文春ウェブ文庫
幽霊心理学
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
第一話 影のような男
第二話 美女は二度殺される
第三話 幸福なる殺人
第四話 銀座の殺しの物語
第五話 幽霊心理学
第一話 影のような男
「人間はもともと罪を|負《お》って生れて来てるのよ」
「そうかい?」
「そうよ。だから、人間である限り、多少は罪を犯しても仕方ないのよ」
「しかしね、それは良心とか信仰とかの意味での〈罪〉だろう? やはりまずいよ」
「そんなことないわよ。じゃ、あなた、いつも歩道の右側を歩いてる? 目指す店が左側にあるのに、わざわざ右側へ行って歩いて、また左側に戻る?」
「いや、そこまでは──」
「それに、表でタバコを吸って、道へ捨てることだってあるでしょ?」
「だけど──」
「駐車禁止の所に、ほんの一、二分、車を停めたこともないの?」
「いや、それはもちろん──」
「じゃ、どうして今だけそんなに、やかましいことを言うの?」
「それとはちょっとわけ[#「わけ」に傍点]が違うじゃないか。僕は警視庁捜査一課の警部で──」
「仕事は? 殺人事件の捜査でしょ?」
「まあね」
「そのために、ちょっとした法律違反は仕方ないじゃないの。あなた、犯人を追いかけるのに、赤信号だからって、止って待ってるわけ?」
「そんなことはしないさ」
「じゃ、いいじゃないの!」
「それとこれとは話が──」
「つべこべ言わないの!」
と、永井夕子は言った。
私は、結局、夕子に押し切られて、ささやかな罪を犯すことになった。
かなり哲学的(?)な論を戦わせた割には、大した罪ではなくて、ちょっとした軽犯罪法違反──ドライブに来た車の中で、夕子とキスするということに過ぎなかったのだが、それでも、もしパトロール中の警官にでも見付かったらどうしようか、と気が気でなかった。
身分証明書を出せと言われて、ハイどうぞ、とは言いにくい。──四十にもなる警部が、女子大生と車の中でキスシーンとは。
週刊誌のグラビアあたりに出たら、クビものである。
「気が入ってないわよ」
と夕子が苦情を言った。「やり直し!」
「おい、|勘《かん》|弁《べん》してくれよ。どうせなら、ホテルかどこかへ行って──」
「こういう夏の涼しい夜に、車の中でキスするのが素敵なんじゃないの。──それとも、他の相手としてもいい?」
「それは──」
こう言われると弱いのである。
「こう考えりゃいいのよ」
と夕子は言った。「これは殺人事件の捜査の一つである、ってね」
「どうして君と車の中でキスするのが、捜査になるんだい?」
「私は捜査一課の顧問でしょ?」
「君が勝手にそう言ってるんだ」
「ともかく、現実に[#「現実に」に傍点]、そういうことだもの。だから、常に、あなたと私は、|綿《めん》|密《みつ》な打ち合せが必要なのよ」
「なるほど……」
「だから、そのためにスキンシップをはかっているわけ。その信頼関係から、殺人事件捜査の手がかりが得られる、という……」
「こじつけめいてるな」
「どうでもいいでしょ、ともかく──」
ともかく、有無[#「有無」に傍点]を言わさず、夕子の柔らかい唇が私をつかまえた。若々しいしなやかな体と、四十男の、少々たるみ[#「たるみ」に傍点]の出て来た体……。
アンバランスのバランス、とでも言おうか。
六月。──梅雨の合間の晴天の一日は、もう夏そのもののような暑さだったが、夜は涼しい風も吹いて、大きな事件をやっと解決した私は、久々に、夕子とのデートを楽しんでいたのである。
途中、車を並木道のわきへ停めて、一休み。かくて、かくの如くなった次第であった。
「ねえ……」
と夕子が言った。
「何だい?」
「何か面白い事件、ないの?」
私は、つい笑い出していた。
「『面白いこと、ないの』ってのはよく言うけど、君の場合は『事件』と来るからね」
「だって、このところ退屈してるのよ。何かこうワッと飛び上るようなことが──」
窓をトントンと|叩《たた》く音に、二人ともワッと飛び上るほどびっくりした。
見れば、警官ではない。ごくありふれたサラリーマン風の、少し頭のはげ上った中年男である。
強盗のようにも見えないので、私は窓をおろした。
「何ですか?」
「お|邪《じゃ》|魔《ま》してすみません」
男は、いやに甘ったるい声で、「ちょっとうかがいたいんですが」
と言った。
道でも|訊《き》くつもりなのかな、と思った。
「警視庁捜査一課の宇野警部でいらっしゃいますね」
私は面食らって、
「ええ──そうですが──」
と言いながら、右手はダッシュボードの方へ伸びていた。
もし襲って来る気なら、この中のスパナで応戦しよう、というつもりであった。
が、男は|微《ほほ》|笑《え》んで|肯《うなず》くと、
「そうですか。それなら、|結《けっ》|構《こう》なんです」
と、一礼して、「失礼しました」
と、トコトコ歩いて行く。
私と夕子は、顔を見合せた。
「なあに、あの人?」
「さあ。|見《み》|憶《おぼ》えないなあ」
「借金取りじゃないの?」
「よせよ。冗談じゃない」
私は、その男の後ろ姿を見送った。男は、闇の中へと消えた。
「──変な人ね。あなたのことを知ってるらしいじゃない」
「しかし、わざわざ確かめてる、ってのは、面識がないんだ。──素行調査される憶えはないけどな」
「お見合でもしたんじゃないの?」
と夕子が笑いながら言って、伸びをした。「あーあ。何だか今ので、調子狂っちゃった」
「そうだなあ」
「ホテルにでも行く?」
「そう来なくちゃ!」
私は車のエンジンを入れた。
久しぶりの|逢《おう》|瀬《せ》──とは古い言葉だが、おかげですっかりのんびりと眠り込んで、起きたのは翌日の十一時だった。
ベッドの中に夕子の姿はなく、メモが一枚枕のわきのナイトテーブルに置いてある。
〈今日はテストがあったの。お先に失礼。夕子〉
「やれやれ……」
ゆうべ、仕事[#「仕事」に傍点]で徹夜して、テストなんてできるのかね、と思いつつ、のんびりと起き出す。──今日はそう急いで出なくてもいいのだ。
本当なら何日か休みのほしいところだが、|真《ま》|面《じ》|目《め》人間の悲しさで、つい、仕事のことが気にかかるのである。
シャワーを浴び、口笛など吹きながら、身だしなみを整える。──整えたって大したことはないのだが、まあ何もしないよりは、まし[#「まし」に傍点]であろう。
ホテルの部屋は窓がないので、どんな天気か分らない。
外へ出て、まぶしい陽射しに思わず目をつぶりそうになった。──今日も暑くなりそうだ。
|一《いっ》|旦《たん》官舎の部屋へ帰ってから出るかな、と思いつつ、駐車場の方へ歩いて行くと、こんな時間というのに、結構にぎわっているとみえ、駐車のスペースも、ほとんど|空《あ》きがない。
今の若い連中は大したもんだ、と思った。生活の設計とか、基盤とか、そんなことは関係なく、さっさと一緒に寝てしまう。別に愛していなくても、楽しけりゃいい、というわけか。
しかし、その一方で、彼らは実に賢明である。少々、若さがなさすぎるんじゃないか、と私のような中年男が忠告したくなるほど、安全確実なことしか手を出さない。
もちろん、それが全部ではあるまいが、ともかく、若々しいエネルギーを感じさせる人間にはなかなか出くわすことがないのも事実である。
私など、いつも夕子の|突拍子《とっぴょうし》もない行動に目を回しているが、夕子などは、むしろ今日では珍しい部類に属するのかもしれない……。
大|欠《あく》|伸《び》をしながら、車のキーを差し込んで、開ける。──そこへ、
「おはようございます」
と、声がかかって、びっくりした。
振り向くと、頭の少しはげた、パッとしない中年男が立っている。
「ああ、あなた、ゆうべの……」
「どうもお疲れさまです」
「いえ、どうも」
つい返事をして、「──あの──僕に何かご用ですか?」
「いえ、そういうわけじゃありません」
と、男はあくまで愛想がいい。
「しかし、ここにいるということは、ゆうべ僕らの後を|尾《つ》けて来たんでしょう?」
「まあ、そういうことになりますか」
「何のために?」
「別にこれといって……。まあ、どうぞ気になさらずに」
男は、馬鹿|丁《てい》|寧《ねい》に頭を下げて、「ではまた……」
と歩いて行く。
見ていると、駐車場に並んでいる車の一台に乗り込んだ。ごくありふれた、白の中型車である。
私は、車をゆっくりと走らせ、その男の車の前を通った。ナンバープレートを見て、暗記する。
通りへ出て、少し走らせ、バックミラーへ目をやると、あの男の車がついて来るのが映っている。
あの男、何者だろう? ──私は、どうにもいやな気分だった。何だか、魚の小骨が、|喉《のど》につかえてでもいるかのようだ。
私は官舎へ帰るのはやめて、直接警視庁へと車を走らせた。
「あっ、宇野さん」
捜査一課へ入って行くと、原田刑事が、椅子をギュウギュウ言わせながら、立ち上った。その内、椅子から虐待で訴えられるんじゃないか。
「やあ、何か用か?」
「ゆうべは夕子さんと一緒だったんでしょ」
私はギョッとした。
「お、おい、何だ、いきなり!」
「ネクタイが同じですよ。どこかの女子大じゃ、同じ服着て学校に行くと、ゆうべ外泊したって思われるそうです」
「馬鹿、俺はネクタイを五、六本しか持ってないんだ」
私はメモ用紙に走り書きをして、「おい、原田。このナンバーの車の持主を調べてみてくれ」
と手渡した。
「何です?」
「分らないから調べろと言ってるんだ」
「分りました。──夕子さんの彼氏か何かですか?」
どうも口数が多いのが原田の悪いクセである。
原田が出て行くと、私はのんびりと椅子にかけて、新聞を広げた。──そこへ、どこに行っていたのか、本間警視が戻って来た。
何だか|苦《にが》|虫《むし》をかみつぶしたような──というか、いや苦虫そのものみたいな顔をしている。
「どうかしましたか」
と私は声をかけた。
「──うむ? ああ、宇野君か」
「面白くなさそうな顔ですね」
「当り前だ。何も、こっちの責任でもないのに文句を言われちゃたまらん」
と、本間警視は、手近な椅子を引き寄せてデンと腰をおろす。
「何かあったんですか?」
「小西裕重の|行《ゆく》|方《え》不明さ」
「小西? 誰です?」
「何だ、知らんのか。悪どい商売で大|儲《もう》けしてる奴だ」
「その小西が、どうしたんですか」
「昨日、自宅を出たきり行方が分らんのだ」
「どこかへ旅行でもしてるんじゃありませんか」
「およそ、そういうことをしない男なんだ。出かけるときも、必ず行先をはっきりさせて行くらしい。それが夕方、自宅をフラリと出て、それっきりだ」
「女の所とか──」
「女はいない。何しろ無類のケチだ。金がもったいないといって、女などには手を出さん」
「へえ。──でも金持なんでしょう?」
「当り前だ。しかし、当人はボロ家に住んどるらしい」
「妙な男ですね。でも行方がちょっと分らないくらいで──」
「保護してくれという依頼が来ていたんだ」
「警察にですか」
「捜査一課に、だ」
私は|呆《あき》れた。捜査一課はガードマンじゃないのだ。
「で、|断《こと》わったんですね」
「当然だ。そんな人手があるものか。──ところが、本当に行方不明になったんで、上の方が心配しとる」
「何か具体的に危険があったんですか?」
「そうらしい。車にひかれかけたり、駅の階段から突き落とされそうになったり、本人の話では四、五回|狙《ねら》われたと言っとる」
「気のせいじゃないんですか」
「その可能性は大いにある。被害妄想なんだろう」
「大物幻想といいますかね。狙われないとつまらない、という男もいますから」
「しかし、これで本当に殺されでもしたら、こっちが叩かれる。なぜ手を打たなかったのか、とな」
本間警視は首を振った。
「でも、そこまで気をつかってもいられないでしょう」
「まあ、そういうことだ」
本間警視は気を取り直すように、「どうだ、君の彼女[#「彼女」に傍点]は元気か?」
などと|余《よ》|計《けい》なことを言い出した。
「ええと……実はこの前の一件ですが──」
私は、あわてて話を変えた。
まだ本間警視と話をしているところへ、原田が帰って来る。
「宇野さん、分りましたよ」
「やあ、ご苦労」
「別に前科のある奴じゃありません」
「何だ、そこまで調べてくれたのか」
原田にしては気のきくことだ。
「ええ、どうせ暇ですから」
課長の前で言うセリフではない!
「で、何て名前だ、持主は?」
と私は訊いた。
「小西裕重というんだそうです」
私は、椅子から落っこちそうになった。
「面白いわね、何だか」
夕子は楽しげに言った。
「ちっとも楽しかない」
私は渋い顔で、苦いコーヒーを飲んだ。
夕子は、ソーダ水を飲みながら、パーラーのガラス窓越しに、表を|眺《なが》めた。
「あの白い車がそれ?」
「そうさ。見えないか、奴が?」
「誰もいないみたいよ」
「変だな」
私は目をこらして、表の通りに駐車してある、白い車を見つめた。──確かに|空《から》らしい。
「どうも、今朝ほどは」
突然、声がして、|仰天《ぎょうてん》した。
いつの間にか、あの男──小西裕重が、テーブルの|傍《そば》に立っているのだ。
「あら、どうも」
夕子は大して驚いてもいない様子で、「大変ですね」
「いえ、そちらこそ」
と、何だか変なやりとりがあって、
「一体どういうことなんです?」
と、私はにらみつけてやった。「人の後を尾け回すなんて!」
「別にそういうわけじゃないんです」
と小西は言った。
「それじゃ一体──」
「かけてよろしいですか?」
「どうぞ」
と夕子は言った。
小西は椅子を一つ、他のテーブルから持って来て、そこへ座った。コーヒーを注文しておいて、
「お話はお聞き及びのようですね」
と言った。「つまりは、私も命が惜しいということなんです」
「それなら、地元の警察が保護してくれますよ。何も捜査一課でなくても──」
「いや、私は、最高[#「最高」に傍点]のプロがほしいのです。つまり、必ず私の身を守ってくれる人が、ね」
「じゃ、ご自分でガードマンを雇われてはいかがですか?」
「金がかかります」
と、小西はすかさず言った。「私は命も大事ですが、金も同様に[#「同様に」に傍点]大事なんです」
「警察なら、無料[#「無料」に傍点]ですものね」
夕子がニヤニヤしながら言った。
「その通り! 私も納税者です。守ってもらう権利がある」
「しかし、ご存知の通り、警官にも分担というものがありまして……」
「それは承知しています。ですから、色々と考えました」
と、小西は言った。「あなたのことは、知人を通して耳にしました。非常に有能な方だそうで」
「どうも……」
「ですが、やはりあなたにいつもついていていただくことは、むずかしいという気がします」
「分っていただけて|嬉《うれ》しいです」
「だから、私の方が、あなたについて歩くことにしたのです」
と小西は言った。「迷惑はおかけしませんよ」
「ですが──」
「いつも静かに、おとなしく、ついて歩きますので、ご心配なく」
小西はコーヒーが来ると、一気に飲みほして、「では、ごちそうさまでした」
と立ち上った。
|呆《あっ》|気《け》に取られて見送っていると、小西は、表の車の方へと歩いて行く。
「──図々しい奴だな、全く!」
夕子は笑いながら、
「でも、それなりに筋が通ってるわ」
と言った。
「こっちはたまったもんじゃないぜ」
「でも、ちょっとおかしいと思わない?」
「ちょっとどころか|大《だい》|分《ぶ》おかしい!」
と私は言った。
「そうじゃないわよ。──あの人は、自分が誰に狙われているのか、分ってるのよ」
私は夕子の顔をまじまじと見つめた。
「どうしてそんなことが分る?」
「だって、考えてごらんなさいよ。あの人だって、いつまでもあなたについて歩いているわけにはいかないでしょ。仕事だってあるんだし」
「そりゃそうだろう」
「つまり、しばらく[#「しばらく」に傍点]安全でいられれば、あの人はそれでいいのよ」
「なるほど」
と私は肯いた。
「ね? つまり、あの人には、誰が狙ってるかが分ってる、としか思えないじゃないの」
「それならなぜ、そう言わないんだろう?」
「分らないわ」
夕子は、表の白い車を見た。「──何かあるのよ。この話、額面通りに受け取っちゃいけないんだわ」
「ふむ……」
私は|顎《あご》を|撫《な》でた。「ちょっと調べてみるか、あの小西って男の周辺を」
「そうよ! どうせ暇なんでしょ」
「暇は余計だよ」
と私は苦笑した。「──ここで何か用があるんだっけ?」
「友だちと待ち合せてるの。もう来ると思うわ」
このパーラーは、夕子の通う(もっとも、さぼっていることも多いが)大学のすぐ近くにある。
「大学の友だち?」
「もと[#「もと」に傍点]、ね。──今は働いてるの。ああ、来たわ」
と、表を見て、夕子が言った。
ちょっとやせ型の、ワンピース姿の娘が歩いて来た。
「じゃ、僕は行くぜ」
と立ち上ろうとすると、
「待って。おかしいわ」
と夕子が止めた。
「何が?」
「見て、表よ」
──その、夕子の待っている娘が、小西の車の傍で足を止め、じっと車の方を見ているのである。はた目にも、青ざめて、顔をこわばらせているのが分る。
「どうしたのかな?」
「さあ……。あなた、もう少しいた方がいいわ」
と夕子は言った。
「どうして?」
「いいから!」
夕子にぐいと腕を引かれて、私はドスンとまた腰をおろした。
「おい、乱暴するなよ!」
「文句言わないの。──邦子さん、こっちよ!」
その娘は、パーラーへ入って来ると、夕子を見て、やっと少し表情を|緩《ゆる》めた。それまでは、|正《まさ》に鬼女の如き、とでも言いたいような|凄《すご》い顔をしていたのである。
「こちら、山並邦子さん」
と夕子が、紹介する。
「宇野さんですね。いつも夕子からお話はうかがっています」
と、山並邦子は言った。
一体どんな「お話」を聞かせているものやら……。
夕子は、わざと、しばらくは|当《あた》り|障《さわ》りのない近況報告をしてから、
「──どうしたの、邦子?」
と訊いた。
「え?」
「さっきから表の方、気にしてるじゃない。誰か待ってるの?」
「違うわ。そうじゃないの。ただ──」
邦子は言葉を切って、目を伏せた。「ちょっと、いやな人がいたものだから」
「まあ、痴漢か何か? じゃ、この人に追っ払ってもらうわよ」
「そうじゃないの」
と、邦子は、ちょっと笑って、「追っ払うよりは、いっそ殺してほしい[#「殺してほしい」に傍点]人なの」
「|穏《おだ》やかでないね」
と私は言った。「あの白い車の男?」
「ええ」
「誰なんだい?」
「小西という男です」
「あなたとはどういう関係なの?」
と、夕子が訊いた。
「父を殺したんです、あの男」
と邦子は言って、表へ目をやった。
「──|詳《くわ》しく聞かせてくれないか」
「ええ……」
邦子はためらっていた。夕子が、代って口を開く。
「邦子のお父さんは社長さんだったのよ」
「大して大きな会社じゃありませんでしたけど、手堅く商売をしていました」
と邦子が、低い声で言った。「そこへあの小西という男が乗り込んで来たんです。それまでのうちのお得意だった所を、次々に自分の方へ持って行き、父は困り果てました」
「それで結局倒産──」
「いえ。父だって商売人ですから、商売で負けたのなら、仕方ありません。でも、小西のやり方は、それだけじゃないんです」
「というと?」
「父の会社が危い、という|噂《うわさ》を流したんです。とたんに銀行は取引停止になるし、取引のあった所も|一《いっ》|斉《せい》に出入り差し止めになってしまいました」
「なるほど」
不況下で、そういう話はよく聞くが、それにしても噂を立てられた方は哀れなものである。否定しようにも、相手が噂ではどうにもならない。
「結局、どうにもならなくなって、父はつい高利の金に手を出しました。──知っていれば母も私も止めたんですけど、父は、私たちに心配をかけたくなかったんだと思います」
その先は見当がつく。──借金は加速度的にふくれ上って行くのだ。
「それで、父は追いつめられて、電車に飛び込んでしまいました」
と、邦子は言いながら、じっと表の白い車に目を向けていた。
「──それは気の毒だったねえ」
「死ぬことはなかったのに……。父にしてみれば、私に大学を中退させたり、家を売り払って、アパート住いをさせるのが、やり切れなかったんでしょう。──父の気持、よく分ります」
「あの男が元凶ってわけか」
夕子は、小西の車の方を見て肯いた。
「でも、どうしてあの男がここにいるのかしら?」
と、邦子がけげんな顔で言った。
夕子は私の方を指さして、
「あの男はね、この人の影[#「影」に傍点]なのよ」
と言った。
その夜、私と夕子は、ちょっとしたレストランで夕食を取ることにした。
「──ずっとついて来てるの?」
と、スープをゆっくりと口へ流し込みながら夕子が訊く。
「少なくとも、この店の前までは来てたよ」
「本間さんはどう言ってるの?」
「勝手にさせとけ、とさ。しかし、こっちは遊んでるわけじゃない。次の事件にかからなきゃならないんだ。いつまでもついて歩かれちゃかなわんよ」
「いいじゃないの。面白いわ」
「君は面白いかもしれないがね」
「何か予感がするの。──見ててごらんなさい。必ず何か起るわよ」
と、名探偵は、あまりありがたくないご託宣を下したのである。
確かに起った。──原田が、ドシンドシンと足音をたてながら、レストランに入って来たのである。
「やあ、宇野さん! こちらでしたか!」
と、やって来る。
「おい静かに歩けよ。|埃《ほこり》が立つから、店の人がいやな顔をしてるじゃないか」
「あ、どうも。でも、これでも普通よりは静かにしてるんですがね」
「そりゃ地響きはしないけどな。──何か用事か?」
「ええ。ともかく食事をしながら……」
「まあ、それじゃ一緒に食べましょうよ」
原田の方は、言われなくてもそのつもりらしい。さっさと食事を注文している。ここまで図々しくやられると、腹も立たない。
「来たわよ」
と、夕子が言った。
振り向くと、小西が店に入って来て、私たちより少し離れたテーブルについた。
「何です、あれ?」
と原田が訊く。
「俺の影だよ」
と私が言うと、原田は目をパチクリさせて、
「それにしちゃ腹が出てませんね」
と言った。
ウエイターが小西の所へオーダーを取りに行く。小西はメニューを眺めようともせず、
「一番安いスープをくれ」
と言った。
「は?」
「スープの安いやつをくれ、と言ったんだ」
「かしこまりました」
「それだけでいい」
「はあ……」
ウエイターも呆れ顔である。──もっと呆れているのは原田で、
「あれでよく生きてられますね!」
と首を振った。
しかし、その謎は、間もなく解けた。──五分ほどして、何だか、台所からそのまま出て来たような女性が店へ入って来た。紙袋をぶら下げている。
「おい、ここだ!」
「何してたのよ、一体!」
どうやら小西の妻らしい。
「仕方ないだろう。こっちも忙しいんだ」
と小西は言って、「持って来たか?」
「はい、これよ」
と、紙袋の中から取り出したのは、何と弁当箱だった!
スープをすすりながら、レストランのテーブルで弁当を広げている様子は、正に|見《み》|物《もの》だった。──レストランの従業員たちも、呆気に取られて眺めている。
「──凄いわねえ」
夕子もさすがに舌を巻いていた。
「あの女房も大したもんだ。顔色一つ変えない」
「慣れてんでしょ」
弁当を食べ終ると、小西は、妻に箱を片付けさせて、息をついた。
「おい、先に帰ってろ」
「電車賃がかかるわ。車で送って」
「そうか。じゃ、一緒に来い」
どっちもいい勝負である。
「ここへ呼びましょうよ」
と夕子が言った。「せめてデザートぐらい一緒に、ってね」
「こっちが払うことになるぜ」
「いいじゃない。必要経費よ」
果して認められるものやら、自信はなかったが、仕方なく私は小西を招いた。もちろん小西はためらわずにやって来た。
「奥様もどうぞ」
と夕子が言うと、
「そうですか。──おい、光子」
と、すぐに呼ぶ。
光子、という小西の夫人は、近くで見ても、|一《いっ》|向《こう》に年齢の分らない感じの女性だった。化粧っ気もない。
「小西さん、山並さんっていう人を、ご存知ですか」
夕子が訊くと、小西は、ちょっと考えて、
「ああ、思い出しましたよ」
と肯いた。「そうか。今日、昼間、車を|覗《のぞ》き込んでた娘ですね。いや、どこかで見た顔だと思いましたよ」
「父親が自殺したのをご存知でした?」
「ええ」
と、小西はあっさり肯く。「それであの娘、あんなに私をにらんでいたんですな。まあ気持は分りますが」
「それだけですか」
小西は肩をすくめた。
「商売の世界というのはそういうものです。食うか食われるかですよ。そんなことを気に病んでいては、やって行けません」
私は、ちょっと間を置いてから、言った。
「それなのに、どうして私に保護してくれと言うんです? 命など惜しくないわけでしょう」
「それとは違いますよ。私も、商売で負けるなら仕方ないが、そうでなく殺されるのではたまりませんからね」
「この人は、保険にも入っていないんですから」
と、妻の光子が言った。「掛金がもったいないと言って」
「当り前だ。あれは保険会社が儲けているんだ。つまり払う方は損をしている。しかも、何一つ品物をよこすわけじゃない。あんなむだなものはない」
なるほど、これは相当なものだ。
「それに、私が死んで誰かが得をするなんて、考えただけで腹が立つじゃありませんか」
これも理屈ではある。──小西夫婦はデザートとコーヒーを素早く片付けると、
「ではお先に。車でお待ちしています」
と立ち上った。
二人が出て行くのを見送って、
「何です、ありゃあ?」
と、原田がポカンとしながら言った。
「似た者夫婦ってとこだな」
と私は言った。
「そうかしら」
夕子が意味ありげに|呟《つぶや》く。
「──何か気が付いたことでもあるのかい?」
「あの奥さんの耳、見た?」
「耳?」
「そう。髪にほとんど隠れていたけど、チラッと見えたときに気がついたの。イヤリングをとめている跡があったわ」
さすがに女らしい観察である。
「イヤリングか……」
「ね、あの格好でイヤリングなんて、するわけないでしょ? ──見かけほど地味じゃないのよ、あの奥さん」
「あのケチが、よくそんなことをさせておくな」
「知らないのかもしれないわ」
「ふむ……。それは考えられるな」
私は考え込んだ。原田が、何だかモジモジして、
「宇野さん」
「何だ?」
「そのデザートのケーキ、食べないんですか? どうも気になって──」
そのときだった。バーンという、爆発音がして、何やら砕けるような音。
「表だぞ」
私は立ち上った。店の人間の一人が、駆け込んで来て、
「車が──車が火を吹いてる!」
と大声で言った。
私たちは一斉に駆け出した。
「こりゃひどい!」
表に出て、私は立ちすくんだ。
小西の車が、今は炎に包まれ、手の出しようもない。
「中に誰かいたのかしら?」
「分らん。──原田! 店から消火器を持って来い!」
「はい!」
さすがに原田もデザートのことは頭にないようだった。店の方へ駆け戻って行く
「ねえ、小西さんよ!」
と夕子が叫んだ。
小西が、燃えている車の向うから、フラフラとよろけ出て来る。
「危いぞ!」
私は突っ走って、小西を抱きかかえるようにして、車から離した。
「──小西さん、けがは?」
「ああ……いや……私は大丈夫」
「奥さんは?」
と夕子が訊く。小西は地べたに座り込んで、燃え上る車の方を見た。
「女房は──あの中です」
「一体どうして……」
「分りませんよ、さっぱり」
と、小西は首を振った。「ともかく二人で乗り込んだんです。そうしたら、女房が、タバコが欲しいと言い出して。──私はやめろと言ってるんです、いつも。あんなもの、高いわりに煙にしかならない。肺ガンにでもなれば手術代、入院費用、葬式代──」
「そんなこと、今はどうでもいいでしょう」
「ええ、まあ……。それで私は車の外へ出たんです。女房はタバコを切らしていたらしくて、その先の自動販売機で買って来ると言って──」
「車のエンジンを入れたんですか?」
「ええ。そしたらご覧の通りの有様でして……」
これでは、とても助けられない。私は、吹き上げるような火勢を見て、ため息をついた。
「宇野さん!」
原田が店から飛び出して来た。──両手に、ポリエチレンのバケツをぶら下げていた!
「じゃ、車のエンジンに|仕《し》|掛《かけ》が?」
と夕子が訊いた。
「そうなんだ。何度かエンジンをかけると発火するようになっていたらしい」
「そう……。それで小西さんは?」
私は黙って喫茶店の外を指さした。
「表にいるの? 大したもんね!」
夕子はコーヒーカップを指先でクルクルと回しながら、「今度は歩いて尾けて来てるの?」
「いや、レンタカーだ。しかし、かなり値切ったんじゃないかな。──何しろかなりの中古車だよ」
「分らないわね」
夕子は考え込んだ。「車に仕掛をした犯人の方は?」
「そう簡単にできる細工じゃないからね。しかし、何しろ小西のあの車は、いつも表に出してあったんだ。やろうと思えば誰にでもできたはずだ」
「駐車場は?」
「家にはない。有料駐車場は、もちろん高すぎて使わない」
「ふーん」
夕子はちょっと天井へ目を向けて、「──一応、奥さんの素行についても調べた方がいいわね」
「今、当らせてるよ」
「それにしても、奥さんのお葬式は? まさかお金がかかるからやめる、ってわけじゃないんでしょうね」
「いや、一応はやるらしいよ。しかし、ともかく犯人が捕まるまではやらんと言ってる」
「今度は|怯《おび》えてるのかしら」
「そうかもしれないね」
喫茶店の自動扉が、ガタガタッと音をたてた。振り向くと、原田が、ガラス扉を両手でかかえて立っている。
「──おい、何やってるんだ?」
「いえ、てっきりこの扉、向うへ開くんだと思って押したんです。そしたら倒れそうになって──」
「よせよ、それは横へ開くんだぞ!」
「そうですか。どうしましょう? 立てかけときますか?」
「勝手にしろ!」
とは言ったものの、そうもいかず、店に|謝《あやま》って、冷汗を拭いながら、外へ出た。
ちょうど午後一時。どこからか、始業のサイレンが聞こえて来る。
「ところで、何の用だったんだ?」
「あ、そうだ。容疑者が浮かんだそうです」
「何だと? 早く言え!」
「あのレストランの近くで、車の周囲をうろついていた女を見た人がいます」
「女? どんな女だ?」
「若い女です。写真を何枚か見せたら、選び出しましたよ」
原田は手帳を開いた。「ええと……山並邦子という女です」
「まさか!」
夕子が目を見張った。「邦子が?」
「おい、その見せた写真ってのは、何だ?」
「小西が自分から持ち出して来たんです。たぶんこの中にいるんじゃないか、って……」
原田は、上衣のポケットから、五、六枚の写真を出した。私はそれを一枚ずつ見て行った。
どれも若い娘たち──十七、八から二十五、六の女性ばかりだ。だが知っている顔は、山並邦子だけだった。
「どうしてこんな写真を持ってたのかしら?」
夕子はいぶかしげに言った。「どれも隠し|撮《ど》りよ。ほら」
「そうらしいな」
私は肯くと、小西の乗っている車の方へと歩いて行った。小西が窓から顔を出して、
「どうも、警部さん」
と、女房を亡くしたというのに、相変らず愛想がいい。
もっとも、これで嘆き悲しんで見せたりしたら、|却《かえ》って|怪《あや》しいというものだが。
「この写真ですが」
と私が言った。「どうしてこんなものを? この女性たちは誰なんです?」
「ああ、私が金を貸したりしている相手の娘たちですよ」
「というと?」
「いや、ことによったら、担保[#「担保」に傍点]になるかもしれませんからね。どの程度の娘がいるか、一応調べておくんです」
私は呆れて物も言えなかった。
「それで、そういう担保[#「担保」に傍点]を受け取ったことはあるんですか?」
と夕子が訊いた。
「いや、残念ながら、まだですね」
ふざけた返事だ、と腹が立ったが、ぐっとこらえる。
「──それで、やっぱり邦子を調べるつもり?」
原田の運転する車に乗ると、夕子が訊いた。
「仕方ないだろう。気は進まないがね」
と、私は言った。「おい、原田」
「はあ、何でしょう?」
「小西の奥さんの方はどうだ? 調べてみたのか?」
「ええ。でも大したことは分りませんでしたよ」
「何でもいい。ともかく知らせろ」
「分りました。──ああ、もうすぐ山並邦子の家です」
家といっても、古ぼけたアパートである。
「こんな所に越してたの」
と、夕子は車を出て、首を振った。「ここには来たことないわ。来させたくなかったんでしょうね」
「このアパートの二階ですよ」
キュッキュッときしむ階段を上って二階へ。──〈山並〉という表札だけが、いやに立派である。たぶん前の家から持って来たのだろう。
ブザーを鳴らすと、間もなくドアが開いた。五十歳くらいの、割合に品のいい婦人が出て来た。
「──まあ、永井さん!」
と夕子を見て嬉しそうに、「お久しぶりね」
「どうも……」
夕子は、ちょっと控え目な感じで、「あの──邦子さん、いますか?」
「それが、いないのよ。いなくなっちゃったの」
と顔を曇らせた。
「いなくなった?」
「ええ、三、四日前から。──どこへ行っちゃったのか……。永井さんの所には行かなかった?」
「いいえ。いなくなったのはいつですか、正確には?」
邦子の母親は、しばらく考えて、三日前、と答えた。
小西の車が炎上した、その日である。するとやはり、邦子がやって、逃げたのだろうか?
「警察に捜索願いは出しましたか?」
「ええ、昨日。──あの子、黙って外泊してしまうような子じゃないんですけど」
「心配ですね……」
夕子はそう言って、私の顔を見た。──こっちの顔を見られても困るんだよ。
ともかく、邦子の、外出したときの服装などを訊いて、アパートを後にした。
「──気になるわ」
と夕子は言った。
「うん。しかし、彼女が車に細工なんて、できたのかな?」
「彼女、車には詳しかったわ。普通、女の子って、免許持ってても、エンジンの中とか、そういうメカには弱いのよね。でも、彼女はとっても好きだったわ」
「そうすると可能性はある、か……」
「他の方も当ってみて。──私には邦子がやったとは思えないの」
夕子は、いつになく沈んで見えた。
「──何を考えてるんだ?」
「え?」
「ぼんやりしてるじゃないか。どうしたんだい?」
「うん……。でも、まさか、ね」
「何が?」
「いいの。独り言よ」
夕子は口をつぐんでしまった。こうなるとてこ[#「てこ」に傍点]でもしゃべらない。
私は|諦《あきら》めて車に乗り込んだ。原田が車を走らせる。──後ろを振り返ってみると、あの小西の車が、ピッタリとついて来ていた。
「ええ、小西光子さんとは親しくしていただいてましたわ」
と、その婦人は言った。
「どういうお知り合いだったんですか?」
と私は訊いた。
およそ、あのパッとしない夫人の友人とは思えない。いわば、「有閑マダム」を絵にかいたというか──彫刻に刻んだというか。およそお付合い願う気になれない女性である。
「色々ですわ。趣味が良く似ておりましたものですから」
「といいますと、たとえば?」
「音楽、絵画、お芝居。──そういったものですわね」
「はあ、なるほど。高尚なご趣味ですね」
私は皮肉のつもりで言ったのだが、一向に通じないようだった。
「そうなんですの。今の若い方たちは、およそ無趣味でございますものね」
と、得たりという顔をしている。
しかし、ともかく着ているものは、高尚[#「高尚」に傍点]の二文字とは、およそ縁遠い、悪趣味なしろものだった。
「ええと……」
私は|咳《せき》|払《ばら》いをして、「どうですか、小西さんは派手な方でしたか? どっちかといえば地味な方だと思っているんですが……」
と言ってみた。
その婦人は、大口を開けて、ワハハと大笑いした。──上品の二文字とも縁遠いことを立証していた。
それにしても、親しい友人が死んだというのに、一向に悲しそうにもしていない。
「地味だなんて! あんなに派手な人、ざらにはいないわよ」
「そうですか」
「着る物、身につける物、すべて派手でね。よくお金が続くもんだと思ったわ」
「金づかいはどうでした?」
「ケチだったわ。自分の物なら、いくら高くても平気だけど、人に何かをおごるとかそんなことは決してしない人だったわ」
なるほど。やっと多少イメージの合う部分にめぐり合った。
「小西さんのご主人はご存知ですか?」
「いいえ。大体、お互いに主人のことは話さないの」
「それはどうしてです?」
私は興味があったので、訊いてみた。
「だって、つまらないじゃない。亭主なんてもう|見《み》|飽《あ》きてるし、遊び相手ならお金で買えるし」
「はあ……」
私はうんざりして来た。「すると、小西さんも、ご主人のことは全く話されなかった、と──」
「グチは言ってたわよ」
「どういう?」
「ひどいケチだって」
何をか言わんや、である。
「やっぱりね」
と夕子は肯いた。
「しかし、一応山並邦子は、重要参考人として手配されることになるよ」
「仕方ないでしょうね」
私たちは、昼休み、ハンバーガーをかかえて、公園の芝生に座り込んでいた。
「ちょっと口がパサつくわね」
「コーヒーでも買って来ようか」
「お願い」
夕子を待たせておいて、私は、売店で、紙コップのコーヒーを二つ買って、戻って来た。──なぜか、食物のあるところ、原田ありなのだ。
原田が私の分のハンバーガー二つの内、一つをペロリと平らげているところであった。
「宇野さん、どうもごちそうさまです」
「コーヒーはやらないぞ」
「いいですよ。今、飲んできました」
私は苦笑して座り込んだ。──よく晴れて、快い日である。
昼休みを思い思いに過すOLや、サラリーマンたちで、公園は、にぎわっている。
「──原田、何か分ったのか?」
「え?」
「いや、何か用事で来たんだろう?」
「あ、そうでした。例の件です」
「例の件じゃ分らないよ」
「そうでしょうね。──小西光子です」
「どうかしたのか」
「保険に入ってたそうです。かなりの金額だったようですよ」
「保険に?」
夕子が目を輝かせた。
「しかし、小西は保険なんかもったいないと言ってたぞ」
私は指を鳴らした。「こいつは見込みがある!」
「そうかしら。──私は怪しいと思うけど」
「どうして?」
「保険に入ったからって、奥さんを殺すつもりだとは限らないわ。立証できないでしょう、まず」
「それはそうだけど──」
「ともかく、ご当人に訊いてみたら?」
と夕子が指さす。
なるほど、小西が少し離れた芝生で、折詰の弁当を食べている。
私はハンバーガーの残りを口に押し込むと、コーヒーで流し込み、小西の方へと歩いて行った。
「──女房の保険のことですか? ええ、一億円ほどですよ」
と小西は澄まして言った。
「しかし、あなたは保険に入らないと言ったじゃありませんか」
「自分[#「自分」に傍点]は、です」
「というと?」
「私が死んでいくら金になっても仕方ありません。しかし、妻が死んで金になれば、これは立派に価値がある。──妻に保険をかけるのは当然です」
「はあ……」
私はすっかり|呑《の》まれてしまった格好だった。
戻って夕子に話すと、夕子は肯いて、
「だから言ったでしょ」
「しかし、大した奴だよ、あれは」
私は首を振った。「──どうなんだろう、真相は?」
「というと?」
「つまり、本当に山並邦子が、小西光子を殺したのか、それとも小西が光子を殺したのか……」
「可能だったと思う?」
「かなり危険を伴うのは確かだな。しかし、できないことはないだろう」
夕子はゴロリと芝生に横になった。
「──何だかいやな天気」
「こんなに晴れてるのにかい?」
「だからよ」
と、夕子は言った。「こんなに重い気分なのに、こんなに晴れてるんだもの。いやなのよ」
なかなか女心はデリケートなのである。
「光子が金づかいが荒かったことは確かだよ」
と私は言った。「つまり、それを小西が知っていたかどうか──」
「知らないはずがないわ」
と夕子は言った。「あの小西のことだもの。いちいちの金の出入りを、ちゃんとつかんでいたはずよ」
「そうだろうな。するとどうなる?」
「いい|加《か》|減《げん》、奥さんにうんざりしていたとも考えられるわね」
「そこで保険をかけて殺す、か……」
「ねえ、会社の方は?」
と夕子が、ふと起き上って言った。
「会社?」
「小西の会社よ。景気はどうなの?」
「なるほど、そいつは調べなかったぞ」
私は原田の方へ、「おい、早速当ってみて──」
と言いかけて、やめた。
原田は、カバ顔負けの大口を開けて、眠っていた。日本の警察のPRにはとてもなりそうにない場面だった。
次の夜は、夕子と二人、フランス料理の店に入った。
ところが、妙なことに、小西が後から入って来ないのである。
「──どうしたのかな」
と私は言った。
「いないとなると、気になるわね」
夕子はワイングラスを手にして、言った。
「今夜は払ってやらないぞ」
「まさかここにお弁当は持って来ないでしょう」
「どうかな」
と、私は言った。「やりかねないぜ」
「いらっしゃいませ」
と声がして、反射的に入口の方を、私は見た。
そして、目を疑った。あれは──。
「小西じゃないか!」
「え?」
さすがに夕子も、面食らった様子である。──小西は、別人のようだった。
一見して高級な服地の背広、輸入物のネクタイ、ピカピカの靴にはバリーのマークが金色に見えている。そして──小西は若い女を同伴していたのだ。
女はドレスアップして、胸もとに、ダイヤらしいブローチが輝いている。
「──呆れたな!」
やっと我に返って、私は言った。「気が狂ったんじゃないのか?」
「どうかしら」
夕子は、その女性を眺めていた。「ねえ、あの女の人、見憶え、ない?」
「今考えてたんだ。どこかで見たことがあるよ」
「写真よ」
「写真?」
と問い返して、ハッと思い当った。
原田が見せて歩いた、あの何枚かの写真の女性たちの一人である。すっかり着飾っているので、ちょっと分らなかったのである。
「どういうことなんだろう?」
「さあ分らないわ」
夕子は肩をすくめて、「でも、あの二人、ただの仲じゃないことは、確かなようじゃない?」
その点は同感だった。食事をしながら──今夜は、また豪華な食事をとっている──しきりに手を|握《にぎ》ったり、むき出しの腕をさすったり、明らかに男女の関係にあることが見て取れる。
「しかし、まさかあの代金をこっちに払わせる気じゃないだろうな」
「まさか! ──ともかく、あの人、変ったのよ」
「らしいね。なぜだ?」
夕子はちょっと謎めいた目で、私の方を見た。
「つまり、事件の解決が近いってことよ」
よく分らないことを言って、夕子は席を立った。小西のテーブルの傍で足を止めると、
「とてもお似合いですよ」
と声をかけた。
「どうもありがとう」
小西は、シャンパンのグラスを手にして、言った。
「もう尾行はやめたんですの?」
「ええ、そういうことです。警部さんへ、よろしく伝えて下さい」
と小西は言った。
「どういう心境の変化なんですか?」
「つまり、金は使うものだ、ということに気付いたのです。人生を楽しまなくてはね」
と、小西は楽しげに笑った。
「結構ですわね」
「色々とご迷惑をかけましたね」
「いいえ」
「ここの食事代は、おごらせて下さい」
「でも──」
「大丈夫。地震は来ませんよ」
と小西は笑いながら言った。
「──どうなってるんだ?」
と、私は、戻って来た夕子に言った。「あんなに楽しそうにしてるのを、初めて見たぜ!」
「だから面白いのよ」
と夕子は言った。
夕子の目が、輝いている。──探偵の目、獲物を狙う、タカの目である。
「何か考えがあるのかい?」
「問題はこの後よ」
「この後?」
「そう。──向うはもうあなたの影になるのをやめたんだわ。だから、あなたが、小西の影になればいいの」
「僕が?」
「そうよ」
「しかし──」
「そう長いことじゃないわ、大丈夫」
と夕子は言った。
夕子が受け合ってくれるのはいいが、しかしこっちは「公務員」なのである。
「──やあ宇野さん」
また[#「また」に傍点]原田がやって来た。
「よく分ったな、ここが」
と目を丸くしていると、
「私が教えておいたの。──さ、原田さんも一緒に食べましょう」
「いつも悪いですね」
とは口先ばかりである。
「いいのよ。今夜は、あっちの支払いなんだから」
夕子が、小西の方を指さす。
「やあ、あそこにいたんですか」
と原田は、メニューを広げる。
「何か分って?」
と夕子が訊いた。
「今考えてるんです。スープはコンソメか、ポタージュか……」
「小西のことよ」
「え? ──あ、そうでしたね」
原田はさすがに照れて、「いや、どうも大変らしいですよ」
「何がだ?」
「ずいぶん儲けてたようですが、女房の金づかいが荒いとか、不況のせいもあって、このところ、苦しいようです」
「そんなに?」
「噂ですが──」
と、原田は声を低くして、「近々、倒産ってことも充分あるんだそうですよ」
「小西の所が?」
「そうです」
「間違いないのか?」
「かなり確かな筋の情報です」
「すると……」
ますます怪しい。小西はやはり妻を殺したのではないか。
原田がのんびり食事をしている間に、小西たちは席を立った。私と夕子は原田を残して、店を出た。
──小西は、今日は軽快なスポーツ車に乗っている。
「変れば変るもんだな」
と、ハンドルを握って、私は言った。
「そっと尾けてよ」
「大丈夫。プロだぜ、こっちは」
小西たちは、一軒のスナックの前に車を停め、中へ入って行った。
「どうする?」
「待ちましょ。──出て来るわよ」
そりゃいつかは出て来るだろうが……。
──我々は、たっぷり一時間も待った。
小西が、あの若い女性を抱きかかえるようにして、スナックから出て来て、車に乗り込んだ。
「尾けるのか?」
「もちろんよ」
夜の街を、車はスピードを上げて走って行く。
「どこへ行くんだろう?」
「ともかく尾けて」
と夕子が厳しい表情で言った。
小西の車は、郊外へと向っていた。そして、国道沿いにある、けばけばしいホテルの一軒へと入って行く。
「──どうする?」
「乗り込む」
「令状も何もないぜ」
「だから、恋人同士として乗り込むのよ」
と夕子は車を出た。「──さあ、早く来て!」
せかされてホテルへ入って行くと、フロントの男が|欠《あく》|伸《び》をしていた。
「──今入って行った二人連れは?」
と私は手帳を見せる。
「はあ。部屋に──」
「隣の部屋を!」
と夕子が口を出す。
エレベーターを降りて、私たちが廊下を歩いて行くと、向うから、サングラスをかけた女が歩いて来た。
まあ大体こういう所では、人は顔を伏せたり、そむけて、すれ違うものである。
夕子は、目を伏せて歩いていたが、その女とすれ違うと同時に、素早く振り向き、女のサングラスをパッと|外《はず》した。
「あっ!」
と女が振り向く。
私は|唖《あ》|然《ぜん》とした。──その女は、小西光子だったのだ。
光子は私たちを見ると、あわてて駆け出した。追いかけようとすると、
「いいわよ。そっちは後で」
と夕子が止めて、「小西の方がずっと大切よ」
と言った。
「うん。──光子が生きていたとなると、あの車で死んだのは……」
夕子が、黙って唇をかみしめた。──言うまでもない。
あれは山並邦子だったのだ。
死体は、小西が妻だと確認すれば、それでいい。しかもあの状態では、検査も容易ではあるまい。
──ドアを叩くと、小西が顔を出した。
「おや、こんな所で。──お二人で、お楽しみですか」
と、愛想がいいのは、いつもの通りだ。
「お楽しみといえば、確かにそうだな」
と私は言った。「──このサングラス、分るだろう?」
夕子の手にあるサングラスを見て、小西は青くなった。
「奥さんの代りに、邦子さんを殺したのね!」
夕子が、怒りに声を|震《ふる》わせている。──珍しいことだ。
「待って下さいよ。何の話で──」
私も、あまりTVに出て来る暴力刑事の真似をしたことはない。
しかし、ここは黙っていられなかった。私の|拳《こぶし》が、小西の顎に激突して、小西は、大の字になって床にのびた。
「ありがとう」
と夕子が言った。
「どういたしまして」
私は夕子の肩を抱いた。
「──邦子のお母さんにどう言えばいいのかしら?」
と夕子は呟くように、言った。
「まず、小西は自分が狙われていると印象づける必要があったのね」
と夕子は言った。
「だから、僕の後を追い回した」
「独創的な手ではあったと思うわ」
夕子は、カクテルを飲み干した。
ホテルのバーだ。もっとも、都心の一流ホテルで、ここには原田は来ていなかった。
「つまり、我々の前で、『ケチな夫婦』を演じてみせたわけか」
「そして、犯罪そのものも、私たちの目の前で起す。──大胆よ」
「全くだ。しかも、こっちもコロリとその手にひっかかっていた」
「邦子さんのことが気になるの」
と夕子はため息をついた。「──小西が、たまたま邦子さんを選んだのか。それとも、私の友人だから、選んだのか……。気が重いわ」
「もともと、小西も、自分で言ってたようなケチな男じゃなかったんだ。女や賭け事にも手を出して、あちこちに借金をこしらえていた」
「それで、いよいよ困って、保険金詐欺を思いつく」
「しかし、女房を殺すわけにもいかず、身替りが必要になった」
「そして綿密に計画を立てたのよ。──でも、私たちの前で、やってのけるんだもの、凄い度胸だわ」
「どうしてわざわざあんなことをしたのかな」
「一つには本当に、誰かに恨まれて、命を狙われてもいたのかもしれないわ。もう一つは、刑事の証言くらい、信用されるものはないでしょう」
「利用するつもりだったんだな、初めから」
「ケチな暮しぶり、守銭奴ぶりを吹き込んで、狙われて当然と思わせたのよ」
「芸が細かいな」
「あの光子の方も、かなり悪知恵が働きそうね」
「小西は、すべて妻の入れ知恵だと言ってるよ」
「光子はまだ見付からないの?」
「大丈夫」
と私は肯いた。「必ず見付けるよ」
「お願いね」
夕子は、もう一杯カクテルを注文した。
「いいのかい、そんなに飲んで?」
「平気よ。──少し酔って、我を忘れたいのよ」
夕子は、ちょっと|寂《さび》しげだった。
「──僕がいても、アルコールの代りにならないか?」
「ならないわ」
夕子は微笑んで、「あなたはあなたで、何の代りにもならないわよ」
と言った。
夕子の手を軽く握ると、夕子も握り返して来る。夕子のことが、たまらなく|愛《いと》しくなった。
「宇野さん!」
と、ドラの如き一撃が、私の感傷を打ち砕いた。
「──おい、良く分ったな、ここが」
「そりゃもう。ベテランですから」
「何か飲む?」
夕子が訊くと、たちまちにやけて、
「どうも、それじゃ……」
「おい、用事は?」
「あっ、そうだ!」
原田は手を打って、「殺人事件です。すぐ来い、と……」
「それを、早く言え!」
私はバーを飛び出した。出がけにちょっと振り向くと、夕子が、グラスを上げて、私にウインクして見せた。
第二話 美女は二度殺される
いつか、スターになるんだ!
この夢を抱いている女の子は、少なくないだろう。でも、本当にスターになるのは、その中のほんの何人かでしかない……。
それでも、もしかしたら私が──と思うから、「スター志願」の少女は後を|絶《た》たないのである。
そんな少女が一人、六本木の裏通りにいた。歩いていたわけではない。立っていたのだ。
ただ立っているには妙な時間だった。何しろ夜の十時を回っていたからである。
少し小雨がパラつく、|肌《はだ》寒い秋の夜で、その少女は、ちょっと分厚いブレザーを着ていた。
「また来たのかい」
と、声がして、少女は振り向いた。
マンションの受付にいる、管理人の老人である。老人、といっても、まだ六十になったばかり。
体つきも、その辺の若者とは比較にならないほど、がっしりとしていた。
「今晩は」
と少女はペコンと頭を下げる。
「もう|諦《あきら》めた方がいいんじゃないか? 今夜もどうせ遅いよ」
老人の言葉は冷たいようだが、言い方やその目つきは優しかった。
「いいんです」
と少女は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「チラッとでも見られれば。お話しするのはその次のときで」
「見るだけだって、もう一週間も通って来てるんだよ」
「一カ月もすれば、|挨《あい》|拶《さつ》ぐらいして下さると思うわ」
老人は笑い出した。
「若さだねえ。──いや、そんな外に立っていたら風邪を引くよ。こっちへお入り」
「いいんですか?」
「受付の所に入っていれば、通る人は目に入るよ」
「すみません」
少女は、ピョンと飛びはねた。喜びを、身をもって表現する世代なのである。
受付の窓口の内側へ少女を入れると、老人はインスタントコーヒーを作って、出してやった。
「さあ、お飲み。体が暖まる」
「はい」
少女は素直にカップを取って、飲み始めた。
「──おうちじゃ心配してないの?」
と老人が|訊《き》いた。
「諦めちゃったみたい」
「へえ」
「母も俳優志望だったの。だから理解があるんです」
「しかし──どうしてまあ、そんなに彼女に|惚《ほ》れ込んじゃったんだい?」
「だって、すばらしいんだもの! そこにいるだけで光るっていうか、他の人なんか、かすんじゃうほどの『何か』を持ってるんだわ!」
「そうかね……」
──〈彼女〉と呼んでいるのは、女優の諸井涼子だった。
三十四歳。今や、大スターとして、映画界に君臨していると言ってもいい。
ずいぶん大げさな言い方に聞こえるかもしれないが、ほとんどTVにも出ず、映画一筋にやって来たことが、諸井涼子を、スケールの大きな女優にしていた。
この六本木のマンションは、彼女の住居の一つ[#「一つ」に傍点]。従って、ここへ帰る日も、よそへ帰る日もあるわけだが、この少女は、
「あちこち回って、その|都《つ》|度《ど》入れ違いになるより、一箇所で粘った方がいいわ」
と、極めて堅実な判断をしたのである。
「いくつだね」
と、老人が訊いた。
「私? 十六歳」
「ふーん。で、女優になるのが夢、と……」
「そういうことなの。私、きっとなってみせる」
あっけらかんと言い放つのが、何ともおかしい。
「まあ、うまく会えるといいね」
「ここへ来るときは、大体何時ですか?」
「まちまちだよ。九時ごろのときも、午前三時のときもある……」
役者というものは、一般の人が考えているほど、|宵《よい》っぱりではない。ロケのときなど、朝五時集合ということも珍しくないのだ。
「じゃ、もう帰ってるってことも?」
「いや、ここにずっといたからね。大丈夫。まだ帰っちゃいないよ」
「良かった!」
少女はホッとしたように息をついた。
「──車だな。ここの人かな」
と老人が腰を浮かす。「──おい、来たよ。運が良かったね」
「えっ?」
少女は立ち上った。
「だめねえ、こんな生活を続けてたんじゃ」
と、永井夕子が言った。
「そうかい?」
と私は新聞から目を離さずに言った。
「私は、しょせん、|安《あん》|穏《のん》な生活に安住できる人間じゃないの。|波《は》|瀾《らん》の生涯を送るように運命づけられてるんだわ!」
夕子は、舞台役者の如く、ジェスチャー入りで語ったが、私の方は、目の隅っこの方でそれを見ながら、頭は新聞記事を追っている。従って、まともに返事のできるわけもなく、
「そうかい……」
などと、適当なことを言ってごまかした。
「ねえ、二人のこれからを真剣に考えるときが来てるのよ」
と夕子はいつになくしつこい。
私は、ちょっと失敗した。もっと|当《あた》り|障《さわ》りのないことを言えば良かったのである。
こともあろうに、
「うん、おいしかったよ」
と言ってしまった。
やや間があって、ザッザッという音が、目の前でしたと思うと、見ていた新聞から、ヌッとハサミが突き出した。
ギョッとして顔をのけぞらせると、夕子はめちゃくちゃに紙面を切り裂いて行った。
「おい……」
「服の|型《かた》|紙《がみ》にするのよ」
と夕子は涼しい顔で言った。
私と夕子が、この高級マンションで暮し始めて、早くも三日。──三日である。三月でも三年でもないのだ。
もちろん、警視庁捜査一課の警部の給料で、こんな「億」単位のマンションが買えるはずもない。
私がここにいるのは、永井夕子が、
「お友だちの一家が、ヨーロッパに行くの。その間、十日ほど、マンションで留守番してくれないか、って言うの。もちろん、あなたと一緒でも構わないのよ。どうする?」
と電話して来たからなのである。
「今、それどころじゃないんだ。殺人事件の裏を取るので──」
「じゃ、充分な休養が必要でしょ?」
「そりゃまあ……」
「じゃ、私が面倒みてあげる」
と、いつもながらに押し切られたのである。
しかし、問題の殺人事件の方はいともあっさり解決し、このマンション住いを、のんびりと|満《まん》|喫《きつ》する余裕に恵まれたのだった。
「たまには、こんなこともあってもいいんじゃないかね」
と、私は言った。
「だめよ。やっぱり私たちは事件を追いかけてるときじゃないと燃えないわ」
「命がけじゃないか」
「そこが恋の面白いとこ」
そんな|殺《さつ》|伐《ばつ》とした恋があるか!
しかし、四十男と女子大生というカップルが、突如としてこの高級マンションに現われたのだから、やはり他の部屋の住人たちからは、好奇の目で見られていた。
救いは、このマンションに、女優の諸井涼子がいて、|専《もっぱ》ら人の注目を集めていることで、そのおかげで、こっちは三日目にして、無視同然の|扱《あつか》いを受けるようになっていた。
「──明日は講義があるんだろ」
と私は言った。「もう寝ないと、十二時だよ」
「いやね、父親っぽくなって」
と夕子はにらんだ。「一箇所に落ち着くと、これだからいやよ」
「ここへ呼んだのは君じゃないか」
「そうよ。同居生活の実験をしてみたの。その結果、やはり私たちは別居に向いているとの結論に達しました」
「おい! そんなに簡単に──」
と私はあわてて言った。
「あら、誰か来た」
夕子は立ち上って、玄関の方へと歩いて行った。もちろんインタホンだ。
「どなた?」
と声をかける。
返事がない。
「おかしいわ」
「|覗《のぞ》いてから開けろよ」
「分ってるわよ」
と夕子が|肯《うなず》く。
私も立って行って、夕子が、ドアのスコープから外を覗くのを、見ていた。
「──女の子だわ。どこかで見たことのある……」
夕子は、チェーンと鍵を|外《はず》すと、ドアを開けた。
「何かご用?」
夕子が訊く。──私は、その少女のことがすぐに分った。
例の諸井涼子の部屋に一緒に住んでいる少女である。買物に出たり、郵便を下の集合ポストに取りに来ているのを見たことがあった。
別に大女優の親類でも何でもないらしい。ただ、女優志願で、連日このマンションにやって来て、とうとう諸井涼子の「付き人」のような仕事をすることになったのだ、という。
女優志願というのも「なるほど」と思わせる、なかなか可愛い少女だった。夕子の手前、もちろんそんなことは言わなかったが。
が、このときは、どうもいつもと様子が違っていた。青ざめて、こわばった顔で、じっと棒のようになって立っているのだ。
「──どうしたの?」
と夕子が|重《かさ》ねて訊く。
「あの……」
少女が、か細い声で言った。「ここに、警察の偉い方がいるんでしょ」
「偉い方? ──そうね、考えようによっちゃね」
夕子はきっと自分[#「自分」に傍点]のことだと思っているのに違いない。
「私……自首しに来たんです」
と、少女は言った。
「自首?」
私は、サンダルをはいて出て行った。
「何をしたんだい? 言ってごらん」
と、できるだけ優しく言った。
少女はこっちの目を、じっと見つめながら、
「人を殺したんです」
と言った。
私は夕子と顔を見合せた。
「殺したって……誰を?」
「諸井涼子さんです」
──私は、この部屋で気楽に十日間を過すという夢が、|儚《はかな》く消え去ったのを知った……。
諸井涼子の部屋は四階だった。
私と夕子は、少女を伴って、急いでその部屋へと向った。ともかく現場を見なくてはなるまい。
それに、殺したと思っても、|結《けっ》|構《こう》息があったりするものなのだ。
「四〇二号だったわね」
と夕子が言うと、少女が肯いた。
「鍵は?」
「かけませんでした」
ところが──その四〇二号のドアが開かないのである。
「鍵がかかってるよ」
「変だわ……」
と少女は|呟《つぶや》くように言った。「私、確かに──」
「しかし、|現《げん》にかかってる。──よし、下の管理人から、鍵を借りて来る。ここにいてくれ」
夕子と少女を残し、私はエレベーターで一階へ降りた。
「やあ、どうしました、警部さん」
と、受付の奥で管理人の老人が言った。
この「警部さん」には|閉《へい》|口《こう》である。
「四〇二号のドアを開けたいんだ」
と私は言った。
「諸井さんの部屋ですよ」
「彼女がけがをしたらしいが、ドアが開かないんでね」
「そりゃいけませんね」
と、老人は不安げな表情になると、「じゃ待って下さい」
|一《いっ》|旦《たん》奥へ入り、合鍵を持ってホールへ出て来た。
「一緒に住んでいる女の子が僕の所へ来てね」
「そうですか。──何かあったのかな」
老人がエレベーターのボタンを押す。
そこへ、耳慣れたパトカーのサイレンが近付いて来た。
おや、と思う間もない。このマンションの正面に赤い光が停止して、見|憶《おぼ》えのある巨体が駆け込んで来たのである。
「宇野さん!」
原田刑事は私を見て|仰天《ぎょうてん》した様子だった。「どうしてこんなに早く?」
「いや──」
私は、ここに夕子と二人でいることを、原田には教えていないのだ。「たまたま、だ」
「なるほど」
深く考えずに納得してしまうのが、原田の長所でもあり、短所でもある。
「お前は何だ、一体?」
「殺しですよ」
と、原田が言った。「宇野さん、知ってますか、諸井涼子ってスターを」
「当り前だ」
「そうですか? せいぜい原節子どまりかと思ってました」
「おい、諸井涼子が殺されたっていうのか?」
「ええ、通報があって、大騒ぎですよ、きっと」
果して誰が通報したのか? ともかく、私たちは、他の警官たちともども、四階へと急いで戻った。
原田は夕子を見るとますます目を見張って、
「夕子さん! ここで何してるんです?」
「私と宇野さんは物とその影のように一緒なのよ」
「なるほど詩的な表現ですね!」
と、原田は感心してから、「で、どっちが[#「どっちが」に傍点]影なんです?」
「いいから、早くしろ!」
と私は|怒《ど》|鳴《な》った。
管理人から受け取った鍵で、ドアを開ける。中へ入ると、明りは一杯に|点《つ》けてあった。
「──どこだね?」
と私は、少女に訊いた。
「寝室です」
少女は低い声で言った。「こっちです」
廊下を抜けて、奥のドアを開けようとして少女は両手で顔を|覆《おお》った。
「──開けて下さい」
と|震《ふる》える声で言った。
「分った」
私はドアを開けた……。
広々とした寝室に、馬鹿でかいダブルベッドが一つ。──が、死体は見当らない。
「どこにもいないよ」
「そんな……」
少女は中に入って、立ちすくんだ。「私、ここで刺したんです! あの人の背中を思いっ切り!」
私は、クローゼットの中や、寝室付属のシャワールームも開けて見た。
「いないな。──おい、この中を全部調べろ」
「分りました」
原田が、他の刑事や警官たちを連れて、各部屋を調べて回った。しかし、ついに、大スターの死体は見付からない。
「どうしたのかしら?」
と少女は、途方にくれている。
「けがが思いの他軽くて、病院にでも行ったのかもしれないわ」
と夕子が慰めるように言った。
どうしたものか。──ともかく、この少女が自白[#「自白」に傍点]している以上、調べないわけにはいくまい。
「君の名前は?」
「飯塚真穂」
「真穂君か。──その──確かに、彼女を刺したの?」
「はい」
「どうしてそんなことになったんだい?」
「それは……」
飯塚真穂という少女はうつむいた。そのとき、原田がやって来た。
「表が|凄《すご》い人です。報道の連中ですが、どうします?」
「誰が知らせたんだろう? 早過ぎるじゃないか?」
私は真穂へ、「君、このことをどこかへ知らせた?」
と訊いた。
「いいえ」
すると警察へ通報したのは誰なのか?
「それから宇野さん」
と原田が言った。「玄関に変な女が来て、中へ入れろと|喚《わめ》いていますが」
「変な女?」
「ええ。だめだと言っても聞かないんです」
「俺が行こう」
玄関から廊下へ出ると、立っていた女がクルリと振り向いて、
「自分の部屋へ入れないって、どういうことなの!」
と金切り声を上げた。
私は声も出なかった。それはスクリーンから抜け出して来たように──|紛《まぎ》れもなく、諸井涼子その人だったからだ。
「ねえ、ほら見て!」
と夕子は声を上げた。「私も写真に写ってるわ、ほら!」
ぐいと押しつけられては見ないわけにもいかない。──スポーツ新聞の一面でデカデカと、〈諸井涼子殺さる?──実は|勘《かん》|違《ちが》い。狂言の疑いも〉。
何だか「この世の終りがやって来た」とでもいうような大見出しが躍っているのだ。
なるほど、フラッシュを浴びて|艶《えん》|然《ぜん》と微笑んでいる諸井涼子、そのそばで、シュンとしている飯塚真穂。ついでに、わが永井夕子も写っているのだ。
「いやねえ。こっちの側から|撮《と》られるのって嫌いなんだ。反対の方からにしてほしかったわ」
写真に注文をつける名探偵ってのがこれまでにあったかしら?
「しかし、何だかすっきりしないなあ」
と、私は言った。「本当は何が起ったんだと思う?」
「私に分るわけないでしょ」
夕子はジーパン姿で、「あーあ、退屈だな。大学にでも[#「でも」に傍点]行こうかしら」
と|欠《あく》|伸《び》をした。
「夜の八時だぜ」
「特別に殺人講座を開こうと思ってね」
夕子は澄まして言った。本当にやりかねないのが、夕子の凄いところだ。
「実習つきかい?」
「被害者は四十前後の中年男、なんてどう?」
「やめてくれよ」
「きっと、あれも実習だったのよ」
「──何が?」
私はキョトンとして訊いた。
「この一件に決ってるじゃないの」
「突然話を変えるなよ。──つまり、狂言だったって言うのかい?」
「そう考えるしかないでしょうね。ねえ、たとえば、諸井涼子があの真穂って子を可愛がっていて、スターにしてやりたいと思ったとしたら、どう?」
「だからって、あんな騒ぎを──」
「じゃ、どういう方法がある? 自分の出る映画の中に、チョイ役で出すか、せいぜいそれくらいでしょ。でも、そんなもので、どれくらい名と顔が売れると思う? そんなの映画館を一歩出りゃ忘れちまうに決ってるわ」
「だからって、こんな人騒がせなことをするか?」
もちろん、これであの少女が、一気に顔を知られてしまったのは事実だが……。
「ただね」
と夕子は言った。「それにしちゃ名演技だったと思うの」
「そうだな」
と、私は肯いた。「ここへやって来たときの、あのこわばった表情なんて、|正《まさ》に真に迫ってたよ」
「天性の役者なのか、それとも……」
夕子は言いかけて言葉を切った。
「何だい?」
「お腹|空《す》いたわね。どこかに食べに行きましょうよ」
名探偵の頭の中は、一体どういう構造になっているのだろう?
とはいえ、こちらもそろそろ同じ提案をしようかと思っていたところなので、異議のあろうはずはなかった。
軽くコートを引っかけてマンションの一階へ降りる。
「お出かけですか」
と、管理人の老人が手を上げる。
「ちょっと叔父と食事をして来ます」
夕子はにこやかに挨拶した。こういう人当りの柔らかさは、夕子の天性のものらしい。もっとも恋人[#「恋人」に傍点]にはややきつめに当ることが多いのだが……。
「いいですねえ」
と、老人の方は、果してこっちが叔父と|姪《めい》だというのを信じているのやら、いないのやら、無邪気にニコニコしている。
私たちはマンションを出て、ほんの二、三分の所のレストランへ入った。あのマンションの住人たちのようなクラスの人は、あまり利用しない、中級[#「中級」に傍点]レストランである。
「ハンバーグとライス」
てなオーダーが気楽にできる店は、払う方も気楽でいい。
「あら、警部さん」
と、声がした。
「まあ、昨日の──」
夕子が、飯塚真穂へ微笑みかけた。「もう|放《ほう》|免《めん》されたの?」
「ええ、|散《さん》|々《ざん》水を絞られちゃった」
「油を絞られる、というんだよ」
と私は笑って言った。「よかったら一緒にどうだい?」
「いいんですか?」
「ああ構わないよ」
「でも、お巡りさんって、お給料安いんでしょ?」
夕子が吹き出した。
「いいのよ、この人は、金持の未亡人のパトロンがついてるの」
と勝手な話をでっち上げている。
「じゃ、遠慮なく──」
と真穂は頭を下げて、「ねえ! ごちそうして下さるんですって!」
と振り向いて声を上げた。
店の入口の所でウロウロしていた若者が、ノコノコやって来て、
「すみません」
と頭を下げた。
「ええと、私のボーイフレンドの一人です。土田君といいます」
こうなると、二人におごらないわけにはいかない。しかも、この土田という若者、やせっぽちのくせに、料理を二種類も取り、なおかつライスをお代りし、その後で、私など見ただけで胸やけのするチョコレートパフェを平らげてしまったのだ。
私は、ただ|唖《あ》|然《ぜん》とするばかりだった。
「土田君も役者志望で──」
と、真穂が言った。「でも、私みたいに、スターになって、ワーッと騒がれたいとかいう、不純な動機とは違うんです。純粋に演技が好きなんです」
「それしかできないんですよ」
と、土田は照れたように言った。
「じゃ、今はどこかの劇団に?」
と夕子が訊く。
「ええ。といっても、仲間でやってる、小さなグループみたいなもんですけど」
「まず役者は仕事がなくっちゃね」
と、真穂が言った。「だから先生に会っていただこうと思って」
「先生って、諸井涼子さん?」
と夕子が訊く。
「そうです」
「あれは一体、どういうことなんだね?」
と私は訊いた。「怒らないから本当のことを言ってくれないか」
真穂は、ちょっと額にしわを寄せて、
「私だって分んないんですよ」
と、言った。「夢でも見たのかしら。そうとしか思えない」
「別に、仕組んだお芝居ってわけじゃなかったの?」
と夕子が訊く。
「違います! 絶対にそうじゃありません!」
と、真穂は強い調子で言った。「スポーツ新聞なんていい|加《か》|減《げん》だわ! あんなでたらめ書いて。しかも、写りの悪い写真、のっけて──」
どっちに怒ってるのか、良く分らない。
「それはともかく、じゃ、なぜ、『先生』を刺そうとなんてしたの?」
「頭に来ちゃったんです」
「頭に?」
「ええ。──ああいう人だから、そりゃ、機嫌の悪い時は、ノロマだドジだって怒鳴られることはよくあるんです。そんなの大して気になんないんですけど」
「あのときは?」
「先生、酔って帰って来て、私のことを、『役者の素質なんて、ゼロだ』、『スターになる顔じゃない』、『お情で置いてやってるのが分ってんのか』──。そりゃひどいことばっかり言って。で、私、カッとなって、ナイフをつかみ──」
「刺したのか? 本当に?」
「──と、思うんですけどねえ」
と、真穂は首をかしげた。「でも、先生あの通り元気だし。夢だったのかしら? どう思います?」
「こっちに訊かれても困るよ」
と私は苦笑した。「しかし、君の手には血がついたんだろう?」
「それだって、嘘じゃなかったんですよう」
と、真穂は口を|尖《とが》らせて言った。
なかなか可愛い。この子は、うまくすればスターになるかもしれない、と思った。
「手を洗っちゃったのはまずかったわね」
と夕子が言った。
「だって、汚れてるのいやなんですもの。先生のお部屋だって、そりゃきれいにお掃除してるんですよ、私」
「僕の部屋はやってくれないね」
と土田が言った。
「一度やってこりたわよ。あっちこっちからヌード写真なんか出て来て」
「あ、あれは──芸術写真だよ」
と、土田が真赤になる。
真穂が声を上げて笑った。──若さを感じさせる笑い声、|弾《はじ》けるような笑い声だ。
「──あ、もうこんな時間!」
と、真穂は腕時計を見て、「先生が帰る前にベッドを直しとかなくちゃ」
「僕はどうするんだい?」
と土田が訊く。
「先生が一人で帰ったら、引き合せてあげる。二人なら、また明日ね」
「分ったよ」
「二人って?」
と夕子が訊いた。
「時々、男性と一緒に帰って来るの。今のところ、吉本達夫がたいてい相手なんです」
「へえ。あの、いつも悪役をやる人でしょ?」
「そうですけど、凄くいい人なんですよ。よく私にも話しかけてくれるし、おみやげにチョコレートくれたり。でも、先生、そろそろ|飽《あ》きて来たみたい」
「分るの?」
「だって、朝ご飯をお昼ごろ食べながら、いつも私にあれこれ話してくれるんです。恋人のこと」
「へえ」
「悪口の割合が段々ふえて来て、三分の二を越すと、たいてい別れます」
夕子は笑い出した。
「週刊誌読んでるより正確ね。──じゃ、私たちも行くわ」
私は、結局、予算の倍以上も払わされ、かなり懐の寒い状態で外に出た。
マンションのホールへ四人で入って行き、エレベーターが来るのを待っていると、ちょうど当の女主人──諸井涼子が、悪役スターの吉本達夫と一緒にマンションに入って来た。
「あら、警部さん」
と私を見て、スクリーン用の笑顔を見せた。「今まで何やってたの」
と、真穂の方へ目をやる。
「すみません。こちらの警部さんにご飯ごちそうになったんです」
「あら、どうもすみません。ちゃんとお給料あげてるじゃないの」
「だって、|断《こと》わっちゃ悪いでしょ。──あ、先生、この人、私のボーイフレンドです。この間お話しした」
土田が、緊張にこわばった顔で、
「よろしく」
と頭を下げた。
間違いだったとはいえ、「先生」を刺したばかりで、ボーイフレンドを紹介しようというのだから、真穂という少女の神経も相当なものだ。
「ああ、そんなこと言ってたわね。忘れてた。──あなた、いくつ?」
「二十一歳です」
「二十一……」
諸井涼子は、ため息をつきながら言った。「私も、昔、そんな年齢だったことがあるのね」
エレベーターが来た。
──何となく、みんなが両側へどいて、諸井涼子が、まず乗り込んだ。
そこには、「スター」の、あたりを払うような存在感があった……。
アッという間に、日は過ぎた。
といっても、ほんの一週間だが。──つまり、私と夕子の「留守番」にも、終りの日が近づいた、というわけである。
「さて、もう荷物、詰めちゃおうかな」
夕子は、風呂上りのバスタオルを巻いただけの格好で言った。
「明日、そんなに早く出るのかい?」
私は先に一風呂浴びて、パジャマ姿でベッドにひっくり返って新聞を広げていた。
「別に。──ここの人が帰るのは夕方だから、それまではいるわよ。でも、明日になってからじゃ、せわしないじゃない?」
「今夜くらいはゆっくりしよう」
私は、新聞をベッドのわきへ落として、夕子の方へ手を伸ばした。
「やめて」
夕子はスルリと身をよじって逃げると、「女性のお|肌《はだ》はデリケートなの。お風呂に入りっ放しってわけにはいかないのよ」
「分ったよ。じゃ、おとなしく待ってる」
と、私は天井を|眺《なが》めながら言った。
「恋の行方が見届けられなくて残念だわ」
と夕子は三面鏡の前に座って言った。
「誰の恋だい?」
「かの大スターじゃない」
「諸井涼子?── あの何とかいう悪役スターとは別れたんだろ?」
「そんなの知ってるわよ。私が言うのは、新品[#「新品」に傍点]の方」
「恋にも中古や新品があるのか」
「冗談じゃないのよ」
夕子は少し真顔になって、「相手、誰だと思う?」
「知ってるわけないじゃないか。こっちは毎日仕事に出てるんだぜ」
「威張らないの。隣人の悩みを知るのは名探偵の仕事の一つなんですからね」
「初耳だね。で、大スターの恋の相手ってのは?」
「土田君」
「土田?」
私は、ちょっと考えた。「あの女の子のボーイフレンドか!」
「そうよ。このところ、あの子、沈み切ってるわ。当然よね。ボーイフレンドをとられちゃって、しかも、そのベッドを直すのも彼女の仕事なんだから」
「そりゃ、ちょっとひどいな」
「男の方も男の方よ。いくら若いったって、彼女の心理ぐらい分りそうなものじゃない? 男なんてだめね」
「おい、一般論にしちゃ困るぜ」
夕子は、バスタオル一つのまま、ベッドの方へやって来ると、私の傍に横になった。
「何か起らなきゃいいんだけどね」
と夕子は言った。
「きっと起らないさ。今夜はね」
私は夕子を抱き寄せて──。
「チャイム、鳴ってる」
夕子が言った。
「聞こえないよ」
「もう耳が遠くなったの?」
私はため息をついて、起き上った。
「酔っ払いだったら、公務執行妨害で逮捕してやる!」
「これ、公務?」
「務めには違いないだろ」
私は玄関へ出て行き、凸レンズの覗き穴から表を見た。
「──誰?」
夕子がバスローブをはおってついて来る。
「あの子だよ」
私はドアを開けた。飯塚真穂が立っている。
「どうしたの?」
夕子がサンダルをはいて出て来た。この前のときとそっくりだ、と私は思った。
「あの──先生が、おかしいんです」
と、青ざめた顔で言う。
ただごとではない、と直感した。夕子と二人で、真穂を|促《うなが》し、四〇二号室へと急いだ。今度は鍵がかかっていない。
「寝室です。──先生がおかしいんです」
と、真穂はくりかえしている。
私はドアを開けた。今度こそ、諸井涼子がガウン姿で倒れていた。
ベッドの上に仰向けになり、頭がベッドから外れて、垂れている。髪が、床に届きそうだった。
私は、駆け寄って、彼女の体を起した。
「背中に──」
と夕子が言った。
かかえ上げると、背中に突き立っているナイフが目に入った。
眼をみる。胸に耳を当てる。
──しかし、どこにも、生命の|徴《きざし》は感じられなかった。
「死んでるよ」
「私じゃないわ……」
と、真穂が呟くように言った。「私じゃありません! 私、先生を殺したりしません!」
「落ちついて」
と夕子がなだめる。「私たちに|任《まか》せて。あっちへ行きましょう」
私は、寝室の電話で、捜査一課へ通報した。──今度こそ本当の殺人だ。
「こいつは大変だぞ」
私は、大スターの死体を前に、ため息をついた……。
正に、大変[#「大変」に傍点]な夜だった。
これまでに、いくつもの殺人事件に出くわしている私だが、こんな思いをしたのは初めてだ。
ともかく、報道陣の数が違う。いつもの殺人事件の十倍は来ただろう。
マンションの近くは人と車で|溢《あふ》れた。深夜なのに、まるで真昼のようなにぎわいなのである。
私と夕子は、刑事たちが駆けつけて来たところで、一旦部屋へ戻って、服を着て来た。TVニュースに、パジャマ姿で映ったりしたら、本間警視が何と言うか。
もちろん原田も興奮の面持ちで駆けつけて来た。
いつもなら、まず食い物のことが話に出るのだが、さすがに今度ばかりは食欲も忘れて、大スターの死体に見入っていた。
「──どうなってるんでしょう?」
居間へ入って、原田が言った。
「知るもんか」
私は肩をすくめて、「それをこれから調べるんじゃないか」
「この前の事件と、何か関係があるんでしょうか?」
「ないとは思えないな。全くそっくりの状況だ」
夕子が真穂を連れて入って来た。
「もう大丈夫ですって。話があるんでしょ?」
「うん。──まあ、かけなさい」
と私は言った。
「ねえ、宇野さん」
と、原田が言った。「どうでしょう? 一週間前に刺されて、今死んだ、ってのは」
「いくら鈍くても、そんな奴があるか」
「そうでしょうねえ」
と原田は肯いた。
「──さて」
と、私は、ソファに座って、「事情を話してくれないか」
と言った。
「よく……分らないんです」
と、真穂は首を振った。
「時間を追って話してみて」
と夕子が言った。
「今日は、先生はお休みだったんです」
「起きたのは?」
「ええと──昼の一時です。コーヒーだけ飲んで、それからTVを見てました。私、お掃除して、洗濯をして──。三時過ぎかな。買物に出たんです」
「そのときは、諸井涼子さんは一人だったのね」
「ええ。それから、私、駅の方まで行って、色んなもの買って、帰って来たのが三時半くらいかな」
「それで?」
「ええ。玄関を入ろうとしたら、急にドアが開いて、私びっくりして、買物の包みを落っことしちゃったんです」
「出て来たのは?」
「吉本さんでした」
「吉本達夫?」
「そうです。びっくりしました。凄い勢いで出て来て」
「どんな様子だったの?」
「何だか──先生と喧嘩してたみたいでした」
「それは、誰から聞いたの?」
「聞いた、というんじゃありませんけど」
と、真穂は首をちょっとかしげて、「でも、まっ青になって出て来て、手も震えてるのがはっきり分りました」
「それで?」
「中へ入って先生に、『どうしたんですか』って訊いてみたんですけど、先生、何も返事をしなくて……。ご機嫌悪いときは、そっとしとくんです」
「なるほどね」
と夕子は肯いた。「で、その後は? 誰か訪ねて来なかった?」
「ええ、プロデューサーの人です。私、名前はよく知りませんけど、名刺が確かありますわ」
「|捜《さが》してみよう」
と私は言った。「その人は仕事の話で来たんだね?」
「だと思います。私、食事の|仕《し》|度《たく》をしてて、忙しかったから……」
「ああ、なるほど、大変だねえ」
「結構楽じゃないんです。スターになるのも」
真穂の言い方には、どことなく楽天的な明るさがあった。若さというものなのだろうか。
「その人は何時ごろまでいたの?」
と夕子が訊く。
「さあ……。たぶん、三十分くらいだと思います。帰ったのが五時くらいじゃないかしら。ちょうど夕食の仕度を終えたところで」
「ずいぶん早いのね」
「お休みの日は、ほとんど一食しか取らないんです。だから──」
「食事は一人で?」
「そうです」
夕子は、ちょっと斜めに真穂を見て、
「本当に?」
真穂は、目を伏せて、ふっと肩を落とした。
「あの──土田君と一緒でした」
「何時ごろ来たの?」
「五時半くらい。先生が呼んだんです」
そこで、やはり少々微妙なところへ立ち入らざるを得ない。
「ところで……土田君のことだけどね」
と、私は言った。
「分ってます」
真穂の方が、強い口調で言い返した。「土田君、このところ、先生のお気に入りで……。でも、大スターにああ言われたら、断われないんじゃないかしら」
「それはそうね」
と夕子が肯く。
「そうでしょう? 私だって、もし有名な男優に誘われたら……。土田君、内心閉口してたんです」
「自分でそう言ったの?」
「ええ。私に悪いって、気にしてて……。でも、私は何とも思っていませんでした」
この言葉は、どうも額面通りには受け取れなかった。
いくら現代っ子とはいえ、ボーイフレンドを、一回りも年上の女優に取られ、しかも、そこで自分は働いている身だ。|悔《くや》しくないはずがない。
しかし、そこはあえて言わないことにした。
「土田君が帰ったのは?」
と夕子が訊いた。
「九時半くらいです」
「あなたはそのときは?」
「私、外へ出てるんです。先生がそうしてなさいって」
「じゃ、表にいたの?」
「ええ、あのレストランで甘いもの食べてました。九時半過ぎに、土田君が来て……」
「待ち合せてるの?」
「そうじゃないけど、自然にそうなるんです」
と真穂は肩をすくめた。「それに、彼、お腹空くんでしょ。だからカレーライスとか何か食べて行きます」
今の若い世代は分らない! 私はため息をついた。
「で、十時ごろ、私は部屋に戻りました。先生の姿が見えないんで、捜してみると……先生が寝室で……」
と、言葉を切る。
「ドアの鍵は?」
「私が──いえ、開いてたわ。そうです。開いていました」
「確かに?」
「ええ、開けたつもりでかけちゃって、また開けたんです。憶えてますわ」
「土田君は、かけて出たのかしら」
「土田君は鍵持っていません」
「そうなの?」
「先生、そういう点はうるさいんです。留守中に勝手に入られたりするのが、とてもいやだといって」
「その後は、私たちの所へ知らせに来た、ということね」
「はい」
「それにしては、少し時間がたっているね」
と、私は言った。
「しばらくぼんやりしてたんだと思います」
「なるほど」
──果して本当だろうか?
まず土田と、それに、下の管理人の老人にも当ってみなくてはなるまい。
「土田君へ電話していいですか?」
と、真穂が訊いた。
「いいわよ」
「すみません」
真穂は、電話の方へと歩いて行った。
「──どう思う?」
と私は夕子に|囁《ささや》いた。
「全部が全部、本当とは言えないわね」
と夕子は言った。「でも全部が全部、嘘とも言えないわ」
──どうしてこう名探偵ってのは、わけの分らないことを言うのが得意なんだろう?
「そうよ! 本当に亡くなったの。──うん。こっちへすぐに来て。──分った?」
真穂は受話器を置いて、「すぐこっちへ来るそうです」
と言った。
「びっくりしてたでしょうね」
と夕子が言った。
「ええ、そりゃもう。いくら言っても、『嘘だろ』って言って、信じないんです。きっとまだ半信半疑なんだわ」
「じゃ、土田君が来たら話を聞くとして、まず管理人と話をしてこよう。君はここにいてくれるかい?」
「ええ、分りました」
と、真穂は肯いた。「でも……」
「何か気になることがあるの?」
「今月のお給料、まだもらってないんです。どうしようかしら?」
「──|呑《のん》|気《き》なもんだな」
と、エレベーターに乗って、私は言った。「自分が殺人の容疑者の一人だっていうのに……」
「いいじゃないの」
と夕子は言った。「自然で、無理がなくて。若さってもんよ。誰かさんからは、とっくに失われたもの」
「気にしてることを言ってくれるね」
と私は言った。「さあ、管理人の話を聞いてみよう」
管理人の老人は、事件のことがまだ信じられない様子だった。
「本当に死んだんですか?」
と訊いて来る。
「本当ですよ」
「この間みたいに、ヒョッコリ帰って来るんじゃありませんかね」
「そうだとこっちも助かるんですがね」
「今度はだめですか」
「だめです」
「そうですか」
と老人はため息をついた。「惜しいですねえ」
「全く。──ところで、今日、彼女の所へ来た客は?」
「客ですか? ええと吉本さんですね、一人は。それから──例の若者。何ていいましたっけ」
「土田君ですね」
と夕子が訊く。
「そうそう。その子です。その二人だけですよ」
私と夕子は、顔を見合せた。
「その間に、もう一人来ませんでしたか」
と私は訊いた。
「もう一人?」
老人はけげんな顔で、「あの女の子以外にですね?」
「もちろん。──プロデューサーだか何だか訪ねて来たはずだけど」
「さてね。ちょっと待って下さいよ」
老人は、台帳をめくった。「諸井さんの所ですね。──いませんよ」
「おかしいな」
と私はその台帳を覗き込んだ。
「ほらね。吉本さんの次は土田って若いのですよ」
「ふむ……」
すると、あの真穂の言っていた「プロデューサー」というのは、何者なのか? それとも、そんな人間は全くやって来なかったのだろうか……。
「じゃ、彼女にもう一度確かめてみよう」
と私は言った。
「名刺があるとか言ってたわよ」
「そうだったな」
私たちは四階へ戻った。
真穂は、私の話を聞いて、
「そんなことありません!」
と、目をつり上げて怒った。「私、嘘なんかつきません! 下のお|爺《じい》さんが見逃したんだわ」
「名刺っていうのは?」
と夕子が訊いた。
「名刺入れの中です」
と、真穂は引出しの一つを開けた。
覗き込んで、私は絶望的な気分になった。──引出し一杯、名刺が山になっている。
「この中のどれか分る?」
と私は訊いた。
真穂は覗き込んで、
「さあ」
と首をひねった。「でも、この中にあるのは確かですよ」
「名前は?」
「忘れちゃった」
「プロデューサーだったね」
「たぶん。──そんな肩書の名刺、ありません?」
私はため息をついた。その引出し一杯の名刺の百枚の内八十枚までは、プロデューサーのものだったからだ……。
「しかし、その二番目の男はどうしたんだろう?」
と私は言った。
「第三の男じゃなくて、第二の男ね」
「気取ってる場合じゃないぞ」
「まあ、真穂さんのでっち上げた人物という可能性もあるしね」
と夕子は言った。
マンションの近くの喫茶店である。──頭が痛くなって来て、二人でここへ逃げて来たのだ。
「すると目的は?」
「もちろん、土田君をかばうためでしょうね」
「土田といえば、まだ来ないな。──逃げたのか!」
「まさか」
夕子は手を振って、「もっと単純な理由なのよ」
「え?」
「ここまで遠くて不便な所にいるのよ」
「しかし、こんなときに──」
「お金がないから、タクシーをとばすってわけにいかないんでしょ。それとも、そういう場合は警察が払ってくれるの?」
「まさか」
「じゃ、文句を言わないの」
私は渋々コーヒーを飲んだ。
もうずいぶん遅い時間だが、この|辺《あた》りは、まだ人通りが絶えない。とても私の感覚ではついていけない世界だった。
「もちろん、あの管理人の見落としってことも考えられるわ」
と夕子は言った。「それに、あそこは別にペンタゴンじゃないんだから、出入りだってそうそう厳重にチェックしているわけじゃないし、その気になれば、あの人の目を盗んで入るのも可能でしょ」
「しかし、ただのプロデューサーがどうして?」
「それはそうなのよね。だから、単純な見落としとも考えられるわ。でも──」
「でも?」
「帰りにも[#「帰りにも」に傍点]見落としたことになるわ、そうなると。あそこは出るときも記録するようになってるから」
「なるほど……」
行きと帰り。二度も、あの老人の目を、たまたま[#「たまたま」に傍点]逃れるなんてことがあるだろうか?
いや、あり得ないことではないにしても、確率は極めて低い。
「──後は吉本にも当ってみることね」
「あの悪役スターかい?」
「少なくとも、諸井涼子にはっきり振られてるんだから、|恨《うら》む理由はあるわけよ」
「そりゃ分るが……。まず土田の話を聞いてみよう」
そう話していると、喫茶店の扉を押して、原田刑事が入って来た。
例によって、店を出ようとしたアベックを割って、平気でやって来る。
「やあ、こんな所でお|愉《たの》しみで」
「人聞きの悪いことを言うな。一息入れてるだけだ。何の用だ?」
「土田の野郎が来ましたよ」
「原田さん」
夕子がにらんで、「そんな言い方はだめよ」
とたしなめる。
「失礼しました。土田様がおいでになりましたが」
「今行く。──何か言っていたか?」
「宇野さんに話があるんですって。どうしても俺じゃしゃべらないんですよ」
「ふーん」
「宇野さんって、女だけじゃなく、男にも[#「男にも」に傍点]もてるんですね」
「よせよ気持悪い」
私たちは店を出て、マンションに戻った。
──居間へ入って行くと、あの土田青年が一人でソファに座っていた。
「あ、警部さん──」
「やあ、呼び出して悪かったね」
「いえ、こちらこそ。ぜひ申し上げておきたいことがあって」
「というと?」
そこへ夕子が、
「真穂さんは?」
と口を|挟《はさ》んだ。
「彼女には、ちょっと外へ使いに行ってもらったんです」
「どうして?」
「聞かせたくなかったんです。──僕が諸井涼子を殺したんだってことを」
「まあ、落ち着いて話そう」
と私は言った。
「僕は落ち着いています」
と土田は言った。
「本当なのかね、君が──」
「僕がやったんです」
「どうして?」
「彼女に|弄《もてあそ》ばれただけだと分ったからです。男にとっては|侮辱《ぶじょく》されたと同じですよ」
土田はしかつめらしい顔で言った。
夕子は苦笑して、
「でも、あなただって、まさか本当に、諸井涼子が自分に惚れてるとは思わなかったでしょ?」
と言った。
「思っちゃいけませんか」
「じゃ、あなたは、本当に彼女を愛していたの?」
「もちろんです」
土田は平然としている。
「で、彼女を刺した」
「はい」
「殺すつもりだったのかね」
と私は訊いた。「そうかどうかで、|大《だい》|分《ぶ》違って来るよ」
「分ってます。──あのときは殺すつもりはなかったと思います。ただカーッとなって、気が付いてみると、殺していたんです」
「ふむ」
私は夕子を見た。まるで無関係、という顔で座っている。
「本当だろうね」
と私としては念を押す。
「もちろんですよ」
「嘘をつくと|偽証罪《ぎしょうざい》だよ」
我ながらつまらない言い方である。
「よく承知してます」
「OK」
私はため息をついた。「おい原田、ちょっと土田君を他の部屋へ連れて行って、見ていてくれ」
「分りました」
原田が土田を連れ出す。二人が並ぶと漫才コンビみたいである。
「──どう思う?」
と私は夕子へ言った。
「あなたは?」
「信用できないな。あの女の子をかばってるんじゃないか?」
「それにしては──」
と夕子が言いかけたとき、警官が入って来た。
「失礼します」
「何だ?」
「吉本という男が、お目にかかりたいと──」
「吉本達夫か?」
「はあ。年中TVで見る顔です。見るからに悪党で──」
「そんなことはどうでもいい!」
と私は言った。「早く通せ!」
だが、通すまでもなく、吉本は居間へ入って来ていた。
「どうも」
と、私と夕子の方へ頭を下げる。
TVで見るのとは、ずいぶん違う表情だった。──当り前の話だが。
そこには、一種、厳しいほどの|真《ま》|面《じ》|目《め》さがあった。
「お捜しになっていると思いましたので」
と、吉本は言った。「こちらから、出向いて来ました。自宅にいたのですが、|一《いっ》|向《こう》に逮捕にもみえないもので」
私は面食らって、
「逮捕?」
と訊き返した。
「ええ。当然来ると思っていたんです」
「それはつまり──」
「はい、私が彼女を殺したからです」
こんな短い時間に、それも、二人も自白しに来たのは初めてだ!
「私どもは、ここで働いていた女の子が|怪《あや》しいと思っているんですがね」
「とんでもないことです!」
と、吉本は即座に否定した。「あれはいい子ですよ。そんな、人を傷つけたりできる子じゃない」
「では、あなたの場合は?」
「私ですか。動機は単純です。つまり、彼女に振られたからです」
と、吉本は言って、肩をすくめた。「彼女は浮気な女ですが、しかし、それと分っていても夢中にならずにいられない魅力があるのです」
「なるほど」
「私としては、彼女を殺したといって、彼女を自分一人のものにできたわけでもなし、結局、私の負けだとしか言えません。しかし、罪は|償《つぐな》わなければならないのです」
まるでTVのドラマにでも出て来るような立派な言葉である。しかし、少々立派すぎる嫌いもあった。
「土田という若者をご存知ですか」
と私は訊いてみた。
「もちろん。──彼女の新しい恋人でしょう。いや、だった[#「だった」に傍点]というべきかな」
「彼も、諸井涼子に振られたと言ってるんですがね」
「そうですか。いや回転の早いこと」
と、吉本はため息をついた。
「どう思います?」
「あり得ることです」
「で、彼がもし殺したら?」
「そんなことはあるはずがないじゃありませんか。殺人は一つです。犯人は二人も三人も必要ありません」
こういう問題は、必要をうんぬんするものではないと思ったが……。
「つまり、犯人は自分だとおっしゃるわけですね」
「そうです。言うだけではない。主張します!」
役者らしく──それも一昔前からの──少々芝居がかっていて、派手である。
「ちょっと別室にお引き取りを」
と、ついこっちも芝居がかって来る。
私は頭を|叩《たた》いて、
「どうなってるんだ?」
と夕子へ言った。
夕子は、何やら考え込んでいたが、やがて立ち上ると、居間の中のあちこちをかき回し始めた。
「何してるんだ?」
「ナイフを捜してるの」
「ナイフ?」
「そう。前に[#「前に」に傍点]、諸井涼子が刺されたときの、ね」
「だがあれは──」
「あんな嘘をついて、誰が喜ぶか。たぶん、マスコミでしょうね。真穂さんの作り話にしては手が込んでいるわ」
「じゃ、あれが本当のことだったと?」
「少なくとも真穂さんはそう思ってたと思うの」
「うん、確かに。あのときの恐怖の表情は嘘じゃなかったろう」
「あの、真穂さんの見たのが本当の光景だったとすると……」
「どうなるんだ?」
「光景の方が嘘だったってことになると思うわ」
「何だって?」
「何ですって?」
いつの間にか、居間の入口に、当の真穂が立っていた。
「真穂さん、諸井さんは、あなたに演技のことは教えてくれたの?」
「いいえ、何も」
と、真穂は首を振った。「自分で勉強しなさい、って言われただけでした」
「そうでしょうね」
夕子は肯いた。「あたかも本当にそこにいるかのように。──それが、演技の基本だと彼女は考えたんじゃないかしら」
「じゃ、あの騒ぎは──」
「マスコミ受けと、真穂さんへの演技指導をかねた芝居だと思うわ」
「でも、私、先生を刺したんですよ」
「ナイフはどこにあったの?」
「そのテーブルの上です」
「まるでおあつらえ向きに、そこにあったっていうわけね」
「そうか」
と私は肯いた。「撮影用[#「撮影用」に傍点]のナイフだな、刃が引込むやつ」
「その通り──本当の凶器のナイフを見せてくれる?」
私が布にくるんだナイフを取り出すと、夕子はそれを眺めていた。
「──よく調べれば、これも、もともとは、撮影用の、トリックのあるナイフだと分ると思うわ」
「だがそいつは刺さってたんだぜ」
「先を|研《と》いで、それから、引込む機構の部分に、金属用の接着剤を流し込んで固めてしまったのよ。少し匂いがするわ」
「何だって、じゃあ……」
私は唖然としていると、夕子は、真穂の肩を抱いて、
「ねえ、あなたに話があるんだけど……」
真穂はキョトンとして、夕子の話に聞き入っている。
「──さあ、入ってくれ」
と私は土田を居間へ入れた。
「やあ」
土田は、真穂を見て、ちょっと笑顔になった。「色々僕をかばってくれてありがとう。君とのことは忘れないよ」
「土田君!」
真穂は立ち上ると、「やめてよ、変な英雄心を出しちゃって。──黙ってれば私が捕まったのに」
土田は首を振って、
「僕は、君のためなら、どんなことになったっていいよ」
「私……私……」
と真穂は涙で声を詰まらせ、いきなりテーブルに、広げて敷いたハンカチの上に置いてあったナイフをつかむと、「土田君! 一緒に死んで!」
と、土田めがけて飛びかかった。
土田が、
「ワッ!」
と悲鳴を上げて、ひっくり返る。
真穂はその上にかぶさるようにしてナイフを──。
「やめてくれ!」
土田が叫んだ。
ナイフが土田の胸に深々と……。だが、土田はキョトンとしている。
真穂は笑い出した。立ち上ると、
「ごめんね、びっくりさせて。これ、刃が引込むナイフなのよ、撮影用の」
「ああびっくりした」
土田は冷汗を拭って起き上った。「じゃ、それは凶器じゃないんだね」
「いいえ、これが凶器なのよ」
「え? しかし──」
上田は|戸《と》|惑《まど》って、「あれは……。もしそうなら先生は──」
「そうね。生きてるはずだわ」
土田は青ざめた。
「まさか! そんな──」
「どうしてそんなに怖がるの?」
と、真穂は言った。
「自分で、ナイフの|仕《し》|掛《かけ》の所に接着剤を流し込んだからでしょう」
と夕子は言った。
「な、何の話ですか?」
「あなたは、真穂さんの話から真相を察していたのよ。前の事件のね。で、真穂さんを|陥《おとしい》れるために、それを利用して彼女を殺す計画をたてた」
「馬鹿言わないで下さい!」
と土田は憤然として、「僕がどうして先生を殺すんです?」
「金だよ」
と私は言った。「君は吉本から金をもらっていた」
「何の話です?」
「吉本は、諸井涼子の夫だったからね。彼女が死ねば、莫大な遺産が|転《ころが》り込む」
土田はヘナヘナとソファに座り込んだ。
「あなたも吉本も、一見、真穂さんをかばうような告白をしながら、その実、とても信用してもらえないことを承知の上だった。|却《かえ》って、自分たちから疑いがそれるのを|狙《ねら》っていたのね」
夕子の言葉に、土田はうつむいてしまった。真穂は、じっと土田を見ると、
「あなたにはがっかりだわ」
と言った。
「君に何が分る!」
土田は爆発するように叫んだ。「僕は──僕は名声が欲しかったんだ! 金にもならない前衛演劇なんて沢山だ! 僕は成功したかった! そのために金がいるんだ!」
土田は、急に力を失ったように、ストンと腰をおろして、頭をかかえた……。
「成功を夢見る人の悪い所はね」
と夕子が言った。「そのための努力に目がいかないで、結果の華やかさばかり目に入ることよ」
夕子も説教くさくなったもんだ、と私は思った。
土田と、吉本の二人が連行されて行くと、居間には、私と夕子、それに真穂の三人が残った。
「──これからどうするの?」
と夕子が訊いた。真穂は肩をすくめて、
「もう何もかもいやになっちゃった。家へ帰って、布団かぶって寝ていたい」
「あらあら」
と夕子は笑った。「最初の意気込みはどうしたの?」
「だって、あんまりひどいんだもの、世の中って……」
「ねえ、考えてごらんなさい、あの諸井さんが、あなたを震え上らせてまで、あんな死んだ真似の芝居を、あなたのために[#「あなたのために」に傍点]やってくれたのよ。大スターが、あなた一人のために」
真穂は夕子を見上げた。夕子は続けて、
「彼女は、あなたに、『本当に体験すること』の大切さを教えようとしたんじゃないかしら。──あなただって、恐ろしいことに出あったとき、自分がどうするか、今なら分るでしょう? どう演じればいいか」
「ええ」
「ねえ、お芝居だって何だって、人生の経験が、ものを言うのよ。名探偵もね」
私は、笑い出しそうになるのをこらえて横を向いた。
「どんなにいやなことがあっても、辛くても、あなたは、それが将来の芝居のためのリハーサルだと思っていればいいのよ。そう思えば、きっと乗り越えられるわ」
真穂は目を輝かせた。
「リハーサルか。将来のための……。そうですわ! そうだわ。これで私、死体を見付けた人の役、恋人に裏切られる役、殺人事件の容疑者の役ができるわ」
「その年齢で、それだけレパートリーがあれば大したもんよ」
と夕子は、少女の肩を軽く叩いた。
警察官が来て、客が会いたがっている、と告げた。
「しかし、ここの主人は死んだよ」
「いえ、飯塚真穂という人に、と──」
夕子と真穂は顔を見合せた。
案内されて来たのは、中年のパッとしない感じの男だった。
「やあ、飯塚真穂さんだね」
真穂が、アッと声を上げた。
「この人だわ! 先生に会いに来たプロデューサーって!」
「ええ、プロデューサーをやっている富田といいます」
「私に何かご用ですか」
「諸井さんから何も聞いていないのかな」
「先生から?」
と、真穂は首をかしげて、「いいえ、何も──」
「そうか。いや、前から、諸井さんに君のことを推薦されていたんだ」
「先生が私を?」
「うん。見込みのある子だ、と言っていた。で、今度、私のプロデュースするドラマで、ちょうど新人を探していてね、君がいいんじゃないかと相談に来たわけなんだ」
真穂は頬を上気させて、
「私が──ドラマに?」
と呟くように言った。
「うん。悪い役じゃない。君ならぴったりだと思うし。──一度ゆっくり話したいと思ってね」
真穂は肯いた。言葉が出ない様子だ。
「良かったわね」
夕子は、真穂の肩を軽く揺さぶった。それから、その富田というプロデューサーへ、
「彼女の役って、まさか殺人の容疑をかけられるなんて役じゃないでしょうね」
と訊いた。
真穂が吹き出し、夕子も一緒に笑い出した。富田が一人でキョトンとしている。
「富田さん」
と私は言った。「一つうかがいたいんですがね」
「はあ」
「ここへおいでになるときも帰るときも、下の受付を通していませんね。どういうわけです?」
「え?──ああ、それは──」
と富田は目をぱちくりさせて言った。「私はこのマンションに住んでるもんですからね」
第三話 幸福なる殺人
ツイてないときというのは、本当にツイてないものだ。
このところ、
「大学のゼミの活動」
とかいう、どこまで本当か、|怪《あや》しげな理由で、とんとお|見《み》|限《かぎ》りだった永井夕子が、たまたま、よりによってその日に警視庁捜査一課へ電話をかけて来たことがその第一。
そして、たまたまそこにいた原田刑事が、夕子の電話に出たことがその第二であった。
いや、私だって、ちゃんと原田へ言い含めておいたのである。
「いいか、もし夕子から電話があったら、休みだと言わずに、出張だと言うんだ。分ったな?」
原田も、決して私を裏切ったわけではなかった。いや、むしろ忠実過ぎた、と言うべきかもしれない。
「あら、宇野さん、お休みなの?」
と夕子に言われて、
「いいえ。出張だと言え、と言われてます」
と答えたのである。
かくて──その日の昼、十一時過ぎ、息のつまりそうなネクタイを指で|緩《ゆる》めながら官舎を出ると、
「もっと|締《し》めてあげようか」
ニコッと夕子が私の前に立ちはだかったのだった。
「君か! ──ああ、びっくりした」
私はホッと息をついた。といっても、安心したわけではさらさらないが。
「何を|企《たくら》んでるのよ、私に隠れて」
夕子は、二十二歳の女子大生とは思えぬ、|凄《すご》|味《み》のある目つきで私をにらんだ。
「ちょっと、その──出かける用事があって出かけなきゃならないんだ」
「よく分った話」
と夕子は人を小馬鹿にしたような目つきで見てから、一歩|退《さ》がって、私の格好をジロジロ|眺《なが》め回し、「──超格安紳士服のモデルでも頼まれたの?」
「格安で悪かったな」
「何なのよ、めかしこんじゃって。さては、お見合かな?」
と、冷やかすように言う。
「そうだよ」
「──何ですって?」
「ちょっと、お見合なんだ、今日──」
「あ、そう」
夕子は、スカートを|翻《ひるがえ》して、さっさと歩いて行ってしまう。
ここで追いかけたりしては、男として見っともない。行くなら行け。どうせ僕からは離れられっこないんだから。
で──もちろん私は、
「おい、待ってくれ! 説明するからさ」
と、夕子の後を追いかけていたのである。
「仕方なかったんだ」
と、私はくり返した。「何しろ、あのおばさんと来たら、手近に結婚適齢期の男女が一人もいなくなって、がっかりした余りに高血圧で入院したって人なんだから」
タクシーの中は、ちょっとむし暑いくらいだった。もちろん、すっかり暖かくなって来た陽気のせいもあるが、きちきちの背広を着込んでいるせいでもある。
そろそろ、見合の場所、ホテルPに着こうというところだった。
「で、よく考えたら、男やもめが一人いた、ってわけね」
と、夕子がいった。
お見合の場所に恋人がついて来るというのも珍しいに違いない。
「そうなんだ。といって、君のことを話すわけにも……」
四十男が言い訳がましく説明に努めるのも少々見っともないかもしれないが、そこは|惚《ほ》れた弱味というやつである。夕子の方は別に腹を立てちゃいない。むしろ面白がっているのだ。
「いいわ、あなた一人じゃ、緊張のあまり貧血を起すかもしれないから、付き添いってことで」
「おい、待てよ。しかし、話を持って来てくれたおばさんに何と言うんだ?」
「隠し子です、とでも言えば?」
人のことだと思って、気楽に言ってくれるよ!
──ホテルのロビーへ入って行くと、やはりいい季節、それに吉日なのかもしれないが、結婚式の客らしい姿がやたら目につく。
「十二時にここで待ち合せなんだ。まだ二十分ある。ちょっと早過ぎたかな」
と、私は腕時計を見て言った。
「その辺に座ってましょうよ」
と夕子は言った。「心配しなくても大丈夫。相手が現われたら、ちゃんと姿を消してあげるわよ」
「何なら、君をフィアンセです、って紹介してもいいんだぜ」
と、私は夕子の顔色をうかがった。
「だめよ、誰も信用してくれないわ」
「どういう意味だ、それ?」
「深い意味はないのよ、気にしないで」
いつものように、夕子は、はぐらかすように言って、|空《あ》いていたソファに腰をおろした。
──空いていた、といっても、そこ以外はほとんどがふさがっていて、ロビーは大いににぎわっていた。
「凄いわねえ」
夕子はロビーを眺め回して、「これ、ほとんど、結婚式の披露宴に来た人たちよ。|正《まさ》に結婚ラッシュ、って感じね」
華やかに盛装した若い女性たちが、そこここで輪を作って、キャアキャアと笑い声を上げている。花嫁の大学時代の友人、というところだろう。
ソファにどっしり腰を据えているのは、黒の礼服にシルバータイの中年組が多く、ダブルの上下がよく似合うタイプである。
そこここに、久しぶりに会った親類同士の、
「どうも本日はおめでとうございます」
「すっかりごぶさたをいたしまして──」
といった|挨《あい》|拶《さつ》がとび|交《か》っている。
ロビーは高く吹き抜けになっていて、かなりの空間であるが、今はそこも人々の声で埋めつくされている、という感じだった。
私は、四十という年齢のせいもあるのかもしれないが、騒がしい所が|苦《にが》|手《て》である。客に酔う、とでもいうか、そういう取りとめのないワーッというどよめきには、次第に頭痛がして来るのだ。
私は、ちょっと目を閉じた。──あちこちから、言葉の断片が飛び込んで来る。
「いつの間にこんな話がまとまったのか──」
「景気が悪いといっても、披露宴ぐらいわねえ」
「親もたまりませんよ、あなた」
「ねえ、花婿さん、凄く足が短いのよ、びっくりしちゃった!」
「私、|悔《くや》しくって、追い越されるなんて──」
「たった三回会っただけでホテルに行ったんですって……」
「今の若い人たちには|敵《かな》いませんな」
「彼女とは絶対に結婚させません!」
──ん? 私は目を開けた。
夕子が私をつついた。やはり、夕子もその言葉を耳にしたのだ。
「|諦《あきら》めが悪いね、君も」
と、答えたのは、夕子の隣のソファに座っている男で、年齢は五十前後、タキシードに蝶ネクタイというスタイルだが、ホテルの、マネージャーと間違えられることはまずあるまい。
落ち着いた物腰、白髪混りの豊かな髪をなでつけ、知的な風貌は、どこかの大学教授|辺《あた》りかと思えた。
その前に立って、
「彼女とは、絶対に結婚させません!」
と言ったのは、やっと二十二、三という様子の若者で、ひどく目立った。
二枚目だとか、スタイルがいいとかいうことで目立ったのならともかく、その若者の目立つ点といえば、まず、汚れたジャンパーにジーパンという、およそこの場にふさわしくない格好だった。
そして、髪ものび放題、顔も|無精《ぶしょう》ひげが目立って、一歩間違えば地下道の浮浪者という有様である。
その若者の方は、ひどく興奮している様子で、見た目にもはっきり分るほど、固く|握《にぎ》りしめた|拳《こぶし》はワナワナと|震《ふる》えていた。これに対し、ソファにかけた紳士の方は、明らかに冷静そのものだ。
普通なら、こんな場所で、こういう言いがかりをつけられたら、困った表情を見せるものだが、|一《いっ》|向《こう》にそんな風でもなく、若者の、血走った──いや、私の経験から見ると、殺気立ってすらいる視線を、至って|穏《おだ》やかに受け止めている。
「何と言われようと、僕には分ってる! 彼女は僕を愛しているんだ!」
若者の声は、一段と高くなった。
これでは、完全に若者の負けである。周囲から、若者の方に、非難するような視線が集まっていた。
「もう手遅れじゃないのかね」
と、中年紳士の方が静かな口調で言った。「彼女はもう選択したんだ。君でなく、私をだ。それを認めたらどうだい?」
「僕には分ってる」
と、若者は言い張った。
「困ったもんだね、君にも」
と、紳士は苦笑した。「ともかく静かにしてくれたまえ。こういう場所で騒いでは、他のお客に迷惑がかかる。話があるのなら、どこか別の所で聞こう」
若者は、初めて周囲の目に気付いた様子で、ハッとしたように左右を見回した。それからまた紳士の方をじっと見据えて、
「絶対に彼女とは結婚させないぞ!」
と、言い捨てると、足早にロビーから姿を消した。
これは驚いた。──あの若者、恋する女性の父親にでも食ってかかっているのかと思ったら、恋敵[#「恋敵」に傍点]だったわけだ。
それにしても、ずいぶん年齢の違う恋敵同士である。
若者がいなくなっても、少しの間、ぎごちない沈黙が残ったが、すぐに新しい客も加わったりして、ロビーのざわめきは元に戻った。
この光景を、夕子が熱心に見ていないわけはなかった。しかし、まさかすぐ隣に当の紳士がいるというのに、面白かったわね、と言うわけにもいくまい。
「──遅いわね」
と、時計を見て言った。
「まだ十五分もあるよ」
私は肩をすくめて言った。夕子と違って、私は、好んで事件に首を突っ込むという性質ではないのである。
その中年の紳士が立ち上った。そして──私の前に立つと、
「失礼ながら──」
と、声をかけて来たのである。
「はあ?」
「宇野警部でいらっしゃいますね」
私は面食らった。
「確かに。でも──」
「本間警視とは古くからの知り合いでしてね」
と、その紳士は|微《ほほ》|笑《え》んで、「以前、一度捜査一課へお|邪《じゃ》|魔《ま》したことがあるのです。そのときあなたのことが本間君との話に出て──」
「そうでしたか」
本間警視がどう言っていたか、聞いてみたいものだが、まあ、聞かぬが花、かもしれない。
「申し遅れました。私は折原といいます」
と、その紳士は言った。「実は、今日、夕方から、このホテルで結婚式を挙げることになっておりまして」
「それは、おめでとうございます」
「どうも」
と、折原という紳士は、ちょっと会釈をして、「しかし、あまりめでたいとばかりも言っておられないんですよ」
「といいますと?」
「人が死ぬことになるかもしれないのです」
と、折原は言った。
「こちらが、宇野喬一さん」
と、「お|節《せっ》|介《かい》夫人」がいった。
いや、もちろん「お節介」という名なのではない。しかし、こっちとしても、そう呼びたくなるのである。
「宇野です」
仕方なく、私は挨拶した。
ともかく、まるでお話にならない。何しろ、当の見合の相手というのが──全く、どういうつもりなんだ! 何と、十六歳の女の子なのである。
私は年齢から見れば、夕子だって娘みたいなものだが、この女の子は正に娘そのもの、ってところだ。
いくら、女性は十六歳で結婚できるったって、こんな無茶な話があるもんか!
当の「お節介夫人」は、
「この方は年上で、とっても頼りになるから、後は安心してらっしゃい」
と、その女の子の方へニッコリ笑って見せた。
そして、自分はさっさと立ち上って、
「じゃ、私はちょっとご用事があるから、喬一さん、後はよろしくお願いするわね」
と、来たから、こっちもあわてた。
「ちょっと──そんなこと言われても──」
「大丈夫。この子は、年齢のわりにしっかりしてるんだから。年齢の違いなんて、じっくり話し合えば、解決するものよ」
人のことだと思って! 私は|唖《あ》|然《ぜん》として、「お節介夫人」の後ろ姿を見送ったのだった……。
参ったね、もう! ──私としては、正に|困《こん》|惑《わく》の極み、というところだった。
夕子だって、時にはまるで別の世界の生物かと思うことがあるのだ。それが十六歳となったら──もうこれは別の銀河系からやって来た宇宙人と思った方がいい。
その少女は、しかし、至って真顔で、ピョコンと顔を下げると、
「倉田みどりです。よろしくお願いします」
と、挨拶した。
なるほど、この年齢の子にしては、きちんと口をきく子である。だが、紺のブレザーに、赤のスカートという格好、それに丸顔で、まだあどけなさの残る少女だ。
まあ、最近は中年男にも「少女趣味」のある手合がいるようだし、その手の男なら大喜びするかもしれないが、少なくとも私の方は夕子一人で手一杯である。
しかし、「じゃ、さよなら」と別れるわけにもいかないので、
「ええと……みどり……君だっけ」
と、「君」にするか「ちゃん」にするか、迷いながら言った。
「はい」
倉田みどりは、くりっとした目で私の方を真直ぐに見ながら|肯《うなず》いた。
「あの……ねえ、何か食べる? アイスクリームとか、チョコレートパフェとか」
ここは一つ、甘いものでもごちそうしてやって、じゃ、さよなら、とタクシーに乗せてやるしかあるまい、と思ったのである。
「いいえ」
と、倉田みどりは首を振った。「お庭を歩きたいんですけど」
「庭を……?」
「お見合のときって、そうするものなんでしょ?」
「そ、そうだね……。じゃ、少し散歩でもする?」
「はい」
やれやれ。こっちは小学校の遠足について来た先生というところだ。
このホテルには、自慢の日本庭園がある。幸い上天気でもあり、挙式を終えた新郎新婦が、庭へ出て記念撮影をしているのが見られた。
他にも、やはり「見合→散歩」というパターンを|辿《たど》っているらしいカップルがいくつか目についたが、私と倉田みどりを見て、そう思う人は、おそらくいなかっただろう。
「宇野さんって、偉い警部さんなんでしょう?」
と、庭をぶらつきながら、倉田みどりが言った。
「偉いかどうかは分らないけど、まあ警部には違いないね」
「いつも人殺しとか、強盗とかを見てて、人生がいやになることって、ないですか?」
私は少々面食らった。倉田みどりは、いやに深刻な表情で、そう言ったのである。
「さあね……。しかし、人間ってのは、そういう弱い所があるから、またすばらしいんじゃないかな」
「そうですね」
と、少女は肯いて、「本当に、そうですね」
とくり返した。
──どうやらこの少女、あまり幸福ではないらしい。私はそう感じた。
庭園の中の、曲りくねった|小《こ》|径《みち》を歩いて行くと、ちょっとしたベンチらしきものがあった。私は、倉田みどりと並んで腰をかけると、軽く息をついて、言った。
「──ねえ、君、どうして僕なんかと見合することにしたの?」
倉田みどりは、物哀しげな目を私の方へ向けた。
「私が子供過ぎるから?」
「逆だよ。僕が年寄すぎる。──あのおばさんは、ちょっと勝手なところがあるからね。しかし──君だって、見合の相手が、こんなおじさんだとは思わなかったろう?」
「いいえ」
と、少女は首を振った。「私、あなたに[#「あなたに」に傍点]会いたかったんです」
私は、耳を疑った。
「僕に?」
「そうです」
「どうして?」
「助けていただきたくて」
少女の|眼《まな》|差《ざ》しは、真剣そのものだった。
「助ける……。どういうことなんだね?」
倉田みどりは、ちょっと顔を伏せて、ためらっていたが、パッと顔を上げると、
「お願いです! 私、他に頼る人がいないの!」
と言うなり、私に抱きついて来た!
どうなってるんだ? 目を白黒させていると、
「大変よ!」
と声がして──夕子が駆けて来たのである。
そして、私に倉田みどりがしっかりと抱きついているのを見ると、ピタリと足を止めた。
「あら。──お邪魔だったかしら」
と、冷ややかに私をにらみつける。
「いや──ちょっとね。あの──どうしたんだい?」
私は、あわてて、倉田みどりを引き離した。
「お忙しければ、別にいいんですけどね」
「おい、よせよ! 何かあったのか?」
「折原さんの花嫁さんがね、殺されたのよ」
と夕子は言った。
「何だって?」
私は立ち上った。「警察へは?」
「今、連絡してもらってるわ。現場に手をつけないように、ガードマンに見張ってもらって──どうしたの?」
夕子が声をかけたのは、倉田みどりの方だった。少女は真青になって、よろけるように立ち上ったところだった。
「まさか──そんな!」
と、震える声が|洩《も》れた。
「え? 何のこと?」
「ああ、お兄さん! 何てこと、してくれたの!」
倉田みどりは、そう叫ぶなり、再びベンチに腰を落として、すすり泣きを始めた。
私と夕子は、わけも分らず、ただ唖然として、顔を見合せるばかりだったのである……。
とんでもない見合になったものだ。
ホテル側の希望もあって、駆けつけた鑑識班や捜査員は、ホテルの従業員専用の出入口から入って来た。何しろ、他にも結婚式を挙げるカップルが何組もあるのだから、せっかくの門出を、ごたごたで邪魔したくはない、というわけだ。
夕子が知らせに来てから、あれやこれやと混乱が続いて、ともかく一応状況がつかめたのは、一時間もたってからのことだった。
「検視官はまだか」
と、ちょっと|苛《いら》|々《いら》しながら、地元署の刑事へ|訊《き》く。
「すぐに見て来ます」
と、刑事は駆け出して行った。
「ねえ」
と夕子が言った。「もしかして、正面のロビーの辺りをうろついてるのかもしれないわよ」
「そうか。そういうことも考えられるな。よし、見て来よう」
「私、行って来てあげようか?」
「いや、君はあの子をみててくれ」
私が言ったのは、もちろん倉田みどりのことである。どうやら、この一件に、|関《かかわ》りがあるらしい。
もっとも、当人はショックを受けているらしく、何を訊いても答えない。
殺人事件の現場などというものは、大体が混乱していて、TVの刑事ものに出てくるように、何でもかんでもパッと分ってしまうのではない。
現実というのは、実にスマートさとは縁遠いものなのである。
ロビーへ行ってみると、また昼ごろにも増して凄い人。これじゃ|捜《さが》してもむだかな、と思ったのだが……。そうでもなかった。
ひときわ大柄な、原田刑事の巨体が目についたのである。ベルボーイをつかまえて、何やら話している。
「──分らないのかなあ」
と、原田は苛々した様子で、「殺人現場はどの部屋かと訊いてるんだ!」
「殺……人……でございますか」
「何ならアナウンスしてくれよ。館内放送で流せば──」
「おい、原田!」
私は、あわてて声をかけた。
「あれ、宇野さん!」
原田は目を丸くした。「今日はお休みじゃなかったんですか?」
「そのつもりだったが、事件にぶつかっちまったのさ」
「じゃ、夕子さんが一緒だったんですね」
ここまで連想されるとは、夕子も本望だろう。
「検視官を待ってるんだ。一応、こういう場所だから、内密に捜査をするということで──」
「ああ、検視官なら、その辺でふてくされてます。誰も現場がどこか教えてくれないんで」
「何だ、そうか。よし、こっちだ。呼んで来てくれ」
しかし、手遅れだった。検視官の方も、|業《ごう》を|煮《に》やしたらしい。館内放送がロビーに響きわたった。
「お呼び出しを申し上げます。サツジン[#「サツジン」に傍点]・ゲンバ[#「ゲンバ」に傍点]様、サツジン・ゲンバ様、おいでになりましたら、フロントまでご連絡下さい」
「被害者は、野木美沙子。二十一歳。──若いなあ」
私はため息をついた。
「私より一つ年下なのよ。信じられないわ」
夕子が、ちょっと感傷的な口調になって言った。「だけど、どうしてこんな所で?」
そう。──ちょっと妙な場所だった。
野木美沙子は、折原浩哉と挙式を済ませた。そして、写真撮影のためにスタジオへと入ったのである。
「そのとき、ホテルの従業員が呼びに来たのです。私あてに電話が入っている、と」
折原浩哉が説明した。「私は自分で事業をやっています。海外との取引も多いので、夜中も明け方も構わず、電話が入るのです。結婚式といったって、電話があっておかしくはありません。それで、彼女を先にスタジオへ入れて、この階のロビーへと急いで行ってみました」
妙だといえば、この、花嫁を殺された男の方も、妙だった。いや、年齢の違いはともかく、あまり悲しみに打ちひしがれているようには見えないのだ。
むしろ、至って落ち着き払っているように見える。
「で、電話は本当にかかっていたんですか?」
と、私は訊いた。
「分りません」
と、折原は肩をすくめた。
「それはどういう意味です?」
「ロビーへ行って、案内係のカウンターの所にいた女性に、電話がかかっているはずだがと訊いたのです。しかし、そこにはかかっていなくて──」
「妙な話ですね」
「交換台へ問い合せてもらいました。すると、それらしい電話がかかったようなのですが、ここへつながない内に切れてしまったというのです」
「なるほど。それで?」
「私は、そこで少し待っていました」
「待つ、というと……」
「もう一度電話がかかるかもしれないと思ったのです」
と、折原は淡々と話を進める。「海外からの電話などは、よく、急に切れてしまったりすることがあります。この電話もそうかもしれないと思いましてね」
「なるほど。──で、結局電話は?」
「かかって来ませんでした」
と、折原は首を振った。「そして、このスタジオへ戻ってみると──」
「待って下さい」
と、夕子が口を|挟《はさ》んだ。「どれくらいその電話を待っていたんですか?」
折原が、ちょっと小首をかしげて、
「さあ……。正確にはよく分りません。三、四分というところじゃないでしょうかね」
「で、戻ってみると、野木美沙子さんが殺されていた、というわけですね」
スタジオは、ガランとした空間である。
奥に、ライトに照らし出されて、白いウェディングドレスに身を包んだ花嫁の姿があった。椅子にかけ、白いブーケを手にしている。
そして、ヴェールに半ば|覆《おお》われた頭が、横に傾いて、まるで眠っているように、目を閉じていた。しかし、彼女は眠っているわけではない。
白いウェディングドレスの胸の辺りに、鮮やかに赤く、血が広がっている。
刺されたのだ。
──その白と赤の、あまりにみごとなコントラストは、いささか不謹慎な言い方ではあるが、美しくさえ見えた。
本当なら、あの傍に折原浩哉が立って、二人の記念写真が出来上るはずだったのだ。
「──こんなことになって、大変お気の毒です」
と、私は言った。「いくつかおうかがいしたいこともあるのですが」
「構いません」
と、折原は肯いた。「ただ、披露宴に招待した方々を、ずっとお待たせしているので、事情を説明して、お引き取り願おうかと思うのですが」
「結構ですよ。何なら、私の方から、事件の説明をしましょうか」
「いや、大丈夫。私がやります」
折原は、スタジオから出て行った。
夕子と私は何となく顔を見合せた。おそらく、思いは同じだろう。
「いやにあっさりしてるわね」
夕子が口に出して言った。
「うん……」
「男なんて、あんなものかもしれないわね」
「おい、どういう意味だ、それは?」
「別に」
と、夕子はとぼけて、検視官の方へ向いた。「どうですか? 即死でしょうね、やっぱり」
「そうだな」
夕子とも、すっかり顔なじみになっている検視官は、ちょっと首をひねった。
「何かおかしいことでもあるのかい?」
と私が声をかけると、
「うむ……。まあ、おかしいと言えばおかしい、という程度なんだが」
「というと?」
「確かに胸の刺し傷が致命傷になっているには違いないんだが、必ずしも即死とは思えないんだよ」
「ほう。すると──」
「何分かは、息があったと思うんだ。どれぐらいだったとは、はっきり言えんが、しかし、助けを呼ぶくらいの力はあったと思うんだが……」
夕子が、この話を聞いて、|俄《が》|然《ぜん》、目を輝かせたのは言うまでもない。
「ねえ、このスタジオに、カメラマンはいなかったの?」
と私の方へ訊いて来た。
「それを今、調べてるんだ。カメラマンが来ると思うんだが」
夕子は、静かに息絶えている花嫁の方へと歩み寄った。そして、床にかがみ込んだりして、しきりに肯いたり首をひねったりしている。
「──どうかしたのか?」
と、私も夕子の傍に膝をついた。
「ねえ」
と、夕子は言った。「殺されたことある?」
「あるわけないだろ!」
「でも、被害者の気持になってみることはできるでしょ? ──ここに座って、刺される。なぜ?」
「なぜ、って?」
「考えてみてよ。花嫁と花婿がここへ入って来る。そして、花婿は、電話だと呼び出されて行ってしまう。──残った花嫁は、ここに座って待っている」
「それは当然じゃないか」
「そこへ誰かが入って来る。──もし、それが危険を感じさせられるような人間なら、彼女はのんびりここに座ってなかったと思うの」
「しかし、実際には──」
「そう。野木美沙子は、ここで[#「ここで」に傍点]刺されている。周囲にも血の落ちた跡は全くないわ。つまり、彼女はここで刺され、ここで死んだのよ」
「しかし、即死じゃなかった」
「そこなのよ」
夕子は肯いた。「もし、刺されて、まだ意識があったのなら、なぜ、助けを呼ぼうとしなかったのかしら? 少しでもスタジオの出口へと近づいて行こうとしなかったの?」
「分らんね」
「──それにね、彼女の顔も気になるの」
「顔?」
「見てよ」
夕子は立ち止ると、花嫁の顔に少しかかっていたヴェールをそっと指先で持ち上げた。
「──穏やかな顔だな」
「そうよ。微笑んでさえいるじゃない」
確かに、夕子の言葉通り、野木美沙子は、かすかに笑みを浮かべているように見えた。
もっとも、本当に微笑んでいたのかどうか、それは何とも言えないが、刺し殺された被害者にしては、|苦《く》|悶《もん》の表情が見られないという点は、珍しかった。
「私、殺された経験はないけど」
と、夕子が言った。「少なくとも、もう少し悔しそうなとか、悲しそうな顔で死ぬのが当然だと思うわ」
「殺されかけたことは何度もあったけどな」
と、私は言った。
「茶化さないで」
夕子がジロリとこっちをにらむ。私はあわてて目をそらしたが──。
「やあ」
倉田みどりが、スタジオの入口に、黙って立っていたのだ。
まだ顔は少し青ざめて、目は泣きやんだばかりで|脹《は》れぼったかったが、|大《だい》|分《ぶ》気を取り直した様子だった。
「大丈夫かい?」
と声をかけてやると、
「もう大丈夫です。ご迷惑かけて、すみませんでした」
と、頭を下げる。
「ねえ」
夕子が歩み寄って、「あなた、この事件とどういう関りがあるの? 話してくれない?」
いくら恋敵(?)とはいえ、そこは若い娘同士である。倉田みどりの方も、どこかホッとした表情で、肯いた。
「兄は──倉田安宏というんですけど──前に、この人と婚約していたんです」
夕子が野木美沙子の方へ目をやって、
「あの花嫁さんと?」
「ええ。でも、結局、あの人の方から|断《こと》わって来て……。兄は、すっかりおかしくなってしまったんです」
これはどうやら……。私と夕子は、ちょっと目を見交わした。
ロビーで、折原に食ってかかっていた、あの若者が、この少女の兄らしい。
「君が僕に会いたいと言ったのは、そのことがあったからなの?」
と、私は倉田みどりに訊いた。
「はい」
と、少女は肯いて、「私、兄が思いつめているのに気が付いてました。何とかしなくちゃと思ったんですけど、どうしていいか分らなくて……」
「ご両親は?」
と、夕子が訊く。
「父も母も、五年前に死にました」
と、みどりは言った。「だから、私、ずっと兄と二人で暮らして来たんです」
なるほど、この少女の、年齢に似合わない大人びた落ち着きは、そのせいだったのか。
「じゃあ、お兄さんのことが心配だったわねえ」
「兄は、ともかく私を高校に入れるのに必死でした。──そして私が入学すると、ホッとして……、そんなとき、あの人に会ったんです」
「野木美沙子さんね。あなたは、彼女のことを知ってたの?」
「はい。何度か会っていました。とてもいい人で、私も、兄があの人と結婚してくれたらと思っていたんです」
「なぜ、彼女が婚約を|破《は》|棄《き》したんだろう?」
と、私は言った。「しかも、およそ、年齢のつり合わない折原さんと──」
「あの人、私、大嫌いです」
と、みどりは、初めて感情を表に出した。
「折原さんは、君のお兄さんと……」
「兄が勤めていた会社の社長さんなんです」
「雇い主、というわけか」
「兄が、美沙子さんとの結婚の仲人を頼みに折原さんの所へ行ったのが、半年くらい前のことです。──その一カ月後に、兄は、理由もなく、会社をクビになりました」
「じゃ、折原さんが、野木美沙子さんに惚れた、というわけね」
「兄はそう思っていました。だって、クビになって次の日、美沙子さんから、結婚の話を、なかったことにしてくれと言って来たんですもの」
「それで、君の兄さんは、折原さんと彼女を恨んでいたんだね」
みどりは、直接答えなかった。
「──ともかく、今日、ここで式があることを、兄はどこからか聞いて来ていました。何とかしないと、とんでもないことになるかもしれない、と、私、気が気じゃありませんでした……」
「そこへ、あのおばさんが話を持って行ったんだな」
「ええ。私、それどころじゃないから、と断わろうと思ったんです。でも、相手の方は、警視庁の有名な警部さんだとうかがって、それなら、力になって下さるかもしれない、と……」
「ちょっと手遅れだったようだね」
と、私は言った。「もちろん、お兄さんがやったのかどうかは、まだ分らない。捜査する方としては、あくまで白紙の状態だからね。しかし、話を聞かせてもらう必要はある」
「ええ、分ります」
「お兄さんが今、どこにいるか、知っているかね?」
「たぶん……このホテルの中にいるんじゃないかと思います」
倉田みどりがそう言ったとき、
「どうも、お待たせしました」
と、折原が入って来た。
みどりが、敵意をこめた眼差しで、折原を見つめた。
「何だ、君は、倉田の妹じゃないか」
折原は、ちょっと目を見開いて、言った。「自首して来たのか?」
「あなたが美沙子さんをとらなかったら、こんなことにならなかったんだわ」
と、みどりが言った。
「兄妹で、よく似たもんだ」
折原が小馬鹿にしたように笑った。「分らず屋だってところもそっくりだな」
みどりが頬を|紅潮《こうちょう》させて何か言おうとしたとき、原田が顔を出した。
「宇野さん、ちょっと──」
「何だ?」
廊下へ出ると、原田が困った様子で、
「ちょっと騒ぎになってるんですよ」
と言った。
「事件のことか? まあ仕方ないだろう。どうせ報道の連中が来れば──」
「そうじゃないんです」
「じゃ、一体何だ?」
「何だか変な奴が、このホテルの一番上の階から飛び降りようとしてるんです。下じゃ、|野《や》|次《じ》|馬《うま》が集まって──」
「何だと?」
もしかするとそれは……。
「倉田安宏じゃないの?」
夕子が、ヒョイと出て来て、言った。
原田が目をパチクリさせて、
「どうして名前まで分るんですか? 凄い超能力ですね」
と言った。
「──間違いない」
私は、双眼鏡を夕子に手渡した。「あの男だよ」
夕子が、ホテルの最上階の窓の外に、|貼《は》りつくように立っている男へと、双眼鏡を向けた。
「えらい騒ぎになったな」
と、私はため息をついた。
もちろん、ホテルの前は、人だかりがして、警官が必死で整理に声をからしている。
「しかし、これで決りだな」
と、私が言うと、夕子は双眼鏡から目を離した。
「何が?」
「いや、つまり、倉田安宏が犯人だということさ」
私は|戸《と》|惑《まど》った。
「そう、って……。他に、あんなことする理由が考えられるかい?」
「考えられないの?」
素直に意見を述べようとしないのは、夕子の──いや、名探偵という人種に共通の、悪い癖である。
「じゃ、君はどうして──」
と言いかけたとき、原田が、ドタドタと足音をたててやって来た。
「原田さん、そっと歩かないと、震動で、あの人が落ちるかもしれないわよ」
と夕子がからかった。
「気を付けます」
原田が真顔で肯く。「宇野さん、どうしましょうか?」
「消防署には連絡したのか?」
「こっちへ向ってるはずです」
「しかし、あの高さから飛び降りたら、どうしたって助からないな」
「はしご車も来ると思います」
「届くか? 無理だろう」
「じゃ、どうします?」
「話をするしかあるまい。説得して、中へ戻らせるんだ」
「でも、窓は開かないんですよ」
そうなのだ。倉田安宏は、非常階段へ出て、そこから足を伸ばし、窓の外側の、狭い|出《でっ》|張《ぱ》りに立ったのである。つまり、連れ戻すにしても、その方法がむずかしいのだ。
「屋上からロープを下げて、吊り上げるしかないだろうな」
と、私は言った。
「つり針[#「つり針」に傍点]でもつけるんですか?」
「本人が、ロープにつかまる気にならなきゃ仕方ないさ」
「ここでしゃべってても、説得はできないわよ」
と、夕子が冷やかすように言った。
「よし、行こう」
「待って」
と、夕子が言った。「みどりさんを連れて行った方がいいわ」
「そうか。しかし、逆効果になる心配もあるぞ」
ああいう場合、人間の心理は、必ずしも理屈通りにいかないのである。
「ともかく、待機だけはしてもらっておいた方がいいわよ」
私も、それには異存がなかった。
倉田みどりは、青ざめた顔で、私の話を聞いていたが、黙って肯くと、私たちと一緒に歩き出した。
──私も別に高所恐怖症というわけではないのだが、非常階段に出ると、さすがに足がすくむ。
「凄い」
夕子が下を|覗《のぞ》き込んで目を丸くした。「迫力あるわね」
「感心してる場合じゃないよ」
「それにしても、倉田って人、よっぽど身が軽いんだわ」
それはそうだろう。いくら必死になっているといっても、ここから、窓の出張りに立つのは、相当の離れ|業《わざ》である。
「おい、倉田君だね」
と、声をかけると、例の、ちょっと薄汚れた若者は、キッとこっちをにらんだ。
「近寄るな!」
と、叫び声を上げる。
「頼まれても近寄らないよ」
と、私は、非常階段の手すりにもたれて、気楽に声をかけた。「どういうつもりなんだね?」
「──あんた、誰だい?」
「なるほど、自己紹介を忘れてたな」
私は頭をかいた。「宇野というんだ。宇野警部。警視庁の者だ」
「警部だって?」
「そう。見えないかね」
「何だって、警部さんなんかが、こんな所へ来たんだ?」
「そりゃ、君と話をしたいからさ」
夕子が、じりじりしたように、
「ちょっと──」
と口を挟んだ。「私が話すわ」
倉田安宏は、夕子を見て、ちょっと面食らった様子だった。
「あんたも刑事?」
「私は顧問よ」
夕子は勝手な肩書をつけて、「ねえ、あなたの望みは何なの?」
「あんたに話したって──」
「野木美沙子さんのことでしょう?」
倉田は、びっくりしたように、
「知ってるのか、彼女を?」
「ちょっとね。──あなたは、どうしたいわけ?」
倉田は、深呼吸をした。地上では、消防車が来て、隊員が駆け回っている。
しかし、倉田は、そんな地上の様子には、一向注意を向けない。
「僕は人を救いたいんだ」
と倉田は言った。
「救いたい?」
「そうさ。不幸になろうとしている人を、助けるんだ」
自分の方が助けられるべき立場なのに、人助けしたいとは、どういうことなのか?
「つまり──野木美沙子さんを?」
「うん」
と、倉田は肯いた。
「しかし──」
と、私が言いかけるのを、夕子は制して、
「彼女が折原さんと結婚するのを、やめさせたいの?」
「そうだよ」
倉田は、少し|穏《おだ》やかになった表情で、夕子を見た。「彼女は、折原に金で縛られているんだ」
「つまり──借金とか?」
「そうなんだ。彼女の家族に、折原は金をどんどん貸した。|到《とう》|底《てい》返せないくらいにね。そして突然、てのひらを返したように、返済しろと言い出した」
「できないなら、美沙子さんを、というわけね」
「そうさ。彼女はとても責任感の強い|女《ひと》なんだ。折原の企みだと分っていても、借りたものは借りたものだから、と、折原と結婚することにしたんだ」
何だか、えらく古風な話だが、まあ、現代でも、全くあり得ないことではあるまい。少なくとも、倉田自身はそれを信じているようだ。
私にも、さっきの夕子の言葉の意味が、やっと分った。倉田は、野木美沙子が殺されたことを知らないのだ。いや、そう装っているとも考えられるが、しかし、そのためにこんな命がけの騒ぎを起す必要はあるまい。
「──じゃ、どうしてほしいの?」
と、夕子が訊くと、倉田は、きっぱりと言った。
「美沙子さんをここへ呼んでくれ!」
──私と夕子は、非常階段から、建物の中へ戻った。
「やれやれ、参ったね」
と、私は息をついた。
「死人を呼んで来るわけにもいかないものね」
「こうなったら、本当のことを教えてやるしかないんじゃないか?」
「信じるかどうか、問題よ。それに、信じたら、|却《かえ》って飛び降りちゃうかもしれないわ」
それもそうだ。といって、他に方法があるだろうか?
倉田みどりが、心配そうな顔で、廊下に立っている。私が事情を説明すると、
「そうですか」
と、肯いた。
「あなたはどう思う?」
と、夕子が訊く。「美沙子さんが殺されたことを知ったら、お兄さんは──」
「たぶん、生きていないと思います」
きっぱりとした口調である。
私は、その|気丈《きじょう》さに感心した。
「あなたが話しても、同じことかしら」
「分りません。でも──私を残して死ぬのには、ためらいがあると思うんですけど」
「そこに賭けるしかないね」
と、私は言った。「ともかく、あんな状態では、長く|保《も》たない。早く何とか手を打たないと」
「もう一つの方法があるわ」
と、夕子が言った。
「何だい?」
「つまり、野木美沙子さんと折原さんが結婚しなきゃいいわけでしょ」
「そりゃそうだけど──」
「美沙子さんの方は、もうここへ連れて来ることはできないわ。でも、もう一人の花婿[#「花婿」に傍点]の方は、生きてるのよ」
「折原かい?」
「そう。折原さんに来てもらって、美沙子さんと結婚するのはやめた、と言ってもらう。──これ、どう?」
「どうって……」
「折原さんが、そんなこと承知するかしら」
と、みどりが不安げに言った。
「僕も無理だと思うがね」
「ものは試しよ。可能性がゼロでない限りは、やってみた方がいいわ」
どうせむだなことだ。私としては、あまり気も進まなかったが、一応、原田に言って、折原を呼びに行かせることにした。
一つには、どうも、夕子が何か考えている様子だったからである。口には出さないが、折原を呼ぶことに、隠れた意味があるらしい。
何しろ、|年《と》|齢《し》は違えど、恋人同士だ。その辺の微妙なところが、ピンと来るのである。
しかし、事はそう簡単には運ばなかった。五分としない内に、原田が一人で戻って来たのである。
「だめです」
と、原田は首を振った。「そんな暇はないと言って、動こうとしません」
「そこをかついで来い」
「ちょっと腹が減ってるんで、力が出ないんです」
「私、行きます」
と、みどりが言った。「兄の命がかかってるんですもの。頭を下げてでも、来てもらいます」
「しかし、君──おい、ちょっと!」
止める間もない。みどりは、エレベーターに乗って、一人で降りて行ってしまった。
「私たちも行きましょう」
と、夕子が|促《うなが》す。「原田さん、折原さんはどこにいたの?」
「スタジオですよ。といっても、TVのじゃなくて、写真を|撮《と》る──」
「当り前だ。お前、あの男の様子を見ててくれ」
「落ちそうになったら、呼びます」
そんな|呑《のん》|気《き》な墜落があるものか。
私と夕子は、エレベーターに乗った。
「──おい、何を考えてるんだ?」
と、私は言った。
「色々よ」
「というと?」
「そんなにしてまで欲しかった花嫁にしては、殺されても、折原はあんまり悲しそうに見えなかったわ」
「それは確かだな」
「おかしいと思わない? いくら何でも、悲しいふり[#「ふり」に傍点]ぐらいはすると思うの」
「うむ。しかし、現実に──」
「だから、もしかすると、折原は本当に[#「本当に」に傍点]悲しがってるのかもしれない、と思うの」
とても夕子の頭にはついて行けない!
エレベーターを降りて、スタジオの方へと歩いて行く。
ドアが開いているので、中を覗き込むと、とたんに、男が飛び出して来て、危うくぶつかりそうになった。
「わっ!」
と、その男が前のめりに転びかける。
「おい、気を付けろよ」
私としては、文句を言う権利がある。ともかくドスン、と尻もちをついたのだから。
夕子がクスクス笑って、
「年齢とともに、反射神経が鈍るのよ」
と、中年心(?)を傷つけた。
「失礼。──警察の人ですか」
と、立ち上ったのは、ジャンパー姿の男で、何となく、職業のイメージがはっきりしている。
「このスタジオの人?」
と、私は訊いた。
「ええ、カメラマンです」
三十そこそこという若さだったが、同じカメラマンでも、報道の方や、芸能人のゴシップを追っかける手合と違って、サラリーマンに近い印象を受ける。しかし、やはり、どことなく他の従業員とは違っていた。
「新川といいます」
と、そのカメラマンは自己紹介した。
「どうして、凄い勢いで、飛び出して来たんですか?」
と、夕子が訊いた。
「それがね──」
と、新川というカメラマンは顔をしかめた。「商売道具のカメラを誰かが|壊《こわ》しちまったんですよ」
「壊した?」
夕子が、目を見開いた。「どうしてですか?」
「知りませんよ。だから頭に来て、犯人を捜そうと──」
「犯人を見たんですか?」
「いいや、別に」
「じゃ、追いかけるわけにもいかないじゃありませんか」
「そりゃそうですけど」
と、新川は不満気である。
「どんな風か、見せて下さい」
と言いながら、夕子は、さっさと中へ入って行く。
私もスタジオへ入って行った。──カメラは、見るも無残な壊され方で、これでは、カメラマンが怒るのも、当然と思えた。
「ひどいですねえ」
夕子はむしろ楽しそうだ。「こんな風に壊すの、って、大変でしょ?」
「そうですね。ここまでやるのは、手間がかかるでしょう」
「すると変ね」
と、夕子は私の方へ言った。「なぜ、人に見付かる危険まで|冒《おか》して、そんなことをしたのかしら」
「カメラを憎んでる奴だ」
夕子は私を馬鹿にしたような目つきで見た。
「新川さん、でしたね」
と、夕子は言った。
「ええ」
「殺人事件のことは、ご存知でしょう?」
「もちろん。おかげで、このスタジオ、使えなくなりますよ」
と、新川はふくれ面。
「殺された花嫁さんの写真は、撮りましたか?」
「いや、まだでした。セットして、待っていたんですが、何だかご主人の方が、電話だと言われて、出て行きました」
「で、あなたは?」
「ちょうど、僕も電話する用事があったので、ここを留守にしました」
「じゃ、花嫁さんは一人で、ここにいたわけですね」
「そういうことですね」
と、新川は肯いた。
夕子は壊されたカメラの方へかがみ込んで、じっと見ていたが……。
「新川さん、このカメラ、いつでも撮れるように、セットしてあったんですね?」
「ええ」
「フィルムなしで[#「フィルムなしで」に傍点]?」
「何ですって?」
「フィルムが入ってませんよ」
新川は、夕子と一緒にかがみ込んでいたが、
「本当だ!」
と声を上げた。「でも、何も撮ってないのに……」
「フィルムを盗むために、カメラを壊したのかもしれませんよ」
「そんなことしなくても、フィルムだけ抜き取って行けばいいじゃないか」
と、私は言った。
「そう。でも、そうしなかったのよ」
「なぜだ?」
「たぶん……フィルムがなくなったことを、気付かれないように、かしらね」
夕子は、ゆっくりと肯きつつ言った。
私は面食らって、
「しかし──何も[#「何も」に傍点]撮ってないフィルムを持って行って、どうするんだ?」
「何か写ってたのかもしれないわよ」
と、夕子は言った。「新川さん」
「はあ」
「これ、大きいけど、普通のカメラと同じように使えるんでしょう?」
「ええ……。最近はこういう大型カメラで充分性能が良くなっていますからね。|扱《あつか》い方は同じですよ。|上《う》|手《ま》くとれるかどうかはともかく」
「すると、誰かが、あの花嫁の写真を撮った、っていうのかい?」
「それとも、犯人[#「犯人」に傍点]の、ね」
と、夕子は言った。
スタジオから廊下へ出ると、ちょうど折原がやって来た。
「やあ、こちらでしたか」
と折原は私と夕子の顔を見て、「彼はどうしました? もう飛び降りましたか」
「まだですわ、残念ながら」
と、夕子は、ちょっと皮肉っぽく言った。
「そうですか。──私は、彼と話をする気にはなれません」
「それはいいんですけど、みどりさんとお会いになりませんでした?」
「みどり?──ああ、あの妹ですね。いや、会いませんよ」
「あなたに話に行くと言って──」
「いくら言われても同じですよ。あの男だって、子供じゃない。自分で死にたいというのを、止めることはできません」
「それはそうかもしれませんが、放っとくわけにも行きませんのでね」
と、私は言った。「ところで、このスタジオにおられると思ってましたが」
「ええ。でも、やはり彼女が殺された現場ですから、あまりいたくないので──」
「カメラに|触《さわ》りませんでしたか」
「カメラ?」
と、折原はけげんな顔で、「いいえ。どうしてです?」
「ちょっとカメラを壊した人がいるんです」
と夕子が言った。
「いや、手も触れませんよ。それに、まだ、刑事さんたちがいましたからね」
それはそうだ。カメラを壊した人間は、刑事たちが出てから、ほんの短い間に、やってのけたのに違いない。
私は、このフロアの従業員を何人かつかまえて、誰か見かけなかったかと訊いてみたが、結局、何の手がかりもなかった。
「──参ったね」
と、私はため息をついた。
「どうするの? 倉田安宏の方も、早く何とかしないと──」
「仕方ない。事実を話して説得してみるか」
「そうね。──でも、何か他に手を打っておかないと」
「屋上からだ。ロープで誰かがぶら下がって、あいつを捕まえるしかない」
危険だが、他に方法はなかった。屋上からだと、そう距離はない。
「誰がやるの?」
「そうだな。原田……」
「あの人が?」
「無理か」
あの体重を上から引張りながら降ろすことを考えると、それだけで諦めざるを得ない。
「じゃ、誰か若い奴に行かせるさ」
と私は言った。「──俺はだめだ」
「そう?」
「そうさ」
「どうして?」
「じゃ、君は俺が死んでもいい、と……」
私は言いかけて、ため息をついた。
どうやら、ここは私がやるしかなさそうである。
「静かにしろよ」
と、私は低い声で原田へ言った。
「はい。でも、宇野さん」
「何だ?」
「遺言はありますか」
──風が吹き上げてくる。
屋上に出て、私たちは、靴を脱ぎ、足音をたてないようにして、倉田がへばりついている窓の真上辺りへと近づいて行った。
ロープを手に、原田が続く。
もちろん、いざ、ぶら下がるとなったら、原田の他に、二、三人の刑事が必要だ。
へりからそっと顔を出すと、ちょうど真下に、倉田の頭がある。
ちょっと手を伸ばせば、届きそうな気がするが、そうはいかないのだ。──まず三メートル以上の距離があるはずである。
倉田と話をして、注意をひきつける役は、夕子がやることになっていた。
「大丈夫。私の魅力でひきつけておくから」
と、夕子は自信たっぷりであった。
ただ、気になるのは、倉田みどりがいないことだった。どこへ行ったのか、姿が見えないのだ。
夕子が、非常階段に姿を見せた。
「ねえ、倉田さん」
と声をかける。
「彼女を呼んでくれ!」
と、倉田は、上ずった声で言った。
かなり緊張している様子だ。こっちだって、|遥《はる》か下に広がる野次馬や、救急車、パトカーの集団を見下ろして、いい気持はしない。
夕子は、いともリラックスした様子で、階段の手すりにもたれていた。
全く、こういう状況になると落ち着いてしまうという、不思議な才能の持主なのである。こっちにも少し分けてほしいくらいだ。
「倉田さん、お話があるのよ」
と、夕子が言った。
「彼女以外とは、話をしない」
「そう言わないで。──美沙子さんとは、もう話ができないの」
「どういうことだ?」
「彼女、死んだのよ」
──倉田は、長い間、何も言わなかった。それから、大きく息をついた。
「嘘だ。そんなでたらめを──」
「本当よ。花嫁姿のまま、死んだのよ」
夕子は、淡々と話をしている。「だから、パトカーが沢山来ているでしょう」
「あれは僕の──」
「あなたのためだけに、そんなに何台もパトカーが来やしないわ」
よし、その調子だ。私は、原田の方へ肯いて見せた。
原田が、ロープを輪にして、私の首に──いや、胸にかける。
が、振り向くと、他に誰も来ていないのだ。
「おい!」
と、私は声を殺して、「他の奴はどうしたんだ!」
「あそこで待ってる、と言ってましたよ」
私は目を丸くした。
「冗談じゃない! お前一人で──」
「嘘だ!」
と、倉田の叫び声が耳を打った。
「本当のことなのよ」
と、夕子が言っていた。「あなたのことが、美沙子さん、忘れられなかったんだと思うわ。だから、あなたのために、花嫁姿になって死んだのよ」
倉田が、よろけた。──危い!
こうなったら、のんびりしてはいられない。
「おい、行くぞ」
と、私は言った。
「そうですか。じゃ、お気を付けて」
原田は、いとも気楽に言った。
「しっかりロープをつかんでろよ」
「|任《まか》せて下さい」
と、原田は肯いた。
私はそっと、へりから足を出したが、ふと思い付いて、
「おい、原田」
「はあ」
「お前、何か食べたか?」
「ええ、今、ハンバーガーを」
「そうか」
少し安心して、私は、両足を外側へ出し、へりに腰をかけた格好になった。
風が強いので、それだけでも、よろけそうだ。──倉田が今まで落ちずにいるのも、不思議なくらいである。
「おい、行くぞ」
と、原田へ声をかける。
「はい」
原田がロープを体に巻きつけ、ぐっと足を踏んばった。──こうして見ると、なかなか頼りになる。
私は、そろそろと体をずらして、ロープをつかみながら、ぶら下がった。そのとき、急に突風が吹き上げて来た。
倉田の体が揺れる。
「早く降ろせ!」
と、私は叫んだ。
ロープがゆるんで、私は一気に落下した。危機一髪、私は、倉田の体を、抱き留めた。
「しっかりしろ!」
と大声で|怒《ど》|鳴《な》って、倉田を窓へと押し付ける。
非常階段へ、刑事たちが飛び出して来た。
「あそこまで飛ぶんだ!」
私は全身の力をこめて、倉田の体を支えた。「いいか? ──それ!」
倉田の体を、ほんの一瞬でも、両手で抱きかかえたのだ。凄い重さで、もうだめか、と思った。
しかし、階段の手すりから身を乗り出した刑事たちが、がっしりと倉田の体をつかまえていた。
──やった!
私は体中で息をついた。そして、自分も非常階段へと|転《ころが》り込んだ。
「──OK! 原田! ロープを離せ!」
と怒鳴ると、原田の顔が覗いた。
「宇野さん! 大丈夫ですか!」
「ああ、何とかな」
「こっちは、また腹が減りました!」
私は笑い出していた。
──倉田は、階段に座り込んで、|喘《あえ》いでいる。
「大丈夫か?」
と声をかけると、倉田はゆっくり顔を上げた。
「──本当に彼女は死んだんですか?」
「ああ、そうだ」
倉田は、深々と息を吐き出した。
「何てことを!」
私は、夕子と顔を見合せた。
「──しかし、事件の方は、一向に解決してないぞ」
「そうね。でも……」
と、夕子は首をかしげた。「もう、|大《おお》|詰《づ》めに来てると思うわ」
「何だって?」
「──お兄さん」
と声がした。
倉田みどりが立っていた。
「みどり……」
「飛び降りなかったの?」
みどりの表情は奇妙だった。青ざめて、こわばっている。何か、固く決心したような顔だ。
「みどりさん」
と、夕子が言いかけると、みどりは、兄の方へと歩み寄った。
倉田は立ち上って、
「心配かけて悪かったな」
と言った。「もう大丈夫だ」
「そう」
と、みどりが肯く。
なぜか、少しも|嬉《うれ》しそうではないのだ。
「どうかしてたんだ、俺は」
倉田は、みどりの肩に、両手をかけた。
「お兄さん」
みどりが、真直ぐに兄を見つめた。
「うん」
そして──あまりに突然のことだった。
みどりが、両手を倉田の胸に当てると、全身をぶつけるようにして、力一杯、突き飛ばしたのだった。
倉田は大きく後ろにのけぞった。手すりにぶつかる──と思うと、倉田の姿は、消えていた。
「おい!」
私が駆け寄ったとき、もう、倉田の体は、遥か下の地上へと|叩《たた》きつけられていた……。
「──申し訳ありません」
みどりが、頭を下げた。
ホテルの部屋の一つで、ソファに座って、やっとみどりが口を開いたのである。
「あなた、分ってたのね」
と、夕子が言った。「お兄さんが美沙子さんを殺したんだってことが」
「はい」
私はため息をついた。
「どういうことなんだ?」
「私、この人を見て、すぐに分ったわ」
と、夕子は言った。「この若さで、こんなにしっかりしていて、甘えたところもない。──きっと、お兄さんの方は、頼りない、弱い性格の人なんだな、と思ったの」
なるほど、そう言われてみれば、その通りかもしれない。
みどりは、しっかりせざるを得なかったのだ。
「兄は、何度も、そういうトラブルを起していました」
と、みどりは言った。「弱い人なんです。でも──いい人でした。いい人なんだけど……」
と、声を詰まらす。
「分ってるわ」
夕子がやさしく肯いた。「──どうして、姿を消していたの?」
「写真です」
「写真?」
「あのスタジオへ行ったとき、折原さんはいなかったので、待っていました。──そして、ふとカメラに気が付いたんです」
「撮ってあったのね」
「はい、私、写真部にいたことがあるので、フィルムが巻き上げられているのが分りました。もしかすると、美沙子さんが写っているのかもしれない、と思って、フィルムを巻き戻し、取り出したんです」
「カメラを壊したのもあなた?」
「壊した?」
みどりは、けげんな顔で、「いいえ。知りません、それは」
「そう。それならいいの。で、フィルムを持って──」
「現像してくれる所を捜して行ったんです。そして、至急、やってみてくれって……」
「出来た写真を見たのね」
「はい」
みどりは、印画紙に焼きつけた写真を、取り出した。「これです」
──そこには、倉田安宏と野木美沙子が写っていた。
もちろん、倉田は、薄汚れた格好のままである。ウェディングドレスの美沙子とは、奇妙な対照をなしていた。
「美沙子さん、幸せそうな顔をしてるわ」
と、夕子が言った。「彼女は、お兄さんを愛してたのね」
「そうです。でも、折原さんと結婚しなくてはならない、ということになって……」
「お兄さんがやって来て、一緒に死のう、と言った」
「そうだと思います」
「つまり、彼女が幸福そうな顔で死んでいたのは、お兄さんと一緒に死ねる[#「一緒に死ねる」に傍点]と思ったからなのね」
「でも兄には、そんな度胸、ありません。美沙子さんを刺して、怖くなってしまったんだと思います」
「そして逃げ出した。自分が疑われるのは分っていたから、あんな自殺騒ぎを起して、疑いをそらそうとしたのね」
「写真のことは、すっかり忘れていたんでしょうね、怖くて。お兄さんらしいわ。いつでも、どこか抜けてるんです」
みどりは、|寂《さび》しく微笑んだ。
「しかし、それだけで、あんな危い真似をするかい?」
と、私が言うと、みどりが首を振って、
「兄はとても身が軽いんです。あれくらいのことは平気でやります」
と言った。「兄の、たった一つの特技でしたもの」
じゃ、こっちが命がけで助けたのも、まるで無意味だった、ということか! 急に疲労が押し寄せてきた。
みどりは、真直ぐに背筋を伸ばした。
「罪を|償《つぐな》わせて下さい」
「分った。──よく事情を話すんだよ」
と、私は言った。
いつの間にかドアが開いて、折原が立っていた。
みどりが立ち上って、頭を下げた。
「すみませんでした、折原さん」
「いや、話は聞いたよ」
折原は穏やかに言った。「私も、かなり強引に、美沙子を自分のものにした。──兄さんには悪いことをした。君にもね」
「いいえ、兄はどうせ、いつかああなったと思います」
刑事に付き添われて、みどりが出て行くと、折原が、私の方に向いて、
「あの子のことは、私ができるだけ面倒をみますよ」
と言った。
「あなたはいつも損な役回りですね」
夕子が言った。「本当に美沙子さんを愛しておられたのに、亡くなっても、平気な顔をしているんですもの」
「いい|年《と》|齢《し》の大人ですよ。泣きわめくわけにはいかない」
「でも、カメラを壊したでしょう」
折原はちょっと微笑んだ。
「彼女が死んだ現場にいて、ふと、あのカメラが目に止ったんです。──他の幸せなカップルたちをこれで写すんだと思うと、むやみに腹が立ちましてね。弁償しておきます」
折原が出て行くと、私は、
「やれやれ」
と、ソファに体を沈めた。「哀れな事件だなあ」
「お気の毒ね、お見合がこわれて」
「よせよ。──もともと義理を果しただけだ」
「じゃ、もう一つ、義理を果していただくわ」
と言って、夕子は私の方にかがみ込んで、キスして来た。「この部屋、何時まで借りてるの?」
いいムードだった。
ドアが開いて、原田刑事が、
「宇野さん、晩飯を食いましょう!」
と、怒鳴るように言うまでは。
第四話 銀座の殺しの物語
「ねえ、ちょっと、彼女ォ……」
こんな声が聞こえて来て、私はそっちの方を、キッとにらみつけてやった。
「何やってんのよ」
と、永井夕子がクスクス笑って、「凶悪犯でも|捜《さが》してるみたいな目つきよ」
「腹が立つんだ。男があんな甘ったれた言い方をしてるのを聞くと」
と、私は言った。「しかも、やってることといえば、インチキな会員|勧《かん》|誘《ゆう》じゃないか。もっとまともに働こうって気になれないのかな、全く!」
「あなたが一人で怒ってたって仕方ないでしょ」
夕子はソフトクリームをなめながら言った。「せっかく銀座まで出て来て、そんな|仏頂面《ぶっちょうづら》してても面白くないじゃないの」
「しかしね……」
と、四十男としては、色々言いたいところを、私はぐっと|呑《の》み込んだ。
こちらだって、久々の休みだ。何しろ、警視庁捜査一課の警部ともなると、なかなか日曜日に休みを取る、というわけにはいかないのである。
そのまれな日曜日に、恋人の女子大生、永井夕子を連れ出して来たのだから、楽しい顔をしていたいのはやまやまだ。もっとも──銀座の歩行者天国は、春らしい好天に恵まれたせいもあって、大変な人出。
その大部分が、学生らしい若い子たちなのだから、私と夕子のような、多少[#「多少」に傍点]年齢のアンバランスな取り合せのカップルが、ちょっと場違いに見えるのも仕方のないことだった。
「──ね、そこ|空《あ》いたわ。座りましょ」
と、夕子が言った。
車を通行止にした大通りの真中に、丸テーブルと椅子がいくつも出ていて、若い子たちが、ポップコーンやホットドッグをパクついている。そのテーブルも、もちろん一杯なのだが、ちょうど珍しく、歩いているすぐわきの椅子が二つ、空いたのだった。
私も、夕子に付き合って、|大《だい》|分《ぶ》デパートや商店街を歩き回っていたので、反対する理由もなかった。もっとも夕子の方は、例によって、
「年寄りはいたわらなきゃね」
と、皮肉を飛ばしているが、こっちはもう慣れっこである。
しかし、車道のど真中に座っているというのも、何だか妙な気分だった。実際、見回してみても、どこを歩いてもいいはずなのに、車道より歩道をちゃんと歩いている人間の方がずっと多くて、歩道はいやに混み合っているのだ。
人間というのは、そういう点、習慣の動物なのだろう。
私と夕子が座ったテーブルには、あと、十歳ぐらいの女の子と、その母親らしい女性がいた。──女の子は、見るからに|利《り》|発《はつ》そうで、いたっておとなしく、ポテトフライを食べている。
母親の方は、病み上りででもあるのか、少し顔色も悪く、やつれた感じだった。髪もろくに手入れしていないようで、ただ後ろで|束《たば》ねているだけだ。年齢はせいぜい三十五、六だろうが、受ける印象は四十か五十。それくらい、|老《ふ》け込んでいたのだった。
「もう行きましょうね」
と、女の子に声をかける。
「もう少し──」
女の子は、せっせとポテトフライを口に運んでいる。
「さあ、行きましょ。歩きながら食べればいいわ」
と、母親の方が|促《うなが》す。
「──もう、|空《から》っぽ」
と、女の子は、コップ状の空の容器を、キュッと|握《にぎ》り|潰《つぶ》した。「捨てるとこは?」
「持ってなさい。どこかにあるわ」
と、母親は、立ち上って、女の子の手を取った。
「私が一緒に捨てておいてあげるわ」
と、夕子が言った。
女の子が夕子を見た。大きくて、印象的な目だ。ただ──私の気のせいかもしれなかったが──どこか哀しげな目でもあった。
「でも……」
と、母親の方がためらう。
「どうせ、ソフトクリームのも捨てるからいいんですよ」
夕子は|微《ほほ》|笑《え》んで見せた。女の子が、夕子の手に、クシャクシャになった紙の容器を渡す。
「お姉ちゃんが捨てといたげるからね」
「うん」
女の子は|肯《うなず》いて、「おばちゃん[#「おばちゃん」に傍点]、ありがとう」
と言った。
──その母子が歩いて行くのを見送って、夕子は、しばしショックから立ち直れない様子だった。
「参ったなあ、もう!」
と、ため息をつく。
私は笑いをかみ殺して、
「気にするなよ。向うは意識して使い分けてるわけじゃない」
「それにしたってさ……」
と、夕子はふくれっつらで、「このうら若き乙女のどこが『おばちゃん』に見えるのよ、ええ? ──きっとあの子、目が悪いんだわ」
やけ気味で、ソフトクリームの残りを一気に口の中へ押し込むと、女の子の渡した容器を手に立ち上った。
「あの辺の街灯の所に、くず入れがあったよ」
と私は言った。「もう行くのかい?」
「行くわよ。不愉快だわ。何か食べなきゃ」
腹が立つと食欲が出るという|辺《あた》りが、若さなのかもしれない。
こっちは、もう少し休んでいたかったが、まあ仕方ない。夕子の後から歩き出した。
すると──夕子が、ピタリと足を止めたのである。
「どうした?」
「──これを見て」
夕子は、真顔だった。あの女の子が握り潰した紙の容器を、広げている。
「何だか、字が見えたから、広げてみたの」
私は、それを|覗《のぞ》き込んで、思いもかけない言葉に出くわした。──子供らしい、アンバランスな字だが、はっきりと読み取れる字が、ポテトフライの容器に、書いてあったのだ。
〈ママが死ぬのを、とめてください〉
私と夕子は顔を見合せた。
「あの子が書いたのかな?」
と、私は言った。
「分らないわ。でも、違ってれば、それでいいじゃないの」
「よし。──どこに行った?」
「あっちの方だわ」
私と夕子は、急いで、あの母子の後を追った。
しかし、何しろ人が多い。小柄な女性と子供の姿は、人ごみに|遮《さえぎ》られて、まるで見当らなかった。
「まだその辺にいるはずよ」
と、夕子は、人の間をすり抜けて行く。
「どこかの店に入ったのかな」
「さっきの様子じゃ、そんなことないと思うけど……。あれじゃない?」
夕子が指さす。
見れば、少し先の、歩行者天国がちょうど切れる辺りで、あの母子が、街のインチキな勧誘に呼び止められている。
「ああいう連中も、たまには役に立つんもんだな」
と、私は言った。
そして──その母子の方へと足を踏み出したときだった。
突然、けたたましい、自動車のクラクションが、ビルの谷間に響き渡った。キャーッという悲鳴、エンジンの|唸《うな》り。
「何だ、あれは?」
と私は面食らって言った。
ちょうどそのとき、勧誘を振り切った母子が、歩行者天国と交差する通りを渡ろうとしていた。その道は車が通っていたが、今は赤信号だった。
当然、あの母子は、急いで歩き始めたのだったが……。
一瞬の出来事だった。赤信号の通りを、一台の車が突っ走って来たのだ。クラクションを鳴らしっ放しにして、突っ込んで来た。
そして、気が付いたときには、あの母子の、母親の方の体は高々とはね上げられて、路面に|叩《たた》きつけられていた。そのときには、もう車は見えなくなっていた。
風のように、駆け抜けたのである。
「おい……」
いくら突発事件に慣れている私も、とっさには動くこともできずにいた。
「何やってるの! 救急車を!」
夕子の叫びでハッと我に返る。
「電話してくれ!」
私は、ぐったりと、固いアスファルトの上に横たわる母親へと駆け寄りながら|怒《ど》|鳴《な》っていた。
「──やっぱりだめか」
私は、ため息と共に言った。
「奇跡は起らなかったわね」
夕子は、いつもと変らぬ口調である。しかし、私のように夕子をよく知っている者には、夕子が、激しい怒りを覚えていることが分ったはずだ。
とんだデートになったものだ、と私は思った。救急車に一緒に乗り込んでこの病院にやって来たまま、何とか命だけでも助けようという、医師のほとんど絶望的な努力の結果を、二人して待っていたのである。──もう、夜も十時に近い。
「残念ですが……」
と、医師が、くたびれた顔でやって来て言ったのだった。「ご家族の方ですか?」
「いいえ。私は──」
と、証明書を示して、「たまたま近くにおりましてね」
「そうでしたか。しかし、ひどいドライバーですな」
と、医師は顔をしかめた。「ブレーキなんか踏んでもいなかったんじゃありませんか。|凄《すご》い力ではね飛ばされている」
「現場を調べた警官の話でも、ブレーキの|痕《あと》は残っていないそうです」
「今まで、細々とでも、もったのが不思議なくらいですよ」
と医師は言った。「まず、ほとんど即死といっていい状態ですから……」
「あの、ちょっと──」
夕子が医師の方へ言って、廊下の先の方の長椅子に歩いて行った。そこに、あの女の子が横になっているのである。
夕子は、すぐに戻って来た。
「眠ってるわ。──あんまり聞かせたくなかったので」
「そうですな」
医師は肯いて、「子供の方が無事だったのは何よりだ。──犯人は見付かりそうですか?」
「今、捜査中ですが……」
私は言葉を濁した。
もちろん、手がかりがないわけではない。ほんの一瞬ではあるが、私自身も、この目でその車を見ている。しかし、極めて一般的な車種で、かつボデーの色も、ありふれたクリーム色。しかも、私は、車を真横[#「真横」に傍点]から見ているので、ナンバープレートは、全く目に入らなかったのだ。
一応、警察官として訓練された私の目が、それぐらいのことしか見てとれなかったのだから、周囲にいた目撃者たちにも、あまり多くを期待することはできなかった。
医師が行ってしまうと、夕子がいった。
「犯人を割り出せる?」
「うむ。──正直なところ、容易じゃないだろうな」
と、私は首を振った。「車の塗料から、何かつかめるといいんだが」
「でも、何だか変ね」
夕子のお得意のセリフである。
「どこが?」
「一つは、あのポテトフライの容器に書いてあったメモよ」
「ああ。ママが死ぬのをとめてくれ、という……」
「そう。あれをあの子が書いたんだとしたら──いけない!」
夕子は声を上げ、あわてて周囲を見回した。
「どうしたんだ?」
「あれを捨てちゃったわ! あの後の騒ぎですっかり……。ああ、まずかった!」
夕子は|悔《くや》しそうに言った。
「仕方ないよ。あのときは──」
「名探偵は自分に厳しいのよ」
と、夕子は渋い顔で言った。「ともかく、あんなことを書いた直後に、母親が車にはねられて死ぬなんて!」
「そりゃそうだけどね」
「それにもう一つ」
と、夕子は、腕を組んで、「はねた車の方も、気になるの」
「──というと?」
「あんなことするの、よっぽどイカれたスピード狂としか思えないでしょ?」
「そう思うけどね、僕も」
「それにしちゃ、平凡な車だったと思わない?」
「平凡な?」
「そう。そんなスピード狂なら、スポーツカーとか──」
「金がなかっただけかもしれないぜ」
「だとしても、車に、何か、それ[#「それ」に傍点]らしいことをしてると思うの。派手な色に塗るとか、ベタベタ、ステッカーを|貼《は》るとか」
「よくそんなのを見るけどな」
「ね? あんな、平凡な車を、ただふっとばして、しかも、あんな銀座の真中で! 理屈に合わないと思わない?」
「大体、理屈なんて考えない奴なのさ、きっと」
「それだけかしら? ──どうも引っかかるのよね」
夕子は、ちょっと考え込んでいたが、「ここで、あの子を見ててくれる?」
と言い出した。
「君はどうするんだ?」
「捜してみるの。あの、ポテトフライの容器を」
「銀座へ行って?」
「他にどこへ行きゃあるの?」
「しかし──今はもう車が走ってるぞ」
「気を付けるわよ。もうゴミが片付けられてたら、仕方ないけど……」
「一人で行くのか?」
「他に誰かいる?」
夕子がこうと決めたら、どう言ったって、聞きやしない。私は|諦《あきら》めた。
「じゃ、原田にでも電話して手伝わせよう」
「だって、お休みでしょ?」
「なに、ステーキの一枚でもおごると言えば飛んで来るさ」
と私が言った。
すると、そこへ……。
「三百グラム以上のステーキにしてくれますか?」
と、声がしたのである。
私は、まさか、という気持で振り返った。──しかし、見間違いようもなく、そこにはオランウータンが──いや、原田刑事がニヤつきながら立っていたのである。
「お前……。いつから超能力が身についたんだ?」
一瞬、私の|脳《のう》|裏《り》を、マントをはためかせて飛んで来るスーパーマンの映像がかすめた。その顔が原田になっていて……しかし、この重さでは、墜落してしまうかもしれないという気がした。
「そんなもん、身につきやしません」
と、原田は、ポンとお腹を叩いて、「身につくのは肉と脂肪だけでして」
正直な男だ。
「じゃ、どうしてここへ来たんだ?」
「殺しがあったという密告で」
私と夕子が顔を見合せる。
「──この病院で?」
「ここで死んだ女が、被害者だというんです。ええと名前は……」
と、原田が手帳をくる。「これだ。米田良子」
「米田良子……」
夕子は、|呟《つぶや》くように言った。「ね、あの|女《ひと》の持物を調べた?」
「病院の方で、連絡を取るために調べたはずだな」
私たちは、急いで宿直室へ行ってみた。──すぐに分った。
あの母親の持っていたバッグに、手帳が入っていたのだ。
「──米田良子だ」
と、私は肯いて言った。「最後のメモの欄に名前と住所が書いてあるよ」
「殺されたって……じゃ、その車がはねたのは、計画的だった、ってことなのかしら?」
「もしそれが本当ならね」
と、私は言って、宿直の看護婦へ、「この住所へ連絡したんですか?」
と|訊《き》いた。
「ええ。電話番号を調べて。でも、誰も出ないんです」
「誰も?」
「ついさっきもかけたんですけどね」
「番号を教えて下さい」
私は、自分の手帳に、電話番号をメモした。夕子は、米田良子の手帳を一ページずつめくっている。
「何してるんだ?」
「見てるのよ」
「何か、手がかりがありましたか」
と、原田が言った。「夕子さんの目は、私や宇野さんとは大分違いますからね」
「俺まで一緒にするな」
と、私は原田をにらみつけた。
「それじゃ、この手帳が、どこか変だってことに気が付いた?」
と、夕子は言った。
「変だって?」
「去年の手帳よ」
なるほど。言われてみれば表紙の数字は去年のダイアリーであることを示している。
「古いのをずっと持ってたのかな」
「最後の、住所と名前の字をよく見て。──インクが、まだ新しい。一年以上も使ってたのなら、もっと変色してるはずだわ」
「ふむ……」
言われてみると、その通りだ。「じゃ、新しいのが手に入らなくて、ただ、メモ用にしてたのかもしれない」
「中をめくってみて」
私は手帳のページをパラパラとめくった。
「──あんまり使ってないな」
「全然[#「全然」に傍点]、よ」
「全然?」
「住所と名前を書いただけで、他には何も書いてない。──妙だと思わない?」
「うん……」
そこまでは分るが、それをどう解したものか、私は|戸《と》|惑《まど》っていた。
「どうも、これは単純な事故ではなさそうだわ」
夕子は、ゆっくりと振り向いた。──あの女の子が、少し離れて立っている。
「目が覚めたの?」
と、夕子は女の子の方へ歩いて行って、少し身をかがめた。
しかし、夕子は大体小柄な方だし、十歳くらいの女の子となると、|結《けっ》|構《こう》|背《せ》|丈《たけ》はあるので、まるきり大人と子供という風にも見えない。
「──ね、お名前、教えてくれる?」
と、夕子は女の子に訊いた。
「米田マリ」
「そう。マリちゃんね」
「うん。カタカナで、マリ」
女の子はそう言うと、「ママ、死んだの?」
夕子も、そうズバリと訊かれると、返事をしにくいらしい。
「あのねえ──お医者さんが、あれこれ、手を尽くして下さったんだけどね」
「死んだの?」
夕子は肯いて、
「そうよ。ママ、亡くなったの。でも、元気出すのよ」
「平気だよ」
と、米田マリはあっさりと言った。「ママ、好きじゃなかったんだ」
「──あ、そう」
夕子も調子が狂っているらしい。
米田マリは、原田に目を止めると、ちょっと目をパチクリさせて、
「あの人、知ってる!」
と、言った。
「あのおじさんを?」
「うん」
と、マリは楽しげに肯いた。「この間、TVで、怪獣のぬいぐるみかぶってたでしょ!」
「──おーい、あったか?」
と、私は怒鳴った。
「ありません!」
原田の声が返って来る。どうにも面白くも何ともないこだま[#「こだま」に傍点]である。
いくら銀座通りとはいえ、午前五時。やっと、少し明るくなりかけたころである。もちろん、車は結構通っているが、うっかりするとはねられるというほどの交通量ではない。
私と原田は、昨日、あの少女──米田マリが持っていた、〈ママが死ぬのを、とめてください〉と書いた紙の容器を捜していたのだ。
言い出した夕子は、早々と帰ってしまって、結局、私と原田の二人で捜すはめになった。やはり女は得だ!
米田良子がはねられた通りを中心に、その近くのくず入れや、|道《みち》|端《ばた》に落ちている紙くずの一つ一つ、拾い上げては確かめたのだが、ついに、どこにも、あの紙の容器は見当らない。
「だめだな」
と、私は、かがみっ放しで痛む腰をさすりながら言った。
「見当りませんね」
原田は悔しそうに、「中身が入ってりゃ、すぐに見付けられたかもしれないのに……」
確かにそうかもしれない。私はふき出しそうになるのをこらえた。
ともかく、結果を知らせてやろうと、夕子に電話を入れる。
「──はあい」
と、しばらくして、寝ぼけた声で出て来る。
「何だ、寝てたのか」
「あら。どこからかけてるの?」
「銀座だよ」
「そんなとこで何してんの?」
私は|断《だん》|然《ぜん》頭に来た! ──夕子も、思い出したらしく、
「あ、そうか。くず拾いをやってたんだ。で、見付かった?」
「いや、だめだった。原田と二人で、たっぷり二時間もかけて──」
「なかったの? やっぱりね」
夕子は、|欠《あく》|伸《び》をしているような間のびした声で、「じゃ、帰ってゆっくり寝たら? おやすみなさい」
と、電話を切ってしまった。
全く、人のことをこき使って! カッカしていると、
「宇野さん」
と、原田が情ない声を出した。「三百グラムのステーキですからね」
「分ってるよ」
と、私はため息をついた。「しかし、こんな時間じゃ、どこも店なんか開いてないぜ」
「二十四時間やってる店を知ってるんです!」
原田は、急に|満《まん》|面《めん》に|笑《え》みを浮かべて言った。──この単純さが|羨《うらやま》しい……。
「こと[#「こと」に傍点]は単純じゃないよ」
と私は言った。
「どんな動物だって、骨組は単純なものよ」
夕子はコーヒーを飲みながら言った。
昼下りの喫茶室。オフィスビルの地下にある店なので、一時を回った今はもう|空《す》いている。
そこここにいる客は、ほとんどが、仕事の話をしているようだ。
「つまり、名探偵は、脂肪や肉づきを|透《とお》して、骨組を見抜く目を持ってなくちゃいけないのよ」
「レントゲン写真みたいなもんだな」
「まあそうね」
と、夕子は、ちょっと笑って、「あなたのお腹の出具合も、あんまり気にならなくて済むってわけ」
「おい、僕はそんなに──」
「そうむきにならないで。──じゃ、米田良子は、多額の保険に入ってたのね?」
「うん。全部で二億円だ」
「二億……」
夕子は、ちょっと目を見開いた。「受取人は?」
「それがこれから会うことになってる、田崎という男だよ」
「どういう関係なの?」
「分らん。何しろ、つい三十分前に起きたばかりだからね」
と、私は言った。「朝まで重労働に従事していてね」
「適度な運動は老化を防ぐわ」
と夕子が言った。「──あら、あなたのこと、呼んだんじゃないの?」
気が付くと、店のウエイトレスが、
「宇野さん、いらっしゃいますか」
と、よほど耳を澄ましていないと聞こえないくらいの声で呼んでいる。
「──僕だよ」
と、立って行くと、
「あら、そうだったの?」
と、そのウエイトレスはキョトンとして、「てっきり一人かと思ってた」
「じゃ──君が田崎──」
「私、田崎君のお友だちなの」
十七、八と思えるそのウエイトレスは言った。「みどりよ、よろしく」
「こちらこそ。で、田崎君は?」
「悪いけど、行けなくなっちゃったから、そっちから来てくれって」
「どこへ?」
「警察。スピード違反で捕まってるんですって」
「スピード違反?」
私は思わず訊き返していた。
米田良子をはねた、あの車のめちゃくちゃな運転ぶり。──田崎という男のスピード違反……。こいつは、何かあるかもしれない。
もし、あれが殺人なら、その田崎という男が|怪《あや》しい。何といっても、二億円の受取人である。
「それじゃ、話が単純すぎない?」
外へ出て歩きながら、夕子が言った。
「君が勝手にややこしくしてるだけだ」
と、私は言い返した。「現実はそんなにややこしいもんじゃないよ」
「深く考えないから困るのよ、凡人は」
「凡人で悪かったな」
と言い返してから、女子大生に四十男が言い返すには、ちょっと|大人《おとな》|気《げ》なかったかな、と反省した。
この謙虚さが、私の|取《と》り|柄《え》である。
「本当。凡人の恋人を持つと苦労するわ」
夕子は、人の言うことを、まともに受け取るという、悪いくせがある。
「田崎ってのが、もし米田良子の愛人か何かだとしたら、保険金を目当てに殺すってことは充分に考えられるじゃないか」
「そりゃ分るわよ」
と、夕子は肯いて、「だけど、その場合、どうして、あんな場所で[#「あんな場所で」に傍点]|狙《ねら》うわけ?」
「場所……か」
と、私は詰まった。「なるほど」
「ねえ。そんな保険金がかかってるのなら、自分に容疑が向けられるのは、どんな馬鹿だって分るじゃないの。あんな、人の目のある所で、わざわざ狙う必要がどこにある?」
「それもそうだな」
「はねて殺すにしたって、もっと人気のない所でやるんじゃない? それに、殺人となれば──」
「保険金は出ない」
「そう。──あんな風に、いかにも殺人かと疑われるようなことはしないと思うの」
「じゃ、事故だった、と?」
「分らないわ」
夕子は首を振った。「事故というにもおかしな所があるしね。──ともかく、その田崎という男に会ってみなきゃ」
「あの、マリって子はどうしたんだ?」
「うん……。病院の方へ、親戚だって男性が引き取りに来たっていうのよね。あの子も、間違いないって言ったらしいし……」
「もう十歳なら、知らない男について行くこともあるまい」
「そうね。──ただ、相手の男が分らないのはしゃくだわ」
夕子は面白くなさそうだった。名探偵は、物事が思い通りに行かないと腹を立てるものなのかもしれない。
しかし、思いがけず、その|苛《いら》|立《だ》ちは、解消されることになった。
というのは、田崎がいるK署へ行ってみると、入口の所に、当の米田マリが、退屈そうに立っていたのである。
「まあ、マリちゃん」
夕子がびっくりして、声をかけた。「ここで何してるの?」
「待ってるの」
と、マリは答えた。
「誰を?」
「来れば分るよ」
夕子はムッとしたようにマリをにらんだが、マリの方は平気なものだ。全く、今の子供の生意気なことといったら!
「──あ、来た」
と、マリが|嬉《うれ》しそうに言った。
見れば、二十五、六の、サラリーマン風の男が、急ぎ足でやって来るところだった。
「マリちゃん、ごめんよ! こんなに待たせるなんて思わなかったんだ」
「いいよ、別に」
と、マリは言った。「どうせヒマなんだもの」
私は思わず笑い出してしまった。──その若い男は不思議そうに、私と夕子を|眺《なが》めて、
「あの──失礼ですけど──」
「この人、警部さんよ。偉いのよ」
と、マリが言った。
「ああ。それじゃ、あなたが永井[#「永井」に傍点]警部さんですね。僕は田崎です」
「宇野[#「宇野」に傍点]警部です。こちらは永井夕子」
と、私は訂正した。
「すみません。この子を乗せてて、高速を走ってたら、トイレに行きたいと言い出したもんで、ついスピードを出しましてね」
と、田崎は頭をかいた。「まあ、説明したら、|勘《かん》|弁《べん》してくれましたが」
「ちょっと話を聞きたくてね」
と、私が言うと、マリが口を挟んだ。
「お腹空いたよ!」
鶴の一声。──かくて四人で、近くのレストランに入ることとなった。
「──すると、米田良子さんとは……」
と、私はマリの手前、ためらった。
「ええ、親しくしていました」
と、田崎が肯く。
景品のついた〈お子様ランチ〉を食べていたマリが、すかさず言った。
「恋人だったの。ね?」
「君は黙ってなさい」
田崎は苦笑しながら言った。「──まあ、そういうことです」
「君よりも良子さんの方が、大分年上だね」
「ええ。でも、とてもいい人でした。年齢の差なんて、気になりませんでしたよ。マリちゃんもなついてくれてたし」
「パパより、ずっと好きだよ」
と、マリが言った。
「ありがとう」
田崎は、マリの頭を|撫《な》でた。──その笑顔は、いかにも子供好きという感じで、そう悪い男とも思えなかった。
もちろん、子供好きな殺人犯なんか、いくらでもいるが。
「じゃ、良子さんには、ご主人がいたんですね?」
と、夕子が訊いた。
「ええ。米田耕一といって、僕の上役です」
「上役?」
私は目を丸くした。「すると、君は上司の奥さんと──」
「そうなんです」
田崎は悪びれた様子もなく、アッサリと肯いた。「そもそも、彼女と知り合ったのが、酔い潰れたご主人を、家まで送って行ったときですから」
「なるほど」
「彼女は、見るからに不幸な様子でした。大体、米田課長は社内でも評判のよくない人なんです。よく若い女の子に手を出したりして、|噂《うわさ》になっていました」
「それに、すぐママのこと、ぶつの」
と、マリが言った。「ママも、泣いてばっかりいるんだもの。殴り返してやればいいのに」
「女の子が、そんなこと言うもんじゃないよ」
と、田崎がたしなめる。
夕子が私を見て、
「ご主人の方はどうなってるの?」
と言った。
「分らんね。たぶん、原田の奴が──」
「宇野さん!」
と、店を|震《ふる》わせるような大声が|鼓《こ》|膜《まく》を直撃した。
どうやら、原田の奴、本当に「超能力」を身につけたらしい。
「どうしてここが分った?」
と訊くと、
「田崎って奴を捜してたんです。そしたら、スピード違反で、K署にいるってんで、これから行こうと思ってたんですよ。そしたら、宇野さんが|旨《うま》そうに食べてるのが表から見えたので……」
「俺は何も食べてない!」
と、私はにらんだ。
「ともかく、田崎って奴が犯人ですよ。何しろ二億円からの保険金の受取人ですからね! 二億ですよ。千円のランチが何回食べられるか……」
原田が、みみっちい計算をしている間に、当の田崎は、目を見張って、
「保険の受取人? 何の話です?」
と訊いた。
「知らなかったのかね」
私は、仕方なく言った。原田がこんな風に言ってしまわなければ、もっとうまく、田崎にぶつけてやれたのだが。
事情を聞くと、田崎は|唖《あ》|然《ぜん》とした様子で、
「そんなこと──まるで知りませんでしたよ。本当です」
「受取人を恋人にするってのも変ってるがね。君としては、どっちなんだ?」
田崎は、ちょっと考え込んだ。それから、真直ぐに私の目を見て、
「もし、支払われるものなら、もらいますよ」
と言った。「彼女は、体の具合があまり良くなかったんです。しかも、僕とのことがご主人に知れて、悩んでいました。──それできっと保険の受取人を僕にしたんでしょう。いや、僕のためというより、マリちゃんのためですよ。僕がちゃんと管理してみせます」
言うことはなかなかしっかりしている。しかし、少々、きれい事に過ぎるような気もするのだった……。
「ねえ、マリちゃん」
と、夕子が、身を乗り出して、「あなた、昨日、ポテトフライを食べてたでしょ? あの紙の|容《い》れ物に、何か書かなかった?」
マリは、ランチのデザートを食べていたが、ふと顔を上げると、夕子を見て、
「何を書いたの?」
と言った。
「ほら、〈ママが死ぬのを、とめてください〉って書いたでしょ。お姉ちゃん、捨てようとして、気が付いたんだ」
夕子は、『お姉ちゃん』という言葉に少し力を入れて、言った。また『おばちゃん』とやられちゃたまらない、と思ったのだろう。
だがマリは、ちょっと目をパチパチさせて、
「知らないよ」
と言った。
「知らない? 書かなかった?」
マリの返事ははっきりしていた。
「うん」
夕子と私は顔を見合せた。──してみると、あれを書いたのは、母親の良子の方だったのか?
そうだとしたら、何のつもりで、あんなことを書いたのだろう……。
「おい、原田」
と、私は言った。「夫の米田耕一はどうだ? 奥さんに保険でもかけてないか?」
「さあ、そいつは訊きませんでしたが」
と、原田はちょっと考えて、「じゃ、当人に聞いてみて下さい」
「どこにいるんだ? 会ったのか?」
「表に待たせてます」
「ここの表に?」
「そうです。一緒に来たんですよ」
「じゃ、呼んで来い」
「もう、そこにいます」
原田が指さす方へ顔をやると、ずんぐりした太った男が、怒ったような表情で、立っていた。──それならそうと早く言え! 私はちょっと原田をにらんでやった。
「課長──」
田崎が立ち上る。「奥さんが亡くなったんですよ」
「分ってる!」
米田耕一はジロリと田崎をにらんだ。「女房をたぶらかしおって!」
「何を言うんです! 奥さんは、課長との暮しに|堪《た》えられなかったんだ! だから僕に救いを──」
「フン、盗っ人たけだけしいとは、貴様のことだぞ」
と、米田は遮って、「分っとるだろうな。貴様はクビだ!」
「お好きなように」
と、田崎が言い返した。「しかし、マリちゃんは僕が引き取りますからね」
「誘拐罪で訴えるぞ! おい、こいつを捕まえろ!」
私は、少々うんざりして、
「ともかく、座って下さい。まず、お互い、頭を冷やしてもらいたいですな」
と言った。
「同感です」
と言うと、田崎は、水のコップを取り上げて、米田の頭に、一気に注ぎかけた……。
「──待たせたね」
私は、息を|弾《はず》ませて、夕子の肩を叩いた。
「いいのよ。──あの二人は?」
「けがは、二人とも大したことないようだ。こぶ[#「こぶ」に傍点]を作ったぐらいでね」
私は苦笑して、「店を|壊《こわ》した分、弁償することになるだろうけどな」
「──夕食にしない?」
「いいよ。どこへ行く?」
「銀座」
と、夕子は言った。
「銀座? ──おい、また何か考えてるんだな?」
「まあね」
と夕子はウインクした。
「じゃ、歩いて行こう。──何が目当てなんだ?」
夕子は答えず、
「米田のこと、調べてみた?」
と訊いて来た。
「ああ。どうやら、田崎の言い分の方が正しいようだ。米田は、社内の評判も|芳《かんば》しくないよ」
「どういう風に?」
「女性関係にはだらしがないようだな。それに酒ぐせが悪い。その失敗で、一時は課長から係長に降格されてたようだ」
「へえ」
夕子は肯いて、「でも、そういう手合は、割と小物[#「小物」に傍点]ね。妻を計画的に殺すなんてことをするかしら?」
「そいつはどうかな。追い詰められれば、やるかもしれない」
「何か借金でもしょってたの?」
「今、一応洗わせてるがね。──田崎の方は評判も上々だ。人当りもいいしな」
「その手の人が怪しいのよ」
「そりゃまあね……。ところで、どこへ行くんだ?」
「現場よ」
「米田良子がはねられた所? しかし今日は歩行者天国じゃないぜ」
「分ってるわ。ちょっと捜してみたいの」
「|散《さん》|々《ざん》捜したじゃないか」
「そうじゃないわよ」
と、夕子は言った。
──あの現場の近くに来ると、夕子は、私と離れて、一人で歩くと言い出した。
見ていると、コートをわざと少しだらしなく着て、いかにも暇そうに、ぶらぶら歩いている。たちまち、例の「インチキ勧誘」の手合が声をかけている。
なるほど、と思った。あのとき、米田良子母子に声をかけた男を捜しているらしい。
二、三人を相手に、何やらしゃべっていた夕子は、私の方に手を振って見せた。
「──何だい?」
と、歩いて行くと、
「この人たちに、手帳を見せてあげて」
「大して面白いもんじゃないけどね」
と、警察手帳を覗かせると、足首まである長いコートをはおった若者たちは、青くなった。
「別にあなたたちにどうこう言ってんじゃないのよ」
夕子は、少しドスを|利《き》かした口調で言った。「この前の歩行者天国のとき、ここで人がはねられたわ。そのとき、はねられた人に声をかけた子がいたの。──あなた方、知らない?」
「うん……。聞いたことは聞いたけどな」
「俺も、そんときはいなかったんだ」
一人が、ちょっとためらいがちに、
「マツの奴じゃないか?」
と言った。
「ああ、そうだ。俺も奴から聞いたんだ」
「マツって、誰?」
と、夕子が言った。
「松井っていうんだ。よくこの辺でやってんだよ」
「今日は?」
「見ないなあ。──だけど、あいつ確か二丁目あたりのスナックの二階に住んでるんだ。そこなら分るよ」
──店の名と、大体の場所を聞いて、私たちは、タクシーを拾った。
「──その松井ってのが、何か知ってると思うかい?」
「分らないわよ」
夕子は肩をすくめた。「でも、死ぬ直前に、米田良子がどんな様子だったのか、訊いてみたいの」
「なるほど」
私は欠伸をした。──何しろ、このところ寝不足続きだ。
「過労?」
と、夕子が訊いた。「いやね、まだ結婚もしてないのに」
「君がOKしてくれたら、大分若返るよ」
と、私は言い返した。
「そうね。──考えてもいいわ」
「本当かい?」
急に眠気が覚めた。
「でも、生命保険にも入ってもらわなきゃ、そうなったら」
と、夕子は真顔で言った。
「生命保険ぐらい入ってるじゃないか、今だって」
「もっと大きいやつよ。けがとか入院でも保障してくれるという」
「そんなに?」
「もう若くないから、ギックリ腰保険にでも入ってもらおうかしら」
タクシーの運転手が笑っているのが聞こえて来た……。
「──この辺だな」
と、私は言った。
まだ明るいので、ひしめき合うように並んでいるスナックは、大部分が開店していない。
「こう沢山あっちゃ、捜すのも楽じゃないな。その辺の奴に訊いた方が早いや」
店の前を掃除している女を捕まえて店の名を言うと、ジロッとこっちをにらんで、
「あんた、目がないの?」
「何だよ、それは」
「この店よ」
そうか。──いや、何しろ、いい|加《か》|減《げん》くたびれた造りで、店の名もよく読めないのである。
「松井って若い男の子がいるかい?」
と訊いてみると、四十がらみのその女は、露骨にいやな顔をした。
「あんた誰? うちの子に悪いことばっかり教えてんの、あんただろ?」
「あんたの息子か」
「そう。どこの組の人? 私はね、健を暴力団なんかに入れる気はないからね!」
夕子がクスッと笑って、
「人相の悪いのは損ね」
と言った。
「冗談じゃないよ、全く」
と、私は渋い顔で言った。「こういう者だがね」
チラリと手帳を見せると、母親の態度はガラリと変った。
「まあ、これは存じませんで、失礼しました! 健が何かやったんでしょうか? でも、あの子は気が弱くて、決して人様に悪さをするようなことはございません。もし何かやったとすれば、きっと他の悪い友だちに引きずられて仕方なく──」
「ちょ、ちょっと待てよ。何も言ってないじゃないか! ともかく会って話がしたいんだ、今、いるかい?」
「出かけました。ついさっきですが」
「どこへ?」
「さあ。──いちいち行先なんて、聞きませんからね」
「どれぐらいで帰るとも?」
「ええ。二、三日帰らないことも珍しくなくて。──全く親不孝な息子ですよ」
今度はグチをこぼしている。忙しい女だ。
「──で、健に何のご用ですか?」
「別に当人がどうってわけじゃないんだ。ただ他の事件の参考に話が聞きたい」
「この前の日曜日に、銀座の歩行者天国で、事故を見たって言ってませんでした?」
と、夕子が口を挟んだ。
「事故ですか?」
「ええ、女の人が車にはねられたんです」
「さあ……」
と、母親は首をかしげて、「何も言ってませんでしたねえ。よくあれこれしゃべる子なんだけど」
「そうですか。──今日、どんな用事で出かけたか、分りません?」
「何だか、いい|儲《もう》け口があるとか言ってましたけど。でも、三日に一度はそう言ってる子ですからね」
「ほう、儲け口ね」
こいつは、ちょっと興味がある。「どんな話か、具体的には?」
「言いませんでしたね。何だか、よっぽどいい話だったようで、浮き浮きしてる風だったけど」
「なるほど」
どうもこいつは匂うな、と思った。
「でも、私が、『危いことには手を出すんじゃないよ』って言うと、『こいつは絶対安全なんだよ』って笑ってましたよ」
「絶対安全、ね……」
絶対安全な儲け話など、ありっこない、というのが、長年の刑事生活で得た真理である。
戻ったら、必ず連絡を、と母親に言い含めて、私たちは引き上げることにした。
そのスナックが見えなくなる所まで来ると、夕子は足を止めた。
「──どうしたんだ?」
「気になるわ。その健って子の話」
「うん。タイミングが良過ぎるな。あの事故と、その直後の儲け話[#「儲け話」に傍点]が」
「もし、関連があるとすると……」
「何かありそうだな」
「あると思うわ」
夕子は、きっぱりと言った。「普通なら、目の前で人がはねられるのを見たら、誰にでも話して聞かせたくなるもんよ。それを黙っていたというのは、何かわけがあるんだわ」
「すると……車のナンバーでも見たのかな?」
「どうかしら」
夕子は首を振って、「あの状況で、ナンバーを記憶してたとしたら、大したもんだわ」
「それに、儲け話につながるというのも、よく分らないな。もし犯人を知っていて、ゆすっているんだとしたら……」
「でも、それが『絶対安全』? むしろ、危険な話の内に入るんじゃないかしら」
「それもそうだな。すると、何だろう?」
夕子は、ちょっと後ろを振り返って、
「あの店を、見張った方がいいかもしれないわね」
と言った。
名探偵は言うだけだからいいよ。
私はため息をついて、傘を持ち直した。──夜に入って、雨が降り出していたのである。
スナックに入っているのならともかく、薄暗い物陰に立って見張っているのは、楽じゃなかった。
もちろん、仕事とあれば、これぐらいの苦労はいとわないのだが、これで別の手配中の凶悪犯が現われるというわけではない。
若い夕子がさっさと帰ってしまって、中年のこっちがどうして居残ってるんだか……。
まあ仕方ない。米田良子の死をめぐる謎を解決する手がかりにはなるかもしれないのだから。そう思って我慢することにした。
「宇野さん!」
聞き覚えのある声に振り向くと、原田がノコノコやって来る。
「お前、何しに来たんだ?」
「夕子さんに言われまして。きっと宇野さんがお腹空かしてるから、何か持っていってくれって」
やれやれ、と私は苦笑した。原田がかかえて来た包みから、ハンバーガーを出してパクつき始める。
「何を待ってるんです?」
と、原田も、もちろんパクつきながら、訊いた。
「分らん」
と私は肩をすくめた。「ところで、日曜日の田崎と米田耕一のアリバイはどうだ?」
「二人ともはっきりしません」
「つまり、確たるアリバイはないってことだな?」
「ええ。米田は仕事で会社に出たと言ってますが、証人はありません。田崎は、あのみどりってウエイトレスと会っていたそうですが、時間となると、はっきりしないんです」
「はっきりしない、ってのは、どっちがだ? 田崎かみどりか」
「二人ともです。会ってたといっても、ホテルに行ったとか、そんなのじゃないようで、他の友だちを混えてしゃべっていたそうで」
すると、アリバイを作る気はなかったことになる。米田の方にしても、妻を殺そうというのなら、もう少しましなアリバイを考えそうなものだ、と思った。
「車の方は何か分ったか?」
「だめですね。あんまりありふれてて。数が多くて当り切れませんよ」
「そうだろうな」
と私は肯いた。
動機からいえば、田崎の方だ。何しろ二億円の保険金が入る。しかし、夫の米田耕一にしてみれば、妻がそんな保険に入ったとは知らなかったかもしれない。
「米田良子は、夫を受取人にした保険に入ってなかったのか?」
と私は言った。
「前入っていて、つい最近解約してます。それで入り直したときに、受取人を田崎にしてたんですよ」
「ふむ……」
すると、米田が、てっきり受取人は自分だと思い込んで、妻を殺そうとしたとも思える。だが、それにしては──。
車で人をはねる、というのは、殺人の方法として、決して確実なものではない。相手がじっと動かないというのならともかく、ヒョイとかわされれば、たとえ引っかけたとしても死ぬ可能性は低い。
あの場合のように、まともにはねるという確率は、むしろ低いと思わねばならないだろう。──そう、特に、あの車は、クラクションを派手に鳴らしていた。よけてくれ、と言わんばかりだ。
すると、やはり米田良子の死は事故で、二億円の保険金は、偶然だったのか? では、あれが「殺人」だと密告して来たのは、誰なのだろう?
「どうも分らん……」
と、私は呟いた。
「まだ腹が減ってますか? 今度は、おにぎりでも買って来ましょうか」
「食べるために立ってるわけじゃないからな」
と私は言った。
「──あーあ、ひどく酔ってますね、あいつ」
と、原田が言った。「この雨なのに、傘もなしで」
なるほど、雨のせいで、客足もまばらな通りを、よろよろと歩いて来る人影がある。右へ左へと、今にも倒れてしまいそうだ。
「かなりのもんですね、ありゃ」
と、原田が言った。
「大方、失恋でもしたんだろ」
「宇野さんも、夕子さんに振られたら、ああなりますか?」
「知るか!」
と私は言った。「──倒れちまった。あれじゃ、肺炎にでもなりかねない。引っかついで、近くの交番にでも放り込んで来てやれ」
「ゴミバケツじゃだめですか?」
「あんなのが入るか」
「じゃ、運んでやりますか」
原田は傘をさしたまま、倒れた男の方へと歩いて行って、かがみ込んだ。そして……その傍にしゃがみ込んでいたが──。
「宇野さん!」
と、原田が怒鳴った。「こいつ──血が──」
「何だと?」
「腹を刺されてるようです!」
私は傘を投げ出して、駆け寄った。ちょうど、松井の母親のスナックの前だ。もしかすると……。
抱き起したとき、原田の声を聞きつけたらしく、スナックの扉が開いた。松井の母親が、昼間とは別人のような、派手な格好で立っている。中の光が、倒れた若者の顔を照らし出す。
「健ちゃん!」
と、松井の母親は叫んだ。「どうしたっていうの! しっかりして!」
「原田! 早く電話だ。救急車を呼べ!」
「はい」
原田がスナックの中へ飛び込んで行くと、何やら、ドシンバタン、と派手に倒れる音がした。
もしかしたら、カウンターでも押し倒したのかもしれないな、と私は思った……。
「絶対安全でもなかったわけだ」
と、私は言った。
「絶対、なんてもの、この世には存在しないのよ」
夕子は哲学者めいた口調で言うと、「それで、具合はどうなの?」
「意識不明。重態だよ」
「助かりそう?」
「分らない。医者も、若いから五分五分だろう、って言ってたよ」
「そう……」
夕子は肯いた。今日は珍しく(!)大学に出て来た名探偵は、気が乗らない、というもっともな理由で、午後の講義はサボることにしたようだった。
「ところで──」
と、私はハンドルに手をかけて、言った。「どこへ行くんだい?」
「そうね」
夕子は、助手席に座って、息をつくと、「あなたも、このところ疲れてるでしょ」
「まあね」
「ゆうべは雨の中で大変だったし」
「同情してくれるのかい?」
「そうよ。──ホテルにでも行かない?」
私はちょっと目をパチクリさせて、
「昼間だよ」
「構やしないじゃないの。それとも気が乗らない?」
「いや、とんでもない!」
私はあわててエンジンをかけた。「乗り越ししそうなくらい、乗ってるよ!」
「友だちがね、いいホテルがあるって教えてくれたのよ」
「──へえ」
今の大学生は、文学や世界情勢について論じるよりも、どのホテルが安くて感じがいいか、といった情報の交換に、より熱心らしい。もっとも、それに乗っているこっちも、あんまり言えた義理じゃないが。
──夜だけでなく、昼間から〈満室〉という表示もあちこちに目のつくホテル街を、ゆっくり走らせる。
「ええと……その先のはずよ」
と、夕子が並ぶホテルの看板を見ながら、言った。「──あ、あれだわ」
どうにも趣味のいい造りとは言えなかった。
「ここがそんなにいいホテルなのかい?」
「そう。入らなくてもいい[#「いい」に傍点]ホテル」
夕子はそう言って、クスッと笑った。
「何だ」
私は苦笑して、「目的は別にあるんだな?」
「そう。──少し先へ行って、見張ってましょ」
「やれやれ。うまく行き過ぎると思ったよ」
「そう言わないで。この事件のかたがついたら、ゆっくりお付き合いするわ」
「当てにしてるぜ」
私は、少し先へ車を停め、バックミラーにホテルの出入口が映るようにした。
「──もうそろそろだと思うけど」
「誰がいるんだい?」
「しっ! ほら、出て来た」
バックミラーに映ったのは、中年男と若い女の子という、よくあるカップル。もっとも、こちらもそうだが。
「あれは──米田じゃないか」
「そう。相手の子は分る?」
「待てよ……」
私は、バックミラーの中の、女の子の姿に見入った。「あれは──田崎の友だち[#「友だち」に傍点]と言ってた、みどりじゃないか!」
「そう。ちょっと様子が違うから、一見すると分らないけどね」
どうやらタクシーを呼んでいたらしい。二人は、左右をキョロキョロ見ながら、立っている。
「はい、カメラ」
夕子は、私の手に、小型カメラをのせた。「うまく|撮《と》ってね」
「こんなことなら、それ用のカメラを用意して来たのに」
「友だちにアルバイトで尾行させといたの。連絡あったのが、ついさっきでね」
と、夕子は説明した。「友だちのバイト代、私が立て替えたから、後で払ってね」
ちゃっかりしたものだ。
私は、頭を低くして、車の中から米田とみどりの二人をカメラにおさめた。
「タクシーが来たぞ」
「後は好きにさせてやりましょ。──急いで現像できる?」
「どうするんだ?」
「決ってるじゃないの」
「そうだな」
と、私は肯いた。
「あら、あなた方だったの」
みどりが、水を持って来て、テーブルに置いた。
「今、忙しい?」
と、夕子は訊いた。
「ご覧の通りの大混雑」
と、みどりは、ガラ空きの喫茶店の中を見回して笑った。「五時を過ぎると、帰りがけに寄る人がいるけど、それまでは暇よ」
「ちょっと話があるんだがね」
と、私は言った。
「いいですよ」
みどりは、カウンターの方へ行って、エプロンを|外《はず》し、戻って来た。「──田崎君のこと?」
「それもある」
「二億円の保険に入ってたんですって、あの奥さん? 田崎君から聞いて、びっくりしちゃった!」
「そう。二億円といえば大金だ」
と、私は肯いた。
「だけど、田崎君は、お金目当てに、米田さんの奥さんに近づいたわけじゃありませんよ」
「そうかい?」
「ええ。田崎君とは|幼《おさな》なじみなんですもの。性格はよく知ってるの。気の優しい人だから、そんな、人を殺すなんて、できっこないわ」
「殺すのは、無理かもしれないわね」
と、夕子は言った。
殺すのは、というところを、強調した言い方だった。みどりが、ちょっと戸惑ったように、
「どういう意味、それ?」
と夕子を見た。
「今の生命保険は、ほとんど、死んだときだけじゃなくて、けがをしたり、入院したときにも、払ってもらうようになってるわ。もちろん、けがの程度にもよるけど、何百万かは手に入る」
「──まさか」
と、みどりは笑った。
「殺すつもりはなかった。でも──たまたま死んでしまったとしたら……」
夕子は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。「米田良子さんと田崎君が、本当に愛し合ってた、と思う?」
「ええ。だって──」
と、みどりは、ちょっとためらいがちに、「田崎君もそう言ってたし、それにあの奥さん、気の毒だったのよ。ひどい亭主だったもの」
「米田さんが?」
「ええ。この店にも時々来るけど、いやな奴よ。あの男から逃げたくて、奥さん、田崎君の方へ、走ったのかもしれないわね」
「そんなにいやな男なの?」
夕子が、写真を、みどりの前に置いた。みどりの顔から、スッと血の気がひく。
「今、田崎君がここへ来る」
と、私は言った。「言いわけを考えておくんだな」
「待って……。やめてよ! そんなの|汚《きた》ないじゃない!」
みどりは青くなって、「彼に見せないで! お願いよ!」
「どうしてだね!」
「だって……。田崎君、凄いやきもちやきで──」
「彼の恋人じゃないんだろ、君は?」
みどりは、今度は顔を真赤にして、私をにらんでいたが、
「分ったわよ」
と、息を吐き出した。「ともかく──その写真を彼に見せないで」
「しゃべってくれる?」
と、夕子は言った。「米田さんと田崎君、本当は、仲が悪いわけじゃないんでしょう?」
みどりは渋い顔で、
「そこまで知ってるの」
と言った。
「田崎君のような、人当りのいいタイプは、上役に|逆《さか》らってまで、その奥さんをかばうなんてこと、しないわ。むしろ逆に、上役に頼まれて[#「頼まれて」に傍点]、奥さんを誘惑する方じゃない?」
「なるほど、その方が納得が行くな」
私は肯いた。「米田には恋人がいた。奥さんと別れるには、奥さんに浮気してもらう方が、慰謝料を払わずに済むから、安上りだ」
「男ってケチなのね」
と、夕子は言って、苦笑した。「女はしたたか。あなたのようにね」
「悪かったわね」
と、みどりはふてくされている。
「田崎が米田良子に言い寄っている間に、米田の方は、君に心を移していたんだな。田崎は、そんなこととは夢にも知らなかった」
「そうよ。だけど……奥さんをあんな目に|遭《あ》わせるなんて、私、知らなかった。本当よ」
「あれも、妙な話だわ」
と、夕子が言った。「計画的とはいっても、あの時間に、あの通りを、奥さんが横切るってことが、どうして分ってたのかしら?」
「なるほど」
私も、言われて初めて気付いた。「すると──どういうことになる?」
「はっきりしてるわ」
と、夕子は言った。「奥さん自身も、はねられることを承知してたのよ」
「何だって?」
これには私もびっくりした。「じゃ──わざとはねられたと?」
「そうとしか考えられないでしょ。あのときの奥さんの様子を考えてごらんなさいよ。ひどく思いつめてたみたいだったわ」
「それは確かにそうだったな」
と、私は肯いた。「体の具合も良くないと田崎が言ってた……」
「その辺の事情は、ご当人からうかがいましょう」
と、夕子は、店の入口の方へ顔を向けて言った。
田崎が入って来たところだった。
「お待たせしました。何か僕にご用ですか?」
と、いつも通りの、人当りのいい笑顔を浮かべる……。
「殺すつもりじゃなかったんですよ」
田崎は、顔を引きつらせながら言った。目はチラチラと、みどりの方を見ている。みどりは、|怯《おび》えるように、夕子のそばに身を縮めていた。
米田とみどりの写真を一目見るなり、田崎はみどりの首を|絞《し》めようとしたのだ。ずいぶん嫉妬深い男らしい。
「そもそも、彼女の方から言い出したことなんですからね」
「彼女の方から?」
「そうです」
「車ではねてくれ、と?」
「彼女は、自分が長くないと思ってたんですよ」
と、田崎は言った。「ただの消化不良だったのを、てっきりガンだと思い込んでてね。僕の誘いにコロッといったのも、そのせいかもしれませんね」
「そんな気持につけ込むなんて、男のすることじゃないわ」
夕子は手厳しく言った。「じゃ、米田さんから頼まれたのは、ただ、奥さんを誘惑することだけだったのね」
「そうです」
田崎はふてくされた顔で、「でも、僕が個人的に金に困ってると話すと……課長は知らん顔だったけど、奥さんは──」
「保険金を?」
「ええ。僕もびっくりしましたよ。そりゃ、注文通り、軽いけがで済みゃいいけど、下手すりゃ大けがになる。でも……彼女は、絶対に大丈夫だ、と」
もしかしたら、米田良子は死ぬ気だったのではないか、と私は思った。どうせ先のない命だったら、恋人にお金を|遺《のこ》して死のう、と思っても不思議ではない。
「でも、米田課長の方もひどいですよ」
と、田崎は憤然として、「保険金のことを聞くと、山分けにしようと言い出して。──でなきゃ、僕がはねたと密告すると言うんです」
「すると、あれが殺人だと密告して来たのは米田だな」
「保険金の支払いを遅らせて、その間にあなたと話をつけるつもりだったのね」
「ひどい亭主だ」
と私は言って、「しかし、君もひどい恋人だぞ」
「分ってますよ」
田崎は、ため息をついた。「でも──あの時は、こっちだって真青になったんだ」
「車ではねたときだね」
「軽く、かするくらいのつもりだったんですよ。わざと大げさにクラクションを鳴らして突っ込んで行ったんだけど。車の運転には自信があったし……」
「じゃ、どうしてあんなことになったんだ?」
「分りませんよ」
と、田崎は首を振った。「突然──彼女が車の前に飛び出して来たんだ。前のめりに。よける間も、ブレーキを踏む余裕もなかったんです」
「で、そのまま逃げた、と」
「仕方ないじゃありませんか」
田崎は肩をすくめて、「でも、米田課長だって同罪ですよ。僕一人がやられるんじゃ、割が合わない」
欲にとりつかれると、人間ってのは、こんなものだ。──私は少々うんざりしていた。
「──どうなってるんだい?」
私は言った。
「病院へ行くのよ。例の松井って子が入院してる所へ」
「それはいいけど──」
パトカーで、病院へ向う。夕子の顔は、いつになく晴れなかった。
「あの松井を刺したのは誰だろう? やっぱりこの事件につながってるのかな」
「もちろんよ」
と、夕子は肯いた。
「しかし、松井は何を[#「何を」に傍点]見たんだ? 田崎のことは知らないんだろうし……」
「そこよ」
夕子は腕組みして、言った。「あの、紙の容器に〈ママが死ぬのを、とめてください〉と書いたのは誰だったのか……」
「マリって子は、自分じゃないと言ってたな。──すると、良子か?」
「彼女は保険金を受け取りたかったのよ。それを田崎へやるつもりだったんだから。わざわざ自殺かと疑われるようなことをするかしら?」
「そうか。じゃ、やっぱり……」
「松井って子は、米田良子がはねられるのを見ていたわ。そして駆けつけた私が投げ捨てた、あの紙の容器を拾った……。いえ、拾うのを見たんだわ、きっと」
「誰が拾うのを?」
夕子は眉を寄せて、呟くように言った。
「絶対安全な相手……。前のめりに車の前へ飛び出した良子……」
「おい──」
私は思わず夕子の顔を見た。「君が言いたいのは……」
「この病院ですよ」
と、パトカーを運転している警官が言った。
私と夕子が入って行くと、何やら、騒がしい物音が近づいて来た。
「原田だ。──おい、どうしたんだ!」
「宇野さん! ちょうど良かった。こいつが今、松井を刺そうとして忍び込んで来たんです」
原田が、まるで猫の子でもつかまえるように、えり首をつかんで連れて来たのは──米田耕一だった。
「あんたか」
と、私は、青ざめた顔の米田を見て、「松井に、とどめを刺しに来たのかい?」
「そうだ。私が刺した。私がやったんだ!」
米田は、いやにあっさりと認めた。──原田に後を|任《まか》せて、夕子と、病室へ向う。
途中、松井の母親が急ぎ足でやって来るのに出くわした。
「ああ、刑事さん! 健が意識を取り戻したんです」
と、涙声になっている。
「そいつは良かった。ちょっと話せるかな」
「ええ。今、お医者さんがいらしていて……」
「じゃ、ほんの二、三分で片付けるよ」
と、私は肯いてみせた。
──病室に入ると、青ざめた顔の健が、ベッドから目を向けて来た。
「警察の者ですが」
と、医師に言うと、
「手短かに願いますよ」
と、医師は肯いた。
「質問は簡単です」
と、夕子が私の代りに言って、ベッドの方へ歩み寄った。「しゃべるのがきついだろうから、簡単に訊くわ。──あなたを刺したのは、米田マリちゃんね」
「うん」
健は、|微《かす》かに肯いた。「ただ話をする気だったんだ……。本当だ」
「でも、やっぱり、お金をゆすり取る気だったんでしょ? あの子の父親から」
「──まあね」
母親が、きつい声で、
「そんなこと考えるから、バチが当ったんだよ!」
と叱りつけた。
「もう、こりたよ……。ただ、親父さんに会わせろよって言ったら……いきなり刺したんだぜ、俺のこと……」
「あなた、一体あの母親が車にはねられたとき、何を[#「何を」に傍点]見たの?」
と夕子は訊いた。
「あの女──立ち止ってたんだぜ。そして車が走って来た。女が、ちょっと身を乗り出すようにしたんだ。そのとき──あの子供が、母親の足に、自分の足を|絡《から》ませたんだ。母親の方は前のめりに泳ぐように飛び出した……。あいつ、自分の親を……」
「──いやな気分だ」
病院を出て、私は、深々と息をついた。
「あの子も、そんなに大変なことをするんだとは思ってなかったのかもしれないわね」
と、夕子が言った。「母親と田崎が話しているのを聞きかじって、母親が死ねば、大変なお金が入るってことを知っていた。で、あのとき、紙の容器にメモを書いて、私に渡したけど、私はそれを見ないで握り潰しちゃった。──あれで、あの子は、もう母親を助けられない、と思ったんじゃないかしら。そうなったら、田崎の方が、父親の米田よりずっとやさしくていい。それなら、うんとお金が入った方が……」
「しかし、米田も一応、娘をかばって、罪をかぶる気でいるようじゃないか」
「それがせめてもの救いね」
と夕子は肩をすくめた。
「怖い世の中になったもんだ」
「あの子を責めるわけにはいかないわ。──我が身を反省しましょ」
夕子は私の腕を取って、「今夜は遅くなりそう?」
と言った。
「夜中にはなるまい。どうしてだい?」
私は期待をこめて夕子を見た。夕子は、ちょっと笑って、言った。
「原田さんが、三百グラムのステーキを待ちこがれてるわよ。この前は百五十グラムしか食べなかったって!」
第五話 幽霊心理学
「ワッ!」
私は思わず声を上げた。
変てこな形の小さなフォークで、エイッと力|任《まか》せに殼の中から取り出したエスカルゴは、私の頭上を飛び越して、|遥《はる》かかなた──はオーバーだが、二、三メートル先の床の上に落っこちてしまった。
夕子が吹き出して、そのついでにむせ返り、あわてて水をガブ飲みした。
「──そう笑うなよ」
私は|苦《にが》い顔で言った。「大体こんな|扱《あつか》いにくいものを出すからいけないんだ!」
「慣れないことはするもんじゃないわね」
永井夕子は、そう言って、澄まし顔で自分のエスカルゴを器用に取り出し、小さくカリカリに焼いたパンの上にのせて、口に運んだ。
「──いい味だわ」
「そうかね」
私は、少々|憂《ゆう》|鬱《うつ》な気分で、まだ皿に残っているエスカルゴをにらみつけていた。
「そんな難しい顔してないで、食べたら?」
「また逃亡[#「逃亡」に傍点]するんじゃないかと思って、警備体制を研究してるのさ」
「手錠でもかけとけば?」
夕子が真顔で応じた。
警視庁捜査一課の警部と、自称[#「自称」に傍点]名探偵の女子大生の対話としては、まあ気のきいたものだったかもしれない。
もちろん、今夜は夕子も私も、単なる恋人同士としてここへ来ているわけで、いつも「殺人」だの「凶器」だのと、色気のないセリフの飛び交う二人に、ひとときの、甘い安らぎの時間を、と計画したのだった。
全く、このところ多忙で、ほとんど休みも取れない状態。いい|加《か》|減《げん》頭に来て、ほとんどもぎ取るようにして得た貴重な一日の休暇である。
夕子の方も、そこは優しい女心を発揮して──実際は大学の友だちとの約束がパーになって、暇を持て余していたらしいが──私に付き合ってくれることになったのだった。
「いいお店ね」
夕子は、レストランの中を見回した。「よくこんな所、知ってたわね」
「ちょっと友だちに聞いてね」
何とか、エスカルゴをつまみ出すこつ[#「こつ」に傍点]を|会《え》|得《とく》してホッとしながら私は言った。いや、実のところ、どこかの週刊誌のグラビアで紹介してあったのを、うのみ[#「うのみ」に傍点]にして、連れて来ていたのだが、実際、なかなか悪くない。
もちろん、値段の方も悪くないだろう。
しかし、目の玉の飛び出そうな料金を言われても、動じない程度の金は財布へ入れて来てある。──そう。それにこの後は、少しのんびりとワインの酔いをさましてから、ちょいとドライブして、気のきいたホテルへでも……というのが、私の頭の中に出来上ったフルコースだったのだ。
レストランは、あまり表通りからは目につかないビルの最上階、十五階にあって、超高層というわけではないが、結構ロマンチックな夜景も|眺《なが》めることができた。
平日でも、こういうレストランは満員の盛況だ。いや、仕事上の接待で利用する客が多いので、|却《かえ》って平日が混むのだろう。
私と夕子が店についたのは少し遅目だったので、メインの肉料理を終え、一息ついてデザートを選ぶ頃になると、|大《だい》|分《ぶ》テーブルも|空《す》いて来て、静かになった。
男ばかりのテーブルで酔って大声で笑っていたりするのは、何ともはた迷惑、かつ可愛げのないものである。
「おいしかった!」
夕子はホッと息をついて、「デザートは何にしようかなあ……」
と、デザートメニューを|開《ひろ》げる。
「クレープシュゼットか、パフェか、ケーキか……」
私は、さすがにそこまでの若さはない。せいぜいシャーベットぐらいでやめておこう、と思った。
「──私たち、はた目にはどう見えるかしらね」
と、夕子が急に言い出した。
「何だよ、いきなり」
「女子大生が中年男と……。お手当をもらってる愛人ってとこかな」
「僕にそんな金があるように見えるとは思えないね」
私は素直に言った。
「あの人にはありそうよ」
「ん?」
私はメニューから顔を上げて、夕子の視線を追った。
二つほど離れたテーブルに、若い女と、中年──というより、もう初老のイメージの男が座っていた。こちらは私たちよりもさらに遅くやって来たらしく、今、やっとスープを飲んでいるところだ。
「なるほど。男の方はどこかの大会社の重役ってところかな」
「女性の方は?」
「大学生? ──いや、もう少し行ってるんじゃないか。若く見えるけど、二十三、四だろう。学生とは見えないね」
「ふむ。なかなか鋭いね、ワトソン君」
と、夕子は気取って言った。
ウエイターがオーダーを取りに来た。デザートを注文して、夕子は、もう一度そのテーブルの方へ目を向けた。
「ちょっと面白いのよね」
と|呟《つぶや》くように言う。
「何だい? また名探偵病が出たな?」
「ほら、今、スープを下げに来たの、誰だと思う? マネージャーよ」
見ると、なるほど、一見して店の責任者と分る、落ち着いた感じの中年の男が、その二人のスープ皿を運んで行く。
「あのテーブルに関してはね、ずっと初めから、あのマネージャーが全部やってるの。変だと思わない?」
「君、ずっと眺めてたのか?」
と、私は|呆《あき》れて言った。
「何でも変ったことには興味があるのよ」
と夕子はニヤリとして、「その好奇心がなくなったら、人間おしまいだわ」
「おしまいで悪かったね」
と、私はやり返した。「しかし、答えは至って単純じゃないのかな。要するにあの男が、ここのなじみ客だってことさ」
「だからって、水までマネージャーが注ぎに来る? それにあの男、ここは初めてよ。さっきもマネージャーにトイレはどこかって|訊《き》いてたもの」
「へえ」
こういう好奇心が洋服を着ているような女の子と付き合うのは──特に四十にもなる中年男には──大変なことである。
「じゃ、あっちはどうだい?」
と、私は窓際のテーブルに一人で座っている男を指さした。
「──どうってことのない男じゃない」
と、夕子はチラッと見て言った。「私の好みじゃないわ」
「名探偵のセリフとは思えないな」
と、私は笑った。「しかし、席は二つ用意してあるぜ。ちゃんとナイフもフォークも|揃《そろ》ってる。しかし、一人きりで食事をしてる」
「簡単よ。要するに相手の女性にすっぽかされたってだけのことだわ」
「そりゃそうかもしれないが……」
と私は言いかけて、ふと考え込んでしまった。
「──どうしたの?」
「うん。君、コンパクト持ってるか?」
「そりゃ女ですものね。だけど何するの? お化粧直すの?」
「気味の悪いこと言うなよ。ともかく貸してくれ」
私は夕子のコンパクトを開くと、鏡に、窓際の席の男が映るようにして、じっと顔を見つめた。その男は、外の方へ顔を向けていることが多いので、なかなか顔が見られなかったが、料理が運ばれて来たとき、ウエイターの方を見たので、はっきりと見てとることができた。
三十五、六というところか。一応、ビジネスマンスタイルではあるのだが、いかにも合っていない。
「やっぱりそうか」
と、私は|肯《うなず》いた。
「お知り合い?」
「手配中の男だ。まるで様子は違うが、間違いない」
「へえ。さすが捜査一課の警部殿ね」
「冷やかすなよ。──連絡して来る」
「あんまりせかせかしない方がいいわ。トイレでも行くふり[#「ふり」に傍点]して立たないと」
「そうだな」
私は、その男の方には目をやらないようにして、肉を一切れ口に入れてから、椅子を引いた。
「失礼いたします」
ウエイターが、傍に立っていた。
「何か?」
「宇野様でいらっしゃいますね」
「ええ」
「お電話が入っております」
私は面食らった。どうせこっちも電話をかけに行くところだったから、ちょうど具合がいいのだが、それにしても私がここにいることを、誰が知っているのだろう?
私はウエイターについて、店の出入口の方へと歩いて行った。
カウンターの所で足を止めると、ウエイターが言った。
「実は、お客様が表でお待ちです」
「表で?」
私は訳が分らないままに、店の前に出た。
「宇野さん!」
目の前に突っ立っていた壁[#「壁」に傍点]が口をきいた。いや──原田刑事だったのである。
「原田! お前こんな所で、何やってるんだ?」
「南田の奴を追って来たんです」
南田? そうか、私もやっと名前を思い出した。あの窓際のテーブルの男だ。
「そうか。いや、俺も今、気が付いて連絡しようと思ってたんだ」
私は原田を|促《うなが》して、店からエレベーターの方へ出て行った。何しろ原田の声は普通でもやたらでかいのである。中の南田が聞きつけたら大変だ。
「ちょっと中を|覗《のぞ》いたんです。そしたら宇野さんと夕子さんが、楽しそうに食事してるじゃありませんか。──この店、|旨《うま》いですか?」
何しろ食い物に目がないのだ。
「そんなことは後回しにしろ」
と私は言った。「ともかく、店の中には他の客もいる。中での|捕《とり》|物《もの》は避けるんだ」
「分ってます。任しといて下さい」
原田はニヤリと笑って、「宇野さんは夕子さんとのんびり旨いものを食ってりゃいいんですよ」
どうも「旨いもの」にこだわっているようだ。
「相棒はいないのか?」
「今、手配しに下へ行きました。十分以内に増援が来ますよ」
「まだ食事中だから、時間はある。|焦《あせ》って気付かれるな」
「もう食べてるんですか? じゃ、急がないと!」
原田は不安そうな顔になった。みんな自分と同じで、食事は五分以内に終るものだと思っているらしい。
「大丈夫だ。俺もそれとなく注意してる」
「でも、宇野さん、今日は非番でしょう。のんびり旨い[#「旨い」に傍点]ものでも食って──」
「あら、原田さん」
と、夕子の声がした。「遅いと思ったわ」
「何かあったのかい?」
「そうじゃないけど……」
夕子は、微妙なニュアンスを漂わせる口調で言って、「ちょっと気になるの。あなたも中にいた方がいいかもしれないわ」
「分った。戻るよ。おい、原田。うまくやれよ」
「任しといて下さい!」
原田はポンと胸を|叩《たた》いたのだったが……。
「──南田、ね」
夕子は、テーブルに戻ると、軽く肯いて、「聞いたことがあるわ。その名前。どんな事件だったの?」
「一家皆殺しってやつだ」
「ああ、思い出したわ。確か、女性に振られて──」
「そうなんだ。付き合っていた女性に結婚を申し込んで|断《こと》わられた。それで、カッとなって、彼女の家へ乗り込んで行った」
「当の女性は、いなかったんじゃない?」
「そう。たまたま出かけていて、留守だったのさ。しかし、南田は、家族が彼女を隠してると思い、家へ上り込んだ。怒った父親が南田を止めようとして、もみ合いになり、父親は南田に殴られた。──びっくりした母親が一一〇番しようとしたので、南田は飛びかかって首を|絞《し》めて殺した。後はもう……本人も錯乱状態だったんだろう。包丁で父親を刺し、二階から下りて来た弟も刺し殺した」
「ひどい話ね」
と、夕子は顔をしかめた。「──とても、そんな凶暴な男には見えないわ」
「たいてい、そんなもんだよ」
と私は言った。
南田は、しかし、なぜこんな所に来たのだろう? それが不思議だった。
「どうしてここへ来たのかしら」
夕子が、私の思っていることを口に出した。「こんな所、目立つに決ってるじゃない。しかも、ビルの最上階。一番、逃亡犯が敬遠しそうな所だわ」
「うむ。同感」
「つまり、危険を|冒《おか》しても、ここへ来る必要[#「必要」に傍点]があったってことだわ」
と、夕子は言った。「たぶん、もう一つの席が、その理由でしょうね」
「つまり、誰かと待ち合せて──」
「待ち合せなら、こんな所を選ばないでしょう。呼び出されたのよ。それを、南田は|否《いや》とは言えなかった……」
私は、ふと気付いて、
「おい、君が気になることって言ったのは、何だったんだ?」
と訊いた。
「あのマネージャーが、例のテーブルに近付かなくなったのよ」
と夕子は言った。
──デザートが来る。
私たちは、南田の方には直接目を向けないようにしながら、ゆっくりとデザートを食べ始めた。
南田は、ぼんやりと席から表を眺めていたが、やがて、立ち上って、席を離れた。私は緊張した。──気付いたのだろうか?
「トイレよ」
夕子が低い声で|囁《ささや》く。
なるほど、南田は、店の奥の|衝《つい》|立《たて》の向うに姿を消した。私は、ホッと息をついた。
あと五分もすれば、このビルの周囲は手配を終えるだろう。そうなれば、南田もどうあがいたところで逃げられないのだ。
ふと、誰かがテーブルの傍に立った。
「お味はいかがでございましたか」
あのマネージャーである。
さすがに、プロだけあって、目立たないように、静かに店の中を歩いているのだ。実際、そばに立たれるまで、まるで気が付かなかったのだから。
もちろん、南田のことが気になっていたせいでもあるのだが。
「うん、おいしかった」
と、私は答えた。
他に答えようがないではないか。おいしくなかった、と言ったところで、では、どこがどうおいしくなかったのか、説明しようたって、できやしないのだから。
「ありがとうございます」
と、マネージャーは、いかにも営業用の、しかし、みごとにそれが身についた笑顔を見せて、頭を下げた。
夕子が、ふと目を横へ向けるのに、私は気付いた。
そっちを見ると、あの若い娘が、席を立って、トイレの方へ歩いて行くところだった。
「失礼ですが──」
と、マネージャーが私の顔を見ながら、言った。
「何か?」
トイレから、南田が出て来る。あの若い娘と、すれ違いかけた。
「警視庁の宇野警部ではございませんか?」
と、マネージャーが、はっきりした声で言った。
私は、ハッとして、南田の方へ目をやった。南田が、マネージャーの声を聞きつけた。
私の方を見ている。
あまりに突然のことで、どうすることもできなかった。
私が椅子を蹴って立ち上ったとき、南田はあの若い娘を左腕にぐいと抱きかかえた。
「キャッ!」
と、娘が悲鳴を上げる。
「動くな!」
と、南田が叫んだ。「動くと、この女を殺すぞ!」
南田の手にはナイフがあった。
その銀色の刃は、娘の白い|喉《のど》にピタリと当てられていた……。
「OK、南田。落ち着くんだ」
私は、ゆっくりとテーブルを離れた。
「こっちへ来るな!」
と、南田が叫ぶ。
「分った。動かないよ。頭を冷やせ」
「いいか、みんな動くなよ。この女を死なせたくなかったらな」
南田は、|油《ゆ》|断《だん》なく、左右へ目をやって、「みんな、いいか、俺の目の届く所にいるんだ。──他のテーブルの奴! そっちへ集まれ!」
私と南田の間には、かなりの距離がある。飛びかかっても、あの娘を傷つける可能性なしに、南田を取り押えるのは困難だった。
「皆さん」
と、私は呼びかけた。「言われた通りにして下さい。恐れ入りますが」
皆さん、とは呼びかけたものの、大した数の客が残っていたわけではない。テーブル三つ──合計でも八人の客がいただけだった。
つまり、私と夕子、あの人質になった娘と、重役タイプの男の他に、四人のグループが一つ、いただけである。
「おい、お前、警官か」
と、南田が私を見て、言った。
「まあ、そうだ」
「拳銃をよこせ」
「今日は非番だ。持ってない」
「ごまかすな!」
「本当だよ」
私は、ゆっくりと上衣を広げて見せた。「──分ったかい?」
「よし。いいか、妙な考えを起すなよ」
「分ってる」
私は、できるだけリラックスした調子で言った。
こういうとき、犯人を刺激するのは得策でない。もちろん、こっちも緊張の極だが、犯人はもっとあがって[#「あがって」に傍点]いるのだ。
「よし。じゃ、俺はずらかる。この娘も一緒だからな。追って来やがると──」
私は首を振った。
「悪いけどな、南田。逃げられないぜ」
「逃げてみせるさ」
「そうじゃない。ここは──」
私が言いかけたとき、異変に気付いたらしい原田と、何人かの刑事が駆け込んで来た。
「宇野さん!」
「止れ!」
私は原田たちを|抑《おさ》えた。
「そういうことか……」
南田は、青ざめている娘を、さらに強く抱きしめるようにして、「しかし、逃げて見せる。この女を死なせたくなきゃ、みんなどくんだな」
私は原田に肯いて見せた。
原田は渋い顔で南田をにらんでいたが、やがて他の刑事たちを促して、レストランから出て行った。
「よし、次は車だ」
と、南田が言った。「おい、この女の連れの……お前だよ」
「な、何だ?」
彼女と一緒に来ている重役風の男は、てんでだらしがなく、さっきから真青になって|震《ふる》えている。
「車、あるのか」
「あ、ああ……」
「キーをよこせ」
「わ、分った……」
と、ポケットからキーホルダーを出したが、手が震えて取り落とす。
「おい、警部さん、そいつを拾え」
今は南田の言う通りにするしかない。キーホルダーを拾って、投げてやろうとすると、
「待て。車はあんたが運転しろ」
「俺が?」
「俺は運転できないんだ」
私は夕子を見た。夕子がヒョイと肩をすくめる。
「分ったよ。──車はどこに?」
と、私が訊くと、その「重役氏」は、
「下の……3番に停めてあります」
と答えて、それから、「あの──私は今日は出張してることになってて──ここにいるのがばれると──妻にまずいんです」
と言い出した。
「こんなときに、何ですか」
「しかし──私のクビがかかってるんです」
と、哀願するような調子。
「連れの女性は命がかかってますよ」
「知らない女です。ただ、さっきホテルのロビーで会っただけの──名前も知らない女なんです」
呆れて、返事する気にもなれない。
南田の方は、|隙《すき》のない感じだった。ここは言う通りにするしかなさそうだ。
「よし、じゃ出かけるか」
と、私は言った。
「先に行って、エレベーターのボタンを押せ」
と南田が言った。
私が店の出口の方へ歩き出そうとすると、いきなり夕子が立ち上って、私に駆け寄って来た。
「私も行く!」
私はびっくりした。
「だめだよ! 危険じゃないか」
「危険は大好きよ」
と、夕子も|呑《のん》|気《き》なもんである。
「しかし──」
「ともかく、あなた一人を危い目にあわせておけないの」
夕子らしからぬ優しい言葉に面食らっていると、
「よし。じゃ二人とも早く出るんだ!」
と、南田の声が飛んで来た。
レストランを出ると、原田たちの姿はなかった。下で待機しているのだろう。
狭いエレベーターの中で、何とか南田をやっつけられないか、と思ったのだが、敵もさるもので、全く隙を見せない。
地下の駐車場へ出る。──静かなものだが、当然、警官が隠れているはずだ。
「いいか!」
南田が|怒《ど》|鳴《な》ると、その声が、駐車場の中を響いて飛びはねた。「手を出すと、女の命はないぞ!」
私も仕方なく、
「手を出すな。車が出られるように、出口を開けとけ」
と声をかけた。
人の動く気配が、そこここでする。
「──さあ、車だ」
と南田が言った。
さすが、重役クラスだけあって、車もかなりの大型である。私と夕子が前。南田たちは後ろに乗った。
「さて、行こうぜ」
と、南田が言った。
「どこへ行くんだ?」
と私は訊いた。
「言われた通りにすりゃいいんだ」
仕方ない。私はエンジンを入れ、ゆっくり車をスタートさせた。
外に出ると、パトカーが左右へ割れて、その間を走り抜ける。
私は、ともかく車を真直ぐ走らせた。夕子の方をチラッと見ると、およそ緊張とは縁のない、のんびりした顔をしている。──どうなってるんだ?
いくら夕子が大胆だからって……。
「その先を──」
と、南田が言いかけて、ためらい、「どっちだっけ?」
「左よ」
と言ったのは──人質の娘[#「人質の娘」に傍点]だった!
私は、びっくりして、ハンドルを切り|損《そこ》なうところだった。
「危いじゃないの!」
と、夕子が文句を言った。「それでも警官の運転?」
「おい、まさか君が……」
私は、ゆっくりと息を吐き出した。「そうか! ──これは君のお|膳《ぜん》|立《だ》てだな」
「ごめんね」
夕子が、クスッと笑った。「でも、こうしなきゃ、あなた、すぐにも南田さんを逮捕してたでしょ」
「どういう意味だ?」
「それにね。まさか原田さんが、彼の後をついて来てるとは思わなかったのよ。警官隊に囲まれてちゃ、容易なことじゃ脱出できないでしょ」
「君は──僕に犯人の逃亡を手伝わせたのか!」
さすがに|仏《ほとけ》のような私も(自分で言っているのだから、間違いない)カッとなった。
「すみません」
と、後ろから、人質の娘が言った。「私が夕子さんに頼んだんです」
「大学の先輩なの、彼女」
と夕子は言って、「紹介するわ。宮永民子さん」
「宮永?」
どこかで聞いた名前だな、と私は思った。南田──宮永。
「そうか。じゃ、君は……」
「一家を殺されて、一人だけ生き残ったのが、私です」
と、宮永民子は言った。
「しかし、君──」
「ちゃんと前を見て運転してよ!」
と夕子が言った。
「君、その犯人と一緒にいるんだよ」
「僕がやったんじゃありません!」
と、南田が言った。
「じゃ、誰だ?」
「分りません」
と、南田は言って、ため息をついた。「でも、本当に僕じゃない! 信じて下さい」
「私もこの人じゃないと思います」
と、宮永民子は言った。
「しかし、君が彼を振ったんだろう?」
「それて僕がカッとなって、彼女の家へ押しかけた、というんですね」
「とんでもありません」
と、民子が言った。「私、彼を振ったりしていません」
「じゃあ……」
「私、今でも、彼を愛してます」
──どうなってるんだ?
私はもう絶望的な気分だった。こんなことをしたのがばれたら、まず間違いなく、クビだろう。
「そこを左へ」
と、民子が言った。
「どこへ行くんだ?」
「現場です、犯行の」
と、民子が言った。
「ねえ」
と、夕子は前方へ目をやって、「|結《けっ》|構《こう》うまいのね、逃げるの」
「からかうなよ」
「そう怒らないで。いい、考えてみてよ。民子さんがいないとき[#「いないとき」に傍点]に、南田さんが来て、他の家族を皆殺しにした。──でも、南田さんがやったということが、どうして分ったの?」
「それは──」
と私は言いかけて、|詰《つま》った。
なるほど、夕子の言葉ももっともである。私自身は、宮永一家が殺された事件に|関《かかわ》り合ったわけではないから、その|詳《くわ》しいことは知らないのだ。
「どうしてだろう? 僕は、南田が犯人だ、としか聞いてないよ」
「父なんです」
と、民子が言った。
「君のお父さん?」
「ええ。私、あの日は帰りが遅くなって、事件を見つけたときは、もう父も虫の息でした。──だから、後で警察の人の話を聞いただけなんですけど」
「どういうことだい?」
南田が、代って言った。
「彼女のお父さんは、僕と彼女の結婚に反対していました」
「父はずっとそうでした」
と民子が言った。「私が高校生になって、ボーイフレンドができると、あれこれ難くせをつけて、遠ざけてしまうんです」
「よくあることだわ」
夕子は肯いて、「あなたも、私のボーイフレンドをよく思わないでしょ?」
「僕は父親じゃない!」
と、私は言った。
「似たようなもんよ。父親にとって、娘は恋人[#「恋人」に傍点]」
「そうなんです」
民子は、ため息をついた。「私、高校生のころだって、変な関係になったことなんかないし、それこそ、オープンに付き合ってたんです。でも、父はそれでもだめだって……」
「僕との付き合いでも変りませんでした」
南田は民子の方を見て、「ともかく──一度も会ってくれなかったんですから」
「一度も?」
私は、ハンドルを慎重に操りながら、「君は一度も父親に会ってない[#「会ってない」に傍点]のか?」
「そうなんです」
と南田が肯く。
民子が、少し身を乗り出して、
「だから、父が虫の息で病院へ運ばれて行くとき、犯人は南田さんで、私に交際を断わられたのを怒って、押しかけて来たんだと言ったのは、どう考えたっておかしいんです」
「その点はね──」
と、南田が、民子をなだめるように、「しかし、君のお父さんのことだ、僕に会ったことはなくても、僕のことは知ってたんじゃないかな。きっと調べさせていたはずだ」
「それはあり得ることだな」
と、私は言った。
「それはともかく、僕は彼女の家へ押しかけてもいませんし、家族を殺してもいません」
と、南田はため息をついて、「大体、僕は彼女の家を知らないんですから!」
「どうして、そう言わなかったんだ?」
「父の言葉を警察は百パーセント信用してしまったんですの。それが発表されて──」
「で、運が悪いことに、僕、その前の日から、住んでいたアパートを、黙って留守にしてたんです」
と、南田は言った。「ああ、僕はこれでも、小さな会社をやってる社長なんですよ」
「まあ偉いのね」
と、夕子が楽しげに言った。「宇野さんはまだ〈長〉の字がつかないのよ」
「取りあえず、僕のことは関係ないだろ」
と、私は言った。「じゃ、どうして|行《ゆく》|方《え》をくらましてたんだ?」
「仕事なんです」
と、南田が答える。「材料の買いつけで、他の同業者に|極《ごく》|秘《ひ》にする必要があって、どこへ行くか、社員にも言わずに出かけたんです。社員でも、平気で秘密を売るのがいますからね」
「それで、逃げたと誤解されたんですわ」
「びっくりしましたよ。何日間かは山の中を駆け回って、やっとこ一段落。旅館でホッとして、TVを|点《つ》けたら、いきなり僕の顔が出て来たんですから」
「じゃ、アリバイがあったんじゃないのか?」
「当日はゼロですね。出かけた次の日ですから、旅の途中で、まだ誰とも会っていないんです」
事実なら不運なことだ。
「ともかく、南田さんは、知らない間に、殺人犯にされて、逃亡犯にされてたわけなんです」
と、民子は、きっぱりした口調で、「でも、私、絶対に違うと信じていました。この人が父や母、それに弟まで殺したりするはずがない、って……」
確かに、あの事件は、はっきりした指紋や物証が出なかったような記憶がある。
もちろん、人の証言というのは大切なものだが、この南田の話のように、それだけで犯人と決めつけるのは、至って危険だ。
「そこの角を右へ」
と、民子が言った。「──ええ、その門構えの所で」
車を停める。
「この車、目につかないようにした方がいいと思うわ」
と、夕子が言った。
「そうだな」
これじゃ、まるきり逃亡の共犯である。「しかし、この車も当然手配されてる。途中、目についたかもしれないし、そう時間はないかもしれないぜ」
「それまでに真相を|解《と》き明かすのよ」
夕子はドアを開けて、外へ出た。
気楽に言ってくれるよ!
私は首を振って、それから車を、門の中へと入れた。こと、夕子に関しては、私は至って|諦《あきら》めやすく出来ているのである。
居間の明りが点いた。
「──そのときのままです」
と、民子は言った。「私、とてもここに一人で住む気になれなくて、今はアパートを借りてます」
「なるほど」
私は、中を見回した。
立派な居間である。──家そのものも、「屋敷」と呼んでいいくらいの大きさだが、中は更に凄い。
「君のお父さんは──」
「父は会社の顧問とか役員をいくつも兼任してました。ですから、結構収入はありました」
「らしいね」
と私は肯いた。
「カーテン、閉めましょ」
夕子は居間から庭へ出るガラス戸の厚いカーテンを引いた。
少し空気が|淀《よど》んでいるようだ。|埃《ほこり》っぽくもなっている。
「──そこに、父は倒れていたんです」
と、民子が言った。
カーペットの明るい色に、黒ずんだ色が、帯のように長く広がっていた。血痕なのだ。もちろん、今は血の色などしていないけれど。
「母は、電話の前に倒れていました」
電話は居間の一隅に、専用の台があって、そこに置かれていた。
「母は首を絞められていたんです。私が見付けたときは、もう息がありませんでした」
「弟さんは?」
と、夕子が訊いた。
「一也は、その入口の所に」
と、ドアの方を指さす。「ドアが開いていて、そこに倒れていたの。やっぱりもう息が絶えていたわ」
私は、居間の中をグルッと歩き回った。歩き回る広さがあるだけでも大したもんだ。
「──一つ訊きたいんだが」
と、私は宮永民子の方へ向いて、「君がここへ入って、惨状にびっくりして、一一〇番したんだね」
「そうです」
「お父さんは、まだ意識があった……」
「はい」
「君に何か言わなかったのか?」
「言いかけましたが……私も、救急車が来るまで、静かにしていてくれ、と言ったんです。母と一也のことも心配だったから──」
「すると、君には、何も言い|遺《のこ》さなかったんだね」
「そうなんです」
「ふむ」
私は腕組みをした。──こうして、現場へやって来たものの、もう何カ月もたっているのだ。今さら、どうやって真相を調べようというのだろう?
夕子は、しばらく、居間の中をあちこち歩き回っていたが、やがて足を止めると、天井を見上げた。
「──おい」
私は夕子に声をかけた。
民子と南田は、居間の外へ出て、何やら話をしている。
「どうするつもりなんだ? こんな所を今さら見たって、何も分りゃしないじゃないか」
「それは見る目があるかどうかにかかってるわよ」
と、夕子が澄まして言った。
「君は、何か手がかりでもつかんだのか?」
と私は訊いた。「死んだ人間に話を聞くわけにはいかないんだぞ」
「そうかしら? もう死んでしまった人だって、考えようによっちゃ、色々なことを語ってくれるわ」
「化けて出て来るのかい?」
「そんな所ね」
夕子は、ソファの一つに腰をおろした。「いい? 死んだ父親のことを考えてみてよ。父親は、そもそも民子さんが南田さんと付き合っているのを、快く思っていなかった。相手が誰でも、そうでしょうけどね。この場合は、たまたま南田さんだっただけで」
「それは分るよ」
「もし、本当に南田さんがやったとしたら、民子さんが帰宅したとき、彼女にそう言わないはずがないわ。いくら民子さんが、黙って、と言ったって、素直に口をつぐむなんて、おかしいと思わない?」
「そうだな」
と私は肯いた。「特に、自分が死ねば、南田と民子が結婚するのに、|邪《じゃ》|魔《ま》|者《もの》がいなくなるわけだ。|余《よ》|計《けい》に、南田の正体を知らせておこうとするだろう」
「その通り。──ところが実際には、父親は救急車の中で、初めて犯人のことをしゃべったのよ。どう考えたって、おかしいわ」
と夕子はきっぱりと言った。
「そうなると、やはり南田は無実か」
「間違いないと思うわ」
「待てよ。しかし、そうなると、父親は、本当の犯人[#「本当の犯人」に傍点]を、言い遺さなかったことになるぞ!」
「問題はそこよ」
と、夕子が言った。「そのとき、父親の死に|際《ぎわ》の言葉を聞いた警官の話を、ぜひ聞いてみたいわ」
「調べれば分るだろう」
「調べて。──あなた以外の人の名前で、調べてね」
「もし、今日非番でなかったら、連れて来れるだろう。この近くの駐在所の警官だろうからね」
「じゃ、何とか|捜《さが》してよ」
夕子はいとも気楽な感じで言った。
「ここへ連れて来るのかい?」
「直接聞きたいのよ。正確な話をね」
夕子は、そう言って、また立ち上ると、居間の中を見回した。「もう一つ、妙なことがあるわ」
「何だい?」
「一家を手当り次第に殺したりする場合、被害者は、逃げようとして、外へ外へと倒れるもんじゃない?」
「うむ。──それで?」
「父親は居間の中央、母親は電話の前、それに弟の一也って人は、ドアの所に、中の方を向いて倒れてたのよ。ちゃんと調べたんだから」
「恐れ入ります」
私は苦笑した。「しかし、それはその場の|弾《はず》みで、どうにでもなり得るぞ」
「血痕をよく見てよ」
と、夕子は部屋の中をぐるっと手で示して、
「──血痕は倒れた所にしか、ない。父親は少し|這《は》って動いたようだけど、弟の方は全くその場だけ。こんなことって考えられる?」
「うむ……」
確かにそうだ。──そういう錯乱した男が刃物を振り回したりした場合、やたらと傷をつけて、血が飛び散るのが普通である。
それにしては、この現場は、ある意味では、「きれい」なものだ。整然と殺されている、と言ったら妙な言い方になるだろうか。
「すると君は、これが計画的[#「計画的」に傍点]な犯行だと言うのか?」
と、私は少し声を低くして言った。
「当り」
夕子は肯いた。「民子さんから相談を受けて、ここの状況をよく聞いてみて、そんな印象を持ったの」
「もしそうだとすると、この一家を恨んでた人間の犯行ってことになる」
「それに、たぶん、この家の人から信用されていた人でしょう。そうでなかったら、大人が三人も、やすやすと殺されたりはしないでしょうからね」
「なるほど」
私は、ちょっと居間のドアの方へ目をやった。「しかし──君も無茶をするもんだ。僕に一言、言えば良かったじゃないか」
「あなたがあのレストランを選んだって聞いたから、民子さんに連絡したの。週刊誌で紹介してる店だからって」
私はガックリ来た。──知られていたのか!
「民子さんも、よく知ってる店だったわ」
と、夕子が言った。「──ねえ、そうでしょ?」
ちょうど居間へ入って来た民子が、
「ええ」
と肯いた。「あそこで、弟が働いていたことがあるの」
「まあ、そうだったの?」
「もちろん、コックじゃなくて、ウエイターだったけど。だから、あそこのマネージャー──大野さんっていうんだけど──よく知ってるの。父とも顔見知りで」
「それで君のテーブルにかかりっきりだったのか」
と私は納得した。「すると──僕に、『宇野警部ですか』と声をかけたのも、君のたくらみだね?」
「すみません」
と、民子が|謝《あやま》る。
「私の入れ智恵なのよ」
「そうだろうと思った」
「原田さんの声、大きいから、すぐに分ったもの。それでトイレに行って、民子さんと打ち合せたの」
「あの、連れのおじさんには、悪いことしちゃった」
私は苦笑して、
「車の借り賃でも払っとくんだね」
と言った。「よし、それじゃ、君のお父さんの話を聞いた警官に当ってみよう」
「お願いね。──まだ警察、来ないでしょうね」
「僕も警察だぜ」
と、私は言った。「電話は使える?」
「はい、大丈夫のはずです」
私は、早速、この近くの駐在所を調べてもらおうと、電話の方へ歩いて行った。
そのとき、ポーン、と玄関のチャイムが鳴った。──私たちは顔を見合せた。
「もう原田さんたちが……」
「どうかな」
私は首を振った。「もしそうなら、諦めるしかないね。──ともかく僕が出てみる。君らは二階へ上っていたまえ」
「すみません」
民子が、南田を引張って、二階へ上って行く。私は夕子を居間に残して玄関の方へ歩いて行った。
また、チャイムが鳴る。
「誰です?」
と、私は声をかけた。
「あ、駐在所の者ですが」
──白雪姫です、と言われたって、こんなにびっくりはしなかったに違いない……。
「いや、何だかよく分らんのですけど」
と、中年の、実直そうなその警官は、当惑した様子で言った。「ともかく、この家へ行けという連絡がありまして」
「いや、ご苦労さん」
私は、夕子と二人で、丁重にその警官を、居間へ通した。
もちろん、原田が、念のためと思って、ここにも警官を寄こしたのだろうが、詳しい事情を説明していないのでは、指示された方も困るだろう。
「しかし、警部さんがおいでなら安心です」
と、その警官はのんびりと言った。
「君、この家で殺人事件があったのを、知ってるね」
と私は言った。
「はい、もちろんです」
「そのとき、現場に駆けつけた?」
「はい」
「被害者の一人──父親の方だけど、救急車の中で、犯人は南田だと言い遺したんだね」
「そうです」
「それを直接聞いたのは?」
「私です」
夕子と思わず目を見交わす。──こうもうまく行くものか!
「──実は、もう一度、この事件を調べ直す必要が生じてね。君の話を、ぜひ聞きたいと思ったんだ」
「ああ、それで私を呼ばれたんですか」
まあ、そういうことにしとこう。
夕子が、代って訊いた。
「その話をしたとき、宮永さんの意識ははっきりしてたんですか?」
「いや、一時は完全に意識を失ってましたね」
「というと、救急車の中で?」
「そうです。救急車の揺れのせいかな、ふっと目を開いて──」
「民子さんは一緒だったんですか?」
「ああ、娘さんですね。いえ、何しろ、母親と弟さんも殺されてたわけですからね、もう本人が混乱していて──。無理もありませんけどね」
「じゃ、話を聞いたのは、あなただけだったんですね?」
「そういうことになりますか」
と、警官は肯いた。「もちろん、救急車ですから、救急隊員はついていたけど、私は被害者の口元に耳を寄せていたんで、聞こえましたが、他の人には聞こえなかったでしょう」
「具体的に、父親は何と言ったんですか?」
「うーん……」
と、考え込みながら、「切れ切れの言葉でしたね。『民子に』──これは娘さんですね。『民子に、南田』と」
「それから?」
「ちょっと、よく聞き取れなかったんです。誰かの真似をした、とか──」
「真似?」
私と夕子は、同時に言っていた。
「そんな風に聞こえたんです。『真似だ』とか、ね。それで、『暴れ出して』これははっきり分りました。それから、『一也が』これは弟さんですね」
「それから?」
「後はよく聞き取れなかったんです。ただ、何回も、『民子に』と、くり返していましたね」
「それだけですか」
「ええ、それだけです」
と、警官は肯いた。
私は、ちょっと奇妙な感じを抱いた。これだけの切れ切れな言葉から、なぜ、南田が民子に会いに来て、暴れ出したというストーリーが作れたのだろう?
おそらく、夕子も同じことを考えているのだろう。じっと押し黙って、ソファに腰をおろしている。
「──他に何かご用は?」
と、警官が言った。
「いや、結構。ご苦労さんでした」
私は、玄関まで、警官を見送った。
「──妙だわね」
いつの間にか、夕子が上り口の所に立っている。
「うん。今の話じゃ、犯人が南田だと特定できないな」
「それもあるけどさ」
「何だい?」
「表に車が停ったわ」
私は外へ目をやった。
「──見えないぜ」
「門の外よ。塀に隠れてて、見えないけど」
「確かに?」
「パトカーじゃなかったわ」
「OK、見て来よう」
私は、夕子に、「ここにいてくれ」
と言っておいて、玄関を出た。
拝借して、私が運転して来た車は、ちゃんと門の内側に駐車してある。
門から外へ出ると、私は、左右を見回した。──大分先に、車が一台、わきへ寄せて停っている。中の明りは消えていた。
確かに、さっきこの前に車をつけたときには、なかった車だ。それぐらいの目配りは、刑事の心得である。
人の姿はない。もう、降りて、どこかへ行っているのだろうか?
もちろん、この家へ来た車とは限らない。あんな離れた所に停めてあるのだから。
しかし、気付かれないように、わざと先の方へ停めたという可能性もある。
私は、その車の方へと歩いて行った。
人の姿は見えない。──私は、窓から、中を覗き込んだ。
何かある、と思った次の瞬間、ドアがいきなり開いた。床に体を伏せていたらしい。不意打ちをくらって、私は転倒した。
誰かが車から飛び出して走り出す。
「待て!」
と、立ち上りかけて、私は足首の痛みに顔をしかめた。
転んだ拍子に、|捻《ねん》|挫《ざ》したらしい。
「いてて……」
私は、その場に膝をついてしまった。
とても追いかけるどころではない。
しかし、逃げて行く人影が、女だ[#「女だ」に傍点]ということを、私は見てとっていた。
「もう|年《と》|齢《し》ね」
夕子の言葉は至って冷ややかだった。
「仕方ないだろう。どうせ中年なんだ」
と、私がやり返す。
「あの──」
と、民子が心配そうに、「お二人とも、あんまり喧嘩しないで下さい」
「大丈夫よ」
と、夕子が言った。
「でも、私たちのために、あなた方の仲がこじれたりしたら……」
「もうこじれ切ってるの。倦怠期なのよ、私たち」
夕子はそう言ったと思うと、いきなり、私の頬にキスした。私が面食らって、
「何するんだよ!」
と、真赤になる。
「お年寄りへのいたわりよ」
夕子の言葉に、民子は、笑い出してしまった。
「──楽しいカップルですね、お二人とも」
「そうかね」
と、私は苦笑した。「いつも命がけだよ、この子と付き合うのは」
「私、この家にいて笑ったの、事件があってから初めてだわ」
と、民子は言った。
ソファで休んで、大分、足首の痛みもやわらいだ。
「──しかし、誰だったんだろうな、あの女は?」
と、私は首をかしげた。
「あなたが振った女性なんじゃないの?」
と、夕子がまたからかう。
「あなたは?」
民子が、傍の南田の方へ向いて、「逃げてる間に、誰か別の恋人でもできたんじゃない?」
「冗談じゃないよ」
と、南田は苦笑した。
「でも、車の中に隠れてたなんて、やっぱり普通じゃないわ」
夕子は、|顎《あご》にちょっと手を当てて、「この家を見張ってたのは間違いないでしょうね」
「うん、そうだろう」
私は足首をもみながら、「しかし、事件の方はどうなるんだ?」
「さっきの話で、気になることといったら──」
「一つは、あれだけの言葉の断片で、どうして南田が犯人だということになったのか、だ」
「誰かが、警察に情報を提供したのよ」
と、夕子は言った。「私は、それに違いないと信じてるわ」
「そうだろうな」
私は肯いた。「誰か心当りはない?」
と、南田に訊いてみる。
「さあ……」
南田は首をひねった。
「あなたを恨んだり、ねたんだりしてた人がいるのよ」
夕子は、気軽な調子で言った。「もしかしたら、それが犯人[#「犯人」に傍点]かもしれない」
「犯人……」
民子は、ポツリと呟くように言った。「何だか──両親や弟がここで殺されたなんて、今でも信じられないみたい」
と、居間の中を見回す。
「そう。問題は、ここ[#「ここ」に傍点]なのよね」
夕子は、立ち上って、ゆっくりと、居間の中を歩き出した。
「──どういう意味だい?」
「父親の身になってみれば、娘の結婚には反対している。付き合いだけでも許さない。──そんな相手が、娘に会いに来たとき、どうするかしら?」
私は、ちょっと考えて、
「玄関払いをくわせるだろうな」
「そうでしょ? 私もそう思う。ところが、少なくとも、父親はその誰かを、居間まで入れているのよ」
「居間に、ね」
私は、民子の方へ、「ここ、客間というのは他にあるの?」
「はい。玄関を上った、すぐわきです」
「そうなると、もし上げるにしても、そっちへ上げた方がいいわけだな」
「それなのに、この居間へ通しているのよ」
「それは変ですね」
と、民子は肯いて、「今まで、気が付かなかったけど。父は、かなり親しい人でない限り、ここへは通さなかったんです」
「それと、あの『真似だ』という言葉が関係して来るのかもしれないな」
私は、さっきの警官の言葉を思い出して、言った。「つまり、犯人は誰かをかたって、ここへ来た」
「それも考えられるわね。でも、|騙《だま》されたことを、『真似だ』っていうかしら?」
と、夕子は納得しかねる様子だ。
「そりゃ、正常なときならともかく、そういう場合には──」
「それに、本当に『真似』と言ったのかどうかも分らないわけでしょ」
「しかし、そういう場合だからこそ、何とか犯人のことを言い遺そうとするんじゃないのかな」
「出た名前は、『南田』と『民子』だけ……。『真似』ってのが名前ならともかくね」
「マネ、じゃ画家になる」
と、南田が大して面白くもない冗談を言った。
しかし、呑気な男である。──私も何となく、この男が犯人ではないという気がしていた。
「でも、私たち一家を皆殺しにしようとするほど、私たちを恨んでいる人なんて、私、思いつかないんです」
民子は当惑している様子だった。
「どうしようもなかったのかもしれないわ」
と、夕子が言った。「一人を殺して、それを見た他の人も殺す。──我が身の安全のためにね」
「冷酷な奴なんだな」
と、南田が言って、首を振った。「僕だったら、一人刺したりして、血が出るのを見たら、それだけで失神しちゃう」
「でも、不思議ね。誰一人、悲鳴も上げなかったのかしら?」
「それは、そんなものだよ」
と、私は言った。「目の前の光景が信じられなくて、夢なんじゃないか、なんて考えてる内に、次々にやられる。──実際、たった一人の犯人に何人もが殺されるという事件は、たいていそうだよ」
そう言ったときだった。
|甲《かん》|高《だか》い、絞り出すような女の悲鳴が、居間の空気を突き破った。
──誰もが、ちょっとの間、動けなかった。
本当に今の声は聞こえたのかしら? その思いが、体を縛りつけてしまうのである。
しかし、捜査一課の警部としては幸い、私が|真《まっ》|先《さき》に行動に移っていた。
「庭よ!」
夕子が叫ぶ。私もそっちの方だと見当をつけていた。
カーテンに手をかけて、
「みんな伏せろ!」
と叫ぶ。
もし、誰かが、部屋の中の様子をうかがっているとしたら、危険だからだ。
ともかくこっちは明るく、向うは暗い。向うから|狙《ねら》うには格好の状況なのである。
夕子が、ぼんやりと立っている民子を押し倒すようにして、床に伏せる。それを見て、南田も、あわてて床に這いつくばった。
私は、サッとカーテンを開けた。
もちろん、すぐには何も見えない。ガラス戸も、下半分は模様が入っているので、室内の明りは庭へ充分に届かないのである。
「──戸を開けるぞ」
私は、身をかがめて、ロックを|外《はず》した。
「ねえ、これ!」
夕子が低く押えた声で言った。振り向くと、夕子が、ポン、と何やら投げて寄こす。
片手で受け取ると、何と飛び出しナイフである! こんな物、どこに持ってたんだ!
私は夕子をちょっとにらみつけた。大体、これは現在では持つことを禁じられているのだ。いや──まあ、今はそんなことを言っているときではない。
ナイフの刃を出して、握りしめると、私はスッと戸を引いた。
明りが、庭先を照らす。──目の前は芝生になっていて、その奥は、植込みがあるので、よく見えない。
私は、
「誰だ!」
と、声をかけた。「出て来い! 警察の者だ!」
植込みが、ザッと揺れた。
私は、身を低くして、いつでも飛び出せるようにしておいて、待った。
誰も出て来ない。──こっちから行くしかないか。
私が出て行こうとしたとき、いきなり、植込みの中から、枝をかき分けるようにして、現われたのは──女だった。
さっき、車から逃げて行った女だ。
私が立ち上ると、女は、芝生を二、三歩、よろけるように進んで来て、バッタリ倒れた。
私は、急いで庭へ出て、女のそばへ駆けつけた。これは……。私は目を見張った。
女の脇腹に、血が広がっている。──刺されたのだ!
「夕子!」
と私は叫んだ。「救急車だ!」
夕子の方も、いちいち、どうしたのと訊くことはしない。すぐさま電話へと走って、一一九番へかけた。
救急車が来るまでの間、ともかく出血を止めておく必要があった。
私は、青い顔をして、突っ立っている南田へ、
「おい! そっちへ運ぶんだ。手伝ってくれ!」
と声をかけた。
「はあ……」
「おい、早くしろよ」
「あの──僕は、どうも血には弱くて……」
と、情ない声を出している。
「何よ! しっかりしなさい!」
民子が、勢いよく、南田の肩を叩いた。
「それでも男? 私、あなたを見損ってたわよ!」
「分った、分ったよ……」
恋人にそうまで言われて、南田は渋々、庭へ出て来た。
「足の方を持つんだ。──両脇にかかえて──そうだ」
実際、いくら女性といっても、人間の体は重いものだ。
それでも、足下のふらつく南田も何とか持ちこたえて、やっとその女性を、ソファに横たえるのに成功した。
民子が、タオルを何枚も持って来る。彼女の方が、よほど落ち着いているのだ。
「──よし、貸してくれ」
私も、一応、刑事のはしくれ(これはへり下ってのセリフである)として、応急手当ぐらいは知っている。
ともかく、一応血を止める処置をして、後は救急車に任せることにした。
「──意識はないわね」
と、夕子が言った。
「知ってる女性?」
と、私は南田を見た。
「いいえ、──全然。君は?」
「私も、知らないわ」
民子は、ちょっと途方にくれたように言った。
「しかし、知りもしない女性が、ここへ来て、剌されるというのも妙なもんじゃないか」
「そりゃそうね」
と、夕子は言った。
「君、ここ、見ててくれ」
と、私は言った。
「どうするの?」
「一応、僕も警部だからね。犯人を捜すのが仕事だ」
「そうね。じゃ、行ってらっしゃい」
冷たいもんだ。これでも恋人か!
私は、ナイフを手にして、庭へ出た。
「ほら、警部さん」
と声がして、夕子が、私に懐中電灯を投げてくれる。
これは、台所かどこかにあったやつらしかった。
植込みの方へ、光を当てながら、私は、油断なく進んで行った。
いつどこから、銀色の刃が飛び出して来るか分らないというのは、あまり気持のいい状況とは言えなかった。
こんな所じゃ死にたくないものだな、と私は考えていた。──呑気ではあるが、怖くなかったわけではない。ただ、仕事となれば、ある程度開き直るしかないのも、事実なのである。
ふと──左手に人の気配があった。
ゴソッ、ゴソッと動いている。何だか、あんまり機敏とは言いかねる動きに思える。
私は、少し息をつめて、身を低くかがめ、向うが視界に入るのを待っていた。
やがて黒い影が……。
「誰だ!」
と声をかけながら、私の懐中電灯の光が、その男を照らして──。
「何だ、原田か!」
私は、気が抜けてしまって、肩で息をついた。
「宇野さん!」
原田の方もポカンとしている。「ご無事でしたか!」
「お前──いつここへ来たんだ?」
と私は訊いた。
「今ですよ。この近くの駐在から、この家に人がいた、って報告があったんで、もしかしたら南田の奴かと思って──」
「誰か、出て行かなかったか?」
「ここからですか? いいえ。出ていけば、すぐ分りますよ。表にゃ大勢張り込んでますから」
「そうか。──救急車が来る。そしたら、急いで、女を運んでくれ」
「あの──」
原田が目を丸くして、「夕子さんが、もしや──」
「よせよ。そうじゃない。誰だか分らないんだ」
「そうですか」
と、原田は息をついて、「ホッとしちゃいけないんでしょうが……。まあ、夕子さんは殺されても死なない方ですものね」
これは|賞《ほ》め言葉だろうか? 夕子に訊いてみたいもんだ、と私は思った。
──原田と私が居間へ上ると、
「あら、原田さん!」
と、夕子がにこやかに迎えた。「会いたかったわ!」
「やあ、ご無事で!」
と、原田は大げさな声を上げたが、傍に立つ民子と南田に気付くと、飛び上りそうになった。
「貴様! ──おとなしく観念しろ!」
と、あわてて、拳銃を抜く。
「まあ待て」
と、私は、原田の肩を叩いた……。
「ご迷惑かけてごめんなさいね」
と、夕子は言った。
ちっとも謝っている口調ではないのに、相手が、どういたしまして、と言ってしまうのが、夕子の不思議なところである。
「表に警官がいるそうだ」
と、私は言った。
「じゃ、この人を刺した犯人は、逃げてないのよ」
夕子は庭へ目をやった。
「庭にはいないようだよ」
「庭からなら、どこへ出ても、見付かりますよ」
と、原田が言った。
「じゃあ……」
夕子は、ちょっと考えて、民子の方を見た。「ここ、二階へ、庭から上れる?」
「ええ。二階のベランダに。子供のころ、よく私もやって、怒られたものよ」
「二階だわ」
夕子は、上を見上げた。「──救急車かしら?」
サイレンが近付いて来る。
「そうらしい」
「じゃ、ともかくこの人を」
と、夕子は言った。「すべてはその後だわ」
救急車、パトカー、そして、私が運転して来た車も、全部、走り去った。
宮永家の中は、再び暗がりに包まれた。
私と夕子、それに原田と何人かの刑事や警宮たちが、残って、家の前の暗がりに、身をひそめていた。
「──ごめんね、せっかくの休みを」
と、夕子が、低い声で言った。
「いつものことじゃないか」
「そう怒らないで、埋め合せはするわよ」
夕子は、暗い家の方へ目をやった。
「出て来るかな?」
「──もう誰もいなくなったと思ってるでしょうからね。少し、待ってから出て来ると思うわ」
「一体誰なんだ? 君には分ってるんだろ?」
「そう。──妻がありながら、民子さんに恋した男よ」
「妻がありながら?」
「さっき刺された女性よ」
と、夕子は言った。「誤算だったわ。あれは予定外だった」
「予定外?」
「あなたがあのレストランを選んだのは、偶然じゃなかったのよ。ちょうど、お休みを取る話をしてるときに、あの店の出てる週刊誌を、わざとあなたに見せたの。きっとあそこにするだろうと思って」
「おい──」
「民子の父親は、なぜ南田の名前を言ったのか」
夕子は構わずに続けた。「もちろん、今となっては分らないわ。でも、きっと、もう助からないと分ってたと思うのよね。だったら、娘の幸せを願うのが、父親の心理ってものじゃない?」
「だから?」
「きっと、民子さんと南田さんが結婚したらいい、と言ったのよ」
「絶対にするな、って言いたかったのかもしれないぜ」
「どっちなのか、誰にも分らないんだから、だったら、生きてる人間にとって、|都《つ》|合《ごう》のいい方を選べばいいわ」
「それはそうだな」
と、私は肯いた。
「そして、もう一つは──犯人は誰かを言い遺したい。それも当然の心理でしょうね」
「しかし、言い遺したのは、『真似だ』って一言だけだぜ」
「それなのよ」
と、夕子は肯いた。「──ほら、明りが点いた」
一階に明りが点く。私は原田に肯いて見せた。
「民子さんの弟は、あのレストランでアルバイトをしてた。当然、民子さんも客として、何度かあそこへ足を運んだはずよ。犯人は店で見た民子さんに夢中になった……」
「つまり──」
「訪ねて来た犯人を、父親が居間へ[#「居間へ」に傍点]通したのも当然だわ。──でも、聞いてみると、娘さんと結婚したいというとんでもない話で、父親は怒って、帰れと怒鳴った。それが争いになって……、若い娘に執着する、中年男って怖いのよ」
と、私を見て、「用心しなきゃ」
「よせやい。──行くぞ!」
私たちは一気に飛び出した。
玄関から、居間へ駆け込む。
「警察だ!」
と、原田が怒鳴る。
庭へ出る戸が開いて、人影が庭へと|転《ころが》り出た。
「庭だぞ!」
私は大声で言って、庭へ出た。
しかし──もう、その人影は動かなかった。芝生の上に突っ伏している。
「──最初から、この人を引っかけるための計画だったのよ」
と、夕子が言った。「南田さんが犯人にされたまま死んでくれれば、この人には一番都合が良かった。民子さんが力を貸して下さいと頼んだとき、いい機会だと思ったんでしょう。ひそかに南田さんを始末して、たとえばあなたと刺し違えたように見せかけることもできる。でも──まさか、奥さんが、夫の様子が変なのに気付いて、自分の後をつけて来ているとは思わなかったのよ」
「そうか……」
私は肯いた。「父親は、犯人の名を言おうにも、名前を、知らなかった[#「知らなかった」に傍点]んだな」
「訪ねて来たときには名乗ったでしょうけど、忘れてしまって、その職業[#「職業」に傍点]だけを言ったのね」
と、夕子は言った。
「『真似だ』か……。そう聞こえてもおかしくない」
私は、自ら、胸をナイフで刺し貫いた男を仰向けにした。
あのレストランのマネージャー[#「マネージャー」に傍点]を。
初出誌(発表誌=オール讀物)
影のような男    昭和五十八年七月号
美女は二度殺される 昭和五十八年十二月号
幸福なる殺人    昭和五十九年七月号
銀座の殺しの物語  昭和六十年四月号
幽霊心理学     昭和六十年九月号
単行本
昭和六十一年二月文藝春秋刊
文春ウェブ文庫版
幽霊心理学
二〇〇二年四月二十日 第一版
著 者 赤川次郎
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
東京都千代田区紀尾井町三─二三
郵便番号 一〇二─八〇〇八
電話 03─3265─1211
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