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幽霊園遊会
赤川次郎
目 次
第一話 他人の空似にご用心
第二話 英雄の誇り
第三話 夢の追加料金
第四話 幽霊園遊会
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第一話 他人の空似《そらに》にご用心
「本当に大丈夫かい?」
と、私はドアのノブに手をかけて、永井夕子の方を振り向くと、念を押した。
「大丈夫だってば」
「しかしね、これはやはりできる限り慎重に──」
「一か八かでしょ! 思い切って入るしかないわよ」
夕子は私を力づけてくれた。──私も、この一言で、やっと決心がついた。
ここまで来たのだ。今さら引き返すわけにはいかない。
「よし!」
と、私は、大きく息を吸い込んで、「行くぞ!」
何を恐れることがあるものか! 天下の警視庁捜査一課の鬼警部、宇野喬一だぞ! 文句があるか!
「何をグチャグチャ言ってんのよ」
と、夕子がつつく。「早くドアを──」
「分った」
ノブを回して、ぐいとドアを引く。中から、誰かが同時にドンとドアを押した。両方の力がプラスされて、勢いよく開いて来たドアが私の額にぶつかって、火花が飛んだ。
「いて! いてて……」
「あら、失礼」
と、中から出て来た男は言った。
男? ──いや、女だ! 黒のタキシードを着て、髪も七三に分けてべったりと、ポマードで固めてある。宝塚の男役みたいな感じである。
「夕子じゃないの!」
「何だ、麻美か!」
「よく来たわねえ!」
二人してキャアキャアやっている間、こっちは目の周囲を飛び交う星を何とか追い払おうと必死だった。
「──もう始まってる? 少し道が混んでて、遅れたから」
「別に、きちんとした開会式なんてないんだから、適当に始まってるのよ。まだ半分くらいしか集まってないかもね」
「そう」
夕子は、可愛いピンクのイヴニングドレスだった。そして私は……。
「こちらは?」
と、そのタキシード姿の女性が、いぶかしげに私を見た。
何だか妙な光景だったろう。タキシードがタキシードを眺めている……。
「お父様?」
と、その子が訊いたので、私は目を丸くした。
「違うわよ」
夕子がクスクス笑いながら、「一応《ヽヽ》、私の恋人」
「へえ!」
と、その女の子は目を丸くして、「じゃ、夕子、不倫してるの?」
と、言った。
「──帰るよ」
と、私はパーティの会場に入ってから言った。「どうやら、僕は場違いな存在らしい」
「馬鹿言わないで」
と、夕子が私の腕を取って、「ほら。結構年輩の男性もいるわよ」
「ありゃ、この会場の係だろ」
「そうか。──でも、心配しなくていいわよ。私がついてるんだから。──ちょっと! 久美子!」
私がついてる、と言ったそばから、夕子は懐しい顔を見付けたのか、ワッと駆けて行ってしまった。
「やれやれ……」
私はため息をついた。しかし、このタキシード、蝶ネクタイという奴の、何と窮屈なこと! ため息をつくだけでも苦しい。
──永井夕子が、高校の同窓会があるから、一緒に行こうよ、と誘ってくれたのは、嬉しくないこともない。
〈どうぞカップルで〉という添え書きがあって、みんな彼氏を同伴して来るというので、
「もし忙しかったら、誰か適当に捜して連れてくけど……」
と、夕子は言ったのだった。
もちろん、捜査一課の警部に暇な時間などあるわけもない。一旦は「そうしてくれ」と言いかけたのだが、待てよ。──もし、その「適当に捜した」相手が、本当に適当《ヽヽ》で、夕子が、
「やっぱり、あんな中年のくたびれたおっさんより、若い人の方が話も合うし、私、こっちに乗りかえるわ」
てなことになったら、どうする?
というわけで……。結局、場違いを承知でこんな席へやって来てしまったのである。
「ま、いいか……」
夕子は、かつての同級生たち数人と、キャッキャやってはしゃいでいる。私は一人、テーブルに並んだ料理を皿に取って(立食パーティなのだ)、食べていた。夕飯をタダで食いに来たんだと思えば……。
「ちょっと」
と、肩を叩かれる。
夕子の他に、こんな所に知り合いがいるわけはないが、と思いつつ振り向くと、また可愛い振袖姿の女の子。
「何か?」
と、訊くと、
「飲み物が足んないわよ。もっと持って来て」
「はあ?」
「──あら、ごめんなさい、ホテルの人かと思ったの」
クックッと笑って、向うへ行ってしまう。
私は、料理を取った皿を手に、しばしそこから動けなかったのである。
「──ここにいたの」
夕子が、人をかき分けてやって来た。「どこへ行っちゃったのかと思って、捜したわ」
「目立つ所にいると、色々注意されるんでね」
私は、会場の隅に置かれた椅子に座っていた。
「注意って?」
夕子が不思議そうな顔をする。
「何でもないよ」
私は、息をついた。人いきれで、暑いくらいだ。夕子も、赤い顔をしているのは、アルコールプラス、この暑さのせいだろう。
「──あと三十分ぐらいしたら出ましょう」
と、夕子は腕時計を見て、言った。「それから、二人でゆっくり──」
「せっかく昔の友だちに会ったんだ。僕のことはいいから、ゆっくり話していけよ」
「あら、すねてるの? それとも優しいだけかな」
「すねてなんかいないさ」
「優しいところが大好きよ」
夕子は、かがみ込むと、いきなり私の頬にチュッとキスした。──ま、これで一気にニヤニヤしてしまう私も私だ。
「見たぞ、見たぞ!」
と、おどけた声を出してやって来たのは、さっきの「宝塚風」の女の子。
「こちら、石川麻美さん」
と、夕子が紹介する。「私の恋人、警視庁捜査一課の宇野警部よ」
「ええ? 警部さん? 本物の?」
と、石川麻美が目を丸くした。
夕子が自称、「捜査一課顧問」であることを知らないらしい。
「夕子も、面白い趣味ねえ」
「趣味じゃないの。人間に惚れたの」
「おーっ! 言ってくれる!」
まあ、女の子がこれだけ集まるとにぎやかなことだ。──そこへ、
「夕子! 神田先生よ!」
と、誰かが呼びに来た。
「え? 本当? じゃ、すぐ行く!」
「高校で習った先生なのかい?」
「そう。二枚目でね。みんなの憧れの的だったの。ちょっと行ってくる」
「ああ、ここにいるから」
私は、料理も大分食べて、お腹が一杯になっていた。アルコールも多少は(?)入り、しかも暑い。椅子にかけて、ぼんやりしていると──当然眠くなる。
手にグラスを持っている間はまだ良かったのだが、ボーイの盆にのせて渡してしまうと、瞼が自然にくっつきそうになる……。
いかんぞ。こんな所で居眠りしてちゃ、また夕子に何を言われるか。──もう年齢《とし》だから、疲れるのね、とでも……。
起きてなきゃな。──しっかり、目を見開いて。
ウトウトしていた。そして──隅の椅子に、腰をおろしていたのは、私一人だったのだが、そこへ、
「すみません」
パッと隣の席に誰かが座った。
「は?」
私は振り向いた。メガネをかけた女の子が、いやに緊張した様子で座っている。
「刑事さんでしょ」
と、その女の子は言った。
「ええ、まあ……」
「助けて下さい」
と、女の子は言って、私の腕をつかんだ。
「殺されそうなんです」
「何だって?」
私は、まだ大分ぼんやりしていたので、果してこれが現実なのやら夢の中のことなのやら、自信が持てなかった。「今、何と言ったの?」
「狙われてるんです。殺されます、私」
と、その女の子は言った。
どうやらこれは真剣だ。──私はブルブルッと頭を振って、
「落ちついて」
と、その子の手を軽く叩いてやった。「殺されるって、誰に?」
「あの──突然こんなこと言っても──」
「いや、殺人ってのはたいてい突然起るもんだからね」
私の言葉で、少し彼女はホッとした様子だった。
「私、二カ月前、人殺しの現場に行き合せたんです。──あ、私、夕子と同じクラスだった、堀川あけみといいます」
「あけみ君ね。それで?」
「OLが殺されたんです。夜、私はちょっと帰りが遅くなって──」
「細かい話は後でいいよ。今、君を狙ってるっていうのは?」
「その時、私、犯人を見ました。その男が今、この会場にいるんです」
「なるほど」
私は肯いた。「心配することはない。僕のそばを離れないようにね」
「はい……」
「その男は──君の知っている人じゃないんだね」
「知りません」
「ということは、ここに来た女の子の誰かの連れ、というわけか」
「だと思います」
「向うは君に気付いた?」
「たぶん……。私、思わずじっと見つめてしまったんです。そしたらパッと目が合って──」
「どの男か分るかな?」
「今は……見えませんけど」
堀川あけみという女の子は、パーティ会場の中を見回して、言った。ともかく会場に溢れるほどの人数だ。座った位置からでは見える人数は限られて来る。
「動くのは危い」
と、私は言った。
この人ごみの中だ。相手がこっちを先に見付けたら、逆にやられる恐れがある。しかし一方では、この女の子に気付かれて、犯人は会場から逃げ出してしまったかもしれない。そうなれば、早く手を打たないと、取り逃してしまうことになる。
「──おいで」
と、私は立ち上って言った。
「どうするんですか?」
「壁に沿って歩くんだ。ともかくここを出よう」
「はい……」
「僕の前を歩いて。──大丈夫。必ず守ってあげるから」
「はい」
堀川あけみは、ゆっくり肯いて、立ち上ると、壁際を、出口の方へと、歩き出した。
私はそのすぐ後ろについて、歩いて行く。壁の近くは、あまり人もいないので、誰かが近付いてくればすぐに分る。
「ちょっと」
と、後ろで声がした。「何してんの? あけみをどこへ連れてくのよ」
夕子が、ふくれっつらで立っている。
「そうじゃないんだ。今──」
と、私が説明しかけた時、前を行く堀川あけみに向って、男が一人、近付いて来た。少し年齢の行った──といってもまだ三十前だろうが──背広姿のビジネスマンタイプで、メガネを直しながら、足早にやって来る。
堀川あけみがその男に気付いて、足を止めた。そして、
「やめて! 助けて!」
と、金切り声を上げる。
「待て!」
私は、その男めがけて飛びかかった……。
「本当にご迷惑をかけてすみません」
と、堀川あけみが、すっかり恐縮の態《てい》で頭を下げる。
「いや、まあ僕はいいけどね……」
と、私は言った。
「冗談じゃないよ、全く」
と、その男がふくれっつらをして、「メガネのフレームがこんなにひん曲っちまったじゃないか」
「私のせいですから、お金、払いますわ」
と、堀川あけみがバッグを開けようとするのを、
「いいから、いいから」
と、夕子が止めた。「ねえ、麻美、あんたの彼氏って、こんなことで女性からお金を受け取るほど、肝っ玉小さくないよね」
パーティ会場に近いロビー。ソファが置かれた一角で、目下善後策の検討中である。
要するに、堀川あけみの見た「殺人犯」は、他人の空似というやつで、私が格闘の末、みごと取り押えたのをよくよく見て、
「あら、いけない。人違いだわ……」
ということになってしまったのだ。
パーティの出席者にとっては、格好のアトラクションだったらしいが、その男性と私にとっては、笑いごとじゃすまない。
その青年は、小宮克己といって、老《ふ》けて見えるが大学四年生。あの石川麻美のボーイフレンドだったのである。
「そうよ」
と、麻美は夕子の言葉に即座に肯いて、「大体、ちょっと可愛いからって、あけみの後を追いかけたりするからいけないの。私という恋人がありながら」
「──分ったよ」
と、小宮克己は、苦笑いして、曲ったメガネを苦労してかけた。「災難と思って諦めるさ」
「本当にごめんなさい」
と、堀川あけみはシュンとしている。
「でも、無理もないわよ」
と、夕子が言った。「ねえ、殺人現場を目撃するなんてこと、そうざらにあるわけじゃないもんね」
夕子が言うと、何となくおかしい。
「似た人だな、と思ったら、そんな風に見えて来ちゃって……」
「こんな気のやさしい男を捕まえて」
と、小宮克己が言った。
「自分で言ってりゃ世話ない」
と、麻美が笑って言った。「ねえ、小宮君さ」
「何だよ」
「どういうことか分る、これが」
「どういうことって?」
「つまり、あんたが、どこにでもよくある顔してるってことよ」
小宮がますますむくれてしまう。夕子と麻美は二人でキャッキャと笑い転げた。
まあ、しかし──確かに小宮という男、よく見かけるタイプの顔つきではあるのだ。
特にメガネをかけていると、似て見える。
「堀川あけみ君だったね。君、モンタージュ写真か何か、作ったの?」
と、私が訊くと、
「はい、一応は……。でも、刑事さんに言われました。『こんな顔、電車に乗りゃ一人や二人は必ず見かける』って」
「なるほどね」
私たちのいるソファの方へ、誰かがやって来た。
「おい、永井君」
「あ、先生」
と、夕子が気付いて、「お騒がせしました」
「いや、そんなことはいいけど……。どうしたんだ、結局」
「ええ、ちょっとした勘違いで」
「何だ。じゃ、何でもなかったのか。それなら結構」
「神田先生」
と、麻美が言った。「奥様も今日、連れて来ればよかったのに」
「おい、そういじめるなよ。女房は君らの学年を教えてないぜ」
──これが、夕子の言った、「憧れの的」なのか?
私は、頭の中身はともかく、少なくともその体型においては、大いに自信をつけた。神田というこの教師。まだ若そうなのに、太っていること! お腹の出具合は、かなり目立った。
「そろそろお開きらしいぞ」
と、神田が言った。「会場に戻った方がいい」
「ええ、すぐ行きます」
と、夕子は言って、ノッシ、ノッシ、という足取りで戻って行く神田を見送ると、「──全くねえ!」
と、ため息をついた。
「あれが例の、カッコいい先生なんだろう?」
「|もと《ヽヽ》、ね。──あんなに太っちゃうなんて!」
「私、目を疑っちゃった」
と、麻美が言った。「あのお腹! いくら結婚して幸せかもしれないけどさ、|あれ《ヽヽ》はないよ」
「同感」
と、夕子が肯く。
「もっとやせてたのかい?」
と、私が訊く。
「|スマート《ヽヽヽヽ》だったのよ。想像できる?」
「いいや」
と、私は正直に言った。
「太っちゃいけないとは言わないわよ」
と、麻美が言った。「でも、ただ丈夫で太ったとか、食べ過ぎて太ったとかいうんじゃなくて、あの先生の場合、何となく堕落した感じの太り方よ」
「そう。もっと真面目に太ってほしい」
と、夕子が肯く。
太り方にも色々あるもんだ。私は感心した。しかし、他人《ひと》事ではない。私も、堕落したと言われないように気を付けよう。
「じゃ、会場へ戻りましょ。──あけみ、行かないの?」
と、夕子が声をかけると、
「私、何だか疲れちゃって。ここで少し休んでから戻るわ」
と、堀川あけみは言った。
他の面々は、私も含めて、パーティに戻った。
もうすぐお開き、とは言ったものの、まだ料理も大分残っているし、なかなか話の尽きることもない。──とんだ騒ぎのおかげで、こっちも目は覚めたし、少し運動して、お腹にも空間《ヽヽ》ができたとみえ、また張り切って食べ出したのだった。
「──いかが?」
いつの間にやら、夕子が来て、そばで私の食べっぷりを眺めている。
「何だ、そこにいたのか」
「来て良かったでしょ」
「料理の話かい?」
「それもあるし、ちょっとしたスリルも味わえたし」
「スリルは君の|好み《ヽヽ》だぜ。僕にとっちゃ、仕事だ」
「でも、あけみがそんなことに係わり合ってたなんてね」
と、夕子は首を振った。
「あの事件のことは思い出したよ。担当じゃないから、詳しいことは知らないが、まだこれといって、目ぼしい容疑者は挙がっていないはずだ」
「でも、あけみの言った通りの男だったら、なかなか捕まりそうにないわね」
と、夕子は言った。
「うん。──まあ、小説じゃないからな。そう都合よく、頬に傷跡があった、なんてことはないさ」
「動機の方から、何か分らないの?」
「通り魔的な犯行だったと思うんだ。もちろん、恨んでた人間もいたかもしれないから、当然両面で捜査はしてると思う」
「殺されたのはOLだったのね」
「うん。確か、東京へ出て来て独り住いだった。恋人はいたらしいが、名乗り出て来ない、ってことだったと思う」
「その男が犯人かもね」
「恨みの線だとすればね。──もっとも、疑われると思って、名乗り出ないってこともあり得るけど」
「恋人とも言えないわね。男なんて薄情なんだから」
夕子はすぐ一般論にしてしまう|くせ《ヽヽ》がある。
「あの堀川あけみって子は、おとなしそうだね」
「高校のころからよ。地味で、おとなしくて、いるかいないか分んないような子だった」
「要するに君の反対だ」
「何よ、それは!」
と、夕子が私をにらんで、それから笑い出した。
「──皆さん!」
と、聞き憶えのある声が、マイクを通して、会場に響き渡った。
「麻美だわ」
と、夕子が言った。「そうか、麻美、今夜の幹事の一人なんだ」
「色々お話も尽きないと思いますけど──」
と、麻美がマイクを握って言った。「この会場の人が、そろそろ怖い顔をし始めましたので、お開きにしたいと思います」
ワーッと笑い声、そして拍手。
「まだ! ──もう一つあるの!」
と、麻美が大声で言った。
少々酔っているらしい。舌が回らなくなっている。
「ええ、今夜の参加者の中で、一人だけに、豪華賞品が当ります。といっても──ちょっと事情があって、余ったもんですからね」
夕子が吹き出した。
「ええと……。賞品は──このタキシードです!」
麻美が、自分の着ているのとよく似たタキシードを手にして、「サイズ間違えて注文しちゃってね。どうしようもないんで、ここであげちゃうことにしました! で、幹事が勝手に|くじ《ヽヽ》を引いた結果、当選したのは……堀川あけみさんです!」
ワーッと拍手が起きる。
「あけみがあんなもの着るわけないのに」
と、夕子が苦笑いした。
「あけみさん! ──堀川あけみさん。どこ? あけみ?」
麻美が呼びかけても、一向に返事がない。
「まださっきのソファの所かな」
と、私は言った。
「見て来る」
夕子は手を上げて、「麻美、今、探して来るから」
「早くしないと、他の人にやっちゃうぞ!」
と、麻美がタキシードを振り回した。
私もロビーへ出てみた。ソファの所に、堀川あけみの姿は見えない。
「トイレかしら。──ちょっと覗《のぞ》いて来るわ」
夕子は、女子トイレへと小走りに姿を消した。
私は、中の熱気でほてった頬を、ロビーに立ってさましていた。──これで、夕子と二次会《ヽヽヽ》ってのも悪くない。
もっとも、夕子は夕子で、懐しい友だち同士、色々話もあるだろうから、あまり無理にとは言えないが……。
夕子が戻って来た。いやに顔が青白い。
「どうした? 何だか顔色が──」
「来て」
と、夕子が私の手をつかむ。
「どこへ?」
「いいから」
「──おい、女性のトイレに?」
しかし、夕子は真剣だ。
ついて行くと、トイレの中には人気《ひとけ》がなかった。
「どうしたんだ?」
「その一番奥」
──覗いてみて、ギョッとした。
堀川あけみが、タイルの床に、体をねじるようにして、倒れている。
「死んでるな」
と、私は言った。「何てことだ!」
あけみの首には、スカーフが、きつく巻きついて、深々と食い込んでいた。小宮克己に、人違いで謝っていた時の、あのちょっと泣き出しそうな顔は、今、苦悶に歪んだまま、こわばっている。
「殺されたのよ」
「急いでホテルの人間と警察に連絡だ」
私は、念のために、あけみの手首の脈を取ってみてから、立ち上った。「君、ここにいてくれ。誰も近付けるな」
「分ったわ」
夕子は肯いて、「それと、パーティの客、みんな帰っちゃうわよ」
私はハッとした。
「そうだ! 止めないと──」
トイレから駆け出した私は、思わず足を止めた。
パーティ会場からは、すでにゾロゾロと人が出て来ていて、もう帰り始めたところだったのである。
「待て!」
と、私は叫んだ。「みんな、帰らないで! 待ってくれ!」
小宮克己との取っ組み合いに続いて、私はその夜、二度も、パーティの客の注目を浴びる|はめ《ヽヽ》になってしまったのだった……。
「──やれやれ」
私は、ソファにぐったりと座り込んだ。
「大丈夫?」
夕子が心配そうに覗き込んで、「まだ死なないでよ」
「誰が死ぬもんか」
と、私は言った。「しかし──もう夜中だぜ」
「どうするの、これから?」
「うん……」
私も迷っていた。
いつまでも、パーティの客を足止めするわけにはいかないのだ。
「住所を控えて、引き取ってもらうしかないな」
と、私は言った。
「宇野さん!」
疲れた頭に響く大声を張り上げて、原田刑事の巨体が現われた。
「何だ、来てたのか」
「夕子さんも! ──でも、宇野さん」
と、原田は私の格好を見て、「何があったんですか? 借金でも?」
「どうして俺が借金するんだ?」
「だって──その格好。ここでウエイターのアルバイトをしてたんでしょ?」
夕子が、あわてて咳払いすると、
「原田さん、あけみが目撃したという、殺人事件の担当なんですってね」
「ええ。困ったもんです」
と、原田は肯いて、「宇野さん、パーティの方、どうしますか?」
「今話してたんだ。住所を全員に書いてもらって、もう帰らせよう」
「そうですか。じゃ、どうします?」
「何を?」
「料理が余って、そのままになってます。もったいないですよ」
私は面食らった……。
「原田さん」
と、夕子が言った。「もともとのOL殺しについて、教えてくれる?」
「ええ」
原田は手帳を開くと、せっせとページをめくった。「ええと……。どれでしたっけ、宇野さん?」
「俺が知るか」
「あ、これだ、これだ」
原田はソファにドカッと腰かけた。少し離れて座っていた私の体が、一瞬、ソファからはね上ってしまった。
「被害者は、池内直子というんです。二十四歳──だったかな。OLで、独り住いでした。仕事のせいもあったんでしょうが、毎晩帰りは遅くて、アパートの他の住人とも、ほとんど、付合いはなかったようです」
「殺されたのは──」
「夜中の一時ごろらしいです。やっぱり会社の同僚の女の子と飲んで、帰る途中でした」
「一人だったのね」
「そうです。アパートの手前に、電車のガードがありましてね、そこがちょっと物騒なんですよ」
「じゃ、そこで?」
「ええ。刃物で一突き。凶器は見付かっていません」
「何か、盗《と》られた物は?」
「バッグが開けられていましたが、お金などはそのままです。ちょうどあの堀川あけみが通りかかって、何も盗れなかったのかもしれません」
「なるほど」
と、夕子は肯いた。「恋人がいたんでしょ?」
「ええ。同僚の女の子たちも、誰か恋人がいたってことは知っていましたが、どんな男かは、全く聞いてないってことでした」
「手がかりもなし?」
「ありません。池内直子の部屋も捜してみましたが、恋人の男のものらしい電話番号も、住所も、手帳にはありませんでしたし……」
「妙な話ね」
と、夕子は首をかしげた。
「──ま、それで一応、通り魔的な犯行だろうという線で進めていたんですが」
「目撃者がここで殺された。──なぜだ?」
と、私は言った。「もちろん、堀川あけみを恨んでいた人間の犯行かもしれないが……」
「あんまり考えられないわ」
と、夕子は首を振った。「あけみはおとなしい人だし、性格的にも、人と争うことの嫌いなタイプよ」
「じゃ、やはり、その、池内直子殺しとつながってる、と?」
「可能性としては、その方があると思う」
夕子は肯いた。「──犯人はあのパーティの中にいたはずだわ」
「そうだろうな」
「小宮克己のことを犯人と間違えて、大騒ぎしたので、|本当の《ヽヽヽ》犯人に、あけみが目撃者だったことが、分ってしまったとしたら……」
「なるほど」
「あの後、あけみはしばらくこのロビーに一人でいたわ。誰かがパーティを抜け出して、彼女を殺しても、たぶん誰も気付かなかったでしょう」
「すると、パーティに、犯人と似た小宮克己と、本当の犯人と両方いたってことか」
「不思議じゃないわ。よくあるタイプなんだから。でも──」
「そうだ!」
と、私は思い付いて、「パーティにいた男たちは、全員残っているんだ。小宮克己とよく似た感じの男を捜してみよう」
「でもね──」
「何かまずいか?」
「殺人犯で、しかも顔をみられていて、モンタージュ写真まで作られているのよ。いくらよくあるタイプだといっても、その犯人としては、びくびくものでしょ?」
「そりゃそうだろうな」
「だったら、|何か《ヽヽ》変えてると思うのよ。メガネをやめてコンタクトにしているとか、メガネをかけるにしてもフレームを取りかえているとかね」
「なるほど」
「本当は、全員に、小宮君のメガネかけてもらうと、よく分るでしょうね」
「そりゃいいや。やってみよう!」
いい思い付きではあったのだが……。
まあ、事件の巻き添えで、夜中まで残らされ、そのあげく、犯人扱いされては、確かに面白くあるまい。
断固拒否するという男が多くて、その方法は、結局断念しないわけにいかなかったのである。
「──やれやれ」
すっかりパーティの客が帰ってしまってから、ドッと疲れが出て来た。
「くたびれた?」
「まあね。──我々も引き上げようか」
「そうね。あら、先生」
夕子が振り向いて、言った。例の、神田という教師がやって来る。
「まだいらしたんですか」
「うん。──いや、色々お世話になって、とお礼を言いたくてね」
「あけみさん、気の毒でした」
「全くだ」
と、神田はため息をついた。「おとなしい子だったのにな」
「そうですね。──先生、あけみさんのこと、ご存知でした?」
「あの事件のことかい? さっき刑事さんから聞いてびっくりした。あの騒ぎもそのせいだったんだね」
「そうなんです。私、一つ分らないんです」
と、夕子が眉を寄せる。
「何のことだね?」
「あけみさんが、なぜ、そんな遅い時間に、そこにいたか、ってことです」
私も、ハッとした。目撃者の事情まで、なかなか頭が回らないものだ。
「なるほど」
「午前一時ですよ。あけみさん、お酒も飲まないし、どこへ出かけても、そんな遅く帰るなんてこと、ない人でした」
「しかし、もう大学生だからね」
と、神田は言った。「彼氏の一人ぐらいいても当然だろう」
「それはそうです。でも、彼女の家、その現場の方じゃないと思うんです。確か、郊外の方ですけど、もっとにぎやかな町の中で」
「おい、君は──」
と、私は言った。「堀川あけみが、ただの目撃者じゃ|なかった《ヽヽヽヽ》っていうのかい?」
「分らないけど、あけみさんの方にも、何か隠している事情があったのよ」
と、夕子が言った。
「驚いたね! 永井君、君はシャーロック・ホームズなのか?」
と、神田が目を丸くした……。
──夕子と二人、ホテルを出ると、私は、つい欠伸《あくび》が出た。
「いかんな。殺人の初期捜査だっていうのに……」
「人間、休むことも必要よ」
夕子は、珍しく、私の方へ身を寄せて来た。「スッキリした頭で、事件に取り組むのよ」
「うん。しかし──」
「まさかこのホテルに泊るってわけにもいかないものね」
私と夕子は顔を見合わせた。
「──もちろんさ。殺人があった、っていうのに」
「そうよね」
「そうとも!」
私は夕子を促《うなが》して──クルッと向きを変えると、ホテルの中へと戻って行ったのだった……。
「おはよう……」
と、私は言ってから、それが夕子で|なかった《ヽヽヽヽ》ことに気付いた。
いや、ベッドの中に他の女がいた、というのでは大変だが、そうではない。私が、ねぼけまなこで、夕子かと思って、声をかけたのは──枕だった!
「やれやれ……。俺も、少しぼけて来たかな……」
私は、起き出して、テーブルの上を見た。夕子のメモだ。
〈大学へ行くので、お先に! 夕子〉
「──元気なこった」
と、私は呟《つぶや》いた。
シャワーを浴びて、顔を洗うと、大分スッキリする。もう十一時になっていた。急いで一課へ顔を出さねば。
ヒゲを当って、さっぱりしてから、部屋を出た。エレベーターの前で立っていると、誰やらが、せかせかと走って来る。ちょうどエレベーターが来た。
「待って!」
と、その女性があわてて駆け込んで来たのだが……。
どこかで見た顔だ、と思った。──誰だろう?
と、その女性が私を見て、
「アッ」
と、声を上げた。
その声で分った。──あの「宝塚の男役」風だった、石川麻美なのだ。
昨夜とは打って変って、地味めのワンピースなので、別人のようだ。
「刑事さん! ──警部さん、だっけ」
「どっちでもいいがね」
「じゃ、夕子と? それとも他の女《ひと》と?」
「一応《ヽヽ》、君の旧友たる夕子と二人さ」
「へえ……」
「君、あの小宮君と一緒に?」
「彼、ゆうべ帰っちゃいましたよ」
「それじゃ──」
麻美は肩をすくめて、
「ちょっと古い仲間と気が合って」
と、言った。
「なるほど」
これぐらいで、びっくりしていては、刑事はつとまらない。
「小宮君に言わないでね」
と、麻美も、さすがに気が咎《とが》めるらしい。
「分ったよ」
と、私は肯いた。
「優しいのね」
と、麻美は、ニッコリ笑った。
エレベーターがロビーに着く。──麻美は出口の方へ行きかけて、ふと、
「ねえ、刑事さん」
と、振り向いた。
「何だい?」
「あけみのこと、一つ教えてあげましょうか」
「何を?」
「猫かぶってたけど、結構、男の子とは遊んでたのよ」
「本当かい? 相手を知ってる?」
「いいえ、残念ながら」
麻美は首を振って、「じゃ、バイバイ!」
と、歩いて行ってしまった。
私は、精算をすませるべく、カウンターの方へと歩いて行った。
雨が降っていた。
冷たい雨が、灰色に町並を染め上げている。
「──どうやら、このままね」
と、夕子が言った。
私は、食事を取る手を止めて、
「何の話だい?」
と、訊いた。
「もちろん、事件のことに決ってるじゃないの」
と、夕子は肩をすくめる。「きっと、迷宮入りじゃない?」
「まだ起ってから一週間だよ」
「そりゃそうだけど、初めの一週間で何も出なきゃ」
「うん。──ま、持久戦だな」
レストランは、ほぼ半分ほどの入りである。
夕子と会うのも、一週間ぶりだった。
こうして、やっと昼食を取るのに出て来られたのである。
「池内直子さんの事件の方は?」
「新しい事実は出てないらしいよ」
「それこそ迷宮入りね」
「何だ。いやに弱気だな」
「私が? ──まあね。何も手がかりがないんじゃ、推理のしようもないし。でも、もし同じ犯人だとしたら、女を二人も殺して、のうのうとしてるのよ。ひどい奴だわ」
「同感だ。しかし、必ずその内に尻尾《しつぽ》をつかまえて──」
と、言いかけた時、隣のテーブルから、急に、すすり泣きの声がして、私は、びっくりした。
若いOLらしい女性が、一人で食事をしていたのだが、どうして急に泣き出したのか……。
その女性は、ハンカチを出して涙を拭って、立ち上って、私たちのテーブルの方へ歩いて来た。
「失礼します」
と、その女性は言った。「警察の方なんですか」
「ええ。あなたは?」
「私……」
と、少しためらって、「沖田圭子といいます。お話ししたいことがあるんですけど」
「どうぞ」
と、私は椅子をすすめた。
「──私、殺された池内直子さんと、同じ会社に勤めています」
と、沖田圭子は言った。
「親しかったんですか?」
「ええ。社内では、たぶん一番仲のいい人間だったと思います」
「それじゃ、悲しかったでしょうね」
と、夕子が言った。
「悔しかったですわ」
と、沖田圭子は、眉をきゅっと寄せて、
「彼女、あの夜は、恋人と会っていたはずです」
私は夕子と顔を見合わせた。
「殺される前に、どこかで会っていた、という意味ですか」
「ええ。それに──」
と、付け加えて、「もしかしたら、|殺された時も《ヽヽヽヽヽヽ》」
「つまり、恋人が犯人だ、と?」
「私は、そう思います」
沖田圭子の口調は、深い悲しみを感じさせたが、感情的になってはいなかった。
「池内さんの恋人を、ご存知でしたか?」
と、夕子が訊いた。
「いいえ。──聞いておけば良かった、と後で悔みました」
「じゃ、なぜ……」
「誰だかは知らなくても、幸せな恋でないことは分りますわ。直子さん、やつれて来ていました」
「やつれて?」
「恋している時の輝きが、もうなくなっていたんです」
「つまり、相手とうまく行っていなかったという──」
「ええ。相手の態度がはっきりしなかったんでしょう。もう別れたわ、とか、もう別れるの、とか何度も言いました」
「なるほど」
私は肯いた。夕子が、身を乗り出すようにして、
「その日、何か特別なことがあったんですか?」
と、訊いた。
「話をつける、と言っていました。──もう別れる決心をしたのかな、と私は思って、良かった、とホッとしていたんです。それがあんなことに……」
と、沖田圭子は、目を伏せた。
「すると、その話がもつれて、殺されたんだと思うんですね?」
「そう思います。そういう男は人殺しもやりかねませんわ」
沖田圭子は、強い口調で言った。「しかも、その男が、犯行を目撃した人まで殺したなんて」
「確かではありませんが、おそらくはね」
「何とか捕まえて下さい! そうでないと、直子さんが可哀そうです」
「もちろん努力していますよ」
と、私は言った。「しかし、そのことを、なぜ黙っていたんです?」
沖田圭子は顔を伏せた。夕子が、
「色々わけがあるのよ」
と、穏やかに言った。
「私──話さない方がいい、と言われてたんです」
「誰が、そんなことを?」
「あの……。私は、今、付合っている人がいます。男性が」
「その人が、あなたに、黙っていろ、と?」
「というより、余計なことに係わり合わない方が、と言われたんです。──でも、黙っていたせいで、その目撃者の女性が殺されたのかもしれないと思うと……。やっぱり、お話しするべきだと思ったんです」
「その男性というのは?」
「それは──」
「必要なんです、捜査のためには」
と、夕子が言った。
沖田圭子は、夕子を見つめながら、
「私の上司です」
と、言った。「部長の、丹羽という人です」
「部長というと……もう年輩でしょ?」
「ええ。五十五です。奥さんもいる人なんです」
と、沖田圭子は言った。
「ありがとう」
夕子は、微笑《ほほえ》んで、「よく話して下さったわ」
──沖田圭子が、レストランを出て行くと、夕子は、言った。
「ね、ここで食事して、良かったでしょ」
「君──彼女がいると知ってて、ここに来たのか?」
「もちろんよ。向うが話しかけて来るように持って行ったの」
夕子は、ちょっと得意げに言って、「さて、その部長さんに会いに行きましょうか」
と、立ち上った。
「──沖田君に?」
丹羽という部長は、気のすすまない様子で言った。
「そうです」
私は肯いて、「まさか、そんなことは言わん、とはおっしゃらないでしょうな」
部長という立場にいる人間にしては──外見上はかなり貫禄もあったが──やや肝っ玉の小さい感じである。
「まあ、言ったには言ったがね……」
と、丹羽は机の上の書類をめくりながら、独り言のように言った。「それがどうかしたかね?」
「なぜ、沖田さんに、池内直子の恋人のことを黙っていろ、とおっしゃったんです?」
「そりゃ別に、深い意味はない」
と、肩をすくめる。
「深い意味はない、ですって?」
私は声を荒げて、「その証言がなかったために、次の殺人が起るのを防げなかったのかもしれんのですぞ!」
丹羽は、ちょっと怯えたように身をひいて、
「分った。──そう怒らんでくれ」
と、渋々言った。「悪かったよ。しかし、沖田君は別に、犯人を見たというわけじゃないし……。それに、私とのことが、それがきっかけに、みんなに、分っても困ると思ったもんだからね」
こんな男のどこが良くて、沖田圭子がついて行ってるんだろう、と私は首をかしげずにはいられなかった。
丹羽は額に汗をかいていた。ハンカチを出して拭いながら、
「いや、どうも暑いね、今日は……」
「そうでもないと思いますが」
と、私は言った。「池内直子さんのことについて、他に何かご存知のことは?」
「いや、別に何もない。──本当だよ」
もう少し絞れば、何か出て来そうな気もする。しかし、取りあえずは引き上げることにした。
立ち上って、丹羽の部長室を出ようとすると、ドアがノックされて開き、秘書らしい女性が顔を出した。
「部長、お嬢様がおいでですが」
「そ、そうか。──じゃ、下で待てと言ってくれ」
丹羽が、いそいそと立ち上る。
この父親が、若いOLを愛人にしていることを、その「娘」は知ってるんだろうか、と私は思った……。
私が丹羽に会っている間、夕子はビルのロビーでぶらついていることになっていた。
かなり大きなオフィスビルで、ロビーも広々としている。ロビーの上は五階の高さまで吹き抜けで、一階には、色々と店も入っているので、人が多い。
夕子はどこに、とキョロキョロしていると、
「──こら、みっともないぞ」
ポンと肩を叩かれた。
後ろに夕子が立って、ニヤニヤしている。
「何だ、気が付かなかったよ」
「二階の喫茶店にいたの。ロビーが見渡せるからね」
「なるほど」
「で、どうだった、部長さんの方は?」
「のらりくらりと言いぬけてたが、何かまだ隠してるかもしれない。──ただ、浮気してるんで後ろめたいってだけかもしれないがね」
「だけど──」
夕子がそう言いかけた。
私たちはロビーの端の方を歩いていた……。吹き抜けの空間を囲むように、五階まで通路がめぐっている。その通路の手すり越しに──。
夕子が話しながら、目の前の店のショーウインドに目を止め、足を止めた。私も一緒に。──それで助かったのだ。
目の前で、何かが破裂した。
「キャッ!」
夕子が叫び声を上げて、飛びすさった。
「おい!」
粉々に砕けていたのは、重い陶器の壺らしかった。
「大丈夫か?」
「うん、──足をちょっと──」
破片が、夕子のふくらはぎに一つ刺さっていた。幸い、大して深くはない。抜き取ると、血が流れたが、ハンカチで押えると、すぐに止った。
人が集まって来る。ビルのガードマンらしい男が、
「どうしました?」
と、駆けつけて来た。
「この子の傷を手当てしてくれ」
私は手帳を見せて、ガードマンに夕子を任せると、上を見た。
この壺は、明らかに頭上のどこかの階から、投げ落とされたものだ。おそらく、私たちをめがけて。
もし、夕子が足を止めていなかったら……。けがどころではすまなかったろう。
私はゾッとした。しかし、誰がやったにせよ、こういう雑居ビルでは、とても捜しようがない……。
「──とんだ災難だわ」
と、夕子は、そっとけがをしたふくらはぎを、スラックスの上から押えた。
「痛むかい?」
と、私が訊くと、
「泣きたいのをこらえてるのよ」
と、夕子が、哀しげな目をして見せ、それから、フフ、と笑った。
「あんまり同情を誘わないぜ」
「どうせ」
夕子は、オレンジジュースを飲んで、「──でも、麻美が何の用なのかしら」
「そうだな」
夕子の通う大学の近くの喫茶店。例の石川麻美が、ぜひ話があるから、というので、やって来たのである。
「君に話っていうのなら分るけどね、どうして僕にまで?」
「知らないわ。もう来てもいいころだと思うけど」
店の入口が開いた。目をやると、どこかで見たことのある男──小宮克己である。
「あら、この間の──」
と、夕子が気付いて、言った。
「どうも」
小宮は、私に向って頭を下げた。
「やあ。君も彼女と待ち合わせたの?」
と、私は訊いた。
小宮は、何だか思い詰めたような表情で、
「実は──」
と、言った。「あなたに申し上げたいことが」
「僕に? 何だろう?」
「はあ。──すみません」
「何のことだい?」
「これからのことです」
「これからのこと?」
小宮が、いきなり、拳を固めると、私の顎へ一発、ガツンと当てた。
いくら何でもふいをつかれて、私はよろけると、ドシンと尻もちをついた。
「何するの!」
と、夕子が目を丸くした。
「この人は、彼女を誘惑したんだ!」
と、小宮が言った。
「何だって?」
私は、起き上って、「何の話だ?」
なぐられたとはいえ、たいして力のあるパンチではなかった。むしろ面食らっていたのである。
「見たんだ!」
と、小宮は、私をにらみつけている。「あのパーティの翌日、あなたが、麻美とホテルのエレベーターを出てきたのを」
「ああ。エレベーターでひょっこり会ったんだよ」
「あの晩、この人と一緒だったのは私よ」
と、夕子が言った。「早とちり!」
「でも……」
小宮は今度は青くなった。「じゃ──間違えたのかな、僕」
「そういうことらしいね」
と、私は顎をさすって言った。「暴行罪で逮捕してもいいよ」
「い、いえ──遠慮します」
と、逃げ出しそうになる。
「ちょっと待って」
と、夕子が引き止める。
そこへ、当の石川麻美が飛び込んで来た。
「──小宮君!」
ハアハア息をしながら、「やっぱり!」
と、肩を落とす。
「どういうことなの、麻美?」
と、夕子は言った。
かくて──四人はもう一度、改めてコーヒーで仲直りの乾杯(?)をした。
「──私のせいで、ごめん」
と、麻美も恐縮している。
「誰か中年の男といるのを見かけたんだ」
と、小宮が言った。「で、てっきりこの人かと──」
「麻美ったら」
と、夕子は怖い顔をして、「一体誰だったの、相手は?」
「うん……」
麻美は、頭をかきながら、「ついね、アルコールの勢いで」
「知らない人じゃないんでしょ」
「もちろん。──神田先生よ」
夕子が目を丸くした。
「神田先生と?」
「うん」
「あの、腹の出た?」
と、私も思わず訊いていた。
「一度ぐらいなら、と思ったの。でも──がっかりしちゃったけど」
「驚いたな」
と、私も少なからずショックを受けていた。あの男がどうしてそんなにもてるんだ?
「呆れた」
と、夕子が首を振った。「先生、奥さんがいるのよ」
「うん、知ってるよ、もちろん。だから、先生は早く帰っちゃったわ」
と、麻美が肯いた。「奥さんには気付かれてないと思うけど」
「どうだか」
と、夕子は言った。「私、奥さんの方は知らないけど」
「私のいとこが今、習っているの、丹羽先生に」
「──待ってくれ」
と、私は言った。「丹羽《ヽヽ》だって?」
あの、池内直子や沖田圭子のいた会社の部長と同じ名だ。
「ええ。もちろん、独身時代の名ですけど」
「丹羽先生っていうの?」
「そう。今は、神田良子」
夕子は、眉を寄せて考え込んだ。
「もしかすると──」
と、私は言った。「あの時、丹羽の所を訪ねて来たお嬢さんっていうのは……」
「神田先生の奥さんだわ、きっと!」
と、夕子は言った。
「すると、どういうことになる?」
「池内直子が殺されて、それを目撃したのが堀川あけみ。池内直子の会社の部長は、あけみの恩師の奥さんの父親……」
「偶然かな」
「かもしれないけど……。そうか! そうだわ」
夕子は、何か思い付いたらしい。「それで話が通じるんだわ」
「何のことだ?」
しかし、もちろん名探偵は、推理をすぐにあかしたりはしないのである。
「ね、麻美」
と、夕子が言った。
「うん?」
「力を貸してほしいの。あけみを殺した奴を捕まえるのに」
「いいけど……。何をするの?」
「この人とデートして」
夕子が私の肩を叩いて、言った。私はギョッとして、夕子の方を見たのだった……。
──風の冷たい夜だった。
一組の男女が、今では大分見かけなくなった、古びた旅館へと、姿を消した。
「──お風呂へ入ったら?」
「うん、そうするか。君は?」
「後でいいわ」
男女の声が、廊下に洩れて来る。
じっと様子をうかがっていた女は、部屋の中から、お湯の出る音が響いて来ると、そっと戸を開けた。
「あら」
麻美が、目をみはった。「先生!」
「『先生』じゃないわよ」
と、神田良子が言った。「一緒にいる男は誰?」
「あの──今、お風呂に」
「分ってるわ。誰か、と訊いてるの」
「ちょっとした──知り合いです」
「分ってるわ。主人ね」
と、良子は言って、首を振ると、「こりもせずに!」
麻美は黙って、神田良子を見つめていた。
「主人と話があるの。あなたは出ていって」
「でも……」
「黙って出て行きなさい!」
コートのポケットから出した手には、ナイフが握られていた。
「あ、あの──」
「痛い思いをしたくなかったら出て行って! あけみさんみたいになりたくないでしょ」
「あけみ?」
「あの子も、主人にちょっかいを出してたのよ。主人だって、そりゃ悪いけど、でもあの子だって──」
「だからって殺してはいけませんね」
私は、浴室から出て、言った。もちろん服は着たままである。
神田良子が、目をみはった。
「あなたは……」
「宇野警部です。この間、あなたに壺を落とされて、大けがしそこなった男ですよ」
「てっきり、主人かと──」
「ご主人は、呼び出された所で待ち呆けです」
と、私は言った。「あなたが、間違えて尾行して来るだろうと思っていました」
「私のことを──」
「丹羽先生」
と、入口の所で、夕子が言った。「池内直子も、ご主人の愛人だったんですね」
「いえ、そんなこと……」
「分ってるんです」
と、夕子は言った。「池内直子は、神田先生と、奥さんがいると知らずに付合っていた。でも、神田先生は、もう堀川あけみと付合い始めていたんです」
「嘘だわ」
「あけみも可哀そう」
と、夕子は首を振って、「先生が池内直子を殺し、あけみは目撃者の役を演じたわけですね。だから、もちろん、先生とは似ても似つかぬ、どこにでもいそうなタイプの犯人像ができ上った」
「じゃ、小宮を犯人だと言ったのは──」
「もちろん、神田先生に言われてのことよ」
と、夕子は言った。「あけみは何も知らなかったけど、先生は、あけみを殺すつもりだったんだわ」
「あの芝居をしていて、殺せば、容疑は当然、小宮か、それと似た男にかかる、というわけか」
「──そうじゃないわ」
と、良子が言った。「あけみは、たまたま、主人が池内直子を殺すのを見たのよ」
「たまたま?」
「というか、主人のことを昔から好きだったから、主人とどこかで話をして、別れた後、主人の後をついて来ていたの。──そして見てしまったのよ」
「じゃ、それからご主人と?」
「ええ。あけみは、わざとでたらめの証言をして主人に恩を着せ、それから主人と関係を……。いつかは清算しなきゃいけなかったんだわ」
「あけみを殺したのは、あなたですか」
「私よ」
「ご主人と二人じゃないかな」
と、私は言った。「ああ手ぎわ良くはいかないよ、一人では」
「一方で、ご主人と池内直子さんのことが知られないように、父親の丹羽部長に頼んで、社内の女子社員のことを調べてもらってたのね」
「その用で、会社へ来た時、ちょうど僕が話をしに来ていた。とっさにあの壺を落として……」
「──一人だけでやめるつもりだったのに!」
良子が、ナイフを取り落として、うずくまった。
「人殺しというのは、そういうものですよ」
と、私は言った……。
──神田良子をパトカーに乗せていると、原田から、夫の方も逮捕したという連絡が入って来た。
「ご苦労さん」
と、夕子が麻美の肩を叩く。
「うん。でも、宇野さんて、なかなか渋くていいね」
「でしょう? 貸してやろうか?」
「──おい」
「冗談よ」
と、夕子は笑った。「じゃ、麻美は、あの小宮君とうまくやんなさいよ」
「そうね。危い恋もスリルあるけど、命あっての恋だものね。──じゃ、バイバイ」
麻美を見送って、夕子は、
「命あっての恋か」
と、肯いた。「それは真理だわ」
「じゃ、命がある内に、どこかへ行こうか」
と、私が言うと、夕子はちょっと笑って、
「現実の恋には、命だけじゃなくて、お金と暇も|少しは《ヽヽヽ》なくちゃね」
と、言った。
少しは、というのが気にはなったが……。
「沢山なくちゃね」
と言われるより、気が楽なのは確かだった。
私は夕子の肩を抱いて、夜の町を歩き出していた……。
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第二話 英雄の誇《ほこ》り
「ふざけてるわ!」
と、永井夕子は、ふくれっつらである。
「そう怒るなよ。ともかく、僕としては良心的に──」
「女性と会うからって、何で私をいちいち引張り出すわけ?」
「それは……」
後で分った時にまずいと思ったからだ、とは言いにくかった。それでは、いかにも私がいつも夕子のご機嫌を取っているみたいではないか。──ま、事実そうじゃないか、と言われると、反論もできないのだが……。
「どこで会うことになってるの?」
と、夕子が言った。
「Kホテルのバーだよ。ともかく、困った。伝言で、〈命にかかわる問題です〉って言われちゃ、行かないわけにもいかないじゃないか」
夕子は肩をすくめて、
「ずいぶんドジな伝言ね。誰からの電話かもメモしとかないなんて」
全く、その点は同感である。
多忙な中、わざわざ夕子に食事までおごって、こうしてタクシーでKホテルへ向っているのも、電話を受けた同僚の刑事が、
「女だったけど、名前は聞かなかったな。聞かなくても分るんだろうと思ったんだ」
という、誠にいい加減な用件の伝え方をしてくれたからなのである。
──そろそろ暑くなる時期で、夜も少し遅いこの時間になると、若者たちがホッとしたようにくり出して来る。これから、「長い夜」が始まるのだ。
「何でそう表を眺めてるの?」
と、夕子が言った。「過ぎ去った遠い青春を思い出してるわけ?」
「|遠い《ヽヽ》って強調することはないだろう」
そりゃ、|近く《ヽヽ》でないことは、承知している。夕子が正に青春の真盛りの女子大生。私は四十男の、しがない|やもめ《ヽヽヽ》。──それでいてこの仲が、何となく続いているというのも、不思議なものだ。
「──もうすぐKホテルよ」
と、夕子が言った。「ねえ」
「何だい?」
「電話がもしいたずらで、誰も来なかったら?」
「まさか。──もしそうなら、一課へ戻るよ。仕事は山と残ってる」
「あら残念ね。部屋が空いてりゃ、泊ってもいいと思ってたのに」
「──実をいうと、そう急ぐ仕事はないんだ。いや、急ぐけど、明日でも充分間に合うし……」
タクシーは、Kホテルの車寄せに入っていった……。
伝言にあった約束の時間は、夜の十時である。
ホテルのバーが、やっと客で埋り始めるのが、その時間。──私と夕子は、少し間を置いて入り、できるだけ近い席にそれぞれ腰をおろした。
さて……。誰がやって来るものやら。それとも、誰も来ないか。
水割りなど注文して、そこはやはり職業柄ついバーの中を見回して、一通り、目に入る客の顔を見て行った。指名手配中の犯人でも、ひょっこり見付けたら、もうけもの……とはいかなかった。
しかし──一旦素通りした視線が、一人の男の後ろ姿に戻った。いや、完全な後ろ姿では、誰だか分らないだろうが、斜め後ろから、わずかに男の横顔が見える。
はっきり分らないが……。どこかで見たことのある顔のような気がする。
もう少しこっちを向いてくれないだろうか、と思っていると、夕子が、スッと立ち上って、その男の方へタッタッと歩いて行き、
「すみませんけど、タバコ、お持ちですか」
と、声をかけた。
「あ、どうぞ」
と、その男が、シガレットケースを取り出す。
さすがは夕子で、私の視線を、ちゃんと追っていて、男の顔がこっちに見えるようにしてくれたのだ。
「ありがとう」
夕子はタバコを一本もらって、火を点《つ》けてもらうと、ニッコリ笑って、席へ戻った。チラッと私の方を見て、素早くウインクして行く。
──何だ、誰かと思った。
私はホッとして首を振った。凶悪な殺人犯などではない。
昔、高校で一緒だった男だ。──親友というほど親しくはないが、同窓会で、二、三度顔を合せたことはあった。
江上公夫。──少し古めかしい言い回しではあるが、江上は、「我らのホープ」であった。
中学から──いやそれ以前からかもしれないが、私は知らない──ずっと、全学年でトップの成績。高校でも飛び抜けた秀才で、江上とは、誰も競う気になれなかったものだ。
教師が何を教えても、江上は常にその何歩か先まで理解していた。
「あいつはテストなんかやる必要ないな」
と、半ば本気で言った教師がいたほどだ。
しかし江上は、「天才」というタイプではなかった。むしろ人一倍不器用だったのではないか。──猛烈な勉強と訓練で、勉学だけでなく、スポーツの面でも、すばらしい成績を残していたはずだ。
「どれか一つぐらい回してくれたっていいのにな」
と、私も含めて、「劣等生」組はぼやいたものだが、それでも、江上ほど徹底的に差がつくと、むしろそれはそれでまた爽快であった。
江上は決して恵まれた家庭に育ったわけではない。両親がかなり早くに蒸発。彼は、親類の家で、ずいぶん肩身の狭い思いをしながら育ったらしい。
その不遇が、彼の|ばね《ヽヽ》になったのだろうか。その代り、努力の報酬として得たものは、いかにもそれにふさわしい地位だった。
江上公夫は、業界でも、かなり大手の一つに入る、広告代理店の部長である。──次期の社長には決ったも同然で、おそらく、五十になる前にその座につくだろうと言われていた。
現在の社長──確か、西田という名だったが──が、小さな代理店に勤めていた江上に目をつけて引き抜いたのだ。
江上は、立派な業績を上げ、期待に応えると同時に、西田の娘に熱烈に恋され、結婚することになった。──それが確か、七、八年前のことだったのではないだろうか。
私も、その式に出席したが、社長令嬢の式にしては、地味な、しかし感動的なものだったことを憶えている。おそらく、西田の方で、縁者の少ない江上に気をつかったのだろう。
花嫁は確か……そう、美世といった。その名前が、|たった今《ヽヽヽヽ》つけられたのではないかと思えるほど美しい、気品のある女性だったが、出席した旧友の誰も、
「あいつ、うまいことやりやがって」
とは言わなかった。
江上なら、これぐらい報われて当然だ。誰もが、そう思ったのである。
あのころ、確か美世は二十六、七か……。今は三十代半ばの。──まさか、目を丸くするほど太った「おばさん」ってことはないだろうな……。
「──宇野さんでいらっしゃいます?」
と、呼ばれて、ふと我に返る。
その女性が、そこに立っているのに、全然気付かなかったのだ。
「そうです」
と、あわてて腰を浮かし、「ええと……お電話を──」
「そうです。何だか、もしかしたら、私、名前を、電話に出た方に申し上げなかったかもしれませんが……」
何てことだ! たった今、考えていた女性が|目の前に《ヽヽヽヽ》立っている!
「お忘れと思いますけど……」
「いや、江上君の奥様でしょう」
「まあ、よく──」
「あのころのままだ。忘れやしません。どうぞ」
「恐れ入ります」
落ちついてはいるが、少しも印象は変らない。それとも、少し薄暗いバーの照明が、彼女の顔の「歳月」を消しているのだろうか。
しかし──夫がすぐ向うの席にいるというのに、彼女は、全く見ようとしないのに、私は気付いた。
「もう……六年ですか」
「七年たちます」
「七年。──早いものですね」
私はさりげなく江上の方へ目をやった。
間違いない。顔こそ向けないが、江上はこっちへ注意を向けている。耳をそばだてているのが、気配で分るのだ。
そして美世の方は、全く夫に気付いていないようだった。
私は、江上に気付かないふりをすることにして、
「江上君は元気ですか」
と、言った。
「ええ。ここ一年ほどウィーンに行っておりまして、つい先日戻りました。同時に、専務に昇格して」
「そりゃ凄い! 遠からず、彼の写真を、あちこちで見ることになるでしょうね」
「父は、三年以内に、夫を後継者にして、辞めるつもりのようです」
「なるほど」
少し間が空いた。私は、少し身を乗り出して、
「何でも話して下さい。私が刑事と分っていて、こうして呼び出したからには、ただ、今幸せにしているという話をされるつもりではなかったんでしょう?」
美世は、息をついた。ひどく疲れたような息だ。
「その通りです」
と、肯いて、「宇野さんにご相談してもどうなるものでも……」
「話してみて下さい」
「ええ」
少しためらってから、思い切ったように真直ぐこっちを見て、「宇野さん、私、主人に殺されるかもしれないんです」
と、美世は言った。
「男なんて、みんな勝手だわ!」
と、夕子が憤然として言った。
「そう怒るなよ。君は怒るとすぐ、それだ」
と、私は言った。
──江上美世が帰って、私と夕子は、向い合って飲み直していた。
「江上公夫がそこにいたのは、確かなのね」
と、夕子が言った。
「うん。間違いない。しかし、僕が彼女と話している間に、出て行った」
「偶然、ここにいたとは考えられないわね。確かに、あなたと奥さんの方を気にしてたわ」
「話が聞こえたと思うかい?」
「無理でしょうね。超人的な耳でなきゃ。それとも隠しマイクでも使ったか……。でも、この席に奥さんが座るなんて、分りっこないものね」
「すると、江上は何しに来たんだろう」
と、私は首をひねった。
「確かに江上って人にも同情はするわよ。だけど、いくら何でも奥さんが浮気してるかどうか、そんなに自信がないもんなの、男って?」
「僕にゃ奥さんがいないんでね」
と、私は言い返してやった。
──江上美世の話は悲しいものだった。
ヨーロッパへの駐在で、江上はウィーンへ飛んだが、美世は娘がまだ四歳で、やっと幼稚園に入ったばかりだったこともあり、日本に子供と二人で残ったのだ。もちろん、それは江上も承知したわけだが、江上のいない間に、美世が男を作っている、という匿名《とくめい》の手紙が、何通もウィーンの江上の許へ、届いたらしい。
その手紙は、別に江上が頼みもしないのに、〈奥さんは今日、相手の男と、Sというホテルへ行きました〉とか、〈ドライブの途中、モテルへ入りました〉といった具合に、細かく、報告《ヽヽ》して来たらしい。
江上も、初めの内は、ただのいたずらと無視していたらしいが、何度もその手紙が届く内に、次第に妻を疑うようになった、というのである。
「──奥さんを信じてれば、そんな手紙に惑わされないはずよ」
と、夕子は正論を述べた。
「しかし、僕には江上の気持が分るよ。──自分には過ぎた妻だ、という意識が、いつもあったんだろうな」
「分ってるわ」
と、夕子は言った。「だからこそ、|奥さんの方が《ヽヽヽヽヽヽ》、ご主人よりずっと辛い立場なのよ。それを分ってあげなきゃ」
「なるほど」
「そんないたずらの手紙で、奥さんを疑ったりして! 奥さんが救われないじゃないの、それじゃ」
「うん、それはそうだな」
と、私が肯いていると、
「宇野様でいらっしゃいますか」
と、バーのウエイターがやって来た。「お電話が入っております」
「誰だろう? ──ありがとう」
無線の電話を持って来てくれる。それを受け取って、
「宇野です」
「宇野さんかね」
と、年寄りらしい声がした。「憶えておられんかもしれないが、私は西田省一。娘の結婚式で会ったことがある」
「ああ、これは……。あの──」
「今、娘に会ったかね」
「ええ、お会いしました」
美世の父親である。
「困ったことだよ。君は、警部だそうだね。大したものだ」
「いえいえ」
「私はこのホテルの中からかけているんだ。部屋は七階の七〇三号室。よかったら、ちょっと足を運んでくれんかね」
「七〇三ですか。分りました」
「できたら一人で。──待っているよ。ぜひ相談したいことがある」
「では、今からうかがいます」
──私は夕子に、向うの話を伝えて、「悪いけど、ここで待っててくれないか」
と、言った。
「いいわよ。その代り、もう少し付合ってね」
「喜んで」
と、私は立ち上って、言った。
──バーを出ると、エレベーターで七階まで上り、廊下へ出た。
〈七〇三〉は、スイートルームらしく、ドアが他とは少し違っていた。
チャイムを鳴らそうとして、ドアが少し開いているのに気付いた。
ドアを押して、中へ入る。
「西田さん。──失礼しますよ」
充分、用心はしていたつもりだったが、バスルームのドアを開けてみることまではしなかったのだ。
その前を通り過ぎて、リビングルームになった部屋を覗いていると、後ろでバスルームのドアが開く音。
振り向く間はなかった。頭をしたたか殴られ、私は気を失ってカーペットの上に倒れていたのである。
「いてて!」
と、私は思わず悲鳴を上げた。
「あら、失礼」
夕子は、澄ました顔で、「石頭だから、痛くないかと思ったの。でも大きなコブね、ハハハ」
全く、これが恋人に対する態度だろうか? 頭には来たものの、それどころではない──いや、実際、それどころじゃなかったのだ!
「宇野さん」
と、顔を出したのは、原田刑事だった。
原田の場合、顔だけ出すのは不可能(?)で、どうしてもその巨体も出て来るのだが。
「どうだ?」
「ええ。なんとか、命は取りとめるそうですよ」
「そうか! 良かった」
もちろん私の話ではない。
好奇心の塊というか、エッセンスで作られたような夕子が、黙って私一人を行かせるわけもなく、少し遅れて、この七〇三号室へやって来てみると、ドアは開いていて、私がバスルームの少し先で倒れていた、というわけである。
夕子に|優しく《ヽヽヽ》叩き起されて、私はやっと意識を取り戻したのだが……。スイートルームの、奥の寝室では、西田省一が、意識不明の状態だった、というわけである。
「でも、一体何が原因かしら」
と、夕子は言った。「見た限りでは、外傷はなかったみたいだけど」
「そうだな。医者に訊くしかない」
私を殴って逃げた犯人が、西田省一を殺そうとしたのかと考えられたので、原田に連絡して、至急手配をさせたのだが、何しろ大きなホテルである。
怪しい人間が出入りしないか、チェックするなどというのは、どう頑張っても不可能な話だった。
「──失礼します」
と、声がして振り向くと、ビジネススーツの広告に出て来そうな男が、やたらしゃっちょこばって、突っ立っていた。
「何ですか」
と、私は訊いた。
「ご連絡をいただいて。私、西田の秘書ですが」
「ああ。ご苦労様です」
「西田はいかがでしょう」
「一応、命は取り止めたようです」
「そうですか」
何だか、えらく手応えのない男である。
「しかし、入院された方がいいでしょう。何しろ──」
と、私が言いかけると、
「何てことだ! おい、寺田! 寺田はいないのか!」
と、寝室から怒鳴り声が聞こえて来た。
私は夕子と、思わず顔を見合わせた。──あの声は……。
「はい、ただいま!」
寺田、と呼ばれた、その秘書が、急いで寝室へ入って行く。私たちもそれについて行って──唖然とした。
意識不明だった、西田当人が、立ち上って、さっさと服を着替えているのだ。診ていた医者も、ただ呆然としているばかりだった……。
「どなたかな?」
と、西田が私と夕子を、不思議そうに眺めた。
「宇野ですが……。お電話をいただいた──」
「宇野? どこの宇野さんかな?」
私も、その時になって気付いた。この声は、バーへかかって来た電話の声と違う!
「──なるほど、そんなことがあったんですか」
と、私の説明を聞いて、西田は肯いた。「それは大変迷惑をかけましたな」
「そんなことより……。体の方は大丈夫なんですか?」
西田はニヤリと笑って、
「これはよくやる発作なのです。一瞬、仮死状態になるが、ご覧の通り、しばらくするとピンピンしているという奴で。人をびっくりさせるのには一番効き目がある」
呑気な人だ。──夕子が楽しそうに笑った。
「こちらのお嬢さんは?」
と、西田が夕子を見る。
「私、この宇野警部の、個人秘書です」
その都度、適当に肩書きが変るのである。
「ですが、西田さん、誰かが、私の頭を殴ったのは確かです。何か盗まれている物とか、ありませんか」
「特に気付きませんな。ここにはそう大切なものは置いていないし」
「命以外は、ですね」
と、夕子が言うと、西田は笑って、
「なかなか面白いお嬢さんだ」
「面白いのは確かです。──意味によりますが」
と、私は言った。「ところで、その美世さんのことなんですが……」
「うむ。困ったことだ」
西田は、初めて眉を曇らせた。「夫婦のことには口を出したくないが……。といって、江上君にも、下手なことは言えない。傷つきやすい男です」
「もちろん、本当にそんな物騒なことになるかどうか、分りません。おそらく、そこまではいかないでしょう。しかし──」
「美世はなかなかしっかりした娘です。親が言うのも何だが。根拠のない心配はしないでしょう」
「美世さんが本当に浮気したと思われます?」
夕子が大胆な質問をするので、こっちはドキッとした。西田はむずかしい顔で、
「さて……。しないとは思うが、こっちも美世のことなど、ろくに最近は見ていませんのでね」
「一つ気になるのは、その、匿名の手紙を誰が出したか、です」
と、夕子が言った。「江上さんの海外での住所を知っていて、美世さんのこともある程度知っている人でないと、そんなものを書けないでしょう」
「それはそうだ。──いや、人さまの手を煩《わずら》わして、申し訳ないことですな。これは、私と娘夫婦の間で、解決すべきことだと思います」
「そう思いますね、私も」
と、私は肯いて、「もちろん、その上で現実的な危険が迫っていると分れば、私も何かお役に立つかもしれませんが」
私と夕子は、立ち上って、一旦引き上げることにした。西田は、
「ここで失礼。秘書と仕事を片付けるので」
と言って、私の手を固く握った。
寝室を出ると、秘書の寺田が、ソファに座って待っていた。
もちろん、大事に至らなくて幸いだったのだが……。
私たちは、医者と原田の二人を連れて、スイートルームを出た。
「どうってことなくて、良かったですね」
と、原田が言った。
「うん。──先生もすみませんでしたね」
と私が言うと、医者は、心ここにあらず、という様子で、
「え? ああ、いや……」
と、首を振って、「しかしねえ……。分らないな」
「どうかしましたか」
「いや……。いくら発作がおさまれば、大丈夫だといっても。──|本当に《ヽヽヽ》、具合が悪いようだったんですがね」
と、納得しかねる様子。
しかし、実際にあれだけしっかりしていたのだから……。
原田をわざわざ引張り出したので、飯ぐらいは食べさせなきゃいけない、というわけで、夕子と三人、深夜まで開いているコーヒーハウスに入ることにした。
私と夕子はもうお腹は充分──でもないらしく、夕子はしっかり、ホットサンドなどを取っていた。
「──少し江上のことを調べてみよう」
と、私は言った。「本当に奥さんに手をかけたりしたら、悲劇だからな」
「ねえ、私の手を握って」
と、夕子が、私の方に手をさし出す。
「何だよ、こんな所で」
「馬鹿。照れないでよ。握手するのよ」
「どうして?」
「いいから!」
何だか分らないが、私は夕子と握手した。
「──それで?」
「どう? さっき、西田さんと握手した時と比べて」
「何が?」
「私と、どっちが強く手を握ってた?」
と、夕子は訊いた。
さて──表に出て、原田を帰してから、私は、またホテルへ逆戻りすべく、歩き出した。
ここまで来たら(というのも、何だか変だが)、夕子と泊って行こうと思ったのだ。忙しいのは、明日に回して……。
もう真夜中近くである。ホテルの明るいロビーへと急いでいると、
「おい」
と、誰かの声がした。
周囲には誰もいない。どうやら私を呼び止めたらしい。
「誰だ?」
暗がりになった辺りに、誰か、立っているのが見える。──もちろん、充分に用心はしていた。
「──誰なんだ? こっちへ来いよ」
と、私は一歩、そっちへと足を踏み出した。
とたんに、誰かが飛びかかって来た。
何しろ、いくら用心していても、こっちは明るい所にいて、向うは暗がりだ。決定的に不公平である。
拳が飛んで来るのをよけようとして、一瞬の差でよけそこなった。顎を拳がかすった。結構痛い。
さっき頭を殴った奴だな、と思ったから、身を低くして、足を引っかけてやった。
「アッ!」
と、叫び声を上げて前につんのめったその男は、タタタタッ、と止らずに突っ込んで行って──その先は、地下の歩道へと下りる階段だった。
男は弾みをつけて、階段を下まで、みごとなほどの勢いで転がり落ちて行って、下の歩道に大の字で倒れ、動かなくなった。
私は、ちょっと心配になった。下手をすると……。
急いで駆け下りて行く。街灯の明りで、男の顔が見えていた。
「──江上!」
私は目を疑った。背広姿の江上が、すっかり意識を失って倒れていたのだ。
「──長い夜だった」
と、私は言った。
「本当ね」
夕子が、私の肩に手を置いて、「でも、あなたのせいじゃないわよ」
私は、手で顎をなでた。ひげがざらついている。
「ひげを剃らなきゃいけないな」
「安全カミソリを買って来てあげるわ」
と、夕子が言った。「確か、入口の所に、自動販売機があったわよ」
夕子が、静かな廊下を小走りに駆けて行った。
──病院である。江上に付き添って、救急車でここまで来たのだ。
江上は、まだ意識を取り戻していない。あの落ち方では、かなり頭を打っているはずだ。
やれやれ……。
しかし、妙な話だ。なぜ、江上が私を殴ろうとしたのだろう?
「そうか……」
もしかすると、江上は、あのバーで私と美世が会っているのを見て、|私が《ヽヽ》美世の恋人だと思ったのではないか。
話が聞こえず、二人でしゃべっているところを見ただけだったら、誤解しても不思議ではない。ということは──おそらく、西田の部屋で私を殴ったのは、江上ではないだろう。
いくら嫉妬でカッとなっても、別々の場所で、二度も殴ったりはしないもんだ。
足音がした。──夕子が、カミソリのセットを買って来てくれたのかと顔を向けると、美世が歩いて来るところだった。
「──宇野さん」
「やあ、どうも」
「あの……連絡をいただいて……」
「いや、全く──申し訳ないことです」
「一体何があったんでしょう?」
と、美世は言った。
私の推測を話すと、美世は目をみはって、
「じゃ、あそこに主人が? 知りませんでしたわ」
「とんでもない勘違いをしたんじゃないかと思いますね」
と、私は首を振って、「一応、朝まで様子をみようということでした。それから、精密検査をしようと……」
「そうですか」
美世は少し間を置いて、「今、主人は眠っているんでしょうか」
「まあ……そうです」
「顔を見て来たいんですけど」
「そのドアです」
「宇野さんも……。何だか私のせいで、とんでもないことになってしまって。本当にすみません」
「いや──」
「全くよ」
と、声がした。
夕子が、いつの間にやら、戻って来ていたのである。
「おい、夕子──」
「この人は私の大切な恋人なんですからね。変なことに巻き込まないで」
夕子は、何だかやけに苛立っているようだった。
美世は、何も言わずに頭を下げると、病室の中へ入って行く。
「おいおい。どうしたんだい、一体?」
と、私は夕子から、カミソリのセットを受け取りながら、言った。「君らしくもないじゃないか」
「今ね、これを買いに行って、見てたのよ」
「何を?」
「あの奥さんが、入口の前で車からおりて来るところ」
「それがどうかしたのか?」
「男と一緒だったわ。──顔は見えなかったけど」
「男と?」
「そう。送ってもらった、ってだけじゃないわ。おりる前に、車の中で、抱き合ってキスしてたもの」
私は、ため息をついた。
「何とね……」
「どうやらあの女《ひと》の不倫《ヽヽ》は本物ね。例の手紙の送り主は、本当に親切な人なのかもしれないわ」
「──どうする?」
「奥さんの話を疑うとすると、ご主人の身辺を、用心した方がいいと思うけどね」
と、夕子は言った。
「まさか──彼女が夫を殺す?」
「夫に殺されそう、という話をしておいて、夫を殺し、正当防衛って主張する。──珍しい手じゃないわ」
夕子の話も、分らないではない。しかし、江上が意識を取り戻すのが、まず先決だろう。
「分った。ともかく、ひげを剃って来るよ。君、ここにいてくれるかい?」
「いいわよ。剃って来たら──」
「何だい?」
「キスしてね」
と言って、夕子はニッコリと笑った。
殺人の話から、すぐに愛をささやける、というのが、夕子の特技《ヽヽ》なのである!
「呆れた奴だ」
と、私は言った。
「いや、すまん!」
と、江上公夫は、頭を下げた。「勘弁してくれ。何だかカーッとなって、分らなくなってたんだよ」
「いや、そんなのはいいんだ」
と、私はコーヒーを飲みながら、「呆れてるのはお前のことさ。たった一日入院しただけで。──大丈夫なのか?」
呆れるのも当然だろう。──ここは、西田の会社のビルである。
最上階の展望ラウンジに現われた江上は、私に殴りかかった時と同じ人間とは思えないほど、パリッとしたスーツで決めた、見るからにエリート。
私みたいに腹も出て来ていないし、顔も老けた印象はない。
「何ともない。仕事で追いまくられているのが一番の薬でね」
と、江上は笑って言った。
「ふーん」
私は、もちろん、美世に男がいることなど話してはいなかった。
「美世の奴も、オーバーだな」
と、江上は苦笑して、「そりゃ、ヨーロッパに一人でいると、|何か《ヽヽ》あるかもしれない、と考えることもあるよ。何といっても、他に考えることがないんだからな」
「もう、すっきりしたのかい?」
「ああ。あんないたずらの手紙、どうしてそんなに気にしたのか、考えてもよく分らないんだ」
と、江上は首を振った。
「じゃ、もう気にしてないんだな」
「うん。毎日、美世と子供の顔を見てると、そんなこと、疑う気にもなれないよ」
やれやれ……。
江上が元気になったのは結構なことだが、しかし、もし|本当に《ヽヽヽ》妻に男がいると知ったら、どうなるか?
ウィーンにいれば、いくら殺したくても、手が届くまいが、一緒にいたら……。
却《かえ》って、危い火種をかかえ込んでいるようなものだ。
「──で、江上、俺に話っていうのは?」
「そうだ。忘れるところだった。──女房が君に迷惑をかけたんで、申し訳ないと言ってね。一度、うちに食事に招いたらと言ってるんだ」
「そりゃどうも。しかし、気をつかってくれなくても──」
「ぜひ来てくれよ。ゆっくり話したこともないしな、ここ何年も」
「何十年、だろ」
と、私は笑って言った。
「──おや。おい、寺田君」
江上が、西田の秘書を呼び止めた。
「あ、江上さん。こちらでしたか」
と、寺田が、相変らず几帳面《きちようめん》そのもの、という様子でやって来る。
「僕に用かい?」
「はい。社長が、今夜予定が入ったので、打合せを四時からにしたいと」
「くり上ったのか。四時はきついな。ま、仕方ない」
「では、よろしく」
と、寺田が頭を下げる。
「なあ、寺田君」
と、江上が言った。「このところ、社長は夜の会合をやらないね」
「お忙しくていらっしゃいますので」
「へえ。忘年会のシーズンでもないじゃないか」
「個人的なお付合いでございます」
江上は目を丸くした。
「まさか──女性?」
「はい、女の方で」
寺田は、相変らずの無表情だ。
「そりゃ、ニュースだな!」
と、江上は笑って言った。「どんな女性だい?」
「何と申しますか──」
と、寺田は何だか知らないが、私の方を見ていた。
そして、ふと目を上げると、珍しくニッコリと笑って、
「あちらでお待ちになっておいでですが」
と、手で示した。
その方向へ目をやって──私は目を開いて、声も出なかった。
窓際の席に、ちょっと悩ましく足など組んで座って本を開いていたのは──何と、夕子だったのだ!
「若い子に目をつけたもんだな」
と、江上は笑って言った。「じゃ、宇野君、僕は仕事があるんで」
「あ、ああ……」
と、やっと肯く。
「ぜひ一度家へ来てくれよ。電話するから」
「分った」
「じゃ、また」
江上は、さっさと歩いて行ってしまった。寺田も、私の方へ一礼して、その後から……。
私は、コーヒーを飲み下すと、立ち上って、夕子の方へと歩み寄った。
「──相席はお断り」
と、夕子が本を見たまま言って、フフ、と笑った。
「何してるんだ?」
と、私は向い合った席に座って、「西田省一と本当に会うのかい?」
「そうよ」
と、夕子は言った。「この間、会って、向うが気に入ったらしいの」
「しかし──」
「よく私のこと、調べたな、と思って。さすがね、金持は」
「感心してる場合か。何だって君のことを──」
「そりゃ、若い女の子と会ってりゃ、楽しいんでしょ」
と、夕子は言った。
確かにそうだろうが……。
「それに、話してみると、結構面白いの、あの人」
と、夕子はアイスティーを飲みながら、言った。
私はびっくりして、
「前にも会ってるのか?」
と、思わず声を高くした。
夕子は顔をしかめて、
「小さな声で。──ここ三日間、毎日、夕ご飯はタダだったの」
と、あっさり言った。
「じゃ、西田のおごりで?」
「そう」
「で……夕食の後は?」
「ちょっとバーに寄ってね」
「バーの後は?」
「うん……。西田さんの車で──凄いのよ、ロールスロイス! 乗り心地はさすがねえ!」
「そ、それに乗ってどこへ行くんだ?」
私の声は、つい上ずっていた。
夕子がふき出して、
「心配しないで! もう、こんなに付合ってて、まだ信じられないの、私のことを」
「いや──しかしね」
「ご心配なく。西田さんは紳士よ」
「僕だって紳士だ」
と、私は我ながら意味のよく分らないことを呟いたのだった……。
「──ね、あなたを殴った犯人、見付かったの?」
「西田の部屋で? いや、手がかりなし」
と、私は肩をすくめて、「たぶん、コソ泥が何か盗ろうとしてるところへ僕が入って行ったんだろう」
「面白くも何ともない結論ね」
「仕方ないさ。僕のコブだけが被害じゃ、誰も本気で捜査してくれない」
「今の、江上さんとの話は聞いたわ。却って危いわね」
「うん。僕もそう思った」
「一度、奥さんとゆっくり話したら?」
「美世さんと?」
「そう。彼女も、ただご主人がいなくて寂しいので、つい気の迷いで……ってことかもしれないわ」
「もう帰って来てるんだぜ」
「そこをうまく訊き出すのよ。誘惑でもしてさ」
「よせやい」
「あら、ああいう人は、結構、あなたみたいなタイプ、新鮮で気に入るかもしれないわよ」
「どういう意味だ、それ?」
「ともかく」
と、夕子はまた本を開《ひろ》げて、「私は西田さんから話を訊き出す。あなたは美世さんの方の担当《ヽヽ》」
「おい……。じゃ、君は、まだ何か起ると──」
「もちろんよ」
と、夕子は言った。「でなきゃ、この真面目な私が、毎日大学をサボると思う?」
思うね、と心の中で、私は言った……。
「──いらっしゃいませ、西田様」
と、マネージャーが言った。「お待ち申し上げておりました」
西田は、さすがにダブルの背広を、みごとに着こなして、これじゃ夕子だってなびくかも(?)という渋い魅力。
夕子の方は、フォーマルながら、若々しい格好だった。
私? ──いつもの背広で、夕子たちのテーブルに近い、死角になる席に座っていたのである。
夕子には内緒だったのだが──店の名だけは訊き出しておいたのである──だからといって、私が夕子のことを信じていない、と思われては困る。
私はただ、夕子がまた危いことをやらかすのじゃないかと心配になっただけだ。──そうだとも!
夕子があんな年寄りの愛人なんかになるわけはない! 私ぐらいの中年ならともかく……。
どっちも大して変らないと言われたら、反論もできないが。
私は、メニューを見て、一番間違いのない〈コースメニュー〉を注文していた。他のものなんて、何が出て来るのか、見当もつかない!
夕子と西田のテーブルでは、ワイン、料理の選択に、大いに時間をかけている様子だった。
──やっと食事が始まり、私は、何だかよく分らない料理を食べながら、夕子たちの話に耳をそばだてていた。
西田と夕子の会話はいかにも楽しげで、かつ安全だった。安全ってのは妙な言い方だが、要するに、「そういう関係」にあるような男女の会話じゃない、ということなのである。
私も、いくらかホッとした。──夕子に知れたら、さぞ馬鹿にされるだろう。
高い金を払って、こんな所で一人で夕食を取ってるなんて……。
食事もそろそろ終りかけるところだった。
「さて」
と、西田が手を休めて、「君との食事も、もう四度目だね」
「今日は払えっておっしゃるんですか?」
西田は、楽しそうに笑って、
「まさか! しかし、君と話していると若返るよ」
「何しろ精神年齢が低いもんですから」
と、夕子は真面目な顔で言った。
「どうだね」
と、西田は座り直して、「そろそろ、我々も、ただ食事するだけの仲から少し進んでもいいんじゃないか?」
私はドキッとした。──この助平爺いめ!
「そうですね」
と、夕子がまた平然と、「マンション買って下さる?」
「いいとも」
「毛皮のコート」
「お安いご用だ」
「スポーツカー」
「構わんよ」
「ダイヤのネックレス」
「もちろん」
「でも、遠慮します」
「どうして? あの刑事さんが気になるのかね」
「あなたのことが気になります」
「私のこと?」
「あなたの体のこと。──私とホテルなんか行ったら、命にかかわるんじゃないですか?」
西田は、しばらく夕子を見つめている様子だった。
「──気付いていたのかね」
「この間、ホテルで元気なふりをしてましたね。でも、あのあと、病院へ運び込まれたと聞きました」
「そうか」
西田は、肯いて、「君は頭のいい子だ」
「残念ですけど、そうなんです」
と、夕子は言った。「あなたのこと、守る人がいないんじゃないかと思って」
「優しいことを言ってくれるね」
と、西田が再びナイフとフォークを取り上げ、「ともかく食事をすませよう」
と言った時だった。
ガチャン、と音がして、ナイフとフォークが落ちる。
「西田さん!」
夕子が腰を浮かした。
私もびっくりして立ち上った。その拍子に、パンの皿が落っこちる。
西田が、血の気の失せた顔で、胸を押えて、呻《うめ》いた──。
「救急車を! 早く!」
と、夕子が叫ぶ。
駆けつけて来たマネージャーが、
「分りました!」
と、飛んで行った。
「あなたも手伝って!」
「おい、知ってたのか?」
と、私は駆け寄って、西田を、並べた椅子に横たえた。
「当り前でしょ。こんな所に場違いな人がいりゃ、目につくわよ」
夕子は、|正直に《ヽヽヽ》言った……。
私は欠伸《あくび》をした。
「しっかりしてよ」
と、夕子がにらむ。
「いいじゃないか欠伸ぐらい」
と、私は言い返した。「ともかく、この二日間、ろくに寝てないんだ」
「これからも寝られないかもしれないんだからね」
「ありがたい予言だ」
と、私は肩をすくめた。
エレベーターが停った。
「一一階ね。──ここの六号室」
「その右だな」
ドアを叩くと、しばらくして、
「はい……」
と、声がした。
「宇野です」
ドアが、カチリと音をたてて、小さく開いた。美世の目が覗いた。
「どうしました? 大丈夫ですか」
「ええ……」
ドアを開けて、美世は、「どうしたらいいのか分らなくて」
と、言った。
美世は、ネグリジェ姿だった。
「──で、どこです?」
「その……ソファの向うです」
と、美世は言った。
青ざめて、声も震えている。
夕子は、歩いて行って、見下ろした。
「──もうだめね」
私は、かがみこんで、手首の脈を取ると、
「死んでる」
と、首を振って、「奥さん──」
「分ってます」
と、美世は肯いた。「でも──完全に死んでました。本当です」
確かに、そうだろう。後頭部をそれだけ潰されて生きていられる人間はいない。
「ともかく、人を呼びます」
私は、部屋の電話で連絡すると、「──服を着ておいた方がいいですよ」
と、言った。
「はい」
美世は、やっと自分の格好に気付いた様子で、急いで服をかかえて、バスルームへ入って行った。
「やれやれ」
「ついに、ね」
「うむ。──江上の奴、早まったことをしてくれた」
床にパンツ一つの格好で倒れて死んでいる男。いつも、あまりにきちんとしているので、何だか妙な気がする。
西田の秘書、寺田であった……。
「江上さんを手配?」
と、夕子が訊く。
「そういうことになるだろう」
夕子は、何やら考え込んでいた。
「──失礼しました」
しばらくして、美世がバスルームから出て来た。
「大丈夫ですか」
「ええ……。こんなところをお見せして」
と、美世は、疲れ切ったように、ソファにかけた。
「寺田さんとは、いつごろから?」
と、私は訊いた。
美世は、眉を寄せて、
「夫が──あちらへ行って半年ほどしてからです」
「彼の方から?」
「さあ……。どっちともなく、です」
と、首を振って、「どうしてこうなったのか、今でもよく分りません」
「そんなものですかね。──ご主人のところへ行った手紙に書かれていたのは、あなたと寺田さんのことだったんですか」
「ええ」
と、美世は肯いた。「作りごとも……。でも、大体はその通りでした」
「どうして知ってたんでしょうね」
「さあ」
と、美世は、息をついて、「主人は、周囲の人からねたまれていました」
それは当然だろう。
「敵も多かった、と」
「はい。──その誰かが、手紙を出したんだと思います」
「しかし、ご主人が帰って来てからも、こうして会うとはね。大胆すぎませんか」
「そう思います」
と、美世はうなだれた。「でも、主人との間は冷たくて……。もちろん、私のせいなんですけど」
「それで寺田と?」
「あの人も、しばらくは我慢してくれていましたけど、やっぱり、もう──」
言葉を切って、美世は、寺田の死体へ目をやった。「こんなことになるなんて!」
私は、軽く息をついて、
「状況を説明して下さい」
と、言った。
「私……。少し遅れてここへ来ました」
と、美世が言った。「寺田さんが先にシャワーを浴びて、次が私で。シャワーを浴びていると、突然、主人の怒鳴る声がしたんです」
「間違いなくご主人の声でしたか?」
「はい」
「それで?」
「寺田さんも何か言い返して──大きな音がしました」
美世は、目を閉じて、「私、怖くて……。バスルームの中で、小さくなって震えていたんです」
「ご主人は、あなたのことを捜さなかったんですか」
「寺田さんが死ぬとは思わなかったんだと思います。あわてて逃げたようで……」
「で、しばらくして、あなたは出て来た」
「そうです。──主人はどこへ行ったんでしょう?」
「見付けますよ」
と、私は言った。「しかし、西田さんが聞かれたら、ショックでしょう」
「父には黙っていて下さい!」
と、美世は立ち上って、「今は具合が良くないんですもの」
「しかし、いやでも耳に入りますよ。病院にいても、仕事をしているそうですからね」
美世は諦めたように、
「そう……そうですね」
と、言った。「父の気持を考えたら……。本当に、馬鹿なことをしました」
それまで黙っていた夕子が、
「手遅れですね」
と、言った。
「本当に……。もうこりごりですわ、こんなこと」
「したくてもできませんよ」
と、夕子は言った。「刑務所《ヽヽヽ》ではね」
美世が、夕子を見た。
「今、何とおっしゃって?」
と、不思議そうに訊く。
「刑務所では、と言ったんです。一年や二年じゃ出て来れないと思いますよ」
「おい」
と、私も戸惑って、「それは江上の話だろう?」
「とんでもない」
夕子は肩をすくめて、「江上さんは被害者よ。あなたを殴ったけどそれは別として、ね」
「どういうことだ?」
「大体、初めから変だな、と思ったの」
夕子は、ベッドに腰をおろすと、「江上さんあての匿名の手紙のことを、どうして美世さんがそんなに詳しく知っていたのか、ね」
「それは……」
私も、言われてみて、気付いた。「確かにそうだ」
「江上さんは、そんな手紙を受け取って、もしその内容を信じたとしても、直接、奥さんにそのことを言うようなタイプじゃないわ。隠しておいて、表面上はあくまで何もないようにふるまう。そういう人よ」
「でも、本当に──」
と、美世が言いかける。
「──失礼します」
と、ドアが開いて、原田刑事が顔を出す。
「また夕子さんと一緒ですか」
「おい、早いな」
と、私はびっくりして言った。
「私が頼んだの」
夕子は、原田を見て、「どうだった?」
「ええ、おっしゃる通りでした」
原田は、「この人を連れて来ましたよ」
原田に押されて入って来たのは、何と江上当人だった!
「あなた……」
美世が、呆然として、「あの──どうしてここに?」
「捕まえましたよ、男を一人」
と、原田が言った。「この旦那を殺そうとしましたからね」
「美世」
と、江上が、悲しげに、「どうしてあんなことをしたんだ!」
美世は、青ざめてよろけると、床に座り込んでしまった。
「──どうなってるんだ?」
と、私は言った。
「浮気していたのは、美世さんと、他の男。──寺田さんは、犠牲にされただけなのよ」
と、夕子は言った。「可哀そうに。本気で、美世さんに惚れられていると思ってたんでしょう。まさか殺されるなんてね」
「じゃ、寺田も──」
「その男が殺したのよ、美世さんと一緒に」
「どうして……。何のために?」
と、江上が言った。「僕がいやになったのなら、そう言えばいいのに!」
「父は、あなたを気に入ってたもの」
と、美世が言った。「別れるなんて、言えないわよ」
「特に、代りの男があれじゃあね」
と、原田が肯いて、「ありゃ、ヤクザそのものです」
「何てこった……」
と、私は呟いた。
「──いかがですか」
夕子が、病室へ入って行くと、ベッドの上の西田は、弱々しく、微笑んで、
「君か。──やあ、恋人|つき《ヽヽ》だね」
当然、私もいたのである。
病室──もちろん、高い個室だ──には、午後のやわらかな光が射し入っている。
しかし、西田は、一度に老け込んでしまったように見えた。
当然だろう。娘が殺人罪で捕まったというのでは……。
「元気そうじゃないですか」
と、私は言った。
「そう見えるかね?」
「ええ」
「とんでもない」
と、夕子が言った。「すっかり老け込んで、今にも死にそう」
「おい!」
「だって本当のことよ」
西田は、ちょっと笑って、
「いや、その通りだろう」
と、言った。「することがなくなると、人間、老け込むものさ」
「どうして仕事に戻らないんですか?」
「しかしね、我が子があんなことをしたのでは……」
「そりゃ、親として、いくらかの責任はあなたにもあります」
と、夕子は言った。「でも、いくら子供でも、もう大人《ヽヽ》ですよ。いちいち、そんな責任取ってられませんよ」
「だが──」
「責任なら、あなたの会社の社員や、お客に対しても、あるんじゃないですか?」
西田は、考え込んだ。
「その通りですよ」
と、声がして、江上が入って来た。
「江上君か。──どうだね」
「落ち込んじゃいられません。子供の面倒もみてるんですからね。それに、美世のことだって──」
「全く、君には申し訳ないことをした」
「とんでもない!」
と、江上は強く首を振って、「僕が、忙しさにかまけて、放っておいたのも悪かったんです。相手の男に弱味を握られて、手を切ることもできないまま、ズルズルと引張られて行ったんですよ。一番気の毒だったのは寺田君です」
「そうだな。──いい奴だったのに」
「ともかく、僕は美世が戻るのを待つつもりです。社長──いや、お義父さんも、当分長生きしてくれないと」
「私はもう──」
「頑張って!」
と、夕子が励ました。「娘さんのことだって、気付いてらしたんでしょう。だから、あの部屋で襲われかけて、発作が起きた時も、必死で元気を装ったんですもの」
「うむ……。しかし、どうしても、つい我が子を信じたくなってね」
「それが当り前ですよ」
と、江上が言った。「僕じゃ、とてもまだ社長はつとまりません。早く元気になっていただかないと」
「──そうか」
西田は、ちょっといたずらっぽく笑って、「一つ頼みがある」
と、夕子に言った。
「何ですか?」
「キスしてくれないか。そうしたら、元気が出そうだ」
「へえ!」
「どうかね?」
と、私を見るのだ。
「面白くはありませんが……ま、キス|だけ《ヽヽ》なら」
「それじゃ──」
夕子は、かがみ込んで、西田に、しっかりとキスした。
「──ありがとう。おい、江上君」
「はあ」
「この病室に、テレックスを持ち込ませてくれ。それと、秘書を一人、ここに置く」
「分りました!」
と、江上は微笑んで、言った。
──私は夕子と、病室を出て、出口へと歩きながら、
「僕を殴ったのは、例のヤクザか」
「そう。危いところで、あなたが入って行ったのよ。あなたも、西田さんの命の恩人ね」
「しかし、あの美世さんがねえ……」
「父親とご主人がいなくなれば、会社そのものも自由にできる。──相手の男に言いふくめられたんでしょうね」
「恋とは怖いもんだな」
「同感」
夕子は、私の腕を取って、「特に、中年の恋は怖いわよ」
と言った。
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第三話 夢の追加料金
「ここで?」
夕子が足を止めたのは、中華料理店。
それも、ごく大衆的な、めん類中心の店で──要するに、ごく普通のラーメン屋だったのである。
「そうよ。いけない?」
と、夕子は私の顔を見た。
「そうじゃないけど……」
私は、言い淀んだ。
「だって、短時間に、さっと出て来てパッと食べられるもの。しかも、後で食事ができる程度に、お腹を空かしておかなきゃ、ということになると、ここが一番適当よ」
「うん……」
私は肩をすくめた。「ま、仕方ないか」
この場面から、私が高級趣味のグルメなどと想像されては困る。警視庁捜査一課警部の給料なんて、たかが知れているのだ。
いつもの私なら、ラーメン屋大いに結構!
むしろ、フランス料理の店なんかに入ると、肩がこってくたびれる方である。
この私がラーメン屋へ入るのをためらったのは……。
「いらっしゃいませ」
と、店の女の子が声をかけ、ちょうど夕食時間、ほぼ一杯の客が反射的に入口の方へ目を向ける。
みんなが唖然とした様子で、私たちを眺めた。──それはそうだろう。
いや、私と夕子の年齢が離れているから、というわけじゃない。私は四十歳の男やもめ。永井夕子はご存知の通り、「花の」女子大生だが、そう人目をひくほどの珍しい取り合せでもないと思う。
問題は二人のいでたちで……。
「いらっしゃいませ」
と、水を持って来てくれた女の子は、「あの──汚れませんか?」
と、心配している。
私はタキシード、夕子は、TVでアイドル歌手が着るような、フワッと裾《すそ》の広がったピンクのドレス、と来ている。
「いいの、いいの」
と、夕子はショールを取って傍へ置くと、「汚れたら捨てるだけだから」
よく言うよ。貸衣裳を捨ててどうするんだ?
「急ぐの。ラーメン二つ」
「はい……」
女の子は、まだ目を丸くしている。いや、他の客も、呆気に取られた様子で、チラチラとこっちを見ていた。
夕子は、ちょっと息をついて、髪の飾りを直し、
「いやねえ。やっぱり人目を引くんだわ、美女って」
私はあえて異議は唱えなかった……。
──ところで、私と夕子は別にこれから殺人犯の逮捕に行くわけではなかった。
今夜は純然たるプライベートな夜で、あるパーティに出席して、一時間ほど過してから二人で抜け出し、どこか、洒落《しやれ》た所で食事を取って、ホテルで一泊……。
私としても、珍しく、レストランもホテルも予約済だった。今日は、「気がきかないんだから」とは言わせない!
「──お待ちどうさま」
待つほどもなく、ラーメンが出て来る。私は、借りもののタキシードに汁が飛ばないかとハラハラしながら、食べ始めた。
夕子の方は、特にドレスのことを心配している様子もなく、ラーメンをすすっている。
「──依子ちゃん」
と、店の奥で主人が言った。「もう時間だ。後はいいよ」
「すいません」
働いていた女の子が、エプロンを外しながら、店の奥へと入って行く。
「今夜はテストかい?」
「ええ。この間ひどい点取っちゃったから、頑張らないと」
「依子ちゃん」と呼ばれた女の子は、明るく言って、カタカタとサンダルの音をたてながら姿を消した。
美人とは言えないが、丸顔の、なかなか、愛嬌のある女の子だ。
「夜学にでも通ってるのかな」
と、私は言った。
「そうね。でも、それにしちゃ、いやにソワソワしてた」
と、夕子は食べる手を休めずに、言った。
「え?」
「いつも行ってる所へ行くのに、あんなに胸ときめかせなくても、いいんじゃないかな」
「じゃ──どこか他の所へ行くっていうのかっ?」
「たぶんね」
と、夕子は肯いた。「ま、私の勘だけど、これは」
どこにいても、名探偵の目は休んでいないのだ。──しかし、私としては、せっかくもぎ取ったこの休日を、夕子のいつもの「趣味」のために、ふいにしたくはなかった。
食べ終ると、私たちは早々に店を出ることにしたのだった。
「──タクシーを拾おう」
と、私は言って、「来た! ──おっと、いけね」
一瞬、手を上げるのが遅れて、空車が一台素通りして行ってしまう。
「もう年齢《とし》ね。反射神経が鈍くなってるのよ」
と、夕子は、恋人にしては思いやりのないことを言ってくれるのである。
「ほら、もう一台来たよ」
幸い、すぐに空車がやって来て、私たちは乗り込んだ。──もう十月も末。秋とはいえ、夜ともなると風は冷たかった。
「Kホテル」
と、言って座席に落ちつくと、
「見た?」
と、夕子が言った。
「何を?」
「今、前に行ったタクシーを停めたの、あの女の子だったわ」
「あの女の子って?」
「今のお店のよ」
「ラーメン屋の?」
「そう。急いでる様子だったわ」
夕子は、前を行くタクシーのテールランプを見ながら、「学校へ行くんじゃないと思わない? タクシーで夜学へ通う子なんて、あんまり聞いたことないわ」
「何か、特別な用事かもしれないぜ」
「そうね……」
夕子は、しかしどこかスッキリしない様子だ。
やれやれ、と私はため息をついた。どうしてこうも、事件を|ほしがる《ヽヽヽヽ》んだろう?
タクシー二台、信号待ちで、隣に並んだ。
確かに、隣のタクシーに乗っているのは、さっき、「依子」とか呼ばれていた女の子である。
急いでいるとはいっても、その様子はどこかあせらず、落ちついていて、確かに夕子でなくても、学校へ行くところとは見えなかった。もちろん、だからといって、何か「事件」が起っているとは限らない。そうだとも……。
その内、タクシーは広い通りへ出て、あの女の子の乗った車は、他の車の間に見えなくなった。
「──さて、今日のパーティ、どんな人が来てるのかしら」
夕子は、ハンドバッグを開けると、招待状を取り出して、楽しげに開いた。
派手な金文字を使った招待状。──もちろん、私や夕子が、そんなパーティに直接関係があるというわけではない。
実を言うと、これは「謝礼」の一つなのである。──私と夕子が二、三カ月前に解決した小さな事件で、私たちに感謝した会社の社長が、今夜のパーティに招待してくれた、というわけだ。
宮川光広という、六十歳になるオーナー社長は、いわば叩き上げ型の成功者だが、人間的にもなかなかユニークな人物で、ユニーク同士か(?)、夕子のことを、いたく気に入ってしまっていた。
「美女のショーもあるって」
と、夕子は招待状を読んで言った。「あんまり鼻の下をのばさないでよ」
「君がいりゃ、どんな美女もかすんで見えるさ」
四十男でも、これぐらいのことは言えるのである!
「あら、また──」
と、夕子が窓の外を指さした。
今度は、逆の側に、依子という女の子の乗ったタクシーが停っている。
「何だか……様子が変ったかい?」
と、私は眉を寄せた。
「男はだめね。──髪の形が変ってるでしょう」
「そうか。──すると、車の中で、おめかしか。やっぱり学校じゃないんだ」
「そうね、もしかして……」
と、夕子は呟いた。「でも──まさか、ねえ」
またその女の子の乗ったタクシーは、見えなくなった。
「──そろそろホテルだ」
タクシーがKホテルの正面につく。私が料金を払って降りると、先に降りていた夕子が、
「見て」
と、指さした。
すぐ後ろに停ったタクシーから、あの依子という女の子が降りて来た。そして、急ぎ足でホテルの中へと入って行ったのだ。
「偶然だね、また」
「そうね。これで終りだといいけど」
「どういう意味だい?」
「別に」
夕子は首を振って、「さ、行きましょ。宴会場はあっちですってよ」
と、歩き出していた……。
「よく来てくれた……」
と、向うから見付けてやって来てくれたのには、私もびっくりした。
何しろ大きなパーティで、彼はその主催者である。とても私たちのことなど気にしていられないだろうと思ったのだが。
「宮川さん、どうも」
夕子が微笑んだ。
「いや、美しい!」
六十歳というのに、一向に|枯れた《ヽヽヽ》感じのない、宮川光広は、夕子の頬にチュッとキスして、「そのまま花嫁にもなれそうだ!」
「私たちの披露宴には、ちょっと立派すぎますわ」
と、夕子は羨しげに言った。
宮川光広は声を上げて笑うと、
「ともかく、ゆっくりして行ってくれ。食べるものもたっぷりある。途中では照明を落として、ダンスもね」
「まあすてき」
「その時はお相手していただけるかな」
「ええ、喜んで」
ともかく──私と夕子は、会場の受付で招待状を見せて、大広間へと足を踏み入れたのである……。
五、六百人は下らないだろうと思える、招待客。大変な経費だろうな、などと、つい貧乏根性が出てしまう。
壁に沿って、料理を並べたテーブルがずっと連なって、ラーメンで、一応は満足しているはずの、こっちの胃袋を刺激した。
「何かつまむ?」
と、夕子が訊く。
「君をつまみたいね」
「もう酔ったの?」
と、夕子は笑った。
そこへ──。
「やあ、夕子さん……」
と威勢のいい声がかかった。
私は唖然として、
「原田、お前……」
原田刑事の巨体が、客の間から、ヌッと現われたのである。
「いただいてます」
と、原田は大きな皿を、ほとんど空にしながら、満足気。
何といっても、原田のタキシード姿というのは、ちょっとした──いや、大変な|みもの《ヽヽヽ》であった。
「じゃ、原田さんも宮川さんに招ばれて来たのね? 当然よ。捜査に力を尽くしたんだから」
「ええ、そう言われたんで、遠慮なくやって来たんです。──宇野さん、何も食べないんですか? 旨いですよ、なかなか」
「まあ……。ちょっと食べて来たんだ、ここへ来る前に」
「もったいない!」
と、原田は悲劇的な声を上げた。「こっちはゆうべから絶食して、今日に備えてたんですよ」
私は、原田の手にしているのが、何皿目なのか、訊いてやろうかと思っていたのだが、やめておくことにした。その返事を聞いただけで、胸が一杯になりそうな気がしたからだ。
ともかく、原田はまた、食事のテーブルを巡るツアー(?)に出発し、私たちは二人でカクテルなど飲んで、小さなサンドイッチをつまんでいた。
「あら、あの人のドレス、すてき……」
夕子が、少し離れて行った。
私は、人ごみというやつがあまり好きではないので、壁にできるだけ近く、静かに立っていた。
夕子の姿が、人の間に見え隠れしている。そして──誰か、男が一人、夕子の方へ近付いて、何か話しかけるのが見えた。
夕子は、首を振って何か言っている。話しかけた若い男──せいぜい二十五、六歳に見えたが──は、夕子に軽く会釈して、立ち去った。
戻って来た夕子に、
「誰だい、今の男は?」
と、訊く。
「妬《や》いてるの?」
「そうじゃない、訊いてみただけさ」
「──妙だわ」
「何が?」
「吉原依子さんですか、って訊いたの、あの男」
「吉原? 知らないな」
「依子って名」
「依子? ──あのラーメン屋の娘も、そんな名だったな」
「そうでしょ? だから──」
「まさか、ここまでは一緒に来ないさ」
と、私は言った。
その時──会場に、派手なドラムの音が流れ、
「お待たせしました!」
と、元気のいい司会者の声が響き渡った。
「では、ダンスの時間です! お互い、パートナーの準備はよろしいですか?」
「踊ろうよ」
と、夕子が言った。
「下手だぜ」
「いいの。腕より心よ」
「いいこと言うじゃないか……」
ダンス音楽が、スローテンポに流れ始める。
何といっても、中高年の男女が客としては一番多いのだ。このテンポでないと踊れないのだろう。
下手な私にも、このテンポは向いていた。
私と夕子は、フロアの真中辺りまで出て、踊った。──踊っているのは、客のほぼ半分ほどだろう。
もちろん(?)原田は、ここぞとばかり(食べている人間はあまりいない)、食事に専念しているに違いない。
照明は、元のままで、明るかった。
「──ね、見て」
と、夕子が言った。
「何を?」
「真後ろの女性」
クルッと回って位置を変えると、私の目に赤いドレスの少女が、飛び込んで来た。目をひくのは、そのドレスもだが、胸元や、頭を飾る宝石のきらめき……。
凄いもんだなあ、と思った。
相手の男は、二十五、六の──どうやら、さっき夕子と話していた男らしい。
「どこの令嬢かな」
と、私が言うと、
「しっかりしてよ」
と、夕子が言った。「ラーメン屋の令嬢じゃない」
私は目をみはった。
確かに──その赤いドレスをまとっているのは、ラーメン屋の「依子ちゃん」に違いなかったのだ……。
馬場に、焦茶色のしなやかな姿が踊っている。
「馬ってきれいね」
と、夕子は言った。
「そうだな。こういう馬はスマートだし」
私は、肯いて、馬がきれいに障害を飛び越えるのを眺めていた。
「でも、田舎で馬車を引いてる、腹の出た馬だって、あれはあれなりに、きれいよ」
夕子はそう言って、「もちろん、こういう乗馬用の名馬が、いわば芸術品だってことは否定しないけどね」
──秋晴れの一日だった。
夕子と私は、都内でも有数の名門乗馬クラブの馬場へやって来ていた。
「それで、何をするんだい?」
と、私は訊いた。
「まあ落ちついて。──ほら、飛ぶわよ、見て!」
若い女性をのせた馬が、かなり高い障害をきれいにクリアしたら、馬場の他の騎手や、周囲で見物していた人々から、歓声と拍手が上った。
「まさか馬を見物に来たわけじゃないんだろう?」
「たぶん、ね」
と、夕子はいたずらっぽく言って、「見て、戻って来たわ」
若い女性が、乗馬服に身を包んで、馬から降りると、馬を引いてやって来た。
「永井夕子さんですか」
と、その娘が言った。
私は思わず声を上げてしまうところだった。
それは、間違いなく、ラーメン屋の娘だったからだ。
「吉原依子です」
と、ペコンと頭を下げて、「わざわざすみません」
「いいのよ。あ、これは私のちょっとした知り合いで、宇野さん。警視庁の警部さんなの」
「いつかタキシード着てらしたでしょ。よく似合ってましたよ」
素直にこの言葉を聞けるといいのだが……。ともかく私は、
「ありがとう」
と、礼を言っておくことにした。
「じゃ、ともかく相談というのを聞くわ」
と、夕子が言った。「着替えて来るんでしょ?」
「ええ。──あそこに喫茶室があるので、行っていて下さいますか」
「いいわ。じゃ、ゆっくりね」
吉原依子というその娘が、馬を引いて行ってしまうと、
「どういうことなんだ?」
と、私は訊いた。
「ま、ともかく落ちついて、お茶でも飲みましょうよ」
こっちは事件をかかえて忙しい中、やって来たというのに……。しかし、ここで文句を言っても始まらない。
アンチックなムードの──といっては叱られてしまうか。本当に古いティールームなのだろう。
さすが名門といわれる乗馬クラブ。こういう場所も高級な雰囲気である。
「──うん、紅茶もおいしい」
と、夕子がしっかり肯いた。
「しかし、びっくりしたな。あのラーメン屋で働いてる子がどうしてこんな名門のクラブにいるんだ?」
ともかく、入会金だけで何百万とか聞かされていて、私も名前だけはよく知っている。
「この間ね、あのラーメン屋に入ったの。一人でね」
「あのパーティの後に?」
「そう。そしたら、あの子の方から声をかけて来たの。『有名な探偵さんなんですってね』って」
「へえ」
「どうやら、宮川さんに聞いたようよ」
「なるほど。僕のことは何とも言ってなかったかい?」
「別に。どうして?」
「いや、何でもない」
私は、もうすねる年齢《とし》でもない。コーヒーを飲んで、
「旨《うま》い。こくがあるね」
と、肯いた。「で、どんな話だったんだ?」
「ざっとしか聞いてないのよ。何しろ向うはお店で働いてる最中でしょ。それで、今日あらためて会うことにしたわけ」
「なるほど。しかし、どうしてそこに僕が呼ばれたのかな」
「そりゃ、私に会いたいだろうと思ったからよ。──迷惑だった?」
そう訊かれて、迷惑だとは言えない。
「もちろん、そんなことないさ」
と、私は笑顔を作って見せたのだった。
恋する中年というのは、なかなか辛いものなのである。
「あら、来たわ」
と、夕子が言った。
吉原依子は、至って地味な、いつものラーメン屋での姿を思わせるワンピースでやって来た。
私は祈るような思いだった。──夕子の目には、何か犯罪をかぎつけた時の特有の光があったからだ……。
初めは、ごくありふれた封筒の手紙だった。
吉原依子は、四畳半、という今時あまり見かけなくなった広さの部屋に寝起きしている。アパートの一部屋だが、お風呂はもちろんなく、トイレも共同という、古いアパートで、いつ取り壊されても文句は言えなかった。
本当は、親類の家に下宿して夜学に通うつもりで上京して来たのだが、その親類が、依子をお手伝いさんと間違えたようで、買物、掃除、洗濯から子守りまでさせられて、夜間の高校をちょくちょく休まなくてはならないという始末。
依子もたまりかねて、今のアパートに移ったのだった。
ともかく、不動産屋で、「どんなひどい所でもいいから、一番安いアパートを」と頼んで見付けてもらったのが、今のアパート。正に注文《ヽヽ》通りだった!
ラーメン屋の働き口は貼紙を見ての飛び込みで、それでもよく働くので、依子はかなり頼りにされ、給料も一割増でもらっていた。──その日は、宴会が一つ入って、帰りが遅くなり、学校も仕方なく休んだのだが、店の主人が、
「すまないね」
と、千円札を何枚か、依子の手に握らせてくれた。
アパートへ帰ると、下の、すっかり名前なんか消えてしまった郵便受に、一通の封筒。ダイレクトメールらしい、と気にもとめなかったが、お風呂屋さんへ行き、帰ってから一息ついて、何気なく封を切ってみた。
書面はワープロの文字だったが、一応あて名はペンで、〈吉原依子様〉とあった。
〈あなたはこの度、『夢のシンデレラ』に選ばれました。費用は一切いただきません。下記へご連絡下さい。あなたの夢を、週の一夜に限り、すべて当方の負担で、叶えてさし上げます……〉
妙な手紙だった。──下に住所と電話番号。差し出し人の名は〈田中一郎〉となっていた。
「何かしら、これ?」
依子は首をかしげた。ともかく、こんな話に引っかかったら、ろくなことにはならない。
依子は屑かごの中へ、それを放り込んだ……。
翌日、帰って来て引っくり返っていた依子は、屑かごの中に、まだそのまま残っていた手紙を、いつの間にか取り出していた。
夢を、一夜に限り……。すべて当方の負担で。
馬鹿げてる、と思いつつ、依子の頭には、その電話番号が、焼きついていた。
次の日の昼、出前に出た途中、依子は公衆電話から、その番号へかけてみた……。
「確かに、田中一郎って人が出たんです」
と、依子は言った。「とても感じが良くて、次の日、ホテルのラウンジで会うことになりました」
「どんな男だった?」
と、私は訊いた。
「五十ぐらいでしょうか。とても愛想のいい紳士的な人で……。ともかく、どこかの風変りなお金持に依頼されて、この仕事をしているんだということでした」
「この仕事、というと?」
と、夕子が言った。
「つまり、苦学してる女の子に、週一度、夢のような時間をあげる、ということなんです。何だか、半信半疑でしたけど、私……」
確かにそうだ。私でも、事前にそんな話を聞いたら、やめておけと忠告しただろう。
「それで?」
「ともかく、まずその週の金曜の夜が私に割り当てられた時間だ、と言って……。何をしたいかと訊かれたんです」
「どう答えたの?」
「すぐには思い付かなくて、すてきな人とデートしたい、と答えました」
依子は、そう言って、ポッと頬を染めた。
「本当の恋人は?」
「いません。とてもそんな時間もないし」
「それはそうね。で、どうだったの?」
「田中一郎って人は、私の服のサイズとか、相手の男の好みとか訊いて、帰りました。──そしたら、木曜日の夜、アパートに私の服一式が届いたんです」
「服が?」
「ええ、全部。靴からハンドバッグから、ネックレスから……。私、びっくりしちゃって──」
「それでどうしたの?」
「そうなったら、行かないわけにもいかなくて、その中に入っていた手紙の通り、金曜日の夜、その服を着て、指定されたホテルのロビーへ行きました」
と、依子は言って、紅茶を飲むと、「時間通りに、ハンサムな──たぶんモデルかなんかじゃないかと思うんですけど、若い男性がやって来て、『待ったかい?』って声をかけられました。その夜は、二人でコンサートに行って、六本木の洒落たレストランで食事して……。何だかポーッとしていて、よく憶えていません」
夕子が、ちょっと心配そうに、
「で……それだけ? 後は何ともなかったの?」
「え? ──ああ、その夜のことですね。もちろん! ちゃんとアパートの前まで、車で送ってくれました。彼、とても紳士でした」
「ふむ」
私は肯いて、「その時の服とかバッグとかは?」
「翌日、また田中一郎さんと会って、返すんです。その時に、次の週の希望を出すことになっていて」
「それがどれくらい続いてるの?」
「三カ月です。──この前は、立派なパーティに出てみたい、と言ったんです。今日はここで乗馬。名前だけは前から知っていたんですけど」
「上手ね、馬に乗るの」
「田舎の方で、毎日乗ってたんです。牧場があったんで」
「そう。──じゃ、明日はあの乗馬服を返すわけね」
「そうです。色んなことを体験しました。ディスコにも行ったし、スキューバダイビングもしたし……。本当に、これは私の夢の時間なんです」
依子は、明るく言った。
「じゃ、なぜ私に相談がある、と?」
夕子が訊いた。
「ええ」
依子は、自分のポシェットから、雑誌の切り抜きらしいものを取り出した。「これ、見たんです」
パーティの写真らしい。
「女性雑誌の、〈今月のパーティ〉っていうページを見てたんです。そしたら、その写真に目が止って」
若い女性が、みごとなドレス姿で、微笑《ほほえ》んでいる。写真の下には、〈東山家令嬢里香さん〉とキャプションがついている。
「東山家?」
と、私は言った。「知ってるよ。かなり大きな財閥のことだろう」
「このドレスよ」
と、夕子が言った。「分らない? この間のパーティで依子さんが着ていたのと同じだわ」
「そうなんです」
と、依子は肯いた。「ドレスだけじゃありません。バッグも、ネックレスも、そっくり同じで……。妙だと思いませんか」
「そうね」
「東山家の令嬢が、その〈夢のシンデレラ〉に選ばれるはずがないしね」
「ですから、私、心配になって」
と、依子は言った。「誰かに相談しようと思ったんですけど、あんな話、誰も信じてくれないかもしれないし」
「それは言えるわね」
「で、この前のパーティで、あの宮川さんって面白い方が、何か悩みごとがあったら、この永井夕子さんに相談しなさい、と教えて下さったもんですから」
あの爺《じい》さんも、余計なことをしてくれるよ全く!
「どうでしょうか」
と、依子は、ちょっと心細げな目で私を見た。「何か悪いことに、知らない内に手を貸してるとしたらいやだし……。こんなことお願いするの、図々しくて、いやなんですけども」
「そんなことないわよ」
と、夕子が私の代りに答えた。「警官は市民の幸福と安全のために働くのが本分。──ねえ、宇野警部?」
私は、ため息をついた。
まあ、これも何かの役に立つかもしれない。
──殺人事件なんてものは、起ってほしくないが。
ホテルのラウンジは、夕方の中途半端な時間のせいか、半分ほどの客席が埋っているくらいだった。
私は、のんびりと新聞を広げ、ゆとりあるビジネスマン、という様子を見せていた。
一つテーブルを挟んで、吉原依子が座っている。もちろん、いつもの自前の服。傍の紙袋には、昨日、着ていた乗馬服など一式が入っている。
田中一郎という男との約束に、あと五分というところ。時間には決して遅れて来ないと、依子は言っていた。
「あ、どうも」
と、依子の声がした。
私は、わざと間を置いて、さりげなく、そっちへ目をやる。
「いや、君は早く来るんだね、いつも」
と、その田中一郎《ヽヽヽヽ》は、感心したように言った。「どうだった、昨日は?」
「ええ、とっても楽しかった!」
と、依子は手を握り合せて、「またいつか乗ってみたい。構いませんか?」
「そうだね」
と、田中一郎は微笑んで、「すぐ、ってわけにはいかないかもしれないが、一カ月ぐらい先なら、たぶん大丈夫だよ」
「良かった! 昨日の馬と、すごく気が合っちゃって」
「そうか。そりゃ良かったね」
と、田中一郎は言って、手帳を取り出した。
「さて、来週は……。君の割り当て日は、木曜日なんだがね」
「木曜ですか」
と、依子は、ちょっと困ったように、「木曜日は確か試験なんです」
「そうか。そりゃ残念だね、パスするかい、一度」
依子はためらってから、
「いえ……。そんなのいやだわ。少し時間は遅くても?」
「いいとも。じゃ、何か夜遅くてもいいところ……」
「私、夜の東京を空から見てみたいんです」
「空から? ──ヘリコプターか。そりゃいい」
「いいですか?」
「もちろん。じゃ、誰か相手をつけよう。二人で東京上空の散歩ってのも、なかなかいいじゃないか」
「嬉しい! 楽しみだわ」
と、依子ははしゃいでいる。
あれは、私がいるからと思って、演技をしているわけではない。心からの言葉だ。
それはそうだろう。依子にとっては、本当に〈夢のような〉時間に違いないのだから。
しかし、それだけに、依子を、もし誰かが利用しているのだとしたら、許せない。
「じゃ、いつもの通り、前の日に服を届けるからね」
と、田中一郎は言って、手帳を閉じた。
「ヘリコプターに乗りやすいものを考えておこう」
「お願いします」
と、依子は頭を下げた。
田中一郎が紙の袋を受け取って、ラウンジを出て行く。
私は、軽く息をついて、席を立った。
──田中一郎は、車にもタクシーにも乗らなかった。
ホテルの裏手の道を辿《たど》って、大使館などの並ぶ一角へと入って行く。こういう尾行はなかなか骨である。
人通りが少なくなり、あまりくっついて尾行すると、ばれてしまうのである。
しかし、こっちは何といったってベテランだ。こんな尾行ぐらいはお安いご用……。
と、息を抜いたわけではなかったのだが、その田中一郎が、一つ角を曲って、少し足を早めた私は、そこを曲ろうとした。
そして、曲ったとたん──ガン、と頭を殴られて、気を失ってしまったのである。
「全く頼りにならないんだから」
と、夕子は、ケガをした恋人に対して、至って冷ややかだった。
「しかし──まさか殴られるとは思わなかったんだ」
私は、頭のこぶに触って、顔をしかめた。
「あの近くに、何かあったの?」
私はポケットから地図を取り出した。
──夕子の大学に近い喫茶店である。
仕事とは関係ないことで引張り出され、頭を殴られて、わざわざこうして夕子に会いに来るんだから、私ももの好きというものである。
「──この辺りなんだ、殴られたのは」
と、私は×印をつけた。「ここから、この細い道を抜けるとね、ここにちょっとしたマンションがある」
「マンション?」
「といっても、億の金でしか買えないがね。その一つが、東山家の持物だ」
「へえ、やるじゃないの」
と、夕子が珍しく評価してくれた。
「ま、田中一郎ってのが本名とは思えないが、東山家に何か関係のある人間だってことは確かかもしれないな」
「すると、これからどういう手を打つか、ね……」
と、夕子は考え込む。
「僕は、殴られたことでもあるし、この辺で手を引こうかと……」
「ね、問題は、あの吉原依子って子を騙《だま》して、何の得があるかってことなの」
と、夕子は私の発言を無視して言った。
「そりゃそうだけどね。しかし、現実に彼女は何の被害も受けていないわけだし……」
「でも何か理由があるはずよ」
と、夕子は、考え込んだ。「|本当に《ヽヽヽ》、お金持の気まぐれで、ああして楽しませてるってことも、ないじゃないけど……」
「いずれにしても、本人は何も損してないわけだし──」
「|何か《ヽヽ》あるはずよね」
夕子は肯いて、「──そうよ。やっぱり、他にはないわ」
「何が?」
「東山里香に会うの。それで何か分るかもしれないわ」
「どこで会うんだ?」
「あなた調べてよ。警察でしょ」
「しかしね──」
「それと、彼女の写真もあるといいわね。もっと普通の格好の」
と、夕子は言って、「あ、いけない! 次の講義は休めないんだ。じゃ、何か分ったら電話してね」
呆気に取られる私を残して、夕子はさっさと喫茶店を出て行ってしまったのである……。
「原田か。俺だ」
と、私は電話ボックスから、捜査一課へかけて言った。
「宇野さん、どうしたんです? 頭痛の方は治りましたか」
原田のでかい声を聞くと、まともな状態でも、頭が痛くなることがあるのだ。今の頭には大いに|響いた《ヽヽヽ》。
「いや、それが、今一つな。悪いが、今日一杯は休むよ」
「分りました」
原田は、どんな時でも明るい。病人が相手の場合は、いささか問題かもしれない。
「でも、宇野さん」
「何だ?」
「夕子さんに頭をなでてもらったら、治るんじゃありませんか、ハハハ。──じゃ、お大事に!」
お大事に、もないもんだ。私は、苦笑いして電話を切った。
夕子が頭痛を治してくれるどころか、頭痛製造機みたいなもんだ!
私は、車のわきに戻った。
東山里香は、T女子大の二年生だ。今、私はその正門が見える辺りに車をとめてある。
しかし、相手は財閥の一人娘。よほど用心しないと、誘拐犯と間違えられてしまいそうだ。
頭を殴られるぐらいじゃすまなくなる。
女子大生が、ゾロゾロと出て来る。
もちろん女子大だから当然のことながら、女の子ばかり。ワーッと群をなして歩いて来ると、なかなか壮観である。
私は車の中に入って、通って行く女子大生たちの中に、東山里香の顔を捜した。
これは、かなり目の疲れる作業である。しかし、刑事としては、これぐらいのことができなくては、凶悪犯の張り込みもできない。
──しばらく待ったが、捜す相手は、一向に現われない。おかしいな、と首をひねった。
見落としたか? ──まさか!
それとも、大学をさぼっているのかもしれない。その可能性は、大いにありそうな気がした。
──いい加減に諦めようかと思ったころ、東山里香は一人で構内から出て来た。
見た感じが、確かに吉原依子と似ている。しかし、たとえば誰かが、東山里香の身代りに吉原依子を利用している、という憶測は残念ながら当て外れだ。
いくら何でも、双子の姉妹というわけではない。少しでも里香のことを知っている人間なら、間違えるはずはなかった。
東山里香は、大して急ぐ様子でもなく、私の車の方へと歩いて来る。
私は、外へ出て彼女に声をかけようと、ドアの把手《とつて》に手をかけた。すると──。
誰を見たのか、東山里香が足を止め、ハッと口を手で押えると、何と私の車のドアを、パッと開けたのだった。
「何だ?」
と、私が面食らっている間に、東山里香は車の助手席へと乗り込んで来た。
「車を出して!」
「何だって?」
「車を出して! 早く!」
どうやら冗談ではないらしい。私は、エンジンをかけて、車をスタートさせた。
車が少し走ると、東山里香は少しホッとした様子で、息をついた。
「どこへ行くんだい?」
と、私は訊いた。
「いいの」
「いいの、って?」
「適当に。どこか駅かバス停の辺りで、停めて」
なかなかしっかり者らしい、可愛い子である。もちろん、生れながらの環境は違うが、どこか、吉原依子と東山里香の二人には、似通ったものがあるような気がした。
「君は──」
「ごめんなさい」
と、里香は、ちょっと笑った。「びっくりしたでしょ。会いたくない人がやって来たの。だから、ついこの車へ飛び込んじゃった。──怒ってる?」
私は笑い出した。
「いいや。どこの駅がいいんだね?」
「じゃ、一つ先まで」
「分った」
私は車のスピードを上げた。
「──あそこで何してたの?」
と、里香が訊いた。
「人を待ってた」
「まあ。いいの、戻らなくて」
「いいんだ。お互い、慣れてるから」
「恋人! それとも奥さん?」
「俺はやもめだよ」
「カモメ?」
「やもめ」
「あ、なるほどね。未亡|男《ヽ》って奴ね」
と、里香は珍妙な日本語を使って、「|かげ《ヽヽ》があって、すてきよ」
「君は、いいところのお嬢さんらしいね?」
何となく言ったのに、里香はひどく気になったようで、
「そんなに派手に見える? ねえ?」
と、訊いて来る。
「いや──あの女子大がそうだからさ」
「でも……。地味にしてるつもりなんだけどな」
と、まだ気にしている。
「学校がうるさいのかい?」
「別に。そうじゃないわ」
確かに、出て来る女子大生たちを見ても、ギョッとするほど派手な子も、珍しくなかった。
「恋人はいる?」
と、里香が突然言った。
「まあ、人並みにね」
「どんな人? キャリアウーマン?」
「スーパーマン」
「え?」
「いや、冗談さ。──君と同じ」
「女子大生? へえ」
と、意外そうな目で見る。
「とても、そんなにもてそうもないだろ?」
「そんなことない。渋いのが好き、って子、結構多いのよ」
「そうかね。──ああ、そこが駅だ」
車を寄せると、里香は、
「ありがとう」
とドアを開け、「じゃ──」
出ようとしてパッと戻って来ると、私の頬にチュッとキスして、
「バイバイ!」
足早に行ってしまう。
──今の場面、夕子に見せたかったね、と私は思った……。
「何よ。じゃ、せっかく車に乗せといて、何も訊きだせなかったの?」
と、夕子が呆れたように言った。
「しかし、なかなか真面目そうな子だよ」
私は、夕子を乗せて運転しながら、言った。
「キスされて、ポーッとしちゃったんでしょう」
と、夕子が言った。
「いや、別に……」
と、私は澄まして、「今夜はどこへ行くんだい?」
「今日は何曜日?」
「木曜日。──そうか、依子がヘリコプターでデート、と洒落《しやれ》込む日だな」
「そう」
「僕らもヘリコプターにでも乗るかい?」
「オモチャならね」
と、夕子は言った。「ここへ行って」
メモを渡されて、チラッと眺める。
「どこだい、ここ?」
「吉原依子のアパートよ」
と、夕子は言った。
「しかし、今夜は留守だぜ」
「だからこそ、行ってみるんじゃないの」
夕子は、いつもの通りに、分りにくいセリフを吐くのだった……。
吉原依子のアパートの少し手前で車を降りた私と夕子は、夜の道を歩いて行った。
「──あれか」
と、私は言った。「こりゃ凄いや」
よくも今まで生き残った(?)と思えるほどのオンボロアパートである。
「ここに住んでたら、地震が怖いでしょうね」
と、夕子も率直な感想を述べた。
「吉原依子の部屋は……。二階の取っつき──あれ?」
私は目をパチクリさせた。「明りが点いてるじゃないか」
「そうね。こっちへ隠れて、様子を見ましょう」
夕子は私の腕をつかんで、引張った。
私と夕子は、電柱の陰から、明るいその窓を見ていた。
誰かいる。──それは間違いなかった。
人影が動く。女のシルエットと、そして男らしい影も。時折、話し声や笑い声が、洩れて来るようでもある。
「どういうことだ?」
と、私は言った。「吉原依子じゃないな、あの声は」
「もちろんよ。彼女は出かけてるんですもの」
「どういうことなんだ?」
「吉原依子さんを騙して、得をする人間は誰もいない、確かにそうよね。東山里香の身代りって可能性も、まずない」
「そんなに似ちゃいない」
「そうなると? なぜその田中一郎って男が、依子さんに、あんなお金をつかってまで週に一度、楽しい思いをさせるのか」
「分らないね」
と、私は首を振った。
「見た通りよ」
「というと──」
「依子さんの部屋《ヽヽ》を使うためだわ」
「何だって?」
「それしか考えられないじゃないの。パーティ、デート、乗馬にヘリコプター……。ただ一つだけ共通しているのは、その間、依子さんの部屋が|留守になる《ヽヽヽヽヽ》ってことだけ」
「しかし……」
と、私は呆れて、「あんな部屋をどうして?」
「あそこでなきゃまずい|わけ《ヽヽ》があったんでしょ」
「どこか、金のある所までトンネルでも掘るか」
「二階から?」
「そうか……」
「ともかく、いつかははっきりさせなくちゃね」
と、夕子は言った。「行って、お話をうかがいましょ」
「誰に?」
「あの二人よ。女の方は、あなたも知ってるはずだわ」
「そうか」
思い当った。「東山里香だ!」
「ご名答」
「しかし──金持の娘が、なぜあのアパートの部屋を?」
「当人に訊くのが一番よ」
夕子が、歩き出そうとして、「ね、見て!」
と足を止めて、低い声で言った。
「吉原依子じゃないか」
そう。吉原依子が、急ぎ足でやって来たのだ。
服は、上等なものに着替えているが、何か忘れものをしたらしい。せかせかと歩いて来て、アパートへ入ろうとして……。
窓の明りに気付いた。目をパチクリさせて見上げている。
すると──私たちも全く気付かなかったのだが、アパートのわきの暗がりから、突然誰かが出て来た。
そして、上衣らしいものを、依子の頭からスポッとかけてしまったのである。
依子がびっくりして暴れようとすると、
「おとなしくしろ!」
と、後ろから抱きしめて、引きずって行こうとする。
「おい」
「あなたにも、少しカッコいいところを取っといてあげるわ」
夕子は、ポンと私の肩を叩いて、「さ、行って」
私は、
「おい! 手を離せ!」
と、怒鳴って飛び出した。
その男はギョッとしたらしい。依子を離すと、あわてて逃げ出す。
「捕まえて!」
夕子が叫んだ。「依子さんは私が」
「よし!」
私は、逃げた男の後を追いかけた。
相手も、この辺の細い道までは知らなかったと思える。曲り曲って、私をまこうとしたのはいいが、曲ってみたら行き止り。
「もう諦めろよ」
と、私は言った。
殴りかかって来るのを、軽くかわして、お腹へ一発、拳を当てると、
「いてて……」
と、だらしなくうずくまってしまう。
「おい、しっかりしろ。──ほら立って。歩けるか?」
その男の首根っこを、猫の子みたいにつまんで、アパートの前まで戻る。
「──大丈夫?」
夕子が、依子に訊いている。
「ええ。何とも。びっくりしただけです」
と、依子は頭を振って、「でも、一体誰が──」
「連れて来たよ」
私は、明るい所へ、その男を押し出した。
「まあ」
と、依子が目を丸くした。
田中一郎と名乗っていた男である。
「やっぱりね」
と、夕子は肯いた。「依子さんを週に一度外へ出したかったのね。そのためにあんな話をでっち上げて──」
「どうしてですか? それに、なぜ私の部屋に明りがついてるの?」
「それは……」
と、田中一郎が詰る。
すると、ガラガラと音がして、
「もういいわ」
と、声がした。
二階のあの部屋の窓の所に、東山里香が立っていた。
「申し訳ありません、お嬢様」
と、田中一郎が頭を下げた。
「ともかく上って。──話さなきゃいけないわね」
と、里香は言った……。
何とも狭い部屋だ。
四畳半に、私と夕子、依子に田中一郎、そして東山里香と、もう一人、若い男が、呆気に取られた様子で、座っている。
正に大混雑であった。
「こちらは私の恋人の、大沢君」
と、里香は言った。
「君がこの間、会いそうになって、逃げたのは、この男か」
と、私は言った。
「ええ」
里香は肯いて、「私が、あの女子大から出て来たなんて知られたら、困っちゃうから……」
「つまり──」
と、夕子が言った。「あなたは貧しい苦学生ってことにしておきたかったのね」
「ええ。──この大沢君も、高校時代、夜学に通っていたの。私、付合い出して、大沢君はあまりお金のある方じゃないし、何となく自分のこと、言いにくくて……。つい、話の成り行きで、昼は働いて夜学に通ってるって言ってしまったの」
「それでこのアパートを?」
「帰りに送ってもらって……。この少し先に父の持ってるマンションの一つがあるの。でも、そこまでは送ってもらえないから、このアパートの前で、足を止めたの」
「で、ここに住んでる、ってことに?」
「どの部屋、って訊かれて……。明りが、ちょうど消えてたの。だから、この部屋だ、と言ってしまって」
「それで私を追い出そうとしたんですか」
と、依子は言った。
「ごめんなさい。週に一日しか、彼の体は空かないから、それに合せて私も……。でも、貧乏学生の役をやらなきゃいけないし、といって、嘘をついてる時はすぐ分るし……」
「ここを借りちゃった方が安上りだったんじゃないの?」
「いいえ。ここは狭くても、本当に生活している所ですもの。──どこかに、小さな部屋を借りても、こういう生活の匂いのない、モデルルームになってしまうわ」
「分るね」
と、私は肯いて、「ところで、この田中一郎と名乗ってる男性のことだけど……」
里香がクスクス笑って、
「信じられないかもしれませんけど」
と、言った。「その人、本当に田中一郎というんです」
「何だ、そうか」
「どうも」
田中一郎は、頭をかいて、「いつぞやは大変に失礼を」
「僕の頭をポカッとやったのは、君だな?」
「すみません」
「傷害罪で逮捕だな」
「私のためなんです」
と、里香が言った。「何とか、許してやっていただけませんか」
「もちろんよ」
と、|夕子が《ヽヽヽ》答えた。「尾行の失敗は、自分の責任でもあるしね」
私は肩をすくめて、
「ま、いいだろう。病院代ぐらいは払っていただくかもしれんが」
と、頭をそっとなでた。
まだ少し痛むのである。
「どうぞご請求を」
と、田中一郎が言った。
「でも──」
と、依子が言った。「どうして私にこんなぜいたくを? 頼まれればいつでもお貸ししたのに、部屋ぐらい」
「いいえ、本当に、ここで苦労してる人の生活がほしかったの。そのために、お詫びのつもりで、あなたに楽しんでいただきたくて」
「充分に楽しみました」
依子はそう言って、「本当にありがとう」
と、頭を下げた。
しばらく、誰も口をきかなかった。
大沢という、里香の彼氏一人が、わけも分らない感じでポカンとしていたが、
「君、大金持なんだね」
と、里香に言った。
「親がね。私は大して──」
「そんなこと、気にしなくていいのに」
と、大沢という若者は明るく笑った。
「大沢君──」
「もちろん、貧しい人を差別しない。その代り金持も特別扱いはしない。それが僕の生き方さ」
「大沢君……」
里香は、大沢の手を握った。
「シンデレラも終りね」
と、依子は微笑んで、「楽しかったわ」
「あら、良かったらずっと──」
「いいえ。理由もないのに、あんなこと、していただくわけには……。もう何年分も楽しみましたもの」
依子は楽しげに言った。
「でも──」
と、大沢という若者が言った。「本当に狭いね、この部屋」
みんなが笑い出した。
私もホッとした。今度ばかりは、人殺しだの何だのと、殺伐とした事件にならずにすんだのだから。
ただ──私が頭を殴られたが、まあ、それは諦めることにして……。
こんなに人がいいのに、どうして俺には、もっといい話がやって来ないんだろう?
「何をブツブツ言ってるの?」
と、夕子に言われて、
「いや、何にも」
と、あわてて頭を振った。
「──依子さん」
と、里香が言った。「何か、お礼をさせてね、やっぱり気が咎めて」
「そうですか?」
と、依子は少し照れくさそうに、「じゃあ一つお願いが……」
「何かしら?」
「財閥の一族というから、顔も広いんでしょ?」
「まあね」
「じゃ、ぜひ──」
と、依子は前に進み出た。
私は、原田に言った。
「いいか。今日は、手伝いだぞ。食べる日じゃないぞ」
「分ってます」
原田は胸を張った。
「いらっしゃいませ」
戸を開けると、依子の元気のいい声が飛んで来た。
「やあ、来たよ」
「いらっしゃい」
依子は、エプロンをして、もう息を弾ませている。
「用意は? この男、良かったら、使ってくれ」
「まあすみません。──じゃ、奥の方をちょっとお願いできますか」
「分りました」
原田がポキポキと指を鳴らしながら、奥へ入って行く。
「おい! 何もこわすなよ」
と、私はその背中に大声で言ってやった。
「そろそろ時間だわ」
と、依子が言った。
戸が開いて、タキシードの男とイヴニングドレスの男女が入って来る。
「いらっしゃいませ」
と、依子が飛んで行く。
──東山里香の名で夕食会の招待状が出ているのだ。
続々と、着飾った男女がやって来て、店の中は満員になってしまった。
「〈本日貸切〉の札、出しとかなきゃ」
と、依子は一旦表に出て、すぐ戻って来た。
里香と大沢も一緒だ。
「じゃ、始めましょうか」
依子は、店の奥からカウンターへ出た前菜を、各テーブルへと、急いで運び出した。
「──どう?」
と、夕子が言った。
「何だい?」
「依子さん、もう少し|まし《ヽヽ》なアパートへ移るって」
「そうか。ま、安心だな」
と、私は肯いた。
「お待ち遠さま!」
威勢のいい声がして、原田が、料理の大皿を手に、現われた。
その皿は、奇跡的に、少しも減っていなかったのである。
[#改ページ]
第四話 幽霊園遊会
人間、本当に眠い時には、何をしてたって眠れるものである。
現に、林千恵子は、長い長い階段の手すりをキュッキュと音をたてて磨きながら(永久に終らないんじゃないかとさえ思った)、いつの間にやら、手すりにもたれてウトウトしていたのである。
「何してるんだ!」
と、怒鳴る声で、林千恵子はパッと目を覚まし、
「すみません!」
と、答えたのだが──。
怒鳴られたのは、千恵子ではなかった。今日だけ臨時に雇われて来たアルバイトの女の子だ。まあ、少しは叱られてもしかたないか、と千恵子だって思うくらい、のんびりのんびり掃除をしていた。
「その絵が傾いてるじゃないか! ちゃんと直しておけ、見っともない」
と、その屋敷の主、落合勇介は、苛々《いらいら》した口調で言った。
「はあい」
と、怒鳴られた女の子は、プーッとふくれながら、間のびした返事をする。
千恵子は苦笑して、階段の手すりを、磨き続けた。──起してもらって良かった。下手をすれば、階段を転がり落ちてしまうところだ。
それにしてもね……。今どきの女の子って、本当に体を動かすのが嫌いなんだから。
とは言いながら、千恵子だって、あのバイトの女子大生と同じくらい──まだ十九歳という若さである。
高校を出て上京して来たものの、就職した工場が三カ月で閉鎖。喫茶店のウェイトレスをしながら、広告を見て、落合家にお手伝いとして雇われたのである。
家は農家だったし、弟や妹が六人もいて、体を動かすことは少しも苦ではなかったから、よく働き、この家にずっと前からいる、馬淵かね子にも、気に入られていた。
夢中の内に一年間が過ぎて、少し東京の空気にもなじんだ千恵子は、このところ、六本木とか麻布とか、少し夜ふかしをして遊んだりすることを憶えたので、こうして時に寝不足気味の日もあったのである。
「──千恵子さん」
と、馬淵かね子がやって来た。「ちょっと台所へ」
「はい」
千恵子は急いで、馬淵かね子の後からついて行った。──細身で、きりっとした雰囲気の馬淵かね子は、千恵子に、何となく田舎の中学の時の先生を思い出させた。
「ドアを閉めて」
と、かね子が言った。
こりゃ、何かお叱言《こごと》かな、と首をすぼめつつ、千恵子は後ろ手にドアを閉めた。
「座って」
と、かね子は、広い台所に置かれた調理台兼用のテーブルの方へ椅子を寄せた。
「はい……」
「お菓子があるの。食べよう」
かね子は、そう言って、ニッコリ笑った。
千恵子はホッとした。──厳しい人だが、こんな風に、時折やさしいところを見せてくれる。その点も、先生みたいだった。
「パートの子たち、十人いたって二人分くらいしか働かないわね」
と、かね子は、お茶をいれながら言った。
「──あ、いいわよ、私がやるから。あなたは今夜、大変よ」
「パーティって、大勢人がみえるんですか」
「二百人にはなるんじゃないかしら。このお屋敷がいくら広いといっても、お庭と広間をフルに使って、やっとね」
「雨にならないといいですね」
「天気予報じゃ大丈夫そう。でも、料理が、立食形式にして、テーブルに並べるでしょ。どのテーブルにも、よく気を付けていて。空になったら、すぐ足さないと。千恵子さん、あなた、目を配っていてね」
「はい」
「私は、臨時に来るコックさんの相手だけで手一杯だと思うわ。あなたが頼りよ」
千恵子は、かね子からこんな風に言われるのは初めてだった。胸が熱くなって、眠気なんかどこかへ吹っ飛んで行ってしまう。
「精一杯やります」
と、もともと健康的な赤い頬を、ますます赤くする。
「頑張ってね」
と、かね子は微笑んだ。「パーティは六時から。私たちは四時ごろに、軽く何かいただいておきましょう。夜中までは、水一杯口に入らないと思ってた方がいいから」
「はい」
「ねえ、ゆうべはどこへ出かけてたの?」
いきなり訊かれて、千恵子はどぎまぎしてしまった。
「あの……ちょっと……」
「いいのよ。若い内だわ。夜遊びできるのもね。とても私なんか、そんな元気もないし。──男の子と?」
「そうじゃないです。この間、映画を見に行って知り合った女の人と二人で……。凄く利口で、可愛い大学生なんです」
「へえ。──男の子と付合ったって、別に構わないわ。ただ、妊娠しないように用心するのよ。大変だから」
「はあ……」
てんでその方は|遅れて《ヽヽヽ》いる千恵子はまた真赤になってしまった。
「あの──今日は、何のパーティなんですか?」
と、千恵子は訊いた。
「旦那様の、五十五歳の誕生日よ。──でもね、旦那様にとっては、それだけじゃないらしいわ。何か、もっともっと、大切な意味のあるパーティらしいの」
馬淵かね子は、何やら考え深げに、肯きながらそう言った。そして、時計を見ると、
「さ、お菓子を食べたら、仕度にかかりましょ。千恵子さんの服も、新しいのが用意してあるからね」
「すみません。Lサイズですか?」
と、千恵子は訊いてたのだった……。
落合勇介は、時計の針をにらみつけていた。──本当に動いてるのか、あの時計は?
その点は間違いなかった。何しろ、大きな振子が、ちゃんと左右に振れているのだから。
それにしても、こんなに時間がのろく過ぎて行く日は初めてだ、と落合勇介は思った。
いつもなら、どんな気分の時にも、ここへ来れば気分が落ちつくというのに、今日ばかりは……。
落合は、書斎の中をゆっくりと奥の窓の方へと歩いて行った。──広々とした芝生が、午後の陽射しに輝くようだ。
今、アルバイトの女の子たちが、芝生にテーブルを出し、白いクロスをかけていた。
おいおい。芝をいためないでくれよ! ──ああ、あんなに穴をあけちまって。
ため息をついて、落合は苦笑した。
まあいい。今日だけは特別なのだ。何もかも目をつぶろう。いたんだ芝生は、後で手入れすれば元に戻る。
今夜のパーティは一度限りで、そして記念すべきものになるはずだ。ともかく、パーティを台なしにしないこと、それが第一だ。
「少し横になるか」
と、落合は呟いた。
パーティの間は、ずっと立ちっ放しということになるだろう。少し休んでた方がいいかもしれない。
書斎を出ると、千恵子が相変らず張り切った様子で、廊下の壺を磨いている。
「ご苦労だな」
と、落合は声をかけて、「少し二階で休んでる。三十分したら、声をかけてくれ」
「かしこまりました」
と、千恵子が、顔の汗を拭こうともせずに言う。
汗が似合うってのはいいことだな、と落合は思った。
二階へ上り、寝室のドアを開ける。
──十年前に妻を亡くしてから、ずっと一人で使って来た寝室である。だだっ広い、その空間は、入る度に、安らぎの代りに、虚《むな》しさを実感させたものだった。
大きな鏡の前で、落合はホッと微笑んだ。──この部屋が、また憩いと安らぎの場になる日が、やっと来たのだ。
そう。俺だって、まだ五十五なのだ。人生を楽しむ時間は充分にある。
鏡の中には、四十代の半ばと言っても通りそうな、健康に陽焼けした、がっしりした体格の男が立っていた。──二人《ヽヽ》。
二人《ヽヽ》?
落合は振り向いた。──こんな所に鏡があったかしら、と思った。
目の前に、自分《ヽヽ》が、もう一人立っていた。
クロゼットの、見憶えのあるツイードを着て、そのもう一人の自分は、冷ややかな笑みを浮かべている。
呆然と突っ立っている落合の方へ、その男は近寄って来ると、頭上高く、何かを振り上げた。
「千恵子さん!」
と、永井夕子は甲高い声で呼んで手を振った。
見るからに丈夫そうな、その娘は、よく外国映画で見る、小間使の格好で、顔を真赤にして、忙しそうだった。
「──夕子さん! わあ、すてき!」
と、駆けて来ると、肩の出た、白いドレスの夕子を見て、ポンと手を打った。
「そう? 千恵子さんも可愛いわよ」
「私にゃぴったり、って、母さんなら言いそう」
と、その娘は笑って、私の方を見た。「あ! じゃ、この人が──?」
「私の不倫の恋の相手、宇野喬一さん」
夕子の紹介にびっくりしたのは私の方だ。
「おい──」
と、抗議しかけたのを、夕子が肘《ひじ》でいやというほどわき腹をつついて、遮《さえぎ》る。
「いらっしゃいませ」
と、千恵子は頭を下げて、「夕子さんに、いつもお話をうかがってます」
「どうも……」
と、私は言った。
「夕子さんみたいないい人を、どうか不幸にしないで下さいね。泣かしたりしたら──」
ぐっと力こぶを作る格好をして、「私が許しません!」
と、|どす《ヽヽ》のきいた声を出し、またコロッともとに戻って、
「どうぞ奥へ。広間とお庭、そのまま靴でお入り下さい」
「ありがとう。──また後でね」
と、夕子は白い手袋をはめた手で、千恵子の肩を軽く叩いた。
「何かお飲み物を」
と、千恵子が、盆を持ってウロウロしている女の子を指して、「あそこから取って下さい」
「ありがとう。構わないで。私たち、適当にやってるから」
と、夕子は肯いて言った。
私は、首の回りがきつくて苦しいので、指で緩めながら、カクテルのグラスを取った。
「さ、入りましょ」
と、夕子が私の腕を取る。
あまりお見せできるしろものではないが、私も今夜は借りもののタキシードに蝶ネクタイ。──国際的スパイならともかく、警視庁捜査一課の警部が、こういう格好をすることはめったにない。
「──ね、良さそうな子でしょ」
と、広間へ入りながら、夕子が言った。
広間は既に人でむし暑いくらいだった。
「確かにね」
と、私は肯いた。「しかし、伺いたいね。どうして男やもめの僕と付合うのが不倫の仲ってことになるんだい?」
「ああ、それ。ま、気にしないで」
「作り話を聞かせたんだな? やれやれ」
「だって、そういう、TVドラマみたいな話が、現実にあるって聞くと、凄く喜ぶんだもの、あの子。それに年齢的にもぴったりでしょ、私たち」
「よせやい」
と、私は苦笑した……。
確かに、パッとしない四十男が、二十二歳の女子大生をエスコートして、華やかなパーティへやって来るというのは、ちょっと珍しい光景かもしれなかった。夫婦には見えないだろうし、もちろん親子でもない。
といって、「恋人同士です」と、本当のことを言っても、もっと信じてもらえないかもしれないが……。
「さて、仕事、仕事」
と、私は言った。「例の女性はどこにいるのかな」
「いきなりキョロキョロ捜し回ったら妙なもんよ。少し、料理を食べながらにしましょう」
私も、別にあてこんで来たわけではないのだが、夕子の提案に同意した。何しろ、夕子のこのスタイルが完成を見るまでに、二時間を費やし、ついに夕食を取る時間がなくなってしまったのだ。
テーブルに並んだ料理は、どれもみごとなものだった。寿司やそばの屋台も出て、人を集めている。
「──凄い費用だな、これは」
と、私は食べながら言った。
「そうね。ほら、お庭の方にも、沢山出てるのよ」
「原田の奴がいたら、泣いて喜ぶだろうな」
と、言ってから私は後悔した。
これまでの夕子との付合いの経験から、こういう噂をすると、往々にして「現実」と化してしまうことがあるからである。
「宇野さんでいらっしゃいますね」
と、女性の声がして、私は振り向いた。
「どうも、警視庁の宇野です。落合千草さんですね」
「はい」
夕子と一つしか違わない、二十三歳のはずだが、落合千草はまるで十歳も年上のような落ちつきを感じさせた。
「落合勇介さんは──」
「義父《ちち》は、まだ仕度に手間取っているようです」
と、千草は言った。「主人がお話ししたいと申しています。よろしければ……」
「ええ、もちろんです」
私はあわてて皿にのせていた焼鳥を一気に口へ入れ、目を白黒させてしまった。
「あの、そんなにお急ぎにならないで」
と、千草が言った。
夕子は笑いをかみ殺している。──薄情な奴だ!
「いや、大丈夫です」
と、やっとのみ込んで息をつく。
「では、こちらへ」
と、落合千草は、時折来客に挨拶をくり返しながら、広間を出て、廊下の奥の方へと、私たちを案内して行った。
「──ここが書斎ですの。お入り下さい」
と、落合千草がドアを開けて、私たちを中へ入れた。
そう広い部屋ではないが、壁一面の本棚をびっしりと分厚い本が埋めて、ビロードばりのソファがあり、本好きなら、一日中でも過せそうな、落ちついた雰囲気の部屋である。
「いいなあ」
と、夕子が、奥の窓の方へと歩いて行き、カーテンをからげて外を見た。「ちょうど、パーティやってるお庭が見えるんだ」
「なかなかいい部屋だな」
と、私も肯いた。
落合千草は、私たちをここへ通しておいて、行ってしまった。──まあ、来客も多く、忙しいのだろうが。
「落合勇介っていうのが、ここの主人なんでしょ?」
と、夕子が言った。
「そうだよ。その息子が落合秋彦。今の千草っていうのは、その女房だ」
「それで、今日のパーティに、どうしてわざわざ、捜査一課の警部まで招待したわけ?」
「何か危険があるってことだけしか、僕も聞いていないよ。ま、課長は、行って料理を食って来い、とだけ言ったがね」
「じゃ、向うの説明を聞くしかないわね」
と、夕子は肯いて、ソファに腰をおろした。
「少し固めで、いいクッション。──私の部屋にもほしいわ」
「僕の月給が軽く吹っ飛ぶだろうね」
と、私は言った。
するとドアの外で、何やらにぎやかな笑い声がしたと思うと、ドアがパッと開いて、タキシード姿の男が、赤いドレスの女を抱きながら入って来た。
「ここなら誰もいないから──」
「じゃ、ゆっくりできるわね!」
目の前の私たちに気付かないというのも相当なものだが、何しろ部屋へ入りながらきつく抱き合ってキスしているのだから、ああ無理もないと言うべきかもしれない。
「もっと会いたいわ……」
「僕だって、毎日でも……」
「だったら、マンションでも私に借りてよ……」
呆気に取られていた私も、その二人がどうやら、キスより先へ進みそうな様子なのを見て、あわてて咳払いをした。女の方が、
「キャッ!」
と、悲鳴を上げる。
男はポカンとして私と夕子を眺め、
「何だ、先客か」
と、言った。
「失礼ですけど」
夕子が澄ました声で、「落合秋彦さん?」
「そうですよ」
「お招きにあずかった、警視庁の宇野といいます」
と言ってやると、男は、
「ああ! ──そうか。忘れてた」
と、頭をかく。「君、また後で」
「後で、きっとよ」
と、口を尖らしながら、女は出て行こうとして、私の方をチラッと見ると、素早くウインクした。
私はすっかり面食らってしまった。夕子ももちろん気付いていて、笑いをこらえている。
「いや、失礼。──千草の奴がここへご案内したんですか」
と、落合秋彦は、大して照れる様子もない。
「ええ」
「あいつ。僕がここへ来ると分ってたんだな、全く! ──や、すみません。座って下さい」
全く、どういう夫婦なんだ?
仕方なく私はソファに腰をおろした。
「──何でも、今日のパーティに危険なことがあるかもしれないということですね」
「ええ、そうなんです。まあ、まさかとは思うんですが、万が一ってこともありますのでね」
秋彦はポケットからシガレットケースを取り出したが、「いけね。ここは禁煙か」
確かに、本がこれだけ集めてあるのだ。火気は遠ざけるべきだろう。
「まあ、警視庁の警部さんに目を光らせていただけりゃ、安心ですからね」
で、秋彦はシガレットケースをポケットへ戻して、「そろそろ親父も下りて来るでしょう。ま、よろしくお願いします」
秋彦が立って行ってしまいそうなので、私はあわてて、
「ちょっと待って下さい」
と、言った。「ただ危いことがあるというだけじゃ、こっちも手の打ちようがありませんよ」
「あれ? 千草の奴、何もお話ししてないんですか? 呆れたな」
どっちの言うセリフだか……。
「実は親父に弟がいましてね。落合圭介というんですが」
「落合圭介……」
ふと、私の記憶に、何か引っかかるものがある。「どこかで聞いた名前だな……。もしかして、どこかで詐欺事件を起しませんでしたか」
「さすがは警部さんですね。──大阪の方で、かなり大規模な詐欺を働いて、逃げてるんですよ」
「なるほど、その──あなたにとっては叔父さんに当るわけですか。その落合圭介が、ここへやって来る、と?」
「親父は何も知らないんです。ただ、妙な電話が何度か親父の会社へ入っているというのを、秘書の女性が千草に話しましてね。千草が、きっと圭介さんじゃないか、と」
「はあ……」
「で、知り合いの人を通して、ぜひこのパーティに、目立たないように警備をしてほしいとお願いしたんです。もちろん、取り越し苦労ってことだとは思いますがね。──ま、そういうことです。よろしく。では」
止める間もない。──秋彦がさっさと出て行くのを見送って、しばし私は言葉もなかった。
「──何て奴だ!」
「妙な話ね」
と、夕子は首を振った。
「その圭介とかいうのを用心しろとか言っても、顔も何も分らないんじゃ、用心のしようがないじゃないか」
「そう怒らないで。あれはただ軽薄なだけだわ」
と、夕子は言った。「それより、問題はあの人の奥さん、千草って人よ」
「どうして彼女が?」
「落合さんの秘書の女性が、妙な電話がかかって来た、と話しただけで、その圭介って人かもしれない、なんて、なぜ千草さんが考えたのか」
「──なるほど」
「千草って人、何か知ってるんだわ、きっと。ね、あなたはここの主人の落合勇介って人を気を付けてて。私、千草さんをそれとなく見てるわ」
夕子の方が熱心である。
「何か起ると思うかい?」
「起ってからじゃ遅いわ」
と、夕子は、もっともなことを言った。「連絡するんでしょ?」
「誰に?」
「原田さんがいいんじゃない、やっぱり」
私は、ため息をついた。やっぱりこういうことになった!
「分ったよ。原田に言って、落合圭介の写真が手に入ったら、持って来させよう」
「元気出して。何もなきゃ、たらふく食べられるだけ、もうけもの」
「原田の奴が来たら、テーブルが空になるかもしれないよ」
と、私は言った……。
廊下へ出て、広間の方へと歩いて行くと、顔に汗を光らせた千恵子が、ほとんど走るような勢いで、やって来た。
「あ、夕子さん」
「ご苦労様。何かお手伝いしようか」
「とんでもない! いいの。汗かいて動き回ってるのが性に合ってるから」
千恵子はそう言ってから、「──二人で書斎に?」
と、怪しむような目で、私と夕子を交互に眺めた。
「ちょっと、相談ごとがあったのよ」
「でしょうね」
と、千恵子は肯いて、「私も相談相手《ヽヽヽヽ》がほしい」
どうやら、千恵子は少々誤解している様子だった。──私は、この子が誰かに似てるな、と思ったが……。
「そうだ。電話を貸してくれないかね」
私は、その「似た人間」に電話しなきゃいけない、と思い出したのだ。
「失礼いたします」
と、声がして、振り向くと、きりっとした和服に身を包んだ女性が立っている。
四十代の後半というところか。
「宇野様でいらっしゃいますね」
「そうですが……」
「馬淵かね子と申します。落合様がお目にかかりたいと──」
「こちらのご主人ですか」
「さようでございます」
「分りました」
──原田に電話をし、私はテーブルの料理をパクつきながら、原田がやって来るのを待っていた。夕子はどこへ行ったのやら、時折庭の客たちの間にチラリと白いドレスが見え隠れしていたが。
「お二階でお待ちでございます」
という馬淵かね子について、階段を上りかけると、ふと後ろに人の気配。
振り返ると、いつの間にやら、夕子がついて来ている。──全く、どこから現われたんだ?
「あ、これは私の助手です」
と、戸惑い顔の馬淵かね子に説明する。
ともかく、夕子と私は、二階の寝室へと通されたのである。
「──どうも、わざわざ」
と、落合勇介は言った。「おいでのことは、嫁の千草から聞きました。私のことを心配してくれるのは大変ありがたいが、そちらには、とんだお手数をかけてしまいましたな」
「いいえ。ごちそうになってます」
と、夕子が答えた。
「なるほど」
落合勇介は、ちょっと笑った。「千草の心配も分らんではありませんが、圭介とは、もうずいぶん会ってもいません。たぶん、私の所へやっては来ないでしょう」
「まあ、用心に越したことはありません」
と、私は言った。「何しろ大勢のお客ですからね」
「まあ、万一の時はよろしく。弟が来れば、すぐに分りますよ」
「とおっしゃると? 何か目立つ特徴のようなものが?」
「ええ。大変に目立ちます」
と、落合勇介はソファに座って、肯いた。
「もし、写真でもお持ちなら、お借りできませんかね」
と、私が言うと、落合はちょっと笑って、
「その必要はないでしょう」
「どうしてです?」
「私をご覧になれば、それで充分です」
「というと?」
「私と圭介は双子ですから。まあ、最近は知りませんが、昔はよく間違えられるほど、似ていたものです」
「はあ……」
「多少、太っているか、やせているか、など変っているでしょうが、基本的には、私とそっくり、と思って下されば結構です」
なるほど、と私は納得した。──原田を呼ぶまでもなかった!
「一つ、うかがっていいですか」
と、夕子が言った。「タバコを喫われますね」
「まあね。──しかし、どうして分るのかな?」
「その指の形が。無意識に、タバコを持つ形になっていますから」
落合は愉快そうに笑って、
「こりゃ驚いた! 確かに、かなりのヘビースモーカーでしたよ。しかし、今度、やめることにしたんです。再婚を機会に」
「再婚なさるんですか」
「ええ。──そこの、馬淵かね子とね」
入口の方に立っていた馬淵かね子が、頬を染めて、目を伏せた。
「それはおめでとうございます」
と、私は言った。「では、今夜のパーティは……」
「その発表もこれからでしてね。──かね子が、結婚を承知する時、条件としてタバコをやめてくれ、と言ったのですよ」
「一日でも長生きしていただきたいからです」
と、馬淵かね子が言った。
「で、私も、否も応もなく、禁煙したというわけでね」
と、落合は笑った。「──ともかく、よろしくお願いしますよ。さて、そろそろ、お客にお前を披露しよう」
「どうぞ、簡単に……。パーティの最後でも──」
「いや、帰る客も出て来るからな。さ、行こう」
「はい」
落合勇介は、私たちに会釈して、先に寝室を出た。もちろん、馬淵かね子が、すぐそばについている。
「──なかなかいい取り合せだ」
と、階段を下りながら、私は言った。
「同感ね。人生経験の豊かな人同士の結婚って、味があるわ」
夕子も、珍しく素直な感想を述べる。「あら、原田さん」
ちょうど階段を下りると、原田刑事の、幅広な(というのは妙な言い方だが)姿が入って来たところだった。
「やあ夕子さん──」
と、原田は、ドレスの夕子を見て、目を見開き、「す、すてきです!」
と、声を震わせた。
「どうもありがとう」
夕子がニッコリ笑って、「今行った男の人を、よく見ててね」
「あいつが悪い奴なんですか? ぶん殴りましょうか」
「よせ!」
私はあわてて、「危険があるから、守るんだ。分ったか?」
「なんだ。そうですか。少し力が余ってるんで」
と、原田は指をポキポキ鳴らした。「あ、そうだ。これが、落合圭介の写真です」
その封筒を、私はポケットへ入れて、
「分った。──あっちに食べるものが並んでるぞ」
「食べるものが?」
原田が目を輝かせた。「やった! 今日は予感があったんです」
「予感?」
「ええ。きっと夕食はどこかでありつける、とね。──一日四食でやめといたのは、正しかった!」
原田が喜び勇んで広間の方へと行ってしまうと、私は笑って、
「幸せな奴だ」
と、言った。「──さて、我々も行くか」
「その前に、この屋敷の中を調べるのも、仕事の内よ」
「どこを調べるんだ?」
「いらっしゃい」
夕子は、私の腕を取って、言った。
「──こりゃ凄い」
ひんやりと空気が冷たい地下室。──そこはワインセラーになっていて、棚にはワインがズラリと寝かせてある。
「大したもんね。レストランでも開けそうじゃない?」
「全くだ。──しかし、どうしてここへ連れて来たんだい?」
「誰かが隠れてるかもしれないでしょ」
「しかし、そんな様子もないじゃないか」
と、私は見回して、言った。
いくら広くても、個人の家だ。一目で、中は見渡せる。
「そう? でもね、やっぱり頭のスッキリしたところで、もう一度よく見ないと」
「スッキリしてるよ」
「だめだわ。目がトロンとして眠そうよ」
「そうかい?」
「そうよ。──目を覚まさせてあげる」
夕子が、ちょっと爪先立って……。私の唇に夕子の可愛い唇が触れる。
「目が覚めた?」
「もう一度だな」
今度は私がしっかりと夕子を抱いてキスしたのだった……。
「今夜、何もなければ……」
と、私は夕子の耳もとに囁いた。
「付合うわ」
と、夕子が微笑む。「このドレス、手伝ってくれないと着られないのよ」
「手伝うよ、いくらでも」
と、私は奉仕の精神を見せて、言った。
「──さ、それじゃ上に行く?」
「うん、仕事、仕事」
と、言って、「──何か落ちてるよ」
薄暗い地下室の中、やっと目がなれて来たせいか、奥の方の床に何か白いものが落ちているのが目についた。
「何かしら」
夕子が、歩いて行って拾い上げる。「──見て。マッチよ。喫茶店のだわ」
「へえ、危いな、こんな所に」
と、私はそれを受け取って、「東京じゃない。この市外局番は……堺だな」
「大阪の方ね」
私と夕子は顔を見合わせた。
「──まさか」
「でも、偶然にしちゃ、できすぎ」
「この中に隠れる所はないよ」
私は、内ポケットから、ペンシルライトを出した。
「そうねえ……」
「照らしてみても、人が隠れるような所はどこにも──」
光が、ワインの棚と棚の、細い隙間へ向くと──白目をむいた顔が、こっちを向いていた。
さすがの夕子が、
「ワッ!」
と、飛び上った。
「こいつは……。何てことだ」
私は、棚の間から、その死体を、ゆっくりと、床へ寝かせた。大分硬直している。
「──傷は?」
「うん。血は流れてないようだが、たぶん後頭部だな」
ペンシルライトの光の中に見える顔は、どう見ても、あの落合と同じ顔だった。
「殺されたのね」
と、夕子は言った。
「こりゃ大変だ」
私は首を振って、「あの男──今、パーティに出てるのは、落合勇介じゃない! 弟の圭介なんだ」
「お兄さんを殺してすり代ったのね。堂々としたもんだったわ」
夕子は、ふと思い出したように、「原田さんの持って来た写真、見せてくれる?」
「ん? ──ああ、そうか」
ポケットの封筒を出し、中から、コピーした写真を出す。
なるほど、確かに落合圭介は、兄とそっくりだ。顔の丸みなども、変らない。
「少し髪が白くない?」
「うん。そうだな。しかし、そんなもの、いくらでも、染められる」
「どうする?」
「決ってるさ。すぐ上に行って、原田と二人で、あいつを捕まえる」
「だめよ。パーティで、こんなに大勢の客がいるのに。もし、誰かを人質にでも取ったらどうするの?」
「そりゃそうだが……」
「パーティが終るまで、何くわぬ顔をしていましょう。大丈夫。相手も、兄になりすますのが目的なら、危いことはしないわよ」
私は肯いて、
「分った。それまでに、こっそり応援を呼んでおこう」
「死体をこのままにしておく?」
「運ぶといっても……。客の目につくだろう」
「そうね。じゃこの地下室へ人が入らないようにしなきゃ」
私たちはワインセラーを出た。
階段を上って行くと、ちょうど誰かが階段を下りかけるところだった。
「あら、千草さん」
「まあ、宇野さん。こんな所で……。ワインを取って来てくれと言われたものですから」
と、千草は言った。
「ここの入口、鍵をかけて下さい」
と、夕子が言った。「大変なことになりました」
「何ですの?」
「落ちついて聞いて下さい」
私が、下で落合勇介の死体を見付けたことを話すと、千草はサッと青ざめた。
「何てこと!」
「おそらく、パーティの始まる前に殺されていたようです」
「じゃ……。あれは義父《ちち》じゃないんですね」
「そうです。どうか平然と振舞っていて下さい。難しいでしょうが」
「──やってみますわ」
と、千草は肯いた。「じゃ、ここの鍵を持って来て、かけておきます」
「よろしく」
私と夕子は、廊下を客間へと向った。
原田が、大いに食欲を発揮している。邪魔をするのは可哀そうな気がした。
「おい原田」
「やあ、宇野さん。こんなに余って、もったいない! 持って帰りませんか」
「仕事だ」
と、私が小声で言った時、庭の方で、ワーッと歓声と拍手が起った。
見ると、馬淵かね子が、|あの男《ヽヽヽ》と寄り添うようにして、客たちの祝福を受けているところだ。
私は、重苦しい気持で、その光景を眺めていた……。
「びっくりしたあ!」
と、林千恵子が、もう十回近くも同じセリフをくり返している。
「馬淵さんのこと?」
と、夕子が訊く。
「だって──旦那様と結婚だなんて! 一言も言ってなかったのに」
と、千恵子は、ため息をついて、「びっくりした!」
と、またくり返した。
──パーティも、そろそろ終りに近付いて、広間と庭を埋め尽くすようだった客の数も、今は半分ほどに減っていた。
千恵子も、やっと少し手が空いて来て、テーブルの料理を夕子と一緒につまんでいるところだ。
私も、少しはお腹へ入れていたが、何といっても、あと三十分もすれば、殺人犯を逮捕しなくてはならない。繊細な神経の私としては(本人が言うのだから、間違いない)およそ食欲などわかないのである。
その点、名探偵殿は気楽なものだ。何といっても、推理はするが、実行はこっちの仕事なのだから。
原田がやって来るのが目に入った。私は、ぶらりと歩く足取りで、近付いた。
「──どうだ?」
「外は固めてあります」
と、原田は言った。「裏口の方も、絶対に逃がしませんよ」
「よし。あんまり目立たないようにしろよ。もう食べる方はいいのか?」
「いいです」
と、原田が肯く。「食べてもいいです」
「何だ。食えるのなら、食ってろよ。まだ少し間がある」
「はい!」
──問題の落合圭介は、馬淵かね子を大勢の客に次から次へと引き合わせてから、二階へ一人で上って行っていた。
かね子が、夕子たちの方へとやって来る。
「千恵子さん、お疲れさま。もう大丈夫よ、息を抜いても」
「息が止るくらいびっくりしました」
「ごめんなさい。言いにくくって」
と、かね子は笑っている。
「でも、おめでとうございます!」
と、千恵子が頭を下げる。
「ありがとう。私も、二カ月くらい前に、旦那様からプロポーズされて、もうびっくり……。とんでもない、ってお断りしたのよ」
「そうですか」
「でも、考え直してくれ、と言われて。時間をいただいて、ゆっくり考えてね……」
「正解ですよ」
「だといいと思ってるわ」
と、かね子は微笑した。
「私、このお屋敷にいてもいいんでしょうか?」
「もちろんよ。千恵子さんがいないと、困ってしまうわ」
「そんなこともないと思いますけど……」
と、千恵子が照れている。
すると──アルバイトに来ていた女子大生が二、三人、客間へ入って来た。おしゃべりの声が甲高い。
「ねえ、何だろね」
「あんなにパトカーが一杯いてね」
「あんた、何かやったんじゃない?」
「やあだ!」
キャッキャと笑い声をたてる。
まずいな、と私は顔をしかめた。どうやら外の様子は、目につくらしい。
「失礼しますよ」
と、かね子が、広間を出て行った。
夕子が、私の方へやって来ると、
「話が広まるかもしれないわ」
と、言った。
「うん。三、四人で二階へ行って、話すか」
と、私は言った。「下は原田の奴に任せておいてもいい」
「いい、射殺するなんてことは、絶対に避けてよね」
と、夕子が真剣な顔で言う。
「そりゃ、できるだけ避けるさ」
「絶対に」
と、夕子が強調する。
「僕が殺されても?」
「お線香、上げてあげる」
と、夕子は優しい言葉をかけてくれたのである……。
私が廊下へ出ると、二階から、足早に下りて来たのは落合千草だった。
「あ、宇野さん」
「どうかしましたか」
「|あの人《ヽヽヽ》がいません」
「何ですって?」
「寝室にいると言ってたんですけど。何だか、一旦帰りかけて、また戻って来たお客さんが外にパトカーがいる、と話したらしいんです」
「そいつはまずい。寝室にはいないんですね?」
「捜しました」
「危いですよ。一人では。任せて下さい」
私は、広間へと駆け戻った。「──原田! 来い」
「はい……」
ローストビーフを一切れ、丸ごと口へ押し込んで、原田が駆けて来た。
「中を捜すんだ」
私は、廊下を小走りに急いだ。──あの書斎から人の声がする。
パッとドアを開けると、
「キャッ!」
と、ソファから体を起したのは……。
「何だよ、ノックしてから開けてくれ」
と、秋彦が服を直しながら、言った。
女の方は、はだけた胸を手で隠しているだけ。──私は放っておくことにして、ドアを閉めた。
「広すぎる」
と、私は言った。「客を帰して、それからチェックだ」
「待って」
と、夕子がやって来た。「私なら中に隠れないわ」
「しかし──」
「帰るお客は何人もいるのよ。服をかえて、帽子でもかぶれば……」
「そうか!」
私は、原田へ、「表の連中に言って、全員足止めさせるんだ!」
と、声をかけた。
「分りました!」
原田がドタドタと駆けて行く。
私は残った客へ話をするように、広間へと急いだ。
夕子は──何か奇妙に不安げな様子で、屋敷の玄関ホールに立っていた。何か、考えていることがあるような、そんな表情をしていた……。
「──畜生!」
と、思わず呟いた私を、夕子は、ちょっとにらんだ。
「そういう言葉は、名探偵にふさわしくないわ」
「しかしね──」
「恋人にも、ね」
そりゃそうだ。しかし、言いたくもなるというもの。
せっかくの苦労も水の泡だ。
残った客を足止めし、屋敷内を捜し回ったが、ついに落合の姿は見当らなかったのである。
「宇野さん」
と、原田がやって来た。
「客が文句を言ってるんだろ」
「ええ」
「帰すしかないな。──招待客ばかりだ。必要なら、後でも分るさ、連絡先は」
「いえ、そうじゃないんです」
「じゃ、何だ?」
「面白いことが何か起らないのか、って」
呆れた連中だ!
夕子は、広間の入口に立って、何やら考え込んでいた。──どうも、何か思い付いている様子だ。
「おい、何を隠してるんだい?」
と、私は訊いた。
「隠しちゃいないわよ」
と、夕子は言い返した。「言ってないだけじゃないの」
「どう違うんだ?」
「来て」
夕子は、私を促《うなが》した。
行先はワインセラーだった。あの地下室である。
もちろん、もう今は、刑事や鑑識《かんしき》の人間たちが入っている。
「──もう運び出していいですか」
と、私が入って行くと、若い刑事が言った。
「ちょっと待ってくれ」
と、私は止めた。「何か見るんだろ?」
「分る?」
と、夕子が微笑んで、「さすがは恋人ね」
冷やかすような視線を浴びて、その涼しい地下室の中で、私は汗をかいていた。
夕子は、死体の方へかがみ込んだ。
「──ね、かね子さんを呼んで来てくれない?」
「分った。おい、頼むよ」
馬淵かね子は、事件を聞いて、ショックで横になっていた。全く、不運と言うべきだろう。
しかし、少ししてやって来たかね子は、
「お騒がせして」
と、しっかりした声で言った。
少し青白い顔だが、もう厳しい表情に戻っている。
「すみません、こんな所へ呼んで」
と、夕子は言った。「落合さん──もちろん勇介さんのことですけど」
「はい」
「髪を染めてましたか」
「髪ですか」
と、戸惑ったように、「いいえ。まだ黒々として、その必要はなかったはずです」
「確かですか。あなたにこっそりと──」
「そんなことはありません。染める液とか、見たこともありませんから」
「そうですか」
夕子は、死体を覆《おお》う布をめくった。──髪は黒々としている。
かね子は、目を伏せた。
夕子はドレスの裾を苦労して折ると、死体の方へしゃがみ込んで、私に、
「ハンカチを」
と、手を出した。
白いハンカチを渡すと、夕子は、それで死体の髪を挟《はさ》むようにして、強くこすった。
「何してるんだ?」
「見て、これを」
夕子が差し出したハンカチは黒く汚れていた。
「これは……」
「染めてるのよ。どうも妙だな、と思ったの。黒さが不自然なようでね」
「何だって?」
「かね子さん」
と、夕子は立ち上った。「この死体は、落合圭介だと思います」
「まあ……。でも──」
と、かね子は呆然としている。「それじゃ……|あの方《ヽヽヽ》は生きてるんでしょうか」
「それは分りません」
と、夕子は首を振った。「でも可能性はあります」
「もし……本当に……」
かね子が頬を朱に染めて、胸に両手を押し当てた。
「たぶん、この男は、勇介さんを殺して、身代りになるつもりだったんです。ところが、しくじってしまった。たぶん、逆に、争った挙句《あげく》、勇介さんに殺されてしまったんです」
「何だって?」
私は目を丸くした。「しかし、それなら──」
「正当防衛でしょうね。でも、目前に大切なパーティが控えていたのよ、かね子さんにとっても、一生に一度の、晴れがましい場だった。それを中止ってことにしたくなかったのよ」
「それで死体をここに?」
「他に方法がある? 届ければ、一旦は取り調べも受けるし、パーティは取り止めにしないわけにいかないわ。ともかく、パーティがすむまで、何とか隠しておきたかったのよ」
馬淵かね子は、夕子の話が耳に入っているのかどうか、ポーッと顔を赤くして、
「ああ、神様……」
と、呟きつつ、地下室を出て行ったのだった。
「じゃ、親父は生きてるんですか」
と、秋彦が目をパチクリさせた。
「その可能性があります」
と、私は言った。「しかし、姿をくらましてしまったのは、解《げ》せませんがね」
──広間とほとんど同じくらいの広さのある居間。
秋彦と千草は、少し疲れた様子で、ソファに座っていた。
夕子は、千草の方へ、
「なぜ、あなたは落合圭介が来ると思われたんですか」
と、訊いた。
「それは電話が──」
「ええ。でも、あなたは圭介当人に会ったことはないんでしょう」
「もちろんです。ただ、話を色々、聞いていましたので」
と、千草は説明した。
「僕が話したんですよ。何しろ、今夜のパーティは、親父のためにも、無事にやらせたかったし」
と、秋彦が言った。
「失礼します」
と、原田刑事が顔を出す。「落合秋彦さんにお客さんが……」
「分りました」
秋彦が立って行く。
夕子は、ドアが閉ると、千草の方を向いて、ちょっと小馬鹿にしたような笑いを見せた。
「──何ですか」
と、千草が少しムッとしたように訊く。
「いい加減にしたら?」
と、夕子がガラッと口調を変える。
「何ですって?」
「落合圭介をここへ呼んだのは、あんたでしょ?」
「馬鹿なことを──」
「馬鹿はそっち。──タイミングが良すぎたわね。父親の財産がそっくり入ると当てにしてたのに、突然の再婚。あわてたのはあんたと亭主。借金をかかえて、先へ先へとのばしてたからね」
千草の顔色が変った。びっくりしたのは、こっちも同様だ。
「何とか再婚をやめさせようとしたけど、だめだった。で、思い切ったことを考えた。あのやくざな弟の圭介を買収して、兄を殺させ、身代りに立てようと……」
「冗談じゃないわ!」
と、千草がむきになって言った。
「ところが、意外なことに、圭介が逆にやられてしまった。困ったあんたは、死体が、勇介さんと思われているのをいいことに、本当の勇介さんを|消して《ヽヽヽ》、圭介が逃亡したと見せかけることにした」
「おい、それじゃ、勇介さんも殺されたっていうのか?」
と、私がびっくりして言った時だった。
パッとドアが開いて、飛び込んで来たのは千恵子だった。
「聞いたわよ! あんた、旦那様を──よくも!」
凄い形相で、千恵子は千草につかみかかると、ヤッと放り投げた。ほっそりした千草は、五、六メートルもふっ飛んで、
「キャーッ!」
と、悲鳴を上げて転がった。「やめて! 助けて!」
「誰が! 天罰を加えてやるわ!」
と、千恵子が腕まくりする。
「千恵子さん」
と、夕子が言った。「その人を連れて、一緒に来て」
居間を出て、夕子は廊下を歩いて行く。
「おとなしくしな!」
と、千恵子は、千草の腕をねじ上げて、ぐいぐい引ったてて行った。
「痛い! やめてよ……」
と、千草は悲鳴を上げている。
夕子が、書斎の前に来ると、
「よく見るのね」
と言って、「原田さん」
と肯いて見せる。
「はいはい」
ノコノコやって来た原田。ちょっと一つ深呼吸すると、「ヤーッ!」
と、一声、ドアに体当りした。
中のロックが吹っ飛んで、ドアが開いた。
「キャッ!」
「何だよ、おい!」
──同じパターン。
秋彦が、さっきの女とソファの上で抱き合っていたのである。
千草が中を見て、青ざめた。
「あなた……。またその女と──」
「千草……。いや、遊びだよ、ただの。分ってるだろ」
と、秋彦があわてて立ち上る。「な、向うでゆっくり話そう」
「それには及びませんよ」
と、夕子は言った。「原田さん」
「今度はどうします? 窓から叩き出しますか、こいつ」
「違うの。その、二人が座ってたソファのね、シートの部分を持ち上げてみて」
「はあ……」
原田が、ソファの座席をぐっと持ち上げる。「──あれ?」
私は駆け寄った。中が空洞になっていて、そこに、縛られた落合勇介が、押し込まれていたのだ。
「畜生!」
と、叫んで、秋彦が書斎を飛び出した。
しかし──廊下で、何やらギュッという音がしたと思うと、また秋彦がフラッと書斎へ入って来た。
そして目を大きく見開くと……そのまま気絶してしまったのである。
「千恵子さん、何をやったの?」
と、夕子が訊くと、顔を出した千恵子、
「ちょっとね、急所をつかんでひねってやったの」
と言ってウインクして見せた。「──あ、旦那様!」
「大丈夫。気絶してるだけだ」
と、私は言って、早速縛ってある縄をといてやった……。
「全く……。情ない話ですな」
と、落合勇介は言った。「自分の息子に、あんな目にあわされるとは」
書斎のソファに座った勇介は、急に老け込んだように見えた。かね子が寄り添ってはいたが、それも慰めにはならないようだ。
「千草の方が、秋彦さんを引張ったんだと思いますね」
と、私は言った。「気の弱い息子さんですからな」
「ありがとう、気をつかってくれて」
と、落合勇介は言った。「しかし──やはり自分が育てた息子ですからな。責任は私にある」
「元気を出して下さい」
と、かね子は励まそうとしている。
「──おい」
「何ですか」
「タバコ、ないか。一服やりたい」
「でも──」
「持って来てくれ」
かね子は、少しためらったが、書斎を出て行った。
「おめでとうございます」
と、夕子が言った。
「何だね」
勇介は不機嫌そうに、「ちっともめでたいことなんかない」
「いいえ。あなたが殺人犯にならずにすんだからです」
「──弟を殺しちまったよ。殴ったら、倒れて、頭を家具の角にぶつけたんだが」
「それは正当防衛になりますよ。でも、もしかしたら、あなたが|本当は《ヽヽヽ》弟の圭介なのかと思ったんです」
「何だって?」
「どっちにしても、秋彦と千草ができれば二人ともいなくなってくれた方がいいわけですから。──もちろん髪の毛のこともありましたけど、今のタバコのことで、はっきりしました」
「おい」
と、私は言った。「しかし、ここを禁煙にしたのは──」
「そう。ここでタバコを喫うのは、圭介の方だと思うでしょ? でも、私は逆だと思うの。もし、圭介が勇介さんになりすましているのなら、その|役割と矛盾したこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をするわけがないから」
と、夕子は言った。「だから、この人は本物の勇介さん」
「なるほど」
私も納得した。勇介は、夕子をポカンとして眺めている。
「でもね」
と、夕子は続けて、「本当の勇介さんなら、固い意志で、やっぱりここではタバコを喫うまい、と思い直すと思うわ」
かね子が、タバコと灰皿を手に戻って来て、
「どうぞ」
と、テーブルに置いた。「火を──」
「いや、いい」
と、勇介は首を振った。「やっぱりやめよう」
「旦那様──」
「あなた、と呼んでくれよ。もういいだろう?」
落合勇介は、立ち上った。「──警部さん、事情聴取に行く前に一つやり残したことがあるんですが」
「何です?」
と、私は訊いた。
「大して時間は取りません」
そう言って、落合勇介はニヤリと笑った……。
パン、パン、という音が、夜空に鳴り渡った。
「きれい!」
「ほら、また!」
バイトの女の子たちが、歓声を上げている。
「凄い!」
千恵子が、手を打って、夜空に華のように開く花火に見とれている。
もちろん、打上げ花火といっても、小さいものだが、パーティのしめくくりとしてはいかにもふさわしい華やかさだった。
また、三つ、四つと夜空に光の花が開く。
夕子の顔が、その都度、赤く、青く、染まった。白いドレスも、色を変える。
私は、花火より、その光を浴びて立っている夕子に見とれていた。──見とれて?
うん、確かに、見とれていたのである。
「──何見てるの?」
と、夕子も気付いている。
「いや、なかなかロマンチックでいいな、と思ってさ」
「惚れ直したでしょ」
「そいつは前からさ」
と、私は言ってやった。
すると──残って、花火を見物していた客たちの間に、拍手が起った。
見れば、光を浴びて、落合勇介と馬淵かね子が抱き合ってキスしているのだ。
「やった、やった!」
と、千恵子が大喜びしている。「夕子さんたちも?」
「僕は仕事がある」
と、私はあわてて言った。
しかし、夕子は、そっと私の方へ顔を寄せて、
「仕事の後は?」
と、訊いた。
「後なら……そりゃ、構わないさ」
夕子が、フフ、と笑って私の手を握った。
「──宇野さん」
と、千恵子がやって来て、言った。「夕子さんのこと、ちゃんと責任を持つんですよ。いいですね」
そうか。不倫の恋だと信じているのだ。
「分りました」
と、私は、真面目に答えることにした。
最後の花火が夜空に散って、それは終りというよりも、スタートの合図のピストルの音に、より近いようだった。
初出一覧(発表誌=オール讀物)
他人の空似にご用心 昭和六十三年五月号
英雄の誇り 昭和六十三年八月号
夢の追加料金 昭和六十三年十二月号
幽霊園遊会(「冷たいパートナー」改題) 平成元年七月号
単行本 平成四年二月 文藝春秋刊
〈底 本〉文春文庫 平成六年五月十日刊