ない残酷な言葉を浴びせて来た。
「じゃ、今日も出かけてるの?」
と夕子が言うと、
「ええ、もちろん、まだ暗い内に――」
と言いかけて、敦子は、言葉を切った。「――変だわ」
「どうしたの?」
「靴が玄関にあったわ。私、見ていて気が付かなかった……」
「他の靴をはいて行ったんじゃないの?」
「いつも同じなの。その辺は病的なくらいなのよ。同じ靴を沢山持ってて、古くなると取り替えるの。でも、古いのを放り出しとくなんてことないわ」
敦子は、立ち上った。「ちょっと見て来るわ」
「今朝に限って、良く眠れたんじゃないの?」
「それならいいんだけど……。ごめんなさい、すぐ戻るわ」
敦子は急いで居間を出て行った。その様子が、どこか不安にせき立てられているようなのが気にかかった。
「――何か変ね、彼女」
夕子も同じように感じていたらしい。
二、三分、間があったろうか、居間のドアが弾けるように開いて、敦子が飛びこんで来た。
「大変だわ! 部屋が――亜里沙さんの部屋が――」
夕子がパッと立ち上がる。私も警部という立場に戻っていた。
「案内して」
と夕子は言った。
二階のドアの一つが、開け放たれていた。その入口に立って、私たちは目を見張った。かなりの広さのある部屋で、ドアの正面に窓があり、右手にベッドがあった。しかし、衣裳戸棚や引出しは全部開き、引き出され、中味が床一杯にぶちまけられていた。
それだけではない。花びん、壁の額、頭上のシャンデリヤ、鏡……。すべてが壊され、砕かれてしまっている。
「こりゃひどい……」
と私は|呟《つぶや》いた。「中へ入らないで! ガラスの破片で足を切る」
「でも亜里沙さんが――」
ベッドは、こんもりと人の形に盛り上っていた。
「よし。廊下に長椅子があったね。それを持って来て、ベッドまで行こう」
急いで長椅子を運んで来ると、入口からベッドの方へと渡してみる。少し届かないが、何とかベッドの上へ飛び移れるだろう。
私は、長椅子を渡って、ベッドのふくらみをうまくよけて飛びのった。
毛布をはがすと、穏やかな寝顔が現れた。確かに多少青白いが……。そのとき、私の体に鋭い電流が流れた。
「どうしたの?」
と夕子が訊いた。
「警察へ電話してくれ」
と私は言った。「――この娘、殺されてるんだ。たぶん胸を剌されている……」
2
「やれやれ……」
私は居間のソファで息をついた。
まさかこんな所へ来て殺人事件に出くわそうとは思ってもいなかったのである。――夕子には、犯罪を呼び寄せる、一種の磁石のような力があるらしい。
「――どうなった?」
と声がして、顔を上げると、夕子が入って来た。
「やあ。彼女はどうした?」
「鎮静剤を注射してもらって、今は落ち着いてるみたい」
夕子は私の斜め前の席に座った。「ひどいことになったわねえ」
「殺人だってことは疑問の余地がないね。胸を剌されて、ほぼ即死ってとこだ」
「凶器は?」
「たぶんナイフか何か……。持ち去られている。それに上から毛布をかけてある。――あの穏やかな表情からして、苦しまずに死んだろうがね」
「あんまり慰めにはならないわ」
「同感だね」
しばらく、重苦しい間があって、夕子が口を開いた。
「彼女に……嫌疑がかかりそう?」
「うん……。一応はやむを得ないだろう」
「私が警視庁捜査一課の警部を連れて来ると分ってて人を殺すの? 馬鹿らしい!」
「理屈じゃそうだが、現実の捜査は、可能性と証拠を重視するからね」
「死亡推定時刻は?」
「午後三時前後」
「三時?」
夕子が目を丸くした。「私たちが来たのは一時半くらいよ」
「そうなんだ。まずどう考えても、僕らがいるときに殺されている」
「私たちが下にいるのに……。信じられないわ!」
夕子は考え込んだ。――もはやそこにいるのは女子大生永井夕子ではない。名探偵、永井夕子である。
「確かに、理屈から言えば、君の友達が自分に確実に疑いがかかるようなときに、人を殺すというのは考えられない。しかし、だからといって、他の誰に出来たか、となると……」
「そりゃ分るわよ」
夕子は|肯《うなず》いた。「私たちがここで話をしている間に、中へ忍び込んだ者があったかどうか……」
「今、原田たちがその点をチェックしているよ」
と言ったところへ、原田が入って来た。
「やあ、宇野さん! いや、だだっ広い屋敷ですね、ここは!」
と息をつく。
「どうだった?」
「ざっと見た限りじゃ、忍び込んだ奴はないようです。それに、ここは何か電子監視装置とかがあって、誰か入って来るとロボット犬がかみつくようになってるそうです」
「ロボット犬?」
「ハハ、冗談ですよ。警報が鳴るだけです」
殺人現場で冗談が出るという、変ったタイプなのである。
「そこには異常という通報はなかったんだな?」
「そのようです。もっとも、詳しく調べりゃ何か出て来るかもしれません」
こいつはなかなか容易な事件ではなさそうである。――敦子を犯人と考えれば、一番簡単ではある。一緒にいたといっても、色々もてなしてくれるので、席を外していることも多かったからだ。
しかし、確かに夕子の言う通り、わざわざ客のいるときに人を殺すことはあるまい。心理的には至って不可解である。
「ねえ」
と夕子が言った。「現場はそのままになってるの?」
「うん、一応まだ手つかずだ」
「じゃ、見てみたいわ」
と夕子が立ち上った。「確かめたいことがあるの」
「――気を付けてくれよ」
と私は夕子に言った。「まだガラスの破片で一杯だからね」
「このスリッパは厚手だから大丈夫でしょう」
夕子は、ゆっくりと部屋の壁に沿って動いて行った。
ベッドの所まで行くと、覗き込んでみる。死体はもう運び出してあるのだが、それ以外はほとんど手つかずである。
夕子は毛布の表面にじっと目をこらしていた。
「――ガラスの細かい粉が毛布の上に落ちてるわね。この破壊があったとき、彼女は殺されていたのかどうか……」
「生きてりゃ、目を覚ますんじゃないか?」
「そこなのよね」
と夕子は言った。「不眠症の彼女が、なぜ今日に限って、三時頃までも眠っていたのか……」
「つまり、薬を盛られたとでも?」
「それは後で分るでしょ。もう一つ分らないのはね――」
「何だね?」
「なぜ、窓ガラスだけ[#「窓ガラスだけ」に傍点]が壊されなかったのかってことよ」
「それは、窓を壊すと、警報装置が働くからじゃないのかな」
「だとすると、犯人が敦子だって可能性は少なくなるわ。彼女なら、|予《あらかじ》め警報装置を切っておくことができたはずですもの」
「なるほど……」
私は肯いた。
「しかし、何ですねえ」
と、原田が言い出した。
こういうとき、大体ろくなことを言わないので、私は前もって原田をにらんだが、当人はてんで気付かず、
「どうしてこんなにぶち壊したんでしょう? 手間がかかるだろうになあ」
と、割合にまともなことを言って、「――誰かがこの中でゴルフの練習でもしたんですかね」
「ともかく、問題は動機だ」
と私は急いで言った。「方法や手段ややり方は次の問題だ」
「宇野さん、方法と手段とやり方はどう違うんですか?」
「――言葉が違うだろうが」
と私は言ってやった。
「あ、痛っ!」
夕子が指をなめた。「指先をちょっと切っちゃったわ」
「だから気を付けろと言ったじゃないか。大丈夫かい?」
原田も心配顔で、
「救急車を呼びますか?」
「平気よ。ほんのちょっとだから」
夕子は廊下へ出てくると、「敦子さんのご主人には連絡が行ったのかしら?」
「外へ出ていて、つかまらなかったんだ。そのうち駆けつけるだろう」
「亜里沙さんを殺して、誰が得をするのか……。難しい問題ね」
と夕子は眉を寄せて、首を振った。
下へ降りて行くと、玄関の方から、二人の男がやって来た。一見して親子と分る。
「片倉泰長さんですね。警視庁の者です」
「どうも。――亜里沙の遺体は――」
「もう運び出してしまったのです。本当にお気の毒な――」
「そんなことより」
と、片倉は|遮《さえぎ》って、「敦子はどこです?」
「今、鎮静剤を|射《う》って、休んでおられますわ」
と夕子が言った。
「あなたは……永井さんだったかな」
「そうです。ちょうど今日、遊びに来ていて……」
「とんでもないことになった」
片倉は、そう言って、ため息をついた。
五十代といっても、まだまだ若々しい印象の紳士で、もちろん娘が殺されたというのだから、ショックに違いなかったろうが、少しもうろたえている様子はなかった。
「犯人の見当は?」
「今、捜査中です。二、三、後ほど質問にお答え願いたいのですが」
「もちろん、協力させていただきます」
と片倉は肯いた。
そこへ、
「あなた」
と声がして、敦子が小走りにやって来た。
「敦子! 大丈夫か?」
「ええ……私は……。ごめんなさい、亜里沙さんがあんなことになって……」
敦子は夫の胸に顔を埋めた。
「落ち着くんだ。君のせいじゃないんだから。――さあ、上に行って休もう」
片倉が、敦子を抱きかかえるようにして二階へ上って行くと、もう一人の若い男が、
「僕は息子の靖夫です」
と自己紹介した。「――いや、びっくりしましたよ、突然のことで」
大体、殺人というのは突然起こるものである。
「妹さんのことで少々うかがいたいんですがね」
「ええ、どうぞ。その前に一杯飲ませて下さい」
片倉靖夫は、そう言うとさっさと居間へ入って行った。どうやら、見かけほど落ち着いてもいない様子だった。
「――妹はちょっと変ったとこがありましてね」
と、靖夫はグラスを手に言った。「不眠症のことはお聞きになったでしょう?」
「ええ。原因のようなものはあったんですか?」
「そりゃあ……」
と言って、靖夫は天井に目を向けた。「父の再婚ですよ。あれから始まったんです」
「ほう。すると、やはり抵抗があった?」
「でしょうね。何しろ亜里沙と敦子さんは一つしか違わないんですから」
「しかし、うまく行っていたんじゃないんですか?」
「表面上はね。というか、亜里沙も敦子さんとうまくやろうと、本気で努力していたんです。しかし、内心、やはり割り切れないものがあったんだと思いますよ」
「それまで不眠症になることはなかったんですか?」
と、今度は夕子が訊いた。
「いや、もともと神経質で、軽いノイローゼになることはあったんです。でもあんなにひどい不眠症になったのは初めてですね」
「妹さんは誰かに殺されたわけですが――」
と私が言いかけると、
「犯人の心当りですか」
と、靖夫は先回りして、「あります」
と言った。
「それは誰です?」
私は、靖夫が敦子の名を挙げるだろうと思っていた。
「亜里沙の恋人です」
「恋人?」
「ええ。このところうまく行っていなかったんです。よく電話でやり合っていました」
「何という男です?」
と私が訊いたとき、居間のドアが開いて、原田が顔を出した。
「宇野さん! 物置に隠れてた奴がいましたよ!」
ドン、と原田の怪力に押されて、居間へ転がり込むように入って来たのは、針金にジーパンをはかせたような、ヒョロ長い若者だった。
「あ、こいつですよ!」
と、靖夫が声を上げた。「亜里沙の恋人です!」
私には意外だった。もちろん、人の好みはさまざまだが、こんな大金持の娘が恋人にするにしては、貧相な男である。
「――名前は津田一郎」
と、ぶっきら棒に言って、女なみに長い髪をかき上げた。「確かに、亜里沙とは恋人同士でした」
「物置に隠れて何をしてたんだ?」
「隠れてたんじゃありませんよ」
「すると、鬼ごっこでもしてたというのか?」
「住んでたんです」
夕子が目をパチクリさせて、
「住んでた?――つまり、物置で暮らしてたってことなの?」
「そうですよ」
津田一郎は肩をすくめた。「僕は貧乏絵かきです。でも、亜里沙は僕を励ましてくれた。――あんなにすてきな女性はいません」
「でもどうしてそんな所に?」
「アパートを、家賃払えなくなって追ん出されたんです。そしたら、亜里沙が、『うちにはいくらでも部屋があるから、隠れてりゃ分らない』と言って……」
「で、いつから物置に?」
「二週間ぐらいかな?」
「驚いたな!」
と、私は言った。「その間、誰にも気付かれなかったのか?」
「食事は亜里沙が運んでくれたし、僕も気をつけてました。それに一日中いたわけじゃありません。朝早く出て、仕事をしてましたからね」
「仕事?」
「ポスター貼りとか、似顔絵かきとか……」
どこまで信用したものやら、怪しいものだと思ったが、ともかく身許を洗う必要がある。ドアが開いて、片倉泰長が入って来た。
「――警部さん」
「ちょうど良かった。今、この男を――」
「これから犯人を見つけに行きたいのですがね」
と片倉は言った。
「どこにです?」
「私に任せて下さい。亜里沙の口から、直接犯人を|訊《き》き出すのです」
「はあ……」
それは確かに、被害者に訊くのが一番手っ取り早いには違いないが……。
「いいじゃないの」
と夕子が言った。「降霊術を使うおつもりなんですね?」
「そんな古くさい名前ではないのです」
と、片倉は言った。「霊体研究所というのですよ」
どっちも大して新しいとは、私には思えなかった。
3
「これが――」
と、その白衣の男は言った。「いわば新しい霊媒、というところです」
現代的降霊術には、怪奇めいた雰囲気も、薄暗い部屋も、大げさな小道具も必要ないらしかった。
明るい、快適な居間のような部屋で、案内役の男が指さしたのは、二七インチほどのTVスクリーンだった。
「ここに死んだ人の姿が映るんですか?」
と夕子が訊く。
「いや、外形的なものを再生することはできません。ここには、霊の言葉が、文字でディスプレーされます」
「はあ……」
「何か故人の持物とか、着ている物をお持ちいただくと、それには、その人に固有の霊体が、匂いのように残っています。それをセンサーで感知して、増幅するのです」
何だか分ったような分らないような説明である。
「人はみんな指紋が違っているように、人それぞれ、霊体の質には差がありまして、同じ人はいません。ですから、それを手がかりに、肉体が滅んだ後、なお漂っているその方の霊を呼び出すことができるわけです」
まるでテープを回しているような、淀みない説明である。それにしても、こんなものに月三十万も払うというのは、よほどの物好きだろう、と私は思った。
「ねえ」
と夕子が言った。「あなたも、亡くなった奥さんを呼んでもらったら?」
「言われることは分ってるよ。『こんなことにむだなお金を使うんじゃありません!』と怒鳴られる」
「――では早速、その方の霊を呼び出してみましょう」
と、係の男は、片倉泰長へ言った。
「頼む。誰が娘を殺したのか、それを訊いてほしい」
「かしこまりました」
と、白衣の男は肯いて、「まだ亡くなられたばかりだとのことですから、すぐに反応があるでしょう」
と、部屋を出て行った。
「――どうなってんですかね」
と、原田が言った。「宇野さんは信じます?」
「俺は法廷で証拠として通用するものしか信じないよ」
と私は言った。
「いいじゃないの。ともかく、見てみましょうよ」
と夕子は面白がっている様子だ。
TVの画面に、ピッピッという電子音とともに、「ア」だの「ウ」だのという、文字がでたらめに出始めた。
「初めのうちは、なかなかまともな文にならないのですよ」
と、片倉が言った。
私は、何だか妙な気分だった。娘を殺されたというのに、こんな遊びにうつつを抜かしている片倉の気持を、測りかねた。本当に、こんな物を信じているのだろうか?
すると、原田が、
「宇野さん! ほら――」
と、素頓狂な声を上げた。
画面に、文字が並んでいた。
「オトウサン」
とある。「……イロイロゴシンパイカケテスミマセン」
「亜里沙、聞こえるか」
と、片倉が大真面目な調子で言う。
「キコエマス」
と返事があった。
「お前を殺したのは誰なんだ? 言ってくれ」
少し間があって、文字が並んだ。
「ツダサンノコトヲヨロシク」
恋人のことを、死んでからも心配しているというのは泣かせる。
「分った。私に任せなさい。それより、お前は誰に殺されたのだ?」
「オトウサンハアツコサントシアワセニクラシテクダサイ」
「ありがとう。――亜里沙、答えてくれ、犯人は誰なんだ?」
しばらく待ったが、何の返事もなかった。
「どうも、無理だったようですな」
と私が言ったとき、
「見て!」
夕子が私の腕を押えた。――画面に文字がピピッと打ち出されて来る。
「ワタシヲコロシタノハ……コウノフミヨデス」
私たちは顔を見合わせた。
「〈コウノフミヨ〉って誰です?」
と原田が言った。
「知らんな」
「私は知っています」
と、片倉が言った。「今、家に来ている手伝いの娘の名前です」
「――ええ、奥様から外出していいと言われまして、ついさっき戻ったんです。そしたら、お嬢さんがあんなことに……。全然知らなかったんです!」
河野文代は訴えるように私たちの顔を見た。――十九歳。この家に来て半年。
ぽっちゃりとして丸顔の、都会的洗練とは縁遠いが、健康的な魅力のある少女である。
いくら死者の霊が語ったからといって、この少女に、亜里沙を殺す動機があるとは思えなかった。
「分った、分った。別に君を責めてるわけじゃないよ」
と私は河野文代をなだめておいて、「お嬢さんが恋人の津田をここの物置に置いてたのは知ってたかい?」
「そんなこと――」
と、文代は目を丸くした。「じゃ、それでお嬢さん、あんなことを……」
「あんなこと?」
「私におっしゃったんです。物置には、大学の研究に必要な資料を置くことにしたから、絶対に手を触れるな、って。私、せめてお掃除でもと思ったんですけど、それも自分でするから、とおっしゃって……」
「なるほどね」
と私は肯いた。
「あの……犯人は誰なんでしょうか?」
と、文代はおずおずと訊いた。
「それを今、捜してるところでね」
と私は言った。「君に何か心当りは?」
「いいえ、何も!」
と、文代は首を振った。
「あなたが外出して行ったときに――」
と夕子が言葉を挟む。「誰か怪しい人を見かけなかった? その辺をうろついてたり、という……」
「さあ」
と、文代は首をかしげて、しばらく考えていたが、何か言おうとするように口を開きかけ、それから改めて首を振って、「特に誰も」
と言った。
文代が居間を出て行くと、私は夕子を見て、
「どう思う? 今の娘、何か言いかけたぞ」
「そのようね」
「何かあるんじゃないかな。少し押してみるべきだったかな」
「そうとも限らないわよ」
夕子は、何やら意味ありげに言った。
「それはどういう――」
と言いかけたとき、ドアが開いて、敦子が入って来た。
すっかり|憔悴《しょうすい》し切った様子だ。
「大丈夫?」
と夕子は立ち上ってソファに座らせた。
「ありがとう……。どんな具合かと思って。――犯人は捕まえられそう?」
「任せといて。この警部さんは優秀なのよ、見かけによらず」
どうも夕子は一言多い傾向がある。
「しかし、何とも複雑だな」
と私は言った。「どうにも事件の実体がつかめない感じだ」
「事件はただ一つ、亜里沙さんが刺し殺された、ということよ」
夕子はそう言って、ソファに座った。「警報装置との関連で考えると、やはり犯人は内部の人だと思うわ。三時前後に殺されたとすれば、犯人はどうにかしてこの家の中へ入って来たはずでしょう。警報を予め解除しておけるのは、内部の人だけよ」
「つまり、出かける前に警報を解除し、一旦家を出てから、戻って来た、ということかい?」
「そう。もっとも、もともと物置にいた津田に関しては、その必要はなかったわけね」
「奴が犯人かな? 亜里沙さんと喧嘩していたという証言もある」
「殺してから、またノコノコと物置に隠れて、捕まるのを待ってたの? そんな犯人、いないでしょ。入って来るのは難しくても、出て行くのは簡単だったんだから」
「それもそうか」
「それにね、亜里沙さんの『不眠症』の謎は、それで解けると思うの」
と夕子は言った。
「というと?」
「亜里沙さんは不眠症じゃなかったんだと思うわ」
「何だって?」
「ね、その不眠症がひどくなったのは、どれくらい前から?」
と夕子は敦子に訊いた。
「そうね……。かれこれ三カ月にはなるかしら」
「津田がアパートを追い出された時期を調べてごらんなさい」
と夕子は私を見て言った。「きっとその時期と一致するから」
「じゃ、何か? 津田は三カ月も物置にいたっていうのかい?」
「こういう家じゃ、三カ月でも不思議はないわよ。津田は、話を信じてもらえないと思って、わざと短く言ったんだと思うわ」
「しかし、それと不眠症とどういう関係が――」
「考えれば分るじゃないの。食事を運んだりするのは、どうしたって夜中、みんなが寝静まってからしかないわ。そして津田が仕事に出て行くのを見られないようにするためには、まだ誰も起き出していない時間に行くしかない」
「それには亜里沙さんが早起きして送り出さなきゃならなかったのね」
と敦子が言った。
「そういうことね。もちろん、夜中に起きているところを見られるかもしれないし、朝早く出て行けば知られないわけがない。それを家の人に怪しまれないために、『不眠症』という口実を使ったのよ」
私は感心した。
「しかし、よく体がもったな!」
「大学へ行って、話を聞いてみるのね」
と夕子は微笑んだ。「彼女、きっと大学で睡眠不足を補っていたと思うわ」
「すると、津田と喧嘩していたというのは……」
「それはカムフラージュじゃなかったのかしら。この家は各部屋が内線電話でつながってるでしょ。津田は、どこかの空いた部屋から、きっとかけていたのよ。誰もまさか内線だとは思わないでしょうからね」
「そいつは津田にも問いただしてやる。しかし、そうなると犯人は津田じゃないのか」
「そうは言ってないわ。でも、ああいうタイプの人は、たとえ振られても殺したりしないわ。自殺するかもしれないけど」
タイプで犯人が決められりゃ楽なものだが、と私は思った。
「ちょっと引っかかるのは、なぜ靖夫さんが津田のことを犯人だと言ったのか、ね」
「それは分るわ」
と、敦子が言った。「靖夫さんは、あの通り軽薄な人だけど、凄い妹想いなの。今度の件も、表面は平静な様子でいるけど、きっと大変なショックだと思うわ」
「父親の方は――こんなこと言っても気を悪くしないでね――割合にさめたところがあるのね」
「そう。その通りよ」
「何か理由があるの?」
「うん……。それは、私もつい最近まで知らなかったんだけど――」
と、少しためらってから、敦子が言った。「亜里沙さんを産んだ後、前の奥さんが亡くなったでしょ。あの人にとっては、奥さんの方に生きててほしかったんでしょうね。もちろん、それは亜里沙さんのせいじゃないけど」
「気の毒ね、亜里沙さんも」
「そうね。敏感な人だったから、きっと小さい頃から、父親があまり自分を好いてくれていないことを感じ取っていたでしょうね」
――どうにもややこしくて、それでいて、そのややこしさ自体もよく分らない、という最悪の事件だった。
それでいて、犯人の見当もついていないのだ。夕子は、別に上司に怒鳴られるわけではないからいい。
片倉邸を出たのは、もう夜中近くだった。
「――どうだ、どこかで食事して行こうか」
と私は言った。
「いいわね。おごり?」
「もちろんさ。ただし限度額あり」
「クレジットカードね、まるで」
と夕子は笑った。
「腹が一杯になりゃ、犯人がパッとひらめくかもしれないよ」
「あら」
と夕子は私を、珍しい動物でも眺めるように見て、「あなた、まだ犯人が分らないの?」
と言った……。
4
「宇野さん」
原田が情ない声を出した。
「その先は言わなくても分ってるよ。腹が空いたと言うんだろ?」
「違うんです」
「じゃ、何だ?」
「何か食べたいと思って……」
「同じじゃないか!」
しかし、私とて、そう満腹しているというわけでもなかった。
何しろ、津田の尾行を続けて、もう一週間である。もちろん、捜査一課のベテランにとって、一週間や二週間の尾行はどうということもないが、いつでも、相手が尾行に気付くようにしていなくてはならないというのが、何とも疲れるのである。
「そうだな、俺も腹が減った」
と私は言った。「あの角に弁当屋があったろう。二つ買って来い」
「はい!」
原田は、死にかけた老サイ(妻でなく、動物の方である)から、一挙に小鹿の如く変身をとげ、弁当屋へと吹っ飛んで行った。
「やれやれ……」
私は、意味もなく呟いて、津田が働いている看板屋の、明りの|点《つ》いた窓を見た。ゆうべは午前二時まで働いていたが、今夜はどうだろうか。
そろそろ、何か結果が出ないと課長がうるさいだろうな、と思うと、空腹の惨めさが一層重味を加えて感じられた。
何しろ津田を二十四時間つけ回すというのは、夕子のアイデアであり、しかもその理由については、
「やりゃ分るわよ」
という、至って詳細な[#「詳細な」に傍点]説明があっただけなのである。
津田と、殺された亜里沙との関係については、夕子の推理はほぼ適中していた。ただ、津田がアパートを追い出されたのは、もう一年も前のことで、ずっと亜里沙が、小遣いを津田に渡していたのだということだった。それがやって行けなくなって、ついにあの物置住まいということになったのだ。
そうなると、津田が亜里沙を殺す理由が、どうにも思い付かない。それでいて、夕子は津田を尾行しろと言う。しかも、彼が気付くように、だ。
全くもって、名探偵の言う事は不可解である。――夕子にでも電話してみるか。
ちょうど、看板屋を見張っていられる位置に、赤電話があった。
「――もしもし」
「やあ君か」
「何だ、あなたなの」
夕子は眠そうな声で言った。
「寝てたのかい?」
「そうよ、何時だと思ってんの? もう十時よ」
「徹夜で見張りをしてる人間に、ずいぶん思いやりのないことを言うじゃないか」
「司令官は優雅な暮しをしてないと、名案も浮かばないのよ」
「もう一週間つけ回してるが、何も起こらないぜ」
「そうね。こうして電話して来るぐらいだから、あなたもまだ生きてるみたいだし……」
「おい、待てよ。そりゃどういう意味だ?」
「何が?」
「僕がまだ[#「まだ」に傍点]生きてるってのは……」
「あら、言わなかった? そのうち、誰かがあなたの命を狙おうとすると思うの」
「何だって?」
「だから、そこで犯人がはっきり分るっていうわけ」
「つまり……僕は|囮《おとり》なのか?」
「まあ、見方によっちゃ、そういうことになるかもね」
「冗談じゃないぜ! そんな肝心のことを言い忘れてるなんて――」
「いいじゃない、今言ったんだから」
と夕子はのんびりと言った。
「僕が津田をつけ回してると、どうして犯人が僕を殺そうとするんだ?」
「それを言っちゃ面白くないじゃないの」
「ゲームじゃないんだぜ!」
「落ち着いて。捜査一課のベテランでしょ。不意をつかれたって、遅れは取らないわよ」
夕子は呑気なことを言って、「じゃ、お気を付けて」
と電話を切ってしまった。
どうなってるんだ。畜生! 私は首を振った。――このところ、夕子はめっきり私に冷たくなったようだ。やはり年齢の差が、ここに来て夕子の熱をさましつつあるのだろうか?
私の胸に一抹の|寂《せき》|寞《ばく》が渡って行った。彼女の方の熱が冷めないうちに、強引に結婚すべきだったろうか。しかし、彼女に果して俺はふさわしい人間か?
「宇野さん! ほかほか弁当ですよ!」
そうだ、やはり、弁当は熱いうちに食べた方がいい。――何の話だ?
見れば、原田が弁当を五、六個もかかえてやって来る。
「ムードのない奴だ」
と私は呟いた。
しかし、腹が空いているのも事実である。ここは弁当に専念するというのも、悪くないかもしれない。――これが四十男のもてないゆえんであろうか。
白い車が、走って来た。原田が弁当を手に、幸せ一杯という顔で、道路を渡って来る。車がスピードを上げた[#「上げた」に傍点]。
「おい、原田――」
「六個買って来たんです。宇野さん二つでこっちが四つ――」
「危いぞ!」
「何がです?」
「危い!」
このやり取りは、実際はほんの二、三秒のことでしかなかった。その白い車は、猛然と突っ込んで来た。
「原田さんは?」
夕子が駆けて来て、息を弾ませながら言った。「大丈夫なの?」
「死にそうな声を出してるよ」
と私は言った。
「大けが? それなら救急車を――」
と言いかけて夕子は言葉を切った。
当の原田がノコノコやって来たからである。
「全く、泣いても泣ききれませんよ」
「原田さん! 車でペシャンコにされたんじゃなかったの?」
「やあ、夕子さん。――ええ、ペチャンコになっていますよ。弁当が六つもですよ! みんな温かくて、旨そうだったのに!」
夕子はキッと私をにらんで、
「|騙《だま》したのね!」
「これでおあいこさ」
夕子は苦笑いして、
「まあいいわ。でも犯人を捕まえられないなんて、だめね」
「車のナンバーを見たよ。調べれば分るはずだ」
「じゃ、行きましょう。」
「どこへ? 津田はまだあの看板屋の中にいるぞ」
「もういいのよ」
と夕子は言った。
私たちは、車で、片倉邸へと向った。玄関を開けたのは、敦子だった。
「――夕子! まあ、警部さんも」
「遅くにごめんね」
「いいの。今夜は珍しく、主人も帰っているのよ」
居間へ入って行くと、片倉と靖夫がソファで寛いでいた。靖夫の方がすぐに立ち上って、
「何か分ったんですか?」
と訊いた。
「敦子、あなた今夜どこかへ出かけた?」
と夕子が言った。
「今夜? いいえ。ゆうべなら出かけたけど……。あの――何か飲物でも作りましょうか?」
「お構いなく。――お手伝いの河野文代さんは?」
「買物に出てるの。――でも、ちょっと遅いわね。どこまで行ったのかしら」
「車ですか」
と私が訊く。
「ええ……」
「白い車で、ナンバーは――」
と私が言うと、
「確か、そんなナンバーでしたけど……。それがどうかしまして?」
と、敦子が不思議そうに訊いた。
「それでしたら、もう彼女はここへ戻らないかもしれませんよ」
と私は言った。「電話をお借りします」
夕子は、私が手配を終えるのを待って口を開いた。
「あの文代さんという人が犯人だと確信したのは、事件の日に、家から出て行ったとき、怪しい人物を見なかったか、と訊いたときです。彼女は一瞬返事をためらいました。――何か、知っていることがあって、話そうかどうしようかとためらったのかもしれませんが、むしろ、私には、謎の人物を作り上げようか、それとも、生半可な作り話は却ってまずいかもしれない、と迷っているように見えました。それで、この人は、必ずしも、見かけ通りの、純情素朴な女の子というわけじゃないんだな、と思ったんです」
「しかしどうして彼女が?」
と、靖夫が言った。
「第一に、三カ月もの間、物置に津田が隠れているのを、手伝いの文代が知らないはずはありません。亜里沙さんに、『物置へ近付くな』と言われていたということでしたが、そう言われて、物置を覗かずにいられる女性はいないでしょう」
「つまり津田のことを知っていた――」
「むしろ、亜里沙さんの言いつけで、津田の食事を用意したりしていたのは、文代だったと思います。亜里沙さんが余分に食物を取っておくのは容易ではありませんが、文代なら簡単にできます」
「なるほど」
と、片倉が肯いた。
「亜里沙さんの代りに、津田の面倒をあれこれみているうちに、文代が津田にひかれて行ったことは確実です。津田というのも、芸術家肌の割に要領のいい男で、ともかく、一年近くも亜里沙さんのお金で生活して、その上家に転がり込んで来るのですから、結構計算高い男です」
「すると、津田は亜里沙さんと、文代と、二股かけてたのか?」
と私は言った。
「おそらくね。文代のことはただの遊び相手ぐらいに思っていたのでしょう。でも、文代の方は、真剣に思い詰めました。津田の方は、亜里沙さんと結婚して、お金も手に入る、と狙っていたのでしょうが、文代にとっては、ただ、恋だけしか目に入りません。亜里沙さんは憎い恋敵というわけです」
「それで亜里沙さんを殺した……」
「彼女が死ねば、津田は自分のものだと思ったんです。――あの前の晩、津田は亜里沙さんを自分のものにするのに成功したんだと思います。亜里沙さんも、津田に身を任せた満足感で、ゆっくりと寝過ごした[#「寝過ごした」に傍点]。この意味が分りますか?」
と夕子はちょっと間を置いて、「――もう、津田のことを家族に隠すつもりがなくなった、ということです」
「なるほど。それで文代は急いで殺す決心を固めたんだな」
「警報を解除しておいて出かけ、戻って来て、まだ眠っていた亜里沙さんを殺す。でも、まだ文代には不安でした。津田がいつまた亜里沙さんに会いに来るかもしれない。早く見付かると、亜里沙さんが一命を取り止めるかもしれない。――部屋の中をめちゃくちゃにして、泥棒の仕業のように見せようとした文代は、さらに、ガラス、鏡、といったものを打ち壊しました。それは、ベッドの周囲を破片だらけにして誰も近付けないようにするためです。それだけ、津田のことを信じ切れてはいなかったんでしょう。窓を壊さなかったのは、警報を後で戻したとき、また鳴り出すのを怖がっていたのだと思います。ともかく、とっさの計画で、文代自身、びくびくものだったに違いありません」
少し間があって、敦子が言った。
「――どこへ行ったのかしら?」
「さあ。もしかすると、津田に会いに……」
津田のところか! 私は電話へと飛びついた。――片倉が言った。
「亜里沙の霊が正しかったな」
一時間後、津田を刺し殺した文代が、車ごと海中へと突っ込んだという報せが届いた。
「――どうして津田を尾行させたんだ?」
夜の道を歩きながら、私は訊いた。
「文代を津田に会わせないためよ。せっかく亜里沙さんを殺しさえしたのに、津田と会うこともできない。――いつまでも我慢していられず、いつか爆発すると思ってたの」
夕子は肩をすくめて、「あんまり後味のいい方法じゃないけどね」
「それにあの霊媒の言葉――どうして犯人を言い当てたんだろう?」
「ああ、あれ? 私が前もってあそこの人に言っといたの」
「何だって?」
私は目を丸くした。
「確信はなかったけど、警報が鳴らなかったので、ああ言わせてみたのよ。河野文代って名前は敦子から聞いてたしね――これで片倉さんは、前の奥さんと会い続ける。それで満足している限り、敦子も心配の種が増えずに済むでしょ」
「それじゃペテンじゃないか!」
「いいじゃないの。恋ゆえに嘘をつくのだって似たようなもんよ」
「そうかい?」
「恋してるから分るでしょ?」
夕子は私の腕に腕をからめて来た。こうなると、腹も立てていられないのだ。
確かに恋は一つの弱点であるには違いない……。
初出一覧(発表誌=オール讀物)
名探偵の子守唄 昭和55年1月号
青ひげよ、我に帰れ 昭和56年9月号
赤い靴はいてた女の子 昭和57年5月号
コウノトリは本日休業 〃 9月号
殺された死体 昭和58年5月号
幽霊愛好会 〃 3月号
単行本
昭和58年6月文藝春秋刊
文春ウェブ文庫版
幽霊愛好会
二〇〇一年九月二十日 第一版
著 者 赤川次郎
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
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