角川e文庫
僕らの課外授業
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
|僕《ぼく》らの|課外授業《かがいじゅぎょう》
|何《なん》でも|屋《や》は|大忙《おおいそが》し
ラブ・バード・ウォッチング
|夢《ゆめ》の行列
|僕《ぼく》らの|課外授業《かがいじゅぎょう》
プロローグ
朝の八時四十分|頃《ごろ》、東京駅に行ったことがあるかな。
もちろん、祭日や日曜日じゃない、|普《ふ》|通《つう》の日だ。そう、たぶんないだろうな。中学生や高校生には、およそそんな時間に東京駅へ行く用事なんて、考えられない。
ところが、めったにないこと、|必《かなら》ずしも君の身に起こらないとも|限《かぎ》らないのだ。ちょうどこの朝、|中《なか》|込《ごめ》|友《とも》|也《や》が、その「めったにないこと」にぶつかったように。
――死ぬよ、もう!
中込友也は、さっきから|何《なん》十回も同じことをつぶやいていた。
|高《たか》|尾《お》発東京行きの|中央《ちゅうおう》線|快《かい》|速《そく》電車は、やっと|御《お》|茶《ちゃ》ノ|水《みず》に着いた。――|何《なに》が快速だ、年中|停《と》まりやがって!
友也は、|四《よつ》|谷《や》駅で左にねじれた体を御茶ノ水の駅で、やっと元に|戻《もど》した。何しろものすごい|混《こん》|雑《ざつ》。――いや、いつも|空《す》いた電車で学校へ|通《かよ》っていた友也は、こんなに|押《お》されて、|潰《つぶ》れちゃうんじゃないか、潰れなくとも、|酸《さん》|素《そ》が足りなくなって、|窒《ちっ》|息《そく》するんじゃないか、と本気で心配したくらいだ。
しかし、|一《いっ》|緒《しょ》に乗っている|大人《おとな》たちの顔を見ると、そう|恐怖《きょうふ》にゆがんでもいなくて、もうあきらめきったようす。どうやら、今日が|特《とく》|別《べつ》な|混《こ》み方というわけでもないらしいと分かって、ひとまず安心した。
安心しても、暑さと息苦しさは一向に|逃《に》げていかない。
二学期が始まって半月。九月の|中旬《ちゅうじゅん》といえば、まだ|残《ざん》|暑《しょ》でうだる日もある。その中でこの混雑である。立っているだけで|汗《あせ》が出る。|額《ひたい》といわず|首《くび》|筋《すじ》といわず、|背《せ》|中《なか》といわず、汗がどんどん流れ落ちていく。それをぬぐおうにも、ハンカチ一|枚《まい》、ポケットから出せないのだ。手を動かせないのである。
もう、ただ早く東京駅へ着いてくれないかと、それだけを友也は|祈《いの》っていた。
電車はノロノロと進んでは停まり、進んでは停まって、やっと|神《かん》|田《だ》に着いた。いくらか|降《お》りる人もあって、少し人の|塊《かたまり》が|揺《ゆ》れ動いた。
四谷駅あたりでは|大《だい》|分《ぶ》|殺《さっ》|気《き》立っていた車内の空気も、終点が近づくにつれ、大分|和《なご》やかになってきて、|誰《だれ》もがホッとしているようだ。もちろん友也も|例《れい》|外《がい》ではない。
中込友也は、|杉《すぎ》|並《なみ》の|区《く》|立《りつ》中学三年生である。体が大きいので、たいてい高校生だと思われる。
|実《じっ》|際《さい》に高校生ならいいのに、と友也は思った。高校生なら、来年の高校|受《じゅ》|験《けん》はないわけだから。当たり前の話だが。
ところでごく普通の中学生である友也が、なぜこんな|通《つう》|勤《きん》ラッシュの国電に乗っているのか、というと、家の用事で|仕《し》|方《かた》なく、東京駅まで荷物を受け取りに行くところなのである。
仕方なく、とはいっても、友也にすれば、親|公《こう》|認《にん》で|授業《じゅぎょう》をさぼれるのだから、こんなうまい話はない。むしろ|喜《よろこ》び|勇《いさ》んでこの役を引き受けたのだった。
もっとも、そのときは、こんな|殺《さつ》|人《じん》|的《てき》混雑の電車に乗ることなど計算に入っていなかった。
友也の父親は、|転《てん》|勤《きん》で|名《な》|古《ご》|屋《や》へ行って、もう一年近くになる。家には高校受験を|控《ひか》えた友也と、私立中学を受けようとしている妹がいるので、|結局《けっきょく》母親は東京に残って、父|一人《ひとり》が名古屋へ行くことにしたのである。
おかげで、普通なら父がやるようなこういう仕事も、ときどき友也のほうへ回ってくる。友也としては、それが楽しみでもあって、大人びた気分を味わっては、妹にいばり|散《ち》らして、|馬《ば》|鹿《か》にされているのだった。
神田駅を出て、もう東京駅のレンガ色の|姿《すがた》が見えて来ると、そろそろ乗客たちも、モゾモゾと動き始める。――その|拍子《ひょうし》に、友也はその女の子に気づいたのだった。
|俺《おれ》みたいな|奴《やつ》がいる、と友也は思った。もちろん、その女の子が友也に|似《に》ていたわけじゃない。
たぶん同じくらいの|年《ねん》|齢《れい》で、セーラー服でこそないけれど、白のブラウスの|胸《むな》|元《もと》にはどこかの学校の|紋章《もんしょう》が|縫《ぬ》い取ってある。
|丸《まる》っこい顔の、|可《か》|愛《わい》い女の子で、友也の|好《す》きなアイドル歌手と、どことなく似た顔立ちだった。
しかし、この電車で、どこへ行くんだろう? 友也は、女の子が、学校|鞄《かばん》をさげているのに気づいた。あんな所に学校があるのかな。もしあるとしても、時間がおかしい。もっと早く始まるはずだ。
何か用事があって、駅に|寄《よ》ってから学校へ行くのか。友也は、どうにも、その女の子のことが気になって、目を|離《はな》すことができなかった。
やっと、東京駅のホームに電車が|滑《すべ》り込んだ。やれやれ、乗っていたのは一時間足らずだが、友也は三時間も乗っていたような気がした。
|扉《とびら》が開くと、たちまちホームは人であふれる。そして|階《かい》|段《だん》へ向けて、|滝《たき》がなだれ落ちるように、流れができる。
友也は感心した。あの大混雑から|解《かい》|放《ほう》されたのだから、思い切り|駆《か》け出したくなるだろうと思ったのに、いとも|従順《じゅうじゅん》に、|黙《もく》|々《もく》と流れに|従《したが》っている。
毎日、|訓《くん》|練《れん》されているのかもしれないが、それにしても大したものだ、と思った。
もちろん、こういうとき流れに|逆《さか》らって動くことはできないので、友也も、おとなしく流れに|沿《そ》って|小《こ》|刻《きざ》みに足を進めて行った。
いつになったら階段につくのかなあ。
あの女の子の姿も、もちろんどこかに見えなくなっている。
「ここから階段です」
という|札《ふだ》が下がっている。こういう|表示《ひょうじ》が|必《ひつ》|要《よう》だということが、友也にも実感できた。
階段を降り始めて、友也は目の前を、あの女の子が歩いているのに気づいた。いったいどこから出て来たのか、ふと見るとそこにいた、という感じである。
ツイてるなあ、今日は、と友也は思った。こんなことでも、あの|満《まん》|員《いん》電車の|苦《く》|労《ろう》を|帳消《ちょうけ》しにするには|充分《じゅうぶん》なのである。
いい気分で階段を降りて行くと、前にいたその女の子が、|突《とつ》|然《ぜん》ふらついた。階段に足をおろすタイミングがずれたらしい。|倒《たお》れそうになる。この混雑の中で転んだら、それこそ|大《たい》|変《へん》である。
友也は、とっさに手をのばして女の子の|腕《うで》をつかんだ。女の子は何とか転ばずに|済《す》んで立ち直った。
女の子が|振《ふ》り向いて友也を見ると、急に|頬《ほお》を赤く|染《そ》めた。
「――ありがとう!」
と|低《ひく》い声で彼女は言った。
だが、ここでのんびり話をしている|暇《ひま》は、|残《ざん》|念《ねん》ながらなかった。そのまま階段を降り|続《つづ》けなくてはならないのだ。
通路へ出ると、友也はどっちへ行ったものやら|迷《まよ》ったが、いやおうなしに、流れに押されて歩き出していた。あらかじめ、階段を降りるときに、左右どちら|側《がわ》かへ寄っておかないといけないらしい。
人の波にのまれて見えなくなっていたあの女の子が、またヒョイと姿を見せた。どうやら、この女の子とよほど|縁《えん》があるんだなあ、と友也は思った。
「そうだ」
どうせ今日は学校を休んだのだ。荷物を受け取るだけなら、そう時間はかからないだろう。この女の子がどこへ行くのか、ちょっとついて行ってみるのも|面《おも》|白《しろ》いかもしれない……。
少し、人の流れも散り始めて、何とか思う方向へと歩けるようになってきた。
女の子は急いでいるらしく、足を早めて|改《かい》|札《さつ》|口《ぐち》へと向かった。東京駅に|詳《くわ》しくない友也には、そこが何口なのかも分からなかったが、ともかく出口には|違《ちが》いない。
女の子は、後ろを振り向く|余《よ》|裕《ゆう》などない様子で、ほとんど走るような足取りで駅の広い|構《こう》|内《ない》を横切って行く。|大《おお》|柄《がら》で、足にも自信のある友也でさえ、ついて行くのに苦労するほどだった。
いったいどこへ行くんだろう?
友也は、女の子を|見失《みうしな》うまいとして|必《ひっ》|死《し》だった。ついて行って、どうするのか、それを考えるだけの余裕もなかった。
女の子は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見ながら、ますます足を早めた……。
1 |幽《ゆう》|霊《れい》を|尾《び》|行《こう》しろ
それは|突《とつ》|然《ぜん》やって来た。
考えごとをしながらぼんやり立っていた|友《とも》|也《や》の頭めがけて、バレーボールが|唸《うな》りをたてて|空《くう》を切った。
グワーン、と耳が鳴って、友也は|一瞬《いっしゅん》よろけた。何だ? どうした?
いっせいに|笑《わら》い声が起こった。
「おい、何、ぼんやりしてんだよ!」
|中《なか》|込《ごめ》友也は、やっと、自分がバレーボールをやっていたんだな、と思い出した。
「おい、代わってくれ!」
と声をかけて、友也はバレーコートを出た。
頭にボールをいやというほどぶつけられて、まだ足元がフラつく。友也は、木の下に|腰《こし》をおろした。
昼休み。よく晴れて、上天気である。
しかし、空気が|乾《かわ》いていて風があるので、|涼《すず》しかった。――秋なんだな、と友也はあまり|似《に》つかわしくないことを考えた。
「中込君」
声をかけてきたのは、同じクラスの女子、|北《きた》|川《がわ》|容《よう》|子《こ》である。
「|何《なん》だ?」
「|悩《なや》みごと?」
「|僕《ぼく》が?」
「だって、むずかしい顔してるわ」
「ボールを頭にくらったんだ」
容子は声をあげて笑った。
「|何《なに》がおかしいんだよ!」
「だって……」
友也がにらんでも、容子は笑い|続《つづ》けている。そのうち、友也も笑い出してしまった。
「――|妙《みょう》なことがあったんだ」
少しして、友也は言った。
「|UFO《ユーフオー》でも見たの?」
「|違《ちが》うよ」
友也は、ちょっと|迷《まよ》った。それから言った。
「|幽《ゆう》|霊《れい》だよ」
容子は、
「へえ」
とだけ言った。
もちろん、今の中学三年生が、お化けの話ぐらいで|怖《こわ》がるはずもないが、それにしても、少々物足りない|反《はん》|応《のう》である。
もっとも、北川容子は、何とかいう|昔《むかし》の|殿《との》|様《さま》の|子《し》|孫《そん》だとかで、いたっておっとりしたお|嬢《じょう》さんである。そのくせ気が強くて、男の子とも平気でけんかして、
「世が世ならお|姫《ひめ》様なんだからね!」
といばるのがくせ[#「くせ」に傍点]である。
こういう|高《こう》|貴《き》な(?)生まれ育ちのせいか、怖い話を聞いても、怖がるまでに一日かかる――というのはオーバーかもしれない。
「どんな顔してた?」
と容子は|真《ま》|顔《がお》できいた。
「幽霊?――|可《か》|愛《わい》かったよ」
と友也は言った。
「話してよ」
「うん……」
友也は、国電の中で見かけた女の子のあとをついて行ったことを話した。
「やだ、友也、女の子にくっついて行ったの?」
友也と|呼《よ》ぶのは、|機《き》|嫌《げん》のいいときである。
「|別《べつ》に|変《へん》な目的じゃないぞ」
「分かってるわよ。それでどうしたの?」
「その女の子、どんどん地下へ|降《お》りて行くんだ。こっちはもうついて行くだけで|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》さ」
「地下? 東京駅のどの|辺《へん》?」
「分かんないよ、そんなこと。だって、めったにあんなとこ行かないしさ。|見失《みうしな》わないようにと思って|夢中《むちゅう》だったもん」
「それにしたって――」
「|階《かい》|段《だん》だった。どんどん下へ下へと降りて行くんだ。|何《なん》|階《かい》分降りたかなあ。たぶん五、六階は下がってるよ」
「それで?」
「一番下に着いた。何か、|人《ひと》|気《け》のない通路があったんだ。乗り|換《か》え用とか、そんなんじゃない。ともかく、|誰《だれ》もいないんだ」
「そんな所、東京駅にある?」
「あった[#「あった」に傍点]んだよ、本当に。でも変だろ? そんな女の子がさ、駅の、人っ子|一人《ひとり》いない通路を歩いて行くなんて」
「その子、友也に気づかなかったの?」
「スポンジ|靴《ぐつ》はいてたから、足音しなかったと思うんだ」
「それからどうしたの?」
容子もかなり話に引き|込《こ》まれている様子だ。
「|真《ま》っ|直《す》ぐな通路でさ、向こうが|振《ふ》り向いたら終わりだから、少し間あけてついて行ったんだ。そしたら、角を曲がって――」
「角を曲がって?」
「――僕が曲がったときは、もういなかった」
「道が分かれてたの?」
「行き止まりだったんだ」
容子は、キョトンとしていたが、
「それで幽霊か」
「それだけじゃないんだ」
と、友也は言った。「そこは行き止まりで、ドアも何もない。だからあの女の子はどこへ消えちまったのか分からないんだ」
「|秘《ひ》|密《みつ》の入口でもあるんじゃない?」
「東京駅にかい?」
「そうねえ……」
と容子が考え|込《こ》む。
容子は、|古《こ》|典《てん》|的《てき》な美人の顔立ちである。だから少し|大人《おとな》びて見える。
あの女の子はどっちかというと|丸《まる》っこい顔立ちの、「可愛い」タイプ。友也の|好《この》みとしては――どっちでもよかった。
「|幻《まぼろし》でも見たんじゃない?」
と、容子が言った。「いつも女の子を追っかけたくて|仕《し》|方《かた》ないから、それが幻になって見えたのよ」
「よせよ、僕が少しおかしいみたいじゃないか」
と友也は|抗《こう》|議《ぎ》した。
「だって、その女の子が|実《じっ》|際《さい》にいたって|証拠《しょうこ》はないじゃない」
「それが違うんだ」
と、友也は|得《とく》|意《い》げに、「その、女の子のいなくなった所に、定期入れが落ちてたんだよ」
「見せて!」
「もうない」
「何だ」
「定期|券《けん》と身分|証明書《しょうめいしょ》が入ってた。|写《しゃ》|真《しん》が|張《は》ってあって、名前と住所も分かる」
「それ、どうしたの?」
「|届《とど》けたんだ」
「駅に? つまんないじゃないの!」
「違うよ。それがまた|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なんだ」
「まだ|続《つづ》きがあるのね?」
「うん。――その定期入れ持って、僕は通路を|逆戻《ぎゃくもど》りした。階段を上って行くと、何か違う場所へ出ちゃってね。あっちこっちウロウロして、やっとこ表に出たんだ」
「友也、方向|音《おん》|痴《ち》だもんね」
「荷物受け取って、帰ろうと思ったけど、もう一度、あの定期入れを見た。――定期券はあと四、五日で切れるようになってて、東京駅と|吉祥寺《きちじょうじ》の三か月定期だった」
「それで?」
「考えたんだ。どうせ今日は一日時間がある。せっかくあの子をつけてみたんだ。とことんやってやれ、と思ってね」
「分かった! その家へ行ったんでしょ」
「|正《せい》|解《かい》。ところがね――」
駅前の交番で教えられた道をたどって、十分ほど歩くと、その家へ着いた。
身分証明書の名前は、〈|大《おお》|和《わ》|田《だ》|倫《みち》|子《こ》〉とある。私立中学の三年生だった。
友也は、その|玄《げん》|関《かん》のチャイムを鳴らした。
――ごく|普《ふ》|通《つう》の住宅で、|割《わり》|合《あい》に新しい。
少し待って、もう一度鳴らすと、
「はい、どなた?」
と女の声がした。
「すみません、ちょっと落とし物を拾ったので、届けに来たんです」
と友也は言った。
ドアが開いて、四十|歳《さい》ぐらいの、少しやせ形で血色の悪い母親らしい女性が出て来た。
「あ――これ、こちらのお嬢さんのですね」
友也はその定期入れを|差《さ》し出した。「ちょうどこの近くに用があったんで、届けに来たんです」
「|娘《むすめ》の……ですけど……」
と言ったきり、その母親は、じっと定期入れを見つめている。
友也はちょっと|面《めん》|食《く》らった。その母親の目から、急に|涙《なみだ》が流れ落ちたのだ。
「どうも……ありがとう。これはどこで?」
と、その母親は涙をぬぐって言った。
「駅です。あの――吉祥寺の」
と言ってから、「何かあったんですか?」
ときいた。
「いいえ、びっくりさせてごめんなさい」
と、母親はすすりあげて、「どうぞ、入って下さいな」
と|促《うなが》した。
本当なら、|結《けっ》|構《こう》です、と|断《ことわ》るところだが、ここは|図《ずう》|々《ずう》しく上がり|込《こ》むことにする。
「ちょっとこちらへ……」
正面の|居《い》|間《ま》ではなく、母親は友也を|奥《おく》のほうの|部《へ》|屋《や》へ|連《つ》れて行った。
「娘の倫子はここですの」
と、母親が言った。
友也は目を|疑《うたが》った。|四畳半《よじょうはん》の和室の奥に|仏《ぶつ》|壇《だん》があり、そこには黒いリボンをかけた写真があった。
その写真の中で笑っているのは、|間《ま》|違《ちが》いなくあの女の子だったのだ。
「――それで幽霊か」
と、容子はうなずいた。「でも、そんな|馬《ば》|鹿《か》なことって――」
「うん、|僕《ぼく》もそう思ったよ。でも、それから居間のほうでお茶とお|菓《か》|子《し》出してくれてさ、いろいろ話してくれたんだ。――|倫《みち》|子《こ》って女の子は、一か月前に|自《じ》|殺《さつ》してるんだよ」
「自殺?」
「|一人《ひとり》っ子でね、もう両親はガックリきて、父親もまるまる半月、会社に行かなかったんだって」
「一人っ子っていうと、|双《ふた》|子《ご》の|姉《し》|妹《まい》もないわけか」
「そうなんだ。僕もそれを考えたんだけどね。――ともかく、あの母親の話、|嘘《うそ》とも思えないんだよな」
「でも、そんな定期入れを……」
「だから、向こうは、ずっと前に娘が落としたのが、今、見つかって、それを僕が届けたと思ってるのさ」
「話したの、東京駅のこと?」
「言うもんか」
と友也は首を|振《ふ》った。「そんなこと言ったらどう思われるか……」
「少しここがおかしいと思われるか――」
容子は友也の頭を人さし指でチョイとつついて、「でなきゃ、|謝《しゃ》|礼《れい》目当てのでたらめかと思うでしょうね」
「そうだろ?――なあ、どうしたらいいと思う?」
いつもなら容子に「どうしよう」なんてきく友也ではないのだが、テスト直前、どうしても分からないところがあると、
「な、容子、ちょっと教えてくれよ」
と頭を下げていくので、本当に|困《こま》ったときはつい|頼《たよ》ってしまうくせがついていた。
「一番いいのは、そんなことケロッと|忘《わす》れて、勉強に|精《せい》|出《だ》すことよ」
「つまんないじゃないか」
「二番目は――」
「何だよ?」
容子はニッコリ笑った。
「私たち|二人《ふたり》で調べること」
「そのほうがいいや!」
「私だってそうよ」
容子はクスッと笑った。
「じゃ、どうする?」
「今度の日曜日にハイキングに行かない?」
と、容子がきいたので、友也が面食らった。
「どこへ?」
「東京駅」
「|例《れい》の通路を|捜《さが》すんだな? よし、やろう!」
友也が目を|輝《かがや》かせた。この場に友也の母親がいたら、これぐらい|張《は》り切って勉強してくれたらねえ、と言ったに違いない。
「おい、中込!」
と|突《とつ》|然《ぜん》|呼《よ》ばれて、友也はびっくりした。
見れば|担《たん》|任《にん》の|教師《きょうし》|野《の》|口《ぐち》がやって来る。ちょっと古いタイプの、おっかない顔の教師だが、|実《じっ》|際《さい》はなかなか|面《おも》|白《しろ》い男である。
「友也、|何《なに》かやったの?」
と、容子が言った。
「よせよ、この|真《ま》|面《じ》|目《め》な人間つかまえて」
友也は立ち上がって、「何ですか?」
ときいた。
「お前に客だ」
「客?」
「|応《おう》|接《せつ》|室《しつ》へ来い。すぐだぞ」
「はあい。――|誰《だれ》かな?」
|一《いっ》|緒《しょ》に歩き出しながら、容子が言った。
「|幽《ゆう》|霊《れい》じゃない?」
ところが、容子の言葉も、まんざらはずれてはいなかったのである。
応接室へ|二人《ふたり》が入って行くと、ソファから、五十|歳《さい》ぐらいの、|背広姿《せびろすがた》の男が立ち上がった。
二人というのは、もちろん友也と容子で、呼ばれたのは友也だけであるが、容子は「|保《ほ》|護《ご》|者《しゃ》」を|自称《じしょう》してくっついて来たのだ。
「中込君というのは……」
何となく|疲《つか》れて、やつれた感じのその男は、友也の顔を見ながら言った。
「僕ですけど」
「ああ。――私は大和田という者で……」
大和田! あの「幽霊」が大和田倫子だった。
「それじゃ、この間の……」
「そう、倫子の定期入れを届けてくれたのは君だね」
「はい、そうです」
「そのことで、ぜひ話がしたくてね。――かまわないかね」
「ええ……」
友也は、そばに立っている容子に|背《せ》|中《なか》を|突《つ》っつかれて、「あ、あの――この子は僕の友だちで――」
「北川容子といいます」
容子は、|丁《てい》|寧《ねい》に頭を下げた。「中込君と一緒に定期入れを拾ったんです」
よく言うよ、と友也は感心した。大和田のほうは、すっかり|真《ま》に受けた様子で、
「ああ、それじゃぜひ一緒に」
とうなずく。「――娘のことは、|家《か》|内《ない》がお話ししたと思うが、一か月前に、突然自殺してしまってね。私どもにもまったく|理《り》|由《ゆう》が分からなかったんだよ」
「お気の|毒《どく》でしたね」
と、容子が|同情《どうじょう》するように言った。
「ありがとう。一人っ子でもあったし、家内も私も、本当にがっかりしてしまってね。しかし、私も、いつまでも悲しんでばかりいるわけにもいかない。自分を|励《はげ》まして、何とか仕事に打ち込んで悲しみを乗り|越《こ》えようと思った。ところが、君が倫子の定期入れを拾ったと、届けて来てくれた」
大和田は少し間を|置《お》いて、「家内は、定期券そのものをよく見ていないので、気づかなかったが、私はすぐに|変《へん》だ、と思ったんだ」
「というと――」
「倫子の学校は|山手線《やまのてせん》を使うので、東京駅までの定期を買うはずがない。それにあの定期入れだ」
「定期入れがどうかしましたか?」
と、容子がきいた。なぜか話はもっぱら容子が引き受けていたのだ。
「あれには|特徴《とくちょう》があってね。あの|娘《こ》が自分で、|端《はし》のほうにイニシャルの|M《エム》・|O《オー》を|彫《ほ》りつけていたんだ」
「それで?」
「ところが、その定期入れは、倫子の|棺《ひつぎ》に|蓋《ふた》をするとき、私が棺の中へ入れてやったのだよ」
「|記《き》|憶《おく》|違《ちが》いじゃないんですか?」
「いや、それは|絶《ぜっ》|対《たい》|確《たし》かだ。はっきり|覚《おぼ》えている」
「じゃ、それがどうして吉祥寺の駅に落ちていたんでしょう?」
「そこなんだよ」
大和田は身を乗り出して、「ねえ君たち、あれは本当[#「本当」に傍点]に落ちていたものなのかね?」
と、二人の顔を|交《こう》|互《ご》に見た。
「おっしゃる意味が分かりませんが」
と容子が言い返す。
「つまり……ちょっとしたいたずらで、君らがもしかして倫子のことを知っていて――」
「とんでもありません!」
いきなり容子が、大声でピシリと言うと、立ち上がった。「中込君、行きましょう」
「え? でも――」
「いいから! 親切に家を|捜《さが》して届けてあげて、それで|嘘《うそ》つき|呼《よ》ばわりされちゃたまらないわ。ああ|馬《ば》|鹿《か》らしい! さ、行こう」
容子は、友也の手をぐいぐい引っ|張《ぱ》って、応接室から出てしまった。
「――おい、容子、待てよ。これじゃ調べようがないじゃないか」
と、友也が言うと、
「馬鹿ねえ」
と、容子は|涼《すず》しい顔で、「本当に、あれを吉祥寺で拾ったのなら、これが当たり前の|反《はん》|応《のう》よ。|下《へ》|手《た》に話を聞き出そうとすりゃ、かえってあっちが|怪《あや》しむわ」
容子に言われると、そんな気もする。
「だけど、せっかく父親が話しに来てるのに――」
「これで終わりゃしないわよ。きっとまた来るから、見ててごらんなさい」
「本当かい?」
「私がそう言うんだから確かよ」
このあふれる自信にはいつも友也は|圧《あっ》|倒《とう》されてしまうのである。
「そうだ! ねえ――」
教室へ|戻《もど》りかけて、容子がふと思いついたように言った。「友也、その大和田倫子って子の身分|証明書《しょうめいしょ》、見たんでしょ?」
「うん。サイズは書いてなかったぜ」
「サイズ?」
「バスト、ウエスト、ヒップのさ」
「馬鹿! 学校の名前、覚えてる?」
「もちろん。僕の|従妹《いとこ》がそこに|通《かよ》ってるんだ」
「それを早く言いなさいよ!」
と、容子は、友也の背中をポンと|叩《たた》いた。
「イテテ……。馬鹿力だなあ」
「大和田倫子って子の友だちに会って話を聞くのよ。親より友だちのほうがずっと話しやすいもんだわ」
「だって女子校だぜ。僕は……」
「行きたくてしょうがないくせに」
容子はフフ、と笑って、「ついてってあげるからさ」
まったく、容子の|察《さっ》しの|良《よ》すぎるのにも、|困《こま》ったもんだ、と友也は思った。
2 バイクに乗った|幽《ゆう》|霊《れい》
「来ないじゃあない、ちっとも」
|容《よう》|子《こ》は二|杯《はい》|目《め》のアンミツを|平《たい》らげて、言った。
「うん。|変《へん》だなあ、|確《たし》かに五時って言ったんだけど。――ここしか|甘《あま》いもの屋なんてないしなあ」
|友《とも》|也《や》は店の中をキョロキョロ見回した。
|大《おお》|和《わ》|田《だ》|倫《みち》|子《こ》の父親が会いに来た、その日の夜、友也は|従妹《いとこ》に電話してみた。
「ああ、あの|自《じ》|殺《さつ》した子ね? 知らないわ、|直接《ちょくせつ》には。だってあの子三年で、私、二年だもの」
「|仲《なか》の良かった子がいたら、ちょっと話がしたいんだけど」
と友也が言うと、向こうはしばらく考えてから、
「あ、クラブの|先《せん》|輩《ぱい》が確か|仲《なか》|間《ま》だったと思うわ。きいてみてあげるわ」
と言った。
その次の日に電話がかかって、
「|明《あ》|日《す》の五時になら会ってもいいって……」
ということだったので、友也は容子と|一《いっ》|緒《しょ》にこの店にやって来たのである。
ところが、もう五時半になろうというのに、それらしい女の子はやって来ない。店の中を見回せば、|何《なん》|人《にん》|連《づ》れかの女の子はいるが、|別《べつ》に友也たちを待っているという様子でもなかった。
「もう少し待って来なかったら、帰ろうか」
と、友也は言った。
「そうねえ。でも女の子は一時間ぐらい待たせるのは待たせるうちに入らないからね」
と、容子は言った。「もう一杯アンミツ食べるかな……」
「よく入るな、おい!」
そのとき、店の前に、バタバタと|凄《すご》い音がしたと思うと、オートバイが止まって、ジーパンに|T《テイ》シャツスタイルの女の子が|降《お》りて来た。
店に入って来ると、|空《あ》いた|席《せき》へドカッと|座《すわ》って、足をテーブルにのせ、やおらタバコを出して火をつける。
見たところ、せいぜい高校生だが、何しろそういうカッコが決まっているのである。
「ちょっと!」
と大声で、「クリームミツ|豆《まめ》!」
どうもイメージが|狂《くる》う感じである。|髪《かみ》を長く|肩《かた》にたらして、なかなかの美人である。
その|娘《むすめ》、店の中をグルッと見回して、友也たちに目を止めると、
「ちょっと、あんたたち!」
と言った。
大体、こういうふうに|呼《よ》ばれることに|慣《な》れていない容子である。ムッとした様子で、
「|何《なに》よ?」
とにらみ返す。
「あんたたちじゃないの、倫子のことを聞きたいってのは?」
友也と容子は、まさか、という感じで、その女の子を見つめた……。
「――じゃ、君三年生?」
と、友也がきいた。
「そうよ。|留年《りゅうねん》したからね」
その娘はアリス、といった。いや、もちろん本名じゃない。オートバイ仲間の|愛称《あいしょう》なのだそうである。
「中学生のくせに、タバコなんて体に悪いわ」
と、よせばいいのに、容子が言った。
「うるさいわね、この人。――ね、あんた|可《か》|愛《わい》いね。私の|好《この》みのタイプよ」
と、友也のほうへ|微《ほほ》|笑《え》みかける。「ねえ、|二人《ふたり》きりで話さない?」
「そ、それはちょっと――」
「どうして? この人がうるさいの? |追《お》っ|払《ぱら》ってあげようか?」
容子は頭へきた様子で、
「友也、帰ろうよ」
と立ち上がった。
「|一人《ひとり》でどうぞ。私、この子としばらく語り合っていくから」
アリスは友也の手をつかんで|離《はな》さない。
「ねえ、ちょっと――」
友也は|困《こま》って、「そんな、ケンカやめろよ。話、聞きに来たんじゃないか」
と両方をなだめにかかる。
何とか、もう一度、容子を席につかせることに|成《せい》|功《こう》した。
「倫子のことって、何を聞きたいの?」
と、アリスが新しいタバコに火をつける。
「|彼《かの》|女《じょ》とは親しかったの?」
と、容子がきいた。
「仲間だったからね」
「仲間って、何の?」
アリスは、表に見えるオートバイを指さして、
「あれの、よ」
「倫子さんはまだ十六になってなかったんでしょう?」
「グループの中にいりゃ、分かりゃしないもの」
しかし、あの倫子という娘が、オートバイを|無《む》|免《めん》|許《きょ》でぶっ|飛《と》ばしていたとは、友也には信じがたい気分だった。
「ご両親は知ってたのかしら」
と容子が言った。
「さあね。ともかく、倫子、親とは|完《かん》|全《ぜん》に|断絶状態《だんぜつじょうたい》だったわよ」
「断絶?」
「物分かりが悪いっていうのかな」
「――自殺の|原《げん》|因《いん》に心当たりは?」
「男よ。決まってんじゃない」
とアリスはあっさり言った。
「男……。|恋《こい》|人《びと》がいたの?」
「|危《あぶ》ないのよね、倫子みたいなのは。私のように親なんか|無《む》|視《し》しちゃえばともかく、わざと|逆《さか》らいたいでしょ。それに女の子ばっかの学校でさ、あの子、|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》に、言いつけ守って、男と|付《つ》き合ってなかったから、たまに出会った男にコロッといっちゃったのよ」
「だまされたわけね」
「とんでもない|不良《ふりょう》でさ、私も知ってたけど、女の子からプレゼントもらうだけが生きがいみたいな|奴《やつ》だったよ」
「どうして|忠告《ちゅうこく》してあげなかったの?」
容子は少し|腹《はら》が立ってきた。
「そこまでは口出ししないわよ。それに|好《す》きになってるときには、何言われたって、聞くもんじゃないし。|逆効果《ぎゃくこうか》よ」
それはそうかもしれない。
「それで、|結局《けっきょく》両親がね、金で話をつけたのよ」
「お金で!」
「その男にいくら|払《はら》ったのか――たぶん何百万だろうね。どこかへ行ってくれって。男は|姿《すがた》を消して、それを知った倫子は、恋人に|裏《うら》|切《ぎ》られ、親には、それ見たことか、ってわけでしょ。たまんないよね。――その少し前から、うっぷん晴らしか、親に|反《はん》|抗《こう》してか、私たちと一緒になって、ときには仲間のバイクを|借《か》りて乗り回してたんだ」
「自殺って、どうやって死んだの?」
「何だ、それも知らないの?」
と、アリスはタバコを|灰《はい》|皿《ざら》へ|押《お》しつぶした。「バイクよ。|酔《よ》っ|払《ぱら》ってね」
「お酒を?」
「男が金受け取って消えたと聞いて、カーッとなったんじゃない。バイク飛ばして、反対の車線に飛び込んで、乗用車と正面|衝突《しょうとつ》。三人死んだんじゃないかな」
容子も友也も|唖《あ》|然《ぜん》としていた。
とても、これが自分たちと同じ中学三年生の身に起こった|出《で》|来《き》|事《ごと》とは思えない。もちろん、いろいろと|非《ひ》|行《こう》に走る中学生は|珍《めずら》しくないが、大和田倫子の場合はけたはずれである。
「――でもさあ」
と、そのアリスという女の子は、友也と容子の顔を|交《こう》|互《ご》に見て、「あんたたち、どうして倫子のことなんて知りたいの?」
「ちょっと、ね」
と友也は言った。「まあ――いろいろあってさ」
「フーン、そうなの」
|説《せつ》|明《めい》も説明だが、それで|納《なっ》|得《とく》するほうも|変《か》わっている。
「どうもありがとう」
容子は友也を|促《うなが》して立ち上がった。
「ちょっと待ちなよ」
と、アリスが言った。
「何か用!」
「話させといて、タダで|済《す》ます気?」
容子はちょっと|表情《ひょうじょう》をこわばらせたが、|鞄《かばん》から|財《さい》|布《ふ》を出して、
「いくらほしいの」
ときいた。
「あんた金ありそうだね。一万円でどう?」
「そんなに持ち合わせないわよ」
「じゃ五千円にまけとく」
容子は五千円札を出して、テーブルに|置《お》いた。
「――サンキュー」
「タバコでも買うのね。体悪くして楽しいでしょ」
そう言って容子はさっさと店を出た。
「――何か|全《ぜん》|然《ぜん》話が|違《ちが》うなあ」
と、友也は文句を言った。
「どうして?――どうせあの大和田倫子のことなんて、全然知らなかったくせに」
「そりゃそうだけどさ」
友也は、ちょっとふてくされた顔で言った。
二人は、|坂《さか》|道《みち》を、ぶらぶらと|降《お》りて行く。
「分かってんだ」
と、容子が言った。
「何が?」
「友也、あの子がもっと|清純《せいじゅん》な|乙《おと》|女《め》だと思ってたんでしょ? それがグレてたから、がっかりしたんだ。|図《ず》|星《ぼし》でしょ」
友也は|答《こた》える代わりに、頭をポンと|叩《たた》いた。|照《て》れているのである。
「私は逆ね」
と、容子は言った。
「逆って?」
「つまり、かえって大和田倫子に|興味《きょうみ》が|湧《わ》いてきたの。その恋人の男はどこへ行ったのか? 彼女の両親は、なぜ自殺の|原《げん》|因《いん》が見当もつかないと|答《こた》えたのか」
「娘の|恥《はじ》だから言いたくなかったんだろ」
「でも、それにしちゃ、あの父親の|態《たい》|度《ど》、|変《へん》だと思わない? 私、何だか予感がするの」
「どんな予感だ?」
「何か、もっと深い|事情《じじょう》があったんだと思うわ、彼女の自殺には……」
「事情?」
「そう。彼女の|幽《ゆう》|霊《れい》が|現《あらわ》れたというのも、そこに何か[#「何か」に傍点]があるからよ」
「幽霊かな、本当に」
「それとも本人が生きているのか……」
「まさか!」
容子は何か思いついた様子で、
「――一つ仕事ができたわ」
と言った。
「僕がやるんだろ、どうせ」
「|当《とう》|然《ぜん》。――いい、大和田倫子が死んだ日の新聞を見るのよ。記事で、どんな状態だったのかを見るの」
「なるほどね。図書室のつづりを見りゃいいな。――でも、あれは自殺だったのかな? |事《じ》|故《こ》だったのかもしれないぜ」
「そうだわ!」
容子はピタリと足を止めた。「どうして気がつかなかったのかしら!――事故じゃなくて、自殺というからには、何か理由があるはずだわ。|遺《い》|書《しょ》があるとか……」
「それは調べようがないぜ」
「あきらめちゃだめ。|探《たん》|偵《てい》はつとまらないわよ、そんなことじゃ」
「|僕《ぼく》は探偵じゃないよ」
と、友也は|苦笑《くしょう》しながら言った。
二人が坂道を下って、もうすぐ駅が見えてくるという所まで来たときだった。
ブーンと、エンジンの音が|背《はい》|後《ご》に近づいて来た。
「バイクだ。|寄《よ》ったほうがいいよ」
と、友也が容子に言いながら、|振《ふ》り向いた。白いブラウスにスカートの少女が、バイクを飛ばして来る。そして――あっという間だった。
バイクは、容子とすれすれの所を|駆《か》け|抜《ぬ》けた。
「ああっ!」
容子は|叫《さけ》んだ。
バイクの少女が、|片《かた》|手《て》をのばして、容子の|鞄《かばん》を|奪《うば》い取ったのである。
「待て! こらあ!」
容子は数メートル駆け出したが、すぐにあきらめた。何しろ|相《あい》|手《て》はバイクである。追いつけるはずがない。
「まったくもう!」
容子は、|握《にぎ》りこぶしを振り回して|悔《くや》しがった。「バイクに乗ってかっぱらいなんて……。ねえ、友也、どうして|黙《だま》って見てたのよ!」
なんて|無《む》|茶《ちゃ》を|承知《しょうち》での|八《や》つ当たりである。
だが、友也のほうは、容子の言葉が耳に入らない様子で、ポカンと|突《つ》っ立っている。
「ちょっと、友也! どうしたのよ!」
容子が大声を出すと、友也は、やっと|我《われ》に返って、
「あ、ああ……。ど、どうかしたの?」
「何を|呑《のん》|気《き》なこと言ってんの? 鞄をかっぱらわれたのよ」
ところが、友也のほうはまた心ここにあらず、という顔で、
「まさか……。でも、やっぱり……」
などとつぶやいている。
「どうしたの?」
「今のバイクに乗ってた女の子、大和田倫子にそっくりだった」
と、友也は言った。
二人が急いで坂を下って行くと、もちろんどこにもバイクの|影《かげ》も形もなかったが、
「鞄、あそこにあるぜ」
と、友也が、駅の|改《かい》|札《さつ》|口《ぐち》の前にある|郵《ゆう》|便《びん》ポストを指さした。
なるほど、容子の鞄が、ポストの上にちょこんとのっけてある。
容子は、急いで駆け|寄《よ》った。
「何か|盗《ぬす》まれてるかい?」
「今調べる。――|大丈夫《だいじょうぶ》みたい。|財《さい》|布《ふ》もあるし、お金も入ってる」
「どういうことなんだろう?」
「本当に間違いなかった? |確《たし》かに彼女[#「彼女」に傍点]だったの?」
「ウーン」
友也は頭をかいて、「間違いないと思うけど……。チラッと見ただけだものな」
「それにしても……。どういうつもりだったのかしらね」
と、容子は首をひねった。
3 |容《よう》|子《こ》が消えた
「ああ、|参《まい》った!」
|容《よう》|子《こ》が|珍《めずら》しく|音《ね》をあげた。
容子と|友《とも》|也《や》は、東京駅地下|街《がい》の|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入ると、|座《ざ》|席《せき》へドカッと|座《すわ》って、しばらくはものも言えなかった。
ウエイトレスが来ても、注文するのにしばらく|呼吸《こきゅう》を|整《ととの》えて、
「アイス」
「アイス」
と、一言ずつ、やっと|発《はっ》したのだった。
|二人《ふたり》は三時間|余《あま》りにわたって、東京駅の中をグルグルと歩き回ったのである。
足が|疲《つか》れるのは|予《よ》|想《そう》していたので、どっちも軽いジョギング・シューズをはいていたが、今や、それすらも|鉛《なまり》の|靴《くつ》のように思えた。
アイスコーヒーが来ると、二人はゴクゴクと一気に飲み|干《ほ》してしまった。入っている氷が、ほとんど|原《げん》|型《けい》のまま|残《のこ》ったのを見ても、いかにすばやかったかが分かる。
「もう|一《いっ》|杯《ぱい》、アイス!」
と、友也が|叫《さけ》ぶ。
「私も!」
容子は、大きく息を|吐《は》き出して、「こんだけ|捜《さが》しても見つかんないなんて……。友也、|夢《ゆめ》でも見たんじゃないの?」
「そんなことないよ」
「だって、|全《ぜん》|部《ぶ》の|階《かい》|段《だん》を調べたのよ。通路も、|最《さい》|低《てい》三回は同じ所を通ってるわ。これで分からないなんて……」
「だって、ちゃんと定期入れを拾ったんだぜ。階段が一つまるまる消えちゃうなんて考えられないよ」
「そうね……」
容子は大きな|欠伸《あくび》をした。「それにしても、ハイキングにしちゃ足が疲れたわ。やっぱり下が|固《かた》いからなのね」
容子は|靴《くつ》を|脱《ぬ》いで、足をのばした。
アイスコーヒーの二|杯《はい》|目《め》が来た。
「ねえ、ちょっときいていいですか?」
と、容子は、学生アルバイトかと思える、その|若《わか》いウエイトレスに言った。
「|何《なに》を?」
「|普《ふ》|通《つう》の人が使わないような階段ってどこかにありますか? この駅の中で」
「階段?」
ウエイトレスはちょっと首をかしげて、「ああ、それじゃきっと作業用の階段じゃない? こう――|非常《ひじょう》階段みたいなやつ?」
「いいえ」
と、友也は首を|振《ふ》って、「普通の階段です。ちゃんとした……」
「そんなの知らないわねえ」
とウエイトレスは言った。
友也はため息をついた。
「でも、そんなはずはない! |絶《ぜっ》|対《たい》にどこかにあるんだ」
「友也の夢でなきゃね」
容子は|大《だい》|分《ぶ》友也の話に|不《ふ》|信《しん》の|念《ねん》を|抱《いだ》き始めているようである。
「ちぇっ!」
友也は|面《おも》|白《しろ》くなさそうに表を見た。――表といったって、もちろんここは地下街だから、通路を見たのである。
「あれ?」
と友也は言った。「おい、ちょっとここにいろよ」
と、友也は急いで店を|飛《と》び出して行った。
「――|迫《さこ》|田《た》さん!」
えらく早い足取りで歩いていた、|涼《すず》しげなジャケットの男性が|振《ふ》り向いた。
「やっぱり迫田さんだ」
「やあ、友也君か」
「|見《み》|違《ちが》えちゃった。|全《ぜん》|然《ぜん》|格《かっ》|好《こう》が|違《ちが》うんだもの!」
「そりゃもう学生じゃないからな」
迫田は、二年前、友也が中学一年のとき、家へ家庭|教師《きょうし》に来ていた大学生である。友也とは|妙《みょう》に気が合って、勉強のほうはどっちかというと|付《つ》け足しで、二人でナイターを見に行ったり、|一《いっ》|緒《しょ》に|F《エフ》|M《エム》ラジオを組み立てたりした。
今は迫田も社会人で、スマートな|好《こう》青年である。
「ねえ、迫田さん、新聞記者なんでしょ?」
「|駆《か》け出しだけども」
「ちょっと聞いてほしい話があるんだけど、|忙《いそが》しい?」
「いや、|構《かま》わないよ。どうせ今日は休みだもの」
「休みなの? 何だかえらく急いでるから、仕事かと思った」
迫田は笑って、
「記者はいつも急いでるから、ついくせになっちゃうんだ。――よし、聞いてやるよ」
「お|願《ねが》い!」
友也は、迫田を|連《つ》れて店に|戻《もど》った。
「友だちと一緒なんです。女の子」
と友也が言った。
「へえ。友也君のガールフレンドか。どこまで行ったんだい? AかBかCか――」
「やだなあ」
友也は笑って、「そんなこと|彼《かの》|女《じょ》に言わないで下さいね。ひっぱたかれちゃう」
「そんなに強いのかい」
「強いの|何《なん》のって……ここに――あれ?」
友也はキョトンとして、|空《から》っぽのテーブルを見つめた。
「どうしたんだ?」
「いえ――ここにいたんだけどな。いいや。ともかく座ってましょう」
「でも、|伝票《でんぴょう》も何もないぜ」
なるほど、テーブルの上は、きれいに|片《かた》づけられているのだ。
ともかく、友也と迫田が座ると、ウエイトレスが水を持って来た。
「いらっしゃいませ」
さっきのウエイトレスとは違う。
「あの――ここに座ってた女の子、知りません?」
と、友也はきいた。
「女の子?――いつかしら?」
「つい、今。|僕《ぼく》と一緒にこのテーブルにいたんだけど」
「だって、今入って来たんでしょ、あなたたち?」
「僕は少し前にこの席に女の子といたんですよ」
と、友也は|説《せつ》|明《めい》した。「そしたら、この人が表を通ったんで、|呼《よ》びに行ったんだ。――ほんの二、三分だけど」
「そんなことないわ」
と、そのウエイトレスは|笑《わら》って、「どこか店を間違えたんじゃないの? 私は昼からずっとここにいるのよ。あんた、今初めてよ、ここへ来たのは」
と言った。
友也は|唖《あ》|然《ぜん》とした。――違う店? いや、そんなはずはない。
ちゃんと店の名前も、|飾《かざ》りつけも|覚《おぼ》えているのだ。それなのに……。
「おい、友也君、どうしたんだ?」
迫田はわけが分からない様子。
「いえ……。本当にここにいたんですよ、僕たち。東京駅の中をグルグル歩き回って、疲れちゃって、ここで|息《いき》|抜《ぬ》きしたんです」
「この駅の中を?」
「ええ。他の店だなんて、そんなこと――」
友也は、急いで店から外へ出てみた。
間違いない、この店だ。よく|似《に》た店がすぐそばに|並《なら》んででもいるならともかく、|見《み》|渡《わた》しても、この|辺《へん》に|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》はこれ|一《いっ》|軒《けん》しかないのである。
迫田も心配そうに出て来た。
「どうなってるんだい、友也君」
「こっちこそききたいですよ!」
友也は頭をかかえた。
「今、本当にこの店に君とガールフレンドが二人でいたんだね?」
「絶対です。いくら何だって、そんなこと間違えたりしませんよ」
「ふむ……」
迫田は左右を見回した。「あのウエイトレスは、まあ何か思い違いしてるとして、君の彼女は何も持ってなかったの?」
「いいえ、持ってました。ショルダーのバッグ」
「ふーん。じゃ、どうだい、こういうのは。君が僕を追って飛び出したあと、彼女はトイレに立った。でも、あとに|誰《だれ》もいなくなっちゃうから、|支《し》|払《はら》いは|済《す》ませてしまった。ウエイトレスはテーブルを片づけてしまう……」
「でも、僕らを知らないって――」
「たまたまあのウエイトレスはいなかったのかもしれないよ。いつも客のほうばっかり見ているわけでもないしね」
迫田の|説《せつ》は、|確《たし》かに|一《いち》|応《おう》|妥《だ》|当《とう》なところだろう。いや、それぐらいしか、説明のしようがない。
「ともかく、少し待っていようよ」
と迫田は言った。
「すみません」
「いや、|構《かま》わないよ」
迫田は気軽にそう言った。
二人は店の表で、待つことにした。足の疲れ、などと言っていられない。
「じゃ、友也君、待ちながら、話を聞こうか」
「ええ……」
友也は、東京行きの電車の中で|大《おお》|和《わ》|田《だ》|倫《みち》|子《こ》を見かけてあとをついて行ったことから始めて、ここまでの|出《で》|来《き》|事《ごと》を、一通り|全《ぜん》|部《ぶ》話した。
むろん、三十分近くも時間がかかったが、容子は|戻《もど》って来なかった。
「ずいぶん|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》な出来事だねえ」
迫田は考え|込《こ》んでいる。
「僕の話、でたらめだと思いますか?」
と、友也はきいた。
「いや、そんなことはないよ」
と迫田は|即《そく》|座《ざ》に言った。「君のことは|良《よ》く知ってるからね」
「ともかく――そんなわけで、容子と二人で来たんですけど」
友也は|途《と》|方《ほう》に|暮《く》れて、「容子、どこへ行っちゃったんだろうなあ」
とつぶやいた。
日曜日だから、通勤客の数は少ないはずだが、それでも、地下|街《がい》は、ショッピングの客で、かなりにぎわっている。
「ここにいたまえ」
と迫田が言った。「僕が店内放送を|頼《たの》んで来る。|北《きた》|川《がわ》|容《よう》|子《こ》、だったね」
「そうです」
迫田が小走りに行ってしまうと、友也は、本当に心配になってきた。容子、どこへ行ったんだろう?
それにあのウエイトレスの話。――友也は、|絶《ぜっ》|対《たい》に自分のほうが正しいという|確《かく》|信《しん》はあったが、それでも何となく、もしかすると僕がおかしいのかも……という気にさせられるのだ。
少しすると、
「お|呼《よ》び出しを申し上げます」
というアナウンスが|響《ひび》いた。「北川容子様、北川容子様、いらっしゃいましたら、|地階中央《ちかいちゅうおう》の|案《あん》|内《ない》|所《しょ》までお|越《こ》し下さい……」
人の流れは、一向に、そんなアナウンスを気にとめてもいないようだった。
「すみません、こんな時間になっちゃって」
と、友也は言った。
「いや、いいんだよ」
迫田は|微《ほほ》|笑《え》んでから、「しかし、その|彼《かの》|女《じょ》が|無《ぶ》|事《じ》に帰ってるといいね」
と言った。
そろそろ暗くなりかかっている。まだ日は長いから、ずいぶん長い時間、あの地下|街《がい》で|粘《ねば》っていたわけである。
しかし、ついに容子は|戻《もど》って来なかったのだ。容子の家へ電話もしてみたのだが、|誰《だれ》も出ない。
「本当に、どこ行っちゃったんだろう」
と、友也はため息をついた。
|二人《ふたり》は、家への道を歩いていた。
「じゃ、|僕《ぼく》はここで」
と、迫田が手を上げて|別《わか》れて行く。
この近くに住んでいるのだ。
「どうも」
と、友也は言った。
「東京駅の|階《かい》|段《だん》のことだけど」
と、迫田が|振《ふ》り返って、「何か分かったら、|連《れん》|絡《らく》してあげるからね」
と言って歩いて行く。
友也は少し元気づけられた。
家へ帰ると、妹の|貴《たか》|子《こ》が出て来て、
「お兄さん、容子さんの家から、電話がかかったよ。三回ぐらい」
「三回も?」
「そう。帰ったら、すぐ電話をくれって」
小学校六年生の貴子は、ノッポで、兄の友也とそう|変《か》わらないくらい身長がある。
|成《せい》|績《せき》も大体いつも貴子のほうがいいので、友也としては兄の|威《い》|厳《げん》を|保《たも》つのは楽ではなかった。
「容子からかかったのか?」
と友也がきく。
「ううん、お父さんだったみたい」
「|親《おや》|父《じ》さん?」
「そう。お兄さん、容子さんに|変《へん》なことしたんじゃないの?」
「こいつ!」
友也は|拳《こぶし》をふりかざして見せた。貴子は、|笑《わら》いながら走って行ってしまった。
「親父さんからか」
と友也はつぶやいた。「やな予感がするなあ……」
友也は|恐《おそ》る恐る電話のダイヤルを回した。|呼《よ》び出し音が鳴る。――なかなか電話に出ないのだ。
どうしたんだろう?
しばらく鳴らしっ放しにして、友也は受話器を|置《お》いた。
どうにも気になった。容子をこの|一《いっ》|件《けん》に引っ|張《ぱ》り|込《こ》んだのは自分である。容子の身に万一のことがあったら……。
友也は|玄《げん》|関《かん》へ走った。
「おい! ちょっと出て来るぞ!」
と貴子へ声をかけておいて、|靴《くつ》をはくのももどかしく表へと|飛《と》び出す。外はすっかり暗くなっていた。
同じ区立中学とはいえ、容子の家は、|大《だい》|分《ぶ》|離《はな》れている。
自転車がイカレているので、友也は|仕《し》|方《かた》なく歩いて行くことになった。急いで歩いても、二十分はかかる道のりである。
「今日はよく歩く日だよ、まったく!」
と、息を切らしながら、友也は言った。
やっと容子の家に着いたときには、びっしょりと|汗《あせ》をかいていた。
〈北川〉と|表札《ひょうさつ》のある|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》――というほどでもないが、友也の家よりはかなり|豪《ごう》|華《か》な|造《つく》りである。
|何《なに》しろ、ちゃんと門というものがある。友也の家のように、いきなり玄関というのとはわけが|違《ちが》うのだ。
友也は、門が開いたままになっているので、そのまま中へ入って行った。
玄関のチャイムを鳴らそうとすると、車の音がして、ライトが門の中へと|差《さ》し込んでくる。
友也は何となくわきへさがって、車が入って来るのを、植え込みの|陰《かげ》に|隠《かく》れて見ていた。
車はどっしりとした外国車で、前に容子に乗せてもらったことがある。
玄関が開いて、容子の母親が飛び出して来た。
「あなた、容子は?」
車から出て来た容子の父親が、
「|大丈夫《だいじょうぶ》だ。心配するな」
と母親をなだめて、後ろのドアを開けた。
容子が|降《お》り立った。――友也はホッとした。ともかく、容子は元気そうに見えたからだ。
「さあ入って――」
母親が容子を|抱《だ》きかかえるようにして家の中へ入って行く。
「電話はあったか?」
と、父親がきいた。
「|中《なか》|込《ごめ》さんからですか? さあ――私も今戻って来たので……」
「まあいい。ともかく電話があっても、|絶《ぜっ》|対《たい》に容子を出すな」
友也は、話を聞いてしまって、何となく出て行きにくくなった。どうやら父親のほうはおかんむりらしい。
父親が車へ戻って、|駐車場《ちゅうしゃじょう》のほうへ動かして行くと、友也は玄関のチャイムを鳴らしてみた。インターホンから、
「どちら様ですか?」
と母親の声がした。
「あの、中込ですけど、容子君に――」
母親はあわてたように、
「あの――ちょっと今はだめなんです。帰って下さい。ね、お願いだから」
と早口に言った。
わけが分からない。しかし、母親の|口調《くちょう》はかなり|切《せっ》|羽《ぱ》|詰《つ》まったものがあった。
「昼間来て下さい、主人のいないときに!」
と母親が早口に言う。
「分かりました」
友也は、門へ向かって走った。父親が戻って来るのには幸い出くわさずに|済《す》んだ。表の通りを少し行って|振《ふ》り向くと、門がガラガラと音を立てて|閉《と》じられるのが見えた。
「どうなってんだ?」
友也はつぶやいた。
4 |容《よう》|子《こ》の|脱《だっ》|走《そう》
|翌《よく》|日《じつ》、|容《よう》|子《こ》は学校を休んだ。
|友《とも》|也《や》は気になって、|担《たん》|任《にん》の|野《の》|口《ぐち》に、
「|北《きた》|川《がわ》君、病気ですか」
ときいたが、
「知らん。何か父親が校長に会いに来てるとか言っとったぞ」
という返事だ。
「校長に?」
友也はちょっと青くなった。
「何だ、|中《なか》|込《ごめ》、お前何か身に|覚《おぼ》えがあるのか?」
「そ、そんなことないですよ」
と、友也はあわてて|逃《に》げ出した。
いったい|何《なん》だっていうんだろう? 父親が校長に会いに来るってのは、よほどのことだ。
そうか、すると父親は会社を休んでるんだろう。もっとも、容子の父親はどこかの社長なのだから、|別《べつ》に休むのに|遠《えん》|慮《りょ》はいらないわけだが。
学校の帰り、友也は|迷《まよ》ったあげく、やはり気になって、容子の家の前にやって来た。
門は開いていて、友也は|恐《おそ》る恐る中へ入って行った。
|玄《げん》|関《かん》のインターホンで、
「中込友也ですが」
と言うと、すぐにドアが開いて――目の前に容子の父親が立っていた。
北川は|大《おお》|柄《がら》で、ただでさえ|迫力《はくりょく》がある。じっと友也を見下ろす感じになって、
「君か! 帰ってくれ!」
と、早口に言った。
「あの、容子君は――」
「容子は今度私立の女子校へ転校することになった」
「私立へ?」
「だから君とももう|付《つ》き合ってはいられない。もう家へは顔を出さんでくれ。電話していただいても、容子は出ないからね」
「ちょっと話をさせて下さい。ほんのちょっとだけ――」
「だめだ!」
ドアがピシャリと|閉《と》じられた。
ガックリきた友也は、それでもあきらめ切れずに、北川|邸《てい》の|裏《うら》|手《て》へ回ってみた。
|塀《へい》は高いし、庭は広いので、|建《たて》|物《もの》はほんの|天《てっ》|辺《ぺん》しか見えないのだが、それでも何とかして、容子の|部《へ》|屋《や》をのぞいて見たかった。
容子の部屋は二|階《かい》で、こっちへ面してベランダがついている。
「何か乗っかる物……」
友也はあたりを見回した。――少し|狭《せま》い道なので、人通りは少ない。
「あれがいいや」
ゴミ|容《よう》|器《き》の大きなポリバケツがあって、友也はそれをかかえて来ると、塀に|寄《よ》せて|置《お》いた。
「|倒《たお》れるなよ……」
よいしょ、とバケツの上に乗って、グラつくのを、うまくバランスを取りながら、
「おっとっと……」
塀の|天《てっ》|辺《ぺん》に手をかける。幸い、|泥《どろ》|棒《ぼう》よけのトゲなどはないので、けがの心配はなかったが、見つかれば取っ|捕《つか》まるという心配は大いにある。
別に中へ|忍《しの》び|込《こ》もうというのではない。
塀の上から顔を出して、容子の部屋を|眺《なが》められればそれでいいのだ。
「エイッ」
と、|弾《はず》みをつけて、塀の上に頭を出すと――目の前にやはりニュッと出て来た顔がある。
「ワッ!」
と友也は|仰天《ぎょうてん》した。
「友也!」
何と、顔をつき合わせているのは容子である。「何やってんの?」
「い、いや……君が心配でさ」
「ちょうど|良《よ》かった! これからそっちへ|飛《と》び|降《お》りるからね」
「ええ?」
「いいから早くして! 下で受け止めてよ」
「だって――」
「つべこべ言うな! 見つかったら|大《たい》|変《へん》なんだから!」
友也は下へ飛び降りた。あわてて左右へ目を配る。幸い|誰《だれ》もいないが、いつ人が来るか分からないのだ。
見上げると、容子が塀をまたいでこっち|側《がわ》へ足をのばしている。スカートなので、下から見ると|当《とう》|然《ぜん》……。
「上を見ないで!」
と、容子が|怒《おこ》った。
「上を見ずに受け止めろったって、|無《む》|理《り》だよ」
と、友也は|文《もん》|句《く》を言った。
「いくわよ。――ヤッ!」
もののみごとに、容子は友也の上へ落っこちて、|二人《ふたり》は|一《いっ》|緒《しょ》になってひっくり返った。
「ああいてえ……」
「早く! ここから|離《はな》れなきゃ!」
容子は平気なもので、立ち上がると友也の手を引いて|駆《か》け出した。
「おい!――待てよ! おい!」
友也はすっ転びそうになりながら、一緒になって走り出す……。
「ここは?」
友也は、古びた日本家屋の前に立って、言った。
「前に住んでた家なの」
「へえ!」
今は|鉄《てっ》|筋《きん》コンクリートの|邸《てい》|宅《たく》だが、この家は|完《かん》|全《ぜん》な|木《もく》|造《ぞう》で、しかし広さは|結《けっ》|構《こう》ある。
「ここに四、五|歳《さい》までいたのよね」
容子は、|鍵《かぎ》を出して、|玄《げん》|関《かん》の|格《こう》|子《し》|戸《ど》を開けた。「さ、どうぞ」
「――今は|誰《だれ》も住んでないの? もったいないな」
「うちの親がトシ取ったら住みたいって言ってるの。だから月に一度はお|手《て》|伝《つだ》いさんが|掃《そう》|除《じ》してるわ。結構きれいでしょ」
「うん……」
上がり|込《こ》んでキョロキョロと見回す。
「さあ、|奥《おく》へ入って。明かりをつけるわけにいかないけど……」
奥まった部屋に入ると、容子はペタンと|座《すわ》り込んだ。
「ねえ、容子。どうなってんだい?」
「待ってよ。息が切れて……。それにお|腹《なか》|空《す》いちゃった」
「こんな所、食べるもんなんて置いてないぜ」
「そうね。あとで何か食べに出よう」
容子は一息つくと、「私がいなくなって、びっくりしたでしょ」
「当たり前さ」
「問題はあの店なのよ」
「店?――あの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》のこと?」
「そう。あのとき、私、ウエイトレスに|階《かい》|段《だん》のこときいたでしょ? そのあと、友也が出て行った。そしたらね、ウエイトレスが水を取り|換《か》えに来たの。そのときは注意しなかったけど、どうも|違《ちが》うウエイトレスだったみたいね」
「きっとあとで君のことを知らないと言った|奴《やつ》だな」
「何しろ|喉《のど》|渇《かわ》いてたし、グイと一口飲んだの。そしたら急にめまいがして――」
「薬が入ってたのか」
「そうらしいわね。それきりダウン。何も分かんなくなっちゃったの」
「――それから?」
「気がついたときは|日《ひ》|比《び》|谷《や》公園のベンチの上よ」
「日比谷公園?」
「もう暗くなってて、お|巡《まわ》りさんに起こされたの。薬のせいか、何だかわけの分かんないこと言ってたら、交番へ|連《つ》れて行かれて、学生|証《しょう》で、家へ電話をかけられたの。――しばらくして、パパが|迎《むか》えに来たわ」
「ふーん。|妙《みょう》なことばっかりだなあ」
「ところが、パパの様子がおかしいのよ」
「おかしいって?」
「そう。私に急に私立へ転校しろと言い出したの。今までパパは子供は公立へやるって|主《しゅ》|義《ぎ》だったのにね」
「|理《り》|由《ゆう》を言わないの?」
「いくらきいても、『お前のためだ』って言うだけ」
容子は|肩《かた》をすくめて、「|冗談《じょうだん》じゃないわってタンカ切ってさ、で、こうやって家出して来たわけ」
「あっさり言うけど、どうすんだ、これから。すぐここにも|捜《さが》しに来るかもしれないぞ」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。ここはかえって身近すぎて思いつかないわよ」
「そうかい?」
「ねえ、ともかくお腹空いちゃった。何か買って来てくれない?」
「何かって……。|僕《ぼく》もそんなに金ないぜ」
「いいわよ、ハンバーガーとコーラくらいで。暗くなったら、自分で出て行くから。今は|下《へ》|手《た》に出ると|誰《だれ》かと出くわす心配があるでしょ」
「人使い、|荒《あら》いんだから……」
と言いながら、友也はその家を出て、ひとっ走り、立ち食いのハンバーガーショップへ行って、ハンバーガー二|個《こ》とコーラを買って戻った。
容子はペロリとハンバーガーを二個とも|平《たい》らげて、
「私、しばらくここにいるわ。友也、毎日来てくれる?」
「どうすんのさ?」
「パパが|折《お》れるまで|頑《がん》|張《ば》る!」
何しろ、容子は|頑《がん》|固《こ》なのである。
「|大《おお》|和《わ》|田《だ》|倫《みち》|子《こ》のほうはどうするんだ?」
「あ、そうか。|忘《わす》れてた」
この|辺《へん》の|呑《のん》|気《き》さが、お|姫《ひめ》様らしいところかもしれない。
「薬飲ませて|追《お》っ|払《ぱら》うぐらいだもの、あの店にはかなりの|秘《ひ》|密《みつ》があるのね、きっと」
「調べに行くったって、顔知られてるしなあ」
「そこでくじけちゃだめよ!」
「その階段ってのがどこにあるか分かりゃ……」
「どこかにあるのよ」
と、容子は言った。「|必《かなら》ずどこかに……」
そしてコーラを一気に飲み|干《ほ》した。
友也が家へ帰ると、意外な客が来ていた。
「やあ友也君」
|迫《さこ》|田《た》記者である。友也の母は、むろん東京駅での|出《で》|来《き》|事《ごと》など知らない。
「先生もすっかり社会人で」
などとお|世《せ》|辞《じ》を言っている。
「どうだ? |何《なに》か分からないところがあったら、教えてやろうか?」
「お|願《ねが》いします」
と、友也は言った。
二階の部屋へ上がると、迫田はドアを|閉《し》めて、
「どうした、|昨日《きのう》の女の子?」
ときいた。
友也が|事情《じじょう》を話すと、迫田は|苦笑《くしょう》して、
「ずいぶん強い[#「強い」に傍点]子なんだな。友也君は引きずられてるんだろう」
とからかった。
「迫田さん――」
「分かった分かった。そうにらむなよ。実は、|面《おも》|白《しろ》い話を聞き|込《こ》んだんだ」
「面白い話?」
「うん。どうやら、君の|幽《ゆう》|霊《れい》|騒《さわ》ぎにも|関《かん》|係《けい》ありそうでね」
「聞かせて下さい」
友也は身を乗り出した。
「今日、社会部の|古《ふる》|手《て》の記者としゃべってたんだが、そのとき、たまたま東京駅の話になってね――」
「まったくややこしくなったよ、あの駅も」
いつも|酔《よ》っ|払《ぱら》ったような赤ら顔の記者は、|沢《さわ》|井《い》といった。もう記者生活二十年のベテランである。
アル中みたいとからかわれるくせに、本人はまるで酒が飲めないのだから、面白い。
「地下ができてからはね」
と、迫田が言うと、
「地下の駅なんて、|薄《うす》|気《き》|味《み》悪いぜ。そう思わないか? 地下鉄なら分かる。しかし、ちゃんと地上を走ってる電車の駅を地下何階も下に造るってのは|自《し》|然《ぜん》の原理に反してる、まったく!」
「あれだけの駅になると、いろいろなドラマがあるでしょうね」
と迫田が言った。「そんなルポ記事も面白そうだな」
「とっくにやってるさ」
と、沢井は言って、お茶を飲んだ。
「幽霊でも出るって話がありゃ、記事になりますがね」
「幽霊か?」
沢井は、何やら、ちょっと意味ありげに迫田を見ると、「――出るって|噂《うわさ》なんだ」
と声を少し|低《ひく》くした。
「本当ですか?」
と、迫田のほうも声を低くする。
|別《べつ》に声を低くする|必《ひつ》|要《よう》は|全《ぜん》|然《ぜん》ないのだ。何しろ、ガランとした社会部の部屋の中でしゃべっているのだから。
「このところ、ときどき聞くよ」
と沢井は|続《つづ》けて、「夜中の東京駅に、ちょくちょく幽霊が出るってな」
「|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》とか、そんなんじゃないんですか?」
「いや、これは|俺《おれ》の|良《よ》く知ってる、古手の駅員の話なんだ。夜中に地下を歩いてると、どこかから足音がするというんだ」
「自分の足音が|反響《はんきょう》してるんじゃ?」
「|違《ちが》う。止まっても、向こうは止まらないという。何度もその足音を追いかけて|捜《さが》したらしいんだが、一度も見つけられないということだった」
「|妙《みょう》な話ですねえ」
迫田は、わざとさり気なく、「きっと東京駅の地下に秘密の通路でもあるんじゃないですか?」
と言ってみた。
急に沢井が|真《ま》|顔《がお》になって、
「おい、どこでそんな話を聞いた?」
と、ほとんど問い|詰《つ》めるような|口調《くちょう》で言った。
「え? いえ、勝手な|想《そう》|像《ぞう》ですよ」
と迫田は|笑《わら》ってみせて、「それとも本当にあるんですか?」
ときいてみた。
「知るもんか!」
と、沢井は言って|席《せき》を立った。
迫田は、沢井の後ろ|姿《すがた》を見送って、
「妙だな」
とつぶやいた。
しばらくすると、沢井が|戻《もど》って来た。
「おい迫田」
「はあ」
「ちょっと来てくれ。話があるんだ」
「分かりました」
沢井は迫田を近くのホテルへ|連《つ》れて行った。ロビーのソファに座ると、
「こういう所は見通しがきいていい」
と沢井は言った。「秘密の話をするには向いてるんだ」
「何です、いったい?」
「うん……」
沢井は迫田を|眺《なが》めて、「これは|俺《おれ》|一人《ひとり》の|胸《むね》にしまい込んでおくつもりだった。しかし、このところ俺も|疲《つか》れやすくなってな、いつコロッといくかもしれん」
「まさか」
と迫田は笑った。
「いや、本当だ。俺は|心《しん》|臓《ぞう》が悪いんだよ。――それはともかく、やっぱり、この話は|誰《だれ》かに教えておきたい。ずっとそう思ってはいたんだが、何しろ話せるような|相《あい》|手《て》がいないんでな。ためらっていたんだ」
沢井はじっと、迫田を見つめた。「しかし、お前は記者|根性《こんじょう》がある。お前なら話しても|大丈夫《だいじょうぶ》だと思ったんだ」
「何の話です?」
「幽霊さ」
沢井はそう言って、ニヤリと笑った。「さっき言った、東京駅の幽霊のことだ」
「何かあるんですね?」
「東京駅の地下には、誰も知らない部屋がある」
「そんなことが――」
「いや、事実なんだ。もちろん俺も行ったことはない。しかし、|確《たし》かに|存《そん》|在《ざい》してるんだ」
「――何の部屋なんです?」
「部屋というよりも、大きな|隠《かく》れ|家《が》とでもいうかな」
「誰が隠れるんです?」
「死人だ」
沢井の言い方はひどくあっさりしていて、かえって迫田はゾッとした。
「死人が隠れるなんて……。|墓《ぼ》|地《ち》みたいなものなんですか?」
「それは分からん。――想像でしかないが、きっと、世間的には死んだことになっている人間たちが住んでるんじゃないかな」
「どういう意味です?」
「つまり、たとえば君が車にはねられたとする。そして|救急車《きゅうきゅうしゃ》で運ばれ、一命を取り止めるかどうか、スレスレの|段《だん》|階《かい》だとしたら……」
沢井はタバコに火をつけた。「その時点で、|選《せん》|択《たく》がおこなわれる」
「選択?」
「よほど高度の|手術《しゅじゅつ》をすれば助かるかもしれない。だが死んでも、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》ではない。――そこで、世間的には、死んだことにして、|実《じっ》|際《さい》は生かしておくことができるかどうか、だ」
「さっぱり分かりませんが……」
「世間的に死んだことにするには、まず代わりの死体が|必《ひつ》|要《よう》だ。|別《べつ》の死体とすりかえて、|見《み》|破《やぶ》られる|危《き》|険《けん》があるか。――|特《とく》|殊《しゅ》な|傷《きず》あと、|身体《からだ》の大きな|特徴《とくちょう》。そういったものがなくて、たとえば火事での|焼死体《しょうしたい》のように、見ても見分けがつかない死体であっても不思議でないような|状況《じょうきょう》かどうかも、問題になる。両親、家族、社会的な立場、|年《ねん》|齢《れい》……。あらゆる点で|検《けん》|討《とう》されて、|O《オー》|K《ケイ》となると|最《さい》|高《こう》レベルの手術で命は助けられる」
沢井の話し方は、とても想像で言っているという感じではなかった。
「そして、どうなるんです?」
と、迫田はきいた。
沢井は、ちょっとしゃべりすぎたとでもいうように、口をつぐんだ。そして、首を|振《ふ》ると、
「そこまでは知らんよ」
と言った。「ただ、そんな|噂《うわさ》を、チラリと耳にしたことがあるんだ。――死んだはずの人間が、実際は生きている、という話をね」
「何のためにそんなことをやるんでしょうね」
「さあ……」
沢井は|肩《かた》をすくめて、「そこまでは知らないほうがいい。ともかく、それを君に|伝《つた》えておきたかったんだ」
と言うと、立ち上がって、
「じゃ、俺はここから帰るよ」
「もうお帰りですか?」
「うん、今日はちょっと心臓の|具《ぐ》|合《あい》があまり良くない」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか? 病院へ行っちゃどうです?」
「なあに。家へ帰って|寝《ね》てりゃ|治《なお》るさ」
沢井はニヤリと笑ってみせると、ゆっくりした足取りで、ロビーを出て行った。
5 東京行き終電車
「|妙《みょう》な話ですね」
と、|友《とも》|也《や》は言った。
「うん、しかし、死んだはずの人間が生きているという点は、君の見た、その|大《おお》|和《わ》|田《だ》|倫《みち》|子《こ》って子の|件《けん》とピッタリするだろう」
「それにあの子はバイクで車と正面|衝突《しょうとつ》したんです。たぶん死体は……」
「|別《べつ》の人間のものでも分からなかっただろうな」
と|迫《さこ》|田《た》はうなずいた。
「でも|何《なん》のために……」
「分からんが、それだけのことをやるには、|相《そう》|当《とう》に大きな力が|必《ひつ》|要《よう》だ。一流の医者、|技術者《ぎじゅつしゃ》、それにスタッフも少なからずいるだろうね」
「何だか、えらいことに首、|突《つ》っ|込《こ》んじまったみたい」
友也はため息をついた。
「そこなんだ」
迫田は|真《ま》|顔《がお》で言った。
「え?」
「君や君のガールフレンドがあれこれとかぎ回るには相手が大き|過《す》ぎるということだ。|現《げん》にあの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》で、君の|彼《かの》|女《じょ》はあっさり|眠《ねむ》らされて他の場所へ運ばれている」
迫田は、ゆっくりとうなずいて、「おそらく――そう、それは|警《けい》|告《こく》じゃないのかな。その気になれば、どこへだって|連《つ》れて行けただろうが、わざと公園に|置《お》いていった。それは、もう二度と近づくなという意味だろう」
友也は考え込んで、
「――どうしたらいいのかなあ」
と首を|振《ふ》った。
「|僕《ぼく》は新聞記者だからね。この件を追いかけてみたい。|裏《うら》に|何《なに》かありそうな気がする。しかし君たちは学生だ。まあ、何もかも|忘《わす》れるほうが|無《ぶ》|難《なん》だね」
友也としては、|異《い》|存《ぞん》なかった。|危《あぶ》ない目にあうのはあんまり|好《す》きでないのだ。
問題は、危ない|真《ま》|似《ね》の|大《だい》|好《す》きな|容《よう》|子《こ》である。容子が、|納《なっ》|得《とく》するかどうか……。
「じゃ、またそのうちに」
と、迫田は、いつもの気さくな|笑《え》|顔《がお》を見せて帰って行った。
「やれやれ……」
友也は|欠伸《あくび》をして、ベッドにゴロリと横になった。――東京駅の地下に、|秘《ひ》|密《みつ》の|部《へ》|屋《や》か。
本当に何だか|冒険小説《ぼうけんしょうせつ》か|漫《まん》|画《が》の世界だなあ。
しかし、迫田が言うのだから、まんざらでたらめでもないのだろう。世の中には、|一《いっ》|般《ぱん》の人が|誰《だれ》も知らないようなことが、いくらもあるのかもしれない……。
「――友也」
と、母の声がした。
「なんだい?」
「電話よ」
友也が|階《し》|下《た》へ|降《お》りて行くと、母が心配そうに言った。
「お前、容子さんに何かしたんじゃないだろうね」
「どうして?」
「容子さんのお父さんが、えらく|怖《こわ》い声を出してたよ」
「やだなあ、|変《へん》なこと言わないでよ」
何か[#「何か」に傍点]するなら容子のほうだよ、と友也は言いたかった。
「はい、|中《なか》|込《ごめ》です」
「君か。――容子はどこにいる?」
「僕は……知りませんけど、お|宅《たく》にいないんですか?」
とぼけ方は|堂《どう》に|入《い》っている。|宿題《しゅくだい》を忘れたときなどに、クラス中で、
「そんな宿題ありませんでしたよ」
と|全《ぜん》|員《いん》がとぼけてみせたりするのだ。
「いなくなったんだ」
|北《きた》|川《がわ》は|怒《いか》りを|押《お》し|殺《ころ》しているような声だった。「もし君の所へ|連《れん》|絡《らく》が入ったら……」
「お宅へ帰るように言います」
「帰りたくないのならそれでもいい。ともかく|無《ぶ》|事《じ》かどうか電話しろと言ってくれ」
何だかずいぶん弱気だ。
「分かりました」
と言って、友也は電話を切った。
何となく妙である。あんなに|高《たか》|飛《び》|車《しゃ》に、友也を追い返し、容子を転校させるとまで決めたのに、どうして急に弱気になったんだろう?
ともかく、これからどうするのか、だ。
|明《あ》|日《す》の朝、容子の|隠《かく》れ|家《が》に|寄《よ》って、これまでのことをよく話して、|例《れい》の|一《いっ》|件《けん》は忘れさせなきゃ。――そのほうが秘密の|階《かい》|段《だん》を見つけるより、よっぽどむずかしいかもな、と友也は思った。
|翌《よく》|日《じつ》、学校を出ようとすると、
「おい! あんた!」
と、女の声がした。
「――|何《なん》だ、あれ?」
と|一《いっ》|緒《しょ》にいた同級生が目を|丸《まる》くした。
バイクが音をたててやって来る。――あの、アリスという女の子だった。
「やあ」
と、友也に声をかけ、「|真《ま》っ|直《す》ぐ帰んの?」
ときいた。
「ちょっと用があるんだ」
「こっちもよ。ちょっと|付《つ》き合って」
「ええ? だけど――」
「例の話よ。|倫《みち》|子《こ》のことでさ」
そう言われると、やはり|関《かん》|係《けい》ないとは言ってられない。
「|O《オー》|K《ケイ》。じゃ、行くよ」
「後ろに乗んなよ」
「ええ? やだよ!」
「じゃ走ってついて来る?」
|仕《し》|方《かた》ない。友也は|肩《かた》をすくめて、バイクの後ろにまたがった。先生に見つかったら|大《たい》|変《へん》だ! アッという間にバイクは学校から|離《はな》れて、ちょっとした公園に乗り入れて|停《と》まった。
池の前のベンチに|腰《こし》をおろすと、アリスは、楽しそうに|笑《わら》った。
「|菅《すが》|野《の》アリサっていうんだ、|私《わたし》の名前」
「アリサか。きれいな名前じゃないか」
「あんたもてるでしょ。|優《やさ》しいもんね、女の子に」
「そんなことないよ」
と、友也は|咳《せき》|払《ばら》いした。「で、何だよ、話って」
「倫子のこと。どうして調べてんの? 気になってね」
「それは――」
と言いかけて、友也はためらった。
いざ話をするとなれば、|最《さい》|初《しょ》から何もかも話さなきゃいけなくなる。それに、何だか|得《え》|体《たい》の知れないこんな女の子に話すわけにはいかない。
「ちょっと話せない|事情《じじょう》があるんだ」
と友也は言った。
「そう」
とアリス――いや、菅野アリサは言った。
「じゃ、会いたくない?」
「誰に?」
「倫子によ」
友也は、|危《あや》うくベンチから落っこちそうになった。
「|変《へん》な|冗談《じょうだん》よせよ」
とアリサをにらむ。
「あら、本気よ」
「だって――死んだんじゃないのか?」
「これ見てよ」
アリサは、ジャンパーのポケットから、何やら、|折《お》りたたんだ紙を出した。
「手紙かい?」
「そう。――|読《よ》んでみて」
友也が開くと、|整《ととの》った、きれいな字で、
〈アリサ。びっくりしないで。会いたいの。明日の夜、東京行きの終電車に乗って。倫子〉
「|簡《かん》|単《たん》な手紙だね。どこにあったの?」
「バイクよ。ディスコの前に停めといてね、出て来たら、ミラーに|挟《はさ》んであったってわけ」
「彼女の字かい?」
アリサは肩をすくめた。
「誰かが|真《ま》|似《ね》て書いたのかもしれないけど、よく|似《に》ちゃいるわね」
友也はもう一度手紙を見直して、
「――行くのかい?」
「どうせヒマだからね」
とアリサは笑った。
「明日の夜ってことは……」
「今夜ってことよ。どうする?」
友也は考え込んだ。首を|突《つ》っ込むなと|迫《さこ》|田《た》に注意されたばかりだ。
しかし、これを|黙《だま》ってたら、あとで容子が|怒《おこ》るだろうな。いや、怒るぐらいじゃ|済《す》まないかもしれない。――どっちにしても、危険[#「危険」に傍点]には|変《か》わりないか。
だが、終電車とくると、家を出るのが大変だ。誰か友だちの家に|泊《と》まることにしよう。もちろん話は合わせとかなきゃならないが。
「OK。|一《いっ》|緒《しょ》に行くよ」
「そう。|良《よ》かった。|一人《ひとり》じゃ|面《おも》|白《しろ》くないもんね。|二人《ふたり》のほうが楽しいわ」
「三人じゃまずいかな」
「あの子も来るの?」
アリサは、ちょっと|冷《ひ》やかすように笑った。
「あの子がついててくれないと心細いの?」
「|違《ちが》うよ!」
友也はムッとして言った。「よし、じゃ一人で行く。女の子が一緒じゃ、かえってうるさいものな」
「|無《む》|理《り》しちゃって」
アリサはタバコを出して、「一本|吸《す》う?」
と友也へ|差《さ》し出した。
「うん」
ヒョイと一本|抜《ぬ》いてくわえると、アリサがライターで火をつける。友也はむせ返って、目を白黒させた。
アリサが|吹《ふ》き出した。
|吉祥寺《きちじょうじ》の駅のホームで、友也は、東京行きの最終電車が来るのを待っていた。
|倫《みち》|子《こ》の家がここだったので、ここから乗ることにしたのである。
アリサは電車に乗って来るはずだった。
|逆《ぎゃく》の下り電車は、終電近くなると、かえって|酔《よ》っ|払《ぱら》いなどで|割《わり》|合《あい》|席《せき》が|埋《う》まっているが、上り電車は客の数など、数えるほどであった。
「東京行き、上り最終電車が|参《まい》ります」
と、アナウンスがあった。
どこかの酔っ払いが、ベンチで|寝《ね》|転《ころ》がって|眠《ねむ》ってしまっている。
友也はホームに立って近づいて来るライトを見ていた。
アリサは乗って来るかな。――見かけはグレているが、気のいい|娘《むすめ》らしかった。たぶん、リーダーらしい、|頼《たよ》りにされるところがあって、だからこそ倫子も、彼女に会いたいと言っているのではないだろうか。
電車がゆっくりホームへ入って来た。通り|過《す》ぎて行く|窓《まど》をずっと見ていると、アリサが手を|振《ふ》っているのが目に入った。|扉《とびら》が開くと、中へ入って、車両を通り抜けて行く。
「やあ」
「来ないかと思ったわ」
と、アリサは|相《あい》|変《か》わらずのジーパン|姿《すがた》で言った。
「|何《なに》言ってんだい。――どこにいればいいかな」
「分かんないけど、|真《ま》ん中へんにいりゃ、いいんじゃない?」
「そうしようか」
ガラ|空《あ》きの車両で、二人はゆったりと|腰《こし》をおろした。
車両の中には、ポツン、ポツンと数えるほどの客しかいない。ほとんどが|居《い》|眠《ねむ》りしていた。
「みんなくたびれてんだな」
と、友也は言った。
「そうね。|大人《おとな》って|可《か》|哀《わい》そうだね。あんなにしてまで働かなきゃなんないなんて」
「|俺《おれ》も大人になるのか。――いやだなあ」
と友也は言って、|欠伸《あくび》をした。
ほとんど|降《お》りる客も乗る客もなく、電車は東京駅へと近づいて行った。
「――乗って来ないね」
と友也は言った。「これで|結局《けっきょく》すっぽかされたら、どうするんだい?」
「知らないわよ。ベンチででも寝りゃいいじゃない」
と、アリサは大して気にもしていない様子である。
|御《お》|茶《ちゃ》ノ|水《みず》、|神《かん》|田《だ》……。倫子らしい少女の姿は、ホームにも電車の中にも見当たらなかった。
「|仕《し》|方《かた》ないや。終点で待ってんのかな」
と、友也は立ち上がりながら言った。
「降りてみましょ」
東京駅のホームへ、電車はゆっくりと入って行く。もう、ほとんど|人《ひと》|影《かげ》はなかった。
友也とアリサは、ホームへ出ると、降りて来る客を一人一人見ていった。眠り込んでいて、起こされる者もある。
「いないわね」
と、アリサは首を|振《ふ》った。「しょうがないや。ちょっと待ってみようか」
「うん……」
友也は、|空《から》っぽのホームを|見《み》|渡《わた》した。あんまりいつまでも|突《つ》っ立ってると、駅員に何か言われそうだ。
「――ねえ!」
アリサが、急に声をこわばらせて言った。「倫子だわ!」
「え?」
友也が振り向く。
ずっと|離《はな》れた|階《かい》|段《だん》の降り口の所に、白のブラウス、|紺《こん》のスカートの彼女[#「彼女」に傍点]が立っていた。|間《ま》|違《ちが》いない。あのときの少女だ。
「倫子だわ……本当だ」
と、アリサも、さすがに目を|見《み》|張《は》って|唖《あ》|然《ぜん》としている。
|大《おお》|和《わ》|田《だ》|倫《みち》|子《こ》は、じっと二人のほうを、|微《ほほ》|笑《え》みながら見つめていた。
どれぐらい、二人は倫子を見て立っていたのだろう。――ふっと倫子の姿が消えて、やっと|我《われ》に返った。
「階段を降りた!」
「行こうよ」
とアリサが|促《うなが》した。
二人が階段を降りかけたとき、倫子は、すでに階段を降り切って通路のほうへ姿を消すところだった。
「早く早く」
と、アリサがせかす。
友也は|飛《と》ぶように階段を|駆《か》け降りた。
「――あっちだ!」
通路を、倫子の姿が小さくなって行く。
二人は走った。――もう人影の消えた通路に足音が|響《ひび》く。
倫子のほうも走っているのか……いや、そうは見えないのだが、一向に倫子との間はせばまってこないのである。
友也は息を|弾《はず》ませていた。アリサも話しかける|余《よ》|裕《ゆう》もないらしい。ただ一心に倫子の姿を見|失《うしな》わないように急ぐだけだ。
|改《かい》|札《さつ》|口《ぐち》には、駅員の姿はなかった。倫子がそこを抜けて――。
「あれ?」
と友也は言った。
「倫子は?」
「いないじゃないか。変だな、こっちへ|確《たし》かに――」
「しっ!」
と、アリサがさえぎった。「足音が……」
コツコツという足音が、どこからか|響《ひび》いてくるのだ。
「どこだろう?」
「あっちじゃない?」
人影のない駅の|構《こう》|内《ない》というのは、あまり気持ちいいものではない。しかし、今はそんなことを言ってはいられなかった。
二人は、響いてくる足音のほうへと、大体のカンで歩いて行った。
「変だね、音はすれども、だ」
と、友也はキョロキョロと見回す。
「ねえ、ちょっと」
と、アリサが突っつく。
「|何《なん》だよ?」
「変だと思わない」
「何が?」
「あの|売《ばい》|店《てん》よ」
どこの駅にもある、キオスクの売店が、ポツンと|壁《かべ》|際《ぎわ》にあった。
「どこがおかしいんだ?」
「だって、こんな時間よ。もうとっくにシャッターを|閉《し》めてるはずだわ」
「なるほど……」
その売店は、人の姿はなかったが、明かりもついたままだったのだ。
「のぞいてみよう」
近づいてみると、あの足音が、かなりはっきりと聞こえてきた。
「見て!」
と、アリサが声をあげた。
売店の中、ちょうど売り子が|座《すわ》るあたりに、ポッカリと|穴《あな》があった。大きな|蓋《ふた》を取りはずしたという感じで、|真《ま》|四《し》|角《かく》なその穴は楽に|大人《おとな》が出入りできる|幅《はば》がある。
足音は、そこから響いてくるのだった。
「――どうする?」
と、友也は言った。
「ここでやめるわけにいかないでしょ!」
「そりゃまあ、ね……」
|迫《さこ》|田《た》の話を聞いている友也としては、やめたいわけ[#「わけ」に傍点]はあったのだが、まさかここでアリサ一人に、
「勝手にやれよ」
と言うわけにもいかない。
仕方なく、友也は穴をのぞき込んだ。
「はしごみたいなのがかかってる。下は明るいぜ」
「じゃ、早く行って! どんどん倫子が遠くへ行っちゃうわよ!」
アリサにせがまれ、友也は、気が進まないままに、仕方なく、そのはしごを降りて行った……。
6 |空《あ》き|家《や》の死体
あの|階《かい》|段《だん》だ。
|友《とも》|也《や》は、|降《お》りながら、そう思った。もちろんこの前入ったのは、あんなはしごからではないが、おそらく、|途中《とちゅう》からこの階段へとつながる通路があったのだろう。
「こんな所に階段があるなんて――」
アリサは、降りながら、あきれたように言った。
もちろん、友也のほうは知っている。しかし、今、アリサに|説《せつ》|明《めい》している時間はない。
「足音は?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。まだ聞こえてる」
と友也は言った。
「ずいぶん深いわ」
と、アリサは、少し落ち着かない様子である。「どこへ出るのかしら?」
「さあね」
やっと、下へ着いた。この前のとおり、人の|姿《すがた》のない通路がのびている。
「足音が消えたわ」
「ともかく行こう。この通路しかないんだから」
|二人《ふたり》は通路を進んで行った。
あの、前に|倫《みち》|子《こ》が姿を消した場所が近づいて来ると、友也は少し足を|緩《ゆる》めた。
その角から、ヒョイと倫子が出て来た。
「キャッ!」
アリサが|叫《さけ》び声をあげて、足を止める。「……倫子! ああびっくりした」
もう、|距《きょ》|離《り》は、数メートルしかなかった。
「倫子、生きてたのね!」
倫子は、友也のほうを見た。
「|僕《ぼく》を|覚《おぼ》えてる?」
と友也は言った。「朝、階段で君が転びそうになったとき、つかまえてあげた……」
「覚えてるわ」
と、倫子は言った。
倫子の声を聞いて、またアリサはギョッとしたようだった。今までは、|幻《まぼろし》か何かかもしれないという気持ちも|残《のこ》っていたのだろう。
「倫子、ここで何してるの? ここはどこ?」
と、アリサがきく。
「言えないわ、まだ」
と、倫子は首を|振《ふ》った。
「どうして? なぜ死んだことにしたの?」
「死んだのよ、私は」
と、倫子が言うと、アリサは、ちょっと青ざめた。|幽《ゆう》|霊《れい》かと思ったのだろう。
「アリサ、あなたはいい友だちだったから、ここを一度見ておいてほしかったの」
「ここを?」
「そう。――そのうち、きっと役に立つ日がくるから」
「どういう意味よ?」
「いずれあなたにも分かる日がくるわ」
倫子は、ちょっと|謎《なぞ》めいた言い方で、ふっと笑った。そしてまたあの角を曲がって姿を消してしまった。
「待って! 倫子!」
アリサが|飛《と》び出す。友也もすぐに|続《つづ》いた。
――だが、この前のときと同じだった。もう倫子の姿はどこにもなかったのである。
「――ああ、もう朝だ」
ホームのベンチで、アリサが大アクビをした。
「|何《なん》だよ。|眠《ねむ》いの? 夜あかしは|慣《な》れてんだろ」
「|冗談《じょうだん》じゃないわ。こちとら、それほどワルくなってないのよ。眠るだけは、ちゃんといつも――アーア」
とまた大アクビ。
「そろそろ始発が出るよ」
「でもさ、どうなってんだろうね。こんな東京駅のど|真《ま》ん中に、あんな|秘《ひ》|密《みつ》の通路みたいなもんがあるなんて……」
「うん……。ねえ、アリサ」
「|何《なに》よ。気味悪い声出さないでよ」
「気味悪い声で悪かったな」
と、友也はプーッとむくれた。
「そうすねないの。何なの?」
「君も知ってたほうがいいと思うんだ。ここまできたら」
「話してよ」
「うん」
友也は、この|一《いっ》|件《けん》との、そもそものかかわり合いから話を始めた。――そして、|迫《さこ》|田《た》が、|沢《さわ》|井《い》という|先《せん》|輩《ぱい》記者から聞いた話も、|詳《くわ》しく|説《せつ》|明《めい》した。
「いやねえ、まるで|冒険小説《ぼうけんしょうせつ》じゃないの」
と、アリサはふてくされた顔で、「私たち、ウルトラマンじゃないのよ」
「僕に言っても|仕《し》|方《かた》ないよ」
「|陰《いん》|謀《ぼう》か。国家の|機《き》|密《みつ》とか、そんなものに|関《かん》|係《けい》してるのかしら?」
「沢井って人の話が本当ならね」
と友也は言った。「――ねえ、聞いたことないかい、国会|議《ぎ》|事《じ》|堂《どう》の地下鉄の駅があんなに深いのは、|核《かく》|戦《せん》|争《そう》のとき、シェルターに使うつもりだからだって」
「ああ、知ってるわ。|噂《うわさ》でしょ、でも」
そう言ってから、アリサは友也を見て、「じゃ、ここもそうだっていうの?」
「分からないよ。ただ、ふっとそんな話を|連《れん》|想《そう》したんだ」
「それと倫子が生き返ったことと、どうつながるの?」
友也は首を振って、何も言わなかった。
――やがて、始発電車がホームに入って来て、どこかで夜を明かしたらしいサラリーマンの姿も、チラホラと目につくようになった。
「|今日《きょう》の学校はきついなあ」
と、友也は目をこすりながら立ち上がった。
|正《まさ》に、きついどころではなかった。
学校で、友也はコックリコックリやって、何度も注意された。一日がこんなに長いと思ったことはない。
|授業《じゅぎょう》が終わったときは、体中で息をついた。それでも|現《げん》|金《きん》なもので、教室を出ると急に目が|覚《さ》めて、頭がすっきりしてくる。
そうだ。|容《よう》|子《こ》が隠れている家へ|寄《よ》って行こう。何か|差《さ》し入れでも持ってくかな。
友也は|商店街《しょうてんがい》まで出ると、クレープをいくつか買って、容子がいる|空《あ》き|家《や》へと向かった。
「おーい」
|玄《げん》|関《かん》の戸をガラリと開けて、「いないのかい?――容子」
「ここだったのか」
|突《とつ》|然《ぜん》、後ろで声がして、友也は|飛《と》び上がった。
「あ、あの――」
立っていたのは|北《きた》|川《がわ》だった。
「やっぱり|嘘《うそ》をついてたんだな」
北川は、友也をぐっとにらんだ。「学校からあとをつけて来たんだ」
「はあ……」
|畜生《ちくしょう》、やっぱり、ちょっとボケてたのかなあ。――ともかく見つかってしまっては|仕《し》|方《かた》ない。
「ここにいたとはね。考えつかなかったよ」
北川は|苦《にが》|々《にが》しく笑って、「こういう点は頭がいい。さあ、上がるぞ」
「はあ」
仕方なく、友也は上がり|込《こ》んだ。
「容子はどこだ?」
「たぶん|奥《おく》の|部《へ》|屋《や》に……」
友也は奥のほうへと入って行った。「おーい、容子。出て来いよ」
「私をだまそうったって、そうはいかんぞ」
と北川が言った。
「|子《こ》|供《ども》を|信《しん》|用《よう》して下さい」
「信用して|逃《に》げられたのだ」
それもそうだ。――友也はフスマをガラリと開けた。
「容子――」
友也はギョッとして足を止めた。
ガランとした部屋の、|畳《たたみ》の上に、男が|一人《ひとり》、大の字になって|倒《たお》れていた。
「何だ、これは?」
北川が|唖《あ》|然《ぜん》として言った。
「分かりませんよ。――容子!」
返事はない。北川が、倒れている男のほうへかがみ込んだ。
「死んでるぞ」
「ええ? でも……見たことのない人だけど……」
北川は、男のポケットを|探《さぐ》った。
「――身分|証明書《しょうめいしょ》だ。――新聞記者だな。|沢《さわ》|井《い》|信《のぶ》|男《お》とある」
「沢井……」
迫田が言っていた、あの記者ではないか。なぜここで死んでいるのか?
「あれを見たまえ」
と北川は言った。
紙コップが一つ、転がっていて、中味が畳にこぼれて、すっかりしみ込んでしまっている。そのそばにコーラの|空《あ》き|缶《かん》。
「あれを飲んで死んだんでしょうか?」
「私に分かるわけがあるまい」
北川は、さすがに年の|功《こう》というか、やや青ざめてはいたが、落ち着き|払《はら》っている。
「|警《けい》|察《さつ》へ|連《れん》|絡《らく》しましょうか」
「うむ……」
北川はちょっと考えてから、「その前に、まず容子を|捜《さが》すんだ。この家の中にいるかどうか」
「はい」
二人で、やたらだだっ広い家の中を捜し回ったが、容子の|姿《すがた》はなかった。
「よし」
北川は友也を|促《うなが》して玄関から外へ出ながら、
「いいかね、私は少し間を|置《お》いて、一一〇番する。ここに男の死体があるということだけ|告《つ》げて名前は言わない。――ここは私の持ち家だから、あれこれきかれるかもしれんが、私は何も知らないことにするからね」
「はい」
「君はここにいて、もし容子がどこか外から|戻《もど》って来るのを見たら、中へ入らないように止めるんだ」
「分かりました」
|要《よう》するに北川としては、容子を|事《じ》|件《けん》に|巻《ま》き|込《こ》みたくないのだ。父親として|当《とう》|然《ぜん》の心理かもしれないが。
「|警《けい》|官《かん》に見とがめられないようにしろよ。それから、もし容子と会ったら――」
と、北川はじっと友也を見つめて、「|一《いっ》|緒《しょ》に家に来るんだ。いいね?」
と言った。友也としては、コックリとうなずく|他《ほか》はなかった。
友也は、北川が行ってしまうと、少し|離《はな》れた所から、あの|空《あ》き|家《や》を|眺《なが》めた。――沢井がなぜあそこにいたのだろう? なぜ死んだのか?
|殺《ころ》されたのか。それとも、迫田の言っていた|心《しん》|臓《ぞう》の|発《ほっ》|作《さ》だろうか?
そうだ。これを迫田へ連絡しなくてはならない。ともかく、警察が来るのを待って……。
十五分ほどたって、パトカーの音が近づいて来た。警官たちが、空き家へ入って行くのを見ていると、|肩《かた》にヒョイと手が|触《ふ》れて、友也は|仰天《ぎょうてん》した。
|振《ふ》り向くと、|紙袋《かみぶくろ》をかかえた容子が立っている。
「容子!」
「どうしたの? あの警官、何しに来たの?」
「どこへ行ってたんだ?」
「買物よ。いろいろと|必《ひつ》|要《よう》なものがあるでしょ」
「|呑《のん》|気《き》だなあ」
「私を|逮《たい》|捕《ほ》しに来たの?」
「|殺《さつ》|人《じん》|容《よう》|疑《ぎ》かもだ。――さ、行こう。今|説《せつ》|明《めい》するよ」
友也は、容子を|促《うなが》して、空き家をあとにした。
やはり|迫《さこ》|田《た》は社にはいなかった。
新聞記者がそんなに会社でのんびりしているはずもない。それならば、|沢《さわ》|井《い》の死も、わざわざ友也が連絡しなくても、|当《とう》|然《ぜん》迫田の耳に入るだろう。
電話を切って|席《せき》へ戻ると、容子はのんびりとクリームソーダをなめている。これで太らないのだから、|得《とく》な|体《たい》|質《しつ》だ。
「いったい何があったの!」
と、容子はふくれっつらで、「早く話してよ」
「君の|隠《かく》れてた部屋で――」
と言いかけて、友也は、ちょっと|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》の中を見回した。「あの沢井さんが死んでたんだ」
「えっ!」
容子は目を丸くした。友也の説明を聞くと、
「そう、いったいどうしたのかしら」
とため息をつく。
「それからね、実は|昨日《きのう》、また|大《おお》|和《わ》|田《だ》|倫《みち》|子《こ》に会ったんだ」
と、友也は言った。
友也が|昨《さく》|夜《や》の|出《で》|来《き》|事《ごと》を話してやると、容子は|案《あん》の|定《じょう》、ますますふくれて、
「私をのけ者にして! じゃ、あのアリサって|娘《こ》と、一夜を|共《とも》にしたのね!」
と、かみつきそうな声を出した。
「共にしたっていっても、ベンチで始発電車を待ってただけだぜ」
「共にしたには|違《ちが》いないじゃないの」
「そりゃまあそうだけど……」
「そのつもりならいいわよ。私にだって考えがあるからね」
「な、何だよ」
「これから考えるわ」
容子は立ち上がると、買物の|袋《ふくろ》をかかえて、さっさと店を出て行く。
「おい、容子! 待てよ!」
友也はあわててあとを追おうとしたが、何しろ喫茶店である。|伝票《でんぴょう》があり、会計があるので、金を|払《はら》わなければならない。
店員がのんびりやって来て、千円|札《さつ》を出した友也がジリジリしているのも気にかけず、
「ええと……クリームソーダが三百五十円、と……」
のんびりレジを|叩《たた》いて、「あら、|間《ま》|違《ちが》っちゃった」
なんてやっている。
「おつりはいいよ!」
と、|飛《と》び出し――たかったが、何しろ千円札はそうたくさん持ち合わせがない。
イライラしながら、やっとつりをもらって、店を飛び出したときは、もう容子の姿はとっくにどこかへ消えてしまっていた。
7 |巨《きょ》|大《だい》な計画
「また出まかせではないんだろうね」
|北《きた》|川《がわ》はジロリと|友《とも》|也《や》をにらんだ。
「いえ本当です! 今度は本当に知らないんです。|彼《かの》|女《じょ》、またどこかへ消えちゃったんです」
友也は、「今度こそは本当です!」
と強調した。
「そうか」
北川は|肩《かた》をすくめて、「まあ|信《しん》じよう。――まったく|困《こま》った|奴《やつ》だ!」
と言うと、
「かけたまえ」
とソファを|指《さ》した。
「はあ……」
友也は、|恐《おそ》る恐る、ソファに|腰《こし》をおろした。
北川家の|居《い》|間《ま》は、友也の家などに|比《くら》べれば、およそ信じがたいほどの広さがあって、友也など、もうその|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だけでのまれてしまう。
北川は自分で|豪《ごう》|華《か》な洋酒のびんが|並《なら》ぶ|棚《たな》へ行くと、グラスにウイスキーを注いだ。
「君はまだ飲めないな、|残《ざん》|念《ねん》ながら」
とグラスを手に言った。
「ええ。ビールなら少し飲んだことがありますけど」
「早く|大人《おとな》になりたくて、|無《む》|理《り》にアルコールをやる。そんな|頃《ころ》が一番幸せだよ」
北川は、ちょっとひきつるような|笑《わら》いを見せて、「本当に大人になると、アルコールでもなきゃ、やり切れんから飲む。そうなりゃみじめなもんだ」
と、|独《ひと》り|言《ごと》のように言った。
友也が|黙《だま》っていると、北川はグラス半分ほど飲んで、友也と向き合って|座《すわ》った。
「いったい|何《なに》があったんだね? |容《よう》|子《こ》は何に首を|突《つ》っ|込《こ》んでるんだ?」
と北川はきいた。
「それは……」
北川に話してよいものかどうか、友也は|迷《まよ》った。
「何をきいても、容子の|奴《やつ》はしゃべろうとせん。一度はね、君が|原《げん》|因《いん》かと思ったよ」
「|僕《ぼく》がですか?」
「そうだ。女の子が|突《とつ》|然《ぜん》公園でフラフラしているのを|補《ほ》|導《どう》されてみたまえ。親としては、まずボーイフレンドを|疑《うたが》ってかかるのが当然じゃないか」
「つまり……何か悪いことをやってるという……」
「|麻《ま》|薬《やく》とか|覚《かく》|醒《せい》|剤《ざい》とかね」
「まさか!」
「しかし、|一《いち》|応《おう》は心配になった。だから転校させようかとも思ったんだ。――だが、そんなことをしていれば、|必《かなら》ず、|普《ふ》|段《だん》の生活|態《たい》|度《ど》などに|現《あらわ》れるだろう。容子の場合は、まったくそんなことがない。|塀《へい》を|乗《の》り|越《こ》えて|逃《に》げ出すなどというのも、いかにも容子らしい。だから原因は|別《べつ》にある、と私は考えたんだ」
北川の話は友也にもよく|理《り》|解《かい》できた。
「まあ、私も容子が多少|無《む》|鉄《てっ》|砲《ぽう》ではあるが、けっして悪に走るような子ではないと信じているから、何をやろうと放っておいてもいい。しかし、ああして死体が出るということになると……」
北川は首を|振《ふ》った。「容子が死体になるようなことだけは|避《さ》けたい。君も容子の友だちなら、そう思うだろう」
「ええ」
「じゃ、話してくれないか。――君と容子がかかわり合っているのは、どんな|事《じ》|件《けん》なんだね」
北川の言い方は|高《こう》|圧《あつ》|的《てき》でもなく、|穏《おだ》やかで、|説得力《せっとくりょく》があった。――しかし、友也としては考えざるをえない。
|迫《さこ》|田《た》から、この話は|誰《だれ》にもするなと言われていたし、それにアリサに話してしまったことも、今では多少|後《こう》|悔《かい》していたのである。
どうしたものか、考え込んでから、友也は、もう一度迫田へ電話をしようと思った。
北川の居間の電話を|借《か》りてかけると、うまく迫田がつかまった。
「|沢《さわ》|井《い》さんがね。――うん、知ってる」
「それで実はお話が……」
友也が|事情《じじょう》を|説《せつ》|明《めい》すると、
「分かった。僕がそこへ|伺《うかが》おう」
と、迫田はすぐに言った。
三十分ほどたって、迫田がやって来た。
|自己紹介《じこしょうかい》したあと、迫田は、
「沢井さんの死は|自《し》|然《ぜん》|死《し》だったようです」
と言った。「|正《せい》|確《かく》なところは|検《けん》|死《し》|解《かい》|剖《ぼう》を待たなくては、分かりませんが、今のところ少なくとも|他《た》|殺《さつ》の|証拠《しょうこ》は出ていません」
「なるほど。――一つ安心したよ」
と北川は言った。迫田には|好《こう》|感《かん》を持ったようだ。
「君の口から話を聞かせてもらえないかね」
北川の言葉に、迫田はうなずいた。
「お話しします」
「私を|信《しん》|用《よう》してくれている、ということかな?」
「そのとおりです。ああ――つまり、ここへ伺う前に、|若干調査《じゃっかんちょうさ》をさせていただきましたので」
「なるほど」
北川はちょっと|笑《わら》って、「いや、新聞記者はそうでなくてはいかん。気に入ったよ」
と言った。
迫田は、友也の|体《たい》|験《けん》を手ぎわよくまとめて聞かせ、それに、沢井がもらした話を|詳《くわ》しく|付《つ》け|加《くわ》えた。
北川はしばらく考え込んでいたが、やがて大きく一つ息をつくと、
「信じられんような話だね」
と、言った。「こういう|状況《じょうきょう》の|下《もと》で聞いたのでなかったら、|一笑《いっしょう》に|付《ふ》すところだが」
「もちろん、沢井さんの話が、どこから聞き込んできたものなのか、どの|程《てい》|度《ど》|信《しん》|頼《らい》できるものなのかは|不《ふ》|明《めい》です。しかし、この|中《なか》|込《ごめ》君や、お|宅《たく》のお|嬢《じょう》さんの|体《たい》|験《けん》から考えて、あの東京駅の地下で、何か[#「何か」に傍点]が起こっていることは事実のようです」
「君の|想《そう》|像《ぞう》では?」
「僕のですか? さあ、とても見当がつきませんが――」
「そういう顔ではないぞ」
迫田は|苦笑《くしょう》して、
「まるで|S《エス》|F《エフ》だと笑われるかもしれませんが……」
「|構《かま》わん。世の中は信じがたいようなことが起きるものだ」
友也は、ちょっと口を出してみたくなった。何といっても、事の起こりは自分から始まったのだ。
「あの――もしかして|核《かく》シェルターか何かじゃないでしょうか」
迫田は目を見開いて、友也を見た。
「いや、|驚《おどろ》いたな! 僕もそう言おうと思っていたんだ」
友也は、ちょっと|得《とく》|意《い》になった。
「それならSFの|発《はっ》|想《そう》でも何でもない」
と、北川は言った。「いかにもありそうな話だ」
「笑い|飛《と》ばされなくてホッとしました」
と迫田は言った。「僕は、その地下の|秘《ひ》|密《みつ》の場所は、おそらく、中込君の言う核シェルターか、それとも|大《だい》|地《じ》|震《しん》に|備《そな》えての|避《ひ》|難《なん》場所ではないかと思うんです」
大地震か。それもあったな、と友也はうなずいた。
「だが、それと、死んだはずの人間が実は生きているという|奇《き》|怪《かい》な事実と、どう|関《かん》|係《けい》するのかね?」
と、北川はきいた。
「そこは僕も考えました。――それでこんな|仮《か》|説《せつ》を立ててみたんですが」
と迫田は、いつしか前へのり出すようにして話していた。「もし、それが、|来《きた》るべき|核《かく》|戦《せん》|争《そう》や大地震という、|巨《きょ》|大《だい》|災《さい》|害《がい》に備えて、作られたものだとすると……。これは|恐《おそ》ろしい想像ですが、|政《せい》|府《ふ》――といっても、ごく一部の人々でしょうが、|彼《かれ》らには、その日[#「その日」に傍点]が分かっているのではないか、と思うのです。正確にではなくても、大体、何か月先とか、一年先とか。――もしそうだとすると、いわばその|対《たい》|策《さく》として、|戸籍上《こせきじょう》は死んだ人々を、実はひそかにあの場所へ集めているのだと考えられませんか」
「もう少し|具《ぐ》|体《たい》|的《てき》に」
「分かりました。たとえば、|何《なん》|月《がつ》|何《なん》|日《にち》に、核|兵《へい》|器《き》による|攻《こう》|撃《げき》があると分かっていたとする。しかし、それを国民に公表できるでしょうか?」
「|無《む》|理《り》だろうな。大パニックになる」
「国民|全《ぜん》|部《ぶ》を|収容《しゅうよう》するほどのシェルターを|掘《ほ》っている時間はありません。だから、シェルターがあること自体も|隠《かく》さなくてはならないでしょう」
「当然、そこへ人々が|殺《さっ》|到《とう》するからな」
「そうです。すると、いざ、その日になって、そこへ入れるのは、ごく|限《かぎ》られた一部の人々です。政府の|要《よう》|人《じん》、その家族……」
ずるいや、そんなの、と友也は思った。
「しかし、彼らだけ[#「だけ」に傍点]が生きのびても、どうにもなりません。地上へ出ても|安《あん》|全《ぜん》になるまでの長い時間、地下で生活していかなくてはならない。あらゆる|職業《しょくぎょう》の人、そして年代の人も|必《ひつ》|要《よう》です。|特《とく》に|若《わか》い人々が」
「|子《し》|孫《そん》を|残《のこ》していかねばならんからな」
「そうです。では、そういう人間をどこで|選《えら》ぶか。そして、どうやってその場所へ連れて来るか。――まさか、|実《じっ》|際《さい》に生活しているのを|誘《ゆう》|拐《かい》してくるわけにはいきません」
「|捜《そう》|査《さ》の手がのびて、|真《しん》|相《そう》が明らかになるかもしれん」
「そうなると、一度死んだ人間はどうだろう、ということになります。つまり、|瀕《ひん》|死《し》の|重症《じゅうしょう》を|負《お》ったり、大病で死にかけているか、そのまま死なせるには|惜《お》しい人間」
「彼らを助けておいて、世間的には、死んだと思わせておくんだな」
「そうです。それなら、死んだはずなのですから、|誰《だれ》も|捜《さが》しにも来ないし、安全です」
迫田は、ちょっと言葉を切ってから、|続《つづ》けた。「―――毎日毎日、|事《じ》|故《こ》で何百人もの人間が死んでいます。その中から、何とか助けられそうな者を選び出し、さらに、生かしておく|価《か》|値《ち》があるかどうかを|判《はん》|断《だん》しているのではないでしょうか」
「すると、すでに何十人か何百人かの、そういう〈死人〉がいるかもしれん、というのだね?」
「どうもしゃべりながら、自分でも、こんな|馬《ば》|鹿《か》なことが、と思うんですが、そう考えると、|筋《すじ》もとおるような気がして……」
「いや、立派な|推《すい》|論《ろん》だよ」
と、北川は言った。「もちろん、それが正しいかどうかは|別《べつ》だが、|充分《じゅうぶん》に|一《いっ》|考《こう》に|値《あたい》する考えだと思う」
「ありがとうございます」
迫田は、ちょっと|緊張《きんちょう》がほぐれた様子で、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「でも、もしそれが本当なら」
と友也が言った。「|大《たい》|変《へん》ですよ。どうするんですか?」
「|僕《ぼく》は新聞記者だからね」
「書くんですか?」
「いや、まだ書くことはできない。何の|裏《うら》|付《づ》けもない想像に|過《す》ぎないからね。しかし、これが事実だと分かれば……」
「書くかね」
と、北川がきいた。
「どうすべきだと思われますか」
と、迫田がきき返す。「――書けば大パニックになるかもしれない。しかし、書くことで、|何《なん》らかの別の道が開けるかもしれません」
「それはむずかしいところだな」
と北川はうなずいた。
「ともかく、僕はこの問題の真相を|突《つ》き止めるつもりです」
「それは|賛《さん》|成《せい》だよ」
「その上で……決めます」
と、迫田は言った。
友也は、何だか、こんな大変な話を、こうして|居《い》|間《ま》で話しているのが、とても|現《げん》|実《じつ》だとは思えなかった。
こんな話は、ホワイトハウスの|会《かい》|議《ぎ》|室《しつ》とか、|首相官邸《しゅしょうかんてい》の|奥《おく》まった一室とかで|交《か》わすべきもので、友也のような中学生が居合わせる|席《せき》には、どうにも|似《に》つかわしくない。
「その沢井という死んだ記者だが」
と、北川は言った。「うちの容子のところへ、なぜ|現《あらわ》れたんだろう?」
「分かりません」
と、迫田は首を|振《ふ》った。「しかし、ともかく容子さんは、あの秘密に|接《せっ》|近《きん》しつつあった。そして沢井さんも別のどこかから、その|情報《じょうほう》を|仕《し》|入《い》れていた。きっと、容子さんのことも沢井さんは調べていたんじゃないでしょうか」
「沢井という記者が、どこから情報を聞いていたか、心当たりはないかね」
と、北川がきいた。
迫田は首をひねって、
「記者はニュースソースを明かしませんし、きかないのが|礼《れい》|儀《ぎ》ですからね」
「それはそうだ」
「ああ、待って下さい」
と、迫田は言った。「そういえば……。いや実は沢井さんがその話をしてくれたとき、手帳を落としていきましてね。記者にとっちゃ手帳は大切ですから、急いで拾って|渡《わた》したんですけどね、そのとき、たまたま開いていたページに、|神《かみ》|山《やま》という名があったんです」
「神山?」
「そうです。首相の|秘《ひ》|書《しょ》をやっている神山|和《かず》|男《お》ですよ」
「神山か……。その男なら――」
と北川が言いかけて言葉を切る。
「ご|存《ぞん》じですか?」
「ああ。――いや、もちろん名前だけだよ」
「もしかすると、あの|辺《へん》から出た話かもしれませんね。どう思われます?」
「考えられるね」
「当たってみようかな。しかし――僕がいきなりそんな話をぶつけても|否《ひ》|定《てい》されれば終わりですしね」
「そうだ。それに、君がその件を調べていることを知られたら、君が口を|封《ふう》じられるかもしれん」
友也がびっくりして、
「迫田さんが|殺《ころ》されるかもしれないってことですか?」
「いや、そうとは|限《かぎ》らない」
と北川は言った。「記者の口を封じるには、何も殺さなくてもいい。上のほうへ圧力をかけて、|配《はい》|置《ち》|換《が》えで、他の部に回してしまえばいいんだ。それとも|支局《しきょく》へ|転《てん》|勤《きん》させることもできる」
「そうなったら終わりですね」
と、迫田はうなずいて、「|充分慎重《じゅうぶんしんちょう》に行動しますよ」
「それがいい。私もできる|限《かぎ》り、力になりたい」
「ありがとうございます」
と、迫田は頭を下げた。
「さて……容子の|奴《やつ》、どこへ行ったのか……」
と、北川は、|渋《しぶ》い顔でつぶやいた。
友也は家へ帰ると、|部《へ》|屋《や》へ上がっていった。
「――|貴《たか》|子《こ》、お母さんは?」
|階《かい》|段《だん》ですれ|違《ちが》った妹へきく。
「お出かけよ」
「ふーん。お前も出かけるのか?」
「ちょっとね」
貴子は、友也のほうへウインクしてみせた。友也は|笑《わら》って、
「|馬《ば》|鹿《か》、何やってんだよ」
とからかうように言った。
貴子の奴も、もう小学校六年だもんな。|俺《おれ》が小学校のときよりぐっと|大人《おとな》っぽくて、ませてやがる!
部屋へ入ると、|机《つくえ》に向かって――勉強するのではむろんなく、まずラジカセのスイッチを入れて、|F《エフ》|M《エム》を流す。
「しかしなあ……」
とつぶやくように、|独《ひと》り言。「もうこの世が|滅《ほろ》びちゃうんじゃ、勉強しても|仕《し》|方《かた》ないや。思い切り遊んでやるかな」
「|賛《さん》|成《せい》」
「サンキュー」
と言って、「――おい!」
目を|丸《まる》くして|振《ふ》り返ると、友也のベッドの下から、容子が顔だけ出して笑っている。
「容子!」
「貴子ちゃんが入れてくれたのよ」
「それであいつ、出かけたのか……」
気のきかせすぎだ、まったく!
「おい、出て来いよ」
「うん」
スルスルと|這《は》い出して来ると、「ねえ、この世が滅びるって何の話?」
「え?――ああ、それは……」
「うちのお父さんと話して来たの?」
「うん、心配してるぞ」
「そりゃ親だもの」
と、アッサリ言って、「で、何か言ってた?」
「うん……」
友也がためらっていると、
「また私に|隠《かく》れてこっそり何かやる気ね!」
と容子が、ぐっと|詰《つ》め|寄《よ》ってくる。
「分かったよ! しゃべるから……」
と、友也はあわてて言った。
「そう。|素《す》|直《なお》にそう言えばいいのよ」
まったくもう、|威《い》|張《ば》ってんだから!
友也が、|迫《さこ》|田《た》の考えをくり返して話してやると、容子はじっと聞き入っていたが、
「――何だかとてつもない話になってきたわね!」
と言った。
「でも、どうだい? そう考えりゃ、ピッタリくるじゃないか」
「そりゃまあそうだけど……。あんまり|希《き》|望《ぼう》にあふれた考えともいえないわね」
友也も容子の言葉に同感だった。
8 |容《よう》|子《こ》、気分が|変《か》わる
「君の|親《おや》|父《じ》さん、あっちこっち顔が広いんだろ? どこかで調べてくれんじゃないかなあ」
と|友《とも》|也《や》は、|容《よう》|子《こ》が買ってきたクッキーを|頬《ほお》|張《ば》りながら言った。
「そうねえ……」
容子は首をかしげた。「ま、うちのお父さんは、もとからそんなこと、よく気にしてたのよね」
「そんなことって?」
「ほら、|核《かく》|戦《せん》|争《そう》のときはどこへ|隠《かく》れようとかさ。|私《わたし》なんか、死ぬときゃ死ぬのよ、なんて言ってるけど、本気じゃないわけよ。いざとなったら、うろたえてさ、助けて助けて、って|叫《さけ》び回るんじゃないかな」
「そりゃ、|誰《だれ》だって死ぬの|怖《こわ》いよなあ」
「うちのお父さんは、ほら|家《いえ》|柄《がら》|良《よ》くて|血《ち》|筋《すじ》がいいでしょ。だからかえって死ぬの怖いのね。何かこう――自分のような|血《けっ》|統《とう》の人間は、生きのびるべきだって|信《しん》|念《ねん》があるわけ」
「へえ」
「私に言わせりゃ、|人《じん》|類《るい》|滅《めつ》|亡《ぼう》のときにうちのお父さん生き|残《のこ》っても、あんまり役に立たないと思うんだけどね」
「ひどいなあ」
と友也は思わず笑い出した。
「だって、お父さんは|釘《くぎ》一本打てやしないし、カップラーメンだって作れないし、およそロビンソン・クルーソーみたいな生命力なんて|縁《えん》がないの」
「育ちがいいとそうなるんだろうな」
「だから、そんなときには、|可《か》|哀《わい》そうだけど|真《ま》っ先に|犠《ぎ》|牲《せい》になるわ、きっと」
容子は|呑《のん》|気《き》に言って|缶《かん》のジュースをぐいっと飲んだ。
「でも、そういう|偉《えら》い人って、|結《けっ》|構《こう》コネで生きのびんじゃない?」
「そんなに偉くないわよ。それほどならまた|別《べつ》だけども。――自分でも、その|辺《へん》、|承知《しょうち》してるから、この前なんか、ほらドイツ|製《せい》の核シェルターが売り出されたでしょ」
「ああ、何千万円かするやつだろ」
「あれを本気で買おうかなんて言い出してね。だけどうちの家族だけ生き残っても、|他《ほか》が|焼《や》け野原じゃ|何《なん》にもならないわ。そう思わない?」
「一緒に死んじゃわなくても、あとで死ぬだろうね」
「お母さんと私がさんざん文句言ったもんだから、お父さん、|渋《しぶ》|々《しぶ》やめたけどね。――そんな|迫《さこ》|田《た》さんの話聞いたら、きっとまた気が気でなくなるわ」
「悪かったなあ、そりゃ。でも、本気で|情報《じょうほう》を集めてくれるかもしれないぜ」
「今ごろかけ回ってるかもね」
と、容子は笑って、「私のこと|忘《わす》れててくれりゃいいけど」
と|付《つ》け加えた。
「君、今夜はどうするんだ?」
「どうするって?」
「つまり……もうあの|空《あ》き|家《や》には|戻《もど》れないだろ。家へ帰る?」
「いやよ。核シェルターへ|押《お》し|込《こ》められちゃかなわない」
「どこか|泊《と》まるあてあんのか?」
「ここ[#「ここ」に傍点]」
「え?」
「泊めてよ。ベッドの下でいいからさ」
友也は目を|丸《まる》くした。
「おい! |冗談《じょうだん》じゃないよ、もしお|袋《ふくろ》に見つかったら――」
「|結《けっ》|婚《こん》しますって言えば?」
友也が|何《なに》か言いかけたとき、|階《し》|下《た》でチャイムの鳴るのが聞こえた。
「あ、|誰《だれ》か来た」
「お父さんなら、いないって言ってね」
友也は、急いで|階《かい》|段《だん》を|降《お》りていった。
「はい」
|玄《げん》|関《かん》のドアを開けると、思いがけない人間が立っていた。
|大《おお》|和《わ》|田《だ》|倫《みち》|子《こ》の父親である。
「大和田だけど……」
「ど、どうも……」
友也はあわてて頭を下げた。「あの……どうぞ」
「じゃ、ちょっと|失《しつ》|礼《れい》」
大和田を|居《い》|間《ま》へ通して、友也は、
「あの、今誰もいないもんで――」
「いや、いいんだ。実は、この間のことを|謝《あやま》りたくてね」
「この間のこと?」
「君があの定期入れを、何か|下心《したごころ》があって|届《とど》けて来たんじゃないか、というようなことを言ったので、あとになって気になってね。|家《か》|内《ない》にも|怒《おこ》られてしまって……」
「いいんです、そんなこと」
「いや、本当にわざわざ親切に届けてくれたのにね」
と大和田は言って、「まあ|許《ゆる》してくれたまえ」
と頭を下げる。
「|困《こま》りますよ、そんな」
と友也が言っていると、
「どうも先日は」
と、容子が入って来た。お茶をのせた|盆《ぼん》を運んで来るのには、友也も|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「やあ、君もいたのか。いやこの間は申しわけなかったね」
「いいんです。――でも、本当のことを教えて下さい」
「本当のこと?」
「倫子さんの……。本当はどんなお子さんだったのか」
と、容子もソファに|座《すわ》り込む。
「うん……。倫子はね、いい|娘《こ》だったよ。しかしあんなふうに、|自《じ》|殺《さつ》か|事《じ》|故《こ》かも分からないような死に方をしたのをみても、|察《さっ》しはつくと思うが、あの|頃《ころ》は|荒《あ》れていてね」
「男の子のことで?」
「うん。――どう見ても、倫子のためには遠ざけたほうがいい男だった。私としては、|良《よ》かれと思ってやったことだが……」
「その辺のこと、アリサって人から聞きました」
「ああ、じゃあの子を知ってるんだね? あれはなかなかいい娘だ。|女房《にょうぼう》などはスタイルを見ただけで目を回しそうだったが、リーダー|格《かく》になるだけでも、やはりちょっと|違《ちが》う」
「倫子さんに対しても、少しやり方を考えるべきだったんじゃありませんか」
友也はハラハラしていた。容子は、ときどきこうして、「お|姫《ひめ》さま|気質《かたぎ》」とでもいうのか、年上の人間に対して、教えさとすような言い方をすることがあるのだ。言われたほうはあまり|面《おも》|白《しろ》くあるまい。
「私もそう思ってるよ」
しかし、大和田はいたって|素《す》|直《なお》にそう言った。「倫子はしっかり者だった。あの子の|性《せい》|格《かく》を考えれば、あんなやり方で、男を引き|離《はな》すべきではなかったな」
「それで倫子さんはオートバイを|飛《と》ばして……」
「そう……。あの子の|遺《い》|体《たい》は、ほとんど見分けがつかないぐらいだった。女房などは今でも、もしかしたら、あれは|別《べつ》|人《じん》で――などと考えているようだよ」
大和田は、ちょっと|寂《さび》しげに|笑《わら》った。
「大和田さんは、そうお考えにはならなかったんですか?」
と、容子が言った。
おいおい、何を言い出すんだよ、と友也は容子を見たが、容子のほうは一向に気にしない様子だ。
「私かね? そりゃ、生きててくれたら、どんなに|嬉《うれ》しいかと思うよ。しかし、かかりつけだった歯医者さんが|確《かく》|認《にん》してくれてね。それでは|疑《うたが》いようがない」
大和田は、ふと思い出したように、「そうだ。――あの定期入れの|件《けん》なんだがね、あれがどうしても私には分からない。思い違いかとも考えてみたが、はっきり、あれを|棺《ひつぎ》の中へ入れた|記《き》|憶《おく》があって……」
「倫子さんが落としたんだとしたら?」
「そんなことが――」
「お葬式のあとに[#「あとに」に傍点]です」
大和田はポカンとして容子を|眺《なが》めていた。
「おい容子――」
と、友也が言いかけるのを、
「いいから!」
と、容子は押さえて、「実は大和田さん、私たち、倫子さんを見たんです。それもつい|最《さい》|近《きん》」
「何だって?」
大和田は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
知らないぞ。もう! 友也は頭をかかえてため息をついた。
「――ここですか?」
と容子がきいた。
「そう。この歯医者だ」
かなり|繁盛《はんじょう》している歯医者らしい。|建《たて》|物《もの》も|立《りっ》|派《ぱ》だった。
「入ろうか」
大和田が|決《けつ》|然《ぜん》たる足取りで入って行く。
「おい、容子、こんなことして――」
と、友也が|低《ひく》い声で言うと、
「いいのよ! 私に|任《まか》せて」
と、容子が|退《しりぞ》ける。
友也は|肩《かた》をすくめた。どうにでもなれ、だ!
中へ入ると、大和田が大声で、
「先生に話がある! 大和田が来たと|伝《つた》えてくれ!」
と|怒《ど》|鳴《な》っていた。
|順番《じゅんばん》を待っている|患《かん》|者《じゃ》たちがびっくりしていた。|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》が青くなって、
「あの――先生は|治療中《ちりょうちゅう》で――」
「うるさい!」
大和田はズカズカと|奥《おく》へ入って行く。
「な、何です、いったい!」
「|娘《むすめ》の死体を確認したとき、なぜ|嘘《うそ》をついたんだ!」
「何ですって? そんな――」
「娘は生きていたぞ! この|野《や》|郎《ろう》、誰に|頼《たの》まれた!」
ドタドタッと音がしたと思うと、|白衣姿《はくいすがた》の歯医者が転がり出て来た。大和田が追いかけて来て、|胸《むな》ぐらをつかんで引っ|張《ぱ》り上げる。
「こいつ! しゃべらないと、その歯を|全《ぜん》|部《ぶ》、入れ歯にさせてやるぞ!」
ドシン、と|壁《かべ》に押しつける。
容子が見とれて、
「|迫力《はくりょく》!」
とつぶやいた。
「ま、待ってくれ……」
歯医者は目を白黒させて、「しゃべる! しゃべるよ……。金を……もらったんだ……」
「何だと? 金をもらって、|全《ぜん》|然《ぜん》|別《べつ》の死体をうちの娘だと証言したのか!」
「す、すまん……。この家を|建《た》てて……|借金《しゃっきん》がかさんでいて……」
「|頼《たの》んだのは誰だ?」
「知らない! 本当だ!――見たことのない男だった。|現《げん》|金《きん》を見せて、『こっちの注文どおりにしゃべってくれりゃ、これをそっくりやる』と言われた。それだけだよ……」
「それだけだと?」
大和田が歯医者を思い切り奥のほうへと投げ|飛《と》ばした。歯医者はみごとにゴロゴロと転がって、やがてドシン、ガチャンという音だけが|響《ひび》いてきた。
「|保《ほ》|険《けん》で|治《なお》すんだな」
大和田は言って、「さあ出よう」
と、|二人《ふたり》を|促《うなが》した。
「――君たちのおかげだよ」
外へ出ると、大和田が言った。「しかし、|倫《みち》|子《こ》はなぜ帰って来ないんだう?」
「さあ。何かよほどの|事情《じじょう》があるんじゃないでしょうか」
と容子が言った。
「君たちが倫子を見たというのは、どの|辺《へん》かね?」
「東京駅です」
「東京駅……。そうか、あの定期券も東京駅だったな」
「かなり夜|遅《おそ》くでした」
と、容子は言って、「ね、|中《なか》|込《ごめ》君?」
と友也を見る。
「え?――ああ――うん、まあね」
「|夜《よ》|中《なか》か。よし、今夜、私は東京駅へ行ってみるぞ」
と大和田は言った。
「そうですか。私たちも心強いわ!」
友也がキョトンとして容子を見る。
「ねえ、そうでしょ、中込君?」
勝手にしろ、と友也はそっぽを向いた。
「君たちも行ってくれるか? そいつはありがたい」
大和田はうなずいて、「しかし女房の|奴《やつ》には|黙《だま》ってなくてはならんな。取り|乱《みだ》すといけない」
「ついでに|奥《おく》|様《さま》には急な|出張《しゅっちょう》だとでもおっしゃっておいたほうがいいかもしれませんよ」
と容子が言った。
では、今夜十一時に、ということになって、大和田と|別《わか》れてから、
「おい、容子、どうするんだ? あんなにベラベラしゃべっちゃって」
「まずかった?」
「|迫《さこ》|田《た》さんにも|断《ことわ》らないでさ……」
「いいじゃないの。私たちは私たちなりに、|解《かい》|決《けつ》へと|迫《せま》れば。――さて、帰るかな」
「どこへ?」
「家へよ」
「家へ? だけど、さっきは帰らないって――」
「さっきはさっき、今は今よ」
友也は、もう何が何だか分からなくなってきた。
「それとも……ねえ、友也」
と容子はニッコリ|笑《わら》って、「|泊《と》まってほしい?」
「|結《けっ》|構《こう》だよ」
と、友也は言い返した。「それで――出て来られんのかい、君?」
「今夜? ああ、|大丈夫《だいじょうぶ》よ。お父さんとじっくり話し込んで|説《せつ》|得《とく》するから」
何だかえらく風向きが|変《か》わっている。
「それじゃ、バイバイ。あ、どこで待ってる?」
「じゃあ……東京駅のホームへ行くよ」
「|O《オー》|K《ケイ》。十一時ね」
何だか容子は楽しげにスキップなどしながら、歩いて行った。
見送った友也は、ふと、「|女心《おんなごころ》と秋の空」などという古くさい文句を思い出していた……。
9 |幽《ゆう》|霊《れい》の|帰《き》|宅《たく》
「なあに、こんな時間に出かけるの?」
母親がジロリと|友《とも》|也《や》をにらんだ。
「うん……。ちょっと用があるんだ。そんなに|遅《おそ》くならないからさ」
「中学生のくせに|夜《よ》|遊《あそ》びなんて!――|誰《だれ》とどこへ行くの?」
「あの――|迫《さこ》|田《た》さんだよ。記者の|取《しゅ》|材《ざい》ってのはどうやるのか、とかいろいろ教えてくれることになっててね」
「迫田先生? 本当なの?」
子供が|信《しん》|用《よう》できないのかなあ、と、でたらめを言っておきながら、友也は勝手なことを考えた。
「――お兄ちゃん、電話」
と|貴《たか》|子《こ》が顔を出した。「迫田先生よ」
グッドタイミングだ! 友也は電話へ|飛《と》びついた。
「あ、迫田さん? 友也です。今家を出ますから」
「え?」
向こうはキョトンとしている。そりゃそうだろう。
「だから十一時には東京駅へ着きます。大丈夫ですから」
「十一時に東京駅?」
「ええ、|遅《おく》れません、大丈夫ですよ。学校じゃないから|遅《ち》|刻《こく》はしません、ハハハ……。じゃ、向こうで」
友也は電話を切ると、「――じゃ、出かけて来るよ」
と母親へ声をかけた。
「迫田先生によろしくね」
母親は安心した様子だった。――迫田は母親には信用があるのだ。
友也は急いで出て行った。
貴子はテレビを見ていた。ニュースをやっている。母親が入って来ると、
「ねえ、この人、ほら迫田先生の知ってた記者の人でしょ」
「ああ、|何《なん》だか|亡《な》くなったっていう人ね」
「うん。――ほら、|心《しん》|臓《ぞう》|発《ほっ》|作《さ》と見られていたけど、|解《かい》|剖《ぼう》の|結《けっ》|果《か》、心臓発作を|誘《ゆう》|発《はつ》する薬を飲まされてたんですって」
「まあ、それじゃ……」
「|殺《ころ》されたのよ、この人」
と貴子は言った。
|大《おお》|和《わ》|田《だ》は十時少し|過《す》ぎに、もう東京駅に着いていた。
気ばかりせいて、どこかで時間をつぶしている気にもなれなかったのである。
|帰《き》|宅《たく》してからも、|興《こう》|奮《ふん》を|隠《かく》しきれずに歩き回ったりしていたので、|妻《つま》がけげんな顔で見ていた。
そこで早々に急の出張|命《めい》|令《れい》だと言って、出てきたのである。
それでもこうして一時間近くも前にやって来てしまった。死んだと思った|娘《むすめ》が生きているらしいと分かれば、誰だって落ち着かなくなるだろう。
もっとも、|過《か》|大《だい》な期待を|抱《いだ》くのは|禁《きん》|物《もつ》だ、と大和田は自分へ言い聞かせた。
|必《かなら》ずしも今夜、ここへ|倫《みち》|子《こ》が|現《あらわ》れるとは限らないのだ。しかし、たとえ一パーセントの|可《か》|能《のう》|性《せい》でもあれば……。
時間はのろのろと|過《す》ぎていった。
ベンチに|腰《こし》をおろして、電車が来るたびに、客の中に倫子の姿がないかとキョロキョロ見回した。
十一時が近づくにつれ、落ち着かなくなった大和田は、立ち上がって、ホームをウロウロと歩き出した。
あの少年と少女はまだ来ない。いや、まだ十分あるのだ。来なくて当たり前だ。
「落ち着け、落ち着け……」
と自分へ言い聞かせる。
電車が一本入って来た。あれに乗ってるかな。――大和田はホームの|端《はし》のほうへと少し進み出た。
ふと、誰かが後ろに立ったのを感じて、大和田は|振《ふ》り向いた。知らない男が立っていた。
「大和田さんですね」
「ええそうですが」
電車がゴーッと|低《ひく》い|唸《うな》り声を立てて、ホームを|滑《すべ》って来る。
「あなたは?」
男が、いきなり大和田を|突《つ》き|飛《と》ばした。大和田はひとたまりもなくホームから線路へ――電車の直前へ落ちた。
ブレーキが鳴る。男は同時に|駆《か》け出していた。
「やれやれ……」
友也は、十一時を十五分も過ぎて、やっと東京駅へやって来た。
本来なら、ちゃんと間に合う時間に、電車に乗ったのである。
ところが|途中《とちゅう》で、「|人《じん》|身《しん》|事《じ》|故《こ》のため」とかで、電車がストップしてしまったのだ。
あとはノロノロ運転で、やっとこ|到着《とうちゃく》というわけである。ホームへ出ると、反対|側《がわ》のホームに|何《なに》やら人だかりがしている。
大和田さんはどこだろう? 友也が見回していると、
「友也!」
と|呼《よ》ぶ声がした。
|容《よう》|子《こ》が走って来る。
「やあ、遅れてごめん。何か事故があったって――」
「大和田さんよ」
と容子は言った。
「本当かい?」
友也は思わずきき返した。「どうしたんだ?」
「誰かが電車の前に突き落としたの。運転手が見ていたわ」
「そんな……」
友也はつぶやくように、「で、どうなの、大和田さんは?」
容子は|肩《かた》をすくめて、
「分からないわ。そうしつこくもきけないし」
と言った。
「でも……誰が……」
「ともかく、ここで待つのよ」
「待つって?」
「|犯《はん》|人《にん》は|当《とう》|然《ぜん》、私たちが来ることを知ってるはずだわ。だから犯人が出て来るのを待つの」
「来るかな」
「来るわよ。――必ず」
容子はそう言って、|厳《きび》しい目で、ホームを|見《み》|渡《わた》した。
「今は来ないだろう。これだけ人がいちゃ」
「そうね。|静《しず》かになったら……」
「なぜ大和田さんが……」
「|倫《みち》|子《こ》さんに会われちゃまずいからでしょうね」
「でも|殺《ころ》さなくたっていいじゃないか!」
「犯人にきいてよ」
と容子は言った。
そろそろ、|片《かた》づけ始めているらしい。ホームに集まっていた人々も|散《ち》り始めた。
十一時半を回っている。
それにしても――と、友也は考えた。その犯人は、なぜ大和田さんがここへ来ることを知っていたんだろう?
|偶《ぐう》|然《ぜん》見かけただけとは思えない。
「ねえ容子」
「なに?」
「ここへ十一時に来るってこと、誰かにしゃべった?」
「いいえ。お父さんは出かけてるしね」
「そうか……。でも犯人はどうして――」
「友也は? 言わなかった?」
「言うもんか!」
と、友也は言った。
「ほら、ホームが|空《から》になるわよ」
と、容子は声をひそめた。
時間は過ぎていった。そして、終電車が入って来る……。
「あれが|最《さい》|後《ご》だ」
「倫子さんがこの間出て来たのは、どっちの|階《かい》|段《だん》?」
と容子がきいた。
「あっちだよ」
「その階段のほうへ行きましょう」
と容子が|促《うなが》した。
容子と友也は、その階段を|真《ま》|上《うえ》から見下ろした。終電車が入って、何人かの客が|降《お》りて行く。
それが|途《と》|切《ぎ》れると、もう人の|姿《すがた》はなくなった。――友也と容子は、手すり|越《ご》しに、階段を見下ろしていた。
「来ないぞ」
「もう少し待つのよ」
と、容子は言った。
友也は、|微《かす》かな足音が|背《はい》|後《ご》に近づくのを聞き取った。
ハッと振り向く。コートにソフト|帽《ぼう》、サングラスとマスクで顔を|隠《かく》した男が目の前に立っていた。
「|誰《だれ》だ!」
と友也が|叫《さけ》ぶ。
男の手がのびて、容子の体を突き飛ばした。
「キャーッ!」
手すり越しに容子の姿が消える。
「容子!」
と友也が青くなった。
容子は手すりにぶら下がっていた。下の階段まで、四、五メートルはある。
男の手が友也の首へのびてきた。友也もすばしっこい点では人に負けない。エイッとばかり男の手にかみついた。
「ウーッ!」
と男が|呻《うめ》いて、手を引っ|込《こ》めた。
かなりきいた[#「きいた」に傍点]らしい。男はかまれた手を|押《お》さえて|逃《に》げ出した。
「容子! しっかりしろ」
「もうだめ!」
手すりがコンクリートなので、しっかりつかんでいられないのだ。ズルッと|滑《すべ》って、友也が手を|伸《の》ばしたときは、容子の体は|真《ま》っ|直《す》ぐに落下していた。
「キャッ!」
と容子が叫ぶ。
容子の下へ、大和田倫子が|駆《か》けて来た。ほんの|一瞬《いっしゅん》の|出《で》|来《き》|事《ごと》だった。容子が落ちる――倫子が|現《あらわ》れる――倫子が容子を受け止める。|二人《ふたり》して階段に|転《てん》|倒《とう》した。
友也は手すりを回って階段を駆け降りた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》か!」
「私は何とか……」
と、容子が|腰《こし》を押さえながら起き上がる。
「大丈夫です」
倫子も、頭を|振《ふ》って起き上がった。
「倫子さん! あなたのお父さんが――」
「え? 父が……」
倫子はハッとした。「父が来たんですか?」
「電車の前に突き落とされたのよ!」
倫子が青ざめた。
「それで――」
「突き落としたのが誰か、あなたには分かってるでしょ? お父さんにあなたと会われちゃまずいと、お父さんを殺そうとしたのよ」
「ああ!――まさか!」
倫子はよろめいて、両手で顔をおおった。
「おい容子……」
と友也は言った。「分かってんのか、犯人が?」
「当たり前よ。今、突き落とされそうになって、まだ分からないの?」
「だって――」
あの体つき、あの|呻《うめ》き声……。まさか! 友也は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「そうだ。あの人[#「あの人」に傍点]には言ったんだ。十一時に東京駅、と……」
倫子が、|突《とつ》|然《ぜん》走り出した。通路へ降りると、そのまま突っ走って行く。
「追いかけるのよ!」
と、容子が叫んだ。
「おい、待て!」
と、友也は叫んで駆け出した。
友也と容子が|改《かい》|札《さつ》|口《ぐち》を飛び出したとき、倫子は、あのコート姿の男と、もみ合っていた。
「はなせ!」
「この人殺し!」
と倫子がしがみつく。
倫子の手で、男の|帽《ぼう》|子《し》が。つづいて、マスクとサングラスが落ちた。――現れたのは、|迫《さこ》|田《た》の顔だった。
「|畜生《ちくしょう》!」
迫田が倫子を突き飛ばして駆け出す。
「倫子さん、しっかりして!」
と容子が駆け|寄《よ》った。
「あの男が――」
「大丈夫。逃げられやしないわ。それにお父さんも|危《き》|機《き》|一《いっ》|髪《ぱつ》で|無《ぶ》|事《じ》だったのよ」
「本当に?」
倫子の顔が|輝《かがや》いた。
「倫子!」
と声がした。大和田が、|腕《うで》に|包《ほう》|帯《たい》をして、走って来る。
「お父さん!」
倫子が飛び上がって、父親のほうへと駆け寄った。
一方、友也のほうは、ガランとした、駅の|構《こう》|内《ない》を、迫田を追っかけて走っていた。しかし、中学生の足ではとても追いつけない。そのとき――。
「何だ?」
と友也は思わず言った。
駅の構内へ、オートバイが五、六台乗り入れて来て、迫田の行く手を|塞《ふさ》いだ。
「アリサだ!」
と友也は言った。
オートバイが構内に|爆《ばく》|音《おん》を|響《ひび》かせて、いっせいに迫田へ向かって突っ走った。迫田があわてて向きを変える。
だが、いくら走ってもオートバイにかなうはずもない。たちまち取り|囲《かこ》まれて、|右《う》|往《おう》|左《さ》|往《おう》しているところへ、どこにいたのか、警官が何人も飛び|込《こ》んで来た。
迫田は力|尽《つ》きたように、その場に|座《すわ》り込んでしまった……。
「|幕《まく》|切《ぎ》れは|派《は》|手《で》でいいでしょ」
いつの間にか、容子が友也の横に立っていた。
「君が……」
「そうよ。|連《れん》|絡《らく》しといたの。アリサにも、一役買ってもらったほうが公平だと思ったしね」
と容子は言った。
「まったく、|奇《き》|想《そう》|天《てん》|外《がい》なアイデアを考え出したものね」
と、容子は言った。
「|何《なん》だかよく分からないよ」
友也は|一人《ひとり》でむくれている。いつも容子のほうが|説《せつ》|明《めい》する立場なのだ。
ここは大和田の家である。|倫《みち》|子《こ》が|戻《もど》ったので、母親のほうはまだ|嬉《うれ》しさで|呆《ぼう》|然《ぜん》としている。父親がせっせと、お茶の用意をしていた。
「記者という仕事をしていたから、迫田はいろいろと|珍《めずら》しい話を聞く|機《き》|会《かい》があったわけね。それで、あの東京駅に今は|全《ぜん》|然《ぜん》使われていない|階《かい》|段《だん》と、地下の通路があることを知った。それと、倫子さんを、たまたま助けたことの二つを、迫田はうまく|結《むす》びつけたわけね」
「|私《わたし》、オートバイごとぶつかって死ぬつもりだったの」
と倫子は言った。「でも、空中へはね|飛《と》ばされて、それこそ|嘘《うそ》みたいな話だけど、迫田の車の中へ落っこちたんです。オープンタイプのスポーツカーだったから」
「で、|彼《かれ》はあなたを|介《かい》|抱《ほう》した。あなたも彼に心をひかれてたんでしょう? |優《やさ》しそうな男だものね。そしてたまたま身元の分からない女の死体があなたのものらしい、と言われているのを知って、死んだことにしてしまうことで、両親へ仕返ししてやりたかったんでしょう?」
「ずっとそのままにしておくつもりはなかったんです。命を助けてくれた迫田に|頼《たの》まれたし、その計画が終わるまでは、と……。そのあとで、|記《き》|憶《おく》を|失《うしな》っていたとか言って帰るつもりでした。――今思うと、ずいぶんひどいことをしたものだと……」
「でも、迫田も、よくあんな|独《どく》|創《そう》|的《てき》な計画を考えついたものね」
「もともと、|首相秘書《しゅしょうひしょ》の|神《かみ》|山《やま》っていうのと親しくて、|二人《ふたり》で何かひともうけしようと思ってたようです」
「じゃ、|核《かく》シェルターの話は神山が考え出したのかしら?」
「たぶん、そうだと思います」
「どこかにそういう場所が|実《じつ》|在《ざい》すると思わせて、|核《かく》|戦《せん》|争《そう》が|真《ま》|近《ぢか》いと|匂《にお》わせる。|普《ふ》|段《だん》からそういう話に|神《しん》|経《けい》|質《しつ》になっている金持ちに、その話を|信《しん》|用《よう》させて、そこへ入れるようにしてやるといって、|巨《きょ》|額《がく》の金を|巻《ま》き上げる、という|寸《すん》|法《ぽう》ね」
「一人、五千万と言ってました」
「じゃ、あの話は、|全《ぜん》|部《ぶ》でたらめ?」
と友也は目を|見《み》|張《は》って言った。
「もちろんよ。|沢《さわ》|井《い》って人から聞いたというのも|嘘《うそ》。何もかもでっちあげだったのよ」
「あきれたな!」
「私、どうにもその話が信じられなくってね、|特《とく》にお父さんに迫田がけんめいに説明していたとあなたが言ったんで、ピンときたの。うちのお父さんなら、まず|簡《かん》|単《たん》に引っかかるに決まってるもの」
「じゃ、|連中《れんちゅう》の|目標《もくひょう》は君のお父さんだったのか!」
「そうよ。だって、首相秘書の神山と父は親しいの。だから神山も、まず手始めに父を|狙《ねら》ったんだわ」
と容子は言った。「でも、|直接《ちょくせつ》そんな話を持ちかけても、まず信用されないに決まっている。そこでまず|娘《むすめ》の私が、ごく|自《し》|然《ぜん》にそれを発見するように|導《みちび》いていったのね」
「すると|僕《ぼく》が倫子さんを追いかけて、あの通路を見つけるように、|筋《すじ》|書《がき》ができてたのかい?」
「そうです」
と倫子がうなずく。「迫田が、たまたま容子さんの友だちであるあなたのことをよく知っていたので、|利《り》|用《よう》できるだろう、と言ったんです。おたくを|訪《たず》ねようとして、あなたがお母さんに用を|頼《たの》まれるのを耳にしたらしいですね。私に、同じ電車へ乗れと言って……。私を見たら、|必《かなら》ずあなたが私について来る、と……」
「|参《まい》ったな!」
と友也は言った。まるでぼくが|馬《ば》|鹿《か》みたいじゃないか!
「|以《い》|前《ぜん》使っていた定期入れとそっくりの物を落としておいたんです。あなたが私の家へ|届《とど》けてくれると分かっていましたから。そしてあなたが、その話を容子さんへ聞かせるに|違《ちが》いない、と……」
「で、私もそういう話は|大《だい》|好《す》きだから、必ずのってくる、ってね」
と容子は|笑《わら》って言った。「あの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》の|一《いっ》|件《けん》も、わざと表を迫田が通りかかって、友也をおびき出し、その間に私を|眠《ねむ》らせる。――いかにも大きな|組《そ》|織《しき》が重大な|秘《ひ》|密《みつ》を守っているかのように思わせたのよ」
「でも、ウエイトレスは?」
「神山が、あなたと迫田が話している間に、店のウエイトレスの子にお金をやって、しばらく交代させたんです。|確《たし》か神山が親しくしている女だったと思います」
「あれにはびっくりしたものなあ」
「でも予定と違ったのは、容子さんが、なかなかお父さんへ話をしないことだったんです。迫田も、容子さんの|性《せい》|格《かく》はよく分からなかったんですね。それでアリサにまで|誘《さそ》いをかけて、何とか、|大《たい》|変《へん》な事件に巻き込まれているように見せようとして……」
「私が姿をくらましたりね」
「沢井さんが死んだのは?」
と友也が言った。
「私が沢井さんをあの家に|呼《よ》んだの」
「君が?」
「沢井さんの話を直接聞いてみたくてね。ところが私が買物に出ている間に、沢井さんが来たわけ。たぶん迫田は私が沢井さんへ電話して、会いたいと話したとき、沢井さんのそばにいて、|相《あい》|手《て》が私だと気づいたのね。そこで沢井さんのあとを|尾《つ》けて来ていて、私と話されちゃ、自分の|嘘《うそ》がばれると思ったのね。何とかして、こっそり飲み物に薬を入れた……」
「気の|毒《どく》だったね……」
「それは私のせいだわ」
と、容子はちょっと暗い|表情《ひょうじょう》になって言った。
「じゃ、君のお父さんは本気で金を|払《はら》おうとしたの?」
「迫田が神山の名前を出したから、|早《さっ》|速《そく》神山のところへ行って話をしてるわよ。神山はきっとしばらくはとぼけてみせて、そのうち、これは|極《ごく》|秘《ひ》だが、とか何とかもったいぶって、迫田が話したとおりのことを脱明する。――お父さんはきっと『うちの家族だけでも何とか入れるようにしてくれないか』って頼む」
「それなら金を払ってくれ、ってわけか」
「お父さんなら、五千万ぐらい軽く出すでしょ。いったん、うちのお父さんのような、|割《わり》と顔の広い人間に信用させてしまえば、あとは簡単よ。実は|北《きた》|川《がわ》さんがこっそり核シェルターに入る|権《けん》|利《り》を買ったと耳うちすれば、自分も買うっていうのが、たちまち五、六人は出て来るわ」
「でも、実物がないんじゃ、そのうちばれるだろう」
「そう|何《なん》|人《にん》もやらなくてもいいのよ。五人から集めりゃ二|億《おく》五千万円よ。|凄《すご》い金だわ」
「そうか」
「それに、もしばれても、どう? 金を返せば、そんな名のある人だもの、|黙《だま》ってるわよ。こっそり生き|残《のこ》るために金を出したなんて、人に知られたくないでしょうからね」
「なるほど……。うまく考えたもんだなあ」
と友也はため息をついた。
「私も|馬《ば》|鹿《か》でした」
と倫子が言った。「いくら助けてもらったとはいえ、あんな男の言いなりになって一度は心をひかれたりして……」
「もういいんだ」
大和田が倫子の|肩《かた》を|抱《だ》いた。「お前が帰って来てくれただけで|満《まん》|足《ぞく》だよ」
「ねえ、一つ教えてくれよ」
と、友也は言った。「君、どうやってあの通路から消えたの?」
「|壁《かべ》の下のほうにゴミの投入口があるんです。そこへ|滑《すべ》り込めば、アッという|間《ま》に消えられます」
「|捜《さが》したのになあ」
「壁と同じ色に|塗《ぬ》って、中から押さえてたから、分からなかったんですよ」
「そうか……。やれやれ、終わってみると、あっけないなあ」
「|何《なに》言ってんの。さんざん|冒《ぼう》|険《けん》したじゃない」
と容子は言った。「さあ、お父さんをどうやってからかってやろうかな」
エピローグ
「そもそも、|友《とも》|也《や》が|可《か》|愛《わい》い女の子とみると、すぐあとをつけて行くからいけないのよ」
|容《よう》|子《こ》はソフトクリームをなめながら言った。
「だけど……」
「まあいいわ。男の子なら|当《とう》|然《ぜん》よね」
友也はホッとして、自分のソフトクリームをなめた。
歩行者天国の日曜日。――通りは、|若《わか》|者《もの》たちであふれていた。
「平和ね」
と、容子が言った。
「もし本当に――」
「え?」
「いや、本当にさ、ここへ|核《かく》|爆《ばく》|弾《だん》が落ちて来たら……」
「ソフトクリーム食べ終わらなかったのが|残《ざん》|念《ねん》だと思うでしょうね、きっと」
|二人《ふたり》は顔を見合わせて笑った。――でも、何となく重苦しい笑いだった……。
「さあ、映画でも見に行かない?」
と容子が言った。
「|混《こ》んでるぜ、きっと」
「指定|席《せき》に|座《すわ》る」
「そんな金ないよ、|僕《ぼく》」
「私が出すからいいわ」
「へえ! 気前いいんだなあ」
「お父さんから|巻《ま》き上げてきたの」
「何て言ったの?」
「『核シェルターより安いでしょ』って」
容子はソフトクリームをなめながら、|勢《いきお》いよく歩き出した。友也があわてて追いかける。
どうも友也は、当分女の子のあとを追いかけることになりそうだった。
|何《なん》でも|屋《や》は|大忙《おおいそが》し
「|誰《だれ》だよ、こんな仕事引き受けて来たの」
と、|哲《てつ》|郎《ろう》が声を上げた。
「哲郎君、悪いくせよ、〈こんな〉とか〈そんな〉しか言わないで。それで分かるわけないじゃないの」
グループきっての「|理《り》|屈《くつ》|屋《や》」で通っている|聡《さと》|子《こ》が|素《す》|早《ばや》く言い返した。「どの仕事のこと言ってるの?」
「これだよ。|暴《ぼう》|走《そう》|族《ぞく》のケンカの|仲裁《ちゅうさい》だって? こんなことオレたちできるわけないだろう!」
「あら、だって、ここは『|何《なん》でも屋』よ。何だって引き受けますって|建《たて》|前《まえ》じゃないの」
と、ミチ子が|呑《のん》|気《き》にハンバーガーなどかじりつつ言った。
「それにしたって……。じゃ、お前、|泥《どろ》|棒《ぼう》に入るから|手《て》|伝《つだ》ってくれって言われたら、引き受けるのか?」
「そりゃ原則的には|断《ことわ》る理由、ないんじゃない?」
と、聡子。「合法|的《てき》な仕事に|限《かぎ》ります、って、ただし書きつけとかないのが悪いのよ」
「聡子なあ、お前理屈ばっかり言って――」
「ちっとも|稼《かせ》いで来ないで、でしょ。聞き|飽《あ》きたわよ」
「こっちは言い飽きたよ!」
「|二人《ふたり》とも、やめなさいよ」
と、ミチ子が、|大《おお》|欠伸《あくび》をして、「――それに、ケンカに|加《か》|勢《せい》しろ、っていうのなら、|違《い》|法《ほう》かもしれないけど、仲裁に入れってんだから合法的よ。世のため、人のためにもなるしさ」
「|腕《うで》一本|折《お》られても、か」
哲郎は|苦《にが》|々《にが》しい顔で、「引き受けちまったもん、しょうがねえや。――おい、ミチ子、お前、引き受けたんだから、自分で行けよ」
「やあよ。このか弱き|乙《おと》|女《め》に万一のことでもあったら、どうすんのよ」
「|都《つ》|合《ごう》のいいときだけ、か弱き乙女になりやがって……」
「大体、引き受けたの、|私《わたし》じゃないもん」
「何だって? じゃ、聡子、お前か?」
「いいえ、|残《ざん》|念《ねん》でした」
「じゃ……誰だよ」
と哲郎はメモの字をじっと|眺《なが》めた。「だけど――この字は|見《み》|憶《おぼ》えあるぜ」
「どれどれ」
と、聡子、ミチ子も|寄《よ》って来て|覗《のぞ》き|込《こ》んだ。
その間に、この場所と|状況《じょうきょう》を|説《せつ》|明《めい》しておこう。
三人の様子からほぼ|察《さっ》しがつくように、みんなまだ|若《わか》い――四十代には|遥《はる》かに遠く、三十代にもまだ遠い、十八|歳《さい》、大学一年生である。
この三人、なぜか小学校からずっと|一《いっ》|緒《しょ》のクサレ|縁《えん》で、ついに大学まで同じになってしまった。高校は|私《し》|立《りつ》で、三人とも、お|互《たが》いに、
「これでやっと|別《べつ》になれる」
「よかったわ」
と、言い合っていたのに、入ってみると、みんな同じ高校を|受《じゅ》|験《けん》していたのだった。
そして大学。――今度こそは、と思ったのだが、また一緒になってしまった。ここまで来ると、はや|諦《あきら》めの|境地《きょうち》である。
どうせここまで来たのなら、アルバイトも一緒にやろうというわけで、ここ、哲郎の家を|本《ほん》|拠《きょ》に、「何でも屋」を始めたのである。
それには、ちょうど哲郎の父親が、|転《てん》|勤《きん》で二年間北海道へ行くことになり、母親ともどもいなくなって、家には哲郎|一人《ひとり》が|残《のこ》るはめになっていたという|事情《じじょう》もあった。
哲郎は一人っ子だから、しっかり者であり、その点、両親の|信《しん》|用《よう》も|充分《じゅうぶん》にあったのである。
もちろん、聡子とミチ子の二人は、同居しているわけではない。|自《じ》|宅《たく》から、いや、大学の帰りに、ここへ来ては仕事をしているのである。
「何でも屋」をやろう、と言い出したのは哲郎で、たまたま、|便《べん》|利《り》|屋《や》という商売が|誕生《たんじょう》して、|結構繁盛《けっこうはんじょう》しているらしいことを|週刊誌《しゅうかんし》で見て思いついたのである。
しかし、哲郎自身は、どうしようもない|不《ぶ》|器《き》|用《よう》で、|釘《くぎ》一本打つのも、|垂直《すいちょく》には|無《む》|理《り》でなぜかいつも四十五度は|傾《かたむ》いているという|具《ぐ》|合《あい》。それだけに、こういう仕事が|成《な》り立つのではないかと考えたのである。
だから、この三人は、いわば電話番で、仕事が来ると、三人の知っている学生|仲《なか》|間《ま》の中から、向きそうなのを|選《えら》んで、行かせる。そして手間賃の三|割《わり》を、ここへ|納《おさ》めてもらう、というシステムなのである。
しかし、どうしても、やる人間が|見《み》|付《つ》からないことも、たまにはある。そうなると、引き受けた手前この三人の誰かが行かなくてはならない……。
「誰の字、これ?」
とミチ子が首をかしげる。「私、|全《ぜん》|然《ぜん》見憶えないよ」
「女の字ね、|特徴《とくちょう》からみて」
と聡子が、あたかも、レントゲン|写《しゃ》|真《しん》を見る|医《い》|師《し》のごとく言った。
「|確《たし》かにお前たちの字じゃないよな。こんなうまい字書けないもんな」
「|何《なに》よ! 自分の字、よく見てから、ものを言いなさいよ」
とミチ子が、かみついた。
「――あら、メモ、見てくれた?」
と、|突《とつ》|然《ぜん》、第三者――いや、第四[#「四」に傍点]者の声が|割《わ》って入った。
「あんた、だあれ?」
とミチ子が言った。
男みたいな女の子が入って来た。|革《かわ》ジャンパーにジーパン、|髪《かみ》も、短く切って、ただ顔つきはどう見ても女だったし、声も女のそれである。
「私、ルリ子」
と、その女の子は言った。「さっきここへ来たんだけど、誰もいないから、そこへメモ|置《お》いてったのよ」
「あんたここへ|黙《だま》って入って来たの? 人の家へ!」
「あら、ここはいわばオフィスでしょ。だったら外の人間が入って来たっていいじゃないのよ」
「あんた|生《なま》|意《い》|気《き》ね、ちょっと――」
とミチ子がムッとした顔になる。
「まあ、待てよ」
と哲郎が間に入る。「ええと……ルリ子だっけ? 君いくつ?」
「十七よ」
「それで――これは本当なのかい? 暴走族のケンカを止めてくれ、ってのは」
「当たり前でしょ。そんなウソつくために、わざわざ来やしないわ」
「だけどさ――こういう仕事は――」
「できないの? だって、ここは『何でも屋』なんでしょ?」
そう問い|詰《つ》められると、哲郎も弱い。ミチ子と聡子はヒョイとソッポを向いてしまう。
「なあ、こういうことは|警《けい》|察《さつ》の仕事だよ。そうさ、警察へ|届《とど》ければ、ちゃんとやってくれるよ」
「つかまっちゃ|困《こま》るのよ」
と、ルリ子が言った。「一方は私がリーダーなんだから」
ミチ子と聡子は、もはや、|完《かん》|全《ぜん》に哲郎を見はなしていた……。
「ケンカなんて下らないよ。やめた方がいいぜ。|殴《なぐ》られりゃ|痛《いた》いぞ。血が出りゃ服が|汚《よご》れるし。|骨《ほね》が折れたら入院しなきゃならない。|心《しん》|臓《ぞう》が止まったら死ぬんだぞ。だから考え直せよ」
哲郎は、ため息をついた。「これじゃ、やめないだろうな……」
哲郎は、|独《ひと》り言を言っていたのである。
いわば、これからの「仕事」のリハーサルというわけだった。
夜、十一時。――風が強くて、寒かった。
ケンカの場所に指定されているのは、工事|現《げん》|場《ば》で哲郎の家からは、歩いて十五分ほどの所である。工事といっても、まだ、ほぼ空地のままで、|隅《すみ》の方に多少|資《し》|材《ざい》が|積《つ》み上げてあるくらいだ。
「やれやれ……。こっちがけがしたら、誰が|治療《ちりょう》|費《ひ》|払《はら》ってくれるのかな」
と、哲郎は|呟《つぶや》いた。
あのルリ子という女の子が帰ってから、哲郎は|必《ひっ》|死《し》で、この仕事をやってくれる|奴《やつ》がいないかと|捜《さが》したのだが、みんな、まず、一万円という|手数料《てすうりょう》を聞くと、
「何だってやるぜ!」
と元気がいいのに、仕事の中味を聞くと、急に、
「|頭《ず》|痛《つう》がして来た」
とか、
「今日、お|袋《ふくろ》の|葬《そう》|式《しき》で――」
などとひどいことを言い出す。
|結局《けっきょく》、哲郎、自らが出て来るしかなくなってしまったのである。
もちろん、放っといてもいいのだ。一一〇番へ知らせて、後は知らん顔を決め込む。|普《ふ》|通《つう》の学生ならそうするだろう。
しかし、なぜか、哲郎は、|責《せき》|任《にん》|感《かん》だけは人|一《いち》|倍《ばい》強い。これは、親の教育というより、持って生まれた|性《せい》|格《かく》のようだった。
別に|勇《ゆう》|敢《かん》なわけでもなく、ケンカに強いわけでももちろんない。――ただ、引き受けたからには行かなきゃならない、という|義《ぎ》|務《む》|感《かん》で、今|現《げん》|場《ば》に向かっているのである。
道は暗く、人通りはなかった。風が|吹《ふ》き|抜《ぬ》けて、思わず首をすぼめる。
今夜は寒いから、ケンカは|延《えん》|期《き》―――なんてことはないだろうな、と哲郎は、思った。
「ん?」
後ろから、光がチラチラと足下を|照《て》らしている。|振《ふ》り向くとライトが一つ、自転車である。見ている内にスーッと|近《ちか》|寄《よ》って来て、ピタリと止まる。
「何だ、ミチ子!」
「あら、|偶《ぐう》|然《ぜん》ね、こんな所で」
とミチ子は|澄《す》まして言った。
「悪いな、手伝いに来てくれたのか」
「哲郎に死なれたら、こっちもあの家、使えなくなるじゃない。だから来たのよ。|誤《ご》|解《かい》しないでよ。何も哲郎のこと心配して来たんじゃないからね」
「分かったよ、どうでもいいけど、一人じゃ心細かったんだ」
哲郎は、ホッとしながら、歩き出す。ミチ子も自転車から|降《お》りて、歩き始めた。
「――ねえ、あのルリ子って女の子、別にうちの大学生じゃないのに、どうして、この仕事のこと、知ってんだろうね?」
「そうだなあ。――誰かに聞いたんだろう」
「あの子の字に見憶えある、って言ったじゃないの」
「そうなんだ。でもなあ……思い出せないよ。――ただ、誰かの字に|似《に》てるだけかもしれないけどさ」
「――ね、哲郎、もうそろそろじゃない?」
「ああ。あそこに黄色いランプがついてるだろ。あの向こうだよ」
暗い道を、進んで行くと、かなりの広さ――たぶん、バスケットコートぐらいはある土地が、のっぺりと広がっている。
「ここか。――ケンカにゃ|絶《ぜっ》|好《こう》ね」
「|全《まった》く、何でケンカしなきゃなんないんだろうな。オートバイ乗るの|好《す》きなら、ただ走ってりゃいいじゃないか」
「そう言ってやったら?」
と、突然、暗がりの中から声がして、哲郎とミチ子は|飛《と》び上がった。
「――聡子じゃないの!」
「お二人じゃ心細いと思って来たのよ。三人なら、どうなっても一人は|逃《に》げて一一〇番できるでしょ」
と聡子は言って、「この先、五十メートルくらいの所に、|公衆《こうしゅう》電話があるわよ」
「|相《あい》|変《か》わらず、頭の回ることね」
とミチ子は言った。
哲郎は、何とも|複《ふく》|雑《ざつ》な気分である。二人が来てくれたことは|嬉《うれ》しい。しかし、それは|要《よう》するに、いかに自分が|頼《たよ》りなく思われているかを|証明《しょうめい》しているようなものである。
「――ねえ」
と、ミチ子が言った。「誰か[#「誰か」に傍点]いるよ」
「どこに?」
「空地の|真《まん》|中《なか》に……。ほら、よく見て」
哲郎は目をこらした。――なるほど、暗さに目が|慣《な》れて来ると、何やら人間らしいものがうずくまっているのが目に入った。
「もうケンカしてやられたのかしら?」
「まさか! 十二時だぜ、ケンカの時間は。まだ四十分もある」
「四十二分よ」
と、聡子が言った。「でも、あんな所で|寝《ね》る|物《もの》|好《ず》きはいないわ。見に行った方が|良《よ》さそうじゃない」
「そうだな……」
聡子が|懐中電灯《かいちゅうでんとう》をつけた。そういえば、哲郎は何も持って来ていない。いかに|緊張《きんちょう》していたか、明らかである。
聡子を先頭に、哲郎とミチ子が|続《つづ》いた。
ちょうど、空地の真中あたりに、誰かが|倒《たお》れている。哲郎は、ゴクリとツバを飲み込んだ。
「誰だろう?」
「うつ|伏《ぶ》せね。――顔を見ましょう」
聡子は、落ち着き|払《はら》っていて、かがみこむと、その倒れている体を、|仰《あお》|向《む》けにさせた。
「まあ――」
と、ミチ子が言った。
哲郎は目を|見《み》|張《は》った。
「これは――あの子じゃないか!」
ルリ子だった。|間《ま》|違《ちが》いない。しかし、哲郎が|驚《おどろ》いたのは、ルリ子が、昼間見たときと打って|変《か》わってブルーの、いかにも少女っぽいワンピースを着ていることだった。
だが、そのブルーは、土で汚れ、そして、|胸《むね》のあたりは赤く、血で汚れていた……。
「あーあ、|参《まい》ったねえ」
と、ミチ子が入って来るなり言った。「パパとママから、|散《さん》|々《ざん》どやさちゃった。そんな|変《へん》なアルバイトやってるから、|人《ひと》|殺《ごろ》しなんかに|巻《ま》き|込《こ》まれるんだ、って」
「私も同様よ」
と聡子が、言った。
「へえ、聡子も?」
「|警《けい》|察《さつ》の|厄《やっ》|介《かい》になるくらいなら、いっそ|駆《か》け落ちでもしてくれた方が、ってね」
「|別《べつ》にこっちが悪いことしたわけじゃあないのにね。――ところで、ここの住人[#「住人」に傍点]は?」
「哲郎君? 二|階《かい》へ行って、何やらひっくり返してる」
「オセロでもやってんの?」
「|違《ちが》うわよ。|机《つくえ》をかき回して――あ、|戻《もど》って来た」
哲郎は、何だか、いやに|深《しん》|刻《こく》な顔で、入って来た。
「どうしたの? そっちもママに|叱《しか》られたな?」
とミチ子が、からかうように言ったが、哲郎は、|妙《みょう》に|沈《しず》み込んだ様子で、手に少々古びた|封《ふう》|筒《とう》を持っている。
「|何《なん》なの、それ?」
と聡子が聞く。
「あの子の字さ」
「あの子?――|殺《ころ》された子?」
「どこかで見た字だと思ったんだよ」
「見せてくれる?」
「ああ……」
聡子が封筒から手紙を出して開くと、ミチ子が|覗《のぞ》き|込《こ》む。
「――これ、ラブレターじゃないの!」
とミチ子が声を上げた。「『|憧《あこが》れの哲郎さん……』だって!」
「じゃ、あの子は、哲郎君の|彼《かの》|女《じょ》だったの?」
「違うよ! それはもう五年前に来たんだ。中学生の|頃《ころ》さ。あの子は、ともかく目立たない子だった。つきあいも|全《ぜん》|然《ぜん》ないんだよ」
「この手紙は?」
「ある日、僕の机の中にあったのさ」
「で、どうしたの?」
「どうもしないよ。――こっちに全然その気がないんだもの。|下《へ》|手《た》にあれこれ言うより、放っておくのが一番だと思ったんだ」
「それは|正《せい》|解《かい》ね」
と聡子が言った。
「で、あなたはそれを、コロッと|忘《わす》れてたわけね」
「うん。だって、あのころは、|髪《かみ》を長くしてさ、まるでイメージが違ってたんだもの。分かるわけないよ」
「いつ、気が|付《つ》いたの?」
「名前さ、|伊《い》|波《なみ》ルリ子っていったろ? ちょっと|珍《めずら》しい名だから、頭の|隅《すみ》に|残《のこ》ってたんだな。警察で聞いて、あれ、と思ったんだ。どこかで見た名だな、って」
「それでこの手紙を|捜《さが》してたのか」
「まさかあの子が|暴《ぼう》|走《そう》|族《ぞく》とはね……」
「でも、死んでたのはワンピース|姿《すがた》だったわよ」
「そうなんだ。あのときに、あれ、どこかでこの顔見たことある、と思ったんだよ」
と哲郎は|肯《うなず》いた。
しばらく、三人は|黙《だま》っていた。
「――|可《か》|哀《わい》そうに」
とミチ子が言った。「きっと、哲郎のこと、|憶《おぼ》えてて、ここへ来たのよ。それなのに、哲郎はてんで気が|付《つ》かなくて――」
「おい、よせよ。何だか|僕《ぼく》が悪いことしてるみたいじゃないか。――でも、僕は、ちゃんとその|償《つぐな》いはする気だぜ」
「どうやって?」
「|犯《はん》|人《にん》を見付けるのよ」
と、聡子が言った。「ねえ、そうでしょ、哲郎?」
「あれは自業|自《じ》|得《とく》というものだ」
父親の伊波の言葉に、哲郎は、思わず、
「え?」と|訊《き》き返していた。
「つまり、暴走族に入って、リーダーかなんかやっていれば、いつか|当《とう》|然《ぜん》ああいうことになるに決まっとる、ということさ」
伊波は、そう言って、タバコに火をつけた。――哲郎は、ちょっと言葉が出て来なかった。
「でも――ルリ子さんが殺されて、犯人が|憎《にく》いでしょう」
「まあね」
と、伊波は言った。「そりゃ、早く|捕《つか》まるに|越《こ》したことはないが、一方|的《てき》にそっちが悪いというわけではあるまい。|娘《むすめ》の方も悪かったんだよ」
哲郎は頭へ来ていた。
娘が殺されたというのに、こうしていつも通り、自分が|経《けい》|営《えい》している会社に出て来ているというので、悲しみを|紛《まぎ》らわすためかと思ったのだが、この父親は、さっぱり悲しんでもいない様子である。
「あの――ルリ子さんを殺した人間の心当たりは――」
「別にないね。それは警察が調べてくれるだろう」
伊波は立ち上がって、「では、私は|忙《いそが》しいんでね。|失《しつ》|礼《れい》するよ」
と言った。
「こっちも失礼します!」
これ|以上《いじょう》いると、ぶん|殴《なぐ》りかねない、と思って、哲郎は、社長室を出た。
「――やあ、どうだった」
会社を出ると、|聡《さと》|子《こ》が待っている。
「ひどいもんだ。あれでも、父親か、|全《まった》く!」
哲郎の話を聞くと、聡子は肯いて、
「それは、あのルリ子が、伊波の本当の子じゃないからよ」
と言った。
「どうして知ってるんだい?」
「あなたのこと、待ってる間に、出入りしてる|O《オー》|L《エル》の人たちに話しかけたの。向こうも、おしゃべり|大《だい》|好《す》きでしょ。だから、しゃべってくれたわ」
「へえ……」
「あのルリ子って子、伊波の先妻の|連《つ》れ子なのよね。つまり、今の両親は、本当の親じゃないのよ」
「なるほど」
もちろん、どんな|環境《かんきょう》だって、ちゃんと育つ子もいるが、親があれでは、家にいたくなくなるのも当然だろう。
「じゃ、今度は母親の方へ会いに行く?」
「うん。ちょっと気が重いけどね……」
と哲郎は言った。
やめるわけにはいかない。――あの|冷《れい》|淡《たん》な父親に会って、ますます哲郎は、犯人を見付けてやろうという決心を強めていた。
哲郎がこれほどの決心をするのは、遊び|以《い》|外《がい》には珍しいことであった。
――伊波の家は、ちょっと入るのにためらうほどの|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》で、門から入って、|玄《げん》|関《かん》まで、|疲《つか》れるほど歩く――というのはオーバーだが、|呆《あき》れるような広さだった。
出て来たのは、十八、九の|娘《むすめ》で、
「|奥《おく》|様《さま》は、今、お出かけです」
と言った。「お花の集まりがありましてね……」
娘が死んで、集まりに出て行く母親というのも珍しい。――しかし、そのお|手《て》|伝《つだ》いさんらしい娘は、目を赤くしていた。
「実は、ルリ子さんのこと、聞きたくって……」
と哲郎が言うと、
「どうぞ中へ」
と|案《あん》|内《ない》してくれた。
|迷子《まよいご》にでもなりそうな|廊《ろう》|下《か》を|辿《たど》って行くと、奥の方の|部《へ》|屋《や》のドアを開け、
「ここが、ルリ子さんの部屋でした」
と言った。
中は、暴走族のリーダーだったと思わせるものなど、一つも見えず、きちんと|片《かた》づけていた。
「ここは、あなたが|掃《そう》|除《じ》を?」
と、聡子が訊く。
「いいえ。|私《わたし》はやりません」
「じゃ、ルリ子さん、自分で?」
「はい。とても、まめ[#「まめ」に傍点]で、きれい好きな方でした。本当にやさしくて……」
と、|涙《なみだ》をグスン、とすすり上げる。
「――|誰《だれ》か、彼女を殺した人の心当たりは?」
と、哲郎が訊く。
「あの……ちょっとドアを|閉《し》めて下さい」
「え?――あぁ、いいよ」
「ルリ子さんは、|遺《い》|産《さん》の|相《そう》|続《ぞく》|人《にん》だったんです」
「遺産?」
「|亡《な》くなったお母様のです。前の奥様ですね。――だから、ルリ子さんは、二十|歳《さい》になるか、|結《けっ》|婚《こん》なさると、遺産を|継《つ》いで、大金持ちになるはずでしたわ」
哲郎と聡子は|素《す》|早《ばや》く目を|見《み》|交《かわ》わした。
「すると、ルリ子さんが死んで|得《とく》をするのは――」
「|旦《だん》|那《な》様と奥様ですよ」
と、その娘は言った。
|廊《ろう》|下《か》に足音がして、ドアが開いた。
「あ、|水《みな》|上《かみ》さん、お帰りなさい」
「奥様が|捜《さが》してるよ」
と、言ったのは、運転手らしい。若い男である。
「――お客さん?」
「ルリ子さんの友人です」
と哲郎が言うと、
「ああ、そう」
と、水上という男は、肯いて、「気の|毒《どく》だねえ、お嬢さんは。――あの若さで」
と首を振った。
「じゃ、ちょっと失礼して」
と、娘が出て行く。
「お嬢さんが|亡《な》くなって、悲しんでるのは、|僕《ぼく》と、あの、みどりさんぐらいだろうな」
と、水上は言った。
「ルリ子さんを|恨《うら》んでいたような人はいますか?」
と、聡子が訊いた。
「そうだねえ。――いい人だったけど、やっぱり多少ひねくれたようなところは、あったよ」
「つまり|敵《てき》もいた?」
「いや、|逆《ぎゃく》に、心を|許《ゆる》せる友人がいなかった、ってところかな……」
水上の言い方は、やさしかった。――哲郎は、|胸《むね》が|痛《いた》んだ。
玄関の方へ歩いて行くと、ルリ子の母親らしい女と出くわした。
ひどく若い。やっと三十になるかならずというところだろう。
「あら、ルリ子のお友だち?」
「はい」
「そう。わざわざ来ていただいたんだから、お|相《あい》|手《て》したいんだけど、|何《なに》かと|忙《いそが》しくって……」
「いえ、もう失礼しますので」
と聡子が言った。
「そう? じゃ、また遊びに来てちょうだいね」
と、さっさと行ってしまった。
「全くもう……」
と、哲郎は|呟《つぶや》いた。
玄関まで出て来てくれたのは、みどりというお手伝いの娘で、
「お嬢様のお|葬《そう》|式《しき》には、出席なさって下さいね」
と、言って、|二人《ふたり》を送って来てくれた。
「――やあ、ごめん!」
と、ミチ子が、店に入ってくる。
哲郎と聡子が|遅《おそ》い昼食を取っている|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》である。
「どうだった?」
と、哲郎が聞く。
「ちょっと待ってよ! こっちはお|腹《なか》すいて死にそうなんだから!」
と、ミチ子は、カレーライスを|頼《たの》んだ。
「――グループは|騒《さわ》いでる?」
と、聡子が訊く。
ミチ子は、ルリ子がリーダーをしていた、暴走族に話を聞きに行っていたのである。
「それが|変《へん》なのよ」
とミチ子は言った。
「何が?」
「あのね、あの夜、ケンカなんてすることになってなかったっていうの」
「|何《なん》だって?」
「そうなのよ。――|全《ぜん》|然《ぜん》分かんないわ」
「つまり、あの夜のケンカは、彼女の作り話だったのか」
「それにね、彼女、あの前の日に、リーダーを|他《ほか》の子にゆずってるのよ」
「じゃ、もうリーダーじゃなかったのね?」
と聡子が訊く。
「そう。おかしいわよね。まるで――」
「殺されるのが分かってたみたい」
と聡子が引き取って言った。
「――どうやら、暴走族の方は、|関《かん》|係《けい》ないようだな」
と、哲郎は言った。
「|決《けっ》|闘《とう》しなきゃいけないような、|仲《なか》の悪いグループはなかったって言ってたわよ。――どうも」
|最《さい》|後《ご》の「どうも」は、カレーが来たところである。ここで、しばし、ミチ子は食べる方に|専《せん》|念《ねん》し、話は、もっぱら、哲郎と聡子で|続《つづ》いた。
「あのみどりさんの話は、|確《たし》かめてみる|価《か》|値《ち》ありね」
「遺産のことかい? うん、同感だな」
「あの両親が、|当《とう》|然《ぜん》今まで、彼女が継ぐ遺産を|管《かん》|理《り》してたわけでしょう」
「それを、使い込んでしまっていた、としたら?」
「|動《どう》|機《き》としちゃ弱いわね」
「そうかい?」
「そうよ。人を殺すというのは、|大《たい》|変《へん》なことだもの。――よほどのことがなきゃ……」
「殺したことあるみたいね」
とミチ子がからかった。
「あったらどうする?」
と、聡子は訊き返した。
「待てよ。――これからどうするか、考えなきゃ」
「|警《けい》|察《さつ》に|任《まか》せたら?」
と、ミチ子が言った。
「私も同感ね」
と聡子が言った。「でも、そうしないでしょ」
「しないさ、当たり前じゃないか……」
と、哲郎が言い切る。
「よかった」
と聡子が|微《ほほ》|笑《え》む。
「どうして?」
「|途中《とちゅう》でやめるような人なら、|絶《ぜっ》|交《こう》してやろうと思ってたの」
自分で、警察に任せろと言っといて、勝手なもんだ、と哲郎は思った。
「一つ分からないのはね」
と聡子が言い出した。「服なのよ」
「服?」
「そう。あのとき、なぜ、ルリ子さんはワンピース|姿《すがた》だったのか」
「デートにでも行ったんじゃない?」
「でも、あの|格《かっ》|好《こう》で、空地の|真《まん》|中《なか》に立ってるってのは……。変だと思わない?」
「うん、そうだな」
と、哲郎は肯く。「わざわざ汚れるようなもんだ」
「そうでしょ? 下だって、土のままだし……」
「大体、ケンカがあるなんて言ったのが、そもそも妙よ」
とミチ子が言った。
カレーライスは早くも半分|位《くらい》に|減《へ》っている。
「そうなんだ……」
哲郎は考え込んだ。「どうして、彼女が、そんなでたらめを言ったのか、それが問題だな」
三日が|過《す》ぎて、哲郎の所へ電話がかかって来た。
みどりからである。あの、お|手《て》|伝《つだ》いの|娘《むすめ》だ。
「――今日、|告《こく》|別《べつ》|式《しき》がありますので」
「どうもありがとう。|必《かなら》ず|伺《うかが》います」
と、哲郎は言った。
黒い|背《せ》|広《びろ》というのはないので、|紺《こん》のブレザーにして、ネクタイも、黒に近いものを|選《えら》んだ。
哲郎にしても、気が重い。
あのルリ子が、どんな|寂《さび》しい思いの中で、哲郎へ手紙を書いたのか、何一つ分かっていなかった自分が、|何《なん》だか、ひどいことをしてしまったような気がする。
もちろん、悪気があったのではないし、それは|仕《し》|方《かた》のないすれ|違《ちが》いであるが、やはり|胸《むね》は|痛《いた》むのである。
まだ|聡《さと》|子《こ》もミチ子も来ていないので、メモでも|置《お》いて行こうと思っていると、聡子がやって来た。
「やあ、ちょうど|良《よ》かった」
「あら」
聡子は、哲郎の|服《ふく》|装《そう》を見て、「ルリ子さんのお|葬《そう》|式《しき》だったの?」
と|訊《き》いた。
「いや、これからだよ」
「あ、そう。もう|戻《もど》って来たのかと思ったわ」
と聡子はソファにすわったが……。「――ねえ」
と、出かけようとした哲郎へ、声をかけた。
「何だい?」
「ルリ子さんも、あれから出かけるつもりだったんじゃない?」
「あれから?」
「そう。デートへ行った後じゃなくて、前だった[#「前だった」に傍点]としたら?」
「前?」
「つまり、彼女はあなたと[#「あなたと」に傍点]、デートしたかったのよ」
「そうか。――つまり、あのでたらめのケンカの話も――」
「あんな話を持ち込めば、まず|他《ほか》の人が来るわけがない、と分かってたのよ」
と聡子は言った。
「僕を待ってたのか、あの空地で」
「でも、来たのは――」
|二人《ふたり》は顔を見合わせた。
「|誰《だれ》だったんだろう?」
と、哲郎は言った。
|盛《せい》|大《だい》というか、何というか……。
まるで、ふくらし|粉《こ》で、|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》にふくらませたような|葬《そう》|儀《ぎ》だった。
やたらに|大《おお》|勢《ぜい》の人が来ていて、大げさで、たっぷり金もかかっている。しかし、来ている人たちは、黒い服ではいるものの、みんな|笑《わら》いながら、世間話をしている。
目をつぶっていたら、とても葬式とは思えないにぎやかさであった。
哲郎は、|焼香《しょうこう》をして、帰ろうとした。とても、長くいる気にはなれない。
外へ出て歩きかける。――何となく、すぐ帰ってしまうのも、ためらわれた。
哲郎は、広い|邸《てい》|内《ない》の庭を、少し歩こうと思った。――|裏《うら》|手《て》の方へ回って来ると、人の姿もない。|静《しず》かなものである。
「|水《みな》|上《かみ》さん――」
と声がした。
哲郎は、ちょっとためらった。見つかると、何をしているのか、と思われそうだ。
幸い庭は広くて、木が|沢《たく》|山《さん》ある。その一本に身を|寄《よ》せて、|隠《かく》れた。
「水上さん。――ここじゃないの?」
やって来たのは、みどりだった。
すぐ近くへ来てキョロキョロ、見回している。哲郎は、気が気ではなかった。
「ここだよ」
水上の声がした。
「あら、ここにいたなら見えたのに――」
「今来たんだ。――何の用だい?」
と水上は言った。
「ええ……」
と、みどりはためらっている。
「早くしてくれ。|奥《おく》|様《さま》がうるさいんだ、用のあるときに、こっちがいなくなってると」
「ねえ水上さん」
「何だい?」
「あなたは、お|嬢様《じょうさま》が|好《す》きだったんでしょう?」
「そりゃそうさ」
と|答《こた》えてから、水上は、「――おい、待てよ」
と言った。
「そりゃ、どういう意味だい?」
「お嬢様もあなたのことが好きだったんだわ」
「好きったって――」
水上は|苦笑《くしょう》し「何かい? 男と女としてってことかい?」
「もちろんよ」
「それならノーだ」
と、水上は言った。「何しろ、お嬢様はあの|若《わか》さだ。こっちもあっちも、お|互《たが》い、男でも女でもないよ」
「そんなこと――」
「本当さ。それがどうしたんだ?」
「いいわ、それなら、それで。でも――あなたは、私のこと、どう思ってる?」
水上は、しばし返事に|困《こま》っていた。女性から、正面切って、
「私をどう思うか」
と|迫《せま》られると、|困《こま》るだろう、と哲郎も思った。
「いいわ、もう!」
|突《とつ》|然《ぜん》、|叫《さけ》ぶように言って、みどりは、かけ出して行ってしまった。
「おい!――待てよ!」
水上が|呼《よ》んだが、みどりは、戻ろうとも、足を止めようともしなかった……。
夜、十時。
水上は、小さな公園に足を|踏《ふ》み入れた。――何だか落ち着かない様子である。
公園の中は、人の|姿《すがた》などない。水上は、ベンチの一つに|腰《こし》をおろすと、タバコを取り出して火をつけた。
「――お待たせ」
と、声がして、顔を上げた水上は目をパチリとさせた。
「やあ、あんたは――」
「|大《だい》|分《ぶ》待った?」
と聡子は言った。
「じゃ、電話をくれたのは、あんたなのかい?」
「しっ!」
と、聡子は、声をひそめた。「今に分かります」
「そりゃいいけどさ……」
「親しげにして下さい。|腕《うで》を組んで」
「う、うん……」
「ごめんなさい、|無《む》|理《り》言って」
「いや、|僕《ぼく》は|構《かま》わないけど、一体どうして――」
「もう少し待って下さい」
|二人《ふたり》の会話は声が|低《ひく》いので、遠くには聞こえない。はた目には、|低《ひく》く、愛の言葉でも|囁《ささや》いて見えただろう。
「ねえ、|説《せつ》|明《めい》してくれよ」
と、しばらくして、水上が言った。
「ちょっと、耳を|貸《か》して」
「ああ――」
二人の顔が|近《ちか》|寄《よ》る。聡子は、いきなり、水上の|頬《ほお》に|唇《くちびる》をつけた。水上の方がびっくりして、
「|何《なに》を――」
と言いかける。
そのとき、突然、
「やめて!」
と叫び声がして、|誰《だれ》かが、公園の|茂《しげ》みの|陰《かげ》から|飛《と》び出して来た。
「おい、みどり!」
と水上があわてて立ち上がる。
みどりがナイフをつかんで、|真《ま》っすぐに、水上の方へ進んで来る。
そのままいくと、|確《かく》|実《じつ》に、水上は|刺《さ》されていた。
しかし、|途中《とちゅう》で、みどりは前のめりに|転《てん》|倒《とう》した。
哲郎が、細い|棒《ぼう》を投げ、それが、みどりの足に|絡《から》まったのだ。
哲郎、ミチ子が|駆《か》け|寄《よ》って、起き上がろうとするみどりから、ナイフを取り上げた。
「――それじゃ」
と、水上は目を|丸《まる》くして、「みどりが、お嬢さんを|殺《ころ》したのかい?」
「そうですよ」
と、聡子が言った。「みどりさんはあなたのことが好きで、ルリ子さんをライバルだと思っていたんですね」
「まさかそんな……」
「本当ですよ」
と、聡子は言った。「あのね、ルリ子さんは、いつもの|革《かわ》ジャンパーでなく、ワンピースを着て出かけました。それを|当《とう》|然《ぜん》、みどりさんも見ている。そしてあなたに[#「あなたに」に傍点]会うのだと思っていました」
「あの日は、僕も出かけていて、家にいなかった」
「だから、みどりさんは、ルリ子さんの後をつけて行き、|恋敵《こいがたき》と思って、刺したんです」
「そんなことが……」
水上はため息をついた。
みどりは、地面に|伏《ふ》せて|泣《な》いていた。水上はみどりを|抱《だ》きかかえるようにして立たせると、
「みどりは、僕が|警《けい》|察《さつ》へ|連《つ》れて行くよ」
と言った。「色々と悪かったね」
「いいえ」
水上とみどりが歩いて行くのを、三人は見送っていた。
「――やれやれ、だ」
と、哲郎は言った。「あの父親あたりが|犯《はん》|人《にん》だと|良《よ》かったのに」
「|現《げん》|実《じつ》は、そううまくいかないわ」
と聡子が言った。
「そうだな。――帰ろうか」
と哲郎は言った。
「でも、|一《いち》|応《おう》、ちゃんと犯人は|補《つか》まえたわ」
とミチ子が言った。「|探偵業《たんていぎょう》も、『何でも屋』の中に入れて良さそうね」
「やめてくれよ」
歩きながら、哲郎は|渋《しぶ》い顔で言った。
「あらどうして?」
「だって――」
と聡子が代わりに|答《こた》えた。「一円にもならない仕事じゃ、仕事とはいえないものね」
ラブ・バード・ウォッチング
|幸《さち》|子《こ》がバード・ウォッチングをやると言い出したとき、家族の|誰《だれ》もが|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》とは思わなかった。
なぜなら幸子はいかにもそんなことの|好《す》きそうな|性《せい》|格《かく》の|娘《むすめ》であり、またあまりにも内気で、|趣《しゅ》|味《み》というほどのものが何もなかったので、少しは|何《なに》かやったらいいと、いつも言われていたからだ。
そこで、|当《とう》|然《ぜん》、|双眼鏡《そうがんきょう》の代金も、母親が出してくれることになった。
|木《こ》|暮《ぐれ》幸子は、十八|歳《さい》の高校三年生である。|私《し》|立《りつ》のN女子学園に|通《かよ》っていた。それも小学校からずっとここだ。
つまり、もう|都《つ》|合《ごう》十二年も同じ学校へ通っている|勘定《かんじょう》になり、弟の|和《かず》|夫《お》から、
「よく|飽《あ》きないなあ」
とからかわれる。
幸子にしてみれば、N学園に大学のないのが|残《ざん》|念《ねん》なくらいで、あれば|必《かなら》ずそこへ入ったはずなのだ。――ともかく、新しい|環境《かんきょう》に|慣《な》れるよりは、今までの所にずっといたいと思っている。
それくらい、引っ込み|思《じ》|案《あん》な性格なのだ。「いるかいないか分からない」というのを通り|越《こ》して、「いるとは思えない」という方である。
そんな幸子だが、さて……。
夏休みの一日、幸子は|T《テイ》シャツにジーンズのスタイルで、双眼鏡を手に、
「ちゃんと朝ごはんぐらい食べたら?」
という母の言葉を|無《む》|視《し》して、家を|飛《と》び出して行った。
|行《ゆき》|先《さき》はいつものお寺の|裏《うら》。
だいたいバード・ウォッチングなるもの、|郊《こう》|外《がい》や山でやるものだろうが、幸子の住んでいるあたりは、新しく開発された|住宅地《じゅうたくち》で、まだ林やちょっとした山が|残《のこ》っている。
少し高台になったお寺の裏手へ出ると、思いがけないほどの|眺望《ちょうぼう》が開けるのだった。
いつもの場所へ来ると、幸子はハンカチを広げて|腰《こし》をおろした。この場所も、一度|捜《さが》し当てて、ここと決めてから、ずっと|変《か》わらない。
幸子らしいところである。
幸子は双眼鏡を手にした。――|視《し》|界《かい》が、一気に|接《せっ》|近《きん》する。|家《や》|並《なみ》が見える。
幸子はそっと|腹《はら》ばいになると、双眼鏡を下の方へと向けた。
青い屋根が、目に入った。開け放した|窓《まど》。|部《へ》|屋《や》の中の、|机《つくえ》やギター、放り出したままのノートや本まで、手に取るように見えた。
「いけないんだわ、人の部屋を|覗《のぞ》いたりして……」
幸子は|呟《つぶや》く。分かっている。それぐらいのこと、分かっちゃいるのだ。
それでも、目をつぶることができない。双眼鏡を動かすことができない。
|窓《まど》|辺《べ》に、男の子が見えた。もちろん、男の子といったって、幸子と同じくらいの|年《ねん》|齢《れい》で、学生であることも|間《ま》|違《ちが》いない。
暑くなってから起きて来たせいか、上半身|裸《はだか》のままで、大あくびをしている。
幸子の|頬《ほお》が赤らんだのは、|上昇《じょうしょう》し始めた気温のせいばかりではない。――|胸《むね》がときめいているからなのだ。
幸子は、何しろ「内気」を絵で|描《か》いたような性格である。これまでにも、|一人《ひとり》のボーイフレンドもいない。
もちろん、女子校だからといって、みんながこうなのではなく、めいめいが|程《てい》|度《ど》の|差《さ》こそあれ、ある程度の|付《つ》き合いをしている中で、幸子のごとく、男の子とほとんど口もきいたことがないというのは、やはり|例《れい》|外《がい》中の例外だった。
その幸子の|初《はつ》|恋《こい》の|相《あい》|手《て》。それが、今、双眼鏡のレンズの中にいる男の子なのである。
幸子は|彼《かれ》の名を知らない。何しろこうして双眼鏡で見る以外、会ったことも、話したこともないのだから。
しかし、幸子は|満《まん》|足《ぞく》だった。こうして遠くから|眺《なが》めていられるだけで、|充分《じゅうぶん》だった……。
――この日は、ちょっといつもと|違《ちが》っていた。
どうやら、家族で、どこか海へでも出かけるらしい。父親らしい人が車を|洗《あら》ったり、ビーチマットを|積《つ》み|込《こ》んだりしている。幸子はちょっとがっかりだった。
こんな時間から出かけるというのは、当然|泊《と》まりがけになる。一|泊《ぱく》とは|限《かぎ》らないから、何日間か、彼の|姿《すがた》を見られなくなるかもしれないのだ。
一時間ほどして、家族が家から出て来た。ところが――彼一人は、|玄《げん》|関《かん》から、また中へ入ってしまった。
一人だけ|留《る》|守《す》|番《ばん》かしら? 幸子は、車が出て行くと、また二|階《かい》の彼の部屋へと双眼鏡を向けた。
彼が、入って来て、窓の所へ来ると、どうやら車を見送っているらしい。その後、ゴロリとベッドへ横になって、|眠《ねむ》ってしまったようだった。
幸子は、昼食を食べに家へ帰った。
「|熱《ねっ》|心《しん》なのはいいけど、暑くないの?」
と母が心配そうに言った。
「私は|大丈夫《だいじょうぶ》。お母さんみたいに、暑さに弱いタイプじゃないもの」
母は、かなり太っているが、幸子はやせ|型《がた》だ。
「ちゃんと|帽《ぼう》|子《し》はかぶって行くのよ」
「はい」
昼食を|済《す》ませると、また幸子は、あのお寺の裏へと急いだ。
さすがに日中は暑い。|定《てい》|位《い》|置《ち》についても、しばらくは、|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》うのに手間取っている。
幸子は、やっと双眼鏡を目に当てた。
ショッキングな場面が、幸子を待っていた。彼の部屋の中で、彼が、女の子と|抱《だ》き合っていたのだ。
「今日は行かないの?」
朝ごはんの後、|居《い》|間《ま》で本を|読《よ》んでいる幸子を見て、母がきいた。
「ウン」
幸子は顔も上げずに言った。
「今日はちょっと|涼《すず》しそうよ。行くんなら今の内に――」
「今日はうちですることがあるの」
と言って、幸子は、二階の部屋へ上がった。――でも、何もする気がしない。
幸子は|幻《げん》|滅《めつ》の|苦《にが》みを味わっていた。知りもしない相手に幻滅するというのも|妙《みょう》だが、それが実感だったのだから|仕《し》|方《かた》ない。
家族が留守の間に女の子を|連《つ》れて来て……
あれはいささかずるい[#「ずるい」に傍点]じゃないの、と幸子は文句を言った。――あの女の子、|双眼鏡《そうがんきょう》のレンズを通して見る|限《かぎ》りでは、|確《たし》かになかなか美人である。そういう公平さを|失《うしな》わないのが、幸子らしいところだ。
ゆうべは、彼の部屋へ泊まって行ったのかしら?――いや、そんな子に見えなかったけれど。
もし泊まって行ったとしたら、もう起きてる|頃《ころ》かしら?
幸子は少し考えて、それから双眼鏡へと手を|伸《の》ばした。
「――やっぱり行って来るわ」
幸子は、あきれ顔の母へそう言って、玄関から|飛《と》び出した。
定位置へたどりつくと、汗を拭いながら、双眼鏡を|構《かま》える。
彼が、窓の所へ出て来て、手を|振《ふ》っている。もちろん幸子へではない。
窓の下の方を見ると、あの女の子が、道から手を振っていた。
やはり、泊まって行ったらしい。――幸子はちょっと|胸《むね》が|痛《いた》んだ。|別《べつ》に自分とは|関《かん》|係《けい》ないことだと思っても、そうは|割《わ》り切れないのが|乙女心《おとめごころ》というものである。
何となく、女の子の姿を追ってみる。道を少し行って、彼女は電話ボックスへ入った。家にでもかけるのかしら? 何と言い|訳《わけ》しようというのかな、と幸子は思った。
――幸子は|戸《と》|惑《まど》った。
電話をかけている|彼《かの》|女《じょ》が、さっき、|笑《え》|顔《がお》で手を振っていたのとは、まるで|別《べつ》|人《じん》のように見えたのだ。何だか急に――何というか――だらけて来て、ずっと|年《と》|齢《し》もいっているように見える。
これはどういうことなのだろう?――幸子は首をひねった。
笑っているところなんか、本当にだらしのない、ぐれた感じがする。
幸子だって、女の子が恋人の前ではおしとやかにしようとする。その心理、分からないではないけれど、あれは少々|変《か》わりすぎじゃないかしら?
しばらく話してから、彼女はボックスから出て来た。そして、また少し行くと、タバコの自動|販《はん》|売《ばい》|機《き》の前で足を止め、|硬《こう》|貨《か》を出してタバコを買った。|封《ふう》を切るのももどかしい感じで、一本くわえると、ハンドバッグからマッチを出して火をつける。
さもうまそうに|煙《けむり》を|吹《ふ》き出すと、彼女はのんびり歩き出した。
あれはどう見ても、すいたくてたまらなかったのを、じっと|我《が》|慢《まん》していたという感じである。幸子も父がタバコを|喫《す》うので、よく知っているのだ。
つまり、彼の前では、タバコなんてとんでもないって感じだったのだろう。
「ずるいじゃないの!」
と、幸子は|呟《つぶや》いた。――別に文句を言う|筋《すじ》|合《あい》ではないかもしれないが、それにしても、同性として、あんな風に恋人を|騙《だま》すのは|許《ゆる》せない、と思った。
でも、許せないと|怒《おこ》ってみたところで、何かできるわけでもあるまい。いきなりあの家へ|訪《たず》ねて行って、
「あなたの彼女は|猫《ねこ》っかぶりです」
と言ったら、|叩《たた》き出されるだろう。
それに、どうして分かったときかれて、何と|答《こた》える?
「ちょっとおたくを|覗《のぞ》いていたんです」
――まさか、ね!
仕方ない。これはもう放っておく|他《ほか》はないのだ。そもそもが、|映《えい》|画《が》か|TV《テレビ》を見ているのと同じで、こっちが手の|触《ふ》れられる世界ではないと|承知《しょうち》の上でのことなのだから……。
幸子は双眼鏡を、また彼の家の方へと戻した。――|部《へ》|屋《や》の中を覗いて、思わずギクッとする。
ベッドの上に、スーツケースが開いてある。そして、彼が、服を|詰《つ》め|込《こ》んでいるのだ。
「いけない……」
と、幸子は、まるで彼に聞こえるとでもいうように、呟いた。「そんなこと、いけないわ!」
彼女とちょっと旅行へ出る、というのではないのだ。
スーツケースは|大《おお》|型《がた》で、詰めている服は、どう見たって夏物だけじゃない。冬物のセーターや、ジャンパーなんかまで、ぐいぐい|押《お》し込んでいる。
あれはどう見たって――|駆《か》け落ちじゃないの!
双眼鏡を持った手が|震《ふる》えた。
「|何《なん》だかえらく|黙《だま》りこくって、どうしたの、幸子?」
と母がきく。
「別に……」
「だって夕ごはんもろくに食べなかったじゃないの」
「|食欲《しょくよく》ないの」
「夏バテ? ちょっと早いんじゃない?」
「何でもないのよ」
と幸子はイライラとして、ついきつい|口調《くちょう》になった。弟の和夫が、
「分かった」
と言い出した。「|恋《れん》|愛《あい》中なんだ、お|姉《ねえ》ちゃん!」
「|馬《ば》|鹿《か》言わないでよ!」
幸子はプイと立って、自分の部屋へと上がった。――ホッと息をつく。
恋愛中か。|確《たし》かに、そう言えないこともない。しかし、|単純《たんじゅん》な恋愛ではないところが、|難《むずか》しいのだ。
母に|何《なに》かきかれはしないかと、ヒヤヒヤした。|説《せつ》|明《めい》のしようがないし、しなければ、ますます母は不安がるに|違《ちが》いない。
だが、幸い、母はやって来なかった。父がちょうど|酔《よ》って帰って来たので、その世話の方が|忙《いそが》しかったようだ。
幸子は、なかなか|寝《ね》つかれなかった。――もう、彼は家を出てしまっただろうか?
でも、|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》なことが一つある。
あの女性――女の子のふり[#「ふり」に傍点]はしているが、もっと年齢は上に違いない――が、本当にちっとも|純情可憐《じゅんじょうかれん》でも何でもないのなら、どうして駆け落ちなんかする気になったのだろう?
少なくとも、駆け落ちは、両方がその気にならなくては、|成《せい》|立《りつ》しないものだろう。あの女性が、苦しいに決まっている駆け落ち生活を|堪《た》えようなんていう、|殊勝《しゅしょう》なことを考えるだろうか?
何か……おかしい。
幸子は、ずっと目を|覚《さ》ましていた。夜、十二時を回った|頃《ころ》、幸子はベッドからスルリと|抜《ぬ》け出した。
家を|脱《ぬ》け出すのは難しくなかった。
みんな|眠《ねむ》りは深いたちなのだ。――幸子は|懐中電灯《かいちゅうでんとう》の光を|頼《たよ》りに、寺への道を急いだ。
|普《ふ》|段《だん》なら|怖《こわ》くてたまらないところだろうが今は平気だ。
|定《てい》|位《い》|置《ち》へやって来ると、幸子は|双眼鏡《そうがんきょう》を目に当てた。――まだいる!
|窓《まど》は明るかった。中の様子が、はっきりと見てとれる。
彼は、|机《つくえ》に向かって、何かを書いていた。
「書き置き……」
と幸子は|呟《つぶや》いた
ちょうど、書き終えたところらしかった。|読《よ》み直し、|折《お》りたたんで、|封《ふう》|筒《とう》へ入れ、きれいに|片《かた》|付《つ》けられた机の上にピタリと置いた。
立ち上がると、部屋の中を見回し、カーテンを|閉《し》める。彼の姿は見えなくなった。そして明りが消えた。
少しして、|玄《げん》|関《かん》から、彼が出て来た。あのスーツケースをさげている。
ちゃんと玄関に|鍵《かぎ》をかけて、もう|未《み》|練《れん》もない様子で、彼は足早に歩いて行った。もう止めるわけにもいかない。
幸子は、彼の姿が、|視《し》|界《かい》から消えるまで見送った。――しばらくは、そこから動く気もしなかった。
彼は彼だ。私なんて何の|関《かん》|係《けい》もないのだ。幸子はそう自分へ言い聞かせた。
「帰るか」
と|呟《つぶや》いて、何気なく、彼の家へもう一度双眼鏡を向けた。
息を|呑《の》んだ。――男が三人、彼の家の玄関の所に立っている。一人が鍵を開けた。三人が|素《す》|早《ばや》く中へ消えた。
どう見てもまともな|連中《れんちゅう》ではない。
その|瞬間《しゅんかん》、すべてが分かった。
|健《けん》|二《じ》は、力ない足取りで|戻《もど》って来た。
――彼女は|結局《けっきょく》、来なかった。
二時間も待ったのに、来なかったのだ。
結局、彼女の方は本気ではなかったのかもしれない。健二は、よほどこのまま、どこかへ行ってしまおうかと思った。
足を止めて、目を|見《み》|張《は》った。家の前に、パトカーが|停《と》まっている。二台、いや三台も!
健二は|駆《か》け出した。
「――キミの|留《る》|守《す》を|狙《ねら》ったんだね」
と|警《けい》|官《かん》が言った。「どうやったのか知らんが|合《あい》|鍵《かぎ》も持っていたんだ。|危《あぶな》いところだったな」
「ありがとうございました」
健二にも、今は何もかも分かっていた。彼女だ。今夜、健二に家を|空《あ》けさせるのが|目《もく》|的《てき》だった。彼に|近《ちか》|付《づ》いて合鍵を作っておいて……。
|僕《ぼく》は|馬《ば》|鹿《か》だ!
「まあ、礼はあの子に言ってくれ」
と警官が言った。「|押《お》し入るのを見て通報してくれたんだよ」
健二は、|恥《は》ずかしそうに、顔を|伏《ふ》せて立っている女の子の方を見た。
歩み|寄《よ》って、
「どうもありがとう」
と声をかけた。
「いいえ」
その女の子が顔を上げた。――|優《やさ》しくはにかんだ|微笑《びしょう》が、健二の心にしみ込んで行った。
「よく――|見《み》|付《つ》けてくれたね」
と健二も、|照《て》れながら言った。
「鳥を見ていたんです」
「え?」
「鳥を――」
と、その女の子は言った。
|夢《ゆめ》の行列
1 深夜の行列
「この寒いのに、出かけるの?」
と、お母さんが|玄《げん》|関《かん》へ出て来て、あきれ顔で言った。
正直なところ、|私《わたし》もそう思わないわけじゃなかった。だって、二月の、寒さのいちばん|厳《きび》しい時には、|毛《もう》|布《ふ》にくるまって外で夜明かしするより、家のベッドであったかくして|眠《ねむ》ってるほうがいいに決まっている。
でも、そこが意地ってもので、
「しかたないのよ、友だちのためなんだもの」
と、ブーツをはきながら、私は|答《こた》えたのだった。
「そんなもんかね」
と、お母さんはあきらめ顔。
「もう一|枚《まい》毛布持ってったら?――|手袋《てぶくろ》は?――えり|巻《ま》きは?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。これ以上あれこれ巻きつけたら、息がつまって死んじゃうわ」
これ以上、いろいろ言われると、ほんとうにやめようかな、って気になってしまうので、私は、
「じゃ、行って来るね」
と早々に玄関を出た。――とたんに|後《こう》|悔《かい》した。
ただ寒いだけなら、十三|歳《さい》という若さと、クラス|随《ずい》|一《いち》の|美《び》|貌《ぼう》(あんまり|関《かん》|係《けい》ないかな)でしのげるけど、空気が|凍《こお》ってはりついてくるような風にはお手上げだ。
しかし、今さらクルリと回れ右して、
「ただいま」
と入っていけるだろうか?
さんざん|迷《まよ》ったものの、|結局《けっきょく》は寒風が|我《わ》がもの顔で|踊《おど》り回る夜の道を、|肩《かた》をすぼめて歩きだしたのだった。
若い日の|友情《ゆうじょう》なんて、ほんとうにばからしいものだ。
いや、友情そのものはすばらしいものだと思うけれど、「友情のために」と|称《しょう》してやることの、何というばかばかしさ!
さぼった友だちの「|代《だい》|返《へん》」だの、|授業《じゅぎょう》中にお|弁《べん》|当《とう》を食べている友だちのための|見《み》|張《は》りだの、|職員室《しょくいんしつ》で先生に|叱《しか》られるのまで|付《つ》き合いでいっしょに叱られたり……。|大人《おとな》から見りゃ、ほんとうに|理《り》|解《かい》しがたいアホらしさかもしれない。
でも、そんなことに|名《めい》|誉《よ》と|誇《ほこ》りを|賭《か》けられるのが「若さ」ってもので――なんて|教訓《きょうくん》めいた言い方はやめよう。
あと十年もたったら言ってみてもいいかな……。
ともかく、いくらお母さんがあきれ顔をしようが、親友のかわりに、ある人気タレントのワンマンショーの|切《きっ》|符《ぷ》売り場に前の|晩《ばん》から|並《なら》ぶことは、私にとってはまさに「友情のあかし」|以《い》|外《がい》の|何《なに》|物《もの》でもなかったのだ。
しかし、いくら友情でも、カイロじゃないから、ふところへ入れておけば|暖《あたた》かいってもんじゃない。この寒さを|防《ふせ》ぐには、何の役にも立たないのだ。
「寒いなあ……」
と、ついつい口に出しながら、私は終電間近な駅のホームで、|震《ふる》えていた。
ええと、私の名は|貫《ぬく》|居《い》|厚《あつ》|子《こ》。「ぬくい」「あつい」とくれば寒さには強そうだけど、その実、細めなので、|至《いた》って弱い。もっとも|他《た》|人《にん》の目には、「やや太め」とも見えるらしい。
目のおかしい人が|増《ふ》えているようだ。
そんなことはともかく――次の電車まで二十分も待たなきゃならないとあって、私は|飛《と》んだりはねたりして体を少しでも暖めようと、|涙《なみだ》ぐましい|努力《どりょく》をしていた。
「二番線に|新宿行《しんじゅくゆ》きが|参《まい》ります」
と、アナウンスがあって、あれ?――と思った。
おかしいな。新宿行きはまだ十七、八分しないと来ないはずなのに。――しかし、電車の時間は|狂《くる》うこともある。
こういう狂い方なら|大《だい》|歓《かん》|迎《げい》だ。|実《じっ》|際《さい》、待つほどもなく、電車がホームへ入って来た。
時間が|遅《おそ》いので急行はない。|各《かく》|駅《えき》|停《てい》|車《しゃ》でのんびりと行くわけである。
もちろん車内はガラガラで、|他《ほか》に二、三人の客しかいない。私は、|隅《すみ》っこの|席《せき》へ行って、|腰《こし》をかけた。ヒーターが入って、お|尻《しり》がポカポカと暖かい。
ホームにベルが鳴って、ピーッと|笛《ふえ》の音、ドアが今まさに|閉《し》まろうとしたとき、
「待て! ちょっと待て!」
と声がしたと思うと、私と同じくらいの|年《と》|齢《し》の男の子が飛び|込《こ》んで来た。
|危《き》|機《き》|一《いっ》|髪《ぱつ》、一|秒《びょう》と間を|置《お》かず、|扉《とびら》がピシャリと|閉《と》じて、電車が動きだす。ガタン、と|一《ひと》|揺《ゆ》れが来て、乗ったばかりの男の子はバランスをとりそこなってよろけた。
あ、あ……と思う間もなく、私のほうへとよろめいて来た男の子、ドッともろ[#「もろ」に傍点]に私の上に|倒《たお》れ込んだ。
「|痛《いた》い!」
私がオーバーに声を上げたので、びっくりしたその男の子は、
「ご、ごめん」
と、あわてて起き上がった。
よく見ると、なかなかかわいい顔の男の子である。これだけで、まず半分はきげんもなおった。そして、その男の子は、私が手にしていた|宣《せん》|伝《でん》のチラシを見ると、
「あれ、君もその前売りに並びに行くの?」
と言った。
「じゃ、あなたも?」
「そう。女の子に|頼《たの》まれちゃってね」
と、その子は|渋《しぶ》い顔をした。
私はつい|笑《わら》いだしていた。
「ちょうどいいわ。いっしょに行きましょ。私も友だちの代理なの」
もう私のきげんは|完《かん》|全《ぜん》に元通りに|回《かい》|復《ふく》し、それどころか、かなりまし[#「まし」に傍点]なほうへと|針《はり》は動いていた。
その男の子――名前は|竹《たけ》|越《こし》|雄《ゆう》|一《いち》|郎《ろう》といって、三つ上の十六歳だった。なかなかの|秀才《しゅうさい》らしくて、一|種《しゅ》知|的《てき》なムードなんてものを|漂《ただよ》わせている。
「――|添《そえ》|山《やま》アキラなんて、どこがいいんだい?」
新宿で|降《お》り、|劇場《げきじょう》への道を歩きながら、|彼《かれ》――竹越君が言った。「|彼《かの》|女《じょ》、いい子なんだけど、こういう|好《この》みだけは|全《ぜん》|然《ぜん》分かんないんだよな」
「私も同じ。でもしかたないわ、友だちのためだもん」
「友情とは寒いもんだね」
と彼は言って、ハーフコートのえりを立てた。これにも私は|全《まった》く同感だった。
「こんなとこに、前の晩から並ぶもの|好《ず》き、いるのかなあ。|明《あ》|日《す》の朝早くで十分だと思うけど」
「そうね。もし|誰《だれ》もいなかったら、どっか二十四時間|営業《えいぎょう》の|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》にでも入って、朝になるまで、待ってない?」
「いいな、そのアイディア」
と、竹越君は楽しげに言った。
でも、その考えは「|甘《あま》かった」のだ。劇場の前へ来て、私も竹越君も|唖《あ》|然《ぜん》とした。
前売り|券《けん》売り場の前には、毛布を|敷《し》いたり、毛布にくるまったりした女の子たちが、もう二十人近く、列を作っていたのである。
「すごいのねえ!」
「君、どこか店に入ってろよ」
と、竹越君が言った。「ふたりで並ぶことないさ。僕が君の分までいっしょに買ってあげるから」
「そういうわけにはいかないわ。こっちだって友だちの手前ってものがあるもの」
「いいじゃないか、ちゃんと並んだって言えば」
「うそつくのきらいなんだもん」
「意外と|頑《がん》|固《こ》なんだね」
「そうよ。――さ、|座《すわ》りましょ」
結局、話し合いの|結《けっ》|果《か》、ときどき|交《こう》|替《たい》で近くの喫茶店へ暖まりに行こうということになり、まずは、ふたりで座り込んだ。私たちのあとにも、同じ電車に乗って来たらしい、女の子が四、五人、すぐに列を作った。
添山アキラっていうのは、十九歳というふれ込みの、新人にしてはトシ食った歌手である。私の見たところでは、二十三歳――|下《へ》|手《た》すりゃ二十五くらいになってるんじゃないかと思うけど、ともかくちょっと甘ったるい顔と声で、アッという間に人気スターになってしまった。
こうして並んでいる女の子たちを見ていると、大体が私と同じ中学生か、せいぜい高校の一、二年くらい。それにしても大したファイトだ。
夜は長かった。――これで竹越君がいなかったら、ほんとうに、友情も|犠《ぎ》|牲《せい》にして帰っちまってたかもしれない。
当の友人は、|風《か》|邪《ぜ》ひいて|寝《ね》|込《こ》んでるのだ。この分じゃ、こっちも|枕《まくら》を並べて|討《う》ち死にかもしれない、と思った。
「少し休んでこいよ」
と、竹越君が言った。
「そう? じゃ、ちょっと――」
「ゆっくりしてきていいよ」
と、|優《やさ》しい言葉をかけてくれる。
私は立ち上がって歩きだした。手足の先が冷たくって|感《かん》|覚《かく》を|失《うしな》いそうだ。歩きながら、先頭に並んでるのはどんな子なのかな、とちょっと横目で見た。
これがすごい。毛布にグルグルとくるまって、頭にスッポリ、フードかぶって、白いマフラーが鼻まで上がっていて、出てるところがないぐらい。――上には上があるってのはこのことか!
前売りの窓口のわきの|壁《かべ》にもたれて、|眠《ねむ》ってるのか、身動き一つしない。私は、足を|速《はや》めて、終夜営業の喫茶店へ向かった。
2 父と|娘《むすめ》
ホットココアとケーキで、やっと体にぬくもりがもどってくるのに、十五分はかかった。
店の中は、ほぼ三分の二の入り。こんな所で何してんのかしら、と思うような|年《とし》|寄《よ》りから、お酒飲んでて帰りそこなって、|居《い》|眠《ねむ》りしてるサラリーマンまで、いろいろと集まって来ている。
高いタクシー代|払《はら》うよりは、ここで一|杯《ぱい》五百円のコーヒー飲んで眠ってったほうが安上がりには|違《ちが》いないけど、何となくわびしくなる|光《こう》|景《けい》ではある。
|私《わたし》が|結《けっ》|婚《こん》したら、やっぱり、いくらお金はかかっても、帰って来てほしいと思う。でも、生活が苦しいと、そうも言ってられないのかな。
私と同様、交替であの列から抜けて来たらしい女の子がふたり、|震《ふる》えながら入って来て、すぐ後ろの席に座った。
「寒いよお」
「死にそう! ね、何食べる? ラーメンないかな」
「あるわけないでしょ、そんなもの! 喫茶店よ」
「じゃ、ともかく|熱《あつ》いもので、すぐできるものなら、|何《なん》でもいい!」
その気持ち、よく分かる。――五分ほどして、ふたりはスパゲッティに取り組み始めたが、
「――ねえ、あの男の人、見て」
と、ひとりが言った。
「えっ? どの人?」
「ほら、あっちの|隅《すみ》。ソフトかぶってる人、いるじゃない」
私も何となくそのほうへ目を向けた。
ソフトといっても、ソフトクリームじゃない。ソフト|帽《ぼう》というやつをかぶった、五十|歳《さい》くらいの、何だかいやに|疲《つか》れた感じのする男である。
「あの人、知ってるの?」
「うーん、どこかで見たことがあるような気がするんだ」
「どこで?」
「分かんないのよ。――もう少し食べたら思い出すかもしれない」
と、いささか理論的でないことを言って、二口、三口スパゲッティを口へ入れると、
「あ、そうだ!――ほら、あれ、アキラのマネージャーか|何《なに》かよ! 前にも見たわ。いつもついて歩いてるんじゃない?」
「添山アキラの? そう? 私は初めて見たけどな」
「きっとそうよ! この前のリサイタルのときも見かけたんだもの」
と、その子は自信ありげである。
さて、私のほうはだいぶおなかが|満《まん》|足《ぞく》してきたので、そろそろ竹越君と交替するかな、と|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見た。三十分ほどたっている。
あと十分くらいしたら、列のところへもどろう、と思った。――あの寒い中へもどるというのも、気は進まないけど、まさか、竹越君をひとりで放っとくわけにもいかない。
とはいえ、やっぱり、暖かいってことはいいわね……と、目を|閉《と》じて……。
いつの間にやら、眠り|込《こ》んでしまった。ハッと目を|覚《さ》まし、いけない、と腕時計を見ると、一時間も眠ってしまっていた。
あわてて立ち上がろうとした私は、|誰《だれ》かにぶつかりそうになった。
「あ――」
「おっと――|失《しつ》|礼《れい》」
ソフト帽が|床《ゆか》に落ちた。あの、添山アキラのマネージャーらしい(かどうか私は知らないけど)男だ。
その男は、帽子を拾うと、
「ええと……君は……」
「え?」
「添山アキラのリサイタルに|並《なら》んでるのかね?」
「ええ、そうですけど……」
男は、おずおずとした調子で、
「実は、ちょっと|頼《たの》みがあるんだけどね」
と言った。
「――じゃ、|娘《むすめ》さんがあの列に?」
「いてくれれば安心なんだがね」
と、その男はうなずいた。「見に行ったりすれば|怒《おこ》るだろうし、といって心配で……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、|大《おお》|勢《ぜい》いるんですから。|別《べつ》にひとりでポツンと立ってるわけじゃなくて、けっこうワイワイ|騒《さわ》いでますよ」
と私は言った。
「いや、そんなことじゃないんだよ。私が心配なのは」
「というと?」
「つまりね、|育《いく》|栄《え》は――娘の名だがあの添山アキラという男の|恋《こい》|人《びと》だと言ってるんだ」
「自分で、ですか?」
「そうなんだ。ただのファンとは|違《ちが》う。だから、あんなふうに並んだりすることはない、と言うんだよ」
「そんなこと、ファンになるとよく言うもんですよ」
「私もそう思う。|実《じっ》|際《さい》、その添山というタレントから電話一本、手紙一通来ていないんだからね」
「心配しなくたって大丈夫ですよ。|一《いっ》|種《しゅ》のゲームぐらいに思ってるんですから」
「うん……。しかしね……」
と、その父親は、まるでこの世の終わりがやって来るとでもいうような深いため息をついた。
「何を心配してるんですか?」
と私はきいた。
「いや――こんなことを言うと、|笑《わら》われるかもしれないがね」
「言ってみてください」
「どうも、あの子がうそをついてるとは思えないんだよ」
と、その父親は言った。
「じゃ、ほんとうに、娘さんが添山アキラの恋人だとおっしゃるんですか?」
「ばかげて聞こえるだろうね」
と、苦笑して、「しかし――うちは母親を十年近く前になくしてね、父ひとり|娘《こ》ひとりで、私が自由業のせいもあって、ずっと|暮《く》らしてきた。だから、娘のことは、|普《ふ》|通《つう》の父親よりも、ずっと|詳《くわ》しく分かっているつもりだ」
「そうでしょうね」
「娘がうそをついているときは、すぐに分かる。まあ、場合によっては、分からないふりをして、だまされてやることもあるよ。――しかし、添山アキラの話になると……だめなんだ。分からない。――いや、どう見ても、私にはほんとうのことを話しているとしか思えないんだよ」
「あの、失礼ですけど……」
と私は口をはさんだ。「その『恋人』っていう意味は……その……」
「うん。ホテルへいっしょに行ったとかいうわけなんだ」
父親の顔が|歪《ゆが》んだ。ひとりで|苦《く》|労《ろう》して大きくした娘が、どこの誰かもろくに分からない男とホテルへ行ったなんて、そりゃ|腹《はら》も立つだろう。
「いろいろと問い|詰《つ》めてみるが、ともかくほんとうに[#「ほんとうに」に傍点]あの添山と、|結《けっ》|婚《こん》の|約《やく》|束《そく》をした、と言う。結婚といっても十六だよ、娘は!」
「でも、添山アキラのほうは、|全《ぜん》|然《ぜん》会いにも来ないんでしょ?」
「娘に言わせると、彼は今、人気の出かかった大事なときなので、表立って動けないんだということでね」
「それが娘さんの作り話とは思えない、ということなんですね?」
「うん。しかし、実際にそんなことがあるんだろうか?」
「私にはよく分かりませんけど……。でも、娘さんが自分で、それをほんとうだと|信《しん》じ込んじゃってるんじゃないですか?」
「そうかもしれないね」
とうなずいたが、父親の不安そうな表情はいっこうに|変《か》わらなかった。
「――で、私に、娘さんが列にいるかどうか見てほしい、っていうわけですね?」
「そうなんだ。いや、列の中にいれば、こっちも安心だ。娘はただの一ファンというわけだからね。しかし、いないとなると……」
「どんなスタイルで出かけたんですか? |毛《もう》|布《ふ》とか何かを、ごっそり持って?」
「いや、どこかで彼と待ち合わせて、彼のマンションに行くとかで、コートを着ていただけだ。――どこかに毛布や何かを|隠《かく》しているのかもしれないが」
「それはそうですね」
「これが娘の|写《しゃ》|真《しん》なんだ」
と、手渡されたのは、よく|撮《と》れたスナップで、なかなかの美人だ。私ほどじゃないけども……。
「――今夜は彼とふたりで|過《す》ごすんだと言って、|化粧《けしょう》をして、|口《くち》|紅《べに》までつけてね。止めたかったが、かえって意地になるばかりだと分かっていたからね」
「じゃ、見てみますね。でも、みんな毛布にくるまって寝てるから、顔が分かるかどうか……」
「むちゃを言ってすまないね。できるだけ、でいいんだ」
その父親の、|物《もの》|静《しず》かな様子に|好《こう》|感《かん》を持ったので、私は写真を手に、さっそく|劇場《げきじょう》の前へともどった。幸い、風がやんで、多少は楽になっている。
「――ごめんね」
と竹越君に声をかける。
「いいんだよ。――じゃ|交《こう》|替《たい》するか」
「その前にちょっとお|願《ねが》いがあるの」
「何だい?」
私が写真を見せて、|事情《じじょう》を|説《せつ》|明《めい》すると、竹越君もいっしょに|捜《さが》してくれることになった。
しかし、これが|容《よう》|易《い》じゃなかった。ともかく、行列は、私が|休憩《きゅうけい》している間に、たっぷり|百《ひゃく》メートル近くまでも|伸《の》びていたのだ!
それでも、|一《いち》|応《おう》は約束だ。私と竹越君は、ずっと列をたどって、女の子たちの顔を、ひとりひとり、|眺《なが》めて行った。
中には、|完《かん》|全《ぜん》に毛布などにくるまっている子もいて、|全《ぜん》|部《ぶ》の顔は見られなかったけれど、まあ|九割《きゅうわり》方の顔は|確《たし》かめた。その中に|例《れい》の娘はいなかった。
あの喫茶店へもどって父親にそのことを話すと、何度も礼を言われ、五千円|札《さつ》まで手に|押《お》しつけられてしまった。
「こんなつもりじゃ――そうですか――じゃ、いただきます」
|割《わり》とアッサリもらって、ポケットへ入れる。
「もう帰るんですか?」
「いや、|一《いち》|応《おう》、朝まで待ってみるよ。明るくなれば、遠くからでも娘の顔が見分けられるからね」
列のほうへともどりながら、親っていうのも、けっこう|大《たい》|変《へん》なんだな、と私は考えていた……。
3 白いマフラー
朝が来た。
|結局《けっきょく》、竹越君と話をしていて、|一《いっ》|睡《すい》もしなかったが、あまり|疲《つか》れは感じなかった。
あちこちで、毛布にくるまって眠っていた子たちが起きだすのが見えた。
「あの|育《いく》|栄《え》って子、いるかしら?」
「どうかな。――もう一度捜してみるかい?」
「父親が見に来るって言ってたわ」
|劇場《げきじょう》の戸が開いて、作業服を着た、はげ頭のおじさんが寒そうに出て来る。
「こりゃ、大したもんだ」
と、目を|丸《まる》くして行列を|眺《なが》める。
「この寒いのになあ!」
「おじさん、トイレ|貸《か》して」
と女の子のひとりが言うと、
「ああ、中のを使っていいよ」
たちまち十人くらいの女の子が、劇場の中へ|駆《か》け込んで行った。
「これじゃ|掃《そう》|除《じ》もできんな」
そのおじさんは、はげ頭をなでながら言って、
「一番の子はまだ|寝《ね》てるのか」
とかがみ|込《こ》んだ。
「おい。もう起きな。――朝だよ」
と、あの毛布にくるまった子を|揺《ゆ》さぶる。
「おい。――どうした?――おい、大丈夫か?」
声が|緊張《きんちょう》している。私と竹越君は顔を見合わせた。
「――大変だ」
はげ頭のおじさんは青くなっていた。「冷たくなってるぞ!」
そして、急いで毛布ごとかかえ上げると、劇場の中へと運び込んで行く。
「まさか……|凍《とう》|死《し》?」
と私は言った。
「そんなことないと思うけど……」
竹越君も、不安げだ。
私たちは、劇場の中へと入ってみた。中はもちろんまだ暗くて、どこが何やらよく分からない。トイレからもどって来た女の子にきくと、
「あのはげた人? そっちへ行ったわよ」
と|奥《おく》のほうを指さす。
|薄《うす》|暗《ぐら》い通路を歩いて行くと、ドアの一つが開いていて、明かりがもれている。
「――そうなんです」
と、あのおじさんの声がした。「すぐに|救急車《きゅうきゅうしゃ》を!」
私たちが顔を出すと、おじさんは、ギョッとしたように見て、
「何だね?」
「あの……どうかしたんですか?」
「まったく|困《こま》ったもんだ!」
と首を|振《ふ》る。
ソファに、十五、六の女の子が横たわっていた。
青ざめて、血の気がない。
「凍死したらしいよ。今、救急車を|呼《よ》んだんだが、むだだろう」
私はゴクリと|唾《つば》を飲み込んだ。
「おい、あの子じゃないか!」
と、竹越君が言った。
「え?」
「捜してた子だよ!」
私は|近《ちか》|寄《よ》って、その女の子の顔をのぞき込んだ。――そうだった。
|化粧《けしょう》をして、|口《くち》|紅《べに》をつけているし、今は生気を|失《うしな》ってしまったので、すぐには分からなかったのだが、|間《ま》|違《ちが》いなく、あの父親が捜している娘だった!
「知ってるのかね?」
と、おじさんがきく。
「ちょっと……」
「――|僕《ぼく》がお父さんを|呼《よ》んで来よう」
と、竹越君が言った。
「あなた、顔が分からないでしょ。私、行く」
私は|部《へ》|屋《や》を|飛《と》び出した。
表に出ると、すぐにあの父親が歩いて来るのが目に入った。とたんに私は、|後《こう》|悔《かい》した。
竹越君に|任《まか》せるべきだったのだ。――いったい、父親に|何《なん》と言えばいいのだろう?
「やあ、さっきはすまなかったね」
と、向こうから声をかけてきた。
「あの……実は……」
添山アキラが入って来た。
|TV《テレビ》で見るより、だいぶ|小《こ》|柄《がら》で、近くで見ると、|特《とく》にどこといって見映えのしない男に見えた。
劇場の中の一室。ソファに、あの女の子の死体が横たえられている。父親はそのそばで、なかば放心|状態《じょうたい》だった。
「添山さんですね」
と言ったのは、|警《けい》|官《かん》だった。
「そうです」
「実は、この劇場の前でゆうべから、列を作っていた女の子のひとりが、凍死してしまったんです」
「それはまた……」
「そのお父さんのお話では、娘さんはあなたと|直接《ちょくせつ》知り合いだと言っていたらしいんです。ちょっと顔を見ていただけますか」
「はあ……」
いたって|神妙《しんみょう》な様子で、添山アキラはソファのほうへ近づいた。そして、その娘の顔をじっと見ていたが、
「――心当たりがありませんね」
と首を|振《ふ》った。
「そうですか」
「ファンレターの返事ぐらいは出したかもしれませんが……」
添山は父親のほうへと向いて、
「――お父さんですか、この方の?」
と声をかけた。
「はあ……」
父親が力なくうなずく。
「こんなことになって申しわけありません」
と、添山は頭を下げた。「僕のほうで、あらかじめこういうことのないように手を打つべきでした」
「いや……。あんたの|責《せき》|任《にん》じゃありませんからね」
「それにしても……僕がいなければ、お嬢さんはこんなことにならずにすんだのですから……」
添山は|深《ふか》|々《ぶか》と頭を下げた。「ほんとうに申しわけありませんでした」
私はなんだかやけにイライラしていた。――添山アキラの|態《たい》|度《ど》は、なかなか|立《りっ》|派《ぱ》だった。立派すぎた。
それが何だかわざとらしく、計算されているようで、いやだったのだ。
私はテーブルの上に|積《つ》み上げられた|毛《もう》|布《ふ》やマフラーのほうに歩いて行って、手に取ってみた。
これだけのことをして、凍死するなんて……。しかし、ほんとうに死んでいるのだから、しかたない。
マフラーを広げてみる。|真《ま》っ白で、しみ一つない。
「――おかしいわ」
と私は言った。
「何が?」
と、竹越君がきく。
「このマフラー。|汚《よご》れ一つないわ。これを鼻までいっぱいに上げて、|巻《ま》いてたのよ」
「それがどうして――」
「分からない? 育栄さんは口紅[#「口紅」に傍点]をつけてたのよ。それなのにマフラーにその|跡《あと》が全然ないのはどうして?」
部屋の中が|静《しず》まり返った。――添山が|咳《せき》|払《ばら》いして、
「じゃ、僕は仕事があるので」
と、歩きだそうとした。
「待って!」
私の頭に、何かがひらめいた。私は直接行動に出た。添山アキラのほうへ|駆《か》け|寄《よ》ると、彼の|髪《かみ》の毛をつかんで引っ|張《ぱ》ったのだ。――バリッと音がして、下から、みごとにはげた頭が|現《あらわ》れた。その顔は、あの、作業服のおじさんだった!
「あの毛布にくるまってたのはほかの女だったんだわ」
と私は言った。「育栄さんはほかの所で凍死させられ、ここへ運び込まれてたのよ。そして、毛布にくるまっていた女は、トイレを|借《か》りに入った女の子たちにまぎれて外へ出たんだわ」
添山アキラがふっと|肩《かた》を落とした。
「――僕は――もう三十七なんだ。――うそをつくのに疲れた。この子は、僕にとってはいい遊び|相《あい》|手《て》だったんだ。――でも、彼女のほうが本気になった。僕のほんとうの|年《と》|齢《し》も知っていた。冷たくすれば、しゃべってしまうかもしれない……」
「だから娘を殺したのか!」
|怒《いか》りに|震《ふる》えて、父親が添山へ飛びかかった。
「――|哀《かな》しいわ」
と私は言った。
竹越君とふたり、すっかり|陽《ひ》の高くなった|新宿《しんじゅく》の|街《まち》を歩いている。
「どっちもね。あの女の子も、添山アキラも」
「そう。……|辛《つら》いもんね、スターも」
「でも、君、すごいじゃないか、|真《しん》|相《そう》を|見《み》|破《やぶ》ったなんて」
「うん、だって、悪いじゃない、五千円ももらって。それ|相《そう》|応《おう》のことしなきゃね」
「なるほどね」
私は、竹越君の|腕《うで》を取った。
「――これから、この五千円をどう使うか、ふたりで|検《けん》|討《とう》しない?」
ゆうべの寒さがうそのような、暖かい午後だった。
|僕《ぼく》らの|課外授業《かがいじゅぎょう》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年7月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『僕らの課外授業』昭和59年 2月25日初版発行
平成 9 年 6月20日66版発行