角川文庫
人形たちの椅子
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
ハプニング
閉じた場所
悪い夢
帰り道
真夜中の電話
訪ねて来た少女
たたずむ影
探偵稼業
ウイークエンド
訪れた影
女の時間
家族の風景
|宴《うたげ》の夜に
出迎え
承認印
遠来の客
厚い壁
質 問
暗 黒
寒い日
裂けた服
人間の|椅《い》|子《す》
ハプニング
「キャッ!」
二、三歩後ろで、|甲《かん》|高《だか》い声が上がった。
|敦《あつ》|子《こ》が振り返ると、|宮《みや》|田《た》|栄《えい》|子《こ》が足を滑らせて、それもただ転ぶというのではなく、軽いとは言えない体が、一瞬、完全に宙に浮いて、お|尻《しり》からみごとに落下するところだったのである。
ドン、と音がして、敦子の足に、床の振動が伝わって来た。それぐらい、|凄《すご》い勢いで転んだのだ。
|永《なが》|瀬《せ》敦子も、その前を歩いていた、同じ受付嬢の制服を着た|原《はら》|久《く》|美《み》|江《え》も、ちょっとの間、動けなかった。
「――宮田さん!」
と、初めに駆け寄ったのは、永瀬敦子の方だった。「大丈夫ですか!」
同じ制服の宮田栄子は、三人の受付嬢の中では一番の年長者だ。何かあっても大騒ぎしたりすることはないのだが、今はさすがに痛さで声も出ないらしい。とぎれとぎれに、
「あ……腰……痛い……」
と、かぼそい声を|洩《も》らしている。
「立てますか? ちょっと――ほら。久美江さん! 手伝って」
「はいはい」
三人の中では一番若い原久美江は、向こうを向いて、必死で笑いをかみ殺していたのだ。
当人には気の毒だが、確かに、そのあまりの転びっぷりに、敦子だって笑いたいのはやまやまだった。ただ、先輩を怒らせると怖いという、経験から来るブレーキがかかっていたのである。
宮田栄子を、敦子と久美江の二人が両側から支えて、やっと立たせたものの、
「歩けます?――宮田さん、どこかで横になりますか?」
敦子の問いに、ただ|肯《うなず》くだけの状態。
「じゃ、久美江さん、応接室のソファに。ほら、しっかり支えて」
原久美江は若いが、体は小柄なので、宮田栄子の体重の三分の二は、敦子が負担しなくてはならなかった。応接室のドアまで、ほんの十メートルほどだったのが幸いだ。
「全く、もう……」
と、宮田栄子が情けない声を出した。「こんなにツルツルにワックスかけて!」
そう。確かに、ゆうべの床磨きの時に、ワックス液を流し過ぎたのかもしれない。
敦子も、朝、出勤して来て滑りそうになったくらいだ。――誰か転ぶわ、きっと。そう思ったのだったが、まさか目の前で……。
もちろん、深い意味があるわけではないにしても、この朝、床にワックスをかけ過ぎていたことが、敦子の人生を大きく変えることになった、とも言える。
それはともかく、敦子と久美江は、宮田栄子を応接室のソファに寝かせてやった。
ソファで少し休むと、宮田栄子もやっと口がきけるようになったらしい。
「ここで横になってれば、良くなると思うわ」
「でも、お医者さんに行った方が――」
と、敦子が言うのを、
「冗談じゃないわ、転んだくらいで」
と、遮って、「さ、二人で行って。課長が待ってるわ」
敦子は、ちょっと迷ってから、
「じゃ、課長さんの話がすんだら、また来ます。――久美江さん、行きましょ」
と、原久美江を促して、応接室を出る。
敦子は、応接室のドアの札を、〈使用中〉にしておいて、会議室の方へと歩き出した。
「それにしても、床が揺れた!」
と、今になって久美江が笑い出す。
「人が痛い思いしてるのに、笑うもんじゃないわ」
敦子はたしなめておいて、「課長さん、何のお話かしらね」
「何でもいいけど、お昼休みを|潰《つぶ》してほしくないな」
と、久美江は少し口を|尖《とが》らして、言った。
潰すといっても、もう十二時五十分。あと十分で、午後の仕事が始まるのだが、久美江は一分だって、休み時間を仕事に取られるのはいや、という主義だ。
「もしかしたら、あれ[#「あれ」に傍点]かな」
と、久美江が歩きながら言った。
「何か聞いてるの?」
「そうじゃないけど。最近、受付に社員を置かない会社がふえて来てるんですって。この間、週刊誌で読んだわ」
「じゃ、どうするの?」
「人材派遣会社から来るんだって。その方が安上がりみたい」
「でも、それじゃ、社内のことなんて、分からないじゃない」
「取り次ぐだけなんでしょ。でも、うちももしそうするんだったら、私たちクビか」
「いやなこと言わないでよ」
「宮田さんぐらいは、古いからどこかへ回してくれるかもしれないけど。こりゃ、考えた方がいいかもね」
とか言いながら、親もとから通っている久美江は、たとえクビになってもさして困りはしないのである。
それはともかく……。永瀬敦子が勤めている〈K化学工業〉は、ここが本社ビルで、受付は、主任の宮田栄子と、敦子、久美江の三人が受け持っていた。ビルの一階にある受付に一人、三階の本社受付に二人、という分担で、交互にローテーションを組んでいる。他のフロアには、系列の企業が入り、いくつかのフロアは、別の企業に貸していた。
受付、というと、ただじっと座っていればいいようだが、なかなか楽ではない。敦子が入社したころは五人いたのである。
三人で一階と三階の受付を担当するということは、同時に二人は休めない、ということである。
もう在職二十年近い宮田栄子が何かで休みを取る、と言えば、その間は敦子も久美江も絶対に休めない。夏休みにしても、宮田栄子の予定が最優先である。
その次は、在職七年、今年二十八歳の敦子――のはずだが、実際にはまだ去年入ったばかりの原久美江の方が調子良くて、
「ね、一生のお願い!」
とか言われてしまうと、敦子はいやと言えない。
結局、貧乏くじを引くのは、独り暮らしで、実際、あまり予定というもののない敦子なのだった。
「第三会議室って言った?」
「そうだと思う」
と、久美江が|肯《うなず》く。
それにしても、こんな風に課長が受付の三人を、それも昼休みに呼ぶというのは、珍しいことだった。
まさか久美江の心配のように、クビ、ってことはないと思うが、敦子としても、あまり楽しい気分ではない。第三会議室のドアをノックして、開けると、
「遅くなりました」
と、入って行く。
課長の|大《おお》|西《にし》は、窓から表の通りを眺めていたが、振り向いて、
「休み時間に悪いな」
と、|椅《い》|子《す》を引く。「かけてくれ」
どうやら、いささか深刻な話らしい。大西は女子社員には愛想が良くて、話をする時も、たいてい冗談の一つでも言ってからである。今日はとてもそんな余裕がないと見えて、
「宮田さんは?」
「あの、ちょっと具合が悪くて。休んでるんです」
「会社には出て来ていただろう」
「ええ、今、応接室で横になって……」
「そうか。――まずいな」
大西は、ひどく|苛《いら》|々《いら》しているように見えた。
敦子と久美江は、椅子にかけて、そっと顔を見合わせた。
「仕方ない。今日、下の受付は?」
敦子は、ちょっと迷った。本当なら、宮田栄子の番だ。しかし、あの様子では、とても無理だろう。
「私です」
と、敦子は言った。
「今日、午後にアメリカからのお客が来る。十人ぐらいだ」
「はあ」
「非常に重要な客なんだ。絶対に失礼があっては困る」
大西の言い方は、普通ではなかった。敦子は、少し戸惑っていた。
「何か、特別なことをするんでしょうか」
と、敦子が|訊《き》くと、大西課長は、
「いや、そういうわけじゃないんだ」
と首を振って、息をついた。「すまん、ちょっと心配の種があってね」
「英会話のできる人がいないから?」
と、久美江が言うと、大西はやっと笑顔を見せた。
「そんなことじゃない。ちゃんと通訳はついて来る。問題はその客たちじゃないんだ」
「じゃ、何のことですか?」
大西が口を開きかけると、会議室の電話が鳴った。敦子が反射的に立とうとすると、
「いや、僕が出る」
と、大西が止めた。
大西が電話に出ると、久美江が、敦子の方へ顔を寄せて、
「アメリカ人が来るから、和服を着て座ってろって言われるのかと思った」
敦子は、
「まさか」
と笑った。
「――そうか。じゃ、あと二十分だな。――なに?」
電話に出ている大西の声が、鋭くなった。「――畜生! どこからそんなコネを見付けたんだ」
と、首を振り、
「分かった。ともかく、こっちも何とか考える。よく見張ってろ」
席に戻ると、大西は|苛《いら》|々《いら》と百円ライターを手の中で回していたが、やがて、
「実はね」
と、口を開いた。「君たちも知ってるだろう。うちもこのところ、輸出が伸びなくて、景気がいいとは言えない。二か月前――八月の初めに、うちの工場を二つ、閉鎖することを決めた」
「聞きました」
と、敦子は肯いた。「長野の方と――」
「高岡だ。どっちも規模は小さいが、一応それぞれ百人ほどの従業員がいる」
と、大西は言った。「長野の工場は今年一杯で閉めることになってるんだが……。その工場の組合員が、閉鎖に抗議して、上京して来たんだ。今、新宿駅に着いたと報告が入った」
「待ってたんですか」
「一人、見張らせといたのさ。情報が入ってたんでね。代表が七人、タスキをかけ、旗やプラカードを持って、こっちへ向かっている」
確かに、閉鎖される工場の従業員にとっては、死活問題である。本社へ談判しに来たくなる気持ちは、敦子にもよく分かった。
「あと二十分もしたら、このビルへ着くだろう。下のロビーにでも座り込まれたら、大変だ。一時間もすれば、アメリカからの客が着くんだからな」
敦子には、大西の心配が、やっと分かった。
「その組合の人たちに、説明して、出直してもらえばいいじゃありませんか」
と、久美江がのんびりと言った。
大西は苦笑して、
「いいか、連中は、重要な客があると知っているからこそ、今日を選んだんだ。こっちが少しは譲歩するだろう、と読んでるんだ」
「じゃあ……」
「ビルの入り口を閉める。中へ入られたら厄介だからな。その上で、どこかへ引っ張って行くしかない」
大西は舌打ちした。「全く、面倒をかけてくれるよ」
でも、同じK化学工業の社員なんじゃありませんか、と敦子は言いたかったが、やめておいた。
「私は何をすればいいんですか?」
「何もしなくていい」
と、大西は言った。「いつもの通り、にこやかに座っていてくれ。ただ、表で連中が騒ぐかもしれないが、君は一切無視するんだ。いいね」
「はい……」
「もう一つ厄介なことがある」
と、大西は|椅《い》|子《す》に座り直した。「TV局が、一緒にやって来るらしいんだ」
「TV局?」
「報道番組だか、ドキュメントだか……。ともかく、連中の側に立って、取材に来るだろう」
「やっぱり締め出すんですか」
「当然だ。そっちは、また後で手を打てばいい。ともかく、そんなわけなんだ。下の受付、よろしく頼むよ」
大西が立ち上がると、つられて敦子たちも立ち上がったが、
「課長さん――でも、入り口を閉めちゃって、他のお客さんや社員の出入りはどうするんですか?」
と、敦子は言った。
「通用口を使う。あそこは狭いし、裏側だから、少々もめても人目にはつかない。若いのを何人か立たせて、連中が中に入れないようにするんだ」
「分かりました」
「まあ、大して問題はないよ。大丈夫だ」
大西は、敦子の肩をポンと|叩《たた》いた。その言葉は、自分自身に言い聞かせているように、敦子には聞こえた。
「――いやねえ、|喧《けん》|嘩《か》にでもなったら」
と、廊下へ出ると、久美江が言った。
「そんなことないでしょ」
と、敦子は言ったが、気は重かった。
「永瀬君」
背後から呼ばれて、振り向くと、庶務の|有《あり》|田《た》|吉《よし》|男《お》が|大《おお》|股《また》に歩いて来る。
「私はお先に」
と、冷やかすように言って、久美江は歩いて行ってしまった。
変に気をきかせて、と敦子は、久美江の後ろ姿を苦笑しながら、見送った。
「どうしたんだい?」
と、有田吉男が言った。
「何でもないの」
敦子は肩をすくめて、「どうしたの? 腕まくりなんかして。荷物運び?」
有田吉男は、別に敦子の恋人というわけではない。確かに、たまに一緒に食事をしたりはするが、デートとも言えないような、ただの「友だち付き合い」なのだ。
特に、有田は敦子より一つ年下で、かつ末っ子でもあるので、体は大きいのだが、どこか頼りない。長女で、妹も一人いる敦子から見ると、有田は、体ばっかり大きな弟みたいなものなのである。
「何だか知らないよ」
と、有田は、ちょっと首をかしげて、「ただ、課長から言われてね。大西課長の所へ行けって」
「うちの課長の所へ?」
敦子には分かった。――有田は、大学時代、アメリカンフットボールの選手だった、というだけあって、体格もいいし、力もある。
さっき大西が言った、押しかけて来た組合員が入れないように、「若いの」を立たせておくという、その「若いの」の一人に選ばれたのだろう。
「そう……。あんまりいい仕事じゃないわよ、それ」
「知ってるの?」
「ええ。今、話があったところ」
敦子は、エレベーターの方へと歩きながら、大西の話を手短に説明してやった。
「やれやれ」
と、有田はちょっとオーバーに、「僕が期待されるのは、腕力だけか。ま、確かに他にはあんまり取り柄がないけどな」
「そんなことないわよ」
と、敦子は笑って言った。
確かに、有田は有能なビジネスマンというにはほど遠い男で、当人もはなから出世など|諦《あきら》めている。しかし、おっとりした人の好さは、敦子としても、話していて気が休まるのだ。エリートばかりの職場なんて、息が詰まるだけである。
「他にも何人かかり出されてるんだな、それじゃ」
「だと思うわ。でも――気を付けてね。つかみ合いなんてことにならなきゃいいけど」
「そんなの、みっともないよな」
「工場の人たちにしてみれば、無理もないわよ。いきなり閉鎖の通知で、再就職の口も捜してくれないなんて。――私だって、殴り込むわ」
「君が相手じゃ怖いな」
「何よ」
敦子は笑いながら、有田をにらんでやった。
エレベーターが上がって来て、みんな昼食から戻って来る。
敦子は、下りのエレベーターが来たのを見て、有田の方へ、
「じゃ、頑張って」
と、声をかけておいて、歩き出した。
下りに乗るのは、敦子一人。――頑張って? 何を頑張るのだろう?
「いやな仕事だわ」
と、敦子は|呟《つぶや》いた……。
――一階のロビーを、つい見回してしまう。
もちろん、まだ誰もやって来てはいない。
受付のカウンターへと歩いて行くと、昼休みの間だけ、臨時に座っていてくれた、新人の女子社員が|欠伸《あくび》を手で隠しているところだった。本当なら、昼休みも、係の三人が交替で昼食を取るのだ。
「ごめんなさい」
と、敦子は声をかけた。「もういいわよ。お昼、食べて来て」
「はい」
ペコン、と頭を下げて、その若い女子社員は、コトコト靴の音をたてながら、公衆電話の方へ駆けて行った。恋人にでも電話することになっていたのだろうか。
敦子は、受付の|椅《い》|子《す》に腰をおろして、ちょっと高さを調節して直した。
手もとの二つの電話機の位置を、真っ|直《す》ぐに直す。――性格なのだ。
内線用の電話が鳴った。
「一階受付です」
「永瀬君か」
大西だった。「何か変わったことは?」
「特にありません」
「よく見ていてくれ。五、六分したら僕も下りて行く」
「分かりました」
まるで敵が攻めて来るって感じだわ、と思った。同じ会社の社員なのに。
敦子は、ビルの正面玄関へと目を上げた。
受付のカウンターは、玄関のガラス扉の真正面に、壁を背にして設けられている。玄関は二重で、外側は手で押して開ける、かなり重いガラス扉。その内側に、左右へ開く自動扉。そこから、今敦子がいる受付カウンターまで、ほぼ十メートル近く、つややかな大理石の床が光っている。
表はまぶしいほど明るくて、忙しく人々が右へ左へと横切って行く。
宮田さんがどうしてるか、様子を見て来なかったわ、と思い付いた。仕方ない。あとで席に電話してみよう。――あれさえなかったら、ここに座っていなくても良かったのに。
文句を言っても始まらないんだわ。
敦子は一つ深呼吸をして、背筋を伸ばし、「受付嬢の顔」を作った。
閉じた場所
午後一番の来客が数人あって、|却《かえ》って気が紛れた。
ちょっと息をつくと、
「やあ」
と、わきの方からやって来たのは、このビルの管理主任、|平《ひら》|山《やま》だった。
ガードマン風の制服を着ているが、仕事はごく普通の管理人で、実際、もとは小学校の先生だったという、五十がらみの、温厚な人柄の男だった。
「平山さん。――どう、|洋《よう》|子《こ》ちゃん、|風《か》|邪《ぜ》の具合は?」
と、敦子は|訊《き》いた。
「やっと昨日から熱が下がってね。念のために今日も学校は休ませたよ」
と、平山は笑顔で言った。「本人は、もう大丈夫だから行きたい、と言ったんだがね。またぶり返すといけないと思ってね」
「そうね。無理しない方がいいわ」
「全く、子供の病気ってのは|応《こた》えるね。こっちまで具合が悪くなりそうだったよ」
平山の所は、結婚十五年目で、やっと娘が生まれたのだ。今、九つ。平山が|可《か》|愛《わい》がるのも当然のことだろう。
「お父さんが寝込まないでよ」
と、敦子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「――なあ、聞いたかい」
平山が真顔になる。
「これから来るお客さんのこと? ええ、聞いてるわ」
と、敦子は|肯《うなず》いて、「もうそろそろじゃないかしら」
「たぶんね」
平山はため息をついた。「しかし、会社も冷たいもんだ。散々働かせといて、景気が悪くなりゃポイ、だものな」
「そうね、私も同情するけど……。でも、どうしようもないし」
「全くね」
平山は玄関のガラス扉の方を見て、「あれを閉めちまえ、とさ」
「私も、ここでニコニコしながら座ってなきゃいけないのよ。何があっても」
「それも辛いね」
と、平山は細い目をちょっとまたたかせて言った。
エレベーターホールの方から、足音がして、大西課長が若い男子社員を五、六人連れてやって来た。有田の顔もある。
「ご苦労さん」
と、大西は敦子へ声をかけてから、平山の方へ、
「表の戸は?」
「今、ロックするところです」
平山が、玄関の方へ歩き出した。
「早くしろ! もうすぐ着くぞ」
大西は、見た目にもはっきり分かるほど|苛《いら》|立《だ》っている。敦子は、有田とそっと目を見交わした。
敦子は、平山が、まず外のガラス扉の上下の|鍵《かぎ》をかけて、それから内側の自動扉の中へ入って来ると、作動を停止させるのを見ていた。
「――よし」
と、大西は言った。「永瀬君、いいね、君は何が起こっても、知らん顔で、ここに座ってるんだよ」
「やってみます」
と、敦子は言った。
「頼む。――おい、みんな裏口だ。分かってるな、仕事は」
はい、とか分かってます、と口の中でボソボソ返事をしながら、みんな、通用口の方へと姿を消した。平山もその後について行く。
大西は一人で残ったが、とても敦子を相手におしゃべりなどする余裕はなさそうだった。
「もう来るころだがな」
と、大西は腕時計を見た。
もちろん、敦子の背にした壁に、大きなデジタル時計がかかっているのだが、自分の時計でなければ信用できない、という風だ。
「でも、課長さん」
と、敦子は言った。「ロビーへ入れなくても、あの表の通りで座り込まれたら、みっともないのは同じじゃありませんか」
「いや、表は公道だ。警察に排除してくれと頼むこともできる。しかし、ロビーへ入られると、そうはいかないからね。それは向こうも承知してるさ。何とか中へ入ろうとするはずだ」
大西の口調には、抗議にやって来る人々への同情や共感が、全く感じられない。敦子は少しがっかりした。
もちろん、大西の立場としては、同情などしている余裕はないのかもしれない。しかし、大西とて家族をかかえて、突然職を失ったら、同じようにするのではないか。
「もし――」
と、敦子は言った。「その人たちが入って来て、重役に取り次いでくれ、と言われたらどうします?」
「そんなことにはならないさ」
と、大西は即座に答えたが、少しして、「もしそうなったら、君は、取り次がないように言われております、の一点張りで頑張ればいいんだ」
そんなことができるだろうか? 敦子は不安だった……。
「アメリカのお客様は、もう――」
「成田に着いているはずだ。社長が出迎えてる」
「連絡は入らないんですか?」
「途中から電話があることになってる。車がこんでて、遅れてくると――」
大西が言葉を切った。
表の通りに、TVカメラをかかえた男が現れたのだ。
「来たな」
大西は、こわばった声を出した。「頼むよ。僕は目につくとまずい」
「はい」
敦子は座り直した。
いかにも重そうなカメラを肩にのせた男が一人、それにマイクを持った男と、もう一人は肩からいくつも金属の箱をぶらさげていた。
組合員たちの姿は、まだ見えなかった。
TVカメラで、その面々が抗議しにビルへ入って行くところを撮ろうというのだろう。どこから撮るか、あれこれ打ち合わせている様子だった。
敦子は、少し深く息をついた。――言いようのない不安が、胸を圧迫していた。
もちろん、どうってことはないのだ。ただじっと座っているだけでいいんだから……。
カメラを構えるのが見えて、すぐに、「その連中」が、歩いて来た。
あらかた頭の|禿《は》げた、かなりの年輩の男たちである。
背広にネクタイという格好が、見るからに窮屈そうだ。カメラを向けられているせいか、妙に胸を張って歩いている様子は、何だかユーモラスでさえあった。
肩からはタスキをかけ、一人は組合の旗、一人は〈閉鎖断固反対!〉と書いたプラカードを持って……。他の男たちも何やら手に手に持ってはいたが、敦子の席からでは、読み取れなかった。
先頭の男が、外のガラス扉を開けようとする。
開かないことを、まるで予期していなかったらしい。面食らっている。
二、三人が集まって、扉をガタガタさせていたが――。
「おい! 開けてくれ!」
と、|怒《ど》|鳴《な》る声が聞こえて来た。
ガラス扉といっても、左右の扉の間は細く開いているから、声は聞こえて来る。
「ここを開けろ!――おい、開けろ!」
大声が二つ、三つと重なる。道を行く人が好奇の目で、その様子を眺めて行く。
扉を|拳《こぶし》でドンドン|叩《たた》いて、
「中へ入れろ! ここの社員だぞ! どうして入れないんだ!」
ポーズとか、カメラの前の演技ではなく、本気で怒っているのだ。
TVカメラは、その様子を撮っていたが……。
敦子は、カメラが自分の方へ真っ|直《す》ぐに向いているのに気付いて、ギクリとした。
カメラをかかえた男が、そばの男に何か言っている。そして、一人が何か丸いものを高くかかげたと思うと、強い明かりが、敦子の方を照らした。
外が明るいので、あのままではよく撮れないのだろう。敦子にはカメラが自分を撮っているのだと、はっきり分かった。
敦子は、思わず左右へ目をやった。
もちろん大西は姿を隠してしまっている。他のフロアの会社にも、ロビーへ出ないでくれと連絡が行っているのだろう。ロビーには誰もいない。
何があっても、じっといつもの通りに座っていれば……。
しかし、敦子は、いたたまれなかった。カメラの目が真っ直ぐに自分を見ている。哀れな組合員たちをしめ出した全責任がこの女にある、とでも言わんばかりに。
やめて! と叫び出したかった。やめて下さい! 私はただ言われた通りにしているだけなんですよ。
「開けろ!」
「上の|奴《やつ》を呼んで来い!」
怒鳴る声。ガラス扉を叩いたり|蹴《け》ったりする音。――敦子は思わず目をつぶった。
確かに、固く閉じた扉の奥でいつものように平然と取り澄ました顔で座っている受付嬢。それは、企業の非情さの象徴みたいにみえるかもしれない。
そう分かっていても――どうして私が?
敦子は、やり切れなかった。何だか裸で人々の前に立たされているような恥ずかしさを覚えた。
目を開けると、ライトは消えて、カメラももう敦子を撮ってはいなかった。
男たちは、何やら話し合っている。とても開けてもらえそうにない、と分かったのだろう。
しかし、このまま黙って引き上げるだろうか。
「どうした?」
音が途絶えたので、大西がそっと顔を出した。
「何か相談してます」
「そうか。――|諦《あきら》めないだろうな、まだ」
すると、表の通りから、男たちの姿が見えなくなった。TV局の人間たちもそれに続いて、急ぎ足で行ってしまった。
「どこかへ行きましたよ」
「そうか。通用口へ来るな、きっと。君は、ここにいるんだ、いいね」
大西が行ってしまうと、敦子は、ホッと息をついた。どうか、このまま何も起きませんように、と祈るような気持ちだ。
手もとの内線電話が鳴った。
「一階受付です」
「私。どう、下の様子」
原久美江だ。上の受付からかけているのだろう。
「今のところ、静かよ」
「TVの人、来た?」
「ええ」
敦子は、久美江の好奇心に付き合っていられるほどの余裕がまだなかった。「後でゆっくり――」
何か、物音がする。敦子は言葉を切った。
「どうしたの? もしもし」
久美江が|訊《き》いて来る。
「いえ――何だか人の声が……。でもどこからだろう?」
受話器を持ったまま、敦子はロビーを見回した。通用口で騒ぎになっているとしても、ここまでは聞こえないはずだ。
今の物音や声は、どこかもっと近くで聞こえたようだった。
「また後でね」
と、敦子が久美江からの電話を切ろうとした時だった。
突然――本当に手品か何かのように、ロビーに、組合旗やプラカードを持った男たちが現れたのである。
敦子にも分かった。駐車場から入って来たのだ。地下二階まで、歩いてわきの階段を下り、駐車場の中を抜けて、非常階段を上って来たのに違いない。
「久美江さん! 通用口へ連絡して。駐車場から入って来たって」
早口に言って、受話器を置く。久美江に分かっただろうか?
しかし、その時にはもう、七人の男たちは敦子の方へとやって来ていた。
「長野工場の者だ」
と、一番年長らしい男が言った。「社長に取り次いでくれ」
敦子は、とっさには言葉が出て来なかった。
七人が、カウンターの前に固まって、敦子の方へ怒ったような目を向けている。
「あの……社長はただいま出かけております」
声になっていたかどうか。しかし、向こうもそんなことは承知しているはずだ。
「専務でも誰でもいい。ともかく、責任者にここへ来てもらってくれ」
「恐れ入りますが――」
敦子は、必死で平静さを装おうとした。「お取り次ぎできません」
「おい、そりゃどういうことだ!」
と、他の一人が、大声を上げた。
「表の戸を閉めたり、裏を固めたり、何のつもりだ!」
「こっちは何があっても帰らないぞ!」
口々に怒鳴る。敦子は、顔から血の気がひいているのを感じながら、
「あの……申し訳ありませんが、取り次がないようにと言われて――」
「そこに電話があるんだろう! 取ってかけりゃいいんだ!」
一人がカウンター越しに手をのばして、敦子の手もとの電話をつかもうとする。敦子は反射的に、
「やめて下さい」
と、受話器を手で押さえていた。
「どうしてだ!」
男の声が耳を打った。「|俺《おれ》たちはこの会社の社員だぞ! それなのに、押し売りと同じ扱いなのか、ええ?」
敦子は、答えられなかった。
その男たちの気持ちがよく分かるだけに、何とも言いようがなかったのである。
大西は何をしてるんだろう? この騒ぎが聞こえないのだろうか?
「何とか言えよ、おい!」
カウンターを強く|叩《たた》く音で、敦子はハッと我に返った。
「取り次ぐなと上司から言われております」
やっとの思いで、それだけ言った。
「待てよ」
と、一人が穏やかな口調で言った。「この人を責めても仕方ない。ともかく、ここに入ったんだ。その内、誰か出て来るよ」
浅黒く|陽《ひ》|焼《や》けしたその男は、|禿《は》げ上がった額を、軽く手で|撫《な》でて、「すまんね」
と、苦笑いした。
敦子は、ゆっくり息を吐き出した。
その時、足音がして、大西が若い社員たちと平山を連れて現れた。
「大西さんじゃないか」
一番年長の男が、見知った顔らしく、「ひどいじゃないか、しめ出すなんて」
大西は、苦り切った顔で、
「こっちを困らせるようなことはよしてくれよ」
と、言った。
「工場を閉められたら、こっちはもっと困るんだ」
「ともかく、今日はまずいんだ。出直してくれれば――」
「今日でなきゃ、会ってくれやしないさ。分かってるだろ」
「社長を怒らせたら、|却《かえ》ってマイナスだ」
「これ以上のマイナスなんて、ありゃしないよ」
敦子は、ともかく大西が出て来てくれたので、気が楽になった。いつの間にか、じっとりと額に汗がにじんでいる。
ハンカチで、そっと汗を|拭《ぬぐ》った。
有田の姿を捜すと、平山と二人で、少し離れて様子を見守っている。敦子の視線に気付いているようではなかった。
「――ここは、俺の顔を立ててくれよ」
と、大西が少し下手に出ている様子だ。「頼む。社長たちが成田から戻って、君らがここで座り込んでたら……。俺はクビだよ」
「あんたに|恨《うら》みはないけどな。俺たちは工場の九十人の代表だ。いや、家族を含めりゃ、三百人からの代表だぜ。引きさがるわけにゃいかないんだ」
そして振り向くと、「おい! ここで社長を待つぞ!」
と、両手を上げて見せた。
男たちが、ロビーに次々と座り込んだ。
最悪の事態になってしまった。
敦子は、大西が青ざめた顔で、|頬《ほお》を引きつらせながら、ギュッと腕を組んで立っているのを、怖いような思いで見ていた。
ロビーの床にあぐらをかいた七人は、とても説得など、聞き入れそうにもない。どうなるのだろう? 敦子は、そっと息を吐き出した。
大西が、カウンターの方へやって来た。
「どうします?」
と、敦子は低い声で言った。
「参ったな……。駐車場から来るとは思わなかった」
大西は、何とか平静を装っている。
「TV局の人はどこにいるんですか」
「下で、機材をかかえてもたもたしていたんで、間に合ったよ。何とか押し出してやった」
「社長さんたちに、他へ行っていただくわけにはいかないんですか」
「そんなことはできない。ともかく、到着の時間までに、ここを開けておかなくちゃ」
大西は、汗をかいている。
「TV局の人が――」
「何だって?」
「表です」
押し出されてしまったTV局の男たちが、また表の通りにやって来た。カメラがロビーを向き、ライトが光ると、座り込んでいる組合員も気が付いて、振り向いて手を振っている。
「いい気なもんだ」
大西は吐き捨てるように言った。
手もとの外線用電話が鳴った。
「はい、K化学工業ビルでございます。――はい、ここに。――お待ち下さい」
敦子は、大西へ、「課長さん、専務からです」
「――そうか」
専務の|国《くに》|崎《さき》も、社長に同行しているはずだ。車の中からかけているのだろう。
「大西です」
低い声で、大西は言った。「――はあ。――分かりました。――いや、何も問題はありません」
敦子は、有田と目が合った。有田が、ちょっと肩をすくめて見せる。
大西は敦子に受話器を渡して、
「あと四十分ほどで着く」
と、言った。
「そうですか」
「今日に限って、道が|空《す》いてるそうだ」
大西が引きつったような微笑を浮かべた。
「それで……」
「君は、じっと座ってるんだ。いいね。何が[#「何が」に傍点]あっても」
敦子は、黙って|肯《うなず》くしかなかった……。
大西は、有田と平山の方へ歩いて行くと、何やら低い声で話していた。
有田が肯いて、駆け出すようにエレベーターへと急いだ。平山は警備員室の方へ姿を消す。
集められた他の若い社員たちは、どうしたらいいのか、手持ちぶさたのまま、座り込んだ男たちを眺めていた。
「おい、みんなこっちへ来てくれ」
大西が呼ぶと、ホッとした様子で、ゾロゾロとエレベーターホールの方へ歩いて行く。
ロビーはまた、敦子と、座り込んだ男たちだけになった。
どうしようというのだろう? 敦子は、胸苦しいほどの不安を何とか鎮めようとして、手もとの電話をハンカチで|拭《ふ》き始めた。
別に汚れているというわけでもないのだが、こうしていると、気分が落ちつくのだ。
大西は追い詰められている。もし、社長たちがやって来て、この状態だったら……。クビはともかく、どこのポストへ回されるか、分かったものではない。
大西の気持ちも分かるが、しかし……。
敦子は、目の前にじっと座っている男たちを見回した。――妻がいて、子供もいる彼らにとっては、これはただの「意地っ張り」などではない。むしろ大西以上に追い詰められた立場にいるのだ。
それでいてどこかのんびりした空気があることに、敦子は感心した。――自分だったら、もっとヒステリックにわめき立てるかもしれない。
大西が、一人で戻って来た。そして、七人の男たちを見渡すと、
「もう一回言うぞ。ここから出て行ってくれ!」
「そいつは無理だね」
と、あの年長の男が、首を振った。
「絶対に会わさんとは言ってない。会議室で待っててくれれば――」
「ここだ! ここから俺たちは動かない」
「そうか」
大西は肯いた。「分かった」
大西が振り向いて、手を上げると――平山と、他に若い社員が二人、大きな布を手に、駆けて来た。
何だろう? 敦子は、三人が、自動扉の方へ駆けていって、大きなその布を広げるのを見ていた。
会社の運動会の時などに使うテントの布だ。それを、平山たち三人が、幅一杯に広げて、手が伸びる限り、高くかかげた。外から、ロビーの様子が見えないように隠しているのだ。
ロビーが、表からの光を遮られて、少し暗くなる。それでも、ガラス扉は高さがあるので上の三分の一ほどは隠れない。しかし、外から中の様子を見えなくするには、充分な高さだった。
座り込んだ男たちが、何事かと顔を見合わせていると、エレベーターホールの方から、男の社員たちが駆け出して来た。
敦子は、目をみはった。さっきとは違う。十人――いや二十人近くもいる!
「連れ出せ!」
と、大西が怒鳴った。
白ワイシャツの男性社員たちが、座り込んだ男たちを、引っ張って立たせようとした。
「何だ!」
「離せ!――何するんだ!」
怒鳴る声が交錯した。
一人に三人がかかって、両腕をつかんで、床を引きずって行く。
「やめろ!」
と、あの年長の男が、立ち上がって、つかみかかる手を振り払った。「こんなことをして恥ずかしくないのか!」
「早くしろ!」
大西が叫ぶ。
そのまま、ただ引きずって行くだけだったら、まだ混乱は大きくなかったかもしれない。
どっちが先だったのか――敦子にも分からなかった。
「離せ!」
プラカードを振り回して、一人が叫んだ。
|上《うわ》|衣《ぎ》が裂ける音。ベキッ、と音がして、プラカードの柄が折れた。
社員の一人が、頭を押さえて、よろけた。メガネが落ちて、サンダルで踏まれて砕ける。
敦子は、息をのんだ。頭から血が流れて、それが白いワイシャツに落ちた。
「この野郎!」
一人が、プラカードを持っていた男の腹をけり上げる。
「馬鹿! やめろ!」
止めようとした男を、誰かが殴りつける。
有田が、つかみ合っている男たちを、
「よせ!」
と、引き離すのが見えた。
しかし、もう、止めようがなく、暴走は始まっていた。
敦子は、これが現実の出来事だとは信じられなかった。目の前で、つかみ合い、ののしり合いながら、争う男たち――。
有田が、組合旗の旗ざおに腹を突かれて、|呻《うめ》きながら倒れた。敦子は、思わず腰を浮かしていた。
有田は、顔を真っ赤にして、起き上がった。相手の|胸《むな》ぐらをつかむと、振り回すように投げつける。
抑えがきかなくなっている。――やめてと、敦子は叫ぼうとしたが、声にはならなかった。
ガツッと音がして、有田の殴った相手が鼻血を出しながら倒れた。
体が大きく、力もあるだけに、有田が殴ると、相手は大きく吹っ飛んで、もう起き上がれなかった。
敦子は、今まで見たこともない、有田の顔つきに、身震いした。
「やめろ!」
後ろから飛びつくようにして、有田を止めようとしたのは、さっき敦子が問い詰められた時に、「この人を責めても仕方ない」と、他の仲間を抑えてくれた、|禿《は》げ上がった額の男だった。
その男も、決して弱々しい体つきではない。しかし、スポーツできたえた有田にはとてもかなわなかった。
有田も、相手がただ止めようとしただけだと思わなかったのだろう。興奮していて、とてもそんな判断ができなかったのに違いない。
すぐに相手の手を振り離すと、ワーッ、と叫び声を上げて、その男を力一杯放り投げた。
大理石の床の上に、その男は|凄《すご》い勢いで投げ出された。ロビーの両サイドに、太い円柱がある。そこへ向かって、男の体が、見えない激流に押し流されるように、滑って行った。
男が円柱にぶつかると、ガキッ、という音がした。
「――もういい」
と、大西が言った。「もうよせ」
敦子は、あの投げつけられた男が、ぐったりと床に頭を落としているのを、信じられない思いで見つめていた。
「さあ、連れて行くぞ。――警備員室だ。手当てする必要のある者は、クリニックへ連れて行く」
大西の声が、上ずって震えている。「いいな。――さあ、急げ!」
長野からやって来た組合員たちは、とても立ち上がる力もない様子だった。三倍もの若い社員たちと争ったのだ。
支えられて、やっと歩けるという有り様だった。ワイシャツが裂け、ネクタイは引きむしられ、あちこちに鼻血が点々と散っている。
有田が、あの気を失ったらしい男の方へ歩いて行くと、引っ張り起こして、背中におぶった。
誰も無言で、……ロビーには、ただ、荒い息づかいの音だけが、入り乱れている。
有田が、敦子の方には目も向けずに、半ば放心したように、歩いて行く。おぶわれた男は、完全に意識を失っている様子だった。
「まだ隠してろよ」
大西が、テントの布でロビーを見えないように遮っている平山たちへ声をかけた。「おい、誰か、急いで、モップを持って来い」
磨き上げられた大理石の床は、血が落ちて、筆ではいたように、汚れていた。
「畜生……」
と、大西が、|呟《つぶや》くのが聞こえた。
悪い夢
「課長」
と、敦子は言った。
普通の声のつもりだったが、かぼそく、震えていて、大西には聞こえなかったようだ。
「課長さん」
と、くり返すと、大西がやっと気付いて、振り向く。
大西の顔は、青ざめて、汗が一杯に浮かんでいた。
「どうした?」
「あの……気分が悪いんです。原さんと代わっていいでしょうか」
敦子がそう言うと、大西の顔が、やっと緩んだ。
「そうか。――いや、そうだろうな。よくやってくれた。休んでくれ。上に行って、少し横になるといい。そうしてくれ。早退するか?」
「いえ……。宮田さんの具合が良ければ、少し横になります。それで大丈夫だと思いますから」
「そうか。分かった。ここもすぐ片付く」
若い社員が三人、モップや|雑《ぞう》|巾《きん》を手に、戻って来た。大西が、
「よく磨くんだ。その辺とか。――それじゃだめだ!」
と、指図し始めると、敦子は、内線用の電話の受話器を取った。
三階の受付を呼ぶ。――呼び出し音が聞こえても、なかなか久美江は出なかった。
何やってるのよ! 早く出て! あのぐずな女! 敦子は、固く唇をかみしめた。そうしないと、本当に怒鳴り出してしまいそうだったのだ。
「はい、三階受付です」
やっと久美江が出た。「――もしもし?」
「久美江さん……。一階よ」
と、敦子は言った。
「どうなったの? おさまったの?」
「代わってほしいんだけど、いい?」
「今? いいけど……」
「じゃ、上がるから。お願い」
敦子は、それだけ言って、受話器を置いた。
床の掃除はまだ続いていたが、敦子は大西に声をかけずに、エレベーターの方へと歩いて行った。
エレベーターに乗って、扉が閉まると、敦子は、三階のボタンを押す前に、目を閉じて、何度も大きく息をした。
このまま、ずっと一人でいたい、と思った。
いつも通りの顔で、久美江の前に出て行く自信など、とてもない……。
――あれは現実の出来事だったのか? このモダンで美しいビルに、あんな醜い光景は、およそ似合わなかった。
急にエレベーターの扉が開いて、敦子は思わず声を上げていた。
立っていたのは、通用口から入って来たらしい、出入りの業者だった。
「あ、失礼」
中に敦子がいたので、面食らった様子で、「あの……いいんですか?」
「どうぞ」
敦子は、三階のボタンを押した。「三階でよろしいですか」
「ええ、結構です」
愛想のいい営業マンで、「何やら大変ですね、今日は」
と、|微《ほほ》|笑《え》みかけて来る。
「ええ……」
敦子は|肯《うなず》いた。早く三階へ着いてほしい。早く。早く。
三階で扉が開く。久美江が待っていた。
「あ、どうも」
と、営業マンに|会釈《えしゃく》してから、「敦子さん、今ね、宮田さんが――どうしたの?」
久美江が、目をみはった。
「真っ青よ。大丈夫?」
「宮田さん、具合は?」
「うん、座ってるぐらいなら平気って」
「じゃ、私、どこかで少し休んでる」
「分かったわ。じゃ、宮田さんにそう言っとくから」
下で何があったのか、|訊《き》きたくてたまらないのが、顔にも出ている。しかし、今の敦子の様子を見ると、さすがに言い出せないようだった。
「応接室は使っている?」
「今、ちょうどお客さん」
「じゃ……。ロッカールームにいるわ」
「分かった」
ロッカールームに入ると、敦子は、木のベンチに、腰をおろした。
応接室のソファより座り心地は悪いが――当然のことながら、――しかし、今はともかく、一人になりたかったのだ。
頭から血がスーッとひいて行くような気がして、座っているのも辛くなった。
固いベンチの上で、敦子は、ゆっくりと横になった。天井の蛍光灯がまぶしい。
ハンカチを握りしめた手を、目の上に置いて、制服のボタンを一つ外した。
ふと、奇妙に懐かしい感覚が敦子を|捉《とら》えた。何だか……ずっと昔に、こんな風な気分で寝ていたことがある。
いつのことだろう?
感覚が、記憶よりも先によみがえって来て、思い出が追いついて来る。
そう。中学生かそれくらいのころ……。時々貧血を起こしたりして、保健室で寝ていた時と、そっくりだ。
青白い蛍光灯の光が、まぶしくて、ハンカチを顔にのせていた。保健室のベッドも、とても固かったっけ。
敦子は、まるで時間の流れが止まったように感じていた。
しばらく横になっていると、大分気分は落ち着いて来た。しかし、すぐに起きると、また血の気がひきそうな気がして、敦子はベンチで横になったまま、少し深く呼吸をした。
――あれが夢だったら。今、目が覚めて、全部が、シャボン玉の割れた時のように、跡形もなく宙へ消えてしまうのだったら、どんなにいいだろうか。
どこか盛り場で、酔った客同士が|喧《けん》|嘩《か》でもしたのだったら、たとえ目の前で殴り合いを見ても、それほどのショックではなかっただろう。
会社、という整然とした組織の城。――人が「よそ行き」の顔で付き合う場所だからこそ、あんな風に、憎悪をむき出しにして争った醜さが、何倍にも際立つのだ。
もちろん、敦子とて子供ではない。大学出たての世間知らずでもなかった。
しかし、大西課長の、あの組合員を見る目の冷たい嫌悪の色、いつも温厚な有田の、怒りをむき出しにした顔……。それは思い出しただけでも、体が震えて来るような、ショックだった。
敦子はキュッと固く目を閉じた。思い出したくない。忘れなくては。――早く。早く。
ロッカールームのドアが開いた。
「どう?」
原久美江が、顔を|覗《のぞ》かせる。
「うん……」
敦子は|微《かす》かに肯いた。「いいの、下の受付は?」
「宮田さんが行ってる」
久美江は入って来て、「大分、顔色が戻ったね」
「どうして宮田さんが?」
と、少し頭を上げて|訊《き》いた。
「アメリカのお客と、社長さんたちが着くのよ、そろそろ。出迎えは自分でやりたいらしいわ。腰の痛みも忘れたようよ」
久美江は皮肉っぽく笑った。
「そうか……。ね、有田さんたち、上がって来た?」
「|凄《すご》かったんですってね。大立ち回りだったって?」
「誰が言ったの?」
「みんなよ」
と久美江は肩をすくめた。「|俺《おれ》はパンチを一発くらわしてやった、とか柔道の何とか背負いを決めたんだ、とか、自慢してるわ」
「|呆《あき》れた」
敦子は、ゆっくり起き上がった。「あんなこと、自慢するなんて」
「男どもなんて軽薄だから」
久美江はあっさりと言って、「みんな、かすり傷ぐらいですんで良かったわ。でも、一人、派手に頭から血を出して、お医者に行ったって」
敦子は、有田が投げつけた男のことを思い出して、不安になった。
「大丈夫だったのかしら」
と、思わず敦子が|呟《つぶや》くと、
「有田さんなら、別にけがしてないみたいだったわよ」
「え? あ、いえ有田さんのことじゃないのよ」
あの男――名前も知らないが、有田に放り投げられて、円柱に頭をぶつけた……。気を失ってしまっていたようだが、それだけですんだのだろうか?
円柱に頭をぶつけた時のあの音は、ドキッとするほど大きかった。
「――もう起きていいの?」
と、久美江は、敦子がベンチから立ち上がるのを見て言った。
「ええ、何とか……。お客様がみえるんじゃ、こっちの受付も空っぽにしておくわけにはいかないわ」
「そうね。私、先に戻ってるわ。のんびり来て」
「ありがとう」
少しめまいのような感覚は残っていたが、何とかこのまま乗り切れそうだ。
久美江が先に出て行き、敦子はロッカーの扉を開けて、内側についている鏡に、自分の顔を映してみた。少し青白いが、目立つほどではない。
横になっていたので、髪が乱れているのを直して、ロッカールームを出る。
トイレの前を通りかかると、扉が開いて、有田が出て来た。二人は足を止めて、有田の方が、きまり悪そうに目を伏せる。
「すっかり――カッとなっちゃって」
「そうね」
「あんなことするつもりじゃなかった。本当だよ」
敦子は少しホッとした。有田までが、「戦果」を自慢するような馬鹿なまねをしているのじゃないかと思っていたからだ。
「あなた、けがは? お|腹《なか》を突かれたでしょう」
「ああ、ちょっとあざ[#「あざ」に傍点]になってるけど、大したことない」
「そう? あら、手の甲が――」
殴って、すりむいたらしい。少し血がにじんでいた。
「こんなもん、なめときゃ平気さ」
「犬や猫じゃあるまいし、待って。私、キズテープ持ってるわ」
急いでロッカールームへ戻って、キズテープを取って来ると、敦子は、有田の手に|貼《は》ってやった。
「ありがとう。そろそろ例の客が着くんだろ?」
「そうらしいわ。――ね、有田さん」
「何だい?」
「あの人、大丈夫だったの?」
と、敦子は|訊《き》いた。
「あの人って?」
と、有田が訊き返した。
「ほら。あなたがおぶって運んで行った人……。気を失ってるみたいだったけど」
有田は、少しの間、わけが分からない様子だった。
「ああ、そうか!――忘れてたよ。何だか混乱しててね。警備員室へ運んだ。それは|憶《おぼ》えてるけどな」
「後のことは?」
「向こうの連中もこっちも、けが人は近くのクリニックへ行ったよ。あの男はどうなのかなあ。僕らは出て来ちゃったから」
「そう……。何だかひどく頭をぶつけてたみたいだったから、心配になって」
「平気さ。人の頭なんて結構丈夫なもんだよ。僕だって、大学時代、何度も気絶するぐらい、ひどくぶつけたもんだ」
と、有田は気軽に言った。
「それならいいけど」
敦子は有田のネクタイがゆがんでいるのを直してやった。
「それじゃ」
エレベーターホールを通ろうとすると、扉が開いて、|声《こわ》|高《だか》な笑い声が聞こえて来た。敦子は足を止め、少し|退《さ》がって立った。社長の笑い声だったからだ。
社長の|刈《かり》|畑《はた》が出て来て、それよりも頭一つ以上長身のアメリカ人がエレベーターを降りた。
部長の一人が、どこで見ていたのか、駆けつけて来て、深々と頭を下げ、ともかく|一《いっ》|旦《たん》会議室へと連れて行くらしい。
最後にエレベーターから出て来たのは専務の国崎だった。エレベーターの中へ、
「ご苦労さん」
と、声をかけているのは、おそらく宮田栄子が、ついて来ていたのだろう。
国崎は、社長たちの後からついて行こうとして、立っている敦子に気付くと、足早にやって来た。
社長の刈畑より小柄で、ずんぐりした体つきの国崎は、何事にも細かい、「重箱の隅をつつく」タイプの重役である。
「今、大西からちょっと聞いたよ」
と、国崎は言った。「ご苦労だったね」
イメージにそぐわないテノールの声を聞くと、いつも敦子は笑い出しそうになるのだが、今はさすがにそんな気分ではない。
「どうも……」
「まあ、会社ってやつはきれいごとじゃすまないもんさ」
「でも――」
と、敦子は、自分でもほとんど気付かない内に、口を開いていた。「せめてあの人たちの話を聞いてあげて下さい」
「分かってる」
国崎は、敦子の肩を軽く|叩《たた》いた。「優しいな、君は」
敦子は、何だか国崎に皮肉を言われているような気もしたが、ともかく、
「よろしくお願いします」
と、頭を下げて、「お茶をお出ししますか?」
と、|訊《き》いた。
「そうだな。相手はアメリカ人だし」
「コーヒーを取りましょうか。向かいのお店なら、おいしいです」
「うん、そうしてくれ。君は気がきくな」
国崎は、敦子が照れてしまうような|賞《ほ》め方をして、「じゃ、会議室にだ」
「すぐに注文します」
敦子は、受付の方へと歩き出した。仕事がある方が、気分も良くなるようだ。
いちいち、「いくつ注文しますか」とは|訊《き》かない。それぐらいは敦子の方で考えて注文するのである。
「――永瀬君」
と、国崎が言った。
敦子が振り向くと、国崎は、
「今日、見たことは、絶対に秘密だ。分かってるね」
と、言った。
「はい」
そう返事する以外、どう言えただろう。
敦子は、また重苦しい気分になって、三階の本社受付へと歩いて行った。
「ごちそうさま」
と、原久美江がコーヒーカップを手に取る。
「やっぱり、ブルマンはおいしい」
敦子と二人、会議室に取ったコーヒーの「余り」を飲んでいるところだ。
「お砂糖もいらないの?」
と、敦子は言った。
「うん。ダイエット、ダイエット。――とか言っといて、よく食べるんだよね」
久美江は一人で笑っている。
敦子は、ミルクも砂糖もしっかり入れて、少し甘くして飲む。
会議用に取ったコーヒーとかケーキとかが余ると、まず受付がもらうことになっていて、これが敦子たちのささやかな「役得」の一つである。時には夜の会議に用意した「お弁当」が余って回って来ることもある。
一人暮らしの敦子にとっては貴重な夕食になるのだ。
もちろん、このコーヒーなんか……。でも専門店のせいで、ブルーマウンテンが九百円も取る。この余分の二杯は、敦子がわざと多く取ったのである。
あんな思いをさせられた、ほんのささやかな抵抗だった。
「――ちょっと一階へ行って来る」
と、敦子は席を立った。「何かあったら、呼んで」
「了解」
と、久美江は敬礼して見せた。
エレベーターで一階へ下りた敦子は、受付やロビーの方には足を向けなかった。
平山のいる、警備員室へと急いだ。――ドアをノックして開けようとして、敦子は戸惑った。
|鍵《かぎ》がかかっている。どうしたんだろう?
敦子の知っている限りでは、ここに鍵がかかっていたことなど一度もない。
平山はどこへ行ったんだろう?
通路に立っていると、
「何してるんだ?」
と、声が飛んで来た。
「課長さん」
「何だ。君か」
大西だった。歩いて来ると、
「どうした? もう気分はいいのか?」
「ええ、すみません、ご心配かけて」
と、敦子は言った。「平山さんは――通用口の方ですか?」
このビルでは、管理人の部屋は、この警備員室が兼ねている。ここにいないとすると、平山はたいてい通用口の窓口に座っている。
「さあ……。何か平山に用なのか?」
「いえ――ちょっと」
と、|曖《あい》|昧《まい》に言って、「ちょっと見て来ます」
歩きかけると、
「クリニックだよ、きっと」
と、大西が言った。
「どこかけがでも?」
「いや、平山はただあの布を持ってただけじゃないか。けがした|奴《やつ》を連れてっているんだよ」
「そうですか」
「まあ、たまにはあんないやな仕事もしなきゃならん。辛いもんだな、サラリーマンなんてのは」
大西は、無理に笑って見せているようだった。「何か平山に伝言でもあるかい?」
「いいえ……。じゃ、戻ってます」
「うん。戻ったら、君が来たことは言っとく」
敦子は、釈然としないまま、エレベーターの方へ歩いて行った。
クリニックへ付き添って行ったのなら、なぜ初めからそう言わなかったのだろう。それに、早く敦子を三階に帰したがっているふうだった……。
「――永瀬さん」
と、受付から、宮田栄子が立ってやって来た。
「どうですか、腰の方?」
「ええ、何とかね」
宮田栄子は、苦笑した。「座ってるだけなら、大丈夫。大変だったようね」
「ええ。――課長さんから?」
「悪かったわね。そんな時に、一階をやらせちゃって」
と、宮田栄子は敦子の肩に手をかけた。
帰り道
「――敦子さん、帰らない?」
と、久美江に声をかけられて、敦子は目を開けた。
眠っていたわけではない。五時の、終業のチャイムが鳴るのも聞こえていたのだが、何となく体が動かないのだ。
「まだ気分が?」
「少しね。――若くないのよ、もう」
と、敦子は笑顔を作って見せた。
社内はザワザワと帰り仕度の物音でにぎやかだ。女性はたいてい五時で帰るし、男の社員も、好んで残業するというのは、まあ四十代後半以上。
決算のころとか、特別な時期を除けば、深夜までの残業や徹夜といったことはめったにない。
敦子は、ふと気付いて、
「まだアメリカのお客さん、いらっしゃるんでしょ。いいのかしら、残っていなくて」
と、会議室の方へ目をやった。
「宮田さんが張り切ってるわよ。任せときましょ」
「そうか」
敦子は|肯《うなず》いた。
宮田栄子が、下の受付で話しかけて来た時、敦子は、信じられない思いだった。敦子に同情してくれているようなことを言いながら、その口調にははっきり、|嫉《しっ》|妬《と》の気持ちがこめられていたからである。
そんな大事な場面に、自分が居合わせなかったことが、悔しいらしい。でも実際にあの乱闘騒ぎを見ていたら……。
いや、宮田栄子なら、|眉《まゆ》一つ動かさずに、それこそ「空気のように」じっと座っていられたかもしれない。「受付は空気みたいに」とは、敦子が入社したてのころ、当の宮田栄子から言われた言葉である。
なければ困るが、気付かれないくらいに控え目に、そして、何もしないのも仕事の内、というわけだ。
「喜んで代わってあげたのに」
つい、口をついて言葉が出た。
「え?」
久美江が面食らっている。敦子は笑って、
「何でもないの、独り言。――じゃ、帰りましょうか」
敦子は、結局、管理主任の平山へ連絡していなかったことを思い出した。帰りがけに、もう一度寄ってみよう。
女子トイレは、もう混雑のピークをやや過ぎていた。女子社員の終業は四時五十五分。もちろんこれは「慣例」であって、管理職も|諦《あきら》めているのだ。
敦子のように受付にいると、そういうわけにもいかない。五時間際に、電話もよくかかって来るし、駆け込んで来る営業マンもいる。伝言の受け渡し、外出伝票の整理、といったことも、敦子たちの仕事に含まれているのだ。
ロッカールームへと歩いて行く途中、給湯室の前を通ると、宮田栄子がお茶出しの用意をしていた。
敦子は、ちょっとためらった。もちろん宮田栄子は一人でやるつもりだろう。しかし、見ていて声もかけないと、またあとで何か言われそうである。
「宮田さん。――何かお手伝いしましょうか?」
「あら。いいわよ。大した人数でもないし、一人でやれるわ」
「そうですか。じゃ――」
ここは素直に引っ込むことだ。行きかけると、
「おい、|俺《おれ》にもお茶いれてよ」
と、経理の若い男性が自分の|茶《ちゃ》|碗《わん》を持ってやって来た。「何だ、いつものお茶と違うんじゃない?」
「高級品よ。大事なお客様ですからね」
と、宮田栄子が言った。「そっちのポットのを飲んで」
「ちぇっ、差別だな」
と、笑いながら、「俺だって功労者なんだぜ。永瀬君も見ただろ、ほら、パッと足払いしてさ」
ロビーで、あの長野工場の組合員相手に乱闘をやった一人である。まだ二十四歳ぐらいだが、体型だけは立派な「中年」になっている。
宴会の席などでは、座を盛り上げる役目だが、敦子はどうにもこういうタイプの男が好きでない。
「俺ね、ほら中学生のころ柔道習ってたんだよ。あの時のこと思い出してね。しかし、あんなにみごとにかかるなんて思わなかったなあ」
と、誰かが、|凄《すご》いわねえ、と言ってくれるのを期待しているらしい。
「私、いれてあげるわ」
と、敦子が言った。
「やあ、悪いね」
「お|茶《ちゃ》|碗《わん》貸して」
簡単に水でゆすいで、チラッと見ると、彼の方は、通りかかった女の子にまた何やら話しかけている。
敦子は、戸棚を開けて、食卓塩を取り出した。お弁当を食べたりする時に使うので、置いてあるのだ。その塩を、茶碗の中へガンガン入れてやった。その上から、熱いお茶を|注《つ》いで、
「はい、どうぞ」
「や、サンキュー。今日は十時まで残業なんだよ」
「ご苦労さま。少しさめてから飲んで。|凄《すご》く熱いわよ」
一口飲んで目を白黒させるに違いない。
「お先に失礼します」
敦子が会釈すると、宮田栄子は笑いながら、|肯《うなず》いた。
一階へ降りた敦子は、エレベーターを出て、すぐ有田と出くわして、びっくりした。
「有田さん、何してるの?」
「いや……。ちょっと大西課長に頼まれて」
と、有田は目をそらして、「じゃ、急ぐんだ」
と、エレベーターに乗ってしまう。
「さよなら……」
という敦子の言葉も、有田の耳には入っていないようだった。
平山が、ビルの正面玄関の自動扉の所にしゃがみ込んで何かやっているのが目に入った。
「――平山さん」
「やあ……。気分が悪かったって?」
「もう何ともないわ。何してるの?」
「いや、ちょっと捜し物さ。あの騒ぎでね」
と、立ち上がる。「もういいんだ」
「大変だったわね」
と、敦子は言った。「あの人たち、大丈夫だったのかしら?」
「うん。まあ、大したことはなかったよ」
と、平山は肯いた。
「でも、クリニックへついて行ったんでしょう?」
「え? ああ、そう……。一応ね。そうだ、さっき、専務の国崎さんが一人でみえて、みんなと話してたよ」
「国崎さんが?」
敦子には、ちょっと意外な話だった。――あの組合員の話を聞いてやってくれ、と頼みはしたが、国崎が本当にその通りにしてくれるとは、期待していなかったからである。
「まあ、難しいだろうな。今さら、工場の閉鎖を取り消すことはできないし……」
「そうね。でも、まあ、国崎さんに会えただけでもね」
返事はゼロかもしれないが、そこまでは敦子が心配しても仕方のないことだ。
「じゃ、ちょっとまだ仕事があるんでね」
と、平山は言った。
「ええ、邪魔してごめんなさい」
敦子は、ゾロゾロとビルを出る人の流れの中に加わった。
夏の盛りに比べると、もうずいぶん日が短くなった。――敦子は、ちょっと空の色を確かめるように上を見てから、歩き出した……。
週に一度は寄って行く洋食屋の前で、敦子は、立ち止まって、
「今日は何日だっけ……」
と、|呟《つぶや》いた。
二〇日?――二一日か。それなら、あと月給日まで四日……。いや、九月は二三日が休みで、確か二四日は土曜日……。じゃ、お給料は二四日の午前中だ。
敦子は安心して、堂々と[#「堂々と」に傍点]店の中へ入って行った。
一人暮らしは、どうしても外食が多くなる。敦子も、体に良くない、と思うのだが、一人分の食事を作る手間を考えると、つい面倒になってしまうのだ。
できるだけ野菜をとって、脂っこいものは避けて、と気を付けてはいるのである。
席について、熱いお茶をもらうと、敦子は定食と、それに野菜の煮つけを頼んだ。
お茶をゆっくり飲むと、何か体の隅々のネジが一気にゆるんだようで、急に体が重くなったような気がした。――大変な一日だったのだ。
今でも、あの出来事が現実に起こったことなのかどうか、敦子には確信が持てない。頭で分かっていても、それを否定したいと心が思ってしまうのだろう。
しかし、ともかく、あれはあれで何とかおさまりそうな気配だし……。
有田も平山も、何だかいやにソワソワしていたのが気になったが、あまりあれこれと想像ばかりしていても、仕方のないことだ。
そうだ。――土曜日が月給日ということは……。
敦子は、ハンドバッグを開けた。有名ブランドの、香港製の模造品。久美江が、夏に香港へ行った時、買って来てくれたのである。もちろん、もらったわけじゃなくて、ちゃんと代金は払ってある。
手帳を取り出し、土曜日の欄に、〈通帳、カード、封筒〉と書き込む。月給から、決まった額を家へ送らなくてはならない。月曜日に送ったら、向こうへ着くのが水曜日くらいになってしまうだろう。
土曜日は……。でも、銀行は休みじゃないわね、確か。あれ? どうだったっけ。確かめとこう。
お金を引き出して、現金書留で送るのだから、午前中、久美江に頼んで、ちょっと抜け出さなくては。向こうへ着くのが三日も遅れたら、また電話がかかって来るだろう。
敦子は、手帳を戻してバッグを閉じ、|頬《ほお》づえをついて、ぼんやりと店の中を見回した。
まだ時間が早いので、そうこんではいないけれど――。
ふと、誰かと目が合った。
ジャンパー姿の、若い男だ。目が合って、パッと向こうは目をそらしたが、どうも、それが偶然ではない感じだった。
誰だろう? 敦子は考えたが、全く思い当たらない。
そう柄の悪い男という感じではなかった。まだ二十四、五歳といったところだろう。|丼《どんぶり》ものを頼んでいる。
|一《いっ》|旦《たん》目が合ってからは、全く敦子の方を見ない。それもどこか、わざとらしかった。
「お待たせしました」
定食の盆が置かれて、はしを割ると、敦子はもうその男のことなど、すっかり忘れてしまった。
食堂に置いてある女性週刊誌などをめくりながら、熱いみそ汁をすする。
こんな時、敦子は一人暮らしの気楽さを大いに楽しんでいる。もちろん、日によっては「気楽さ」が「寂しさ」にも「つまらなさ」にも「味気なさ」にも「|侘《わ》びしさ」にも……。いや、もうやめよう。
いいことよりも、よくないことの方がずっと表現は豊かなんだな、と敦子は思う。それだけ世の中ってのは、切ないことが多い、ということなのだろう。
今日の出来事にしても、あの組合員たちはもちろん気の毒だが、大西課長のことも、心から|軽《けい》|蔑《べつ》する、という気持ちにはなれない。
もし、自分が大西の立場だったら、と考えたら、同じようにしなかったとは言えない。
家のローンが何十年も残っていて、子供の学費、車の月賦……。今の地位の、今の収入で、やっとやって行ける生活なのだろう。
でも――理解はできても、やはり敦子の中には引っかかるものがあった。
何か、何か他にやり方があったはずだ。
――敦子は頭を振った。もう忘れようと思っていたのに。
「ご飯のおかわりは?」
店の奥さんが、声をかけて来た。
「すみません、じゃ」
半分くらい食べて、残りのご飯にお茶をかける。――これが、まあ敦子流のフルコースなのである。
「あ、そうだ」
急に思い出した。――今夜、敦子の入っているアパートの、住人たちの集まりがある。月に一度、さして用事もないのに、どこかの部屋に集まって、アパートの補修だの、管理上の問題など、話し合うのだ。
敦子は、あまりそういう付き合いが得意ではないが、出ないとあれこれ言われるし……。何より、出席しないと、次の会合をその欠席者の部屋でやろう、と決められてしまうことが多い。
腕時計を見た。確か、会合は八時から。今から帰れば充分間に合うが……。
少し遅れて行こう、と思った。勤めているのだから、理由はつく。
二杯目のご飯の半分を予定通り、お茶漬けにして食べて――さて、あと三十分くらい、どこかで時間を|潰《つぶ》すか、それともここで新聞でも見て行くか。そろそろ店がこんで来るので、長居は気の毒なのだが……。
迷っていると、|咳《せき》|払《ばら》いが聞こえて、敦子は顔を上げた。さっき敦子と目が合った、ジャンパー姿の若い男が、テーブルのすぐわきに立っている。
「何ですか?」
と、敦子が|訊《き》くと、男は向かい合った|椅《い》|子《す》に、腰をかけて、
「人違いだったら、すみません」
と、早口に言った。
「人違い、って……」
当惑して、敦子はその男を眺めた。
「K化学工業の受付の方じゃありませんか」
「私?――そうです」
「今日、TVカメラであなたを撮っていたんです」
「じゃ……」
敦子は、お茶を一口飲んだ。
「あの時、受付に座ってましたよね」
と、男は念を押した。
仕方ない。|嘘《うそ》はつけなかった。
「ええ、私です」
「良かった! 出て来る人たちをじっと見てたんです。ともかくあの受付の女性を見付けろ、と言われてましてね」
と、屈託のない笑顔を見せる。「制服じゃないと、よく分からないんですよ、印象が全然違って。――さっきから、もしかしたら人違いかな、と迷ってたんです」
「何のご用ですか」
と、敦子は素っ気なく言った。
「ロビーを布で隠したでしょう。あの後、何だか怒鳴り合ってる声がして……。何があったんですか?」
「私――存じません」
と、敦子は言った。
「だって、あそこに座ってたんでしょ」
「座り込まれては困るって……。会社の人と言い合いになって……。それだけです」
「それだけ? でも、組合員の人たち、出て来ませんでしたよ」
「後のことは分かりません。会社の人が、どこかへ案内して行きましたけど」
「どこへ?」
「知りません」
「応対したのは誰です?」
敦子は、ためらった。――大西の名を出したら、まずいことになるだろうか?
しかし、あの騒ぎになる前、大西はロビーにも顔を出している。
「私にはお答えできません」
と、敦子は言った。「会社の方へいらして下さい」
「いや、正面から|訊《き》いたって、追い返されるだけですよ。あなたの目の前で何があったのか、うかがってるだけです」
「ですから、社員として、お答えしかねます、と申し上げてるんです」
「あんなに腹を決めて座り込んでいた人たちが、そう簡単に説得されたとは思えませんけどね」
「そう思われるのならご自由に。私、失礼します」
敦子は立ち上がった。
「お名前をうかがいたいんですが」
と、相手も|椅《い》|子《す》を動かして立った。
「どうしてあなたにそんなことを教えなきゃいけないんですか」
敦子は、その若い男をにらんでやった。
敦子とTV局の男のやりとりが耳に入ったのか、店の奥さんがやって来た。
「どうかしました?」
「いいんです」
と、敦子は首を振った。「ごちそうさま」
急いでレジへ行き、支払いをすると、敦子は店を出て歩き出した。
走るような勢いでしばらく歩いてから、振り返る。――あの男がついて来る様子はなかった。
むしゃくしゃしていた。せっかく、気持ちが落ち着いたところだったというのに……。
敦子は、|嘘《うそ》をついた自分に、|苛《いら》|立《だ》っていたのだ。あんな言い方をしたかったわけではないのに……。
受付にいるのを撮られた時と同じだ。自分はあの長野から来た人たちに同情して、力になってあげられるものなら、と思っているのに、その逆のことをしなくてはならなかった。
今だって、敦子は何も大西をかばってやりたかったわけではない。それなのに、あの男に本当のことを言ってやるわけにはいかなかったのだ。
仕方ない。――仕方ないじゃないの。肩をちょっとすくめて、敦子は歩き出していた。
地下鉄の階段を上って、敦子は、ちょっと息をついた。
やっと、暑い時期は去って、まだ震え上がるような寒さはやって来ない。駅からアパートまで、十分の道が、長く感じられない、わずかな日々である。
七時を少し過ぎていた。――このまま帰れば、集会に充分間に合うのは分かっている。
しかし……。
今日は疲れていた。後のことなど考えず、ともかく何とかして乗り切りたい一日というものがある。今日は正にそういう日だった。
どこかで――といっても、時間を|潰《つぶ》す喫茶店も、この辺りには、あまりない。
どうしようか、と思いつつ、横断歩道で信号の変わるのを待っていると、
「永瀬さん」
と、呼ばれた。
「あ、奥さん、どうも」
|挨《あい》|拶《さつ》しながら、観念した。アパートの、管理責任者をしている、|水《みず》|町《まち》の奥さんである。ここで一緒になってしまっては、寄り道して帰るというわけにもいかなかった。
「八時からだわね。お茶の葉がなかったんで、買って来たの」
「ご苦労様です」
「夕方になると、やっと涼しくてね。助かるわよ」
でっぷりと太った水町の奥さんは、言った。
信号は、なかなか変わらない。
何だか、敦子は急に疲れが出てきたようで、ちょっと息をついて、目を閉じ、指で目の間をきつく押さえた。ごく無意識の仕草だったのだが、水町の奥さんが、それに気付いて、
「疲れてるみたいね」
と言い出した。「一人暮らしって大変よね。私も若いころは何年か一人で住んでたから、よく分かるわ」
「そうですか」
敦子にはちょっと意外な話だった。この奥さんに若いころがあったとは――なんて、失礼な言い方だが、とても想像がつかない。
「――青になったわ」
二人は歩き出した。
アパートまであと少し、という所に来て、水町の奥さんが、言った。
「今夜は集まりを休んだら?」
敦子はびっくりした。いつもなら、ドアを|叩《たた》いて呼びに来る人だ。
「でも……」
「|風《か》|邪《ぜ》気味で、って、私が言っとくわよ。あんまり顔色も良くないし。ね、早くお|風《ふ》|呂《ろ》へ入って寝た方がいいわ」
「ええ……。ちょっと、疲れてるんです。それじゃ――お言葉に甘えて」
「いいのよ。うちの主人も、何しろ他にすることなくて、暇なもんだから。みんな昼間は忙しく働いてくたびれてる、っていうのにね」
アパートへ着いた。
二階建ての、至ってクラシックな(つまり、古い[#「古い」に傍点]ということである)アパート。それでも、古い建物だけに、作りはしっかりしている。敦子の部屋は二階の二〇二である。
「――じゃ、すみませんけど、今夜は」
「はい、おやすみなさい。気を付けてね」
敦子は、トントンと階段を上りかけて、あんまり元気良く上っちゃまずい、と、わざと重い足取りにしたりした。今にも、あの奥さんの気が変わって、
「やっぱり出てよ」
と、呼びかけられるんじゃないか、と――。
なかなかのスリルだった。
部屋へ入っちゃえばこっちのものだ! 二階の廊下で、蛍光灯がチカチカと点滅している。もう一週間もこうだが、一向に取りかえてくれないのだ……。
|鍵《かぎ》をあけ、中へ入る。ドアを閉め、ロックして、チェーンもかけて、それから上がると、真っ|直《す》ぐに窓の所へ行って、カーテンをシュッと引く。
「やった!」
いやなことがありゃ、いいこともあるもんなんだ。あの奥さん、今日に限って、「働く一人暮らしの女性」に同情する気分になっていたらしい。
でも……。「いいこと」といってもこの程度、というのも、|侘《わ》びしい話ではあった。
真夜中の電話
だめ! だめよ。寝ちゃだめ!
ちゃんと着替えて、スーツをハンガーにかけて、お化粧を落とし、お|風《ふ》|呂《ろ》にお湯を入れて――いえ、その前に朝食のお皿とかコーヒーカップが流しに転がってるのを洗って、それから洗濯物をたたんで……。
やるべきことをきちんと片付けてから、のんびりと寝転がれば、後が楽なんだから。一人暮らしでも、いえ、一人暮らしだからこそ、手順とか原則にこだわる。これが、「一人で強く生きて行く方法」なのである。
まあね、分かっちゃいるんだけど……。
で、結局のところは、というと、敦子、帰った時のままの格好で、畳の上に引っくり返っているのだった。――理想と現実は、かくもかけ離れているものなのである。
おまけに、苦しいからとて、ブラウスのボタンを二つ三つ外したり、スカートのファスナーをおろしたまま……。恋人(もしいたらだが)にはとても見せられないスタイル。
こういう時間は、何て早く過ぎて行くんだろう! あれもしなきゃ、これもしなきゃと思っている内に、三十分たってしまった。
すると、階段を上って来る足音。――誰だろう?
もしかして、水町の奥さんか、それともご主人の方が、やっぱり出てもらおう、ということになって呼びに来たのだろうか?
冗談じゃない! もう寝てます! 疲れ果てて、死んだように眠ってますよ。
敦子は、あわてて飛び起きると、部屋の明かりを消した。その拍子にスカートが落っこちて、足にからまり、みごとに転んでしまった……。
誰か分からない足音は、確かにこの部屋の前まで来て止まった。敦子は、じっと息を殺していた。チャイムが鳴っても、出るもんか、と決めていた。
――その誰かは、結局、チャイムも鳴らさずに、引き上げて行く。
「やれやれだわ」
と、|呟《つぶや》いて、何だかおかしくなった敦子は一人で笑い出していた……。
しかし、それがきっかけになって、敦子はやっと行動を開始することができた。
低血圧の体質で、お|風《ふ》|呂《ろ》――それもかなり熱いお湯に、長くつかって目をさますのが第一。すべてはその後だ。
敦子は、お風呂が好きで、温泉にもよく行く。もちろん近場で、安上がりに行ける範囲ではあるけれど。
「いつまでもこうしていたい……」
熱いお湯に、|顎《あご》までつかって、敦子は呟く。狭い浴室は湯気で真っ白だった。
同じセリフを、恋人の胸に頭をもたせかけるか何かして言ってみたいもんね、などと考えて、敦子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
いつのことやら……。
「リンス、リンス、リンス……」
別に、リンスのコマーシャルをやっているわけじゃない。
リンスが切れそうになっているのを、また忘れて、買って来なかったのである。
お風呂に入ると思い出すんだけど……。会社のお昼休み、誰かとお昼を食べて、おしゃべりなんかしていると、リンスのことなど忘れてしまうのである。
明日は買わなきゃ、というので、おまじないみたいに、鏡の前で、リンス、リンス、ととなえていたのだった。小さなホワイトボードを買って来て、なくなりそうな物を書いておくといいのだが、デパートへ行く度に、そのホワイトボードを買うのを忘れてしまうのである。それを忘れないように、どこへ書いときゃいいのだろう?
お|風《ふ》|呂《ろ》上がりで、バスタオル一つ、体に巻きつけて鏡台の前に座って、ドライヤーで髪を乾かしていると――ルルル、と電話が鳴り出した。
こんな時間にかけて来るのは、たいてい母親である。あとからかける、と言って、切ろう。
「――はい」
名前は名乗らないのが、一人暮らしの女性のマナーである。いたずら電話も多いからだ。
「永瀬君か」
母親でないのは確かだった。男だ。
「はい」
「大西だよ」
「あ――どうも。あの――こんな格好で」
つい言ってしまって、あわてて口をつぐむ。幸い、向こうがうるさい所にいて、聞こえなかったようだ。
「今日は大変だったね」
と、大西が少し大きな声で言った。「おかげで無事に終わったよ。社長や専務も喜んでいた。ご苦労様」
大分ご機嫌である。酔っているらしい。
「私は座ってただけですから」
「長野工場の連中もね、専務と話し合って、納得して帰った」
「そうですか。良かったですね」
敦子は、あのTV局の男に声をかけられたことを、話そうか、と迷った。しかし、大西の方が、
「ま、ともかくありがとう。じゃ、おやすみ!」
と、電話を切ってしまった。
敦子は肩をすくめた。――大西に報告するほどのことでもあるまい。それに敦子は大西の名前を出さなかったのだし。
あんな騒ぎになって、それでも丸くおさまったのなら、良かった。もちろん、あの組合員たちが、どんな形で「納得」したのかは分からないが……。
敦子は、派手に一つ、クシャミをした。
初めは十一時半ごろだった。
――敦子は、いつもならまだTVか何か見ながら、起きている時間だったが、今夜はやはり疲れていた。十一時ごろになると、眠くてたまらなくなり、布団ももう敷いてあるので、さっさと潜り込んで寝ることにしたのである。
スッと、引きずり込まれるように眠って、一番深い眠りに落ちたあたりに、電話が鳴り出したのだった。――敦子は、目をこじあけるようにして、布団から|這《は》いずり出すと、明かりをつけて、受話器を取った。
「はい。――もしもし」
と、言ったつもりだが、果たして言葉になっていたかどうか。
「敦子?」
と、どことなく湿った感じの声が聞こえて来る。
「お母さん。どうしたの?」
母の|千《ち》|枝《え》である。
「どこかに出かけてたの?」
と、敦子の問いには答えずに訊いて来る。
「出かけてた、って……。私が?」
「さっきもかけたのよ。三十分くらい前」
「そう。眠ったばっかりで起きなかったんでしょ、電話の音ぐらいじゃ」
「今もずっと鳴らしてたのよ。どうかしたのかと思って心配になって――」
「眠ってたのよ。そう言ったでしょ」
と、敦子はため息をついた。
「じゃ、具合悪いわけじゃないんだね」
「今日はちょっと仕事が忙しくてね。疲れたから早く寝たの。でも、病気してるわけじゃないわ」
「それならいいけど……」
母とは生まれた時からの付き合いで(当然のことながら)、何か言いたいことがあるのは、すぐに分かった。しかし、肝心のことは、なかなか言い出さない人なのだ。
「どうしたの? お金は土曜日に送るわよ。今月、二十五日が日曜日だからね」
「そうね。そうしてくれると助かるわ。悪いね、いつも」
「そんなこといいけど……。何か用事なんじゃないの?」
「うん……。あのね――ちょっと帰って来れないかい?」
敦子は面食らった。
「帰って、って……。いつ?」
「すぐに。――無理かね」
敦子は、頭を振った。長くなりそうだ。
「待って。こっちからかけるわ。電話代もかかるし。|一《いっ》|旦《たん》切るから」
「すぐかけてくれる?」
「すぐかけるわよ。じゃあね」
受話器を置いて、敦子は頭をかきながら、
「全く、もう……」
と|呟《つぶや》いていた。
母と長話をするには――大方は、愚痴を聞くことなのだが――心の準備が必要だった。
特に、こんなくたびれている夜には。
敦子は、ポットにまだ熱いお湯が残っているのを確かめて、ティーバッグでお茶をいれた。少し濃く出して、
「一杯で捨てちゃもったいない!」
と、アルミの包み紙の上にそっとティーバッグをのせておいた。
苦いお茶を、何口か飲むと、やっと、頭がはっきりして来る。もちろん、それでも母の愚痴に付き合うのに骨が折れることには変わりがない……。
敦子は、十八歳で高校を出ると同時に、九州、福岡から東京へやって来た。父の弟に当たる人が、小さな会社をやっていて、短大を出たら、そこで働かないか、と誘ってくれたのである。
叔父の家に下宿して、短大へ通い、卒業して、予定通りに勤め始めた。ところが一年もたたない内に、叔父が|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》で急死、会社はちょうど不況の折で、人手に渡ることになってしまった。
敦子は、アパートへ移り、短大の教授のつてで、今の受付の仕事に就いたのだった。アパートはそれから二回変わったが、ここにはもう四年以上、落ちついている。
本当なら、叔父の会社をやめた時、福岡へ戻っても良かったのだが、敦子としては、帰れば母がうるさく見合いをすすめるので、しばらくは一人でいたかったのだ。
ただ――敦子も、こんなに長いこと、一人で東京にいることになろうとは、思っていなかった。
「――さて、かけるか」
あんまり時間が空くと、また母がブツブツ言うだろう。あんなに愚痴っぽい人ではなかったのだが……。
飲みかけのお茶を|傍《そば》に置いて、受話器を取る。
いきなり帰って来い、とは、何事なのだろう?
九州まで帰れば、飛行機代だけでも馬鹿にならないのだから。
「――もしもし、お母さん?」
「ああ。ごめんね、敦子。疲れてるんだったら、また明日でもかけようか?」
それはないでしょ! せっかく目を覚ましてかけてるのに。
「いいわよ。どうしたの? お父さん、具合が悪いの?」
「父さんは相変わらずよ」
と、母の千枝は言った。「暮れにかけて、飲みすぎないといいんだけどね」
「言ったって聞きゃしないわよ。|寿《ひさ》|子《こ》は元気?」
寿子は、敦子の五つ下の妹である。
「それがねえ……」
母の言葉が、急に重苦しくなった。
寿子のこと? 敦子にも、それは意外だった。
寿子も、高校を出て、福岡の市内で働いている。確か、法律事務所だかどこだかに勤めているはずだ。
堅い職場だし、もともとおっとりして|内《うち》|弁《べん》|慶《けい》の寿子である。外では至っておとなしい。母も、めったに寿子のことで何か言って来たことはないのだが。
「寿子がどうしたの?」
と、敦子が言うと、母の千枝は、しばらくどう言ったものか迷っているようだった。
「困ってるのよ」
と、よく分かったことを言う。
「何なの? ちゃんとお勤めしてるんでしょ?」
「うん、そのお勤めがね……。困ったことになってね。お前、帰って来れない?」
母の口から、はっきり事情を聞くまでに、どれくらい通話料を取られるか、敦子は不安になって来た。
「ともかく話してみてよ。寿子、そこにいるの?」
「まだ帰らないの」
「まだ、って……」
もう十二時近い。――敦子にも、少し分かりかけて来た。
「寿子、恋人ができたのか」
「結婚したい、って言い出してね」
「そう……」
考えてみれば、寿子も二十三である。決して早すぎるという年齢ではない。
ただ――問題は、父がもう四年も、体を悪くして働いていないことで……。敦子が、ずっと東京で勤めを続けているのも、そのせいなのだ。今、敦子と寿子の二人の収入で、両親は生活している。敦子は、月給の中から、部屋代や食費など、かなりぎりぎりの線で抑えて、家に送金していた。
七年も勤めて、今の給料は決して悪くなかったから、敦子も、今の仕事をやめることはできなかったのである。
「それで困ってるのよ」
と、千枝はため息をついた。
確かに、今、寿子が結婚して、その分の収入がなくなってしまったら、敦子の送金分だけでは、とても父と母はやっていけまい。
「まあ、寿子だって年ごろだし。すぐ結婚したい、って言ってるの?」
と、敦子は|訊《き》いた。
「うん。何言ったって聞かないの。帰りが夜中の一時二時になってね。ご近所でもすっかり評判で」
「相手の人は? 勤め先の人とか……」
「法律事務所のね」
「じゃ、何とかいう弁護士さんの所で働いてる人なのね」
敦子は、それなら悪くないかも、と思っていた。
「二人で働いて、何とか家にお金を入れるようにできないの?」
と、敦子は言った。
姉として、寿子のことは|可《か》|愛《わい》い。大分「先を越される」ことにはなるわけだが、いい相手なら、寿子の好きにさせてやりたい、と思った。
「私だってね、いい人なら、仕方ないと思うわよ」
母の千枝が、少し心外、という様子で言った。
「じゃ、知ってる人なの」
「その弁護士さんなのよ」
敦子は、ちょっとの間、母の言ったことが分からなかった。
「弁護士さん、って……。寿子の勤めてる所の?――だって、もう年なんじゃないの?」
「四十八歳よ」
と、千枝が言った。「お前、帰って来て、寿子と話してくれない?」
今度は敦子が、しばらく黙り込んでしまう番だった……。
次の電話が鳴った時、敦子はまだ完全に寝入っていなかった。もう一時を少し回っている。
「――はい。――もしもし。どなた?」
「ごめんね、こんな時間に」
敦子は、布団に起き上がって、息をついた。
「寿子か。いいのよ、まだ起きてたの」
と、できるだけ軽い口調で、「家からかけてるの?」
少し間があって、
「ううん。外から」
「どこ?」
「ちょっと」
静かである。公衆電話というわけではなさそうだ。
ホテルからだな、と敦子は思った。
「さっきかけたけど、お話し中だったから。お姉ちゃん、うちから電話だったの?」
「そうよ、お母さんから」
「じゃ……」
「聞いたわよ。やってくれるじゃないの」
と、敦子は言って笑った。
寿子が、ホッとするのが、気配で分かる。
敦子とて、妹に色々言いたいことはあるが、今、寿子は父と母、両方に責められているはずだ。追い詰めてはいけない。
「今、その弁護士さんと二人?」
「ううん。彼はもう帰った。私、一時過ぎないと帰らないの。お父さんと|喧《けん》|嘩《か》になるから……」
「そうでしょうね」
「お母ちゃん、何て言ってた?」
心細そうな寿子の声は、敦子の胸を熱くした。そこには、遠い「ふるさと」があった。
ここは、姉として、色々説教すべき場面かもしれない。
しかし――母親の千枝もそうなのだが――やはり妹には甘いのである。
「あんまり心配かけないのよ」
と、敦子は言ってやって、「その弁護士さん、まさか妻子もちじゃないんでしょうね」
「奥さんは四年前に亡くなったの。中学生の男の子が一人いる」
大変だ、そりゃ。何もまあ好んでそんな人と恋に落ちなくても、と思うが、世の中、そんなものでもないのだろう。
「帰って来い、って散々言われて、参ったわよ」
と、敦子は言った。
「帰って来る、お姉ちゃん?」
「そんなわけにいかないわ。そう簡単に休みは取れないわよ。飛行機代だって、馬鹿にならないしね。――ともかく、少し放っときなさい、ってお母さんには言っといたから。一時的にポーッとしているだけだったら、その内さめるし」
「そんなんじゃないわ」
と、寿子がムッとしたように言った。
「お母さんにそう言った、ってことよ。あんたも、妙に|依《い》|怙《こ》|地《じ》にならないで。いい? お母さん、それでなくても落ち込みやすい人なんだから」
「うん……」
「ともかく、毎日帰りが夜中ってのは良くないわね。できるだけ早く帰るようにしなさいよ。それだけでもずいぶん違うんだから。顔を合わせたくないのは分かるけど」
「うん。――分かった」
「じゃ、ともかくまた……」
敦子は言いかけて、|大《おお》|欠伸《あくび》をした。
「ごめんね、夜中に」
「どういたしまして……」
敦子は苦笑した。「ま、ともかく頑張って」
何を頑張るんだかよく分からないが、ともかくそう言って、敦子は電話を切った。
「もう勘弁してよね……」
何があったって起きるもんか!
敦子は、体を丸めるようにして、ギュッと目をつぶった。
中途半端な時間に起こされたので、何だか目が|冴《さ》えてしまって、眠れない。困ったなと思っている内に、敦子は寝入っていた。
電話が鳴っている。
また? まさか! いくら何でもそんなに……。空耳よね。きっとそうよ。
しかし、敦子は、それが現実に部屋の中で鳴っているのだということを、認めないわけにはいかなかった。
「誰よ、もう!」
やけ気味に、起き上がって時計を見ると、何と三時だった。敦子はため息をついた。
「もしもし」
敦子は思いっ切り不機嫌な声を出した。
夜中の三時に、一体誰が電話して来るんだ?
「もしもし……」
何となく遠い感じの、男の声だ。いたずらだろうか?
「どなたですか」
と、|訊《き》いてから、敦子はふと思い当たった。「有田さん?」
「うん」
向こうがホッとしているようだ。
「びっくりした! どうしたの、こんな時間に?」
「いや、ごめん……。夜中に悪いと思ったんだけど」
「ねえ、どこからかけてるの? いやに声が遠いわよ」
「うん……。ちょっと、出先なんだ」
「こんな時間に? もう三時よ」
「分かってる。すまないと思ったんだけど――今言わないと、また言えなくなりそうな気がして……」
「どうしたの? 何だか変ね」
敦子は目をこすった。今夜は眠れない運命なのだろうか。
「うん。いや――ちょっとお願いがあって」
「私に? 何なの?」
「うん……」
「はっきりしないのね」
「そうじゃないんだ。はっきりしてるんだよ、僕の気持ちは」
「ええ?」
「結婚してくれないか」
――敦子は、コンコンと|拳《こぶし》で頭を|叩《たた》いてみた。これは現実? どうやらそうらしい。
「結婚て……私とあなた?」
「そりゃそうさ」
まあ、別の女性に結婚を申し込むのに、敦子の所へ電話はかけて来ないだろう。それにしても!
「ねえ、大丈夫なの? 酔ってる?」
「僕は真剣だよ」
と、怒ったような声を出す。
「あ、そう」
「本気だ。考えてみてくれないか」
「でも、突然そんな――」
「分かってる。でも、これからは、それを前提に付き合っていきたいんだ。どう?」
どう、と訊かれても……。
「考えとくわ」
と答えるしかない。
「うん!――言ってすっきりした!」
受話器を戻して、敦子は布団へ入った。それから、やっと頭の中の霧が晴れて来て……。今のはプロポーズだったんだ! どうしよう!
結局、敦子は翌朝寝不足でフラフラになりながら、出勤して行くことになった。
訪ねて来た少女
もちろん、〈K化学工業〉の受付にも、出入りの業者とか関連会社の客以外にも、色々な人がやって来る。
特に一階の受付に座っていると、結構面白い経験をすることがあった。表の道でお財布を拾った、と、届けて来たおばあさん。交番じゃないのだ。まさか受付で預かっておく、というわけにはいかない。
小学生の女の子が、トコトコとやって来て、
「パパがお弁当忘れたの」
と、受付に置いて行ったこともあるが、|呆《あっ》|気《け》に取られた久美江が、その子の名前を|訊《き》かなかったので、結局、ビル全館に、
「お嬢さんがお弁当を届けて来る心当たりのある方は……」
と、放送するはめになった。
敦子も、入社して間もないころ、どう見てもヤクザ、という白スーツにサングラスの男たちが、四、五人も大挙してビルへ駆け込んで来るのを見て、真っ青になり、逃げ出しかけたことがある。そのヤクザの一人は、受付のカウンターをバン、と|叩《たた》いて、
「姉ちゃん! トイレはどこや!」
と、大声で言ったのだった。
何か食べたものが悪くて、全員、ひどく腹を下していて、我慢し切れずに、通りかかったこのビルへと駆け込んで来たというわけだった。
――まあ、実際、世の中、色々な人がいるものなのである。
「やあ」
サンダルの音をたてながら、一階のロビーに入って来たのは、有田だった。
「もう一時十分よ」
と、受付に座った敦子は言った。
「あれ? 僕の時計じゃ十二時五十九分だよ」
「電池を換えたの?」
「面倒くさくてさ」
「時計ごと買い替えた方が安いわよ」
と、敦子は笑って言った。「今度、安売りを見付けて買っといてあげる。ほら、早く行きなさいよ」
「今夜は暇?」
「土曜日って約束したでしょ」
「その前はだめ、ってこともないだろ」
「忙しいんじゃなかったの?」
手もとの電話が鳴り出して、「ほら、行って、行って」
「じゃ明日は?」
相手にしないで、敦子は笑いながら受話器を取った。
夜中の三時に、有田が電話で、結婚してくれと言って来てから、一か月が過ぎた。
ということは、このロビーで、あの乱闘騒ぎがあってから、同じだけの日が過ぎた、ということでもある。
今でも、敦子は目の前のこのロビーで、あんなことがあったとは信じられないような気持ちになる。でも、事実、起こったのだ。
あの出来事も、今は社内で話題になることはなくなった。長野工場は、予定通り、年内一杯で閉鎖される。
組合員たちと、会社側との話し合いが、どんな結論になったのか、敦子は知らないし、組合の会合でも、そんな話は出ない。
ともかく――もう済んでしまったことなのだ。敦子は毎日、受付に座り、宮田栄子はあれ以来、腰が痛いと時々訴えているが、だからといって引退するつもりもないらしい。
そして、敦子に話しかけて来たTV局の男も、あれきり姿を見せなかった。結局、大した事件にもならずに終わってしまったので、企画そのものが立ち消えになったのだろう。
課長の大西は、また以前の通り、女子社員をからかっていたし、原久美江は恋人と突然約束を作っては、敦子に、
「一生のお願い!」
をくり返して、休みを代わったりしている。
一人だけ様子が変わった人間がいる。他ならぬ有田吉男だ。別に、敦子にプロポーズしたから、というわけでなく、配属変えになったのである。
今、有田は、大西の下にいる。つまり、組織上は敦子と同じ、総務一課である。
庶務から総務じゃ、あまり変わり映えしないが、しかし、このところ有田はかなり張り切って仕事に精を出しているし、大西も、目をかけていた。
有田が大西に気に入られたのが、あの出来事のせい、とは敦子は思いたくなかったが、事実はおそらくそうだったろう。でも――一生懸命働いてくれるのは、悪いことじゃないんだし……。
「やあ」
と、やって来たのは、管理主任の平山だ。
この男も、別に変わりなかった一人である。ただ、ほんの少し――。
「検査に行った?」
と敦子は|訊《き》いた。
「ああ、いや……。つい、忙しくてね」
と、平山は、いたずらっ子のように肩をすぼめた。
「一度診てもらった方が……。疲れてるみたいよ」
実際、平山はこのところ時々休むようになっていた。
「まあ、そりゃいいんだけどね」
と、平山は|咳《せき》|払《ばら》いして、「ね、気が付いたかい? 表にいる女の子」
「女の子って?」
「さっきもこっちを|覗《のぞ》いてただろう」
敦子も、平山にそう言われて、表の明るい通りをゆっくりと通り過ぎて行く少女に気付いた。そういえば確かに、十分ほど前にも通ったような気がする。
「平山さん知ってる子?」
「いや、全然」
と、平山は首を振った。
その少女が、このビルに用事があるのは、どうやら確かなようだった。
表を通り過ぎながら、その足取りはためらいがちで、よく見えない奥の方を、覗き込むようにしている。
「誰かを訪ねて来たって感じでもないわね」
と、敦子は言った。
「ここをホテルと間違えてるってこともないだろうしな」
平山が珍しく笑って言った。「おっと、電話が入るんだった。――じゃ、また」
「ええ。――あ、平山さん!」
「検査だろ! 分かってるよ」
と、手を振りながら、逃げるように行ってしまう。
「ちっとも分かってないじゃないの」
と、敦子は苦笑した。
まあ、自分がいざ、検査の必要あり、と言われたら、と考えると、逃げたくなる気持ちも分からないではないが。
客が入って来た。――それにくっついて、という感じで、表にいた少女が、ロビーに入って来る。
「――お待ち下さいませ」
敦子は、来客の用件を社内の相手に取り次いで、「ただいま参りますので、そちらの|椅《い》|子《す》でお待ちいただけますでしょうか」
と、言った。
そして、例の少女……。受付のカウンターからずっと離れた所で、声をかけられたらどうしよう、という様子。といって、かけてもらえなかったら、じっと立っていなくちゃいけないし……。そんな思いが見ていてよく分かる。
平山が、ホテルと間違えて、と言ったのは、その少女が、両手で大きなバッグを下げていたからだ。もとの色が何だったのか、もう分からなくなった、古いボストンバッグ。
見たところ、十六、七というところだろうか。背丈は敦子よりありそうだが、少しきゃしゃな感じ。
今学校へ行く途中、と言ってもいいような紺のスカート、白のブラウス、そしてはおったカーデガンも、黄ばんではいるが、白だろう。高校生には違いないと思ったが、ここに何の用事かは、一向に見当がつかない。
「ねえ」
敦子は、できるだけ優しい声で、呼びかけてみた。「何かご用かしら?」
少女が、逃げ出してしまいそうにした。こんなに優しく言ってるのに、と敦子は不満だったが、少女が、思い直した様子で、カウンターの方へ近付いて来るのを見て、ホッとした。
「すみません」
と、少女は、ちょっと頭を下げた。
「このビルの、どこにご用?」
と、敦子はその少女に|訊《き》いた。
少女は、しばらく迷っていたが、
「――よく分からないんです」
と、言った。
ちょっとおかしいのかな、と思ったが、そうではない。本当に、どう話していいものやら見当がつかない、という様子だ。
「じゃ、ともかく、ここへ来たわけを話してちょうだい」
敦子が、少しリラックスして、カウンターに|両肘《りょうひじ》をつくと、少女の方も少し気が楽になったようだ。
「あの……」
と、カウンターに近寄って来て、バッグを足下へ置く。「|竹《たけ》|永《なが》といいます。竹永|智《ち》|恵《え》|子《こ》。〈松竹〉の〈竹〉と、〈永久〉の〈永〉をかきます。あと、〈|智《とも》〉と、〈恵む〉で……」
「竹永さんね。それで、ご用は?」
「あの……」
竹永智恵子は、ちょっと上目づかいに敦子を見て、思いがけないことを言った。「父を捜しているんです」
「――お父さん?」
「ここへ来たはずなんですけど、帰って来ないんです。みんな、知らないって――」
「ちょっと待って」
敦子は、竹永智恵子の言葉を遮った。「お父さんは、どういう人なの?」
「ここの社員です」
「社員――〈K化学工業〉の?」
「はい、本社じゃありません。長野工場で働いてます」
敦子は一瞬、胸をつかれた思いがした。
「そう……。お父さん、竹永……」
「竹永|喜《き》|市《いち》です。〈喜ぶ〉と、〈市場〉の〈市〉の字で――」
敦子は手もとのメモ用紙に、名前を書いた。
「お父さんは、いつここへ来たの?」
「もうひと月ぐらい前です――ひと月よりたったかもしれません」
「ここへ何のご用で?」
「父の勤めてる工場、今年で閉まるんです」
「ええ、聞いてるわ」
「みんな、他の仕事といっても、簡単に見付からないし……。組合の代表の人が、七人で抗議して来るからといって」
「その中にお父さんもいたの」
「はい。その日の内に、帰れないかもしれないけど、その時は電話するからといって……。でも、連絡はなかったんです」
「それで?」
「翌日の夕方、組合の人たちが帰って来たんですけど――父だけが戻らなかったんです」
と、竹永智恵子は言った。
「戻らなかった?」
敦子は、そう|訊《き》き返していた。
竹永智恵子の話から考えて、父親の竹永喜市が、あの時ロビーに座り込んだ七人の中の一人だったことは確かなようだ。
しかし、あんな騒ぎはあったにせよ、結局は丸くおさまったはずで、全員、無事に帰ったとばかり、敦子は思っていたのだが。
「お父さんだけが戻らなかった、というわけ?」
と、敦子は念を押した。
「そうです」
かなり緊張しているせいか、少女の声は、少し上ずりがちだった。「帰って来た人たちに訊いても、何だか良く分からないんです」
「分からない、って……。一緒だったんでしょ、みんな?」
「泊まるのはバラバラだった、とか。|親《しん》|戚《せき》とか知り合いの家に泊まる人もいたり――」
「ちょっと待ってね」
敦子は、前の来客の用件を取り次いだ相手がやって来たので、|一《いっ》|旦《たん》話を|止《や》めて、「あちらでお待ちです」
と、ロビーの|椅《い》|子《す》の方を手で示した。
すぐに電話も鳴る。ゆっくりと、竹永智恵子と話していられる状態ではなかった。
「――待ってね。あの時、お父さんたちに会った人を呼ぶわ」
「お願いします」
竹永智恵子は、ホッとしたように言って、頭を下げた。
「向こうの空いた|椅《い》|子《す》にかけてて。――あ、課長ですか。一階受付です」
大西がうまい具合に席にいた。
「永瀬君か」
と上機嫌な声。「君のフィアンセが十五分もさぼってたぞ。二人で時間のたつのも忘れてたのか?」
「冷やかさないで下さい」
敦子は少し赤くなった。「ビシビシ|叱《しか》ってやって構いません。それより課長、今、受付に――」
敦子が竹永智恵子のことを説明すると、大西はしばらく黙ってしまった。ちょっと敦子が戸惑うほどの長い間だった。
「――課長。もしもし?」
「聞いてるよ」
と、やっと返事があった。「考えてたんだ。思い出したよ。確かあの中にいたな、そんな名前のが」
「娘さんが一人で来ていて……。ちょっと話を聞いてあげていただけませんか」
「うん。――いや、もちろんだ。今、どこにいる?」
「ロビーに座って……。上に行ってもらいますか?」
「いや、こっちが下りて行く」
と、大西は急いで言って、「ちょっと片付けなきゃいけないことがあるんだ。少ししてから行く」
と、付け加えた。
大西は、なかなか下りて来なかった。
敦子は、ビルの地階に入っている喫茶店に電話を入れて、ジュースをロビーへ持って来てもらうことにした。
「受付に寄って下さい。現金で払いますから」
と、敦子は言って、電話を切った。
すぐにウエイトレスの女の子がエプロン姿でジュースを持って来た。敦子は小銭入れから代金を払うと、
「私、持って行くわ」
と、席を立った。「後で下げに来てね」
あの少女、竹永智恵子は、ロビーのモダンなデザインの|椅《い》|子《す》で、いかにも座り心地悪そうにしていた。
「――待たせてごめんなさいね」
と、敦子はジュースをガラスのテーブルに置いた。「これ飲んでて」
「すみません」
と、竹永智恵子は頭を下げた。
客の来る様子はない。来れば、すぐに目に入るし。――敦子は、隣の椅子に浅く腰をかけて、
「一人で出て来たの?」
と、訊いた。
竹永智恵子が黙って|肯《うなず》く。今日が平日だということに、敦子は気付いた。
「学校を休んで? あなた、高校生でしょ」
「二年生でした。――でも、通っていられないから……」
「どうして?」
敦子の問いには答えずに、竹永智恵子はジュースを一口飲んだ。
足音がして、振り向くと大西が小走りにやって来るところだった。
「や、すまん! 思ったより手間取ってね」
大西は、笑顔で、少女に向かった。「ええと――竹永君といったね。智恵子君か。お父さんのことは僕も前に会ったことがあるよ。よく働く人だった」
「あの――父が帰らないんです」
智恵子には、大西の弁舌も効果がないようだった。真っ|直《す》ぐに大西を見つめて、
「父はどこに行ったんでしょうか」
と、|訊《き》く。
「うん」
大西は、ちょっと言葉を捜している風で、「――聞かなかったのかね、一緒にいた組合の人たちから」
「聞きました。みんな、知人の所とかに泊まったけど、父はそういう知り合いがなかったんで、どこか適当に安い所を捜して泊まる、と言ってた、と……」
「うん。それで?」
「翌朝の時間を決めて、新宿駅で待ち合わせたけど、結局、父だけが来なかったんだ、って」
「で、それきり連絡は――」
「ありません」
と、智恵子は首を振って言った。
「なるほど、そりゃ困ったね」
と、大西は|肯《うなず》いて見せたが、あまり同情している様子ではない。
「誰に|訊《き》いても、分からないんです。みんないい加減で……。どこかに――女でもいるんじゃないの、なんてことまで……」
竹永智恵子の唇が細かく震えていた。今にも泣き出してしまいそうだ。敦子は、あの七人の中の、どの人だったのだろう、と思った。
「君の心配は良く分かる」
と、大西は言った。「しかしねえ……確かに、君のお父さんはここへ来た。うちの専務が、会社を代表して話を聞いたんだ。僕も同席してたがね。結局、今の我が社の状態を良く説明して、みんな納得してくれた。もちろん、うちとしても、工場の人たちが他の仕事を見付けられるように、精一杯のことはやる、という話をしてね。それから――僕も付き合って、飲みに出た。二時間ぐらいかな、みんなでビールを飲んで、焼き鳥なんかを食べて……。別れたのが、たぶん九時過ぎだったと思う。その後、またどこかで飲もうという人もいたし、明日は早く帰らなきゃ、という人もいたようだね。君のお父さんがどっちだったかは分からない。――僕はそこで別れてね。その後、どうしたのかは知らないんだ」
大西の話を、智恵子はじっと聞いていたが、両手は白くなるほど固く、ギュッと握り合わせていた。
「まあ……君にこんなことを言うのは、どうも……。しかし、工場を代表してやって来て、結局、何も手みやげなしに帰らなくちゃならなかったんだから、お父さんの気持ちも分かるよ。帰るのがいやで、こっちで何か仕事を見付けて、という気になったのかもしれないね」
大西の言葉は、無茶なものだった。家族に連絡も入れないということの説明にはなっていない。
智恵子の顔も固くこわばって来た。
「まあ、君の心配は分かるが、うちとしても、お父さんがどこへ行ったか捜すというわけにはね……。特に、お父さんはもう、その――」
と、大西が言い|淀《よど》んだ。
「工場を辞めたことになってます」
と、智恵子が上ずった声で言った。「無断で三週間も休んだからって、だから――社宅も出なきゃいけなかったんです」
「会社の決まりだからね、それは」
「父に何かあったんです!」
と、甲高い声になって、「うちは、父と私の二人だけです。私に何も言わないで、どこかへ行くなんてこと、絶対にないんです」
大西は、困惑した様子で、首の辺りをさすりながら、言った。
「いいかね。そうだとしても、それは警察とかの仕事でね。そこまでして、君のお父さんを捜してあげるわけにはいかないんだよ」
智恵子が、震えそうになる|顎《あご》を両手で挟んで、キュッと身を縮めた。
今にもワッと泣き出すのじゃないかと敦子は気が気ではなかった。
「あの――課長」
と、思わず身を乗り出して、「捜索願を出してあげたらどうですか。もちろん――」
そう言いながら、この東京で、蒸発同然に消えてしまった人間一人を捜すのが、容易でないことも、敦子にはよく分かっていた。
「もういいです」
と、唐突に智恵子が言った。「行ったって、何もしてくれっこないって……。そう言われてたから……」
「もちろん、何かこっちに情報が入ったら、知らせてあげるよ」
大西の言葉など、耳に入らない様子で、智恵子は、涙をためた目で、大西と敦子を、交互ににらんだ。
「お父さんは……あの工場ができた時から、ずっとあそこで働いてたんです。日曜だってほとんど休まないで。――それなのに、何もしてくれないんですね、会社って」
智恵子は、パッと立ち上がると、古ぼけたボストンバッグをつかんだ。そしてロビーを一気に駆け抜けると、自動扉が開くのにぶつかりそうになりながら、外へ出ていってしまった。
「――やれやれ」
と、大西は苦笑いした。「どうも女の子ってのには弱いな。すぐ泣かれる。かなわんよ」
「でも――どうしちゃったんでしょう、その竹永って人」
敦子は、少女の出て行った扉の方へ目をやりながら、言った。
「分かるもんか。世の中、いやになってフラッと姿を消しちゃう|奴《やつ》は大勢いるよ」
「でも……」
「さて、出かけなきゃならん」
と、大西は立ち上がった。「永瀬君、有田君とはいつごろ式を挙げるんだ?」
「え?」
敦子は戸惑って、「分かりません。まだ――はっきりそうと決まったわけでも……」
「何だ、そうなのか? 有田君は、ぜひ仲人を、と言ってたぜ」
「まあ。勝手にそんなこと言って」
「二人でじっくり話し合ってくれ」
大西は笑って敦子の肩をポンと|叩《たた》くと、エレベーターの方へ歩いて行った。
敦子は、何となく、大西が唐突に有田とのことを持ち出したという印象を受けた。
あの少女――竹永智恵子のことから、敦子の気をそらそうとでもするように。
しかし……あの女の子は、行方不明になった父親と二人だったと言った。社宅を出されて、では、どこへ泊まるつもりなのだろう?
敦子は、ロビーへ客が入って来るのを見て、急いで受付の席へと戻って行った。
たたずむ影
「お疲れさん」
宮田栄子が、エレベーターの前ですれ違いながら、敦子に声をかけた。「そうだわ、ねえ」
「はい」
と、敦子は振り向いた。
ロッカールームへ行くところである。宮田栄子は、何か用事があるのだろう、もう帰り仕度も終えて出て来たのだ。
「今度の旅行、やっぱり無理?」
その話か。敦子は、申し訳なさそうに目を伏せて、
「ちょっと、今、妹のことで、ごたごたしてて……。もしかすると、一度帰らなきゃいけないかもしれないんです。すみませんけど」
「そう。いいのよ。――もし行けるようだったら、前の日でもいいから私に言って。どうせバス貸し切りだし、旅館の部屋は一人ぐらい、どうにでもなるしね」
「分かりました。今日は、学校ですか」
「そうなの。結構面白いもんよ。あなたもどう?」
「私の頭じゃとても。――行ってらっしゃい」
宮田栄子は、英会話の教室に通っている。
マンツーマンの、かなり月謝の高いクラスらしい。そのことを|訊《き》いてやると気を良くするのを、敦子は承知していた。
「――疲れる」
ロッカールームのドアを開けて、敦子は|呟《つぶや》いた。
十一月には、たいてい、休日の土曜日と日曜日を使って、課の旅行がある。紅葉を見に行って、温泉に入って……。もちろん、宴会のお酒やカラオケの騒ぎもかなりのものだ。
敦子は、温泉が好きだが、そんな所まで、気をつかう相手と行きたくない。しかし今回は宮田栄子が幹事というので、〈欠席〉に〇印をつけるのは、かなり度胸が必要だった。
今はもう入社七年もたち、課の中でも新人とは見られなくなったが、入って二、三年のころまでは、こういう旅行に参加しないと、昼休みなどに、会議室へ呼ばれて、先輩たちからやっつけられたものだ。
休みの日ぐらい、家で寝ていたい、と思うのが、どうしていけないんですか?――正面切ってそう言えば、今度は何と言われるか……。敦子はじっと口をつぐんでいた。
しかし、父が倒れて、仕送りを増やさなくてはならなくなってから、敦子は何と言われても、参加しないようになった。安いとはいっても、何万円かの出費は痛い。自分の中で、ちゃんと理由づけができるので、拒むのも平気だった。
それを何度もくり返すと、やがて、誰も敦子を無理に誘おうとしなくなる。――それでも、宮田栄子が相手では、断る時、つい胃のあたりがキュッと痛むのだった。
正に――疲れる、のである。
ロッカールームを出ると、敦子は、有田が|上《うわ》|衣《ぎ》を手に、廊下に立っているのを見て、
「どうしたの?」
と、声をかけた。
「やあ」
有田の笑顔は少しぎこちなかった。「待ってたんだ」
「私のこと? でも、仕事があるんでしょ?」
「うん、そりゃそうなんだけど……」
と、照れるように頭をかいて、「どうせ帰りは夜中になるし、晩飯は食べなきゃいけないからな。近くで一緒に、と思ってさ」
「そんなの、聞いたことないわ」
と、敦子は面食らって言った。「課長さんに怒られるわよ」
「いや、課長にそう言われたんだ」
「大西さんに?」
さっき、いつ、有田と式を挙げるのか、とか|訊《き》いていたが……。しかし、大西がどうしてそんなに有田と敦子のことを気にするのか、不思議ではあった。
「君のいい所へ行こう。――どこがいい?」
「どこでも……。お金、あるの?」
「何だよ。君におごるくらいの金は持ってるさ」
「ごめん。傷ついた?」
と、敦子は笑った。
もちろん、有田におごってもらえば、夕食代も浮くし、それに敦子としても、有田といて、楽しくないわけではないのだ。
「じゃあ……。あの角の日本料理屋に行きましょ。|丼《どんぶり》ものがおいしいわ」
値段と、有田のプライドのバランスを考えて出した結論だった。有田も心なしか(?)ホッとした様子で、手にしていた上衣に腕を通した。
エレベーターで一階へ降りると、平山が地下の駐車場へ行くところで、互いに声をかけ合った。
「――平山さん、少し具合が悪いみたい」
と、ビルの出口へ歩きながら、敦子は言った。「検査してもらったら、って言ってるんだけど」
「うん。そうだな。まあ、|年《と》|齢《し》も行ってるからね」
「でも、洋子ちゃん、まだ九つよ。当分はお父さん、頑張らないと」
正面の出入り口は、六時で閉まり、その後、退社する者は通用口になる。まだ五時半なので、二人は正面玄関から外へ出た。
「大分日が短くなったわね」
と、敦子は、|黄《たそ》|昏《がれ》かけたビルの|隙《すき》|間《ま》に目をやった。
ついこの間までは、ここを出る時も、青空だったのだ。――お父さん、頑張らないと。お父さん……。
そう。あの少女――竹永智恵子は、どうしたんだろう? 敦子は、つい左右へ目をやっていた。
「どうしたんだい?」
と、有田が言った。
「ちょっと――待って」
敦子は、地下鉄の駅へ向かって流れる人波と逆の方向へ、少し行って止まった。やはり、そうか。
「何だい?」
と、有田がついて来る。
「あそこに座ってる女の子――」
ビルと、歩道の間に、幅は狭いが植え込みがある。その陰に隠れるようにして、一段高くなったレンガの上に、竹永智恵子が腰をおろしていた。古ぼけたボストンをわきに置いて、|膝《ひざ》をかかえるようにしながら、目は、足早に通り過ぎて行く勤め帰りの人々の、せわしげな足の動きを見ているようだ。
時々、チラッと少女の方を見て行く人もいるが、声をかけようとする者はない。――みんな忙しいのだ。
そして、他人のことには|係《かか》わり合いたくない。自分のことだけで、手一杯だからね……。
「あれが、何とかいう、長野工場の?」
「聞いたの?」
「課長が言ってた。行こう。どうしようもないじゃないか」
「そりゃそうだけど……」
敦子はためらったが、ではどうしたらいいのか、ということになると、考えがあるわけでもない。結局、竹永智恵子に背を向けて、有田と一緒に歩き出したのだった……。
「――ね、お茶もう一杯」
と、有田が声をかける。
「おいしかった」
敦子は割りばしを置くと、「ねえ、有田さん」
「何だい?」
「あなた――課長さんに仲人まで頼んだ、って、本当?」
「ああ。一緒に飲んでる時に、そんな話が出てね。まずかったかい?」
有田が、ちょっと上目づかいに敦子を見る。その様子はなかなか「|可《か》|愛《わい》い」。もちろん、可愛い、なんて言ったら、有田はふくれるだろうが。
「だって……。そりゃあ、あなたとは結婚を意識したお付き合いをしてるし、軽い気持ちでいるわけじゃないわ。でも、私、そうすぐには結婚できない立場なのよ。分かってるでしょう?」
「うん。いや、僕だって別にせかせるつもりはない。ただね……」
と、言いかけてためらう。
「私が二十八だから?」
「まあ……それもある」
「私だって、できることなら、今すぐにでも、と思わないこともないわ。でも、今の仕事をやめるわけにはいかないし」
と、敦子は穏やかに言った。
「君の事情は良く分かってる」
有田はそう言って、お茶をガブガブ飲んだ。――よくお茶を飲むのである。
「今は妹のことが落ちつかないとね。もし妹が家を出ることになったら、父と母がどうするか……」
このひと月、妹の寿子と、問題の弁護士の間は、かなり進んでいるらしい。母は半ばあきらめているようだが、父は怒って寿子と口もきかないという。
手紙と電話のやりとりだけだが、妹が、四十八歳の弁護士の後妻になる覚悟は、かなりのものと見えた。
寿子が結婚したとなると、敦子としては、経済的にどうやりくりして、父母に送金すればいいか、頭をひねらなくてはならないが、その弁護士が、父母の面倒はみる、と寿子に約束しているらしい。ただ、父の方が今のところは、それを絶対に拒むに決まっているのが問題だった。
いずれにしろ、年の暮れまでに、何か結論が出るだろう。一度は敦子も向こうへ帰らなくてはならないかもしれない。
「ともかく」
と、敦子は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「今年一杯は返事を待ってよ。ね?」
「約束だよ」
と、少し情けない声を出す。
そんな有田を見ると、敦子は、この人と結婚して、「姉さん女房」でいばってるのも、結構楽しいかもしれないな、と思う。しかし、今、敦子はまだ有田との付き合いに、のめり込まないようにしていた。
万が一、妹と父母の間がこじれたりしたら、敦子一人で、両親をみることになりかねない。――そうなれば結婚どころではないし、有田に、いつになるかもしれない日まで待て、とは言えない。
だから、意識的に敦子は有田に頼り切ることがないようにしていたのだ。
「――今度の旅行、あなた初めてでしょ」
敦子は話題を変えた。「うちの課は、絶対に歌わされるのよ。覚悟してる?」
「歌はなあ……。勘弁してほしい」
まれに見る音痴の有田は、頭をかかえて、悲しげな声を出した。敦子は、思わず笑い出してしまった……。
外へ出ると、もちろんもう真っ暗で、一時間もかけて食事していたことになる。
「――大西さんに、私がおしゃべりしてたから、遅くなった、って言うのよ」
「平気さ。課長が言い出したんだから。じゃ気を付けて」
「また明日」
有田は歩き出して、振り向くと、
「明日は金曜日だね」
と、敦子に|訊《き》いた。
「金曜日よ。どうして?」
「|明後日《あさって》は土曜日! デートだよ! 忘れないでくれよ」
敦子は笑って、
「忘れやしないわよ」
と、手を振った。
有田が弾む足取りで会社の方へ戻って行くのを見送って、敦子はちょっと息をついた。
――有田は年齢の割にも、若い。生活の苦労というものを、ほとんど知らないのである。
その無邪気さ(?)が、敦子には|羨《うらや》ましくもあり、いささか頼りなくもあった。
さて。――帰るか。
だが、何となく、「真っ|直《す》ぐ帰らない夜」というのは、もう少し、もう少し、と足が向くもので、敦子も、
「辛いものを食べたから」
と、理屈をつけて、ケーキの店に寄って小さな甘味を抑えたケーキを食べて行こう、と思った。
まるで高校生ぐらいの女の子みたいね、と自分でもおかしくなる。
明るいケーキの店の中へ入ろうと扉の前まで来て、敦子は思い出した。
あの女の子――竹永智恵子は、どうしただろう?
もう七時近い。いくら何でも、まだあそこに座ってるってことはないだろうが……。
気にしたって仕方ない。何をしてやれるわけじゃないんだから。――放っておくしかない。
自動扉が開く。
「いらっしゃいませ」
ウエイトレスの女の子の声がした。
敦子は、回れ右をして、会社のビルへと歩き出していた。
――正面の入り口は、もうシャッターが下りている。道を行く人の数も、ずっと少なくなっていた。
竹永智恵子は、まだあのレンガの上に、腰をおろしていた。
ずっと手前で足を止めて見ている敦子のことには、全く気付いていない。いや、もう暗いから、よほどそばに行っても、それとは分からないだろう。
すると――智恵子が立ち上がった。
スカートを手で払うと、ボストンバッグを手に、まるでたった今、眠りからさめた、とでもいう様子で、左右へ目をやる。
そして、敦子が立っている方へ向かって、ゆっくり歩き出した。――そう。もちろん、敦子は制服も着ていないし、暗いのだから、たとえすれ違っても、向こうには分かるまい。
それでも、智恵子が近付いて来ると、敦子は我知らず歩き出していた。目を伏せて、智恵子がこっちに気付くかどうか、うかがいながら。
智恵子は、敦子の方に目も向けず、すれ違って行った。
敦子は、歩いて行く智恵子の後ろ姿を、じっと見送っていた。
もちろん、どこかに|親《しん》|戚《せき》とか、知り合いの人ぐらいはいるのだろうし……。敦子には、どうしてやることもできないのだ。
智恵子の足取りは、ゆっくりしていた。道が良く分からないというだけではなく、どこへ行ったらいいか、迷っている様子だ。
敦子は、しばらくためらっていたが、ボストンバッグを重そうにさげた少女の黒い影が、見えなくなりかけると、ほとんど無意識の内に、その後を追って、駆け出していた……。
「――じゃ、東京に知ってる人って、全然いないの?」
|呆《あき》れて|訊《き》くと、竹永智恵子は黙って|肯《うなず》いた。口の中は、ピラフで一杯だったのである。
「そう……」
近くの食堂へ、ともかくも少女を連れて行って、何か食べさせることにしたのだった。
――その食ベっぷりからすると、今日一日、ほとんど何も食べていなかったようだ。
水をがぶ飲みして、息をつくと、
「お|腹《なか》が痛い」
と、顔をしかめる。
「急に食べるからよ」
と、敦子は笑ってしまった。「お昼も抜きだったの?」
「はい」
と、素直に肯いて、「列車の中で、あられを食べただけです」
「それじゃ、お腹も空くわよね。ゆっくり食べて。私は別に急いで帰る必要もないから」
と、敦子は言った。
「――父は、広島の出です」
と、智恵子は言った。「被爆で、|親《しん》|戚《せき》のほとんどが亡くなって……。父だけは、何か用事で広島を離れていたんです。それで、うちは、ほとんど親類とかいないんです」
「そうなの」
敦子は|肯《うなず》いた。「お母さんは亡くなったんだっけ?」
「五年前です。母の方もあんまり身寄りのない人で……。いつも父は、私に、『長生きしなきゃな』って言ってました」
「家のことは、あなたが?」
「ええ。小さな社宅だから、そうやることってないんですけど――」
と、言いかけて、「もう出ちゃったんだから、なかった、って言わなきゃいけないんですね」
と、言い直した。
五年前から、といえば、この少女はまだ十二、三だろう。敦子は、自分のような一人暮らしでも、いい加減くたびれるのに、とため息をついたのだった。
竹永智恵子が、ともかくピラフを食べ終わるのを待って、敦子は紅茶を頼むと、
「じゃ、あなたどこへ行って泊まるつもりだったの?」
と、|訊《き》いてみた。
智恵子は戸惑い顔で、
「どこか――安いホテルでも。東京なら、何かあるだろうと思ってたんです。出て来たの初めてだから……。こんなにややこしい所だなんて!」
いかにも、その言い方には実感がこもっていた。
「そりゃ、安く泊めてくれる所はあるでしょうけど、あなたのような女の子一人じゃ、断られるわ、きっと」
「そうですか?」
「工場の、お父さんのお友だちの家とか――。どこか、親しくしているお宅に泊めてもらうわけにはいかないの?」
智恵子は、ちょっと目を伏せた。敦子は、
「話したくなければ、無理に言わなくていいのよ」
と、優しく言った。
「いえ……。思い出す度に、悔しくて、泣きたくなっちゃうんです」
と、少し|気《け》|色《しき》ばんで、「長いこと、本当に仲良く付き合っていた家のおばさんとかが、急に口もきかなくなって……」
「どうして?」
「父がいなくなったのを、初めの内は心配してくれたんです。近所の人たち――同じ社宅の人たちですけど、一緒に地元の警察へ行ってくれたりして」
「当然よね」
「でも――十日くらいたって、急にガラッと雰囲気が変わって」
「何があったの?」
「誰も教えてくれなくて、ずっと分からなかったんです。――学校で仲のいい子が、そっと教えてくれました。|噂《うわさ》が広まったんです。父がいなくなったのは、本社で、別の工場のいい仕事に回してもらう約束をしてもらったからだって」
「誰がそんなことを?」
「分かりません。――閉鎖で、みんなが困ってるのに、父一人が、そんな風に優遇されてると分かったら、みんなが怒るでしょう。だから、私も、分かっててお芝居してるんだって……」
「でも、あなたを放っといて、一人でよそへ行っちゃうなんて」
「だから、新しい職場で、私を呼べるように準備してるんだっていうんです。――父は、一人だけ抜けがけして、いい思いをするような人じゃありません」
と、智恵子は強い調子で言った。
妙な話だ、と敦子は思った。七人で本社へ行って、一人だけが、そんな扱いをされるはずがないではないか。
紅茶が来て、敦子は、ゆっくりとそれを飲んだ。
内心、かなり動揺もしていたのである。もう忘れかけていた、一か月前の、あの悪夢のような出来事を、思い出していたからだ。
「一緒に本社へ行った人たちは、何と言ってるの?」
と、敦子は|訊《き》いた。「もちろん、その人たちには、お父さん一人が、そんな扱いをされるはずがないってこと、分かってるわけでしょう」
「そうだと思うんだけど……」
と、智恵子は、気が重そうに、「それこそ、その六人の人たちは、全然言ってもくれません」
「どうして?」
「よく分かりません。ともかく、初めに、父一人が帰りの集合場所へ来なかった、ということを教えてくれただけで……。私、父のことで、あんなでたらめを言い出したの、あの人たちじゃないかと思ってます」
智恵子の疑いは、直感的なものだろうが、しかし、敦子にも何となくそう思えた。――いずれにしても、|噂《うわさ》というのは、反論する相手が見えないだけに、たちの悪いものなのだ。
「それに」
と、智恵子は、続けて言った。「父と一緒だった六人の内、二人はもう町にいません」
「どこへ行ったの?」
「よく知りませんけど……。ともかく、何か他の仕事を見付けた、とかで、引っ越して行ったんです」
それは別に不思議なこととは言えない。誰だって、自分の家族を養うために、必死であらゆるつてを|辿《たど》っているに違いない。
「――あの」
と、智恵子は、少しためらって、「どうして、私のこと、気にしてくれるんですか」
敦子も、どう答えたものか、よく分からなかった。
「そうね……。別に、大したことじゃないわよ。やっぱりあなたみたいな女の子が一人で、どこへ行っていいかも分からずにいるのを、放っておけないじゃないの」
敦子の説明で納得したのかどうか、智恵子は少し冷めた紅茶を、ホッとしたように飲んでいた。
「お父さん、どんな人?」
と、敦子は|訊《き》いた。
本当は、それを会った時から訊きたかったのだ。智恵子は、
「写真があります」
と、バッグから、定期入れを出して、「これ……去年撮ったやつです」
父と娘の、スナップ。運動会だろうか。
敦子は、その写真の男を、しばらく見つめていた。
電話が鳴り出して、敦子はふっと我に返った。
十一時をすこし回っている。誰からだろう?
「はい」
「あ、お姉ちゃん?」
妹の寿子である。敦子は少しホッとした。声の調子で、泣きごとを言って来たのではないと分かる。
「何だ。どうしたの?」
「遅かったのね、今日」
「そう? 三十分くらい前に帰ったのよ」
「そのころも、かけたんだけど。じゃ、ちょっと前くらいだったんだね」
「らしいわね。どうしたのよ、楽しそうな声出して」
「分かる?」
「分からないでどうするの。今にも歌でも歌い出しそうな声よ」
と、敦子はからかってやった。「どうしたの? 今、例の弁護士さんと二人なの?」
「今はちゃんと家から」
「そうか、前にはホテルから平気でかけて来たくせに」
「あれ、知ってたの?」
「私だって、あんたの思ってるほど世間知らずじゃないわよ」
「じゃ、あの人――何だっけ、有田さんとかいう人と、ホテルに行くの?」
「行かないわよ。こっちはね、ともかく忙しいの。何か用事だったんじゃないの?」
「十一月のさあ、二十一日って、お姉ちゃん、暇?」
「十一月二十一日? 何よ、それ?」
「私の結婚式」
寿子がそう言って、照れたように笑った。
「ちょっと――ちょっと待ってよ」
敦子が|唖《あ》|然《ぜん》としたのも当然だろう。
「ともかく、そういうことになったの」
「寿子、あんた……。今年の十一月?」
「一年も待ってらんないわ」
「だけど……お父さんとお母さんは?」
「渋々、承知してくれた。今夜ね、彼がうちへ来て、話してったの。それで納得してくれて」
これは敦子には驚きだった。あの頑固な父が、よくコロッと気を変えたものだ。
まあ、しかし――考えてみりゃ、寿子の彼氏は弁護士だ! 弁舌巧みなのは当然かもしれない。
「お姉ちゃん、喜んでくれないの?」
と、寿子は心外という声を出す。
「おめでと」
「心がこもってない」
「馬鹿。何よ、散々夜中に長電話で愚痴を聞かせといて。ともかく、良かったね」
「うん」
と、寿子は、弾んだ声で言った。「来年の春には、お姉ちゃん、『おばさん』だからね」
なるほどね。そういうことか。
「何月なの、予定日は?」
「五月の初めくらい。でもね、結婚を許してもらうために、作ったんじゃないのよ。成り行きなの」
「何が成り行きよ」
聞いちゃいらんないわね。――敦子は、メモ用紙を持って来て、
「二十一日? 時間と会場は?」
と、メモを取った。「よく|空《あ》いてたわね」
「仏滅だもん、その日」
「そうか、あんたの彼氏って、何ていうんだっけ?」
「手紙に書いたでしょ。|山《やま》|下《した》|輝《てる》|男《お》」
「山下さんか。私が帰る飛行機代、持ってくれる?」
「私が出すの?」
「ボーナス前よ。こっちは厳しいんだからね。それくらい出しなさい」
これぐらいのことは言ってやらなきゃね。でも――敦子も|嬉《うれ》しかったのだ。
もちろん、年齢の離れた夫、中学生の男の子、という家庭なのだから、色々と苦労もあるだろうが、寿子は、そう個性の強い子ではないので、|却《かえ》って昔から、たいていの人には好かれる子である。その点は敦子の方が少し頑固で、父親に似ているのかもしれなかった。
「――ともかくおめでとう」
「うん、詳しいことは手紙に書くわ」
「ハネムーン、行くの?」
「うん。オーストラリア」
敦子は、引っくり返りそうになってしまった……。
電話を切って、何とまあ|呑《のん》|気《き》なもんだ。――下の子っていいわね。長女としては、ついため息の一つも出るのだった。
「あの――」
と、声がした。
振り向くと、お|風《ふ》|呂《ろ》を出た竹永智恵子が、パジャマ姿で立っている。
「熱すぎなかった? 私、いつも熱いのに入るから」
「いいえ。うちも、私も父も熱いお風呂が好きでしたから」
ほてって、|頬《ほお》が真っ赤だ。見ていて、思わず敦子も|微《ほほ》|笑《え》んでしまうほどだった。
「ドライヤー、その鏡台の所に――。お布団が、ほとんど出したことないから、冷たいかもしれないけど、我慢してね」
「ええ。どうもすみません」
智恵子は、敦子の前に、きちんと正座すると、「今夜だけ、お世話になります。明日、何とか泊まる所を捜しますから」
「いいから、早く寝て。疲れてるでしょ。私長風呂だから、眠ってていいのよ」
「はい」
智恵子は素直に肯いて、ピョンと頭を下げ、「おやすみなさい」
と、言った。
――敦子は、熱いお|風《ふ》|呂《ろ》につかって、フーッと息をついた。
こっちが近くの温泉にも行かずに仕送りしてるっていうのに、寿子はオーストラリア、ね……。ま、勝手にやってよ。
しかし、差し当たり、寿子の方の問題はほぼ片付いたわけだ。その代わり、といっては変だが、結局、竹永智恵子をここへ連れて来てしまった。
放り出して来るわけにもいかなかったのだ。何といっても、まだ十七の女の子。夜の町をふらついていたら、補導されるか――いや、妙な連中に捕まらないとも限らない。
まあ、今日一晩だけ、というわけにはいかないだろうが、二、三日の内には、智恵子も学校の先生にでも連絡して、どうするか相談したい、と言っているから……。
あの、智恵子の父親の写真を見た時、敦子は自分の直感が当たっていたことを知ったのだった。
智恵子の父、竹永喜市は、あの時、七人のリーダー格で、敦子につっかかる仲間を抑えてくれた男だったのである。
そして乱闘騒ぎの時、有田は竹永喜市を放り投げ、円柱に頭を打ちつけた竹永は、意識を失ってしまったようだった……。
その竹永が、翌日、帰りの集合場所に現れなかったというのだ。――どういうことなのだろう?
頭を打っていた、というのが、敦子は気になったのだ。あの後、専務の国崎が組合員たちと話した時、竹永はその場にいたのだろうか?
|一《いっ》|旦《たん》、良くなったように見えて、当人も平然としていても、後になって突然倒れる、ということもある。特に、頭を強く打っているのだから……。
あの夜、七人の組合員が別々に泊まって、竹永は、東京に知人もないらしいから、どこか安いホテルにでも泊まったのかもしれない。そこで、容態が急変したとしたら……。
|身《み》|許《もと》もよく分からないまま、どこかへ入院してしまったことも考えられる。
――どうしたものだろう?
敦子は、考え込んだ。
大西は、あてにならない。あの時、大西は竹永と話していた。互いに見知っていた様子だったのだ。
それなのに、智恵子が訪ねて来たことを知らせた時、
「そんな名の男もいたな」
と、言っている。
おそらく智恵子の名を聞いて、すぐに思い当たったのだろうが、そうは言いたくなかったのに違いない。ということは、大西に相談してもむだ、ということだ。
でも、放っておくわけにはいかない。
敦子は、あれこれ考えすぎて、さすがにのぼせてしまった。
目覚まし時計が鳴り出した。
敦子は、布団の中から手を伸ばして、時計をうまく捕まえた。全然見なくても、ちゃんと手が時計の場所を|憶《おぼ》えている、というのは、大方の勤め人なら同様に持っている「特技」だろう。
ベルを止めて、さて、起きなきゃいけないんだわ、と自分へ言い聞かせる。今は、真冬や真夏に比べれば、ずっといい季節で、起きるのも楽なはずだが……。まあ、理屈通りにはいかないものである。
お隣の家のミソ汁が、ずいぶん|匂《にお》って来るわね、と敦子は思った。窓が開いてたのかしら? まさか。
空腹を刺激してくれること。――敦子は|欠伸《あくび》しながら、ゆっくりと頭を上げた。
「おはようございます」
突然声がして、敦子はびっくりして起き上がった。まだ部屋はカーテンが引いてあって、薄暗いが、台所だけ明かりが|点《つ》いていて、竹永智恵子が敦子のエプロンをつけて、流しに立っている。
敦子は、すっかり目が覚めてしまった。
「あなた……もう起きたの?」
「くせで、いつも目が覚めるんです。――あ、まだ寝てらして下さい。もう少しかかりますから」
低血圧の敦子は、あまり勢いよく起きると、貧血を起こすことがあるので、少し寝床でぐずぐずすることにしていた。しかし、智恵子が起き出しているのに、まさかゴロゴロしてられやしない。
「そんなこと、しなくていいのよ」
「でも……。お世話になったんですから」
「へえ、義理固いのね」
「いつも父のお弁当をこしらえてましたから、慣れてるんです」
めったに使わない|電《でん》|気《き》|釜《がま》が、シューと蒸気を吹き出している。
「ご飯まで炊いたの? お米ってあったかしら? 少し古かったかもしれないわよ」
「表に行って買って来ました」
「買って来た?」
「といでから、時間がなかったんで、少し固めのご飯かもしれませんけど」
「そんなのいいけど……」
「おミソ汁の具はお豆腐とワカメだけですけど。あと、干物を買って来ました。煙が出るけど」
二十四時間開いている店も、確かにこのへんにはある。しかし、どうも敦子としては、立場がない感じである。
じゃ、まあともかく……。顔でも洗いますかね。
顔を洗って、服を着ると、ちょうど、干物も焼き上がって、おいしそうな|匂《にお》いが、狭い部屋の中を満たしている。
「今、お茶をいれます」
と、智恵子は微笑して言った。
きっとご近所がびっくりしてるわね、と敦子は熱いご飯を食べながら、思った。
一体どういう心境の変化かと目を丸くするに違いない。
「ねえ、あなたも食べたら?」
と、敦子は言った。「一人じゃ食べ辛いわよ、私」
「はい。ちゃんと干物も焼いてますから」
智恵子は、自分で、小さな|茶《ちゃ》|碗《わん》にご飯をよそった。
「何だか、旅館にでも泊まった気分だわ」
と、敦子は笑った。「あなたって、たいしたもんね」
「誰だって、慣れれば」
と、智恵子は、少し照れて言った。
「私にも妹がいるけど、こんなこと、できないんじゃないかしら」
「ゆうべ、お電話してらした……」
「そう。今度結婚するの。でも、どうせ何もできない新妻ね」
「うちだって、母がいるころは、私、何もしませんでした」
と、智恵子は言った。
食べるのが早い。きっと、後の片付けもしなくてはならないので、自然に早く食べるようになるのだろう。
「買い物のお金、どうしたの?」
ふと気付いて、敦子は|訊《き》いた。
「父の退職金、持ってますから。大したことないけど、当分は何とか――」
「いけないわ。後でちゃんと払うから」
「泊めていただいたんですから」
「お金を取れるような高級マンションならともかくね」
と、敦子は苦笑した。
「あの」
と、智恵子はおずおずと、「買い物して戻る時に、アパートの人が、出かけるのと会っちゃったんです」
「そう、そんなに早いのは……。長い顔した人?」
「ええ、そうです。髪の半分白い」
「一階の|高《たか》|瀬《せ》さんだわ。何か言ってた?」
「おはようございますって|挨《あい》|拶《さつ》して、何だか不思議そうな顔で見るんで、つい、私――」
「何て言ったの?」
「こちらの|親《しん》|戚《せき》です、って。すみません、勝手なこと」
「いいのよ。それが一番無難でしょ」
と、敦子は言った。「娘です、じゃちょっとショックだけど」
智恵子が、軽く、|弾《はじ》けるような声で笑った。それは、敦子が遠い昔によく友だちの間で耳にした声だった。
「今日は、どうするの?」
と、敦子は|訊《き》いたが、すぐに付け加えた。「別に、早く出てくれ、って言ってるわけじゃないのよ。疲れていたら、ゆっくりしてればいいし……」
妙なものだ。本当なら、縁もゆかりもない少女である。ここに置くいわれもないのだが……。
あの事件のことは、智恵子も知らない。どうして敦子が、ここにいていい、と言うのか、不思議だろう。
「ともかく、こっちへ来てる友だちとか、捜してみようかと思ってます。学校の先生にも、電話を入れないと」
「そうね。でも、泊めてくれる人って、なかなか」
「分かってます」
と、智恵子はお茶を、残ったご飯にかけながら、「どこか、住み込みで働ける所を捜しますから」
「でもね、あなたまだ十七でしょ? もし、良さそうな仕事があるな、と思っても、勝手に決めちゃだめよ。必ず私に言って。分かった?」
「はい」
「人を|騙《だま》すのが商売ってのも沢山いるんだから。もし、何なら、私が仕事を捜してあげる。あなた一人じゃ、危ないわ」
何もそこまでしなくても、と自分では思うのだが、ついこんな言葉が出てしまうのは、長女意識というものなのだろうか。
「――あ、もう行かないと」
敦子は、鏡台の前に行って、ごく簡単に化粧を済ませた。
「悪いわね、片付けが――」
智恵子がいない、と思ったら、玄関で敦子の靴を|拭《ふ》いている。
「ちょっと! 安物の靴だから、こすると穴があくわ」
いくら何でも……。しかし、何ともむずがゆいような気分である。
「じゃ、何かあったら、会社へ電話して。電話のそばに書いてあるから」
「はい」
「あ、これ――ここの|鍵《かぎ》」
と、引き出しからスペアの鍵を出して来る。
「出かける時はかけてね」
「行ってらっしゃい」
――送り出されるってのは、妙な気持ちである。
考えてみれば、見も知らぬ女の子に、鍵まで預けて。大したお金も置いていないが、通帳も印鑑も引き出しの中。
でも、敦子は、明るい気分だった。足取りも軽く、歌でも歌い出しそうだ。
アパートを出ると、一階の例の水町の奥さんが、表をはいている。
「おはようございます」
と敦子が声をかけると、
「おはよう」
と顔を上げて、「|親《しん》|戚《せき》の娘さんがみえてるんですって?」
敦子は情報の早さに驚きながら、
「ええ、何日かいると思います」
と答えていた。
本当に――何を考えてるのよ。
敦子は、いつも通りに超満員の地下鉄に揺られて会社へ向かいながら、思っていた。
寿子は結婚するし、両親の面倒だって、まだ当分はみなくてはならないだろうし……。赤の他人をアパートへ置いてやる余裕なんて、どこを捜したってありはしない。それなのに……。
地下鉄の混雑は、相変わらずひどい。これから寒くなると、ますます厚着になって、混雑の度も増すのである。
時には、人の圧力で、窓ガラスが割れることさえある。あの厚さのガラスが。――人間の体って、丈夫にできてるんだ、などと、妙なところで感心したりして……。
誰だって、うんざりして、そして|諦《あきら》めている。じっと目を閉じて、無我の境地って人もいる。
実際、立ったまま眠ったって、こうもびっしりと人が詰まっていると、倒れる心配はまずない。敦子も、眠りこそしないが、目をつぶっていることが多かった。
たまには、何かの拍子でガラ空きの電車が来て、座ってのんびり行ける、なんてことはないかしら。――勤めている人間なら、誰だって、そんなことを一度は考えるだろう。
しかし、もし本当にそんなことがあったら……。喜ぶよりも、不安になって、落ちついて座っていられなくなるのではないか。
勤め人は――男も女も関係なく――今日も昨日と同じで、明日が今日と変わりない、ということを前提にして生活しているのだ。
敦子が、あの竹永智恵子のために、何かしてやりたいと思っているのは、一つには、あのロビーでの乱闘事件を自分が目撃していたからなのは、言うまでもない。でも、それだけではなくて、この同じ毎日の中に飛び込んで来た「厄介ごと」に、どこか|爽《さわ》やかな驚きを覚えていたからでもあったのだ。
自分自身の十年前は、果たしてどんな風だっただろうか? そんなことを思うのも、智恵子を見たからだ。
敦子は、会ったばかりのあの少女を、昔の寿子に出会ったような、懐かしさで見ていたのである。――新しい妹みたいな、と言ってもいい。
ともかく、できるだけのことをしてやりたい、と敦子は思った。もちろん、敦子の力でやれることなど、限られてはいるとしても……。
地下鉄の駅から階段を足早に上って行くと、
「おはよう!」
と肩を|叩《たた》かれる。
「あら、早いのね」
と、原久美江の顔を見て言った。
「へへ、ご近所からの出勤だもん」
どこかのホテルに泊まって来たのだ。それでいて、ちゃんと服を替えているのに、敦子は感心してしまった……。
探偵稼業
「あら、お|風《か》|邪《ぜ》?」
と、受付の看護婦が敦子の顔を見て、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「そうじゃないの。ちょっと仕事で」
「お仕事?」
「今、忙しそうね」
実際、オフィス街のビルの中に開設されているクリニックは、一日中、客の絶えることがない。敦子も、風邪などで、何度かここへ来ていたが、待合室はいつも、立って待つ人がいるくらいの盛況ぶりだ。
重役タイプの人、これはおそらく、高血圧とか糖尿病といったところだろう。姿勢が悪くて、しかめっつらで週刊誌など眺めている中間管理職タイプは、|胃《い》|潰《かい》|瘍《よう》か。かと思うと、ただ健康診断を受けに来た、やたら元気な若い社員もいて、目立っている。
ここの待合室では、上司も部下もない。いや、もちろん、同じ会社の人間ではないからだが、ちょっと不思議な光景ではあった。
「別にいいわよ。何か?」
と、看護婦は、気軽に言った。
「ひと月くらい前なんだけど……。打ち身とか、すり傷で、十人近い人が、一度にここへ診てもらいに来たでしょ」
と、敦子は言った。
「ああ、|憶《おぼ》えてるわ。あの管理人のおじさんがついてね」
「そう。あの時の治療費のことでね。ちょっと|訊《き》いて来い、って言われて」
「へえ。受付の人がそんなことまでするの? 大変ね」
「雑用に時々かり出されるのよ」
と、敦子はごまかした。「何か――特別な治療をした人はいたかしら?」
「さあ……」
看護婦は首をひねって、「あの時は私もいたからね。――でも、傷を消毒したり、湿布したり……。そんなもんじゃなかったかしらね。何か高くついてた?」
「いえ、そうじゃないんだけど……。レントゲンとか撮った人、いなかったかしら」
「レントゲン? そんな大げさなこと、しなかったと思うわ」
と、看護婦は目を丸くして言って、「ね、あれ、どう見ても、|喧《けん》|嘩《か》のけがでしょ。何があったの? 誰かに訊いてみようと思ってたんだ」
「え、まあね」
敦子は、ちょっと肩をすくめて、「そうなの。会議が荒れてね」
「へえ……|凄《すご》いのね」
少しは、打ちあけ話もしてやらなくては、話を引き出すこともできない。
「それでね――」
と、敦子が言いかけると、電話がかかって来た。
話が中断されて、敦子は、じりじりしながら、待っていた。
「ごめんなさい、待たせて」
看護婦は、電話を終えると、「こういう約束に平気で遅れて来る人ってのがいるのよね。困っちゃう」
「大変ね」
と敦子は同情して、「それで――」
「やあ、永瀬君」
と、声をかけて来たのは、経理の課長だった。「どこか具合悪いの?」
何ともタイミングが悪い。敦子は、がっかりした様子を、表情に出さないようにして、
「風邪気味なんです」
と、言った。「課長さんは飲みすぎ?」
「おいおい、はっきり言わないでくれよ」
と、苦笑する。
仕方ない。これ以上は話していられない、と敦子は判断して、受付の看護婦に、
「お邪魔して、ごめんなさい」
と、声をかけた。
「いいえ、お大事に」
看護婦は、敦子にちょっとウインクして見せた。三十代半ばの、かなりベテランという感じ。なかなか面白い人なのである。
敦子は、クリニックの入ったビルを出ると、急いで会社へ戻った。時間中に抜け出して来たのだ。
取りあえず、あの時、けが人を連れて行ったのが、あのクリニックだったというのは分かった。――K化学工業が、社員の健康診断などで使っているので、おそらく、とっさの場合、他へは行かないだろうと思ったのである。
「――ごめんなさい、久美江さん」
三階の受付へ戻って、敦子は息を弾ませた。
「どうかしたの?」
と、久美江は、また色々と想像をめぐらせているらしい。
「うん、ちょっとね」
敦子は、メモを見て、会議室用のコーヒーを注文した。
久美江が隣でちょいちょい、とつつく。
「何?」
「クリニックに何の用?」
と、久美江が声をひそめる。
「ええ?」
「ちょうど入れ違いに戻って来た人がいて。敦子さんが、こっそり入って行ったわよ、って」
「こっそり、だなんて」
「もしかして、有田さんと――。そういえばこのところすっぱいものをよく食べてるわ、とか話してたの」
「やめてよ、変な|噂《うわさ》流すの」
敦子は、ちょっと焦った。「少し頭痛がしただけ。本当なんだから!」
「私はね、そんなことないんじゃない、って言ったのよ」
と、久美江は言ったが、怪しいものだ。
敦子は、どこで誰が見てるか、分からないものね、とため息をついた。
午後になると、やたら来客が多くて、久美江とおしゃべりする余裕もなくなった。
よく、他の課の課長が、
「暇そうだね」
とか、声をかけて通る度に、敦子は|微《ほほ》|笑《え》みながら、心の中で舌を出してやる。
何も分からないくせして! 座ってるだけで楽だなんて、思わないでほしいわね、全く!
――三時を回って、やっと少し息をつけるようになった。
有田が、外出先から戻って来た。大西が一緒だ。
「|俺《おれ》のも、〈帰社〉としておいてくれ」
と、大西は有田へ言って、敦子の方へ、
「やあ、明日はどこへ出かけるんだい?」
と、冷やかすような声をかけて行く。
「さあ……」
敦子は、有田の方をちょっとにらんだ。
大西は、席の方へ行きかけたが、ふと足を止めて、
「永瀬君。――昨日下の受付に来てた、女の子だけどね」
と、言った。
「はい、竹永さんって子ですね」
「うん、そうそう。あの後、何か言って来たかい?」
敦子は、何となく、ごく自然に、
「いえ、何とも」
と、首を振って答えていた。
「そうか。それならいいんだ」
「でも――あの子の父親のこと、何か分からないでしょうか。|可《か》|哀《わい》そうで」
「そうだねえ、ま、僕も何か耳にしたらとは思うけど。あんまり気にするなよ」
大西が、自分から竹永智恵子のことを|訊《き》いて来るというのは、おそらく、それだけ心配の種が何かあるからだろう。本当に度胸のいい人間なら、すっかり忘れたようなふりをしているはずだ。
その辺が、大西の小心なところなのだ。
大西が席へ戻って行くと、
「課長さんのおとも?」
と、敦子は有田に声をかけた。
「うん。課長の代理で、これから行くかもしれない所へ、|挨《あい》|拶《さつ》にね」
「へえ。|凄《すご》いじゃないの」
と、割り込んで来たのは、久美江である。「有田さん、すっかり有望株ね」
そう。――有田は、背広も新調して、前に比べると、ずいぶんすっきりした。有能、という印象を与えるようになって来たのである。
背広、ネクタイ、どれも敦子が有田をデパートへ引っ張って行って選んだものだから、敦子の趣味に合うのは当然のことだ。
しかし、本当に妙な話だが、敦子は、有田にこのスタイルがあまりに良く似合うので、|却《かえ》ってつまらなかった。
「明日、楽しみにしてるよ」
有田が、笑顔で言った。昔ながらの笑顔で。
「明日はデートか」
と、久美江がおどけて、「結構でございますわね」
自分の方が週末も何もなしに外泊してしまうくせに、と敦子は言いかけたが、やめておいた。何を言われても、あまり腹も立たないのが、久美江の得なところである。
「――ね、明日はどこへ行くつもり?」
久美江が離れて行ったので、敦子は有田に|訊《き》いた。
「ドライブでもしようかと思って――何か用事かい?」
「ううん。そういうわけじゃないけど」
「今夜、ゆっくり検討するからさ。じゃ、明日――」
「ええ」
敦子は、ちょっと肩をすくめた。
別に、どうってことはないのだが……。ただ、竹永智恵子のことが、気になったのである。
久美江が戻って来た。
「悪いけど、ちょっとお願い」
一階へ下りて行くと、ロビーを見回した。平山は、ちょうど、大理石の床にかがみ込んで、何かやっているところだった。
「――何してるの?」
と、歩いて行って声をかけると、
「やあ」
顔を上げた平山は、少し額に汗さえ浮かべて、「傷がついてね。困ったもんだ。何とかならないかと思って」
「どうしたのかしら?」
「何か荷物を運び込む時に、こすったんだと思うよ」
「じゃ、どこの業者か分からないわね」
「うん……。何しろ|訊《き》いてみたくてもね」
と、平山はチラッと受付の方を見る。
もちろん、そこに端然と座っているのは、宮田栄子。確かに、相手が敦子や久美江なら、気軽に、
「見なかったかね」
と、声もかけられるが、宮田栄子となると、|下《へ》|手《た》にそんなことを訊いても、
「そんなのは受付の仕事じゃありませんよ」
と、やられるのがおちだろう。
敦子は、ちょっと笑って、
「分かるわ」
と、言った。「ね、少し訊きたいことがあるんだけど」
「ああ、何だね?」
と、平山は体を起こして、顔をしかめた。「もう腰が……。仕方ないもんだね」
「しっかりしてよ」
と、敦子は平山の肩を|叩《たた》いた。
警備員室へ入ると、敦子は、
「お茶でもいれましょうか」
と、言った。
「やあ、そりゃありがたい」
平山はホッとしたように、「自分でいれるお茶は味気ないよ」
と、|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
「私がいれても、大して変わんないわよ」
敦子は、妹の結婚が決まったことを、平山へ話してやった。
「そりゃ良かった。心配してたもんね。――や、ありがとう」
「私もいただくわ。お休みを取らなきゃいけないわ」
「おめでたいことならいいじゃないか」
「うん」
敦子も、熱いお茶を、ゆっくりと飲んだ。
「ね、平山さん」
「うん?」
「|憶《おぼ》えてる? 一か月くらい前の……。あそこでの乱闘騒ぎ」
平山の顔が、不意に曇った。敦子がハッとするほどの変わりようだった。
「忘れられやしないよ」
と、平山は、重苦しい調子で言った。「しかし、忘れたいと思ってる」
「そうでしょうね。――ごめんなさい」
「あれがどうかしたのかね」
「あの時、一人、ひどく頭を打った人がいたでしょう。有田さんが放り投げて、完全に気絶しちゃった人……」
平山は、ひどく落ちつかない様子になった。
「そう……だったかね」
と、首をかしげて、「よく憶えていないがね」
「そう、ここへ訪ねて来たの、あの人の娘さんが」
「娘――」
平山は、|肯《うなず》いて、「そうか。昨日、表を行ったり来たりしていた子か」
「ええ。お父さんが、あれきり戻らないんですって。私、気になって」
と、敦子は言った。「何か、憶えていない? どこへ行くと言ってたとか、病院はどこだった、とか……」
「いや、悪いけど、さっぱり」
と、平山は首を振った。
「そう」
敦子は、やや失望した。
本当なら、有田に|訊《き》けばいいことなのだ、と思うのだが、何となく、有田がその話をしたがらないだろう、という気がしたのだ。
それに、今、有田は大西とひどく親しくしている。
敦子が、こんなことを調べていると知ったら、大西の耳に入れるかもしれない、と、思った。
妙なものだ。恋人なのに。――恋人? 本当にそうだろうか。
「それで――」
と、平山は言った。「その女の子、母親と二人で来たのかい?」
「一人。もともと父親と二人だったんですって。それで社宅も出されて……」
敦子が、竹永智恵子のことを詳しく話すと、平山はため息をついて、
「運の悪い子だね」
と、首を振った。「じゃ――また元の町へ帰ったのかね」
敦子は、ちょっとためらった。何も、平山にまで隠すことはない、と思ったが、どんな時に大西の耳にでも入らないとも限らない。
内緒にしてくれ、と頼むのも妙なものだろう。
「何だか――友だちの所へ泊まるとか言ってたみたい。どこだか聞いてないけど」
と、|曖《あい》|昧《まい》に言っておくことにした。「でも、私も、できるだけ調べてあげる、と約束しちゃったものだから。平山さん、何か知ってるかな、と思ったの。ごめんなさいね。お仕事の邪魔して」
「いや、一向に構わないよ」
平山の口調には、少し無理をしているところが感じられた。もう中腰になって、話を切り上げたがっている。
「でも、憶えてない? あの時一番ひどいけがをした人だと思うんだけど」
「そうだねえ……。もう一か月だ。何しろ、このところ忘れっぽくなったしね」
「そんなこと言って。まだ小さな洋子ちゃんがいるでしょう」
と、敦子は笑った。
「そう。――そうだね」
突然、平山が深く考え込みながら、そう言ったので、敦子は戸惑った。
「じゃ、戻るわ。またね」
「ああ」
「明日はお休み?」
「うん」
「じゃ、洋子ちゃんのお相手ね」
「疲れるがね」
平山に、やっといつもの笑顔が戻った。
「色々、当たってみたんだけど」
と、敦子は言った。「そんな具合で、何も分かってないの。ごめんなさいね」
「そんなに簡単に、父が見付かるなんて思っていません」
と、竹永智恵子は言って、「もう一杯いかがですか」
「え……。そうね。いただこうかしら」
夕ご飯のおかわりをして、「――太りそうだわ。あなたにお料理をやってもらっていると」
夕食の仕度も、帰宅すると、しっかりしてあって、しかも味付けは悪くない。いかに慣れていたとはいえ、いささか敦子も立場がない感じである。
しかし、智恵子も、実に良く食べる。
敦子など、見ていて|唖《あ》|然《ぜん》としてしまうほどだった。十七歳という年齢を考えれば……。私もこれぐらい食べていたのかもしれないわ、と敦子は何となく、感無量、というところであった。
ただ、当分智恵子がここにいるとすれば、外食しない分、浮く代わりに、材料費やお米代は倍以上になって……。まあ、やはり多少は食費がかさむ、ということになりそうだった。
「――あ、そうだ」
と、智恵子が言った。「さっき、電話がありました」
「電話?」
誰だろう? もし、有田だったら――。
「何だかTV局の人だと言ってましたけど。よく分からなかったんで、私、留守番なので、って言っときました」
TV局。敦子はハッとした。
あの騒ぎの日、食堂で敦子に声をかけて来た男だろうか? でも、どうして今になって……。
電話番号も、一体どうやって調べたのだろう? もちろん、敦子は、ここの番号を、電話帳にも出していない。
「何か言ってた、その人?」
と、敦子は|訊《き》いた。
「いいえ。留守です、って言ったら、それじゃ結構ですって」
「そう。大した用事じゃないのよ、きっと」
と、敦子は言った。
智恵子が、あの時、ロビーに座り込んでいた男の娘だ、と、もしあの時の男が知ったとしたら、やはり何かある、と思って、しつこくつきまとって来るだろう。
「――そうそう」
と、敦子は食事を終えて、お茶を飲みながら、「お父さんと一緒に上京して来た人たちの名前、分かる?」
「分かります」
「誰か一人ぐらい、お父さんのことを聞いてる人もいるんじゃないかという気がするの。名前、教えてくれる? 所属とかは、人事部へ行けば分かるから」
「もう、辞めた人も、ですか」
「ええ。どこかへ移った人も、一応、記録があると思うから」
「はい」
智恵子は、急いで、台所のメモ用紙を一枚破いて来て、ボールペンで、名前を並べて行った。そして、ふと顔を上げると、
「あの……。私、いつまでここにいていいんでしょうか」
と、訊いた。
「いいじゃない。差し当たりは、お父さんの行方が分かるまで、っていうことで」
智恵子は、ホッとしたように、|微《ほほ》|笑《え》んだのだった……。
ウイークエンド
「まだ残ってるよ。どう?」
と、有田が、ワインを敦子のグラスへ|注《つ》ごうとする。
「もう充分」
敦子はあわててグラスを手でふさいだ。今だって、少し飲み過ぎているくらいである。もともとアルコールには強くない。
「だって、大して飲んでないよ、君」
と、有田は言った。
「これ以上飲むと、頭痛がして来るから。本当に」
「そうか。じゃ、僕が飲んじまおう」
有田は自分のグラスに、ボトルの残ったワインを、全部注いだ。
「大丈夫なの?」
敦子は心配して、「車があるのよ。捕まったら大変じゃないの」
と、言いながら、|鴨《かも》の肉にナイフを入れていた。
ホテルの最上階のフランス料理のレストラン。――年中こんな所へ来ているわけではないにしても、別に生涯これがただ一度の晴れの舞台、というわけでもない。
一応、有田とデートすると、この程度の店に入るのは珍しくなかった。それなのに、どうしてこうも「あがって」いるんだろう?
いや、敦子の方ではなく、有田が、である。
食べるのも早いし、飲むのも|凄《すご》いピッチだ。
有田は、体が大きな割には――というのは、大柄だとアルコールに強い、という通説に従えば、のことだが――そう飲める口ではないのである。今夜の飲み方は、何だか「やけ酒」みたいだ。
「――味はどう?」
と、有田は言った。
「うん。おいしいわ。この甘いソースが好きなの」
正直言うと、ちょっと甘過ぎるきらい、なきにしもあらずである。しかし、そんなこと言っちゃ、支払いをしてくれる人に対して気の毒だ。
「そう。良かった。でも、量が少ないな」
「私に合わせて鴨取らなくても良かったのに」
「もっと大きな塊が出て来るかと思った」
「まさか」
敦子は笑ってしまった。
アルコールはともかく、食欲の方は、体格から連想される通り、人並み以上の有田である。
きれいに飾りつけた鴨のローストでは物足りなくて当然だろう。
「ま、いいや。――ね、ちょっと。パンをくれる?」
「かしこまりました」
ウエイターも、つい|微《ほほ》|笑《え》んでいる。何しろパンの追加が三回めである。
「居眠り運転、しないでよね」
と、敦子は苦笑しながら、言ってやったのだった。
「やっと満腹だ」
デザートを終わって、有田は大きく息をついた。
ワインが効いて、顔が赤くほてったようになってしまっている。
「しばらくは無理よ、車の運転」
敦子は本気で心配していた。事故や取り締まりに引っかかるのまで、仲良く一緒じゃ、かなわない。
「うん……」
有田は、水をガブガブ飲んで、「いっそ――ねえ、泊まって行かないか、今夜」
「泊まる?」
「このホテルに。――どう?」
敦子には、やっと分かった。どうして有田があんなにワインを早いペースで飲んだのか。
いや、泊まる口実、というだけではなかったろう。実際、これを言い出すのに、「景気づけ」が必要だったのだ。
しかし、敦子にとっては、思ってもみない話だった。
「まあ……急にこんなこと言って、怒らないでくれよ。でも――社内でも、僕らのことは公認みたいなもんだろ? そろそろ、週末を一緒に過ごすっていうのも……。いや、君がどうしても、その……。だけど、僕としてはね……」
本人も何を言っているのか、よく分かっていないらしい。敦子は、腹が立つより、おかしくなって笑ってしまった。
「良かった! ひっぱたかれるかと思ってたんだ」
「声が大きいわよ」
と、敦子はあわてて言った。
タイミングよく、
「コーヒーかお紅茶はいかがでしょう」
ウエイターが|真《ま》|面《じ》|目《め》くさった顔で、そばに立っていた。
「あの――紅茶を。ミルクティーで」
「僕も[#「僕も」に傍点]コーヒー」
ろくに耳に入っていないのである。
敦子は、しかし返事に困った。
「最初から、そのつもりだったのね」
「ごめん」
「部屋も、取ってあるの?」
「ごめん」
「そんなこと……思ってもいなかったわ」
「ごめん」
「お宅、帰らなくてもいいの?」
有田は両親と一緒に住んでいるし、母親からは子供扱いされていることも、敦子は知っていた。
「ちゃんと言って来た」
と、有田は胸を張った。
「いばらないでよ」
「ごめん……」
有田は肩をすぼめた。
敦子は、しかし、席をけって帰る、という気にもなれなかった。
考えてみれば、これぐらいの付き合い、しかも一応結婚を前提にして付き合っているのだから、たまには一緒にホテルへ泊まっても、不自然ということはないかもしれない。
ただ、あまりに突然という点が、引っかかっているのだった。
敦子だって子供ではないから、一緒に泊まったからといって、絶対に結婚しなきゃいけなくなるとは思っていない。しかし、これが何となく習慣のようになって、けじめもなく結婚へつながって行くのではないか、という気がした。
それは敦子の性質というものだった。まずけじめをきちんと。――まあ、それは敦子がしっかりしていれば済むことではあるが。
何となく、沈黙が続いて、コーヒーと紅茶が来ると、二人ともホッとした。
「――ねえ」
と、敦子は言った。
「うん」
有田が身を乗り出す。
「そのミルク、紅茶の。コーヒーのクリームはこっち」
「あ、ごめん」
間違えて、あたためたミルクをコーヒーへ入れていたのである。
純情といえば純情なのだろうが……。ちょっと頼りない気もする。
しかし、実のところ、有田が頼りなく思えた方が、敦子はホッとしていられる。最近、いやにエリート然としている有田に、いくらか失望めいたものを感じていただけに、この有田のあわてぶりは、安心できる光景だった。
そう。――ここで有田を振ることもない、と敦子は思った。
悪い人じゃないし、一緒にいても疲れないし。大恋愛の相手には少々不足でも、夢は夢だからいいので、現実に一緒に暮らすとなれば……。
「いいわ」
と、敦子は|肯《うなず》いた。
「え?」
有田が口を開けて、敦子を見つめる。
「口を閉めないと、何か放り込むぞ」
と、敦子は言ってやった。
「へ、部屋のキー……もらって来る」
フラッと立ち上がり、何だかよろめくような足取りで……。
「ちょっと、そっちじゃないわよ、出口」
敦子はあわてて、有田の上衣の|裾《すそ》をつかんだのだった……。
「――返事しちゃったか」
ま、多少はアルコールのせいもある。しかし、こんなことでもなければ、いつまでたっても、中学生あたりのお付き合いと大差ないことになりそうだし……。
こんな週末もいいかもしれないな、たまには……。
初めからそんな気でもなかったのに、と敦子は思ったが、でもこんなことは、あんまり前もって考えておくことでもないのかもしれない。
こんな風に、何となくその気になった時にそうなればいいのかも……。
「失礼いたします」
と、ウエイターが、コードレスの電話を手にやって来た。「永瀬敦子様でいらっしゃいますか」
「ええ」
「お電話が入っております」
びっくりした。ここにいることを誰が知っているんだろう?
「どうも。――もしもし」
何だか、テーブルについたまま電話をするというのも、妙な気分である。
「お姉ちゃん! いたのか」
「寿子? あんたどうして――」
思わず大きな声を出して、あわてて口を押さえる。「――何なのよ、一体?」
「アパートにかけたら、何か変な女の子が出て……。びっくりしてさ」
そうか、智恵子に、このホテルへ来ることは話したような気がする。
「よくこのレストランだって分かったね」
「デートだって、その子が言ったから、たぶんその辺だと思って。――ね、あの子、誰なの?」
「うん……。会社の人の娘さん」
と、言うしかなかった。「ちょっと預かってるの」
「へえ。いつからお姉ちゃんとこ、お手伝いさん置いたのかと思った」
「あんな狭いアパートにお手伝いさんがいるわけないでしょ」
と、敦子は笑って言った。「何か用事だったの」
少し間があって、
「そうだ。何の用でアパートへかけたのか、忘れるとこだった」
「|呑《のん》|気《き》ねえ」
「披露宴のお客のこと。お母さんが、お姉ちゃんにも|訊《き》いてみろって言うから」
「私の式じゃないわよ」
「でも、落ちてる人がいないか、って。後でかけてくれる?」
「待ってよ、今夜は――」
敦子は、少しためらって、「遅くなるのよ。明日でいいんでしょ?」
「うん……。例の有田焼と一緒?」
「有田焼ってことないでしょ」
「そう|憶《おぼ》えることにしたの。ま、頑張って」
「どうも、ご親切に」
と、敦子は言ってやった。
――電話を返して、一息つくと、敦子は智恵子のことを思い出した。一人でアパートにいるわけだが……。
でも、小さな子供じゃないし、大丈夫だろう。
智恵子にも、今夜はデート、と言って来てある。
もちろん、その相手が、当の智恵子の父親と|喧《けん》|嘩《か》した男だとは、知るわけもないが。
「でも……遅いな」
と、敦子は|呟《つぶや》いた。
有田が予約しておいた部屋のキーをもらって来るのに、ずいぶん手間取っている。時間が遅くなってキャンセルになっていたのだろうか?
それじゃ、がっかりだろう。敦子は別にどうってこともないけれど……。
|注《つ》いでくれた紅茶を一口飲んだ時、誰かが駆けて来る足音がした。
有田が走って来たのかと思って振り向くと、レストランの入り口に立っていたマネージャーらしい男で、
「失礼いたします」
と、息を切らし、「お連れ様が――」
「はあ?」
「レストランの前で倒れられて」
敦子はびっくりして、ティーカップを引っくり返してしまった……。
「ご心配いりません」
と、診てくれた医師が笑って言った。「あんまりアルコールにお強い方じゃないでしょう」
「ええ」
「急性アルコール中毒。要するに飲み過ぎです。ま、明日一日は二日酔いで辛いでしょうな」
「どうも……」
部屋は、借りてあった。そのキーを握りしめて、有田は引っくり返ってしまったのである。
で、結局、その部屋へ運び込んで、医者を呼んでもらった、というわけだった。
「――何よ、もう」
と、思わず|呟《つぶや》く。「こんな週末もあっていい、か……」
まさかこんなことになるとは!
敦子は、ベッドに大の字になって、眠り込んでいる有田を眺めていた。
緊張のあまり、アルコールを取り過ぎて、ぶっ倒れてしまうなんて……。何ともロマンスとは縁のない男なのだ。
といって、放って帰るわけにもいかないし。
敦子は、部屋のソファに腰をおろして、
「TVでも見るか」
と、呟いた。
――かくて、有田が決死の覚悟(?)で用意した「週末の一夜」、敦子はホテルの有料チャンネルの映画を見て過ごすはめになってしまった。
映画を二本見終わると、もう夜中の二時近くで、敦子はそのままソファに横になって、眠ったのである……。
「部屋まで送るよ」
と、有田が青い顔をして言った。
「いいから」
と、敦子は、有田の腕を軽く|叩《たた》いて、「ちゃんと帰って寝るのよ」
「うん……」
タクシーの中である。敦子は、
「そこで停めて下さい」
と、運転手に言った。
「ねえ、本当に……」
「怒ってやしないわよ」
と、敦子は笑って言った。「車を取りに行くの、忘れないで」
「うん」
「――じゃ、ここでね」
敦子は、タクシーを降りて、「気を付けて」
と、手を振った。
有田が情けない顔で、ちょっと手を上げる。
敦子は、吹き出しそうになるのを、必死にこらえなくてはならなかった。
「あ、お帰りなさい」
気が付くと、ちょうど智恵子がスーパーの袋を下げてやって来るところだった。
有田の目に止まっただろうか? しかし、今の有田じゃ、智恵子が誰なのか、とても分かるまい。
「ご苦労様、ゆうべはごめんね」
「いいえ」
と、智恵子は楽しそうに、「一人でのんびり寝ました」
「言ったな」
と、敦子は、智恵子の鼻を、ちょっと指でつついてやった。
「だって、そっちはお二人でしょ」
「二人は二人だったんだけどね」
敦子は、智恵子の肩を軽く抱いて、「あとで、ゆっくり話してあげるわ」
と言った。
アパートの部屋へ入ると、
「ゆうべ妹さんからお電話が」
と、智恵子が言った。
「うん、知ってる。ホテルへかけて来たわ。びっくりしてた」
「でしょうね。でも、|羨《うらや》ましいな」
「何が?」
「姉妹がいるって。私、一人っ子だから」
「そうか。でも、いればいたで、何かと大変よ」
と、敦子は言った……。
――何だか妙な週末だったわ。
有田のハプニングがなければ、すばらしい、思い出に残る週末だったかもしれない。
しかし、ある意味で、敦子はホッとしてもいたのである。あの失敗こそ、いかにも有田らしい、という気がして。
|却《かえ》って、敦子は有田と結婚してもいい、という気になっていた。
訪れた影
その日、敦子は珍しく仕事で外出した。
年に三度もあるかないかのことだが、一日中外を回って、いい加減くたびれて戻って来ると、久美江が、
「ね、これ、人事の人が」
と、メモを渡して来た。
「ありがとう」
開いて、チラッと目をやって、あ、そうだったわ、と思い出した。
智恵子から聞いた、六人の組合員たちのことを、人事の人に、調べてくれと頼んでおいたのだ。
もう一週間以上たつので、敦子も忘れかけていた。何しろ、このところ、寿子の結婚式のことで忙しい。
式の前後、休みを取らなくてはならないのだし……。
「足が棒だわ」
と、敦子は久美江に言った。「ちょっとお化粧直して来る」
「はい、ごゆっくり」
久美江は相変わらず|呑《のん》|気《き》にしている。
どこからどう伝わったのやら、有田が敦子を誘っておいて、飲み過ぎて引っくり返ったという話が、結構女の子の間では広まっている。
おかげで、このところ有田は、昼休みになると、ぎりぎりまで外に逃げているのである。
敦子が別に怒っていないと知って、有田はホッとしてはいたらしいが、さすがに、すぐまたホテルに泊まろうと誘うだけの度胸はなかったようだった。
――敦子は、トイレで化粧を直し、それから、制服のポケットに入れたメモを取り出して、広げた。
あの時やって来た七人の内、竹永を除いた六人。――今、その内の三人は、長野工場にもういない。
智恵子が町を出て来てから、もう一人、工場を去ったらしいが……。
「――まさか」
思わず、敦子は|呟《つぶや》いていた。
智恵子が言った二人も、その後に辞めた一人も、三人とも、同じ会社へ就職している。しかも、そこは名前こそ違うが、このK化学工業の系列会社である。
一人は課長、二人は係長になった、とメモには書かれていた。
これはどういうことだろう?
智恵子は、父親が一人だけ特別扱いされたと、かげ口を|叩《たた》かれたと悔しがっていたが、とんでもない話である。むしろ、やめて行った人たちの方が、異例の出世をしているように、この人事からは思えた。
そんなことがあり得るだろうか?
残り三人は?――まだ長野工場に在職している。敦子は、六人の内の誰かに会ってみよう、と思った。
あの時、専務の国崎が、彼らと話をしている。
もし国崎が彼らに、おとなしく引き上げるなら、別のポストを約束する、と言っていたとしたら……。それはあり得ることのように、敦子には思えた。
そう。――おそらくそうだったのだ。
では、竹永はどうなったのか? そこは、まだ分からない。
しかし、六人の内の誰かが、何か知っているだろう。敦子には、そう思えてならなかった。
「――ごめんなさい」
と、敦子は席に戻って、久美江に言った。「お昼は大変だった?」
「別に」
と、久美江は肩をすくめて、「ね、課長がお呼び」
「私を?」
「うん。何だか知らないけど、第三会議室って」
「分かったわ」
敦子は、足早に会議室へと向かった。
「――失礼します」
ドアを開けると、大西が一人、ポツンと隅の席に座っていた。
「やあ、外回りは疲れるだろう」
と、大西は笑顔で言った。「ま、かけてくれ」
「はい」
|椅《い》|子《す》を引いて、座ると、「何かご用とか……」
「うん」
大西は、しばらく、どう切り出したものかと迷っている様子だった。
「あの……何かまずいことでも」
と、敦子は言った。
「まずい、というほどのことでもないんだがね」
大西は、ボールペンを手の中でクルクルと回していた。「君、人事に問い合わせをしたそうだね」
敦子は、一瞬言葉が出なかった。――もちろん極秘で調べるというわけにいかないのは分かっている。しかし――。
「はい」
と、|肯《うなず》いた。
「どうして今ごろになって、そんなことを調べるんだね」
「あの……」
仕方ない。妙な言い逃れをしても、つじつまが合わないことになりそうだ。
「竹永さんの娘さんのためです」
「いつかの子か」
「ええ。調べてあげる、と約束しましたので」
「しかし、竹永の行方を調べるのに、なぜあの六人のことを?」
「直接話を聞こうかと思ったんです。いけませんでしたか」
大西の沈黙が、その問いの答えだった。
「まあ、確かにね」
と、大西が、息をついて言った。「君があの女の子に同情する気持ちはよく分かる。君の目の前で、あんなことがあったんだしね」
「私はただ……」
と、敦子は言いかけて、やめた。
大西と言い合いをしても仕方ない。
「しかし――君にも分かるだろう。あの出来事は外へ|洩《も》れては困る|類《たぐ》いのことだ。その点は、国崎専務も君に念を押したはずだよ」
「はい」
「君はまさか……」
と、大西は言いかけて、少しためらった。
そのためらいが何を意味するのか、敦子にはよく分からなかった。
「あの女の子に話したんじゃないだろうね」
「――あのことですか。何も話していません」
「本当だね」
敦子の|頬《ほお》が赤く染まった。|嘘《うそ》をついていると疑われるのはたまらなかった。嘘をついたのは、大西の方ではないか。竹永のことを、全く知らない人間であるかのように言って……。
しかし、まさか課長に向かってそうは言えない。
「本当です」
敦子の声が少し震えた。大西は敏感にそれに気付いたらしい。
「いや、君を責めてるわけじゃないんだよ」
と、言いわけがましく言って、「ただね、会社という|奴《やつ》は生きものだ。あまり人前にさらしたくない面も持っている。女の君には分からないだろうが」
「はい」
と、敦子は表情を固く引き締めて、「すみませんでした」
「あの女の子は今、どこにいるんだね」
大西が、少し穏やかな調子で言った。
「よく知りません。知り合いを頼って行くと言ってました」
敦子はためらわずにそう言った。
「じゃ、連絡はどうやって?」
「あの子の方から電話が入ることになっています。まだあの後は話していないんです」
「だが――」
「あの日の帰りに、まだビルの近くを歩いているのを見かけたんです。それで声をかけて話をしました」
「そうか。何を言ってた?」
「別に……。課長さんもお聞きになった通りのことです」
敦子の|淀《よど》みない話し方に、大西も信用する気になったようだった。
「――いや、不愉快な思いをさせて悪かったね」
大西は|微《ほほ》|笑《え》んだが、目は笑っていなかった。「この話は、これきりにしよう」
と、大西は立ち上がって言った。
これきりに?
とんでもないことだ。敦子の方から|訊《き》きたいことはいくつもあった。
しかし、大西が答えてくれるはずのないことを、はっきりと敦子は悟っていた。
大西が立った時、敦子も席を立つべきだったかもしれない。しかし、敦子は立たなかった。
「いいかい」
と、大西は言った。「もし、あの女の子から連絡が入ったら、どこにいるのか訊いといてくれ。そして僕に報告するんだ」
敦子は顔を上げた。
「いや、困っているようなら、何か力になってやれるかもしれんからね」
と、大西は付け加えた。
「分かりました」
「君なら、分かってくれると思っていた」
大西の手が、敦子の肩に置かれた。「ベテランの受付を、失いたくないからね」
――大西が出て行くドアの音を、敦子は背中で聞いた。
会議室が、急に寒々とした空間のように感じられる。知らない内に、固く両手を握り合わせていて、じっとりと汗をつかんでいた。
あの午後の出来事――ロビーで乱闘騒ぎの時のショックとは違った意味でのショックを、敦子は受けていたのだった。
違った? いや、違ってはいない。大西の今の言葉は、要するに、「これ以上、あの事件について調べたりすれば、クビだ」という意味である。
それは暴力を伴いはしないが、しかし、「会社」という「大人の世界」で、存在するはずのないものだと敦子には思えた……。
敦子が受付の席に戻ったのは、十分ほどたってからだった。
「――何のお話だったの?」
と、久美江が|訊《き》いた。
「大したことじゃないわ。来月、休みを取らなきゃいけないから、そのことで、ちょっとね」
やっと思い付いた口実である。久美江にこう訊かれることは、分かっていたのだから。
「あ、そうだ。コーヒー余ったのよ」
と、久美江が言った。「私、もらって来るわ」
「会議なんかあったっけ?」
「お客さんにとったら、その人、コーヒー嫌いだったんだって」
久美江が、ポンポンと弾むような足取りで、給湯室へと急ぐ。それを見送って、敦子は息を吐き出した。
あの会議室に、まるで一時間もいたような気がする。
久美江が持って来てくれたコーヒーを、敦子はゆっくりと味わった。
しかし……。落ちついて考えてみると、ますます奇妙な印象が深くなる。
大西が、いくらあの乱闘騒ぎのことを隠しておきたいからといって、ああも神経を|尖《とが》らせているのは、なぜだろう? 幹部に知られたくない、と言っても、専務の国崎は現実に知っているではないか。
少なくとも、あのアメリカからの客を無事に迎える、という仕事に関しては、大西はうまくやりとげたのだ。そして、乱闘騒ぎについては、工場閉鎖後の別のポストを約束することで、口もふさいだ。
それなのに、なぜ敦子をクビにすると脅しまでするのだろう?
|鍵《かぎ》はやはり、竹永のことにある。
ただ一人、姿をくらましてしまった竹永。――大西が恐れているのは、竹永がどうなったかを探られることなのだ。
不安が、敦子の胸の中に音もなく、黒い雲のように広がっていた。――竹永はどうなったのだろう。
よほどひどいけがをして……。もしそうだとすると、傷を負わせたのは、有田なのである。
しかし、他のけが人を連れて行ったクリニックには、竹永は運ばれていない。すると、どこへ運んだのだろう?
病院へ入れたのは間違いないとして、いつ、誰が運んだのか。
あの乱闘の後、大西はずっと会社にいたはずだ。有田を始めとして、駆り出された社員たちも。
すると……。平山が?
しかし、平山は、クリニックへ、けが人に付き添って行った、と言っている。
では誰が竹永を病院へ運んだのだろう?
敦子は、コーヒーを飲み干した。
「どうかしたの?」
と、久美江が言った。「何だか怖い顔してる」
「そう?」
「有田さんと行くの?」
「え?」
「今度の結婚式よ、妹さんの。ご両親に紹介するんじゃないの?」
突然何を言い出すのやら。
しかし、敦子は、そんなことをまるで考えていなかったことに気付いた。
「さあ、どうしようかしら」
と、笑ってごまかすことにする。
「もう有田さんのご両親には会ったの?」
「まだよ」
「早く会っとけば? 親の知らない内に、仲が進んじゃうと、後でもめる原因になるわよ」
「ご忠告、感謝します」
と、敦子は苦笑した。
|噂《うわさ》をすれば、というのもありきたりだが、有田がサンダルの音をたてながら受付の方へやって来た。
「あら、有田さん」
と、久美江が冷やかすように、「私、席を外しておりましょうか?」
わざと丁寧な口をきく。
「いや、別に――」
「どうせ、カップを持って行くから。一緒に持ってってあげるわ」
久美江が、敦子の分のコーヒーカップも重ねて、持って行く。有田は、何となく照れくさそうだった。
「あなたサンダル、替えなさいよ」
と、敦子は言った。「切れちゃいそうなの、まだはいてるんでしょ」
「うん。でも――ちゃんと歩けるし」
「今度、買っておいてあげる。いつもそう思うんだけど、忘れちゃうのよ」
「頼むよ。ねえ、三日は暇かい?」
「何よ、突然?」
「この前はあんなことになって……。埋め合わせしようと思ってさ」
「無理しないで。怒ってなんかいないわよ」
「うん。でも……」
と、男の方が赤くなったりしているのだから。|可《か》|愛《わい》いというか……。
敦子も気持ちが和んで、|微《ほほ》|笑《え》んでいた。
「お誘いは|嬉《うれ》しいけど、だめなの。妹の式のことで、ちょっと人と会わなきゃいけないし」
「そうか。じゃ週末は?」
「旅行でしょ」
「そうだった」
とたんに、有田は、宴会で歌わされることを思い出したのか、情けない顔になった。
「妹の式から帰ったら、ゆっくり会いましょうよ」
と、敦子は言った。
「うん。じゃ月末辺り……。ちょっと出張が入るかもしれないけど」
ちょうど仕事の電話が入って、有田はあわてて席へ戻って行った。
サンダルを買ってあげなきゃね。――敦子は手帳を取り出して、忘れないように、メモした。
あさって――十一月の三日は、もちろん祭日だ。本当は、有田に付き合おうと思えば、そうできないわけではなかった。
しかし、今は何となく気が乗らなかったのだ。有田と会っていると、つい、あのいやな出来事を思い出してしまうし……。
もし、有田と結婚するとしたら、仲人は大西に頼むことになるだろう。しかし、それには抵抗があった。
もちろん形だけとは言っても……。少なくとも、今は、とてもそんな気持ちになれない。
有田との仲に、あの出来事が、意外に重い意味を持って、影をさし始めているのを、敦子は認めないわけにいかなかった。
女の時間
「ね、あれ。あれ、どう?」
と、敦子が指さす。
「ブルーの? やだあ、|老《ふ》けてる」
「何よ、その言い方」
「すみません」
智恵子がペロッと舌を出す。敦子は笑い出してしまった。
「あなたのだから、好きなのを選びなさいよ。でも、私が目を回しそうなのはやめてよね」
「はい。妥協します」
大きな声で話さないと、聞こえない。
それぐらい、休日のデパートの中はやかましかった。もちろん、売り場にもよるのだろうが。
この〈特価品売り場〉は、少なくともBGMが何の意味もなさない――つまり、聞こえない――状態だったのである。
「暑い!」
敦子は汗をかいていた。「じゃ、それに決める?」
「ウーン」
智恵子は、下唇に指を当てて考え込んだ。「もう一つ、|可《か》|愛《わい》いのないかなあ」
「じゃ、どこか捜して来て。私、待ってるわ、どこかで」
「いいです。あれにしよう」
智恵子は、そのタオルケットを手にして、「これなら、お嫁に行くまで持つ」
「まさか」
――もう、二人とも両手に大きな紙袋を二つずつもさげていた。
竹永智恵子が、敦子のアパートに来てから、そろそろ半月になる。食事の仕度から、掃除、洗濯と、智恵子がすっかり「主婦」をしてくれているので、敦子としては楽なこと、この上もない。
智恵子も、何か仕事を捜すとは言っているが、十七の女の子に、いい仕事なぞそう簡単には見付からないし、智恵子も父親の退職金を持っているので、多少はのんびりしていられたのである。
それにしても、半月もたつと、やはりあれこれ、足りないものも出て来るし、どうやらこのまま「長期滞在」になりそうな気配だし、というわけで、今日の祭日、デパートへ買い出しに来た、というわけだった。
費用は智恵子がちゃんと払うし、まあその代わり、どこかでご飯を食べて帰ろう、ということになっていて、それは敦子のおごり、と前もって決まっていた。
「――|凄《すご》い荷物」
敦子は息をついて、「どこかで休む?」
「私は大丈夫ですけど、お疲れですよね」
「ちょっと引っかかるわね、その言い方」
「そうですか?」
とぼけて|訊《き》き返したりする。――笑ってなどいられない状況なのに、明るい娘である。敦子は、そこが気に入っていた。
ともかく、息抜きをするといっても、どこも満員。
辛うじて、あまり|洒《しゃ》|落《れ》ているとはいえないが、デパートのベビー用品売り場の奥にあるパーラーに入って座ることができた。
真っ赤なプラスチックの|椅《い》|子《す》、天井から下がっているパンダのぬいぐるみ。
「情けない」
と、智恵子が結構|真《ま》|面《じ》|目《め》くさった顔で言った。「でも、面白い」
「ここが一番空いてるの。うるさいけどね」
場所が場所だけに、赤ちゃんや、よちよち歩きの子供が、ギャーギャー泣くし、騒ぐし、駆け回るし。とても落ちつけるムードではない。
「私、ミルクセーキ」
と、智恵子は注文して、「あ、先に注文しちゃった」
「構わないわよ、そんなこと」
「でも、年上の方は敬わないと」
多少、智恵子もはしゃいでいる。それはそうだろう。東京へやって来て、こんな|混《こ》んだデパートへ入るのは、初めてのはずである。
混雑、雑踏、騒音……。敦子にとっては頭痛の種でしかないものも、若い智恵子には刺激的な楽しみになるのだろう。
「妹さんも、おめでたなんですね」
「そう。こっちはおばさんよ」
「いいなあ、私、子供って好き」
「そう?」
「赤ん坊なら。ちょっと大きくなると、うるさくって生意気だからいやだけど。ずっと赤ん坊ならいいんですけどね」
「そういうわけにいかないでしょ」
「――男の人も、大変ですね」
「何が?」
「きっと奥さんが買い物してる間、待ってるんですね」
と、智恵子が、敦子の背後へ目をやって、「男の人、一人で。居心地悪そう」
「あんまりジロジロ見ても悪いわよ」
と言いながら、敦子もチラッと振り返ってみた。
なるほど.若い男が一人、コートを隣の|椅《い》|子《す》にかけて、セーター姿で、コーヒーを飲んでいる。いかにも場違いである。
「ね、今夜、何を食べたい?」
と、敦子は言った。「あなたの好きなものでいいわ」
「マクドナルド」
「ええ?」
「冗談です」
と、智恵子は笑った。
どこかで……。ふと、敦子は思った。唐突に、何かが記憶を引っかいているようで……。
あの男、どこかで見たことがあるわ、と敦子は思った。
もちろん、他人の空似ということも、ないではない。
しかし、受付という仕事のせいもあるのか、敦子は、人の顔を割合によく|憶《おぼ》えている。何しろ久美江などは、入りたてのころ、自分の会社の社長に向かって、
「どちら様でしょうか」
と、やったことがあるくらいで、個人差というのも、もちろんあるのだろう。
敦子はその点、まあ二回やって来た客なら、たいていは名前も顔も頭に浮かんで来る。これからは、記憶力の減退と闘わねばならないかもしれないが。
そして――あの男。誰だったろう?
敦子は、しばらく考えて、どうしても思い当たらないので、|一《いっ》|旦《たん》忘れることにした。何かの弾みで思い出すかもしれない。
「どうかしたんですか」
と、智恵子が訊いた。
「何でもないの。ちょっと考えごと」
「今日……良かったんですか」
「何が?」
「本当は、例の男性とお出かけだったんじゃ――」
「変なことに気を回さないで。その時は、あなたがいくら心配しようと、一週間でも帰らないわよ」
「はい」
と、智恵子は、ちょっと首をすぼめた。
飲み物が来て、敦子は、紅茶にミルクをたっぷり入れた。そうでもしないと、苦くて、飲めたものではない。何度かここへ入っているので、よく分かっていた。
「私……」
と、ミルクセーキを半分くらい飲んで、智恵子が言った。「ずいぶん迷惑かけちゃってるんですよね」
「何を言い出したの?」
「いえ……。何だか居心地がいいもんだから、すっかり……」
「私が、お父さんのこと、調べてあげる、って約束したからじゃないの。あなたは気にすることないわ。家のことやってもらって、楽してるのは、こっちの方で」
「お父さん、生きてないんじゃないかなあ」
智恵子が、突然そう言った。敦子は心臓を見えない手でギュッとわしづかみにされたような気がした。
一瞬、顔から血の気がひく思いだった。
竹永は死んだのかもしれない。――その考えを、敦子はわざと無視して来たのだ。
まさか、まさか、と思いつつ……。
「そんなことないわよ」
敦子の言葉には力がなかった。
「生きてれば、きっと何か……。友だちに昨日も電話したんです。手紙とか、来てないかって。でも、何も……。生きてれば、何か言って来ないわけないし」
と、智恵子はストローを手に、言った。
「でも……色々考えられるでしょ」
と、敦子は言ってみた。
もちろん説得力はない、と自分でも承知の上だ。これまでのいきさつから考えて……。竹永が死んだ、という可能性が一番大きいこと――それは、敦子にも分かっていた。
ただ、それを考えることを、拒んで来たのだ。なぜといって……もし、竹永が死んでいたら、有田が殺したことになる。
まさか、そんなことが! いくら何でも、そんなことになったら、大西だって黙っているわけがない。――そう、そうに決まってる。
「ともかく、くよくよしないで」
と、敦子は言った。
くよくよしてるのは自分の方かもしれないのに。
「そうですね」
と、智恵子も気を取り直すように言った。「あのアパート、連絡先にして、友だちに教えていいですか?」
「ええ、構わないわよ」
大西に、智恵子を住まわせていることが分かってしまうかもしれないが、それは仕方ない。すぐに知れることもないだろうし。
二人は、パーラーを出て、
「次はどこだっけ?」
「ええと……。文房具」
「じゃ、七階か八階ね。エスカレーターで上がりましょ」
ベビー用品の間を歩いて行く。TVが何台か置いてあって、CFのビデオが流れていた。もちろん、赤ちゃんが|這《は》い|這《は》いしていたり、手を|叩《たた》いて笑ったりしている場面である。
そして、もうずいぶんお腹の目立つようになったマタニティ姿の女性が、その画面に目を輝かせて見入っていた……。
敦子は、足を止めた。智恵子が二、三歩行って気付くと、
「どうかしました?」
「いえ……。ちょっと待ってて」
敦子は、急いで、あのパーラーへと戻って行った。まだいるだろうか?
入り口を入って、あの席を見る。
あの男は、もう席にいなかった。――一人でコーヒーを飲んでいた男。
思い出したのだ。あのTVを見ていて。
あれは乱闘騒ぎのあった日、帰りがけの敦子に声をかけて来たTV局の男だ。
絶対にそう、とは言い切れなかったが、しかし、敦子には自信があった。
どこへ行ったんだろう? 二人でここにいた間に出て行ったのか、それとも……。
パーラーを出て、敦子は、近くの階段の辺り、トイレの付近を|覗《のぞ》いてみた。
もしあの男が――もちろん偶然ということもないではないが――敦子たちを尾行して来たのだとしたら。敦子は、明るい売り場を、もう一度見回して、歩き出した。
「ごめんなさい、待たせて」
と、敦子は、智恵子が紙袋を下げて待っている所まで、戻って行った。
「いえ――どうしたんですか」
「ちょっと忘れ物したような気がして。でも、思い違いなの。さ、行きましょう」
と、敦子は促した。
買い物の疲れというのは妙なものだ。ただの疲れというより、興奮と疲労の入りまじった、奇妙な高揚感がある。
「――よく買ったわね」
と、デパートを出た時に、二人して笑ってしまったくらい、二人とも両手一杯の荷物。
かさばってはいるが、そう重くないから、持てるのである。
「じゃ、食事にしましょ」
と、敦子は言った。「沢山食べられそうね?」
「ええ!」
智恵子の笑顔は、少しほてっていた……。
その夜、敦子は大分遅くまで起きていた。
妹の結婚式のことで、あれこれ雑用があって……。当人は一向にそういう点、無器用だし、母も実務的能力のない人なので、つい敦子に回って来てしまう。
九州、東京、と離れていてこうなのだ。もし、一緒に住んでいたら、これどころじゃないだろう。
もちろん――一緒に住んでいたら、こんなことにもならなかったろうが。
こんなこと……。敦子は、智恵子の寝顔へ目をやった。
もう、ぐっすり眠り込んでいて、大地震でも来ない限り、目を覚ましそうにない。
――敦子は、心を決めなければならなかった。
いつまでも、智恵子をここへ置くことはできない。といって、智恵子の父親のことを|曖《あい》|昧《まい》にしたままで、出て行ってくれ、と言えるだろうか?
もちろん、敦子にそこまでの責任はないのだが、同じ社員として、このまま目をつぶって済ませるわけにはいかない。
ため息が出る。――何も、私がこんなことで悩まなくてもいいんだわ、とも思った。
大西からは|釘《くぎ》を刺されているし、これ以上深入りすると、有田との仲も、こじれて来そうな気がする。
敦子は時計を見た。もう寝よう。
一時を少し回っていた。敦子は、布団へ入ろうとして……。
ふと耳を澄ました。――空耳?
いや、そうじゃない。ドアを|叩《たた》く音がしているのだ。
確かに、この部屋だ。こんな時間に。敦子は、不安を覚えつつ、玄関へと出て行った。
もちろん、黙ってドアを開けるようなことはしない。もう一度ドアをノックする音が聞こえるのを待って、
「どなたですか」
と、押さえた声で言う。
こんな夜中に訪ねて来る知人など、心当たりがないので、いささか緊張していたのも当然だろう。
「有田だけど」
と、ためらいがちな声が聞こえて、敦子はびっくりした。
「ちょっと待って」
有田が、なぜこんな時間に……。チラッと寝入っている智恵子へ目をやったが、まさかドアも開けずに追い返すわけにはいかない。
チェーンを外し、|鍵《かぎ》をあける。
「――こんな時間に、ごめん」
開けたドアから|覗《のぞ》いた顔は、別に酔っているようではなかった。
「どうしたの?」
と、敦子は、玄関に立ったまま、|訊《き》いた。
「寝てたの?」
「まだ。でも――」
「入っても、いいかい?」
有田の言い方は、決して強引ではなかった。
「悪いけど……。急ぎでなかったら、また明日でも」
有田の顔が、少し緊張した。
「一人じゃないのか」
「え?」
「誰かいるんだろ」
決死の覚悟、という顔で訊く。――敦子にも、やっと分かった。
「いるけど……。見ていいわ。起こさないでね。よく寝てるんだから」
と、ドアを開けて、有田を入れる。
玄関からでも、眠っている智恵子の姿はちゃんと目に入る。有田は、まるで宇宙人でも見るような目で、ぐっすり寝入っている智恵子を眺めていたが……。
「あの子……もしかして……」
「いつかの子。長野工場の」
「そうか」
有田は、拍子抜け、という様子だった。
「何だと思ったの? 男がいるとでも?」
「いや……。ごめん」
有田は、目を伏せて、「心配だったんだ。今日も、何度か電話したんだけど、君はいないし……。昼間ね――」
「しっ」
敦子は、智恵子が寝返りを打つのを見て、「外へ出ましょう。――ちょっと待って」
コートをはおった敦子は、有田を先に出して、そっと玄関のドアを閉めた。
「表に。廊下でしゃべってるわけにいかないわ」
サンダルは、階段に響いて、ドキッとするような音をたてる。敦子は、そろそろと下りて行った。
アパートの外へ出ると、夜気は結構冷たかった。
「昼間、来たんだ」
と、有田が言った。
「ここへ?」
「留守だったから、帰ろうとしたら、誰だかが、お二人で買い物ですってよ、って……。ドキッとしてさ。てっきり君が――」
「男と? |呆《あき》れた!」
「ごめん。――散々、迷ってたんだ。どうしようかと思って。でも、よく分からないで、明日会社で顔を合わせるのも、と思ってね。こんな時間で悪かったけど」
「あなた……もしかして、大分前から来てたの?」
図星だったらしい。
「いや……。二、三十分かな」
きっと、それの倍ぐらいは、どうしたものか、とこの前を、行ったり来たりしていたんだろう。動物園の熊みたいに。
「信じてないのね、私のこと」
と、わざと言ってやったが、正直、そう腹を立てているわけでもなかった。
「この前、あんなことがあったしさ……。嫌われてもしようがないもんな」
「心配性ね。|禿《は》げるわよ」
と、敦子は笑って言った。
有田はホッとした様子で、
「あの子を、ずっと面倒みてるの?」
「こっちが面倒みてもらってる、って言う方が正確ね。行く所がない、って言うし、放っておけないから……。もちろん、いつまでも置くわけじゃないわ」
「課長、何か言ってたろ?」
「うん。――あの子がここにいること、黙ってて。ね?」
「分かった」
敦子は、切ない目をして、恋人のアパートの前をうろうろする、という、まるで少年みたいな有田を見て、|却《かえ》って心が和む気がしていた。
この人が、智恵子の父親を死なせたなんてことが……。そんな! もしそうなら、有田も知っているはずだし。
「ねえ――」
と言いかけて、敦子は、いきなり派手なクシャミをした。
「|風《か》|邪《ぜ》引くよ」
と、有田があわてて言った。「寒いだろ?」
「大丈夫。――大丈夫よ」
有田の腕が、敦子の肩に回る。
何だか、二人とも黙ってしまった。
「もう……帰った方がいいわよ」
「うん」
「電車、ないわよ。この時間」
「そうだね。タクシー、拾えるかな」
若者雑誌の記事では、こんなセリフからキスに入ることはないだろうが……。ともかく二人は抱き合って唇を合わせていたのだった。
家族の風景
バスを終点で降りて、徒歩五分……。
簡単にしかメモして来なかったことを、敦子は悔やむことになった。終点の、バス発着所へ降り立って、途方に暮れてしまったのだ。
「団地って……」
団地を捜せばいい、と軽い気持ちでやって来た敦子は、グルッと四方を見回してみて、全部が団地だということを発見したのだった。
「困ったな」
右へ行くのか左へ行くのかも、さっぱり分からない。――ともかく、誰かに|訊《き》くしかないが、お店とか交番といったものも、見当たらないのである。
ともかく、バスを降りた他の人たちが、ゾロゾロと同じ階段を上って行くので、差し当たり敦子もそれについて行くことにした。
――完全に車道と歩道が別になっている。
少し高くなった歩道へ上がって、改めて、敦子はその団地の広さに目をみはった。山脈のように、高層、低層、色とりどりの棟が重なり合って視界の限り、連なっている。
「|凄《すご》い」
と、思わず|呟《つぶや》いてしまった。
何から何まで人工の世界ではあるが、これはこれなりに、一つの秩序を形造っている。目に快適で、魅力的でもあった。
でも、感心しちゃいられないんだわ。
敦子は、歩道を行き交う人たちを眺めた。
今日は土曜日だ。有田は課の旅行。
あの、アパートの外での、クシャミつきの甚だロマンに欠けるラブシーンで、有田は、すっかり落ちついて、自信を取り戻した様子だった。今夜も、旅行先の宴会で張り切って歌って来る、と宣言していた。
有田に張り切って歌われると、他の人は迷惑するかもしれないが。まあ、有田が明るいのは結構なことだし、あのキスも予定外だっただけに、|却《かえ》って無理がなくて、良かった……。
すばらしい青空だった。
ここまで来ると、都心では見られない、思い切り広がる空が見られる。こんな所に住むのも、悪くないな、と敦子は思ったりした。
もちろん、都心には多少遠くなるとしても。
「電話してみよう」
と、敦子は|呟《つぶや》いた。
さて、電話は? 見回すと、大分先に、ボックスが見えた。
ともかく、差し当たりの目的地が決まって敦子はホッとしたのだった。
この団地に、平山が住んでいる。敦子は、その家を訪ねようと思って、やって来たのだ。
ともかく、竹永喜市がどうなったのか、知りたかった。妹の結婚式が近付けば、ますます忙しくなるだろう。
直接平山に、疑問をぶつけてみるしかない、と敦子は心を決めたのである。
SF映画に出て来そうな、透明なカプセルみたいな電話ボックスに入って、敦子は、平山の家にかけてみた。
呼び出し音が、二度、三度、と鳴り続けた。
――しかし、誰も出ない。
出かけているのだろうか? 敦子は、|一旦諦《いったんあきら》めて受話器を戻した。
昨夜、ちゃんと電話を入れてから来るべきだった。それはよく分かっている。しかし、前もって訪ねることを知らせたら、平山は敦子の用件を察してしまうだろう。
平山は正直な男だ。実直で、ごまかしたり、うまく言い抜けたりできる人間ではない。敦子としては、そこが|狙《ねら》いでもあった。
電話ボックスを出ると、敦子は、ちょうど通りがかった主婦に、
「すみません。ここから一番近いスーパーってどこでしょう?」
と、|訊《き》いてみた。
「スーパーなら、あの陸橋の向こう側ですね。五分ぐらいですよ」
「どうも」
――家族|揃《そろ》って買い物に出ているかもしれない、という、思い付きである。
言われた通り、歩道を|辿《たど》って、そのまま陸橋を渡ると、急に人出の多い広場が目に入った。スーパーマーケットと、商店が十軒余り、広場を囲んでいる。
広場は子供で一杯だ。親が買い物している間、子供たちは広場で遊んでいる、というわけだろう。車も来ないし、安全でもある。
しかし――敦子は、その広場を見渡す陸橋の上で、思わず足を止めてしまった。
圧倒されてしまったのである。母と子、という取り合わせの群れ。子供たちの歓声、泣き声、叫び声のそのエネルギー……。
もちろん、敦子の住むアパートの近くだって、子供は大勢いるし、スーパーもある。しかし、同じような年代の母親と子供たちが、これだけ集まるということは、考えられない。しかも、ここでは、これが日常の光景なのだ。
BGMに流しているのも、どうやらTVアニメの主題歌らしい。
カラフルなタイルで形造った、パンダやライオンの絵が、広場を遊園地のように見せている。
平山を捜そうと思ったことを、一瞬、敦子は忘れてしまった。それほど、暖かい陽光の下での、目の前の光景は、敦子を|釘《くぎ》づけにし、たじろがせたのだった。
もちろん――これが「幸福」だ、と言ったら、いくらでも反発は返って来るだろう。しかし、この華やかな絵の中に、一点景として加わって、子をあやし、ショッピングカーを引いて、見知った奥さんと立ち話に時を忘れる……。そうしてみたい、という気持ちに、敦子は|呑《の》み込まれてしまいそうだった。
ちょっとの間、敦子は軽いめまいすら覚えて、陸橋の手すりにつかまった。
思ってもみないことだった。自分はこんなにも「家庭」とか、「親子の休日」とかをほしがっていたのだろうか?
しっかりしてよ、全く!
敦子は、気を取り直して、広場へと、ゆるい階段を下って行った。――平山を捜す、というよりは、好奇心一杯の野次馬の気分で、一軒ずつの店を|覗《のぞ》いて歩く。
店の人間が、みんな少し不思議そうに敦子を見ている。たぶん、この辺の店には、全く見たこともない客は、めったに来ないのだろう。
店の人は何と思ってるのかしら、私のことを? 越して来たばかりの主婦? でも、そんな格好じゃないわね。
この団地に入ろうか、と見物に来た人というところだろうか。いずれにしても、独り者とは思わないだろう。
妙なもので、いつもなら、主婦と思われたら腹が立つだろうに、こんな場所では、主婦と思われなくては立場がない感じである。
「――大したもんね」
と、敦子は、思わず|呟《つぶや》いていた。
とても、この人出では、平山を見付けるのは無理だろう。大体、ここに来ているかどうかも分からないのに。
せっかく来たんだから……。敦子は、ここのスーパーで買い物をして行くことにした。
何しに来たんだろう、全く。
スーパーの袋を下げて、あのバスの発着所へ向かって歩きながら、敦子は笑い出したくなった。妙に気分が高揚して、歌でも歌い出しそうだ。
今日はもう帰ろう。――平山が留守だったのは、|却《かえ》って良かった。こんな日に、平山に辛い思いを強いる必要もないだろう。
智恵子のことを忘れたわけではないが……。
階段を下りかけて、敦子は足を止めた。上って来る平山を見たからである。
「やあ」
平山が、敦子に気付いた。「――どうしてここに?」
平山は、両手に、ふくらんだ紙の手さげ袋を四つも下げて持っていた。二、三段遅れて、女の子の手を引いた奥さん……。
仕方ない、会ってしまったからには。
「ちょっと話があって」
と、敦子は言った。
「そうか」
平山も、分かったらしい。妻と娘を、敦子に紹介すると、
「この人とちょっと話がある。先に帰っててくれ」
と、妻へ言った。
平山の妻は、敦子へ無言で|会釈《えしゃく》して、行ってしまった。
「――ごめんなさいね」
敦子は、木のベンチに腰をおろした。
「いや。遠くのスーパーへね。バスで行ってたんだ。まとめて買うと、いくらか安いんだよ」
平山は、紙袋を足下に置くと、倒れないように、何とか支えていた。
「スーパーがいくつもあるの?」
と、敦子は|訊《き》いた。
「ブロックごとにある。まあ、どこも似たようなもんだし、普段は近くですませてるがね。たまの休みは、荷物持ちがいるから、遠くても安い所へ行く」
「じゃ、混雑してる?」
「そうだね。しかし、安いといったって、一つ一つは何百円も違うわけじゃない。せいぜい、二、三十円、ものによっちゃ、何円って単位だ。くたびれたからって、冷たいもんでも飲みゃ、たちまち得した分なんか消えちゃうよ」
平山は、ちょっと笑って、「しかし、それでも|嬉《うれ》しいのさ。ささやかなもんだ」
「でも、分かるわ」
と、敦子は|肯《うなず》いた。
「ここは、初めてだったね」
「ええ」
「大きいだろう」
「でも、すてきな所ね。一度住んでみたくなるわ」
「結婚したら、住んだらいい。まあ、いつまでもいる所じゃないかもしれないが、子供が小さい内は、何かと便利にはできてるよ」
「本当ね」
敦子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
話が途切れて、しばらく二人は黙っていた。
「ごめんなさいね、しつこく」
と、敦子は、両手を組み合わせて、「私、今アパートに、あの女の子を置いてるの」
「女の子?」
「会社へ訪ねて来た、竹永って人の娘さん。行く所がない、っていうし、それに、私も責任を感じて」
「そうか……」
「妙だわ。あの時、一緒に来た人たちのことを調べてたら、課長からやめろと言われるし、それに――」
敦子は、言葉を切った。あまり時間を取らせるわけにはいかない。
「平山さん」
敦子は、平山の方へ体を向けた。「あの人――竹永って人、死んだんじゃないの?」
平山は、敦子の方を見ずに、
「どうして」
と、言った。
「色々考えてみて、それしか考えられない。もしそうなら……。私も知らん顔はできないわ。有田さんがやったんですもの。それを|訊《き》きたくて……」
敦子の言葉は、低くなって消えた。
「確かに」
と、平山は目を足下に落として、「一人、意識を失っている人がいたね。それは|憶《おぼ》えてるよ」
前に訊いた時は、憶えていない、と言ったのに。しかし、敦子は平山を責める気持ちにはなれなかった。
「その人はどうなったの?」
「有田君が背負って、運んで来た。他にもけが人が大勢いて、大西さんが私に、クリニックへ連れてってやれ、と言ったんだ」
平山は、足の間に置いた紙袋が倒れそうになるのを、引き戻した。「私は、『その人はどうするんですか』と訊いた。大西さんは、『気絶してるようだから、少し様子をみる』と言って……。『必要なら|俺《おれ》が救急車を呼ぶから』とも言ったよ」
「それで平山さんは、他の人たちを――」
「クリニックへ連れて行った。何しろ人数も多かったしね、大分時間がかかった。戻ってから、後は大西さんがみんなをどこかへ連れて行ったよ」
「その気絶した人は?」
「分からない」
平山は首を振って、「訊いてみたよ、大西さんにね。『病院へ運んだんですか』と。大西さんは、『いや、大したことなかったんだ。もう忘れろ』と言っただけだ」
「――それきり?」
「うん」
「おかしいわ。どう見たって、あの竹永さんが柱に頭をぶつけた勢い……。何でもなかった、なんてはずないわ」
「しかしね」
平山は、ため息と共に言った。「何ができたんだね、私に? 大西さんを、|嘘《うそ》つきと問い詰めるわけにもいかない。確かに、本当に大丈夫だったんだろうか、と首をかしげはしたよ。だけど、それを口に出せる立場じゃない」
「ええ、それは分かっているの。無理を言うつもりはないんだけど、つい……。ごめんなさいね」
敦子は、これ以上、平山から訊き出すことはない、と思った。おそらく、本当に、平山はこれ以上のことは知らないのだろう。
「ただ――」
「え?」
「警備員室へ入ろうとしたら、|鍵《かぎ》がかかってたんだ」
そう。――それは、敦子も|憶《おぼ》えている。
上で休んで、落ちついてから、気になって一階へ下りて行った時、やはり警備員室の鍵がかかっているので、戸惑った。
「でも、平山さんは、鍵を持ってるんでしょう?」
「もちろん」
「開けてみなかったの」
と、敦子は平山の顔を|覗《のぞ》き込むようにして、言った。
「開けようとしたよ」
と、平山は|肯《うなず》いて言った。「そしたら、大西さんが、飛んで来たんだ。『開けるな!』と怒鳴られてね」
「どうして?」
「何だか……はっきりは言わなかった。まだ外にTV局の連中がいるし、色々隠しとかなきゃならん、とか……。ともかく、今日はそこへ入るな、と強く言われた。そう言われりゃ、はい、と答えるしかないからね」
「竹永さんは、あの部屋へ運ばれたんじゃなかったの?」
「ああ。中に古いソファがあるだろう、色の変わっちまった。あそこへ有田君が寝かせてたのを見たよ」
「それきり……目を覚まさなかったんじゃないの?」
平山は、黙って首を振った。もちろん、平山には答えられないのだ。
しかし、その状況から考えて、竹永がそこで死んだという可能性はある。いや――かなり可能性は大きい、と言わざるを得ない。
「その日は、あの部屋へ全然入らなかったの?」
「うん。ちょっと置いてある物もあったんで、入りたかったがね。大西さんに見付かるとまずいし、その日は入らずじまいだった」
「翌日は?」
「|鍵《かぎ》は開いてた。中も別に、いつもと変わりなかったよ」
「そう」
敦子は、|肯《うなず》いて「分かったわ。ありがとう。ごめんなさい、いやなことを思い出させて」
と言って立ち上がった。
平山がホッとして立ち上がるかと思ったが、じっと腰をおろして目を伏せたままだ。
「平山さん……」
「気にならないわけじゃないんだよ、私も」
「ええ、それは――」
「しかし、この|年《と》|齢《し》で、今の仕事を|失《な》くしたら、そう簡単にゃ次は見付からない」
「分かるわ」
「洋子はまだ小さいし……」
「気にしないで」
敦子は、平山の肩に、手をかけた。「私、暇なもんだからね、つい……。奥さんによろしく」
「うん」
「じゃあ、また月曜日に会社で」
敦子は、足早に、あのバスの発着所に下りる階段の方へと歩いて行った。平山に、ひどく悪いことをしてしまったようで、早く逃げ出したい気分だったのである。
ちょうどバスが停まっていたので、駆け込んだ。|一《いっ》|旦《たん》、座席に荷物を置いてから、料金を入れに戻る。
すぐ扉が閉じてバスが動き出した。敦子は、窓の外に、揺らぎながら遠ざかって行く団地の風景を、しばらく見送っていた。
アパートに戻った敦子は、玄関の|鍵《かぎ》を開けようとして、戸惑った。鍵がかかっていないのだ。
「――ただいま」
と、声をかけてドアを開けると……。
中は薄暗かった。もう夕方なのに、明かりも|点《つ》いていないし、カーテンは開けたまま。
「智恵子さん」
明かりを点けて、敦子はともかく買い物の袋を置いた。そして、玄関に智恵子の靴がないことに気付いた。
「どこに行ったんだろ?」
智恵子がはいていたサンダルは残っている。ということは、どこか、この近所ではない所へ出かけたのだろうが、そのくせ鍵をかけていないのは妙だ。
ともかく、上がってカーテンを引き、何かメモでもないかと捜した。
まあ、たぶん――ただ、鍵をかけ忘れただけのことだろうが。
着替えて、夕食の仕度をしよう。
平山の話も、結局、敦子の抱いていた疑いを、ただ増幅したに過ぎなかった。真相を知っているのは、大西ただ一人で、その大西には、直接|訊《き》くことができない。
どうしたものか、敦子は迷っていた。でも今は……差し当たり、夕ご飯の用意。智恵子が出かけているのなら、今日は一人で頑張ってみよう。
脱いだ服を洋服ダンスへしまおうとして、敦子は立ちすくんだ。――智恵子の服が、なくなっている。
この間の休日に買って来た服も、見当たらない。急いで押し入れを開けてみた。
タオルケットや毛布はそのまま置いてあったが、智恵子のボストンバッグが見えない。
――出て行った? どこへ?
どうして突然、何も言わずに……。
胸さわぎがした。智恵子の身に何かあったのではないか。
有田が――。有田は、智恵子がここにいることを知っている。大西へ知らせ、大西が智恵子を連れ出して……。
まさか! 大西も有田も、やくざやギャングじゃないのだ。いくら何でも、そんなことが……。
敦子は、部屋を出て、一階の水町の部屋へ行ってみた。あの奥さんは目ざとい人だ。何か気付いているかもしれない。――しかし、留守らしく、返事はなかった。
|諦《あきら》めて、部屋へ戻った敦子は、ドアを閉めて、内側についている新聞受けの中に、白い物が見えているのに気付いた。封筒だ。
急いで開けると、中からこの部屋の|鍵《かぎ》が落ちて来た。そして一枚の手紙。智恵子の字だ。――たった一行。
〈お世話になりました。智恵子〉
敦子は、わけが分からず、その手紙を手に、|呆《ぼう》|然《ぜん》と突っ立っていた。
|宴《うたげ》の夜に
え? もう終わったの?
本当に、そんな感じだった。――敦子は、人のいなくなった宴会場を見回して、何だかまだ夢から覚めていないような気分でいたのである。
まぶしいくらいに明るい照明の下で、コーヒーカップが白く光っている。妹の学校時代の友人たちのコーラスや、新郎の仕事仲間の送ったエールの声が、まだその辺を漂っているようでさえあった。
「敦子」
と、呼ばれて、我に返る。
母の千枝が、あんまりおめでたくもなさそうな顔で立っていた。
「どうしたの?」
「おじさんたち、もうお帰りだって。ご|挨《あい》|拶《さつ》しなさいよ」
「はいはい」
こういう席では、何年も顔を合わせていなかった親類が集まるので、大変である。ついでに縁談を持って来たり、商売の話をして帰ろうとか、金を借りたいとか……。
何だか、肝心の結婚式の方が「ついで」みたいで……。
しかし、周囲はともかく当人たちにとっては、「人生最良の一日」となったろう。それならそれで結構なことだ。
「――寿子は?」
母と一緒に式場を出ると、敦子はエレベーターでロビーに下りて行った。
「お友だちとワイワイやってるわ」
と、母は|諦《あきら》め顔。「散々、人に心配かけといて」
「仕方ないわよ」
「あんたはやめてよね、こんなこと」
「さあね」
と、敦子はとぼけて見せた。
ホテルのロビーは、若い女の子たちでにぎわっている。この辺は、東京と少しも変わりがない。
「やあ、どうも」
と、やって来たのは、寿子の旦那[#「旦那」に傍点]、山下輝男である。「色々、ご迷惑をかけて」
「いいえ」
と、敦子は言った。「これから妹がご迷惑をかけると思いますけど」
人当たりのいい、なかなかよくできた男である。弁護士というから、妙にいばっていたり、インテリくさかったらいやだな、と思っていたのだが、そういう心配はなさそうだ。
敦子も寿子の性格は分かっているし、この山下という男性にひかれたのは、分かるような気がした。
もう中年ではあるが、疲れた感じはない。といって、妙に脂ぎった印象も与えない。
少々照れくさそうに、タキシードの胸に花などつけているのが、|微《ほほ》|笑《え》ましく見えた。
「お姉ちゃん」
と、寿子がやってくる。
ピンクのカクテルドレスで、|頬《ほお》が上気しているのはワインのせいか。
「苦しくないか、そんなに細いドレスで」
と、山下が言うと、
「失礼ね。そんなに太ってないわよ」
と、口を|尖《とが》らす。
「明日、|発《た》つんでしょ? 気を付けてね」
「あれ、お姉ちゃん、見送りに来てくれないの?」
「おみやげしだいだね」
と、敦子は言ってやった。「お友だちの方はいいの?」
「うん。このまま恋人とデートって子もいるし」
「楽しそうで結構ね」
と、敦子は笑った。
「――敦子」
と、母の千枝が何やら駆けて来た。
「お母さん、転ぶわよ、走ったりして。どうしたの?」
「あの――ほら、何だか上で捜してたって。受付頼んだ人……。何てったかね」
「ああ、分かったわ。行くから」
こういう細かいことにかけては、母は全然だめである。
「すみませんね」
と、山下が恐縮した様子で、「本当なら、僕の方で全部やるところですが」
「いいえ。うちの関係の方がずっと多いんですもの。ご心配なく。じゃ、ちょっと失礼します」
行きかけると、
「お姉ちゃん!」
寿子が追いかけて来て、「今夜、私たち、ここに泊まるんだけど」
「知ってるわよ」
「彼が、お姉ちゃんと話したこともないし、って。夕ご飯でも少し遅めに一緒にどうですかって」
「あんたたち二人と?」
「いいじゃない。面白い人よ」
「お邪魔じゃないの?」
「邪魔なら、よばない」
「そうか」
敦子は笑って、「じゃ、時間があれば、ってことにしましょ。ともかく、|一《いっ》|旦《たん》、後のことを片付けないと。――部屋へ入るんでしょ? 電話ちょうだい」
「うん」
敦子は、エレベーターの方へ歩いて行った。忙しく、あわただしい一日だったが、敦子は楽しんでいた。
自分が頼られ、忙しく駆け回る、という生活は、敦子には合っているのである。長女だから、というだけではあるまい。OLとしてのキャリアが、ものを言うのである。
ホテルの宴会係の人と、最終的な精算をして、話がすむと、もう家族もみんな帰ってしまった後で、敦子は、
「全く、みんな人任せで」
と、愚痴を言いながら、結構充実感を味わっていた。
一人になって――さて、家へ帰るか、と思ったが、今日帰る家は、いつものアパートではない。寿子は、もう家を出てしまった人間なのだし、帰れば待っているのは両親と|親《しん》|戚《せき》の人たち……。
敦子の顔を見れば、きっと、
「敦子ちゃん、まだ嫁に行かんのかね」
ということになるに決まっている。
いささかくたびれてもいたし、敦子は、帰る前にラウンジで一休みすることにした。
もちろん、長女という立場もあるし、こんな時、親類に|挨《あい》|拶《さつ》もしないというわけにはいかないのは承知している。ただ、それだけのエネルギーを一旦蓄えないと、今の状態では、後でどっと疲れが出そうだった。
「コーヒー下さい」
と、オーダーして、寿子が、良かったら夕食を一緒に、と言っていたことを思い出した。
でも……。ここは遠慮しておいた方がよさそうだ。敦子がいないと、母の機嫌も悪くなりそうだし……。
山下と会う機会は、まだいくらもあるだろう。
コーヒーが来て、ゆっくり飲み始めると、
「――あら」
敦子は、当の山下が、ラウンジでウロウロしているのに気が付いた。「山下さん」
山下は、敦子に気付いて、
「やあ、これは」
と、やって来ると、「ここにかけてもいいですか」
「ええ、どうぞ。寿子は?」
「ホテルの部屋で、何だか学校の時の友だちと騒いでます」
と、山下は笑って言った。「とても、中年男の出る幕じゃないので、逃げ出して来ました」
「すみません、あの子も甘えん坊だから」
「いやいや、そこに|惚《ほ》れたんですからね」
「独身の女性の前で、そんなにのろけないで下さい」
と、敦子は言ってやった。
山下もコーヒーを頼んで、やれやれ、というように息をついた。――もう若くはないのだ。くたびれただろう。
「そうだ、寿子がお話ししたと思いますが、今夜、よろしければ――」
「ええ、でも、家に大勢|親《しん》|戚《せき》が来ていますし、その相手をしなくちゃいけませんから」
「そうか。――大変ですね。僕の方はあまり親類という|奴《やつ》が多くなくて。気楽と言えば、気が楽です」
と、山下は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
では、一緒の夕食は、ハネムーンから戻って、改めて……。
一応、山下との間で、そういう話にはなったものの、考えてみれば、敦子はそんなにいつまでも休みを取れるわけではない。結局、何年も(!)先の話になってしまうことだろう。寿子だって、出産が近付けば、姉のことなんか頭から消し飛んじゃうことだろうし……。
「――お客様の、ナガセ様、ナガセ様」
と、ラウンジを、ウエイターが呼んで回っている。「ナガセアツコ様……」
どうやら、私のことみたい、と敦子は思った。でも、どうしてこんな所で呼び出されるんだろう?
「あの、永瀬ですが」
と、近くへ来たウエイターに声をかけると、
「お電話が入っております」
敦子が腰を浮かしかけると、「今、お持ちしますので」
と、止められる。
待っていると、ワイヤレスの、短いアンテナのついた電話を持って来てくれる。
「どうも」
しかし、人と会ってる時に、聞かれて困るような電話がかかって来たら、これも|却《かえ》って不便かもしれない。
「もしもし」
と、呼びかけると、向こうからは何の返事もない。「――もしもし。――永瀬です」
「あ、もしもし!」
と、息をきらして、「僕だよ」
「なんだ、どうしたの?」
有田である。もちろん東京からかけているはずだ。
「いや、ごめん。お宅の方へかけたら、たぶんまだホテルの方にいる、ってことだったから……」
「やっと片付いて、一休みしてたの。何なの?」
「実はね……」
有田は、言いにくそうに、「TV局が来たんだ、今日」
「TV局?」
「会社へ、突然ね」
「どういうこと?」
「例の事件だよ。君がアパートに置いてた、竹永って子……」
「あの子がどうかしたの?」
敦子は一瞬青ざめた。智恵子の身に何かあったのかと思ったのだ。
「いや、そうじゃないんだ。あの子の父親が行方不明になっただろう? そのことをね、TV局の|奴《やつ》が、調べてるらしい。課長と、僕に話を聞きたい、って。それと君にも」
敦子は、思いもかけない有田の話に、戸惑った。
TV局の人間が、敦子の所へ来るというのは分かる。しかし、敦子は大西の名前を出してはいないし、ましてや有田のことなど、知るわけもないのだ。
「ともかく、君は故郷へ帰ってる、と言ったら、分かったと言ってたけどね」
と、有田が続けた。
「今、どこからかけてるの?」
と、敦子は|訊《き》いた。
「会社だよ。会議室だ」
「他に誰かいる?」
「いや、一人だよ」
「そう」
敦子は、目の前に座った山下の方へ、チラッと目をやった。山下はすぐに察して、席を立つと、自分のコーヒーカップを手に、離れたテーブルに移って行った。
「もしもし。――ごめんなさい。ちょっと他の人と一緒だったものだから。もう大丈夫」
「しかし……。参ったよ」
有田の声だけで、敦子にはおよそ察しがついた。
「大西さん、私がしゃべったと思ってるわね、きっと」
「うん……。まあね」
「話したの? あの子が私のアパートにいたってこと」
「とんでもない。言いやしないよ」
と、有田は強い調子で言った。
「でも、今になってどうして……。向こうは何て言ってるの?」
「よく分からない。ともかく課長がピリピリしててさ、話すことはない、と言って、押し通したんだ。だから、向こうの話も聞けずじまいさ」
「大西さんとあなたの名前を出して、会いたい、と言って来たの?」
「うん。だからきっと君が何かしゃべったんだろうって、課長が……」
「何も言ってないわよ、私」
「分かってるさ。君……いつ帰る?」
敦子は迷った。明日一日休暇にしてあるし、明後日は休日。本当は明後日の夕方辺りの便で東京へ戻るつもりだった。
「一旦は引き上げたの、TV局の人?」
「うん。でも、また来る、と言ってたよ。もしかすると、僕の家にも来るかもしれないな」
「私のアパートにもね」
「一切、返事をするな、っていうのが課長の命令さ。その内には|諦《あきら》める、って」
それはそうかもしれない。しかし……これだけの期間を置いて、またTV局がやって来たというのは、何かつかんだからではないだろうか。敦子にはそう思えた。
「――あの女の子のことは、何か言うか|訊《き》くか、してた?」
と、敦子は言った。
「いや、話には出なかったよ」
正直なところ、敦子はもう竹永のことは忘れてしまおうと思っていた。
竹永智恵子が突然姿を消してしまったことは、小さからぬショックだった。――別に、敦子としては智恵子をアパートに置いていたことで、恩を売るつもりではない。しかし、一緒に暮らしていて、時には妹のようにすら感じていた智恵子が、一片の置き手紙だけで、わけも言わずに出て行ってしまったのだ。
敦子としては、どうしても裏切られた、という気持ちになるのも、無理からぬことだろう。もちろん、それはそれとして、智恵子の父親の消息を知りたいという思いはあったが、事実上、敦子には、これ以上踏み込むことは不可能な状態だったのである。
「分かったわ」
と、敦子は言った。「何とか明日の便で帰るようにする」
「でも、無理して――」
「大丈夫。こっちに長くいたら、お見合いでもさせられそう」
「じゃ、すぐ帰って来いよ」
と、有田があわてて言ったので、敦子は思わず笑ってしまった。
「――だけど、尾を引くわね」
と、敦子は言った。
「そうだね。でも、仕方ないさ、これ以上」
「そうね。――私のこと、クビにするとか、言ってなかった?」
「まさか。そしたら、ちょうどいいじゃないか。僕と結婚する口実ができる」
「それはそうね」
と、敦子は有田に合わせた。「じゃ、帰ったら電話するわ」
「うん。――悪かったね、せっかくのんびりしてる所へ」
「声が聞けて良かったわ」
敦子はそう言って、電話を終えた。
山下が、席に戻って来ると、
「何か厄介事でも?」
と、|訊《き》いた。
「会社で、ちょっと。大したことじゃないんですけど」
「もし、必要ならいつでも東京の親しい弁護士を紹介しますよ」
そうだった。山下は専門家である。
「そんなことにはならないと思いますけど……。その節はよろしく」
と、敦子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
むしろ、今気が重いのは、明日東京へ戻ることを、母にどう言うか、であった。きっと、ブツブツ言うことだろう。
寿子が勝手に結婚したと思ったら、お前も何だかんだと言って、また行っちゃうし。少しは親の気持ちも考えてみたら?
――母のセリフは大体想像がつく。
「山下さん」
と、敦子は言った。「親の|叱《こ》|言《ごと》をうまくかわす方法、教えていただけません?」
山下と別れて、敦子は家へ帰った。
想像した通り、家には、まだ|親《しん》|戚《せき》たちが四人上がり込んでいて、父と飲んでいた。
「――お父さん」
と、敦子は、真っ赤な顔の父をにらんで、「お酒は控えて、って言われてるんじゃないの?」
「敦子か。いつ帰ったんだ?」
もう完全に「出来上がった」様子の父は、トロンとした目で娘を眺めて、「ちゃんと寿子の式に出てやらなきゃいかんぞ。お前は長女なんだぞ」
「何言ってんのよ」
と、敦子はため息をついて、「もうお酒はそれだけよ。――すみません、もう父は寝かさないと」
急いで、奥へ行って着替えていると、
「敦子」
と、母の千枝が入って来た。
「何であんなに飲ませるのよ。倒れたって知らないよ」
「しょうがないでしょ。こんな時だもの」
「もう寝かせないと。――みんな、帰ってくれないかなあ」
「大きな声で……」
と、千枝は顔をしかめた。「聞こえるじゃない」
「聞こえたからって、帰るような、おとなしい親戚、うちにはいないでしょ。|中《なか》|洲《す》のおじさんなんて、何か持ってくかもしれないわよ。気を付けた方がいいわ」
敦子も、ものの言い方ははっきりしている方だ。「中洲のおじさん」というのは、父の|従兄《いとこ》である。中洲というのは、もちろん|博《はか》|多《た》の繁華街の名だ。
バーをやったり、パチンコ屋を開いたり、思い付きで商売を始めては|潰《つぶ》して借金を重ねている。こんな時でもなければ、およそ会うことのない人だった。
あらゆる|親《しん》|戚《せき》から金を借りて、全然返していないから、向こうも会いたくないはずだ。しかし、おめでたい席なら、みんな遠慮して借金の催促はしない、と分かっているから、やって来るのである。
「お茶いれるの、手伝ってよ」
と、千枝が言った。
「もういいじゃない。帰ってもらえば?」
「今、お|寿《す》|司《し》が来るのよ」
「|呆《あき》れた! あのおじさんでしょ、言い出したのは」
「今日はそうケチもできないじゃないか」
と、千枝は愚痴っぽく言って、「お前、いつまで居られるの?」
「明日、帰るわ。急な仕事が入ったの」
と、投げるような調子で言って、「じゃお茶いれるわね」
母に文句を言う|隙《すき》も与えずに、敦子は台所へとエプロンをつけながら、入って行った……。
出迎え
今ごろ寿子たちは、オーストラリア行きの飛行機の中か……。
それとも、もう向こうへ着いているのだろうか? 敦子には、よく分からなかった。
まあ、そんなことはどうでもいい。ともかく、山下と寿子の二人は、無事にハネムーンに|発《た》っていったのだ。
「もうすぐ着くのね」
と、敦子は|呟《つぶや》いた。
これはこっちの話である。今、敦子は東京へ向かう飛行機の中にいた。
少し揺れるようになって、高度が下がって来たのが分かる。――敦子は、何度乗っても、飛行機というのが好きになれない。
いつも、足下をおびやかされているみたいで、不安なのだ。それでも、列車で半日もかけて帰るよりは、と飛行機にしているが。
一人で乗るのでなければ、飛行機も悪くないかもしれない。誰か、頼れる男性が隣に座っていてくれたら……。
結局、寿子たちの式の翌日にはどうしても発てず、もう一日ずらすことになった。
今日は休日。羽田空港からの道はいつもより空いているかもしれない。
シートベルトをしめるように、というアナウンスがあった。敦子は、至って|真《ま》|面《じ》|目《め》に、座席にいる間は必ずシートベルトをしている。アナウンスを聞いて、また確かめてみた。
――発つのも気が重かったが、東京へ戻れば、また気の重いことが待っている。有田には、この便で帰ると連絡しておいたので、迎えに来ているはずだ。
母の愚痴、見合いをしてから東京へ戻れ、としつこく言うのを、半ば|喧《けん》|嘩《か》するように振り切って帰って来た。――敦子は、心底疲れてしまった。
父は父で、酔って眠りこけ、昨日一日、ほとんど布団から出て来なかった。今日は起きていたが、頭痛がすると言ってゴロゴロしているし、寿子の結婚のことでも、まだ不平を言っていた。
病気のせいもあるし、自分が働けないという|苛《いら》|立《だ》ちが、敦子への負い目と、その裏返しの強がりになるのだ。そう分かっていて、父の気持ちを理解しているつもりでも、くどくどとこぼされると、苛々して、怒鳴りたくなって来る。
母には、経済的な不安もあった。寿子の結婚で、寿子の分の給料は入らなくなる。もちろん、その分、山下が出してくれることにはなっていたが、何といっても、娘からもらうのとは違う。何かの都合で、山下が金に困りでもしたら……。
もうよそう。敦子は、強く頭を振った。
――間もなく、羽田だった。
ともかく、今日は何もないだろう。TV局も、大西も。――何かあるとすれば、明日だ。
それまでは、忘れていたい。敦子は切実にそう願った。
何か楽しいことを考えよう。いいことだけを……。
高度を下げ、確かな大地へと近付いて行く飛行機の中で、敦子は目を閉じて、考えた。ハネムーンに旅発って行く、山下と寿子の笑顔を。照れている山下と、得意げな寿子の、腕を組んだ後ろ姿。
そして――そうだ。山下の、中学生の男の子。
本当に愉快な子だった。あれなら寿子が手こずることはあるまい。むしろ、寿子と一緒になってはしゃぎ回りそうである。
ハネムーンの間は、親類の家に厄介になるということだったが、父親の背中をポンと|叩《たた》いて、
「ゆっくり行って来てね」
と、言ったものだ。「毎日、別の子とデートが詰まってんだ」
ちょっとませていて、でも根は至って|真《ま》|面《じ》|目《め》そうな、面白い少年だった。
いや、敦子にとっては、|甥《おい》ということになる。敦子のことを、しっかり、「おばさん」と呼んでいたっけ……。
そう呼ばれても、腹は立たない。事実その通りなのだし、それに少年の言い方が、いかにも親しみをこめたものだったからである。
寿子のことは、ひとまず心配ないとして、さて、今度は自分のことを心配しなくてはならないわけだ。
飛行機が少し傾いた。滑走路へ入るのに、旋回しているのだろう。――敦子は、こみ上げて来る不安を迎えて、ギュッと両手を握り合わせた。
早く、有田に会いたいと思った。有田の、少し頼りなげな、屈託のない笑顔を見たい……。
窓の外に、空港の灯がせり上がって来る。車輪が大地に触れるショックが、体を揺さぶると、敦子は大きく息を吐き出した。
もし……。有田が迎えに来ていて、そして彼がいやだと言わなければ、そのままどこかへ行ってしまってもいい、と敦子は思った。
母からの電話も、TV局の人間も追いかけて来ない所で、ゆっくりと眠りたい。
そう。――有田が誘えば、今ならどこヘでもついて行ってしまうだろう……。
飛行機は急速に速度を落とし、機内では、せっかちな乗客が早くも立ち上がって、荷物を下ろし始めていた。
「――お帰り」
と、有田は言った。
休日なので、背広にネクタイという格好ではない。それにしても、スポーツシャツと上衣の色の合わないこと。
敦子は、そのちぐはぐさに、何となく安心していた。そして自分から、有田の腕に、自分の腕を絡ませたのだった。
「色々大変ね」
と、敦子は言った。
「君も、疲れたろ」
有田は、一緒に歩き出しながら、「車、駐車場に置いてあるんだ」
「良かった。これから電車に乗って帰る気、しないわ」
「どうする? まだ晩飯にはちょっと早いだろ」
「そうね。――どこかで休みたい」
「じゃ……。喫茶店にでも入る?」
何てまあ、気のきかない人!
「ね、どこか電話してみてよ」
「電話って、どこへ?」
「ちょっといいホテルでも。いいんでしょ、遅くなっても?」
有田は、ポカンとして敦子を見ていたが、
「うん。――うん、構やしないよ」
と、何度も|肯《うなず》いた。「明日、休もうか、会社」
「そういうわけにはいかないわ」
と、敦子は笑って、「宮田さんに何言われるか。でも、ホテルから出勤したっていいじゃない」
「――電話して来る」
有田が、せかせかと人をかき分けて歩いて行った。
敦子は、ボストンバッグを足下に置いて、立っていた。忙しげな人の流れの中で、一人突っ立ってるのは、妙な気持ちだった。
何だか家出少女みたいだわ、と思って、笑ってしまう。
ふと、智恵子のことが頭に浮かんだ。――今は考えまい。せっかく、有田が電話をかけに行ってるんだから……。
「いやだ、あの人」
どこまで電話をかけに行ったのか。ちょっと振り向くと、すぐ後ろに、公衆電話があったのだ。
有田が、息を弾ませながら、戻って来るのが見えた。
「――取った!」
と、やけに元気そうに言って、敦子のボストンバッグを持つ。「さ、行こう」
「どこのホテル?」
「この前の所。大丈夫。今度は飲まないからさ」
「介抱してあげるわよ」
「もう言わないでくれよ、それは」
有田の言い方がおかしくて、敦子は笑ってしまった。
ターミナルから出ると、冷たい風が吹いて来て、敦子はびっくりした。
レンタカーも、なかなか乗り心地のいい新車で、ホテルへ着くまでの三十分ほど、敦子は眠ってしまった。
もう、迷うことも、|苛《いら》|立《だ》つこともない。少なくとも、これから何時間かの間だけは。そう思うだけで、敦子は幸せな気持ちだった。
敦子は、寝返りを打った。
目の所に、ちょうどドアの|隙《すき》|間《ま》から漏れた光が当たって、目を開ける。――何だろう?
誰が来たのかしら。二人で泊まってる部屋なのに。
少し頭を持ち上げて、やっと気が付いた。開いているのは、部屋のドアではなく、バスルームのドアなのだ。水の出る音が、聞こえている。有田がシャワーでも浴びているのか。
ツインルームとしては広いタイプの部屋で、薄暗がりの中でも、その広さが感じられて、敦子は気分が良かった。いつもいつも、あの狭苦しいアパートで寝ている身には、広いというだけで、解放感がある。
ルームサービスで取った食事のワゴンを、廊下へ出していなかったので、料理の|匂《にお》いが残っている。
何時かしら? 頭をめぐらして、ナイトテーブルのデジタル時計を見た。
十一時半を少し過ぎたところ。――では、そう真夜中というわけでもないのだ。
頭の方は覚めても、体は一向に目覚めないようで、敦子はまた目をつぶった。
有田とこういうことになってしまったが……。まあ、後悔はしていない。結婚する気でいたのだし。
有田がバスルームから出て来た。
「あれ、起こしちゃったかな」
敦子が目を開けるのを見て、有田が言った。
「いいのよ。さっきから目は覚めてたの」
「そうか。――何だか、また|風《ふ》|呂《ろ》に入りたくなって。好きなんだよな、風呂って」
「温泉にでも来たみたいね」
と、敦子は笑って言った。
「眠るかい、このまま?」
敦子は首を振って、
「私もざっと一風呂、ってことにするわ。それからのんびり寝る。でも、あなた、お|家《うち》へ帰らないと。あの格好じゃ、会社へ行けないでしょ」
「あ、そうか」
「|呑《のん》|気《き》ねえ」
敦子はベッドに起き上がって、頭を二、三度強く振った。
何となく、目を合わせると照れてしまう。
「――じゃ、ちょっと入って来るわね」
「うん。何か飲むものでも取っておこうか?」
「アルコールはだめよ、寝坊しちゃいそう。それより、まだどこか下のラウンジが開いてるでしょ。ちょっと行ってみない?」
「うん、それでもいい」
「それじゃ」
敦子は、ホテルの|浴衣《ゆかた》をはおって、ベッドから出ると、バスルームへ入って行った。
浴槽にお湯を入れて、体を浸すと、何とも言えず、いい気分である。このまま眠って、|溺《おぼ》れちゃいそうだな、と思ったりした。
すると、電話が甲高い音で鳴り出した。
バスルームの中では、電話は、正に爆発でもしそうな勢いで鳴る。敦子はびっくりして、声を上げそうになった。
もちろん、バスルームについている電話は、受信専用である。ベッドのわきの方で、すぐに有田が出たらしく、音はやんだが、敦子はすっかり目が覚めてしまった。
一体何だろう? ここに泊まっていることなど、誰も知らないはずだ。
誰かが、部屋を間違えてかけたのかもしれない。何しろ大きなホテルだ、そんなこと、珍しくもないだろうし……。
ゆっくりと暖まって、お湯から出ると、敦子はバスタオルを体に巻きつけて、ドアを細く開けた。
「何だったの、電話?」
――何の返事もない。
「有田さん。――どうしたの?」
顔を出してみると、有田の姿が見えない。
どこへ行ったんだろう?
テーブルの上に、メモ用紙が置いてある。|覗《のぞ》いてみると、走り書きで、〈ちょっと出て来る。すぐ戻る〉とあった。
首をかしげながら、敦子はバスルームへ戻って、体を|拭《ふ》き、ドライヤーで髪を乾かした。
お|風《ふ》|呂《ろ》へ入ったせいか、体のだるさが消えて、すっきりしていた。アパートへ帰ろうか、と思った。
泊まらなくてはもったいないのは確かだが、明日、このまま出勤するというのも……。
まあ、今決めなくてもいいだろう。有田が戻って来たら、ゆっくりお茶でも飲んで、それからどうするか決めればいい。
できることなら、二人で明日一日、休みを取って、ここで昼ごろまで寝ていたい。たまにはそんなことがあっても、と思うが……。
でも、休みを取った後である。出勤しなくてはならない、ということは、敦子にも分かっていた。それでも、ちょっと夢を見ていたいのだ。
服を着て、ソファに腰をおろし、ホテルの案内のパンフレットを眺めていると、ドアをノックする音がした。
敦子は立って行って、ドアを開け、
「どこへ行ってたの?」
と、言ったが――。
「やあ」
と言ったのは、大西だった。
敦子は、言葉も出ないまま、大西を中へ入れていた。
「すまんね、せっかくの楽しい夜を邪魔してしまって」
大西は、部屋を見回して、「いいなあ、広くて。我が家の寝室の三倍はありそうだ」
と言って、笑った。
「あの……」
「有田君は下のラウンジにいるよ。僕の用はすぐにすむ」
大西は、ソファに腰をおろした。
大西は、いつもと変わりなく、愛想が良かった。それが、こんな時には|却《かえ》って不自然にも見えた。
「どうしたんですか」
と、敦子は、座るのも忘れて、|訊《き》いていた。
「うん。まあ、かけてくれ」
――敦子も、驚きからさめると、やっと事情が|呑《の》み込めて来た。
今夜、ここへ泊まろうと言い出したのは、敦子の方だ。有田は、大西に言われて、敦子をどこかへ連れて行くことになっていたのだろう。大西と話をさせるために。
それが、敦子とこういうことになったので、大西の方が出向いて来たのだ。
だったら、そう言っていけばいいのに、と敦子は思ったが、有田としては言い出しにくかったのに違いない。その気持ちも、分からないではなかった。
「しかし、良かった」
と、大西は|肯《うなず》いて、「君たちのことは、ぜひうまく行ってほしいと思ってたんだ。いや――君も色々あって、大変だったろうがね」
「大西さん」
と、敦子は、やっと口を開いた。「TV局の人が――」
「うん、そうなんだ。全くしつこい連中さ」
と、大西は肩をすくめた。「有田が君にどう言ったかな。僕も、あの時は|苛《いら》|々《いら》してね、つい君がしゃべったんじゃないかとか、言ってしまったんだ。まあ勘弁してくれよ。君がそんな子じゃないことは、分かってる」
「私にも、見当がつきません」
と、敦子は言った。
有田は、敦子が竹永智恵子をアパートに置いていたことを、本当に大西に言っていないのだろうか。
「時間だ。時間が解決するさ、何もかも」
と、大西は言った。「みんな忙しいんだ。どんなことも忘れて行くよ」
敦子は、大西がただ、そんなことを言うためにここへ来たのではない、と気付いていた。よほどのことがなければ、こんな時間に出向いては来ないはずである。
「大西さん」
と、敦子は言った。「私に何かお話が」
「ああ」
大西は、ちょっと目を伏せた。
「――辞めろ、ということですか」
大西は、少し間を置いて、
「そうは言えないよ。君にも色々事情があるだろうし。ただ……仕事を続けるのなら、あの一件のことは、もう二度と思い出さないでほしい」
「思い出すって……何を、です? 私はみんなが|喧《けん》|嘩《か》するのを見てただけです。その後、どうしたかなんて――」
「君にも分かってるだろう」
と、大西は言った。「竹永は、死んだ」
気が付くと、敦子は、両手を固く握り合わせ、力をこめ過ぎてその手は震えていた。
「――思ってもみなかったよ」
と、大西は言った。
|平《へい》|坦《たん》な声だった。少し疲れてはいるが、穏やかだ。
「あんなことになるとはね。いや責任は僕にある。有田君が悪いわけじゃない。だからこそ、僕も悩んだんだ」
そうだった。竹永を直接[#「直接」に傍点]投げとばして、あの柱へ|叩《たた》きつけたのは、有田である。
有田さんもそのことは知ってるんですか、と、|訊《き》こうとしたが、声にならなかった。
「あの後、警備員室へ運び込んだ時には、もう息がなかった。どうにもならなかったんだよ」
大西は、落ちつかない様子で、息をつくと、
「誰のせいでもない。そうだろう? あんなことになるなんて……。全く、運が悪かったんだ」
「有田さんは――」
「彼に知らせたのは、夕方、会社が終わってからだ。――ことの重大さにも、その時は気付かなかったんだよ。本当だ。ただ、みんな|呆《ぼう》|然《ぜん》としていてね」
言いわけがましくは聞こえなかった。おそらくその通りなのだろう。
今、敦子自身も、混乱していた。
「君に打ちあけたのは、君の有田君への気持ちがはっきりしたからだ。もう君を信用してもいい、と分かったからね」
敦子は、大西の言う意味が、よく分からなかった。
「ともかく、もうすんでしまったことだ」
大西は、いきなり立ち上がった。「今さらあの出来事を掘り返したら、会社の名にも傷がつくし、もちろん僕も有田君も、どうなるか……。君さえ、口をつぐんでいてくれれば、その内、TV局も|諦《あきら》める。それが一番だ。誰も傷つかずにすむ。分かるだろう?」
敦子は、はい、とも、いいえ、とも言わなかった。何が言えるだろう?
「君も、楽しい未来のことを考えてりゃいいじゃないか。なあ」
大西はポンと敦子の肩を|叩《たた》いて、「有田君と結婚して、子供を産んで。君らの子供なら、きっと二枚目だな」
と、笑った。
「さあ、行こう。ラウンジで有田君が待ってるよ」
敦子は、ほとんど無意識の内に、立ち上がって、部屋を出ていた。
大西が、エレベーターの中でも、あれこれしゃべりまくっているのを、ぼんやりと聞いていた。
こうなったからには、式は早い方がいい……。いつでも仲人は引き受けるからね。
敦子の耳を、そんな言葉が、かすめて通って行った。
承認印
「どうしても?」
と、有田は|訊《き》いた。
こんな所で訊かれてもね。――敦子は、もうアパートが見えて来るかと、前方に目をこらしていたのだ。
有田が、車のスピードを落とした。敦子が有田の方を向くと、車は道の端へ寄って停まった。
夜中、もう三時近くになっているはずだ。エンジンを切ると、何の音も聞こえなくなった。
「何なの?」
と、敦子は、息を吐き出して、有田から目をそらした。
「黙ってて、悪かった」
と、有田は言った。
大西と別れて、ホテルのラウンジで有田と会い、アパートへ帰る、と告げてから、二人は全然、言葉を交わしていなかった。ついさっきの、「どうしても?」が、何十分かの沈黙を、初めて破った一言だったのだ。それも、よく意味の分からない一言だった。
有田が謝ったのも、何に対してなのか。
竹永が死んだと知っていて、黙っていたことを言っているのか、それとも大西をあの部屋へ呼んだことを、か。たぶん、何もかも、ひっくるめて、敦子に謝っているのだろう。
「今は、何も考えられないわ」
と、敦子はヘッドレストに頭を押し付けるようにして、言った。
「だろうね……」
有田は、ハンドルに手をかけたまま、|肯《うなず》いた。
もちろん、敦子としては、|訊《き》きたいことが、いや訊かねばならないことが、いくつもあった。竹永が死んだと分かって、それから、どうしたのか。その事実を他に知っているのは、|誰《だれ》なのか。
だが、ともかく今は一人になりたかったのだ。
初めて有田と寝て、その直後に、竹永のことを聞いた。とても一度に消化し切れない出来事である。
「ともかく、アパートで降ろして」
と、敦子は、話を切り上げるように、言った。
有田は、何も言わずに、再び車を走らせて、三分とたたない内に、アパートの近くまで来た。
「ここでいいわ」
敦子は、車が停まるより早く、ロックを外していた。有田が言った。
「明日、休んだら。――僕から、言っとくよ、課長に」
「休むなら、自分で電話するわよ」
車を出て、敦子は、「おやすみなさい」
と言って、ドアを閉めた。
夜気の冷たさが、まず|頬《ほお》をこごえさせた。
有田は、「おやすみ」と言ったようだが、車の外にいる敦子には、口の動きしか、見えなかった。
車の赤い灯が見えなくなると、敦子はアパートの中に入って行った。
――部屋へ入ると、ひどく寒い。
何日か留守にしていたのだから、当然のことだ。敦子は、まずストーブの火を入れ、それから、ボストンバッグの中身を整理し始めた。
クリーニングに出す物、自分で洗う物。化粧品は鏡台の引き出しに戻して……。
ともかく、何かしていたかったのだ。
|風《ふ》|呂《ろ》には入ってしまったから、明日出勤するにしても、寝てしまっていいのだが、とても眠れまい、と分かっていた。
竹永は死んだ……。分かってるだろう。
大西の声が、まだ耳の奥で響いている。あの口調には、敦子を、「仲間」として認めているのだ、という気持ちが感じられた。
おそらく、そうなのだ。――敦子が有田と寝たから、もう余計なことはしゃべらないだろう、と思ったのだ。
もちろん、有田の方に、そんな下心があったのでないことは、敦子にも分かっている。誘ったのは敦子の方なのだ。
しかし――結局、有田は大西にそれを話し、大西はそれを利用した……。利用、と言うのは当たらないかもしれないが、やはり、利用したには違いないのだ。
「こうしてたって、仕方ないわ」
と、敦子は|呟《つぶや》いた。
時間は過ぎて行くばかりだ。明日、会社へ出るのなら、もう休まなくては。
少し部屋があたたまって来ると、敦子は、布団を敷こうとした。タオルケットと毛布が、押し入れから落ちて来た。智恵子が買って、置いて行ったものだ。
敦子は、その場に、座り込んでしまった。
智恵子が、もしまだここにいたとしたら、自分はどんな顔でここへ帰って来ただろうか。何くわぬ顔で、
「ただいま」
と、九州のおみやげなど、手渡していただろうか……。
だめだ。――だめだ。
とても、黙っていることなんかできない。人一人、死んだのだ。智恵子に会った時、何と言えばいいのだろう?
とても、知らん顔で忘れてしまうことなど、できっこない。たとえ、それで有田を失うことになっても……。
電話が鳴り出して、敦子は心臓が止まるかと思うほど、びっくりした。三時半を過ぎている。
もう今夜は、何も聞きたくない、と思った。たぶん、有田か、大西か。――敦子に口をつぐんでいろ、と、念を押したいのかもしれない。
放っておこうかと思ったが、電話は鳴り続けている。
ホテルのバスルームで電話が鳴った時のことを思い出して、また重苦しい気持ちになりながら、敦子は受話器を上げた。
「もしもし?」
思いがけない声だった。
「お母さん?」
「敦子! ずっとかけてたのよ」
「友だちと会ってて、遅くなったの。どうしたの?」
と、敦子は言いながら、|枕《まくら》を布団の上に放り投げた。
「あのね、お父さんが――」
母の声の響きが、いつもと違うことに、気付いた。家からかけているのではない。
「お父さん……。どうしたの?」
「倒れたのよ、夕方。いつまでも起きないから、見に行ったら、ひどい汗で……」
受話器を持つ手が震えた。――気持ちの上では落ちついているのに、妙だった。
「肝臓?」
「いえ……。お医者さんは、たぶん|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》か何かで……」
最悪の言葉を、敦子は覚悟した。
「で、命は?」
「うん。何とか……。今は少し落ちついてるの。ずいぶん飲んだり、夜遅くまでやってたから」
「だから、あんなに飲ませるな、って言ったじゃないの」
声が震えたのは、腹立たしさのせいかもしれない。「ともかく――入院してるのね」
「うん。今、眠ってるわ」
と、母が言った。「――疲れてるだろ。ごめんね。まさか寿子に連絡するわけにもいかないしね」
「いいわよ。お母さんも疲れたでしょ。少し寝なきゃだめよ」
敦子は、やっと自分を取り戻した。母だって、決して丈夫な人ではないのだ。それに、寿子の結婚で、あれこれ忙しかったから、かなりくたびれているはずである。
「明日、|一《いっ》|旦《たん》会社へ行って、事情を話してから、そっちへ行くわ」
と、敦子は言った。
「そう? 悪いね。帰ったと思ったら……」
「お母さんにまで倒れられたら、困るものね。たぶん、明日の飛行機、取れると思うから。分かり次第、連絡するわ。病院はどこ?」
「あ、そうね。ちょっと待ってね……」
母は、夜勤の看護婦を引っ張って来たらしい。敦子は、病院の名と電話番号を控えた。前にも父が入院したことがあるので、場所は分かる。
「じゃ、敦子、明日ね」
「うん。寝るのよ、ちゃんと。分かった?」
敦子は、優しく言っていた。
「こんなことになるなんてね……」
と、母は愚痴っぽく言った。
「仕方ないじゃないの」
もう、腹立ちも、おさまっていた。母に怒ってみても始まらない。
「ともかく、|一《いっ》|旦《たん》家へ帰って、寝た方がいいんじゃない?」
と、敦子は言ったが、母はすぐに、
「今夜は、お父さんのそばについてるわよ」
と、答えた。
それなら、そうさせておこう、と敦子は思った。今は、母も気が張っていて、大丈夫だろう。
むしろ、明日、敦子が向こうに着いてからの方が怖い。
「じゃ、長くなると悪いから」
と、母が言った。「着く時間が分かったら――」
「電話するわ」
まだ、話は済んでいなかった。すぐそんなことに気が回るのは、やはり敦子が長女のせいだろうか。
「お母さん。――お金、あるの?」
「そうねえ……。式で大分、使ってしまったからね」
「でしょうね」
「でも、無理しないでね。差し当たりは何とかするから」
母が、「何とかなる」でなく、「何とかする」と言ったのを、敦子はちゃんと聞いていた。
「少し用意して行くわ。心配しないで。じゃあ――」
「お願いね」
母の声に、ホッとした気分がこもっていた。敦子は、電話を切ると、果たして今の電話は、現実の出来事だったのかしら、と自分へ問いかけていた。
そう。分かってはいるのだが、信じたくないと思った。――何という夜だろう!
夜? いや、もうすぐ朝になってしまう。
父が、暗い病室のベッドで、声もなく横たわっている姿、その傍らに、何ができるわけでもないのに、いや、それだからこそ、かもしれないが、母が、身じろぎもせず座っている光景が、眼の前に見えているような気がした。
敦子は、もう眠らないことにして、もう一度、ボストンバッグに、必要な物を詰め始めた。
ただ、問題は、「お金」だった。
寿子の式と披露宴のために、かなりの出費をして、敦子も、あまり貯えがあるとは言えなくなっていた。といって、少しのお金では……。父の入院は、ある程度長期にわたるという可能性がある。少なくとも、その前提で考えなくてはなるまい。
敦子は、布団の上に横になると、目を開いて、ほの暗い天井を見上げていた……。
出勤した敦子は、受付で久美江と会って、
「どうしたの?」
と、言われてしまった。「顔色、悪いじゃない!」
「色々大変でね」
と、敦子は言った。「そんなに、私の顔、ひどい?」
「かなりのもんよ」
久美江は、はっきり言ってくれるので、ありがたい。
「父が倒れたの。また少しお休みすることになりそう。――悪いわね」
「そんなこと、いいけど……。妹さんの式は?」
「それは片付いたの。宴会で、飲み過ぎたのよ、父も」
「てんやわんやね」
懐かしい、それでいて、ぴったりの言い回しに、敦子は|微《ほほ》|笑《え》んでいた。
「大西課長、もうみえてる?」
「たぶんね。そう、さっき見かけたわ」
「ありがとう」
敦子は、久美江の肩に、軽く手をかけた。
――大西は、もう席にいて、新聞を広げていた。まだ始業時間前なのだ。
「やあ」
大西は、いつもの笑顔で、敦子を見上げた。「おはよう。ゆうべは遅かったのか」
「はい」
と、敦子は言った。「お話があるんですけど」
「いいよ。じゃ、会議室へ行こう」
大西は、すぐに立ち上がった。
会議室は、もちろん、まだどこも使っていない。大西は、ドアを開けて中へ入ると、
「何だ、灰皿を換えてないな」
と、顔をしかめた。「まあ、かけて。――有田君とは話し合ったのかね」
「いえ……。実はゆうべ、父が倒れた、という電話が」
大西は、敦子の思いがけない話に、面食らっている様子だった。
「――そりゃ大変だ。すぐ行ってあげなさい」
「申し訳ありません。久美江さんと、仕事については打ち合わせておきます」
「分かった。そうしてくれ」
「それと……。妹の結婚で、大分出費がかさんでしまって……。共済資金を、お借りできないでしょうか」
「うん、そうか。分かった。すぐに当たってもらうよ」
「お願いします」
と、敦子は頭を下げた。
「いくらぐらい必要だ?」
と、大西は立ち上がって、言った。「限度は五十万だろ」
「できれば、限度一杯に……」
と、敦子は言った。「入院費用がどれくらいか、まだ分かりませんけど」
「じゃ、話してみるよ。今日、すぐに必要なんだろ?」
と、大西は、会議室のドアに手をかけながら、言った。「飛行機は取れたのかい?」
「今から電話してみるつもりです」
と、敦子は答えた。「よろしくお願いします」
――正直に言えば、今、大西にものを頼むのは気が重い。しかし、そんなことは言っていられる場合ではないのだ。
受付に戻ると、久美江と宮田栄子がノートを広げて待っていた。
「ご迷惑かけて、すみません」
と、宮田栄子に頭を下げると、
「そんなこと、お互い様じゃないの。どうですって、お父さんの具合?」
「まだ、詳しいことは……」
「結婚式とか法事とかあると、昔の人はよく飲むものね。子供の身にもなってほしいわよね、本当に。――今、久美江さんと話してたんだけど、どうせ一人は手が足りないわけだから、誰かここへ回してもらえば何とかなるわ。心配することないわよ」
「はい、あの……そう長くはならないと思います。たぶん三日ぐらいで戻れると――」
「その辺は、はっきりしたら電話ちょうだい。後のことは気にしないで。少し親孝行してらっしゃいよ」
宮田栄子から皮肉の一つも言われるかと思っていたのに、その暖かい言い方は、どう見ても心からのものだった。
敦子はホッとすると同時に、できるだけ早く戻って来なくては、と思った。
「――今、聞いたよ」
と、有田がやって来て、敦子の顔を見るなり言った。「飛行機の方、今、頼んでみてる。知ってる|奴《やつ》がいるんだ」
「ありがとう……。悪いわね」
「そんなことしか、役に立たないからな」
と、有田が言うと、聞いていた宮田栄子と久美江が、
「優しいのね、有田さん」
「有田さんも寝不足の顔してるよ」
と、からかうように言った。
敦子は、ちょっと笑った。――もちろん、冗談を言っていられるような場合ではないのだが、疲れ切って、重苦しい気分の時、こんな軽い一言で、ずいぶん気分がほぐれるものだ。
休暇届の伝票を書いたり、細かい仕事を片付けたりしていると、
「永瀬君」
と、大西に呼ばれた。「ちょっと――」
急いで立って行くと、大西は席の方でなく、エレベーターホールの方へと敦子を促して、連れて行った。
何だろう? 敦子は、ちょっと戸惑いながら、ついて行った。
大西は、足を止めると、周囲に人がいないか見回して、
「今、|訊《き》いてみたんだけどね」
と、口を開いた。「君、前の借りた分の返済が終わってないんだね」
敦子の顔から血の気がひいた。――大西がびっくりして、
「おい! 大丈夫か?」
「ええ……。うっかりしてました。すみません」
敦子は頭を振って、「あと少しだと思うんですけど」
二十万円借りて、それを月に一万円ぐらいずつ返している。天引きされるので、どこまで返したものか、よく|憶《おぼ》えていないのである。
「あと半年だそうだ」
「半年ですか……」
「一、二か月のことなら、日付をずらして、何とかする、ということだったんだがね。半年となると、決算期を過ぎてしまう。それはまずい、ということなんだ」
「分かりました」
と、敦子は|肯《うなず》いた。
仕方ない。無理は言えなかった。
「それで……。これ、今、下ろして来たんだ」
と、大西が、銀行の封筒を、敦子の手にのせた。
「あの……」
「五十万ってわけにはいかないが、三十万ある。その内返してくれればいいよ」
「そんなこと……。大西さんのお金なんでしょう」
「これでも課長だよ。これぐらいは出せるさ。――気にしなくていい。また、帰ってから、相談しよう」
大西は照れたように言って、敦子の肩をポンと|叩《たた》くと、「じゃ、僕は外出して、夕方まで戻らない。気を付けて行っておいで」
返事をする間もない内に、大西は行ってしまった。
敦子は、銀行の名の入った封筒を開けて、中身を|覗《のぞ》いた。――三十万円。
使うのはアッという間だが、返すのは楽ではない。次のボーナスで、返せるだろうか?
取りあえず、これを借りて行くしかなかった。大西としては、もちろん敦子が口をつぐんでいるように、という気持ちでもあっただろう。
しかし――大西は、本当に、敦子のことを心配し、こんな「善行」に少々照れてもいたのだった。決して、装っているわけではない。
部下のことを心配する、優しい課長が、人一人、死なせたことに目をつぶっていようとする。
そのどちらの気持ちも|嘘《うそ》ではないのだ、と敦子は知った。
敦子は、封筒を制服のポケットへ入れて、歩き出した。
遠来の客
「永瀬さん。――永瀬さん」
肩を軽く|叩《たた》かれて、敦子はハッと目を覚ました。
「あ、すみません」
|椅《い》|子《す》に腰かけたままだから、完全に眠っていたというわけではないのだが、ついウトウトしてしまったらしい。看護婦が、|微《ほほ》|笑《え》みながら、立っていた。
「お電話が入ってますよ」
「どうも」
少し赤くなって、敦子はあわてて立ち上がった。
父親は、六人部屋に入っていて、敦子は、朝からそばについていたのだ。
「こちらです」
「どうも……」
窓口の所の受話器を渡されて、敦子は、ちょっと|咳《せき》|払《ばら》いしてから、「もしもし、永瀬です」
「やあ、ごめん、呼び出したりして」
敦子はびっくりして、
「有田さん。どこからかけてるの?」
いやに声の感じが近かったのである。
「君のお宅」
「何ですって?」
「突然、ごめん。でも、ずいぶん君、疲れてるみたいだったしね。心配でさ、お袋も、行って来い、って言うもんだから、さっき飛行機で」
「びっくりさせないでよ! 会社は?」
「今日は土曜日だよ。どうせ休みなんだ」
「ああ、そうか。――何曜日だか、忘れてたわ」
敦子は、そう言って笑った。「母は? びっくりしてたでしょ」
「うん。――でも、お昼をごちそうになっちゃった。病院へ行ってもいいかな」
「構わないけど……。楽しい所じゃないわよ、ここは」
「分かってるさ。お父さん、少し落ちついてるようだね」
「ええ。でも、眠ってる時の方が多いし、目を覚ましても、あんまりしゃべれないの。誰かついてないとね」
敦子は、驚きからさめると、有田の顔が見られる、ということで、自分でも思いがけないほど、胸がときめいた。
「ね、今夜は泊まって行くんでしょ」
「うん。君、まだしばらくは……」
「そうはいかないわ。月曜日に帰ろうと思ってたの」
――実際、父の容態は、急に良くなることも悪くなることもない、という状況だった。
入院生活は、長引きそうな気配である。
「ともかく、母が夕方にはこっちへ来て、交替することになってるの。一緒に来れば? その後で、ゆっくり話しましょうよ」
母の面食らった顔を想像して、敦子はおかしくなってしまった。
有田が、母と電話をかわった。
「お母さん、変なことしゃべらないでよ」
と、敦子はまず|釘《くぎ》を刺してやった。
「しゃべるも何も……。お前、何も言わないんだもの、びっくりするじゃない」
と、母は文句を言った。「でも――優しそうな方ね」
「そうね。一つ年下なんだけど」
と、敦子は言って、「ともかく、そんな話は家でゆっくりね。これから出る? 有田さんを一緒に連れて来てね」
「分かったよ。でも、敦子――」
「何?」
「あの人、うちへ泊まるの?」
と、母が少し声を低くする。
「まさか。どこか捜すわよ。お父さん、今は眠ってる。お昼は少し食べてたわ」
「そう。じゃ、今、煮物を作ってるから、それができたら出かけるわ」
「それじゃ、待ってる」
敦子は電話を切って、
「どうもすみませんでした」
と、看護婦に礼を言った。
病室へ戻りながら、
「ああ、びっくりした……」
と、|呟《つぶや》く。
すっかり眠気もさめてしまった。しかし、それは快い驚き、|嬉《うれ》しいショックだった。
有田は、元来あまり行動的なタイプではない。自分で判断して実行に移す、というのは苦手な方である。
その有田が、前もって電話の一本も寄こさずに、九州まで飛んで来たのだ。そのことが敦子には嬉しかった。
病室へ戻る前に、廊下の自動販売機で缶コーヒーを買って、飲むことにした。別に、目覚ましが必要というわけではないが、ちょっと息抜きしたかったのだ。
もちろん、ハネムーンに行っている寿子たちは、まだ父の入院を知らない。ハネムーンから戻るまで、敦子が東京へ戻るのをのばすわけにもいかなかった。
父の入院の費用のことなど、山下と敦子で話し合わなくてはならないだろうが、それはまた改めて、ということにしよう。
それより、敦子を驚かせたのは、母が急に元気になって、張り切り出したことだった。
寿子の結婚に続いて父が倒れてしまったので、さぞ母も参っているだろうと思い、心配していたのだが、実際には、敦子も|呆《あき》れるほど忙しく駆け回っているのだ。
敦子と寿子が、自分の手を離れて行くばかりで寂しい思いをしていた母にとって、父の入院は、|却《かえ》って新しい「生きがい」を見付けたという結果になったようだ。
毎日病院へ通って来る母の足取りは、|活《い》き|活《い》きとしていた。
――分からないもんだわ、と敦子は思った。
母が有田を従えて(本当に、そんな風に見えたのである)病院へやって来たのは、一時間ほどしてからだった。
「やあ」
有田が、少し照れくさそうに言った。
「突然、何よ」
と、敦子はつついてやった。
「いや……。ちょっと思い立ってね」
と、有田は言いわけがましく言って、「あ、これ、お菓子。看護婦さんにあげてくれ」
「ありがとう。六本木から持って来たの?」
「こっちでも買えるかもしれないけどね」
「渡すわ。ありがとう」
と、敦子は、手さげ袋を受け取った。「父は、何だかボーッとしてるけど、顔だけ見せてってよ」
「うん」
有田は|肯《うなず》いた。――少し緊張している様子なのが、おかしい。
有田が|挨《あい》|拶《さつ》しても、父は一向に分からない様子だった。しかし、ともかく顔だけは見たのだ。
「――敦子」
と、母が、廊下へ出ると、敦子のことを少し離れた所へ引っ張って行って、「結婚しようってことになってる、って本当なの?」
「一応ね」
「だったら、どうして黙ってるのよ」
と、母はふくれたが、本気で怒っている様子でもない。
「私のことは心配しないで、お父さんの面倒を見てあげなさいよ」
と、敦子は母の肩を|叩《たた》いて、「有田さんと出て来るわ。どこか、泊まる所を捜すし、食事もしてから帰ると思うわ」
「分かったわ」
と、母はため息をついて、「ま、お前は寿子と違うからね。好きにしなさい」
「そうするわ」
と言って――敦子は、廊下で居心地悪そうに立っている有田を見た。
「なかなかいい人みたいね」
と、母が言った。
「うん」
敦子は、少し間を置いて、「お母さん、もしかしたら、今夜帰らないかもしれないけど、心配しないで」
と、言った。
「じゃ、いっそうちに泊まったら?」
「向こうが気がねするわよ」
と、敦子は笑って言った。「じゃ、電話しなくても、気にしないで」
「分かったわよ」
母も、何だか楽しげに、「お父さんの方は急にどうこうってことないし、ゆっくりしておいで。お金、持ってる?」
「彼が出すわよ」
まさか、お財布忘れて来たってことはないだろうな、と敦子は半ば本気で思った。
「ただいま」
玄関を入って、ついそう言ってしまっていた。母が病院へ行っているのは分かっていたのに。
私も相当浮かれてるわね、と敦子は、一人で笑ってしまう。――いい|年《と》|齢《し》して、本当に、と自分をからかうのも楽しい。
ところが、
「お帰り」
と、いないはずの母が顔を出したので、敦子は思わず飛び上がりそうになった。
「びっくりした!――何よ、病院じゃなかったの?」
「ちょっと取りに来る物があったのよ」
と、母は言って、「――あの人、有田さんだっけ? 一緒じゃないの?」
「飛行機がうまい具合に取れたから、帰ったわよ。よろしく、って」
――もう日曜日の夕方である。外は暗くなりかけていた。
「ちゃんと、お見送りしたの?」
「うん。それで少し遅くなっちゃった。――何か手伝う?」
「いいわよ、別に」
何となく、照れて敦子は奥へ入って行った。
ゆうべ有田とホテルに泊まり、目が覚めたのは昼過ぎだった。おかげで、超過料金を取られてしまったが、もちろん払ったのは有田である。
敦子は、ポットを持ち上げてみて、
「このお湯、新しいの?」
「さっき沸かしたばっかり」
「じゃ、お茶いれよう。お母さん、飲む?」
「そうね」
狭い台所で、母と娘、二人で、古い|椅《い》|子《す》に腰をおろして、お茶を飲む。
「少し苦かった」
と、敦子は一口飲んで、言った。
こんなこと、初めてじゃないかしら。お母さんと二人で、家にいる。二人きりで。
そこには奇妙な安らぎがあった。そして、母と娘と、どこか共感するものが。
母は、病気の夫のことを考え、娘は、たぶん夫になるであろう男性のことを、考えていたから……。
「明日、やっぱり帰るの」
と、母が|訊《き》いたが、質問というより、確かめているだけ、という口調である。
「うん。――もう少し、いてほしければ、いてもいいよ」
「大丈夫よ。私のことは心配しないで。寿子もそのうち帰るし」
「山下さん、戻ったら、私が電話で相談するから。それに有田さんも、二人で働けば少しは送金できるよ、って言ってた」
「お前は、散々苦労して来たからね。もう、好きなようにしなさいよ」
母の言い方は穏やかで、少し疲れていて、でも幸せそうだった。
母は立ち上がって、
「じゃ、病院へ行くわ。――夕ご飯、どうする?」
「お|腹《なか》空いてない。お茶漬けでもするわよ。お母さんは?」
敦子は、母を玄関まで送りに出た。
「いつ結婚しよう、とか話したの?」
と、母が|訊《き》くと、敦子は、
「向こうはね……。春にでも、って言ってるけど。でも、まあ別に……」
と、口ごもった。
「決めたら、知らせるのよ」
「当たり前じゃない」
と、敦子は笑った。
「あ、そうそう」
玄関を出ようとして、母が思い出したように、「さっき、会社の人から、電話があったわよ」
「私に? 誰だろう」
「何ていったかしら……。若い女の人」
「原さん?」
「そうそう。そんな名前だったわ。出かけてるって言ったら、結構です、って。『お父さん、いかがですか』って、訊いてたわよ」
「じゃ、電話しとくわ。――行ってらっしゃい」
敦子は、母を送り出した後、手帳を取って来て、原久美江の自宅へ電話しようと思った。
手帳を開いて――来年のカレンダーがのっている。
「来年の春にしよう」
と、有田が言い出したのは、ゆうべ、夜遅くに、ルームサービスで軽い食事を取った時のことだ。
「何を?」
分かっていて、そう訊き返したのは、すぐ返事をするのが怖かったせいだろうか。
結婚に決まってるじゃないか。――もちろん、そうよ。私だって、今すぐにでも結婚したっていいと思ってる。
でも、父の容態が、もう少し落ちついて、後のこともはっきり決めておかないと……。
「何とかなるさ」
と、有田はのんびりと言った。「他のことを前提にして、結婚のことを決めるんじゃなくて、結婚を前提にして、他のことを決めりゃいいじゃないか」
――これには、敦子も参ってしまった。
確かに、あれが片付くまで、これがはっきりするまで、と言っていたら、何もできなくなってしまう。
母には、|曖《あい》|昧《まい》に言っておいたが、敦子は、来年の三月ごろ、結婚しようという有田の言葉に、|肯《うなず》いてしまっていたのである。
この前、初めて有田とホテルで過ごした時とは違って、敦子の胸には穏やかな|歓《よろこ》びがあった。これが、いつまでも続いてほしい、と思うような。
気を取り直して、原久美江の自宅へ電話をしてみる。日曜日の夕方、あの忙しい久美江が家にいるかどうか……。
「はい、原です」
意外だった。
「あら、珍しい」
「何だ、敦子さんか」
と、久美江は笑って、「今から出かけるところよ」
「じゃ、悪いわね」
「ううん、まだ早いの。明日、帰れそう?」
「ええ。あさってから出るわ。ごめんなさいね、迷惑かけて」
「いいんじゃない? 宮田女史も張り切ってるし」
「電話くれた?」
「うん。ちょっと思い出してね……。お父さんの具合、いかが?」
敦子が、父の容態を説明すると、
「フーン」
と、久美江は感心したように、「うちの親父も、いつかそうなるのか」
「まだお若いでしょ」
「そうだ。ねえ、有田さん、そっちへ行かなかった?」
敦子は面食らって、
「どうして知ってるの?」
「やっぱりか」
と、得意げに、「敦子さんが早退してから、航空会社に電話してたから。ははあ、追っかけて行く気だな、って、ピンと来たのよ」
「さっき東京へ|発《た》ったわ」
「じゃ、一泊?――ねえ、もうはっきり決まったんでしょ」
「結婚のこと? そう……。まあね」
「おめでとう」
「待ってよ。まだあちらのご両親にもお会いしてないのよ」
「そんなの、ただの手続きじゃない。ま、ともかくお幸せに」
「どうも」
と、電話なのに、敦子は赤くなっていた。
「そうだ。また忘れるところだった。――ね、敦子さんが早退した次の日にさ、電話があったの。アパートの方へかけてもお留守みたいですけど、どうかなさったんでしょうか、って」
「誰から?」
「ええとね……。待ってね。手帳にメモを挟んでおいたはずなんだけど。ちょっと……」
ガサガサという音がして、少し間が空いた。
「あった、あった。ええとね、女の子よ。若い子みたいだった。ちえ子[#「ちえ子」に傍点]、って言って下されば分かります、って。分かる?」
智恵子から電話? 思いがけない話に、敦子は一瞬、答えられなかった。
「もしもし?」
と、久美江が不思議そうに言った。
「ごめんなさい。分かるわ」
と、敦子は答えて、「知ってる子なの。何か言ってた?」
「今週一杯休んでる、って言ったら、何だか心配してたみたい。体でも悪くしたのか、って」
と、久美江は言った。「故郷でご用があって、とだけ言っといたわ」
「そう」
「それで、連絡があったら、電話をいただけませんか、って。番号聞いてあるの。今、言う?」
敦子は少し迷ってから、
「言って」
と、右手にボールペンを持った……。
竹永智恵子が、なぜまた今になって、敦子に連絡して来たのだろう? 電話番号から見ると、都内にいるらしい。
しかし、親類や知人がいない、と言っていたのに。あれは|嘘《うそ》だったのだろうか?
久美江との電話を終えて、しばらく、敦子は電話の前に座り込んでいた。
――もう、何もかも終わったと思っていたのに。今ごろ、どうして……。
終わってなどいない。それは、敦子にも分かっていた。
竹永の死は、そこで終わるような問題ではない。しかし、有田と話していても、決して「そのこと」は口に出さなかったし、ゆうべは、実際に思い出しもしなかったのだ。
このまま、忘却の中に沈めて、時折泡がはじけるように思い出すかもしれないが、それもやがて途絶えるだろう、と……。考えた、というわけでもなく、ただ過去の流れへと放り込んだだけだ。
智恵子は、自分から敦子のアパートを出て行ったのだ。その時点で、敦子の責任は、もう果たしてしまった。――その理屈で、自分を納得させることも、不可能ではなかったが……。
敦子は、電話へ何度も手を伸ばしては、引っ込めた。今さら話すこともない。何も[#「何も」に傍点]言えないのだから、いっそ連絡をしない方が、ましだ。
メモした番号を、敦子はじっと見ていたが、やがて、そのメモを、手の中で握り|潰《つぶ》した。
薄い平凡なメモ用紙は、思いがけないほど大きな音をたてて、小さな|紙《かみ》|屑《くず》になった。
敦子は、それを台所の屑入れに放りこむと、奥の部屋へ入って行った。
「三月、三月、と……」
手帳を開け、赤のボールペンを手にして、畳に|腹《はら》|這《ば》いになると、三月の挙式のためには、いつ、何をしたらいいのか、メモし始めた。
差し当たりは、有田の両親に会うこと。そして式場を捜すこと。それから仲人を決め、日取りを決めて……。
考えることは山ほどあった。敦子は、来年のカレンダーを、飽かず眺めていた。
厚い壁
すぐに相手は出た。
「はい。――もしもし?」
智恵子の声だ。
敦子は、しばらく黙って、受話器を持っていた。智恵子の耳には、羽田空港のロビーのざわめきが聞こえているだろう。
「どなたですか?」
智恵子が、少し|怯《おび》えたような声を出す。
福岡から帰って来て、なぜ空港から智恵子へ電話する気になったのか、自分でもよく分からなかった。ともかく確かなのは――メモを捨てても、この番号は、敦子の記憶の中にしっかりと刻み込まれてしまっていた、ということだ。
「智恵子さん?」
と、敦子が言うと、向こうもすぐに分かったらしい。
「あの……」
「どうしてるの? 元気?」
敦子はできるだけ当たり前の口調になるように心がけた。
「はい。あの……すみませんでした、あの時は」
と、智恵子は言った。「九州へ、帰られてたんですか」
「妹の結婚式の後、父が倒れちゃってね、入院して、大騒ぎだったの」
「大変ですね」
「当分入院ってことになって、今日、東京へ戻って来たの。今、羽田で……。ね、今、どこにいるの?」
「あの……|四《よつ》|谷《や》の方のマンションなんです」
「誰か知ってる人のお宅?」
「ええ」
少し|曖《あい》|昧《まい》に言って、「ちょっと出られないんですけど……。こっちへ来ていただけませんか」
「ずいぶん他人行儀な言い方ね」
と、敦子は冷やかすように言った。「でも良かったわ、元気らしいし。どうしたのかと思って」
「すみません。そのことも説明したいんですけど」
「電話じゃね。――一人なの?」
「そうです」
「いいわ。そっちへ行く。場所、どの辺?」
と、敦子は|訊《き》いた。
羽田から、新宿へ出るリムジンバスに乗って、敦子は息をついた。
飛行機の中で、ずいぶん迷っていたのである。放っておくべきかどうか。
しかし、智恵子が、会社にやって来るのを止めることはできないのだから、それならむしろ会いに出向いた方がいい。敦子は、そう思った。
それなら、大西にも、智恵子をアパートに置いていたことを、知られずにすむ。
ともあれ、智恵子に会うのは、これが最後になるだろう、と思った。
智恵子に会えば、彼女の父親のことを思って、辛いことは分かっていたが、それでも敦子は、会わないですますわけにはいかなかったのだ。
少なくとも、智恵子が無事で、元気にしているということが分かれば……。もちろん、そんなことは、「智恵子にとっては」何の意味もないことなのだが。
――智恵子の説明にも、多少不正確なところがあって、マンションを見付けるまでに、大分歩き回ってしまった。
途中で電話を入れようかとも思ったのだが、敦子は割合に、家を見付けたりするのが得意なので、勘を頼りに捜し回ってしまったのである。それでも、ほとんど大よその見当だけで、マンションを捜し当てて、一息ついた。
そう新しくない、四階建てのマンションで、外見は、少し古めの公団アパート、という印象だった。
「三〇二だったわね」
と、|呟《つぶや》いて、下の郵便受けを見る。
名札は入っていなかった。他の部屋でも、入っている部屋の方が少ないくらいである。
階段を上って行くと、買い物に行く主婦とすれ違った。もう臨月が近いのじゃないかしら、と敦子は思った。大きなお|腹《なか》で、階段を用心しながら下りて来る。
私も、一、二年したらああなるのかもしれないわ、と敦子は思ったりした……。
三階へ上がって、取っつきの部屋が三〇一。三〇二には、玄関にも表札が出ていなかった。
何か、九州のおみやげでも買って来るんだったわ、と敦子は思った。まさか、帰りに直接、智恵子の所を訪ねるとは思わなかったのだから、手ぶらなのも仕方ない。
別に、おみやげを智恵子が喜ぶとは思わなかったが、話のきっかけが何かほしかったのだ。
いざ、ここまで来てみると、智恵子の目を真っ|直《す》ぐに見られるだろうか、と自問してしまう。父親のことを、何も知らないと、平気で言い抜けられるだろうか……。
でも――もうここへ来てしまったのだ。今さら、帰るわけにはいかない。
思い切って、チャイムを鳴らした。部屋の中に、ルルル、という甲高い音が響くのが、表にまで聞こえて来る。
あまり広い部屋ではないようだ。通路に並ぶ、ドアの間隔を見ても、それは分かった。
なかなか、返事はなかった。もう一度鳴らそうかと思った時、
「はい」
と、用心しているような、智恵子の声が、インタホンから聞こえて来た。
「私。敦子よ」
と、できるだけ明るい声を出す。
「ちょっと……待って下さい」
智恵子が玄関へ出て来るまでに、少し間があった。
カタカタと音がして、チェーンの外れる音。
ドアが開いて、智恵子が顔を|覗《のぞ》かせた。
「ちょっと迷って捜したわ」
と、敦子は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
「すみません。私も、この辺よく知らないんです」
と、智恵子は言って、「どうぞ」
大きくドアを開ける。
「じゃ、お邪魔するわね。――ここは、知ってる人の家?」
「ええ。あの――スリッパ」
智恵子は、安物ながら新しいスリッパを|揃《そろ》えて出した。玄関には、智恵子の、布の靴しか置いていなかった。
「ちょっと、ここに置かせてね」
と、敦子はボストンバッグを、上がり口のわきへ寄せて置いた。
「どうぞ、こちらへ」
と、ややぎこちなく言って、智恵子は、正面のドアを開けた。
「ありがとう。でも、良かったわ、あなたが元気で。突然いなくなっちゃったから、何かあったんじゃないかって気になってたの」
見たところ、智恵子は変わりない様子だった。敦子も安心して――。
「あ……」
足が何かを引っかけて、敦子は転びそうになった。――コードだ。太いコードが、玄関の上がり口のコンセントから、正面のドアの中へ、のびている。掃除機でも使っていたのかしら?
その部屋へ入って、敦子は立ちすくんでしまった。
カシャッ、という音がして、強烈なライトが敦子を照らし出した。
智恵子が、六畳ほどの広さの、居間の奥へと身をひいて、壁を背に立った。
「どうぞ。そのソファにかけて下さい」
と、男の声が言った。
敦子は、一体何が起こったのか、さっぱり分からなかった。ここは何だろう?
ライト。男たち。そして、自分の方を向いている、三脚にのせた大きなTVカメラ……。
「おい、玄関、|鍵《かぎ》かけて来てくれ」
と、その男が言った。
ジャンパーを着た男が、居間から出て行くと、玄関へ下りて、鍵をかける。その男には|見《み》|憶《おぼ》えがあった。
あの男だ。乱闘事件のあった日の帰り、敦子に声をかけて来たTV局の男。そして、智恵子とデパートへ行った時、ベビー用品売り場の奥のパーラーにいた男だ。
「どうぞ、座って、楽にして下さい、永瀬さん」
背広姿の、少し年長の男が、穏やかに言った。
|呆《ぼう》|然《ぜん》としながら、敦子は自分でもよく分からない内に、ソファに腰をおろしていた。
居間には、四人の男がいた。それに、敦子と智恵子。
そう広くない部屋なので、ずいぶん|混《こ》み合っているような感じである。
「突然のことで、びっくりなさったでしょう。申し訳ありません」
と、背広姿の男は言った。
愛想のいい口調ではあるが、いかにも手慣れた仕事、という印象も与える。
他の三人の内、二人は、ジャンパー姿。一人は、真正面から敦子を|捉《とら》えているTVカメラを操作しており、もう一人の、敦子の知っている男は、居間のドアの所に立っていた。
そして、もう一人、ツイードを着た若い男が、|椅《い》|子《す》にかけて、メモ帳らしいものを手にしていた。
「そのドア、閉めた方がいいかな?」
と、背広姿の男が言って、「あ、そうか、コードがあるんだな」
ライトを当てられている敦子の目には、部屋の隅に立っている智恵子の表情まではよく見えなかった。
「僕はNテレビの|相《あい》|原《はら》といいます」
背広姿の男が名刺を出して、敦子の前に置いた。「その男は、|憶《おぼ》えてらっしゃいますか? うちの|松《まつ》|山《やま》という男です。前にあなたに――」
「ええ、憶えています」
敦子は、やっと言葉が出るようになった。「でも、どういうことなんですか、これは」
「九月二十一日に、K化学工業のロビーで起こったことについて、追跡取材をしているんですよ」
と、相原という男は、ソファに浅く腰をかけて、早口に言った。「当日、僕は行っていませんでしたが、この松山君と、カメラマンは現場に行っていたんです」
敦子は、ゆっくりと、一人一人の顔を見て行った。智恵子は、顔を伏せ気味にして、敦子の方を見てはいない様子だ。
「どうも、社の方へご連絡しても、会っていただけないという雰囲気でしたので、失礼は承知で、こんな風に……。どうでしょう。そうお時間は取りませんが、少しお話をうかがわせていただければ……」
敦子は、松山という男の方を見た。
「あの時、デパートで……」
「ええ」
と、松山は|肯《うなず》いて、「あなたがパーラーを見に一人で戻った時に、そこの――」
と、智恵子の方へ目をやって、
「智恵子さんに、手紙を渡したんです。お父さんのことで、話したいから、連絡を取ってくれ、と書いて」
それで智恵子は突然姿を消したのか。敦子にも、やっと分かって来た。
少し気詰まりな沈黙が来て、相原という男が、
「おい、お茶いれてくれよ」
と、松山に言った。
「はい、すみません」
仕度はしてあったらしい。すぐに、台所の方で|茶《ちゃ》|碗《わん》を出す音がして、お茶が出て来た。
「あんまりいいお茶じゃないですが、どうぞ」
と、相原は言って、いかにも安物の茶碗で自分も一口飲むと、「松山が、初めにお会いした時、あなたのアパートまで後を|尾《つ》けて行ったんです。勝手なことをして、申し訳ありません。まあ、ドキュメントをとるには、少々強引なこともやらなきゃならないので」
あの日、帰って間もなく、誰かが玄関のドアの前まで来て、戻って行ったことを、敦子は思い出した。この男だったのか。
「あの日以来、しばらくは突発事件に追われていたんですが、その内にどうも気になる、と松山君が言い出しましてね」
と、相原は言った。「あの日、テントの布で隠れたロビーで何が起こったのか、調べたい、と。――僕も、気になったんです。後で[#「後で」に傍点]何かを隠す、ということはよくある。しかし、前もって隠すというのは、見せたくないことが起きると承知していたからでしょう」
「僕はあの時、あなたの会社へ抗議に行った人たちを訪ねてみました」
と、松山が言った。「ところが、まだ工場に残っていたのは三人だけ。しかも、何を|訊《き》いても話してくれないんです。それも、初めの一人は、会ってくれたんですが、後の二人は……」
「即座に連絡が行ったんですね、初めの人から」
と、相原が続ける。「三人とも口をつぐんで語ろうとしない。これは何かありそうだ、ということになりまして」
「あちこち訊いて回って、竹永というリーダー格だった人が、あの時、帰って来なかったという話を耳にしたんです。娘さんは本社の人に会うといって、社宅を出たということで。――本社を訪ねていれば、当然あなたもご存知かと思いまして、アパートへ行ってみたんです。すると、この娘さんが、ちょうど買い物に出るところでした」
智恵子は、チラッと松山の方を見て、また顔を伏せてしまった。
「アパートの方に訊いてみると、|親《しん》|戚《せき》の娘さんだとか。でも、見た感じが、年齢とか、どうも竹永という人の娘さんとぴったりなので……」
敦子は|肯《うなず》いた。
「分かりました。――智恵子さんが突然いなくなったので、心配したんですけど、ともかく無事と分かって安心しました」
敦子の言葉は本心からのものだった。そのことは、智恵子も分かってくれるだろう、と敦子は思った。
「智恵子さんの写真をこっそり撮って、それを、元の社宅の人に見せたんです」
と、松山が話を続けた。
「そこまで分かったところで、これはやっぱり何かあったんだ、ということになり、取材に本腰を入れ始めたんです」
相原は、手帳を取り出して開いた。「あの時、ロビーにいた、他の六人の内、三人はすでに転職している。その三人を、今度は手分けして同時に訪ねましてね、何があったのか、しつこく訊いたんです。危うく|喧《けん》|嘩《か》になりかけたりもしましたがね。結局、あの時、ロビーの、布に隠された内側で、乱闘騒ぎがあったことを聞き出しました」
話し方こそ穏やかだが、相原という男に、敦子は恐怖に近い印象を覚えた。事件がある、とかぎつけたら決して|諦《あきら》めない。その鋭い|眼《まな》|差《ざ》しは、そう言っていた。
「松山君は、あの本社の近くの病院や診療所を一つ一つ当たって、あの時、けがの治療に当たったクリニックを見付けましたよ」
そこまで調べているのか……。
敦子は、固く両手を握り合わせた。
「かなりの騒ぎだったようですね」
と、相原は言った。「どうです?」
ビデオカメラが回っている。――敦子は、
「両方とも……感情的になっていたんです」
と、低い声で言った。
「その時、竹永さんはどうしたんです?」
「待って下さい」
と、敦子は、手の震えを必死で押さえて、「これは|訊《じん》|問《もん》なんですか? 私は――あの会社の社員です。立場というものが――」
「あなたは一部始終を見ていた。そうでしょう?」
と、相原が、かぶせるように言った。「おたくの社には、アルコールが入るとよくしゃべる方が何人もいましてね。クリニックで聞いた名前を頼りに、バーで取材をしました。得意げにしゃべってくれましたよ。大立ち回りの様子をね」
敦子は、智恵子が一歩前に出て来るのを見た。
「私にずっと隠してたんですね。――お父さんがみんなに殴られるのを、見てたのに!」
智恵子の目から涙がこぼれて、|頬《ほお》を伝った。
――そうか。それを聞いて、智恵子は出て行ったのか。
敦子と顔を合わせたくなかったのだ。やっと、敦子にも、智恵子の気持ちが分かった。
頼りにし、父親のことを心配して、調べてくれていると信じていた相手が、実は、一番肝心な事実を隠していたのだ。智恵子がどれほどショックを受けたか……。
敦子は顔を伏せて、握り|拳《こぶし》を固く閉じた歯へ強く押し当てた。痛いほどに。
「あなたを責めるつもりはありません」
と、相原は相変わらず穏やかに言った。
責める? 責める、といえば、敦子自身が、一番自分を責めていたのではなかったか。誰に言われるでもなく。
「確かに、我々も、いくつかの情報はつかんでいます」
と、相原は続けた。「しかし、正面切って、こっちの立場を明かして取材したい、と言えば、誰も口をつぐんでしまうでしょう。記事にすることも、ビデオに撮ることも、拒否されるのは分かっています」
「記事に?」
と、敦子は、顔を上げて言った。
「彼は地方紙の記者でしてね」
相原が、もう一人の、メモ帳を手にした若い男を指した。「工場閉鎖そのものに関心を持って、記事を書いていたんです。それでうちとドッキングしたわけでしてね」
「突然そうおっしゃられても……」
と、敦子は、消え入りそうな声で言った。
「あなたは、|総《すべ》てを見ていたはずです。話してくれませんか。――おそらく上の人間から、何もしゃべるなという命令が出ているでしょう。あなたの社員としての立場は、よく分かります。しかし、話を聞いた限りでは、これは立派な犯罪です」
犯罪という言葉に、敦子は一瞬、血の気のひく思いがした。
「彼らはただ、組合の代表として、本社に抗議しに来ただけです。それを、若手の社員を動員して、殴るけるの暴行を加えたというのは……。クリニックの医師も、中には額を割られたり、内出血していた人もいて、後で必ず精密検査を受けるように、しつこく言ったということでした」
相原は、敦子の顔をうかがうように、「あなたを選んだのは、おそらく、あなたがその事件について、割り切れないものを感じておられるだろうと思ったからです」
「どういう意味ですか」
「だからこそ、あなたは、この智恵子さんをアパートに置いていたんでしょう? 違いますか」
「私は……放っておけなかったんです。東京に知り合いもない、と言うし、行く所もないというんで」
「優しい人ですな」
と、相原は言ったが、別に皮肉ではないようだった。「だからこそ、あなたの口から、何が起こったのか、話していただきたいんですよ。――被害にあった人たちは、みんな口を封じられてしまった。いい職場へ移すとか別のポストを約束する、と言われてね。全く、情けない話です」
情けない話、か。――職を失い、妻子をかかえて明日の暮らしも不安な人間が、投げられた縄につかまるのを、情けないと言えるだろうか。
「お父さんはどうなったんですか」
と、智恵子が、我慢し切れないように、言った。
知らない、私は何も知らない。
そう言わなくては、そうとしか言えないのだと分かっていても、敦子の口からは言葉が出て来なかった。
「まあ、落ちついて」
と、相原が智恵子をなだめるように、「この人は悪い人じゃない。現に、こうやって我々の話を聞いてくれてるんだ。もし、会社に言われて君のことを監視していたのなら、とっくに席をけって出て行ってるさ」
智恵子は、口を閉じて、燃えるような目で、敦子を見つめていた。
「――そうでしょう」
と、相原は敦子に向かって、言った。「あなたは、その気になれば、いつでもここから出て行ける。こちらには別にあなたを監禁するつもりはないんですから」
敦子は、ゆっくりと息を吐いて、
「何をお|訊《き》きになりたいんですか」
と、言った。「もう、何でもご存知なのに」
「いや、正確ないきさつは分かっていません。なぜ、本社がそこまでして、組合の七人を排除しようとしたのか」
敦子は、必死で、状況をつかもうとしていた。何も言わずに出て行くことはできない。
ここで、話すことを拒否しても、この男たちが|諦《あきら》めるとは思えなかった。それに、あのロビーでの出来事を詳しく話しても、それは既にこの男たちがつかんでいる事実を、整理して見せるだけのことだ。
それは避けられない、と敦子は思った。
問題は――もちろん、考えるまでもない。竹永のことだ。
竹永がどうなったか。それだけは、言うわけにはいかないのだ。
「知っていることは、お話しします」
と、敦子は、背筋を伸ばして、言った。「でも、その前に、そのカメラで撮るのはやめて下さい」
相原は、少し迷った様子だった。
「やはり、生の証言がありませんとね。顔はぼかして隠すこともできるし、声も変えられるし。あなただということは、分かりませんよ」
「あの場にいた女性は、私だけです。どんなに隠しても、私以外いないんですから。――しゃべったと分かれば、会社にはいられなくなります」
相原は、ちょっと|眉《まゆ》を上げて、
「いいでしょう。――おい、テープを止めろ」
カメラマンがカメラから顔を上げた。カチリ、と音がして、
「さあ、話して下さい」
と、相原は身を乗り出した。
質 問
敦子は、あの日の朝、課長の大西に呼ばれたことから始めて、アメリカからの客が来ることになっていたので、長野工場の組合の代表たちを締め出そうとしたことを説明した。
「すると、組合代表の締め出しを直接命令したのは、大西という課長だったんですね」
と、相原が言った。
大西の名を、敦子は口にしたくなかった。しかし、そこでごまかしたり、|嘘《うそ》をついたりしたら、これからの話も信じようとしないだろう。
おそらく、他の社員からも大西の名は出ているに違いないが、敦子がそれを認めるのは全く別だ。相原たちは、「証言」を手に入れることになるのだ。
「どうです? 大西が命令したんですね」
と、相原が念を押した。
「そうです」
と、答えて、敦子は急いで付け加えた。「でも――大西課長は、上の人から言われていたんです。社長が、アメリカからみえたお客を案内して、本社へ着く時に、ロビーを――何というか、きれいにしておくように、と」
「きれいに? そう言ったんですか?」
と、相原が身を乗り出す。
「え?」
「人間ですよ。ゴミじゃない。それを『きれいにしろ』というのは、ひどい言い方じゃありませんか」
敦子は、記者がメモを取っているのを見て、
「待って下さい。あの――別にそういう言葉を使ったというわけじゃ……」
「でも、今、あなたはそう言いましたよ」
「ええ、でもそれは――」
「大西課長がそう言ったんでしょう? だからあなたも、ついその言葉が出た」
「いえ……。そうじゃありません。私は……。そうだわ。ロビーが汚れたんです。あの――組合の人たちと、会社の人たちとが争った後。それで、課長がきれいにしろと言ったので……。でも、正確にはそう言ったんじゃないかも――」
「汚れた、と言いましたね」
「ええ、血が大理石の床に――」
と言ってしまって、敦子はハッとして、智恵子を見た。
智恵子が、顔を|蒼《そう》|白《はく》にして、立っている。
「血が床にね」
相原は|肯《うなず》いた。「課長が命令して、みんなできれいにしなきゃいけないほど、血が流れたわけだ」
「でも、鼻血を出した人が何人もいたんです。頭から血を出した人もいましたけど、大部分の人は……」
「乱闘になったいきさつを話して下さい」
相原の言い方は、厳しく、しかも冷静そのものだった。
敦子は、組合の七人が、地下の駐車場からロビーへ入って来て、座り込んでしまったこと、大西の説得にも応じようとしなかったことを話した。
「それで実力行使に出た、というわけですね」
「大西さんも、あんな騒ぎになるとは思っていなかったはずです。ただ、空港から本社へ向かう社長の車から電話が入って、大西さんも追い詰められてしまったんです」
「追い詰められた、と言えば、工場の閉鎖で職を失おうとしていた、七人の方が、よほど追い詰められていたんじゃありませんか」
相原は、早口に、まくしたてるように言った。「あなたは大西課長を弁護しますが、組合の代表たちへの同情があれば――」
「私だって、あの人たちに同情していました!」
敦子は、一瞬カッとなって、我を忘れてしまった。「あの人たちが殴られるのを、面白がって眺めてたとでも言うんですか? あの人たちの苦しい立場に、私だって同情していたんです。だからって、どうしろと言うんですか? 私はただ、受付に座ってることしかできないんです!」
――敦子は、息をついて、震える手を、|膝《ひざ》に押し付けた。
「すみません……。でも……本当です。気の毒だと思ってたんです」
「分かりました」
相原は、少し穏やかな口調に戻った。「いや、あなたのことを責めないと言いながら、つい、あんなことを言ってしまって。――話を戻しましょう」
「ええ」
「会社の中の若くて力のありそうな人間を集めて、大西課長は、強制的にロビーから七人を排除しようとしたんですね」
「そうです」
「その前に、大きな布で、ロビー前面のガラス扉を覆って、中が見えないようにした。――これが、どうも信じられないんですよ」
「どういう意味でしょうか」
「ただ、ロビーからどかすだけなら、何もああまでして隠すことはない、と私には思えるんですがね。つまり、初めから、力ずくで、抵抗があれば暴力を振るってもいいと考えていたとしか思えない。どうです?」
「ああなったのは、たまたまです。本当に――はずみだったんです。一人が、持ってたプラカードを振り回して、社員の一人の頭に当たりました。血が出て――後はもう、何がどうなったのか……」
「しかし人数が違ったでしょう」
と、相原は言った。「うまくすれば、そんなにけが人は出なくてすんだはずだ」
敦子は、返事ができなかった。――メモを取っていた記者が、言った。
「あなたは、黙って見てたんですか」
敦子は、それまで黙っていた記者が急に口を開いたので、ちょっと戸惑った。
「あの――何とおっしゃったんですか。すみません」
「いや、そんな|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》になって、あなたは何もしなかったんですか?」
と、記者は何だかいやにのんびりした口調で言った。
「何も、って……」
「つまり、誰かを呼びに行くとか、止めに入るとか」
「止めに入る、なんてそんなこと……。とてもそんなこと、できませんでした。私は、ただ、|呆《ぼう》|然《ぜん》としていて――」
「すると、何をしてたんですか」
敦子は、少し間を置いて、
「座っていました」
と、答えた。
そう答えるしかない。
「あなたは受付の席に座っていたんでしょう。手もとに電話があるんじゃないですか」
「ええ、それは……」
「まあ、大の男が入り乱れて大喧嘩してる時に、止めに入るってわけにはいかなかったでしょう。しかし、それでロビーが血だらけになるくらい、ひどいけが人も出た。救急車を呼ぶとか、そんなことは考えなかったんですか?」
敦子は、言葉に詰まった。確かに、あの時、そんなことまで考えなかったが……。
「あの……大西課長が、けが人をすぐクリニックへ連れて行く、と言っていましたから。救急車の必要は――」
「ない、と判断したんですか?」
「――いえ、考えもしませんでした」
「大西課長が、けが人をあのクリニックへ連れて行ったのは、いつも会社の健康診断などで利用しているので、喧嘩のことが外へ漏れにくい、と思ったからじゃないでしょうか。どうです?」
「分かりません。いつも利用しているから、すぐ診てもらえるだろうし――」
「現に精密検査を受けろと言われた人もいます。あなたは目の前で、頭から血を流してる者がいるのを見ても、近所のクリニックでヨードチンキでも塗ってもらえばすむと思ったんですか」
敦子は、顔が紅潮するのを感じた。口を開きかけるのを遮るように、記者は続けて、
「あなたはその日の帰りに、ここにいる松山君が話を聞こうとするのを、はねつけましたね」
「ええ……」
「大西課長に口止めされていたんですね」
「私は――」
「あなたは組合の人たちに同情していたと言うけど、それにしちゃ、彼らのために、一言の事実も話そうとしなかったじゃありませんか」
記者の言葉は、いつしかたたみかけるように鋭くなっていた。
敦子は、こみ上げて来る、とても言葉にならない思いと、自分の気持ちを分かってほしい――せめて、智恵子一人には――という願いの間に挟まれて、両手で顔を覆った。体が震えて止まらなかった。
どう言ったら、分かってくれるだろう? あの乱闘と流血を目の前で見せられた衝撃を。
そのショックで、気分が悪くなり、早く一人になりたい、逃げ出したい、と願ったことを……。
結果として、「何もしなかった」と言われれば、敦子はそれを否定はできない。だが、「何とかしたかった」と思ったのは事実なのだ。
それは何の意味もないことなのだろうか。
「まあ待てよ」
と、相原が、記者の方へ、なだめるように言った。「せっかく、我々の取材に応じてくれてるんだ。そういじめちゃだめだよ」
相原は、敦子の方へ向いて、
「すみませんね。――ところで、こちらの竹永智恵子さんの父親のこと、ご存知ですね」
敦子は、ゆっくりと息を吐き出した。
「あの時の七人の中の一人で――」
「行方不明。――妙な話です」
と、相原は自分で|肯《うなず》きながら、「あなたはロビーでの|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》を目の前に見ていたわけですが、その時、竹永さんがどうしたか、|憶《おぼ》えていませんか」
敦子は、座り直した。
逃げ出したかった。これまでの話では、少なくとも|嘘《うそ》をつかずにすんだ。しかし、これからは、そうはいかない。
「分かりませんわ。――もちろん、智恵子さんから写真を見せてもらって、あの七人の中に、確かに見た顔だな、と思いましたけど。でも、あの時、一人一人のことまでは、とても……」
「それはそうでしょうね。何しろ、その場は混乱していただろうし」
「ええ」
「あの七人が、初めに受付にやって来た時はどうですか。つまり、座り込む前のことですが。特別に誰か一人と話をしたとか……」
「みんな、社長に取り次げと口々に言っていたので……」
「なるほど。誰か一人が代表というのではなく?」
「ええ。私が困っていると、大西課長がやって来たんです」
「それじゃ、特に誰かと口をきいた、ということはないんですね」
「ありません」
本当らしく聞こえただろうか? 敦子は、他の組合の仲間たちから、「この人を責めても仕方ない」とかばってくれた、竹永のことを、思い出していた。
「すると、あの時、竹永さんが、とくにひどいけがをしたとか、そんなことがあったとしても、あなたには分からなかったわけか」
相原は、|顎《あご》をさすりながら、「いや、その点が、一番うかがいたかったところなんですよ。何しろ、一緒に抗議に行った仲間まで口をつぐんでいる。他に、事実を知っていそうな人は見当たらないんでね」
と、少し拍子抜けの様子で言った。
「隠してるんじゃないですか」
と、記者が言ったので、敦子は|気《け》|色《しき》ばんで、
「|嘘《うそ》じゃありません!」
と、言い返した。
「それじゃ、一体、竹永さんはどこへ行ったんです? 人間一人、どこかへ消えちまうはずがない」
「私にも分かりません。智恵子さんのためにも、と思って、私もあのクリニックへ行って、|訊《き》いてみました。でも……」
「そのことは、クリニックの看護婦さんから聞いてますよ」
と、相原は|肯《うなず》いた。「私たちも、あなたが善意でこの娘さんを置いていたことは、本当だと思ってます。何とか、竹永さんの消息について、調べる方法はありませんかね」
敦子は、智恵子の方へ、ちょっと目を向けた。辛くて、ほとんど見ていなかったのだ。しかし――今の自分に何ができるだろう。
「私も、やれるだけのことはやったつもりです」
と、敦子は、言葉を押し出すようにして言った。「でも、何も、つかめませんでした。私も心配しています。けれども……」
声が小さくなって消える。――しばらく、誰も口を開かなかった。
「そうですか」
相原は、軽く息をついて、「仕方がない。いや、あなたには、不愉快な思いをさせて、申し訳ありませんでしたね」
「いいえ」
敦子は、握りしめていた手の汗を|拭《ぬぐ》った。
「お父さんは……」
と、智恵子が途方に暮れたように、言った。
「何か、他の面から当たってみよう。君は辛いだろうが、もう少し我慢して」
智恵子が、キュッと唇をかんだ。泣くのをこらえているようだ。敦子の胸が、引き絞るように痛んだ。
「誰かこっちにいたってことも考えられるよね」
と、記者が相原の方に言った。「親しい女性とか。よく東京へ来てたのかな?」
「そんな人、いません」
と、智恵子が食ってかかるように言った。「ひどいわ!」
「まあ、単に可能性を言ってるだけだよ」
と、相原がなだめた。「現実に、蒸発する父親なんて、いくらだっているんだからね」
相原の言葉に、智恵子はむきになって、
「父はそんなこと、しません」
と、言い返した。
「その線で当たる必要があるよ」
と、記者は、立ち上がって、メモ帳をポケットへしまい込む。「企業エゴの犠牲者、っていうんで追跡して、実は女の所に転がり込んでいたとか、会社に丸め込まれてた、なんていうんじゃ、こっちの立場がない」
「その心配はあると思ってた」
と、相原が|肯《うなず》く。「他の六人より、ひどいけがをしたとして、それを種に会社をゆすったとか――」
聞いていて、敦子は、怒りがこみあげて来た。智恵子の|頬《ほお》に涙が流れている。悔しいのも当然だ。
「ずいぶんひどいことをおっしゃるんですね」
と、敦子は立ち上がって、言った。「今の今まで、哀れな労働者の味方だといばってたのに」
「もちろん、我々の基本姿勢はそうですよ」
と、相原が言った。「しかし、それと、一人一人がどういう人間かは別の話です」
「竹永さんが、会社をゆすったなんて、想像でしかないじゃありませんか」
「しかし、まあ、ロビーに座り込む、なんてのも、一種のおどしですからね」
と、相原は肩をすくめた。
「それは、あの人たちの立場なら――。あなただって、そうするんじゃありませんか?」
「かばうんですか? あなたのことを、みんなで脅しつけた、と言ったじゃありませんか、たった今」
「脅したなんて言っていません」
「しかし、困っていた、と言いましたよ」
「それは――」
「みんなで詰め寄って来たからでしょう? 社長に取り次げ、と怒鳴って」
「ええ。でも――」
「何です?」
「竹永さんは、この人を責めても仕方ない、と言って、他の人を押さえてくれたんです。決して――」
部屋の空気が一変した。
敦子は、顔が青ざめているのを感じた。
「なるほど」
相原は、鋭い目で、敦子を見つめながら、また腰を下ろした。「さっき、あなたは七人の中のどれが竹永さんだったか、分からない、と言いましたよ」
「ぼろが出ましたね」
と、記者が笑った。「あなたはこの娘さんの父親を知っていた。当然、|喧《けん》|嘩《か》の時、どうしたかも見てたはずですね」
――敦子は、いつの間にか、腰をおろしていた。追い討ちをかけるように、相原が言った。
「もう一つ、我々のつかんでいることがあるんですよ」
敦子は、一度に体の力が抜けて、相原の言葉に反応することもできなかった。
「例のロビーを『きれいにした』社員の一人と、この松山君が、バーですっかり意気投合しましてね。もちろん、松山君の|身《み》|許《もと》は知らなかったわけですが」
と、相原は言った。「ロビーでの武勇談を聞いた時、社員の中でも目立って活躍した青年がいた、という話を聞きました。力もあるし、体格も良くて、『組合の連中を、次々にぶん投げてた』と、これはその男の言い方ですがね」
敦子は、ぼんやりとテーブルに置いたままの|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》を見ていた。相原のなめらかな声が、耳に流れ込んで来る。
「その青年というのは、有田吉男。二十七歳で、独身。――まあ、以前はさして目立つ存在ではなかったそうですね」
敦子は、有田の名を聞いて、ゆっくりと目を上げた。相原は続けた。
「しかし、あの事件で活躍してから、有田は庶務から総務一課に配置変えになった。総務一課というのは、あなたと同じですね」
「ええ」
と、敦子は|肯《うなず》いた。
「ということは、大西課長の下にいる、というわけだ。今や、かなりのお気に入りらしいじゃないですか」
「よく知りません」
「そんなことはないでしょう。あなたと有田吉男は婚約してると聞きましたよ」
敦子は、疲れ切っていた。返事をする気にもなれない。いや、もう相手には分かっているのだ。答える必要なんかないのだ。
「事実ですね」
と、相原が念を押す。
「――結婚の約束はしています」
と、敦子は、|呟《つぶや》くような声で言った。
「なるほど。あなたとしては、ロビーでの乱闘事件で、恋人が出世の足掛かりをつかんだということになる。微妙なところですね」
「どういう意味ですか」
「別に我々は、あなたの幸せなご結婚の邪魔をするつもりはありませんよ。しかし、あなたは、『事件』の目撃者でもある」
記者が、口を挟んで、
「あなたが|嘘《うそ》をついて、竹永という男を知らない、と言ったのは、恋人をかばうためでしょう」
と、決めつけるように言った。「その有田ってのが、組合の代表の一人を気絶するぐらいの勢いで投げ飛ばし、肩にかついで、意気揚々とロビーから引き上げた、と聞いてますよ」
意気揚々だなんて……。有田だって、興奮して我を忘れたことを、恥じていたのに。
「ただ、その気絶した一人、というのが、誰なのかが、つかめなかったんです。それが竹永さんだった。――違いますか?」
と、相原は|訊《き》いた。
敦子には、答えられなかった。
一体何が聞きたいの、と叫び出しそうになる。あの人は死んだ。そう聞けば満足するの?
あれは不幸な事故だったのだ。竹永は気の毒だったが、もう生き返っては来ない。
ほんの弾みの……そもそもが自分の責任でもない喧嘩のために、有田が「人殺し」になるなんて……。
相原や、記者、そして智恵子もまた、敦子の答えを待っていた。――重苦しい沈黙が、何分も、果てしなく続くかのようだった。
「いいですか」
と、相原は、しびれを切らしたように、「あなたは、竹永さんの顔を知っている、と認めたんですよ。|喧《けん》|嘩《か》の時、どうなったか。自分の恋人が気絶させた相手が、竹永さんだったかどうか、分からないわけがない。そうでしょう?」
敦子は、いつの間にか、両手を再び固く握り合わせていた。そして、
「分かりません」
と、言った。
「信じられませんね」
「でも、本当です。私は目の前で乱闘を見てショックを受けて――気分が悪くなったんです」
「気分がね」
「本当です。乱闘が終わって、受付から離れたんです。三階へ行って寝てました。原久美江さんに訊いて下さい。――受付の同僚です」
「すると、乱闘の間は座っていたけど、それが終わって、すぐに席を立ってしまった、と?」
「ええ」
「それはおかしい。あなたは、大西がロビーをきれいにしろと命令した、と言ったじゃありませんか。それは当然、ロビーにけが人がいなくなった後のことでしょう。少なくとも、けが人がロビーから運び出されるまでは、あなたはその場にいたはずだ」
「それは――」
「それは? 何です?」
敦子は、見えない|紐《ひも》で、自分の首をゆっくりと絞められているような気がした。
「お父さんはどうなったんですか!」
智恵子が、|叩《たた》きつけるように言った。「あなたも一緒にお父さんを殴ったんだわ!」
敦子は、ぶつかって来る言葉から逃げようとするかのように、智恵子から顔をそむけた。
「もう、隠してもむだですよ」
相原は、ふと立ち上がると、座っている敦子の|傍《そば》に来て、|片《かた》|膝《ひざ》をついてしゃがみ込んだ。「何もかも話して下さい。悪いようにはしません。我々はあなたの恋人を警察へ突き出したいわけじゃないんですから」
優しい口調だった。
敦子の中の、張りつめていたものが、音を立てて切れた。
敦子は、涙が|溢《あふ》れ出て来るのを感じて、抑えようとした。しかし、止められない内に、激しい発作のように、肩が震えて、しゃくり上げながら、敦子は泣き出した。
もう、逃げる場所もなく、支えてくれる人もない。一人きりで|堪《こら》える限界を、越えてしまっていた。
「泣いてごまかそうたって――」
と、記者が言いかけて、相原が手ぶりで制した。
「――どうなんです?」
と、相原は、敦子の耳に口を近づけて、「有田が肩にかついで行ったのが、竹永さんだったんですね」
敦子は、|肯《うなず》こうとした。もう否定してはおけない。――だが、敦子が肯く前に、相原は、
「竹永さんは? 今、どこにいるんです?」
と、たたみかけて来た。
敦子は知らないのだ。――竹永が「どこにいる」のかは。
敦子は首を横に振った。
「もう一度|訊《き》きますよ。竹永さんはどこです」
相原の口調は厳しいものになった。敦子はもう一度首を振って、
「知りません」
と、震える声で言った。
「なるほど」
相原は立ち上がった。冷ややかな目で敦子を見下ろすと、
「では、今のあなたの話を、警察へ伝えましょう。当然、あなたも、大西課長も、有田吉男も取り調べを受けることになりますね」
と言った。
「でも……」
「この智恵子さんが、ただお父さんの行方が分からない、と言いに行っただけでは、警察も相手にしてくれないかもしれないが、我々の証言があれば、話は違いますよ。いいですね、警察の取り調べはこんなものじゃありませんよ」
相原は、突き放すように言った。
「待って。――時間を下さい」
敦子は、必死だった。「私が、自分で何とかして竹永さんのことを――」
「じゃ、認めるんですね、有田が竹永さんに重傷を負わせたことを」
敦子は、青ざめて、唇をかんだ。――竹永を殺した、とは、絶対に言えない。
「はっきり返事をして下さい!」
相原が怒鳴るように言って、敦子は顔を伏せた。――重くのしかかる沈黙。
その時、急に、静かな一つの声が、沈黙を破った。
「もう、やめましょう」
と言ったのは、智恵子だった。
誰もが、戸惑った。それほど、智恵子の声は、さっき敦子を責めた時とは違って、穏やかになっていたのだ。
相原が、当惑気味に、智恵子を見た。
「やめよう、って……。どうしたんだ?」
と、智恵子に|訊《き》く。「もう少しなのに」
「もう、いいんです」
智恵子は、首を振った。「私……その人のことは分かってます。本当にいい人なんです。その人を泣かせるなんて、いやです」
「だけどね、君のお父さんのことを――」
「敦子さんは知ってるのかもしれませんけど……。でも、どうしても言えないんだと思います。言えるのなら、私に話してくれてます」
「我々はそれを何としても聞きたいんだ」
「でも、もう今日はやめて。――お願いですから」
敦子は、涙に|濡《ぬ》れた目で、呆然と智恵子を見ていた。
智恵子が、敦子の方へやって来ると、
「ごめんなさい」
と、目を伏せて、言った。「お世話になったのに、こんなに辛い思いをさせて。――お父さんが、もしここにいたらきっと怒るわ。恩知らず、って」
敦子は、ハンカチで顔を|拭《ぬぐ》った。智恵子は相原の方に向いて、
「もう、帰してあげて」
と、言った。
「分かったよ」
相原は|肯《うなず》いて、「――永瀬さん。よく考えて下さい。いずれ我々は真相を突き止めます。あなたが話してくれれば、それが早くなる。決心がついたら、いつでもここに電話を」
敦子は、よろけるように立ち上がった。
出て行っていいのだろうか? 本当に?
居間を出る敦子を、誰も邪魔しなかった。背中に、突き刺さるいくつもの視線を感じた。
玄関に出て、靴をはいていると、智恵子が出て来た。
「道、分かりますか」
と、智恵子は言った。
敦子は振り向いて、
「ええ……」
と、かすれた声で、言った。
――風が出ていた。濡れた頬を、北風が凍らせながら吹き抜けて行く。
マンションから遠ざかりかけて、敦子は振り返った。誰かが見ているような気がしたのだ。
もちろん、それは気のせいだったかもしれないが、これからは、いつも誰かに見られているように思えるだろう。隠さなくてはならないものを、抱いている限りは。
敦子は、ほとんど駆け出すように、マンションを後にした。追いかけて来る不安を、後に置き去りにしようとでもするかのように……。
暗 黒
「いらっしゃいませ」
と、敦子はいった。「ご用件をお伺いいたします」
「営業の|浜《はま》|中《なか》さんに……」
「かしこまりました。恐れ入りますが、お客様は」
「ああ、|黒《くろ》|井《い》といいます。お約束がありますので」
「黒井様ですね。少々お待ち下さい」
敦子は、手もとの電話で営業を呼んだ。「――浜中さんですか。黒井様がおみえです。――はい、分かりました」
このビルに来るのが初めてらしい、その客はキョロキョロとロビーの中を見回していた。
「ただいま浜中が下りて参りますので、そちらでお待ち下さい」
「あ、どうも。――いや、立派なロビーですね」
「恐れ入ります」
と、敦子は微笑した。
「大変でしょうな、こんなにいつもツルツルに磨いとくのは」
敦子の顔が、少し固くなった。客は笑って、
「ま、これ[#「これ」に傍点]もこんなにツルツルにしとくのは大変なんですよ」
と、自分の|禿《は》げた頭を|叩《たた》いた。
今日は、下の受付の当番だ。敦子は、じっと彫像のように、身じろぎもせずに、座っていた。
敦子が仕事に戻って、四日たっていた。宮田栄子は、敦子の父親のことを、ずいぶん心配してくれていた。
大西は、敦子が、毎月少しずつでも、お金を返したいと言うと、
「いつでもいい。余裕ができた時でね」
と、照れたように言っている。
結局、敦子は、何事もなかったように、こうして受付に座っている。元気がないのは、父親のことが心配だからだ、と周囲では思ってくれるので、楽だった。
原久美江あたりから流れたのか、有田と来年の春に式を挙げるという|噂《うわさ》は、もう女子社員の間で、知らぬ者はなくなってしまっていた。
有田も、昼食に敦子を誘ったりする。もっとも、敦子は断っていた。好んで、他の女の子たちに冷やかされたくない。
敦子は、平山が休んでいるのに気付いた。具合でも悪いんだろうか?
他人のことを心配して、敦子は自分の身の不安を忘れようとしているのかもしれなかった。いつまた、あの相原という男がやって来るか……。
有田には打ちあけるべきだったかもしれない。しかし、それは、智恵子を裏切ることになる、と敦子は思ったのだ。
電話が鳴った。すぐに出ると、
「外線よ」
と、久美江の声。「ちえ子さん、だって」
敦子がちょっと黙ってしまったので、久美江は、
「つないでいい?」
と、念を押した。
「ええ、つないで」
と、敦子は答えた。「――もしもし」
「あの……智恵子です」
と、少しおずおずした声が、聞こえて来る。
何と言ったものだろう。この間はどうも、なんて、言えっこないじゃないの。
「今、どこから?」
と、敦子は|訊《き》いた。
「この間のマンションです」
と、智恵子は答えて、すぐに、「怒ってますか」
と、訊いた。
「怒る、って……。私には、怒る理由なんてないわ」
「だって、敦子さんのこと、|騙《だま》して、ここへ来させたりして」
「そんなこと、当然よ。今は――一人なの?」
「ええ。本当に一人です」
敦子は、目の前のロビーを見ながら、
「色んなこと、隠してて、ごめんなさい」
と、言った。「本当にすまないと思ってるのよ」
ロビーの大理石は、外の光を映して、光っている。この場所で、あんなことが起こったなんて、信じられないようだ。
「いいんです。敦子さんはいい人だから……。何があっても、恨んだりしません」
敦子は、胸が一杯になって、何も言えなくなってしまった。
「あの――ちょっと気になることがあって……」
と、智恵子は続けた。「会って、お話ししていいですか?」
「ええ、もちろんよ。ただ――仕事中は出にくいわ。帰りにでも……。何か食べましょうか、一緒に」
智恵子は|嬉《うれ》しそうに、
「やった!」
と、声を弾ませた。「いつか行った、おでんの店。この間捜して、見付からなかったんです」
「そうなの? じゃ、どこかで待ち合わせましょ」
妙なものだった。智恵子と会うというので、敦子まで、胸をときめかせている。
智恵子が以前の通りの、人なつこい声を出しているのが、敦子にとっては何よりも嬉しかったのだ。待ち合わせの時間と場所を決めて、敦子は電話を切った。
今日は金曜日だ。帰りに出歩く女の子も多いかもしれないので、見知った顔に出くわす心配のない場所を選んでおいた。
そうか……。もう十二月になったんだ。
初めて、敦子はそう気付いた。やっぱり、ずいぶんぼんやりしていたらしい。冷めたお茶を、敦子は一気に飲み干した。
五時までが、ずいぶん長く感じられた。
やっと時間になって、敦子が三階へ上がって行くと、早くも久美江は帰り仕度を終えて、エレベーターホールへ出て来ている。
「お出かけ?」
と、敦子が|訊《き》くと、
「うん。デート」
と、久美江は、はっきりしたもので、「一泊二日のプール・パックなの。ホテルのプールで泳いで、ゆっくり食事」
「じゃ水着持参?」
「そうよ。超ビキニのね」
と、久美江はウインクして見せた。「そうだ。有田さん、今日は八時ごろになるって、戻りが。あなたに伝えといてくれって電話があったわよ」
「そう」
有田は外出していたのだった。敦子は、すっかり忘れていた。
ロッカールームに入って、着替える。五時で帰る子は、もうほとんど帰ってしまって、今は誰もいなかった。
|明後日《あさって》の日曜日、敦子は有田の家へ行くことになっている。有田の両親に、|挨《あい》|拶《さつ》しなくてはならない。有田は、二人ともよく分かってるから、何も心配することはないよ、と言ってくれているが、敦子にとってはやはり、「面接試験」を受ける受験生の心境である。
まあ、きっと明日、有田から電話が入るだろう。
事務服をロッカーへしまい、|鍵《かぎ》をかけると、敦子は、久しぶりに軽い足取りになって、ロッカールームを出たのだった。
「熱い……。熱い!」
智恵子が、ちくわを丸ごと口に入れて目を白黒させる。それを見て、敦子は笑ってしまった。
「ああ、おいしいけど、熱かった!」
智恵子はすでに二杯目のご飯をきれいに空にして、店の人に、「おかわり、お願いします」
と、やっている。
小さなお座敷と、四つばかりのテーブルがあるだけの小さな料理屋で、よく煮込んだおでんが売り物である。安いし、|旨《うま》いし、というので、大変なこみ方だった。
「あの人たちも、よくお弁当、買って来てくれたりするんですけど」
と、智恵子は言った。「私、ハンバーガーとかの方がいいのに、何だかすごくこった[#「こった」に傍点]もの食べさせてくれて……」
――敦子は不思議だった。
本当なら、憎み合ってもいいような二人が、こんなに楽しくご飯を食べている。確かに、それには、二人の間に横たわる影から目をそらして気付かないふりをしている必要はあったのだが。
智恵子も、父親の消息を、敦子が知っていることは分かっているはずだ。少なくとも、何かの手がかり――特に有田のことで、隠していることがあるのも、分かっている。
敦子も、智恵子が自分と有田の結婚をおびやかす存在だということは承知の上だ。
それでも、二人とも今はこの食事を楽しみたかったのだ。笑って、思い切り満腹になるまで食べることが、必要だったのだ……。
「――電話くれて、|嬉《うれ》しかったわ」
と、食べ終えて、熱いお茶を飲みながら、敦子は言った。
「謝りたかったけど、パッと切られちゃいそうで……。ドキドキしてたんですよ」
敦子は首を振って、
「あなたって、いい子ね」
と、言った。
「十七にもなって『いい子』じゃねえ」
智恵子はため息をついた。「もう子供じゃないのになあ」
「ごめんなさい」
と、敦子は笑った。「でも、やっぱり、二十八歳から見たら十七歳は子供よ」
「そうかなあ」
智恵子は、|頬《ほお》づえをついて、「でも、敦子さん、分かってない」
「何を?」
「私のこと、未経験だと思ってるでしょ」
「ええ?」
敦子は面食らって、「突然、何よ」
「ちゃんと、経験してるんだから、私」
敦子は目を丸くした。
「――本当に?」
智恵子は|肯《うなず》いて、言った。
「あの町、出て来る時に、高校で、仲の良かった男の子がいて……。向こうもね、お父さんが新しい仕事見付けて、あとひと月で町を出るってことだったから……。もう会うことないでしょ。ほとんど、絶対に。だから、町を出る前の日に、私の部屋で」
自分で話しておいて、智恵子は少し照れたように目を伏せた。「泣かせるでしょ、ドラマチックで」
「そうね……。でも、いい思い出になった?」
「まだ、そうでもないです。これっきり、手紙も書かない、って約束したから……。でも、時々、会いたくなったりして」
「もう、その子、町にはいないの」
「ええ。友だちに電話した時、さりげなく|訊《き》いたら、もう出てったって」
――父親と二人きりだった智恵子が、その父親を失って、どんなに寂しく、孤独だったか、敦子は、初めてそのことを考えた。
敦子のように、好んで独り暮らしをしているわけではないのだ。独りになってしまったのだ。どんなにか、誰かにすがりたかっただろう。
敦子は、智恵子の心細さを思って、胸が痛んだ。
智恵子は、ちょっといたずらっぽく笑って、
「どう、負けたでしょ」
と、言った。
「負けた」
敦子は答えて|微《ほほ》|笑《え》んだ。
智恵子は、真顔になって、お茶を一口飲むと、
「あの時、ビデオがずっと回ってたんです」
と、言った。
「え?」
「あの人たち、ビデオを止めてなかったんです。カメラはそのまま敦子さんを撮ってて……。敦子さんも座ったきりだったから、カメラの方、|覗《のぞ》かなくても撮れたんです」
敦子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「じゃあ……。ビデオテープに入ってるの? あの時のやりとり、全部?」
「後で、プレイバックして、『大丈夫、これなら顔が分かる』とか言ってるの聞いて、分かったんです。私は知らなかったんです」
敦子も、智恵子の言葉を疑いはしなかった。
――あのやりとりでは、返事こそはっきりしていないが、有田が竹永に暴行を加えたと認めているのも同じだ。
もし――あれがTVなどで流されたら。
「私、もちろん、あの人たちが父のことを調べてくれるのに感謝してます。でも、そのために敦子さんのこと、|騙《だま》したり、おどかしたりして……。いやだったんです、目的さえ正しければ、少しぐらいの|嘘《うそ》は構わないっていうのが……」
敦子は、智恵子の複雑な気持ちを考えて、心をふさがれる思いだった。
そして、ふと敦子は思い付いて、
「今、相原って人たち、何を調べてるのかしら」
と、言った。
「他の人に目標を変えたみたいです」
「他の人? 誰のことかしら」
「私には詳しく教えてくれないんですけど……。やっぱりあの時に――|喧《けん》|嘩《か》があった時にそこにいたはずだって。守衛さんみたいな人で……」
「平山さん?」
「ええ、そう。平山って人です」
平山は今日、休んでいた。何か関係があるのだろうか。
「会いに行ったのかしら」
「たぶん……。今日はずっとみんな出てましたから」
平山を、あの団地に訪ねたのだとすれば……。しかし、おそらく平山は何もしゃべるまい。
敦子が恐れていたのは、平山の所にTV局が行ったことを、大西に知られた時のことだ。平山一人、会社と無関係な人間にしてしまうのは、いともたやすいことだからである。
「敦子さん、その平山って人、よく知ってるんですか」
と、智恵子が訊いた。
「うん。もう結構いい|年《と》|齢《し》なんだけど、まだ子供さんが小さくてね。今、九つかな。とっても気の優しい人なのよ」
そう言いながら、敦子は、不安がふくらんで来るのを感じていた。相原たちは、平山から何を聞き出したのだろう?
「その人も、あの時は一緒に……」
「いいえ。平山さんは、ロビーを隠してたのよ。外から見られないように。後で、けがした人たちをクリニックへ連れて行ったりしたはずだわ」
「そうですか」
敦子は、もう覚悟を決めていた。
結果はどうなろうとも、少なくとも、智恵子には本当のことを、話してやらなくてはならない。ただそれには竹永の死体をどうしたのか、知る必要があった。
それを知っているのは誰だろう?――大西はもちろんだが……。
大西一人で、竹永の死体をどこかへ隠すなどということができるだろうか。
「――あ、ごめんなさい」
と、智恵子が言い出した。
「何が?」
「今夜は、あのことは話さないようにしようと思っていたのに」
「そう……。もう少し待って。ちゃんと話すわ。私にも分からないことが、まだ残ってるの」
「はい。信じてますから、敦子さんのこと」
と、智恵子は両手をきちんと|膝《ひざ》に置いて、「ごちそうさまでした」
ペコンと頭を下げた。
「いいえ、どういたしまして」
「敦子さん、泣いちゃだめですよ、寂しくっても」
「何よ、もう……」
と、敦子は苦笑するしかなかった。
「私――」
「なあに?」
「また、敦子さんのお部屋に帰ってもいいですか」
「――ええ。いつでも。ちゃんとあなたのタオルケットと毛布、そのままにしてあるわよ」
「ありがとう。何だか……変でしょ、こんな|年《と》|齢《し》で、一人でいるのも」
「ほら、部屋の|鍵《かぎ》。また、渡しておくわね」
出て行く時に、智恵子が返して行った鍵を、敦子はキーホルダーから外して、テーブルに置いた。「いつでも入ってて、いいのよ」
「すみません」
智恵子は、その鍵を手に取ると、しっかりと握りしめて、ニッコリ笑った。
敦子は、目頭が熱くなって、あわてて立ち上がった。智恵子に笑われそうで……。
しばらく、呼び出し音が鳴り続けていた。
留守なのだろうか。――夜なのに、誰もいないなんてことがあるだろうか。
アパートへ戻って、敦子はすぐに平山の所へ電話を入れてみたのだ。部屋は冷え切って寒かったが、ストーブに点火する間も惜しかった。
|諦《あきら》めかけた時、向こうの受話器が上がった。
「もしもし。――平山さんですか」
少し間があって、
「どなたですか」
と、低い女の声がした。
「奥さんですか。あの、会社の永瀬ですけど……」
「主人は出てます」
と、平山の妻は、固い口調で言った。「もう電話しないで下さい」
敦子は、言葉を失った。――やはり、何かあったのだ。
だが、その時、電話口の向こうで、声がした。
平山の声だ。
「だめよ――」
と、妻が言っているのが聞こえる。
「同じだよ、今さら」
平山が、受話器を取った。「――もしもし」
「永瀬です」
「やあ」
「あの……」
「すまんね。女房の|奴《やつ》、君が何か言ったと思ってるんだ」
「TV局の人が……」
「うん。取材だ、といってね。この団地のことを聞きたいと言うんで、今日、待ってたんだ。ところが、来てみると――」
「私、平山さんのことは何も言ってないの。本当よ」
「分かってるよ。調べる気になりゃ、簡単だ」
と、平山は言った。
「それで、何か……」
「何も知らんと言ったが、一時間ぐらい粘ってね。君のビデオを見せられた」
敦子の|頬《ほお》が、焼けるように熱くなった。
「ほんの少しだけどね」
と、平山は続けた。「向こうも仕事なんだろうが、いやだね」
「平山さん、今日のこと、誰かに話した?」
少し間を置いて、平山は、
「うん」
と、答えた。「大西さんに電話で知らせたよ」
「そう……」
胸苦しい思いで、敦子は肯いた。
「黙ってようかと思ったが、後で分かった時に、|却《かえ》ってまずいと思ってね」
「そうね。そうかもしれない。じゃ、ごめんなさい。奥さんによろしく」
電話を切る。大西から有田へ、当然話が行くだろう。――寒い部屋の中で、敦子はじっとうずくまるように座っていた。
寒い日
土曜日一日、敦子はあまり外へ出なかった。
明日は、有田の家へ、両親との顔合わせに行くことになっている。有田から連絡があるかと思って、待っていたのである。
しかし、午後、かなり遅くなっても、電話は沈黙したままだった。もちろん有田の家の番号も知ってはいるが、かかってくるのを待った方がいいだろう、と思った。
昨日の、平山からの連絡を聞いて、大西がどうするか。敦子には見当もつかなかった。しかし、敦子にはどうしようもないことだ。
――夕方になり、食事の用意をするのも面倒で、外で何か食べて来ることにした。
財布を手に、コートをはおって、玄関のドアを開けると、敦子は震えた。
「寒い……」
風がここまで吹き込んで来る。
アパートから外へ出ると、敦子は空を見上げた。重く、鈍い灰色の空。雪でも落ちて来そうな様子である。
敦子は、足早に歩き出した。マフラーをして来れば良かった。えり首が風で痛いほど寒い。
ともかく手近な所、というので、いささか安っぽい感じのソバ屋へ飛び込んだ。
「――|鍋《なべ》|焼《や》き下さい」
と、注文して、熱いお茶が来ると、喜んで両手で|茶《ちゃ》|碗《わん》を挟み、あたためる。
店の中にいても、コートを脱ぐ気にはなれなかった。
「毎度どうも」
と、声が飛ぶ。
客が出入りすると、その度に冷たい風が入るので、店にいる客はみんな顔をしかめている。
敦子は、少し体があったまったので、縮めていた筋を伸ばすように、頭を左右へかしげて、肩をもんだりした。
ガラッと戸が開いて、反射的に目をやると、敦子は、目をみはった。
「どうも」
と、頭を下げたのは、松山という男だった。「座っていいですか」
敦子は黙って肯いた。松山は、青い顔をしていた。「いや、凍え切っちゃって……。タヌキ一つね」
と、松山は手をこすり合わせた。
「私を見張ってたんですか」
と、敦子は言った。
「ええ。すみません。相原さんに言われて」
松山は、運ばれて来たお茶を一気に飲み干して、息をついた。「――生き返った!」
敦子は、黙って、割りばしを手に取って、パチンと割った。
「見張ってるのに、こんなことしてて、いいんですか? 目の前で」
と、敦子は|訊《き》いた。
松山は、ちょっと照れくさそうに、
「いや、智恵子って子が、この間、最後の最後であなたをかばったでしょう。あれを見て、何だか……。気が|咎《とが》めてしまいまして」
敦子は、あまり腹を立てる気にはなれなかった。智恵子と会って、なごやかに話をしたせいもあるだろう。
「仕方ないでしょ。あなたもお仕事なんですから」
「いや、そんな風に言われるとますます辛いですね」
「ご心配なく。あなたのタヌキが来たら、この唐辛子、全部入れてあげますから」
松山は、|呆《あっ》|気《け》に取られたように敦子を見て、それから、笑い出した。
――奇妙なものだ。
相原たちに詰問され、泣き出しまでしたのに、むしろ今はさっぱりした気持ちで、この松山と話していることができる。
「いや、実はね」
と、松山が、ちょっと心配そうな顔になって、「あの智恵子って子が、マンションからいなくなったんですよ」
「え?」
「いや、もちろん、どこかへ出かけただけなのかもしれないけど……。外出する時は、必ずあのマンションの管理人に、声をかけていたんです。それを、何も言わずに出て行ったというので……」
「私、何も知りませんよ」
「ええ、そうだと思います。ただ、相原さんは、あなたしかあのマンションを知らないんだから、もし、智恵子が連れ出されたのなら、当然あなたは知ってるはずだ、と……」
敦子はムッとした。
「私が誘拐犯だというんですか」
「僕はそう思いません。この間のようなやり方に、あの|娘《こ》が反発してたのは知ってますしね。どこか友だちの所にでも行ったのかもしれない。でも、相原さんはひどくピリピリしてるから……」
――敦子の|鍋《なべ》|焼《や》きと、松山のタヌキが同時に運ばれて来て、伝票が一つになっている。
「あら、これ別々に……。いいわ、私、払っておくから」
「とんでもない! うどん一杯ぐらい、僕がおごりますよ」
「でも――」
「この間のお|詫《わ》びですから」
そう言われて、敦子はちょっとためらってから、肩をすくめた。
「分かったわ。それじゃ……。買収されたわけじゃありませんからね」
二人は、何となく笑い出してしまった。
「みみっちいな、どうも」
と、松山は言って、はしを割った。
「お互いにね」
敦子は、熱いうどんを食べ始めた。
松山は、ほとんど一気に、タヌキうどんを食べてしまって、敦子を|唖《あ》|然《ぜん》とさせた。
「――相原さんは、ここんとこ、ちょっと|苛《いら》|立《だ》ってるんです」
「何かわけでも?」
「例の事件、よそでもかぎつけた様子なのでね」
「あの|喧《けん》|嘩《か》のこと?――何か他にないのかしら! あんなことを、いくらほじくり出しても――」
「しかし、やっぱり大問題ですからね」
「ええ、それはよく分かってます。私が言いたいのは、あなた方だけで沢山、ってことです」
「仕方ないですよ。マスコミというのは、そんなものです。船に乗り遅れるな、ですよ」
「合同記者会見でも開かなきゃね」
と、敦子は言ってやった。
おそらく、このまま隠し切ることはできないだろう、と敦子は思った。
他社も、この事件をかぎつけたとなると、あの相原という男は、一日でも早く、このニュースを出そうとするに違いない。それで傷つく人間のことなど、考えている余裕はないだろう。
そうなったら……。有田との結婚はどうなるだろう?
そんなこと関係ない! 私は私で、幸せになったっていいはずじゃないの。それを邪魔する権利なんて、誰にもない。
「じゃ、これ、払っときますから」
松山が伝票を取る。敦子はハッと我に返った。
部屋へ戻ると、ちょうど電話が鳴り出していた。敦子はあわてて上がって、電話へと駆け寄った。
「はい」
「やあ、出かけてたのか」
有田だ。いつも通りの明るい声に、敦子はホッとした。
「夕ご飯にね。電話、待ってたのよ」
「ごめん。|親《おや》|父《じ》がね、明日、家にいられるかどうか分からないとか言い出してさ」
「あら、ご用事?」
「いや、もういいんだ。用は片付いたから、明日は家にいる、ってさ」
「そう。それじゃ……」
「昼を一緒に家で食べよう。十一時ごろ、駅の改札口で待ってるよ」
「ええ、いいわ」
「車で迎えに行こうか?」
「いいわよ。途中、買い物もして行きたいし」
「手みやげなんて、気にしなくてもいいぜ」
「そんなわけにはいかないわよ」
「そうかい?」
「当然でしょ」
つい、「長女」らしい言い方になってしまう。敦子は、ちょっと反省した。
「ねえ、あの――」
と、言いかけて、敦子は、ちょっとためらった。「今、お宅から?」
「うん。何だい?」
と有田は言って、すぐに、「TV局のことなら、大西さんから連絡があったよ」
「そう」
「しつこいな、本当に。平山さんの所へ行ったんだって。君、聞いたの?」
「平山さんから」
「ま、気にするなよ。大西さんがね、うまくやるからって」
「大西さんが?」
「任せときゃ大丈夫さ」
「そうね」
と、敦子は言いながら、考えていた。
有田は、敦子があの相原たちに、ビデオをとられたことを、知らないようだ。平山はしゃべらなかったのだろう。
本当なら敦子から言うべきだろうが……。しかし、大西がうまくやる、と言っているのなら……。どうするつもりなのかは知らないが。
明日、有田の両親に会うというのに、今、そんな話をする気にもなれなかった。
「他に何かあるかい」
と、有田は言った。
「いいえ、別に。じゃ明日は――」
「待ってるよ。気を楽にして来てくれよ」
「そんなわけにいかないわ」
と、敦子は笑って言った。
「ねえ、帰りは車で送るからさ」
「そうしてくれれば助かるわ」
「途中、寄り道して行こうか。休憩[#「休憩」に傍点]に」
「お宅で心配するわよ」
敦子は、笑いながら言って、同時に少し安心した。自分の知らないところで、何かが進んでいるのではないかと不安だったのだ。
しかし、有田がいつも通りに明るいので、ホッとしたのだった。
「それよりさ、式場捜しとかしなきゃね」
「え?――あ、そうね」
と、敦子は言った。「心当たり、あるの?」
「休憩に寄るのは気が進まないんだったら、そっちの用事ならいいんじゃない?」
「時間があったらね」
敦子は、せっかちな子供のような有田の言い方に、苦笑しながら、言った。
――電話を切って、さて、差し当たりは明日のこと。
何を着て行くかは、決めてある。あんまり天気が悪くないといいのだが。雪でも降ったら最悪!
でも、そこまで私も運が悪くないだろう。
敦子は、早めにやすむことにして、お|風《ふ》|呂《ろ》にお湯を入れ始めた。
お湯が浴槽の底にはねて、立ち上る湯気は、敦子の心をほぐしてくれた。もっともっと、お風呂場一杯に立ちこめてほしい、と敦子は思った。
いつも以上の長風呂になりそうだ。
敦子は、お湯につかって、目を閉じていた。体の|芯《しん》まで暖まるのには、ずいぶんかかりそうだ。
こうやって――何もかも忘れている時間が、本当に楽しい。
もちろん有田と結婚したら、一人でのんびりする時間というのは少なくなるだろうけれど……。また、それはそれで別の安らぎがあるはずだ。
少なくとも、今、こうしてお風呂につかっている安らぎだけは、誰にも邪魔できない……。
「――敦子さん」
浴室の戸がちょっと開いて、敦子は、飛び上がりそうになった。
「びっくりした!――いつ来たの」
「ごめんなさい」
と、智恵子がペロッと舌を出して見せた。「ちゃんと、鳴らしたんですけど、返事がないんで」
「そう? じゃ、聞こえなかったんだわ。ああ、死ぬかと思った!」
敦子はオーバーに胸に手を当てて見せた。
「すみません、|覗《のぞ》いちゃって」
と、智恵子はいたずらっぽく言って、「お布団、敷いときますね」
ガタッと戸を閉める。
敦子は、つい笑ってしまっていた……。
――|風《ふ》|呂《ろ》から上がると、智恵子はジーパンとセーターという格好で、|寛《くつろ》いでいた。
「すみません、また押しかけて」
「いいけど、あの人たちに言ってないんでしょ。心配してたわよ、松山さんって人」
「ああ、あの若い人。――あの人、面白いんですよね」
と、智恵子は言って、「でも、ここにいる、って言うわけにもいかないし」
「そりゃそうかもしれないけど……。ちょっとごめんなさい」
敦子は、手早くパジャマを着て、「でもね、私があなたのこと、かどわかしたと思ってるみたいよ」
「かどわかす、なんて、古い!」
と、智恵子は|呑《のん》|気《き》に笑っている。
「あなたは笑ってるけど、いやよ、私。ここにあなたを監禁してた、なんて言われて捕まるのは」
「大丈夫ですよ、当人がここに好きでいるんですもの」
「そりゃね。でも……何か連絡をしておいてよ」
「分かりました。――お|風《ふ》|呂《ろ》に入ってからでいいでしょ?」
敦子も、笑うしかない。
「入って。冷めない内にね」
と、言った。
智恵子がピョンと勢いよく立ち上がった時、玄関のドアを|叩《たた》く音がした。
誰だろう? こんな時間に……。
敦子は、智恵子の方に、黙っていて、と身ぶりで示して、
「どなたですか?」
と、声をかけた。
少し間があってから、
「平山だよ」
と、返事があった。
「平山さん?――ちょっと待って」
何事だろう? 敦子は迷った。智恵子も平山の名は知っている。
「私、出てましょうか」
と、智恵子が言った。
「いいえ。ここにいて。私、話して来るから」
「でも、外で――」
「いいのよ。ね、ここにいて」
智恵子は、|肯《うなず》いて、
「分かりました」
と、言った。
敦子は、玄関へ降りて、細くドアを開けると、
「ちょっと待ってて。すぐ仕度するから」
と、言った。
平山は、沈んだ面持ちで、
「すまんね。少し前にも来てみたんだけど、まだ帰ってないようだったから」
「上がってもらうといいんだけど、人が来てるの。すぐ出て行くから、待ってて」
「そうか。じゃあ、下にいる」
「ええ。お願い」
敦子は、ドアを閉め、急いでパジャマを脱いで、着替えた。
「平山さんって、あの人でしょ」
と、智恵子が言った。
「ええ」
「何か分かったら、話して下さいね」
智恵子の言い方は、控え目で、まるで哀願するようでさえあった。敦子は、
「約束するわ」
と、答えて、コートを手に取った。「じきに戻るから」
廊下へ出て、あまり足音をたてないように階段を下りる。平山は、アパートの入り口の所に立っていた。
古いコートを着て、背中を少し丸めたその姿は、何だかひどく|老《ふ》け込んで見えた。
「ごめんなさい」
と、敦子は言った。「寒いでしょ?」
「いや、大丈夫。そう風もないしね」
平山は、ちょっと上の方へ目をやって、「お客は、有田さんかね」
「有田さん? 違うわ」
敦子は、歩き出しながら、「あの子よ」
「あの子っていうと……。あの、竹永って男の娘?」
「ええ」
「TV局の|奴《やつ》は、自分たちが保護してるとか言ってたがね」
と、平山は意外そうに言った。
「あの子の方から、帰って来たの」
と、敦子は肩をすくめて、「何だか、私のこと、気に入ってくれてるのよ」
「そうかい」
平山は|嬉《うれ》しそうに、「あんたはいい人だからね。頼りたくなるんだ」
「でも、辛い立場よ。あの子のお父さんのこと、まだ話してやっていないのよ。もちろんあの子も、父親が死んでることは、察してると思うけど」
昼間がひどく寒かったのに比べると、夜はそれほどでもなかった。風がないせいもあるだろうし、敦子はまだ|風《ふ》|呂《ろ》|上《あ》がりだったからかもしれない。
「どこか――話のできる所、ある?」
と、敦子が言って、「平山さんに|訊《き》いても知ってるわけないわね」
「外でいいよ。どこか座れる場所はあるかね」
「でも、いくら何でも冷えるでしょ」
「大丈夫さ。それに、人の耳には絶対に入れられない話だ」
「じゃあ……」
敦子は少し迷ってから、道を折れ、石段を上った。
電車の音が、足下を駆け抜けて行く。
私鉄の線路が、陸橋の下を通っていて、陸橋と、その両側が小さな公園になっている。
暗くなってからは、痴漢が出たりするというので、敦子もあまり通らないが、こんな寒い時期はともかく、ベンチがいくつか並んでいて、よくアベックが身を寄せ合って座っていたりする場所である。
「ここなら、誰もいないわ。電車が下を通ると、少しうるさいけど」
「構わんよ。かけようか」
二人は、少し足のガタつくベンチに腰をおろした。
「――電話で、女房があんな言い方をして、悪かったね」
と、平山は言った。
「気持ち、分かるわ。私が余計なことをしなければ……」
「いや、あんたが何も知らなかったとしても、あの連中はいずれかぎつけたさ」
コートのポケットに手を突っ込んだまま、平山は、息をついた。息が白く流れて行く。
「ねえ」
と、敦子は言った。「何か知ってるの? 竹永さんが死んだことは、私も大西さんから聞いたわ。でも遺体は……」
「捨てた」
「――捨てた?」
敦子の声はかすれていた。
「あの晩の内に、車で|奥《おく》|多《た》|摩《ま》まで運んでね。湖に捨てた」
平山は静かに言った。「大西さんの考えだった。夜まで、警備員室に置いておかなくちゃならなかったからね。こっちにも手伝えってことになったのさ」
敦子は、体が震え出しそうになるのを、何とかこらえた。寒さは、身体の内側から敦子を凍らせた。
「大西さんと、平山さんと二人で?」
平山は、答えなかった。敦子には、分かった。
「有田さんも、手伝ったのね」
「そう……。何といっても、自分が死なせた男だからね」
平山はそう言ってから、「しかしね、何も竹永って男を憎くて、あんなことをしたわけじゃない。死んだと知った時は、ショックで真っ青になってたがね。大西さんは、会社のためにやったことなんだから、と慰めていたよ」
「三人で、遺体を捨てに行ったの?」
「そうだ。――ずいぶん悩んだよ、私もね。死なせたといってもわざとしたことじゃないし。警察へ届けるべきじゃないかとも思った。でも……。あれが公になったら、会社が非難されただろう。大西さんは、何としても、それだけは防がなきゃいけない、と言い張った」
「組合の他の人たちは、それを知ってたの?」
「死んだとは言わなかったが、たぶん気付いていただろうね」
と、平山は肯いた。「重傷だが、後のことは一切、責任を持つ、と大西さんが説得したんだ」
「そして、あの人たちには新しい職場を、約束したのね」
「一切、口をつぐむという条件でね。仕方ない。人間、自分の家族が大切だからな」
「待って。それじゃ――」
と、敦子は初めて思い当たった。「大西さんだけじゃないわね。専務も承知だったのね、きっと」
「そうだろうね。新しいポストを約束して、その通りに回してやるなんてことは、大西さんだけじゃやれない」
敦子は、激しい|動《どう》|悸《き》を、鎮めようとして、深く呼吸をした。冷たい夜気が、胸を満たす。それは|哀《かな》しみそのものの冷たさでもあった。
あの夜、夜中に有田は敦子に電話をかけて来た。そして、結婚してくれ、と言ったのだ。あの時、何だか電話の声がいやに遠かったことを、敦子は思い出した。
有田は、竹永の死体を捨てに行って、どこか、帰る途中から電話したのではないか。
おそらく、自分がしたことの重みに押し|潰《つぶ》されそうで、敦子に、救ってほしかったのかもしれない……。
「隠していて、悪かったね」
と、平山は言った。
「仕方ないわよ。でも……ただの過失ですんだことなのに、そんなことまでして……」
「あの時は、三人ともどうかしていたのさ」
と、平山は首を振った。
どうかしていた……。
そう言いわけするのは簡単だ。しかし、そう言えば責任が消えてなくなるというものでないことは、誰にだって分かるはずなのに。
だが――敦子は、自分に、大西や平山を責める資格があるだろうか、と思った。もし自分が同じ立場に立たされたら、大西と同じようにしないという自信はあるか。
自分一人の問題なら……。自分が罰を受けてすむことなら、会社をクビになっても、刑務所へ入れられても、それを堪えればすむことだ。
しかし、今の敦子が、病気の父と、独り住まいになってしまった母を抱えているように、大西もまた、家族を――妻や子や、自分の両親のことを、考えただろう。目の前で起こったことの責任を、|総《すべ》て取らされた時のことを考えて、大西が何とかして事件を|闇《やみ》へ葬ろうとした、その気持ちは、敦子にも分からないわけではなかった。
その責任は、一体どこへ持って行けばいいのだろう? 「会社」という、目に見えないもののために、人を殺してしまった、その罪は、誰が負ってくれるのか。
「――今日ね、大西さんが来たんだよ」
と、平山が言った。
「平山さんの家へ?」
「うん。相談がある、と言ってね。家内と子供を買い物へ出して、大西さんと話し込んだ。いや――向こうが一方的にしゃべって行ったんだが。畳に頭をすりつけんばかりにして、頼む、と言ってね……」
平山の言葉には、|哀《かな》しい|自嘲《じちょう》の響きがあった。「妙な気持ちだったよ。いつもこっちがペコペコしてる相手がさ、『君には本当にすまないと思ってる』なんて言ってるのを見てるとね」
敦子には、平山の言おうとしてることが、分かった。
「平山さんが、一人でやったことにしてくれっていうのね」
「そうなんだ。――死なせたのも、死体を捨てたのも、全部、一人でやったことで、他の人は知らなかった、と――。そう言ってくれというんだ」
「有田さんは、何と言ったのかしら」
と、敦子は|呟《つぶや》くように言った。
「彼も、話を合わせることになってる、と言っていたよ。――あの時、|喧《けん》|嘩《か》には加わらなかったんだがね、私は。まあ、誰も詳しいことは|憶《おぼ》えていないだろう」
平山の顔は、青ざめていた。
「寒くない?」
と、敦子は言った。「歩きましょうか」
「そうだね」
二人は立ち上がって、歩き出した。
その場を離れることで、そこで聞いたことからも逃げられる。
敦子には、そんな気がしていたのである。
裂けた服
長いこと、敦子と平山は黙って歩いていた。
敦子は、駅に向かって歩いていることを知っていたが、おそらく平山はただ、敦子の歩く通りに合わせていたのだろう。
少し風が出て、冷たさがえり元から忍び込んで来る。
「――どうするの?」
と、敦子は言った。
「どうするかな」
と、平山は息をついた。「あんたならどうする?」
敦子には答えられない。第三者ではないのだから。
「意地悪な質問だったね」
と、平山は自分で言った。「それにあんたは若い。今の仕事を失っても、また何か新しいことがやれるしね」
答えようと思えば簡単だ。――真実を、警察へ行って話すことだ。湖が捜索され、竹永の死体が引き上げられる。
当然、警察は暴行や殺人――いや、殺意はなかったとして、傷害致死とでもいうことになるのかもしれないが――の容疑で、大西や有田を取り調べることになるだろう。
平山も調べられるだろうが、そう重い罪にはなるまい。
それぞれが、自分のしたことの責任を取る。それが当然の道だ。
「|俺《おれ》はもう若くないからね」
と、平山は疲れたように言った。「ただ怖い一心で、何とか死体を隠そうと思って……。そう言えば、同情してもらえるだろうかね」
「大西さんの話を、引き受けたの?」
と、敦子は|訊《き》いた。
「大西さんは、『君がもし、服役するようなことになったら、ご家族の面倒は責任を持ってみる』と言ったよ。これは会社としての約束だ、と」
平山は、ゆっくりと首を振った。「弁護士も一流のをつけてくれる。その費用も、全部僕が出す、ともね。――きっと刑務所へ行くようなことにはならないですむ、と言っていた」
どうだろう? 人一人、死んでいるのだ。しかも、その死体を捨ててさえいる。
「それに、万一、刑務所へ行っても、すぐに出られるだろうし、その時は必ず、今の会社で、楽ないいポストを用意する。神にかけて誓う、とも言った。まあ、|嘘《うそ》じゃないだろうね。大西さんの気持ちは」
「そうね……」
「妙なもんだ」
と、平山は、少し首をすぼめた。「正直に本当のことを話したら、どうなる? 即座に会社はクビだろうな。上の方は、全く知らなかった、で終わりさ。大した罪にはならないかもしれないが、明日から、一家でどうやって食べて行くか、ということになる」
敦子は、ギュッと唇を固く結んだ。
駅の見える所まで来ていた。
「――さて、帰るか」
と、平山は言った。「寒いところを、引っ張り出して、悪かったね」
「いいえ、そんなこと……」
「もう電車も空いてるだろう、こんな時間だからな」
「平山さん――」
「向こうで、バスがなくなるんだ。終バスが早くてね。並んでタクシーにでも乗らなきゃ」
と、平山は言って、苦々しげに、「同じ方向の客をね、四人ぐらい一度に乗っけるんだ。もちろん、料金は一人ずつがちゃんと払う。タクシーの方は|儲《もう》かるよ。中にゃ|真《ま》|面《じ》|目《め》な運転手がいてね、頭数で割って、払わせるんだ」
平山は、ゆっくりと息をついた。
「でも、当然、そういう真面目な人間は稼ぎが少ない。――どっちが、正しいのかね。家族のために、少しでもいい給料を、と思うのと」
敦子は、黙っていた。平山は、気を取り直したように、
「じゃ、また」
と、|肯《うなず》いて見せた。「あのことは、女房とよく相談してみるよ。君は君で、どうするか決めてくれ」
「ええ」
平山が、駅の方へと歩いて行く、その後ろ姿は、頼りなげで、老い込んでいた。
あの人に、|総《すべ》ての責任をしょい込ませて、それでいいのだろうか?
敦子の心は、重く、暗く、ふさがれていた……。
アパートまで戻って、敦子は、階段を上るのを少しためらった。
もう一つ、辛い仕事が待っているのだ。智恵子に話さなければならない。
これ以上、隠しておくことはできなかった。他の人間の口から、聞かせるわけにはいかない。話すのは、自分の役目だ。
平山のことを思えば、それぐらい何だろう?――しかし、平山の話してくれた真実を、智恵子に告げたものかどうか。
もし平山一人が、罪をかぶってくれたとしたら、敦子の話とは矛盾することになってしまうのだ。
それでもいい、と敦子は心に決めた。
これ以上、智恵子に|嘘《うそ》はつけない。立場とか、将来の思惑などとは関係なく、人間と人間として、嘘はつけない。
敦子は階段を上って行った。
明かりが|点《つ》いている。もちろん、起きて待っているだろう。
自分で|鍵《かぎ》をあけ、
「遅くなって、ごめんね」
と、ドアを開けた。
部屋の中に座っていたのは、有田だった。
「有田さん……。どうしたの?」
敦子は、驚きで、しばらく玄関に突っ立ったままだった。
「大西さんから電話もらってね」
と、有田は、|曖《あい》|昧《まい》な笑顔を見せて、「大変なことになっちゃったな、全く」
上がり込んで、敦子は、布団が敷いてあり、智恵子が寝ていた跡があるのに気付いた。
「あの子は?」
と、敦子は|訊《き》いた。「どこに行ったの?」
「さあ……。出てったよ」
と、有田は言った。「びっくりしたよ、君が出て来るとばっかり思ったから」
智恵子も、当然敦子が帰って来たのだと思って、ドアを開けたはずだ。
「こんな時間に……。電話ぐらいしてくれれば良かったのに」
と、敦子は言った。
「大西さんにね、今夜中に話をはっきりさせといた方がいい、って言われたんだ。僕らも話をぴったり合わせとかないとね。いつ警察も動き出すか分からない。それに――明日のこともあるじゃないか」
明日のこと……。
そうだった。敦子は、有田の家へ|挨《あい》|拶《さつ》に行くことになっていたことを、思い出した。
「君の気持ちも、はっきりさせないと、妙な雰囲気になっても困ると思ってさ」
と、有田は言った。
「平山さんが来たのよ」
「平山さん?――そうか。出てると言ったのは……」
有田は|肯《うなず》いた。そして、ふっと気付いた様子で、「じゃ……聞いたんだね」
「ええ」
有田は、体中で息をついた。
「まさか、あんなことになるなんて……。殴られてカッとしたんだ。力任せに放り投げちまった。――運が悪かったよ」
「私も、死んでるんじゃないかと、ずっと思ってたわ。でもまさか……」
「湖に捨てたこと? そりゃ、良くなかったかもしれない。でも、死んだら同じさ。もう何も感じない。そうだろ?」
「だからって――」
「君には分からないよ。三人とも、怖くて、びっしょり冷や汗をかいてた。山の中で道に迷って、車ごと湖に突っ込みそうになったりして……。二度と家へ帰れないんじゃないかと思ったよ」
「その時に、私に結婚してくれって、電話して来たんでしょう」
「うん。――帰り道に、終夜営業のレストランに寄ってね。やっと三人とも、生き返ったみたいだった。その時、むしょうに君に会いたくなったんだ。分かるかい」
「分かるわ」
敦子は|肯《うなず》いた。
「あんな時に、君を愛してることに気付くなんてね、妙なもんだ」
と、有田は、いつもの少し照れたような笑顔になった。「でも、本当の気持ちだったんだよ」
それは、敦子だって疑っているわけではない。しかし、今の敦子には、もっと気になることがあった。
「あの子に何を話したの?」
「何を、って……。僕らのことさ。僕が君と結婚することになってることと……」
「それだけじゃないわね」
有田が目をそらしていることに、敦子は気付いていた。
「うん……。あの子がここにいると、君にとって、まずいことになる、と話したよ。だって、あの子がいちゃ、君と話なんかできないじゃないか」
「なぜまずいことになるか、話したの?」
「うん、まあ……。向こうも気付いてたようだった。『お父さんのこと、知ってるんですね』って|訊《き》いて来たから……。はっきり言ってやった方がいいと思ったんだ」
「死んだ、ということを?」
「うん」
敦子は、智恵子が寝ていた布団へ目をやった。――なぜ、もっと早く、話してやらなかったんだろう? 自分が話さなくてはいけないことだったのに。
「――ねえ、あの子、パジャマのままで出て行ったの?」
敦子は、智恵子の服が、きちんと折りたたまれて、隅に重ねてあるのに目を止めた。
「ああ……。何か上にはおってたけど」
敦子は、腰を浮かした。有田が、
「待てよ」
と、敦子の腕をつかむ。「放っとけよ! 君にあの子のことを心配する義務なんか、ないじゃないか」
「父親が死んだと聞いただけで、どうして着替えもせずに出て行くの? あなた、それ以上のことも言ったんでしょう」
敦子が真っ|直《す》ぐに有田を見つめる。
「――だから、大西さんとの打ち合わせ通りの話さ。平山さんが、あの男を誤って死なせて、死体を湖へ捨てた、と……後で分かって、会社としても困ってたんだってことも」
平山の名を出した。それを聞いて、智恵子は、敦子たちの後を追いかけようとしたのだ……。
「急に飛び出してっちゃったから、こっちだって、びっくりしたよ。――そうか、平山さんが来たのを知ってたからか」
と、有田も、やっと理解した様子で、|肯《うなず》いた。「そんなこと、知らなかったから、こっちは――。おい」
敦子は、玄関へおりていた。
「捜して来るわ」
敦子は、急いでドアを開けた。
階段を足早に下りて行くと、
「待てよ!」
と、有田が追いかけて来た。
「大声出さないで」
と、敦子は言った。「アパートの人が起きるわ」
「どこへ行くんだ」
外へ出て、どんどん歩いて行く敦子を止めようと、有田は駆け出して、敦子の前に立った。
「行かせてよ」
と、敦子は言った。
「あの子に|係《かか》わり合うのはよせよ。せっかく丸くおさまるっていうのに」
「この寒い中を、あの子はパジャマにコートか何かはおって飛び出してったのよ。他人だって放っとけないでしょ」
と、敦子は言い返した。
「その前に、話し合っとかなくちゃ」
「何を?」
「決まってるじゃないか。僕らの将来がかかってるんだ」
――僕らの[#「僕らの」に傍点]将来。
その言葉は、敦子の胸を、やり切れない焦燥感で焼いた。その「将来」は智恵子の父の死と、平山の苦しみの上にだけ、存在しているのだ。
「分かったわ」
と、敦子は言った。「でも、歩きながらでも話せるでしょ。あの子を見付けなきゃ。それは分かって。ただ、年下の子に対する年上の人間の義務だわ」
「分かった。じゃ……。どっちへ行ったか分かるのかい?」
「分からないけど――よく知ってるのはこの道だから」
真っ|直《す》ぐ駅へ出る道を、敦子は歩いてみることにした。他の道は、そう知らないはずだ。
「――たぶん、平山さんが、自分で|総《すべ》てやったと話しても、警察は君の証言をほしがるだろう」
と、有田は歩きながら、言った。「君は受付に座ってて、一部始終を見てたんだから」
「でも、他の人たちは?」
「大西さんが話すさ。ちゃんと話を合わせてくれる。大丈夫だよ」
「TV局の人たちは、あなたが誰かを投げとばしたってことを、つかんでるわ」
「でも、それが誰かは知らないだろ? だったら大丈夫。――平山さんは、あの時、乱闘に加わってなかったけど、そこも言い含めておけば、みんな、よく憶えてない、とか言うさ。あんな時だからね」
「そして私が、はっきり証言すれば?」
「そう。君は、|喧《けん》|嘩《か》に巻き込まれていなかった、目撃者だ。君の話が一番信用されるよ」
「でも、あなたと婚約してるわ」
「だからって、君の言葉を疑う理由はないよ」
と、有田は自信ありげに言った。
本当にそうだろうか? 警察が、平山の話を、そのまま信じてくれるかどうか。いや、たとえ信じたとしても、それでいいのか。
自分は[#「自分は」に傍点]――私はそれで安心していられるだろうか。
「なあ」
と、有田は、敦子の肩を抱いた。「寒くないか?」
「大丈夫よ」
「僕らは……。平山さんや、家族のために、できるだけのことしてあげればいいんじゃないかな。それで平山さんも納得してるんだし……」
「あなただって……」
と、言いかけて、敦子は言葉を切った。
「僕が、どうしたんだ?」
「あなただって、これでいいとは思ってないんでしょう」
有田は、ちょっと目を伏せた。
「まあ……そりゃ、後ろめたさはあるさ。でも、僕のためだけじゃない。会社のためにも、それが一番いいんだよ」
有田は自分の言葉に|肯《うなず》いて、「そうさ。世の中、きれいごとじゃ通らないことだってあるんだよ」
敦子は笑い出した。有田が戸惑ったように敦子を眺める。
有田のような、「坊っちゃん」が、分かったようなことを言うのが、おかしかったのである。たぶん、生きることの|哀《かな》しさも辛さも、骨身にしみて感じたことなどない有田が……。
――駅までやって来た。
どこにも、智恵子の姿は見えなかった。すれ違ったわけではない。それでは、どこか別の道を行ったのだろうか。
「気がすんだかい」
と、戻りながら、有田が言った。「――どこに行くんだ?」
敦子は、さっき平山と来た道を、逆に|辿《たど》って行くことにした。あの陸橋を越えて、アパートまで戻ってみよう。
「もう帰ってもいいわよ」
と、敦子は、足を止めて言った。「アパートへ戻っても、仕方ないでしょ」
「そういうわけにはいかないよ」
と、有田は首を振って言った。
「大西さんにそう言われてるの? 私が妙な|真《ま》|似《ね》しないように、見張ってろって」
「ねえ……」
「ごめんなさい。でも、これは私とあの子の間のことだから。あなたに黙って、決めたりしないわよ」
「決めるって何を?」
敦子は歩き出した。――ゆるい上り坂を上って行くと、何か冷たいものが顔に当たった。有田が空を見上げて、言った。
「雨だよ」
細かい雨が、降りかかって来た。
敦子は、肩や|頬《ほお》に冷たさを感じながら、歩みを止めようとはしなかった。
「もうよせよ、意地を張るのは」
と、有田が、敦子の肩を、強くつかんで言った。
敦子は振り向いて、
「私はただ、あの子のことを心配してるだけじゃないの」
「僕らのことより大事なのか、あの女の子のことが」
「そんな――」
「そうなんだな。君は僕との結婚より、あの女の子の方が大切なんだ」
「比べられるもんじゃないでしょ。どうしてそんな言い方するの?」
「言わせたのは君だぞ」
有田は|苛《いら》|立《だ》ち、怒っていた。声が、上ずって、震えている。――雨が強く降り出した。
服を貫いて、凍るような寒さが肌を刺す。その灰色の矢の中で、二人は無言で立ちつくしていた。
有田は、駅の方へと足早に歩き出した。敦子には、止める間もなかった。雨を振り払うような、その勢いは、とても止められるものではない、と敦子には思えたのだ……。
これで終わり?……何もかも、おしまいなのか。
追いかけて行って、有田にすがりつくか。いや、そんなことはむだだろう。有田は分かっている。敦子の方が、正しいということを。だからこそ、あんなに|苛《いら》|立《だ》っているのだ。
だが、男と女の仲で、どっちが正しい、などということに、何の意味があるだろう……。
敦子は、再び雨の中を、歩き出した。もちろん、駅とは逆の方向に。一歩ごとに、有田は自分から遠ざかっているのだ、と思いつつ、敦子は歩みを早めた。
――陸橋が見えて来る辺りで、敦子は足を止めた。
ベンチに、智恵子が座っていたのだ。もちろん、雨を遮る物とてない。パジャマに、薄いレインコートをはおっただけの智恵子は、頭を垂れて、両手を固く握り合わせて、身じろぎもしなかった。
敦子は、駆け寄って、
「こんなに|濡《ぬ》れて!――アパートに帰ろう。さあ」
と、智恵子の腕を取った。
智恵子は、顔を半ば伏せたまま、強く首を振った。
「もう、あの人はいないわよ。帰ったわ。――ね、こんなことしてたら、|風《か》|邪《ぜ》引くか、肺炎にでもなったら……。早く、帰りましょ」
「放っといて」
と、智恵子は、|囁《ささや》くような声で言った。
「そんな……。|裸足《はだし》で。真っ青よ、顔」
と、敦子は智恵子の顔を|覗《のぞ》き込んだ。
辺りは暗かった。街灯の青白い光は、智恵子の顔を、やっと表情が見分けられる程度に照らしているに過ぎない。
陸橋の下を、電車が駆け抜けて行く音がした。
智恵子は、ゆっくりと顔を上げると、
「お父さんは、もっと冷たい所にいるんだわ」
と、言った。「これぐらい、何でもない」
敦子は、ベンチに、並んで腰を下ろした。
「――私から話すべきだったのにね。ごめんなさい。私も、平山さんから聞くまで、知らなかったのよ」
敦子は、智恵子の肩を抱こうとして、手を止めた。「でも、あなたのお父さんが亡くなったことは、知ってたわ。隠していて、ごめんなさい」
吐く息が白く、雨の中を、漂って消えて行く。智恵子は、泣いているようだったが、雨に濡れた顔は、涙を隠していた。
「誰も恨みません」
と、智恵子は言った。「でも、早くお父さんを出してあげて」
そう言うと、智恵子は立ち上がった。敦子が急いで立つと、
「一人でいたいんです」
と、智恵子ははねつけるように言った。「構わないで!」
智恵子は、陸橋を渡って、雨の中へと消えて行った。――一人になりたい、という智恵子の言葉に、敦子は逆らうわけにはいかなかった。
ちゃんと、一人でアパートへ帰るだろうか? もう二度と、自分の前に現れないかもしれない、と敦子は思った……。
ふと、誰かの気配を感じて振り返った。少し離れた所に、有田が立っている。
有田が歩み寄って来ると、敦子は、|濡《ぬ》れた体を押しつけるように、自分から抱きしめた。鼓動が聞こえた。いつか、自分のそれと一つになったこともある鼓動だった。
「――アパートへ送るよ」
と、有田が言った。
「一人で帰れるわ」
「君は――」
と、言いかけて、有田は黙ってしまった。
「だめよ」
と、敦子は言って、深く息をついた。「私、本当のことを話すわ」
その言葉を予期していたのだろう、有田は別に驚いた様子ではなく、
「どうして? 平山さんが――」
「あなただって、分かるでしょう。子供じゃないんだから。たとえ間違ってやってしまったことでも、自分のしたことの責任は取らなきゃ」
有田は、じっと敦子を見つめていた。
「それで僕が刑務所へ行ってもいいのか」
と、有田は言った。
敦子はうつむいた。
「それでも構わないんだな」
有田の声は、細かく震えていた。「恋人を警察に密告するのか」
「私は……」
敦子には答えられない。答えられなかった。自分の手で、自分の幸福を断ち切るのだ。
有田と二人で、幸福になれるはずだったのだ。しかし――今、敦子には、自分がしなくてはならないことが、分かっているだけだった。
「何だ! 言ってみろ!」
有田は敦子の腕をつかんで揺さぶった。食い込む彼の指の痛さはむしろ敦子にとっては救いだった。
「あなたが好きよ……」
と、敦子は言った。「|嘘《うそ》じゃない。本当よ。だけど――」
有田の激しい息づかいが、敦子の顔に感じられた。二人の吐く息が、混じり合った。
有田が、敦子の腕から手をはなした。
「僕はいやだ。――誰が、認めたりするもんか。誰が!」
敦子はよろけるように、後ずさった。
黙っていればいいのだ。それで何もかもうまく行く。有田と結婚して、子供を作って、楽しく暮らせばいい。その内には、智恵子のことも、平山のことも、忘れて行く。
そうなのだ。――有田の言葉は、敦子の思いでもある。
しかし、どんな夢も、人一人の死を、消してはくれない。
遠くから、雨の低い|囁《ささや》きを縫って、電車の音が聞こえて来た。この陸橋の下を通るのだ。何秒か後には。
「あなたが決めて」
と、敦子は言った。
「何を?」
「私の気持ちは変わらないわ。でも、あなたを捕まえさせたいわけじゃないのよ」
「だったら、どうしろって言うんだ」
「電車が来るわ」
敦子は、陸橋の手すりに、もたれた。「私を一押しすれば、それですむわ」
有田は、目を見開いた。
「――何だって?」
「誰も疑わないわ。私が飛び下りたと思うだけ。私だって――その方が、どんなに楽か……」
「君は――」
と、有田は言った。「僕をおどかすのか」
「違うわ」
敦子は有田に背を向けた。――手すりは、敦子の胸の少し下辺りまでしかない。
「本当にやったらどうするんだ!」
「構わないのよ」
敦子は、近付いて来る電車の灯を見つめていた。
敦子は、ふっと肩を落とした。
そう。これが、一番いい解決だったのかもしれない。
苦しみはほんの一瞬のことだろう。あの電車の前に落ちれば、意識は一瞬の内に押し|潰《つぶ》されてしまうだろうから。
有田に憎まれるか、智恵子に恨まれるか、いや、何よりも自分を許せない辛さから、逃れる道は、これしかなかったのだ。
有田が後ろに立つのが、気配で感じられた。――そう。これでいいのだ。
さあ、ちょっと力を入れて一突きしてくれれば、それでけりがつく。長い長い悩みが、かき消されてしまう。
早くして。電車が来る。
有田の手が、敦子の両肩にかかった。
「敦子」
有田の手は震えていた。電車は陸橋の下を駆け抜けようとしていた。
間に合わない! 敦子は、両手でぐいと手すりを押して、身を乗り出した。
「よせ!」
有田が、敦子の体を力一杯抱きしめて、そのまま後ろ向きに倒れた。
電車が、足下を|轟《ごう》|音《おん》と共に駆け抜ける。震動が、敦子の背中に伝わって来た。
激しく心臓が打っていた。――しばらくして、有田が、肩で息をしながら、起き上がった。
敦子は、仰向けになったまま、降りかかる雨を、顔に受けていた。
「――起きろよ」
と、有田が言った。「起きられるか?」
「ええ」
敦子は、地面に手をついて、体を起こした。
有田は、ゆっくりと手で顔をこすって、
「雨の中で、座ってることないな」
と、言って、立ち上がった。「さ、手を」
敦子の手を、有田の頑丈な手がつかんで、引っ張った。立ち上がった敦子は、腰の辺りに痛みを感じ、顔をしかめた。
「打ったのか!」
「ちょっと……。破れてるわ、ここ」
「本当だ。馬鹿力だからな、僕は」
有田は、そう言って、ちょっと笑った。「アパートに帰ろう」
二人は、歩き出した。
雨が小降りになって、上がりそうな気配だ。
有田が、敦子の肩を、しっかりと抱き寄せた。どっちにしても、二人とも|芯《しん》まで濡れてしまっているので、あまり暖かくはならなかった。
「また、やり直せるかな。もし――」
と、少しためらってから、「刑務所へ入ることになっても」
敦子は、有田の肩に頭をもたせかけた。
「私が代わりに入ってあげる」
「新婚用の部屋を作ってもらおう」
と、有田が言った。
敦子は、軽く笑って、有田の手に、自分の手を添えた。
人間の|椅《い》|子《す》
空っぽの会議室で、敦子はもう十五分ぐらい、座っていた。
窓からの明るい|陽《ひ》|射《ざ》しが、敦子の体の片側だけを暖めている。週末の、雪にでもなりそうな雨空と、今日の目に痛いほどの青空が同じ空とは信じられないようだった。
まるで、舞台の第一幕と第二幕のように、同じ空間が、何十年も、あるいは何千キロも離れた空間に変わっているのだ。
受付、大丈夫かしら、と敦子は時計を見ながら、思った。久美江さん、今日はいやに眠そうだった。一階で、居眠りでもしてなきゃいいけど……。
大西に呼ばれて、ここで待っているように言われたのだ。あの時の様子では、すぐ来るようだったが。
敦子は窓の外に目をやった。
こんな穏やかな日に、会社も、とんでもない台風を抱え込んでしまったものだ。――もちろん、敦子はクビを覚悟している。心が決まって、気持ちも穏やかそのものだった。
昨日の日曜日、たった一日――それも、夕方までのことだったが、有田と二人きりの朝を迎え、一緒にご飯を食べた。
「リハーサルだ」
と、有田は笑って、ありあわせのおかずで、よく食べた。
夕方、二人は連れ立って、彼の家に行った。何かあったらしいことは、両親も察していたようだが、息子の話に絶句した。想像もしていなかっただろう。
しかし、父親も、たとえ遅すぎるとしても、今から警察へ行って、ありのままを話すのが最善の道だと納得してくれたのである。
たとえどんなことになろうと、有田と結婚できるまで待つという敦子に、両親は頭さえ下げてくれた。
夜は、敦子も加えて、にぎやかな夕食になり、夜遅く、敦子はアパートに帰った。
タクシーを拾うまで、と送りに出てくれた有田は、何だか拍子抜けしたようでさえあった。
「――結構、やってみると簡単なもんだなあ」
と、寒い夜の道に立って、言ったものだ。
「大変なのはこれからよ」
と、敦子はしっかりと有田の腕をつかんで、言った。
父親が、知り合いの弁護士に電話をし、月曜日の朝、父親とその弁護士が付き添って、有田は警察へ行くことになっていた。
「二人も付き添いがいるなんて、何だか恥ずかしいや」
と、有田は、まるで入試の面接みたいなことを言い出した。
「そんなことないわ。勇気があるのよ」
「僕が?」
「そう。私のフィアンセだけあってね」
二人は夜の道でキスした。ちょうど通りかかったタクシーに乗って、敦子は運転手に冷やかされてしまったのだった。
ドアが開いて、大西が会議室に入って来た。
「待たせて、悪かったね」
少し、言葉に力がなかった。
第三会議室。――大西と二人で、長いテーブルの隅の席についている。
あの日の朝も、この会議室に呼ばれたのだ、と敦子は思い出した。宮田栄子が転んで腰を打って……。
遠い過去の出来事のようだった。
「いい天気だなあ」
と、大西は、窓の方へ顔を向けて、まぶしげに目を細めた。
そして、敦子の方を向くと、
「平山君から、ゆうべ電話があったよ」
と、言った。
「平山さんが何か……」
「こっちの話は断る、と言って来た。つまり、|総《すべ》てを自分一人がやったことにはできん、というんだ」
大西の口調には、少しも腹立たしげなところはなかった。「たとえ、クビになってもね。――死体を捨てるのを手伝ったことで、もし刑務所行きになっても、その間は何とか働いてしのぐから、と奥さんに言われたそうだ。子供に、父親が人を殺したと教えるのはいやだ、と……。全く、その通りだ」
大西は|肯《うなず》いた。
「金で買えないものもある。すっかり忘れていたよ。有田君からは今朝、連絡をもらった。彼のお父さんとも話した」
敦子は、少し頭を下げて言った。
「父の入院の時にも、お世話になったのに、こんなことになって、すみません。でも、どうしても――」
「ああ、いいんだ。別に怒っちゃいない」
と、大西は手を振った。「どうしてあんなことをしたのかな。君まで巻き込んじまって、すまないと思ってる」
思いがけない言葉だった。皮肉でも、負け惜しみでもない、淡々とした正直な言葉に聞こえたのだ。
「今、専務とも話したよ。――まあ、ここまで来た以上、マスコミに名が出るのも仕方ない。責任は僕がとる。社長や専務は、一切知らなかったことにしてね」
大西は敦子を優しい目で見て、「君は何も|嘘《うそ》をつく必要はない。ただ、専務のことは黙っていてくれないか。僕の立場もある」
「分かりました」
と、敦子は肯いた。「――大変なことになりますね」
「全く、人生、何が起こるか分からんね」
大西はちょっと笑った。
「あの……」
「うん、君のことだ。どうするね?」
|訊《き》かれて、敦子は戸惑った。こっちに選ぶ権利があるとは思えない。大西は、
「辞めるか」
と、言った。
敦子は、ゆっくりと|肯《うなず》いた。
「そうだな。ここにはいられないだろう」
と、大西は言った。
「あの――当然、辞めさせられると思っていました」
と、敦子は正直に言った。「警察で証言したら……」
「クビにする正当な理由はないよ。しかし、早い方がいい。辞表は?」
「一応、書いて来ました」
「そうか。じゃ、すぐ出してくれ」
敦子は、制服のポケットから、白い封筒を出して、机の上に置いた。
「じゃ、すぐ手続きしよう」
と、大西はそれを手に取って、「専務も、この二、三日は、君のことどころじゃないだろう。その間に、手続きを、全部すませちまった方がいい。退職金が出なきゃ、大変だろう、君も」
「ええ、それは……」
「すぐ経理に回すよ。規定は何とでもなる」
と、大西はちょっと考えてから、「君のお父さんには申し訳ないが、危篤ってことにして。君がすぐ故郷へ帰らなきゃならないからと言えば、今日は無理でも明日には退職金が出せるだろう」
敦子は、ただ、
「よろしくお願いします」
としか言えなかった。
「有田君の方は、まあ無理だろうな。――いい|奴《やつ》なのに、悪いことをしたよ。君が支えになってやってくれ」
大西は、立ち上がった。「じゃ……。経理の方から連絡させる。今日付で退職にしていいね」
「はい」
大西は、敦子の肩を、軽く|叩《たた》いて、
「よく働いてくれた。いい仕事が見付かるといいね」
「大西さん」
と、敦子は見上げて、「やっぱりお辞めになるんでしょう」
「公になった時点で、もう辞めておかないとね。『元・課長』にしておかなきゃならんのさ」
と、大西は肩をすくめて見せた。「後のことを、宮田君や原君と話しておいてくれ」
大西が会議室から出て行く。
敦子も立ち上がったものの、すぐには受付に戻る気になれず、窓辺に寄って、明るい光を浴びた。
平山と有田が、今、それぞれの試練を受けているのだ。そして大西もまた。
――なぜ、こんなことになったんだろう? 誰のせいで?
敦子は会議室を出て、受付の方へと歩いて行った。
智恵子のことだけが、気がかりだ。有田と、雨に打たれながらアパートに戻った時、智恵子はもう、いなくなっていた。持ち物も、必要な物だけを詰めて、持って行ったようだった。
たぶん、智恵子はまた、あのTV局で用意したマンションへ帰ったのだろう。
いくら敦子個人に恨みはなくても、父の死体を捨てるのにも、加担したと思っているかもしれない。そう思われても、仕方がないのだし。
有田の話で、すぐに竹永の死体は引き上げられるだろう。智恵子にとっては、辛い再会になるに違いない。
――三階の受付に戻ると、原久美江が座っている。
「久美江さん。一階じゃなかったの?」
と、敦子は声をかけた。
「一階で、座ったままウトウトしちゃって」
と、久美江はちょっと舌を出して見せる。「うるさい客に見られちゃったの。宮田さんから昼休みにお|叱《こ》|言《ごと》だわ、きっと」
「大丈夫かな、と思ってたのよ」
と、敦子はつい笑ってしまった。
「ねえ、それより――」
久美江が声を低くして、敦子の方へ顔を寄せると、「何かあったの? 専務が、さっき|凄《すご》い顔して飛び出してったわ」
「そう……」
「大西課長、何か言ってなかった?」
「別に」
と、敦子は首を振った。「ね、久美江さん」
辞めることを言っておこうと思ったのだ。内線の電話が鳴って、久美江が取る。
「――課長がお呼び」
敦子は、急いで大西のデスクに向かった。
「――今ね、経理の方と話したよ」
と、大西は言った。「今日中に、仮払いで何とかするそうだ。君も今日でけりがつく方がいいだろう」
「ありがとうございます」
敦子は、頭を下げた。
「いや、課長としての最後の仕事になるかもしれんからね」
大西は少し照れたように笑った。「昼休みの後に、経理の人間が説明に行くよ」
「分かりました」
「じゃあ……そういうことだ」
何か言いたかったが、言うべきことを、思い付かなかった。黙って一礼して、|退《さ》がった。
受付に戻る途中で、敦子は足を止めて、振り返ってみた。
大西は、引き出しを開けて、中の物を、|屑《くず》|入《い》れに捨てたり、デスクの上に並べたりし始めている。きれいに整理しておきたいのだろう。
その姿は寂しげで、小さく、縮んでしまったように見えた。――会社のために骨身を削って来た何十年の日々が一体何だったのか。
会社のために、休みもなく働いて、その結果が「会社のために会社をやめる」……。
今、大西の中にどんな思いが渦巻いているのだろう、と敦子は思った。
たぶん、大西は何も考えていないだろう。ただ、疲れと、迷子になった子供のような戸惑いがあるだけだろう。
会社を恨むことなど、大西には考えられないのだ。それは彼の生活そのものだったのだから。
大西が見せてくれた優しさも、間違いなく大西自身なのだ。敦子は、父が倒れた時、自分の預金をおろしてまでお金を貸してくれた大西の、あの照れくさそうな顔を、忘れられなかった。
あの時、大西は敦子をエレベーターホールへと連れて行って、お金を手渡してくれた。
課長の|椅《い》|子《す》を離れた大西は、あんなに人間くさい、優しい男なのだ。
今、課長の席に座った大西が、ひどく頼りなげに、小さく見えるのは、課長の椅子に座っていながら、もう課長ではなくなっているからだろう。
――敦子は受付の席に戻った。
「ちょうど良かった」
久美江が電話を取っていた。「妹さんから」
「妹?」
受話器を取って、思い出していた。「――もしもし、寿子? 今日帰ったんだっけ」
「そう。今、成田よ」
寿子の声は、元気そのものだった。
「そう。楽しかった?」
「二、三日しかたってないような気がする」
と、寿子は言って、「ね、うちにかけたの。お父さん、倒れたんだって?」
「でも、すぐどうってことないのよ。知らせても心配するだけだと思って」
「びっくりしたよ。お姉ちゃん、大変だったね」
「いつものことでしょ」
と、敦子は言った。「そのまま九州に?」
「彼が、会って行きたい人がいるからって、明日の飛行機にしてあるの。今夜はホテル。お姉ちゃん、出てこない?」
「うん……。山下さんとも相談しておきたいことがあるからね」
父の入院費用など、敦子一人ではとても持ち切れないに違いなかった。
「じゃあ、ホテルに入ったら、また電話するね」
「うん。――私、今日でここを辞めるの」
隣に座った久美江が、エッと短く声を上げて、敦子を見た。
「会社、辞めるの?」
寿子もびっくりしたように|訊《き》き返して来た。「どうしたの? 何かあったの」
「色々ね」
そう言ったとたん、敦子は胸が詰まって、言葉にならなくなってしまった。悲しいわけでもないのに、涙が出て止まらなくなった。
「お姉ちゃん。――もしもし? 大丈夫?」
寿子の声が、耳もとで響いていた。
長い一日が、やっと終わった。
――敦子にとっては、退職金についての説明を聞いたり、あれこれ何種類もの届を出したり、ロッカーの中の私物を整理したりして、忙しくしていたので|却《かえ》って良かったのだが、午後には早くも色々な|噂《うわさ》が社内を駆け巡っていた。
大西が辞め、敦子が辞める。そして専務の国崎が、社長は急に入院することになったから、と連絡して来る。そして、どこから話が出たのか、有田が警察に出頭したということも、三時ごろには、知れ渡っていた。
これだけ重なれば、誰でもただごとでないことは分かるだろう。
――受付の仕事のことで、何か話があるだろうと思ったのだが、宮田栄子は、ただ、
「後のことは心配しないで」
と、|微《ほほ》|笑《え》んで言っただけだった。「何とかなるわよ」
辞めて行く人間は、すでに会社の中でも「別世界」にいるのだ。誰も、皮肉も言わないし、からかいもしない。奇妙に親しげで、それでいて礼儀正しくて……。
五時のチャイムが鳴る少し前に、大西の席へ行って、借りていたお金を返し、|挨《あい》|拶《さつ》をした。大西は、ただ|肯《うなず》いて、
「元気で」
と、言っただけだった。
――敦子は、何だか夢でも見ているような気持ちで、会社を出た。
久美江が、別れ際にグスグス泣き出して、敦子をびっくりさせたが、それはまあ、一種の条件反射みたいなものだったのだろう……。
ロビーを抜けて行こうとして、敦子は正面の受付の|椅《い》|子《す》の方を振り返った。
今は誰もいない。――受付は空気のように。
宮田栄子の言葉を思い出して、敦子はふっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。そしてビルを出た。片手に、私物を入れた大きな紙袋を下げている。
明日、また、ここへ来てしまいそうな気がした。
「――あら、お帰りなさい」
アパートの下で、水町の奥さんに会った。「まあ、大荷物ね」
「今日、会社を辞めたもんですから」
と、敦子が言うと、水町の奥さんは、
「じゃあ、いよいよ?」
と、目を見開いた。
「いえ、それだけじゃないんですけど」
と、敦子は笑って、「次の仕事も探すんです」
「そうなの。でも、少しのんびりしなさいよ。働くばかりが能じゃないわ」
「そうですね」
と、歩き出そうとすると、
「さっき、あの|親《しん》|戚《せき》の子が来てたみたい」
と水町の奥さんが言った。
親戚の子?――智恵子のことだろうか。
でも、まさか……。
階段を駆け上がって、部屋のドアを……。|鍵《かぎ》がかかっていなかった。暗いのに。
「智恵子さん?」
と、中を|覗《のぞ》き込んで、呼んでみる。
返事はなかった。敦子は中へ入って、明かりを|点《つ》けた。
智恵子が、洋服のまま、横になっていた。座布団を二つにたたんで、|枕《まくら》にしている。
具合でも悪いのかしら? 明かりを点けても、目も覚まさないなんて……。敦子は不安になった。
そっと近寄って、智恵子の顔に、顔を近付けてみる。
スーッ、スーッ、と深い寝息が聞こえた。敦子の気配を感じたのか、ちょっと|瞼《まぶた》を動かしたが、少し背を丸めるようにして、また深々と息をつく。
眠っているだけなのだ。敦子はホッとして、体を起こした。|風《か》|邪《ぜ》引くわ、こんな格好で。
敦子は、智恵子を起こさないように、そっと立って、押し入れから毛布を出すと、静かに智恵子の肩までかけてやった。
今度は、智恵子はぴくりとも動かなかった。
持ち物は、部屋の隅に置いてある。敦子は、智恵子が「帰って来た」のだと思った。もう、出て行かないだろう。
敦子は、ちゃぶ台の前に座って、眠っている智恵子を眺めていた。
色んなことが落ちついたら、智恵子を学校へやることも考えなくてはならない。夜学にでも通うことになるかもしれないが。
有田がどうなるかによって敦子の生活は大きく変わって来る。
しかし、当分は、智恵子と二人で、支え合って暮らして行くことになるだろう。――そう考えるのが、敦子には楽しかった。
時計を見た。山下と寿子と、ホテルで会うことになっているが、まだ出るには早い。有田からの連絡も、深夜になるだろう。
敦子はちゃぶ台に両手を置いて、頭をのせた。そのままうたた寝でもできそうだ。
つややかな智恵子の|頬《ほお》が、白く光って見え、少し開き加減の唇は、子供のようにあどけない。
――ぐっすり眠って。
誰よりも、智恵子が一番の「被害者」なのだ。人は、全く悪意がなくても、加害者になることがある。世の中が悪い、と言ってみたところで、その責任は人間が負わなくてはならないのだ。
ゆっくり眠って。
あなたが目を覚ますころには、ほんの少し、いい世の中になっているかもしれない……。
敦子は、いつしか眼を閉じて、浅い眠りに身を|委《ゆだ》ねていた。
夢の中で、光るロビーと、その奥の受付に座る誰かが見える。敦子を迎える見知らぬ笑顔は、智恵子の明るい笑顔と、どこか似ているように見えた。
本書は、一九八九年十月三十日に朝日新聞社より刊行されました単行本の文庫化です。
[#地から2字上げ](編集部)
|人形《にんぎょう》たちの|椅《い》|子《す》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
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角川文庫『人形たちの椅子』平成4年12月25日初版発行
平成10年2月10日20版発行