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天使に似た人
赤川次郎
目 次
プロローグ
1 手違い
2 野良犬《のらいぬ》
3 二つの死体
4 出て行った男
5 物置の中に
6 本物? 偽物《にせもの》?
7 雨もりのする場所
8 新しい仲間
9 銃 弾
10 泣く時間
11 警 報
12 真夜中の対話
13 生と死と
エピローグ
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プロローグ
面白《おもしろ》くない。
全く、面白くなかった。――こんなもんなのか?
「こんな馬鹿《ばか》な話ってあるか!――ええ、そうだろう?」
と、宮尾常市《みやおじよういち》はその女に向って、ほとんど怒鳴《どな》るように言った。
質問する、という口調ではない。内心の苛々《いらいら》と不満をぶつけただけである。大体、相手は、「違います」なんて言えるはずのない状況なのだ。
全く見も知らない男――しかも、拳銃《けんじゆう》を手に、夕食の最中、いきなり家の中へ飛び込んで来た男に、逆らえるはずがない。ともかく、四つになる男の子をしっかりと抱いて震えているばかりで言葉なんか出ないのである。
「畜生!」
と、宮尾常市は吐き捨てるように言った。「もう一回見直してやる」
少し薄汚《うすよご》れた窓へそっと近寄ると、常市は表の様子をうかがって、少し頭を出した。
こっちの明りは消えているのだが、外にはパトカーが停《とま》っていて、クルクル回る赤い灯が、こっちの部屋の中にまで入って来る。すぐそばに街灯もあるので、部屋の中はそう暗いわけではなかった。
「――どうなってるんだ?」
と、常市は首を振って窓から離れると、畳の上にあぐらをかいた。「俺《おれ》は宮尾常市だ、もう銃で四人も殺してるんだぜ。向うもそれを知ってる。しかも、こうやってお前たちを人質にとって、立てこもってるんだ。それなのによ……ライフル持った奴《やつ》一人いない、と来てら。いるのはパトカーがたった一台! 人なんか撃ったこともねえ腰抜け警官が四、五人だぜ! 信じられねえよ。――なあ、そう思わねえか?」
さっきとは違って、これは質問だったが、ガタガタ震えている母親は、何とも答えなかった。
「面白くもねえ」
と、常市は舌打ちした。「俺はな、警官隊の一斉射撃で死ぬのが夢だったんだ。機関銃、ライフル、散弾銃、拳銃……。一斉にバババッと火を吹いてさ、俺の体をバラバラにするぐらいの迫力でさ。なあ、カッコいいじゃねえか。映画のラストシーンみたいでよ」
常市は窓の方をにらんで、
「全く……。お話にならねえ。機関銃どころか、ライフルもなし、と来てるんだぜ。今日は警察が休みなのか?」
と、文句を言った。「――おい、亭主は?」
母親は、ゴクンとツバをのみ込んでから、
「出張……です」
と、かすれた声で言った。
「出張か。本当かい? そんなこと言って、結構女のとこにでも泊ってんじゃねえか。男なんてものは、そんなもんだぜ」
と、常市は笑った。「晩飯の邪魔して悪いな。もう少し辛抱しな。表でちゃんと歓迎[#「歓迎」に傍点]の準備が整ったら、出てくからよ」
その時だった。玄関のドアがトントン、と叩《たた》かれたのは。
常市は、パッと立ち上ると、怯《おび》えてますます子供を強く抱きしめている女の方へと歩み寄った。
「こんな時にやって来る間抜けがいるぜ。どう見たって、お巡りじゃねえな。あんなに礼儀正しくねえだろうぜ。――誰《だれ》にしても、運が悪いや。まだ弾丸《たま》は充分残ってるからな」
銃口が女の方へ向くと、
「殺さないで……」
と、女は震える声で言った。「この子だけは、せめて……」
「立派なもんだ。母性愛かい?」
常市は笑ってから、「――おい、誰だ!」
と、ドアに向って怒鳴《どな》った。
「僕だよ」
ドアの外から聞こえて来た声は、常市を唖然《あぜん》とさせるに充分だった。
ゆっくり立ち上ると、
「――お前か?」
と、今のが空耳だったのかという調子で訊《き》いた。
「僕だ。勇治《ゆうじ》だよ」
常市は首を振って、
「驚いたな。――入れよ。鍵《かぎ》はかかってねえから」
ドアが開く。入って来た男へ目をやった女は、一瞬恐怖を忘れて、愕然《がくぜん》とした。
それは、まるで鏡[#「鏡」に傍点]を見ているかのようだった。――いや、拳銃《けんじゆう》を手に押し入って来た男は、大分汚れたジャンパーにジーパンというスタイル。今、入って来た男は背広にネクタイという格好だったのだ。
しかし、それほど違っていても、二人が全く同じ顔[#「同じ顔」に傍点]、同じ体つき[#「同じ体つき」に傍点]をしていることは、一目で分った。
「兄さん」
と、入って来た男は後ろ手にドアを閉めた。「やっと見付けた」
「感激のご対面ってわけだ」
と、常市は笑った。「相変らず、くそ真面目《まじめ》な格好してやがる」
常市は、目を丸くしている女の方を向くと、
「びっくりしたかい? これは俺《おれ》の双子の兄弟さ。これだけ似てるのは、双子でも珍しいって言われたんだぜ。もっとも――中身の方は別だけどな」
「兄さん……。表は警官が固めてる」
「分ってるよ。俺だって目は見えるぜ」
「諦《あきら》めて、出て行けよ。殺されるぞ」
「そいつを待ってるんだ。ただし――一人じゃ死なねえ」
常市がチラッと女を見た。女が改めてビクッとして身をすくめる。
「もうよせよ。――兄さん。ともかく、この人たちを出してやってくれ」
と、勇治は言った。
「おい、勇治。俺は大物なんだ。四人も殺してる。それなのに、あのざまは何だ? コソ泥相手じゃねえぞ。――俺はな、最後に改心するなんて、中途半端なまねはしねえ。とことんやってやる」
常市の目は真剣だった。
「兄さん……。僕を代りに撃てよ」
と、勇治は言った。
「お前を? いやなこった」
「兄さん――」
「勘違いするなよ。お前が弟だから撃たないんじゃないぜ。殺してくれ、なんて奴《やつ》を撃っても面白くねえからさ」
その時、窓の外で、車の音がし、ライトが動いた。常市は窓の方へ立って行くと、
「ほう、少しはにぎやかになったな。後は花火でも打ち上げてほしいぜ」
と、表を眺める。
勇治が、パッと女と子供の方へ駆け寄ると、
「逃げろ!」
と、抱きかかえるようにして、立たせた。
常市が拳銃《けんじゆう》を構える。
「早く!」
勇治は自分の体で女と、その腕に抱かれた子供を隠すようにして、玄関へと押しやった。しかし――じっと緊張して座っていた女は、足がしびれ切っていて、もつれた。玄関で転んで突っ伏してしまう。
「勇治。――あばよ」
二度、勇治の背中に向けて拳銃が火を吹いた。銃弾は勇治の胸と脇腹《わきばら》に命中して、血が飛び散る。
勇治は低く呻《うめ》いただけで、玄関に突っ伏した女の腰の辺りに、かぶさるように倒れた。
「何てことを――」
女は、必死で子供を立たせた。自分は、勇治の体を押しのけることができない。
「出て! 早く!」
と、子供に向って叫んだ。
「ママ――」
「早くドアを開けて!」
俊男《としお》は四つだ。自分でドアを開けることはできる。しかし、母親から離れるのをためらっていた。
「俊男! 早く行って!」
ダダッと足音が外に聞こえた。銃声で、警官が突っ込んで来たのだ。
「余計なまねをしやがって!」
と、常市は言った。「勇治! 貴様のせいだぞ!」
常市の銃は、やっとドアを開けようとしている子供の背中へ向けられた。
「やめて!」
と、女が叫んだのと、銃弾が子供の体を貫くのと、同時だった。
女が叫び声を上げた。
ドアが開く。警官が三人、もつれ合うようにしてなだれ込んで来た。
常市は引金を引いた。警官の一人が肩を撃たれて倒れたが、他の二人が、めちゃくちゃに引金を引き続けた。
合わせて十発以上の弾丸《たま》が発射されたが、二発が常市の胸と脇腹《わきばら》に当たったのは、ほとんどまぐれ[#「まぐれ」に傍点]だった。
常市は、崩れるように倒れながら、自分がどことどこを撃たれたか、ちゃんと知っていた。そして、偶然、勇治と同じところだということにも、気付いていた。
畜生!――変なところまで、お前に似ちまったぜ……。
最後に常市が考えたのは、そのことだった……。
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1 手違い
アーア……。
マリは、欠伸《あくび》をした。
眠いのだ。――ま、当り前のことではある。何しろ午前三時なのだから。
しかし、あと三時間は起きていなくてはならない。これはこれで、そういう生活パターンが身につけば、どうってことはないのだろうが。
何しろマリがこの二十四時間営業のコンビニエンスで働き出してから、まだ二日目なのだ。
本当にね。――人間って、何て夜ふかしの好きな生きものなんだろう。
マリは、改めて感心してしまう。
ともかく、ここで働いていて、こんな真夜中から、明け方までお客の途切れるということが、ほとんどないのである。この辺りは、別に繁華街というわけでもなく、外は真暗。それでも、どこからともなく、大学生らしい男の子だの、ドライブ帰りのアベックだのが、店にやって来る。
昨日の第一日目は、マリも緊張していたせいか、途中でくたびれてしまって、少しお客がいなくなった時、椅子《いす》にかけて眠ってしまった。――お客が起こしてくれて、少し青くなったが、幸い、何も持って行かれなかったようでホッとしたものだ。
二日目の今日は、大分リラックスして、やって来る客を眺めたりする余裕もできた。
――でも、天国にもこんな〈二十四時間営業〉のストアができたら、天使たちもきっと「深夜族」になっちゃうだろうね。
確かに、便利といえば便利である。特に一人暮しの学生なんか、どんな時間でも、ここへ来れば、カレーライスだのカツ丼《どん》だの、電子レンジで二、三分あっためて、すぐに食べられるのだし、日用雑貨、必要な物は一通り揃《そろ》っている。
マリは以前から悩《なや》んでいるのである。――深夜まで起きてる人がふえたから、こういう店ができたのか、それともこういう店ができたので、深夜まで起きてる人がふえたのか……。
ま、どっちにしても、天国を揺がすほどの大問題ってわけじゃないが。
「いらっしゃいませ」
独り住いらしい大学生。ひげがうっすらとのびて、およそ日に当ることのないような青白い顔をしている。
この人、ゆうべもカップラーメン買ってったわ、とマリは思った。――そう、もの憶《おぼ》えがいいというわけでもないマリが、この男の子のことを憶えているのは、狭苦しいアパートでカップラーメンをすすっている図が、これほどぴったり来る人も珍しいだろう、と思ったからである。
「カップラーメン三つ、ですね」
と、マリは言ってやや慣れない手つきでレジを打った。
おつりを渡して、カップラーメン三つ、ビニールの手さげ袋に入れて渡すと、
「ありがとう」
思いがけず、その男の子がニッコリ笑って礼を言ったので、マリはびっくりしてしまった。意外に人なつこい笑顔である。
「どういたしまして」
あわてたマリは、つい頭を下げ返していた……。
ああ、やれやれ。――突然あんなこと言われると焦《あせ》っちゃうわね。
お店の方は少し閑散として来た。面白いもので、客が来る時は、夕方の買物どきかと思うほど来るし、来ない時はパタッと人の姿が消えてしまう。どうやら今は「ひけどき」らしい……。
少し気がゆるむと、アーアと欠伸《あくび》をして……マリは、一人、男が店の中を歩いているのに気付いた。
いつ入って来たんだろう?――もちろん、出入口はこのレジのすぐわき、一か所しかない。さっきのレジを打ってる間に? でも、記憶がなかった。
ともかく、ああして棚の間を歩いてるからには、入って来たに違いないのだ。
何だか少しくたびれたコートを着て、えりを立て、顔が半ば隠れている。ポケットに両手を突っ込み、棚の品物を見ているようないないような……。
マリは、ふと緊張した。もしかすると――強盗?
こういう店が、よく狙《ねら》われるのは事実である。そんなに大金があるわけではないが、レジに少々の現金はいつもあるし、こんな風に客が途切れることがあれば、格好の標的になる。
マリは、そっとレジの下へ手をのばした。撃退用のバットが置いてあるのだ。もちろん向うが拳銃《けんじゆう》でも持ってたら、おとなしくお金を渡す。でも、刃物をちらつかせるぐらいなら、やっつけるか、ワーワー大騒ぎすりゃたいてい相手は逃げる……。
甚《はなは》だ危険な方針[#「方針」に傍点]ではあるが、マリはここで雇ってもらう時、そう教えられたのである。
――大きなチェーンのコンビニエンスではない。こんな時間帯に女の子を一人で置いておくのだから、危いのは分り切っている。そこを無理に雇ってもらっているのだから、マリとしても、文句は言えないのである。
でも――やっぱり怪しいわ、あの男。
その男は、店の中を見回し、客が他《ほか》にいないことを確かめると、レジの方へ真直《まつす》ぐにやって来た。――やっぱりそうだ!
品物を何も持っていない。レジの方へ、真直ぐにやって来る。そして右手はコートの内側へ入れられて――。
マリだって、もちろん怖い。「天使」だって死ぬのはいやなんである。
先制攻撃だ! マリはパッとバットを取り出すと、両手で振り上げ、
「ヤーッ!」
と、一刀流よろしく、真直ぐ振り下ろした。
ゴーン、と除夜の鐘みたいないい音がして、手に震動が伝わって来た。
「いた……いてて……」
男は、よろけつつ後ずさると、ドテッと仰向《あおむ》けに引っくり返る。
「やった! ざま見ろ!」
マリは、しっかりバットを握りしめると、カウンターから出て、大の字にのびている男の方へ、こわごわ近付いて行った。
「ウーン……」
気絶はしていないらしく、男は、呻《うめ》きながら、上半身を起こした。
「おとなしくしないと、もう一回ぶん殴《なぐ》るからね!」
マリはバットを振り上げた。
「よせ! 馬鹿《ばか》! 誰《だれ》だと思ってるんだ!」
と、その男[#「その男」に傍点]が怒鳴《どな》った。「この――劣等生[#「劣等生」に傍点]が!」
「え!」
何かどこかで聞いたことのある声……。
「私だ……。おお、痛い……」
コートのえりに半ば隠れていた顔が出て、マリは――唖然《あぜん》とした。
「ああっ!」
コトン、とバットが落ちる。その拍子に、また男の頭のわきへコチンと当った。
「いてっ!」
「あ、すみません!――大天使様[#「大天使様」に傍点]!」
マリは、あわててその男[#「その男」に傍点]を助け起こしたのだった。
「全く……天使が暴力を振うとは」
「ごめんなさい」
マリはシュンとしている。「あの……カレー、あっためて食べます?」
「いらん」
と、その男[#「その男」に傍点]は、頭を振って、「まだクラクラする」
「だって……てっきり強盗だと思ったんですもの。そんな格好で来るから」
「仕方あるまい。何か上にはおらんと」
店の中は幸い客がいない。――それにしても、マリとしては青くなっても当然である。
「研修に出したのは、人間について学ぶためだ。人を殴《なぐ》るためではないぞ」
「でも……人間と同じようにして生活しないと、人間の苦労も分らないだろうと思って……。やっと、ここで働けるようになったんですもの」
その男は苦笑して、
「ま、仕事熱心は悪いことではない」
「そうですよね!」
「天国へ戻っても、天使を殴るなよ」
「はあい」
と、マリは頭をかいた。「でも――大天使様、どうしてこんな所へ?」
「うむ……。緊急事態だ」
「何かあったんですか」
その男は、新聞を売っているスタンドの方へ歩いて行くと、一部抜いて来て、広げた。
「これだ」
大々的な文字で派手に社会面を占めているのは、〈凶悪殺人犯・宮尾、警官と撃ち合って死ぬ〉という記事。
「ああ、見ました。四人殺してて……」
「しかも、ここで子供を一人撃って殺している。それと自分の弟も」
「ひどいですね。何の罪もない子供まで。母親の目の前で撃ったとか」
マリは首を振って「もちろん地獄行きでしょ?」
「当然だ」
と、その男は肯《うなず》いた。「ところが、その弟の方は、福祉のために一生を捧《ささ》げて来た男でな。ともかく、問題なく天国で受付けることになっていた」
「兄弟でも、そんなに違うんですね」
「そのくせ、この二人は双子でな。正に瓜《うり》二つ、そっくりなんだ」
「へえ」
「しかも、弟が兄に撃たれたのが、胸と脇腹《わきばら》に一発ずつ。兄が警官に撃たれたのも、胸と脇腹に一発ずつ。――これで混乱してしまったのだ」
「というと?」
「天国で受付をしていると、途中の検問所から連絡が入ったのだ。どうやら兄と弟を間違えたらしい、と」
「ええ?」
「こんなこと、何百年に一回の出来事だ。係員があわてて、つい間違ったボタンを押してしまった」
「間違った……?」
「うむ」
と、その男は肯《うなず》いて「生き返って[#「生き返って」に傍点]しまったのだ」
マリは唖然《あぜん》として、
「じゃあ……その悪いのが、生き返っちゃったんですか?」
「そこもはっきりせん。生き返ってしまったからには、もう天国では調べることもできんのだ」
「じゃ――正しい方だったのかも?」
「もし、間違っていると、大変なことになる。天国へ召されるべき人間が地獄へ堕《お》ちてしまったのだからな」
「そうですね……。じゃ、どうするんですか?」
「そこで、お前の出番だ」
マリが目をパチクリさせていると、ガラッと扉が開いて、客が入って来た。――少し背中を丸めて、うつむき加減に、棚の間を歩いて行く。
「私の出番って、どういうことなんですか?」
と、マリは訊《き》いた。
「客だぞ」
「いいんです。あの人、いつもこれくらいの時間に入って来て、何も買わずに帰って行くんです。三十分くらい、棚の間をウロウロしてますから」
この客のことは、前任者から聞かされているのだ。少し気味は悪いが、害はない、ということだった。
「ふーん。妙な人間もいるものだな」
と、〈大天使〉が感心している。「数百年前までは、考えられなかった」
「二十四時間営業のコンビニエンスもなかったでしょ」
「うむ。全く休まないというのは、やはり神のご意志に背くものだな。少なくとも自然が眠る時間にはここを閉めてだな――」
「私のものじゃないんですから。それより――」
「ああ、すまん。いや、ともかく、生き返ったその男を、何とかして見付け出してくれんか」
「私が、ですか?」
「お前はもう人間の世の中にも大分慣れたろう。上から時々見とるが、えらく無鉄砲なこともしとるようじゃないか」
「大天使様、覗《のぞ》いてるんですね」
と、マリはにらんで、「私がお風呂《ふろ》へ入ってるとことか、覗いてません?」
「馬鹿《ばか》。いいか、ことは重大なのだ。一週間以内に見付けて、訂正[#「訂正」に傍点]しないと、大問題になる」
「分りました。じゃあ、生き返った人を見付けて……。どうするんですか?」
「私に報告すればよろしい。後はこっちでやる。いいな?」
「はあい」
いや、とも言えない立場である。「――でも、大天使様」
「何だ?」
「もしかすると、その人、悪い兄貴の方かもしれないんでしょ?」
「そうだ」
「じゃ……見付けたはいいけど、こっちが殺される、って可能性も――」
「それはまあ、ないでもない」
「簡単に言わないで下さい! 私、今は生身の体なんです。撃たれりゃ痛いんですよ」
「こっちだって、殴《なぐ》られりゃ痛い」
「それを言われると……」
と、マリが口を尖《とが》らす。
「いいか、天国がこの大切な仕事をお前に任せるということは、お前のことを大いに注目しているということなのだ。分るか?」
と、肩をポンと叩《たた》かれたりして、マリも悪い気持はしない。
「はあ……。じゃ、見付けるだけでいいんですね」
「そうだ。もちろん、天国の常として、ほうびは出ないが、その仕事そのものが――」
「喜びとなる。まだ、ちゃんと憶《おぼ》えてます」
「よろしい。では頼むぞ」
「ええ。――でも、この人、そんなに悪い人にも見えないわ」
と、マリは新聞の写真に見入った。「ねえ、大天使様――あれ?」
もう、目の前から、あの姿[#「あの姿」に傍点]は消えてしまっていた。マリは、手にした新聞に気付いて、
「これ――売物だったのに! 勝手に持って来ちゃって」
仕方ない。自分の給料から払っとこう。
「天国に帰ったら、ちゃんと返してもらおう」
と、マリは呟《つぶや》いた。
もっとも、天国にはお金というものがない。
「何か――大事な物でももらおう」
ただじゃすまさない、と決心している。
すると――。
「これ……ちょうだい」
目の前にシェービング・クリームと、カミソリが置かれた。
「はい、いらっしゃいませ。――あれ?」
マリは、びっくりして、ついそう言ってしまった。目の前に立っていたのは、例の「何も買わない客」だったのである。
「いくら?」
「あ――ちょっと待って下さい」
マリは、あわててレジを打った。
こうして目の前で見ると、ずいぶん若い。せいぜい二十歳。ただ、顔は青白くて、頬《ほお》がこけた感じだ。
「僕が買物したんで、びっくりしてんのかい?」
と、訊《き》いた口調は、少し面白《おもしろ》がっているようですらある。
「いえ、別に……。気を悪くされたら、すみません」
「いいんだ」
と、その若者は微笑《ほほえ》んだ。
元気のない笑みだったが、微笑んだには違いない。
「君と話したくてね」
「え?」
「だって――今までいた子は、僕が店へ入ると、まるで汚《きたな》いものみたいな目で見てたんだ。近寄ろうとも思わなかったよ」
「そうですか……」
「でも、君は違ってた。僕のこと、当然聞いてるだろうにね」
「でも――変った人って沢山いるんですよ。変った人がいるから、世の中って面白いんです。私、下界へ来てから、そう思うようになったんです」
「下界[#「下界」に傍点]へ来てから?」
「あ――いえ、私のくせ[#「くせ」に傍点]なんです。そう言っちゃうのが。変ですね」
マリは笑ってごまかした。「私も――変な人[#「変な人」に傍点]の一人なんだわ、きっと」
若者は楽しそうに笑った。
「じゃあ……またね」
「ありがとうございました!」
マリは、精一杯元気な声を出したのだった……。
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2 野良犬《のらいぬ》
マリが、「初めての買物」をした若者と話しているころ……。
本来なら、天使より「夜ふかし」の得意そうな、悪魔のポチは、安アパートの階段の下で、眠っていた。
ご承知の通り、黒い犬という格好で、マリと同様地上へやって来たこの「成績不良の悪魔」は、「ポチ」という平々凡々の名前をもらって、ブツブツ言いつつも、マリと一緒に旅を続けている。
「しかしなあ……。あいつも、もうちっと、手っとり早い方法を考えりゃいいんだ……」
ウトウトしつつも、ポチはグチっていた。
マリが、食べて行くのにギリギリの稼ぎしかないので、一緒にいるポチとしても、ぜいたくはできない。
この安アパートには、マリが「社員住宅有」という条件を見て、コンビニエンスに働くことになって住んでいるのである。これが「社員住宅」と呼ぶに値するかどうか、意見の分れるところだろうが、何しろマリはどう見ても人間なら十七、八歳にしか見えないので、どこででも働ける、ってわけにはいかない。こんな所でも、飢えないためには、辛抱するしかないのである。
フン、天使なんかと付合ってんのが間違いだな。――俺《おれ》も、二枚目のホストか何かになってりゃ、金持のおばさん連中から、うまいもんでもごちそうになって、いい思いしてこれたのに。
よりによって、犬なんかになっちまった……。しかも「ポチ」と来たもんだ。やり切れないね、全く……。
そろそろ朝になるのかな。
あいつは夜勤だから、明るくなったころ、帰って来る。――腹が減ったな、おい。
コツ、コツ、コツ。
足音か。帰って来たのかな?
ポチの方も、眠ってさえいなけりゃ、すばやく逃げたのだろうが――。
いきなり、パッと輪が首にかけられて、ポチはギョッとした。
「こいつかな」
と、声がした。「この辺で子供をかんだ野良犬《のらいぬ》ってのは」
何だ、おい! 冗談じゃないぜ!
ポチは吠《ほ》えたてた。残念ながら、ポチの「言葉」を理解してくれるのは、マリしかいない。普通の人間には、ただ犬が吠えているとしか聞こえないのだ。
「たち[#「たち」に傍点]が悪そうだな」
と、もう一人が言った。「ともかく、野良犬だ。連れてこう」
よせ! やめろってば!
必死で振り離そうとするが、相手はプロの野犬係である。首にかかった輪がきつくしまって、ポチは息がつまりそうになった。
「さ、おとなしくしな。楽になれるからよ」
キャンキャン、と苦しい中で甲高い声を上げたが――抵抗も空《むな》しく、ポチはズルズルと引きずって行かれた。
くたびれた……。
マリは、上下の瞼《まぶた》がくっつきそうになるのを、何とかこらえて、やっとアパートまで帰って来た。
こんな社員住宅なんて、ないよね。
何しろ歩いて三十分もかかる。――しかし、ぜいたくは言っていられない。
いくら天使といっても、今は生身の少女。食べていかなくちゃならないのだ。
もう朝の七時……。アーア、と何十回目かの欠伸《あくび》をして、階段を上ろうとしてから……。
「そうか。――ポチ、忘れてた」
自分のお弁当と、ポチ用のお弁当。二つ買って来たのだ。
「ポチ。――お腹空《なかす》いたでしょ、あんた。よくわめかないわね」
と、階段の下を覗《のぞ》く。「ポチ……」
この安アパートで犬を飼うわけにはいかないので、仕方なくポチは階段の下で、つぶした段ボールか何かの上に寝ているのである。
ブツクサ文句は言っていたが、人間の世の中じゃ、犬が仕事を見付けて稼ぐってわけにもいかないので、渋々ここで寝ていたのだが……。いない?
「どこ行ったんだろ?」
マリはふくれて、「――人がせっかくお弁当買って来てやったのに!」
どうせ食い意地の張ってるポチのことだ。何か旨《うま》いものをくれた人にでもついて行ったんだろう。
「フン、戻って来て、何かくれ、って言っても知らないよ」
と、言ってやって、マリは階段をそっと上って行った。
足音が響くと、他の部屋の人に、うるさいのである。みんな勤めがあるから、そろそろ起き出す時刻だろう。
バタン、キューだな、これじゃ。
昨日も、着がえもしない内に寝てしまったっけ。今日はせめて、パジャマにかえてから……。
あと少しで眠れると思うと、本当に倒れそうだ。――頑張《がんば》って!
やっとの思いで鍵《かぎ》をあける。これで横になったら、昼過ぎまでぐっすりだろう。
ドアを開けて、中へ入ろうとすると、隣のドアが開いた。
「あら、おはよう」
昨日も、ここで会った。四十過ぎの女の人で、独り住い。この時間に勤めに出ているらしい。ええと――そう福山《ふくやま》さんだ。
「おはようございます」
と、マリは辛うじて頭を下げた。
「あらあら、眠そうね」
と、福山|美智代《みちよ》は笑って、「今帰ったの?」
「ええ」
「じゃ、おやすみなさい」
と、微笑《ほほえ》んで肯《うなず》く。
「行ってらっしゃい」
マリはそう言って――。「福山さん」
「え?」
「あの、ポチのこと――階段の下にいた犬なんですけど、知りませんか?」
「ポチっていうの? そういえば……。明け方、何だかキャンキャンいってたわね」
「そうですか。いないもんですから。――どこかふらついてるんだわ。すみません」
「いいえ」
と、福山美智代は行きかけて、「マリさん、だっけ?」
と、振り向いた。
「はい」
「ねえ、あの犬、ちゃんと鑑札《かんさつ》とかつけてる?」
「あ――いえ、ちょっと特別な素性の犬なんです」
「そう。あのね、ゆうべ、この辺、野犬狩りに来てたの」
と、福山美智代は言った。「何だか、野良犬《のらいぬ》がこの辺の子供をかんだ、とかいう事件があってね」
「野犬狩り?」
マリは、そんなもの知らない。「何ですか、それ?」
「野良犬をね、捕まえて連れてくところがあるのよ」
「へえ。――じゃ、ポチも?」
「もしかするとね。ちゃんと登録しといた方がいいわよ」
「そうですね……。じゃ、すみませんでした」
マリは、頭を下げて、部屋の中へと入って行った。――福山美智代は、ちょっと目をパチクリさせていたが、
「――いいのかしら、あの犬が殺されても」
と、呟《つぶや》いて、「意外と冷たいのね、今の若い子って」
と、首を振って、さあ、仕事、仕事と階段を下りて行く。
マリの方は、やはり心配が当って、部屋へ入って鍵《かぎ》をかけ、上り込んで――ドタッと倒れると、そのまま寝込んでしまった。
ポチは、どこか――犬の浮浪児(?)の入れられる場所で寝てるんだ。きっとご飯も出るだろうし。目が覚めてから、引き取りに行きゃいいんだ、とマリは簡単に考えていたのだ。
ともかく今は――ぐっすり眠って……。
そう考えているマリも、夢の中だったのかもしれない。
マリは、お昼過ぎまで、全く目を覚ますことなく、眠ってしまったのである。
目が覚めると――もう午後の一時。
「ああ、ひどいなあ」
と、マリは、帰った時のままの格好で眠っている自分を見付けて、苦笑した。「こんなとこ、覗《のぞ》かないで下さいね、大天使様」
ウワーオ、と犬の遠吠《とおぼ》えみたいな声を上げて欠伸《あくび》をする。その声は、もしかしたら天国にも届いたかもしれない。
「お風呂《ふろ》、入ろう、っと」
このボロの社宅、唯一の取り柄《え》は、小さいながらもお風呂がついていること。――マリはお湯を入れて、ブルブルッと頭を振ると、その仕草で、ポチのことを思い出した。
「あ、そうか。どこだか、捜して引き取って来なきゃね」
急ぐこともないだろう。結構居心地がいいというんで、のんびり居座ってるかもしれないし。
でも、食べるもんにうるさいからね、あいつ。面倒みる人が音を上げてるかもしれないわ……。
小さな浴槽《よくそう》なので、すぐにお湯で一杯になる。マリは湯加減を確かめて、
「結構、結構」
と、上機嫌《じようきげん》。
鼻歌なんか歌いながら(もっとも、讃美歌《さんびか》だったが)、パッパと服を脱いで裸になる。
「お風呂だ、お風呂だ!」
ワーイ、子供みたいにお風呂場へ飛び込んで行こうとすると――。
トントン、とドアを叩《たた》く音がして、
「失礼。――おいでですか」
と、男の声がした。
誰《だれ》だろう? ともかく、この格好じゃ……。どうしよう?
少なくとも、何か答えておけば良かったのである。どうしよう、とオロオロしている内に、来訪者はもう一度ドアを叩き、
「お留守かな?」
と――ドアが開いた!
マリは、唖然《あぜん》として、そして思い出した。この部屋に住むことになった時に、ここの管理のおじさんが言ったことを。
「ここはね、時々、鍵《かぎ》が調子悪くてかからないことがあるんだよ。必ずチェーンをかけてくれ」
思い出すのが、遅すぎた!
ドアから顔を覗《のぞ》かせたのは、中年の、少し髪の白くなった男で――。
「あ、失礼、あの……」
マリは、あわてて脱いだ服をかき集めて、体に押し当てると、
「すみません! お風呂《ふろ》に――。あの――後にして下さい」
と、大声で言いながら、後ずさりして、お風呂場へ入って行った。
「こりゃ失礼! 出直して来ます」
その男も赤くなって、ドアを閉めようとした。
「あ……あ……」
マリは勢い良く退《さが》りすぎて、ドン、と浴槽《よくそう》にぶつかった。そして――真っ逆様にお湯の中へと突っ込んでしまったのだ……。
「お騒がせしました……」
いくら天使でも、人の前で裸になるというのは――。マリも、人並みに(?)穴があったら入りたい、という心境だった。
もちろん今は、ちゃんと服を着て、少し髪は濡《ぬ》れていたが、何しろドライヤーなんて洒落《しやれ》た物はない。
「小さなお風呂というのは危いんです」
と、その男が言った。「逆さに突っ込むと、出られなくなる」
「はあ……。でもお恥ずかしい」
結局、この男に助けてもらって、マリは命拾いしたのだった。
「いや、しかし大変|爽《さわ》やかな娘さんだ」
「どうも……。それで、ご用件は?」
「ああそうだ! いや、肝心の用を忘れて帰るところでした。坊っちゃんに叱《しか》られる」
「坊っちゃん?」
「はあ。私、田崎《たざき》と申します。山倉《やまくら》様のお宅で、もう二十年近く、働いておりまして」
どっちも聞いたことのない名前だ。
「それで――」
「坊っちゃんの言いつけで、やって参りました。あなたに、山倉家に嫁入りする気はないか訊《き》いて来い、と――」。
「は?」
マリは頭の天辺《てつぺん》から、声を出した。「あの――嫁入り、とおっしゃったんですか?」
「そうです。早い話が、坊っちゃんと結婚しませんか、ということです」
「でも……見も知らない方が、どうして?」
「いや、ちゃんと二度も[#「二度も」に傍点]会っておられるのです。あなたの働いておられるコンビニエンスストアで」
「お店に?」
「そうです」
「でも……私、デートも申し込まれたことありませんけど」
「何も買わずに、いつも店に行く、二十歳くらいの若い男がいるでしょう」
「何も買わずに……」
「ゆうべ、初めて買物をし、あなたとお話しをした――」
「ああ! あの暗い人[#「暗い人」に傍点]ですか?」
と言ってから、「失礼。――でも、あの人が――」
「山倉家の後継ぎで。お父様は今スイスにお住まいです。坊っちゃんは、一風変った方ですが、大変気持のやさしいところがありまして……。ただ、夜中にコンビニエンスへ行くのが、くせ[#「くせ」に傍点]というか……」
「妙なくせですね」
「買物なんか、必要ないのです。ともかく私を含めて五人も使用人がいるのですから」
「五人!」
「それでも、何かきっと自分のほしい物が一つや二つ、あるはずだ、と毎晩コンビニエンスへ……。そしてゆうべ、見たこともないほど晴れやかな顔で帰宅されまして、『見付けたよ、ほしい物を』とおっしゃったのです」
「あのコンビニ、大したもん、置いてませんけど」
と、マリは素直に言った。
「いや、坊っちゃんのおっしゃったのは、あなた[#「あなた」に傍点]のことです」
マリは唖然《あぜん》とした。――世の中、物好きは多いが、よりによって!
「お言葉はありがたいんですけど……私はどうも……その手のことには向かないんですよ」
と、マリは言った。
天使ですので、なんて言えやしない!
「ともかく、一度、当家へおいで下さい。もちろん無理にとは申しませんが。それに、そんなコンビニエンスで働いて、このアパートに住まなくても、いくらでも住んでいただくマンションや別荘がございます」
「そんなの困るんです。私、研修[#「研修」に傍点]に来てるんですから。いえ――あの――自分で働いて、生活して行く主義でして……」
「なるほど、その年齢《とし》で、しっかりしてらっしゃる」
と、田崎は感心した様子。「しかし、遊びに来られて、夕食をご一緒に、というぐらいは構わんでしょう」
「夕食……ですか」
そう言ったとたん、マリはお腹がペコペコなのを思い出した。すると、マリのお腹は素直に反応し、同意の声を「グーッ」と上げたのである。
「はあ……。それぐらいでしたら」
真赤になりながら、マリは顔を伏せた。
このところ、「ごちそう」と呼べるようなものは食べていない。たまには……いいですよね、人の好意に甘えても。ね、大天使様。
「ただ――私、犬と一緒なんです」
「犬?」
「はい。ポチといって、見かけは可愛《かわい》くないんですけど――まあ、中身もあんまり可愛くなくて……。でも、ずっと一緒なものですから」
田崎は笑って、
「犬一匹ぐらい、山倉家の庭で、いくらでも遊ばせられますよ」
「いえ、その犬もきっと――食べたがると思うんです、同じもの[#「同じもの」に傍点]。人と同じでないと気がすまない、っていう犬で」
「かしこまりました。では、あなたとポチを正式にディナーにご招待申し上げます」
と、田崎がちょっとかしこまって言った。
「すみません」
「こちらへお迎えに来ましょう。六時ごろでは?」
「はあ、結構です。――あ、ポチがいないんだったわ」
「外出[#「外出」に傍点]ですか?」
「何だか……野犬狩りに捕まったみたいなんです。どうすれば引き取れるんでしょう? ご存知?」
田崎は、眉《まゆ》を寄せて、
「野犬狩りに……ですか」
「ええ。ご近所の方が、そうじゃないか、と……」
「野良犬は――薬で眠らされるんですよ。ご存知ないんですか?」
「薬で? 薬なんかなくとも、眠りますわ、ポチは。そこにいる犬って、みんな不眠症なんですか?」
「いや――つまり――二度と目を覚まさない眠りに、ということです」
マリはポカンとしていた。
「つまり――」
「殺されるのです」
「嘘《うそ》……」
マリはちょっと笑った。それから、田崎が大真面目《おおまじめ》な顔なのを見て、
「本当に……?」
と、身をのり出す。
「本当です」
「どうしよう! ポチ!」
マリは真青になった。
「間に合うかどうか……。捜してみましょう」
「お願いします! ポチは――ポチは、相棒なんです、研修の。向うは悪魔で、こっちは天使で、変な取り合せなんですけど、でも、結構助け合ってやって来たんです!」
「何だか良く分りませんが、ともかくやってみましょう」
田崎が立ち上る。「電話は?」
「ここには……ありません」
「よろしい。いらっしゃい。車から電話をかけてみます」
「お願いします!――ポチ! 生きててね!」
マリは、田崎と一緒にアパートの部屋を飛び出したのだった。
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3 二つの死体
フン、とポチはそっぽを向いた。
こんなもん、食えるか。――俺《おれ》にだって、プライドってもんがあるんだ。
大体、檻《おり》に入れられたので、頭に来ている。扱いは乱暴だし、人権――じゃない、犬権を守ってほしいもんだね。
ポチは正直なところ、腹が空いて死にそうだった。しかし、こうなると意地で、マリの持って来る弁当以上のもんが出なきゃ食うもんか、と決めている。
「――全く、どうなってるんだ、こいつは」
と、檻《おり》の外で、男が二人、ぼやいている。
「よっぽどぜいたくしてるんじゃないのか」
「野良犬《のらいぬ》が、か?――もう二時だぜ。相当腹が減ってるはずだ」
「もう一回やってみるか?」
檻の下の方の口から、同じ「食事」が差し入れられた。
ポチはタタッと駆け寄って――。
「おっ、食うかな?」
と、男が見守っているのが、ちゃんと分っている。
「今度は――」
ポチは、わざと嬉《うれ》しそうに尻尾《しつぽ》を振って、器の中へ鼻を突っ込んで――ヒョン、と器ごと、檻の外へ押し出してしまった。
「この野郎!」
と、男はすっかり頭に来ている。「人を馬鹿《ばか》にしやがって!」
ポチはフンとそっぽを向いて、
「馬鹿を馬鹿にしちゃ悪いかね」
と、言ってやった。
もちろん、人間はポチの言葉を聞きとれないのだが、二人の男はカッカして、ポチをにらみつけている。
「ぶっとばしてやろうか」
「やってみな、かみついてやる」
と、ポチは言い返した。
「おい、よせよ。――しょうがない。何かもっといいものを食わせてやろう」
そうそう。そう来なくっちゃ!
今まで粘ったかいがあった、ってもんだぜ。
二人の男は、どこかへ出て行き、ポチは檻《おり》の中で一人(?)になった。
「やれやれ……。参ったぜ、全く」
と、グチる。「悪魔が檻に入れられてちゃさまにならねえよ……」
こんなところ、ボス[#「ボス」に傍点]に見られたら、何て言われるか。――あの天使との旅も、大分飽きて来たな。そろそろ諦《あきら》めて、目標をよそへ移すか。
――ポチがマリにくっついて歩いているのは、まあ成り行きってものもあったのだが、「成績不良」で叩《たた》き出されて来たポチとしては、堕《お》ちた天使を一人、召使にして連れて行かなくては、地獄へ戻れない。
そのためには、天使が、
「人間なんて、もう信じられない!」
と、言わなくては、だめなのだ。
もちろん、何か悪いことをやった、というのでも構わないのだが、あの天使はどうもそんな真似《まね》をしそうにない。
しかし、天使らしくお人良しで、人をすぐ信じちまうから(そうでなきゃ困るわけだけど)、裏切られることも珍しくない。
今までにも、もう少しで、
「人間なんて、信じられない!」
と、言いそうになることはあったのだが――。
ともかく、今までのところ、ポチはまだマリを「召使」にできずにいる。それどころか、人間の目には、ポチがマリに飼われているわけだ。
その点、ポチも少々プライドを傷つけられているのだった。しかし、いつかきっと……。
誰《だれ》か他に捜すといっても、地上に下りて来ている天使はそう多くない(沢山いたら大混乱になってしまうだろう)。とりあえずは、やっぱりあいつにくっついているしかないかな……。
ポチのお腹がグーッと鳴った。
「おい、早くしろよ! 飢え死にさせる気か!」
と、文句を言っていると、何やら強烈な魅力ある匂い[#「匂い」に傍点]が漂って来た。
こいつは……焼鳥かな? しかも焼きたての。
足音がして、さっきの二人の男がやって来た。――間違いない! 手にした皿には、串《くし》から外した、焼きたての焼鳥が、たっぷりたれ[#「たれ」に傍点]をつけて……。
ポチのお腹が、たちまちグーグーと騒ぎ出した。
「静かにしろい! 見っともないじゃねえか!」
と、ポチは叱《しか》ったが、お腹の方は至って正直である。
「――さ、これならいいだろ」
と、檻《おり》の下の口から、皿を入れる。「ぜいたくな奴《やつ》だ。俺《おれ》たちが食ったのと同じもんだぞ」
「へへ……。すまないね」
ポチは、すぐにも食べ始めたかったが、そこは多少、見栄《みえ》ってものもあって、わざとクンクンと匂《にお》いをかいでみたり、少し首をかしげて、迷うふりをしたり……。
が、結局、食べることにした。――やれやれ! やっと飯にありつけた!
「ポチ! ポチ!」
――ん? ポチは顔を上げた。
何か聞こえたかな? どっか遠くの方で……。何だかマリの奴の声だったみたいだけど――気のせいかな。
改めて頭を下げ、その焼鳥に、口をつけようと――。
「ポチ! だめ!」
と、頭まで貫通しそうな金切り声と共に、マリが凄《すご》い勢いで飛び込んで来た。
そして目を丸くしているポチの前で、檻の外にパッと腹這《はらば》いになると、檻の中へ手を突っ込み、焼鳥ののった皿をつかんで檻の外へと投げ出したのである。
二人の男も呆気《あつけ》にとられていたが、ポチの方は頭に来た。
「何しやがるんだ! せっかく出たもんを」
「馬鹿《ばか》! あれは毒なのよ!」
「何だと?」
「あんた、殺されるとこだったのよ! 食べてないでしょ?」
「あ……ああ」
「一口も? 本当ね!」
「ああ、まだこれからだった。――毒だって? 本当か?」
「良かった! 間に合った!」
マリは、檻の前にペタンと座り込んでしまう。
「あんた、この犬の飼主かね」
と、係の男が言った。
「そうです! 殺さないで! 引き取って帰りますから」
マリがハアハア息を切らしつつ、言った。
「しかし……困るよ、鑑札《かんさつ》も何もなしで」
「すみません。私がうっかりしてて……。でも、間違いなくうちの犬なんです。野良犬《のらいぬ》じゃないんですから……。殺さないでしょ?」
マリの額に汗がふき出している。よほど必死で走って来たらしい。
「何か、身許《みもと》を証明する物はある?」
「証明する物ですか……。私、アルバイトしてるだけですから――」
「じゃ、自宅は?」
「あの――社宅に」
「犬は飼えるのかい?」
「いえ……。アパートですから」
「それじゃ困るんだよ。結果としては野良犬と変らない。そうだろ? その場合は、犬を預かってくれる人とか、もらってくれる人を捜してくれないとね」
「はあ……」
「あんまりたち[#「たち」に傍点]の良くなさそうな犬だし、誰《だれ》かにやっちまったらどうだい」
そう言われて、マリはキッとなって、男をにらんだ。
「じゃあ、人の言うことをよく聞く、おとなしい犬は大切で、そうでない犬はどうでもいいんですか?」
と、詰め寄るようにして、「そんなの間違ってます! 人の気に入るかどうかなんて、犬の値打ちとは関係ありません。そんなの、人間の都合じゃありませんか。頭のいい子と悪い子で、人間としての権利に差がつくんですか?」
「おいおい……」
と、係の男が困っている。
「失礼します」
と、声がして、「――私は田崎と申します。その犬につきましては、間違いなく、当家でお預かりいたしましょう」
何だ。こいつは?
ポチは目を丸くして、急に現われた妙な奴《やつ》を眺めていた。
「何です。あんたは?」
と、係の男はいぶかしげに見ていたが、田崎の格好が、いかにも上等で、きちんとしているのを見て、肩をすくめた。
「――分りました。じゃ、連れてって下さい。しかし、ちゃんと鑑札《かんさつ》や予防注射は受けさせておいて下さいよ」
「かしこまりました」
と、田崎が頭を下げる。
「じゃ……出してもらえるんですね!」
マリは、ホッと息をつき、「良かった!」
と言ったと思うと、ドサッとその場に引っくり返ってしまったのだった。
「――どう?」
と、マリが訊《き》くのにも、ポチはまるで返事をしなかった。
口一杯に食べ物が詰まっている状態では、いくら悪魔だって、返事はできないのである。
「ともかく、間に合って良かったわ」
マリは、息をついて、「私も、あんたの食べっぷり見てたら、お腹《なか》が空いたわ。じゃ、食べ終ったら、待っててね」
マリはピョンと飛びはねるような足取りで、田崎が先に入って待っているレストランに入って行った。
「ありがとうございました、本当に」
と、田崎に向って頭を下げる。
「いやいや、ともかく、助かって良かったですね。――かけて下さい。何か食べませんか?」
「じゃあ……。でも、私、あんまりお金持ってないんです」
「あなたに払わせたら、こっちがクビですよ」
と、田崎が笑う。
で、遠慮なくマリも食事をとることにした。――ポチの方は、買って来た弁当で満足しているのだ。もちろん、お腹が空きすぎているからだろう。
「しかし、あなたはやさしい人だな」
と、田崎が言った。「あの犬を助けようとして必死になるのを見ていたら、悪くないと思い始めましたよ」
「悪くないって……?」
「坊っちゃんの奥様としてです」
マリは、食べかけの魚が喉《のど》につかえて、むせ返った。水をガブ飲みして、やっと息をつくと、
「――すみません。私、色々役目があって……。お気持は嬉《うれ》しいんですけど」
と、言った。
「嬉しいと言ってくれただけでも、嬉しいな」
と、声がして――田崎の隣に、さっぱりしたセーター姿の若者が座る。
「は?」
マリはキョトンとして、それから、目をみはった。「あなた……。あの『何も買わないお客』?」
見違えるようにスッキリして、確かに顔色は青白いが、不健康な印象はなかった。そして、なかなか二枚目でもあった。
何しろマリも今はうら若き乙女。少々照れて顔を伏せ……そして、食事はしっかり続けていた。
「坊っちゃんが、やっと人間らしくなられてホッとしました」
と、田崎が言うと、
「オーバーだよ」
と、苦笑して、「僕は山倉|純一《じゆんいち》。君は――マリさんというんだってね」
「そうです。簡単でいいでしょ?」
「田崎から聞いたかもしれないけど――」
「お嫁入りの話ならお断りします。私、これでも忙しいんです」
と、言ってから、「そうだ! 早くとりかからないと――」
「コンビニエンスは、まだ仕事時間じゃないだろ?」
「空いた時間にやることがあるんです。お給料は出ませんけど」
「じゃあ、ボランティア?」
「そう……ですね」
天使の仕事を「ボランティア」と呼ぶのかしら……。マリは、ちょっと考えたが、ここで悩《なや》んでも始まらない。
「あ、そうそう。――新聞、新聞」
レストランのレジのそばに今日の新聞が置かれているのだ。マリは急いで取って来た。
ゆうべの大天使様の話の通りなら、死体がなくなって、大騒ぎしているはずだわ、と後でマリは思い付いたのである。
つまり、一方の死体が消えていたら、そっちが天国で間違って生き返らせた方、ということになる。もちろん、捜して見付けるのは大変だけど、少なくとも生き返ったのが、宮尾常市、勇治の兄弟のどっちなのか、それだけは分るというものである。
社会面をめくると、マリは必死で隅から隅まで目を通した。
しかし――どこにもそんな記事は出ていないのである。
「おかしいなあ……」
まだのってないのかしら? でも、時間的に言えば……。夕刊ぐらいでないと間に合わないのかな。
「どうかしたの?」
と、山倉純一が訊く。
「ええ……。死体が――」
と、マリは新聞をせっせとめくりながら言った。
純一と田崎は顔を見合せた。
「君――今、『死体』って言ったの?」
「なくなってるはずなんですけど……。出てないわ。どうしたんだろ」
マリは首をかしげて、「ね、TVのニュースでやってませんでした? 死体が消えちゃったって」
「さあ……」
と、田崎が首をかしげる。「しかし――それとあなたとどういう関係が?」
「ええ……。ちょっと。尋ね人なんです」
マリは諦《あきら》めて新聞をたたむと、「田崎さん。――死体ってどこに置いてあるんですか?」
と、訊《き》いた。
「久保《くぼ》さん、どうしたの?」
と、ミユキに声をかけられ、久保|安夫《やすお》はドキッとして、手にしていたサンドイッチを落っことした。
幸い、床まで落ちずに、膝《ひざ》の上にあったので、急いで拾って頬《ほお》ばる。
「君か……。何だい?」
と、缶コーヒーでサンドイッチを流し込む。
「別に……。ただ、何だかボーッとしてるから」
ミユキは隣の椅子《いす》をガタつかせて座ると、
「さては恋でもしてるの? 美女の死体[#「死体」に傍点]に」
と、微笑《ほほえ》んで言った。
「からかうなよ」
久保は苦笑した。「こんな冷たい[#「冷たい」に傍点]場所じゃ恋もできないさ」
自動販売機が、ブーンと音をたてている。
これが〈食堂〉なんだから! 味もそっけもありゃしない。
「ね、久保さん、今夜よかったら、付合わない?」
と、ミユキが言った。「面白いカフェバー、見付けたの。暇なら――」
「ありがとう。悪いけど、今日はちょっと残ってなきゃいけないんだ」
と、久保は首を振った。
「残業? 新人[#「新人」に傍点]が入って来るの?」
「そうじゃない。整理しとかなきゃいけない書類があってね。仕事時間中は結構忙しいだろ。だから、夜、一人でやろうと思ってさ」
「そう。――じゃ、また今度ね」
ミユキは、アーアと伸びをして、「あと二十分でおしまいか。じゃ、席に戻ってるわ」
「うん……。気を付けて」
何となく、そう言ってしまう。――普通、職場で「気を付けて」とは言わないものだが、ここは、何だかそう言いたくなる雰囲気を持っている。
ここはいわゆる「死体置場」である。
もちろん、どんなことでも「仕事」となれば、慣れてしまうし、事務的に考えられるようになる。その点、久保安夫もそうだった。
ただ、久保が、四十八歳の今日まで独身でいたのは、やはり毎日毎日、運ばれてくる老若男女の身許《みもと》のよく分らない死体、引き取り手のない死体を見つづけていたことと、多少は関係があるかもしれない。
人の命なんて、儚《はかな》いもんだ……。
ここに勤めて二十年、それは正に「実感」として肌にしみ込んでいる。
たまに、まだ二十三歳という若さの、どうしてこんな所に、と思うような、可愛《かわい》い事務員のミユキ(久保は名前しか知らない)が久保を誘ってくれる。――この一年ほど、二人は時々ホテルで泊る仲だった。
久保には、どうしてミユキが自分みたいな老け込んだ中年男に好意を持ってくれるのかよく分らないのだが、ありがたいとは思っていた。
今夜だって――事情が許せば、喜んでミユキと一緒に行っただろう。
しかし、そんな呑気《のんき》なことを言ってる場合じゃない。――二十年来で初めての、とんでもないことをやってしまったのだ。
もちろん、特別な事情だったのも確かである。双子の兄弟。信じられないくらい、よく似ている。
予《あらかじ》め、そのことは知らされていた。だから、久保も二つの死体を取り違えたりしないよう、離れた部屋に置いて、きちんと札もつけておいた。マジックで印もつけた。
ところが――その一方が、消えて[#「消えて」に傍点]しまった。
そして残る一つの死体の方は、マジックでつけた印が、消されていたのだ。
何てこった!
久保は、まだ誰《だれ》にもこのことを話していない。もちろん上司へ報告すれば大騒ぎだろう。
しかし、どうしてこんなことになったのか。未《いま》だに分らない。
誰かが死体を盗んで行った、としか考えられないのだが、一体何のために、そんなことをするのだろう?
そろそろ五時か。――みんなが帰れば、ここは久保一人になる。
久保は、一人で残って、なくなった死体を、もう一回捜してみようと思っていたのである。
何かの手違いで、どこか他の所へ紛《まぎ》れ込んだということも考えられる。――そうだ。きっと、そうなんだ。
空の缶を捨てて〈食堂〉を出ると、久保は冷たく光るリノリウムの廊下を歩いて行った。一応白衣を着ているので、医者のような外見だったが、ここには、生きて帰る者はやって来ないのだ……。
廊下の反対側から、白衣を着た男がやって来た。すれ違う時、顔を伏せ気味にしていたので、良く見えなかったが……。
あんな奴《やつ》、いたかな?
久保は首をかしげた。同時に、どこか[#「どこか」に傍点]で会ったことのある男のようにも思えたのである。
気のせいだ。――こんな所に何十年もいると、何でもないことが気になるもんだよ、と久保は思った。
五時のチャイムが鳴った。久保は、ミユキの誘いを断ったことを、チラッと後悔していた……。
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4 出て行った男
「ハハ」
と、ポチが笑った。「ドジなもんだな、天国も」
「そりゃ、たまには間違いもあるわよ」
と、マリは言った。「あんただって、人のこと言えた義理?」
「ま、それを言われると辛《つら》いけどな」
「ちっとも辛そうじゃない」
と言って、マリは笑った。
ポチも一緒に笑ったが――もちろん、他の人間には、吠《ほ》えているとしか聞こえないのである。
「しかし、居心地いいなあ、やっぱり」
と、ポチはカーペットの上で、長々と寝そべった。「天国だ」
「悪魔の言うセリフ?」
と、マリが冷やかす。
――ポチを外に寝かせといて、また「野犬狩り」に引っかかっても困るというので、結局、二人はこのとてつもなく広い山倉家の一部屋に置いてもらうことになったのである。
「アーア」
マリは欠伸《あくび》をして、「お腹一杯になったら、眠くなっちゃった。どうせ夜中に起きてなきゃいけないんだから、少し眠ろうかな」
「コンビニの仕事、続けるのか?」
「もちろんよ。約束は約束」
「だけど、人捜しはどうするんだ」
「仕事時間以外にやるわ」
「のびちまうぞ」
「あら、私のこと心配してくれるんだ。へえ、悪魔のくせに」
「誰《だれ》が」
と、ポチは引っくり返った。「お前の面倒みるのなんてごめんだからさ」
「私が病気になったって、放《ほ》っときゃいいじゃない。あんた悪魔なんだから。私は天使なんだからね。恨《うら》んだりしないわ」
「フン、優等生だな、相変らず」
マリは、フワフワのベッドにドサッと倒れ込んだ。
「すてき! でも、ここで寝ちゃったら、もう明日まで起きられないかも」
「かみついて起こしてやるぜ」
「ご親切に。――はい」
マリは、ドアをノックする音で、起き上った。
「田崎です」
「あ、はい」
マリはベッドから下りて、スカートの裾《すそ》を直すと、急いでドアを開けた。
「どうです、居心地は? 何か必要なものがあれば、用意しますよ」
と、田崎は言って、「――どうやらポチは満足しているようですな」
カーペットにドテッと長くなっているポチを見て、マリは少々赤面した。
「快適そのものです。ただ――コンビニエンスまで行くのが、ちょっと……」
「車で送りますよ」
「車で乗りつけるってのも……。地下鉄がまだあると思いますから、駅を教えてもらえれば」
「分りました」
と、田崎は笑って、「いや、全く今どき珍しい人だ。――死体を捜してる、というのも珍しいですがね」
「すみません、妙なことばっかり。色々事情があって」
「構いませんとも。――で、今、知っている筋から返事がありました。あなたの捜している死体の置いてある場所が分りましたよ」
「本当ですか!」
マリは目を輝かせた。
「しかし、別に消えてなくなった、なんてことはないらしいですよ。特に異常があったという報告はないということです」
「変だわ……。じゃ、大天使様、何か勘違《かんちが》いしてるのかしら」
「誰《だれ》が?」
「あ、いえ――こっちの話です。そこ、もう閉店[#「閉店」に傍点]してます?」
「さあ……。デパートじゃないけど、夜も誰かいるんじゃありませんかね」
「今から、連れてっていただけません? 夜中は仕事がありますし」
「いいですよ。じゃ、今からでも?」
「ええ、すぐに」
「ポチもですか?」
ムックリとポチが頭を上げ、
「面白そうだ。俺《おれ》も行く」
と、言った。
「行くそうです」
「はあ……」
田崎は目をパチクリさせて、マリのことを眺めていた……。
山本《やまもと》ミユキは、暗くなった建物の方を眺めながら、立ち去りかねて、行きつ戻りつをくり返していた。
ミユキ。――久保は知らないが、姓は山本というのである。
よくある名だし、ミユキは初めて久保に会った時、ちゃんと名前を言ったのだが、頭に残っていなかったのだろう。
正直なところ、死体置場で働くなんて、気は向かなかったのである。ただ、親しい友だちが本当は就職することになっていて、間際で急に結婚することになり(子供ができちゃっていたのである)、ミユキに、代りに勤めてくれ、と頼んで来たのだった。
「一年も勤めてくれりゃいいから」
と言われていたが――当日、ここへやって来るまで、ここが何なのか、知らなかった。
初めの一日でやめてやろう、と決心したのだが……。
その友だちはハネムーンに行ってしまって二週間帰らず、帰ってからは、えらく遠くへ引越してしまった。
何となく、やめるきっかけを失って……一か月したら、先に勤めていた女の子がやめてしまった。で、結局、ミユキもやめるにやめられなくなってしまったのである。
そして三年……。この一年は、久保との「特別な仲」が続いている。
自分でも不思議だった。自分がファザコンだと思ったこともないし、特別に中年男にひかれるタイプとも思えない。
それでも、久保と、こうなってしまうと、ミユキは真剣になってしまうのである。
久保の方は、ミユキがただ「遊んでいる」だけだと思っている。ミユキもそう匂《にお》わせるように、ふるまって来た。たぶん――その方が久保も気楽なのだ。
もし、ミユキの方が本気[#「本気」に傍点]だと知ったら、久保は面倒くさくなって、離れて行ってしまうかもしれない。ミユキは、それが怖かったのである……。
建物はほとんど明りも消えて、二つ、三つの窓に明りが残っているだけだった。
久保さん、いつになったら出て来るのかしら?
ミユキは、戻ろうか、と思った。
何となく戻りたくなって……。そう言えばきっと久保も喜んでくれるだろう。
こんな所でウロウロしているより、思い切って……。彼がまだ仕事をしているのなら、手伝ってあげてもいい。
もう三年も勤めているベテランのミユキである。たいていの仕事は、分っている。
思い切ってミユキは建物の方へ歩き出した。
正面の玄関はもうシャッターが下りている。裏へ回ると、〈通用口〉の辺りが、ポッカリと明るくなっていた。
たぶん、中には久保一人しかいない。インタホンを押せば、館内のどこにいても、音は聞こえるだろう。
ちょっとためらってから、ミユキはインタホンへ手を伸ばした。そして――足音だ。
誰《だれ》かが出て来る! とっさに、ミユキは通用口の前から離れて、植込みのかげに隠れた。
もし他の事務の人だったら、ミユキと久保のことをかぎつけてしまうだろう。
カチリと音がして、ドアが開いた。
明りが当ると、その男は少しまぶしそうに眉《まゆ》をひそめて、そのまま出て来た。
変だわ、とミユキは思った。見たことのない人だ。まだ三十そこそこぐらいの男で、奇妙なのは、中で着る白衣を、そのままはおっていたこと。出る時に、ちゃんと白衣はクリーニング用のカゴの中へ入れることに決っているのに。
それに、立場上、ミユキはここで働いている人間なら誰でも知っている。しかし、その男には全く見憶《みおぼ》えがなかった……。
しかも、白衣を着たままで出て来る。――どうなってるんだろう?
何となく、少し覚束《おぼつか》ない足取りで、その男は通りの方へ出て行く。――少しためらったが、ミユキはその男の後を追って、歩いて行った。
しかし――通りへ出たところで、ミユキは戸惑《とまど》った。今歩いて行ったはずの男の姿が、どこにも見えないのだ。
もともと寂しい道で、人通りは昼間も少ないし、車もあまり通らない。そんな所で、一体どこへ……。
「失礼」
突然、後ろから声をかけられて、ミユキは飛び上るほどびっくりした。
「あ、あの……」
あの男だ。一体どこにいたんだろう?――たぶん、通りへ出るまでの暗い小道で、追い越してしまったのだ。
「今晩は」
と、男は頭を下げた。
「どうも……」
まだ心臓が高鳴っている。きっと青くなっているだろうが、相手の方も、水銀灯の青い光のせいか、顔色は青いというより、白い[#「白い」に傍点]。
「ここは――どの辺ですか」
男はいやにのっぺりした、単調なしゃべり方で訊《き》いた。
「あなたは……ここ[#「ここ」に傍点]の人?」
と、ミユキは訊いた。
「え?」
「今、ここから出て来たでしょ?」
「そうですね……。でも、よく憶《おぼ》えてないんです。気が付いたら、ここ[#「ここ」に傍点]に立ってて……」
何だろう? 少しおかしいのかしら?
ともかく、ミユキとしては、放《ほう》っておくわけにはいかない。
「ね、中へ戻りましょう。それで、あなたのこと、ゆっくり考えましょう。ね?」
と、子供へ言い聞かせるように、「中にはまだ人がいるから。私もね、ここで働いてるの。だから――」
だが、建物へ向って二、三歩進んだところで、男は突然立ち止ると、
「いやだ!」
と、大声を上げた。
目を大きく見開いて、ひきつった顔は、はっきりと恐怖の表情を浮かべている。
「どうしたの? 別に怖いことなんかないわ」
「いやだ!――戻らない! 二度と――」
男は後ずさった。
「落ちついて! ね、心配しなくともいいのよ!」
ミユキは男の肩をつかんだ。しかし、もうミユキの声は男に届いていないようだった。
「やめてくれ! 触《さわ》るな!」
男は、ミユキの手を振り払った。ミユキがもう一度男の肩へ手をかけたのがいけなかった。
男は目を飛び出しそうなほど見開くと、いきなり両手でミユキの首を絞めたのだ。
ミユキは必死でその手をつかんで呼吸しようとした。しかし、男の力は、とてもミユキなどでは抵抗し切れないものだった。
意識が……薄れて来る。ミユキの膝《ひざ》から力が抜けて、路面に膝をついた。男はのしかかるようにして、さらに首を絞める手に力を入れた……。
「――何だか寂しい所ね」
車の中から表を見て、マリは言った。
「地図だと、この辺りなんですがね」
と、運転している田崎が、少し車のスピードを落とす。
何しろガラ空きの道で、どうしてもスピードを出してしまうのである。
後ろの座席には、マリと、隣で居眠りしているポチ。そして助手席には一緒について来た山倉純一が座っていた。
「もうそろそろじゃないのか」
と、純一が地図を見て言った。
「坊っちゃんの目じゃ、あてになりませんからね」
田崎に言われて純一は渋い顔をしている。見ていてマリはおかしかった。
「この塀《へい》がたぶん……。ぐるっと回ったところでしょうね、門は」
田崎がハンドルを切って、道のカーブに合せる。
「しかし、死体置場に、もし本当に死体がなかったら、どうするんだい?」
と、純一が振り向いて訊《き》いた。
「探して連れ戻します」
「じゃ――捕まえて、『あなたは死んでるんですよ』って言うのか」
「そこは私の仕事じゃないんです。見付けるだけなんです、私は」
「ふーん……。色んなボランティアがあるんだね」
と、わけの分らない純一は感心している。
ポチが頭を上げて、欠伸《あくび》をした。
「まだか」
「もうすぐよ」
「いい夢見てたんだ。――あと少しでいい女をものにできるとこだったのに」
マリは苦笑いした。
「あそこか――。誰《だれ》かいるな」
と、田崎は言って、「――あれは!」
車のライトに男と女が浮かび上った。女は地面に膝《ひざ》をつき、男は女の首に手をかけている。そして車のライトで照らされると、ハッと顔を上げた。
キーッとブレーキが鳴る。男が女から手をはなして、駆けて行く。白衣が翻《ひるがえ》っていた。
「あの男……」
マリは愕然《がくぜん》としていた。
「大変だ、女が――」
田崎は車から出ると、地面に倒れた女の方へと駆け寄った。
マリたちも車から出る。――逃げた男の姿はもう夜の中に紛《まぎ》れて消えてしまっていた。
「どうだ?」
と、純一が訊《き》く。
「息はありますが……。救急車を呼びましょう。――しまったな、電話のない車で来てしまいました」
「この中で、借りましょう。ポチ! 大声で吠《ほ》えて!」
「寝起きは、いい声が出ないんだ」
「つべこべ言わないの!」
「分ったよ……」
マリとポチは、いくつかの明りの灯《とも》っている建物へと駆けて行った。ポチが派手に吠え立てたせいか、玄関の明りが点《つ》いて、戸が開いた。
「何だ、一体?」
と、男が顔を出す。
「女の人がそこで襲《おそ》われたんです! 救急車を呼んで!」
「何だって?」
そこへ、女をかかえて、純一と田崎がやって来る。
「ミユキ!」
と、男が目をみはる。
「知ってる人?」
「ここで、働いてるんだ。どうして一体……。早く中へ」
ミユキという女を、玄関わきのソファへ運んで、その間に、男が一一九番する。
「――今すぐ、救急車が来ます」
と、男はやって来て、女の上にかがみ込んだ。「何てことだ……」
「あの――」
と、マリは言った。「あなた、ここの方ですね」
「そう。久保といいます」
「久保さん。ここに宮尾常市と勇治っていう兄弟の死体がありますね」
久保がサッと青ざめた。
「君は――何だ! どうしてそんなことを――」
「教えて下さい! 確かに二つとも、死体はここにあるんですね!」
マリの気迫《きはく》に押された感じで、久保はペタンと床に座り込んでしまった。
「それが……一つ消えてしまった。ゆうべのことだ。何とか見つけようと、今、探してたんだが、……」
「一つ? じゃ、もう一つは、あるんですね? どっちが?」
マリは答えを待った。――しかし、久保はガックリと肩を落として、
「それが――夜になって捜してみると――もう一つの方もなくなってしまっていたんだ。しかも……」
と、言いかけて、言葉を切る。
青ざめたまま、言葉が出て来ない、という様子である。――マリは言った。
「見たんですね。その人[#「その人」に傍点]を」
久保がマリを見る。マリは肯《うなず》いて、言った。
「私も今、見ました。宮尾常市か、それとも勇治か分りませんけど、確かに、あの顔でした」
久保は、全身で息をついた。
「君も――君も見たのか! そうか!」
久保は笑い出した。自分が狂ったのかと思っていたのだろう。しかし、マリもその男を見たと知って、安心したのだ。
「しっかりして下さい!」
と、マリは強い口調で言った。「この女の人の首を絞めたのは、その男[#「その男」に傍点]だったんですよ!」
「――何だって?」
久保は愕然《がくぜん》とした。
マリは、玄関から表に出た。ポチがノコノコついて来る。
「死体が二つとも逃げ出したって、どういうことだ?」
と、ポチが言った。
「あの女の人を襲《おそ》ったのは、どっちだったのかしら?」
「そりゃ、悪《わる》の兄貴の方だろ」
「それは分らないわ、人間、生き返った時にどうなるか、なんて……」
マリは夜空を見上げた。「とんでもないことになったわね」
「だけど、どうして二人とも[#「二人とも」に傍点]生き返っちまったんだい?」
マリはポチを見て、
「分らない? もう一つ、手違い[#「手違い」に傍点]があったのよ。天国じゃない、もう一方[#「もう一方」に傍点]の受付でね」
ポチは、目をパチクリさせて、
「じゃ――地獄でも?」
「そうとしか考えられないでしょ。本当にしっかりしてほしいわね。下っ端が苦労するんだから」
マリは玄関の階段に、腰をおろした。ポチもその横へ、ペタッと座ると、
「そりゃ、えらいこった」
と、呟《つぶや》いたのだった。
そして救急車のサイレンが近付いて来た……。
[#改ページ]
5 物置の中に
「幸江《ゆきえ》ちゃん!――幸江ちゃん!」
遠くで呼ぶ声がする。
ちゃんと聞こえていた。――幸江には。
呼んでいるのが、「邦子《くにこ》ねえちゃん」だということも、分っていた。でも、幸江は出て行きたくなかった。見付けてほしかったのである。邦子ねえちゃんに……。
「幸江ちゃん! どこなの?」
捜す声は、少し遠ざかった。幸江はがっかりしたが、同時にホッとしてもいた。
もうちょっと捜してほしい。だって、あんまり簡単に見付かっちゃ、面白《おもしろ》くないじゃない……。
だって、これは「お遊び」なんだもの。ねえ?
幸江は八歳である。この施設に入って一年たつ。いや、その前にも他の施設にいて、ここへ移って来たのだ。
八歳ともなれば、本当は[#「本当は」に傍点]分っている。これが「お遊び」なんかじゃなくて、「邦子ねえちゃん」が必死で自分のことを捜しているんだ、ってことは。
見付かれば、いつものように邦子ねえちゃんは泣いて――そして怒るだろう。幸江もたぶん、泣いて謝る。
邦子ねえちゃんが、泣くほど心配して、捜し回っていることに、幸江も小さな胸を痛めないわけではない。でも――ああして捜している間、邦子ねえちゃんは幸江一人のもの[#「一人のもの」に傍点]なんだ。
他の時は、そうはいかない。この施設には、親を亡くしたり、置き去りにされたりして、面倒をみてくれる人のいない子供ばかり、四十人近くが生活している。
邦子ねえちゃんは、その内の十人を担当[#「担当」に傍点]していて、十人の子、全部を可愛《かわい》がらなくてはならない。幸江にはそれが不満だった。
私一人のために心配してくれなきゃ! 私だけの邦子ねえちゃんでなきゃ、いやだ!
「わがままを言わないでね」
と、邦子ねえちゃんは、哀《かな》しそうな目で、幸江を見る。
そんな時には、幸江はいつも、もうこんなことしちゃいけないな、と思うのだが……。でも、一週間もたつと、またやってしまうのだった。
幸江も今は、自分のことが少しは分って来ている。小学校にも通っているのだし。
親が自分を捨てたんだ、ということも、知っている。
大体、「田端《たばた》」というのは、本当の姓ではない。「田端」という姓は、一歳の時、幸江が田端駅に置き去りにされたからなのである。
もちろん――幸江は、ここが嫌いじゃない。邦子ねえちゃんを始め、何人もいる保母さんたちのことも、大好きだ。
でも……時々、自分だけの「お母さん」がほしくなる。普通の[#「普通の」に傍点]子にはあるのに。どうして私にはないの?
だから――幸江はこうして、時々、「隠れんぼ」をするのだ。
「――幸江ちゃん!――返事して!」
邦子ねえちゃんの声が、また近付いて来た。もう少しで泣き出しそうだ。
出て行こうかな。幸江は、少し体を動かした。
幸江は、物置の中に隠れている。ここを邦子ねえちゃんが捜そうとしないのは、位置が高くて、幸江には上れない、と思っているせいだ。
でも、幸江はちゃんと踏み台になる小さなはしご(脚立というのだと後で知ったけど)を持って来て、ここへ上り、そして、それを引張り上げて、中へ一緒にしまい込んじゃったのだ。この間見たTVのアニメから思い付いたのである。
トントントン、と足音が……。邦子ねえちゃん、怒るかな。ごめんね。
幸江がその物置の扉を開けようとした時だった。
「ウーン……」
突然、誰かが[#「誰かが」に傍点]そばで声を出したのである。幸江はびっくりして、口もきけなかった。てっきり、自分一人だと思っていたのに……。
「だあれ?」
と、幸江は言った。「隠れてるの?」
戸が細く開いて、明りが物置の中へ射《さ》して来る。――男の顔があった。
何だか、青白くて、元気のない顔だ。でも……どこかで見たことのあるような……。
「ああ、TVで見たよ」
と、幸江は言った。「ね、おじちゃん、TVに出てた?」
男は呻《うめ》いた。――返事をするのもつらい様子だ。
「どうしたの? 病気?」
男は、何だか初めて幸江に気が付いた様子で、目を何度かパチパチと瞬《またた》いて、
「何か……食べるもん、ないか……」
と、かすれた声で言った。
「お腹空いてるんだ。――待ってね」
幸江が戸を開けて、脚立を下ろしていると、
「幸江ちゃん!」
と、見付けた邦子ねえちゃんが飛んで来た。「そんな所に……。もう!」
「ごめんなさい」
幸江は、脚立からポンと飛び下りた。
「この悪い子! もう勘弁しないから!」
と言いつつ――水谷《みずたに》邦子は幸江をしっかりと抱きしめていた。
「怒ってる?」
「凄《すご》くね」
と、邦子は笑うと、「夕ご飯がなくなっちゃうよ」
と、幸江の手を引いて、歩き出した。
「ね、おねえちゃん」
「うん?」
「もう一人、お腹《なか》の空いた人がいるの」
「そう。私のことかな?」
「違うよ」
と、幸江は笑って、「あそこに」
振り向いて、物置の方を見る。
「あそこに?」
邦子は、物置まで戻ってみた。「――誰《だれ》もいないわよ」
「うそ! いたんだよ、さっき」
トコトコ走って来て、邦子と一緒に中を覗《のぞ》く。確かに、中には誰もいなかった。
「変だなあ……」
と、首をかしげる幸江に、
「眠ってて、夢、見たんじゃない?」
と、邦子が肩を叩《たた》く。
「違うもん!」
幸江は主張した。「本当にいたんだもん! TVに出てるおじちゃんだったんだよ」
「じゃ、後で捜してみましょうね」
と、邦子は歩き出して、向うからやって来る同僚へ、手を振った。
向うも笑って手を振り返す。――また[#「また」に傍点]、ね。そう言いたいのである。
幸江がいなくなり、心配して邦子が駆け回る、という図は、いつものことだった。しかし、邦子は、「狼《おおかみ》が来た」の話を、忘れきらずにいるのだ。
今度こそは、何か[#「何か」に傍点]あったのかもしれない……。
その恐怖心が、邦子を動かすのである。
でも、ともかく今日は幸江も無事に見付かった。――明日は明日よ。
邦子は、あの物置に、「誰か」いた、という幸江の話を、もちろんもう忘れてしまっていた……。
やめて! 撃たないで!
俊男! 逃げるのよ!
「逃げて……。俊男……」
激しく身悶《みもだ》えして、ハッと起き上る。
もう部屋は暗かった。――伸子《のぶこ》は、汗をかいていた。
「俊男……」
と、呟《つぶや》く。
あれが夢であってくれたら。――夢でないのなら、どうして私は生きているんだろう?
コトン、と玄関の方で音がした。
「あなた?」
夫が帰ったのだろうか? 伸子は、立ち上って少しよろけた。ほとんど眠っていないせいだろう。
明りを点《つ》けると、玄関へ下りて行く。
ここは、俊男が撃たれた、あの家ではない。あそこでは銃撃戦があり、血が流れたのだ。しかも、玄関で俊男が殺された……。
とても、あの部屋にはいられなかった。――すぐ近所のアパートの一室を、数日間、無理を言って貸してもらったのである。
俊男の葬儀も、まだすんでいないのだ。
玄関のドアを開けて、外を覗《のぞ》いたが、夫の姿はなく、新聞受けに新聞の入った音だと分った。
夫は――もちろん出張から飛んで帰って来た。そして、俊男が死んだことを、なかなか信じようとしなかった……。
伸子は、新聞をほとんど無意識の内に取り出した。自分が頼んだわけではない。たぶん、前に借りていた人がとっていたので、入っているのだろう。
部屋の明りを点ける。――まだ、そう遅い時間ではないので、一時間ほど眠ってしまっただけらしい。
しかし――何をしていればいいのだろう。
伸子の実家は遠く、両親ももういない。兄が心配して電話をかけて来てくれたが、長距離であることを考えると、長話もできなかった。
話したところで何になるだろう? 何を話せばいいのだろう?
伸子は、ほとんど空っぽの部屋の中で、ペタンと畳に座ると、もうそれきり動く気にもなれなかった。
夫はどこへ行っているのだろう?――たぶん、どこかで酒を飲んで酔っているのか……。
俊男が殺され、伸子が生きていることが、夫には許せなかったのだ。
「どうしてお前がかばってやらなかったんだ!」
と、夫は伸子を殴《なぐ》って、周りにいた刑事に押さえられたのだった。
どんなにか、そうしてやりたかったか。今だって、できることなら俊男と代ってやりたい、と伸子がどんなに切実な思いでいるか。
それを夫に分ってくれと言っても、無理なことだろう。――もう、おしまいだ。
夫は、ともかく葬儀がすむまではここにいても、終れば伸子に出て行けと言うに違いなかった。
あの悪魔のような男の放った銃弾は、俊男だけでなく、伸子と夫さえ深く傷つけたのだ……。
ふと、目が新聞に落ちる。――〈歩く死体?〉と、やたらに大げさな見出しがついて……。何のことだろう。
死体が生き返って……。それが俊男だったら、どんなにか嬉《うれ》しいことだろう。でも――。
新聞を広げた伸子の目に飛び込んで来たのは、あの「悪魔」の顔だった。
伸子は、震える両手でしっかりと新聞をつかんで、食い入るように記事を見つめた。
〈信じがたい出来事……〉〈宮尾常市、勇治の死体が消失……〉〈女の首を絞めた男は……〉〈指紋は採れず……〉
もし――本当にあの二人が生き返ったのなら――。
こんなことがあるのだろうか?
伸子は呆然《ぼうぜん》として、座っていた。
新聞がこれだけはっきり書いているのだ。それに、実際に歩いているところを見た者もいるという。
検死に当った医師は、ありえないと否定しているということだが……。ともかく二つの死体が消えたことは事実である。
伸子は、立ち上った。
もし、あの男[#「あの男」に傍点]が生き返って、どこかを歩き回っているのだとしたら。――許せることではなかった。俊男は二度と目を覚まさないというのに!
そうだわ。
これは私に与えられた機会なのだ、と伸子は悟った。俊男を目の前で殺された恨《うら》みを晴らすように、と、天が与えてくれた機会なのだ。
この手で――この手であの男をもう一度[#「もう一度」に傍点]殺してやる。この手で地獄へ送ってやる。
「俊男」
と、伸子は口に出して言った。「見ていてね。あんたの痛みを、あの男に返してやるから……」
伸子は外出の支度をした。財布にお金があることを確かめる。――武器[#「武器」に傍点]を買わなくては。
銃が手に入るわけではない。刃物ということになるだろう。小さくて、鋭い刃物。
この手で、それをあの男の心臓へ突き刺してやる。
伸子は、部屋を出た。もちろん、あの二人がどこにいるか、分っているわけではないが、必ず見付けられる。きっと出会える、と信じていた。
いや、分っていた[#「分っていた」に傍点]。
マリは、ベッドから半ば落っこちそうになりながら、眠っていた。
あまり見っともいい光景ではないが、まあ疲れているということで大目に見てもらうしかあるまい。
ここは山倉家の、マリとポチの部屋。ポチはといえば、マリがコンビニエンスで働いている間、グーグー眠っていたわけで、夕食前の時間、少し運動して腹を空かそうというので、ここのだだっ広い庭を「散歩」している。
マリは、ゆうべの騒ぎでくたくたになりながら、真夜中から明け方まで、コンビニエンスで働いた。で――帰ってから、バタン、キューで眠りっ放しに眠っているのである。
ファー。ファー。
「凄《すご》い寝息だな」
ん? 誰《だれ》よ。大きなお世話。息ぐらい、好きなようにさせてよね。
「そろそろ起きろ。――おい」
放っといて! うるさいなあ。
「ウーン……」
マリは、寝返りを打った、ベッドの外側[#「外側」に傍点]の方へ。
ただでさえはみ出していたのだ。当然、ドスンとベッドから落っこちたのである……。
「痛い! 何で布団から[#「布団から」に傍点]落っこちるのよ!」
マリは起き上りながら文句を言った。
「私に文句をつけるな」
「え?」
マリは目をこすって――ギョッとした。
「あ! 大天使様!」
「目が覚めたか」
と、苦笑して、「ま、健康そのものだな、お前の眠る姿は」
「はあ……」
マリは少々赤くなった。パジャマ姿で、しかもおへそ[#「おへそ」に傍点]が出ている。
「黙って見てるなんて、いけないんですよ」
「そんなことより、まずいことになったな」
「すみません」
「ああも大々的に報道されてしまうと、こっそり修正というわけにはいかなくなった。しかも、二人とも[#「二人とも」に傍点]生き返ってしまったというんだからな!」
「私、この目で見ました。どっちだったのか、分りませんけど」
「そうか。――すると間違いなく、生き返ってしまったわけだな」
と、ため息をつく。「困ったもんだ」
「何とかして捜そうと思ってるんですけど――」
「当り前だ。お前は天使だぞ。いいか、天国の用事が最優先だ。忘れるなよ」
「はあい」
「はい、と答えろと言っとるだろうが」
「はい」
マリは頭をかいた。「でも、地獄の方でもきっと手違いがあったんですね」
「らしいな。全く、ややこしい話だ」
「二人とも見付けなきゃいけないんでしょうか?」
「地獄の方じゃ、捜しに来《こ》んだろう。生き返って、また人を殺したりしたら、喜ぶだろうからな」
「じゃ、私が二人とも見付けなきゃ」
「そういうことになる」
「でも――どうやって?」
マリもお手上げである。「どこにいるか、見当もつかないんですよ」
「一つ、手がかりはある」
「何ですか?」
「生き返った場合、死者は自分が死んだ場所へ一旦《いつたん》戻るものらしい。そこから、またスタートする、というわけだ」
「じゃあ……二人とも、事件のあった家へ? どうして、もっと早く教えてくれなかったんですか!」
マリは飛び上った。「急いで駆けつけなきゃ!」
「そう言うな。こっちも、せっせと調べてやっと分ったんだ」
「へえ。大天使様でも知らないことってあるんですね」
「皮肉か?」
「へへ……。じゃ、早速行ってみます」
「頼むぞ」
マリは、ちょっと考えてから、
「夕ご飯食べてからでもいいですか?」
と、訊《き》いた――。
[#改ページ]
6 本物? 偽物《にせもの》?
「本当に確かなのかよ」
と、ポチがブツブツ言っている。
「大天使様がそう言ったんだから」
「フン、当てにならねえな。大体どこでも上の方[#「上の方」に傍点]の言うことは、いい加減さ」
「あんたも言うわね」
マリは笑って、「夕ご飯、食べそこなったんで、機嫌悪いだけでしょ」
「フン……」
ポチはそっぽを向いた。
「あ、もうそろそろよ」
マリは、ポチの頭をポンと叩《たた》いた。
「いてえな。暴力反対」
「文句が多いの、あんたは」
バスが停《とま》って、マリはポチと一緒に降りた。――確か、この辺りだ。
「場所、分ってるのか?」
「この辺[#「この辺」に傍点]よ」
「当てにならねえな、全く」
と、ポチはまたグチった……。
マリは、通りかかった男に声をかけた。
「すみません」
「何?」
「この辺で、人殺しのあった家、知りません?」
サラリーマンらしい男は、薄気味悪そうにマリを眺めて、
「ちょっと……よく分らないんで……」
と、行ってしまった。
「愛想のない人ね」
「訊《き》き方がいけないや。いきなり『人殺し』なんて言われたら、向うだってびっくりするぜ」
「そうか……。じゃ、どう訊けばいいの?」
「まず、ニッコリ笑って、ていねいに言葉をかけなきゃ」
「――こう?」
「笑ってんのか、それで。虫歯でも痛いのかと思った」
「けとばすわよ」
また、誰《だれ》かやって来た。四十がらみの、大分くたびれた様子のサラリーマン。
ファー、と欠伸《あくび》をしているところへ、
「あの……」
と、マリは精一杯、優しい声をかけた。「お急ぎのところ、すみません」
男は足を止め、目をパチクリさせて、マリを見た。
「何だい?」
「ちょっとうかがいたいことがあるんですけど……。あの――私、決して怪しい者じゃないんです」
自分で言うのだから確かである。
「うん。なかなか可愛《かわい》いよ、君」
と、男は肯《うなず》いて言った。
「そうですか?」
と、マリは照れている。「まあ――時々、そう言われることも――」
「いくら?」
と、男が訊《き》く。
「は?」
「ちょっと遊んで、というんだろ? 相場なら、払ってもいいよ。あんまり高くちゃね」
「あの……」
「初めてです、なんて言ってもだめだよ。みんなそう言うに決ってるんだから」
マリは、ポカンとしていたが――やがて言われている意味をやっと理解して、
「鏡見てから、もの言って下さい」
と言ってやった。
男はキョトンとして、マリがプイと怒って行ってしまうと、首をかしげていた……。
「――馬鹿《ばか》にしてる!」
タッタと大股《おおまた》に歩いて行くマリを追いかけながら、ポチは大笑いしていた。
「いいアルバイトになったかもしれないぜ」
「何よ!」
「俺《おれ》に当るなよ」
「全くもう! ああいう人たちって、何考えて生きてんだろ!」
「人間なんてそんなもんさ」
「そんな人ばっかりじゃないわ」
と、マリは言ってやった。「――ともかく、自分で捜そう。あれ、何かしら?」
マリが目を止めたのは、夜だというのに、やたらに明るい場所があったからだった。
「人が大勢……。何やってんだろ?」
「ともかく見て来ようぜ。面白そうだ」
野次馬根性は、マリもポチも負けていない。
二人してノコノコと近付いて行くと……。
「TV局だわ」
と、マリは言った。
TV局の名前の入った車が停《とま》っていて、やたら明るいのは、ライトがいくつもあるせいだった。
大きなTVカメラが据《す》えられて、その正面には、マイクを持った女性、その後ろは、ロープが張ってあり、中へ入れないようになっていた。
「――どうやら、ここが現場だぜ」
と、ポチが言った。
「らしいわね……。見付けたのはいいけど……。これじゃ、やって来たくたって来られないわ、あの二人[#「あの二人」に傍点]」
「どうする?」
「あんた吠《ほ》えて、追い出してよ」
「犬一匹、吠えたぐらいじゃ無理だよ」
「そうか……」
困ったな、とマリが考え込んでいると、何だかカメラのわきであれこれしゃべっていたスタッフらしい男の一人が、マリの方へノコノコやって来たのである。
「君ね、暇?」
マリは面食らった。突然「暇か」と訊《き》かれることは、めったにない。
「別に……」
「ね、ちょっと今TVのワイドショーのための収録やってんだけどさ」
「はあ」
「ちょっと出てくれないかな」
「私がですか?」
「そう、知ってんだろ、例の消えた死体の話?」
「ええ」
「ここがね、二人の撃ち殺された家なんだよ。でね、ゾンビになった二人が、家の中からフラーッと現われる。で、君が画面にアップになって、キャーッて悲鳴を上げるんだ」
「二人が現われる、って……。どこにいるんですか?」
「もちろん、役者がメーキャップしてんのさ。それらしくね」
アホらしい、とは思ったが、
「私、それじゃ、悲鳴を上げりゃいいんですね」
ともかく早いとこ用がすんで、この人たちに引き上げてもらわないと困るのだ。
「そうそう。キャーッ、って元気良くね」
元気のいい悲鳴ってのも妙なものだ。
「大丈夫だね、君?」
「ええ」
マリには自信がある、いや、自信のある、数少ないこと(!)の一つが、「声のでかいこと」。
何しろ天国の合唱練習で、いつも大天使から、
「でかい声を出しゃいい、ってもんじゃない!」
と、叱《しか》られていたのである。
「じゃ、ちょっとやってみよう」
と、腕をとられて、カメラの前に連れて行かれる。
「ハハ、頑張《がんば》れよ」
と、ポチがからかっている。
「何か犬が吠《ほ》えてるよ。君の犬?」
「ええ。吠えてんじゃないです。笑ってるんです」
「へえ。笑う犬か。面白いね。――さ、アップにするからね。待って。――おい、マイク!――はい、これを上からぶら下げておくから。合図したら、思いっ切り叫ぶんだ。分った?」
「分ります」
「キャーッ、ってだけだからね。馬鹿《ばか》でもできるだろ」
ポチがケラケラ笑っている。マリはムカッとしたが、何とか抑えた。
「音声、いいかい?――三、二、一。はい!」
マリは、特に息を吸い込むでもなく、そのままの体勢から、思い切り、
「キャーッ!」
と、叫んでやった。
――やや沈黙があって……。
「おい! 大丈夫か?」
へッドホンをつけて、音をチェックしていた男が、地面に引っくり返っていたのである……。
「ね、君。どうだろう」
と、TV局の男はしつこく食い下がっている。
マリは馬鹿らしくて、まともに返事をする気にもなれなかった。――TVタレントにならないか、というのだ。それも、「可愛《かわい》い」とか、「雰囲気《ふんいき》がある」とか言われるのならともかく、
「あの悲鳴なら、TVのサスペンス物に使える!」
というのだから!
「あの――早くしてくれませんか?」
「うん、やるけどね、しかし惜しいな、あの悲鳴は……」
と、未練がましく首を振りつつ、レポーターらしい女性の方へと駆けて行く。
「呆《あき》れたもんね」
と、マリが腕組みをしていると、
「いいじゃねえか。今度から食えなくなったら、〈悲鳴屋〉をやれよ」
「そんなの、商売になるもんですか」
と、マリは笑った。
「女がいるんだ」
と、ポチは言った。
「女?」
「あの電柱のかげに。じっとこっちを見てるぜ」
マリは、チラッと目をやっただけだった。
「見物人じゃないの?」
「ずっと立ってる。ただの見物人じゃないと思うぜ」
「分ったわ。見張ってて」
と、マリは言った。
「はい! 準備いいね!――君、ここへ来て」
マリは言われた地点に立った。
「ここでいいんですか?」
「そう。で、家の玄関の方を向いて。中から出て来るからね」
「中、入っちゃいけないんでしょ?」
「なあに、後で謝っときゃすむんだよ」
無茶苦茶なんだから!
「――じゃ、行くよ!」
さっき引っくり返った、音声の係りが、あわててヘッドホンを外したのを見て、マリは吹き出しそうになった。
「おい! いくぞ、出て来い!」
と、声を上げると――玄関のドアは、一向に開かない。
「何やってるんだ!――君、ちょっと待ってね、叫ぶの」
マリは、肩をすくめた。何でもないのに叫ぶか、って。
「おい! 一体どうしたんだ!」
と、呼びかけると、ドアがパッと開いた。
そして――何だか紫色の顔に、ボロボロの服という扮装《ふんそう》の男二人が、
「ワーッ!」
「キャーッ!」
と叫びながら、飛び出して来たのだ。
「馬鹿《ばか》! お前らが叫んじゃ、仕方ないだろうが!」
しかし、二人の役者は何も言わずに逃げ出してしまう。――どうしたのかしら?
マリは、開いた玄関の所に誰《だれ》か立っているのに気付いた。
「まだ誰かいるのか? 役者二人だぜ、雇ったのは」
明るいライトを浴びて、少しまぶしげな顔で出てきたのは……。
マリは、目をみはった。――あの男[#「あの男」に傍点]だ!
きちんと背広を着てネクタイをしめているが、あのミユキという女性の首を絞めていた男とそっくり同じだ。
「何だ。君は?」
と、TV局の男が顔をしかめて、「あのね、収録の邪魔はやめてくれないか」
「――キャーッ!」
と、悲鳴を上げたのは、マリではなく、レポーターの女性だった。
マイクを放り出して、逃げ出してしまう。
「おい、どうしたんだ?」
「その……その男……」
スタッフも気が付いたらしく、真青になっている。
「何だよ」
「本物[#「本物」に傍点]だよ……」
どうやら、この人、宮尾兄弟の写真も見てないんだわ、とマリは思った。いい加減な奴《やつ》!
「――まさか」
と、ちょっと笑ってから、急に青くなると、「逃げろ!」
ワーッと一斉に逃げ出して――車も器材も置きっ放し。
その男[#「その男」に傍点]は、ゆっくりと外へ出て来た。マリもさすがに膝《ひざ》が震えた。
一度死んだ男[#「一度死んだ男」に傍点]なのだ。それが、こうして歩いている……。
「君は――逃げないのか」
と、その男が言った。
「あなたを捜してたんです」
と、マリは言った。
「僕を?」
「天国からの命令で。私――」
と、言いかけた時だった。
タタッと足音がして、女が一人、手にナイフを握りしめて、駆け寄って来る。
「人殺し!」
と、女は感情をぶつけるように、甲高い声で叫ぶと、「殺してやる!」
ナイフを突き出して、その男へ向って突っ込んで行く。
「待ってくれ!」
男が飛び上った。
そこへ、ポチが猛然とマリのわきをすり抜けて、パッと宙へ飛ぶと、女の体に体当りした。女がよろけて、ナイフを取り落とす。
マリは急いで駆け寄ると、そのナイフをつかんだ。
「落ちついて下さい! あなたは――」
「分った。あの時のお母さんですね」
と、男が言った。「僕を兄と間違えてらっしゃる。――僕は弟の勇治です」
「え……?」
女はハアハアと喘《あえ》ぎながら、男を見つめた。
「いや――兄のしたことで、僕も恨《うら》まれても仕方ない。もし、それでお気がすむのなら、殺して下さい」
女は、よろける足で、その男の方へ歩み寄ると、まじまじとその顔を見つめた。
「――そうでしたね。ごめんなさい。私、てっきり……」
と、うなだれる。「すみません……」
マリはホッと息をついた。
「宮尾勇治さんですね」
「そう。兄も、いつかここへ来ると思うんだけど……。それとも、もう来たかもしれないな」
女が、しゃがみ込んで泣き出す。
マリは、少し離れた所へ、宮尾勇治を連れて行った。
「私、天使なんです。今はこんな格好してますけど」
と、マリは言った。
「天使? 天国の?」
「手違いで、あなたとお兄さんが生き返ってしまって、大変なんです。あなた方は死んだんですから」
「なるほど、――変な気分だったよ。生き返ったと知った時はびっくりして……。でも、きっと重傷で助かったんだな、と思った。ところが新聞を見てね、びっくりした」
と、勇治は言った。「それに、何となく足がこっちを向くんだ。どうしてかよく分らないままに着いたら、この家だった……」
「一旦《いつたん》、死んだ所へもどるんだそうです」
「そうなんだね、きっと。だから、兄もたぶんここへやって来ると思うんだ」
マリは、目の前の男に好意を抱いた。もちろん一目惚《ひとめぼ》れってわけじゃない。しかし、好感を抱かずにはおれない男性だったのである。
しかし――務めは果さなくてはならない。
マリは、ふと胸の痛むのを覚えた。兄の方ならともかく、この弟は、母子《おやこ》を助けようとして、兄に撃たれて死んだのだ。
命を取り戻して、もう一回生きられるかもしれない、と思っているのに……。その希望を、取り上げなくてはならないのだ。
「あの――宮尾勇治さん。本当に言いにくいんですけど、手違いは訂正しなきゃいけないんです。天国の方としても困ってるんで……」
と、マリはおずおずと言った。
「ああ、分るよ。――僕は構わない。まあ、せっかく生き返って、少し残念だけどね。施設のことで、色々やり残したこともあるんだが。でも、こんな状況じゃ何もできないしね」
「じゃ、分っていただけます?」
「僕は天国へ行けるのかい?」
「もちろんです!」
「じゃ、死ぬのも怖くない。痛い思いをするのかね、もう一回?」
「さあ……。その辺は私から大天使様に交渉してみます」
「頼むよ」
と、勇治は微笑《ほほえ》んだ。「しかし、君が天使ってのは、正にピッタリだねえ」
マリはポッと頬《ほお》を染めた。――照れてる場合か!
「ただね、兄の方を『連れ戻す』のは容易じゃないよ」
「分ってます」
勇治は、玄関先にしゃがみ込んで、すっかり放心している様子の女へ目をやっていたが――。
「僕を連れて行くのを、少し待ってもらえないか」
と、勇治は言った。
「え?」
「兄が、もし、もうここへ来てしまっていたら、兄を見付けるのは大変だよ。ともかく警察も散々手を焼いたんだから」
「それは分ってます」
「僕は兄をずいぶん捜した。もし君が兄を見付けたいのなら、僕がいた方がずっと楽だと思う」
「そうですか……」
「兄の愛人とか、その仲間とか、立回りそうな場所も分るし、それにね、僕らは一卵性双生児だ。不思議な力があるんだよ。たとえお互いに姿が見えなくても、そばにいると、感じる[#「感じる」に傍点]んだ。――きっと、兄を見付ける手助けができると思う。それに――兄は、君の話におとなしく従うとは思えない」
マリも、確かに、その点は心配だった。
「――分りました」
と、マリは肯《うなず》いた。「ともかく大天使様にそう伝えて、待ってもらいます」
「ありがとう」
勇治がマリの手を握った。マリは、その手が、「生きている人間」のように暖かいのに気付いて、ドキッとした……。
「――おい、人が来るぜ」
とポチが言った。
「誰《だれ》か来ます。見付かったら大騒ぎになるわ。一緒に行きましょう」
「どこへ?」
「今、私が居候してる家に。他にありませんもの。――さ、早く」
と、促す。
そこへ、
「待って下さい」
と、さっきの母親が駆けて来た。「私――三崎《みさき》伸子です。お願いです。一緒に連れていって下さい」
「でも――」
「あなたには、兄に敵討ちをする資格がありますよ」
と、勇治が言った。
「ありがとう!」
三崎伸子の目に、涙が光っていた。
「じゃ、ともかく、みんな一緒に。――田崎さんに迎えに来てもらうしかないわ」
マリは、二人を先に行かせてポチと一緒に少し離れてついて行った。
「――おい」
「何よ。文句ある?」
「大丈夫なのか」
「大天使様だって分って下さるわ」
「そうじゃないよ」
と、ポチは前を行く二人の背中を見ながら、「あいつが本当の弟[#「本当の弟」に傍点]の方だって、どうして分る?」
「何ですって?」
「しっ。もしかしたら、あれが兄貴の方で、弟のふりをしてるのかもしれないぜ」
「まさか……」
マリは唖然《あぜん》とした。
「分らねえだろ、そんなこと。何しろまるで瓜《うり》二つなんだからな」
「そりゃそうだけど……」
「ま、油断しないことだな」
ポチの言葉に、マリは、すっかり考え込んでしまった。
でも……。まさか……。
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7 雨もりのする場所
水谷邦子は、椅子《いす》にかけたまま、眠っている。
ポッ、ポッ、ポッ。――時代ものの鳩時計《はとどけい》が鳴いて、ハッと目を覚ます。
「三時だ……」
頭を振って、邦子は大きな欠伸《あくび》をした。
子供たちは、静かに眠っている。――枕《まくら》をけとばしたり、布団から転がり出たり、パジャマをまくり上げて、おへそ[#「おへそ」に傍点]をだしたままで。
邦子は立ち上ると、部屋を出ようとして、一瞬めまいがして、よろけた。
大丈夫。――大丈夫よ。何でもないわ。良くあることだから……。
このところ、貧血気味になることが多くて、気になっていた。しかし、健康診断など受けに行く時間は、とてもない。
「気持の問題だわ」
と、邦子は呟《つぶや》いた。「参ってるだけ。――子供たちには関係ない。そうでしょ、邦子?」
さあ、しっかりして!
子供たちが寝ている所を見て回るのだ。保母が交替で「夜の当番」をしている。
邦子は、いつでもどこでも、時間のある時にパッと寝られる、というのが特技だった。しかし、このところ、それができないので、どうしても寝不足になっている。
自分でも理由は分っているのだ。
薄暗い廊下。――古い、今どき見られない木造の建物。冬は隙間《すきま》風が寒いので、おねしょをする子が多い。
邦子は、足音をたてないように歩いて行った。
――あの人[#「あの人」に傍点]は、もう戻って来ないだろう。
胸が、しめつけられるように痛む。
短大のころから付合っていた恋人――沼田悟士《ぬまたさとし》とは、四年越しの付合いで、どっちからも言い出したわけではないが、お互い、将来は結婚するものだと思っていた。
その彼が――短大時代に邦子のルームメイトだった女の子と二人で、旅行に行っていたのを、邦子は知ったのである。
彼を責めるわけにはいかない。ここの人手が、日常的に不足しているので、邦子は休みが取れない。
デートの約束をしても、誰《だれ》か一人が病気にでもなると、出て来ざるを得ない。――この一年近く、邦子は彼と、二回、昼食をとっただけである。
それで、「恋人」でいてくれと頼むのは、無理な注文だ。――そうなんだ。
「仕事をやめて、僕と結婚しろよ」
彼がそう言ってくれたら……。でも、やめただろうか?
邦子にも分らない。子供たちは可愛《かわい》い。しかし、邦子は、「親ではない」のだ。そこを踏み越えてはいけない。
君はのめり込み過ぎてるよ。そう言われて、むきになって反発もした。
――そんなことのくり返しが、結局、彼を遠ざけてしまったのか。
でも――どうすることができただろう?
彼の心をつなぎ止める鎖があれば、いくらお金を出しても、買っただろうに……。
「あらあら」
いつも、寝相の悪い子で、たいてい布団から外へ出てしまっているのだが、今日は何と廊下まで転がり出してしまっている!
よいしょ。――かかえ上げて、布団へ戻してやる。目をこすり、ウーン、と声を出すが、眠っていて、憶《おぼ》えてはいないのである。
他の子だって、ちゃんと布団をかけて寝てる子は一人もいない。
オシッコの近い子は、一度起こしてトイレに連れて行く。
四十人からの子、全部を見終って戻ると、もう布団をけとばしている子がいる……。
「――幸江ちゃん」
邦子は、布団が空になっているのを見て、小さな声で呼んだ。「幸江ちゃん。どこ?」
昼間も姿をくらましてしまった子である。でも、夜はもうぐっすり眠るようになっていたのだが……。
幸江は八歳で、小学校にも通っているから、そう心配はないと思うが……。一人でトイレに行ったのかしら?
邦子はトイレを覗《のぞ》いてみた。誰《だれ》もいない。
変だわ……。
邦子はまた不安になって来た。もしかして外へでもフラフラと……。夢遊病みたいなことをする子もないではないのだ。
邦子は、ふと明りが洩《も》れているのに気が付いた。調理場の方だ。
あそこに?――でも何の用で、あんな所へ行くのだろう?
邦子は、足音をたてないように気を付けながら、そっと半分開いた戸のかげから、中を覗いてみた。
「――おいしい?」
幸江が床に座り込んで、そう言っている。「牛乳、もっと飲む?」
誰と話しているんだろう? ちょうど調理台のかげに隠れて見えない。
「ありがとう。――生き返ったよ」
男の声がして、邦子はギョッとした。
一体誰が……。そして、邦子は昼間、幸江を見付けた時、「誰だかが物置の中にいた」と言っていたことを、思い出したのだ。
では、あれは本当だったのか。
たぶん――浮浪者か何かが、入りこんでいたのだ。そしてお腹を空かしているからというので、幸江が――。
どうしよう。邦子は、迷っていた。
幸江が男の目の前にいる。万一、幸江を人質にでも取られたら大変だ。最悪の場合を考えておかなくては。
しかし、いざという時、邦子一人で、男と闘えるだろうか?
誰かを呼ぶといっても――ここからは離れている。
「もういいの?」
と、幸江は言っていた。
「うん。もう充分だ」
「じゃ、牛乳、冷蔵庫へ入れとくね」
と、幸江が立ち上る。
「叱《しか》られないかい」
「黙ってれば、分んないもん」
「そうか」
「――ね、今夜、どこで寝るの?」
「そうだね……。まあ、おじさんは、ちゃんとどこかで寝られるから――」
つい、緊張して力が入ってしまったのか、邦子が触《ふ》れていた戸が、ガタッと音をたてた。
中で男が飛び上った。
「誰《だれ》だ!――隠れてるんだな! 誰だ!」
上ずった声が聞こえて、邦子は、幸江が危い、と思った。戸を開けて中へ入る。
「なあんだ」
と、幸江がホッとしたように笑って、「邦子ねえちゃんだ」
「幸江ちゃん。こっちへ来て」
「ね、本当だったでしょ。いたんだよ、本当に」
「そうね」
邦子は、何とか笑顔を作った。――早く、幸江を男から離さなければ!
「もう寝なきゃいけないのよ、幸江ちゃん」
「うん……。この人もね、寝る所がないんだって」
「そう。じゃ、私がゆっくりお話を聞くわ。だから、あなたは、お布団に入って寝るの。――分った?」
幸江は、未練のある様子だったが、男の方へ、
「じゃ、おやすみなさい」
と、声をかけ、出て行った。
邦子は、ともかく息をついた。汗がこめかみから流れ落ちる。
「どうも……」
男は、薄汚れた白衣のようなものを着ていた。ひげがのび、顔も青白い。
「どうしてここへ?」
と、邦子は言った。
「いや……。何だか歩いていて、目が回りそうになって、ちょうどこの前だったもんですから」
力のない声だが、嘘《うそ》をついているようには聞こえなかった。
「誰《だれ》なんですか、あなた」
男は、その問いに、困ったように目を伏せた。
「それが――よく分らないんです」
「分らないって……」
「長いこと眠っていたようで――。気が付くと、夜、外を歩いてたんです。どこから来たんだか……いや、自分が誰なのかも思い出せなくて……」
「何ですって?」
「本当なんですよ。そんな馬鹿《ばか》な話、と思われるでしょうが……。本当のことなんです」
男は、ゆっくり息を吐いて、「今朝方、寒くてたまらなかったもんですから、ついここの中へ忍び込んで……。誰かに会いそうになって、物置へ隠れたんです。――びっくりさせて、すみません。ともかくお腹が空いて……。ここで食べるものをあさってたら、あの子が来てくれて……」
男は、軽く息をついた。
「ここは、子供たちの施設なんですね」
「ええ。――親と暮せない子たちのためのです。あなたが本当のことを言ってるかどうか、私には分りません。でも、幸江ちゃんに危害を加えたわけでもないし、警察へは届けません。今夜の内に、出て行って下さい」
男は肯《うなず》いた。
「分ってます。そのつもりでした」
男は、少しためらってから、「大分、食べちまってすみません」
と、頭をかいた。
「大分って――」
冷蔵庫を開けて、邦子は、ちょっと目を丸くした。「――空っぽ!」
「申し訳ない」
と、男は頭をかいている。「あの――必ずその内、返しに来ます」
邦子は、男の生真面目《きまじめ》そうな言い方に、ふっと微笑《ほほえ》んだ。
「大丈夫です。何とか話をうまくつけますわ。これぐらいで潰《つぶ》れやしません、うちだって。もちろんご覧の通りの貧乏施設ですけどね」
「ご親切は忘れませんよ」
と、男はまた頭を下げた。「――どこから出ればいいですかね」
「その奥に勝手口が。外へ出れば、低い柵《さく》だけで、鍵《かぎ》もかかってませんから」
邦子は先に立って歩いて行き、勝手口の明りを点《つ》けた。
「じゃ、これで……」
「あの――靴は?」
「ないんです」
「じゃ、何をはいて来たんですか」
「裸足《はだし》だったんです」
「まあ。――見せて」
足の裏は真黒で、二、三か所、切り傷もできている。「いけないわ、傷口から菌が入ったら――。手当てしましょう」
「でも――」
「破傷風にでもなったら、大変! さ、ここに座って。足を出して」
邦子は、バケツに水をくんで来ると、男の足を洗ってやり、救急箱を持って来て、傷の消毒をした。
「もう……どうぞ、放っといて下さい」
「あと少しですから。――さ、これでテープを貼《は》って」
邦子は息をついて、「ご心配なく。四十人の子供の面倒みてるんです。こんなこと、楽なもんですわ」
と、言った。
そして、ちょっと手を頬《ほお》に当てて考え込む。
「古いサンダルでも……。どこかにあると思いますから」
「しかし――」
「また裸足《はだし》で出て行くんですか? すぐ元の通りですよ」
邦子が、そう言った時、頭上で、バラバラと、小石でもまくような音がした。
「あら、雨だわ」
と、邦子は言って、「いけない! ね、上って」
「は?」
「こっちへ来て下さい」
邦子は、男を勝手口から、奥の方へ引き戻した。
「どうしたんです?」
「今に分ります」
と、邦子は言った。
ザーッという雨音が辺りを包む。
「凄《すご》い降りだ」
「そうじゃないんです。普通の雨でも、そんな音がするんですよ。屋根がトタンで」
そして……ポタン、パタン、という音と共に、天井のあちこちから、雨が洩《も》り始めたのだ。
「洩ってますよ」
「ええ」
「何か……バケツとか洗面器とかで……」
「間に合いませんの」
――確かにその通りだった。
雨が強くなると、十か所以上から、雨が盛大に降り始めた[#「降り始めた」に傍点]のである。
「こりゃ凄い」
と、男は目を丸くした。
「ここの名物[#「名物」に傍点]なんです。〈白糸の滝〉といって」
「なるほど」
雨はさらに強くなって、やむ気配はなかった。家の中の[#「中の」に傍点]雨も、床にパチパチとはねて、外と変らなくなってしまっている。
「これじゃ――」
と、男が言った。
「え?」
「モグラがびっくりするかもしれませんね」
邦子は呆気《あつけ》にとられて男を眺めていたが、やがて吹き出してしまった。
「――や、すみません。朝が早いんでしょう。もう行きますから」
「傘の余分はないんです」
と、邦子は言った。「いつも足りないくらいで」
「いいですよ。何か――ビニール袋でも貸してもらえれば」
「まさか、この雨の中へ追い出すわけにはいきませんよ」
邦子は、息をついて「今夜はどこかで寝て下さい。明日、雨が上ったら、出て行って下されば結構です」
「しかし……」
「ホテルじゃありませんから、余分な布団とかはないんですけどね。――ああ、それじゃ管理人室がいいわ」
「誰《だれ》か寝てるんじゃないんですか?」
「今は使ってないんです。管理人なんていませんから。――こっちへ来て下さい。あ、そこのスリッパ、はいて。あんまりパタパタ音をたてないで下さいね。子供たちが眠ってます」
「すみません……」
男は頭をかきながら、ついて行った……。
「なるほど」
と、山倉純一は肯《うなず》いた。
「ですから、もう一人が見付かるまで、この人をここへ置いてあげてほしいんです」
マリはくり返した。「構わないでしょ?」
純一は、宮尾勇治を眺めて、それから一緒について来た、三崎伸子を見て、
「二人とも、お化け[#「お化け」に傍点]ってわけ?」
田崎があわてて、
「いや、違います。この人はちゃんとした――何というか――」
「生きてる人間です」
と、マリは三崎伸子を見て言った。「宮尾勇治さんの方も、お化けじゃありません。生き返ったんですから、一旦《いつたん》は。ちゃんとした人間なんです」
「はあ……」
純一は呆気《あつけ》にとられている。
まあ、この話を聞いて、即座に納得できたら、その人の方がおかしい、ってことになりそうである。
「どうする?」
純一が田崎を見る。
「坊っちゃんのお好きなように」
田崎はいつに変らぬ、半分|真面目《まじめ》、半分|面白《おもしろ》がっているような顔をしている。
「そうか……」
純一はため息をついて、「分った」
「じゃ、いいんですね」
と、マリが嬉《うれ》しそうに言った。
「ただし――」
「え?」
「マリさんが僕と結婚すること」
「そんな……。ずるい! 人の弱味につけ込んで!」
「どっちが弱味につけ込んでんだ」
と、ポチが言った。
「あんたは黙ってな」
「何だい?」
と、純一は言った。
「いえ、こっちの話です。かよわい乙女をおどしたりして、恥ずかしくないんですか!」
マリがかみつきそうな勢いで食ってかかるのを見ていて、三崎伸子は、ふっと笑った。
――息子《むすこ》が殺されて、もう一生笑うなんてことはないだろうと思っていたのだが、笑ったのである……。
「じゃ、部屋を用意して。――あなたも泊って行くんですね」
「よろしければ」
と、伸子は言った。「息子の敵を討たないと、眠るに眠れません」
「部屋は沢山あります。田崎、すぐに――」
「もう用意させてあります」
と、田崎は言った。「その代り、坊っちゃん、別の問題があるのです」
「何だい? 今度は悪魔にでも部屋を貸せっていうのか?」
ポチが、それを聞いて咳込《せきこ》んだ。
「マリさんの、コンビニエンス勤めです。どう考えても、コンビニエンスの仕事と、生き返った死体の捜索の両立は、不可能としか言えません」
「やめりゃいいじゃないか」
マリが首を振って、
「そうはいきません。心配して下さってありがとう。でも、私は――」
「誰《だれ》か代理がいけばいいんでしょ?」
と、田崎が言った。
「そりゃあ……そうですけど。でも、知らない人を代りにするわけにはいかないし、急に見付かりませんよ」
「そうか」
と、純一が笑って、「田崎、君が行けばいいわけだ」
「田崎さんが?」
「坊っちゃん」
田崎は、恭《うやうや》しく頭を下げて、「お言葉ですが、私がいなくなって、この屋敷が無事に動くでしょうか?」
「いなくなるったって……」
「午前中は少なくとも、眠らなくてはなりません。すると、この屋敷の掃除や手入れに問題が出ます。それでもよろしければ……」
「分ったよ。じゃ、誰が行けば問題ない[#「問題ない」に傍点]んだ?」
「もちろん」
と、田崎は言った。「いなくなって、一向に困らないのはただ一人、坊っちゃん[#「坊っちゃん」に傍点]です」
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8 新しい仲間
邦子は、朝から大忙しだった。
朝ご飯を作ってくれるはずの人が、急に腹痛で倒れ、てんてこまいだったのである。
四十人の子供たちには、ともかく食べさせなくてはならない。他の保母さんと、自分たちは作る途中でつまみ食いをし、ともかく学校へ行く子は学校へ出し、他の子は、いつも通りの日課をスタートさせる。
午前十時ごろ、やっと後片付けまですんで、邦子はフーッと息をつき、調理場で座り込んでしまった。
「――お疲れさま」
と、同僚が顔を出す。「大丈夫なの?」
「何とかね、――幸江ちゃん、学校に行った?」
「行ったわよ。どうして?」
「ゆうべ遅くまで起きてたから……」
そう言ってから、ハッとする。あの男のことを思い出したのである。
まだあの部屋で眠っているのだろうか? あの男のことは、誰《だれ》にも話していないので、もし見付けたら、びっくりして大騒ぎになるだろう。
「よいしょ……」
と、息をついて、邦子は立ち上った。
「大丈夫?」
「もう年齢《とし》ね」
と、邦子は笑って、「雨、上ったみたいね」
「あら、まだ降ってるわよ、結構」
「え? でも――あの音が聞こえないじゃないの」
と、邦子が勝手口の方へ目をやる。
「いやだ。邦子さん、自分で頼んだんでしょ?」
「え? 何のこと?」
「朝方、少し雨が止《や》んだの。その間に、男の人が屋根に上ってね、洩《も》らないように直してくれたのよ」
「男の人が?」
「あなたに頼まれたって……。そうじゃないの?」
あの男が? 他には考えられない。
「で、その人は?」
「今、あっちで朝ご飯を食べてもらってるの。――器用な人ね。窓のガタガタしてるのも、直してくれるって」
――邦子は、半ば呆気《あつけ》にとられつつ、食堂へと急いだ。
ガランとした食堂で、ミソ汁を飲みながら食事をしているのは――確かに、ゆうべの男である。
どこで見付けたのか、古ぼけた作業服みたいなものを着ている。
「――あ、どうも」
邦子に気付いて、椅子《いす》から腰を浮かすと、「ゆうべはありがとうございました」
「いいえ……。あの――屋根を直して下さったの?」
「ええ。何だか、ああいうことが得意なような気がしましてね。やったら、簡単に。トタン板も、きちんと打ちつけといたので、そうひどい音はしませんよ、もう」
「ありがとう……。でも、びっくりしたわ」
邦子は、椅子に腰をかけた。「その服、どこで?」
「ゆうべ寝かせてもらった部屋の戸棚を開けたら、出て来たんです。似合いますかね?」
と、少し照れている。
邦子は笑顔になって、
「とても。でも、やっぱり古いわ」
と、言った。
男は食事を終えると、
「いや、助かりました。――屋根の修理はゆうべのお礼です。これから窓のガタついてる所を直します」
「それは何のお礼?」
「朝食のです」
「お礼をされるほどの朝食じゃないわ。――私が作ったんですけど」
「すてきでした」
男の言葉にはてらい[#「てらい」に傍点]がなく、わざとらしさも感じられなかった。
「ありがとう……」
大あわてで作った、何十人分の朝食である。味は二の次、三の次だ。しかし、こうして礼を言われると、邦子は不意に胸が熱くなって来て、目に涙がともるのを感じ、あわててそっぽを向いた。
どうしたっていうの? しっかりしてよ、全く!
「――邦子さん、でしたね」
と、男は言った。「もし良かったら……私をここへ置いてくれませんかね。もちろん、お金なんかいりません。屋根直しや、椅子《いす》も大分ガタが来ているし、やることはいくらでもありそうで……」
「でも、あなたは……」
「もちろん、分ってます」
と、男は肯《うなず》いた。「記憶を失って、自分がどんな人間か、見当もつきません。もしかしたら、凶悪な殺人犯かもしれない」
邦子は、ちょっと笑った。――男は続けて、
「しかし、それが分るまでは……。どうでしょう?」
「え?」
邦子は、男を眺めていた。――いい人だわ。そう直感した。
「それには園長の許可をとりませんとね。でも、私は強く推薦《すいせん》しておきます」
男はホッとした様子で、
「ありがたい! いや、もちろん出て行ってくれと言われれば、すぐにも出て行きます。ご心配なく」
「心配なんかしていません」
と、邦子は首を振った。「ずっと、ここにいて下さいな」
邦子は、窓を直しに行く男の後ろ姿を見送っていたが、
「待って!」
と、呼んだ。
「何です?」
「名前[#「名前」に傍点]が必要だわ。何としたらいい?」
「そうか。――そうでしたね」
男は頭をかいた。
「じゃ、こうしましょう」
と、邦子は言った。「私と同じ水谷[#「水谷」に傍点]。それで、遠い親戚《しんせき》ということに。それなら、あなたがここにいても、そうおかしくないわ。でなきゃ、無給でここにいるというのが不自然よ」
「分りました。じゃ――どう呼びます?」
「私のことは、『邦子さん』でいいわ。『ちゃん』って年齢じゃないし、私も。あなたは……そうね。水谷――悟士。いかが?」
「悟士、か……。その字ですね」
と、男は、邦子が指で窓ガラスに書いた文字を見た。「いい名だ。――分りました。じゃ、あなたからは――」
「悟士君[#「悟士君」に傍点]、と呼ぶわ」
「よろしく、邦子さん」
「こちらこそ。――悟士君」
二人はちょっと笑った。
そこへ、邦子と同じ年齢《とし》の同僚が、何かにせかされるようにやって来るのが目に入って、
「行って下さい」
と、低い声で言った。
「ええ、それじゃ……」
と、〈悟士〉は行きかけて、「他に直さなきゃいけない所を、考えといて下さいね」
と、振り返って言った。
邦子は苦笑して、
「心配いらないわ。直す所なんて山ほどあるし、全部終ったころには、またいくらでも出て来るわよ」
〈悟士〉は、ちょっと笑って、それから一つ息をつくと、古い廊下をキィキィと踏み鳴らしながら歩いて行った。
良かったのだろうか? あんなことをして。
身許《みもと》も知れない男を、この中へ入れる?
もし、本当のことを知ったら、園長は「とんでもない」と怒るだろう。
しかし――邦子は自分の直感に賭《か》けてみる気になっていた。
そして、なぜわざわざ、「悟士」という、彼[#「彼」に傍点]の名前をつけたりしたのだろう、と考えていた。
「――邦子さん」
と、同僚の子がやって来ると、「ちょっといい?」
「何?」
「あの――またあの男[#「あの男」に傍点]が来てるの」
「あの男?」
と、訊《き》き返した時には、邦子にも分っていた。「大野《おおの》ね」
「ええ……。園長は留守です、って言ったんだけど、待たせていただきます、って上り込んじゃって」
「絶対に上らせちゃだめ、って言ったじゃないの」
「分ってるんだけど……」
邦子はため息をついた。――こういう仕事をしていると、子供の相手は得意でも、大人は苦手になってしまうのだ。特に、ひとくせもふたくせもあるような連中に対しては。
こんな時、園長がいてくれると助かるのだが、ここの園長は他にいくつも仕事を持っている人なので、ほとんどいることはない。
「厄介な客」には、たいてい邦子が出て行った。保母仲間でも、若い方なのだが、しっかり者なので、何かと頼りにされてしまう。
「分ったわ、どこにいるの?」
「応接に……」
「行くわ」
邦子は歩き出して、「お茶出すことないわよ」
と、言った。
応接、といっても独立した部屋があるわけではない。玄関を上ってわきの少し引っ込んだ一画に、中古の古ぼけた応接セットが置いてあるだけだ。
「ああ、水谷先生」
大野は、邦子の顔を見るなり言った。「お忙しいところ、お邪魔して恐縮です」
水谷邦子という名を、最初やって来た時から、この初老の、メガネをかけてほっそりとした男は、知っていた。いや、ここに働いている保母全部のことを、調べてから、やって来たのである。
きちんと膝《ひざ》を合せて座っているところは、生れついての商人という印象で、口もとにいつも笑みを浮かべている。それは相手の心を和ませる笑みではなく、苛立《いらだ》たせ、ひるませる冷ややかな温度を持っていた。
「忙しいのをご存知でしたら、お引き取り下さい」
と、邦子は立ったまま言った。「あなたのお相手をしている余裕のある人間は、ここには一人もいないんです」
「どうぞお構いなく」
と、大野は会釈《えしやく》して、「園長さんのお帰りを待たせていただいておりますので」
「園長は今日こちらへ参るかどうか分りませんよ」
「でしたら、またうかがうまでです」
大野は一向に動じる気配がない。「ご心配なく。私は、相手にされないことに慣れておりますのでね」
グレーの背広、濃い紺《こん》のネクタイ。――そのままお葬式にも出られそうな格好のこの男は、不動産屋である。
こういう似た施設同土には交流があり、保母同士、情報の交換をする。その際に、邦子はこの大野のことを聞いていた。
どの施設も経営は苦しく、寄付や奉仕でまかなう部分が多いのだが、その土地を狙《ねら》って、「地上げ」して来るのが大野の仕事なのである。
物腰はソフト、言葉はていねいだが、蛇のように静かに攻めて来る。しつこく、諦《あきら》めるということを知らない。
もちろん、どの施設も、大野の言葉に乗せられはしないのだが、土地を好意で安く貸してくれている地主や、毎年決った額の寄付をしている篤志家《とくしか》の方へ手を回し、じわじわとロープを締めて来るのだ。
「大野さん。――はっきり申し上げますと」
邦子は、向い合った椅子《いす》に腰をおろすと、
「ここがなくなったら、ここで暮している四十人の子供たちは、行き場がなくなるんです。あなたにはそんなこと、どうでもいいことなんですか?」
「私は、子供を追い出したいわけではありませんよ」
と、気味の悪い猫なで声で言う。「ただ、この土地がほしいだけです。それが私の仕事ですから。あなたは子供の面倒を見るのが仕事。私はここを去っていただくように努力するのが仕事です」
「売るわけがありません。ここは園長ご自身の土地ですよ」
「もちろん承知しておりますとも」
大野は肯《うなず》いた。「だからといって、お話もせず諦《あきら》めるのでは、私も仕事の手抜きをしたことになります」
「園長ご自身、お断りしたはずです」
「人間は気が変るということもありますよ、水谷先生」
「あなたに『先生』と呼ばれる理由はありません」
邦子は、ムッとして言った。挑発に乗ってはいけないと思うのだが、大野の話し方そのものが、人の神経を逆なでするのだ。
「『先生』と呼ばれて気を悪くされるとは、珍しいお方だ」
と、大野はちょっと笑った。「まあ、男心と秋の空とか申しますからね」
「何の話ですか」
「いや、人の気持は変る、と申し上げているだけです。たとえば――沼田悟士さん[#「沼田悟士さん」に傍点]のようにですね」
邦子は耳を疑った。
「――今、何とおっしゃいました?」
声がかすれていた。
「いやいや、お気になさらずに」
自分の言葉が上げた効果に満足したらしく、大野はいかにも嬉《うれ》しげな笑みを浮かべた。
「あなたは――」
邦子が思わず立ち上り、青ざめて身を震わせながら、口を開いた時だった。
天井で、ドン、ドン、という大きな音がしたと思うと、座っている大野の頭上の天井板が外れ、どっと埃《ほこり》が降って来た。
「何だ!」
大野があわてて立ち上る。薄くなった頭の上に何か黒い物がドタッと落ちてのっかった。
「こいつ――」
と、手で払い落とすと、足下に落ちたのは、――大きなネズミの死骸《しがい》だった。
「ワッ!」
真青になって、大野は飛び上った。
「や、失礼」
天井から顔を出したのは、何と頭に手ぬぐいをかぶり、大きなマスクをした、〈悟士〉だったのだ。「人がいるとは思わなかったもんでね」
「――これは、どういうことです!」
大野はすっかり取り乱していた。「そっちがそのつもりなら、こっちにも考えがありますよ!」
大野が興奮しているのを見て、逆に邦子は落ちついて来た。
「代名詞ばかりでは、何をおっしゃりたいのか分りませんわ」
と、邦子は言ってやった。「国語の時間、さぼってらしたのね」
大野はハンカチを出すと、神経質に肩や頭の埃《ほこり》を払い落とし、
「これで諦《あきら》めやしませんからね。――こんな真似《まね》をして、後悔せんことですな」
と言い捨てると、玄関の戸を荒々しく開けて、出て行った。
「――出すぎたことをして、すみません」
〈悟士〉が、天井から下りて来た。「天井でネズミの走ってる音がしたので、先に片付けようと……。つい、お話が耳に入ってしまって」
「いいのよ。あれぐらいしなきゃ、いつまでも居座るわ」
「たち[#「たち」に傍点]の悪そうな男だ」
「ええ……。どうしても土地を売らない、と頑張《がんば》ってた保育園がね、不審火で全焼したの」
〈悟士〉が邦子を見た。邦子は首を振って、
「もちろん、確証はないわ。園児が遠足に出て、ほとんど人はいなかったの。――原因は不明のまま。でも、建て直すお金はどうしても工面できず、結局、その土地には今、マンションが建ってる」
「物騒《ぶつそう》だな。ここも古い木造だ」
「用心しましょ。――さあ、仕事仕事」
行きかけて、邦子は振り返り、「どうもありがとう」
と、言った。
そして――〈悟士〉が、「沼田悟士」という名を聞いたのだろうか、と思った……。
「畜生!」
大野は、ほとんど駆け出すような勢いで通りへ出て来た。
あんな目にあったことで怒っているというよりは、自分の武器である冷静さの仮面を、つい投げ捨ててしまったことで怒っているのだった。
「おっと!」
大野は危うく誰《だれ》かにぶつかりそうになった。「――何してるんだ。ぼんやり突っ立って」
と、文句を言ってやったが……。
相手は四十がらみのやせた男で、一応背広姿ではあったが、勤め人とは思えなかった。歩いていて大野とぶつかりそうになったわけではなく、道に突っ立って、今大野の出て来た施設の方を眺めていたのだ。
「どうも失礼しました」
男は平板な声で言うと、「ここに娘がいるもんですからね。姿が見えないかと思って、見ていたんです」
「娘が? しかし――ここにいるのは親がいない子ですよ」
「ええ。――私もね、娘を手離したんです。昔ね。でも、いつも忘れたことはなかった。本当なんですよ……」
男の声音には、まともでないところがあった。大野は、肩をすくめて行きかけたが……。
ふと、何を思い付いたのか、その男の所へ戻ると、
「娘さんに会いたいですか」
と、言った。
男が、何だか焦点のはっきりしない目で大野を見ると、
「もちろんですよ。でも……」
「何かお力になれるかもしれませんよ。一緒に来ませんか」
大野は、いつもの抜け目ない笑顔を見せながら、その男の肩に手をかけて、促す。
男は素直に、大野と一緒に歩き出した。
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9 銃 弾
「いてて……」
純一が呻《うめ》き声を上げる。
「しっかりしてよ、本当に」
と、マリは呆《あき》れて、「これだから、坊っちゃんには困るのよ」
「痛い! 頼むからそっと……」
――別にマリが純一をいじめているわけではない。
純一が、ゆうべ、あのコンビニエンスでの「初仕事」で、すっかり腰を痛めてしまったのである。
マリは、ベッドにうつ伏せになった純一の背中を、指でギュウギュウ押しているところだった。
「あんな重いもん……持ったことないよ」
と、純一は息も絶え絶え。
「重いって、何を持ったのよ?」
「カップラーメンの箱」
「あんな軽いもん、他にないわよ!」
マリは、純一の腰をギュッと押した。
「いてっ!」
と、悲鳴が上る。
「――大丈夫ですか、坊っちゃん?」
田崎がドアを開ける。
「いいんです。可愛《かわい》がってますから、私が」
と、マリは肯《うなず》いた。
「よろしく」
田崎はドアを閉めた。
「――立ちっ放しって、疲れるものなんだねえ」
と仰向けになった純一は、大きく息を吐き出した。
「でしょ? これからは、コンビニエンスへ入っても、働いてる人に共感が持てるわね。お金稼ぐって、楽じゃないのよ」
「うん……」
と、純一は肯いた。「君は偉い」
「そりゃ、天使ですもん」
と、マリは言って笑った。「今夜から、また私が行くわ」
「どうして?」
「だって、このままやったら、あなた、死んじゃうでしょ」
同じ仕事をした、という気持ですっかり気安くしゃべれるようになったマリである。ともかく、先輩顔できるのが嬉《うれ》しいのだ。
「いや、やるよ。こんなことでやめられるか!」
「へえ、無理しちゃって」
マリは笑って、「おやつの時間じゃないの、坊っちゃん?」
と、純一の上にかがみ込む。
純一が手を伸して――マリの肩をつかむと、引き寄せて、キスした。マリは真赤になって、
「何するのよ!」
と、あわててベッドから離れ、「そんな元気あったら……鉄の塊でも運んだら?」
言い捨てて、廊下へ飛び出す。
目の前に立っていた田崎とぶつかりそうになる。
「田崎さん!――立ち聞き?」
「いえ、物思いにふけっておりまして」
田崎は一礼して行ってしまった。
「全くもう! 金持なんて、考えることは一緒!――金さえありゃ、女の子は、みんな寄って来ると思ってるんだから!」
やたらせかせかと歩いている内に、庭へ出てしまった。
雨が、午後になって上り、青空が出ている。
マリは、何度か深呼吸して、気持を落ちつかせた。
あの「ドラ息子」ったら! 私にキスなんかして……。
マリは少々動揺したことを、認めなくてはならなかった。――そりゃ、キスされて何も感じないんじゃ困るしね。
でも……。どうせ私は天使で、あの人は人間なんだもん。
どう頑張《がんば》っても、実るはずのない恋なんだからね……。
時々、マリは、どうしてこんな若い女の子になったんだろう、と思うことがある。まあ天使が「おばさん」になるというのも、イメージとしては合わないが、でも、もう少し何でもやりやすかったかもしれない。
女の子の体と心を持っているおかげで、こうして時には乱れる胸で、やたら庭の中を歩き回って――。ボン。
何? 今、何かけっとばしたような……。
足を止めて振り向くと、ポチが上を向いて気絶していた……。
「わざとやったな!」
「違うってば!」
と、マリは両手を合せて、「ごめん! つい、ね……。キスされちゃったもんだから」
「お前が? 物好きもいるもんだ」
「もう一回けられたい?」
「よせ!」
ポチは、マリが持って来てくれたデザートを、庭先で食べていた。
「――仕事、仕事だわ」
と、マリは階段に腰をかけて、「ねえ、もう一人の方はどこにいるのかしら?」
「あの現場の家にゃ、姿を見せてないらしいじゃないか」
と、ポチは言った。
「あんだけ、TVやら新聞やらが騒いだらね……。誰《だれ》かが張り込んでるだろうし」
「あの二人は?」
「勇治さんと三崎伸子さん? 常市の立ち回りそうな所を当ってみるって。出かけてるわよ」
「ふーん。みられても大丈夫なのか」
「変装してるわ、勇治さん」
「もし見付けたとして……。どうなるかな」
「約束してくれてるの。私に先に知らせるからって。――用心しないと、やられることもあるんだものね」
「お前は人を信じるんだな、すぐ」
と、ポチは首を振った。
「なあに、まだ、あれが常市の方だっていうの?」
「もし[#「もし」に傍点]、そうだったら?」
「だったら、とっくに逃げてるでしょ」
「どうかな」
「どういう意味?」
「いいか。もし、あれが常市なら、弟の方を見付けたら、即座に殺すさ。それを常市だと思い込ませときゃ、自分は勇治として生きてられる」
マリは、ちょっと顔をしかめた。
「そりゃそうだけど……」
「その時はどうする? 一緒にいる三崎伸子も――」
マリは青くなった。
「殺すっていうの?」
「常市が死ぬ間際にやった、ってことにすりゃいいわけだ。そうだろ?」
「そうすれば……自分を狙《ねら》う人間はいなくなる、か」
「人間は[#「人間は」に傍点]、な。しかし、天使[#「天使」に傍点]がここにいる」
「私?」
「お前だってそうだ。奴《やつ》をあの世へ送り返そうとしている。奴から見りゃ、狙われてるのと同じさ」
「私を……殺す?」
「それしかないだろ? 自分が生きのびるためには。せっかく『生き返った』んだ。戻るもんか、と思っても不思議はない」
「そうね……」
マリは、呟《つぶや》くように言った。あの勇治を信じたいのは山々だが、ポチの言い分にも一理ある、と認めないわけにはいかない。
「二人で行かせたのは、まずかったかしら?」
と、マリは言った。
「もう遅いぜ」
ポチは欠伸《あくび》をした。
「冷たいのね」
と、マリが口を尖《とが》らしていると――。
「ここにいたんですか!」
と、田崎が飛び出して来る。
「どうかしたんですか?」
マリはパッと立ち上った。
「今、あのお化け[#「お化け」に傍点]から電話で」
「勇治さん? 何ですって?」
「見付けた、と。すぐ来てほしいそうです」
「やった!」
マリは飛び上った。「ポチ! 行くよ」
「分ったよ」
ポチが渋々ついて行く。「何で俺《おれ》が天使の仕事を手伝うんだ?」
――田崎が車を出してくれる。
マリとポチが乗り込むと、車は猛然と走り出した。
「どの辺です?」
と、マリが訊《き》いた。
「常市の昔の女の所だそうですよ」
「女の――」
「早くいかないと、また逃げられる心配がありますからね」
田崎は、巧みな運転で、どんどん車を追い越して行った。
何とも凄《すご》い場所だった。
「隠れ家って感じね、いかにも」
と、マリは言った。
半ば潰《つぶ》れかけたような家――というより「店」なのだが――の並ぶ、狭い小路。
夕方になって、辺りは薄暗くなっているが、人の気配はなかった。
「何なの、ここ?」
と、マリは言った。
「小さなバーだの飲み屋が固まっていた所ですよ」
と、田崎が言った。「しかし、今はもうみんな店じまいしてるんですが」
「田崎さん、来てたんですか、こんな所」
「若いころは、ですね」
田崎は、いささか感傷的な口調で、「しかし、見かけはボロでも、住んでる人間には、暖かみというか、人情がありましたがね」
「懐しがってる場合じゃないぜ」
と、ポチが言った。
「しっ! あんたが吠《ほ》えたら用心するかもしれないでしょ」
もちろん、車はずっと手前までしか入れない。――マリは、勇治たちの姿を探した。
「こっちです」
と、低く囁《ささや》く声。
「あ、伸子さんだ」
三崎伸子が、顔を出した。
「どこなんですか?」
「この奥の二階家だそうです。――たぶん今は空家なんでしょうけど、誰《だれ》かいるみたいだと……」
「勇治さんは?」
「一人で、見張っています」
「本当にいるのかい?」
と、ポチが言って、マリにコン、と頭を叩《たた》かれる。
「いてえな」
「勇治さんが言ってました。感じるんだ、と。――きっと兄が近くにいる、って」
伸子も、心もち青ざめている。
マリは、ここまでやって来てから、どうしたものか、迷っていた。
三崎伸子は、宮尾常市を殺す気だ。その気持は分るが、マリとしては、それを黙って見ているわけにはいかないのである。
それに――マリの役目は常市を見付ける[#「見付ける」に傍点]ことで、殺すことじゃない。といって、説得しておとなしくあの世へ帰る常市とも思えない。
そんなことより、下手に常市が暴れたら、こっちの方も、けが人が出るかもしれないのだ。
仕方ない。――ともかく、本当に[#「本当に」に傍点]いるのかどうか、確かめるのが先決である。
「じゃ、用心して近くへ行ってみましょう」
と、マリは言った。
刑事の真似事《まねごと》をするのが好きというわけじゃないが、何だかよくやってるような気がする……。
細い小路の、その裏側へ出ると、何だかビルののっぺりした壁と何十センチかの隙間《すきま》ができている。そこを、
「こっちです」
と、先に立って伸子が進んで行く。
勇治が、薄暗い中で、しゃがみ込んでいるのが目に入った。マリたちに気付くと、手で止れと合図をして、自分も足音を殺してやって来た。
「――どうですか?」
と、マリは訊《き》いた。
「時々、かすかに人の声がするんだけど。――誰《だれ》の声かまでは分らないんだ」
「じゃ、全然別の……」
「そうかもしれない」
と、勇治は肯《うなず》いた。「でも、何だかね、そばにいる、っていう気がするんだ」
「勇治さん。もし、お兄さんがいるんだったら、危険ですよ」
「分ってる。しかし――生き返って、兄も少しは人間が変ってるかもしれない。そうだろう?」
「でも、変ってなかったら?」
勇治は肩をすくめて、
「もう一回殺されるかな」
と、苦笑した。
「私が――」
と、伸子が勢い込んで身をのり出す。
「いや、だめだ。あなたまで殺させるわけにはいかない」
と、勇治は首を振った。「ともかく、まず僕が話をする。すべてはその後で」
「私も行きます」
マリがポチの首を叩《たた》いて、「あんたはここにいな」
「しかし……」
と、勇治がためらう。
「これ、私の役目ですもの。お巡りさんと同じ。仕事なんです」
「分った。じゃ、用心して」
勇治が、そっと歩いて行く。マリは、その後からついて行った。
「気を付けな」
と、ポチが言った。「――優等生め」
天使の仕事だ、と思っているから、あえてポチを連れて行かないのである。
変なところに気をつかいやがって、とポチは首を振って……それから、三崎伸子と田崎が息を殺してマリたちの行った方を見守っている、その後ろに回って、別の隙間《すきま》から出て行った。
――マリは、その空家を見上げた。
「あそこに?」
「うん」
勇治は、肯《うなず》いて、「今は静かだよ。しかし、出て来りゃいやでも分るんだ。あのボロ家だろ。階段一つとってもきしんで音をたてるからね」
「そうでしょうね。――じゃ、どうします?」
「僕はこっちの正面から、上って行く。声をかけるよ。――僕のことは、いきなり撃ったりしないと思う。それに銃は持ってないと思うんだ」
「希望的観測っていうんですよ、そういうのを」
「全くだ」
と、勇治は笑った。「――もし、兄が逃げるとしたら、裏側のベランダからだろう。君、そっちへ回って、見ててくれるかい?」
「分りました。もし、穏やかに話ができるようなら、呼んで下さい」
勇治は微笑《ほほえ》んで、
「そう願ってるけどね」
と、言った。「じゃ、行くよ」
「待って。私が裏へ回るまで」
と、マリは言った。
「分った。じゃ、少し間を置いてから、行くよ」
マリは、その空家のわきを回って、裏へ出た。しかし――裏はガラクタが山のように積んである。
身を隠すにはいいけど……。これじゃ、誰《だれ》が出て来ても、止められない!
ベランダが頭上にはり出している。鉄の支えなんか錆《さ》び切って、人がのったら、落ちてしまいそうである。
ギイ、ギイ、と音がした。――勇治が階段を上って行く音だ。
マリは、ガラクタの山のかげに身をひそめて、様子をうかがった。――暗くなる。
ちょうどビルの影が伸びているせいもあるのか、急激に暗くなった。ベランダの辺りも、ぼんやり見えているだけ。
何か、ライトを持って来るんだったわ、とマリは思った。
「兄さん」
と、勇治が呼ぶ声が聞こえた。「兄さん、いるのか?」
ガタン、と音がした。マリはギクリとして、身が縮まった。
出て来る[#「出て来る」に傍点]!
ベランダへ出る窓がガタッと音をたてて外れ、人影が――ぼんやりとしか見えない。
ベランダがギーッときしんだ。
黒い人影は、パッと宙へ身を躍らせると、マリの数メートル先に飛び降りた。間には、壊れたTVだの机だのが積んであって、隠れてしまっている。
逃げられる!――マリは、先に大天使を呼んどけば良かった、と思った。逃げられたら、また大変だ。
「待って!」
マリは、声をかけた。「警察じゃないのよ。逃げないで!」
ガラクタの山を押しのけて、マリは進み出た。――誰《だれ》もいない。
そんな……。逃げたのかしら。でも、どこへ?
マリは、突っ立っていた。
そのとき、ポチが吠《ほ》えた。
「危ないぞ! 馬鹿《ばか》!」
え?
左右へ目をやる。人影は、いつの間にかマリの斜め後ろに回っていた。
「おい! 伏せろ!」
ポチが駆けて来る。が、ガラクタの山が邪魔になった。
マリが振り返ったのと、銃声がしたのは同時だった。銃弾はマリの脇腹《わきばら》を貫いた。
アッ、と声を上げたのかどうか――。火を当てられたような痛みに目がくらんだ。
ポチ!――危いよ! 来ちゃいけない……。
マリは地面に倒れた。逃げて行く足音を聞いたような気もしたが、はっきりしない。
そして、苦痛は消えた。気を失ったのである。
「私が行けば良かったんだわ」
と、三崎伸子は呟《つぶや》くように言った。
「いや、すべては僕のせいです」
宮尾勇治は、首を振って、「僕の話ぐらいは聞くだろうと思っていたのが甘かった。あの子に何て詫《わ》びていいか……」
「まあまあ」
田崎が二人をなだめて、「みんなで落ち込んでいても、あの子が回復するわけではありません」
――病院を出たところで、ポチが待っている。やはり見かけが犬では、中に入れてくれないのである。
「おい、どうだった、あいつの具合?」
と、訊《き》いてみたものの、田崎たちには、ただ「ワン」と吠《ほ》えているとしか聞こえない。
「心配してるんだわ、きっと」
と、伸子はポチの方へかがみ込んで、「利口な犬ね、お前は。ご主人のことが、心配なんでしょ」
「ご主人[#「ご主人」に傍点]はやめてくれよ」
と、ポチは渋い顔(?)をした。
ポチのご主人は悪魔そのもの。マリはあくまで「臨時の相棒」である。
「そんなことより、けがの方はどうだ、って訊いてんだよ」
「犬でも、こんなに胸を痛めてるのね……」
と、伸子は涙ぐんだりしている。
「全く、言葉が通じねえってのは、困ったもんだな!」
ポチはため息をついた。
「しかし、弾丸《たま》が貫通して、却《かえ》って良かったと医者も言ってましたよ」
と、田崎が言った。「半月もすれば退院できるだろうし、一か月ぐらいで完全に良くなるだろう、と。不幸中の幸いというべきですよ」
「やれやれ……」
と、ポチが言った。「すると、何とか死なずにすんだんだな。運のいい奴《やつ》だよ」
天使が助かって、悪魔がホッとするってのも妙なもんだが、やはりずっと一緒に旅をしているのと、あの野犬狩りに引っかかった時に、助けてもらったのを、ポチは少々気にしていたのである。
「いけねえな。――俺《おれ》もあいつのおかげで、少し堕落[#「堕落」に傍点]したらしいや」
と、ポチは独り言を言った……。
「――ともかく、あの子には最高の治療を受けさせるように手配しました。後は私ができるだけ様子を見に来るようにしますよ」
と、田崎は言った。「今日は一旦《いつたん》屋敷へ戻りましょう」
三崎伸子は無言のまま、田崎の車に乗り込んだ。宮尾勇治が助手席に、ポチは後部席で伸子と並んで寝そべった。
車が走り出して、十分ほどすると、
「そうだわ」
と、伸子が顔を上げた。「すみません。田崎さん、私、一旦家へ戻りたいんです」
「お宅へ?」
「というか――一時的に借りたアパートになんですけど。息子のお葬式も出さなくてはなりませんし、夫も、戻ってくるかもしれませんから」
「分りました。どの辺ですか?」
伸子が説明すると、田崎はちょっと考えて、
「すると、その先から左折した方が近いな。――分りました。三十分もすれば着くでしょう」
「勝手を言って、すみません」
「今夜はそこへ泊られますか」
「たぶん……。後でご連絡します」
と、伸子は言った。
田崎の計算より十分ほど早く、車は伸子の借りているアパートの近くに着いた。
伸子が車を降りると、勇治が窓から顔を出して、
「奥さん。僕もお邪魔して構いませんか」
と、言った。
「勇治さん――」
「いや、もしご主人がおられたら、引きあげます。もし、おられなかったら、せめてお線香の一本でも。やったのは僕の兄なんですから」
伸子は、勇治の言葉に胸を打たれた。
「そうしていただけると……」
「じゃ、田崎さん、僕はタクシーでも拾って帰ります。先に戻っていて下さい」
と言って、勇治が車を降りる。
「助かったぜ」
と、ポチが独り言[#「独り言」に傍点]を言った。「これ以上晩飯が遅れたら、こっちが死んじまう」
――田崎の車が行ってしまうと、伸子と勇治は、夜の道を歩き出した。
「おっと」
勇治は空を見上げた。「雨か。――すぐですか?」
「ええ、その先」
「走りましょう」
雨足は一気に強くなったが、二人はアパートへ駆け込んで、何とかそれほど濡《ぬ》れずにすんだ。
「本降りだな」
と、勇治はアパートの入口から表へ目をやって、息を弾《はず》ませた。
「傘があったかしら。――憶《おぼ》えてないわ」
「大丈夫ですよ。雨に濡れて冷たいと感じるのも今の内だ。せいぜい楽しみますから」
勇治が微笑《ほほえ》んで言った。――伸子が胸をつかれる。
そう、この人は一旦《いつたん》死んだのだ。そして、間もなく、また死の世界へと帰って行かなくてはならない。
伸子の胸がキュッと痛んだ。こんないい人が……。なぜずっと生きていてはいけないのだろう。
「――どの部屋ですか?」
勇治に訊《き》かれて我に返る。
「あ――あの、奥の部屋ですの。たぶん……主人は戻ってないと思います。外から見た時、明りが点《つ》いていませんでしたから」
先に立って、表札もないそのドアの鍵《かぎ》をあける。ドアを開け、明りをカチッとつけて、
「何もないんですけど――」
と、言いかけ、上ろうとして……。「あなた……」
上ってすぐの六畳間に布団が敷かれ、そこで起き上ったのは、夫だった。
「帰ったのか」
と、伸子をジロッとにらんで、「誰《だれ》か一緒なのか」
勇治は、伸子の後ろに、隠れるように立っていた。
「俊男の写真に、お線香を上げて下さるって……。あなたが帰ってるって、知らなかったから、私――」
伸子は言葉を切った。
奥の浴室のドアを開いて、女が――湯上りの、バスタオルを体に巻きつけただけの女が、出て来たからである。
「のぼせちゃった」
と、女は赤い顔で息をついて、「あなたも入ったら?――あら」
伸子に気付く。伸子も、やっと思い出した。
そんな格好なのですぐには分らなかった。夫の下で働いている二十四、五の女の子で、前に伸子が世話して見合いさせたことがあった。
女も伸子を思い出したらしく、ちょっと気まずそうに目をそらして、
「奥さん、帰ったじゃない」
と、三崎の方へ言った。
「うむ」
「あなた……」
伸子は、やっと目の前の光景の意味[#「意味」に傍点]を理解して青ざめた。しかも、二人はすでに「終った」後だったのだ。
「俊男の前で……何てことを!」
伸子の声は震えた。
「何か文句があるのか」
三崎は、少しアルコールも入っている様子だった。「俺《おれ》はお前みたいに俊男を見殺しにしたわけじゃないぞ。それに、どこへ行ってやがった? その男は何なんだ?」
多少は後ろめたいのだろう。上ずりがちな声で伸子へ言葉を叩《たた》きつけて来る。
「私は――私は俊男の敵を討つんです!」
と、伸子は叫ぶように言った。「あなたはもう一度[#「もう一度」に傍点]、俊男を殺したんだわ!」
「何だと、こいつ――」
三崎がよろけながら立ち上りかけた時には、伸子は玄関から走り出ていた。
そして雨の中へ、夢中で駆け出す。――吐き気がした。あんな男と夫婦でいたのかと思うと、やり切れなかった。
ぐい、と腕をつかまれて、思わず、
「はなして!」
と、振り払おうとした。
「奥さん! しっかりして下さい!」
――宮尾勇治だった。
伸子は肩で息をしながら、雨に打たれていた。もちろん勇治も。
「すみません、私……」
「忘れるんです」
と、勇治は言った。「赤の他人だと思うことですよ」
伸子は、頬《ほお》を伝い落ちて行くのが涙なのか、それとも雨なのか、分らなかった。ただ、誰かを身近に感じていたい、と切実に思った。
そして――伸子は勇治の胸に顔を埋めていた。流れ落ちる雨も、二人の間へ忍《しの》び込むことは、できないようだった……。
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10 泣く時間
忙中閑あり。
水谷邦子は、事務机の椅子《いす》にかけて、ウトウトしていた。――田端幸江のように大きな子は、学校へ行っているし、小さな子はお昼寝の最中。
建物の中は、至って静かだった。保母さんたちもたいていは昼寝するか、細かい雑用を片付けている。中にはせっせとおやつを食べて、「午後のエネルギーを確保している」人もいた。
邦子は、まだ充分に若いせいもあるだろう。じっとしているのは却《かえ》って疲れるので、こんな時間にはこの周囲を散歩したりすることが多かった。しかし、今日は――いや、このところ疲れていた。
それも個人的な事情で。もちろん、沼田悟士のことが、重く心に引っかかっているせいなのである。
トントン。――トントン。
誰《だれ》? ノックしているのは。
入ってよ。あなたなんでしょ。私、ずっと待ってたのよ。あなたが私の部屋のドアをノックしてくれるのを。
ノックしてくれたら、
「どうぞ」
って言ってあげたのに。
あなたは結局、他の子の[#「他の子の」に傍点]ドアを叩《たた》いたのね。
責めるわけじゃないわ。そう。だって、恋の話はどっちもどっちだもの。私にだって責任はある。それは分ってるわ。
でも――せめて、ドアを叩くぐらいのことはしてほしかった。強引に、力ずくで、なんていやだけど、どうしても私がほしいんだってことを、見せてほしかった……。
トントン。
そう。もっと。もっとノックしてちょうだい。私が目を覚ますまで。私が――。
トントン。――トントン。
邦子は目を開いた。トントン。
「眠っちゃってたのね……」
顔を上げると、薄汚《うすよご》れた窓の向うに〈悟士〉の顔が覗《のぞ》いていた。
邦子は立って行くと、
「何をしてるの?」
と、窓越しなので、少し大きな声を出した。
ガラッと窓が開いて、
「いや、ずっと外側を見て回ってたんです」
と、〈悟士〉が言った。「ずいぶんガタが来てますねえ」
「そりゃ仕方ないわ。何しろお金がないんだから」
と、邦子は笑って、「直そうとしたら、却《かえ》って壊れちゃうかもしれない」
「そうならないように用心しながらやりますよ。窓も、きっちり閉らないのがあるし。――打ちつけちゃったら困るでしょうし」
「そうね。もちろん、ここはどこからだって出られるけど。非常の時に、窓が開かないと困るわね」
「何とかしましょう。レールが錆《さ》びついてたりしてるんですよ」
「お願いね。でも、そんなに張り切ってくれなくてもいいのよ」
と、邦子は笑顔で言った。
すると、後ろで足音がして、
「水谷さん。どうも」
「あ、いらっしゃい。――ごめんなさい。気が付かなかったわ」
ボサボサの髪が目立つ若者で、邦子より一つ二つ年上のはずだった。名前は工藤《くどう》。市の福祉課に勤めている青年で、およそ役人らしくない、気さくなタイプだった。
役人としては、出世と縁のない落ちこぼれかもしれないが、人間的には大いに魅力のある青年である。
「工藤さん、何かご用?」
「ちょっと、お話があってね」
と言いながら、工藤の目は、窓の所から顔を出している〈悟士〉の方へ向いていた。
「――ああ、この人、私のいとこなの。ここで、色々手伝ってくれてるのよ」
と、邦子は言った。「こちら、市の福祉課の工藤さん」
「こんにちは」
と、〈悟士〉は会釈して、「じゃ、邦子さん」
と、窓を閉め、歩いて行った。
「とても器用でね。このオンボロな建物をあちこち直してくれてるの。助かってるのよ。――工藤さん。――工藤さん」
何かぼんやりしている様子だった工藤は、ハッとして、
「や、すみません」
「どうしたの? 幽霊でも見たような顔しちゃって」
と、邦子は言った。
「そう。――いや、そうかもしれない[#「そうかもしれない」に傍点]と思ったんですよ」
と、工藤が真顔で言った。
「何ですって?」
「水谷さんのいとこですか、あの人」
「ええ、そうよ」
「じゃ、お名前は――」
「同じ水谷。水谷悟士というの。どうして?」
「じゃ、他人の空似というやつですね。しかし、ギョッとしたな、見た時には」
「誰《だれ》かに似てるの?」
「〈歩く死体〉」
「歩く……死体[#「死体」に傍点]と言ったの?」
と、邦子は訊《き》き返した。
「知らないんですか? あんなにTVや新聞で大騒ぎしてるのに」
「TVも新聞も見る暇ないわ。ご存知でしょ?」
と、邦子は苦笑した。
「そっくりの双子の兄弟がね、死んだんですよ。それが死体置場から歩いて逃げ出したっていうんです」
「――まさか」
「いや、どうやら本当らしいんです」
工藤は、新聞やTVでのニュースをかいつまんで話して聞かせた。邦子は唖然《あぜん》として聞き入っていたが、
「そんなことって……。信じられない話ね」
「全くです。僕はね、その弟の方に会ったことがあるんですよ。福祉の仕事をしてたんですから。その世界では結構有名な人でした。頭の下るくらいに、骨身を惜しまない人でしてね」
「じゃ……その人が――」
「ええ、今の人とそっくりでね。いや、もちろん水谷さんのいとこ、ってことなら、身許《みもと》ははっきりしてるわけだし。――しかし、それにしても似てるなあ」
工藤は首を振って言った。それから、ポンと頭を叩《たた》いて、
「いけない、いけない。肝心の用件を忘れていた。――実はね、福祉課にやって来た男が、子供、女の子なんですが、ここにいるので、連れて行きたい、って言うんですよ」
「ここに? 誰《だれ》のことかしら?」
「名前は幸江[#「幸江」に傍点]というんだそうです。今年八つの女の子。――該当《がいとう》する子はいますか」
邦子は、固い表情になって、少し間を置いてから、
「いることはいるわ」
と、肯《うなず》いた。「田端幸江。八歳よ」
「その男は今井というんです。田端っていう姓は――」
「田端駅に置き去りにされたの。そのことは知ってた?」
「いや、どこかへ置いて来たのは妻の方だった、と言ってましたね」
「あてにならないわね」
「そうなんです。話していても、何となく妙な感じでね。どうも怪しいな、と思ったんです」
「身許《みもと》とか、よく調べてみないと」
「もちろんです。ただ『幸江』という名前は知っていましたよ」
「そんなの、この施設を一日中見てれば、一度や二度は耳に入るわ。なかなか可愛《かわい》い子だし、変な男が目をつけてもおかしくない」
「要注意ですね。ただ――『幸江』って名は、捨てられた時に着ていたシャツに赤い糸で縫い込んであったというんですが」
邦子は少し考えている様子だったが、
「そうじゃなかったと思うわ。前の施設に訊《き》かないと、はっきり分らないけど、確かかぶっていた帽子に書いてあったんだと思う」
「それならお話にならないな」
と、工藤は肩をすくめて、「はっきりした身分を証明するものとか、提出するように求めましょう」
「お願いね。チェックは慎重にして」
邦子は、じっと工藤の目を見つめながら言った。
「分ってますよ、水谷さんの気持は。――それじゃ、お忙しいのに、失礼しました」
「いいえ……」
邦子が、玄関まで出て、工藤を見送る。工藤が通りへ出て行くまで、突っ立って見ていると、
「――あら邦子さん、今の、工藤さんじゃない?」
と、同僚の子が欠伸《あくび》をしながら言った。
「ええ、そう。私に用事ってことじゃなくて、寄ってみたんですって」
「そう。――工藤さんって、結構すてきじゃない」
「そうかしら」
と、邦子は玄関から上って、「そろそろ、お昼寝から目を覚ますころじゃない?」
「早いなあ、こういう時間のたつのは」
「本当ね」
「ね、邦子さんのこと、好きなんじゃないかなあ、工藤さん」
「――また! 人のこと、からかわないで!」
と、邦子は赤くなりながら言った。「さ、仕事、仕事」
――工藤が、自分のことを好きなのかどうか。差し当り、そんなことに興味は全くなかった。
今は、頭が一杯だったのだ。とんでもないことを、工藤は話して行った。
「――そうだわ。新聞、どこにある?」
と、邦子は足を止めた。
「新聞? たぶん……調理場じゃない? ろくに読む人もいないから、そのまま積んであるわ、きっと」
「ありがとう」
もう時間がない。邦子は、調理場へと駆けて行った。
もちろん、気になっていることというのは、工藤の言った、「生き返った死人」の話、そして、もう一つは、田端幸江のことである。
邦子は、たたんで重ねたままになっている新聞を広げると、すぐに、その記事[#「その記事」に傍点]を見付けた……。
「はい。急いで服を着るのよ!」
邦子は同じことを何十回かくり返した。もちろん自分でも数えてなどいない。
四十人の子をお風呂に入れるというのは、正に重労働。入れている方が汗だくになって、服を着たままお風呂にでも入ったかのようになってしまう。
ここでは、大きい子が小さい子の面倒をみるようになっていて、何もかも邦子たちがやるわけではないが、それでも、下着をかえてパジャマを着せ、布団に入れる、という手順を一通りこなすだけでも大変である。
「――邦子さん」
と、同僚の子がやって来る。
「え?」
「お客様」
「客? 私に?」
風呂から上って来た子の体をバスタオルで拭《ふ》いてやりながら、「とても今は……。誰《だれ》かしら?」
「私、代るわ。もうあっちは片付いたから」
「でも――」
「彼氏よ」
邦子は、少しためらってから、立ち上った。行きかけて、同僚から、
「表の車で待ってる、って。急がなくていいから、って言ってくれってよ。やさしいのね」
と、冷やかされる。
邦子は、ちょっと笑って、玄関へと急いだ。
サンダルを引っかけ、外へ出る。――昼間の雨の名残りか、空気はひんやりと冷たく、夜はひっそりと息をひそめている感じだった。
低い柵《さく》を押して通りへ出ると、少し離れた場所に、白い車が見えた。いつ、あんな車を買ったんだろう?
心に引っかかることもあり、気が重くもあったが、ともかくそんな気持とは係《かかわ》りなく、足取りが軽くなっているのは、我ながらおかしかった。
トントン、と窓を叩《たた》くと、中で彼[#「彼」に傍点]が振り向いて、窓を下ろした。
「やあ、早かったね」
「代ってくれたの」
「乗れよ」
「ええ」
助手席に座る。――沼田悟士は、ちょっと迷ってから、
「時間、どれくらいあるんだい?」
と、訊《き》いた。
「少しは……。どうしたの、こんな時間に」
「うん。ちょっと、話があって」
「旅行のことなら、知ってるわ」
と、邦子は言った。「楽しかった?」
――分っていた。顔を見た瞬間から。
邦子は、別に恋に関してベテランでも何でもないが、それでも彼がいつになく優しい笑顔だったこと、いつもなら「待つ」のが嫌《きら》いで、すぐに苛々《いらいら》するのに、今夜は「急がなくてもいい」と言ったこと……。
それは要するに、彼の方にも「ひけ目」がある、ということなのだ。
邦子は、自分でもびっくりするくらい平静だった。ダッシュボードの時計に目をやり、もうみんな布団に入ったかしら、などと考えたくらいである。
「――で、そうなった以上はさ、責任を取らなきゃ、と思ったんだ」
責任を取る?――邦子は笑い出しそうになった。
二人きりで旅行に行って、「そうなった」から「責任をとる」だなんて!
何年間も付合って来た私への責任はどうしてくれるのよ!――邦子は心の中で言ってやった。
「――おめでとう」
と、肯《うなず》いて、「彼女と幸せにやってね」
「うん、君も……。君には、もっといい人が現われるさ。こんな気短かな奴《やつ》じゃなくて」
邦子は、微笑《ほほえ》んだ。
「だといいけど……。もう戻らなくちゃ」
ふっと、この場で彼を誘惑《ゆうわく》してやろうか、なんて思ったりした。いきなり座席を倒してのしかかって、服を脱いだりしたら、どうするかしら?
抱くかもしれない。そして、「こうなったからには……」って、向う[#「向う」に傍点]へ行って言うのかしら?
馬鹿《ばか》なことを考えてる、私。できもしないことを。この意気地なし。
「悪かったね、急に。でも、いつまでもぐずぐずしてるのも良くないと思って――」
沼田は軽い口調でそう言いかけ、ハッと口をつぐんだ。――いつまでも、ぐずぐずと……。
「そうね。いつまでも、ぐずぐずしてたのが、いけなかったんだ」
「でも君の場合は仕方ないよ」
「そんなことないわ」
邦子の頬《ほお》に涙が一粒流れた。「おやすみなさい。――気を付けて帰ってね」
「うん……」
「この車、買ったの?」
「中古だけどね。まだそんなに乗ってない」
「一度ゆっくりドライブでもしたかったわ。――じゃ」
ドアを開けて、外へ出る。
そのまま、振り向かずに、建物の玄関まで走った。足を止めて振り返ると、白い車がライトを点《つ》けて、夜の中へ消えて行くところだった。
――初めて、実感が湧《わ》いて来た。一人になった。一人に。
手の甲で涙を拭《ふ》く。
さあ、泣くのは、仕事がすんでから。
そうね、十一時半から泣くことにしようかしら……。
十一時半には、泣けなかった。
つくろい物が終らなかったのである。邦子がやっと一人になって、空っぽの調理場で椅子《いす》に腰をかけて時計を見ると、もう十二時を少し回っていた。
さあ、泣こう。――なんてね。
張りつめていたものが一気に緩《ゆる》んで、確かに涙は出て来たが、悲しいというより、腹を立てているのに近かった。
いくら子供たちに好かれてもね。――結婚してくれるわけじゃないんだし。
「お姉ちゃんをお嫁さんにするんだ」
なんて、ありがたいことを言ってくれる子もいるが、高校を出て、この施設から出て行くと、やっぱり他にガールフレンドができるのである。当り前のことだが。
邦子は、ハンカチで顔を拭《ふ》いた。
さあ……。もう眠らないと。
立ち上ろうとして、邦子はびっくりした。
戸口に、彼[#「彼」に傍点]が立っていたのだ。――〈水谷悟士〉の方の彼[#「彼」に傍点]である。
「――どこかへ出かけてたの?」
と、邦子は訊《き》いた。
「着るものとか、買いに」
と、彼は言った。「大丈夫ですか?」
「ええ。――妙なとこ、見られちゃったわね」
と、邦子は笑った。「時々、疲れると、センチメンタルになってね。わけもなく涙が出て来るの」
「大分前に帰ってたんです」
「あらそう? 気が付かなかったわ。もっとも、子供たちがワイワイやってたら、ゴジラが帰って来ても気が付かないかもね」
「ちょうど前に白い車が停《とま》ってて……」
「え?」
「中にあなたが……。木のかげにいたんですが。出るに出られなくて。――すみません」
彼は中へ入って来て、邦子の前に立って、ピョコンと頭を下げた。
「じゃあ……。聞いてたの?」
「聞こえちゃったんです」
邦子は、ちょっと肩をすくめて、
「仕方ないの。私の方はこの忙しさでしょ。彼に、ずっと待ってろとは言えないものね」
「しかし……あれは馬鹿《ばか》ですよ」
邦子は目を丸くして、
「馬鹿?」
「あなたのことが分らないなんて、馬鹿ですよ」
邦子は、胸が熱くなった。
「ありがとう。――お気持は嬉《うれ》しいわ。もう、寝ましょうか」
邦子は立ち上った。
「あの――」
「え?」
「名前、変えましょうか」
「名前?」
「〈悟士〉は良くないんじゃありませんか」
邦子は、胸をつかれた、自分が傷つくことを、こんなに心配してくれる、この男のやさしさが、胸にしみた。
「じゃあ……こうしましょう。同じ〈さとし〉で、字を変えてね」
「何にします?」
「あなたの好きでいいわ」
二人は何となく笑った。
その時――。
「キャーッ!」
廊下に、女の子の悲鳴が響き渡った。
「幸江ちゃんだわ!」
邦子が駆け出す。そして――〈さとし〉もすぐに続いて駆け出していた。
「どうしたの!」
と、廊下を走りながら邦子は同僚の顔を見て叫んだ。
「男の人が――」
「男?」
「幸江ちゃんをかかえて逃げたの! そっちへ――」
「分った」
〈さとし〉が駆け出した。調理場の勝手口から入って来て、またそこから逃げようとしているのに違いない。
「邦子姉ちゃん!」
と、幸江の声がした。
「今行くわよ!」
と、邦子が〈さとし〉の後から走りながら叫んだ。
何といっても、幸江はもう八つで、体も大きい。かかえて逃げるといっても、本人が暴れたら、とても無理なのである。
調理場から、幸江がパジャマ姿で飛び出して来た。
「お姉ちゃん!」
と、邦子の腕の中へ飛び込んで行く。
「幸江! 待ってくれ」
調理場から、男が出て来た。「お父さんと一緒に行くんだよ!」
「待て!」
〈さとし〉が、その男の胸板をドンと突いた。男はあっけなく尻《しり》もちをついて、
「何するんだ……。乱暴する気か」
と、集まって来る保母たちを見回したが、怒っているというよりは、一体何を騒いでいるのか、と戸惑《とまど》っている様子だ。
「警察を呼んだわ」
と、保母の一人が息を弾ませてやって来る。
「ここは大丈夫」
と、邦子が言った。「他の子が騒いでるでしょ。何でもないから、ってなだめて寝かしつけてちょうだい」
「僕が見ています」
と、〈さとし〉が言った。
邦子は、チラッと〈さとし〉の方へ目をやってから、床に座り込んだままの男の方へ、
「こっそり忍び込んで、女の子をさらって行こうとしたのよ。誘拐《ゆうかい》は重罪だわ」
と、言ってやった。
「誘拐なんかじゃない。僕はただ、自分の子供を連れて行こうとしただけだ。それがどうしていけないんだよ!」
と、口を尖《とが》らしている。
どう見ても四十近い男でありながら、その怒り方は、駄々っ子のそれだった。
「今井っていうのね、あなた」
と、邦子は言って、怯《おび》えて抱きついて来る幸江をしっかり抱きしめた。「話は聞いてるわ」
「じゃ、分るだろう。その子は僕の娘だ」
「何の証拠もなしで、いい加減なこと言わないで」
「証拠だって? 親子なんだ。見りゃ分るさ。――幸江。お父さんを見てごらん。ね、憶《おぼ》えてるだろう」
「ともかく、夜中に侵入してかっさらうなんて、親だって許されることじゃない」
と、〈さとし〉が言った。
「僕は親だぞ。子供を連れてって何が悪い!」
と、今井という男は食ってかかるように言った。
「親なら子供をどうしても構わないっていうの! 勝手に捨てたり拾ったりできるとでも? ふざけないで!」
邦子は顔を紅潮させて怒鳴《どな》りつけた。
「何だと! こんなヒステリーの女のとこに、娘を置いとけるか。幸江――行くんだよ。お父さんと」
今井は立ち上って、幸江の腕をつかもうとした。
「やめろ!」
〈さとし〉の拳《こぶし》が今井の顎《あご》に当った。今井はよろけて、また尻《しり》もちをつくと、
「痛いじゃないか! 訴えてやる! けがさせやがって!」
と、金切り声を上げた。
その時、サイレンが近付いて来るのが聞こえた。
「やあ、パトカーだ。留置場へでも入って、少し頭を冷やせ」
邦子は、〈さとし〉を見ると、
「ね、あなた、幸江ちゃんを部屋へ連れて行って」
と、言った。
「え? しかし――」
「大丈夫。こんな男、私だってノックアウトできるわよ。幸江ちゃん、お部屋へ行って。もう大丈夫だから」
「しかし、邦子さん……」
「警察の人へ説明するには私でないと。ね、幸江ちゃんをお願い」
「分りました。――幸江ちゃん、行こうか」
「うん」
幸江は、〈さとし〉に手を引かれて歩いて行く。やっと落ちついた様子だった。
「幸江!」
と、尻《しり》もちをついたまま、今井が呼びかけた。「必ず迎えに来るからね! 待ってるんだよ!」
幸江が不安げに今井の方を振り返り、そして、廊下を足早に歩いて行った……。
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11 警 報
ポチはそっとドアを押して中を覗《のぞ》いた。
ベッドに横になってるマリは、何だか子供みたいに見える。
やれやれ……。入院か。天使が入院してちゃ、さまにならないよ。
看護婦が来ないのを確かめて、ポチは病室の中へ入って行った。犬は入れてくれないので、こっそり目を盗んで入って来たのである。
「おい……。起きてるのか」
ポチは、椅子《いす》の上にヒョイと上ると、前肢《まえあし》をベッドにかけて、マリの顔を覗き込んだ。
「フン、あどけない顔して寝てら」
と、ポチは呟《つぶや》いた。
「天国でままごとでもやってんのが似合いだぜ」
とたんにマリが目をつぶったまま、ベエと舌を出した。
「何だ、起きてるのか」
「悪かった?」
目を開けると、マリは息をついて、「今、何時ごろ?」
「三時ごろだな、午後の。――熱は下ったらしいな」
「うん。もう大丈夫」
「丈夫にできてるんだ」
「デリケートな天使に、何てこと言うのよ」
と、マリは言って笑ったが、「いてて……」
と、顔をしかめる。
「痛むか? 何しろ体に穴があいたんだからな」
「風通しは良くなったみたい」
と、マリは言った。「弾丸《たま》が貫通して良かった、って言われたわ。取り出すんだと大変だって」
「だからやめとけって言ったんだ」
「仕方ないわよ。役目だもん」
マリは、天井へ目をやって、「もう……三日[#「三日」に傍点]も寝てるのね」
「しばらくは安静だぜ」
「一週間以内に何とかしなきゃいけないのよ、あと三日しかない」
「天国の方で何とかするさ」
「天使はね、責任感|旺盛《おうせい》なの」
「俺《おれ》は天使にならなくて良かったぜ」
と、ポチは首を振った。「TVでもつけるか」
「ちゃんとリモコン付き」
マリは手もとのリモコンで、TVをつけると、「まだ見付かってないのね、宮尾常市」
「うん……。おい」
「何よ」
「お前、撃った奴《やつ》を見なかったのか?」
「そう言ったでしょ。暗かったのよ」
「俺も邪魔物が多くて、目に入らなかった。――しかし、妙だぜ。あれが、あいつの一人芝居じゃないとどうして分る?」
「勇治さんが私を撃ったって言うの?」
「かもしれないってことさ。何しろお前は奴にとっちゃ『殺し屋』だ」
「でも、あの人は銃を持ってなかったわ」
「そんな物、どこへだって隠しておけるさ。そうだろ?」
「うん……。でも、証拠のある話じゃないしね」
「証拠が出て来た時にゃ、手遅れかもしれないぜ」
「あんた、ヒマでしょ、調べてみてよ」
「俺は結構忙しいんだ。食うのと眠るのとでな」
ポチはTVへ目をやった。「ホラー映画か。こういう所へ出て来る悪魔って、何でああみっともないんだ?」
「知らないわよ」
と、マリは笑った。「――ねえ、みんな何してるの?」
「例の二人は、どこかを捜し回ってるよ。あの〈坊っちゃん〉は、コンビニ疲れで、のびてる」
「まだ働いてるんだ」
「田崎ってのは、お前に食わすもん、買いに行ったぜ」
「ありがたいなあ。人間って、いい人ばっかり。――ね?」
「宮尾常市もか?」
「いやなこと訊《き》くわね。そりゃ、痛いし、頭にも来るけど――。生れつき、人を殺して喜んでる人間じゃなかったはずよ」
と、マリは言った。
「甘い甘い」
ポチはドアが開くのを見て、ギョッとした。
「やばい!」
黒い犬がダッとわきを駆け抜けて行けば、看護婦がびっくりしても当然である。
マリは目をつぶった。――ガシャン、と派手に物の落ちる音がした……。
あいつ[#「あいつ」に傍点]を殺さなくては。
いや、正確に言えば「あいつら」だ。
一人はあの妙な娘[#「妙な娘」に傍点]で、撃ち殺したつもりだったが、ほんのわずか、体を動かしていたおかげで、やりそこなってしまった。――腕が鈍《にぶ》ったもんだぜ。
宮尾常市[#「宮尾常市」に傍点]は、暗い天井を見上げながら思った。
そしてもう一人は……。
分り切ったことだ。弟の勇治である。
あの出しゃばりの、お節介野郎め。――哀れといえば哀れだ。俺《おれ》に二度[#「二度」に傍点]も殺されなきゃならないとはな。
宮尾常市は、暗がりの中で、少し苦味の混った笑みを浮かべた。
暗闇《くらやみ》か……。あの時[#「あの時」に傍点]は、本当に暗かったものだ。死んだ瞬間というのは。
それは、充分に死を覚悟し、失うものなど何もないと思い込んでいた常市にとっても、思わずたじろいでしまうほどの、真の闇だった。何も見えないはずなのに、底知れない深さだけは、肌《はだ》を凍らせるような確かさで、感じられた。
これが「死」か。――正直、常市ですら怯《おび》えた。一瞬、自分の人生を後悔した。
しかし……。
目の前に、また突然「人生」が開けたのだ! こんな薄汚《うすよご》れた人生など、何の未練もない、と思っていた。しかし、再び目の前に現われた「人生」は、どんな美女よりも、光り輝いて、魅力的だったのだ。
もう、決して手放しはしないぞ、と思った。決して。二度と。俺《おれ》は生きる[#「生きる」に傍点]のだ!
そしてそのためには――勇治と、あの娘の二人を殺さなくてはならない。
俺が勇治だと思わせて、生きのびるのだ。
ためらいはない。そうだとも。
勇治……。あいつは、子供のころから、いい子ぶっていたっけ。そして俺がいくら騙《だま》しても、嘘《うそ》をつき、乱暴しても、あいつは怒ろうとしなかった。
「勇治……」
と、常市は呟《つぶや》いた。
すると、ある記憶[#「ある記憶」に傍点]が、常市の胸をチクリと刺《さ》した。少年の日の記憶。
借りは返すよ[#「借りは返すよ」に傍点]、勇治、きっと。いつか、必ず。――いつか、必ず。
常市は激しく頭を振ったので、少し目が回ったくらいだった。
誰《だれ》がそんな昔のことを憶《おぼ》えてるもんか! もうとっくに時効[#「時効」に傍点]さ。
借りは返す、か……。
返してやるとも。勇治。――お前を天国へ送ってやるぜ、ありがたく思いな。
なに、礼にゃ及ばねえよ。
しかし――今はまだその機会がない。勇治の奴《やつ》がどこにいるのか、分らなくては殺しようがない。
それなら――先にもう一方[#「もう一方」に傍点]を片付けるか。
敵[#「敵」に傍点]は一人でも少なくしておく。それが常市のモットーだった。
闇《やみ》の中で、常市は起き上った。
手の届く所に、拳銃《けんじゆう》は隠してある。
待ってろよ。今度は[#「今度は」に傍点]失敗しないからな。
――夜こそ、常市の時間だった。
「エヘン!」
咳払《せきばら》いの音で、山倉純一はハッと目を覚ました。
「い、いらっしゃいませ!」
居眠りしていたせいで、舌が回らず、「いやっしゃえまえ」と聞こえたが、ともかく反射的にこの言葉がでるようになったのだから、大したものである。
「坊っちゃん」
目の前に立っていたのは、田崎だった。「仕事中、居眠りしてはいけません」
「何だ、君か」
純一は欠伸《あくび》をして、目をこすった。「時差ぼけだよ、まるで」
「居眠りの間に、品物を持ち逃げされたらどうなさるんです? すべてはマリさんの責任ということになるのですぞ」
「ワン」
と、田崎の足下で声がした。
「何だ、ポチも一緒か」
と、純一はカウンターから身をのり出して、覗《のぞ》き込んだ。
「様子を見に来たのです。坊っちゃんが、ちゃんと仕事をなさっておいでかどうか」
と、田崎は腕組みをして、「案の定、居眠りですか」
「今だけだよ」
と、純一は渋い顔をして、「それより、マリさんの具合は?」
「これから病院へ寄ってみます」
「頼むよ」
と、純一は言って、「こんな夜中に、見舞客が入れるのかい?」
「ご心配なく。都合をつけてくれることになっております。古くなっていた看護婦のロッカーを、全部新しく買い直し、寄付いたしましたから」
「なるほど。――客が来てる。何も買わない人は、仕事の邪魔をしないでくれ」
と、純一が言ってやると、ポチが、
「居眠りしといて、よく言うぜ」
と、鼻を鳴らした。
「その点も、心得ております」
と、田崎が言った。
「何か買ってくのかい?」
「そのためにアルバイトを雇いました」
田崎がパチンと指を鳴らすと、棚の間から、両手に、品物で溢《あふ》れたカゴを下げた大学生のアルバイトが五、六人も現われ、次々にカウンターに並べた。
「――我がお屋敷での一か月分の雑貨を、すべてここで買い揃《そろ》えることにいたしましたので……」
田崎の説明に、唖然《あぜん》としていた純一は、
「いらっしゃいませ……」
と、改めて呟《つぶや》くと、気の遠くなりそうな顔で、レジを叩《たた》き始めたのだった……。
マリは、夢を見ていた。
研修を終えて、天国へ戻り、大天使から、
「よく働いた。ほうびに何でもほしい物をやるぞ。言ってみろ」
とか賞《ほ》められて……。
なかなかいい気分だった。下界を知らない他の天使たちに、
「あのねえ、六本木のディスコって、芸能人が一杯来てて……」
とか話して羨《うらやま》しがらせたり――。
また、私は人の世の辛《つら》さも楽しさも味わい尽くしたのよ、とか、ふと憂い[#「憂い」に傍点]にみちた表情をして見せたり。――うーん、大人[#「大人」に傍点]だ!
え? あ、そうそう。「何でもほしい物」だった。
そうですねえ。おしるこ、アンミツ、特大のアンマン……。あれ? 食べる物ばっかり。
やっぱり子供かな、私は。でも、天使があんまり老成しちゃうのも、感心しない。――ねえ? 天使だって、いつも夢を持って、喜びを忘れないことが大切なんですよね、大天使様。
あーあ。でも、こんな夢見てると、お腹《なか》が空いて来そう。いや、もう空いてるんだ。
病院の食事、正直に言っておいしいとは言えないし。――ああ! やっぱり熱いビーフシチューか何か食いたいよ!
と、叫んだところで目が覚めた。
夜中だ。夜中に目が覚めるっていうのは、やはりコンビニ勤めの影響が残っているのかしら? いや、それより、入院してから、やたらグウグウ眠っているせいかもしれない。
もちろん痛みは残っていて、鎮痛剤を飲《の》んでいるので、眠くなる、ということもある。
そう。――本当なら大変なことなのだ。マリは、天使とはいっても、何の超能力も持っていない。若い少女の身で銃弾《じゆうだん》を受けて入院している。痛さで、泣きたくなることもある。
でも――撃った人もまた、きっと[#「きっと」に傍点]心の奥のどこかで、「痛み」を覚えているのだと――ポチにはまた「甘い」と笑われそうだが――マリは考えている。人は人を傷つける時、本当は鏡の中の自分を傷つけているのだから……。
カチリ、と音がしてドアが開いた。
「――あ、田崎さん」
マリは目をみはった。
「やあ。――起こしたかな」
「いいえ、今、目が覚めてたとこ。どうしたんですか、こんな夜中に?」
「いや……。実はですね」
田崎は、ベッドのそばへやって来ると、いやに深刻な顔で言った。「あなたにこっそりと打ちあけたいことがあって……」
「何ですか?」
「君を愛している」
マリが唖然《あぜん》としていると、田崎は笑い出して、
「――と、坊っちゃんからの伝言です」
「もう! 心臓が停《とま》るかと思った」
と、マリも笑って、「でも、よくお礼を言わないと。こんな立派な個室に入れていただいて」
「なあに。あなたの気が変らないかと、サービスに努めてるんですよ。――これ、お好み焼なんですがね。食べますか」
田崎が包みを開けると、こげたソースの匂《にお》いが病室一杯に広がった。
「おいしそう!――お腹がグーグー文句を言ってたんです」
「そりゃ良かった。この店はね、午前三時まで開いてるんですよ」
「退院するころにはブクブク太っていそうだわ」
マリは早速少し体を起こして、食べ始めた。「――ポチは?」
「病院の夜間出入口で、看護婦さんに見付かりましてね。ふてくされながら待っています」
「あら、可哀想《かわいそう》。これ、少しポチにやって下さいな」
「そのつもりで、もう一つ買ってあります」
と、田崎は抜かりがない。「看護婦の目の前でやるわけにはいきませんので、ここに持ってますが。後でやりますよ」
「お願いします。食べものの恨《うら》みは怖いですから」
と、マリは笑って言った。「――おいしい。――勇治さんと三崎伸子さん、何か手がかりをつかんだのかしら?」
「今のところは、まだのようですよ」
「そうですか……。私も、こんなことしちゃいられないんだわ」
「いけませんよ。今は傷を治すことが先決です」
田崎の言葉には肯《うなず》くしかない。しかし、マリとしては、本来天使がやるべき役目を、人間にやらせてしまっている、という気持がある。といって、今の自分に何ができるんだろう?
こうしている間にも、生き返った宮尾常市が、誰《だれ》かを殺しているかもしれない、と思うと、マリの食欲も――これだけは一向に変らないのだった!
ところで――夜間入口で「おあずけ」を食わされ、ふてくされて寝そべっていたポチは、救急車のサイレンに頭を上げた。
こっちへ来るようだ。もしかすると……。
首を伸ばして見てみると、さっきポチをしめ出した(?)看護婦が、急いで駆けて行くのが見えた。――こりゃいいや。
ポチは、出入口の扉のわきに身を潜《ひそ》めた。こんな時には真黒な体が至って便利である。
マリの奴《やつ》、今ごろ目を覚まして、あの「お好み焼き」を食ってやがるんだろう。畜生!
ポチにとっても、あの「匂《にお》い」の魅力は強烈だった。まだあったかい内に食ってやるんだ!
救急車が病院の敷地へ入って来る。ポチの目の前の扉が大きく左右へ開いて、ストレッチャーを引いた看護婦たちが小走りに出て来た。
今だ!
ポチはアッという間に看護婦たちの後ろをすり抜けて病院の中へ入り込んでいた。
病院ってとこは、夜も色々やってるしな。気を付けないと、見付かっちまう。まあ、もう油断はしないから大丈夫だろうが、また檻《おり》にでもぶち込まれて、ってのは勘弁《かんべん》してもらわねえと……。
さて、あいつの病室は上の方だったね。
階段で行かねえと、エレベーターじゃ上れない。
ポチは、夜勤の看護婦が来るのを見て、あわてて廊下に置いてある配膳《はいぜん》用の台のかげに隠れた。――何とかうまくやり過ごした。
階段室へ入るドアを鼻でぐいと押して開けると、薄暗い階段には、もちろん人気がない。これを上って行けば……。
トコトコと階段を上り始めて、ポチはギクリとした。
足音がする。靴の音で、下から階段を上って来るのである。――まずいな。
一気に駆け上っちまってもいいが、ドアを開けて出たところでバッタリ誰《だれ》かに出くわさないとも限らない。
ポチはそっと下の方を覗《のぞ》いてみた。
白衣を着てマスクをした男が、階段を上って来る。しかし――様子から見て、どうも医者ではない。病院の中で靴なんかはいていないだろう。
すると、その男は、たった今ポチが入って来たドアから、廊下へと出て行った。――やれやれ、びっくりさせやがって。
ポチは、また階段を上り始めた。気のせいか、「お好み焼き」の匂《にお》いがここまで漂って来るような気がする……。
さて――もう少し、と思ったところで、突然、明りが消えた。
何だ? ポチが面食らって足を止めていると、チカチカと光が点滅して、非常用の明りが点《つ》く。
そしてけたたましく、非常ベルが鳴り出したのである。
「何かしら?」
非常用の明りが点いて、マリは少しホッとした。しかし、続いて病院中に鳴り渡るベルの音。
「何の騒ぎかな」
田崎は立ち上って、「見て来ます。心配いりませんよ」
と、病室を出て行った。
マリはゆっくりと体を起こした。傷が少し痛むが、我慢《がまん》できないほどではない。
廊下をバタバタと駆ける音。
「どうしたの?」
「火災警報! でも、どこで――」
「急いで! もし本当なら、休んでる人も叩《たた》き起こして!」
夜勤の看護婦たちが声をかけ合い、また駆け出して行くのが分った。
火事[#「火事」に傍点]! もし本当なら大変だ!
マリは、ベッドから出た。パジャマの上に、純一が買って差し入れてくれたガウンをはおる。田崎はどこに行ったんだろう?
ドアを開けて廊下を覗《のぞ》くと、他の病室の患者たちも、何ごとかと顔を出してキョロキョロしている。警報は鳴り続けて、次々に病室のドアが開いた。
休憩していたらしい看護婦が何人か駆けて来た。
「間違いかもしれませんから、落ちついて! 一応、外へ出ます! ちゃんと誘導しますからね! 安心して!」
口々に叫んで、年寄りを先頭に、エレベーターは使わず、階段へと連れて行く。
「落ちついて! 心配いりませんからね!」
大したもんだなあ、とマリは思った。自分だって怖いだろうに、こんなに落ちついて、子供を抱っこして、お年寄りの手を引いて――。
「あ、その子、私が」
マリは、五、六歳の子を、看護婦が抱き上げようとしているのを見て、駆け寄った。
「あなた、大丈夫?」
「ええ。大したことないんです」
「じゃ、お願い。そのドアから下へ」
「分りました。お姉ちゃんにしっかりつかまってね」
本当は大丈夫なんかじゃないのだ。女の子を抱き上げると、脇腹《わきばら》の傷がズキズキと痛むのが分った。また出血したのかもしれない。
しかし、自分は天使なのだ。人を助けるように仕込まれているのである。この女の子一人、下へ下ろして行くぐらいなら……。
ドアを開けると、上の階からも階段を下りて来る患者がいる。マリはしっかりと女の子を抱き直して、階段を下りて行った。
「おい」
と、呼ぶポチの声で、マリは足を止めた。
「あんた、何してんの?」
マリは目を丸くした。「入るな、って言われてんでしょ」
「うまく忍《しの》び込んだらこの騒ぎさ」
「外へ出るのよ! 火事かもしれないんだから」
抱っこされている女の子は、マリとポチの〈会話〉に、不思議そうな顔をしている。
トコトコ階段を下りながら、
「お前、大丈夫なのか? けがしてるくせに」
「死にやしないわ」
「救い難い奴《やつ》だな」
と、ポチは首を振って、「お好み焼き、置いて来たのか?」
「取りに戻って焼け死んだりしたら、さぞ地獄で歓迎してくれるよ」
一階まで下りて、みんなゾロゾロと夜間出入口から外へ出る。
「消防車のサイレンだ」
と、マリは言った。「でも、煙も出てないみたいね」
「どうも妙だぜ」
と、ポチが外へ出て、周囲を見回した。
「何が?」
「何だか分らねえけど、用心しな」
「わけの分んないこと言って。――あ、痛い」
マリは顔をしかめた。
「だから言っただろ」
「退《さ》がって! みんな退がって!」
と、看護婦が、外へ出た患者たちに向って、大声で言った。「気を付けて! 消防車が入って来ますからね!」
マリは女の子を抱え直して、後ろへ退がった。
「あ、ごめんなさい」
他の患者にぶつかりそうになる。――病院の裏側は、植込みや芝生が帯状にあって、その向うは表通りだ。
もちろん夜中で、通る車もほとんどない。
消防車が二台、三台とやって来て、消防士が病院の中へ駆け込んで行く。しかし、どこからも火の手が上っている様子はなかった。
「――間違いかしらね」
と、マリは呟《つぶや》いた。
そこへ、さっき女の子をマリへ預けた看護婦がやって来た。
「ありがとう! こっちへもらうわ、あなたけがしてたのね。ごめんなさい、うっかり忘れてて」
「いいんです。別に死にそうってわけじゃないし」
「後で、傷口を見てもらってね。――じゃ、私が抱くわ」
女の子を、看護婦が受け取ろうとして、「――おっと」
ちょっと手が滑った。マリが、落ちそうになる女の子をかがみ込んで支えた。同時に、バン、と短い破裂音《はれつおん》が闇《やみ》を貫く。
「アッ!」
看護婦が肩を押えて、うずくまった。
「どうしたんですか!」
マリは女の子をおろした。
「肩……。肩が……」
マリは、血に染った看護婦の肩を見て、息をのんだ。
「撃たれたわ! ポチ! ポチ!」
ポチが患者たちの足下をくぐって駆けて来る。
「やっぱりか! あいつ[#「あいつ」に傍点]だぜ」
そこへ田崎も人をかき分けてやって来る。
「どこへ行ったのかと思いましたよ!」
「この人が――。誰《だれ》か手当を!」
マリはハッと道の方を振り返った。
白衣の男が駆けて行く姿が、街灯の光にチラッと浮かび上った。
「あれだわ」
「無駄だよ」
と、ポチが言った。
追いかけようにも、消防車やパトカーが次々にやって来て、道をふさいでしまう。――もう、とても追えなかった。
――宮尾常市だ。
何てこと! 私の代りにこの看護婦さんが……。
同僚の看護婦に支えられながら、撃たれた看護婦が連れて行かれる。
マリは、自分の傷の痛みを忘れて、胸を焼く怒りと悲しみに、唇《くちびる》をかみしめていた……。
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12 真夜中の対話
ポッ、ポッ、ポッ。
鳩時計《はとどけい》が三時を告げても、水谷邦子は椅子《いす》にかけ、机に肘《ひじ》をついて頭を手で支え、眠ったままだった。
本当なら、「夜の見回り」の当番で、三時には目を覚まして、子供たちの様子を見て歩かなくてはならない。いつもなら、この鳩時計で充分に目が覚めるのだが、今夜は起きる気配もなかった。
ギギ……。床が鳴って、人影が邦子の背後に近付くと、そのままわきを回って、邦子の寝顔に見入る。そして手が邦子の肩に、ためらいながら、伸びた……。
肩をつかんで揺さぶる、手の感触《かんしよく》で、邦子はハッと目を覚ました。
「ああ……。眠ってた?」
「もう三時ですよ」
邦子は顔を上げて、初めて自分が起こされたことに気付いた。立っていたのは――。
「あなた……。まだ起きてたの?」
「眠れなくて、ちょっと散歩してたんです」
と、〈さとし〉は言った。「帰って来て、ちょっと覗《のぞ》いたら……」
「そう。――ごめんなさい。つい、ボーッとしてたのね」
邦子は頭をふってから、「――大変! 子供たちを見回る時間だわ」
「一緒に行きましょう。どうせ、僕もすぐには眠れません」
「そう? じゃ、お願いするわ。抱き上げたりすると、腰が痛くなることがあるの」
「大丈夫ですか。あんまり無理をすると――」
「仕方ないのよ。職業病ね。保母さんたちは、たいてい腰を痛めるわ」
二人は、床のギイギイ鳴る廊下を歩いて行った。
「あらあら。――よく、これでみんな風邪引かないこと」
と、部屋を覗いて邦子が笑う。
実際、まともに布団に体全体がおさまっている子は、ほとんどいない。上半身がそっくり布団から飛び出したりしているのが、ざらである。
それを、二人はていねいに戻して、布団をかけてやる。
――邦子は、そっと、〈さとし〉の方へ目をやった。
〈さとし〉?――いや、そうではない。宮尾だ[#「宮尾だ」に傍点]。宮尾常市。宮尾勇治。そのどちらかだ。
邦子も、福祉課の工藤から話を聞いて、あれこれ、新聞や週刊誌を読んでいた。対照的な、あまりにも対照的な兄弟。
それでいて、瓜《うり》二つの兄と弟。
もちろん、この目の前にいる男が、そのどっちなのか、邦子には知るすべもない。
邦子としては、弟の勇治の方だと信じたいし、現に子供の扱い、布団を直してやる手つきなどは、いかにも手なれている。たぶん、これが弟の方なのだろう。
そして、生き返ったショックからか、当人が言うように、記憶を失ってしまっているのだろう。
だが――百パーセント、そうだと断言はできない。最悪の場合には、これが宮尾常市という殺人犯で、しかも記憶を失ったふりをして身を隠している、という可能性だってあるのだ。
そんな馬鹿《ばか》な! こんないい人が。――そんなこと、あるわけがない!
「――今夜は、幸江ちゃん、おとなしく寝てるな」
と、〈さとし〉が言った。
「そうね。怖かったんでしょうね、よっぽど」
と、邦子は肯《うなず》いて、そうひどく乱れてもいない幸江のかけ布団を直してやった。
あの男――今井兼男が無理に幸江を連れ出そうとした夜のことをかんがえると、邦子はゾッとする。あれから幸江は毎晩、夜中に起き出して、邦子のそばへやって来ていた。
「――お疲れさま」
二人は、調理場へやって来た。邦子は、
「コーヒーでもいかが?」
と、言った。
「いただきましょうか。――どうせすぐにゃ眠れないし」
「眠れなくなるほど、きちんとしたコーヒーじゃないわ」
と、邦子は笑った。
――生き返った人[#「生き返った人」に傍点]。
今、私が話しているのは、一度死んだ人間なのだ。そう思うと、邦子は不思議な気分だった。
「――さ、どうぞ」
「どうも……。あの今井って男は、どうなったんですか」
と、コーヒーを一口飲んで、訊《き》く。
「昨日、問い合せたけど、もう釈放された後だったわ」
邦子は椅子《いす》を引いて、座った。
「釈放? 子供をさらおうとしたのに?」
「実の父親だと主張してね。親子となると、誘拐《ゆうかい》じゃないってことになるわ。それに、あの今井って人、一応、ちゃんとした仕事に就いてはいるのよ」
「それにしたって……。誰《だれ》が見ても、まとも[#「まとも」に傍点]じゃありませんよ!」
と、〈さとし〉は腹立たしげに言って、「まあ……僕だって、人のことは言えませんがね」
「何を言ってるの。あなたくらい、『まとも』な人はいないわ」
と、邦子はしっかりと肯いて、言った。
「照れるから、やめて下さい」
と、〈さとし〉は苦笑した。「しかし――今井って男が父親だって証拠は何もないんじゃありませんか。それなのに……」
邦子は、ちょっと目を伏せた。
「もしかすると……」
と、邦子は呟《つぶや》くように、「本当に[#「本当に」に傍点]、あの子の父親かもしれないの」
「しかし――」
「〈幸江〉って名が、初めに発見された時着ていたシャツに、赤い糸で縫いつけてあった、って……。その通り[#「その通り」に傍点]なのよ」
邦子は、ゆっくりとコーヒーを飲んだ。
「では……」
「もちろん、決定的な証拠にはならない。でも、可能性はあるわ。ただ――私は、嘘《うそ》をついたの。福祉課の工藤さんに、でたらめを話したわ」
〈さとし〉は、じっと邦子を見て、
「どうしてですか」
と、訊《き》いた。
邦子は、ゆっくりと息をついて、天井の方を見上げた。
「――どうして、血のつながりってものが、そんなに大切なのかしらね」
と、半ば独り言のように、「人が親になるって、どの時点でのこと? セックスして、受胎した時? それとも子供が産れた時?――私はそうは思わない。親は、育ててこそ親よ。育てながら、人は親になって行くんだわ。一瞬で親になるんじゃない。一生かけて、子供と付合いながら、親になるのよ。それを――赤ん坊のころに放り出して、しかも、きちんと施設に頼むこともせずに、置き去りにして、何年もたってから、親です、なんて……。そんな人は親じゃない! 子供を捨てた時点で、親の立場も捨てたのよ。血がつながっているっていうだけで、その責任は帳消しにできないわ」
厳しい口調になっている自分に気付いて、邦子は、ちょっと〈さとし〉の方を見た。
「ごめんなさい……。演説、ぶつつもりじゃないんだけどね。でも、こんな仕事してると、ただ生物としての親だっていうだけの、『大人になれない親』があんまり多くてね。いやになるの」
と、首を振って、「それでもね、日本は親と子ってつながりを凄《すご》く重んじるのよ。アル中で無職の父親が、施設にいた子を、自分の子だからと強引に引き取って、一か月としない内に、酔って殴《なぐ》って死なせてしまった……。私の親しい保母さんの受け持ってた子でね。――その父親に渡さなければ、その子は今でもきっと元気で生きてたのに、って泣いていたわ。そんな親でも、親は親……。妙な話よね」
〈さとし〉は黙って肯《うなず》いた。
「親が子を愛し、子は親を敬うべきだ、っていう考えがね……。『べきだ』って言葉は愛情とか尊敬には使えないのよ。愛や尊敬の気持は、強制したり義務づけたりできるものじゃない。人間の自然な感情だわ。私、血がつながってるってだけで、名も知らなかった人間を突然愛せるようになるとは思えない。人は、手をかけ、苦労して付合って、初めて愛したり、尊敬されたりするものよ。あの今井って男が本当に幸江ちゃんの親だとしても、それだけであの男に幸江ちゃんを渡す気にはなれないの」
「当然ですよ」
と、〈さとし〉は言った。
それを聞いて、邦子はちょっとドキッとした。〈さとし〉の口調には、それまでとどこか違うものが――いつもの遠慮がちな口調ではなく、はっきりと感情のこもったものがあったのである。
「あなたもそう思う?」
と、邦子は言った。
「もちろんです。どんな親でも親は親だ、なんてことを言う奴《やつ》は、親だからこそ許せないことがある、ってことを知らないんでしょう」
早口にそう言って――〈さとし〉は、ちょっと無理な笑顔を浮かべた。「すみません。どうしてむきになったのかな……」
〈さとし〉は立ち上った。
「もうやすみます。邦子さんは?」
邦子は、じっと見つめていた。何者なのか知れないこの男を。
しかし、今、〈さとし〉は自分の過去を知っている[#「知っている」に傍点]のだ。邦子には分った。この男は、自分が宮尾常市なのか、それとも勇治なのか、分っている……。
「邦子さん。――どうかしましたか」
と、その男[#「その男」に傍点]は言った。
邦子は、訊《き》こうと思った。――「あなたは誰なの?」と。しかし……。
「別に」
邦子は首を振って、「どうぞお先に。私もすぐに寝るわ」
と、言った。
「そうですか。おやすみなさい」
邦子は、出て行きかけた彼[#「彼」に傍点]の背中へ、
「待って」
と、呼びかけた。
自分でも、なぜ呼び止めたのか、よく分らなかった。何を言うつもりだったのだろう。
「――何か」
と、彼[#「彼」に傍点]は戸惑っている。
「ごめんなさい」
邦子は、ちょっと笑った。「忘れちゃったの。何か言うつもりだったんだけど……。いえ、言うつもりだったのかどうかも、よく分らない」
「じゃ、待ってますよ。思い出すまで」
「いつまでも思い出さないかもしれないわ」
「構いません。いくらでも待ちます」
いくらでも……。いつまでも待ってくれる。そう、あなたなら[#「あなたなら」に傍点]、きっと……。
邦子は立ち上ると、彼の方に歩み寄った。
今、目の前に立っている男は、殺人狂かもしれないのだ。今にも彼女の首に手をかけて、絞めようとしているのかもしれないのだ。
そう考えても、邦子は怖くなかった。殺したいと思われるほどに、自分が相手にとって「重い」存在だとすれば、それは無視され、忘れられるより、ずっといいことのようにも思える……。
邦子は、少し伸び上って、「誰とも知れぬ男」にキスしようとした。
「――お姉ちゃん」
邦子は、ハッとして、顔を向けた。――幸江が欠伸《あくび》しながら、目をこすって立っている。
「どうしたの、幸江ちゃん?」
と、邦子は駆け寄った。
「喉《のど》がかわいた」
「そう。――じゃ、何がいいかな。飲んだら、すぐ寝るのよ。いい?」
「一緒に来て」
幸江はしっかりと邦子の腕をつかんでいる。
「おやすみなさい」
と、彼[#「彼」に傍点]が頭を下げて歩み去る。
ギイ、ギイ、と廊下をきしませる足音が遠ざかって行く。――邦子は、ふと胸の痛みを覚えた。
それは、まるで恋する相手に「別れ」を告げた後のようだった……。
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13 生と死と
「いいですね」
と、大野が言った。「娘さんを取り戻すチャンスなんだ。しっかりやって下さい」
「ええ……」
車の助手席で肯《うなず》いたのは、今井兼男である。
大野は車を運転して、小学校の校門が見える所までやって来た。
「さあ、もうすぐ三時だ」
大野は、ダッシュボードの時計に目をやって、「ゾロゾロ出て来ますよ。間違えずに教えて下さい」
と、念を押した。
「当り前ですよ」
今井は、大野をじっと見つめて、「自分の娘なんですよ。他の子と間違えたりするはずがないじゃありませんか」
その言い方には、腹立たしさを通り越して、ほとんど怒り、いや、敵意に近いものさえ感じられた。
「いや、その通り。気にしないで下さい。私は神経質なもんでね、つい……」
と、大野はあわてて言った。
今井が、校門の方へ目を向けるのを見て、大野はホッとした。やれやれ。――まともじゃないぞ、こいつは!
まあ、こっちで利用できる内はいいが、用がすんだら、顔も合せたくないね。
事実かどうかはともかく、ある施設に今井の娘がいて、施設の方では渡すことを拒んでいる。大野は、それをうまく利用できないかと思い付いたのである。
「――娘さんはこの小学校へ通ってるんですよ」
と、大野は言った。
「分ってます」
今井は、人を小馬鹿にしたような調子で言った。「父親ですよ。僕は」
「そう。あなたには娘さんを連れて行く権利があるんです」
「もちろんですよ。幸江だって――この前は、眠っているのを、突然起こしてしまったので、ゆっくり話す間もなかった。じっくりと顔を合せれば……。そうですとも、親子なんです。心が通じ合うんですよ」
「そうそう」
と、大野は肯いた。「ともかく、あまり騒がれないように連れて来て下さいよ。誘拐するわけじゃない。あくまで、迎えに来たんですからね」
今井は、校門の方へ目を向けたまま、
「どうして、僕のことを、手伝ってくれるんですか」
と、言った。
質問らしい口調でなく、全くの独り言のようなのが、無気味だった。
「別に、あんたが心配することはありませんよ」
大野は、少し座席の背を倒して、息をついた。「私は商売上の必要からです」
「商売?」
大野は、目を閉じていて、自分の方へ向けられた今井の視線に気付かなかった。そこにある危険な光に……。
「私はあの施設の土地を狙《ねら》ってる。しかし、持主も頑固でね。一向にらち[#「らち」に傍点]があかないんです。――あんたがあそこの子を連れだしてくれたら、あっちの職務上の手落ちってことになりますからね。あそこは子供の面倒も見ない、って評判を広めて、閉鎖へ追い込む。その辺は、こっちの得意技です。そのためのきっかけ[#「きっかけ」に傍点]がほしかったんですよ。そこへあんたが――」
大野は目を開けた。脇腹《わきばら》に、鋭い痛みが走ったからだ。――どうしたんだ?
「痛いな……。何か……濡《ぬ》れてる……」
手で探ると、ヌルッと手にまとわりつく感触。手を目の前に持って来て、大野は面食《めんくら》った。手が真赤だ。
「これは……血かな?」
大野の顔から血の気がひいた。今井がこっちへ体を向けて、手にナイフを握っているのが目に入ったからだ。
「あんた……。何を……」
大野は、夢を見ているのかと思った。
「人でなしめ」
と、今井は言った。「哀れな子供たちを追い出そうっていうのか? そのために幸江を利用しようって? そんなことはさせない」
「今井さん……。あんたは――」
大野の言葉は続かなかった。ナイフがもう一度、大野の下腹に呑《の》み込まれた。――激痛で、大野はすすり泣いた。
「やめてくれ……。どうして……」
溢《あふ》れ出た血が、車の床にたまっていく。
今井は車を出た。
「頼む……。救急車を……」
大野が、ぐったりと頭を落としたのを、今井は見ようともしなかった。
「ひどい奴《やつ》だ!」
今井は、怒りに声を震わせて、呟《つぶや》いた。「こんな奴がいるから、不幸な子供がなくならないんだ」
今井は、バタンと車のドアを閉じた。中では、すでに大野の命の灯が、消えようとしていた。
校門の方へ目をやっていた今井は、女が一人、道をやって来るのを見て、顔をしかめた。
あの女[#「あの女」に傍点]だ。幸江を連れて行こうとした時、邪魔をした女だ。
今井は、少しためらった。あの女がいては、幸江を連れ出すことは無理かもしれない。
いや――連れ出す必要はない[#「連れ出す必要はない」に傍点]のだ。
今井は、騒ぎを起したくなかった。幸江と二人で、静かに迎えたかったのだ。――その時[#「その時」に傍点]を。
「目が覚めたか」
――その声に、少し前から半ばまどろんでいるような状態だった伸子は、やっと我に返った。
肌《はだ》に触《ふ》れるシーツの感触《かんしよく》。
ほの暗い部屋の中に、勇治がワイシャツを着ているのが見えた。
「もう……」
「今、シャワーを浴びたところだよ」
と、勇治はソファにかけ、靴下をはきながら、「君も浴びたら?」
「ええ」
もう少し、ゆっくり休んでいたい、と思った。「何時、今?」
「三時過ぎた」
「もう?――いやだわ、ずいぶん眠っちゃったのね」
伸子は起き上った。胸を毛布で隠して、髪を手で直す。
――伸子が宮尾勇治に抱かれるのは、二度目だった。
正確に言えば「浮気」なのだろう。伸子には夫がいる。しかし、伸子は、ほとんど何の抵抗もなく勇治に抱かれた。あまりにも自然の成り行きで、自分でもこれが現実かしらといぶかったほどだ。
どっちかといえば、伸子の方が、勇治を必要としたのかもしれなかった。――子供を失い、仕返しを、と願って、張りつめた気持を、どこかでほぐしてやらねばならなかったのだろう。
勇治は、「死んだ人」なのだ。しかし、何の恐怖心もなかった。勇治はやさしく、そしてすてきだった……。
「じゃ、シャワーを浴びて来るわ」
伸子は、ベッドを出ると、バスルームへと入った。
ビジネスホテルに近いホテルなので、バスルームも広くはない。シャワーだけなら充分だが。
熱いシャワーを浴びると、目が覚めて、生き返ったような気分になる。「生き返った」ような?
どうして、あの宮尾常市のような男が生き返って、私の俊男は生き返らなかったんだろう? 神様も、結構うっかりするのかもしれないわ。
常市を捜す毎日が続いている。――勇治も伸子も、希望を捨ててはいなかった。必ず、見付けてやる。
それは願いとか望みとかでなく、もう決ったことのような気がした。――あの、マリという不思議な子のためにも、代って見付けてやらなくては。そして地獄へ送るのだ。
そこで、常市は永久に苦しむことになるだろう……。
シャワーは手早くすませ、バスタオルで体を拭《ふ》いた。狭いバスルームなので、湯気がこもって、鏡が真白になっている。
これじゃ、何も見えないわ。――使ったタオルで、鏡を拭くと、少しゆがんではいるが、自分の体が見える。
あの人の――そう、勇治の体には、弾丸《たま》のあとがある。兄に撃たれたあとが。
愛し合う時は見えていないが、ふと傷が目に入ると、そむけたくなる。俊男のことを思い出すからだ。あの小さな体の傷あとを……。
伸子は、ドライヤーで髪を乾かした。
自分の体が鏡の中に……。ふと[#「ふと」に傍点]――何かおかしい、と思った。
何だろう? 何か気になっているのに、それが分らないのだ。何のことかしら?
体? 体のことで?
でも――何もおかしくはないわ、私は[#「私は」に傍点]。
じゃ、勇治さんが? でも、あの人だって、二つの銃弾のあとがあるのを除けば、どうってことはない。
二度、当ったのだ。胸と脇腹《わきばら》に。あの常市もそうだった。双子とはいえ、そんなことまで同じなんて……。
「妙なものね」
と、伸子は呟《つぶや》いたが……。
同じ[#「同じ」に傍点]?――同じだったか?
あの時のことを、伸子は思い出した。
勇治は伸子と俊男を逃そうとして、玄関の方へ押しやり、そして自分は弾丸が二人に当らないように、自分の体で――。
そして二発撃たれて、勇治は、玄関の所で転んだ伸子の上に突っ伏して[#「突っ伏して」に傍点]来た。
突っ伏して……ということは、撃たれた時、勇治は銃に背を向けて[#「背を向けて」に傍点]いたことになる
勇治は後ろから[#「後ろから」に傍点]撃たれたのだ。しかし常市は? 警官を撃って重傷を負わせながら、自分も撃たれた。ということは、前から[#「前から」に傍点]撃たれたことになる。
同じところに当ったといっても、一人は前から、一人は後ろからだったのだ。
伸子の手から、ドライヤーが落ちた。
勇治の――いや、たった今、ベッドで愛し合った男の体には、前に[#「前に」に傍点]二つの傷あとがある。
「神様――」
と、伸子は呟《つぶや》くように言った。「そんなことが!」
あれは――あれは、宮尾常市[#「宮尾常市」に傍点]なのだ。
チャイムが校庭に鳴り渡る。
邦子は、ちょうど校門の所までやって来たところだった。――ぴったりだわ、計算は。
歩いて十分。実際は八分ほどで来た。
校門にもたれて立っていると、ワーッと子供たちが飛び出して来る。
それは、見たところ、まるで新たに「生れて来る」かのようだ。
――もう大丈夫だろうか?
でも、邦子は心配である。同僚から、
「禿《は》げるわよ」
なんてからかわれても、不測の事態を招くよりいいと思う。
今井がどこかから忍び込んだことは明らかだったので、翌日、早速邦子は〈さとし〉に頼んで、あちこち、戸締りを厳重にしてもらった。
といっても、お金のかかるセキュリティシステムをとりつけるわけにもいかず(また、あんな建物につけても仕方ない)、原始的ながら、誰《だれ》かが入って来ると、空缶が落ちて大きな音がする、とか、窓を開けると、バケツの水が頭からかかるとか――あれこれ工夫をしたのだった。
そして――あれから毎日、朝と午後、邦子は幸江の登下校について歩いているのである。
あの今井という男が、釈放されてから子供たちの何人かが、それらしい男のうろついているのも見ていた。諦《あきら》めてはいないだろう。邦子には分っていた。
ああいう男は、たやすく諦めたりはしないものだ。邦子も、あそこで色々経験して、よく分っていた。
子供たちが、ランドセルをしょって、目の前を駆け抜けていく。
幸江は、たいてい、最後ぐらいに出て来る。
担任の先生のそばから、なかなか離れようとしないらしいのである。幸江の気持はよく分る。
一人で残っていれば、先生は「自分だけのもの」なのだ。――それも必要なことなのかもしれない。あの子にとっては。
「邦子姉ちゃん」
と、声がして、幸江が駆けて来る。
邦子は手を振って見せた。
「面白《おもしろ》かった、学校?」
「うん! ね。今日、みんなの前で作文読んだの」
手をつないで、歩きながら、幸江は言った。
「偉いじゃない。何を書いたの?」
「邦子姉ちゃんのこと」
「本当? 美人だって、ちゃんと書いた?」
「書こうと思ったけど……」
と、幸江はためらった。
「けど?」
「ただ、『すてき』じゃ、だめ?」
邦子は笑い出した。
「いいわよ、もちろん! ありがとう。幸江ちゃん」
何て正直なんだろう、子供は。邦子は、嬉《うれ》しかった。
「――ねえ」
「何?」
「この間の変なおじさんは?」
「ああ、もういないと思うわ、大丈夫よ」
「ふーん」
「でも、もしかして、ってことがあるから、こうやって一緒に学校から帰ってるでしょ」
「うん」
幸江は肯《うなず》いた。「あの人、幸江のお父さんじゃないよね」
邦子は、前方に目をやりながら言った。
「違うわね。そう思い込んでいるだけ。幸江ちゃんのお父さんなら、きっと、ずっとハンサムだよ」
「そうだね」
と、幸江が大真面目《おおまじめ》に肯いたので、邦子は笑った。
「どこかにいるのかなあ、幸江のお父さんって……」
邦子は、握る手に少し力をこめた。
そうね、幸江ちゃん。あなたのお父さんはこの世の中のどこかにいる。でも、会わない方がいいのよ。お父さんの方であなたを捨てたのだから……。
「――あ、おじちゃんだ」
と、幸江が言った。
幸江は、〈さとし〉のことを、そう呼んでいるのである。
いや、〈さとし〉ではない、彼が少なくとも「宮尾」という姓であることは確かなのである。
「お帰り」
柵《さく》の壊れかかった所を直していた〈宮尾〉は、幸江に笑いかけた。
「ご苦労様。疲れない?」
と、邦子は足を止めた。
「先に入ってる!」
と、幸江が駆け出す。
「ちゃんと手を洗うのよ!」
と、邦子は声をかけた。
柵から玄関まで、ほんの七、八メートルである。連れて行くまでのこともなかった。しかし――。
突然、玄関前に、あの男が飛び出して来たのだ。
どこかに隠れていたのか、幸江の帰りをじっと待っていたのに違いない。とっさのことで、邦子も動けなかった。
今井が、幸江を抱きかかえた。
「やめて!」
と、邦子は叫んだ。
「何てことを!」
宮尾[#「宮尾」に傍点]が駆け寄ろうとする。
「こっちへ来るな!」
今井が上ずった声で叫んだ。「この子を道連れにして死んでやる!」
今井の右手に、鋭く尖《とが》ったナイフが握られ、その刃先が、幸江の胸を狙《ねら》っていた。
「やめて! そんなこと――」
「近寄るな! 誰《だれ》も来るな!」
今井はわめき散らした。
邦子は、足が震えた。
「ともかく他の子を」
と、宮尾[#「宮尾」に傍点]は言った。「外へ出さなくては」
「そう、そうだわ……」
今井は、しっかりと左手で幸江を抱きかかえて、建物の中へと入って行ってしまった。
邦子は駆け出した。何とかして――何としても、あの子を助けなきゃ!
子供たちが、保母にせかされて、飛び出して来る。
ちょうど、自転車に乗った警官が通りかかって、目を丸くしていた……。
伸子は、めまいから、やっと立ち直った。
いつしか、服を身につけていた。バスルームの中は湿気が多いので、部屋へ戻ってから着ようと思っていたのに。
「馬鹿《ばか》……」
と、鏡の中の自分に向って、呟《つぶや》く。「何て馬鹿なの、お前は」
子供を殺した悪魔に抱かれて、それでも分らなかったのか。――何てことだろう!
もう――もう、迷う必要はない。あの男を地獄へ送ってやる。
ナイフはバッグの中だ。ともかくバスルームを出て、何くわぬ顔でバッグを取り、彼の背後に近付いて……。一突きで殺すものか。
あの子の何倍も苦しめてやる!
心が決ると、伸子は平然とした表情を、簡単に作ることができた。
バスルームを出る。宮尾勇治――いや、常市[#「常市」に傍点]は、TVを見ていた。
「ゆっくりだったね」
と、TVを見たまま言った。
「大分汗をかいたんですもの」
平然と話せる自分に、伸子は感心していた。「何を見てるの?」
「うん……。何だか、気の変な男が、どこかの施設で、子供を人質にしてるんだ。ひどいことするよ」
「そう……」
伸子はバッグを開け、チラッと宮尾の方を見た。大丈夫だ。こっちを見てはいない。
ナイフは……。あった!
コンパクトを出して、その手の中に、ナイフを隠し持っていた。
「――もう犯人、捕まったの?」
と、宮尾常市に近付く。
「いや、まだだ。警官が何十人も出てるが、人質がいちゃ、近付けないからな」
「そうね。――助かるといいわね」
伸子は右手にしっかりとナイフを握った。――あんた[#「あんた」に傍点]はもう助からないのよ。
ナイフをゆっくりと振り上げて――。
「見ろ!」
と、宮尾常市はTVを指さした。「兄貴だ!」
TVの画面に、大勢の人間に混って、同じ顔[#「同じ顔」に傍点]が映っていた。カメラが、たまたま捉《とら》えていたのだ。
「行こう!」
と、立ち上る。
伸子は急いでナイフを背中に隠した。
「急ごう。またいなくならない内に」
どうしようもなかった。――伸子は一旦《いつたん》、この男の言う通りにすることにした。
病室のドアが開いて、田崎が入って来る。
「遅くなって。――できるだけ旨《うま》い弁当を持ってけ、と坊っちゃんのお指図でしてね」
と、言って、「友だちもお連れしましたよ」
ポチが入って来る。
「もう当分来ないだろ、看護婦。――おい、何してるんだ?」
ポチはマリがベッドから起き上るのを見て、目を丸くした。ちゃんと服を着ているのだ。
「何してるんです! 動いちゃいけない」
と、田崎が言った。
「TVを見て」
と、マリは言った。「――あの、画面の左の隅に立ってる男」
「え?」
「作業服を着た男。分るでしょう」
TVを見て、田崎が唖然《あぜん》とした。
「確かに……。宮尾に似ている」
「宮尾よ。さっき、もっとはっきり画面に出たの。――行きましょう」
「いけませんよ。また出血したんじゃありませんか?」
「お願い。これは私の役目なんです」
マリがじっと田崎を見つめる。
「――分りました」
田崎はため息をついて、「しかし、車が揺れないように、ゆっくり行きますよ。いいですね。文句を言わないで下さい」
「ありがとう」
マリは微笑《ほほえ》んだ。「ポチ、行くよ」
「分ったよ、この優等生」
と、ポチは言った……。
「近寄るんじゃない!」
甲高い声が、通りを埋めた野次馬の所にまで聞こえて来ている。
警官、パトカー、TV局の中継車、そして単なる野次馬。ともかく、辺りは人と車で埋っていた
――邦子は、刑事に言われて、中の見取り図を書いた。
「こうです」
「ありがとう。今、その今井って奴《やつ》はどこにいますかね」
「たぶん……このプレイルームだと思います。表が見えますし、玄関の方も、窓越しに目に入りますから」
刑事は首をひねって、
「すると、入るのは大変だな。――裏口はありますか」
「ええ、でも、子供に万一のことが――」
「分ってます。しかし、これは金目当てというのとは少し違う。相手の出方を待っていても、どうにもなりませんよ」
刑事の言うことはよく分った。しかし、たとえ今井を逮捕したとしても、幸江に万一のことがあったら、何にもならない。
刑事がパトカーに呼ばれて行くと、邦子は、柵《さく》の近くへ戻った。
宮尾[#「宮尾」に傍点]が、しゃがみ込んで、中の様子をうかがっている。邦子は、TVカメラの画面に、彼が入っているのではないかと、気付いた。
「――どうです?」
と、邦子の方へ訊《き》いて来る。
邦子は、すぐにわきに身をかがめると、
「ここにいると、TVに映るわ」
と、言った。「宮尾さん[#「宮尾さん」に傍点]」
相手が邦子を見る。その目が微妙に変っていた。
「あなたは、生き返った兄弟の一人なのね」
と、邦子は低い声で言った。
「そうです」
と、肯《うなず》いて、「しかし、ここへ来た時は、本当に分らなかったんですよ。信じて下さい。次の日、買物に行って、新聞を見て知ったんです。それからは少しずつ思い出しました」
「あなたは――どっちなの?」
「僕は弟の勇治です。信じてもらえないかもしれませんが」
「私は、あなたを信じるわ」
邦子は即座に言った。
「しかし、僕がどっちだとしても、勇治と名のりますよ」
「それでも信じるわ。――さ、TVに映らない所へ退《さが》った方がいいわ」
宮尾勇治[#「宮尾勇治」に傍点]は、柵《さく》に沿って、少し移動した。
「分っていたんです。映ってるのは」
「じゃ、どうして――」
「兄はたぶん、今、僕を必死に捜しているでしょう。もしTVで僕を見たら、きっとここへ来る。そう思ったんです」
「お兄さんがここへ?」
「僕を殺しに来ます。もう一度[#「もう一度」に傍点]」
「なぜ?」
「僕になりすますには、一人が死ななくてはね。――そうすれば、兄は安全です」
「そんな……」
「ともかく、今は幸江ちゃんですよ。僕のことはどうでもいい」
邦子は、建物の方へ目をやった。
「――何とか手はないのかしら」
「危険ですね。建物が古いから、こっそり入るのは不可能です。どうしても音がする」
「ええ……。追い詰められたら、あの今井って人――」
「きっと幸江ちゃんを殺すでしょう」
邦子は身震いした。
「私が代りに……」
「無理ですよ」
と、勇治は首を振った。「あの男にとっては幸江ちゃんでなきゃ、意味がないんですから」
「あんなに気をつけてたのに……」
邦子は、両手で顔を覆った。
「あなたのせいじゃない。自分を責めちゃいけません」
勇治が、邦子の肩に手をかけると、邦子は涙を拭《ぬぐ》って肯《うなず》いて見せた。
その時、二人の間に、何かが割って入った。
「あら、犬が……」
真黒な犬が、二人の前に出て、ジロッと二人の顔を見た。
「どこの犬かしら」
「いや……。どうやら普通の犬じゃないようですね」
「え?」
「我々に来いと言ってるようだ。――行ってみましょう」
勇治が立ち上る。黒い犬がタッタッと歩いて行くのを、二人は追って行った。
人垣を分けて進んで行くのは楽ではなかったが、ともかく、みんなが子供を人質にして、たてこもっている男の方に注目しているので、誰《だれ》も「生き返った死人」には気付かない様子だった。
「――どこへ行くのかしら」
黒い犬は、まだこの辺りに残っている雑木林の中へ入って行く。邦子たちがそれについて、入って行くと――。
「お待ちしてました」
一人の少女が、木のかげから現われ、言った。
「宮尾さんですね」
と、マリは言った。「宮尾常市さんですか、それとも――」
「僕は勇治だ。君は?」
「私、あなたを連れ戻しに来たんです。あなたがいるべき場所に」
マリはじっと相手を見つめた。見返す目には、真実の光があるように、マリには思えた。
「君は、あそこ[#「あそこ」に傍点]の使いか」
と、勇治は訊《き》いた。
「そうです。手違いからこんなことになって、私、あなたを捜していたんです」
「分ってる。――いざ、生き返ってみると、死ぬのが怖くなってね。最初に出会った女性の首をしめてしまったんだが……」
「彼女は大丈夫です。大したことはなくて」
「良かった……。じゃ、今すぐに?」
と、勇治は言った。
「待って」
と、邦子が勇治の前に立った。「あなたが誰か知らないけど、この人は、あの施設のために働いてくれてるんですよ!」
「すみません。でも、これはもう決ってしまったことなんです。変えることはできません」
と、マリは言った。
「でも……今、子供が人質に……。せめて、あの子が助かるまで」
「そうか。――僕なら[#「僕なら」に傍点]行ける」
と、勇治は言った。「もちろん、うまい手を考える必要はあるけど……。僕は死んでもいいんだ。どうせもう一度死ななきゃいけないんだから」
「そんな……。いけないわ。あなたはあそこの人じゃない。私が死ぬならともかく――」
と、邦子が言いかけると、
「どうやら死にたい奴ばかりらしいな」
と、声がした。
「兄さん!」
と、勇治が言った。
「下手《へた》に動くなよ」
常市の手には拳銃《けんじゆう》があった。「この女を殺すぞ」
銃口は、その場にぐったりと倒れている三崎伸子へ向けられていた。
「俺《おれ》を後ろから刺《さ》そうとしたのさ。――甘く見られたもんだ。気絶させてある。動くとこいつへ弾丸《たま》をうち込むぜ」
「その人は、あの子供の母親じゃないか」
と、勇治が一歩前に出る。
「ああ。俺のことを、ずっとお前だと思ってたのさ。抱かれたんだぜ、俺に。傑作だろ」
常市は笑った。マリは顔を真赤にして、
「人でなし!」
と、にらみつけた。
「おや、もう起きられるのか。弾丸が急所をそれたからな、天使さんよ。お前のことも、殺す前に味わってみたかったぜ」
と、常市はニヤリと笑って「――俺はな、お前らと違って、そう悟り切ってねえのさ。儲《もう》かった命だ。とことん長生きしてやる」
「僕らを殺しても、か」
と、勇治は言った。
「ああ。弾丸《たま》はまだ三発残ってる。お前と、この女と、そこの天使さんだな」
「まだ私がいるわ」
と、邦子は言った。
「ああ。女は好きだ。おとなしくついて来りゃ、楽しい思いをさせてやる。でなきゃ、ナイフの世話になりな」
――マリは、どうしたらいいか、迷っていた。
田崎は車の所で待っている。ここには来ないだろう。自分が命を捨てるつもりでぶつかっても、常市が銃を持っている限り、かなうまい。
その時、スピーカーで、
「おい、聞こえるか!」
と、警官が呼びかけているのが、聞こえて来た。「何がほしいんだ? 言ってみろ! 子供は無事なのか!」
勇治が、息をのんだ。
「いけない! あれで犯人の注意をそらすつもりだ。裏から警官が――」
「危険だわ! 幸江ちゃんにもしものことが……」
呆《あき》れたように、常市が笑った。
「他人の心配してる場合か? 自分の身の心配をしな」
その時、
「兄さん」
と、勇治が何か思い付いたように、前へ進み出た。
「何だ。また先に殺してほしいのか」
「兄さんは僕に借り[#「借り」に傍点]があるはずだ」
「何だと?」
「それを、返してくれ」
常市の顔から、皮肉な笑いが消える。
「何の話だ?」
「忘れたとは言わせないよ。僕らが一緒の施設にいた時だ。兄さんは金庫が開いていたのを見て金をとった。その時、僕のセーターを着ていて、それを見た子が、とったのは僕だと言った。――僕は、ひどく殴《なぐ》られたが、言わなかった。やったのが兄さんだとはね」
「言わなかったのは、お前の勝手だ」
「しかし、あの時、兄さんは僕の前に頭を下げたんだ。いつかきっと、この借りは返すよ、とね」
勇治の言葉は、驚いたことに、常市をたじろがせているようだった。
「兄さん。僕は今まで、それを返してくれと言ったことはない。今[#「今」に傍点]、返してくれ!」
鋭い口調だった。兄と弟の視線は、火花が飛ぶかと思う勢いで、ぶつかった。
空気が、音をたてそうなほど、張りつめている。
しばらくしてから、
「――何をしろっていうんだ」
と、常市が言った。
「人質の子を助けたい。それだけなんだ」
「だから?」
「手を貸してくれ」
「どうするんだ」
「君たちも手を貸してくれるか」
と、勇治がマリを見る。
マリは肯《うなず》いた。ポチが不安げに、
「お前、けがしてんだぜ。忘れるなよ」
と、言った。
建物の中は、静かだった。
幸江は、もうすっかり涙もかれてしまっている。
殺される……。そう思っていた。
怖かったのをもう通り越して、諦《あきら》めかけていたのだ。
今井は、のべつしゃべり続けていた。――どんなに幸江を大事にして、可愛《かわい》がっていたか、ということを、だ。
「なあ幸江」
今井はナイフをしっかりと握って、幸江の胸もとに当てていた。「――長生きしたって、いいことなんかないんだよ。父さんが言うんだから、本当さ。なあ、だから父娘で仲良く一緒に死のう。それが一番だよ……」
やさしい声なのが、却《かえ》って怖い。幸江は何も言えなかった。
すると――背後の廊下がキイッときしんだ。
「誰《だれ》だ!」
今井がキッと振り返った。「出て来い! 隠れたってだめだ! 分ってるんだぞ!」
プレイルームの一方の戸が開いて、作業服の男が立っていた。
おじちゃんだ……。幸江は嬉《うれ》しかった。
助けてくれるんだろうか? ともかく知っている顔を見て、幸江は泣きたくなって来た。
「お前か。出て行け!」
と、今井は甲高い声で言った。
「落ちつけよ」
と、その男は言った。「その子を返してくれ」
「殺すぞ! 近付くと……貴様も一緒に、殺してやる!」
今井は幸江をしっかり押えて立ち上った。ナイフの切先は、幸江の喉《のど》に向けられている。
「僕を殺すつもりか」
と、その男は言って笑った。
「何がおかしいんだ!」
「僕は二人[#「二人」に傍点]いるんだ。同時には殺せないぜ」
「何だと?」
その時、プレイルームの反対の端の戸が開いて、もう一人、男が入って来た。
おじちゃんが二人いる[#「二人いる」に傍点]!――幸江は目を丸くした。
今井も、唖然《あぜん》とした。全く同じ顔が右と左に立っている。――何だ、これは?
今井の顔が右、左と動いた。
一瞬の隙《すき》だった。
庭を這《は》って進んできていたポチが、窓から猛然と中へ飛び込んで、一飛びで、今井の顔面にぶつかって行く。
「ワッ!」
今井が仰向けに引っくり返る。幸江が今井の手から離れて転がった。
勇治が幸江の方へ駆け寄ろうとしたが、今井は、すばやくナイフを手に起き上っていた。
「畜生!」
と、勇治の方へと向く。
マリが、庭から、窓越しに飛び込んで来た。
「来て!」
幸江に駆け寄って、パッと抱き上げると、窓へ走る。
「受け止めて!」
と、叫んで、マリは、必死の思いで、幸江を窓から放り投げた。幸江の体が宙を飛ぶ。庭で立ち上った邦子が両手を広げて――幸江の体をしっかりと抱き止めた。
「やった!――逃げて!」
と、マリは叫んだ。
邦子が幸江を抱きかかえて、駆けて行く。
「こいつ!」
今井がナイフを振りかざしてマリへと向って来る。マリは、逃げようとして――傷口の焼けるような痛みに、よろけた。
「待て!」
と、勇治が今井に飛びかかる。「君は早く逃げろ!」
しかし、マリは、駆け出そうとして、膝《ひざ》をついてしまった。目がくらむ。また出血したのが分った。
今井が暴れて、勇治を振り離した。そして――ナイフの刃が、勇治の腹へ突き刺さっていた。
そこまで、ほんの数秒間の出来事だった。
勇治は、腹を押えて、よろけた。血がふき出すと、たちまち、足下の床へと流れ出て行く。
「ざま見ろ!」
今井が、血のついたナイフを手にわめいた。
その時――銃声が古びた建物に轟《とどろ》いた。
今井は、びっくりしたように見ていた。自分の胸に広がる血を。
「おい……。何だよ……」
コトン、とナイフが落ちる。今井はよろけて、
「痛いじゃないか……。何するんだよ……」
と、文句を言った。
常市が、もう一度、引金を引いた。弾丸《たま》は、額を撃ち抜いて、今井の体は、後ろ向きに吹っ飛んだ。
勇治が、その場に膝《ひざ》をつき、うずくまった。――常市はゆっくりと、弟の方へ歩み寄った。
「――借りは返したな」
と、弟のそばへ膝をつく。「そうだろう?」
「兄さん……」
勇治は、大きく息をついて、「ありがとう……」
と言うと――体の力が抜けて、床に伏せ、動かなくなった。
マリは、痛む傷口を押えて、何とか起き上った。
常市は、じっと弟を見下ろしていた。その顔には、不思議な表情が刻まれていた。
それはまるで――マリには、そう思えたのだ――自分自身[#「自分自身」に傍点]の死体を見下ろしているかのようだった。
常市は立ち上ると、マリの方を見て、苦々しげに笑うと、
「一発しか残らなかったぜ」
と、言った。「こいつのおかげだ。――このお節介の弟の」
そしてフラッと、常市は開いた戸から、廊下へ出て、マリの視界から消えた。
ポチがマリのそばへ駆けて来た。
「あんた……。よくやってくれたね」
「野犬狩りで助けてくれた礼さ」
と、ポチは言った。「おい、大丈夫か?」
「うん……。常市は――」
と、言いかけた時、銃声が廊下の奥で聞こえた。そして、それきり何も聞こえて来ない。
「どうやら、自分でかた[#「かた」に傍点]をつけたらしいな」
と、ポチが言った。
「そうだね……」
マリは、歩き出そうとしたが、そのままバタッと倒れて、意識を失ってしまったのだ……。
[#改ページ]
エピローグ
「水谷さん」
そう呼ばれても、邦子はそれが自分の名だということに、なかなか気付かなかった。
「水谷さん。――工藤です」
邦子は、やっと顔を上げた。
もう何時間、この調理場の椅子《いす》に座っていたのだろう?
「工藤さん……。今、何時かしら」
「もうじき十一時です」
「夜の?――まあ、大変」
邦子は頭を振った。「子供たち、もう寝たかしら?」
「大丈夫ですよ。あなたは少し休まなくちゃ」
工藤は、椅子を引いて腰をおろすと、「駆けつけられなくて、すみません。お役所の仕事は、融通がきかなくてね。出張先でTVを見て、飛んで帰りたかったんですが……」
「いいえ、そんなこと」
邦子は、ゆっくりと椅子の背にもたれて、息をついた。「――そうだった。私、もうここにはいられないんだわ」
工藤は戸惑ったように、
「何を言ってるんです?」
「だって――私の不注意で、あんな騒ぎを起こして。しかも人が二人も――いえ、三人も死んだのよ」
「あなたの責任じゃない。誰も、そんなこと言っていませんよ」
「他の人は言わなくても、私にとっては、同じ。――それに、私は嘘《うそ》をついていたし」
「あの男のことですか。宮尾という……」
「それと、幸江ちゃんの父親だと言ってた今井のことでも」
邦子は、ふと、どうしてここに座っていたのか分ったような気がした。――この調理場で、宮尾勇治と出会ったのだ。それに、二人で話をし、ほんの一瞬だが、心が触れ合うような気がしたのはやはりこの調理場だった。
私のことを分ってくれた、たった一人の人……。そう。それが宮尾勇治だった。
でも、出会った時、彼はもう死んでいた[#「死んでいた」に傍点]のだ。何て皮肉な人生!
「全く不思議な出来事でしたね」
と、工藤は首を振って、「死人が生き返るなんてこと、あるのかな。――しかし、ともかく何もかも終ったんですよ。あの兄弟は、いるべき場所へ戻ったし、幸江ちゃんも無事だった。今井は、たとえ本当の父親だったとしても、娘を道連れにして死ぬつもりだったんですから。幸江ちゃんを渡さなかったのは、当然のことだったんです。あなたが自分を責める必要はありません」
工藤の理屈は、邦子にもよく分った。ありがたいという気持にもなる。
しかし、それは邦子の心に鉛のように重くたまっている物を、少しも溶かしてはくれなかった。
「ありがとう、工藤さん」
と、邦子は立ち上った。「でも、これは私自身の[#「私自身の」に傍点]問題なの。私が考えて、結論を出さなきゃいけないことなの」
そして、振り向いた邦子は、そこに立っているパジャマ姿の幸江を見て、ドキッとした。
「どうしたの、幸江ちゃん?」
幸江は半分眠りかけで、機嫌が悪そうだった。
「お姉ちゃんが来てくれないんだもん」
と、口を尖《とが》らす。「約束でしょ。ちゃんとそばにいる、って」
邦子は、少し間を置いてから、笑った。
この厄介でわがままで身勝手な生きものたちと、自分は付合っていかなくてはならない。その付合いは、始まったばかりなのだ。
そう。――子供たちにとっては、邦子の失恋も傷心も、何の関係もない。子供たちにとっては、「自分たちだけのお姉ちゃん」なのだから。
叱《しか》ってやることもできる。もうあなたは大きいのよ、一人で寝られるでしょ、と。
だが、この子は「愛される」ことに、飢えているのだ。自分を抱き寄せ、受け止めてくれる人を求めている。
私も[#「私も」に傍点]ね、と邦子は心の中で呟《つぶや》くと、
「――はいはい」
と、幸江の手をつかんだ。「じゃ、ちゃんと寝るのよ。一緒にいてあげるから」
幸江がコクン、と肯《うなず》く。邦子は、廊下の床が、あまりきしんで大きな音をたてないように気を付けながら、歩き出した。
――夜は、まだ長い。
「おい。――いい加減に目を開けろ」
何よ、うるさいなあ……。
マリは、ブツブツ言った。――せっかく人がいい気持で眠ってるのに……。
「何をムニャムニャ言っとるんだ」
え? 誰《だれ》だろう? どこかで聞いた声だけど……。TVタレント?
目を開けると――白い天井が目に入った。
病院か。そうだった。私、ひどく痛い思いをしてね。本当にひどい目にあったんだ。
あの大天使様のおかげで、さ。
「何か言ったか?」
ヌッと大天使の顔が出て、マリは目が覚めた!
「大天使様。――聞こえました?」
「何が?」
「いえ、いいんです」
と、あわてて言った。「あの――それで、どうなりました?」
「うむ。ご苦労だった。無事に決着がついたぞ」
「良かった!――痛い思いしたかいがあった」
「大変だったな」
と、大天使が肯く。
「本当に! でも、大天使様……」
「何だ?」
「あの二人……。やっぱり天国と地獄へ別れて行ったんですか?」
と、マリは訊いた。
返事は、しばらくなかった。
「大天使様――」
「それはお前が知らなくてもいいことだ」
「でも――」
「天国へ戻ったら、自分の目で確かめるといい」
マリは口を尖《とが》らせて、
「教えてくれてもいいじゃないですか! ケチ!」
「何だ、大天使をケチ呼ばわりして」
「だって……。こんなに痛い思いまでして――。あれ?」
マリは、そっと手で、包帯の上から触《さわ》ってみた。「――痛くないわ」
「それが今度の仕事のほうび[#「ほうび」に傍点]だ。特別な計らいだぞ」
「ありがとうございます! やっぱり大天使様ってすてき」
「コロコロ変るな。――ま、ともかく良くやった」
「でしょ? 今度は何か下さいね」
「馬鹿《ばか》め」
マリは、ウーンと伸びをした。
病室のドアが開いて、マリはあわててパッと元通りの格好になった。大天使の姿が消える。
「やあ、気がついたの」
山倉純一が花を持って入って来た。「良かった。――花より食べるものの方が良かったかな」
「でもいいわ、花で。退屈しそうだから、入院生活なんて」
「医者の話じゃ、無茶したから、一か月は退院できないって」
「何だか嬉《うれ》しそうね」
と、マリはにらんでやった。
「そうじゃないけど、その間に君が僕と結婚する気になるかもしれないだろ」
マリは苦笑いして、
「どうかしら。――コンビニエンスの方は?」
「ちゃんと働いてるぜ。もう体も痛くなくなったよ」
「せいぜい頑張って」
と、マリは笑った。「――ね、純一さん」
「何だい?」
「あの人――三崎伸子さん、大丈夫だった?」
純一は肯《うなず》いて、
「子供さんのお葬式がすんで、ご主人と別れたよ。一人で働きながらやっていくって」
「そう。――良かった」
「宮尾のことを言ってたよ。憎いけど、最後に、あの女の子を助けて死んだのを見て、ホッとしたって」
「良かったね」
と、マリはもう一度言った。「安心したら、お腹が空いたわ」
「じゃ、うんとおいしいものを食べて、元気をつけてくれよ」
純一は、花を花びんに入れると、「夕ご飯、田崎に何か買いに行かせるよ。――ちょっと電話して来る」
「ありがとう」
と、マリは言った。
純一は出て行くと、入れかわりに、ポチが顔を出した。
「あんた、来たの。ちょうど良かった」
「何だい?――おい、大丈夫なのか?」
マリがベッドから出るのを見て、ポチが目を丸くする。
「もう治ったの」
「何だって?」
「ほら、向う向いて。レディが服を着るんだから!」
マリは包帯を外し、傷がきれいになくなっているのを見た。――急いで服を着る。
「どうするんだ?」
「行くのよ」
「また[#「また」に傍点]、出てくのか?――少しはのんびりしようぜ」
ポチがうんざりしたように言った。
「何でもね、潮時ってもんがあるのよ。今がそれなの」
マリはコートをはおった。
「あの坊っちゃんに惚《ほ》れそうなんだろ」
「やめてよ」
と、マリは少し赤くなって、「私は天使よ。――さ、人目につかないように、こっそりとね」
「分ったよ……」
ポチは首を振って、マリの後について、病院を出た。
幸い、誰とも出会わずに病院を出られた。
「――もうじき夕飯時だぜ」
と、ポチが歩きながら言った。「どうせなら、食ってから出て来りゃ良かった」
マリはポケットに手を入れて、
「コンビニエンスでもらった日当があるわ。何食べる?」
「そう来なくっちゃな!」
ポチが鼻歌気分でスキップして行くのを、すれ違ったブルドッグが、不思議そうに見送っているのだった……。
本書は、'91年2月に刊行されたカドカワノベルズを文庫化したものです。
角川文庫『天使に似た人』平成5年11月25日初版発行
平成12年6月5日21版発行