角川文庫
天使は神にあらず
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 午後の雨
2 相 棒
3 雪の宮殿
4 代 役
5 再 会
6 突然の客
7 計 画
8 失楽園
9 心 中
10 マリの休日
11 出 張
12 理事長
13 |宴《うたげ》の前
14 毒
15 決 断
16 すり替え
エピローグ
1 午後の雨
どこに行けって?
|加《か》|奈《な》|子《こ》は、フン、と鼻を鳴らした。――こんな雨の日に、どこへ行ったって面白くも何ともないじゃない。
どこへ行け、どこに行くな、あそこへ行け、ここへ来い。
うるさいっちゃない! 放っといてよ、|他《ひ》|人《と》のことなんか!
何もかも面倒くさくて、うっとうしい。加奈子は、そんな年代だった。
十七歳。――たいていの子は高校生というやつをやっていて、加奈子も本当は高校生なのである。見ての通り、何だか時代遅れのセーラー服は着ているし、ペチャンコの学生|鞄《かばん》は提げているし――。もっとも、鞄の中はほとんど空っぽ。
入っているのは、鏡とかクシとか、それと拾いもののテレホンカード。面白くないね、全く!
|阿《あ》|部《べ》加奈子が、こんなに|苛《いら》|立《だ》って歩いているのは、ちょっと珍しいことだった。ま、たいていいつも少しはふてくされているのだけど、それでも、普通なら学校に行ってるし、鞄の中に教科書とノートの一、二冊ぐらいは入っているのだ。
授業を|真《ま》|面《じ》|目《め》に聞いてるか、と|訊《き》かれると、確かな答えはできかねるが……。
――雨の午後だった。
どこへ行く、というあて[#「あて」に傍点]があるわけでもなく、加奈子は通りを歩いていた。胸の中に渦巻いているのは、怒り――借金をこしらえてどこかへ逃げてしまった父親への怒りと、前からの若い恋人を、これ幸いと家へ引張り込んでいる母親への怒りだった。
「学校へちゃんと行かなきゃだめよ」
母親は、そう言ったもんだ。お酒の|匂《にお》いをプンプンさせて。
だから加奈子も格好だけは学校へ行くような服装で出て来た。それで充分でしょ? それ以上を期待されたってね。
家を出る時には降っていなかったので、傘はなかった。
加奈子がその道を歩いていたのは、だから特別な理由があってのことではなかったのだ。ただ理由といえば、店の軒がずっとつながっていて、あんまり|濡《ぬ》れずに歩けそうだと思っただけなのだった。
もちろん、家は朝の内に出て、昼まで適当に公園や本屋をぶらついていた。それから、お|腹《なか》が|空《す》いて、何か食べようとした時、財布を忘れて来たことに気が付いたのだ。
家に帰るのもいやだし、といって、何も食べずに夕方までうろついているのも|辛《つら》い。どうしたものかと迷いつつ、歩いている内に、雨になったのである。
「もう……やんなっちゃう」
加奈子は、少し足を止めて、降りやまない雨空をうらめしげに見上げた。
雨足は強くなって、傘なしではとても歩けないくらいだった。仕方なく、そのまま軒下に立ちつくす。幸い、そこは小さな洋品店の前で、加奈子が立っていても、文句は言われなかった。
雨の中を、ふらふらと歩いている男がいる。――浮浪者らしい。
もちろん傘がないので、|濡《ぬ》れ放題だ。しかし、当人も、それを|惨《みじ》めとも思わなくなっているのだろう。
すると――その男がバッタリ倒れた。加奈子はドキッとした。男は、別に苦しむとか痛くて身をよじるとかいったことなしに、電池の切れた人形みたいに、バタッと雨の中で倒れたのだった。
人が倒れるのを、目の前に見るというのはめったにあることじゃない。加奈子は、どうしたらいいのか、迷いながら立っていた。
駆け寄って抱き起す、なんていっても、女の子一人の力ではとても……。それに、その後どうしていいものか、さっぱり分らない。
救急車でも呼んだ方がいいのだろうか?
加奈子は、|誰《だれ》か|他《ほか》の人が通りかかって、何とかしてくれるのではないかと期待しながら立っていた。しかし、夜にならないとあまり人の通らない道なのだ。
この店の人に|訊《き》いてみようか。電話で、一一〇番でもして、何とかしてもらうように……。
車の音がした。――目の前を、かなり大きな車がふさいだ。ちょっと面食らうほど大きい。
マイクロバスくらいの大きさがあるが、一応普通の乗用車である。
その車が、加奈子の前で停った。――何だろう?
見ていると、車の向う側のドアが開いて、男が二人、降りた。そして、あの倒れている男の方へ駆け寄ると、二人でかかえ上げ、車の中へ運び込んだのである。
何だろう? 加奈子は首をかしげた。別にこの車が、どこかの役所の車というわけでもないらしいし……。
でも――私には関係ないことだわ。
ともかく、あの倒れた男を、自分で何とかしなくてすんだので、加奈子はホッとした。
すると――加奈子の正面の窓が、スッと開いたのである。
男の顔が見えた。口ひげをたくわえた、色の浅黒い男で、まだそう|年《と》|齢《し》はいっていないようだったが、髪が少し白くなっている。そして、目がちょっとドキッとするほど、鋭かった。
その男は、チラッと通りの前後を見やってから、雨の落ちて来る空を、目を細くして見上げた。それから下りて来た視線が、加奈子の上に止った。
加奈子は、その男と|一《いっ》|旦《たん》目が合うと、目をそらすことができなくなった。|怖《こわ》い、というのとは微妙に違う。
どこか、人をひきつけるものを持った、黒い目だ。その奥へ、加奈子は吸い込まれて行きそうな気がした……。
車がエンジンをかけ、ゆっくりと動き出した。すると、男が前の方へ、
「待て」
と、言ったのが、加奈子の耳に入った。
車がまた停った。
男は、今度はどこか優しい目になって、加奈子を見ていた。
「――どこへ行くんだね」
見た目の印象より、ずっと穏やかで柔らかい声が、加奈子に訊いた。
加奈子は黙って首を振った。
「時間はある?」
加奈子は黙ったまま、|肯《うなず》いた。
「じゃ、乗りたまえ」
そんな、見も知らない人の車に……。いつもの加奈子なら、乗らなかっただろう。
でも、不思議なくらい素直に、加奈子は男が開けてくれたドアから、車の中へと乗り込んだのである。
「やってくれ」
と、男は言った。
座席のクッションはすばらしかった。――あの運び込まれた男はどうしたのか、そんなこと、アッという間に忘れてしまった。
「さて」
と、男は言った。「何かしたいことは?」
加奈子は、ちょっと迷ってから、
「お|腹《なか》が|空《す》いて考えられない」
と、言った。
男は楽しげに笑った。
加奈子は、目を覚ました。
すっきりした目覚め、というわけにはいかなかった。何だか――まるで何日間も眠っていたような、けだるい感覚が、手足の先までしみ渡って、なかなか体を動かすことができなかった。
でも……。どこだろう、ここ?
自分の部屋でないことは確かだった。大体、加奈子の家は布団で、こんなベッドじゃない。
こんな大きなベッドを入れたら、いる場所がなくなっちゃうだろう。
大きな……ベッド?
加奈子は起き上った。――私。私、何をしてたんだろう?
何があったのか。ここで。このベッドの上で……。
加奈子は不安になった。着ているものといえば、薄い、見たこともないネグリジェみたいなものだけ。
そう。――あの男について来た。そして食事をして……。|凄《すご》く|豪《ごう》|華《か》な、おいしい食事だったけど。
お腹|一《いっ》|杯《ぱい》食べて、眠くなって……。それから? 何があったのか?
思い出せない。|憶《おぼ》えていない。
加奈子は、出て行こう、と思った。ともかくここから早く――。
でも、服がない! 広い寝室は、けばけばしいような家具で埋められていたが、そのどこかに、自分のセーラー服は入っているのだろうか?
ドアが開いて、あの男が入って来た。加奈子はあわててベッドの中へ潜り込み、毛布を|顎《あご》の所まで引張り上げた。
「ぐっすり眠ったね」
と、男は|微《ほほ》|笑《え》んで言った、「もう昼近くだよ」
「お昼……? じゃ、あれは昨日?」
加奈子は|愕《がく》|然《ぜん》とした。「帰らなきゃ、私……」
「帰る?――|家《うち》へ帰って、楽しいかね」
「楽しいってことも……。でも、やっぱり……」
「お母さんが若い男と楽しくやってる所へ、帰ってどうするんだね」
加奈子は面食らった。どうしてこの人は知ってるんだろう?
「お父さんは蒸発、お母さんも、働いて君を大学へやろうという気はないようだ。君は、高校へ通っても面白くない。そうだろう?」
「だけど……」
「高校だけは何とか出たとして、どこかの事務員でもやるか。お母さんの方は彼氏と楽しくやって、君は汗水たらして、わずかの給料をもらうか」
「だって……他にどうしようがあるの? 私、何もできないのに」
「できるとも」
と、男は言った。「私は、ゆうべ君のことをよく見ていたんだ」
加奈子は身を固くした。
「私――いやよ。こう見えたって……」
どう言っていいのか、よく分らなかったが、ともかく、「変なことさせないで。私……」
「誰がそんなことを言った?」
と、その男は笑って、「もし、私に妙な下心があって、君をここへ連れ込んだとしたら、君が今、何ごともなく起きられたと思うかね? そうだろう」
そう言われると、加奈子も言い返しようがない。加奈子はまだ「未経験」だし、確かに、寝ている間に変なことをされた、ということもないようだ。
「じゃあ……私に何になれって言うの?」
と、加奈子は|訊《き》いた。
男は、加奈子のそばへ来て、ベッドに腰をおろした。
「君は神[#「神」に傍点]になるんだ」
「何になるって?」
加奈子は耳を疑った。
「神さ。――分るかね」
「私に――死ねっていうの?」
「違う。君はそのままで神として、みんなに|崇《あが》められるんだ。来たまえ」
加奈子は、裸同然の格好で、恥ずかしかったが、男の言葉には、有無を言わせぬものがあった。ベッドを出て、その部屋を出る。
すぐ隣の小部屋へ入り、明りが|点《つ》くと、男はテーブル状の台の上に広げてあった|衣裳《いしょう》を取り上げて、
「これを頭からかぶって着るんだよ。――さあ」
と、言った。
絹だ。光沢の美しい、真白な、スッポリ体を包む、不思議な服だった。よく見ると、金銀の糸で、広くなった|袖《そで》|口《ぐち》や、丸いえりもとに目をみはるような|刺繍《ししゅう》がしてある。
「これを?」
「|肌《はだ》の上に直接着るんだ。――さ、ためらうことはないよ」
加奈子は、男の目を見ている内に、まるで催眠術にでもかけられたように、奇妙に気分が|昂《こう》|揚《よう》して来た。
ネグリジェをフワリと足下に落とすと、裸身に、スッポリと、その衣裳をまとう。ひんやりと肌に触れて、快かった。
「重いわ」
「そうとも。しかし、だからこそ威厳がある」
男は少し後ずさって、加奈子を眺めた。
「――似合う?」
と、加奈子は少し照れて訊いた。
「ぴったりだ」
男は|肯《うなず》いた。「君は自分が|可《か》|愛《わい》いと思うかね?」
「私?――普通だと思うわ。別に……」
「まあ、アイドルスターにスカウトされることはないだろうね。しかし、君の目にはね、不思議な魅力がある。黒く、大きく、人をひきつけるものが」
そんな風には、加奈子は考えたこともなかった。でも――こんなものを着て、何をするんだろう?
「おいで」
と、男は加奈子の肩を抱いて、促した。
廊下が果しなく続くような気がした。ともかく、とてつもなく大きな家らしい、と加奈子は思った。
「――あの音は?」
と、加奈子は訊いた。
どこからともなく、ウワーッ、ともゴーッとも言いがたい、大きなこだまのような響きが近付いて来たのだ。
「君を待っているのさ」
と、男は言った。「もうすぐだ」
廊下を曲ると、両開きの、大きな扉が現われた。|彫刻《ちょうこく》や|浮《うき》|彫《ぼ》りを施した、重そうな扉で、両側に男が一人ずつ立っていた。加奈子のまとっているのと同じような形の、もっと簡素な服を着ている。
「開けて」
と、男は言った。
扉が両側へ大きく開くと、赤いカーペットを敷きつめた部屋があり、正面には重々しいカーテンが閉じられていた。あの響きは、その向うから聞こえているようで、扉が開くと、加奈子を包み込むほど大きくなった。
その部屋には、十人ほどの男女が――みんなかなりの年輩だったが、――集まって、|一《いっ》|斉《せい》に加奈子の方へ目を向けた。加奈子は一瞬逃げ出しそうになったが、男が、力づけるように肩を|叩《たた》いてくれて、少し落ちついた。
「皆さん」
と、男が言った、「我らの新しい教祖様です」
教祖様[#「教祖様」に傍点]?――加奈子にも、やっと自分の立場がおぼろげながら分って来た。
神。――教祖。この人たちは、きっと何かの宗教団体の幹部なのだろう。
でも、どうして私が[#「私が」に傍点]教祖様なの。
「――いいね」
と、髪の白くなった、ずんぐりした男が肯いて言った。
ここの男女は、みんなごく当り前の背広やスーツ姿で、ちょっとした会議でもやっている感じだった。
「申し分ないわ」
と、かすれた声で言ったのは、やせぎすの、|凄《すご》く度の強いメガネをかけた女性だった。
「待ってますよ、みんな」
と、少しせっかちそうな、中年の男がせかすように言った。
「ともかく、これでひとまず安心だ」
と、ずんぐりした男が息をつく。「さあ、早く、台に」
カーテンが開けられた。背中を押されて、ゆっくりと進み出て行くと……。
加奈子は、夢を見ているのかと思った。こんなことが――こんなことがあるだろうか?
そこは、途方もない高みに張り出した、半円形のバルコニーだった。
そして、何十メートルも下には人々が――何千人か何万人か、想像もつかないくらいの人々が、広大な床を埋めていたのだ。頭上には丸天井が、まるで空そのもののように広がって、人々のざわめき、どよめきは、そこへ立ち昇って渦を巻いているかのようだった。
そして、バルコニーの手すりの所まで加奈子が進んで行くと――人々のざわめきはたちまちの内におさまった。余韻が、まだ空中を漂っている中に、加奈子の|傍《そば》に立った男の声が響いた。
「信者のみなさん」
ごく普通にしゃべっているようなのに、その声は、この巨大なホールの隅々にまで届いた。
「――我らの新しい教祖様です」
そして、加奈子の方へ|囁《ささや》いた。「両手を高く上げて」
「え?」
「みんなの歓声を受けるように。さあ――」
加奈子は、おずおずと、両手を上げた。目に見えない宝物でも|捧《ささ》げ持っているような格好で。
すると――|一《いっ》|斉《せい》に歓呼の声が上った。その声は巨大な波のように、うねりながら加奈子を|呑《の》み込もうとしている。
加奈子は|恐怖《きょうふ》を感じた。この場から逃げ出したいと思い、そしてなぜか同時に、決してここから自分が動けないだろうということを、知っていたのだった……。
2 相 棒
「ああ、おいしかった!」
と、マリは言って、水をガブガブ飲んだ。
「――まだ物足りねえな」
と、ポチが文句を言う。「大体食器がいけないや。やっぱりウェッジウッドか、ヘレンドでなきゃ」
「何言ってんの。犬が食器のブランドにこだわるなんて、聞いたことないわ」
と、マリは顔をしかめる。「感謝してよね。私が皿洗いして働かなかったら、あんただって、ご飯にありつけなかったんだから」
「恩着せがましいこと言うなよ。|俺《おれ》が皿洗いを手伝ったりしたら、それこそ大変だろ」
そりゃそうだ。何といっても、その名の通り、ポチは真黒な犬なのだから。
もちろん、それは外見だけのことで、ポチの正体は「悪魔」。それも、落ちこぼれの悪魔という情けない|奴《やつ》である。地獄から|叩《たた》き出されて、人間界に修業[#「修業」に傍点]にやって来た。
一方のマリは、といえば、こっちは同じ「落ちこぼれ」でも天国の下級天使。さぼったり遊んだりが過ぎてお目玉をくらい、「人間界のことを勉強して来い!」と研修[#「研修」に傍点]に出された。
マリの方は女の子に、ポチの方は前述の|如《ごと》く黒い犬になって、人間界を一緒に旅している。そのいきさつや、名前の由来は、このシリーズの第一作をお読みの方ならご存知だろう。
ともかく、仮の姿とはいえ、今は生身の女の子と犬である。食べなきゃ生きていけない、というので、マリは仕事の口を捜しているのだが、ちょっと若い女の子になりすぎてしまって、なかなか雇ってくれる所がない。
お金がなくては生きていけない! というわけで……。
通りかかったこのラーメン屋さんで、
「お皿洗うから、何か食べさせてくれませんか」
と、頼み込んだのである。
幸い、おかみさんが親切で、簡単な皿洗いをしただけで、チャーハン、ギョーザ、ラーメン、とたっぷり食べさせてくれた。
「これで一日はもつ」
と、マリは息をついた。
「俺はもたないよ」
「もたせなさい。ダイエットになるわよ」
と、マリは言ってやった。
念のためだが、ポチと話せるといっても、もちろん、ポチの言葉は、人間には単なる犬の|唸《うな》り声にしか聞こえないのである。
「――どう? お|腹《なか》|一《いっ》|杯《ぱい》になった?」
と、おかみさんが店の奥から出て来た。
「ええ、おかげさまで。どうもありがとうございました」
と、マリは礼を言った。
「いいのよ。どうせ今は暇な時間だしね。――でも、あんたも大変ねえ、そんな大きな犬までつれて」
「ええ、手がかかるんです」
「――うるせえ」
と、ポチがふてくされる。
「ねえ……。|可《か》|哀《わい》そうだけど、その犬……。どうしても、っていうんだったら、保健所へ頼んで始末してもらったら?」
ポチがギョッとして目をむいた。
「あ――いえ、でも、そういうわけにもいかないんです」
と、マリが言った。「両親がとても|可《か》|愛《わい》がってたんで……。兄妹同様に育ったんです」
「そう。でも、ちょっと可愛げのない犬ね」
「大きなお世話だ」
と、ポチがますますむくれた。
「あら、お客さんだわ。――ゆっくりしててね。お茶、勝手に|注《つ》いで飲んでちょうだい」
と、おかみさんが言って、入って来た客の方へと歩いて行く。
入って来たのは、いかにもくたびれた感じのコートをはおった中年男。
「ラーメン一つ」
と、力のない声で言って、「TV、つけていいかね」
と|訊《き》いた。
「どうぞ」
おかみさんは、店の奥へ入って行き、中年男は、棚の上の、一体何年前の型か分らない古いTVのスイッチを入れた。
「――おっ、俺の好きな子が出てるぜ」
とポチが、TVに映ったアイドル歌手を見て言った。
「あの歌の下手くそなこと! 私の方がよっぽどましよ」
と、マリは顔をしかめた。
何しろ天国では合唱練習が毎日の日課なのである。
「地獄なら大歓迎だぜ、音痴な奴は」
と、ポチは言って、「チェッ、チャンネル変えちまいやがった! おい、元に|戻《もど》して来いよ」
「いやよ。犬が見たがってます、なんて言えないでしょ」
と、マリは言って、「さ、もう|一《いっ》|杯《ぱい》お茶飲んだら、行こう」
と、立って、カウンターに置いてある、お茶の入ったポットを取りに行った。
「おい、お茶こっちにもくれよ」
TVをつけた中年男が、マリのことをウェイトレスと思ったらしく、声をかけて来た。
「あ。――はいはい」
これぐらいは手伝ってあげよう、とマリは、|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》に薄いお茶を入れ、「はい、どうぞ」
と、持って行った。
「ああ。ありがとう」
と、その中年男はお茶を受け取ったが――。
マリの顔をふと見上げると、ハッと息をのんで、
「加奈子!」
と、言った。「お前――」
「え?」
マリの方もびっくりした。が、その男の驚きも、ほんの何秒かで、失望に変った。
「いや……。すまん。――ちょっとね」
無精ひげののびた、疲れた顔を、少し伏せ気味にして、「知ってる子に、ちょっと似てたもんだから……。いや、悪かった」
「いいえ」
マリは快く言って、席に戻った。
「何だい、あのおやじ」
と、ポチが言った。
「分んないけど、私のこと、誰かと間違えたみたい」
「ふーん、お前に似てるのがいるのか。物好きだな」
「好みの問題じゃないでしょ」
マリが熱いお茶を飲んでいると、もう一人、客が入って来た。
寒い季節らしい黒っぽいコートをきっちりとはおって、入口近くのテーブルについた。伏せがちにしているので、顔はよく見えない。
「いらっしゃいませ」
と、気付いたおかみさんが声をかける。
「おい見ろよ」
と、ポチが言った。
「何?」
「TVさ。――ほら、ニュースをやってる」
マリは、カラーTVといっても、何だかわずかばかり色がついてるだけ、という、お店のTVへ目をやった。
何だか、妙な白い服を着た女の子が、大勢の人の前で、両手を合せてお祈りみたいなことをやっているのだ。
「何なの、あれ?」
「知らないけどさ」
と、ポチが愉快そうに、「お前とよく似てるぜ」
「女の子が?」
マリはTVへ目をやって、「ちっとも似てやしないじゃないの」
「いや、似てる。お前、自分の方が|可《か》|愛《わい》いと思ってんだろ」
「誰が」
マリはツンとして、「そういううぬぼれは、天国じゃ罪になるのよ」
「ハハ、無理してら」
「余計なこと言ってないで、もう行きましょ」
マリがお茶を飲み干す。――すると、さっきの中年男が、振り返って、またマリの顔をじっと眺めている。
マリは無視することにした。カウンターの所へ行って、
「どうも、ごちそうさまでした」
と、おかみさんに声をかける。
「あら、行くの? 気を付けてね」
「ええ。どうも……」
マリは、ポチを従えて、店を出ようとした。後から入って来た黒いコートの男のそばを通る。
その男は、コートを脱ごうともせず、じっと座っていたが、通りがかったマリの方をふと見上げて――なぜかドキッとした様子で、目を見開いた。
マリも天使ではあるが、結構気の強い方なので、
「何か顔についてます?」
と、言ってやった。
男はあわてたように、
「いや、別に……。どうも失礼」
と、首を振った。
――外へ出ると、マリは、肩をすくめて、
「世の中にゃ、変った人も沢山いるわね」
と、言った。
心の中で、「私って、そんなに可愛いかしら?」と付け加えたが、ポチに何か言われそうで、口には出さなかった。
「どこへ行くんだ?」
と、ポチは言った。
「さあ……。ともかくここに立っていても、何も見付からないわ。出発!」
「――全く、計画性ってもんがねえんだからな」
と、ついて歩きながら、ポチはブツブツ言った。「天国にゃ年間予算ってのはないのか?」
二人[#「二人」に傍点]はもちろん知らなかった。
あの黒いコートの男が、何も注文せずに千円払ってラーメン屋を出ると、二人の後を|尾《つ》けて歩き始めたこと。
そして店に残っていた中年男が、もう別のニュースになってしまったTVの画面に向って、
「加奈子……。加奈子……」
と、|呟《つぶや》いていたことを。
職業安定所に勤めて二十五年になる、その女性は、ほとんど本名で呼ばれることがなく、専ら「ツルさん」の愛称で呼ばれていた。
細くて長い首、|尖《とが》った顔が、いかにも「|鶴《つる》」みたいだったからである。
もちろん、鶴の方からは、「メガネなんかかけてないわ」という異議が上ったかもしれないが、そこはまあ、うるさく言うこともあるまい。
「――そうねえ」
この「ツル」女史も、こういう相談人を受け持つのは初めてであった。「あんた本当に十八歳?」
その少女は、見たところ十六、七にしか見えなかった。
「間違いありません」
と、マリと名乗った少女は熱心に言った。
「ふーん、何か証明になるものは?」
と、「ツル」女史は言った。
「本人がそう言ってるんですから、間違いないでしょ?」
と、少女は言った。「私、|嘘《うそ》はつきません」
「そう……」
嘘でしょ、とも言いにくいので、「ツル」女史は、メガネを直して、「まあ、あなたを信じないわけじゃないのよ」
「そうです、信じるものは救われます」
「え?」
「あ、いえ――いつも上級の天使からそう聞かされてるもんですから、つい出ちゃうんです。気にしないで下さい」
「上級の――」
「ここ、ずいぶん古い建物ですね」
と、少女は話をそらした。
「それだけ|由《ゆい》|緒《しょ》があるの。分る? 歴史があるのよ」
「分ります。天国も、もうずいぶん古くてあちこち直さないと……」
「どこが?」
「あ、いえ、何でもないんです。それで、何か私にできる仕事、ないでしょうか」
「そう。――仕事ね」
どうも調子が狂ってしまう。「でもねえ、あなたみたいに若くて、特別な技能がない子はねえ……」
「でも、一生懸命働きます」
「そりゃそうでしょうけどね。住み込みでも可、っていうのは分るけど……。犬と一緒でないとまずいの?」
「ツル」女史は少女の足下に、いやにでかい態度で座り込んでいる真黒な犬を見て、|訊《き》いた。
「そうなんです。ずっと一緒にいるもんですから」
「犬ごと住み込み、っていうんじゃ、やっぱり難しいと思うわよ。その犬どこかへやるとか預けるとか、できないの?」
「それは、ちょっと……」
と、少女が目を伏せる。
「じゃあ、よく捜しとくわ。二、三日したらまた来てちょうだい」
と「ツル」女史は言った。
「そうですか……」
「あなたの方もね、犬と別になれないか、よく考えて」
「じゃ、話し合ってみます。ポチと」
「ポチと――ね」
「ツル」女史は、少女と犬の出て行く後ろ姿を見送って、首をかしげた。
少しおかしいのかしら? そんな風にも見えないけど。
長年の経験から、女史は人を見る目に自信を持っていたが、この日、その自信は多少、揺らいだのである。
女史の手もとの電話が鳴った。
「はい、もしもし。――はあ、さようでございます。――ええ、求人の。――はあ。――女の子。十八歳の。――そうですか。それはまあ……。え?――何と[#「何と」に傍点]一緒ですって?」
と、「ツル」女史は目をパチクリさせた……。
安定所を出て、マリとポチは、すぐそばのペンキのはげたベンチに腰をおろした。いや、腰かけたのは、もちろんマリだけである。
「困ったわね」
と、マリが言った。
「|俺《おれ》のこと、放っぽっとけばいいじゃねえかよ」
と、ポチは言って、|欠伸《あくび》をした。「何も、お前の方は一緒にいなきゃならない義理はねえだろ」
「そんなわけにいかないわよ」
と、マリは少し怒ったように言った。「あんたはそりゃあ、たまには頭に来ることもあるけど、一緒だから、やってける、ってこともあるし、私のこと、助けてくれたことだってあるじゃない。天使はね、人の恩は決して忘れないの。犬だって、本当はそうなのよ」
へっ、ありがたいこった。――ポチは内心舌を出した。
マリは知らないが、ポチがこうしてマリについて歩いているのは、ある下心があってのことで……。
実は、ポチが地獄へ|戻《もど》るには、一つ条件がある。「|堕《だ》|落《らく》した天使」を一人、連れて帰る、というのである。
マリが人間を信じなくなって、そう口に出したとしたら、それで「天使」としては永久に失格になる。で、ポチはマリを|召使《めしつかい》にして、地獄へ堂々と帰って行ける。
それを|狙《ねら》って、ポチはマリにくっついているのだ。それには多少、マリを油断させる必要もある……。
「それじゃ、また車にはねられる|真《ま》|似《ね》でもするか」
「やめなさいよ。あの時はうまくいったけど、二度目もうまくいくとは限らないわ」
「そうだな、結構痛いしな……」
「おお寒い」
木枯しが吹きつけて、マリは身震いした。「天使が寒さに震えてるなんて、上級の天使が見たら、何て思うかしら」
「何か芸でもやって、稼ぐか」
「あんた何かできる?」
「俺は無芸大食。――お前、一応見た目は女の子だぜ」
「だから何よ」
「風俗産業ってのがあるだろ。ちょっと脱いで見せたりして」
「けとばすわよ!」
と、マリはかみつきそうな顔で言った。
すると、安定所の扉が開いて、さっきの女性があわてて飛び出して来たのだ。
「――ああ良かった! まだいたのね」
「何か……」
「たった今、電話で求人があったの。十八歳ぐらいの女の子って」
「まあ。でも……」
「条件が一つあるの」
「やっぱりこのポチが……」
「犬を一緒に連れてること[#「犬を一緒に連れてること」に傍点]、っていうの」
マリは目をパチクリさせた。
でも――まあ、良かった!
「こんなにぴったりの求人なんてね」
と、その女の人は言った。
「ありがとうございました。で、どこへ行けばいいんですか?」
と、マリは|訊《き》いた。
「ええ……。向うが、お金は出すって言うの。ちょっと遠いんだけどね」
と、その女の人は言った。
3 雪の宮殿
「本当にここ?」
と、マリは言った。「ここなの?」
「|俺《おれ》が知るか」
と、ポチは言った。「そう書いてあるんだろ?」
「うん……」
マリはメモを見て、それから今自分たちが降りたバス停の名前を見比べた。
「間違いなく、ここよ」
と、マリは言って、「でも、どこに働くような場所があるの?」
――山の中腹だった。
ゴトゴトとふもとの駅からバスに揺られること二時間。降りたのは、周囲に何もない、林の中。
もちろん、木はあり、かつ、二メートル近いかと思うほどに積った雪もあったが、そこに仕事場があるとは、とても思えなかったのである。
「――どうしよう?」
「だって、知ってんだろ、向うだって」
「そのはずよ」
「じゃ、きっと迎えに来るさ」
「そうか。――そうね。じゃ、待ってよう」
「それにしても、寒いな」
ポチが言うのももっともだった。
雪国、といっても、マリは、こんな|凄《すご》い雪の積っている所は初めてだった。
当然、寒い。――都会での寒さとは、|桁《けた》が違っていた。
一応マリもオーバーを着て(古着だが)マフラーも巻いていたが、寒さはじわじわと|肌《はだ》に伝わって来る。
曇っていて、日は|射《さ》していないので、昼間のはずなのに、夕方のように薄暗いのだ。何だか心細くなる状況だった。
「――腹が減ったな」
と、ポチが言った。
「私だってよ。向うへ着けば、何か出してくれるでしょ」
「そうかな。――あったかいスープとか?」
「肉マン、ギョーザ、|牛丼《ぎゅうどん》」
生活の状態が知れるというものである。
「よせ。ますます腹が減る」
「私も……」
マリは、足踏みして、何とか体をあっためようとした。――三十分くらい待っただろうか。
「あ――」
と、マリは言った。
誰かが迎えに来てくれたわけじゃなかった。――雪が降り出したのである。
「おい……。やばいぜ」
「そうね。でも――すぐやむわよ、きっと」
マリの希望的観測とは逆に、見る見る内に雪は、除雪した道に降りつもり、真白に染め上げていった。
「どうする?」
「そうね……。困ったわね」
「このままじゃ、二人とも雪ダルマになっちまう」
「犬の雪ダルマって、どんな格好?」
|冗談《じょうだん》を言っている場合じゃなかった。――雪は、ますます激しくなって、視界を|遮《さえぎ》るくらいになってしまった。
「――どうしましょ?」
「何とかしろよ! お前天使だろ?」
「だからって何よ!」
仕方ない。じっとしてたら、本当に死んじゃう。
「――歩きましょ」
「どこへ?」
「この近くに、仕事場があるはずだわ――。道らしい道っていえば、あの、山の上の方へ上る階段だけよ」
「あれ、上るのか?」
「ここで雪に埋るよりいいでしょ」
「分ったよ……」
不服そうながら、ポチも同意した。
二人は、新雪に足をとられながら、道を渡り、階段――といっても、クネクネと続く、自然の石段みたいなものだったが――を上り出した。
「おい……。もう少しゆっくり行けよ!」
と、ポチがハアハア言っている。
「しっかり! もう少しで上り切るわ」
マリだって、息が切れているのである。
「ほら、ここで階段が終り――」
マリは、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、目の前に広がる雪原を眺めた。なだらかな上り斜面で、その上の方に、また林がある。
「おい……。ここが仕事場か?」
「雪かきの仕事かもしれないわね……」
と、マリは言った。「でも――あの上にはきっと――」
「本当か?」
「だって、今の所、下りる?」
ポチは、下の道を見下ろして、
「いや」
と、首を振った。
「じゃ、行きましょ。――もう少し|頑《がん》|張《ば》って!」
雪一色の中へ、足を踏み出したマリは、「ワッ!」
と声を上げた。
雪が、腰の辺りまで来てしまったのだ。
「おい、|凄《すご》いぜ、この雪」
「ちょっと――進むの大変そうね」
と言っている内に、雪はいっそう激しく降り出した。
しかも風も強まって、|吹雪《ふぶき》になってしまったのである。白い煙のように雪が舞って、何も見えない。
「――どこなの!」
「おい! こっちだ!」
「見えない……。ポチ!」
もう、とても相手を捜してはいられない。マリは、吹雪の中、一寸先も見えない状態で、雪をかき分けるように進んで行ったが……。
ついに力尽きて、雪の中に倒れた。
もう、冷たさも感じない。――雪は、まるで暖かい毛布のように、フワフワして、すっぽりとマリを包んでくれた。
ああ……。このまま眠るんだわ。
そして、また天国へ帰れる。――大天使様、すみません……。
マリは、雪が自分の上に羽毛のように降りかかるのを感じながら、意識を失っていった……。
――いい湯だな。
マリは思った。天国にも温泉ってあったんだっけ?
下級の天使は知らないけど、結構、えらい天使は、こっそり温泉につかって、鼻歌でも歌ってんのかもしれないわ。ずるい!
それにしても……。手足の感覚が|戻《もど》って来て、とっても気持いい。
あーあ。まるで天国みたい、って言ったら、おかしいかしら?
白いものが見えた。
湯気が立ちこめている。真白い。そして、白いタイルの壁。|豪《ごう》|華《か》な|浴《よく》|槽《そう》に、自分が横たわっている。
ここは……天国のスイートルームかしら。
だって……大理石のお|風《ふ》|呂《ろ》なんて!
マリは、そっと左右へ目をやった。
広いバスルーム|一《いっ》|杯《ぱい》に湯気が立ちこめて、鏡や洗面台が、ぼんやりと目に入った。
これは――現実?
マリは、お湯でバシャバシャと顔を洗った。耳や鼻が、ひりひりと痛い。足の指先、|膝《ひざ》の辺りも、何だかまだ冷えてる感じだ。
どうやら助かったんだ、とマリは思った。
でも、どうしてこんな凄いお風呂に?
すると――誰かがバスルームへ入って来た。
「気が付いたかい」
男の声に、マリはびっくりした。
「あの……」
「いや、良かった。もう少し遅かったら、君は凍え死んでたよ」
湯気が少しずつ薄れると、五十がらみのスマートな紳士が、背広姿で立っているのが目に入った。
「私……」
「すまなかったね。君らの着くのを、明日と|勘《かん》|違《ちが》いしていて、迎えに行かなかったんだ。――ああ、私は|中《なか》|山《やま》というんだ」
「マリです。あの……ポチは、どうしたんでしょう?」
「ああ、君の黒犬だね。大丈夫。一足先に目を覚まして、せっせと食事中だよ」
「そうですか」
マリはホッとしたが……。
「君も、何か食べた方がいい。出たら、用意させるからね」
「ありがとうございます」
「他に何かほしいものは?」
「あの……」
「何でも言ってごらん」
「すみませんけど、出てていただけますか」
中山という男は、ちょっと笑って、
「こりゃ失礼! レディの入浴を|覗《のぞ》いてしまったね」
と、言うと、「では、また後で会おう」
と、バスルームを出て行った。
マリはホッと息をついた。――なかなか|魅力《みりょく》のある人だ。
でも……。マリは少し不安だった。
十八歳の女の子を雇うにしては、こんな待遇は、不自然だろう。――一体こんな所で、何の仕事をするんだろう?
でも、ともかく、今は「生き返る」ことだ。
――お|風《ふ》|呂《ろ》を出て、置いてあったバスローブをはおり、バスルームを出ると、
「何だ、気が付いたのか」
ポチが、ソファの上に、のんびり寝そべっている。
「ここは?」
マリは|唖《あ》|然《ぜん》として、まるで『アラビアンナイト』の宮殿みたいな、|豪《ごう》|華《か》な部屋の中を眺めていた。
「どこだか知らねえよ、|俺《おれ》も。でも、いいじゃないか。おかげで生き返ったしよ」
床に並んだ皿は、どれも、きれいになめ尽くされて、空っぽになっている。
「よく食べたわね」
「出してくれたものは、平らげるのが礼儀さ」
ポチは|大《おお》|欠伸《あくび》した。「腹が|一《いっ》|杯《ぱい》になったら、また眠くなった」
ドアをノックする音がして、マリは、
「どうぞ」
と、言った。
高級ホテルのボーイみたいな制服の若い男が、ワゴンを押して入って来た。
「お食事でございます」
「はあ、どうも……」
マリは、急にお腹がグーッと鳴って、顔を赤くしたのだった……。
これからの数分間は、目をつぶっておくのが礼儀というものだろう。うら若き|乙《おと》|女《め》が、息をする間も惜しいくらいの勢いで食事をしているさま[#「さま」に傍点]は、あまりみっともいいものじゃないのだから。
料理のワゴンが来て五分ほどしてから、さっきの中山という男が、平たい箱をわきにかかえて入って来て、
「食事中お邪魔するよ」
と、|微《ほほ》|笑《え》むと、「味の方はいかが――」
と言いかけて、ほとんどの皿が空になっているのを見て、一瞬|唖《あ》|然《ぜん》とし、
「味も悪くなかったようだね……」
と、付け加えた。「君の服は、ひどい状態になっていたから、全部こっちで処分したからね。ここに|一《ひと》|揃《そろ》い、着るものを持って来た。まあ、好みには合わないかもしれないが、着てみてくれないか」
「はあ……。どうも」
あわてて口の中に入っていたものをのみ込んだマリは、やっとの思いで、礼を言った。
「じゃあ、三十分くらいしたら、また来るからね」
と、出て行きかける中山へ、
「あの――」
と、マリは呼びかけた。「お礼を……。助けていただいて、その上、こんなにごちそうまで……。本当にありがとうございます」
「いやいや、これぐらいのこと、何でもないんだよ」
「それで――私、どんな仕事をすればいいんでしょう? お皿洗いなら、大分あちこちでやって上手なんですけど。ただ――こんな高級な食器には向きません、日に一、二枚は割ってましたから」
中山は、ちょっと笑って、
「君にそんなことはさせないよ。ともかく、後でゆっくり仕事の話もするから、今は一息ついていたまえ」
「ありがとうございます」
マリは、深々と頭を下げた。
「――何も|焦《あせ》って働くこたあねえじゃねえか」
と、ポチがウトウトしながら言った。
「私はね、あんたみたいな怠け者じゃないの。働く喜びってのを知ってるのよ」
「勝手にやってろ。|俺《おれ》は一眠りするからよ……」
言うより早く、ポチはフガーッ、グォーッと派手な寝息をたてながら寝入ってしまった様子。マリは|呆《あき》れて眺めていたが、
「じゃ、いただいちゃいましょ」
と、食事のわずかな[#「わずかな」に傍点]残りを、平らげにかかった。「――だけど、あの中山さんって、なかなか渋くてすてきねえ……」
などと、食べながら独り言。
天使とはいえ、マリも今は生身の女の子である。すてきな男性には胸がときめくし、恋なんてものも、地上研修のついでに(?)してみたい、などと考えているのだ。
上級天使が知ったら、またお目玉を食らうかもしれないけれど。
ほんの何分かの間で食事は完了し、マリはポットに入っていた熱いコーヒーを、ゆっくりと味わった。
そして、すっかり元気を取り戻すと、中山が持って来てくれた箱を開けてみることにしたのだが……。
「――すてき!」
|可《か》|愛《わい》いすみれ色のニットスーツで、マリなんかが着ると、ちょっと大人びた感じになりすぎるかもしれないが、でも本当に――高そう[#「高そう」に傍点]だった! つい、値段で考えてしまう、というのが、マリの生活感覚だろう。
下着まで全部|揃《そろ》っているのを見て、マリは少し顔を赤らめたが……。でも、せっかく揃えてくれたんだ。早速着てみよう。
ポチは相変らずグーグー寝ていたが、一度マリは服を全部かかえてバスルームへ入り、ロックした。
鏡の前で、服を身につけてみると、何だか自分であって自分でないような……。やっぱり女の子として、胸の弾むものを、マリは感じていた。
化粧台のブラシを使って、髪を整え、一応、見っともなくない程度になったと納得すると、マリはバスルームを出た。
「あ――」
さっき料理のワゴンを押して来てくれた若者が、ワゴンに空の皿を重ねているところで、マリは、
「どうも、ごちそうさま」
と、声をかけた。
マリの方を見たボーイ風の制服の若者は、なぜかハッとした様子で、
「加奈子!」
と、言った。
「え?」
マリが面食らっていると、若者はあわてて、
「いえ――失礼しました。何でもないんです。どうも……」
と真赤になって、ワゴンを押して出て行ってしまう。
「妙ね……」
マリは首をかしげて、「加奈子……。どこかで聞いた名だわ」
と、|呟《つぶや》いた。
つい最近、どこかで「加奈子」という名を聞かなかっただろうか?――やっぱり、まだ少しボーッとしているのか、思い出せないのだ。
ドアをノックする音がした。
「あ、どうぞ」
と、マリが声をかけると、中山が入って来る。
一目マリを見て、
「すばらしい!」
と、ため息をつく。「私の見立ても、なかなかのもんだ。そうだろ?」
「本当にすてきです。あの……このお代は……」
中山は、ちょっと笑って、
「君はなかなか|律《りち》|儀《ぎ》な子だね。それは言うなれば『仕事着』だ。こっちで君に着てもらったんだから、心配することはないよ」
「どうも……」
「じゃ、よかったら、こっちへ来てくれないか」
「はい!」
と、歩きかけて、「あの――ポチはどうします?」
「ああ、寝かしときゃいい。番犬の役にはあまり立たないようだがね」
ポチが、ウーッと|唸《うな》った。マリの耳には、ちゃんと、
「大きなお世話だい」
と言っているのが聞こえたのである。
4 代 役
「一体ここは何ですか?」
と、果しなく続きそうな廊下を歩いて行きながら、マリは|訊《き》いた。
「|戸《と》|惑《まど》うのも当然だがね」
と、中山は言った。「ここは我々の宗教の総本山というわけだ」
「宗教?」
「そう。〈|有《う》|徳《とく》と平安のための教団〉というのを、聞いたことはないかね?」
「有徳と平安……。すみません、不勉強で」
「いやいや、構わんよ。まだ創立して十年ほどしかたっていない、新しい宗教だがね、今、全国に五十万人近い信者がいる」
「五十万……」
「大企業のオーナーとか、大地主にもかなりの信者がいてね、その人たちの寄付で建てたのがこの本山さ」
「でも――|凄《すご》い広さですね」
「全国大会には五万人も集まるからね。これぐらいの広さは必要なんだ。――さ、こっちへ来て」
わき道へそれる格好で、細い廊下を歩いて行くと、突き当りに|頑丈《がんじょう》そうな扉があった。
「スタジオだよ。中へ入ろう」
力をこめて中山が扉を開けると、そこは三十畳くらいの広さは充分にある、広々とした場所で、天井は高く、ライトやマイクのスタンドが、あちこちに立って、本物に違いない大きなTVカメラも三台あった。
「何するんですか、ここで?」
「全国の信者に向けてのメッセージとか、講話とかを、ここで録画するんだ。本格的なTVスタジオの設備だよ」
「凄いですね」
と、マリはただ目をみはっている。
「君ね、そこへ座って」
中山に促されるまま、マリは、|肘《ひじ》かけのついた、モダンな|椅《い》|子《す》に座った。
「これでいいんですか?」
「うん。――正面のカメラの方を向いて。そのままにしててくれ。いいね?」
「はい。あの――」
「何だね?」
「息しててもいいですか?」
中山がふき出した。
「レントゲンをとるわけじゃないからね。楽にしてていい。――じゃ、座っててくれ」
中山がスタジオから出て行く。一人、取り残されたマリは、いささか落ちつかない気分で、右左をキョロキョロ眺めていた。
「動かないで」
急に中山の声がスタジオの中に響き渡った。
「は、はい!」
どこかからマイクで呼びかけているらしい。マリはあわててきちんと座り直した。
「正面のカメラを見て」
とたんにサッと照明が|点《つ》いて、マリにまぶしいほどの光が降り注いだ。
「そう。――もう少し頭を上げて。カメラをそんなににらみつけなくてもいいよ」
「はい」
そんなこと言ったって! こっちは役者じゃないんだから。
「できるだけ愛想良くね。――ニッコリ笑って」
マリは|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》の|可《か》|愛《わい》い笑みを浮かべたが、見たところはほとんど顔面神経痛か歯痛に|悩《なや》む人みたいだった。
「――OK」
と、中山は言った。「次は何かしゃべってみてくれ」
「はあ?」
マリは面食らった。「しゃべるって……。何をですか?」
「何でもいいよ。君の好きなことをしゃべればいい」
「はあ……」
そんなこと言われたって。誰もいないのに、どうやって? タレントじゃないのだから、TVカメラに向って話をするなんてこと……。
「――何か話して。君の生い立ちでもいいよ」
それこそ、話しようがない!
「ええと……あの……今日はとてもいいお天気で……。そうでもないか。雪でしたね。往き[#「往き」に傍点]はよいよい、帰りは|怖《こわ》い。え?――何言ってんだろ、私? つまり……天国みたいでしたね、さっき目が覚めた時は。でも、天国って、その――皆さんが考えてるのとは大分違うんです。よくいるんですよね、天国へ来られてから、『何だ、こんな所か』ってがっかりする方が。天国って、何かこう――|豪《ごう》|華《か》な宮殿みたいな所だと思ってる人がいて、そこへ行きゃ、もう永久に好きなことして遊んでられる、っていうか。でも、本当はそんなことないんです。遊んでばっかりいたら、人間って、いやんなりますから。ええ、絶対に。だから、やっぱり天国でも任務とか仕事ってものがあるんです。私たち天使が、それの手配とかやるんですけど、お給料とか、全然出ません。お金ってもんが天国にはありませんから。働く喜びっていうか……。人の役に立ってることで、自分も|嬉《うれ》しいっていうこと。それこそ天使の喜び、なんちゃって。これ、いつも毎朝起きると、三回みんなで|一《いっ》|斉《せい》にくり返すんですよね、せーのって。でも、ぴったり合ったことがなくて、いつも上級の天使が怒ってます。天使が怒ったりしちゃまずいんじゃない? なんて、よく私たち下級の天使はコソコソ話してるんですけど。ともかく、天国って、やっぱりいい所です。天国よいとこ、一度はおいで、とか……。ハハ、一度しか来られませんよね、誰だって、ねえ。好んで地獄行く人って、あんまりというか、たぶんいないと思うんです。人間って、付合えば付合うほど、可愛いっていうか、哀れっていうか……。悪いことして、地獄へ行くなあ、この人、とか思っても、どうしても憎めないんですよね。生れた時までさかのぼってみれば、みんな同じ赤ん坊で……。あ、そうですね、天国ってやっぱり赤ん坊とか子供は絶対数が少ないんです。高齢化が天国でも問題になってまして、特に〈天国フィルム〉で映画とっても、主人公の恋人同士がどっちも七十歳だったりすると……。見る人の評判があんまり良くないんで、役者とか、音楽家とかに関しては少し受け入れ規準を下げようか、とか今検討中……」
マリはハアハア息を切らして、
「あの……もういいですか?」
と、すっかりくたびれて|訊《き》いた。
しばし間があってから、
「いや……充分だ」
と、中山の|呆《あっ》|気《け》に取られたような声がした。「君――実に想像力が豊かだね」
「ありがとうございます」
|誉《ほ》められているのかどうか、ともかくマリは礼を言うことにした。
「この人が?」
と、マリは言った。
「我々の教祖――第二代の教祖だよ」
「こんな若い女の子が!」
ビデオプロジェクターの五十インチの大画面に映し出されているのは、白い衣に身を包んだ少女で、見渡す限り(というのは少しオーバーだが)の信者に向って、よく通る声で教えを説いているところだった。
「あの時、TVで見たろ」
と、ポチが言った。
ポチも目を覚まして、このスタジオに隣接した小部屋に来ていたのである。
「あ、そうか」
「え?」
と、中山が不思議そうに、「どうかしたかい?」
「いえ、何でもないんです」
マリはあわてて首を振った。「あの――この人、どこにいるんですか?」
「今はアメリカに行ってる。向うに支部ができることになっていてね」
「へえ、|凄《すご》いですねえ」
と、マリは|素《そ》|朴《ぼく》に感心していた。
あ、そうか。――突然思い出した。
加奈子[#「加奈子」に傍点]って……。あの時、ラーメン屋さんでTV見てたおじさんが私を見て言ったんだわ。
加奈子……。すると、さっきのボーイさんの格好した若い人も、同じ人のことを言ってたのかしら?
「――これが君だ」
と、言われて画面に目を|戻《もど》すと、自分がカメラをギョロッとした目でにらみつけている。
「ワア! いやだ、恥ずかしい!」
マリはとても見ていられなくて、両手で顔を|覆《おお》ってしまった。
「いや、とても|可《か》|愛《わい》くうつってるよ」
「そんな! いやだわ、もう!」
なんて言いながら、マリは指の|隙《すき》|間《ま》から、そっと|覗《のぞ》いていた……。
「君は今の教祖にそっくりだ」
と、中山は言った。
「私が……?」
「そう。もちろん双子じゃないから、全く同じってわけにはいかないが、少し|眉《まゆ》の形とか、|頬《ほお》の辺りとかを、メーキャップで変えれば、充分に教祖として通用するよ」
マリは|戸《と》|惑《まど》った。
「どういう意味ですか?」
中山は、ビデオを止めると、
「君の仕事[#「仕事」に傍点]さ。君に来てもらったのは、このためだ」
「よく分りませんけど」
「君に、教祖の代役[#「代役」に傍点]を演じてもらいたい」
マリは面食らって、
「私が――あんなことやるんですか? 白い服着て?」
「説教しなくてもいい。ただ――教祖は非常に忙しい。日本中をいつも飛び回っているし、目下のように外国へも飛ぶ。その間、ここを訪れる信者は、教祖の姿を拝めずに、がっかりして帰ることになる」
「はあ」
「君が身代りで、姿を見せ、|会釈《えしゃく》したり|微《ほほ》|笑《え》んだりするだけで、信者たちは、来たかいがあった、と満足して帰って行く。分るだろう?」
「でも――今のビデオもありますよ」
「ビデオじゃだめさ。本物の教祖がそこ[#「そこ」に傍点]にいる、というのとは全く別だよ。分るだろ」
「ええ……。でも、何だか――」
「もちろん、君は何もしゃべらなくていい。周囲には私も含めて、何人もの人間がついているからね。君は、ただ黙って立っているとか、歩いているとかすればいいんだ。どうだね、難しくないだろ?」
「それは……。でも、もし、本物じゃない、って分っちゃったら、どうするんですか? |却《かえ》ってまずいことに――」
「それは絶対にない」
と、中山は首を振って、「君と教祖の見分けがつくのは、ごく身近な人間だけだし、身近な人間は事情をちゃんとのみ込んでいるからね」
「はあ……」
マリは、迷っていた。
もちろん、中山の言う通りなら、難しい仕事ではないかもしれない。別に、害のあることとも思えないし。
でも、どう言いわけしてみても、それは信じてやって来る人々を「|騙《だま》す」ことにならないだろうか?
といって、命を助けてもらった恩は、返さなくてはいけないし……。
すると、部屋のドアが開いて、中山よりは大分若い感じの、スラリとした背の高い女性が入って来た。
「あら、失礼」
「いや、構わんよ」
中山は、立ち上って、「これが、さっき話したマリ君だ」
「まあ」
と、その女性はマリを眺めて、目を見開き、「驚いた。――こんなに似てるなんて」
「だろう? マリ君、こちらはね、教団の幹部の一人、|水《みず》|科《しな》|尚《なお》|子《こ》君だ」
「初めまして」
と、マリは頭を下げた。
「ちょっと話が――」
と、水科尚子は中山の方へ言った。
「分った。――君、ここにいてくれ。すぐ|戻《もど》る」
中山は、水科尚子と二人で出て行った。
「なかなかいい女だな」
と、ポチが言った。
「知的って感じね。いかにもバリバリ仕事をやりそう」
「結構ああいう女は色っぽいんだぜ」
「エッチ!」
「それより、何を迷ってんだ?」
ポチに言われて、マリはちょっとドキッとした。
「だって――|嘘《うそ》つくことになるじゃない、身代りなんて」
「別に誰も損しやしないぜ」
「そりゃそうだけど……。引っかかるのよね、やっぱり」
「お前みたいなこと言ってちゃ、人間としてやっていけないぜ」
「そりゃ、私は天使だもん。だけどさ、妙だと思わない?」
「何が」
マリは、あのラーメン屋にいた中年男と、さっきのボーイ姿の若者が、二人ともマリを、
「加奈子」
と呼んだことを話してやって、
「加奈子って人が、あの教祖なのかもしれないわね。でも、あのおじさん、どうみても、初代の教祖って感じじゃなかった」
「別に親子で|継《つ》いでるわけじゃねえんだろ。ここの事情だよ。|俺《おれ》たちにゃ関係ないさ」
「まあね」
「待遇は良さそうだし、断る理由もないんじゃないか? 俺はしばらくのんびりしたいね、ここで」
「あんたは楽することばっかり考えてんだから」
と、マリは言ってやった。
「だけど――〈|有《う》|徳《とく》と何とか〉だか何だか知らねえけど、|儲《もう》かるんだなあ、こんな|凄《すご》いもんぶっ建てて」
「本当ね。それも私、引っかかってることの一つなの。お金持すぎると思わない?」
「そんなもん、キリスト教だって同じだろ。これより何倍も凄い教会がいくつもあるぜ」
「そりゃまあ……そうだけど」
「要は信者がそれで安心すりゃいいのさ」
と、ポチはクール(?)である。
「でも、妙ねえ。現代なんて、本当に合理的で何でもあってさ、みんな楽しそうに見えるけど、こういうものにワッと集まって来る人って沢山いるんだ」
「現代人は孤独なのさ」
「何よ、分ったようなこと言って」
と、マリは笑って言った。
ドアが開いた。マリは、中山だと思って、パッと立ち上ったが――。
「加奈子!」
これで、そう呼ばれたのは三度目である。
今度は四十ぐらいの、大分太り気味のおばさんだった。
「あの……」
「良かった! 会えないかと思ったわよ」
派手な化粧をしたその女は、大げさに息をついて、「あの男ったら、どうしても会わせちゃくれないのよ。母親がどうして娘に会っちゃいけないの、ってかみついてやったわ」
娘! じゃ、この人は……。
「散々待たせるからさ、勝手に出て、捜しに来たのよ。やっぱり親子だね。何となくあんたがここにいそうな気がしたの。――すっかり偉くなってさ! よかったね、元気で。心配してたんだよ」
まくし立てられて、マリの方は困ってしまったが……。しかし、どうも母親の喜びようには、作りものめいたものがあるように思えた。
「申し訳ありませんけど」
と、マリは言った。「私、加奈子じゃありません」
その女はサッと顔をこわばらせて、
「何よ、あんた! あの男の入れ知恵だね? それとも、私みたいな母親がいちゃ、見っともない、とでも言うの?」
「いえ、別に……。でも、私、違うんです」
「とぼけたってだめよ、十七年間育てて来たんだからね。私だって馬鹿じゃない。あんたの考えぐらい分ってるさ」
と、その女は腰に手を当てて、「私はね、あんたが何者か、マスコミにしゃべってやることもできるんだよ、分ってるんだろうね」
と|凄《すご》んだ。
マリとしては何とも言えない。ポチが、
「こんな女、追ん出しちまえよ」
と言った。
「あら、何、これ? こんな犬を飼ってんの? フン、|汚《きた》ないね」
「この女め!」
「ポチ……。ね、よく見て下さい。私、あなたの娘じゃありません」
と、マリは言った。
「あくまでそう言い張るの?」
女は、急に、疲れたように|椅《い》|子《す》にかけて、「ねえ、加奈子……。母さんのこと、恨んでるのは良く分ってるよ。あんたのこと、放ったらかしにして、若い男に熱を上げてて。でも……。父さんが消えちまって、|寂《さび》しかったんだよ。分るだろ?」
「あの……」
「あの恋人とはもう切れたんだよ。私もね、ここで心機一転、出直そうと思ってね。いいだろう?」
と、女は言ってマリの手を取った。「あんたの邪魔はしたくないのよ。ね、分るだろ? あんたは充分幸せそうだし……。私だって本当にホッとしてるんだよ」
「でも……」
「私の話は簡単さ。新しく仕事をね――店を出そうと思ってるんだ。小さな店をね。そこで地道にやって行く。ね、それが一番だろ?」
「はあ……」
「そのために少し――ほんのちょっとでいいんだけどさ、お金がいるんだよ。大きなことは言わない。ほんの……そうね、二千万もありゃ、ちゃんとした店ができる。分るだろ?」
お金。――お金がほしいのか。
マリには、この女の笑顔が作りものめいて見えたのがどうしてか、やっと分った。
「あんた、教祖様だろ? 凄いじゃないか。こんな立派な所に住んでさ。二千万ぐらい、あんたの一言で何とでもなる。そうだろう?」
マリは困ってしまった。それにしても、実の母親だっていうのに、娘か、よく似た別人か、分らないんだろうか。
「二千万が無理なら、千五百万でも……。ねえ、加奈子、私だってあんたを十七年間育てたんだよ」
ドアがパッと開いた。
「やっぱりか」
中山が、厳しい顔で立っていた。「勝手に人の家の中を歩き回られては困りますな」
「フン、娘に会って何が悪いのさ」
と、女は中山に食ってかかるように言った。
「教祖はあなたの娘さんではない、と何度も申し上げたでしょう」
「私もそう言ったんですけど……」
と、マリが言った。
「口裏を合せて、仲のいいことね」
と、女はいまいましげに中山をにらむと、「加奈子、この男とできてんのかい?」
「いいですか」
と、中山は断固とした調子で言った。「出て行かないと警察を呼びますぞ」
「いいの? 警察が来て困るのは、あんたたちじゃないのかい?」
そこへ、さっきの水科尚子も顔を出した。
「まあ、こんな所に――」
「今日は引き上げるけどね、このまま引っ込みゃしないよ。あんたたちの教祖様の父親がどんな男か、週刊誌にしゃべってやるからね」
「水科君、ご案内して。もちろん[#「もちろん」に傍点]出口へだ」
と、中山は言った。
水科尚子が女を連れて出て行くと、中山はため息をついて、
「全く、世の中にゃ色んな|奴《やつ》がいるね」
と言った。
「本当にあの人は――」
「単なる言いがかりさ。たかり、ってやつだよ。さもなきゃ、少しおかしいか。いずれにしても金が目当てってことには変りがないんだ」
「お店を出すから二千万くれって」
「君も、のっけから妙な客に会ったね。しかし、立派に相手をしたじゃないか」
中山はポンとマリの肩を|叩《たた》いた。「それでいいんだ。君には立派に教祖の代役がつとめられるよ」
マリは、ちょっと複雑な表情でポチを見た。ポチの方は、気にも止めていない様子で、まだ寝足りないのか、それとも寝すぎたのか、アーアと|欠伸《あくび》をしたのだった……。
5 再 会
「だからやめとけって言ったじゃないか」
と布団の上に引っくり返って、|野《の》|口《ぐち》がタバコをふかしながら言った。「相手にしちゃもらえねえよ」
「このまま|諦《あきら》めてたまるかい!」
阿部ユリエは、腹立ちをぶつけるようにぐいとお茶を飲み干して、「まずいお茶出して、全く!」
「八つ当りすんなよ」
野口は笑った。「ま、こんな所までやって来たんだ。せめて交通費ぐらいは出してほしいな」
「そんな弱腰でどうすんのよ」
阿部ユリエもタバコに火をつけた。窓側の|椅《い》|子《す》に腰かけて、表を眺めている。
いかにも古風な日本旅館で、二人とも、湯上りだった。
「ちょっと」
と、ユリエは野口に言った。「寝タバコはやめて。布団でもこがしたら弁償だよ」
「ああ」
野口は起き上って、灰皿にタバコを押し|潰《つぶ》した。|機《き》|嫌《げん》の悪い時のユリエには逆らわない方がいいのだ。
「だけど、確かに加奈子だったのかい?」
「あんたね、私は母親よ」
と、ユリエはムッとしたように、「いくらだめな母親でも、娘の顔ぐらい|憶《おぼ》えているよ。まだ一年しかたっちゃいないんだからね」
「しかし、向うは知らないって――」
「そう言い含められてんのさ。少しやせたけど、間違いなく加奈子だよ」
野口が肩をすくめて、
「そうだとしても、相手にしてくれなきゃ、どうしようもあるまい?」
「何か手を考えるさ」
ユリエは|苛《いら》|々《いら》している様子で「あんたも何か考えなよ!」
と、かみついた。
やれやれ。――かなわねえな、と野口は内心ため息をついた。
野口はユリエの愛人である。ユリエは今四十だが、野口は三十一歳。もう二年近い付合いで、ユリエの方が完全に野口を引張っている、という関係だ。
野口はもともと遊び人で、女から女へと、泊り歩いている男だった。一見したところ、やさ男で、ちょっと二枚目風なのが、ユリエの気に入ったらしい。
ユリエがバーで働いて食わしてくれていたので、野口ものんびりとやっていた。
ところが――二、三か月前になるか。TVをぼんやりと見ていたユリエが、パッとはね起きて、
「加奈子だ!」
と大声を上げたのである。
野口も、加奈子がほんの短い間だが同じ家にいたから、少しは憶えている。その時TVに映っていたのは、このところ急激に信者をふやしているという、何とかいう新興宗教のドキュメントで、〈教祖は何と十八歳の少女!〉という副題がついていたのである。
確かに、野口もそれが加奈子に似ていることは認めた。しかし、本当に同一人物か、ということになると……。
しかし、ユリエは絶対に間違いない、と言い張るし、実の母親が言うんだから、確かだろう。それに、加奈子が家出をした(のかどうか分らなかったが、ともかくいなくなった)のと、その少女が教祖として信者の前に姿を現わしたのは同じころだったらしい。
それが加奈子だという可能性は決して低くなかった。
ユリエは仕事そっちのけで、この新しい宗教のことを調べ歩いた。
その結果、今、この教団の有力な信者には、一流の企業人が大勢加わっていること、そのせいで、この教団はえらく金持だということ、山の中に、超|豪《ごう》|華《か》な本山が建てられ、教祖はそこにいること、などが分った。
野口は、だからといって、どうしようというわけではなかったが、ユリエは、すっかり「娘が偉くなった」ことで、自分まで偉くなった気でいたらしかった。
娘が行方不明になっても、捜索願さえ出さなかったくせに、とさすがの野口も苦笑したものである。
そして――突然、ユリエは旅仕度をして、店をやめた、と言ったのだ。これから、加奈子に会いに行くわよ!
何億円もの金がうなってる所で、娘がトップの座におさまってるのに、何も母親が|遠《えん》|慮《りょ》するこたあない、と――ユリエらしい勝手な理屈である。
そして、この旅館に昨日やって来て、ユリエはここからバスで三十分ほどかかる、教団の総本山へと出かけて行った。その結果はまあ、こんなものなのである。
ユリエは、不満そうに鼻を鳴らして、
「ビール、ある?」
「ここにゃ冷蔵庫はないぜ。下の自動販売機で、缶ビールを買うんだって、旅館の|奴《やつ》が言ってたじゃねえか」
「そうか。――じゃ、買って来るわ。あんた、飲む?」
「いや、もう|風《ふ》|呂《ろ》へ入っちまったしな。もういい」
ユリエが出て行くと、野口は代りにユリエの腰かけていた|椅《い》|子《す》に座った。
――そろそろユリエとも、潮時かもしれないな、と野口は思った。
もちろん、例の〈教祖様〉ってのが、本当に加奈子で、いくらかでも金を引き出せるのなら、まだユリエにくっついている値打はあるだろう。
しかし、ともかく相手がでかすぎる。押売りや契約|詐《さ》|欺《ぎ》とはスケールが違うのだ。
ひところ、暴力団にも出入りしていて、組織というものの|怖《こわ》さを知っている野口は、本能的に、大きな相手とはケンカしない、というやり方に決めているのだった。そして、それは一度ならず野口の身を救っているのだ。
「やめといた方がいいぜ」
どうせ、じかに言っても聞きやしないだろうから、野口は独り言を言った。
相手がでかすぎるよ。全くの話が……。
野口は、遠い山の頂上近くに、大げさな照明に浮かび上る、あの総本山の丸屋根を見やった。こんな所からも見えるのだ。
えらいもんを作りやがったな、と野口は首を振った。
あんなものにケンカを売って、勝てるとは思えない。――やっぱり、|俺《おれ》はもうユリエとおしまいにするべきかもしれないな、と野口は思った……。
ユリエは、一階へ下りて、身震いした。玄関の方から、冷たい風が入って来るのである。
しかし、ビールの自動販売機は、玄関の正面のホールにあった。
ほとんど駆け足で自動販売機まで行き、生ビールを二缶買って、それをかかえて廊下を戻る。――早く部屋へ入って、布団に飛び込もう。
このところ野口は面倒くさがって抱いてくれない。ユリエが|苛《いら》|立《だ》っているのは、そのせいもあった。
今日は旅先だし、少しは気分も出て、いいムードになるかと思ったのだが、加奈子のあの態度、それに、応接に出た女に、押売り同然に追い帰されたことで、頭に来てしまっていた。
野口に当っても仕方ない。部屋に戻ったら、
「ごめんね、八つ当りして……」
と、謝ってやろう。
甘えてやれば、あの人だって喜ぶ。――そう、私のこの体だって、充分に|魅力《みりょく》があるのよ……。
「おっと」
「あ、ごめんなさい」
廊下の角で、危うくぶつかりそうになった。
その男は、そのまま行きかけたが――。
「ユリエ」
と、振り向いて、「ユリエじゃないか」
ユリエも、振り返る前に、思い当っていた。我ながら意外だった。ろくに顔も思い出せないと思っていたのに……。
「あんた。――何してんの、こんな所で」
元[#「元」に傍点]亭主の阿部|哲《てつ》|夫《お》だ。いや、今も法律的には夫である。
「お前も……。いや、びっくりしたな」
何となく、二人は顔を見合せていた。思いがけない出会いで、どういう態度を取ったものやら、決めかねているのだ。
「何でここに?」
と、ユリエがくり返すと、
「うん……。ちょっとビールを買おうと思って」
と、的外れな返事。「お前もか」
「そう……。あんた、一人なの?」
「ああ。お前は――」
と、ユリエがかかえている二缶のビールへ目をやって、「二人か」
「二人だけど、これは一人で飲むのよ」
何の話をしてるんだか……。缶ビールのこと以外にも、何か言うことはあるだろうに。
「――一つ、飲む?」
と、ユリエは言った。
「いいのか?」
すぐ受け取ったのを見ても、夫の方もあまり金の持合せはないらしい。
「――話もあるでしょ」
と、ユリエは言った。「あんたの部屋はどこ?」
「この奥さ。押入れの広いようなやつだ」
と、阿部は苦笑した。
「そこで話しましょ」
と、ユリエは言った。
――行ってみると、確かに、かけ値なしの「押入れ」である。二人して向い合って座ると、|膝《ひざ》がくっつきそうになる。
「色々悪かったなあ」
と、阿部はビールを開けて、言った。「いや、いつか謝らなきゃ、と――」
「よしてよして」
ユリエは顔をしかめた。「私は男を引張り込んでるし、お互い様よ。怒っちゃいないわ」
「そうか」
阿部が、拍子抜けの様子で、言った。「しかし、加奈子は?」
ユリエは、缶ビールをぐっとあおると、息をついて、
「あんた、TVで加奈子のこと見て、会いに来たの?」
と、|訊《き》いた。
「じゃ、やっぱりあれは加奈子か?」
と、阿部は目を見開いた。「あんまり似てるんで……。一度、本物を見たいと思ったんだ」
「加奈子はあんたがいなくなってから、少しして家を出たのよ。全然連絡もないしさ、心配してたんだけど」
と、ユリエは平然と言って、「TV見てびっくり! あれ、間違いなく加奈子だわ」
「そうか。それにしても、何だって加奈子があんなことをやってるんだ?」
「金か男か。――ともかく表向きはお姫様扱い。今日会ったけどね」
「会った? 加奈子に会ったのか!」
と、阿部が身を乗り出す。
「ちょっと! ぶつかるでしょ。――でも、向うは知らん顔。ま、恨んでるんでしょ。無理ないけどね」
「そうか……。まあ、あの子が幸せならいいがな」
と、阿部は|肯《うなず》いた。「じゃ、|俺《おれ》が何もわざわざ会いに行くこともない。こんな部屋でも余計に泊っちゃもったいない。明日、帰るかな、東京へ」
ユリエは、ちょっと笑って、
「だめよ、抜けがけしようったって」
「抜けがけって何だ?」
「分ってるわ。あの子に会って、少々困ってるんだ、お金を少し都合してくれ……」
「おい」
と、阿部は顔をしかめた。「やめてくれ。俺は何も――」
そう言いかけて、言葉を切ると、
「お前……。そう言ったのか」
「悪い? あっちは|凄《すご》い金持なのよ」
「加奈子が金持ってるわけじゃあるまい」
「でも、教祖様よ。たとえ名目だけでも、あそこで一番上に立ってるのよ。その親に少しぐらいのお金を都合してくれたって、尊い教えには背かないと思うけど」
阿部は苦笑した。
「お前らしい理屈だよ。それじゃあ知らん顔されても仕方ないだろう」
「あら、あんた、それじゃ加奈子に会って、何て言うつもりだったの?」
「別に……。ただ、|詫《わ》びを言って、元気かどうか見て帰って来るつもりだった。――それより、ともかくあれが本当に加奈子かどうか、確かめたかったんだ」
「そう……」
ユリエは、何やら思い付いた様子で、「あんた一人で行っても、会わせちゃくれないと思うけどね」
「そうだろうな。何しろ教祖様だ。奥の奥に大切にされてるんだろう」
「今のああいう宗教屋ってのは|儲《もう》かるのよ。いい商売だわ」
と、ユリエは言って、「あんたなら……。そうね、加奈子本人は、あんたの方になら会うかもしれないわ」
「どうして?」
「あの子は父親っ子よ。知ってるでしょ」
「それにしたって……。蒸発した父親だぜ」
「それでも、男を家へ引張り込んでる母親よりはまし[#「まし」に傍点]よ。――ねえ、あんた」
「何だ?」
「協力しましょうよ。うまくお金をせしめられたら、あんたにも回すから」
阿部も、「金」と聞くと、気にかかる様子で、
「いくら、せびるつもりだ?」
「二千万って言ったんだけどね。でも、私が言うより、あんたの方が――。そうだ!」
と、ユリエは声を上げた。「こうしましょう……」
ユリエの話を聞いて、阿部は渋い顔をした。
「そんな……。お前、それじゃあの子を|騙《だま》すことになるぜ」
「あっちは何万人――何十万人の信者を騙してんのよ。構やしないわ。こっちの方が、よっぽど罪が軽いわよ」
ユリエは常に、自分の都合のいい理屈を見付けて来るのである。
「うまく行くかな」
「だめでもともと、って覚悟でやらなくちゃ。別に損はしないんだから、こっちは。ね?」
「分ったよ」
と、阿部は|肯《うなず》いた。「お前の連れはどうするんだ?」
「あの人は私の言うなりよ。何か手伝わせるわ。任しといて」
ユリエは、いつも自信たっぷりなのである。
「このビール、おごってもらっといていいのか?」
「いいわよ、それくらい」
「すまんな」
と、阿部は言って、「じゃ、ともかく、俺は寝るよ。この狭苦しい所でな」
ユリエは、ふっと|気《き》|紛《まぐ》れな笑みを浮かべると、
「もっと狭くしてあげようか?」
と言った。
「え?」
ユリエが帯を解く。――|呆《あっ》|気《け》に取られている阿部を、ユリエは押し倒した。
結局、|襖《ふすま》には、けとばした穴が二つもあいてしまった。――二人で寝るには、やはり狭すぎたのである……。
6 突然の客
「だめだめ!」
と、鋭い声が飛んで来た。「小学生の遠足じゃないのよ! 両手をそんなに大きく振って歩いちゃ、威厳がないでしょ」
「はい」
マリはもう一度やり直した。
「――そうそう。両手はほとんど体につけたまま。――はい、頭が上下してるわよ!――そう!――|椅《い》|子《す》に座って」
マリはスッと音もなく椅子に腰をおろす。
「ま、いいでしょ」
と、六十過ぎのその「先生」は|肯《うなず》いた。「背筋がもっと自然にスーッとのびてないと。でも、大分良くなったわ」
「そうですか」
と、マリは言った。
「初めは、毎日、工事現場で土掘りでもやってたのかと思ったわよ」
と笑って、時計へ目をやり、「午前はここまで。午後はサインの練習よ」
「はい。――ありがとうございました」
マリは、深々と頭を下げて……。
「先生」が出て行くと、マリはソファにドサッと倒れ込んだ。
「疲れた!」
「何だい、大して働いちゃいねえくせに」
ポチが寝そべって言った。
「こんなことやるくらいなら、皿洗いの方がよっぽど楽!――くたびれる!」
「だけど、何となく教祖様らしい感じが出て来たぜ」
「やめてよ」
と、マリは顔をしかめた。「仕方ないからやってるけど……。本当は今一つ、気乗りしないのよ」
「|俺《おれ》は気に入ってるぜ」
「そりゃあんたは、ぐうたらしてるだけだもん。太るわよ、ゴロゴロ寝てばっかりいて。少しエアロビクスでもやったら?」
「犬が?」
「ともかくね、人を|騙《だま》してるみたいで、いやな気分なの」
――マリがこの総本山へ来て三日たった。
当の「教祖」はまだアメリカから帰らないので、マリは三回ほど、来訪者の前に「身代り」で姿を見せた。
口はきかず、肯いて見せるぐらいで、向うは感激して、涙まで浮かべていたものだ。それだけだから、別にぼろ[#「ぼろ」に傍点]は出ていないが、マリとしてはひやひやものである。
こうして毎日、「特訓」を受けて、歩く時の姿勢やら、足の運び方から、信者に向って話をする時の手の挙げ方、|挨《あい》|拶《さつ》の時の|会釈《えしゃく》と|微《ほほ》|笑《え》み方(!)まで、細かく指導されているのだ。
サインの練習も、毎日。芸能人じゃあるまいし、と思うのだが、これも教祖として、大切な仕事らしい。
サインした色紙一枚、何十万円(!)という金額で買って帰って、額に入れて飾っている人が大勢いるのだ。
マリも、初めはいやだと言った。それこそ、代理のサインじゃ、「偽もの」を売ることになる。
しかし、中山に、
「これはあくまで非常用だよ。万一、教祖が急病にでもなった時、誰もサインできなくては困るんだ。分るね?」
と、説得されてしまった。
教祖とそっくりのサインができるようになるまで、何百枚も色紙がむだになるのである……。
こういう訓練はきつかったけど、それを除けば、確かに待遇は抜群にいい。
「やはり雰囲気を身につけなくては」
という中山の意見で、本当の教祖に劣らぬ|豪《ごう》|華《か》な部屋を当てがわれて、いいものも食べている。
ポチじゃないが、マリの方も、気を付けないと太っちまいそうである。
「いつかやって来た、教祖の母親って人、どうしたのかしらね」
と、マリは言った。
「ああいう|奴《やつ》は、そう簡単に|諦《あきら》めないぜ。きっとまた来るよ。それとも、追い帰されてるのかもしれない」
「お金、お金ね……。何だか|哀《かな》しいわ」
「俺たちだって、金なしじゃ生きてけないんだぜ」
「分ってる。でも、それが目的になるのと、手段[#「手段」に傍点]だって考えるのとじゃ、ずいぶん違うでしょ」
「どっちにしたって、金が大切ってことにゃ代りはねえさ」
「いいわね、あんたみたいに割り切っていられたら。でも、当然か。悪魔なんだもんね、あんたは」
マリは、ちょっと笑って、「時々、あんたが悪魔だってことを忘れそうになるわ」
と、言った。
ポチはチラッとマリの方を見た。――何だか、今のマリの言葉が、いやに気になったのである……。
ドアをノックする音がして、
「お食事をお持ちしました」
と、声がする。
「あ、どうぞ」
マリはあわててソファから立つと、スカートの|裾《すそ》を直した。
ワゴンを押して入って来たのは、あのボーイ姿の若者である。
「待ってたぜ」
と、ポチがいそいそとやって来る。
「ありがとう、いつも」
と、マリは言った。「いいわ、自分でやるから」
「はい」
料理にかけてあったナプキンをたたんで、
「では、後で下げに参ります」
と一礼して出て行こうとする。
「待って」
と、マリは呼び止めていた。
「はあ」
「あなた……私がここへ来た時、私のこと見て、『加奈子』って呼んだでしょ」
「そ、そうでしたか――。よく|憶《おぼ》えていませんが」
と、どぎまぎしている。
「落ちついて。私、他の人にも『加奈子』って呼ばれたことがあるの」
「え?」
「座って」
その若者は、少しためらってから、|椅《い》|子《す》に腰を落とした。
「あなた、お名前は?」
「僕は……|加《か》|東《とう》|晃《あき》|男《お》といいます」
「堅苦しくしないで。私は本物の教祖様じゃないわ」
「ええ……」
と、息をついて、加東晃男は少し気を楽にした様子だった。
「ね、加奈子さんっていうのが、本当の名前なの?」
「教祖様ですか? ええ、たぶん……。僕も、直接見たことがないんです。ずっと遠くからしか」
「そう。でも、母親だっていう人も、私のことを加奈子さんだと思ったわ」
加東晃男は目をみはって、
「お母さんが? 加奈子の母親が来たんですか」
「ええ。知ってるの?」
「少し……。といっても、見かけたぐらいですけどね」
「あなたは、その加奈子さんと……」
「一応ボーイフレンドというか……。僕の方の片思いだったんですけどね」
「お付合いはしていたの?」
「何度か。僕は大学生だったから、そうひんぱんに、というわけじゃなかったですが」
「加奈子さんはどうしてここへ来たのかしら?」
「さあ。――もし本当に加奈子だとしての話ですけどね。彼女、家を飛び出したんだと思います。父親が借金こしらえて蒸発しちゃって、母親の方はこれ幸いと若い男を家へ住まわせてたんです。加奈子は、いやになってましたよ」
「そりゃそうでしょうね」
「そしてある日突然、学校へ出たまま、姿を消したんです。――それからどうなったのか、僕も知りません。ただ、ある日、大学の食堂でTVを見てたら、ここの教祖ってのが出てて、それ見て……」
「加奈子さんだってわけね」
「大学、休み取って来たんです。でも、なかなか彼女には近付けなくて」
と、加東晃男は言った。「ともかく――彼女が間違いなく加奈子なのかどうか、それだけ確かめられたら、と思うんですが……」
「私で何か力になれることがあったら」
と、マリは言って、「私、マリ。あの犬はポチっていうの」
「ポチ? またクラシックな名前だなあ」
と、加東晃男は笑った。
「好きでつけた名じゃねえや」
と、ポチはふてくされている。
「――それにしても」
と、加東晃男は首を振って、「加奈子のお母さんも図々しい人だなあ。彼女がいなくなっても、捜索願も出さなかったんですよ」
「そう」
「あ、もう行かないと」
「ごめんなさい、引き止めて」
「いいえ。心強いです」
と言って、加東晃男はシャンと立つと、「では失礼いたします」
と、頭を下げ、出て行った。
「なかなか感じのいい人じゃない。ねえ?」
と、マリは言った。
「そうかい?」
「恋人を追って、こんな所まで、大学を休んで、ですってよ。よほど加奈子さんのことを愛してるのね」
「怪しいもんだ」
と、ポチは鼻を鳴らした。「あのお袋と同じ穴のむじなかもしれないぜ」
「何のこと?」
「金目当てってことさ。あわよくば、教祖の亭主になって……」
「もう! あんたは、そんな風にしか考えられないの? 恋ってのはね、神聖なもんなのよ」
「神聖か。だけど、恋のおかげで、人殺しだの盗みだの、って犯罪が、やたら起きてるんじゃねえのか」
「そりゃ話が別よ」
二人がやり合っていると――やり合いながらも、二人ともしっかり食事をしていたのだが――あわただしくドアをノックする音がして、
「食事中、すまないね」
と、中山が入って来た。
「いいえ。――あの、何か?」
「突然客が来ることになったんだ」
と、中山は言った。「本当は来週のはずだった。その時には、教祖も帰って来ているしね。しかし、向うの都合でどうしても、ということになって……」
「それで……私、何かするんでしょうか」
「君が相手をするんだ。他に手はない」
「相手ですか。ただ、黙って座ってればいいんでしょ」
中山は首を振って、
「今回はそうはいかない。特別な客だからね、これは」
「でも――」
と、マリが言いかけると、
「中山さん」
と、水科尚子が入って来た。「今、ヘリでこっちへ向っておられるそうです」
「すると、あと何分でもないな」
「二十分ほどでお着きです」
「二十分か」
中山は腹を決めた様子で、「よし。着替えるんだ。客を出迎える」
「はい」
マリはあわてて、お茶を飲んで、むせ返った。
「手伝うわ」
と、水科尚子が言った。
「頼む。僕は幹部を呼び集める」
中山は駆けるように出て行ってしまった。
マリは、そんな中山を見るのが初めてだったので、びっくりした。
「さあ、仕度よ」
と、水科尚子が促す。
「はい。――水科さん。一体どなたがみえるんですか?」
マリは着ていた服を脱ぎながら言った。
「あなたもたぶん知ってる人よ」
「私も?」
「そう。総理大臣だからね、日本の」
ワン、とポチが|吠《ほ》えた。
電話……。
え? 電話?――やめてよ! こんな所まで!
ここまで来れば、電話で|叩《たた》き起されることもないと思ったのに。――誰かいないの? 誰か出てよ。ねえ。
加奈子は、何とか目を開けた。時差で、睡眠時間が狂って、まだ慣れない。やっと慣れたころには、日本へ帰ることになるのだろう。
ベッドの中で、何とか|這《は》って進むと、鳴り続ける電話へ手をのばした。
「――はい。――もしもし」
と、かすれた声で言う。
わきを見ると、名前も|憶《おぼ》えていない男が、口を開けて、眠りこけている。ゆうべは、|逞《たくま》しく、力強く見えた男も、朝の光の中では、ただ|薄汚《うすぎたな》い、つまらない男にすぎない。
こんな男に抱かれたのか。いつもと同じ、苦い悔恨の気持がわき上って来た。
「もしもし」
妙にくぐもった声だった。
「誰?」
と、加奈子は呼びかけた。「誰なの?」
「あなたは、捨てられますよ……」
と、その奇妙な声は言った。
「何ですって?」
「アメリカにいる間に、本山では、あなたの身代りが育てられています……」
「私の、何が?」
「あなたは消されてしまいますよ」
加奈子は目が覚めた。――電話はどうやら日本からだ。
しかし、誰の声か、さっぱり分らない。
「ご忠告ありがとう」
と、加奈子は言った。「用心するわ。もうじき帰るから」
「首相がみえています」
「誰?」
「首相です。|金《かね》|坂《さか》首相」
「首相は来週のはずよ。外遊の前でしょ」
と、加奈子は言った。
「早まったんです、外遊が」
と、その声[#「声」に傍点]は言った。「調べてごらんなさい」
その声は忍び笑いをしているように聞こえた。
「今、首相は本山へみえてるんですよ」
「私がいないのに?」
「あなたの代り[#「代り」に傍点]がいます。もうあなたはいなくてもいいんですよ……」
「馬鹿言わないで!」
と、加奈子は叩きつけるように言った。「あんたは、誰なの?」
フフフ、と低い笑いが聞こえ、そして電話が切れた。
――加奈子は、しばらく、沈黙した受話器を見ていたが、やがて肩をすくめた。
「馬鹿らしい」
そして、もう一度ベッドの中へ潜り込もうとして、隣に寝ている男を見て、顔をしかめると、ベッドから出た。
隣の部屋を開けて、
「ねえ、あの男、もう帰して」
と、眠たげな目をパチパチさせているメイドに言った。
「は、はい……」
と、よく太った若いメイドは、眠っていたソファから立ち上って、「あの、もう一度とか……」
「あんなの一度で沢山」
と、加奈子は首を振って、「シャワー浴びてるから、その間に追い出して。いつもと同じお金をやっといて」
「はい」
メイドが、ベッドでぐっすり眠り込んでいる男を起しにかかるのを横目に、加奈子はバスルームへと入って行った。
シャワーを浴びる。――これでも少しも気分はすっきりしないだろう、と分っていた。
でも、浴びないより、少しはまし[#「まし」に傍点]だ。
加奈子は疲れていた。ほとんど、ぐっすり眠ったことがない。この何か月というもの。
「教祖様」か……。
初めの内は抵抗があった。こんなことしてていいのか、と思っていた。
しかし、何万という信者に歓呼の叫びを上げさせる快感、誰もが――もちろん信者の、だが――自分を見るだけで言葉を失うくらい感動している、その様子……。
それはもう、麻薬のように、一度味わったらやめられない快感である。
その代り、加奈子は超多忙だった。次から次へと予定をこなさなくてはならない。
ほとんどアイドルタレント並みだった。
体もきつい。しかし、加奈子は満足していた。教祖という「役割」は、少なくとも、加奈子に充実した時間を与えていたのである。
しかし、同時に加奈子には、自分に戻る時間が――「教祖」から「加奈子」に帰る時間がなかった。そのストレスは、ああして、見知らぬ男との一夜で、発散させているのだ。
頭がすっきりすると、さっきの電話の内容を思い出した。
私の代り[#「代り」に傍点]?――|冗談《じょうだん》じゃない!
教祖が二人もいてたまるもんか。私一人で充分だ。
でも、あの電話が完全にでたらめとは、思えなかった。あのしゃべり方の中には、一部は真実が含まれていた、と加奈子は思った……。
もう、あなたはいらなくなる……。
消されてしまうだろう……。
「馬鹿げてるわ」
と、加奈子は|呟《つぶや》いた。
しかし、バスルームを出ると、加奈子は日本へ電話を入れた。本山へではなく、首相のスケジュールを押えている秘書あてに、であった……。
7 計 画
ヘリコプターがフワリと浮かび上ると、中から首相が手を振るのが見えた。
中山が一礼する。水科尚子、他の幹部たちも|一《いっ》|斉《せい》に頭を下げた。
マリは迷った。どうしたらいいんだろう?
頭を下げるのは簡単だ。しかし、ここは宗教の総本山であって、ここでは首相よりも誰よりも「教祖」の方が上に立つはずだ。たとえ、少々妙な宗教で、代役の教祖であっても……。
とっさの判断ではあったが、マリは頭を下げずに、向う同様、手を振って見送ることにした。
ヘリコプターは、たちまち高く舞い上って、小さくなってしまう。
「――寒い」
と、マリは身震いした。
総本山の屋上に作られたヘリポートである。風が吹きつけて寒いこと。
ふと気が付くと、中山と水科尚子が、目を丸くしてこっちを見ている。マリは、もしかして服を後ろ前に着てたかしら、と見下ろしたが――大丈夫だった。
「君」
と、中山が言った。「今、どうして頭を下げなかったんだ?」
「あ……。すみません。まずかったですか?」
マリは、ペロッと舌を出して、「いえ――ちょっと自分なりに考えて、ここじゃ、教祖の方が偉いんだから、頭は下げない方が、って……。すみません、勝手なことして」
「いや……それでいいんだ」
と、中山は言った。「今、見送る時になってハッとしてね。君にそのことを言っていなかったから。つい、うっかりしていたんだ。君もきっと僕らにならって頭を下げるだろうと思って……。いや、びっくりしたよ」
「じゃあ――良かったんですか、あれで?」
と、マリは面食らって|訊《き》き返した。
「そうさ。君は大した女の子だ」
中山がポンとマリの肩を|叩《たた》く。マリは、この仕事そのものの是非は別として、|賞《ほ》められた|嬉《うれ》しさに、ちょっと顔を赤らめた。
そして、
「ハクション」
と、派手にクシャミをしたのだった。
「やれやれ」
中山が、私室へ入って、息をついた。「くたびれたよ、全く! 突然やって来られたんじゃ、かなわない」
「偉い人は|気《き》|紛《まぐ》れだわ」
と、水科尚子が|微《ほほ》|笑《え》んで、「何か飲む?」
「ああ。ウイスキーを。水割りでいい」
中山はネクタイをむしり取るように外すと、水科尚子の後ろ姿を眺めた。
「でも、首相、ご|機《き》|嫌《げん》でお帰りだったじゃないの」
と、水科尚子は言って「私もいただいていい?」
「もちろん。酒なら不自由しないさ。何しろN社の会長がうちの信者だからね」
「じゃ、各社、とり|揃《そろ》えたら?」
と、水科尚子は笑った。
「それも夢じゃない。いつか、そうなるさ。思ってるより、ずっと早くね」
「そうだと、いいけど。――はい、どうぞ」
「ああ……。君もここへ座れよ」
「私は立っていた方がいいの、体のためにもね」
「尚子……。君は――」
と言いかける中山に気付かないふりをして、水科尚子は、
「あの代役のマリって子、よくやってるじゃないの」
と言った。
「そうだろう? 僕の見る目は確かだ」
と言って、中山はちょっと笑った。「いや、あそこまでやるとは、こっちも思っていなかったがね」
「それに、とても|真《ま》|面《じ》|目《め》そうな子。あの犬を連れてるところが変ってるけど」
「加奈子とよく似てるだろ? 充分に通用するよ」
中山は、真顔になった。「なあ、尚子……。君は――」
「いけないわ」
と、尚子は首を振った。「前にも言ったでしょ。申し訳ないけど、私、男の人には興味が持てない女なの」
中山は、少しオーバーにため息をついて、
「君みたいな女性がね! 全く、惜しいとしか言いようがない」
「お賞めの言葉と受け取っておくわ」
と、尚子は|椅《い》|子《す》の一つに腰をおろした。
「しかし……。今は恋人[#「恋人」に傍点]なしなんだろ?」
「二年も|同《どう》|棲《せい》してた女の子に逃げられて。――当分、男も女もいらないわ。仕事が大いに楽しいし」
と、尚子は言ってから、「――中山さん」
「何だ?」
「あのマリって子はだめよ。あの子は加奈子さんと見た目は似ていても、全然違うタイプの子よ。適当に遊べる相手じゃないわ」
「おいおい」
中山は苦笑して、「それじゃまるで僕が誰にでも手を出すプレイボーイみたいじゃないか。あんな子供に手を出すほど、飢えちゃいないぜ」
「でも、加奈子さんと――」
「加奈子の場合は、あっちから飛び込んで来たんだ。こっちはただの|苛《いら》|々《いら》解消機にすぎないんだよ」
「アメリカでは大丈夫なのかしら?」
中山は、グラスを空にすると、
「ちょっと不安な報告が入ってる」
「というと?」
「向うで探偵を雇って、加奈子を見張らせてるんだ。――どうやら向うでも、夜中にホテルを抜け出しちゃ、男を見付けてホテルへ引張って来てるらしい」
尚子は、ちょっと|眉《まゆ》をひそめて、
「困ったわね。教祖は、TVでもインタビューを受けてるのよ。もしマスコミに見付かったら……」
「用心はしてるが、危険はある」
と、中山は|肯《うなず》いた。「しかし、アメリカにでもやらないと、こっちもやりにくかった[#「やりにくかった」に傍点]しな」
「そりゃそうだけど」
と、尚子は手の中でグラスを揺らしながら、「うちの教団そのものに火がついたら、それこそ、計画[#「計画」に傍点]どころじゃなくなるわ」
「考えてるさ」
中山は、立ち上ると、眠気を覚まそうとでもするように、頭を左右へかしげながら、ゆっくりと部屋の中を歩いた。
「加奈子は、厄介な存在になった。そう思わないか?」
と、中山は、足を止めて、言った。
「でも、どうしようもないでしょう。あの子が今は『教祖』なのよ」
と、尚子は言った。「それに、あの子だって|可《か》|哀《わい》そう。あの忙しさ! 少しは考えてあげなくちゃ」
「その代り、|豪《ごう》|華《か》な生活をさせてる」
「いくらいいベッドがあっても、寝る時間がなきゃ意味ないわ」
「それにあいつは満足してるさ。『教祖』って地位の|魅力《みりょく》は、他の何ともかえがたいはずだ」
「私たちは芸能プロダクションでアイドルを育ててるわけじゃないのよ。本人が満足すれば、それでいい、ってものじゃないでしょう」
「いいとも。ともかく――」
と、中山は少しむきになって言いかけてから、「ともかく、彼女の管理は君に任せる」
「楽じゃないわ、この仕事は」
と、尚子はグラスをあけて、「ともかく、今夜はもう休むわ。――おやすみなさい」
と、ドアの方へ歩き出した。
「尚子」
と、中山が言った。
「何?」
「もし……あのマリって子がずっと[#「ずっと」に傍点]代役をつとめたとしたら?」
「ずっと?」
「そうだ。あの子がいつしか本当の[#「本当の」に傍点]教祖になるかもしれない。そうじゃないか?」
尚子は|戸《と》|惑《まど》って、
「本当の? じゃ、加奈子さんはどうなるの?」
「金で話がつくかもしれない。あの母親を|憶《おぼ》えてるだろう」
「あの女ね? 本当に加奈子さんの母親かどうか……」
「本当だ」
と、中山は肯いた。
「じゃあ……」
「間違いなく母親さ。金には目がない。若いヒモ[#「ヒモ」に傍点]もついている。まあ、あれじゃ|諦《あきら》めやしないだろうな」
「どうするの、それじゃ」
「ますます、加奈子は厄介なことになるってことさ。やはり手を打たなきゃいけないかもしれない」
「でも――」
「あの母親は何でも金次第だ。ということは、こっちにとって、危険な存在にもなるし、逆に利用することもできる」
「利用……」
尚子は|眉《まゆ》を寄せて、「どんな風に?」
「君も考えてくれ。|俺《おれ》も考える。――じゃ、おやすみ」
中山はニヤリと笑って、言った。表では決して見せない顔だった。
尚子はただ|微《ほほ》|笑《え》んで見せただけで、ドアを開けて廊下へ出た。
後ろ手にドアを閉めると、ふと誰かがすぐそばにいるのに気付いて、飛び上るほどびっくりした。
「何だ……。あの子の犬ね?」
ポチが廊下に座っていたのだ。
「あんたたちの部屋はあっち。――あっちなのよ」
と、尚子は指さした。「あんたって何となく気味が悪いわね。人の話を聞いて分るみたいに見えるわよ」
ポチは、知らん顔で座っている。
「そういう態度も、何となくごまかしてるみたいで。――もちろん考えすぎでしょうけどね」
ポチは黙って尚子を見ているだけだった。
「――あ、すみません」
と、そこへマリがあわてた様子でやって来た。「こんな所にいたのね。勝手に歩き回っちゃだめって言ったのに。ほら、部屋へ|戻《もど》りましょ」
マリに促されて、ポチは渋々歩き出したが……。
尚子はびっくりして、あわてて目をこすった。ポチが行きかけてチラッと振り向き、片目をつぶった――どう見てもウインクしたように見えたからである。
「まさか……」
と、尚子は|呟《つぶや》いて、「疲れてるのね、きっと」
と、自分に納得させようとするかのように、言った。
そして、足早に、自分の私室の方へと歩いて行った……。
一方、マリはポチを部屋へ連れて戻って、
「――もう寝る時間よ」
と、言った。
「TVで見るもんがあるんだ」
と、ポチは言った。
「目が悪くなるわよ」
「悪魔は近眼にゃならないんだ」
「へえ。どうして?」
「メガネ屋がないからさ」
「あんたって、どこまで本気なの?」
と、マリは|呆《あき》れ顔で言って、「いいわ。ともかく私はお|風《ふ》|呂《ろ》に入るから、TVでも何でも、好きにしてなさい」
「お前の入浴シーンを|覗《のぞ》いててもいいか?」
「熱湯ぶっかけて、シャンプーにつけて、真白にしてやるからね」
と、マリは言ってやった。
バスルームに入り、しっかりドアを閉めてから、マリは服を脱いだ。
広々とした(というのが実感である)|浴《よく》|槽《そう》につかっていると、マリは少しウトウトしそうになる。いい気分だ。
そして、マリは、何だか今日はとてもすてきなことをしたような気がしていた。
代役として、ではあるが、一国の総理大臣に会い、そしてあくまで向うがこっちに敬意を払ってくれたのだ!
いや、もちろんマリは「偉い人」と会えたから感激した、っていうわけじゃない。むしろ、貧乏暮しをして歩いていると、世の中には、「忘れられた人たち」がどんなに沢山いるか、よく見える。そして、一体、政治をやってる人ってのは、どうしてこんなひどいことを放っとくんだろう、と腹の立つこともしょっちゅうだった。
だから、どっちかというと、総理大臣に会えて光栄なんて、ちっとも思わない方で、本当なら正面切って、色々文句でも言ってやりたいくらいだ。
ただ、マリの知っている「神」とは大分違うが、ここの中での「神」の前に、総理大臣みたいな、いつも「日本で一番偉い」ような顔をしている人でさえ、へりくだって、頭を下げる、ということ――そのことに、感激したのだ。
もちろん、私は神様じゃない。でも、みんなが何か[#「何か」に傍点]形のないものに敬意を払う、っていうのは、意味のあることかもしれないわ……。
何をしゃべっていいのか、まるで教えてもらう暇がなかったけれど、その割にはうまくやったわ。首相も、目の前にいるのが、まさか「別人」だとは思いもしなかったようだ。
これはアルバイト。いつまでもやるもんじゃないのよ、と、マリは自分へ言い聞かせた。
そう。自分は人間世界の「研修」のために来ているのだ。
一つの場所に長く|留《とど》まっていたら、ちっとも研修にならないのだから、決して長居はしない。――それが、マリの主義だった。
でも、ここでの「仕事」は、皿洗いとか、お掃除の手伝いとかに比べると、天使としての役割に合っている(?)ような気がする。
マリは、何だかしばらくここから離れられないような気がして来た……。
|長《なが》|風《ぶ》|呂《ろ》だな、全く。
ポチは、マリの入っているバスルームの方をチラッと見ながら思った。TVはちょうどCMになっている。
おっ、|俺《おれ》の好みのタレントが出てる! うん、あの足の白さが、何とも言えない!
ま、そんなことどうでもいいんだけど。
ポチは、中山の部屋で、中山とあの水科尚子って女が話しているのを、立ち聞きしたのだった。
この巨大教団。――もちろん、こんな|凄《すご》い建物を建てちまうくらいだから、大変な金持なのは確かだ。
そして金のある所、必ず人間の欲ってやつが浮き出して来る。水の面に、|汚《よご》れた油が浮くようにね。
あの話の中身から察しても、こいつには何か裏がある。|汚《きた》なく、ドロドロしたものが、隠れている。
あの中山って|奴《やつ》からして、うさんくさいじゃないか。マリも、全く甘ちゃんだよ、すぐコロッと|騙《だま》されて(悪魔が天使のことを心配するのは妙なものだが)。
マリが、中山を信じて、この仕事を|大《おお》|真《ま》|面《じ》|目《め》にやってればやってるほど、裏切られたと知った時のショックは大きいだろう。
そう。――チャンスだ!
マリは、
「もう人間なんて信じられない!」
と、叫ぶかもしれない。
それまで、こっちは何もしないで、|旨《うま》いもの食って寝てりゃいいのか。――こりゃ楽な仕事だぜ。
ポチはニヤリと笑った。
――バスルームからマリが出て来た。
「ああ、いいお風呂だった! あんたも入る?」
「|遠《えん》|慮《りょ》するよ」
「洗ったげようか? シャワーとシャンプーで。スッキリするわよ」
「いいよ、俺は」
「遠慮することないじゃない。――ほら」
「よせ!――おい、やめろってば!」
ポチは、マリにバスルームの方へ引きずって行かれ、「助けて! 犬殺し!」
と、悲鳴を上げたのだった……。
8 失楽園
「みなさん!」
と、独特の甲高い声で、白い衣を着た男が、信者たちに呼びかけた。「みなさんは本当に運のいい方々です。――今、ちょうど教祖様がこの通路をお通りになります」
〈小集会場〉と呼んでいる、小さなホールぐらいの広さの部屋には、百人ほどの人が集まっていた。
どれも、全国各地から、この総本山に参りにやって来た信者たちだ。老若男女、あらゆるタイプの人々。
その小集会場の天井くらいの高さの所を、回廊が通っていて、ここを教祖が通る、というのだ。
集まった人たちはどよめき、中には興奮して、飛びはねている女性もいる。
「お静かに。決して教祖様の神経を乱さないようにして下さい。教祖様は、日々、厳しい精神の試練と闘っておいでです。どうか、そっと、静かにお迎えして下さい」
白い衣の男が、芝居がかった調子で言うと、「――おいでになります」
と、おごそかに続けた。
信者たちはごく自然にひざまずき、その通路の方を見上げた。
教祖が――もちろんマリ[#「マリ」に傍点]だが――静かに進んで来る。
マリも、この歩き方、少し疲れを感じさせるように、うつ向き加減にしておく目の伏せ方など、大分自然にこなせるようになって来た。
そして進んで行くと、百人近い人たちが|一《いっ》|斉《せい》に自分の方を向いて拝む。――最初は何だかきまり悪かったし、照れくさかったが、今はマリの方まで胸が熱くなったりする。
中には感極まって涙を流している人さえいる……。善し|悪《あ》しはともかく、マリはそういう気持の|純粋《じゅんすい》なことは疑っていなかった。
ゆっくりと通り過ぎながら、できるだけ一人一人の顔に目をやって、|微《ほほ》|笑《え》んで見せる。
これも、ただニコニコとやってるだけじゃハンバーガーショップと同じになっちゃうので、「神秘的な」笑みでなくてはいけないのである。
突然「神秘的に笑え」なんて言われたってね。――一番苦労したのが、この「笑み」なのである。
――何だろう?
コトン、と音がして、何かが足下に飛んで来た。小石を紙でくるんである。
見ると、信者の中の一人、三十ぐらいかと思える男が、意味ありげにマリを見ていた。信者ではないらしい。
マリは素早くそれを拾い上げて、手の中に握った。
そして、軽く|会釈《えしゃく》をして、その〈小集会場〉を後にしたのだ。
まだ、このような集会場を、十箇所以上も回らなくてはならないのである。
「――ご苦労様」
と、途中の小部屋に待っていたのは、水科尚子だった。「疲れた? 少し休んだら?」
「いいですか? じゃ、ちょっと」
と、マリは息をついて、|椅《い》|子《す》にかけた。「歩くだけなのに、くたびれちゃって……」
「そりゃそうよ。一日中やってりゃくたびれるわ。――コーヒーでも飲む?」
「お願いします」
と、マリは言って、体を楽にした。「中山さんは、お出かけですか」
「ええ。教祖が明日アメリカから帰るでしょ。だから、|成《なり》|田《た》へお迎えに。ついでに東京で色々用事もあるからって」
――熱いコーヒーが来て、それをゆっくり味わうと、マリは疲れがとれて来た。
「おいしい!」
「もう少し休んでて。この先、どれくらい回るか、見て来るから」
と、水科尚子が出て行き、一人になると、マリはさっきの小石を取り出した。
包んである紙を開くと、走り書きの文字が書きつけてあった。
〈お父さんが具合悪いの。一目会って|詫《わ》びたいって。ふもとの旅館で待っています。一度だけ、会ってやって。――母より〉
マリは|戸《と》|惑《まど》った。
母というのは、たぶんこの間の女だろう。父親は蒸発したとか、あの加東晃男が言ってたけど……。
マリは、あのラーメン屋で、最初にマリのことを、「加奈子」と呼んだ男を、思い出していた。
あれが、もしかしたら父親だったのだろうか? 大分|薄《うす》|汚《よご》れてはいたが、そんなに具合悪いようには見えなかった。
それに母親の方だって、この間があの調子で、突然こんな手紙をよこしても、信用されないだろうってことが、分らないんだろうか?
きっと、これは娘を呼び寄せるための作り話だろう。
そうは思っても……。完全に|嘘《うそ》だと決めつけられないのが、天使の辛いところだ。もし、本当に父親が病気で娘に謝りたいと思っているんだったら、それを拒むのは、間違ってる……。
「でも、どうせ私の親じゃないのよね」
と、マリは|呟《つぶや》いた。
中山にこれを渡して、その教祖様に伝えてもらおう。それが一番だ。
マリは手紙をたたんだ。すると、ドアが開いて――。当然、水科尚子だと思ったマリは、
「もう大丈夫ですから、行きます」
と、立ち上ったが……。
「どこに行くの?」
マリと全く同じ白い服を着た少女が、目の前に立っていた。
「あ……。加奈子さんですね」
本当だ、とマリは思った。よく似てるわ、私と。
「私はここの教祖よ!」
と、少女は|叩《たた》きつけるように言った。
「あの……。私、マリです」
と、あわてて頭を下げて、「中山さんに雇われて、代役を――」
その少女は、ジロジロとマリを眺め回して、
「よく仕立てたもんね」
と、言った。
「アメリカに行ってらっしゃったんじゃないんですか? 中山さんがお迎えに――」
「帰って来たのよ、一日早くね。何かまずいことでも?」
「いえ、別に……」
マリは、どう見ても、相手が友好的な態度でないと知った。
「そううまくはいかないわよ」
と、少女は言った。「私を追い出して、身代りになろうったってね。こっちはお見通しよ」
「追い出すなんて――」
「ここの教祖はね、一人[#「一人」に傍点]で沢山なのよ!」
と、少女は叫び声を浴びせた。「とっとと出て行きなさい! 裸にして放り出してやるからね!」
「あの――でも、中山さんが――」
「ここの教祖は私! 中山が何よ! あいつは、私の決めたことをやるだけの人間なのよ」
少女は、マリをにらんでいた。憎しみがこもっている。マリはゾッとした。
「さあ、どうするの? 自分で出ていくか、それとも叩き出されるか」
マリは、ゆっくり息を吐き出した。
「出て行きます。ただ――」
「お金は払うわよ。バイト料をね。それ以上よこせと言ったって、むだだからね」
「そんなんじゃありません!」
マリもさすがにムッとして、「これ。――あなたあてでしょ」
と、手紙を少女に押し付けると、
「失礼します」
と、部屋から駆け出して行ったのだった……。
「――何だよ。|儚《はかな》い夢だったな」
と、ポチがぼやいた。「また放浪生活に逆|戻《もど》りか」
「仕方ないでしょ。本物[#「本物」に傍点]に出てけって言われりゃ」
マリは、肩をすくめた。
「だけど、一銭ももらわないで出て来るってのはないぜ。ちゃんと働いた分はもらって来いよ」
「そりゃあ……。確かに、私もカッとしてたから」
多少、マリも気がひける。「でも、あそこで|豪《ごう》|勢《せい》な暮し、させてもらったんじゃないの。あれだけだって、相当なお金よ」
「お前のお|人《ひと》|好《よ》しにゃ|呆《あき》れるよ」
「仕方ないでしょ。人の悪い天使がいたんじゃ困るわ」
二人はバスに乗っていた。ガタゴト揺れるバスは、雪道をのろのろと、ほとんど歩くのと変らないスピードで下って行く。
「これから、どうするんだよ?」
と、ポチが言った。
バスがガラ空きなので、二人で[#「二人で」に傍点]話していても平気なのだ。
「そうねえ……」
と、マリも、突然のことだけに、考えあぐねている。
「――そうだ。いいことがある」
と、ポチが顔を上げた。
「何?」
「お前が教祖になって、新しく宗教を作ろうぜ。あんなに|儲《もう》かるんだからな」
「馬鹿」
マリは、バスの窓から外を眺めた。
バスはやがて山のふもとへ下りて来た。
「――あの旅館だわ」
と、マリが言った。
「何が?」
「加奈子さんのお母さんの手紙にあった旅館よ」
「へえ。――まだいるのか?」
「そりゃそうでしょ。来てくれって手紙をよこしたぐらいだから」
「じゃ、訪ねてみようぜ」
「また、加奈子さんと間違えられるわよ」
「この格好を見りゃ、納得するさ」
「そう……かもね」
「ついでに、同情して、飯ぐらいおごってくれるかも」
「無理だと思うよ」
「――そうだな」
ポチも、あまり期待はしていないようだった。
「でも、いいわ。ともかく行ってみましょ。加奈子さんのことを聞きたいし、もし旅館に皿洗いのお仕事でもあれば……」
「ぐっと落ちるな」
「ぜいたく言わないの」
と、マリはポチの頭をポンと|叩《たた》いた……。
――かなり、建物自体、年代ものの旅館である。
玄関へ入って行ったマリが、
「あの――どなたかいませんか」
と、声をかけたが、一向に返事がない。「すみません。誰か――」
「こんな時間は人手が少ないのさ」
と、男の声がした。「夕方来な。そうした方がいいと思うぜ」
と、やって来た男を見て、マリは、アッと声を上げた。
「あなた――手紙を投げた人ね」
「ええ?」
「あの本山で、小石をくるんだ手紙、投げたじゃないの」
男は面食らった様子で、
「どうしてそんなこと知ってるんだ?」
「当然でしょ。あなた、私に向って投げたんだから」
男はキョトンとして、マリを見ていたが……やがて目をむいて、
「本当だ! お前――」
「じっくり話した方がいいみたい」
と、マリは言った。
「へえ!」
野口は、|呆《あき》れ顔で、「じゃ、お前が、その教祖様の代りをやってたのか」
「野口さんっていうのね」
と、マリは言った。「加奈子さんのお母さんの――」
「まあ……恋人ってとこかな」
と、野口は立て|膝《ひざ》をして、「金とか、情とか、色々絡んでるけど」
「あんまり人に|賞《ほ》められたことはないんでしょうね」
マリの言葉に、野口は笑い出した。
「――はっきり言う|奴《やつ》だな。ま、確かにその通りだけど」
マリは、野口が阿部ユリエと泊っている部屋へ上って来ていた。ポチは表で待たされることになって、文句を言っていたが……。
「あの手紙に書いてあったことは本当なの?」
と、マリは|訊《き》いた。
「え? ああ――あれか。あれはユリエが書いたんだよ」
「じゃ、|嘘《うそ》なのね」
「いや……。父親が一緒にいるのは、本当なんだ」
と、野口は言った。「ここでバッタリ会って。で、何とか娘に会おうってんで、あの手紙を|俺《おれ》に――」
「じゃ、病気ってのはでたらめ?」
「病気とは書いてないだろ。『具合が悪い』ってだけで」
「同じじゃないの」
「いや、確かに、親父さんの方は金がなくて、懐の具合が悪かったんだ」
マリは呆れて、
「そんなのこじつけじゃない。――あれが加奈子さんだとしても、会っちゃくれないわよ、そんなことばっかりやってちゃ」
「しかし、会う、って言って来たぜ」
マリはびっくりした。
「何ですって?」
「今、出かけてるよ、二人で。あそこ[#「あそこ」に傍点]から迎えの車が来て」
「待って。いつの話? だって、私、あの手紙をもらって、すぐにあそこを出されて来たのよ」
と、マリは言った。
「お前たちが来る……そうだな、五、六分前かな。この旅館の正面に、でかい車が着いてさ、ユリエとあの亭主を迎えに来たって。――ユリエの|奴《やつ》、大喜びで、出かけて行ったぜ」
マリには意外な話だった。きっと加奈子はあんなもの、無視するだろう、と思っていたのだ。
手紙を見て、すぐに使いをよこしたことになるが……。そんなに、親の身を心配していたのだろうか。
「しかし、お前も大変だったんだな」
と、野口は言った。「どうだ、ユリエたちが帰って来るまで待ってちゃ。うまく金でもせしめて来たら、何かおごってくれるかもしれないぜ」
「私、そんなことを期待しないの」
と、マリは堂々と(?)言った。「ちゃんと皿洗いをして、お金を稼ぐわ」
「へえ。――お前いくつなんだ?」
「天使には年齢なんてないの」
「何だって?」
「別に」
と、マリはあわてて首を振ると、「いつまでも気を若くもつことにしてるのよ」
「へえ……」
野口はポカンとして、「じゃ――本当は、結構いってるんだ。もしかして、三十ぐらい?」
いくらなんでもマリにとって、これはショックな質問だった!
9 心 中
「おい。――起きてくれよ」
と、声がした。「起きてくれ。なあ」
何だか心細い声だ。
「全く、ポチったら……。悪魔のくせして、何を|怖《こわ》がってんの?」
と、マリは起き上って……。「あら」
|覗《のぞ》き込むようにしているのは、野口だった。
「ごめんなさい、てっきりポチだとばっかり」
「ポチって、あの犬のことだろ?」
と、野口が不思議そうに、「お前、犬とおしゃべりするのか?」
「そ、そうじゃないの! 夢の中でね、話をしてたのよ」
「ふーん、悪魔がどうとかって――」
「そんなこと言った? 私、オカルト小説が好きなのよ、だから――」
とマリは言って、「もう朝?」
「十一時だよ」
「じゃ、昼か。よく寝ちゃった」
マリは|欠伸《あくび》をして、「結局、泊めてもらっちゃったわね」
と、言った。
「うん、そりゃいいんだけどさ」
野口は何だか浮かない顔をしている。
「どうかしたの?」
「いや……。結局、ゆうべ、ユリエたち、帰って来なかったんだ」
マリは、思い出した。
「そう。――じゃ、本山へ泊ったのよ。いいじゃないの。加奈子さんと仲良く話してるんだわ、きっと」
「だといいんだけどな」
と、野口は一向に安心できない様子。
「何かあったの?」
「いや――さっき電話してみたんだ、あちらへ」
「総本山へ?」
「うん。そしたら――そんな人はみえていませんって」
マリはすっかり目が覚めた。
「どういうことよ」
「知らないよ。それでパッと切られちゃったんで、もう一回かけたのさ。そしたら今度は女が出て……。水――何とか言ったな」
「水科さん?」
「そう、その女だ。こっちが事情を話したら、そういうお迎えは出しておりません、って」
「おかしいわね」
「念を押したんだ。|俺《おれ》はこの目で車が来たのを見てるんだから」
と、野口は強調した。「向うも、色々当ってたらしい。でも、やっぱり誰もこの旅館に車なんか回してない、っていうんだ。妙じゃないか」
「待って。それじゃ――ユリエさんたち、どこにいるの?」
「それが心配なのさ。あそこが車をよこしたんでなきゃ、誰がよこしたんだ? それに乗って行ったユリエたちは、どこへ連れて行かれたんだ?」
マリにも見当がつかない。一体誰がそんなことをするだろう?
「何だか――いやだよ、俺」
と、野口は情ない顔で、「もう帰りたい。でも――支払う金がないんだ」
マリは、ため息をついた。こういう、「働く喜び」なんてものを、全く知らない人間は、どうすればいいんだろう?
「お前、金ないか?」
と、野口は|訊《き》いた。
「持ってたら、皿洗いやるなんて言わないわよ。それに、何よ、あんた三十でしょ」
「三十一だ」
「変んないでしょ。こんな女の子に、お金ないか、だなんて! 恥ずかしくないの?」
「別に」
マリはがっくり来た。――こりゃだめだ。
「ともかく何か食べたいわ。お|腹《なか》が|空《す》いた」
「朝飯をとってあるよ。もう冷めちゃったがな」
「いいわ、何でも。ポチにも何かやらないと……」
きっと死にそうな顔をしてるだろう。
マリがともかく急いで外へ出てみると、ポチは意外やのんびりと昼寝している。
「――あんた、どうしたの? 何か食べたの?」
「当り前だ。今まで待ってられるかよ」
と、ポチは言った。「調理場に犬の好きなおっさんがいて、ちょっと甘えてやったら、あれこれくれたよ」
「何だ。心配して損しちゃった」
と、マリはポチのわきにしゃがみ込むと、「ねえ、何だか様子が変よ」
「何のことだ?」
マリが、阿部ユリエとその夫が、帰っていないことを説明すると、
「――ふーん。確かに変だな」
「ね? 水科さんが、いい加減な返事をするわけないと思うのよね」
「つまり……二人が誘拐[#「誘拐」に傍点]されたっていうのか?」
マリも、それを聞いてびっくりした。
「考えてもみなかった! どうしよう?」
「落ちつけよ。そうと決ったわけじゃない」
「でも……。あり得るわね。加奈子さんの両親だと知ってる誰かが――」
「で、あの教祖様をゆするのか? さぞ、ばち[#「ばち」に傍点]が当るだろうぜ」
「|冗談《じょうだん》言ってる場合じゃないでしょ」
マリは立ち上ると、「すぐ朝ご飯を食べて来るわ」
「どうするんだ?」
「本山へ|戻《もど》るの。水科さんに詳しい事情を話して……」
「入れてくれるか?」
「大丈夫よ。――たぶんね」
と、マリは、ちょっと頼りなげに言った……。
しかし、マリが朝食をアッという間に(本当に|凄《すご》いスピードで)食べ終えて、旅館から出ようとした時、パトカーがやって来るのが見えた。
マリはポチと一緒に、何事かとわきに|退《さ》がって、様子を見ていた。
警官が旅館の人間に何やら話している。呼んで来られたのは野口だった。
「――阿部って人を知ってますか」
と、警官が訊いた。
「阿部……ユリエですか」
「夫婦です。――あなたは一緒だったんですな」
「そうですが……」
と、野口はますます心細げに、「何かあったんですか」
「実は――どうも阿部さん夫婦は、心中[#「心中」に傍点]したらしいんです」
野口は|唖《あ》|然《ぜん》とした。マリも、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、
「心中?」
と|呟《つぶや》いていた。
「見ていただけますか。この旅館の宿泊カードを持ってたんでね」
「はあ、あの……」
と、野口は情ない顔で、「付添いがいてもいいでしょうか」
と、|訊《き》いた。
「付添い?」
「あの女の子と犬ですけど」
野口はマリとポチのことを指さしたのだった……。
雪原の中。――そこまで歩いて行くのは、大変だった。
一歩ごと、|膝《ひざ》の辺りまで、雪に埋ってしまうのだ。雪はやんで、今日はよく晴れていたので、まだ少し楽ではあったが。
「――ここです」
と、警官が言った。
雪がその一角だけ、ポコッと|凹《へこ》んで、そこに二人が倒れていた。
「あの人だわ、確か」
と、マリは|覗《のぞ》き込んで言った。「ね、見てよ」
「|怖《こわ》いよ……」
と野口はべそをかいている。「化けて出たらどうする?」
「馬鹿言ってないで。私、お父さんの方はそんなによく知らないんだから」
と、マリが引張って、無理に見せてやると、
「確かに……ユリエと、その亭主だ」
と、言って、野口はその場に引っくり返ってしまった。
「勝手に寝てな」
と、マリは|呆《あき》れて、放っておくことにした。「――どうして死んだんですか?」
と、警官に訊く。
「さあね、詳しいことは、よく調べてみないと。たぶん、薬をのんだんだろうね」
「薬?」
「睡眠薬か何か。で、二人して雪に埋れて、眠っている間に凍死するってわけさ」
「自殺……。心中なんですね」
見かけ[#「見かけ」に傍点]は、確かにそうだ。
しかし、阿部夫婦が心中する理由なんかあるだろうか?
「妙だぜ」
と、ポチが言った。
「あんたもそう思う?」
「自殺するタイプじゃねえよ、あのおばさんは」
「じゃあ……」
「決ってる。殺されたんだ」
「でも――どうして?」
「知るか」
マリは、来た時の足跡を|辿《たど》って歩きながら、
「あの二人を、誰かが邪魔だと思ったのね」
「そういうことだな。たぶん、二人は、ちゃんとあの総本山へ行ったんじゃないのか。そして金を出してくれ、と……」
「それで殺す? もっと何か深刻な理由がなきゃ」
マリは腕組みした。
「おい! 待ってくれ!」
野口が追いかけて来る。「|俺《おれ》を置いてかないでくれ!」
「うるせえ|奴《やつ》だな」
と、ポチが鼻を鳴らした。
「待ってくれよ。――二人が死んじまって、どうしたらいいんだ?」
「そんなこと、自分で考えてよ」
「だって、あの旅館代が……」
「恋人が死んで悲しいのかと思ったら」
「悲しいとも! だけど、悲しんだって、タダにゃならないだろ?」
正直と言うべきなのかどうか……。
パトカーで、旅館へ送ってもらったマリたちは、玄関を入って、びっくりした。
「やあ、良かった! いたのか!」
と、やって来たのは中山だった。
「中山さん」
「いや、君がいなくなった、というんで、びっくりしてね。もしかして、君を見かけなかったか、訊こうと思って来たんだ。ここで見付けるとはね」
「教祖様が――」
「分ってる」
と、中山は|肯《うなず》いた。「聞いたよ。ひどくご立腹さ。てっきり自分を追い出そうとする計略だと思い込んでる」
「|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》でした」
「いや、悪かったよ。誰かが、お節介にも君のことを電話で知らせたらしい。それで、カッとなったんだな」
中山はホッと息をついて、「ともかく見付かって良かった。さあ、帰ろう」
マリは|戸《と》|惑《まど》って、
「帰るって――」
「もちろん総本山へ、さ」
「でも……」
「ちゃんと説明したよ、僕が。教祖も納得してくれた。だから、また君は仕事へ戻るってわけだ」
「やった!」
と、ポチが言った。
「中山さん……」
「何だね? 君、そういえば今、パトカーに乗って来たね。何かあったのか」
「あの人は加奈子さんなんですね」
「教祖のことか」
「会いに来た母親、死にましたよ」
「何だって?」
「父親と一緒に、見たところは心中みたいです」
「心中。――あの女が?」
「妙なんです」
マリが、昨日の出来事を話して聞かせると、中山は考え込んだ。
「――確かにおかしいね」
「迎えに来た車は、本山のものだったんだと思います。だって、たったあれだけの時間で、二人を|誘《ゆう》|拐《かい》するなんて話が出て来るわけありませんもの。それに、二人を殺して得をする人がいるでしょうか」
「ふむ……」
中山は|肯《うなず》いて、「分った。その件は、僕が責任を持って調べる。だから君は、これまで通り、代役を続けてくれないか」
マリは、あまりためらわなかった。
「はい」
と、肯く。「ただ、お願いが……」
「何だい?」
ポチが、鼻先でマリの足をつついて、
「給料上げろ、って言ってやれ!」
とたきつける。
「この旅館の宿泊費を払っておいてもらえますか」
「分った、お安いご用だ」
「それと――」
と野口の方を向いて、「この人に東京へ帰るだけのお金をあげて下さい」
「これ[#「これ」に傍点]は?」
と、中山が不思議そうに|訊《き》いて、野口を眺めていた……。
「マリさん」
水科尚子が、すぐに出て来てくれた。「昨日はごめんなさい。教祖が|凄《すご》い剣幕だったんで、手が出せなかったの」
「いいえ。そんなこと……」
と、マリは言って、「でも、|戻《もど》れて|嬉《うれ》しいです」
「あなたとポチの部屋、変えるわ。教祖とあんまり近くない方がいいでしょ」
「すみません」
廊下を歩きながら、マリは、どこかホッとしたものを、この空間に感じていた。
ポチは、また|旨《うま》いものが食べられる、と大喜びである。
「――あ」
廊下で、バッタリ会ったのは、当の「教祖」である。
ほとんど無表情で見ているが、その目には敵意がはっきりと見てとれた。
「帰って来たの」
と、教祖は白い衣で、言った。
「はい」
マリは頭を下げ、「よろしくお願いします」
「ご苦労様ね、私の代理なんて。ま、|頑《がん》|張《ば》って」
と、さっさと行きかける。
「教祖様」
と、マリは呼び止めた。「加奈子という人の両親は亡くなりました。ゆうべ、心中したんです。薬をのんで、雪の中に二人で折り重なるように埋れて……」
「そう」
教祖は背中をマリに向けたままだった。「それがどうかした?」
「いえ、別に」
「じゃ、失礼するわ」
マリは「教祖」の後ろ姿を見送って、
「あの人、知ってたんだわ」
と、|呟《つぶや》いた。「きっとそうよ。だから、顔も見せなかったのよ」
「さあ、マリさん」
と、水科尚子が促して歩き出した。「――あの女の人、死んだの?」
「ええ、そうなんです」
「お気の毒に」
と、尚子は首を振った。
気の毒?――一体誰が気の毒なんだろう?
マリには、まだこれから[#「これから」に傍点]何か起る、という予感があった。当ってほしくないが、しかし、きっと当るだろう、と確信がある。
天使も、たまには未来のことが分るのである。
「悪魔は気楽だ。人が落ちて来るのを待ってりゃいいんだからな」
と、ポチは言って、マリたちの後をついて行った……。
10 マリの休日
「うーん」
とマリは鏡に映った自分を眺めて、満足気に|肯《うなず》いた。「これこそ、私だわ!」
ポチが、ちょっと鼻を鳴らして、
「自分のことはよく分ってるじゃねえか」
と、からかう。
マリは決して天使にあるまじき「うぬぼれの罪」を犯しているわけではなかった。もちろん人間には多少の「|見《み》|栄《え》」というものは必要で、それが人間を|醜《みにく》い行いから救ったりもするのだが、その点は天使だって同じことだ。
ただ、今のマリは、誰が見たって、天使でも「教祖様」でもなかった。丸ぶちメガネをかけ、古くて半ばすり切れたオーバーを着込んだ|田舎《いなか》の少女としか見えない。
「――さ、出かけましょ」
と、マリは言った。「それともあんた、留守番してる?」
「いや、付合うぜ」
と、ポチが伸びをして、「晩飯が食えるように少し腹を|空《す》かしとかないとな」
「もう、あんたは食べることばっかりね」
と、マリは、苦笑した。
二人は部屋を出た。――廊下を歩いて行くと、向うから水科尚子がやって来る。
「水科さん、ちょっと出かけて来ます」
と、マリが声をかけると、水科尚子はキョトンとしてマリを見ていた。
それから、プッとふき出して、
「ああ、びっくりした! 誰かと思ったわ、その格好!」
「ぴったりでしょ、私には」
と、マリも|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「今日は中山さんからお休みをもらったんです」
「そうだったわね。私も聞いてるわ。――教祖は久しぶりに一日ここにいるみたいだし」
「私、ちょっと近くの町まで、買物に行って来ます」
「何でも言いつければ、買って来てくれるのに」
「それじゃ面白くないんですもの。自分で見て、少しでも安くていいものを選ぶのが、買物の楽しみってもんです」
「分ったわ。車でも出しましょうか?」
「いえ、バスで行きます。今日は結構あったかいみたいだし」
「そう。じゃ、気を付けてね。――ポチがいれば、何かの時には守ってくれるわね」
「こいつはだめです。人が不幸になると喜ぶ|性《た》|質《ち》ですから」
と、マリは言った……。
マリとポチは、〈職員用通用口〉と書かれた矢印の方へと歩いて行った。
――本物の教祖、加奈子が|戻《もど》って来てから二週間たっている。中山の方も気をつかって、マリが加奈子と顔を合わせなくてすむようにしてくれていたし、何しろ本物がいるのだから、マリの出番[#「出番」に傍点]も、それほど多くなかった。
それでも、歩き方、微笑み方から、サインの練習までという日課は変りなく続いていたし、最近は短いスピーチまで暗記させられるようになっていた。
部屋は、初め入っていたほど|豪《ごう》|華《か》ではなかったが、これまでの暮しから比べれば充分すぎる広さがあり、快適だった。ポチも、時にはブツクサ言っていたが、食べるものは豊富に出るので、満足しているようだ。
「――ねえ、ポチ」
と、マリが言った。
「ポチなんて呼ぶな。それは世間向けの名前だぞ」
「じゃ、『あんた』でいいの?」
「そいつも気に入らないけど、しょうがねえな。本当は地獄でつけてくれた立派な名前があるんだ」
「へえ。聞かせてよ。何て言うの?」
「よく|憶《おぼ》えてねえよ」
「自分の名前を忘れちゃうの?」
「悪魔の名前は長いんだ。全部言うと五分はかかる」
「|呆《あき》れた。地獄ってよっぽどヒマなんだ」
「大きなお世話だい」
と、ポチは鼻を鳴らした。
「でもさ――」
と、通用口へ続く階段を下りながら、「あの、心中したことになってる、加奈子さんのご両親、その後、どうなったのかしら」
「さあね。誰も気にしねえのさ、あんな|奴《やつ》らが死んだって。ま、地獄じゃ大歓迎してくれてるだろうけどな」
「でも……殺人だとしたら、犯人がいるわけなのよ。それに死んでも構わない人間なんて、一人もいないわ」
「甘い、甘い。世の中にゃ、善意なんてもんの通用しない奴がいくらもいるんだぜ」
それはそうかもしれない。マリはあちこち歩いて来て、そう思うことがあった。でも、天使が人間を、人間の良心を信じなかったら、一体誰が信じるだろう?
「――その角を曲ったとこよね、確か」
と、マリは言った、「ここ、本当に広いんだもの。それに方向音痴だし」
「天使が方向音痴じゃ、死んだ奴をちゃんと導けないんじゃないのか」
と、ポチが笑った。
二人は角を曲って――足を止めた。
パッと離れた二人……。男の方は加東晃男で、女の方は白い衣をまとった加奈子だった。
「あの――失礼しました」
と、マリは赤くなって頭を下げた。
晃男と加奈子は、どう見ても柔道の試合をしていたわけではなく、抱き合ってキスしていたのである。
「いいのよ」
加奈子は思いの|他《ほか》明るい笑顔になって、「どうせ仕事に|戻《もど》らなきゃいけないから。――またね、晃男さん」
「うん」
晃男も、やや|頬《ほお》を紅潮させて、しっかり|肯《うなず》く。
加奈子は、マリに、
「今日はお休み?」
と、声をかけた。
この間の|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》さとのあまりの違いに、マリは|戸《と》|惑《まど》ったが、
「ええ。ちょっと買物に……」
「そう。ね、何かおいしいお菓子があったら、買って来て。一緒に食べましょ」
加奈子はそう言うと、マリの肩をポンと|叩《たた》いて、足早に立ち去った。
「ああ、びっくりした!」
と、マリは胸をなで下ろして、晃男の方へ、「うまく行ったようで、良かったわね」
「うん。――彼女、ちっとも変ってない。いや、むしろぐっと大人になったね。やって来たかいがあったよ」
と、晃男は言って、「君のおかげだ」
「そんなことないわ」
「おっと! 急いで戻らないと。じゃ、また!」
と、晃男が駆けて行く。
「良かったね、二人が元の通りに……」
と、マリが言うと、
「そうか? |俺《おれ》はなんだか気に入らねえ」
と、ポチは首をかしげた。
「どうして?」
「うん……。どうして、って|訊《き》かれると、よく分らねえけどな」
「あんたは人が幸福そうだと面白くないんでしょ」
と、マリは言ってやった。「さ、出かけましょ!」
二人が道へ出ると、ちょうどバスがゴトゴト揺れながらのんびりとやって来るところだった。
「外は寒いね」
と、マリが首をすぼめる。
「そりゃ、この雪だからな」
バスが来て、二人は乗り込んだ。――これが都会のバスだと「犬はだめ」とか言って、乗せてくれないところだが、この辺のバスは全然気にしない。地元の人が、犬はもちろん、ニワトリや豚(!)まで連れて乗っていたりする。
さすがに牛や馬は乗っていないけど、至って|呑《のん》|気《き》なムードであった。
二人を乗せてバスがゴトゴト動き出すと、
「待ってくれ!」
と、大声で呼ぶ声がして、扉をドンドン叩く男がいる。
扉が開くと、
「や、すまんすまん」
と、乗って来たのは、少し頭の薄くなった中年男。
「――何だか生活に疲れた感じね」
と、マリがそっとポチの方に話しかける。
「中身も着てるもんもくたびれてるな」
と、ポチは言った。「だけど、この辺の|奴《やつ》じゃないだろう」
確かに、雰囲気から見て、この地方に住んでいる人間とは思えなかった。
マリとポチがバスの一番奥に座っているのをチラッと見ると、その男は、出入口の近くに腰をかけて、くたびれたコートの前をギュッと引張って合わせたのだった……。
「――このおしるこ、おいしい!」
と、マリは言った。「いいわねえ、やっぱり。勝手に歩き回って、好きな所へ好きな時に入る、っていうのは」
「だけど、それができるのは、金があるからだぜ」
ポチは、マリの|椅《い》|子《す》のそばに座って、おしるこのおモチをもらって、「あちち……」と、目を白黒させたりしている。
「何よ、猫舌とは言うけど、犬舌とは言わないわよ」
と、マリは笑った。
「おい」
「何?」
「あのおっさん、バスに乗って来た奴だぜ」
「本当? どれ」
と、マリは店の中を見回したが、「いないじゃないの」
「よく見ろ。あの隅に一人で座ってる奴。さっきはメガネかけてなかったけどな」
「そう?――何となく似てるけどね。コートが違うじゃないの。別の人よ」
「俺の目を信じろよ。あのコートは、裏返して着てるんだ」
「え?」
裏返して?――確かに、その気で見ると、そんな風にも見える。
「でも……どうしてそんなことを?」
「そりゃ、後を|尾《つ》けてるのを気付かれないようにするためさ」
「私たちの後を尾けてるの? どうして?」
「知るかい。|訊《き》いてみな、本人に」
「そうね」
マリは、おしるこを食べ終えて、お茶を一口飲むと、ヒョイと立ち上って、「じゃ、訊いて来るわ」
と、その男の方へトコトコ歩いて行った。
ポチは|呆《あき》れて、
「あの馬鹿!」
と|呟《つぶや》いたのだった。
「――失礼ですけど」
と、マリはその男に声をかけた。「そのメガネ、外してみていただけません?」
「え?」
和菓子を|頬《ほお》ばっていた、その男は面食らった様子で、「何だい、一体」
「すみません、そのメガネを外してみていただきたいんですけど」
「何の話だね?」
と、顔をしかめて、「子供の相手をしてる時間はないんだよ」
「でも、ずいぶんゆっくりお菓子を食べてらっしゃるし」
「そんなの、俺の勝手だろ」
「ともかく、メガネを。それと、コートを裏返してみていただけますか?」
マリの言葉に、男は和菓子を食べる手を止めた。そして、ちょっと笑うと、
「こりゃ参った。――たかが子供、となめちゃいかんね」
メガネを外すと、やはりバスに遅れて乗って来た男だ。そして、コートを元の通りに裏返すと、
「話がある。――もう食べ終ったんだろ。かけないか」
と、言った。
マリは、自分の席から伝票を持って来た。ポチもついて来て、
「払わせちゃえ」
と、つついている。
「私はこういう者だ」
「わあ、重そうな手帳。でも、カッコ悪いデザインですね」
「そうかな……」
と、その男はまじまじと警察手帳[#「警察手帳」に傍点]を眺めた。「ま、確かに、女の子の喜びそうなデザインじゃない」
「刑事さんなんですか」
「|浦《うら》|本《もと》というんだ。県警の刑事だ」
「私のこと、どうして尾行してるんですか? 悪いことした|憶《おぼ》え、ありませんよ。それとも、ポチが何かしたのなら、謝ります。電柱にオシッコでもかけました?」
「俺はそんなことしないぜ」
と、ポチが文句を言った。
「私は阿部哲夫とユリエの心中事件を調べている」
と、浦本という刑事は言いながら、頭の薄くなった辺りへ、そっと手をやった。
無意識のしぐさらしいが、気にしている証拠なのだろう。
「阿部さん……」
加奈子の両親のことだ。ではやはり、何か[#「何か」に傍点]見付かったのだろうか?
「知ってるね、その二人のことは?」
「母親の方は一度会いました」
「父親には?」
「会ったこと、ありません」
「ふむ」
浦本は手で|顎《あご》をなでながら、「君は正直らしいな」
「そりゃ天使ですから」
「何だって?」
「いえ、別に」
と、マリはあわてて言った。「あの心中、本当は自殺じゃなかったんですか?」
余計なこと言うな、とポチが鼻先でマリの足をつつく。
「どうしてそう思うんだね?」
「だって……。そうでなきゃ、警察の人が乗り出さないでしょ」
「なるほど。君は頭がいい」
それぐらい、私にだって分るわ。マリは何だか少し馬鹿にされているような気がした。
「阿部ユリエの方には男がいた。知ってるね?」
「ええ、野口さんでしょ」
と、マリは|肯《うなず》いた。
「その男は、今どこにいるか、知ってるかね」
「教団で働いてます」
と、マリは答えた。
野口は、ユリエが死んで、東京へ|戻《もど》っても、食べさせてくれる相手は、すぐには見付からないので、何か食べていけるだけの働き口はないか、と中山に相談し、雑用をやらせてもらうことになったのである。
今まであんまり働いて稼ぐ、ということをしたことのない野口だったが、|却《かえ》って「仕事」というのも新鮮らしく、今のところは結構楽しんでいるようだ。
「そうか……」
浦本は肯いて、「あの総本山の中にね」
「ええ」
「ところで――君は、あそこで何をしているんだ?」
マリは、ちょっと詰まった。
教祖に「代理」がいることは、あくまで教団内の秘密なのだ。――|嘘《うそ》をつくのは好きじゃないけど、今は、教団の職員という立場である。
「事務です。あの――今日はお休みで」
と、マリが言うと、浦本は、
「なるほど」
と、あっさり肯いた。「君のことはね、少し調べたよ」
「え?」
調べた、って……。天国に照会しても返事は来ないだろうけど。
「君はどうも『マリ』しか名がないようだね」
と、浦本は言った。
「ええ、まあ……。これも、『ポチ』しかありませんから」
「君に仕事を紹介した所でも|訊《き》いて来た。いつもそうして犬を連れて歩いてるんだね」
「ええ、そうです」
「まあ、私としては、君の|身《み》|許《もと》をあばくのが仕事ではない。殺人事件の犯人を捕えればいいわけでね」
「殺人……。じゃ、あのご夫婦、やっぱり殺されたんですか」
「やっぱり、というのは?」
「あの――何となく、自殺なんてしそうもない人だったので。特にあのお母さんの方は」
「確かにね。二人とも睡眠薬をのんで、あの雪の中で眠り込み、凍死……。心中と見えるが、解剖の結果、薬は紅茶と一緒に胃へ入っていることが分った」
「紅茶ですか。ブルックボンド? トワイニング?」
「そこまでは知らないがね」
と、浦本は笑って、「あの雪原で二人が死んだとなると、一体どこで紅茶を飲んだのかということになる。あの近くに喫茶店はないからね」
「それはそうですね」
「薬をのんで、効果が現われるまでに二十分としても、あそこには車もなかったから、歩いたということになる。二十分じゃ、あの雪の中、どこまで行けたかな。――つまり、どうやら二人とも、どこかで紅茶を飲んで眠り込み、あそこへ運ばれて来た、というのが事実らしいんだ」
マリは|肯《うなず》いた。その辺は大体見当をつけていた通りだ。
「君、いいかね」
と、浦本は少し声をひそめて言った。「私の協力者になってくれないか」
「協力者って……」
と、|戸《と》|惑《まど》うと、
「警察の捜査に協力してくれれば、君の過去については、目をつぶる」
「私の過去って――何のことですか」
「何も[#「何も」に傍点]なけりゃ、『マリ』だけで、あちこち旅して歩いてることもあるまい。そうだろう?」
浦本はニヤリと笑うと、言った。「決して君の損にはならないよ」
この刑事の考えていることも、分らないではなかった。確かに、警察の人間から見たら、マリのように、|身《み》|許《もと》もはっきりしていない人間は「怪しい」と思えるだろう。
「でも」
と、マリは訊いた。「どうしてあの二人が私と関係があると思ったんですか?」
「死体を確認しただろう。そして連絡先があの教団になっている」
「あ、そうか」
「いいかね」
と、浦本は座り直した。「阿部ユリエは、男も好きだが金も好きな女だった」
「人間はたいていそうさ」
と、ポチが言った。
「何を|唸《うな》ってるんだね、この犬は」
「いえ、別に。時々、気が向くと|浪花《なにわ》|節《ぶし》を唸ります――っていうのは、もちろん|冗談《じょうだん》ですけど」
「君は面白い子だね。――いいか、阿部ユリエのことを、住んでいた家の近所で聞き込んでみた。すると、あの教団に何か用事があって行くつもりだ、と|洩《も》らしているんだ」
「どんな用事ですか」
「そこまではしゃべってない。しかし、金が絡んでいたことは確かだ。何百万か借金をかかえてたんだが、借りた相手に、旅行から戻ったら必ず返す、がっぽり金が入るんだ、と言っていたらしい。それもどうやら本気だったようだ」
「どうして大金が入ることになってたんでしょうね」
「|鍵《かぎ》はあの教団さ」
と、浦本は言った。「私はね、こうにらんでいる。あの阿部ユリエという女は、あの教団をゆするつもりだった、とね」
「ゆする?」
「ユリエは、何か教団の弱味、大切な秘密をつかんでいたんだ。それをネタに、金をゆすり取ろうとした。そして――殺された、というわけさ」
「じゃあ、教団の人が殺した、と?」
「私はそうにらんでる。あんなインチキ宗教、裏じゃ何をやってたっておかしくない。そこで、あれこれ調べてる内に、君があの中にいると分ったのさ」
「そうですか……。でも、インチキかどうか分らないでしょう。それに、人殺しまで――」
「分るとも!」
と、浦本はなぜか突然強い口調になった。「あんなもんは、人を|惑《まど》わせ、まだ何も分ってない若者をエサにして太って行くんだ。私は絶対にあんなものは認めない!」
その剣幕に、マリは口をつぐんでしまった。――浦本は、ちょっと息をついて、
「いや、すまん」
と、言った。「ともかく、君に頼みたいことがある。まず一つは、野口という男に会わせてほしいんだ。ユリエから何か聞いているはずだからな」
「野口さんなら、教団の事務局へいらっしゃれば、いつでも会えます」
「いや、あの中では会いたくない」
と、浦本は首を振った。「教団の幹部連中に、私が捜査していることを悟られては困る。もし、私と話しているところを見られたら、野口も消されるかもしれん。証人だからね。生かしておきたい」
どうやら、浦本は教団のことを、マフィアか何かだと思っているらしい。マリとて、あの教団が、建前ほど無私の情熱で運営されているとは思わないが、それにしてもギャングと一緒にされるのも、やはり「教祖代理」としては抵抗があった。
「いいね」
と、浦本はぐっと顔を近付け、「野口に、外で私と会うように言うんだ。分ったね」
浦本の言い方は有無を言わせぬものだった。
マリは|当《とう》|惑《わく》して、ポチとそっと目を見交わしたのである……。
11 出 張
「一体、どういうことなんだろうね」
と、マリは言った。
教団へ帰るバスの中である。――相変らずガラ空きで、マリとポチは一番後ろに座っているので、話をしていても、一向に目立たない。
「あんな|奴《やつ》、|放《ほ》っときゃいいさ」
と、ポチは面倒くさそうに言った。「晩飯は、何が出ると思う?」
「あのね」
と、マリはため息をついて、「人が真剣に話してるんだから」
「分ってるよ。だけど、お前があの夫婦を殺したってわけじゃないんだし」
「当り前でしょ。でも分らない。どうしてあの二人が殺されるの?――あの教祖が二人の娘だってことを隠したかったのかしら? でも、それなら私だって知ってるわけよ」
「そうだな」
「ね? もちろん、中山さんから、教団内のことは他の人にしゃべるな、って言われてるし、私も雇われてる以上は、言われた通りにするつもりよ。でも、殺されるほどの秘密を、あの二人が知ってたなんて思えない」
「お前もたまにゃいいこと言うじゃねえか」
「からかわないでよ。――私はあのお母さんには会ってるわ。そりゃ、お金をよこせって|喚《わめ》いて、教団の方でも閉口したかもしれないけど……。殺したりして、もしばれたら、それこそ命とりだもの」
「じゃ、誰か別の人間があの夫婦を殺したっていうのかい?」
「分りゃ苦労しないわ。それに……」
と、マリはためらった。
「どうかしたのか?」
「何でもないわ」
と、マリは首を振った。
ポチには、マリの考えていることが分っている。教団に、人殺しをしなきゃいけないほどの秘密が隠されているとは、思いたくないのだ。
何といっても、マリはそこで働いているのだし、集まって来る信者たちの気持は|純粋《じゅんすい》だと思っている。それが、裏で何かよほどひどいことでもやっている、となったら、マリまでが、「共犯者」ということになりかねない。
マリは、「何かある」と信じたくないのだ。
こりゃ、いいチャンスかもしれないぞ、とポチは考えた。マリはあの中山って奴を信じてるし、まあ「恋心」を抱くにしちゃ少し|年《と》|齢《し》がちがうが、好意は持っている。
中山が、実際はとんでもないイカサマ野郎だってことが分れば、マリは、ポチが待ちに待っている一言、
「人間なんて信じられない!」
を、叫んでくれるかもしれない。
「ね、あんたも、耳を澄ましていてね」
と、マリが、停留所が近付いたので立ち上りながら言った。「私より、あんたの方が、怪しまれなくってすむんだから」
「ああ、任しとけって」
いいとも。せいぜい耳を澄まして、都合のいいことだけ教えてやるぜ、|可《か》|愛《わい》い天使さん。
ポチは、内心、そっとほくそ笑んだのだった……。
「おいしい!」
と、加奈子は、ため息をついて、「久しぶりだわ、ポテトチップスなんて食べるの」
「高いものじゃないのに」
と、マリが|呆《あき》れて言うと、
「教祖様は、お菓子一つも、勝手に買って食べられないのよ。本当に面白くも何ともないわ」
――ここは、本物の[#「本物の」に傍点]教祖の私室である。
初め、マリたちが入っていた部屋を、更に広く|豪《ごう》|華《か》にした感じで、ポチはしきりに|羨《うらやま》しがって、あちこち|覗《のぞ》き回っては、マリにたしなめられていた。
「フフ」
と、加奈子は笑って、「面白いわね、この犬。あちこち覗いたりして。せんさく好きのおばさんみたい」
おばさん、と言われて、ポチはいささか傷ついたのか、少し澄ました顔で座り込んだ。
「でも、忙しくて大変ですね」
と、マリは言った。
「そうね。だけど、アイドルタレントより、ずっと楽じゃない。別に歌ったり踊ったりするわけじゃないんだもん」
「でも、歩き方とか、お話のしかたとか……」
「それは身につけるまで大変だったわ」
と、加奈子は床の分厚いカーペットに寝そべって、クッションの上に頭をのせた。「でも、一度|憶《おぼ》えてしまえばね」
「――ご両親のこと、お気の毒でした」
と、マリは、少し迷ってから、言った。
「あなた、母と会ったんですって? 水科さんが言ってたわ」
「ええ、私のこと、加奈子さんと|勘《かん》|違《ちが》いされて」
「じゃ分るでしょ。死んで泣きたくなる母親かどうか」
加奈子は、あっさりと乾いた口調で言った。「結局、お金を出せ、ってことだったらしいじゃないの。そんなもんよ」
「でも……お父様は?」
「父はね、少し[#「少し」に傍点]|可哀《かわい》そうだと思う」
と、加奈子は天井の、きらびやかなシャンデリアを見上げながら言った。「生れつき、生活能力というか、活力ってものに欠けてる人なのね。それが母みたいな女と結婚して、ますます小さくなって……。外で、ストレスを発散するのに、少しお金を使いすぎて、借金こしらえて、ドロン。――気が弱いから、とんでもなく大変なことをしたと思ってたんでしょうね」
「あ、お茶、いれましょうか」
「悪いわね」
マリとしては、「本物の教祖様」相手に、やはりつい奉仕[#「奉仕」に傍点]してしまうのである。
「母はあの野口って男を引張り込んで……。もちろん、夫婦ですものね、どっちが悪いってわけでもなかったかもしれない。でも、ともかく、どっちも[#「どっちも」に傍点]子供にとっちゃひどい親だったわ」
マリは黙って|肯《うなず》くだけだった。
「今、野口って、ここで働いてるんですって?」
「そうです。中山さんが色々教えて。――事務の初歩を知らなくて、|却《かえ》って教えがいがある、と中山さん、笑ってました」
「そうでしょうね。ヒモの暮しに|憧《あこが》れてたんだから」
と、加奈子は笑った。「だけど、あなたも大変ね、私の身代りで」
「身代りなんて、そんな。とても私じゃつとまりません。信者の方たちの前に出るのは、ごくたまにだから、何とかボロが出なくてすんでますけど」
「珍しいわ。今どき、控え目で」
「天使があんまりうぬぼれると、まずいんですよ。減点が一番大きいんで」
「え?」
「いえ、別に」
と、マリはあわてて言った。
「だけど――不思議ねえ」
と、加奈子は深々と息をついて、「自分がこんな立場になるなんて、考えてみたこともなかった……。当然よね。別に超能力があるわけでもない、ただの女の子なのに」
「でも、雰囲気がおありですわ。侵しがたい神秘的なものが」
と、マリは本心から言った。
確かに、周囲がそういうお|膳《ぜん》|立《だ》てをしているせいもあるにせよ、加奈子にはどこか、人をひきつける|謎《なぞ》めいた|魅力《みりょく》があった。
「ありがとう。でも、私、俗っぽいもんって大好きなのよね」
と言って、加奈子は笑った。
「加奈子さんを|見《み》|出《いだ》したのは中山さんなんですか?」
「そうじゃないの。中山さんはいわば事務局長。私のことをここへ連れて来たのは、名前は知らないけど、口ひげを生やした、半分くらい髪の白くなった紳士よ」
「どなたなんですか?」
「さあ……。ここの最高幹部でしょうね、きっと。でも、ここへ連れて来られた日以来、一度も会ってない。すべて中山さんが取りしきってるからね」
マリは、少し考え込んでいたが、
「私、この教団のことはよく知らなかったんですけど、加奈子さんの前の教祖様って、どんな方だったんですか?」
「私も知らないわ」
と、加奈子は首を振った。「ともかく、その人がこの教団の創始者だってことは確かなの。でも、新しい教祖が決ると、それ以前のことは一切忘れること、というのが教えなんだって。だから、この教団のどこにも、写真一枚、飾ってないでしょ」
「そうですね。銅像ぐらいあっても良さそうなのに」
「ともかく、そういう教えになってるんだとか。だから、前の教祖が亡くなった時点で、私を見付けたってわけ」
加奈子は、マリの方を向いて、ちょっと微笑すると、「私もね、何だか信者を|騙《だま》してるみたいで、いやだった。こっちはただの女子高生だったわけでしょ。そんな女の子に向って手を合わせてさ。――しばらくは、罪悪感があったわ」
「分ります」
「でもね、その内、思ったの。私が、何か他の道へ進んで、こんなに沢山の人を喜ばせることができるかしらって。――たとえ中身は空っぽの宗教だって、それで信者が満足して、|浄《きよ》められた気分になるとしたら……。大体、宗教なんてそんなもんでしょ」
まあ、マリとしては、簡単には同意しかねるところだが、本来宗教は、それを信じて「何か得をする」というもんじゃないので、その点は、加奈子の言っていることにも共感できた。
「申し訳ないな、とか思うわよ、こんなぜいたくさせてもらって。信者の中には、なけなしのお金はたいて、ここまで私のことを拝みに来る人もいるのに。でも、同情したところで、その人の暮しが楽になるわけじゃないしね」
加奈子はポテトチップスを口へ入れて、「忙しい思いしてる分、楽もさせてもらわなくちゃね」
と、言った。
ドアをノックする音がした。
「誰?」
「中山です」
と、声がした。
「私、もう失礼しなきゃ」
と、マリは立ち上った。「ポチ、行くよ」
マリがドアを開けると、中山が目を丸くして、
「君たち……どうしてここへ?」
「私が呼んだの」
と、加奈子は起き上って、「中年のおじんにゃ分らない話をしてたのよ」
中山は笑って、
「仲良くなられたんですか。それならこっちも安心です」
と、言うと、「マリ、君にも用があったんだ。夕食の後で、私の部屋へ来てくれないか」
「分りました。――じゃ、失礼します」
マリたちが出ようとすると、
「今度は綿アメを買って来てね」
と、加奈子が声をかけた……。
夕食を終えて、マリとポチが部屋を出ようとドアを開けると、ちょうど加東晃男が食事のワゴンを下げに来た。
「あ、ご苦労さま。ワゴン、まだ中に」
「僕が出しとくから」
と、晃男は言ったが――。
「変ね」
と、マリはポチと一緒に歩きながら言った。「昼間はあんなに加奈子さんと楽しそうにしてたのに、いやに元気なかったじゃない」
「人間って|奴《やつ》は|気《き》|紛《まぐ》れなのさ」
と、ポチが言った。
「それにしたって」
「きっと腹が減ってたんだ」
「あんたじゃあるまいし」
――二人は、中山の執務室の前に来た。
ドアをノックすると、
「誰だ?」
「マリです。ご用とうかがったんで」
「ちょっと待ってくれ」
中山はなぜか少しあわてたような声を出した。
二、三分すると、ドアが開いて、
「失礼します」
と、若い女の子が出て来て、さっさと行ってしまう。
マリも見たことがあった。信者の組織の小さなセクションのリーダーをしている、なかなか|可《か》|愛《わい》い子である。
「やあ、ごめんよ、待たせて。――入ってくれ」
と、中山が笑顔で言った。「ちょっと打合せをしていてね」
「どんな打合せか、見当がつくぜ」
と、ポチが言った。「今の子とよろしくやってたんだ」
マリは、ちょっとポチをけとばしてやった。そんなことぐらい、いくらマリだって分る。でも――別にだからって、どうってことはないわ。
私は中山さんのことを、特別好きってわけでもないんだし。そうよ、私には関係ないことだわ……。
「――ご用って、何でしょうか」
それでも、マリは何となく中山の顔から、目をそらしていた。
「うん……。実はね、明日から三日間、教祖は東京に出かける」
「お留守番ですね」
「いや、その必要はないんだ」
中山は、自分の|椅《い》|子《す》から立って来て、「さ、ソファに座ろうよ」
と、促した。
でも――マリはためらった。何ぶん、たった今、あの女の子とこのソファの上で……。そう思うと、座る気になれない。
「どうかしたのかい?」
「いえ……。立っていたいんです」
中山は、しばらくマリを見ていたが、
「――そうか」
と、|肯《うなず》いて、「じゃ、僕も立っていよう」
マリは中山の顔を見た。
「教祖は東京で、大きなパーティに出る。これはTVや新聞でも報道されるから、|却《かえ》ってここにもう一人教祖がいるというのは、まずいんだ」
「分りました。じゃ、私は……」
「教祖と同行してもらいたいんだ」
マリには意外な言葉だった。
「でも――」
「もちろん、君には今日外出した時みたいに、全く違う感じの格好で、行ってもらう。水科君が、びっくりしていたよ」
「一緒に行って、何をすれば?」
「教祖の身の回りのことは、ちゃんとメイドがつくし、一流ホテルのスイートルームを取ってあるから、問題はない。君には、待機していてほしい。万一[#「万一」に傍点]の時のために」
「万一って――どんな時です?」
「君も、少しは|噂《うわさ》を耳にしただろう。教祖は気分が必ずしも一定じゃない。むしろ、感情を爆発させると、どうにも手がつけられなくなる」
「お疲れなんです。今日はとてもご親切でしたわ」
「疲れはある」
と、中山は肯いて、「しかし、今度のパーティは、この教団にとって大切な出来事だ。政治家絡みで、外国大使も大勢来る。ここで、妙なことになっては困るんだ」
「じゃあ……」
「疲れてる時、教祖は酒を飲んだりすることもある。それとも……男で気を|紛《まぎ》らわすこともね」
と、中山は、ちょっと目を伏せた。「用心の上にも用心だ。――マスコミに注目されればされるほど、その手のことがばらされて、大スキャンダルになる可能性も大きい。君には、万一の時の影武者役を頼みたい。――いいね」
マリは、チラッとポチの方を見た。
「もちろん、おっしゃる通りにします」
と、マリは言った。「私の仕事ですから」
「じゃ、明日、朝食がすんだら出発だ。水科君が行って、仕度を手伝うことになっているから……」
「分りました」
「君はホテルで、教祖の隣の部屋に泊るんだ。くれぐれも、下手にマスコミに捕まって、教団のことをしゃべらないようにね」
「分りました」
マリは、「それだけですか」
と、|訊《き》いた。
「――それだけだ」
「じゃ、失礼します」
と、マリは行きかけたが、「中山さん」
「何だね?」
「阿部ユリエさんとご主人の心中のこと、調べて下さるっておっしゃってましたけど、何か分ったんでしょうか」
中山は、ちょっと詰まった様子だったが、
「いや……。それが忙しくてね。それに、あの二人が心中だってことは、警察も認めてるようだしね」
「そうですか」
「君、何か――」
「別に何でもありません」
マリはドアを開けて、「失礼します」
と、一礼した。
「君――」
中山が、二、三歩前に出て、「さっきの女の子は――ただの遊びだったんだ」
「どうしてそんなことを……」
マリは固い表情で言った。
「いや――つい、|苛《いら》|々《いら》しててね。フラフラッと……」
「そんなこと言ってるんじゃありません。どうして私にそんな言いわけなさるんですか」
中山は、マリをじっと見て、
「君に|嫌《きら》われたくないからさ」
と、言った。
マリは少し動揺した。そして、黙ってドアを閉めた。
12 理事長
マリはぼんやりと座っていた。
もうすぐ十一時。もちろん夜の、である。
マリが座っているのは、この教団本部の中のティールームで、仕事上の来客があった時などに使われていた。
夜の九時までは、ウェイトレスがいるが、それを過ぎると、後は各自、勝手にポットを使って、コーヒーや紅茶をいれて飲むようになっていた。二十四時間、ずっと開いているのだ。
今はマリが一人だった。本当なら、もう眠っておかなくては。明日の朝、出かけるのだから。
でも――眠くなかった。
さっきの中山の言葉が、マリの中でこだまのようにくり返し聞こえていたのだ。
「君に嫌われたくない……」
私みたいな子供がどうだっていうの? あの人から見れば、娘――いえ、もっと若いぐらいなのに。
大体私の方だって……。別に、中山のことを特別な気持で見ているわけじゃないわ。
「――長くいすぎたわ」
と、マリは|呟《つぶや》いた。
もう出て行こう。この出張が終ったら、ポチを連れて、また旅に出るんだ。きっと、ポチは文句を言うだろうけど。
居心地のいい所にずっといては、何のための研修か分らない。――ここでの仕事が何か神様の役に立つかもしれない、という気はしていたのだが、それも、自分がここにいたいばっかりに、口実にしていたのかもしれない。
でも――マリは出て行きたくなかった。自分の気持は偽れない。確かに、ここに[#「ここに」に傍点]いたかったのだ。
足音がした。マリは人に見られるのもいやだったので、立ち上りかけたが、
「――何だ」
と、やって来たのは、野口だった。「あんたか」
「あら。――まだ仕事?」
マリは野口を眺めて、「見違えたわ」
と、首を振った。
野口も、きちんと背広にネクタイという格好をすると、結構、勤め人に見えた。
「いや、なかなかいい気持だな」
と、野口は少し照れたように笑って、「働くのなんて、馬鹿げてると思ってたけどさ、どうして、楽しいもんだ」
「良かったわね」
と、マリはニッコリ笑った。「ね、こんな時間まで仕事なの?」
「いや、昨日から、事務の方じゃなくなったんだ」
「じゃ、何をやってるの?」
「それが……」
と、少しきまり悪そうに、「偉い人の秘書をね……」
「秘書?」
「今は雑用と使い走りさ。少しずつ|憶《おぼ》えていけばいい、って言われてね」
「大したもんじゃないの。おめでとう」
「いや、どうも……。あんたのおかげさ」
と、野口は言った。「今は、理事長付きの秘書ってわけなんだ」
「理事長?」
「うん。いつもここにいるわけじゃないのさ。大体は東京にいて、たまに来てる」
「理事長って……誰なの?」
「知らないのか? |前《まえ》|田《だ》|洋《よう》|市《いち》さんっていうんだ」
「前田……。どんな人?」
「うーん、そうだな、五十か五十五、六ってとこかな。紳士だぜ、口ひげ生やした」
口ひげ……。すると、加奈子を教祖にしたのが、どうやら、その前田という理事長らしい。
「いま、その方はここに?」
「うん。明日、東京へ戻るって言ってたけどな」
「そう……」
マリは、少し考え込んだ。そして、ふと思い出すと、
「そうだ。あなたに伝言があったわ」
「へえ。誰から?」
「刑事なの。浦本っていったわ」
マリが事情を話すと、野口は顔をしかめて、
「どうもなあ……。刑事にゃ会いたくないよ、|俺《おれ》」
「それはご自由に。――伝えるだけ、伝えたわよ」
と、マリは言って、「じゃ、おやすみなさい」
「ああ。――おやすみ」
野口が足早に行ってしまう。
マリは、部屋へ戻ろうとして、誰かが、暗がりに立っているのに気付き、ドキンとした。
「やあ」
と、その男が言った。「今、私の話が出ているようだったのでね。つい、声をかけそびれた」
ゆっくりと進み出てきたのは、五十代の半ばくらいと見える紳士で、口ひげが良く似合った。
この人が……。
「私は前田洋市だ」
と、その男は言った。「君がマリ、という子だね」
「そうです。あの――」
「中山から、君のことは聞いている」
と、前田は言った。「もし良かったら、ここでコーヒー|一《いっ》|杯《ぱい》分、付合ってくれるかね?」
マリも、この人と話したい、と思った。何か、知りたかったことを教えてくれるかもしれない。
「じゃ、今、コーヒーを」
と、マリが行きかけると、
「ああ、いいよ。気にしないでくれ」
と、前田はさっさと先に立ってポットの所へ行き、マリの分までコーヒーを作ってくれた。
「私がやらなきゃいけないのに……」
「そんなことはない。君は私の下で働いてるわけじゃないからね。これは私が君をさそっているんだ」
二人は、|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
「――君がとてもよくやっている、と中山が喜んでいたよ」
「本当ですか」
マリは少し胸が弾んだ。単純だけど、これは事実だ。中山が喜んでくれれば、マリは|嬉《うれ》しいのである。
「あの――教祖様からうかがいました」
と、マリは言った。「今の教祖様を見付けられたのは、前田さんなんですね」
「うん、そうなんだ」
と、前田は|肯《うなず》いて、「ピンと来るものがあってね。全く、何の|根《こん》|拠《きょ》もなかったが、この娘は立派に教祖になれる、と信じたんだよ」
「とても立派にやってらっしゃいますわ」
「まあね」
と、前田はなぜか少し|曖《あい》|昧《まい》な言い方をした。「実際、信者はふえ続けている。私など、少し恐ろしくなるくらいだよ」
「でも、すばらしい」
と、マリが言うと、前田は興味を持った様子で、
「どういうところがすばらしいと思うのかね?」
と、|訊《き》いた。
「だって、この宗教は『信じると、何かが治る』とか『お金持になれる』とか言わないでしょ。私、そういうのって|大《だい》|嫌《きら》い。得をするから信じるなんて、間違ってると思います」
「なるほど。しかし、信者からの寄付は拒んでいないよ。現に、こんな本山の建物を作ってしまったんだしね」
「ええ。――正直に言って、ここはちょっと立派すぎるって気もします。でも、ここが見すぼらしい工場みたいな殺風景な建物だったら、やっぱり信者の方たちも、ここへ来てがっかりしてしまうでしょう」
「それはその通りだね」
と、前田は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「私――一つ、うかがいたいことがあるんですけど」
と、マリは思い付いて言った。
「何だね?」
「訊いちゃいけないことなのかもしれませんけど……。前の教祖様は、どんな方だったんでしょうか」
前田は、初めて口を開くのをためらった。やはり、その話はタブーなのだろうか。
「あの――どうしてもってわけじゃないんです。気にしないで下さい」
「いや、君なら話して構わないような気がする」
と、前田は言った。「名前はあかせないが、前の教祖とは、この教団が発足してから、ずっと一緒にやって来た。立派な人だったよ、確かに」
「亡くなったんですか?」
「うん。しかしね、その前に、ここを出てしまったんだ」
前田は、額にしわを寄せ、|辛《つら》そうに言った。
「方針の違い、というかね。――信者の数がふえるにつれて、私は近代的な、コンピューターまで導入しての管理を進めた。そのためにも、この建物は必要だったんだよ。ところが教祖はもっと直接的なやり方――つまり、各地に小さな教会を建てて、そこを教祖が巡って歩くというやり方にしたかったんだ」
マリは肯いた。
「――この総本山が完成した時、教祖は怒ってね。『こんなものは馬鹿げた力の誇示にすぎん!』というわけだ。しかし私は譲らなかった。これ以上の信者の獲得のためには、教祖が一年中どこかを回っているのでは不可能だ、と言ったんだ。人々に訴えるには、テレビやビデオ、カセットテープ……。色々な手段がある、とね。――教祖も、頭では私の考えの正しさを知っていたと思う。しかし、本来の宗教とは、こんなものじゃない、という思いが、どうしても消えなかったんだろう。ある日、ここから姿を消してしまった」
「出て行かれたんですか?」
「そう……。もちろん、私は必死で捜し回ったよ。そして発見した時、教祖は死の寸前にあった……」
「それで――」
「もし、教祖にそれだけの元気が残っていれば、きっと次の教祖を指名していただろう。しかし、残念ながら、もう教祖にその力はなかった。困り果てていた時、ふと目に入ったのが今の教祖だったのさ」
「じゃ、前田さんがその場で決められたんですか」
「それに近いね」
と、前田は肯いた。「というのも、ちょうど主だった信者の集まる大会が開かれることになっていてね、教祖が何としても姿を見せなくてはならなかったんだ。だから、迷っている時間はなかったのさ。他の理事もすぐに賛成してくれた」
「そうですか」
マリは肯いて、「でも、とてもいい選択だったと思いますわ」
「ありがとう。君にそう言ってもらえると、何だかホッとするよ」
前田は、ぬるくなったコーヒーを飲み干して、「おっと引き止めてしまったね。明日は教祖について行くんだろう?」
「はい」
「じゃ、早くやすんでくれ。――おやすみ」
「おやすみなさい」
マリは頭を下げ、自分の部屋へと歩き出した。少し行って振り向くと、もう前田の姿はティールームから消えていた。
前田と話をしたことで、何となく、マリの気持も落ちついていた。いや、もともと落ちつかない理由なんかないはずなのに……。
のんびりと廊下を歩いて行って、マリは足を止めた。
マリの部屋の前に、誰か立っている。――いや、後ろ姿だったが、すぐに分った。
中山なのだ。
中山は足音に振り向くと、
「どこに行ったのかと思ったよ」
と、ホッとしたように息をついた。
「ちょっと――ティールームにいたんです」
マリは中山の前まで来て、「何かご用だったんですか」
と、言った。
「いや……用ってほどのことじゃないんだけどね」
中山は言いにくそうにしていた。
「私、もうやすまないと」
「ああ、そう。――もちろん、そうだね、いや全く」
中山は首を振って、「面目ないことをしたと思ってるよ」
「何のことですか?」
「さっきの――あの女の子のことさ」
マリは少し表情をこわばらせた。
「それは中山さんの問題ですから……。私がどう思っても関係ないと思います」
「いや、そうじゃない」
と、即座に言って、「――私にとっては関係があることなんだ」
と、付け加える。
「どうして?」
「それは……さっき言った通りさ」
中山は少し照れたように言った。「君から見りゃ馬鹿らしいだろうね。僕は君の父親か、それ以上の年齢だ」
「中山さん――」
「なあ、頼むから、そんな目で見ないでくれないか。ニッコリ笑って見せてくれよ」
マリは、しきりに照れている中山を眺めている内、おかしくなって、フッと笑ってしまった。
「や、笑った!」
と、中山は大げさに息をついて、「これで、やっと安心して眠れるよ」
「中山さんって、面白いですね」
と、マリは言った。「明日は一緒に東京へ?」
「もちろんさ。どうだい? デートしないか、仕事の後で」
「いいんですか、そんなことして」
「構やしないさ。君は教祖と違う髪型にでもすれば、誰にも目はつけられっこない」
「私、教祖の代理で、中山さんとデートするんですか?」
「とんでもない、君は君さ」
「私はただの風来坊です」
「君は君。それで充分なのさ。――おやすみ」
「おやすみなさい」
マリは頭を下げた。
中山は行きかけて――すぐ戻って来ると、マリがアッと思う間もなく、キスしたのだった。
そして、足早に立ち去った。
マリは、ボーッとして突っ立っていたが……。いつの間にやら、ドアを開け、部屋の中へ入っていた。
「何だ」
ポチが、頭を上げて、|大《おお》|欠伸《あくび》すると、「帰って来たのか」
マリには、ポチの声など、耳に入らない様子。ポチが、
「おい、明日、何時に起きるんだ?」
と|訊《き》くと、マリはジロッとポチをにらんで、
「うるさいわね!」
と、言って、バスルームへ入ってしまった。
ポチは|呆《あっ》|気《け》に取られて、
「何だ……。天使もヒステリーを起すのかな?」
と、|呟《つぶや》いたのだった……。
13 |宴《うたげ》の前
「|凄《すご》いわねえ」
マリは、ただ目をみはるばかりだった。
パーティの会場は二千人も入るという広さで、ズラリと並んだシャンデリアの光がまばゆいばかり。
はるかかなたにステージが作られて、誰かがマイクの調子を見ている。料理の並べられたテーブルを、大勢のボーイたちが点検して回っていた。
「|旨《うま》そうだ」
と、ポチはゴクリと|喉《のど》を鳴らしている。
「だめよ、あんたは。こんな会場に犬なんかいれてくれないわ」
「用心棒だって言えばいいだろ」
「誰が見たって、警察犬にゃ見えないわよ」
と、マリは笑って、「あんたは部屋でおとなしく待ってなさい。部屋へ入れてくれただけでも、感謝しなきゃ」
「悪魔にゃ、感謝する心なんてないよ」
「そうか。でも、やっぱりここはだめ」
「じゃ、何か旨いもん見つくろって、持って来てくれ」
「食い意地が張ってんだから」
と、マリはため息をついた。「もし時間があったらね」
――今日はずいぶん有名な人もやって来るらしい。
もう、TVカメラが入って、何人か、ライトの具合などをためしていた。
「あの、すみません」
と、誰かが息を切らして駆けて来る。
「あら。教祖様の――」
加奈子の世話をしている、メイドさんである。何やらあわてて、
「あの、呼んでるんです!」
「え?」
「マリさんを呼んで、って……。あの――あの方が」
「教祖様が?」
「そ、そうなんです。ともかく早く連れて来てくれって――」
「分ったわ」
マリは、ポチの方へ、「あんまり人目につかないようにしててね」
と言うと、メイドさんと一緒に、急いで加奈子の部屋へと向った。
加奈子は、このホテルの一番広いスイートルームを使っている。マリは、向い合ったツインルームに、ポチと二人[#「二人」に傍点]で入っていた。
マリが、スイートルームのドアをノックすると、
「誰?」
と、上ずった声が聞こえた。
大分ピリピリしてるみたいだわ、とマリは思った。
「マリです。――入れてください」
と言ってから、マリはメイドさんに、「一人で入るから。あなたはこの辺にいて」
ドアが開くと、加奈子が顔を出し、
「入って」
と言うと、さっさと奥へ|戻《もど》って行く。
マリはあわてて後を追った。
広いリビングルームに入ると、加奈子はソファにドサッと倒れ込んで、
「もうだめ! 気分が悪いの!」
と、泣きそうな声を出した。「私、とてもパーティになんか出られない。――あなた、代りに出てよ」
「そんなこと!――私、できません」
「あなた、私の身代りでしょ! どうしてできないのよ!」
加奈子は、|機《き》|嫌《げん》のいい時とは別人のように目をつり上げ、唇を震わせて|怒《ど》|鳴《な》っていた。
顔からは血の気がひき、体も細かく震えている。――要するに、「あがっている」のだ。
マリは、加奈子の隣に腰をおろすと、
「大丈夫です。できますよ」
と、いつもの通りの声で言った。
「無理よ……」
「私が代りをやるって言っても――TVに映るんです。大きく。いつもみたいに、信者の方たちが遠くから眺めるのとは違いますもの。私じゃだめです。加奈子さんみたいに、雰囲気がありません、私には。あんな大勢の人の所に出たら、顔がこわばっちゃって、笑顔なんか、とても作れません。でも、加奈子さんなら大丈夫。できますよ」
マリが、いつもと同じ口調で話しているのが良かったのだろう。加奈子は、少し落ちついて来た様子だったが、まだ青ざめている。
「――できるかしら」
「大丈夫。だって、ああいうパーティでは、みんなおじさんたちばっかりでしょ。連れの女性だって、若くないし。加奈子さん、若くてきれいなんですもの。もう、それだけで――。それに、あんな大きな教団の教祖がこんなに若い女の子、なんて。みんなびっくりして、眺めてるだけですよ。だから少しぐらい話すことを忘れたり間違ったりしたって、全然平気。ニッコリ笑えば、それでもう、『勝負あった!』ですよ」
聞いていた加奈子が、ごく自然に|微《ほほ》|笑《え》んだ。――「教祖用」の、仕込まれた笑いでなく、普通の女の子の笑いだった。
「何だか、あなたが言うと、大丈夫みたいな気がして来る」
「だって本当ですもの。天使は|嘘《うそ》をつかないんです」
加奈子は笑った。声を上げて。
「――あなた、よく言ってるんですってね、自分が天使だって」
「ええ、地上に研修に来てるんです」
と、マリは言った。
どうせ、信じてもらえやしないのだ。話したって平気である。
「本当に天使かもしれない、って気がして来るわ、あなたを見てると」
と、加奈子は笑った。「――仕方ない! いっちょ、やっつけるか!」
「教祖様のお言葉とは思えません」
と、マリは言ってやった。
ドアをノックする音がした。
「中山さんだわ、きっと。マリさん、開けてくれる? 私、もう一度お化粧を直したいの」
「はい」
加奈子がバスルームに入って行き、マリは急いでドアの方へ行った。
「今、教祖様は――」
ドアを開けて、言いかけ、「あなただったの」
加東晃男が立っている。今日はブレザー姿で、大学生らしいイメージだ。
「彼女……いる?」
「ええ。用意してるとこ」
「入ってもいいかな」
「いいんじゃない?」
晃男は、リビングルームへ入って、
「広いなあ」
と、目を丸くした。「――実はね、僕、あそこを辞めたんだよ」
「どうして?」
「いや……。彼女にさ、こんなことやめて、普通の学生に戻ったら、って言って、口論になってね。ついカッとなって、辞めちゃった」
「知らなかった」
「もう会ってくれないかもしれない、と思ってね。でも――」
バスルームのドアが開いた。
「声が聞こえて」
と、加奈子は言った。「来てくれたのね」
「僕のアパートは近いしね」
加奈子は、ゆっくりと進んで来ると、
「あの時は、ごめんなさい。あなたの気持はよく分るの。|嬉《うれ》しいし。でも――」
「いや、僕こそ自分一人の勝手で、あんなこと言って、悪かったよ」
と、晃男は言った。「もう……時間なんだろ?」
「あと二十分ぐらいありますよ」
と、マリが言った。「呼びに来ます」
「お願いね」
と、加奈子は両手を合わせて、「中山さんに黙ってて」
「了解しました」
マリは、ドアを開けようとして、振り向くと、「加奈子さん、キスしたら、またお化粧直さなきゃだめですよ」
と、言ってやった。
あの広いパーティ会場の前のロビーに行ってみると、中山が、そろそろやって来始めた客と|挨《あい》|拶《さつ》を交わしている。
まだパーティは始まっていないので、客たちはロビーのソファに腰をおろし、顔見知り同士で話をしていた。
中山はマリに気付くと、|大《おお》|股《また》に近付いて来て、
「教祖は?」
と、|訊《き》いた。
「今、お化粧中です」
マリはそう言っておいた。「|緊張《きんちょう》してるから、一人にしておいてくれって」
「そうか。分った。パーティが始まって、少したってからの方がいいな、彼女の入場は。どうせ遅れて来る客もいる」
と、ちょっと腕時計を見る。「君は、適当に教祖の近くにいてくれ。もちろん、たっぷり食べていいんだよ」
「はい!」
マリはしっかり|肯《うなず》いた。
「このパーティで、うちの教団の名も全国に――。や、どうも!」
と、中山はやって来たでっぷり太った男の方へと急いで歩いて行った。
マリは、ポチが見えないので、キョロキョロ見回していた。
「捜しものかい」
足下で声がした。
「何だ。捜してたのよ。どこかへ忍び込んでるといけないと思って」
「|空《あき》|巣《す》と間違えるない」
と、ポチは文句を言った。「あっちに、面白い知り合いが来てるぜ」
「えっ?」
マリは、ポチについて、ロビーの奥へと歩いて行った。
ソファに半ばそっくり返るように座っているのは、浦本刑事だった。
「――いたな」
と、マリを見て、ニヤリと笑う。
「よくここが……」
「分るとも。警察だぞ」
と、浦本は体を起して、「役に立たん|奴《やつ》だな」
「そんなこと言われても……」
と、マリは口を|尖《とが》らした。「お約束した覚えはありませんけど」
「野口は?」
「伝えました。でも、あんまりお会いしたくないみたいです」
「なるほど」
浦本は、あまり気にしていない様子だった。
「あの――野口さんに会いたいんでしたら、本山にいますけど」
「そうか?」
と、浦本は|愉《たの》しげに言った。「なら、どうしてさっき見かけたのかな」
マリは面食らった。
「野口さんを?」
「ああ」
「だって――会ったことないんでしょ」
「ちゃんとお目にかかったよ。警察の資料でな」
「警察の?」
「あいつは一時、暴力団に入ってたんだ。抜けられなくて困ってる内に、幸いその組が|潰《つぶ》れた。それで女の所へ転がり込んだってわけさ」
なるほど。それじゃ、会いたくないわけだとマリは思った。
「でも、ここへ来てるなんて知らなかったわ」
「まあいい」
と、浦本は肯いて、「今日はなかなか盛大なパーティらしいな」
「ええ」
「インチキ宗教が、こんな場に堂々と出て来るのか。いい度胸だ」
と、浦本は立ち上って、「|俺《おれ》は、ちゃんと目を光らしてる。――東京へ来て、何か怪しい動きがあれば、見逃さん。分ってるな」
口のきき方が|横《おう》|柄《へい》だわ、とマリは思った。
浦本は、ゆっくりとロビーから姿を消した。しかし、たぶん帰ってしまったわけではないだろう。
マリは、浦本が何かはっきり|狙《ねら》いを持ってここへやって来たという印象を受けた。
もちろん、マリも阿部ユリエと夫が心中した事件の真相を知りたいと思っている。でも――この教団に、どんな秘密があるというんだろう?
「ここにいたのか」
と、中山がやって来た。
「あ、すみません」
「いいんだ。そろそろパーティが始まるよ」
「教祖様をお呼びしますか?」
「まだだ。時間はあるよ。君、少しパーティに出ていたまえ」
「私一人で?」
「大丈夫。入口の近くにいれば、捜すさ」
と、中山はマリの肩をポンと|叩《たた》いた。
マリは少し|頬《ほお》を赤くした。――ポチに見られなくて良かった。
でも、ポチったら、どこでふてくされてるのかしら?
14 毒
パーティ会場は|凄《すご》い熱気だった。
マリは、人また人の会場の中で、危うく迷子になりかけて、辛うじて出入口の所へやって来た。
「くたびれた!」
と、息をつく。
客の数が多いことに加えて、取材する報道陣が中をあちこち動き回って、混雑に拍車をかけた。
どうしよう? まだ加奈子さんを呼ばなくていいのかしら?
心配していると、中山がやって来た。
「彼女[#「彼女」に傍点]を呼んで来てくれるかい?」
「はい」
マリはホッとして、ロビーを足早に駆け抜けた。
スイートルームは上の方のフロアである。加奈子のいる部屋のドアをノックして、マリは声をかけた。
「失礼します。――あの、そろそろ時間ですけど。――加奈子さん? 教祖様」
返事がない。マリは、ちょっとまずいかなあ、なんて思ったりした。
加奈子と晃男、二人にしといたのが間違いだったかもしれない。まだ充分に時間はあるからって……。二人してベッドイン、てなことに。――まさか!
「はしたないこと考えて!」
と、自分で赤くなっている。
いくら何でも、そんなことしないだろう。そのつもりなら、今夜、またここへ来りゃいいわけだし。
「加奈子さん」
と、もう一度ノックしてみる。「教祖様。――お時間です。教祖様。加奈祖様[#「加奈祖様」に傍点]。あれ?」
マリの方も結構のぼせている、と言うべきか。やはりパーティの熱気にあてられたのかもしれない。
でも困った。出て来てくれないと――。
ドアが開いた。
「ああ良かった! もうパーティの方へいらして――」
マリは言葉を切った。加奈子が、真青な顔をして、立っているのだ。ただごとではない、と分った。
ただ|緊張《きんちょう》しているというのとは全く違う。
「何かあったんですか」
と、マリは|訊《き》いた。
「入って」
と、加奈子は、まるで夢遊病の人みたいに、ぼんやりした様子で言った。
「あの……加東さんは」
と、マリはリビングルームへ入りながら言った。
返事を聞く必要はなかった。加東晃男は、ソファに、身をよじるようにして横たわっていた。別人のように顔が|歪《ゆが》んでいる。
空のグラスが床に転がっていた。
「どうしたんですか!」
マリは、駆け寄って、晃男の上にかがみ込んだが……。一目見て、死んでると思った。
しかも、相当に苦しんだようだ。見るのも辛いほど、表情に|苦《く》|悶《もん》の跡が残っていた。
「おい、どうしたんだ?」
と、声がした。
開けたままのドアから、中山が入って来たのだ。「早く来ないと、もうパーティが……」
中山はソファの方へ目をやって、
「何てことだ! それは――」
「|乾《かん》|杯《ぱい》したの……」
と、加奈子が言った。「二人で、乾杯して……。そしたら、突然苦しみ出して。どうしようもなかった。アッという間だったのよ」
すると、中山について来たらしく、ポチがノコノコとソファの近くへやって来た。
「死んでるわ」
と、マリは低い声で言った。
「そんなことぐらい、|俺《おれ》だって分るよ」
と、ポチが言った。「こいつは毒薬だぜ」
「毒?」
「|匂《にお》いで分る。一服盛られたんだ。こういうことにゃ詳しいんだ、俺は」
と、妙なことを自慢している。
「――どいて」
中山がやって来て、晃男の手首をつかんだ。「死んでるな」
「ああ!」
と、加奈子が叫ぶように言って、そのまま床へ崩れるように倒れた。
「加奈子さん!」
マリは駆け寄った。「――気絶しちゃった! どうしましょう?」
中山は立ち上って、
「時間がない」
と、首を振って言った。「マリ、君が代りにパーティに出るんだ」
「パーティなんて……。人が死んだのに、そんなこと――」
「それとこれは別だ。そうだろ? ここのことは僕に任せて! 君はすぐ仕度だ!」
「でも――」
マリは抗議しようとしたが、中山にぐっと肩をつかまれ、何も言えなくなってしまった。
「教団の将来がかかってるんだ。ここで、教祖は出席できません、なんて言おうものなら、やっぱりインチキ宗教と思われてしまう。そうだろう?」
マリは、ともかく|肯《うなず》いた。肯くしかなかったのである。
光と音。――光と音。
初めに光ありき、ではないけれど、マリは光と音の大きな渦巻きにでも|呑《の》み込まれてしまったような気分だった。
天国も相当ににぎやかな所だけど、これほどじゃないわ、とマリは心の中で|呟《つぶや》いたりした。
パーティ会場へ、水科尚子に付き添われて入って行った瞬間、スポットライトがパッと当てられて、まぶしくてろくに前が見えない。
一体どっちへ行けばいいのやら。水科尚子に腕を取られて、ともかく人をかき分けて行った。――もう、教えられた歩き方も何もあったもんじゃない。歩くだけでも|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》、という感じなのである。
気が付いてみると、一人でステージの上に立ち、マイクがちょうど口の辺りまで下げられて、何か言わなきゃいけない様子。が、ここでまた|凄《すご》い強烈なライトを浴びせられて、何も見えなくなってしまったのだ。
頭にカーッと血が昇る。いくら天使でも、こうまで「持ち上げられる」と、やはり見栄[#「見栄」に傍点]でも張りたくなる。
何か教祖らしいことを言わなきゃいけないと思っていると――何やら質問に答えることになっていたらしい。きっと水科尚子が説明してくれていたのだろうが、マリの耳には入っていないのである。
誰かが、
「科学万能の時代に、宗教によりどころを求める人間を、どう考えますか?」
と、訊いた。
そんなこと! 難しくって一言で答えられっこない!
マリは迷った。でも、ここは天国じゃないのだ。上級の天使に訊いて来ます、ってわけにはいかないのである。
ステージの|袖《そで》に立っている水科尚子の顔が見えた。どうしたものか、あわてている。たぶん、彼女も、こんな質問が出るとは知らなかったのだ。
「あの……」
マリが少しマイクに口を寄せて話しかけると、とたんに広い会場内がシーンと静かになってしまった。マリは、ちょっと|咳《せき》|払《ばら》いをした。
「あの――宗教って、何か誤解されてるような気もするんですけど、どこかに『神様』があって、それに向って祈ってると、幸福になれる、っていう……。それはそれで、本人が良ければ構わないと思います。でも――やっぱり、その――誰も一人じゃ生きてないんです。そうですよね? 天国だって、相互扶助の組織があって、私、その会計係やってたんですけど、電卓打つの一|桁《けた》間違えちゃって……。それでクビになって――あ、いえ、そんなこと、どうでもいいんですけど」
マリは、何とか話を元のテーマに引き戻そうとした。「あの――何でしたっけ? あ、そうそう。一人じゃ生きてない、ってことですね。人は家族とか友だちとか、沢山の人に支えられて生きてるわけで、自分が良きゃ、他の人が困っても構わないっていうのは、どうも……。何かを信じるのはいいんですけど、それで家の財産、みんな|注《つ》ぎ込んじゃうとか、そんなのは間違ってるし、そんなこと求める宗教は、やっぱり偽もんですね。この教団は決してそんなことありません。ええ」
と、やっと少しPR。
「私、神様ってのは信じなくてもいい、と思ってるんです。天国だって、あんまりそんなこと気にしないんです。要するにその――自分が、何か高いものを目指すってことが大切で。科学だって、そのための手段ですものね。その『高いもの』がなくなっちゃうと、科学って、平気で人を殺したり、環境を破壊したりするんです。自然と科学って、敵同士じゃないんです。それが――つい、洪水を防ぐ[#「防ぐ」に傍点]、とか災害から守る[#「守る」に傍点]、ということばっかりやってる内に、自然は敵だっていうふうに思い込んじゃってます。でも科学も自然から生れて来たものなんですから。自然の中じゃ、どんな大きな建物も船も、本当に小っちゃくて……。天国から眺めてると、よく分りますよ。その自然を、人間って、せっせと壊してたりして、何してんだろうね、っていつも|呆《あき》れてるんですけど……。原発だってそうです。だって、馬を駆け出させるだけならできても、どうやって止めていいか分らない人を、『馬に乗れる』とは言わないでしょ。自動車だって、動かせるけど、ブレーキの踏み方を覚えてない人に免許はくれませんよね。でも原発が|一《いっ》|旦《たん》事故になったら、もう誰にも|停《と》められないんです。そんなもの、作る方が間違ってるのに。天国でも一番心配してるのはそのことです。早く人間がそれに気付かないと。――そういうものを熱心に作ってる人って、『科学』を宗教みたいに信じてるんです。進歩するのは絶対にいいことだって。今までできなかったことができる、とか、今までなかったものが作れる、っていうのが、結果なんか関係なく、いいことだ、と思ってる。それこそ狂信的なんです。そういう人は、もっと高いもの――つまりは『人間』ってものなんですけど、高いものがあって、そのために、やるべきことと、やるべきでないことを、判断できないんです。|可《か》|哀《わい》そう、っていうか……。でも、そういう人たちにこそ、神様が必要なんですね。天国でもそういうPRを何かしなきゃいけない、って意見も出てるんですけど、まさか天使がTVに出てCMやるわけにもいきませんし、結局、人間が自分で気付くのを待つしかないね、ってことに……」
――しまった!
マリは、いつの間にやら、「天使」としてしゃべっている自分に気付いて、ハッとした。
どうしよう! マリはステージから駆け下りて、人をかき分けながら、進もうとした。でも、何しろ|凄《すご》い人の波で、動きが取れない。
すると――拍手が起きた。初めはパラパラだったけど、すぐに大波のような拍手になって、それはマリを包み込んでしまった……。
「死にそう」
と、マリは言った。
「しっかりして。――何か冷たいものでも飲む?」
と、水科尚子が|覗《のぞ》き込むようにして|訊《き》く。
「――お願いします」
マリは、|椅《い》|子《す》に腰をおろして、息をついた。
あのパーティ会場に隣接した小部屋。控室ということで、空けてあったので、マリはここで少し休むことにしたのだった。
「ジュースでも持って来るわ」
と、水科尚子が出て行く。
「参ったなあ……」
と、マリが首を振っていると、
「おい、どうした」
ポチがいつの間にやら、そばへ来ている。
「あんたなの。――お|腹《なか》の方は大丈夫?」
妙なところで気をつかっている。
「後でルームサービスでも取るさ」
と、ポチは言った。
「えらいことやっちゃった」
「大演説だったじゃねえか」
「聞いたの?――もう、カーッとなって、わけが分んなかったのよ」
「印象は悪くなかったみたいだぜ」
「もうどうでもいいわ。どうせクビ。出て行くところだと思ってたから、ちょうどいいわ」
「|俺《おれ》は気に入ってるけどな」
「食べものが、でしょ」
と、マリは言ってやった。
「それだけじゃないぜ」
と、ポチは言った。「あの毒殺事件はどうするんだ?」
「毒殺……」
「そうさ。あんな、アルバイト学生を殺す|奴《やつ》がいるかい? ありゃどう見たって、相手を間違えたか、男の方が先に飲んだんで、肝心の方は助かった、ってことだぜ」
マリはポチを見て、
「じゃ――加奈子さんを?」
「当然さ。それに、あの子の両親。あの二人も薬を盛られたんだぜ。よく似てると思わないか?」
確かにそうだ。マリだって、もっと落ちついていれば、そこまで考えたのだろうが。
「誰かが加奈子さんを殺そうとしてるのね」
「それを放って出てくのかい?」
ポチにそう言われると、マリとしても、迷ってしまう。もちろん、クビになりゃ、|否《いや》|応《おう》なく出て行かなきゃならないが。
控室へ、中山が入って来た。
「やあ。いられなくて悪かった」
と、マリの方へやって来ると、「どうだい、気分は?」
「すみません。パーティ、めちゃくちゃになっちゃって」
「何を言ってるんだ」
と、中山は笑って、「君はよくやったよ。マスコミも大喜びだ」
マリは信じられなかった。
「本当に?――クビじゃないんですか?」
「とんでもない! 君にいてもらわなくちゃ困る」
マリは中山に手を握られて、カッと|頬《ほお》が熱くなるのを感じた。
「遅くなって、ごめんなさい」
と、水科尚子がジュースのコップを手に入って来る。「あら」
中山が、手を離して、
「教祖は、今休んでるよ。鎮静剤をうってもらってね」
と言った。
「そうですか」
水科尚子は、マリにコップを手渡し、「これから、どうします?」
と、中山の方へ向いた。
「予定通りだ」
と、中山は言った。「予定は変えられない。明日は米国大使と昼食、夕方からはパーティが三つ入っている」
マリは面食らって、
「でも――あんなことがあったのに」
と、中山を見つめた。「どうするんですか、あの男の子のこと」
「君は心配しなくていい」
「そんな! 死んでたんですよ、あの人」
「しっ!」
と、中山は口に指を当てて、「いいかい、これは教団に対する陰謀なんだ」
「陰謀?」
「我々の教団は、急速に大きくなって、力もつけた。有名にもなった。当然、周囲からは、ねたみも買うし、中傷もされる。――いいかい、もし、教祖の部屋で、その恋人だった青年が毒物をのんで死んだとなったら、どうなる? 大体、こんなホテルに、教祖の恋人が来ていた、と分っただけでも、大変なスキャンダルだ。それに、毒薬を飲物へ入れた人間は、教祖を|狙《ねら》ったのかもしれない」
「ですから、警察に――」
「もちろん、届けるさ。犯人はきっと警察が見付けるだろう。しかし、あの部屋[#「あの部屋」に傍点]じゃ困る」
「どうするんですか?」
「死体は運び出したよ、こっそりとね。――あの加東晃男は、教祖とは何の関係もない、ということにしなくては」
マリは|唖《あ》|然《ぜん》としていた。中山の言うことが分らないわけではない。しかし、間違っている。
そう、間違ってるんだ。そう思っても、マリには、どうすることもできなかったが……。
15 決 断
マリはふっと目を覚ました。
あ、寝ちゃったんだ。――そう気付いてから、少し|戸《と》|惑《まど》った。ここは、どこなんだろう?
星が見える。それも、ずっと頭上じゃなくて、すぐそこに見えるような気がする。
おかしいな。天国へ帰って来たのかしら?
でも、いつの間に?
「目が覚めたかい」
と、声がして、マリはびっくりした。
中山が隣にいる。――ヘリコプターに乗っていたのだ。
ヘリコプターは、二人を乗せ、夜空を飛んでいた。マリも、やっと思い出した。
総本山へ帰るところなのだ。
「どうだい、疲れたろう」
中山は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「いえ……。眠ったら、ずいぶん楽になりました」
と、マリは答えた。
「いや、大変なスケジュールだったものね。よく|頑《がん》|張《ば》ってくれた」
――結局、加奈子は目の前で晃男が毒を飲んで死ぬのを見ていたショックから、ひどくふさぎ込んでしまって、水科尚子が付き添って、先に総本山へ帰ってしまったのだ。
後のすべてのスケジュールを、マリが加奈子の代役として、こなさなくてはならなかった。それも、あのパーティでのTV中継のせいもあって、インタビューやTV出演が倍にもふえた。
マリは、おかげで五分刻みのスケジュールの三日間を過さなくてはならなかった。眠る時間も切りつめられ、せいぜい四時間。
寝不足の天使、じゃ、お話にもならないわ、と、マリは心中ひそかに文句を言っていたものだ。
その一方で、ある種の「充実感」があったことも確かである。大勢の人に顔を知られ、|挨《あい》|拶《さつ》され、歓迎されるのは、悪い気分じゃなかった。
でも、これは私[#「私」に傍点]に対してのものじゃないんだ。「教祖」に対して、加奈子さんに対してのものなんだ、とマリは自分へ言い聞かせた。
言い聞かせる必要があった、ということも、マリには分っていた。その意味するところが……。
マリはチラッと足下を見た。ポチが真黒な胴体を横たえて、スヤスヤ眠っている。
「中山さん」
と、マリは言った。「お話があるんですけど」
「僕の方にもある」
と、中山はすっかり気が楽になった様子で言った。「もしかして、同じこと[#「同じこと」に傍点]かもしれないね」
「たぶん……違うと思います」
と、マリは言った。
「まあいい。ともかく――もう少しで総本山だ。着いてから、ゆっくり聞こう」
「もう着くんですか」
と、マリはびっくりした。
「空を飛ぶと早いんだ」
中山は、まるで少年のようにはしゃいでいた。「君にも分るだろ、天使なんだから」
マリはつい笑い出してしまった。
「天使っていっても、別に空中を飛び回れるわけじゃありません。スーパーマンじゃないんですもの」
「何だ、そうなのか。残念! 君におぶってもらって、空中散歩をしたかったのにな」
「おあいにくさま」
と、マリは言ってやった……。
ポチが目を覚まして、アーアーと|大《おお》|欠伸《あくび》すると、
「ラブシーンなら、着いてからやれ」
と、言った。
「大きなお世話」
と、マリが言ったので、中山は目をパチクリさせていた。
「――見ろよ。総本山だ」
中山が指さす方を見ると、夜の|闇《やみ》の中に、照明に照らし出されて、巨大な総本山の建物が浮かび上っていた。
それは、無条件に美しくて、壮大で、心を打つ光景だった。
「すばらしいと思わないか」
「ええ……。美しい!」
と、マリは心から言った。
ヘリコプターが近付くと、建物の屋上のヘリポートが光の|環《わ》で四角く囲ってあるのが、まるで遊園地の飾りみたいで、きれいだった。
「人がいるわ」
と、マリは見下ろして、言った。
「みんなが君を出迎えてるんだ。――さあ、手を振って」
「でも――」
出迎えられているのは私じゃない。加奈子さんなんだ。
「いいんだ。君のことを、喜んで迎えてるんだから」
マリが手を振ると、ヘリポートの周囲に集まった百人近い人々が|一《いっ》|斉《せい》に手を振って|応《こた》えた。ヘリコプターが降下して行くと、風が巻き起ったが、誰も、手を振るのを、やめなかった。
マリは胸が熱くなり、そしていつしか目に涙が|溢《あふ》れて来ているのを感じたのだった……。
「お帰りなさい」
と、水科尚子が、マリを出迎えて、言った。
「加奈子さん、どうですか?」
と、マリはすぐに|訊《き》いた。
「あんまり良くないわ、ずっと寝込んでいるの」
「病気ですか」
「疲労がたまって……。あなたも、あんまり無理しないでね」
「ええ……」
マリは|曖《あい》|昧《まい》に言った。
「さ、もう休んでくれ」
中山はマリの肩に手をかけた。「部屋まで送るよ」
マリは、水科尚子に|会釈《えしゃく》して、歩き出した。――送られるだけでは終らないことを、マリは知っていた。
「すまなかったね」
中山は、マリたちの部屋へ入ると、「――デートの約束が果せなくて」
「そんなこと、仕方ありません」
「色々あったが、まあ何とか切り抜けた。後も大変だと思うよ。これで一般のマスコミも我々に注目する」
中山は、興奮している様子だ。
「――中山さん」
「何だい? 君の方の話ってのは?」
「中山さんの方もお話が……」
「うん。――僕の話は簡単だ」
中山はじっとマリを見て、「君に、このまま、教祖でいてほしい」
と、言った。
「だめです」
と、マリが首を振る。
「どうして?」
「私は加奈子さんの代理です」
「あの娘にはもう無理だ」
と、中山は肩をすくめ、「分るだろう? 神経も参ってるし、あのままでは、ノイローゼになる。君だって、そうさせたくはないだろう」
「でも、それなら次の教祖を、誰か別に決めるべきです」
「それが君だっていいじゃないか」
「私は、あの人の替え玉です。信者の人たちは同じ人間だと思うでしょう。そんなの、|詐《さ》|欺《ぎ》と同じです」
「君は全く|真《ま》|面《じ》|目《め》な子だね」
と、中山は笑って、「しかし、どっちにしても――」
「私はともかく、だめです」
と、マリは、中山から目をそらして、言った。
「どうして?」
「ここを辞めます」
中山が一瞬、詰まった。思いもかけなかったようだ。
「辞める?――どうして?」
マリは黙っていた。
「何か不満なのか? 言ってくれ。もっと広い部屋にでも移るかい」
「そんなことじゃないんです」
「じゃ、何?」
マリは、おずおずと中山の目を見て、
「|怖《こわ》いんです」
と、言った。「ここにずっといてしまいそうで」
「いればいいじゃないか」
マリは首を振った。
「私には役目があるんですもの。それに――私がここにいたいと思う動機が、|純粋《じゅんすい》じゃありません」
「どんな動機?」
「自分が偉くなったみたいな気がして……。そんなわけないのに。いい気分なんです、でも、そんなの罪です」
中山は、マリと並んで、ソファに腰をおろすと、
「それだけかい?」
と、訊いた。
「いいえ……」
マリは、消え入りそうな声で言った。「中山さんのそばにいられる、と思うと……」
中山の腕がマリの体に巻きついて、力強く抱きしめた。逆らってもかないっこない。
マリは中山の胸に身をあずけ、顔を上げると……。
ポチは、マリが中山にしっかり抱かれてキスされるのを見て、やれやれ、と思った。
「あれであいつも終りだな」
あのままベッドへ運ばれて、なすがまま。そうなりゃ、あいつはもう天使にゃ|戻《もど》れなくなる……。
俺が地獄へ大いばりで戻れる日も近いってもんだぜ。――なあ。
マリは、もう何がどうなっても構わない、って気がして、中山に抱きつき、目をつぶった。心臓の|鼓《こ》|動《どう》の激しさで、体中が震動しそうだ。
切ない思いがこみ上げて来て、|嬉《うれ》しいのか悲しいのか、分らなかった。ともかく――今はただ、流れに身を任せているしかない……。
ワン、ワン!――ワン!
「君の犬が|吠《ほ》えてるよ」
と、中山が言った。
マリは、振り向いた。ポチがそっぽを向いて|欠伸《あくび》をしている。
なぜ吠えたの? どうして――。
マリは、ふと部屋の隅の鏡に目をやった。ドレッサーの鏡に、自分が映っていたのだ。中山に抱かれている自分が。
ハッとした。――そして、急速に、体が冷えて行った……。
「どうしたんだい?」
と、中山は言った。「大丈夫。何も心配しなくてもいいんだよ。君は、初めてなんだろう?」
マリは、黙って|肯《うなず》いた。それから、もう一度鏡を見て、
「お願い」
と、言った。「お|風《ふ》|呂《ろ》に入って、少し気分をほぐしたいんです。疲れてるし」
「いいとも。入っておいで」
「恥ずかしいわ」
と、マリは目を伏せて、「あと一時間したら来て下さい。――お願い」
中山は|微《ほほ》|笑《え》んで、マリの額に|唇《くちびる》をつけると、
「分ったよ」
と、立ち上った。「じゃ、僕も自分の部屋で、|一《ひと》|風《ふ》|呂《ろ》浴びて来ることにしよう」
「ええ、そうして下さい」
中山は立ち上った。
マリは、ドアを開け、
「一時間したら、ね」
「一時間だ」
中山は、肯いて見せると、部屋を出て行った。
マリは、ドアを閉じると、背中をつけてもたれかかり、大きく息を吐いた。――何てこと! 何をするところだったんだろう!
ポチが、マリを見ている。
「ありがとう、あんた」
と、マリは言った。
「何が?」
と、ポチはとぼけた。
「|吠《ほ》えてくれたじゃない。あれで、我に返れたわ」
「そうかい?」
ポチは|欠伸《あくび》をして、「|俺《おれ》は腹が|空《す》いただけさ」
「さ、急いで仕度」
マリは、着ていたものを手早く脱いだ。そして、スラックス姿に、分厚いコートをはおると、
「出発よ。この服はもらってっちゃうけど、仕方ないわね。初めの服は、もうないんだから」
「給料は?」
「少しはお金あるわ。何日間かは困らないわよ」
「今から出るのか? 寒いし、バスももうないぜ」
「トラックとか通るでしょ。それにヒッチハイクで乗せてもらいましょ」
「分ったよ」
ポチも、文句は言わなかった。
「さ、忘れもの、ないわね」
「置き手紙でも?」
マリは、ちょっと考えて、
「いらないわ。どっちにしても、私の役目なんか、あの人が理解してくれるわけがないしね」
「そりゃそうだな」
「それより、できるだけ早く、ここから離れるのよ。――行こう」
マリは、部屋を出て、廊下を急いだ。
通用口から、バスの通る道へ出れば、何か車の一台ぐらいは通るだろう。
中山のことを、マリは頭の中から一生懸命に追い出そうとした。――胸が痛んだ。
恋か。これが恋ってものなのか……。
でも、天使が研修中に恋なんかしてちゃいけないんだ。恋は、人間のもの[#「人間のもの」に傍点]なんだ……。
自分へそう言い聞かせながら、マリとポチは通用口へと急いだ。
もう少し。――パッと角を曲って、マリは足を止めた。
「お出かけ?」
と、目の前に立った水科尚子が言った。
「水科さん……。私、ここを出ます」
と、マリは言った。
「何ですって?」
「中山さんには言ってません。色々お世話になって申し訳ないとは思うんですけど、これ以上、ここにはいられないんです」
尚子は、マリを見ていたが、
「あなた……本当に、出て行くの?」
「ええ。加奈子さんによろしく言って下さい。私に、教祖なんて、とてもつとまりませんからって」
「そう」
尚子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「じゃ、悪いけど、連れてってほしい人がいるの」
「え?」
「その人たちよ」
と、尚子がマリの後ろへ目をやる。
マリは振り向いて、目を丸くした。
加奈子が、何だかくたびれた様子の中年男を、支えるようにして、立っている。
「加奈子さん……」
マリは、その男を、どこかで見たことがある、と思った。「この人は?」
「私の父よ」
と、加奈子が言った。
16 すり替え
マリは、|唖《あ》|然《ぜん》として、半分ぼんやりとしているその男を見ていたが、
「そう……。私のこと、加奈子さんと間違えたの、この人だわ」
と、|肯《うなず》いた。「じゃ――あの雪の中で、加奈子さんのお母さんと死んでいた人は?」
「前の教祖よ」
と、尚子が言った。
「何ですって?」
マリは、何が何やら分らなかった。
「でも――前の教祖は亡くなったんじゃ……」
「生きていたのよ」
と、尚子は言った。「ただ、前田理事長がこの教団を利用しようとしていることを知って、失望したの。すべて実権は前田が握っていて、教祖はいつしか、ただの飾りになっていた。それで教祖はここを出たのよ」
「私、見たわ」
と、加奈子は言った。「浮浪者みたいな人が雨の中で倒れ、あの口ひげの男が車の中にその人を運び込ませるのを。あれが教祖だったのね」
「前田は、加奈子さんを連れて来て、新しい教祖にした。でも、前の教祖も、殺すわけにもいかず、この地下の秘密の部屋へ、入れておいたのよ。でも、いつまでも置くのは段々危なくなって来た……」
「それで、この人の身代りに?」
「たぶん、会いに来た加奈子さんのお父さんを見て、前の教祖と似ている、と思ったので、とっさに思い付いたんじゃないかしら」
と、尚子は言った。「薬であの夫婦と教祖を眠らせ、服をとりかえさせる。そしてこの阿部さんを地下へ放り込んでおいて、教祖と、加奈子さんの母親の二人を、雪の中へ置いて来る……」
「ひどいこと……」
マリは首を振って、「でも、野口さんが、確かにあれを父親だって――」
「言ったさ」
と、声がした。
野口が立っていた。手に散弾銃を構えている。
「あんた!」
と、マリがにらんで、「じゃ、金で雇われてやったのね!」
「金はいつも|魅力《みりょく》さ」
と、野口は笑って、「もう一つは、大きな組織。こんなに強いものはねえんだ。ここにゃ、その二つがある」
「撃つつもり?」
と、尚子が言った。
「あんたのことは前田さんから言われてたんだ。よく見張れってな」
尚子は、じっと野口を見据えて、
「撃てるもんですか」
と言った。「|臆病者《おくびょうもの》のくせに!」
「言ってくれるな」
尚子が前へ出る。
「危ないわ!」
と、加奈子が叫んだ。
「大丈夫。撃てやしないわ」
「撃つぞ!」
「ほら、青くなってる。――冷汗が出てるわよ。ガタガタ震えてる。それで当ると思ってるの?」
「近付くな!」
確かに、野口は青ざめていた。眠っている人間を雪の中へ放り出して来るのとは、わけが違うのだ。
マリは、ポチへ、
「あんた、犬でしょー」
と、低い声で言った。
「|俺《おれ》はね、悪魔なんだぞ。人助けは仕事じゃねえんだ」
「すき焼、二人前食べさせてあげるから!」
「あのな……」
「キスしてあげてもいい!」
「やめてくれ!」
と、ポチは|呻《うめ》いた。「分ったよ。だけど、俺が撃たれるのはいやだぜ」
「任せて」
マリは、スッと横へ動くと、「早く来て! 人殺しなの!」
と、野口の背後へ呼びかけた。
野口がパッと振り向く。ポチがダッと宙を飛んで、野口の顔へとぶつかった。
「ワッ!」
野口が引っくり返る。銃が落ちると、尚子が素早く拾い上げて、銃床で、野口の腹をドンと突いた。
「ウッ!」
と、呻いて、野口はのびてしまう。
「やった!」
マリは手を|叩《たた》いて、「ポチ、よくやったわ」
「少しは犬らしいこともするのね」
と、尚子が言った。
「見かけによらず、強いんです」
ポチは、マリの言葉が聞こえないふり[#「ふり」に傍点]をしていた。
「みんなでここを出ましょう」
と、尚子が言った。「車を出すわ。ここを出た所で、待っていて」
マリは、加奈子に手を貸して、父親の体を反対側から支えてやった。
外へ出ると、冷たい風が吹きつけて来る。
「――目が覚めるな」
と、阿部が、目をパチクリさせて、「加奈子……。母さんは――」
「母さんは死んだのよ」
「そうか……。すまんな、俺がだらしないばっかりに」
「そうね、本当に」
と、加奈子は言った。「でも放っとけないわ、父親なんだから」
車がやって来た。
「ともかく、早くここから離れないと」
と、マリは言った。
車のドアが開いた。そして、
「どこへ行くんだね、君たちは」
と、降り立ったのは、前田だった。
「――水科さんは?」
「向うで、私の手の者に取り押えられている」
と、前田は言った。「君らがおとなしく、中へ|戻《もど》らないと、彼女はかなり痛い思いをするだろう」
「ひどい人ね!」
と、加奈子は前田をにらんだが、
「君は私が教祖にしたんだ。忘れてもらっては困るね」
と、平然としている。「どうするね、みんな?」
仕方なかった。――マリたちは全員、また建物の中へと逆戻りしたのである。
「――教えて下さい」
と、マリは言った。「この教団は、何が目的なんですか?」
前田は、ゆっくりとカウンターにもたれた。
前に、前田とマリが話をしたティールームである。
「もちろん、宗教のためさ。初めはね」
と、前田は言った。「しかし、どんどん信者がふえて行くにつれ、私はこれを何かに利用しない手はない、と思ったんだ。人の組織。――これだけでも、現代では大きな利用価値がある。選挙の票集め、運動から、資金集め、あらゆる点でね」
「それで政治家が……」
「もちろんさ。利益もないのに、こんなものに近付きゃしないよ」
と、前田は笑った。「大企業のオーナーもだ。社内にひそかにこの信者のグループを作る。組合活動を|潰《つぶ》したり、住民運動を内部から崩したりするのにも、実に便利だ」
「そんな連中のために、私……」
と、加奈子が|呟《つぶや》いた。
「みんながそうってわけじゃない」
と、前田は首を振った。「私も、本来の目的まで忘れたわけではないよ。ただ、副産物を拒むことはない、というだけだ」
その時、
「水科さん!」
と、マリが言った。
水科尚子が、屈強な男たちに腕を取られて、やって来た。頭から血が流れ、足もとが危なかった。
「大丈夫……。|殴《なぐ》られて、頭を打ったの」
と、尚子は|椅《い》|子《す》の一つに、腰をおろした。
「尚子さんは、どうして……」
「私?――私はね、初めからこの教団のことを調べたくて入りこんだのよ」
「どこかのスパイかね」
と、前田が|訊《き》く。
「そんなものじゃないわ。私は両親が新興宗教に熱中して、家庭がめちゃくちゃになったの。兄と二人、孤児院で育ったわ。――この教団の裏を調べて、暴いてやりたかった!」
マリは、前田を見て、
「どうするんですか」
と、言った。「私たちをみんな地下へ閉じこめるんですか。それとも殺すんですか」
「そんな必要があるかな」
と、前田は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「あなたは人を殺したんですよ」
「しかし、死んだのは? 教祖は悪い|奴《やつ》じゃなかった。しかし、もう精神を冒されていて、ほとんど何も分らなくなっていたんだ。それに君の母親。――こう言っては失礼だが、あまり世のために役立つ人とも思えんがね」
「俺の女房だ!」
と、突然阿部が言った。「役立たずでも何でも、俺の女房だ」
「私の母よ」
と、加奈子は言った。「あなたに殺す権利なんてないわ」
「なるほど」
と、前田は|肯《うなず》いて、「ではそのお父さんをもう一度地下へ戻すか。君が教祖としての仕事をしている限り、生かしておく」
「ひどい人!」
「そっちのマリ君――だったね。君は、この子の代りに教祖になるか?」
「いやです」
「では、これまで通り、代行ということにするかね」
「もうここを出ようとしてたんです」
「出るか。ではこの水科君を殺す」
突然、男たちの一人が水科尚子の首を背後からぐいと両手でつかんだ。尚子が手足をばたつかせる。
「ゆっくり絞めろ」
と、前田が言った。「君が『うん』と言わなければ、ずっと力が入り続けるよ」
尚子は、必死でもがいていたが、どうすることもできなかった。
「やめて!」
と、マリは叫んだ。「――分りました」
「手を離せ」
と、前田が肯くと、尚子は自由になった。
ぐったりとして、激しく息をついている。
「中山さんは知ってるんですか、このことを」
と、マリは言った。
「中山か」
前田は、|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めて笑った。「あんな小者[#「小者」に傍点]はどうでもいい」
尚子はゆっくりと顔を上げ、
「中山は、前田を追い出そうとしてたのよ」
と、言った。「だから、加奈子さんの代りにあなたを、教祖にしたがったの」
「馬鹿な奴だ」
と、前田は首を振って、「奴の考えてることは何もかもお見通しだ。確かに、私はここを留守にしていることが多い。しかし、しっかり目は行き届いているんだ」
「待って」
と、加奈子は言った。「じゃ、あの人を――加東晃男君を毒で死なせたのは、誰なの?」
「さあね」
と、前田は言った。「私は知らん。しかし中山じゃないかな。君を殺すつもりで、間違ってあの若者を死なせてしまった。まずいことをやったもんだ」
加奈子は、しっかりと父親の肩を抱いていた。マリも青ざめていた。
中山が、晃男を殺した? 加奈子を殺そうとした? 本当だろうか。
こんな男の言うこと、当てになるもんか!
「――さて、では、反対の人間はいないね」
と、前田は立ち上った。「阿部さんと水科君の二人には、当分地下室暮しをしてもらおう。それから君ら二人は――」
と、加奈子とマリを見て、
「教祖として、大いに|頑《がん》|張《ば》ってもらいたい」
マリは、加奈子と顔を見合わせた。
「おい、連れて行け」
と、前田が促すと、男たちが水科尚子と阿部を引っ立てる。
すると――。ドタドタッと音がして、野口が転がり込んできた。
「何だ、うるさいな」
と、前田が顔をしかめる。
「あの――」
「何だ?」
「あいつが……」
足音がした。そして、飛び込んで来たのは、浦本刑事だったのだ。
「お兄さん!」
と、水科尚子が叫んだ。「危ないわ! 逃げて!」
マリはびっくりして飛び上った。――浦本が水科尚子の兄?
それで……。浦本が宗教嫌いなのも、分る。
「そんな必要ないさ」
と、浦本は息を弾ませ、「阿部夫妻の心中死体は、まだちゃんと保管してあるぜ。亭主の方が別人だってことは、調べりゃ分る」
「刑事さんか」
前田は苦笑して、「とんだ邪魔者が入ったね」
「妹を放せ。もう逃げられやしないぞ」
と、浦本が言った。「ここの出入口は全部固めてある」
「今の話、全部兄に聞こえてるのよ」
と、尚子は言った。「イヤリングのマイクからね」
「やれやれ……」
前田はため息をついて、「全く、人生ってのは、うまく行かんものだね」
「|諦《あきら》めるんだな」
「そうはいかんね」
前田が、ティールームのカウンターの方へ手を伸した。
「おい」
と、ポチが言った。「あいつ――」
「え?」
前田がどこかを押した。奥のカウンターの一部がクルッと回ってドアが開いた。隠し扉だ。
前田が、カウンターの下をくぐり、その奥へと駆け込んだ。
「待て!」
と、浦本が駆け出した時、もう扉は閉じてしまっていた。
「この奥は……」
「きっと――ヘリポートだわ!」
と、尚子が言った。
野口と、用心棒たちは、形勢不利と見て、|一《いっ》|斉《せい》に逃げ出した。
「案内してくれ!」
「こっちよ!」
と、尚子が駆けて行く。
「私たちも行こう」
と、マリが言うと、
「待ちな」
と、ポチが言った。
「何よ」
「行くことないぜ。くたびれるよ」
と、ポチは言って、床にペタッと寝そべってしまった。
「――畜生!」
と、浦本が歯ぎしりしている。
「どうせ捕まるわ。ヘリコプターで逃げられる所なんて、知れてるわよ」
と、尚子は慰めた。
マリたちはティールームで、待っていたのである。
「逃げられたよ。面目ない」
と、浦本が言った。
「でも、良かったわ。本当のことが分って」
と、マリが言った。
「これから……どうなるんだろ」
加奈子は、父の肩に頭をもたせかけて、「疲れたわ、私……」
と、言った。
「とにかく、今日のところは休んで」
と、尚子が言った。「マリさんも、悪いけど、兄の捜査がすむまで、協力してあげてくれる?」
「分りました」
と、マリが立ち上る。
すると、そこへ、
「マリ――。こんな所で、何やってるんだい?」
と、中山がガウンを着てやって来た。「こんなに大勢……」
「中山さん、あなた、この子に手を出す気だったのね」
と、尚子が中山をにらんだ。
「いや、それは……」
と、中山が口ごもる。
「いいんです」
と、マリが言った。「私も一度はそうなっていいかな、って思いました。でも……やっぱり、やめときます」
「当り前よ」
と、尚子が厳しい顔で、「前田さんのやったこと、それにあなただって」
「僕がどうしたって?」
と、中山はキョトンとしている。
「ゆっくり話を聞く必要があるってことさ」
と、浦本が言った。「この子の代りに、|俺《おれ》が一晩付合うよ」
そこへ、どこかへ行っていたポチが戻って来て、マリの手の中に口にくわえていたものを落とした。
「ああ、まずかったぜ」
「これ、何?」
「口ひげ[#「口ひげ」に傍点]さ。のり[#「のり」に傍点]がついてて、妙な味」
マリは、ポチを見つめた。そして……。
マリは立ち上ると、中山の方へ歩いて行った。
「中山さん。――ごめんなさい、一度はイエスって言っときながら」
「いや、まあ……。年齢も大分違うしね」
と、中山は少し照れたように、「少し[#「少し」に傍点]残念だけど」
「もう一度、キスだけしてもいい?」
「いいとも」
「じゃ、目をつぶって」
「ここで?」
「ちょっとだけ」
「――分った」
中山が目をつぶると、マリは、手にしていた口ひげ[#「口ひげ」に傍点]を、中山の鼻の下へパッと|貼《は》りつけた。
「何してる!」
と、中山が後ずさった。
「こりゃ驚いた」
と、浦本が目を丸くした。「前田って|奴《やつ》とそっくりじゃないか」
「そうですね」
と、マリは肯いて、「中山さんと前田理事長は、一人だった[#「一人だった」に傍点]んです」
中山が駆け出す。しかし、浦本も、今度は逃がさなかった。
エピローグ
「さて、仕度はいいかな」
と、マリは、部屋の中を見回した。「ポチ、行こう」
「OK」
ポチは眠そうな顔で、歩き出した。「腹が苦しい」
「食べすぎよ。いくらごほうびだからって」
「だって、悪いだろ、せっかく出してくれたもん、食わなきゃ」
二人は廊下へ出た。
「今度こそ本当にお別れね」
と、歩きながら、天井を見上げる。「あんた、お|手《て》|柄《がら》だったじゃない」
「ああいう手は、よく使うんだ」
と、ポチが言った。「この中を二つの勢力で割って争わせとくのさ。その両方をつかんでりゃ、何でもやれる」
「結局、罪を全部前田[#「前田」に傍点]へかぶせて、自分は罪をまぬかれる、って寸法だったのね」
「頭はいいが、スケールは小さいぜ」
と、ポチは言った。「お前、あいつが好きだったんだろ」
「そうね」
と、マリは|肯《うなず》いた。「苦しかったけど、でも悔んでないわ。苦しい思いをしたら、それだけ、他の人の苦しみがよく分るようになるもんよ」
「この優等生め」
「何よ」
二人がやり合っていると、向うから、加奈子がやって来た。いつもの、あの教祖の衣をまとっている。
「加奈子さん……」
加奈子は、ちょっと目を伏せて、
「この教団も、どうなるか分らないけど、でも、今、信者の人たちが集まって来てるの。みんな不安で、どうしていいか分らないでいるのよ」
と、言った。
「それじゃ――」
「心から私を信じてくれてた人がいたはずだわ。見捨てて、出ては行けない。――もちろん、あんな事件の後、何人が残るか分らないけど、五人でも十人でも、信者がいる限りは、私にも責任があると思うの」
マリは肯いた。
「分った。――そうかもしれないわ」
「それにね、私自身の償いも」
と、加奈子は言った。
「償いって、どういうこと?」
「晃男君のことよ。――彼、私を殺そうとしてたの」
「あなたを?」
「中山にお金で買われたんだわ、きっと。あの時、飲物をとって、私がボーイさんの伝票にサインしている間に、薬を入れたのよ」
「それをどうして知ってるの?」
「あの人、気が付かなかったの。それが鏡の中に映ったのを、私が見ていることに」
と、加奈子は言って、ため息をついた「でも――まさか、と思って、そっとグラスを入れかえたのよ。せいぜい眠り薬ぐらいのものかと……。でも、アッという間に、彼……」
加奈子が目を閉じる。
「――そう」
「私が殺したんだわ、あの人を」
「それは違うわ。彼は自分の罪を自分で償ったのよ」
「そうかもしれない」
と、加奈子は肯いた。「でも、ずっと心に残るわ。私が殺した、って気持が」
マリにも、加奈子の胸の内は痛いほど分った。
そこへ、
「加奈子さん」
と、やって来たのは、水科尚子だった。「あら、マリさん。行くの?」
「ええ」
「尚子さんはここに残って、手伝ってくれることになったの」
と、加奈子が言った。
「途中で放り出して行けない性分なのよ」
と、尚子は笑った。「信者の人たちの責任じゃないし」
「少しは集まった?」
「ええ。――もちろん前みたいにはいかないけど、三千人くらいは」
「迷ってる人たちね」
と、加奈子は、両手を胸の前で組み合わせて、「私も迷ってるのよ。――でも、正直に、そう言うしかないわね」
「それでいいのよ」
尚子が、加奈子の肩を軽く|叩《たた》いて、「行きましょう」
と、促した。
二人が歩いて行くと、マリが、
「あの……」
と、呼び止めた。
加奈子が振り向く。マリは、
「さよなら、教祖様」
と、頭を下げた。
加奈子は、かすかに頭を下げて、背筋を真直ぐに伸ばし、ゆっくりとした足取りで歩いて行った。
マリは、今、加奈子が本当の「教祖」と呼ばれるにふさわしい人間になったんだ、と思った……。
「やれやれ」
いつも通り、バスの一番後ろの座席に陣取って、ポチがため息をついた。
「何よ」
「また腹を空かして歩くのか」
「それが任務でしょ」
バスの中は、相変らず閑散としていて、どこかのおばあさんが居眠りしている。
その荷物から、ピョンとニワトリが一羽飛び出して来た。
そして、トットッとマリたちの方へやって来たが……。
「おい」
と、ポチが言った。「丸焼きにして食おうか」
「やめなさいよ」
「持ってきゃ、卵ぐらい産むかもしれないぜ」
――ポン、と音がして。ニワトリが卵を落とした。
|呆《あっ》|気《け》に取られて見ているマリたちの前で、卵はバスの揺れにつれてコロコロ転がって行く。
「こわれちゃう!」
マリは卵を追いかけ、つかまえかけて、足を滑らし、転んでしまった。
見ていたポチが、思わずふき出す。
笑っている犬[#「笑っている犬」に傍点]を、ニワトリは不思議そうな顔で、眺めているのだった……。
|天《てん》|使《し》は|神《かみ》にあらず
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年5月11日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『天使は神にあらず』平成4年6月25日初版刊行