文春ウェブ文庫
幽霊候補生
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
第一話 幽霊候補生
第二話 |双《ふた》|子《ご》の家
第三話 ライオンは寝ている
第四話 |巷《ちまた》に雨の降るごとく
第五話 眠れる|棺《ひつぎ》の美女
第一話 幽霊候補生
1
その時、私は外出先に近い食堂で昼食をとっていた。メニューにはいつも頭を悩ませるところで、四十歳という年齢と、最近ややせり出し気味の腹を考えると、ぐっと軽い物で済ませたいのだが、警視庁・捜査一課所属の警部という職業柄、あまりスタミナ不足になっても困る。
この日の妥協点はポークソテーのライス抜きに野菜サラダであった。
目の前でジャンボ・ハンバーグにライスの大盛りを猛烈な勢いで平らげている大男は原田刑事である。一体ハンバーグに何の恨みがあるんだろう、と思いたくなるような勢いでかみ砕き、飲み込んで行く。
警察犬の鼻でも|痕《こん》|跡《せき》を|嗅《か》ぎ取れまいと思えるほどきれいに平らげて、
「やれやれ!」
と原田は息をついた。私の方はまだやっと半分食べ終えたところだ。
「あ、宇野さん、どうぞごゆっくり」
と原田は私の皿を見て言った。別に私がゆっくり食べているのではない。原田が早すぎるのだ。
「あーあ」
原田が椅子にかけたまま背筋をのばすと、椅子が悲鳴を上げる。「一生懸命食ったら、腹が減っちまったなあ……」
付き合いきれないよ、全く!
「外は寒そうですねえ、宇野さん」
「まだ二月だからな」
「いつ頃になったら暖かくなるんでしょう?」
「決ってるさ。気温が上ったらだ」
「なるほど!」
原田が真面目な顔で|肯《うなず》くので、こっちが拍子抜けしてしまった。
話が途切れると、何となく店のテレビの方へ目が行く。ちょうど正午のニュースである。
「おやおや」
〈乗用車・湖へ転落――大学生二人絶望〉という字幕を見て、原田が、「この寒いのに寒中水泳ですかね」
と不謹慎なことを言う。
「長野県中部のK湖に乗用車が転落、乗っていた大学生二人は絶望と見られています」
いやに楽しげな顔をしたアナウンサーの姿が消えると、画面には、雪に覆われた林と、冷たく水を|湛《たた》えた湖が映し出された。
「長野県警察本部に入った連絡によりますと、今日未明、一台の乗用車が道を外れて湖に落ちるのを、たまたま近くのロッジの泊り客が目撃、駐在所に届け出ました。現地では早速地元の警察官、消防団員らが出て救助に向いましたが、現場は水深が十メートルを越え、しかも底は厚い泥がたまっているため、手の施しようがなく、結局クレーン車と潜水夫を呼んで、約三時間後に車体を引き上げました」
テレビの画面には水を吐き出しながらクレーンで水中から吊り上げられる哀れな車の姿が映し出される。
「やれやれ……」
原田が首を振った。「もったいない!」
どうも嘆き方がずれている。
私は再び食べかけの皿に取りかかった。そして肉の一切れを口へ放り込んだとたん、
「宇野さん!」
と原田が|素《す》っ|頓狂《とんきょう》な声を上げた。
「な、何だ、びっくりさせるなよ! 肉が|喉《のど》につっかえちまうじゃないか」
「あれ……ほら……」
まるで空飛ぶ円盤でも見たような顔つきで、テレビの方を指さす。
「ん?……」
顔をめぐらしてテレビの画面を見た瞬間、世界がふっ飛んでしまったかに思えた。――二つの顔が並んでいた。モノクロの写真で、一枚は長髪の若い男。そしてもう一枚は……
「――その後の調べで、車に乗っていたのは東京のT大学四年生、鈴木雅文さん、同じく永井夕子さんと判明しました。車は扉が開いたままになっており、二人の姿は車の中にはありませんでしたが、自力で脱出した様子はなく、生存の可能性はほとんどないものと見られます。――捜索の指揮に当っているS町警察の室津署長の話によりますと、水温が非常に低く、潜水夫を長く潜らせておけない状態であること、二人はおそらく湖底の泥に埋れていると思われることから、二人の発見は難しいものと見られます。――では、次のニュース。……」
永井夕子は死んだ。
二十二歳という若さで。大学卒業を目前にして死んでしまったのだ。何てことだ! 四十歳の私が生きているのに、やっとその半分の年月を生きて来ただけの彼女が死んでしまうとは……。
夕子は死んだ。
お転婆で、負けん気で、はねっ返りのジャジャ馬。生意気で、皮肉屋で、向う見ずの冒険好き。そして、鋭い観察力と直感とで難事件に挑む名探偵。かけがえのない、私の相棒……。
夕子は死んだ。
あの「幽霊列車」事件――ひなびた田舎の温泉町の駅を出た始発列車から乗客が全員姿を消してしまうという前代未聞の怪事件の捜査に出向いた私の前へヒョッコリと現れ、事件を解決し、ついでのように私の寝床へすべり込んで来た、奇妙な娘……。
夕子は死んだ。
つまらない交通事故で、死んでしまった。
私と共に出くわした事件の中で、命を狙われ、正に間一髪、切り抜けて来たこともある夕子が、事故で死ぬとは、何という運命の皮肉だろう……。
うだつの上らない男やもめの私を、なぜか愛してくれた夕子。一体、私などのどこがいいのか、とよく考えたものだが、今はその答えも聞けなくなってしまった。
夕子……。
2
それは、ごくありふれた殺人事件だった。夫の浮気を知った妻が、女のアパートへ押しかけ、隠し持っていた果物ナイフで女を刺し殺したのである。女を殺しても夫が戻って来るわけではないのに、そんな理詰めの話はこういう思いつめた女性には通じない。
「よほど写真を撮るのが好きなんですな、亭主は」
原田刑事が言った。見れば壁に作りつけた棚に十冊近いアルバムが並んでいる。
「女の方が撮ってくれとせがんだんじゃないかな」
私は一番新しそうなアルバムを手に取ってパラパラとめくってみた。「――女ってのは思い出を形にして残しておかないと気が済まないものなのさ」
「そんなもんですかね」
ふと、私は、夕子と一緒に撮った写真がほとんどないことに気付いた。旅行にカメラを持ち歩くという習慣がなかったせいもあるし、この|年《と》|齢《し》で、恋人同士、腕を組んでなどというのが気恥ずかしかったからでもある。しかし、今になると、もっと撮っておけばよかったと思う。少なくとも夕子を思い出すよすがになる。
私は六畳一間の暑苦しいアパートの窓から外を眺めた。梅雨も明けて、夏の太陽が容赦なく眼をこがす。もう七月になったのだ。
夕子が死んで五カ月。――遺体はついに上らないままだった。万に一つ、生きているのではないかという希望も、百五十日の時の流れに薄らいで消えて行った。私はあの事故のすぐ後、K湖を訪れ、現地の署長や目撃者から詳しく話を聞いたのだが、希望を持たせるような話は何一つなかったのである。本当にあの車に夕子が乗っていたのか、という点についても、事故の直前に、通りかかった農家の主婦に二人が道を|訊《たず》ねていたのが分ったし、一週間ほどして、湖の岸辺に、ハンドバッグが発見されたのだった。それは間違いなく夕子のもので――というのも、私が買ってやったものだからだ――そのバッグは今、私の手許にある。夕子の叔父に当る永井敏之氏が快く譲ってくれたものだ。
永井敏之氏には、事故の後、一カ月ほどして初めてお会いした。学者風な上品な紳士で、夕子の後見人でもあるのだ。
あなたのことはいつも夕子からうかがっていました、と永井氏は親しく手を握って、それから、こう言ったものだ。
「いつまでも葬式は出しませんよ。あの子はそう簡単に死にやしません。その内ひょっこり帰って来るんじゃないですかね」
その口調が、よくある絶望の裏返しの悲痛なものでなく、本当にそう信じ込んでいる、といったサバサバしたものだったので、私も思わず笑顔になった。そして、永井氏の言葉に同感したものである……。
しかし、あれから四カ月。――もう目を覚まさなければいけない時であった。
「警部、死体を運び出していいですか?」
私は部下の言葉に我に返った。
「ああ、構わん」
さあ、仕事、仕事。――棚へ戻そうとして手が滑り、アルバムを落っことしてしまった。
「中風ですか?」
原田が真剣な口調でイヤ味なことを|訊《き》く。ジロリとにらみつけて、開いたページに、ふと目を引かれた。殺された女性が旅行先で撮った写真らしい。背景に何となく見憶えがあった。写真の下に書かれたメモを見て、やっと思い当る。「K湖にて」――あの湖なのだ。
私は何ページかに|亙《わた》っているK湖の写真を眺めて行った……。
「宇野さん、行きましょうよ」
原田が額の汗を|拭《ぬぐ》いながら言った。「クーラーをつけておきゃよかったですねえ、せっかくあるんだから。でも電気代は誰が払うのかな?――宇野さん、どうしたんです?」
私は一枚の写真を、穴のあくほど見つめた。K湖畔の林の中で、殺された女が木にもたれて|微《ほほ》|笑《え》んでいる写真だ。女の後ろに、他の観光客が何人か写っていて、短焦点レンズのカメラなのだろう、その顔もかなりはっきり分る。そして、その横顔の一つが――
「これを見ろよ」
「え?」
原田は私の手もとを|覗《のぞ》き込むと、
「あれ!――夕子さんじゃありませんか!」
「お前にもそう見えるか」
「ええ」
と不思議そうに首をひねる。「事故に遭われる前の写真ですかねえ」
日付の写るカメラを使ったらしく、写真の下の方に日付が入っている。
「違うな」
私は首を振った。「今年の六月三十日になっている」
「でも、それじゃ一体――」
と原田は言いかけて、突然目を飛び出さんばかりに見開いた。「幽霊ですか! 夕子さんの幽霊が写真に……」
「俺はしばらく休暇を取るぞ」
私はその写真をアルバムからはがしてポケットへ入れた。「行こう!――おい、どうした? 何でそんなとこに坐ってるんだ?」
「そ、その……腰が抜けて……」
原田は真っ青になっていた。
夕子は生きていた!
私はその写真の女性が夕子だということを一瞬たりとも疑わなかった。他人の空似にしては、あまりに似過ぎている。だが、本当に夕子だったとしたら、なぜ今まで五カ月もの間、名乗り出なかったのか。――しかし、そんな疑問も、彼女が生きていると知った驚きと喜びの前には真昼の月みたいに影が薄い。
思い立ったら一刻も無駄にしたくなかった。K湖まで徹夜で車を飛ばせば朝には着ける。私は上司の本間警視に電話した。
「やあ宇野君か。どうした?」
「夕子が生きていたんです。しばらく休みますので、よろしく」
必要にして十分なことは言ったつもりだったが、向うはそうは思わなかったらしい。
「おい、何を言っとるんだ?」
「ですから、夕子が生きていた、と――」
向うでため息をつくのが聞こえた。
「宇野君、君の気持も分らんではない。しかしな、現実を見つめなくてはいかんよ」
どうやら、ノイローゼが昂じて幻覚を見たとでも思っているらしい。
「現実を見つめたからこそ、分ったんです」
と私は言い返した。「では、よろしく!」
「おい!――」
問答無用、と受話器を置く。なかなかいい気分である。クビにするならクビでもいい。交通巡査に格下げなら、それだって構やしない。一日中突っ立ってりゃ、少しは腹も引っ込むかもしれない。
知人に頼んで、強引に車を貸してもらい、出発した。――夕子が生きていた!
「そうさ!」
私は口に出して言った。「殺されたって死ぬような彼女じゃないぞ!」
深夜、二時半。木々の合間から、白く光る湖面が見える。この前は、重く沈んだ心でここへやって来たのに、今度は――大パレードでもやりたい気分だ!
私は大声を張り上げて歌を歌いながら車を進めた。歌が「メリーさんのヒツジ」だったのはちょっと|冴《さ》えなかったが、この時は歌など何だっていい、という気分だったのである。
しかし、あまり喜んでばかりもいられないのだということに気付いて、私は口を閉じた。確かにあの写真に写っていたのが夕子だとして、今も彼女がここにいるとは限らないのだ。あの写真の日付からすでに半月もたっている。どこで彼女を捜せばいいのか、てんで見当もつかない。ともかく、まずあの写真を写した場所が問題だ。このK湖のどの辺なのだろう? 木があって、湖が見えて……。どこだってそれらしく見える。
よし! 明日は一日がかりで湖の周囲を歩いてやろう。写真の場所を必ず見つけ出してやる!
もう一つの恐ろしい疑問には、私はわざと目をつぶっていた。言うまでもなく、なぜ今まで生きていることを誰にも連絡しなかったのかという点だ。何か事情があったのかもしれないが、せめて私ぐらいには何か言ってきてもいいではないか!
しかし、まあ考えたところで分るわけもなし。じかに夕子に訊いてみれば済むことだと思い直す。
私は少し車のスピードを落とした。夜なのではっきりはしなかったが、確か夕子の車が落ちたのはこの辺のはずだ……。
やはりそうだ。あの時は裸同然だった木々が今は一杯に葉をつけているので、少し印象は違ったが、間違いない。私は車を停めると、外へ出た。――静かな夜だ。月明りが|白《しろ》|銀《がね》色に周囲を染め上げている。私は、もう何の痕跡もない湖のへりに立って、湖面を見渡した。
それにしても、あの厳寒の湖に突っ込んでよく生きていたものだ。一緒にいた鈴木という男の学生はどうしたのだろう。夕子とは、同じゼミにいたというだけの友人らしいが、あの日はたまたまそのゼミの卒業記念会がこの先のA湖畔であって、用事で遅れた二人が車で仲間を追いかけていたということであった。
あの時、寒風にほとんど感覚を失いながら、じっとここに立ち尽くして、灰色の湖面を眺めていたっけ……。私は木にもたれて、しばし追憶に|耽《ふけ》った。
TVの昼メロによくある場面である。
湖面を何かが動いた。――何だ? 私は目をこらした。何かがゆっくりと波を立てながら、湖面を滑るように近付いて来る。
この湖にネッシーが出るって話は聞いたことがないが――いや、ここならキッシー[#「キッシー」に傍点]とでも言うのかな。
近付いて来るのをみると、恐竜にしては首も短く頭も小さく、どうも人間らしいと分った。しかし、いくら夏の夜とはいえ、こんな時間に泳いでいるとはずいぶんと物好きもいるものだ。
私のいる場所から少し離れた岸に泳ぎついたその「物好き」が、水から上った後姿を見て、思わず息を呑んだ。若い女なのだ。いや人間であるからには、どうせ男か女のどっちかに決っているから、それは別に驚くべきことではなかった。
女は水着を着ていなかったのである。むろん、ワンピースもパジャマも着ていない。つまりは裸だったのだ。水に濡れた白い裸身が、月光にキラキラと光って、長い髪が肩から背へはりついている。
女は服を置いてあるらしい茂みの方へ歩いて行く。
「待てよ……」
その後姿に――というとおかしいが、確かにその姿に私は見憶えがあった。もしかして……。木の陰を回って、女の方へそっと近付こうとして、私は木の根を蹴飛ばしてしまった。
物音に、女がはっと振り向く。――明るい月光に照らし出された顔は、見間違いようもない。夕子だった。
だが、私が声をかける間もなく、彼女は一気に駆け出すと、再び裸のまま湖へ飛び込んだ。
「夕子!」
私は叫んだ。しかし彼女の耳には届かなかったろう。彼女はぐんぐんと岸から離れて行く。私は夢中だった。ためらうゆとりもあらばこそ、彼女に続いて湖へと身を躍らせたのである。
3
もう何度目になるか、旅館の主人夫婦は顔を見合わせ、それからうさんくさい目つきで私を眺め回した。――まあ、それも無理はないのだ。夜中の三時過ぎに、全身ずぶ濡れの男が、泊めてくれと頼みに来たら……。即座に警官を呼ばれなかっただけでも有難いと思わなければいけない。
主人夫婦の疑惑を晴らすために、気は進まなかったが、私は警察手帳を見せた。こうなると主人夫婦の態度はガラリと変って、
「二階の一番いいお部屋が空いてますから……」
「お風呂はいつでも入れますよ」
「お荷物をお持ちしましょう……」
となった。東京からわざわざ警視庁の警部が、と知って、てっきり何か秘密の捜査だと思い込んだらしい。
「凶悪犯を追っかけて湖に飛び込んだんですか?」
おかみさんの方が真剣な表情で訊いて来るので、私は慌てて、ただ足を滑らして落ちただけだと釈明したが、果してどこまで信用してくれたか……。
私は濡れた服をベランダへ出して干しておき、風呂で暖まった。――せっかく夕子を見つけながら、逃げられてしまったのは残念だったが、まあいい。少なくとも、まだ彼女がこの辺にいることは分ったのだ。
夕子は私が飛び込んで追いかけると、水中に潜ってしまった。私も見当をつけて潜ってみたものの、暗い水の中では、まるで目隠しされて捜しているようなもので、しばらく泳ぎ回ってから、諦めて岸へ戻った。あたりの茂みを捜してみたが、服は見当らず、たぶん私がウロウロ泳ぎ回っている間に、水から上って姿を消してしまったのだろうと思った。
追っているのが私だと分れば逃げたりはしなかっただろうに……。
しかし、一体夕子はどうして夜中の湖で、しかも全裸で泳いだりしていたのだろう? 私は初めてその疑問に思い当った。――あそこは彼女が車で突っ込んだあたりである。それと何か関係があるのだろうか? 自分が生きていることを誰にも知らせずにいることともつながっているのかもしれない……。
私はすっかり考え込んでしまった。風呂につかりながら考えるというのも、西洋ではかのアガサ・クリスティ女史を初め、なかなか盛んなようだが、日本の熱い風呂ではあまりいい考えは浮かばないようで、ああでもないこうでもないと頭をひねっている内、一時間近くもたってしまって、気が付いた時は、のぼせ上ってゆでダコ同然、フラフラで寝床へ倒れ込んだのだった。
翌朝目を覚ますと、もう九時半だった。慌てて階下の大広間へ行って、冷えた朝食をかっ込む。ヒゲを|剃《そ》ってサッパリすると、やっと頭が回転を開始した。
さて、いかに行動するか。まずは夕子の写っていたあの写真をこの付近の旅館の人に見せて、見憶えがないかどうか訊いて回ることにしよう。もちろん手初めはここの主人夫婦から。昨夜はそれどころではなかったのだ。
幸い、朝からの強い陽射しで、昨夜から干しておいた服も乾いていた。服を着て階下のロビーへ降りて行くと、ソファに坐って、数人の泊り客が新聞を読んだり、テレビを眺めたりしている。主人夫婦の姿が受付に見えないので、仕方なく私も空いたソファにかけて、手近な新聞をめくってみたが、面白い記事もない。
所在なさに、ロビーの客の顔を眺めている内、ふと一つの顔に目が止った。小柄で風采の上らない中年男。万年|平《ひら》のセールスマンといった印象の、いささか頭のはげ上った男で、度の強いメガネをかけている。――どこか見憶えのある顔だった。はて? どこで会ったのだろう? 確かにどこかで……。商売柄、人の顔はよく憶えている方だ。すぐに思い出せないところを見ると、一、二度見かけた、といった程度に違いない。
その男に注意を引かれたのは、見憶えがあったせいだけではなかった。何だかいやにソワソワして落ち着かない様子なのである。しきりに玄関の方を気にしていて、誰かが入って来る度に腰を浮かし、がっかりしたように腰を下ろす。どうやら誰かを待っているらしい。
その時、受付におかみさんの姿が見えたので、私は立ち上った。
「おはようございます」
おかみさんは至って愛想よく、「よくお休みになれましたか?」
「おかげさまでね」
私は|咳《せき》|払《ばら》いをして言った。「実はちょっと訊きたいことがあってね」
「何でしょう」
「この写真の女性に見憶えないかね」
と例の写真を取り出す。
「この女の人ですか? さあねえ……」
「いや、真中の人じゃないんだ。後ろの方で、ほら横顔の見えてる……」
「ああ、この人ですか!」
おかみさんは、パッと顔を輝かせて、「もちろん存じてますよ!」
私は、あまりのあっけなさに一瞬、ポカンとした。
「――ほ、ほんとかい? その女性を知ってるの?」
「ええ! でも――どうしてこの人を捜してらっしゃるんで?」
「そ、それは――ちょっと、ね」
「この人が悪いことなんかするはずはありませんよ」
「わ、分ってる。そんなことじゃないんだよ」
「ならいいですけど」
とホッとした様子で、「――内藤様の若奥様ですもの」
私は顔から血の気がひくのを感じた。
「若――奥――様――だって?」
「ええ。内藤様の息子さんの奥様ですわ」
私は必死に平静を装ったが、声が震えるのをどうしようもなかった。
「そ、それで、その――若奥様には、どこへ行けば会える?」
「そうですねえ……」
とためらいがちに首をひねったが、その時ヒョイと玄関先の方を見て、「わざわざ行かれなくても、ほら、おみえになりましたわ」
振り向くと、玄関のガラス戸を開けて、夕子が入って来た。
「夕子!」
「まあ!――あなた!」
「生きてたんだね!」
「会いたかったわ!」
二人は駆け寄り、ひし[#「ひし」に傍点]と抱き合う――と、こうなるはずだった。
しかし実際のところは、まるで違う具合になってしまったのだ。私が声も出せずにいる内に、スポーツシャツとジーンズという軽装の夕子はつかつかと受付の方へやって来ると、私などてんで目に入らないように、おかみさんに向って、
「おはようございます」
と微笑みかけた。
「おはようございます、若奥様! お珍しいですね。ご主人様はいかがですか?」
「ありがとう。大分いいようよ。――屋根の修理は終って?」
「今日、大工さんが来てくれることになってるんですよ」
「そう。いいお天気のようだから、丁度いいわね」
「本当に。――あの、若奥様、こちらの方がご用がおありとか……」
「私に?」
「ええ」
夕子は私の方を向いた。
「何のご用でしょう?」
私は何と言えばいいのやら、途方にくれて立っていた。目の前に立っているのは、どう見ても忘れようもない、永井夕子その人なのに、彼女の私を見る目は、まるで見知らぬ他人に対するそれだったのだ。
「私、内藤京子ですけど、どなた様ですか?」
と彼女が重ねて言った。
「あ、あの――僕は――いや、私は宇野というもんでして――」
「宇野さん――ですか?」
「警視庁の警部さんなんですよ」
とおかみさんが口を|挟《はさ》む。
「まあ! 私に何のご用かしら?」
「は、はあ……実は、その……」
私は必死でさり気なく振る舞おうと努めた。「あなたは、永井夕子って女性をご存知ありませんか?」
「永井夕子……」
「永久の『永』の永井に、夕方の『夕』と書きます」
「さあ……」
彼女は首をひねった。「残念ですけど、心当りはありませんわ」
「そうですか」
「その方がどうしたんですの?」
「はあ……。実は行方不明でして」
「まあ、お気の毒に。――でも、どうして私のところへ?」
「そ、それはですね……」
何と言えばいいものか、と考えあぐねていると、
「奥様」
と玄関の方から|凄《すご》|味《み》のある声がした。見ると、とてつもない大男が玄関をふさいでしまうように突っ立っている。背は二メートル近くもあろうか。高さだけでなく、幅の方も人一倍で、とてつもない怪力の持主らしく見えた。しかし体つきの割に、|年《と》|齢《し》はまだ若いようで、三十歳前後というところか。
「はい?」
と夕子が振り向く。
「お急ぎになりませんと……」
「すぐ行くわ」
夕子は私の方へ向き直った。「仕事がありますので、失礼しますわ。ええと……宇野さん、でしたわね」
「はあ……」
「それじゃ」
夕子は軽く肯くような挨拶をして、足早に出て行ってしまった。私はただ呆然と見送るばかり……。
ところが、その時、妙なことが起こった。さっきロビーでしきりに玄関の方を気にしていたメガネの中年男が、いつの間にか玄関先に出ていて、運転手らしい大男と二人で車へ向う夕子に駆け寄って何やら熱心に話を始めたのだ。玄関のガラス戸越しで、声は聞こえないのだが、夕子の方は戸惑っている様子。その内、大男が間に入って、メガネの男をヒョイと一本指で突っつくと、ただでさえ小柄なメガネの方は、まるで思い切り突き飛ばされたように後ろによろけて、尻もちをついてしまった。
大男は車のドアを開けて夕子を乗せると、さっさと運転席へ入り、車をスタートさせた。あのメガネの男、一体夕子に何の用だったのだろう?
「あまりお役に立たなかったみたいですねえ」
旅館のおかみさんの声で私は我に返った。
「え?――ああ、いや、そんなことはありませんよ」
と平静を装う。「なかなか魅力的な女性ですね」
「ええ、本当に!」
「一体なんの仕事をしているんですか?」
「内藤様はこの辺の旅館を沢山経営なさってるんです。ここもその一軒でしてね。私どもも、内藤様に雇われてるんですよ」
「なるほど」
「若奥様はああやって時々、全部の旅館を回って、内藤様のご指示を伝えたり、希望を聞いたりしておられるんです。本当は息子の雄一郎様のお仕事ですけど、お体がお弱いんで、奥様が代りになさっているわけで……」
「すると今の若奥さんは、この土地の人ですか?」
「いいえ。内藤様が、息子さんの嫁に、と連れて来られたんです」
「いつ頃のことです、それは?」
「ええと……まだつい最近ですよ……今年の、そう、三月の初めでしたかね」
世の中、自分と瓜二つの人間が一人や二人はいるものだという。だから夕子にそっくりの女性が存在したとしても不思議ではない。だが一方が事故で行方不明になった直後に、同じ場所にもう一人が現れるなどとは、天地が引っくり返っても考えられない。
内藤京子は、永井夕子に間違いない。私は確信した。だが、それならば、なぜ彼女はまるで私など知らないふりをしたのか。なぜ四カ月もの間、内藤雄一郎の妻として過ごして来たのか。格別監視されているとも見えないのに、なぜ連絡を取ろうともせずにいたのか……。
答えは一つしかない。私もようやく思い当った。――記憶喪失。
4
前の晩と同じように、美しい月夜だった。湖面を渡る風は涼しく、爽やかで、昼間の暑さが嘘のようだ。
私は木の陰に腰を下ろして、腕時計を見た。午前二時。昨夜、夕子が泳いでいるのを見かけたのは二時半頃だった。昨日追いかけられたりしたから、今日は現れないかもしれない。しかし一筋の可能性に賭けてみることにした。こうでもしなければ、彼女と二人で話をすることなど、できそうもないのである。
私は旅館のおかみさんから内藤家について詳しく話を聞いた。その結果、分ったことといえば、内藤家はこの一帯の大地主で、由緒ある旧家であり、現在の当主、内藤雄造は高潔な人格者として町の人々の尊敬を集めているということであった。決して地主|面《づら》をしていばりくさるのでなく、むしろ謙虚で、町の発展のために献身的に努力して来たらしいから、尊敬されるのも当り前であろう。
ところが母親の死と引き換えに生れて来た一人息子の雄一郎は、病弱で、二十四歳になるというのに、大学も中退して、家で寝たり起きたりの生活を続けているという。――そんな息子のために、父の雄造が花嫁として突然美しい娘を連れて来た時は町中がびっくりしたらしい。
しかし、雄一郎の健康状態を口実に、結婚式も披露宴も行われず、いつの間にか嫁がいた、という風に町の人の目には映ったらしい。しかしそれは当然のことだろう。式だの宴会だのということになれば、花嫁の家族、親類などが出席していなければならないから、父・雄造としては甚だまずいわけである。
果して夕子が事故に遭ってから、内藤雄一郎の妻になるのに、どういう|経《いき》|緯《さつ》があったのか。そして夕子は本当に記憶を失っているのか……。
それを確かめるには、どうしても二人きりで話す必要があるので、終日、彼女の行動を追ってみたが、ついに一度もその機会はなかった。何しろつねにあの大男――内藤家の運転手で、大塚という男だと分った――が、くっついていて離れないのだ。下手に声でもかけようものなら、たちまち怪力で放り出されてしまうに違いない。そこでこうして深夜の張り込みとなったわけである。
二時十分を少し回った時、私は白い人影が林を抜けて近付いてくるのを見て、素早く木の幹の陰に身を隠した。
やはり夕子だ。白い寝衣のようなものを着て、急ぐでもなく、人目をはばかる風もなく歩いている。そして林を出て、湖のふちに立つと、静かに寝衣を脱ぎ始めた。
月の光に美しく縁取られた裸体が、滑り込むように湖水の中へ消える。――私も今度は後を追って飛び込むなんて真似はしない。いくら真夏の夜といっても、冷たい水の中にそう長くいられるはずはない。服を脱いで行ったあたりで待っていれば、必ず上って来る。話をするのはそれからでいいのだ。
私は隠れていた木の陰から出て、ゆっくりと、彼女の寝衣が落ちているあたりへと近付いて行った。
ふと、背後に枝を踏む足音を聞いて、振り向こうとした。が、突然、えり首と腰のベルトを物凄い力でつかまれると、体が宙に持ち上っていた。
「おい! 何をするんだ!」
思わず声を上げ、手足をバタつかせたが、何の役にも立たない。畜生! この馬鹿力はあの大男だな!
「放せ! こら!」
高々と持ち上げられた私はさすがに焦ってもがいた。木の幹にでも叩きつけられたら首の骨を折って、一巻の終りになりかねない。
「やめろ! 下ろすんだ!」
確かに相手は言うことを聞いて、私を下ろした。ただし力まかせに、数メートル先の地面へ放り出したのだ。いきなり全身がバラバラになるかと思うようなショックを受けて、私は気を失ってしまった。
「まだ生きてたのか……」
やっと気が付いて体を起こすと、私は呟いた。
体中がガタガタになったような気がする。腰も背中も、腕も足も――要するに至る所がズキズキ痛む。
「畜生!」
悪態をついてみても、どうにもならない。もうとっくに夕子の寝衣もなく、むろん彼女自身の姿も消えている。当り前の話で、もうあたりはすっかり明るくなって来ているのだ。
腕時計を見ると、二時十六分で停ったまま。ショックで壊れてしまったらしい。スイス製で、まだ月賦も終ってないのに、と泣きたくなって来た。――あのうどの大木に弁償させてやるぞ!
旅館の方へ歩き出すと、途中、貸別荘の前で、男女取りまぜ十人ばかりの学生たちが体操をしているのに出くわした。トレーニングシャツや、タイツ姿、足もあらわなショートパンツなど、思い思いの格好でラジオに合わせて体を動かしていたが、私が腰をさすりながら、軽くびっこをひきひき歩いて行くと、みんな|唖《あ》|然《ぜん》とした顔で体操を中断してこっちを眺める。
わざと平然とした態度で、極力腰をのばし、シャンと歩いて通り過ぎたが、背後でヒソヒソ|囁《ささや》く声が耳に届いた。
「なんだ、あれ?」
「どうしたのかしら?」
「決ってるさ、|昨夜《ゆうべ》、彼女と、やり過ぎたんだ」
「林の中で?」
「まあ、イヤラシイ!」
踏んだり蹴ったりとはこのことである。
旅館へ帰り着くと、ともかく一風呂浴びて休もう、と階段を上り始めたが、腰が痛くてノロノロと亀並みのスピード。まあ何とかそれでも二階へ|辿《たど》り着き、部屋の戸を開けた……。
「何だ、これは?」
しばし、私は足腰の痛みも忘れて、突っ立っていた。持って来た小さなボストンバッグの中味が全部ぶちまけられて、部屋中に散乱している。
「一体どうして……」
誰かが私のことを調べに来たか、または何かを捜し回ったのだ。散らばった物を集めながら、私は初めて何か犯罪の臭いをかぎつけていた。
それにしても、調べたあとを片付けもしないで、一目で分るようにしておくとは妙だ。もしかすると、早くここを引き上げろという暗示なのかもしれない……。
やっと片付け終って、さあ、少し眠ろう、と痛む腰をのばし、掛け布団をめくってみて仰天した。
男が寝ていた。――あの小柄なメガネの男、夕子に声をかけて、大男に突き飛ばされた男だ。
寝衣の胸には赤いシミが広がり、メガネの奥で目をカッと見開いて――男は死んでいたのである。
「それじゃ君は、自分の部屋で殺されていた男のことを、まるで知らんと言うのかね?」
木戸署長は嫌味たっぷりに言った。
「だからさっきも言ったでしょう」
私はうんざりして言った。「ロビーで見かけたことはありますよ。しかし口をきいたこともないんですから」
「それじゃなぜ、君の布団の中で死んどったんだ?」
「そんなこと、私に分るもんですか。死人に訊いてみて下さい」
木戸署長は|脂《あぶら》ぎった顔でニヤリといやらしい笑いに口元をゆがめた。
「痴話喧嘩じゃないのかね、ええ?」
「あの男、女と一緒だったんですか」
とびっくりして訊き返すと、
「君はあの殺された男と、いい仲だったんじゃないか? どうだね?」
私はしばし言葉もなく、木戸署長の好奇心丸出しのギラギラした目を見つめた。これじゃてんで話にもならない!
以前ここへ来た時には、室津という、いかにも田舎町の署長らしい、おっとりした人物がいて、私の話を親身になって聞いてくれたものだが、四月から交替したとかで、木戸という横柄な奴が署長の椅子にふんぞり返っている。
何しろ頭から私を容疑者扱いで、私の話などてんで信じようとしない。身分を明かしても、鼻であしらわれてしまった。必死に食い下がって、警視庁へ電話を入れさせるところまでこぎつけたものの、肝心の本間警視はまだ出勤していない、と来ている。
「ともかく、だな」
木戸署長は|顎《あご》をさすりながら、「あの男は何か鋭いきり[#「きり」に傍点]のような物で胸を刺されて即死しておる。極めて鮮やかな手口で、心臓を正確に一突きだ。ただの喧嘩や恨みの犯行ではああ巧く行くもんじゃない。犯人はよほど凶器を扱い馴れた、その道のプロってことになるな」
と、ここでまたいわくありげに私をジロリと眺め回す。――冗談じゃないぜ、全く!
その時、木戸署長のデスクの電話が鳴った。受話器を取った木戸署長の横柄な口調が急に丁寧になった。どうやら本間警視かららしい。私はほっと胸を撫でおろした。
「はあ、では確かにそちらの警部さんで?――ええ、あまり見栄えのしない四十男で。――そうです、そうです、少々くたびれた感じの……」
勝手なこと言ってやがる! 私は頭に来て、木戸署長をにらみつけてやった。
「まあ、君の身分は確からしいね」
電話を切ると署長は言った。「しかし、警視庁の警部といえど、人殺しをせんとは限らん。相変らず第一の容疑者だってことは言っておくぞ」
「旅館へ戻っていいんですかね?」
「まあ、よかろう」
木戸署長は渋々承知した。「逃げるなよ!」
「犯人が分ったら教えてあげますよ」
私はそう言い捨てて、S町の警察署の古びた建物を出た。
もう昼を過ぎて、相変らず今日も陽射しはまぶしいほどである。――さて、一体事態はどうなっているのだろう。あの殺された男は何者なのか? なぜ私の部屋で殺されていたのか? そして、むろん、犯人は誰か? いや、もう一つある。あの男はなぜ夕子につきまとっていたのだろうか……。
色々頭をひねったあげく、私は一つの結論に到達した。まず必要なのは昼食だ!
手近な食堂に入った私は、やたら水っぽいカレーライスを、あっという間に平らげ、もう一皿注文した。何しろ昨夜から何も食べていないのだ。味がどうだなどと言ってはいられない。
それでも二皿目を腹へ流し込むと、やっと少し落ち着いて、コーヒーを頼んだ。泥水かと見まごうようなコーヒーを恐る恐る飲んでいると、店の主人が、高い棚に載せた白黒テレビのスイッチを入れた。
私は、ふと、夕子の死を知った時のことを思い出した。あの時も、昼食を取りながらテレビを見るともなく見ていたのだ。そしてニュースの画面に夕子の顔が――
「ニュースか……待てよ……」
私は呟きながら、コーヒーカップを置いた。
「そうだ! 思い出したぞ」
あの殺されたメガネの男。テレビのニュースで見たのだった。畜生! どうしてもっと早く思い出さなかったんだろう。あれは、鈴木雅文――夕子と一緒に死んだとされている学生の父親なのだ!
5
私は茂みの間から、そっと顔を覗かせた。――まるで学校の校舎かと思うような、堂々たる大きさ、旧家というにふさわしい、風格ある木造建築。一体部屋の数はいくつあるのだろう。見当もつかない。
|黄《たそ》|昏《がれ》迫る空に黒々と横たわる内藤家の邸宅の貫禄には、少々気後れしてしまうほどだった。広い裏庭は、低い灌木の垣根で囲まれているだけで、その気になれば、簡単に中に入り込むことができる。もっとも、入れるからといって、入ってよいということにはならない道理で、無断で垣根を乗り越えて裏庭へ入れば、当然不法侵入になる。だが、夜の|帳《とばり》が降りて、あたりがすっかり暗くなると、私は一瞬のためらいもなく、内藤家の裏庭へと忍び込んだ。
理由はどうあれ、こんなことがバレたら、クビは間違いのないところだ。それを承知であえて危険を冒しているのは、夕子に会うためであるのはむろんだが、それ以外にも、鈴木青年の父親の死という事件が、夕子のとっている奇妙な態度と、どこかで関っているのではないか、と思えたからである。
実際、夕子と一緒に死んだはずの青年の父親が、夕子を捜しに来た私の部屋で殺されるとは、単なる偶然であるはずがない。そして殺人という犯罪が絡んで来るからには、夕子の遭った事故も、裏に何かがあったのではないかと思えて来る。
うまく庭へ忍び込んだまではよかったが、さて、右へ行くのか左へ行くのか、どの辺に居間があり、寝室があり、客間があるのか、見当もつかない。やむをえず、ともかく物置らしい小屋の陰に身を隠して、庭に面した長い廊下を誰かが通りかかるのを待つことにする。
襲い来る蚊の大群と闘うこと一時間、徹夜の張り込みぐらい苦にもならないが、この一時間は長かった。ベテランの泥棒や空巣狙いは、初めて忍び込んだ家でも――大ていは初めてに決っている――どっちに何の部屋があるか、ピタリと分るのだそうで、この時ばかりはその才能が|羨《うらや》ましかったものである。
廊下を人影が通った。目をこらして見るとタオルを手にした夕子である。うまいぞ! 小屋の陰から飛び出そうとすると、廊下の反対側から、あの大塚の巨体が現れたので、慌てて身を沈めた。畜生、何度邪魔すりゃ気がすむんだ!
大男をやり過ごし、小屋の陰から忍び出た時は、もう夕子の姿は廊下の先に消えていた。しかし、風呂場なら外から見てもすぐ分るだろう。私は夕子の消えた方の側をぐるりと回ってみた。少し高い窓から、白い湯気が洩れ出ているのがすぐ目に入った。
断っておくが、決して風呂場覗きが目的だったわけではない。だが、夕子と二人で話をするのに、これ以上いい場所があるだろうか。――今や夕子は「人妻」なのだから、いささか気はとがめないでもなかったが、私は手近な木の空箱を窓の下へ持って来ると、それに乗って、そっと風呂場の中を覗き込んだ。
何しろ湯気が凄くて、最初は何も見えなかった。しばらく目をこらしていると、その内、だだっ広い風呂場の様子がぼんやりと見えて来る。木桶の浴槽は窓のすぐ下にあって、少々見辛い。爪先で立って覗き込むと、湯につかった夕子の裸身がほんのりと見えて来る。よし、今だ。声をかけようと口を開きかけた時だった。
知らず知らず、爪先に力が入っていたのに違いない。乗っていた空箱が、メリメリと音をたてて、アッと思う間もなく、足場は崩れ去っていた。当然、上に乗っていた私も無事に済むはずはなく、地面へ放り出されてしたたか腰を打ってしまった。
周囲が静まりかえっているだけに、けたたましい音になったに違いない。次の瞬間、浴室の中から夕子の悲鳴。――まずい!
私は腰の痛みをこらえて、ヨロヨロと立ち上ると、裏庭へ向って駆け出した。しかし、十メートルと進むことはできなかった。行く手に突然壁が――いや、大塚の巨体が立ちはだかったのだ。こん畜生! 私は思い切って重量級の衝立へ体当りを食らわした。さしもの巨体も枯木の如く……
「不法侵入に、風呂覗きとはね」
木戸署長はねっちりとした口調で言った。
「つまり、それには色々と事情が……」
私は頭を振りながら言った。あの馬鹿力の一発でノックアウトされて、まだ頭の中でその残響がはね回っている感じだ。
「どういう事情か説明してもらいたいもんだね」
木戸署長は椅子にふんぞり返った。「内藤さんはここの名士なんだ。その家へ忍び込んで、若奥さんの入浴姿を覗くのが、どんな事件の捜査に役立つのかね?」
私は口をつぐんだ。この署長に何を説明したって始まるまい。恋する男の心情など、十日間しゃべり続けたって理解させられる奴じゃない。
「――黙っているところをみると、説明できないようだな。よし、それじゃ夜もふけた。留置場に一晩泊っていただくことにするかな」
「勝手にしろ!」
私はやけになって、言った。
「署長」
そこへ、当直の若い警官が顔を出した。
「何だ?」
「お客ですが」
「客? 今、何時だと思っとるんだ!」
ただでさえ、一旦帰宅していたところを内藤雄造に呼び出されて不機嫌な木戸署長は、苦虫をかみつぶしたような顔で部下をにらみつけた。
「はあ……。ですが……東京からわざわざ……」
「東京から?」
「失礼します」
と、警官を押しのけて署長室へ入って来たのは――懐しさに思わず抱きつきたくなった――原田刑事の巨体であった。
「何だと? 俺を東京へ連れ戻しに来たんだって?」
「はあ。本間警視のご命令なんですよ」
「いくら警視の命令でも、そればっかりはだめだ! 俺は絶対に戻らんぞ」
「しかしですね、宇野さん……」
原田は困り切った顔で言った。「引っかついででも連れて来いってことなんで」
「おい、原田。俺の頼みと警視の命令と、どっちを取るんだ?」
「そりゃ、決ってますよ」
「そうだろう」
「警視の命令です」
私はガックリ来た。
「恩知らずめ!」
私たちは旅館へ戻って来ていた。もう夜中の十二時に近い。こうなっては明日にはどうしても東京へ戻らねばなるまい。本間警視はまだ今夜の事件を知らないのだ。明日になれば耳に入るだろうし、そうなっては、即刻クビであろう。
「でも宇野さん、本当にどこかの風呂を覗いたんですか?」
「ああ」
「やっぱり……」
「何がやっぱりなんだ?」
「警視がおっしゃってたんです。宇野は夕子さんが亡くなって欲求不満になってるから、何をするか分らん、って」
「冗談じゃないぞ、おい!」
私は頭へ来た。「それじゃまるで痴漢扱いじゃないか! 俺は夕子[#「夕子」に傍点]と話をしようとして風呂を覗いたんだ!」
キョトンとしている原田へ、私は事のいきさつを説明してやった。同じ説明を三回くり返すと、原田もやっと夕子が生きていることは理解したようだった。
「それじゃ、宇野さん、これからどうするんです?」
「もう一度、あの家へ忍び込む」
と私は言った。
「いつですか?」
「今夜しかない。まさか向うも同じ夜に二度もやって来るとは思わんだろう。お前も手伝ってくれるだろうな?」
「私が、ですか?」
「お前といい勝負の大男がいて、力持ちで歯が立たないんだ。お前、引き受けてくれよ」
「はあ……」
「いやなのか?」
「いえ。でも――腹が減ってるんで」
よく食う奴だ。
「今は我慢しろよ。東京へ戻ったら、スキ焼を三人前食わせてやる」
「本当ですか?」
と顔を輝かせたが、すぐ渋い顔になって、
「でも――クビになったら、退職金は出ませんよ」
午前一時半。――ひっそりと静まりかえった内藤家の裏庭を、私と原田は足音を忍ばせて横切った。
「どこから入るんです?」
と原田が押し殺した声で訊く。
「知るもんか!」
「それじゃ──」
「この木を登るんだ」
枝ぶりのいい大木が、建物に寄り添うように立っていて、その枝の一本から、二階の窓の一つへ楽に手が届きそうに見える。
「この木ですか?」
原田が目を丸くして、「あの……私は木登りというやつが苦手でして……」
「当り前だ。誰がお前に登れなんて言った? ここで見張っててくれりゃいいんだ」
「そうですか」
原田はほっと胸を撫で下ろす。原田が登ったら、枝が折れるどころか、大木が根こそぎ引っくり返るかもしれない!
「行くぞ」
若き日のガキ大将の頃から木登りは得意である。スルスル――いや、ちょっとトシを取ったので、ヤッコラ、ヨッコラだったが、何とか上へ辿り着くと、木の葉をかき分けて、太い枝へと進んで行こうとした。何しろ木の葉の山の中へ頭を突っ込んでいるようなもので、どっちが建物の方向なのやら、キョロキョロしている内に分らなくなってしまう。盲滅法、手近な葉の塊をかき分けたとたん、ギョッとして危く枝から転落しそうになった。いきなり誰かと顔を突き合わせたのだ!
相手もびっくりしたらしく、さっと身を引いたが、私が必死で枝にしがみついて、落っこちないようにもがいていると、また顔を突き出して来た。
「あら!」
懐しい声がした。「あなた、いつからお猿に商売変えしたのよ」
私は唖然とした。
「夕子! 君なのか! 僕のことが分るのかい?」
「残念ながら、分るわよ。ともかく中へどうぞ。ここじゃ話もできないわ」
私は|呆《あっ》|気《け》に取られながら、夕子の後について、枝をまたいだまま進んで行った。――一体どうなってるんだ?
6
「それじゃ、あなたが宇野警部さんですか。いつも彼女から話を聞いてますよ」
夕子の夫――内藤雄一郎は、血の気の失せた頬に微笑を浮かべながら言った。確かに、まだ若いには違いないのだが、やせた体つきと、疲れたようなその表情からは、ひどく老け込んだ印象を受ける。
「いつも?……それじゃ、夕子、君は……」
白いネグリジェ姿の夕子は私を抑えて、
「ま、ちょっと待ってよ。色々とあってね、話せば長い物語なのよ」
「冗談じゃないぜ! この五カ月ってもの、僕がどんな気持でいたか――」
「いや、宇野警部さん、彼女を責めないで下さい。すべては僕と父の罪なんですから」
私は何が何やら、さっぱり訳の分らないまま、夕子と内藤雄一郎の顔を交互に眺めやった。夕子が、まず口を切った。
「車が湖に転落した時、私は沈んで行く車から奇跡的に抜け出したの。冬の湖の冷たさったら、その場で凍え死ぬかと思ったくらい。それでも無我夢中で泳いで、やっと大分離れた岸へ辿り着いたの。そしてそのまま意識を失ってしまったのよ」
「そこへたまたま父が車で通りかかったんです。そして彼女をこの家へ運び込みました。もの凄い熱で、体中が燃えるようでした」
「それから一カ月近くも、私は生死の境をさまよってたの。やっと回復してからも、しばらくは体が弱り切って動けなかったわ。それでも何とか起きられるようになったんで、内藤さんにお礼を言って町へ戻ろうとしたの。ところが内藤さんは私に、ここへとどまって、雄一郎さんの嫁になってくれと言い出したのよ。私、びっくりしてしまって――それは助けてもらったことは感謝してるけれど、そんなことはできないと断ったわ。すると内藤さんは、もし私がどうしても断るなら、男の学生の命はない、って言うの」
「男の学生?」
「一緒に乗っていた鈴木君のことよ」
「それじゃ彼も一緒に助けられていたのかい?」
「分らないの」
と夕子は首を振った。「鈴木君の死体は結局上らなかったでしょう。内藤さんは、鈴木君を山の中の小屋に閉じ込めてあると言って私を脅したけど、たぶん私に承知させるためのハッタリだと思うの。でも絶対に嘘だとは言いきれないし、それにまだ私も逃げ出すほどの元気はなかったし……。あの大塚って大男が絶えず見張ってるものだから、言う通りにする他なかったのよ」
「父は内藤家の血筋が途絶えるのに堪えられなかったんです」
内藤雄一郎が口を挟んだ。「父は重病で……もう三月とはもたない体なのです」
「町の人は誰もそんなこと言ってなかったが……」
「ええ。誰にも隠しているんです。誇り高い人間でしてね。――ともかく、そんなわけで、自分が生きている間に、何とか僕に嫁を持たせたいと焦っていました。そこへ夕子さんが現れた。父は、これこそ天に与えられたチャンスだと思ったんでしょう。力に訴えてでも、夕子さんを僕の嫁にしようとしたんです」
雄一郎は夕子を見て微笑むと、続けた。
「むろん僕は、そんな父のやり方は無茶だと思いました。しかしもう長くない命ですし、父の最後の望みを叶えてやりたいと思って、夕子さんに頼んだんです。形だけでいいから、妻になってほしい、とね」
「形だけ?」
私は思わず口を出した。「すると――」
「ええ、ご心配なく。僕は夕子さんに指一本触れていませんよ」
「安心した?」
と夕子が冷やかすような目で私を見た。
「まあね……」
私はそっと|安《あん》|堵《ど》の胸を撫でおろした。
「父のために、ご心配をかけたことはお|詫《わ》びします。僕もこの通り病弱で、ほとんど外へ出られませんし、父の言っている、もう一人の学生さんのことも、果して事実かどうか、確かめるすべがないんです。もう死期が迫っているので、それぐらいのことはやりかねない父ですから……」
「それで私、ここ何日か、夜中に窓から枝を伝って抜け出して湖へ行っているの。何度か潜ってみている内に鈴木君の遺体らしいものを見つけたのよ」
「それであんな夜中に泳いでたのか」
と私が肯くと、夕子はけげんな表情で、
「どうして知ってるの?」
と訊いてから、「――あ、それじゃ、おとといの晩、見てたのは、あなただったのね!」
「そ、それはともかくだね」
私は慌てて言った。「――鈴木って学生の遺体を見つけたんだね?」
「はっきりは分らないの。何しろ夜中でしょう。そう長く潜っちゃいられないし。でもともかく、内藤さんの言葉が事実かどうか確かめたかったのよ。鈴木君のお父さんが、どうしてだか、私を見つけてやって来ているの。だから何とかして――」
私ははっとした。そうだ、すると、あの殺人は――。
その時、突然|襖《ふすま》がガラリと開いた。雄一郎が驚いて声を上げた。
「お父さん!」
人品卑しからぬ、初老の紳士が、端然と和服姿で坐っている。
「あなたが宇野警部さんですな。内藤雄造です」
内藤は静かに言った。「今の話、何もかも聞きました。――いや、私が馬鹿でした。自分の満足のために、ずいぶん迷惑をかけてしまったようだ。……夕子さん、許して下さい」
と頭を下げる。何かいやに厳粛な気分になってしまった。夕子が言った。
「内藤さん、鈴木君のことは……」
「あれは嘘です。あなたを助けて看病している時、ふっと思いついて……。あなたが見つけたのが、きっとその学生さんの遺体でしょう」
「お父さん」
雄一郎が言った。「もう夕子さんを帰してあげよう。いいんだろう?」
「もちろんだ。――夕子さん、あなたには何とお詫びをしていいのか――」
「あなたは命の恩人ですわ、内藤さん」
と夕子は微笑んだ。
「夕子、鈴木君のお父さんは旅館で殺されたんだ」
「何ですって!」
内藤家の車を借りて、深夜の道を町へ走らせながら、私は事件の話を聞かせてやった。
「一体誰が……」
「さあね。犯人は分っていない」
「まさか、内藤さんが……」
「何とも言えないね。君が生きていることを知られて、口を封じようとしたのかもしれない」
「でも、そんなに必死で私を引きとめる気なら、こんなに簡単に私たちを帰すかしら?」
「それはそうだな。僕の部屋で殺されていたのも、よく分らないな。もしかすると僕が君と旅館で話をしているのを見て、鈴木君のお父さんが僕と話をしようと、待っていたのかもしれない」
私はふと思いついて言った。
「一つ不思議なんだがね」
「何のこと?」
「あの大塚って大男、君が湖へ行ってることを知ってたはずだ。なぜ黙って行かせてたんだろう?」
私は昨晩、大塚に放り投げられたことを話した。夕子はしばらく考え込んでいたが、
「――あの人、きっと私を好きだったのよ」
「あの怪物が?」
「根はとても正直で、いい人なのよ。内藤さんの命令はどんなことでも聞くし。――私にも決して乱暴しなかったわ」
「僕にはかなり乱暴だったがね」
「あら、お風呂を覗いたりするからいけないのよ。あなたの悪い癖ね」
私は笑った。――本当に何カ月ぶりの笑いだろう。夕子が戻って来たのだ!
「東京へ戻ったら祝盃だ!」
「スキ焼を忘れんで下さい」
後ろの座席から、声がした。そうだ、原田のことなんかてんで頭になかった。
「しかし、君にまるで知らん顔をされた時はショックだったぜ」
「仕方ないじゃないの。大塚さんがすぐそばにいるんですもの」
「それにしても、ウインクの一つぐらいしてくれたって……」
と私は未練がましく言った。
旅館に戻り、一風呂浴びてさっぱりすると、私は寝衣姿の夕子をそっと床へ横たえた。
「君が結婚してると聞いて、大ショックだったよ」
「実質的には結婚じゃなかったと分って安心した?」
「ああ、大いにね!」
私は夕子の唇を唇でふさいだ……。
突然、夕子が短い悲鳴を上げた。
「大塚さん!」
振り向くと、戸が開いていて、あの巨体が立っていた。
「おい、一体何だ!」
怒鳴りつけて、私ははっとした。大塚の右手に握られているのは、キリ[#「キリ」に傍点]だった。鈴木を殺したのは、キリのようなものだった。大塚は内藤家で大工仕事もやっているのだろう。
「奥様は渡さねえ」
大塚が言った。「誰にも渡さねえぞ!」
本気なのだ。この男、夕子に恋しているのだ。
「大塚さん」
夕子が、身構えた私を抑えて、静かに話しかけた。「私はどこにも行かないわ」
「嘘だ!」
「本当よ。心配しないで。ね、落ち着いてちょうだい」
「だけど――こいつと抱き合ってたじゃないか!」
「ええ。私はこの人が好きなのよ。――分ってくれるわね。でも、あなたを置いて行ったりはしないわ。安心してちょうだい」
大塚は悲しげに首を振った。
「みんな聞いたんだ。旦那様から、何もかも……。俺は奥様を行かせたくないばっかりに、あのメガネ野郎を殺してやったのに」
夕子が息を呑んだ。
「それなのに、旦那様も坊っちゃんも、俺に黙って奥様を行かせちまった。――俺はいやだ!」
私は大塚の手から、何とかキリを奪わねば、と思った。すでに一人殺している。用心しなくてはいけない。
私は大塚の右手めがけて飛びかかった。手刀でキリを叩き落とす、そして――アッという間に、万力のような手が私の腕をしめつけて、次の瞬間、私の体は部屋の奥まで飛んでいた。
いやというほど壁に叩きつけられて、私は一瞬、意識の薄らぐのを感じた。
「やめて!」
夕子の叫びに、はっと顔を上げる。大塚が夕子をかつぎ上げて、部屋を出て行くところだった。
「待て!」
追いかけようと立ち上ったが、クラクラと目まいがして、まともに歩けない。壁を伝うようにして廊下を進み、手すりで体を支えながら、階段を降りた。
やっと下へ着いた時、車が旅館の前から走り去るところだった。
私は騒ぎを聞いて起き出して来た主人に、旅館の車を貸してくれと頼んだ。
「人の生死にかかわるんだ! 早くしてくれ!」
旅館の車が走り出した時、もう夕子と大塚の車はずっと先を走っていた。一体どこへ行くつもりなんだろう?
前の車は、ずっと湖沿いの道を走っていた。何とか距離を|狭《せば》めようとするが、なかなか巧く行かない。
その内、前の車の灯が停った。うまいぞ! そう思ったのも一瞬だった。大塚と夕子の乗った車はゆっくりカーブを切ると、湖へ向って走り出した。――心中するつもりだ! 唖然とする内に、湖面に水しぶきが上る。
「夕子!」
私は車を停めると、水際へ駆け寄った。激しく泡を吐きながら、車が水中へ没して行く。
「夕子!……」
私は水へ飛び込んだ。しかし何しろ夜中である。しかも沈んだ車が巻き起こした泥の雲に遮られて一寸先も見えないのでは、どう捜しようもない。
ああ、夕子! もう一度生き返って来てくれ!
水面へ出ると、祈るような思いで私は泳ぎつづけた。
突然、水がボコッと盛り上ると、夕子の顔が現れた。
「夕子!」
私は彼女に手をかして、岸辺まで引っ張って行った。二人で地面に腰を下ろしたが、しばし|喘《あえ》ぐばかりで声も出ない。
「……大塚は死んだようだな」
「ええ」
「しかし、よく脱け出して来たね」
「車が沈んで行き始めた時、大塚さんが自分でドアを開けて、私を押し出した[#「押し出した」に傍点]の」
「君を?」
「ええ。――最後になって、私を助けてくれたのよ」
「そうだったのか」
「可哀そうな人……」
夕子は首を振った。もう湖面は何事もなかったように静まりかえっていた。
旅館へ戻ると、原田が眠そうな顔で玄関に突っ立っていた。
「宇野さん!――夕子さんもびしょ濡れで。一体どうしたんです?」
「なに、ちょいと一泳ぎして来たのさ」
と私は言った。
再び車の引上げ作業が行われ、大塚の死体も収容された。嫌味な木戸署長も、内藤雄造自身の説明は至って素直に信用し、私への態度も手のひらを返したように丁重になった。
事件の後始末に三日ほどかかって、それから私と夕子は車で東京へ帰路についた。
「ねえ」
「うん?」
「大学の方、どうなってるかしら?」
「さあね。卒業証書はまだ出てないようだったよ。君の叔父さんが、おかしい、と怒ってた」
「そう! それならいいの」
「今からだって、生きてると分ったんだから……」
「いいえ、違うの。卒業できない方がいいのよ」
「どうして?」
「わざと単位を一つ落としたんだもの」
「何でそんなことを?」
「一年間、週に一回、授業に出るだけでいいのよ。ぐんと暇になるじゃないの」
「呆れたね! そんなに時間を作って何をするつもりなんだい?」
「あら、決ってるじゃない。犯罪学の実地演習よ」
「おい! まだこりないのかい?」
「これしきのことでへこたれるもんですか。あなただって分ったでしょ。いかに私が不死身かってことが」
夕子は至って得意顔である。
「やれやれ……」
私はため息をついた。まあ、一度幽霊になっちまったんだから、死ぬことはないわけだ……。
第二話 |双《ふた》|子《ご》の家
1
「ね、今日はどこに連れてってくれるの?」
受話器を上げると永井夕子の弾むような声が飛び出して来る。私はウーンと|唸《うな》って、眠気のさめない眼をゴシゴシこすりながら、
「おい、何時だと思ってんだ」
「あら、もう八時よ」
「もう、って……こっちはたまの休みなんだぜ。ゆっくり寝かしてくれよ」
「まあ、ずいぶん冷たくなったのねえ!」
「いや、そうじゃないけど――」
こっちは連日凶悪犯を追っかけ回し、徹夜、朝帰りも日常茶飯事だ。警視庁捜査一課の鬼警部だって生身の人間なのである。週に二、三時間の授業に出席する以外はグータラして、これが学生たることの本分である、なんてのたまわっている女子大生と一緒にされては困る。四十歳という年齢も考えてくれなくては……。
「じゃあいいわよ。今日は他の男性と出かけることにするから」
「おい! 待ってくれよ」
切り札を出されては、こっちも引込むわけにはいかない。「分った、分った。ええと、それじゃ……」
そこでやっとある事に思い当った。
「そうだ! 今日は十一時にPホテルのロビーで……」
「まあ、ホテルなんて珍しく格好いい所選んだじゃないの」
「え? いや、それが――」
「じゃ、十一時ね。待ってるわよ」
「おい、待ってくれ! 違うんだ、今日は――」
すでに電話は沈黙していた。「やれやれ!」
若い世代は何事もテンポが早い。早とちり[#「早とちり」に傍点]も若さの内だろうか。
Pホテルについたのは十一時にあと五分というところだった。
十二月になって、行く人の足取りも心なしか気ぜわしい。その日はよく晴れ上って風もなく、暖かだったが、それでもまるで北風に追い立てられているかのように、人々はせかせかとわき目も振らずに歩いて行く。
こっちはそう急ぐでもなく――ホテルのロビーへあたふたとかけ込むなんて、どうにも見られた図ではない――のんびりと入口の回転ドアを押した。広々とした空間に、気まぐれのようにあちこちを向けてソファが置いてあるのが不思議に整然とした印象を与える。
夕子がすぐに私を見つけて手を振った。いつもの軽快、スポーティなスタイルとは打って変って、ぐっと落ち着いた濃紺のワンピース、手に水色のコートを畳んで持っている。シックな装いの夕子からは、今までに知らなかった、大人びた女の魅力が漂って、私は思わずため息をついた。
「十分遅刻!」
夕子が|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。
「まだ十一時前だろう?」
「男性は約束の時間の十五分前には来ているものよ」
「女性は十五分遅れて来るもんだ、って言うんだろう」
「大分わかって来たわね」
笑ってそう言うと、夕子はバレリーナみたいにクルリと回って見せた。「さ、今日はホテルだっていうから、精一杯おしゃれして来たのよ」
「うん……。それがね……実は仕事なんだ」
「仕事?」
「ここで人と待ち合わせてるのさ」
とたんに夕子はキッと眉をつり上げた。
「あなた、そんなこと言わなかったじゃないの!」
「言わない内に君が電話を切っちまったんだよ」
「ひどいわ、私の貴重な時間を無駄にさせて」
貴重な、と言えば、こっちの睡眠時間の方がずっと貴重なんだぞ、と言いたいのをぐっとこらえる。何てったって、|惚《ほ》れた弱味だ。
「ま、ちょっと待ってくれよ。用がすぐ済めば付き合えるからさ」
「今日は非番でしょ? 一体何の用なのよ?」
「それがね」
私は夕子と並んでソファへ腰を下ろすと言った。
「このところ毎日のように、本間警視のところへ電話をかけて来る奴がいるんだ。たぶんちょっとイカレた奴だと思うがね」
「どんな電話なの?」
「それが時によって、〈兄が私を殺そうとしてる〉って言うかと思うと、〈弟が私を殺したがってる〉って言うんだそうで、どう聞いても同じ声なんだそうだが、ま、ともかく〈殺人が起こるのを防いでほしい〉って訴えて来るわけさ」
「で、あなたの親玉は何て答えてるわけ?」
「うん、僕の親玉は――おい! 変なこと言わせるなよ。本間警視は『警察は、起こった事件を調べる所で、殺人の起こりそうな家庭へ警官をいちいち派遣していたら、全家庭の数だけ警官がいる』って返事してたんだが、あんまりしつこいんで、ともかく僕に一度会ってみろってことになったわけさ」
「へえ。面白い事件かもね」
ふくれっ面だった夕子の眼がキラリと光った。私は慌てて、
「おい! いいかい、話を聞くだけの約束なんだ。変に興味を持って、深入りしないでくれよ」
「あら、だって私、ここんとこ退屈なのよ」
「退屈でも平和な方がいい!」
と私は決めつけた。その時、
「ちょっと失札」
と声がした。見れば|年《と》|齢《し》の頃四十五、六の中年紳士が私を見下ろしている。上等なコートを着込んでいるが、骨ばった顔つきには、どことなく残忍な獣じみた所があり、ちょっとまともな手合でない男かと思えた。
「もしかして、あんたが警視庁の……?」
と探るような目で私を眺め回す。
「ええ、そうです。本間警視へ電話された方ですね?」
「しかし、確か電話の話では警部さんが来てくれると言っとったが……」
「私がそうです。宇野といいます」
「あんたが警部?」
男は疑わしげに私を見ている。私は頭へ来て、身分証明書を出して見せた。男はしばらく証明書の写真と私の顔を見くらべてから、
「ふん。警視庁も人材不足らしいな」
と肩をすくめた。私は男をぶん殴りたいのをこらえて、
「お話を伺います!」
と言った。後ろで夕子がクスクス忍び笑いをしている。男はポケットから名刺を出すと、
「私は忙しい身でね。今日の夕方、自宅の方まで来てくれ」
と、呆気に取られている私の手の中へ押し込んで、そのままサッサと行ってしまった。
「――おい! 冗談じゃないぞ!」
やっと私が怒鳴った時には、もう相手はロビーから足早に出て行くところだった。
「静かにしなさいよ。ホテルのロビーで大声なんか出して」
と夕子がたしなめる。しかし私は腹の虫がおさまらなかった。
「何て奴だ! 図々しいにも程がある! 誰が話なんか聞いてやるか!」
「でもいたずら電話をするようなヒマ人にも見えなかったわね。誰なの?」
夕子は私の手の中の名刺を|覗《のぞ》き込んだ。
〈堀谷兼一郎――××物産顧問・○○商会取締役……〉全部で五つの社名がズラズラ並んでいて、職名はどれも重役クラス。〈係長〉ってのは一つもない。
「へえ、かなりのもんね」
「何様だか知らないけど、ともかく放っときゃいいさ。さて、どこかへ出かけようよ」
と名刺をポケットへ放り込む。
「あら、せっかく招待されたんだから行ってみたら?」
「こいつの家へ? しかし――」
「ちょっと興味があるじゃないの」
「僕は全然ない!」
「まあ考えてごらんなさいよ。これほどの人物が、どうして警視庁へ毎日電話をかけてよこす? 一度ぐらいならかけてみるかもしれないけど、相手にされなければ自分で誰かを雇うでしょう。それに警察が乗り出すってことは、ある程度、事が公けになるわけで、それを承知で依頼して来るのも妙だわ。いわば家族の内輪もめを人目にさらすことですものね。――これにはきっと何かウラ[#「ウラ」に傍点]があるのよ」
夕子が言うことも一理ある。しかし大体二人で事件へ飛び込んで無事に済んだためしはないのだ。
「それならなおさらだ。また殺されそうになるんじゃ|敵《かな》わんよ」
「あら、鬼警部さんがずいぶん臆病におなりですわね」
「そうとも。君を愛してるからこそ死にたくないんだ」
そういうセリフを冷汗ぬきで言えるようになるには、長い長い月日が必要だった!
「まあ、優しいのね!」
夕子が冷やかすように言ったと思うと、目にも止まらぬ早業で私の頬へチュッと……。
「お、おい! こんな所で――」
と慌てて周囲を見回して――初めてそこに立っている男に気が付いた。
「あんたは――」
と、私が言いかけると、男は困ったように頭をかいた。
「いや、どうもお邪魔なようで……」
「まだ何か話がおありですか?」
私は堀谷兼一郎をにらみつけた。「確か、お忙しい体だとか伺いましたがね」
「は?」
「何をとぼけてんです。気が変ったんなら、そう言やぁいいでしょう。さぁ、話を伺おうじゃないですか。こっちは休みを返上して出て来てるんだ、時間を無駄にさせないで下さい!」
「ちょっと、ちょっと」
と夕子が私の腕をつつく。
「何だよ?」
「違う人よ。ほら……」
「違う、って、何が?――え?」
私は目の前に立っている男をまじまじと見つめた。確かにさっきと同じ男に見える。が、服装が違う。さっきの上等なコートは、特価品売場で散々ひっかき回されてくたびれ果てた安物と化し、その下の背広も、どうひいき目に見ても私の背広より高級とは言いかねた。
「あなたは……ええと、堀谷兼一郎さんじゃないんですか?」
相手の男は驚いた様子で、
「兄に会われたんですか?」
と言った。
「お兄さん?」
「私は堀谷兼二郎[#「兼二郎」に傍点]といいます。警視庁の警部さんですね? しかしなぜ兄がここへ……」
「まあ、それで分ったわ!」
夕子が声を上げた。「お二人で警視庁へお電話されてたんですね。だから〈兄〉と〈弟〉が入れ替ったりしたんだわ」
「兄もそちらへ電話を?」
堀谷兼二郎はソファへ腰をおろして、「やれやれ! いつもこれだからな!」
と首を振った。
「そう言えば本間警視が言ってた」
私はゆっくり|肯《うなず》いた。「私をここへやると約束したら、また電話がかかって来たんで、何度同じことを言わせるんだ、って文句を言ってやったそうだ。――しかし、こいつは驚いた。双生児なんですね?」
「一卵性双生児です。間違えられるのは年中でしてね。顔も声も体つきもそっくりなものだから……。でも性格はまるで反対もいいところなんです」
確かに、坐ってじっくり相対してみると、顔の表情も兄の兼一郎よりややふっくらと柔和で、あの獣じみた残忍さは弟の方には見られなかった。髪も弟の方がやや豊かで、黒々としている。兄の方は少し薄くなりかかって、白髪もいくらか混じっていたのだが。
「いや、お休みの所をわざわざお呼び立てして申し訳ありません」
「ともかくお話を伺いましょう」
「そうですね。もしお差し支えなければ家までお越し願えませんか」
「そこは同じか」
と私は呟いた。
「何か?」
「いえ、結構です。伺いましょう」
私は立ち上った。実際、この弟の方はなかなか物腰も丁重で感じがいい。
「お兄さんの方からもご招待を受けているんですがね」
「それなら、ご心配なく」
と堀谷兼二郎は笑った。「兄の家は私の所からすぐです。――ああ、そちらの美しいお嬢さんも、よければご一緒に」
美しい、なんて言われなくても行く気だったに違いない夕子、これ以上なし、というくらいの愛想のよい笑顔で、
「まぁ、すみません。ぜひ伺いたいわ」
「どうぞ、どうぞ。――しかし、こんなきれいなお嬢さんがおられて、お父さんもお楽しみですねえ」
私は弟の方もぶん殴りたくなった。
「兄はどんな話をしました?」
中古車――というより大古車とでも言いたい車を運転しながら、堀谷兼二郎が訊いた。
「ただ家へ来てくれと言われただけで、話は何も伺ってませんよ」
私はまだ〈お父さん〉にこだわって、ムスッとした顔で答えた。兼二郎の方は一向に気にしない様子で笑った。
「兄らしいな、全く。いつもその調子なんですよ。他人はただ自分の命令を聞くために存在していると思い込んでるんですから」
「〈殺される〉って、お二人が訴えてるのはどういうわけです?」
「兄は私が兄を殺してその座を取って代わる企みをしていると信じてるんです。で、その前に正当防衛と称して私を殺しかねない」
「それで両方が互いに殺されると……」
「そういうわけです」
「でも――」
夕子が言葉を挟んだ。「一体どういう事情でそんな騒ぎになったんですの?」
「もともとはそう仲の悪い兄弟でもなかったんです。瓜二つなのを利用して、子供の頃はよく他人を|騙《だま》して遊んだものです。性格的には兄が外向的で野心が強く、私は内向的で、あまり事業なんてものには興味がない。巧い具合にできてましてね、父が死んだ時も、その事業を継ぐのは当然兄の方、と私も思っていましたから問題もなかったし……。ただ、父の遺言では私も共同経営者になるよう定められてたんですが、自分の柄じゃないんで、権利を放棄し、兄に一切を任せました。兄は持ち前の事業の才能をフルに活かして、どんどん手を広げ、押しも押されもせぬ実業家になり、一方の私は、株の配当で食べて行くぐらいはできるので、仕事もせずに好きな絵を描いたりして暮してたんです」
「まあ、素敵な生活!」
夕子がため息と共に言った。――今の若者にとっては、こういうのが理想的な生活なのだ。全く嘆かわしい!
「それで兄と私の間は結構巧く行ってたんです。ところが――」
と堀谷兼二郎は一呼吸置いて、「ある時からそれが狂い始めて……」
「ある時、とは?」
「それは……ああ、ちょっと待って下さい。もうすぐ家です。続きは着いてからお話ししましょう」
都心からたった一時間余りで、こんな所があるのかと思うような林の中へ車は入って行った。多摩丘陵の一角なのだろう、冬枯れた木々のもつれ絡まる間の道なき道を抜けて、やがて大古[#「大古」に傍点]車は、古びた木造の洋館の前へ停った。
北欧風と呼べば聞こえはいいが、建ってもう相当の年月を経ているのだろう。くすんだ色あいがどっしりとした重みと、沈み込んで行くような沈鬱な雰囲気を漂わせている。しかし、二階家の、見える限りのどの窓も木の戸が閉じられ、何となく幽霊でも出そうな家である。
「さあどうぞ」
私たちが車から降りると、玄関の大きなドア――これもかなりの年代物で、黒塗りの所々はげ落ちた中央に、青銅のライオンのノッカーが着いている――が、キキーッときしみながら開いた。
そして幽霊が、いや、一人の婦人が出て来た。
「家内です」
と兼二郎が紹介するのを見て、私は、さっき彼の言いかけた〈狂い始め〉の原因がいくらか分ったような気がした。
2
「何もございませんが……」
克子夫人が紅茶を私たちの前に置くと、
「どうぞごゆっくり」
と部屋を出て行った。
「美しい方ですね」
私は言った。
「私の唯一の宝ですよ」
と堀谷兼二郎は微笑んだ。「――しかし、実はあれが、私と兄の仲違いの原因なのです」
「そうでしたか」
「あれは兄の秘書をしていて、兄も惚れ込んでいました。半ば結婚相手というつもりで、自分の家へ連れて来たんですが、そこで私は初めてあれに会ったわけで……。まあ、お互い一目惚れ、ということになり、結局兄は振られちまったんです。兄にしてみれば、成功した実業家より、仕事もせずに遊んでいる男の方を取るなんて、とても理解できなかったんでしょう、私を目の|敵《かたき》にし始めたんです」
「で、実際に何かあったんですか?」
「ええ……。私たちが結婚したのは五年前のことなんですが、その翌年度から、私が株を持っている会社が営業不振で無配に転落してしまったんです。つまり私としては収入ゼロになってしまったわけなんですよ」
「しかしそれは――」
と私が言いかけるのを抑えて、
「ええ、むろん私も不況のせいだと諦めていました。多少の貯えもあったし、その内には好転するだろう、と楽観してたんです。ところが、その業界が立ち直って来たというのに、その会社だけは相変らずの赤字続きで、無配のまま。その内、業界でも、どうもこの会社に関する限り、兄の経営はめちゃくちゃで、まるで好きで赤字を出しているみたいだ、と言い始めたんです。事実、兄が経営に携っている他の企業は一貫して成長を続けてるんですから」
「お兄さんが、あなたの収入を絶つために、わざと赤字経営をやってらっしゃると?」
私は首を振って、「それは考え過ぎでしょう! 他の株主が黙っちゃいないですよ」
堀谷兼二郎は微笑んで言った。
「その会社は父の始めたものでしてね、株の大部分は兄と私、それにごくわずかの親戚が持ってるんです。それだけに経営も兄のワンマンに近いのが実情ですし……」
「親戚の方は何も?」
「親戚連中の間では兄の発言は絶対ですからね、兄に文句を言う者などいませんよ」
「ふむ」
私は息をついて訊いた。「それで、あなたはどうなさったんです?」
「私は、兄がいくら腹を立てているからといって、まさかそんなことまでするとは思いませんから、貯えを使って暮して来ました。しかしそれも限界に来て、私は思い切って兄の家へ行き、単刀直入にその点を訊いてみたんです。――驚いたことに、兄はすぐその事実を認めました。それもいかにも楽しそうに。そして、『何なら俺の会社で雇ってやってもいいぞ』と言い出したんです。私はカッとなって、『兄さんを殺して遺産を手に入れる方が手っ取り早いよ』と言ってやりました……」
「なるほど、それでこの騒ぎですか」
堀谷兼二郎は苦笑いした。
「もちろん本気じゃなかったんですが、兄はすっかり|怯《おび》えてしまって、猟銃を買い込んだり用心棒を雇ったり。却ってこっちの方が危い目に会わされる始末なんですよ」
「何か具体的に危険な目に?」
「ええ。例えば――」
と言いかけた時、私たちのいた居間の窓が、爆発音と共に砕けた。ガラスが飛び散り、その正面にあった|空《から》の椅子がふっ飛んだ。
「散弾だ! 伏せて!」
私は傍の夕子の腕をつかんで床へ押し倒すと、兼二郎が傷を受けた様子もなく、床へ身を沈めるのを見て、ドアの方へ駆け出した。居間から飛び出した時、克子夫人が走って来るのに出くわした。
「何があったんですの?」
「散弾銃です。いや、ご心配なく」
私は青ざめた克子夫人に言った。「ご主人もけがはありません。ここにいらっしゃい」
私は玄関から外へ出た。壊れた窓、倒れた椅子を結ぶ線の延長。――そこはただ何もない林だった。私は林の中へじっと目をこらしたが、動く物は目につかない。一発撃って、さっさと逃げてしまったのだろう。
「畜生!」
とぼやいていると、
「何かあった?」
と夕子の声がした。
「出て来ちゃ危いじゃないか」
「平気よ。不死身のスーパーマンですからね。誰もいないんでしょ」
「ああ。逃げ足の早い奴だ」
「別に本気で狙ったんじゃないでしょ。あんな見当違いの方向撃って」
「脅しか……」
私はふと夕子が左腕を押えているのを見て、ぎくりとした。
「おい、けがしたのか?」
「誰かさんが馬鹿力でつかむからよ」
夕子はしかめ面になった。「か弱い乙女をもう少し優しく扱ってちょうだい」
「命の方が大事だろ。――それにしても、全く物騒な兄弟だなあ!」
「殺人事件でも起こりそうな気配じゃない?」
「また、楽しそうな顔して」
と私は玄関の方へ戻りながら苦笑した。「しかし、ともかくあの弟の方の言い分を聞く限りじゃ、問題は兄の方にありそうじゃないか」
「そりゃ何事だってそうよ。双方の言い分をちゃんと聞いてみなきゃね」
「しかしあいつの家へ行くのはシャクだな」
「何言ってるの、捜査一課のプロが。それにどうもこの事件、見かけほどには単純じゃなさそうよ」
「見かけだって単純じゃないぜ」
「それはあなたが単純すぎるせいよ」
話がこんがらがって来た所で、私たちは玄関を入った。ちょうど堀谷兼二郎が出て来て、
「何か見つかりましたか?――無理でしょうね。この間もこんなことがあったんです。全くひどいいやがらせですよ」
と眉をひそめる。「あ、家内が昼食を用意したようですから。何もありませんが、どうぞ」
お世辞にも豪華な食卓とは言いかねたが、克子夫人の手作り料理の暖かさが何よりで、楽しい昼食だった。
克子夫人は、夫より大分年下、三十二、三というところだろうが、落ちついているし、服装も地味なので三十五程度に見える。元秘書というだけあって、姿勢のよい歩き方、スマートな物腰、それに美人である。――有能な秘書というとおばさんじみたのが多く、可愛い秘書はお茶くみ以外能がない、という一般常識からすれば、彼女はきっと例外的存在だったのだろう。あの野獣――兼一郎の方だが――が惚れるのも無理はない。
食事の間、夫の兼二郎が、この古い建物の話などで私たちを楽しませてくれていたが、克子夫人の方はほとんど口を開かず、唇の端に微かな微笑を含ませて端然と坐っているだけだった。
「で、これからどうなさるおつもりで?」
食事を終えて居間へ戻ると、堀谷兼二郎が訊いた。さっき割れた窓は厚紙で|塞《ふさ》いであり、ガラスの破片も片付けられている。
「さて……。まあ私としては一応お兄さんのお宅にも伺って――」
「それは当然ですね。兄の話も聞いて、公平に判断なさって下さい」
と肯いて、「兄が戻っているかどうか、電話してみましょう」
と居間を出て行った。
「やれやれ、しかし困ったね」
私はため息をついた。「話を聞くことはできても、何か起こらない限り、こっちは動くことができないんだ。さっきの散弾銃の一件にしたって、問い詰めればとぼけられるに決ってるし……。おい、何してるんだ?」
見れば夕子は立って行って、さっき壊れた窓の所で何やらやっている。それからせっかくのワンピースも構わず、床へ四つん|這《ば》いになって犬みたいに床をなめ回さんばかり。
「おい、いつから犬になったんだい?」
「フーム」
夕子は立ち上るとパッパと手をはたいて、一人肯いている。
「一人で何を感心してるんだ?」
「きれいなもんだわ」
「何が?」
「さっきの砕けたガラス。床にもガラスの粉一つ落ちてないし、窓枠のところも、きれいに破片が抜いてあったわ」
「あの奥さん、こまめ[#「こまめ」に傍点]なんだな」
「あなたって幸せね」
夕子の言い方には羨望より軽蔑に近いひびきがあった。
「何が言いたいんだ?」
「私の言いたいのはね、これだけきれいにするのにどれくらい時間がかかるかってことなの」
「というと……」
「五分や十分で済まないことは確かだわ。でも、あの奥さん、いつそれをやったのかしら?」
「ええ?」
「私とあなたが外を見に行ってたのは、ほんの五、六分。すぐ昼食に行って、その間奥さんは一緒だった。そして戻って来ると、もう片付けは終ってた……」
私は狐につままれているようだった。
「――兄は戻ってるそうですよ」
兼二郎が戻って来て言った。「あなた方がここにいると知って、カンカンでした」
と笑う。「迎えを寄こすそうです」
午前中は暖かかったのに、今はどんよりと鉛色の空が頭上にのしかかって来ていた。玄関を出ると、これはまた、さっき乗って来た大古車とは大違い、共通なのは車輪が四つでハンドルが一つってことぐらいの、豪勢な外車が私たちを待っていた。
「どうぞ」
と無表情な顔つきの運転手がちゃんとドアを開けてくれる。夕子を先に乗せて、私も玄関で見送ってくれる堀谷兼二郎へ軽く一礼すると、続いて乗り込もうとした。そこへ、
「あの――ちょっと」
と声がして、克子夫人が急ぎ足で玄関を出て来たと思うと、私の方へ駆け寄って来て、
「マッチをお忘れでしたわ」
と私の手へ、見憶えのないマッチ箱を押し込んだ。私が、
「いや、これは――」
と言いかけると、封ずるように、
「何のお構いもいたしませんで、失礼いたしました」
と言って、さっさと家の中へ戻って行ってしまう。
「――妙だな」
車が静かに動き出すと、私は呟いた。「こいつは僕のじゃ――」
「あら! あなた今朝から持ってたじゃないの。忘れっぽいんだから!」
夕子の言葉のいくらか大げさな響きに、私ははっとして、
「あ――そ、そうだったね。ウッカリしてた」
と顔面神経痛的笑顔を作った。運転手が聞いているのだ。妙な事はしゃべれない。
そっとマッチを手の中でひっくり返してみる。――どこかの喫茶店のマッチらしい。ラベルの白地の部分に、ボールペンの走り書きがあった。
〈今夜は義兄の家にお泊り下さい〉
そっとマッチ箱を夕子へ手渡す。夕子はチラリとそれを眺めると、ぼんやり窓の外へ目をやった。
「――遠いんですの?」
夕子が訊くと、運転手はちょっと顔を振り向けて、
「いや、距離的には近いんですがね、何せこの車、幅があるんで、遠回りしないと林を抜けられないんですよ」
クネクネと右へ左へノロノロの運転が約十五分。視界が突然開けて、車は停った。
「――こいつは驚いた!」
車を降り立って、私は思わず口走った。
それは何とも奇妙な光景であった。やや暮色の漂って来た空の下、黒々と目の前に腰を据える二階家は、今私たちが出て来た家そのままだったのである。――一瞬、回り回って元の所へ戻って来ちまったんじゃないかと思った。が――よく見れば、こちらはどの窓も明るいカーテンが引かれているし、玄関のドアも新しい。全体に家に生気が漂っている。
「なるほどね」
夕子が呆れたように言った。「家まで双子ってわけだわ」
「まあ、掛けたまえ」
堀谷兼一郎が言った。「兼二郎の奴まで警察へ助けを求めとったとは傑作だな」
私たちは、また居間に坐っていた。家の中も、もう一軒と全く同じ造りなのだ。ただし、こちらの居間は、さすが豪勢で、床には虎の皮の敷物、ソファも大分クッションが違う。
「何か飲むかね?」
堀谷兼一郎は、ホテルのロビーで会った時よりは、大分穏やかな人間という印象を与えた。
「ブランデーはどうだ?」
「はあ。いただきます」
「よければ――」
と夕子の方を見て言った。「そちらの奥さんも」
私は、この男への評価を俄然改めた!
「――悪かったね、せっかくの休みを。私も多忙なので、つい人の都合など気にせん癖がついてしまってな。ま、勘弁してくれたまえ」
「いえ、まあ、これも仕事の内ですから……」
と私は愛想笑いさえ浮かべた。
「弟の所からここへ来てびっくりしたろう」
堀谷兼一郎は愉快そうに訊いた。私へ、ではなく夕子の方にだ。
「ええ。家まで瓜二つなんですもの」
「私の父は、兄弟二人に公平であることを、いつも最大の原則にしていた。で、私たちがまだ子供の頃にもう、この二つの家を造らせたのだ。私と弟は学校も同じだった。しかし――生れつきの性格。これだけは変らん」
とため息をつく。「あいつは大学を中退し、ぶらぶらと遊び人の生活を始めた。何度も意見してやったのだが、一向に聞こうともせん。父が死んだ時、弟は共同経営者の地位を蹴飛ばしてしまった」
「その辺は弟さんからも伺いましたわ」
「そうか。――で、あいつは何と言ったね? 美人の女房を|奪《と》られた腹いせに私が赤字経営をやらかしている、と……」
「事実なんですか?」
堀谷兼一郎はあっさり肯いた。
「弟に株の配当を与えないようにしている、という点は事実だ」
「弟さんの所は相当困っておられるんですか?」
「だろうな。――この居間にしても、あっちは大分寂しいだろうが」
「ええ」
「以前は結構美術品なども飾ってあったのだ。あいつは絵が趣味だからな」
「それじゃ、それを売り払って?」
「食いつないどるんだろう」
「またずいぶんと冷たい仕打ちのように見えますけど」
堀谷兼一郎は真顔でじっと夕子を見つめながら――話はなぜか私を無視して行われていたのだ――言った。
「いいかね、奥さん。あんただって、ここにいるご亭主が、働きもせず、配当だけで遊んで暮していたらどうかね?――ま、この人は一応警官らしいが」
私は甚だ面白くない。
「配当なんて、いつまでもあてにできるものではないのだ。この不況の世だ、いつ会社が倒産するかも分らない。そんな時、あいつは何の技術も、働く意志もないのだ。――私は弟が一生ああやって暮して行くつもりなら、それもいい、と思っていた。一人でいるのならば、だ。ところがあいつは結婚した!」
堀谷兼一郎は苦り切った様子で首を振った。「――確かにあの女には私も惚れておった。弟にかっさらわれてしまった時は、少なからず腹も立てたよ。しかし、私はいつまでも根に持ちはしない。それより、結婚したからには、弟にも社会的な責任が生じて来たわけだ。妻を養って行かねばならん! それが男というものだ。しかるにあいつは一向に変らん。相変らず一日中家や林の中をぶらぶらしているだけだ。――そこで私はあいつを無一文に追い込んでやろうと決心した。そうすれば働く気を起こすかと思ったんだ。ところが奴はもっと手っ取り早い方法を見つけおった……」
「じゃ弟さんの批難は逆恨みだとおっしゃるわけですね?」
「少なくとも私は弟のためを思ってやったことだ」
私は二人の話へ、やっと割って入った。
「それで――弟さんがあなたを殺そうとしているという、何か具体的な事件があったんですか?」
「むろんさ。例えばだね――」
堀谷兼一郎が言いかけた時だった。居間の窓が|轟《ごう》|音《おん》と共にふっ飛んだのである。
3
「全く妙な兄弟だなあ」
私は階段を上りながらそう言って、大きな|欠伸《あくび》をした。
「ハハ、大きな口ね」
「冷やかすなよ。――十時か」
「まだ宵の口、とはいってもちょっと眠いわね。ワインの飲み過ぎだわ」
私と夕子は、結局堀谷兼一郎の勧めもあって、二階の一室へ泊ることになったのだ。
夕食は誠に|凝《こ》った豪勢なもので、私など名も聞いたことのない料理が次から次へ出されて満腹。――大食漢の原田刑事を呼んでやったらさぞ喜んだろう、と思った。
しかし、料理、ワイン、いかにも高価そうな食器まで、非の打ちどころがないのに、食事をしていてどこか歯の抜けたように寂しいのは、主婦がいないせいであろう。堀谷兼一郎は何も言わなかったが、愛した女性を弟に|奪《と》られてからは、独身を通すつもりと見えた。
邸には料理番の女を始め、三、四人の使用人がいる様子だった。ともかく、主人の堀谷兼一郎は、昼間の無愛想とは打って変って、私たちを相手に実業界の裏話などを面白く聞かせてくれた。
「両方で同じ窓が撃たれるなんて、いささかできすぎじゃないか」
階段を上り切った所で私は言った。「さてどの部屋かな?」
「右の三番目だって……ほら鍵が差し込んであるわ。あの部屋よ。――別に同じ窓が撃たれたって、兼二郎さんの仕返しだとすれば不思議はないわ。やられたからやり返す。わざと同じ所を壊したんでしょ」
「そうか。しかしあの兄弟の言い分、どう思う?――鍵、開いてるじゃないか」
私たちは部屋の中へ入った。明りがついていて、たっぷり十畳間ぐらいの広さに、古めかしいスタイルのベッドがデンと据えてある。
「わあ、大きなダブルベッド!」
夕子が歓声を上げてべッドの上に転がった。「こんなベッドで寝てみたかったの!」
「やれやれ。何しに来たんだか……」
私もベッドへ腰をかけて言った。「一体、本当に何か起こるのかね?」
「殺人が、ね」
私は思わず夕子の顔を見て、
「本気かい?」
「言ったでしょ。この事件には何か隠れた部分があるの。――今見えてるのは氷山の一角……。あの奥さんのメモ、それに使用人もいないはずのあの家で、どうやってあんなに素早くガラスを片付けられたか……」
「わけが分らんね」
「あなたは考えようとしないのよ」
夕子は甚だ手厳しい。
「なあに、いざ事件が起こったら、必ず犯人を挙げてみせる」
「本当に殺人が起きるとして、殺されるのはどっちかしら?」
「さてね。――僕としては弟の方はあまり信用できないな。働きもしないでのらくら生活してる奴にとっては、貧乏することなんて考えただけで恐ろしいもんだよ。そうならないためなら、人殺しぐらいするかもしれない」
「警察は社会的地位のある人間を無条件で信頼する悪い癖があるわ」
「じゃ君は……」
夕子はベッドに寝ころんだまま、ゆっくり首を振った。
「分らないの。――何か予想もしない事態が起こりそうな気がするわ」
ウーンと唸って寝返りを打つ。とたんにしたたか腹を蹴られて、ギャッと飛び上った。
「――痛いなあ!」
「あら……どうかした?」
夕子が寝ぼけまなこで顔を上げる。
「今、蹴飛ばしたじゃないか」
「あら、そう? ごめんね。眠ってたんだから刑事責任は問えないでしょ」
「朝までに肋骨の二、三本も折られそうだな」
「今、何時?」
私は暗がりの中で傍のテーブルに置いた腕時計をじっと見つめた。
「……二時……四十分だ」
「あーあ、目が覚めちゃったじゃないの。誰かさんが大声出すから」
「目が覚めちゃったのかい?」
とたんに私は希望に胸を膨らませ、夕子の方へにじり寄る。
「だめよ。勤務中でしょ」
「しかし、せっかく夫婦だと思って一緒の部屋にしてくれたのに……」
「あっちの家なら親子だから私にベビーベッドでも出してくれたかしら」
「まさか!」
夕子は人さし指で私の鼻をチョイとつつくと、
「キスぐらいならしてもいいわよ」
そう言われて遠慮する仲でもない。早速、優しく彼女の上へかぶさって……
「――何、この匂い?」
と夕子が言った。
「匂い?」
「夕食にニンニクは出なかったわねえ」
「|餃《ギヨ》|子《ーザ》食べたわけじゃあるまいし……」
言いかけて、はっとした。反射的にドアの方を見る。暗がりの中だったが、ドアの下に青いもや[#「もや」に傍点]が漂っているのが分った。
「火事だ!」
私はベッドから飛び出し、ドアを開けた。廊下にはもうかなり青白い煙が立ちこめている。
「逃げるんだ! 早く服を持って!」
私は叫んだ。夕子もためらってなどいない。下着姿のまま、服を一まとめに丸めると小脇にかかえ込む。
「火元は?」
「分らん。――しかし木造の家だ。回りは早いぞ」
二人で服をかかえて階段を降りて行くと、昼間の運転手が駆け上って来た。
「よかった! お目覚めでしたか!」
「他の人は?」
「外へ出ました。さ、早く」
「火は?」
「居間はもう手がつけられません」
一階は、ひどく煙が渦を巻いていた。私たちは身を低くして咳込みながら玄関から外へ出た。
「おお、無事だったかね」
ガウン姿の堀谷兼一郎が駆け寄って来た。
「いや、とんでもない目に会わせたな」
「大丈夫ですよ」
私は外の寒さに身震いして、慌てて服を着た。「消防署へは?」
「今、使用人の一人を車でやったが……」
「電話は?」
「通じないのだ」
私と夕子は思わず顔を見合わせた。
「消火の設備はないんですか?」
「消火器ぐらいはあるが……」
と堀谷兼一郎が首を振る。
もう建物の半分近くが、黄色い火を吹き上げて燃え盛っていた。熱気が顔を打って、私たちはジリジリと後退した。
「何も持ち出す暇がなかった」
「一体どうして火が出たんです?」
「分らん。――居間には火の気などないはずだが」
思っている事は、口に出さずとも同じだったろう。弟の堀谷兼二郎が放火したのだろうか? そして電話線を切断して……。
「まあ保険はかけてあるし、本当に貴重な物は置いていないからな。命さえ助かれば、そう惜しい物もない」
と大実業家は至って|呑《のん》|気《き》である。「ちょっと風邪ぐらいひくかもしれんが」
「旦那様」
運転手が言った。「車でホテルへでもお送りしましょう」
「待て。――住み慣れた家だ。燃え尽きるのにそう長くはかかるまい」
初めて、その言葉に寂しそうな響きがあった。その時夕子が声を上げた。
「――あれは何?」
夕子が指さした方へ目をやると、黒々とした林の向うに、何か明るくチラつくものがあった。
「大変だ!」
と叫んだのは堀谷兼一郎だった。「あれは弟の家だ! 弟の家が燃えている!」
「何ですって? まさか、そんな……」
私は思わず口走った。双子の家が燃えている。それも両方とも[#「両方とも」に傍点]。そんなことがあるだろうか? いきなり堀谷兼一郎が走り出した。林の中へ飛び込んで、たちまち姿が見えなくなる。
「待ちなさい!」
私も叫びながら続いた。夕子がすぐ後からついて来るのが分る。――暗い林の中を、もうめちゃくちゃに進んで行く。ただ黄色くチラチラと木々の合間から覗く炎を目標に、茂みを踏み越え、枝を払いながら懸命に足を運んだ。
実際、二軒の〈双子の家〉は、林を突っ切れば、さほどの距離ではなかった。しかし、暗い夜には大変な骨折りである。いや、実際に骨までは折れなかったが、細い枝で手足をすりむいたり、服を引っかけて破いたり、散々苦労してやっと、堀谷兼二郎の家の前へ飛び出した時は、もうこっちの家はほぼ八割がた炎に包まれていた。
「――ひどいわね!」
夕子も、せっかくのワンピースがかぎ裂きだらけだ。「兼一郎さんは?」
「分らん。どこかな……」
その時、玄関のドアがはねるように開いて、克子夫人が走り出て来た。ネグリジェに薄いカーディガンをはおっただけの姿だ。
「奥さん! 大丈夫ですか!」
夫人は私たちに気付くと、
「主人が! ――主人がまだ中に――」
「どこです?」
「お|義《に》|兄《い》さんが助けに行きましたけど……」
「どこにいるんです!」
「寝室です。二階の――」
私は玄関へ向って走った。猛烈な熱気に一瞬たじろぐ。思い切り息を吸い込んで建物の中へ飛び込んだ瞬間、眼の前へ、炎の壁が立ちふさがった。バラバラと火のついた木片が降って来て、はっと頭上を見上げると、炎に包まれた天井が一気に崩れ落ちて来た。ここで死ぬのか、と思った。――畜生! 無念の思いが胸をよぎる。ボーナスまであと二日だっていうのに!
やがて夜が明けて来る時刻だ。底冷えのする寒さ。――すっかり灰に帰した堀谷兼二郎の家からは、ほの白い煙が立ち昇り、時折思い出したように、所々で残り火がチロチロと舌を出す。そこを目がけて、やっとこ駆けつけた消防車から消防士が走って行って、せっせともみ消す……。何となくわびしい光景ではある。
「見られた顔じゃないわね。ススだらけよ」
夕子が私の顔を見てからかう。
「どうせ大した顔じゃないさ」
「そりゃそうだけど。――でも全く馬鹿ね、あなたって。見境もなく飛び込んでいっちゃうんだもの。それでよく刑事がつとまるわね」
「つい夢中でね。君が引き戻してくれなかったら、今頃は全身大火傷であの世だな」
「冗談じゃないわ!」
夕子は本気で怒っていた。「あなたに死なれたら、やっぱり私、ちょっとはショックなんですからね!」
ジンと胸が熱くなる。私は夕子の肩を抱いた。
「寒くないか?」
「大丈夫よ」
夕子は微笑んだ。
救急車が、堀谷兼一郎を運び去ってから、もう一時間近くたつ。弟の兼二郎の方はまだ発見されていない……。克子夫人が、夢遊病者のような足取りで、フラフラと歩いて来た。
「奥さん……」
「主人は見つかるでしょうか?」
「たぶん……」
「でも、きっと見分けもつかないでしょうねえ……」
「奥さん、一体どうして火が出たんです?」
克子夫人はぼんやりと首を振った。
「分りませんの。……気が付いた時は、もう煙がひどくて」
「ご主人は一緒に?」
「いえ。何かすることがあるから先に行けと言って……。下へ降りた時、お義兄さんが家の中へ飛び込んで来られたんです。主人がまだ二階にいると言いますと、お義兄さんは急いで階段を上っていかれました……」
「仲違いされていても兄弟なんですねえ」
「本当に。お義兄さんのおけが、ひどくなければいいのですけど……」
「顔と手足に火傷していたようですが、大したことはない、と、救急車の連中が言っていましたよ」
「そうですか。それなら……」
克子夫人は、わずかにほっとした様子で肯いた。
「双子の家か……」
夫人が行ってしまうと、私は言った。「しかし一体こいつはどうなってるんだろう? こんな話ってあるか! いくら一卵性双生児だからって、家まで一緒に燃えちまうなんて」
「当然、自然発火じゃないわね」
「放火か」
「そう。でも問題は……どっちがどっちを……」
「何だい、それは?」
「これはね、相当に計画されたものだって気がしてるの、私。同じ窓が割れたり、二軒が同時に焼けてしまったりしたけど、結果だけを見ると、どう? 一人が死に、一人が生き残った。――そうでしょう?」
「すると君は、堀谷兼一郎が弟を殺したんだと思ってるのか?」
「あるいは、その逆か」
「何だって?」
「助け出された人は顔に[#「顔に」に傍点]火傷をしてたわ。弟があの騒ぎの中で兄を殺し、服を着替えて……」
「まさか!」
「でも顔に包帯を巻いてしまったら、どうかしら? 私たちに見分けがつく?」
「それは無理だよ! 知ってる人が大勢いるんだぜ。みんなの眼をごまかせるもんか!」
「そうかしら……」
夕子は何やら考え込んだ。
寒さは一段と厳しくなって、空がやがてほの白く明けて来ようとしていた。
4
「そうか、そいつは大変だったな」
九死に一生を得た私の大冒険の報告に対する本間警視の暖かいねぎらいの言葉は以上であった。それも書類に目を通しながら、顔も上げないという気の使いようである。
私が感激にひきつった笑いを浮かべながらデスクへ戻ると、原田刑事がニヤニヤしながらやって来た。
「宇野さん、昨夜はえらい目に会ったんですって?」
こいつの方がよほど暖か味があるよ、全く。
「ああ、危く命を落とすとこさ」
「でも、味はどうでした?」
「味? 何の味だ?」
「ウインナですか、フランクフルトですか、そいつの作ってんのは?」
「何の話だ?」
「そこで小耳に挟んだんです。ソーセージを作ってる所が火事になったとか……」
「ソーセージ?――ああ、双生児か」
「作ってる所なんだから少しは食わしてくれたんでしょ? 旨かったですか?」
この手の誤解は説明する気にもならない。その時、デスクの電話が鳴った。
「はい宇野。――ああ。――何だと?」
私は大きくため息をついて受話器を置いた。とたんにまた電話。
「はい」
「おはよう!」
今度は夕子だった。「命の恩人に何か言うことないの?」
「ちょうどよかったよ。今連絡があってね、昨日の焼け跡から死体が出た。むろん判別がつかないような状態だったそうだが……。検死の結果、焼け死んだんじゃないと分ったんだ」
「それじゃ――」
「胸にナイフで刺された跡があった。ナイフも近くで発見されたよ」
私は息をついて、「どうやら君の勘が当ったようだ。こいつは殺人事件だよ」
堀谷兼一郎の病室に入ると、思いがけない顔が私と夕子を見た。
「まあ……」
「奥さん。大丈夫なんですか?」
克子夫人――今は未亡人と呼ぶべきか――は椅子から立ち上ると、
「昨日はお世話になりました」
と頭を下げた。
「いえ。――ご主人はお気の毒なことで」
「覚悟はいたしておりました」
「ご存知ですか、その……」
「主人が焼け死んだのではない、ということですね。――はい、伺いました。それでこうして、お見舞かたがた――と申しては何ですが、お義兄さんのお話を伺おうと思いまして」
ベッドに横になっている堀谷兼一郎が、私を見て、包帯を巻いた手をちょっと持ち上げて見せた。
「どうですか、具合は?」
「大したことはない。――だが、いささか打ちのめされたよ」
くぐもり声が答えた。――頭から顎まで、顔にぐるぐると包帯を巻かれているのだ。わずかに両の眼と鼻の先だけが覗いている。果たして、この男は本当に堀谷兼一郎なのだろうか? 夕子が|示《し》|唆《さ》したように、弟が取って代わっているなどということが、あり得るだろうか……。
「実は昨日の事情について伺いたいんです。弟さんの胸にはナイフが刺さっていた。――あなたが火の中へ飛び込んで行って、それから何があったんです?」
「私にもよくは分らんのだ……」
モソモソとした声が答えた。「寝室へ駆け込んだ時、弟の奴はナイフを手にして突っ立っていた。何をしてるのか、と訊くと、放っておいてくれ、と|喚《わめ》き出した。早く逃げないと手遅れだと言ったのだが、弟は、自分から招いたことだ、と言って……」
「自分から招いたこと?」
「そうだ。そう言った。そして、私が駆け寄ろうとすると、ナイフを自分の胸に……」
「自殺したんですか?」
「目の前でな。私はしばらく呆然としていたが、気が付くと火が回って来ていて、逃げ場を失い、思い切って窓から飛び降りた。――それきり気を失って、意識が戻ると、このべッドの上だった。私に話せるのは、それだけだ」
「なるほど。しかし弟さんはなぜ自殺を――」
「それは私が申し上げます」
克子夫人が低い、しかしきっぱりとした声で言った。「主人はお義兄さんのお宅へ火をつけたのです」
「――それは、ご主人がそうおっしゃったんですか?」
「昨日、主人の様子がどことなくおかしいのに、私、気付いておりました。他の方から見るとごく普通に見えたでしょうが、私には分りました。――ここしばらく、主人は何やら思いつめている様子でしたので、特別気を付けていたのです。それで警部さんに、お義兄さんの所へ泊っていただくよう、あんな方法でメモをお渡ししたのでした」
克子夫人はちょっと間を置いて続けた。「昨夜、ウトウトしてふと目を覚ましますと、主人が寝室へ入って来ました。顔が青ざめ、目が血走って、ただ事でない様子です。訊いてみると、取り返しのつかないことをした、と呟いて頭をかかえています。くり返し訊いて、やっとお義兄さんの家へ火をつけて来たことを知りました。驚いて私は|階《し》|下《た》へ降り、外へ出てみると、遠くに火の手が上っています。消防署へ知らせなくては、と家の中へ戻ると、主人が今度は居間から出て来ました。そしてもう居間には火が広がって……。主人は、〈双子の家は片方が燃えたら、もう一方も燃えてしまわなきゃならないんだ〉と言って二階へ上って行きました。私の呼ぶ声など耳に入らない様子でした。火はどんどん回って、私も、主人を連れ出そうと、二階へ上りましたが、主人は寝室から私をしめ出し、ドアを押えて開けようとしません。私は助けを呼ばうと階下へ降りました。そこへお義兄さんがみえたんです」
「憎しみが昂じて私の家へ火をつけたが、いざやってみると、とんでもないことをしたと気付いて恐ろしくなったんだな」
堀谷兼一郎は自分自身へ呟くように言った。「あいつは気の弱い男だった……。火を見たショックで一時的に錯乱したのかもしれんな」
「なるほど……」
私は肯いた。「奥さん、ご主人がナイフを持っていたのはご存知でしたか?」
「学生の頃、山へ登っていたそうですから、登山ナイフは持っていましたが」
「――分りました。一応今のお話を供述書にして確認をいただきます。ではお大事に」
「どうもありがとう」
堀谷兼一郎はそう言ってから、入口の所に立っていた夕子に気付いて、「やあ、奥さん、昨日は大変だったね」
と言った。
「――別に怪しい所もなさそうじゃないか」
病院を出ながら、私は言った。「君のこともちゃんと〈奥さん〉と呼んでたし、間違いなく堀谷兼一郎だよ」
「そうね……」
夕子は何となくスッキリしない表情だ。
「何が気になるんだい?」
「窓のことよ」
「窓?――ああ、例の壊された窓か」
「ええ。だって妙じゃない? なぜ窓を散弾銃で撃ったりする必要があったの?」
「分らんね」
夕子は|苛《いら》|々《いら》と頭を振った。
「何かありそうな気がするのよ。――もう一つひらめかないかなあ」
「まあ、そう考え過ぎるなよ。そうそう変った事件ばっかりってこともないさ、現実の世界はね。当り前の事件の方が遥かに多いんだ。君のような名探偵を必要とする事件なんて――。おい、どうしたんだ?」
「ね、もう一度行ってみましょう!」
「昨日の所へ? どうして?」
「調べてみたいことがあるの。さ、パトカー一台頼んでちょうだい」
「気安く言うなよ。タクシーじゃないんだぜ」
やれやれ、とため息をつく。自分を警視総監か何かだと思ってるんだから!
「――十分」
夕子は腕時計を見て言った。「ね、どんなにゆっくり走ったって、車で十分あれば、一つの家からもう一方の家まで着けるわ。それを昨日は十五分以上かかった……」
「もっと遠回りしたのさ」
「なぜ? 何か理由があるはずだわ」
私たちは、堀谷兼一郎の家の焼け跡の前でパトカーを降りた。今日の夕子はいつもの通り身軽なパンタロン姿で、焼け跡をぶらぶら歩き回っている。
そこへ――一発の銃声が響き渡った。ぎょっとして飛び上る。見回すと、皮ジャンパー姿の男が逃げて行く後姿が目に入った。
「待て!」
と怒鳴って追いかけると、相手は意外にあっさり諦めて立ち止った。まだ若い男で、この近くに住んでいるらしく、誰もいないと思って試し撃ちをしていたのだという。こっちが警察と知って平謝り。
「こんな所で射撃の練習をする奴があるか!」
と私はどやしつけた。
「すみません……」
「ねえ、ちょっと」
と夕子が口を挟んだ。「あなた昨日、間違って家の窓を撃って壊さなかった?」
若者はもじもじしながら、
「はあ……実は……」
と頭をかく。私はもう一度どやしつけようとしたが、夕子が抑えて、
「やっぱりね。――で、どっちの家? この家だった? それとも昨日燃えたもう一軒の方?」
「この家です。でもけが人、なかったんでしょ?」
「この家なの? 間違いないのね?」
「ええ、確かですよ」
その若者の銃を取り上げ、警察へ出頭するように言って行かせてから、私は言った。
「変じゃないか。こっちは兼一郎の家だぜ。――すると、後に壊れたのが、事故だったってことになるのかい?」
「ちょっと待って。分って来たわ。――そう。ガラスの割れたのが事故だったとすると……」
夕子は目を輝かせていた。何となくいやな予感がする。こうなると、ろくなことはないのだ。
「ね、あなた、ちょっとやってほしいことがあるんだけど……」
案の定、夕子は切り出した。
病室へ入ると、克子は、
「具合はどう?」
とベッドの堀谷兼一郎へ声をかけた。包帯の下から、
「ウーン」
と唸るような返事。克子は持って来た手提げ袋から果物を出して、テーブルへ置きながら、
「巧く行ったわね。警察も何とも疑っちゃいないようだし。――あとはしばらく時間を置いて、私たちが一緒になるだけ」
「ウン……」
「ところでね、例の臨時に雇った連中だけど、報酬の額は私が適当に決めておくわよ。いいでしょ?」
「ウン」
「あまり少なくても多くてもまずいわ。後でゆすられるのはごめんですからね。でもちょっと突飛な計画だったけど巧く行ったじゃないの」
克子の顔に会心の笑みが浮かぶ。「あなたはちょっと危険な目に会ったけど、一生弟のご意向を伺いながら生きることを思えばねえ。……まあ、これから二人で好きなようにやって行きましょうよ」
「刑務所を出てからね」
克子がキャッと悲鳴を上げ、目を見開いて、べッドに起き上った包帯の男を見つめた。
「あなたは……誰なの!」
「やあ、奥さん」
私は顔の包帯を取り去りながら、「堀谷兼一郎氏は病室を移りましてね」
「兄弟同士の争いなのに、警察へしつこく助けを求めて来た。まずこれがおかしいと思ったのよ」
夕子はスナックで昼食のスパゲッティを平らげてから言った。「普通なら何とか警察沙汰にしないようにするのにね。――ではその目的は何か。考えられるのは、いわば公平な目撃者が必要だったんじゃないかっていうこと。証人がね、それが警察なら、こんな確かなことはないわ」
「そりゃそうだ」
「生き残ったのは確かに兄の兼一郎だったわ。もともとこれは兼一郎と克子が共謀して兼二郎を殺そうという企みだったのよ」
「色々事情に通じた人の話を聞いてみると、面白い話が出て来たよ。確かに兄の兼一郎は沢山の肩書をしょい込んでいたが、実際は弟の方が商才があって、兼一郎はいつも弟の意見を聞いては会社を運営していたんだ。ところがこの弟と来たら、名誉や富にとんと興味のない男で、自分は何の肩書もなく、勝手気ままに暮していた。それでいて、父親譲りの商才があったんだなあ。赤字経営って話もでたらめだったよ。確かに石油ショックの時、一時は危なかったらしいが、今は持ち直してるんだ」
「兄の方はそれがたまらなかったのね。そして兼二郎の妻の克子も、兼一郎の豪華な生活に憧れるようになっていた。そして二人で弟を殺そうと計画したわけね」
「どういう手順だったんだい? まだ僕にゃさっぱり分らないよ」
「兄弟が一卵性双生児だったこと、そしてすぐ近くに、よく似た造りの家を持っていたこと。――この二つから思いついた計画ね。手っ取り早く言えば、兄弟の喧嘩なんてなかったのよ」
「すると弟の方の話はどうなるんだ?」
「堀谷兼二郎には、私たちは一度も会っていないの」
私はキョトンとして、
「何だって?」
と思わず言った。
「分らない? 全部、兄の兼一郎の一人芝居なのよ。電話をかけたのも、ホテルへ現れたのも、兼一郎一人なの。考えてごらんなさい。私たち、あの兄弟を同時には一度も見てないわ。ちょっとカツラをつけ、頬に綿を含めば双子の弟のでき上りってわけよ。そして私たちに散々兄弟の争いを吹きこんだの」
「しかし、あの家は――」
「家だってそうなのよ」
「というと?」
「私たちが最初に行った兼二郎の家も、車で連れられて行った兼一郎の家も、同じ兼一郎の家だったのよ」
私は唖然とした。
「――冗談だろう! 玄関のドアも、飾りつけも……」
「本当のことよ。大体、いくら双子の家だって、あんなに似てるなんて、ちょっと出来すぎよ。――まず兼二郎として私たちをもてなし、それから車で林の中をウロウロして、結局、同じ家へ戻って来たわけ。なぜ十五分もかかったか、分るでしょ? 部屋の装飾を変えたり、玄関のドアまで付け替えたんだから、最低それくらいの時間が必要だったのよ」
「驚いたね!」
「そして今度は兼一郎に戻って、私たちと食事をし、私たちを泊めて、夜中にまず本当の弟の家へ行って弟を殺し、家に火をつけ、戻って来て自分の家にも火をつけたのね。それから私たちの目の前で弟の家へ駆けつけて、自殺の話をでっち上げる。――証人は他ならぬ私たちってわけ。燃えてしまえば、それほどそっくりな家でなくても、分らなくなってしまうしね」
「なめられたもんだな!」
「兼一郎の家の使用人はきっとまともな連中じゃないのね。十五分間で模様変えをやらせるために、きっと本当の使用人に休みをやって、別に雇ったのよ。とても一人、二人じゃあんなことできないもの」
「しかし、いつそれに気付いたんだ?」
「例の窓ガラスよ。あれがどうもひっかかってたの。そしてあの若い人が間違って撃ったのは、兼一郎の家の窓だって言ったでしょう? とすると、後に割れたのが事故だったってことになる。でも全く同じ窓が事故で割れるなんて、あまりに偶然すぎるわ。だからそれが最初に割れた窓だったに違いないと思ったの。すると兼二郎の家というのは、実は兼一郎の家だったってことになるでしょう」
「でもどうして二度も割ったんだ?」
「最初に割れた時は、私たちが昼食を取ってる間に、隠れていた使用人たちがガラスを片付け、十五分間の間に新しいガラスを入れたわけね。割れたままにしておいたら、次に来た時同じ家だってばれちゃうから。でも新しいガラスだってことは、よく見れば分ってしまう。他のガラスと比べればきれいでしょうからね。それで、兼一郎が使用人を使ってわざともう一度、そのガラスを壊させたのよ」
「なるほど。すっかり欺されたなあ!」
「手の込んだ計画だったけど、考えてみれば、当の弟の方は自分が殺されるなんて思ってもいなかったんでしょうね。克子と兼一郎は動機から何から全部こしらえ上げて、警察にうまく信じ込ませた……。きっと兼一郎の方は芝居でもやったことがあるんじゃない? 筋書の作り方、あの二役の演技。大したものよ。でも残念ながら、私の頭の方がもうちょっと手が込んでたわね」
夕子は得意気に言った。
「――さて、じゃ署へ戻るよ。本間警視に報告しとかなきゃ。しかし、どう説明するかなあ。途中でこんがらがっちまうんじゃないか」
「単純明快な説明をしてあげたのに」
「あれで単純?」
「そうよ。アインシュタインの相対性理論よりはよっぽど簡単よ」
「やれやれ」
「私、探偵学、物理学の他、数学も強いの。計算してあげるわ」
「何を?」
「今日もらって来るボーナスの計算よ」
夕子はじろりと私をにらんで言った。「今夜は本当に招待してね」
「うん。それがね……ちょっと出張なんだ、夕方から」
「あら! じゃ今夜は――」
「この昼飯おごるからさ、これで……」
身の危険を感じて、私はスナックを飛び出した!
第三話 ライオンは寝ている
1
「この辺は、ずっと山だったんだろうな」
私はある種の感慨を込めて言った。
「きっと、建売山[#「建売山」に傍点]っていうんでしょ」
永井夕子が真面目くさった顔で肯く。「小川のせせらぎは下水川[#「下水川」に傍点]、雑木林は電柱林[#「電柱林」に傍点]っていうのね、今は」
ローカル列車で約三十分、都心から二時間余という遠隔地にも、続々と宅地が造成され、悲しきサラリーマンは冬の朝など、まだ星の|瞬《またた》く時間に出勤しなければならない。駅まで遠いのに、バスもないと来ているから、勢い自転車利用にならざるを得ないが、星空のサイクリングなんて、わびしい限りだ。
「この辺に私たちも新居を構えましょうか」
夕子がドキッとするようなことを言い出す。
「その前に結婚しなきゃ!」
「あらそう? いいじゃないの、同棲だって。それとも捜査一課の警部は同棲するべからずって決りでもあるの?」
「そ、それは――」
「ま、その内にね」
とニヤリ。やれやれ……。いつもこうなんだから! 本気かと思えばヒョイとはぐらかされる。しかしなあ、俺も四十……。彼女はうら若き女子大生。あと四、五年もすりゃ、こっちは中年の疲労、色濃く、
「年寄りはごめんだわ」
と夕子に逃げられる運命にあるのだ……。
「何、考えてんのよ?」
夕子に|訊《き》かれて、私は慌てて、首を振った。
「いや、別に」
「疲れたの? 少し休みましょうか?」
「何を言うか!」
私は憤然として、「まだ十分しか歩いてないんだぞ!」
「頼もしいのね。|年《と》|齢《し》の割には」
ぐっと胸を|抉《えぐ》られる思いだ。夕子はてんで気にしない様子で、
「そろそろ見えてもいい頃ね」
――この日、春先にしては風もなく穏やかな休日、私は夕子のお供で、この山を切り拓いた新興住宅地の道を|辿《たど》っていた。陽射しは歩いていると上着を脱ぎたくなる暖かさ、夕子も春らしい淡いピンクのセーター、下はジーパンという軽装に、ちょっと大きめのショルダーバッグをかけている。
「この道でいいんだろうな」
「そのはずよ。――あ、あの赤い屋根だわ」
と指さす方を見ると、まだ雑木林の残るあたりに、えらくのっぺりと広がる邸宅が見えた。
「相当な広さらしいね」
「そうよ。何しろこの辺一帯の土地を持ってる地主さんですもの」
「それで大会社の取締役か。どっちか受け持ってやってもいいな」
「あなただって犯罪取締役[#「犯罪取締役」に傍点]じゃないの」
と夕子が笑いながら言った。
用心棒のアルバイト、やらない? 夕子に言われて私は、警官がいかに非番とはいえ、そんなアルバイトをやるわけにはいかないと答えたのだが、よく聞いてみれば何のことはない。要するに家族で旅行するので、留守番を頼むということと分ってOKした。
目指すは鮫島浩一郎という人物の邸宅。夕子が家庭教師のアルバイトをしている中学生の家なのである。ただ、家庭教師といっても家がこの遠さなので、その|教《のり》|浩《ひろ》という中学生の方がいつも都心の私立中学からの帰りに、夕子の大学まで出向いて来ている。だから夕子にしても鮫島邸を訪れるのはこれが初めて――という次第であった。
「警視庁きっての腕利き警部ってふれこんであるから、あまりヘラヘラしないでね」
「僕がいつヘラヘラした!」
と心外である意を表明すると、
「いつもよ」
とアッサリ言われて少々|憮《ぶ》|然《ぜん》。
「着いたわ。――大した屋敷ね」
全くそれは、都心などでは望むべくもない広い敷地で、高い塀がずっと囲んだ奥に、これもかなりの広さの邸が覗いている。自分のいる官舎の六畳間とではスケールが違いすぎて、比べる気にもならない。
「塀がずいぶん高いのね」
「周囲がまだ雑木林だからな。用心のためだろう」
堂々たる門構え。呼鈴を押すと、インタホンから、
「どなた様でしょう?」
と鈴をころがすような優しい女性の声。
「永井夕子です」
「お待ちしておりました。今、門を開けます」
門というのが――これはまた、まるでダムの水門みたいな頑丈な鉄板造り、扉の上には鋭い矢尻状の突起、とまるで要塞の入口みたいだ。これだけ厳重に防備がしてあれば、留守にするからって誰もいなくてもよさそうなものだが……。
門が開くのを待っていると、背後の雑木林の奥から、エンジンの唸りや金属の触れ合う音が聞こえて来た。見れば、ブルドーザーが木の根を掘り起こし、パワーショベルが、その|逞《たくま》しい腕で土を削り取り、ローラーがそれをならして行く。……開発の波は、かなり山を上ったこの高台まで押し寄せて来ているのだ。
モーターの低い唸りが聞こえて、門が微かに金属音をたてながら開いた。
「立派なお屋敷ですねえ」
ちょっとしたマンションぐらいもある広々とした応接間で紅茶を飲みながら、私は言った。
「広いだけに掃除や手入れも大変で」
インタホン抜きで、いっそう涼しげな声の印象的な英子夫人が微笑んだ。「いつも二人ぐらい人を使っているのですが、長く居つかなくて……。ちょうど今、一人もいないものですから、こんなご面倒をおかけすることになってしまいまして。本当に申し訳ございません」
「いえ、お役に立てれば……」
すでに旅行仕度なのか、すみれ色のスーツに身を包んだ英子夫人は清楚な感じの美人で、どことなく寂しげな顔立ちである。
「旅行はどちらへ?」
と夕子が訊いた。
「南伊豆に別荘がありまして……。主人が忙しいものですから、ほとんど使ったことがないのですが、珍しく三日ほど休みを取ってくれて、親子三人で行ってこようということになったんですの」
「素敵ですね!」
「ご出発は?」
と私が訊くと、英子夫人はちょっとドアの方を気にして、
「そろそろ車が来る頃ですけれど……。みんな何を手間取ってるのかしら」
と困ったように言った。
「で、その三日間、ここで留守番をしていればよろしいんですね。何かご注意とか……」
「あ、いえ、本当に好きなようにお使い下さればいいんですの。それと、もし来客や電話などがありましたら、毎晩こちらへ電話を入れますからその時に」
「分りました。用件を伺っておきますわ。他に何か……水をやる花とか……」
「あら、そうだわ! 肝心のことをお願いするのを忘れてしまって。ポチに餌をやっていただきたいんです」
「ああ、教浩君がいつも自慢してますわ、『うちのポチは世界一の番犬だ』って」
「ご説明しておきますわね。どうぞ」
英子夫人は席を立って応接間を出た。私たちもそれに続く。長い廊下は、応接間から見えた広々とした芝生の庭園とは逆の方へ向っているようだ。
「庭にいるのじゃないんですか?」
「ええ、裏庭の方なんですよ。こちらはポチ専用みたいなもので……」
「ははあ」
と私は呆れてしまった。犬専用[#「犬専用」に傍点]の庭とはね! 庭を持ちたくても持てない人間が数え切れないというのに。
狭い通路の奥から階段を降りると、大きな冷蔵庫が三台も並んだ小部屋があった。
「この中に、一回分ずつ分けた餌が入っておりますので、決った時間にやって下されば結構なんです」
「分りました」
「庭へ出るのはこっちで……」
小部屋から、またえらく丈夫そうなスチールのドアを開けると、やっと〈ポチの庭〉へ出た。
「いや……これが庭ですか!」
思わず私は声を上げた。もう一方の庭も広かったが、こっちも大変な広さだ。それもほとんど自然のままというのか、雑木林が残っていて、所々に運動用なのか、丸太を組んだ台やら階段様の物があり、古タイヤなどが転がっていた。
「ポチのためには、こういう風にしておいた方がいいものですから」
と英子夫人は平然と言って、「どこにいるのかしら……。ポチ! ポチ!」
と呼んだ。すると茂みの陰から顔を出したのは――どう見てもポチではなかった。
「やあ、先生! いらっしゃい!」
「教浩! まだそんなところにいたの。早く仕度なさい」
と英子夫人が言った。「もう出かける時間よ」
少年はヒョロリとノッポで|華《きゃ》|奢《しゃ》な感じだった。顔立ちは母親似で、なかなかの美少年だ。しかし最近のガキは――いや、子供は、背丈は我々より大きいぐらいなのに、その上にのった顔は子供っぽく、えらくアンバランスである。
「やあ、教浩君!」
夕子が元気よく言った。「やって来たわよ」
「そっちが叔父さんですか?」
そうそう。お断りしておくのを忘れていた。例によって夕子は私の|姪《めい》というふれ込みなのだ。〈恋人〉と言ったって、今の中学生は驚きもしないだろうが、やはり両親の手前、ということがある。
「そうよ、宇野警部。警視庁捜査一課の泣く子も黙る鬼警部なのよ」
「へえ! カッコいいなあ! でも――」
と私と夕子を交互に見て、「全然似てないですね」
どうも私への賞め言葉とは取れない。英子夫人が、
「教浩、ポチは? 先生にご挨拶をさせておかないと」
と言うと、
「うん。その辺にいるはずだよ。知らない人が来てるんで、あいつ照れてんだ」
教浩少年は林の方へ、「ポチ! ポチ!」
と声をかけた。ややあって、茂みがザザッと揺らぐと、〈ポチ〉が姿を見せた。
「一体どうする気だよ!」
私が言うと、夕子は、
「そんなこと言ったって、今さら断れないじゃないの!」
と言い返した。
「だけど、無茶だよ! 三日間だぞ!」
「しょうがないわよ、私に文句言ったって。私だって知らなかったんだから。〈ポチ〉がライオン[#「ライオン」に傍点]だなんて」
応接間で二人きりになっていた私たちは、ため息と共に黙り込んだ。
あの驚き――茂みの陰から、のっそりと、たてがみも豊かなライオンが姿を現した時は、私も夕子も、その場に腰を抜かさんばかりだった。辛うじて立っていられたのは、英子夫人への体面、というよりは要するに足がすくんで動けなかっただけなのだ。
「大きななりをしてるわりに小心で……」
英子夫人が微笑みながら言った。
「おいで、ポチ!」
ポチだって? ライオンにポチ? こんな名前ってあるか! 以前、日本にいたある外人が、飼っている犬にミケと名前を付けたと聞いたことがある。動物の名だから、と誰かに聞いて付けたのだろうが、その犬はセント・バーナードだったのである。
しかし犬のミケだって、ライオンのポチに比べりゃ罪がないってもんだ。……英子夫人が呼んでも、小心なポチは人見知りするのか、なかなか近付いては来なかった。こっちもその方がありがたかったのだが、
「ポチ、心配ないんだよ! おいで!」
と教浩少年が声をかけると、巨体を波打たせながら走って来た。
「すっかり教浩の方になついてしまって。この子の言うことはとてもよく聞くんですのよ」
と英子夫人に言われて、私はこわばった顔の皮膚をひきつらせ、微笑らしきものを作った。教浩少年は、ポチの――いやどうも気分が出ない。「ラィオンの」と書くことにしよう――ライオンの首へ腕をかけ、たてがみを手でクシャクシャにかき回しながら、
「さ、先生と警部さんにご挨拶するんだ」
少年は夕子に微笑みかけて、「とってもおとなしいんです。大丈夫ですよ」
とライオンの首筋をポンと叩いた。ライオンはのっそりと私たちの方へ近付いて来た。
――動物園で実物を見たことはあっても、こんな間近に見るのはもちろん生れて初めて。その重量感、威圧されるような迫力は想像もできないほどだった。
「先生、手を出してやって下さい」
「え?……ええ……そう……」
夕子もさすがに顔から血の気が失せていた。しかしここは〈家庭教師である!〉という自覚が辛うじて彼女を支えたのだろう、キング・コングに捧げられたいけにえの美女みたいな、悲壮な面持で、そろそろと片手を差しのべた。ライオンが前足を上げて、夕子の手へヒョイと載せるとその重味で夕子は危くよろけそうになった。ラィオンが|喉《のど》の奥で、ゴォーッと唸り声をたてると、こっちの腹の底まで響いた。
「挨拶してるんですよ」
「あ、あらそう。……こ、こんにちは」
夕子がペコンと頭を下げ、早々に手を引っ込める。教浩少年がライオンの鼻を撫でながら言った。
「ね、本当に可愛いでしょう?」
――応接間のドアが開いて、大柄な赤ら顔の男が入って来た。
「やあ、先生ですな? いつも息子がお世話になります」
声もだみ声で、どこかのオッサンという感じ。取締役というイメージではない。白っぽいスーツがおよそ似合わないし、まあどうも大地主といっても叩き上げた口らしい。あの英子夫人の上品さがまるでマッチしない感じだった。
「いや、どうも留守番なんかをお願いしちまって申し訳ないですな。何せわしも仕事が忙しくて、別荘は三つほど持ってるのですが、自分では見たこともない始末で。まあ、たまたま三日ほど休めそうだというので、急に思い立ちましてな。だがこの家を空っぽにして行くのも気が進まん、そういうわけで、どうかよろしくお願いしますよ。こちらは叔父さんですな? 警察の方だそうで。留守をお願いするのに持って来いですな、ハハ」
と笑った所へ、ドアが開いて英子夫人が顔を出した。
「あなた、車が……」
「おお、そうか。では後はよろしく!」
一人でまくし立てて行ってしまう。私と夕子は玄関まで送りに出た。――この金持は車の運転ができないのか、それとも金持は自分でハンドルを握るものじゃないとでも考えているのか、ハイヤーを呼んであった。それも外車の馬鹿でかい奴だ。ついでにポチも乗せてきゃいいのに。
「じゃ、先生、行ってきます」
教浩少年がニコリと笑った。「ポチをよろしくね」
車が門から滑るように出て行くのを見送って、私は言った。
「あのライオンに、僕らをよろしく、って言ってってくれりゃいいのに」
「愚痴ったって仕方ないわよ、こうなったら。――さ、家へ入りましょ」
玄関へ入り、遠隔操作のボタンを押すと、門が静かに閉じるのが見えた。
「ライオンの世話っていっても、決った時間に生肉を庭へ放り込んでやればそれでいいんだから、大した手間じゃないわよ」
「そう願いたいね」
居間――ここも広い|絨毯《じゅうたん》を敷きつめた部屋で、凄いステレオ装置がある。夕子はご機嫌でFM放送をかけっ放しにしておいて、紅茶を|淹《い》れて来た。
「好きなようにしててくれっていうんだから、そうしましょうよ」
私も大分、ライオンとのご対面のショックから立ち直っていた。
「ところで、訊くのを忘れてたんだがね」
「何のこと?」
「この留守番のアルバイト料はどうなってるんだい?」
「そんなこといいじゃないの」
夕子は、|絨毯《じゅうたん》に坐り込んでいた私に身体をすり寄せて来て、「今はそんなこと……」
と唇を寄せて来る。――どうも何だかごまかされてる感もあったが、私も敢えて追及しなかった……。
2
冷蔵庫――むろん人間用の――には色々の材料がひしめき合っていて、夕子は腕をふるって、夕食の仕度をしてくれた。そのメニューの一端を紹介してみると、焼きすぎてカリカリになったステーキ、芯が固くてかむのに骨を折るジャガイモの煮つけ、水っぽいポタージュスープ、おかゆに近いご飯、といったところだ。それでも、
「おいしい?」
と訊かれて、まずいと答えるわけにも行かず、無理にゴクンと飲み込む。
「……なかなか旨いよ」
「そう! よかった。私、あんまり得意じゃないのよね、お料理。ここ、あんまり冷凍食品を置いてないんだもの、困っちゃうわ」
それでも、ワインは大変にいい味で(料理したわけじゃないから当り前だが)広い食卓で二人きりの夕食というムードだけでも、何とか食べられるものである。
その時、来客を告げるチャイムがゴーンと玄関の方から聞こえて来た。夕子が立って行く。
「――どなたですか?」
夕子がインタホンで訊くと、若い男の声が、
「山口といいます」
「あの……何のご用でしょう?」
「ご主人にお目にかかりたいんです」
山口という男の口調はやけにこわばっていた。「大事な用なんです! 門を開けて下さい」
「あの、お気の毒ですが皆さんご旅行に行かれて、どなたもおいでにならないんですよ。私は留守番を頼まれた者で――」
「旅行ですって! ――大変だ!」
私も一緒になってインタホンを聞いていたが、突然男が大声を上げたので、思わず夕子と顔を見合わせた。
「ど、どこへ旅行に行ったんです? 何とかしないと――早く何とかしないと手遅れになる!」
「どういう意味ですの?」
「奥さんが危いんだ! 奥さんが……殺される!」
「何ですって?」
「殺されるんだ! こうしている間にも……」
夕子が私の顔を見た。私は|肯《うなず》いた。夕子はインタホンへ向って言った。
「ともかく、今門を開けます。お入りになって下さい」
作業服に長靴、ヘルメットを手にした山口という男は、まだ三十そこそこの若さだった。
「まあ坐って」
私は居間へ山口を通した。「君は一体どういう人なんだね?」
「僕は……この下で工事の監督をしています」
「なるほど、それでその格好か」
「はあ。今のところ工期が迫っていて忙しいものですから、夜まで仕事をしていて……」
「で、この家の奥さんが危いというのは……」
「本当なんです! 信じて下さい! あいつが旅行へ出たのは奥さんを殺すためなんだ!」
「〈あいつ〉というのは、ここのご主人だね」
「そうです」
「君がそういうのは……」
「僕は奥さんと愛し合っているんです」
「ははあ……」
私はゆっくり肯いた。「いつ頃から?」
「そうですね。もう四カ月くらいになりましょうか」
あまり悪びれた様子もなく、山口は言った。「工事の騒音などで迷惑をかけることがあってはいけないので、工事に入る前に挨拶に来たのが最初でした」
まあ、あの英子夫人には、あの亭主よりもこの男の方が似合っているように見えるのは確かである。
「そんなことより、何とか手を打たないと……」
と落ち着かない山口へ、
「まあ、待ちなさい。夜には向うから電話があるはずだ。事情を話してごらん」
私は自分の身分を明かした。山口は目をパチクリさせて、
「いや……警部さんですか! それなら心強い。お話ししますよ。あの人は――奥さんのことですが――気の毒な人なんです。鮫島という男は、かなり悪どいこともやって成り上って来た男で、奥さんの実家が中小企業の社長で、鮫島から金を借りたばかりに、潰すも生かすも鮫島の思いのままという事態になってしまったんです。それで鮫島は、会社を助けてやる代りにあの人と結婚したわけです」
「いささか時代がかった話だね」
「でも事実なんです。……あの人は乱暴な亭主にじっと堪えて生きて来ました。僕は最初はただの話し相手で、時々、昼休みなどにここを訪れていたのですが、その内にお互い強く|魅《ひ》かれて……愛し合うようになりました。いい事だとは思っていませんが、後悔はしていません」
「ふむ……」
私はただ肯いた。こういうことに関して、あまり説教する立場ではない。夕子は傍でじっと話を聞いていたが、
「それがご主人に知れたわけですね?」
と訊いた。
「ええ……。よくある使用人の告げ口というやつです。僕らも気を付けてはいたんですが」
そういう目をごまかすのはまず不可能に近い。
「で、ご主人は何と?」
山口は首を振った。「それが心配なのです。奥さんは、間違いなくご主人が僕らのことを承知していると言うのですが、彼からは何の話もありません。それだけに怖いのです。一体何を考えているのか……」
「どうせなら怒鳴られるか殴られた方がいいというわけだね」
「正面切って話ができれば、はっきりケリもつくと思ってやって来たわけですが」
夕子がまた口を|挟《はさ》んだ。
「奥さんが殺されるとお考えになったのはなぜですか?」
「鮫島は家族旅行へ出かけるような男じゃないんです。しかもこんなに突然言い出したなんて、きっと何か魂胆があるに違いありません」
と山口が言った時、電話が鳴った。夕子が立って行って受話器を取る。
「はい。――あ、奥さん」
山口が思わず腰を浮かした。
「ええ、こちらは別に何も。――はい、分りました。――いいえ」
夕子は受話器を置いた。「山口さん、別に心配はないようですよ。奥さん、何も変りはないとおっしゃってました」
「本当に……」
と言いかけて、ホッと息を吐き、「いや……何でもなければいいんです。ただ……どうしても気になりまして……」
と気抜けしたように目を閉じた。
「まあ気持は分るよ。僕も心配ないと思うがね。ご主人は何も知らないのかもしれない。奥さんの思い過ごしということもある。しかし、いずれにせよ早い機会にはっきりとさせた方がいいと思うね」
「ええ、それは充分に分っています……。いや、どうも失礼しました」
山口が帰って行くと、夕子は首を振って言った。
「純情そうな人ね。本当にあの奥さんにほれちゃってるんだわ」
「また人殺しかとヒヤリとしたよ。まあ何事もなく終ってほしいね」
「また[#「また」に傍点]、ってどういう意味よ!」
「君といるとどうも物騒なことが起こるからね」
「まあ、私のこと疫病神みたいに言って!」
と夕子は私をにらんだ。
「おい、夕ご飯を食べちまおうよ」
「ごまかそうたって――あ、そうだ、忘れてた」
「何だい?」
「あの可愛いポチに餌をやらなきゃ」
「おいおい、忘れないでくれよ。腹をへらしてこっちが食べられでもしたら……。餌をやる時に気を付けろよ」
「大丈夫。ちゃんと高い所に小窓があってね、そこから投げ込むの。ドアは開けないわよ」
「当り前だ」
「じゃ、済まして来ちゃうから」
夕子が行ってしまうと、私はかなり冷めた夕食をまた食べ始めた。しかしどうにも食欲が進まない。あのライオンがでかい生肉にガブッとかぶりついているのを想像すると……。
「ねえ」
声に振り向くと、夕子が途方に暮れたような顔で立っている。
「どうしたんだ?」
「何もないの」
「ないって……何が?」
「餌よ。冷蔵庫は全部空っぽなの」
「おい!……冗談じゃないぜ!」
私は立ち上った。「あの奥さん、確かに……」
「そんなこと言ったって仕方ないじゃないの。生肉一かけらも入ってないんだもの」
私は夕子と一緒に、あの小部屋へ行った。確かに冷蔵庫は三つとも空である。
「――旅行の仕度で気を取られて忘れたんだわ、きっと」
「そうかな……」
「どういうこと?」
「もしかして僕らはライオンの餌にされるためにここへ呼ばれたんじゃ……」
「それは被害妄想よ。ともかく困ったわね」
「別荘へ電話してみろよ。どこか他の所にあるのかもしれない。なければ、いつも使ってる肉屋から届けてもらおう」
「そうね」
ところが別荘へダイヤルしても、電話はずっとお話し中のまま。夕子は諦めて受話器を置くと、
「お手上げだわ!」
とソファに坐りこんだ。
「こっちの冷蔵庫の肉は?」
「わずかばかりなら残ってるけど……」
「それだけでもやっておくか」
「却って食欲を刺激して危いんじゃない?」
「そうか。今から買いに行くってわけにも……」
「どこも開いてやしないわよ、こんな時間に」
「うん。二十四時間営業のスーパー、この辺にないかな?」
「まさか」
「そうだ!」
私は手を打った。「原田の奴の所へ電話しよう。奴の家の近くにそういうスーパーがあったはずだ」
「ここまで持って来てもらうの?」
「そうとも!」
と私は素早くダイヤルを回しながら言った。「あいつにすき焼用の牛肉一キロやると言えば、南極までだって飛んで行くさ!」
案の定原田刑事は二つ返事で承知した。
「で、どれぐらい買ってきゃいいんですか?」
「店にある肉全部だ! 何十キロでもいい!」
「一体何の騒ぎです?」
「何でもいいから早くしろ! 急ぐんだ!」
「宇野さん、夕子さんと一緒なんでしょ」
「それがどうした?」
「やっぱりね」
と妙な含み笑いをして電話が切れた。……あいつ、何を考えてるんだ?
「これで助かるよ」
「スーパーで肉が売切れだったら?」
と夕子が訊いた。
「その時はその時だ」
「どうするの?」
「原田を放り込んでやる」
――二時間ほどたって、やっと原田がやって来た。でっかい紙袋を四つもかかえ込んでいる。夕子が早速その一つを持って出て行くと、原田は大きな図体をドッカとソファに埋めて、キョロキョロ部屋を見回しながら、
「広い屋敷ですねえ」
と感心している。
「ああ、大地主様だ」
「ここで宇野さんは何してんです?」
「留守番さ。夕子と二人でね」
「へえ? いいですねえ。ホテルに泊るのに比べりゃ安いし……。そうそう、肉の代金は……」
「払うよ、心配するな。――どうだ、いいワインがあるぞ。しかし、車か。それじゃ飲めないな」
「いえ、構いませんよ」
「おい! 警官がそんなことを――」
「タクシーですから」
「何だ、待たせてあるのか? それじゃ――」
「もう帰しました」
「そうか……帰りが大変だな。それじゃ、お前も泊ってけ」
「はあ、そのつもりでタクシーを帰したんです」
「図々しい奴だな!」
と私は笑った。「よし、一杯行こう!」
夕子が戻って来て、
「あーあ、ホッとしたわ。|貪《むさぼ》るように食べてたわよ」
「誰がです?」
と原田が不思議そうな顔をする。
「ン? ポチだよ」
私は原田にグラスを持たせてワインを注いだ。――人の酒とは旨いものである。まあワインだからガブ飲みするわけにはいかないが、心地よく酔いも回って、夕子と三人、酒盛りは深夜まで続いた。
「……そろそろ寝るか」
大欠伸をしたのはもう三時過ぎだった。
「二部屋、お客さん用の部屋を用意してくれてるから、原田さん片方を使えばいいわ。私たち同じ部屋でいいから」
「分ってます。お邪魔はしませんよ」
と原田はニヤニヤしながら立ち上って、「ちょっとトイレを……」
と廊下へ出て行った。
「さて、我々は二階へ行くか」
「一応ガスの元栓や戸締り見てから寝なきゃ」
「そうか。留守番だものな」
電話が鳴ったのはその時だった。夕子が受話器を取る。
「はい。――あら奥さん。どうなさったんですの?――え? 何ですって?」
夕子がはっとした。私は急いで歩み寄る。
「はい。――分りました!」
夕子は受話器を置いた。「大変だわ」
「どうした?」
「ご主人が姿を消しちゃったんですって」
「姿を?……どういうことなんだ?」
「分らないの。目を覚ますといなくなってたんですって。自分で服を着替えて出て行ったらしいんだけど……」
「どこへ行ったんだろう?」
「さっぱり分らないわ。別荘からは車でしか出かけられないらしいけど……。ともかく奥さんも明日、朝になってご主人が戻らなければ、こっちへ引き返して来るつもりですって」
「ふむ。……気に入らんね」
と首をひねっていると、原田がハンカチで手をふきながら戻って来た。
「あーあ、寝ぼけて置物にぶつかっちまいましたよ」
「気を付けてくれよ」
「それにしても、廊下の真中にあんなでかい物置いとくなんて」
「廊下の真中?」
「ええ。ちょっと本物かと思ってギクッとしましたよ。でっかいラィオンのはく製で……」
私と夕子はゆっくりと顔を見合わせた。まさか、という表情が広がる。
「おい、原田! そのドア閉めろ!」
「え?」
原田がキョトンとしていると、半開きのドアから、ポチがのっそりと入って来た。
「心臓が止るかと思いましたよ」
原田が図体の割に気の弱い声を出す。
「全く……どうなってるんだ!」
「私、ドアなんか開けなかったわ、本当よ」
夕子が言い張った。
「分ってるよ。しかしだな、かのポチ君がそこにいることだけは否定しようのない事実だぞ」
ライオンは居間の隅の方で気持良さそうに眠っていた。――慌ててテーブルや椅子の上へ飛び上った私たちの目の前を、悠然と歩いて行って、ゴロンと寝ちまったのである。
「それにしても人間の心理って面白いわね。テーブルの上なんかに上っても、襲われりゃ同じなのに、つい上っちゃうんですものね」
「心理学なんかやってる場合じゃないぞ」
「でも大丈夫よ。本当におとなしいじゃないの。餌さえやっておけば」
「そのまま朝まで寝かせておくのか?」
「じゃ、起こして『君の部屋はあっちだよ』って言ってやったら?」
「ごめんだね!」
「明日になれば奥さんや教浩君も帰って来るし、外へ出さないようにすれば……。それに明るくなったら自分で庭へ戻るんじゃないかしら」
「要するに我々は徹夜か」
「眠りたい方はどうぞ」
原田がため息をついて、
「眠くありませんな、全然」
と言った。三人とも、またそろそろとソファに腰を降ろす。といってワインを飲む気分でもない。
「ちょっとドアがどうして開いたのか見て来よう」
と私は立ち上った。
「私も行くわ」
「わ、私だけ置いてかんで下さい!」
「おい、一人は残ってないとまずい。原田、大丈夫だよ!」
原田は情ない顔で私を見ながら言った。
「戻って来て骨だけになってたら、宇野さんのせいですよ」
私と夕子は廊下を抜け、小部屋へ入った。庭へのドアが開いたままになっている。夕子はドアの|把《とっ》|手《て》を見て、
「ポチが自分で開けたのよ、きっと」
「まさか!」
「歯の跡じゃない? こんなに表面を引っかいた傷があるわ」
「参ったね、これじゃ物騒でしょうがない。鍵をかけてなかったのか!」
「そうらしいわね」
と言って夕子はふと庭へ目をこらした。
「ねえ、ちょっと、そこに懐中電灯が下がってるでしょ」
「どうした?」
「貸して。……庭に何かボールみたいな物が転がってるわ」
夕子は懐中電灯の光を庭へ向けた。
「あ……あれは……」
夕子がよろけた。私は彼女を抱きかかえながら、自分も一瞬ショックで身動きできなくなってしまった。
手が震えて定まらぬ光が照らし出したのは、赤ら顔の鮫島浩一郎の……首だけだった。
3
「大丈夫か?」
私は夕子の手を握った。ソファに起き上った夕子はまだ少し青ざめていたが、
「ええ……。もう大丈夫」
と肯いた。
「今、地元の警察が来てる」
「ポチは?」
「まだ居間で眠ってるよ。ライフルを持った連中が数人で見張ってる」
「何てことかしら! ……奥さんに連絡はついて?」
「別荘へ電話を入れた。今、こっちへ向ってるよ」
「ショックでしょうね」
「死に方が死に方だからな」
「鮫島さんの……体の方は?」
「うん、庭で見つかった。少し離れた塀ぎわにあったよ」
夕子はため息をついた。
「一体何があったのかしら?」
「さっぱり分らない。鮫島さんがどうやってあそこまで入ったのか、何のために入ったのかもね。そしてどうしてライオンに殺されるはめになったのか」
「ライオンだって空腹な時以外は人間を襲うことなんてないはずだわ。ちゃんと餌はやってあったし……。ただし相手が危害を加えようとさえしなければ[#「相手が危害を加えようとさえしなければ」に傍点]、だけど」
「鮫島さんがあのライオンに何かしようとしたっていうのかい?」
「もし……」
「何だ?」
「もし、鮫島さんがあの塀を乗り越えて入って来たとしたら?」
「自分の家へ入るのに、塀を乗り越えて来るのかい?」
「理由はともかくとしてよ。もしそうだとしたら……あのポチは反射的に襲いかかったかもしれないわ……」
「そうか。それはあり得ることだな」
「いずれにしてもあのポチは殺されるんでしょうね」
「そういうことになるだろうね」
夕子はゆっくりと首を振った。
「可哀そうに、教浩君……」
その時、玄関の方でガヤガヤと人の声がした。
「奥さんが着いたようだな」
私は言った。「気が重いよ。非番のはずがこの事件だ」
英子夫人は顔色こそ普段にも増して青白かったが、しっかりした態度で、死体を確認した。さすがに見た瞬間には目をそむけたものの、気を取り直してはっきりと見据え、
「主人ですわ」
と言った。そこにはショックはあったが、悲しみの影はないように思えた。あの山口という男のことがチラリと脳裏をかすめた。
大変なのは夫人より息子の方だった。
母親の後から家へ飛び込んで来るなり、
「ポチ! ポチ!」
と大声で叫んだのだ。原田が慌てて、
「静かに!」
と押える。
「ポチはどこだ? どこにいるんだよ」
「居間だ。――行っちゃいかん!」
「どうして?」
「危険だよ!」
「何が危いもんか。ポチは生れたての子猫より安全だよ!」
「お前の親父さんをかみ殺したんだぞ」
原田の言葉に、教浩少年の顔色がさっと変った。どうやら父親が死んだ詳しい様子は知らされていなかったらしい。
「嘘だ!」
と原田をにらみつける。
「本当なんだよ、残念ながら」
私は少年へ声をかけた。「……君のお父さんを殺したのはポチなんだ」
「そんな……」
教浩少年は青ざめて、「じゃ……ポチは……殺されるの?」
と震える声で訊く。
「そういうことになるだろうね。でも苦しまない方法で――」
終りまで聞かずに、少年は階段を駆け上って行ってしまった。夕子がゆっくりとやって来た。
「聞いてたのか」
「ええ。……父親の死よりポチのことの方がよほどショックだったのね」
「そうらしい」
「奥さんから事情を聞いた?」
「これからだ」
「じゃ私も行くわ」
もう五時を回っていた。そろそろ明るくなる頃だ。――英子夫人は応接間のソファに身じろぎもせずに坐っていた。
「奥さん。こんな時に誠に申し訳ないのですが、いくつか質問させていただかなくてはなりません」
「どうぞ。私は大丈夫ですから」
「ご主人が別荘からいなくなったとお電話をいただいたのは三時でしたね」
「はい、それぐらいだったと思います」
「ご主人が亡くなられたのはその少し前ぐらいのようですが、ご主人が別荘を出たのが何時頃だったか、見当はつきませんか?」
「さあ、それが……。主人は夕食を終えると、疲れたから先に寝ると言って自分の部屋へ行ってしまったんです」
「それは何時頃でした?」
「はっきりしませんが、八時か……それぐらいだと思います」
「奥さんは二時過ぎまで起きていらしたんですか?」
「いえ、十一時には寝ましたけれど、主人とは寝室を別にしておりますので……」
「なるほど。ではどうしてご主人がいないのに気付かれたんですか?」
「私、戸締りにとても神経質な方で、ちょうど二時頃にふっと目が覚めまして、玄関の鍵をかけたかどうか気になり出したんです。そう思い始めると心配で、確かめないではいられなくなり、玄関へ行ってみました。そうしたら鍵もチェーンもかかっていたのですが、主人の靴がなくなっていたんです」
「するとご主人はどこから出られたんでしょう?」
「裏口だと思います。台所の方から出る口がありますので」
「なるほど。それで?」
「はい。早速主人の寝室へ行ってみましたが、主人の姿はなく、べッドも寝た跡がありません。それでお電話を差し上げたようなわけで……」
「分りました。結局ご主人はこちらへ戻っておられたわけですが、何かその理由にお心当りがありますか?」
「さあ……。一向に思い当りません」
「ご主人があの裏庭で死んでいたことも、理由を思いつかれませんか?」
「分りませんわ、本当に……。主人はもともと動物を飼ったりすることの嫌いな人でした。時間の無駄だと言って、そんな暇があれば仕事をすると言っていましたから」
「そのご主人がよくライオンなどを飼いましたね」
「教浩のためでございます。主人も息子には甘くて、何かをねだられるといやと言えないのです。ペットショップで教浩がまだ赤ん坊だったポチを見つけて、どうしても欲しいと言って聞かず、結局負けてしまったのです。大きくなったら動物園へやるという条件だったのですが、飼ってみると可愛いものですし、主人はほとんど気にもしていませんでした。――主人がどうしてポチの庭へ……」
「ポチはおとなしい性質なのでしょう?」
「はい。何かの弾みで――何しろ大きくなりましたから――けがをさせるぐらいのことはありましたが、決して人を襲うようなことは……。とても信じられませんわ」
「思いがけない時に野性を取り戻すことがあるのかもしれません」
「そうですね……」
そこへ夕子が口を挟んだ。
「奥さん。ポチの餌が全然冷蔵庫に入っていなかったのをご存知でした?」
「まあ!」
英子夫人は思わず口を手で押えた。「私、入れておいたはずですわ……。まさか、それでポチが――」
「いえ、ちゃんと手に入れて食べさせておきました」
「まあ、それは……。でも確かに私……」
「冷蔵庫は三つとも空だったんです」
「まあ、一体どうしたんでしょう? 確かに入れておいたんですけれど……」
「誰かがわざと冷蔵庫を空にしておいたのかもしれませんね」
英子夫人は呆然としていた。――私は一つ咳払いをして、言った。
「奥さん。こういう時に、こんなことを伺うのは気が進まないのですが、ぜひお答え願いたいと思います」
「何でしょうか?」
「山口という男をご存知ですか?」
英子夫人がはっと息を呑んだ。「……ご存知ですね」
「はい。……存じております」
私は、一家が出発した後、山口が訪ねて来たことを夫人に話して聞かせた。
「そうですか……。あの人が……」
「彼はあなたがご主人に殺されると心配していましたよ。なぜですか?」
「私が……いつもあの人に、主人は乱暴だから、二人のことが知れたら殺されるわ、と言っていたからでしょう」
「もしそうなったら――」
夕子が訊いた。「本当にご主人は奥さんを殺そうとしたでしょうか?」
「殺すつもりはなくても、カッとなると我を忘れてしまう人なんです。あの人の力で殴られたら、本当に私など……」
「なるほど。今までにも暴力を振われたことが?」
「はい、何度も。とても独占欲の強い人で、私が誰か男の方と話をするだけで怒るのです。――あの人はそんな私に同情してくれて……」
そこへ原田が顔を出し、私を呼んだ。
「何だ?」
と立って行くと、原田は折り畳んだ手紙らしいものを出した。
「これが死体のポケットに」
開いてみると、メモ用紙にポールペンの走り書きで、
〈会いたい。今夜一時に、林の外れで。山口〉
とあった。――私は、ソファへ戻ると、その手紙を英子夫人へ黙って見せた。英子夫人は目を見張って、
「まあ、あの人の字だわ! これは……」
「奥さん宛でしょうな」
「ええ……。でも私は見ませんでした!」
「いつもこういうメモ用紙に?」
「はい。あの人が仕事で持ち歩いているんです。午後の郵便が来る頃に郵便受へ入れて、それを私が受け取っていたのです。……そうだわ。昨日は主人が昼頃会社から帰ったので……確か郵便物も主人が持ってきました」
「それで、これがご主人の手に入ったんですな。そして別荘から車を飛ばしてやって来た……」
「それじゃ、あの人が主人に何かしたとおっしゃるんですか?」
「それは分りません。ご主人を殺したのはあのライオンなのですから。しかし……」
「それはおかしいわ」
と夕子が言った。「山口さんは奥さんが旅行へ出たことを私たちから聞いて知っていたのよ。その時間にわざわざそこへ出向くはずがないわ」
「それもそうだな。しかし鮫島さんは――」
その時、どこかでガラスが割れる音がした。
「何かしら?」
腰を浮かすと、銃声が響いた。
「居間だ!」
私たちは居間へ駆けつけた。
「どうした!」
「ライオンが庭へ――」
と原田が、開いたガラス戸を指した。鍵の所のガラスが割られている。
「誰が鍵を?」
「あの子供です」
「まあ、教浩が!」
と英子夫人が声を上げる。
「アッという間で。――こっそり庭から忍び寄って来たんですね。ガラスを割って鍵を外し、戸を開けて、ちょうど起き上ったライオンへ、『ついて来い!』と言って一緒に庭へ逃げたんです」
「撃ったのは?」
「見張ってた連中はみんな呆気に取られていて、やっと一人が一発撃ちましたが、何せ子供が一緒なので、下手に狙えず……」
「よし、分った。庭からは出られないはずだ。もう明るくなる。それから捜そう。子供がいるんだ。根気良く説得する他はない」
「分りました」
そう言った時、遠くで銃声がした。
「あれは――」
と英子夫人がはっとする。
「門の方だわ」
夕子が言った。「行きましょう!」
玄関から飛び出すと、外はもう大分明るくなって来ていた。門の方から警官が走って来る。
「どうした!」
「ライオンが……」
「どうしたんだ!」
「いきなり茂みから飛び出して来て……。子供と一緒に逃げてしまったんです」
「何だって!」
私は一瞬言葉を失った。「――どうして門を開けておいたんだ! 止められなかったのか! せめて子供だけでもつかまえられなかったのか!」
言葉を失った割にはよく出て来るが、ともかく、門を閉めさせておかなかったのは手抜かりだった。こういう場合、車の出入りが激しいから、通常、門は開けておくのだ。特別に指令がなければ、警官がそうするのは当然である。それに自分の経験から言って、目の前にいきなりライオンが飛び出して来たら、とてもとっさに対処できるものではない。
「よし、ともかく人家の方へ行かないように非常線を張れ」
「雑木林の方へ逃げましたが……」
「そうか。すぐに捜索隊を作って追うんだ。しかし、いいか、間違っても発砲するな! 子供に当るかもしれんし、下手に手負いにしたら却って危い。遠巻きにして手を出さないようにするんだ」
「分かりました!」
警官が走って行くと、私は舌打ちした。
「うっかりしてた。畜生!」
「そう心配しないで。大丈夫よ。――あのライオンが殺されないって約束してやれば、きっとおとなしく戻って来るわ」
「嘘の約束をしろって言うのか? 君らしくないな」
「嘘じゃなくて、本当によ」
「それは無理だ! 何しろ――」
「ええ、分ってるわ。でもね……どうも|腑《ふ》に落ちない所があるのよ……」
夕子は額にしわを寄せて考え込んだ。もう朝が間近だった。
4
工事現場へ行くと、もうパワーショベルで土を掘り崩している男がいる。
「ちょっと、いいかね」
私が声をかけると、男はエンジンを停めた。
「何か用かい?」
三十歳前後の、浅黒く陽焼けした逞しい男だ。
「ずいぶん早くからお仕事なのね」
と夕子が言った。
「昨日の内に片付けとくはずの所なんでね。――あんた方は?」
「警察の者だが、山口さんはいるかね」
「さあ……。顔を見ねえな今朝は。でもそろそろ起きて来るだろう。何事だね?」
「ちょっと訊きたいことがあってね」
「そういや、パトカーの音がずいぶんしてたね。鮫島って家で何かあったのかい? それで山口さんを捜しているんだね?」
「――どうしてそう思うんだ?」
男は笑って、
「現場じゃ有名さ。山口さんと、あそこの奥さんの仲はね」
私は夕子と顔を見合わせた。
「君の名前は?」
「俺は糸原ってのさ。山口さんとは親しいんだ。本当に何かあったのかい?」
そこへ、
「やあ」
と声をかけて、当の山口がやって来た。
「昨日は失礼しました。つい取り乱して色々と口走ってしまって。――こんな早くから、どうしたんです?」
何かを隠してしらばくれているのなら、大した役者だ。私が鮫島が死んだ事情を話した。山口は唖然とした。
「そんな……。ひどい話ですね! しかし……別荘へ行ってたんじゃないんですか?」
「|予《あらかじ》め車を呼んでおいて、戻って来たのさ、この手紙を見てね」
私が手紙を見せると、山口ははっとした。
「これは! ……」
「君の字か?」
「そうです。確かに僕の書いた手紙です」
「君は一時にこの場所へ行ったのかね?」
「まさか! 旅行へ行ってるのに奥さんが来るはずがないでしょう」
「この〈林の外れ〉という所へ案内してくれないか」
「いいですよ。――糸原さん、ちょっと行ってくるよ」
「あいよ。みんなには黙っとくからね」
「すまんね」
山口は工事現場から離れると、「あの人は……大丈夫ですか?」
と訊いた。
「奥さんは大丈夫だよ」
「そうですか」
山口はほっとしたようだった。「それで……僕が疑われてるんですか?」
「そうは言ってないよ。鮫島さんを殺したのはあのライオンだ。しかしどうしてあそこへ入り込んだのか、それが分らない」
その時、山口は、林の方へ向う警官たちを目にして、
「どうしたんです?」
と訊いて来た。私が事情を説明すると、眉をひそめて、
「危いなあ! あんなことをして、ライオンを刺激するだけじゃありませんか!」
と言った。
「ライオンに詳しいのかね?」
「そうじゃないけど、動物が好きなもんですから。――あ、こっちです」
開発の波の波打ち際とでもいうべき、雑木林の外れ、そこはちょうどちょっとした窪地になっていて、腰ほどまでも草で覆われている。なるほど、ここなら坐ってしまえば草の海へ潜ってしまう格好になるから、目につかない。正に絶好の逢引き場所だ。ただし、夜中ではまだいささか寒いだろうが。
「いつもここで待ち合わせたんです」
「鮫島邸から大分あるね」
「そうでもないんです。一見遠く見えるけど、割合近いんですよ。グルリと林の外側を回って来たでしょう。だから遠いように思えるんです」
「ねえ、ちょっと!」
夕子が言った。「あそこに何か落ちてるわよ」
なるほど、草の間に白い物がチラチラ覗いている。拾い上げてみると、
「ハンカチだ。まだあまり汚れてない。イニシャルが縫い取ってあるぞ。――K・Sだ」
「鮫島浩一郎だわ」
「するとやはり、昨晩ここへ来たんだ」
「でも僕は来ませんでしたよ!」
「本当かね? 万が一という気持で来てみると、亭主の方が来ていた。争いになって、つい相手をノック・アウトしてしまう。そこでふと思いつく。ライオンに殺させよう……」
「冗談じゃありませんよ! ライオンにそんなことをさせる力が僕にあるはずないじゃありませんか!」
「それに、あの塀から鮫島さんほどの大柄な体を庭へ投げ入れるのは大変よ」
と夕子は言った。「鮫島さんは自分で入ったとしか思えないわ」
「ふむ。……しかしなぜだ? ライオンに人生相談に行くわけもあるまい」
夕子の目が輝いた。
「そうだわ……。もしかすると……だとしたら……そうなんだわ……」
自分にしか分らない独白は名探偵の専売特許である。
「何か分ったのかい?」
「ええ! きっと――」
と言いかけた時だった。背後から腹の底へ響き渡る|唸《うな》りが聞こえて来た。振り向くと教浩少年とポチが目の前に立っていた。
「教浩君!」
夕子が近寄ろうとすると、
「来ないで!」
と少年が|甲《かん》|高《だか》い声を出した。
「教浩君、聞いて……」
「先生だって信じないぞ! ポチを殺させやしない!」
「殺したりしないわ、本当よ!」
「嘘だ! そう言っといて、後で『あなたのためを思ってやったのよ』とか言うんだ! 大人はみんなそうなんだ!」
子供というのは時としてなかなか鋭いことを言う。いや、感心していてはいけない。
「ねえ君、そのライオンを殺さずにすむように、できるだけのことはするよ。今、おとなしく戻れば、まだ救われるチャンスはある。でもそうして逃げ回っていると、確実にそのライオンは死ぬことになるんだよ」
少年は頑固に首を振った。その時、背後の茂みがザワザワと揺らいだと思うと、警官隊が一斉に飛び出して来た。拳銃がライオンへ狙いをつける。教浩少年はその前へ素早く立ちはだかり、
「ポチを殺すなら僕も殺してくれ!」
全く見上げた勇気というか、一途な愛情が、何ものをも恐れさせないのだ。
「撃つなよ!」
私は警官を制した。夕子が静かに進み出て、
「心配しないで教浩君。ポチは大丈夫よ。あなたのお父さんを殺したのはポチじゃないんだから」
「本当に?」
少年は半信半疑の様子で訊いた。
「本当よ。大体、ちょっと妙だったわ。ライオンが人を殺すなら、喉笛をかみ切ればそれでいいはずよ。首ごとかみ切る必要はないわ。それに、あの後、居間へ入って来た時も、そんな興奮した様子はなかったわ」
「しかし」
と私が言った。「人間があんな風に人の頭をもぎ取れるもんか!」
「できるわ」
夕子が言い返した。「ただし間接的に、鉄の顎を使えばね」
「鉄の顎?」
「土を削り取り、木の根を掘り起こす、強力なパワーショベルの顎なら、人間の頭ぐらい……」
「まさか!」
「犯人はここへ鮫島さんを誘い出し、頭を殴るかどうかして気絶させておき、パワーショベルを運転して来て、鮫島さんの頭を……。たぶん、最初は喉をやるだけのつもりだったんでしょう。いかにもライオンの仕業らしく見せるために。でも勢い余って首ごともぎ取ってしまったのね。それから死体をショベルに乗せて塀の所まで行き、ショベルを高く持ち上げて、死体を庭へ投げ込んだのよ。ポチは何やら変な物が飛び込んで来たので、うるさくなって自分でドアのノブを回し、家の中へ入って来たのね。あの時気が付くべきだったわ。ノブの歯の跡の所に、血が全く付いていなかった[#「血が全く付いていなかった」に傍点]んですもの。首をかみ切った直後なら、当然血が付くはずよ」
「で、犯人は一体――」
「パワーショベルを操れる人。そして、犯行の時ショベルに付いた血を目立たなくするために[#「ショベルに付いた血を目立たなくするために」に傍点]、いやに朝早くから一人で働いていた人……」
夕子は鋭く指さして、「その人を捕まえて!」
茂みの一角から駆け出したのは糸原だった。その時、教浩少年がポチの体をポンと叩いた。
「いけ! あいつだぞ!」
ライオンのしなやかな体が茂みを突風のように突き抜けた。そして、ドサッと倒れる音。
「助けてくれ!」
糸原の悲鳴だ。私たちは一斉に駆けつけた。いかに殺人犯とはいえ、ライオンに殺させるわけにはいかない! ――が、その場へ着いて、みんな笑い出してしまった。仰向けになって、
「た、助けて……」
と情ない声を上げている糸原の上に、ポチがデンと坐り込んで、糸原の顔をペロペロとなめ回していたのである。
「君には気の毒な結末になったね」
私は言った。山口は苛酷な現実にじっと堪えるように、工事現場の土を踏みしめて立っていた。
「自業自得ですよ。自分が馬鹿だったんですから。……あの人が……」
「|虐《しいた》げられた妻を演じながら、年中、男との情事を楽しんでいたんだ。夫の方こそじっと妻の乱行を見て見ぬふりをしていた。いつかやめてくれるだろう、と思いながらね」
「話して下さい。何もかも」
と山口はきっぱりと言った。夕子が私に替って説明した。
「あの奥さんは、ご主人を殺してくれる男を捜してたんです。あなたにはとても無理だった。でも、あなたの話を聞いて、面白半分に奥さんへ言い寄った糸原を見て、奥さんはこの男ならきっとやれると思ったんですね。夫を殺して財産を手に入れる計画を打ち明けたんです。糸原は色と欲の両方からそれを承知しました。そこへたまたまご主人が別荘へ行こうと言い出したので、絶好の機会だと思ったんですね。自分は絶対のアリバイができるし、それに加えて山口さんから会いたいという手紙も来た。――手紙はちゃんと自分で受け取ったんですよ。ご主人が郵便物を持って来たなんて嘘です。奥さんの計画は、誤ってライオンに殺されたと見せかけることでした。もしそのトリックが見破られても、山口さんに罪を着せることができる。二重の安全策だったわけです。そこで奥さんはポチが空腹で気が立っていたと思わせるために冷蔵庫の餌を全部捨て、山口さんの手紙を糸原に渡し、それを糸原がご主人へ、山口さんからだと渡したのです」
「ご主人へ?」
「ええ。山口さんの手紙は奥さんにあてたものですけど、誰にでも通じる文面です。ご主人だって、自分が呼び出されたと思わなければ、別荘からここまで戻っては来ないでしょう」
「なるほど? 頭のいい女だ」
私はため息をついた。夕子は続けて、
「後はさっき説明した通り、糸原がご主人を殺し、死体を庭へ投げ込みました。――ただ一つ、予定外だったのは、山口さんが奥さんとのことをご主人と話し合おうと思い立って、夜、鮫島邸へやって来たことです。別荘へ行ったのを知っていたのでは、約束の場所へ行くとは誰も思わないでしょうからね。でも何とかライオンに殺されたことでケリがつきそうだった……。もう少しでね」
「ちょっと待てよ」
私はふと思いついて言った。「もし山口さんが何も知らずに約束の場所へ行ったら、本当に鮫島さんとかち合っちまうじゃないか」
「だから山口さんは、糸原から一家の旅行のことを聞かされるはずだったのよ。〈車で出かけるのを見たよ〉というぐらいにね。そして後で山口さんが警察に訊かれて、糸原から旅行のことを聞いていたと言ったら、糸原は〈言ったかもしれないがよく憶えてない〉と曖昧に証言する。そうすれば警察も山口さんの言葉を疑うでしょうからね」
「そういえば糸原が言ってましたよ。夜、あなた方とお話しして戻ってからです。もう知ってる、と言うと、糸原はびっくりしたような顔をしてましたが……」
山口は深々と息をついて、「ともかく色々お世話になりました。――仕事がありますので、これで」
と頭を下げると、何かを振り切ろうとするように、足早に歩いて行った。
私たちは駅への道をぶらぶら歩いた。昨日にも増して暖かい、春の昼下りだ。
「あの奥さんを怪しいと思ってたのか?」
「ええ」
「どうして?」
「山口さんに聞かせた受難の物語が何とも大時代すぎたわよ。同情を引くための作り話だってすぐに分るわ。それに奥さんがご主人のことを独占欲が強くて、嫉妬深いと言ったでしょ。あれも変よ」
「どうして?」
「そんなご主人が寝室を別にするなんてことを承知すると思う?」
「なるほどね……。そいつは気が付かなかった。――しかしあの子は可哀そうなことになっちまったな」
「いい叔父さんがいるとか聞いたことあるわ。きっと大丈夫よ。もっともポチは手放さないわけにいかないでしょうけどね」
「愛情に飢えてたんだろうな。父親は仕事一筋、母親は男から男へ……。ラィオンを可愛がってその寂しさを紛らわしていた」
「でもね、もうそろそろ強くならなきゃいけない時期だわ」
「ところで、僕も愛情に飢えてるんだがね」
「そう? 私もなの」
「それはまた偶然だね!」
私の声が弾んだ。夕子は私の肩へ頭をもたせかけて、甘えるような声を出した。
「ね、どこかへ行きましょうよ」
「う、うん。じゃタクシーで……」
駅前にたった一台停っていたタクシーへそそくさと乗り込む。
「さて、君のいい所へ行くよ」
「そう? じゃ、運転手さん!」
夕子は元気よく言った。「上野動物園までやって!」
第四話 |巷《ちまた》に雨の降るごとく
1
「……雨が降ったのか」
テントから外へ出て、水戸達夫は呟いた。河原の砂利が黒々と濡れて、つややかに光っている。
峡谷はまだやっと明るくなりかけた所で、霧が渓流の|面《おもて》を漂っていた。四つのテントからも、まだ誰も起き出して来てはいないようだ。
水戸は思い切り深呼吸をして初夏の朝の大気で胸をスッキリさせようとしたが、|如何《いかん》せん、スッキリしたと感じるほどに感覚の方がまだ目覚めておらず、爽やかな朝の満足感には浸れなかった。
夜の間は降ったにせよ、今日はいい天気になりそうだ、と水戸は思った。見上げると、百メートル近い絶壁の隙間に、やっと明け染めて来る朝の空が覗いている。見ている内に、頂上の一角に陽が当って金色にキラキラと輝き始めた。
「いいなあ……」
思わず水戸はため息をついた。――どちらかといえば不熱心なワンダーフォーゲル部員だが、こうして来てしまえば、感激するだけの素直さは持っている。まだ誰もが眠っている時に、一人で起き出して来るというのは、どこか優越感を味わわせてくれるものだ。
水戸はもう一度深呼吸した。今度はかなり効き目があったようだ。そしてさらにもう一度深呼吸をくり返した時、それ[#「それ」に傍点]が目に入った。彼は頭を振って、目をこすった。あれは何だろう? ……木の枝からぶら下がっているのは。
彼はゆっくりとその木の下まで歩いて行った。別に目が悪いわけでもないのだから、大分手前からそれが何なのかは分っていたはずなのだが、それでもほとんど無意識に歩み寄って行ったのである。どうして……こんな所に人間がぶらさがってるんだ? 何をしてるんだ?
「お、おい……。た、大変だ! 首吊りだあ!」
大声で|喚《わめ》きながら、水戸はテントの方へ戻って行った。走りたかったのだが、膝が震えて力が入らず、ほとんど|這《は》うに近いのろさだった。
「もう、私たち、おしまいね」
と永井夕子がため息をつきながら言った。「もともと不つりあいな恋だったのよ。二人は|年《と》|齢《し》が違いすぎるわ」
「そんな……そんなことがあるもんか!」
「だって、私はもう四十五。あなたの母親といってもおかしくない|年《と》|齢《し》なのよ!」
私はプッと吹き出してしまった。夕子はジロッと私をにらんだ。
「いやねえ、真面目にやってよ!」
「しかしだね、いくら何でも君が四十五歳の役で僕が十七歳ってのはひどいよ!」
私は台本をテーブルに置いた。
午後の喫茶店はほとんど客の姿もなかった。そうでなきゃ、こんなみっともない真似はできない。何しろ店のウエイトレスが、さっきから必死に笑いをかみ殺しているのだから。
「そうかなあ……」
永井夕子は首を振った。「それもそうね。現実とまるで逆なんですものね」
「おい、まるで逆、って事はないだろう」
私は抗議した。「第一に僕は四十五歳でなく四十歳だ。第二に君は十七歳でなく二十二歳だ」
「大して違わないじゃないの」
「五歳も違うぞ!」
「そんな事が気になるのはおトシの証拠ね」
私は苦い顔で、ぬるくなったコーヒーをガブリと飲んだ。下手なことを言ってやぶへびになっちゃ困る。――夕子から、ぜひ会いたいの、なんて甘えた声で電話があった時、私は嫌な予感がしたのだ。それでも、のこのこ出て来るのだから私も私だが……。
夕子は大学の演劇部に頼まれて、自主公演にチョイ役で出演することになったのである。何やら主人公が少年時代に想いを寄せる年上の女性の役で、大したセリフはない代りに目立つ、儲け役なのだそうだ。
「私の美貌に目をつけるなんて、企画した人もなかなか目がいいわよ」
と当人は至極ご満悦である。で、明後日が公演なのだが、セリフを憶えるのに相手がいないとどうもやりにくい。そこで私が引張り出されたというわけだ。
「あーあ、あなたが真剣にやってくれないんじゃ、練習にならないわ」
「無理だよ。僕は役者じゃない」
「あら、刑事だって、たまには演技力を必要とすることがあるでしょう」
「しかしだね、犯人相手に、『あなたという大輪のバラは、僕の心の中で永久に枯れることはありません』なんて言うわけないだろ」
夕子は台本を放り出すと、「ああ、退屈だなあ。何か面白い事ない?」
今の若者はすぐこれ[#「これ」に傍点]だ。何か面白い事ない、か。なければ自分で「面白い事」を見付ければいいのに、そんなのは「かったるい」からいやなのである。捜査一課の仕事もその手で片付けられるといいのだが。犯人を捜しに行くのはかったるいから、自首して来るのを気長に待とう、とか……。
その時、レジの所で電話に出たウエイトレスが、「宇野さん、いらっしゃいますか」と呼んだ。私が立ち上って行くと、何となくうさんくさい目で見ながら受話器を差し出す。
「宇野だ。――何だ?――よし、分った、すぐ戻る」
「――事件なの?」
「うむ」
「殺人?」
「その辺がよく分らないらしい。じゃ僕は行くよ」
「よく分らない? よく分らない事件って、私、大好き! 一緒に行く!」
と夕子は目を輝かせて立ち上る。
「おいおい、芝居の稽古があるんだろ」
「いいわよ、パトカーの中でやるから」
「それだけは勘弁してくれよ!」
レジで金を払うとウエイトレスが、
「あの……今のお話もお芝居なんでしょ?」
と言った。「あなたが刑事なんて、絶対にミス・キャストだわ」
「奥多摩の渓谷? またえらく遠いんだな」
「ええ。でも東京都ですからね」
と原田刑事がニヤつきながら言った。
「それぐらい分ってる。現場にしちゃ妙な所だってことさ。被害者は?」
「キャンプしてた連中の一人だそうです。見つけたのもその仲間で」
パトカーの前方には、すでに緑の山々が、舞台の背景のようにくっきりと浮かんで見える。陽射しは初夏といっても汗ばむような暑さ。私は窓を開けて風を入れた。とたんに夕子が、頭をかかえ込むようにして、悲鳴を上げた。
「いやん! 髪がこんなになっちゃうじゃないの! 窓閉めてよ」
「暑いだろうと思って――」
「八千円も取られたのよ、この髪」
私は目をパチクリさせた。夕子の髪は、ただ長く肩へ垂らしているだけだからだ。
「その髪でもパーマをかけるのかい?」
「当り前でしょ。でなきゃ、こうサラリと流れやしないのよ」
「そいつは知らなかったな」
夕子は歎息した。
「これだから中年の人っていやよ」
私は聞こえなかったふりをして、原田へ、
「で、何かよく分らんとか言ってたな。何が分らないんだ?」
と訊いた。
「はあ。ホトケは木の枝で首を吊ってたそうですが……」
「じゃ、自殺じゃないのか?」
「見つけた連中もそう思って、死体を降ろしたらしいんです。ところが、その内誰かが、おかしいと言い出して――」
「フーン。どこがおかしい、って?」
「さあ、それは聞いてないんです」
原田の話を聞いて、よく事情の分る人間がいたら、きっと霊媒か何かになれるに違いない。私は現場へ着くまで、それ以上の予備知識を得ることを諦めた。原田は巨体を揺さぶるようにして夕子と談笑している。事件の捜査に行くというより、ピクニックにでも来ているつもりらしい。
やがてパトカーは奥多摩の山の中へと入って行き、細い道を、片側に鋭く落ち込んだ渓流を眺めつつ、くねくねと辿って行った。――そして何台かのパトカーが固まって停っている、ちょっとした台地へ着くと、制服の警官が私たちを出迎えた。
「捜査一課の宇野警部だ」
「お待ちしておりました。どうぞ、ご案内します」
警官の後について、細い山道を辿ること二十分。さすがに空気は都心より格段に涼しい。私たちは、ちょうどちょっとした学校の体育館くらいの広さの河原を見下ろす場所に出た。
「あれが現場です」
と警官が言った。
河原には、離れ離れに四つのテントがあって、河原の端のあたりに十人ほどの人影が集まっているのは、そこに死体があるのだろう。
「下へ降りる道は?」
「こちらです。ちょっと危いので、ご用心下さい」
ちょっと、どころではなかった。人一人、横向きになってやっと通れる程度の道で、しかも足を踏み外せば十メートルも下の河原へ真っ逆様。死ななくても足ぐらい折るのは確実だ。夕子はサファリスーツにスポンジ底の靴という、おあつらえ向きのいでたちだから、至って気軽にヒョイヒョイと降りて行くが、こっちは背広に皮靴である。足下が滑りそうになる度に冷汗をかき、河原へ降り立った時は汗びっしょりになっていた。
夕子は一面に濡れた河原の砂利を見回して、
「雨が降ったんですね、ここ」
「ちょうど谷間ですから」
と警官が言った。「ここだけ降ったか、濃い霧が出たんでしょう」
「死体を見よう」
私たちは河原を横切って行った。そこに集まっていたのは、地元警察の刑事たちだった。
「いや、一見何でもない自殺死体に見えたんですがな……」
と、一番年長の、もう五十歳前後と思える後藤という刑事が言った。「ま、ともかくホトケを見て下さい」
死体を包んであるゴム布をめくってみると、まだ二十歳になるやならずの若い娘だった。横文字入りのTシャツにジーパン、裸足である。雨に打たれていたのだろう、全身びっしょり濡れていた。首の周囲にはくっきりとロープの跡がある。後藤刑事が、ちょっと間を置いて言った。
「この木の枝からぶら下がっとったそうです」
目の前に、かなり大きな木があって、見上げると、ちょうど太い枝が真上へ突き出ている。
「あの枝ですか?」
「そうです」
夕子は少し木から離れて、
「三メートルはあるわね」
そう|呟《つぶや》くと、ツカツカと死体へ歩み寄り、両方の手のひらを調べて肯いた。「なるほどね」
いぶかしげな後藤刑事へ、私はいつもの通り夕子を|姪《めい》だと紹介した。
「すみません、お邪魔はしませんから」
夕子はにこやかに微笑んで挨拶する。美人の得なところで、これでいつも相手はコロッと参ってしまう。後藤刑事も相好を崩して、
「そうですか。いや、うちの娘と同じくらいのお|年《と》|齢《し》ですな。よくこんな物をご覧になっても平気で……」
「物好きでしてね」
と私は言った。「何にでも首を突っ込みたがるので困りますよ」
とたんに背中へゴツンとゲンコツがぶち当って、ウッと|呻《うめ》いた。
「どうかしましたか?」
と後藤刑事が気付いて|訊《き》いた。
「い、いえ、別に……」
「叔父は神経痛なんで、時々痛むんですの。何しろ年齢ですから」
夕子が涼しい顔で言う。私はジロリとにらんでから、後藤刑事の方へ向き直った。
「ところで、この娘は学生ですか?」
「そうです。都内の大学のワンダーフォーゲル部の学生で、この週末を利用してキャンプにやって来ていたわけで」
「するとここにある四つのテントは全部、その大学の?」
「いえ、全部別々の大学です。ただみんなワンゲル部同士で、合同の山行というわけで……」
「発見したのは誰です?」
「一番川に近い所にテントを張ってるS大学の水戸という学生です。明け方の六時頃だったらしいですね。一番早く目が覚めて、表へ出て来たら、この枝に娘がぶら下がっていたというわけです」
「この娘――名前は?」
「ええと、西野妙子。M女子大学の二年生です」
と後藤刑事が手帳を見ながら言った。
「フム。……発見した学生に会ってみましょう」
川岸近くのテントへ警官が走って、水戸達夫を連れて戻って来た。私は死体発見の事情をもう一度くり返させて、
「で、それから君はどうしたんだね?」
「それで、びっくりして……自分のテントへ戻って他の三人を起こしました。それから手分けして他のテントを起こして回ったんです」
「なるほど。死体を降ろしたのは、そのすぐ後かね?」
「いえ……。ともかく死んでいるのは一目で分ったので、一人が警察へ通報しに行って、後はみんな遠巻きにして突っ立ってたんです。そうしたら彼女と同じM女子大の子たちが、『このままじゃ可哀そうよ』って泣き出しちゃって……。W大学の四年生で、リーダー格だった深谷さんが『よし、降ろそう』って言い出したんです」
「で、実際にはどうやったんだ?」
「深谷さんが木に登って、ナイフでロープを切ったんです。こっちは下にビニールの布を広げておいて……」
水戸は布で覆った死体の方へチラッと目をやって、身震いした。
「どこかおかしいと言い出したのは誰だったの?」
と夕子が口を|挟《はさ》んだ。水戸はちょっと驚いた様子で夕子を見てから言った。
「あの……深谷さんです。死体を調べてみて、『こいつは自殺じゃないぞ』って……」
「それはどういう意味だろう?」
と後藤刑事の方を見ると、
「これから訊いてみようと思っとったんです」
という返事だ。そこで水戸をテントへ帰し、川からは大分離れて設営してあるW大のテントからその深谷という学生を呼んだ。すらりと長身でハンサムな、なかなか頭の良さそうな若者である。
「――ええ、確かにそう言いました」
「それはどういうことかね? 自殺でないと思ったのはなぜだ?」
「彼女の手がきれいだったからです」
そう言って、もう分ったでしょうと言いたげに肩をすくめる。私と後藤刑事が顔を見合わせると、夕子が口を開いた。
「三メートルの高さの枝から、台も何も使わずに首を吊ろうと思ったら、ロープを持って木によじ登り、あの枝に一旦またがって枝にロープを結び、輪を作って首にかけてから飛び降りる。これしか方法はない。でもあの高さまで木をよじ登ったら、手足を少しぐらい擦りむかないはずはない。ところが彼女の手はかすり傷一つなくてきれいなものだった。従って彼女は自分で首を吊ったわけではない……」
「その通りです!」
深谷は夕子をじっと見つめていた。夕子が微笑を返しながら、
「こんな簡単な事が分らないようじゃ困るわね」
と皮肉っぽく言う。私は咳払いをした。
「まあ……それは一つの考え方だね。検死をすれば明らかになるだろうが……」
だが、二人とも私の言葉など耳に入っていない様子だった。深谷は熱っぽい眼差しを夕子へ向けている。私は甚だ不愉快であった。夕子の方も、至って興味深げに、そのノッポの野郎――いや若者を眺めていたからだ。
「宇野さん」とそこへ原田刑事がフウフウ言いながらやって来た。
「お前、どこにいたんだ?」
「どこって、今来た所ですよ。何しろあの下りの狭い道で立ち往生しちゃって」
「河原へ降りて来るのに今までかかったのか?」
「ええ」
原田は平然と|肯《うなず》いて周囲を見回した。「で、死体はどこです?」
2
深谷という学生の話で、ここにはW大学、S大学、N大学、M女子大の四つの大学が、それぞれテントを張っていることが分った。W大が男三人の女二人、N大学が男ばかり四人、S大学は男女各二人ずつ、M女子大が女だけ(当り前だ)四人――総計十七人がキャンプへ来たことになる。
「ここへ着いたのは昨日の昼頃でした」
と深谷は言った。「各大学でテントを設営し、夕方からバーベキューセットを河原へ持ち出して、パーティの仕度をしました。日が暮れると、飲んだり食べたり歌ったりで……。そうですね、九時頃までやってたかな。その後、片付けを終えてからは、めいめいが一旦テントへ戻りました」
「一旦? するとその後また何か?」
「いえ、後は適当によそのテントを訪問してしゃべったりトランプをしたり……みんな勝手に動き回ってたから、何がどうなってたかは分りません。でも今日あっちの山へ登ることにしていたので、そう遅くなってはいけないと、十二時には全員自分のテントへ戻って消灯しました」
「で、そのまま眠ってしまった……」
「そうです」
「死んだ西野妙子という娘はよく知ってるのかね?」
「よく……とは言えませんね。一応合同山行のリーダーとして全員のことは知っていますが、別に個人的な付き合いがあったわけじゃありませんから」
「ふむ。……まあ、彼女が殺されたのか自殺したのかはともかくとして、昨夜、何となく様子がおかしいとかいうことはなかったかね?」
「さあ……」
深谷はしばらく考え込んでいたが、やがてふっと思い出したように言った。「ああ、そう言えば、彼女、ビールを飲み過ぎたのか、踊りの途中で気持悪くなって一度テントへ戻ってましたね」
「一人で?」
「ええと……誰かが送って行ったと思いますけど、はっきり憶えていません」
「なるほど。――すると、格別ふさぎ込んでいたとか、そんな事はなかったわけだ」
「ええ。テントを設営してる時なんか、あそこには女の子ばかりですから、手伝いに行ったんですが、かなりはしゃいでましたよ」
その時、傍で聞いていた夕子が口を挟んだ。
「雨がいつ降ったか、憶えてます?」
「いいえ。全然気が付きませんでした。何しろぐっすり眠ってましたから……」
夕子は何やら考え深げに肯いた。私は深谷の次に、死んだ西野妙子と同じM女子大の三人を呼びに行かせた。深谷は戻ろうとして、夕子の前で足をとめ、
「あなたも警察の人なんですか?」
と訊いた。
「あなたと同じ大学生よ。犯罪学の実地研究でね」
「そう!」
深谷はホッとした様に微笑んだ。「あなたになら訊問されてみたいな」
テントの方へ戻って行く深谷の後姿をにらみつけながら、私は言った。
「あいつが怪しい!」
「あら、どうして?」
「女たらしの顔をしてる。きっと西野妙子との仲がもつれてたんだ。それで自殺に見せかけようと――」
「馬鹿らしい。自殺じゃない、って言い出したのはあの人なのよ。それに真面目そうな人じゃないの。女たらしなんて事ないわよ」
「分るもんか!」
夕子は冷ややかな軽蔑の眼差しで私を見た。警官に連れられて、三人の女子大生がやって来た。三人とも泣きはらした真赤な眼をしている。――三人の話は深谷の言った事と大差なかった。
「彼女が気持悪くなった時、テントまで送って行ったのは誰だね?」
と訊くと三人は顔を見合わせ、首を振った。誰だったかも憶えていないという。
「でもそれほど長い間じゃなかったと思います。後でまた一緒に踊ってたから」
と言ったのは一年生の二木佳子という娘だった。「『大丈夫?』って声をかけてみたら、『平気よ』ってケロリとしていました」
「寝たのは一緒だったのかね?」
「ええ。四人揃ってから明りを消しました。十二時でした、ちょうど。深谷さんが、そういう点はとても厳しい人ですから」
「で、君たちはすぐ眠ったの?」
「いえ、二、三十分は何やかやとおしゃべりしてました。でもじきに眠くなって……」
「西野妙子が出て行くのには全く気付かなかったんだね?」
三人は黙ったまま、コックリと肯いた。私は西野妙子のボーイフレンドの事を訊いたが、三人とも特別親しい男友達がいたという話は聞いていないようだった。――これ以上は訊く事もない。ともかく後は検死が済んで、自殺か他殺かがはっきりしてからにしよう。三人の娘をテントへ帰すと、私は夕子の姿がいつの間にか見えないのに気付いた。見回すと、夕子は川へ突き出た平らな大きな岩の上に立っていた。――あの深谷という青年と並んで。
「――深谷君」
近付いて行って、私は声をかけた。「一応ここでの訊問は打ち切ることにする。君らはキャンプを中止するんだろう?」
「もちろんです。こんな事があっては……」
「じゃ、全員の住所氏名をリストにしてくれないか。後で改めて話を聞く」
「分りました」
深谷は肯くと、夕子へ向って、「じゃ、明日」
と言って、岩から身軽に河原へ飛んで、小走りにテントの方へ駆けて行った。
「――明日だって?」
「ええ。あの人、演劇部にも入ってるんですって。明日の舞台稽古を見に来て、って言ったの」
「そうか。……確かに舞台へ出たら見栄えのしそうな男だな」
「去年の文化祭でハムレットを|演《や》ったんですって。黒いタイツ姿、いかにも似合いそうね!」
夕子はうっとりした表情で、そう言うと、「あなたどうするの?」
「さて……。ともかく検視官が来るのを待つよ。それから戻る」
「そう。じゃ、私、ちょっと深谷さんにテントの中を見せてもらって来るわ」
足取りも軽く歩いて行く夕子の後姿を見ながら、私は憂鬱な気分だった。岩の端に立って、流れを見下ろす。――流れはかなり速く、所々に頭を出した岩に白いしぶきが砕けている。
「……無理もないよ。この四十男と、スマートな二十二歳とじゃ……勝負にならない」
やきもちを焼かないと言えば嘘になるが、しかし私とて、だてにここまで|年《と》|齢《し》を取って来たわけではない。夕子が自分にふさわしい恋人を持つのを邪魔してはいけないと自分に言い聞かせていた。夕子にしたって、こんな忙しくて見栄えのしない男には早晩飽きるに決っている。そうなったら……。
「そうだ。俺は|潔《いさぎよ》く身をひくぞ」
と口に出して呟いた。
「宇野さん」
振り向くと、原田が何やら妙な顔で立っている。
「どうした?」
「大丈夫ですか?」
「何が?」
「何だか今にも身投げしそうな顔でしたよ」
翌日の午後、夕子がフラリと警視庁へやって来た。
「何だ、学校はいいのか?」
「夕方になったら行くわ。舞台稽古だから」
と至って呑気な稼業である。「昨日の検死の結果は出た?」
「ああ。首吊り自殺を否定するような見解はなかったよ」
「だって、自分でぶら下がったはずはないわ!」
「それは分ってる。誰かにやられたのかもしれん。しかし殺される方にしても、ぶら下げられるまで大人しくしているかね? 少しは抵抗して暴れるんじゃないか?」
「先に絞殺しておいて、自殺に見せかける、ってこともあるでしょ」
「しかしその場合は検死で大体は分るもんだよ。そう巧くは行かない」
「そうねえ……。でも、何か引っかかるのよ」
と夕子は例によって曖昧な事を言い出した。
「今、昨日訊問しなかった学生たちを呼んであるんだ。一緒に来るかね?」
「え?――ああ、別にいいわ。何か分ったら教えて」
と夕子は大して気がなさそうな様子。
「どこかに行くのかい?」
「うん。深谷君と会って舞台稽古の前に、セリフの練習をするの。彼が相手をしてくれるっていうから」
「そ、そりゃいい。……頑張れよ」
「ありがと! じゃ、またね」
夕子は手を振って帰って行った。胸がキュッと締めつけられるように痛む。そこへ原田がのそのそとやって来た。
「宇野さん、仕度できてますが」
「ああ、今行く」
仕事、仕事。――私は気を取り直して席を立った。
私は各大学毎に小部屋へ呼んで話を聞いた。何だか、大学入試の面接でもやっているような気分である。――だが、どの話も、あまり目新しい所はなく、昨日の深谷や女子大生たちの話を確認するにとどまった。
最後はN大学の四人の学生たちだった。男だけのチームである。
「――君たちの中で、西野妙子が気持悪くなった時、彼女をテントまで送って行った人はいるかね?」
四人がちょっと互いに顔色を|窺《うかが》うようにして、それから一人が恐る恐る口を開いた。
「あの……たぶん僕のことだと思います」
「君はええと……馬渕育夫君だね。一年生」
「そ、そうです。たまたま組んで踊ってたら、気分が悪いって言い出したもんで……送って行きました」
まだ十九歳の、どちらかと言えば子供に近いような、気の弱そうな若者だ。
「その時はただテントへ行って寝かせて戻って来たんだね?」
「ええ、もちろんです。――彼女もしばらくしたらまた元気そうになって出て来てました」
「何か彼女から、自殺の動機になりそうな事を聞かなかったかね?」
「な、何も聞いてません! 本当です!」
と慌てて言った。その様子がどうも引っかかる。何か知っているのかもしれない、という感じがした。先輩たちの前では言いにくいのかもしれない。そこで私は一旦、四人へ、
「もういいよ」
と言い渡しておいて、部屋を出かかった所へ声をかけた。
「あ、馬渕君、悪いが今の話の速記を見てサインしてくれないか。面倒だろうが手続きなんでね。ちょっと坐っててくれ……」
私は他の三人が出て行ってドアが閉まると、ゆっくり机を回って、彼の前に立った。
「さて、話を聞こうか」
「は、話って――」
「隠さなくてもいい。先輩たちはもういなくなったんだよ。何か知ってる事があるんだろ? 言ってごらん」
馬渕青年はしばらく口の中でムニャムニャと、そんなこと言ったって、とか、本当に僕は、などと呟いていたが、やがて諦めたように言った。
「分りました。……でも、黙ってて下さいね。先輩には」
「ああ、信用していいよ」
「あの時……彼女を送って行ってテントの中へ入ったら、彼女、いきなり……その、……僕にキスして来たんです。僕はびっくりして、『気分が悪いんじゃないの』って訊くと、彼女はゲラゲラ笑って、『あなたが可愛いから、キスしてみたかったのよ』と言いました。そして、『ここで抱いてみない?』と言い出したんです。こっちは面食らって、『いつ人が来るか分らないじゃないか』と言いました。すると、『だからスリルがあって面白いんじゃないの』と言って、『じゃ、みんなが寝静まったら、あの川べりの岩の陰へ来なさいよ。ちゃんと毛布を持って来るのよ』なんて言い出したんで、僕はテントから逃げ出しました。――それだけです」
「それで、君は夜、川べりに行ったのかね?」
馬渕は激しく首を振って、
「とんでもない! 行きませんよ! 本当です!」
「ふむ。……眠ってたのかね?」
「ええ。……あの、実は、行ってみようか、とは思っていたんです」
と目を伏せて、「でも僕、アルコールに弱いもんですから、すっかり酔ってしまって、ぐっすり……。翌朝、叩き起こされるまで目が覚めませんでした」
どうやら嘘はなさそうだ。私はポンと肩を叩いてやった。
「よし分った。先輩には黙っててやる。――ああ、それから、君は十九歳だろう?」
「はい」
「あんまり飲み過ぎるなよ」
馬渕は頭をかきながら出て行った。
「宇野さん」
と原田が言った。「これ、一体殺人なんですかね」
私は黙って首を振った。確かに夕子が指摘したように、西野妙子が自分で木に登って首を吊ったとは考えにくい。しかし、それだけでこれが殺人だと決められるだろうか? 見た通りの自殺という可能性もないではない。自殺する人間、必ずしも今にも死にそうな様子をしているわけではないのだ。彼女が、あの馬渕という一年生を誘惑したというのも、半ば捨てばちになっていたからと見れば、自殺説の根拠になる。動機は? ――今の若者の自殺には、全く動機の不明なものが少なくない。
これでもし、手足を擦りむくことなく、あの木の枝の所までよじ登れるという事が立証できたら、完全に自殺で片付けられる。
「おい、原田」
「何です?」
「婦人警官を一人寄こしてくれ。あんまり頑丈そうでなく、できるだけ小柄なのがいい」
原田はキョトンとした顔で、
「どうするんです?」
「何でもいい。早くしろ!」
「分りました。――あの――」
「何だ?」
「夕子さんに似たのがいいですか?」
3
その夜、私は夕子の通うT大学へ寄ってみた。講堂へ入って行くと、舞台の所だけがポッカリと明るくて、十人ほどの人間が右往左往している。
「だめだめ! 机の右に立っちゃいけないって言ってんだろ! 左に立つんだ、左に!」
と怒鳴っている長髪の芸術家風の青年はきっと演出家なのだろう。怒鳴られた女子学生は、
「右だって左だって、そんな事いいじゃないのよ!」
とムクれている。が、演出家の方も負けてはいない。
「そうは行かねえんだよ! 左に立つ事で、彼女が左翼思想の持主だって事を表現してんだからな!」
私は思わず吹き出した。そこまで考えて観てくれる客がいるとは思えない。
「あら、何してるのよ?」
と女の声がして、見れば上品な和服姿の婦人が……
「夕子!」
私は仰天して叫んだ。「君なのか?」
「いやねえ、変な声出さないでよ」
「しかし……驚いたね! 女は魔物、いや化物だ!」
「何言ってるの。四十五歳の人妻役なんだもの、まさかジーパンはいて出て来るわけには行かないでしょ」
「それにしたって……」
と私は改めて首を振って、しみじみと眺めた。「しかし、なかなかサマ[#「サマ」に傍点]になってるじゃないか。いい感じだぜ」
「あら、さようでございますか? ホホホ……」
セリフの方はやはりまだ問題があるような気がした。
「で、どうなの、事件の方は?」
と夕子が普段の調子に戻って言った。「何か分って?」
「うん。まあ大した事はないがね……」
私はN大学の馬渕という学生の話を伝えた。
「ありそうな話ね。――ね、さっき訊くの忘れたけど、彼女、男性経験は?」
「あった。妊娠してはいなかったがね」
「そう。ロープの事は何か分って?」
「首を吊ってたロープかい? いや、あの線はだめだ。四つの大学ともみんな同じ店から、同じ頃、同じロープを購入してるんだ。持って来た本数もはっきりしない。使われたのがどのテントのものか、調べようがないんだよ」
私はちょっと間を置いて、「……実はね、実験しに現場まで行って来たんだ」
「何の実験?」
「つまり自殺だとしたら、本当に手を擦りむくかどうかと思ってね」
「呆れた! あなたが木登りしたの?」
「いや、死んだ西野妙子と似た体つきの婦人警官を使ってね」
「で、いかがでした?」
「かなりひどく擦りむいたよ」
「当り前よ! その婦人警官も可哀そうに」
「そう言うなよ」
「でも再現してみようなんて考えるだけでも、進歩したわね。ウム、賞めてとらす」
「今度は殿様かい」
と苦笑いして、「――時に、あのハンサムなW大生は?」
「深谷君? うん、さっきまで見ててくれたんだけど、アルバイトがあるからって帰ったわ。器用な人なのよ。この着物も彼が着せてくれたの」
「何だって?」
と思わず訊き返した。
「私、自分じゃ着られないし、誰も着付けができないのよね。困っていたら、彼、家が呉服屋さんなんですって。着せてあげる、って言ってくれたんで、近くのホテルで着せてもらったの」
「ホ、ホテルで?」
「だって大学に日本間なんてないでしょ。教室じゃ床が汚なくて、着物が汚れちゃうし」
私は心がハンドミキサーでかき回されるように乱れるのを必死にこらえた。着物を着せるという事は、その前に洋服を脱がせなくてはならない。まさかジーパンの上に着物を着るわけには行くまい。という事は……。
その時、舞台から声がした。
「ハイ、次の場! 永井さーん!」
「あ、私の出番だわ。じゃ、ちょっと見ていてね」
夕子は、そのいでたちとは裏腹に、どうにもしとやかとは言えない足取りで舞台の方へ走って行った。私は手近な席に腰をおろして、深々と息をついた。――そういう事になったのか。いよいよ俺も退場する時が来たのだ。
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ、か……」
舞台では私と夕子が喫茶店で稽古をした場面が演じられていた。
「……二人は|年《と》|齢《し》が違いすぎるわ」
夕子が、主人公の手を振り離そうとする。
二人の頭の上からはチラホラと細かい紙の雪が降っている。あれは当然の事ながら、喫茶店の場では省略されていたわけだ。
「いけないわ!」
と夕子が主人公の手を振り切って、「さようなら、浩市さん!」
と舞台の|袖《そで》に駆け込む。
浩市さん、が喬一さん(私の名である)に聞こえた。舞台に|悄然《しょうぜん》と立ち尽くした主人公へ雪は一段と激しく舞い落ちる……。そこへ突然、
「宇野さーん! 宇野警部いますか!」
と馬鹿でかい声が響き渡った。みんながギョッとして振り向く。――きっと上で雪を降らしていた奴もたまげたのに違いない。
「アッ!」
と声がして、雪を入れたかごが落ちて来ると、真下にいた主人公の上へ、ドサッと雪が……。哀れ主人公はたちまち白髪の老人と化して、浦島太郎の物語みたいになってしまった。客席の間をエッサエッサと走って来るのは原田刑事だ。
「あ、宇野さん、よかった! ここでしたか!」
「ここでしたか、もないもんだ。一体何だよ?」
「そ、それが――」
と言いかけて、原田はアングリと口を開けたまま絶句した。和服姿の夕子がやって来るのが目に止ったのである。
「おい、どうしたっていうんだ?」
と怒鳴ると原田はやっと我に返って、
「は、はあ……実はあの例の大学生なんですが……」
「例の、じゃ分らん!」
「はあ……いや、見違えましたよ!」
とこれは夕子へ向って、「いいですねえ! 見とれちまうなあ!」
と感嘆しきり。
「おい、いい加減にしろ!」
「は、はい。つまりN大学の馬渕って学生が車にはねられて――」
「何だと?」
「死んだの?」
と夕子が訊いた。
「今の所、意識不明です」
「車は見つかったのか?」
「まだです」
私と夕子は顔を見合わせた。偶然か、それとも何かを知っていて狙われたのだろうか?
「ともかく行ってみる」
「私も」
と夕子が言う。
「舞台の方はどうする?」
「いいわよ、どうせ大した役じゃないんだもの。さ、行きましょ」
「でも、その格好で行くのか?」
「おかしい?」
「いや、おかしくはないけど……」
「じゃ行きましょうよ」
と夕子はさっさと歩き出す。着物の|裾《すそ》を翻し、|颯《さっ》|爽《そう》たる感じだ。どうも若い女性は着物には向いていないらしい。そこへ、
「おい! 稽古の邪魔しちゃ困るよ!」
と長髪の演出家がやって来た。「関係ない人は出てってくれ!」
「分ったよ」
と原田がヒョイと突っつくと、ヒョロリとした演出家はダダダッと後ずさりして通路へ尻もちをついてしまった。
「足が長いと安定が悪いんですかね」
と原田が講堂を出ながら真面目な顔で首をひねった。
病院の廊下の椅子に坐っていた娘は泣き濡れた顔を上げた。私は思わず、
「おや! 君は――」
と声を上げた。その娘は死んだ西野妙子と同じテントにいた女子大生――二木佳子だった。
「馬渕君がはねられた時一緒にいたというのは……。君らは友達だったのかい?」
二木佳子は肯いた。
「そうか。……大変な事になったね。その時の事を話してみてくれないか」
「私たち……大学の帰りに会って……どこかで踊ろうって事になって……いつも行くディスコへの近道を歩いてました。夜になると滅多に人の通らない、静かな通りなんです。急ぐ事もなかったし……ブラブラと散歩していたんです。で、その内、誰も見ていないし、彼、私にキスしました。道の真中で抱き合ってたんです。そしたら急に車のライトが……。彼が、『危い!』って言って私を突き飛ばしました。起き上ってみると、彼がぐったりと倒れていて、車が走って行くのが見えました……」
「車をよく見たかね? どんな車だったか、憶えてるかい?」
二木佳子は力なく首を振って、
「暗かったし……私は突き飛ばされて転んじゃったから……」
とまたすすり泣いて、「私がはねられていればよかった!」
「まあ、落ち着いて!」
と私は二本佳子の肩を叩いた。
「ちょっと訊いていい?」
と夕子が優しい口調で私に替った。二本佳子は夕子の様子にちょっと戸惑ったようだったが、黙って肯いた。
「あなたと馬渕君は大分前からのお付合い?」
「半年ぐらいです」
「あの渓谷でキャンプしてた人たちはみんなあなた方の事を知ってたの?」
「いいえ! 分らないように黙ってました」
「何かわけでもあるの?」
「個人的に特別親しい男女はキャンプへ行けないんです。その……何か間違いがあっちゃいけないし、もめ事の原因にもなるので。そういう決りなんです」
「それで、同じテントの人たちにも黙ってたのね」
「ええ」
「誰か気付いてるような様子はなかった?」
二木佳子はためらった。私が口を出そうとするのを夕子は抑えて、
「ね、話してちょうだい。言いにくい事なの?」
二木佳子はなおも黙っていた。夕子は続けて言った。
「西野妙子さんは知ってたんでしょ、あなた方の事を」
二木佳子ははっと息を呑んだ。
「どうしてそれを――」
「西野さんとあなたで、馬渕君を奪い合ったのかな?」
「ええ。……西野さんは……死んでしまった人の悪口は言いたくないけど……わがままな人でした。何でも自分の思い通りにしないと気の済まない性格で……。もともと私とお付合いしていた馬渕君を、横取りしようとしたんです。でも、彼の方で西野さんに交際を断ったので、彼女、ひどく腹を立ててましたわ」
それで西野妙子は気分が悪くなったと言ってわざと馬渕を誘惑しようとしたんだな……。私はその事は二木佳子には黙っていようと思った。ところが、夕子があっさりと、
「ねえ、西野妙子さんが昨夜のキャンプのパーティの時に馬渕君を誘ったのを知ってる?」
とばらしてしまった。
「いいえ!」
と目を見張り、詳しい話を聞くと、「何て汚ない事するのかしら!」
と声を震わせた。
「馬渕君は西野さんに会いに行ったのかしら?」
「行きません! だって――」
と言いかけて、ハッと口をつぐむ。
「だって?……」
夕子はじっと相手の顔色を窺って、「彼はあなたと一緒だったんですものね」
二木佳子は顔をそらした。
「……隠す事ないわ。そうだったんでしょ?」
夕子が促すように言うと、二木佳子はゆっくり肯いた。
「ええ。……でも、これは深谷さんに言わないで下さい! うちの大学のワンゲル部が除名されちゃいます」
「大丈夫よ。黙っていてあげる」
と夕子は微笑んで肯く。
「で、あなた方は何時頃会ってたの?」
「時間ははっきりしません。たぶん……一時か二時頃だったと思います。みんなが眠るのをじっと待ってて……」
「どこで会ったの?」
「河原の奥の方の……茂みになってる所があって、そこで……」
「彼は先に来ていたの?」
「ええ。今来たばかりだと言ってましたけど。でも、彼いつもそう言うんです。私が一時間近くも待ち合わせに遅れて行っても、『僕も遅れて来たんだよ』って……。とっても優しいんです」
とまたすすり泣く。
「あなたがテントを出た時、西野さんはまだテントにいた?」
「ええ、それは確かに。だって私、ずっと目を覚ましていたんですもの。出て行けば分ります」
すると西野妙子は二木佳子が出た後でテントを出た事になる。そして川辺の岩の陰へ行った。だが馬渕はそこにはいなかったはずだ。二木佳子と河原の奥の茂みで逢引きの最中だったのだから。すると他の誰かがそこで待ち受けていたのかもしれない。………パーティの途中、気分が悪くなったと言い出した西野妙子を、馬渕が送って行く。誰かがそれを見ていて、二人の後を|尾《つ》け、テントの中で西野妙子が馬渕へ「みんなが寝静まったら川辺の岩の陰へ来て」と言っているのを立ち聞きする。そして、二人が来たらおどかしてやろう、ぐらいの軽い気持で、岩の陰で待ち構えていると、西野妙子一人がやって来て、馬渕は来る様子がない。その内、自分が馬渕の代りに、と妙な気を起こして彼女へ声をかける。気性の激しい娘だったらしいから、カッとなって、「変な事をしようとしたと深谷さんに言いつけてやる!」と騒いだかもしれない。相手は慌てて黙らせようとする。二人は争って、その内につい彼女の首を絞めた。……彼女が死んでしまったのを知り、首を吊ったように見せかけようと、木の枝へロープをかけて……。
夕子は、続けて二木佳子へ訊いた。
「それでどれくらい二人でいたの?」
「二時間くらいだったと思います」
「すると三時か四時頃までいたわけね。テントへ戻った時には、まだ真っ暗だった?」
「ええ、もちろんです」
「じゃ、西野さんが木の枝で首を吊ってるのも見えなかったわけね」
「ええ! 見えていれば黙っていませんわ」
「テントへ戻った時、誰も起きなかった?」
「たぶん……。やはり真っ暗でしたから、よく分りませんけど」
夕子は私の方を見た。
「西野妙子さんの死亡推定時刻は?」
「言わなかったかな? 確か真夜中の十二時から三時頃の間ということだったよ」
夕子は何やら考え込んでいたが、やがてふっと思いついたように、
「ねえ、二木さん、あなたと馬渕君が会っている時に雨は降った?」
「いいえ」
「確かに?」
「ええ。だって私たち……」
と口ごもる。
「そうか、雨が降ってくれば分るわよね。いくら夢中で愛し合ってても」
二木佳子は黙ってうつむいてしまった。
「じゃ雨が降ったのは明け方近くなのね。あなたがテントへ戻ったのが三時半としても、死体の発見されたのが六時頃。もうその時はやんでいたんだもの」
「……だと思います」
「降り出したのに気が付いた?」
「いいえ。戻るとすぐ眠ってしまいましたから」
「そう……」
夕子はえらく難しい顔で首を振った。そこへ若い医師がやって来た。
「一応、命は取り止めそうです」
「神様!」
二木佳子が大きく息をついて両手で顔を覆った。
「訊問できますか?」
「いや、意識はまだ回復しません。二十四時間くらいは無理でしょう」
「そうですか。では可能な状態になったらご連絡を」
「分りました」
病院を出ながら、私はさっきの自分の考えを夕子へ話して聞かせた。
「そうね。……でも検死の結果は手で絞めたとは出ていないんでしょ?」
「そうなんだ。そこが引っかかる。手で絞めれば指の跡がつくものなんだ。最初からロープで絞め殺したとすれば計画的な犯行ということになるな。――君は一体何を気にしてるんだ?」
「雨よ」
「雨がどうした?」
「ずいぶん短い時間に降ったものだと思って……」
「山の雨はそんなものさ。局地的にサッと降って、パッと上る。それに雨じゃなくて霧のせいで濡れたのかもしれない」
「霧で、あんなに死体がびしょ濡れになる? それに砂利の間にも大分水たまりがあったし、やはり雨だったのよ」
「それが何か関係あるのかい?」
「ちょっと、ね」
とまたお得意のセリフだ。「あら、あの車から降りてる三人……」
見れば、病院の門の前へ、赤い国産のスポーツカーが停って、三人の若者が降りて来る。馬渕と同じN大学のワンゲル部の三人だ。馬渕がはねられたと聞いてやって来たのだろう。我々には気付かずに病院の方へ急ぎ足で行ってしまった。なかなかいい先輩たちだ。
「さて、どうだい晩飯でも?」
と私は言った。
「あら、もう八時半過ぎなのね。私、ちょっと……」
「何だ、大学へ戻るのかい?」
「ううん、そうじゃないの。深谷君と九時に会って食事する事になってるのよ」
「ははあ……」
「じゃ、またね」
夕子は、ちょうど通りかかったタクシーを停めて、行ってしまった。|侘《わび》しく見送っていると、冷たいものが頬に当る。――たちまちパラパラと雨が降り出した。
「泣きっ|面《つら》に蜂だな、全く」
パトカーの方へ戻ろうとしたが、何となく雨に降られて歩いて行くのも、今の気分にはピッタリくるような気がした。誰かの詩の一節を思い出す。――|巷《ちまた》に雨のふるごとく、我がこころにも雨ぞふる……。
ゆっくり歩き出すと、
「宇野さーん!」
と原田刑事の|咆《ほう》|哮《こう》が追いかけて来た。「濡れますよ! パトカーに乗らないんですか!」
全く、デリカシーのない奴だ!
4
翌日はまた晴れ上って暑い日になった。午後、T大学の講堂のロビーは若者たちで溢れていた。ウロウロしていると、夕子の方で見付けて、やって来た。今日は和服姿に加え、舞台用に少し濃く化粧などして、一段と色っぽい。
「よく来られたわね!」
「公用と称して抜け出して来たのさ。――盛況じゃないか」
「そりゃね。人気スターがゲスト出演するんだもの」
「へえ。誰だい?」
「いやね、私に決ってるじゃないの」
と夕子はクスッと笑った。「――それはそうと、馬渕君をはねた車は分った?」
「いや、まだだ。念のため、キャンプにいた連中の車を全部チェックさせたが、異常なし」
「そう。まあ、はねられたのは偶然かもね」
「一つ忘れてたよ。連中に手に擦りむいた傷のある奴がいないかどうか調べるべきだったんじゃないか?」
「それは私も考えたけど、でも無駄よ」
「どうして?」
「たとえ傷があっても、木を登った時にできたのかどうか立証できないわ。キャンプなんかに行けば、いくらでもそんな傷ぐらいできるもの。それにロープをちゃんと用意したぐらいなんだから、手袋ぐらいはめていたに違いないわ」
「それはそうだな。――ああ、ところで検死解剖の後で、ちょっと妙なことが分ったよ」
「あら、何?」
「西野妙子は少し水を飲んでいた。肺にも水があったそうだ」
「まあ! それじゃ――」
「いや、溺死だったというわけじゃない。死因は首を絞められての窒息死だ。ただ水を飲んでたというのは妙だがね。殺しておいて川へでもつけたのかな」
「でも何のために?」
「ウム。……雨が降る前に自殺したと見せかけるためじゃないかな。殺人を自殺と偽装したが、それだけでは安心できない。それで死体を濡らして、雨に濡れたように見せかけた……」
「それじゃ実際は雨が上った後に殺されたっていうの? でもねえ……それはアリバイ工作でしょう?」
「まあそうだろうな」
「それなら雨が降った時間がはっきりしていなきゃおかしいわ。誰も、いつ頃雨が降ったとは言い出さないし、みんな眠ってて気が付かなかったって言ってるのよ。それじゃ全然アリバイにならないわ」
「それもそうだな……」
「何か|閃《ひらめ》きそうなんだけどなあ……」
と夕子は首をひねったが、「あ、いけない。もう開演だわ。それじゃ、また後でね!」
と言って、小走りに去って行った。私が客席の入口の方へ歩き出すと、
「警部さん!」
と呼びかける声。見ればあのW大のハンサムボーイである。
「やあ、君か」
「ご一緒に見ませんか」
「ああ、いいとも」
適当に空席を見付けて坐ると、私は平静を装ってプログラムを眺めた。その内、夕子から「別れましょう」と宣告されるだろう。その前に、こっちから話し合う場を作らなきゃならんな、と思った。それが年上の人間の義務というものだ。――隣に坐った深谷が、言った。
「昨夜、夕子さんを誘惑したんです」
私はギクリとした。
「そ、そうかい」
「キッパリ言われましたよ。『お友達としてならお付合いするけど、私の恋人は宇野警部一人なのよ』ってね」
彼は笑顔を向けて言った。「いや、羨しいですね。彼女みたいな素敵な人を独占できるなんて」
私は咳払いして、幕の上った舞台へ目を向けた。夕子の|扮《ふん》する人妻と、若き主人公が知り合うプロローグだ。私は夕子の姿を目にして、思わず胸が熱くなるのを感じた。中年男はどうしてこうも感傷的なのだろう……。
「いけないわ! ――さようなら、浩市さん!」
夕子が小走りに舞台の袖へ消える。ライトが主人公だけに絞られ、雪が一層激しくなる。――拍手が湧き起こり、幕が降りた。やれやれ、これで夕子の出番は終りだ。私も仕事中である。そうそうのんびりしてはいられないので、深谷青年に後を頼んでロビーへ出た。一人になると自然に微笑が浮かぶ。男なんて単純なものなのである。さて、帰るか、と歩き出すと、
「宇野警部さん!」
と見覚えのない女子学生が走って来た。
「何か用かい?」
「あの、永井さんが、着替えて来るまで待ってて下さいって。それから、これ」
とたたんだ紙片を差し出す。開いてみて目をパチクリ。夕子の字で、〈若い刑事さんを三、四人パトカーで呼んでおいてちょうだい。それと、バケツを五、六個用意しておいて。あの渓谷へ行って実験[#「実験」に傍点]したい事があるの!〉
「やれやれ、また名探偵殿は何を考えているのか……」
と私はため息をついた。
二十分ほどして、いつものジーパンスタイルに戻った夕子が現れた。
「お待たせ! 準備できてる?」
「お姫様のお申しつけ通りに」
「からかわないでよ! さ、行きましょ。暗くなったらできなくなるわ」
「一体何をしよう、っていうんだ?」
「途中で説明するわよ」
パトカー二台。一台に若手の刑事を三人乗せてある。もう一台に夕子と私と原田。全く税金の無駄使いと非難されそうである。
「さっき、舞台で思いついたのよ」
と夕子は言った。「紙の雪が降って来るのを見ててね」
「さっぱり分らんね。何をやらかすつもりなんだい?」
「問題は雨だったのよ。さっきも言ったように、死体が濡れていたのは、雨が降った時間がはっきりしない以上、アリバイにはならない。すると他の理由があったのに違いないわ。――どうも最初からおかしいと思ってたのよね」
「何が?」
「誰も雨に気付いてないってことが、よ。色々な証言から考えても、雨はかなり短い間に降ったらしいのに、誰も雨の音を聞いていない。テントって雨の音はかなり響くのよ。それなのになぜ誰も気付かなかったのか?」
「なぜだい?」
「つまりね、雨なんか降らなかったんじゃないかって事なの」
面食らっている私と原田へ、夕子は得意気な顔で続けた。「雨に濡れたと見せかけるために死体を川へつけたんじゃなくて、川で死んだのを隠すために雨が降ったと見せかけたんじゃないか、ってこと」
「川で死んだ?」
「そう。あの流れの早かったのを見たでしょう? ロープの輪を首へかけておいて、あの流れに突き落としたら、どうなる? ロープをしっかりつかまえておけば、彼女は流れに引っぱられて、ロープはぐんぐん締まる。水を少し飲んだというのも、それなら分るわ。そして死んだと思う頃に引っ張り上げ、木の技から吊り下げる。ところが当然死体はずぶ濡れ。そのままじゃ自殺とは思ってくれない。そこで雨が降ったように思わせるために――」
「あの河原中を水びたしにしたっていうのかい? そんな無茶な!」
「そう? でもあの河原はそれほどの広さじゃないわ。一人でならともかく、三、四人でかかれば……。川の水をバケツでくんで隅から隅までまく。下は砂利だから、水は合間を流れて広がって行くだろうし、不可能な事じゃないと思うわ」
「それじゃ、その実験をさせようっていうのか?」
「そうよ、あ、悪かったわね、濡れてもいいように古い靴をはいて来て、って書くの忘れたわ」
――全く大騒ぎであった。大の男が四人――原田と三人の若い刑事――でバケツ片手に川と河原を行ったり来たり。水をぶちまけてはまた川へ逆戻りのくり返しだ。夕子は時計を見ているだけ。監視役然として、岩の上に坐り込んで、
「その調子! もう少しよ!」
なんてやっている。
私はどうしたかって? ――ん、まあ、そこは記述者の特権で省く!
「一時間五十三分!」
夕子が叫んだ。「二時間あればできたのよ。分ったでしょ?」
「なるほどね。割合に早かったな。しかし何のためにそんな手間のかかる殺し方をしたんだ?」
「それは、これから解いてあげる。――あ、みなさん、ご苦労様!」
「なあに、夕子さんのためなら」
とハアハア息をつきながら原田が言った。夕子は四人へ向って、
「宇野さんがね、みなさんに何でも好きな物をおごるって。うなぎでもステーキでも、考えておいてね!」
私は唖然とした。
「本当ですか!」
「すみませんねえ!」
「じゃ、すき焼で一杯――」
「僕はフグ刺が食べたいなあ!」
私はひきつったような笑いを浮かべた。
パトカーで戻る途中、無線が入った。
「宇野さん」
と原田が振り向いて、「あの馬渕って学生が意識を取り戻したそうです」
「よし、じゃこのまま病院へ回ろう」
病院へ着いたのはもう夜になっていた。私たちが病室へ入って行くと、ベッドの傍に二木佳子が坐っていた。
「あ、警部さん……」
「やあ、どうかね、彼は?」
「今、ちょっと眠っています」
「そうか。じゃ少し待とう」
すると夕子が前へ出て言った。
「よかったわね、本当に」
「ええ」
「ねえ、あなたも、本当の事を言ってちょうだい」
「え?」
「分ってるのよ。運が悪かったのね。あんな事になるなんて思いもしなかったんでしょう?」
二木佳子は青ざめた顔で、ゆっくり肯いた。
「……彼の命が助かったら、自首しようと思ってたんです」
私は思わず二人の顔を交互に見やった。夕子が言った。
「あなたは馬渕君が西野さんをテントまで送って行った時、気になって、そっと後をついて行ったんでしょう? そして二人のやりとりを外で立ち聞きした。西野さんに腹を立てたあなたは、はっきり話をつけようと、西野さんがテントから出て行くと、自分も後から出て、あの岩の陰へ行ったのね。それで言い争っている内に……」
「ほんの弾みだったんです! 本当です! つかみかかって来るのをよけたら、彼女、自分でバランスを失って流れに落ちてしまったんです。びっくりして覗くと、流されそうになりながら必死に岩の出っ張りにしがみついています。で、私、誰かを呼ぼうと走り出しました。ちょうどそこへ、彼が出て来たので『西野さんが流れに落ちたわ!』と言うと、彼はテントからロープを取って来て、川辺へ駆けつけました。N大のテントの他の人も騒ぎで起きて来ました。そして彼はロープの先を環にして、西野さんの方に投げたんですけど、流れが早くてなかなか巧く届きません。その内にやっと彼女がロープの輪をつかんで体をそこへ入れようとしたんです。その拍子につかまっていた岩から手が滑って、彼女は流れの中へ……。でもロープに手応えがあり、ピンと張っていたので、N大生四人がかりで必死にたぐり寄せたんです。ところが……」
「引き上げてみると、ロープの輪が西野さんの首にはまっていた、っていうわけね」
「ええ……。びっくりして、人工呼吸や何かをやったんですが、結局だめでした。そしてどうしようかとみんなで話し合って……このままじゃ、私がわざと殺したように取られるかもしれない、って……それで自殺したように見せればいい、という事になったんです。でも彼女は全身水につかっていたので、すぐに怪しまれると思い――」
「N大の人たちが河原へ水をまいて雨が降ったように見せかけたのね」
「はい。他のテントの人たちは誰も気付かなかったようです」
その時、病床の馬渕青年が身動きして目を開いた。「――育夫さん」
「佳子さん……。警察の人が……」
「いいの。何もかも話してあるわ」
二木佳子は馬渕の手を握りしめた。「気持がさっぱりしたわ。何も心配しないで。早く元気になってね!」
私と夕子は廊下へ出た。
「やれやれ……。車にはねられたのはただの偶然だったわけだな」
「そうね。でもあの|娘《こ》にとっては事故が天罰のように思えたんでしょうね。――いい|娘《こ》だわ。過失って認められるでしょう?」
「たぶん大丈夫だろう。みんな大した罪にはなるまいよ。しかし、どうして分った?」
「計画的殺人なら、あんな厄介な殺し方はしないはずだから、かなり偶発的な事件に違いないと思ったの。馬渕君が西野っていう|娘《こ》を送って行くのを、彼女が気付かないはずはないわ。もともと横取りされそうになってピリピリしてるはずですもの。必ず後を尾けて話を聞いたに違いないと思ったのよ」
「なるほどね……」
そこへ、原田がいささか照れくさそうな顔でやって来た。
「宇野さん……」
「何だ?」
「みんな待ってるんですが」
「何を?」
「いや、晩飯をおごっていただけるというんで」
――私は、二木佳子へ、明日、警察へ自首して出るように言い含め、病院を出た。自首すれば、かなり心証が良くなるからだ。一応見張りに警官を置いてあるにせよ、これは警部としては許されない行為である。夕子の影響だろうか。
五人で十人前近いすき焼を平らげ、日本酒とビールをどれだけ飲んだか……。店を出た時はもう十時近かった。財布は空っぽ。別れ際に夕子が大分補充しておいてくれたので助かった。でなかったら、無銭飲食でとっ捕まるところだ。
「ごちそうさまでした!」
「警部殿に、敬礼!」
「宇野警部、万歳!」
いや、こっちが照れくさくなるような騒ぎ。
やっと一人になって歩き出すと、ポツリ、ポツリと降り出した。
「畜生!」
と呟いた時、一台の車がスッと傍に寄って来て停った。
「お乗りになりません?」
運転席で艶然と微笑んでいるのは、和服姿の夕子ではないか!
「おい、この車は?」
と隣へ乗って訊く。
「レンタ・カー。どちらへ参りましょうか?」
「どこでもいいよ。――その着物、誰に着せてもらったんだい?」
「着付け教室に通ってた友達よ。ご心配なく」
と含み笑い。
「別に……心配なんてしやしないよ」
夕子は静かな通りの路肩へ車を寄せて停めると、私を見て言った。
「深谷君から聞いた?」
「うん……。惜しくないのか、あんな若くてハンサムな男を」
「何とか言っちゃって! |妬《や》いてたくせに」
私は苦笑した。夕子が身を寄せて来て……私は彼女を抱いてキスした。
「ねえ」と夕子が|囁《ささや》くような声で言った。
「うん?」
「どこかでこの帯を解いてみる?」
心臓が飛び上りそうになる。
「いいね!」
「でも、だめだわ」
「どうして?」
「あなた着物を着せられないじゃないの」
夕子は笑って言った。「あなたも着付け教室に通ったら?」
第五話 眠れる|棺《ひつぎ》の美女
1
「そうならそうと、一言、言ってくれればいいじゃないか」
私は断然頭へ来ていた。
「だから謝ってるじゃないの」
永井夕子は唇の端っこをひんまげて困り切った顔をしている。
いつもとは反対の図である。いつもなら、私が夕子のご機嫌を伺ってあれこれサービスするのだが、今日ばかりは――いや、私とて四十歳にもなって、いかに恋人とはいえ二十二歳の女子大生を相手に本気で腹を立てるのは少々大人げないと思わぬでもない。しかし、こちらが四十歳という年齢である事、しかもやせても枯れても(本当はちっともやせていないが)警視庁捜査一課の警部という立場があらばこそ腹も立つのである。
「ちゃんとした格好で来てよ、って言ったじゃないの」
と夕子も大分ふてくされている。
「まだ遠いのかい?」
「あと五分くらい歩けば着くわ」
私たちは昼下りの住宅街を歩いていた。いわゆる都心の高級住宅地として知られたあたりで、両側には高い塀と、屋根の|天《てっ》|辺《ぺん》だけがチョイとのぞく大邸宅が並んでいる。
「大体君はいつも、僕のスタイルをドブネズミだとか野暮のミスター・ユニバースだとか、けなしちゃあ、『もっとデイトの時はデイトらしく、ちゃんとした服装をして来てよ』って言うじゃないか。だから今日こそは、と思って……」
「それにしたって、大体趣味が悪いわよ」
「そうかい……?」
私は、白の上下、オレンジ色のシャツ、紫のネッカチーフ、白い靴という、自分のなり[#「なり」に傍点]を見下ろした。「これでも三日間デパートへ通って、店員の勧めを聞いて決めたんだぜ」
「売場を間違えたんじゃない? でなきゃその店員さん、きっと人をからかうのが好きなのよ」
夕子はため息をついた。「あーあ、よりによってお葬式[#「葬式」に傍点]にその格好で来なくたっていいじゃないの!」
夕子の方は黒いワンピース姿である。
「××駅の改札口で待ってるから……」
という電話に嬉々として、このいでたちを整え、駆けつけたのだが、サングラスをかけていたので夕子は私をそれと分らずキョロキョロしていた。私はサングラスを外してニヤッと笑って見せた。夕子の、|呆《あっ》|気《け》に取られた顔こそ見物であった。
「まあカッコいい! 見違えたわ! 若返ったわよ!」
という声を期待していたのだが、
「気でも狂ったの?」
と言われて、私の自信は針で突かれた風船の如く、アッという間にしぼんでしまったのだった。
「といって……今さら着替えるわけにもいかないだろう」
「だから仕方ないじゃないの」
夕子は諦めた様子で肩をすくめて、「ちょうど芸能プロに潜入してるんだ、って説明するから」
「亡くなったのは誰なんだい?」
「今泉仙一といって、死んだ父と親しかった人なの」
夕子の両親は交通事故で世を去っている。
「この辺に家を持ってるんじゃ、かなりの金持なんだろう」
「ええ、金持の上に大の字を三つぐらいつけてもいいわね。でもえらく変った人なのよ」
「金持ってのは変人が多いもんさ」
「もう七十近くになってたはずだけど、元気一杯でね。本当に、死んだなんて信じられないくらいよ」
と夕子は首を振りながら言った。
「君は好きだったのかい?」
「そうね。何となくこう、通じ合うものがあって……」
「変人同士ってわけだ」
「何よ、それは!」
夕子が|凄《すご》い目付きでにらむ。私は慌てて目をそらした。
「――茶目っ気がある、というのか、大きな子供みたいな所があってね、五十歳を過ぎて飛行機の操縦を習ったり、六十になってSLに熱中して日本中のSLを乗りまくったり……。夢多き少年がそのまま年を取ったって感じよ。――あ、その先だわ」
さすが、というべきか。その門を挟んで前後百メートルくらいの道の両側には黒塗りの高級車がずらりと並んでいる。
「へえ! 大したもんだね」
と私が感心すると、夕子は皮肉めいた微笑を浮かべ、
「普段は顔も出したことのない遠縁の親類までやって来てるのよ」
「ふむ。――関心は遺産にあるのかな」
「もちろんよ!」
門の方へ近付いて行った時、ちょっとした騒ぎが起こった。十六、七の少女が突然転がるようにして門から飛び出して来たのだ。
「とっとと帰れ!」
男の|罵《ば》|声《せい》が聞こえたと思うと、黒い背広に喪章をつけた中年の男が少女を脅しつけるように少女の後から姿を現し、「いいか、二度とこんな真似をしたら、今度は警察へ引き渡すぞ! 分ったか!」
と怒鳴った。
少女は小柄でほっそりとして、一応ちゃんと黒のワンピースを着ていたが、身を震わせて泣いている。男は野良猫でも追っ払うような調子で、「早く行かないか、目ざわりだ!」
と|喚《わめ》いた。少女はハンカチをバッグから出し、顔に押し当てながら、逃げるように足早に、私たちとすれ違って行ってしまった。男が夕子に気付いて、
「やあ、夕子さんじゃないか」
「酒井さん、どうしたの、一体?」
「いや、こういう時にはよくある手合さ」
酒井という男は苦々しげに首を振りながら、「私は故人の隠し子でございます、ってね」
「まあ、今の女の子が?」
「何の証拠もないんだよ。ただ言いがかりをつけて、いくらかでも金をせしめようって魂胆なのさ」
「そんな風にも見えなかったけど……」
夕子は小さくなって行く少女の後姿の方を振り向いた。
「きっと誰か男に入れ知恵されてるのさ。少し強く出ておかないとまた来るからね。……そちらは?」
と私の方を物珍しげに眺める。
「こちら警視庁の宇野警部。――酒井さんは亡くなった今泉さんの個人秘書だったの」
「よろしく」
と私が会釈すると、まだ四十前らしいのに、もう頭が半ばはげ上っている酒井という男の顔に、一瞬チラリと不安の影がかすめたように私には思えた。が、すぐに営業用らしい愛想のよい笑顔を作って、
「警部さん? これは……。一体またどうして……」
「この人が私の恋人なのよ」
と夕子が澄まして言うと、酒井は目を丸くした。
「それはそれは! ――翔んでる関係というわけですな」
「お焼香させていただくわ」
「ああ、きっと今泉さんも喜ぶだろう。夕子さんはお気に入りだったからね」
「私、なぜかお年寄[#「年寄」に傍点]にばかりもてるのよね」
夕子は気になることを言って、歩いて行く。私はついて行こうとして、ふと足下へ目をやった。定期入れらしきものが落ちている。何気なく拾い上げてみると、通学定期が入っていて、中を探ると学生証が出て来た。――写真はあまりはっきりしないが、さっきの少女に違いなかった。バッグからハンカチを出す時に落ちたのだろう。
〈会田良子(一七歳)〉とあった。
「何してるの?」
夕子の声に、私は定期入れをポケットへ滑り込ませ、慌てて歩いて行った。
「出棺でございます」
ああ、やれやれ、というざわめきが起こる。何しろ私たちが着いてからでも優に二時間はたっている。初めから列席している者にはウンザリするほどの長さだったろう。
「足が……しびれちゃった……」
夕子などはヨロヨロと中風病みの老人みたいな様子で、やっと立ち上った。
日本風の大した屋敷で、部屋も一体いくつくらいあるのか見当もつかない。広い日本間をいくつかぶち抜いただだっ広い部屋に会葬者たちは坐っていたわけだが、ちょっと変っていたのは棺が奥の別室に安置されていて、焼香するのも一人ずつその部屋へ入って行き、戻って来るとまた一人、という具合。よけいに時間もかかるわけだった。
「どうぞ皆さん、前庭の方へ」
とさっきの酒井という男が葬儀屋よろしくこまめに告げて回っている。
玄関を出ると、門まで続く敷石の道を|挟《はさ》んでおそらく七、八十人近い黒衣の列ができていた。私は白一点[#「白一点」に傍点]というわけで、極力後ろの方へと引っ込むことにする。最初に入って行った時には、|咎《とが》め立てするような視線の集中攻撃に会って冷汗タラタラであったが、何事も慣れというのは大したもので、何時間かたつ内に誰も私の方へ注意を払わなくなった。
棺が出て来るのを待っていると、
「あら、夕子さん」
と声をかけて来たのは、四十歳前後と覚しき、なかなか艶やかな美女である。
「この度はどうも――」
と夕子が言いかけるのを遮って、
「いいのよ。あれだけ好き勝手をやって死んだら、父も本望でしょう」
といともアッケラカンとしている。
「でもずいぶん急でしたね」
「そうなのよ。私は来週パリに行くんで忙しくってね……。参っちゃうわ」
「ご病気は何だったんですか?」
「心臓だそうよ。――私もよくは知らないの。ともかく子供も親類も誰一人死に目に会っていないんですもの。死んだって知らせを聞いてびっくりして駆けつけたわけよ」
「いい方だったわ……」
夕子がしみじみとした口調で言うと、故人の娘らしいその女性は、
「ま、人は悪くなかったけどね。ずいぶん無茶をやって財産を食い|潰《つぶ》してたから、みんなハラハラしてたの。内心はホッとしてるわよ、きっと」
とアッサリ言って、「火葬場まで行く?」
「いえ、私はここで……」
「そう。それじゃまた落ち着いたら遊びに来てちょうだい。パリから絵ハガキ出すわ。楽しみにしててね」
「ええ」
その女性は〈パリの屋根の下〉を口ずさみながら、行ってしまった。喪服にはどうもあまり似つかわしくないメロディである。
「呆れた!」
と夕子が苦々しく呟いた。
「娘さんなのかい?」
「長女で石浜由紀子っていうの。ご主人は以前、今泉さんの秘書をしてた人でね、なかなかいい人なんだけど……。あの奥さんはひどいもんだわ!」
「他に子供は?」
「男が二人。下の子を生んだ時に母親は亡くなったのよね。今泉さん、よく死んだ奥さんの話をしていたわ」
「すると遺産はその三人の子供の所へ行くわけだな」
「そういうことね。いっそ全部使っちゃって一文も残さなきゃよかったのよ!」
私はふとポケットの定期入れを思い出した。会田良子といったかな……。もしあの少女が本当に死んだ今泉の子供だったら、さぞかし大もめになることだろう。
棺が出て来た。今まで世間話に白い歯をむき出していた人々が急に神妙な顔になって手を合わせる。これなら仏も浮かばれようというものだ。
棺をかついでいるのは、たぶん二人の息子と、長女の亭主なのだろう。他に若い男が手伝っている。酒井は葬儀社の男と何やら打ち合わせをしながら棺の後からついて来た。――白木の棺はゆっくりと会葬者たちの列の間を進んで行った。
突然、女性のヒステリックな悲鳴が静かな空気を引き裂いた。私と夕子は思わず顔を見合わせた。一瞬の間を置いて、次々に叫び声が上った。何が起こったのか、列の後ろにいた私にはまるで分らなかったが、ただごとではないらしい。
「行ってみましょう!」
と夕子が先に立って人をかき分けて駆け出す。私もそれに続いた。
「どうした!」
「一体何だ!」
「近寄らないで!」
と様々な声が飛び交い、棺のあたりを囲んで人垣ができている。棺が落ちたのか? それにしては騒ぎが大き過ぎるのではないか。私と夕子は人垣をかき分けて中へ入った。棺が石畳の上へ投げ出されたように横たわっていて、酒井や、棺をかついでいた男たちが、数歩離れて、呆然とそれを見つめている。
「一体どうしたんです?」
と訊くと、酒井は私の顔を見て、
「警部さん! よかった、助かりました!」
と私の腕をつかんだ。「あ、あれを見て下さい!」
棺を見てギョッとした。――白木の棺の底板と横の板との継ぎ目に、赤くにじみ出ているのは、紛れもなく血だ! それも外へじわじわとしみ出して、敷石の上へかすかながら流れ出している。
「ど、どうなってるんでしょう?」
酒井は青くなって震えている。こっちもまるきり平気というわけではないが、まあ、一応訓練されているから、卒倒するところまではいかない。葬儀社の男に、
「棺を開けてみたまえ!」
と言いつけた。夕子もさすがに青ざめて、
「変ね……。あの血はずいぶん新しい……」
「そうだ。たった今傷口から流れ出たように見える。――早く開けて」
葬儀社の男たちが三人がかりで棺の蓋を打ちつけた釘を抜いた。私は他の者を退がらせると、蓋をそっと外して、中の遺体を|検《しら》べた。
「――どう?」
夕子が近寄って来る。
「どうも妙だ。傷口が見つからない。背中の方かもしれない。遺体を起こしてみよう」
職業意識に徹すると、やはりたいていのことは平気である。私が遺体の頭の下へ手を入れて、エイッと持ち上げると、周囲からワッとどよめきが起こった。やはり傷は背中にあった。鋭い刃物で突かれたようだ。
「こいつはとんでもないことになった」
遺体を寝かせて、夕子と顔を見合わせた。
「分るわ……。まだ死体が硬直していない。ということは……」
私は酒井の方へ、
「酒井さん、みなさんに屋敷の中へ戻っていただいて下さい。どなたもお帰りにならないように。それから警察を呼んで下さい」
「し、しかし……一体……」
「この仏様は剌されて死んだのですよ。それもここ数時間の内にね」
と私は言った。
2
「酒井さん、一体どうなってるのよ?」
長女の石浜由紀子が苛々した様子で言った。
「何とかしなさいよ、あなた、秘書でしょう!」
「そ、そんなことをおっしゃられても……」
「まあ、落ち着いて下さい」
と私は割って入った。「いかに有能な秘書でも殺人事件の始末まではできませんよ」
殺人。その一言で重苦しく一同は押し黙ってしまった。――今泉邸の居間。ここだけは広い洋室に|絨毯《じゅうたん》を敷きつめて、ソファが置かれている。
部屋に集まっているのは、石浜由紀子、その夫の石浜功一郎、長男の今泉晴之、次男の今泉誠、それに酒井の五人である。それにもちろん夕子と私。
ドアが開くと、原田刑事の巨体が現れた。
「宇野さん、医者を連れて来ましたよ」
「ああ、ご苦労。通してくれ」
入って来たのは、原田を電話帳とすると見開きのパンフレットぐらいしかない、やせた老人だった。
「お掛け下さい」
私はソファへ老人を坐らせると、「吉田さん、でしたね? 今泉さんの主治医だったのですね」
「そうです。この家族みんなをずっと診て来ましたからな。家庭医と言っていただいた方がいいでしょう」
老医師は淡々とした口調で言った。もう七十歳を遥かに越えている――おそらく八十近いのではないかと思えたが、|矍鑠《かくしゃく》として老いを感じさせない。
「今泉仙一さんの死亡証明書を書かれましたね?」
「確かに」
「だが今泉さんは生きていた。そしてつい何時間か前に殺されました。――なぜ今泉さんの死亡証明書を書いたのです?」
「本人に頼まれたのです」
集まった親族たちは、一様に当惑した様子で顔を見合わせた。
「それはどういう理由で?」
「あの人には子供じみた所がありましてね」
と吉田医師は微笑んで、「まあ、いずれにせよ老齢でしたからね、そろそろ財産の処分について考えたい、と言い出したのです」
「つまり――遺産相続のことですか」
「そうです。一応遺言状では三人の子供に分配されることになっていたわけですが、子供さんたちに等しくその資格があるかどうかを疑っておいででした」
「ひどいわ!」
と声を上げたのは、むろん石浜由紀子である。「こっちは散々苦労させられたのに!」
「お静かに」
と私は制しておいて、「吉田さん、それは今泉さんが特に[#「特に」に傍点]何か具体的なことで誰かを疑っていたということですか?」
老医師はゆっくり首を振った。
「それは何とも申し上げられません。――さよう。そうも取れるし、そうでないようにも取れる、と申し上げる他はありませんな」
「なるほど。続けて下さい」
「一旦死んだふりをして、子供さんたちの反応を見てみたいというご希望だったのです。もちろん偽の死亡証明書を出すのは法に背くと重々承知はしておりましたが、今ではもう全く隠退も同様の身ですし、今泉さんとは四十年にもわたる仲でしてな、断り切れずに引き受けた、というわけで」
「なるほど。それで、どういう計画だったのです?」
「そこまでは知りませんな」
「いつですか、その話があったのは」
「その相談を受けたのがちょうど一カ月前です」
「ちょうど?」
「今日は二十日でしょう。毎月二十日に、私は今泉さんを診察に来るのです。むろん病気の時にも来ますがね。いや、その場合はむしろ息子に任せます。やはり近くで開業しておりますのでね」
「すると先月の定例の診察日にその話があった、というわけですね」
「そうです」
そこへ夕子が言葉を挟んだ。
「吉田さんのことを今泉さんから伺ったことがありますわ。二十年間、毎月二十日の診察を欠かしたことがないとか……」
「その通り。最初からの約束でしてな」
「今泉さんがヨーローパへ行っている時には、ドイツのホテルへ追いかけて行かれたとか。今泉さんもさすがに言葉がなかったそうですね」
「それは大したものですね!」
と思わず私は感嘆した。
「約束ですからな」
と吉田医師は事もなげに言った。
「今泉さんの計画について、何か|洩《も》れ聞いたことでもありませんか?」
「ありません」
「そうですか。結構です。ただ、この件はやはり――」
と私が言いかけるのを遮って、
「いや、医師の免許を取り上げられるのは覚悟の上です。取り上げられたところで、どうせ今泉さんが本当に亡くなってしまえば私の仕事もなくなるわけで、別に痛くもかゆくもありませんからな。――ではこれで」
「ああ、吉田さん」
と私はドアの方へ行きかけた吉田医師を呼び止めた。「今泉さんの長い間のご友人として、今泉さんを恨んでいる人間の心当りがあれば伺いたいのですが」
「犯人の、という意味ですな」
「まあそうです」
吉田医師はちょっと皮肉をこめた目を今泉の子供たちの方へ向けると、
「三人の子供なら、誰だってやりかねませんな」
とはっきり言ってから、「しかし、みんなその度胸がありますまい」
と付け加えた。――ドアが閉まると、三人の姉弟から一斉に、
「何て失敬な奴だ!」
「あのモウロクじじい!」
「自分が墓へ入りかけてるくせして、何を言ってるの!」
と悪罵の声が上った。――そこへドアが開いて、原田が顔を出した。
「宇野さん」
「何だ?」
「ちょいと面白い客が来てるんですがね」
居間の半分ほどの広さの日本間へ入って行くと、不景気そうな顔の小男が、渋い顔であぐらをかいていた。
「おやおや、桂木、お前か。久しぶりだな」
元チンピラで、ちょっと目をかけてやったことのある男だ。私を見ると目を丸くして、
「宇野さん! ――見違えましたぜ」
「お前はちっとも変らんな」
「貧乏は相変らずですがね、堅気の暮し一筋ですぜ、本当に。それより宇野さんの方はえらくイカしたスタイルじゃないですか。――そちらのお嬢さんは?」
「私は宇野さんの恋人よ」
と夕子が楽しげに言ってくれる。
「へえ! 最近は宇野さんもずいぶんすすんでるんですなあ」
「そんなことより、お前、何しに来た?」
私は威厳を保つべく必要以上に目付きを悪くして桂木をにらんでやった。
「仕事ですよ。本当なんです、ほら」
と差し出した身分証明書には、〈××探偵社〉とあった。一応、その業界では比較的名の通った会社である。
「お前が探偵か」
と私はため息をついた。「――で、ここへ何の用だ?」
「はあ、ちょっと調査を依頼されまして、その報告に……」
「頼んだのは誰だ?」
「ええ……その……ま、死んじまったんだから構わないでしょう」
「というと、今泉仙一か?」
「ええ」
「内容は?」
「ねえ宇野さん、それはちょっと勘弁して下さいよ。依頼人の秘密は――」
「俺にそんな口がきけるのか。――おい、原田。こいつを逆さにして二、三度振ってやれ。何か吐くだろう」
「喜んで!」
原田が指をポキポキ鳴らしながら近付いて行くと桂木は青くなって、
「ちょっと――ちょっと待って下さい! 分りましたよ」
と逃げ腰になりながら内ポケットから封筒を出して私の方へ投げて寄こした。チンピラ時代、原田の怪力に大分世話になったのを忘れてはいないらしい。私は封筒を拾い上げ、中の書類を広げた。
「――呆れたね!」
私はざっと目を通して、思わず呟いた。
「どうしたの?」
と夕子が覗き込む。
「見ろよ。一昨日、今泉仙一が死んだという知らせを聞いてから、三人の子供たちが何をしたと思う?」
「何なの?」
「長女の石浜由紀子は店を一つ買い込んだ。長男の今泉晴之はここへ駆けつけるより早く、愛人の所へ走って行って、マンションを買ってやると約束した。次男の今泉誠は外車を一台購入する申込みをして、友人たちにふれ回った。外車プラス、ヨットだ」
私が居間へ戻って三人にこの件を確かめると、やはり血は争えないというのか、揃って初めはむきになって否定し、やがて嘘をついて後でばれれば却ってまずいと気付いたのか渋々認め、最後には開き直った。
「ええ、確かに店を買ったわよ。それがどうだっていうのよ!」
石浜由紀子は金切り声を上げた。この声は女性の強力な武器の一つである。男の方が頭が痛くなって、もういい、分った、と言いたくなるからである。ところがどっこい、その程度で音を上げていたのでは、捜査一課の仕事は勤まらない。
「別に何も言っていませんよ」
「何よ、私がいかにも父の死ぬのを待ってたみたいな事を言って……」
「じゃ今泉さんが亡くなったと聞いて、店を買ったわけではないんですね?」
「もともと買う約束になってたのよ! たまたま、あの日に契約することにしていたから……」
「じゃ支払いは済んでおられる?」
「も、もちろんよ!」
夫の石浜功一郎が静かに言った。
「嘘を言っちゃいけないよ。我々にそんな金があるはずはないじゃないかね」
「あなた! あなたは黙ってて!」
と凄い目付きで夫をにらむ。
「奥さん、ご主人のおっしゃる通りですな。調べればすぐに分ることで嘘をつくのは愚の骨頂というものです」
石浜由紀子は、ムッとした様子で黙ってしまった。長男の今泉晴之は三十五、六歳。ありふれた中間管理職という印象の、見栄えのしない男だ。
「確かに……マンションを買ってやると約束しましたよ。でも私が妻以外の女と関係していたって、そんなことは警察にとやかく言われる筋合のものじゃない!」
と内心びくびくしながら強がりを言っているのだろう、しきりに額の汗を手の甲で|拭《ぬぐ》っている。
「そうだとも!」
一番カッカしているのは、末弟の今泉誠だった。まだ三十そこそこで、いわゆる根なし草タイプ。それも、自分一人でフラリと放浪に出るようならいいのだが、親の金で遊んで暮しているぐうたら型だから救い難い。|荒《すさ》んだ生活が不機嫌そうな顔つきに出ている。
「俺がヨットを買おうが、ロケットを買おうが勝手じゃねえか!」
とかみついて来るのを受け流して、
「どうも、みなさんは何か誤解しておられるようですね」
と私は言った。「私は何もみなさんが何かを買ったからといって非難しているわけではありませんよ。ただ一つの点を指摘したいだけです。つまりみなさんは本当にお父さんが亡くなられたものと信じて、代金後払いで買物をなさった。つまりお父さんに生き返られては、甚だ困る立場にあった、というわけですね」
三人は顔を見合わせただけで、何も言わなかった。――私はふとポケットに入っている定期入れのことを思い出した。
「ところで、みなさんの中で、会田良子という名前に心あたりの方はありませんか?」
私は、一瞬石浜功一郎の顔にふっと驚きの表情が|疾《はし》ったのを見たような気がした。が、それはすぐに消えて、無表情な顔に戻ってしまった。
「ああ、それはさっきの娘の名でしょう」
と酒井が思い出した様子で、「ほら、みなさんも憶えておいででしょう。さっき、今泉さんの娘だと名乗って来た……」
「ああ、あのインチキ娘ね」
と石浜由紀子がせせら笑うように言った。
「全く図々しい!」
と今泉晴之が肯く。「あんな奴に焼香させるんじゃなかったよ」
「彼女も一応焼香したんですね?」
と私は訊いた。すると急に弟の今泉誠が声を上げた。
「おい! もしかすると、あの娘が犯人かもしれないぞ!」
三人は顔を見合わせると、とたんに、口々に会田良子が犯人に違いない、と言い立て始めた。
「静かにして下さい!」
私は一声怒鳴っておいて、「――いいですか、あなた方は会田良子という娘がとんでもないペテン師だと言っておいて、そのそばから彼女が犯人だと言う。彼女が本当にお父さんの娘でなかったら、殺すはずがないじゃないですか」
三人の姉弟はまた黙りこくってしまった。
「全くあの連中にはウンザリするなあ」
と私が愚痴ると、夕子はニヤニヤしながら、
「でも、なかなかよくやってたじゃないの」
と言った。「私の仕込みがいいせいか、少しは上達したわね」
私と夕子は、殺人が行われたと思われる場所――棺の安置されていた部屋へ入って行った。棺を運び出すと同時に、祭壇や何かは葬儀社の人間が全部片付けてしまっていたので、今残っているのは、棺の置いてあった台だけである。台といっても大きなテーブルに、床まで届く白い布をかけてあるのだ。
「しかし、殺された今泉ってのも、全く妙なことを考える奴だな」
「あら、そうかしら? でも、あの三人を見れば、そうしたくなる気持も分るじゃないの」
「ま、それもそうだ。……しかし、一体誰がやったんだろう?」
「機会は誰にもあったわけね。ここへは一人ずつしか入って来なかったんですもの。蓋はまだ開けたままだし……。入って来て焼香し、素早く一突き。何食わぬ顔で次の間へ戻る」
「誰だろう? 誰かが今泉の死んでいないことを知ってたんだ」
夕子は考え込みながら、
「誰か、よりも私の気になるのは、なぜか、なのよ」
「何のことだい?」
「なぜ今泉さんは背中を刺されていたのか……」
「そりゃ、胸を刺されていたら、後から焼香する人間の目に付くからだろう」
「でも、お棺の中で死んだふりしてる人の背中[#「背中」に傍点]を刺すっていうのは楽じゃないわよ」
「フム……。それもそうだ」
「それにもう一つ」
「何だ?」
「今泉さんだって、お通夜からずっと棺の中にいたはずはないわ。時々は棺を出たはずよ」
「それはそうだろうな」
「でも次の間には、お通夜の時も大勢お客がいたはずだし……。どうやって棺から出たのかしら? 棺から出てどこへ……」
夕子は呟きながら布をかぶせたテーブルをぐるりと回って、やおら白い布をめくった。
「――なるほどね。ご覧なさいよ」
見れば、テーブルの真下に、畳半畳分ほどの口がポッカリ開いており、下へ|梯《はし》|子《ご》がかかっている。
「地下室があるのか」
「入ってみましょうよ。ペンシルライトぐらい持ってるんでしょ?」
「ああ」
私は先に立って梯子を下りて行った。乏しい光で照らしてみると、ちゃんと畳の敷かれた六畳ほどの部屋で、ちょっとした戸棚や机なども置かれている。
「驚いたな!」
「古い家って色々こういう所があるから好きよ。ワクワクして来るじゃない?」
「そうかね。僕はこういう穴ぐらみたいな所は弱くって……」
「だらしないのね。私と二人だと暗い所へ行きたがるくせに」
「お、おい! 人聞きの悪いことを――」
「いや! お尻に触ったわね、エッチ!」
「今のははずみだよ、本当だ……」
と押し問答していると、上の部屋の方から、
「宇野さん」
と呼ぶ声が聞こえて来た。原田の奴だ。
「よし、ちょいとおどかしてやろう」
と私は梯子を上って、テーブルの下へ出ると、長く垂れた白い布を頭へかぶって、
「宇野さん……いませんか?」
と原田の声が部屋の入口から聞こえると、やおら白い幽霊よろしく、ニューッと立ち上って見せた。
「ギャーッ!」
と断末魔の悲鳴のような声がした。笑いながら白い布から顔を出した私の表情が凍りついた。原田は拳銃を構えて、銃口を私の方へ向けているのだ! しかも怖さのせいかギューッと目をつぶっている。
「おい――」
と言いかけたとたん、原田の拳銃が火を吹いた。
3
「このトンマめ!」
私は怒鳴った。「あれぐらいのことで発砲する奴があるか!」
「どうも面目ありません」
原田はすっかり小さくなっている。「小さい頃からオバケには弱くて……。今でも思い出すとトイレに行けなくなるくらいで」
夕子がクスクス笑いながら、私の腕をひじで突っついて、
「そう怒らないの! あなただって悪いのよ、あんなことして……」
確かにそう言われれば、こちらも弱味がある。私は原田を怒鳴るのはやめにした。
私たちはパトカーに乗って、あの定期入れの持主、会田良子の家へ向っていた。学生証の住所を頼りに探し当てたのは、薄汚れたアパートの一室だった。私はよほど原田をアパートの外で待たせておこうかと思った。奴が歩いたら廊下の床板に穴が開くんじゃないかと本当に心配だったのだ。しかし、何とか床板は原田の体重に悲鳴を上げながらも雄々しく堪えていた。
〈会田〉とかすれかけた手書きの表札を見つけ、ブザーのボタンを押したが、一向に鳴っている様子がない。仕方なく、ドンドンとドアを叩いた。――急にドアが細く開いて、チェーンをかけたまま、見憶えのある少女が顔を覗かせた。
「誰?」
「警察の者だ」
私が警察手帳を見せると、少女は黙って肩をすくめた。――室内は本当に寒々とした見すぼらしさだった。
「君の定期入れを返しておこう。――一緒に住んでいるのは?」
「私一人よ」
会田良子は答えた。「母が入院してるものだから……」
「それは大変だね。お父さんは?」
会田良子はキッとこっちをにらんで、
「父は今泉仙一です! 私が嘘をついてると思ってるのね!」
「い、いや、そうじゃないけど……。何か、それを証明する物があるのかね?」
「手紙があるわ」
「見せてくれるかね?」
ちょっとためらってから、彼女は一通の手紙を持って来た。中味は、短い間の契りを結んだ女への別れの手紙で、確かに〈今泉仙一〉と署名がある。夕子は私の手からそれを受け取ってじっと見てから少女の方へ返した。少女は引ったくるようにそれを取って、じっと手に持っていた。
「それを今日、あそこで見せたのかね?」
「いいえ。頭ごなしに詐欺呼ばわりされて……。とてもそんなことできなかったわ。――警察の人が一体何の用なの?」
「今泉仙一さんが殺された件でね」
「殺された?」
と会田良子は当惑した様子で、「病死だって聞いたけど」
私は事の次第を話して聞かせた。会田良子は目を見張って、
「それじゃ……お焼香した時、まだ生きてたのね!」
「それは何とも言えないね。その前に殺されていたかもしれない」
と言っても慰めにはならない。少女の目から大粒の涙が頬を伝った。どう見ても演技ではない。本当に今泉仙一の娘なのかどうかはともかくとして、本人がそう信じているのは確かなようだった。夕子が訊いた。
「お焼香した時、あなたは今泉さんの棺を覗いたでしょう?」
「え――ええ。父の顔を一度見たくって……」
「それはそうでしょうね」
夕子は肯いた。「何か変った様子に気付かなかった?」
「さあ……別に」
「あなたの前後にお焼香した人はどんな人だったか憶えてる?」
「前はお年寄のお医者さんで……後は……誰だか女の人でしたけど」
年寄の医者というのは吉田医師に違いない。
「ところで――」
と私は話を変えた。「父親のことはお母さんから聞いたんだね?」
「そうです」
「いつ頃知ったの?」
「昨日です」
「昨日?」
「それまで、私が生れてすぐに父は死んだと教えられていました」
「するとお母さんは――」
「父が死んだという記事を見て、初めて教えてくれたんです」
「またどうして、ずっと隠していたんだね?」
「約束したんだそうです。――その時に。たとえ子供ができても、決して迷惑はかけないと……」
「なるほど」
女手一つで娘をここまで育てるのは大変な苦労であったろう。よく約束を守り通したものだ。
「母は馬鹿だわ。男にだって責任があるんだもの、何も一人で背負うことないのに」
少女の口調も、母への非難というより、同情に近い響きを持っていた。
「告別式に行ったのは、君の考え?」
「ええ」
「なぜ行く気になったんだね?」
「父がどんな人だったのか見たかったし……それに……」
と、しばらく言い淀んでから、「あんなに母は苦労したんだもの、少しは何とかしてくれてもいいと思って……」
少し間があった。夕子が、
「お母さん、具合はどうなの?」
と訊いた。
「過労なんです。――私、高校なんか行かなくたってよかったのに」
夕子は会田良子の肩に手を置いて、
「安心してて。きっと何とかなると思うわよ」
と微笑んで見せた。
「――あんなこと言って大丈夫なのか?」
アパートを出てから私は言った。「あの姉弟が、そうやすやすと認めるとは思えないがな」
「あの子、今泉さんの娘じゃないわ」
私は驚いて夕子を見た。
「何だって? それじゃ嘘をついてると――」
「あの手紙よ。私、今泉さんの字を知ってるもの。全然、似ても似つかぬ字よ」
「すると誰かが――」
「今泉さんの名を使ったのね」
「やれやれ可哀そうに……」
私はため息をついた。「しかし、それじゃ、君が、何とかなると言ったのはどういう意味なんだ?」
「だからね、あなたがあの娘と結婚してあげればいいのよ」
私はギョッとして夕子の顔を見た。
「女って哀れね」
レストランで夕食を取りながら、夕子がしみじみとした口調で言った。――もう黒のワンピースはいつもの明るい色のパンタロンに変り、私もごくごく地味な背広に着替えていた。
「女って哀れね」
と夕子はくり返した。
「会田良子の母親のことを言ってるのかい? しかし、あれは貴重な例外というべきだろう」
「私だったらガッチリふんだくってやるんだけど」
「相手が分らなきゃ、そうもいくまい」
「私の場合ははっきりしてるわ」
私は思わず夕子を見た。
「どういう意味だい? まさか……君、その……」
「例えば、の話よ」
私は胸を撫でおろした。
「おい、あんまり脅かすなよ。食い物が|喉《のど》につかえるじゃないか」
「私に子供ができたら、あなた責任取ってくれる?」
「当り前じゃないか、僕は前から……」
「ああ、来たわ」
夕子がレストランの入口の方へ目を向けて言った。振り向くと、驚いたことに石浜功一郎が入って来るところだった。私たちを見つけると、
「ああ、こちらでしたか」
とぎこちない笑いを浮かべてやって来た。
「どうも……何か私にご用だとか……」
私が面食らっていると、
「私がお呼びしたんです」
と夕子が涼しい顔で言った。「どうぞおかけになって、お飲み物でも?」
全く、夕子と来たら、いつもこうなのだから! こっちにも一言ぐらい言っておいてくれればいいのに……。
「――ご用件というのは?」
と石浜功一郎は訊いた。
「会田良子さんはあなたのお子さんですね」
夕子がズバリと言い出したので、相手は一瞬青ざめた。私は、居間で会田良子のことをみんなに訊いた時、石浜功一郎がちょっと動揺したように見えたのを思い出した。夕子も目をとめていたのだろう。
「良子さんの母親にあてた手紙の文字はあなたの字でしたわ、石浜さん」
夕子に重ねて言われると、石浜功一郎は諦めたように肯いて、
「確かに……会田たけ子という女と一時愛し合っていたことがあります。家内と結婚して間もなくでしたが……。何しろ家内は雇い主の令嬢です。夫といっても下男のようなもので――。今泉さんはそれでも気を使って、自分のお持ちの会社へ私を課長として配属して下さったんですが……。ともかく家内にほとほといやけがさしていた時、会田たけ子に会ったのです。優しくて芯の強い女でした。……でも私は家内にばれるのがこわくて、今泉さんの名を使っていたのです。その内、家内はやはり感づきまして、会田たけ子の方にも何か手をのばしそうでしたので、私の方から別れの手紙を出したのです。娘がいたとは、知りませんでした」
夕子が会田母子の様子を話してやると、石浜功一郎は暗い表情になって、
「そうでしたか……。分りました」
「石浜さん、あなたの力で何とかしてあげて下さいね」
「ええ。もう今なら家内を怖いとは思いませんよ」
石浜功一郎は微笑んで、「私にとっては初めての子供だ。――ご心配なく。責任を持って二人の面倒はみます」
「よかった!」
夕子はワインをぐっと飲みほして、「きっとそう言って下さると思ってましたわ」
「しかし、よく私の筆跡をご存知でしたね」
「知りませんわ」
夕子があっさりと言った。
「しかし――」
「さっき、彼女の話が出た時の表情でね、きっとあなただと思ったんです」
石浜功一郎は呆気に取られていたが、やがて笑い出した。
「いや、あなたが今泉さんのお気に入りだったのも分りますね!」
それから真顔に戻って、「――ところで事件の方の|目《め》|途《ど》は……」
「今のところはまだ何とも」
と、私は代って答えた。
「そうですか。しかしあの方も全く妙なことを考えるものですね。まあ、私も秘書だった時代には、ずいぶん妙なことをやらされたものですが……」
「今泉さんが何かやられる時は、いつも秘書の方がお手伝いなさるんですか?」
と夕子が訊いた。
「ええ、実際にはほとんど秘書の仕事ですよ。何しろあの方は不器用で、釘一本打てないような人だから」
「じゃ、今度の件では……」
「そこが不思議ですね。あんな面倒なことを、今泉さんが自分でやるわけはない。酒井君は少なくとも知っていたと思うんですがね……」
と石浜功一郎は言った。そこへ、
「宇野さん!」
とけたたましい声を上げて、原田刑事が駆け込んで来た。
「おい、レストランだぞ、ここは……」
と私が渋い顔で言うと、
「すみません、つい……。あ、宇野さん、そのソテー旨そうですねえ!」
と目を輝かせて舌なめずりする。
「おい、用事を言え!」
「あ、そ、そうでした。――あの、さっきのアパートにいた娘――」
「会田良子か?」
「ええ、それが刺されて」
「まあ!」
夕子が立ち上った。「死んだの?」
「いえ。でも重体だそうで、今、病院に……」
石浜功一郎も青ざめていた。
「私も行ってよろしいでしょうか?」
「いいですとも。よし、行こう」
私は促した。原田は私の食べかけのソテーを名残り惜しそうに振り向きながらついて来た。
「ええ、七時頃だったかね、呼出し電話があって……」
ボロアパートの管理人は考え考え言った。もう七十近いお婆さんである。
「何て名だった?」
と私は訊いた。
「ええと……何とか言ったよ」
「そりゃそうだろう。何だった?」
「ええと……何とか何とかだよ」
私はため息をついた。
「雪村いづみだったかねえ」
夕子がすかさず、
「今泉?」
「ああ、そんな名だったよ、ウン。あんた、知ってるんなら、そう言やいいのに」
「で、男の声だったかね?」
「ああ。女じゃねえから男だろう」
「で、会田良子に取りついだわけだね」
「そうだよ。電話の取りつぎってのがまた大変でね。何せこの体じゃ、急いでってわけにいかないんでね。向うは十円玉がなくなるからすぐに呼んでくれなんて、勝手なことを言いやがる。十円玉ぐらい余分に用意しとくもんだ」
「そうだね。で、会田良子はどんな話をしてた?」
「そんなこと知るかね! 人の電話を立ち聞きするような趣味はないよ」
「そうだろうね。だけど耳に入ることはあるだろう?」
「まあね。……何でも、あの娘が、『本当ですか』ってびっくりしてたね。で、『すぐに伺います』、って言って、飛び出してったよ」
現場は今泉邸の近くである。住宅地だけあって、夜はあまり人通りもない。会田良子のアパートから現場へやって来ると、えらく寂しい所のような気がする。
「どう思う?」
と夕子が言った。
「あの娘、今泉の屋敷へ呼ばれたんだな。その途中でやられた……」
「そうね。でも管理人にまで今泉と名乗ったのは妙だわ。殺す気なら……」
「それもそうだ」
「『本当ですか』っていうのはどういう意味かしら?――今泉の姉弟が彼女のことを認めるとでも言ったのなら……」
「まさか!」
「本当に認めるんじゃなくて、犯人が[#「犯人が」に傍点]そう言ったんだと思うのよ。そして、証拠になる手紙を持って屋敷まで来てくれ……」
「それで、『すぐ伺います』か」
「彼女、手紙を持ってた?」
「いや、なかったらしい。アパートの部屋にも――」
「たぶん、ないでしょうね」
「どう見ても、あの三姉弟の線だな」
「そうねえ……」
夕子は首をひねった。
「どうしたんだい?」
「ちょっと引っかかるのよね」
「何が?」
「どうして今泉さんは背中を刺されていたのか……」
夕子は呟くように、そう言った。
4
その足で今泉邸へ行ってみると、居間には三姉弟と酒井が集まっていた。
「おや、みなさんお集まりですか」
「あら、警部さん」
石浜由紀子がタバコをくゆらせながら、言った。「またずいぶん地味な格好ね」
「これが普通でして。――ご自宅の方へお帰りではなかったんですか?」
「一旦戻ったんですけど、またやって来ましたの。ちょっと相談したいことがありましてね。主人は用で出かけてますけど」
この奥さん、亭主が意識不明の娘に付き添っていると知ったらどうするかな、とチラリと考えた。
「どういうご相談か、お差し支えなければ伺わせていただけますか?」
「ええ構いませんわよ。――私たち三人で相談した結果、あの会田良子とかいう娘が、ちゃんとした証拠さえ持って来れば、子供として認めてやってもいいと決めたんです」
「はあ、なるほど」
「で、電話して、来るように言ったんですが、さっぱり現れませんの。やっぱりインチキなんでしょうね」
「よく番号をご存知でしたね」
「それは私が――」
と酒井が言った。「さっき警部さんに学生証を見せていただいたので、調べまして……」
「すると、彼女のアパートへ電話なさったのはあなたですか?」
「そうです。しかし――」
「呼び出しておいて途中でブスリというわけですな」
会田良子が剌されたことを説明してやると、
「それを私たちがやったとおっしゃるんですか!」
と石浜由紀子がまた金切り声を上げた。
「違いますか?」
「私たちはみんなここにいたんですよ! 絶対に確かです!」
「みなさんがお互いに証言なさっても、あまり意味はないと思いますね」
私はピシリと言っておいて、「酒井さん、あなたは今泉さんが死んだふりをするという計画を予め知っておられたんでしょう?」
酒井はどぎまぎして、
「いえ……私は……その……」
と口ごもっている。
「知らないはずはありません。今泉さん一人であんなお膳立てをするのは不可能ですからね」
と決めつけてやると、酒井は諦めたように、
「確かに承知していました。ただ、あんなことになってしまったので言い出し辛くて……」
と汗を拭った。
「その計画のことを誰かに洩らしませんでしたか?」
「いえ、誰にも話しません!」
「確かですね?」
「もちろんです!」
分るものか。もし酒井が三人の内の誰かにその話を洩らしたとすると……。
「そうね、父親を殺す絶好の機会だと思ったでしょうね」
パトカーで病院へ向いながら、夕子が言った。「だからこの事件には色々な可能性があるのよ。殺す機会を待っていた人間は大勢いた。――少なくとも焼香した人間は誰でも殺そうと思えばやれたのよね。動機だって必ずしも遺産とは限らないんだし。――まあ、恐らくは遺産がらみの動機だとは思うけど」
「色々な可能性というのは?」
「つまり、初めから今泉さんの計画を知っていて殺そうと思い立ったのか、死んだと思って莫大な買物をしてから、生きているのを知って追いつめられたのか、それとも……」
「何だい?」
夕子は腕組みをして、
「考えてるのよ。……何か|閃《ひらめ》きそうなんだけど……」
「会田良子を剌したのは同じ犯人かな?」
「そうね。背後から刺されている、ってのは同じだけど……」
「あの三人姉弟は怪しいもんだな」
「同感ね。でももう一人忘れちゃだめよ」
「誰だい?」
「石浜功一郎」
「まさか!」
「そう? だって、隠し子の存在を奥さんに知られるのを恐れて、ってことも考えられるわ」
「しかし彼は僕らと一緒に――」
「来る途中で刺すことはできたはずよ。少なくとも時間的にはね」
「全く君は凄いことを考えるね! 実の娘を殺そうとしたというのかい?」
夕子はニッコリして、
「理論上の可能性よ。名探偵は非情でなきゃね」
病院へ着き、私たちは会田良子の病室へ入って行った。ちょうど医者が具合をみているところで、石浜功一郎が少し退がって心配そうに見守っている。
「どうでしょう、|医《せん》|師《せい》?」
と私が訊くと、医者は聴診器を白衣のポケットへ突っ込みながら、
「山は越しました。大丈夫でしょう。まだ若いですからね」
「よかった!」
と石浜功一郎が安堵の息を洩らす。
「よかったですね、石浜さん」
夕子が、ついさっき犯人扱いしたのなどケロリと忘れて、微笑みながら言った。女はこれだから怖いのである。
全く奇妙な光景であった。
同じ人間の葬式を二度出すというのも珍しいだろう。――今泉仙一の、本当の葬儀は、前に比べると至ってささやかに、ごく内輪に行われた。それも当然だろう。殺した人間がその中にいるかもしれないのだ。
会田良子は意識を回復したが、自分を刺した犯人については何も憶えていなかった。――背後からいきなり刺されて、それきり意識を失ってしまったのだった。
父親――石浜功一郎からすべての事情を聞いて、彼女も納得したようだった。石浜功一郎が彼女とその母親をどうするつもりなのかは分らないが、ともかく良い方向へと向いつつあるのは確かなようだった。
「私、運がいいんです」
見舞に行った夕子と私へ、会田良子は見違えるように明るい笑顔で言ったものだ。「だって、私、心臓が右にあるんです。普通の人と逆に。でなかったら心臓を刺されて死んでたわ、きっと」
「――右側の心臓か」
病院から今泉家の葬儀へ向うタクシーの中で夕子が言った。「何だかロマンチックでいいわねえ」
「君だってそうじゃないか」
「あら、私は普通よ」
「そうかい? 右と左に一つずつあるんだと思ってたよ」
夕子のひじ[#「ひじ」に傍点]鉄砲が、いやというほどわき腹に食い込んだ。
「イテテ……」
「そうだわ!」
突然、夕子が大声を上げた。「運転手さん、さっきの病院まで戻ってちょうだい!」
「おい、僕なら大丈夫だ。骨は折れてないぞ」
「当り前よ、何言ってるの。やっと閃いたのよ!」
夕子の目は輝いていた。そして……今、今泉家の葬儀はそろそろ終ろうとしている。
「どこへ行ったのかな……」
夕子の姿がいつの間にか見えなくなったのだ。――また何か勝手にやってるのに違いない。私はため息をついた。こっちへ知らせておいてからやればいいのに、名探偵ってやつはどうしてこうも見栄っぱりなんだろう?
「宇野さん」
と声がして、原田がのっそりやって来た。
「夕子さんは? 振られたんですか?」
いやなことを言う奴だ。
「いないんだよ。またどこかで探偵ごっこだろう。……お前も捜してみてくれ」
「いいですよ」
今回は棺も無事に霊柩車に納まり、火葬場へ向って行った。数台の車の列がそれに続いて見えなくなると、急にガランとしたわびしい雰囲気になる。
「夕子! ――おい、夕子!」
私は屋敷の中を捜してみたが、一向に夕子の姿は見当らない。
「おい、原田、いたか?」
「いいえ」
と原田は何かムシャムシャ食べながら首を振る。一体何を捜してたんだか分ったもんじゃない。
「――そうか!」
私は手を打った。あの地下室だ! 私は前と同じように棺の置いてあった台の下へ潜り込んで、ペンシルライトで穴の下を照らした。
「暗くて分らん。原田、懐中電灯ないか?」
「ありますよ」
「貸せ。――夕子。おい、いるのか?」
丸い光が地下室の床を|這《は》って……照らし出したのは、今泉仙一の死体だった。
「どうなってるんだ!………」
呆然として立ち上る。
「変ですねえ。確かに棺は……」
顔から血の気がひいた。
「夕子だ!」
「え?」
「棺に夕子が入れられてるんだ!」
「何ですって!」
「犯人にやられたのに違いない。おい! 止めないと夕子が火葬にされちまう!」
私と原田は屋敷を飛び出した。
パトカーとはいっても空を飛ぶことはできない。火葬場へ着いた時には、もう霊柩車は門の中に止って、棺は運び出されていた。遺族たちの姿もない。
「急げ!」
こんなに必死に走ったのは何カ月ぶりか。きっとこの時のタイムを取ってくれたら、国体にだって出場できただろう。さらに驚いたことに、あの原田の巨体が私に遅れもせずについて来たのである。
長い廊下の奥に、カマの口が並んでいて、見憶えのある黒衣の男女が今まさに白木の棺がカマの中へ入れられようとするのを見守っていた。
「待て!」
私は大声で叫んだ。「その棺、待った!」
何だかカブキでもやってるみたいだ。――|唖《あ》|然《ぜん》としている一同の前で、原田が一人、軽々と棺を取り上げ、床へ降ろした。ナイフの刃を蓋の下へ差し入れてこじ開けると、後は原田の怪力がバリバリッと、まるでウエハースか何かみたいに板を破り取った。
夕子がそこに横たわっていた。
「油断しちゃったわ、つい」
夕子はやっと気が付くと、冷たい水をガブ飲みして、ホッと息をついた。「何しろ相手は年寄でしょう。私一人で充分だと……」
「じゃ、犯人は吉田医師だったんだな?」
私たちは火葬場の控室にいた。吉田の姿はいつの間にか消えている。私が目配せすると、原田が飛び出して行った。
「吉田さんも遺言状でかなりの額を遺されることになっていたのよ。もちろん子供さんたちに比べれば少ないけど、それでもその金が必要だったのね。息子さんが病院を建て直したときの借金をどうしても急いで返さなきゃならなかった。それで今泉さんに、例の計画を打ち明けられた時、決心したんだと言っていたわ」
「どうして吉田が犯人だと気付いた?」
「会田良子さんのおかげよ」
夕子はすっかり調子を取り戻している。「良子さんは、『年寄のお医者さん』の次に焼香した、と言ったわ。それじゃどうして良子さんに吉田さんが医者だと分ったのかしら? 白衣を着ていたわけでもない。周囲の人に訊くなんて、むろん良子さんがするはずもない。――で、さっき病院へ訊きに戻ったのよ」
「彼女は何と?」
「ポケットから、聴診器がはみ出していた、っていうの。分る? いかに医者とはいえ、お葬式に、聴診器を持ち歩く人がいるかしら」
「つまり……」
「私は今泉さんがどうして背中を刺されたのか不思議で仕方なかったの。あの狭い棺の中で下から刺すのは不可能だわ。そうなると、被害者の方が背中を向けた。つまりうつ伏せになったとしか思えないでしょう」
夕子は一つ息をついて、続けた。「――今泉さんがわざわざうつ伏せになったのは、聴診器を当ててもらうためだったのよ。あの日は二十年間、欠かしたことのない定例の診祭日だった。吉田さんは『今日も診察は休まないよ。ちゃんと聴診器を持って来たからね』とポケットから出して見せる。今泉さんのことだもの、きっと面白がったに違いないわ。棺の中で診察なんてね。――胸を診て、背中を診るからと、うつ伏せにさせて、持って来たナイフ――メスかもしれないわ――それで心臓を一突き。もと通り仰向けにさせて、万事終り、というわけね。ところが戻る時に、ポケットからはみ出していた聴診器に、次の番の娘が気付いた。そしてさらに運悪く血が棺からしみ出して……」
「それで会田良子を殺そうとしたのか」
「それはね、由紀子さんたちが良子さんを呼んだ時、吉田さんも一緒に呼ばれていたのよ。一応遺産の受取人の一人ですからね。で、今泉邸へ向う途中、たまたま良子さんが前を歩いているのに気付いたわけ。彼女がなぜ今泉邸へ行こうとしているのか何も知らなかった吉田さんは、自分が聴診器を持っていたことを彼女が怪しんでいるのじゃないかと心配になったのよ。良子さんの方ではもう忘れかけていたのに、本人はひどく不安だったのね。それで、街灯の下で彼女を後ろから……。その時に、たまたま彼女が持っていた手紙が目について、中を読んでみたんでしょう」
「ナイフを持ち歩いているのかい?」
「そう……。きっといざ発覚した時は、自分の始末は自分で、と思ってたんでしょう」
「よく君は刺されなかったな!」
「また棺から血がしみ出たらおじゃんですもの。でもさすがに医者ね、みぞおちのあたりを殴られたらアッサリ気絶しちゃったわ」
「感心してる場合か!」
そこへ原田が飛び込んで来た。
「宇野さん!」
「どうした?」
「奴が……建物のわきで……」
原田は手で喉をかき切るまねをして見せた。
「お棺の中に入ったことのある人ってそういないわよねえ」
夕子はすき焼をペロリと平らげて言った。「貴重な経験だわ」
「何を呑気なこと言ってるんだ」
私は苦笑いした。「もうちょっと遅かったら、骨と灰だけになってたんだぞ」
「それも世界の損失よね」
「世界はどうか知らないが、僕にとっては大損失だ」
「でもお棺ってなかなか寝心地よかったわよ。ドラキュラの愛用品でもあるし。――どうかしら? ドラキュラ印、お棺型ベッド、っていうの。売れるかもしれないわ!」
夕子は目を輝かせている。
「やれやれ」
私は満腹になってお茶をすすった。「それにはダブルもあるんだろうね?」
「もちろん!」
夕子は微笑んで言った。「じゃ、新製品開発のために二人でベッドの調査に行きましょうか?」
私もそれに異議はなかった。
初出一覧(発表誌=オール讀物)
幽霊候補生 昭和五十三年九月号
双子の家 昭和五十四年三月号
ライオンは寝ている 昭和五十四年五月号
巷に雨の降るごとく 昭和五十四年八月号
眠れる棺の美女 昭和五十四年十月号
単行本
昭和五十四年十月文藝春秋刊
文春ウェブ文庫版
幽霊候補生
二〇〇一年六月二十日 第一版
二〇〇一年七月二十日 第二版
著 者 赤川次郎
発行人 堀江礼一
発行所 株式会社文藝春秋
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電話 03─3265─1211
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