角川文庫
一日だけの殺し屋
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
|闇《やみ》の足音
|探《たん》|偵《てい》物語
|脱出《だっしゅつ》順位
共同|執《しっ》|筆《ぴつ》
特別休日
|高《こう》|慢《まん》な死体
消えたフィルム
一日だけの殺し屋
|闇《やみ》の足音
|淳《じゅん》にとっては、全く不運という他はなかった。――今までコソ|泥《どろ》一つしたこともない、スリをやるほど器用でもなく、銀行|強《ごう》|盗《とう》をやるほど|度胸《どきょう》もない男なのである。
せいぜい店先のパンをくすねたり、女学生あたりをおどして|小《こ》|遣《づか》いを巻き上げたり……。要するにケチくさいチンピラなのであった。
その淳がたまたまその夜、引ったくりをやろうなどと思い立ったのは、いささか安酒の|酔《よ》いが回っているところへ、|隣《となり》にいた客が、この辺は引ったくりや|痴《ち》|漢《かん》が多いと話していたせいだ。それくらいなら、きっと人通りの少ない場所があるんだろう、と思った。
|懐《ふところ》の中は空っ風だし、小学生や中学生から金をおどし取ってもたかが知れている。一番金を持っているのは、若いOLあたりだろう。
一丁やっつけるか。酔った勢いでそう決めると、焼き鳥の屋台をフラフラと出て来た。
この辺は初めてで、どっちがどっちなのやら、まるで見当もつかない。電車で|眠《ねむ》り|込《こ》んでいるのを起こされ、降ろされてしまったのだが、何しろ右も左も分からないと来ている。――ともかく暗くて|寂《さび》しいほうへ歩いて行けばいいんだろう。
淳はともすればもつれかける足を何とか|操《あやつ》って歩き出した。
淳は二十四|歳《さい》だ。十六でぐれて家を飛び出してから、スナックやらバーやらで働いたこともあるが、長くは続かなかった。今はその日|暮《ぐ》らし。それでも、どこかの通路で|寝《ね》|転《ころ》がっている|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》を見る|度《たび》に、あそこまで行っちゃおしまいだな、とゾッとするだけの感覚はまだ持っていた。
十月もそろそろ末。風は|涼《すず》しいよりもむしろ冷たくさえ感じられる。これが|木《こ》|枯《がら》しになるまでには、何とかしなきゃ、と淳は思った。せめて、暖かいねぐらぐらいは……。
道は、やがて川べりに出た。|街《がい》|灯《とう》もほとんどない、土手の道は暗くて静かだった。川へ向かって、なだらかに|斜《しゃ》|面《めん》があり、その先に砂利の河原が白く帯になって見える。
「こりゃ危ねえや」
と淳は|呟《つぶや》いた。|痴《ち》|漢《かん》や強盗に、さあどうぞ、と言っているような道だ。家はポツン、ポツンと、思い出したようにあるだけで、まだ雑草ののび|放《ほう》|題《だい》になった空地が多い。これから住宅が建つのだろう。
しかし、いくら場所がよくたって、|誰《だれ》も通らなきゃ引ったくりようがない。こんな所を通るのは、|狐《きつね》か|狸《たぬき》じゃねえのかな、と淳は苦笑いした。――どうせ、|俺《おれ》のやることはドジばかりで、|巧《うま》く行ったためしはねえんだから……。
じっとしていても仕方ないので、土手の道を歩いて行くと、ずっと向こうから、|人《ひと》|影《かげ》が近付いて来るのが見えて、淳は足を止めた。
数少ない街灯の下を通る時、それがワンピース姿の若い女だと分かって、淳は目を疑った。
「何てやつだい! |襲《おそ》われたらどうするんだ!」
と勝手なことを|呟《つぶや》いて、|慌《あわ》てて、|傍《かたわ》らの空地の中へ飛び込んだ。淳のいた所は街灯の光の届かない場所だったから、向こうの目には止まっていないだろう。背の高い草の|陰《かげ》に身を|隠《かく》すのは至って易しかった。
どうしようか? やっつけるか、思い切って!――そのために隠れてるんだからな。しかし、万引きと|違《ちが》って、引ったくりとなると……。もし相手が逆らったら? |殴《なぐ》りつけて、大けがでもさせりゃ、傷害罪だ。
「やめようか……」
気弱にそう呟いたが、近付いて来る女が、|小《こ》|柄《がら》できゃしゃな感じなのを見て、あれなら簡単だ、と思い直した。ハンドバッグを引ったくって|突《つ》きとばしておきゃ、|恐《おそ》ろしくて追っても来れまい。それにこの辺ではまるで顔も知られていない。
これ一度だ。一万でも手に入りゃ、|床《とこ》|屋《や》へ行き、サッパリした身なりになって、どこか仕事でも|捜《さが》しに行ける……。別に命を取ろう、|強《ごう》|姦《かん》しようってわけじゃねえんだ。ただ財布の中身だけありゃあいいんだ。
女は足早に近付いて来た。ぐずぐずしていると通り過ぎてしまいそうだ。淳は|慌《あわ》てて|茂《しげ》みから飛び出すと、
「待ちな!」
と上ずった声で|叫《さけ》んで、女へぶつかって行った。ハンドバッグをわしづかみにして相手を突き放そうと手をかけて――とたんに手首をぐいとつかまれ、アッという間もなく背中へねじ上げられる。
「おとなしくして!」
女の声がキンと|響《ひび》く。一体どうなってるんだ? もがこうにも|腕《うで》をねじ上げられて今にも骨が折れるかと思う痛さ。
「現行犯で|逮《たい》|捕《ほ》します」
婦人警官だ! 淳は青くなった。ハッと顔を上げると、土手の道を走って来る人影がもう一つあった。――|畜生《ちくしょう》! こいつと組んでいるお|巡《まわ》りに違いない!
ガチャガチャと金属の|触《ふ》れ合う音がした。|手錠《てじょう》をかける気だ! 淳は|夢中《むちゅう》で体をよじって、足で後ろを|蹴《け》った。それが相手の|膝《ひざ》あたりを打ったらしい。
「アッ!」
と|呻《うめ》いて、ねじ上げた力がゆるんだ。淳は夢中で手を|振《ふ》り|離《はな》そうとしたが、相手もしがみついて来る。
「畜生! 離せ!」
と|喚《わめ》いてふっと見ると、婦人警官がバッグへ片手を突っ込んで、中から小型の|拳銃《けんじゅう》を取り出した。|恐怖《きょうふ》が淳を|捉《とら》えた。力任せに女の顔を殴りつけると、鼻血を出してフラつく。その手から拳銃を引ったくった、そこへ、
「待て!」
と男の声がかかった。制服の|巡査《じゅんさ》が警棒を振りかざして走って来る。|薄《うす》|暗《ぐら》いので、淳の手に拳銃があるのに気付かなかったのだろう。分かっていれば止まるか、拳銃を|抜《ぬ》いたはずだ。
淳にはその巡査が|馬《ば》|鹿《か》でかく見えた。|襲《おそ》いかかって来る。殴り殺される、と思った。
無意識に両手で拳銃を構えて引き金を引いていた。――警官がわき腹を|押《お》さえながら|倒《たお》れて、初めて自分が銃を|撃《う》ったのだと気付いた。
警官を撃った!
淳は|愕《がく》|然《ぜん》とした。|逃《に》げることしか考えなかった。土手の道を|無我夢中《むがむちゅう》で走る。女の金切り声が追いかけて来るような気がしたが、もう何も分からなかった……。
ごくありふれたアパートだった。
二階建てのモルタル造り。|外《そと》|廊《ろう》|下《か》式で、二階へは鉄の階段がついている。
もうどれぐらい走っただろう。淳にはまるで世界の|涯《はて》までもやって来たように思えたが、実際にはほんの一キロかそこいらなのだろう。しかし、思いもかけなかったできごとと、めったに走ることなどないのに、|突《とつ》|然《ぜん》走り続けたのとで、|疲《つか》れ切っていた。――どこか、隠れる所はないだろうか?
河原などへ出たら、たちまち見つかってしまうに違いない。
落ち着いて考えれば、まだそう時間はたっていないのだし、できるだけ遠くへ逃げれば、手配も回っていないはずだが、そこはまるで慣れていない淳のことで、もう世界中の警官が自分を追いかけていると思い込んでいた。
どこか、住人の帰って来ていない部屋があれば……。淳は部屋の窓をずっと見て行った。
二階の、一番|奥《おく》の部屋が、明かりが消えている。あそこへ行ってみるか?――しかし、|鍵《かぎ》は何とか|壊《こわ》して入るとして、入ってどうするんだ? まさか|一《ひと》|眠《ねむ》りというわけにもいくまい。部屋の主が帰って来たら?
「また撃ち殺すのか……」
淳は|自嘲《じちょう》気味に、|歪《ゆが》んだ笑いを|浮《う》かべた。そして手にまだ婦人警官の拳銃を|握《にぎ》りしめているのに初めて気付き、ハッとして、|慌《あわ》ててポケットへ入れた。
撃ち殺す……。あの警官は死んだのだろうか? ほんのかすり傷だったかもしれない。しかし、ともかく、警官を撃ったのだ。――改めて淳はゾッとした。そして殺していたら、それこそ|死《し》|刑《けい》ものだ。――警官を殺すことがどんなに重罪となるか、知らぬわけでもないのに、夢中になって、何もかも忘れてしまった。
「何てこった、|畜生《ちくしょう》!」
と|吐《は》き捨てるように言ったが、今さら|弾《だん》|丸《がん》が|拳銃《けんじゅう》へ|戻《もど》って来るわけでもない。
その時、急にアパートの一階のドアの一つが開いた。|咄《とっ》|嗟《さ》に淳は階段を|駆《か》け上がっていた。顔を見られたくなかった。足音だけなら、誰か二階の住人だと思われるだろう。
二階へ上がって、淳は舌打ちした。一階から足音が二階へと上がって来る! このまま廊下に突っ立っていたのでは見つかってしまう。
一か八か、だ。淳は、一番奥の部屋へと走った。あの、一つだけ明かりの消えていた部屋だ。ドアのノブを回してみる。――|鍵《かぎ》はかかっていない!
しめた、と淳は暗い室内へ|滑《すべ》り込んだ。ドアを閉じ、息をついて……思わず、
「馬鹿め!」
と口走った。今、誰かが二階へ上がって来る。この部屋は明かりが消してあり、鍵はかかっていなかった。ということは、今、上がって来たのが、この部屋の住人だということではないのか……。
こうなったら、破れかぶれだ。|度胸《どきょう》を決めて――というよりも、ガタガタ|震《ふる》えながらも、淳はポケットの拳銃を取り出し、ドアのわきへ身を寄せた。
足音は、二階へ上がって来ると、廊下を近づいて来た。|汗《あせ》ばんだ手で拳銃を握りしめる。入って来たら、こいつをグイと突きつけて、『|騒《さわ》ぐと命がねえぞ!』と言ってやらなくてはならない。巧く言えるだろうか?
「さ、さ、騒ぐと……い、命が……ねえぞ」
小声で言ってみたが、声が震えてしまう。畜生め! こうなったら頭をぶん殴ってのしてやる!
足音は、コン、コンと|床《ゆか》に音をたてて……一つ手前のドアを開けて入って行った。
淳は急に体中の力が抜け落ちたようで、ガックリして息を|吐《は》いた。その時、部屋の暗がりの奥から、
「どなたですか?」
と女の声がした。淳は|仰天《ぎょうてん》して|跳《と》び上がった。心臓が停まるかと思った。
「あの……」
女の声はちょっと|途《と》|切《ぎ》れて、
「あ、すみません。明かりが|点《つ》いていませんでしたわね」
ちょっと間があって、|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》が|瞬《またた》いて点いた。――|六畳《ろくじょう》一間の部屋だった。女は、明かりの下に立っていた。二十五、六というところか。やせぎすの体に、ひどく地味なブラウスとスカートを着けていた。
「あの……どなたですか?」
淳は|拳銃《けんじゅう》を女の目の前へ突き出した。女の顔には一向に|驚《おどろ》く様子はない。
「どなた?……何の用ですか?」
淳は|面《めん》|喰《く》らって、
「こ、こいつが見えねえのかよ!」
と|凄《すご》んでみた。女はいぶかしげな顔になって、
「私、目が見えないんです」
と言った。
「何のご用ですか?」
淳はポカンとして拳銃をおろした。そうか――それで明かりを点けていなかったのか。目が見えなきゃ同じことだものな。
しかし、何と返事をしたものだろう? |俺《おれ》は人殺しだ、とおどかしてやるか、それとも……いや他に言いようがない。
「おい、いいか。よく聞けよ。そこへ|坐《すわ》るんだ」
女のほうもやっとただならぬ様子に気付いたらしい。やや青ざめて、素直に畳へ坐った。淳は|唇《くちびる》をなめて、
「|俺《おれ》はな、今拳銃を持ってるんだ。――本当だぞ!」
女は|怯《おび》えた様子はなく、|肯《うなず》いた。
「何が欲しいんですか? お金なら……大してありませんけど」
「金もいるが、少しここへ隠れなくちゃならねえんだ。いいか、|下《へ》|手《た》に騒ぐなよ。騒ぐと女だろうと撃つからな!」
「ええ、でも――」
「口答えするのか!」
と|怒《ど》|鳴《な》ると、女は首を振って、
「いいえ。でも、大きな声を出すと|隣《となり》へ聞こえます。安アパートですから」
「そ、そうか……」
淳は|咳《せき》|払《ばら》いした。|畜生《ちくしょう》、この女、やけに落ち着き払ってやがる!
「お前……一人か?」
「ええ」
「亭主は?」
「いません」
「目が見えないのに一人で暮らしてるのか?」
女はちょっと|肩《かた》をすくめた。
「仕方ありませんもの」
それはそうだ。――部屋の中を見回しても、至って簡単なもので、タンスが一つ。|食器棚《しょっきだな》が一つ。|狭《せま》い台所に最低限の電気製品。
一人暮らしというのも|嘘《うそ》ではなさそうだ。
「上がるぜ」
「どうぞ」
淳はもう|靴《くつ》とも言えないようなボロ靴を|脱《ぬ》ぐと、部屋へ上がり込んだ。
「何か……食う物はあるか?」
「あまり料理をしないので……。肉まんが三つ残っていますけど」
「それでいい!」
「分かりました」
女は立ち上がると台所へ行って、手探りするまでもなく、正確な動きで冷蔵庫から肉まんを取り出し、ふかして|皿《さら》へのせて来た。|鮮《あざ》やかな手際で、|火傷《やけど》することもない。淳は感心してしまった。
「大したもんだなあ」
「慣れです」
と女はやかんを火へかけながら言った。淳は急に空腹を感じて、|貪《むさぼ》るように肉まんを平らげた。――やっと少し気が|鎮《しず》まって来る。
「いつまで、ここに?」
と女が|訊《き》いた。
「安全に逃げられるようになるまでさ」
と淳は言った。
「|妙《みょう》な|真《ま》|似《ね》さえしなきゃ何もしねえ。安心しな」
女は|肯《うなず》いた。
「――どうして逃げてるんですか?」
「うるせえ。お前の知ったことか」
と淳は|畳《たたみ》へごろりと横になった。その時、|玄《げん》|関《かん》のブザーが鳴った。
淳は飛びはねるように起き上がった。――もう一度ブザーが鳴る。
「はい」
と女が言った。
「どなたですか?」
「警察の者ですが」
淳は|拳銃《けんじゅう》を握りしめた。女は低い声で、
「トイレへ隠れて下さい」
と言った。淳は|慌《あわ》てて隠れながら、
「いいか、何か一言でもしゃべったら――」
「分かりました。早く入って!」
女にせかされてトイレへ入る。女は水を流しておいてドアを閉めた。淳が耳を|澄《す》ましていると、玄関のドアが開く音がして、
「失礼します」
という警官らしい男の声。
「ええと……|相《あい》|原《はら》|兼《かね》|子《こ》さんですね」
「そうです」
あの女、相原兼子というのか。
「実は今夜、この先の土手の道で人殺しがありましてね」
淳の顔から血の気がひいた。――死んだのか! |俺《おれ》は人殺しなんだ……。
「まあ、一体どなたが?」
「警官です。引ったくりを|捕《と》らえようとした|囮《おとり》の婦人警官を負傷させ、その拳銃で駆けつけた警官を射殺して|逃《とう》|走《そう》しました。どうもこちらのほうへ逃げているようでして」
「|怖《こわ》いこと!」
「何か、こう|不《ふ》|審《しん》な男などを見かけませんでしたか?」
「さあ……。私、目が不自由なものですから」
「ああ、これは失礼しました」
「いえ、構いませんわ。別に何も気付きませんでしたけど」
「そうですか。――お一人ですか?」
「はい」
「じゃ、|充分《じゅうぶん》にご用心下さい。|鍵《かぎ》をちゃんと|掛《か》けて」
「そうします。あの――」
と女が――相原兼子が言いかけたので、淳はギクッとした。しゃべる気だな! こうなったら、女もお巡りもぶっ殺して逃げてやる、とトイレのドアの|把《とっ》|手《て》へ手をかけた。
「お|疲《つか》れでしょう」
と彼女が言った。
「お茶を|一《いっ》|杯《ぱい》いかがです?」
「いや……そうですか。いただけるとありがたいですな」
「上がり口へおかけになって。――ああ、はきものを……片付けますから……」
「いや、構いませんよ」
「――さ、どうぞ、ここへ」
「ああ、どうも|恐縮《きょうしゅく》です」
「ちょうどお湯が|沸《わ》いてますから」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか? やりましょうか?」
「いえ、ご心配なく」
やや間があった。兼子という女が、さっきのような|巧《たく》みな手つきでお茶を|淹《い》れているのだろう、と淳は思った。|畜生《ちくしょう》め、わざわざお巡りを引き止めていやがる! 何かやらかす気だな……。
淳は、いつでも飛び出せるように身構えていた。
「いや、みごとなもんですなあ」
と警官が感心して言った。
「少しも迷わずによくやれますねえ」
「物の置き場所を決めてしまって、そこから動かさないようにしておくんです。慣れれば難しくありませんわ。――どうぞ」
「いや、恐れ入ります。……|旨《うま》い。やっぱりお茶が一番だ」
「この辺一帯をずっと回ってらっしゃるんですか」
「犯人がまだこの辺にいる可能性があるものでね。――しかし、いつまでもこんな所に、ぐずぐずしちゃいないと思いますがね。おそらく、かなり遠くまで逃げているでしょう」
「早く|捕《つか》まるといいですわね」
「馬鹿な|奴《やつ》ですよ。おとなしく婦人警官に捕まってりゃただの引ったくり現行犯ですんだのに。警官殺しとなると、何年かかっても|威《い》|信《しん》にかけて犯人を捕らえますからね。決して逃げられやしません」
警官はゴクゴクと|喉《のど》を鳴らして、
「――いや、おいしかった。ごちそうさまでした」
「お|粗《そ》|末《まつ》なもので」
「では充分にお気を付けて」
「ご苦労様です」
玄関のドアが開き、閉まった。靴音が廊下を遠ざかって行く。
「――もう大丈夫ですよ」
彼女の声に、淳はそっとトイレのドアを開けた。急いで廊下に面した小窓の所へ行って耳を澄ますと、靴音が階段を下りて行くのが聞こえた。――ホッと息をつく。額に汗がにじんでいるのに、初めて気付いた。玄関の上がり口に空になった|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》が置いてある。
淳は、やおら平手で、彼女の|頬《ほお》を打った。アッと短い声を上げて、彼女が|倒《たお》れる。
「|貴《き》|様《さま》! お茶なんかすすめやがって! 引き止めておいて|俺《おれ》のことをしゃべろうとしたな!」
淳は、やっと顔を上げた兼子の|喉《のど》|元《もと》へ|拳銃《けんじゅう》を押しつけた。
「あなたの……靴が……」
と|途《と》|切《ぎ》れ|途《と》|切《ぎ》れに言う。
「何だと?」
「あなたが、靴を脱いだままにしてあったでしょう。……お巡りさんが部屋の中を見回してるようだったので、靴に気付かれると思い……お茶をすすめて、玄関を片付けるふりをして、|下《げ》|駄《た》|箱《ばこ》の下へ、靴を押し込んでおいたんです……」
淳は玄関を見た。そうだ。確かに靴をそのままにしておいた。――靴は下駄箱の下へ押し込まれていた。男物の大きな靴だ。見られれば、|怪《あや》しまれずにはすまなかったろう。
淳は、頬を押さえながら起き上がった兼子のほうを、きまり悪そうに見た。
「……悪かったな」
「いいえ」
「相原兼子、っていうんだって?」
「ええ」
「かね[#「かね」に傍点]子は兼ねる、って字かい?」
「そうです」
「そうか。……お|袋《ふくろ》と同じだ」
兼子は|畳《たたみ》にきちんと|坐《すわ》ると、|髪《かみ》を手で直した。
「――お茶、飲みますか?」
「うん。……でも、お|巡《まわ》りの飲んだ茶碗とは別にしてくれよ」
ため息をつきながら、淳はそう言った。
「どうして一人で|暮《く》らしてるんだい?」
お茶を飲みながら、淳は|訊《き》いた。
「別にわけなんて……」
「でも、何かと不自由だろう」
「このすぐ近くの工場に勤めているんです。同じ仲間もいるし、苦になりません」
「ふーん。大したもんだね。|俺《おれ》なんか、どこも悪いとこなんざねえのによ。働きもしないでブラブラ遊び歩いて、そのあげくがこのざまだ」
「あなた……いくつですか?」
「二十四だ。――淳、ってんだ」
「ジュン?」
「そう。何ていうのかな……さんずいに……」
「こうですか?」
兼子は立って、紙とボールペンを取ると、〈潤〉と、きちんとした字体で書きつけた。
「いや、そうじゃなくて……」
「じゃ、これ?」
今度は〈淳〉の字が出て来る。
「そう、それだよ」
と、思わず笑顔になって言った。
「――ちゃんと字が書けるんだなあ。いつ目を悪くしたんだい?」
「十四の時です。火事にあって……」
「そうか。――今、いくつだい?」
「二十一です」
そう言って、兼子は、ちょっと|恥《は》ずかしげに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「|老《ふ》けて見えるでしょう? どうしても外見に構わなくなるので……」
「そんなことねえよ」
と淳は言った。確かに、彼女は二十五にはなっているように見える。しかし、初めてその笑顔を見ると、若さが|浮《う》き上がって来るのが分かった……。
「――これから、どうするんですか?」
「うん……。ともかくできるだけ早く出て行くよ。|迷《めい》|惑《わく》は決してかけねえ」
「でも、今夜は出ないほうがいいですよ」
「|妙《みょう》だなあ。俺が|怖《こわ》くねえのか? 人殺しなんだぜ」
「めくら、|蛇《へび》に|怖《お》じず、って言います」
淳は思わず笑ってしまった。全く変わった女だ、こいつは。――その時、
「しっ!」
と兼子が淳の口へ手を当てた。
「――一階の人が来ます。|隠《かく》れていて下さい」
「一階の?」
「|暇《ひま》を持て余してる|奥《おく》さんなんです。さあ、隠れて。ここへは上げないようにしますから」
淳はまたトイレへ入った。――兼子には遠い足音だけで|誰《だれ》なのか分かるらしい。
ややあって、
「今晩は」
と女の声がした。
「もう|寝《ね》たの?」
「いいえ」
兼子が|玄《げん》|関《かん》のドアを開ける。
「どうしたの?」
「例によって主人が|遅《おそ》いの。よかったら遊びに来ない?」
「ええ……そうね、|伺《うかが》うわ」
「|鍵《かぎ》かけたほうがいいわよ。警官殺しがあったって。聞いた?」
「ええ、さっきお|巡《まわ》りさんがみえて」
「うちにもよ。ちょっといい男だったの。セールスマンだったら|誘《ゆう》|惑《わく》しちゃうんだけど、お巡りじゃね」
鍵のかかる音がして、二人が話しながら|廊《ろう》|下《か》を遠ざかって行く。淳はそっとトイレから出た。部屋は明かりが消えていた。目が慣れて来て、見ると、彼の飲んだ|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》が片付けられている。さっきの女が二つの茶碗に気付くかもしれないと、兼子が片付けたのだろう。
機転のきく、頭のいい女だ。――全く分からない。なぜ人殺しを助けたりするのか。
ふと、下の部屋から一一〇番しているかもしれないと思った。ここには電話がない。
しかし、そんなはずはない、と思い直した。その気になれば、さっきの警官に知らせたはずだ。メモに書いて|渡《わた》せばいいのだ。ちゃんと字が書けるのだから。
早く出ていかなくては、と本気で考えていた。もののはずみで人を殺してしまったが、こんな弱い女まで巻きぞえにするようなことはしたくない。
今の内に行こうか? しかし、まだ下の階にも起きている女がいる。ということは、今降りて行けば、誰かに出くわす心配があるということだ。
もう少し遅くなるまで待とう。――淳は、ごろっと横になった。暗い|天井《てんじょう》に、窓から射し入る光が帯を引いている。
|疲《つか》れた……。ほんのちょっと目をつぶるつもりで、淳はそのまま|眠《ねむ》りに落ちてしまった。
目を開くと、ほの白い光がまぶしい。淳はぼんやりとした頭のまま、体を起こした。|狭《せま》いアパートの一部屋。ここはどこだろう?
「そうか……」
思い当たってハッとした。もう朝になっているのだ。初めて淳は、自分が毛布をかけているのに気付いた。――あの女がかけてくれたのに|違《ちが》いない。何といったっけ。兼子。そう、兼子だ。
部屋の中を見回した。|卓《ちゃ》|袱《ぶ》|台《だい》に朝食の|仕《し》|度《たく》があった。メモが置いてあり、あのきちんとした字体で、
〈いつも通りに仕事に出ます。食べた|皿《さら》などは台所に積んでおいて下さい。昼は冷蔵庫にハムとサラダがあります。夕方六時半には帰ります〉
とあった。
淳はみそ汁を温め、|貪《むさぼ》るように朝食を平らげた。――一息つくと、一体|捜《そう》|査《さ》のほうはどうなっているのか、気になって来る。新聞もテレビもない。当たり前のことだが。ラジオぐらいは……。|戸《と》|棚《だな》を|捜《さが》すとポータブルラジオがあった。早速スイッチを入れたが、音を聞きつけられては困るので、イヤホーンで聞くことにした。
しばらく聞いていると、やがてニュースになった。
「昨夜、E市で警官一人を射殺、婦人警官に軽傷を負わせた犯人は、婦人警官のハンドバッグに残っていた|指《し》|紋《もん》から、住所不定無職、前科一犯の|古橋淳一《ふるはしじゅんいち》、二十四|歳《さい》と分かりました」
淳はしばし|呆《ぼう》|然《ぜん》と|坐《すわ》り|込《こ》んでいた。ラジオが、彼の背格好や|特徴《とくちょう》を|並《なら》べているのも、耳には入らなかった。――指紋! そうだった。以前、車の無免許運転であげられたことがあったのだ。では、今ごろは彼の写真が近辺にばらまかれ、夕刊にも|載《の》ることだろう。
両親の家や、兄弟、親類、友人……。どこへも|刑《けい》|事《じ》が出向いているに違いない。みんなマスコミの目から隠れようと、戸を閉め切って息をひそめているのだ。ちょうど淳と同じように。
今さらのように、人を殺したという事実の重味が実感された。
「|畜生《ちくしょう》……」
思わず言葉が口をついて出る。だが、|総《すべ》ては|手《て》|遅《おく》れだ!
ポケットへ手をつっ込むと、冷たい|感触《かんしょく》があった。|拳銃《けんじゅう》だ! 淳はそろそろと取り出して、手の上にのせた拳銃の冷たい光を見つめていた。
これで死のうか。――それが一番楽な方法だろう。
「いや、ここじゃだめだ」
と|呟《つぶや》く。この部屋で死んだら、兼子に迷惑がかかる。どこか|離《はな》れた所でやらなければ……。
しかし、ともかく夜にならなければ出られない。この部屋から出て来たのを誰かに見られたら、やはり兼子が迷惑するのは同じことだ。
深くため息をついて、淳は横になった。夜が待ち遠しかった。――死ねる時が。
六時になると、もうすっかり暗くなった。六時半に帰る、とメモにあったので、その前に、ちょうど帰宅時の他の部屋の人間と顔を合わせる危険はあったが、淳はそっと部屋を出た。
兼子に一言礼を言いたかったが、帰ってからでは、死ぬ決心が|鈍《にぶ》るかもしれない。それが|怖《こわ》かった。せめて手紙を、とメモにせっせと書きつけてから、彼女には読めないのだと気付き、苦笑いした。――全く、最後までドジな男なんだな、俺は。
幸い、階段を下りて行っても、誰とも出会わなかった。道の|記《き》|憶《おく》ははっきりしないが、ともかく川べりの土手の道へ出ればいい、と、見当をつけて歩くと、ほどなく、川の流れる音がして、土手の道へ出られた。
少し歩こう、と思った。少しでも兼子のアパートから離れておきたい。帰って来た彼女に、犯人が自殺したという|騒《さわ》ぎが伝わらないくらいの所までは……。
どうして、こうあの女のことを気にするんだろう、と自分でも不思議だった。
自分が人を殺したという|惨《みじ》めな現実の中で、せめて彼女に迷惑をかけないことに救いを求めているのかもしれない。しかし、そんなことが何になる。警官を殺して自殺した男に、世間の誰が同情してくれるものか。
土手の道を、淳はゆっくりと歩いた。やる[#「やる」に傍点]時は河原へ下りるつもりだった。|茂《しげ》みの中では、なかなか発見されずに|腐《くさ》り果てることもあるかもしれない。河原なら、夜が明ければすぐに目につくだろうから。
|途中《とちゅう》、二、三人の、勤め帰りのサラリーマンとすれ違ったが、誰も淳のことなど見もしなかった。道も暗いが、そのせいばかりではないようだった。|街《がい》|燈《とう》の並ぶ明るい道ですれ違ったとしても、相手の顔など見ないのではないか。――みんな一様に疲れて、もう他人の顔など見るのもいやだ、という様子に見えた。
誰しもが、ああして、クタクタに疲れ切るまで働いて、やっと生活している。――以前なら、そんな連中を鼻先で笑って、
「|俺《おれ》は太く短く生きるんだ」
と言っただろうが、今はそうは言えなかった。ああいう暮らしこそが、勇気のいる生活なのかもしれない、と思った。もし、もう一度やり直せるのなら、ああして働いてみたいという気がした。
しかし、もう遅すぎる……。
「そろそろやるか……」
と|呟《つぶや》いて、ふと前方を見ると、兼子が歩いて来た。白い|杖《つえ》をついて、|腕《うで》に、買い物らしい紙袋をかかえている。淳は足を止めた。
兼子も数メートル手前で立ち止まった。じっと探るように、彼のいるあたりへ注意を集中しているらしかったが、
「淳……さん?」
と|訊《き》いた。気配を感ずるものなのか、と淳は|驚《おどろ》いた。
「俺だよ」
「どうして出て来たんですか?」
歩み寄って来ると、杖を持った手で淳の腕に|触《ふ》れた。
「|同僚《どうりょう》の女の子から聞いたんですけど――」
「分かってるよ」
淳は|遮《さえぎ》って、
「俺が|指《し》|名《めい》|手《て》|配《はい》になってるんだろう。ラジオで聞いた」
「それならどうして出て来たんです?」
と|怒《おこ》ったように言う。
「いつまでもぐずぐずしてられないからな。あそこで見つかりゃ、そっちに迷惑がかかるだろ」
「そんなこと……。|戻《もど》りましょう」
「いや、もう行くよ」
「どこに?」
淳は|肩《かた》をすくめた。
「|逃《に》げるといったって、いつまでも逃げちゃいられない。自分でかた[#「かた」に傍点]をつけようと思ってな」
「死ぬつもりなんですか?」
「どうせ死刑だからな。警官を殺したんだ」
淳は兼子の肩へ手をおいて、
「色々世話になったな」
不意に、兼子は両眼から|大《おお》|粒《つぶ》の|涙《なみだ》を|頬《ほお》へ流した。
「そんな……今、すぐに、なんて……。食べてもらおうと思って……すき焼き用の肉を買って来たのに……」
声が涙で切れ切れになっている。淳は困ってしまった。女に泣かれるのが一番苦手なのである。
「なあ、|俺《おれ》なんかに関わり合ってたら、ろくなことにならないぜ。――悪いことは言わねえから、アパートへ帰って、俺のことなんか忘れちまいな」
兼子は手の|甲《こう》で涙を|拭《ぬぐ》って、
「せめて今夜だけ――」
と言いかけて、ふっと言葉を切ると、耳を|澄《す》ましていたが、
「自転車だわ」
と言った。
「え? どこに?」
淳がキョロキョロ見回す。
「きっとお|巡《まわ》りさんだわ。聞こえるんです。早く、どこかに――」
「どこか、っていっても……」
「河原へ下りましょう、早く!」
兼子の口調には、|有《う》|無《む》を言わせぬ|切《せっ》|迫《ぱく》した|響《ひび》きがあった。淳は兼子の手を取って、土手を下りると、河原の砂利の所へ連れて行った。
「横になって!」
兼子の言葉に、
「ええ?」
と|面《めん》|喰《く》らっていると、いきなり兼子が|抱《だ》きついて来たので、淳は|仰《あお》|向《む》けに引っくり返ってしまった。兼子が上から|覆《おお》いかぶさるようにして淳の|唇《くちびる》へ唇を|押《お》し付けて来る。淳はわけが分からず目を白黒させていた。
「おい! 誰だ!」
|突《とつ》|然《ぜん》、声と共に|懐中電灯《かいちゅうでんとう》の光が二人を照らした。ギクリとして起き上がろうとする淳を押さえて、兼子が顔を上げた。
「やあ、あなたは……」
「あ、昨日のお巡りさんですね」
兼子は|慌《あわ》てて立ち上がると、スカートの|裾《すそ》を直した。警官は笑って、
「こんな所じゃ|風《か》|邪《ぜ》をひきますよ」
「すみません」
「いや、まあ気を付けて」
警官は笑顔でそう言うと、自転車をこいで遠ざかって行った。
淳は息をついて起き上がった。
「やれやれ、びっくりした」
「すみません、|咄《とっ》|嗟《さ》のことで……」
「いや、大したもんだぜ、全く」
淳は笑って立ち上がると、落ちていた|杖《つえ》を拾って兼子へ渡してやった。
「あの……今夜だけでも、夕ご飯を食べて下さい。ゆうべは何も出せなかったから」
「分かったよ。ごちそうになろう」
淳は兼子のかかえていた紙袋を持った。兼子が|嬉《うれ》しそうに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「|旨《うま》いなあ」
淳は何か月ぶり――いや何年ぶりかもしれない牛肉の味に舌つづみを打った。
「うんと食べて下さい」
「ありがとう。最高だよ」
生き返ったような気分だった。兼子が買って来てくれた|剃《かみ》|刀《そり》でひげも|剃《そ》ったし、下着も|着《き》|替《が》えた。こんなさっぱりした気分になったのは、本当に久しぶりのことだ。
「ビールは?」
「ああ、|俺《おれ》がやるからいいよ」
とコップへ注ぎながら、
「しかし、こんなことしてたら、アパートの連中に気付かれないかい?」
「ちゃんと言ってあります」
「何て?」
「|田舎《いなか》から|従兄《いとこ》が上京して来ています、って」
「従兄か、とんだ従兄だなあ」
と首を|振《ふ》ってご飯をかっ|込《こ》みながら、
「今ごろは|親《おや》|父《じ》もお袋も、俺のことなど生まなきゃよかったと思ってるだろう」
「そんなことを考えないで」
と兼子は言った。
「今は食べることだけ考えて下さい」
「食うのに頭はいらねえよ」
と笑いながら言って、
「もう|一《いっ》|杯《ぱい》くれ」
と|茶《ちゃ》|碗《わん》を出した。
「――ああ、満腹だ」
と畳にひっくり返ると、淳は、兼子が食事の後片付けをてきぱきとやってのけるのを|眺《なが》めていたが、ふと立ち上がると、台所に立っている兼子の後ろに近付いて、彼女の|腰《こし》にそっと手を回した。兼子が身を固くした。
「洗い終わったら……お茶を|淹《い》れますから……」
声がいくらか|震《ふる》えているように聞こえる。
淳は兼子の肩をつかんで自分のほうへ向かせると、唇を唇で|塞《ふさ》いだ。兼子は軽く身震いしたが、逆らいもせず、されるままになっていた。
やがて淳が離れると、兼子は深く息をついて、
「私はこんな女ですから……」
と言って、また洗い物にかかった。何の意味なのか、淳には分からなかった……。
「――十八の時、私は|駆《か》け落ちして出て来たんです」
兼子は淳にお茶を出しながら言った。
「そうだったのか、それで帰るに帰れないわけなんだな」
「それもありますけど、両親がもう死んでしまいまして、兄弟は私のことを一族とは認めてくれないので、肩身の狭い思いをしに帰るのもいやですから」
「そうだなあ。……|一《いっ》|緒《しょ》にいた男はどうしたんだい?」
「さあ……」
と、ちょっと|寂《さび》しげに|微《ほほ》|笑《え》んで、
「|夢中《むちゅう》になっている時は、目が見えないなんてこと、気にならないんでしょうが、しばらくたつとやっぱり重荷になったのか、仕事も思うように見つからず、その内、プイと出て行ったきりで……」
「そいつは苦労したなあ」
「自分で勝手に飛び出したんですもの。仕方ありませんわ」
「これから、どうするんだ? ずっとこうして一人暮らしを続けるつもりなのかい?」
「ええ、たぶん……」
「その内、いい男が出て来るよ、きっと」
兼子は、ちょっと間を置いて、
「それより、あなたはどうするんです?」
「うん……。仕方ないさ」
「自首したら? 少しは――」
「軽くなっても終身刑。出られるとしたって三十年先の話さ。一発頭に|撃《う》ち込むほうが楽だよ。後くされなく、さっぱりとね」
兼子はしばらく|黙《だま》っていたが、
「もし――」
「え?」
「もし、あなたにその気があれば、ですけど……ずっとここにいてもいいんです」
淳は返事に困って頭をかいた。
「気持ちは|嬉《うれ》しいけどなあ……。あんたはいい人だ。いい人だと思うから、余計に巻き込みたくない」
「私は――」
「まあ待てよ。人間、そういつまでも人目に付かずに|隠《かく》れていられるもんじゃない。ここにいて、じっと息を殺して、何日もそんな生活は続かないよ」
「それなら、どこか遠くに行って――」
「もう、そんなことを考えるのはよせ」
淳は兼子の|髪《かみ》を|撫《な》でた。
「|俺《おれ》たちは|互《たが》いに顔も知らないんだ。そうだろう?」
兼子は|泣《な》かなかった。その代わり、淳の胸に|身体《からだ》を投げ出して来た。
「俺は幸せだよ」
淳は言った。
「|死刑囚《しけいしゅう》だって、こうは楽しませちゃもらえないぜ」
「そんな話はよして」
兼子は彼の|裸《はだか》の胸に|頬《ほお》をそっと寄せて|呟《つぶや》いた。
「しかし分からねえな」
淳は首を|振《ふ》った。
「どうして|俺《おれ》なんかに|惚《ほ》れたんだい?」
「さあ……。私にも分からない。そんなものでしょう?」
「そうかもしれねえ」
淳は笑って兼子をもう一度抱きしめた。
「待って!」
兼子がハッと体を起こした。
「どうした?」
「車の音だわ。……こんな時間に」
淳も耳を|澄《す》ましたが、一向に何も聞こえない。しかし兼子が言うのだから|間《ま》|違《ちが》いあるまい。二人は急いで服を着た。
「明かりは消えてましたね」
「ああ」
「車の音……。一台じゃないわ」
淳は|廊《ろう》|下《か》に面した小窓から外を|覗《のぞ》いてみた。直接には何も見えないが、赤い光の|明《めい》|滅《めつ》が|隣《となり》の家の窓ガラスに映っている。
「来たな…‥」
淳はため息をついた。もう一晩くらい|寝《ね》かせてくれりゃいいのに。
「さっきのお|巡《まわ》りさん、きっと疑ってたんだわ。ごめんなさい」
「気にするなよ」
淳は言った。
「いいか。|訊《き》かれたら、|俺《おれ》に殺すとおどされていた、って言うんだぞ。分かったかい?」
兼子は答えずに、何やら考えていたが、
「待って!」
と言うと、|押《お》し入れを開け、整理用のプラスチックの箱を開けると、中から何やら|縄《なわ》のようなものを取り出して来た。
「何だい?」
「非常用の縄|梯《ばし》|子《ご》です」
「こんな物どうして持ってるんだ?」
「|押《お》し売りくさい人に無理に買わされちゃったんです。――これで|廊《ろう》|下《か》の|突《つ》き当たりから下りれば、|狭《せま》い路地から裏の通りへ出られます。そっちにはきっと|誰《だれ》もいませんわ」
「しかし――」
「お願い! もう少し生きていて下さい。|諦《あきら》めないで!」
必死な兼子の口調に、淳は心を動かされた。彼女の目の前では死ぬまい、と思った。せめて、彼女から|離《はな》れた所で……。
「よし、分かった。その代わりな、俺におどされていたと話すんだぞ。それが条件だ」
「分かりました」
「よし」
縄梯子は何ともチャチな|代《しろ》|物《もの》だったが、まあ一度くらいは使えるだろう。――そっと廊下へ出る。まだ下の手配が終わらないのだろう、|踏《ふ》み|込《こ》んで来るには時間があるようだ。
「じゃ、行くぜ」
「気を付けて」
兼子の手を軽く|握《にぎ》って、淳は突き当たりの手すりに縄梯子のかぎ[#「かぎ」に傍点]を引っかけ、人一人、やっと通れるくらいの路地へ垂らした。
いささか足が|震《ふる》える。高所|恐怖症《きょうふしょう》なのである。二階でこれだから、ひどいものだ。やっとこ手すりを乗り|越《こ》え、グラグラ|揺《ゆ》れる梯子に何とかすがりつくようにして下り始める。
縄梯子は相当な安物だったに違いない。半分くらい降りた時、キリキリと音がして、縄がかぎから|抜《ぬ》けてしまった。アッという間もなく、狭い路地へ落ちる。狭いので|却《かえ》って|妙《みょう》な姿勢になってしまった。左足首に|激《はげ》しい痛みが走った。
「ウッ!」
と|呻《うめ》いて、それでも右足で何とか起き上がったが、|壁《かべ》を伝わって、路地を出るのがやっとだった。左足は焼けるように痛い。|捻《ねん》|挫《ざ》か、それとも骨にひびでも入ったかもしれない。とても遠くまでは行けないな……。
裏通りには、確かに警官の姿はなかった。ちょっと見たところでは路地があるようには見えないのだ。
しかし、ともかくこの辺にいれば向こうが見付けてくれるだろう……。
淳は左足を引きずるようにして、|道《みち》|端《ばた》のポリバケツの上に|腰《こし》をおろした。やれやれ、最後までドジなことだ。
ふと、淳は思った。自首して、二、三十年の刑になっても、兼子は待っていてくれるだろうか。――いや、|馬《ば》|鹿《か》なことを考えるな!
あの女の一生をめちゃめちゃにしてしまうつもりか。ここでかたをつけてしまうのが一番いいのだ。
「見付かる前にやっちまおう」
ポケットへ手を入れて、ハッとした。|拳銃《けんじゅう》がない!――部屋へ忘れて来たか。それとも今、路地へ落ちた時にポケットから飛び出したのか……。
淳は思わず声を上げて笑った。――全く、最後の最後まで、ドジな話だ。
自殺できないとなると、|却《かえ》って気が楽になった。不思議なほど、|怯《おび》えも絶望もない。|逮《たい》|捕《ほ》され、裁判になれば、また兼子に会えるかもしれない。そう思うと楽しみにさえ思えて来る。
全く不思議な女だ、と思った。|盲《もう》|目《もく》だなど少しも感じさせないくらい、強く生きている。その彼女の強さが俺にも伝染したのかもしれない……。
「早く来いよ……」
と|呟《つぶや》いた時だった。銃声が夜の静けさを破った。続いて、それに応ずるように二発、三発……。警官はめったに|発《はっ》|砲《ぽう》するものではない。ではあの一発目は……。
「兼子!」
ポケットから拳銃を抜いておいたに違いない。そして警官の注意を引きつけるために――何て馬鹿をするんだ!
足の痛みをこらえて、淳は路地へ向かって歩き始めた。
流れ|弾《だま》に当たったらどうするんだ! 兼子! 死ぬなよ!
また銃声が聞こえて来た。
「それじゃ、もう一度|訊《き》くがね。彼におどかされてかくまっていたんじゃないのかね?」
と頭のはげ上がった刑事が|疲《つか》れたような調子で言った。
「違います」
兼子はきっぱりと言った。
「自分の意志でかくまったんです」
「フム……」
困ったようにため息をついて、刑事はハンカチで|額《ひたい》を|拭《ぬぐ》った。狭い取調室は蒸し暑かった。
「――しかしね、|奴《やつ》は死ぬまぎわに、そう言ったんだよ。『あいつは|俺《おれ》が|脅《おど》しつけて……』」
「そんなことはありません」
「そうか。――じゃ、あんたも罪に問われるよ。|覚《かく》|悟《ご》しているのかね?」
「はい」
「それならいいが」
「それから――」
「何だね?」
「私、誰かを|撃《う》たなかったでしょうか?」
刑事は|黙《だま》っていた。兼子は続けて、
「私、下へ降りて、階段の下に隠れていた時、後ろから足音が近付いて来るのが聞こえたんです。何だか片足を引きずってるような足音で……。何が何だか分からないまま撃ってしまったんですけど。何か|倒《たお》れるような音がして……。私の撃った|弾《た》|丸《ま》が当たったんじゃないでしょうか?」
刑事は、しばらくじっと、この|気丈《きじょう》な盲目の女を見つめていたが、やがて軽い口調で言った。
「いいかね、|拳銃《けんじゅう》なんて必死に|狙《ねら》っても、そうそう当たるもんじゃないんだよ。それをあんたが撃っても当たるはずはないさ」
「そうですか」
兼子はホッと息をついた。
「あんたは……|奴《やつ》が好きだったのかい?」
「はい」
兼子は|肯《うなず》いた。
「あの人とは前の日に会ったばかりでしたけど……。次の日には、もう足音だけであの人だと分かるようになりましたもの」
刑事はもう一度|訊《き》いた。
「|供述《きょうじゅつ》を変える気はないかね?」
「ありません」
兼子は、はっきりと答えた。
|探《たん》|偵《てい》物語
「|馬《ば》|鹿《か》|野《や》|郎《ろう》! このウスノロの役立たずめ! 月給|泥《どろ》|棒《ぼう》とは|貴《き》|様《さま》のことだぞ!」
受話器を|突《つ》き破らんばかりに、社長の|罵《ば》|声《せい》が飛び出して来て、|山《やま》|口《ぐち》は|慌《あわ》てて耳から受話器を|離《はな》した。泥棒したくなるほどの給料はもらってません、と言い返したいのをじっとこらえて、悪口がちょっと息切れした際に、
「申し訳ありません」
と言った。
「もういい! その件は|塚《つか》|田《だ》へ任せる。貴様には別の仕事がある。事務所へ来い! 分かったな!」
「分かりま――」
電話は切れた。山口はため息とともに受話器をかけると、十円玉|返却口《へんきゃくぐち》をつい無意識に探った。十円玉一枚しか入れていないのだから、|戻《もど》るはずがないのだが。
「――ん?」
指先に|触《ふ》れたのは十円玉だった。「こいつあ|儲《もう》かったぞ!」
と|呟《つぶや》いて、我ながら|惨《みじ》めになり、|肩《かた》をすくめて、電話ボックスを出る。
ごみごみとした旅館街。いわゆる連れ|込《こ》みの|並《なら》ぶ|狭《せま》い通りの朝は、えらくわびしい感じがした。山口|安《やす》|彦《ひこ》はヒゲののびた、ザラつく|顎《あご》を|撫《な》でて、投げやりな感じで歩き出した。――四十二|歳《さい》。年相応にくたびれた中年男である。どう見ても英国製ではない背広、ねじれたネクタイ、ヨレヨレのコートは、何もTVの|刑《けい》|事《じ》を気取っているわけではない。|女房《にょうぼう》に五年前に|逃《に》げられて、むさ苦しい一人|暮《ぐ》らしなのである。
山口は小さな探偵社の平社員だ。もう十年も勤めているのだが、役付きになる事はあり得ずとも、クビになるのは今日でもおかしくない、という|切《せっ》|羽《ぱ》|詰《つ》まった状況に置かれている。
もとはと言えば身から出たサビで、このところ失態続きなのである。|浮《うわ》|気《き》の現場を|押《お》さえるべく公園に張り込んでいて、|痴《ち》|漢《かん》と|間《ま》|違《ちが》えられて|捕《つか》まったり、苦労してやっと|証拠《しょうこ》写真を|撮《と》ってみれば、カメラにフィルムが入っていなかったり……。たった今、ドヤしつけられたのも、|狙《ねら》った二人がしけ込んだ旅館の前に|陣《じん》|取《ど》って、事を済ませて出て来る|瞬間《しゅんかん》を|撮《さつ》|影《えい》しようと待ち構えている内、いつしかコックリコックリ……。気が付いたら朝になっていて、当の二人はむろん|影《かげ》も形もなくなっていたという次第。
社長が|怒《おこ》るのも、当然と言えば当然である。
「|畜生《ちくしょう》!」
わけもなく呟いてみる。――この手の旅館街へ来ると、何か苦い物が胸にこみ上げて来るのである。妻が、彼の見た事もない若い男と|裸《はだか》で|汗《あせ》まみれになっている所へ|踏《ふ》み込んで行った時の事を思い出してしまうのだ。
気が付くと、一匹のやせこけた|野《の》|良《ら》|犬《いぬ》が、|彼《かれ》の足にまつわりつくようにして走っていた。
「何だ?……何かほしいのか? |俺《おれ》は何も持ってないよ」
それでも犬は期待に目を|輝《かがや》かせながら山口を見上げている。
「何もないんだ! 分からないのかよ! 何もないってのに!」
と|怒《ど》|鳴《な》ると、犬はヒョイと向こうを向いて、トットッと歩いて行ってしまった。山口はその野良犬の後ろ姿を見送って、|呟《つぶや》いた。
「――明日はわが身か」
|新《あら》|井《い》|直《なお》|美《み》は、パジャマ姿で|欠伸《 あくび》をしながら階段を降りて行った。庭の|芝《しば》|生《ふ》に面した広々としたダイニング・ルームに朝の光が|溢《あふ》れている。大きなテーブルの中央に、一人前の朝食が用意されていた。ゆで卵、生ジュース、サラダ、トースト、ハム……。もう一度欠伸をしながら、|椅《い》|子《す》に|坐《すわ》ると、|間《かん》|髪《ぱつ》を入れずドアが開いて、直美の|年《と》|齢《し》より長く、この家に住み込んで働いている|長《は》|谷《せ》|川《がわ》|君《きみ》|代《よ》が、|渋《しぶ》い和服姿で現われて、コーヒーポットとカップを|載《の》せた|盆《ぼん》を持って来た。
「おはよう、長谷川さん」
と直美は生ジュースのコップを取り上げた。
「お帰りなさいませ[#「お帰りなさいませ」に傍点]」
と君代は盆を置きながら言った。
「私、おはよう、って言ったのよ」
「つい三十分ほど前にお帰りでしたね」
君代は至って|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で、「木に登るのは危のうございます。お帰りの時は、ちゃんと|玄《げん》|関《かん》からどうぞ」
直美はいまいましげに君代をにらんで、
「よく見てるのね。|年《と》|齢《し》を取ると|眠《ねむ》りが浅いのかしら」
「お|嬢様《じょうさま》を無事にアメリカ行きの飛行機へお乗せするまでは安心して眠れませんのです」
「後四日ね」
「はい。昨晩、ニューヨークの|旦《だん》|那《な》|様《さま》からお電話がございました」
「パパ、何ですって?」
「お嬢様が飛行機に乗るのをいやがったら、小荷物|扱《あつか》いにしてもいいから送ってくれ、と……」
「何よ! 人を品物扱いして!」
直美はプッとムクレて、「ちゃんと行きゃいいんでしょ!」
「首を長くしてお待ちですよ」
「ろくろ首の見せ物でもニューヨークでやりゃ受けるかもよ」
直美はため息をついて、「ねえ、長谷川さん、どうして私までパパやママのお付き合いしてアメリカへ行かなきゃならないの? 友達やら車やら、みんなと別れて。意味ないわよ!」
「親子は|一《いっ》|緒《しょ》に住むのが一番です」
「私、もう二十一歳なのよ。いつまでも子供じゃないわ」
「だからこそご心配なのですわ。お嬢様にもしもの事があったら――」
「ありゃしないわよ。あーあ、やり切れない。せめて最後の四日間は私の好きにさせてよ」
「最後の四日間だからこそ、そうは参りませんのです」
直美はため息をついて、
「私を生まれた時から見ているのに、そんなに信じられないの?」
「もちろんですとも」
君代はアッサリ言った。
「だめだ、こりゃ」
「今日はどちらかへお出かけですか?」
「|上《うえ》|野《の》の美術館にね」
「少し荷物の準備をなさった方が……」
「夜、やるわよ!」
「今夜は早くお帰り下さいね」
直美は|憂《ゆう》|鬱《うつ》な顔で、明るい陽射しの|踊《おど》る芝生を|眺《なが》めていた。
「ははあ……」
山口は、馬鹿みたいにポカンと口を開け、その|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》を見上げた。高い|石《いし》|塀《べい》のはるか|奥《おく》に|白《はく》|亜《あ》の洋館が見える。ここに住んでるのが、大学生の|娘《むすめ》一人と、家政婦だけ、というのだから!
「アパートにして貸しゃ|儲《もう》かるのに……」
と山口はいじましい事を考えた。「ええと、この広さならアパートが四|棟《むね》は建つな。|環境《かんきょう》での日照権がうるさいから三階建てぐらいにして、一棟に十二戸とすると四棟で四十八戸。3DKくらいにすれば、場所もいいし、家賃も、八万はふんだくれるだろう。七万としても四十八戸だと……三百……三百万以上か! 月に三百万! |畜生《ちくしょう》! ボロ儲けしやがって!」
と想像に勝手に腹を立てているのだから、世話はない。
「三百万か……。|俺《おれ》の月給の何倍かなあ」
計算すれば|惨《みじ》めな気分になるだけだと分かっていながら、つい計算してみたくなるのが|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》の|性《さが》というべきかもしれない。しかし、幸い答えが出ない内に、立派な門構えのわきの通用口が開いて、若い娘が出て来たので、計算は中断された。
「あれだな」
山口は|上《うわ》|衣《ぎ》のポケットから、一枚の写真を取り出した。「……新井直美。二十一歳か。でかい家に住んで結構なご身分だ」
山口は、新井直美の後を、五十メートル程の間を置いて歩き出した。新井家の長谷川という家政婦の|依《い》|頼《らい》で、直美の|素《そ》|行《こう》を|監《かん》|視《し》し、万一彼女が何か間違いをしでかしそうになったら|阻《そ》|止《し》する。危険が|迫《せま》ったら彼女を守る、という任務である。
これはえらく難しい。浮気の調査とか何かなら、それらしい時だけ気を付けていればいいのだが、この仕事は、外出の間中、ずっとついて歩かなくてはならないのだ。
しかし文句を言っていられる身分ではない。山口は社長の、思いやり|溢《あふ》れる言葉を思い出していた。
「いいか、これが最後のチャンスだぞ! これでしくじってみろ、|即《そく》|座《ざ》にクビだ! まだここで働きたかったら、何があっても、この娘から離れるな! 見失いました、とでも電話して来たら、顔を見せんでいい!」
全く身にしみるお言葉で。別にここで働きたい、というわけじゃない。他に働く所がないというだけのことである……。
新井直美は、山口が想像していたよりも|小《こ》|柄《がら》な女性だった。大体、今の若い娘たちは大柄なのが多いから、|漠《ばく》|然《ぜん》とノッポの女の子を想像していたのだが、実物は小柄でほっそりしている。――とにかく、この二十一歳の娘に生活がかかっているのだ。
「逃げるなよ……」
尾行しながら、山口は|呟《つぶや》いた。
山口は、いい加減うんざりしていた。
直美は午後の一時に上野の美術館へやって来た。そこで長身の、やはり大学生らしい若者と会って、二人で美術館の中を歩き始めた。普通、美術館は絵を見に行く所だが、この二人の場合はどうも対話[#「対話」に傍点]の場所らしく、絵の方はそっちのけで、少し歩いてはベンチに坐り、また次の部屋へ移っては低い手すりに並んで|腰《こし》を降ろしてしゃべっている。
むろん美術館の中は静かだから、二人の話し声は至って低く、離れて見ている山口の耳にはまるで届かないのだが、様子だけを見ていると、若者同士の会話にしては、あまり|弾《はず》んでいないように見えた。どちらも割合|真《しん》|剣《けん》な顔で話をしているのである。
直美は、なかなか|可《か》|愛《わい》い娘だった。|手《て》|渡《わた》された写真は、十八歳の時のものだから、えらく子供っぽいが、二十一歳の今は、どうして|魅力《みりょく》的な女性と言ってもよかった。時折り見せる、ちょっとすねたような笑顔には、何となく|見《み》|憶《おぼ》えがあるような気がした。どうしてなのか、よく分からなかったが……。
「いつまで|粘《ねば》る気なんだ?」
山口は思わず呟いた。|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》なら、追加注文しないと文句を言われる所だろう。やっと二人が美術館を出たのは、もう閉館も近い、午後四時だった。何と三時間も、中でしゃべっていた事になる!
これからどこへ回るのかな、と見ていると思いがけない事に、美術館を出た後、二人はすぐに別れてしまった。このまま家へ帰ってくれると楽でいいんだがな、と山口は思った。帰宅してしまえば、もう今日の山口の仕事は終わりになる。
直美は、ノッポの若者を手を|振《ふ》って見送ると、公園の中をブラブラと歩き始めた。
夕方とはいえ、五月も末だ。もう大分日が長くなって、まだ頭上は青空が広がっている。時間を|潰《つぶ》してでもいるように、時折り立ち止まったり、ダンスのステップを踏んでみたりしながら、直美は歩いて行った。
そして、|突《とつ》|然《ぜん》、直美は|駆《か》け出した。山口が一瞬|呆《あっ》|気《け》に取られて立ちすくむ。直美は、交番へ駆け込んだのだ! ポカンと突っ立っていると、交番から警官が走り出て来て、
「おい!」
と|怒《ど》|鳴《な》った。自分が呼ばれたらしい、と山口が気付くまでしばらくかかった。
「ちょっと来たまえ!」
警官に呼ばれて知らん顔もできない。山口は渋々警官について交番へ入って行った。直美が|腕《うで》|組《ぐ》みをして山口をにらんだ。
「お嬢さん、こいつですか、あなたの後を|尾《つ》けてたのは?」
「ええ、そうです」
気付かれていたのか、と山口はショックを受けた。
「私が美術館へ入った時から、ずっと尾けてるんです」
警官は山口の方へ向いて、
「どうなんだ? 事実か?」
こうなっては仕方ない。
「尾けてたのは美術館からじゃない」
「|嘘《うそ》よ! ちゃんと見てたのよ!」
「君が家を出る時からだ」
直美が目を丸くした。
「――私はこういう者で……」
と山口は警官へ身分証明書を見せた。
「〈××|探《たん》|偵《てい》|社《しゃ》〉……」
「探偵?」
直美は|唖《あ》|然《ぜん》とした様子で言った。「仕事で私を|尾《び》|行《こう》していたの?」
「その通り」
「|誰《だれ》に|頼《たの》まれて?」
「依頼人の秘密は明かせないのでね」
「聞かなくたって分かるわ」
直美はムカッとした様子で言った。「長谷川さんったら!」
警官は直美へ、
「どうします? 一応ここへ電話して確かめますか?」
「いいえ、結構です。お|騒《さわ》がせしました」
直美はキッと山口をにらんで言った。「もう尾行を中止してちょうだい!」
「それはできないよ。仕事なんだから」
「私が[#「私が」に傍点]言ってるのよ!」
「君は依頼人じゃない」
「依頼人の|雇《やと》い主よ!」
「依頼人が誰かは明かさない」
直美は|凄《すご》い目付きで山口をにらむと、プイと交番を飛び出して行った。山口は警官から身分証明書を引ったくって、その後を追った。
「ついて来ないでよ!」
足早に歩きながら、直美は|怒《ど》|鳴《な》った。
「そうは行かない!」
山口も負けずに言った。こうなったら、何も離れて尾行する事はない。ピッタリ、くっついていてやる!
「あっちへ行ってよ!」
「仕事なんだ!」
「見失ったって言えばいいじゃないの」
「とんでもない! 君を見失ったら、|即《そく》クビなんだ。生活がかかってるんだ!」
「あんたのクビなんて、私に関係ないわ!」
山口はムッとして、
「何を言ってるんだ! 君はいいご身分で暮らしてるが、こっちはクビになりゃ、明日から路頭に迷うんだぞ」
「野たれ死にでも何でもすりゃいいのよ」
直美は足を早めた。山口も負けじ、と急ぐ。直美は、ふと|傍《かたわら》の石段を見上げた。かなり長い、登りでのありそうな石段である。やおら、直美が石段を駆け上がり始めた。若さに物を言わせて引き離そうというつもりなのだ。山口も後を追って駆け上がった。
石段半ばで息を切らしかけた二人、どんどんペースが落ちたが、同じように落ちて行ったので、結局、やっとこ登り切ったのも、ほとんど同時だった。二人ともハアハアと|喘《あえ》いで、傍の石の上へ|坐《すわ》り込んで、しばし口を利けない有様。
やっとの思いで、直美が口を利いた。
「心……臓……|麻《ま》|痺《ひ》でも……起こしゃ……よかったのよ!」
「何を……言ってる。……その|年《と》|齢《し》で……僕と同じくらい……へばっちまって……運動不足だぞ!」
山口も言い返した。
「これは新井様のお嬢様。いらっしゃいませ!」
支配人が急いでやって来た。「お食事でございますか?」
「ええ。席はある?」
「お嬢様のお席なら、いつでもございますよ」
「ありがとう」
と、直美は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
支配人は直美を、奥の目立たないテーブルへ案内した。直美はメニューを見ようとして、ふとレストランの入口であの探偵がウロウロしているのを見てニヤリとした。そしてふっと何かを思いついた様子で……。
「――お呼びでございますか?」
「あの入口の所にいる、コートかかえた人。あの人をここへ案内して」
「お連れ様ですか?」
「ま、そんなとこね」
「かしこまりました」
――何やら訳の分からぬままに山口は直美のテーブルへやって来た。
「どういうつもりだ?」
「あら、だってここにいた方がよく見張れて安心でしょ?」
「……ま、そりゃそうだけど」
「それに、あなただって夕食ぐらい食べるんだろうし……」
直美は夕食を注文した。
オードブル、スープ、魚、肉……と続くフルコースだ。
「お腹空いちゃったわ、運動したから」
直美は山口を見て、「あなたも注文なさいよ」
「あ、ああ……」
山口はメニューを広げて目を見はった。一品が三千円、四千円といった値段がズラリと並んでいる。|一《ひと》|桁《けた》印刷を間違えているのではないかと思った。
「お決まりですか?」
「う、うん……」
山口は一つ|咳《せき》|払《ばら》いして言った。「コンソメのスープ」
「コンソメスープ……」
「それだけでいい」
「は?」
「それだけでいいんだ!」
「……かしこまりました」
直美は|妙《みょう》な顔で|訊《き》いた。
「減食|療法《りょうほう》でもやってるの?」
山口は苦い顔で言った。
「会社から出る食事代は最高七百五十円なんだ!」
山口はボソボソとスープをすすりながら、直美が、|猛《もう》|烈《れつ》な食欲で料理を平らげ、ワインを飲むのを|眺《なが》めていた。直美が、
「ワインぐらい飲んだら?」
と訊くと、山口は首を振った。
「職業|倫《りん》|理《り》上、そういう事はできない!」
直美は、|澄《す》まして、
「あ、そう、じゃ一人でいただいてるわ」
山口はグウグウ鳴るお腹へ、さめたスープを流し|込《こ》みながら、クビにならなくても、|餓《が》|死《し》するかもしれない、と思った。
――直美と山口は、新井|邸《てい》の前までやってきた。
「ここであなたのお役目はおしまいなのね」
「ああ」
「明日も私をつけ回すわけ?」
「四日間って|契《けい》|約《やく》だ」
「ご苦労様ね」
直美は最初の腹立ちもややおさまって、|却《かえ》って何やら楽しげに見えた。「じゃまた明日」
直美が通用門から姿を消すと、山口はフウッと息をついた。
「生意気な|奴《やつ》だ、全く」
山口は急いで道を|戻《もど》ると、最初に目に付いたラーメン屋へ飛び込んで、
「ラーメン、|大《おお》|盛《も》り!」
と大声で|怒《ど》|鳴《な》った。
翌日、九時に新井邸へやって来た山口は目を丸くした。門の前で直美が人待ち顔でブラブラしているではないか。――どう|間《ま》|違《ちが》えたって十時前には決して起きない、と聞いていたのに……。
直美は山口に気付くと、
「おはよう!」
とにこやかに言った。山口はちょっと|薄《うす》|気《き》|味《み》悪くなったが、
「今朝はえらく早いんだね」
と苦笑いをしてみせる。
「ええ、たまには私だって早く起きるわよ。あなたがまだ来てなかったんで、待ってたの」
「そりゃどうも」
「クビになっちゃ|可《か》|哀《わい》そうですもの。ね?」
直美は元気良く歩き出して、山口も|慌《あわ》てて追っかける。直美はTシャツに薄いカーディガンをはおり、下はジーパン、テニスシューズという|軽《けい》|装《そう》であった。
「何かスポーツでもやりに出かけるのか?」
「ええ、ちょっとね。昨日、あの石段をかけ上がって、息切れしちゃったでしょ。こういうことじゃいけない、と思ったのよ」
「いい心がけだ」
「あら皮肉?」
「いや、本気で|褒《ほ》めてるのさ」
「そう。|探《たん》|偵《てい》さんに褒められるなんて、品行方正の|証拠《しょうこ》ね」
と直美は笑顔で言った。「あなた、でも|年《ねん》|齢《れい》のわりに体力はあるのね」
「|馬《ば》|鹿《か》にするな! まだ若いぞ」
「あら、いくつ?」
「ん……」
山口はちょっと|詰《つ》まって、「四十……二」
「じゃパパより下かあ。でもかなり老け込んで見えるわよ」
「言いにくい事をはっきり言うな」
「何かスポーツをやってたの?」
「こう見えても|昔《むかし》は|柔道《じゅうどう》初段だった」
「じゃあ力があるはずね! どうりでガッシリしてると思ったわ」
そう言われて山口も悪い気はしない。
「ま、まあね。今の若い連中とは|鍛《きた》え方が違う!」
二人は駅の所までやって来た。駅前に、何やら若者たちが男女取りまぜて七、八人集まっていたが、その内の一人が直美を見つけて、
「直美! 来たわよ!」
直美も手を|振《ふ》って、タッタッとそのグループの方へ走って行く。みんなハイキングにでも行くような軽装で、スポーツバッグやら、ナップサックを足下に置いている。
山口はちょっと|面《めん》|喰《く》らっていたが、直美が手でさし招いているので、ノコノコと歩いて行った。
「この人がね、探偵さん。私のボディガードなの」
と直美がみんなに|紹介《しょうかい》すると、|一《いっ》|斉《せい》に、
「わあ、探偵って一度会ってみたかったの!」
「さすがに体つきがいいわね」
「ピストル持ってるのかしら?」
などと声が上がる。山口は何が何やらさっぱり分からない。
「さ、出かけましょ!」
と直美が言うと、みんな一斉にバッグを手にする。山口が|驚《おどろ》いて、
「おい、出かけるって――」
「山登りよ」
「山登り?」
「そう、あなたはどうする? やめとく?」
山口はこれが直美のアイディアに違いない、と気付いた。|畜生《ちくしょう》! 山が何だ! ここで引きさがれるか。
「行くとも! クビがかかってんだからな」
「そう。じゃ悪いけど、その段ボール持って来てくれる? 缶ビールやコーラが入ってるの」
要するに荷物持ちにこき使うつもりだったんだな! 山口はべらぼうに重い段ボールをかかえて、ホームの階段を上がりながら、あの|小娘《こむすめ》め、|憶《おぼ》えてろと毒づいた。
「ほらほら|頑《がん》|張《ば》って!」
「もうちょっとよ!」
「ほら足を|滑《すべ》らせないで!」
と笑い声が起こる。――山口は|額《ひたい》の|汗《あせ》をハンカチで|拭《ぬぐ》って、また登り始めた。
段ボールの方は、|途中《とちゅう》で飲んだり分配したので空になり、捨てたのだが、その内、「|疲《つか》れたァ」とアゴを出す娘が続出して、その分のナップサック、バッグを三つも持たされるはめになってしまった。
それに、いくら何でも背広に|革《かわ》|靴《ぐつ》である。足は痛むし、靴は滑るし、ネクタイなどはとっくに外してポケットへねじ込んであった。
「これじゃ特別手当をもらわなきゃ合わねえや、畜生!」
とグチッて、さっさと行ってしまった連中に追いつこうと足をふんばった。その|拍子《ひょうし》に足下の石がグラッと外れて――アッと言う間もなく、山口はズルズルッと急な|斜《しゃ》|面《めん》へ……。
「――|遅《おそ》いわねえ」
ちょいと一休みしていた直美は、道を振り返って言った。「いくら何でももう来てもいい|頃《ころ》だけど……」
「へばってんのよ、きっと」
「ちょっと|可《か》|哀《わい》そうだったかな」
「いいじゃないの、直美の行動を|監《かん》|視《し》するなんて、ふざけてるわ! 少しこらしめてやった方がいいかもよ」
「まあ、あの人は仕事でやってるだけなんだけどね」
「でも、いやねえ、中年って|薄《うす》|汚《ぎた》なくって」
と、さっきとは大分評価が違う。他の女の子の一人が、様子を見に戻って行った。
二人いた男の子の一人が直美へ声をかけて来た。
「ねえ、今日は|大《おお》|木《き》君、呼ばなかったの?」
「え?――ああ、声かけたんだけど、ちょっと|忙《いそが》しいらしくて」
と直美が|曖《あい》|昧《まい》に返事をする。
「そうか。直美がアメリカ行っちまうと、大木君も|寂《さび》しいだろうなあ」
「そうね……」
直美はちょっとぎこちなく|微《ほほ》|笑《え》んだ。その時、様子を見に行っていた女の子が走って来た。
「大変よ! あの人、落ちちゃったわ!」
「ええっ!」
一斉に|駆《か》け出して、山道を戻って行くと、道の|端《はし》にバッグが一つ転がっている。岩がずり落ちた|跡《あと》がある。
「ここで足を滑らしたのよ」
「……どうなったかしら?」
「やっぱ、落ちたんじゃない?」
と|覗《のぞ》き込む。木と草の密生した急な斜面がずっと落ち込んで、下は急流が岩をかんでいる。百メートル近くあろうか。
「下まで落ちたのかしら?」
「途中に引っかかってる様子はないわね」
と|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》か何かみたいである。
「――大変だわ」
と直美は青くなった。「もし……死んじゃったら……どうしよう!」
「いいじゃないの、別に、|突《つ》き落としたわけじゃあるまいし」
「だって……ふざけ半分に引っ張り回してしまって……」
「責任感じる事ないわ」
「そうだよ、仕事中に死んだんだから、|殉職扱《じゅんしょくあつか》いになるさ」
「遺族に|見《み》|舞《ま》い金ぐらい出るわよね」
「生命保険にだって入ってるだろうし」
直美は、しかし、気が気でない様子で、じっと下を見つめている。
「どうしよう……。とんでもない事になっちゃったわ……」
その時、二、三メートル下の|茂《しげ》みがモゾモゾと動いたと思うと、道に迷った|熊《くま》よろしく、山口がニュッと顔を出した。
「おーい! ここだ!」
「生きてるわ!」
「当たり前だ! ナップサックを|捜《さが》してたんだ。――ロープか何かを投げてくれ!」
直美はホッと胸を|撫《な》でおろした。
直美たちは、河原に昼食を広げた。
|涼《すず》しい|湿《しめ》った風が|渡《わた》って、汗ばんだ|肌《はだ》を冷やして行く。|誰《だれ》かの持って来たカセットレコーダーからにぎやかにロックが流れ、食事を終わった者から|踊《おど》り始めた。山の静けさもこうなっては台無しである。
山口は、連中から|離《はな》れた所で、それを|眺《なが》めていた。直美が、|紙《かみ》|皿《ざら》にのせたサンドイッチとコーラの缶を持ってやって来た。
「これ、食べて」
「ん?……ああ。でも……」
「職業的|倫《りん》|理《り》観? いいじゃないの。これはあなたへのお|詫《わ》びのしるしよ」
山口はちょっと笑って、
「分かった。実は腹ペコだったんだ」
とサンドイッチにかみついた。直美は山口と|並《なら》んで岩に|腰《こし》をおろした。
「でも、|真《ま》|面《じ》|目《め》なのね、あなたって」
「ん? どうして?」
「落っこちそうになってるのに、人のナップサックなんか捜しちゃったりして」
「失くして|弁償《べんしょう》させられたらかなわんからな。ただでさえ安月給なのに」
直美は笑って言った。
「でも、やっぱり|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》なのよ、あなたはね」
山口はふっと直美を見て、|肯《うなず》いた。
「――そうか。分かった」
「何よ?」
「誰かに似てると思ったんだ」
「へえ。誰だったの?」
「|結《けっ》|婚《こん》したての頃の|女房《にょうぼう》によく似てる」
直美は|吹《ふ》き出して、
「光栄でございます」
「あんまり光栄じゃない」
「どうして?」
「若い男と|逃《に》げちまった」
「――まあ」
「五年前だ。おかげでこんなむさ苦しいスタイルをしてるわけさ」
「子供さんは?」
「いない。――まあ女房にしてみりゃ、こんなうだつの上がらない男、子供でもいればともかく、いや気がさしちまうんだろうね」
「でも……自分で選んだ相手なのに」
「責任感で|暮《く》らしちゃ行けないよ」
直美は何やら難しい顔になって、踊っている仲間たちの方へ目を向けた。
「君は踊らないのか?」
直美は|黙《だま》って|肩《かた》をすくめた。
「今の若い連中のやる事は分からんよ。静かな山の中まで来て、何もロックを鳴らさんでもよかろうに……。時代が変わったのかな。そういえば、昨日、君の会ってた|彼《かれ》|氏《し》、来てないじゃないか」
「大きなお世話よ!」
と直美は|怒《ど》|鳴《な》った。山口は|面《めん》|喰《く》らった。
「あの人はね――」
と直美が言った。「私に別れよう、って言いに来たのよ」
山口は、ちょっと困って目をそらした。
「結婚するんだって。二十二|歳《さい》なのよ、まだ。でも来年卒業と同時に、入社する事になってる会社の部長のお|嬢《じょう》さんと|一《いっ》|緒《しょ》になるんですって……。だから、もう別れよう、って」
それであんなに長く話していたのか、と山口は思った。はたから見ていると、そんな話をしているようには思えなかったが。――山口は、この娘はなかなかしっかりしているな、と思った。あのいなくなった女房が、相手に別れ話を持ち出されたら、きっと一キロ四方に聞こえるぐらいの声で|喚《わめ》き散らすに違いない。
「最初からね、|恋《れん》|愛《あい》と結婚は別っていう前提で付き合ってたから、こうなるのは分かってたはずなんだけど……やっぱり、ちょっとショックを受けたのは、少しは|幻《げん》|想《そう》を|抱《いだ》いてたからなのね、きっと」
「幻想|抜《ぬ》きの恋愛ってのがあるのかい?」
「そうね。――つまりセックスだけとか」
山口が目を丸くした。直美はクスッと笑って、
「|大丈夫《だいじょうぶ》、そんなとこまでも行ってなかったの、私たち。私、これで意外と真面目なのよ」
「真面目ねえ……」
真面目の定義も変わって来たものだ、と山口は思った。
「――直美! 何してんの! 踊ろうよ!」
と踊りの中から声が飛んで来る。
「今行く!――あなたも踊らない?」
「|僕《ぼく》が? |遠《えん》|慮《りょ》するよ。ギックリ腰になって帰れなくなったらことだ」
直美は笑いながら走って行った。リズムに乗って体がしなやかに|躍《やく》|動《どう》する若さを眺めて、山口は、ごく自然に|微《ほほ》|笑《え》んでいた。
「若い、ってのはいいもんだな……」
――直美の家へ着いたのは、夜の八時だった。
「お|疲《つか》れさま」
「明日、どこか遠出するんだったら教えといてくれると助かるけどね」
直美は笑って、
「大丈夫。明日はその辺にしておくわ」
「そいつはどうも」
「服が|汚《よご》れたわね」
「ん? まあ、どうせこれ以上汚れようがないくらいだったんだ。同じ事さ」
「じゃ、また明日」
「ああ、おやすみ」
「後二日の|辛《しん》|抱《ぼう》よ」
「全くだ」
直美は軽く微笑んで通用門から姿を消した。山口は、また昨日のラーメン屋へ入って行き、
「ラーメン大盛り!」
と注文してから息をついた。「やっと二日終わったか……」
翌朝、山口が中間報告に出社すると、社長は割合ご|機《き》|嫌《げん》で、
「なかなかよくやっとるようだな。|依《い》|頼《らい》|人《にん》から電話があって、夜も早く帰って来るし、大変助かっとると言って来た」
「そうですか。じゃ、また行って来ます」
「待て。もういい」
「は?」
「若いのの相手は大変だろう。今日と明日は|三《み》|橋《はし》の|奴《やつ》を行かせる。お前は前の件の報告書でも作っとれ」
「はあ……」
山口は落ち着かない様子で、|訊《き》いた。「あの……先方から何か苦情でも?」
「いや、そうではない。お前も一日、事務所で骨休めした方がよかろうと思ってな。このところ出っ放しだろう」
「はあ、どうも……」
久しぶりで、|埃《ほこり》のつもったデスクに|坐《すわ》ったものの、山口は何となく|沈《しず》んだ気分だった。若い三橋が代わりに出かけて行くのを見送って、ちょっと|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》な気分になる。どうせこんな事を言うに決まってる――。
「あら、若い人に代わったの? あの人、きっと神経痛でも悪くなったんでしょ」
|畜生《ちくしょう》! 山口は勝手に腹を立てて、引き出しの中をひっかき回した。
四十分ほどして、社長が山口を呼んだ。何やら|妙《みょう》な顔つきだ。|雷《かみなり》を落とそうという時ともちょっと違う。
「何か?」
「ウム。……何かよく分からんが……」
「は?」
「三橋から電話でな、向こうの娘が、お前でないとだめだ、と言って聞かんそうだ。一体どうなっとるんだ?」
「やあ、ご指名ありがとう」
山口は言った。「三橋の|奴《やつ》じゃだめなのかい?」
「そうよ! あんなニヤけた人、|大《だい》|嫌《きら》い!」
山口は思わず笑って、
「奴は社で一番のプレイボーイを自認してるんだ。きっとショックだったろう」
「もう二日間、お付き合いしてよ」
と直美は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「いいでしょ? もう山には引っ張って行かないから」
「今日はえらくドレッシーだね」
「まあ、ありがとう」
明るい|萌《もえ》|葱《ぎ》色のワンピースを着た直美はちょっと足取りを|弾《はず》ませて、「デイトですからね。今日は」
「何だ、そうなのか。じゃ離れていよう」
「馬鹿ね、離れてちゃデイトにならないじゃないの」
「え?」
山口は目を見張った。「僕のことか?」
「そうよ。いやならいいけど。その代わり逃げて姿をくらましてやるから」
「わ、分かったよ!」
山口は言った。――正直、そう悪い気もしない。
直美は山口をデパートの|紳《しん》|士《し》|服《ふく》売り場に引っ張って行き、|吊《つる》しの背広を一着買って、ズボン|丈《たけ》をその場で直させた。本来なら無理な相談だが、直美がデパートのお|偉《えら》|方《がた》へ直接電話すると、たちまちの内にでき上がり。山口はただ|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。
「おい、こんな事を――」
「いいの! 黙って着てちょうだい。昨日のお詫びの気持ちなの。こうしないと気が済まないのよ。ね、何も言わずに受け取ってちょうだい」
「しかしこんな高いもの――」
「いいの。私、お|小《こ》|遣《づか》い、毎月十万円もらってるんだもの」
「十万?」
|俺《おれ》の月給と余り違わない!――しかし、問題はやはり仕事の上で物を受け取るという点である。だが、直美の真剣さを、これ以上|拒《こば》むのは、彼女に悪いという気がした…‥。
「じゃ、ありがたくいただくよ……。でも、これと交換に何かを見逃せなんて言わないでくれよ」
「大丈夫よ」
直美はクスクス笑いながら、首を振った。「あなたって、どうしてそう|真《ま》|面《じ》|目《め》なの?」
――背広だけでは済まなかった。そうなると靴も、ワイシャツも、ネクタイも、という事になり、かくて古ぼけた靴、くたびれ切った背広、ネクタイ、薄汚れたワイシャツはその場でくずかごへ直行の運命となった。
「着せ|替《か》え人形だなあ、まるで」
山口は、次はシャツとパンツだと言われるかとハラハラしていた。
「大分シャンとして来たわよ」
「よっぽど今までひどかったみたいだな。――しかし、この格好で会社へ行ったら、宝くじでも当たったかと思われるよ、きっと」
二人は夕方になると、一昨日のレストランへ行った。
「おいおい、またスープだけ飲ます気かい?」
「大丈夫よ。ここの|支《し》|払《はら》いは父の口座から払ってるの。私がおごるわけじゃないからご心配なく」
「しかし……」
「いいじゃないの。買収しよう、っていうんじゃないんだから」
山口も、服や靴まで買ってもらって、食事だけ断わるというわけにはいかず、|諦《あきら》めてテーブルについた。
「こんな食事をするのは何十年ぶりかなあ」
「どうぞ、お腹|一《いっ》|杯《ぱい》食べてちょうだい」
山口の中の一片の職業的良心は、こみ上げて来る|猛《もう》|烈《れつ》な食欲の前には、|到《とう》|底《てい》敵ではなかった……。
「やれやれ、今日はすっかり君に世話かけちまったね」
夜九時、二人は新井|邸《てい》の門の所までやって来た。
「楽しんでもらえたら|嬉《うれ》しいの」
「大いに楽しみ、かつ食ったよ。――しかし君、アメリカへ行くのがいやなんだって?」
「ええ」
「どうして? みんな喜んで行くのに」
「|彼《かれ》と|離《はな》れたくなかったのよ」
「あの、別れた彼と?」
「そう」
「そうか……。じゃ、もう行く気になったんだね」
「気は進まないけど……仕方ないわね」
「じゃ、また」
「明日一日ね」
「そうだね。――おやすみ」
山口が歩き出すと、
「待って」
と直美が追いかけて来た。
「何だい?」
いきなり直美が|背《せ》|伸《の》びをして山口の|唇《くちびる》へ唇を|押《お》し当てて来た。そして山口がポカンとしている内に、
「おやすみなさい!」
と言って、通用門から姿を消してしまった。山口が我に返るまでに、たっぷり三分はかかった。
「はあ、そうなんです。どうも熱っぽくて、体がだるくて、関節が痛くて、頭が重くて……」
これじゃまるでご|臨終《りんじゅう》だな、と山口は思った。「……ではよろしく。例の仕事の方は|誰《だれ》か代わりを行かせて下さい」
赤電話から会社へ休みの|連《れん》|絡《らく》をした山口は、タバコを買い|込《こ》んでからアパートへ|戻《もど》った。
|六畳《ろくじょう》一間、大人一人立ったら一杯の台所……。殺風景な、|侘《わび》しい、|独身《 ひとり》者の部屋である。山口はペチャンコの|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》を|枕《まくら》に、ゴロリと横になった。
タバコをふかしながら、昨夜の、あの|瞬間《しゅんかん》を思い出してみる。女の子――それもあんな若い女の子にキスされたのなんて……、|女房《にょうぼう》と出会った|頃《ころ》以来だ。何しろその方も至って|真《ま》|面《じ》|目《め》で、女房以外の女性を知らないという男である。
しかし、あの|娘《むすめ》、どういうつもりなのだろう? ほんの気まぐれというやつなのか。何しろ今の若い|奴《やつ》らの考える事は分からないのだから。――ともかく、あんな事があった以上、仕事は続けていられない。そう決心して、山口は|仮病《けびょう》で休む事にしたのである。
「しかしなあ……服を作ってもらって……まずい事になったな」
返しに行くにも、古い服を捨ててしまったので、後で着る物がない。「ま、仕方ない。もらっとくか。向こうは金持ちなんだからな……」
さて、今日はどうしようか。一日ゴロ|寝《ね》ってのも、たまにはいいか……。
ドアをドンドン|叩《たた》く音。山口は|渋《しぶ》|々《しぶ》と立ち上がった。押し売りかな。
「はい」
とドアを開けて、山口は目を丸くした。直美が立っているのだ。
「あら、病気じゃなかったの?」
「君……どうしてここへ?」
「他の人が来たんで、|訊《き》いてみたら病気だっていうから……その人をまいて[#「まいて」に傍点]逃にげて来たの」
「どうしてここが分かった?」
「生命保険会社の者ですっていって、おたくの会社に電話して、教えてもらったのよ」
直美は部屋へ上がって来て、見回した。「割ときれいね……」
「お世辞か皮肉かい?」
「あら、本気よ。男の学生の部屋に行く事ぐらいあるもの。それよりよほどいいわ」
山口は頭をかいて、仕方なくドアを閉めた。
「君……明日はアメリカに|発《た》つんだろ」
「うん」
「準備があるんじゃないの?」
「その準備に来たのよ」
「|僕《ぼく》の部屋に?」
「ねえ、どこかへ行きましょうよ」
「どこか、って……」
「私の日本最後の日よ」
「大げさだねえ」
「思いきり楽しみたいの。いいでしょ?」
「しかし、どうして僕なんかと……」
「真面目人間だから安心だもの」
果たして喜んでいいのかどうか、山口は複雑な気分だった……。しかし、ともかくこれはまずい。
こんな若い娘とこんなくたびれた男とが……。それに職業上の|倫《りん》|理《り》にもとる事だ。
こういう事はいけない、と言って聞かせなくては……。
「ねえ、君――」
「もしもし、起きて下さい!」
「ウーン」
「早く起きて下さい!」
「…‥何だよ……今日は日曜だろ」
山口はブツブツ|呻《うめ》きながら、モゾモゾと身動きした。にかわでくっつけたような上下の|瞼《まぶた》を無理に引き離すように開ける。――何だ、これは? 目の前に|突《つ》っ立ってるのは……和服姿の……旅館のおばさんか何かかい?
「誰だい……あんたは」
自分の声が頭の中をはね回るように|響《ひび》く。どうしちまったんだ、|俺《おれ》は?――頭痛、全身のだるさ、|鉛《なまり》を|呑《の》み込んだような重苦しさ。どうやらこいつは〈|二《ふつ》|日《か》|酔《よ》い〉というやつらしい。しかし最近、二日酔いになるほど飲んだ事があったろうか? 大体そんな金なんか、ありゃしないのに……。
「お目覚めですね」
女の声に、やっと視界のピントが合った。
「私は長谷川君代です。あなたの|探《たん》|偵《てい》|社《しゃ》へ、お|嬢様《じょうさま》の|護《ご》|衛《えい》を|依《い》|頼《らい》した者です」
「ああ、こりゃどうも――」
と起き上がろうとして、ギョッと毛布を引っ張り上げる。|裸《はだか》だ! 丸裸である。一体どうなってるんだ?
「こ、ここはどこです?」
「お|嬢様《じょうさま》のお部屋でございます」
「何ですって!」
「昨夜はお嬢様が、えらく酔ったあなたを連れて帰られ、仕方がないから、どこか空いた部屋へお|泊《と》めするようにとおっしゃいまして、来客用の|寝《しん》|室《しつ》へお連れしたのです。ところが今朝、私がここへ参りますと、お嬢様とあなたが一つベッドに……」
「まさか!」
「|憶《おぼ》えていらっしゃらないのですか?」
「はあ……」
「私が、『警察を呼んで暴行罪で|訴《うった》えましょう』と申しますと、お嬢様は、『この人のおかげで、日本での最後の四日間がとても楽しかったんだから、これでいいのよ』とおっしゃって……。あなたがお目覚めになったら、その事をお伝えするようにと……」
山口はベッドの中に、まだ|彼《かの》|女《じょ》がいるかのように、シーツのしわをじっと見つめていたが、
「彼女はどこです?」
「もう|成《なり》|田《た》の方へお出かけになりました」
「い、いつです? 飛行機は何時の――」
「飛行機は確か二時|頃《ごろ》かと思います。今からいらっしゃっても、たぶん間に合いますまい」
山口は、
「タクシーを呼んで下さい!」
と|叫《さけ》んだ。「大至急です!」
「もう間に合いませんよ」
「間に合わなくても間に合わせます!」
とめちゃくちゃな事を言い出す。そして、君代が前にいるのも構わず、ベッドから素っ裸で飛び出ると、|床《ゆか》へ散っていた服を着始める。君代は|慌《あわ》てて目をそらしながら、
「車の運転はおできになります?」
「もちろんです!」
「ではここの車がございますから……」
「じゃそれを! キーを下さい!」
|身《み》|支《じ》|度《たく》ももどかしく、山口は|邸《やしき》を飛び出し、新井家の車へ乗り込むと、正門が完全に開くのも待たずに、すり|抜《ぬ》けるように走り抜けて、表通りへと車を|駆《か》って行った。
|呆《あき》れたような顔でそれを見送っていた長谷川君代は、門を閉じると、ゆっくり|邸《やしき》の中へ戻って行った。ちょうど電話が鳴った。
「はい、新井でございます」
ニューヨークからの国際電話であった。
「もしもし、長谷川さんかね」
「|旦《だん》|那《な》|様《さま》!」
「どうしたね、直美は? 出発したかい?」
「はあ、それが――」
「何て事だ……」
車を走らせながら、山口は|呟《つぶや》いた。「俺みたいな、だめな男に……何だって、よりによって俺なんかに……。|畜生《ちくしょう》! こうなったからには離さないぞ!……|誘《ゆう》|拐《かい》でも何でもやってやる! ニューヨークの|親《おや》|父《じ》さんが|怒《おこ》ったって、日本のベッドの中までは手が出ないだろう。何が何でも連れ戻してやる!……そうだとも! 年齢だってたった[#「たった」に傍点]二十しか|違《ちが》わないんだ! 俺だってこれからなんだ。あの娘さえいてくれたら……。そうだ! 絶対に連れ戻すぞ!」
――ニューヨーク行きの日航ジャンボ機は、ゆっくりと機体を地面から持ち上げ、飛び上がった。
直美は窓際の座席から、次第に|遥《はる》か下へと|沈《しず》んで行く大地を|眺《なが》めていた。
あの人は、もう起きたかしら、と思った。きっとひどい二日酔いで、しばらくはベッドから出られないだろう。
昨日、めちゃくちゃに飲ませて、酔わせたのは、直美の考えだった。こうでもしなくては、あの人は私に手を|触《ふ》れないに決まってる、と思ったのだ。でも、私を|抱《だ》いた時も、ひどく酔っていたし、きっと何も憶えてはいまい、と思うと、ちょっと|寂《さび》しかったが、それでもこの体が|彼《かれ》と一つになったという|記《き》|憶《おく》がある。それだけでいい、と思い直した。
ひどく|衝動《しょうどう》的な、捨て|鉢《ばち》な|行《こう》|為《い》に見えるかもしれないが、直美なりに、一人の男性を信頼し、愛したのだから、|後《こう》|悔《かい》はなかった。
あの人の事だ。きっと責任感やら職業的倫理観ゆえに思い|悩《なや》む事だろう、と考えて、直美は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
でも、よかった。日本を離れる前夜に、忘れられない思い出ができた……。
「お客様に申し上げます」
アナウンスがあった。「お客様に申し上げます。お急ぎのところ、誠に申し訳ございませんが、本機は都合により|一《いっ》|旦《たん》成田空港へ戻ります……」
客席がざわめいた。
「どうしたんだ……」
「何事だ」
「いやねえ」
と方々で声が上がったが、どうしようもない。機はゆっくりと向きを変え始めた。
ジャンボ機はなぜか空港の|端《はし》の方へ停まり、空港バスへと乗客は乗り込んでターミナルへ向かった。
バスの窓から、ぼんやりと、近付いて来るターミナルを眺めていた直美は、はっと息を|呑《の》んだ。見送りの、ガラス張りのデッキの所に立って手を|振《ふ》っているのは……あの人だ!
「すみません!」
直美は空港の係員を呼んだ。
「何かご用ですか?」
「あの、私、乗るのやめます」
係員は|面《めん》|喰《く》らった様子で、
「でも、二、三時間すれば出発できると思いますけど……」
「いいんです。キャンセルします」
「でも、お荷物は……」
「いらないわ。適当に処分して下さい」
「そういうわけには……」
係員は困り果てた顔で頭をかいた。
ロビーへ出ると、直美は、待っていた山口の胸に飛び込んだ。
「――来てくれたのね!」
「もちろんだ! 君を連れて帰るよ。ずっと僕のそばに置いておく。いいね?」
「ええ!」
二人は|駐車場《ちゅうしゃじょう》の方へ歩きながら、
「じゃ、君代さんが車を出してくれたの?――今朝はずいぶん怒ってたのに。……私の気持ちを分かってくれてるんだわ」
「車を返すのは後でいいだろう」
「ええ。別に誰も使わないから。どうして?」
「君を|捕《つか》まえて安心したら、急に腹が空いて来た」
「まあ!」
と直美は笑った。
車に乗り込んで、
「どこへ行くの?」
「ホテルを予約したんだ。ゆっくり食事をして、|寛《くつろ》いで、それから……」
「え?」
「僕らの初夜と行こう。昨夜は前後不覚だったからな」
「いやあね!」
と直美は顔を赤らめた。「――でもちょうど飛行機が戻って来てよかったわね」
「|爆《ばく》|弾《だん》を|仕《し》|掛《か》けたって電話があったんだよ」
「まあ|怖《こわ》い!」
「でも戻って来てすぐ、いたずらだって分かったらしいよ」
「そう。よかったわね。でも私たちには好都合で――」
言いかけて言葉を切り、まじまじと山口の顔を見つめる。「まさか、あなたが……」
「|冗談《じょうだん》じゃないよ!」
山口は|真《ま》|面《じ》|目《め》くさった顔で、「僕は職業的|倫《りん》|理《り》|観《かん》に忠実な男なんだぜ!」
そう言うと勢いよく車をスタートさせた。
|脱出《だっしゅつ》順位
コック見習いの|安《やす》|川《かわ》は、|調理場《ちょうりば》で|大《おお》|欠伸《 あくび》をしていた。まだここへ来て三日にしかならなかったが、もうコック|稼業《かぎょう》に見切りをつけていたのだ。もっとも安川が一か月と続いたアルバイトは一つもなかった。――セールス、|街《がい》|頭《とう》|宣《せん》|伝《でん》、スナック……。どれも、安川にとっては余りに重労働であった。
コックなんて、そう動き回る商売でもなし、楽だろうと勝手な想像をしていたのだが、とんでもない話だった。材料の|運《うん》|搬《ぱん》、残飯の整理、|鍋《なべ》洗い。どれを取っても今までのどんなアルバイトより|厳《きび》しかった(もっとも、安川はいつもそう思っていた)。
「明日から来るのをよすか……」
また|欠伸《 あくび》をしながら|呟《つぶや》いた。そろそろ九時になる。夕食の客も一段落して、調理人たち――といっても三人しかいない――の内の二人は別室で|遅《おそ》い食事を|摂《と》っている。残る一人が、
「油の温度を見てろよ」
と安川に言いつけて、電話をかけに出てしまい、今、安川は一人だけ、というわけである。目の前では大きな鍋に油が満々と|湛《たた》えられて、ガスの火が底を包んでいた。
「|畜生《ちくしょう》! 腹が減ったなあ!」
食事も見習いは最後だ。それも安川には気に入らなかった。三日でやめたら、バイト料ももらえないだろうが、まあ、友達の所へでも転がり|込《こ》めば二、三日は食える……。
「あ、いけねえ」
油の温度が上がりすぎていた。|慌《あわ》てて火を小さくしようとして|腕《うで》が軽く鍋に|触《ふ》れ、油が波を打った、と思うと次の|瞬間《しゅんかん》、鍋は|炎《ほのお》の海と化した。ゴーッと|唸《うな》りを上げて炎は|吹《ふ》き上げた。
安川は慌てて後ずさって、舌で|唇《くちびる》をなめながら、「知らねえ……。知らねえぞ……|俺《おれ》は知らねえ!」
と|呟《つぶや》いた。――|誰《だれ》かに知らせなくちゃ、という思いがちらりと胸をよぎったが、何もかも放り出したいという|衝動《しょうどう》の方が強かった。安川はコックの服を|脱《ぬ》ぎ捨てて、急いで調理場から|廊《ろう》|下《か》へ出ると、素早く左右を見回した。電話は廊下の角の向こうにあるので、調理人の目には付かないはずだ。
安川は急ぎ足で廊下を|抜《ぬ》け、階段から下へ降りて行った。――ビルの一階はショッピング街になっていて、まだ若い|娘《むすめ》たちで|賑《にぎ》わっている。安川はその人の流れに|紛《まぎ》れ込むとホッとして息をついた。
火? もうとっくに消えてるさ。そうとも、油に引火しただけじゃないか。油が燃え|尽《つ》きりゃ消えるに決まってるさ!
安川はそれ以上、火のことは考えもしなかった。もう明日ゆっくり一日|眠《ねむ》ることだけを考えていた。
このオフィスビル――一階から三階まで、|店《てん》|舗《ぽ》の入った――は、二十五階の高さがあって、その最上階の|宴会場《えんかいじょう》では、K産業株式会社のパーティが開かれていた。
「おめでとう」
声に顔を上げると、|浅《あさ》|野《の》|紀《のり》|子《こ》が|微《ほほ》|笑《え》んでいた。
「君までそんなことを言うのか」
|城野政雄《じょうのまさお》は手にしたコーラのグラスへ目を落としながら|呟《つぶや》くように言った。
「あら、だって、今日の|主《しゅ》|賓《ひん》じゃないの」
「|僕《ぼく》なんか付け足しだよ」
「そうすねないで。このパーティの費用だって、あなたが|稼《かせ》ぎ出したようなものよ。みんなにおごってるんだ、って大きな顔してればいいのよ」
いつもながら、紀子の言葉は|彼《かれ》の背中をポンと|叩《たた》いているような|響《ひび》きがあった。
浅野紀子は三十|歳《さい》になって、まだ独身だった。すっきりとした容姿の、なかなかの美人だが、宣伝部では部長に次ぐ発言力を持ち、幹部から一目置かれている。こういう女性はついつい男性側の方で敬遠することになりがちである。――そのせいかどうか、今の所、|噂《うわさ》になるようなボーイフレンドもなかった。
城野政雄は、行動的で目立つ紀子とは正反対に、どこにいても一歩|奥《おく》へ退いて自分を目立たせないようにする男だった。三十八歳。母親と、娘一人と|暮《く》らしている。男やもめだ。
「やあ、城野さん!」
ウイスキーのグラスを手に、いい加減|酔《よ》いの回った顔で声をかけて来たのは経理部の若手の一人、|花《はな》|崎《さき》だった。「いや、ご成功おめでとうございます!」
「ありがとう」
「いや、きっとあなたは何かやると僕は思ってたんですよ。いや、おめでとう! おめでとう!」
正月でもないのにくり返すと、「|握《あく》|手《しゅ》しましょう! 握手!」
と手を出して来る。城野が苦笑いしながら|握《にぎ》り返すと、花崎は、
「いや、本当におめでとう!」
とニヤついて、またフラフラ行ってしまった。
「|軽《けい》|薄《はく》の見本ね」
と紀子は|手《て》|厳《きび》しく言って、「人は悪くないんでしょうけど」
「ああいう男も必要さ」
K産業のパーティは、立食形式で、この二十五階の展望フロアを借り切って開かれていた。七時に始まってすでに二時間余り。|遠《えん》|距《きょ》|離《り》通勤の女子などはもう大分前に姿を消し、七十名で始まったパーティも今は四十名余りに減っている。
立食形式とは言いながら、|壁《かべ》|際《ぎわ》には|椅《い》|子《す》が|並《なら》べられ、社長を初めとする|老《ろう》|齢《れい》の面々はパーティ開始早々から、もう|腰《こし》を降ろしてしまっていた。
「日本人はこういうパーティは苦手ね」
と紀子が言った。「会話の社交ってのが|不《ふ》|得《え》|手《て》だからかしら」
「人のことは言えないね。僕もそうだ」
「そうね。でもあなたはいいわ。いつも一人でいるだけだもの。|只《ただ》の酒に群がる人たちとは|違《ちが》うわ」
「みんな思い切り飲むほどの|余《よ》|裕《ゆう》がないからさ。責めては|可《か》|哀《わい》そうだよ」
パーティが始まると、テーブル|毎《ごと》に、会社内の|派《は》|閥《ばつ》が集まる。社長、専務らのグループ、|中堅《ちゅうけん》管理職のグループ、平社員の中の不満派のグループ、若手のグループは女子の集まったテーブルの周囲を衛星の|如《ごと》く|巡《めぐ》る。
それは全く面白い図式である。その中では、確かに城野は|異《い》|端《たん》|児《じ》と言ってよかったかもしれない。彼も以前は平社員の不満派に属して、バーで|上司《じょうし》の悪口に|憂《う》さを晴らしていたものだ。――そう。今、城野が持っているのはコーラのグラスで、酒も最近断ったのである。
「城野君」
彼の上司である営業部長の|一《いっ》|色《しき》がやって来た。「社長がお呼びだよ」
「はあ」
城野は気の進まぬ様子で、壁際を|離《はな》れた。
「いや、君の今度の業績には|俺《おれ》も鼻が高いよ」
一色部長はご|機《き》|嫌《げん》である。「君が現地でもう一週間|粘《ねば》りたいと言って来た時は正直、|怒《ど》|鳴《な》りつけてやろうかと思った。しかし君はついに|契《けい》|約《やく》をものにして来た。俺はほとんど|諦《あきら》めていたんだよ。向こうから完全に|否《ノウ》の返事が来ていたんだからな」
「断わられた時から営業マンの仕事が始まると、いつも部長はおっしゃってるじゃありませんか」
城野は皮肉を言ったが、一色はただ|愉《ゆ》|快《かい》そうに高笑いしただけだった。城野は思った。皮肉はそれを理解できる相手に言わなければ逆効果だな……。
「お呼びと|伺《うかが》いましたが」
社長の|福《ふく》|原《はら》の前に立って、城野は言った。
「ん? ああ……城野君だったね」
「はい」
「今回は大変よくやってくれた」
「運が良かっただけです」
「いや、そう|謙《けん》|遜《そん》することはないさ」
福原社長は七十歳を過ぎているはずだった。――話があるなら社長室へ呼べばいいのに、と城野は思った。あの|椅《い》|子《す》に|坐《すわ》っているからこそ、この|小《こ》|柄《がら》な老人は社長でいられるのだ。こうして、他の社員たちと同じ椅子に坐って並ぶと、目立たない一人の年寄りに過ぎない。
「今度の功績には|充分《じゅうぶん》報いたいと思っておる」
「|恐《おそ》れ入ります」
「君は……営業一課だったな?」
「二課です。|林《はやし》課長の下で」
「ああそう。そうだったな……。林君と充分相談して決めよう。まあ……これからも|頑《がん》|張《ば》ってくれたまえ」
「ありがとうございます」
福原社長の話は終わったらしかった。城野は一礼して、紀子のいる場所へ|戻《もど》って行った。
「何の話だった?」
「お賞めの言葉を|頂戴《ちょうだい》したってところかな」
「社長ももう引退の|潮《しお》|時《どき》ね。今辞めないと、その内辞めようとも思わなくなるわよ」
「君は|辛《しん》|辣《らつ》だね」
城野は笑いかけてふと、|眉《まゆ》を寄せた。「――何の音だろう?」
「え?」
「ほら……。廊下だ」
「ベルね。電話かしら?」
「いや、|途《と》|切《ぎ》れずに鳴ってるよ。――非常ベルだ」
「まさか!」
「ともかく廊下へ出てみよう」
二人はちょうど出口に近い所にいたので気付いたのだが、他に気付いた者はいなかった。
正面のクロークには誰もいなかった。短い廊下を抜けてエレベーターの乗り口の所まで来ると、けたたましい音で非常ベルが鳴っている。
「何かしら?」
と紀子が不思議そうに言った。
「火事かもしれない」
「そんな!」
「だって、現にこうして鳴ってるんだよ」
「いたずらか、操作のミスかもしれないわ。それに火事なら|連《れん》|絡《らく》があるはずよ」
「非常時には〈するはず〉は通用しないんだ。みんな慌てているからね」
「じゃ、私、下へ行って見て来るわ」
紀子がエレベーターのボタンを|押《お》した。
「行っちゃだめだ!」
と城野が|鋭《するど》い口調で止める。
「どうして?」
「火事の時はエレベーターは使うもんじゃないんだ。乗っていて停電したらどうなる?」
「それじゃ――」
と紀子が言いかけた時、エレベーターが上がって来て|扉《とびら》が開いた。黒い|煙《けむり》がどっと|溢《あふ》れ出て来て、紀子は急いで飛びすさったが、煙を吸い|込《こ》んで|激《はげ》しくむせた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「ええ……ええ、大丈夫……もう大丈夫よ」
紀子は目から溢れる|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》った。煙がしみたのだ。エレベーターは扉が閉まり、降りて行った。
「本当に火事なんだわ! どうするの?」
城野は、顔から血の気が|退《ひ》いているのが分かった。
「ともかく、みんなに知らせなくちゃ」
廊下を戻って行くと、クロークの電話が鳴った。城野は飛びつくように受話器を取った。
「はい!」
「二十五階ですね」
|交《こう》|換《かん》|手《しゅ》らしい女性の声がした。
「そうです」
「クロークの係は……」
「いないんです」
「お客様ですか?」
「そうです」
「二十五階に、今、何人いらっしゃいますか?」
「四十人ぐらいですが」
「三階から火災が発生して、今九階まで火が回っているんです」
「九階! どうしてもっと早く――」
「何度もかけていたのですけど」
「分かりました。それじゃ階段で降ります」
「階段は使えません。階段づたいに火が回っているのです」
「ではどうすれば……」
「階段口の防火扉を閉じて下さい。エレベーターは停電になった場合危険ですから使わないで下さい。今、消防署の方に報告して、すぐに連絡します。このまま待っていて下さい」
「分かりました」
城野は紀子へ受話器を渡して、「電話に出ていてくれ。僕は防火扉を閉めて来る!」
と、言ってエレベーターの横にある階段口へ走って行き、下を|覗《のぞ》いて見た。わずかだが、煙が下からゆっくりと立ち昇って来ている。
急いで重い防火扉を引っ張る。ガシャンという音を響かせて扉が閉じると、城野はクロークへと取って返した。紀子はじっと受話器に耳を|傾《かたむ》けたまま、彼へ首を|振《ふ》って見せた。消防署員も頭をかかえているに違いない。エレベーターも階段もだめと来ている。どうやって四十人の人間を|避《ひ》|難《なん》させるのか。
宴会場へ入ると、城野は大声で|怒《ど》|鳴《な》った。
「静かに! 聞いて下さい!」
一瞬会場が静まりかえった。
「今、連絡があって、三階から出火、火が上へ回って来ているそうです」
みんなの|驚《おどろ》きの表情を見ることはできなかった。彼が言い終わった時、明かりが|一《いっ》|斉《せい》に消えたのである。
その夜――といっても、三年前、城野が三十五歳の時のことである――バーに顔を並べていたのは、まだ営業一課長だった|一《いっ》|色《しき》、二課長の|林《はやし》、|花《はな》|崎《さき》、城野の四人だった。何の話からか、火事のことに話題が移った。
「どうだろうね」
と言い出したのは一色であった。「もし火事になってだな、|女房《にょうぼう》か子供かどっちか一人しか救えないとなったら、どっちを選ぶ?」
「そいつは難しいね」
林が首をひねった。「女房を助ければ子供が死ぬ。子供を助ければ女房が死ぬ、か……」
「とても決められませんね」
城野は至って|真《ま》|面《じ》|目《め》に答えた。「どちらも助けたい」
「それが不可能な場合だよ。どうする?」
一色は面白がって|訊《き》いた。
「さあ……」
城野は不愉快だった。そんな|縁《えん》|起《ぎ》でもない話を|冗談《じょうだん》の種にするのが|嫌《いや》だった。
「僕は独身ですがね」
と口を出したのは花崎だった。いい加減酔いが回っている。
「僕なら女房ですね」
「ほう、どうしてだ?」
「だって子供はまた作れますよ。そうでしょう? しかし女房は一人だけです」
それはその通りだ。しかし、そう割り切って子供を見殺しにできるだろうか……。僕にはとてもできない、と城野は思った。
「それも一理あるな。しかし、俺なら逆だね」
と林が言った。「子供はもうできるかどうか分からんぞ。女房なら|替《か》えがきく」
「なるほどね、それもそうだ」
と一色が|肯《うなず》いた。「子供ってのは半分は|俺《おれ》だ。しかし女房は他人だからな。――女房を変えるってのも悪くないや」
城野は|黙《だま》って水割りのグラスを傾けていた。
「おい、お前はどうするんだ?」
一色がしつこく言った。
「さあ……。その場になってみませんとね」
と城野は|逃《に》げた。
「はは、逃げたな。――だが、決めておかんと、その時迷ったらどっちも助からんということになりかねないぞ。|日《ひ》|頃《ごろ》から心に決めておくんだ!」
「それじゃ僕も子供を優先ってことにしておきますよ」
城野は|面《めん》|倒《どう》になって答えた。
「しかしですね、子供一人残されても、こっちは困るでしょう」
花崎がまた口を|挟《はさ》む。「二人目の女房をもらうにも、コブつきじゃ、ろくなのは来ませんよ」
「うん、それも考え方だね」
と林が|肯《うなず》く。
「女房や子供の年齢にもよるな。つまり……」
議論はそれから延々と続いた。城野は|馬《ば》|鹿《か》らしくなって一人、|黙《もく》|々《もく》と飲んでいた。誰かが言っているのが耳に残った。
「子供だ! 絶対に子供だ! 男たる者、自分の血筋を絶やしてはならん! 女はいくらもいる! 子供を助けるんだ!」
誰が言っているのか、いい加減酔っていた城野には分からなかった。――気が付いてみると、家への道を|千《ち》|鳥《どり》|足《あし》で|辿《たど》っていた。
冬の夜で、空気が|凍《こお》りつくように冷たかった。城野のアパートは駅から十分ほど歩く所で、いつもここを歩いている内に酔いがさめるのだった。
「やれやれ……」
少し|控《ひか》えなきゃいかんな。酔いが後を引くようになったし。俺も三十五だ……。
アパートが見える所まで来て、城野はふっと足を止めた。アパートの辺りがいやに明かるい。もっと暗くて、ポツンと街灯が|灯《とも》っているだけのはずだが……。頭を振って見直すと、アパートが火に包まれているのが分かった。
「けが人は?」
浅野紀子が城野に|訊《き》いた。
「分からん。七、八人ってところかな」
城野は首を振った。「大体、ビールびんやグラスを|踏《ふ》みつけたり、破片の上へ転んで切ったりした傷だ。|半《はん》|田《だ》君がふくらはぎを切ってかなり出血してる」
「ひどいことになったわね」
「停電したのがまずかったよ」
――また明かりがついていた。非常用電源に切り|換《か》わったのだろう。その間、十秒足らずのことだったが、正にパニック状態となってしまった。出口へ向かって四十人が一斉に殺到した。テーブルが|倒《たお》れ、ビールやコーラが|床《ゆか》にぶちまけられ、グラスが割れた。足を取られて転ぶ者がいるとたちまち何人かが折り重なって倒れた。女性の悲鳴と、
「早くしろ!」
「ぐずぐずするな!」
という男の|怒《ど》|号《ごう》が飛び交う。けがをした女性が泣き|喚《わめ》く声が|反響《はんきょう》する。出口の所は、|押《お》しのけ、|突《つ》き飛ばし、まるで戦場のようになった。
|一瞬唖然《いっしゅんあぜん》としていた城野は、
「落ち着いて! 動かないで! そっちへ行ってもだめだ! 階段もエレベーターも使えないんだ! 静かに! やめるんだ!」
と必死で|叫《さけ》んだが、|誰《だれ》の耳にも入らない。――その時、明かりがついたのである。
「消防署の人からは何と言って来てる?」
と城野は|訊《き》いた。
「まだ決めかねてるそうよ。また電話するって」
「そうか……。早く何とかしてくれないことには……。君は電話の所にいてくれ」
「分かったわ」
――パーティ会場は|惨《さん》|憺《たん》たる有様だった。オードブルやサンドイッチの残りが床に散乱し、ビールやコーラが床に池を作っているのでひどく|滑《すべ》った。ビールびんやグラスのかけらが至る所に落ちているので、危険だった。
みんな|壁《かべ》|際《ぎわ》の|椅《い》|子《す》に|坐《すわ》り|込《こ》んで、|黙《だま》りこくっていた。けがをした女子社員がすすり泣いて、その周囲の女性にも伝染しそうな様子だ。これではまずい。城野は、一番若くて、まだ入社してひと月にしかならない、|庶《しょ》|務《む》の|永《なが》|屋《や》|典《のり》|子《こ》に声をかけた。
「永屋君」
「はい」
よし、この|娘《こ》は落ち着いているぞ、と城野は思った。
「悪いがトイレへ行ってモップを探して来てくれないか。床のガラスや水をあっちの|隅《すみ》へ押しやっておかないと、また誰かが滑って転んでけがをする」
「はい!」
永屋典子は仕事ができて|却《かえ》ってほっとした様子で、会場を出て行った。城野は横になって|呻《うめ》いている半田|道《みち》|代《よ》の上へかがみ込んで、
「どうだね?」
と|訊《き》いた。半田道代は彼の前の席に坐っていて、いつも彼が書類の清書などを|頼《たの》んでいる娘だ。
「ええ……。あまり……感覚がなくなりました……」
青ざめた顔で答える。城野は、ふくらはぎの傷からまだ出血が止まっていないのを見て、
「よし、もう少しきつく上の方を|縛《しば》っておこう」
とネクタイを外し、彼女のひざの下あたりをぐっと縛った。半田道代はちょっと顔をしかめた。
「痛いか?」
「いえ……でも……」
「何だね?」
「ネクタイがもったいないわ」
城野は|微《ほほ》|笑《え》んで|彼《かの》|女《じょ》の手を|握《にぎ》った。
「|僕《ぼく》の|誕生日《たんじょうび》に新しいのをプレゼントしてくれよ」
「ええ」
半田道代は弱々しいながらも|微笑《びしょう》を|浮《う》かべて、「カルダンとサン・ローランとどっちがいいですか」
と|訊《き》いた。|傍《かたわら》にいた庶務の女子社員が、
「城野さんならエルメスだわ」
と口を|挟《はさ》んだ。
「あら、ノーマン・ハートネルの|渋《しぶ》いのが似合うわよ」
他の方からも声がかかる。――|雰《ふん》|囲《い》|気《き》がずっとほぐれて来た。城野は半田道代の手をもう一度握ってやって、そこを|離《はな》れた。
福原社長は、さっきの騒ぎの時もさすがにじっと坐ったままだった。今は重役たちが周囲に集まっている。しかし相談しているわけではなかった。ただ黙って集まっているだけなのだ。――一色部長も、林課長も、ドアへ向かって我先に押しかけた口らしく、|髪《かみ》はクシャクシャ、ネクタイはよじれ、手をすりむいて、何とも|惨《みじ》めな体たらくだ。
城野が近付いて行くと、一色部長が|椅《い》|子《す》から|腰《こし》を浮かして、
「城野君! どうだね?」
「どうも、まだ指示がありません」
「一体どうする気なんだ。|畜生《ちくしょう》!」
一色は|吐《は》き捨てるように言った。
「落ち着くんだ」
福原社長が言った。「向こうだってちゃんと考えているさ。|大丈夫《だいじょうぶ》だ」
「しかし社長――」
「階段は本当にだめなのかね?」
と林課長が|訊《き》いて来た。
「もし通れれば、消防の人が上がって来ていますよ」
「分かるもんか! 下で火を消すのに|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》なんだ! こっちのことなんか後回しさ!」
一色部長が|憤《ふん》|慨《がい》して|苛《いら》|々《いら》と歩き回る。
「下で火が消えれば問題ないじゃありませんか」
と城野が言うと、一色部長はムッとした顔で黙ってしまった。
「階段の様子を調べたらどうかね、誰かが少し降りてみて……」
林課長はまだ|諦《あきら》め切れないらしい。
「|煙《けむり》にまかれたら終わりですよ。煙は|怖《こわ》い。とても無理です」
城野がきっぱりと言った。
「そうか……」
福原社長が城野を見た。「君は火事に|遭《あ》ったんだったね」
「はい」
「いつだったかな?」
「三年前です」
「確か……|奥《おく》さんが亡くなったんだね」
「はい」
「そうか」
福原社長はゆっくり|肯《うなず》いた。「……城野君の判断を信じた方がいいよ、林君」
「はあ」
城野は一つ息をついて、
「消防署から|連《れん》|絡《らく》が来るでしょう。そうしたらすぐお知らせに来ます」
「|頼《たの》むよ」
福原社長が|肯《うなず》いた。
背後で笑い声が起こった。|振《ふ》り向くと、永屋典子がモップを両手に一本ずつ持ち、ハンカチではちまきをして床を|掃《そう》|除《じ》し始めたのだ。その格好が|妙《みょう》に板についていて、おかしいのである。
他の女子社員たちも椅子から立って来て、一人がモップを一本引き受け、他の者は大きなガラスの破片を拾ったり、バケツを持って来たりした。
いいぞ、と城野は思った。何もしないでブツブツ言っている|奴《やつ》よりよほどしっかりしている。
「転ばないように気を付けろよ!」
ドアへ歩きながら声をかけると、永屋典子が元気よく、
「はい!」
と返事をする。
|廊《ろう》|下《か》へ出ると、紀子が電話で話していた。
「はい。――はい。――分かりました。ちょっとお待ち下さい」
と城野へ、「消防署の人よ」
「はい。代わりました」
「責任者の方ですか?」
相手の声は息を切らしていた。
「いえ、そういうわけではありませんが……。私が|伺《うかが》います」
「火はなかなか|鎮《ちん》|火《か》しそうもないんです。階段付近が一番ひどいので、階段も使えません」
「分かりました。で、どうすれば――」
「窓側は|比《ひ》|較《かく》的火が行っていません。そこから下へ降ろす他ないようです」
「二十五階ですよ!」
城野は思わず声を高くした。「さっき見ましたが、|縄《なわ》|梯《ばし》|子《ご》は短くてとても届きません。それにけが人もいますし、女性にあんな高さから下まで降りろと言うのは無理ですよ」
「けが人はどれくらいですか?」
「足を切って出血のひどいのが一人。他は何とか歩けると思いますが」
「分かりました」
「どうやるんです?」
「ゴンドラを使います」
「ゴンドラ?」
「窓ふき用のです。ちょうど今、そこの真上に設置してありますから、窓ガラスを割って乗り込んでもらい、下へ降ろします」
「なるほど。しかしまず屋上へ出ないと……」
「屋上へのドアは|鍵《かぎ》がかかっていて、とても開かないそうです。消防士を一人、ヘリコプターで屋上へ降ろしてゴンドラを操作させますから」
「ヘリコプターで運べないんですか? 屋上へのドアを何とか|壊《こわ》してでも……」
「屋上には着陸するだけの場所がないんです。それにドアは|頑丈《がんじょう》で、バーナーででも焼き切る他ないようですからかなり時間もかかります。ヘリも小型ですからせいぜい一度に二人しか乗れない」
「分かりました。……では消防士の方がゴンドラで窓の外へ降りて来るのを待てばいいわけですね」
「そうです。それまでにやっておいていただきたいことがあります」
「何でしょう?」
「ゴンドラは四人が限度です。消防士が一人いますから、三人ずつしか乗れません。現在そちらの正確な人数は?」
「四十三人です」
「確かですか?」
「何度も数えました」
「結構。あなたのお名前は?」
「城野ですが、何か――」
「あなたは落ち着いておられますね」
城野はちょっと言葉に|詰《つ》まったが、すぐに、
「以前に一度火事に|遭《あ》ったことがあるものですから」
「そうですか。あなたがリーダーシップを取って下さい。やっていただくのは、他の方に事態をよく説明して、冷静でいてもらうようにすることです」
「やってみましょう」
「それと、ゴンドラに乗る人の順序を決めることです」
「順序?」
「我先に乗ってはゴンドラが落ちる危険があります。けが人は最優先ですが、それ以外の方は何かの方法で順番を決めて下さい」
「順番といっても……どうやって……」
「お任せします。くじでもいいし、|年《ねん》|齢《れい》の順でも、何でも、ともかく決めておくことが必要なんです」
「……分かりました」
「決めたら絶対にそれを守っていただきます。あなたが守らせて下さい。暴れるような人がいたら、消防士に言って下さい。|緊急《きんきゅう》の場合です。少々乱暴な手段も取ります」
「分かりました」
「もう消防士がヘリで屋上へ向かっています」
「はい。あ――一つ|伺《うかが》っていいですか」
「何ですか?」
「ゴンドラは余り早くは降りないでしょう。全員降りるだけの|余《よ》|裕《ゆう》がありますか?」
「ある、とみなさんには言って下さい」
「事実はどうです? 火がここまで来るのとどっちが……」
相手はややためらっていたようだったが、やがて、
「今、火は十四階まで行っています。上へ行くに従って水圧が下がり、消火は難しくなっています。――全員降ろせるかどうか、|微妙《びみょう》なところです」
城野はゆっくりと言った。
「分かりました。何かあったらご連絡を……」
受話器を置くと、紀子が、
「何ですって?」
と|訊《き》いて来る。城野が説明すると、
「分かったわ。あなたが決めるのが一番いいわよ。くじだの何だのとやっている余裕はないわ」
「みんな|納《なっ》|得《とく》してくれるといいがね」
「大丈夫よ」
「よし部屋へ|戻《もど》って……」
と言いかけて口をつぐんだ。廊下にうっすらと煙が立ちこめている。城野は階段の方へ走った。防火扉の下から、白い煙がまるで|絨毯《じゅうたん》のように床に広がり始めている。
アパートの前へ|駆《か》けつけると、|隣《となり》の主人が転がるように中から飛び出して来た。
「あ、城野さん!」
「|女房《にょうぼう》は? うちの|奴《やつ》は?」
「中です! あなたの下の部屋から火が出てお宅にはもう近寄れなくて……」
アパートは二階建のモルタルで、中廊下式各階六室ずつだった。城野の部屋は二〇四で二階の真中に当たっていた。火元の一〇四はもう窓がまるでガスのバーナーの口のように|炎《ほのお》を|吹《ふ》き上げている。自分の部屋の窓も、カーテンが燃え、煙が吹き出していた。煙に巻かれている!
城野は、コートを|脱《ぬ》いで頭から引っかぶると、アパートの中へ飛び込んで行った。煙で目は痛み、|咳《せき》込んだが、何とか階段を二階へとかけ上がった。二〇四号室のドアの下からは|黒《こく》|煙《えん》が流れ出ている。
「|衣《きぬ》|子《こ》!」
妻の名を呼んでドアを|叩《たた》いた。|鍵《かぎ》を開けるのに手が|震《ふる》えて手間取った。ノブがハッとするほど熱い。構わずに開けると、熱気と煙が立ちはだかって、二、三歩後ずさった。
「衣子! |利《とし》|江《え》!」
妻と娘の名を呼びながら、頭を低くして部屋へ飛び込んだ。|襖《ふすま》が燃え始めていた。|天井《てんじょう》にも火が移っている。|六畳間《ろくじょうま》の真中に衣子と利江が|抱《だ》き合って倒れていた。駆け寄って抱き起こす。二人とも苦しげに息をついている。煙に巻かれて気を失ったのだ。
「しっかりしろ! 今連れ出してやる!」
必死で|両腕《りょううで》に二人を抱きかかえて立ち上がる。|玄《げん》|関《かん》を出ようとして立ちすくんだ。――廊下が一瞬の内に火の海になっていた。
パーティ会場へ戻ると、モップを手にした永屋典子が城野の顔を見て、
「お掃除、終わりました!」
と言った。息を|弾《はず》ませている。
「よし! ありがとう。もう一つ頼みたいんだがね」
「何ですか?」
「|雑《ぞう》|巾《きん》はあるかい?」
「さっきの所にありました」
「あるのを全部水びたしにして、階段の所へ持って行って防火扉の下へつめてくれ。浅野君が待ってるから」
「分かりました!」
永屋典子がかけ出すと、他の女子社員も二、三人続いて行った。
城野は福原社長に消防署からの話をそのまま伝えた。
「順番を決める?」
一色部長が目を見開いた。「どうやるのか、君が決めるのか?」
「消防の人からそう言われたんです」
「順序なら簡単さ」
林課長が言った。「役職の上から順にだ。まず社長、専務、部長……」
「けが人が最初です」
「あ、ああ……そりゃ分かってる! それ以外さ、もちろん」
「平社員を最後に残せとおっしゃるんですか?」
「それは仕方ないだろう! 重要な役職についている者はそれなりに会社に|尽《つ》くして来たんだ。それに――万一命を落とすようなことがあったら、会社自体が|潰《つぶ》れてしまう! ここは会社本位で考えるべきだ!」
「五十音順って方法もあるな」
と一色部長が言った。
「そ、それはだめですよ!」
林課長がむきになって、「そんな機械的な……。ここはやはり現実的な立場に立たないと――」
「五十音順なんて手間がかかりすぎるよ」
|傍《かたわら》で聞いていた専務が言った。「やはり役職順だ」
城野は福原社長を見た。
「社長のお考えは?」
「君が消防署から任されたんだろう?」
「はあ……」
「君の考えは?」
「まずけが人を降ろします。半田君が一番ひどいけがですが、他に手当ての必要な者が数人います。次に女性を全部先に降ろします」
「おい!」
一色部長が気色ばんで、「アメリカじゃないんだぞ、ここは! レディファーストなんて気取ってる場合じゃない!」
「そうだよ」
林課長が続けて、「悪いが女の子はいくらでも代わりがいる。しかし幹部社員は――」
「待ちなさい」
福原社長が言った。「城野君、続けたまえ」
「はい。女性を全部降ろし、それから社長や専務に降りていただきます。要職におられるからではなく、お|年《と》|齢《し》だからです。煙が段々ひどくなるでしょうから、体力の無い人を先に降ろす必要があります。それから係長や若い社員、最後に部課長です」
「おい! 一体何のつもりで――」
と食ってかかろうとする一色部長へ、城野は言った。
「あなた方の責任は会社に対してだけでなく部下に対してもあります。係長以下の社員たちの家庭は、今働き手を失えば大変なことになります。失礼ですが、部長や課長はもう家も財産もある程度お持ちのはずです。それに体力はまだまだあります。――これが私の考えです」
「君はいつ|逃《に》げ出す気だ!」
林課長が詰め寄るように言った。
「私はもちろん最後まで残ります」
城野の言葉に、林課長が|怒《いか》りのやり場を失ったといった格好で|黙《だま》った。――やや|沈《ちん》|黙《もく》があって、福原社長が言った。
「城野君、君のいいと思うようにしたまえ」
「はい」
「他の者にも私から話をしよう」
「お願いします」
「ああ、一人だけ順序を変えてくれんかね」
「誰をですか?」
「私だ。私は社長で全社員に責任がある。……私も最後まで残る」
その時、ワッと声が上がった。広い全面ガラス張りの窓の外へ、ゴンドラがゆっくりと降りて来たのだ。
城野は退路を断たれて、妻と娘を抱きかかえたまま室内へ戻った。早く何とかしなければ自分も参ってしまう! 廊下が無理となれば窓しかない。城野は窓から下を|覗《のぞ》いてみた。下の部屋からはもう炎は吹き上げていない。これなら降りられるかもしれない。城野は押し入れから布団をありったけ出すと、窓から下へ次々に放り投げた。窓の下に布団の山ができる。
「よし」
|呟《つぶや》くと、妻と娘を抱きかかえて窓の方へ行った。しかし、二人を抱いたままではとても窓の手すりを乗り|越《こ》えられない。どちらか一人だ[#「どちらか一人だ」に傍点]。……娘を先に投げ落として、とも思ったが、下に誰もいないのだ。後から城野と妻が娘の上に落ちる可能性がある。迷っている間に、火が回って来ていた。……男たる者[#「男たる者」に傍点]、自分の血筋を絶やしては[#「自分の血筋を絶やしては」に傍点]……。
「衣子……」
城野は妻を窓際へ|寝《ね》かせた。「必ずもう一度来るからな! 戻って来るぞ!」
城野は利江を抱きかかえ、窓から宙へ身を|躍《おど》らせた。布団へうまく飛び降りて、身体を起こし、見上げると、たった今飛び降りて来た窓から|炎《ほのお》がどっと|吹《ふ》き出して来た。
「さあ次は|吉《よし》|本《もと》さんと、|岸《きし》|田《だ》さんと、永屋さんよ」
紀子が言った。「ゴンドラはすぐ来るから、ここで待っててね」
「あの……浅野さん」
永屋典子がおずおずと言った。「ちょっと……」
「何か?」
紀子は少し|離《はな》れた所へ永屋典子を連れて行った。「どうしたの?」
「あの……私は後でいいんです。|織《お》|田《だ》さんを先にしてあげて下さい」
「どうして?」
「彼女……病気のお母さんと二人でしょう。もし間に合わなかったら……。でもうちは両親とも元気だし、それに私は六人兄妹の四女ですから、死んだってそう困るわけじゃないし……」
「永屋さん、今は決められた通りにやってちょうだい」
と言って紀子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「あなたの気持ちは立派だけど、そこまで考えていたら|却《かえ》って混乱するだけよ。|大丈夫《だいじょうぶ》。みんな間に合うわよ。――分かった?」
「はい。でも浅野さんはいつ降りるんですか?」
「私? 私はあなたたちを降ろしたらすぐに降りるわ。これでも女ですからね」
永屋典子がほっとしたように|微笑《びしょう》して、窓の方へ|戻《もど》って行った。
「どうした?」
|振《ふ》り向くと城野が立っていた。紀子が今の話を聞かせると、
「あれはいい娘だな」
「ええ。事務所じゃ気の利かないのろまって|怒《ど》|鳴《な》られてるけどね」
「彼女は今夜最大の功労者だよ」
「功労者はあなたよ」
「とんでもない。|僕《ぼく》はただ……|罪《つみ》|滅《ほろ》ぼしをしてるだけさ」
紀子はじっと城野を見つめた。
「いけないわ。いつまでも過去のことを……」
「今夜で清算できそうな気がするよ」
と言って城野が|微《ほほ》|笑《え》む。
「そうよ。そして|再《さい》|婚《こん》なさい。――あの永屋さんみたいな娘と」
城野がちょっと笑った。
「女性は後二回で終わりよ」
「そうか。――いや、三回だろう。君が一人残る。男性も|一《いっ》|緒《しょ》に乗せてやってくれよ」
「私は残るわ」
「だめだ」
城野は強い口調で言った。「順番を狂わしちゃいけない。僕のために、|頼《たの》むよ」
紀子は目を|伏《ふ》せて、|肯《うなず》いた……。
室内は寒かった。窓を大きく|叩《たた》き割ったので、|凍《こお》りつくような北風がまともに吹き|込《こ》んでいた。空気はおかげで何とか|新《しん》|鮮《せん》だったが背広だけでは体の|芯《しん》まで冷えるようだ。
「全員降りられるんでしょうね」
「君らしくもないぞ、弱気なことを言って」
「ええ……。私が乗る順を決める役ならよかったわ」
「|僕《ぼく》は何番目だい?」
「あなたと私が一番で、後は勝手にしろって言ってやるの」
二人は一緒に笑った。
「……浅野君」
「え?」
「これは|冗談《じょうだん》でなく言うんだけど、もし、僕が降りる前にここへ火が回って来たら……」
「そんな――」
「聞いてくれ! もしそうなったら、お|袋《ふくろ》と利江に、僕がここでしたことを話してやってほしいんだ」
紀子の目に見る見る|涙《なみだ》が|溢《あふ》れ、|頬《ほお》を伝って落ちて行った。
「|約《やく》|束《そく》してくれ」
「いいわ……。あなたも約束して」
「何を?」
「死なないって、約束して」
城野は暖い笑顔になって、
「――約束するよ」
と言った……。
「後少しだ。|頑《がん》|張《ば》って下さい! すぐ戻って来ます」
ゴンドラを操作している消防士が言った。
「ええ。こちらは大丈夫ですよ」
「それじゃ」
ゴンドラがゆっくり降り始めた。乗っていた花崎が、
「お先に失礼します!」
と手を振ったので、城野は思わず笑ってしまった。――|愉《ゆ》|快《かい》な|奴《やつ》だ、全く。
風がやんで、室内は目を|刺《さ》すような|煙《けむり》が|充満《じゅうまん》していた。
「窓の方へいらっしゃい」
城野は声をかけた。「ここの方が空気が入ります」
残ったのは城野以外、三人――一色部長、林課長、福原社長だった。三人は|咳《せき》|込《こ》みながら窓際へやって来た。
「何とか間に合いましたね」
「でなきゃたまらんよ」
と一色部長が目をこすった。
「社長、大丈夫ですか?」
「ああ。戦争中、危うく毒ガスにやられかけたことがある。こんなものじゃなかったよ」
四人はしばし沈黙した。――城野が口を開いた。
「三年前、妻を亡くした日、私はバーで飲んでいました。部長と課長、それに花崎君も一緒だった。|憶《おぼ》えておいでですか?」
「さあ……」
一色部長が|肩《かた》をすくめた。
「どうしてだね?」
と林課長が|訊《き》く。
「あの晩、みんなで、『火事になって、妻か子供か、どちらか一人しか助けられない場合どっちを選ぶか』という話をしていたんです」
「そうだったかな……」
「ええ。私はその内|酔《よ》い|潰《つぶ》れてしまったんですが、|誰《だれ》かが言ったんです。『男たる者、自分の血筋を絶やしてはならん。子供を助けるべきだ』とね。――言ったのが誰だったか、どうしても分からないんですよ。花崎君じゃない。彼はあんなしゃべり方はしません。部長か課長だと思うんですが……。憶えておられませんか?」
「さあ……。林君、憶えてるか?」
「そんな話をしたような気はするが……こっちも酔っていたろうしね」
「城野君、どうしてそんなことを――」
「あの晩、私が正にその立場に立たされたんです。火に包まれた部屋で妻を取るか子供を取るか……。私の耳に、誰かの言ったさっきの言葉が残っていました。私は妻を火の中へ残して窓から飛び降りたんです……。あれ以来、ずっと考え続けて来ました。自分の判断は正しかったのか、と。……いつか|伺《うかが》おうと思っていたんです。あれを部長がおっしゃったのか、それとも課長か。いかがですか?」
一色部長と林課長は顔を見合わせた。城野は続けて、
「別にそのことで、どなたかを責めようなどと思ってはいません。あれは私自身の判断だったんですから。ただ知りたいんです。自分が誰の言葉に従ったのか、を」
返事はなかった。
「火はすぐそこまで来ています。今度のが最後のゴンドラにならないとも限りません。教えて下さい!」
一色部長がゆっくり首を振った。
「残念だが……思い出せないよ」
「私もだ」
林課長も言った。
「そうですか……」
城野はため息をついた。
「お待ち遠さま」
消防士が顔を出した。「さあ乗って」
一色部長と林課長がこわごわゴンドラへ乗り込む。
「もう一人ですよ」
「社長! 早くお乗り下さい」
「いや、私は最後でいい、君が乗れ」
「それはだめです。順序を決めた私が残るべきです。さあ急いで下さい」
「城野君。あれを言ったのは私だ」
城野は目を見張った。
「君はもう相当酔っていたから、私が入って行ったのを知らなかったのだろう。接待を終わって|疲《つか》れたのであの店へ行って話に加わったのだよ。……あの夜君が|奥《おく》さんを火事で亡くしたと聞いて、ずっと気になっていた。君がどたん場で迷ったのではないか、と思ってね。今夜話せてよかったよ。……さあ乗るんだ。私の社長としての経歴に傷をつけないでくれ」
城野はゴンドラへ乗り込んだ。その時、パーティ会場のドアが大きく左右へ開いて、|炎《ほのお》が巨大な|潮《うしお》のようになだれ込んで来た。
「社長!」
城野は消防士へ、「乗せて構わないでしょう? 社長は|小《こ》|柄《がら》です」
「一か八かだ。いいでしょう」
消防士が|肯《うなず》く。城野は福原社長の|両腕《りょううで》をつかんで、ゴンドラの中へ引きずり込んだ。ゴンドラが降り始める。
ゴオッと音がして、頭上の窓から炎が吹き出すのに十秒とかからなかった。
「ロープが焼き切れなきゃいいが…‥」
消防士が|祈《いの》るように|呟《つぶや》いた。
見下ろす地上は、消防車とホースの海だった。群衆が遠くでこのスペクタクルを|眺《なが》めている。ジリジリとゴンドラは降下して行く。一色部長と林課長は真っ青で、生きた心地もないようだった。
「もう大丈夫!」
消防士が言った。「ここまで来れば、落ちたって命は助かる」
だが、ゴンドラは落ちなかった。地上へ着くと、白衣の救急班が|駆《か》け寄って来る。
「部長、社長を救急車まで」
「あ、ああ……。よし!」
ゴンドラを出ると、城野は痛む目をこすった。白いハンカチが目の前へ差し出された。――紀子が立っていた。
「約束を守っただろう」
と城野は言った。「みんな大丈夫か?」
「ええ。私のことは|訊《き》かないの?」
「君は見るからに大丈夫だ」
「失礼ね!」
と紀子は笑った。「大変だったのよ」
「どうかしたのかい?」
「私って高所|恐怖症《きょうふしょう》なのよ」
城野は笑って彼女の|肩《かた》を|抱《だ》いた。
「どこかで|祝盃《しゅくはい》を上げようか」
「ええ!」
城野は、何かが起こりそうな気がした。何かいいことが。それはここしばらく、味わったことのない気分だった。
共同|執《しっ》|筆《ぴつ》
二人の間は、至ってうまく行っていた。
といっても、二人は夫婦ではない。男女でもなかった。男同士である。――ホモか、などと|勘《かん》ぐってはいけない。
二人の名は|山《やま》|倉《くら》|章《あき》|夫《お》。|同《どう》|姓《せい》同名ではない。二人で一人の山倉章夫だった。――二人は一つのペンネームで共同執筆する小説家だったのである。
「行ってくるよ」
山倉章夫の一人である|人《ひと》|見《み》|康《こう》|一《いち》は、|玄《げん》|関《かん》で|靴《くつ》をはきながら、妻の|美《よし》|子《こ》に声をかけた。
「はい。――今夜は|遅《おそ》くなりそう?」
エプロンで|濡《ぬ》れた手を|拭《ふ》きながら、美子が急いでやって来る。
人見は、妻を見る|度《たび》に、もう四十になるとはとても思えぬその若々しさを|誇《ほこ》りに感じていた。
「そう遅くはならないと思うよ」
人見はコートの|袖《そで》に|腕《うで》を通しながら、「今日は最後の章の打ち合わせだ。いつもの通り、すんなり決まれば夕食には|戻《もど》れる」
「じゃ、|仕《し》|度《たく》して待ってるわ」
「ああ、|頼《たの》むよ」
人見は|鞄《かばん》を手にして、「じゃ行って来るよ」
と|微《ほほ》|笑《え》んで見せて、外へ出た。――冬の朝といっても、もう十時を過ぎているから、寒さもそれほどではない。
重役出勤だな、と人見は思った。これが自由業たることの最大のメリットかもしれない。
人見康一はもう五十に手の届く|年《ねん》|齢《れい》だ。つい四年前までは、何の|変《へん》|哲《てつ》もないサラリーマンだった。暑い夏も、寒い冬も、いつも同じ時間に家を出て、満員電車にもまれて、九時ぎりぎりに会社へ|辿《たど》り着く、ごく当たり前のサラリーマンだった。
その人見にも、当たり前でない所が一つだけあった――彼は小説を書いていたのである。
むろん、会社の|同僚《どうりょう》にも、友人にも秘密だった。我が家で、夜遅く、こつこつと|原《げん》|稿《こう》用紙を書きつづっては、雑誌の新人賞などに|応《おう》|募《ぼ》した。ペンネームを使って、決して知人に知られることのないように気を使いながら。
職業作家になろうという固い意志があったわけではない。ただ、書くことが好きなのである。新人賞に応募するのも、あわよくば作家に、と考えたからというより、何か具体的な目標があったほうが、筆が進むからであった。
だが、その内に、思いがけず時々|佳《か》|作《さく》として名前が残ったり、時には入選作なしの佳作として|掲《けい》|載《さい》されることもあって、段々欲が出て来た。新人賞の季節になると、毎晩遅くまで原稿用紙に向かい、色々なペンネームで、ほとんどの雑誌に応募した。
それだけの時間が取れたのも、人見に子供がいなかったせいかもしれない。妻の美子は、夫が金にもならない小説書きに熱中しても、別に文句一つ言わなかった。逆に、時には原稿の清書を手伝ったりするくらいだったのである。
その生活は、またそれなりに楽しいものだった。仕事の合間に、ふとアイデアが|湧《わ》くと手早く手帳にメモを取ったり、職場での面白い出来事を話の種にしたり、気に食わない上役を小説の中で殺してやったりするのは、|秘《ひそ》かな楽しみであった。
その生活に転機が訪れたのは、ある雑誌の新人賞で、入選作なしの佳作二編の内の一つとして|表彰《ひょうしょう》されることになり、出版社へ出向いた時である。――そして会議室で人見は初めて|中谷一《なかやはじめ》に会った。もう一人の佳作となった男である。
人見がもう四十代半ばだったのに比べ、中谷はまだ三十|歳《さい》になったばかりの若さで、それでも、いわゆる芸術家を気取ったタイプのいや味な男でなく、やはりサラリーマンとして生活しているだけに、折り目正しい、気持ちのいい青年であった。
二人は、雑誌の編集長から、賞状と賞金十万円を|手《て》|渡《わた》された後、|審《しん》|査《さ》|員《いん》をつとめた作家たちの選評を聞いた。――といっても、|忙《いそが》しい作家自身が出席しているわけではなく、編集長が代わってその主な点を説明したのである。
まず、人見の作品については、登場人物の描き分けに優れ、人間のふくらみがよく出ている、と賞められ、ただし、ストーリーが平板で、面白さに|乏《とぼ》しい、むしろ純文学に向いた人かもしれない、と評された。
人見は、至って素直に|肯《うなず》いてその評を聞いていた。それは|彼《かれ》自身もよく分かっていることで、ストーリー作りにいつも苦労しては、古くさい型からどうしても|抜《ぬ》け出ることができないのだった。
次に、中谷の作品については、人見と全く正反対のことが言われた。ストーリーの着想や展開は面白く、才能が認められる、としたものの、人物があまりに類型的で、個性に乏しく、描写力も|充分《じゅうぶん》でない。この点は、まだ作者が若いので、人生経験を積んで行く他はあるまい、と評は結んでいた。
この時、フッと人見の頭に|浮《う》かんだことがあった。――自分と中谷は、|互《たが》いに欠けた所を持っている。自分はしっとりした情感や、人間の心理の描写には自信がある。中谷は、独創的なストーリー作りに|秀《ひい》でている。もしこの二つが結びついたら――中谷の創り出すストーリーに、自分の描く人物たちを登場させることができたら。
人見は中谷のほうを見た。ちょうど同時に中谷も人見のほうを見たのである。二人の目が合った。そして人見は、中谷が自分と同じことを考えているのだと、直感的に気付いたのだった。
二人はそれから三か月かかって、共同執筆第一作を書き上げた。中谷が考えたストーリーをもとにして、人見が登場人物のキャラクターを作り出す。そして一章ごとに|交《こう》|互《ご》に書いて行くのである。
この方法は一見乱暴なようにも思えたが、やってみるとなかなか効果的であった。ストーリーが展開する「動」の章の後には、しっとりとした「静」の章が来る。そしてその次にはまた「動」の章が……というわけで、少なくとも読者を|飽《あ》かせない変化をつけることはできたような気がした。
一応書き上げて、後に人見が全体の文章の調子を見て、不自然なところは直し、決定稿を仕上げた。――佳作になった雑誌の編集長を訪ねて、原稿を読んでもらうと、一部手直しすれば、充分読むに値するものになるという返事をもらった。
原稿は出版部へ回され、さらに検討と|訂《てい》|正《せい》をくり返した後、やっと出版された。
この一作は予想以上に好評だったし、加えて二人とも勤め先との関係上、本名を|伏《ふ》せ、共作であることも|隠《かく》していたので、その点もマスコミの話題作りにプラスしたようでもあった。
こうしてスタートした二人の共作は、|徐《じょ》|々《じょ》に読者を|獲《かく》|得《とく》して行った。一年後には二人とも会社をやめ作家生活に入った。「山倉章夫」が、二人の共同執筆になるペンネームであることも、初めて公表された。
いわば、二人はやっと作家の|肩《かた》|書《が》きを手に入れたのである。
あっという間の四年間だったな。
仕事場へ向かうタクシーの中で人見は思った。こうして、電車でも行ける所へタクシーを使う、ささやかなぜいたくができるのも、作家業が順調なおかげだ。
人見と中谷は収入を正確に二等分して分け合った。年齢や、妻帯していることから言えば、人見のほうが多く取ってもいいようなものだが、金銭的なことでもめるのを|避《さ》けるために、最初からその|約《やく》|束《そく》をしてあったのだ。
半分になっても、二年目からの収入は、サラリーマン時代を上回ったし、今では、かなり|余《よ》|裕《ゆう》のある生活ができるようになっていた。――中谷は相変わらず独身で、マンションで気ままな|暮《く》らしをしていた。
「そこで停めてくれ」
人見は料金を払ってタクシーを降りた。
二人は、それぞれの住いのちょうど中間あたりにあるマンションの一室を借りて、仕事場として使っていた。「出勤」は一応十一時ということになっているが、中谷は大体|遅《おく》れて来ると決まっていた。――それでも別に|遅《ち》|刻《こく》届けを出す必要がないのが、この商売のいい所である。
人見はエレベーターで四階に上がり、〈四〇八〉号室のドアを開けようとして、|驚《おどろ》いた。|鍵《かぎ》が開いている!
「おはよう」
ドアを開けて中へ入ると、ソファから中谷が言った。
「また今日はえらく早いじゃないか」
コートを|脱《ぬ》ぎながら、人見は言った。「さては、昨夜はここに|泊《と》まったのか?」
「|冗談《じょうだん》じゃない。神聖なる職場を|私《し》|事《じ》には使わないよ」
と中谷は笑いながら言った。「下の店へコーヒーを頼もうと思ってたんだ。飲むかい?」
「うん、頼んでくれ。――何か電話は?」
「K出版から一つあった。|短《たん》|篇《ぺん》連作をやってくれとさ」
「何て答えたんだ?」
「あんたに相談もしないで返事はしないよ。――ま、どうせ断わることにはなるだろうがね……」
「我々のやり方では、短篇は無理だよ」
「そう言っておいた。――また昼過ぎに電話して来るそうだ」
人見は、ガラス戸|越《ご》しに、外を|眺《なが》めた。作業にかかる前に、こうした空白の時間が必要なのだ。
「|奥《おく》さん、元気かい?」
と中谷が|訊《き》いた。
「ああ、たまには遊びに来いと言ってたよ」
「ありがたいな。でも、どうもね――」
「|遠《えん》|慮《りょ》することはないだろう。我々は合わせて一人なんだから」
「しかし、やはり男二人に女性一人じゃね。食事してたって、こっちが|惨《みじ》めになるだけだからなあ。――|僕《ぼく》も|誰《だれ》か連れて行く女性がいれば、喜んでうかがうんだけどね」
「いくらでもいるじゃないか」
人見は別に当てこすりでもなく、言った。中谷はまだ三十代半ばの若さで、しかもなかなかの男前だ。――彼のマンションにはしばしば女性の姿があり、しかも絶えず入れかわっているというのは、|専《もっぱ》らの|噂《うわさ》だった。
「遊び相手はいるけど、あんたや奥さんに|紹介《しょうかい》できるような女はいないよ」
「本気で|捜《さが》さないからだ。――その気になりゃ見付かるもんだよ」
「そうかなあ……」
「|女房《にょうぼう》が、君にいい人を世話したいと言ってるよ。一度来てくれ」
「その内にね」
中谷は|如《じょ》|才《さい》なく答えた。
やがてコーヒーが運ばれて来て、二人は仕事にかかった。
広い|机《つくえ》が二つ、向かい合わせて置いてあり、二人は互いの原稿と、相手の分のコピーを机の上へ|並《なら》べて、向かい合って|坐《すわ》った。
「さて、と。――始めるか」
人見は言った。「今日でこの作品も最後の章だけになった。|締《し》め切りは来週初めだから、充分間に合うだろう。――前の章まで何か気付いたことはあるかい?」
「ああ、第四章の頭で、|峰《みね》|夫《お》が|頼《より》|子《こ》と待ち合わせる場所なんだがね。これは冬だろう。外じゃ寒すぎないか?」
「なるほど。しかしどこか|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》の中などにすると、頼子が地理に不案内というのと|矛盾《むじゅん》するよ」
「そうか……」
「冬にしては暖い日だったとか、そういう文章を入れるか」
「そうだね。いいと思うよ」
と中谷が|肯《うなず》く。
昼までかかって、二人は最後の章を除いて、一応の検討を終わった。そこまでの所では格別の問題はないようだった。
「――昼飯にするか」
「ああ」
二人はマンションを出ると、歩いて五分ほどの所にある、レストランへ行った。昼はたいていここで取ることにしている。
オーダーをして一息ついていると、ウェイトレスがやって来て、
「中谷様」
「何だい?」
「お電話が入っております」
「ああ、そう」
中谷は店の奥の電話のほうへ歩いて行った。
「電話か……」
人見は、ふっと美子へ言っておくことがあったのを思い出した。電話してみるか。――入口のわきに赤電話がある。
ダイヤルを回してみると、お話し中だった。三回かけてみたが、ずっとお話し中のまま。
「やれやれ」
女性の長電話というやつはどうしようもないものらしい。|諦《あきら》めて席へ|戻《もど》ると、中谷も帰って来た。何やら少し顔が上気して、楽しげである。
「何だ、彼女からの電話か?」
人見が冷やかすように言うと、中谷は、
「う、うん。……まあね」
と笑ってごまかした。
料理が来て、食べ始めると、中谷が言った。
「近々、ちょっとお宅へうかがってもいいかな?」
「いいとも。そう言ってるじゃないか」
と人見は答えて、「道順は分かってるだろう?」
「ああ、|憶《おぼ》えてるよ」
「――そうだ。大通りから入る路地が工事で通行止めなんだよ」
「そうだったね。反対側から回るよ」
と中谷が|肯《うなず》いて言った。
「そうしてくれ」
と言ってから、人見はふと食べる手を止めた。「どうして知ってるんだ?」
「え?――何が?」
「いや、路地が通行止めになってるってことをさ」
「ああ……それは……あんたが前言ってたじゃないか」
「僕が?――そうだったかな」
「そうだよ。この前言ってたじゃないか」
人見はいくら考えても、その話を中谷にしたのを思い出せなかった。
「思い出さないなあ……もう|年《と》|齢《し》なんだね全く」
人見は頭を|振《ふ》って、また食事にとりかかった。
「何だって?」
人見は原稿から顔を上げた。「結末を変えるっていうのかい?」
中谷はちょっと|曖《あい》|昧《まい》な口調で、
「いや……どうかな、と思ったのさ。その……つまり、この結末じゃ暗すぎるんじゃないかと……」
「暗すぎるって?」
人見はちょっと|呆《あっ》|気《け》に取られた。いつもの中谷らしくない言い方だ。
「そんなことないだろう。女主人公が夫と別れて、本気に自分を愛してくれる男性と共に新しい人生を|踏《ふ》み出す。――この結末のどこが暗いんだ?」
「そ、それは確かに……そう暗くはないと思うけど……。でも、その……要するに|彼《かの》|女《じょ》は夫のある身で他の男を愛するわけだろう」
「そりゃそうだ。そういう話だからね」
「それはちょっと……あまり道徳的じゃないと思うんだけど……」
「おいおい」
と人見は笑って言った。「いつから君は道徳の教科書を書くようになったんだい? こんな話いくらでも転がってるじゃないか」
「つまりね、そこなんだよ」
「というと?」
「この結末だと――どうも、当たり前だろ。そのへんのTVドラマと変わらない。だからここは一つ、女主人公が夫ともう一度やり直してみるという結末に――」
「無理だよ、それは」
人見は首を振った。「こういう結末に合うように、ヒロインの性格も設定してあるし、夫も、もう救いようのない男として描いてるんだ」
「そりゃ分かってるけど……」
「結末を変えようと思ったら、ずっと書き直さなきゃならないんだ。今からじゃ時間的にも無理だよ」
「分かった。このままにしよう」
と中谷は|肯《うなず》いた。――人見はどうも|腑《ふ》に落ちなかった。中谷と意見の|違《ちが》うことは、もちろんしばしばある。そんな時は議論を重ねて解決する。しかし、今は、中谷の様子がまるで違う。ひどく自信なげで、最初から無理を承知で言っているように見えた。
一体どうしたというんだろう?
「お仕事は順調に行ってて?」
夕食の席で、美子が言った。
「ああ、今日で一つ仕上がった。三か月もすれば出るだろう」
「そう。よかったわね」
「とにかく仕事の量をあまりふやさずに来たのがよかったよ。長い目で見ればね」
「本当に、作家になったあなたなんて、今でも|妙《みょう》な気がするわ」
「そうかい? 僕もそうだ」
と言って、人見は笑った。
「中谷さんは、ちっとも遊びに来ないわね」
「近々来るようなことを言ってたがね」
「そう。夕ご飯でもごちそうしてあげたいわ」
「そうだよ。少し家庭ってものの良さをあいつに教えてやらなくちゃ。いつまでも独身ってことになりかねない」
「|恋《こい》|人《びと》ぐらい、いらっしゃるんでしょう?」
「遊び相手はいるようだがね。どうもまだ本気で|惚《ほ》れる女はいないらしい」
「そうなの。……もてるだけに、|却《かえ》って|結《けっ》|婚《こん》なんて|面《めん》|倒《どう》なのかもしれないわね」
「そうかもしれない。――彼がこの前ここに来たのはいつだっけ?」
「さあ……。二、三か月にはなると思うわ」
「そうだろう?」
あの路地の工事は、まだ始まってひと月たっていない。――中谷が知っているはずはないのに。本当に|俺《おれ》がしゃべったのだろうか?
「それがどうかして?」
美子に|訊《き》かれて、
「いや、何でもない」
と人見は|慌《あわ》てて首を振った。
「こりゃどうも!」
出版担当の編集者、|角《つの》|田《だ》が受付へ出て来た。
「わざわざ原稿をお持ちいただいて……」
人見は愛想よく、
「いや、どうせついでがあったんでね」
「|恐《おそ》れ入ります。――では確かに」
角田は|原《げん》|稿《こう》の入った分厚い|封《ふう》|筒《とう》を受け取ると、「先生、今日はこれからどちらへおいでになるんですか?」
と|訊《き》く。人見は、
「いや、別に」
と答えた。〈先生〉と呼ばれると、何だかくすぐったい気がする。これでもかなり慣れたほうなのだ。最初の内は、「先生」と呼びかけられる|度《たび》に、自分のこととは思えず、つい周囲を見回したい|衝動《しょうどう》を感じたものである。
「では、その辺でお昼でも。ちょっとお待ちを」
角田はせかせかと奥へ姿を消し、すぐに|上《うわ》|衣《ぎ》を着ながら|戻《もど》って来た。「では、参りましょう。――中谷さんは、今日は……」
「ちょっと用だとかで、出かけてますよ」
「そうですか。――いや、しかし、お二人のコンビは好調ですねえ。最近はお二人を|真《ま》|似《ね》て、最初から共作で新人賞に|応《おう》|募《ぼ》して来るのも結構いるようですよ」
「そうですか」
人見と角田はタクシーを拾って、近くのホテルへ向かった。車の中で、角田が言った。
「この間、うちの編集の者が、中谷さんをお見かけしたそうですよ。この先のホテル街で」
「すると女性と|一《いっ》|緒《しょ》で……」
「ええ。それが若い|娘《むすめ》じゃなくて、少し|年《と》|齢《し》の行った、いかにも女らしい女性だったそうでしてね。『中谷さんもやるなあ』と感心していましたよ。どう見てもどこかの奥さんだったというんですよね」
「それは……知りませんでしたね」
「人見さんは|大丈夫《だいじょうぶ》でしょうね」
「何がですか?」
「どこかに女性を囲うなんてことはなさらないでしょうね?」
「それならご心配なく」
人見は笑いながら言った。「この年齢になって、家がもめるのはごめんですよ」
角田が何か|冗談《じょうだん》めかしたことを言ったが、人見は聞いていなかった。彼の目は対向車線ですれ|違《ちが》ったタクシーを追っていた。
「――どうかしましたか?」
角田の言葉にはっとして、
「いや、別に……」
と人見は向き直った。――あれは、美子だったろうか? すれ違った|瞬間《しゅんかん》に見ただけだが、美子のように見えた。
もし美子だとすると、こんな所で何をしているのだろう? 今日、出かけるようなことは言っていなかったが……。
ホテルへ着くと、人見はレストランへ入る前に、ロビーの赤電話から自宅へ電話した。
――呼び出し音は何度も、空しく鳴り続けていた。
夕方、帰宅してみると、美子は夕食の|仕《し》|度《たく》をしていた。
「お帰りなさい、あなた」
「うん……」
人見はじっと美子を|眺《なが》めた。――あれは美子だったろうか? それとも他人の空似か?
「今日は、どこかへ出かけたかい?」
彼のコートと|上《うわ》|衣《ぎ》をハンガーにかけている美子へ、人見は|訊《き》いた。
「いいえ、別に。――どうして?」
「昼過ぎに電話したんだが、出なかったぞ」
「ああ、そりゃあ買い物には行ったわよ」
と美子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「何か用だったの?」
「いや――そういうわけじゃないが」
人見は美子から目をそらした。
「さっき中谷さんから電話があったわよ」
「そうか。じゃ、かけてみよう」
|廊《ろう》|下《か》へ出て電話の所へ行き、受話器を取り上げようとして、人見はふと足下に落ちていた紙片に気付いた。かがみ|込《こ》んで拾ってみる。
タクシーカードだった。――人見は、美子が、タクシーに乗ると必ずタクシーカードを一枚取るのを思い出した。忘れ物をした時に困るから、というのだ。
今日、美子はタクシーに乗っていたのだ。間違いない、と人見は思った。昨日からここに落ちていたはずはない。美子は|極端《きょくたん》なきれい好きで、落ちている糸くず一つでも、目につけば必ず拾う|性《た》|質《ち》である。こんな目につく所に落ちている紙を放っておくはずがない……。
たかが買い物ぐらいでタクシーなど使うものかどうか。――人見は訊いてみようとはしなかった。美子が|素《そ》|知《し》らぬ顔で、タクシーなんか使わなかったわよ、と言うのを聞きたくなかったのである。
何でもないことなのかもしれない。聞いてみれば、簡単に説明のつくことかもしれない。しかし……。
「ああ、人見だけど、電話くれたって?」
中谷が出ると、人見は言った。「何か用だったのかい?」
「いや、わざわざ電話してもらうほどのことじゃないんだ」
と中谷が言った。「実はね、映画の試写の案内が来ててね。行くつもりだったんだが、都合が悪くて行けなくなったもんだから、もし君が行くんだったらと、思って……」
人見は昔からの映画ファンである。中谷が言った映画は、人見の好きな|監《かん》|督《とく》の最新作でぜひ見ようと思っていたものだった。
「そいつはぜひ見たいね」
「そうかい? じゃ明日、出がけに届けるよ」
「いや、そんな手間をかけちゃ悪いから、|僕《ぼく》が取りに行こう」
「いいんだ。どうせその近くを車で通ることになるから、試写は一時から。僕は午前中にはそっちへ寄るよ」
「すまないな。じゃ|頼《たの》むよ」
電話を切って、二階の自分の部屋へ上がろうとした人見は、台所の音に、ふと耳を|傾《かたむ》けた。――何となく|妙《みょう》な感じだった。
どこが妙なのか、分からなかったが、どこかおかしい、という気持ちが|抜《ぬ》け切れないままに部屋へ上がった。
二階の|六畳間《ろくじょうま》が、人見の仕事部屋である。最初のストーリーの打ち合わせ、原稿を書き上げてからの調整はあのマンションのほうでやるが、各自、原稿を書くのは自分の家であった。
一つ仕事が片付いて、少し息抜きをする時期だった。あまりたて続けに仕事をしない。追いまくられる仕事はしない、というのが、いわば作家・山倉章夫の信条である。
いつもなら部屋のソファで、買いだめしておいた本を手にするのだが、今日は何となく、そんな気分になれなかった。一体、何が気にかかっているのだろう?
美子が|嘘《うそ》をついたというのか? しかし、何のために?――いや、嘘かどうかだって分かりはしないではないか。タクシーに乗ったことだって、確かめてもいない。本当は何でもないことなのかもしれないのに……。
適当に一冊、本を手にし、ソファに|坐《すわ》ったものの、ページをめくる気にもなれずに、ぼんやりと|天井《てんじょう》を|眺《なが》めていた。じっと耳を|澄《す》ましていると、階下の台所の物音が、耳に届いて来る。トントン、と包丁を使う音、カチンカチンとガスに火を|点《つ》ける音……。
人見はふっと気付いた。――そうか。さっき、何となく妙だと思ったのは、中谷と電話で話している間、台所のほうが静かだったのだ。そして電話を切ると、また水の音がし始めた。それを無意識に聞いていて、おかしいと、思ったのだ。
美子は電話を聞いていたのではないだろうか?――だから台所のほうは静かだった。そして電話が終わると、急いでまた台所へ|戻《もど》った……。
なぜだ? なぜ中谷との電話を、美子が立ち聞きしなければならないんだ?
台所の水音が、いやに大きく聞こえていた……。
洋画会社の試写室というのは、本当に|狭《せま》いものである。三十ばかりの座席が|並《なら》んでいるだけの、ちょっとした会議室ぐらいの広さしかない。
作家業になってから、人見も、時々試写を見る機会ができるようになったが、最初の内はスクリーンの小ささに何か妙な|違《い》|和《わ》感を覚えたものである。
「山倉章夫さんじゃありませんか」
ペンネームのほうを呼ばれると、何か照れくさい。
「はあ、そうですが……」
声をかけて来たのは、まだ二十代と見える青年であった。
「ここの営業部の者です。どうもわざわざおいでいただきまして」
「いや、こちらこそ。楽しみにして来たんですよ」
「どうぞごゆっくりご|覧《らん》下さい。――ええともうお一人の……」
「ああ中谷は今日都合が悪いそうで。私が人見です」
「そうですか。――いや、中谷さんから、人見さんがぜひ見たがっているからとご|連《れん》|絡《らく》をいただきましてね」
人見はふっと|眉《まゆ》を寄せた。――中谷がわざわざここへ連絡して? しかし、中谷の話では、たまたま試写会の券が来て、それが行けなくなったから、ということだったが……。
「もうすぐ始まりますので。ぜひ後でご感想をうかがわせて下さい」
「はあ、どうも」
人見は座席に坐った。七、八人の客がいて、時々TVの洋画番組の解説で見る顔もあった。
時間になると、別にブザーも鳴らずに暗くなり、映画が始まる。――人見はスクリーンに見入った。
今朝、|珍《めずら》しく十時前に中谷はやって来た。いつもは|昼《ひる》|頃《ごろ》といっても午後の二時か三時になるのが普通なのに。
「ちょっと車で遠出するんでね」
と中谷はニヤリとして、試写会の案内状を差し出した……。
「上がって行けよ」
という人見の言葉にも、
「いや車に人を待たせてあるんでね」
「彼女かい?」
と|訊《き》くと、中谷はとぼけて、
「ご想像に任せるよ」
と言った。美子が出て来て、
「久しぶりね。中谷さん。およりになればよろしいのに」
と勧めたが、中谷は、
「またその内に寄らせてもらいますから」
と言って、帰って行った。人見は、何の気なしに、通りまで出て見送った。工事中の路地の向こうに、中谷の車が停めてあるのが見えたが、その車は空だった……。
中谷は|遠《えん》|慮《りょ》しただけなのだろうか? それとも他に待ち合わせの|約《やく》|束《そく》があったのか? それとも……。
人見は、さっぱり映画のほうに注意を集中できなかった。なぜ中谷はわざわざこの洋画会社に頼んでまで、人見にこの試写を見せたかったのか。ただの親切と思えば簡単だが、親切でやるにしては、ちょっとおかしいのではないか。
では一体何のために……。何か目的があったのだとしたら?
考えられるのは、この試写のために人見が家を留守にする、それを中谷が|狙《ねら》ったことである。
考えたくはなかったが、人見も今となっては考えないわけに行かなかった。――中谷は美子と会っているのではないか。
中谷が、路地の通行止めを知っていたこと、昨日、美子がタクシーで出かけ、それを人見に|隠《かく》していること、中谷が人見をこの試写へ来させようとしたこと……。色々考え合わせると、結論はどうにも変えようがないと思えた。
「そうか……」
|突《とつ》|然《ぜん》、人見は昨日、中谷が小説のラストを変えようと言い出したことを思い出した。それで分かった!――人妻が他の男を愛して、夫と別れてしまう。
その結末が、中谷には自分のことのようで|堪《た》えられなかったのではないか。急に道徳的なことを言い出したのも、後ろめたさがあるせいに違いない。
そんな罪の意識を持っているだけ、まだ中谷は純情な男なのかもしれない、と人見は思った。
美子が|浮《うわ》|気《き》をする。――信じられないようなことなのに、さして|抵《てい》|抗《こう》もなくその考えを受け入れた自分に、人見は|驚《おどろ》いていた。美子が|年《ねん》|齢《れい》よりもずっと若々しいこと。自分がもう五十になろうという年齢であること……。それを思えば、考えられないことではなかった。
中谷はまだ若い。しかし、美子にとって若すぎるほどには若くない。――|辛《つら》いことだったが、人見はそれを認める他はなかった……。
いつの間にか映画は終わった。何を見たのやら、さっぱり分からない。さっきの洋画会社の男に感想を|訊《き》かれては困る。人見は目につかないように、|慌《あわ》てて試写室を|逃《に》げ出した。
「あら、珍しい!」
|玄《げん》|関《かん》のドアが開いて、中から昔なじみの顔が|覗《のぞ》いた。「流行作家のお出ましね!」
「よして下さいよ」
人見は苦笑いした。
「流行作家の半分、かな、正確に言うと。お入りなさいよ」
「いいんですか?」
「ええ、どうせひまなんだもの」
|吉《よし》|本《もと》|紘《ひろ》|子《こ》は、いわゆるキャリア・ウーマンの一人で、もう四十代半ばだが、四十になるやならずとも見える若々しさだ。
女性ルポライターという商売|柄《がら》、めったに家にいたためしがない。今日も、人見はまず会えないだろうと思いながら、やって来たのである。
「珍しいですね、家にいるなんて」
と人見が言うと、Tシャツにジーンズというスタイルの紘子は、
「あら、素顔の私は家庭的なのよ」
と笑った。――彼女は独身の気ままな一人|暮《ぐ》らし。時々、|恋《こい》|人《びと》ができるという話だが、長くは続かないらしい。
「何だかユーウツな顔ね。|一《いっ》|杯《ぱい》飲む?」
「そうですね、いただきましょうか」
と|肯《うなず》いて、ソファへ身を|沈《しず》める。
「ウイスキー?」
「水割りを」
「――どうしたの?」
グラスを人見に|渡《わた》しながら|訊《き》く。「何かあったの? 仕事のほうは順調のようじゃないの」
「おかげさまでね」
人見はウイスキーを少し飲んで|肯《うなず》いた。「あなたのほうは? 今、仕事はしてないんですか?」
「私だって休みぐらい取るわよ。もう若くないんですからね」
吉本紘子は人見の遠い親類に当たる。人見の結婚以来も親しく付き合っていて、その気さくな人柄のせいもあるだろうが、美子とも気が合って、親しくしていた。
「どうも、仕事の|悩《なや》みじゃなさそうね」
「ええ……まあ……全く関係ないこともないんですが」
「でも一応プライベートなことね?」
「そうです」
「分かった」
「え?」
人見はグラスを手に目を見張った。
「あなた、彼女ができたんでしょ」
「ぼ、僕に?」
「そうよ。作家なんて、ちょっと売れ出すとすぐ女を作るんだから。――白状しなさいよ」
「とんでもない! 僕はそんなことしませんよ!」
人見は|憤《ふん》|然《ぜん》として言った。
「あら、そう。それじゃ――」
「逆です」
「逆、って言うと?」
「美子の|奴《やつ》が……」
紘子はしばし|唖《あ》|然《ぜん》としていた。
「美子さんが?――まさか!」
「本当なんですよ、それが」
「信じられないわ……。だってあの人は、そんなタイプじゃないもの」
「僕もそう思いたいんですが」
「相手は|誰《だれ》か分かってるの?」
「ええ」
人見は|肯《うなず》いた。「僕の相棒です」
「ああ。ええと……何ていったっけ?」
「中谷一です」
「そうそう。そんな名だったわね。その人と美子さんが?」
「そうらしいんです」
「まだ若いんだっけ?」
「三十五くらいですよ」
「そうか。若さじゃ|適《かな》わないわけね」
「言いにくいことをはっきり言いますねえ」
と人見は苦笑した。
「でも、二人が認めたの? そうじゃないんでしょ?」
「そうじゃありませんが……」
人見は、美子と中谷が会っているらしいと思う事情を説明した。紘子は|黙《だま》って聞いていたが、人見が話を終えると、
「フーン」
と肯き、「確かに、ちょっと|怪《あや》しいわね。でも、決め手になるようなことは一つもないじゃないの」
「それはまあ……」
「で、私に会ってどうしようと思ってたの?」
「いや――どうって――」
「私から美子さんに|訊《き》いてみろとでも言うわけ?」
人見は答えに|詰《つ》まった。確かにその通りのことを考えていたからだ。
「でもねえ。それはあなたが自分で訊かなくちゃ。それにちょっとまだ早過ぎると思うわよ」
「というと?」
「そんなことを訊いて、もしあなたの思いすごしだったらどうするの? 彼女にとってはあなたに疑われていたと分かったらショックでしょう」
それもそうだ。人見はため息をついた。自分の思い過ごしであってくれたら、どんなにいいかと思うが……。
「分かったわ、私に任せてちょうだい」
と紘子が言った。
「え? すると――」
「これでもルポライターですからね。自分の手で事実はどうなのか、調べ出してみせるわよ」
「そんなことまでしてもらっちゃ、申し訳ないですよ」
「いいのよ、どうせ二、三日は休みを取ってるんだから」
と紘子は自分も水割りを作って飲みながら言った。「その代わり一つ条件があるわ」
「何です?」
「私の調べた結果が出るまでは、美子さんは無実として接すること」
「はあ……」
「妙に疑いの目で見たり、問い詰めたりしないこと。いいわね? 有罪判決が出るまで、|被《ひ》|告《こく》は無罪なんですからね」
「分かりました。約束しますよ」
人見は|肯《うなず》いた。今日のウイスキーは、さっぱり|酔《よ》えない。
帰宅したのは夜七時ごろだった。
「お帰りなさい。|遅《おそ》かったのね」
と|玄《げん》|関《かん》へ出て来た美子は、夫が赤い顔をしているのに気付いて、「あら、どなたかとお酒?」
「うん?……ああ、ちょっと……映画会社の|奴《やつ》とな」
「まあ珍しい」
全く、彼が酒を飲んで帰るなどということは珍しい話なのである。だが、美子のほうは特別な理由があって飲んだのだとは思いもしない様子だ。
「お前、どこかへ出かけたのか?」
食堂へ入りながら、人見は言った。
「いいえ。どうして?」
「そうか。――それならいい」
人見は、吉本紘子との約束を思い出して言葉を切った。少し酔っているせいもあってか、つい言いすぎてしまいそうだ。
「ご飯はどうするの?」
「うむ……。少し食べる」
自分が留守の間に、この家で美子が中谷と|寝《ね》ていたかもしれないと思うと、やはり心は|穏《おだ》やかでなかった。――きっと中谷はあのほうだって|盛《さか》んなのに違いない。人見は、といえば、もうそんな欲望もあまり感じなくなっている……。
|廊《ろう》|下《か》で電話が鳴っている。
「はい人見でございますが」
美子の声が聞こえる。「ちょっとお待ち下さい。――あなた」
と顔を出して、
「N社の|角《つの》|田《だ》さん」
「分かった」
ガブリと一口お茶を飲んで、人見は席を立った。――受話器を取ると、
「どうも、先生、|原《げん》|稿《こう》をありがとうございました」
といささかオーバーな、角田の声が伝わって来た。
「いや、とんでもない。どうです? 読んでもらえましたか?」
この|瞬間《しゅんかん》の|緊張《きんちょう》は、作家になりたての|頃《ころ》から少しも変わらない。「どうもあまり感心しませんね」と言われる時の、すっと血の気のひいて行くような失望感は、特に新人の時代には、いやというほど味わったものだ。
「一気に読みましたよ。いや、実に結構でした!」
人見はほっと息をついた。角田は続けて、
「お二人のコンビが実に|巧《うま》く行っていますねえ。今までのお作の中でも最高のできじゃありませんかねえ」
大体がお世辞の多い男だが、ここまで言うところを見ると、本当に気に入ってはいるのだろう。
「特に、私はラストが良かったですねえ」
と角田は言った。「いや、普通ならヒロインが夫を捨てて|恋《こい》|人《びと》と第二の人生へ出発するでしょう。それを|敢《あ》えて夫のもとにとどまるようにした所が、現代ではむしろ|新《しん》|鮮《せん》に映りましたよ」
人見はマンションの仕事場のドアを開けた。――今日は「出勤」の日ではない。しかし、ここへ来て、一人になりたかったのだ。
テラスへ出るガラス戸のカーテンを開けると、明るい光が部屋に|溢《あふ》れた。体中がひどくだるいのは、いつになく早起きをしたせいばかりではなかった。
急に何年も|歳《とし》を取ったようで、けだるい|虚《きょ》|脱《だつ》感が|四《し》|肢《し》に|淀《よど》んでいた。
原稿の最後の章が入れかわっていた。――なぜだ? |誰《だれ》がやったんだ? いや、誰がということなら、中谷以外には考えられない。
人見は|机《つくえ》の引き出しを開けてみた。今度の作品で、|削《けず》った分や、書き直した分の原稿が一応しまい|込《こ》んである。――人見の書いた最後の章も、そこにあった。
中谷は、あのアイデアを出した時点で、すでに自分なりの終章を書き上げていたのだ。そして原稿を|封《ふう》|筒《とう》へ入れる時、そこの分だけをすり|換《か》えたのだ……。
人見は、中谷がこんなことをしたのも、おそらく美子との関係を|証拠《しょうこ》立てているのだと思った。――これで二人の共作も終わった。それぐらいのことは中谷にも分かっていたはずである。
それを敢えてやったのは、|決《けつ》|裂《れつ》してもともと、という気があったからだろう。たぶん、早晩美子との関係が明るみに出て、共同|執《しっ》|筆《ぴつ》も|終止符《しゅうしふ》を打つことになる、と予期していたからに|違《ちが》いない……。
人見は机の上の電話で、下のコーヒーショップへかけて、
「コーヒーを|頼《たの》む。四〇八号室へ二つ」
とつい言ってしまってから、「いや、一つにしてくれ」
と言い直した。
コーヒーが来ると、ゆっくりそれをすすりながら、これからどうすればいいかを考えようとした。
だが正直なところ、一番自分にとってショックだったのは、中谷の原稿のほうがいいと認められたことだった。――これが人見にとっては一番の|打《だ》|撃《げき》だったのだ。
むろん、あれは角田という一編集者の意見に過ぎないが、角田がよしと認めれば、ともかくその形で出版されることは、まず間違いないところなのである。
人見は、まるで新人賞に|応《おう》|募《ぼ》しては落選していた時のような気分だった。――作家としての成功も、妻も、友人も、|総《すべ》てが自分から失われて行く。そんな空しさに、|捉《とら》えられてただぼんやりとソファに|坐《すわ》り込んでいた。
電話が鳴った。人見は、しばらく鳴るに|任《まか》せておいた。
「|諦《あきら》めろよ、もうここは閉店するんだぞ」
と|呟《つぶや》く。しかし、電話は鳴りやまなかった。
「|畜生《ちくしょう》!」
舌打ちして、受話器を上げる。「はい」
「山倉様でいらっしゃいますか?」
とてきぱきとした女性の声だ。
「そうですが……」
「こちらはKホテルでございます」
「はあ」
「今夜、お部屋のお申し込みをいただいておりましたが、ただいまキャンセルで空きができましたので、ツインの部屋をお取りいたしました」
人見はしばしポカンとしていた。
「――もしもし?」
と不思議そうな向こうの声に、
「あ、ああ、分かりました、どうも」
と|慌《あわ》てて返事をする。
「お待ち申し上げております。チェック・インは四時からでございますので」
「はあ」
「よろしくお願い申し上げます」
電話は切れた。――Kホテル? 今夜の予約? ツイン・ルームと言った……。
人見の顔から血の気がひいた。美子と中谷が二人で……。
人見は仕事場を飛び出し、階段を一階まで|駆《か》け降りると、タクシーをつかまえて、家へ向かった。――美子は家を出る気なのだ! 中谷と二人で!
自宅の|玄《げん》|関《かん》が見えて来た。人見は目を見張った。玄関前にタクシーが停まっていて、ボストンバッグを持った美子が、乗り込むところだったのだ。
「美子……」
と思わず|呟《つぶや》くと、運転手は車を停めた。
「何ですか? この辺でいいんで?」
人見は、美子の乗ったタクシーが走り去って行くのを、ぼんやりと見送った。後を追っても、どうにもなるまい。美子は行ってしまったのだ。
「どうするんですか、|旦《だん》|那《な》?」
と運転手が|訊《き》いた。
「ん? ああ……Kホテルってどこだったかな?」
「|新宿《しんじゅく》に新しくできたホテルですよ」
「そうか。――じゃ、新宿へやってくれ」
人見はゆっくり座席にもたれた。
「もしもし」
と人見は言った。「吉本さんですか?」
「ああ、人見さん! どこにいるのよ」
|威《い》|勢《せい》のいい紘子の声が飛び出して来る。「さっきから何度も家へかけたのに――。今どこなの? ずいぶんやかましいわね」
「ええ、外からなんです」
人見は、周囲の|雑《ざっ》|踏《とう》を見回した。
「昨日の話だけど――」
と紘子が言いかけるのを、
「あれなら、もういいんです」
と人見は|遮《さえぎ》った。「もう済んだんです」
「え? どういうこと?」
と紘子は|面《めん》|喰《く》らったように言った。
「いや、どうもお手数をかけました。もう気にしないで下さい」
「だけど――」
「じゃ、どうも」
人見は電話を切った。――四時になっていた。まだ二人はチェック・インしていないかな、と考える。まあ、どうでもいい。|俺《おれ》には関係ないことだ。
どこかでめちゃくちゃに酔っ払おう。人見はそう決めて、一人、ふらふらと歩きだした。
「酔いたい時には酔えないもんだな」
何軒目かの店を出て、人見は|呟《つぶや》いた。――すっかり夜の|賑《にぎ》わいである。|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見ると七時になっていた。
時間ばかりが気になる。――二人はもう部屋へ入ったろうか? 夕食でも取っているかもしれない。そしてベッドへ……。
もう忘れろ! 人見は頭を|振《ふ》った。もうあの二人は、|俺《おれ》とは何の関係もないのだ。|離《り》|婚《こん》だって何だってしてやる。好きにするがいいんだ!
人見はふらふらと歩いて、ふとある古道具屋の前で立ち止まった。じっとウインドの中を見ていたが、やがて店へ入った。
店から出た時には、コートの中の右手は、切れ味の良さそうなナイフを|握《にぎ》りしめていた。
「いらっしゃいませ」
「ええと、ツインの部屋を予約した山倉だけど……」
Kホテルのフロントで、人見は言った。
「山倉様でございますね」
「妻がもう来てるはずなんだ。ルームナンバーさえ分かればいい」
「分かりました。――山倉章夫様で?」
「そうだ」
「一八〇五号室。十八階でございます。あちらのエレベーターでどうぞ」
「ありがとう」
人見はエレベーターに乗って、〈18〉のボタンを|押《お》した。――二人はいるだろうか? いたらどうする? 今晩は、とでも言うか。それとも、いきなり……。
右手はずっとナイフを握りしめていたが、果たして本当に殺すつもりなのかどうか、自分でも分からなかった。その時になってみなければ……。
十八階で降りると、ゆっくり|廊《ろう》|下《か》を歩いた。一八〇五号室はすぐに分かった。人見はドアの前に立って、ちょっとの間、呼吸を整えるように息をついた。
ノックすると、すぐに美子の声が、
「はい」
と返って来た。ドアが急いで開いた。
「あなた!」
美子は一向に|驚《おどろ》いた様子ではなかった。むしろホッとしたような表情だった。
「遅かったのね? 招待状を見なかったのかと思って心配してたのよ」
人見はすっかり|面《めん》|喰《く》らってしまった。
「招待状?」
「さあ、早く入って」
|狐《きつね》につままれたような思いで中へ入って、人見は目を丸くした。
テーブルの上に、大きな白いケーキが|飾《かざ》られて、そのそばに、中谷と、吉本紘子、それに見たことのない、若い女性が立っていた。
人見が進んで行くと、紘子が、
「結婚記念日、おめでとう!」
と言った。
「結婚記念日?」
そうだったかな?――人見は思い出せなかった。しかし、ともかくこれは一体、どうなってるんだ?
「おめでとう、人見さん」
と中谷が人見の手を握った。
「ありがとう……」
「|紹介《しょうかい》したい人がいるんだ」
中谷は、見知らぬ女性のそばへ行って、「ええと……|佐《さ》|藤《とう》|絹《きぬ》|子《こ》さん。|僕《ぼく》の――つまり、フィアンセなんだ」
と言いながら、顔を赤らめた。|娘《むすめ》のほうは、
「佐藤絹子と申します。よろしく」
と頭を下げる。
「はあ……」
何だかわけが分からぬままに人見も頭を下げた。
「さあ、シャンパンを|抜《ぬ》こうよ!」
と紘子が|威《い》|勢《せい》よく言った。
人見はぼんやり|突《つ》っ立っていた。ともかく美子と中谷の間に何もなかったことだけは分かった。
「さあ、|乾《かん》|杯《ぱい》!」
シャンパンのグラスを持たされて、人見も美子とグラスを打ち合わせた。――美子は、一段と美しかった。見たことのない、|洒《しゃ》|落《れ》たワンピースを着ている。|香《こう》|水《すい》も|匂《にお》っているようだ。
「中谷さんが色々とお|膳《ぜん》|立《だ》てして下さったのよ。あなたにまだまだ元気で働いてほしいからってね」
「何しろ人見さんが|頑《がん》|張《ば》ってくれないと、僕は半人前どころか三分の一人前ぐらいだからな」
と中谷は笑って言った。「――あ、そうそう、さっき角田さんへ電話を入れたんだけどね。人見さん、最後の章、僕の原稿を入れてくれたんだね。――びっくりしたよ、話を聞いて」
人見は|呆《あっ》|気《け》に取られていた。では|俺《おれ》が勝手に入れ違えたのか!
「でもね、角田さん、読み返してみると、やっぱりあの結末は無理だって。あの二人が別れるように書き直してくれってさ。――やはり人見さんにはかなわないよ」
「いや、そ、そんなことはないさ……」
「でも、ありがとう、僕の原稿を使ってくれて」
「いいんだよ」
人見はゆっくりシャンパンを飲んだ。そうだったのか。美子が出かけたのも、中谷が、俺の留守の間に訪ねて来たのも、この準備のためだったのか! それを俺は……。
吉本紘子がそっと寄って来て、人見の耳元に|囁《ささや》いた。
「どう? |取《と》り|越《こ》し苦労だったでしょう?」
「あの、昨日の話は――」
「分かってるわよ。絶対秘密にするわ」
「恩に着ますよ」
人見は|冷《ひや》|汗《あせ》をそっと|拭《ぬぐ》った。
その後、ささやかなパーティは、もっぱら中谷とフィアンセのほうに話題が集中し、一時間ほど続いた。
「さあ、そろそろ私たちは引き上げましょう!」
と紘子が宣言して、「じゃ、お二人でごゆっくり」
と美子の|肩《かた》を|叩《たた》いた。中谷もフィアンセの娘と|一《いっ》|緒《しょ》に別れを告げて、部屋には人見と美子が残った……。
「いい人たちね」
と美子が言った。
「うん」
人見は|肯《うなず》いた。「今夜はえらくきれいだな、美子」
「まあ、あなたにしては|珍《めずら》しいわね、お|世《せ》|辞《じ》なんて」
「本気だよ」
「その割には、あなた、ひげも|剃《そ》ってないわよ」
と美子が夫の|頬《ほお》へ手を|触《ふ》れた。
「|忙《いそが》しかったんだ」
「後で剃ってちょうだいね」
「君にキスする前にね」
美子は顔を赤らめて笑った。
「ケーキが甘かったから、何かさっぱりしたものが欲しいわね。――冷蔵庫に果物があるのよ。でもナイフがないから……」
「ナイフか。持ってるよ」
人見はコートのポケットからナイフを取り出した。「洗えば使えるだろう」
「まあ、どうしてナイフなんか持ってたの?」
「うん? いや、こんなこともあるかと思ってね」
ととぼけて言った。
「|凄《すご》いカンをしてるわね」
「そうだとも」
人見はソファにゆっくりと|寛《くつろ》いで、言った。「そうでなくちゃ、作家|稼業《かぎょう》はつとまらないよ」
特別休日
どこかおかしい……。
目を覚まして、|田《た》|沢《ざわ》はそう思った。いつもなら、カーテンに当たる朝の光はもっとほのかで、|寝《しん》|室《しつ》の|六畳間《ろくじょうま》を|薄《うす》|明《あ》かりで照らすくらいなのだが、今朝は木の|影《かげ》をくっきりと映し出して、|端《はし》の|隙《すき》|間《ま》から|洩《も》れた光が部屋の中へ白い帯となって入り|込《こ》んでいる。
一体何時なんだ? 田沢は二、三度目を固くつぶってから頭をめぐらせて|壁《かべ》の時計を見た。――とたんに田沢は|布《ふ》|団《とん》をはね飛ばすような勢いで起き上がっていた。
「九時だって!」
いや、正確には八時五十二分であったが、八分くらいの差は目に入らなかったのである。今日は……日曜日だったろうか? いや、そんなはずはない。昨日は確か火曜日だった。TVの番組を|憶《おぼ》えている。|間《ま》|違《ちが》いない。
ということは、つまり……。
田沢は布団から飛び出し、ふすまを開けた。妻の|伸《のぶ》|子《こ》が、ダイニングキッチンのテーブルでパンを食べている。
「あら、起きたの?」
と夫を見て、ちょっとびっくりした顔になった。
「起きたの、だって? 何時だと思ってるんだ!」
「もうすぐ九時よ」
伸子がいともあっさり答えたので、田沢は|一瞬呆気《いっしゅんあっけ》に取られた。
「わ、分かってたら、どうして起こさないんだ!」
田沢の|怒《ど》|鳴《な》り声に、伸子は|面《めん》|喰《く》らった様子で、言った。
「だってあなた――今日は休むんでしょ」
「休むって?――|俺《おれ》が?」
今度は田沢の方が面喰らった。
「そう言ったじゃないの。大口の|契《けい》|約《やく》を取りつけたから、|守《もり》|屋《や》さんと|中《なか》|本《もと》さんと三人が特別に三日間、|休暇《きゅうか》をもらったんだって」
田沢は|突《つ》っ立ったままポカンとしていたが、やがて、
「そ、そうだったかな……」
と口の中でモゴモゴと|呟《つぶや》きながら、|椅《い》|子《す》に|坐《すわ》った。そうだった。どうして忘れていたんだろう。昨日はのんびりと|遅《おそ》くまでテレビを見て、先に|眠《ねむ》りかけていた伸子を|揺《ゆ》り起こして、久しぶりに夫婦の営みを……。
それでいて、今朝はすっかり忘れているのだ。全く!――田沢は我ながら|呆《あき》れた。
「どう? 思い出した?」
伸子が冷やかすように|訊《き》く。田沢は大きく息を|吐《は》いて、
「|光《みつ》|夫《お》は?」
と分かり切ったことを訊いた。
「学校に決まってるじゃないの」
「そうか。そうだな」
伸子はクスッと笑った。
「|模《も》|範《はん》的サラリーマンね、あなたは。休みを忘れちゃうなんて」
田沢は苦笑いした。
「日曜以外に休むのなんて何か月ぶりか、だからな」
「どうする? そうと分かったらまた|寝《ね》る?」
田沢はちょっと迷ったが、すっかり目は覚めてしまっていた。二度寝しても頭が重くなるだけだろう。
「いや、もう起きるよ」
「それじゃ朝ご飯にするわ。今朝はゆっくり食べられるわよ」
「そうだな」
田沢は、何となく落ち着かない気分で|椅《い》|子《す》の背にもたれ、テーブルの上の新聞を取って広げた。見出しを見ながら、一方の手がテーブルを探っているのに気付き、|慌《あわ》てて引っ込める。いつもコーヒーを飲みながら新聞を読む――いや、|眺《なが》めているからだ。
幸い伸子はガステーブルの方に向いているので、気が付かなかったようだ。田沢は両手で大きく新聞を広げた。
田沢は三十七|歳《さい》である。中規模の専門機器メーカーの営業部係長という、いわゆる中堅――といえば聞こえはいい、要するに一番|多《た》|忙《ぼう》な、気苦労の多い立場にいる。
会社は一応|隔週《かくしゅう》で週休二日制を取っていたが、その通り休めるのは女子事務員だけで、田沢はその制度が始まって以来、土、日と二日休んだことは一度もない。それどころか、一日の休みも午前中出勤、午後から呼び出し、夕方から出張――といった具合に、|潰《つぶ》れることが|珍《めずら》しくなかった。
特にこの一年、業界の不況は彼の会社だけを素通りしてはくれず、営業マンにとっては毎日が戦争のようだった。土曜も日曜もない。町を歩いていて、いやに人通りが多いのに気付いて考えてみると、日曜だった、ということもあった。
得意先の接待、付け届けなどで夜も遅く帰ることが多い。一人息子の光夫は小学校の三年生だが、普段はめったに顔を合わせることもない始末だ。――その|忙《いそが》しいさなかの特別休暇だ。しかも三日間! 思いがけぬ大口契約の成立の功を認められてのことだが、課長からそう聞かされた時も、さっぱり実感がなかったのは、のんびり休むという感覚を忘れてしまっていたのだろう。
「守屋さんと中本さんはゆっくり眠ってるかしらね」
久しく朝食のテーブルではお目にかかったことのない目玉焼きを夫の前へ置きながら、伸子が言った。
「そうだな。守屋の所は子供が|幼《よう》|稚《ち》|園《えん》だし、中本は独身だ。――まあ、昼過ぎまで寝てるだろうよ」
田沢はコーヒーを飲もうとして、ふと時計に目を止めた。――九時を過ぎている。会社では、仕事が始まっているのだ。
ゆっくりとコーヒーをすすりながら、田沢は、初めて会社を休んだのだという実感を味わっていた。
「人通りが多いもんだなあ」
休みでもないのに、と田沢は駅前のスーパーの入ったビルの中を歩きながら思った。
子供連れの主婦ばかりではない。結構、父親らしい姿も見えるのは、きっとサービス業などに勤めていて、日曜以外が休日なのだろう。まさか、みんながみんな特別休暇ってわけじゃあるまい、とちょっぴり得意な気分になって考える。
ビルの中の本屋に寄って、何を買うというのでもないのだが、ぶらぶらと|書《しょ》|棚《だな》を見て歩く。いつも八時に閉まるので、寄れたためしがない。――それでも、つい目は仕事に関係のある経済書やセールス関係の本へ向いてしまう。いささか自分でもいやになって、適当に手に|触《ふ》れた週刊誌を買い、同じフロアにある|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》へ入った。
「せっかく休みなんだから、散歩でもしてらっしゃいよ」
伸子に言われて出て来たのだが、さて、どこへ行くといって、別に思い付かない。商店街をわきへ入った所にポルノ専門の映画館があって、入ってみるかな、とポケットから財布を出しかけたのだが、ちょうどそこへ近所の主婦が通りかかって|会釈《えしゃく》されたので、こっちも頭を下げて、|慌《あわ》てて|逃《に》げ出してしまった。
全く、伸子の言う通り、模範的サラリーマンなのかもしれない。休めない休めない、と文句を言っておいて、いざ休んだら何をしていいのか分からないと来ている。
田沢は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見た。家を出て来て、まだ三十分しかたっていない。あまり早く帰っては、また伸子に冷やかされそうだ。もう少し時間を|潰《つぶ》そう。――しかし、何をして?
田沢は、ふと思い付いて、喫茶店の赤電話の所へ立って行った。他の二人、守屋と中本はどうしているのか、電話してみようかと思ったのだ。
守屋は田沢より三年|後《こう》|輩《はい》の、同じ係長だ。なかなか頭の切れる男で、課長のおぼえもめでたい。しかし、人当たりの|柔《やわ》らかい性格なので、同僚から反感を買うことはなかった。
ダイヤルを回し、ほどなく守屋の妻が出た。
「田沢ですが」
「あ、どうも。いつも主人が――」
何だか|慌《あわ》てたような口調だ。
「ご主人はおられますか」
「あの――それが、出かけておりまして――」
「そうですか。それなら結構です」
「どうも、申し訳ありません」
いやにあわただしい感じで、電話が切れてしまった。客でもあったか、|鍋《なべ》でも火にかけっ放しになっていたのだろうか。
田沢は中本のアパートの電話番号を回した。――中本は田沢の補佐に当たる部下である。三十一歳だが、まだ独身で、のんびり|暮《く》らしている。
五回、六回、と呼び出し音が続いたが、一向に出る気配もない。どうやら中本も出かけてしまったようだ。まあ、せっかくの休みにアパートの部屋にいても面白くはあるまいが。
田沢は席へ|戻《もど》ってコーヒーを飲み終えると、家へ帰ることにした。行くあてもないのに歩き回っても仕方ないし、それに留守の間に、会社から電話でも入っているかもしれない。何しろ補佐の中本も休んでいるのだから、何かあった時には、休みなどお構いなしで電話して来るだろう。
「――ただいま」
伸子が台所から顔を出して、
「あら、もうお帰り?」
「うん。行く所もないからな」
と|奥《おく》へ行きかけて、「電話なかったか?」
「別にないけど……。どこかからかかるはずなの?」
「いや、そうじゃないが――」
田沢は|曖《あい》|昧《まい》に言葉を濁した。「なきゃいいんだ」
奥の部屋で寝転がりながら、田沢は、何となく、がっかりしていた。
二日目は、さすがに|慌《あわ》てて飛び起きるようなことはなかった。
目が覚めると九時半で、大きな|欠伸《 あくび》をして|布《ふ》|団《とん》に起き上がったが、
「いてっ」
と|腰《こし》を|押《お》さえて顔をしかめた。|肩《かた》や腕の筋肉も痛んだ。久しぶりで昨日光夫と遊んだせいだ。――近所の公園へ行って、キャッチボールをしたり鉄棒をしたり、帰りには駅前へ回って二人でホットケーキを食べて来た。光夫が目を|輝《かがや》かせて喜んでいる姿を見ると、田沢は胸が痛む思いだった。
いかに自分が普段子供に構ってやれないかを、つくづく感じた。仕事なんだから、仕方ないとはいっても、それで子供の心が|慰《なぐさ》められるわけではない……。
「おはよう。どうしたの?」
伸子は、夫がびっこをひきひき起きて来たのに目を丸くした。
「急に運動したもんだから……。いてて……」
伸子は笑いながら、
「たまに家庭サービスなんて考えるからよ」
「そうからかうな。たまには光夫の|奴《やつ》と遊んでやらなくちゃな」
伸子はガステーブルの方へ立って行って、ふと思い出したように言った。
「あ、さっき会社の人から電話があったわよ」
とたんに田沢は腰の痛みも忘れてしまった。
「な、何だって? |誰《だれ》からだった?」
「さあ、|訊《き》かなかったわ。『まだ寝てます』って言ったら『じゃ結構です』って。大した用じゃないみたいよ」
「どうして起こさないんだ!」
「だって向こうがすぐ切っちゃったんですもの」
「し、しかし、相手の名前ぐらい……」
|苛《いら》|々《いら》と言いかけて、「男だったか、女だったのか?」
「女の人だったわ。えらく太い声の」
「|柴《しば》|山《やま》さんだ」
と田沢は言った。柴山は課長の秘書をしている、四十歳の女性だ。男まさりのガラガラ声が|特徴《とくちょう》で、気性の方も同様だった。しかし、課長秘書がなぜ電話を?――何かあったのだろうか? それなら電話をすぐ切るのもおかしい……。
「かけてみる」
田沢は急いで|廊《ろう》|下《か》の電話へ走って行くと、会社の番号を回した。ジリジリしながら待つ内に、やっと受付が出た。
「田沢だがね――」
「は? どちらの田中様ですか?」
「田沢だよ、営業の!」
「あ、何だ、係長ですか。おはようございます」
と受付の女の子はクスクス笑っている。
「柴山さんを出してくれ」
「お待ち下さい」
待つほどもなく、柴山|克《かつ》|子《こ》の|塩《しお》|辛《から》|声《ごえ》が聞こえて来た。
「あら、田沢さん、もう起きたの? ゆっくり寝てりゃいいのに」
「さっき電話をくれたのは君かい?」
「そうよ」
「何かあったの?」
「そうじゃないわよ。課長が出かけたからさ、あなた休みをどうしてるかなと思って」
「それだけ?」
田沢は|拍子抜《ひょうしぬ》けして|訊《き》き返した。
「それだけよ。悪かったわねえ、起こしちゃって」
「い、いや、どうせもう……。それで仕事の方は|巧《うま》く――」
と言いかけて口をつぐむ。彼の係のことまで、彼女が知るわけはない。
「それならいいんだ。何かあったのかと思ってね」
「何もないわよ。ご心配なく。ゆっくり休みなさいよ」
「ありがとう……」
ダイニングへ戻ると、伸子が、
「どうだったの? 何か急用?」
と訊いた。田沢はちょっと|詰《つ》まったが、
「――急用、ってことでもないけどね――会議のことでちょっと」
と言いながらテーブルについた。新聞を広げながら、何ともいえない|寂《さび》しさが自分の内に広がって来るのを、田沢は感じた。――休んで、もう[#「もう」に傍点]二日目だというのに、電話で彼の指示を|仰《あお》いで来るでもないし、|緊急《きんきゅう》の用で呼び出されるわけでもない。
自分なしでも、仕事は支障なく進んでいるのだ。そう思うと、急にまた腰が痛み出すのを感じた。
「二人で外食なんて本当に久しぶりね」
伸子はレストランの中を見回しながら、しみじみと言った。「――あなた、どこか一人で好きな所へ行ってくればいいのに」
「たまにはいいじゃないか。光夫の|奴《やつ》もまだしばらく帰って来ないし」
「あそこの映画館でポルノでも見てらっしゃいよ」
「お、おい――」
田沢が|慌《あわ》てると、伸子は笑って、
「|土《つち》|屋《や》さんの奥さんが言ってたのよ、あなたがあそこへ入りかけてたのに、顔が合っちゃったもんで、悪いことしちゃったって」
「お、|俺《おれ》はただ通りかかっただけさ」
とぼけて見せたが、我ながらまずい演技だった。「――たまには家族で旅行でもしたいなあ」
言ってしまってから自分で|驚《おどろ》いた。話をそらすつもりで思い付くままを口にしたのだが、そこに思いがけず実感が|籠《こも》っていたからである。
「そうねえ。前に旅行したのはいつだったかしら……」
伸子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「でも、無理しなくていいのよ。お仕事が第一ですもの」
田沢は急に雲が風で|吹《ふ》き|払《はら》われたような、何かふっ切れた気持ちになった。自分なしでも、仕事は順調に運んでいる。それは寂しいことではあるが、逆に考えれば、家族のための時間をもっと取っても、仕事には支障ないということでもある。
今までは、俺が休んだら会社が|潰《つぶ》れる――|極端《きょくたん》に言えば、そんな|切《せっ》|迫《ぱく》した気持ちでいたのが、この不意の休日で、|突《とつ》|然《ぜん》目を覚まされたような気がしたのだった。
料理はありふれて、特別|旨《うま》くもなかったが、二人は大いに楽しみながら食べた。接待でもなく、レストランで食事をするというのは、考えてみれば|滅《めっ》|多《た》にないことである。
「ちょっとトイレに行って来るわ」
伸子がテーブルを|離《はな》れると、田沢はウェイトレスを呼んでコーヒーとミルクティーを|頼《たの》んだ。伸子が|昔《むかし》、喫茶店では必ずミルクティーを飲んでいたことを思い出したのだ。
ゆっくりタバコをふかしていた田沢は、ふと「特別休暇」という言葉を耳にして|振《ふ》り向いた。――昼休みのサラリーマンらしい中年の男が二人、安い定食をかき|込《こ》みながら、すぐ後ろのテーブルで話しているのが、耳に入って来る。
「ひどい話じゃねえか」
「全くむごいことをするなあ。――じゃ、本人にはただ特別休暇だと言って?」
「そうなんだよ。功労賞だか何だか、適当な理由をくっつけて一週間の休みをやる。本人は大喜びで命の|洗《せん》|濯《たく》さ」
「で、一週間たって出社してみると――」
「自分の|机《つくえ》はなくなってたってわけさ」
「びっくりしたろうなあ」
「周囲の|奴《やつ》に話しかけても、誰も返事もしない。まるで|透《とう》|明《めい》人間か|幽《ゆう》|霊《れい》にでもなったみたいだったそうだよ」
「そうだろうな」
「で、今までの自分のポストには、一番|信《しん》|頼《らい》していて、自分が結婚の|仲《なこ》|人《うど》までつとめた部下が|坐《すわ》ってた、っていうんだからね」
「それでその男、どうしたんだい?」
「やっとそれが自分を辞職させるための強引な手だったんだと気付いて、組合へ|訴《うった》えたそうだが、なあに、今の組合なんて会社第一だからな」
「うん、それはそうだ」
「結局相手にされず、それでも一週間、毎日会社へ足を運んだそうだよ。――他に行く所もないからな[#「他に行く所もないからな」に傍点]」
「その|挙《あげ》|句《く》に……」
「ビルの屋上から飛び降りて、一巻の終わりさ」
「気の毒に。しかし、俺たちも気を付けなきゃなあ。――まあ、クビになったからって、死ぬ気はないがね」
「いや、分からないぜ。急に、『もう会社へ来なくていい』と言われたら……。その時になってみないと、どうするか分からないぜ……」
伸子が戻って来た。
「あら、どうしたの?」
「――え? 何か言ったか?」
田沢は我に返った。
「何だかずいぶんむつかしい顔してたわよ」
「そ、そうかい……」
ウェイトレスがコーヒーとミルクティーを運んで来た。伸子は|嬉《うれ》しそうに、
「まあ、よく|憶《おぼ》えてたわね、私がミルクティーを飲むのを」
「ああ……。忘れやしないよ」
「ねえ、どうかしら、さっきの話」
「え? さっきの、って?」
「旅行でもしようかって言ったじゃないの。|暮《くれ》から正月にかけてなら、そうお仕事にも差し支えなく行けるんじゃない?」
「ああ。そう――そうだな」
田沢は笑顔を作った。「いいじゃないか」
「そう? 光夫もきっと喜ぶわ。私、どこかいい所を|捜《さが》しておくわ」
「頼むよ」
コーヒーの味がさっぱり分からなかった。後ろのテーブルの二人は、もう席を立っている。そろそろ一時で、会社へ戻らねばならないのだろう。――戻る会社があるだけ、まだ幸せなのかもしれない。
特別休暇。強制退職。
「まさか!」
思わず口に出して|呟《つぶや》いた。
「何か言った?」
不思議そうに|訊《き》く妻へ、|慌《あわ》てて首を振ってみせ、
「いや、何でもない」
そうとも。うちの会社が、そんな|真《ま》|似《ね》をするものか。そんな|非人情《ひにんじょう》なことを……。
田沢はコーヒーを一気に飲みほした。
レストランを出ると、田沢は、
「ちょっと一人でぶらぶらしてから帰るよ」
と言った。
「どうぞどうぞ。私もせっかくここまで来たから、スーパーで買い物して帰るわ。ごゆっくり」
「ああ」
伸子の姿が人の流れに消えるのを見送ってから、田沢は息をついた。きっと彼がポルノでも見て来るのだと思っているだろう。――だが、田沢はそんなつもりはなかった。
公衆電話のボックスへ入ると、しばらくためらってから、思い切って受話器を取った。――守屋の家へかけた。
「守屋でございます」
守屋の妻が出る。田沢は少し声を|押《お》し殺すようにして、
「あの、ご主人はご在宅でしょうか?」
「どちら様で……」
「あの――伊藤と申します」
とっさに、伸子の|旧姓《きゅうせい》を持ち出した。「以前、仕事でご主人にお世話になった者ですが」
「さようでございますか。あの主人は会社へ行っておりますが」
「――そ、そうですか。では会社の方へかけてみます。どうも」
「いえ――」
受話器を戻す手が|震《ふる》えた。守屋が会社へ行っている? これはどういうことなのだろう? |一《いっ》|緒《しょ》に三日間の|休暇《きゅうか》をもらったはずではないか。
田沢は中本のアパートへ電話をかけた。しかし、昨日と同じように、|誰《だれ》も出ない。中本も、出社しているとしたら?
「そんな|馬《ば》|鹿《か》な!」
あんな話がそうそうあってたまるものか。よほど特別な例だ。よほど|不況《ふきょう》で、人員整理の必要な企業が、不要な人材を切り捨てているのだ。――うちの社はまだそんな所まで行ってはいない。
そうか? 本当にそうか?
田沢は電話ボックスを出ると、別にあてもなく歩き出した。
不況といえば、自分の会社も不況には|違《ちが》いない。人員整理の|噂《うわさ》も、|陰《かげ》では|囁《ささや》かれたことがある。しかし、俺は不要な[#「不要な」に傍点]人材ではないはずだ。田沢はそう自分に言った。何といっても近来にない大口の|契《けい》|約《やく》を取ったんだからな。
しかし、上層部の考えは、彼のような中堅社員には全く分からないのだ。もし、誰かを辞めさせるとしたら……。そうだ。現に、彼がいなくても、仕事は順調に進んでいるではないか。それはつまり、彼が不要な人材だということではないのか……。
田沢は、出社して、自分の机も|椅《い》|子《す》もなくなっているのを見た時のことを想像すると、本当に血の気がひくのを感じた。席がなくても、毎日毎日、出勤して行く姿を頭に描くと、やり切れない気がする。
他に行く所もないから……。
本当だ。今、「会社」を失ったら、一体どこへ行けばいいのだろう。――そう考えて、田沢はぞっとした。自分が、会社という底なし|沼《ぬま》につかって、|溺《おぼ》れそうで溺れないままに、出ることもできずにいる、という気がしたのである。
田沢は駅の改札口の前に立っていた。これも習性だ。
休日はもう一日ある。しかし、もし、|懸《け》|念《ねん》が事実だとしたら……一日のせいで|手《て》|遅《おく》れになるかもしれない。いや、もしそれが決定したことなら、彼一人の力でどうなるものでもないが、しかし、ともかく確かめたかった。|恐《おそ》ろしい想像に|悩《なや》まされているよりはましだ。
田沢は|切《きっ》|符《ぷ》を買って、駅へ入った。
|普《ふ》|段《だん》|着《ぎ》にサンダルばきのままでオフィス街を歩くのは、何だか|気《き》|恥《は》ずかしい感じだった。えらく場違いで、奇異の目で見られているような気がする。
会社へ向かって歩いて行きながら、田沢は、自分がどうするつもりなのか分かっていなかった。この格好で、事務所へ何と言って顔を出すつもりなのか。もし本当に|彼《かれ》の席がなくなっていたら、どうするのか。――何も考えていなかった。
会社のビルへ近付くにつれ、足取りは重くなる。このまま家へ帰ってしまおうか、と思った。どうなるにせよ、今さら|慌《あわ》てても仕方がないではないか。――迷って、行くも帰るもならず、足を止めた。
ふと頭をめぐらすと……ガラス張りの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》の|奥《おく》のテーブルに、守屋と中本の姿があった。|錯《さっ》|覚《かく》かと、思わず目をこすったが、間違いなく、あの二人だ。背広にネクタイ姿である。やはり中本も出社していたのだ。
店へ入って行くと、中本が彼に気付いた。
「係長! どうしたんです?」
「いや……。どうってことはないがね」
田沢は二人のわきに|腰《こし》をおろした。
「田沢さん、その格好で会社へ?」
と守屋が|愉《ゆ》|快《かい》そうに|訊《き》いた。
「いや、会社へは行ってないよ」
「じゃ、ここまで何の用で?」
「君たちこそどうしたんだ? 三日間休みをもらったはずじゃないか」
守屋と中本は困ったように顔を見合わせたが、守屋の方が照れくさそうに言い出した。
「いや、全く馬鹿げた話なんですよ。昨日は一日のんびりしました。近くの川へ散歩に行ったり、本を読んだりね。……ところが、今日になると、もうだめなんです。落ち着いて休んでいられないんですよ。あの仕事はどうしたろう、この手紙は間違いなく出してあるかしらと考え出すと、もういても立ってもいられなくなりましてね。昼には家を出てしまったんです。|女房《にょうぼう》の|奴《やつ》には全く|救《すく》い|難《がた》いという顔をされましたがね」
「僕も同様です」
中本も苦笑いした。「まだそこまで会社人間になっちゃいないと思ってたんですが、休んでみるとだめですね。係長がいらっしゃらないのに、|俺《おれ》まで休んでいいのか。もし何かあったらどうしよう、なんて考えましてね。――まあ、何かあれば電話があるはずですけどね。頭でそう分かっていても、体の方がさっさと背広を着てネクタイをしめて――って感じです。で、出社してみると守屋さんもみえてるじゃないですか」
「二人で大笑いしましたよ」
田沢は自然に|微《ほほ》|笑《えみ》が|浮《う》かんで来るのを感じた。――みんな|模《も》|範《はん》的サラリーマンなんだ。本当に。
「で、こんな所で何してるんだ?」
「いや社長に|渋《しぶ》い顔をされましてね。『せっかく努力賞の意味で休暇をやったのに、出て来られては、他の社員への|励《はげ》ましにならない』と言われて、帰ることにしたんですよ」
田沢は声をあげて笑った。
「全く救い難いな、俺たちは!」
「係長はどうしてここへ来られたんです?」
中本に|訊《き》かれて、田沢はぐっと|詰《つ》まった。今になっては、あんな心配が何とも馬鹿げて見える。
「ま、いいじゃないか、そんなこと」
とごまかして、「どうだ、時間を持て余してるんだろう。一つ映画でも見て、それから俺の家で飲もうじゃないか。明日も休みなんだからな」
「いいですね!」
中本がニヤリとした。
「よし、じゃ出かけよう。――おい、ネクタイなんか外しちまえよ。会社へ行くわけじゃないんだぞ」
「すると、かなり|酔《よ》っておられたんですね?」
と警官が|訊《き》いた。中本は|肯《うなず》いて、
「ええ……。いつもはあんなに飲む人じゃないんです、係長は。駅まで送ってもらって……そこで、もう一度飲み直そうと言い出して」
「|喧《けん》|嘩《か》の原因は何だったんです?」
「さあ、分かりません。――つまらないことだったんでしょう。本当にいつも|穏《おだ》やかな人で、喧嘩なんかしない人なんですが、止めるひまもありませんでした。相手がナイフを持ってるなんて知らなかったし……」
「運が悪かったですな。|一《ひと》|突《つ》きで、心臓をやられていましたからね。――どうしてそんなに飲んだんです?」
「明日も休みだったもんですから。明日が会社なら……ああは飲まなかったでしょう」
守屋が戻って来た。
「奥さんに電話して来たよ。――すぐ来るはずだ」
二人は|沈《しず》み切って、頭をかかえていた。
警官が息をついて言った。
「あまり慣れないことをするものじゃありませんな」
|高《こう》|慢《まん》な死体
時間|潰《つぶ》しのコーヒーも四|杯《はい》|目《め》となるとさすがにうんざりして、早過ぎるのを承知で、私はS映画社の|試《し》|写《しゃ》|室《しつ》へ入った。|椅《い》|子《す》が五十ばかりしかない|狭《せま》い部屋は、まるで冷蔵庫のように|冷《れい》|房《ぼう》が|利《き》いていて、私は|慌《あわ》てて|腕《うで》にかけていた|上《うわ》|衣《ぎ》に腕を通した。
|驚《おどろ》いたことに先客があった。もっとも、最前列のその頭がこっちを向く前に、私はそれが|誰《だれ》なのか分かっていたのだが。
「今晩は」
そう言ってから、|小《お》|野《の》|邦《くに》|子《こ》は慌てて、「おはようございます」
と言い直した。
「おはよう」
私は|微《ほほ》|笑《え》んで、中ほどの席に|腰《こし》を降ろすと、上衣のポケットから一本だけ残っていたハイライトを取り出し、百円ライターで火を|点《つ》ける。小野邦子は席を立って私のそばへやって来た。|半《はん》|袖《そで》の|紺《こん》のTシャツにジーパンのスタイル。私なら、たちまち神経痛でやられてしまうところだ。
「何だか落ち着かなくって……」
邦子ははにかみがちに笑った。
「照れることはないよ」
「でも……|馬《ば》|鹿《か》みたいでしょう、一時間も前から試写室に来てるなんて」
「初めて自分の名がタイトルに出るときは誰だって|興《こう》|奮《ふん》するものさ」
「先生もそうだった?」
「ああ、胸がジンと熱くなってね。――ただし、『脚本・|加《か》|納《のう》|裕《ゆう》|二《じ》』のタイトルの『二』の字が『次』になってて、ちょっと興ざめだったがね」
「どんな|脚《ほ》|本《ん》だったのかしら?」
「言わぬが花だね」
邦子は笑った。美人とは言えないが、その笑顔は大変人なつっこい|魅力《みりょく》を感じさせる。しかし、まだ|彼《かの》|女《じょ》は十九|歳《さい》なのである。若さは、それ自体、一つの魅力だ。
背後で誰かがひどく|咳《せき》|込《こ》んだ。|映《えい》|写《しゃ》|技《ぎ》|師《し》の|昭介《しょうすけ》じいさんだ。
「じいさん、|風《か》|邪《ぜ》かい?」
私は声をかけた。
「ああ……急に寒いところへ入ると、とたんにこうだよ」
言い終えないうちに、またひとしきり咳込むと、狭い通路を、びっこをひきひき、一回りすると、試写室を出て行った。|和《わ》|田《だ》昭介といえば、トーキーの初期にはかなり知られたカメラマンだった。それが戦争で負傷し、長い入院生活を終えた時は、もう映画はカラー時代。取り残された昭介じいさんは酒に|溺《おぼ》れるようになり、|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》同然のところを、たまたま|昔《むかし》なじみだったプロデューサーに拾われて、ここで映写技師をするようになったのである。
腕時計を見ると、六時半だった。そろそろみんなやって来るだろう。――今日は単発物のTV映画「|炎《ほのお》の女」の試写だった。私のオリジナルシナリオ――といっても、もちろん方々からコテンパンにやられて|満《まん》|身《しん》|創《そう》|痍《い》。ツギハギ。ホコロビだらけの作品だが。それに|監《かん》|督《とく》が|谷周平《たにしゅうへい》、プロデューサーは、顔なじみの|桑田満《くわたみつる》だ。
ちょうどそこへ谷と桑田がそろって入って来た。
「おはようございます」
邦子が元気よく|挨《あい》|拶《さつ》した。
「ああ、おはよう」
ずんぐりと中年太りの桑田が愛想よく応じる。若い|娘《むすめ》には、大体いつも愛想がいいのだ。同じ中年ながら、こちらはガリガリの谷の方はブスッとして、一番後列の席に腰を降ろすと、|行儀《ぎょうぎ》悪く前の席の背に足を乗せて目をつぶってしまった。黒ずくめのスタイルとベレー|帽《ぼう》のおかげで、芸術家らしい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》はあるものの、その作品と来たら、これはどう逆立ちしても芸術とは呼べないしろものだ。
邦子は私の|隣《となり》の席に腰を降ろすと、背後の谷をちらっと見てから、低い声で言った。
「分からないわ。自分の作品を見るのに、あんな風にしていられるなんて……」
「あれぐらいになると、もう|新《しん》|鮮《せん》な感動なんてないのさ」
「でも自分が[#「自分が」に傍点]生み出した作品でしょう? 出来が良くても悪くても、少しくらいは愛着があって当然じゃないかしら?」
邦子はちょっと熱を込めて言ってから、「ごめんなさい、生意気言って」
と声を低めた。私は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「いや、その気持ちを忘れちゃいけないよ」
と教訓めいたセリフを口にした。それから、自分はどうなんだ、とちょっと白けた気分になる。――いや、しかし少なくとも|俺《おれ》は自分の名をタイトルに見る|度《たび》に|感《かん》|激《げき》しているぞ。それがあればこそ、どんなに馬鹿らしい物でも、せっせと書いて来たんじゃないか……。
製作助手やら、助監督、カメラマン、といった連中がゾロゾロ入って来た。みんな一様に|長髪《ちょうはつ》で、私など、どれが誰やらなかなか見分けもつかない。
「私、一番前の列で見て来ます」
と邦子が席を立って行った。私は桑田を|振《ふ》り向いて、
「彼女、来るのか?」
と|訊《き》いた。桑田はそっ気ない調子で、
「と思うがね」
と目をそらした。|妙《みょう》だな、と思った。何かあったな、さては――。
「|遅《おそ》くなって!」
若々しい声が飛び込んで来た。助演者の一人、|石川肇《いしかわはじめ》である。二十歳になったばかりの青年で、芝居はともかく、若々しい新鮮さがあって、好感が持てた。石川は試写室の中をぐるりと見回し、
「あれ、彼女、まだなんですか?」
と不思議そうに言った。「おかしいな、先に出たのに……」
「|一《いっ》|緒《しょ》だったのか?」
桑田が訊いた。妙に|真《しん》|剣《けん》な口調に私は気付いた。
「TVスタジオで一緒になったんですよ。僕が忘れ物をしたと言ったら、さっさとタクシーを拾って、一人で行っちまったんですが……」
昭介じいさんが、|扉《とびら》から顔を出して、
「もう始めていいですかい?」
と桑田に訊いた。
「ちょっと待ってくれ。彼女が来ないと……」
急にじいさんを|荒《あら》|々《あら》しく|押《お》し|退《の》けて、彼女が入って来た。
|小《お》|原《はら》|朱《あけ》|実《み》――マスコミは彼女の名を英語風にこじつけて、スカーレット・オハラ[#「オハラ」に傍点]というニックネームで呼んでいる。その|美《び》|貌《ぼう》と気性の|激《はげ》しさ、人を人とも思わぬ|振《ふ》る|舞《ま》いなどが、あの「風と共に去りぬ」のヒロインを連想させるのだろうか。
彼女は目のさめるような、|真《しん》|紅《く》のワンピースを着ていた。スカーレットのイメージに合わせて、マネージャーが彼女に必ず「赤」を着るようにさせているのだ。
「やあ、小原君」
声をかけた桑田を無視して、小原朱実は最後列の、谷監督の隣の席に坐った。桑田の顔色がちょっと変わって、一同の間に、音にならないざわめきが広がる。――彼女、もう乗り|換《か》えたのか。やれやれ、お|盛《さか》んなこった。桑田さんも気の毒に、彼女にいいように遊ばれただけじゃないか……。その|沈《ちん》|黙《もく》と|目《め》|配《くば》せは、そう語っていた。
「ちょっと、まだ始まらないの?」
|尖《とが》った声で小原朱実が言った。「|忙《いそが》しいんだから早くしてよ」
「始めていいよ、じいさん」
桑田が|努《つと》めて平静な声で言うと、入口の所に立っていた昭介じいさんはまた|咳《せき》|込《こ》みながら出て行った。
「何のろのろ歩いてんのよ! 早くしろって言ったでしょう!」
小原朱実が追いかけるように昭介じいさんを|怒《ど》|鳴《な》りつけるのを聞いて、私はムッとした。何という思いやりのない言葉だ。小原朱実は、|吐《は》き捨てるように、
「もう耳も遠くなってんじゃないの。あんなよぼよぼの年寄りを何で置いとくのかしら」
私は腹が立って、よほど、彼は君が生まれるずっと前から映画を|撮《と》り続けていたんだぞ、と言ってやろうかと思ったが、やめておいた。それで反省するような女ではないのだ。
「今度の仕事は、あんまり乗れなかったわね」
小原朱実は誰に言うでもなく、大声でしゃべっていた。「初めの|脚《ほ》|本《ん》が悪すぎたのよ。|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》手直しさせたけど、もと[#「もと」に傍点]が悪くちゃね、どうしようもないわ」
私は|黙《だま》っていた。自分のことを言われるのは、|我《が》|慢《まん》できる。彼女は続けて、
「加納さんは、女ってものが、まるで分かってないのよ。イメージが古いのね。――あれじゃ|奥《おく》さんに|逃《に》げられちゃうはずよ」
最前列で、小野邦子が思わず振り向くのが見えた。|憤《いきどお》りと同情の入り混じった視線で私を見る。私は黙って|微《ほほ》|笑《え》み、|肯《うなず》いて見せた。こんなことでいちいち腹を立てていては、この世界に生きては行けないのだ。
私が一向に腹を立てないので、がっかりしたのか、小原朱実はタバコを|喫《す》い始めた。
二十四歳。美しさの盛りだろう。それも現代人に好まれる、ちょっとアクの強い美しさで、それが彼女を|一《いち》|躍《やく》スターの座に押し上げたのだ。だが、それはいつまで続くものか、誰も知らない。本人だけが、永久に続くと信じ込んでいるのだ。
「風と共に去りぬ」のヒロインの生命は永遠かもしれないが、それはスカーレット・オハラの、タラの地にしがみついて生きて行こうとする、|逞《たくま》しい不屈の生命力のゆえなのだ。決して、うぬぼれや、わがままのせいではない……。
場内が暗くなって、試写は始まった。
――私が初め意図していたものとは全く違う、ちぐはぐなラストシーンを見終えて、背のびをすると、急に場内が真っ暗になった。
「何だ……」
「どうしたんだ?」
「すぐに明るくなるさ」
といった声が暗がりの中を飛びかって、その間、ものの一分もあったろうか、やっと場内が明るくなった。
「やれやれ――」
「気に入ったかね、小原君」
と振り向いた桑田が、短い|奇妙《きみょう》な声を上げた。――しばし、試写室内は静まりかえった。
小野邦子が、
「いやだ!……どうしたの? どうしたの?」
と、混乱した声で|叫《さけ》んだ。
小原朱実は、|椅《い》|子《す》の背にもたれて、頭を後へガクンとのけぞらせて動かなかった。死んでいることは、医者でなくても分かった。
「|触《ふ》れるな!」
かけ寄ろうとする者を押し止めて、私は叫んだ。「もう死んでいる。さわってはだめだ。みんなじっとして!」
「――何てこった!」
桑田が|呆《ぼう》|然《ぜん》と|呟《つぶや》く。
「でも、どうして……一体……」
小野邦子が呟いた。「|発《ほっ》|作《さ》か何か?」
「――少なくとも本人の発作ではないね」
私はそっと歩み寄ると小原朱実の顔を|覗《のぞ》き込んで、「首の回りに|紐《ひも》の食い込んだ|跡《あと》があるよ」
「それじゃ――彼女は殺された、と――?」
桑田は赤ら顔を|蒼《そう》|白《はく》にして言った。
「そうだ。警察の出番らしいね」
その時、ウーンと|唸《うな》り声がして、一瞬みんな飛び上がるほど驚いた。小原朱実の隣の席で監督の谷がもぞもぞと身動きした。今まで|眠《ねむ》っていたのだ。
「あーあ、もう終わったのかい?」
目をこすりながら声を上げる谷を、みんな何とも複雑な思いで|眺《なが》めた。――私は、昭介じいさんに、すぐ警察へ電話するように言おうと、試写室を飛び出した。試写室の扉は一番後で、それを出てすぐわきのドアを開けて、映写室を|覗《のぞ》いた。
「昭介じいさん! 大変なことになったぜ。すぐ警察へ――」
私は言葉を切った。じいさんは、映写室の狭苦しい|床《ゆか》の、フィルムの山の間に真っ赤な顔で|坐《すわ》り込んでいた。トロンとした目で私を見上げると、
「何でえ、加納ちゃんじゃねえか……。ヒック。……どうだ、一杯、ヒック……」
床には、カップ酒の空ビンが二、三本転がっている。――じいさん、また酒を始めたのか。私は暗い気持ちになったが、今はそれどころではない。仕方なく自分で警察へ|連《れん》|絡《らく》すべく、|廊《ろう》|下《か》の赤電話へと急いだ。
「大変なことになっちゃったわね」
邦子は、今にも泣き出しそうだ。「せっかくの初出演なのに……これで何もかもめちゃくちゃだわ」
「そんなことはないさ。小原朱実が自分で人を殺したのならともかく、殺された|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》なんだからね、放映中止にはならないさ」
「そうかしら?……いなかの両親にも、今度の土曜の夜だって知らせちゃったの。きっとみんな|大《おお》|騒《さわ》ぎして待ってると思うわ。たったセリフ三つでもね……」
「|大丈夫《だいじょうぶ》だよ」
私は力づけるように、邦子の手を軽く|叩《たた》いてやった。――一同は、会議室とは名ばかりの、狭苦しい部屋に集められて、警察の取り調べを受けるのを待っていた。それでも、さすが芸能界である。小原朱実の死というビッグ・ニュースをいかに|巧《うま》く利用するか、彼女が出演契約していた役は誰の手に落ちるか、みんなの話題はもっぱらそんなところに集まっていた。
ただ、プロデューサーの桑田、監督の谷、それに若い石川肇の三人だけは、他の連中の話に加わらず、固い表情で黙りこくっていた。
「谷は、小原朱実が死んでると知ったら、どんな風だった?」
私は低い声で邦子に|訊《き》いた。
「それがね、しばらくポカンとしてたの。それから何か変な物でも|踏《ふ》みつけたみたいに、悲鳴を上げて飛び上がって――。大変だったわ。いつもの、取り|澄《す》ましたところなんか、どこかに飛んでっちゃって」
私は思わず笑いをかみ殺した。その時、ドアが開いて、ずんぐりと太った男が入って来た。丸い童顔に、度の強いメガネ、はげ上がった頭のその男は、警視庁の|加《か》|賀《が》|見《み》警部と自己|紹介《しょうかい》した。
「皆さんお忙しい方ばかりですから、お手間は取らせたくないのですが、何分、事件が事件なもので……。では早速、お一人ずつ話を|伺《うかが》いましょう。まず警察へ通報された方は……」
「私です」
加賀見警部は、ちらっと私を見て、
「では、隣の部屋でお話を伺います。どうぞ」
小さな応接室へ入って行くと、加賀見警部が、私を|皮《ひ》|肉《にく》な目で見上げていた。
「おい、加納、相変わらず台本書きか」
「シナリオ作家と言ってほしいな」
私は腰を降ろして言った。「しかし、こっちもびっくりだぜ。加賀見とはね。えらくキザな名前じゃないか」
警部はちょっと赤くなって、
「ペンネームみたいなもんさ。山田一郎じゃ|迫力《はくりょく》がないじゃないか」
「僕が本名を使い、君が芸名[#「芸名」に傍点]を使うとはね、あべこべだな」
――山田と私は、高校大学を通じての無二の親友であった。面白いことに、山田が|熱《ねつ》|烈《れつ》な映画狂で、シナリオなどを高校時代から書きまくって、将来映画の世界へ進むのを夢見ていたのに、当時の私は、もっぱら犯罪に興味を持ち、大きな事件があると必ずその現地へ出向いて調査して回るほどだった。
そんな私たちの関係が逆転したのは、山田が、あるシナリオコンクールに私にも応募してみろとしつこく勧めたのがきっかけだった。私は生まれて初めてシナリオというものを書いたのだが、それが入選してしまったのである。
以後、山田の方は筆を折ってしまい、私は私で、映像の持つ魅力のとりこになって行ったという訳だ。山田が加賀見などと名乗っているのは、心のどこかに、まだかつての映画青年のロマンチシズムが残っているせいではないだろうか……。
「さて、と。じゃ、話を聞こうか」
加賀見[#「加賀見」に傍点]警部は、|椅《い》|子《す》に|坐《すわ》り直した。
私は事件の経過を手短に説明した。
「――なるほど。すると、試写の後、一分ばかり試写室の中が真っ暗になった。その間に殺された、という訳だな」
「おそらくね」
「試写の最中にはどうだろう?」
「難しいだろうね。全然不可能とは言わないが、映写中はスクリーンの光で、割合場内は明るいから、動けば目立つよ。ただ小原朱実は最後列[#「最後列」に傍点]に坐っていた。後ろの通路に入り込むのはできない相談じゃないね」
「試写室の明かりの操作はどこでやるんだ?」
「映写室だよ」
「すると……その酔っぱらっちまってたじいさんがくさいじゃないか」
「確かに、一見そう見えるがね。しかしじいさんには無理なんだよ」
「なぜだい?」
「つまり、もしじいさんが小原朱実を殺そうと思えば、映写室の横のドアから出て、試写室の扉を開けて入って来なくてはならない。そうなれば真っ暗な試写室に外の明かりが|洩《も》れて来て、すぐ分かってしまうよ」
「なるほど、そうか……。しかし共犯ってことは考えられるな」
「一応はね。しかしじいさんは酔ってへべれけだったんだ。そう正確に犯人の指示どおりに動けたかね。僕はむしろ、試写室の明かりが消えたのは偶然のミスだったと思っている」
「すると犯人は――」
「もともと小原朱実に殺意を抱いていたのが、たまたま今日、決定的な何かがあったんじゃないかな。暗い中で試写を見ていると、いろいろなことを考えるもんだ。そこへ、|突《とつ》|然《ぜん》明かりが消えた。一かばちか、やってやろうと思ったんじゃないだろうか」
加賀見は|驚《おどろ》いた様子で、
「何だかいやに|詳《くわ》しいじゃないか。まさか、お前が犯人じゃあるまいな」
「作家は想像力が豊かでなくちゃね。――それに、僕には動機がないぜ」
「そうそう、その動機の方も聞きたかったんだ。お前なら何かと事情に通じてるだろうと思ってな」
「それはどうかね。小原朱実の今までの経歴はそれこそ|謎《なぞ》に包まれてるんだ。よくスターに仕立てあげるために、わざと出生の秘密などという話をデッチあげるんだが、彼女の場合はそれこそ秘密でね、彼女を売り出したプロデューサーの桑田も、何一つ知らないんだよ」
「桑田っていうのは、小原朱実と――その――できて[#「できて」に傍点]たんじゃないのか?」
私は思わず|吹《ふ》き出した。
「できてる、とは、また古い言い回しだね。まあ確かにその通りだ。ついこの間まではね」
「というと?」
「桑田は、こう言っちゃ悪いが、彼女にとっては、自分を売り出させるための道具に過ぎなかったのさ」
「すると、今の|恋《こい》|人《びと》は誰だ?」
「さあね。彼女は同時に何人も恋人を持っていたからな。他には谷と……」
「谷というと、彼女の隣に|坐《すわ》っていた男だな?」
「そうだ。少し前から、|噂《うわさ》はあったよ」
「隣の席なら、首を|締《し》めるのも楽だな」
「それはそうだがね」
「他に誰かいないか?」
私はちょっとためらった。しかし、どうせ分かることだろう。
「石川肇という若い俳優がいる。これは、とてもいい青年だし、将来性もあるんだ。君の方でも、|充分《じゅうぶん》その辺を考えて|扱《あつか》ってほしいんだが……」
「分かってるとも。その男も小原朱実の?」
「ああ。どうも小原朱実は面白半分に石川を遊び相手にしていた様子がある。しかし|彼《かれ》の方は純情だ。すっかり彼女に参って、女神のように|崇《すう》|拝《はい》していたよ」
「自分が|弄《もてあそ》ばれただけだったと知ったら、やはり逆上したろうな。しかもその若さなら」
私は黙っていた。
「――さて、これで、桑田、谷、石川と三人|揃《そろ》ったな。他に心当たりはないか?」
「僕の知っている限りでは、あの試写室にいた者で、小原朱実と個人的に関りのある者はその三人だけだな」
「お前はどうだ?」
「僕は、あんな女の目には止まらない。ちっぽけな存在さ。もっとも――そうだな、今夜は彼女、大分僕に毒づいてたがね」
「ほう。どういう風に?」
私は、小原朱実が私の|脚本《きゃくほん》をけなし、ついでに私の過去についてもいやがらせを言ったことを話した。
「なるほど、プライドの高いお前には、充分な殺害の動機になるな」
「たぶんね」
私は平然と答えた。加賀見は|愉《ゆ》|快《かい》そうに私を|眺《なが》めていたが、やがて口を開いた。
「|上《うわ》|衣《ぎ》の前を開いてみてくれんか」
「え?」
私は思わず|訊《き》き返した。
「上衣のボタンを外して、開けてみてほしいんだ」
私は|肩《かた》をすくめて言われた通りにして見せた。加賀見は|黙《だま》って|肯《うなず》いた。
「何のおまじないかね?」
「小原朱実は|絞《こう》|殺《さつ》された。しかし、彼女の首をしめた紐は発見されなかった。――検死の結果、彼女の首に巻きついたのは、幅二センチほどのベルトのような物だと分かったんだ」
「なるほど」
私は、自分のベルトレスのスラックスを見降ろした。
「さて、ではその三人に話を聞くとするかな――ついでに、ちょっと上衣の前を開けてもらってね」
どういうつもりか、加賀見は私に、応接室とドア一つ|隔《へだ》てた部屋へ入って、話を聞いていてくれ、と言った。
「シナリオで警察の取り調べ場面を書く時には参考になるだろう。テレビを見てても、全くでたらめばかりなんで、うんざりしちまうんだよ」
加賀見はそう言ってニヤリとした。
まず桑田が呼ばれ、彼はプロデューサーとして、小原朱実について知っていることを話したが、彼自身、彼女の過去や生まれについてほとんど|孤《こ》|児《じ》同様の身の上だったらしいということしか知らなかった。
話が小原朱実との個人的な関係に移ると、桑田の口はとたんに重くなった。しかし、結局、|渋《しぶ》|々《しぶ》、ここ何か月かの愛人関係を認めさせられてしまった。
「ところで、桑田さん、このところ、彼女との間はあまりうまく行っていなかったんじゃありませんか?」
「い、いや、そんなことはありません」
桑田は|慌《あわ》てて言った。
「桑田さん。――|隠《かく》し立てはしないことです。いずれわれわれの耳に、いろんな情報が集まって来て、|総《すべ》てが分かってしまうんですよ。今正直に話していただいた方が、あなたのためだと思いますがね……」
桑田はしばらく|黙《だま》り|込《こ》んでいた。
私は、|汗《あせ》っかきの彼が、ハンカチでひっきりなしに顔を|拭《ぬぐ》っている様子がありありと想像できた。
「……分かりました。ええ、確かに彼女とえらい|喧《けん》|嘩《か》をやらかしました」
「いつのことです?」
「昨日です」
「原因は?」
「彼女が、石川肇という若い俳優と最近火遊びをしているもので、少しは|慎《つつし》めと言ったんですが……」
「彼女は何と言いました?」
しばらく返事はなかった。加賀見がくり返し|訊《き》くと、
「……私のことを、老人呼ばわりして……もう自分は大スターになったんだから、あんたなど必要ない、と……」
ぼそぼそと、絶え入りそうな声だった。
「彼女を殺しましたか?」
加賀見がぴしっと|突《つ》っ込むと、
「いいや! 私じゃない! 私は殺しません!」
と必死の口調である。
「――ズボンを見せてもらえませんか?」
「え?」
「ベルトをしておいでですか?」
「いいえ。――ご覧の通り、|吊《つ》りズボンで……。太っているものですから。しかしどうして――」
「結構です」
ズボン吊りのゴムの帯では、とても人を|絞《し》め殺すことはできまい。――桑田の次に、谷|監《かん》|督《とく》が呼ばれ、まだショックからさめやらぬ様子で|訊《じん》|問《もん》に答えた。
小原朱実との関係については、この「|炎《ほのお》の女」の|撮影中《さつえいちゅう》に親しくなったと認めたが、別に喧嘩などしていなかったと言った。
「――それに、彼女はもともと遊びのつもりでしたからね。こっちもそのつもりで付き合っていました。別れ話が出たからといって、言い争う気はありませんでしたよ」
「そうですか――。しかし、彼女の方は割合本気であなたにほれていたんじゃないですか?」
「なぜそう言えるんです?」
「なぜなら、彼女は財産の大部分をあなたに|遺《のこ》すという遺言状を、つい三日前に作っているからですよ」
「何ですって!」
谷は|叫《さけ》んだ。あいつもなかなかやるな、と私は思った。
「ニュースを聞いた弁護士から|連《れん》|絡《らく》して来ましてね。――ご存知でしたか?」
「い、いいえ、全く知りませんでした」
「もしご存知なら、絶好の動機になりますね」
「とんでもない! 私はやりません! 私じゃない!」
とわめき散らす。
「分かりましたよ。少し静かにして下さい。ところで、あなたは、ズボンにベルトをしておられますか?」
「何です?」
「ズボンですよ、ベルトはしていますか?」
「ああ――いや、ベルトレスですから――」
「なるほど。分かりました。お引き取り下さい。ただし、いつでも連絡できる所にいらして下さいよ」
三番目が石川肇だった。
「ええ、|僕《ぼく》は確かに、あの|女《ひと》を愛していました。みんな誤解してるんです! あの人は|素《す》|晴《ば》らしい女性です! あの人は――」
「分かった、分かった。今日は彼女と|一《いっ》|緒《しょ》だったのかね?」
「ええ……。TVスタジオで会ったって言ったけど、本当はホテルで会ってたんです。構わないから一緒に行こうって彼女は言ったんですが、僕はやっぱりまずいと思って、それで彼女が先に出たんです」
「しかし着いたのは君が先だった」
「ええ、そうらしいです」
「どうしてかね?」
「分かりません」
石川肇の返答は、まるで無邪気そのもので、加賀見も|戸《と》|惑《まど》っている感じである。
「――君、ベルトをしてるか?」
「ベルト? ズボンのですか?」
「当たり前だ」
「そりゃそうです」
「見せてくれ」
「はあ……」
「ほう。革のベルトで幅は約二センチか……。ちょっとそれを借りていいかね」
「ええ……。でも……」
「何か貸したくない訳でもあるのかね?」
「だって、ズボンが落っこっちゃうんです」
私は|吹《ふ》き出しそうになるのを|懸《けん》|命《めい》にこらえた。
「見ろ。どうやらあの|若《わか》|造《ぞう》があやしいな」
私が応接室へ入って行くと、加賀見が、細目のベルトをハンカチでつまんで見せた。
「これを|鑑《かん》|識《しき》で洗わせる。何も分かるはずがないと、たかをくくってるんだろう、なに、必ず|痕《こん》|跡《せき》を発見してみせるさ」
「何か出るといいね。ところで、どうして腹を|押《お》さえてるんだい?」
「あいつにベルトを貸しちまったのさ。落っこちそうだから押さえてるんだ」
「警察官も|辛《つら》いもんだな」
私は笑って言った。
帰路、私は小野邦子と|一《いっ》|緒《しょ》に、静まりかえった深夜の街路を歩いた。もう真夜中を過ぎているだろう。
小原朱実殺さる。――そのニュースは明日の朝刊を|華《はな》|々《ばな》しく|飾《かざ》るだろう。私も、邦子も試写室のあるS映画社を出ようとして、記者に取り囲まれた……。
「先生」
何やら考え込んでいた邦子が顔を上げて、
「私って、タレント失格なのかしら」
「なぜだい?」
「さっき、新聞社の人に囲まれたでしょう。みんな、私が『とても|怖《こわ》かった』とか『今にも気を失いそうでした』とか|涙顔《なみだがお》で言ってみせれば喜んだんでしょうけど、私どうしても、そんなことできなかったの。だって人が一人死んだんでしょう。世間の注目を集めるチャンスだなんて、いくらスターになるためでも、思いたくなかったの。そりゃ、あの人はとてもいやな人だったけど……。でも死んだのは事実でしょ。そっとしておいてあげたかったの。だから、あんなに口をつぐんじゃって……」
「君はそれで|後《こう》|悔《かい》してないんだろう?」
「ええ」
「なら、それでいいさ」
私は|微《ほほ》|笑《え》みかけた。邦子はほっとしたように笑顔を返して、
「先生のアパートに行っていい?」
と|訊《き》いた。
邦子が、妻と別れて一人|暮《ぐ》らしの私のアパートへ初めてふらっとやって来たのは三か月ほど前のことだ。
男やもめのあまりの部屋の|汚《よご》れように、見かねた邦子が|大《おお》|掃《そう》|除《じ》をしてくれて、以後、週に二度くらい、やって来ては、|洗《せん》|濯《たく》などもしてくれるようになった。
そしてある時、|遅《おそ》くなると、|泊《と》まって行くと言い出し、私は初めて邦子を|抱《だ》いた。|彼《かの》|女《じょ》もごく素直に身を|任《まか》せて来たが、彼女にとって利用価値のあるような売れっ子でない私と、スターでない彼女だけに、そこには余計な打算や|思《おも》|惑《わく》のない代わりに、どこか弱い者同士が身を寄せ合う、といったわびしさが|漂《ただよ》っていた。
「――|田舎《いなか》のご両親は心配してないの?」
その|度《たび》、|床《とこ》の中で私は|訊《き》いた。
「心配してるでしょうね。でも、仕方ないと思うの。親に心配かけないようにしようと思ったら、何もできないわ」
「それはそうだね」
「でも今度、初めてテレビ映画でセリフをしゃべるんだって教えたら大喜びしてくれて……。親っていいなあと思ったわ」
「大切にしろよ」
「ええ。……もう|眠《ねむ》る?」
「何時だろう? 五時半か。夜が明けるよ」
「ね、もう一回、愛して」
「明るくなると外から見えるよ。カーテンの|端《はし》が輪から外れて|隙《すき》|間《ま》ができてるんだ」
「早く言えば直してあげたのに。――いいわ」
|寝《ね》|床《どこ》から|裸《はだか》で飛び出すと、邦子はハンガーにかけた私の|上《うわ》|衣《ぎ》を、カーテンの隙間になったところの上へかけた。
「さ、これで見えないわよ」
私は笑って、若々しい|裸《ら》|身《しん》を|両腕《りょううで》の中へ|迎《むか》えた。
――その時、ふっと|脳《のう》|裏《り》に何かが|閃《ひらめ》いて、私ははっと起き上がった。
「そうか!」
「どうしたの?」
邦子は目を丸くしている。
「出かけるんだ。服を着て!」
「|今《いま》|頃《ごろ》?」
「そうさ。ちょっと試してみたいことがある」
「一体何時だと思ってるんだ」
加賀見警部はブツブツ言いながら試写室へ入って来た。
「そういうなよ。警官がどうしても僕らを入れてくれないもんだからね」
「当たり前だ。何をやらかそっていうんだ?」
「ちょっとした実験さ。いいか、君はここの席に|坐《すわ》っててくれ」
「お前は?」
「映写室に行く。いいか、じっとしててくれよ」
私は映写室へ入り、試写室の明かりを消して、白いスクリーンに、光だけを送った。そしてその光源を切った。試写室は真っ暗になった。
一分たって、試写室に明かりがついた時、加賀見は、すぐ後の席に坐っている私を見て、思わず飛び上がった。
「おい! どうやって入って来たんだ!」
「まるで気付かなかったかい?」
「光が全く|洩《も》れて来なかったぞ。どうなってるんだ?」
「こうなんだよ。来てくれ」
私は出口の方へ加賀見を連れて行った。
「いいか、試写室の|扉《とびら》は内側へ開くようになってる。そして出るとすぐ左側に、試写室の扉と直角に、映写室のドアがあって、これは外側へ開くようになっている。つまり、映写室のドアを|一《いっ》|杯《ぱい》に開くと、ちょうど試写室の出口をふさいでしまう格好になるんだ。だから、映写室のドアを開けて、開いたドアと試写室の扉の間に入り込み、映写室のドアを一杯に開けたままにしておけば試写室の扉を少しぐらい開けても、気付かれるほどの光は入って来ないんだよ」
「なるほど。――おい、今、明かりをつけたのは誰なんだ」
映写室から邦子が出て来ると、加賀見は私に何か言いかけたが、思い直したのか、
「では、犯人は――」
「昭介じいさんだよ」
「あのじじいか! しかし、|奴《やつ》は、作業ズボンみたいな物をはいてたが、ベルトはしめてなかったぜ」
「ベルトにこだわるからだめなのさ」
「じゃ、幅二センチばかりのベルトみたいな物が他にあるっていうのか?」
「二センチ[#「二センチ」に傍点]というから分からないんだ」
私は言った。「一六ミリ[#「一六ミリ」に傍点]ならどうだ?」
加賀見はしばしポカンと口を開けて、
「フィルム[#「フィルム」に傍点]か!」
「編集の時に不要になったフィルムが、いたる所に捨ててあるからね。いくらでも手に入れられたさ」
「しかし、あのじいさん、相当|酔《よ》ってたんだろう?」
「殺した後で飲んだのさ。大急ぎでたて続けにね」
「なぜ、そんなことをしたんだ?」
「顔を赤くする[#「顔を赤くする」に傍点]ためさ」
加賀見は|狐《きつね》につままれたような顔になった。
「あの時、じいさんは|風《か》|邪《ぜ》で|咳《せき》がひどくて、特に|冷《れい》|房《ぼう》の利いた試写室へ入ると咳込んでいた。しかし、暗がりの中へ|忍《しの》び込み、小原朱実をしめ殺して映写室へ|戻《もど》るまでの間、咳込む訳にはいかない。すぐばれてしまうからね。すると、その間、じっと呼吸を止めてこらえている他はない。それでは顔が真っ赤になってしまう。だが、死体はどうせすぐ見つかるから、|誰《だれ》かが映写室を|覗《のぞ》き込むかもしれない。その時、真っ赤な顔をしていたのでは、|怪《あや》しまれる|怖《おそ》れがある。そこで、それをごまかすため、映写室へ|戻《もど》るなり、用意しておいた日本酒を一気に|呑《の》みほしたんだ」
「――やれやれ。どうもお前の話はいつも本当らしく聞こえるよ。|嘘《うそ》つきが商売の男なのにな」
加賀見はそう言って苦笑した。
昭介じいさんは素直に犯行を自供した。|驚《おどろ》いたことに、小原朱実は昭介じいさんの娘だったのだ。昭介じいさんも、ずっとそのことは秘密にし、小原朱実の方も全く知らなかったのだが、最近になって、年をとったじいさんは、すっかりスターになった小原朱実に少し生活の|面《めん》|倒《どう》を見てもらおうと、彼女のもとへ行き、証明になる物を見せて父親だと名乗った。
ところが、小原朱実の方は、こんな|薄《うす》|汚《よご》れた男は父親ではないと、|口《くち》|汚《ぎた》なくののしり、追い帰した。
じいさんにとって、これははかり知れないショックだった。それに、彼女はスターになるや、周囲の人間を傷つけて何とも思わない人間になった。
じいさんは小原朱実がそんな風になったのを、自分の責任だと思いつめたらしい。あの日、石川肇と別れて先にやって来た彼女に、今までのことを忘れて自分を許してくれと言った。
彼女はそれをはねつけ、そして試写室の中で、あの冷たい言葉を浴びせたのだった。
「しかし、考えてみれば彼女も|可《か》|哀《わい》そうだよ」
金曜日の夜、アパートで一緒に食事をしながら、私は邦子に言った。「自分をずっと放ったらかしにしていた父親が急に現われたからって、そう素直に受け入れられるもんじゃないだろう。あんな風に彼女が他人にとげとげしく|振《ふ》る|舞《ま》っていたのは、そんな過去のせいもあったんだろうね」
「――気の毒ね、二人とも」
邦子が言った。
「まあね。しかしマスコミにとっては、小原朱実は、|謎《なぞ》のまま死んだ美女さ」
「そうね。マスコミって|怖《こわ》いわ」
「もっと怖いのは、マスコミは何でもすぐに忘れてしまうことさ。それこそ『風と共に去りぬ』だ」
「私は|大丈夫《だいじょうぶ》。|憶《おぼ》えられてもいないもの。忘れられっこないわ」
私は笑った。そこへ電話が鳴った。
「はい、加納。――やあ桑田さんか。――小野邦子? ああ、よく知ってる。――何だって?」
「つまりね、あの『炎の女』の出来上がりを見て、スポンサーが文句をつけて来たんだ。小原朱実の、あの謎めいた微笑が少なすぎるというんだよ。それで急いで谷君と検討してね、彼女のアップのフィルムを少し追加することにしたんだ。となると、どこかを切らなきゃならん。そこで、ストーリーに差し支えないところで、あの小野邦子が出てるシーンをカットすることにしたんだ」
「そんな勝手な話があるか! 僕は絶対に反対だぞ!」
「加納君、もうこれは決めたことなんだよ」
私は|黙《だま》った。もう実際はカットも再編集も終わっているのだ。
「そこでね、君は彼女と親しいだろう。彼女にその辺を説明してやってほしいんだがね。その内、必ず|埋《う》め合わせるから。ギャラもちゃんと――」
私は受話器を置いた。
――物問いたげな邦子に、私は事情を説明した。
「そんな……。もう友だちにも明日の晩だって知らせてあるのに。今さら……」
邦子は両手に顔を埋めた。私は|畳《たたみ》に|坐《すわ》り込んで、ぼんやりと身勝手なことを考えていた。彼女がいなくなると、またここは|汚《よご》れ|放《ほう》|題《だい》だな……。
邦子が顔を上げた。――驚いたことに、晴れやかに笑っている。
「まあいいわ! どうせ大した役じゃなかったんだし!――その内、またきっとチャンスが来るわね」
「ああ、きっとね」
「ご飯のお代わりは?」
私は、ふと彼女こそが、スカーレット・オハラだな、と思った。|踏《ふ》みつけられても起き上がって来る、その|逞《たくま》しさ。いつか、きっと彼女のために、彼女の「風と共に去りぬ」を書いてやろう。
気を取り直して、おかずの魚をつついた。
「この魚、なんだい?」
「タラよ」
私は思わず笑い出した。
「どうしたの?」
「『風と共に去りぬ』にぴったりじゃないか。主題曲は『タラ[#「タラ」に傍点]のテーマ』だよ!」
消えたフィルム
「このコソ|泥《どろ》!」
いきなり|罵《ば》|声《せい》を浴びせられて、私と|小《お》|野《の》|邦《くに》|子《こ》は、ただキョトンとしていた。
Nテレビ映画社の|隣《となり》にある|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》。私と邦子がコーヒーを飲んでいるテーブルのわきに立っていたのは|金《かな》|森《もり》ユミであった。日本酒のCMで人気が出て、歌、ドラマ、映画と、以後はエスカレーターの|如《ごと》くスターの高みに昇りつつあるタレントだ。――断わっておくが、私はシナリオ作家として、金森ユミのような人種を「女優」とは呼ばない。「女性タレント」と言っている。
金森ユミは何やら大変な見幕だった。目のさめるような、というより、目をそむけたくなるような、|趣《しゅ》|味《み》の悪い赤いスーツ、|濃《こ》い|化粧《けしょう》や|派《は》|手《で》なスタイルは芸能人の常だから、|驚《おどろ》くにも当たらないが……。それにしても|日《ひ》|頃《ごろ》の|彼《かの》|女《じょ》の|傍若《ぼうじゃく》無人ぶりには、|眉《まゆ》をひそめる向きも少なくなかった。それでも人気[#「人気」に傍点]は|総《すべ》てに優先するのである。
「何だね、一体?」
私は金森ユミを見上げて言った。「君にコソ泥呼ばわりされる覚えはないがね」
「あんたは|黙《だま》ってて!」
彼女はますますヒステリックに声を|荒《あら》げた。「私、この女に言ってるのよ!」
「私?」
小野邦子が|呆《あっ》|気《け》に取られた様子で|訊《き》き返した。
「そうよ、あんたよ! フン、白ばくれたって、分かってんだよ!」
「私が何をしたっていうんですか?」
「フィルム[#「フィルム」に傍点]をどこへやったの!」
「フィルム? フィルムって何です?」
「この|薄《うす》|汚《ぎた》ない――」
「待ちたまえ!」
と私はたまりかねて割って入った。「金森さん、フィルムがどうしたんだね? まずそれを説明してくれ」
「この女に|訊《き》きなよ! あんたの女なんだろ!」
こういう女が興奮している時は手がつけられない。ちょうどそこへ、金森ユミのマネージャーが|駆《か》けつけてきた。|松《まつ》|野《の》というやさ男だ。
「ちょうどよかった。松野さん、一体何の|騒《さわ》ぎなんだ?」
「いや、実は、|加《か》|納《のう》さんに書いてもらった『死せる|恋《こい》|人《びと》のバラード』なんだがね……」
「もうクランク・アップしたんだろう?」
「そうなんだ。ところがね、そのフィルムがなくなっちまったのさ」
「何だって?――フィルム全部が?」
「いや、まだこれから編集なんだが、|肝《かん》|心《じん》のシーンのフィルムがないんだよ」
「どのシーンだね?」
「ほら彼女が橋から流れへ飛び|込《こ》むシーンがあるだろう」
「|憶《おぼ》えてるよ」
「あのシーンがなくなっちまったんだ」
『死せる恋人のバラード』は、TVの|刑《けい》|事《じ》物のシリーズ番組の一本として私が書いたシナリオである。シリーズ物のシナリオは、レギュラー出演者を全部一とおり出さねばならないし、ゲスト出演の役者には気を使うし、あまり気乗りのしない仕事だが、お|世《せ》|辞《じ》にも売れっ子とは言えない私のようなライターには、そんなえり好みをする余地はないのである。
金森ユミがゲストで出ることは分かっていたので、私は殺し屋に追いつめられた彼女が、橋から十メートルも下の流れへと身を|躍《おど》らせるシーンを入れた。金森ユミは元水泳選手で、そのプロポーションも、毎日欠かさない水泳のたまもの、といつも宣伝していたからだ。
「しかし、なくなったっていうのは……」
「編集室から消えちまったのさ」
「編集室にあったのは確かなのか?」
「ああ、|僕《ぼく》も|彼《かの》|女《じょ》も、ちゃんとこの眼で見たんだ」
「そいつは大変だね。――しかし、それがどうして小野君が盗んだことになったんだね?」
「僕らが編集室にいた時、小野君も入って来たのさ。そして僕らが出る時もまだあそこに残っていた」
「それだけじゃ、盗んだことにはなるまい。それに、どうして彼女がそんなフィルムを盗む必要があるんだい?」
「ねたみよ!」
金森ユミはきめつけるような口調で言った。「売れない役者は人気スターにいやがらせをしたがるもんでしょ」
いつもはめったに|怒《おこ》るということのない邦子が、さすがに|頬《ほお》を紅潮させて口を開きかけた。が、私は彼女を制して、
「金森さん、彼女はそんなことをする女ではない。君こそ、何の|証拠《しょうこ》もなしに、人を泥棒呼ばわりするのはやめたまえ!」
金森ユミはせせら笑って、
「私にそんな口がきけるの? いいわよ。この女もあんたも、今度の番組から外してやるから!」
そう言い捨てると、松野を忠実な犬のごとくに従えて、行ってしまった。
「ひどい人!」
邦子は首を|振《ふ》って、「あんな人と仕事するなんて、こっちが願い下げだわ!」
あの女のことだ。本当に私たちを番組からおろしてしまうだろう、と私は思った。現在録画|撮《ど》りの準備に入っている二十六回連続の|恋《れん》|愛《あい》ドラマで、私も三本に一本、シナリオを担当することになっている。そして小野邦子にとっては、小さな役ではあるが、初めてのレギュラー出演なのだ。
邦子は十九|歳《さい》。スター予備軍の一人だが、|妙《みょう》にすれて[#「すれて」に傍点]いない、素直な|娘《むすめ》である。妻と別れて一人|暮《ぐ》らしの私のアパートへ、ときどき来ては|掃《そう》|除《じ》や|洗《せん》|濯《たく》をしてくれて、時には|泊《と》まって行く。何となくウマが合う、というのか、こんな売れないシナリオライターの私を、先生と呼んで|頼《たよ》って来る。
「――君、本当に編集室に行ったのかい?」
私は|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》を出て映画社の方へ|戻《もど》りながら、邦子に|訊《き》いた。
「ええ」
「どうして?」
「だって、自分の出た場面をちょっと見てみたかったんですもの」
邦子はまじまじと私の顔を見て、「まさか先生まで……」
「|違《ちが》うよ! 何を言ってるんだ!」
私は邦子の|肩《かた》を|抱《だ》いた。「あんな女の言うことなんか気にするな」
「でも……私のせいで、先生まで仕事が……」
「心配するなよ、他に仕事がないわけじゃない」
実際のところ、仕事が|目《め》|白《じろ》|押《お》しってわけでもないのだが……。
「やあ」
編集室へ入って行くと、|監《かん》|督《とく》の|東野《ひがしの》が苦り切った顔で私を見た。
「お前さんか。――参ったよ。お手上げだ」
「金森ユミが何か言ったのか」
「例の飛び|込《こ》み場面がなくちゃ話にならないってカンカンなのさ」
「どこかにないのか、本当に?」
「ないんだよ。何度も|捜《さが》したんだ」
「しかし、小野邦子はそんなことをする|娘《こ》じゃないぜ」
「分かってるよ。|俺《おれ》だってそんな話、真に受けちゃいない」
「そう聞いてホッとしたよ」
「ただな、金森ユミの気持ちも分からんではないんだ」
東野はパイプをくわえたり、手に取ったりしながら、「あれは危険な|撮《さつ》|影《えい》だった。スタントを使えと言ったんだが、彼女は自分でやると言い張ってね。――結局、僕とカメラマンが二人で山の中腹まで登って望遠で撮ったんだが……」
「もっと近くで撮ればよかったのに」
「気が散るというんだ。――水泳の高飛び込みと同じで、危険なだけに、近くに他の人間がいちゃ困る、と言ってね」
「難しいもんだな」
「しかし、みごとにやったよ。ラッシュを見た限りでは、画面もかなりシャープだったし、こいつはちょっと話題作りができると思ったんだが……」
「撮り直すってわけにはいかないのか?」
「おい、お前さんだって分かってるだろう、テレビのスケジュールの|厳《きび》しさぐらいは」
「ああ、しかし、ほかに手があるか?」
「こうして|坐《すわ》ってりゃ、フィルムの方で同情して出て来てくれるんじゃないかと思ってるんだよ」
頼りない話だ。私は編集室を出た。|廊《ろう》|下《か》を歩いていると、呼び出しのアナウンスが自分の名を呼んでいるのに気付いて、足を止めた。
「加納|裕《ゆう》|二《じ》様、加納様、いらっしゃいましたら正面|玄《げん》|関《かん》まで……」
一体|誰《だれ》だろう? タレントじゃあるまいし、そうマスコミに追っかけ回される立場でもないんだが、などと|馬《ば》|鹿《か》げたことを|呟《つぶや》きながら正面玄関へと急いだ。
思いもかけない顔が待っていた。
「やあ加納」
「君か!」
ずんぐりした|胴《どう》|体《たい》に丸い童顔、度の強いメガネの|奥《おく》で小さな目が苦笑いしている。
「警視庁の|鬼《おに》警部が僕に何の用だ?」
「ちょっと聞きたいことがあってな」
|加《か》|賀《が》|見《み》警部は表へ出ようと|促《うなが》した。私はさっきまでいた喫茶店へまた足を運ぶことになった。
加賀見は学生時代の親友で、今でこそ警視庁の知る人ぞ知る優秀な|捜《そう》|査《さ》|官《かん》だが、学生の|頃《ころ》は映画狂で、|愉《ゆ》|快《かい》なことにシナリオライター志願だったのである。山田という本名[#「本名」に傍点]がありながら、加賀見などと名乗っているのは、たぶん青年時代の|夢《ゆめ》の|名《な》|残《ご》りではないかと私は察しているのだが……。
「一体何だね?」
私はコーヒーカップを置いて言った。
「テレビのシナリオで『死んだ恋人の歌』とかいうのを、お前、書いたか?」
「『死せる恋人のバラード』だよ」
「ふん、えらくもったいぶったタイトルだな」
「僕がつけたわけじゃない。それがどうしたんだ?」
「ロケには同行したのか?」
「いや、僕はめったにロケ現場へは出向かないよ。自分の作品がメッタ|斬《ぎ》りされるのを見たくないもんだからね」
「ナイーヴだな」
「おい、僕をからかいに来たのなら――」
「分かった、分かった」
と私を|押《お》し|止《とど》めて、「お前があの|脚本《きゃくほん》を書いたと聞いて、何か知ってるかと思ったんだ」
「何があったんだ?」
「殺しさ」
「君が出て来るんだから、そうだろうが……。あのシナリオがどう関係してるんだ?」
「ロケ隊が|奥《おく》|多《た》|摩《ま》のH町へやって来て、三日間泊まって帰って行った。そして後に死体[#「死体」に傍点]が一つ残った……」
「まさか」
私はまじまじと加賀見を見つめた。
「本当の話さ。|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》は地元の娘だ。ロケの最後の日、朝十時頃家を出たきり、帰って来なかった。近くを捜したらしいが、何しろ山の中だ。やっと発見されたのは三日後だった。川を下流へ少し|辿《たど》ったあたりの岸辺の|茂《しげ》みの中に|全《ぜん》|裸《ら》で死んでいたんだ」
私は言葉もなかった。
「大きな石で頭を何度も|殴《なぐ》られていた。服は川へ投げ捨てたらしく、全部じゃないが、流れの|途中《とちゅう》の岩や|枯《かれ》|木《き》に引っかかっているのが、いくつか見つかっている」
「しかし――なぜロケと関係があると思うんだ?」
「彼女が仲のいい|娘《むすめ》に、『ロケ隊のお手伝いをしに行くのよ』とこっそり|洩《も》らしていたんだ。ひどく|嬉《うれ》しそうだったと言ってたよ」
私は首を振った。お手伝いか。――そんな言葉でだまされるような娘がまだいたとは、|皮《ひ》|肉《にく》でなく、|驚《おどろ》きだった。
「ロケ隊のメンバーは知ってるか?」
「大体のところはね」
「女に手の早そうな|奴《やつ》はいないか?」
私は苦笑して、
「君の考えてるほど、われわれはモテないんだぜ。映画の仕事をしてるって言うだけで、女の子たちが目の色変えてついて来るなんてのは、昔々の夢物語だ」
「しかし、その娘は本当に殺されたんだ」
と加賀見は厳しい表情で言った。
「分かってるとも、僕だって、できるだけの協力はするよ」
「ロケに参加した連中に会わせてくれないか」
「いいよ。しかし全員つかまるとは限らん。もう他の仕事にかかってる者もいるはずだしな」
「それは調べてくれればこっちで出向くよ」
「じゃ早速行ってみるか」
「どこへ?」
「|監《かん》|督《とく》の東野が今のNテレビ映画社にいる」
そう言って席を立ちながら、私はふと思った。消えたフィルム。殺人。――何か関連があるのだろうか。
「そりゃ驚いたな……」
東野はロビーのソファへ|腰《こし》をおろして、言った。
「事件のことは全然ご存知なかった?」
「もちろんです!」
「被害者は|川《かわ》|井《い》|菊《きく》|子《こ》というんですが、この娘に何か仕事を頼んだ|記《き》|憶《おく》はありませんか?」
「さて……。地元の人には、通行人や店の客なんかの役で出てはもらいましたが、名前まではね……」
「通行人じゃ、あまり|嬉《うれ》しがりそうもないね」
と私が口を|挟《はさ》んだ。「ロケの最終日のことらしいんだよ」
「最終日? それを早く言ってくれれば!」
東野はホッとしたように言った。
「どうしてです?」
「最終日には金森ユミの飛び込みのシーンだけしか|撮《と》らなかったんです。地元の人は全く使っていません」
「そうだったのか」
私は|肯《うなず》いて、「すると、金森ユミ、あんた、それにカメラの――」
「|大《おお》|江《え》君だ」
「その三人だけで|撮《さつ》|影《えい》してたってわけだな」
「そうだ」
私は状況を簡単に加賀見へ説明してやった。
「――するとロケ隊の他の方々は、最終日は何をしておられたんです?」
「さあ、どうですかね。めいめい勝手にしてたはずです。別に仕事もなかったわけですから」
「そいつは|厄《やっ》|介《かい》だな」
加賀見はため息をついた。
「しかし、本当にロケ隊の誰かが犯人なんですか?」
「決めてかかっているわけではありません。地元の方でも、その娘に|恨《うら》みのあった者を調べています。しかし彼女が『ロケの手伝いに行く』と言って出かけたのは事実なんですから」
「分かりました。――ただ最終日だと全員はもういなかったですよ。出のない俳優なんかは前の晩に帰っちまったし」
結局、最終日まで残っていたのは、東野、カメラマンの大江、金森ユミに、マネージャーの松野、助監督の|谷《たに》|内《うち》、助手の|高《たか》|杉《すぎ》、Nテレビ映画の|中《なか》|村《むら》、という連中だった。
「――分かりました。いろいろどうも」
「いや。しかし、このフィルムはどうもツイてないな……」
東野の|愚《ぐ》|痴《ち》を、加賀見は聞き|逃《のが》さなかった。
「すると他にも何かあったんですか?」
「え――ええ。まあ、大したことじゃありませんが」
「聞かせていただきたいですな」
東野は|肩《かた》をすくめて、フィルムの消えた件を話して聞かせた。――東野が行って二人になると、加賀見は私をチラリと見て、
「おい、どうして|黙《だま》ってたんだ?」
「何をだ?」
「とぼけるなよ! フィルムの件さ。知っていたんだろう?」
「ああ」
「殺人のあった日のフィルムが消えた……。|偶《ぐう》|然《ぜん》かね、これは」
「僕は知らんよ」
「そのフィルムに何か[#「何か」に傍点]が写っていたとしたら……」
「おいおい、ミステリーの読みすぎじゃないのか。そううまくはいかないよ」
私は軽い口調でそう言って、「それに、そのシーンには金森ユミ一人しか出てないんだぜ」
「うむ……。それはそうだが……しかし、それならなぜ盗まれたんだ?」
「盗まれたとも限らんさ。きっと他のフィルムの間に|紛《まぎ》れ込んでるんだ。そのうち、出て来るよ」
そう言いながら、私も加賀見と同じことを考えていた。――カメラは山の中腹にあった。アングルとしては橋を|斜《なな》めに見降ろす格好になる。ということは、下の川岸[#「川岸」に傍点]も写っているはずだ。そこにたまたま誰かが……。
「ええと、撮影は十一時から始まって十二時には終わってましたね」
カメラマンの大江はタバコをふかしながら言った。「だって金森ユミが飛び込みゃ終わりですからね。大して時間はかからなかったですよ」
「それからすぐに帰った?」
「ええ。すぐっていっても、カメラや器材を監督と二人でかついで山を降りたんですから、ちょっと手間取りましたがね」
「すると下へついたのは……」
「一時間半ぐらいかなあ。はっきりしませんけど」
「|誰《だれ》かロケ隊の者で、欠けていたのは?」
「欠けてるどころか、一人もいませんでしたよ。全員が|揃《そろ》ったのは三時|頃《ごろ》かな」
「やれやれ」
加賀見はため息をついた。「お世話様」
「大江君」
私は迷ったあげく、|訊《き》いてみた。「君は最終日の分のフィルム|紛《ふん》|失《しつ》したの、知ってるかい?」
「ええ、|監《かん》|督《とく》から電話で聞きましたよ。せっかく苦労して撮ったのにね」
「ラッシュを見て、何か気付いたことはないかね」
「さあ……どういうことです?」
「金森ユミ以外の|誰《だれ》かが写ってるとか」
「さて、気が付きませんでしたね」
金森ユミのプロダクションへ向かう車の中で、加賀見は|皮《ひ》|肉《にく》っぽく私を見て、
「お前も同じことを考えてたようだな」
「うん。しかし、どうも|違《ちが》っていたらしい」
「他の連中のうちの誰かだろう。甘い言葉で|娘《むすめ》を連れ出し、乱暴しようとして|抵《てい》|抗《こう》され、つい石を手にして……」
「服を川へ投げ込んだ、か。そこがちょっと引っかかるな」
私は言った。「死体はどうせ見つかるんだ。それなのにどうして服だけ川へ捨てたんだろう?」
「知るもんか」
「川へ捨てるより、どこか山の中へ|埋《う》めれば見つからずに済むだろうに。川へ流したばかりに、いくつかは見つかっちまった」
「気が|転《てん》|倒《とう》してたのさ」
加賀見はあまり細かいことにはこだわらない男だった。
「|僕《ぼく》じゃありませんよ!」
金森ユミのマネージャー、松野はむきになって言った。
「何もあんたがやったと言ってるわけじゃないんですよ」
加賀見が子供をなだめるような口調で言った。「ただ|撮《さつ》|影《えい》の間、どこにいたのか、と|伺《うかが》ってるわけでね」
「待ってたんですよ、彼女を」
「彼女?」
「金森ユミですよ、むろん」
「ああ、なるほど」
「彼女が橋から飛び|込《こ》む。それを少し下流の岸で見ていて、岸へ泳ぎついた彼女を引っ張り上げなきゃなりませんでしたからね」
「すると下流の岸にいたんですな?」
「でも橋のよく見える所ですから、それほど下流ってわけでもありません」
「ロケ隊の誰かを見かけませんでしたか?」
「いいえ。気が付きませんでした」
そう言って、松野は不安気に、「まさかこの事件で放映中止ってことにはならないでしょうね」
「まあ、それはないでしょう」
「しかし、松野さん」
と私は口を出した。「金森ユミはあのフィルムがなきゃいやだとゴネてるんじゃないのかい?」
「いや、ちょっと落ち着いたんでね。もう|大丈夫《だいじょうぶ》。君の彼女に食ってかかって悪かったと言ってたよ」
「本心とは思えないわね」
邦子は肉の|塊《かたまり》を口へ放り込んだ。二人で入るレストランも久しぶりだ。
「――それで、犯人は分かったの?」
「いや、さっぱりさ。他の連中もみんな単独行動でね。アリバイもないが|証拠《しょうこ》もない。さすがの加賀見もお手上げらしい」
「でも|可《か》|哀《わい》そうな娘さんね。――私だって、一歩間違えばそんな目に会ってたかもしれないわ……。先生みたいないい人にめぐり会えたからよかったけど」
「いい人、か」
私は苦笑して、「いいレストランに月に一回しか連れて来られない〈先生〉じゃね」
「あら、私、パトロンなんてほしくもないわ。友達がほしいだけ」
「君と金森ユミを|並《なら》べたら、誰だって君を取ると思うよ。それなのに金森ユミは大スターだ。|総《すべ》ては運次第さ」
「そう考えちゃ、わびしいわ。実力さえ養っていれば、きっとチャンスはあるって信じてるの、私。――殺された娘さんって、いくつだったの?」
「確か二十|歳《さい》ぐらいだったと思うよ」
「ねえ、金森ユミと大して違わないのよ。一方は殺されて、一方はスター、まだ私の方が幸せよ。――あら、どうしたの?」
「ちょっと思いついたことがあるんだ……」
私はナイフとフォークを置くと、レジの赤電話へ飛んで行った。
「本当にここなの?」
金森ユミは松野の方を向いてブツブツ言った。
「確かここで会いたいって……」
テレビ局のスタジオは、ガランとして、人の気配もなかった。
「変だなあ。ここでぜひインタビューを、ってことだったんだけど」
「聞き違いじゃないの? 私、|疲《つか》れてんのよ。|椅《い》|子《す》ぐらいどこかにないのかしら」
「さあ……。見当たらないね」
「役に立たない人ね! いいわ、あそこへ|腰《こし》かける」
金森ユミはカメラを持ち上げるクレーンの先についた椅子へひょいと腰を降ろした。
「あと五分待って相手が来なかったら帰るわよ!」
「そんなこと言ったって……」
その時、クレーンが、金森ユミを乗せたまま|突《とつ》|然《ぜん》上がりだした。
「ど、どうしたの、これ! 降ろして! 降ろしてよ!」
金森ユミが悲鳴を上げる。「やめて! 降ろして! 早く!――私――|怖《こわ》いのよ! 高い所はだめなの! 降ろして!」
私はクレーンをゆっくりと下げた。
金森ユミは真っ青になってガタガタ|震《ふる》えている。
「|彼《かの》|女《じょ》は高所|恐怖症《きょうふしょう》なんだよ」
私は加賀見へ言った。「だから、あの飛び込みのシーンなんかできるはずがなかった。しかし水泳の名手というふれ込みなので、できないとも言えない。そこで地元の娘に代役をやらせた」
「代役だったのか!」
「ところが娘は飛び込んだ場所が悪かったのか、飛び込み方が悪かったのか、川底の石に頭を打ちつけて死んでしまったわけだ。そこで困った金森ユミは松野に娘を下流の方まで運ばせ、暴行されて殺されたように見せかけた。さらに頭を石で|殴《なぐ》りつけて、殴り殺されたように見せたわけだ」
「しかし裸にしたのは……」
「決まってるじゃないか。娘は金森ユミの着るはずだった服を着ていたんだぜ。それを|脱《ぬ》がせて金森ユミが着込み、一応川へ飛び込んで頭からずぶ|濡《ぬ》れになって出て来たのさ。そして死んだ娘の下着は川へ流してしまう。死体が万一すぐに見つかった時、下着が|濡《ぬ》れていたんじゃまずいからね。下流で見つかったのは、下着だけだったんだろう?」
「そうだ」
「ところが後になってみると、フィルムに写っているのが金森ユミでないことに誰かが気付くかもしれない、と心配になり始めた。ただ代役だったとばれただけなら、関係者に口止めすればすむが、人が死んだとなると|隠《かく》してはおけない。そこで編集室からそのフィルムを盗み出した。そしてさも腹を立てているように、小野邦子へ食ってかかった、というわけさ」
「そういうことか」
加賀見は一つ息をついて、|肯《うなず》いた。「死体|遺《い》|棄《き》、|証拠隠滅《しょうこいんめつ》、いろいろと罪状はつけられるぞ」
|空《から》だったはずのスタジオのあちこちから、|刑《けい》|事《じ》たちが現われて、放心したような松野と、青ざめた顔をこわばらせた金森ユミを連行して行った。
「あの娘が『ロケの手伝いをする』といって喜んでいたのも当然だね。金森ユミの代役をするんだから」
「そうね。……|可《か》|哀《わい》そうに」
邦子は首を振った。「でもどうして気が付いたの?」
「君が言っただろう。死んだ娘も金森ユミも大して|年《ねん》|齢《れい》は違わないって。そこでふっと思いついたのさ。もしあの飛び込んだのが金森ユミでなかったら、ってね。――そう考えると、金森ユミが気が散るといって誰も近くへ来させなかった理由も分かる。|監《かん》|督《とく》とカメラマンは山の中腹から望遠で|撮《と》っていたから、まさか別人だとは思わなかった。少しは似た娘だったんだろうね」
「変ね。ただ素直に『私、高い所は苦手だから、飛び込めないわ』って言えば、それですむのに」
「それがスターの|虚《きょ》|像《ぞう》ってやつだな。もっとも僕がシナリオにあの場面を入れなければ、こんな事件は起きなかった……。そう思うと気が重いね」
「それはあなたのせいじゃないわ」
「そう言ってくれると|嬉《うれ》しいよ」
私は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「でも、あれ、きっと放映中止ね」
「そうなるだろうね」
「残念だわ。せっかくセリフが五つもあったのに……」
「そうだね……」
「それに例の連続物もお流れでしょ? あーあ、ツイてないなあ……」
そこへ電話が鳴った。
「はい、加納……」
私はじっと耳を|傾《かたむ》けた。「よし、分かったよ」
「何なの?」
「例の連続物さ。主役を変更してやるんだそうだ」
「まあ! それじゃ私も出られるのね!」
「お|祝《いわ》いに|一《いっ》|杯《ぱい》やりに行くか」
「賛成!」
|浮《う》き浮きとしてアパートを出ながら、私は思った。
虚像も実像もない。こんな時期が、女優にとって実はいちばん幸福な日々なのかもしれない、と……。
一日だけの殺し屋
「もしもし……」
電話からは、|怯《おび》えたような低い声が伝わって来た。
「もしもし、|高《たか》|見《み》|警《けい》|部《ぶ》|補《ほ》だ。|誰《だれ》だね?」
「あっしですよ」
「何だ、クズ|鉄《てつ》か。どうした?」
「えらい事になりそうなんで」
高見はなじみの情報屋の声に、ただならぬ気配を感じ取った。
「どうした? 何があった?」
「奴[#「奴」に傍点]が来るんでさ」
「誰の事だ?」
「〈|踊《おど》り|屋《や》〉ですよ」
「何だと?」
高見は受話器を|握《にぎ》りしめた。「そいつは確かなのか?」
「ええ、今日の午後、|羽《はね》|田《だ》に――」
そこで|突《とつ》|然《ぜん》、何かが|激《はげ》しくぶつかる音がした。そして高見の耳に、
「放せ! やめてくれ! やめて――」
と|喚《わめ》く〈クズ鉄〉の声がかすかに届いた。
「おい! 鉄! どうした?」
どこか、線路が近いのか、ゴーッと電車の音らしい|響《ひび》きが耳を|聾《ろう》して伝わって来ると――電話が切れた。
高見警部補は|沈《しず》んだ|面《おも》|持《も》ちで受話器を|戻《もど》した。通称〈クズ鉄〉と呼ばれていた情報屋は、高見とは十年近い付き合いだ。|今《いま》|頃《ごろ》は電車の車輪が彼を粉々にしているだろう。
「おい! 二、三人|俺《おれ》について来い!」
高見は気を取り直して部下へ声をかけた。
「羽田まで大至急ぶっ飛ばすんだ!」
今日の午後か。間に合えばいいが。
もう三時になろうとしていた。
「|皆《みな》|様《さま》、大変お|疲《つか》れさまでございました。間もなく羽田空港へ到着いたします……」
機内のアナウンスに、|市野庄介《いちのしょうすけ》は身内を快い|緊張《きんちょう》感が|疾《はし》るのを感じた。東京!――いよいよやって来たのだ。これからの一週間が勝負。果たして、M電子工業の大口注文を|獲《かく》|得《とく》できるかどうか。社の運命がそこへかかっている。つまりは庄介の|双《そう》|肩《けん》にかかっている、というわけなのだ。
市野庄介は三十四|歳《さい》。|福《ふく》|岡《おか》市に本社を持つタイプライターのメーカー〈シスター工業社〉の営業課長である。この若さで営業課長といえば、異例の出世と思えるかもしれないが、理由は簡単。会社が中小企業なので、出世が早かったというだけの話。課長といっても部下は四人。その内一人は東京|駐在《ちゅうざい》なので、実質上は三人しかいないわけである。
庄介は見たところ三十歳前後といっておかしくない若々しい印象があった。なかなか二枚目であり、長身で、学生時代はテニスの選手だったが、今では他の社員と少しも変わらぬ、|慢《まん》|性《せい》の運動不足。会社が不景気のせいで、このところ、方々を|駆《か》け回っているので、多少運動になったかもしれない。しかし、運動不足でも会社が|倒《とう》|産《さん》するよりはいいわけで、実際の話、社長の|永《なが》|山《やま》|道《みち》|子《こ》に、
「あんたの電話次第で、シャンパンかロープか決まるんだからね」
と出がけにポンと|肩《かた》を|叩《たた》かれたのは、必ずしも|冗談《じょうだん》ではないのである。
庄介は|膝《ひざ》の上のアタッシェケースをそっとさすってみた。――M電子工業のコンピュータ用のタイプライターを受注できれば、会社は救われる。その|鍵《かぎ》が、このアタッシェケースと、庄介の胸の中にあるのだ……。
「|焦《あせ》るなよ。……固くなるな。リラックスして」
庄介は、自分に言い聞かせた。経験上、性急な売り|込《こ》みは必ず失敗する事を知っているからだ。気負ってはだめだ。ごく当たり前に、気楽にやるのだ。――そのために妻の|貴《たか》|子《こ》も同行する事にしたのである。もっとも貴子は一足早く、二日前に東京へ着いている。大学が東京だったので、友人が多勢いるのだ。今日もその何人かと会っているはずで、羽田には来られない、と昨夜電話して来ていた。
「|進《しん》|藤《どう》は|迎《むか》えに来てるだろうな……」
進藤とは、東京駐在の営業課員である。
機が静かに高度を下げ始めた。
「今度の飛行機に乗ってるはずだ」
と、|背《せ》|丈《たけ》も|胴《どう》|回《まわ》りも巨大な男が言った。
「|間《ま》|違《ちが》いねえんでしょうね、兄貴」
|隣《となり》に並んだ、やせこけた小男が言った。
「すぐにそれと分かりますか?」
「当たり前だ。|俺《おれ》はちゃんと顔を知ってるんだからな」
「でも、本当のところ、一度見た事がある、ってだけでやんしょ?」
「一度見たら忘れられねえ顔さ、あの顔は」
「ピンク・レディーを見た時も、兄貴そう言ったけど、いつもミーとケイを間違えてるじゃないすか」
「うるせえ!」
大男は|怒《ど》|鳴《な》った。「下のロビーへ行って、サツの|野《や》|郎《ろう》がいないかどうか見て来い!」
「三分前に見て来たばかりですぜ」
「その間に来てるかもしれねえ。つべこべ言わずに行って来い!」
小男はため息をつきつき、階段のほうへ走って行った。
大男のほうは|増《ます》|井《い》という名だが、〈ドン〉というあだ名で呼ばれていた。|首《ド》|領《ン》ではなく、鈍[#「鈍」に傍点]重のドンである。小男のほうは〈切れ者〉と呼ばれている。頭が切れるのでなく、少し走るとすぐ息が切れるからだ。
二、三分すると、切れ者はハアハア息を切らしながら|戻《もど》って来た。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ、兄貴!」
「よし。――もう飛行機が着くぞ。こっちの|隅《すみ》で目立たねえように見てるんだ」
その巨大さで目立たないようにというのは、ちょっと無理に思えるが、ともかく二人は到着ロビーの隅のほうへと身を寄せた。
庄介はロビーへ出て来ると、進藤の姿を探してキョロキョロと見回した。
「おかしいな……」
確かに昨日電話で|連《れん》|絡《らく》しておいたのだが。まあ、東京は交通事情が悪いらしい。少しぐらいは|遅《おく》れて来るのも仕方ないかもしれない。しかし同じ社の人間だからいいが、これが|顧客《こきゃく》だったら相手を|怒《おこ》らせないとも限らないのだ。
「来たら言ってやらんといかんな」
と|呟《つぶや》きながら、庄介は|空《あ》いたベンチに|腰《こし》をおろした……。
ドンは降りて来る客の顔を一つ一つせっせと目で追った。
「分かるんですか、兄貴?」
と切れ者が|怪《あや》しむように|訊《き》いた。
「うるせえ!」
ドンは|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうに言った。「|畜生《ちくしょう》! どうしてこんなに余計な|奴《やつ》が|多《おお》|勢《ぜい》乗ってるんだ?」
そんな文句を言っても仕方ない。客の何人かは、|凄《すご》い大男ににらみつけられて、ギョッとしたように足を早めた。ドンは、出て来る客の姿もほとんど絶えて来ると、ロビーの中央へ出て行って、その辺に|坐《すわ》っている客や、人待ち顔に立っている客の顔をジロジロ検分し始めた。――ドンは少々|焦《あせ》っていた。実際のところ〈|踊《おど》り|屋《や》〉の顔をそうそうはっきり|憶《おぼ》えていたわけではないのだ。ただ、|親《ボ》|分《ス》の手前、そういう他はなかったのである。
もしこれで見付けられず、スゴスゴと帰って行ったら、ボスにどやしつけられるのは目に見えている。ドンは顔の|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》った。そしてふと、すぐ目の前に坐っている男へ目を落とした……。
庄介は急に目の前が暗くなったので、何事かと顔を上げた。見上げるような大男が目の前に立っている。ずっと目を上のほうへ向けると、何もかもひしゃげたような顔が、ニヤニヤしながらこっちを見ていた。庄介は何だか自分がキング・コングの|生《いけ》|贄《にえ》になったような気がした。
「ここにいらしたんですか!」
|吠《ほ》えるような声を出して、その|怪《かい》|物《ぶつ》はいきなり、庄介の肩をドンと|叩《たた》いた。庄介は危くアタッシェケースを取り落としそうになった。
「|捜《さが》しましたよ! さあ、車が待ってます。参りやしょう!」
庄介は目をパチクリさせた。
「あの……君は……|僕《ぼく》の出迎えに?」
「ええ、そうですとも!」
「すると進藤君は?」
「へえ、本来なら自分でお迎えに上がるところだが、ちょっとどうしても|外《はず》せねえ集まりがあるので、よろしくご案内して来るようにとの事で」
庄介は|驚《おどろ》いた。進藤の|奴《やつ》、いつの間に東京|駐在所《ちゅうざいしょ》に人を|雇《やと》ったりしたのだろう? 課長の俺に断わりもなく。――道理で、このところ東京からの経費追加請求が多いと思った。一体今の会社の経営状態の悪化を分かっているのか。会ったら|叱《しか》りつけてやらなきゃならん、と決心した。しかし、ともかくこの大男に文句を言っても始まるまい。
「分かった。案内してくれ」
と庄介は立ち上がった。大男が、愛想よく、
「ご|記《き》|憶《おく》ねえでしょうが、あっしのほうは以前一度お見かけした事がありましてね」
「ああそう」
「増井といいます。ドン、と呼んで下せえ」
「ドン?」
「へい。そっちにいるチビは〈切れ者〉って呼んでやって下せえ」
庄介は、反対側をいつの間にか歩いている見すぼらしい感じの小男に初めて気が付いた。――二人? 二人も人を雇ってるのか!
庄介は完全に頭へ来た! しかし、それでは済まなかった。駐車場へ着いて、大男のドンが、|黒《くろ》|塗《ぬ》りのベンツのドアを開けた時には|唖《あ》|然《ぜん》として言葉もなかった。
「この切れ者は、見かけは|頼《たよ》りねえですが、運転の|腕《うで》は確かでさ。安心して下せえ」
「このベンツは進藤君の――」
「へい。ご自分の車でさ」
庄介はもう口もきけなかった。進藤の奴め! 本社の車は中古のコロナだってのに、ベンツとは何事だ! 顔を見たら|有《う》|無《む》を言わさずパンチを食らわしてやる!
ベンツはいとも|滑《なめ》らかに動き出した。
〈踊り屋〉は、階段の上から、ロビーをゆっくりと見回した。今は便の切れ目なのだろう、あまり客の姿はない。注意深く、ベンチに|坐《すわ》っている客の一人一人へ目を向ける。張り込んだ|刑《けい》|事《じ》ではないと確信ができてから、ゆっくりロビーへと降りて行った。
彼は一つ早い便で着いていた。そしてロビーの上にある|喫《きっ》|茶《さ》|室《てん》で時間を|潰《つぶ》していたのだ。あくまで慎重を期するためである。だが、心配はなかったようだ。警察らしい姿もないし、いつまでもロビーに|留《とど》まっている客もなかった。――さて、迎えはどうしたのかな。
「顔を知っている者がいるから、迎えにやる」
新藤[#「新藤」に傍点]社長はそう言っていたが……。
「まあいい」
なまじ顔を知っている人間が迎えに来ては、|却《かえ》ってまずい事もある。行くべき場所は心得ているのだから、一人で出向いてもいい。
〈踊り屋〉――本当の名前は、彼自身しか知らない。仕事の上では〈踊り屋〉で通したし、名前が必要な時は、その|都《つ》|度《ど》付けた。
その〈踊り屋〉というあだ名の由来は誰もはっきりとは知らない。その長身の引き|締《し》まった体つきと、|敏捷《びんしょう》な身のこなしが、|鍛《きた》え|抜《ぬ》かれたバレー・ダンサーを思わせるからだとも、彼が死の使いであるところから、「死の|舞《ぶ》|踏《とう》」の連想があるのだとも言われる。
彼は|一匹狼《いっぴきおおかみ》の殺し屋だ。住居はどことも定まっていない。日本のあちこちにアパートやマンションを持っているらしかったが、誰もその場所を知らない。――ともかく、仕事を|頼《たの》みたいと思う者が、ある|極《ごく》|秘《ひ》のルートで話をすると、二、三日して、彼のほうから連絡して来る。
警察でも〈踊り屋〉の存在は知っていたが、どんな男で、どんな顔なのか、身長、体重、体つき、何一つつかんではいなかったのである。
「こっちから出向くか……」
踊り屋はロビーをグルリと見回してから歩き出した。いささかいい加減な|依《い》|頼《らい》|主《ぬし》だな。今度の仕事は断わったほうがいいかもしれない。
エスカレーターで下へ降りると、彼はタクシー乗り場のほうへ歩き出そうとした。
「すみません! |遅《おそ》くなって!」
声のほうへ|振《ふ》り向くと、三十歳ばかりの背広姿の青年が、息せき切って走って来る。
「いや、参りましたよ。|山《やま》|手《のて》線が事故で|遅《おく》れちゃいましてね」
踊り屋は、どうもおかしい、と思った。どう見てもこいつは当たり前のサラリーマンにしか見えない。それに迎えに来るのに山手線というのも|妙《みょう》な話ではないか。
「君は……」
「あれっ、いやだなあ!」
とその青年は笑って、「進藤ですよ。課長、自分の部下を忘れちまったんですか?」
踊り屋は苦笑した。|新《しん》|藤《どう》、と聞いて、この|若《わか》|僧《ぞう》が依頼主かとびっくりしたが、それは|偶《ぐう》|然《ぜん》らしい。しかし部下が間違えるようでは、その課長とかいう男と、よほど似ているのだろう。
「それとも僕のほうが変わったのかな?」
進藤は勝手に考え込んで、「ここのとこ、心労でやせましたからねえ……」
どうも、単細胞な男らしい。
「ねえ、君――」
人違いだよ、と言いかけて、踊り屋はふと進藤の背後へ目をやった。バラバラと空港の中へ|駆《か》け込んで来る男たちが見えた。一目で刑事と分かる。彼は進藤の肩をポンと|叩《たた》いて、
「それじゃ、行こうか」
と言った。
「はあ。車で行きますか? それともモノレールで……」
彼はニヤリとして、
「一度モノレールって|奴《やつ》に乗ってみたかったんだよ」
庄介が、やっと、どこかおかしいと思い始めたのは、ベンツから降りて、見上げると首の骨が痛くなるほどの|超高層《ちょうこうそう》ビルの中へ案内されて行く時だった。
「この四十二階が事務所でやして」
とドンなる大男が言った。――おかしい。東京|駐在所《ちゅうざいしょ》は、|新《しん》|橋《ばし》の駅のすぐ近く、線路わきにあるはずだ。何しろ電車が通ると、電話の話が全然聞こえなくなるほどである。それがこんな超高層ビルに移転するとは信じられない。しかし、庄介としても、ここまで来てしまった以上、どうにも引っ込みがつかない。ともかく、ついて行く他はなさそうだ。
急行エレベーターで、四十二階はアッという間であった。広々としたホール、ツルツルに|磨《みが》き上げられた|床《ゆか》。庄介は本社の見すぼらしい事務所の事を考えて、ため息が出た。
「こちらへどうぞ」
大男の背中を見ながら歩いて行くと、やがて、何やら横文字で社名の入ったガラス|扉《とびら》から中へ招じ入れられた。
「どうぞどうぞ」
ドンが〈応接室〉と書かれたドアを開けて、庄介を中へ入れる。「今、社長を呼びますので、待ってておくんなさい」
「はあ……」
立派な応接室である。ソファは本革、テーブルのケースには、タバコと葉巻が入っている。シスター工業社の経済状態では、|到《とう》|底《てい》考えられない事だ。今となっては、庄介も、自分がとんでもない間違いをしでかした事に気付いていた。
しかし、一体どうしてこんなはめになってしまったのか? もとはと言えば、あの|馬《ば》|鹿《か》デカイ大男が声をかけて来たのが間違いなのだから、責任は相手にある。たぶん、聞いていた人相|風《ふう》|体《てい》が自分によく似ていたのだろう。だが進藤といったのに……。
「あ」
応接室の中を見回して、庄介は思わず声を上げた。|壁《かべ》にかけられた初老の男の写真の下に〈初代社長・|新《しん》|藤《どう》|兼《けん》|一《いち》|郎《ろう》〉とあったのだ。
「新藤[#「新藤」に傍点]か! これで間違えたんだ!」
と|呟《つぶや》いた時、ドアが開いて、どこかで見たような顔の男が入って来た。五十歳前後、というところだろうが、よく|陽《ひ》|焼《や》けした顔の|艶《つや》は四十代前半で|充分《じゅうぶん》通用しそうだ。その代わり、|髪《かみ》はすでに半ば白くなりかかっている。いかにも高級な背広をスマートに着こなして、なかなかダンディな男である。
「よく来て下さった。私が社長の新藤|兼《けん》|治《じ》です」
そうか、見た顔だと思ったのは、壁の写真と似ているからだ。
「どうも……」
名乗るのも妙なものだ、と思い、庄介は軽く頭を下げるだけにした。
「まあ、お|掛《か》けなさい」
と新藤社長はソファへ|寛《くつろ》いで、「――なるほど、さすがですな」
「何がですか?」
「いや、そうしていると全く|一《いっ》|介《かい》のビジネスマンにしか見えない」
それじゃ一体何者だと思われているのか?
|当《とう》|惑《わく》した庄介は何とも言いようがなかった。新藤は庄介がわきに置いたアタッシェケースに目を止めて、
「その中身は何です? お差し支えなければ|伺《うかが》いたいが」
「あ、これはその、タイプライターの――」
「タイプライター!」
新藤は目を丸くして、「これはこれは……。完全|武《ぶ》|装《そう》というわけですな。いや、さすがに大したものだ!」
タイプライターが|隠《いん》|語《ご》で機関銃[#「機関銃」に傍点]を意味する事など知るはずもない庄介は、ただ|戸《と》|惑《まど》うばかり。いい|加《か》|減《げん》に事態をはっきりさせておかねば、と思って、口を開こうとすると、
「ま、余計な話をするのはお|嫌《きら》いでしょうから、事務的に話を進める事にします」
と新藤が一人でしゃべり始めた。「あなたにお願いする仕事は簡単|明瞭《めいりょう》。私の敵を消していただく事です。|奴《やつ》の名は|安《やす》|田《だ》|友《とも》|信《のぶ》。写真、経歴、私生活などこちらで調べられるだけの事は調べました。その結果がこれです」
新藤が一通の|封《ふう》|筒《とう》を庄介の前に置いた。
「殺す方法は一切あなたにお任せします。ただ期日の点で問題がある。奴は一週間後にハワイへ|発《た》ちます。そこで、私と奴と並んで勢力を三分している|八《や》|木《ぎ》という男に会う事になっている。むろん表向きは静養ですがね。奴はその第三の男と手を結んで私を|潰《つぶ》しにかかる気だ。その前に何とか奴を消していただきたい。奴のほうでも、当然|護《まも》りは固めているはずですから、楽な仕事ではないと思いますが、そこをあなたの腕で何とかしていただきたいのです。費用については――」
新藤は内ポケットから分厚い封筒を取り出して、「ここに取りあえず百万あります。これは準備のためにお使い下さい。不足の場合は言っていただけば、すぐお届けします。礼金の点はむろん考えています。一週間という期限を切った事を考えに入れて……二千万ではいかがですか?」
庄介は何とも言わなかった。言えなかったのである。新藤はその|沈《ちん》|黙《もく》を、不服の意味だと取ったらしい。
「では、二千五百万」
沈黙。
「三千万。これはいい値だと思いますがね」
沈黙。
「では四千万」
庄介は|肯《うなず》いた。これ以上金額が上がって行くのが|恐《おそ》ろしかったのである。新藤はホッと息をついた。
「結構! 半金は明日、部屋のほうへ届けさせます。残りは仕事が済んだ後に。では、これでもう直接お目にはかかりますまい。以後は電話だけで連絡します。ああ、それから、あなたがおいでになった事は相手も承知しているし、サツにも知られている公算が大きい。ご自分で歩き回られるのは何かと危険でしょう。あなたを羽田からお連れしたドンと切れ者の二人をつけます。どんな事でも言いつけて下さい。ドンは頭のほうは頼りないが、体力は用心棒五、六人に|匹《ひっ》|敵《てき》します。切れ者は車の運転にかけては、ちょっと並ぶ者のない腕の持ち主ですよ。――では、よろしく」
新藤が立つと、庄介も反射的に立ち上がった。サラリーマンの習性である。
「ああ、どうぞそのまま。今、ドンを迎えによこします」
と言って新藤は出て行った。
庄介は、しばらく気抜けしたようにソファに|坐《すわ》り込んでいた。――これが映画のワン・シーンに|紛《まぎ》れ込んだのなら、どんなにか救われるだろう。
「何てこった!」
思わず頭をかかえる。――殺人。四千万。……まるで自分に|縁《えん》のなかったものが、二つながらいきなり目の前へ|並《なら》べられたのだ。|夢《ゆめ》ではないかと|頬《ほ》っぺたをつねったり、自分で足を|踏《ふ》んでみたりしたが、どうやっても目は覚めなかった。
それにしても、とんでもない|奴《やつ》に|間《ま》|違《ちが》えられたものだ。どうやらその自分とよく似た男はプロの、それもかなり|凄《すご》|腕《うで》の殺し屋らしい。一体ここは何の会社なのだろう? そしてなぜ殺すほどにいがみ合っているのか?
少し落ち着いて来た庄介は、会社の入口の横文字の社名を思い出して、なるほどと思った。きっと表向きは貿易会社で、|陰《かげ》で何かの密輸をやっているのに違いない。その勢力争いなのだろう。――しかし、そんな事が分かっても、これからどうすればいいかは一向に分からない。
その時、ある事に思い当たって、庄介は真っ青になった。つまり、自分が間違えられた、本物の殺し屋が、あの飛行機で来る事になっていたのだ。それが何かの理由で次の便にでも変更したのだろう。しかしいずれにせよ、その本物もここへ来るか、羽田から「迎えが来ていない」と連絡して来るに違いない。そうなると、人違いであった事が早晩判ってしまう。――すると、自分はどうなる? と庄介は考えた。
「とんだ人違いで。失礼しました」
と|菓《か》|子《し》|折《おり》の一つも持たせて帰してくれる……はずはない!
何しろその安田とかいう男を、人を|雇《やと》って殺させようとしているのを知ってしまったのだ。|黙《だま》って出て行かせるはずはない。庄介は、足をコンクリート|潰《づ》けにされて、海へ放り|込《こ》まれる姿を思い|浮《う》かべた(「アンタッチャブル」のファンだったのだ)。
「|逃《に》げ出すんだ!」
アタッシェケースを引っつかみ、立ち上がって素早くドアを開ける――と、目の前に、ドンの巨体が立ちはだかっていた。
「お待たせしました」
ドンが愛想よく言った。「参りましょう」
遅かったんだな、と高見警部補は思った。もう〈|踊《おど》り屋〉の奴は空港から出てしまったのに違いない。――高見の|勘《かん》がそう言っていた。
もともと、|年《ねん》|齢《れい》も顔も、何も分かっていない人間を|捕《とら》えようというのだから、無理だ。少しでも様子の|怪《あや》しい人間を|片《かた》っ|端《ぱし》から|不《ふ》|審《しん》|尋《じん》|問《もん》したので、空港当局から苦情を言われてしまった……。
高見は部下を二人だけ残して引き|揚《あ》げる事にした。明らかに挙動の不審な者以外は手を出すなと言い|含《ふく》めておく。つまりは、一応念のために残しておくというだけだ。踊り屋ほどの殺し屋が、見るからに怪しげだったり、|刑《けい》|事《じ》を見て逃げ出したりするはずがない。
警視庁へ|戻《もど》る|途中《とちゅう》、パトカーの無線電話が高見を呼び出した。
「高見だ。――何?――そうか。|誰《だれ》か行ったか?――それならいい」
通話を終えると、高見は外へ目を向けた。〈クズ鉄〉が、地下鉄で死んだ。電車の前へ|突《つ》き落とされたのだ。殺人事件として|捜《そう》|査《さ》しても、おそらく犯人は挙がるまい。密告者の死には、その友人も|冷《れい》|淡《たん》だからだ……。
高見は、そっと手を合わせた。
「このホテルです」
踊り屋は見上げて顔をしかめた。
「ひどい所だな」
進藤は心外、といった顔で、
「これでも一応ちゃんとしたホテルなんですよ。うちの経費で落とすとなるとこの辺が限度です」
踊り屋は|肩《かた》をすくめた。まあいい。早いとここいつをまいてしまえばそれでいいのだから。
「課長、荷物はないんですか?」
「これだけだ」
と黒のアタッシェケースをちょっと持ち上げて見せる。
「へえ、さすが旅慣れてるんですねえ!」
二人はビジネス・ホテルのフロントへと歩いて行った。進藤が、
「七一四号の市野だけど……」
と言うと、フロントに|坐《すわ》っている老人が無愛想にキーを|渡《わた》した。
「さあ、行きましょう」
と進藤は言った。「|奥《おく》さんはお出かけのようですね」
|女房《にょうぼう》持ちか。踊り屋はニヤリとした。俺が[#「俺が」に傍点]どんな女と結婚しているのか見てみたいもんだな。
「じゃ、|僕《ぼく》はこれで」
七一四号室へ入ると、進藤が言った。「もう四時ですからね。明日九時にこの下へ来ますから」
「分かった。ご苦労さん」
「じゃ、失礼します」
何とも|律《りち》|儀《ぎ》な男だ。そのくせそそっかしい。
「やれやれ」
踊り屋はツインのベッドの一つに|腰《こし》を降ろした。少し間を置いてここを出よう。それで終わりだ。――ふと、|俺《おれ》の本物はどうしたのかな、と思った。空港でウロウロしているのかもしれない。
思いついて電話をかける。
「――新藤社長を」
「新藤です」
「こちらは踊り屋だが……」
「やあ、先ほどは失礼しました」
先ほどは[#「先ほどは」に傍点]? 踊り屋は|一瞬呆気《いっしゅんあっけ》に取られた。
「ドンの|奴《やつ》、何か失礼はありませんかな? さっきも申し上げた通り、何かご用があったら何なりと申しつけて下さい。ところで何か?」
「い、いや、いいんだ。――万事|巧《うま》く行っている」
そう言って、踊り屋は|慌《あわ》てて受話器を置いた。「――|驚《おどろ》いたな、全く!」
人違いもいいところだ。|迎《むか》えの奴が例の〈課長〉を|俺《おれ》と思って引っ張って行ったのに違いない。そして話の様子では結構ばれもせずにやっているようじゃないか。
踊り屋は思わず大声で笑い出してしまった。
「――こいつあ、|傑《けっ》|作《さく》だ!」
「何笑ってるのよ」
急に女の声がして、驚いて入口のほうを見ると、両手に|一杯紙袋《いっぱいかみぶくろ》をかかえた女が立っている。「ちょっと手伝ってちょうだいな」
「ああ」
踊り屋は立って行って紙袋をいくつか受け取った。女は彼の顔を見て、
「あら、|髪《かみ》|型《がた》を少し変えたのね。なかなかいいじゃないの」
「そうかね」
「声、どうしたの? ちょっとしゃがれてるわ」
「う、うん。少し|風《か》|邪《ぜ》気味でね……」
「いやね、気を付けてよ。これから一週間、大変なんでしょう?」
女はベッドの上へ残りの紙袋をドサッと投げ出すと、「ああ、|疲《つか》れた!」
とベッドに横になった。
踊り屋は頭をかいて立っていた。普段なら|猛《もう》|烈《れつ》に頭が回転するところだが、いくら殺しのプロでも、こんなはめ[#「はめ」に傍点]になったのは初めてだ。――それにしても、そんなによく似た男が世の中にいるものなのか。いや、確率的にあり得ない事ではないにしても、こうして、直面してみると|面《めん》|喰《く》らわずにはいられない。
「あーあ」
女は大きく伸びをしながら起き上がると、
「|汗《あせ》かいちゃった。ちょっとシャワーを浴びて来るわ」
「うん」
彼は、名も知らぬ女房がワンピースを|脱《ぬ》いでスリップ姿で浴室へ入って行くのを|眺《なが》めていた。――出て行くなら今の内だ。アタッシェケースを持って、さっさとホテルを出てしまえばそれきりである。新藤社長の所へ行けば彼が本物である事は簡単に立証できよう。そうなると|偽《にせ》|物《もの》のほうは……あの女の|亭《てい》|主《しゅ》、〈課長〉|殿《どの》はどうなる?――さっきの新藤の話の様子では、仕事の内容はもう話してしまっているようだ。そうなれば片付ける他はないだろう。気の毒だが、不運と|諦《あきら》めてもらう事になる……。
踊り屋は|一《いっ》|旦《たん》アタッシェケースを手に取ってドアのほうへ行きかけた。浴室からシャワーの音が|洩《も》れ聞こえて来る。ドアのノブにかけた手が止まった。――そのまま、一分近くもじっとしていただろうか。部屋の中へ戻って来ると、彼はアタッシェケースをベッドの上に置いて、|四《よ》|桁《けた》の数字を合わせてロックを外した。これだけでは|蓋《ふた》が開かない。|把《とっ》|手《て》の裏側に|隠《かく》れているバネを|押《お》して、初めて開けられる特別製だ。
ケースを開き、上に|載《の》せた雑誌をどけると、ビロードのケースにぴったりと納まった、黒光りする|拳銃《けんじゅう》、取り付け用|銃床《じゅうしょう》、|交《こう》|換《かん》式の長い銃身、消音|装《そう》|置《ち》など一式が冷たい姿を現わした。――踊り屋の商売道具である。
きっと俺と|瓜《うり》二つの課長[#「課長」に傍点]も、こんなアタッシェケースを持っていただろう、と思った。しかし、中身は銃でもナイフでもない、ただの書類だけだ……。
踊り屋はしばらく、自分の|冷《れい》|酷《こく》な|相《あい》|棒《ぼう》を見つめていたが、やがて一つ息をついて|蓋《ふた》を閉じた。それからアタッシェケースをテーブルの下へ置いて、|上《うわ》|衣《ぎ》を脱ぎ、ハンガーへかけ、ネクタイを外した。
浴室から、女が出て来た。|濡《ぬ》れた髪をタオルで巻いて、ほてった体にバスタオルを巻きつけている。
「ああ、いい気持ちだった。あなたもザッと浴びて来たら?」
彼女はまだ三十前であろう、|小《こ》|柄《がら》でやや太り気味の肉付きのいい女だった。丸顔でややあどけなさの残る表情。
「あら、気が付かなかったけど、その背広、この間|月《げっ》|賦《ぷ》で買ったのね? もう仕上がったの、よかったわね。出張に間に合わない、ってがっかりしてたじゃないの」
|彼《かの》|女《じょ》はベッドにちょこんと腰をかけて、髪をタオルで|拭《ぬぐ》い始めた。「――大学時代の友達と何年ぶりかで会ったけど、みんな話といえば子供が|幼《よう》|稚《ち》|園《えん》に行っただの、ご主人が係長になった、課長になったって話ばっかり。あなたはもう課長だから、その点はともかく、子供がないから何となく話がずれちゃって……。私たちもそろそろ作らない? もちろん今、会社が危ないってのはよく分かってるわ。だからそれを乗り|越《こ》えてから……」
彼は、窓のほうへ歩いて行った。カーテンを閉めた。部屋が|薄《うす》|暗《ぐら》くなる。
「どうしたの?――見えないわよ、ここにいれば」
と女が|微《ほほ》|笑《え》む。ベッドのほうへつかつかと進んで行き、彼の|腕《うで》がやおら女を|抱《だ》きしめた。
「何してるの! やめてよ、こんな時間に……」
と|慌《あわ》てて身をふり放そうとするが、たちまちベッドの上へ|押《お》し|倒《たお》されてしまう。
「ねえ……そんなに急がなくたって……何も子供を作ろう、って言ったから、って……ねえ……」
|唇《くちびる》を唇が|塞《ふさ》いで、|抗《こう》|議《ぎ》の言葉を封じられ、体に巻きついていたバスタオルがハラリと|床《ゆか》へ落ちると、もう女のほうも逆らわなかった。
「ここです」
ドンがドアの|鍵《かぎ》を開けて、「どうぞ中へ」
と|傍《かたわ》らへ|退《しりぞ》いた。
庄介は、部屋の中へ足を|踏《ふ》み入れた。マンションの最上階、十一階の一室である。当座の|憂《ゆう》|鬱《うつ》な気分はともかく、庄介はその広さ、造りや|装飾《そうしょく》の|豪《ごう》|華《か》さにため息をついた。|俺《おれ》のアパートの何倍あるのだろう?
「ここは誰のマンションなんだい?」
と庄介は|訊《き》いた。少しは口がきけるようになっていたのである。
「社長のこれ[#「これ」に傍点]でさ」
とドンが小指を立てて見せる。
「ここにいるのかい?」
「いえ、ただ今ヨーロッパ旅行中でして。社長がここを空けさせるために行かせたんですよ。まだ半月は帰って来ません。ゆっくり使って下せえ」
「ありがとう」
なるほど、女の住居らしい|香《かお》りが|漂《ただよ》っている。
「ここの管理人や何かには、留守番を|頼《たの》まれたと言ってあるんで、別に|厄《やっ》|介《かい》な事はありません」
「そうかい」
庄介は上の空だった。ともかく一刻も早く逃げ出さなくては。別人とバレたら命はないのだ!
「ご苦労さん。もういいよ」
と庄介は言った。
「そうですか。何かご用がありゃ――」
「今のところ、何もない。行動開始は明日からにしよう。今日はゆっくり休んで、仕事に備えたい」
庄介は、極力その道のプロらしく聞こえるように、気取ったしゃべり方をした。
「分かりました」
ドンはニヤつくと、「じゃ、ご用の時はいつでも呼んで下さい」
と広々としたリビングルームから、|玄《げん》|関《かん》に近い部屋のドアを開けて入って行こうとする。
「おい!」
庄介は|慌《あわ》てて言った。「君もここにいるのか?」
「ええ」
ドンは当たり前、といった顔で、「身辺から|離《はな》れるなと命令されてまして」
「俺は一人でいないと神経の休まらない|性《た》|質《ち》なんだ! 帰ってくれて|大丈夫《だいじょうぶ》だよ!」
「でも……」
「平気だと言ってるだろう!」
庄介は|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうに、「明朝迎えに来てくれ。それでいい」
「分かりました」
気の進まない様子で、ドンは玄関のほうへ歩いて行く。庄介はアタッシェケースを手に、ドンのほうへはわざと目もくれず、|寝《しん》|室《しつ》と覚しき部屋へ入って行った。
庄介は部屋の入口で、ギョッと立ちすくんだ。――女が、|猟銃《りょうじゅう》を構えて立っている。その銃口は真っ直ぐ庄介を|狙《ねら》っていた。
「せっかくシャワー浴びたのに……」
「ん?」
「また汗をかいちゃったわ」
「悪かったかな?」
「風邪引いてるのに、こんな事していいの?」
「汗を出すと風邪が治る」
「じゃ、私は風邪薬の代わり?」
と女は笑いながら言って、彼の|裸《はだか》の胸にキスした。「――しばらく見ない内に少し筋肉がついたんじゃない?」
「|鍛《きた》えたのさ」
「|素《す》|敵《てき》よ。男らしくて」
どうやらご亭主は|忙《いそが》し過ぎて、とんとこのほうはご|無《ぶ》|沙《さ》|汰《た》だったようだ。踊り屋も、久々に女を抱いたという気がした。まあ、この女にはちょっと気の毒だが、それでも彼女のほうも|貪《むさぼ》るように|彼《かれ》の|愛《あい》|撫《ぶ》を|受《う》け|容《い》れたのは、長い間放ったらかされていた不満を解消していたのだろうから、本人が相手を本物の亭主だと信じている限りはそう罪にもなるまい。これで夫婦円満になりゃ、善行を|施《ほどこ》したとも言えるわけだ、と踊り屋は虫のいい事を考えた。
「しかし、このホテルは感心しないな」
「あら、そう?」
「ムードも何もありゃしねえ」
「それは無理よ」
と彼女は笑って、「値段が値段ですもの!」
「ホテルを移ろう」
「ええ?」
と目を丸くする。「どこへ?」
「ニューオータニかヒルトンか。ともかくもう少しましな所へ」
「だって……お金、どうするのよ?」
「それぐらいは何とかするさ」
「本当? |嬉《うれ》しいわ!」
抱きついて来る彼女の上になって、彼はもう一度愛撫を始めた。
「今日のあなた、別人みたいよ」
彼女は息を|弾《はず》ませながら言った。
「何だ、そうだったの……」
|真《ま》|砂《さ》|子《こ》というその女は受話器を置くと、庄介とドンのほうを向いて、「分かったわ、あの人がちゃんと説明してくれたから」
と猟銃の銃口を下げた。庄介はやっと生き返った思いがした。この事件の|顛《てん》|末《まつ》がどうなろうと、銃を|突《つ》きつけられるのが体によくないという点だけは|肌《はだ》で勉強したわけである。
「だからそう言ったでやんしょうが」
ドンは不服顔だ。
「だってえ……」
真砂子はすねた顔になって、「あの人ったら、いかにも私の事、|邪《じゃ》|魔《ま》だっていうように、ヨーロッパに行かせてやるって言うんですもの。てっきり他に女ができたんだと思って……。帰ってみたら、ここに他の女が住みついてる、なんてごめんだと思ったから、旅行やめてここで待ち構えてたのよ」
「|僕《ぼく》が女に見えたんですか!」
庄介もさすがに腹が立って、そう言ってやった。
「そうじゃないけど――」
と真砂子はちょっとためらってから、「あの人、ホモっ気があったのかと……」
そこへ電話が鳴った。
「ちょっと失礼。――はい。あ、あなた?――ええ、ちょっと待ってね」
真砂子はドンのほうへ、「あなたよ。社長さんから」
「はあ」
ドンは受話器を取った。「はい。――申し訳ねえです。――はい。分かりました。それじゃこれからすぐに……」
「何ですって?」
と真砂子が|訊《き》くと、
「事前にこの部屋をチェックしなかったのがミスだと|叱《しか》られやした」
「まあ、ごめんなさいね」
「ホテルへ|泊《と》まっていただくように、とのこってして……」
ドンは庄介に言った。「すみませんが、また車に乗っていただけませんか」
「あ、ああ、いいよ」
庄介は|肯《うなず》いた。猟銃かかえた女性と同じ部屋にいるのは、どうにもいい気分ではない。まだこの大男のほうがまし[#「まし」に傍点]だ。それにホテルなら、逃げ出すチャンスも大いにありそうである。
「じゃ、行こうか」
と自分から立ち上がった。
「ちょっといい男ねえ、あんた」
真砂子は玄関の所まで見送って行って、
「ここに泊まってればいいのに」
「え、|遠《えん》|慮《りょ》します!」
庄介は|慌《あわ》ててドンの後について歩き出した。
――マンションの前に、近くの|駐車場《ちゅうしゃじょう》に停めてあったベンツが横づけになる。庄介とドンが乗り|込《こ》むと、切れ者が|振《ふ》り向いて、
「ずいぶん急な引っ越しですね」
と笑いながら言った。
「うるせえ! 早く出せ!」
「出せ、ったってね、行き先を|訊《き》かなきゃ」
「Pホテルだ!」
「へい」
ベンツが静かにスタートした。そろそろマンションの周囲にも|暮色《ぼしょく》が立ちこめている。ベンツが三、四十メートル進んだ時、後ろで|激《はげ》しい|爆《ばく》|発《はつ》|音《おん》が聞こえた。
「何だ!」
と思わず|腰《こし》を|浮《う》かしかける庄介を、
「危ないですよ、今出ちゃ!」
とドンが|抑《おさ》えた。次の|瞬間《しゅんかん》、ガラスの破片や何かが降って来て、ベンツの車体にも当たって、バラバラと音をたてた。
「ガス爆発か何かかな?」
と庄介は言った。
破片の音がしなくなってから、ドンと庄介はドアを開けて、マンションを見上げた。
「あれっ!」
ドンが思わず声を上げた。「やられたのは社長の部屋だ!」
最上階の部屋の一つから、|黒《こく》|煙《えん》が|吹《ふ》き出している。三人は|唖《あ》|然《ぜん》としてその様子を見ていた。
「一体何事が……」
と庄介が言いかけると、ドンが、|吐《は》き捨てるように、
「連中の|仕《し》|業《わざ》だ!」
と言った。「安田んとこの|奴《やつ》が|爆《ばく》|弾《だん》を|仕《し》|掛《か》けたのに|違《ちが》いありませんや」
「爆弾? じゃ……あそこにいたら|今《いま》|頃《ごろ》は……」
「こっちも吹っ飛ばされてやしたよ。全く、|汚《きたな》い事をしやがる!」
庄介は車へ|戻《もど》ってシートへドサッと身を|沈《しず》めた。やっと|恐怖《きょうふ》が足下から|這《は》い上って来て、ゾクゾクッと|身《み》|震《ぶる》いする。
「|畜生《ちくしょう》、どうしてかぎつけやがったのかなあ?」
ドンは首をひねった。「ま、いいや。命拾いしたんだ。おい、切れ者、車を出せ」
「へい」
「おい、社長へ知らせなくていいのか?」
と庄介が言った。「|恋《こい》|人《びと》だったんだろ」
「なあに、もう|飽《あ》きてたみたいですからね、ちょうどサバサバするんじゃねえですか」
「……そんなもんかね」
庄介は|呟《つぶや》くように言った。
電話が鳴った。――まだ熱くほてった裸身を寄せ合っていた踊り屋は、ちょっと舌打ちしてから受話器を取った。
「はい。――ああ」
「|誰《だれ》から?」
と女――まだ名前も知らない――が|訊《き》く。
「進藤って|奴《やつ》だ」
受話器から、進藤の張り切った声が飛び出して来た。
「課長ですか? チャンスです! ラッキーですよ!」
「野球の試合でも見てるのか?」
「違いますよ。M電子工業の|河《こう》|野《の》部長へ、課長が来たことを知らせて明日面会のアポイントメントを取ろうと思ったんです」
「アポ――?」
「|約《やく》|束《そく》ですよ」
「だったら約束と言え。それで?」
「はい、そうしたら今夜|一《いっ》|緒《しょ》に食事でも、って事になったんです」
「ふーん」
「あちらもご夫婦でみえるそうですから、課長も|奥《おく》|様《さま》とご一緒にどうぞ。Pホテルのロビーで七時にお待ちしてます」
進藤は返事も待たずに電話を切ってしまった。やれやれ、勤め人てのは|忙《いそが》しいもんだな、と踊り屋は苦笑した。
「ねえ、どうしたの?」
「うん? ホテルが決まった。Pホテルだ。さ、|仕《し》|度《たく》しようぜ」
踊り屋は、いささかこの役を楽しんでいた。殺しの仕事はいくらもあるが、こんな経験はしたくたってできやしない。どうやらあちらの課長殿も、まだ殺し屋の役を何とか演じているらしい。こっちも一つやれるところまでやってやろうじゃないか。
一緒にシャワーを浴びながら、踊り屋は、自分の妻[#「妻」に傍点]の体を|眺《なが》めた。正直に言って、この女と別れるのがちょっと|惜《お》しい気持ちであった。慣れぬビジネスマンの役を続けてみようか、と思ったのもそのせいかもしれない……。
「|目《もく》|撃《げき》|者《しゃ》の話では、〈クズ鉄〉を突き落としたのは、ちょっとやせ型の、左の|頬《ほお》に傷のある男だったそうです」
部下の言葉に、高見警部補は思わず目を見張った。
「それは〈サソリ〉じゃないか!」
「ええ、間違いないと思います」
「目撃者ってのは?」
「売店のおばさんですよ。たまたまホームへ降りて来てて、現場を見たってわけで……」
「そいつは|旨《うま》いぞ! すぐ保護しろ!」
「それが……」
と|刑《けい》|事《じ》は頭をかいた。
「どうした? まさか、そのおばさんまで事故にあったってんじゃあるまいな?」
「そうじゃないんですが」
とため息をつく。「駅の事務所で話を聞いてる時に、そのおばさんへ電話が一本かかりましてね」
「誰から?」
「分かりません。ともかく、それに出たら、おばさんの態度がコロッと変わっちまったんです。何も知らない、何も見てない、思い違いだった。――どう説得してもその一点張りです。お手上げですよ」
「|脅《おど》されたな、|畜生《ちくしょう》!」
高見はデスクをドンと|叩《たた》いた。
「サソリの奴を引っ張りますか?」
「むだだ。どうせアリバイを証言する|奴《やつ》が五人は|揃《そろ》ってるさ」
「そうですね」
高見は|椅《い》|子《す》の中で体を伸ばして、
「クズ鉄は|可《か》|哀《わい》そうな事をした……。奴の|女房《にょうぼう》はどうした?」
「地元署で保護していますが」
「そうか。できるだけの事はしてやりたい。――警視へ|頼《たの》んでみよう。本庁へ連れて来てくれ」
「分かりました」
「サソリが出て来たとなると、踊り屋を|雇《やと》ったのは――」
「新藤って事になりますね」
「|狙《ねら》われるのは安田か八木って事になる」
「ですが、新藤の奴も、サソリみたいな殺し屋をかかえてるくせに、どうしてよそ者を雇ったりするんでしょうね?」
「そこが|俺《おれ》も気になってるんだ」
高見は考え|込《こ》みながら、「踊り屋を使えば、どう安くみても二千万はかかる。――もしかすると、|払《はら》う気はないのかもしれんな」
「というと?」
「仕事が終わったところで消す気かもしれん」
「踊り屋をですか? ちょいと|冒《ぼう》|険《けん》ですね」
「しかし、新藤は計算高い奴だ。それぐらいはやりかねんぞ」
「それじゃ、どういう手を打ちます?」
「ウム……」
高見はため息をついた。「連中がどこか絶海の孤島へ行って勝手に殺し合ってくれりゃこっちも放っとくんだがな。――町中でドンパチやられて通行人でもやられた日にはこっちのクビが飛ぶよ」
「八木と安田を張りますか」
「そうだな。踊り屋を現行犯で|逮《たい》|捕《ほ》できれば|大《おお》|手《て》|柄《がら》だ」
「どんな奴なんでしょうねえ」
「さあ……。きっと、ごく当たり前に見える男だろう」
高見は何気なく言った。
「こちらへご記入下さい」
フロントの男がカードとボールペンを出した。踊り屋はちょっと|咳《せき》|払《ばら》いして、
「君、書いてくれよ」
「はい」
妻がカードを書く手元を|覗《のぞ》き込んで、〈市野庄介、貴子〉と読むと、踊り屋はホッとした。これでやっと名前が分かった!
ボーイに案内されて市野夫妻[#「市野夫妻」に傍点]がエレベーターのほうへ行ってしまうと、フロントの男はカードの名前をタイプへ打ち始めた。
「おい!」
いきなり大声を出されて飛び上がりそうになりながら、
「は、はい!」
目の前の大男を見上げる。「あの……ご用は?」
「部屋だ。決まってるだろ!」
「ご予約は?」
「増井、ってんだ」
ドンの本名である。「電話してあんだろ」
「は、はい。|承《うけたまわ》っております」
フロントの男はメモを出して、「増井様、ツイン・ルームでございますね」
「そうだ。とっとと案内しろ」
「あの、こちらのカードへお名前を……」
「そっちで書いとけ!」
「しかしお二人でいらっしゃるのでしょう?」
「増井と……」
ドンはぐっと|詰《つ》まった。まさか|姓《せい》|名《めい》〈踊り屋〉、職業、殺し屋と書くわけにもいかない。
「増井様と……」
仕方なく自分でカードへ書き込みながら、フロントの男が顔を上げて、「もうお一人は?」
「うん……。|俺《おれ》の弟だ。同じ増井だ」
「わかりました。で、お仕事とご住所……」
フロントの男は言いかけて、大男の後ろに立っている、アタッシェケースを持った男を見て目を丸くした。つい今しがた、夫婦でやって来た男ではないか!
「おい、何をぐずぐずしてる!」
とドンは|苛《いら》|々《いら》と言った。「早く部屋へ案内しねえのか!」
「は、はい」
しかし、そこは一流ホテルのフロントだけあって、そっくりではあるものの、服も違えば|髪《かみ》|型《がた》も違っているのに気付いた。これはきっと|双《ふた》|児《ご》の兄弟か何かに違いない。どうもこの|馬《ば》|鹿《か》デカイ男は兄弟に見えないが、全然似ていない兄弟というのも、たまにはあるものだ。それなら……。
フロントの男は気を利かせて、ドンたちのために最初取っておいた部屋を取り消し、さっきの夫婦の|隣《となり》の部屋が空いているのを見て、そのキーを出した。
「こちらです。ただいまご案内を……」
大男とその弟[#「弟」に傍点]がエレベーターのほうへ歩いて行くのを見送ってから、フロントの男は|傍《かたわ》らにいた新入社員へ、今の事情を説明した。
「いいか、こういうきめ[#「きめ」に傍点]細かいサービスが、一流ホテルの|身上《しんじょう》なんだ。よく|憶《おぼ》えておくんだぞ」
庄介は部屋のソファに|腰《こし》を降ろして、さて一体どうすれば|巧《うま》く|逃《に》げられるかと考えていた。何しろドンがそばにピッタリくっついて|離《はな》れようとしないのだ。――しかし、いくら何でもトイレぐらいには立つだろうから、その|隙《すき》に逃げればいい。ここを出てしまえば|捜《さが》しようがあるまい。
ドンは新藤へ電話を入れていた。
「え?――そいつは|凄《すご》いチャンスですね! 分かりました!」
庄介は何だか|嫌《いや》な予感がした。ドンは受話器を置くと、|嬉《うれ》しそうに言った。
「運がいいですぜ!」
「何事だい?」
「例の安田の|野《や》|郎《ろう》が、今夜このホテルのパーティに来るんだそうです」
「このホテル?」
「へえ。|奴《やつ》が会長をしている海運業者の集まりがあるそうですよ。そこでスピーチをするとか。こいつは絶好のチャンスですよ」
庄介は、ひきつったような笑いを|浮《う》かべた。
「そ、そうだな……」
「あっしにもお手伝いさせて下せえ!」
「い、いや……こういう仕事は一人のほうがいい」
「そうですか」
ドンはちょっとがっかりした様子で、「まあ、ベテランがそうおっしゃるんだから……。でもその|腕《うで》|前《まえ》をぜひ拝見したいですねえ」
「殺しは見世物じゃない」
と庄介はわざと|渋《しぶ》い声で言ってみせた。|座《ざ》|頭《とう》|市《いち》のセリフに似たようなのがあったな。――しかし、正に絶体絶命だ。何としてでも逃げ出さなくては……。
踊り屋は、ウンザリしていた。
食事は悪くなかった。レストランの|雰《ふん》|囲《い》|気《き》も、なかなか落ち着いていて、物静かであった。隣の席には、妻の貴子がいた。――しかし、同席の客が悪すぎた。
M電子工業の河野という部長は、彼の最も|嫌《きら》うタイプだった。ズルズルと音をたててスープをすすり、ナイフやフォークをやたら|皿《さら》へガチガチぶつける。皿を食おうとでもしているみたいだ。しかも歯に何か|挟《はさ》まったといっては口の中へ指をつっこみ、|凄《すさ》まじい音をたてて鼻をかむ。
チビなのを気にしているのか、やたらそっくり返ろうとして、今にも|椅《い》|子《す》からずり落ちそうだった。半分はげた頭がギラギラと|脂《あぶら》ぎって、しかも――これが一番気に入らなかったのだが――好色そうな目で貴子をジロジロと|眺《なが》め回しているのだ。
夫人のほうも、これといい勝負だった。ワインの代わりにウイスキーの水割りをガブガブ飲んで、目の|縁《ふち》を赤くしている。やせて、鳥のガラみたいで、そのくせ|化粧《けしょう》が|濃《こ》いので|薄《うす》|気《き》|味《み》悪い。童話に出てくる|魔《ま》|法《ほう》使いの|婆《ばあ》さんを少し若くしたら、こんな感じになるだろう。しかも|妙《みょう》にしな[#「しな」に傍点]を作ったりするので、寒気がするようだった。踊り屋のほうへ、何やら意味ありげな流し目を送っている。
話のほうは、もっぱら進藤が一人で引き受けていた。話題は世界の経済情勢から|突《とつ》|然《ぜん》トルコ|風《ぶ》|呂《ろ》の話になると思うと、宇宙のブラックホールの知識からスペース・インベーダーへ落ち込むという具合。
踊り屋はつくづく感心した。いや、|皮《ひ》|肉《にく》でなく感心したのである。これだけひっきりなしに、しゃべり続けるエネルギー、しかも相手はろくに聞いてもいない。時々、
「うん……」とか、「まあね……」
と|呟《つぶや》くだけなのだ。そういう|奴《やつ》へ、お|世《せ》|辞《じ》やお|追従《ついしょう》を交えながらしゃべり続けるのは仕事とはいえ楽ではあるまい。
踊り屋はつくづく、自由業[#「自由業」に傍点]でよかったと思った。|俺《おれ》にはとてもサラリーマンは勤まらない。
「で、今度のタイプライターの件、どうぞよろしくお願いいたします」
食事の最後に進藤が言うと、河野は、
「ウム……。考えておくよ」
と気のない様子で言った。
「では、今夜のところはこれで……」
踊り屋は驚いた。|肝《かん》|心《じん》の話はこれだけなのか。殺しの相談などは必要最小限の話しかしない。交渉は回り道も何もなく、ズバリと要求を出し、向こうもはっきり答える。折り合いがつけば承知するし、つかなければそれで終わりだ。両方とも二度と顔を合わせる事はあるまいし、たとえ出会っても、互いに未知の人間として|振《ふ》る|舞《ま》うのが決まりである。
きっとビジネスの世界もそんなものだろう、と踊り屋は|漠《ばく》|然《ぜん》と考えていたのだ。製品を売り込むのだから、性能だの価格だのの点で交渉し、歩み寄って話を決めるのだろう。そう思っていたのだが、進藤のほうもそんな事はまるで言わないし、相手も|訊《き》きもしない。
分からんな……。踊り屋は首を振った。
食事を終わって、進藤は河野夫妻を送ってホテルを出て行った。
「あなた、ずいぶん今日は無口だったわね」
と貴子が言った。
「相手が気に食わない」
「そんな事言って……。会社の運命がかかってるんでしょ?」
「そんな事より、バーで飲み直そう」
踊り屋は、もう一人の自分が、そんなにおしゃべりなのかと思うと、ちょっと|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》になった。
ほの暗い照明のバーへ入って行くと、二人はカウンターの一番奥に|坐《すわ》った。これは踊り屋の習性だ。少し暗い席で、入って来る客の顔が見える場所。保身上、必要な習慣である。
「ちょっと化粧室に行ってくるわ」
貴子が席を立って行くと、踊り屋は水割りのグラスを傾けた。――バーへ、黒いスーツの男が入って来た。
その男は、ノッポで、やせて、左の|頬《ほお》に|傷《きず》|跡《あと》があった。あれはナイフか何かの傷に違いない。まともな奴でないのは、すぐに分かった。|隙《すき》のない身のこなし、身辺に漂わせている凶悪な雰囲気。どうやら同業者らしい。
なぜここへ来たのだろう? 俺が目当てではなさそうだが、と思ってから、踊り屋はニヤリとした。それはそうだ。今の|俺《おれ》は市野庄介なんだからな……。
庄介はそっと|廊《ろう》|下《か》へ出てドアを閉じた。もう八時半になっている。例の安田とかいう男の出席しているパーティは八時からだから、そろそろ出かけよう、という事になり、ドンは急いでトイレへ行った。庄介はその|隙《すき》に逃げ出す事にしたのである。
姿が見えないのを知れば、すぐに追いかけて来るだろう。庄介はエレベーターへと廊下を走った。|巧《うま》い具合に、ちょうど昇って来たエレベーターをつかまえて、
「一階」
乗り込んで、エレベーターボーイへ言うと、ホッと息をつく。これで逃げられるぞ! エレベーターは八階から下がって、六階で|一《いっ》|旦《たん》停まった。フロントの男が乗り込んで来て、庄介に|会釈《えしゃく》した。庄介はちょっと|肯《うなず》いて見せただけだった。
フロントの男は、これはどっちの客だったろう、と頭をひねった。夫婦連れのほうだったか、大男との兄弟だったか……。
一階に着いて、エレベーターを降りた庄介へ、フロントの男は、
「奥様はお部屋がお気に召しましたか?」
と|訊《き》いた。
「え?……ああ……ええ、まあ……」
とっさの事で何やら分からず、庄介は|曖《あい》|昧《まい》に肯いた。
「それはどうも。何かご用がございましたら、いつでもお申し付け下さい」
「どうも……」
フロントの男が行ってしまうと、庄介はホテルの出口のほうへと歩き出した。――何だ、あいつは? 何を言ってるんだ? 奥様は、だって? |馬《ば》|鹿《か》|馬《ば》|鹿《か》しい! あのドンがどうして奥様[#「奥様」に傍点]に見えるんだ。
庄介は、はた[#「はた」に傍点]と足を止めた。|恐《おそ》ろしい想像が|脳《のう》|裏《り》を|駆《か》け|巡《めぐ》った。
「まさか……貴子が……」
そんな事があり得るだろうか? 自分が間違えられた殺し屋が、貴子と|一《いっ》|緒《しょ》にここへ泊まっているなどという事が……。
しかし、考えてみれば、今まで人違いが分からずにいるというのは、妙な話である。その殺し屋のほうも、何かの事情[#「何かの事情」に傍点]で|連《れん》|絡《らく》が取れないのではないだろうか。――進藤の奴なら、空港で庄介とその男を取り違える事も考えられないではない。さっきのホテルの人間も間違えたほどだ。よほど似ているのだろう。進藤は半年以上、自分と会っていないのだから、少しぐらい背や様子が変わっていても、こんなものだったか、ぐらいに思うのではないだろうか。
だが、たとえ進藤が分からずとも、貴子は――貴子は分からないはずはない!
そうなると、貴子はその男に|脅《おど》されているのかもしれない。ちょうどいいカモフラージュだ、と貴子を利用しているのでは……。庄介は、自分に似た男が|冷《れい》|酷《こく》な笑みを浮かべて――どんな顔になるか、どうしても想像がつかなかったが――貴子へナイフを|突《つ》きつけている図を思い|描《えが》いて青くなった。
急いでエレベーターのほうへと|戻《もど》ったが、さっきの男の姿はとっくに見えない。
「そうだ!」
電話! 電話しよう。進藤の|奴《やつ》のアパートの番号を手帳にメモしてあるはずだ。――冷静に考えれば、その男は〈市野庄介〉の名でここに|泊《と》まっているはずなのだから、フロントでルームナンバーを|訊《き》けばいいのだが、頭へ血が上っているので、一つ思いつけば他の事には頭が回らないのである。
庄介はロビーの|奥《おく》へ奥へと廊下を入って、やっと赤電話を見付けた。手帳で番号を見て、|震《ふる》える手で十円玉を入れ、ダイヤルを回す。
「もしもし!」
と勢い|込《こ》んで言うと、
「おかけになった電話番号は、現在使用されておりません。……」
「失礼しました」
庄介は謝って受話器を戻した。かけ|違《ちが》いか、それともメモが間違っているのか。
「|畜生《ちくしょう》!」
と|呟《つぶや》いて、ふと振り向いた庄介は、ギクリとした。黒いスーツの人相の悪い男が二人、じっと庄介を見ている。
「な、何かご用で……」
「|俺《おれ》たちは安田社長のガードマンなんだがね……」
男の一人が言った。「さっきから、どうも様子が|妙《みょう》だと思って、ついて来たのさ」
「ぼ、僕はただ……電話を……」
「社長の名を聞いて青くなったぜ」
ともう一人が言った。
「ちょ、ちょっと急ぐんでね、失礼」
庄介は二人の横をすり|抜《ぬ》けて行こうとした。二人が素早く立ちはだかる。庄介は顔から血の気がひくのが分かった。ここはかなり奥まった場所で、人の目につかない。大声を出す手はあるが、|肝《かん》|心《じん》の声が出ない!
「待ってくれよ……僕は……」
「やっぱり妙だぜ」
「ちょっと痛めつけとくか」
二人が近付いて来る。庄介は足がすくんで動けなかった。その時、|突《とつ》|然《ぜん》、ドンの巨体がその二人の後ろへ現われたと思うと、二人の男の|襟《えり》|首《くび》を両手に一人ずつつかんで、グイと引っ張った。二人が仲良くひっくり返る。
「ここは|任《まか》せて下せえ!」
ドンはそう言うと、起き上がった二人をまるでゴム人形みたいにつまみ上げて、エイッとかけ声もろとも、|壁《かべ》に向かって投げつけた。
いやというほど壁へ|叩《たた》きつけられた二人は、「うっ!」と|呻《うめ》いて、そのまま|床《ゆか》へのびてしまった。
「ざまあ見やがれ」
ドンはニヤニヤして、「安田んとこの用心棒でさ。こんなのに守ってもらってたんじゃ命がいくつあっても足らねえや」
庄介は胸を|撫《な》でおろした。しかし、
「さ、行きましょうぜ。そろそろ|奴《やつ》のスピーチだそうです」
とドンに言われてため息をつく。どうしたって助からないよ、全く!
「やあ課長、ここにいらしたんですか」
進藤がバーへ入って来て、|踊《おど》り屋を|捜《さが》し当てて近寄って来た。
「ご苦労だったな。|一《いっ》|杯《ぱい》やれよ」
とちょっと上役らしいところを見せる。
「奥さんは?」
「トイレへ行ってる」
「そうですか。ちょうどよかった」
「何がだ?」
「実はですね……」
進藤が言いにくそうに、「|一《いっ》|旦《たん》ホテルの外へ出たんですが、あの夫婦、また戻って来てるんですよ」
「何だと? 酒でも付き合えってのか?」
「そんな事だといいんですが……」
「何だ、はっきりいえよ」
「はあ。実は……うちの社へ注文を出してもいいっていうんです」
「フン。『ただし』が付くんだろう」
「そうなんです」
「金か?」
「いえ……」
「じゃ、何だ?」
「つまりですね……あのご夫婦、妙な|趣《しゅ》|味《み》がありましてね」
「妙な?」
「スワッピングに|凝《こ》ってんですよ」
「スワッピング?――夫婦|交《こう》|換《かん》ってやつか?」
「ええ」
「|呆《あき》れたな、あの|年《と》|齢《し》で!」
「全くです。……それで、あの部長さん、すっかり課長の奥さんを気に入ったようで……」
「――おい!」
「部長の夫人は課長にご執心なんですよ」
「|冗談《じょうだん》じゃないぜ、あんな化物!」
「でも、あの注文を取れるかどうかは、あの部長の一存にかかってんですよ。そして我がシスター・タイプライターの命運は――」
「おい、今は現代だぞ! 時代劇じゃないんだ! |悪《あく》|代《だい》|官《かん》が|百姓《ひゃくしょう》の|女房《にょうぼう》に目をつけて、『わしのものになれば|年《ねん》|貢《ぐ》を許してやる』なんて、時代|遅《おく》れもいいとこだ!」
「でも|水《み》|戸《と》|黄《こう》|門《もん》はいませんからねえ……」
「ふざけるな、これはビジネスだぞ!」
「でも|僕《ぼく》だって、以前、ホモの営業部長に|抱《だ》きつかれた事がありますよ」
踊り屋は|呆《あき》れて物も言えなかった。ビジネスとは何て野蛮な[#「野蛮な」に傍点]|代《しろ》|物《もの》なんだ!
「どうします、課長?」
「どうもこうもあるか! |俺《おれ》は断わる!」
別に会社が|潰《つぶ》れても関係ないので気楽である。進藤は困り切った様子で、
「じゃ、そう言って来ます。念のために社長に電話してみましょうか?」
「勝手にしろ」
進藤がそそくさとバーを出て行くと、貴子が戻って来て、
「今の人、進藤さんじゃない。どうしたの?」
「おやすみを言いに来たのさ」
踊り屋はそう言って、貴子を頭から足の先まで|眺《なが》め回した。――妙なもので、別に本当の女房でもないのだから、この女が|誰《だれ》に抱かれようと関係ないわけだが、それでも何やら自分でもよく理由の分からない|憤《いきどお》りを感じたのである。
「こんなホテルに泊まるのなんて新婚旅行以来ね」
と貴子が言った。「夢みたいだわ。お金、|大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「心配するなよ」
踊り屋は|微《ほほ》|笑《え》んだ。考えてみれば女に微笑みかけるなんて久しぶりの事だ。彼にとって、女とは行きずりの商売女でしかない。女を愛した事も、愛された事もない。殺した事はあるが……。
「ああ、少し|酔《よ》ったわ」
貴子は|額《ひたい》へ手を当てた。「でも、せっかく|素《す》|敵《てき》な夜なのに、|眠《ねむ》っちゃもったいないし……」
「後で起こしてやるよ」
「そう? じゃ、部屋へ行ってるわ」
「分かった」
「本当に起こしてよ」
「起きなかったら水をかけてやる」
貴子はちょっと笑って、キーを手にバーを出て行った。入れ違いに進藤が戻って来る。
「奥さん、どうなさったんで?」
「ちょっと酔ったから部屋で休むとさ」
「そうですか」
「社長へ電話したのか?」
「ええ」
「何と言ってた?」
「そんなのはとんでもない話だ、とどやされましたよ。商売と色の道は別だ、と」
「当然だ」
「河野ご夫婦にも説明してお引き取り願いました」
「そうか。じゃ、君も一杯やれ」
「はい! お付き合いします」
そこへ、バーの入口から、ボーイが呼んだ。
「進藤様! いらっしゃいますか?」
「あれっ、何だろう? すみません、ちょっと行って来ます」
しかし踊り屋の目は別の男を見ていた。
〈進藤〉と呼ばれて、|一瞬《いっしゅん》ハッと|腰《こし》を|浮《う》かしかけた男がいるのだ。――その男は、さっきの|頬《ほお》に傷のある男のいたテーブルに|坐《すわ》っている。さっきの男はいつしか姿を消していた。
踊り屋は今度の依頼主が新藤という名である事を憶えていた。新藤、進藤……|偶《ぐう》|然《ぜん》ではあるだろうが……。まさかここにその新藤が……。
「さて、今日は帰るか」
高見警部補は大きく伸びをして、自分のデスクを離れかけたが、そこへ電話が鳴って、ため息をつきつき戻って来た。
「やれやれ。本日はもう閉店だよ」
とブツブツ言いながら受話器を上げて、
「はい、高見。――何だ|飯《いい》|倉《くら》か」
部下の刑事である。
「今、Pホテルへ来ているんですが」
「安田を追ってたんだな」
「そうです」
「それで何かあったのか?」
「何か、というほどじゃないんですが、どうも気になりまして……」
「何がだ?」
「実は今、海運業者のパーティがありまして、安田はそれに出席しているんです」
「奴は船会社を持ってる。不思議はないだろう」
「それはそうなんです。ところが、|隣《となり》の部屋で――といっても大広間ですが、そこで建築業者の集まりがありましてね」
「ふーん、よく集まるんだな」
「そこに八木が出てるんです」
「八木が?」
高見はちょっと|眉《まゆ》を寄せた。「確かに、奴は建設会社の大株主だ。しかし二人が|並《なら》んでるのは、ちと気になるな」
「そうなんです。それでお電話したんですが……」
高見はしばらく考え込んでいたが、
「――よし。もう一人そっちへやろう。それまでは大変だろうが、両方へ目を配っててくれ」
「分かりました」
高見は受話器を置くと、残っている刑事たちのほうへ声をかけようとしたが、すかさず割り込むように、また電話が鳴った。
「はい、高見」
「|東山《ひがしやま》です。新藤を追ってます」
「ご苦労。今、どこだ?」
「Pホテルです。|奴《やつ》は今バーに――」
「どこだって?」
高見は大声で|遮《さえぎ》った。「Pホテル?」
「そうです。あの……どうかしましたか?」
「いいか、目を離すな! 今、|俺《おれ》もそっちへ行く!」
受話器を置くと、大声で|怒《ど》|鳴《な》った。
「おい、出かけるぞ!」
三人がPホテルで顔を合わせた。こいつは何かなきゃ|嘘《うそ》だ! 高見は張り切って部屋を飛び出した。|疲《つか》れや眠気はどこかへ消し飛んでいた。
「どうします?」
ドンが困った顔で言った。「どこもかしこも、安田んとこの用心棒で一杯で、近付く事もできませんね」
「うん」
「困りましたなあ……」
庄介は、困るのはこっちだ、と言いたかった。ここまで来ては、もう逃げるわけにもいかないではないか。
「ま、いいですわ」
とドンは楽しげに、「そこはプロの方にお任せしましょ」
庄介は義理堅い男である。子供の|頃《ころ》、元やくざという祖父に育てられたせいか、借りた恩は返さにゃならぬという信念を持っていた。
このドンという男、もともとはこいつの人違いのおかげでこんな事に巻き込まれてしまったのだが、それはともかく、さっき、この男に助けられたのは事実である。ドンがいなかったら今頃は|肋《ろっ》|骨《こつ》の二、三本も折られていたに違いない。
それにこのドンは、なかなか、人間的には愛すべきところを持っている。庄介を殺し屋と信じて、無条件に|信《しん》|頼《らい》しているところは、何となく憎めないのである。
しかし、そうはいっても……庄介は営業のプロ、セールスのプロではあるが、殺しのほうはとんと分からない。武器も持っていないし、あっても使い方を知らない。だが、少なくとも何か努力[#「努力」に傍点]してみても悪い事はあるまい、と思った。ドンの期待に|応《こた》えたいという気持ちが、妙な|高《こう》|揚《よう》感となって、庄介に自信を持たせたのである。
「よし!」
庄介はキッと顔を上げた。「やるぞ!」
ドンの顔がパッと|輝《かがや》いた。
「やりますか! どうやって?」
それが分かりゃ苦労はない。しかし、そうは言えないので、
「部屋へ行ってアタッシェケースを持って来てくれ」
「はい!」
喜び勇んで、キーを受け取ると、ドンは|駆《か》け出して行った。
「さて……」
失敗するにしても、ドンの見ていない所でやりたかった。|幻《げん》|滅《めつ》を味わわせては|可《か》|哀《わい》そうだ。それにしてもどうやるか……。
ともかく、何か|騒《さわ》ぎを起こせばいいのだ。そうすれば、殺そうとして運悪く[#「運悪く」に傍点]失敗した、と言える。騒ぎを起こすためには……。
庄介は、ふとある手を思いついて、ホテルのロビーの|一《いち》|隅《ぐう》のショッピングコーナーへと急いだ。――貴子の事も気にならぬではない。しかし、男一匹、義理を果たさにゃならぬ! 突然|浪《なに》|花《わ》|節《ぶし》風に庄介は|呟《つぶや》いた。
ドンは八階へ上がって、部屋へ急いだ。巨体なので息は切れるが、すれ違う客が|慌《あわ》てて壁にへばり付くほどの迫力に|溢《あふ》れている。
やっと部屋へ着いて、ガチャガチャとドアを開けていると、急に隣のドアが開いて、妙なのが出て来た。いや別に宇宙人ではないのだが、ちょっと|年《と》|齢《し》を食った男と女が、眠っているらしい若い女の頭のほうと足のほうをかついで、ヨイショヨイショと出て来たのだ。
見ていると、もう一つ隣のドアを開けて、その中へ入って行く。
「何だ、ありゃあ?」
と首をひねったが、はっと気付いて、「アタッシェケースだ!」
と部屋の中へ駆け込んだ。テーブルの上にあったアタッシェケースを引っつかむと、急いでまた廊下へ飛び出す。
「もう部屋へ行くよ、|俺《おれ》は」
と踊り屋はカウンターを離れた。
「そ、そうですか」
「明朝は九時だったかな」
「ええ。いえ、もう、そんなに急がなくても……」
「そうか。じゃ、ゆっくり|寝《ね》かせてもらうよ」
「どうぞ。昼頃お電話しますから」
「分かった……」
と伸びをして、「ご苦労だったな。ここの|払《はら》いは俺がする」
「い、いえ、そんな……」
「心配するな。会社は苦しいんだろう」
「はあ……」
えらく元気のない|奴《やつ》だ。飲むとこうなる|性《た》|質《ち》なのかな、と踊り屋は思った。
「じゃ、失礼します」
「ああ、明日会おう」
エレベーターのほうへ歩きながら、苦笑する。「明日会おう」か……。殺し屋|稼業《かぎょう》にはそんなセリフはない。一つ仕事が終われば、すぐに身を|隠《かく》さねばならないのだ。サラリーマンか。……何だか、自分が本当に課長になったような気がした。
八階でエレベーターを降りて、部屋の前まで来ると、ドアをノックする。キーは貴子が持っていたから、ぐっすり眠り込んでいて、ノックで目を覚まさなかったら、廊下の電話で呼ばなければならない。
少し待つと、ガチャリと音がして、ノブが回り、ドアが少し開いた。
「よく目が覚めたね」
と言いながら、中へ入る。部屋は真っ暗だった。
「明かりを|点《つ》けるよ」
と言ってスイッチを押す。部屋に光が満ちた。――踊り屋は|愕《がく》|然《ぜん》として立ちすくんだ。目の前に警官が並んでいても、こうは驚かないだろう。
ベッドに肌も|露《あら》わなネグリジェ姿で横たわっているのは、河野夫人だった。
「お待ちしてたわ」
夫人はゾッとするようなしわがれ声で言った。
「ここで何をしてる? 妻はどこだ?」
と踊り屋は|厳《きび》しい口調で|詰《きつ》|問《もん》した。
「そう|興《こう》|奮《ふん》しないで」
夫人はニヤリと笑って、「スワッピングっていうのはね、欧米では文化人たちの遊びなのよ。夫婦間のマンネリを防いで、新しい快楽を教えてくれるわ。あなた方だって一度経験してみれば――」
「そんな事はいい! 妻はどこだ!」
「そう|慌《あわ》てないで……」
夫人はネグリジェを|脱《ぬ》ぐと、見るに|堪《た》えない|裸《ら》|身《しん》をさらして「今頃は主人の|腕《うで》の中で天国にも昇る思い……」
「何だと?」
「主人の腕は、そりゃ一流なんだから。心配ないわよ」
「部屋はどこだ? どこへ連れて行った?」
と夫人の腕をつかむ。夫人は顔をしかめて、
「痛いじゃないの……。|諦《あきら》めなさいよ、社長命令[#「社長命令」に傍点]なんだから」
「……何だって?」
「ちゃんとおたくの社長さんも了解してくれてるわ。会社の存立がかかってる時ですもの、社員の妻もその程度の協力は惜しむべきではない、ってね」
踊り屋の手刀が空を切って、河野夫人の|喉《のど》を打った。
「ゲッ!」
と|呻《うめ》いて夫人はバタッとベッドへ|倒《たお》れた。
「しまった!」
はっとして夫人の上にかがみ|込《こ》む。|怒《いか》りに|任《まか》せて打ってしまったが……。
「大丈夫、気絶しているだけだ」
ほっと息をつく。無意識の内に手の力を抜いていたのだろう。そうでなければ死んでいる。しかし、まずい事には変わりはない。これでは当分目を覚ますまい。貴子がどこへ連れて行かれたのか|訊《き》きようがない。
おそらくこのホテルのどこかには違いあるまい。部屋は進藤が借りたのだろう。踊り屋は電話でフロントを呼んだ。
「進藤さんの部屋は何号室か調べてくれないか。急いでくれ!……そうか。つい一時間くらいの間に借りたと思うんだが……」
だめだ。|偽《ぎ》|名《めい》で借りている。こうなると調べようがない。――進藤の奴! 道理で、妙な顔をしていたはずだ。気がとがめたのだろう。
ふと、まだ進藤が下でウロウロしているかもしれない、という気がした。踊り屋は部屋を飛び出して行った。
よほど|俺《おれ》は殺し屋に見えないらしい、と庄介は思った。当たり前の事かもしれないが、用心棒たちも、ビジネススーツに身を包んだ庄介を別に止めようともしない。何だか|拍子抜《ひょうしぬ》けがした。
庄介も学生時代は、結構学生運動に加わってデモだのストだのやっていたのだが、サラリーマンになって数年たったある日、機動隊が学生たちとにらみ合っている所へ行きあわせた事があった。――身分は変わっても、まだ学生気分は抜けず、庄介は機動隊のほうをにらみつけながら歩いて行った。しかし……機動隊のほうでは、まるで庄介を無視していた。|検《けん》|問《もん》もそのままパスしてしまった。これは庄介には大きなショックで、もう俺はこっち側[#「こっち側」に傍点]へ分類されてしまったのか、と|寂《さび》しいような、ホッとしたような、複雑な思いをしたものである。
今、ちょうど、それに似た思いを庄介は味わっていた。
パーティ会場は、立食形式で、えらく|賑《にぎ》わっていた。目指す安田友信の顔は分かっている。新藤から渡された|封《ふう》|筒《とう》の中身を一応は見ていたのだ。
会場をゆっくりと回って行くと、|壁《かべ》|際《ぎわ》の|椅《い》|子《す》に|腰《こし》をおろしている安田を見つけた。大物という印象はない。|小《こ》|柄《がら》なただの年寄りだった。用心棒らしいのが、二、三メートル|離《はな》れた所で|突《つ》っ立っている。
庄介は別に大して|緊張《きんちょう》もせずに、安田の隣の空席へ腰をおろした。手にした|紙袋《かみぶくろ》の中へ手を突っ込みながら、
「安田さんですね」
「そうだが、君は……だれだったかな?」
「あなたを殺しに来ました」
庄介は|微笑《びしょう》しながら言った。安田がさっと青ざめる。
「君……|冗談《じょうだん》は……」
「本当ですよ。紙袋の中から|銃《じゅう》が|狙《ねら》っています」
「じゃ……君が〈|踊《おど》り屋〉なのか……」
何の事やら庄介には分からなかったが、
「そうです」
と返事をしておく事にした。「|騒《さわ》がずに。|死《し》に|際《ぎわ》はきれいに行きましょう」
我ながら、よくやるわいと思った。安田は|額《ひたい》に|脂汗《あぶらあせ》を|浮《う》かべている。
「君……いくらでも|払《はら》う……待ってくれ……いくらだ……三千万……五千万……一億出す!」
「お気の毒ですが、|一《いっ》|旦《たん》結んだ|契《けい》|約《やく》は破れません。信用問題ですからな」
「|頼《たの》む……待ってくれ!」
庄介は袋の中で――買って来たクラッカーの|紐《ひも》を引いた。
バン!
びっくりするほど大きな音がして、周囲が|一瞬《いっしゅん》静まり返った。――庄介は目を疑った。安田が苦しげに|喘《あえ》いで、胸を|押《お》さえながら、|椅《い》|子《す》から転げ落ちたのだ。
「キャーッ!」
悲鳴が上がり、大混乱になった。庄介は人ごみをかき分けて出口のほうへと突っ走った。
廊下へ出た時、隣の部屋でもワッと騒ぎが起こって、人々が廊下へ飛び出して来た。
一体何事だ?――|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた庄介は、急に目の前に銃口が現われてギョッと目をむいた。黒いスーツの、左の|頬《ほお》に傷跡のある男だ。そこへ、
「何するんです!」
と飛び込んで来たのは、アタッシェケースを持ったドンだった。
「この人をどうして……」
「どきなよ、ドン」
と傷のある男が言った。「こういう筋書きだったのさ。安田をこいつが、八木を|俺《おれ》がやって、こいつ一人の罪にする。金も払わずに済むってわけだ」
「そんな……|汚《きたな》いじゃねえか!」
|叫《さけ》んでドンはつかみかかって行った。銃声がして、巨体が|揺《ゆ》らいだ。
「ドン!」
思わず庄介が叫んだ。ドンはよろけながら傷のある男へ組みついた。
「|逃《に》げなせえ! 早く!」
ドンの声に、胸をつかれる思いだったが、庄介は廊下を一目散に走った。ロビーへ飛び出したところで、誰かが腕をつかんだ。振り向いて、庄介は仰天した。
「進藤!」
「課長! 申し訳ありません!」
進藤は泣き出しそうな顔をした。「課長や|奥《おく》さんを|騙《だま》して……」
「何だと?」
「早く! 早く行って奥さんを助けてあげて下さい!」
「貴子がどうしたって?」
「八一四号室です。今頃、河野部長に|手《て》|込《ご》めにされて――」
「何だって!」
|詳《くわ》しく聞いている|暇《ひま》はない。庄介はエレベーターのほうへとふっ飛んで行く。ちょうどその時、高見警部補たちがロビーへ走り込んで来た。
踊り屋は、進藤を捜そうと、一階へ降りて来た。エレベーターを降りると、入れ違いにもの|凄《すご》い勢いでエレベーターへ|駆《か》け込んだ男がいた。
「今のは……」
ハッと振り向いた時は、もう扉が閉じてしまっていた。
「今のは俺だ[#「俺だ」に傍点]」
エレベーターの指針が八階で停まった。踊り屋は隣のエレベーターへ飛び乗ると八階へと戻って行った。
エレベーターを降りると、部屋のほうへと駆け戻る。――隣の部屋のドアが開いていて、中から、
「やめろ! 助けてくれ!」
と男の声がする。聞き覚えのある、あの河野という|奴《やつ》の声だ。踊り屋はドアの所へ近付いて、そっと中を|覗《のぞ》き込んだ。
もう一人の自分[#「もう一人の自分」に傍点]が、|素《す》っ|裸《ぱだか》の河野を|叩《たた》きのめしている。河野のほうはもうグロッキー。
「この|野《や》|郎《ろう》!」
とかけ声もろとも食らったパンチで完全にのびてしまった。貴子のほうは裸の体に毛布を抱き寄せて、震えていたが、
「あなた!」
と裸のまま飛び出して来て、夫の腕の中へ飛び込んで泣いた。
「もう大丈夫……大丈夫だよ!」
と慰めると、やっと貴子は泣きやんで、
「|怖《こわ》かったわ!……でも、私、抵抗したのよ。本当よ! 身を|任《まか》せたりしなかったのよ!」
「分かった。信じるとも!」
二人は固く|唇《くちびる》を重ねた。
「……シャワーを浴びて来るわ。それから部屋へ戻りましょう」
「ああ、ここにいるよ。こいつが気が付きそうになったら、またのしてやる」
貴子が浴室へ入って行くと、庄介は大きく息を|吐《は》いてベッドに腰かけた。
踊り屋は部屋へ入って、
「やあ」
と声をかけた。
二人はじっと顔を見合わせた。
「なるほど似てるもんだ」
と踊り屋が言った。「これじゃ、間違えられるのも無理はねえ」
「君は……殺し屋なんだろう」
「そうだ。あんたは課長さんだってな」
「死ぬ思いだったよ、こっちは」
「殺しのほうはどうしたんだ?」
「|真《ま》|似《ね》だけしたら、相手が|発《ほっ》|作《さ》を起こしてのびちまった。……どうなったかな。しかし、最初からこっちも殺される事になってたようだよ」
「ほう?」
踊り屋は、庄介の要領を得ない説明を聞くと、すぐに|状況《じょうきょう》を察した。
「――なるほど、分かったよ。金を払いたくない|依《い》|頼《らい》|主《ぬし》がよく使う手だ」
「もうこんな事はごめんだよ!」
踊り屋は笑って、
「それは気の毒だったな」
「君は……僕の代わりに……」
「うん。あんたの奥さんを抱かせてもらったぜ」
「何だと!」
庄介はベッドから立ち上がった。「|貴《き》|様《さま》……」
「まあ待てよ。何もあんたの奥さんは|浮《うわ》|気《き》したわけじゃない。|俺《おれ》の事をあんただと信じてたんだからな」
「しかし――」
「それで奥さんを責めちゃ|酷《こく》だぜ。――俺は奥さんにちょっと|惚《ほ》れちまったよ。いい女だなあ、本当に。いや、本当の話、あんたの|身《み》|替《が》わりをずっと続けようかとまで思ったんだぜ」
「僕を殺す気か!」
と庄介は青くなった。
「安心しろ。やめたよ」
と踊り屋は言った。
「俺にはサラリーマンなんて仕事は向いてねえ。社長の命令で女房まで提供しなきゃならねえなんて。これに比べりゃ殺しの仕事のほうが、よほど楽ってもんだ」
「社長の?……そうだったのか!」
庄介はガックリと|肩《かた》を落とした。
「会社のためとか社員のためとか、えらくわずらわしいもんだなあ。俺はいくらいい女のためでも、そんなしがらみに|縛《しば》られるのはごめんだぜ。――あんたもまあ、一からやり直すんだね」
庄介はじっと踊り屋の顔を見た。
踊り屋は、浴室の方へちょっと目をやって、
「じゃ、奥さんが出て来ねえうちに退散するよ。――もう会いたくないもんだな」
「全くね!」
二人は思わず笑った。
踊り屋は|廊《ろう》|下《か》へ出て、|隣《となり》の部屋へ入って行くと、まだ気を失っている河野の夫人をかついで廊下へ放り出した。そして自分のアタッシェケースを手に廊下へ出た。
目の前に、|頬《ほお》に傷のある男が立っていた。|拳銃《けんじゅう》を構えてニヤついている。
「踊り屋さんよ。ここでお前の運も終わったぜ」
隣のドアが開いて、庄介が顔を出した。チラッとそっちを見た男が目をむいて、|一瞬《いっしゅん》ポカンと棒立ちになる。すかさず踊り屋の足が相手の拳銃をはじき飛ばす。
「ウッ!」
と|唸《うな》って手を|押《お》さえるところを、今度は力|一《いっ》|杯《ぱい》手刀が|喉《のど》へ飛んだ。男は二、三メートルふっ飛んで|仰《あお》|向《む》けに|倒《たお》れたきり動かなくなった。
「助かったぜ」
「よかった……。こいつはドンを|撃《う》ったんだ。――その女は?」
「そっちでのびてる|奴《やつ》の|女房《にょうぼう》だ」
「そうか。じゃ、ちょうどいい。こいつを廊下へ出そうと思ってドアを開けたんだよ」
「どうも似たような事を考えるなあ」
と踊り屋は笑って、
「じゃ失敬するぜ。あんたも|面《めん》|倒《どう》な事に巻き込まれないうちにこのホテルを出ろよ」
「そうするよ」
庄介は行きかけた踊り屋へ、ふと思いついて声をかけた。
「――あ、そうだ。仕事の準備金として百万もらってるんだがね、どうしよう?」
「|迷《めい》|惑《わく》料にもらっとけよ」
そう言って、踊り屋はエレベーターのほうへ足早に歩いて行った。
「|畜生《ちくしょう》! どうなってるんだ?」
高見警部補は|喚《わめ》いた。「八木は撃たれて死んだが、安田は|心《しん》|臓《ぞう》|発《ほっ》|作《さ》で死んだ。八木を撃った〈サソリ〉の奴は八階で首の骨を折られて死んでる。他にあの大男が重傷……」
「いいじゃないですか。そのドンの|奴《やつ》の自供で、新藤を|逮《たい》|捕《ほ》できたんですから」
「全部、奴が仕組んだ事なんだな?」
「そうらしいです。踊り屋に安田を殺させ、サソリに八木を殺させておいて、サソリが踊り屋をやる、という手はずだったようですね。要するに踊り屋はコケにされたようなもんで」
「新藤め、甘く見て、逆に踊り屋にしてやられたんだろう。しかし、踊り屋の奴はどこへ行ったんだ?」
「さあ……」
「どんな奴なんだ? どんな顔なんだ?」
「さて、分かりませんね。新藤は何も知らないと言い張るでしょうし、ドンの奴も、踊り屋のこととなると口をつぐんでしまうので……」
高見はため息をついた。
「また分からずじまいか、|畜生《ちくしょう》!」
そして、ふっと思いついたように、「そう言えば八階の廊下で気絶してた裸の夫婦、ありゃ何だ?」
「さあ……。たぶん、|頑《がん》|張《ば》りすぎて気を失ったんじゃないですか?」
「廊下でか?」
高見は目を丸くした。
「ああ、あなた……」
貴子は息を|弾《はず》ませながら、夫の胸へ|頬《ほお》をのせた。
「|素《す》|敵《てき》だわ!……昨日もまるで別人みたいに|凄《すご》かったけど、今日はそれ以上だわ!」
庄介はニヤリとして妻を|抱《だ》きしめた。
「見ろ! |俺《おれ》の勝ちだ!」
「え? 何の事?」
「いや、何でもない……」
庄介はやさしく貴子の|唇《くちびる》を唇で|覆《おお》った。
本書は、昭和55年6月30日に青樹社より単行本として刊行されたものを、文庫化したものです。
|一《いち》|日《にち》だけの|殺《ころ》し|屋《や》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年8月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『一日だけの殺し屋』昭和56年11月10日初版発行
平成 6年11月20日67版発行