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半人前の花嫁
赤川次郎
目 次
半人前の花嫁
プロローグ
1 女子高生の婚約者
2 怖い仲人
3 女教師
4 仲 間
5 立ち直り
6 写 真
7 五千万円の問題
8 落 下
9 血の結末
エピローグ
霧の夜の花嫁
プロローグ
1 都会の迷子
2 ウェディングドレス
3 ダブルショック
4 夜の二人
5 大混乱
6 ラブシーン
7 ドライブの夜
8 霧の中の叫び
エピローグ
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半人前の花嫁
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プロローグ
「ウワーオ……」
と、亜由美は咆《ほ》えた。
といっても、別に塚川亜由美が狼《おおかみ》 男《おとこ》――いや狼女[#「狼女」に傍点]に変身したというわけではない。
亜由美はただ大|欠伸《あくび》をしただけだったのである。
誤解されては困るが、亜由美とて、人目のある所でこんな盛大な欠伸はしない。――ここは亜由美が大学の夏休みの間、アルバイトをしているオフィス。
オフィスといっても今は空っぽ。――夏の社員旅行で、みんな出払っている。
亜由美のバイトというのは、その旅行の期間、五日の間、ここで電話と来客の相手をすること。つまりは「留守番」であった。
特に急ぎの用でなきゃ、
「全員、旅行中で」
と断る。
何か緊急の場合(もっとも、そんなのはまだ一件もない)には、教えられている連絡先へ電話を入れる、ということになっていた。
今日で三日目。――何しろ、大した仕事じゃないので、退屈。欠伸でもしなきゃ(?)やってられない、って感じである。
もう午後の四時。――あと一時間、ここに座っていればいいのだ。
「あの……」
と、声がして、亜由美はびっくりした。
「は、はい!」
何しろ、直通電話のある机の前に座って、ジーパンはいた足を机の上にのっけていたので、びっくりした拍子に、危うく引っくり返るところだった。
こんな時間にお客? と思って受付の方を見ると――こんな所に何の用かしら、という女の子。
高校生だろう、白いブラウスと紺のプリーツスカート。クラブの夏休みの練習でもあったのか、スポーツバッグを下げている。
「あの――何かご用?」
と、亜由美は受付の方へ歩いて行った。
「今日は」
と、礼儀正しく頭を下げて、「恩田君江といいます」
「は、どうも」
と、つい頭を下げたりして、「何かご用?」
「三沢さん、いらっしゃいますか」
「三沢……。三沢さんて、総務課長の?」
「そうです。三沢良治さん」
「ええと……。今、この会社、全員夏休みで旅行に行ってるの。三沢さんもね」
三沢良治は三十代|半《なか》ばの、おっとりした男である。亜由美にこのバイトのことをあれこれ説明してくれたのが三沢で、亜由美も、
「なかなかすてきな人」
などと思ったので、憶えているのである。
しかもチラッと耳にしたところでは、三沢は独身! 二枚目というわけではないが、いかにも温かな人柄は、一度会っただけの亜由美にとっても、かなり印象的だった。
「あなた……三沢さんに何の用?」
と、亜由美はその少女に訊《き》いた。
「あの……」
と、恩田君江と名のった少女は言った。「三沢さん、今日ここに帰ってるから、っておっしゃったんですけど」
「あら、そう。でも――」
と、亜由美が言いかけたとき、ドタドタと足音がして、
「やあ、暑いね!」
と、ハンカチで汗を拭きながら、当の三沢が入って来た。
「三沢さん。この子……」
「や、もう来てたのか」
「今日は」
と、君江が言った。「少し早く終ったの」
「そうか。じゃ、ちょっと待っててくれ」
「はい」
君江は、入口のわきの長椅子にちょこんと腰かけた。
「三沢さん――」
「途中で帰ることにしてたんだ。仕事がたまってるんでね」
「そうですか」
それはまあ構わないが……。でも、何だか気になった。
恩田君江は、小柄でほっそりとして、可愛《かわい》い少女である。頭の良さそうな顔をしている――というのは、あんまり良くない(?)亜由美のひがみか。
三沢は、机の上のメモを見て、いくつか仕事を片付けると、
「――じゃ、塚川さん、後はよろしく」
と、手を上げて見せる。
「はい」
亜由美もそう答えるしかない。
三沢が恩田君江に、
「待たせたね」
と、声をかけると、
「いいえ」
と、少女もパッと立って、三沢と一緒にオフィスを出て行く。
見送って、亜由美は首をかしげた。――親子ってわけじゃないだろうけど。どうなってんの、あの二人?
「――あ、いけない」
あの女の子に気を取られていたせいか、手もとに三沢へ渡すメモがあったのを忘れてしまった。
まだエレベーターの所にいるかもしれない。亜由美はメモを手に、タタッと駆けて行った。
そして――確かに、エレベーターの前に二人[#「二人」に傍点]はいた。しかし、亜由美は立ちすくんで、三沢に声をかけることができなかった。
なぜなら、三沢とあの少女、君江が、しっかりと抱き合ってキスしていたからである……。
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1 女子高生の婚約者
「愛は年齢を越える! これが真実なのだ」
と、塚川貞夫が力強く言った。「お前にはそんなことも分らんのか」
「でもね、お父さん――」
と、亜由美は抗議した。「片や三十六歳の中年、片や十六歳の女子高生よ!」
「そのどこがいかんというのだ」
と、父親は腕組みをして、「私はお前をそんな分らず屋に育てた覚えはない」
「クウーン」
「ドン・ファンもそう言っとる」
「言ってやしないわよ」
亜由美はやややけ気味に言った。
「いいではないか。清純な乙女の愛に、男の心が震えたのだ。感動的だ!」
父の塚川貞夫はエンジニアだが、何しろ趣味が「少女アニメ」を見て泣くこと、というロマンチスト。
「これはね、アニメじゃないの。現実の結婚なのよ」
と、亜由美は言って、母の清美の方へ、「お母さん、どう思う?」
「そうねえ」
呑気《のんき》を絵にかいたような清美は、おっとりと考えて、「ま、十六になりゃ結婚してもいいんだし、本人たちが良きゃ、構わないんじゃない?」
「見ろ!」
と、塚川貞夫が勝ち誇ったように、「頑迷な大人の敗北だ」
「全く、もう……」
と、亜由美はため息をついた。
――塚川家の居間。
亜由美は今日仕入れて来た大ニュースを、早速両親に披露して、
「ね、呆《あき》れちゃうわよね!」
と一言言ったのが間違いで、話が妙な方へそれてしまったのである。
「あら、お客様」
と、チャイムの音に清美が立って行く。
「――ね、ドン・ファン。あんたならあの女の子に惚《ほ》れちゃうかもよ」
と、亜由美は愛犬へと声をかけた。
このダックスフントは、「美少女趣味」で、かつ自分を犬と思っていないところがあるのである。
と――ドン・ファンがパッと頭を上げて、
「ワン!」
と、珍しく(?)犬らしい声を出した。
「亜由美。――お客様」
「え?」
振り向いて、唖然《あぜん》とする。
「先ほどは失礼しました」
と頭を下げたのは、かの「女子高生」、恩田君江だったからである。
「ワン」
ドン・ファンが、目立とうとするかのようにもう一度鳴いた。
「――じゃあ、あなたご両親を亡くしたの?」
と、亜由美は言った。
「はい。私が小学校の五年生のときでした。交通事故で二人とも」
と、君江は言った。
「何ということだ……」
父の呟《つぶや》きを打ち消そうとするように、亜由美はあわてて、
「大変だったわね!」
と、大きな声を上げた。「でも――その後は?」
「叔父の所へ引き取られたんです」
と、君江が続ける。「今も叔父の家にいます。でも……もうこれ以上いられないんです、私」
十六歳の少女にしては深刻な表情である。
「いられないって?」
君江は少しためらってから、
「たぶん……普通の人から見れば、私みたいな高校一年生と、三沢さんとの結婚なんて、とんでもないと映《うつ》るでしょうね。でも私にとっては、唯一の逃げ道なんです」
「逃げ道?――叔父さんの所で、意地悪でもされるの?」
「人間の浅はかさ! 何と愚かなのだ、この世は」
この少女が、父の好みのタイプと分っているので、亜由美は何とか少女の注意をそらそうとした。
「あの――父はね、さっき見てたTVの番組のことを話してるの」
と、あわてて言うと、「で、叔父さんの所で……」
「叔父が……私に手を出そうとするんです」
と、君江が目を伏せる。
亜由美は、耳を疑った。
「だって――実の叔父さんなんでしょ?」
「ええ。でも奥さんとうまくいってなくて。小学生のころから、よくお風呂に入ってるときに覗《のぞ》かれたりしたんです」
淡々と話しているので、却《かえ》って聞いている方のショックは大きい。
「ひどい人がいるもんね」
「もちろん、学費を出してくれたり、面倒をみて下さってるんですから、その点は感謝してます。でも――もう私も十六ですから、叔父がもし……」
と、口ごもる。
「何か――そんなことがあったの?」
君江は、少しためらってから肯《うなず》いた。
「毎晩ウイスキーとか飲むんですけど、以前から、酔うと私のこと抱きしめたりキスしようとしたりしてました。私、できるだけふざけた調子でやり返して逃げてたんですけど……。今年のお正月休みに――」
君江は、ちょっと言葉を切った。「あの……奥さんが実家へ帰ってたんです。私と叔父と二人で家にいて……。あ、子供、いないんです、叔父の所。私、気が重かったけど、できるだけ友だちとか呼んだり、こっちから遊びに行ったりしてました。でも、正月の三日。その日は、雪が降ってて、どこにも出られず……」
一人でTVを見ていた。
こたつに入って、体はあったかい。――お正月の料理といっても、今は「おせち」を作る家は少ない。君江も、冷凍ものやレトルト食品を買い込んでおいたので、それを使って食事の仕度をしていた。
何しろ叔母の朱美がいないので、叔父、戸部公一と自分の食事の用意をしなくてはならない。それ自体はそう苦にならないが、叔父と二人での食事は気が重い。
戸部公一は、君江の死んだ母の弟だが、一向に似たところのない男である。
今年、確か四十か。――君江は大して関心もないので、正確なところは知らない。でも、見たところもう五十近いかと思える。
髪が白くなっていたりするのはともかく、活気というものの、まるでない人なのだ。
君江は、この叔父を見る度、何を楽しみに生きてるんだろう、と思い、あんなに陽気で明るかった父のことを思い出す。そして、自分一人を遺《のこ》して死んでしまった両親のことを、恨みたくなるのだった……。
「どうしてお正月のTVって、こう面白くないんだろ」
と、こたつの中でリモコンを操りながら、君江は呟いた。
ゴロリと横になる。畳の上に頭を落として、足はこたつの中。――叔父は、パチンコにでも行ったのか、出かけている。
君江は、見るでもなくTVの方へ目をやっている内……ふと眠ってしまった。
そう長く眠ったわけでないのは分っていた。フッと眠りに落ちて、すぐに目覚める。一瞬の深い眠りは快いものである。
そう。君江もすぐに目を開けた。たぶん――ほんの十分もたっていなかっただろう。
そして……君江は自分の太腿《ふともも》の辺りに何か動くものを――何かが触れているのを感じたのだ。
ハッとして体を起こすと、一瞬遅れて、叔父がこたつから手を出した。
「叔父さん――」
「何だ。起きてたのか」
と、戸部公一はちょっと間の悪そうな笑みを浮かべた。
「何したの、今」
つい、君江は問い詰めるような口調になっていた。
「何も」
と、戸部は不思議そうに言った。「君江ちゃん。何か――僕が君に変なことをしたとでも言うのかい」
そう開き直られると、君江も何とも言えなくなる。何といっても、戸部は君江の面倒をみて、お金も出してくれているのだ。
「――いいえ」
と、君江は目を伏せた。「夢見たのかもしれない」
戸部は苦々しげに、
「やれやれ」
と、息をついた。「うちの子でもないのに、ここまで面倒をみて育ててきた。その礼が、この態度かい? 僕が君にいたずらでもしたって? 冗談じゃないぜ」
いつもなら謝るところだ。こんな人とケンカしたって始まらない。――叔父さん、ごめんなさい、と言ってやるところだ。
でも……今日ばかりは、できなかった。
どうしてこうも白々しく嘘をついていられるんだろう?
「私――部屋へ行ってます」
と、君江はこたつを出た。
突然、戸部の手が伸びて来て、君江の右足をつかんだ。君江はバランスを失って畳に突っ伏すようにして倒れた。
「叔父さん!」
「この生意気なガキが! お仕置してやる!」
戸部は君江の上にのしかかり、馬のりになって押え付けた。大の男の体重を、とても十六の少女がはねのけられるものではない。
「叔父さん、やめて! お願い!」
「いや、一度、きちんと分らせてやらなきゃいけないんだ。お前が俺のおかげで暮してるんだ、ってことをな。ちゃんと感謝の気持ってのを持たなきゃいけないんだってことを」
戸部は左手で君江の両手を畳へ押し付けるようにして押え、右手で君江のセーターをたくし上げた。
「やめて! いや!」
君江は叫ぶように言った――。
「それで……」
亜由美は、息を呑《の》んでいた。「それで……どうなったの?」
君江は、一番話しにくいことを口に出したせいか、ホッと息をついて、
「そこへ、奥さんが帰って来たんです」
と、言った。「本当に運が良かったんです。予定じゃ、四日にならないと戻らないことになっていたんですもの」
「そう……。じゃ、無事だったのね」
と、亜由美は胸をなで下ろした。
「ええ。そのとき、当然奥さんも何があったか気が付いたはずですけど、何も言いませんでした。あの二人、もう言い争いもしないんです」
君江の言い方は大人のようだった。「その夜から、私、自分の部屋のドアに鍵《かぎ》をつけました。今でも、寝るときにはかけています」
――少し間があって、
「許さん!」
と、塚川貞夫が顔を真赤にして立ち上がった。
「亜由美! 剣をもて! 馬をひけ! 正義の剣で、悪魔を滅ぼしてやるのだ!」
と、右手を伸し、堂々と天井を指す。
「お父さん……」
亜由美はため息をつくと、君江の方へ、「びっくりしないでね。父は少女アニメが大好きで……」
「はあ」
と、君江は目をパチクリさせていたが、やがて声を上げて笑うと、「――可愛い! すてきだわ」
十六歳の少女らしい笑い声が、亜由美を何となくホッとさせた。
「でも、大変な目に遭ってるのね」
「ええ。そんなとき、三沢さんに会ったんです」
と、君江は言った。「――不思議な人でした。こんな大人、いるのか、とびっくりするくらい……。でも、叔父があまりに普通でないんだろうと思いますけど」
それが普通じゃ大変だ、と亜由美は思った。
ドン・ファンも、いかに「美少女趣味」とはいえ、戸部公一とは違う。珍しく熱心に少女の話に聞き入っている(?)。
「――春の終り、高一になって、やっと少し生活が落ちつき始めたころです」
と、君江は続けた。「その日、また奥さんが泊りがけで出ていて、私、帰るのがいやでしようがありませんでした。土曜日でしたから、町へ出てブラブラし、暗くなって帰ろうと……。その内、喫茶店で声をかけて来た大学生の男の子が、良さそうな人に見えたんで、夕ご飯を付合って、それから、『ちょっと一杯だけ飲もうよ』って言われ……」
君江は、頭が割れそうな、ひどい頭痛の中で目を覚ました。
どうしたの? 風邪でもひいたのかしら? でも……これはそんなものじゃない。
身動きし、やっと少し体を起こすと……。
全身の血の気がサッとひいて行くようだった。――何も着ないで、ベッドに入っている!
体にかけてある毛布をあわてて顔のところまで引張り上げる。同時に思い出していた。
あの大学生に、
「軽いカクテルだから」
とすすめられて何か飲んだ。
そしたら急にクルクルと周囲が回り始めて――。あの中に、何か薬が入ってたんだ!
どうしよう? どうしてしまったんだろう、私? 恥ずかしさと悔しさで、君江は死んでしまいたい気分だった。
すると、
「――目が覚めた?」
と、突然男の顔がヌッと出て来て、君江を見下ろした。
「キャーッ!」
思い切り悲鳴を上げた君江は、その男を力一杯引っぱたいていた。それは相当に効いたらしい。男は尻《しり》もちをついてしまったのである……。
「――ごめんなさい」
十五分ほどして、君江はその男に謝っていた。
「いや……。しかし凄《すご》い一発だった」
男の左の頬《ほお》には、まだ君江の手のあとがくっきりと残っていた。
「わけが分んなくて……。夢中だったんです、ごめんなさい」
と、くり返す。
君江はもう服を着ていた。それに、男に何かされたわけでもなかったのである。
その男は三沢といった。
「いや、酔っててね。この辺をよろよろ歩いてたんだ。もうめちゃくちゃに眠くてね。どこか、眠れるとこはないか、と思って……。そしたら、若い男が寄って来て、僕の腕をつかんで言ったんだよ。
『初めての子がいるけど、どうだい?』って……」
「とんでもないことしちゃった」
と、君江はうつむいた。
「いくら取られたのかな。ともかく、僕は金を払った。――でもね、正直言うと、女の子がいるってことは、ベッドがあるってこと。ベッドがありゃ眠れる、ってこと。それがまず頭にあったんだよ」
と、三沢は言った。「君を裸にしたのは僕じゃない。信じてくれ。君はもう初めから裸にされて、寝てた。――ま、びっくりしたね。本当にどう見ても十六、七の子だろ。こりゃ大変だと思って……。ともかく、君には一切手を触れてない。誓うよ」
「ええ……。もし何かされてたら、分ると思います」
と、君江は少し顔を赤らめた。「馬鹿でした。ちょっと――家へ帰りたくなかったもんですから」
「もう朝だよ。僕は一人暮しだからいいけど、君はお宅で心配してるだろ」
「いえ……」
と言ってから、君江はおずおずと、「三沢さん――でしたっけ」
「うん。何か?」
「お金払って……。丸損ですよね。私のこと……買ったのに」
「君を? とんでもない。僕は高いホテルで眠っただけだ。――さ、友だちの家にでも泊ったことにして、何とか言い抜けるんだよ」
「はい」
やっと、三沢を真直《まつす》ぐ見る勇気が出た。
そして、その温かい笑顔に出くわしたとたん、君江は恋していたのである。
「三沢さん……。名前、何ていうんですか」
「僕? 三沢良治」
「私、恩田君江といいます」
どうして君江がわざわざ名のったのか、三沢は当惑したようだった。
君江は、そのホテルを出て別れるとき、三沢から名刺をもらった。そして翌日、お菓子を買って、三沢の会社を訪ねたのである。
――これが「中年男と女子高生」の恋の始まりであった……。
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2 怖い仲人
「殿永さん」
と、亜由美は言った。「仲人《なこうど》をやって下さい」
それを聞いて、殿永刑事はさすがに愕然《がくぜん》とした様子だった。何しろスプーンですくったスープを全部、スープ皿へ戻してしまったくらいである。
しかし、びっくりしたのは殿永だけではない。――一緒に昼食を食べていた、亜由美の親友、神田聡子も同様である。
「亜由美……。この――裏切り者[#「裏切り者」に傍点]!」
「何よ、そんなお祝いの言葉ってある?」
「祝ってないわ。呪《のろ》ってるのよ」
「字は似てるじゃないの」
「だから何よ」
「まあまあ」
と、殿永が割って入り、「しかし、塚川さんも、前もって一言ほのめかしておいて下さるとか……。水くさいじゃありませんか」
「いいんです、殿永さん」
と、神田聡子が言った。「どうせ、亜由美はこういう子なんです。友情なんて、一人の男の前では紙きれ同然ですわ」
「まあ神田さんも、そうむくれないで」
殿永は両方に気をつかって大忙しである。「しかしまあ……おめでとうございます」
「殿永さん」
と、亜由美が言った。「どうして私がおめでたいんですか? 私を馬鹿にしてるんですか?」
「いや、とんでもない。だって、仲人というからには結婚されるわけでしょう」
「もちろん。でも、私の[#「私の」に傍点]じゃないんです」
食事のテーブルに、やや白けた沈黙。
「変だと思った」
と、聡子が言った。「亜由美がね。そんなわけないと思ったんだ」
「ちょっと! それはないでしょ」
「塚川さん。すると、私に誰の仲人をやれとおっしゃるんですか?」
「もちろん、私自身のもお願いしたいですわ、行く行くは。でも今のところは予定なし」
殿永は、安心してスープを飲みながら、
「やれやれ、人をからかわんで下さい」
と、笑った。
「全く、亜由美って……」
と、聡子もにらんでいる。
「話はちゃんと最後まで聞くもんよ」
と、亜由美は澄まして言った。「殿永さんに仲人をお願いしたいのはね――。あ、ちょうど来た」
ガラガラとレストランの自動扉が開いて、入って来たのは三沢良治と恩田君江。
「あれ、父娘《おやこ》じゃない」
と、聡子が言った。
「そう見えても、恋人同士なの」
「うそ……」
聡子が唖然《あぜん》とする。
二人は亜由美たちのテーブルへやって来た。
「どうも……」
と、三沢は汗をかいていたが、外の暑さのせいじゃないようだ。
「亜由美さん」
と、君江が言った。「お手数かけてすみません」
「何言ってんの。この殿永さんはね、とても親切な人だから、頼りにしていいのよ」
「はい」
殿永は、唖然として二人を眺めていたが、
「失礼ですが……」
「年齢なら、私、十六です」
と、君江が言った。「この三沢さんは、三十六です。二十しか[#「しか」に傍点]違いません」
「確かにね」
と、聡子が肯《うなず》く。「亜由美、説明して。気が狂いそう」
「OK。――さ、お二人もどうぞ。ゆっくり話をした方がいいわ」
と、亜由美はすっかり仕切っている。
それから、昼食の席に加わった三沢と君江が、こうなるまでのいきさつを話し終えるのには、たっぷり一時間を要したのである……。
「――いかが?」
と、亜由美は殿永に訊いた。「ぜひ、殿永さんに仲人をやってもらいたいという私の気持、分ったでしょ」
「ええ、よく分りました」
殿永は即座に肯いた。そして君江の方へ向いて、
「君はしっかりした子のようだ。しかしね、十六といえば普通は大人とは思われない」
「はい、よく分っています」
と、君江は肯いた。
「私はね、君らの仲人をやるのに何ら不都合はないと思っている。ただし――」
と、付け加えて、「君が、その叔父さんの所から逃げたいだけのために、三沢さんと結婚しようとしているのなら、いずれ後悔することになると思う。どうだね?」
君江は、ちょっと目を伏せた。――すぐには答えられないようだ。
「君……」
と、三沢が言いかけると、君江は三沢の手をしっかりと握った。
「三沢さん、私――もちろん、あなたのことが大好き。でも、今の質問に正直に答えようとしたら、たぶん分らない、としか言えない」
君江は、じっと三沢の方へ目をやって、
「まだ子供すぎるのかしら、私」
と、言った。
「――いや、結構」
と、殿永が肯く。「それでいい。――いいかね、人間、いくつになっても、自分の心の中さえ分らないものだ。君がもし、『そんなことありません!』と即座に答えたら、それは本当じゃない。しかし君は、自分でもよく分らないと言った。それが当然だ。君は実に正直な子だよ」
「刑事さん……」
君江の頬が赤く染まった。「じゃあ……」
「喜んで、君らの仲人をつとめよう」
「やったね」
と、亜由美がパチンと指を鳴らして、聡子から、
「あんたの方がよほど子供」
とたしなめられてしまった。
「――で、その叔父さん、何といったかな、名前は?」
「戸部公一です」
「その人は君と三沢さんのことを知っているのかね」
君江は少し表情を曇らせて、
「ええ。――知っています」
と、言った。「私に直接は何も言いませんけど、人を雇ったり、自分でも私の後を尾《つ》け回したりするんです。私と三沢さんのことも知らないわけがありません」
「確かに」
と、三沢が言った。「君の叔父さんは、ちゃんと知ってる」
君江が当惑したように三沢を見て、
「何かあったの?」
「うん。君に話すと心配すると思って言わなかったんだが、戸部さんはうちの社長あてに、僕が高校一年生の女の子にいたずらした、という手紙をよこしたんだよ」
君江がサッと青ざめた。
「ひどい! そんなこと――」
「大丈夫。幸い、社長秘書の女の子が封を開けて先に読んだんでね、僕の手に入った。社長は何も知らない」
「やり方が汚ない!」
と、聡子もすっかりこの二人に同情して怒っている。
「しかし、社長が何の反応も見せなければ、戸部さんはまた何か手を打とうとするだろう。クビになるのはどうってことないが、それで君との結婚に支障が出ることになると……」
「そんなこと! 誰にも邪魔させない」
と、君江はしっかりと三沢の腕に自分の腕を絡めた。
「それでは」
と、殿永は言った。「こっちも早いとこ手を打つに限るようですな」
「どうすればいいんでしょうか」
と、君江が訊く。
「普通の仲人の仕事をするだけだよ」
と、殿永は当り前の口調で、「これから君の叔父さんに会いに行く」
「殿永さん、大丈夫ですか?」
と、亜由美が目を丸くして、「向うがどう出て来るか分らないじゃありませんか」
「私に任せた以上、自由にやらせて下さい」
と、殿永はいつもながらの穏やかな口調で言った。「では、出かけましょう」
「悪い冗談はやめていただきたい」
と、戸部公一は言った。「全く……。あなたもお見かけしたところ、いい年齢《とし》をした大人でしょう。君江のような娘が、二十歳も年上の男と……。とんでもない話だ!」
――戸部家の居間。
亜由美は、まあ多少の先入観のせいもあるのだろうが、戸部という男の持つ陰気くさい雰囲気に、ここへ入って来たときから気付いていた。
戸部公一だけじゃない。その傍に座っている、その妻の方も同様である。
三十七歳ということだったが、本当なら「女ざかり」とでもいうべき年齢なのに、全く生気というものが感じられない。
そして、殿永の話を聞いても、びっくりするでもなく、怒るでもなく、何を考えているのか、まるで分らないのだった。
殿永は、ごく穏やかに君江と三沢の結婚を認めてほしいと言っただけ。――聞いていた亜由美と聡子は、殿永が何を考えているのか分らず、チラッと顔を見合せたりした。
当の君江と三沢はこの席にはいなかった。殿永が、席を外しておくように言ったので、外で待っているのである。
「――そうですか」
殿永は、戸部の言葉を別に驚く風でもなく受け止めて、「奥さんはどうお考えでしょう」
戸部朱美は、まさか自分の方に問いかけて来るとは思わなかったらしい。
「あの……私は……」
と、どぎまぎして、赤くなった。
「うちの家内がどう思っても関係ありませんよ」
と、戸部が言った。「私は君江の叔父です。そんな――少女趣味でもあるような男に君江を任せられますか」
まるで相手にもしない、という感じである。ところが――。
「好きならいいんじゃないですか」
と、妻の朱美が言ったのである。
これには戸部も面食らったようで、
「――朱美、今、何て言った?」
と、妻を見つめる。
「好きなら構わないんじゃない、って言ったの」
「朱美……。お前、分ってるのか? 十六だぞ、君江は」
「でも、もう充分に大人よ」
と、朱美は言った。「そうでしょ? 二十歳も年上の男を参らせちゃうんだもの、大人よ」
「そんなことを言ってるんじゃない。そんな結婚を認めたら、世間が何と言うか」
「でも、好きだって言うのなら、止められないでしょ」
朱美が、夫に対して当てつけていることは確かだった。――亜由美は、「もっとやれ!」と心の中でたきつけた。
と、殿永の上着でピーッと音がした。
「おっと、呼出しだ。申しわけありませんが、ちょっと電話をお借りできますか」
「どうぞ」
と、戸部が仏頂面《ぶつちようづら》で言った。
居間の端にある電話で、殿永がかける。
「――殿永だ。――うん、そうか。で、犯人は武装してるのか?――むずかしいな、それは。――いや、どうしてもやむを得ないときは射殺してもいいと言われてる。――うん、分った。俺も用がすみ次第、そっちへ行く」
殿永の話を聞いていた戸部が、顔をこわばらせて、
「あの人は――何をしてる人ですか」
と、小声で亜由美に訊《き》く。
「刑事さんですわ。見かけは優しそうですけど、そりゃあ怖くて……。特に凶悪犯とか、幼児|誘拐犯《ゆうかいはん》とか、そんな犯人は、ずいぶん射殺してるんです」
「まあ、お巡りさん」
と、朱美が少し遅れてびっくりしている。
「――や、どうも失礼」
と、殿永が戻って、「ところで、戸部さん。私は、君江君の相手の男性にも会って話をしましたが――」
「いや、あなたがそうおっしゃるんでしたら」
と、戸部が遮《さえぎ》る。「ここはもう、当人たちに任せるしかありませんな」
「はあ?」
「当人同士が好きと言うのなら、他人がいくら止めてもむだだ。――恋とはそんなものです」
一八○度の変化に、朱美の方も呆気《あつけ》にとられている。
「では――認めていただけるんですか?」
「もちろんです! 愛情があれば、二十歳くらいの差、どうということはない」
「それはどうも。きっと二人も喜ぶでしょう。――塚川さん、あの二人をここへ呼びましょうか」
「私、行く!」
と、聡子が飛び出して行った。
亜由美は後れをとって悔しかったが、聡子が君江と三沢を引張って戻って来た、そのスピードには唖然とせずにはいられなかった。
「――叔父さん」
と君江が言いかけると、
「いや、実にぴったりだ」
と、戸部は言った。
「え?」
「お似合いだよ、君ら二人は。なあ、朱美?」
朱美の方は、もう呆《あき》れるのを通り越した感じで、
「ええ、そうね」
と、どうでもいい口調で言ったのだった……。
「――殿永さん」
帰り道、亜由美は言った。「何かあるんでしょ、気になってることが」
もう日が暮れかけていた。――もちろん、暑さはまだそこに漂っていたが。
「まあね」
と、殿永は肯《うなず》いた。「もちろん、あの二人の幸せに水をさすわけではないのですが」
「気になってることって、何ですの?」
「あの戸部の様子。――見たでしょう」
「ええ、おかしかったわ」
と、聡子が笑って、「殿永さんが刑事って分ったとたん、手のひらを返したみたいに――」
「もちろん、あの呼出しのベルは、インチキなのです」
と、殿永は微笑《ほほえ》んだ。「時間を見はからって鳴るように、セットしておいたのですよ」
「じゃ、あの電話も?」
と、亜由美は呆れて、「すっかり騙《だま》されたわけですね」
「そう……。ああいう効果を狙《ねら》ったことは事実です。戸部にも、あの少女にいたずらしかけたという弱味がある。それがあるから、妥協してくるだろうと読んでいたのですがね……」
「図に当ったじゃありませんか」
「しかし、あれはやり過ぎ[#「やり過ぎ」に傍点]です」
「というと?」
「戸部があそこまで警察を怖がっているというのは、普通ではありません。よほどの秘密を抱えていると思った方がいい」
「つまり……人殺しとか?」
「そう限ってはいませんが、たとえばそういうことですね」
「でも、戸部の周囲にそんな事件が?」
「それはこれから調べます」
と、殿永が言った。「大したことでなきゃいいのですがね」
「でも――何かやらかしてても不思議じゃないわ、あの男」
と、聡子が言った。「ね、陰気くさくってさ」
「陰気であることは違法ではありません」
と、殿永が言った。「私が心配しているのは、あの君江のことなのです」
「でも……」
「戸部がもし、人に絶対知られたくない秘密を持っていたとします。しかし、君江は十歳のころから六年間、あの家にいる。自分で知らずとも、叔父の秘密に係わることを、何か見るか聞くかしているかもしれない」
亜由美にも、やっと分った。
「つまり、君江ちゃんにも、危険が及ぶかもしれない、と?」
「そうでなけりゃいいと思っているのですがね」
殿永は、亜由美を見て、「いつも、あなたを事件に巻き込みたくないと思っているんです。しかし、今回に限っては、力を貸して下さい」
「何ですか?」
「あの少女を、結婚までの間、お宅に置いてやってくれませんか」
「そんなこと、もちろん――」
と言いかけて、亜由美は父のことを思った。
当然、父は喜ぶだろう。君江のような「薄幸の少女」は父の好みだ。
それだけに、君江が父を見てどう思うか、亜由美には、それが心配なのだった……。
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3 女教師
「びっくりしたわ」
と、美しい女教師は言った。
「すみません、とんでもないこと言い出しちゃって」
と、君江はペコリと頭を下げた。
職員室の中は閑散としていた。
「で――いつ、式を挙げるの?」
と、久保雪子は言った。
「今、塚川さんというお宅に置いていただいてるんです。そういつまでもお世話になっていられないし。――できたら、この夏休みの間に結婚したいと思っています」
「あらあら」
と、久保雪子は笑った。「大変なことになったわね。臨時の職員会議を招集しなくては」
――夏休みの間も、生徒たちは学校へ出て来る。クラブの練習や、成績の悪かった生徒の補習などがあるからだ。
当然、先生の方も交替で出勤[#「出勤」に傍点]。
今日は、たまたま君江の担任で、若い、久保雪子が当番に当っていたのである。
久保雪子は二十八歳、スラリとした色白の美人である。君江など、ちょっと近付きにくい印象さえ持っていたのだが、二十歳年上の男と結婚するという君江の話を聞いても、少しも怒るではなく、むしろ面白がってくれた。そして、
「まさか、恩田さんに追い越されるとは思わなかったわ」
と、笑った。
久保雪子は独身。女生徒たちの間では何かと噂《うわさ》も飛び交うが、こと「久保先生」に関しては一向に色っぽい話の一つもないのである。
「すみません、わがまま言って」
「ともかく、叔父様も認めてらっしゃるわけだし、問題はないと思うけど、学校の中の頭の固い人たちがどう思うか、ね」
と、考え込んで、「――何とか、いい手を考えましょ。一度、職員会議にも出てもらうことになるかもしれないわよ」
「はい」
「じゃあ……そのお婿《むこ》さんにもお会いしたいわね」
「ええ。ぜひ会って下さい」
と、君江は言った。「でも――久保先生、美人だからな。誘惑しないで下さいね」
二人は一緒に笑った。
「――今日はクラブ?」
と、久保雪子が訊く。
「はい。少しテニスやって、帰ります」
「頑張って」
「はい!」
君江は、ニッコリと笑った。
――恩田君江がいかにも若々しい足取りで職員室から出て行くと、久保雪子の顔からスッと笑みが消えた。
そして、立ち上がると窓の方へ歩み寄って行く。見ていると、夏の、白くまぶしい光の下に君江が小走りに出て来て、テニスコートの方へ向うのが目に入った。
久保雪子は軽く息をつくと、席に戻り、机の上の電話を取り上げた。
「――もしもし」
という声は、教師のものではなく、二十八歳の女の声になっている。「――あ、私よ。――今夜、会えない?――そうじゃないの。いえ、会いたいのはもちろんよ。でもそれだけじゃないの。大事な話があるのよ。――え? 何の話って……。ここじゃ話せないわ。でも、どうしても話しておく必要のあること。本当よ」
しばし間があって、久保雪子はホッと息をついた。
「良かった。――ええ、じゃ、いつもの所でね。今日は学校なのよ、私。――ええ、そう。だから時間はいつでも。――じゃ、七時?――いいわ。それじゃ、楽しみにしてる」
電話を切った久保雪子の顔には、「楽しみにしてる」という言葉とは裏腹の虚《むな》しさが浮かぶ。
それは、このN女子高校の生徒たちの誰もが見たことのない、女教師のかげ[#「かげ」に傍点]の顔だった……。
「恩田君江?」
と、その男は言った。「確か、両親を例の事故で亡くした……」
「そうなの」
と、久保雪子は言った。
「しかし、その子はまだ……」
「十六歳よ。一年生で私の担任してるクラスの子」
「そいつが結婚するって言うのか? 十六で?」
「しかも、相手は二十歳年上。三沢っていうサラリーマン」
「三十六?――そいつは大したもんだ」
と、男は笑って言った。
「羨《うらや》ましい?」
久保雪子は、ベッドの中で男の少し汗くさい肌へ身をすり寄せて行った。
「よせ。俺にはそんな趣味はないぜ」
「でも、若くて可愛《かわい》いわ」
「君だって充分に若い」
男の太い腕が雪子の白い肌を抱く。
この男。川北雄二は、もう五十に近い、ある企業の部長である。
川北は、娘をN女子高へ通わせている。娘は高校三年生で、父親の方は今、父母会の会長をつとめていた。
川北と久保雪子が親しくなったきっかけは、父母会の役員と、学校幹部との会合に、雪子が同席したことである。ワインに少し悪酔いした雪子に、川北が「送って行きましょう」と声をかけ、車を走らせる内、「一休みしよう」ということになって……。
よくある話だが、実際、よくある話というのは人を安心させる。そして気付いてみると、その話の中に自分がはまり込んでしまっているのである。
雪子の場合も、そんな具合だった。
雪子は大学生のころから何人か男と付合って来たが、この川北とが一番長い。もちろん川北には妻もいて、結婚などはなから考えられなかったが、雪子自身、まだ自由な身でいたかった。
その点、ぜいたくもでき、遊び方を心得ている川北はちょうどいい相手と言えるかもしれない。
「しかし、その何とかいう……戸部か。その叔父さんとかいうのが、よく許したな」
と、川北は言った。
「そう。――それが不思議なの」
と、雪子は言った。
ホテルの部屋は冷房が効いていて、軽くふくらんだ布団をかぶらないと、少し寒いくらいだった。
「戸部ってのは――待てよ。父母会の会計を担当してる、あの陰気くさい男か」
「そう。君江ちゃんも、あんな叔父さんの所にいたら、いやになるわよね」
「ふーん」
と、川北は肯いた。「しかし……君の話じゃ、それがえらく大したことみたいだったじゃないか」
「大したこと[#「大したこと」に傍点]かもしれないのよ」
と、雪子は言った。
「どういう意味だ?」
「副会長の近田さん、憶えてるでしょ」
「ああ、もちろん。そつ[#「そつ」に傍点]のない男だ」
と、川北は肯いた。
「その『そつのない男』がね、父母会のお金を使い込んだかもしれないの」
川北は頭を上げた。
「――本当か?」
「今、大変なの。たぶん、その内に学校の中は大揺れよ」
「確かなのか、近田がやったってことは」
「それはまだ、これから」
と、雪子は言った。「でも、近田さん以外、考えられないの。父母会のお金をおろすための印は、副会長が持ってるんですもの」
「それはそうだが……」
川北はため息をつくと、柔らかい枕《まくら》にドサッと頭を落として、「会長も、いざとなったら、責任を取らなきゃいかんな」
「でも、法的な責任はないわ」
「そりゃそうだが、知らん顔ができるか」
川北は首を振って、「あの近田が……。事情を調べてるのか?」
「ええ。こっそりね。もし間違いだったら、大変でしょ。学校でも、幹部しか知らないわ」
「そうか……。副会長の近田が印を持っている。会計担当役員は戸部……」
「ね? 近田さんが本当にやったとしても、戸部さんも知らなかったとは思えない。もし、ことが明るみに出て、万一刑事事件にでもなれば、二人とも逮捕ってことも。――まあ、私立だから適当にもみ消すでしょうけどね」
「そうだろう。学校の名に傷がつく」
「そこで、恩田君江ちゃんの結婚よ」
「その娘の結婚が、何か関係あるのか?」
「分らない。ないかもしれないわ」
と、雪子は言った。「でも、引っかかるの。あの戸部って人が、そんなにもの分りがいいとはとても思えないもの」
「というと?」
「そんな年上の男との結婚なんて、許すはずがない。そう思えるの」
「しかし、現に認めたんだろ」
「そこよ。――何かわけがあるんだわ。そんな気がする」
雪子は、じっと暗い天井を見上げた。「私の勘は当るのよ」
「分ってる」
と、川北は言って、雪子にキスした。「何か分ったら教えてくれ。俺も、会長って立場で恥をかきたくない」
「いいわ。――でも、高いわよ」
雪子は、そう言って笑うと、川北の上にかぶさるようにして抱きついて行った……。
「あら」
亜由美は、夜になっても残る暑さにフウフウ言いながら、家の近くまで戻って来たところだった。
家の玄関前で、何だか行こうか戻ろうかとためらっているような人影一つ。
「あの――戸部さんですね。戸部朱美さん」
と、声をかけると、
「あ……。どうも」
と、戸部公一の妻は、亜由美に頭を下げた。
「何かご用ですか」
「いえ……。別に用ってほどのことじゃ……」
と、ためらってから、「あの子――君江ちゃん、元気にしています?」
「ええ。お会いになっていけば? どうぞ上がって下さい」
「でも……」
「構いません。さ、どうぞ。――ただいま!」
「帰ったか、我が娘よ!」
と、父親が出て来て、両手を大げさに広げると、
「旅はどうであった? 神のご加護に感謝の祈りを捧げることにしよう」
父親は両手を天に向って高々と上げたまま、二階へ上がって行く。
「――どうぞ」
亜由美はスリッパを出して、呆気《あつけ》にとられている朱美の前に置いた。
「――まあ、TVアニメを」
と、居間のソファで冷たいウーロン茶を飲みながら、朱美が言った。
「そうなんです、決しておかしいわけじゃないんですよ」
と、亜由美は言って、「ね、今日は何のアニメを見てたの?」
母の清美は、亜由美にもウーロン茶のグラスを渡して、
「何だか十字軍の話だったみたいよ」
「それで旅のことなんか言ってたのか」
と、亜由美は首を振った。「ね、君江さんは?」
「もう帰るでしょ。毎日、三沢さんと会ってるんだもの。よく飽きないわ」
「お母さんだって、お父さんに毎日会ってるでしょ」
「そうよ。だから、もう飽きたわ」
――亜由美には、朱美が必死で笑いをこらえているのが分った。
「すてきなご家庭ですね」
と、清美が出て行くと、朱美は言った。
「そうですか?」
「ええ。うちにはこんな温かさはありませんでした。――君江ちゃんも、ここにいた方が、ずっと幸せだわ、きっと」
「ワン」
「何よ、ドン・ファン! びっくりさせないで」
と、亜由美は、いつの間にやら足下に来ていた茶色い細長い胴体に向って言った。
「――亜由美さん」
と、朱美が言った。「お聞きでしょ、君江ちゃんから」
「何のことですか?」
「主人が――あの子に何をしようとしたか」
朱美が目を伏せる。「あの人も――悪い人じゃないんですけど。どうしても、ああいう若い子への好みが捨てられないんです」
「じゃ、君江ちゃんだけじゃないんですか?」
「ええ……。お恥ずかしい話ですけど。――以前からあの人にはそういうくせ[#「くせ」に傍点]があって」
「でも――」
「もちろん、犯罪になるようなところまではしていません。でも、小さい子にいやに優しくしたりするのは、昔からなんです」
と、朱美が言ったとき、
「ただいま!」
と、元気な声が飛び込んで来た。「――あ、叔母さん」
君江の顔が、ちょっとこわばる。「何か用?」
「ううん。ちょっとあなたの様子を見に来たの。――元気そうね」
「うん」
「じゃ、安心だわ。亜由美さん、よろしくお願いします」
「は、どうも――あの――」
止める間もなく、戸部朱美は帰って行ってしまう。
亜由美と君江は顔を見合せた。
何しに来たんだろう?――亜由美の中で、どこか「危険」を告げる信号が、鳴り始めていた。
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4 仲 間
スコーン。スコーン。
快音が、テニスコートに響く。
「――やった!」
と、君江が飛び上がった。
「君江! 凄《すご》いね」
と、クラブ仲間が汗を拭《ぬぐ》った。「かなわないや、花嫁さんには」
「やめて」
と、君江は赤くなった。
もともと、夏の暑さの中での練習である。みんな、顔は暑さで真赤だが、君江はさらに赤くなった。
「――一息入れよう」
と、二年生の子が言った。「君江さん、今度、彼氏[#「彼氏」に傍点]を紹介してよ」
「ええ? 紹介するほどの人じゃないです」
と、タオルで汗を拭きながら、君江が笑った。
「あら、いいの、そんなこと言って? 愛してるんでしょ」
「それは……愛してますけど」
ワーッと周囲がはやし立てる。
「でも、大したもんね。十六で結婚か。――私、何か凄く年齢《とし》とったような気がしちゃう」
と、二年生が言った。
「ね、なれそめ[#「なれそめ」に傍点]は?」
「もう、どこまで行ったの?」
これじゃTVレポーターのインタビュー。君江は、聞こえないふりをして逃げようとしたが……。
ポカンとして、君江は当の「彼氏」――三沢良治が、ワイシャツ姿に上着を腕にかけてテニスコートの入口で手を振っているのを見ていた。
我に返ると、あわてて駆けて行く。
「ちょっと! どうしたの?」
「いや、近くへ仕事で来たからさ、ちょっと覗《のぞ》いてみたんだ」
と、三沢は屈託なく、他の子たちの方へ、「やあ。いつも君江がお世話になって」
なんて挨拶《あいさつ》している。
「やめてよ! ね、外へ行きましょ。ここ、女子校よ。男の人は入っちゃだめ」
君江はあわてて三沢を引張り出そうとしたが、それより早く、ワッと駆けて来た他の子たちが三沢を捕まえて、
「君江のフィアンセね!」
「この二枚目!」
「さ、質問に答えてもらいますよ!」
口々に言いながら、面食らっている三沢をコートの中へ引張り込む。
「あ、あのね……。ちょっと僕は――」
仕事が、と言おうとしても、とても聞こえやしないのである。
君江は汗をかきつつ、恋人がクラブの仲間たちに囲まれてしまうのを眺めていた。
でも――君江は幸せである。こうして自分の「幸せ」を、みんなに見せてやれるというのが、嬉《うれ》しい。
それは、君江の人生の中で、長いこと忘れていた快感だった……。
「――君江を最初見たとき、どう思いました?」
「そりゃまあ……。可愛い子だな、って」
ワーッと声が上がり、三沢は真赤になっている。
「――好きにしてろ」
と、やけ気味に呟《つぶや》いたのは戸部公一である。
テニスコートの金網に手をかけ、茂みに姿が半ば隠れるようにして、ずっと君江がコートを駆け回るのを、見ていたのである。
君江……。君江……。
畜生!――あいつは俺のもの[#「俺のもの」に傍点]だったのに。
俺のものでなきゃいけなかったのだ。それなのに……。
あんな奴《やつ》に君江をくれてやるのか?
あんな――つまらない男に。
戸部は、自分がもっと、「つまらない男」かもしれないとは、考えてもみないのだった……。
――ポン、と誰かに肩を叩《たた》かれて、戸部はギクリとした。
振り返ると、
「やあ、戸部さん」
見知った顔がそこにあった。
「川北さん。――どうも」
と、戸部はぎこちなく笑顔を作った。
「テニス見物ですか」
と、川北は言った。「――ほら、お宅の姪《めい》ごさんでしょう、あそこにいるのは」
「ええ……。そうです」
川北はニヤリと笑って、
「ちょっとご相談したいことがあるんですがね」
と、言った。
「私にですか」
「他にも何人か、会いたがっている人がいましてね。さ、行きましょう」
「どこへ行くんです?」
「一緒に来て下されば分りますよ」
と、川北は促した。
戸部は戸惑ったが、川北について行くしかなかった。
学校を出るのかと思うと、そうではなく、川北はガランとした校舎の中へと入って行く。
「さ、上です」
と、川北が階段を上がって行く。
二階の、少し広い教室のドアを開け、川北は、
「入って下さい」
と言った。
「はあ……」
戸部は教室の中へ入って、ギクリとする。
「いらっしゃい」
と、久保雪子が言った。
「これは久保先生」
と、戸部は挨拶した。
「堅苦しいことは抜きで。――こちらに座って下さい」
川北が、後ろ手にドアを閉めた。
「――さ、これで邪魔は入らない」
と、川北は、空いた椅子《いす》にかけた。
「何か、私にご用ですか」
と、戸部は落ちつかなげに言った。
「今、大変なことが持ち上がっているんですよ、戸部さん」
と、久保雪子が言った。「ご存知ですか?」
「何のことです」
「副会長の近田さん、ご存知ですね」
「もちろん」
「近田さんが、父母会のお金を使い込んでいるらしいんです」
戸部は唖然《あぜん》として、
「――まさか!」
と言った。「近田さんは……お金持ですよ!」
「ところが、株で大損しましてね」
と、川北が言った。「何とかそれを埋めようとして、父母会の積立金に手をつけたようです」
「本当ですか?」
「確かです」
と、雪子が肯《うなず》く。「会計担当のあなたが、ご存知なかったんですか?」
「それは……」
と、戸部は詰って、「――ま、確かに私は会計担当です。しかし、近田さんが現実には通帳も印も持っている。私はその結果を記録するだけですよ」
「なるほど。いや、あなたが近田さんとグルとは思っていません」
と、川北は言った。
「もちろんですよ! とんでもない」
と、戸部は憤然とする。
川北と雪子がチラッと目を見交わす。
「――戸部さん」
と、川北が膝《ひざ》を進めて、「実はね、ご相談があるんですよ」
「はあ」
「今、学校側は近田さんの身辺を探っています。もちろん色々と問題は出て来るでしょう」
「そうでしょうね。しかし――」
「そこで提案です」
と、川北は言った。「今のところ使い込まれた金は約二千万円ということです」
「二千万!」
戸部が目を丸くする。「それでは――建設基金に手をつけたんですね。何てことだ!」
父母会費だけなら、大した金額にはならない。他に、校舎の建て直しなどのための基金があって、それは一億円近い額になる。
「そうです」
と、川北は肯くと、「で――その二千万をですね、五千万[#「五千万」に傍点]にしたいのです」
戸部は、目をパチクリさせて、
「何のことです?」
「あと三千万。――私も、ちょっと金が必要でしてね」
「つまり……もっと[#「もっと」に傍点]使い込みをやろう、ということですか?」
「その通り。今やれば、すべて近田さんのやったことにできる」
戸部は、しばらく川北と雪子を交互に見ていたが、
「――そういうことか」
と、肯いた。「お二人は、察するところ――」
「お察しの通りですわ」
と、雪子が言った。「私も、お金は嫌いじゃありませんの」
「しかし、あなたは先生じゃありませんか!」
「そうですわ。でも、ぜいたくは好きです。――君江さんのこと、おめでとうございます」
「何です、急に」
「あなたが、よく認めたと思ったんです。当然反対されると思っていました」
「しましたとも。でも……」
「何か[#「何か」に傍点]わけがありそうですね、反対されなかったのには」
「ありませんよ! そんなものは、何もありません」
戸部はむきになって言った。
「それはどうですか」
と、川北が笑って、「ま、あなたのご協力があれば、あと数千万の金を懐に入れて、その責任をすべて近田さんへ押し付けることも可能だ。どうです?」
「とても――だめです」
と、戸部は言ったが……。「だめですよ……。とても……」
徐々に声は小さくなった。
「だめよ……」
君江は小声で言って、それでも三沢のキスを拒まなかった。「ね、もう……。誰かが来たら大変」
「うん」
三沢はおとなしく言われた通りに君江から離れた。
体育館の裏手。――やっとクラブの子たちから解放されて、三沢と君江はここへ逃げて来たのである。
「しかし、みんなからかってはいたけど、祝福してくれてるじゃないか」
と、三沢は言った。「ホッとしたよ」
「そうね」
と、君江は微笑んで、「お友だちってありがたいわ」
「全くだ。――あの塚川さんもね」
「面白い人たちよ。特にあのドン・ファンと来たら!」
と、君江は笑った。
「君は変った」
と、三沢が言った。
「え?」
「君は明るくなった。――会ったころの君はいつも沈んでたけど」
「そう? じゃ、あなたのせいよ」
「それに、塚川さんや神田さんたちのおかげだ」
「じゃ、結婚したら、また私、沈んじゃうの?」
「そんなことはない! 僕は君のことを決して泣かせやしない。本当だよ」
三沢は力強く言った。
「信じてる」
君江は、少し伸び上がって、三沢にキスした。
「――シャワー浴びて、着がえてくるわ。待っててくれる?」
「ここにいるよ」
「すぐ来る!」
君江は駆け出して行った。
三沢は、それを見送って――口笛など吹いていた。
「ワン」
振り向くと、あの[#「あの」に傍点]ドン・ファンと塚川亜由美が立っていた。
「や、どうも。ちょうど今――」
「聞いていました」
と、亜由美は言った。「でも、声をかけにくくて。ちょっとね」
「はあ、どうも……」
と、三沢は照れて頭をかく。
「三沢さん、実は――」
と、亜由美が声を低くして、「殿永さんから連絡が」
「何かあったんですか?」
「それよりも――」
と、亜由美が言いかけたとき、
「キャーッ!」
と、甲高い悲鳴が聞こえて来た。
「あれ……君江さんじゃ?」
「何かあったんだ!」
二人が駆け出し、ドン・ファンも必死でその後を追って行ったのだった。
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5 立ち直り
「大丈夫? 君江さん。――気分は?」
と、亜由美はタオルで君江の濡《ぬ》れた髪を拭《ふ》いてやりながら、訊《き》いた。
「ええ……。すみません」
君江はまだ青い顔をしている。
「あの……どうですか?」
と、シャワー室のドアの細い隙間《すきま》から、三沢良治が顔を出す。
「覗《のぞ》いちゃだめ!」
と、亜由美が叱《しか》りつける。「女子シャワー室ですよ!」
「す、すみません!」
「まだショックから立ち直ってはいないようですけど、もう危いことはありませんから、ご安心を」
「はあ……」
「クゥーン」
三沢とドン・ファンの声がドアの外から聞こえてくる。
何しろ〈女子シャワー室〉だから、というので、亜由美はドン・ファンも中へ入れなかったのである。
恩田君江は、木のベンチに座って、やっと少し落ちついた様子。
「すみません、ご心配かけて」
「それはいいけど……。誰かが忍び込もうとしてたって?」
「ええ……。シャワー浴びてて、チラッと高い窓の方を見たら、戸が開いてて、男の人の手が……」
「でも、悲鳴上げたら逃げちゃった、と。顔とかは見なかったわけね」
「全然。――男の子が覗きに来るなんてこと、珍しくはないんですけど」
と、君江は言った。「でも中へ入ろうとするなんて……。誰かいるのを知ってて、ですものね」
「あなたがいると知ってて、かもしれないわね」
と、亜由美が言った。
「え?」
と、君江は戸惑ったように、「何か――私がしたんですか?」
「あなたがしたわけじゃないわ。ただね、殿永さんが知らせて来たの。――叔父さんの戸部公一さんだけど、あなたに保険をかけてるの。知ってた?」
「いいえ。私に保険?」
「生命保険。つまり、あなたが万一死んだときには、叔父さんにお金が入るっていうわけ」
君江はちょっとポカンとしていたが、
「――まさか」
と笑って、「いくら叔父さんでも……。何か、特別意味があるわけじゃないと思いますけど」
しかし、不安は隠せない表情をしている。
「そうだといいんだけどね」
と、亜由美は言った。「ただ――あなたが三沢さんとお付合いを始めてから、保険金を倍にしたの。今あなたが死ぬと、叔父さんの手もとには五千万円入ることになってるのよ」
君江もさすがに少し顔をこわばらせた。そして、うつむき加減に考え込んでいたが、
「三沢さん、呼んで下さい」
と、言った。「中へ入ってもらって」
「でも――」
と、亜由美がためらったのは、まだ君江がバスタオルを裸身に巻きつけただけの格好だったからで……。
「いいんです」
と、君江は言った。「あの人、もう初めから私の裸、見てるんですもの」
そりゃそうだが……。亜由美の方が照れているのである。
「――三沢さん、どうぞ。君江さんが呼んでます」
「はい!」
三沢が飛び込んでくる。
「抱いて!」
と、飛びつくようにして、君江が三沢へ駆け寄る。「――怖いの。しっかり抱いて」
「大丈夫だ。僕がついてる」
と、三沢は固く少女を抱きしめた。
そして、君江の体を包んでいたバスタオルがフワリと落ちたが、君江も三沢も全く気にもしていない。
仕方ない。――亜由美の方がシャワー室を出て行くことにした。
「こら、ドン・ファン! 覗くな!」
亜由美がやけ気味になって怒鳴ると、
「ワン」
と、ドン・ファンは心外な様子で抗議したのだった。
「そりゃ、あんたのやきもちよ」
と、聡子がアッサリと言った。
「あのね」
と、亜由美は聡子をにらんで、「言いにくいことを、ずいぶんはっきり言ってくれるじゃないの」
「ちっとも言いにくくなんかないよ。何ならもう一回言ったげようか。それはあんたのやきもち。分った?」
「うるさい」
亜由美は、何杯目かのカクテルをぐっとあけた。
――二人して、バーで飲んでいるところ。
「でも、何か侘《わび》しいわね」
と、聡子がため息をついた。「大学生が二人でさ、高校一年生の女の子にやきもちやいて酒飲んでる、ってのも」
「ふん、早きゃいいってもんじゃない」
と、亜由美は絡み出しそうな気配。
「しっかりしてよ。あんた、あの子を守ってやんなきゃいけないんでしょ」
「私なんか用なしよ。殿永さんはついてるし、ドン・ファンもあの子にべったりだし、父は父で、『あの子はまるで我が子のようだ!』なんて言い出すし。それに、大体あの子には三沢さんがついてるのよ。それなのに――何で私なんかが守ってやんなきゃいけないの?」
「亜由美。そうカッカしないの」
と、聡子が慰める。「その内、亜由美にだって、誰か守ってくれる人が現われるわ」
「聡子に慰められてちゃ、おしまいだ」
「何よ、その言い方」
「何よ、とは何よ」
「人が心配してやってんのに」
「いつ心配してくれって頼んだのよ」
「じゃ、勝手にしろ」
「勝手にするわよ」
――二人は、カウンターに向いて、プーッとふくれっ面をしていたが……。
やがて、どっちからともなく、笑い出してしまった。
「――大人げない」
「本当」
と、二人で握手。
「しょうがないね、私たち」
と、亜由美は言った。「いつも、『いい人ですね』とは言われるけど、『可愛《かわい》い人』とか『愛《いと》しい人』とか言われることはない」
「しょうがないでしょ。『いやな人』って言われるよりいいでしょうが」
「まあね」
と、亜由美は言って……。
ふと、バーの他の客の言葉が、亜由美の耳を捉《とら》えたのである。
「十六と三十六……」
十六と三十六?――亜由美はチラッとその声のした方へ目をやった。
「十六と三十六? 信じられませんね」
と言っているのは、背広姿がなかなか上品な男で、奥のテーブル席についている。
「でも、本当なんですの。学校では大騒ぎですわ」
隣に座っている女――。色白な美人である。
「ね、亜由美――」
「しっ」
と、亜由美は抑えて、「ね、あのテーブルの話」
「え?」
「聞いて。あのテーブル」
「どこ?――あの美人のいるとこ?」
「そう。耳を澄まして」
「OK」
と、聡子も酔いが覚めたらしい。
「――近田さん」
と、女が言った。「愛妻家ってご評判ですね」
「そうですか?」
近田と呼ばれた男、四十代の半ばか、真面目そうな、なかなか粋なタイプ。お金もあるのだろう、スーツは見るからに上等である。
「私、近田さんのようなタイプの方って、好みなんですの」
と、女が言った。
「おやおや」
と、近田という男は笑って、「先生らしからぬご発言ですな」
「やめて下さい」
と、女は相手をにらんで、「ここでは教師じゃありません。ただの独身の女です」
「なるほど」
近田が真顔になった。「しかし――危い発言ですよ」
「アルコールのせいだけじゃありませんわ」
「先生はまだお若い」
「もう二十八です。うちのクラスの十六の子よりは大人ですわ」
「それはそうだ。しかし――」
「無理にとは申しませんわ。もし、近田さんの気が向いたら、誘って下さって結構ですわ」
女の言葉に、近田は少し考えていたが、
「あなたを相手に、『気の向かない』男はいませんよ」
と、言った。
声の調子が変っている。本気で誘っている。それがよく分った。
「嬉《うれ》しいわ」
と、女は微笑《ほほえ》んだ。
「では……」
と、近田は言いかけ、「これを飲んだら、出ましょうか」
「ええ」
「その――十六の女の子は、何という子です?」
「うちのクラスの子ですか? 恩田君江といいます。どうして?」
亜由美と聡子は、チラッと目を見交わした。
「恩田……。ああ、もしかして戸部さんが面倒をみている子ですか。会計担当役員の戸部さんが」
「そうです」
「ふーん。しかし、あの戸部さんがよくそんな結婚を許しましたね」
と、近田は言った。「なかなか風変りな人だが」
どうやら、戸部は誰からもそう思われているようである。
「実は、そこが相談なんですの」
「相談?」
「ええ。ぜひ近田さんのお耳に入れておきたいことがあって」
「ほう」
近田の目が光った。「もしかすると、その相談[#「相談」に傍点]の方が主なお話ですか。先生とのお付合いよりも」
「それは――」
と、女が唇に笑みを含んで、「今夜のお付合いの程度によりますわね」
気を持たせる言い方だった。
「――よろしい。では、ぐずぐずしていては時間がもったいない」
と、近田がグラスをあける。
「賛成」
と、女もグラスを空にした。
「ほう、なかなかいけますね、久保先生」
と、近田が笑った。「支払いをして行きます。出ていて下さい」
「タクシーを停めておきますわ」
と、女は立ち上がって、一足先にバーを出る。
近田が支払いをして、追うように出て行く。
「亜由美――」
と、聡子が腰を浮かしたが、
「ホテルまでついて行けやしないわよ」
と、亜由美は言った。「近田って言ったわね。女の方は……『久保先生』?」
「そう聞こえた、私も」
「あの話じゃ、君江ちゃんの担任みたいじゃない。先生にしちゃ色っぽい」
「そうね。でも――何の話をしてたんだろう?」
「何か……戸部のこと、『会計担当』とか言ってたね」
「うん。何だろう?」
「興味あるわね」
亜由美は、目をややギラつかせていた。
「本当に亜由美って、怪しげな話が好きなのね」
と、聡子が笑って、「さっきの落ち込みはどこへ行ったの?」
「大きなお世話だ」
亜由美がベエと舌を出し、聡子は吹き出してしまったのだった……。
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6 写 真
君江は、学校へ入って行くと、すぐに雰囲気がおかしいことに気付いた。
「おはよう」
と、声をかけても、みんな目をそらしてしまう。
今はまだ夏休み。一日だけ「登校日」というのがあり、全員が日焼けしたりして、やって来ている。
もちろん、君江が二十歳も年上の男と結婚するということは、どの生徒も知っているだろう。中には「いやだ」と思う子もいるかもしれない。
でも、みんながみんな、君江を避けるというのはおかしい。
クラスへ入ると、みんなが一斉に君江の方を向いて黙ってしまった。――何があったんだろう?
それを口に出す間もなく、担任の久保雪子が入って来た。
「みんな、席について」
ガタゴトと椅子《いす》を動かす音がして、全員が席につく。
「――今日は登校日で、出席をとったら、後は校長先生のお話があります」
と、久保雪子は言った。「それから――」
君江の方へ目をやると、
「恩田さん、立って」
「はい」
「みなさんも、もう聞いているでしょうけど、恩田さんは、今月の末に結婚します」
クラスの中がザワつく。しかし、知らなくてびっくりしたというのとは違っている。
「三沢という姓になることになっています。もう十六歳で、法的にも結婚できる年齢ですし、職員会議にもはかった結果、承認されました。みんなで祝福してあげたいと思います」
久保雪子は君江に笑顔を見せて、「おめでとう、恩田さん」
君江は胸が熱くなった。
「ありがとうございます」
と、頭を下げる。
パラパラと拍手が起こったが――。
「君江」
と、友だちの一人が立った。「ひどいことした奴《やつ》がいるの」
「え?」
「この写真を、あちこちにばらまいたのよ」
と、一枚の写真を手にする。
「見せて」
君江は駆け寄って受け取ると、一目見て青ざめた。
「――どうしたの?」
と、久保雪子が訊く。
「これ……」
君江は写真を手の中で握り潰《つぶ》した。
「何なの、恩田さん?」
「先生」
と、立った友だちが言った。「君江がお風呂に入ってるのを隠しどりした写真なんです。裸で――すっかりうつってます」
「まあ!」
久保雪子は唖然《あぜん》として、「どういうことなの?」
君江は、身を震わせて立っていた。
「ひどい……。叔父さん……」
と、呟《つぶや》くように言って、「失礼します!」
パッと駆け出す。
「恩田さん!」
と、久保雪子が呼び止めたが、もう君江は教室から飛び出してしまっていた。
「――はい塚川です」
と、亜由美は寝ぼけた声を出した。「え? 塚川亜由美ですか? ここは塚川ですよ。かけ間違えないで下さい!」
と、文句を言って切ろうとして……。
「あ、もしもし。――失礼しました。私が亜由美ですけど」
いくら昼寝していたのを叩《たた》き起こされたとはいえ、自分の名前を忘れるというのは大したもんである。
やはり母の性質を受け継いでいるのかもしれないと思うと、亜由美は少々怖くなった……。
「――君江ちゃんですか。いいえ、まだ帰ってません。――と、思いますけど」
と、亜由美はいい加減な返事をした。「はあ――。何があったんですか?――え?」
事情を聞くと、亜由美の眠気は一度に吹っ飛んだ。
「何ですって!――分りました。もし君江ちゃんが帰ったら……。――ええ、一緒に行って、叔父の戸部をぶっ飛ばしてやります!」
もちろん学校側としては、そんなことを頼んじゃいないのである。
亜由美がカッカしながら電話を切ると、
「亜由美」
と、母の清美が顔を出した。
「お母さん! 聞いてよ! あの戸部って奴、君江ちゃんがお風呂に入ってるところを写真にとって、それを学校でばらまいたのよ! ぶっ殺してやりたいわ」
と、一人でまくし立てて――。
君江が、清美の後ろに立っていた。
「君江ちゃん……」
「叔父の所へ行こうと思ったんですけど――」
と、君江は言った。「思い止《とど》まりました」
「でも、君江ちゃん――」
「当然よ」
と、清美が言った。「あんな男には腹を立てるだけ損。人間以下の生きものと思っているしかないわ」
「でも……」
と、君江はため息をついて、「行って、殴ってやりたい。そう思います。でも、怖いんです、自分が。――カッとなって行ったら、それこそ殺しちゃうかもしれない」
「君江ちゃん……」
「外を歩き回って、何とか落ちつこうとしてたんです。少しでも、気持を鎮めて……。でも、ちっとも落ちつかないんで、怖くなって帰って来たんです」
「ワン」
いつの間にやら、ドン・ファンが足下に来ている。
「そう。ドン・ファン、あんた、君江ちゃんを慰めてあげな。私が戸部の所へ行って来るから」
「でも――」
「大丈夫。殺しやしない。半殺しぐらいにはするかもしれないけど」
と、亜由美は結構本気で言った。
「いけませんよ。あんたは刑務所へ入ってもいいけど、君江ちゃんが自分のせいだと思って苦しむでしょう」
「刑務所へ入ってもいいけど? ひどい母親ね!」
「娘にふさわしい親です」
と、清美は亜由美の上をいっている。「殿永さんと行きなさい。私がこの子を見ています。ドン・ファンも連れておいで」
「何で?」
「いざってときは、ドン・ファンがやったことにするのよ。あんたと違って、ドン・ファンは刑務所へ行かないわ」
「ワン」
と、ドン・ファンが抗議(?)の声を上げた。
玄関の方で、
「ごめん下さい。――恩田さんの学校の者ですけど」
と、女性の声。
「あ、久保先生だ」
と、君江が言った。「担任の先生なんです。きっと心配して、来てくれたんだわ」
「久保先生っていうの?」
「久保雪子先生」
「そう」
玄関へ君江が出て行く。
「良かった! 帰ってたのね」
と、久保雪子が微笑む。「学校にばらまかれた写真は、全部回収したわ。ちゃんと私が焼却炉で焼いたからね」
「先生、すみません」
「何を言ってるの。――あ、このお宅の方ですね。久保と申します」
「どうも」
亜由美は、複雑な表情で言った。
確かに、見たところ頭の良さそうな、しかも美人という、亜由美としては許せない(?)ような女性だが、何といってもあのバーで、この「先生」が男を誘惑するのを見ているのだ。
いや、先生にだって私生活はあるわけだし、亜由美もそこまで干渉しようとは思わない。ただ、あのとき、「近田」という男との話の中で、戸部がどうにかしたという話が出ていたことが引っかかっているのである。
「恩田さん。もう心配いらないわ。それだけあなたに伝えておきたくて」
と、久保雪子は言った。
「先生、ありがとう」
と、君江は息をついて、「そうですよね。考えてみたら、何も私が悪いことをしたわけじゃないんだし、恥ずかしがること、ないんですよね」
「そうよ。恥ずかしいのは、あんな写真をとった人。――やっぱり叔父さんなの?」
「それしか考えられません」
「そう……。辛《つら》い思いをしてたのね、あなたって」
と、久保雪子は君江の肩に手をかけた。「結婚式には私も招《よ》んでくれる?」
君江はニッコリ笑って、
「はい!」
と、肯《うなず》いたのだった。
「いや、塚川さんは実に忙しい方ですな」
と、殿永は苦笑いして言った。
「母はね。でも、私は母と違いますから」
ほんとにそうだろうか?――亜由美は内心、自分は母とそっくりなのかもしれない、と恐れているのだった。
自分の何十年後かの姿を目の前に見ているというのは、あんまり楽しいものではない。
「――暑いですな、いつまでも」
と、殿永は汗をハンカチで拭《ぬぐ》った。
何しろ太っているから、よく汗もかく。ハンカチはクシャクシャになっていた。
「今度、殿永さんにハンカチを百枚くらいプレゼントしようかしら」
「クゥーン」
と、ドン・ファンが面白がっている。
「手ぎれ[#「手ぎれ」に傍点]って奴《やつ》ですか?――しかし、私どもはいつまでも縁が切れそうもありませんね」
と、殿永は笑って言った。
歩くにしても、ゆっくりと。そうしないとドッと汗の吹き出てくる夕方であった。
「――あ、ここだ」
と、亜由美は足を止めた。
戸部の家のチャイムを鳴らしたものの、返事がない。
「あら」
と、後ろで声がした。「塚川さん……」
振り向くと、戸部朱美がやって来るところだった。
「あ、奥さん」
「主人に何か? いませんか」
「今、鳴らしてたんですけど」
「出ません? おかしいわ。私が買物に出るときはいたんですけど。じゃ、きっと居眠りでもしてるんだわ」
朱美が鍵《かぎ》を出して、玄関を開けた。「どうぞ」
亜由美たちは中へ入って行った。
「――真暗だわ。あの人ったら、きっと寝てるんだ。どうぞ、居間の方へ。私、起こして来ますから」
と、朱美は奥へ入って行く。
亜由美たちは居間へ入った。亜由美が手探りして明りを点《つ》けると――。
「――ワン」
と、ドン・ファンが鳴いた。
「何てことだ」
と、殿永が呟《つぶや》くように言った。
「私じゃありません」
と、亜由美は反射的に言っていた。
しかし、ちっともびっくりはしていなかったのである。――居間の中で戸部公一が倒れていて、とうてい生きているとは思えなくても、そしてその頭のそばに、重そうな花びんが砕けて落ちていても。
「もう死んでる」
殿永が、一応近寄って脈を見た。「すぐ連絡します。塚川さん、お宅へ戻られては?」
「どうしてですか? 私がこういう場面、嫌いじゃないの、ご存知でしょ」
「だからこそ、言ってるんです」
「ワン」
妙なやりとりをしていると、
「おかしいわ。あの人、いないんです」
と、朱美が居間へ入って来た。「あの――」
「奥さん」
「主人……。どうかしたんですか」
と、朱美はポカンとして、「花びん、落としたんだわ。よくやるんです。よく物を落っことす人で……」
「奥さん。――ご主人は亡くなったんです」
「でも……」
亜由美は、そっと死体に近付いて、かがみ込んだ。戸部の右手が何かを握りしめている。
チラッと殿永が朱美をなだめているところを横目で見ると、その右手を開かせた。
ポロッと小さなものが落ちた。――バッジである。
亜由美は、それを拾って、手の中へ入れてしまった。
「ワン」
「シッ!」
と、亜由美はドン・ファンをにらみつけてやった……。
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7 五千万円の問題
「やあ」
と、ビルの地階のティールームへ入って、三沢は君江の姿を見付けると、手を上げた。
「――ごめんなさい、仕事中に」
と、君江は言った。
「いや、構やしないよ。暑いだろ」
「ううん。――大丈夫」
「でも……少し顔色が良くないよ」
「そう?」
「君江――」
「ね、三沢さん」
と、君江は思い切ったように言った。「私と結婚するの――先へのばす?」
「どうしてそんなこと言うんだい?」
「だって――」
「叔父さんを殺した犯人はその内見付かるさ。世間でどう言ってても関係ないよ。そうだろ」
「でも……」
と、君江はためらった。
戸部公一が殺された。――ちょうど、君江のあの写真がばらまかれたこともあって、君江が疑われても仕方のない状況だった。
しかも、その時間、君江はただあてもなしに外を歩き回っていたから、アリバイもないのである。
戸部は、後頭部を重い花びんで一撃され、死んだのだが、花びんには君江の指紋もついていた。
普通だったら、とっくに君江が犯人とされているところだろう。殿永が担当しているので、君江はまだ自由でいられるのである。
しかし、結婚式はもう二週間後に迫っていた。事件の報道と一緒に、十六歳と三十六歳という取り合せの結婚の話が、マスコミをにぎわせていた。
当然、三沢の所へもいくつかの話は来ているはずだ。
「会社で――何か言われない?」
と、君江は訊《き》いた。
「そりゃ少しはね。でも、君のようなすてきな子と結婚できるんだ。少々のことは我慢しなくちゃ」
三沢が君江の手を握りしめる。――そのぬくもりが、君江の体の隅々までしみ通って行くようだった。
「――いいのね、本当に?」
「大人を少しは信用しろよ」
と、三沢は笑った。
「ごめんなさい」
と、君江も笑う。「あんまり――幸せすぎて怖いのよ」
「安心して、何もかも僕に任せてればいいんだ」
「ええ」
「せっかく出て来たんだ。夕食、外で二人で食べようか」
「うん!」
君江の目が輝いた。「――じゃ、待ってるわ」
「よし。五時になったら会社から飛び出して来る。時計を見てろよ。五時一分にここへ入って来るからな」
君江は三沢の言い方に声を上げて笑った。
三沢が会社へ戻る。――五時まで、四十分ほどあった。
「ミルクセーキ下さい」
と、君江が注文して、フッと息をつくと、
「――いいかな」
と声がして、男が一人、向い合った椅子《いす》に腰をおろした。
「どなたですか?」
見たことのある人だ、と君江は思った。
「近田というんだ。今、君の学校の父母会で副会長をしている」
「あ……。近田さん。文化祭でお見かけしたことがあるわ」
「そうだね。叔父さんのことはお気の毒だった」
「どうも……」
「君の方は、しかしおめでたい話になってるようじゃないか」
と、近田は微笑んだ。
戸部公一より年上だろうが、むしろずっと若々しく、元気である。それに紳士だ。
「はあ……」
「突然声をかけて、悪いね。実は、戸部さんが父母会の役員だったのは知ってるだろ?」
と、近田は真顔になって言った。
「はい。会計担当でしたね」
本当のところ、こんなに叔父に向かない役職はないだろうと思っていた。どうしてあんなのに選ばれたんだろう?
「それでね、言いにくいんだが……」
と、近田はちょっと難しい顔になって、「実は、とんでもないことが分ったんだよ」
「え?」
「君の叔父さんは、父母会のお金を使い込んでいた」
君江は唖然とした。
「叔父が……。使い込み?」
「まあ、僕の責任でもあるんだ。僕は会計担当の副会長だからね」
「でも……どれくらい?」
「うん。まだはっきりしたところは出ていないんだが――。今のところ、たぶん五千万円くらいだろうと言われてる」
五千万!――君江は声も出なかった。
「だけど……。叔父は何に使ってたんでしょう?」
「さあ。株とか、色々あるからね。何か損をしたとか、そういう話を聞いたことはない?」
「ええ、何も……」
五千万。――五千万? どこかで聞いたような気がする。「五千万円」という金額を。
「あ、そうか」
と、呟《つぶや》く。
「何か思い当ったかい?」
「いえ……。保険金のことで」
「保険?」
「生命保険です」
君江が、自分にかけられた生命保険の額が五千万になっていたという話をすると、近田は興味深げに、
「すると、ちょうど同じ額か。――使い込んだ分の五千万を、それで埋めるつもりだったのかもしれないね」
「でも……それには私が死ななきゃいけないんでしょ」
「そうだ。――君は危うく命拾いしたのかもしれない」
近田の言葉に、君江はまた青くなったのだった……。
「五千万の使い込み」
と、亜由美は寝そべって言った。「うーん、くさいわね、どうも」
「ワン」
「あんたのこと、言ってんじゃないわよ」
「クゥーン……」
ドン・ファンが、亜由美のベッドの下へ入り込む。
「やれやれ」
と、神田聡子が欠伸《あくび》して、「もし亜由美が恋人作ってさ、ここへその男を連れ込んだら、ドン・ファンはどうするんだろうね。やきもちやいて、吠《ほ》え立てる?」
「きっとベッドの下で聞き耳立ててるわよ」
「そんなに趣味悪いかなあ」
「知らん。――それより五千万」
「使い込みね。珍しい話じゃないじゃない」
「うん。でも、あの戸部って、そんなことやるには肝っ玉が小さいような気がする」
「でも、事実だったわけでしょ?」
「うん……。だけど、五千万も使ってたわりにゃパッとしなかったよね」
「そりゃ別の問題よ」
「それと、あの久保雪子が近田って人と話してたことも気になってるの。何か相談がある、と言ってたこと」
「うん。ありゃちょっと怪しげだったよね」
「――保険金の五千万、か」
と、亜由美はベッドに仰向けになって、天井を眺めて呟く。
「亜由美は絶対死なないから大丈夫だね」
「何よ、それ。私が人間じゃないみたいじゃないの」
「ワン」
ベッドの下からドン・ファンが鳴いたので、二人は吹き出してしまった。
「――亜由美」
と、母の清美が顔を出す。
「うん? 何?」
と、起き上ると、
「さっきね、君江ちゃんから電話があったの」
「電話?」
「今から帰りますって、ちゃんと知らせて来るところがあなたと違うわね」
「お母さん。娘にいやみ言いに来たの?」
「そうじゃないの。もう三十分もたつのに、まだ帰らないのよ。十分もあれば着くはずなのに」
「どこかへ寄ってるんでしょ。小さな子供じゃないんだから」
「でも、心配だから見て来て」
亜由美は少々むくれて、
「私だったら、そんなに心配する?」
「お父さんの会社へ電話したのよ。そしたら、『五分でも遅れたら迎えに行ってやるのが、人間の使命というものだ』って」
「分ったわよ。行きゃいいんでしょ」
半ば――いや、ほとんど完璧《かんぺき》にふてくされつつ、亜由美はベッドから飛び出したのだった。
「ワン」
と、ドン・ファンもベッドの下から這《は》い出してくる。
「お前も行くのね。好きにしな」
と、亜由美はやけ[#「やけ」に傍点]になって言った……。
「――五分や十分遅いからって、何なのよ」
ブツクサ言いつつ、亜由美は夜道を歩いていた。
何しろ日は暮れてもまだ暑い。外へ出ればべっとりと汗をかく季節なのである。
そこへわざわざ君江の「お迎え」と来ては、亜由美がむくれるのも仕方ないかもしれない。
もっとも、ドン・ファンは外を歩くのが楽しいのか、結構軽々とした足取りでついてくる。
「本当にね、向うはもう十日もすりゃ人妻なのよ。人妻をどうして独身の娘が迎えに行くわけ?」
えらくこだわっているのである。
二人は(ドン・ファンを一人[#「一人」に傍点]と数えて)うす暗い道へとさしかかっていた。暗いといっても、もちろん両側はずっと家が並んでいるのだし、危いということはない。
ドン・ファンがピタッと足を止めた。
「――どうしたの?」
と、振り向いて、「ドン・ファン。何か――」
「ワン!」
と、激しい声で吠えると、ドン・ファンが亜由美めがけて飛びかかった!
「ワッ!」
亜由美は、一瞬ドン・ファンが発狂したのかと思った。あるいは、亜由美に恋|焦《こ》がれるあまりに襲いかかったのかと。
亜由美が尻《しり》もちをつく。――痛い!
叫び声を上げようとしたとたん、
バアン!――銃声が夜の中を貫いて、亜由美の立っていたすぐ後ろの家の門灯がパンと音をたてて破裂する。
「キャッ!」
ガラスの破片が飛び散って、亜由美は頭を抱えた。
と、タタッと駆けて行く足音。
「逃げた! 卑怯者! この――トンマ!」
いなくなったと思うと、安心してののしっていられる。
「ワン!」
ドン・ファンが駆けて行く。
「どうしたの?」
亜由美はやっとこ立ち上がって、ドン・ファンの後を追いかけた。
「クゥーン……」
ドン・ファンが悲しげな声を上げて鳴く。
「どうしたのよ、ちょっと――」
と、足を止める。
道の一番暗くなった隅に、君江が倒れていた。学生|鞄《かばん》を抱き抱《かか》えるようにしている。
「君江ちゃん! しっかりして!」
さすがに亜由美も焦《あせ》った。かがみ込んで抱き起こすと、
「君江ちゃん! 死んじゃだめよ! 結婚しない内に死ぬなんて! 私もしてないけど」
と、取りあえずは関係ないことを言っている。
「ドン・ファン! 何のんびりしてるのよ! 一一九番! 救急車を呼んで!」
いくらドン・ファンでも、電話をかけるのは無理である。
「どこを撃たれたの? しっかりして!」
と、揺さぶる。
もし本当に撃たれていたら、却って出血がひどくなったかもしれない。しかし――。
「ウーン……」
と、少し呻《うめ》いて、君江が目を開けた。
「君江ちゃん! 良かった! 気を確かにね。今救急車が来るわよ」
誰もまだ呼んじゃいないのである。
「私……どうしたんだろ」
と、目をパチクリさせて、「あ! 痛い!」
と、胸を押える。
「胸を撃たれたの! じゃ――もう助からないかも。何か遺言は?」
ちっとも相手を元気づけることにならない。
「いえ……。でも、かすり傷みたい」
と、君江は息をついて、「ちゃんと息もできる」
「立てる?」
「ええ……。撃たれたんですよね。突然声をかけられて。でも――どうしたんだろ」
頭が少しボーッとしている様子。
「犯人、逃げたわ。何か憶えてる?」
「見なかったな、どんな人か。暗かったし」
「そう。でもともかく無事で良かったわ!」
と、亜由美はしっかりと君江の肩を抱いて、「電話して来てから、帰りが遅いんで不安になったの。迎えに来てみて良かった! 母は、子供じゃないんだから大丈夫よ、とか言ってたけど」
ドン・ファンが「ワン」と吠《ほ》えて、
「うるさいよ」
と、にらまれている。
「鞄だわ」
と、君江が少し明るい所へ出て、声を上げた。
「え? 鞄?」
「今日、補習があって。夏の間、何もできないだろうから、出とこうと思ったんです。暑いのに、重い鞄を持ってくのはいやだな、と思ったんですけど……」
君江が鞄を持ち上げて見せた。――そのど真中に穴があき、鞄と、中の教科書類を貫いて弾丸は反対側から出ている。
「これを貫いてたから、胸に当っても、かすり傷だったんだ。――良かった!」
と、君江は目を閉じて言った。
「ワン!」
ドン・ファンが嬉《うれ》しそうな声を上げる。
もちろん、亜由美も嬉しかったが――吠えるわけにはいかないのだった。
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8 落 下
「弾丸は見付けましたよ」
と、殿永が言った。「いや、全く幸運だった」
「いや、幸運ではありませんぞ」
と、亜由美は父が言い出すのを聞いて止めようとしたが、間に合わなかった。
「天は、汚れない魂を守って下さるのです。それは〈ハイジ〉や〈小公子〉を見ればよく分ります。天に感謝の祈りを捧げましょう。アーメン」
父は立ち上がって居間を出て行った。
「完全にアニメの中の人物」
と、聡子が感心している様子で、「亜由美のお父さん、純粋だよね」
「ま、まあね」
と、亜由美は口ごもった。
「しかし、なぜ君江ちゃんが狙《ねら》われたのか、ということですな」
と、殿永が言った。
当の君江はお風呂に入っている。
無事に戻ってから、殿永と三沢へ連絡した。パトカーより早く三沢が駆けつけて来たのには、正直びっくりしたが、三沢がこの暑いのに(と、亜由美は思った)君江を延々と抱きしめていたのにも呆《あき》れた。
三沢は「ずっとそばにいる!」と言い出したのだが、君江の方が、
「もう大丈夫」
と、なだめたのだった。
殿永が、君江の身は責任を持って守る、と約束して、やっと三沢は帰って行った。
そして今、君江はお風呂。――本当は亜由美も汗をかいていたので、入りたかったのだが、君江より先に入ったりしたら、父親から何と言われるか、という雰囲気だったのである。
「生命保険でしょうか」
と、聡子が言った。
「いや、肝心の戸部が死んでしまっているのですからね」
と、殿永は言った。
「前におっしゃいましたね。戸部が警察を怖がっていたのを見て、よほどのことがあったはずだって」
と、亜由美が言った。「それが何だったのか――」
「さよう。例の使い込みのことか、それとも君江ちゃんに保険をかけていたことか。――しかし、戸部が君江ちゃんを殺すつもりだったとは思えない」
「そうですね。はねつけられて恨んで、ってことは?」
「そこまでも行っていないでしょう。まだ諦《あきら》め切れていなかった、と見る方が妥当だと思いますね」
「すると、やはり使い込み? でも、私、何だかあの話、おかしいと思うんですけど」
「塚川さんは鋭い。私も同感です」
亜由美は久しぶりに(?)ほめられ、ニヤついていて、聡子につつかれた。
「使い込み五千万、と言いますが、今のところ戸部が大損したとか、何かに金を注ぎ込んだという事実が出て来ないんですよ」
と、殿永は言った。
「誰かと一緒にやった、という可能性はないんでしょうか」
「塚川さん! あなたは天才ですな!」
「それほどでも……」
「今、当っているところです。しかし、何といっても、父母会費の使い込みで、学校側からは一切被害届が出ていません」
「やはり名誉がありますものね」
「難しいところです。しかし、殺人事件と関連あり、ということになれば、強制的にでも捜査せざるを得ない」
「学校は大騒ぎでしょうね」
「たぶんね。しかし、治療するには、うみ[#「うみ」に傍点]をすっかり出してしまう必要があります」
と、殿永は言った。
「あら、誰か来た」
チャイムの鳴るのを聞いて、亜由美は言った。母の清美が出て、じきに顔を出すと、
「亜由美。何だか父母会長さんですって」
「は?」
と、亜由美は目を丸くした。
「――突然お邪魔して」
と、川北雄二は名刺を亜由美と殿永へ渡して、
「刑事さんもこちらにおいでとうかがったので、いい機会だと思って」
「父母会長さん……。つまり、近田さんの上の――」
「まあ、そういうことです」
と、川北は人当りのいい笑顔を見せて、「もちろん、会長も副会長も違いはありません。無給の名誉職みたいなものですからね」
「しかし、そうも言っていられないようですな」
と、殿永が言うと、川北は顔をしかめた。
「全く。――お耳に入っているでしょうが、戸部さんが父母会費五千万を使い込んだ、と……。会長として、責任を感じざるを得ません」
「しかし、それだけではないのでしょう?」
「ええ。まあ……。戸部さんから、実はあの直前、電話をもらっていたのです」
と、川北は言った。「何か相談したいことがあって、と。ところが運悪く私が海外へ出張するのと重なってしまい、その後ということにして……。その間に戸部さんはあんなことに」
「なるほど」
「そのとき、戸部さんは『父母会費のことで、まずいことを見付けたんです』とおっしゃったんですよ」
「『見付けた』? そう言ったんですね?」
「そうです。何だろうと思って、気にはなったんですが。――まさかあんな大ごとだとは」
と、川北はため息をついた。
「しかし、見付けた、となると、使い込んだのは別人ということになりませんか」
「そこなんです。もちろん、戸部さんが本当のことを言っているとは限らないわけですがね」
「もし、他に誰か使い込んだ人間がいたとしたら?」
「迷っていたんです。お話ししたものかどうか。――実は、ある知人から、副会長の近田さんが株で大損したという噂《うわさ》を耳にしたんです」
「ほう」
殿永は、どんな話を聞いても、どの程度興味を持ったのか分らない。表情をほとんど変えずにいるのである。
「もちろん、裏付けを取ったわけではありませんが、戸部さんがあんなことになって、もし何もかも戸部さんのやったこと、ですんでしまっては、と気になりましてね。もちろん、これはあくまで噂なんです」
「いや、もちろん承知しています」
と、殿永は肯《うなず》いた。
そこへ、風呂を出た君江がパジャマ姿で居間へ顔を出し、
「あ、すみません。お客様だと知らなくて」
「やあ、君が今度結婚するという子だね」
川北は自己紹介して、「父母会の中でも大騒ぎだ。どうせいつも何もなくて退屈してるからね、いい刺激だよ」
と、笑った。
「はあ」
「おめでとう。父母会としても、ぜひお祝いさせてもらうよ」
「どうもありがとうございます」
と、君江は上気した頬《ほお》を、ますます赤くして言った……。
――川北が帰ってから、亜由美は、
「知ってたんですか、近田って人のこと?」
と、殿永に訊《き》いた。
「今、裏付け捜査をしているところです」
「へえ。――教えてもくれないで! 冷たいんですね、結構」
「いやいや、塚川さんを危い目に遭わせたくないからです」
と、殿永が微笑む。「もう、十二分に危い目に遭われていますがね」
「でも、亜由美さんって、危い目に遭うと、凄《すご》く元気になるみたい」
君江に言われて、少しショックではあったが、
「そりゃね。危いときに誰も駆けつけて来てくれないからよ」
と、辛《かろ》うじてやり返す亜由美であった……。
「近田さん」
会議が終って席へ戻りかけた近田は、受付の子に呼び止められて振り返った。
「何だい?」
「今、女の方がこれを」
と、小さな封筒を渡す。
「誰だい?」
「名前はおっしゃいませんでした。渡していただければ分ります、って」
「そう。――ありがとう」
と、近田は肯いた。
「きれいな方でしたよ。彼女ですか?」
と冷やかされて、近田は苦笑する。
「そうもててみたいもんだね」
席へ戻って、封筒の中身を出し、小さな手紙を開く。
近田の顔に、ふと複雑な表情が浮かんだ。
立ち上がると、受付を抜けてエレベーターホールへ。周囲に人のいないのを確かめてから、〈非常口〉のドアを開けた。
後ろ手にドアを閉めると、その音が非常階段に反響する。
「ここですわ」
と、頭上で声がした。
「――やあ、どうも」
近田は、階段を上がって、一つ上の踊り場で足を止めた。
「お仕事中、すみません」
と、久保雪子は言った。
「いや、しかし――何のご用です、こんな所で」
と、近田は少し落ちつかない様子で訊いた。「学校はいいんですか」
久保雪子は微笑《ほほえ》んだ。
「今は夏休みですわ」
「夏休み。――そうか、そうでしたね」
近田の表情がフッと和《なご》んだ。「夏休みか。そんなものがあったんだ」
「昔のことを思い出したんですか」
「まあね。――クラブの合宿で、無茶な飲み方をした。若いってのは、すばらしいことですな」
近田は階段の手すりに身をもたせかけると、「それで――何のご用です?」
「例のことです」
と、久保雪子は言った。「あなたが株で損をしたという話が、警察の耳に入ったようですよ」
近田の顔がサッとこわばった。
「本当ですか?」
「でも、心の準備をしておけば大丈夫。落ちついて下さい」
「それはまあ……。しかし――もし、ばれたら」
「証拠になりそうなものは処分してあるんでしょう?」
「そのつもりですが……。株屋の方へ捜査の手が伸びると、うまくないな」
「ええ。でも、そんな心配はないと思いますわ。何といっても、学校の方は被害があったことを認めていませんもの。警察の捜査は、あくまで戸部さんの殺人犯を見付けるためのものです」
「しかし、それこそ――。私に容疑でもかけられたら、とんでもないことになる」
「落ちついて」
久保雪子は、近田の方へ身を寄せると、そっと抱きついた。
「先生……」
「いや。『先生』なんて呼ばないで下さい。今は」
と、低く囁《ささや》く。
近田は、ほっそりした久保雪子の体をそっと抱いた。
「――あの殺人があったとき、あなたはお仕事の最中でしょ。何の心配もいりませんわ」
「そう……。それはそうだ。――全く、びくついてるんですね、そんなことも気が付かないなんて」
と、自嘲《じちよう》気味に笑う。
「あなたには、悪いことはできないんですわ」
「そうかもしれませんな」
と、近田は肩をすくめた。「せいぜい、先生とホテルへ行くぐらいかな」
「まあ」
と、久保雪子は笑って、「また誘って下さる?」
「もちろん。いつがいいですか」
「いつでも」
二人の視線が絡み合う。
「じゃ――今夜?」
「結構ですわ」
近田は、久保雪子の額に軽くキスした。
「楽しみだ」
「私も」
と言って、「――あら、下に誰か」
と、手すりから遥か下の方を覗《のぞ》き込んだ。
「え?――誰もいませんよ」
「でも、今、確かに……」
久保雪子は、スッと手すりから離れて、近田の背後に回った。
「どの辺です?」
と、近田は覗き込んで……。
「ずっと――ずっと下ですわ」
久保雪子は、両手で力一杯、近田の背中を押した。
近田は、声もたてずに落ちて行った。やがて、ズシンという響きが、非常階段の縦長の空間に反響した。
「長い長いお休みね」
と、久保雪子は言った。「どうぞごゆっくり……」
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9 血の結末
「近田が自殺、か」
と、TVを消して、亜由美は言った。
「これで一件落着?」
と、神田聡子はソファに寝そべって言った。
「そうはいかないわ。だって、近田が戸部を殺せやしないし、ピストルで君江ちゃんを狙ったりもしないでしょ」
「そうか。でも、横領してたのは間違いないんでしょ」
「でしょうね」
――株で大損した近田が、父母会のお金に手をつけていたことを、マスコミが大々的に報じていて、ついに学校側も隠しておけなくなった。
理事長名で、事情説明のパンフレットを作り、各父母へ送っていた。
当の川北も、父母会長としてTVの画面に出て、
「責任を感じます」
と、重苦しい表情で語っていた。
「責任を感じます、か」
と、聡子が言った。「いいよね、感じるだけで、何もしないんだもん」
「そりゃそうだけど、父母会のことで会社クビになったりしたら、可哀《かわい》そうでしょ」
「まあね」
「でも――お金使い込んだのは近田としても、戸部を殺したのは誰なんだろ」
「どうして殺したのか、ってこともあるよね」
と、聡子は言った。「でも、よく人殺しなんてできるわね。私なんか気持悪くて、とてもじゃないけど」
「夢中なんでしょ」
「いくら必死だって。――死体なんか見たら、こっちが失神しちゃう」
「聡子にゃ人は殺せないね」
と、亜由美は笑った。
「できなくて幸い。私はね、亜由美と違って、平和な一生を送るのよ」
「じゃ、何よ私は」
「殺人犯と恋に落ちたりしてさ、二人で逃亡者になる」
「それで?」
「最後は警官に囲まれて、射殺される。――どう? ドラマチックよ」
「痛いからやだ」
「情ないのねえ」
「死ぬなら一人で死んで、って言ってやる」
「冷たい奴《やつ》」
二人は笑って、
「――ああ、暑い」
と、ボーッとしていた。
「ね……。亜由美」
「うん?」
「何か……今日、予定なかった?」
「今日? さあ……。あったっけ」
「何かあったような気がしてんの、さっきから」
「ふーん。そう言われてみると……」
亜由美も、じっと天井を見上げながら、「何かあったっけ」
「ねえ」
「うん」
――しばし間があって、ドン・ファンが居間のドアの所で、
「ワン!」
と吠えた。
パッと二人とも起き上がり、
「大変だ!」
と、同時に叫んだ。
「君江ちゃんの結婚式[#「結婚式」に傍点]――」
「今日[#「今日」に傍点]だった!」
ワーッ!
二人は跳びはねるようにして、亜由美は二階へ、聡子は自宅へと――。
ドン・ファン一人、呆《あき》れたように居間のドアのわきにいて、「クゥーン」と鳴いたのだった……。
「や……」
「どうも……」
亜由美と聡子は、式場の受付で顔を合せると、言葉少なに挨拶《あいさつ》を交わした。
二人は、「人間、本気になればできないことはない」という事実を証明してみせたのである。
結婚式が今日であることに気付いてから、式の時間まで四十五分。
その間に、きちんと服を選び、お化粧をして、身仕度を整え、ここへやって来るという離れ業をやってのけたのだから……。
しかし、さすがに受付で記帳をすませたときには、二人とも息切れがして、立っているのもやっと、という具合であった。
「や、お二人ともすてきですな」
殿永が、モーニング姿でやって来る。
「ご苦労様」
と、何とか亜由美は笑顔を作り、「あの――君江ちゃんは?」
「この先の控室です。お宅のお母さんがすっかり面倒をみられて」
「そうでしょうね……」
自分の娘のことなんかきれいさっぱり忘れて! 出てくときに、娘に声ぐらいかけりゃいいでしょうが!
あんまり人に文句を言える立場でもないので、亜由美は聡子とドン・ファンを引き連れて、花嫁の控室へと急いだ。
「――あ、亜由美さん」
と、中へ入ると、君江が椅子《いす》から立ち上がった。
「今日まで本当にありがとうございました」
亜由美と聡子……。それにドン・ファンも(?)。
しばし、立ち尽くして、眺めていた。ウェディングドレスの君江を。
若いから、というわけではない。内から光り輝くような美しさが、白いドレスをまぶしいほどに見せていた。
「――おめでとう」
と、亜由美は言って、歩み寄ると、君江の肩にそっと手を置いた。「きれいよ。本当にきれい」
「ありがとう」
君江は頬《ほお》を赤く染めた。「私――両親を亡くしてから、あの叔父さんのうちにいる間に、大人ってものを信用できなくなってたんです。でも――亜由美さんたちに出会って、世の中にはこんな人もいるんだ、って……。安心して、すべてを任せられる人が。――ありがとうございます。本当に……人を信じられるってすばらしい……」
君江の目から、大粒の涙がポロッと落ちた。
「ほらほら……。泣いちゃいけないわ。花嫁さんでしょ。しっかりして……」
「亜由美。あんたの方がよっぽど泣いてる」
「うるさいわね」
と、聡子をにらんで、「娘を嫁にやる気分なのよ」
「娘? せめて妹ぐらいにしときなよ」
「そうか。――娘じゃ、あんまりだね」
「そうだよ」
二人は笑った。泣き笑いにしかならなかったが、笑ったのである。
「――あら、来てたの」
と、母の清美が入って来る。「どう? すてきでしょ」
「私のときも頼むわよ」
「相手を見付けてから言いなさい」
こんな所でやり合っている。
すると――。ドアがそっと開いて、
「ごめんなさい」
と、顔を覗《のぞ》かせたのは、戸部朱美だった。
「あ、叔母さん」
「君江ちゃん。――まあ、きれいになって」
と、朱美は目を見はって、「おめでとう。良かったわね」
「ありがとう……。叔母さん、式には出てくれないんですか」
「主人を亡くしたばかりだしね。――ね、あの人のこと、許してやって。色々あったけど……」
「はい」
と、君江は肯《うなず》いて、「もう――何とも」
「そう言ってもらえて嬉《うれ》しいわ」
朱美は微笑《ほほえ》んで、「じゃあ……。ウェディング姿を見たから、もう満足。それじゃ塚川さん、よろしく」
「はい」
亜由美は一礼して――何か[#「何か」に傍点]引っかかった。
「どうかした?」
「聡子……。あんた、さっき、何か言ったよね」
と、小声で言う。
「私が――何を言ったの?」
「うん……。人殺しは気持悪いとか」
「ああ。言ったわね」
「気持悪くて……見たくもない、か」
「それがどうかした?」
「何か……引っかかってるの。何だろ?」
「知るか」
と、聡子はため息をつくと、「ね、急いで出て来たら、お腹空いちゃった。まだ少しあるでしょ。何か食べてこようか」
「食べる? こんなときに?」
と言ったとたん、亜由美のお腹もグーッと鳴った。「食べるか、やっぱり……」
――二人は、式場のラウンジへ行って、サンドイッチをパクついた。
「ね、あれ、久保先生じゃない」
と、聡子が指さす。
「本当だ」
久保雪子は当然式に招待されている。
しかし、亜由美は何となくスッキリしていない。彼女が近田に接近していたところを見ていたからだ。
「あの人も何かやってると思うんだけどね」
と、亜由美は首を振った。
「でも、何かっていっても――」
「そうね」
戸部の死体が、学校のバッジを握っていたこと。亜由美はそれを自分で取ってしまって、殿永にも話していない。
久保雪子なら、学校のバッジを一つ手に入れるくらい、簡単なことだろう。
もちろん、それだけでは、久保雪子とあの殺人を結びつけることはできないが。
「――やあ、こちらでしたか」
と、殿永が汗を拭《ふ》き拭きやって来た。
「殿永さん。仲人さん、大変?」
「ま、緊張しますな。しかし、凶悪犯と対決するよりはいい」
と、笑う。
「さっき、戸部朱美さんが」
「見かけませんでしたがね。そうですか。まあ、未亡人だ。これからどうなるのか――」
「殿永さん!」
亜由美が突然、突拍子もない声を上げた。
「何よ、亜由美、突然?」
「今――分った」
「何が?」
「犯人。戸部公一を殺した」
「何ですって?」
「私――」
亜由美は立ち上がって、「何だか――君江ちゃんが心配! ドン・ファン、おいで!」
と言うなり、駆け出していた。
聡子と殿永もあわてて後を追う。
亜由美は控室の手前で、危うく母とぶつかりそうになった。
「お母さん!」
「何よ、びっくりした。――どうしたの、あわてて。駆け落ちでもするの?」
「君江ちゃん、一人?」
「ええ。でも、それがどうかした?」
と、清美が言ったとき、
「ワン!」
と一声、ドン・ファンが、通りかかった制服の従業員に飛びかかった。
「キャッ!」
と、その女性がよろける。
ヘアピースが飛んで落ちた。
「――朱美さん」
と、亜由美は言った。「君江ちゃんをどうするつもりなんです」
戸部朱美は青ざめて亜由美を見つめていたが、パッと駆け出して、客たちの間を抜けて行く。
「亜由美――」
「君江ちゃんのことよ、まず!」
控室へ入ると、君江は一人で手持ちぶさたにしていた。
「良かった!――無事だったのね」
「亜由美さん……。どうしたんですか?」
と、君江が目を丸くした。
「――今、手配しました」
と、殿永が入って来る。
「そうですか。早く気が付いて良かった」
「しかし、どうしてあの女が犯人だと?」
「戸部の死体を見付けたときのこと、憶えてます? 朱美が来て玄関を開け、中へ入ったでしょ。中は暗くて、朱美は私たちに居間に入ってくれと言って、自分は奥の部屋へ行った」
「そうでしたね」
「普通、お客が一緒に上がって、居間の明りが点いてなかったら、少なくとも明りだけは点けてから、中へ入れと言いますよ。客に明りを点けさせるなんてこと、しません」
「なるほど」
「聡子が、人を殺すなんて気持悪い、と言ったので、ピンときたんです。朱美も、夫がそこで死んでることが分ってたから、見たくなかったんです。だから、明りを点ける度胸がなかった」
「なるほど。――いや、それは気付かなかった」
「でも……どうして叔母さん、叔父さんを殺したりしたんだろ?」
と、君江が言ったとき、
「キャーッ!」
と悲鳴が廊下で上がった。
殿永や亜由美たちが飛び出してみると、廊下の奥、ソファの一つで、朱美がぐったりと倒れていた。
一人ではなかった。朱美の喉《のど》は刃物で切り裂かれ、血がカーペットを染めていたが、血のついたナイフを手に立っているのは、久保雪子だったのである。
「――お手数をかけて」
と、殿永を見て言うと、「この人は気の弱い人です。こうしてあげる方が、本人のためだったんです」
「久保先生――」
「私は、この人と愛し合っていたんです」
と、久保雪子は朱美の上にかがみ込んで、「男なんて――大嫌いだった!」
「いけません!」
と、殿永が叫んだときは、遅かった。
ナイフは久保雪子自身の胸を刺し貫いていたのだ……。
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エピローグ
「すてきだったね」
と、亜由美は言った。
「うん。やっぱり結婚したくなった」
と、聡子が言って……。
で、結局、二人ともまた亜由美の部屋で寝そべっているのである。
タキシードの三沢、ウェディングドレスの君江。――それは誠に印象的な光景だった。
あの出来事も、その光景の前には、忘れられてしまったのだった。
「――亜由美、殿永さんよ」
と、母が顔を出し、「あの子がいないと寂しいわね」
「いやみばっかし言って」
と、亜由美は口をへの字にして言った。
――居間で、殿永が汗を拭《ふ》いている。
「や、どうも」
「何か分ったんですか」
「久保雪子が、近田の使い込みを知って、さらに自分も金がほしかったために、川北と組んで企んだんです。まず戸部に、それから近田に、使い込みの罪をかぶせて、実際のところを分らないようにした。その内、川北も消されるところだったんでしょう」
「じゃ、朱美とはずっと――」
「朱美が夫に興味を失って、久保雪子に近付いたんでしょうね。夫にも保険はかかっていたわけです」
「じゃ、君江ちゃんの保険は?」
「朱美がすすめたんですよ。戸部は気の小さい男で、私が刑事と知って、もし自分が君江を殺そうとしてると思われたら、と怖くなったようです」
と、殿永は言った。「久保雪子と朱美は、あの写真をばらまいたりして、戸部に疑いがかかるようにしておいたんです。で、戸部を殺す。その上で、君江が自殺でもすれば……」
「見せかけて殺すことも?」
「久保雪子が依頼したヤクザを逮捕しました。近田も、久保雪子に突き落とされたんですよ」
「凄《すご》い女ね」
と、聡子が目を丸くした。
「久保雪子の日記に、全て書かれています。――自分でも破滅型の人間と分っていたんでしょう」
「哀れね」
と、亜由美は言った。「プラスの方向へ生きられなかったのかしら」
「マイナスにしか生きられない人間もいるのかもしれません」
と、殿永は言って、「しかし、お二人は間違いなくプラスですよ!」
「変なこと、保証しないで下さい」
と言って、亜由美は殿永をにらみ、それから笑い出してしまった。
「ワン!」
と、ドン・ファンもそれに同調したのだった……。
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霧の夜の花嫁
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プロローグ
「チーフ」
と、矢川が声をかけると、有田裕子はゆっくりと顔を上げた。
「あ、いつ来たの? 気が付かなかった」
と、有田裕子は分厚い手帳をパタッと閉じて、
「何か飲む? ちょっと!」
と、手を上げてウェイターを呼ぶ。
もちろん、一流ホテルのバーである。呼ばなくたって、待っていればちゃんと来てくれるだろうが、それを待ち切れないところが〈チーフ〉たるゆえん。
矢川克二は、つい微笑《ほほえ》んでいた。
「今夜は霧がひどそうね」
と、有田裕子は言った。
「そうですね。車だからな。帰るときには晴れててくれるといいんだけど」
矢川は、アルコールをとるわけにいかないので、ジンジャーエールを注文した。
「霧か……」
と、有田裕子は考え込んで、「都会は霧に弱いわよね」
「まあ、めったに出ませんからね、濃い霧は」
「でも、出たときは危いし、そのための備えが必要かも。車はともかく、横断歩道を渡る歩行者には何か霧の中でも見えるような明りとか」
少し考えて、「――ま、とても利益は出そうにないわね」
矢川はちょっと笑った。
どんなことでも、新製品のアイデアに結びつけてしまうのが、有田裕子らしいところなのである。
矢川克二は〈T商事〉の新製品開発室にいる。二十八歳。商事会社といっても、今は物を売るだけではない。もっと積極的にアイデアを出して、
「こういうものを作っては」
と、メーカーへ提案したりする。
現に、そうして大ヒットした商品は少なくなかった。
その開発室のチーフをしているのが、この有田裕子である。チーフといっても、若いセンスを必要とされる職場でもあり、三十二歳の若さ。
しかし、有田裕子の優秀さは社内でも認められているところで、どこからもやっかむ声など聞こえて来ない。
加えて、スタイルも抜群の美女となれば、周囲は諦《あきら》めるしかないではないか。
「で、何なの、話って」
と、裕子は自分のカクテルを飲んで言った。
「ええ、実は……」
と、矢川は照れて、「もう少し待って下さい。もう来ると思うので」
「来る? 誰が来るの?」
「ええ。――あ、来た」
ホッとして手を振る。
「あら、叶さんじゃない」
同じ開発室で事務をやっている叶有紀子が足早にやって来て、
「チーフ、今晩は」
と頭を下げた。
叶有紀子は二十五歳。入社して三年、この一年ほど開発室に来ている。
「座れよ。――何か飲む?」
と、矢川が訊《き》く。
「うん。じゃ……シェリー」
と、叶有紀子は注文した。
小柄で、童顔のせいもあって、叶有紀子は女子大生みたいに見える。服装もカジュアルなものが多いので、いつもパリッと「キャリアウーマン風」に決めている有田裕子とは対照的である。
「二人で私に? 何の用かしら」
と、裕子は言った。
「はあ、実は――」
と、矢川が咳《せき》払いして、「初めにまずチーフのお耳に入れようと思いまして」
「――何を?」
「ええ……。その――僕たち、結婚することにしたんです」
矢川の言葉に、叶有紀子が顔を赤らめてうつむく。二人とも、有田裕子の顔を見ていなかったのである。
見ていたら、一瞬、その顔に烈《はげ》しい驚愕《きようがく》が走るのに気付いただろう。しかし、それはアッという間に消えて、
「――そう! おめでとう」
と、満面に笑みを浮かべたのである。「全然気が付かなかった」
「そうですか? 仕事の場に持ち込まないようにはしていたんですけど」
と、矢川が言った。
「その成果の程は怪しいわよ。ともかく私はその方面にはまるでうといんだから」
と、裕子が笑う。
そう。――これほどの美人なのに、裕子には、全く恋の噂《うわさ》一つ立たない。
男嫌い、などとも言われたが、当人は一向に屈託なく、男とも女とも付合う。
どことなく、不思議な存在ではあった。
「ともかく――おめでとう」
と、裕子は言って、「――悪いけど、私、ちょっと行かなきゃいけない所があるの」
「あ、仕事ですか。すみません」
「そうじゃないの。プライベートよ」
と、裕子は笑って、「お二人に刺激されたかな?」
「チーフ」
と、叶有紀子が言った。「いつも、チーフに憧《あこが》れていました、チーフのような女性になりたいって。でも、とても無理だと分ったんです。この人に――頼りながら、生きて行きます」
裕子は、ちょっと微笑《ほほえ》んで、
「いいお手本にはなれないわ、私は」
と言った。「じゃあ……。これで」
裕子は手を差し出した。矢川がその手を握ると、裕子もぐいと握り返して来た。
ほんの少し、裕子は長く矢川の手を握っていたようだった――。
「じゃ、お二人でごゆっくり」
「おやすみなさい、チーフ」
「失礼します」
矢川と叶有紀子は、ホッと息をついた。
「チーフ、喜んでくれて良かったわ」
「うん。『結婚なんて、何を考えてるの、この忙しいときに!』ってやられるかと思った」
「優しい人なのよ」
「そうだな」
と、肯《うなず》いて、「もし結婚してたら、仲人を頼むんだけど」
二人は、バーを出るときに、有田裕子がみんなの分を払って行ったと知って、いかにもチーフらしい、と話し合ったのだった……。
その翌日、矢川は自宅近くの取引先に直接行くことになっていたので、ゆっくりと起きた。
朝、九時。――仕度をして、出かけようとしていると、電話が鳴り出した。
「はい、矢川。――何だ、君か。どうした?――もしもし? 泣いてるのか?」
叶有紀子からだった。
「聞いて……。チーフが……チーフが……」
「チーフが? どうしたんだ」
「亡くなったのよ」
矢川は絶句した。
「そんな……。ゆうべあんなに……」
と言いかけ、「事故か」
「そうじゃないの。――朝、マンションの隣の部屋の人が……チーフの部屋のドアが開いてるので、おかしいと思って入って行くと……。あのね、チーフは……自殺してたの。首を吊《つ》って。――聞いてる? チーフは自殺したのよ……」
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1 都会の迷子
「もう!」
「ワン」
といっても、牛と犬ではない。
「ワン」の方は犬だが、「もう」の方はれっきとした人間である。
「冗談じゃないよね」
とグチったのは、おなじみの女子大生、塚川亜由美。
元気と無鉄砲がとりえ[#「とりえ」に傍点]の現代っ子。そうなればもう一人は――。
「本当! 東京の山の手で遭難するなんて、カッコ悪いよ」
と肯いたのは、亜由美の親友、神田聡子である。
「ワン」
と、やはり肯いた(かどうか知らないが)のは、亜由美の飼犬で、人間並みのプライドを持ち合せているダックスフント、ドン・ファンである。
「どこをどう歩いてるんだか、まるで分んない」
と、亜由美はお手上げという状態で足を止めた。
「地図はあっても、何も[#「何も」に傍点]見えないんじゃね」
――ここは山の手の住宅地。なかなか立派な家が並んでいて、もちろん人が大勢住んでいるから、本当に遭難することはないとしても、地図を頼りに人の家を訪ねて行くのは大変だった。
霧が――東京では珍しい濃霧が、スッポリとこの三人[#「三人」に傍点]を包んでしまって、今どの道をどう歩いているのやら、全く分らなくなったのである。
秋の夜長、と洒落《しやれ》ているわけにはいかない。何しろ亜由美たちは、さっきからもう一時間近くもこの辺をうろついているのである。
「くたびれた」
と、真先に音を上げたのは聡子、「もう一歩も歩けないよ!」
「じゃ、立ってれば?」
と、亜由美は冷たい。「天は自ら助くる者を助く」
「あのね、案内してくれるはずだったのは、亜由美でしょ」
「私だって、来たことないんだって言ったでしょ!」
「でも、道は分るわ、と言ったじゃない」
「こんな霧さえ出なきゃ――」
「怪しいもんね」
「何よ、その言い方!」
「クゥーン……」
まあまあ、という感じでドン・ファンも気をつかって割って入る。
「元の場所へ戻るったって、元の場所がどこなのか、皆目見当がつかないからね」
確か説明では、バス停から五分。それが一時間になったら、どこかとんでもない方へ歩いているとしか思えない。
「――どうする?」
と足を止めて、聡子が訊く。
「山道で迷ったときには、動かないのが一番。その内、救助隊が助けに来てくれる」
「こんな所に救助隊が来るの?」
「来るわけないでしょ」
実りのない対話を続けていると――。
「ワン!」
ドン・ファンが急に吠《ほ》えた。めったなことでは吠えたりしない犬なのである。
「どうしたの、ドン・ファン?」
と、亜由美が声をかけると、ドン・ファンはじっと正面の霧の方へと目を向けて、ウー……と低く唸《うな》っている。
「――亜由美。誰かいる」
と、聡子の声は震えていた。「何か――出て来るんじゃない? 殺人鬼ジェイソンか何かが」
「今日、〈13日の金曜日〉だっけ?」
「違うけど……」
少し風が出て、亜由美たちの目の前の霧が薄れた。吹き払われて霧が切れた、その夜の暗がりの中に……。
「あれ……」
と、聡子が唖然《あぜん》として、「亜由美、見えてる?」
「うん……。聡子も?」
「見える」
そこにはウェディングドレスを着た女性が後ろ姿を見せて立っていたのである。
見間違いではない。長く地面にまで届く白いヴェールも、手にしたブーケも、はっきりと目に入った。
「どうしてこんな所に?」
「知らないわ。聡子、訊《き》いて来る?」
「やめとくわ」
――その女性は、二人の話し声が耳に入ったとでもいうように、ゆっくりと振り向いた。亜由美は、半ばヴェールに隠れてはいるが、うつむき加減に目を伏せた横顔を、一瞬チラッと見たような気がした。
が、そこへ再び白い霧が広がって来て、そのウェディングドレス姿の女性と亜由美たちの間を隔ててしまったのである。
ウー……とドン・ファンはまだ低く唸《うな》り続けている。
「亜由美……。何だったの、あれ?」
「分らないわよ」
しかし、二人とも、この霧の中をさまよい歩く意欲を全く失っている点では共通していた。
「先方へ電話しよう」
と、亜由美は言った。「この、目の前の家にちょっと頼んでみて。電話、貸して下さいって」
「うん」
二人は、一番近い家の玄関へと歩いて行くと、チャイムを鳴らした。
ややあって、女性の声がした。そして亜由美の話を聞くと、快く中へどうぞ、と言ってくれたのである。
「――うん、分った。じゃ、よろしく」
亜由美は電話を切って、「場所、分ったみたい。霧が少し晴れたら車で迎えに来てくれるって」
「助かった」
と、聡子は胸に手を当てた。
「ワン」
ドン・ファンもホッとしている様子。
「――大変でしたね」
と、この家の主婦――といっても、ずいぶん若い――が、紅茶を出してくれる。「こんなひどい霧は珍しいんですよ。高台なので、時々霧が出ることはありますけれど」
「ご迷惑かけてすみません」
と、亜由美は頭を下げた。「お構いなく、どうか」
「ええ、気にしないで下さい。どうせ主人が戻るまでは一人ですし」
と、その奥さんは言って、「私、矢川有紀子といいます」
「塚川亜由美です。これは友だちの神田聡子と、ドン・ファンです」
「すてきな犬ね。うちも、落ちついたら犬でもほしいと思ってるんですけど」
矢川有紀子は、ソファに腰をおろすと、「大学生? お若いわ」
「恐れ入ります。でも、矢川さんも……」
「もう二十五です」
と、有紀子は微笑《ほほえ》んで、「見た目が若いんで、映画は学生で入れますけど」
二十五! でも、やっぱり若い、と亜由美は思った。
「失礼ですけど……ご新婚ですか」
と、亜由美が訊くと、有紀子は少し頬《ほお》を染めて、
「そうですね……。まだ三か月ですから」
「わあ、ホヤホヤだ」
と聡子が声を上げ、笑いが起こった。
「もうじき主人も帰って来ると思いますけど」
と、有紀子は言った。
「そういえば――。ねえ、亜由美、さっきのは何だったんだろうね」
「え? ああ。――そうね」
と、亜由美は首をかしげて、「さっき、この家の前で、ウェディングドレス姿の女性を見たんです。何だったのか、よく分らないんですけど」
矢川有紀子は、ちょっとの間よく分らないという表情で、
「――この家の前で?」
「ええ。妙な話でしょ? 私たちも、幻覚か何かかしら、と思ったんです。でも、あんなにはっきり見えるなんて――。ね、聡子」
「そうです、どう見てもウェディングドレスで……」
有紀子は、
「どんな女の人でした?」
と訊いた。
「後ろ姿だったんです。こっちに背中を向けて。でも、ゆっくり振り向きかけたので、チラッと横顔だけは見えましたけど。でも、そのとたん、霧に包まれてしまったんです」
「ウェディングドレス……」
有紀子がやや青ざめて、「見当もつきませんわ。そんな格好で夜、歩き回る人なんかいるでしょうか」
「そう言われると、確かにそうなんですけど――。ね、聡子」
「うん。あれは間違いなくウェディングドレスだった」
矢川有紀子が立ち上がると、
「もう――主人も帰ると思いますので、ちょっと食事の仕度をしないと」
と、早口に言った。「どうぞ、座ってらして下さい。お気になさらずに」
「すみません、お邪魔して。じきに友人が迎えに来ると思いますから」
「ええ。どうぞゆっくりなさっていて――」
と、台所の方へ行きかけた有紀子が、突然フラッとよろけた。
「危い!」
と、亜由美はあわてて立ち上がったが、間に合わなかった。
矢川有紀子は、その場に崩れるように倒れてしまったのだ。
「大丈夫ですか! しっかりして!」
亜由美は駆け寄ると、有紀子の体を抱え起こした。「――奥さん。どうしたんですか? 聞こえますか?」
亜由美が呼びかけても、有紀子は気絶している様子で、全く反応がない。
「――困ったね、どうする?」
聡子が呆然《ぼうぜん》としている。
「一一九番して。救急車を呼びましょ」
「ええ? そんなことして――」
「他に手がないでしょ。気を失ってるのよ。何が原因か分らないけど」
「分った。じゃ、救急車を――。でも、ここの住所は?」
「知らないわよ」
「じゃ、どうやって通報するのよ」
「この人に訊く?」
どっちもあわてているのである。
すると――有紀子が口を開いた。うなされてでもいるのか、少し苦しげに唇を開けて、目は閉じたまま言葉が洩《も》れた。
「チーフ……」
「え?」
「チーフ……。すみません……」
と、有紀子は呻《うめ》くように言った。「許して下さい……」
聡子が亜由美を見て、
「何かしら?」
「さあ」
と、亜由美が首を振る。
すると――。
「どうしたんだ?」
と、男の声がして、亜由美たちはびっくりして振り向いた。
今帰って来たらしい男が、倒れている有紀子を見て、手から鞄《かばん》を落とした。そして、
「有紀子!――有紀子!」
と叫んで駆け寄ると、有紀子をしっかりと抱きしめたのである……。
「――びっくりされたでしょう」
と、矢川克二は言った。「ご迷惑をかけました」
「いいえ」
と、亜由美は首を振った。「こっちこそ、何だか妙な話をして、奥さんに不安な思いを……」
「いや、そうじゃないのです」
と、矢川は言った。
――矢川克二が帰宅して、もう一時間ほどたっている。
有紀子は、じきに意識を取り戻し、顔色も戻って、結局救急車のお世話にはならずにすんだ。今は寝室で休んでいる。
「もう霧も大分晴れたみたい」
と、表の様子を見に行った聡子が戻って来て言った。
「じゃ、じきに迎えが来ると思います。ずいぶんお邪魔してしまって」
と、亜由美は言ったが――。
そこは塚川亜由美である。好奇心に火がつくと、そう簡単には引きさがれない。
「もし、よろしかったら、伺ってもいいでしょうか」
と、亜由美は言った。「奥さん、気を失われるとき、うわごとのようにおっしゃったんです。『チーフ。すみません』って。どういうことか、お分りになりますか?」
矢川の顔に暗いかげが落ちた。
「あ、立ち入ったことをお訊きしているのは分っています。無理に、というわけじゃないんですが」
「いや、実は僕らの結婚は予定より半年ほど遅れたんですよ」
と、矢川は言った。
矢川から、有田裕子という魅力的な「チーフ」のことを聞いて、亜由美は、
「そのチーフが自殺なさったというのは……」
「全く、誰も予期しないことでした」
と、矢川は言った。「自殺そのものも驚きでした。あんなに毎日を楽しそうにして、仕事に打ち込んでいたのに」
「そうですか」
「結局……日記帳が見付かって」
「その――有田裕子さんの日記帳?」
「ええ。毎日簡潔ではありますが、日記をつけてあったんです」
と、矢川は言った。「そこにチーフ――いや、有田さんが……」
矢川は言葉を切った。いや、言葉の方が突然に喉《のど》にはりついてしまった、とでもいう様子だ。
「つまり……」
と、気を取り直して、「有田さんは好きだったんです。僕のことが」
「じゃあ……」
「そんな気配は全く見せなかった。こっちも、〈チーフ〉として敬愛してはいましたが、女性として見ていたわけじゃなかったのです」
「有田さんは本気であなたに恋してたわけですね。それであなたが結婚すると知って――」
「そういうことです」
と、矢川は肯《うなず》く。「ショックだったんでしょう。でも、こっちにとってもショックでした。有紀子もチーフを尊敬していました。自分のせいでチーフが自殺した、となると……。一時は結婚をやめるとさえ言い出したんです」
「辛《つら》いですね。お気持はよく分ります」
「でも、何とか説得して、こうして新婚生活を始めたんですが……。まだ心の中ではふっ切れていないはずです。それが、あなた方のお話で――」
「あなた」
ハッとして、亜由美たちは振り向いた。
有紀子がいつの間にか、居間の戸口に立っていたのである。
「有紀子……」
「奥さん、すみません」
と、亜由美は急いで言った。「私がご主人に無理を言ってしまったんです」
「いいえ」
有紀子は入って来ると、微笑んで夫の肩に手をかけた。「もう大丈夫。――ごめんなさいね、あなた」
「いや、君の気持は……」
「しっかりしなきゃ。あなたのためにも。もう一人[#「もう一人」に傍点]のためにも」
「もう一人?」
「私、赤ちゃんができたの」
と、有紀子が言った。「今日、昼間病院へ行ってたのよ」
「おい……」
矢川が、しっかりと有紀子の腰を抱く。
亜由美たちは、ちょうど友人が迎えに来て、幸か不幸か(?)これ以上、夫婦の邪魔をしないですんだのである。
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2 ウェディングドレス
でも――結局、あれは何だったんだろう?
亜由美は、あの霧の中に立っていたウェディングドレス姿の女のことを思い出して、考え込むのだった。
もちろん、矢川と叶有紀子の結婚を恨んで有田裕子が化けて出たとか……。週刊誌かワイドショーネタには面白いかもしれないが、とてもまともに信じる気にはなれない。
しかし、あれが何か普通の格好をした人で、霧のせいでウェディングドレスに見えた、という説明が仮に一番現実的だとしても、亜由美は自分の目を信じている。
あれは錯覚ではない。幻でもない。――そう亜由美は信じていた。
「――塚川君」
何よ、うるさいわね。
そう思った――だけのつもり[#「つもり」に傍点]だった。
ところが、亜由美は現実に口に出して言っていたのだ。
ドッと笑いが起きて、ハッと我に返る。
いけね! 授業中だ!
居眠りしながら、あれこれ考えていたのだ(可能だとすればである)。
「塚川君」
「は、はい!」
と、あわてて立ち上がる。
「君は、ちゃんと要所要所で居眠りができる。凄《すご》い特技だ」
「すみません」
と、さすがに小さくなっている。
「後で僕の研究室へ来なさい」
「はい……」
亜由美は頭をかいた。
――今の授業をしている谷山隆一は、亜由美がこの大学の中で評価している数少ない男性の一人である。
谷山隆一は三十歳で助教授。――独身!
しかも、なかなかハンサムである。
その谷山の時間に居眠り!
「ツイてないな」
昼食を食べて、亜由美は気が重かったものの、お昼休みが終ってしまっても気の毒なので、いつものコーヒーを我慢して、谷山の部屋へと向った。
「亜由美」
と、途中で神田聡子が声をかけてくる。
「聡子か」
「何よ、不景気な顔して」
「どうせ不景気な顔ですよ」
「何すねてんの。――聞いたわよ。谷山の授業で眠ってたんだって? やるじゃないのさ」
「知ってりゃ言うな」
と、顔をしかめる。「これから叱《しか》られに行くんだから」
「じゃ、泣いて胸にすがりつけば? 結構向うもその気かもよ」
「人をからかって喜ぶなんて、趣味悪いよ」
と、亜由美は言い返してやった。
「じゃ、まあ頑張って」
聡子はポンと亜由美の肩を叩《たた》いて、「そうだ。ねえ、例のこと、何か分った?」
「あの花嫁のこと? 何も」
と、肩をすくめる。「今はそれどころじゃないの」
――聡子と別れて、谷山助教授の研究室へ。
ドアをノックすると、
「――どうぞ」
と返事があった。
恐る恐る中へ入り、
「塚川です。さっきはすみませんでした」
叱られる前に謝っちゃえ、というわけである。しかし、谷山は意外に楽しげに笑って、
「まあかけたまえ」
と、ソファをすすめた。「コーヒー、好きかい? 僕はこれがないと話ができないんでね」
「あ……。好きです」
「じゃあ一杯いれよう」
本に埋もれた部屋は、意外にスッキリした印象だった。たぶん、谷山が几帳面な性格なのだろう。
ネクタイをきちんとしめて、茶のカーディガン。なかなか垢《あか》抜けしたスタイルをしている。こういう格好をして、老《ふ》けて見えないというのは、珍しいことだ。
亜由美は、谷山にコーヒーを出してもらって恐縮した。
「何だか、叱られに来て、コーヒーなんかいただいちゃって申しわけないみたい」
と言うと、谷山は自分もコーヒーを飲みながら、
「叱るのはこれからだ」
と、ジロッと亜由美をにらむ。
「はい!」
と首をすくめると、谷山は笑い出した。
「いや、君の武勇伝は色々聞いてるよ」
「はあ」
「大いに頼もしいね。僕はまだ若い。色々危険なこともあるかもしれない」
「は?」
「独り者だしね。女子学生に狙《ねら》われることだって――。笑うなよ」
「笑ってません」
「僕なんかに興味を持つ物好きもいるかもしれない。そのとき、君がそばにいてくれると、心強い」
亜由美は面食らって、
「私が先生のボディガードをやるんですか?」
「いやかい?」
「というか……。よく分りませんけど」
「そうか。じゃ、はっきり言おう。君にデートを申し込んでるんだ」
亜由美は唖然《あぜん》とした。
「デ……」
「デート。――分るだろ、意味ぐらいは」
「分りますけど……」
「ああ、いや、心配しないでくれ。今日のことで成績を悪くしない代りに付合えとか、そんなことを言ってるんじゃない。これは全く教師と学生の立場を離れて言ってるんだ。つまり、男と女。――自然の法則だよ」
「はあ」
「今週の週末、夕食でもどうだい?」
頼んでいる谷山の方が赤くなったりしていて、亜由美もやっとこれが冗談ではないということを知った。
「あの……」
と、亜由美は口を開いた。
「まあ、先生からデートの申し込み?」
と、母親の清美が手を打って、「すてきじゃないの。これでちゃんと卒業できるかもしれないわ」
「ちょっと、お母さん」
と、亜由美は夕ご飯を食べながら、「そんなことしなくたって、私、落第してないじゃないの」
「でも、危いもんよ。何しろ留置場にまで入ってるんだから、あんたは」
「あれは間違い!」
「――それで、お前は何と返事をしたのだ?」
と、父親が訊く。
「え? ああ……。『何食べさせてくれますか?』って訊いちゃった」
父はため息をついて、
「お前にはロマンというものがないのか」
「だって――。つい口から出ちゃったんだもん」
「それで、先生は何て?」
と、母が身を乗り出す。
「何でも君の好きなものでいいよ、って」
「まあ、良くできた人ね! 私なら二度と顔を見たくないと思うでしょうけど」
「お母さん! 自分の娘にその言い方ってある?」
「ワン」
と、ドン・ファンが笑って[#「笑って」に傍点]いる。
色々言っても、亜由美、この土曜日に谷山とデートすることになってしまった。そして亜由美も決して悪い気はしていなかったのである。
問題は――聡子に話すべきかどうかで……。
「教師と教え子か! 禁断の愛。――それもまた愛の試練の一つかもしれん」
問題はもう一つあった。少女アニメに夢中の父親である……。
「――遅くなったな」
と、矢川克二は言った。
「でも、急がないで」
と、有紀子は夫の顔を見て、「事故はいやよ」
「分ってる。心配するな」
と、矢川は肯いて見せた。
矢川の運転する車は、郊外の林の中の道を走っていた。親類の所を訪ねて、帰りが思いのほか遅くなったのである。
「――疲れたろ? 眠ってていいよ」
「大丈夫。帰ってからゆっくり眠るわ」
有紀子は、助手席でじっと前方を見つめながら、
「――ね、あなた」
「何だい?」
「新製品開発室の新しい室長、決ったの?」
矢川はチラッと妻の方へ目をやって、
「いや」
と首を振る。「まだ決ってないよ」
「でも……」
と、有紀子が言いかけてためらう。
矢川は、ちょっと笑って、
「誰かから聞いたな?」
「そうよ。ゆかりさんから」
「石田君? おしゃべりな奴《やつ》だ」
「あら。ゆかりさんを叱らないでね。あの人は好意で知らせてくれたんだから」
「分ってるとも」
「でも――本当なんでしょ?」
「うん。来週、正式に発令になる」
「おめでとう」
有紀子は夫の方へ体を向けて、その頬《ほお》にチュッとキスした。
「おい、手もとが狂うよ」
と、矢川は笑った。
そして、ふと真顔になると、
「前から言われてはいたんだ。けれども、チーフのことを考えると……」
「ええ。――分るわ」
「しかし、いつまでも、チーフなしってわけにいかない。そうだろ?」
「あなたが一番適任よ」
「それは分らないけど……。ともかく、引き受けた以上、やるしかない」
「できるわよ」
有紀子の手が、夫の膝《ひざ》に置かれた。
少しの間、二人は黙っていた。
「あれ……何だったのかしら」
と、有紀子が言った。
「何のことだい?」
「この間の女子大生さんたちが見たっていう――ウェディングドレスの……」
「よせ」
と、矢川は遮《さえぎ》って、「何かの見間違いさ。そうに決ってる」
「そうね……。でも――」
「もう忘れて。――いいかい、変な心配をすると、お腹の赤ちゃんが機嫌悪くするぞ」
有紀子はちょっと笑って、
「そうね」
と、座り直した。「気にしないようにすればいいのね」
突然――。急ブレーキ。
車はタイヤを激しくきしませて、横滑りしながらも、何とか木立にぶつからずにすんだ。
エンジン音が止まり、静かになった。
二人の息づかいだけが聞こえる。
「――あなた」
「すまん」
矢川は汗びっしょりになっていた。一瞬の間のことだ。
「大丈夫か」
「ええ……」
「すまん」
と、もう一度言って、「今、目の前に――。いや、幻覚だと思う。酔ってるわけでもないのに……」
「私も見たわ」
と、有紀子が言った。
「え?」
「見たわ。――ウェディングドレス姿の女の人を」
矢川は、じっと妻を見つめて、
「君も……見たのか」
と言った。「じゃあ、幻ではなかったんだな」
「そうね」
「じゃ、本当に誰かが?」
矢川は、「待ってろ」
と言って車を出た。
「あなた! 気を付けて」
「大丈夫。分ってるよ」
と、矢川は言って、車がたった今駆け抜けて来た辺りへと足を向けた。
確かにあれはウェディングドレスだった。そしてそれを着て立っている女がいた。車のライトの中に、はっきりと浮かび上がったのである。
――が、結局、矢川は何も見付けることができずに車へ戻った。
「――あれ、何だったの?」
「分らん」
再び車を走らせながら、矢川は首を振った。
「あの学生さんたちが言ったのも、本当だったのよ」
有紀子の言葉にも、矢川は何も言わなかった。
そして家路へ向う車のスピードが少し上がり気味になっていたが、矢川は気が付いていなかったのである……。
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3 ダブルショック
「あら、中尾さん」
と、会議室のドアを開けた石田ゆかりは、びっくりして言った。「早いんですねえ」
「やあ」
中尾茂は、見ていたファイルを閉じて、「一回めの会議だ。つい、気がせいてね」
「そう。――お茶、いれましょうか」
「ああ、悪いね」
「ちっとも」
石田ゆかりは自分のファイルをテーブルに置くと、会議室を出て、給湯室へと急いだ。
このところ、会社内では、
「お茶は各人、自分でいれること」
というのが原則になりつつある。
もちろん、ゆかりもその意味は分っているし、女の子といえば「お茶くみ」と思っている、頭の固いおじさんたちには反発もある。
それでも、自分の好きな男性にはついお茶の一つも出したくなる。そんな自然な気持は否定したくなかった。
といって、石田ゆかりが中尾に対して特別な気持を持っているというわけではない。中尾茂はもう三十四歳。妻子もある。
人当りが良く、女の子たちに人気があったが、決して妙な噂《うわさ》を立てられることはなかった。
「――はい、どうぞ」
会議室へお茶を持って行くと、中尾は、
「やあ、ありがとう」
と微笑《ほほえ》んだ。「――君は初めてかい?」
「この新製品開発室ですか? ええ、そうです」
ゆかりは目を輝かせて、「ぜひ、一度入ってみたかったんです」
「そうか。君のような若い感性が求められてるんだ。きっといい仕事ができるよ」
と、中尾は言った。
「私――今度のチーフの矢川さんのことはよく知らないんです」
と、ゆかりは言った。「ただ、奥さんとは仲が良かったんで」
「ああ、叶君ね。旧姓、叶君か。――前のチーフのことは?」
「有田さんですか。もちろん……憧《あこが》れの的でした。女の子たち、みんなの、じゃなかったかしら」
「すばらしい人だった」
と、中尾は肯《うなず》いた。「――ま、矢川君も気の毒だ。彼のせいじゃないのにね」
「ええ……。そんなことってあるものなんですね」
ゆかりももちろん知っている。前のチーフがなぜ死んだのか。
矢川が辛《つら》い思いをしていたことも、充分に承知していた。
「――矢川さんがチーフ、って、大|抜擢《ばつてき》ですね」
と言ってから、ゆかりは、いけない、と思った。
本来なら、三十代半ばの中尾がチーフだろう。社員としてのキャリアも長い。
中尾が、それを気にしているかと思ったのである。
「気をつかってくれてありがとう」
中尾は、ゆかりの表情に気付いていたらしい。
「しかし、人間、向き不向きってもんがある。僕は決断力に欠けてるんだ。こういうグループをまとめていくとか、引張っていくことは、とてもじゃないが、できない」
「矢川さん、適任だと思います?」
「思うね」
と、即座に肯く。「最良の選択だと思うよ」
偉いな、とゆかりは感心した。
こんな風には、なかなか言えないものである。ドアが開いて、当の矢川がファイルを抱えて入って来た。
「やあ、二人とも早いね」
と明るく言って、「中尾さん、よろしく」
二十八歳の矢川からすれば、中尾は大先輩だ。
「こっちこそ、チーフ」
「いやいや」
矢川は首を振って、「みんなが揃《そろ》ったところで言うつもりですが、〈チーフ〉って呼び名、やめましょう」
「どうして?」
「〈チーフ〉の名は、一人だけ[#「一人だけ」に傍点]のものです。僕には荷が重い。単に『矢川さん』でいいですよ」
「なるほど」
中尾は肯いて、「そこは新しいチーフの意向を尊重しますよ」
「ありがとう」
矢川は中尾の肩を軽く叩《たた》いた。
ゾロゾロとメンバーが入って来る。
矢川は正面の席についた。
――石田ゆかりは、矢川を眺めながら、この人が有紀子の旦那様か、と考えていた。
もちろん、顔ぐらいは知っているが、話したりするチャンスはなかなか訪れなかったのである。
ゆかりも自分の席について、会議を前に、ファイルを開けた。
あら?――メモが一枚、挟《はさ》んである。
何だろう? ここへ持って来たときは、何も入れてなかったのに。
メモを開くと、
〈今夜、一杯やるだけ、付合ってくれないか? 中尾〉
とあって、〈――お茶のお礼さ〉
と書き添えてあった。
ゆかりはチラッと中尾の方へ目をやったが、当の中尾は一心に資料を読んでいる。
特に断る理由もない。中尾の誘いといっても、別に心配なことはあるまい。
後でOKの返事をしておこう、とゆかりは思って、そのメモ用紙を事務服のポケットへとそっとしまったのだった。
「ええと……」
矢川が立ち上がる。「――これから、新製品開発室の会合を始めます」
自己紹介も抱負もない。それは却《かえ》ってすっきりとして、いいものだった……。
「いや、おめでとうございます」
と、殿永刑事がビールのコップを持ち上げた。
「これで亜由美さんも、殺人事件より男の方が好きになるでしょう」
「あのね……」
と、亜由美は言いかけたが、何を言っていいのか分らず、やめた。
「全く、亜由美にねえ。デートを申し込む物好きがいたのね。ねえ、ドン・ファン」
「ワン」
聡子もドン・ファンも、酔っ払っているわけでもないのに、絡むこと……。
――ここは亜由美の部屋。
この有様の原因は、母の清美にある。
わざわざ殿永刑事に電話して、
「亜由美がデートに誘われましたの!」
と報告[#「報告」に傍点]したのだ。
かくて、友情|篤《あつ》い殿永と聡子がお祝いに《かどうか》駆けつけた、というわけである……。
「――放っといてよ」
と、亜由美はややふてくされて、「一回で向うからお断りしてくるかもしれないわ」
「それもそうね」
とは、いかにも親友らしい(?)言葉である。
「――谷山先生といいましたか?」
と、殿永が言った。「三十歳とか?」
「何でもしゃべっちゃうんだから、うちの母は」
「いや、羨《うらや》ましい。ま、ご成功を祈ります」
「何の?」
「デートのです」
「祈っていただいても……。ただ食事するだけなんですよ」
と、亜由美は口を尖《とが》らす。
「もし、亜由美と相性が悪かったら、私のこと紹介しといて。二番手でいいから」
「ワン」
ドン・ファンはふて寝[#「ふて寝」に傍点]している。
何しろ自分が亜由美の一番のお気に入りと思っているから、少々面白くないのである。
「ま、これがまた何かの事件のきっかけにならないことを願いますね」
と、殿永は言った。
「変なこと言わないで下さいよ」
と、亜由美が苦笑すると、
「変なこと、っていえばさ」
と、聡子が思い出して、「あのウェディングドレスの女のこと、何か分った?」
「何です、それは?」
と、殿永が言った。
「ええ、この間――」
と、聡子が霧の中の出来事を話してやると、
「ほう! 面白い話ですな」
「でも、人殺しとは関係ないわ」
と、亜由美は言った。
「しかし、自殺した女がいる」
「自殺ですよ。殺人じゃありません」
「往々にして殺人以上に罪深い自殺というものがあるのです」
と、殿永はいやに哲学的な口調になって言った。
「たとえば、男にもてあそばれた娘が自殺したら、これは立派な殺人でしょう」
「それはそうですけど」
と、話をしていると、ドアが開いて、母の清美が顔を出す。
「殿永さん、お電話です」
「や、すみません」
殿永はその巨体が信じられないくらいスッと軽やかに立ち上がった。
「――お母さん。ちゃんとノックしてって言ったでしょ」
と、むだと知りつつ言ってやる。
「あら、どうして? 殿永さんを二人で襲う計画でもあった?」
「殿永さんが聞いたら、目を回す」
と、聡子が笑った。
――少しして、殿永が上がって来た。
「何か事件ですか」
と訊《き》いて、亜由美は殿永がえらくむずかしい顔をしているのに気付いた。「殿永さん……」
「殺人です。――いや、それは私の仕事柄当然ですが」
「何か?」
「今話しておられた……。矢川といいましたか?」
「矢川さん?――まさか」
亜由美が青ざめる。
「いやいや、その人が死んだというわけではありません」
と、殿永は急いで言った。「その人の勤め先はT商事でしたか?」
「そう……だったと思います」
「そのT商事の社員が殺されたのです。もちろん偶然でしょうがね」
亜由美と聡子は、顔を見合せた。
今までも、こんなことが何回かあった。そしていつもそれは「偶然ではなかった」のである……。
「――知らない人だわ」
と、亜由美は言って、ホッと息をついた。
もちろん、殺された人が気の毒だという点、変りはないが。
「こういう場所です。女との感情のもつれでしょうな」
と、殿永は言った。
ラブホテルの一室。――男は裸の上にバスローブをはおっている。ベッドで仰向けに倒れ、胸もとには血が広がって……。
こういう光景に、さほどショックも受けていない自分が、少々寂しかった。
「――身許《みもと》はこれでしょう」
と、殿永は、男の上着のポケットから手帳を取り出した。「〈T商事。中尾茂〉とあります」
「刃物の傷ですね」
と、つい覗《のぞ》いてしまう。
「ええ。一緒に入った女を、誰も見ていないのでね」
と、殿永は首を振った。
普通、こういうホテルは、出入りに顔を見られないようにしてある。
「指紋が出ても、前科でもないと……」
若い刑事が、
「殿永さん、この男の上司という人が。連絡しといたので」
「ああ、通してくれ」
おずおずと中へ入って来た男を見て、亜由美は、やはり「偶然じゃなかった」のかもしれない、と思った。
「矢川さん」
「え?」
とびっくりして、「――あ、この間の?」
「どうもその節は」
と、亜由美は礼を言った。
現場へは、亜由美とドン・ファンだけがやって来たのである。聡子は、
「私はエステに行く。殺人現場よりは美容のためにいいでしょ」
と言って帰った。
「ここで――何を?」
と、矢川はキョトンとしているが、説明し始めるときりがないので、
「アルバイトに、刑事もやってるんです」
と、いい加減な説明をした。
「――中尾さん!」
矢川は青くなった。「本当に……。本当にこんなことが!」
「ご存知ですね」
と、殿永が訊く。
「はい。新製品開発室の部下です」
「失礼だが、あなたの方がお若いですか」
「はい。私は二十八。この中尾さんは三十……四、五だと思います」
「どうやら、女性とここへ入った。ま、当然でしょう。――付合っていた女性とか、耳にされたことは?」
「いや……。この中尾さんが。奥さんもお子さんもいて……。真面目な人だったのに」
「真面目な人でも、恋はします」
と、殿永は言った。「今日、会社へは?」
「ええ、いつも通りに。――開発室が新たなメンバーで発足したばかりなので、みんな張り切っていました。こんなことが……」
「ふむ……。ま、奥さんに連絡して、知らせなくてはなりません。やっていただけますか」
矢川は、ちょっとためらって、
「やりましょう」
と肯いた。「上司の責任です」
「会社で、この中尾さんと親しかった人を教えて下さい。話をうかがいたい」
――亜由美は、ドン・ファンを連れてホテルから先に出た。
もう夜になっている。ズラッと同じようなホテルが並んで、若い恋人たちが何組か通って行ったが、みんなパトカーを見て、何ごとかという顔。
「――私もいつかこんな所へ来るのかな」
と、ドン・ファンへ話しかけたりしていると――。
「クゥーン」
と、ドン・ファンが小さく鳴いた。
「どうした?」
ドン・ファンの鼻が向いている先(?)へ目をやって、亜由美は目を見はった。
「あれ……」
ホテルから出て来たその女性は、足早に向うへ歩いて行く。
暗かったが、しかし――それは矢川の妻、有紀子にそっくりだった。
男の方が少し遅れて現われた。
亜由美は、もう一度ショックを受けることになった。
今度は間違いなく――その男は、助教授の谷山だったのである。
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4 夜の二人
重苦しい空気の中で、矢川が口を開いた。
「大変残念なことだが……」
と、ため息をついて、「もう、みんなも知っていると思う。昨日、中尾さんが亡くなった」
会議室に集まった、新製品開発室のメンバーは、互いに顔を見合せるだけだった。
「亡くなった中尾さんや、遺族の方には気の毒だが、状況から見て、誰か付合っていた女性がいると思われる」
と、矢川はみんなの顔を見回し、「もし、誰かその点について、知っていることがあれば、刑事さんへ話してくれ。もし言いにくければ、僕が聞いてもいい」
矢川は少し言葉を切って、
「ともかく、犯人を捕まえなくてはならないからね」
と、付け加えた。
そして、気を取り直したように、
「しかし、仕事は休むわけにはいかない。中尾さんが手がけていたのは三件。これを誰かに分担してもらいたい。一件は僕が持つ。たぶん……このセキュリティ関係が一番厄介だろうから、これは僕がやる。他の二つについて、自分でやりたいという者はいるか?」
進んで手を上げる人間はなかった。
「じゃ、こっちで指名して、やってもらうことにする。地方文化の振興策についてだが――」
パッとドアが開いて、
「あの――矢川さん」
受付の子があわてた様子で、「中尾さんの奥様が――」
矢川が立ち上がると、受付の子を押しのけるようにして、黒いスーツの女性が入って来た。険しい目で、会議室の中を見回すと、
「私、中尾の家内です」
と、挑むように言った。
「奥さん」
矢川が机を離れて、「お気の毒でした。矢川です」
「あなたが矢川さん」
と、ジロッと見て、「中尾久子です」
「あの――ここではどうも――」
「用があって、ここへ来たんです」
と遮ると、「石田ゆかりっていう人は?」
誰もがゆかりの方へ目をやった。ゆかりは青ざめて、じっと机を見つめている。
「その人ね」
中尾久子は、石田ゆかりの方へと歩み寄った。
「奥さん」
と、矢川が止めようとする。
「あなたが、石田ゆかりさん?」
ゆかりは、ゆっくりと顔を上げると、
「はい……」
と肯いて、立ち上がった。「私が石田ゆかりです」
「そう」
と肯くと、未亡人は突然平手でゆかりの頬を打った。
誰もが動けない。ゆかりも、何も言わなかった。
「主人とのことは分ってるのよ!」
と、中尾久子は言って、「主人を殺したの?」
「とんでもない!」
と、ゆかりは訴えるように言った。「私……そんなこと、していません!」
「逮捕される覚悟をしておくのね。ちゃんと、あなたのことは刑事さんへ話しておきましたからね」
そう言って、中尾久子は矢川の方へ、「失礼しました」
と会釈すると、出て行った。
矢川は息をつくと、
「今のことは、みんな忘れるんだ」
と言った。
石田ゆかりが、両手で顔を覆って、会議室から駆け出して行った。
「石田君!」
矢川は急いで後を追った。
――ゆかりが、非常階段の踊り場に腰をおろして泣いている。
「石田君……。ここにいたのか」
矢川がホッと息をついた。「君……。大丈夫か」
ゆかりは肩をすくめ、
「もうどうでも……」
と、涙声で言った。「どうせ刑務所行きなんだわ」
「君がやったのか」
「違います!」
と、ゆかりは言った。「もし――やったのなら、自首しています」
「うん……。君ならそうだろう」
矢川は並んで腰をおろすと、「元気を出せよ。警察だって、ちゃんと考えてる」
「ええ……」
ゆかりは涙を手の甲で拭《ぬぐ》って、「私……ついこの三日間なんです」
「三日間?」
「私がメンバーになったその日に、中尾さんから帰りに一杯やろうって誘われたんです」
と、ゆかりは言った。「こっちは新人だし、お付合いしておこうと思って……。ところが、散々飲まされて――。酔ってそのままホテルへ……」
「何だって? 中尾さんが?」
「ええ。あの人、女に手が早いんです。ただうまく隠しているだけで」
「――信じられん。いや、君の言う通りだろうが」
「次の日も……。私、いやだったけど、つい……。でも昨日は別です。昨日はあの人、他の女と会うことになっていたんです」
「それが誰なのか――」
「知りません。でも、自分でそう言っていましたから、確かです」
「中尾さんが……。しかし、奥さんがどうして君のことを」
「分りません。あんなこと……。もう会社にいられない!」
と、ゆかりが泣き出した。
「――石田ゆかりさん?」
いつの間にやら、殿永刑事の巨体が二人を見下ろして立っている。
「はい……」
「警察の者です。ちょっとお話をうかがいたいんですがね」
石田ゆかりは涙を拭うと、
「分りました」
と言った。「あの――留置されるんでしょうか」
「ご心配なく、私に偏見はありませんよ」
殿永の優しい言葉が、ゆかりの気持をずいぶん軽くしたようだった。
「塚川君!」
後ろから呼ばれて、亜由美は足を止めた。
「あ……。先生」
谷山が、両手一杯に本を抱《かか》えてやって来る。
「まだ残ってたのかい?」
「ええ、珍しく調べもの」
と、亜由美は言った。「先生は?」
「色々やることがあってね」
と、肩をすくめる。
夜。――大学のキャンパス内である。
「先生、少し本、持ちます」
「や、悪いね」
亜由美は何冊か重い本を抱えると、一緒に歩き出した。
「どこまで?」
「図書館へ返しにね。窓口の所へ置いときゃいいんだ」
「そう」
少し黙って歩いてから、
「先生……」
「塚川君――明日は、付合ってくれるかい?」
亜由美は、少しためらって、
「いいけど……。一つ、訊いてもいいですか?」
「何だい? 次のテストの問題はだめだぜ」
「まさか」
と、亜由美は笑って、「でも、もっと答え辛いかな」
「何のことだい?」
「矢川有紀子さんと、どういう仲?」
谷山はピタリと足を止めた。
「――見たの」
と、亜由美は言った。「ホテルから出て来るとこ」
「そうか……」
谷山は真顔で肯く。「見られちゃね。偶然?」
「先生の後なんかつけ回さないわ」
「そうだろうね」
谷山は、少し迷ってから、「ベンチに座ろう」
と言った。
「――やれやれ」
谷山は、ため息をついて、「君を誘ったのは、実は目的があってのことだったんだ」
「そんなことでしょうね」
「おい……。しかし、君がすてきだと思ってるのは本当だよ」
「ともかく、その先を」
「うん……。有田裕子の話を、君も聞いてるね」
「自殺した人ですね」
「うん。――彼女は、以前僕と付合っていたんだ」
亜由美は唖然《あぜん》とした。
「といっても、もう五年も前のことだ。僕の所へ、雑誌の記事のための取材に来た。元気の塊みたいな人でね」
と、谷山は微笑んだ。「僕は惚《ほ》れ込んだ。――彼女も一時は本気だったようだが、結局、仕事が面白くて、時間が作れないというので、付合うのはやめた」
「それで?」
「有田裕子のことを聞いたのは、叶有紀子からだった。有紀子はこの大学の卒業生なんだ。僕の教え子だよ」
「そうだったんですか」
「有田裕子の死を聞いて、ショックだった。――どんな事情だったのか、有紀子と会って話を聞いた。しかし……有紀子が思っているような理由だったのかどうか、僕は首をかしげた」
「というと?」
「裕子は、確かに矢川という男を好きだったかもしれない。しかし、だからといって、死を選ぶとは思えない。彼女には仕事があったんだ」
「でも、現に――」
「うん。何か他に理由があったか、それとも殺されたか、だと僕は思っている」
「殺された?」
亜由美は目を丸くした。
「その話をしたくて、有紀子と会った。内密の話だから、あんな所で会ったが、何もあったわけじゃない。本当だよ」
「そうですか?」
「明日、ゆっくり説明させてくれ」
「先生――。じゃ、私を誘ったのも……」
「君は色んな事件を解決して来たんだろ?」
どうせね。そんなことだと思ったのよね、と亜由美はふてくされて、絶対聡子には言えないや、と思ったのだった……。
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5 大混乱
ついに!
――と言うほどのことでもないかもしれない。
塚川亜由美が大学の助教授谷山とデートした、といっても、別にそのままベッドインしたわけでも何でもない。ただ、いかにも「大人のデート」という雰囲気で、フランス料理など食べていたというだけ。
これでは、たとえ亜由美が芸能人だったとしても、週刊誌も取り上げてはくれないだろう。
「――味はどう?」
と、谷山に訊《き》かれても、亜由美はもともとフランス料理に詳しいわけではない。
何を食べても、「こんな味か」と納得してしまっている。――ま、確かにまずくはないと思う。で、
「おいしいです」
と、答えたのである。
「――事件のことを聞かせてくれないか」
と、メインの肉料理が終ったあたりで、谷山は切り出した。「君は刑事と仲がいいんだろ?」
「特別の仲[#「特別の仲」に傍点]じゃありませんからね、言っときますけど」
と、亜由美は断っておいて、「殺されたのは中尾茂って男です。一見真面目な中年ですけど、その実、女の子にすぐ手を出すという……。先生も?」
「君ね」
と、谷山は心外という面持ちで、「僕は本当に真面目だ。それに三十歳は中年じゃなくて『青年』だ!」
その辺については異論もあったかもしれないが、亜由美も特に反論はしなかったのである。
「――でも先生、中尾が殺されたことと、有田裕子が自殺したのと何か関係があるんですか?」
「そこはよく分らない。しかし、同じ新製品開発室にいた二人が、こんなに近い時期に死ぬというのは、偶然とは思えない」
と、谷山は言ったが、亜由美もだて[#「だて」に傍点]に何度も刑事もどきの危い目に遭っているわけではない。
「だめですよ、先生。いい加減なこと言ってごまかそうたって」
と首を振って、「叶有紀子――いえ、矢川有紀子さんと話して、何か気になることがあったんでしょ? でなければ、私にこんな高い食事おごったりしないだろうし」
「おい、塚川君。――何度も言うけど、こうして君を食事に誘った気持は本当だ。それぐらい信じてくれたっていいじゃないか」
「そうですか」
「それとは別に、中尾という男のことを知りたいのさ。――まあ、確かにその点では君の言う通りだ」
「有紀子さんから何か話が?」
「うん……。これは、警察にも黙っていてほしいんだが」
「先生。私を信用して。言っていいことといけないことの区別くらいつきます」
亜由美の言葉は、谷山をちょっと感動させたようだった。
「うん。――君は信じられる子だ。叶有紀子は中尾から脅迫されていたんだよ」
「脅迫?」
と、亜由美は目を見開いた。「それは――」
と言いかけて、大方のところは察しがついたものの、
「有紀子さんも、中尾と?」
と、つい確かめてしまう。
「うん。――中尾って男、全く許せないな。男として最低だ!」
と、谷山は大声を出した。
静かなレストランである。周囲の客がびっくりして亜由美たちのテーブルを見る。
「――失礼しました」
谷山は顔を赤らめ、あわてて左右へ頭を下げている。
亜由美は谷山を眺めていた。谷山は水をガブッと飲んで、
「いや、すまん。ついカッとなって――」
「いいんですよ」
と、亜由美は言った。「本当に腹が立ったときには怒ればいいの。それができる人って、すてきですよ」
「そうかね」
少しどぎまぎした様子で、谷山は言った。
「先生――有紀子さんは、結婚前に中尾とそういうことがあったわけですね?」
「もちろんだ。しかし、彼女としてはやはり夫に知られたくはない。それでずっと、中尾に金を払っていたそうだ。もっとも、中尾の方も、ほんのこづかい程度の金しか要求していなかったらしいがね」
頭がいいとも言えるが、ある意味ではたちが悪いとも言えるだろう。
「その伝で、何人かの女性からお金をせびっていたのかもしれませんね」
「うん。――その子、何ていったっけ?」
「石田ゆかりですか」
「そうそう。中尾殺しの疑いがかかってるのかい?」
「一応、警察で話を聞かれましたけど、ちゃんと帰されました。殿永さんって刑事さんは、とても公平な、覚めた目を持った人なんです」
「そうか。――たとえ、その子がやったとしても、罪にするのは可哀そうって気がするな」
「そうですね。石田ゆかりの話だと、あの日中尾は別の女性と会うことになっていたと……」
そう言いかけて、亜由美は言葉を切った。
「どうかしたのかい?」
「いえ……。ちょっと気になったことがあって」
亜由美は曖昧《あいまい》に言った。
「――あ、デザートだ。君、何にする?」
亜由美は、ワゴンに満載されて来たデザート類に圧倒されて、事件のことなど、どこかへ吹っ飛んでしまった。
「あの……一つじゃなくてもいいんですか?」
亜由美は思わず座り直してさえいたのだった……。
「それで――」
と、聡子は言った。「どうなったの?」
「うん。デザート、三種類選んだ。おいしかった」
「デザートのことなんか訊いてない! 谷山先生と、どこまでいったのか、訊いてるんでしょうが」
「どこまで、って……」
亜由美は紙パックのコーヒーをストローで飲みながら、「どこまでだったかなあ」
「憶えてないの?」
「ええと……。そう! 確か麻布まで行ったの。そこでタクシー拾ってくれて、私だけ乗って帰って来た」
聡子は唖然として、
「絶望的……」
と呟《つぶや》いた。
「何が?」
と、亜由美は不思議そうな顔で言った。
「何でもない」
「ワン」
ドン・ファンも、その名のごとく(?)「女心は分らん」ということをよく分っているのか、ひと声鳴いた。
いや、亜由美とてそう鈍いわけではない。ただ、谷山と食事をしても、いきなり「どこまでいく」といった仲になることなど、全く想像もつかなかったのである。
ところで、今、亜由美たちは表の道に立っていた。家の中へ入るには少々格好が派手である。何しろお葬式の最中だ。
ここは中尾の家。T商事の社員を中心に、人々が焼香にやって来ている。
「でも、女性たちは帰っちゃうね、ほとんど」
と、聡子が言った。
「そりゃそうでしょ」
何しろ中尾がやたら女の子に手を出していたことが、死後になって次々に「私も」という子がいて、すっかり知れ渡ってしまったのである。
「やあ、どうも」
と声がして、矢川克二が黒のスーツ、ブラックタイでやって来た。
「矢川さん。ご焼香だけ?」
「一応出棺までいますよ。何といっても、開発室のメンバーだから」
「犯人の手がかりはまだないらしいです」
と、亜由美が言った。
「色々な噂《うわさ》を聞くと、複雑な気分だな」
と、矢川は言って、「ところで、どうしてここへ?」
「この後、未亡人にちょっとうかがいたいことがあるんです」
と、亜由美が言った。「あの石田ゆかりさんへの疑いも晴らしてあげたいし」
「亜由美は、こういう方面にしか才能がないんです」
と、聡子が余計なことを言って、亜由美に肘《ひじ》でつつかれている。
「いや、ぜひお願いしますよ」
と、矢川が言った。「石田君はいい子だ。とても中尾さんを殺すなんてことは……」
「クゥーン」
と、ドン・ファンが鳴いた。
亜由美は、「噂をすれば」で、当の石田ゆかりが黒のワンピース姿でタクシーから降り立つのを見て、びっくりした。
「大丈夫なの?」
と、聡子が小声で亜由美に訊く。
「知らない」
別に留置されてもいないのだから、ここへ来たこと自体は不思議でも何でもない。けれども中尾久子からあんな目に遭わされたことを考えれば……。
「矢川さん」
と、ゆかりが足を止める。
「君……。来たのか」
「だって――一緒に仕事をした人ですもの。ほんの少しの間でも」
と、ゆかりは言った。
「石田ゆかりさんね」
と、亜由美が声をかける。「塚川亜由美っていうの」
「ああ」
と、ゆかりの顔が明るくなった。「あの殿永刑事さんの『心の恋人』ね」
亜由美も聡子も、引っくり返りそうになった。ドン・ファンはどうだったか分らないが。
「殿永さんがそんなこと言ったの?」
「ええ。――色々、お話をうかがって、一度お会いしたいと思ってたの」
亜由美は、殿永に会ったらとっちめてやろうと思っていた……。
亜由美たちも、ゆかりにすすめられて、一応は焼香することにした。後で未亡人と話をするにも、その方がいいだろうとも思ったのである。
ゆかりたちが焼香に進み出ると、居合せた人たちの間にざわめきが起こった。もちろん、未亡人の久子もすぐに気付いたに違いない。
しかし、亜由美たちが先に焼香をすませて(もちろんドン・ファンはしていない)、見ていると、ゆかりは全く周囲の視線など気にする様子もなく、焼香し、ていねいに手を合せた。
そして、久子の方へ一礼して出て行きかけたが――。
「待って下さい」
久子が席を立つ。そして、ゆかりの方へと歩み寄った。
「ゆかりさん……。この間のことはお詫《わ》びします」
と、久子は言った。「他の方たちからも、主人のことを色々聞きました。主人がいけなかったんです。あなたにはご迷惑をおかけして……」
「奥さん」
ゆかりが久子の腕にそっと手を触れて、「やめて下さい。あれは奥さんの立場なら当然のことです。それより――」
と、足をブラブラさせて椅子《いす》にかけている五、六歳の女の子の方へ目をやって、
「お子さんの前で、お父さんの悪口を言ってはいけませんわ」
と言った。
久子は胸をつかれた様子で、黙って頭を下げた。
「では、これで」
ゆかりが静かに外へ出る。
亜由美は、若さに似合わないゆかりの対応に感心した。
「ゆかりさん」
と、外へ出て追いつくと、「奥さんに訊きたいことがあるんです。あなたも一緒にいた方が」
「私のことで、ですか」
「ええ」
ゆかりは少しためらっていたが、
「わかりました。でも、殿永さんのおっしゃった通りの人ですね、亜由美さんって」
と肯《うなず》く。
「まだ他に何か言ったんですか」
「『何にでもすぐ首を突っ込む人なんです』って。でも、『それでいて、きっと長生きするんですよ、ああいう人は』ともおっしゃってました」
亜由美は、今度殿永に会ったらドン・ファンをけしかけてかみつかせてやろう、と決心した。
「――じゃ、私、道に出た所で待っています」
と、ゆかりが言って、表へ出て行く。
「しっかりした子だなあ」
と、矢川も感心している。「でも――中尾さんの奥さんに、何を訊くんですか?」
「ちょっと気になることがあるんです」
と、亜由美は言った。「もちろん大したことじゃないんですけど」
「出棺すると、しばらく戻らないでしょう。どうしますか」
「待ちます」
亜由美も、そういう点、根性があるのである。
「ここでずっと立ってる気?」
と、聡子は不服げに、「私、どこかで座っていたい」
「事件解決のためには、多少の忍耐力が必要なのよ」
「多少の、でしょ。多少なら私だって持ってるわよ」
いずれにしても、この二人の話は実り少ないのである。ところが、そのとき、ドン・ファンが、
「ワン!」
と、鋭く一声|吠《ほ》えた。
「ドン・ファン、何か――」と言いかけて、亜由美は目を見はった。
「ゆかりさん!」
一旦《いつたん》表の通りへ出て、姿の見えなくなっていた石田ゆかりが戻って来た。しかし、左腕から血が流れ落ち、しっかりと右手で押えて、
「すみません! 腕を――切られたんです」
と、叫ぶように言った。
「石田君!」
矢川が駆け寄る。
「大丈夫、大丈夫です」
「しかし――。急いで手当を!」
大騒ぎになった。
亜由美は急いで表通りへ出てみたが、そこには人影は全く見当らなかった。
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6 ラブシーン
「すっかりお騒がせして」
と、自分のせいでもないのに、中尾久子は頭を下げた。「――石田さんの傷はどうですか?」
「大したことはないようです」
と、殿永刑事は言った。「とっさによけようとしたので、うまく刃がそれたんでしょう」
中尾の家の中には、まだ香の匂《にお》いが立ちこめている。――殿永は、もちろん石田ゆかりが誰かに切りつけられたというのを聞いて、駆けつけて来たのである。
「でも、一体誰がそんなことを?」
と、中尾久子が言った。
「分りません。石田ゆかりも、相手の顔を見ていない。自転車に乗っていて、女だったようだ、ということしか分っていないんです」
と、殿永は言った。「後ろから来て、追い越しざまに切りつけて来た、というんですから」
「どういうことなんでしょうね」
と、亜由美が首をかしげる。「ゆかりさんを狙《ねら》って、何の意味があるのかしら」
「さてね。――まあ、大した傷でなかったのが幸いですが」
と、殿永は言って、「ところで、塚川さんたちはどうしてここへ?」
「中尾さんの奥さんにうかがいたいことがあったんです」
と、亜由美は言った。「会社の会議室へ行かれて、石田ゆかりさんを叩《たた》いたということですけど」
「ええ……。お恥ずかしい限りです」
「いえ、そのこと自体を、どうというんじゃないんです。どうして石田ゆかりさんとご主人のことをお知りになったのかな、と思って」
「それは――」
と、久子が少し口ごもって、「今思えば、怪しげだったんですけど、匿名《とくめい》の電話があって――」
「電話? お宅へですか」
「はい。誰とも名のらず、ただ、『新製品開発室の石田ゆかりという女が、ご主人の恋人ですよ』と言って切れてしまったんです。私、カーッとなって……」
「その電話の声に聞き憶えは?」
「いいえ……。よく分りませんわ。女の人だったと思いますけど、わざと声の調子を変えていたようです」
「女ね……」
と、殿永が肯《うなず》く。「誰か、ご主人と関係のあった、他の女性かもしれませんね」
「そうだと思います。まさか――主人があんなに色んな女性に……」
「もう、そのことは気にされない方が」
と、亜由美は言った。「奥さんには責任のないことですもの」
「ありがとう」
と、久子は言った。「石田さんには、本当に申しわけないことをしたわ……」
「――何を隠してるんです?」
中尾の家を出て歩きながら、殿永がいきなりそう言った。
「え?」
亜由美はとぼけたわけではない。本当に何のことを言われているか分らなかったのである。
「亜由美。――また何かやったの?」
と、聡子までが怪しんでいる。
「やめてよ。何もしてませんよ、私」
と、殿永をにらむ。「殿永さんこそ、私のことをあれこれ石田ゆかりに――」
と、文句を言いかけたが……。
そうなのだ。亜由美は隠している。矢川有紀子が、結婚前に中尾と関係があって、それをネタにゆすられていたということを。
それは谷山から聞いたことだし、たとえ殿永に話したところで問題はないだろうと思っている。でも、約束は約束。
「――私としては、塚川さんの身を案じて言ったんですよ」
と、殿永は言った。「もちろん、愉快ではなかったかもしれませんが」
「そうでもないですけど……」
いつになく、亜由美も弱気だ。
夕暮の色が濃くなりつつあった。
「どうして石田ゆかりが狙われたりしたの?」
と、聡子が訊《き》く。
「分んないわよ。ただ……」
と言いかけて、「もしかすると、石田ゆかりが犯人[#「犯人」に傍点]を知っているかもしれない、と……」
「それは当然考えられます」
と、殿永が肯く。「中尾と二日間でもホテルへ行った。そこで当然話も出るでしょう。他にどんな女性が恋人なのか」
「その誰かと翌日会うことになっていて、その名前を、中尾がしゃべったとしたら……」
「しゃべっていなくても、しゃべったと犯人が思ったら――」
「当然、石田ゆかりが狙われますね」
と、亜由美の目が輝く。「じゃ、中尾の他の恋人たちを当って行けば……」
「そう簡単には行きませんよ」
と、殿永は微笑《ほほえ》んで、「犯人なら自分から名のり出たりしないだろうし、誰が恋人だったのか、本当のところを知っているのは、死んだ中尾だけですからね」
「でも、当ってみるんでしょう?」
「むろんです。ただ――石田ゆかりがまた危険な目に遭うことだけは避けたいですからね」
「彼女も用心しますよ」
「さよう。ボディガードをつけるというわけにはいきませんからね」
「ワン」
と、ドン・ファンが鳴いた。
「ドン・ファンがやると言ってますわ。何しろ面食いですから、この犬は。ゆかりさんはきっとこの子の好みだわ」
「ワン!」
と、ドン・ファンはひときわ力強く吠えたのだった……。
亜由美は、最後の講義が終って、友だちがみんな帰ってしまうのをぼんやりと待っていた。
待っている間、あれこれと迷い、思い悩んでもいたのである。
しかし、大学の中がすっかり静かになってしまうと、思い切って足を谷山の研究室へ向けた。
一旦決めたことは、たとえ気が進まなくてもやり通す。それが亜由美の主義(というほど大げさなものじゃないが)でもある。
谷山に会って、どう言うのか、自分でも決めていなかった。ただ、矢川有紀子のことが引っかかって、どうにも気になっていたのである。
――研究室へと階段を上がって行くと、たった今通って来た玄関ホールに、
「失礼ですが、谷山先生のお部屋は?」
という声が響いた。
あの声は――殿永刑事だ!
亜由美は研究室へと小走りに急いで、そしてドアを叩くと、パッと開けて、
「先生、今刑事さんが下に――」
と言いかけ……。
亜由美は呆然《ぼうぜん》として突っ立っていた。
もちろん、二人[#「二人」に傍点]はパッと離れたのである。
谷山と矢川有紀子は。
しかし、離れたということは、それまで接近していた――いや、はっきり言って、抱き合っていたわけである。
亜由美の受けたショックの大きさも想像がつくというもの。
「失礼しました」
と、あえて冷ややかな言い方になってしまうのは、やはり亜由美の中に、谷山なら信じられるという気持があったせいだろう。
「塚川君」
と、谷山が言った。「勘違いしないでくれ。これは――」
「何でもないんですよ、今のは」
と、有紀子も急いで言葉を添える。「私がただ――」
「どうでもいいんです、そんなこと」
と、亜由美は言った。「それより、刑事さんがここへ上がって来ますよ」
「そうか」
と、谷山はポカンとしている。
「私、何もしゃべってませんからね」
と、亜由美が言うと、
「分ってる」
谷山は即座に言った。
亜由美は、谷山が自分のことを疑ったわけではないと知った。――ごまかしているのじゃない。そんなときは分ってしまうものだ。
「――君はいない方がいい」
と、谷山が有紀子に言った。
「いいえ、先生にご迷惑がかかるのは――」
「ともかく、今はここを出て。塚川君悪いが――」
しかし、殿永は見かけによらずびっくりするほど身のこなしが軽いのである。二人がもめている内に、もう足音が階段の方に聞こえて来た。
亜由美は、中へ入ってドアを閉めると、
「有紀子さん、ドアのかげに隠れて!」
と、有紀子の手をつかんで引張った。
「え? でも――」
「早くして!」
亜由美は、矢川有紀子を、ドアのかげになる位置へ押し付けておいて、谷山の方へ戻った。
トントン、とノックの音。
亜由美は、ちょっとの間谷山と向い合って立っていたが――。
ドアが開いて、
「失礼します。谷山先生は……」
と、殿永が顔を出し、唖然として言葉を切る。
研究室の真中で、谷山としっかり抱き合ってキスしているのは、亜由美だったのである。
「――や、こりゃ失礼!」
と、殿永が照れて赤くなっている。
「あら、殿永さん」
と、亜由美がニッコリ笑って、「すみませんけど、ほんの十分ほど待っていただけます? 今、ちょっといいところなんです」
「分りました。もちろん」
と、殿永は肯いて、「では、十五分したらまたうかがいましょう」
「よろしく」
殿永がドアを閉める。――亜由美はホッと息をついて、谷山から離れると、
「どうも」
と言った。
「いや、ありがとう」
と、谷山は微笑んで、「君がこんなことをしてくれるとは思わなかった」
「私はただ、有紀子さんが困っているのを助けただけです」
と、亜由美は今になって真赤になると、「さあ、早くここを出た方が。反対側の階段を通った方がいいですよ」
と、有紀子へ言ってから、
「そうか。ここの学生だったんですものね。そんなこと、よくご存知なんだ」
有紀子は、少し不思議な目で亜由美を見ていた。
「ありがとう、亜由美さん」
と、有紀子は思いをこめた口調で言った。「あなた、本当にいい人ね」
「どういたしまして」
と、亜由美はちょっと笑って、「いい人ってね、ちっとももてないんですよ」
と言ってやった。
「いや、心臓が一瞬止まるかと思いましたよ」
と、殿永が大真面目に言う。
「大げさね」
と、亜由美は苦笑いして、「私だって、女ですから、キスぐらいします」
これは妙な言い方だった。相手がなきゃ、キスできないのだから。
「ところで、僕にどんなご用で?」
と、谷山が少し居心地悪そうにしている。
「こちらの塚川さんについて、ぜひよろしくとお願いしようと思いまして」
「はあ?」
「いや、冗談です」
と、殿永は言った。「実は、矢川さんの奥さん、有紀子さんというのは、あなたの教え子でしたね」
「そうです」
「恋人同士でもあった。そうですか?」
谷山はちょっと面食らった様子で、
「いや、とんでもない! どうしてそんなことを?」
「中尾茂が殺された事件を捜査しているわけですが、もしかすると自殺した有田裕子の一件にもつながっているのかもしれない、という気がしまして。その自殺の原因になったのが、矢川克二さんへの恋だったということは聞きました」
「僕も聞いています」
「しかし、有田裕子はあなたとも付合っていたとか?」
「確かに」
と、谷山は肯いた。「しかし、ずっと前のことです。最近のことは分りません」
「彼女が死ぬ前に、会っていませんか」
「いや、全く。――もし相談でもしてくれたら、良かったのかもしれませんが」
亜由美は、やっと殿永の考えていることを察した。
有田裕子、矢川有紀子。――この二人が、谷山を間につながっている。
つまり、谷山をめぐって、二人の女が争ったのかもしれない、というわけだ。
だが、それもおかしい。有紀子は矢川と結婚したのだ。有田裕子は、矢川をめぐって有紀子と争っていた、という方が正しい。
「――どういうことなんですか?」
殿永と一緒に、大学のキャンパスを歩きながら、亜由美は訊いた。
「いや、なに」
と、殿永はニヤリと笑って、「有田裕子のことは、いわば口実です」
「口実?」
「谷山さんという先生に会いたかったんですよ。塚川さんの相手にふさわしい男性かどうか」
「どうして殿永さんがそんなことを? 自分の娘でもないのに」
と言って、亜由美にはパッとひらめくものがあった。「もしかして――うちの母が?」
「そうです。私にぜひ見て来てくれ、とおっしゃって」
亜由美は、深々とため息をついたのだった……。
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7 ドライブの夜
「亜由美がキスねえ……」
と、聡子がしみじみと言った。
「何よ」
「クゥーン」
ドン・ファンも少々ショックを受けているのかもしれない。
――例によって、大学の帰り、亜由美の家に聡子が寄って、二階の部屋で寛《くつろ》いでいる――と言えば聞こえはいいが、要するにぐうたらしているのである。
「じゃ、亜由美、本気なの?」
と、聡子は訊《き》いた。「本当に谷山先生と付合う気?」
「いけない?」
「そうは言ってない。でも――合うかなあ、亜由美と」
「付合ってみなきゃ、合うかどうかも分んないでしょ。要するに、その程度のお付合い」
「それで、研究室の真中でキスしてたの?」
「あれは……まあ、弾みね」
「フーン。弾みか。私も『弾み』がないかなあ」
と、聡子は少し侘《わび》しげ。
「それより……。事件の方が気になるの」
と、亜由美は言った。「考えてみるとさ、有田裕子の自殺と、中尾が殺されたこと。この二つが果してつながっているかどうか。ここがポイントだと思う」
「どうして?」
「それは――まあ、色々あるの」
と、いい加減な説明をする。「でも、忘れてたことがある。――分る?」
「なあに?」
「霧の中で見かけた、ウェディングドレスの女」
「あ、そうか」
聡子も肯《うなず》いて、「あれが何だったのか、結局分らずじまいだものね」
「そうなの。でも、もし本当に有田裕子だったとしたら……」
「お化け? いやよ。あんまりお付合いしたくないの、お化けとは」
「誰だってそうよ」
「亜由美は別でしょ」
「怒るぞ」
と、亜由美は聡子をにらんだ。「誰かが、もちろん霧の中に立ってたのよ、ウェディングドレスを着て。生身の人間がね、幽霊じゃなくて」
「でも、どうしてそんなことするの?」
「だから、常識的に考えればいいのよ」
と、亜由美は言った。「あんな所に立って、私たちみたいな、何の関係もない通行人をびっくりさせたって何にもならないわけでしょ。ということは、あれは私たちに見せるためにあそこにいたわけじゃない、ってことになるわ」
「じゃあ……」
「当然、あの矢川の家の中に入るか、窓の外に立つかして、矢川克二と有紀子の二人に見せるつもりだったのよ。ところが、たまたま私たちが通りかかって、見てしまった」
「それで消えちゃったわけか。――うん、それは正しいかもしれないね」
「してみると、あの花嫁になっていた女は、矢川夫婦に恨みを持っていた。つまり、有田裕子の死が、あの二人のせい――もちろん、どっちかといえば夫の方でしょうけどね、そのせいだと思ってたことになる」
「ふーん。でも、その女はなぜあの二人に仕返ししようとしてるわけ?」
「そこが分りゃ、苦労ないわよ」
と、亜由美は言った。
今一つ――そう、もう一つはっきりしない。
中尾の死。それが有田裕子の死と、どこでつながるのか。
「――亜由美」
例によって、母の清美が顔を出す。
「はい?」
もう亜由美も、母に「ドアを開けるときはちゃんとノックしてからにしてくれ」とは要求しなくなっている。
「お電話よ。どうする? 『間違いです』って切る?」
「どうして? 押し売りか何かなの?」
「いいえ。谷山先生よ」
「出るわよ」
と、あわてて立ち上がる。「どうして谷山先生からの電話を切っちゃうの?」
「切ってないわ。――もし、あんたがお付合いしたくないのに、泣く泣くお付合いしようとしてるんだったら、可哀《かわい》そうだからって」
「私がどうして、いやな相手と『泣く泣く』付合わなきゃいけないの?」
「うちが破産して、あなたが一人で働いて一家を養っていかなきゃならないときのことを考えてるのよ」
「お父さんね、そのアイデアは」
「そう」
「全く!」
娘を悲劇のヒロインにして、一人で泣いて自己満足に浸《ひた》っているのだろう。
亜由美は、急いで下の電話へ出ようと、階段を下りて行ったのだが――。
「――いや、ご親切なお言葉」
と、父の声が聞こえて来た。「娘は一点の汚れもない心の持主です。しかし、運命にもてあそばれる、哀れな定め。どうか娘の道しるべとなってやって下さい!」
「お父さん!」
亜由美は、いそいで父の手から受話器をもぎ取った。「――あの、もしもし、どうか気にしないで下さい!」
と、大声を出すと、
「――いや、びっくりした」
と、谷山の声。
「今のは父の妄想なんです。あの――少女アニメの大ファンなので」
「なるほど。それで分ったよ」
と、谷山は笑って、「じゃ、君をドライブに誘っても、天罰は下らないというものだな」
「ドライブ……ですか」
「うん。――分る? 車で出かけること」
「それぐらい分ってます!」
と、亜由美はムッとして、「一応大学生なんですよ、これでも」
これでも、と言ってしまうのが、亜由美の「己れを知っている」(?)ところかもしれない。
夜。――港の灯を見下ろす丘の上。
車から降りた亜由美と谷山が、大きく息を吸い込みながら、眼下に広がる夜景を眺めている。
これは、決して亜由美の夢の中の情景ではない。現実にドライブに誘われて、こうしてやって来たのである。
「――いい眺め」
と、亜由美は言った。「ちょっと、できすぎてて、照れくさいけど」
「そうかい?――僕もだ」
と言って、谷山は笑った。「妙なもんだな」
「うちの人たちですか? 本当に妙なのばっかりなんです」
と、亜由美はため息をつく。
何しろ、谷山が車で迎えに来て、亜由美が一緒に出かけるのを家族総出でお見送り。
父は父で、
「娘よ、行け! どこにいようと、この同じ空の下、神様がお前を見守っていて下さる」
と、抱きしめてみたり(これを一度やりたかったらしいのである)、母の方は、
「亜由美」
と、手招きして、「ホテルに泊るときは、ホテル代をちゃんと割り勘にするのよ」
などと耳打ちする始末。
ただ――すねてしまったのか、ドン・ファンはちょいと出て来たかと思うと、すぐどこかへ行ってしまった。
「いや、お宅の方々のことを言ってるんじゃないよ」
と、谷山は首を振って、「すてきなご両親じゃないか」
「そうですか?」
「ああいう、純粋なものを持ち続けている人は少ない。貴重な存在だよ」
「何か皮肉みたい」
と、亜由美は笑って、「でも、お言葉通り受け取っときます」
「僕が妙だって言ったのは――この状況さ。ドラマの中でもなきゃ、こんな夜景のきれいな場所で、しかも快い気候で、二人きりなんてこと、あり得ないだろ? 雨が降ったり、車が故障したり、まわりもアベックだらけだったり……。普通は何か邪魔が入るもんだ」
「そうですね」
亜由美は、周囲を見回して、「私たち二人きり」
「他の恋人たちは何してるのかな」
「さぼってんでしょ」
と、亜由美が言って、二人は一緒に笑ってしまった。
「先生……」
「塚川君」
「亜由美、って呼んでもいいですよ」
これは、清水《きよみず》の舞台から飛び降りる気持で言ったセリフだった!
「君はすてきだ」
と、谷山が亜由美の肩に手をかける。
「待って」
と、亜由美は谷山の胸に手を当てて、「正直に言って下さい。私をどうしてドライブに誘ったの?」
「おい、君はまだ――」
「先生の気持を信じないわけじゃないんですけど。――先生の中で、有田裕子、矢川有紀子さんの二人がまだ……」
「もうそれはない」
と、谷山は首を振った。「本当だ。叶君は――いや、今は矢川君か。彼女はもともと恋人でも何でもないし、有田裕子はずっと昔の人だ。彼女とも何も[#「何も」に傍点]なかった」
「嘘《うそ》」
「本当だ。付合って、おしゃべりしたりするのは面白かったし、僕の方は一時夢中になったが、彼女はいつも覚めたところがあって、僕を突き放していた」
「じゃあ……」
「正直なところ、僕は彼女が男は愛せないのではないかと思ってたんだ」
と、谷山は言った。「だから、自殺したと聞いて、しかも原因が矢川という男への想いにあったと知って、びっくりした」
「結局、先生は振られただけだったのね」
「まあそうだ」
と、谷山は笑った。「同情してくれるかね」
「ちっとも」
「残念。同情を買おうと思ってたのに」
「そんなもの……いらないでしょ」
悪くないかな、こんなのも。
亜由美は、こんな気分になったことがない、と思った。ちっともドキドキもせず、緊張もしていないのに、ホワッとあったかいものが胸の中に広がってくる。
そして、亜由美は谷山の胸に抱かれていた。
「――どう?」
「いい気持」
と、亜由美は答えた。「――誰も邪魔しないわね」
「そうだ……」
二人はしっかりと唇を重ねて――。
「ワン!」
と、突然|凄《すご》い声がして、二人は飛び上がった。
「ドン・ファン!」
亜由美は、車の後部座席の窓からドン・ファンが顔を出しているのを見て、目を丸くした。
「やっぱりボディガードがついてたね」
と、谷山が笑い出した。
「全くもう! あんたの出る場面じゃないのよ」
と、亜由美はむくれた。
「ワン」
「ま、いいじゃないか。君のことを心配してるのさ」
と、谷山は亜由美の肩を抱いて、「しかし、うまく忍び込んだもんだ」
「ワン」
「何をいばってんのよ」
と、にらんでやる。「キスシーンのときぐらい、目をつぶっといで」
ドン・ファンはヒョイと目をそらして、知らんぷりをしている。――それを見て亜由美も吹き出してしまった。
「まあ、僕も今日君とどこかへ泊ろうと思ってたわけじゃない。じっくりと付合って、君にも僕のことをよく知ってもらいたいと思うしね」
「はい」
焦《あせ》ることはない。若いんだものね、私は。
そんなことを考えるのは初めてのことだった。
「――あれ?」
と、谷山が空を見上げて、「何か当ったかい?」
「そういえばポツンと……」
と言っている内に、ザーッと雨が降り出した。
「早く車へ!」
二人はあわてて車の中へ飛び込んだ。
「――濡《ぬ》れちゃったね」
「ええ、少し……」
と、息をついて、「でも――おかしい」
「何が?」
「ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と邪魔も入ったし、雨も降り出したし」
「そうか。なるほど」
と、谷山は笑った。「これで普通[#「普通」に傍点]の状態になったのかな」
「そうかもしれませんね」
「じゃ、どこかで飲みものでも?」
「ラーメン食べたい」
と、亜由美は正直に[#「正直に」に傍点]言った。
「よし」
谷山が笑って、車のエンジンを――。「あれ?――変だな」
「どうしたんですか?」
「エンジンが……。かからない」
「え? まさか」
しかし、何度やっても、一向にエンジンは目を覚まさなかった。
雨は一段と激しく降り出して、やむ気配もなかったのである……。
「笑うな!」
亜由美は聡子をにらんで、「ハクション!」
と派手なクシャミをした。
「でも……亜由美らしい」
と、聡子はやっと笑いがおさまって、「で、どうやって帰ったの?」
「傘一本で二人――ドン・ファンも入れて三人で雨の中を……。一時間も歩いたのよ、タクシー見付けるまで。もうずぶ濡れ」
話しながら、亜由美自身も笑ってしまう。大学の昼休み。学食でお昼を食べているところである。
「亜由美のアバンチュールが聞けるかと思ったのに」
「私の恋はこんなもんね、きっと」
と、亜由美は紙パックのコーヒーを飲みながら、
「でも、悪い気持はしないの。あれで楽しかったしね」
「ふーん。ま、当人が良けりゃ、はたでどうこう言うもんじゃない」
「そうそう」
と、亜由美は言って、「――あ、先生」
いつの間にやら、谷山がやって来て二人の向いの席に座った。
「塚川君。風邪、ひかなかったか?」
「ちょっとひいてます」
「そうか……。僕もだ」
と言うなりクシャミ。
「お二人、仲のよろしいことで」
と、聡子が冷やかして、「じゃ、お先に」
と、行ってしまう。
「すまなかったね」
と、谷山は言った。「車の方は修理に出した」
「先生」
「うん」
「二人のときは『亜由美』と呼んで、って言ったでしょ」
谷山がホッとした様子で笑った。
――今日のところは、ドン・ファンもそばにいなかったのである。
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8 霧の中の叫び
また霧か……。
――有紀子は少しふさいだ気分でカーテンをからげ、庭にヴェールのように漂っている霧を眺めた。
いつになったら帰って来るのだろう?
夫からは、「今夜少し遅くなる」という連絡が入っていた。
「少し」というのは、気をもませる言い方である。
「ほんの三十分」ともとれるし、「四、五時間」であってもおかしくはない。
しかし、有紀子としては、できるだけ「短い方」を取りたくなる。
チャイムが鳴った。――帰って来たんだわ!
ホッと息をついて、有紀子は玄関へと急いだ。チラッと、誰なのかインタホンで確かめなくてはという思いが頭をかすめたが、玄関へとはやる足を止めるほどの力はなかった。
「お帰りなさい」
パッとドアを開けて――有紀子は戸惑った。
そこには誰もいなかったのである。
「あなた?――いるの?」
もしかして、夫がその辺りにわざと隠れていて……。でも、そんな子供じみたことをするわけもない。
でも、確かにチャイムは鳴ったのに。
首をかしげつつ、ドアを閉める。――もしかしたら、空耳だったのか?
「そんな……」
いくら何でも! 一人でいて寂しいからといって、あんなにはっきりとチャイムが鳴るのを聞いたのだ。あれが空耳だったということはない。
居間へ戻って、有紀子は足を止めた。
明りが消えている!
そんなことが……。手を伸ばしてスイッチを押そうとした有紀子は、庭へ出るガラス戸のカーテンが大きく開けてあって、庭に白い霧が流れるのが見えているのに気付いた。
そしてその中に何か白いものが……。
錯覚かしら? 中の明りを点《つ》けると、表は見えなくなってしまうだろう。
そろそろとガラス戸の方へ近付いて行く。
霧の中のそれ[#「それ」に傍点]は次第にはっきりと形をとり始め……。
はっきりと見えた。――ウェディングドレス姿の女が、後ろを向いて立っている。
「やめて!」
と、有紀子は叫ぶように言って、カーテンを思い切り強く引いた。
同時に目をつぶる。――何も見たくない!
もう何も!
やめて、やめて。お願いだから!
私は何もしてない。何も。――悪いことなんか、何も!
と――庭の方で、叫び声が聞こえた。
今のは……? 何だったんだろう。
空耳? でも、小さくはあったが、さっきのチャイム以上にくっきりと耳に残っている。
有紀子はカーテンを開けようとした。
またチャイムが鳴る。有紀子は一瞬迷ってから、玄関へと出て行った。
妙なもので、こんなときは足取りが一向に急がない。
「はい。――どなた?」
と、ドア越しに声をかけている。
「開けて下さい」
と、男の声がした。「殿永です」
「あ、刑事さん? 待って下さい」
ドアを開けると、殿永と亜由美、それにドン・ファンまでが入って来る。
「何か?」
「変ったことはありませんか」
と、殿永が言った。「何か危険なこととか――」
「いえ、別に」
別に、どころではないのに、有紀子はそう言っていた。「ただ……庭で……」
「庭で? どうしたんです」
「誰かが――叫び声を。ウェディングドレスを着てたんです。きっと――チーフなんだわ。私のことを……恨んでるんです」
「有紀子さん! しっかりして」
と、亜由美が有紀子の肩をつかむ。「殿永さん」
「ともかく庭へ」
居間へ入って、明りを点けると、一斉にガラス戸の方へ。
庭へ出た殿永は、
「カーテンをもっと開けて! 光が庭を照らすように」
と言った。「――やっぱりか!」
庭の真中に、ウェディングドレス姿の女性が倒れていた。亜由美とドン・ファンも駆け寄る。
「――大丈夫かしら」
「刺し傷だ。これなら、急所は外れてる。急いで救急車を!」
と殿永が怒鳴る。
有紀子が電話へと駆けて行った。
「誰なんです?」
と、亜由美は言った。
「見当がついてるんじゃありませんか?」
「石田ゆかり」
「そうです」
殿永が抱き起こしてヴェールを外すと、青ざめた石田ゆかりの顔が現われた。
「じゃあ……」
「ともかく、今は出血を止めなくては」
と、殿永は言った。「足の方を持って下さい。居間のソファへ寝かせましょう」
何とか中へ運び込んで息をつくと、殿永は器用に止血をした。
「救急車がすぐ来てくれるといいんですけど……」
と、有紀子が言った。「この霧ですから」
「ドン・ファン。あんた表で待ってて、吠えて知らせなさい」
と、亜由美が言ったが、ドン・ファンの方は知らん顔。
「この役立たず!」
殿永は、とりあえずの手当をすると、
「――奥さん」
と、有紀子の方を向いて、「この人があなたを恨む心当りは?」
「ゆかりさんが……。見当もつきません」
「そうですか?」
有紀子が目を見開いて、
「じゃ……ゆかりさんも?」
「有田裕子さんはショックで自殺した」
と、亜由美は言った。「でも、矢川さんのことを好きだったからじゃない。有紀子さんのことが[#「有紀子さんのことが」に傍点]好きだったからですね」
有紀子はソファにぐったりと身を沈めると、
「そうです」
と、小さく肯いた。「チーフは……私の恋人でした。でも私は矢川と会って、自分が男性を愛せると知りました。とてもチーフには言えなかった。ショックを受けると分っていたので」
「あの夜、何があったんです?」
と、殿永が訊く。
「私は――チーフに呼ばれて、マンションへ行きました。チーフは、私が裏切ったと言って責め……。その内、一緒に死のうと――私の首を絞めようとしました」
「それで?」
「争っている内に……。私、学生のころソフトボールの投手でしたから、腕の力はあるんです。夢中になって――チーフの首を絞めていました。チーフがぐったりしたので、びっくりして……。私、マンションから逃げ出してしまいました。私が――チーフを殺したんです」
有紀子は両手で顔を覆った。
病院の廊下の奥まった一画。
ソファのある場所に、重苦しい沈黙が広がっていた。
医師がドアを開けて出て来る。
「どうです?」
と、立ち上がったのは、矢川だった。
「大丈夫。出血もそうひどくなかったし」
と、医師が肯いて、「二、三週間で退院できるでしょう」
「良かった!」
と、矢川が息をつく。
殿永と亜由美はそっと目を見交わした。
「奥さんの所へ戻ってあげた方が」
と、亜由美は言った。
「そうします。しかし、石田君がどうしてそんな……」
「石田ゆかりも、有田裕子を愛していたんですな。――恋人[#「恋人」に傍点]という仲だったかどうかはともかく、その死の責任が有紀子さんにあると思って、どうしても許せなかったのかもしれない」
「有紀子とチーフが……。でも、チーフの日記は?」
と、矢川が訊く。
「さあ……。それは石田ゆかりが意識を取り戻したら、訊いてみましょう」
と、殿永は言った。
「では――うちへ一旦帰ります」
「どうぞ」
矢川が礼を言って帰って行くのを、亜由美は見送って、
「いいんですか」
と言った。「有田裕子の死を……」
「果して、有紀子が殺したのかどうか。――それなら、死体を自殺に見せかけるように吊《つる》したのは誰か、ということになる」
「気を失っていただけだと?」
「どっちとも言えませんね」
と、殿永は肩をすくめ、「意識を取り戻して、もう有紀子と顔を合せられない、と思い、首を吊ったのかも。――そのとき、有紀子に疑いがかからないよう、わざと矢川克二を愛していたという日記を残したのではないでしょうか」
「そうか。それなら分りますね」
と、亜由美は肯いた。「でも、誰が石田ゆかりを刺したんでしょう?」
「それはこれからです。中尾殺しもね」
亜由美は少しためらってから、
「実は――ちょっと隠してたことがあったんです」
と言った。
「ほう?」
亜由美は、有紀子が中尾からゆすられていたことを話した。
「――では、あの谷山先生との約束で?」
「ごめんなさい。もっと早く話しておけば良かったけど」
「いやいや」
と、殿永は微笑《ほほえ》んで、「恋人との約束は神聖なものです」
「恋人ってほどでもありませんけど」
と、亜由美は少し顔を赤らめた。「でも、有紀子さんは男に関心なかったんでしょう、矢川さんと会うまでは」
「中尾が、石田ゆかり同様、酔わせてホテルへ連れ込んだ、というところでしょうかね」
「ひどい奴《やつ》!」
「さよう」
と、殿永は肯《うなず》いて、「そんな男でも、命は命です。殺していいというわけじゃない」
「もしかして……石田ゆかりが、やっぱり?」
「石田ゆかりも、男に興味がなかったとしたら、もし無理にそんなことになれば、怒りに任せて殺したかもしれませんね」
と、殿永は言った。「彼女の意識が戻れば、はっきりするでしょう」
亜由美は、つい無意識にドン・ファンの方へ手を伸ばして、そっと頭をなでていたのだった……。
石田ゆかりは、少しボーッとした気分で、それでも誰かがベッドのそばに立っているのに気付いた。
「あなたなの……」
と、相手を見分けて、「来てくれたのね……」
相手は黙ってゆかりを見下ろしている。
「――心配しないで」
と、小さく頭を振って、「あなたを恨んでいないわ。あなたの気持は分るもの。家庭を――子供さんを守らなくちゃね」
相手が深々とため息をつく。
「心配しないで」
と、ゆかりは言った。「私――死んでも良かったのよ。でも、あなたの刺した所が……。そうよね、あなたはいい人だから。でも私、黙ってる。そう。――心配しなくても大丈夫……」
ゆかりは、再び眠気がさして来たのか、目を閉じて、軽い寝息をたて始めた。
そして……病室の中は、しばし静かになったが……。
「ワン」
突然、犬の吠《ほ》える声が聞こえて、その女はハッと息を呑《の》んだ。
ドン・ファンが、じっと女を見つめている。
ドアが静かに開いた。
「――いけませんよ」
と殿永が言った。「この上、その人を殺したりしては」
女がうずくまって泣き出した。
「――さあ、行きましょう。けが人は静かに寝かせておかなくては」
殿永は女の腕を取って、立たせた。
中尾久子は、やっと涙を呑み込むと、
「殺せなかったわ……」
と言った。「やっぱり……どうしても、殺せなかった」
「それが当然ですよ。憎い夫は殺せてもね」
と、殿永は促して、病室を出た。
ドン・ファンも廊下へ出て来る。
「よく居眠りしなかった」
と、亜由美がほめる。
「ワン」
当然のことをほめられて心外、という様子でドン・ファンがもう一声鳴いた。
もちろん病院の中のこととて、小さな声ではあったけれど。
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エピローグ
「じゃあ、中尾久子が亭主を殺したっていうわけ?」
と、聡子が言った。
「そうそう」
と、亜由美がサンドイッチをパクつきながら言った。
――いつも食べているかのような二人だが、話のできる時間としては、昼食のときぐらいしかないのだから、仕方ない。
「平凡といえば平凡。夫が浮気している現場へ踏み込んで、カッとなって刺した」
「平凡……かね」
聡子は首をかしげて、「私、平凡な結婚をしようと思ってるんだけど」
と言った。
「石田ゆかりがそこに居合せたわけね。でも、中尾久子を警察へ突き出すなんて気にはなれなくて、一緒にその場から逃げた。そして、久子に言って、会社の人たちの前で、自分を叩《たた》かせるというお芝居をした……」
「凄《すご》いね。――でも、どうしてその石田ゆかりを殺そうとしたの?」
「久子は心配になって来たのよ。何といっても、夫を殺したところを見られてるわけですもの。石田ゆかりがしゃべってしまえば、自分と子供の生活がどうなるか……。考え出すと、ノイローゼみたいになっちゃったんでしょうね」
「そんなもんか」
と、聡子は肯《うなず》いた。「じゃ、石田ゆかりを傷つけたのは? あのお葬式のときは、中尾久子は――」
「あれは石田ゆかりが自分でやったの」
「自分で?」
「有紀子がやったのかもしれないと、夫の矢川に思わせて、あの二人を苦しめるのが狙《ねら》いだったんでしょう。有田裕子が死んで、矢川と有紀子が幸せにしているのが、石田ゆかりには許せなかったんだと思うわ」
「そうか……。男と女の仲だけじゃないね、怖いのは」
「怖くてすてき、かな」
と、亜由美は言った。「――あ、先生」
谷山が遠くから手を振っている。
「亜由美、行っといでよ。私はお呼びじゃない」
と、聡子が笑って言った。「サンドイッチの残りは引き受ける」
「よろしく!」
亜由美はピョンと立ち上がって、テーブルの間をすり抜けて行った。
「――すまないね、昼食の最中に」
と、研究室へ入って、谷山は言った。
「いいえ。事件のことは……」
「うん。聞いた。あの殿永さんって刑事が、話してくれた」
と、谷山は言った。「いい人だな、あの人は」
「そうですね」
「仲人を頼もうかと思ってる」
「そうですか」
と言って、「――はあ?」
「僕らの結婚の仲人をさ」
「先生!」
と、亜由美は目を丸くした。「冗談やめて下さい! 顔だけにして」
つい、言いすぎてしまうのが亜由美の悪いくせである。
「君ね」
と、谷山はしかめっ面をして、「僕のことを好いてくれてると思ってたが」
「いくら好きでも……。ちょっと気が早すぎませんか?」
「そうかな」
「そうですよ。まだ一回デートしただけなのに、それもずぶ濡《ぬ》れになって」
「そうか。じゃ、少し待とう」
「そうして下さい」
「五、六日でいいかね」
ちっとも待つことにならない。
「せめて――大学出てからにして下さい」
「だめだ」
「どうして?」
「僕と結婚すれば、落第させない」
「あのね――。私、結婚しなくたって、ちゃんと卒業できます」
と、亜由美は主張した。
「じゃあ……ともかく付合いだけは続けてくれ」
「はい」
「良かった!」
と、谷山はニヤリと笑って、「初めに無茶を言っときゃ、付合いくらいはOKになるだろうと思ってたんだ」
「値切ってたんですか?」
と、苦笑して、「でも――先生は有紀子さんのことも好きだったんじゃないんですか」
「あの子とは何でもない」
「ならいいですけど」
亜由美は、何となくホッとした。
いや、谷山のことは好きだ。愛すべき人だと思っている。
でも――まだやっと恋の入口に立ったところ。これから、お互いのことを知らなくてはならないのだ。
焦《あせ》ることはない。だって若いんだものね、私、と亜由美は思った。
「亜由美……君」
と谷山が少々ぎこちなく言った。
「亜由美、でもいいですよ」
と笑って、「何ですか?」
「ちょっとその……キスしてもいいかね?」
「ええ。今度は邪魔も入らないでしょうからね」
谷山が立ち上がって、亜由美の方へ歩いて来る。
亜由美はちょっと目をつぶって、顔を心もち上へ向けた。
谷山が亜由美を抱き寄せて――。
「ワン!」
「キャッ!」
と、亜由美が飛び上がった。
「ドン・ファン! 何してるのよ、こんな所で!」
ソファのかげから飛び出して来たドン・ファンを見て、亜由美は目を丸くした。
「へへ」
と、いつの間にかドアが開いて、聡子が顔を出している。「亜由美だけにいい思いをさせてなるもんか」
「こいつ! それでも親友か!」
「私のプランじゃないもん」
「じゃ、誰よ」
すると、聡子の後ろからヒョッコリ現われたのは母の清美で、
「お母さん!」
「あんたが、失礼のないようにしてるかと思って。――まあどうも、亜由美の母でございます。いつも娘が――」
「ど、どうも!」
と、谷山が硬くなって頭を下げる。
「ふつつかな娘でございますが」
「いや、こちらこそ」
――ふつつかな娘? それより、親の方が「不可解な親」だよ、と亜由美はため息をついた。
谷山との恋が、無事に進展するものやら……。
「お前も、ちっとは私の身になってよ」
と、亜由美がドン・ファンの方をにらんでやると、
「クゥーン」
と一声、ドン・ファンはそっぽを向いて、悠然と欠伸《あくび》をしたのだった……。
本書は、一九九三年十二月に、実業之日本社より刊行されたものの文庫化です。
角川文庫『半人前の花嫁』平成9年10月25日初版発行