角川文庫
告別
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
長距離電話
自習時間
優しい札入れ
愛しい友へ……
雨 雲
敗北者
灰色の少女
長距離電話
1
「参ったな!」
と、私は言った。
もちろん、そう言ったところで、誰も聞いてはくれない。私の周囲には人っ子一人いなくて……。
夜、まだ深夜というには少し早い十一時ごろではあったのだが、何しろここは山の中の細い間道で、こんな所を他の車が通る見込みは、ほとんどなかったのである。
よりによって、こんな場所で車がいかれてしまうとは。――私が、つい、
「参ったな!」
と、言ってしまったのも、無理からぬことだったろう。
雨が降っていないのがまだしもで、エンジンの中を覗き込んでも、濡れずにすんだ。この前、やはり年老いたエンジンが息切れして、軽い発作(?)を起した時は、どしゃ降りの中で、油まみれになって格闘しなくてはならなかったのだ。
しかも車の中には、疲れ切って、とげだらけのヤマアラシみたいになった女房と、眠りこけた子供がいて、焦りと雨で、もう泣きたくなったものだ。
今日は私一人だし、多少帰りが遅くなったところで、女房は気にもしないだろう。どうせ、先に寝てしまっているのだから。
ただ、この前より悪かったのは車の状態で、どうやったところで息を吹き返しそうになかったのである。
この山の中、どうしたらいいだろう? 私は途方にくれてしまった。
――私は小さな商事会社の外回りの営業マンである。この不景気の中、どんなに小さな仕事でも、飛びつくようにして我がものにしなくては、競争相手にとられてしまう。
そんなことが三回も続けば、私のクビなど、いとも簡単に飛んでしまうに違いない。どんなに馬鹿らしいと思っても、こうして遠い道を、車を飛ばして出かけて来なくてはならないのである。
まあ、ほんの雀の涙ほどの話をまとめて、それでも多少はホッとしながらの帰り道。ちょうど町と町との中間辺りで、車はダウンしてしまった。といって、車を責めるわけにはいかない。
会社の方が、社長のベンツ以外の車を全部売り払ってしまって、我々営業マンはみんな自前の車で回っていたのだ。車がいかれても当然というものだろう。
「さて……。どうするか」
私は、考え込んだ。――単なる勘だが、どっちかといえば、この先の町の方が、いくらか近いのではないかという気がした。それでも十キロはあるだろう。
歩いて二時間! 私は、腹も空いていたし、うんざりしたが、他にどうしようもなく、アタッシェケースを車から取り出し、曲りくねった道を歩き出した。
――月夜で、歩くのには苦労しなかった。闇夜だったら、お手上げだったろう。
涼しくて、少々肌寒いくらいだが、これで家へ帰ればムッとするほど蒸し暑いのである。
――仕方ない。ともかく歩くんだ。
歩いて、歩いて……。何かいいことにでも出くわさないとも限らない。
そうだろう? 人間、一生の間に一つぐらいは「幸運」ってものにめぐり会う資格があろうじゃないか……。
もっとも、やっと四十だというのに、頭の方はすっかり心細く透けて来た。この疲れた中年を見たら、「幸運」の方で遠慮してよけて行くかもしれない。
しょうがないだろ。俺だって、好きでくたびれた中年になったわけじゃないよ……。
私は足を止めた。
何だろう?――前方、道がカーブして、その向うに隠れているのだが、何か明りが見えている。
こんな所に家があるのか? それとも――まさか、ハンバーガーチェーンがこんな場所に出てるわけもないが。
「――まさか」
と、私はそれが目に入る所までやって来て、目をみはって呟いた。
どうしてこんな所に?
私は、しばらくの間、幻でも見ているのではないか、と思いつつ、夜の中でポカッと明るく光を放っている、その電話ボックスを眺めていた。
しかし、いくら目をこすってみても、その電話ボックスは消え去りはしなかった。
何の気紛れか、こんな所にボックスを設置した人間がいるのだ。バスも通っていない間道に。
それにしても――近寄ってみると、何とも昔風の電話ボックスである。最近のやつは、もっと洒落たデザインで、こんな風に完全な「箱」になっていないものが多い。
どうしよう?――電話があったからといって……。
そうか。JAFに連絡するという手もある。加入していないが、連絡すれば来てくれるだろう。
あのポンコツが動くかどうかは疑問だが、それに、家へかけて――。家へかけて? 何て言うんだ?
和枝は、夫が、車の故障で困っているからといって、別に何もしてくれやしないだろう。実際、何もできないだろうし。
家からここまで、タクシーなんか飛ばしたら、何千円――いや、何万円もかかるに違いない。
家にかけるのは、電話代のむだってものだ。
何かいい手はないだろうか?
その時、ふと若井のことを思い出したのは、全くの偶然でしかない。若井……。そういえば、あいつはこの近くから、通っていたのだ。――もちろん学校のことである。
私が通っていた私立の男子高校で、一番家が遠かったのが、若井だった。毎日、二時間かけて通って来ていたものだ。
私は一度、彼の家へ遊びに行ったことがあって、それで憶えていたのだろう。若井の家は、この先の町の、古い酒造家だったのである。
私は、しばらく迷っていた。――いくら、仲のいい友だちだったとしても、もう二十年以上も昔の話だ。向うがこっちを憶えているかどうか。
それに、たとえ憶えていたとしても――いや、おそらく若井自身、あの生家に住んでいないだろう。きっとどこかの企業に就職して、別の場所に住んでいるに違いない。
電話してみたところで、あの家がまだ存在しているかどうか……。
考えれば考えるほど、電話してもむだだという気持が強まった。しかし――私は丸く開いたドアの穴に手をかけて、ボックスの中へ入り、十円玉しか使えない、旧式の電話のフックから、受話器を外していたのである。
十円玉があったかな?――五枚ある。あの家なら、充分にかかるだろう。
もし、両親でも出れば、若井がどこに住んでいるかも訊ける。この近くでなかったら、何の意味もないが。
番号?――番号はすぐに思い出せたのである。〈1〉の並ぶ、憶えやすい番号だったから。
「――まあいいや」
ものはためし。――この言葉が、これほどぴったり来る状況はなかっただろう。
ダイヤルを回す感触、ジーッと音をたてて戻るのも、懐しい感じだ。
ルルル……。呼出し音が聞こえた。少なくとも、誰かが、この番号の家に住んでいるらしい。
思いがけず、すぐに向うが出た。
「もしもし」
元気のいい男の子の声が聞こえた。「若井です。――もしもし?」
私は一瞬、めまいにも似た感覚を覚えた。この声は――若井とそっくりだ。高校生だったころの若井と。
突然、二十年以上前の記憶が、よみがえって来たのである。若井と長電話して、電話代がかさみ、母に叱られたことを、思い出していた。
「もしもし。誰?」
話し方もそっくりだ。きっと、若井の息子だろう。当人であるわけはない。それにしては声が若すぎる。
「もしもし」
私は咳払いしてから言った。「夜分、すみません。小坂というものですが……」
向うは、ちょっと黙ってから、
「何だ勇一か?」
と、私の名を言ったのだ。「びっくりするじゃねえかよ。変にていねいな言葉使いやがって。何か用か?」
私の方が面食らう番だった。どう考えても、二十数年ぶりに電話して来た友人に対する話し方とは思えない。
一体どうなってるんだ?――しかし、確かに、相手は私の「勇一」という名を呼んでいるのである。
「あの――太君かい?」
彼の名は若井太というのだ。
「当り前だろ。お前、大丈夫か?」
と、向うは呆れた口調で言った。「そういや何だか変な声だな。風邪でも引いたのか?」
「あ――いや、別に」
と、私は言っていた。
「明日のことだろ。分ってるよ。ちゃんとうまくやってやるから、心配するなって」
と、若井は言った。「だけど、もしデカにばれたら、こっちもただじゃすまねえんだ。見付かるなよ。いいか」
「あ、ああ……」
「何をおどおどしてやがるんだよ」
と、若井は笑って言った。「憧れの女とデートだろ。あんまりガチガチになると嫌われるぜ」
「そうだな……」
「そんじゃ、まあ心配しないで行って来な。頑張れよ!」
「ありがとう――」
言い終らない内に、電話は切れていた。
私は、なおしばらく、受話器をフックに戻すのも忘れて、突っ立っていた。
今の声――あれは確かに、若井太の声だ。しかし、二十年以上も前の、若井太の声である。
いつの間に電話ボックスを出たのか、私は自分でも分らない内に、故障した車の方へと戻って行った。
すると――車の音が聞こえたのだ!
空耳だろうか? いや、そうじゃない。ライトが木立ちの間を見え隠れして、やって来る。
トラックだった! 大方、ここを抜けて近道しようというトラックがいるのだろう。
私は近付いて来るライトに向って、手を振った。
「車はどうするのよ」
と、和枝は言った。
「まあ、レッカー車ででもないと引張って来れないな。JAFに頼んで――」
「そうじゃないわよ。車なしで仕事になるの?」
和枝は苛々を私に向って叩きつけるように言った。
和枝は別に私の帰りを待って起きていたわけではなかった。深夜TVで、見たい映画をやっていたので、見ていたのである。
私は冷めたおかずで、ご飯を食べながら、胃の痛むような、妻の文句を聞いていなくてはならなかった……。
運良く通りかかったトラックに乗せてもらえなかったら、朝までに家へ帰りつけたかどうか。しかし、その話をしても、和枝は、
「良かったわね」
の一言も口にしない。
「まあ、もちろん――」
と、私は何とか穏やかな声で、言った。「あの車が修理できりゃ、それにこしたことはないけどな。まず無理だろう。中古でも一台買うしかないさ」
「また何十万円もローンを抱え込むの? 一体どこからそんなお金が出るっていうのよ」
「何とかするさ」
怒鳴っても、どうにもならない。――私には分っていた。
「結構ね」
と、和枝は肩をすくめた。「毎日、お財布とにらめっこで買物をするのは私なのよ」
私は黙って食べ続けた。食欲などなかったが、食べていれば、口をきかなくてすむ。
「――先に寝るわ」
と、和枝は立ち上った。「早苗の学校があるからね」
「ああ。――おやすみ」
と、私は言ったが、返事はなかった。
一人になると、ホッと息をつく。こんなものが「家庭」と呼べるのだろうか?
もちろん、和枝の苛立ちにも、それなりの訳はある。この古い公団住宅は、家賃も安いが、狭いし、いたみもひどい。
引越したい。――それが和枝の苛立ちのもとになっていることは、私にも良く分っているのだ。
しかし、会社の業績が上って、月給、ボーナスの額がもっと安定しないと、ローンを組むこともできない。私のような平社員がいくら頑張ったところで、どうすることもできないのである。
私は、食べた食器を流しに運んで、水をはっておいた。――私も、朝七時には起きなくてはならない。これから風呂へ入るのは、近所の苦情を招くので、とても無理だ。手早くシャワーを浴びるだけにしておこう。
布団へ何とか潜り込んだのは、もう三時を回っていた。四時間も眠れない。
布団に入ってから、私はやっと、今日の奇妙な経験のことを考えたのだった。もちろん、和枝には一言も話していない。
あれは、一体何事だったのだろう……。
暗い、ひび割れのある天井を見上げていると、やがて、そこに一つの顔が浮かび上って来た。
明るい笑顔。少しのそばかすと、ちょっと上向き加減の鼻と、きれいな弓形の眉を持った顔が。
その顔を――長く、思い出すこともなかったその顔を見ている内に、私は眠りに落ちて行ったのである……。
2
たった一本の電話をかけるのが、こんなに怖いことだとは、思ってもみなかった。
昼休み。――課長は接待ゴルフに出かけ、会社の中は閑散としていた。
私は営業にしては珍しく、自分の机についていたのだ。昨日の出張の整理をしておかなくてはならなかったのである。
――電話。
かけてみようか。それとも……。
何度も、手を伸しては、やめた。なぜだ? 怖いのか。ゆうべの、あの不思議な電話を体験するのが、恐ろしいのか……。
しかし、電話は電話で、何の害も人に与えるものじゃない。かけてみればすむことじゃないか!
「――小坂さん」
突然声をかけられて、私はギクリとした。
「あら、何をそんなにびくついてるの? 私、そんなに恐ろしい顔してる?」
と、楽しげに話しかけて来たのは、同じ課の八代景子だった。
そろそろ三十に手の届くベテランで、私にとっては、気さくな話し相手だった。
「やあ、今日は、課長がいなくて気楽だな」
と、私は言った。
「そうね。――ゆうべ車がいかれちゃったんですって?」
「そうさ。家へ帰ったのが二時半だよ」
「お気の毒」
と、八代景子は隣の椅子にかけて、「たまにゃ休んだら?」
「休みか。そんな言葉もこの世にあったんだな」
「たまには早苗ちゃんの相手でもしてあげたら?」
八代景子は、至って記憶力がいい。一度会った人の顔と名前は、まず忘れないのである。
「早苗ちゃん、もう十歳でしょ?」
「うん。確かそうだ」
「早いわねえ。――あなた、来週がお誕生日でしょ」
「え?」
そう訊き返してから、私はカレンダーへ目をやった。「――本当だ! すっかり忘れてたよ」
「どう、私の記憶力は」
「いや、脱帽だね」
「休みをとって家族旅行でも。――どう、このアイデア?」
「最高だ」
と、私は首を振って言った。「課長が、『休暇届と一緒に辞表も出せ』って言うだろうね」
「休んじまえば、何とかなるもんよ」
と、八代景子は言って、「ね、お茶、いれかえて来てあげようか?」
「頼むよ」
八代景子が、私の湯呑み茶碗を手に、行ってしまうと、私は電話に手を伸した。
――向うが出るまでが、ずいぶん長かった。留守なのだろうか?
「――はい」
弱々しい声がした。「若井でございますが……」
「あの――若井さんですね。私――太君と高校で一緒だった小坂といいますが」
少し間があってから、
「ああ、小坂さん。――小坂勇一さん、でしたっけ?」
「そうです。あの――お母さんですか?」
「ええ。まあ、お懐しい」
その声は、すっかり老女のものになっていた。「お元気でいらっしゃいます?」
「ええ、おかげさまで。あの――太君ですが、まだお宅に? ちょっと連絡したいことがありまして……」
少し、向うは沈黙した。私は、聞こえなかったのかと心配して、
「もしもし? 太君の――」
「あの子は死にました」
私は、一瞬、時の流れが止ったような気がした。
「お知らせもしなくてね、本当にすみませんでした」
と、母親は言った。
「いや、それは……。いつのことですか?」
「もう五年くらいになるでしょうか」
「じゃあ、まだ若くて……。病気か――事故で?」
「いいえ。そんなことでしたら、ちゃんと小坂さんにもお知らせしたんですがね」
と、母親はためらいながら言った。「自殺したんです」
「自殺……」
あの若井が? まさか!
「ええ、それも、結婚していたのに、他の女の人を好きになりましてね。いやがるその女の人を殺して自分も……。無理心中したんです。――お恥ずかしい死に方で、とてもお友だちにはお知らせできなくて……」
母親の、老け込んだ姿が、目に見えるようだった。
私は、それ以上訊くこともできず、慰めの言葉もなく、電話を切った。
――無理心中。あの「元気の塊」だった男が。
私は、ショックを受けていた。
しかし、これで一つ、確かになったことがある。ゆうべの、あの電話ボックスからかけた電話は、今の若井家にかかったのではない、ということだ。
しかし、そんなことがあるのだろうか?
電話が「過去にかかる」なんてことが。
他人の話なら、一笑に付しただろう。しかし、私はこの耳で、あのころの若井の声を聞き、「デカ」という体育教師のあだ名を聞いたのだ。
あれは、いたずらや人違いなんてものではない。間違いなく、高校三年生の時の、若井太だったのだ。
私の目は再びカレンダーに向いた。来週が私の誕生日……。
ゆうべの電話で、若井は何と言っただろう?
「明日のことだろ……憧れの女とデートだろ……」
そう言ったのではなかったか。
憶えてる。――あれは、ちょうど十八歳の誕生日の一週間前だった。
偶然だろうか? それとも……。
「――何、怖い顔してるの?」
と、八代景子がお茶を出してくれて、私はやっと我に返った。
「ありがとう」
「何か、思いつめた顔してたわよ」
「そうかい?」
私は、微笑んで見せて、「一つ、年齢をとるんだな、と思って、ショックだったのさ」
と、言った。
そこへ着いたのは、夜、十時を少し回っていた。
いい時間だ。――九時前では、早すぎただろう。十時ごろでないと、計算が合わない。
私が心配していたのは、まだそこに電話ボックスがあるだろうか、ということだった。
しかし、確かに、そこに電話ボックスは立っていた。闇の中、そこだけが明るく、まるで別の次元ででもあるかのように。
私は、車を降りた。――レンタカーである。
中古車を手に入れるにも、何日かはかかる。
十円玉を沢山用意していた。ボックスの中に入って、その番号を回す時は、手が震えた。そしてもちろん、胸も震えていた……。
ルルル。――ルルル。
本当に、もし私の考えが正しければ……。
「――はい、二神です」
私は、こわばった喉から、声を押し出した。
「あの――小坂といいますが、恭子さんはいらっしゃいますか」
「ああ、小坂さんですか。恭子の母です。今日は恭子がお世話になって」
明るい声だった。「ちょっとお待ち下さいね」
「はい」
汗が流れた。――やったのだ! 私の考えは正しかった。
「小坂さんよ」
と、母親の言っている声が聞こえる。
タタッと駆けて来る足音。
「あ、もしもし?」
「やあ」
私の体は震えた。――恭子! 恭子の声だ!
「今日はありがとう。楽しかったわ。もうお宅に帰ったの?」
「あ――いや、外なんだ」
できるだけ若い声らしくしゃべらなくてはならない。
「何してるの?」
「うん、つまり……今日の楽しかったことをね、思い出してるんだ」
「まあ」
恭子は、ちょっと甲高い声で笑った。――私の心を、かつて魅了した笑い声。
「ロマンチストなんだ、小坂君って」
「そうだね。君もそうだろ?」
「女の子はそうよ。でも、ちゃんと醒めてるとこもある。――ね、ずいぶんお金つかったんでしょ?」
「大丈夫だよ。気にしなくたって」
「あなたの誕生日の時は、私が全部面倒みちゃうからね」
「そんなこと――」
「いいの。ね、今日は、学校の方、大丈夫だった?」
と、恭子は声をひそめる。「さぼった、ってこと、お母さんには内緒なの」
恭子の通っている私立は休みだったのだ。私は若井に頼んで、出席しているように細工してもらったのである。
「心配ないさ。ちゃんと手は打ってある」
「そう?――私ね、本当はもっと退屈じゃないかと思ってた」
「僕が?」
「あなたが、っていうより、デートなんて、慣れてないでしょ? だから、間がもたないんじゃないかなって。でも――おしゃべりしてるだけで楽しかった。本当よ」
「僕もだよ」
「――あ、お父さんが呼んでる」
と、恭子は言った。「男の子が近寄ると、ご機嫌悪いのよ。じゃあね」
「恭子!」
と、思わず私は言っていた。
「え?」
「――すてきだよ、君」
間があって、
「ありがと」
声が、上気した表情を想像させて、「あなたもよ」
と、付け加え、電話は切れた。
――私は、電話ボックスを出た。
まだ心臓が高鳴り、喘ぐように呼吸しなくては苦しかった。
二十年以上も前の「恋」が、突然、その時のままの姿で立ち現われたら、誰だってその「切なさ」に胸をしめつけられるに違いない。
恭子。恭子。
私の考えは正しかった。――もちろん、理屈ではない。
現実だ。この電話は、私が間もなく十八歳を迎えるという年の「今日」につながっているのだ!
こんなことが――。夢を見ているのだろうか?
私は、思い切り車を飛ばした。まるで本当に自分が十八歳のころに戻ったかのように……。
「パパ……」
早苗が、玄関にパジャマ姿で出て来た。
「何だ。まだ起きてたのか? 早く寝ろよ」
私は靴を脱いで上った。
「宿題やってたんだもん」
「ふーん。そんなに沢山出るのか」
「うん。――じゃ、おやすみ」
「ああ、おやすみ」
私は、早苗の頭を軽くなでてやった。
――リビング、といっても、ダイニングキッチンと合せて、せいぜい八畳間ほどのものだ。
和枝が新聞を広げていた。
「レンタカーを借りたよ」
と、私は言った。「高くつくからな。早いとこ中古を捜すが、二、三日はレンタカーでやるしかない」
「そう」
和枝は、大して関心もないようだった。
「何か食べるもの、あるか?」
「残りでいいのなら」
「何でもいいよ」
私は、ネクタイを外し、息をついた。
「――遅いのね、いつも」
と、台所に立った和枝が言った。
「仕方ないだろ。仕事だ」
「早苗がずっと待ってたのよ」
「――どうして?」
「宿題の分らないところを、パパに訊くんだって」
「俺に?」
「毎晩、二人でせっせとやってるのよ。あなたは知らないでしょうけど、今の五年生は大変なの」
「そうか……」
私は、肩をすくめた。「早く帰れる時は帰るさ」
「今日みたいに?」
「――どういう意味だ?」
「早苗が会社へ電話したのよ、八時ごろだったかしら。もう出た、って聞いて。じゃ、もうすぐ帰って来るねって……。ずっと寝ないで待ってたわ」
私には、何も言えなかった。――確かに、早苗には可哀そうなことをした。しかし、今日は特別だったのだ。
「付合いがあるんだ」
と、私は言った。
「分ってるわ」
和枝は疲れ切った声で言った。「あんまり遅くお風呂に入らないでね」
「ああ……」
重苦しい気分で、私はあたため直したみそ汁を飲んだ。
私の中に、束の間、よみがえっていた「若さ」は、和枝のため息一つで、シャボン玉のように、はじけて消えてしまっていた……。
3
その考えは、いつ私の胸の中に芽生えたのだろう?
あの電話ボックスから、初めて若井の家へかけた時? いや、あの時はただ呆然としていて、状況を理解することさえできなかったのだ。
おそらく、徐々にこの奇妙な出来事を受け入れて行く過程で、その考えは私の胸の中に生れて来たのに違いない。
それはある意味で恐ろしく、またある意味ではすばらしい考えに違いなかった。――ただし問題は、もしそれを実行に移すのならば、あまり時間がない、という点であった。
――私は車を降りた。
その家は、以前の通り、そこにあった。しかし、記憶の中の姿に比べると、その家は人間のように、老い、疲れて、うなだれて見えた。
昼間の明るい陽射しの中でも、そこだけは影に包まれてでもいるようだったのだ。
のんびりと感傷に浸っているわけにはいかなかった。仕事中、ちょっと立ち寄るには少々遠い場所まで来ていたのだ。
レンタカーも三日目だった。早く、安い中古車を、と思っているのだが、捜すだけの時間がない。
私は、かつてはきれいに手入れされていた前庭が、今は荒れ放題になっているのを、寂しい気持で眺めながら、玄関へと歩いて行った。
まるで空間でなく、「時間」の中を歩いているようだ。過去へ向って。
呼鈴を押した。――インタホン、というものは付いていない。昔の通りの、「呼鈴」である。二度、三度と鳴らした。
諦めかけた時、
「誰だ?」
と、声がして、玄関の引き戸の向うに人影が揺れた。
「失礼ですが」
と、私は言った。「二神さんですね」
「だったら何だ?」
「二神恭一さんですか」
「ああ。何の用だ?」
用心深い声だった。――当然だろう。得体の知れない客には用心しなくてはならない。
「お忘れかもしれませんが、小坂といいます」
「小坂? どこの小坂だ」
と、閉じたままの戸の向うから、その老人は訊いた。
「お嬢さんの恭子さんと、付合っていた小坂です」
――思い出そうとしているのか、それとも開けるかどうか迷っているのか。長い沈黙があって、戸がガラガラと開いた。しかし半分ほどしか開かない。
「建てつけが悪いんだ」
と、その老人は言った。「入ってくれ」
――居間は、あまり変った様子がなかった。といっても、そう詳しく憶えているわけではない。
「かけてくれ」
と、二神恭一は言った。「お茶も出さんが、何しろ一人暮しなのでね」
二神恭一は、ほぼ、予想していた通りの老人になっていた。何といっても、もう七十近いはずだ。
あのころの面影はある。そして、彼女の面影もまた。
「ごぶさたしています」
と、私は言った。
「そうだな。もう何年になる? 十年か。いやそれ以上だな」
「二十二年ですよ、二神さん」
「二十二年? そんなにたつか」
と、二神恭一は意外そうに言った。「年齢をとると、時間はゆっくりたつようで、それでいて、ひっそりと流れて行くんだ」
「私も四十です」
「四十?――そうか。大分頭の方も薄くなったな」
と、二神は笑った。
「あの――奥さんは?」
「家内はもう死んだ。七、八年もたつかな。ま、いい加減なもんだ。本当は十年かもしれんし、三、四年かもしれん」
「そうでしたか」
「君は――何をしとるんだね」
「勤めですが。小さな会社の営業マンです」
「営業。――営業か。懐しい言葉だ」
老人の顔に、わずかに生気が戻った。働いていたころのことを、思い出したのだろう。
「それで……何の用かね」
と、二神は訊いた。
「用というほどのことでも……。ただ、仕事でこの近所へ来たものですから、どうなさってるかな、と思って、お寄りしたんです。それに――」
と、私は、少しためらってから言った。「お嬢さんのことで、はっきりお詫びもしないままでした」
「恭子のことか……」
二神は、呟くように言って、私を見た。「いや――私もね、ずっと気にしていたんだよ」
二神の言葉は、やさしかった。弱々しいというのとは、違っている。
「私のことを、ですか」
「そう……。君にはずいぶんひどいことを言ってしまった。――あの時はカッとなっていたのでね。勘弁してくれたまえ」
「いや、とんでもない」
私は、長い間の、胸のつかえが下りたように感じていた。「恭子さんの死は、私の責任です。その点は、言いわけの余地もありません」
――あの日。
私の誕生日に、私と恭子は出かけることになっていた。
私は十八歳になると同時に車の免許をとっていて、まだ三か月ほどの経験しかなかったが、恭子を乗せて、レンタカーで、ドライブに出たのである。
決して無茶な運転はするまい。――私はそう決心していた。
私は、いたずらにスピードを上げて喜ぶ馬鹿な手合いではなかった。
「安全運転で行くからね」
と、恭子に宣言し、恭子も、そんな私を、気に入ってくれていたはずだ。
それは裏目に出た。――国道で、巨大な(と私には感じられた)トラックが後ろについて、クラクションを鳴らした。
私たちをからかっていたのだ。――私は少しスピードを上げた。すると、トラックもスピードを上げ、ピタリと後ろにつけて来たのだ。
先へ行け、と合図しても、トラックは後ろを離れない。クラクションを派手に鳴らし、危うく追突しそうなほど、距離を狭めて来た。
私もカッとなった。――ぐっとアクセルを踏んで、一気に百キロを越えるスピードを出した。
その先に急なカーブがあることなど、初めてそこを走っている私には、分らなかったのである。
車はガードレールを突き破り、急斜面に突っ込んで、大破した……。
私の左足のふくらはぎには、今もその時の傷が残っている。しかし、私は運が良かったのである。
恭子は――フロントガラスに突っ込んで、動脈を切り、救急車がやって来た時には、もう出血多量で、虫の息だった……。
当然、恭子の父親の怒りは烈しかった。
私を罵り、けがをしていなければ、半殺しの目にあわせるところだったろう。
一人っ子、それも、可愛く、明るくて誰にも好かれる、自慢の娘だったのだ。父親の怒りは当然だった。
私は、恭子の葬儀に出ることもできず、退院してずっと後に、墓に花を供えただけだった……。
「――いや」
と、二神恭一は言った。「事故の状況は、警察から聞いたよ。ひどいトラックもいるもんだ。君のせいではない。――君に、いつか詫びようと思っていた」
思いがけない言葉に、私は胸が熱くなった。
「あの子も、君のことが本当に好きだったんだよ」
と、二神は言った。
「私も好きでした」
「そうだろう。――君に会ったら、ぜひ話しておこうと思っていたんだ」
と、二神は言った。「あの子は、病院で、少し意識を取り戻したんだよ。よく言う、燃え尽きる前の、最後の輝きかもしれなかったがね」
「そうですか」
「その時、私と女房の顔を見て、何と言ったと思うかね? 『あの人が悪いんじゃないの』と言ったんだ。『あの人のせいじゃないんだから』とね……」
私は、体が震えた。――恭子!
「後になって――何年もたってからだがね、女房がふと言ったんだ。『あの子が元気でいたら、きっとあの小坂って人と一緒になって、今ごろは孫でもいたかもしれませんね』と……。私もそれを聞いて、涙が出たよ。その光景が、まるで目の前に見えるようでね……」
私は、烈しくこみ上げて来るものを、必死で抑えつけなくてはならなかった。――これ以上、ここにいたら、我を失って泣き出してしまいそうだ……。
「――心残りなんですが」
と、私は立ち上って言った。「仕事の途中なので、もう失礼します」
「ああ、そうかね。いや、来てくれて良かったよ」
と、二神は微笑んだ。「また、機会があったら、寄ってくれたまえ」
「ありがとうございます」
――二神家を出て、車に戻った私は、ここへ来て、本当に良かった、と思った。
しばらくは、エンジンをかけるのも、はばかられた。――美しい追憶と、心の熱くなる再会を、もっともっと、かみしめていたかったのである。
しかし――時は、私の感傷などにはお構いなしに過ぎて行く。
私はエンジンのスイッチを入れてため息をついた……。
社へ戻ったのは八時過ぎだった。
八代景子が、まだ残業している。――私が席に戻って、タバコに火をつけると、
「課長が待ってるわよ」
と、彼女が言った。
「僕を?」
「そう。会議室で作業中」
「分った。――何の話かな」
「何か知らないけど」
と、八代景子は首を振って、「あんまり期待しないほうがいいと思うわ」
「今以下ってことはないさ」
と、私は言って席を立ち、灰皿にタバコを押し潰した。
会議室のドアをノックすると、
「入れ」
と、課長のいつもの不機嫌な声がした。
「――ご用ですか」
と、私は入って言った。
課長の高田は、ひどく太った男である。色は黒いが、健康な日焼けとは違って、どす黒い感じだ。
飲みすぎて肝臓を悪くしているのが、素人にも分る。――いつも不機嫌なのは、体調のせいもあるだろう。
太い眉毛の下から、ジロッと私を見上げて、
「遅いな」
と、言った。「道草でもくってたのか」
「道が混んでたんですよ」
と、私は言った。
「今日は都内は空いてる、とニュースで言ってたぞ」
と、高田は無愛想に言って、「まあいい。――車はどうした」
「レンタカーです。中古の安いのを捜してますが」
「見付けたのか?」
「いえ、まだ」
「レンタカーは高くつくだろう」
「会社で払ってもらえませんか。何日も続くと、痛いですよ」
と、私は言ってみた。「もちろん、できるだけ早く、見付けるつもりですが」
「見付けることはない」
と、高田は言った。
私は、戸惑った。会社の方で、いらなくなった古い車でも、回してくれるつもりだろうか?
いい話でも、悪い話でも、高田は同じ調子で話をするのである。
「どういうことですか」
と、私は訊いた。
「お前には辞めてもらう」
高田は、ごく当り前の口調で言った。
私は、しばらく身動きしなかった。呼吸するのも忘れていたかもしれない。
「――課長」
やっと、かすれた声が出た。「どういうことですか」
「言ったろう。お前はもう辞めるんだ。車なんか買っても仕方ないだろ」
「クビ……ですか」
「退職金は出るさ。いくらか知らんが」
私の中に、やっと怒りがこみ上げて来た。
「そんな! どうして――どうしてです!」
「でかい声を出すな」
と、高田が顔をしかめた。「お前の働きと賃金と、はかりにかけて、マイナスになったのさ。それだけのこった。決めたのは社長だぞ。俺じゃない」
「でも――そんな突然……。無茶です!」
「わめいたって仕方ないだろ」
と、高田は肩をすくめた。「退職金を、わずかでももらってやめるか、それとも、裸で放り出されるかだ。どっちでも好きにしろ」
――もう、何を言ってもむだだと分った。
よろめく足取りで、私は席に戻った。
「大丈夫?」
と、八代景子が、私を見てびっくりしたように言った。「真青よ。――どうしたの?」
「クビだ」
と、私は言った。
「え?」
「クビだよ。――こんなに簡単なことはないじゃないか! クビさ」
私は笑い出していた。
「小坂さん! しっかりして!」
八代景子が私の肩をつかんで揺さぶる。
「――何だ、やかましいぞ」
高田が、戻って来た。「そんなに嬉しいのか?」
高田が鼻先で笑った。それが私の怒りを爆発させた。
「小坂さん! やめて!」
と、八代景子が叫んだ。
しかし、もう止められなかった。私は高田の方へ大股に歩み寄ると、拳を固めて、ほとんど肉に埋った高田の顎を、殴りつけていたのである。
4
「おはよう、パパ」
と、早苗が言った。
「どうしたの?」
と、和枝が不思議そうに、私の顔を見上げる。
「何だい、どうしたの、って」
「こんなに早く起きて来て」
「目が覚めたのさ」
と、私は言った。
「コーヒー、いれてないわよ」
「自分でやるよ」
私は台所に立った。
「早苗、早く食べて」
と、和枝が苛立ちを隠そうともせずに言った。「本当にもう、ぐずなんだから」
「人間には、それぞれのテンポってもんがあるのさ」
と、私は言った。「食事ぐらい、ゆっくり食べさせてやれ」
和枝はチラッと私の方を見たが、何も言わなかった。
「パパ」
と、早苗は言った。「今日、遅いの?」
「さあ。どうかな」
「パパに訊いてもむだよ」
と、和枝は言った。「ほら、もう仕度しなきゃ」
「うん。これ食べてから」
早苗は、コーンフレークを凄い勢いで流し込んで、立ち上った。
「パパ」
「何だ?」
「今日、どの背広着てくの?」
「何だって?」
面食らって、私は振り向いた。「玄関にかけてあるやつさ。どうしてだ?」
「何でもない!」
早苗はパッと駆け出すと、すぐにランドセルをしょって、戻って来た。「――行って来ます!」
「はい。――ハンカチ、持った?」
「うん」
玄関のドアの音がして、早苗の足音がパタパタと遠ざかって行く。
「――何か食べる?」
と、和枝が台所へ来て言った。「卵でも焼く?」
「いや、トースト一枚あればいい」
と、私は言った。「まだ胃の方は目が覚めてない」
コーヒーをいれ、トーストが焼ける間に、ワイシャツを着て、ネクタイを絞める。
「――今日は遠出?」
と、和枝が、トーストを食べ始めた私に訊いた。
「少しな。仕事だ。しょうがないさ」
「分ってるわ」
和枝は、何となし息をつくと、「大変ね」
と、言った。
「何が?」
「疲れてるでしょ。少し休めば?」
和枝がこんなことを言うとは! 何年ぶりに聞く言葉だろう?
「そうもいかんさ。みんな忙しいんだ。俺だけじゃない」
「そうね」
と、和枝は肯いた。
「レンタカーも、今日には返すつもりだ」
「どうするの、後は?」
「何とかする。大丈夫さ」
私も、この朝、いつになく妻へやさしくしていたかもしれない……。
――玄関へ出て、上衣を着ると、和枝が送りに出て来た。これも珍しいことである。
「行って来る」
「気を付けて」
と、和枝は言った。「寝不足で、事故、起さないでね」
全く、今日はどうなってるんだ?
聞きなれない言葉ばかり聞かされて、私は戸惑いながら家を出た。
出たといっても……。もう、二度とこの家には戻って来ないかもしれない、と思いながら……。
会社をクビになったことは、和枝に話していなかった。
もちろん、高田課長を殴ったことで、会社側は、一円の退職金も払わずに、私をお払い箱にできたわけである。
文句でも言おうものなら、向うは私を暴行罪で警察へ突き出せばすむのだ。
もちろん、私としては、会社をクビになったことで、腹も立てていたが、高田を殴ったのを後悔したことは、一度もなかった。たぶん、社内にも同じ感想を抱いた人間は、少なくないはずだ。
――それでも、クビになった私には、即座に「明日の生活」という重荷が、のしかかって来ていた。
これは、私のひそかに考えていたことを、実行するための、最後の引金になった。
私は、心安らぐことのない家にも、そして報われない会社にも、何の未練も持っていなかった。今や、その一つからは完全に、切り離されてしまっていたのである。
――私は車を走らせながら、まだ迷ってはいた。
どうなるのか、見当もつかないという気持があり、また恐怖もあった。
しかし、やってみたところで、一体何を失うだろう? 失うものが何もないのなら、思い切ってやってみてもいい。――自分を、そうやって納得させようとした。
車で、一旦、会社へ行った。
私物の整理をしていなかったので、どうしても一度、来なくてはならなかったのである。
会社の近くで車を停め、歩いて行くと、
「――待ってたわ」
と、出て来たのは、八代景子だった。
両手に大きな紙袋を下げている。
「八代君――」
「あなたの車が窓から見えたの」
と、八代景子は言った。「上役と顔を合せるのもいやでしょ?」
「そうだね」
「あなたの物、まとめといたわ」
「悪いね」
「これぐらい、どうってことないわ」
八代景子は微笑んで、「お茶でも飲みましょうよ」
と、言った。
――近くの喫茶店に入って、私は八代景子から、高田課長が高血圧で入院した、と聞いた。
「同情する気にゃなれないね」
と、私はコーヒーを飲みながら言った。
「気持は分るわ」
と、八代景子は言った。「でも、課長にも家族があるわ」
私は、ちょっと目を伏せた。
「――そうだったな」
「もし、入院が長引くようなら、きっと社長はすぐに高田さんをクビにするわよ」
「全くな。――どういう世の中なんだ?」
と、私は言った。
「生きていかなきゃね。何とかして」
八代景子は、紅茶を飲み干すと、「――仕事のあて、あるの?」
「ある、と言えばあるし、ない、と言えばない」
私は正直に言った。
「小坂さん」
「うん?」
「会社辞めたこと、奥さんに言ってないんでしょ」
私はドキッとした。まさか、そんなことを言われるとは思わなかったのである。
「まあね」
「いけないわ」
「心配かけたくないのさ。次の仕事を見付けてから言うよ」
と、私は言った。
「心配かけたくない、ってのは他人のことを言うのよ。――一緒に心配するのが夫婦じゃないの?」
八代景子の言葉は、確かに私の胸を刺した。しかし、本当に和枝に話したとして、どうなるだろう?
私には目に見えるようだった。ヒステリックに、騒ぎ立て、泣き出す和枝の姿が。
私は、そんな場面を見たくなかった。――絶対に[#「絶対に」に傍点]。
「ともかく、ちゃんと話して。それから、その後のことを話し合うのよ。――ね?」
八代景子の気持は、嬉しかった。本当に私のことを思ってくれていることは、よく分った。
「分ったよ」
と、私は言った。「帰ったら話す」
帰ったら、ね……。
私は車を走らせながら、何度も時計を見ていた。
あの日、私は午後の三時に、彼女を迎えに行ったのである。三時ぴったりに。
恭子は、時間に関しては几帳面な子だった。だから、私も正確にその時間に行くようにしていたのである。
大丈夫、充分間に合う。
車は、あの間道を辿って行く。――明るい昼間に見ると、同じ道が全く別の場所のように見えて、少々不安になって来る。
本当にここでいいんだろうか? 道を間違えたんじゃないか。
それに――あの電話ボックスは、昼間でもあるだろうか?
近付くにつれ、不安が大きくなって来た。――これまでのすべてが、夢だったような気がして、行先が闇に閉ざされているかのような、そんな気がした……。
「――頼む」
と、口に出して言っていた。「頼む」
とたんに、あの電話ボックスが目に入って来た。
車を停め、大きく息をついてから、外へ出る。ポケットの中の十円玉が音をたてた。
――果して、どうなるのだろう?
もし、十八歳の誕生日を迎えたあの日、私が、恭子とドライブに出かけなかった[#「出かけなかった」に傍点]としたら。
もちろん、あの日の過し方は、色々あったわけだ。ドライブだけでなく、映画へ行っても良かったし、展覧会に足を向けても良かったのだ。
もし、ドライブへ行かず、そうしていたとしたら、恭子は死なずにすんだだろう。そして、私と恭子は……。
そんなことが可能だろうか? 自分の人生を書きかえる、などということは。
私は、やってみる決心をしたのだ。――もし、うまく行けば、私は恭子と結婚し、恭子の父親の会社を継いでいるかもしれない。
そうなれば、私の人生はまるで違ったものになっていただろう。
私も考えなかったわけではない。――万一、恭子と結婚し、新しい人生を手に入れたとしても、それが今以上に、不幸なものかもしれない、という可能性を。
人生には、何が起るか分らないのだし、あの時、私が恭子をどれだけ知っていたのか、自信もない。しかし、少なくとも、そこには、「良くなり得る人生」がある。
私は腕時計を見た。――二時を少し回っている。
三時には、十八歳の私が、車で恭子を迎えに行くだろう。それを止めることは、たぶんできない。
とすれば、恭子が「家にいなければ」いいわけだ。
私は、十円玉を入れ、恭子の家へかけたのだった。
「――はい、二神です」
恭子の声が、飛び出して来て、一瞬私は、言葉が出なくなった。「もしもし?」
「――僕だよ」
何とか、私は気楽な調子で言った。
「あら、どうしたの?」
と、恭子は明るく言った。「今、何を着てくか、選んでるところよ。楽しみにしてね」
「そうだね。――恭子、実は……」
「どうしたの?」
「車がね――せっかく楽しみにしてたんだけど、借りた車が故障しちゃったんだ」
「あら」
と、恭子は言った。「車をかえてもらったら?」
「うん、それが、出払ってて、だめなんだよ」
「本当。――残念だわ。がっかりね」
「でも……どこかへ出かけようよ。いいだろ? 君の好きな場所でいい。音楽会でも、展覧会でも」
「うん!」
と、恭子は、すぐに元気を取り戻して、「今、私の好きな絵を展示してるの。見に行っていい?」
「もちろんさ。じゃ、どこで?」
「上野。――じゃ、すぐ出るわ。閉っちゃうと困るもの」
「分った。じゃあ……」
「上野駅の公園口でね。四十分もあれば行くわ」
「分った。それじゃ――」
「うん。ドライブはこの次にね」
「そうしよう」
「――ね、お誕生日、おめでとう」
と、恭子は言って、短く笑うと、電話を切った。
私は、息を吐き出した。――やった!
これで、三時に、私が車で迎えに行っても、恭子はいない。――もちろん、何がどうなっているのか、みんな首をかしげるだろう。
しかし、ともかく恭子はあの日にドライブに出ないですむのだ。いや、万一、上野駅に私がいないので、家へ戻って、それからドライブに出たとしても、時間は大きくずれているから、あのトラックに出くわすことはない。
――私は、戻った十円玉をポケットへ戻した。ともかく、やってしまったのだ。後は、もう、運を天に任せる他はない。
「――何だ?」
上衣のポケットに、何か、ガサッと触れるものがある。取り出してみると、ピンクのマンガ入りの封筒である。
戸惑いながら、開けてみると、小さく折りたたんだ手紙。――開くと、早苗のとても上手いとは言えない字が並んでいた。
〈パパヘ。
おたんじょう日、おめでとう!
私はまだおこづかいがもらえないから、プレゼントがかえないけど、パパのことが大すきです。
パパが、かいしゃをやめたってこと、ママもしってるの。かいしゃの女の人が、おしえてくれたから。
でも、すごくいやなかいしゃなら、やめてよかったね。いいかいしゃがみつかりますように!
こんやは、できたら早くかえってきてね。
ママがケーキを作るって、いってた。
いつまでも元気で、がんばってね。
[#地から2字上げ]早苗ちゃん
[#地から2字上げ]でしたH[#「H」はハート。DFパブリ外字=#F048]〉
――私は、凝然と立ち尽くしていた。
早苗! 私はお前を消してしまおうとしていたのか?
和枝……。早苗……。
私がお前たちのせいで不幸なのではない。私のせいで、お前たちが不幸なのだ。
それなのに――私は――私は、何をしたんだ?
私は、再び十円玉を入れて、急いでダイヤルを回した。――間に合ってくれ!
「――はい、二神でございます」
「あの――小坂です」
「あら、何か? 恭子、今、出かけましたけど」
「呼んで下さい! 急いで!」
「間に合うかしら。待ってね」
恭子の母親が、受話器を置く音がした。
永遠かと思うような長い時間がすぎた。――そして、
「もしもし。どうしたの?」
恭子の声が、聞こえて来た。
「君か。ごめんよ」
「もう、出るところだったのよ。どうかしたの?」
「あのね――車が見付かったんだ。だからやっぱりドライブに――」
私は、言葉を切った。
恭子。――君は死ぬんだ。そのドライブで、十八歳の命を散らすんだ。
「そうなの? どっちでもいいけど……。でも、絵も見に行きたかったの」
「うん……。だけど、車の借り賃ももったいないしさ……」
「そうね。じゃ、待ってる。三時に来られる?」
恭子……。僕はもう一度、君を殺すのだ。許してくれ。
「行くよ。三時に」
と、私は言った。
「待ってるわ、それじゃ」
「恭子」
「え?――何なの?」
「君は……すてきだよ」
涙で、視界がくもった。「本当だ。大好きだよ」
「ねえ……。どうしたの? 大丈夫?」
涙が頬を伝い落ちた。――恭子。君のことは忘れない。一生、忘れない。
「大丈夫さ……。じゃ、三時に」
「うん。待ってる。事故、起さないでね」
私は胸をつかれた。
「大丈夫だよ。――大丈夫」
「三時よ。ちゃんと来てね」
恭子が電話を切った。
私は、震える手で、受話器をフックにかけたのだった……。
玄関を入ると、
「どなた?」
と、言いながら、和枝が出て来た。「――あなた」
私は、じっと立っていた。
「早かったのね……」
和枝は、両手を真白にしていた。「今、夕ご飯の仕度を……」
「和枝」
と、私は言った。「悪かった」
和枝は、ちょっと微笑んだ。
「会社のこと?――八代さんって方が、知らせて下さったのよ。でも、あなたが怒るのも当然だって……。次の仕事、捜してたんでしょ?」
「隠しておくつもりじゃなかったんだが、言いにくくてね」
「いいのよ」
和枝は肯いた。「もう早苗も五年生だし。退屈だから、私もどこかへ働きに出ようかって思ってたの」
私は、和枝の穏やかな顔に浮かぶ疲れと、そしてやさしさに、今初めて気付いたような気がした。
私は、和枝を抱きしめた。
「あなた。――手が真白で――背広につくわよ」
「わーい」
と、後ろで声がして、私はびっくりして振り返った。
早苗がニコニコ笑っている。
「ママにキスしたの?」
「こら! あっちに行ってろ!」
「はあい」
早苗がスキップして行ってしまうと、私は和枝と顔を見合せ、一緒に笑った。
「――ケーキも作るわ」
「そうか」
私は和枝の額にそっと唇をつけた。「最高の誕生日だ」
和枝が頬を染めた。それから、
「油が、熱くなりすぎちゃう!」
と叫んで、台所へと飛んで行ったのだった……。
自習時間
1
「チェッ、また赤信号だ!」
息を弾ませながら、雄一は思わず舌打ちした。
こんなときに限って、やたら赤信号に出くわすんだからな、全く。
しかし、河田雄一は、いつもきちんと信号を守らなきゃならないと考えているわけではない。ごく普通の中学二年生の少年らしく、赤信号だって、車が通ってなかったら――そして警官か先生が近くにいなかったら――遠慮なく横断歩道を駆けて渡ってしまう。
運動神経には自信があった。勉強の方には――あまりなかったけど。
しかし、いくら足の早い雄一だって、朝の、この国道だけは渡る気になれない。何しろ、十トンクラスのダンプカーが、次から次へと、よくまあこんなに沢山、世の中にはトラックがあるもんだ、と呆れてしまうくらい、重い土砂を満載して走って行く。
目の前をダンプカーが駆け抜ける度に、足下の大地が震動する。だから、朝はひっきりなしに揺れていることになるのだ。
今、大地震が来たって、きっとしばらくは分んないだろうな、と雄一は思った。
しかも、産業優先というわけか、信号は至って長く、一旦赤になるとなかなか変らない。青の方は、急ぎ足で向うへ辿り着くとすぐ点滅を始めるくらいに短いくせに。
ああ、やっと青だ。
雄一は、やはり苛々しながら待っていた大人たちから一人飛び出して、一気に横断歩道を駆け抜けた。鞄の中じゃ、弁当箱が踊っている。
でも、いくら今から走ったって、もう遅いのだってことは、雄一にも分っていた。始業時間を、たっぷり十分も過ぎているのだから。
それでも学校へと雄一が必死で走っているのは、早く授業に出たいから、ではもちろんなくて、急いで駆けて来たというところを、先生に見せなくてはならないからだ。顔を真赤にして、ハアハア息を切らして教室へ入って行けば、皮肉かいやみの一つも言われ、頭をちょっとこづかれるかもしれないが、それで終り――廊下に立ったり、というヤバイことにはならずに済むからである。
しかし、その手も、あまり度重なると効果がなくなる。そして雄一の場合は、「度重なり」つつあった……。
でも、ともかく――雄一は校門を駆け抜けて、目の前の校舎へと飛び込んで行ったのである。
靴箱の所で上ばきにかえていると、
「何だ、雄一、遅刻かよ」
同じクラスの治郎がやって来る。
「あれ? 何してんだ?」
雄一は、治郎がサッカーボールを手にしているのを見て言った。一時間目は物理で、サッカーボールとは関係ないはずだ。
「サッカーやるんだよ」
と、学生服のままで、治郎はポンとサッカーボールをけり上げた。
「一時間目、物理だろ?」
と、雄一は訊いた。「体育と入れかわったのか?」
いや、入れかわったって、学生服のままでサッカーをやるわけはない。
「一時間目、自習」
と、治郎が愉快そうに言った。
「ええ? 本当かよ!」
雄一はガックリ来た。だったら、こんなに急いで来る必要はなかったのである。
物理の教師、村木が、雄一の担任でもあったのだ。
「村木先生休みなんて、珍しいなあ」
雄一が言うと、治郎は首を振って、
「休みじゃないよ」
と言った。
「じゃあ――」
「何だか臨時の職員会議だってさ。みんな自習らしいぜ」
「へえ」
珍しいことだ。「何かあったのかな」
「知らねえ。ともかく、こっちは自習で、万歳さ」
「そうと知ってりゃ、こんなに急いで走って来ることなかったな!」
雄一はフウッと息をついた。
「サッカーやるか?」
「ああ、当り前じゃないか! 鞄置いたら、すぐ行くからな!」
雄一は、また急に元気になってドタドタと廊下を駆けて行った。
雄一の学校は、未だに珍しく木造の古びた校舎のままだった。もっとも、ここ一、二年の内には建て替えられる予定になっていたので、雄一たちは、ほとんど最後の生徒たちになるわけである。
階段を駆け上ると、雄一は、クラスの扉をガラッと開けた。
教室には誰も残っていなかった。自習といっても、何をやったっていい、ということなのだから、残って真面目に勉強する奴なんかいるわけがない。いや――一人、いた。
教室へ入ったときには気が付かなかったのだが、雄一が自分の席に鞄を置いて(正確にいうと投げ出して)、さて、早速運動場へ飛び出そう、と思ったとき、
「おはよう、河田君」
と呼びかけられたのである。
「ワッ!」
びっくりした雄一は一瞬飛び上った。「――お前かあ。どこにいたんだよ」
「ごめん。びっくりした? 机の下に落し物をしちゃったんで、潜り込んで捜してたの」
おかしそうに笑っているのは、沢野涼子だった。
雄一の方は、ちっともおかしくない。
「びっくりさせんなよな。お前、一人で勉強してたのか?」
雄一がそう訊いたのは、別に深い意味があってのことではない。沢野涼子なら、一人でここに残って勉強していたって、少しもおかしくないからだ。
沢野涼子は、いつもクラスのトップだった。ライバルといえるほどの子もいないので、涼子がいつも一番というのは、いわば既定の事実みたいなものだ。
当然、いつも下から数えた方がずっと早いのが既定の事実である雄一にとっては、苦手な相手である。
といって、別に、涼子はそう「いやな奴」ではなかった。「ガリ勉」でもないし、雄一のように成績の良くない生徒にも、別に軽蔑の目を向けたりはしなかったからだ。
いや、成績に、あまりの落差さえなかったら、雄一だって涼子に少々惚れたかもしれない。スラリと背も高くて、いかにも爽やかな少女だったのだから。
「私、人を待ってたの」
と、涼子が机の間を、雄一の方へやって来る。
「へえ。教室で待ち合せか。先生とデートでもすんのか?」
と、雄一はからかった。「じゃ、俺、サッカーして来よう、っと!」
ダダッ、と駆け出す雄一へ、
「河田君を待ってたのよ!」
と、沢野涼子が声をかけた。
雄一は、さらに二、三歩進んで、足を止めた。
「――俺のこと、待ってたって?」
「そう」
「何だよ、一体? 俺、お前に借金してたっけ?」
「そんなことで待ってたんじゃないわよ」
と、涼子は、少々ふくれて言った。
「じゃ、何だ? 急がないんだろ? 俺、サッカーして来るからさ」
雄一は、また駆け出して、教室の戸を開けようとした。
「河田君にとっちゃ、大切なことなんだけどなあ」
雄一は、戸に手をかけたまま,
「もったいぶんなよ! 何だっていうんだ?」
と涼子の方を振り返った。
「知りたかったら――」
と、涼子は、ゆっくりと雄一の方へ歩いて来る。「サッカーは諦めて、この自習時間、私に付き合ってよ」
「ええ?」
「サッカーはいつだってできるでしょ? でも、こんな機会、二度とないんだから」
雄一は、顔をしかめて、
「何だっていうんだよ?」
「ついて来りゃ分るわ」
「言ってみろよ」
「ついて来なきゃ、分らないの」
雄一は、諦めて、息をついた。
「分ったよ。――これでどうってことなかったら、ぶっ飛ばしてやるからな」
「どうぞ、どうぞ」
涼子は、平気なものである。「河田君にだけ、特別に教えてあげるんだからね」
「ありがたくって涙が出るよ」
と、雄一は言い返した。
「じゃ、行こう」
「どこへ?」
「黙ってついてらっしゃい」
涼子は、さっさと戸を開けると、廊下へ出て、どんどん歩いて行ってしまう。
雄一は、あわてて涼子の後を追って行った。
2
「職員室に何の用だ?」
と、雄一は言った。
「入りにくい?」
そりゃまあ、職員室に入るのが大好き、という生徒の方が珍しいに決っている。
特に雄一のように、大して成績の良くない者には、喜んで足を踏み入れたくなる場所ではない。
「平気さ」
涼子の手前、雄一は、ちょっと肩をすくめて見せただけだった。
「でも、心配することないわ」
と、涼子は愉快そうに言った。「今はここ、空っぽよ」
「空っぽ?」
「そう。――ほらね」
ガラッと、職員室の戸を開ける。――確かに、今、職員室は空っぽだった。
「へえ、どうしたんだろうな」
と、雄一は中を見回して言った。
そういえば、治郎の奴が、臨時の職員会議だとか言ってたな。
「何かあったのかな」
「ともかく、入りましょう。突っ立ってたって、仕方ないわ」
「こんな所に入って、どうするんだ?」
と、雄一は訊いた。
「いいから、戸を閉めて、いらっしゃい」
涼子が、職員室の奥の方へと歩いて行く。仕方なく、雄一もその後について行った。
「――なあ、何しに来たんだ、こんな所にさ?」
涼子は、答えずに、奥の大きなキャビネの所まで行くと、鍵のかかった引出しを、トントン、と指で叩いた。
「ここに、何が入ってるか、知ってる?」
と、雄一の方を見る。
「知らないよ。お前、知ってるのか?」
「うん」
と、涼子は肯いた。「全員の成績」
「ええ?」
雄一はドキッとした。「お前、どうしてそんなこと――」
そう言いかけて、口をつぐんでしまったのは、涼子が、どこやらの机の引出しを開けて、中をかき回し出したからである。
「おい。何やってんだよ。――おい」
雄一が声をかけても、涼子は返事もせずに引出しの中を探っている。
「確かこの辺に……」
と、独り言を言っていたが、「――あった、あった」
と、中から鍵の束を取り出した。
「何するんだ?」
雄一はキョトンとして、涼子を見ていた。
「このキャビネを開けるのよ」
これには雄一もびっくりした。
「おい、そんなことして……」
「見たくないの、自分の成績?」
涼子は、さっさと鍵を開けると、引出しを引いて、中のファイルを探った。
「おい、もし見付かったら……」
雄一だって、別にそう臆病ではないつもりだが、しかし、いつ先生が入って来るかと、気が気じゃなかった。
「――あ、これだわ」
涼子の方は、まるで気にもしていない様子である。
「おい、よそうよ」
と、雄一は言った。「やばいよ、見付かったら」
「大丈夫よ」
「それにさ、俺、そんなに自分の成績、見たくないよ」
雄一の言葉に、涼子は笑い出してしまった。
「正直ね。それが河田君のいいとこだけど」
「そりゃ、お前くらいの成績なら、見たって楽しいだろうけどな。俺、自分の成績なら、見当ついてるよ」
「そう?」
涼子は、真顔で言った。「そんなことないと思うわ」
「どうして?」
「見てごらんなさいよ。ともかく」
涼子が、ファイルの一つから、一枚のカードを抜き出して、雄一に手渡した。
あまり気は進まなかったけれど、雄一は、それでもいくらかの好奇心もあって、カードを見た。
〈河田雄一〉とある。間違いなく、自分のだ。
が――見ていく内に、雄一の顔からは、段々血の気がひいて行った。
「――何だよ、これ!」
思わず、雄一はそう叫んでいた。
「どう?」
と、涼子が言った。
「こんな――こんなのってあるかよ!――全部、落第点じゃねえか!」
数学2、物理1、国語2、歴史2、現代社会1……。
目を疑うような点数。これが十点法での点数なのだから!
いくら勉強に自信のない雄一だって、落第しないスレスレぐらいの点は、いつも取っていた。
このところ、突然テストの点が悪くなったということもないはずである。それなのに……。
「こんなひどい話ってあるかよ! どうしてこんな――」
「落ちついて」
と、涼子は、雄一の肩を叩いた。「何か心当り、ないの?」
「あるわけないだろ!」
雄一は憤然として、「大体、こんなひどい点、もらういわれ、ないぜ」
「だから気になって教えてあげたのよ」
と、涼子は言った。
「断固、抗議してやる!」
雄一は、すっかり頭に来ていた。
「だめよ。これを見たことを、どう説明するの? それだけでも停学ものよ」
「じゃ、どうしろってんだ?」
「頑張って勉強するのね。これからのテストでいい点取れば、望みはあるわ」
「そんなこと言っても……」
雄一は、ふくれっつらで、「そんなに急にできるようにならねえよ」
「でも、その成績、お家へ持って帰れないでしょ?」
こう言われると辛いのだ。
雄一も、母親のことは大好きだったからである。こんな成績を持って帰ったら、どんなにお袋が嘆くか……。
「参ったなあ! どうすりゃいいんだよ!」
雄一も頭をかかえてしまった。
――涼子は、雄一の成績カードをファイルに戻すと、元の通り、キャビネの引出しへ入れ、鍵をかけた。
「なあ、お前はどうしてこんなこと、知ってるんだ?」
と、雄一は訊いた。
「ちょっと、ね」
と、涼子は曖昧に言った。「さ、行きましょ」
「――どこへ?」
「ついてらっしゃい」
涼子は、職員室を出ると、またさっさと歩き出した。
雄一も並んで歩いていたが、
「――なあ」
と、言い出した。
「何?」
「どこか――塾にでも行った方がいいのかな、俺?」
涼子は、ちょっと雄一の顔を見て、
「そんなこと必要ないわ」
と言った。
「だけど、あれじゃ――」
「教科書を最初からキチンとやり直すのよ。分らない所を何度もくり返して。そうすれば――東大へ入れるとは言わないけど、誰にだって分るようになるわ」
「そうかなあ……」
雄一は、心もとなげであった。
「こっちよ」
と、涼子が曲って行く。
「――今度はどこへ行くんだ?」
「ついてらっしゃい」
涼子は、行く場所を、ちゃんと心得ているようだった。
「――何だ、ここ?」
と、雄一は言った。
「しっ! 大きな声を出さないで」
妙な場所だった。――いうなれば、物置なのだ。
狭苦しくて、やたらガラクタがつめ込んである。
「こっちよ」
涼子は、その物置の奥の方へと入って行った。
「――何してんだ?」
「ほら。この机の上に上って」
ちょっとガタの来た机が、壁際に置いてある。
「どうすんだよ?」
「上の方に、隙間があるでしょ。板が割れてる所」
この校舎、前述の如く、ボロなので、廊下もいくつか穴があいている。壁にもこうして割れ目があるのだ。
「あれが?」
「隣の部屋が覗けるの」
「へえ」
雄一は目をパチクリさせて、「女子の更衣室なのか?」
「馬鹿」
涼子は、雄一の横腹を肘でついた。
「いてて……」
「職員会議の最中よ。話を聞いてごらんなさい」
「隣で?」
雄一は、机の上に、そっと上った。――なるほど、会議か何かをしているらしい声が、耳に入って来る。
雄一は、少し伸び上って、割れ目から覗いて見た。
3
「――これしか方法はないと思いますね」
と、誰かが発言を終えた。
――会議室のかなりの部分が、雄一の目に入った。
もちろん、知った顔ばかりが並んでいる。しかし、どうやら、あまり楽しい会議ではないようだった。
重苦しい様子で、誰もが腕組みをしたりして、考え込んでしまっている。
「――ともかく」
と、口を開いたのは、校長だった。「十五歳というのは、もう子供とはいえない。自分のしたことの責任は取れる年齢ですよ」
「しかし法律上は大人ではありません」
と、一人が言った。「体が大きいというだけで、大人扱いしてはいけないと思いますが――」
「それは分ってるよ」
と、他の一人が受けて、「しかし、何でも社会のせい、では、少し甘やかし過ぎじゃないのかな」
「我々の責任もある」
「もちろん、そりゃ分ってるが……」
「実際に、下校した後の、生徒一人一人の行動まで、こっちはつかめませんよ」
「そうそう。教師の方も人間だ。毎晩パトロールに出ていたら、こっちの生活がおびやかされる」
「大体、それは警察の仕事でしょう。我々が――」
方々から話が飛び交って、何だか分らなくなって来た。
「ちょっと――ちょっと待って下さい!」
と、女性教師が甲高い声で、議論をストップさせた。「話がこの事件からどんどん離れてしまっていますわ」
「同感です」
と、校長が言った。「差し当りは、この問題を起した生徒のことに絞りましょう」
――一体、何があったんだろう?
雄一は首をひねった。
こんなにもめるくらいだ。相当な事件だと思うのだが、そんな噂も耳に入っていない。
「一つ、申し上げたいんです」
と、女性教師が言った。「私たち、この生徒のことばかり話していますけど、忘れてはいけないのは、被害者になった女の子のことです」
「しかし――」
「確かに、うちの生徒ではありませんわ。でも、私も娘を持つ母親として、考えずにはいられません。中学一年生ですよ。――男の子に乱暴されて、その記憶は一生消えないでしょう。もし、うちの娘が被害にあったら、たとえ相手が中学生でも、私は許しません」
――誰もが、口をつぐんでいた。
こいつは大変だ。雄一もツバを呑み込んだ。うちの学校の誰かが、女の子に乱暴した!
大事件だぞ、こいつは!
「しかしねえ、中学三年生を、一度の間違いだけで――」
「間違いで済むことではありませんわ」
と、女性教師が言い返す。
「その女の子にも未来がある。しかし、彼の方にも未来があるんですよ」
「彼の未来のためにも、罪の大きさを、よく自覚させるべきです!」
「まあ、ちょっと――」
校長が手を上げて、止めた。「今、問題の生徒の母親が、この外に来ているそうです。ぜひ話をしたい、と言っているようですが……。どうしますか」
「聞かない方がいいと思いますわ」
と、女性教師。「同情で判断を狂わせては――」
「いいじゃありませんか」
と、他の教師が苦笑した。「こっちはそう甘くありませんよ」
「まあ話ぐらいはねえ」
――全体的に、いいだろう、という空気になっていた。
「じゃ、中へ入ってもらいましょうか」
校長はそう言って、隣の主事に向って、肯いて見せた。
主事が会議室を出て行くと、すぐにまた顔を出した。
「さあ。――どうぞ」
と、主事が促して、その母親が、おずおずと会議室へ入って来た……。
雄一は、唖然として、声も出なかった。
それは、雄一の母だった!
そんな馬鹿な! 俺が何したっていうんだ! どうして母さんがこんな所へ引張り出されるんだ!
雄一の母は、二、三歩、よろけるような足取りで、中へ入って来ると、いきなり、その場に座り込んだ。そして、
「申し訳ありません!」
と、絞り出すような叫び声を上げると、床へ頭をこすりつけんばかりにして、泣き出したのである。
母さん――よせ! 俺は何もしてないじゃないか! やめろ!
「母さん! 立ってくれ!」
我知らず、雄一は叫んだ。そして、そのとたん、足下の机がゆらいで、雄一は転げ落ちていた。
後はもう――何が何だか分らない。
夢中で、教室へ駆け戻った。
「――早く座れ」
教壇に、担任の教師がいた。
クラスの連中は、ちゃんと席についている。
訳が分らないままに、雄一は、自分の席に座った。
「みんな揃ったな」
と、教師が言った。「――みんなに悲しい知らせがある」
教室の中が、ふと緊張した。
「沢野涼子君が、今朝、登校途中、ダンプカーにはねられた。即死だった」
ええっ、という声にならない声が、教室に満ちた。
そんな!――雄一は、すんでのところで、笑い出してしまいそうだった。
今、俺は一緒だったんだ。ちゃんと話もして、現にあいつはいつもの席に――。
沢野涼子の席は、空いていた。
「――学校としても、あの国道に歩道橋を作ってほしいと何度も要望を出していたのだが、結局、間に合わず、こんなことになってしまった。残念だ」
と、教師が目を伏せた。
クラス中の女の子が、泣き出した。
雄一は、ゆっくりと涼子の席から目を戻した。
――あの成績。あの会議。あれは幻だったのか?
雄一は、ハッとした。――中学三年生。十五歳。
あの会議で言っていたのは……一年後のことだ。
あれが一年後の俺の成績、俺のしでかすことなのか?
「――涼子」
と、雄一は呟いた。
お前は、俺に、このまま行ったらどうなるか、教えてくれたのか?
どんどんだめになり、グレて、非行に走ることになる、って……。
涼子、お前は……。
雄一は、もう一度、涼子の席の方へ目をやった。
「――沢野君は、真面目で、いい生徒だった」
と、教師が言っていた。「今朝も、ちゃんと信号を守って、横断歩道を渡っていた。日直なので、早く出て来ていたんだ。トラックの運転手は、寝不足で、居眠り運転だったらしい。全くブレーキをかけずに、沢野君をはねてしまった。――この悲劇を、二度とくり返してはいけない。沢野君の死をむだにしないためにも――」
教師は言葉を切った。
女の子たちも泣きやんだ。そして、机に突っ伏して、一人、泣きじゃくっている雄一を、当惑したような顔で、眺めているのだった……。
優しい札入れ
1
俺だって……。
田代光明は、いかにも面倒くさそうに彼の上衣をハンガーにかけている妻の背中を見ながら、思った。――俺だって、お前が思っているよりは、いい男なんだぞ。
もちろん、田代も自分がそれほどいい男じゃないことぐらい、承知していた。何といったって、もう三十八歳なのだし、少し頭も薄くなりかけている。
腹は出ていないが、これは二年前に胃をやられてやせたのが、それきり戻らなくなったのだった。
まあ、見た目じゃ「二枚目」とは言えまい。
しかし、毎日の仕事ぶりを見ている、会社の女の子の中には、田代のように真面目で、そうパッとは目立たないが、着実な業績を上げるタイプの男に目をひかれる者だってあるのだ。
ただ――田代の方が、若い女の子を誘ったりしない、というだけのことだった……。
もし、俺にだって、その気があったら。――そうだとも。
「あら、どうしたの、これ?」
妻の和世が、田代の上衣のポケットから、真新しい札入れを取り出して、言った。
田代は、何となくムッとした。
「おい、勝手にポケットの中をかき回すなよ」
「かき回してなんかいないわ。仁子のピアノの月謝に、五千円札ないかと思って、見たかっただけよ。この札入れ、どうしたの?」
「もらったんだ」
「そうでしょうね。買うわけないし。――これ、結構高いわよ」
畜生! おい、頼むから、そういじくり回さないでくれよ!
「誰にもらったの?」
和世の質問は、もちろん、純然たる好奇心から来たもので、少しも「怪しむ」様子はなかった。
「会社でさ。――昼休みに、送別会を兼ねて、ちょっとパーティがあったんだ。その景品だよ」
「へえ。得したわね。あなたの、ずいぶん古くなってたじゃない」
ずいぶんどころか! もう崩壊寸前という状態だったのだ。
「――おい、飯にしてくれよ」
「あ、はいはい」
和世は、札入れから五千円札を抜いた。
「おい――」
「明日、返すわよ」
和世は、子供部屋の方へさっさと行ってしまった。「仁子。これ、明日のピアノの月謝ね」
「はあい」
田代は、肩をすくめた。――ああやって持って行くと、返って来たためしがない。
いや、和世だって、悪気があるわけじゃないのだ。
ただ、一晩寝ると、前日のことはケロッと忘れているという、誠に得な性格をしているのである。
そののんびり屋のところは、すっかり肉のついた体形にもよく出ている。――結婚したころは、もう少し細かった腰の辺りも、今は……。
まあ、グチを言っても始まるまい。和世は和世で、その呑気さは、時には苛立ちの原因にもなるが、安月給の貧乏暮しでも、文句一つ言わずにやりくりしているのは、ありがたいと思うべきだろうから。
「はい、お待ち遠さま」
と、和世がご飯をよそってくれる。
料理の腕も、和世はなかなかのものだ。
彼女――そうだ、彼女の手料理も、おいしかった。食べたのは、たった一度だったけれど……。
「また赤字だわ。いやねえ」
と、和世がテーブルについて、ため息をつく。「ボーナスもらって、一か月しかたたないのに。もう全然残ってないのよ。本当にどこへ消えちゃうんだろ」
それはこっちのセリフだぞ、と田代は内心、呟いた。
俺の場合は、財布の中の小づかいが、ちょくちょくお前の財布へ移動してるんだけどな……。
和世が新聞を広げて読み始めたので、田代はホッとした。
和世の日課ともいうべき、近所の「今日の出来事」に、耳を傾ける必要がないからである。
実際、和世は当然のことながら、ご近所の一人一人までよく知っているが、田代の方は両隣の顔さえさだかでない。
知りもしない人間の噂話を面白がって聞くというのは、容易なことではないのだ。
しかし……。
もう、今日限りで彼女に会うこともない。
そう思うと、田代はホッとしたような、がっかりしたような、いとも複雑な気持になる。
もちろん、彼女だって、田代が妻子持ちで、別れるつもりのないことも、初めから承知していた。
田代も、だから決して無責任に彼女に甘えて、傷つけないように、気をつかったつもりだった。
浮気、とも呼べないような、それは可愛いプラトニックな付合いのままだったのだ……。
あの札入れ。――田代は、あれを差し出した時、永田牧子の目に、光るものがあるのに気付いていた。
「――色々、ありがとうございました」
永田牧子は、昼休み、ビルの屋上に出た時、そう言って、頭を下げた。
「おい、やめてくれよ。僕の方こそ、君とおしゃべりしてると、若返るような気がして、本当に楽しかったよ」
と、田代は、心から言った。「――結婚するんだって?」
「ええ……」
永田牧子は、少しうつむき加減に、「田代さんの奥さんになれるわけじゃなし、と諦めたんです」
口調はふざけ半分だが、声音は少し震えていた。
「君はきっといい奥さんになるよ」
「ありがとう」
牧子は、小柄で、色白だった。東北から一人で上京して来てアパート暮し。二年前から、やいのやいのと親からは縁談のつるべうちだったらしい。
いくら田代のことが好きでも、どうせ結ばれることはないのだ。親に逆らうのにも疲れて、故郷へ帰って嫁ぐというのも、やむを得ない成り行きではあったろう。
「あの――これを」
と、牧子はただの白い紙に包んだものを差し出した。「もしよろしかったら、使って下さい」
「何だい?」
「札入れです」
「そんなことしてもらっちゃ……」
と、言いかけたが、これを断るのは、却って彼女には可哀そうだ、と思い直した。「ありがとう。じゃ、使わせてもらうよ」
「ええ、ぜひ」
牧子はホッとしたように言った。「私が作ったんです」
「君が?」
取り出して、田代はびっくりした。
「少し革細工なんかやっていたものですから……」
「立派なもんだね! いや、ありがとう」
レストランや喫茶店での支払いの時に、あのボロボロの札入れを、牧子が目に止めていたのだと思うと、田代は、ちょっと赤面した。
「中身の方が問題だけどね」
田代は、冗談めかして笑った。――同僚の目につかないように、あえてリボンをかけなかった牧子の気持が、胸にしみた。
「私――」
と、牧子が何か言いかけた時、誰かが屋上に上って来る気配がした。「じゃ、お先に」
牧子は、急いで戻って行ってしまった。
あの時、牧子は何を言いかけたのだろう?
結局、田代は牧子と二人きりで話す機会を、もう持てなかったのだった……。
「――そうだわ」
と、突然和世が大きな声で言い出したので、田代は現実に引き戻された。「ねえ、あなた。今日、お向いの菅原さんのおばあちゃん、いるでしょ、あの人がね――」
「うん。どうしたんだ?」
田代は、まるで思い出すこともできない「菅原さんちのおばあちゃん」の話に、耳を傾けた。
2
こんなこともあるんだ。
田代は、憂鬱な思いで、名前を呼ばれるのを待っていた。
薬局では痛み止めの薬ももらっている。いくら取られるか、見当がつかなかった。
うんざりするような、蒸し暑い日だった。外の得意先回りを半分ほど済ませたところで、突然歯が痛み出したのである。
ちょうどお昼だったので、手近な薬局で痛み止めの売薬を買って服んだが、一向に痛みはおさまらない。
あまり効くようでは、車に乗っているから、危険でもあったのだが、ともかく、差し当りは何とか痛みを鎮めないと、とても回ってはいられない。
何とか辛抱して一軒だけ出向いたものの、何しろ痛さで冷汗をかくほどなので、仕事の話どころではない。――結局、諦めてその先のお得意には電話を入れておき、目についた歯医者へ飛び込んだ。
炎症を起していた歯の神経を殺してもらい、やっと痛みはおさまったが、待合室へ戻ってホッと一息ついている間に、ふと不安になったのが財布の中身だ。
悪いことに、明日が月給日と来ている。あの、永田牧子にもらった札入れを取り出して中を覗いたが、四千円しか入っていない。――これで足りるだろうか?
畜生、本当ならあと五千円入っているはずなのに……。やっぱり、和世は、仁子のピアノの月謝に、と抜いた五千円を返さなかったのである。
しょうがない。事情を説明して、明日にでも払いに来よう。
「田代さん」
と、呼ばれて、急いで窓口へ行く。
「――保険証は?」
「仕事の途中で、突然痛み出したものですから」
と、田代は、まだ麻酔が効いて、少しもつれる舌で、苦労しながらしゃべった。
「そうですか。――七千六百円になりますが」
「はあ。実は――」
手にした札入れを、田代は無意識に探っていた。「ちょうど持ち合せが――」
手が、ふと真新しい感じの札に触れた。
目をやると、何と一万円札である。
「どうかなさいまして?」
「あ、いえ――七千六百円ですね」
田代はあわてて一万円札を取り出した。
しかし――おかしいな。ついさっき覗いた時も気が付かなかったが……。だが、それは間違いなく本物の一万円札で、ちゃんとおつりももらった。
たまにはこんなこともあっていいか。
文句をつける筋合のものでは、全くなかった。
「あなた、ごめんなさいね」
和世の言葉は、TVのプロ野球中継を見ていた田代の耳に、辛うじて引っかかった。
「何のことだ?」
田代はTVから目を離さずに言った。
「お財布よ」
「――財布がどうしたって?」
ピッチャー交代だった。田代は和世の方を見た。
「忘れてたの、すっかり。今日、あなた、夏の社員旅行の費用を払うんだって言ってたでしょ」
「ああ」
「じゃ、困ったでしょう。ゆうべ私、ついうっかりしてあなたの札入れから、一万円、抜いちゃったのよ」
「何だって?」
思わず田代は訊き返していた。
「あれ、今日払う分だったんでしょ?」
田代は、ちょっとポカンとしていたが、
「あ、ああ。――あれか。支払いはまだ、後でも良くなったんだ」
「え? そうなの。じゃ、良かった! あなた、恥かいたんじゃないかと思って、心配だったのよ」
和世は自分の財布を持って来ると、
「じゃ、忘れない内に、渡しておくわね」
「うん……」
田代は、その一万円札を受け取ると、席を立って、寝室へ行った。
洋服ダンスの中の上衣のポケットから、あの札入れを取り出す。中身は――六千円。
しかし、今日、確かに田代は、旅行の費用として一万円を払ったのだ。
どういうことだろう? 和世が何か勘違いしているのか?
その一万円札を札入れに入れようとして、田代は少しためらった。きっと和世は一万円を抜いたと「思い込んで」いるのだ。
もちろん、そうなるとこれは儲けものということになる。しかし……。
結局、和世がやりくりで苦労することになるのだと思うと、うまくやった、と自分のものにしてしまうのもためらわれた。――田代は、実際、真面目な男なのである。
ただ、素直に返すのも何となく面白くなくて……。ま、これまでに和世が抜いたきりで返し忘れた分を合せたら、一万円どころじゃなくなるのだし。
あれこれ迷った挙句、その一万円札を札入れに入れることにしたのは、野球中継が早く見たかったからだった。
なに、むだにつかわないようにして、何かの時に和世へ渡してやりゃ同じことなんだから。――再びTVに見入りながら、田代は自分へそう言い聞かせた。
どうして俺がこんな目に遭うんだ?
田代は、下腹を殴られて、目の前が真暗になり、冷たい歩道に倒れながら、思った。どうして俺が――。
「おい、目はさめたのかよ」
と、レスラーのような体格の男が、田代の脇腹を、靴の先でけった。
とても、喧嘩して勝てる相手ではなかった。
もともと、田代は、喧嘩などできる男ではなかったのである。
「勘弁……してくれ」
そう言うのが、やっとだった。
「おい、謝って勘定をまけてた日にゃ、こっちは商売にならねえんだよ。分らねえのか」
田代は震え上った。
また殴られたら、死んでしまうかもしれない、と思った。
――暴力バー。
そんな店があるということは知っていた。しかし、まさか……。
よそで軽く飲んで通りかかった店だった。
ちょうど客を送り出したホステスが、感じよく誘ったので、じゃ、軽く一杯、と入ったのだ(後でその客[#「客」に傍点]も仲間だと分ったが)。
水割りを二杯、ホステスもビールを取った。それで十五万!
とんでもない話だった。ボーナスが出て、多少は札入れもふくらんでいたが、それでも五万円もない。
そう言うと、相手の態度がガラッと変った。
店の裏へ引きずり出され、二、三発殴られた。――もとより逆らう気力など、まるでない。
「札入れを出しな」
と、男が指を鳴らす。
田代は、痛む右手で、札入れを抜き出した。
ひったくるように取り上げて、男は中から札を抜き出した。
「何だ。――ずいぶん持ってるじゃねえか」
男は数えると、「こりゃ偶然だ。十五万、ぴったり入ってるぜ」
田代は、わけが分らず、男を見上げた。
「――持ってるなら、初めっから払やいいんだ。こんな痛い目を見て、馬鹿な奴だぜ」
男はフンと笑って、「帰してやるぜ。――いいな、警察なんかへ駆け込んだってむだだぜ」
ポン、と札入れを田代へ投げて、男は店の中へ入って行く。
まさか……。そんな馬鹿な!
田代は、その札入れを手に取った。十五万も? そんなわけがない!
「いてて……」
まだ下腹が鈍く痛んだ。――田代は、よろけながら、歩き出した。
――帰宅した田代を見て、和世が仰天したのは当り前のことだ。
「もうやめてよ、知らないお店に入ったりするのは」
和世に言われるまでもなく、田代だってこりごりだ。
しかし、風呂へ入り、打ち傷やすり傷の手当をして、少し落ちついて来ると、田代はあの札入れのことを考えていた。
これは偶然ではない。歯医者の時の一万円、社員旅行の旅費を払った時の一万円、そして今日の十五万円……。
入っているはずのない金だ。それがあの札入れの中にある。
しかも、とっさに必要になって、困ると、その金額が入っているというのは……。あの札入れが足しておいてくれるのだ。
もちろん、そんなことがあるわけはないと否定するのも簡単だ。しかし、一万円ぐらいなら、勘違いということもあるだろうが、五万円が実は十五万だったなんて。――そんなことがあるわけはない。
永田牧子が作ってくれたあの札入れ。
あれに、何か秘密があるのだ。
「あなた」
和世が、いやに真面目な顔をして座った。
「――うん?」
「今の話、嘘なのね」
「どうして?」
田代は面食らった。「こんなひどい目にあったのが、嘘だっていうのか?」
「何か、他にわけがあったんでしょう」
「どうしてそんなことを――」
和世がポンと田代の前に、あの札入れを投げ出した。田代は、和世を見て、
「これが何だっていうんだ?」
「ずいぶん親切なヤクザだったのね」
「親切?」
「ちゃんと中に五万円も残しといてくれるなんて!」
和世は、そう言い捨てると、プイと立って行ってしまった。
田代は、札入れを手に取って、中をあらためてみた。――五万円、入っている。
あの子が、永田牧子が、足しておいてくれたのだ……。
3
やっと捜し当てた。
田代は、〈佐々木〉という表札の出た、ごくありふれた木造の家の前に立って、ホッと息をついた。
そう。――ここでいいはずだ。
小さな町だから、というので、人に訊かずに捜そうと思ったのが間違いだった。
捜し歩いてもう二時間。そろそろ陽が傾きかけている。
田代は、ちょっとためらってから、その家の玄関のチャイムを鳴らした。待つほどもなく、
「はい。――どちら様ですか」
と、格子戸の奥から、聞き憶えのある声がした。
田代が名乗ったものの、向うは分っていなかったらしい。戸が開いて、牧子の目が大きく見開かれた。
「まあ、田代さん!」
「やあ……」
「こんな所まで……。どうしてまた……。いえ、それより、どうぞ。お上り下さい」
「じゃ、ちょっと失礼」
田代は、奥へ通された。――土地も安いのだろう。広さは、東京なら「屋敷」と呼べるくらい、ある。
「――驚きましたわ。田代さんが、こんな田舎町に。お仕事ですの?」
「いや、そういうわけじゃないんだ」
田代は、言い淀んだ。「実は――君に話があってね」
「私に? 何でしょうか」
畳の上に、牧子は正座した。
「ご主人は?」
「まだ戻りません。いつもたいてい、夜十時ごろ、帰ります」
「そう……。忙しいんだね」
「いいえ。お酒ですわ。大好きなものですから」
と、牧子は微笑んだ。「で、田代さんのご用って……」
「これだ」
田代は、牧子の前に、あの札入れを置いた。
「私がさし上げた……」
「うん。――とてもありがたいんだがね。返しに来た」
「田代さん……」
「僕にも分っている。これは特別な――いや、そんな言葉じゃ不充分だが、ともかく普通の札入れじゃない」
田代は、牧子の目を見ないようにして、言った。「だから、君に返そうと思った。捨てるだけじゃ、君に申し訳ないと思ったんだよ」
「そうですか」
牧子は、あまり表情のない声で言った。「私、ただ少しでも田代さんのお役に立てればと思って――」
「うん。確かにね、役には立ってくれたんだよ。何度も助かった。しかし……。家内が、疑い始めたんだ。僕が嘘をついてる、と。――僕とほとんど口もきかなくなって、このままじゃ、家庭はめちゃくちゃになってしまう」
牧子は、うなだれた。
「そんなこと……考えもしませんでした」
「いや――本当に不思議な話だからね。家内に言っても、信じちゃくれないだろうし」
田代は、札入れを牧子の方へ少し押しやった。「申し訳ないが、これは返すよ。受け取ってくれないか」
牧子は、体中で、切ないため息をついた。聞いている田代の方が、たまらなくなるようなため息だった。
「すまないね。君のせっかくの気持を」
と、田代は言った。
「いいえ。――私の方こそ、ご迷惑をかけてしまって、すみません」
と、牧子は頭を下げた。「でも信じて下さい。決して、田代さんのご家庭を壊すつもりなどなかったんですから」
「うん、もちろん分ってる。君のことは、よく知ってるからね」
田代は、腰を浮かした。
「もうお帰りですか」
「うん。急いで東京へ戻らないと、家内がまた心配するからね」
「じゃ、お引き止めいたしません」
――玄関まで送って来て、牧子は、もう一度、深々と頭を下げ、
「どうぞ、奥様を大事になさって下さい」
と、言った。
牧子の家を出て、少し歩いたところだった。
「ちょっと」
と、田代は、六十ぐらいと思える老女に声をかけられた。
「はあ?」
「今、あんた、あの〈佐々木〉って家から出て来たのかね」
「そうですが。――どうかしましたか、それが?」
「あんた、何の用であの家に?」
「個人的な用です。先を急ぐので」
と、歩きかけると、
「個人的な用事で空家[#「空家」に傍点]に入ったのかね」
「空家?――とんでもない、ちゃんと人が住んでますよ」
「誰に会ったんだね」
「奥さんですよ。もう本当に急がないと――」
「あそこの奥さん?」
「ええ、そうですよ」
「牧子さん、とかいう人だろう?」
「ええ」
「その人なら、つい先だって、死んだんだよ」
田代は、つい笑ってしまった。
「今、会って来たんですよ。死んでるわけがない。――失礼しますよ。ともかく」
「振り返って見てごらん。あの家を」
「あの家がどうしたっていうんです?」
田代は言われるままに振り返って――目を疑った。
上り込んで、牧子と話したあの家は、明りも消え、窓ガラスがあちこち割れたままになっていたのだ。
こんなことってあるのか? たった今、牧子と別れて来たばかりなのに!
「――噂はあったんだよ」
と、その老女が言った。
「噂?」
「幽霊が出るってね。自殺した奥さんの」
田代は、青ざめた。
「自殺したって?」
「そう。旦那さんとうまく行かなくてね」
「自殺……。しかし、どうしてそんなことになっちまったんです?」
「何でも、奥さんがちょくちょく使いみちの分らん金を使ったせいらしいよ。旦那が細かい人でね。――男でもいるんじゃないかと疑って、このご近所も、そんな目で奥さんを見たんだよ。誰も奥さんと口をきかなくなり……。その内、奥さんはノイローゼになってね」
「それで……」
「そう。それで自殺。――もう一か月くらいたつかね」
使いみちの分らない金……。
では――では、俺のあの札入れに突然現われていた札は、牧子の財布から消えていたのだろう……。
それが原因で、牧子は死んだのだ。
田代は、半ば呆然として、あの家へ戻ってみた。もちろん、もう中には誰の姿もなく、あの札入れも消えていた。
しばし、田代はその家をながめ、動かなかった……。
「それ、新品か」
と、田代は訊いた。
台所で、買って来たものをしまっている和世を田代は眺めていて、テーブルにあった真新しい財布を手に取ったのだ。
「そうよ」
と、和世は言った。「もらい物なの。でもついてる財布なのよ」
「何が?」
「今日スーパーで買物して、いざ支払いとなったら、予算オーバーしちゃってね。でも念のために財布の中を見たら、一万円札が一枚、入ってたの! 思ってたより余分にね」
「そうか」
「この財布持ってると、きっといいこと、あるんだわ」
和世は、そう言って笑った。
――田代は、ふと思った。
誰か、男が、和世にあの財布を贈ったのではないか。そして、その財布が――。
あの札入れを返さなきゃ良かった、と田代は思った。
愛しい友へ……
1
始業のベルが鳴ると、折原和子はハッとして顔を上げた。
授業だわ。――行かなくては。
椅子をガタつかせて、立ち上ると、折原和子は職員室の中を見回した。ベルを聞いても、一向に立ち上ろうとしない先生もいる。
あわてて行くこともないさ、と言いたげに、新聞を広げて読んでいる者も。
しかし、和子は、そんな先生たちに、苦情を言う気にはなれなかった。単に同僚だから、という立場で気をつかっているのではない。自分もまた、こうして立ち上り、教室へと足を運ぶのに、大変な努力が必要だからだ。
和子は出席簿をかかえると、職員室を出た。立てつけが悪くなっていて、戸がうまく開かない。でも、もう誰も修理しようともしないだろう。
廊下を歩いて行くと、古い床板があちこちできしんだ。――今どき、どこを捜したって見当らないような木造校舎である。
折原和子は二十八歳。大学を出て、すぐにこの学校へ、英語の教師としてやって来た。
だから、和子が来た時から、もうこの校舎は「時代もの」だったわけで、モダンな造りのキャンパスで学んでいた和子は面食らったものだが、しかし、和子はこの木造校舎が気に入っていた。コンクリートの、固い壁の中とは違ったぬくもりが、この板で包まれた空間には、あったのである。
各教室から洩れて来る、元気のいい生徒たちのおしゃべりやら追いかけっこのドタバタという足音に混って、この床板のきしむ音も、何とも調子外れな伴奏のように耳に響いたものだ。時には、生徒が飛びはねた拍子に、床板が抜けてしまうことさえあった……。
でも――今は――。
何て、静かなこと……。廊下には、和子自身の足音だけが、いやに大きく響いている。
各教室からは、かすかに話し声も聞こえては来るが、誰しもが押えた声で、重苦しいため息ばかりをついているかのようだった。
重苦しいことは、和子の足取りも同じだ。教室へ入って行くのが、怖いようだった。
でも――やめるわけにはいかないのだ。生徒が一人でもいる限り、私はここの教師なのだから。
和子は、自分が教えるクラスの扉の前に来て足を止めると、大きく一つ深呼吸をして、精一杯笑顔を作り、扉をガラッと開けた。
「――おはよう!」
と、明るい声で言って、「どう? みんな元気?」
教壇に上って、教室の中を見渡す。
「はい、ちゃんとけじめをつけましょうね」
ガタガタと椅子が鳴って、みんなが立ち上る。
「おはようございます」
みんな、精一杯、元気な声を出しているのだ。でも――たった十一人しかいないのでは、限度がある。
「はい、座って。――この前はチャプター8の真中で終ったのね」
和子は、教科書を開いてから、「そうだわ、誰か欠席はいる?」
「いません」
と、一人が答えた。
そう。――訊くまでもない。一人でも欠けていれば、すぐに分るのだから。
「じゃ……野口さん、この前の続きを読んで」
と、和子は言った……。
たった半年。――半年の間に、三十六人いたクラスの、三分の二がいなくなってしまったのだ。まるで、今でも悪い夢を見ているようだった。
しかし、夢でも何でもない。この町を襲った、突然の「災難」は。
この小さな田舎町は、三十年来、ある大企業の工場で成り立っていた。町の住人の内、半分以上が、その工場か、その下請けの企業で働き、残りの町民もまた、その労働者のためのサービス業や、商店で生活していた。
いわゆる「企業城下町」というわけである。
六年前、和子がこの高校へやって来た時には、まだ町は充分に活気があり、この高校の卒業生も、大部分がこの町の工場に就職するのが通例であった。父と息子、二代にわたって、工場で働く者も少なくなかったし、女子も、工員としてかなりの数が働いていた。
町を出る者は少なく、この高校で、仲の良かった男の子と女の子が、工場で何年か共働きした後、結婚するというケースがいくつもあって、生徒たちはそれを、「定期バス」と呼んでいた。
「あの二人、〈定期バス〉ね」
という具合に。
町の暮しは、東京から来た和子などから見れば、変化や刺激に乏しくて、退屈だったが、それも慣れれば、ある穏やかな満足感につながっている。人々は「若い先生」に親切で、一度風邪で寝込んだ時など、生徒の母親たちが交替で食事を作りに来てくれたものだ。
和子はこの町が好きだった。いつまでも、都会の毒に染らないでいてほしい、と願っていた。
それが――突然の「工場閉鎖」。
大企業にとっては、人件費を削ることが何よりの節約なのだ。東南アジアに、安い労働力による工場を作って、この町の工場を閉鎖する。
その計画は、町の誰にも知らされていなかった。――突然の通告。三段階での解雇。
そして、再就職の口は少なかった。もちろん、この町には、働き口など見付けられない。
町は揺れた。――組合の代表は東京の本社へ抗議に行ったが、部長にも会わせてもらえずに帰って来た……。
工場の完全閉鎖まで、あと二か月。二か月ほど前から、町の人々は、東京や他の都会へ仕事の口を求めて、あるいは遠い親類や知人を頼りに、町を出て行き始めた。
一人が出て行くと、後は雪崩を打つように次々と続いて行く。――当然のことながら、この学校の生徒たちも、親と共に、この町を出て行かなくてはならなかった。
毎日のように送別会が開かれ、その度に生徒たちは泣いた。そして今……もう十一人しか、この教室には残っていない。
出られる人たちはほとんど出てしまって、今は、町の人たちの「流出」も一段落していたが、それは落ちついていることを意味しはしない。むしろ、今残っているのは、どこにも行き場のない人たちであり、二か月の後には、職を失う人たちと、その家族である。
高校生ともなれば、親の置かれた立場も当然分っている。学校全体が、どこか重苦しい空気に包まれているのも、当然のことだったろう。
「――はい、そこまで」
と、折原和子は言った。「誰に訳してもらおうかな。――三屋さん。典子さん、訳せる?」
三屋典子は、教科書を開いてはいたものの、和子の声が全く耳に入らない様子だった。
「典子さん、どうしたの?」
和子が重ねて訊くと、三屋典子はハッと目が覚めたように、
「すみません」
と、頬を染めた。「どこですか、先生?」
和子は別に怒りもしなかった。三屋典子は、至って真面目な生徒である。こんな時に、あれこれ考え込んでしまっていても、むしろ当然というものだろう。
典子は、立ち上って、言われた箇所を訳し始めた。――口調もしっかりしている。
あの古くさい丸ぶちのメガネを、もっと可愛いのにかえたら、もう少し垢抜けて見えるわね、きっと、と和子は思った。
三屋典子は、丸顔で、体つきも全体にふっくらとした、いかにも丈夫そうな女の子である。内気で、クラスの男の子から、よくからかいの的にされるが、何を言われても、おっとりと笑っていて、怒らない。
母親が長く病気で寝込んでいるので、弟と妹をかかえて、家事をしなくてはならない立場だったが、少しもそんな苦労のかげを感じさせなかった。
しかし、今、三屋典子の家は、よそにも増して大変なはずだ。――典子の父親は、閉鎖される工場の組合委員長で、会社との交渉の先頭に立つ身である。
勝目のない闘いの指揮者ほど、辛いものはないだろう。しかも、自分の身のふり方は、他の全員が決ってからでなければ、考えられない。――生活そのものも楽ではあるまいが、おそらく、先行きの不安も小さくはないはずだった……。
「公園には、沢山の――大勢の人が集まって――」
と訳していた三屋典子の言葉が途切れた。
和子は、ゆっくりと机の間を歩きながら、
「――集まって……。何をしてたのかな?」
和子は、三屋典子の方を見た。「典子さん?」
突然、三屋典子がその場に崩れるように倒れた。椅子が引っくり返り、メガネが飛ぶほどの勢いだった。
「典子さん!」
教科書を投げ出して、和子は典子の方へと駆け寄った。
「神田さん、この本、捜して来てくれる?」
クラスで、一緒に図書委員をやっている子に言われて、神田あゆみは、
「はい」
と、すぐにカードを受け取っていた。
「急いでね」
「はい」
神田あゆみは、図書係の席から出て、図書館の奥の書庫へと入って行った。どことなく埃っぽい匂い。本が壁そのもののように立ちはだかっている。
あゆみにはよく分っていた。自分の方へ回されて来るのは、めったに書架から取り出されることのない本ばかりなのだ。
つまり、そういう本を捜し出して、取って来ると、「手が汚れる」ので、みんないやがるのである。だから、
「あの転校生へ回しちゃおうよ」
ということになる。
でも、あゆみは、いやがらずに引き受けていた。転校して来て早々に、図書委員という仕事をやらされて、疲れもしたけれど、それで早くクラスの中に溶け込めるかもしれない、と思ったのだ。
何といっても、あゆみはあの田舎町から、一歩も出たことがなかったのだ。それが突然東京の私立学校へやって来た。つい、過敏なほどに気をつかっても、仕方ない。
「ええと……」
古いカードは、整理法が違っているので、見付けるのに手間どった。「上の棚かしら……」
この私立の女子校は、小学校から大学まであって、図書館も立派である。――前の町で通っていた高校の、教室一つ分もないくらいの図書室しか知らなかったあゆみは、迷子になりそうなほど広いこの図書館に初めて入った時、呆然としてしまったものだ。
あゆみは、スチールの階段を上って行った。――書庫が二階建になっているのだ。
初めの内は、カードを渡されても、どの辺を捜せばいいものやら見当もつかなかった。しかし、一か月たって、週に三回、当番で本の出し入れをしている内に、およその配置や並べ方が頭に入って来ていた。
「ここだ」
あゆみは、天井近くの高い棚に、捜していた本を見付けて、棚に取り付けてあるはしごを引張って来た。
本を取り出し、カードと照し合せる。――間違いない。大丈夫だわ。
はしごを下りて……。あゆみは、棚の間の狭い通路の奥の方に、誰かが立っているのに気付いて、ドキッとした。こんな所に、人がいることなんて、めったにない。
そこは、上の電球が一つ切れてしまって、薄暗くなっていたのだが、立っているのが、やや重たそうなセーラー服の女の子だということが分った。
奇妙だった。この女子校の制服は、可愛いモスグリーンのブレザーとネクタイである。あんな野暮ったい感じのセーラー服を着てる子なんていないのに……。
しかし、もっと驚いたことがある。そのセーラー服に、あゆみは見覚えがあった。似ている。あの町で、あゆみが通っていた高校の制服と、そっくりだ……。
「誰?」
と、あゆみは声をかけていた。
すると――その女の子が静かに明るい方へ進み出て来たのだ。まだあゆみとは大分離れていたが、丸ぶちのメガネをかけた、ふっくらした丸顔、そしてあゆみを見つめている、どこか切なげな眼差し。
「――典子!」
あゆみは、目を疑った。「典子じゃないの!」
三屋典子だ。あの高校で一番あゆみと仲良くしていた子である。
「驚いた! どうしてこんな所に?」
あゆみの問いに、典子は答えず、ちょっと不思議な笑みを浮かべただけだった。
あゆみが近寄ろうとすると、下から、
「神田さん! 急いでね」
と、呼ぶ声がした。
「はい! 今、行きます」
あゆみはそう答えて、「典子、ちょっと待っててね。これ、置いて来るから。ね?」
と、急いで階段を下りる。
本をカウンターへ出し、
「手を洗って来ます」
と、言っておいて、あゆみは、書庫へと駆け戻った。
二階へ上り、
「典子。――典子。どこ?」
息を弾ませて、元の場所へやって来たが、三屋典子の姿は見えなかった。
「典子。――どこにいるの?」
あゆみは、書架の間を覗いて行った。いくら広いといっても、限度があるし、それに、書庫の出入口は一つだけだ。典子がここから出ていないことは確かだった。
しかし――結局、典子の姿はどこにも見当らなかったのである。
2
「わざわざ、ありがとうございました」
三屋典子の母親は、何度も和子に頭を下げた。和子の方が恐縮して、
「どうぞ、起きてらっしゃらないで下さい。どうってことじゃないんですから」
と、押し止めなければ、表まで送りに出て来ただろう。
和子は、典子に、
「じゃ、寝不足にならないように、気を付けてね」
と、声をかけて、典子の家を出た。
典子は、意識を失って、じきに目を覚ましたので、しばらく保健室で横にさせておいたのだが、心配で帰りには和子がついて、送って来たのである。
典子自身は、もうすっかり元気そうだったが……。ただ、いつもの典子と、どこか違っている風で、和子には何となく気にかかった。どこが、どう違うのか、和子にもはっきりは分っていなかったのだが。
――典子の住む社宅を出ると、和子は町の目抜き通りを抜けて、自分のアパートへと歩いて行った。
黄昏時の、かげ[#「かげ」に傍点]の中に浸った道を歩いて行くと、町の灯が一つ一つ消えて行く侘しさが、一段と身にしみた。雨戸を閉め、住む人を失った家の何と多いことだろう。そして、人がいなくなった家の、何と荒れ果てるのが早いことか……。
つい、二週間ほど前に町を出て行った一家――和子の教え子の一人だったが――の家は、花が好きで、ベランダや軒先、窓辺に、いつも四季それぞれの鉢植えの花が、色彩豊かに咲いていたものだ。
和子はいつも、その家の前を通るのが楽しみだった。一つ一つの花の開き具合を、町の人たちはみんな毎日確かめていた。
しかし――突然の東京行きに、何十という鉢を持ってはいけない。近所の人たちに配ったりもしたが、もらう方でも、いつまで咲かせておけるか分らないのだ。
結局、半分以上の鉢はそのまま、放置されて、アッという間に枯れてしまった。
今、その軒先や窓辺には、茶色くしなびた死んだ花たちの鉢が並んで、あたかもこの町を象徴しているかのように、和子には見えたのだった。
越して行った東京から、その娘が手紙を寄こしたが、家族五人、狭いアパート住いで、植木鉢一つ、置く場所もありません、と寂しげに書いていた……。
和子は、時折すれ違う人と、無言で会釈を交わしながら、一体、企業というのは何なのだろう、と考えていた。人が企業を作り、動かし、成長させて来たはずなのに、「人」のために、企業は何をしただろう?
親友たちを引き裂き、幼ななじみを北へ南へ追いやって、何の痛みも感じないのが、企業というものなのか……。
重苦しい気分で、和子は自分一人分の夕食のおかずを買い、アパートへと帰った。
アパートへ入って、明りをつけると、電話が鳴り出した。急いで出てみると、
「あ、折原先生?」
と、女の子の声が飛び出して来た。
「ええ。――あ、ちょっと待ってよ」
と、和子は、わざと考え込むふりをして、「ええと……誰かな?」
「どうせ、忘れちゃったんでしょ」
和子は、フフ、と笑って、
「そうね。神田あゆみなんて子がいたような気もするけど」
と、言った。
「あ、憶えててくれた」
「当り前でしょ。どう? 元気でやってるの?」
「はい、やっと学校も慣れて来て」
あゆみは、もともとしっかりした娘だった。
「女子校だったわね、あなたは」
「そうです。あの――先生、ちょっとお話が……」
「なあに? こっちからかけ直そうか」
「いえ、大丈夫です」
と、あゆみは言った。「あの――典子のことなんですけど」
「三屋さん?」
「ええ。典子の家、町を出たんですか」
和子は、ちょっと戸惑った。
「いいえ。ちゃんとみんなまだいるわよ。どうして?」
「今日、典子、学校を休んでませんでしたか?」
「休んではいないわ。ただ――ちょっと授業中に、失神してね」
「え?」
「別に大したことなかったの。今、一応念のために、家まで送って来たのよ。でも、どうして?」
――あゆみはしばらく何も言わなかったが、
「先生……。これ、冗談でも何でもないんです。聞いて」
と、少し重苦しい声で言った。「今日、典子を見たんです」
和子は、座り直した。あゆみは妙な作り話をする子ではない。
しかし、あゆみの話を聞いても、和子は混乱するばかりだった。
「じゃ、確かに、三屋さんだったのね?」
「間違いありません。だって、万一、よく似た子がいたとしても、そっちの制服を着てるはずがないでしょ?」
あゆみの言うことも、もっともだった。しかし――そんなことがあり得るのだろうか。
「私が幻を見たのかもしれませんけど、でも何だか心配なんです。典子の身に何かあったら、と思って」
あゆみと典子は、たぶんあの学校の中でも、姉妹のように仲良くしていたという点で、一番だった。和子は、あゆみが転校して行ってしまうと決った日、典子の目の下に濃いくま[#「くま」に傍点]ができて、おそらく、一睡もしていなかったのだろう、と痛々しい思いで見ていたものだった。
「別にその――典子さんらしい子と、話はしなかったのね」
「ええ、そのひまがなくて」
と、あゆみは言った。「私、こっちへきてから、まだ典子に一回しか手紙も出してないんです。新しい学校で、色々忙しくて――」
「分るわ。でも、典子さん、しっかりやってるから、大丈夫よ」
「今度、手紙出します」
「そうね。そうしてあげて」
「すみません、変な話で」
「いいえ、嬉しかったわ、声が聞けて」
少し間があって、あゆみが言った。
「学校――ずいぶん減ったんですか」
「そうね。あなたのいたクラスは十一人になったわ」
「今いるのが十一人?」
「そう。――来週、島田さんが転校して行くから、十人ね」
「寂しいですね」
「でも、どうにもならないことだし。――あなたたちは、新しい場所で、精一杯やってくれればいいのよ」
「はい」
あゆみは、しっかりした声で答えると、「じゃ、先生……」
切りたくないようでもあったが、長電話をしたら、料金もかさむ。和子は、自分の方から電話を切った。
あゆみの前に現われた、典子とそっくりの女の子。――そんなことが、現実に起るだろうか?
いや、きっと――あゆみも、典子のことを気にしていて、そのせいで、少し似たところのある子を、典子と思ったのだろう。それがたぶん、一番可能性のある説明だ。
「――さて、夕ご飯にしましょ」
和子は自分へ言い聞かせるように、口に出して言うと、まずカーテンを閉め、着替えることにした。
あゆみは、電話を切って、しばらくは受話器に手をのせたままにしていた。
まるで、電話線を伝って、あの町の空気が、風景や物音が、届いて来る、とでもいうように。
先生……。折原和子の声を聞いた時、あゆみは、キュッと胸をしめつけられるような気がした。懐しい。――あの暖かさは、今の「名門校」のどこを捜しても、見当らないものだった……。
居間へ入って、あゆみは驚いた。
「お父さん! 帰ってたの?」
神田吉造は、ソファに背広姿のままで、座り込んでいた。あゆみが入って来たのにも気付かない様子で、ぼんやりと宙を眺めていたが……。
「――誰に電話してたんだ?」
と、ゆっくりあゆみの方へ顔を向けた。
「うん。――折原先生。ほら、あの高校の」
「若い女の先生か」
神田吉造は、無表情な声で、「何の用だ?」
「別に……。ちょっと声が聞きたくなったの」
あゆみは、そう言っておいた。「お母さん、手伝って来る」
台所の方へ行こうとすると、
「あゆみ」
と、神田吉造が言った。「あの町の人に、あんまり連絡するんじゃない」
あゆみは、戸惑った。前にもそう言われたことがある。
「どうして? 友だちだって、まだいるんだし、構わないじゃない」
素直に「はい」と言わないのは、いつものことだ。それに、父がなぜそんなことを言うのか、あゆみには分らなかった。
「いかんと言ってるんだ!」
突然、神田は大声を出した。あゆみは青ざめて、立ちつくしている。
「何なの、大声出して」
と、母の百合子が、台所から飛んで来た。「――あゆみ、何かしたの?」
「どうして私に訊くの?」
あゆみは言い返した。「怒鳴ったのはお父さんよ。お父さんに訊けば?」
あゆみは、居間を飛び出すと、階段を駆け上って行った。
百合子は、少し心配そうに、娘の部屋のある二階の方をうかがって、
「あなた、どうしたの?」
と、訊いた。
「何でもない」
神田は、怒鳴ったことを悔んで、自分に腹を立てているといった様子だ。
「苛々してるのね。――少しお休みでも取ったら?」
神田は黙って首を振った。その額には、かつて百合子が見たことのない、深い、暗い悩みが刻み込まれているようだった。
「あなた――」
「忙しいんだ。少し疲れてるだけさ」
神田は、とても本音とは聞こえない言い方で、「だから早く帰って来ただろう?」
「ええ。ご飯にしますから、すぐ。早くお風呂へ入って寝るといいわ」
「ああ。そうしよう」
神田はソファから立ち上ると、一瞬、ふらっとよろけた。百合子がびっくりして、
「あなた!」
「いや――何でもない」
神田は、頭を振って、「もう若くないんだ。それだけさ」
と、笑って見せ、居間を出た。
二階へ上ると、寝室の方へ行きかけて、足を止め、あゆみの部屋のドアを開けようとして、ためらった。
「あゆみ……」
と、ドア越しに、声をかける。「怒鳴って悪かったな。――疲れてたんだ。それにな、お前も、新しい学校や友だちに早く慣れた方がいいと思ったし……。そのためには、あの町のことは忘れた方がいい。そう思ったんだよ……」
返事はなかった。神田は、少しドアの前で立っていたが、
「――別にお前のすることに文句を言ってるわけじゃないんだ。分ってくれ」
と、言った。
すると、
「何しゃべってんの、一人で?」
振り向くと、あゆみがキョトンとして立っている。
「あゆみ、お前……。中にいたんじゃないのか」
「トイレに行ってたのよ」
「そうか。俺は……。いや、何でもないんだ!」
神田は真赤になった。それを見て、あゆみはふき出してしまった。
「笑うな。人が真面目に話してたのに……」
「分ってるわ。お父さん、少し髪が白くなったよ」
そう言うと、あゆみは、「お母さん、手伝って来る」
と、階段を下りて行った。
神田は少しホッとした気分で、下の方から、
「お母さん、何か手伝うよ」
と聞こえて来るあゆみの声に耳を傾け、それから寝室へと入って行った。
3
「三屋さん。――三屋さん」
和子は、少し不安な気持で、くり返して呼んだ。
典子は、この間倒れた時のように、少しぼんやりとして、校庭を眺めていたからである。
しかし、今は授業中ではなく、昼休みだった。典子は、お弁当を食べる様子もなく、黙って窓から表を見ていたのだ。外は、冷たい雨だった。
「あ、先生。すみません」
と、典子は振り向いた。「何か……」
「そうじゃないの。ただ――お昼、食べてないみたいだから」
「あ。ええ。いいんです。今朝、ちょっと忙しくて、作る暇がなくて」
「体に悪いわよ」
と、和子は言った。「おそばを取ってあるの。一緒に食べましょ」
「でも……先生のじゃないんですか」
「私、一つで充分。二つ取ったのよ。さ、来て」
典子も、それ以上は断らなかった。
和子と典子は、職員室で、隣同士、向い合って、あたたかいおそばを食べることになった。
「職員室も、寂しくなったんですね」
と、典子が言った。
「そうね、先生方も、家族があるわけだし」
と、和子は肯いた。「でも、私はしつこく居座るわ。独りだし、気楽だもん」
典子はちょっと笑った。――そして、
「また、誰かやめるんですか」
と言った。
和子は少しためらったが、
「ええ。安藤君がね。来週一杯ですって」
「じゃあ、クラス、九人になっちゃうのか」
典子は、息をついて、「この町も、なくなっちゃうのかなあ」
「そうね。――無責任なことは言えないけどそんなことにしたくない、とは思ってるわ、私」
「私もです。誰だって、自分の生れて、育った町が、消えてなくなるのなんて、いやですよね」
典子は、おそばをきれいに食べ終ると、「先生、このお代――」
「何言ってんの。先生に恥をかかせないでよ」
「すみません。じゃ……」
ペコンと、典子は頭を下げて、「――ゆうべ、父が帰らなくって」
「まあ」
「今朝になって、やっと帰って来たんです。母も、ゆうべまんじりともしなかったみたいで……。それで、お弁当どころじゃなかったんです。弟と妹、学校へ出すのがやっとで」
「あなたは? 寝たの?」
「少し。――うたた寝してました」
「体に悪いわ」
と、和子は首を振って、「きつかったら、早退してもいいわよ」
「いえ、大丈夫です」
と、典子は少しはにかむような笑みを浮かべて言った。「帰ったら、却って父が起きちゃいます。狭い家だから」
典子の、父親への気のつかい方に、和子は胸の痛むのを覚えた。
「お父さん、大変ね。まだ組合のお仕事が?」
「ええ。就職口を見付けてくれ、と毎日、会社の上の人にかけ合ってるみたいですけど。――ゆうべは、役員の話し合いが、もめたみたいで」
「そう」
「みんな、自分のことが不安でしょ。家族もいるし、当然ですよね。だから、組合のことばかりやってて、自分が働き口を見付けられなくなる、って……。でも、父は、あくまで再就職の口は、会社が捜して来るべきだ、と言って、自分じゃ捜していないんです」
確かに、委員長としては、そうせざるを得ないだろう。いや、典子の父は、そういう「筋を通す」ことにこだわるタイプなのだ。
「もっと利口な人なら、さっさと辞めて、次の仕事、見付けてるんでしょうけど」
と典子は言った。「結局、組合の他の人たちと口喧嘩になって、明け方近くまでやり合ってたらしいです」
やり合って、こうすればいい、という結論が出るのならともかく、結局は虚しい討論の空回りに終ってしまうのだ。神経のすり減る仕事である。
「お父さんをいたわってあげるのね」
と、和子は言った。
「あ、昨日、あゆみから手紙、来ました」
と、典子が思い出したように言った。「先生、私がこの間倒れたことを――」
「ああ、ちょうどあの日にね、あゆみさんから電話がかかったの。それで、つい……」
「心配させちゃったみたい。今日返事書こうと思ってます」
「そうしてあげて。――みんなばらばらになっても、せめて、連絡ぐらいは取れるようにしておきたいものね」
「そうですね……」
と、典子は、何となくもの思いに沈むように言った……。
「そうだわ。あゆみさんの手紙に、書いてあった? あなたとよく似た女の子のこと」
「え?」
「じゃ、書かなかったのね。あなたが倒れた日にね、あゆみさん、学校であなたとそっくりの女の子を見たんですって。それでびっくりして」
典子の頬がサッと紅潮した。
「それ――本当ですか?」
と、身をのり出す。
「ええ。着てる制服も、ここのとそっくりだった、って。あゆみさんも、あなたのことが忘れられないでいるのよ」
しかし、典子は、和子の言葉が耳に入らない様子で、ひどくそわそわしながら、
「あの――どうもごちそうさま」
と、立ち上ると、一礼して、職員室から出て行ってしまった。
和子は、ちょっと面食らったが、まあ大分典子も元気になったようだ、と肯いて、ホッとした。――また倒れるようなことにはなってほしくなかった。
机の電話が鳴る。和子は、お茶を一口飲んでから、受話器を取り上げた。
「――はい、折原です。――あ、どうも。――え?」
和子の表情が凍りついた。
「あゆみじゃない」
と、声がした。
文庫本から目を上げて見ると、髪を赤く染めた少女が、テーブルのわきに立っている。
「――分んないの?」
と、その少女はクックッと笑った。
「茂子?」
「そうよ。――どう、この頭?」
あゆみは、すっかり呆気にとられていた。あの町で、同窓だった子である。増田茂子。
しかし、今、目の前に立っているのは、全くの別人だった。
「一人なの?」
と、増田茂子は訊いた。
「友だちと待ち合せてるの」
と、あゆみは言った。「でも、早く着いちゃったから……。座らない?」
「じゃ、ちょっと」
ブレザーの制服らしいものは着ているが、スカートはほとんど足首まで届くほど長い。首には幾重にも安物のネックレスが下っている。
「茂子――お父さん、大阪に行くって、言ってなかった?」
「行ったわよ。でも、使いもんになんなくてさ。うちの親父、ずっと同じ仕事ばっかりだったじゃない。つぶしがきかないんだね」
茂子はタバコを出して、マッチで火をつけると、「――あんたも一本やる?」
「結構よ」
と、あゆみは首を振った。「じゃ、今は東京に?」
「うん。その日暮しよ。仕事のある日は出てって、ない日はゴロゴロしてる。私も、学校なんて馬鹿らしくってさ。新宿歩いてる時、面白い連中に誘われたんだ」
「茂子……」
「あゆみは、ずいぶんいい格好してるね。お宅、真先に次の仕事が決った口だもんな。やっぱり、インテリだからね、あんたのお父さん」
「そんなことないわ。ただ――運が良かっただけ」
と、あゆみは低い声で言った。
「そうね。運のいい奴、悪い奴、色々だよね」
と、茂子はタバコをふかして、「首を吊っちゃう奴もいるし」
あゆみは、当惑して、
「何の話?」
と、訊いた。「あの町のこと?」
「知らないの? 首を吊って死んだのよ。新聞にも出たわ」
「首を……。誰が?」
「三屋さんって、ほら、あんた仲良かったじゃない。あの子の親父さんよ」
あゆみは、言葉もなかった。
「――組合の委員長だったから、苦しい立場だったんじゃない?」
と、茂子は首を振って、「お袋さんも、具合悪かったしね。大変だろうね、さぞかし」
「そうでしょうね……」
と、あゆみは言った。
典子……。今、どんな思いでいるだろうか?
増田茂子はコーラを一杯飲むと、
「ごちそうになるわね。お金ありそうだからさ、あゆみ」
と、立ち上って、「じゃ、またね」
タバコを灰皿へ押し潰して、出て行く。
あゆみは、一人になると、体が震え出しそうになるのを、必死でこらえなくてはならなかった。――典子の家にも、年中遊びに行っていて、無愛想だが、とても器用で、何でも簡単に作ってくれた、典子の父にも、よく会っていたのだ。
あの人が首を吊って死んだ……。何てことだろう!
典子は大丈夫だろうか? おそらく、母親と、弟、妹をかかえて途方にくれているに違いない典子のことを思って、あゆみは胸が痛んだ。しかし、あゆみにはどうしてやることもできない。
いくら友だちでも、遠く離れてしまったら、手紙で慰めるぐらいしか、やれることはないのだ。しかし――増田茂子の変りようも、あゆみには大きなショックだった。といって、子供だけを責めてすむだろうか。
あゆみは、ぼんやりと表の通りをガラス越しに眺めていた。――休日の原宿。中学生と、高校生ぐらいの女の子たちが、五人、六人とグループを作って、通りすぎて行く。
屈託なく笑い、はしゃぎ、飛びはねている女の子たち。――あゆみは、あの子たちと同じ世代なのに、どうしても、あんな風にはしゃぐことのできない自分を、感じていた。
いや、おそらく、あの町から、否応なく出て来ざるを得なかった子たち、みんな、同じ思いに違いない……。
ふと、あゆみは目を止めた。――黒っぽい服の女の子が、歩いて来る。顔はよく見えないけれど、その服装は、まるでお葬式にでも出るかのようで、明るい通りには、似つかわしくなかった。
その歩き方に、あゆみは何となく見覚えがあるような気がしたのである。でも……。
うつむき加減に歩いて来たその女の子が、あゆみのすぐ目の前を通ろうとして――顔を上げ、あゆみを見た。
――水のコップが落ちて、床で砕けた。
「あゆみ! 大丈夫?」
ハッと振り向くと、待ち合せていた友だちが立っていた。
「あ……」
「ごめんね、遅くなって。――危いよ、コップが割れてるから」
「あ――うん」
あゆみは、立ち上って、表へ目をやった。
もう、黒い服の姿は、見えなくなっていた。――典子の姿は。
おかしい。――あゆみは、新聞を閉じて、考え込んだ。
あゆみは、捜してみたのだ。典子の父が自殺したという記事を。しかし、一週間前まで、全部のページに目を通しても、その記事は見当らなかった。
「何してるの?」
と、母の百合子が居間を覗く。
「お母さん、他に新聞は?」
「それだけよ。――何を捜してるの?」
「こっちの用事」
と、あゆみは言った。「お父さん、まだ帰らないの?」
「今夜は遅くなるって。お風呂、入ったら?」
「後でいい」
「そう? じゃ、お母さん、先に入るわよ」
「どうぞ」
あゆみは、見終った新聞を、また最近の分から逆に見て行った。
そして――ふと、思い付いた。ページのナンバーだけを手早くチェックして行く。
「これかな」
二日前の分で、一枚抜けているのがある。もちろん、何でもないことかもしれないが、もしかして……。
あゆみは、台所の大きなくずかごを捜してみた。新聞らしいものはない。
二階へ上ったあゆみは、父と母の寝室へ入って行った。隅のくず入れ。――ティッシュペーパーが丸めて捨ててある。その下を引っくり返すと――固くねじった新聞が出て来た。
「――ただいま」
階下で、父の声がした。「いないのか」
あゆみは、その新聞を広げると、手につかんだまま、下へおりて行った。
「――何だ、母さんは?」
居間のソファにぐったりと体を沈めている父が、あゆみの顔を見て、言った。
「お父さん。――これをどうして隠したの?」
あゆみが、新聞をテーブルの上に投げ出す。「三屋さんが自殺したって出てるわ。どうして、捨てたの?」
父の顔が青ざめるのを、あゆみは見逃さなかった。
「どうして、って……。お前が見たら、気にすると思ったんだ」
「お父さんが気にしたんでしょ」
「――どういう意味だ」
父が、じっとこっちを見つめる。――怖がっている。怯えている。
「お父さん……」
あゆみは、ゆっくりとソファに座った。「私、ずっと気にしてた。でも、何でもないことなんだ、と自分へ言い聞かせて……。でも、もうごまかしておけないわ」
「あゆみ――」
「どうして、お父さんだけが、こんなにいい思いをしてるの? みんな失業同然で、あちこちに散らばって行ったわ。それなのに、うちは東京へ出て来たとたん、こんな新築の家、私は私立の名門女子校。車まで買って……」
「それは――ちゃんとお父さんの能力を、今の会社が評価してくれたんだ」
「でも、できすぎてるわ。工場の閉鎖が決って、真先に次の勤め先が見付かったのは、うちじゃないの」
「それが不満なのか!」
と、神田は怒鳴った。「お前は、俺たちが路頭に迷って、その日暮しをしてもいい、っていうのか!」
「そうしてる人が――いえ、せざるを得ない人が、いくらもいるわ」
と、あゆみは言い返した。「何があったの? お父さん、話して! 典子は私の一番仲のいい友だちだったわ。その子のお父さんが首を吊ったのよ」
「俺のせいじゃない!」
いきなり神田はパッと立ち上った。「俺が悪いんじゃない!」
「お父さん」
と、言ったのは、あゆみではなかった。
「百合子……」
「お母さん。――お風呂かと思ったわ」
「そう簡単にお湯は入らないわ」
と、百合子は言った。「あゆみ。お父さんを問い詰めないで」
「でも、本当のことを知りたい」
「知ってどうするの?――見当はついてるんでしょう」
「お父さんは……会社のために、協力したのね」
「ああ」
神田は肯いた。「――組合の反対で、もめないように、本社に頼まれて、こっそり組合を分断した。いいポストを約束して、工場閉鎖がすんなり行くよう、説得したんだ」
「そのおかげで、この家が――?」
「確かにそうだ。本社から準備金ももらったし、この家も安く買えるように、はからってくれた」
「そう……」
あゆみは、何も感じなかった。今は、感じる勇気がないのかもしれない。
「あゆみ」
と、百合子が言った。「お父さんを責めないで。私たちのために、と思って、そうしたのよ。それに――お父さんが一番辛い思いをしてるわ」
「お母さん」
あゆみは立ち上り、居間を出ようとして、言った。「典子に、そう言える?」
そして、二階へと駆け上って行った。
4
折原和子は、三屋典子の家の前まで来て、足を止めた。
誰かが、玄関の戸に何か貼っている。
「何してるんですか?」
と、和子が声をかけると、振り向いたのは、工場の課長の一人だった。
「や、こりゃ先生」
と、会釈して、「いつも子供がお世話に」
和子は、貼ってある紙を見て、
「これ……。二週間以内に立ち退けって、どういうことなんですか」
「会社の決りでしてね。もう、うちの社員はいなくなったわけですから。社宅には置いとけないわけです」
「それにしても……。ここには、病気の奥さんと三人の子供しかいないんですよ。二週間で出て行けなんて……」
「規定ですからね、これが」
「だって、どうせ工場がなくなれば、新しい人がここに入るわけないんですから、閉鎖までいたって、構わないじゃありませんか」
「いや……しかし、本社の方では、一応、電気、ガス代とか、補助もしていますから、経費のむだづかいは――」
「分りました」
和子は、大声を出したいのを、何とかこらえていた。「もう行って下さい」
「失礼します……。ま、これが規定ですんでね」
と、言いわけがましく、呟きながら、帰って行く。
和子は、その課長がいなくなると、貼紙をつかんではぎ取り、引き裂いた。――そんなことをしても、この家の人々は救われない。しかし、せめて、そうでもせずにはいられなかったのだ……。
「――ごめん下さい」
と、中へ入って、「奥さん。――典子さん」
と呼んでみる。
誰も返事をしない。夜だし、いないわけがないのに。
昼間の、お葬式の時にはゆっくり話ができなかったので、これからのことなど、典子と話そうと思って、やって来たのである。
「誰かいませんか」
上るのもはばかられて、迷っていると、戸が外からガラッと開いた。
「あら、先生」
近所の奥さんが、典子の弟と妹の手をひいて、立っていた。
「どうも。――その子たちは?」
「悪いけど、夕飯食べさせてやってくれ、って、典子ちゃんが頼みに来て。お葬式の後始末で忙しいっていうんでね」
「そうですか。じゃ、典子さんは……」
「家にはいるはずですけど」
和子は、不安になって、上ってみることにした。
「典子さん。――典子さん」
襖を開け、和子は息をのんだ。典子が倒れている。
「典子さん!」
駆け寄って、和子は典子の胸に耳を押し当てた。――鼓動は確かだった。
「大丈夫だわ。でも……気を失ってる」
和子は、ふと思い当った。この状態は、この前、典子が授業中に突然倒れた時と、よく似ている。
いくら起しても、起きようとしないのだ。
「自然に目を覚ますでしょう」
と、和子は言った。「たぶん――疲れが出て」
「お母ちゃんは?」
と、妹の方が言った。
「そうね。捜してみましょ」
和子は、立ち上って言った。
あゆみは、ベッドに突っ伏して、しばらく泣いた。
しかし、人間、どんなに悲しいことがあっても、永久に泣いているわけにはいかないのだ。
あゆみは、ゆっくりと体を起して、手の甲で目を拭った。
「ハンカチ、いる?」
と、誰か[#「誰か」に傍点]が言った。
いや、あゆみには分っていた。振り向くと、典子が、勉強机の前の椅子に座っていた。
「典子……」
「会いたかった」
と、典子は言った。「凄いね、人間の愛情って」
「典子、あなた……」
あゆみは、もちろん、典子が当り前のやり方でここに来たのでないことは、分っていた。
こんなことがあるものなのか、信じられなかったが、今、目の前にいるのは、確かに典子だった。
「本とか、一杯読んだの」
と、典子は言った。「超能力とか、空間移動とか。でも、結局は、本当にその人のそばにいたいって思いが、どれくらい強いかで決るんですって」
「そう……」
「言ったもんね。二人はいつまでも友だちだって」
「うん、言ったね」
しかし――友だちでいられるのか? 何もかも知ってしまった今となっては。
「お父さんのこと、気の毒だったね」
と、あゆみは言った。
「うん……。でも、もう戻って来ないし」
と、典子は自分へ言い聞かせるように言って、「――あゆみ、凄くきれいになったね。お嬢様って感じ」
「よして」
あゆみは、思わず目をそらした。
「あゆみ……。私のこと、怖いの?」
「いいえ」
「私、幽霊じゃないのよ。いうなれば――魂だわ。自分の一番願ってることを、形にするのよ」
「典子……。でも、もうあのころのことは、終ったんだわ」
「でも、それは大人の都合でしょ。私たちは友だち。ね、そうでしょ」
あゆみは、やっと笑みを浮かべて、
「そうね……。友だちだわ」
と、言った。
その時、ドアの外で、
「あゆみ」
と、父の声がした。
あゆみはハッとした。
「ね、まずいわ、ここにいちゃ」
と、立ち上る。「お父さん、待って!」
ドアを開けて、父が入って来た。
典子は目を開き、そっと頭をもたげた。
暗く、静かな家の中に、すすり泣きの声がしている。もう、父の葬式は終ったのに、誰が泣いてるんだろう?
典子は、ゆっくりと立ち上った。
襖を開けると、
「――先生」
「典子さん! 目が覚めたのね」
和子は、涙を拭って、「やっぱり、前と同じように?」
「びっくりしました? ごめんなさい。私、あゆみの所へ行ってたんです」
「典子さん……」
「本当なんです。ちゃんと今、あゆみと話もしました」
「典子さん、聞いて」
和子が、典子の肩に手をかけた。「お母さんが……」
「え?」
「弱ってらしたせいもあるんでしょうけど。ご主人が亡くなって、寂しかったのよ」
「母が――お母さん!」
「台所で――待って!」
和子は、必死で、典子を押し止めた。「待って、典子さん!」
「お母さん!」
「包丁で喉を突いて――」
典子は、和子の手を振り切って、台所へと駆け込んで行った。
「誰と話してたって?」
と、神田は言った。
「典子よ。三屋さん」
と、あゆみは言った。「信じないでしょうけど」
「あの三屋の娘が――どうしてこんな所に来るんだ」
神田は、首を振って、「なあ、あゆみ。お前の気持は分る。――しかし、世の中、きれいごとだけじゃ生きて行けないんだ。分るか?」
あゆみは、ベッドに腰をかけて、父の、古くさい話を聞いていた。
「お前には、貧乏させたくない。そう思ったから、お父さんはああして、組合を裏切ったんだ。しかしな、悔んじゃいないぞ。そうだとも。母さんやお前を、暮しのために働かせたりしたら、そっちの方がよほど悔んでいただろうな」
あゆみは、黙っていた。
「――何か言ったらどうだ」
と、父が不安げに言う。
「言ってどうなるの?」
と、あゆみは肩をすくめた。「お父さんは正しいと思ってやったんでしょ。だったら、私がどう思おうと関係ないでしょう。私だって、そのおかげで、こんなきれいな家に住んで、名門校へ通ってるんだから」
「あゆみ。お前は――」
神田は、言いかけて、ギョッと目を見開いた。「――何だ、あれは!」
あゆみは振り向いた。父が見ているものを、あゆみも見た。
「典子!」
典子が、部屋の隅に立っていた。あの黒い服は同じだ。しかし、両手は血で真赤になり、服の上にも、血はこびりついていた。
「どうしたの、典子!」
と、あゆみは叫ぶように言った。
「消えろ! こんな――こんなことがあるか!」
神田は、真青になって、怒鳴った。「畜生! こんなのは幻だ! 幻覚だ!」
「お父さん――」
「どけ!」
神田は、手をのばして、椅子をつかんだ。
「何するの!」
あゆみが父の手にしがみつく。
すると、典子が、燃えるような目を神田へ向けて、
「聞いたわよ!」
と、絞り出すような声で言った。「ひどい人! お父さんを――お母さんも、後を追って死んだのよ!」
「化けもの! 出てけ!」
神田が、椅子を振り上げると、典子の上に振り下ろした。典子が叫び声を上げて、倒れる。
「――典子!」
あゆみは、駆け寄った。
神田は呆然と突っ立っている。――まさか、本当に、そこに人がいるとは思わなかったようだ。
典子は額から血を流し、ぐったりと倒れていたが、あゆみが抱き起すと、目を開いた。
「あゆみ……」
「典子。――しっかりして! 今、救急車を――」
「やめて……。このままじっとしていて」
と、典子は、かすれる声で言った。
「でも――」
「あゆみの腕の中で……死ねるなんて」
「馬鹿言わないで! そんなに簡単に死にゃしないわ!」
「私、あゆみみたいになりたかった……」
と、典子は言った。「あゆみは……私の理想だったもん……」
「典子――」
「いつも――そばに」
典子の体が、フッと、かき消すようになくなった。そして――カーペットに、赤く血のしみが広がって、その中に、割れたメガネだけが、落ちていたのだ……。
和子は、打ちひしがれて、座っていた。
典子の写真が、じっと自分を見下ろしている。――笑っているのが、却って辛かった。
むしろ、にらみつけるか、責め立てるような目で見ていてくれたら、と思った。
町の公民館は、ガランとして、人の姿はなかった。――夜になっていて、もう、典子の弟と妹も、近所の奥さんの家へ戻っていたのである。
ただ一人、和子が、典子の棺の前に、座っていた。
一体何があったのか。母の死のショックで、何かに頭を打ちつけたのか……。誰にも分らなかった。
確かなのは、典子が死んだということだけである。――母親の方が一足早く、遺骨になった。
典子の死体は、一応警察で調べなくてはならなかったのだ。
自分は何をしていたのか。生徒が死ぬとき、そばについていながら、何をしていたのか……。
和子は、涙がこみ上げて来るのを、じっとこらえた。泣いたら卑怯だ。泣いて、逃げてはいけない。
自分がやったこと、やらなかったことを、しっかり見据えるのだ。
誰かが入って来た。――振り向いて、和子はびっくりした。
「神田さん!」
あゆみが、立っていたのだ。
「――典子に、返すものがあって」
と、あゆみは言った。「私は、典子みたいに純粋じゃありませんでした。電車で来たんです」
「そう……」
あゆみは、焼香すると、
「――先生、これを典子に」
と、割れたメガネを、取り出す。
「これ……。どこで?」
「私の家です。典子、本当に、うちへ来たんです」
「じゃあ……」
「父が――父がやったんです」
あゆみは一部始終を、和子に話して聞かせた。
「そんなことが……」
「父がやったといっても、誰も信じてくれないでしょう」
あゆみは、赤い目で、写真を見て、「父は、償いをする、と言ってます。何とかして、工場に残った人たちの働き口を捜す、と。頭を下げて頼んで回る、と言ってます」
和子はゆっくりと肯いた。
「――それですむことかどうか、分りませんけど」
「どうしようもないことだったのよ」
と、和子は首を振って言った。「ね、これを、かけてあげましょう」
「ええ」
二人は立ち上って、棺の中に眠る、典子の顔に、そっとメガネをかけてやった。
翌日、典子の葬儀がすむと、あゆみは東京へと戻って行った。
和子は、あゆみを見送って、町へと戻った。
町は相変らず、寂しく、灰色に見えたが、それでも和子は、どこかこれまでと自分の心が違っているのを感じていた。
それは何だったのだろう?
町は、日を追って、さびれ、やがて消えて行くかもしれない。しかし、人はたとえ方々へ散っても、決して変らず、揺るがないものがある。
典子が、自ら身をもって証明したように、人と人との絆は、時に、空間や時間さえ超えてしまうのだ。
和子は、そこまで突きつめ、思いつめた、典子の心を思いやると、いじらしく、また嬉しかった。――誰にでも可能ではないとしても、この世に奇跡が存在すると知ることは、すばらしかった。
それも人の愛の力が、それをなしとげたのだから。
「先生、こんちは」
と、生徒が、声をかけて行く。
「こんにちは」
和子は、笑顔で答えながら、あの子たちの明るさの中に、この町が生き続けるのだ、と思った。
「先生、頑張って」
――どこかから、典子の声が聞こえたような気がして、和子は思わず周囲を見回したのだった。
雨 雲
1
「いやだなあ……」
と、隣で雄二が呟くのが聞こえて来る。
「何がだよ」
分っているくせに、紳一は訊いてやった。退屈してもいたのだ。
どうしてみんな、運動会なんてものに熱中できるんだろう? ただ、走ったり、よじ上ったり、けとばしたり……。
そんなことして、何が面白いんだ?
本当に、紳一はそう思っていた。――小学校六年生としては、いささかひねくれていると思われそうだが、なに、内心同じように思っている子は決して少なくない。ただ、何となく面白いふりをして見せてるだけさ……。
「お前、平気なのかよ」
と、雄二が言った。「もうこれが終ったら徒競走だぜ」
「知ってるよ」
「俺、遅いからさ。いやなんだ」
と、雄二は、仏頂面をして、「いくら一生懸命走っても、親父は決って怒るんだ。『あんな風に初めっから気を抜く奴があるか!』って。かなわねえよ」
雄二は確かに、太っていて、見るからに走るのは苦手そうだった。しかし、それを言えば、紳一だって同じことだ。
運動全般、ともかく得意でもないし、好きでもない。小柄で、ヒョロッとやせていて、全力で走ったりすると、たちまち貧血を起す。
ただ、紳一は、たとえ「かけっこ」でびりになったって、雄二みたいに、怒られたりはしない。
紳一は一人っ子で、しかも父を早くに亡くしているせいもあって、母は、紳一が少々煩しく感じるくらいに、可愛がってくれている。
無理に頑張って走って、貧血でも起そうものなら、
「あんなものいい加減に走っときゃいいのよ!」
と、意見してくれるくらいである。
でも、今日も走らなくてすむだろう。――きっと。
青空はまぶしかった。生徒は全員地べたに座っているので、お尻が痛い。
ピッと笛が鳴って、前のゲームが終った。
紳一は、空を見上げた。――開会式の校長先生の挨拶の通り、「絶好の運動会日和」である。
ところどころ、雲は浮かんでいるが、この分なら、今日一日の快晴は間違いなし、というところだった。
「やれやれだ」
と、雄二が渋々立ち上る。
徒競走は全員が走るので、時間がかかる。――まだいいや[#「まだいいや」に傍点]、と紳一は思った。
赤、白、緑に色分けされたチームごとに、走る。六年生は最後なので、ずいぶん待っていなくてはならなかった。
「――もうすぐだぜ」
と、雄二が情ない声を出した。「畜生、急に雨でも降らねえかな」
紳一は、空を見上げた。――もちろん、雨など降りそうにない青空。バン、バン、とスタートのピストルの音が空を駆け巡っている。
すると――青空の一点に、ポツン、と小さな黒い影が浮かんだ。誰も気付いた人間はいないだろう。紳一以外には。
「おい、みんな少し手足をほぐしとけよ!」
と、担任の先生が声をかける。
紳一は、何もしなかった。そんな必要はないのだ。――そうだとも。
ふっと日がかげって、みんなびっくりしたように空を見上げた。
いつの間に。――誰もが目を丸くしている。
黒い雨雲が、太陽を遮って、ちょうどこのグラウンドの真上辺りに広がりつつあった。
「何だ、あんなに晴れてたのに……」
と、先生が渋い顔で、「早くやろう。――おい! 急げ!」
雄二が、胸をドキドキさせている様子で、
「おい、降るかな、雨?」
と、紳一に訊く。
「たぶんね」
と、紳一は答えた。
「――よし、次!」
と、先生が怒鳴った。
ポツン、と頭に軽く当る感触。ポツン、ポツン、と落ちていた雨滴は、パタパタと音をたててグラウンドの土を叩き始めた。
「雨だ!――おい、校舎へ入れ!」
先生が、大声で生徒たちに言った。
紳一は、みんなが駆け出して行くのを眺めながら、のんびり歩いて行った。――大丈夫。まだひどくは降らないよ。
父母席にいた親たちも、突然の雨で、もちろん傘もなく、先生たちがあわてて体育館へと誘導している。
紳一は、校舎に入ると、少し濡れた髪の毛を、タオルで拭いた。
OK。――さあ降れ[#「さあ降れ」に傍点]。思いっ切り。
雨は、グラウンドの風景をかき消すばかりの勢いで降り始めた。
先生たちが、頭からずぶ濡れになって、右往左往している。
「やった、やった!」
と、雄二が飛び上って喜んでいる。「これで走らなくてすむぜ、なあ!」
「そうだね」
紳一は、窓から激しく降りしきる雨を眺めながら、ポツリと呟くように答えた……。
2
「天気はどうだ?」
起きて来て、まずそう訊くのが、坂本の日課のようになってしまっていた。
といっても、坂本は気象庁に勤めているわけではない。
「大丈夫。いいお天気よ」
と、洋子が答える。「天気予報でも、今日は一日、大体晴れですって」
「そうか……」
それから、坂本は、おもむろに欠伸をするのだった。
「今朝はオムレツを作ったから、食べて行ってね」
と、洋子が台所から声をかける。
「分った」
坂本は返事をしながら、パジャマを脱いで、ベッドの上に放り投げた。
顔を洗って、ひげを剃り、鏡の中の自分の顔に見入る。――三十四歳としては、若々しく見える。ゆうべは少し早めに眠ったし、この数日はアルコールも控えて体調を整えていた。
よし。――大丈夫だ。
鏡の中の自分へ、坂本は肯いて見せた。
もちろん、まだ目が覚めて五分ほどしかたっていないから、多少は眠そうだし、頭も少しぼんやりしているが、朝食をとる間に、ちゃんとエンジンが回り出すに違いない。
ダイニングへ行くと、洋子がコーヒーをいれて待っている。
「今朝は豪勢だな」
と、坂本は椅子を引いて座りながら、「食べ過ぎて、お腹を痛くしないようにしなきゃ」
「小さめのオムレツよ。ちゃんと栄養つけてくれなきゃ」
「君の方こそ、だろ」
坂本は、大きくせり出した妻のお腹へ目をやりながら言った。
洋子は二十七歳。少しきゃしゃに見える体つきだが、病気はあまりしない。しかし、もう予定日は二週間ほど先に迫っている。
「調子、どうだい?」
と、朝食をとりながら、坂本は言った。
「順調よ。時々けとばすから、びっくりして目を覚ましちゃう」
と、洋子は笑った。
――七つ違いの坂本と洋子は、三年前に結婚していた。洋子は妊娠するまで共働きをしていたが、今はずっとこの家にいる。
「明日の仕度をしとけよ」
と、坂本は言った。「今日はできるだけ早く帰るけど」
「無理しないで。明日休めるのなら、それでいいのよ」
「休むさ。今日さえすめば――」
電話が鳴り出した。こんな朝から、誰だろう?
洋子が出て、
「――あ、おはようございます」
言い方で分る。坂本はコーヒーで、口に入れていたパンを流し込んだ。
「はい、紳一さんに代ります。――あなた、お義母さん」
「分った。――もしもし」
「紳一? どうなの、今日は」
と、母のしっかりした声が聞こえて来る。
「どう、って?」
「大切な日なんでしょ? ちゃんと憶えてるんだからね、母さんは」
「心配することないよ」
と、坂本は苦笑した。
「いい? 落ちついてね。あんたは昔から人前に出るとあがる[#「あがる」に傍点]子だったから」
「もう子供じゃないぜ」
と、坂本は言ってやった。「じゃあ、もう出かけないといけないから」
「はいはい。頑張って。こっちでお祈りしてるからね」
と、母は言った。
きっと、冗談でなく、本気でお祈りしているに違いない。
「いつまでも子供扱いだ」
と、席に戻ると、坂本はアッという間にオムレツを平らげた。「――もう出るかな」
今日は、坂本の「課長昇進試験」の日である。その資料や、準備したスライドを持って行かなくてはならない。
いつもより少し早目に出る必要があった。
「ご心配なのよ、お義母さんは」
と、洋子は言った。「ネクタイ、どれにする?」
「どれがいいかな。君、決めてくれ」
「ええ、いいわ」
洋子は嬉しそうに言った。
――坂本の勤める会社は、何万人という社員を抱える大企業である。TVコマーシャルでもよく名が売れており、他人に説明するには苦労しないが、同じ世代での出世競争には激しいものがあった。
つまり、ポストの数に対して、同世代の社員が多すぎるのである。しかも、大企業なので幹部が一人一人の業績に目を届かせるのは難しい。
その結果生れたのが、「課長昇進試験」である。――三か月前に、幹部会から出されたテーマについて、自分で調査し、資料を揃えて、発表しなければならない。それも、社長、常務以下、十数人の幹部がズラリと並んでいる前で、である。
今日、その試験を受けるのは七人。その内の二人だけが、「課長」のポストを次の人事で約束される。多くて二人だ。一人も合格しないことも珍しくない。
この三か月、坂本は家に帰らないこともしばしばだった。――洋子の体のことを考えると心配だったが、仕方ない。
何しろ、何もなくても夜中に帰ることが年中だ。それに加えて試験の準備である。時には会社に泊り込むこともあった。
坂本だけではない。一緒に試験を受ける者、誰もがそうだったのである。
「あなた。もう行った方が」
と、洋子が言った。
「うん。じゃ、今日は早く帰るからな」
「ええ。――気を付けて」
洋子は家の外へ出た。
郊外の一戸建。ここを買って二年になる。空気もいいし、緑も多いが、その代り、駅までは車で出るしかない。電車で一時間十分――。
ぜいたくは言えないが、疲れ切って帰る身には長い距離だった……。
洋子は青空を見上げた。
「いいお天気ね」
「良かったよ。雨だとズボンの裾に泥がはねるからな」
坂本は両手一杯にかかえた資料を、車の後ろの席へ放り込むと、「じゃ、行ってくる」
と、洋子に微笑んで見せた。
「行ってらっしゃい」
と答えて、洋子はちょっと笑ってお腹に手を当てた。
「どうした?」
「この子も『行ってらっしゃい』って。お腹をけとばしてるわ」
「そうか」
坂本は笑った……。
洋子は、夫の車が見えなくなるまで、家の前に立って見送っていた。
何しろ見通しはいいので、車がずいぶん小さくなるまで、視野に入っている。
――新たに造成された住宅地だが、まだ実際に家が建っているのは三分の一ほど。夜になるといささか心細い。
特にこのところ、夫が帰らないこともあるので、戸締りは厳重にしていた。
家の中に入って、鍵をかけ、チェーンをかける。ちょっと顔をしかめた。
お腹の具合が――いや、もちろん、赤ちゃんのことだが――いつもと微妙に違うような気がする。気のせいかもしれないが。
夫には言えなかった、今日は夫にとって大切な日なのだ。――大丈夫。何てことはないんだわ、きっと……。
本当ならもっと早く――一か月前には実家へ戻っていたかった。しかし、洋子の実家は九州で、夫について行ってもらわなくては、不安だった。
この三か月、夫がそれどころでないことを、洋子はよく知っていた。社内でも優秀な若手の一人として、夫は張り切っていたし、プライドもあった。
今日がすむまでは……。洋子も、無理は言えなかった。
玄関を上ろうとして、郵便が一通、落ちているのに気付いた。――かがみ込んで拾うのもひと苦労である。
〈××クリニック〉? 何だろう?
ダイニングに入って、椅子に腰をおろすと、洋子は封を切った。
薄っぺらな紙が一枚出て来る。――〈請求書〉。
あの人、クリニックにかかったなんて、何も言ってなかったのに……。どこか悪いんだろうか? 〈カウンセリング料〉として、大した金額でもない請求が記してある。
カウンセリング? 洋子は首をかしげた。
まあいい。――請求があったからには、振り込んでおかなくちゃ。
忘れないように、洋子はその封筒を自分の大きな財布の中へ、たたんでしまっておいた。
さあ、片付けなきゃ。――皿やコーヒーカップを流しへ運んで、テーブルの上を拭こうとしていると、不意に下腹に痛みがやって来た。
じっと息を殺して、動かずにいると、やがてその痛みは遠ざかった。――何だろう?
まさか――もちろん、そんなことはない!
まだ早すぎる。まだ……。
慎重に、そろそろと動きかけて、洋子は急に部屋の中が薄暗くなったので、ドキッとした。自分の目がどうかしたのかと思ったのである。
そうじゃないんだわ。日がかげった[#「かげった」に傍点]のだ。――あんなにいいお天気で、雲なんかどこにも見えなかったのに。
何だか空気まで冷たくなって来たような気がして、洋子は軽く身震いした。
車は快調に飛ばしていた。
エンジンの音にも不安はない。――よし、今日はいいスタートだ。
坂本紳一は、自分の内に漲って来るエネルギーを感じていた。母や洋子は心配してくれるが、坂本はいささかもあがってなんかいなかった。
もちろん、実際に社長や常務の前に出れば、緊張するだろうが、それは却ってプラスにもなる。そういう場に強いのだ!
一緒に今日試験を受ける六人の中で、二人はこの三か月の間に胃を悪くして、何日か休んでいた。ストレスがたまったのだろう。
一人はノイローゼ寸前で、昨日も休んでしまっていた。たぶん今日も出て来ないだろう、と坂本は思った。
そういう連中に同情しないほど、坂本は冷たいエリートではない。坂本自身も、学生のころは目立たず、パッとしない、「普通の生徒」にすぎなかったのだ。
それが、社会へ出て、運良く今の会社に採用されると、たちまち頭角を現わして、同期の中でもトップを争うようになってしまったのである。我ながら不思議だった。
ともかく、会社が「合っていた」と言うしかない。――夫婦に「相性」というものがあるように、人間と企業にも、それはあるものなのだろう。
カーラジオのニュースでも、別に鉄道の事故とか遅れはないようだ。
駅に着いて、駐車場にこの車を入れて、それからゆっくりといつもの電車に間に合う。
そうだ。――すべてうまく行ってるぞ。
洋子の体のことは、ちょっと気になっていた。しかし、明日になれば、この三か月の、信じられないくらいの忙しさから、解放されるのだ。たった一日のことだ。
――あのヤブ医者め!
車は、まだ未開発の林の間を抜けていた。駅までは、ちょっとした「山越え」をしなくてはならないのだ。
買物は、反対の方角へ出て、スーパーに行く。そっちへはバスが通っているのだが、この道はまだ車でしか行けないのである。
しかし――ちょっとめまいや頭痛がしただけで、医者なんかへ行ったのが間違いだった。精神科の医者を紹介されて――それがとんでもない奴だったのだ!
何といったっけ?――そうそう。「過剰適応」とか。
つまり、世の中にうまく合せすぎてる、ってわけだ。会社では、無理をしている。本当は会社を嫌っていて、仕事がいやなのに、それを自分で押し隠してしまっている……。
全く、ああいう連中の言うことは!
俺は仕事を楽しんでいるのだ。張り切って、喜んでやりとげるのだ。
それが……「過剰適応」? 笑わせるなよ!
あんな医者のたわ言は、要するに、怠け者や負け犬に理屈をつけてやっているだけだ。もちろん人生、成功する人間ばかりじゃない。運の悪い奴もいるだろう。
だからって、成功することが悪いことなのか? 自分の力で、何かをなしとげるのが。
「今度の試験は受けない方がいいと思いますね」
と、あのヤブ医者は言った。
ふざけるな!――今、思い出しても、腹が立って仕方ない。
あんな奴の言うことを真に受けてたら――。
フロントガラスに、パタパタと何かが当った。――雨か?
坂本は、ちょっと舌打ちした。
あんなに晴れてたのに。――何てことだ。
天気予報も晴れだったんだ。通り雨だろう。
坂本は、少し意地になってワイパーを動かさずにいたが、やがて雨は本降りになって来た。
仕方なくワイパーのスイッチを入れる。
「――おい、どうしたんだ?」
ワイパーが動かない! 坂本はスピードを落した。
曲りくねった道で、前方が見えないと危険なのだ。
「このポンコツ!」
何度も叩いたり、切りかえたり、やってみたが、ワイパーは動かなかった。雨がフロントガラスを叩いて、前方はまるで幾重にもビニールで覆ったように、歪み、ぼやけて見えた。
落ちつけ。――大丈夫。時間は充分にあるんだ。
スピードを三十キロぐらいまで落して、じっと前方に注意を集中する。雨とはいっても、夜中ではない。全く見通しがきかないわけではないので、運転は可能だった。
よし……。この調子だ。
この道はずっと続くわけではない。あとほんの数キロで、下の平らで広い真直ぐな道に出る。
そこまでの辛抱さ。――そう、目が覚めていいじゃないか。
雨だって、その内にはパッと上るだろう。
しっかりとハンドルを握りしめて、曲りくねった道を辿って行く。
雨が、まるで激流のような勢いで、車を叩き始めた。
3
胃に痛みを感じて、部長の大井は、引出しを開けた。
そこには胃薬から、頭痛、風邪、乗りもの酔いの薬まで、およそ三十もの種類の薬が入っている。大井は、いつもそれを見るとホッとするのだった。
ええと……。胃の薬は――これか。
錠剤を二つ、手の上に出して、
「おい、水を持って来てくれ」
と、秘書の女の子に声をかける。
「はい」
慣れたもので、女の子の方も、もう水を入れたコップを、こっちへ持って来るところだった。
錠剤を二つ、口に含んで、水と一緒にのみ下す。――もちろん、こんなものがすぐに効くわけはないが、それでも何となく胃の辺りが軽くなったような気がするから、妙なものだ。
「おい」
と、大井は声をかけた。「坂本から連絡はないか」
訊いてから、さっきも同じことを訊いたな、と思い出したが、何くわぬ顔をしていた。
「ありません」
と、女の子が首を振って時計を見る。「珍しいですね。いつも、八時半までにはみえるのに」
「うん……。そうだな」
大井は、苛立っている時のくせで、五十という年齢の割には、すっかり白くなった頭へと手をやった。まるで髪の乱れが、すべての悪いことの原因だ、とでもいうように。
いつもなら八時半までに来ている。しかし今日は特別の日なのだ。いつもとは違うのである。
今朝は、八時半から坂本と二人で、今日の「課長昇進試験」のリハーサルをすることにしていた。これは他の部長たちも同様で、今、たぶんあちこちの会議室で、質疑応答の練習が行われているだろう。
大井の下から、今日試験を受けるのは、二人だった。いや、そのはず[#「はず」に傍点]だった。
ところがその内の一人は、昨夜、胃から出血して、入院してしまったのだ。――全く、情ない奴だ!
大井は坂本に期待をかけていた。頭も切れるし、人当りも良く、見た目もスマートである。
馬鹿げているようだが、めったに課長以下の社員を目にすることのない社長などにとっては、見た目がいかにも優秀だというのは、大いにプラスの得点になるのだ。
坂本はその点でも合格だった。――加えて、この三か月の頑張りは、大井ですら体のことを心配してやりたくなるくらいだった。
そう。――あいつはきっとやってくれるだろう。
いつもより遅れているのは心配だが、まあ電車でも遅れているのかもしれないし、試験は午前十時からである。
あいつなら、大丈夫だ。
――大井を始め、部長たちが、これほどまでに部下の試験に入れこむのは、自分の部下から何人合格者を出すかが、部長の成績になって来るからなのである。
大井の所からはこの三年、一人も合格者が出ていない。受けた者は五人もいたのだが、みんなしくじっている。
それだけに、大井は坂本に期待をかけていたのである……。
「坂本さん、今日はテストなんですね」
と、秘書の女の子が言った。
「うん?――ああ、テストか。そうだよ。だから早く来ると思ったんだが」
「でも、奥さんがもう臨月なんですよ。いつ生れてもおかしくないくらいだって」
「そうか。――もう、そんなだったかな」
「明日はお休みとって、ご実家へ送ってくっておっしゃってました」
と、女の子が言った。「でも、大変ですねえ。学校出ても、またテストだなんて。私なら絶対いやだ」
大井はちょっと笑って、
「女の子は可愛きゃいいのさ。それで合格だよ」
と、言った。
「あ、部長さん、それ、セクシャルハラスメントです」
と、女の子が笑う。
「部長、おはようございます」
と、田口がやって来る。「昼から大阪へ行って来ます」
「うん、ご苦労」
大井は、出張届に印を押した。
そういえば、田口も坂本と同期の入社である。もっとも、田口は営業マン的な性格ではあるが、それに頼りすぎて、独自の企画を立てる能力が欠けている。
たぶん、田口が「課長昇進試験」を受けることはないだろう、と大井は思った。
「今日は坂本の晴れの日ですね」
と、田口が言った。「あいつならやりますよ」
「そう期待してる」
と、大井は肯いた。
「まだ来てないんですか? じゃ、きっと――」
と、田口は言いかけて、言葉を切った。
「何だ。何か用があると言ってたのか?」
「いえ、そうじゃないんです。もしかしたら、クリニックに寄って来るのかな、と思って――」
「クリニック?」
大井は眉を寄せた。「どこか具合が悪いのか」
「どうなんでしょう」
と、田口は肩をすくめて、「ただ、前に精神科の医者にかかってる、と聞いたんで」
「精神科だと?」
大井は、訊き返した。「確かなのか」
「本人が、そう言ってました。まあ、あいつみたいにエリートだと、それこそ色々ストレスもたまるでしょうし……」
「そうか。――それで何か言ってたか?」
「いえ、何も。大したことないようでしたよ」
「そうか……」
「では、行って参ります」
田口が一礼して席へ戻って行く。
大井は、お茶を飲んだ。――坂本が精神科医に?
なぜ黙っていたんだ?
もちろん大したことはないんだろう。しかし、もし……。
大井の目は、まだ主の来ていない、坂本の席の椅子へと向けられていた。
――田口は、自分の席に戻って、忍び笑いしていた。
坂本の奴! ちょっとは失敗する惨めさを経験するんだな。
大井部長が、ノイローゼになったりする部下を見ると、「精神がたるんどるからだ」と、いつも怒っているのを、田口はよく知っている。
坂本があのクリニックから出て来るのを見かけたのは、もちろん偶然だった。田口は、いつかこれ[#「これ」に傍点]を使ってやろうと思っていたのだ。
今日は正に、最適の日だった。
人の足を引張るぐらい、面白いことはない。――特に同期の出世頭の、頭に来る奴なら、なおさらだ。
しかし……どうしてあいつ、まだ来てないんだ?
田口も、坂本の席へと目をやって、思った……。
何てことだ!
こんな馬鹿な話があるか!――畜生!
坂本は、叫び出したかった。
雨は一向に弱まる気配もなく、もう三十分近くも降りつづけていた。ワイパーが動かない状態で、この豪雨の中、車を運転するのは不可能だった。
それに、歩いて行くにも、資料をかかえて、傘をさし、この雨の中を歩けば、資料は台なしだろう。
早く止め、止んでくれ!
固く握りしめたこぶしは、じっとりと汗がにじんでいる。――発表は十時からだ。
間に合う。まだ充分に間に合う。
坂本は、自分へそう言い聞かせていた……。
それにしても、どうしてこんな雨が――。
これは普通じゃない。
あんなに晴れていて、予報でも、雨が降るなどとは一言も言っていなかったのに。
こんなことがあるだろうか?
「――まさか」
と、坂本は呟いた。「そんなことがあるもんか!」
血の気が引いた。まさか!
この雨を、俺が[#「俺が」に傍点]降らせてるなんてことが……。
確かに、子供のころ、坂本は自分に不思議な能力があることを知っていた。雨を降らせたい、と願うと、本当に自分のいる辺りに雨雲を呼び寄せて、降らせることができるのである。
あまり運動の得意でなかった坂本は、よく、いやな体力テストや体育の時間、雨を降らせて逃げたものだ。
しかし――成長するにつれ、そんなことも忘れて行った。実際、自分の中にひそんでいた能力も、いつか消えて行ったようだったし、そんな必要を感じることも、なくなっていたのである。
自分の力で、苦手なことは克服できる。――それが坂本の今の信念だった。
会社へ入ってからは特に、すべてがうまく行った。仕事は充実し、面白かった。同期の社員の中でも、飛び切りの早い出世だったし、社内でも評判だった美人の洋子も射止めた。
そう。――すべて、順調だったのだ。
この雨が、今、それを邪魔しようとしている……。
しかし、そんなのは理屈に合わないじゃないか! 俺はちっとも雨を降らせたいなんて思っていないのだ。
それなのに、どうして降るんだ? こんなことが……。
不意に、静かになった。――車体を叩いていた雨が、ピタリとやんだ。
たちまち辺りが明るくなる。日が射して、まぶしく濡れた緑に反射した。
やれやれ、やっとか!
坂本は笑い出した。――ただの雨だったんだ。そうだとも!
さあ、行くぞ。急がなくちゃ。
エンジンをかけ、車をスタートさせる。ほんの十分もあれば駅だ。
大井部長が、さぞ心配しているだろう。電話を入れておこう。
車が走り出すと――何とワイパーが動き始めた。――坂本は呆気にとられて、
「この野郎!」
と、呟いた。「どうなってるんだ?」
ともかく――早く下りるのだ。下の道へ出ること。一刻も早く。
つい、アクセルを踏む足に、力が入った。
いつもなら、もっと慎重に運転しているのだが。
トラックが、道を上って来た。近道をするつもりなのだろう。ごくまれに、だが、こんなことがある。
坂本はハンドルを切った。トラックが坂本の車のボディをこする金属音がした。
坂本はブレーキを踏んだ。
車が大きく揺れて、茂みの中へ突っ込んで行く。
4
電話が鳴った時、洋子は居間のソファに横になっていた。
具合が特に悪いというわけではなかったのだが、何となく不安だった。どこか、いつもと違うという予感があったのだ。
早く、一日が過ぎてくれないかしら、と思った。早く過ぎて、あの人が帰って来てくれたら……。
ずっと、外は曇っていた。あんなに朝は晴れていたのに。――いや、まだ朝の内だ。
曇っていて、薄暗いので、まるで夕方のような気がするのである。
電話が鳴って、ゆっくりと洋子は起き上った。急ぐと、めまいがしそうだ。
「――はい、坂本でございます」
と、やっと電話に出て、洋子は言った。
「坂本君の奥さんですか」
「はい、さようでございますが」
「部長の大井です」
「あ、どうも。いつも主人が――」
洋子の言葉を遮って、
「坂本君はどうしたんです?」
と、大井は訊いて来た。
「は?」
「もう九時です。まだ会社へ来ていない。連絡もない。どうしたんです?」
大井の声はかなり苛立っていた。
しかし、びっくりしたのは洋子の方である。
「あの――まだそちらへ着いておりませんか」
「だから、電話してるんです」
と、大井は不機嫌そのものの声を出した。
「あ、どうも……。申し訳ありません。でも、いつもの通りに家を出ました。それきり別に電話も――」
「困ったもんだ! 今日は大切な日なのに」
「ええ、それは主人もよく分っておりますから……。何かあったんでしょうか」
「知りませんよ。奥さん、いいですか、ご主人の試験は十時から。まあ、彼は四番目に受けますから、十一時を過ぎるでしょう。しかし、今日、もしその時刻に現われなかったら、二度とチャンスは回って来ませんぞ」
そう言われても……。洋子は、夫の身が心配だった。
途中で何かあったのだ。それしか考えられない。
「――奥さん」
と、大井は言った。「このところ、坂本君の様子に、どこかおかしいところはありませんでしたか?」
洋子は戸惑った。
「おっしゃる意味が……」
「精神科の医者にかかっていることを、私には隠していた。何を診てもらっていたんです?」
「あの――私も存じません。請求書が――」
「何です?」
「請求書です。――今日、うちへ届いて、それで私も初めて……でも、ただのカウンセリングだと思います。おかしいところなんか少しも――」
「なるほど、どこかへ姿をくらましたのでないといいんですがね」
「まさか、そんな――」
「ともかく、もし電話でもあったら、十一時までに這ってでも来い、と言って下さい。いいですな!」
返事も待たずに、大井は電話を切ってしまった。
洋子は、しばし呆然としていた。
あの人はどうしたんだろう? 何か悪いことでも……。
まさか、とは思ったが、洋子は坂本の実家へ電話してみることにした。
「――あ、お義母さんですか、洋子です」
「あら、どうかしたの?」
坂本の母、かね子は、早く夫を亡くして、女手一つで紳一を育て上げた人だ。気丈で、近寄りがたい印象はあったが、洋子にやさしくしてはくれていた。
「実は」
と、洋子が事情を説明して、「そちらへも何も連絡していませんか?」
少し間があった。
「洋子さん。その精神科のお医者っていうのは何のことなの?」
「いえ、私も聞いていないんです。紳一さんは何も――」
「あなたは妻でしょう! どうして紳一のことが分らないの?」
洋子は、言葉を失った。義母から、そんなきつい言葉が出るとは、思ってもいなかったのである。
「ともかく、今日は紳一の大切な日なんですよ」
「それはもう――」
「紳一が、何かの理由で遅れるというのなら、上司の方にお願いしなさい。待って下さるように。それぐらいのこと、自分で考えたらどうなの」
「はあ……」
「後で電話しますから」
かね子は電話を切ってしまった。
――洋子は、どこか人里離れた場所へ、急に一人で投げ出されたような気持になった。
かね子の言葉の中に、洋子は今まで気付かなかったもの――「息子の妻への敵意」を、初めて聞きとった。
確かに、いつ電話して来ても、かね子は、洋子の体のことを訊いたりしない。
そのことに洋子は気付いていたが、大したことではないのだ、と思っていた。それが――。
ソファに戻って、洋子は、ため息をついた。――あの人はどうしたんだろう?
その時、激しい痛みが下腹を襲って来た。
坂本は、やっと駅前までやって来た。
疲れ切っていた。――しかし、車が少し傷ついただけで、何とか道へ戻すことができたのは幸いだった。
九時半になっている。――急がなくては。たぶん、自分の発表が十一時ごろになることは、分っていた。まだ何とか間に合うだろう。
車をいつもの場所へ停め、資料を手にして、改札口へと急ぐ。――次の電車まで十五分ある。
電話だ。――大井部長が心配しているだろう。
駅の中へ入って、ホームの下の公衆電話から、会社へかけた。
「――もしもし、部長ですか。坂本です。遅くなって――」
「どこにいるんだ!」
と、大井の上ずった声が飛び出して来た。
「駅です。あの――まだこれから電車に――」
「何をしてたんだ! いいか、今日になって休む奴がまた一人出たんだ。お前は三番目なんだぞ」
「すみません。途中でひどい雨にあって」
「雨だと?」
少し間があって、それから大井は笑った。
それは、坂本の聞いたことのない笑いだった。
「この上天気に雨か!――何かないのか、うまい言いわけが」
「いえ、本当です。局地的に――」
「どうでもいい。ともかく、前のがのびて、十一時にはなるだろう。今までの例ではな。その時に来ていなけりゃ、おしまいだぞ」
「必ず間に合せます」
と、坂本は言った。「必ず行きます」
「よし」
と、大井は言った。「雨がどうした、なんて言いわけはするなよ。社長の前でな。精神科の医者へ行ってるなんてことも言うな」
坂本は唖然とした。
「部長、それは――」
「ともかく、早く来い!」
大井は叩きつけるように電話を切った。
坂本は、受話器を戻すと、足下に置いた資料を抱え上げた。
冷たい水を浴びたような気分だった。――大井は、この三か月、親身になって、坂本の試験の準備を手伝ってくれた。
心から、坂本は大井を慕っていたと言ってもいい。しかし……。
今の、あの「笑い」の冷ややかさが、坂本の目を開かせた。
大井は結局、自分のために、坂本に受かってほしいのだ。それだけなのだ。それだけ……。
まだ十分あった。ホームに上ろうとして、ふと洋子のことを思い出す。
もしかして――大井は自宅へ連絡しているかもしれない。そうだとしたら、洋子も心配しているだろう。
どうせ、十分間は電車が来ないのだ。坂本はもう一度、公衆電話に向った。
――呼出し音が、五回、六回と聞こえたが、一向に出る気配はない。
どこかへ出かけたのだろうか? あの体で?
それとも――。
三度かけた。そろそろ電車が来る。乗り遅れたら、それこそ間に合わない。
諦めて切ろうとした時、向うが出た。
「もしもし。――洋子。――もしもし?」
「あなた!――あなたなの?」
苦しげな声がした。
「洋子か。どうしたんだ?」
「苦しいの……。陣痛らしい……」
「何だと?」
坂本は愕然とした。「大丈夫か! 救急車を――」
「やっと今……ここまで這って来たの……。あなた、事故にあったのかと思って……」
「俺は大丈夫だ。しかし――おい、しっかりしろ!」
「一一九番で……救急車を呼ぶわ。あなた、会社へ行って……」
「しかし――」
「お義母さんに叱られるわ、私が。ね、会社へ行って……」
「――分った。すぐ救急車を呼ぶんだぞ」
「ええ……」
電車の入って来る音がした。
「じゃ、もう行く。――また連絡するからな!」
坂本は、電話を切ると、資料を抱えて、ホームへと駆け上って行った。
洋子は、電話を切って、息を吐いた。
夫が無事だと分って、やや不安は薄らいだが、痛みは一向に軽くならない。とても自力では病院へ行けないだろうと思った。
救急車を呼ぼう。――そう思った時、何か耳を襲う、凄い音がした。
これは?――雨?
豪雨だ。ただの雨ではなかった。
家の中にいても、うるさいほどの音で、雨が叩きつけている。洋子はゾッとした。
何か、その雨の激しさには、「悪意」があるように感じられたのだ。
馬鹿なこと考えないで!――ともかく一一九番へ。
受話器をとってボタンを押そうとして……。洋子は、青ざめた。
発信音が聞こえない! 何度やり直しても、だめなのだ。
どこかで電話線が切れたのだ。
どうしよう?――雨に包まれた家の中で、洋子は、下腹を襲う苦痛に身悶えした……。
5
「もしもし」
と、坂本は言った。「部長ですか」
「どこにいるんだ? もう始まってるぞ」
と、大井が低い声で言った。
たぶん試験の会場の近くにいるのだろう。
「途中の駅です。――すみません、今日は行けそうにありません」
「何だと?」
「家内が陣痛を起して。病院へ無事に着いたか心配なんです」
「おい、何を言ってるか分ってるのか?」
「もちろんです。家内に万一のことが――」
「そんなもの、放っといたって生れるんだ! 今来なかったら、終りだぞ!」
大井の言葉には、坂本の妻への思いやりの、かけらも感じられなかった。
「――結構です」
と、坂本は言った。「ともかく、今日は家へ帰ります」
「おい、坂本!」
構わず、電話を切る。
坂本は、どうにも不安で、途中の駅で降り、もう一度家へかけてみたのだ。全くつながらないのを知って、戻るしかない、と決めたのだった。
――駅前の車に飛び乗ったのは、三十分後のことだった。
あの山道を、今度は慎重に、しかしできる限りのスピードで辿って行く。雨は降って来なかった。
洋子……。頑張れよ!
林の間を抜けて、家が見えて来る辺りまで来て、坂本は目を疑った。
青空が広がっている、その一画、そこだけに黒い雨雲が低くたれ込めて、激しい雨が降っているのだ。
何だ、あれは?
車は、家の少し手前から、激しい雨の幕へと突っ込んで行った。玄関の前に車を停めドアを開けて走る。
アッという間に、ずぶ濡れになった。
玄関を開けようとして、愕然とした。チェーンがかかっている!
洋子は中にいるのだ。
「洋子!――洋子!」
細い隙間から叫んだが、雨の音にかき消されそうだった。
ぐずぐずしてはいられなかった。――坂本は大きな石を拾うと、家の裏手へ回った。
窓を叩き割るのに、思ったより手間どったが、それでも、何とか、鍵をあけ、中へ入ることができた。
洋子が、居間の床で、体を折って、呻いている。
「洋子!」
駆け寄って抱き起すと、洋子は目を開けた。
「あなた……。会社は?」
「馬鹿! そんなこと、どうだっていい。一一九番は?」
「電話が――切れて――」
「そうか。よし、車で病院へ行こう。ひどい雨だが、車までの辛抱だ」
「ええ!」
「つかまれ!」
坂本は、唇をかみしめて苦痛に堪える洋子を支えて、何とか玄関までやって来た。
これは……。坂本は愕然とした。
玄関に水が流れ込んで来ていた。坂本の靴が浮かんでいる。
「あなた……」
「こんなひどい雨が……。畜生! なぜなんだ!」
俺は、たとえ会社が嫌いでも、洋子のことは愛しているのだ。それなのになぜ――。どうして降り続けているんだ?
「待ってろ。――おぶっていってやる。いいか」
「あなた……」
「俺は裸足でもいい。さあ、俺の背中に」
足を下ろすと、ふくらはぎの辺りまで水に浸った。
「無理だわ……。この雨じゃ……」
「馬鹿! しっかりするんだ!」
坂本はドアを開けた。正面から、雨が激しい風と共に叩きつけて来て、坂本は思わずよろけた。
これではとても――あの車までも進めない。
「あなた……。そばにいて」
横になった洋子が手を伸す。坂本はドアを閉めると、息をついて、妻の手を握った。
「――俺のせいだ。すまない」
「雨が?」
「ああ……」
坂本は、自分の、雨を降らせる能力のこと、そして、医者に、「本当は会社を嫌っている」と言われたことを、洋子に話した。
「しかし……もう止んでもいいはずだ。そうだろう? 俺は君を選んだんだ。会社なんかどうだっていい! 部長なんかぶっとばしてやる!――畜生! それなのに、どうしてこんなに降り続けてるんだ!」
「あなた……」
洋子は、深く何度か息をついた。「私の手をしっかり握っていてね……」
洋子の顔に、玉のような汗が浮かんでいた。
苦痛に、顔が歪む。
頼む……。止んでくれ。頼む。
坂本は祈った。――誰にでもいい。ともかく祈ったのである。
雨の音が……遠くなった。
気のせいか? いや――確かに――。
静けさがやって来た。雨が止んだ!
「やったぞ!」
坂本は、玄関へ下りて、ドアを開けた。
黒い雲は、信じられないほどの速さで散って行く。太陽が、まぶしい光を溢れさせた。
水がどんどんひいて行く。
「洋子! もう大丈夫だぞ」
と、駆け戻る。「おい、しっかりしろよ」
洋子が目を開け、夫の方を見て、肯いて見せた。
「さあ、おぶってやる!――起きられるか?」
「何とか……」
弱々しい声で、洋子は言った。
車まで洋子をおぶって行く間に、水はすっかりひいてしまった。
洋子を助手席に、車を運転していると、サイレンが聞こえた。
白バイが車のわきへついて、合図をする。スピードオーバーなのだ。
しかし、これが幸いだった。事情を話すと、白バイが先導して、一番近い総合病院へと連れて行ってくれることになったのだ。
赤信号もそのまま通過して、車は突っ走った。
「――どうだ? 大丈夫か?」
と、ハンドルを握りしめながら、坂本は訊いた。
「ええ……。今は少し」
「少しはツイて来たぞ。なあ。――恨まないでくれよ」
「あなた……」
「うん?」
「もし……私の身に何かあったら……」
「何を言い出すんだ!」
「聞いて」
と、洋子は言った。「あなたも、きっと気付くから。――あなたのその力は――きっとお義母さんから受け継いだのよ」
坂本は、愕然とした。そして――分った[#「分った」に傍点]。
そうだったのか!
「洋子――」
「お義母さんは、あなたを奪った私のことを……恨んでいたのよ。それがきっと、あの雨になって……」
そうなのだ。それに違いない。坂本の力は、自分の周囲に雨を呼ぶだけだが、母の力は、遠くのどこかにも、雨を降らせることができるほど、強いのだ。
「ね、あなた」
と、洋子は、苦しげに喘ぎながら、言った。「お義母さんを恨んだりしないでね。何があっても。――当然のことなのよ、お義母さんが、私さえいなかったら、と思うのは……。無意識に、そう思っておられるだけなのよ」
「しかし――」
「ね、約束して。何があっても、お義母さんを恨まない、と……」
坂本は、震える声で、
「分ったよ……」
と、言った。
車は白バイについて、病院の救急入口へと滑り込んで行った。
「まあまあ」
と、かね子が赤ん坊を抱き上げて、笑った。「紳一とそっくり。まるで紳一が赤ん坊に戻ったみたいだわ。大して変らないけど」
「母さん、やめてくれよ」
と、坂本は苦笑した。「三十四の息子をつかまえてさ」
「あんたはまだ子供よ。この子をちゃんと育てられるのかね」
「もちろんさ」
「洋子さん、何でもやらせるのよ、この子に。これからの夫は、赤ん坊の世話ぐらいできなきゃね」
ベッドで、洋子は微笑んだ。
「そうしますわ」
「それじゃ……。私、ちょっと婦長さんにお菓子を買って来たから、渡して来るわ」
かね子が、赤ん坊をベビーベッドへ戻すと、紙袋を手に、行ってしまう。
「――忙しい人だな、相変らず」
と、坂本は苦笑した。
明るい日射しが、病室の中へ射し込んでいる。
「今日は雨が降りそうもないな」
と、坂本が言った。「お袋ぐらいの力があったら、大井部長の行ってるゴルフ場を大雨にしてやるのに」
「よしなさいよ」
と、洋子が笑った。「――部長さん、ご機嫌斜め?」
「いや、そうでもない。上の方がね、僕にもう一度やらせろと言ってくれたらしくて」
「まあ」
「しかし、どうでもいいよ」
と、坂本は、洋子の方へ少しかがみ込んで、「またそのために何日も家へ帰れない、なんてのはごめんだ。――なあ、課長にならなきゃ、愛想をつかすかい?」
「馬鹿ね」
と、洋子は笑った。
「少しカウンセリングを受けようと思ってるんだ。確かに、自分の生活ってものが、今まではなかったからな」
「人生、長いのよ」
「そうだ。仕事だけするにゃ、もったいないな」
「この子の名前、考えた?」
「うん」
「何か決めたの」
「晴男。どうだい? 晴れる男、で」
「本気?」
と、洋子は目を丸くした。
「候補の一つさ。相談して決めよう」
坂本は、外の光をまぶしげに見て、「しかし、あの時、突然晴れ上ったのは、不思議だったな」
「そうね」
「僕の祈りが通じたんだ。愛情がね。そう思うだろ?」
洋子は、夫の手を握りしめた。
夫には黙っていよう。――自分が、小さいころから、遠足や、運動会の日、たとえ雨になりかけても、雨雲を追い払い、きれいに晴れ上らせる力[#「晴れ上らせる力」に傍点]を持っていたことは。
あの時、洋子は、それを思い出したのである。
「そう思わないのか?」
と、坂本が重ねて訊くと、
「思うわ」
と、洋子は肯いた。
赤ん坊が、甲高い声を上げて泣き出していた。
敗北者
1
重く、からみつくような眠りだった。
必死で這い上り、抜け出そうとしなければ、永遠にでも眠ってしまいそうな……。
しかし――ともかく、目覚めたのである。目覚めていながら眠っている、とでもいうような、奇妙な気分だったが、それでも目覚めたことは間違いない。
頭をゆっくりとめぐらして、石毛安夫は息をついた。――その時から、何となくおかしいとは思っていたのだ。
石毛の家では、健康にいいというので、固い枕をわざわざ通信販売で買って、使っていた。初めに妻の美奈子が一つ買って、よく眠れるというので、追加注文で夫の分も買ったのである。
その固めの枕を、もうこの二年ほど使っていたから、石毛はその感触に慣れてしまっていた。
正直に言って、もともとは柔らかい枕に顔を埋めるようにして眠る方が、「眠った」という実感もある、と思っていたのだが、人間は慣れる動物である。このところ、旅行先で、妙に柔らかい枕に出くわすと、なかなか寝つけないこともあるくらいだった。
今、石毛がおかしいと思ったのは、いやに枕が柔らかかったからで……。ここはどこなのだろう?
家ではない。家なら、美奈子が必ず固い枕を使わせるはずだ。しかし、家でない所で目が覚めるというのは……。
旅に出ている記憶もなかった。出張も、ここしばらくはないはずだし。
それとも、これも「夢」なのだろうか。
いや――そうじゃない。
白っぽい天井が見えて来ると、石毛は、やはりここがどこかのホテルの一室だということに気付いた。それも、保養に行く温泉とか出張で泊るビジネスホテルの部屋ではないようだ。
なかなか洒落た部屋だし、広さも結構ある。一人で泊るにはもったいないくらいの、広いタイプの客室。おそらくツインルームだ。それを一人で使っているのだろう。
そんなぜいたくをしていられるのは、まず出張ではないからだ。出張の時の宿泊手当はビジネスホテルクラスの料金しか、出ないのだ。
カーテンが少し開いていて、光が射して来ている。朝の光で――冬の光は、ただでさえ弱いが――部屋は空気までまどろんでいるようだった。
少し、思い出して来た。
ゆうべはいやに酔って、気分が悪くなったのだった。――誰かの送別会で。
冬の夜風に震えながら、二次会、三次会と付合った。何といっても、石毛は係長で、次の課長ということになっている。あまり付合いでケチるわけにもいかないのだ。
付合ったあげくが、ホテル泊り?
――さぞ、美奈子が心配しているだろう。
この状態じゃ、とても家に連絡を入れる余裕があったとは思えないし……。
少し、体を起してみた。肌に直接シーツがこすれる。
裸で寝てた?――これには、石毛自身、びっくりしていた。この寒いのに!
ソファと、椅子の背に、自分の上着やズボンが、みっともなく放り出してある。早いとこ、顔を洗って、美奈子に電話を入れよう。
ベッドに起き上って、欠伸をした。その拍子に――。
鞄が、テーブルの上にのっている。紺の、学生鞄[#「学生鞄」に傍点]。
そして、気が付くと、石毛の服だけではない。ブレザーや、スカート、そして女性の下着が、床にまで散らばっている。
石毛は、ゆっくりと、隣のベッドに目を移した。
毛布を肩までかけて、石毛の方に顔を向けて眠っているのは、若い娘――どう見ても、十七、八の、高校生ぐらいの娘だった。
眠っている。――何をしてるんだ? こんな所で……。
いや、その娘を見たとたんに、こうなったいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を、石毛は思い出していた。娘がここにいることは、間違いでも何でもない。
ゆうべ、部下の若いのと別れ、疲れ切って入ったスナックで、この娘と会ったのだった。
店の奥に、ポツンと座って、何を飲んでいただろう?
何も飲んでいなかったような気がする。石毛がスナックへ入って行った時には、もう飲み終っていたのかもしれない。
そして――何の話をしただろう?
思い出せない。思い出して何になる?
このホテルへ入って、この娘を抱いてしまったのは事実ではないか。
酔った勢い? そうだとしても、したことは消えない。
ただ、こうして眠っただけではない。石毛は、この娘を抱いた時の、折れてしまいそうな、細い腰の印象、少し汗ばんで息を乱したその紅潮した頬の色も、はっきりと思い出せるのだから。
「――何てことだ」
と、石毛は、呟いた。
こんな若い娘と、俺は何ということをしてしまったんだ?
石毛は、何分間か、石像のようになって、身動きもしなかった。この現実を受けいれるのに、それだけの時間が必要だったのだ。
少女が、低い声でウーン、と言った。
石毛がギクリとして見ると、目が覚めたわけではないらしい。真直ぐ上を向いて、大きく二、三度呼吸すると、そのまま、また静かな寝息をたて始めた。
行ってしまおう。――石毛は、それだけしか考えなかった。
卑怯かもしれないが、それだからどうだというんだ? 俺には家庭がある。
妻があり、子がある。一夜、酒に酔って、我を忘れてやってしまったことで、妻や子を失うわけにはいかない。
そうだとも。――俺は、美奈子と、娘の郁江に対して、まず責任があるのだ。この見知らぬ少女に対する責任より、そっちを優先させるべきなんだ……。
いささか自分勝手な理屈と承知で、自分を納得させると、ベッドをそっと抜け出し、自分の服を拾い集める。
急いで服を身につけ、ネクタイは上着のポケットへねじ込む。早くここから出なくては。
そうか。――支払いがある。
少し迷って、石毛は札入れを出し、一万円札を三枚、テーブルの上にのせ、灰皿で押えておいた。――これでほとんど札入れは空っぽである。しかし、この少女に払わせるわけにはいかない。
これだけあれば、おつりが来るはずだ。それをこの少女がどうしようと、石毛には関係ない。
何もなかったかな、もう、忘れ物は……。
ふと髪が気になった。あんまりひどい頭で、出て行けない。
そっと鏡の前へ行って、薄明りの中で、くしを入れた。ひげは当っていないが、仕方ない。ともかく、これなら、ホテルのロビーを抜けて行っても、そうみっともないことはあるまい。
ドアの方へ行こうとして――少女が、ベッドに起き上り、毛布を裸の胸に抱きかかえるようにして、彼を見ているのに、気付いた。
「おはよう」
と、少女が言って微笑んだ。「早いのね」
「ああ……」
何を言っていいのか分らず、石毛は立ちすくんでいた。
「お風呂、入らないの? 目が覚めるのに」
少女は、こういうことに慣れているのか、あまり恥ずかしげではなかった。
「いや――会社へ行かなきゃ。仕事があるからね。もう……」
と、腕時計を見る。「八時半だ。急がないと」
少女は不思議そうに、
「今日は土曜日でお休みだって、ゆうべ言ってたじゃないの」
と、言った。
土曜?――そうだったか。
そう。だから、あんなに飲んだのだ。
「でも、私ももう眠れそうもないし」
と、少女は言って、手をのばして床に落ちていたバスタオルを拾い上げ、体に巻きつけて、ベッドを出た。
石毛は、ぼんやりそれを眺めていた。
「ちょっとシャワーを浴びて来るわ」
と、少女は言った。「待っててね」
「ああ……」
「安夫さん、って呼んでいい?」
少女はそう言うと、自分で少し照れたように笑ってバスルームへと駆け込んで行った。
石毛は、まだ自分が夢を見ているのではないかという思いを捨て切れず、そこに立ち尽くしていた……。
2
「どうするの、一体?」
と、美奈子は言った。
石毛は、目の前のお茶が、次第に冷めて行くのを、見ていた。手をのばして、茶碗を取り上げるのにも、勇気が必要だった。
「――どうって……」
「だから――」
美奈子は、少し声を高くした。「どうするのよ。私と別れて、その女の子と一緒になるの?」
「おい、よせよ」
と、石毛は、ため息をついた。「謝ってるじゃないか。――酔ってて、何も分らなかったんだ。お前と別れるなんて――」
石毛は、隣の居間でTVを見ている娘の郁江のことを気にして、声を小さくすると、
「別れるなんて、考えたこともないよ」
「そう」
美奈子は、両手をギュッと固く握り合せた。「――でも、その女の子は、あなたのことを好きなんじゃないの?」
「遊びだよ。今時の高校生だ。こんな中年男に本気で惚れやしないよ」
「でも、あなたの名前も、勤め先も、ここの住所も知ってるのね」
「ああ……。どうしてだか……」
「あなたが言ったからに決ってるじゃないの」
石毛も、否定はできない。
「――なあ、美奈子。二度とこんなこと、もう絶対に――」
「その子、名前は?」
と、美奈子は訊いた。
「うん……。確か、寺井佐知子といったな」
「寺井佐知子ね。――いくつなの?」
「十八だと言ってた」
「十八……。その子が、どんなつもりでも、あなた、その子に対して責任があるのよ」
「それは……。しかし、お前と郁江が俺には大切なんだ。当然だろう?」
お茶を、一気に飲んだ。
「――当然、ね」
美奈子は、目の下にくまができていた。ゆうべは夫の帰りを待って、このダイニングで、うたた寝しただけなのだ。
今まで、石毛は「朝帰り」というものを、やったことがなかった。どんなに遅くても、夜中、十二時か一時ごろには帰っていたのだ。
美奈子が気が気でなかったのも、当然だろう。しかも――帰って来て、こんな話を聞かされようとは……。
「あなた」
と、美奈子は言った。「郁江を連れて、どこかへ行って」
一瞬、石毛は青ざめた。
「おい、美奈子――」
「今だけよ。少し眠りたいの。郁江の相手、しててくれない?」
と、美奈子が言い直すと、石毛はホッとした様子で、
「分った。じゃ、何かお菓子でも買ってやろう。――おい、パパと買物に行こう」
石毛が、郁江の手を引いて、玄関の方へ出て行く。
美奈子は、玄関のドアが開いて、
「ほら、ちゃんとサンダルをはかなきゃだめだぞ……。寒くないのか?――よし」
と、夫の声がして、ドアが閉ると、そっと息を吐き出した。
ダイニングのテーブルに肘をついて、両手で顔を覆うと、美奈子はしゃくり上げるように泣いた。――ちょっと妙な涙で、どうしても泣かずにいられない、というほどでもないのに、まるで一つの手続きのように、泣いてしまったのだった。
もちろん――夫が他の女と、それも十八歳の女学生とホテルに泊って来た、というのはショックだった。
石毛が嘘をついているとは、美奈子も思っていない。実際に、酔った勢い、だったのだろうし、帰って来て、美奈子が問い詰めたわけでもないのに、謝って来たのは、石毛の正直さの現われでもある。
しかし、それでも夫が裏切った、という思いが美奈子の胸から消えるわけではなかった。
――美奈子は二十九歳。石毛とは七つ、年齢が違う。結婚した時、既に石毛は三十を過ぎていて、同年代の男にはない落ちつきがあった。
結婚して二年後に郁江が産れ、今、三歳である。
石毛は三十代の初めで係長になり、あと二年もすれば課長、と言われている。――別に美奈子は、夫が出世しなければ苛立つというタイプではなく、むしろ少し暇を作ってほしいと思う方だが、同僚の奥さんたちから、
「同期の人じゃ、一番の出世よ」
とか言われると、やはり誇らしい気持になった。
石毛は、人がいい。優しいし、美奈子にも気をつかってくれる。――反面、人と争うことを避けるために、言いたいことも言えない、というところがある。
しかし、美奈子は夫を愛していたし、幸せでもあった。この家庭を根っこから揺がすような問題は、起ったことがなかったのだ。――今日までは。
美奈子は、電話が鳴っているのに気付いた。
誰だろう?――立ち上って居間へ入って行き、電話へ手をのばしながら、一瞬、不安が胸をよぎった。
ゆうべ、夫が一夜を共にした女の子からではないか、と思ったのである。
この住所を知っているというのだから、電話番号を調べるのは簡単だ。
「もしもし」
と、探るような口調で言う。
もし、その少女なら、間違いです、と言って切ろうか、と思った。
「あ、美奈子さん?」
聞き憶えのある、甲高い声が飛び出して来て、美奈子は、ちょっと拍子抜けがした。
「多田さん? 何かしら」
と、美奈子は言った。
「あら、どうしたの、美奈子さん?」
「え?」
「鼻声よ。風邪?」
「え、ええ……。ちょっとね、このところ寒いし」
と、美奈子は言った。「大したことないの、鼻風邪程度で」
そう言わないと、お掃除やお料理をやってあげる、と言って、押しかけて来かねないのが、多田百合江である。
「まあ、気を付けてね。――あのね、今日、うちで健康食品の試食会があるの。来ない?」
「あら、そう。でも……」
「ご主人、関心あるんでしょ」
「うちの主人が?」
「この間、お邪魔した時に話したら、ずいぶん熱心に聞いてらしたわよ。今日、お休みなんでしょ?」
「ええ、でも――郁江と一緒に出てるの」
「あら、感心ね! でも、夕方までやってるから。そんなに遅くならないんでしょ、お帰り?」
いい加減にしてよ、と怒鳴り出したかった。――多田百合江は、昔、美奈子と同じ職場にいたのだが、たまたまこの近所に住んでいて、時折、付合っている。
もちろん百合江も夫、子供のいる身だが、派手で、およそ美奈子とは合わない。
それに百合江がやたらにこの家へ来たがるのも、美奈子には気に入らなかった。それも、石毛がいる時を狙って来る。
よりによって、こんな時に電話して来なくても、と美奈子は苛立ちながら、思った。
美奈子が泣いている、などと知ったら、きっと百合江は大喜びするだろう。ここは、ヒステリーを起してはいけない。
「でも、今日は三人で出かけるの。ごめんなさい。外で食事することになってるんで、帰り、遅いと思うわ」
スラスラと、口実が出て来る。
「あら、残念。じゃ、もし、何かで予定が変ったら、いつでも来てね」
変りゃしないわよ、と心の中で言って、
「ええ。どうもわざわざ知らせてくれてありがとう」
「ご主人によろしくね」
「ええ」
――受話器を戻す。
どうして、あんなに押しつけがましい言い方ができるのだろう? わざわざ人の家の中をかき回したい、とでもいうような……。
「とんでもないわ」
と、美奈子は口に出して言った。
自分に向って言い聞かせるように。
私は幸せなのよ。夫に満足しているんだし、夫も私に満足してる。あんな女の入りこむ余地なんて、どこにもないのだ……。
多田百合江からの電話が、却って美奈子を立ち直らせた。夫が、そんな若い娘とホテルに泊って来たというのは、ショックには違いなかったが、しかし、一度だけのことなら、いつか忘れて行くだろう。
考えようによっては、何も訊かれない内から、隠そうともせずにしゃべってしまった石毛は、それだけ後悔も本物だ、ということである。
そう。――今度のことは、なかったことにしよう。
美奈子はそう決めた。
一旦決心してしまうと、不思議なくらい、気持が軽くなり、自分があんなことで、くよくよしていたことが、不思議にさえ思えて来る。
「そうだわ」
多田百合江のことだ、本当に美奈子たちが出かけたかどうか、確かめようとして、また電話して来るかもしれない。
本当に[#「本当に」に傍点]出かけなきゃ。
美奈子は、外出の仕度を始めた。何といっても、夫や郁江より、三倍くらい時間がかかるのだから。
――鏡の前で、化粧しながら、ふと、思い当った。
寺井佐知子。その娘のことだ。
一度聞いただけの名前など、すぐに忘れてしまう美奈子だが、その名前は、まるで目の前の空中に書かれているかのように、思い出すことができた。
寺井佐知子、十八歳……。
その娘は、この住所も知っている。
訪ねて来るかもしれない。夫が言うように、一時の遊びにすぎないのだったらいいが、そうでないとすると、厄介なことになる。向うの親もいるだろうし。
何より避けなくてはならないのは、その娘がここへ押しかけて来ること、そして、石毛の会社へ行ったりすることだ。
そのためには……。
夫と、二度と会わせてはならない、と美奈子は決心した。
その娘のことは、自分で決着をつけなくては。――自分と郁江の「家」を、守らなくてはならないのだ。
何とかして、その娘のことを調べ、先手を打つ必要がある。――でも、どんな方法で?
美奈子は、鏡の中で活き活きと華やかに、若返り、輝いて来る自分を見つめながら、夫は、自分だけのものだ、とくり返し呟いていた……。
――郁江に安いオモチャを買ってやって、恐る恐る帰って来た石毛は、妻が、すっかりお洒落して外出の仕度を済ませているのを見て、青ざめた。
「おい美奈子――」
「出かけるわよ」
と、美奈子は言った。「あなたも仕度して。郁江にも、この間買ったワンピース、着せるから」
「どこ行くの?」
と、郁江は早くもはしゃいでいる。
「デパートに行って、それからお子様ランチを食べようね」
「うん!」
郁江がピョンピョンと飛びはねた。
石毛はポカンとしている。
「あなた、着替えてよ。置いてくわよ」
「ああ。――うん」
と、肯く。
「お金、持ってる?」
「金か? いや……」
「私が持ってくわ。――前から欲しかったバッグがあるの。五万円ぐらいかな。それを買わせていただくわよ」
「ああ」
「安いもんでしょ、あなたの浮気のお返しとしては」
そう言って、美奈子はニッコリ笑った。
石毛は、ホッとした。許してくれたのだ、と分ったのだ。
「そうだな。――俺も、何か買っていいか?」
「あなたはボーナスまでだめ」
美奈子はピシャリと言った。「さ、早く、仕度、仕度」
「分ったよ」
石毛は、あわてて洋服ダンスの方へ駆けて行った……。
3
美奈子は、もうずいぶん古びたスナックの扉を押して、中を覗いた。
外の明るさに慣れた目には、店の中は真暗に思えた。
「――はい」
カウンターの奥から、太った女が顔を出した。エプロンをつけて、髪を赤茶色に染めている。
化粧が濃いが、たぶんもう五十近いだろう、と美奈子は思った。
「まだ、開けてないんですよ」
と、女は、疲れたような声で言った。
「ええ、ちょっと、うかがいたいことがあって」
美奈子は店の中へ入った。「〈K〉ってお店、この辺に他にも?」
「うちだけですよ」
夫は、まだ新しい、洒落たスナックだ、と言っていたのだ。夜だから、そう見えたのだろう。
目が慣れて来ると、店の中が、ずいぶん埃っぽいのが分って来る。
「何ですか?」
と、女は言った。
そう迷惑がっている様子でもない。
「夜もずっと、ここにいらっしゃるんですか?」
と、美奈子は訊いた。
「ええ。私と亭主しかいませんからね」
「じゃ――先週の金曜日なんですけど、この店に、うちの主人が来たんです」
「忘れ物か何か?」
「いえ、そういうわけじゃないんです」
と、美奈子は言った。「主人がここで会った女の子から、物を預かって――。返したいんだけど、酔ってて、相手の住所とか忘れてしまった、と言うので」
我ながら、いい加減な理由だと思ったが、エプロンをつけた女は、別に疑いもしない風で、
「うちによく来る女の子なら、分るかもしれないけどね」
と、言った。「名前は分ります?」
「寺井佐知子という子なんですけど」
「寺井……」
女は、眉を寄せて、「寺井ねえ。――どこかで聞いたことがあるようだけど」
「まだ若い子です。十八歳とか」
「十八? どんな子?」
「学校の帰りらしくて、ブレザーの制服に学生鞄を持って――」
「ちょっと待って」
と、女は目を見開いて、「こんな店に女学生なんか来ないわよ」
「でも、主人が金曜日の夜に、確かにここで会ってるんです」
「おかしいわね」
と、女は首を振った。「そりゃ昼間は喫茶店だからね、ここは。たまに学生が来ることもあるけど……。夜なんだね?」
「かなり遅かったと思いますけど」
「じゃ、何かの間違いだね」
と、すっかり砕けた口調になって、「制服の子なんか夜は絶対に入れないよ」
絶対に、という口調なので、美奈子はそれ以上、何も訊けなくなってしまった。
「どこか、よその店の間違いじゃないのかな」
「そうですね。――すみません」
引き下がらざるを得ない。
店を出ようとすると、扉が開いて、ジャンパー姿の、大分髪が白くなった男が入って来た。
「畜生、寒いぜ、全く。――お客さん?」
「ね、あんた、この人がね……」
女の夫らしいその男は、話を聞いて、
「いや、そりゃおかしいね」
と、首を振った。「うちは制服の娘なんか入れませんよ。警察の補導員でも来たら、厄介だしね」
「そうですか。――先週の金曜日も、ここにいらしたんですか?」
「もちろん。交替する人手なんて、ありませんからね」
「分りました。――お邪魔して」
と、美奈子は頭を下げて、スナックを出た……。
確かに、外へ出ると、ついさっきまで陽が出ていたのに、ほんのわずかの間に、雲が出て、冷たい風が吹いていた。
夫は、あのスナックの名前を、すぐに思い出したのだが、あの夫婦が、嘘をついているとも思えない。
夫の記憶違いだろうか。相当に酔っていたはずだし、どこか外ででも会ったのを、勘違いしているのかもしれない。
少し行ったところで、
「奥さん」
と、呼ぶ声がして、振り向くと、あのスナックの主人が駆けて来る。
「何か?」
「いや――すみません」
と、息を少し弾ませて、「女房の奴に聞かれたくなかったんでね。――アパートに忘れ物をしたと言って出て来たんです」
「じゃ――その女の子のことで?」
「名前を、何といいました?」
「寺井佐知子とか……」
「なるほど」
と、主人は真顔で肯いた。「――まあ、たち[#「たち」に傍点]の悪いいたずらかもしれませんがね」
「どういう意味ですの?」
わけが分らなかった。
「あの店はね」
と、主人が、美奈子を促して、アーケードの商店街の中へと入って行く。「前の持主から、かなり安く手に入れたもんなんです。もう五年前になりますがね」
「はあ……」
「女房は何も知らんので。――なぜ、そんなに安く手に入ったか、ということを、です」
「何か――特別な事情が?」
「人殺しがあったんです」
美奈子は唖然とした。
「一番奥の席で。――これは、もちろん私が直接見たわけじゃありませんよ。奥の席に、学校帰りの女学生が鞄を持って来ていたんだそうです。一緒にいたのは、確か、もう三十過ぎのサラリーマンで、妻子持ちの真面目な男だったそうですよ」
「その女の子と……」
「何のきっかけで知り合ったのかね。抜き差しならない仲になっていたらしくて。――まあ、どう見ても、世間の認める関係じゃない。追い詰められると、真面目な人間は怖いですよ。あの席で、突然刃物を出して、無理心中しようと……」
「まあ」
「他の客も逃げ惑って、大騒ぎだったようです。――その男も、結局、自分で喉を突いて死んじまったんです」
「何てこと……」
「で、当然、客も寄りつかなくなって、経営者が安く売ってくれたわけです。――私は一年ほど間を置いて、店の中を改装し、開店しました。周囲も変って、事件のことも忘れられていましたんでね。女房は未だにそのことを知りません」
「じゃ――」
と、美奈子は言った。「その時の女学生が寺井佐知子?」
「そういう名でした」
と、主人は肯いた。「親しい男にたまたま同じ寺井ってのがいましてね、憶えているんです」
しかし、妙な話だ。
「でも、五年も前のことでしょう? それに――『人殺し』があった、とおっしゃいませんでした?」
「ええ」
「その男の人は自殺したわけでしょう」
「もちろん、その前に殺したんですよ、寺井佐知子をね」
と、主人は言った。
買物の重い荷物を手にして、玄関の鍵をあけるのは、一苦労だった。
約束の時間は大分過ぎてしまった。――早く郁江を迎えに行かなくては。
近所の、親しい奥さんに郁江を頼んで出かけたのだ。――どんな重要な用件で出かけようと、帰りにせっかくだから買物を、と考えるところが、主婦の習性というものらしい。
それにしても……。
骨折り損というわけである。しかも、妙な因縁噺を聞かされて。
寺井佐知子と名乗った少女が何者なのかは分らないが、ともかく、本名を言っていないくらいだから、心配することはないのかもしれない。
今日は月曜日である。――もちろん、石毛は出勤しているし、家の中は何事もなかったように、穏やかだった……。
荷物を運び入れ、玄関の鍵、と思ったが、どうせすぐ郁江を迎えに出かけなくてはならないのだから、とそのままにしておいた。
台所へ運んで、冷蔵庫へ入れる物、冷凍庫へしまうもの、と分けてしまって行く。
「――これでいいわ」
寒いのに、少し汗ばむくらいだった。「――さ、早く行かなきゃ」
郁江はたいてい夕方のこの時間ぐらいになると、眠くなる。普段はおとなしいのだが、眠くなると、子供は誰でもそうだが、言うことを聞かなくなるものだ。
「あ、そうそう」
あの奥さんに、二百円借りてたんだわ。返しておかなきゃ、忘れちゃう……。
財布を手に、玄関へ――。
「失礼します」
と、玄関のドアが開いて、ブレザーの制服姿の少女が、学生鞄を手に、入って来た。
美奈子は、それが幻かもしれない、という思いで、しばらくぼんやりと眺めていたが――。
「突然、すみません」
少女は、丁寧な口調で言った。「石毛安夫さんのお宅ですね」
玄関に表札も出ている。違うとも言えなかった。
「ええ」
と、美奈子は言った。
「奥様ですか」
「ええ」
「あの――ご主人の知り合いの者ですけども」
なかなか、言い回しを心得てるわ、と美奈子は思った。石毛が、自分のことを妻に話しているかどうか、この少女には分らないのだから。
「主人は会社ですよ」
と、美奈子は言った。
「はい。奥様にお話があって、うかがったんですけど」
「私に?」
「はい。――よろしいでしょうか」
美奈子は迷った。
郁江を迎えに行かなくてはならない。それを理由に、帰ってくれと言うこともできたが、誰か来客中に来られたり、郁江がいる前で、少女に泣かれたりしても困る、と思い直した。
「上って」
と、美奈子は言った。
「お邪魔します」
少女は上って、靴の向きを変えて揃えた。今時の子はなかなかやらないことである。
――居間へ通すと、
「何か飲物でも? 紅茶とかコーヒーとか」
と、美奈子は言った。
「すみません。じゃ、紅茶を」
きちんと膝を真直ぐに揃えて、座っている。緊張しているというよりは、いつもこんな風なのかもしれない。
そう思わせるのは、いかにも落ちついた少女の印象のせいだろう。
可愛い、というよりも、大人びた美しさである。眉が描いたように鮮やかで、口もとにも気品があって、やや青ざめ、病的な感じはあるものの、確かに男性なら誰でも一瞬目を止めるに違いない、整った容貌である。
美奈子は、自分にも紅茶をいれて、いつもは使っていない高級なカップで出した。
「いただきます」
と、少女は言って、ゆっくりと紅茶を飲み始めた。
美奈子は、少女の美しさに、少し動揺したが、夫の気持はよく分っていたし、不安は全くなかった。
「主人から、あなたのこと、聞いたわ」
と、美奈子が言うと、
「そうですか」
少女は、ごく当り前のように肯いた。
「酔った上でのこと、といっても、やっぱり悪いのは主人の方よ。あなたにはすまないことをしたと言ってたわ」
「そんなこと……」
「あなた、十八ですって?」
「はい」
「男の人と、よくそんなことするの?」
初めて、少女はやや戸惑った表情を見せた。
「私……」
「初めてじゃなかったんでしょ?」
少女は少しためらってから、
「はい」
と、肯いた。「でも――この前は、ずっと前のことです」
「そんなに?」
「ずっと待っていました。――あのお店で。声をかけてくれる人が現われるのを。安夫さんが笑顔で話しかけて来てくれた時、本当に嬉しかったんです」
少女が安夫さん、と呼んだので、美奈子は表情をこわばらせた。
「主人のこと、安夫さん、なんて呼ぶ人、いないわ」
と、美奈子は言った。「私は、『あなた』とか、『パパ』と呼ぶから」
「そうですね。郁江ちゃんとおっしゃるんですってね。可愛いんだぞ、って自慢して――写真も見せていただきました」
あの人ったら、余計なことして!
そろそろ、はっきりさせなくてはならない。
「――あなた、名前は?」
「寺井佐知子です」
と、少女は言った。「すみません。ご主人から、お聞きかと思ってました」
「聞いてるわ」
と、美奈子は肯いた。「でも、それは嘘ね」
少女は、戸惑った様子で、
「どうして、嘘だなんて……」
「私、行ってみたのよ、あなたと主人が会ったっていうスナックまで」
美奈子は、真直ぐに少女を見据えて、「聞いたわ。五年前に、あのスナックで起きた事件を」
「じゃ――ご存知なんですね」
「寺井佐知子は、その時、殺されたのよ。あなたはその事件のことを知ってて、わざとその子の名を名乗ってるわけ?」
「いえ――」
「本当の名前も言えない、というのは、何か後ろめたいことがあるんでしょう。――主人や私にどうしろ、と? お金を出せ、というの?」
「そんなこと、考えていません」
と、少女は言った。
「じゃ、何が望みなの?」
興奮しないように、と思っても、話の勢いで、ついたたみかけるような話し方になる。
少女は、奇妙に落ちついた様子で、言った。
「私の望みは、ご主人です」
――しばらく、美奈子は口がきけなかった。
十八歳の少女が言うには、あまりに不自然な言葉ではないか。
「どういう意味で言ってるの」
と、美奈子は訊いた。
単純に訊いたのである。腹を立てるところまでもいかなかったのだ。
「私はご主人と結ばれました。――契約したんです」
と、少女は言った。
「契約?」
「そうです」
「――契約ね」
美奈子は、ちょっと笑った。「愛人として、月にいくらかこづかいをあげる、とかいうの? 契約ってものは本名でするものでしょ。死んだ人の名でするのは無効じゃないかしら。それとも、あなた、幽霊なの?」
少女は、口を開きかけた。
その時、玄関の方で、
「美奈子さん」
と、呼ぶ声がした。
4
美奈子は、ハッとした。
あの声。――考えるまでもない。多田百合江だった。
しかも、声を聞いて、美奈子は思い出していた。鍵をかけないままにしてあったので、百合江は中に入って来ている。
インタホンで、今、忙しくないか訊く、といったことは、決してしない人間なのだ。
「待ってて」
と、美奈子は少女に言って、立ち上った。
急いで玄関へ出て行く。――百合江を上げてはいけない。
あの少女を見られたら、何を言いふらされるか……。
「――あら、どうも」
もう、百合江は上り込んで来ていた。
「あの、今、ちょっと――」
「ええ、お忙しいのは分ってるわ」
と、百合江は、両手に下げたビニール袋を持ち上げて見せ、「ほら、これが無農薬の野菜。あなたに、と思ってね、取っといてあげたのよ」
「ありがとう。嬉しいわ。ね、あの――」
「重くて重くて! 大変だったわ。ちょっとそこまでだからと思ったけど、結構、途中でどんどん重くなって……」
百合江は、構わずに台所へ入りこむと、「――それ、早く冷蔵庫へしまった方がいいわよ」
「え、ええ……」
「代金はこの次でいいわ。少し高いけど、健康にはかえられないものね」
「ありがとう。後でお金、お持ちするわ」
と、美奈子は急いで言った。
「いいのよ、いつでも! それより、ほら――冷蔵庫へしまってね。手伝いましょうか、私?」
「いえ。――いいわ、やるから」
これを冷蔵庫へ入れない内は、引きあげそうにない。美奈子は、諦めて、欲しくもなかった野菜を、冷蔵庫の中へ急いで入れ始めた。
「――凄い人でね。アッという間に売り切れちゃったの」
と、百合江は、それとなく冷蔵庫の中を覗き込んでいる。「でも、ぜひあなたには少し回してあげたいと思ったから、隠しちゃった。別にしといたのよ」
「ありがとう。あの――」
「紅茶いれたの? お宅は何? うちはフォーションでないと主人が気に入らないのよ」
「百合江さん――」
美奈子は、百合江がさっさと居間へ入って行くのを見て、あわてた。
残りの野菜を、ともかく冷蔵庫へ放り込んで、居間へ入る。
少女は、両手をきちんと膝に置いて、座っている。
百合江は、ソファにドサッと腰をおろして、
「お客様だったの?」
と、ティーカップを見て言った。「あら、このカップ、初めて見たわ。いつ買ったの?」
「ええ……。大分前だけど、めったに出さないの」
と、美奈子は、諦めて、自分も座った。
親戚の娘さん、とか言って、ごまかすしかあるまい。少女の方が、うまく合せてくれるかどうか……。
「高そうね」
百合江は、少女の前に置かれたカップを、受け皿ごと持ち上げて、底を覗き、「――ヘレンドね。いい色よね、やっぱり」
美奈子は呆れてしまった。目の前に座っている人間のカップを――。
「ほとんど飲んでないじゃない」
と、百合江は顔をしかめて、「もったいない! お宅、何なの、紅茶?」
「え?――うちはロイヤルコペンハーゲン」
「ああ、あれも渋くていいわね。こくがあるっていうか。こんなに残す人に出すことないわ。もったいない。――ね、まだ葉、出るんじゃない? 私にも一杯ちょうだいよ」
「え、ええ……」
美奈子は、ほとんど無意識に、台所へ立って行って、二人分出した葉で、もう一杯分出した。
「ねえ、聞いた?」
と、百合江が、居間から大きな声で話しかけて来る。「例の町会長さん。やっぱり町会のお金、使いこんでたって話よ。今、大変なんだって。――かなわないわよね。町会費だって馬鹿になんないのにさ」
「――どうぞ」
と、美奈子は、百合江に紅茶を出し、チラッと少女の方を見た。
少女は、じっと座って、美奈子と、百合江を交互に見ている。
「ありがと。――いい香りね!」
と、百合江は一口すすって、「困ったもんだわ、うちの主人にも」
「え?」
「もういい、って言うのにさ。もう一人作ろうって。土曜日の夜、しつこくって、参ったわ。もういやだから寝たふりしてたのに、脱がそうとするのよ」
百合江は、苦笑して、「結局、寝たのは三時。ヘトヘトよ、こっちも。――子供なんて一人で沢山。そう思わない?」
「そうね……」
「お宅のご主人、いいわねえ、優しいから」
「ええ」
「妻がいやがってるのに、無理に、なんてことないでしょ? 結構、スラッとして、細いけど、ああいうタイプって、あっちの方はタフなのよ。そうじゃない?」
「どうかしら」
「比べたことない?――私は、結婚前に何人もいたからね、分ってんの」
百合江は声を上げて笑った。
――美奈子は、少女をじっと見ていた。
少女の目は、少し照れたように、笑っている。
分ったでしょ?――その目はそう言っていた。
この人には、私のことが見えないの[#「見えないの」に傍点]。
私は幽霊なのよ……。
「おい」
石毛が、台所へ顔を出した。
「お帰りなさい」
美奈子は忙しく野菜を刻んでいた。――百合江の持って来たものではない。
あれはそのまま全部捨ててしまった。
「ごめんなさい。仕度にかかるのが、遅れちゃって」
と、美奈子は言った。「三十分ぐらいだと思うわ」
「いいよ。別に死にやしない。――腹は空いてるけどね」
美奈子のせいばかりでもない。妻のことが気になる石毛が、早々と帰って来たからである。
いつもなら、九時ごろで普通なのに。
「郁江は? 今夜は一緒に晩飯が食べられるな」
「そうだわ。寝てるの。昼寝が少し遅くなって。起してくれる? 起きてすぐだと食べられないから」
「分った」
「TVでも点ければ、目が覚めるわよ」
と、美奈子は言った。
「そうだな」
行きかけて、石毛は振り向くと、「――おい、美奈子」
「何?」
「あの――女の子から、何も言って来てないか」
「何も」
と、美奈子は答えた。
「そうか」
「気にしないのよ。向うはもう忘れてるわ」
「そうかな」
「それとも、未練でもあるの?」
「よせよ」
と、石毛は苦笑して、台所を出て行った……。
「誰が――」
と、美奈子は呟いた。「誰が、あの人をあげるもんですか」
――契約? そんなもの、知らないと言ってしまえばそれまでだ。
石毛は酔っていて、少女の言うことなんか、ろくに聞いてもいなかったのだ。
でなければ、「幽霊の世界」に行く契約なんて、するわけがない。
「迎えに来ます」
と、少女は言った。「結ばれて一週間後に。そういう契約ですから」
迎えに来る。――それは、石毛の「死」に他ならないのだ。
美奈子は、寺井佐知子に向って、哀願はしなかった。絶対に夫は渡さない、と挑んでしまったのだ。
「死ぬ人なんか、いくらもいるじゃないの! どうしてうちの主人を? 妻も子もいる人を、どうして?」
と、詰め寄った。
もちろん、多田百合江が、何も知らずに帰った後である。
寺井佐知子は、少し寂しげな顔になった。
「私が、ご主人を選んだわけじゃありません。私が契約できる人は、私のことが見える人でなければいけないんです」
「どうして主人や私に見えて、さっきの奥さんには見えないの?」
と、美奈子は言った。
佐知子は、さらに悲しげに、
「本当に人を愛していて、誠実な人だからです」
と言った。「そんな人があのスナックへ来てくれるのを、私、五年間待っていたんです……」
――馬鹿なこと!
愛し合ってるから? 誠実だから、幽霊に見込まれて、一緒にあの世へ行けって?
そんな話があるの?
――いくらわめいても、佐知子は動じなかった。
「一週間たったら、迎えに来ます」
そう言って、静かに出て行ったのである。
美奈子は、しばらく立ち上ることもできなかった。
これが現実なのかどうかすら、定かではなかった……。
「――あなた」
と、美奈子は、その夜、言った。
「何だ?」
石毛も眠っていなかったらしい。
「私たちから離れないでね」
「何だよ、出しぬけに……」
「約束して。――ずっと、私たちと一緒よね」
「当り前だ」
美奈子は、夫の胸にすがりつくように、顔を埋めて行った。
石毛は戸惑っていた。――美奈子が、当分は怒って、相手をしてくれないだろう、と思っていたのである。
石毛は、美奈子を下にして、体を重ねた。
美奈子は、力の限り、まるで自分を夫の一部にしようとするかのように、強く、強く、抱きしめた……。
5
「――ママ、これ、おサルさん」
郁江が、砂の上に描いた、歪んだ円を指して、言った。
「そう! 上手ね」
美奈子が大げさに言ってやると、郁江は、喜んでまた何やら描き始めた。
――暖かい日だった。
平和で、静かで、何事も起りそうにない日である。
しかし、美奈子の心は、何かに押しつぶされそうだった。
火曜日、水曜日、と日は過ぎて行った。
今日は木曜日である。――明日、あの少女がやって来る。
といって、美奈子に何ができるだろうか?
寺井佐知子のことを、何か分らないかと調べてみたが、彼女の両親も、娘の死で、失意の内に世を去ってしまっていた。
あのスナックに、わざと夜遅く、行ってもみた。しかし、「契約」をすませた少女は、もうあの店にはいなかった。
明日。――本当に、あの少女は来るだろうか?
あれがただの悪夢であってくれたら、笑い話ですんでしまうのだろうが。
「ママ、これね――」
と、郁江が、両手を砂だらけにして、立ち上ったが――。
突然、郁江がパタッとその場に倒れた。
声も上げず、顔をしかめもしなかったので、美奈子は、郁江がわざとやったのかと思った。
それにしては、倒れ方が……。
「郁江。――どうしたの?」
と、抱き起す。「郁江。――郁江」
揺さぶっても、目を開けない。何の反応もない。
「郁江!――目を覚まして!」
呼びかけても、全く耳に届いていない様子だ。やっと美奈子は青ざめた。
胸に手を当ててみる。――呼吸が止っている。そして、何の鼓動も、感じられない。
心臓が――止ってる!
「郁江……。どうしたのよ……」
と、抱きかかえて立ち上った美奈子は、目の前に、あの寺井佐知子が立っているのを見て、目をみはった。
「あんたが、この子を――」
「ご心配いりません」
と、佐知子は言った。「すぐ、元に戻りますから」
「何ですって?」
急に、郁江が身動きして、目を開いた。
「ママ。――何してるの?」
「郁江……」
下ろしてやると、郁江は、また何もなかったように、砂に絵を描き始めた。
「――ご主人が私と行くのを、止められないんだ、と知っていただきたかったんです」
と、佐知子は言った。「びっくりさせて、申し訳ありませんでした」
美奈子は、言葉も出なかった。佐知子は、
「では明日の晩に、うかがいます」
と、言って頭を下げ、歩いて行った。
ぼんやり見送っている美奈子へ、
「ママ」
と、郁江が言った。「今のお姉さん、誰?」
この子にも見えるのだ。子供だから?
どうして!――こんなに、あの少女を憎んでいる[#「憎んでいる」に傍点]のに、どうして、まだあの少女が見えるんだろう……。
明日。――明日。
美奈子は、頭をかかえて、うずくまってしまった……。
「――もしもし」
と、美奈子は言った。「石毛、おりますでしょうか。家内ですが」
少しして、夫の声が、
「やあ、何だ?」
と、聞こえて来た。
「あなた……。今日、早く帰れる?」
と、美奈子は訊いた。
「今日か? 金曜日だし、忙しいからな」
「そう」
「だから、もちろん、五時で帰る」
と言って、石毛は笑った。
「分ったわ」
美奈子も笑って、「――ね、お願いがあるんだけど」
「何だ? ダイヤの指輪でも買って行くか」
「まさか。帰りにね、寄って来てほしい所があるの」
「いいよ」
「多田さんのお宅、知ってるでしょ」
「ああ。あのにぎやかな奥さんのいる……」
「そうよ。そこへ寄って、お野菜、いただいて来て。重いから、運ぶのが大変なの」
「行けば分るんだな?」
「電話しておくから」
「じゃ――たぶん、六時半ぐらいだな、行けるのは」
「ええ。お願いね」
「任せとけ。今夜のおかずは?」
「お楽しみ」
と言って、美奈子は電話を切った。
手はそのまま、受話器をつかんでいる。
どうしよう?――どうしよう?
他に方法がないのだ。他に、何も思い付かない。
仕方ないのだ……。
美奈子は、大きく息をついてから、受話器を取り上げ、多田百合江の家の番号を押した……。
しかし、美奈子の奴も、変ってるよ。
石毛は、夜の冷たい風に肩をすぼめながら歩いていた。
多田さんの奥さんのことを、ひどく嫌ってる。それなのに、野菜を?
まあ、これはこれ、ということだろう。
確かに、あの多田さんの女房は、俺も苦手なタイプだな。派手で、男心をそそる、という女ではあるが、といって……。
「ここか。――通り過ぎるところだった」
石毛は、玄関のチャイムを鳴らした。
しばらく返事がない。もう一度鳴らそうとすると、インタホンに、
「どなた?」
と、女の声。
「石毛ですが」
「どうぞお入りになって」
「失礼します」
ドアは開いた。中へ入って……。戸惑った。いやに薄暗いのだ。
「――奥さん。――奥さん」
と、呼びかけると、
「上って下さい」
と、奥の方から、返事があった。
「はあ……」
仕方ない。――石毛は、靴を脱いで、上り込んだ。どこにいるんだ?
「奥さん。あの――」
「こっちへどうぞ」
明りが見えた。――いや、一つの部屋だけが、明るく照明が点いているのである。
「奥さん……」
と、覗き込んで、石毛は面食らった。
「いらっしゃい」
多田百合江が、ベッドで横になっていた。
「あの……」
「ごめんなさい。ちょっとめまいがして」
「そりゃいけませんね。――大丈夫ですか」
「すみませんけど」
と、百合江は、少し頭を上げて、「タオルを熱いおしぼりにして、持って来ていただけません?」
「いいですよ。じゃ……。ご主人は?」
「毎日遅いんです。今夜も夜中だって、電話がありましたわ」
「そうですか」
「子供は二階にいます。二階にTVがあるので、下りて来ませんわ」
「じゃあ……。タオルはどこに?」
と、石毛は訊いた。
「その引出しです。――二番目の」
「ああ、これですね。待ってて下さい」
石毛が、タオルを手に、台所の方へと行ってしまうと、百合江はベッドに起き上って、ちょっと笑った……。
少女は、いつの間にか、居間に座っていた。
「――お邪魔してます」
と、美奈子を見て、頭を下げる。
「来たのね」
「ええ。――奥様には、申し訳ないと思っています」
美奈子は、フフ、と笑った。少女はいぶかしげに、
「何かおかしいことでも?」
「いいえ。――ただ、まるで普通の〈愛人〉みたいなことを言うから。あなた、幽霊なのにね」
少女は、黙って目を伏せた。
「――まだ帰っていないんですね」
「もう帰ると思うわ。少し遅れてるみたいだけど」
少女は、ちょっと微笑んで、
「郁江ちゃん、可愛い子ですね」
と、言った。
「ありがとう。でも――あの子を取って行かないでね」
「そんなことしません。私は――」
その時、玄関で、
「ただいま」
と、声がした。
「帰って来たわ」
と、美奈子は言った。
「ええ」
佐知子が、肯く。
「――いや、遅くなって、ごめん」
石毛が、大きな袋を手に下げて、居間へ入って来た。「会社を出ようとして、電話につかまってね」
「そう」
「これ、台所か?」
「ええ、台所に置いて」
石毛は、佐知子の方を見ずに、台所へ行ってしまった。
「――あの奥さんは、よくしゃべるんだな」
と、荷物を置いて、石毛は居間へ戻って来た。
「悪い人じゃないんだけどね」
「しかし、疲れるよ、ああいう人と話すってのは」
「――安夫さん」
と、佐知子が言った。「一週間目ですよ。私と一緒に行って」
ソファに座った石毛は、
「おい、晩飯の仕度、これからなのかい?」
と、訊いた。
「ええ。今日はちょっと……。心配ごとがあって」
「何のことだ?」
「こっちを見て!」
と、佐知子は叫ぶように言った。「あなたには私が見えるはずよ!」
「ううん。大したことじゃないの。――ね、郁江が退屈してるわ。相手してやって」
「うん。そうだな。おい、日曜日には、三人でどこかへ行こうか」
「どこへ?」
「どこでも、好きな所へさ」
「いいわね」
と、美奈子は言って肯いた。
石毛は、
「おい! 郁江! どこだ? パパだぞ!」
と、大声で呼びながら、奥へ入って行く。
――佐知子は、美奈子を見た。
美奈子は、佐知子の絶望的な眼差しを、受け止めて、はね返した。キュッと唇をかんで、ほとんど息を止めるようにして。
「何てことを!」
と、佐知子は、崩れ去るような声で、言った。「奥さん――」
「あなたには渡さないわ」
と、美奈子は言った。
佐知子は、まるで臨終の一呼吸のような、深い息をつくと、ゆっくり立ち上った。
そして何も言わずに一礼すると、静かに出て行った。
美奈子は、ゆっくりと息を吐き出した。
「――おい、何かしゃべってたか?」
石毛が、郁江を抱いて、入って来る。
「別に。ごめんなさい。すぐ夕ご飯の仕度するわ」
と、美奈子は立ち上った。
「お腹空いたよなあ、郁江?」
と、石毛が郁江を抱いて、おどけた調子で言った。
台所へ行こうとして、美奈子は振り返ると、
「あなた」
「何だ?」
「多田さんの奥さん、何か言ってた?」
「いや。――よろしくって。それだけさ」
「そう」
「何か、用だったのか?」
「いいえ。それならいいの」
美奈子は台所へ入ると、両手で顔を覆った。
夫の目に、もうあの少女は見えなくなっていたのだ。
石毛は、百合江の誘いに負けて、寝て来たはずだ。――それは美奈子自身が、企んだことだった。
そして、夫は嘘をついた。
もう、夫は誠実でなくなったのだ。だからあの少女が見えなかったのである。
美奈子は、夫を失いたくなかった。何としても。――どんなことをしても。
だが……。
本当に、失わずにすんだのだろうか?
あの少女に、勝ったのだろうか。
夫が、郁江をいつになく陽気にあやしているのを聞きながら、一人、台所で、美奈子は声を殺して泣き出していた。
灰色の少女
1
一瞬、めまいにも似た感覚を覚えて、ドアのわきの握り棒を、ギュッと握りしめる。
しかし、それは一種の錯覚のようなものだった。立ちくらみ、とか、そんなものとも違う。
実際には何でもなかったのだ。ただ、不意に、胸をつかれて、周囲が空白になっただけだったのである。
国電は、ラッシュアワーをとっくに過ぎているといっても、座れるほどには空いていない。吉田和彦は、ドアのわき、座席の端の肘かけと、握り棒の間の小さなコーナーに、身をもたせかけて、立っていた。
人間というのは、どうもこういう隅っこにいると落ちつくらしい、と吉田は思った。たまに、深夜に帰るとき、ガラ空きの車両でも、長い座席の、一番端に、ほとんどの客が座っている。他に一人も座っていなくても、である。
立っていても同じだ。座れないけど、立っている客は数えるほど、というときには、真中の吊皮でなく、ドアのわきの、この角がまず埋って行く。そこが一杯になると、吊皮にぶら下がるのだ。
よほど寒くて、ドアのわきにいると、駅に着いて寒風が吹き込んで来る、とでもいうのでない限り、まずその「法則」には変りがなかった。
それはたぶん、「よりかかる面積」の問題なのだろう。ただ吊皮につかまっているよりも、こうして、ドアのわきに身をスッポリと納めていると、電車の車両そのものが、自分を支えてくれているような、そんな気がして、安心できるのである。もちろん、体も楽なのだが。
しかし、吉田和彦はまだそう疲れるほどの年齢ではない。といって、三十七、というのは当節の十代の女の子たちから見れば、立派な「中年」である。いくら当人が「青年」のつもりでも……。
三月。――やっと、暖かくなって来た。
まだ時には雪がドカッと降って、郊外から出勤するサラリーマンたちをあわてさせたり、春の突風で目にゴミが入って往生したり、「花粉症」に悩んで、鼻をグスグスいわしたりするが、しかし、やはり晴れの日ごとに、青空はまぶしさを増し、雨は冷たく叩くというよりもぬるいシャワーのようで、どんよりと曇った空も、どこか眠たげになる。
春になったのである。
――発車のベルが鳴っても、なかなかドアは閉らなかった。「時間調整」というやつで、もう三分ぐらい停っている。
ベルを聞いて、駆け込んで来た客が、
「何だ、出ないじゃねえか」
と、ブツブツ言っていた。
もう一度ベルが鳴って、今度こそ、ドアが閉るのだろう、ピーッと車掌の笛が鳴った。
そこへ、その少女が乗って来たのである。
ふと目をひかれたのは、その少女が、少しも急ぐ様子を見せずに乗って来たせいだった。
普通なら、ベルがホームに鳴り渡り、笛まで鳴ったら、あわてて駆けて来るか、ドアから飛び込んで来るものだ。しかし、その少女は、たまたま笛が鳴っていたときに乗ったのだ、という感じだった。
すぐにドアが閉って、電車は動き始めた。
そのときだった。
吉田が、軽いめまいのようなものを覚えたのは。
「びっくりしたよ」
風呂から上って、ゆったりと寛いだ夫が、「今日、誰に会ったと思う?」
と言い出したのを、吉田啓子は、少々戸惑って聞いた。
もともと、夫はそうよくしゃべる方ではない。といって、気難しいのではなく、ただ口下手なのである。
啓子が、あれこれ話しかければ、返事もするし、聞いてもくれるのだが、自分の方から何か話題を出すことなど、ほとんどない。
「分りっこないでしょ」
と、啓子は、夫にお茶を出しながら、「誰だったの?」
「うん。帰りの電車に――」
と、吉田が言いかけたとき、
「おやすみ!」
と、一人娘の佳子がパジャマ姿で顔を出した。
「はい。ちゃんと歯を磨いたの?」
啓子は、夫の話より子供が先で、佳子を寝室の方へと連れて行く。
「うん。――パパ、おやすみ!」
「ああ、おやすみ」
夫の声が、追いかけて来る。
佳子をベッドに入れ、啓子は、
「早く寝るのよ」
と、軽く頭をなでてやってから、部屋の明りを消した。
「おやすみなさい」
佳子の声は、もう半分近く眠っている。
「はい、おやすみ」
「ドア、開けといて」
「はいはい」
啓子は、子供部屋のドアを開けたままにして、居間へと戻って行った。
あれで、十分としない内にぐっすり眠っているのだ。子供にだけ許された眠りである。
「風邪がはやってるのよ、学校で」
と、啓子は、自分のお茶を持って、居間のソファに座りながら言った。「七、八人休んでるみたい、クラスで」
「あいつは大丈夫か?」
と、吉田が訊いた。
「今のところはね。でも、あの子、たいてい一度は熱を出すから……」
と言いながら、ふと思い出し、「ああ、どうしたの? 誰に会ったの?」
「うん。いや――女の子が乗って来たんだ。帰りの電車に。どこかで見たことのある子だな、と思って……。しばらく分らなかったんだよ」
「女の子?」
「憶えてるだろう? 中学のとき一緒だった、安西澄子」
啓子は、危うく、茶碗を取り落すところだった。――安西澄子。その名を、また聞くことがあるとは、思ってもいなかったからだ。
吉田は、啓子が思い出せずにいると思ったのか、
「ほら、よく委員をやってて、ちょっと大人びた顔をしてたじゃないか。君も、結構仲良くしてた――」
「ええ、憶えてるわ」
やっと、啓子は肯いてみせた。
仲良く、ですって? とんでもない話だわ!
「あの子とそっくりなんだ。本当にびっくりするくらい似ててね」
吉田は、首を振って、「まあ、安西澄子の顔をはっきり憶えてたわけじゃないんだが、その子を見て、急にパッと思い出したんだよ」
「そう」
啓子は、笑顔を作って見せた。「世の中には、似た人っているものよ」
「いや、あれは偶然じゃない。ただの他人の空似とは思えないよ。――本当にうり二つなんだ。娘じゃないかな、安西澄子の」
「まさか」
と、啓子は、反射的に言っていた。
「どうしてだ? 不思議じゃないよ、あれぐらいの娘がいても。俺たちと同じ学年だったんだから、今、彼女も三十七か八だろ。あの女の子……十五には見えたけど、まあ、今の子は発育がいいから、十三、四かもしれない。二十二か三で生んでれば、あれぐらいだからな」
「そうね。でも……」
「いや、きっとそうだ」
と、吉田は自分で肯いている。「何となく似てるなんてものじゃない。まるで生き写しなんだ。――あれは、安西澄子の娘だよ」
そんなわけ、ないわ……。
啓子は口の中で呟いた。もちろん、それは夫の耳に届かなかったが。
その夜、吉田は啓子のベッドへ入って行った。――啓子は、いつものように、
「朝、起きられなくても知らないわよ」
と言いながら、夫の手がネグリジェをめくり上げて行くのに、逆らいもしなかった。
結婚して十年もたつと、こういうことも、大体手順が決って来て、それはそれで夫婦だけに通用する愉しみでもあるのだが、今夜の場合は、どこか微妙に違っていた。
いつもぐらいの時間をかけて、いつもの通りに、二人とも満足して終りはしたのだが、やはり、どこかが違っていた。
ただ、二人ともそのことに気付かなかったのは、二人がどちらも、あることに気を取られていたからだ。
吉田は、自分のベッドへ戻って、目を閉じても、なかなか眠れなかった。明日もいつもの通りに起きるのだから、すぐに寝入ったとしても、五時間ほどしか眠れないことになるのが、少し気がかりだった。
――安西澄子か。
そう。きれいな子だった。可愛い、というには、あまりにきりっとして、端正な顔だった。
いかにも頭のいい子、という感じで、事実、クラスでトップを独走する優等生だった。
どうひいき目に見ても優等生といいかねた吉田には、安西澄子はあまりにしっかりした、まぶしい存在だったものだ。
あれほどの美人なのに、男の子は一向に声をかけようとしなかった。あまりにしっかりしていて、隙がなかったのだろう。
といって、安西澄子は決してお高く止っていたわけではない。一度、たまたま一緒に週番をやったときには、結構おしゃべりもしたし、割合におっちょこちょいのところもあるのを発見して、何だかホッとしたものである。
もしかして――十五のとき、吉田が父の転勤で急に札幌へ行くことにならなかったら、安西澄子と、もっと親しくなっていたかもしれない。
中本啓子――もちろん今の妻だ――も、同窓生で、中学二年のときには三人とも同じクラスだった。啓子とは、帰る方向が同じということもあって、よくしゃべった。
啓子は、そのころ、どちらかというと地味でおとなしく、目立たない娘だったが、勉強はよくできた。努力型だったのだ。
吉田が転校して、もちろん中本啓子とも別れてしまったわけだが、その後、手紙が来て、何となく文通するようになり、三年して大学受験のために東京へ戻ってから、付合いが始まった。
その三年の間に、啓子は見違えるように女っぽく、魅力的になっていた。二人が同じ大学へ進んで、ごく自然に、互いに結婚するのだと思うようになった……。
考えてみれば、安西澄子があの後どうしたのか、どこの高校へ進んだのか、吉田は聞いたことがなかった。きっと、どこか有名な高校、大学へと進んで、教師になるか、それともどこかビジネスの場で第一線にいるか……。
いや、あんな大きな子がいるのだから、結構平凡に、結婚して家庭に入ってしまったのかもしれない。
吉田は、今日、駅で見かけた少女を、すっかり安西澄子の娘と決め込んでいた。
そして、ふと考えたのだ。啓子を抱いている最中に。――もし、あのとき、父の転勤がなかったら、今、俺の下で喘いでいるのは、安西澄子だったかもしれないな、と……。
夫は眠っただろうか。
啓子は、暗がりの中から、遠い波の音のように聞こえて来る夫の息づかいに、じっと耳を傾けていた。
いつもなら、こんなことはないのだ。夫に抱かれて、満ち足りた後は、ものの十分としない内に深い眠りにつくのである。
しかし、今夜ばかりは、いつまでも眠りは訪れて来ないようだった。――あまりにも突然に、遠い過去の亡霊が、姿を現わしたからである。
安西澄子。まさか、この名を再び耳にすることがあろうとは……。
しかも、他ならぬ夫の口から。啓子は、まだ肌はほてっているはずなのに、どこかから、冷たい風が吹きつけて来るような気がして、毛布を顔の半ばまで引張り上げた。
安西澄子とうり二つの少女。――そんなことが、あるだろうか?
もちろん、夫は否定していたが、その少女が、安西澄子に似ていたとしても――それも二十年以上も昔の――それは偶然に違いない。
夫も自分で言っていたように、安西澄子の顔をはっきり憶えていたわけではないのだ。そこへ、どことなく似た少女が現われて、記憶を呼びさました。だから、夫は「記憶の中の顔」の方を、その少女に合せてしまったのだろう。
ありそうなことだ。そう。――何も気にする必要なんかない……。
啓子はギュッと目をつぶった。
すると――闇の中に、一つの顔が浮かび上って来た。バランスの取れた端正な顔立ち。利発そのものの、大きな瞳。キュッと結んだ唇。
同じクラスの男の子たちの「マドンナ」だった顔、そして、女の子たちにとっては、嫉妬の対象になった顔である。
安西澄子は、しかし、女の子の間でも人気があった。決して、頭の良さや美しさを鼻にかけることもなく、友だち思いでもあったのだから。
しかし、啓子は知っていた。安西澄子と一番親しくしていた女の子が、日記には、彼女の悪口を書きつづっていたことを……。
ただ、それは青春の一面として、ありがちなことだ。たぶん、その女の子も、今は安西澄子のことを、仲の良かった友だちとして思い出すに違いない。
ともかく、安西澄子は、誰でも愛さないわけにはいかない少女だったからこそ、好まれ、憎まれてもいたのである。
啓子は?
パッと目を開くと、安西澄子の顔は、シャボン玉が割れるように消えた。暗い天井が、啓子を見下ろしている。
啓子は、それほど安西澄子を憎んでいたわけではない。吉田和彦が、父親の転勤で、転校して行くまでは……。
――夫は、寝入ったようだ。
啓子は、ベッドの中で寝返りを打った。
もう忘れよう。夫も、二、三日すれば、こんなことは忘れ去ってしまうに違いない。
ともかく、一つだけはっきりしていることがある。夫が今日見かけたという少女が、安西澄子の娘であるはずがない、ということだ。
安西澄子は、十五歳のとき、吉田が転校して行って間もなく、行方不明になり、ついに見付からなかったのだ。――安西澄子はとっくに死んだものとして、処理されていた。
2
時間はある。
しかし……。どうしたものだろう?
そんな風に悩むこと自体、馬鹿げている。吉田は苦笑いしながら、地下鉄の階段を上っていた。
何もいちいち、言い訳めいたことを考えるまでもない。――要は、安西澄子のことを誰かに訊いてみたかっただけなのだ。
そう、もしあいつがいれば……。いなければ、それで忘れてしまおう。
ビルの地下には、少々古びた喫茶店がある。――ここへ前にやって来てから、もう何年たっただろう?
たぶん、そのときにも、この店はあったはずだ。吉田の記憶の中に、大分薄汚れた飾りつけの店内の様子が、かすかに残っていた。
「ミルクティーを」
と、吉田はオーダーした。
少し胃の具合が悪くて、このところ、コーヒーは控えている。
十円玉をいくつか手に持って、赤電話へと立って行く。汚れて、少々手に取るのもためらうような受話器を、そっとつまみ上げた。
番号は憶えていた。
「――あ、もしもし。――資材部の本間さんをお願いします」
「本間課長でしょうか」
と、訊き返されて、一瞬、戸惑った。
しかし、「本間」が同じ部に二人はいるまい。
「そうです。ああ、こちらは吉田といいますが」
「吉田様ですか。少々お待ち下さい」
あいつ、課長になったのか。大したもんだ……。
呼出し音が聞こえている間、吉田は、店から見える地下通路を行き来する男女を、ぼんやりと眺めていた。
「少しお待ち下さい」
と、女性の声がした。
いなければ、諦めるのだが……。しかし、すぐに、
「はい、お待たせいたしました、本間です」
という、几帳面な声が聞こえて来た。
「もしもし、本間か? 吉田だよ。吉田和彦」
「なんだ! どこの吉田かと思った」
と、懐しい声になって、「おい、どこからかけてる?」
「そこの地下だ。――うん、喫茶店。ちょうど通りかかって、思い出したんだよ」
「すぐ行くよ」
「いいのか? 忙しいんだろ?」
「それほどでもない。待っててくれ」
「ああ」
受話器を置いて、ホッと息をつく。――さりげなさを装っていたものの、かなり緊張していたのは事実なのだ。
「――どうも」
席へ戻ると、ちょうど紅茶が来た。
しかし……。俺も何を考えてるんだろう。
安西澄子のことなら、妻の啓子に訊けばいいのだ。それなのに、わざわざこうして、中学校で一緒だった友人を、勤め先まで訪ねて来るなんて……。
ただ、やはり啓子には訊きにくいことも事実である。特に、あの話をしたときに訊けばよかったのに、もう一週間もたってしまってから、改めて訊くというのは妙なものだった。
たぶん、啓子はもう、あんな話を忘れてしまっているだろう。吉田の見かけた少女が、本当に安西澄子の娘だと信じてもいないようだし。
それも無理はないかもしれない。吉田だって、もしあの少女を、直接この目で見ていなかったら、啓子のように、「他人の空似」と思っただろう。いや、もし本当に安西澄子の娘だったとしても、大して気にも止めなかったに違いない。
やはり、吉田がこうしてわざわざ当時の同級生の一人にまで会いに来たのは、あの少女を、自分の目で見ていたから――そして、あまりにその少女が安西澄子に生き写しだったからだ。
――吉田は、まるで、安西澄子自身[#「自身」に傍点]に、めぐり会ったような気がしていたのである。
「やあ」
と、声がして、記憶の中から、また一回り太った本間が、向いの席に座った。「懐しいな! おい、俺にも紅茶。うん、ミルクティー」
「課長か。大したもんじゃないか」
と、吉田が言うと、本間は顔をしかめた。
「やめてくれ。不景気なんだ。人減らしでね、停年前の退職が何人も出た。――やめたくてやめたんじゃないのがほとんどだけどな。おかげで俺が課長さ。喜んじゃいられないよ」
「そうか。――しかし、課長は課長だ」
「まあな」
本間はニヤリと笑った。中学のころと変らない、いたずら小僧の笑いだ。
「吉田、お前、太らないな」
「うん、あまりね。却って、少しやせたくらいだ」
「羨ましいよ! 俺は毎年、ズボンを直してるんだぜ。女房には文句を言われるし」
「年齢だ。仕方ないよ」
「女房の方は、もっと太ってるのにな。不公平だよ、実際。――元気でやってるのか。ああ、そうだ! 今、そこで誰を見たと思う?」
「え?」
「いや、今、エレベーターでここまで下りて来てさ。そこの通路を歩いて来たら――安西澄子とそっくりの女の子がすれ違って行ったんだ」
本間は、ゆっくりと夢見るように、「いやびっくりしたぜ!――十五くらいかな。あのころの安西澄子とそっくりだ」
吉田は、店の表、通路の方を振り返った。――あの少女が? ここにいたのか?
「安西澄子って、憶えてないのか?」
と、本間が言った。
「え?――ああ、いや、憶えてる」
と、吉田は言った。「中学のとき、同じクラスだった……」
「ああ。美人だったよな。頭も良くて、きれいで……。でき過ぎた子だったんだよな。本当に」
本間は、しみじみとした口調で言った。「しかし――似た子がいるもんだな。びっくりしたよ」
「安西澄子の娘かもしれないぞ」
と、吉田は言った。「そうでもおかしくないじゃないか」
本間が、目をみはって、
「吉田、お前……」
と、言いかけ、「――そうか。お前が転校した後だったな、あれは。お前は知らなかったんだ」
「何が?」
「安西澄子のことを。――聞いてないのか? 確か、奥さんも同級生だったろ?」
「うん。安西澄子が、どうかしたのか?」
「彼女、死んだんだよ」
と、本間は言った。
吉田は、一瞬、周囲の物音が、何一つ耳に入らなくなった。「死んだ」――誰が死んだって?
「いや、正確に言うと、行方不明かな。ともかく、いなくなっちまったんだ」
と、本間は続けた。「大騒ぎだったよ。――ずいぶん長いこと、捜索してたんじゃないかな」
「行方不明……」
吉田は、やっと我に返った。「どういうことなんだ?」
「分らないよ、俺だって。お前がいなくなったのは、中三の秋だっけな」
「ああ。――二学期の途中だった」
「たぶん、その少し後だ。大分寒くなったころじゃなかったかな。学校の帰り道で、安西澄子に、ともかく何か[#「何か」に傍点]あったんだ。家に帰らず、捜索願いが出た。俺たちも捜したさ。クラス中で、手分けして、あの子の写真を貼って歩いたりした。でも、見付からなかったんだ」
「――知らなかった」
と、吉田は呟くように言った。
「俺も忘れてたよ。今、あの女の子を見てハッと思い出したんだ。――誘拐とか家出とか、色々噂も流れたけど、結局、何も手がかり一つ見付けられなかった」
「じゃ――どうなったか、分らず終いに?」
「そうだろう。もう二十年以上だ。とっくに法律上は死んだことになってるさ。両親も、確か亡くなったはずだ」
「彼女――一人っ子だったな」
「だから、がっくり来たんだろう。たぶん……通り魔にでもやられて、どこかへ捨てられたんじゃないかな」
吉田は、ゆっくりと紅茶を飲んだ。
「だけど……。もし、行方不明のままなら、生きてるって可能性もあるじゃないか」
と、吉田は言った。「そんなに似た女の子がいるのなら、彼女、生きてて、結婚したのかもしれないぜ」
「うん……。でも、それなら、どうして姿を消したんだ?」
「そんなことは分らないさ」
と、吉田は微笑んだ。「だけど、よく本にも出てるじゃないか。突然記憶を失って、別の人間として、遠くで生活していた奴のこととか……」
「じゃ、安西澄子も?」
「いや――もしかしたら、ってことだ」
「そうかな。いや、そうかもしれないな」
本間は、真剣に考え込んでいた。「本当にそっくりだったんだ!――そう。ただの親戚ぐらいじゃ、ああは似ない。双子の姉妹ってぐらい良く似てたんだ。うん、そうだな、どこかで生きてたのかもしれないな」
しかし、吉田は別のことを考えていた。
啓子は、この間、安西澄子が行方不明になったことを、なぜ、彼に話さなかったのだろう? 忘れていたのか?――いや、本間の言った通りなら、安西澄子の失踪は、かなりの大事件だったのだ。
それを啓子が忘れてしまうなどということが、あるだろうか?
「――そうだ、吉田、お前、何か用事だったのか?」
本間の言葉に、吉田は我に返った。
「ママ……」
佳子が、退屈そうに欠伸をして「ねえママ」
「なあに? お買物してるんだから」
スーパーの棚の間を歩きながら、啓子は、左の腕に下げたカゴの中へ、品物を入れていた。大分重くはなったが、まだまだ買い足りないものがある。
「ママ、表で遊んでていい?」
と、佳子が、つまらなそうな顔で言った。
「表で?」
啓子は、ちょっとためらった。――普通なら、一人で遊ばせることはない。何といっても、物騒な世の中である。
しかし、このスーパーは、佳子もいつも来て慣れている。それに、スーパーの表は、ちゃんと、子供が遊べるようなスペースになっていて、よその子も沢山遊び回っていた。車も入って来ないから、危険はほとんどない。
「ねえ、ママ」
「分ったわ」
と、啓子は言った。
まあ、九つの子に、買物におとなしく付合えと言う方が無理だろう。それに、スーパーは混み合っていて、レジも長い行列ができている。
あそこに並ぶだけで、十五分はかかるだろう。
「じゃ、行ってなさい。道へ出ちゃだめよ。いいわね?」
「うん!」
佳子は、もう人の間をかき分けて、出口の方へ、駆け出していた。
少々活発すぎるくらいの元気さだが、元気がないよりはいいだろう。
啓子は、一人になったので、手早く、棚から棚へと歩き回り始めた。
比較的早そうなレジ――と、思っても、誰しも考えることは同じで、結局どこに並んでも、大して変りはないのである。
啓子は適当に、近くの列の最後についた。近所の顔見知りの主婦が、啓子の方へ会釈して行く。
列の進み方は割合に早かった。この分なら十分ぐらいで済むかしら、と啓子は思った。
誰かが、値札のはがれた品物をカゴへ入れていたらしい。レジがストップして、みんなの顔にうんざりした表情が浮かんだ。
仕方ない。気を付けてはいても、つい、値札がはがれているのを気付かずにカゴへ入れてしまうことがある。
ただ、本来ならそれはスーパー側の責任なのに、並んでいる主婦たちの、苛立った無言の責めを受けるのが、それを手に取ってしまった主婦の方なのは、奇妙なことだった。
やっと、値段が分って、カシャカシャとレジの音がし始めると、啓子もホッとした。
キーッ。
鋭い音が、スーパーの中へ飛び込んで来た。一瞬、スーパーの中がシン、とした。
何の音かしら、と啓子は思った。
「――車のブレーキだわ」
と、誰かが言った。
「いやねえ、事故?」
「子供でも飛び出したんと違う?」
啓子は、またレジを打ち始めたので、そっちの方へ注意を戻した。――子供が飛び出したのかもしれない。
危いわ、本当に。子供を一人で遊ばせておくなんて、どういう親なのかしら……。
佳子。――佳子、どこに行ったの?
今日は連れて来なかったっけ? 啓子は、ちょっと迷ってしまった。いえ、確か、連れて来ていたのに……。
ママ、遊んでていい?――そう言って、あの子は……。
佳子。――佳子。
「あの――ちょっとすみません」
啓子は、列を抜けると、品物を入れたカゴを下へ置いて、駆け出していた。
店に入って来る客とぶつかりそうになる。
外へ出ると、遊び場を見回した。――佳子! 佳子、どこ?
子供たちも、遊んでいない。みんな、表の道路を眺めているのだ。人だかりがしていた。車が停っている。
何かあったのだ。でも、もちろん、佳子とは限らない。きっと他の子なのだ。
佳子は、車の前へ飛び出すような、そんなことはしないわ。そう、あの子は、ちゃんと言いつけは守る子だから……。
だが、啓子は、その人だかりの方へと駆け寄っていた。
ワーッ。子供の泣き声が耳に飛び込んで来た。佳子? 佳子だろうか?
女の子の甲高い泣き声なんて、似たようなものだ。でも、佳子の泣き声にも似ている。
人をかき分けると、車道の端の方に、ペタッと座り込んで、佳子が顔を真赤にして泣いているのが目に入った。膝が震えた。
「佳子!」
啓子は、娘へと駆け寄って、抱き上げた。重さなど、全く感じなかった。
佳子が泣きながら抱きついて来る。
「佳子……。大丈夫? 痛いところは?」
啓子は、娘を固く抱きしめて、揺さぶっていた。赤ん坊をあやしているようだ。
「お母さんですか」
と、背広姿の若い男が、おずおずと声をかけて来た。
「はい……」
「この子が、急に飛び出して来て……。いや、危いところでしたが……。どうも、申し訳ありません」
普通なら、「俺のせいじゃない!」と力説するだろう。啓子は、好感を持った。
「いえ――こちらこそ。一人で遊ばせていたものですから」
「女の子がね、助けてくれたんですよ」
と、若い男は言った。
「女の子が?」
「ええ。――どこに行ったのかな」
と、周囲を見回して、「ともかく、パッと走って来て、お子さんをかかえて転がったんですよ。中学生ぐらいの女の子で……。いや、あの子がいなかったら、はねていました」
「まあ……。そうですか。――じゃ、お礼を申し上げなきゃ」
啓子に抱かれて、佳子もやっと泣きやんでいた。膝や肘を少しすりむいて血が出ていたが、他にはどこも痛いところはないようだった。
「あ、あそこに歩いていく子じゃないかな」
と、若い男が指さして、「あのグレーのセーターの。向うへ歩いてく子がいるでしょう。そう、あの子ですよ」
「まあ、そうですか。――じゃ、お礼を」
まだ人が集まっているのを、かき分けるようにして、啓子は佳子を抱いたまま、小走りにそのグレーのセーターの少女を追いかけて行くと、
「あの――すみません」
と、声をかけた。
少女が足を止める。
「この子を助けて下さったのは、あなた?」
と、啓子が言うと、少女は、ゆっくりと振り向いた。
「ええ」
「ありがとう。本当に――ほら、佳子、ちゃんとお礼を言うのよ」
と、佳子をおろして頭を下げさせ、啓子は、その少女の顔を正面から見た。
少女は、微笑んでいた。――二十数年前の記憶の中の笑顔が、そこにあった。
安西澄子だ。――安西澄子! そんなことが――こんなことが!
啓子は、フラッとよろけて、膝をついていた。
「大丈夫ですか!」
と、支えてくれたのは、車を運転していた若い男だった。
「ええ……。すみません、ちょっとめまいがして――」
目の前に、もう安西澄子はいなかった。啓子は、呆然とその空間を見つめていたが……。
「あの――ここに女の子、立っていました?」
と、男の方へ訊いた。
幻かと思ったのだ。
「ええ。でも――いなくなっちゃったな。きっと、わざわざ礼を言われるのがいやだったんでしょう」
「じゃ……本当にいたんですね」
と、啓子は独り言のように呟いた。
「ママ……」
と、佳子に手を引張られて、啓子はハッと我に返った。
「どうしたの? どこか痛い?」
「お膝をけがしてる」
「そうね。でも、ほんの少しでしょ。我慢しなさい。お家へ帰って、すぐに薬をつけてあげるから」
「私じゃなくて、ママが」
そう言われて、啓子は初めて気が付いた。膝をついたとき、何かで切ったのか、膝頭から、一筋、血が流れ落ちていたのだ。
この辺だったはずだ。
――啓子は、少し歩いて、途方にくれたまま、立ち尽くしてしまった。
春が近いとは思えない、肌寒い曇り空である。
様子はすっかり変っていた。木造の家が、取りとめもなく並んでいただけの、曲りくねった通りは、広く、舗装された商店街になって、地下鉄が通り、マンションやビルが立ち並んでいる。
あのころは、学校の帰りにどこかへ寄りたくても、寄る店がなかったものだ。
あのころからこんなににぎやかな町だったら、啓子の人生も少しは変っていたかもしれない。
学校の位置が変っているわけはない。――そうなると、たぶん、この少し先辺りになるはずだが……。
それとも、もう二十年以上もたっているから、何もなくなっているかもしれない。
ともかく見当をつけて、啓子は歩いて行った。――少しゆるい上り坂になっている。
そう、あのころも、ここは坂道だった。
思い出した。この坂を、安西澄子と一緒によく上ったものだ。一緒に?――いや、安西澄子の後について[#「後について」に傍点]、上ったのだった……。
いつも、啓子は、安西澄子について行った。
安西澄子は、啓子を「従えて」歩いていたのだ。
「ほら、これ持って!」
安西澄子が、よくこの坂道で、いきなり振り向くなり、自分の学生鞄を放り投げる。啓子は、あわててそれを落さないように受け取るのだ。
取りそこなって、地面に落したりすると、
「何してんのよ! しょうがない、無器用ね、あんたは!」
と、澄子の罵声が飛んで来る。
啓子は、自分の鞄を投げ出しても、澄子の鞄を受け止めなくてはならなかった……。
それがたぶん――坂のこの辺だったろう。
ガタゴト、と機械の動く音がした。
そこに――そのビルはあった。
記憶の中では、真新しい、輝くようなビルだったのだが、今目の前にあるのは、灰色の、薄汚れた、あちこちひび割れ、はげ落ちた老残のビルだった。
しかも、それでいて、一目であのビルに違いないと分ったのは、啓子の方の見る目も、年を取ったからだろう……。
ドーン、と足下を揺るがすような音がして、ビルの壁が、バラバラと崩れた。――啓子は、唖然として、立ちすくんでいた。
ビルが元の通りにあると思ったのは、実はただ、手前の側の壁だけだったのだ。それが破壊されると、そこには、ただ空間だけが、口を開いていた……。
3
無口な休日だった。
晴れ上って、穏やかで、普通なら、ちょっと散歩でもしようか、と言い出すような気候である。
しかし、吉田も啓子も、どちらからも言い出さないままだった。佳子は一人で、朝からTVのアニメを見ている。
いつもの吉田なら、こんな天気のいい日に、TVばっかり見ないで、外へ出て遊べ、と言っただろう。
しかし、そう言えば、当然自分が佳子を連れて出なくてはならない。だから、つい口をつぐんでしまう。
啓子の方は、大して急ぎでもない縫い物をしたり、タンスの引出しを整理したりしていた。――まるで夫や娘と顔を合せるのが辛いかのように。
さすがに、佳子がTVにも飽きたらしい。
「パパ。――公園に行こうよ」
と、吉田の膝に甘えて来る。
「うん……。一人で遊んでおいで」
と、吉田が言うと、
「だめよ!」
と、啓子の声が飛んで来た。「車にはねられかけたのよ! 一人でなんて行かせないで!」
「分ったよ」
吉田は、少しムッとして言い返した。「僕が連れて行く。それならいいんだろう」
「いいんだろう、って、何よ。私、何も文句なんか言ってないわ。いやなら、家の中で遊ばせればいいじゃないの」
「連れて行くよ」
吉田は、怒鳴りつけたい気持を抑えて、立ち上った。「おいで。ボールを持って行こうか」
「うん!」
ともかく、佳子は遊べればいいのだ。自分の部屋へ走って行って、ボールを取って来た。
「パパ! 行こう」
と、手をつかんで引張る。
「ああ、行こう」
吉田は、チラッと妻の方へ目をやってから、玄関の方へ歩いて行った。
――啓子は、夫と佳子が出て行く音を聞くと、体中で息をついた。
どうして、こんなにとげとげしい空気になってしまったのだろう?
夫も私も、どうしてしまったというんだろう……。
啓子は、縫い物を途中で放り出して、居間へ来ると、ソファに座り込んだ。どうせ、縫い物など、したくもなかったのだ。
ただ、何かに忙しくしていないと、夫に話しかけられそうで、怖かったのである。
啓子は、深々とため息をついた。
啓子は怖かったのだ。――それは、子供が抱くような恐怖心、得体の知れないものへの怖れだった。
啓子も三十七歳だ。少々のことなら大して怖いとも思わないし、少なくとも、対処することもできる。しかし、今度ばかりは、どうしていいか分らないのだ。
安西澄子……。
あれは本当に澄子の娘だろうか?
あれが、夫の見た少女だったというのは、間違いない。そして、夫があの少女を一目見て、安西澄子の娘だと考えたのも、当り前だった。
それほど、啓子の目から見ても、少女は安西澄子にうり二つだった。
しかし……夫にとっては、安西澄子が結婚して、あの少女を生んだと考えれば、それなりに筋は通るし、納得もいくのだろうが、啓子は、そういうわけにはいかなかった。
啓子は、安西澄子が結婚したり、子供を生んだりしているはずがない[#「はずがない」に傍点]と、分っていたからである。
そうなると、あの少女は一体誰だったのか?――振り向いて、啓子に見せた笑顔は、ただ、助けた子供の母親を見る少女のものではなかった。
その笑顔は、安西澄子そのものだった。
二十年以上昔、中学生だった啓子が見ていた、澄子の笑顔だった……。
あの笑い方は、向うもこっちを知っている、という笑い方だった。
もし、あれが万一、安西澄子の娘だったとして、なぜその娘が、啓子のことを知っているだろうか。しかも、三十七にもなった啓子のことを……。
しかも、それでいて、少女が佳子の命を危いところで助けてくれたのは確かなのだ。
これだけでは済まない。――啓子は直感的に、そう信じて、恐れていたのだ。
何かが起ろうとしている。しかし、それを食い止めることも、それと闘うことも、啓子にはできないのである……。
電話が鳴って、啓子は、ギクリとした。
――まさか、あの少女から……。
そんな! 電話をかけて来る人なんて、いくらでもいるのに。
啓子は、受話器を取った。
「はい、吉田でございます」
「あの――吉田和彦さんのお宅でしょうか」
と、何だか力のない女性の声だ。
「はい、さようでございますが」
「あの――私、本間と申します」
「本間さん……」
「本間征夫の家内です。ご主人と、昔学校でご一緒していたと思いますが」
「ああ。――本間さん! いえ、失礼しました」
と、啓子はあわてて言った。「あの、私も中学でご主人と一緒だったんです」
「奥様も?――そうですか」
「ええ、よく存じ上げていましたわ。主人はちょっと外に出ていて……。ご用でしたら、お電話させますが。――え? 何とおっしゃいました?」
「実は――主人が亡くなったんです」
と、その女性の声は、震えた。
「亡くなった……。本間さんが、ですか」
「はい。一昨日、車にはねられまして」
「まあ」
啓子は、しばらく言葉もなかった。「――それは――何と申し上げていいか……。お気の毒です」
「はい……。実は、ご主人に、ちょっとお話ししておきたいことがございまして……」
「分りました。すぐに呼んで参りますわ」
「できましたら、おいでいただけますでしょうか。今夜がお通夜ですので」
「はい。伺います」
と、啓子は言った。
――公園に行ってみると、佳子が砂場で一人で遊んでいる。
「佳子、パパは?」
と、啓子は声をかけた。
「くたびれたって。――あっちにいる」
啓子は、夫が、ぼんやりとベンチに座って、タバコをふかしているのを見た。
「――あなた」
呼ばれて、少ししてから、吉田は顔を上げた。
「君か。――さっきは悪かった」
「いいえ……。ごめんなさい。つい苛々していて……」
啓子は、ベンチに並んで腰をおろした。
「啓子。――どうしてこの間、黙っていたんだ?」
「何のこと?」
「安西澄子さ。――行方不明になったんだってな」
「誰に聞いたの?」
「本間だ」
「そう……。私も、後で思い出したのよ。あの人のことは、思い出したくもなかった」
と、啓子は首を振った。
「なぜ?」
と、吉田が啓子を見る。
「分ってないのよ、あなたには。いいえ、あのときのクラスの男の子たちは、みんな、今でも彼女のことを憶えてるでしょうね。――優等生、美人、そして友情にあつい、正に理想の人……」
啓子は、苦々しく笑った。「とんでもない話だわ。女の子たちの間で、彼女のことを好いていた人は一人もいなかったでしょう」
吉田は、意外そうに目を見開いた。
「しかし君は――」
「私はあの人の召使[#「召使」に傍点]みたいなものだった。いつも私をおともに連れて、鞄は持たせるし、物は買わせるし、掃除も、日直も、先生の目の届かないところでは、いつも彼女は私にやらせてたのよ」
吉田は、半信半疑の面持ちだった。啓子は、肩をすくめて、
「私が、ただ彼女に嫉妬してるだけだと思う? それなら、他の同級生にも訊いてごらんなさい。みんな、彼女がいなくなればいいと思っていたはずだわ」
と言った。
「――いや、信じるよ」
と、吉田は言った。「僕はもう昔の少年じゃない。人間、表も裏もあって当り前だ」
「あなた」
と、啓子は言った。「今、本間さんの奥さんから、電話があったのよ」
「本間の奥さん?」
吉田は、当惑した様子で、「何だって、一体……」
と、呟くように、言った。
「――全く、信じられません」
黒いスーツ、黒ネクタイの吉田は、本間の未亡人の前に座って、息をついた。「ついこの前、会ったばかりだったのに……」
「とても呑気な、いい人でした」
と、未亡人は充血した目で、寂しげに、黒いリボンをかけた写真の方を見やった。
啓子は、夫の少し後ろに座っていた。未亡人は、啓子に気付いて、
「――お電話では失礼いたしました」
と、頭を下げた。
「いいえ……」
「実は、吉田さんにおいで願いましたのは、主人の頼みなんです」
と、未亡人が言った。
「本間君の?」
吉田は、意外そうに、「何か、僕のことで――」
「あの人は、赤信号だったのに、車道へ飛び出してしまったんです。酔っていたから、と警察の方では見ているようですが、その少し前に別れた会社の方のお話では、酔うというほどは飲んでいなかった、と……」
「本間君は、かなり強かったでしょう」
「ええ。でも――それはともかく、主人は車にはねられ……。病院でも、しばらくは意識がありました」
と、未亡人は続けた。「私に、こう言ったんです。『吉田に伝えてくれ。あの女の子を見たんだ、って』――そう、主人はくり返しました」
「女の子を……」
吉田は、呟くように言った。
「ええ。そう言ったんです。――主人は、誰だか、その『女の子』を見かけて、追いかけようとして車道へ飛び出したようなんです。――お心当りはありませんか」
未亡人の気持は、啓子にも分った。啓子は、夫の腕に触れ、
「あなた」
と言った。「その女の子って、もしかして……」
「うん。――あの前にも、本間は彼女を見ているんだ」
と、吉田は言った。「奥さん。ご主人が言われたのは、決して好きな女性とか、そんな意味じゃないのです。ついこの前会ったとき、中学校で同じクラスにいた女の子のことが話に出て――その子とそっくりの、十五、六の女の子を見かけた、と言っていたんです。その女の子のことだと思いますよ」
「十五、六の?」
「ええ」
と、啓子が言った。「私も同じクラスでしたので、憶えています。クラスの男の子の憧れの的だった女の子ですわ。たぶん、その人の娘さんだろうって、主人とも話をしていたんです。――きっと、ご主人は、懐しくて、声をかけてみたかったんじゃないでしょうか」
啓子の話で、未亡人は少し気が楽になったようだった。
「そうですか……。主人の最後の言葉だったので、つい気になりまして……。お手間を取らせて、申し訳ありませんでした」
と、未亡人は頭を下げた。
帰りの車の中で、啓子は言った。
「本間さんも、見たの?」
「うん」
吉田はハンドルを握っていた。――いつも運転しているわけではない。
「どういうことなのかしら」
「分らないね」
「でも――あなたの目の前に現われて、本間さんの前にも……。それも二回。偶然かしら?」
それだけではない。啓子自身、彼女[#「彼女」に傍点]を見ているのだ。
しかし、そのことは、夫に打ち明けていなかった。
「偶然じゃないとしたら……。どういうことになるんだ?」
「分らないわ。でも――もし、何か目的があって、姿を現わしているんだとしたら、一体目的って何なのかしら?」
「さあね……」
吉田は肩をすくめた。
車は、夜ふけの道を駆け抜けて行く。
佳子を、啓子の実家へ預けているので、寄って行かねばならない。
二人は、しばらく黙っていた。車のライトには、ただ平坦な道が現われては消えて行くばかりだ。
「――なあ」
と、吉田が言った。「笑わないで聞いてくれ」
「何を?」
「君は――考えたことないか。あの女の子が、安西澄子本人だったかもしれない、と……」
啓子はしばらく黙って、前方の闇を見つめていた。
そして、言った。
「まさか」
「――そうだな」
吉田は言った。「この世の中に、幽霊話なんて……。僕はどうかしてる」
啓子は、夫の腕をつかんで、
「あなた! しっかりしてよ」
と叫ぶように言った。「そんな――十五や十六の女の子が何なの? 安西澄子の本人だろうが、娘だろうが、別人だろうがそんなことがどうだっていうの? 今の私たちの生活と何の関係があるのよ!」
「分ってる」
「分ってないわ! あなたはまだこだわってるのね。私が、あの人のことを黙っていたからって……。私にはね、昔の幻に悩まされるような、そんな暇はないのよ。生活があるわ、毎日毎日、ご飯を作って、洗濯をして、掃除をする生活が。――二十年も前のことでいちいち思い悩む余裕なんてないのよ」
一気に言って、啓子は大きく息をついた。
「――悪かった」
と、吉田は言った。「君の言う通りだ。本間のように、あの少女を追いかけようとして死んじまったら、全く馬鹿みたいだものな」
「そうよ」
「分った。――もう二度と、あの子のことは言わないよ」
「あなた……」
啓子は、夫の方へ、身をもたせかけた。
――前方の闇から、不意に白い人影が浮かび上った。
「危い!」
と、啓子は叫んだ。
いや、叫んだ――つもりだったが、果して声になっていたかどうか。
はっきり憶えているのは、急ブレーキの音、そして体がまるでジェットコースターのように振り回されて、次の瞬間には、激しくどこかへ叩きつけられたことだった。
あなた……。しっかりして!
あなた――。
意識を失う寸前に、啓子は考えていた。
道に現われた白い人影は、安西澄子だったのかもしれない、と……。
4
少し、片足を引きずりながら、啓子は、病室を出た。
ちょうど、担当の医師が廊下をやって来るところだった。
「先生――」
と、啓子は頭を下げて、「吉田の家内ですが」
「やあ、奥さん。どうです、足の方は?」
と、太った医師は愛想良く笑顔で言った。
「ええ、おかげさまで。もう大して痛みません」
啓子は、ちょっと病室のドアへ目をやって、「主人は、どうでしょうか」
と、少し声を低くした。
「うむ……。何とも、難しいですね」
と、医師は首を振った。「頭を強く打っているが、一応、脳にはっきりとした傷はありません。しかし、レントゲンや脳波ではつかめない、小さな傷があることもある」
「意識はあるのに――私のことも分らないようです」
啓子は、沈んだ声で言った。
「気長にね。――精神的なショックかもしれない。何かのきっかけで、良くなることもあります」
「ええ……」
いつも同じ説明。――少しは、何か違うことを言ってほしい。
しかし、それは望むのが無理なのだろう。
「ありがとうございました」
と、啓子は礼を言って、歩き出した。
病院を出る。――もう、五月も半ばを過ぎていた。
太陽が、少しまぶしい。啓子は、痛む片足を、少し引きずりながら、歩き出した。
病院から家までは、普通の足なら、五分ほどでしかない。しかし、今の啓子では十五分くらいもかかった。
もう、佳子が学校から帰る時間だ。早く戻らないと……。
気はせいても、足はそれについて行けなかった。
佳子と二人の生活も、大分慣れては来たのだが、しかし、夫がいつ回復するかも分らない状況では、収入もいつまで保証されるか……。不安は大きくのしかかって来ていた。
家の近くまで来て、啓子はふと足を止めた。
あの笑い声。――佳子じゃないかしら?
小さな公園の中を覗き込んでみると、佳子が、ランドセルをベンチへ置いて、ブランコに乗っている。誰かが、それを押してくれていた。
「佳子。――佳子」
と、啓子は呼んだ。
「あ、ママ!」
と、佳子が手を振ると、ブランコから降りて走って来た。「あのお姉さんに、押してもらってたんだよ」
啓子は、揺れるブランコの向うに立っている、グレーのセーターの少女を、愕然として見つめていた。安西澄子……。
「――ランドセルを取ってらっしゃい」
と、啓子は言った。
「うん」
佳子がランドセルを取りに行く。啓子は、ゆっくりと、少女の方へ歩み寄った。
「相手をしていただいて、どうも」
と、啓子は言った。
「いいえ」
少女が、言った。「友だちじゃないの、啓子」
啓子は、青ざめた。そして言った。
「うちへいらっしゃらない?」
「構わないの?」
「ええ。――主人は入院してるわ」
「聞いたわ。お気の毒に」
啓子は、佳子を連れて、歩き出した。――少女が、二人の後を、ついて来る。
家に上ると、啓子は、佳子に、
「ね、お友だちの所へ遊びに行っていなさい」
と、言った。
「いいの?」
佳子が戸惑うのも当然だろう。いつもは、ちゃんと宿題をやってから遊びなさい、と口やかましく言っているのだから。
「いいわよ。――あんまり遅くならないようにしてね」
「うん!」
佳子は、家から元気よく飛び出して行った。
啓子は台所へ行くと、お茶をいれた。
「――お構いなく」
と、少女が言った。「相変らず、部屋の趣味が悪いのね」
「どうぞ」
啓子は、真直ぐに、少女を見つめた。
「どうしたのよ? そんなに怖い顔して」
と、少女が笑った。「古いお友だちなのに」
「やめて!」
と、啓子は遮った。「あなた、一体誰なの?」
「忘れたの。安西澄子よ」
「あの人は、生きていないはずだわ」
「そう。――死んだはずよね。あなたが殺したんだから」
少女は、冷ややかな笑いを浮かべていた。「あなたが、工事現場で、私を突き落したんだわ。ビルの基礎工事のコンクリートの中へね。――柔らかいコンクリートに埋って行く苦しさが、あなたに分る?」
「あなたは……」
啓子は、血の気のひいた顔で、言った。「私に復讐しに戻ったの? それならそれでもいいわ。でも、夫や娘に手を出さないで!」
「あなたが、吉田君を好きだったなんてね」
と、少女は首を振った。「――だから私を殺したのね。私が吉田君へ手紙を出すと言ったから」
「あなたは、少しもあの人のことなんか好きじゃなかったのよ。ただ、私が好きだというのを知って、邪魔したかっただけじゃないの」
「そうかもしれないわね。私が手紙を出していれば、あなたの手紙なんて、彼はきっと、読みもしなかったでしょうからね」
――奇妙な対話だった。
一人は十五歳の少女、一人は三十七歳の主婦。だが、二人の対話は、全く対等のものだった。
おそらく、誰の目にも異様だったろう。
「ともかく――もう、彼は私の夫よ。手を出さないで!」
「夫、ね。意識がなくても?」
「私が看護する。必ず元の通りにしてみせるわ」
と、啓子は、身を乗り出した。「出て行って! そして、二度と姿を現わさないで!」
「強気ね。人を殺しておきながら」
「私は、自分の幸せを守っただけよ」
啓子は、鋭く尖った包丁を握りしめていた。「今でも、守るわ」
「刺すつもり?」
安西澄子は笑った。「私はもう死んだのよ。どうして刺し殺せると思うの?」
「やらないと思ってるのね。私は、夫と子供を守るのよ。何を[#「何を」に傍点]してでも!」
啓子は、包丁を構えて、安西澄子へと迫った。――相手は、全く逃げる様子を見せない。
「約束しなさい。――もう二度と、私や夫や子供の前に姿を見せない、と」
――不意に、安西澄子が笑い出した。
その笑いは、二十数年前のある笑いを思い出させた。
そうだ。――啓子が、吉田のことを好きで、彼が転校すると知って、泣いたとき、それを見た澄子が声を上げて笑った。あのときの笑いを。
啓子は、もうためらわなかった。包丁の切先が、少女の胸へと食い込んだ。
啓子は、相手が映画の吸血鬼のように、灰になって消えるか、それとも、刺しても何の手応えもないかもしれない、と思っていたのだ。
しかし、包丁には手応えがあった。そして血が激しく噴き出して、啓子の胸を一杯に濡らして、さらに噴き上げる。
包丁を抜くと、少女の体は、ゆっくりと倒れた。
啓子は、胸から下を返り血で染めて、しばし呆然と座っていた。
この少女は――生きていたのか?
安西澄子本人ではなかったのだろうか?
ビルの土台のコンクリートの中へ埋められた澄子が、ビルの解体で、よみがえって来たのかと思ったのだが……。でも、そんな馬鹿なことが、あるだろうか?
やはり、この少女は、澄子の娘なのか?
では、私は生きている人間を殺したことになるのだろうか?
玄関のドアが、激しく叩かれた。
啓子は、じっと座っていた。ドアを開けて、誰かが駆け込んで来る。
「――何てことだ!」
居間へ入って来たのは、意外な人だった。
「先生……。主人に何か……」
と啓子は、医師を見て言った。
「奥さん……。あんたは何てことを――」
医師の後から、病院の警備員らしい男が二人、入って来て、目を丸くした。
「私は、守ったんです」
と、啓子は言った。「この家庭を。――誰にも邪魔をさせません。この人にも」
と、振り向いて、啓子は、愕然とした。
そこに、少女の死体はなかったのだ。
だが――自分の手には包丁があり、血しぶきは啓子の胸や手を真紅に染めている。
「一一〇番するしかないね」
と、医師は言った。「――奥さん。あんたが疲れていたことは、私も証言してあげられる。しかし、どれくらい役に立つか……」
「私のことは――いいんです。ただ、主人をよろしく」
と、啓子は、頭を下げた。
医師は戸惑ったように、
「どういう意味かね。ご主人は、君が刺し殺したんじゃないか」
啓子は、そろそろと顔を上げた。
「今……何とおっしゃいました?」
「ご主人は、血まみれで死んでいる。刺されてね。――君がさっき出て行ってから、誰も病室には入っていない。あのとき、君はもうご主人を刺していたんだね。上から薄いコートをはおって」
「主人が――死んだ?」
啓子の手から包丁が落ちた。
嘘だ。そんなはずがない!――私が刺したのは、安西澄子だ! それなのに……。
佳子は、一人で遊んでいた。
砂場は、黄昏の中で、少し薄暗くなっていた。
誰かが、佳子のそばへやって来ると、
「もう、帰りましょう」
と、言った。「遅くなると、パパが心配するわ」
「うん」
佳子は、バケツを手に、立ち上った。「ママ、帰ろう」
「一緒にね」
二人は手をつないで歩き出した。
平穏で退屈な、しかし、幸福ともいえる光景だった。
そうよ。――これでいいんだわ。
こうなるのが本当だったのよ、と澄子は思った。
あの人にふさわしいのは、私で、あんなパッとしない灰色の女の子じゃない。
私をコンクリートの中へ突き落とそうとして、自分が落ちてしまった、哀れな女の子……。
そう。これで間違いは正されたのだわ。
正しい人生が、今やり直されているんだ……。
「パパだ」
と、佳子が言った。
薄暮の空を背景に、母と子の方へ手を振りながら、吉田がやって来るのが見えた。
「走ろう、佳子」
「うん!」
澄子は、佳子と手をつないで走り出した。
その二つの影は、待ち受ける影と、やがて一つに溶け合って、幸福な笑い声を夕空に響かせたのだった。
本書は、平成七年十二月、小社より刊行されました。
|告《こく》|別《べつ》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年11月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『告別』平成 9年 4月25日初版発行
平成12年 6月20日 9版発行