角川文庫
家族カタログ
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
第一話 パパは受験生
第二話 ママは国際スパイ
第三話 姉さんは悪女
第四話 叔父さんは大泥棒
第五話 もう一人の一人っ子
第六話 従妹は我が分身
第七話 私のパパとお父さん
第一話 パパは受験生
「いいな、間違いなく六時半に起こしてくれよ」
夫にそう言われて、|有《ゆ》|美《み》|子《こ》は、「何回も言わなくたって、分ってるわよ!」とつい言い返しそうになるのを、何とかこらえた。
「十時半か。――もう寝る」
|曾《そ》|根《ね》|仁《ひと》|志《し》は、居間の時計を見上げて、「すぐには寝つけないだろうが、横になってた方が、体は休まるからな」
「分ってるわ」
と、有美子は言った。「朝は何か召し上る?」
「ああ。味は分らんだろうが。コーヒーはいるな。目を覚まさなきゃいかん。しかし、あんまり濃くしないでくれ。腹を下すと困る」
「ええ」
「じゃ、おやすみ」
と、曾根は居間を出ようとして、「若奈はどうした」
やっと気が付いたのね、と有美子は胸の中で|呟《つぶや》いた。自分の娘がいないことも、今の夫にはろくに目に入らない。
「まだ、友だちの所ですって。そろそろ帰るでしょ」
「何時だと思ってる! 高校生が、こんな遅い時間まで……」
言い出せば三十分は続く、と自分でも分っているせいだろう。曾根はとりあえず言葉を切って、
「明日にでも、少し言ってやらんとな。ともかく、今夜は――」
「帰ったら、ちゃんと言っとくわ。大丈夫」
有美子は、子供をなだめるような調子で言った。
「うむ……。じゃ、明日だな」
「リラックスして。大丈夫よ」
「ああ、分ってる」
曾根は、何か言いかけて思い直すと、パタパタとスリッパの音をたてて、階段を上って行った。
ちゃんと新しいパジャマは出してあるわ。頭の中で、有美子は点検した。
それにしても……何て長い三か月だったことか!
居間で一人になると、有美子はソファにぐったりと身を|委《ゆだ》ねた。――まだ四十四歳。エアロビクスで体はきたえている。しかし、この精神的な重圧から来る疲れは、どうにも避けられなかった。
夫、曾根仁志が、課長昇進試験を受けると決ったのは、年が明けて早々、まだ正月気分の抜け切れないころだった。
曾根は四十八歳。もう十年以上係長のポストにいた。
「管理職過多」の時代。ポストは少なく、課長昇進のためには、試験を受けて合格する必要があった。
それも、毎回二十人近くが受けて、合格者は二、三名の狭き門。それ以前に、受ける資格を、所属部長の判断で与えられるのが条件なのである。
有美子には、特にこの何年か、夫の焦りが分っていた。同期で、あるいは後輩で試験を受ける人間も少なくない。中には、ごくわずかだが、課長のポストに就いた後輩もいた。
しかし、夫には一向に「受験」のチャンスが回って来なかった。決して仕事ができないわけではないのだが、妙に|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》で、納得できないことには誰にでも|楯《たて》つくタイプ。
そんな性格も災いしたのだろう。
暮れに、娘の若奈と三人、近場の温泉に行ったときには、
「このまま、のんびりやるのも人生だな」
と言っていたのだが……。
皮肉なことに、そんなときに「課長昇進試験を受けろ」という部長の指示があったのである。
――いつしか、ウトウトしていたらしい。
ハッと目が覚めると、玄関でゴトゴト音がして、
「ただいま」
若奈の声がした。有美子はあわてて飛んでいくと、
「大きな声出さないで。――お帰り。遅かったのね」
「まだ十一時前よ」
十七歳、高校二年生の若奈は、チラッと二階へ目をやると、「パパは?」
「もう寝たわ。明日ですもの」
「明日か!」
若奈はフーッと息をついた。「三年もたったみたい」
「大げさなこと言って。お腹、|空《す》いてないの?」
「うん。食べたから。でも、お茶漬くらいなら入る」
「お|風《ふ》|呂《ろ》は? 入るなら静かにね」
「赤ちゃんのお守りだね、まるで」
若奈はソファに|鞄《かばん》を投げ出した。
確かに――この三か月というもの、曾根家の中は、まともではなかった。
若奈は、高校入試を経験しているので、一応この家にも「受験生」がいたことはあるわけだが、今度の父の場合は、比較にならなかった。
「――あんまり、ひどく言わないで」
と、有美子は、残ったご飯を電子レンジであたためながら、「パパにとっては、最初で最後のチャンスよ」
「分ってるけどさ。――普通じゃないよ」
若奈は首を振って、「落ちたときが怖い」
「大丈夫でしょう。あれだけ頑張ったんだもの」
「でも二十人、みんなが同じようにやってるわけでしょ」
そう。曾根の熱中ぶりは、少しまともでないと言っても良いくらいだった……。
試験といっても、ズラッと並んで受けるペーパーテストではない。自分に与えられたテーマで商品開発のプランを立て、それを社長以下、全重役の居並ぶ前で発表し、鋭く飛んで来る質問に答えるのだ。
独創的なプラン、原価計算の根拠、販売方法、宣伝プラン、定価設定……。
すべて自分一人の頭の中で作り出さねばならない。加えて、説得力ある説明ができるか。弁舌の才も問われる。
曾根はわざわざビデオカメラを買い込み、その前でリハーサルをやったのだが、テープを再生して、自分がいかにあがっているか、早口でしゃべっているかを知って、|愕《がく》|然《ぜん》とした……。
試験の日が近付くにつれ、曾根はピリピリし、家の中はTVも|点《つ》けられないという状況になってしまったのだ。
若奈の帰りが遅いのは、家に帰っても気詰まりで、FMも聞けないという雰囲気がたまらなくて、友人のところへ寄っているせいだということ。曾根は、そんなことなど、考えてもいないのである。
「ともかく、明日でこの悪夢ともおさらばか」
と、お茶漬を食べながら若奈が言った。「長かった!」
若奈の言葉に、あまりに実感がこもっていて、かつ全く同感でもあった有美子は、一緒に笑ったのだった。
会議室では、話し声一つしなかった。
ただ、時折聞こえるのは、エヘン、ゴホン、という|咳《せき》|払《ばら》いの音。
「――|凄《すご》いですね」
と、総務課の倉田あゆみが、ちょうどトイレから出て来た曾根仁志に声をかけた。
「何がだい?」
と、曾根は振り返った。
「第三会議室。物音一つしないんですもの」
曾根は、ちょっと笑って、
「みんな緊張してるのさ。――仕方ないよ」
「曾根さん、ゆうべは眠れました?」
「うん。女房は、絶対に寝過したりしないからね。安心してられるのさ」
実のところ、曾根とて四時間ほどしか眠っていない。この三か月、日常の仕事をこなす一方で、この日のための仕度をして来たので、徹夜や睡眠二、三時間が当り前になっているのだ。
「へえ。じゃ、曾根さん、有望ですよ」
「僕が? どうして?」
「他の人たち――特に荒井さんなんか、目が血走っちゃって、まともじゃないんですもの。あれじゃ、しゃべれないんじゃありませんか、社長さんたちの前で」
「荒井が? そうか」
いつも、神経の太いことで知られている男である。
「大変ですね、男の人って」
と、倉田あゆみがしみじみと言った。
倉田あゆみは二十八歳。独身だが、なかなか|可《か》|愛《わい》い。色々、「恋多き女」という|噂《うわさ》はあるが、これ、という「一人」はいないらしい。
「皆さんにお茶でも出してあげようかしら」
と、あゆみが言った。
「ああ、そりゃいいね。始まっても一人ずつだ。順番も分らずに、二十人、あそこで待ってるんだからね」
「じゃ、持って行きます」
あゆみがニッコリ笑った。――曾根とて、緊張していることに変りはないが、あゆみの笑顔で、いくらか気が楽になったようでもあった。
第三会議室へ戻ると、中の十九人の目が一斉にこっちを見て、曾根は一瞬ドキッとした。
確かに、この雰囲気はまともじゃない。
「――おかしいな」
と、一人が口を開いた。「十時からだろう? もう十時半だ。まだ始まらないのか」
誰もが同じ気持だろう。ここまで来たら、早く終ってほしいのだ。
曾根が座って、少しすると、倉田あゆみがお茶を運んで来た。
「やあ、ありがとう」
みんな、ホッとした様子で受け取る。――あゆみは社内でも人気があるのだ。
あゆみが荒井の前にお茶を置いた。
「僕はいらない」
と、荒井が少し上ずった声で言った。「途中でトイレに行きたくなったら困る。いらないよ」
あゆみは逆らわずに、|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》をさげようとした。
「おい、気をつけろよ!」
荒井は発表に使うグラフや図を、丸めて|膝《ひざ》にのせていた。身をのり出したあゆみの体がそれに触れたのである。
荒井も無意識だったろうが、あゆみを押し戻していた。
「アッ!」
と、声が上がって、荒井の湯呑み茶碗が倒れ、お茶がテーブルから荒井の膝の上にこぼれ落ちた。
「何をするんだ!」
|椅《い》|子《す》を後ろへけり倒して、荒井が立ち上がった。間一髪、かかえ込んだグラフと図面は、お茶をかぶらずにすんだ。
「ごめんなさい! 大丈夫ですか?」
あゆみが急いで盆を置くと、ハンカチを出して、テーブルの上に広げた。
「わざとやったな!」
荒井の言葉に、誰もが|唖《あ》|然《ぜん》とした。どう見ても本気で言っている。
「そんな……。まさか、私――」
「分ってるんだ!」
荒井は額に青筋を立て、体を震わせている。
「おい、よせよ」
と、曾根は見かねて立ち上がった。「倉田君は、気をつかってお茶をいれてくれたんだ。何もそんな言い方を――」
「分ってるぞ」
荒井が充血した目で、曾根をにらんでいる。
「分ってるって、何のことだ」
「お前とこの子のことだ。噂になってるんだ。ちゃんと知ってるぞ。|俺《おれ》を落とすように、わざとやらせたんだ!」
曾根は唖然とした。
そのとき――ドアが開いて、総務部長の岡崎が入って来た。
「やあ、待たせてすまん」
と、岡崎は、のんびりと言った。「実は社長から今、お電話が入った。今日はどうしてもご自宅から出られないそうだ。試験は明日になった」
第三会議室には、テーブルを|雑《ぞう》|巾《きん》で|拭《ふ》いている倉田あゆみしかいなかった。
「――倉田君」
ドアを開け、中を|覗《のぞ》き込んで、曾根が声をかける。
「曾根さん……」
何となく、二人は目をそらした。
「荒井の|奴《やつ》……。どうかしてるんだ。怒らないでやってくれ」
「分ってます。でも――」
と、あゆみは笑って、「私と曾根さんが噂になっているなんて……」
「とんだとばっちりだったね」
と、曾根も笑った。「君も迷惑だろう」
あゆみが、テーブルを拭く手を止めた。
「|嬉《うれ》しいです。――曾根さんとなら」
真直ぐ男を見る目は、笑っていなかった。
曾根は絶句した。
「曾根さん……」
と、また雑巾を動かしながら、「一日延びて、うんざりでしょ」
「うん……。正直言って、明日はこっちもピリピリしそうだ」
「じゃあ――私、鎮めてあげます。曾根さんの|苛《いら》|立《だ》ち」
あゆみは、曾根を見て|微《ほほ》|笑《え》んだ。
その意味は、曾根にもはっきり分って、誤解しようのないものだった……。
「まあ、明日になったの?」
と、有美子は言った。
「そうなんだ。全く拍子抜けだよ」
と、曾根仁志は玄関で靴を脱ぐと、「こいつはここへ置いとこう。明日、忘れるといけない」
と、資料の入った袋を玄関のわきへ置いた。
「まさか」
と、有美子は笑った。「じゃ、夕ご飯はすんだの?」
「ああ、みんなですませてきた。三か月も苛々して、馬鹿みたいだったな、と言って笑ってたんだよ、みんな」
曾根は、少し酔っていた。
「じゃ、お風呂へ入る? でも、明日本番なんでしょ?」
有美子は、夫のコートと上着をハンガーにかけながら、「やっぱり早く寝た方がいいわよ」
「ああ、分ってる。今日は眠れるさ」
と、曾根は|欠伸《あくび》をした。「――お茶漬でも一杯食べたいな。風呂を出てからでいい」
「用意しておくわ」
「ああ、全く! 社長も|気《き》|紛《まぐ》れだよな」
と、文句を言いつつ、曾根は二階へ上って行く。
有美子は、夫が昨日までとは打って変ってリラックスしてしまっているので、びっくりしていたが、|却《かえ》って一日延びたのが、本番のためには良かったのかもしれない、と思った。
台所でお湯をポットで沸かしていると、
「――お母さん」
「ああ、びっくりした! 急に声をかけるんだもの」
と、有美子は大げさに胸に手を当てた。
「お父さん、帰った?」
「聞こえなかった? 試験、明日になったんですって。それで一杯やって帰って来たの」
「そう……」
「でも、大丈夫よ。何だかいやにリラックスしちゃったから」
と、有美子は微笑んだ。「拍子抜けして、気が楽になったみたいね」
「良かったね」
――有美子は、娘が何となく元気がないのに気付いた。
「具合でも悪いの?」
と、有美子が|訊《き》くと、若奈は、
「別に」
と、首を振った。
「お父さん、お風呂に入るって。あなた、後でいいんでしょ?」
「うん」
若奈は台所の入口に立って、壁にもたれ、じっと母親を眺めている。
「――何? 何か話でもあるの?」
「そうじゃない。ただ、見てるだけ」
「変な子ね。――ね、もしお父さんが合格したら……。いえ、どっちでもいいんだけど、お母さんは。三人でどこかちょっと高級なレストランで食事しましょうよ」
「そうだね」
「ずいぶん頑張ったもんね、お父さん」
お湯が沸いて、シューッとポットから湯気がふき出した。
――|可《か》|哀《わい》そうに、お母さん。
若奈は、母の背中へ、じっと複雑な思いで視線を投げかけていた。
可哀そうに。何も知らない。何も気付かない。こんなものなんだろうか、夫婦って?
若奈には分らなかった……。
――今日、クラブ活動が急に中止になった。
臨時の職員会議とかで、放課後、生徒は学校に残っていてはいけない、と言われたのである。
あれこれ、噂は飛んでいた。どうやら、高三の誰かが、マリファナか何か学校へ持って来ていたのを、見付かったらしい。学校にとっては大ショック。
他にもやっていた子がいないか、あわてて調べているらしい、という噂だった。
若奈も、そういう「噂」ってやつには好奇心が|湧《わ》く。でも、ともかく早々に学校を出なきゃいけなくて……。
本当に何気なく思い立ったのだ。
お父さんの会社へ行ってみよう、と。――テストの出来、どうだったのか。
今日は五時で帰るとも言っていたし、会社の出口で待っていれば、捕まえられるだろう。前にも、若奈は父の会社の前まで行ったことがある。
帰りの電車に乗って、そのまま行けるというのも、気楽にそうした理由だった。
会社のビルの近くへ来たのが、五時の十分ほど前。――外に立っていても、苦になる気候ではない。
あんまり目の前で待っているのもおかしいだろうと思ったので、若奈は少しビルの玄関から離れて立っていた。
もう、ずいぶん日が長くなって、五時といっても明るい。
五時五分ごろには、OLの群れが次々にビルから出てきて、左右へ分かれて行く。そして、若い男性社員も。――今は、喜んで残業するなんてことは、はやらないのだ。
ふと若奈は、自分と同じように、ビルの玄関を人待ち顔で眺めている女性に気が付いた。確か、ビルから出て来た人だと思うけど……。
二十七、八かな。きれいな人だ。女性にはちょっと敬遠されるかもしれないが、たぶん男性にはもてるタイプ。着ているものとか、センスもいいし、バッグ、靴も高級品である。
独身OLで、優雅に暮らしてるんだわ、きっと。――そうか。先に出て、後から出て来る彼氏と待ち合せ、ってわけ。
実際、早く帰る人はどっとまとめて出て来て、五時二十分ころには、人の流れが|一《いっ》|旦《たん》途切れてしまう。
父の姿は見えなかった。――やっぱり、そう早く帰るわけにもいかなかったのだろうか。
電話ボックスへ入ると、若奈は父の机の電話へかけてみた。
「――ああ、曾根係長? ちょっと……。あ、たった今、出ちゃったんですがね」
「じゃ、結構です」
と言って、電話を切ると――。
ビルの玄関から父が出て来るのが見えた。急いでテレホンカードを定期入れに戻して……。
ボックスを出ようとして、扉を押しかけた若奈の手が止まった。
父が真直ぐに、あの女性の方へと歩いて行ったのである。女性は父の腕に自分の腕を絡めると、笑顔で何か言った。
二人はタクシーを拾うと、急いで乗り込んだ。――会社の誰かに見られないように、と急いでいる。それが若奈にもよく分った。
ボックスを出て、若奈は父とその女性を乗せたタクシーが走り去るのを、ぼんやりと見送っていた。
あの二人が、どこへ行くのか、若奈だって見当がつく。考えすぎ?――そうであってくれたら!
でも……そうじゃなかった。
若奈は、父にお茶漬を用意している母の背中を、じっと見ていた。玄関での父の言葉もちゃんと聞いた。それが何もかも|嘘《うそ》だということ。――でも、そんなこと母には言えない。とても、言えない。
「何なの、若奈?」
母がけげんな顔で訊く。
「ううん」
と、若奈は首を振った。「私も、お茶漬食べたいと思って」
翌朝、曾根は快く目を覚ました。
昨日までは、こうではなかった。――特に、テストの本番当日だというのだから……。
しかし今、プレッシャーは全くと言っていいほど、なかった。
「――あなた、早いのね」
と、有美子が夫の顔を見て、びっくりしている。「今、コーヒー、いれてるわ」
「うん、あわてなくても大丈夫だ。新聞を見てるから」
曾根は、ゆったりと椅子にかけた。
「余裕があるのね」
「もう、じたばたしても始まらないよ」
曾根はそう言って、ちょっと笑った。――昨日の朝も、こう言ったような気がする。しかし、同じ言葉が、何と違って響くことだろう!
有美子は何も気付いていない。――いくらか、曾根の中にも「良心の痛み」というやつがあった。
しかし、昨日の倉田あゆみとのひとときは、ある意味では「大声で叫ぶ」のと同じようなものだった。苛々しているときや、どうにも我慢できなくなった気持をぶつけたいとき、人のいない空間に向かって「ワーッ!」と大声で叫ぶ。あれと似ていた。
本気の浮気(というのも変だが)ではなかった。倉田あゆみも、大人で、遊び慣れていて、
「奥さんにばれないように」
と、あれこれ注意してくれた。
下手にホテルのボディーシャンプーやローションを使って、いつもと違う匂いをプンプンさせて帰れば、「浮気してきました」と宣伝しているようなものだ。
ネクタイのしめ方もちゃんと|憶《おぼ》えておくし、ワイシャツもしわにならないよう、きちんとハンガーへかけておく。背広の上下、コートももちろん。
あゆみは相当のベテランらしかった。そして、それはそれなりに、安心してのめり込むことのできる、すてきな経験ではあった。
曾根は正直なところ、有美子に対して、それほど悪いことをしたという意識はない。
ゆうべの何時間かで、すっかりリラックスできたのは確かだし、これで試験にうまく通れば、有美子のためにもなるのだ。
そうだ。――あんなことも、たまにはあっていい。
コーヒーができて、曾根はゆっくりと味わいながら飲んだ……。
「荒井は?」
第三会議室に集まっている面々を見わたして、曾根は言った。
十九人しかいない。――昨日、曾根とあゆみに食ってかかった荒井が、来ていないのである。
「どうしたのかな」
と、みんな顔を見合せていると、部長の岡崎がドアを開け、
「では始める」
と、言った。「始めは大川君」
「はい」
血の気のひいた顔で、四十歳になったばかりの太った大川が、資料をかかえて立ち上がる。
――テストは始まったのだ。
二人、三人、と進んで、次第に第三会議室に残っている人数も減って行く。
五人目になったとき、ドアが開いて、倉田あゆみが顔を出した。
「曾根さん。お電話です」
「電話?」
「急なご用とかで」
「分った」
曾根は、資料の入った袋を椅子の上にのせて、急いで会議室を出た。
「――電話はどこ?」
あゆみはチラッと左右を見て、
「本当は電話じゃないの」
と、微笑んだ。
「何だ」
曾根はホッとして、「何ごとかと思った」
「心配しないで。あなたの順番はもっと後だから」
「どうして知ってるんだ?」
あゆみはそれには答えず、
「荒井さん、来ないわ、今日」
と、低い声で言った。
「何だって?」
「連絡があったの。――ゆうべ、お宅で暴れたんですって。奥さんにひどいけがさせて、警察に逮捕されたって」
曾根は暗然たる気分にさせられた。
あの荒井が……。プレッシャーに押し|潰《つぶ》されてしまったのだろう。
「可哀そうに……」
と、首を振った。「しかし、君がいなかったら、僕も――」
「少しはお役に立ったかもね」
とあゆみはニッコリ笑った。「大丈夫、しっかりやって。そんなに意地悪な質問は出ないと思うわよ。特に専務からは」
「どうしてそんなことが――」
「私、専務とは特に親しいの」
曾根は、じっとあゆみを見ていた。
「――ちゃんとあなたのこと、頼んどいた。順番もね、一番いいところへ回してくれてるはず」
「君……。専務と?」
「遊びよ。こづかい稼ぎ」
と、あゆみは笑った。「じゃ、リラックスしてね。ジョークの一つも言えると、大分イメージが良くなるわよ」
あゆみが行ってしまうと、曾根は第三会議室へ戻った。
何だか複雑な気分だった。――あゆみの気持は|嬉《うれ》しいが、しかし、他の仲間たちは……。
みんな、こわばった表情で、自分の番が来るのを待っている。
曾根は、仕方ないんだ、と自分へ言い聞かせた。――世の中は、何でも公平ってわけにはいかないのだ。
十五人目。――曾根が呼ばれた。
曾根は、資料の袋を手に立ち上った。
ドアを開けると、社長の顔が、まず曾根の目に飛び込んで来る。
曾根など、普段社長に会うことはまずないが、それでも日ごろ写真などで見ているだけに、重役達の真中にどっしりと構えた社長の姿は、やはり|貫《かん》|禄《ろく》を感じさせた。
しかし――不思議だった。
一礼して、正面の大きなパネルの前に進み出る間も、曾根は少しも「あがる」ことがなかったのだ。
どうしてなのか、自分でもよく分らなかったが、一日試験が延びて、倉田あゆみが何かと気をつかってくれたこと。そして――そう、一番にうるさいことで知られている専務が、実はあゆみの「恋人」だったこと……。
専務は、もちろん何くわぬ顔でメモをとっているが、倉田あゆみをいわば「共有」したと思うと、何だか奇妙な親しみすら覚えるのだった……。
「曾根です。よろしくお願いします」
よし。声も出ている。
曾根は、一呼吸置いて続けた。
「私のテーマは、ダイレクトメールの有効な活用法についての提案です」
いいぞ。声も震えていない。一人一人の反応をうかがう余裕もあった。
「現在、おびただしい数のダイレクトメールが世間を行き交っておりますが、その大部分は中も見ずに捨てられる、というのが実情ではないでしょうか。これは郵便料金のむだであると同時に、資源のむだづかいでもある、と言えるでしょう。しかし、一見私信のように見せかけたダイレクトメールにしても、封を切って中を見れば|一目瞭然《いちもくりょうぜん》。むしろ、受取人を不愉快にさせ、逆効果にもなりかねません。これからは、本当に効果のある特定の顧客への発送を心がけて行く必要があろうかと思います。そこで、まず発送前のチェックをした場合と、チェックなしで発送した場合の反応の差を、調査してみました。ここに資料がありますので、お配りします」
資料の袋から、曾根は分厚い大判封筒を取り出して、封を切った。そして中から――。
曾根の手が止った。
何だこれは? こんなことが……。
「失礼しました。ちょっとお待ち下さい」
まだ大丈夫。そうだ、少しは間を持たせた方がいい。
他の封筒。しかし、これは別の資料じゃなかったか。
それを開けてみて、曾根の顔から血の気がさっとひいて行った。周囲が、|闇《やみ》に閉ざされていくようだ。
「どうしたんだね」
と、社長が言った。「まだ後がいる。早くしたまえ」
曾根は袋の中のものを全部取り出した。――絶望が、曾根を|呑《の》み込もうとしていた……。
廊下へ出ると、曾根はまるで雲の上を歩いているような様子で、ゆっくりとオフィスの方へ向った。
「曾根さん」
と、倉田あゆみがやって来た。「どうだった? ずいぶん早くすんだのね」
曾根の、ただごとでない様子に、やっと気付いたように、
「失敗したの?――そう。仕方ないわよ、どうしても緊張しちゃうもの」
と、慰めるように肩に手をかける。
「違う……」
と、曾根は呟くように言った。
「え?」
「違うんだ。――資料が」
「資料?」
「見てくれ。――メモ用紙にでもするかい?」
と、曾根は言って笑った。
取り出した分厚い封筒の中身は――全部白紙だった。
「何も書いてないの? どれも?」
「何度も調べて、チェックしたんだ。それなのに……。分らない。何がどうなっているのか、分らないよ」
曾根は頭をかかえて、うずくまってしまった。
「曾根さん! 立って。――人が来るわ。しっかりして」
と、あゆみが曾根の腕を取って、引っ張ろうとしたが、男の体はとてもあゆみの力では動かない。
「この日のために……どれだけ必死で準備して来たか……。それが全部パーだ。何てことだ! どうしてこんなことが……」
「静かに! 聞こえるわよ。こっちへ――こっちへ来て!」
あゆみは曾根を何とか引っ張って、エレベーターホールまで行くと、非常階段に出る鉄の扉を開けた。
ガシャンと大きな音をたてて、扉が閉じる。――非常階段が上下にずっと続いて、もちろん、今は誰もいなかった。
「大丈夫?」
「ああ……。すまない」
曾根は、何度か深呼吸をして、「わけが分らない。どうしてこんなことになったんだろう」
「おかしいわよね。資料が白紙に戻るわけもないし」
「誰かが……すりかえたんだ。それしか考えられない。――畜生!」
曾根は頭をかきむしった。
「落ちついて! ね、落ちついて」
あゆみが、両手で曾根の顔をなでる。「そう、気を楽にして。今日のことは、もう忘れるのよ。腹が立つだけだもの。――ね?」
曾根は、がっくりと肩を落とした。
そして――やおらあゆみを力一杯抱きしめた。
「曾根さん!」
あゆみの声が細長い空間に反響した。
「お帰り」
会社のビルを出たとたんに、曾根はそう言われて面食らった。
「若奈……。お前か」
娘の姿を見て、曾根はまるで幻でも見ているのかと思った。「何してるんだ、こんな所で?」
「お父さんの帰りを待ってたの」
「もう七時だぞ。いつから待ってた?」
「五時から」
「呼べば良かったのに……。まあいい。どこかへ入ろう。買物か?」
「ちょっとね」
若奈は、デパートの袋を片手に、学生鞄をもう一方の手にさげていた。
「学校から真直ぐか」
「うん」
二人は、近くの喫茶店に入った。
「何か食べてくか?」
「お母さん、夕ご飯の仕度して待ってる」
「――そうだな」
と曾根は|肯《うなず》いた。「俺はコーヒー。お前は?」
「ミルクセーキ下さい」
と、若奈は頼んだ。「試験、終った?」
「うん。――一応な」
と、曾根は言った。
「結果は?」
「まだだ。一週間くらいすりゃ分る」
「そう」
「ま、あんまり期待しないでいてくれ」
と、曾根は言った。
コーヒーが来ると、ブラックのまま、ガブ飲みする。――若奈はじっとそれを見ていたが、
「お父さん。――これ」
と、デパートの袋を父の方へ渡す。
「何だ? プレゼントか?――重いな」
中を覗いて、曾根の顔色が変った。
震える手で、一枚の紙を取り出す。自分が作った資料だった。
「――どういうことだ」
声がかすれていた。
「お父さん、私、昨日も会社の前にいたのよ。見ちゃったの。お父さんが、会社の女の人とタクシーに乗るのを。肩を抱いてあげながらね」
曾根は目をそらした。
「あれは――何でもない」
「やめて。私だって分るわ。子供じゃないのよ。――お母さんのこと、裏切って!」
「若奈……」
「だから――ゆうべの内に、玄関の所に置いてあった袋の中身、白紙とすりかえてやった。学級新聞刷るとき、余った紙が沢山あったからね」
「お前が……やったのか」
「そうよ。お父さんのせいよ。当然でしょ」
曾根の手が、我知らず動いていた。
平手が若奈の顔に当って、大きな音をたてた。――一瞬、喫茶店の中が静かになる。
「お前……。俺がこの三か月、どんなに苦労したか、分ってるのか!」
怒りで体が震えた。
若奈は打たれた|頬《ほお》を押えて、目に涙を浮かべ、
「だからって、お母さんを裏切っていいの?」
と、言い返した。
「うるさい! お前なんかに大人のことは分らないんだ!」
曾根は立ち上った――店の客がみんな曾根の方を見ている。
曾根は若奈を残して、喫茶店を飛び出した。
――外には、いつの間にか雨が降り始めていた……。
|濡《ぬ》れて、寒い。
玄関のドアの前に立って、曾根は、ためらっていた。――後ろめたさと憤りと、やり切れない無力感……。
カチャリ、とロックが音をたて、ドアが開いた。
「あなた、風邪ひくわ」
と、有美子が言った。「早く入って」
「ああ……」
水を吸った服は重かったが、上る足が重く感じられるのは、そのせいばかりではなかった。
「若奈は?」
「寝たわ。何だか風邪気味とか言って、早々に」
「そうか……」
居間へ入って、曾根は足を止めた。ソファに、倉田あゆみが座っていたのだ。
「――ずっと待ってらしたのよ」
と、有美子が言った。「着がえたら?」
「後でいい」
曾根は、ぐったりとソファに腰をおろした。「有美子……。俺は――」
「ごめんなさい」
と、有美子は言った。「あなたの資料をすりかえたのは、私なの」
曾根はまじまじと妻の顔を見た。
「私が電話したの。ゆうべ」
と、倉田あゆみが言った。「ご主人と寝ましたって。あなたを落とすために」
「君が……?」
「私は専務に頼まれていたの。専務のお気に入りの人が合格するように工作してくれ、って。ライバルは、あなたと荒井さんの二人だった」
「荒井? じゃ、荒井も?」
「ええ……。荒井さんがあんなことになって怖くなったけど、今さらやめられなくて」
「それで……。有美子が、すりかえたのか」
「ええ。カッとなって。――ごめんなさい」
「いや……。しかし……」
「今日、曾根さんが会社を出たとき、追いかけて出たの。見たわ、娘さんと話しているとこ。私……自分がどんなことをしたのか、つくづく申しわけなくなって……」
あゆみがうなだれる。
「じゃあ……。どうせ落ちることになってたのか」
「十中八、九はね。専務のお嬢さんと恋人同士なの、松田さん。それと、大川さんは社長の彼女を世話したし。――その二人に決ることになってるのよ」
曾根は|呆《ぼう》|然《ぜん》として、あゆみと有美子を見ていた。
「じゃ……若奈の奴、どうして――」
「奥様とあなたが、取り返しのつかないことになるのを、心配したんでしょう。きっと、奥様がすりかえるのを見ていて……」
「そうか。――そうか」
と、曾根は肯いて、くり返した。
倉田あゆみが帰って行くと、曾根は居間へ戻った。
「あなた――」
「俺は……何をしてたんだ?」
曾根は笑い出した。三か月の苦労か。
「風邪ひくわ。お風呂へ入ったら?」
と、有美子が言った。
「すまん、有美子」
「あなた……」
「俺一人が苦労したんじゃない。それを忘れていた」
有美子は微笑んで、
「若奈に、そう言ってやってちょうだい」
と、言った。「何か食べる?」
「ああ……。何でもいい」
曾根は、二階へ上がって、若奈の部屋のドアをそっと開けると、
「悪かったな……」
と、小さな声で言った。
すると、ベッドで毛布をかぶっていた若奈が、
「ハンドバッグとワンピース」
と言ったのだった……。
第二話 ママは国際スパイ
何もすることのない時間というのが、どんなに忙しい人間にもあるものである。
つまり、何か仕事をしようにも、資料を持って来ていないとか、とてもそんなことのできる環境でないとか……。
といって、本を読むには薄暗く、手紙を書くにも、いつもハガキや便せんを持ち歩いているわけではない。
――宇山礼子も、そのとき、ちょうどそんな具合であった。
もっとも礼子は別に仕事を持っているわけではない。
いわゆる「専業主婦」で、娘が一人、もう中学一年生になって、毎日クラブ活動で結構帰りは遅く、礼子には出かける時間が充分にあった。
そこで礼子は、近ごろ流行のカルチャーセンターへ足を運び、とりあえず運動不足を解消しようと、エアロビクスの教室に入ったのである。
ところが今日、講師の都合によりお休みという連絡が、なぜか礼子のところには回っておらず、やって来た礼子は、さてどうしようか、ということになった。
そしてとりあえず、ビルの一階にある、表のよく見える喫茶室に入ったのだが……。
ここのチーズケーキはおいしい。上の教室で汗を流して、ここでカロリーを取っているんじゃ、あんまり意味がないような気もするが――。
でも、まあ……一つぐらい食べても食べなくても大して変らないだろう、と自分に言いわけして……。
「チーズケーキとコーヒー」
と、注文してしまうのである。
――宇山礼子は三十五歳。夫の宇山国明は一つ年上の三十六歳。そして十三歳の|希《き》|陽《よ》|子《こ》がいる。
エアロビでやせないと、健康上問題があるというほど太っているわけじゃないが、それでも当人は二、三年前のスカートが止らないとか、ブラウスがきつくなったとか、色々気にはしているのだ。
それにしても、穏やかな天気である。
せっかく都心まで出て来たのだし――マイホームは、電車で一時間ほどの郊外にある――どこか、気の向いた所へブラッと出てみようか。
映画? そういえば、このところレンタルビデオばかりで、映画館で見ることなんかめったにない。
それとも美術展でも……。何かやってないかしら。
礼子は、チーズケーキとコーヒーが来ると、差し当りそっちを片付けることに専念した。
やっぱりおいしいわ……。一人、納得していると、
「どうも」
と、向いの席に誰かがドサッと座った。
「は?」
エアロビの教室に、やっぱり休みと知らずに来た人がいるのだろうか。しかし、顔を見ると、全く|見《み》|憶《おぼ》えのない、中年の男性。
「いや、奥さんはお美しい」
「はあ?」
「本当です。それに大変頼りになりそうな、しっかりした印象の方だ」
どう見ても|真《ま》|面《じ》|目《め》である。――ナンパしてるのかね、この人?
礼子は、まさかこの年齢になって、ナンパされようとは思ってもみなかった。
「失礼ですけど――」
と言いかけると、相手は、
「時間がないんです」
と、遮った。「この紙袋を、このまま大手町のKビル二十階の〈Kエンタープライズ〉へ届けてください」
「はあ?」
「いいですか。大手町のKビル二十階――」
「〈Kエンタープライズ〉ですね」
「そうです! いや、飲みこみも早い。奥さんなら大丈夫」
「あの……」
「もう行かなくては」
と、何も飲まずに、男は立ち上った。
たぶん四十前後か。少し髪は白くなりかけているが、老け込んではいない。むしろ、夫よりも体つきは引締って若々しく見える。
着ている背広も上等である。しかし――何を突然……。
「では、どうかよろしく」
と言って、男は足早に店を出て行ってしまう。
「ちょっと、あの――」
礼子は呼び止めようとしたが、男はすでに出て行ってしまっていた。
走って追いかけるというのも何だか馬鹿らしい気がして、礼子はコーヒーをまた飲み始めた。
男が置いて行った紙袋。――大して珍しくもないデパートの袋である。
ちょっと中を|覗《のぞ》くと、新聞紙で包み、|紐《ひも》をかけた荷物が入っている。持ってみると、大きさから想像するほどは重くない。
「変なの」
と、|呟《つぶや》いてみたが……。
どうしよう? あの男が何のつもりでこんな物を置いて行ったのか、礼子にはもちろん見当もつかない。
そうだ。――このまま席に置いて出ちゃおう。そうすれば、お店の人が何とかしてくれるわ。
礼子は伝票を手にレジへ行き、支払いをすませると、さっさと店を出た。早いとこ、地下鉄の入口からでも入っちゃえば――。
人だかりがしていた。何だろう?
礼子は足を止めて、人垣の端から覗き込んだ。
「どうしたの?」
「死んだの?」
「動かないわよ」
「いやねえ」
「車がはねて――」
「そう! |凄《すご》かったのよ。ドシン、って音がして――」
横断歩道の上に、男が倒れて動かない。たった今の出来事のようで、救急車も来てない。
通りかかった車が、男をよけてゆっくり走って行く。
まさか……。でも、あの背広は確かに――。
礼子は、人の間をかき分けて前に出た。男の顔が見える。
あの男だ。紙袋を礼子に託して行った男……。その直後に、車にはねられたのだ。
礼子が人垣から離れると、
「あ、お客様!」
と、甲高い声がして、「良かった! これ、お忘れになりましたよ」
あの店のウエイトレスが、デパートの紙袋を持って駆けて来た。
〈直接取引のある方以外はご遠慮下さい〉
そのドアのプレートは、礼子をためらわせた。
直接取引ね。でも、ここまで来て、またこの袋を持って帰るわけにもいかない。
これを預けた男が死んでしまった(たぶん)ことを考えると、あまり持っていたくないのである。
思い切って、礼子はドアをノックした。
しばらく待って、もう一回ノックしようと手を上げかけたとき、急にドアが開いて、礼子はびっくりした。
「ご用ですか」
と、無愛想な中年の女性が、ジロッと礼子をにらむ。
「あの――これをお届けに上ったんですけど」
と、紙袋を持ち上げて見せる。
「何ですか、それ?」
「知りません。男の人に頼まれて。中が何なのか、知らないんです」
その女は、ちょっといぶかしげに礼子を見ていた。その女性の肩越しに、オフィスの中が見えたが、入口のすぐ前に置かれた|衝《つい》|立《たて》で、ほとんどが隠れてしまって、わずかに古びた事務机に向かっている白髪の老人がチラッと覗くだけだ。
「じゃ、いただいておきます」
その女性は紙袋を引ったくるように受け取ると、「ご苦労様」
と一言、バタンとドアを閉めてしまう。
――礼子は一瞬|呆《あっ》|気《け》にとられてから、頭に来た。
「何よ! 人がせっかく持って来てやったのに!」
礼子は、エレベーターホールへと歩き出した。
Kビルそのものは真新しく、きれいなので、あの〈Kエンタープライズ〉の見すぼらしさが、いっそう奇妙に感じられる。
エレベーターが来るのを待っていると、カタカタと靴音がして、
「待って下さい!」
と、さっきの女性が駆けて来た。「あの――失礼しました。どうか、少しお話をうかがわせて下さい!」
礼子は、ちょっと迷った。――いくら暇で、好奇心の強い方だとは言っても、危いことに係り合うのはいやだ。
チーンと音がして、エレベーターの扉が開く。
「お願いです。ほんの少しで結構ですから」
さっきと打って変った、その女性の言葉に、礼子はためらった。
「――分りました」
と、ため息をつく。「後、用事があるんです。ほんの少しにして下さいね」
――オフィスに入ると、
「どうぞ」
と、あの白髪の老人が古ぼけたソファをすすめる。「大変失礼しました」
「いいえ……」
小さな会議室程度の広さしかない。古ぼけた机と|椅《い》|子《す》。キャビネット。
どうやら、「社員」は、この老人とあの女性の二人きりらしい。
「いや、とても大切な物を届けて下さったんです」
と、老人は言った。
「そうですか」
「ところで、これをあなたに預けたのは――」
「男の人です。名前を言わずに。でも――そのすぐ後に、車にはねられました」
それを聞いて、二人とも息をのんだ。
「それで……死んだのですか」
と、老人が|訊《き》く。
「そこまでは……。まだ救急車も来ていませんでしたから」
「何てことだ」
と、老人は顔を両手で覆った。
礼子は、どうにも落ちつかなくなって、
「あの……もう失礼したいんですけど」
と言った。
だが、その老人は、深々と息をついて、
「あれをあなたへ渡したのは、私の息子です」
と、言ったのだった。
「何だ、そりゃ?」
と、夫の宇山国明が言った。
「知らないわよ」
礼子は夫にご飯のおかわりをよそって、「希陽子、おかわりは?」
「いいの。ダイエット」
と、十三歳の希陽子は澄まして言った。
「何言ってるの。育ち盛りよ」
「おい、礼子。妙なことに巻き込まれるなよ」
と、宇山が言った。
「何も、好きで巻き込まれてやしないわ」
「人が死んだんだろ」
「たぶんね」
――あの、道に倒れていた男の様子。とても、命があるとは思えなかった。
「で、袋の中身は何だったの?」
と、希陽子が言った。
「知らないわ。教えてくれなかった」
「ケチ。――ね、お茶漬」
「はいはい。おかず、ちゃんと残さないで食べるのよ」
と、礼子は言った。
あの白髪の老人は言った。
「この中身が何か、奥さん、あなたは知らない方がいい。命にかかわります」
と……。
「どういうことです?」
と、礼子が訊くと、
「何もご存知ない方が、あなたのためだ」
と、老人はくり返して、「一つだけ、申し上げておきましょう。これは重要な国家機密に関係しているのです」
このオンボロオフィスが?
そう思ったが、礼子は何も言わなかった。
「――あなた、まだご飯食べる?」
「これで充分だ。太っちまうよ」
と、宇山は笑った。
しかし――いやでも身の細るような出来事が、礼子の一家を待っていたのである。
玄関のドアを、ドンドンと|叩《たた》く凄い音がして、ソファでうたた寝していた礼子は飛び起きてしまった。
「お母さん、開けて!」
と、希陽子の声。
ただごとじゃない! 礼子は玄関へ飛び出して行き、チェーンを外してドアを開けた。
希陽子がハアハア息を切らして飛び込んでくると、
「早く、ドア閉めて!」
わけの分らない内に、礼子はドアを閉め、しっかり|鍵《かぎ》をかけた。
希陽子は制服の胸に手を当てて、
「ああ……怖かった!」
と、目をつぶって何度も息をつく。
よっぽど怖い目にあったのだろう。
「希陽子。――どうしたの?」
「ずっと誰かが後をつけて来て……。それがどう見たって普通じゃないの。トレンチコートにサングラスかけて……。〈殺し屋〉って感じなの。振り向くと、ピタッとついて来て……。家が見えたから、一気に駆け出して来た……。苦しい!」
「そう。変な人っているからね。ほら、上って」
「ね、表にいない? きっとこの家を見張ってるわ。だって、普通の痴漢とかだったら、学校からずっとつけて来たりしないでしょ」
「学校から?」
「そうなの。――本当に怖かった」
希陽子は、十三歳にしてはしっかりした子である。
その希陽子がこれほど怖がっているというのは、普通ではない。
ともかく、娘を自分の部屋へ上らせて、自分も二階の寝室へ行く。この窓からは表の通りがよく見えるのである。
レースのカーテンが引いてある、その隅っこからそっと通りの様子をうかがってみたが……。
「――誰かいる?」
いつの間にやら、希陽子がすぐ後ろに来ていて、礼子はそっちでびっくりしてしまった。
「――いないわよ、誰も」
と、礼子は言った。「明るいからいいけどね、今日は。クラブがある日だったら暗くなるでしょ」
「そう。いやだわ、また後つけられたりしたら」
と、希陽子はため息をついた。「私が美しすぎるのかなあ」
やっと冗談を言う余裕も出て来たようで、礼子はホッとした。
しかし――何といっても今の十三歳は、体つきなんかすっかり女らしくなっている。それに希陽子は母親に似て可愛いし(当の母親が言うのだから、間違いない!)。
用心に越したことはない。
希陽子の通っている中学は私立だが、幸い家からは近くて、歩いて二十分ほど。バスもあるが、健康のため(それに朝は、バスが渋滞で遅れる)に歩いて(走って?)通っているのである。
「希陽子、しばらくバスに乗ったら?」
と、礼子が言うと、いつもなら母親の言うことなんかろくに聞かない娘が、
「ウン」
とすんなり|肯《うなず》いたのだった。
宇山国明は、部長に呼ばれて、誰も使っていないガランとした会議室に入って行った。
宇山の勤めている会社は午後三時から十分間の休憩がある。それがすんだら会議室で待っていろ、と言われたのだ。
「何だ、一体?」
先に来て椅子に座っていると、宇山は眠気がさして来て、|欠伸《あくび》をした。――そう寝不足というわけでもないのに欠伸が出るのは、現代人の「くせ」みたいなものかもしれない。
部長に呼ばれて、といっても、別に怒られる覚えもないしね……。
ドアが開くと――なぜか、全く見たことのない男が入って来た。黒っぽい背広姿で、陰気そうな男である。
「あの――」
と、宇山が腰を浮かすと、
「宇山国明さんですね」
と、その男が言った。
「はあ」
「私は、国際刑事警察機構の者です」
と、男は何やら英文でタイプされた身分証らしきものを見せた。
「は?」
「かけて下さい」
「はあ」
わけが分らない内に、宇山は生年月日から出身地、出身校、と履歴書みたいなことをしゃべらされた。
「――よろしい。正確ですね」
男は、手帳を見て肯いた。
「分ってたんですか?」
「あなたが正直に話して下さるかどうか、印象を得たかったので」
と、男は無表情に言った。「ところで、奥さんは礼子さんとおっしゃいましたね」
「そうですが……」
どうして女房の話が出て来るんだ? 宇山はますます混乱して来た。
「このところ、奥さんの行動に変ったところはありませんか」
「変ったところといって――」
と言いかけて、「これは一体何です? |訊《じん》|問《もん》ですか? 大体会社の中へ入って来て、仕事時間中に。何のための調査なのか、はっきりして下さい」
腹が立って来て、宇山は言ってやった。
相手は薄笑いを浮かべた。
「確かに、そちらには覚えのないことかもしれませんね。しかし、知らない内に、あなたはとんでもないことに係り合ってるんです」
「というと?」
「我々は国際的な犯罪に関して、日本国内での調査を任されています。今、我々が調べているのは、旧東側から流出した、ある機密文書に関することで、日本におけるスパイの名前がそこにズラリと並んでいるはずなのです」
「スパイ?」
宇山は夢でも見ているのかと思った。「何の話やら……。私は平凡なサラリーマンですがね」
「あなたはね」
と、その男は言った。「しかし、あなたの奥さんは、優秀なスパイなのですよ」
「ねえ、希陽子のこと、心配じゃないの?」
と、礼子は少々|苛《いら》|立《だ》っている様子で言った。
「え? ああ、もちろん心配さ。――バスを使うんだな、当分」
と、宇山は我に返って言った。
「気のない返事ね」
「そんなことはない! ただ――」
「ただ、何よ?」
「いや……何でもない」
宇山は、残ったご飯にお茶をかけた。
「もう食べないの?」
「うん……。ちょっと食欲がないんだ」
希陽子は、両親が何となくぎくしゃくしているのを見ていて、
「私は大丈夫。学校出るとき、一人じゃないようにするわ。バスは大勢乗ってるしね」
と、口を挟む。
「でも、バス停から少しあるわ」
と、礼子が言った。「時間が分ってりゃ、迎えに行くけど」
「平気よ。家がずっと並んでるのよ。人里離れた山の中ってわけじゃなし」
――宇山も、希陽子のことが心配でないわけではない。
しかし、今日会社へやって来たあの男の話が、あまりにショックで、まだ半ば|呆《ぼう》|然《ぜん》としていたのである。
礼子がスパイ?――まさか!
宇山はそのときは笑い出してしまったものだ。
結婚して十五年近くになるのだ。そんなことをやってりゃ、いやでも分る。
「――しかし、一日の内、あなたが、奥さんと過すのは何時間です?」
と、男は訊いたものだ。「眠っている時間を除けば、あなたと奥さんは別々でいる時間の方が長い。そうでしょう? その間、奥さんが何をしているか、あなたには知りようがないわけだ」
それはそうだ。それはそうだ……。
だからといって、礼子が「暇つぶし」にスパイをやるか?
「でも、本当に〈殺し屋〉って格好してたよ。あの人」
と、希陽子が言った。
――スパイ。殺し屋。
あの男が会社へやって来たのと、希陽子が「殺し屋風」の男に追いかけられたのと……。同じ日に起ったのは、偶然だろうか?
宇山は、そっと礼子の方へ目をやった。
結婚したころより、いくらかふっくらした顔立ちは、今でも可愛い。まさか――まさか礼子がスパイ? そんな馬鹿なこと……。
「何してるの?」
礼子がベッドから眠そうな声をかけて来た。
宇山はカーテンの|隙《すき》|間《ま》から表の通りを見下ろしていたのだ。
「いや……。希陽子の話があったろ。誰かいないかと思ってさ」
「夜中よ、もう」
「うん。――そうだな」
宇山は自分のベッドへ入りかけて――気が変った、といった様子で礼子のベッドに滑り込んだ。
「何。明日はエアロビなのよ」
「昼ごろだろ」
「でも、出かける前に、お掃除とか洗濯とか、色々やって行かないと……」
暗く、明りを消した寝室の中で、宇山はいわば「旅なれた」道を|辿《たど》るように、妻を抱いた。お互い、よく知り合った二人……。
当然のことだ。夫婦なのだから。
しかし――お前は俺の知らない所で何をしてるんだ?
宇山は心の中で、そう問いかけていた。
エアロビクスの教室を終えると、シャワーを浴びてさっぱりする。
礼子はロビーへ出て、いつも通り、後でお茶を飲んでおしゃべりするグループのメンバーが|揃《そろ》うのを待っていた。
「宇山さんですか」
と、事務の女性がやって来る。
「ええ」
「これ、おことづけが。三十分ほど前、電話があったんです」
メモを渡され、
「どうも」
と目を通して、礼子はちょっと当惑した。
「ぜひ〈Kエンタープライズ〉へおこし下さい。急ぎます。朝岡」
朝岡。――たぶん、あの白髪の老人の名前だろう。聞いたような気もするが、よく憶えていない。
あの奇妙な出来事から二週間たっていた。
そう……。あの日はこの教室がお休みで、そのせいであんなことに巻き込まれたのだが――。
〈Kエンタープライズ〉へおこし下さい、か……。でも、「係り合いになるな」と言ってたのに。
しばらく迷ってから礼子は、事務の女性に、待ち合せているメンバーの人には急用で帰ったと伝えて下さい、と頼んでおいて、ビルを出たのだった。
ドアをノックして、礼子は戸惑った。
ドアが開いている。細く開いていたのである。
「――失礼します。――宇山ですけど」
と声をかけたが、返事がない。
ドアをそっと開けると、
「朝岡さん……」
衝立の向うを――覗き込んで、礼子は凍りついたように立ちすくんでしまった。
あの老人、そして一緒に働いていた女性も床に折り重なるように倒れていた。
血が、四方に飛び散って、二人の体が赤い服をまとっているように見えたのは、血に染まっているからだった。
どうやって外へ出たものか――気が付くと、礼子はKビルの表に立っていたのである。
顔から血の気がひいているのが分った。青ざめただけで、失神しなかったのがせめてもである。
あれは――一体何ごとだったのだろう?
悪い夢であってくれたら、と思ったが、現実であることに間違いはない。
来なければ良かった、と悔んだが、もう遅い。今は一刻も早く、ここから離れることだ!
ちょうどやって来たタクシーを停めると、礼子は家まで乗って帰ることにした。料金は結構かかるが、そんなことは言っていられない。
あの二人が殺されたことは確かだろう。あの、礼子が預かった荷物のせいだろうか。
忘れよう! もう、何の関係もない。そう、私とは何の関係も……。
礼子は、あの〈Kエンタープライズ〉のドアに指紋を残して来たことなど、考えつきもしなかったのだ。
礼子は、喫茶店に入って、中を見回した。
それらしい男はすぐに分った。向うは礼子のことをよく知っているらしく、目が合うと、すぐに肯いてみせた。
「――何のご用ですか」
礼子は席につくと、固い表情を変えずに、「何も言わずに、いきなり出て来いなんて、ずいぶん失礼じゃありませんか」
「しかし、いやなら断ればよかったわけだ。そうでしょ?」
と、男は薄笑いを浮かべた。「あなたはちゃんと出かけて来た。それだけの理由があるからだ」
礼子は詰った。
「それは……あなたが――」
「電話で、〈Kエンタープライズ〉の件で、と言ったからでしょう」
男はゆっくりコーヒーを飲んだ。「あなたは忘れたいかもしれませんが、そうはいきませんよ」
「どういう意味ですか」
と、礼子は何とか男を真直ぐに見つめながら言った。
「人が二人も殺された。あなたも見た通りにね」
礼子は黙っていた。
「知らないとは言わせませんよ」
「私に何のご用なんですか」
「あなたに仕事を頼みたいということです。いささか危険は伴うが、ただで、とは言いません」
「どうしてそんな……。私がどうして、あなたのように見も知らない人の言うことを聞かなくちゃいけないんですか」
と、礼子は早口に言い返す。
「あなたのためですよ」
男はのんびりした口調で言った。「〈Kエンタープライズ〉で殺された二人のこと、TVでも新聞でも見なかったでしょう」
礼子はドキッとした。あの日――あのショッキングな日から五日もたっていたが、確かに、いくら新聞を隅から隅まで見ても、あの殺人事件は一行ものっていなかったのである。
「普通なら、そんなことは考えられない。そうでしょう?」
と、男は言った。「押えたんです。マスコミへニュースが流れないようにね」
「というと?」
「これはですね、奥さん。国と国との間の闘いなんです。分りますか? 奥さんはご自分の知らない内に、スパイ戦の中に身を置いていたんですよ」
「スパイ……」
礼子は|唖《あ》|然《ぜん》としていた。
「しかし、ここまで来たら、もう引き返すわけにはいかない。我々に手を貸してくださることです」
「私は――何も知りません。関係ありません!」
「むだですよ」
男は首を振った。「奥さんの指紋が、〈Kエンタープライズ〉のドアから出ています」
礼子は青ざめた。――指紋!
「私の言う通りにされた方が利口ですよ、奥さん」
礼子はじっと男を見つめていた。そして、深く息をつくと、
「何をしろとおっしゃるんですか」
と、呟くように言った。
同時に、体中の力が抜けて行くような気がした……。
希陽子は素早く角を曲がって、そこで足を止めた。
少し無鉄砲かもしれないが、いつまでもぐずぐずと解決を先に延ばしておくのは、希陽子の好みに合わない。今日は話をつけてやる!
タッタッタ、と足音が近付いてくる。希陽子が急に走るような勢いでこの角を曲がったので、向うも少し焦って追ってくるのだ。
パッと男は角を曲がって、――目の前に希陽子が怖い顔で立っているのを見ると、飛び上がりそうになった。
「あ――どうも」
クルッと回れ右をして逃げ出そうとするところへ、
「逃げたら、大声出すからね」
と、希陽子は言った。「私の声、凄いんだから。私が『痴漢!』って叫んだら、この辺のアパートの人、ほとんど飛び出してくるわ。一一〇番してくれる人も二人や三人いるはずよ。逃げたって捕まるんだからね!」
トレンチコートにサングラスという、〈殺し屋〉スタイルの男は、ゆっくり振り向いた。
もちろん希陽子も怖い。しかし、ここで|怯《おび》えたら相手の勝ち、ということも分っていた。
「用があるならはっきり言って!」
ギュッと腕組みをしてにらみつける。|膝《ひざ》が震えそうになるのを、こらえるのに必死だった。
「――分ったよ」
男がサングラスを外すと、意外に若々しい顔が現われた。「君――いくつだ?」
「十三歳。レディに年齢を|訊《き》くからには、自分も言うのが礼儀よ」
男は苦笑して、
「二十五歳。――しかし、君、いい度胸してるね」
「ごまかさないで。何の用なのよ」
男は、少しの間希陽子を見ていたが、
「君は勇気がある」
と、肯いた。「つけ回して悪かった。君のその度胸を見込んで、頼みがある」
「何のこと?」
もちろん希陽子も油断してはいないが、一見したところ、その若い男は信用できそうな印象だった。
「僕はね、片桐というんだ」
男は何かポケットから取り出して、希陽子へと手渡した。
「希陽子」
と、礼子は娘が二階へ行きかけるのを呼び止めて、「お母さん、これから出かけてくるから。お風呂、自分で入れて入ってね」
「今から?」
希陽子は面食らった様子で、「もう十一時だよ」
「ええ。でも、どうしてもある人の所へ今夜中に行かなくちゃならないの。あなた一人で大丈夫でしょ?」
「うん」
夫は出張で、明日まで帰らない。
「じゃ、あなた先に寝てていいから」
「はあい」
と、希陽子は居間を出ようとして、「ね、お母さん」
「うん?」
「浮気するのなら、いい男とね」
「何言ってんの」
と、礼子は笑ってしまった……。
――もちろん、笑っている場合じゃないのである。
礼子は、外出の仕度をして、ハンドバッグの中に、台所の肉切り包丁をハンカチでくるんで忍ばせた。
幸い昼間の雨はもう上っていたが、道はまだ|濡《ぬ》れていて、街灯の光を映し出している。
足早に、駅へと向う。――もうバスはないので、帰宅する勤め帰りの人もタクシー。時おりすれ違うタクシーから、つい礼子は顔をそむけていた。
何も悪いことしてるわけじゃない。――そうだわ。
家庭を守るんだ。それが私のつとめ。外の敵と闘う。女でも、それぐらいのことはできる。夫や子供のためなら。
本物の戦争なんてまっぴらだ。あれは家庭を破壊することしかない。今、礼子が考えてるのは、夫と希陽子との平和な暮らしを守ること。それだけである。
「――奥さん」
いつの間にか、あの男がすぐそばを歩いていて、礼子はギクリとした。
「来たわよ。ちゃんと」
「結構ですね」
男はデパートの紙袋を礼子に渡した。「さあ、これ」
「これを?」
「この住所へ持って行って下さい」
と、男がメモを礼子の手に握らせる。「その代りに向うから渡される物がある。受け取って、お宅へ持って帰るんです。目につかない所へしまって、こっちからの連絡を待って下さい。いいですね」
「――分ったわ」
と、礼子は言った。
「それじゃ」
男は、ニヤリと笑って行ってしまった。
礼子は、ため息をつくと、紙袋を持ち直して、タクシー乗り場へと歩いて行った……。
メモにあった住所までやっと行き着いたのは、もう夜中の一時ごろだった。
「ここ?」
古ぼけて、本当に人が住んでいるのかと思うようなアパート。
住所から見ると、ここの105号室らしい。
ドアを、ためらいながらノックすると、パッと開いて、びっくりした。
「女だ」
と出て来た男は意外そうに言った。
「あの、これを――」
「分ってる。早く入れ」
「でも……」
せかされて、仕方なく中へ入る。――異様な匂いがこもって、ムッとするほど。
明りは|点《つ》いているのだが、窓が毛布で完全にふさがれているのだった。
男が三人、畳にあぐらをかいていた。
「女か」
と、一人が笑った。「驚いたな」
「誰だっていいや、例のもんさえ持ってりゃあ」
三人とも、目が落ちくぼんで、黄色い顔をしていた。ぞっとさせる雰囲気が漂っている。
「あの……もう失礼します。これの代りにいただくものが――」
「ああ、少し重いぜ」
と、一人が隅に置かれた包みを指した。
「持って帰ります」
歩み寄って持ち上げると、びっくりするほど重い。しかし、持てない重さではなかったし、今は早くここを出たかった。
「じゃ、これで――」
礼子は、男の一人が玄関のドアの前に立ちふさがっているのを見た。
「どいて下さい」
「そう言わねえで、ゆっくりしろよ」
「帰らなきゃならないんです」
「自分で持って来たもんをためしてみちゃどうだ? 最新のクスリだぜ」
「クスリ?」
――麻薬? 礼子はゾッとした。
思わず、自分の持って来た紙袋を見やる。その|隙《すき》に、男が礼子に抱きついて来た。
「何するんです! やめて」
押し倒されると、一斉に他の二人も飛びかかって来た。口をふさがれ、手足を押さえつけられる。
必死でもがいたが、三人が相手では、とても勝負にならなかった。男の重みに、息さえ苦しい。
希陽子!――娘の顔がチラついた。
すると、
「そこまでだ」
パッと明るくなる。男たちがギョッとして立ち上がると、トレンチコート姿の男が、拳銃を手に立っていた。
その後ろにも三人。――礼子は、やっとの思いで起き上ると、
「ありがとうございました!」
と、言った。
「いや、お嬢さんとの約束でね」
と、男は言った。「行って下さい。後はこっちが引き受けます」
「あの――」
「厚生省の〈麻薬Gメン〉の片桐という者です」
片桐。――でも、この人がどうして希陽子と約束してるの? 礼子にはわけが分らなかった。
「――じゃ、スパイなんかじゃなかったの?」
と、希陽子が言った。
「そう。麻薬と拳銃を交換する、暴力団同士の争いだったのよ」
と、礼子は朝食をとりながら言った。「自分たちの身内が運ぶと目立つし、殺し合いを避けたくて、運び役のできそうな人を探していたのね」
「それでお母さんに?」
「そう。よっぽど他にいなかったのね」
「そうだね」
二人は一緒に笑った。
――初めに車ではねられた男は、たぶんその争いで殺されたのだろう。〈Kエンタープライズ〉は、その密輸の窓口となっていたらしい。あそこの二人は実は殺されたわけではなく、死体のふりをして見せていただけ。要は礼子を仲間に引き込む手だったわけである。
もちろん、車にはねられたのが息子というのもでたらめだったわけで、礼子はあの二人をぶん殴ってやりたかった。
片桐は希陽子の頼みを聞いてくれて、礼子は訊問など一切受けずにすんだ。
「お父さんが、私のことスパイだって吹き込まれてたみたいよ。帰って来たら、ちゃんと説明しなきゃ」
と、礼子が言うと、希陽子は少し考えて、
「黙ってれば?」
「どうして?」
「奥さんがスパイじゃ、絶対浮気できないでしょ」
礼子は、ふき出してしまった。――そして、こんな娘がいる内は、どっちも浮気なんかしそうもないわ、と思ったのだった。
第三話 姉さんは悪女
「|嘘《うそ》だろ」
と、順一は言っていた。
安井|伸《のぶ》|子《こ》は、そう言われても別に怒ったりしなかった。順一がそう言うに違いないと分っていたからだ。
「嘘じゃないよ」
と言う口調も、静かなもので、少しもムッとした気配はなかった。
それが、順一にとってはいっそうショックだったろう。
「馬鹿言うなよ」
順一は、花壇に水をやる手を止めて、「姉さんは、そりゃ|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》なんだぞ。頭もいいし」
「知ってるわよ。何回も会ってるじゃない」
伸子は、水をやり続ける順一について歩きながら、「だから、うちのパパもすぐ分ったんだって、順一のお姉さんだってこと」
順一はかがみ込んでいた体を起こすと、
「それより、伸子の|親《おや》|父《じ》さんって、そんな所に行って遊んでるのか」
伸子が、初めて顔をしかめた。
「会社の人に引っ張られて、仕方なしに行っただけよ。遊んで来たりしないわ」
「どうして分るんだよ。お前、見てたわけじゃないんだろ」
伸子は腕組みをして、
「いいわよ、信じなくても。ただ、教えてあげといた方がいいかと思っただけ。余計なお世話だった? ごめんなさい!」
と切り口上に言って、パッと駆け出す。
「伸子!――待てよ!」
と、順一は呼びかけたが、伸子はさっさと行ってしまった。
まあ怒って当然。順一にもそれは分っていた。
いくら十四歳の中学二年生といっても、順一は安井伸子を小学校から知っているのだ。あんなことで嘘をつく子ではない。
いや、あんまりしっかりしているので、少々けむたいような存在――順一の「お目付役」みたいな所があったのである。
でも――だからって、
「へえ、そう」
と納得してしまえる話じゃない。
順一は、ああして伸子をからかってやることで、とりあえずショックから自分の身を守るしかなかったのである。
――学校のお昼休み。
今日は花に水をやる当番で、順一は早いとこ終らせて友だちの所へ駆けつけようと思っていた。でも……。
あんな妙な話を聞かされたんじゃ、とてもそんな気になれない。
順一は、水をやり終えると、|濡《ぬ》れた手をふこうとしてポケットを指先で探り、
「いけね」
と|呟《つぶや》いた。
ハンカチ、忘れて来た。――しょうがねえな。
「ほら」
と声がして、振り向くと安井伸子がいつ戻って来たのか、ハンカチを差し出している。
「――ありがと」
と、順一は真白できちんとアイロンのかけてあるハンカチを受け取って、手を|拭《ぬぐ》った。「悪いな」
と、返しながら言ったのはハンカチのことだけじゃない。
それは、伸子にも分っている。何しろ長い付合いだ。
二人は、校舎の裏手からブラブラ歩きながら校庭の方へ回った。
「――調べてみた方がいいわ」
と、伸子が言った。「もちろん、他人の空似ってこともあるけどね」
「でも、お前の親父さんが見たんだろ? 姉さんのこと、はっきり見たんだろ?」
「そう言ってたけど……。でも、パパは近視だからね、かなりの。そういう所って薄暗いんでしょ。私、知らないけど」
「そりゃそうだよな」
と言って、順一は笑った。
笑いごとじゃない。
伸子の父は、商社の営業マンである。毎日帰りは夜中で、それも酔っていないことはほとんどない。日曜日も接待のゴルフで朝早くから出かけることが多い。
伸子はめったに父と顔を合せることがないのだ。
「よく顔を忘れないよね」
と、伸子は母と冗談に言い合うくらいである。
その父が、ゆうべは珍しく十時半ごろ帰って来た。もちろんアルコールは入っていたが。
「――おい、伸子」
と、ネクタイをむしり取りながら言ったのである。「山内さんとこの子、いたろ?」
「山内君? 順一のこと?」
と、TVを見ていた伸子は、父の方を見ずに言った。
「ああ、そうだ。順一っていったか。小学校の父母会とか運動会で会ったよな」
そのころはまだ父もそんなに忙しくなかった。学校の行事には必ず顔を出したものである。
「あの子に姉さん、いたな」
「順一の? |久《く》|仁《に》|子《こ》さん」
「そうそう。久仁子……。そんな名だっけ。今、いくつだ?」
「三年違いだから……。高二、かな。どうして?」
「高二……。十……七か」
「うん。たぶんそんなもんじゃない? |凄《すご》くしっかりしてて、秀才よね。あそこ、お母さんが病気がちだから、お姉さんが家のこととかやってて。でも成績は学年トップなんだよ。きれいだし、すてきな人」
伸子は、父が黙っているので、TVから目を離して、「――それがどうかしたの?」
「いや……」
父は、言いにくそうに、「今日……見かけたんだ。そっくりだった。あの子と」
「――誰? 久仁子さん?」
「うん」
「どこで?」
「今夜……地方から来た『社長』の接待でな。ともかく『若くて|可《か》|愛《わい》い子のいる所』へ連れてけ、と言われて……。まあ、渋々だが、ついてった。そういう方に詳しいのがいるんだ。で、怪しげなクラブって所へ……」
「パパ。――そんな所で遊んで来たの?」
「|俺《おれ》は仕事だよ。ただ、そこは若い女の子を金のある中年男に紹介したりするんだ。で、女の子が何人かそこで男と待ち合せてた」
伸子は、TVの音なんか、耳に入らなくなった。
「そこに……久仁子さんが?」
「うん。――どう見ても、あの子だ。服装は少し大人っぽくして、女子大生風だったが顔はよく|憶《おぼ》えてるからな」
「まさか……」
「俺もそうは思うが……」
「でも――パパ、まさか久仁子さんと――」
「よせよ。うちの客は初めてだからな、そこに行ったのは。ろくでもない女の子ばっかりで――。どう見ても三十近い『女子大生』とかな」
「遊びに行く方が行く方だわ。文句言えた柄じゃない」
「うん。そりゃそうだ」
「で、その――久仁子さんとそっくりの人は、どうしたの?」
「待ち合せる相手が決ってたらしい。うちの客も目をつけて――何しろきれいな子だからな――あの子がいい、と言ったんだが、クラブの|奴《やつ》に断られてた。そうやってる内に、男が迎えに来て、その子は出てった」
「男……。お客ってこと?」
「そうだろう。もう顔なじみみたいだった。たぶん……俺とそう違わない、四十くらいかな。普通のサラリーマンって感じだったけどな。二人で腕組んで、出てった」
伸子は、少しして、
「人違いだよ」
と笑った。「久仁子さんが、そんなことするわけない」
「まあ、俺もそう思う。しかし……そっくりだったんだ」
そこへ、母が|風《ふ》|呂《ろ》から上って来て、父はその話をやめたのである。
「昨日は……姉さん、確か図書館に寄って来て、遅くなったって言ってた」
と、順一は言った。「毎週決ってるんだ。水曜日は遅い。夕ご飯はちゃんと冷凍したもんとかで、用意してある。そういうこと、絶対に忘れないから」
「偉いよね、久仁子さんって」
と、伸子は言った。
二人は、何となく黙ってしまった……。
「姉さん」
と、順一は台所仕事をしている姉の背中に声をかけた。
「うん。――どうしたの?」
と、久仁子はエプロン姿で振り向くと、「お腹、|空《す》いた? あと十五分待ってよ、ね?」
「うん……。いいけどさ」
「何なの?――変な子ね」
久仁子は笑って、「あ、そこへ来たのなら、こき使ってやろう。サラダのお皿出して。それとテーブルを|拭《ふ》いて。あと……そうね、おはしとかソースとか、|揃《そろ》えといて」
「はい」
と、順一が言われた通り、素直にやり始めると、久仁子が|却《かえ》って気味悪そうに、
「やっぱり変よ。熱でもあるんじゃないの、あんた?」
と、言った。
「何ともないよ」
と、順一は言って、「サラダの皿って、これでいいの?」
「うん、それ」
久仁子は、そう言いながら、お|鍋《なべ》のふたを取って、「もういいか。――じゃ、ご飯にしよう。お母さん、下りてくるかどうか、|訊《き》いて来て」
「うん」
母は、このところ寝たり起きたりである。家のことは、ほとんど久仁子がやるようになっていた。
順一は、二階へ上って行こうとして、台所の姉の方を振り向いた。
「姉さん。昨日――」
「昨日?」
久仁子は、料理を盛りつける皿を並べて、「昨日がどうかした?」
順一には、とても訊けなかった。そんなこと、言えやしなかった。
「何でもない!」
と、二階へ駆け上って行く。
「ドタドタしちゃだめ!」
と、久仁子は言って、「――変な子ね」
と、肩をすくめた。
そして、鍋の煮魚を、そっと皿へ移していった……。
「悪いな」
と、順一は言った。
「言いっこなし」
と、安井伸子は順一の肩を|叩《たた》いた。「|叱《しか》られるときは二人で一緒」
「うん……」
自分でも、少々情けないという気はする。でも、どうしても、一人でやる気はしなかったのだ。
誰かがそばにいてくれないと、自分の見たものを信じないかもしれないからだ。
「もうじき終業だから」
と、順一が腕時計を見た。「姉さんの時間割、見たんだ」
久仁子の通っている女子高校の正門を、順一と伸子は少し離れた木のかげから眺めていた。
「出て来た」
と、伸子が言った。「みんな同じ制服よ」
当り前のことだが、一人一人を見分けるのは容易ではなかった。
「何とか分るよ」
と、順一はやや頼りなげ。
――次の水曜日。順一と伸子は、久仁子の下校をここで待つために、
「お腹が痛い」
と一人が嘘をつき、もう一人は、
「付き添って帰ります」
と言うことになった。
結局、順一が腹痛を訴えることになって、結構迫真の演技を見せたのだった。伸子は先生のお気に入りでもあり、全く抵抗なく受け入れてくれた。
「――あれだ」
と、順一は言った。
間違いなく、姉の久仁子が友だち五、六人とワイワイやりながら歩いてくる。
「じゃ、しっかりやろうね」
と、伸子が肯いて言った。
二人は、姉たちのグループを、何十メートルか離れて|尾《つ》けて行ったのである。
考えてみれば、姉を弟が尾行するなんて、何とも妙なことだ。
「――どうしたの?」
と、伸子が言った。「寂しそうな顔してる」
「そうか?」
「やめとく? 私はどっちでもいいよ」
「いや……。やめられないよ」
と、順一は首を振った。「ちゃんと、本当のこと、確かめないと。でも、こうやって見ててさ――」
「うん」
「姉さんが、友だちとキャアキャア騒いだりしてるの、見てると……。姉さんも、あんな顔するんだな、って思って。――うちじゃ、あんな顔、見せたことないもんな」
伸子は順一の言葉に、何も言わず、ただ黙って肯いただけだった。
「――あ、別れた」
と、順一が足を止める。
久仁子が、友人たちに手を振って、ちょうどやって来たバスへと駆け出したのである。
「行こう!」
伸子が順一の手をつかんで引っ張った。
二人は、そのバスに向って駆け出した。
「やっぱり……」
と、順一は言った。
「そう決めないで。他の用事かもしれないでしょ」
伸子の言葉も、順一にとって、何の慰めにもならなかった。
久仁子が図書館へ行くのでないことは確かだった。
今、久仁子は町中の喫茶店に入っている。
順一と伸子が気付かれずにここまで尾行できたのは、幸運というものだろう。バスも混んでいて久仁子に気付かれずにすんだし、こんな繁華街のメインストリートでは、人が多くて目につかずにすむ。
むしろ、久仁子を見失わないようにするのがひと苦労だった。
「でも――何してんだろ」
順一は少し|苛《いら》|立《だ》っていた。もう三十分近くたっているのである。
「誰かと会ってるとしても、出てくるわよ、必ず」
「だけど、姉さんが――」
「見て」
と、伸子は順一の|脇《わき》|腹《ばら》をつついた。「久仁子さんよ」
「え?」
女の目の方が見分けやすかったのかもしれない。
出て来たのは確かに久仁子で――。しかし、制服はたぶん手にさげた紙袋に入れてあるのだろう。
ピチッと体に合ったミニのスーツ。靴もそう高くないが一応ハイヒールで、足早に歩いて行く。ヘアスタイルも、すっかり変って、うっすらとだが化粧もしている。
「きれい」
と、伸子は女の子らしい感想を述べた。
「そんなこと……。どうだっていい!」
順一は、さっさと歩き出した。
「待って!」
伸子があわてて追いかけ、順一の腕をつかんだ。「そんなに急いだら、追いついちゃうよ」
「捕まえてやる」
「え?」
「何してんだ、って訊いてやる」
「いけない」
と、伸子は言った。「久仁子さんには久仁子さんの事情があるかもしれないでしょ。そんなことしちゃいけない」
「だって――」
「今はついて行くだけにしよ。ね。――問い詰めるのなんて、いつだってできる」
順一は、ちょっと目を伏せて、
「――分ったよ」
と言った。
「さ、見失うよ。行こう」
伸子は順一を促して、また久仁子を尾行し始めたのだった。
「もう、帰ろう」
と、順一が言い出したときも、伸子は大してびっくりしなかった。
順一の気持も分る――すてきな、頭のいいお姉さん、という「大事な宝物」を壊されたくないのだ。
「帰ってもいいけど……。でも、それでいいの?」
と、伸子は言った。
「だって……もう、くたびれただろ、お前?」
伸子のせいにしたがっている。
「でも、はっきり確かめた方が。――ね、あれこれ想像して悩んでるよりいいじゃない」
――二人は、久仁子の後を尾けて、ここまで来た。
たぶん、伸子の父が、どこだかの「社長」を連れて来たのが、このマンションなのだろう。
〈クラブ〉といっても、表に看板が出ているわけではない。きっと、こっそり隠れてやっているのだ。
中学生でも、週刊誌とかTVの〈スペシャル!〉とかで、こういう商売があることは知っている。でも、まさか自分たちの知っている誰かが、こんな所に出入りしているなんて……。
久仁子はマンションの入口の所で、一緒にやって来た女子大生風の女の子と|挨《あい》|拶《さつ》して、おしゃべりしながら入って行った。その子は久仁子とは比べものにならないくらい|派《は》|手《で》な格好で、お化粧も濃かった。
そして、もう二時間近くたつ。
マンションの外で立っている順一と伸子は、いささかくたびれてもいた。
さっきから、男が三人入って行き、そして若い女の子と連れだって出かけて行った。
その度に、順一は姉かと思ってドキッとしたものだ。
「何で大人って、あんなことするのかな」
と、順一は言った。「大人になんてなりたくないや」
「そうね……」
伸子は少し考えて、もうすっかり夜になった、その暗がりの向うにポカッと明るいマンションのロビーを眺めながら、「でも、久仁子さん、大変なんだと思う」
「大変?」
「だって――十七でしょ、久仁子さん。まだまだ、甘えたり、わがまま言っていたい年齢だろうけど……。でも、家の中じゃお母さんの代りをやって、学校では優等生のクラス委員で、『いいお姉さん』で……。ね、どこも息抜きするとこ、ないじゃないの。誰だって、どこかでワーッとだらしなくできる所がなきゃ、くたびれちゃうよ」
「だからって――」
「もちろん、だから久仁子さんがこんなことしてていい、って言ってるんじゃないの。でも、久仁子さんが、おこづかい稼ぎにとか、悪いことするのが面白くてとかで、やってるんじゃないってこと。――ね。きっと疲れて、どこかで自分じゃない人間になってみたかったのよ」
順一は、伸子の言葉で少し気持が楽にはなった。
でも、思ってもみなかった。姉はああして母親の代りをやったりするのが好きなのだ、とばっかり思っていたのだ。姉が、自分の中の「何か」を抑えつけていること。――それを、順一は初めて漠然と感じたのだった。
男がまた一人マンションへ入って行った。少し背中を丸め、疲れた様子で、たぶん四十かそこら。足どりも重い。
「中年って感じね」
と、伸子が言った。
「うん、あんな風になりたくないなあ」
と、順一は言った。「――な、お腹空かないか」
「空いたね」
「何か、買って来て食べようか」
伸子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「うん! そっちにコンビニがあったよ。そこで買って来てあげる」
「じゃ、金だすよ」
「いいって! それくらい持ってる」
「でも――」
「いいじゃない。一緒に食べるんだから」
と、伸子が言ったとき――。
「あれ……」
と、順一が言った。
マンションから、男と女が出てくる。男はたった今入って行った、あのくたびれた中年男。そして女の方は――久仁子だった。
久仁子は何かしゃべりながら、楽しそうに笑った。順一は、あんな姉の笑いを、見たことがなかった。
二人が一緒に歩いて行くのを、順一と伸子も見ていたが、
「どうする?」
と、伸子が訊いた。
「ついてくよ」
「そうね」
順一は、もう辺りが暗いので、姉たちを見失いそうで急いで歩き出した。だが、少し行って、伸子がついて来ていないことに気が付いて、
「おい。――どうした?」
と、駆け戻る。「急がないと――」
「パパだ」
「え?」
順一は、伸子が|呆《ぼう》|然《ぜん》として眺めている方へ目をやった。
伸子の父親が、人目をはばかるように、足早にマンションの中へと入って行くところだった。
昼休みまでが、とんでもなく長かった。
順一は、午前中の授業がまるで頭へ入らずにボーッとしていて、先生の方が、
「大丈夫か? 熱でもあるんじゃないか?」
と心配してくれたほどだった。
伸子の方も同様。――いや、しっかり授業は聞いているようだったし、先生の質問にもいつも通りちゃんと答えていたが、それでも何となく顔色も悪くて、ほとんど眠っていないだろうということは、順一の目にもよく分った。
もちろん、他の子は気付かなかっただろうが。
――やっとお昼になり、お弁当を食べてしまうと、順一は校庭へぶらっと出た。
「ここよ」
いつの間にか、伸子がすぐ後ろに立っている。
「うん……」
順一は、伸子について、校舎の裏手へと歩いて行った。
ゴミの焼却炉とかがあって、人が来ることはほとんどない。
「――ゆうべ、パパ、十二時過ぎに帰って来てた」
と、伸子は言った。「いつものことだけどね」
「何て言ってた?」
「お得意先の接待だって。もちろん、ママも疑っちゃいないわ」
「そうか」
「久仁子さんは?」
「うん……。別にいつもの通りさ。帰ってから、お|茶《ちゃ》|碗《わん》とか洗って、ちゃんとお風呂に入って」
「何か……話した?」
順一は首を振った。
「何とも言いようがないだろ。何て訊くんだ?」
「そうだよね」
伸子は、息をついて空を見上げると、「私たち、何も知らないんだ。親たちのことって……」
「うん。でも――」
と言いかけて、順一はやめた。
ゆうべは伸子が順一を慰めてくれた。でも順一が同じ言葉で伸子を慰めることはできない。
伸子のショックは大きいはずだ。順一はある程度、前もって知っていて、覚悟ができていた。でも、伸子の場合は、正に「不意打ち」だ。
「笑っちゃうよね」
と、伸子は言った。「久仁子さんのこと、何だかんだ言えやしない。パパが、そういう女の子を買ってんだもんね」
「でも……」
と、順一は言った。「お前の父さん、女の子と出て来たわけじゃないぜ」
そう。二人は、伸子の父がマンションから出て来るのを、少し待っていたのだが(久仁子たちの方は、もう姿が見えなくなっていたので)三十分たっても出て来ず、結局、帰って来たのだ。
「気に入る女の子が来るのを待ってたんでしょ」
と、伸子は言った。「どんなタイプかな。私と似た感じかな。どう思う?」
「知らないよ」
順一は肩をすくめて、「ともかく――どうしたって、本当のことは分んないし」
「本当のこと……か」
と、伸子は|呟《つぶや》くように言って、「ね、順一」
「うん?」
「私、午後、サボる」
「ええ?」
と、順一は目を丸くした。「どこへ行くんだよ?」
「あのマンション」
「そんな……。ばれたら大変だぜ!」
「いい。どうなってもいい。退学になったって、構やしない」
伸子は、一度決めたらもうてこでも考えを変えない。
「分ったよ」
と、順一は言った。「僕も行く」
伸子はニッコリ笑って、
「そう言ってくれると思ってた」
と、順一の手を軽く握った。
「よせよ」
順一は少し顔を赤らめたのだった……。
「――ルミです」
と、その女の子がインタホンに向って言うと、カチッと音がして、インターロックの扉が開く。
順一と伸子は、ロビーの隅の植木のかげに隠れていたが、その「ルミ」という女の子が入った後、インターロックの扉が閉じない内に、駆けて行って中へ入った。
「あの女の子、きっとそうだわ」
と、伸子が言った。「どの部屋のボタン押してたか分った?」
「たぶん……」
二人は、「ルミ」という子の乗ったエレベーターが上って行くのを、表示の明りで見ていた。
「――五階だ」
「うん。じゃ、五階の一番端だよ」
と、順一は言って、「行くかい?」
「ここまで来たのよ」
「そうだな」
二人は、何が待っているのか分らないが、ともかくエレベーターを一階へ呼び戻した。
五階の一番奥のドアには、〈T・H株式会社〉というわけの分らないプレートがついていた。
順一の方は何となく気後れしているが、伸子は度胸がいい。ためらうこともなく、チャイムを鳴らしていた。
「――どなた?」
と、女性の声がする。
「すみません、ちょっと伺いたいことがあって」
向うは戸惑っている様子だったが、しばらくしてドアが開いた。
「何か……ご用?」
五十歳くらいか、地味なスーツの女性がキョトンとして二人を眺めている。
「お訊きしたいことがあるんですけど」
と、伸子もさすがに固い口調で言った。
「――困ったわね」
と、その女性はため息をついた。「ね、ここはあなた方のような子供の来る所じゃないの。帰ってくれないと、こっちも困るのよ」
「私、別にここのお仕事の邪魔をするつもりじゃありません」
と、伸子は言った。「ただ、父がここで女の子と遊んでたのかどうか、知りたいだけです」
応接間というのも何だか妙な、狭苦しい感じの部屋。ソファが部屋一杯に置かれてる。
順一は、正直拍子抜けだった。もっとこう……暗くて怪しげな所かと思っていたのに、少し|埃《ほこり》っぽいだけで、どうってことのない部屋だ。
もっとも、奥の方がどうなっているのか分らないが。
「あなたのお父さん?――そうねえ。でも、分ってくれないと困るの。こういう所へ来る人は、ここへ来たことを絶対に人に知られたくないわけね。私があなたたちに、そんなことをしゃべるわけにいかないのよ」
と、その女性は言った。
「でも――」
と、伸子は固い表情で言いかけた。
玄関の方で物音がして、ここの女主人らしい女性がハッと立ち上る。
「待ってて。――ちょっと」
と、急いでドアを開けると、「あ、どうも……。今日はお早いんですね」
「うん。――何だ?」
でっぷり太った、いかにも「社長さん」風の男が、伸子たちのことを|覗《のぞ》いて見て、「ずいぶん若い子がいるじゃないか」
伸子のことを言っているのだ。伸子は真赤になった。
「いえ、この子たちは……私のちょっと知ってる子なんです。ルミちゃんが奥にいますから」
「ルミか。ちょっと飽きたな」
と、たるんだ|顎《あご》の肉を震わせて、「うん、可愛いじゃないか。――な、こづかいやるぞ。おじさんと遊ばないか」
と、部屋の中へ入ってくる。
伸子は、ギュッと膝を合わせて、
「私、もう帰るところですから」
と言った。
「そう言うなよ。十四、五か? 中学生だろう」
「社長さん、いけませんよ、中学生は。後で知れたら――」
「お前は黙っとれ。俺とこの子の間の話だ。なあ?」
ドサッと伸子の隣に座ると、図々しく伸子の肩へ手を回す。
「やめて下さい」
伸子はパッと立ち上った。
「おい、待て」
「社長」が伸子のスカートの端をつかむと、
「キャッ!」
伸子がバランスを失って転んだ。
「やめろ!」
順一が夢中で、「社長」の大きな体にぶつかって行った。
不意を食らって、「社長」が|尻《しり》もちをつく。
「伸子!」
順一が伸子の手をつかんで、「逃げるんだ!」
二人は、玄関へと飛び出した。
「ワッ!」
ドアの正面にいた男が、二人にはじき飛ばされそうになって、よろけた。
二人は廊下を駆け出したが――。
「待って」
と、伸子が足を止めた。
「早く逃げないと――」
「今の人……」
「え?」
「久仁子さんと一緒だった人」
順一は振り向いた。
そうだ。あの男――パッとしない、くたびれた男だ。
「あの子に会いたいんだ」
と、男は玄関であの女主人に頼んでいる。「どうしても! すぐ会いたい」
「無理ですよ」
と、女主人は玄関で応対していた。「大体困ってるんだから。あの子とあなたのことに私どもは関係ないんですよ」
「お願いだ。子供が病気で――あの子に会いたがってる。何とか連絡先を――」
「あの子は水曜日だけです。分ってるんでしょ。水曜日に来て下さい。もう、あの子にはやめてもらうことにしてますけどね」
と言って、女主人はドアをバタンと閉めてしまった。
男は、がっくりと肩を落としている。
エレベーターの所からその様子を覗いていた順一と伸子は、顔を見合せたのだった。
久仁子がタクシーを降りて、順一の姿を見付けると、足早にやって来る。
「順一! どういうことよ!」
と、少し険しい声で、「学校サボって、しかも何も言わないで私のこと呼び出すなんて」
「何も言わないのは、姉さんも同じだろ」
と、順一は言い返した。
「何のこと?」
と、久仁子は制服姿に|鞄《かばん》を持ち直して、「わけの分んないことを――」
久仁子が、少し離れて立っている男に気付いた。ハッと息をのむ。
「姉さんに、どうしても会いたいんだってさ」
と、順一は言った。
久仁子は、固い表情で男を見つめていた。
「そうじゃないんです」
と言ったのは、伸子だった。
「伸子ちゃん……。どういうこと?」
「あの男の人は、マンションへ行ったんです。私と順一君がそこで出会って」
「マンション?」
「姉さんの後、|尾《つ》けたんだ。この間の水曜日」
久仁子の顔は青ざめていた。
「分ったわ。――待ってて」
久仁子は男の方へ歩いて行く。男がすまなそうにうなだれて、小声で何か久仁子に話している。順一は、姉が驚いて男の腕をつかむのを見た。
「それで? どうなの?」
姉の声がはっきり聞こえてくる。
「うん……。入院しないと……いやだって……どうしても……」
男の声が途切れ途切れに耳に入る。
「分ったわ」
と、久仁子は肯いた。「その代り――あの子たちに、何もかも話すわ。それしかないもの」
「うん」
久仁子は順一たちの方へ戻ってくると、
「行こう」
と、促した。
どこへ、と訊く気もしなかった。
その、順一たちが名前も知らない男と久仁子は並んで歩き、少し遅れて伸子と順一がついて行く。
五分ほど歩いて、二階建のあまり立派とは言いかねるアパートに着く。
「狭いけど……」
と、男が口の中で呟くように言いながら、部屋の鍵をあけた。
「順一、持ってて」
と、久仁子は鞄を順一へ渡して、ドアを自分で開けた。「――ユキちゃん。――ユキちゃん。お姉ちゃんよ。起きてる?」
久仁子が靴をぬいで上る。
順一と伸子も玄関へ入った。ほとんど一間だけの部屋らしい。玄関から、部屋の殺風景な内部が見渡せた。
カーテンを引いてあって薄暗い中、布団が敷かれていて、小さな女の子が寝ていた。
四つか五つか。せいぜいそんなものだろう。
「ユキちゃん……」
久仁子が布団の傍に座ると、女の子が目を開けた。
「お姉ちゃん……」
「どう? お熱があるんだって? お医者さんに行かなくちゃ、治らないよ。ね?」
「お姉ちゃんと一緒でなきゃいや」
と、女の子の手が、布団からのびて来て久仁子の手を握る。
「熱い!――だめよ、すぐお医者さんに診てもらわなくちゃ。分った? お姉ちゃんが一緒に行くから」
「ずっとそばにいてね」
「ずっと、って……。お姉ちゃんもね、学校に行かなきゃいけないし、パパもお仕事があるでしょ。できるだけユキちゃんに会いに来るけどね」
「ずっといてくれなきゃ」
「ともかく、今はお医者さん。早くしないと治んなくなっちゃうよ」
久仁子は、ユキを抱き起こした。ユキが久仁子にしっかりと抱きつく。
「熱が高いわ。急いで病院に」
「分った」
と、男が言った。
「どこへ連れてく?」
「友人のいる病院がある。タクシーなら十分くらいだ」
「じゃ、ともかくそこへ」
「タクシーを停める」
と、男が駆け出して行く。
「伸子ちゃん。悪いけど、この子、パジャマじゃ寒いわ。カーデガンとか靴下を出してくれる?」
「はい!」
伸子は靴をぬいで上ると、久仁子の言う通りに忙しく動き回っている。
順一は――結局一人何もせずに突っ立っていた。
ユキという女の子は、不思議そうに順一や伸子を眺めて、
「だあれ?」
と、久仁子に訊いた。
「お姉ちゃんの弟よ」
と、久仁子は、ユキを座らせて靴下をはかせる。
「この子は?」
ユキが伸子を見て、「お姉ちゃんの子供?」
と、訊いた。
久仁子にも伸子にも、ショックだったに違いなかった。
「君たちには謝ります」
と、その男は頭を下げた。
順一たちは、男が菅原という名だと知った。総合病院の中は、人が忙しく行き来して、見舞客も少なくない。
廊下の隅で、順一たちは話をすることになった。
「僕は二年前に女房を亡くした」
と、菅原という男は言った。「女房は死ぬ前に、僕に約束させた。ユキの面倒は人任せにしないで、自分の手でみてくれ、と。――僕は約束した」
順一と伸子は、じっとその男の話を聞いていた。
久仁子は、ユキに付き添っている。今、診察を受けているところだった。
「二年間、頑張ったよ」
と、菅原は言った。「保育園の送り迎えも、夕ご飯の支度も、掃除も洗濯も。でも――仕事も忙しい。休みの日には、くたびれ切って、ユキの相手をするのは大変だった」
と、ため息をつく。
「そんなとき、会社の友だちに誘われて、あのクラブへ行ってみた。――言いわけはしない。若い女の子と遊ぶつもりだった。たまにはこんなこともいいだろう、と思った」
少し間を置いて、「そこで――君の姉さんに会ったんだ。確かに……」
と言いかけてためらい、
「初めはお金で遊ぶつもりで……。だが、僕は眠ってしまったんだ。疲れていたせいかもしれない。ハッと目が覚めると、三時間もたっていた。ユキを迎えに行かなきゃ! あわてて飛び出した僕は、身分証明書の入ったカード入れを落としてしまった。ユキは不機嫌で、保母さんを困らせていた。連れて帰るにも、泣き叫んで、どうにもならない。そこへ――君の姉さんが現われたんだ。そして、ユキを抱き上げてくれた。ユキは、すぐ泣きやんで、眠ってしまった……」
「姉さんは、あなたを追いかけて行ったんですね」
「そう。こっちもびっくりした。でも、せっかく眠ってるからってことで、あのアパートまで一緒に行ってもらった……。ユキを寝かしつけると、彼女は、部屋の中を見回して、片付けを始めた。僕が|呆《あっ》|気《け》に取られている間に、きちんと食器類も整理して、冷蔵庫の中をきれいに拭いた。そして、とてもすぐにはきれいにならないから、今度来てあげると言って……。次の水曜日、彼女はアパートへ来て、徹底的にきれいにしてくれた。その晩は夕ご飯まで作ってくれて、ユキと三人で食べた。ユキはすっかりなついて……」
久仁子がやってくるのが見えた。
「とりあえず、一週間は入院した方がいいって」
と言った。「どうする?」
「その方が良ければ……」
「じゃ、手続きをして。でも――私は学校があるし、クラブもあるわ。休むわけにはいかないの」
「分ってる。何とか言い聞かせるよ。ありがとう」
と、菅原が頭を下げる。
「あの――」
と、伸子が言った。「良かったら、私もお見舞に来ますよ。三人が交替で来れば。ねえ?」
と、順一を見る。
「え?――あ、ああ。そうだな」
と、順一はあわてて肯いた。
「すみませんね」
菅原は、深々と頭を下げた。
「だけど、姉さん……」
と、順一は言った。
「何よ」
二人は、家への道を歩いていた。――もう夜で、辺りは暗い。
順一は、姉に訊こうと思ったのだ。あの菅原って男と、何かあったの、と。
でも――思い直した。それは姉さんの問題だ。
「結局、姉さんって、どこでも、掃除とか洗濯とかするようにできてんだ」
久仁子は笑って、
「本当だ!――じっと見てらんないのよね、汚れたりしてると」
と言った。「柄じゃないんだね。悪女なんて」
「それは本当」
「何よ!」
と、久仁子は弟の方へ|拳《こぶし》をくり出した。
順一はあわててよけて、
「でも、伸子の親父さんが仕事で行ってただけだって分って、良かった」
「接待にあんなことまでするなんて、日本のサラリーマンも大変ね」
もうすぐ家だ。順一は、
「学校抜け出したこと、ちゃんと言いわけしてね」
と言った。
「何か考えてやるから、今度から掃除を半分手伝って」
「うん、やるよ」
順一の言葉に、久仁子はびっくりした様子で、
「冗談よ」
「本当にやるよ。――姉さん、何もかも自分一人で引き受けるなよ。僕にも何かやらせて、少しは楽しみなよ。高校生なんだぞ」
久仁子は足を止めると、急に弟を抱きしめた。
「ちょっと……」
順一がどぎまぎして、赤くなる。「よせよ!」
「――頑張ろうね」
久仁子は笑って言うと、ポンと弟の肩を叩いて、「じゃ、とりあえず今夜のお風呂洗いはあんたの仕事」
「分ったよ」
順一は、口を|尖《とが》らして言うと、「その代り、もう抱きしめたりしないでよ。――他の男でもさ」
「大きなお世話!」
と、久仁子は言って、頬を赤く染めた。
順一は、たぶん生れて初めて、姉のことを「可愛い」と思った。
久仁子が玄関のドアを開け、
「ただいま!」
と、元気な声が家の中に響いた――。
第四話 叔父さんは大泥棒
|叔《お》|父《じ》さんは、大きなスーツケースを手にさげて、列車から降り立った。
「あれだ」
と、内山涼子は言った。「あの茶色のスーツ着てる人」
「どうして分るの?」
と、一緒に改札口の外側から身をのり出すようにしている多田良江が|訊《き》いた。
「見たことないんでしょ、その叔父さん」
「でも、あの人よ。見たことないけど、分る!」
涼子は自信たっぷりに言った。
そう。――涼子は、叔父の写真も見たことがない。でも、この列車から降りた何十人もの客の中から、すぐにその男を叔父だと分ったのである。
だって、その人は涼子が小さいころからずっと頭の中に描きつづけて来た「叔父さん」のイメージそのままだったからだ。
「ま、確かに降りた人たちの中じゃ、あれが一番カッコいいけどね」
と、良江が言った。「でも、だからって――」
「ほら、こっちへ来るよ!」
涼子は親友の手をつかんで引っ張ると、改札口へと駆けて行った。
その人は、切符を出して改札口を出ると、ゆっくり左右へ目をやった。
スラッと長身で、|垢《あか》|抜《ぬ》けしたスマートな体型。髪は半分くらい白くなっていて、よく日焼けした顔立ちはテニスコートに似合いそうだった。
明るい|日《ひ》|射《ざ》しがまぶしいようで、目を細めてゆっくりと涼子の方へ向く。目が合って、涼子はいささか大胆かもしれなかったが、ニッコリと|微《ほほ》|笑《え》んだ。もし赤の他人だったら?――構うもんか!
「君……」
と、その人は外見にふさわしい深みのある声で言った。「もしかして、涼子君?」
「はい!」
ホッとした、というのが正直なところである。「内山涼子です。これ、友だちの多田良江」
「そうか」
と、その人は笑って、「涼子君はまだ小さい『女の子』だと聞いてたからね。しかし、考えてみりゃ、十……六?」
「十七歳です」
「十七か。――大人だね、もう」
と、ため息をつき、「僕は石井|久《ひさ》|士《し》だ。よろしく」
「こちらこそ!」
涼子はペコンと頭を下げた。「良江、学校に戻った方がいいよ」
「あ、そうか。そうだね」
良江は、小柄で全体にまん丸な子である。明るくて、よく笑う。人なつっこさで、クラスでも人気があった。
「じゃ、戻ってる」
「うん。明日のこと、電話してね」
「帰りに寄るよ」
と言いながら、良江はもう駆け出していて、「失礼します!」
と、石井久士に会釈して行った。
「――うち、この先です」
と、涼子は細い道を指して、「五分くらいですから」
「じゃあ、案内してもらおう」
と、石井は言った。
「重そうなスーツケースですね」
「うん、何でもここに詰め込んでるんでね」
二人は歩き出した。――十月の|爽《さわ》やかな風が吹き抜けて行く。
この小さな田舎町では、見知らぬ顔はそれ自体、ニュースである。
途中すれ違った知り合いに、涼子は何度も、
「叔父です」
と紹介しなくてはならなかった。
「――ごめんなさい」
と、涼子が歩きながら言った。「町の人、みんな暇だから。今夜の夕食の話題は、まず叔父さんのことがトップだな」
石井はちょっと笑って、
「光栄だね」
と言った。「――涼子君、学校がどうとか言ってたね。今日は日曜日だろう」
「ええ。ただ、来週隣のK市に何だか偉い方がみえるんです」
「偉い方?」
「外国の――どこかの王女様ですって。新しいホールができて、その落成式に出席されるの」
「ほう。しかし、それと学校とどういう関係が?」
「私たち、合唱やってるんです。うちの高校、合唱で結構有名で、全国大会とかにも出るんですよ。そのホールの落成式で歌うことになってて」
「なるほど。その練習ってわけか」
「ええ。おかげで合唱部の子は日曜なし!」
と、涼子は笑って言った。「――叔父さん、来週までいるんでしょ? 聞いて行ってね」
「僕なんかが聞きに行ってもいいのかい?」
「ええ。だって、うちは父も母もいないわけだし。家族を二人ずつ|招《よ》んでいいことになってるんだもの。――あ、このコンビニの所、曲がるの」
「へえ、こんな小さな町にも二十四時間営業のコンビニがあるのか」
「夜はほとんどカウンターで眠ってるって」
と、涼子は微笑んで、「レジやってる子、高校の友だちなの」
――内山涼子、十七歳。前述の通り、女子高校生。今、二年生の秋である。
一人っ子で、のびのびおっとりと育った涼子は、その名の通り涼しげな目もとの可愛い娘である。
今、両親は海外へ行っている。父が仕事で三か月ヨーロッパ暮らし。母はそれについて行った。
一人っ子でも、涼子は料理など割と得意でまめにやるので、別に心配ないということになったのである。それにこの小さな町では、一人暮らしといっても危いことはない。
叔父――母の弟になる――の石井久士がこの町へ来たいと手紙で言って来たのは、両親が出発した三日後だった。
涼子は、この叔父のことをずいぶん小さいころから聞かされていたので、全く会ったことはなかったが、すぐに「お待ちしています」という返事を出したのである。
「――どうぞ」
と、涼子は玄関の|鍵《かぎ》をあけて言った。「狭いけど、今は私一人だから」
「いや、それなんだよ」
と、石井は上ってリビングのソファに|寛《くつろ》ぐと、「君が返事をくれて|嬉《うれ》しかったが、どうしようかと迷ってね」
「あら、どうして?」
「君の両親が海外へ行ってるとは思わなかったからね。その留守中にノコノコやって来て泊って行くのも、何だか|図《ずう》|々《ずう》しい気がしてさ」
「そんなこと! 母からいつも叔父さんのこと聞いてましたもの。ちっとも構いませんよ」
「そうかい? しかし――君のような年ごろの娘さんがいる家へ、僕が泊るってのもね」
涼子はそれを聞いて笑い出した。
「私のこと、女だと認めて下さったのね。叔父さんが初めてよ、そんな人」
「そうか」
と、石井も笑い出して、この話は打ち切りになった。
「じゃ、ここの部屋を使って下さい」
と、涼子は父の仕事部屋へ案内した。「狭いけど、一番きちんと片付いてるの」
「ありがとう。充分だよ」
と、石井はスーツケースを置いて、「涼子君、もし学校へ行った方がいいのなら――」
「ううん、今日はサボりって決めたの」
涼子は楽しげに言った。「――ね、叔父さん」
「何だい?」
「何か用事があってこの町に来たの?」
石井は、スーツケースを開けて、
「そうなんだ。少しこの辺のことで取材したいことがあってね」
「取材か。――何か書いてるの?」
「お母さんから聞いてないのかい?」
「母に|訊《き》いても、『何してるか、よく分らない人なの』としか言ってくれなかったわ」
「そうか。ま、事実だね」
と笑って、「日本中、あちこち旅して回った。――今はその旅行記やガイドブックの文章を書いたりしてるよ」
「へえ、すてきだなあ」
と涼子は言ったが、石井が荷物を出すのを、あんまりそばで見ているのも失礼だと思い、「じゃ、夕ご飯は七時ごろ。腕前のほどをお楽しみに」
と微笑んで見せ、仕事部屋を出たのだった。
「研一。――何サボってんのよ」
涼子は、レジのカウンターにドサッとカゴを置いて言った。
「お前か」
と、本を読んでいた若者はウーンと伸びをして、「お前なら、急ぐこともねえや」
「言いつけるよ、お父さんに」
「言ってみろ。|俺《おれ》だって――」
と言いかけて、「何だ、えらく|沢《たく》|山《さん》買い込むんだな」
「お客さんだもん」
と、涼子は言った。
――この二十四時間営業のコンビニ、町で昔から雑貨屋をやっていた|神《こう》|山《やま》研一の父親がオーナーである。涼子と同じ高校二年の研一は、少なくともバイト先を探す手間はないというわけだった。
ピッ、ピッと品物のバーコードを、機械が読み取っていく。
「こういう機械ができて良かったね。研一でもレジやれるんだもん」
「皮肉か」
ヒョロッとノッポの研一だが、二人は幼稚園のころからの友だち同士。何でも好き勝手を言い合って、ケンカにもならないという仲である。
「四千円と……。はい、細かいの」
と、お金を出して、「研一。何よ、さっき言いかけたの。『俺だって――』って言ったでしょ。何か私のことで言いつけることなんてあるの?」
「そんなこと言ったか?」
「とぼけんじゃないの」
と、涼子はにらんだ。「ま、いいや。来週じっくりいじめてやる」
「やってみろって」
と、研一は舌を出した。
「ガキね」
と、涼子はフンと鼻を鳴らしてコンビニを出て行った。
研一は、|椅《い》|子《す》に腰かけてまた文庫本を読み始めた。――どうせ客はいない。
どうせ……。
「君」
と声がして、びっくりした研一は危うく椅子から落っこちそうになった。
「あの――何ですか?」
見たことのない男だった。――ずんぐりして、首が短く、大きな頭が肩へめり込んでいるみたいだ。五十がらみか、髪は少し薄くなっている。
「君は、今出てった女の子を知ってるのか?」
「え?――涼子ですか? ええ、同じ高校ですから」
と、研一は言って、「何か……」
「内山涼子の所に、今客がいるね。見たことは?」
研一はけげんな表情で、
「あなたは?」
と訊いた。
「私は倉田という者だ」
男は警察手帳を見せた。「ちょっと訊きたいことがあってね。――少し、時間を貸してくれんかね」
研一は、|呆《あっ》|気《け》に取られて|肯《うなず》くだけだった……。
涼子の手が空に丸く円を描くと、ピタリと合唱は終った。
「――OK。じゃ、今日はこれで」
と、涼子は言って息をついた。「本番まで二日よ。みんな風邪とかひかないように気を付けて。じゃ、解散」
ザワザワとおしゃべりしながら、合唱部の部員たちが音楽教室を出て行く。
「――良かったわ」
と、端の席に座っていた音楽教師の丸山|浩《ひろ》|子《こ》がやって来て言った。「内山さん、充分よ、あれで」
「でも……」
と、涼子は汗を|拭《ふ》いて、「歌ってる方が気楽でいいな。丸山先生、やっぱり先生が指揮して下さいよ」
「だめだめ。もう決めたのよ」
と、丸山浩子は言った。「あなたならちゃんとやれる。生徒たちだけでやった方が、みんなの印象もいいわ」
「でも……」
と、涼子はためらった。
「涼子」
と、今、歌う側にいた多田良江がやって来た。
「良江。帰ろうか」
「うん。――ね、お客様」
「え?」
振り向いた涼子は、叔父が教室の入口に立っているのを見て、パッと赤くなった。
「叔父さん! いつ来たの?」
「五分ほど前かな」
と、石井は入って来て、「聞かせてもらった。立派なもんだ。それに、涼子ちゃんが指揮するなんて言ってなかったじゃないか」
「急に言われたの、丸山先生に。――先生、叔父です。今うちに……」
「石井です。|姪《めい》がいつもお世話になって」
と、会釈すると、「――どこかで以前、お目にかかったことが?」
「いえ――。そんなことはないと思います」
と、丸山浩子は言って、「じゃ、仕事がありますので」
足早に出て行ってしまう丸山浩子を見送って、
「先生、どうしたんだろ?」
と、涼子は良江の方を見た。
「うん……。青くなってたね」
「そうだよね」
丸山浩子は、三十代半ばの、やや地味ながらも|清《せい》|楚《そ》な感じの美人である。この高校へ来て四年ほどだが、独身の一人暮らしを続けていた。
「なかなかすてきな人だ」
と、石井が言った。
「でしょ? 叔父さんがどこかで会った、なんて言うから、先生照れちゃったのかな」
と、涼子は笑って言った。
「落成式のとき、君が指揮するのかい?」
「そう。本当は丸山先生だったのよ。それで練習もしてたのに、急に……」
「いいじゃないか。僕は誇らしいね」
「でも――。叔父さんは見てるだけだもん」
と、涼子は口を|尖《とが》らして言った。
石井は、ちょっと笑って、
「大丈夫。君ならできるさ」
と、涼子の肩を|叩《たた》いた。「――さ、僕はもう少しこの学校の近くを散歩してから戻る。迷子にはならないよ」
「この町で迷子になったら、生きてけないわ、この世では」
と、涼子は言った。
涼子は、良江と二人で学校を出たが、少し行った所で、
「あ! いけない」
と、足を止めた。
「どうしたの?」
「譜面一つ忘れて来た! 取って来る」
「じゃ、一緒に行くよ。どこに忘れたの?」
「音楽教室の譜面台。他のは全部|鞄《かばん》に入れたのに。――悪いね」
「急ぐ旅でもないよ」
と、良江はもったいをつけて言った……。
二人が音楽教室の近くまで来たとき、人影が教室の窓の中で動いた。
「丸山先生かな?」
と、涼子は言った。
「さあ……」
と、廊下側の窓から中を|覗《のぞ》いた良江は足を止め、「――涼子」
と、声を低くした。
「え?」
「石井さん」
涼子は、中を覗いて、叔父と丸山浩子が立ったまま何か話している様子なのを見て、|眉《まゆ》を寄せた。
「――何だか深刻そうよ」
「うん……。でも、あの様子……」
涼子は、そっと手を伸ばして、窓を細く開けた。古ぼけた窓だが、幸い音はたてなかった。
「――君の気持は分ってる」
と、石井が言った。
「だったら……どうしてそっとしておいてくれないの?」
丸山浩子は、石井から顔をそむけていた。「せっかく、ここで静かに生活していたのに……」
「すまん」
石井は机の一つにちょっと腰をかけて、「しかし……君は突然姿を消した。愛している女が急にいなくなれば、捜すのが当然だろう?」
「それだけ?」
と、丸山浩子は石井を見た。
「それだけ、ってどういう意味だ?」
「隣町の方に興味があって来たんじゃないの? 王女のつけて来る宝石に」
石井は黙っていた。――涼子は、目の前の出来事が夢であってくれたら、と思った。
「――僕一人で何ができる」
「やれるでしょ、あなたなら」
と、丸山浩子は言った。「ともかく――私はあなたとは、もう縁もゆかりもない人間。そのつもりでいて」
厳しい言い方だった。
「よく分った」
石井は淡々とした口調で、「しかし、君がもう僕のことを赤の他人だと思っているのなら、どうして突然指揮を僕の|姪《めい》に譲ったんだね」
涼子はドキッとした。――石井が教室の出入口の方へ歩いて来る。
涼子と良江は、あわてて一つ隣の教室へと飛び込んで息を殺した。
石井の足音が前を通り過ぎて行き、少し間を置いて、丸山浩子の足音が少し力ない感じで(気のせいだったかもしれないけれど)通って行った。
涼子と良江は、フーッと息をついた。
「――涼子」
「何も言わないで」
と、涼子は首を振った。「今はともかく頭の中がどうかなりそう」
「分る」
と、良江が肯いた。「――石井さんと丸山先生が、かつて恋人同士! それだけでも、ショッキングだよね」
「うん……」
――もちろんだ。でも、丸山先生だって恋人がいておかしくはない。むしろ涼子が気になっていたのは、丸山先生が、叔父の目当ては「王女の身につけた宝石」だろう、と言ったことだった。
あれはどういう意味だろう?
「――帰ろう」
と、涼子は言った。「今夜一晩、ゆっくり考えてみる」
良江も、それ以上何も言わずに肯いた。
二人は学校を出て、顔を見合せ、
「――譜面、持ってくるの、忘れた」
と、異口同音に言った。
でも、もうとても取りに戻る気にはなれなかったのである……。
家へ入った涼子は、居間でペタッとソファに座り込み、しばらく動けなかった。
もちろん、叔父のことについて、もともと何一つ知っていたわけではない。しかし、あの丸山先生の言い方は……。
突然、ドタドタッと何かが崩れ落ちるような音が聞こえて、涼子は飛び上るほどびっくりした。
今の音――父の仕事部屋だ。
叔父が戻っていたのだろうか? でも、玄関に靴はなかったが。
涼子が、その部屋のドアを開けてみると――。
「研一! 何してるのよ?」
崩れた本の間に目を白黒させて座っていたのは、神山研一だったのだ……。
「――叔父さんが?」
と、涼子は言った。
「うん。あいつは偽ものなんだって。石井久士っていうんじゃなくて、色んな名前を使い分けてる泥棒なんだ」
と、研一は言った。「これで大丈夫かなあ?」
本棚から落っこちて来た本を、何とか二人で元に戻した。
「これ以上仕方ないわ。どう並んでたかまで、私、|憶《おぼ》えてないもの」
と、涼子は額の汗を拭いた。「居間へ行こう。叔父さん、帰って来ちゃうかもしれない」
居間へ入って、研一は言った。
「お前、大してびっくりしてないな」
「うん……」
「何かあったのか」
「何となく……どこか違うなあ、って思ってたの、あの人。叔父さんかどうか、ってことじゃなくてね。普通の人と違ってる、って気がしてた」
「もっとお前がショック受けるかと思ってたよ」
と、研一は言った。
「充分にショックだわ」
と、涼子は言った。「その刑事さん――何ていったっけ」
「倉田さんだ」
「倉田さんか。――その人、どうして叔父さんを捕まえないの?」
「証拠がないんだって。だから、ずっと追いかけてるんだ」
「じゃあ、今度は?」
「例の――お前の歌うホールの落成式があるだろ。そのときにやって来る王女の宝石を、そいつが|狙《ねら》ってるんだって。だから、今度こそ現行犯で逮捕してやれるって、張り切ってるんだ」
「そう……」
「だから――悪かったけど、そいつの持物を調べてくれないかって頼まれてさ、忍び込んだら、お前が帰って来ちゃった」
涼子は、研一の方を見ていたが、その内声を上げて笑い出した。
「何がおかしいんだよ?」
「その刑事さん、人を見る目がないわね。研一にそんな器用な真似、できるわけがないのに」
「おい……」
「どこから入ったの? 鍵、こっそり盗んだんじゃないでしょうね」
「違うよ!――風呂場の窓からさ」
「お風呂場?――ちょっと! 前から私の入浴を覗いてたんじゃないでしょうね!」
「馬鹿! お前の裸なんて、金もらったって見たかねえや」
と言いながら、研一は真赤になる。
「赤くなった! こら、白状しろ!」
「ふざけんなよ、こいつ!」
二人は立ち上ってこづき合った。その内、無類のくすぐったがりである涼子が笑い出して止らなくなってしまった。
「――よく笑う|奴《やつ》だな」
と、研一も笑って、「いつまでもガキなんだから」
「どうせ!」
と、涼子は舌を出して――。
それでどうして二人がキスしたのか、どっちもよく分らなかったのである。
そして、パッと離れると、二人とも赤くなって目をそらしてしまった。
二人が何も言えずにいる所へ、
「お邪魔かな?」
と、|咳《せき》|払《ばら》いして言ったのは、石井だったのである……。
「お疲れさま」
と、涼子は言った。「じゃ、明日は本番ですから、早く寝て、|喉《のど》の調子を整えておいて下さい」
良江が進み出て、
「念のためくり返しますけど、集合は朝七時半に駅の前。K市までの切符はまとめて買っておきますから、各自では買わないで下さい。帰りもです」
もう、ゾロゾロと列が崩れ、みんな帰り始めている。
涼子は譜面を閉じて、息をついた。もちろん、曲の隅々まで憶えているが、譜面が手もとにあると何となく安心するのだ。
「良江、先に帰って。私、ちょっと丸山先生と話があるから」
「分った。じゃ、明日ね」
「うん」
少しすると、音楽教室の中は涼子一人になる。
「――内山さん、帰らないの?」
と、丸山浩子が入って来て言った。
「先生……」
「明日はよろしくね。大丈夫、立派にやれるわよ」
と、丸山浩子は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
「でも――先生、会場には来るんでしょ?」
と、涼子が訊くと、丸山浩子はちょっと目を伏せて、
「たぶん……ええ、ちゃんと見てるから、心配しないで」
「|嘘《うそ》つかないで下さい。今夜、どこかへ行っちゃうんですね」
丸山浩子がハッと息をのむ。
「内山さん――」
「この間、ここで……叔父と話してるの、聞いちゃったんです」
と、涼子は言った。「きっと――叔父から逃げ出すんだろうな、と思って」
「内山さん……。あなたはまだ若いわ。私の気持は分らないでしょ」
と、丸山浩子は言った。
「分ってるつもりです」
「そう?」
「明日、叔父が捕まるところを見たくないんでしょ?」
丸山浩子は、じっと涼子を見つめて、
「それをどうして――」
「倉田っていう刑事さんが来ています」
倉田の名を聞いて、丸山浩子はサッと青ざめた。
「倉田が!――そうだったの」
「明日、待ち構えてるんです。叔父を捕まえようとして」
と、涼子は言った。「先生。逃げるのなら、叔父を連れて逃げて下さい」
「内山さん……」
「あの人が――本当の叔父でなくてもいいんです。私もあの人が捕まるところなんか見たくない。だから、連れてって下さい」
涼子はそう言うと、「お願いします」
と、頭を下げた。
涼子は、ほとんど駆け出すようにして教室を出た。
これで、きっと石井は――いや、本当の名前は誰も知らないらしいが――夜の内に逃げてしまうだろう。
涼子は、夜の道を少し息を弾ませながら歩いて行った。
どうして……。どうして、と訊かれたら、返事ができなかったかもしれない。
男として、石井を好きというわけではない。何と言われても、そして事実がどうであっても、石井は「涼子の叔父さん」なのだ。
もともと、名前だけしか聞かされていなかった叔父。しかも、両親がいない一人暮らしの所へひょっこりやって来た叔父との日々、涼子は楽しく、幸せだった。
恋とか愛とかいう気分とは全く別に、涼子は「理想の叔父さん」を石井の中に見ていた……。
「――ただいま」
と、家へ上ると、涼子はいい匂いに気付いてびっくりした。「――叔父さん?」
「お帰り」
石井が台所に立っていた。何と、涼子のエプロンをつけている。
「叔父さん! お料理、作ったの?」
テーブルに並ぶ料理に、涼子は目を丸くした。
「ああ。明日は本番だろ。水仕事で風邪でもひかせちゃ大変だと思ってね。一日ぐらい僕がやろうと思ったんだ」
「いいのに! 私、やるわ。叔父さん、座ってて」
と、鞄を放り出す。
「いやいや。今夜は君がお客様だよ」
涼子は、結局石井に押し切られてしまった。
テーブルについて、石井が準備してくれるのに任せた。
「――おいしい」
と、食べてみて、正直びっくりした。「器用なのね、手先が」
「商売柄さ」
石井の言葉に、涼子はギクリとした。
物書きなら、「商売柄」ということはあるまい。石井も楽しげに食べているが、その実、涼子が何もかも分っていると知っているのだ。きっとそうだ。
「――お腹一杯! 眠くなっちゃったわ」
と、涼子は笑った。「明日、寝過しそうだな」
「大丈夫、僕は寝起きがいいんだ。ちゃんと起こしてあげるよ」
と、石井は食べながら言った。
「ありがとう。じゃ、安心して眠れる」
と、涼子は言った。
そうね。お互いに分ってる。もう、朝になれば二人が顔を合せることはないのだと。夜の内に、きっと二人の間は遠く離れているだろうと……。
「――明日、いいお天気だといいね」
と、石井が言った。
「ええ。叔父さん……」
「うん?」
「私、叔父さんのこと、好きよ」
「ありがとう」
と、石井は目をパチクリさせて、「どうしたんだ、一体?」
「別に。一度、言ってみたかったの」
と、涼子は言った。「――ごちそうさま! お|風《ふ》|呂《ろ》に入って、寝るわ」
「それがいい。――ぐっすりとね」
と、石井は微笑んで|肯《うなず》いた……。
しっかり起きるつもりだった。
ところが、体を揺さぶられてハッと目を開けると、
「涼子君。もう目覚しが鳴ったよ」
石井が覗き込んでいる。
「え?――いやだ!」
「大丈夫。まだ十分しかたってない。ゆっくり間に合うよ」
と、石井は笑って、「さ、顔を洗って」
「ええ」
涼子は頭を振って起き出すと、「叔父さん、どうして……」
「何だい?」
「いえ。――何でもないの」
と首を振り、「叔父さんも来るんでしょう?」
「もちろん、ちゃんと聞かせてもらうよ」
と、石井は言って、「さ、朝食の仕度もしてあるよ。用意しておいで」
と、ダイニングキッチンへと行ってしまう。
どうするつもりなんだろう?
涼子は気になったが、今は自分の役目が第一だった。急いでパジャマを脱ぐと、洗面所で思いっ切り勢いよく顔を洗ったのである……。
拍手が起こった。
ステージの|袖《そで》から、涼子たちはみんなひしめき合うようにして客席の方を覗いた。
「王女様だよ」
と、良江が言った。「――きれい! 宝石がきらめいてる」
「本物かな」
「当り前よ」
と、ガヤガヤやっていると、
「静かに!」
と、ついて来た校長先生が注意する。
「さ、並んで」
と、涼子は指示した。「手順、忘れないでね」
白のブラウス、黒のスカート。二十人の女声合唱団である。
涼子は、石井のことや丸山先生のことも気にしつつ、今は自分に課せられた責任の重さに体が震えるようだった。
拍手が止んだ。ヨーロッパの小国から来た王女の一行が着席したのである。
客席のざわめきが、潮が引くように静まって行く。そして、咳払いや椅子の鳴る音がひとしきりして、
「出て下さい」
と、ホールの人が促す。
涼子は指揮なので、ピアノ伴奏を受け持つ子と二人で、最後につく。
合唱団がステージへ出て行くと、拍手が起こった。二十人が定位置につき、涼子とピアノの子が二人で出て行くと、もう一度拍手が盛り上る。
涼子は、客席に真直ぐ向いて一礼した。
ライトがまぶしくてよく見えなかったが、この客の中に、石井や丸山浩子がいるのかどうか、涼子には知りようもなかった。
涼子は合唱団の方へ向いて立った。ピアノの子が小さく肯く。
あまり間を置かずに、涼子は両手を上げて、静かに振り下ろした。
「――やったやった!」
ステージの袖へ戻ると、校長先生が涼子の肩をポンと|叩《たた》いて、「よくやったぞ!」
と言った。
「どうも……」
涼子は一気に汗が出て来て、息をついた。
終ってみれば|呆《あっ》|気《け》ない。でも、まあ力を発揮することはできたような気がした。
ホッとして、同時に石井のことが気になってくる。
次にステージに出る他の学校の子たちと入れ違いに廊下へ出ると、涼子は足を止めた。
「――丸山先生」
「良かったわよ」
と、丸山浩子は肯いた。「いい思い出になったでしょう」
「ええ……。先生――」
「来て」
丸山浩子は、涼子を連れて、人気のない楽屋口へと出た。
「あの人に話したわ」
と、丸山浩子は言った。「倉田のことも。でも、あの人はここへ来てる」
「来てる? じゃあ――」
「あなたの姿を見たいって。客席にいたはずよ」
と、丸山浩子は微笑んで、「好きにさせることにしたの、あの人に」
「でも……。警官が大勢――」
「もちろんよ。王女様がみえてるんですものね」
と、丸山浩子はチラッと表の方へ目をやった。「表も裏も、しっかり見張ってる。あの人が、宝石を|諦《あきら》めておとなしく引き上げれば、警察も捕まえる理由がないから、大丈夫」
「倉田って人も?」
「姿は見ていないけど、必ずどこかにいるはずよ」
と肯く。「それに――きっとあの人は、こんなことぐらいで、仕事を諦めたりしないでしょう」
「じゃ……こんなときに、あの王女様の宝石を|狙《ねら》うっていうんですか?」
と、涼子はびっくりした。
「そういう人なの。難しくなればなるほど、ファイトがわくみたいでね」
と、丸山浩子は苦笑した。
「先生」
「何?」
「気になってたんですけど……。あの人の本当の名前、何ていうんですか?」
「名前? 私も知らないの」
と、肩をすくめ、「妙な話だけど、気にもならなかった。どんな名前でいても、あの人はあの人だったから」
「そうでしょうね。ただ――叔父は石井久士というんです。それは本当なんです。あの人が叔父の名前をどこで知ったのか……。もしかして、どこかで叔父を……」
「叔父さんを殺した?――それは心配いらないわ」
と、丸山浩子は首を振って、「あの人は決して人を殺したりしないわ。傷つけたこともない。叔父さんとは、たぶんどこかで知り合って、あなたのこととかも聞いたんでしょうけど、そのために叔父さんをどうかしたりはしないわよ」
涼子は、微笑んだ。
「そう聞いてホッとしました」
と言った。「少なくとも、私の中の叔父さんのイメージは、そのままです」
拍手が聞こえて来た。
「終ったようね」
「先生。――もうこの後、王女様は帰られるんでしょ。どこで一体……」
「さあ。見当もつかないわ」
丸山浩子は涼子の肩を軽く抱いて、「さ、ホールの正面で、王女様の出て来られるのを待ちましょう」
と促した。
――二人がホールの外へ出て行くと、もう大勢の人が中央の赤い|絨毯《じゅうたん》を敷いた通路の両側に集まっていた。もちろん、TV局や新聞のカメラマンも何十人といる。
この町がこれほどニュースになったことはないだろう、と涼子は思った。
お付きの人を先にして、王女が姿を現わす。ワッーと歓声が上って、王女がにこやかに手を振った。
そう若くはないが、笑顔が上品で、どこかあどけなさを残している。
――石井はどこにいるのだろう?
涼子は心配で、必死に石井の顔を捜した。しかし、この混雑の中では、とても見付けられない。
それに石井にしても、こんな状況では、とても宝石を狙うなんてことはできるわけがない。諦めたのだろうか?
そうであってくれれば……。
王女が、待っている車の方へ近付いた。
そのとき――突然見物人の中に、叫び声が上った。そして、バーン、という|炸《さく》|裂《れつ》|音《おん》。
銃声? 王女の前に、パッと警備のSPが立ちはだかる。当然、銃声のした方へと、誰もが注意を向けていた。
だが、そのとき反対側から、警官をパッと突き飛ばし、一人の男が飛び出したのだ。そして、王女の背中へとナイフを振りかざして突っ込んで行く。
涼子は、石井のことを捜していたので、銃声だけに気を取られていなかった。だから、その男に気付いたのだ。
「危い!」
と叫んだが、涼子の声はとてもSPの耳には届かない。
そして――アッという間の出来事だった。
どこにいたのか、見物人の間から石井が飛び出して来ると、王女と、そのナイフを持った男の間に飛び込んだのである。
ナイフが、石井に向って切りつけ、血がほとばしった。
SPがその異変に気付き、ナイフの男を取り押えるまで、ほんの二、三秒。しかし、石井が遮らなかったら、王女の背にナイフが突き立てられていただろう。
「叔父さん!」
涼子は人をかき分けて、石井へと駆け寄った。「叔父さん! しっかりして!」
石井は肩を押えて、顔を|歪《ゆが》めていた。指の間から血が流れ出す。
「救急車だ!」
と叫ぶ声が、いやにはっきりと涼子の耳に聞こえた。
「――本当に」
と、涼子は言った。「生きた心地がしなかった」
「すまんね」
と、石井は言った。「心配するほどの傷じゃないよ」
「|呑《のん》|気《き》なこと言って!」
と、涼子は石井をにらんだ。
病室は明るく日が射し込んで、暖かかった。
「でも|凄《すご》いな、叔父さん。さすがは私の好きな叔父さんよ」
と、涼子は微笑んだ。
そこへドアが開いて、ずんぐりした男が入って来る。
「あの、勝手に入られては――」
「警察だ」
と、その男は言った。
「倉田さんですね」
と、涼子は立って向い合うと、「いくら警察の人でも、何もしていないけが人の病室へ、無断で入らないで下さい!」
「涼子君……。いいんだ。古いなじみだよ」
と、石井が言った。「――倉田さん、久しぶりだ」
「今度こそ、と思ってたんだ。あの王女の宝石を狙ってたんだろう。分ってるんだ」
と、倉田が悔しそうに言った。「何とか現場を押えたかった」
「それより、王女を狙ったのは?」
「あの国の右派に雇われた連中だ。ともかく――お前が王女を助けたなんてな」
と、倉田が渋い顔で言った。
すると、またドアが開いて、病院長が入って来た。
「石井さん。――あの王女様の側近の方から、あなたに伝えて下さいとのことです」
「何ですか」
「王女様はあなたに大変感謝しておられて、国としてお礼をしたい、とのことです。勇敢なあなたの働きに、自分があのときつけていた宝石をさし上げたいとおっしゃっておいでだそうですよ」
誰もが呆気にとられている。
そして、石井はちょっと笑うと、
「――その方へ伝えて下さい。そんな物をいただいても、こちらとしては扱いに困るだけです。お気持だけで充分です、とね」
聞いていた倉田がため息をつくと、
「何てことだ」
と、|呟《つぶや》いた……。
半ばやけ気味に倉田が帰って行くと、入れ代りに丸山浩子が入って来た。
「あ、先生」
「内山さん。ニュースを聞いて、ご両親が帰って来られたわ」
「え?」
涼子は青くなった。――どうしよう!
「あの――父と母、いつ帰るんです?」
「もう今、ここにみえてるわ」
と、丸山浩子が言うと、涼子の父と母が病室へ入って来た。
「あ……。お帰り!」
と、涼子は大きな声で、「おみやげは? ね、楽しかった、向う?」
「何を大きな声出してるの」
と、母が顔をしかめ、ベッドの方を見ると、「久士、けがはどう?」
と訊いた。
「ああ、姉さん。大したことないよ」
「良かった! 久しぶりに会って、すぐ死なれちゃかなわないわ。一体、いつもどこを|放《ほ》っつき歩いてるの?」
――涼子は呆然としていた。
じゃあ……本当の叔父さんだったんだ!
「いや、もうそろそろ腰を落ちつけてもいいかなと思ってるんだよ」
と、石井は言った。「いい|姪《めい》もいるし、それに……好きな女性もいるしね」
石井が丸山浩子を見ている。――浩子はパッと|頬《ほお》を赤く染めた。
「まあ、丸山先生と?」
と、母が|唖《あ》|然《ぜん》として、「いつの間にそんなことになったの?」
「お母さん」
涼子は母の肩を叩いて、「そんなこと、訊くだけ|野《や》|暮《ぼ》ってもんよ」
と言ってやったのだった。
第五話 もう一人の一人っ子
父は、今正に息を引き取るという間際、ハッとしたように目を開いて、
「――ひさえ」
と言った。
|由《ゆ》|布《う》|子《こ》は、人が死ぬとき、何かはっきり聞こえるような言葉を|遺《のこ》すことが本当にあるものだとは、思ってもいなかった。
よく、映画やTVドラマでは、死に際に、そばの誰かの手をしっかり握って、
「あれをよろしく頼む」
とか言い遺していくが、そんなのは作り話の中だけで、現実には人間、死の前は何時間も――時には何日も|昏《こん》|睡《すい》状態に陥って、徐々に燃料がなくなっていくように消えていく――つまり死ぬものだと信じ込んでいたのだ。
だから、父がはっきりと聞きとれる声で、
「ひさえ」
と言ってから大きく息を吐いて死んだとき、悲しいとかショックというよりも、|呆《あっ》|気《け》に取られてしまったのである。
「――ご臨終です」
と、医師が腕時計を見て、「午前一時二十分でした」
看護婦たちが頭を下げ、すぐに機具を片付けにかかる。
由布子は、隣に立っている母の方へ目をやった。母はハンカチで口を押えていたが、目に涙は浮かんでいるものの、泣き崩れるという風でもない。
「奥さん」
と、婦長が入って来て言った。「お気の毒でした」
「いえ……。色々お世話になりました」
母が深々とおじぎをするのを、由布子は眺めていた。
たぶん――そうだ。母も、ワッと泣きだすタイミングを失ってしまったのだろう。
母は|加《か》|奈《な》|子《こ》というのだし、子供は由布子一人。――父、岡崎恭平の身辺に、「ひさえ」という名の女性はいない……はずだった。
それなのに、死に際に父が呼んだのは、由布子の全く知らない名だったのである。
「――じき、夜明けね」
と、母、加奈子が窓の外へ目をやって言った。
「うん」
由布子は、時計に目をやった。「もう五時半か……。お父さん死んで、四時間もたったの?」
「そうね。――これから色々あって、疲れるわよ、あんたも」
「私は大丈夫。お母さんこそ、疲れが出て寝込まないでね」
加奈子は黙って|肯《うなず》いた。そこへ、
「――どうも」
と、声がして、「遅くなりまして」
「谷口さん。ごめんなさい、こんな時間に」
と、加奈子は言った。
「いえ、とんでもない。本当に――残念でした」
谷口は、父の部下だった青年である。二十八歳だが、よく気の付く、|几帳面《きちょうめん》な性格で、父に気に入られていた。
今も、夜中に起こされて駆けつけたというのに、きちんとダークグレーのスーツを着て、ひげも当ってある。
「細かいことはお任せ下さい。私が一切、やらせていただきます」
「お願いします」
と、加奈子が頭を下げる。
由布子は、母が手洗いに行って、谷口と二人で残されると、
「――何だか、現実じゃないみたいだわ」
と言った。
「部長は若かったから……。五十……五?」
「もうじきね。まだ五十四だった」
「そうか。――もっと早く病気が分っていればね」
由布子は今年二十三。大学を出てOL暮らしだが、谷口とは由布子が大学時代からの付合いである。
「もう遅いわ」
と、由布子は言って、「それより……父は、最期になって、とんでもない遺言を遺してくれたの」
「え?」
谷口が面食らっている。
「ね。――『ひさえ』っていう名の人に、心当りない?」
「『ひさえ』?――女性の名前だろうね」
「たぶんね」
「それって――」
由布子の説明を聞いて、谷口は首をひねった。
「つまり……部長に誰かいたっていうのかい? 他の女性が」
「だって、そうでないとしたら? 何のことだと思う?」
「でもね……。何のことを言ってたんだか分らないじゃないか。人間、死ぬ間際に必ずしも恋人のことを考えるとは――」
「しっ。母が戻って来る」
と、由布子は遮った。「ともかく、調べてみて」
「分った」
と、谷口は小さく肯いた。
加奈子は、顔を洗って来たのか、大分さっぱりした表情で、
「谷口さん。それじゃ、打ち合せをしましょう。今日は『友引』だったかしら?」
と|訊《き》いた。
「あ――。ちょっとお待ち下さい」
谷口はあわてて手帳を取り出し、ページをめくった。
「由布子。あんた、くたびれてるでしょ。帰ってもいいわよ」
「でも、お母さん――」
「大丈夫。私は平気だから。ね、帰って、朝九時を過ぎたら、|親《しん》|戚《せき》へ連絡して。眠かったら眠ってもいいから」
正直、由布子は疲れ、眠かった。父が危篤状態になってから三日間、ほとんど眠っていない。
本当は母のことが不安だったが、谷口もいることだし、と思った。
「じゃ、|一《いっ》|旦《たん》帰る。――お母さんも帰って来るんでしょ?」
「もちろんよ。着がえないといけないし、家も片付けないと」
「じゃ、先に帰るわ。谷口さん。母をよろしく」
「ちゃんとお送りするから」
と、谷口が言ってくれて、由布子はホッとしたのだった……。
病院を出ると、タクシーが客待ちしていた。由布子は、電車も動いているかしらと思ったが、タクシーを使うことにした。
行先を言って、明るくなってくる町の中を車が走り出すと、たちまち由布子は眠りに落ちて行った。
夢の中で、由布子は父がベッドから手を伸ばし、
「『ひさえ』を呼んでくれ……」
と頼んでいるのを見たのだったが……。
「|凄《すご》い列ができてます」
と、谷口が小声で加奈子へ言うのが、由布子の耳にも入った。
「そう……。時間、かかりそうかしら」
と、加奈子が訊く。
「たぶん……あと一時間は。ここは大丈夫です。出棺を三十分遅らせましょう」
「分ったわ。お願いします」
と、加奈子が言って、「――ありがとうございました」
父の旧友が、焼香を終えて、母の方へやって来たのである。
「いや、どうも……。突然のことでびっくりしました」
と、その男は言った。「どうか気を落とされずに」
「はい、恐れ入ります」
由布子は、母が話をしている間、焼香客へと目を向けていた。
告別式の日。――前日のお通夜に大勢の人が来てくれたので、今日はそう来ないだろう、というのが谷口や葬儀社の人たちの予想だった。
ところが、小雨の降る天気だというのに、告別式の始まる時刻になると長い列が外にできていて、谷口たちをあわてさせた。
そして、実際に焼香が始まっても、人の流れは途切れることなく続き、斎場は香の煙で目が痛むほどになってしまった。
由布子は、少々単純すぎるような気はしたが、父のためにこれほどの人数がやって来てくれたことを、素直に喜んでいた。
母は、由布子がびっくりするほどしっかりしていて、ほとんど積極的と言っていいほど、動き回っていた。もちろん、「気が張っているから」なのだろうが、人間というのは、気持の持ちようでこんなに頑張れるものかと意外だった。
「あ……」
由布子は、大学のときの友人、林田栄子が焼香してくれているのに気付いた。
大学を出てから、全然会っていない。確か勤め先が関西で、何年か戻らないということだったが。東京へ戻ったのだろうか?
林田栄子が焼香を終え、由布子を見て一礼する。由布子は母の方へ、そっと、
「ね、お手洗いに行ってくる」
と言って席を立った。
「すぐに戻るのよ」
「うん」
由布子は、親族たちの席の背後へ出て、出入口へと急いだ。
「――栄子」
カタカタと階段を下りて、ちょうど受付の所で栄子を捕まえる。
「由布子。大変だったね」
栄子がコートをはおりながら言った。
――秋の一日、少し肌寒いくらいの気候である。
「うん……。栄子、東京へ戻ったの?」
「そうなの。といっても先週よ。だからまだ誰にも言ってない。新聞見て、お父さんのこと知ってびっくりした」
「そうか……。でも、良かった、栄子が戻って来てくれて」
と、由布子は言った。「今度、ゆっくり会おうよ」
「うん、電話は以前の通りだから、少し落ちついたらかけて」
「分った。じゃあ、私、席に戻るから」
「お母さんによろしくね」
と、栄子が行きかけた。
二人は受付のテントの下にいた。雨が降っていて、栄子は傘をさしてから、
「じゃ」
と、肯いて見せる。
そのときだった。受付をしていた父の勤め先の女性社員が、
「あの――古川さん。古川久恵さん」
と呼んだのである。
ひさえ?――由布子はドキッとした。
見れば、女子高生らしい制服姿の少女が、受付の方へ戻って来る。
「古川久恵さんですね」
「はい……」
「その傘、お間違いじゃ……。これだと思いますけど」
そっくりで、少し握りの形の違うその傘を見て、少女は赤くなった。
「すみません! 間違えちゃった」
「いいえ。――じゃ、これを」
「はい。ありがとう」
少女が、恥ずかしそうに自分の傘を受け取って、少し苦労して開くと、足下の水たまりに気を付けながら歩いて行く。
「――すみません。岡崎の娘ですが」
と、由布子は受付の女性に、「今の古川久恵さんって、どこの方ですか」
「ええと……。記帳していただいたんですけど……。これですね。でも、住所、書いてないです」
〈古川久恵〉。――由布子はとっさのことで他に考えも浮かばず、
「栄子!」
と、行きかけた友人を呼び止めた。
「え?――何よ?」
と、栄子が戻って来る。
「今、帰ってく女の子、いるでしょ」
「ああ。――制服の子?」
「あの子の後、つけて」
「ええ?」
と、栄子は目を丸くした。
「ごめん! 今は説明してる暇がないの。お願い!」
栄子は、呆気に取られながら、もう見えなくなってしまいそうな少女――古川久恵の後を追いかけたのだった……。
「お前は、一人っ子だからな」
と、父、岡崎恭平はよく言ったものだ。「ちゃんと友だちを作るんだぞ。姉妹がいない分、友だちを大切にしろ」
一人っ子……。
由布子も、自分が「一人っ子」であることを疑ったことなどなかった。――今の今までは。
「どうもお世話様でした」
母の声が下から聞こえてくる。
最後の親戚が帰って行ったらしい。少しして、パタパタと二階へ上ってくる母のスリッパの音。
「――由布子」
と、呼んでからドアを開け、「疲れた? コーヒーいれたわ。飲んだら?」
「うん」
黒いスーツのまま自分の部屋のベッドで寝ていた由布子は、起き上って、「しわになったけど、どうせクリーニングに出すものね」
「そうね。でも窮屈でしょ。着がえてらっしゃい」
「もう誰もいない?」
「谷口さんが、後で寄るって。全部支払いとかすませてから。別にいいんでしょ、どんな格好してたって」
「でも……。いいよ、その後着がえる」
由布子は、そのままの格好で居間へと下りて行った。
居間へ入り、父の遺影と、その前に置かれたお骨にドキッとした。――父がいなくなったことが、急に実感された。
ソファに座っていると、母の加奈子がコーヒーを運んでくる。
「あ、ごめん。私がするのに」
「いいわよ。そうお母さんに気をつかわなくて。――ブラックでいい?」
「うん」
「昔は、ミルクとお砂糖をどっさり入れて飲んでたのにね」
と、加奈子は笑って、「もう大人なのね、由布子も」
「お母さん……」
そっとコーヒーを飲んで、由布子が言いかける。
「気にしてるの? お父さんの『ひさえ』って言葉」
由布子は、母を見て、
「お母さんは? 知ってるの、『ひさえ』って人を」
「いいえ」
と、加奈子は首を振る。「でも――誰かいるってことは知ってたわよ」
由布子には驚きだった。
「誰か、って……。お父さんに『女』がいたの?」
「ええ。――一度、出張と言って出かけて、お父さん手帳を忘れてったのね。急いで会社へ電話してみたら、休暇中です、って……」
加奈子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「そう気の回る人じゃなかったしね。そう思って気を付けてると、いくらでもそれらしいことは出て来たわ」
「黙ってたの、お母さん」
「そりゃあ……何度か考えたわよ。問い詰めれば、すぐ白状しただろうし。でも――あんたのことを思うとね。それに、お父さんは家のこととか、あんたの学校のこととかは、よくやってくれてた。たぶん、内心すまないと思ってたんでしょう。それなら、その内には自分でそっちを終らせて戻ってくるかもしれないと思って……。それで何も言わないことにしたのよ」
加奈子の口調は淡々としていた。「その後どうなったのか。私はあんまり気にかけないようにしてたわ。そして、突然お父さんが――」
「それ、いつごろ? お母さんが気が付いたときって」
「もう……十五、六年? もっとかしら。忘れたわ」
と、加奈子は首を振った。
「じゃ、『ひさえ』って名が、その彼女のものかどうかも分らないのね」
「そうね。――もしそうなら、ちょっとショックかしら」
加奈子は他人のことのように言って、自分のコーヒーを飲んだ。
ショック? とんでもない!「ちょっとショック」どころじゃない。
母だって、考えていなかったろう。「ひさえ」すなわち「久恵」が、父の恋人でなく、父の娘の名前らしいとは。
「あ、きっと谷口さんよ」
玄関のチャイムが鳴って、加奈子が言う。
「私、出るから」
由布子は立ち上って、玄関へと急いだのだった。
「ここよ」
と、林田栄子は言った。
「間違いない?」
「ええ。ちゃんとあの雨の中、ここまで尾行して来たのよ」
「友情に感謝してるよ」
と、由布子は言った。
小さなマンション。――小ぎれいではあるが、部屋は広そうではない。
今、由布子と栄子のいるロビーに郵便受が並び、その中に〈古川悠子、久恵〉の名が入ったものがある。
「でも――確かなの? あの子がお父さんの……」
と、栄子は言いかけてためらう。
「確かかどうか、私だって分らないわよ。でも、死ぬときに呼んだ名前よ。何でもない人の名前を言うかしら」
「まあね。――でも、だからってどうしようっていうの?」
そう訊かれると、由布子にも答えは見付かっていないのである。
「そうね……。私はただ、父にもう一人、娘がいたのなら、そう知りたいだけ。そしてどんな所で、どんな風に生きてるのか知りたいだけ」
「それは分るけどね」
と、栄子が肯く。
「古川……悠子か」
と、由布子は言って、「――あ。私もこの人も、〈ゆうこ〉だわ」
「そういえばそうね」
二人で話していると、
「あの……」
サンダルの音がしていたことには気付いていた。しかし、まさか……。
「は?」
と、由布子が振り向くと、
「私に何かご用でしょうか」
と、その女性が言った。
「あの――」
「今、古川悠子、とおっしゃっていたようなので」
「あなたが……」
「古川悠子ですが」
――いくつぐらいだろう。四十を過ぎていることは確かだ。
しかし、ロビーが少し薄暗かったとしても、その女の顔色は、とても普通とは言えなかった。青白く、肌も乾いて、目が少し落ちくぼんでいる。
どこか具合が悪いのだろう。
「どちら様ですか」
と、古川悠子が訊く。
でたらめを言うわけにもいかず、
「私――岡崎恭平の娘です」
と、由布子は言った。
古川悠子がハッとして、
「そう。――そうですか。どうも……。初めまして」
と、ほとんど無意識に|呟《つぶや》く。「あの――どうぞお上り下さい。狭い所ですけど」
これで帰るというわけにもいかず、由布子は渋る林田栄子を引っ張って、古川悠子について行った。
「二階です」
と、買物の袋をさげた古川悠子は、階段を上りながら、「明りが切れてて、暗いので、気を付けて下さい」
――大丈夫かしら、と由布子はついて行きながら思った。
古川悠子は、一段一段、足をやっと持ち上げるようにして上って行く。いかにも辛そうだった。
「すみません……。息が切れて、ゆっくりしか上れないんですよ」
と、息を弾ませ、やっと階段を上り切る。「――そこの204号ですから」
歩きかけたと思うと、フラッとよろけた。
「危い!」
とっさのことで、由布子と栄子は同時にそう叫んでいた。
古川悠子が、廊下のコンクリートの床に崩れるように倒れてしまったのだ。
「あの――大丈夫ですか? しっかりして!」
と、由布子は、倒れた古川悠子を抱き起こした。
「どうした? 貧血かしらね」
と、栄子が脈をみて、「――うん、ちゃんとある」
「なきゃ大変でしょ! でも――どうしよう? こんな所に倒れたまま放っとけないもの」
「うん……。じゃ、部屋へ運ぼう。|鍵《かぎ》、持ってるでしょ」
「そうか。たぶん――このお財布の中だね」
由布子が財布を開けて、それらしい鍵を見付ける。「これ。やってみて」
「うん」
栄子が鍵をあけている間に、由布子はその財布の中に、一枚の写真を見付けた。
古川悠子。そして、父、岡崎恭平。そしてもう一人は、父の腕に抱かれた三つくらいの女の子だった。
「開いたよ」
と、栄子が言った。
「じゃ、手伝って。――そっちを支えて」
二人は、古川悠子を両側から支えて、部屋の中へと運び込んだのである。
やれやれ……。
どうしてこんなことまでしなきゃならないの?――由布子は、やっと一息ついて思った。
「――大丈夫かしらね」
と、栄子がそっと言った。「救急車呼ぶ?」
「だって……」
由布子は、敷いてあった布団に古川悠子を寝かせてやった。しかし、まだ気を失ったままらしいのである。
それにしても、質素な部屋だった。マンションといっても、少しもぜいたくな雰囲気はない。
「やっぱりこの人と由布子のお父さん……」
「しっ。目を覚ましたら――」
「でも、どうせ分ってるわけでしょ」
「そりゃそうだけど」
二人が小声で話していると、廊下にカッカッと靴音がして、
「ただいま」
という声と共にドアが開いた。「お母さん、鍵がかけてないよ」
入って来たのは、あの制服姿の少女だった。由布子たちを見て、びっくりして立ちすくんだが、母が寝ているのを見て、青ざめる。
「お母さん――」
「買物から帰って、急に廊下で倒れたのよ」
と、由布子が言った。「あなた……久恵さんね」
少女の方も、由布子のことを思い出したらしい。
「岡崎さんの……」
「岡崎由布子よ」
と言って、「父のお葬式で見かけて……」
久恵は、母親の方へ目をやって、
「母に――おっしゃったんですか。岡崎さんが……亡くなったこと」
と、由布子に訊いた。
「いいえ。――知らないの、お母さん?」
と、由布子が当惑していると、
「――久恵?」
と、かすかな声がした。
「お母さん」
久恵が急いで布団の方へ駆け寄ると、「だめだって言ったでしょ、出かけたりして」
「ごめん……。気分がね、良かったのよ。とても。だから――」
と言いかけて、「まあ。こんなことしていただいて……」
「起きちゃだめよ、お母さん!」
「でも……。すみませんでした」
と、古川悠子は起き上った。「あの――これは娘の久恵です」
由布子は、何とも言わなかった。
「私がお話しするから、お母さんは寝てて」
と、久恵が言ったが、
「いいえ。――もう大丈夫」
悠子は、起きて髪の乱れを手で直すと、「岡崎さんからお聞きになったんですか」
と言った。
「父は――」
と由布子は言いかけ、久恵の訴えるような目に出会って言葉を切った。
「岡崎さん……どうおっしゃったんでしょう」
と、悠子が訊く。
「父は――何も言いません。たまたま、私が父の日記を読んで、分ったんです。一度会ってみたいと思って。あなたと……娘さんに」
と、由布子は言った。
「そうですか」
と、悠子は呟くように言って、「お母様は、何もご存知ないんですか」
由布子は、少し間を置いて、
「――母は何も知りません」
と言った。「何も言わずに来たんです」
「そうですか。それなら良かった」
と、悠子が息をつく。「お母様にはおっしゃらないで下さい。私と岡崎さんのことは――もうずっと前に終ってるんです。もうすんだことなんです。どうか黙っておいて下さい」
久恵が表情を硬くして、頭を下げる母親を見ているのを、由布子は気付いていた。
「分りました」
と、由布子は言って、「栄子。帰ろう」
と促した。
「――母は、もう長くないんです」
と、久恵は言った。
由布子は、栄子と顔を見合せた。
帰り道、「駅まで送ります」と言って一緒に出て来た久恵が、歩きながら言ったのである。
「寝たり起きたりで……。でも、私が学校を出るまでは、と思って頑張ってくれています」
「長くないって……。命にかかわる病気?」
「ええ。当人も分っています。――もし、岡崎さんが亡くなったと分れば、きっとショックで倒れてそれきりでしょう。だから、知らせたくなくて……。すみませんでした」
久恵は足を止め、「じゃ、これで」
「ええ。ありがとう」
「失礼します」
久恵が戻って行くのを見送って、
「――大人びてるね。高二? 十七歳って言ったよね」
と、栄子が感心した様子。
「でも、本当にお父さんの子かしら。ちっとも似てないけど」
と、由布子は肩をすくめて、「さ、帰ろ。ごめんね、一日|潰《つぶ》させちゃって」
「ううん、いいよ。――めったに見られない場面だったし」
「面白がらないでよ」
と、由布子は苦笑いした。「何か食べて帰る?」
「そうね。――いいの、お母さん?」
「大丈夫。遅くなるって言ってあるし」
「じゃ、少しのんびりおしゃべりするか」
と、栄子は言った。「私の方にも話すことがあるんだ。由布子の方ほどドラマチックじゃないけどね」
二人は、たっぷりと夕食をとった。
由布子は、考えてみればこんなに沢山食べるのは、父の死以来初めてだったかもしれないと思った。そして、食事に劣らずたっぷりとしゃべった。
結局、由布子が、
「今から帰る」
と家へ電話をかけたのは、もう夜の十一時近かった。
「――じゃ」
と、駅のホームで、それぞれ反対方向の電車を待つことしばし、やっと栄子の乗る電車が先に来て、由布子に手を振った。
「またね」
「うん」
栄子は、電車へ乗ろうとして、
「――由布子」
と、振り向く。
「何?」
「あの子、お父さんには似てないかもしれないけど、由布子には似てるよ」
バイバイと手を振って、電車に乗る。
「――さよなら」
もう電車は動き出していた。
由布子は、栄子の言葉が頭の中でまだくるくると回っているような気がして、自分の乗る電車に、危うく乗りそこなうところだったのである……。
校門を一人で出て来た古川久恵は、由布子が立っているのを見て、足を止めた。
「もう来ないかと思った」
と、由布子は微笑んだ。「土曜日なのに、遅いのね」
「ちょっと……用事があって」
と、久恵は重そうな|鞄《かばん》を持ちかえて、「何か……」
「別に用があって、とかいうんじゃないの。ただ、ゆっくり話がしたくて」
一緒に歩き出して、久恵は、
「病院へ行かないといけないんです」
と言った。
「お母さん?」
久恵が肯く。
「――悪いの」
「ええ」
「じゃ……看病を?」
「でも、ずっとそばにはいられないし……。アルバイトしてるんです。ウエイトレス。今は一日三時間だけど。これから一日中にしてもらって」
「でも――学校は?」
「今日、退学届を出して来たんです。そのことで先生と話をしていて」
久恵は淡々と言った。「どうせ――母が寝込めば、私が働くしかないんだし」
「でも……。もったいないわね、あと一年でしょ?」
と言って、由布子は、「ごめんなさい。大きなお世話ね」
久恵は、ふしぎそうに由布子を見た。
「――私の顔に何かついてる?」
「いいえ。私、よく何か言ってから、向うは何も言わないのに、すぐ謝るくせがあるんですけど。今の聞いて、良く似てるなあって……」
「似てる、か……。私とあなたとよく似てるって、この前一緒だった友だちに言われてね。今日はじっくりあなたの顔を見てみようと思ったのよ」
久恵は由布子を見て、
「腹が立ちませんか」
と訊いた。
「まあね。お父さんには多少腹立ててるかな、たぶん。でも、ついこの間まで、一人っ子だと思ってたのに、腹違いでも妹がいる、っていうのは関心あるもの」
と、由布子は言った。「――あなたも一人っ子だったわけね」
「そうですね」
二人は何となく黙ってしまった。
一人っ子。――由布子は、その言葉が何となく好きだった。
両親の愛情がたった一人の子に注がれるということ。それが何だか得をしているように、子供心にも思えたのかもしれない。
だが、今、少なくとも父の愛情は由布子一人のものではなかったということが分った。むしろ、父は母一人、娘一人で暮らしている久恵の方を、より気にかけていたのかもしれない……。
「病院まで行ってもいい?」
と、由布子は言った。
「ええ……。でも、母には会わないで下さい。また緊張しちゃうと良くないから」
「分ったわ。ともかく、あなたと少し話がしたかったの」
由布子の穏やかな口調に、久恵の表情がやっと柔らかなものになった……。
「――古川さん!」
若い看護婦が、久恵の姿を見て呼びかけて来た。
「はい」
「ね、お母さんが――」
と、小走りにやって来る。
久恵がサッと青ざめた。
「母の具合が?」
「そうじゃないの」
と、看護婦は首を振って、「どこかへ出かけられちゃったのよ」
「出かけたって……。あんなに弱ってるのに?」
「ええ。検温に行ったら、ベッドは空っぽで、隣の人が、『着がえて出て行ったよ』って……」
「大変! どこに行ったんだろ」
久恵の声が震えた。
「どこか心当りは?」
と、由布子が訊く。
「さあ……。そんな、わざわざ着がえて出かけるなんて……。見当もつかない」
「一旦、家へ戻ったかもしれないわ」
「そう。――そうですね。行ってみます」
久恵は看護婦の方へ、「すみません。急いで捜しますから」
と、頭を下げた。
「そうね。ますます命を縮めちゃうわ。ご本人も分ってるはずなのにね」
由布子は、ふと、思い付いたことがあった。――直感に過ぎないが、しかしその可能性はある、という気がした。
久恵と別れると、由布子はタクシーを拾って、自宅へと向った。
夕方。そろそろほの暗くなって来た町を抜けて、タクシーは三十分ほどで家に着いた。
由布子は、タクシーを降りると、玄関の鍵を自分でそっとあけた。
玄関に女ものの靴がある。やっぱり、と由布子は思った。
そっと音をたてないようにして上ると、居間の方から、
「ありがとうございました」
という声が聞こえた。
古川悠子だ。――由布子は、居間の開いたドアのわきから中を|覗《のぞ》いた。
「娘は隠していたんです」
と、悠子は言っていた。「でも、何だか様子がおかしいので、勤め先へお電話してみると、やっぱり亡くなられたと……」
「そうですか」
母は特別に冷たい風でもなく、ごく普通の様子で応対している。「娘さんは……何とおっしゃるの」
「久恵と申します。十七です、今年」
「十七……。そうですか。大変でしたね、あなたも」
加奈子の言葉に、古川悠子は、
「ありがとうございます」
と、頭を下げた。
しかし――由布子が驚いたのは、古川悠子がきちんとスーツを着て、髪もきれいにまとめ、化粧もして、少しも具合が悪いとは見えないことだった。
「お線香を上げさせていただいて、本当に何とお礼を申し上げていいか」
と、悠子は言った。
「いいえ。――私も、ずっと気になっていたことですから。お目にかかれて良かったわ」
「奥様」
と、悠子は真直ぐに背筋を伸ばして、「もう二度とお目にかかることはありません。お約束します」
「そうですね」
加奈子は肯いて、「うちの子も、他に血のつながった姉妹がいると分ったら、ショックだろうと思います。黙っていてやって下さい」
「はい。そのことは久恵も充分に承知しております」
「そう。――でも、古川さん」
と、加奈子は息をついて、「これまで、ずっとあなた一人が働いて?」
「それを承知の上ですから」
と、悠子は微笑んだ。「幸い、当分はまだ元気にやれそうですし、久恵も、高校を出れば働くと言っています」
「そううかがって安心しました。主人は大してあなた方の力にはなれなかったでしょうからね」
「岡崎さんの力をお借りすることは、初めから考えておりませんでしたから」
悠子は、ちらっと岡崎の写真の方へ目をやって、「――本当にいい方でした」
と言った。
「ええ……。もう少し長生きしてほしかったわ」
「そうですね。――久恵が成人したら、そのとき写真だけでもお送りしようかと思っておりました」
悠子は、ゆっくりとソファから立ち上って、「お邪魔しました。これで失礼させていただきます」
「お元気で」
「ありがとうございます。奥様とお嬢様も……」
由布子は、素早く階段を上って、母たちに見られないようにした。
居間から出て来た悠子が、玄関でもう一度母に挨拶をし、帰って行く。
見送って、戻った母が、玄関の靴に気付いて、
「由布子? いるの?」
と、声をかけた。
由布子は、階段を下りて行った。
「――びっくりした! いつ帰ったの?」
「さっき」
と、由布子は言った。「聞いてたよ、居間での話」
「そう。――じゃ、分ったわけね、『ひさえ』のことも」
と、加奈子は言った。「これでさっぱりしたわ。ずっと気にしてるのもいやだものね」
由布子は、じっと玄関のドアを見つめていた。
何という気力だろう。――あの弱った体で、たとえ短時間でも、あんなに元気を装っているのは、大変な体力の消耗だったに違いない。
由布子は、もし古川悠子がここへ来ているとしたら、母に久恵のことを頼むためだとばかり思っていた。
しかし、そうではなかった。自ら健康であるかに見せて、母を安心させようとした。
たぶん、この間の由布子の様子から、本当のことを察していたに違いない。
「――由布子、どうかしたの?」
と、加奈子が不思議そうに訊いた。
「お母さん」
と、由布子は、母の肩に手をかけて言った。
「本当に、もう……」
と、久恵は、悠子の頭の下の|枕《まくら》を直してやりながら、「二度と出歩いたりしちゃだめよ!」
「ええ……」
と、悠子は頭を枕に深々と埋めて、「出かけたくても、もう出られないわよ」
「どこへ行ってたの?」
「お母さんにもね、最後に会っときたい人がいるの」
と、悠子は言った。「――久恵」
「うん?」
久恵は、看護婦さんを呼ぼうと行きかけて、振り返った。
「悪いわね。あんた一人が働くんじゃ、大変だけど。――お母さんはそう長くないから」
「すぐそんなことを――」
「聞いて。保険金もあるから、お葬式は出せると思うけど、後は大して残らないかもしれない。でも、あんた一人でやって行けるわね?」
「もうやめて」
と、顔をしかめて、「そんなことばっかり言って!」
「ごめんなさい。でも――一度話しておかなきゃ。一人になって、どうしても暮らして行くのが難しくなったら、お母さんの古いお友だちを訪ねなさい。取りあえずは何とかしてくれるでしょうから」
「自分一人ぐらい、何としてでもやっていけるわよ」
と、久恵は毛布を直して、「さ、寝て。ちゃんと食事もしてよ」
「はいはい……」
「私が看護婦さんに|叱《しか》られちゃうんだからね」
と、久恵は言って、病室を出ようとしたが――。「お母さん」
目を開けた悠子は、
「まあ」
と、頭を起こした。
「どうぞそのまま」
加奈子が手で抑えた。「由布子、果物を」
「はい」
由布子が、果物のカゴをベッドのそばへ置いた。
「奥様……」
「由布子から聞いて。――びっくりしましたよ」
加奈子は、まじまじと悠子の顔を眺めて、「あんなに元気そうにして……」
「以前、役者だったので」
と、悠子は微笑んだ。「すみません。ご心配をおかけして。私は、ご迷惑をおかけしないようにと……」
「分ってます。でも、あなたはそれでいいかもしれないけど、久恵さんは?――これから一番いいときじゃありませんか」
加奈子は、久恵の方を見て、「学校をやめる必要はありませんよ。うちは、主人がずいぶん遺してくれましたからね。久恵さんのことを心配していたのも知っています。私が主人の代りに、当然しなくてはならないことをします」
「奥様。それはいけません」
と、悠子が首を振る。
「いいえ。あなただって、もっと生きていなくては。せめて久恵さんが成人するのを見届けなきゃ。主人の代りに」
「でも、それは――」
やり合っている二人を後に、由布子と久恵は病室を出た。
「――あなたのお母さんも頑固ね」
と、由布子が言った。「でも、うちのお母さんも言い出したら変えないもの。きっといい勝負よ」
「そうですね」
と、久恵が笑った。
「初めて、笑うの見たな。そんな風に自然に笑うとこ」
由布子のやさしい言葉を聞いて、久恵は、少しおずおずと、
「――呼んでもいいですか。『お姉さん』って」
と言った。
「何かくすぐったいな」
と、由布子は笑顔で、「でも、一度呼ばれてみたかったんだ」
「お姉さん」
と、久恵もホッとした笑顔で、「私――お腹|空《す》いちゃった」
「あ、本当だ」
由布子はチラッと病室のドアを見て、「あの二人は放っといて、何か食べて来よ」
「ええ!」
二人は手をつないで廊下を小走りに玄関の方へと急いだ。
「あら、古川さん。お母さん、戻った?」
と、あの看護婦が途中で声をかけて来た。
「はい。ご心配かけてすみません」
と、久恵は言ってから、付け加えた。「あの――これ、姉です」
第六話 従妹は我が分身
「でもねえ……」
と、母が言った。「こんなことって!」
母は私と違って(?)めったなことじゃびっくりしない人である。
「本当ねえ」
と、|叔《お》|母《ば》が言った。「こんなことって!」
ま、母とその妹の叔母が同じようなことを言ってるのは、そう珍しいことでもない。二人は双子の姉妹である。
「――ともかく上ってよ」
と、叔母――水田|伸《のぶ》|子《こ》が我に返って言った。「いつまでも玄関に立っててもしょうがないでしょ」
「そうね」
と、母が言った。「あゆ子、上って」
「うん」
と、私は|肯《うなず》いた。「お邪魔します」
――夏は盛り。今、この古い田舎家の玄関を吹き抜ける風の涼しさは、都会のクーラーに慣れた私には快い新鮮さだった。
「大変ね、水不足で」
と、叔母は言った。「さ、足を投げ出してちょうだい。夏はぐったりしてるのが一番」
「はい」
本当のところ、私は暑くてたまらなかった。何しろ、母が少々|見《み》|栄《え》をはって、有名ブランドのワンピースなんか着せたものだから。
「何か、もっと|寛《くつろ》げる格好になれば?」
と、叔母が言った。「|沙《さ》|織《おり》、|浴衣《ゆかた》、貸してあげなさい。涼しいわ」
「はい」
と、私の|従妹《いとこ》は言った。「私の部屋に……行く?」
「ええ」
私は母の方へ、「――いい?」
「いいけど、勉強の邪魔にならない?」
「いいのよ、姉さん。どうせ何もしてやしない」
私は立って、従妹の沙織の後について行った。
「――広いなあ」
と、廊下を歩きながら、私は言った。「うちの何倍あるんだろ」
「でも、お宅はマンションでしょ? いいわ、|洒《しゃ》|落《れ》てて。東京は遊ぶ所もいくらもあるし」
と、沙織が言った。
私たちは顔を見合せて、ちょっと笑った。
「お互い、|羨《うらや》ましがっててもしょうがないわね」
と、私は言った。「――よろしく」
「こちらこそ」
私は従妹と握手をした。
思いがけないほど柔らかくて|可《か》|愛《わい》い手。
それにしても――。母、佐野|百《ゆ》|合《り》|子《こ》と叔母の水田伸子は一卵性の双子。当然似ている。しかし、もう四十五歳だから、太り方や日の焼け具合など、どう見ても「別人」。
ところが、私と従妹の沙織は、どっちも母親似とはいえ、信じられないくらいよく似ている。
お互い十七歳。母と叔母は同じ年の|一《ひと》月違いで結婚。出産もわずか三日違いだった。
「――さ、どうぞ」
と、沙織は|襖《ふすま》を開けて、「散らかってるけど」
「へえ。――広くていいや。家の広さまでは似なかったね」
と、当り前のことを言って、「座ってもいい?」
と、ベッドの隅に腰をおろす。
沙織はふしぎそうに、
「そこ、いつも私の座る所よ。――面白いわね」
と笑った。
東京住いの私たちは、この夏、下田へ一週間ほど遊びに行って泳いで来たので、大分日焼けしている。
沙織は、本当ならもっと焼けていてもいいのだろうが、色白なたちらしい。
結局のところ、肌の焼け具合まで、私たちはよく似ていたのである。
「待ってて」
と言うと、沙織は押入れを開けて、中をゴソゴソかき回し始めた。
「――あったあった」
沙織は浴衣を取り出して、「さ、これ」
「あなたのは?」
「あるけど……。じゃ、一緒に着る?」
「うん!」
Tシャツにショートパンツだった沙織とワンピース姿だった私は、二人とも浴衣姿になって寛いだ。
「――でも、妙な感じ」
と、沙織が言った。「鏡を見てるみたいだわ」
「頭の中身も似るといいのに」
と、私は言った。「あなた、成績いいんですってね。どうして肝心の所が似ないんだろ?」
沙織は何も言わずに、ちょっと笑っただけだったが、手にしたうちわをクルクルッと回しながら、
「――どうして私たち、一度も会わなかったのか、知ってる?」
と言った。
私も、その点は不思議だった。何しろこの年齢になるまで、水田伸子という叔母がいることさえ知らなかったのだから。
「あなたは知ってる?」
「お母さんは言ってくれないけど……。でも、小さい町でしょ。昔からここにいた人の話とか聞いてると、ふっと思い当ることがあったりするの」
「聞かせて」
と、私は身をのり出した。
「お母さんだ。――夜、ゆっくり話しましょうね」
と、沙織が小声で早口に言う。
私の耳には何も聞こえなかったが、すぐに襖がガラッと開いて、
「――あら! どちらがうちの娘?」
と、叔母が笑って言った。「スイカを切ったわ。食べてね」
「はい」
と、私は立ち上った。
「あゆ子ちゃんは素直ね、すぐ分るわ」
「どうせ」
と、沙織は口を|尖《とが》らし、「私はひねくれ者よ」
私たちは階下へ下りて行った。
母も、私と沙織の浴衣姿に目を丸くしている。
「まあ、似たもんね」
「心配ないわよ」
と、叔母が冷たいお茶を出してくれて、「双子の私たちだって、これだけ違ったんだもの。従姉妹同士なら、大人になれば違って来るわ」
「それもそうね」
と、母は笑った。
風が広間を吹き抜けて、風鈴が軽やかに鳴った。
母と叔母。――似てはいても、歩んだ人生は大きく違う。
私の所は、一人っ子ではあるが父もまだ元気だ。母より十歳ほど年上で五十代の半ばだが、見たところは充分に若い。
商才があって、海外まで一年中飛び回っているが、そのおかげで私と母は二人でいつも旅に出たりしている。
それに引きかえ、叔母、水田伸子の方は大変だったらしい。
私もつい半月ほど前に母から聞いたばかりだが、叔母は、まだ沙織がやっと二歳かそこいらのころ、夫を亡くしたのだそうだ。
この小さな田舎町では、「再婚」という道はほとんどないに等しく、叔母はひたすら働いた。そして、少しずつお金をためて、少し離れた温泉町の小さな旅館を買い取ったのである。
それが幸いうまくいって、叔母は今、その町と、別の町を合せて五軒ほどの旅館を経営する身になっていた。金持というほどではないにせよ、娘一人、不自由させない暮らしぶりは充分に保てているのだった。
「――夕方か。日が長いわね」
と、母が言った。
「庭へ出ていい?」
と、私はスイカを食べてから言った。
「もちろん」
と、叔母が言った。「沙織、|下《げ》|駄《た》を持って来てあげなさい」
「うん」
と、沙織は立って、「私のが置いてあるから、はいてて。先に出てていいわ」
と私の方へ声をかけた。
私は言われるままに、縁側から下りて、朱の塗りのはげかかった下駄をはいて庭へ出た。
|生《いけ》|垣《がき》に囲まれた庭だけでも、充分に東京の私たちのマンションくらいの広さがあった。
私は庭の端の木戸を開けて、木立ちの間へ入って行った。夕暮の空は、暑いとはいってももう雲が高く、秋の|気《け》|配《はい》を思わせていた。
夕焼けが昼の空を少しずつ追い払っている。
私は、都会とは違う空気を、たっぷりと吸い込んだ。
すると、突然、
「おい」
と、声をかけられてびっくりした。
「――そうびっくりすんなよ」
と、その少年は笑って言った。
思い切り日焼けした、スポーツがりの頭。たぶん同じくらいの年齢か。ヒョロリとしてはいるが、東京の男の子とは違って、|芯《しん》に丈夫な骨が通っている、という感じだ。
「おい、例の|奴《やつ》、来たのか」
と、その男の子は少し声をひそめて、「見慣れねえ荷物が来てたもんな。――どんな風だ? 化粧してるか、お前の|従姉《いとこ》って」
私にはやっと分った。
この子、私を沙織と間違えてる!
これは傑作だった。何しろ、本当に私と沙織をとり違える人間がいるなんて、思いもしなかったのだから。
「別にしてないわ」
と、私は言った。
声を聞けば向うも分るかと思った。ところが、
「そうか」
と、その少年は肯いて、「じゃ、まあ、東京の女だからって、そう変っちゃいないんだな」
まるきり、疑ってもいない様子。
私はおかしくなって、
「|凄《すご》く可愛い子よ。きっと一目見たらポーッとなるかも」
と言ってやった。
「そうか?」
と、目を輝かせている。「な、頼むよ」
「何を?」
「風呂、その子が入るとき、|覗《のぞ》かせてくれ」
私は、けとばしてやろうかと思った。
「そんなのだめよ」
「ハハ、やいてるんだな。――おい、その格好、結構色っぽいぜ」
ガキのくせして! 少年は続けて、
「今夜、九時ごろ待ってる。いいだろ?」
「待ってるって……。どこで?」
「あの水車小屋に決ってんじゃねえか。――もう行かねえと! な、来いよ」
「うん……」
「誰がお前の父さんを殺したのか、分るかもしれないぜ」
少年はそう言うと、一気に駆け出して行ったのである。
今どき、古道具屋ででもないとお目にかかれない、古風な柱時計がボーン、ボーンと音をたて、私はパッと振り向いた。
「九時だわ」
と、沙織が言った。「もう寝る?」
「え?」
私は面食らった。「お休みなのに?」
「あ、いつも夜ふかしなのね。――何時ごろ寝てるの?」
「休みの間は……早くても一時とか」
「へえ! 凄いなあ」
と、沙織は笑って、「私、だめ。十時過ぎると眠くなっちゃう」
私は、もうお|風《ふ》|呂《ろ》をすませてパジャマ姿だった。
部屋は他にもあったが、沙織が、
「私のとこで寝て」
と言い張って、もちろんこちらも異議はなかったのである。
九時。――私は、畳に|腹《はら》|這《ば》いになって週刊誌を広げていた。
「ね、沙織」
「うん?」
「この辺に水車小屋ってある?」
沙織は、ちょっとギクリとした様子だ。
「どうして?」
と|訊《き》き返した。
私はもちろん何くわぬ顔で、
「よく田舎の絵とかにあるじゃないの。ゆっくりゆっくり水車が回って、わらぶき屋根で……。ああいうのがもしあったら、スケッチでもしたいな、と思って」
「あゆ子、絵をかくの?」
「少しね。お母さんが好きだから、私も|真《ま》|似《ね》して」
「いいなあ。うちのお母さんの得意はそろばんだけ」
と、沙織は笑った。「――あるわよ、このすぐ裏手。行ってみる?」
「うん! 今でも?」
「こんな夜中に? 物好きね、東京の人って。もちろん、いいわよ、別に怖いこともないし」
私は、あの男の子が待っているとしたら、沙織を連れて行って、二人を一緒に見せてやらないと、別人と分らないだろうと思ったのだ。
そして、もちろんあの男の子の言葉――沙織の父を殺したのが誰か、と男の子は言った――が気になっていたからでもある。
「じゃ、行こう」
私は、ジーパンにかえて、沙織と二人で階下へおりて行った。
「お母さん、ちょっと歩いてくる。――お母さん?」
沙織は声をかけたが――。
「いないわ。どこへ行ったんだろ」
玄関へ出て、沙織は、
「やっぱり。お母さんの下駄がない。どうやら二人で出かけたみたいね」
私たちもサンダルを引っかけて玄関を出た。
「|鍵《かぎ》は?」
「かけたことない」
と、沙織は肩をすくめた。「こっちよ」
沙織は浴衣の方が慣れているらしく、今もその姿。外は月明りで、歩くのに苦労はしなかった。
一旦道へ出て、それから人の住んでいないあばら屋があり、その庭先を突っ切って行くと、木立ちの間を通して水の流れる音が聞こえて来た。
「あれが小川よ」
と、沙織が言った。「少し上流へ行くと水車小屋がある」
「ね!」
と、私は沙織の浴衣の袖をつかんだ。「明りが」
木立ちの間を、二つの明りが見え隠れして進んで行く。
「本当だ。――誰かしら、こんな時間に」
と、沙織は声を低くして、「ちょっと――。見付からないように様子を見ようか」
「うん……」
私は、都会育ちであんまりこういう場所が得意でない。木の根っこをけとばしてみたり、|膝頭《ひざがしら》を木の幹にぶつけたり、痛さに声を上げそうになるのを何とかこらえて、やっと沙織にくっついて行った。
「――あれ、お母さんだ」
と、沙織が言った。
話し声が木立ちの間をぬって聞こえてくる。
「足下、気を付けてね」
「大丈夫。――わざわざこういう靴をはいて来たんですもの」
あれは私の母だ。
「二人で、こんな時間にどこへ行くんだろ?」
と、私が言うと、沙織は少し迷っていたけれど、
「後、つけてみよう」
と言った。「あゆ子、どうする?」
私は、もちろん水車小屋の方も気になっていた。しかし、母がこんな時間にどこへ行こうとしているのか、興味を持たないわけにはいかない。
「一緒に行くわよ。一人で置いてかれても困る」
「じゃ、足下に気をつけて」
私たちは、母たちの手にしている明りを追って、木立ちの間の踏み分け道を|辿《たど》って行った。
道は少しずつ上り坂になっていく。
「――どっちへ向ってるの?」
都会育ちの私は、早くも少し息切れがして来た。
「山の中」
「山? じゃ――山を登ってるの?」
その瞬間、「遭難」という二文字が私の頭の中を駆け巡った。
「大丈夫。裏山っていっても、ちょっとした丘みたいなものよ」
沙織の言葉に、私は少し安心したが、やはり上りが続くことに変りはなく、息は切れ、汗が背中を伝い落ちていった。
「お母さんたち、もしかすると……」
と、沙織が言った。
「え?」
「この先の|崖《がけ》まで行くのかも」
「崖?」
「谷川に向って落ち込んでる岩場があるの。|唯《ゆい》|一《いつ》、山らしい所ね。下まで二十メートルくらいあるかな」
「そう……。でも、どうしてお母さんたち、そんな所へ?」
少しの間、沙織は黙って歩いていたが、やがてポツリと、
「お父さんが、そこから落ちて死んだのよ」
と言った。
月明り。
白く照らし出された母と叔母。――こうして見ると、双子だと感じる。
外見の似通ったところだけでなく、立っている姿勢までが、よく似ているのである。
私と沙織は、少し離れた所に身をひそめて、母たちを眺めていた。
母が、持って来たお花を、少し遠くへ投げる格好で、谷川へと落とした。むろん私たちのいる所からは、深く落ち込んだ谷川は覗けなかったが。
「――でも、水田さんもあなたがここまで頑張ってるのを見たら、ホッとされるでしょ」
と、母は言った。
「いいえ」
「いいえ、って?」
「悔しいでしょう。自分の力で私と沙織を養いたかったと思うでしょう」
叔母の言葉には、どこか暗い響きがあった。
「でも、伸子――」
「姉さんはいいわ。東京へ佐野さんと行ってしまって。でも、私はここに残らなきゃならなかった」
「あんたが大変だったのは分るけど……」
と、母は少し戸惑った様子で、「でも、今はもう何もかも順調なんだし――」
「順調?」
と、叔母は笑って、「銀行の預金とは違うのよ。じっとしてりゃ、利息がついてくるってわけじゃないの。いつもいつも、神経を尖らして働いてるのよ。大変なの。廊下の|雑《ぞう》|巾《きん》がけなんかよりもずっとずっと、大変な仕事なのよ」
叔母は少し間を置いて、
「ごめんなさい。――姉さんに当ってもしょうがないわね」
「伸子」
母は、じっと妹を見つめて、「どうして私たちのことを、ここへ|招《よ》んだの?」
「分ってるでしょう」
「分らないわ。説明して」
「確かめるためよ」
「確かめるって、何を?」
叔母は、じっと母の目を見返した。
そこには、ほとんど敵意に近いものさえあるように、私には感じられた。
「――そうね。分ってる」
と、母が肯いて、「で、確かめられたの?」
「見た通りよ、姉さんの」
と、叔母は言った。「――私も沙織も、ずいぶん辛い思いをして来たわ。こういう町では、人が殺されることなんて何十年に一度あるかないか。町の人たちは決していつまでも忘れないし、殺した人間が悪いとだけ考えるんじゃない。殺された方にも、それなりの理由があったんだ、と思われる」
母は、黙って聞いていた。
「今でこそ、私も町の中では結構重要な存在になったわ。だから、みんな面と向っては何も言わない。でも、かげでは忘れたことはないはずよ。私が夫を殺された女だということを」
叔母はそう言って固く腕を組んだ。少し寒いくらいに涼しい風が、山の上を渡ってくる。
「伸子」
と、母が言った。「あなた――沙織さんを連れて東京へ来れば? 旅館は誰かに任せてもやれるでしょうし、売って、東京で何かお店を始めてもいいし……。私もできることがあれば手伝うわ」
「姉さん」
と、叔母は首を振って、「そんな気持でやれるほど、商売は生やさしいものじゃないのよ」
母は少しムッとした様子。――親切で言ってるのに、という母の気持はよく分った。
「伸子、さっきの話だけど……」
と、母が言いかけたとき、突然沙織が立って行って、
「お母さん!」
と、声をかけた。
「まあ、何しに来たの、沙織?」
「あゆ子さんにここを見せてあげようと思って」
私も、少し遅れて出て行く。
「あゆ子。――来ちゃだめよ、こんな所へ。風邪ひくわ」
母は的外れなことを言って、「さ、山の中は涼しいわ。もう戻りましょ。冷えて来ちゃう」
「そうね」
と、叔母も、先に立って歩き出す。「沙織、あゆ子ちゃんを気を付けててあげるのよ」
「うん」
私たち――二組の母と娘は、こうして黙々と道を下って行ったのだった。
結局、水車小屋には行かずじまいになってしまったのだが……。
大してびっくりしたわけではなかった。
そう。――何しろ東京では、週末の夜にでもちょっとした公園を歩けば、男女のキスシーンくらいいくらでも見られる。
といって、やはり知っている子が男の子と抱き合っている場面を見るというのは、なかなか珍しかった。
ショックのせいで、というわけでもなかったが、私は何かにけつまずいてしまって、|派《は》|手《で》な音をたてた。
「――ごめん」
と、私は言った。「お邪魔しちゃって」
沙織は、あのときの男の子からパッと離れて、
「あゆ子さん。――この子、尾崎邦也っていうの。小さいころから良く知ってる子」
「どうも……」
「今日は。佐野あゆ子」
と、|挨《あい》|拶《さつ》して、「こんな恋人がいたのか」
「恋人って……。まあ、キスの練習台ってとこかな」
と、沙織が大人ぶって見せて可愛い。
「ひでえなあ」
と、尾崎邦也という子はむくれている。「|俺《おれ》のかみさんになるって言ったろ」
「あら。何も約束なんかしてないわ」
と、沙織が言い返す。
「ちょっと、ケンカは後回し」
と、私は言った。「水車小屋って、こういう場所だったのね」
と、私は中を見回す。
「そうね。でも、他の子は使わないわ。寝心地悪いって言って」
「悪いの?」
「知らないわ」
「とぼけて!」
と、私は笑って言った。「今、お巡りさんがみえてるわよ」
「いけね。|親《おや》|父《じ》だ」
と、尾崎邦也が頭をポンと|叩《たた》き、「見付かったら、やばい! じゃ、行くぜ」
と、急いで小屋から飛び出す。
アッという間に、その姿が見えなくなると、
「気のいい子だけど、すぐ『俺の、俺の』ってうるさい」
と、沙織はため息をついた。「ね、あゆ子、私も東京へ連れてって」
「私はいいけど……。お宅のお母さん、そんな気ないみたいじゃないの」
「そうね」
私たちは水車小屋を出て歩き始めた。昼下り、まだ夕食どきには間がある。
「――あの人だ」
と、生垣の所で沙織が足を止めた。
庭へ下りる縁側に警官が腰をおろしてお茶を飲んでいた。叔母と母が座って話をしている。まるで古い日本映画を見ているようだった。
「あれがさっきの子の……」
「尾崎さん。ちっとも似てないでしょ、あの子と。でも、いい人よ」
私と沙織が庭へ入って行くと、きれいに頭の|禿《は》げ上ったその警官は目を丸くして、
「こりゃたまげた!――双子だって、こうは似てないだろうに。どっちがどっちか、分らんね」
「尾崎さん。センスが違うわ。あゆ子さんは六本木の常連よ」
「やめて」
と、私は沙織をつついてやった。
尾崎は笑って、
「じゃ、もう行くので。――うちの馬鹿息子を見んかったかね?」
「いえ、別に」
「あいつ、フラフラして、いつもどこにいるか分らん」
と、尾崎は渋い顔で、「悪い所にでも出入りしてる所を見たら、ぶっとばしてやるんだが」
私と沙織はチラッと目を見交わした。
沙織が、買物があると言って、私を引っ張って尾崎と一緒に家を出た。
「――尾崎さん、何か調べに来たの?」
と、自転車を押す尾崎と一緒に歩きながら沙織が訊く。
「調べるって、何をだね?」
「とぼけちゃって! 尾崎さんはずっと、お父さんがあの崖から落ちたのは自殺だった、って説でしょ?」
「ああ。――あんたの父さんが自分で死ぬって理由は確かになかった。しかし、殺される理由なんて、もっとなかったんだよ」
と、尾崎は言った。「あんたの父さんはいい人だった」
「いい人だって、殺したいほど憎らしいこともあるわ」
と、沙織が言った。「人がいいからこそ、人を殺すってこともあると思う」
「どういう意味だね」
「人がいいとか悪いとかってことは、何も証明しないってこと」
と、沙織は言った。「それに、もし自殺したんだとしても、誰かに追いかけられたんだとしたら、殺人とどう違うの?――何だって|曖《あい》|昧《まい》よ」
私は、沙織の言い方に少し戸惑った。
沙織の父の死、そして私と母がこの町を出て、ずっと帰ることなく、そして従妹の存在すら知らずにいたこと……。
そこには何かが隠されている。
私も、そう思わずにはいられなかった。
「いいよ、ここで」
と尾崎は手を上げて、「もし邦也の奴と会ったら、家へ帰れと言ってやってくれ。あの馬鹿が!」
まさかその「馬鹿」が沙織とキスしていたとは、思ってもいないだろう。
尾崎と別れて二人になると、私は、
「さっきのは、どういう意味?」
と訊いてみた。
「意味なんてないわ」
と、沙織は肩をすくめて、「ね、いつまでここにいられるの?」
「分んないけど――。お母さんはそろそろ戻らないと、って言ってるわ」
と、私は言った。「仕事を持っていなくても結構忙しいのよ、それなりに」
「分るわ。うちのお母さん、世の中で、自分ほど苦労した人間はいないと思ってるから」
と、沙織は笑った。「親って厄介なもんだわね」
私も大いに同感だった。
「ね、お母さん」
と、声をかけると、
「明日帰るわよ」
と、母は言った。
私は一瞬面食らって、言葉がなかった。
「――どうしたの? 聞こえたでしょ」
「うん。でも、どうして急に?」
「もう充分いたわ。それとも、何かもっといたい理由でもある?」
そう訊かれたら、こっちもこれという理由を挙げることはできない。
母は風呂上りで、鏡の前に座っていた。
「伸子も忙しいし、私もあれこれ片付けなきゃいけないことがあるしね」
「うん。――ね、お母さん」
と、私は言った。「沙織が、東京へ来たいって」
母の手が止った。
「本当に?」
「本心らしいよ。母親が反対しそうだって言ってたけど」
「そう。そうでしょうね、きっと」
と、母は|肯《うなず》いた。
「でも、もう十七だし、大学、東京のどこか受けるのなら、うちに来てもいいよね」
「でも――たぶん伸子が許さないでしょ」
「もし許してくれたら、いい?」
「そうね」
母の言い方は、どこか|素《そっ》|気《け》なかった。
「良かった! じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい。――あゆ子」
「うん?」
「あんまり……死んだ沙織ちゃんのお父さんのことを訊いたりしないのよ。死んだ人は帰って来ないんだから」
私は、少し黙っていた。
「――分った。でも、お母さん、この間どうしてお花を投げてたの?」
母はチラッと私の方を見て、
「そりゃあ――水田さんの死んだ所だもの」
と言った。「もう寝なさい」
――私は、沙織の部屋へパジャマ姿で歩いて行った。
「沙織、いる?」
「うん」
と、返事がある。
入って行くと、沙織はベッドに寝転がっていた。
「何してるの?」
「何も。――お母さんに言ったわ」
「東京のこと? 何だって?」
「お母さんは言ったわ。『私を殺して行くか、行くのを|諦《あきら》めるか、どっちかね』って」
「凄い」
と、私は|唖《あ》|然《ぜん》とした。「何だかうちのお母さんとあなたのお母さん、仲がいいとは言えないみたいね」
「らしいね」
と沙織は笑った。
「明日帰るって、私たち」
沙織は起き上って、
「――本当に?」
「うん」
沙織は、ちょっと考えて、
「ね、あゆ子。――やってみたいことがあるんだけど」
と言った。
「じゃあ、色々どうも」
と、母が言った。
「気をつけて」
叔母が言い終らない内に、列車が動き出していた。
窓が開く列車というのが、都会っ子の私には珍しい。
「沙織、何か言うことないの?」
「別に――」
「ほら、あゆ子、手を振ってるわよ」
私は手を振った。沙織も手を振り返す。
列車がスピードを上げてホームから離れていく。
「――さ、沙織、帰るわよ」
「うん」
と、私は肯いた。
叔母は、駅を出ると、
「私、ちょっと旅館へ寄って帰るから」
と言って、さっさと行ってしまった。
私はホッと息をついた。ともかく、今のところ、叔母には気付かれていないようだ。
沙織が言い出したときにはびっくりして、
「本気?」
と、思わず訊いていた。
何しろ本当に二人で入れかわってやろう、というのだから。
もちろん、母親の目である。ごまかせるとしても、せいぜい半日と思っておかなくてはならない。
それでも、ともかく東京へ着くまで母が気付かなければ、沙織はてこでも帰らない、と言い張って、東京に居ついてしまうつもりだった。
私の方は、ばれたらそのときは叔母に謝り、東京へ追いかけて帰る。いくら何でも、丸一日気付かないということはあるまい。
町の通りを歩いていると、
「おい、沙織!」
と呼ぶ声がして、尾崎邦也が駆けて来た。「あの二人、帰ったんだって?」
もちろん、私と母のことを言っているのだとピンと来た。
「うん、帰った」
「そうか」
邦也は、私と並んで歩き出すと、「残念だったな。親父さんのことで何か分るかと思ってたのに」
「仕方ないわ。ずっと昔のことだもん」
と、私は言った。「せめて、私がもう少し大きくなってたら、何か|憶《おぼ》えてるんでしょうね」
邦也は笑って、
「大きくなるって言っても、お前まだ産まれてなかったんだぜ。できたてのホヤホヤでさ。しょうがないじゃねえか」
と言った。
私は戸惑った。――母は、叔母が夫を亡くしたのは、沙織が二つのときだと言っていた。
しかし、今の邦也の話では……。
「な、後で会わないか?」
と、邦也は小声で言った。
「うん。――どこで?」
「あの小屋」
「いいわ」
私は、邦也からもう少し話が聞きたかった。しかし、こんな道の真中で聞くわけにいかない。
「じゃあな」
と、邦也は言って、「一時間したら行く」
と手を振って駆け出して行った。
私は、ゆっくりと叔母の家へと戻って行った。
――お前が産まれる前。
ということは、叔母のお腹に沙織がいるときに、水田は死んだということになる。
もしそれが本当なら、母はなぜ私に|嘘《うそ》をついたのだろう? それとも単なる間違いか。いや、それはおかしい。もし沙織が産まれていなかったのなら、私も産まれていなかったことになるのだから……。
「――いる?」
水車小屋の戸をガラッと開けて、私は声をかけた。
まだ時間は少し早かったが、叔母が戻ったとき、家にいたくなかったのである。
ガタッと音がして、私は、
「あ、いたのね」
と、言ったが――。
「あんたか」
そこにいたのは、父親の方――警官の尾崎だった。
「あ……。何してるんですか?」
「邦也の奴がどうも……。女と会ってるな、と思っとったんだよ、わらくずをつけて来てたから、ここで会ってるんじゃないかと――。やっぱりそうなのかい?」
「あの……」
と、言い|淀《よど》んだ。
どう言っていいものやら。
「邦也の奴と、どこまで行ってるんだね」
と問われて、
「ちょっと……その……キスしただけ。本当よ」
と、沙織の言い方を真似てみる。
「やれやれ」
尾崎はため息をついて、「キスだけ、か。そこから腹が大きくなるまではたった一歩だ」
「そんなこと――」
「まあいい。わしらも、若いころよくここを使ったもんだ」
と、尾崎は言った。「――さ、ちょっと一緒に来てくれんか」
「警察に?」
「そうじゃない。あの崖に、さ」
「崖……。お父さんが死んだ所?」
「うん。あそこで話したいことがあるんだ」
尾崎が何を考えているのか、よく分らなかった。
しかし、私もあの崖にはもう一度行ってみたいと思っていた。もし、母か叔母が「身替り」に気付いたら、もう行けないかもしれない。
「行くわ」
と、私は肯いた。
尾崎は、さすがに足が速く、ついて行くのは大変だった。もちろん、道に慣れているせいでもあったのだろうが。
――ともかく、何とかあの崖に|辿《たど》り着いたとき、私の方はハアハア息を切らしていた。
「下を|覗《のぞ》いていい?」
「ああ」
私は、岩が出張っている下の谷川を見下ろした。――これでは、落ちたらとても助かるまい。
「――沙織ちゃん、やめてくれ。|退《さが》って。もっと崖っぷちから離れてくれ」
尾崎は、見ているだけでも気が気でないという様子。
「はい」
と、素直に退って、「ね、尾崎さん」
「何だね」
「事件のあったとき、私は産まれてたの? それともまだお母さんのお腹の中?」
尾崎は、なぜか少し焦った様子で、
「その話は――君の母さんから聞いたのかい、何か?」
「いいえ。邦也から」
「あいつめ!」
と、尾崎は怖い顔になる。
「本当のところは?」
「まあ――確かに、まだ沙織ちゃんは産まれてなかった」
「そう! じゃ、どうして――。私、二つのときだったって聞いたわ」
「そういうことにしよう、と決めたんだよ」
「どうして?」
尾崎は、ため息をついて、
「沙織ちゃんも、もう子供じゃない。――そうだろう?」
「ええ」
「水田の死を、私は自殺だと思っている。なぜか。――殺した人間を逮捕したくないからだよ」
「捕まえたくないって……。どうして?」
「水田は、ひどい奴だった」
と、尾崎は言った。「そうなんだよ。水田はあんたの母さんにふさわしい男じゃなかった」
「というと?」
尾崎は、まじまじと私を見つめて、
「あんたと――あの従姉。二人がそっくりなのはなぜだと思う」
「母親が双子だからでしょ」
「それだけじゃない」
と、尾崎は首を振って、「あんたたち二人は、父親とも似たところがある」
「父親と?」
「ああ、それでいて、二人とも本当に|瓜《うり》二つだ。――分るかね」
「分らないわ。どういうこと?」
「つまり、あんたと従姉は、同じ父親の血をひいている、ってことさ」
私は、しばらく何のことか分らなかった。
「だって、私の父は生きてるわ」
と、私はついそう言っていた。「あ!」
「あんた」
尾崎が目を丸くする。「沙織ちゃんじゃないね!」
「ごめんなさい」
と、私は言った。「でも、それってどういうことなの?」
「あゆ子ちゃんと言ったか。――あんたは何も知らん方がいい。そうなんだ」
「待って」
と、私は言った。「母は双子同士。でも、父は別々。それなのに、どうして沙織さんとああも似てるかと思ったわ」
「それは――」
「待って。それじゃ――二人とも、同じ男の子供だっていうの?」
尾崎はため息をついて、
「そうだ。あんたたちの顔を見て、そう分ったよ」
「じゃあ……」
「あんたの母親は佐野って男と、その妹は水田と結婚した。ところが……。あんたの母さんは、この崖の所へ水田と一緒にやって来た。何の用があったのかな……。私が上の道を通りかかったとき、もう二人は――」
「何ですって?」
「水田は、もともと、あんたの母さんの方にひかれていたらしい。そこで、ここへ来たとき、あんたの母さんへ襲いかかった。私がもう少し早く通りかかっていればね」
私は、青ざめているのが自分でも分った。
「つまり――」
「まあ待ちな。あんたの母さんに乱暴し、思いをとげてしまうと、水田は悠々とズボンをはいて、崖の方へ行くと伸びをした。私は上の道から見てたんだがね」
「それで――」
「突然、あんたの母さんが起き上り、ほとんど服をはぎ取られていたのに、体ごとぶつかるようにして、水田を谷へ突き飛ばした」
私は岩の方へ目をやった。
「私はね、とても捕える気にゃなれなかったよ。水田はもともと評判の良くない男だった」
「それではお母さんは……」
「とても、この町にいられなかったんだろう。妹の伸子さんの方も何があったか、うすうす気付いていたかもしれんが、いくらひどい亭主だったといっても、亭主は亭主だ。――あんたの母さんは、佐野と一緒に町を出た。ところがそのとき、伸子さんもあんたの母さんも、お腹に子供がいたというわけだ」
「じゃ――私も水田の子?」
「それをどうしても知りたくて、伸子さんは、あんたとお母さんを|招《よ》んだんだろう。あんたを見て、沙織さんとあんまりそっくりなので、事実を察したわけだ」
私は|唖《あ》|然《ぜん》としていたが、
「父はそのことを――」
「知っていると思うね。しかし、何も言わずにあんたを可愛がってくれとるんだろう? それなら、あんたも何も知らんことにして、父親の所へ戻ることだ」
母が早く帰ろうとしたのも、叔母が娘を東京へ出したくないのも、分る気がした。何かのきっかけで、私と沙織が本当のことを知るのが怖いのだ。
「な、あゆ子ちゃんだっけ? 父さんには――」
「大丈夫です」
と、私は言った。「私の父は一人しかいません。まだ元気で働いています」
「そうだ」
尾崎が私の肩をポンと|叩《たた》いた……。
私は、叔母の家へ戻って、
「ただいま」
と、上った。
「お帰り。――お客様よ、居間に」
と、叔母が顔を出す。
「あの――」
「早くお茶の用意して」
「はい」
肩をすくめて、冷たいお茶をグラスに入れ、運んで行くと――何と、母と沙織が座っているではないか!
「初めっから、ばれてたって」
と、沙織が舌を出す。
「当り前でしょ。これでも親よ」
と、母が私をにらむ。
「ごめん」
すると、沙織がニッコリ笑って、
「でもね、お母さんが東京へ行ってもいいって」
「本当? やったね!」
私と沙織は手をとり合ってキャアキャアと飛びはねた。
「|呆《あき》れた」
母と叔母が私たちを眺めている。
「あんたたち、本当の姉妹みたいね」
と、母が言った。
私は沙織の肩を抱いて、
「そう。外見なんかどうでもいいわ。私たち、心で姉妹なのよ」
と言った。
そのとき、母と叔母がそっと目を見交わすのを、私はちゃんと気付いていた……。
第七話 私のパパとお父さん
「はい、次は麻里ちゃんね」
と、先生が言った。「昨日は何をしてましたか?」
幼稚園のひとクラスは十八人。教室そのものは決して広くないにしても、人数が少ないのでゆったりとしている。
でも今日は、教室の後ろに大人がズラッと並んでいた。――三分の二ほどは母親だが、父親も結構来ている。今日が月曜日であることを考えれば、これだけの父親が仕事を休んで〈お父さんとお母さんの日〉にやって来ているというのは立派なものであろう。
「麻里ちゃん?――昨日は日曜日だったでしょう?」
と、先生が|訊《き》くと、今四歳の「年中さん」である麻里はコックリと|肯《うなず》いた。
「それじゃ、昨日は一日、何をしてたのかな?」
と、先生が訊く。
麻里がなかなか返事をしようとしないのは、先生にとっても意外だった。仲井麻里はこのクラスの中でもしっかりしていて、よくお話もする子だったのだ。
「――麻里ちゃん?」
「うん」
麻里は、やっと口を開いた。「面白かった」
「そう。良かったわねえ。でも、何が面白かったのか、お友だちや先生にお話ししてくれるかな?」
麻里は、よく整った|可《か》|愛《わい》い顔立ちをしている。ただ、どことなく大人びた――と言うのは大げさかもしれないが――さめた感じを与える子だった。
「昨日はね……パパと遊んだの」
「そう! 良かったわねえ。お父さんもお休みだったのね」
「ううん」
と、麻里は首を振って、「『お父さん』じゃなくて、『パパ』と遊んだの」
先生の表情に、ちょっと当惑の色が浮かんだ。
「お父さんじゃなくて……パパ?」
と、先生は訊いた。
「うん、昨日はね。その前の日曜日は、『お父さん』が遊びに来てくれてたの」
と、麻里は言った。「『パパ』の方が、遊ぶのは上手なんだけどね、早く帰っちゃうの。『お父さん』は、いつもご飯食べてから帰るんだよ」
「――そう」
先生はポカンとしていたが、その内、ハッと我に返った様子で、「じゃあ、みんなとてもよくお話ができましたね! それでは、お父さんやお母さんに、いつも歌っているお歌を聞かせてあげましょうね!」
と、ピアノの前に座った。
あわてて弾き始めたので、あちこち間違えてしまったが、参観に来ていた親たちは、ほとんどがそんなことには気付かなかった。
顔を見合せる母親たち。ヒソヒソ話し合う父親同士。――このときだけは、我が子たちから関心が離れていたのである。
当の麻里は、そんなことなど一向に気付かず、後ろを向くと、得意げに笑顔を見せて手を振った。
手を振り返したのはまだ若い母親で、みんなの視線を一身に集めながら、そう暑い日でもないのに、すっかり汗をかいていた……。
仲井|有《ゆ》|里《り》|子《こ》は、腕時計を見て、ちょっと左右へ目をやった。
ベンチはどれも昼休みの残り時間を過しているOLやサラリーマンたちで一杯である。
春の|日《ひ》|射《ざ》しは充分に暖かく、少々眠気さえ誘われるくらいだった。しかし、もちろん居眠りするために有里子はここへ来たわけではない。
「――あら、仲井さん?」
と、名前を呼ばれてびっくりする。
|見《み》|憶《おぼ》えのある事務服で立っていたのは、かつての同僚。
「あ、金子さん。お久しぶり」
と、|微《ほほ》|笑《え》む。「お元気?」
「ええ。相変らず。――何年ぶりかしら? 三年? 四年かな? ちっとも変らないわね、若くって」
「いいえ」
と、有里子は少し照れた。「ちょっと――人と待ち合せてて」
「そう。たまには会社へ遊びにいらっしゃいよ」
「ありがとう。その内……」
「じゃあ」
金子エミが行ってしまうと、有里子はホッとした。そろそろ一時だ。あちこちのベンチも次々に人が立って、空いていく。
有里子は、目の前の芝生へと目をやっていた。緑が目にまぶしいほど鮮やかである。
「――仲井君」
足音に気付かなかった。有里子は立ち上って、
「課長、ごぶさたしてます」
と、頭を下げる。
「『課長』はよせよ」
と、辻山良二はワイシャツにネクタイという格好で、有里子と並んでベンチに腰をおろした。「――元気そうだね」
「ええ。でも、もう二十六です」
「若いよ、君は」
辻山はちょっと頭に手をやって、「薄くなったろ、また?」
と苦笑する。
「でもホッとしました。そんなにやせたとは見えませんもの」
「うん……。まあ、太り過ぎてたのがちょうど良くなった、ってくらいかな」
辻山は、今はそう目立たなくなったお腹の出っ張りを軽く|叩《たた》いた。
「お忙しいんでしょう」
と、有里子は言った。「もう一時ですものね」
「いや、大丈夫。僕が戻らなくたって、別に誰も困らないさ」
辻山はそう言って、「――こんな言い方をしちゃいけないな」
「何かあったんですか」
「いや、どうってことじゃない」
と、辻山は明るい芝生の方へ目をやって、「当り前のことさ。このところの不景気で、どこだって人減らしはやっている」
「でも……」
「僕は運が良かったのさ。ちょうどそのころ病気になってね。会社としても、病人をあっさりクビにはできなかったんだろう。とりあえず、回復を待って|閑《ひま》な職場へ移ったらどうかと言われた。――もちろん、向うは僕が自主的に辞表を出すのを期待してたんだろう。でも――僕は今のポストに、もう一年以上いる。社内でどう見られても、平気さ」
辻山は微笑んだ。「何しろ仕事もそんなになくて暇なもんだからね、色んなことを考える。ついこの間も、君のことを思い出してね、どうしてるかな、と考えてたんだよ」
「――大変だったんですね」
有里子は、ちょっと目を伏せて、「私、何も知らずに――」
「いや、君が僕のことを忘れずにいてくれただけでありがたいよ。電話をくれて|嬉《うれ》しかった」
辻山は、ちょっと息をついて、「こんな所じゃ、ゆっくり話もできない。どうだい、晩飯でも? 高級フランス料理ってわけにもいかないが、どこか気楽な店で」
「ありがとうございます。でも、そうしていられなくて――」
と、有里子が言いかけると、芝生の方から小さな女の子が元気良く駆けて来て、
「――ママ! お腹ペコペコ!」
と、有里子の|膝《ひざ》に飛びついて来た。
「そうね。じゃ、何か食べに行きましょ」
と、有里子は麻里の頭を軽くなでて、「お手々を洗ってらっしゃい。あそこにお水が出てるから」
「うん!」
麻里が駆け出して行く。
辻山は、ちょっとの間、言葉を失っている様子だったが、
「君……結婚したのか」
と言った。
「いいえ。――そういうわけじゃないんですけど」
有里子は目を伏せた。
「仲井君――」
辻山が目をみはって、「あの子……いくつだね?」
「今……三つです」
と有里子は言った。
「三つ?――そうか」
辻山は肯いた。「どうして黙ってたんだ」
「私も子供じゃありませんから。どうなるか、よく分ってて、課長さん――辻山さんとああなったんですから」
と、有里子は言った。「ただ……あの子も来年幼稚園で、色々お金がかかるんです」
「うん。分るよ」
「それで、つい……。ごめんなさい。決してお話しすまいと思ってたんですけど」
「お手々、きれいにしたよ!」
と、麻里が駆けて来ながら、|濡《ぬ》れた手を振り回し、滴が飛ぶ。
「はい、お手々を|拭《ふ》きましょうね」
有里子はハンカチを出して娘の手を拭くと、立ち上り、「――お忙しいところ、すみませんでした」
と頭を下げた。
「いや……」
「さ、行こう」
と、有里子は麻里の手を取って歩き出した。
辻山は、その二人の後ろ姿を見送っていたが……。やがて、目に見えない糸に引っ張られでもしたようにベンチから立ち上ると、
「仲井君!」
と、呼び止めたのだった。
「――ただいま」
と、玄関を入って、有里子は言った。
「有里子なの?」
と、奥から声がする。
「うん。――どうしたの? 明りも|点《つ》けないで」
有里子は、玄関を上るのにもひと苦労していた。何しろぐっすり眠っている麻里を抱っこしているので大変なのである。
「麻里。――ちょっと起きて。ね、ママ、重くて手がしびれちゃう」
しかし有里子の言葉は、眠っている麻里の耳から奥へは入って行かなかった。
「うーん……」
と、|唸《うな》ったきり、また深い寝息をたて始める。
仕方なく、麻里を何とか居間のソファに寝かせて大きく息をつくと、明りを点けようとして、ちょっとためらい、そのまま奥の部屋へ入って行った。
「――お母さん?」
と、声をかけ、「どうしたの? 具合悪いの?」
「少しね……」
有里子の母、仲井|千《ち》|恵《え》は薄暗い部屋の中、布団にゆっくりと起き上った。
「いいから、寝てて」
と、有里子は布団のそばに膝をついた。
「大丈夫……。少しめまいがしただけよ」
と、千恵は息をついて、「辻山さんに会えたの?」
「うん」
と、有里子は肯いた。
「それで……」
「話して来たわ」
有里子は、少し間を置いて、「今は、辻山さんもそう余裕ないみたいだけど、毎月、少しずつでも送金してくれるって」
「そう!」
千恵は息をついて、「いくらかでも、決って入って来るとずいぶん違うからね」
「うん……。いい人だからね」
「信じてくれた、すぐ?」
「こっちが何も言わないのに、自分の子だって信じたみたい」
「そうなの……。申しわけないようだね」
千恵はゆっくりと立ち上った。「でも……分ってくれるよ、きっと」
「お母さん。起きることないわよ。何かありあわせのもので作るから」
「もう平気。ずっと寝てるよりも、少し動いた方がいいのよ」
千恵が、小刻みな足の運びで歩いていくのを、有里子は不安げに見て、
「ね、無理しないで。――お母さん」
と、自分もすぐその後からついて行った。
薄暗い部屋は、まるで母と娘と孫、三人の女達の明日を象徴しているみたいだった……。
「じゃ、お父さんに『さよなら』しましょ」
と、有里子は言った。
「無理をしないでいいよ」
と、辻山は言った。「まだ会うのもやっと二回めだ。なあ、麻里ちゃん」
「うん」
麻里は、しかし楽しそうに辻山の腕にぶら下ったりしている。
「だめだめ。麻里は重いんだから」
遊園地からの帰り道。――日が傾きかけて、同じような親子連れの姿が、駅のホームには沢山見られた。
「父親」としては、辻山は確かに少し|老《ふ》けていたかもしれないが、といってまだ四十を少し過ぎたところだ。不自然なほど年がいっているというわけではなかった。
電車がやって来るのが見えた。
「――どうもありがとう」
と、有里子は辻山に言った。「シャツの、アイスクリームのしみ、気を付けて」
「分った」
と、辻山は微笑んだ。「また……。今度ゆっくり会おう」
「はい」
電車がホームへ入って来る。有里子は麻里の手をしっかりつかんで、
「つまずかないように気を付けて」
と言った。「よくやるんだから」
「僕は小さいころ、よく転んだんだ。似ちまったかな」
と、辻山が笑う。「じゃ、バイバイ」
扉が開き、有里子と麻里が乗って――辻山は逆方向の我が家へ帰るので――辻山へ手を振る。
「じゃあ……」
「バイバイ、お父さん!」
と、麻里がはっきり言った。
その瞬間、扉がガラガラと閉じたが、辻山の顔には感動が――麻里に「お父さん」と呼ばれたことの喜びが、はっきりと浮かんでいた。
「――さ、座りましょ」
空席があったので、有里子と麻里は腰をおろした。
「面白かった?」
「うん」
「良かったね」
と、有里子は娘の肩を抱いた。
「ねえ、ママ」
「うん?」
「『お父さん』って、『パパ』とは違うの?」
有里子は、何とかごまかして、五分としない内に麻里が眠り込んでしまったのでホッとした。
初夏と呼んでもいいころになり、日は長かった。電車へ|射《さ》し込む夕日も、まぶしいほどの勢いがある。
「パパとお父さん、か……」
有里子は独り言のように|呟《つぶや》いた。
その違いを、麻里がはっきり理解してくれるまでに、あと十年はかかりそうだ。
――高校を出て、辻山の下で事務をやっていた有里子は、三年余り勤めて辞めることになった。
課で開いてくれた送別会の夜、二次会でしたたか酔った有里子は、辻山に思い切り甘えた。そして――どっちからともなく、二人はホテルへ入った。
酔って|憶《おぼ》えていない、とは言えなかった。有里子は二十一にして、かなりの酒豪だったからである。
もともと辻山には好意を寄せていたので、「せめて最後に一度だけ」と|狙《ねら》って実行したまでのことだった。
ところが有里子はその「一夜」で身ごもってしまった――わけではなかった。有里子は高校生のころから男性経験があって、充分に用心もしていたのである。
だから、もう二度と辻山に会うことはあるまいと思っていたのだが……。
母、千恵と三人で住んでいる都営住宅は、今では少々時代遅れになった感のある団地だった。
有里子は、遊園地での疲れも電車でぐっすり眠って回復した麻里と、スーパーに寄って夕食の買物をした。
母の具合はあまり良くない。本当は入院して検査を受けるように言われているのだが、そんなお金は今のところ出せない。
「――麻里の好きなシューマイかな?」
と、冷凍食品の包みをカゴへ入れている。
「あら、有里子さん!」
と呼ばれて振り向くと、同じ棟の主婦で、まだ若く、年齢が近いので仲良くしている人だった。
「あ、今日は」
と、有里子が言うと、
「あなた――どこに行ってたの? 大変だったのよ!」
「え?」
「お母さんが倒れて。団地の広場の所で」
「母が?」
有里子がサッと青ざめる。
「救急車で運ばれたわ。201号の平田さんに訊いて。詳しいことが分るわ、きっと」
「どうも――。ありがとう」
有里子は、必死で自分を落ちつかせた。
「捜したんだけど、あなたのこと」
「ごめんなさい。この子と遊園地に……。あの――この冷凍食品……」
「いいから。私に渡して。早く行った方がいいわ」
「すみません」
こんなときに冷凍シューマイの心配をしている自分が、何だかおかしかった。
とりあえず自宅へ戻り、それから201号室へ行って入院先の病院を聞く。
麻里を置いて行くというわけにもいかず、有里子は子連れで病院へと急いだ。タクシーなら早かったのかもしれないが、バスで行った。
しかし、母はちゃんと待っていてくれた(?)。
「――あら、よく分ったわね」
と、有里子の顔を見て言うので、有里子はホッとするやら腹が立つやら。
「どうしたの?」
「大したことないのよ。ただ、日射しが強くてね、めまいがして倒れたら、ちょっと胸を打って苦しくなったの」
「それだけ?」
「そうよ。大げさに救急車なんかで」
と、千恵は声を小さくして、「救急車って、乗り心地が良くないわ。お前、乗らない方がいいわよ」
「誰だって、好きで乗るわけじゃないでしょ」
と、有里子は苦笑した。
「仲井さんですか」
と、看護婦が来て、「先生がお話ししたいことがあるそうなので」
「はい。――麻里、ここにいてね」
「大丈夫よ。私が見てるわ」
と、病人が引き受けているのだから、珍しい。
有里子は、医師に会って、母の病状が本人の言っているほど楽観できるものでないと知った。
「心臓がね、かなり弱ってます」
と、眠そうな目をした医師は言った。「入院して、監視しないと危いですね」
「はあ……」
「じゃ、手続きを取って下さい」
と、医師はアッサリ言ったが……。
有里子は、母のいる病室へ戻る前に、廊下で一休みしなくてはならなかった。
母が危い。――それは、薄々分っていたことであったが、やはり現実のものとなると、ショックは小さくない。
母、千恵は不運な人だった。有里子は、父といえば、酔っているか怒鳴っているか、その二つの場面しか思い浮かばなかった。
有里子が七つのとき、父はフラッと家を出て、それきり帰らず、蒸発。母が働いて、有里子を高校まで出したのである。
もともと体の丈夫でない千恵は、有里子が働き始めて間もなく、具合が悪くて倒れた。それからは、何か月おきかに具合が悪くなり、結局、仕事を辞めざるを得なくなった。
不幸中の幸いとも言うべきは、有里子が麻里を産むときに、まだ千恵が働いていたことで、そのときの無理がたたっているとしたら、有里子も責任を感じないわけにはいかない。
しかし、今は過去のことを嘆いても仕方ない。これからどうしたらいいか。
生活費、母の入院費用。そして来年は麻里も幼稚園だ。
そのすべてを有里子が働いて稼ぎ出すわけにいかない。どう頑張っても、大きく不足することは目に見えていた。
辻山から毎月二、三万円の送金があったとして――それだって、並のサラリーマン家庭にとっては大変だ――とてもそれだけでは足りない。
「どうしよう……」
と、有里子は|呟《つぶや》いた。
こんなとき頼りにできる親類や知人は全くない。
仕方ない。――いつまでも廊下にいるわけにもいかず、有里子は病室へと戻った。
麻里が、おばあちゃんに今日の楽しかったことをせっせと話して聞かせている。
「――そんでね、パパったら、二回乗ったら目を回しちゃったんだよ」
「まあ、そう」
「あ、『パパ』じゃないや。『お父さん』っていうんだった」
と、麻里が訂正した。
有里子はあわてて足を早め、
「麻里! あんまりしゃべってると、おばあちゃんが疲れるわよ」
と、止めた。
「いいのよ」
と、千恵は|呑《のん》|気《き》なもので、「麻里ちゃんのお話は、とっても上手だもの。ねえ?」
そうじゃなくて! 「パパ」だの「お父さん」だの、同室の患者さんたちが聞いてどう思うか――。
そのとき、ふと有里子は思い付いた。
「――パパだ」
「え?」
「あ、いえ、何でもないの」
と、あわてて首を振る。
「もう退院してもいいって?」
「当分入院だって」
と、有里子は言った。「ま、お休み取ったと思えばいいじゃない」
「そんな、お前……」
「大丈夫。ともかく、入院の手続きとか、必要な物とかあるし……。|一《いっ》|旦《たん》帰るわ。今はぐっすり眠るのよ」
「でも――」
「心配しないで」
有里子は、母の手を軽く握って、「ちゃんと考えがあるのよ」
「|俺《おれ》に用って、お前?」
と、声がして振り向くと、妙なサングラスなどかけた、えらく|派《は》|手《で》な格好の男が立っていた。
「あの……|田《た》|辺《なべ》|拓《たく》|郎《ろう》さん――ですか」
有里子の方も|呆《あっ》|気《け》に取られている。
「ああ、俺だよ」
と、ガムなどかみながら、「忙しいからさ、用件あるんなら、早く言ってくれよ」
有里子は、まじまじとその男を見ていたが、
「サングラス、外してもらえません?」
と言った。
「これを?――ああ」
と、男はサングラスを外し、「それで?」
「それと――そのカツラも」
男がムッとした様子で、頭へ手をやった。
「おい、冗談きついぜ」
と、有里子をにらむ。「大体、お前……」
有里子は、問答無用でパッとそのカツラをむしり取ってしまった。
「よせ! 馬鹿! 早く返せ!」
と、男はあわてて取り戻すと、「人に見られたら、どうすんだ!」
「やっぱり、そうか」
と、有里子は肯いて、「確かに拓ちゃんだわ」
「え?」
と、相手もまじまじと有里子を眺めて、「――あ!」
と、目をみはった。
「有里子か!」
「何よ。その格好?」
と、有里子は|呆《あき》れて、「それで演歌を歌ってるわけ?」
「演歌? やめてくれよ」
と、田辺拓郎は顔をしかめて、「これでも今はロックシンガーだぜ」
「ロック?」
田辺は何とか元の通りにカツラをつけると、「――おかしくないか?」
「どうやったっておかしいわ」
「ひでえなあ」
と口を|尖《とが》らし、それから田辺は笑い出してしまった。
一緒になって、有里子もふき出していた。――田辺は、
「こっちに。――出番まで間がある」
と、有里子を誘った。
小さな部屋に、誰の荷物か、トランクやスーツケースが並べてある。
「ここ、どういう所なの?」
「知らないのか? 若者に人気のライブハウスだぜ」
「へえ……」
「俺、二十八ってことになってるんだ。頼むぜ」
「呆れた。三十代も後半のくせに」
「商売さ。演歌じゃちっとも食ってけない。――仲間と、旅先でロックグループの真似したら、結構受けてさ。で方向転換ってわけだ」
「人気、あるの?」
「まあな。CD出すほどじゃないが、こうしてライブに出ると、若い子たちで一杯になるんだ」
「へえ。良かったわね」
「お前――元気にしてるか?」
田辺とは、OL時代、飲みに行ったバーで知り合って、ほんの数日だが一緒に暮らしたことがある。もっとも、田辺の暮しぶりのあまりのでたらめさ加減に、有里子もさすがに呆れて母の所へ戻ってしまった。
「まあね。良かったわ、あんたがうまくやってて」
「それほどでもないけどな」
と、田辺はニヤニヤしている。
「結婚は?」
「うん。二年前にな、子供ができてさ、仕方なくって感じだけど。ま、生まれてみりゃ可愛いもんだ」
と言って、田辺は、あわてて、「おい、俺が妻子持ちってのも内緒だぞ。な。ファンが怒るとまずい」
そんな大スターでもあるまいに、と思ったが、そうは言わず、
「お願いがあって来たの」
「へえ。サインでもほしい?」
「誰が!――お金、毎月いくらでもいいから送って」
「へ?」
と、田辺が目を丸くする。
「麻里がね。もう来年から幼稚園なの。色々お金がいるのよ」
「待ってくれよ。――誰だ、マリって?」
「あなたの子よ」
と、有里子は言った。「いいわね? これが私の口座。少なくとも毎月三万円は入れてね」
「おい、待てよ」
「いやなら、奥さんの所へ麻里を連れてくわよ。それからファンにあなたの年齢、妻子持ちのこと、ハゲてること。みんなバラしてやるから」
有里子は立ち上って、「じゃ、よろしく」
と行きかけたが、
「あ、そうそう」
と、バッグから写真を出して、「これが麻里よ。あなたに似てるでしょ。それじゃ」
田辺は|唖《あ》|然《ぜん》として座っていたが、その内、こわごわ写真を取り上げ、じっと見つめて――ポケットを探ると、メガネを出してかけてから、改めて写真に見入ったのである……。
「――眠っちゃったわ」
有里子は、後ろの座席へ目をやって言った。
「どれ。――本当だ」
車が赤信号で停っているので、田辺は振り向いて麻里の寝顔を眺め、「――うん、寝顔は俺と似てるな」
「そうね」
と、有里子は言った。「ね、信号、青よ」
「おっと」
車は走り出した。
田辺の仕事のない一日、有里子と麻里はドライブに連れて行ってもらった。
田辺は、もともと明るくはしゃぐのが好きな男で、麻里とも大いに楽しく遊んでくれた。
「――どこで降りる?」
と、田辺は訊いた。「家まで送ろうか」
「いいえ。あなた、遅くなるわよ」
「大丈夫。今日は遠くで仕事と言ってあるから」
「だめだめ」
と、首を振って、「奥さんとサキちゃんが待ってるでしょ。帰ってあげて」
「分った」
と、田辺は肯いた。「――悪いな、お前に苦労させて」
「自分で選んだんだから」
と、有里子は肩をすくめ、「そこの駅前で降ろして。電車だと、ここが一番近いのよ」
車を駅前へ寄せて、有里子は眠っている麻里を抱っこすると、
「じゃあ……」
「待て。改札口まで行くよ」
と、田辺も降りてくる。
「いいのよ」
「切符買うのに、麻里を抱いてちゃ大変だろ? 俺が抱いてるよ」
「でも――」
「抱かせてくれよ。な?」
有里子は、ちょっと笑って、
「重いわよ。それじゃ」
と、田辺に麻里を渡した。
「へえ! こんなに重いのか。お前、よく抱いてられるな」
と、一緒に駅の方へ歩きながら、「昔は、牛乳のパックだって重いって文句言ってたのに」
「そんなこともあったわね」
と、有里子は笑って言った。「ちょっと待っててね」
急いで切符を買って戻ってくると、麻里を受け取る。
麻里も、その「やりとり」の間に目を覚まし、ママの腕の中からではあったが、改札口で見送る田辺へと手を振った。
――田辺は、ちょっと息をついて、
「可愛いもんだな」
と呟くと車へ戻った。
田辺の車が走り出すと、少し間を置いて、目立たない小型車がその後ろを走り出した――。
「ママ」
電車の中で、麻里が言った。「今日の人がパパ?」
「そう。今日からはそう呼びましょ」
「うん」
麻里は肯いたものの、小さいなりに色々と考えているようだった。
有里子は、電車の窓から、流れて行く外の風景を見ていた。
――麻里の本当の父親は、高校のときの教師である。後輩を有里子のいる会社へ連れて来て、久しぶりに会った。帰りに飲みに行って、つい……。
有里子にしてはうかつなことだった。
けれども、高校時代、ひそかに思い続けていた先生だったので、後悔はしなかった。ただ、正に「たった一夜」で妊娠してしまったのである。
産もうと決心したのも、その先生には一切知らせまい、と決心したのも、ドラマなら格好良かった。
しかし――現実には、子供を育てるにはお金がかかるのである。
そして、母が倒れ……。
もちろん、有里子も今、働いている。麻里は保育園に入れたいのだが、近くの保育園はどこも一杯。
やむを得ず、今は団地の中にある私立の幼稚園に通っている。もちろん幼稚園では夜遅くまで預かってくれないので、有里子の仕事も限られてしまうのである。
それにしても……。
有里子はつくづく辻山と田辺に申しわけないと思っている。しかも、二人とも何という人の良さ。
有里子の言うことを、全く疑ってもいないのである。
良心は痛むが、今は仕方ない。二人の内、どちらかでも送金が止ったら、有里子はお手上げなのだ。
「――さ、夕ご飯は何にしようか」
と、有里子は麻里に訊いた。
長い三時間だった。
――幼稚園の〈お父さんとお母さんの日〉は、最後に「さよなら、先生」の歌を歌って、やっと終ろうとしている。
有里子はこの三時間で、たっぷり一年分くらいの汗をかいた気分だった。
――麻里を|叱《しか》ってもしょうがない。もとはといえば、有里子がこんな無茶をしているからこそである。
麻里も、子供ながらに「お父さん」と「パパ」は、お互いに知らない方がいいということは分っている。
だから辻山といるときは、ちゃんと、
「お父さん!」
と呼び、田辺といるときは、
「パパ!」
と呼ぶ。
むしろ、有里子の方がときどき間違えそうになってヒヤリとするくらいである。
しかし、他の人の前で、「お父さん」と「パパ」のことをしゃべるな、とは言っていなかった。
もちろん、今日ここに居合せた父母は、みんなあれこれ想像していることだろうし、帰ったら、話の種になるのは間違いない。
団地の中では、有里子がいわゆる「未婚の母」だということはみんな知っているが、まあ「お父さん」と「パパ」がいるとは思っていないだろう……。
「――お父さん、お母さんもご一緒に!」
と、若い先生が汗で顔を光らせながら、声をかけ、父母の頼りないコーラスが教室の中に響いた。
やれやれ……。やっとこれで帰れる。
有里子はいい加減に口をパクパクしながら、ふと教室の窓から外へ目をやった。
そして――目を疑った。
辻山がいる!――間違いなく辻山である。
いかにも「父親」という風な背広姿で、どの教室に有里子がいるか、|覗《のぞ》いて歩いているのだ。
有里子は奥へ引っ込もうとしたが、遅かった!
辻山はそっと教室の戸を開けて入って来ると、有里子のわきへやって来たのである。そして、
「――遅れてすまん」
と、小声で言った。
有里子は、引きつった笑顔で肯いて見せた。――周囲の父母がみんなチラチラと辻山を見ている。
「――じゃ、今日はこれでさよならね」
と、先生が言った。「お父さま、お母さまがた、ご苦労様でした。お子さんとご一緒にお帰りになって下さい」
ゾロゾロと子供たちが立ち上り、麻里も立って振り向いた。そして、
「お父さん!」
と、大声で呼んで手を振った。
ほめてやるべきなのだろうけど、と有里子はため息をついた……。
「――いや、顔だけでも何とか出そうと思ってさ」
と、辻山は、麻里と手をつないで歩きながら言った。
「どうもすみません」
と、有里子は言った。「いいんですか、お仕事は?」
「今日は休暇届を出してある」
「まあ」
「いつも通り家を出たのに、こんな時間になっちまった。大分捜してね、幼稚園を」
辻山は、麻里の方へ笑いかけて、「でも、良かった。ちゃんと麻里の先生も見たしな」
「うん。美人でしょ、先生」
「そうだな。なかなか」
「でも――ママの方が美人だよね」
辻山は笑って、
「そうだとも!」
と言った。
有里子は、なぜだか目頭が熱くなって、足を止めた。辻山が振り向いて、
「どうした?」
「いえ……。何でもないんです」
と、有里子が言ったとき、麻里が、
「パパだ」
と言った。
「え?」
顔を上げた有里子は、|愕《がく》|然《ぜん》とした。向うから急ぎ足でやって来るのは、田辺ではないか!
「やあ!」
と、田辺は息を弾ませて、「ごめんごめん! 急いでライブを終らせて飛んで来たんだけど……」
田辺と辻山は、当然のことながら顔を見合せ、
「あの……」
「どなた?」
と、問いかけ合った。
有里子は、思わず目を閉じた。――おしまいだ!
ところが、それで「おしまい」じゃなかったのである。
「あなた」
と、女性の声がして、辻山が息をのんだ。
「お前……。どうしてここへ?」
「知らないとでも思ったの?」
と、辻山の細君は|大《おお》|股《また》にやって来た。
「毎月、お金を振り込んでりゃ、分るに決ってるでしょ」
「な、聞いてくれ――」
と、辻山が言いかけたとき、車が一台、そばへ寄って来て停った。
「――お話し中すみません」
と、車の窓から、若い女が顔を出すと、「うちの主人と話したいんですけど」
田辺が青くなって、
「お前……」
と、目をみはった。
「待って下さい!」
と、有里子は大きな声を出した。「私から……お話しします」
麻里一人が、キョトンとして、
「ママ。――今日はどっちの日?」
と訊いたのだった。
「本当に申しわけありません」
有里子は深々と頭を下げた。「どうか、ご主人を責めないで下さい。悪いのは私です」
しばらく沈黙があった。
――幼稚園の中。庭で麻里が他の先生と遊んでいる。
有里子は、何となく居合せる格好になった受持の先生の方へ、
「ご迷惑をかけました」
と、頭を下げた。
「いえ……。でも、麻里ちゃんのことは……」
「ここへ通わせるのは無理ですので……。何か届を出すんでしょうか」
「ええ」
と、先生はため息をついて、「残念です」
と言ってから立ち上った。
「――待って下さい」
と言ったのは、辻山の細君だった。「ともかく、もう少し話し合いましょう」
話し合いといっても、二人の夫は何も言えない様子。当然のことだろう。
「お金は、いつか必ずお返しします」
と、有里子は言った。「しばらく時間をいただけませんか。お願いです」
「――仲井君」
と、辻山が言った。「しかし君、どうするんだ、これから。お母さんだって、具合悪いんだろう」
「退院しても、静かに寝ていれば……。もう長くはないと思います」
「しかし――」
「もともと頼れる立場でもないのに、あんな風にお二人を|騙《だま》してたんですから。――警察にだけは届けないでいて下さいませんか。私がいないと……麻里は……」
辻山の細君は、じっと有里子を見ていたが、
「あなた」
と、夫の方を向いて、「ともかく、この人と浮気したのは確かなのね」
「ああ……。すまん」
「じゃ、あの子があなたの子だってことも、あり得たわけね」
辻山の細君は、庭で駆け回っている麻里を眺めて、「――うちの子たちも、あれぐらいのころがあったわ」
と言った。
「お前……」
「仲井さん。――うちも家計は大変です。お金をあげるのは難しいかもしれない。でも、あなたが、もっと長く働ける仕事につくのなら、麻里ちゃんを夜まで預かってもいいですよ。毎日は大変でも、田辺さんの所と半々なら」
有里子は|唖《あ》|然《ぜん》として、
「でも、奥様――」
「私もね」
と、田辺の妻が言った。「この人にあんなことができるなんて、びっくりしてたんですよ」
「あんなこと?」
「主人、タバコもやめて、お酒も量を三分の一くらいにして、そのお金をためて、お宅へ送ってたんです。体にもいいし、生活もきちんとして来るし、どうしたんだろう、ってふしぎで。それで後を|尾《つ》けてみたんです」
「まあ、偉い。あなた、少し見習ったら?」
と、辻山がつつかれている。
有里子は、涙が止らなくなった。――こんな人たちがこの世の中にいるということ、それが何より|嬉《うれ》しかった。
「――有里子、泣くなよ」
と、田辺が照れたように、「結局、君がいい人だからなんだ。麻里もいい子だし」
辻山の細君が肯いて言った。
「私や、田辺さんの奥さんも、あなたと同じような立場にならなかったとも言えません。母親は助け合わなくちゃ」
そのとき、庭から麻里が真赤な顔をして入って来ると、
「ママ!」
と、有里子の膝へ駆け寄って、「――ね、どうするの? 今日はお父さんと帰るの? パパと帰るの?」
有里子は力一杯、麻里を抱きしめて、
「二人と帰るのよ。ね、すてきでしょ? 麻里にはお父さんとパパが、両方いるんだから!」
と言った。
「フーン」
麻里は、分ったような分らないような顔で、「お父さんとパパがいて……。ママもいる。――ね、『お母さん』はどこにいるの?」
と訊いたのだった。
|家《か》|族《ぞく》カタログ
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
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発行者 角川歴彦
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『家族カタログ』平成10年9月25日初版刊行