角川e文庫
プロメテウスの乙女
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
プロローグ
第一章 |戒《かい》|厳《げん》|令《れい》
第二章 英雄の|葬《そう》|送《そう》
第三章 |殉教者《じゅんきょうしゃ》たち
第四章 |炎《ほのお》の終結
エピローグ
プロローグ
「メス」
外科医の声は、まるで機械の発する信号音のようだった。
「ガーゼ……」
|井《い》|口《ぐち》は、手術室の中を|物珍《ものめずら》しげに見回した。――よく、TVや映画で手術の場面をやるけど、全くその通りなんだな、と思った。
ピッ、ピッ、ピッ、と規則正しく鳴っているのは、|心《しん》|臓《ぞう》の|鼓《こ》|動《どう》を映し出すオシロスコープの波形だ。あれがピーと鳴りっ放しになったら、それで一巻の終りってわけだ。
そんなことにはまずなるまいが。
「|汗《あせ》を|拭《ふ》いてくれ」
マスク|越《ご》しに、医師の声は少しくぐもって聞こえた。看護婦が医師の額の汗を拭き取ってやる。
いつもあんなに汗をかくのかな、と井口は思った。まあ、今日は特別だ。無理もない。
青ざめた光が、手術台の上の|娘《むすめ》を照らし出していた。井口から見えるのは、白さが生々しい足だけだったが、それはいかにも形よく、そして|陶《とう》|器《き》のようにすべすべとしているように見えた。
今日のが一番いい女だな、と井口はちょっとニヤついた。
「|針《はり》」
外科医がそっと息をついた。
「|巧《うま》くやれよ」
と井口が言った。「そいつは兄貴の女だからな」
「|黙《だま》っててくれ」
医師は、冷ややかに言った。井口はちょっとムッとしたように|肩《かた》をすくめた。
まあ、ここじゃ|奴《やつ》が|威《い》|張《ば》ってられる。後で礼をしてやるぞ。
「|脈拍《みゃくはく》は?」
「正常です」
看護婦の方が、声は落ち着いていた。
「血圧をよく見ていてくれ」
「はい」
看護婦が動くと、井口は手にした|軽機関銃《けいきかんじゅう》を|握《にぎ》り直した。まさかとは思うが、油断はできない。
「異常ありません」
「よし」
医師は息をついた。「ハサミを持っていてくれないか」
「はい」
看護婦が医師の背後を回った。
ドアが開いた。
「兄貴」
「まだ終らないのか」
革ジャンパーの、三十|歳《さい》ぐらいの男が顔を出した。|小《こ》|柄《がら》だが、|鍛《きた》えられた体つきで、顔も少しいかつい感じである。目が太い|眉《まゆ》の下で光っている。
井口がドアの方へ向いた|瞬間《しゅんかん》、看護婦の手に握られていたメスが、医師の手に渡っていた。メスは手術着の|袖《そで》|口《ぐち》の中へと押し込まれた。
「おい、出て行ってくれ」
と医師は言った。「ここは|殺《さっ》|菌《きん》されているんだ」
入って来た男は、ちょっと|唇《くちびる》を|歪《ゆが》めるようにして笑うと、
「よく見てろよ」
と井口へ声をかけて出て行った。
「――まだかかるのかい?」
井口は|訊《き》いた。
「三十分くらいだ」
井口は|腰《こし》かけを持って来ると、ドアの近くに置いて、腰をおろした。|膝《ひざ》の上に機関銃を置く。
|大丈夫《だいじょうぶ》。こいつらが何もするわけはない。何しろ|女房《にょうぼう》と子供を人質に取ってあるんだからな。言うことを聞いて、|大人《 おとな》しくしてるだろう。
「――|縫《ほう》|合《ごう》する」
「はい」
井口にも聞き|憶《おぼ》えのあるセリフだった。前の二人のときも、そう言って、間もなく手術は終ったのだ。
井口は|欠伸《 あくび》をした。じっと見張ってるというのも|辛《つら》いものだ。せめて音楽でも流しゃいいのにな……。
ピッ、ピッ、ピッ……。心臓の鼓動が目に見えるってのは|妙《みょう》なもんだな、と井口は思った。コンピューターとか、ホログラフとか、その手のことが井口は大好きだった。どういうものなのか、良く分ってはいない。だから好きなのだろう。
「|畜生《ちくしょう》……」
意味もなく、井口はそう|呟《つぶや》いた。立ち上って思い切り伸びをする。機関銃が段々重くなるようだ。二キロ半ほどで、機関銃としてはそう重い方でもないが、今はもっと軽量で速射のできるタイプを売っている。これは中古なのだから仕方ない。
人を殺すのなら、昔ながらの短刀一本あれば充分だ。包丁で|刺《さ》されたって、中性子|爆《ばく》|弾《だん》で死んだって、死ねば同じことだ。
この機関銃も、いわば|威《い》|嚇《かく》であって、正直、井口はまだこれで人を|撃《う》ったことはない。もちろん|弾《だん》|丸《がん》は入っているのだが、いざとなれば引金を引けるものやら、自信はなかった。
医師の手は巧みに動いている。――以前のように針と糸で縫うことはもうなくなって、高性能の|接着剤《せっちゃくざい》が専ら使われているのだが、それでも「縫合」という言葉が習慣的に使われているのだった。
井口は、ふと娘の|裸《はだか》を|覗《のぞ》いてみたい、という気になった。ビニールの布でほとんど|覆《おお》われてしまっているが、切ったのは下腹部だ。ひょっとして見えるかもしれない……。
井口は銃口を下へ向け、ゆっくりと歩いて行った。医師が顔を上げた。
「もう終る」
「ああ、ご苦労さん」
井口はあまり用心していなかった。この医者は至って素直だった。妻子を人質に取られて、目の前に機関銃の銃口があれば、素直にならない人間はあるまい。
「後を|頼《たの》む」
と医師は言って息をついた。
「はい」
看護婦がビニールをめくった。井口は思わず|唾《つば》を飲み込んだ。
医師が背後に回ったのに、井口は気付かなかった。――突然、冷たい物が井口の|喉《のど》へ当てられた。
「動くとメスが喉を切り|裂《さ》くぞ!」
井口は一瞬、|愕《がく》|然《ぜん》とした。何が起こったのか、よく分らなかった。
「何だ?」
|振《ふ》り向こうとする。
「動くな!」
医師の手が|滑《すべ》った。井口の喉を一条の赤い線が走る。
「野郎!」
井口が機関銃を持ち上げた。メスが深々と首筋をえぐるのと同時に、指が引金を引いていた。
短い発射音と共に、器具の|棚《たな》のガラスが粉々になる。井口の喉から血が|迸《ほとばし》った。
短い|呻《うめ》き声を上げて井口が二、三歩後ずさった。|倒《たお》れながら、もう一度指は引金を引いていた。
看護婦の|胸《むね》で血がはじけて、悲鳴も上げずに|仰《あお》|向《む》けに倒れる。手術室のドアが勢いよく開いた。
さっき入って来た革ジャンパーの男が|拳銃《けんじゅう》を持った手を真直ぐに伸ばして足を止めた。医師が振り向いた。
「貴様……」
男が素早く室内の様子を見て取った。医師が手術台の娘の方へ走った。手にしたメスを短刀か何かのように振りかざす。拳銃が三度鳴った。
外科医は、メスを握りしめたまま、その場に|崩《くず》れるように倒れた。
男はほんの数秒間、その場に立ち|尽《つ》くしていた。自分が撃ったのが人間だったのかどうか、とでも考えているような表情だ。
それから急いで井口の方へ|駆《か》け寄る。すでに息は絶えていた。機関銃をもぎ取ると、拳銃をベルトに|挟《はさ》み、機関銃をわきにかかえ込む。
――手術室の中は静かだった。心臓の鼓動を描くオシロスコープが、ピッ、ピッ、と鳴り続けているだけだ。
男は額の汗を拭った。手が|震《ふる》えていた。
「仕方ないな」
そう呟いて、機関銃を握り直すと、足早に手術室を出て行く。
少しして、遠くから機関銃の発射音が聞こえて来た。――それきり、静かになった。
第一章 |戒《かい》|厳《げん》|令《れい》
半分|眠《ねむ》って、半分覚めているような、奇妙な感じだった。
もう|東京《とうきょう》駅が近いのが分っていながら、うつらうつらとしている。列車は少し速度を落とし始めているようだ。
「|二《にの》|宮《みや》様。二宮|久《く》|仁《に》|子《こ》様」
アナウンスに目を開く。何だろう?
「お電話が入っております。お近くのテレフォンコーナーへどうぞ」
二宮久仁子はリクライニングシートを元に|戻《もど》して立ち上った。通路を進んで、プラスチックの|扉《とびら》のついたテレフォンコーナーへと入った。
中の軽い受話器を取って、
「二宮です」
と言った。
「おつなぎします」
|交《こう》|換《かん》|手《しゅ》の声がした。久仁子は、広い|窓《まど》から、近付いて来る|丸《まる》の|内《うち》の|高《こう》|層《そう》ビル群を|眺《なが》めた。
久仁子が乗っているのと同じ、リニアモーターの超特急が、飛び魚のような車体を光らせながらすれ|違《ちが》って行った。
「久仁子か?」
「お父さん。――どうしてこの列車だと分ったの?」
「それぐらいは分るさ」
二宮|武《たけ》|哉《や》は笑って、「国鉄の予約コンピューターを調べさせた」
「違法じゃないの?」
「コネがある。ところで、一人か?」
「ええ、もちろんよ」
久仁子はちょっと目を見開いて、「|誰《だれ》と|一《いっ》|緒《しょ》だと思ったの?」
「私の知らん男でも連れてるのかと思ってた」
「残念でした」
「駅に|水《みな》|上《かみ》が迎えに出ている」
「助かった。荷物が重いのよ」
「帰りに会社へ寄ってくれないか」
「いいわよ」
久仁子は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見た。「ちょうどお昼どきね」
「待ってるぞ」
久仁子は受話器を置くと、テレフォンコーナーを出た。一等車へ戻ると、もう一度ソファへゆっくりともたれかかる。
「間もなく東京でございます」
と女性のアナウンスが流れた。「|到着《とうちゃく》ホームは地下四階です」
少し車体が|傾《かたむ》いて、窓の外に地面がせり上って来る。アッという間に、トンネルの中へと|潜《もぐ》り込んでいた。
一等車はガラ空きで、この車両には、久仁子の他、三人しか乗っていなかった。列車はホームへ滑り込んだ。シューッという、空気を|抜《ぬ》くような音がして、減速した。
磁気の反発力で浮上しているリニアモーターカーの車体が、静かにガイドレールにおさまって、ゴムの車輪が回転し始めたのである。
ホームに立つ人々の姿が、窓の外を動いて行った。まるでパノラマのようだ。
他の客が、荷物を手に出口の方へと歩いて行ったが、久仁子は座ったままだった。
車体が静かに停止して、扉が開く音がした。――運転手の水上が急ぎ足で入って来た。
「お帰りなさいませ」
「ありがとう。荷物は上よ」
「かしこまりました」
|背《せ》|広《びろ》にネクタイというスタイルの水上は、四十歳ぐらいだろうが、ずいぶん落ち着いて見える。がっしりとした体つきで、久仁子を学校へ送迎しているときは、|用《よう》|心《じん》|棒《ぼう》でもあったのだ。
座席の上の扉を開けて、中からボストンバッグを降ろす。時速五百キロになるリニアモーターカーは、車体の強度も、中の設備も、むしろ飛行機に近い造りになっているのである。
先に立ってホームへ出ると、久仁子はエスカレーターの方へと歩き出した。水上が、後について歩きながら、
「どちらへ行かれていたのですか、お|嬢《じょう》様?」
と訊いた。
「秘密。せっかくの一人旅だったんだもの、水をささないで」
「分りました」
と水上は笑って、「|旦《だん》|那《な》様がご心配のようでしたので」
「少しは子供を信用してほしいわ」
久仁子はエスカレーターへ足をかけた。「――お父さんの会社へ寄るのね?」
「はい。そう言いつかっております」
「何か用かしら。どうせ夜には会えるのに」
「このところお帰りが遅いせいでしょう」
「そんなに|忙《いそが》しいの?」
「公安委員会の会合が一日おきぐらいにありますので」
「そんなに?」
久仁子は思わず振り返って言った。
「はい。――あ、|駐車《ちゅうしゃ》場は地下二階でございますから」
久仁子と水上は、商店街になった地下道を歩いて行った。東京駅が|改《かい》|装《そう》を終って、まだ二年足らずだったが、今はかつての赤レンガの建物を|懐《なつか》しむ声もない。どんな事にも、誰かが文句を言うということが、なくなりつつあるようだ。
商店街は人で|賑《にぎ》わっていた。区画毎に|警《けい》|官《かん》の|姿《すがた》が見える。
「ずいぶん増えたようね、警官が」
「先週、ここで爆弾騒ぎがありましたので」
「まあ、そうなの」
と久仁子は|肯《うなず》いた。「で、爆発したの?」
「いえ、ただのいたずらだったようです」
「何だ。つまらない」
「めったなことをおっしゃるものじゃありません」
「大丈夫よ」
と久仁子は言った。
商店街が終り、丸い|椅《い》|子《す》の並んだ広場へ出た。その|奥《おく》が地下の駐車場になっている。
「ちょっと」
声がかかった。立ち止まると、警官が歩いて来る。まだやっと二十歳ぐらいだろう。
「そのバッグを開けて」
とぶっきら棒に言った。
「何ですか、一体?」
久仁子はムッとして言った。
「いいから開けて」
「どうぞ」
水上が久仁子の前へ出て、バッグの口を開けた。警官が中をかき回した。久仁子は警官をにらみつけながら、立っていた。
「これは?」
警官がビニールの|袋《ふくろ》を取り出した。
「下着ですよ。出してみますか」
と久仁子は|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させながら言った。
「ああ、そう。――身分証明書」
水上が急いで上衣のポケットから証明書を出した。
「こちらは国家公安委員の二宮武哉様のお嬢様です。私は運転手で……」
「そうですか」
急に警官は背筋を伸ばした。「それは失礼しました。先にそうおっしゃっていただけば――」
「行っていいんですか?」
「どうぞ。先日、ここで爆弾事件がありまして――」
「水上さん、行きましょう」
久仁子は駐車場へ向って足早に歩いて行った。「|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》だわ」
ベンツがなめらかに動き出した。駐車場の地下道をくぐり抜けると、地上の高速道路へそのまま入って行く。――久仁子は後ろの座席で息をついた。
「会社までですから十五分もあれば参ります」
と水上が言った。
「そう」
久仁子は、丸の内の超高層ビル街を眺めた。
二宮久仁子は十九歳である。私立の女子大学の一年生だ。
白っぽいパンタロンスーツに、小柄ながらスラリと足の長い、形のよい体を包んでいる。|髪《かみ》を肩の少し下まで自然に流して、細目に開けた窓から|吹《ふ》き込む初秋の風に|弄《もてあそ》ばれるに任せている。
苦労なく育った人間に特有の、あどけなさを残した顔立ちは、|端《たん》|正《せい》な|美《び》|貌《ぼう》である。目がちょっとアンバランスな大きさで、黒い|宝《ほう》|石《せき》のように光って見える。
久仁子は前の座席の背に取り付けてある電話を取った。プッシュホンのボタンを押して待った。
「M通信工業でございます」
「開発部の|重《しげ》|松《まつ》さんをお願いします」
少しして、相手が出た気配がする。
「もしもし」
少し|苛《いら》|々《いら》した声である。「会社へ電話しちゃだめじゃないか、母さん」
久仁子は笑いをかみ殺して、
「こら|卓《たく》|也《や》、そんな親不孝なことでどうする!」
と言ってやった。
「あ、君か! いや、女の人だっていうからさ。てっきり……。帰って来たの?」
照れくさそうに頭をかいている様子が目に見えるようだ。
「今帰った所よ」
「旅はどうだった?」
「まあまあね。二週間、一人きりで山にこもってたのよ。――ねえ、おかげで男に|飢《う》えてるの、私。今夜会える?」
「おどかさないでくれよ、気が小さいんだから、僕は。あんまり食べる所はないぜ」
「この際だから|我《が》|慢《まん》するわ」
「そいつはどうも。でも今夜はだめなんだ。夜中まで実験にかかる」
「忙しいのね、相変らず」
「悪いね。明日なら――」
「明日は誰かと|結《けっ》|婚《こん》してるかもしれないわよ」
と|脅迫《きょうはく》して、久仁子は笑った。「じゃ、またかけるわ」
「うん。それから……」
と言いかけて、重松卓也は言葉を切った。
「何なの?」
「相談したいこともあってね。じゃ明日会おうよ」
「ええ、分ったわ」
「それじゃ」
「恋人のメーターさんやレンズさんによろしく」
切れる前に、重松の笑い声が聞こえた。あの声が、久仁子にとっては何よりも素晴らしい音楽に聞こえる。
しかし、何か相談したいことがあるという口調に、いつになく|慎重《しんちょう》になっている重松を感じて、それが久仁子には気にかかった。
ベンツは高速道路を下りて行ったが、その前に、もう父の会社のビルが目に入っていた。三十階建の銀色のモダンな建築は、機能美、という古めかしい言葉を連想させた。
ベンツがビルの正面の階段につくと、久仁子は水上が開けるより早く、自分でドアを開けて外へ出た。
ビルの前は広場になっている。広場といっても、人の姿はなかった。集会というものがほんの数十人のものでも厳しく規制されるようになって、どこも広場は閑散としている。無届の集会は|即《そく》|座《ざ》に解散させられ、すぐに|逮《たい》|捕《ほ》が待っている。届出制が許可制に改められてから、集会といえば専ら政府のPRの場になってしまった。
逮捕される危険を|冒《おか》してまで、それに反抗する若者は――ほとんど――いなかった……。
久仁子は広場を突っ切って、ビルへ入って行った。一階はホールがあって、周囲は商店が並んでいる。二階までと、地下がレストランや商店街になっていた。
久仁子はエレベーターへと歩いて行った。――以前は決して大手の商社とも言えなかった、この二宮商事が、|急激《きゅうげき》に成長してたちまち業界のトップスリーに並ぶようになったのは、武器輸出が認められてからである。
〈死の商人〉などと呼ぶ者も最初はあったのだが、今では|総《すべ》てが|沈《ちん》|黙《もく》してしまった。
高速エレベーターが降りて来るのを待っている間に、久仁子は、|壁《かべ》にかけられた二枚の|巨《きょ》|大《だい》な|肖像画《しょうぞうが》を見上げた。
一枚は父、二宮武哉のもので、もう一枚は、|滝《たき》|雄《ゆう》|一《いち》|郎《ろう》首相だった。――現在の日本を動かしている男だ。
久仁子は実際に滝首相に会ったことはなかったが、こうして絵で比べてみるだけでも、父親とはスケールの違う人間らしいと思わざるを得なかった。
画家も苦労して父に|威《い》|厳《げん》を持たせてはいるのだが、どうにも背伸びが見えて、牛の|真《ま》|似《ね》をしてお腹をふくらませて破裂させてしまったカエルの話を、いつも思い出す。滝首相の方は、無造作な|格《かっ》|好《こう》で、別に胸を張ってもいないのだが、ずっしりと重い|手《て》|応《ごた》えが、存在感があるのだった。
エレベーターが来た。久仁子は乗り込んで、三十階――最上階のボタンを押した。
軽い|唸《うな》りをたてて、エレベーターは加速すると、一秒に二階、というスピードで上り続け、すぐに減速に移った。三十階まで二十秒だ。
|磨《みが》き上げた|床《ゆか》、広々としたフロア。この広さの中に、社長室と、私室がある。自宅はもちろん別だが、仕事の都合などでは、ここに|泊《とま》ることもできるようになっている。
もっとも父がここへ泊るときは、専ら女と二人であることを、久仁子は察している。
秘書室の戸をノックすると、ブーンという音がして、TVカメラが久仁子の方を向く。
「今日は」
と久仁子は|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
カチリと音がして|鍵《かぎ》が開くと、目の前のドアが、静かに開いた。木目の美しいドアだが、間に鉄板が|挟《はさ》んである。武器輸出を主な業務としているので、|過《か》|激《げき》派のテロを極度に警戒しているのだ。
このエレベーター前の広々としたロビーも、別室のガードマンが常にTVで|監《かん》|視《し》しているはずである。
入って行くと、父の秘書、|永本京子《ながもときょうこ》が立ち上って、
「お帰りなさい、お嬢様」
と微笑みながら|会釈《えしゃく》した。
四十歳ぐらいの、ベテランの秘書で、一時は久仁子もこうなりたいと|憧《あこが》れたことがある。美人ではないが、優しい性格で、いわゆる働く女性にありがちの|堅《かた》さがなかった。
「お父さんは?」
と久仁子は訊いた。
「今来客中です。もう終ると思いますわ」
「じゃ、ここで待ってる」
久仁子はソファへ腰をおろした。
「――お父様、寂しそうでしたよ」
「いつまでもお人形じゃないわ」
と久仁子は|肩《かた》をすくめた。「何の用かしら?」
「さあ、私も|伺《うかが》っていません」
「永本さんでも知らないことってあるの」
と久仁子は笑って、「ね、お父さんと|寝《ね》たことある?」
と訊いた。
「まあ、何です、|突《とつ》|然《ぜん》?」
「前から一度訊いてみたかったの」
「残念ながら、私はお父様にとっては歩くメモ用紙ですから」
と軽く受け流す。
「お父さんは歩く小切手帳ね、さしずめ」
「まあ……」
と永本京子は笑った。奥のドアが開いた。
「――永本君。お帰りだ。エレベーターまで」
と、二宮武哉が顔を出し、久仁子に気付いた。「何だ、来ていたのか」
「今来たのよ」
二宮の顔が、ビジネスマンから甘い父親に戻った。
「お|邪《じゃ》|魔《ま》いたしました」
女性の声がして、社長室から、三人の女性が出て来た。久仁子は|驚《おどろ》いて目を見張った。
先に立って歩いて来るのは、久仁子と同じか、せいぜい二十歳だろう。スラリと長身の冷たさを感じさせる美人だった。
久仁子の目を|捉《とら》えたのは、しかし、その顔よりも、三人の服装だった。全く同じ、制服である。目のさめるような赤のブレザー、黒のスカート、黒のブーツ、目をひくのは、幅広の革のベルトと、肩から|斜《なな》めにかけた細いベルトで、腰に小型の拳銃をおさめたホルスターが見えている。そして胸に矢と弓をデザインしたバッジが光っていた。
三人はきびきびした歩き方で、永本京子の方へ一礼すると、ドアの方へ歩いて行く。
永本京子が手もとのボタンでドアを開けると、エレベーターまで送るべく出て行った。
「――昼飯にしよう」
と二宮が言った。「ちょっとそこで待っていてくれ」
「ええ」
二宮が社長室へ姿を消すと、永本京子もすぐに戻って来た。
「永本さん、今の人たち……」
「ええ、〈プロメテウス〉の、あの先頭の人がリーダーなんですって」
「あれがリーダー……」
久仁子は、三人が消えたドアの方をじっと見つめていた。「初めて見たわ、|噂《うわさ》には聞いていたけど」
「何だか|怖《こわ》いですね、女の子が銃なんか持って」
久仁子はソファに身を沈めた。――〈プロメテウス〉。正式には〈プロメテウスの|処女《 おとめ》〉という名称だと聞いていた。いつしか、どこからか現れた、十七、八から二十歳までの少女たちの集団である。
国を愛する少女たちの、自主的な組織、という建前ではあったが、その制服、そして特別に|携《けい》|行《こう》を許されている拳銃を見ても、裏のある組織であることは、誰の目にも明らかだった。
国会でも取り上げられたことはあるが、それは与党からの質問で、それに対して滝首相が、
「|汚《けが》れのない若い娘たちの行動である。多少の行き過ぎには目をつぶりたい」
と答弁するためのものでしかなかった。
もう野党などというものは、形式として存在しているに過ぎないのが現実だった。わずかな議席を与えて、議会制度の形を整える、その道具に過ぎなかった。
「――永本さん。あの人たち、何をしに来たの?」
と久仁子は訊いた。
「さあ、分りません。私にも何もおっしゃいませんので……」
社長室から二宮が出て来た。
「待たせたな。さあ、出かけようか」
「社長。どちらへおいでになります?」
と永本京子が訊いた。
「さて……。こいつの行く所さ」
そう言って二宮は笑った。「電話があったら、昼寝中だとでも言っといてくれ」
「分りました。行ってらっしゃいませ」
エレベーターに乗ると、二宮は二十階のボタンを押した。
「二十階に食堂なんかあったっけ?」
と久仁子は訊いた。
「客が待ってるのさ」
「ええ? じゃ私なんか――」
「お前を待ってるんだ」
エレベーターが|停《とま》った。
「どういうこと?」
「いいからおいで」
二十階は、久仁子も降りたことがない。特別の応接室になっていて、特に重要な会議、極秘を要する会合に使われている、と聞いていた。
武器輸出という仕事上、軍事機密に|触《ふ》れることもあるわけで、特にこういう階が設けられたのだろう。
エレベーターを出ると、すぐ目の前に、屈強な男が二人立っている。
「そちらの方は?」
一人が久仁子を見て言った。
「構わん。娘だ」
「失礼しました。どうぞ」
|廊《ろう》|下《か》を歩いて行くと、TVカメラが絶えず二人の動きを追っていた。
「まるでCIAね」
と久仁子が言った。
「絶対に|盗聴《とうちょう》などされないようにしなくてはならんからな。この階は総て特別だ」
「私、こんな所よりレストランの方がいい」
と久仁子は|愚《ぐ》|痴《ち》った。「ラーメン屋でもいいわ」
「ここで食事をするんだ。客と一緒にな」
「いやあだ。――まさか、お見合させる気じゃないんでしょうね!」
「こんな所で見合させたら、彼氏が|逃《に》げ出しちまうじゃないか」
と二宮は笑った。「――この奥だ」
ドアの前に私服のボディガードらしい男が立っている。二宮を見ると|肯《うなず》いてドアを開けた。
「二宮様です」
久仁子は、細長い部屋へ入って行った。王朝風の|装飾《そうしょく》を|施《ほどこ》した、|優《ゆう》|雅《が》な食堂、という造りである。
白い布で|覆《おお》われたテーブルに、一人の男がついていた。
「|遅《おそ》くなりました」
と二宮は言った。「娘の久仁子です」
「やあ」
その男は微笑んだ。「私は首相の滝だ。昼を一緒に、と思ってね」
「降って来るな」
と、|呟《つぶや》いたのは、革ジャンパー姿の男である。
国道に沿った、|郊《こう》|外《がい》レストランの一つ。一時は何種類もが乱立したものだが、今では二つのチェーンがほぼ|独《どく》|占《せん》の状態である。
外は細かい|霧《きり》|雨《さめ》が降っている。
「お待たせしました」
ウェイトレスが、ランチを三つ、運んで来た。そしてコーラと、コップが三つ。
「――さあ、|注《つ》いで飲もう」
と男が言った。「本当ならビールぐらいやりたい所だがね」
向い合った席に、二人の女性が並んでいる。
「|乾《かん》|杯《ぱい》しましょうよ」
「そうね。|依《よ》|田《だ》さん、|音《おん》|頭《ど》を取って下さいよ」
依田はちょっと困ったように苦笑したが、
「それじゃ」
とコップを取った。「――しかし、何と言えばいいんだい?」
「成功を|祈《いの》って、でいいじゃありませんか」
もう二十七、八にはなっている女性が言った。もう一人は、二十二、三という若さ。
「そうだわ。ねえ?」
「それじゃ。――三人の無事と、計画の成功を祈って」
三人はコーラのコップに口をつけた。
「さあ、食べよう」
依田はそう言って、二人の女の顔を|交《こう》|互《ご》に眺めた。「どう祈っていいのか、分らないよ……」
低い呟きが|洩《も》れた。
「依田さん」
|河《か》|合《わい》|信《のぶ》|子《こ》――年長の方の女性――が言った。「あなたが気に病む必要はありません。私たち、承知の上でやったことですもの」
「そうよ」
と若い方の女性――|円谷恭子《つぶらやきょうこ》が早々とナイフとフォークを動かしながら、「依田さんらしくもないわ」
依田はちょっと|寂《さび》しげに笑った。
「それにしてもね……。|僕《ぼく》の顔さえ知られていなきゃ……」
「男は|警《けい》|戒《かい》されるわ」
と円谷恭子が言った。「女の方が有利よ」
「ともかく、くれぐれも、|焦《あせ》らないでくれよ」
と依田は言った。店の中を見回す。|中途半端《ちゅうとはんぱ》な時間のせいか、閑散としている。
聞かれる恐れはなかったが、依田は少し声を低くした。
「爆弾は最後の手段だ。極力、生きて戻ってくれ。取り出すことはできるんだから」
「よく分っていますわ」
と河合信子が食事を始めながら肯いた。「でも実際には|難《むずか》しいんじゃないでしょうか。――たとえ他の方法で滝首相を殺したとしても、すぐに発見されるでしょう」
「いや、|却《かえ》って成功すれば大混乱になって、逃げられる可能性も出て来るよ」
「失敗したら、生きてちゃ仕方ないわけよね」
と円谷恭子が言った。「せっかくの爆弾がむだになるわ」
「いいかい。君たちの体内に|埋《う》め込まれた爆弾はセンサーの働きで、|心《しん》|臓《ぞう》の|鼓《こ》|動《どう》が続いている限り爆発しない。もし心臓が停止したら、五秒後に爆発する」
「そのときは死んでるわけだもの、|痛《いた》くもかゆくもないわね」
と円谷恭子が軽い口調で言った。
「五秒、ね」
河合信子はちょっと考えて、「もし近くまで行ったとして、射殺されたら、すぐにボディガードが首相をどこかへ連れて行くでしょう。五秒間の間にどれくらい離れるかしら?」
「爆弾は強力だ」
と依田は言った。「五十メートル以内に首相がいれば、恐らく大丈夫だ」
「後は運次第ね」
と円谷恭子が言った。
食事が黙々と続いた。――十五分ほどで食べ終えると、河合信子が立ち上った。
「じゃ、私はもう行きます」
依田も円谷恭子も、急に言葉を失ったようだった。河合信子のさしのべた手を、依田が、円谷恭子が、|握《にぎ》った。
「それじゃ」
河合信子は、ちょっと笑顔を見せて、先に店を出て行った。雨の中を小走りに車へと急ぐ。
赤い小型車に|彼《かの》|女《じょ》の姿が消え、すぐに、車も走り出して雨の中へと消えて行った……。
「――いい人ね」
と、円谷恭子が言った。「いい人だった[#「だった」に傍点]、って言うべきかしら」
「君たちを生きながら殺したようなもんだな、僕は」
「もう言わないで」
と、彼女の手が、依田の手に重なった。
「――体の方は大丈夫か?」
「ええ。何かこう、くすぐったいみたいだけど」
「|拒《きょ》|否《ひ》反応が心配だ」
「大丈夫よ。――それより、あなたの方の拒否反応は?」
「何のだい?」
「女性に対する拒否反応」
そう言って、円谷恭子は意味ありげに微笑みかけた。
「素敵だったわ」
円谷恭子は、依田の裸の胸にキスして言った。
ベッドの中で、二人は身を寄せ合っていた。――|薄《うす》|暗《ぐら》い、モテルの一室だった。
「もう行きましょうか」
恭子はベッドから全裸のままで滑り出ると、明りをつけた。「まだ夕方にもならないのに、暗いのね」
「シャワーを浴びるかい」
「そうね。さっぱりしてから別れたいわ」
「腕時計がそこにあるだろう」
「え?――あ、これね」
と、恭子はテーブルの上の腕時計へ手を伸ばした。「あ! いやだ、くずかごに落っこっちゃった」
「おい、いくら安物だからってひどいぞ」
依田は笑って言った。
「どこかな……。あったわ」
拾い上げようとして、恭子の目が、丸めた紙くずに止った。写真が見える。
「――見て!」
拾い上げて押し広げた紙を、恭子は依田の目の前へ差し出した。
〈全国指名手配犯〉とあって、十人の顔写真が並んでいる。――依田の写真があった。
「さっき、ここへ案内して来たときに、モテルの人が握りつぶしたんじゃない?」
「服を着るんだ!」
恭子はあわてて服を着た。依田はズボンだけはくと、窓の方へと近寄って、カーテンの端から、そっと表を見た。
灰色の雨の中に、黒い人影が、動いている。五人か――六人か。
「警察?」
「そうだ」
「どうする?」
依田はシャツを頭からかぶって、
「君はトイレの窓から出られるだろう」
と言った。
「あなたは?」
依田は答えなかった。
「早く行くんだ」
と恭子を押しやる。
トイレに入ると、恭子は便器にのって、窓から頭を出した。すぐに野原になっている。
「出られるか?」
「ええ、たぶん……」
「上の|窓《まど》|枠《わく》へつかまって、――足から出るんだ。そうだ。――急いで!」
「依田さん……」
「のんびり別れてる時間はないよ」
それでも依田は、もう一度、恭子の|唇《くちびる》にキスした。
窓から恭子の姿が消えるのと、ドアにノックの音がしたのは同時だった。
トイレの水を流して、依田は部屋へ戻った。
「何だい?」
と声をかけながら、バッグの底を探る。
「お飲物のサービスです」
モテルの主人の声がした。
「ちょっと待てよ。裸じゃ出られない」
依田は機関銃を取り出した。「今、チェーンを外すよ」
そっとドアへ近付くと、音がしないように、チェーンをゆっくりと外した。
それから部屋の奥へと戻って、
「ああ、開いてたよ。入ってくれ」
と声をかけた。ドアが|叩《たた》きつけるように開いて警官が飛び込んで来る。
依田は機関銃の引金を引いた。
野原を|駆《か》けていた恭子は銃声に足を止めて振り返った。機関銃だ!
銃声が入り乱れた。――そして、途絶えた。
恭子はまた走り出した。|頬《ほお》を|濡《ぬ》らしているのが雨なのか、|涙《なみだ》なのか、自分でもよく分らなかった……。
久仁子は驚いて、父と滝首相の顔を交互に見た。
「私が……〈プロメテウス〉に?」
|囁《ささや》くような声になっていた。やっと|豪《ごう》|華《か》な食事が|喉《のど》を通り始めたところなのに、これではまた逆戻りだ。
「プロメテウスは首相が個人的にバックアップしておられる組織なんだよ」
と、二宮が言った。
「そうですか」
首相が作ったものなら、あれほどの力を持つのも不思議ではない。
「お前にその一員になってほしいとおっしゃる。|名《めい》|誉《よ》なことだぞ」
二宮の少し押し付けがましい言い方に、久仁子はちょっと表情をこわばらせた。
「でも、私は学生ですし……」
「大学へ行くよりずっと国のためになることだよ」
国のため、ね。久仁子は冷やかすように父を横目でにらんだ。自分のしていることはどうなの、という顔だ。
「あの組織はともかくメンバーを厳選しなくてはならない」
と滝は|穏《おだ》やかな口調で言った。――TVニュースや、新聞で見るのに比べると、滝は大分老け込んで見える。しかし、大きな男だった。体も大きいが、どこか人間離れしたものを感じさせる。
「なぜあんなものを作ったのか、不思議に思うだろうね」
と、滝は言った。
「何となく分ります」
「ほう。そうかね」
「政治的な目標は議会を通して実現できても、精神的な理念は政策で押し付けられません。それをあの人たちに代行させているのだと思います」
滝が、二、三度目をしばたたいて、久仁子を見た。二宮が不安気に二人の顔を素早く見やった。
「いや、頭のいいお嬢さんだ」
滝はちょっと笑って言った。二宮がホッとしたように表情を|緩《ゆる》める。
「そう、君の言う通りだ。ただ――理念というよりは、道徳だな。今の世は道徳を|既《すで》に失ってしまった。十年前なら乱れているで済ませられたが、今はもう|跡《あと》|形《かた》もなくなったと言ってもいいだろう。私はそれを取り戻したいのだよ」
「私はあまりその役に適当とは思えません」
「久仁子、何てことを――」
「いやいや」
と滝は制して、「そう思うのが当然だ。あのプロメテウスは、私のバックアップしている組織ではあるが、その独立性は保証しているのだよ。分るかな? 決して私の言うなりに動いているのではない。行動の決定は私の意志とは関係なしに行われるのだ。それに対して、私は決して文句は言わない」
久仁子は|皿《さら》に食べかけのデザートをじっと見下ろしながら、黙っていた。
「――久仁子、これがどんなに大変なことかお前には分ってるのか?」
二宮が強調した。「プロメテウスの幹部になれば首相の身辺警備に当ることさえある。それだけ社会的にも人間的にも信用されているということなんだよ」
久仁子はゆっくりと視線を上げて、滝を見た。
「少し、考えさせて下さい」
「そうか、よかった」
滝は微笑んだ。「断られなかっただけでも|嬉《うれ》しいよ。それに即座に引き受けてくれたら、|却《かえ》って心配なものだ。いい返事を期待しているよ。さあ、デザートがまずくなる。食べようじゃないか。野暮な話をして悪かったね」
デザートのムースを食べながら、久仁子は言った。
「プロメテウスに入った場合、私生活の面で何か|束《そく》|縛《ばく》されることはあるんでしょうか」
「そんなことはない。そのために充分な調査をした上で組織に加えるのだからね。従来通りの生活を送って、一向に差し支えない。それは、多少忙しくなり、時間を取られるとは思うが、今のメンバーたちにしても、ほとんどが学生なのだからね」
久仁子はゆっくり|肯《うなず》いた。
「――ではここで失礼いたします」
ビルの地下二階、特別に設けられた駐車場で車に乗り込む滝へと、二宮は深々と頭を下げた。
滝は手を久仁子の方へ差し出した。
「君に会えて楽しかったよ」
別にそうするつもりはなかったのに、久仁子はつい頭を下げながら、首相の手を握っていた。
「じゃ、二宮君、来週の委員会で会おう。それまでに君も答えを出しておいてくれないか」
後の言葉は、久仁子に向けたものであった。
「はい」
と久仁子は答えた。
黒い、|怪《かい》|物《ぶつ》のような車が滝を待っていた。ロールスロイスの特注品である。|重装甲《じゅうそうこう》、|防《ぼう》|弾《だん》ガラス、強化タイヤ、そして、噂では機関銃もどこかに装備されているということだった。ちょうど、ずっと昔に流行した〈007〉の映画のようだ。
先導のSPの車が走り出し、滝の特別車が|悠《ゆう》|然《ぜん》と動き出す。それをオートバイが挟み、後からSPのもう一台の車がついて動き出した。駐車場から、通路は地上へでなく、さらに地下深くへと潜っている。
「この道、どこへ通じているの?」
と車を見送って、久仁子が|訊《き》いた。
「それは極秘だ」
と言って、二宮は肩をすくめ、「とは言っても、見当はつくだろう」
「首相|官《かん》|邸《てい》でしょう。近いものね」
二宮は答えず、娘を|促《うなが》してエレベーターの方へと歩いて行った。
「プロメテウスへ入れば、自然、そういうことも分るようになる」
「お父さんの希望でしょう、あの件? 私をダシにしてまた|大《おお》|儲《もう》けする気?」
「人聞きの悪いことを言うな」
二宮は笑いながら言った。「ただ、首相の信任を失わないことが大切だ。それだけだよ」
「私が人質ってわけね」
「そんな風に考えるもんじゃない。プロメテウスのメンバーになればお前にも分る。色々と得るところがあるぞ」
二宮はエレベーターのボタンを押した。「オフィスへもう一度寄るか?」
「家へ帰るわ。ちょっと荷物の整理もしなくちゃならないから」
「そうか」
エレベーターに乗り込むと、二宮は地下一階のボタンと三十階のボタンを押した。
「――断らんだろうな」
地下一階の一般駐車場へと歩き出した久仁子へ、二宮は声をかけた。
久仁子は振り返ると、
「考えてみるわ」
と言った。
|扉《とびら》が閉った。
首相専用車の中で、電話が鳴った。|傍《かたわら》の秘書が素早く受話器を取る。
「――お待ち下さい。首相、|峰《みね》|川《かわ》様からです」
滝は黙って受話器を受け取った。
「滝だ」
「峰川です。お知らせしたいことがございまして」
「いい知らせか」
「どっちとも取れます」
「言ってみろ」
滝は、回りくどいやり取りを楽しんでいるようだった。
峰川は、政府関係者でも、よほど滝に近い人間しか顔を見たことがない人物だった。滝直属の秘密警察の長官なのである。
秘密警察の存在そのものは、政府によって公式には否定されていたが、その実在を知る者は少なくなかった。しかし、今ではすでにそれを告発すべき場が失われていた。
峰川は――これこそ滝以外の人間はほとんど知らないことだが――滝の|幼《おさな》なじみであり、滝の妹の夫、つまり義弟に当っている。
「依田を発見しました」
「依田。――依田というと、あのテロリストか」
「そうです」
「それはおめでとう」
「それがあまりめでたくないのです」
峰川の口調は苦々しげだった。「こちらへ情報が入る前に、地元の警察が踏み込んでしまいました。|撃《う》ち合いになり、依田を射殺してしまったのです」
「それは残念だったな」
「全くです。モテルにいたのですが、一緒にいた女には逃げられています」
「何者だ?」
「今のところ不明です」
少し話が途切れて、峰川が続けた。「――先日、依田の弟分だった井口が、ある外科医の手術室で死んでいました」
「ああ、そんなことがあったな」
「外科医と看護婦、家族も全員射殺されていました。――何があったのか分りませんが依田は何か[#「何か」に傍点]|企《たくら》んでいたのです」
「だが死んだ」
「そうです。生きていれば何としても訊き出したのですが、残念でした」
「君を|信《しん》|頼《らい》しているよ」
「恐れ入ります」
「また電話をくれたまえ」
「かしこまりました」
滝は受話器を秘書へ任せた。
「――午後の予定は?」
と滝は訊いた。
「防衛大臣との打ち合せです」
「パレードの件だな。あいつは少しはしゃぎ過ぎる。水をかけて冷やしてやらなくてはならんな」
「さようでございますか」
「マスコミもまだ完全に沈黙してはいないのだ。あまり派手に動くと外国の警戒を招く」
滝はゆっくりと息をついて、目を閉じた。
「首相、後五分で着きますが」
「分っている。|眠《ねむ》るのではない。考えているだけだ」
「はい」
「おい、君は何がいいと思う?」
「何でしょうか?」
「明日は女房の|誕生日《たんじょうび》なんだ。何を|贈《おく》ろうかと考えている」
滝はそう言って微笑んだ。
|新宿《しんじゅく》の中心部に、昨年完成したばかりの超高層ショッピングビル、〈シャトル〉。
六十階建、銀色の|円《えん》|筒《とう》形のビルは、遠くから見ると、青空を突き|刺《さ》したナイフのようだった。
夕方六時になっても、まだ空は青く、|黄《たそ》|昏《がれ》|時《どき》には間があった。
久仁子は、約束の六時半には早すぎるので、〈シャトル〉のファッションフロアでエレベーターを降りると、洋服を見て回った。
気に入ったワンピースが目に付くと、それを買って行くことにする。試着してみて、|丈《たけ》もちょうどいい。
「送って下さい」
カウンターで久仁子はカードを出した。銀色のカードで、表面は本人のサインしか見えないが、住所、個人番号、買物の限度額などが総て記録されている。
「かしこまりました」
女店員の態度が少し変った。大学生はたいていグリーンのカードなのだ。シルバーは高額所得者の使うカードである。もちろん久仁子自身に所得があるわけではない。父の財力ゆえである。
「久仁子」
声をかけられて振り向いた久仁子は、|懐《なつか》しい旧友の顔を見て飛び上った。
「|真《ま》|知《ち》|子《こ》! キャー! 懐しい! 元気?」
「何とかね。――大学はどう? 勉強してる?」
「たまに、ね」
久仁子は女店員からカードを受け取ると、
「ね、時間あるでしょ。お茶飲もう。ね?」
と、真知子の腕を取って、絶対に離さないぞ、というように握りしめた。
|伊《い》|藤《とう》真知子は久仁子と中学まで同級だった親友の一人だ。高校に入るとき、父親の転勤で学校を移り、それ以来、次第に|疎《そ》|遠《えん》になっていたのだ。
「真知子、今東京にいるの?」
エレベーターで|喫《きっ》|茶《さ》フロアへ上りながら、久仁子は訊いた。
「うん」
「どうして電話してこないのよ!」
「忙しくてね……」
真知子は、ちょっと寂しげに笑った。久仁子はハッとした。真知子の服装や、バッグなど、どう見ても、くたびれ切った物ばかりだった。
「何かあったの?」
|透《とう》|明《めい》エレベーターが停止した。「ともかくどこかへ入ろう」
と久仁子は促した。
「――どこも満員じゃない」
と真知子は歩き回った挙句に、息をついた。
「よく人がいるわねえ」
と久仁子も苦笑いして、「人のことは言えないか。――じゃ、上まで行こう」
「上、って?」
「一緒に来て」
エレベーターで最上階へ上る。
「レストランよ」
と真知子がいぶかしげに言った。
「大丈夫よ」
久仁子は、もったいぶった構えのレストランへ入って行くと、入口に立っている支配人へ微笑みかけた。
「これは二宮様――」
「悪いけど、ちょっとお茶だけ飲ませて。下が一杯なの」
「結構ですとも。どうぞ窓際のお席へ」
新宿西口の超高層ビル街を見下ろす席につくと、
「真知子、何か食べたら? 私、この後約束があるけど」
「いいわ。お腹空いてない」
「じゃケーキぐらい?――ケーキとコーヒーね」
注文しておいて、久仁子は、旧友をじっと|眺《なが》めた。――|化粧《けしょう》っ気のない顔に、疲労の色が|濃《こ》い。急に、五、六歳も老け込んだように見える。
「今、何してるの?」
と久仁子は訊いた。
「働いてるの。昼は店員、夜は色々ね、ウェイトレスとか、ベビーシッターとか」
「昼も夜も? お父さんは?」
真知子はちょっと顔を|伏《ふ》せ、それから、やっと暮れ始めた空へと目を移した。
「――|刑《けい》|務《む》|所《しょ》なの」
久仁子は言葉がなかった。真知子は、涙が出そうになるのを|呑《の》み込んだのか、不安定になった声で、
「私と話したくなかったら、そう言ってね」
と言った。
「私をそんな風に思ってるのなら、ひっぱたくわよ」
久仁子は言い返した。「話して」
真知子は疲れ切ったように息を|吐《は》き出した。
「正直に言うわ。――今日、あなたが家を出たときから、ずっとつけていたの。声をかけようと思いながら……なかなかそうできなくて……」
「真知子の|馬《ば》|鹿《か》」
久仁子は真知子の手を取った。「力になるわ。言ってみて」
「――あなたのお父さんは実力者でしょう。警察の人や――もっと|偉《えら》い人も知ってるんでしょう?」
「ええ、まあね」
久仁子は|曖《あい》|昧《まい》に肯いた。
「何か――ちょっとでも|口《くち》|添《ぞ》えしてもらえれば――」
「お父さん、どうして捕まったの?」
真知子はふっと息を|洩《も》らした。
「機密|漏《ろう》|洩《えい》なの。――スパイ容疑」
久仁子は、難しい、と思った。これが殺人だの傷害だのというのならともかく、今は、当局が一番|敏《びん》|感《かん》なのが、スパイ事件なのだ。
「でも、父は何も知らなかったのよ」
真知子は言った。「ただ上の人に言われる通りに、コピーを取っただけなのよ。それなのに……」
「分ったわ」
久仁子は、肯いた。「そういう事件だから――難しいと思うけど、やってみる。きっと何とかなると思うわ」
「ありがとう」
――ケーキが来た。二人は、しばらく、昔の学生時代に|戻《もど》った。
「久仁子、あの彼氏とまだ付き合ってるの?」
「彼氏?」
「いつか手紙に書いて来たじゃない。電気屋さんだとか……」
久仁子はつい笑って、
「電気屋か。きっと|嘆《なげ》くよ、彼。エレクトロニクスの技術者と呼んでくれ、って。――今日、この後にここで会うの」
「そう。じゃ、邪魔したんじゃないの?」
「いいのよ。まだ時間あるから」
実際にはもう十五分もオーバーしていたが、久仁子は女の〈待たせる権利〉を活用することに決めていた。
「待たせてごめんね」
|約《やく》|束《そく》したレストランへ入ると、重松卓也は本を開いていた。
「やあ、来ないのかと思った」
「本当に?」
「いいや」
久仁子は笑って|腰《こし》をおろしながら、
「本が読めてよかったでしょ」
と言った。
「君にはかなわないな」
重松卓也は笑って本を閉じた。
昨日の電話での、どこか不安そうな様子に、久仁子はちょっと心配だったのだが、見たところ、そんな風にも思えなかった。
「食事にしましょう」
さっき、真知子と入ったような高級レストランではない。重松が|払《はら》える程度の、ごく|普《ふ》|通《つう》の店である。その辺は、久仁子も気をつかっていた。
食事時だからだろう、大分|混《こ》み合っていたが、奥のテーブルを予約しておいたので、やかましいというほどでもなかった。
「――お母さん、お元気?」
と久仁子は訊いた。
「ああ。君に会いたいと言ってる」
「まあ、本当? 嬉しいわ」
「一度君が焼いたクッキーを食べさせたら、|凄《すご》く喜んだろう。あれをまだ|憶《おぼ》えててね」
「じゃクッキーをトラック一台分ぐらい持って行くわ」
と久仁子は笑いながら言った。「結婚したらクッキー屋さんでも開きましょうか」
「僕が店番をやるよ」
「一ミリグラムにつきいくら、なんて商売してたらお客が来ないわよ」
と、久仁子はからかった。
食事が終ると、重松は、いつになく無口になった。やはり少しおかしい。
重松は、もともとが研究者なので、それにふさわしく、黙々と働くタイプである。久仁子と会っていても、決してよくしゃべる、というわけではない。しかし、今日はちょっと様子が違っていた。
何かが重くのしかかって、言葉を押えつけているようだった。
「相談があるって……何なの?」
久仁子は、できるだけさり気なく言った。
「君に相談しても仕方のないことなんだ」
「あら、冷たいのね。他の女の子が好きになったから|仲《なこ》|人《うど》してくれとでも言うつもり?」
重松はちょっと笑った。
「仕事のことなんだ」
「転勤?」
「いや。研究所は今のままで動かない」
「じゃ、何なの?」
重松はしばらく押し黙っていた。それから、重い口を開けて、
「君に言うべきことじゃないと思うけど……特に、お父さんのこともあるし……」
「父がどうして関係あるの?」
「いや……。実は、兵器部門に配転になるんだ」
久仁子は思いがけない言葉に、一瞬、目を伏せた。――重松が、兵器、武器というものに強い反感を|抱《いだ》いていることは、よく知っていた。
二人が知り合った|頃《ころ》、まだ二宮商事は、武器輸出にほとんど手を染めていなかった。法律上も、一応は認められていなかったので、他の名目がつけられるものだけを、細々と輸出していたのだ。
武器輸出が合法化されると同時に、二宮は精力的に兵器を売りまくった。兵器は――重軽工業の総合的な製品である。それは、二宮だけでなく、日本の経済全体を|潤《うるお》し、何十年来の|好況《こうきょう》の引金になった。
久仁子と重松の間に、二宮が〈死の商人〉だという事実は、微妙な|影《かげ》を落とした。しかし、二人はいつもそれを慎重に無視して、これまでやって来たのだった。
「いつかはこうなると思っていたよ」
と重松はため息をついた。「上役にしてみれば、会社の成長頭である兵器部門へ行くのだから、大変な栄転だ、というつもりなんだ。研究費も|桁《けた》違いに多い。思い切りぜいたくができる。――そうなんだ。みんな、僕を|羨《うらやま》しがってるよ」
「人の気も知らないで、っていうわけね」
「その通り」
重松は首を振った。「原爆だって水爆だって、中性子爆弾だって、造ったのは科学者だ。いや、科学者が考案して、技術者が実用化したんだ。――いくら政治家が核兵器をほしがっても、造る|奴《やつ》がいなけりゃ、どうにもならないはずなんだ。それなのに……人殺しの道具を平気で設計し、造る奴が、いくらでもいる!」
「みんな、仕方なしにやってるのよ」
「そうじゃない。君は科学者ってものを知らないんだ。特に――言いたくはないけど、研究者は、自分の研究が面白いかどうか、それだけにしか興味がないんだ。目的なんか二の次だ。|沢《たく》|山《さん》研究費をくれて、興味のあるテーマがあれば充分なのさ」
「あなたみたいな人も少しはいるんでしょう?」
「どうかね」
重松は肩をすくめた。「怪しいもんだ。僕が配転を拒んだりしたら|気《き》|狂《ちが》い|扱《あつか》いされるだろうな」
「他の人と代ってもらうわけにはいかないの?」
「君は勤めたことがないから分らないんだ。そんなことをすりゃ命取りさ。クビにはならなくても、|封《ふう》|筒《とう》書きでもやらされることになる」
重松は深々と息をついて、じっと天井を仰いだ。「――僕は|卑怯《ひきょう》だ」
「何を言い出すの?」
「いや本当さ、僕が今までやっていた光通信技術だって、兵器にも応用できるものだ。それは分っていたけど、『僕は兵器を造ってるんじゃない』と自分へ言い聞かせて来た。もらう給料の三分の一は兵器の代金だ。それだって――」
「やめなさいよ」
と、久仁子は|遮《さえぎ》った。「そんな風に自分をいじめたって仕方ないわ」
「そうだな。――ごめんよ。君に話しても仕方のないことなんだ」
「そんなことないわ。何か……他の仕事を|捜《さが》す?」
「僕は研究しかできない人間さ。他にどうしろ、っていうんだ」
重松は頭を|抱《かか》えた。――久仁子にはどうすることもできない。久仁子はまだ学生なのだ。やらなくてはならないことがある……。
「何か私にできることがある?」
と久仁子が訊いた。
「そうだな……」
重松はちょっと笑みを浮かべた。「いつも通り楽しそうにしてくれ。そうすりゃ僕も元気が出る」
久仁子は重松の手を握った。
「元気を出して。何とかなるわ、きっと」
そのとき、急にレストランが静まり返った。
久仁子は、レストランの入口の方を見て、目を見張った。
「――何だ、あれ?」
重松が言った。
「シッ!」
久仁子は低い声で、「プロメテウスよ」
「あれが……」
赤い制服が、店の入口を|塞《ふさ》いでいた。五人、いや七人はいる。久仁子は先頭に立っているのが、昨日父のオフィスで見たリーダーだと気付いた。
店の中は静まり返った。誰もが、制服の少女たちを見つめている。
リーダーの|娘《むすめ》が、歩き出した。後ろに手を組んで、背筋を真直ぐに伸ばし、まるで、|閲《えっ》|兵《ぺい》中の|将軍《しょうぐん》のように、テーブルの間を歩いて来る。
一つのテーブルの前で、彼女は足を止めた。部下たちがその後ろに広がる。
髪を染めて、タバコをくわえた少女が、リーダーの娘を見上げた。
「何か用?」
「いくつ?」
とリーダーは訊いた。
「そんなこと関係ねえだろ」
リーダーの娘が、手の|甲《こう》でその少女を打った。タバコがふっとんで、|椅《い》|子《す》が傾くほどの勢いだった。
店内の誰もが息を呑んだ。――せいぜい十六、七らしい少女は、すっかり勢いを失っていた。
「何するのよ……」
声が|震《ふる》えていた。
「あなたのような人間が社会を乱してるのよ。法律を知らないの?」
「ちょっと|喫《す》ってただけじゃない……」
いきなりリーダーの娘はその少女の赤く染めた髪をつかんで引っ張った。少女が悲鳴を上げて床へ倒れた。
部下の娘たちが素早く少女を取り囲んだ。
重松が思わず腰を浮かした。
「やめて!」
久仁子は重松の手をつかんだ。
「殺しちまうぞ」
「お願い、やめて」
久仁子は重松を座らせた。
「やめて!――いやよ!」
少女の泣き声が聞こえて来た。やがて、それも消えた。
リーダーの娘は、ゆっくりとレストランの中を見回した。
|誰《だれ》もがあわてて目を伏せる。――リーダーの娘は、また店の中を歩き始めた。
床に倒れた少女が見えた。染めた髪が床一面に散っている。髪の毛を切られたのだ。
「何のつもりだ……」
重松は声を震わせていた。
「静かにしてて。お願い!」
久仁子が言った言葉が、耳に入ったらしい。リーダーの娘が、久仁子たちのテーブルにやって来た。
久仁子が見返すと、相手は憶えていたらしく、ちょっと意外そうな表情になって微笑んだ。
「二宮久仁子さんね。今晩は」
久仁子は|微《かす》かに会釈した。
「――お騒がせしたわね。ああいう害虫を取り除くのが役目なものだから」
と、彼女は言って、「私は|東昌子《あずままさこ》よ」
と付け加えた。
そしてクルリと向き直ると、足早に店を出て行った。部下たちが歩調を|揃《そろ》えてそれに続く。
レストランの中の空気が、急に緩んだ。みんなが、少し低い声ではあったが、話を始めた。
床に倒れた少女は、すすり泣いていたが、誰も見ようとはしなかった。
「――驚いた」
重松はそっと息を吐き出した。「|噂《うわさ》は聞いていたけど……あんな連中だとは思わなかった」
そして、久仁子を見つめて、
「君はどうして知ってるんだ?」
と訊いた。
「そんな|怖《こわ》い顔して訊かないで」
「ごめんよ。あんまりびっくりしたもんだからね」
「父のオフィスで会ったことがあるのよ」
「お父さんの?」
「ええ、何の用で来たのか知らないけど、ともかく、|紹介《しょうかい》だけされたわ。だから知ってるの」
「そうか。――色々噂は流れてるが、あれじゃ暴力団じゃないか」
「関り合いにならないことよ」
「それでいいのかな。好き勝手をやらせて……」
重松は立ち上ると、倒れていた少女の所へ行き、抱き起こした。
「大丈夫かい?」
少女が小さく肯く。重松はハンカチを出した。
「これは大判だから、頭がかくれるよ。かぶって行くといい」
少女は言われるままに、それをかぶって|顎《あご》で結ぶと、逃げるように店を出て行った。重松は席に戻ると言った。
「――いくら不良だからって、あんな仕打を、何の権限も持っていない連中がするなんてひどいじゃないか」
久仁子は、不安な|眼《まな》|差《ざ》しで、じっと|恋《こい》|人《びと》を見つめていた。
「お願いよ、カッとしないで」
重松は軽く目を閉じて肯いた。
「つい……ね。でも、あんなのを見て何とも感じない人間にはなりたくない」
「もちろんよ」
「見ろよ、店の中の連中を」
と重松はゆっくりと見回した。「みんな何もなかったような顔をして、おしゃべりしてるんだぜ。全く……」
その通りだ。久仁子もそう思った。もう誰も、怒るとか、|哀《あわ》れむという感情を失ってしまったようだ。ともかく、他人のことには関り合いたくない。――それだけを考えているのである。
「何とかしなきゃいけない」
重松は自分に向って言い聞かせているようだった。それから、軽く、|自嘲《じちょう》するように、
「分っていて何もできない、って、|辛《つら》いなあ。何かしたいのに、明日の朝九時には会社へ行って、仕事をしなきゃならない。もっともっと大事なことがあると分ってても……」
「それが人間の|暮《くら》しよ」
と久仁子は言った。「パンを|稼《かせ》ぐために一日の大半を使って、その残りをどう使うかで、人間は|違《ちが》って来るのよ」
いささか、決りすぎたかな、と久仁子は自分を冷やかした……。
「――君に会って落ち着いたよ」
と重松は言った。
夜道は、やっと昼間の暑さから解放されて、息をついていた。駅から、いつも二人は久仁子の家まで、二十分ほどの道を歩いて帰ることにしていた。それが一種の不文律だった。
「精神安定剤ね、私は」
「他の意味では興奮剤だ」
「何よ、それ」
久仁子は笑った。
重松は久仁子を抱き寄せた。唇が|絡《から》み合う。久仁子は彼の胸に押し付けられる自分の|乳《ち》|房《ぶさ》の圧迫に息苦しいような|昂《こう》|揚《よう》を覚えた。
「――二週間ぶりね」
息をそっと吐き出して、久仁子は言った。「寂しかったわ」
「君のそんなセリフ、初めて聞いたぜ」
「失礼ね。女じゃないみたいなこと言って」
「二週間、どこへ行ってたんだ?」
「気になる?」
「なるね」
「子供をおろしてたのよ」
重松が|唖《あ》|然《ぜん》とした。――久仁子が|弾《はじ》けるように笑い出した。
「こいつめ!」
久仁子は重松の腕から脱け出して駆け出した。二人の笑い声が、夜の高級住宅地の|静寂《せいじゃく》の中に|反響《はんきょう》した。
|河《か》|合《わい》|信《のぶ》|子《こ》は、中学校の駐車場に車を|停《と》めると、|鞄《かばん》を抱えて、外へ出た。
「やあ、河合先生」
と声がかかる。
「あ、|本《ほん》|間《ま》先生、おはようございます」
と河合信子は会釈した。本間は彼女と同じ、国語の教師で、四十代半ばの、至って気のいい男だった。赤ら顔で、いつも、|禿《は》げ上った頭をハンカチで磨き上げている。――いや、実際は汗っかきなので、残暑の厳しいこの頃は、人一倍汗をかく、それをせっせと|拭《ぬぐ》うのが、まるでこすって|艶《つや》を出しているかのように見えるのである。
「新学期早々、ご|迷《めい》|惑《わく》をかけました」
と、河合信子は言った。
「いやいや。まだ教師も生徒も半分休みみたいなもんですからな。河合先生がお休みだったってのも気が付いてないんじゃないですか?」
「まさか」
と信子は笑った。しかし、本当にそうでないとも言い切れない。今の生徒たちは、本当に、ただぼんやりと座っていることが多いのだ。
この本間が言ったことがある。こんなみごとな|禿頭《はげあたま》、|僕《ぼく》が学生の頃だったら、たちまちニックネームがつきますな、と。
今の生徒たちは、教師にニックネームをつけることさえ面倒がるのである。
二人は一緒に新築されたばかりの校舎へと入って行った。
「――そうそう」
本間が言った。「ビデオディスクの|郵《ゆう》|便《びん》が来てましたから机の上に置いときましたよ」
「あ、どうもすみません」
「いや、みんなで言ってたんです。河合先生、新婚早々だから、ポルノ映画のビデオを買ったんじゃないかって」
「いやだわ、先生!」
信子は真っ赤になって言った。「あれはTVの〈名作の世界〉です。小説の解説に使おうと思って。――ひどいわ!」
「まあまあ、|冗談《じょうだん》ですよ」
信子も、つい笑い出していた。
職員室へ入ると、信子はまず教頭の机の前へと行った。
「どうも長いこと、申し訳ありませんでした」
「やあ、法事は無事に済みましたか?」
「おかげさまで。予定より大分長引いてしまいまして」
「いや、仕方ありませんよ。まあご苦労さんでした」
「失礼します」
信子は、自分の机へと向った。――信子の机は校庭に面した窓から二番目で、窓の側には本間の机があった。
机の上に、うんざりするほどの郵便物が積み上げられている。
取りあえず、差出し人を見て、急ぎそうなものだけをより分けた。ビデオディスクは、今日の授業から使うので、すぐに封を切った。
それから、伝言を見る。机の上のディスプレイ装置のキーを押すと、小型のブラウン管の|蛍《けい》|光《こう》面に、〈伝言〉と文字が出た。新学期から留守にした十日の間にインプットされた伝言が、その順序で、文字として出て来る。日付、時間、伝言した者の名前、電話の記録も出る。見ながら、必要と思うものは、〈プリント〉のキーを押すと、印刷されて手もとへ出て来る。
それほどの急用、重大な用はなかったようだ。――事務の女の子がコーヒーを配って来た。
「ありがとう」
信子は、目の前のディジタル時計を見ながら、ゆっくりとコーヒーをすすった。始業まで後五分だ……。
河合信子は二十八歳である。旧姓は|三《み》|田《た》といった。河合|姓《せい》になったのは、本間も言った通り、つい三か月ほど前のことだ。
夫はごく普通のサラリーマンだった。見合結婚である。信子が見合で結婚すると知って、友人たちはみんな一様に不思議そうな顔をした。
「式に出るまで信じられなかった」
とすら言った友人もいた。
信子が、いわゆる行動的なタイプの女性であり、教職に情熱を燃やしていることを、友人たちは知っていたからである。
「河合先生」
と本間が声をかけて来た。
「はい」
「今月はどうします? テストをやりますか?」
「そうですね……。考えているんですけど」
「やると言わなきゃ勉強せんしなあ、連中は」
本間はため息をついた。「テストは|嫌《きら》いなんだが……」
本間は、教師にしてはいささか型破りなところがあった。しかし、信子は、本間の内にまだ教えることへの情熱が残っていることが分って、親しみを感じていたのである。何しろ今の若い教師は、早く授業時間が終らないかと思っているのだ。
以前は生徒だけがそう思っていたのに。
私が学生だった頃とは、すっかり変ってしまった、と信子は思った。――設備や器材は信じられないほど近代的になり、便利になった。しかし、そこで教えられているものは何なのか?
教科書通りの授業、ノートを書き写すだけの勉強。――教師と生徒とのつながりは、今は電線だけだろう。何もかもが、電気を使った設備だからである。
そんなものはいやだ、と思っても、指導からはみ出した授業は、公立中学では認められないのだ。最初は情熱を持って入って来た教師たちが、次第に無気力になって行くのは、誰の目にもよく分った。
といって、それを止めることは、誰にも出来ない……。
チャイムが鳴った。始業である。
信子は|出席簿《しゅっせきぼ》と教科書、ビデオディスクをかかえて、立ち上った。
最初の十五分は朝のHR。その後十分の休みがあって、一時間目が始まる。教師の中には、朝のHRは〈自主管理〉と言って、教室へ行かない者も半分近くいた。
確かに、行かなくても、欠席者はちゃんとディスプレイされるのだから、それを見て出欠をつければいいのだが、信子は、それだけはやりたくなかった。
二階の、受持クラス2年C組へ入って行く。――教室の中は静かだった。
「おはよう」
信子は|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。いつものことながら反応はない。
「お休みしていてごめんなさい。法事で|田舎《 いなか》へ行ってたものだから。――今日からはちゃんとやるわよ。じゃ、出欠を取ります」
たいていの教師はクラス委員に、今日の欠席は誰かを訊いて済ませてしまう。しかし信子は、必ず一人一人を呼ぶようにしていた。
「――|大《おお》|西《にし》君。――|加《か》|瀬《せ》君。足の|捻《ねん》|挫《ざ》、直った? 良かったわね。――|加《か》|藤《とう》さん。――|木《き》|原《はら》さん。――|近《こん》|藤《どう》さん。妹ができたんだって、おめでとう! ほら静かにして!――|佐《さ》|倉《くら》君。――|志《し》|水《みず》君。夏休みに水泳大会で優勝したんですって? |凄《すご》いじゃないの。――|千《せん》|田《だ》さん。お母さん、良くなった? 退院したの、一安心ね!」
「はい、次を読んで」
信子は、机の間をゆっくりと歩きながら、言った。
窓の外は、まだ夏の息吹きが|溢《あふ》れて、白いアスファルトの校庭が、まぶしく照り返している。
――私のしようとしていることは、正しいのだろうか。教師がテロ活動に走る、ということは。
しかし、もう現実に、それは始まってしまった。手術を受けるのを承知したその瞬間から、始まっている。もう|後《あと》|戻《もど》りはできないのだ。
時代だ。――総ては、時代のせいなのだ。今、この時に教師になったことが、私の運命を決めてしまった。
ここ数年の、いや、実際にはもう十年も前から始まっていたのに違いないが、無力な教育界への政府の圧力は凄まじいものだった。
国定教科書、国防教育、国旗、国歌の法定化。校長には教師の|任《にん》|免《めん》|権《けん》が与えられ、少しでも指導に反した教師は次々に職を追われた。
教師たちは、クビの不安に|怯《おび》えながら、ただ黙々と教科書を朗読させ、暗記させた。
それに対して、教師の側は、何一つ|為《な》すすべがなかった。他人事のように、|傍《ぼう》|観《かん》していたのである。
日教組はすでに存在しない。権力の手で解散させられた、というのならまだしも、無意味な内部対立と分裂の挙句に、自然|消滅《しょうめつ》してしまったのだ。
信子が教師になったのは、そんなときであった。
「――はい。それじゃ、この小説のあらすじをみんな、二百字でまとめて」
ええ、いやだあ、といった声があがる。
「後三十分あるわ。|充分《じゅうぶん》よ」
と信子は言った。「さあ、やって!」
ブツブツと不平を言いながら、ノートを開く音。これで三十分かかって、二百字でうまくまとめる者は三分の一もいない。たいていは|途中《とちゅう》で放り出してしまうのだ。
信子は、白く光を反射する校庭へ、そっと目を向けた。
滝首相一人を暗殺して、どうなるものでもない。それは信子にも分っている。しかし、今の政局が、滝という強烈な一人の個性によって動かされているのは事実である。与党の中にもそのことへの不満は|渦《うず》|巻《ま》いていよう。しかし、滝の握った力の大きさが、他を沈黙させている。
もし、滝が死ねば、政局は動く。滝の独走を苦々しく思っている人間が発言力を持とう。何かが変ることが、期待できる。
そして何より信子が期待するのは、その混乱の中で、今は圧殺されている人々の〈声〉が、よみがえることだった。
信子は、英雄になる気など、さらさらない。――滝を殺しても、英雄にはなれない。滝はその強力なイメージで、国民にも高い人気があるのだ。
しかし、ヒットラーだって、国民の人気を一身に集めていたのだ……。
ともかく、滝の目指す所に〈|徴兵《ちょうへい》制〉があることは、誰の目にも明らかだった。そして、それが具体的な日程に上るのは、決して遠くない、と考えられていた。
それだけは……。それだけは許してはならない!
信子は、死をもって、それを防ごうと思った。
「先生!」
|鋭《するど》い声が飛んだ。――女生徒の一人が立ち上っている。
「はい、何?」
ここは彼女の担任のクラスではないが、その女生徒は学年でもトップを争う|秀才《しゅうさい》だったので、よく憶えていた。
「そこの二人、|馬《ま》|淵《ぶち》君と|谷《たに》君はノートを|交《こう》|換《かん》していました!」
信子はちょっと言葉に|詰《つ》まった。
「そう……。その二人、立ちなさい」
男子生徒が二人、|渋《しぶ》|々《しぶ》立ち上る。
「ノートを元へ返しなさい。それから、椅子だけ持って教室の後ろの方へ行って、書きなさい」
信子は|教壇《きょうだん》に上って、椅子にかけた。珍しいことだ。信子は、|滅《めっ》|多《た》に座らないのである。
信子は、いささか力を失った気分だった。生徒同士がノートを交換した。それはむろん良いことではない。しかし、信子がショックを受けたのは、それを同級生が告発したことである。 信子が学生の頃には、あの程度のことなら、みんな面白がって見過ごしていただろう。もちろん教師に見付かれば|叱《しか》られたに違いないが、それを同じクラスの子が言いつけるということはなかっただろう。
信子はクラスをゆっくりと見回して、ふっとうすら寒いものを感じた……。
「――首相。公安委員会のお時間です」
秘書に声をかけられて、滝は眺めていた雑誌から顔を上げた。
「分った」
と、大きな椅子から立ち上りかけると、電話が鳴る。秘書が素早く取った。
「はい。――今から会議へ出られます。――少々お待ちを」
「誰だ?」
「ぜひお話ししたいと……。二宮という女性だそうです」
「おお、そうか。よし出る。――お前は先に行っていろ」
「かしこまりました」
滝は、椅子にまた腰をおろした。
「滝だ。よくかけてくれた」
「二宮久仁子です」
はきはきとした声が伝わって来る。「先日は大変失礼しました」
「いや、とんでもない。君も面食らっただろう」
「はい、少々」
「で、どうかね。決めてくれたか」
「はい。――お引き受けしたいと思います」
「それはありがたい! いや、きっと|後《こう》|悔《かい》させることはないと思うよ」
「はい」
「では、プロメテウスの方から、|連《れん》|絡《らく》が行くから、それを待ってくれ、いいね」
「かしこまりました。それから……」
「何か用かね?」
「実は、一つお願いがあります」
「言ってみたまえ」
「無理は承知で申し上げるんですが……私の古い親友の父親が、機密漏洩の容疑で、今刑務所にいます」
「ほう」
「もし……多少なりと、仮釈放の時期などに、お口添えいただければ、と思いまして……」
「スパイ容疑だね?」
「はい」
「それはなかなか容易じゃないよ」
「よく分っています」
「名前を聞いておこう。――フム、伊藤|雅《まさ》|人《と》だね?――あまり力にはなれないかもしれんが、出来るだけやってみよう」
「ありがとうございます」
「プロメテウスに入ったら、また会いに来たまえ、時間さえあれば食事でもしよう」
「はい。では、失礼します」
滝が受話器を戻すと、今度は机の引出しの一つにランプが点滅した。滝は引出しを引いて、中の黄色い電話の受話器を取った。
「首相ですか」
「|峰《みね》|川《かわ》か」
「準備は整いました」
「よし。予定通りやってくれ」
「分りました」
「ああ、それからな――」
「何か?」
「今スパイ容疑で服役中の男で、伊藤雅人――そう、伊藤雅人だ。その男が今どうしているか、どの程度の男か、調べてくれ」
「分りました」
滝は、秘密警察に直通の黄色い電話をしまい込んでから引出しを閉めた。
「――では、今日はこれで終ろう」
滝は、公安委員会のメンバーの顔をぐるりと見回して、言った。首相が立ち上ると、全員が席を立った。
「ご苦労様。また次回までに各自、宿題はやっておいてくれよ」
滝はそう言って微笑んだ。「忘れたからといって立たせやしないがね」
軽い|笑《わら》いが起って、一人、また一人と部屋を出て行く。――滝は二宮を手招きした。
「今、お|嬢《じょう》さんから、引き受けると電話があったよ」
「久仁子からですか? そうですか」
「聞いていなかったのか?」
「何しろ父親には何も言わん娘でして」
照れくさそうに二宮は笑った。
「いい娘さんだ。君のところは一人っ子だったなあ」
「はい。妻を早く亡くしましたので」
「しっかりした娘さんに育ったのはそのせいかな。――恋人はいるのか?」
「娘ですか?」
「君の恋人のことを|訊《き》いても仕方ない」
「はあ――いや――」
と二宮はあわてて|咳《せき》|払《ばら》いした。「娘にも一応、付き合っとる男はいるようですが……」
「当然だな。自分で結婚相手も見付けられんようではしょうがない」
「そうですな」
「さあ、どうだね、私の部屋で|一《いっ》|杯《ぱい》やらないか」
「ありがとうございます」
二宮は微笑んだ。――二宮商事にとっての大きな仕事は、この〈首相の部屋での一杯〉で決ることが多いのである。
「足下にお気を付け下さい」
「分っとる……分っとる」
公安委員会のメンバーの一人、|最《さい》|高《こう》|齢《れい》の|中《なか》|堂《どう》は、もう足下も|覚《おぼ》|束《つか》ない|衰《おとろ》えようだった。
実際、出席して来ても大体はうつらうつらと居眠りをしていることが多く、発言もほとんどしないのだから、いなくていいようなものなのだが、滝首相の大学時代の恩師であるということで、ともかく本人が辞任するまでは入れておこうということになっている。
ところが、かなりぼけて来ているせいか、辞任しようという気にもならないらしく、こうして委員会の度に、居眠りをしに出て来るのだった。
「お車はこちらですから」
両側に付き|添《そ》った官邸の職員が、汗をかきながら、中堂を車の方へと運んで[#「運んで」に傍点]行く。
「ああ……そう……ありがとう……」
ムニャムニャと呟きながら、中堂は、迎えの車へと|辿《たど》り着いた。
やっと中堂を乗せて、車が走り出したときには、官邸の職員たちはホッと息をついた。
車は官邸の門を静かに|滑《すべ》り出た。中堂は早くも後部席でウトウトし始めていた。
突然、一台の乗用車が、中堂の車の前を遮った。車のブレーキが鳴る。
男が一人、飛び出して来た。手にした機関銃が火を吹いて、中堂の乗った車の窓ガラスが吹っ飛ぶ。中堂が一瞬の内に血まみれになって倒れる。運転手が頭を抱えて床へ伏せた。
男が車へと駆け戻る。――銃声を聞きつけた官邸の護衛の警官が走って来る。
男の機関銃がもう一度鳴って、警官の一人が倒れた。男は素早く車へ乗り込んだ。同時に車は急カーブを切ってダッシュすると、猛スピードで走り去った。
警官の|拳銃《けんじゅう》が二度鳴ったが、むろん、何の役にも立たなかった。
「――先生は人格高潔、偉大な人でした。先生の命を|奪《うば》った|憎《にく》むべきテロを、決して許してはなりません! 悲しみと共に暴力への憎しみを新たにしなくては――」
久仁子は手もとのスイッチでTVを消した。
「――|馬《ば》|鹿《か》らしい」
広々とした、居間の一つ。久仁子は、クッションのように分厚いカーペットに寝そべっていた。
「――おい、久仁子」
「あら、お父さん。早いのね」
「今日は大騒ぎだったからな」
「事件のときは近くにいたの?」
「首相の部屋だよ。ちょうど大事な所だったんだ」
商売の話を|邪《じゃ》|魔《ま》されたのが、よほど|腹《はら》|立《だ》たしかったようだ。
「誰がやったのかしら?」
「決っとるじゃないか。左のテロリストたちだ」
「そうかしら」
「どうしてそんなことを言うんだ?」
「あんな|爺《じい》さん殺して何になるの? 無意味だわ」
「見せしめだろう」
「それにしたって……」
と、久仁子は首を振った。「私だったら、お父さんを|狙《ねら》うわ」
「おいおい、それが娘の言うことか?」
二宮は笑いながら久仁子と|並《なら》んで座った。
「お前――プロメテウスへ入ると返事したそうじゃないか」
「うん。面白そうだもの」
「まあ、しっかりやれ。首相がずいぶんとお気に入りのようだったぞ」
「そう?」
久仁子はリモコンでもう一度TVをつけた。――シネマスコープ形の高性能TVである。実用化されて数年だが、今では、ほとんどの番組がこのサイズの画面に合わせて放送されている。
「映画か何かやってないのかなあ」
チャンネルをかえて行って、久仁子は|肩《かた》をすくめた。
「テープかディスクで見たらどうだ」
「つまんないわ。|飽《あ》きちゃった。――音楽でも聞いて来る」
久仁子は立ち上って、自分の部屋へと行きかけた。
「おい、久仁子」
「なあに?」
「お前、何とかいうボーイフレンドとまだ付き合っとるのか?」
「重松さん? うん、そうよ。どうして?」
「いや、訊いてみただけだ」
久仁子は肩をすくめて居間を出て行った。
自分の部屋へ入ると、空調を止めてあったので、ムッとする暑さだった。
思い切り窓を開けてみる。――夜風が、快く流れ込んで来た。
虫が入って来るので、久仁子は明りを消して、ソファに寝そべった。
庭の|水《すい》|銀《ぎん》|灯《とう》の光が、天井へ白い|塗料《とりょう》を|一《ひと》|刷《は》け、|撫《な》でつけたように広がっている。
この一帯は高級住宅地の中でも第一等地である。高い|塀《へい》が並び、|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》が|贅《ぜい》を競っている。その中でも、この二宮邸は、新しく建てられただけに、際立った|豪《ごう》|華《か》さである。
久仁子にしてみれば馬鹿らしい。何しろ、ここに、家族といっては父と久仁子の二人しかいないのだから。
使用人は五人いる。他に運転手が一人。しかし、他人は他人で、気の休まる相手ではなかった。
「プロメテウスか……」
久仁子はじっと天井を見上げて呟いた。
ふと、何かの物音に気付いた。遠くから、|唸《うな》りに似た音が近付いて来る。――何だろう?
久仁子は三階のサンルームへと上った。このベランダからは、かなり遠くの道が眺められる。
しばらく眺めていると、トラックの列が視野へ入って来た。単なるトラックではない。装甲を施して、カーキ色に塗られた軍用トラックである。
トラックの列は、この住宅地の中を地響きをたてて駆け抜けて行く。
「トラックか?」
声に振り向くと、二宮も上って来たところだった。
「ええ、軍用よ。どこへ行くのかしら?」
「官庁街だろう。警備のためだ」
久仁子は二宮の顔を見た。
「何の騒ぎ?」
「今、官邸から電話があったよ。――|戒《かい》|厳《げん》|令《れい》を発令したそうだ」
「戒厳令?」
久仁子は、トラックの列の最後尾の二台が停止して、銃を手にした兵士たちが次々に降りて来るのを、目を見張って眺めた。
「何してるの?」
「心配いらん。あれはこの一帯の警護のために来たんだ」
兵士たちが道に散って行く。――かつて自衛隊という名で呼ばれた国防軍である。
「さあ、入ろう」
と、二宮が久仁子を|促《うなが》した。
第二章 英雄の|葬《そう》|送《そう》
六台のジープは、道行く人々をほとんど例外なく、振り向かせながら、|疾《しっ》|走《そう》して行った。
一台のジープに五人。三十人の〈プロメテウスの|処女《 おとめ》〉たちの兵団は、ジープや軍用トラックに慣れた人々の目をも引きつけるに充分であった。
町は、以前の通りの顔を取り戻していた。ずっと以前から、大小の出版社が連なっていた|神《かん》|田《だ》周辺には、今も、東京駅近辺の超高層ビルに見下ろされながら、小さなビルが群をなしている。
今、久仁子を|含《ふく》めて、プロメテウスのジープは、その町中を走っていた。
久仁子にとっては、これがいわば初仕事である。
今日、制服と拳銃を手渡されたのである。――入団の|誓《ちか》いとか、|儀《ぎ》|式《しき》があるのかと|覚《かく》|悟《ご》していたのだが、|白《しろ》|金《がね》の高級マンションの一室――そこが〈プロメテウス〉の隠れた本部になっていた――で、久仁子は、東昌子と再会した。
「よく来たわね」
東昌子は、久仁子の手を軽く握った。「歓迎するわ」
「よろしくお願いします」
と久仁子は頭を下げた。
「さあ、固苦しいことはしないの。私たちは鉄の規律で動くわけじゃないのよ」
東昌子はちょっと微笑んで言った。「ここではみんなが親しい仲間同士、私は一応隊長と呼ばれてるけど、別に独裁者じゃないわ。みんなの意見は充分に聞くし、少数意見にも耳を傾けます。でも――」
と少し厳しい口調になって、
「行動のときは、一糸乱れずに行動すること。分るわね」
「はい」
「じゃ、制服一式を受け取って。――その小部屋で着替えなさい。|仕《し》|度《たく》が終ったら、出動するわよ」
久仁子は、赤いブレザー、黒のスカートと、黒のブーツ、ベルトを受け取り、|更《こう》|衣《い》室らしい小部屋へ入って、それを身につけた。――姿見があって、それに映してみる。
自分ではないような気がした。制服の魔力とでもいうのだろうか。知らず知らず、胸を張り、背筋を真直ぐに伸ばしている自分に気付く。
部屋へ戻ると、東昌子が、胸に弓と矢を図案化したバッジをつけてくれた。そしてホルスターのついたベルトを肩から斜めに渡し、きちんとしめてくれる。
「拳銃を渡します」
東昌子が、銀色の、小型拳銃を、久仁子の手の上に置いた。冷たく、重い、独特の感触が、久仁子の全身へと|浸《し》み|透《とお》って行くようだった。
前の日に、久仁子は警察の|射撃場《しゃげきじょう》へ、父に|伴《ともな》われて行って、拳銃の扱い方と、射撃練習をして来ていた。
二二口径の場合、反動はほとんどゼロに等しい。|丁《てい》|寧《ねい》に狙えば、久仁子でも十メートル先の、五センチ平方の標的に命中させられるようになるのに時間はそうかからなかった。
しかし、そうして、自分の[#「自分の」に傍点]拳銃が与えられると、久仁子は一瞬、|戦《せん》|慄《りつ》に似たものが走るのを押えられなかったのだ。
久仁子は拳銃をホルスターへ納めた。
「じゃ、出かけましょう」
東昌子が言った。
そうして今、久仁子はジープの助手席に座って、後方へと流れ去る風景を見ている。ジープの形というのは、ずっと昔から少しも変らないようだ。
不思議な気分だった。車よりもむしろオートバイに乗っているのに近い。乗用車の窓から外を見ると、外の世界が動いて見えるが、ジープの座席に座っていると、自分自身が前進している、という気がするのだ。
――戒厳令は、さすがに一日で解除された。反発も強く、海外からも批判が高かったからである。しかし、ともかく、一度でも戒厳令が敷かれた、という事実は、大きかった。今日も、まだ軍用車が方々で目につく。
さすがに戦車までは出動しなかったのだが、いつでも動けるように待機していたという報道がなされていた。
久仁子は、ほとんど街角ごとに、銃を手にした兵士の姿を見ることができた。ちょうど東南アジアの都市のようだ。いつ果てるともなく抗争をくり返している国々。
日本も、今、ヨーロッパあたりから、そう見えるのだろうか?
「軍というものは|一《いっ》|旦《たん》動き出すと止まらないものなのだ」
久仁子の高校の教師が、いつか、そう言ったことがある。――もっとも、その教師は間もなく学校を去って行ったが。
こうして、ジープやトラック、兵士たちの姿を毎日見慣れてしまうと、そのうち、何も感じなくなってしまうのだろう。
「今日はどこへ行くんですか?」
と久仁子は運転している隊員に訊いた。
「出版社よ」
「出版社?」
「ほら、もう着いたわ」
ずいぶん古い、|薄《うす》|汚《よご》れたビルである。聞いたことのない出版社の看板が出ている。
ジープが並んで|停《とま》ると、三十人の隊員が|一《いっ》|斉《せい》にジープから降りる。
東昌子を先頭に、半数が中へ入り、半数は表に残った。久仁子は東昌子のすぐ後について中へ入って行った。
ゴミの山、とでも言いたいような事務所だった。――どういう出版社なのかは、一目で分った。
壁の至る所に|貼《は》ってあるヌードポスター。積み上げられているのは、カラーの写真集だ。いわゆるポルノ雑誌専門の出版社なのだ。
男性三、四人、女性が二人、ちょうど本と紙の山に埋れそうになって仕事をしていたが、東昌子を先頭にして、十数人の娘たちが入って来ると、|唖《あ》|然《ぜん》として、手を止めた。
「――何だい、あんたたちは?」
責任者らしい男がうるさそうに顔をしかめて立ち上った。
「すぐにここを出なさい」
と東昌子が言った。
「何だって?」
「全員、退去しなさい」
「おい! こっちは仕事中だ。遊びか何かのつもりなら――」
食ってかかりそうな男の|腕《うで》を、女子社員の一人がつかんだ。
「編集長! プロメテウスですよ」
「ん?――ああ、そうか貴様たちか」
男は一向にひるんだ様子もなく、「ガキのくせしやがって、ふざけた|真《ま》|似《ね》しやがる。こっちはな、これが商売なんだ、てめえらに文句を言われる筋合はねえぞ」
「あなたのような人間は社会の害虫です」
「何だと?」
「|恥《はじ》を知りなさい」
東昌子が拳銃を抜いて天井へ向けて発射した。社員たちが青くなって首をすぼめる。
「出て行きなさい!」
さすがに編集長らしい男も、青ざめていた。他の社員たちがペンを放り出して、次々に飛び出して行く。
編集長が一人、残った。
「待て……どうするんだ?」
「処分します」
「やめてくれ! みんながこれで生活してるんだぞ!」
東昌子の手にした拳銃が、編集長へと向いた。
久仁子は胸を締め上げられるような気がした。撃つ気だ!――が、編集長はドアに向って駆け出していた。
東昌子は、拳銃をホルスターへ戻した。
「始めなさい」
隊員たちが、次々に、その辺に積み上げられた写真集や、|原《げん》|稿《こう》、書類を運び出し始めた。久仁子も、何十冊か、|束《たば》ねて|紐《ひも》をかけたままの本を両手にさげて外へ出た。道路に、たちまち、本や書類が山をなす。
「もっと運び出して!」
東昌子の声が飛ぶ。――五人ほどを残して、全員が狭い事務室を|徹《てっ》|底《てい》的に空にして行く。写真のネガ、修正前の写真、ファイル、果ては古ぼけた|椅《い》|子《す》までが投げ出された。
「久仁子さん」
久仁子が、黒板を外していると、東昌子が入って来た。
「はい」
「射撃の練習をするといいわ」
東昌子が拳銃を抜いた。「さあ、あなたも抜いて」
「はい……」
久仁子はホルスターから拳銃を抜いた。
「安全装置を外して。――何でも構わないから、撃ちなさい」
東昌子が引金を引いた。電気スタンドが倒れる。久仁子は、真直ぐに手を伸ばして、部屋の|隅《すみ》のテーブルに置かれてあった、ポットや|茶《ちゃ》|碗《わん》を狙い撃った。|砕《くだ》けて飛び散るコップの破片。続いて旧式な電話、カセットレコーダー、TVを撃つと、ブラウン管が一瞬にして粉々に砕けた。
弾丸がなくなって、久仁子は体中で息をついた。
「どう、いい気分でしょう?」
東昌子が軽く微笑みながら言った。
「ええ……」
|喉《のど》が乾いて、拳銃を握った手は、じっとりと汗で|濡《ぬ》れていた。
表に出ると、道路を|塞《ふさ》ぐほどの量になった本や書類の山へ、隊員が石油をかけている。
「――今日は風もないし、ちょうどいいわ」
東昌子は、のんびりと空を見上げた。「ちょっとたき火には暑いかもしれないけどね」
人々が集まって来ていた。――遠巻きにして、この光景を眺めている。
「もういいわ」
と東昌子が声をかけた。「火をつけなさい」
隊員の一人が、ひねった紙にライターで火をつけ、本の山の上にと投げた。
|炎《ほのお》が一瞬のうちに広がって、|唸《うな》りを立てて吹き上げる。――久仁子はその熱気に押されて、思わず後ずさった。
ほとんどが紙ばかりである。燃え尽きるのに、そう時間はかからなかった。
東昌子は、その間中、一歩も動かずに、炎の熱気を、まるで快い潮風か何かのように浴び続けていた。額に汗がにじんでいたが、|拭《ぬぐ》おうともしなかった。
久仁子は、一種の|恍《こう》|惚《こつ》――|陶《とう》|酔《すい》するような表情が、東昌子の顔に浮んでいるのを、見たように思った。
やがて炎は|疲《つか》れて、弱り始めた。――サイレンが聞こえた。消防車が来たのだ。
「隊長」
と久仁子は声をかけてみた。「消防車ですよ」
「分ってるわ。さっき連絡させたのよ」
と東昌子は言って微笑んだ。「大火事を起こすのが仕事じゃないものね」
東昌子は、ゆっくりと、遠巻きにしている野次馬たちを眺め回した。
「じゃ、行きましょうか」
東昌子がジープの方へと歩き出す。隊員たちがそれに続いた。
全員がジープに乗り込むと、先頭の車に乗った東昌子が、
「行って」
と声をかけた。運転の隊員が、エンジンをかける。ジープの列が動き始めると、野次馬たちが一斉に道を開けた。
久仁子は、こっちを見ている人々の顔をじっと見返した。――|誰《だれ》も、まともに見つめては来ない。すぐに目を|伏《ふ》せてしまうのである。
|俺《おれ》はただ、見てるだけだよ。その顔は、そう言っていた。怒りもなく、苦痛もないようだ。ただ無感動な、疲れたような無関心だけが感じられた。
ふと、久仁子は、少し離れた道端で、カメラのシャッターを切っている女性に気付いた。いささか古めかしい一眼レフだ。
久仁子は、東昌子のわきに座っていた。もう一人の隊員が気付いたらしい。
「隊長。写真をとっています」
「放っておきなさい」
東昌子は興味なさそうに、言った。「宣伝してくれれば、こっちも行動しやすくなるわ」
|円谷恭子《つぶらやきょうこ》は、ジープの列が遠ざかって行くのを、しばらく見送っていた。
到着した消防車が、燃えかすに水をかけている。白い|煙《けむり》が、灰と共に立ち昇った。
見物人たちが、一人一人、散って行く。残ったのは、あの出版社の人間らしい、男女数人だけである。
|呆《ぼう》|然《ぜん》として、灰の山を眺めている。
消防士たちは、火を消し止めると、事情を聞くでもなく、早々に立ち去ってしまった。
円谷恭子は、残った人間たちの中で、年長の男性へ近付いて声をかけた。
「失礼します」
二度、呼びかけて、やっと男は|振《ふ》り向いた。
「何です?」
声には力がなかった。
「あなたの会社の出版物?」
「ああ、そうだよ。――そりゃ、自慢にもならねえピンク雑誌だったが、何もこんな真似しなくたって……」
「私、新聞社の者です」
と円谷恭子は言った。「お話を|伺《うかが》わせていただけませんか?」
「新聞?――記者さんかい」
「ええ。ちょうど行き合わせて。写真も|撮《と》りました。お話を聞かせて下さい」
「話すほどのことはねえよ。ただ突然|奴《やつ》らが入って来て、ピストルぶっ放して、めちゃめちゃにして行った。――それだけさ」
「仕事はもう――」
「やれっこないよ。また始めて、またやられちゃかなわねえものな」
「プロメテウスの人たち、ですね」
「ああ。――|噂《うわさ》にゃ聞いてたが、まさか俺の所へ来るとはね……。|裸《はだか》のどこが悪いんだ、|畜生《ちくしょう》!」
|吐《は》き捨てるように、男は言った。しかし、そこにはもう|怒《いか》りよりは、投げやりな調子しか聞き取れなかった。
円谷恭子は、礼を言ってその場を離れた。しばらく歩いて振り返ると、まだ誰一人動かずに、灰の山の前にたたずんでいるのが目に入った……。
家宅侵入、器物破損、拳銃不法所持、放火……。あれだけの無法がまかり通りながら、法治国家と言えるのだろうか?
プロメテウスの|処女《 おとめ》。――政府か、軍のバックアップしている組織だろう、と言われているが、真相はどうなのか。
恭子は、これを書かねば、と思った。写真もある。プロメテウスの横暴を告発することができれば……。
しかし、恭子とて、それがおそらく不可能であることは、承知していた。今の新聞にそれは許されなかった。
恭子はA新聞の記者である。日本でも最大の発行部数を|誇《ほこ》る大新聞だ。比較的インテリ好みでもあり、自動化、コンピューター化にも何とか即応して、面目を保って来た。
大新聞にしては、しばしば政府を批判する記事を|載《の》せていたし、政府もそれを差し止めようとはしなかった。
専門学校を出て、A新聞へ入ったとき、恭子は世の中の陰の部分を|描《えが》いてやろう、権力の裏側を暴いてやろう、という情熱に燃えていた。
ところが――恭子の理想は、三か月もしないうちに打ち砕かれることになる。
記事がこまごまとした事実の報道である限りは、デスクも喜んでそれを使ってくれた。かなり体当り的に取材して来る彼女の記事は面白く、好評だったからだ。
しかし、問題がひとたび政治批判へ及ぶと、彼女の原稿は握りつぶされた。抗議しても決して通らなかった。
そのうちに、恭子にも、分り始めた。今の新聞は|検《けん》|閲《えつ》こそされていないが、その代り、社内において検閲を受けているのだった。論説委員の中に、政府の要人と深いつながりのある人間が何人もいることも知った。リベラルなポーズで社説を書く人間が、実は一番保守的で、自己の保身のみしか考えていないことも分った。
他の新聞にあっても、事情は変らないに違いない、と恭子は思った。――恭子は記事にならないことを承知で、失われて行く自由を書き続けた。
そして、反政府運動のルポをしているときに、|依《よ》|田《だ》と知り合ったのである。二人は|互《たが》いが同じ種類の人間であることを知った。依田はテロにすら走りかねない男だったが、本来は優しい、|穏《おだ》やかな男だった。
恭子は彼にひかれた。|恋《こい》|人《びと》同士になって、恭子が依田の仕事を手伝いたいと言ったとき、初めて依田は首相暗殺の計画を打ちあけたのだった。
――その依田も死んだ。
恭子は、依田が死んだとき、自分も死んだのだと思っていた。命は、|惜《お》しくない。
そう思うと、何も|怖《こわ》くはなかった。
依田の死は、記事にはならなかった。警察が、極秘裏に処理したのだろう。テロリストなどというものが存在すること自体を、認めたくないのだ。
記者にも、隠された事実を暴こうなどという気はとっくに失せていた。大体、政治部の記者などはみんな肥満体をかかえて歩いている。広報室からの発表をそのまま電送してもらって記事を書くだけなので、会社から動く必要がないのである。
足で取材して回るのは、社会部の、それも若手の記者に限られていた。
恭子は、|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入ると、今見て来た事件を一気に記事に書き上げた。一時間待って、店へ入る前に、すぐ近くの写真屋へ出しておいたフィルムを受け取った。超高速の現像は自動的に行なわれるようになっている。
それをポケットへ入れると、恭子はカメラを肩から下げて、社へと戻った。
「――円谷君」
案の定、五分とたたないうちに恭子はデスクに呼ばれた。
「何でしょうか?」
「これは何だ?」
デスクは|渋面《じゅうめん》を作って、恭子の前に記事の原稿を投げ出した。
「記事です」
「それぐらい分っとる!」
デスクが大声で|怒《ど》|鳴《な》った。「君はクビになりたいのか?」
「別に――」
「それなら一人でクビになれ! 俺まで巻き添えにするな!」
恭子は何も言わなかった。――これでは絶望だ。
「なあ、いいか……」
デスクは少し声を柔らげて、「俺はついさっき、部長に言われて来たばかりなんだ。最近の記事は|偏《かたよ》りすぎる、と政府筋から苦情が来ている」
「どこがですか?」
「知るもんか。俺だって面白くはない。しかし、ここで無理をしてみろ、ここぞとばかり、向うはかみついて来る。そんな口実を与えては逆効果だ」
そうして自己規制して行くうちに、歯止めがなくなるんだ、と恭子は思った。踏みとどまるのは、早い方が楽なのだ。しかし、今、そんなことを言っても、どうにもならない……。
恭子は、席へ戻った。写真部から、さっきのフィルムを焼き付けた写真が届いていた。見ずに捨ててしまおうかと思ったが、思い直して封筒から出してみる。
大きく引き伸ばした写真で、燃え上る炎、それを眺めているプロメテウスの隊員たちの顔も一つ一つはっきりと|捉《とら》えられている。
何気なく眺めていた恭子は、ふとその一つに目を止めた。じっと目をこらして見る。
「まさか……」
|呟《つぶや》きが|洩《も》れた。恭子は他の写真を次々に見て行った。同じ顔を見付けると、拡大鏡でじっと見つめた。
「――間違いないわ」
恭子は、写真をゆっくりと机に置くと、そう呟いた。
|倉《くら》|田《た》|絹《きぬ》|子《こ》は、ショッピング用の電気自動車をガレージに入れると、買物の|袋《ふくろ》をかかえて|玄《げん》|関《かん》へ回った。
「あら、|鍵《かぎ》が……」
開いているのだ。確かかけて出たはずなのに……。
玄関へ入ると、|靴《くつ》が二足並んでいる。
「まあ|珍《めずら》しい」
一足は夫、倉田|宗《そう》|一《いち》|郎《ろう》のものだった。こんなに早く帰ることは珍しいのだ。もう一足は誰だろうか?
玄関を上って、居間の方から声がするので、買物の袋を一旦台所へ置いて、居間へ行こうとした。
「――奥さんのことも考えろ!」
激しい調子の声が|洩《も》れて来て、絹子は思わず足を止めた。
夫の声が、低く聞こえる。が内容は聞き取れない。絹子は、わざとスリッパの音をたてて歩いて行った。
「まあ|佐《さ》|々《さ》|木《き》さん、お珍しい」
「あ、奥さん。勝手にお邪魔してます」
倉田の旧友で、音楽評論家をしている佐々木が|会釈《えしゃく》した。倉田と同じ四十|歳《さい》のはずだが大分|老《ふ》けて見える。
倉田は飾り棚の前に立って、沈んだ面持ちをしていた。――気まずい空気が、ずっと前に|喫《す》ったタバコの|匂《にお》いのように、消えずに|漂《ただよ》っている。
「夕食をご一緒にいかが?」
と絹子は言った。
「いや、もう失礼しないと――」
佐々木は少し|慌《あわ》てた様子で、「いや、本当に約束があるので――どうも――」
口の中でブツブツ言いながら、せめてお茶でも、と引き止める絹子に|詫《わ》びつつ帰って行く。
「――どうしたの、あなた?」
居間へ|戻《もど》った絹子は、庭を|眺《なが》めている倉田に声をかけた。
「何でもない」
「でも、|喧《けん》|嘩《か》してたんでしょ?」
「音楽上の見解の相違さ」
と倉田は事もなげに言って、「腹が減ったよ。昼はリハーサルで抜いちまったんだ」
と大げさにため息をついた。
「ええ、それはすぐするけど……本当にいいの?」
「何でもない。心配するなよ」
倉田はソファに座ると、テーブルに置いてあった分厚い|楽《がく》|譜《ふ》を取り上げて開いた。
倉田宗一郎は若手の指揮者としては|随《ずい》|一《いち》の実力の持主とされている。指揮者の世界では四十代は「若手」なのだ。
世の中は変っているが、ベートーヴェンやブラームスが聞かれることは一向に変らない。倉田は古典派から後期ロマン派、現代音楽に至る広いレパートリーを持っていた。
三十代半ばにして、大衆的な人気を得ていたので、反感を持つ者も少なくなかったが、倉田の才能だけは誰しも疑うことができなかった。
絹子は夕食の仕度をしながら、さっき洩れ聞いた佐々木の、
「奥さんのことも考えろ」
という言葉が、くり返し耳に響いているのを聞いていた。
音楽上の論争だと夫は言ったが、それならあんな言葉が出るはずはない。何かまた問題が起きたのだろう。
もっとも、絹子は、夫のひき起こす問題には慣れっこになっている。そうでなくては、とても倉田の妻ではいられないのだ。
絹子は、やっと二十九になったばかりの若さだが、倉田と結婚してすでに七年がたっていた。子供はなく、夫も海外の演奏旅行で留守がちの日々だったが、特に不満はなかった。
芸術家の常として、倉田は感情の起伏が大きく、すぐカッとなる代りに、ものの五分もするとケロリとしている。好き|嫌《きら》いがはっきりしていて、それを隠しておくということができないので、ずいぶん不愉快な思いをする人間もいたはずである。
それでも、適当に愛想良くしておく、ということが、倉田にはできない。|嘘《うそ》のつけない男だった。それが音楽のことに関してとなるとさらに極端で、絶対に|妥協《だきょう》することがない。
そういう性格から来るトラブルは、年中行事だったから、絹子も、特に心配することもあるまい、と自分へ言い聞かせた。
しかし、たとえ旧友の佐々木といえども、気に入らないことがあれば怒鳴りつけて|叩《たた》き出すのが常の倉田が、今日はそれを抑えて、さり気なく|振《ふる》|舞《ま》っているところが、絹子にはむしろ気にかかっていたのである。
――夕食の間も、倉田はいつになく|黙《だま》りがちで、絹子の話もほとんど耳に入っていない様子だった。食事を終えると、
「散歩して来る」
と出て行ってしまう。
夕食を早く済ませてしまったので、表はまだ少し残照が息づいていた。
絹子が、食卓の片付けをして、食器洗い機に皿を並べていると電話が鳴った。
「はい倉田でございます」
「佐々木です。先ほどはどうも。――いらっしゃいますか?」
「今、ちょっと散歩に行くといって出ていきましたが」
「そうですか。では、また後で――」
「佐々木さん」
絹子は急いで言った。「何かありましたの? 教えて下さい。主人はあの通り、何も言わない人ですから」
佐々木はしばらく渋っていたが、絹子がくり返して頼むと、
「分りました。でも、私から聞いたということは秘密ですよ」
「お|約《やく》|束《そく》します」
「去年、例の大統領のコンサートの一件があってから、だいぶ圧力がかかっていたんです」
「圧力?」
「ええ。倉田君に、Nフィルの音楽|監《かん》|督《とく》を辞めさせろというわけなんです」
大統領のコンサートの一件というのは、去年、アメリカの大統領が来日した際、歓迎演奏会が行なわれることになり、その指揮を倉田が依頼されて、|蹴《け》ってしまった、という事件である。
イタリアの、というより、世界の楽壇の|巨匠《きょしょう》である指揮者アバドやピアニストのポリーニとも親しく、進歩派を自認して来た倉田としては、アメリカの大統領のために、スーザのマーチを振るなどということは、絶対に承服できなかったのだ。マスコミでもこの事件は大きく取り上げられた。
「そうだったんですか」
と絹子は言った。
「ともかく、Nフィルも文化庁の|援《えん》|助《じょ》を多少は受けていますからね、お役人は頭から湯気を立てて怒ったんです。しかし、何とかその件はおさまりました」
「それがまた……?」
「中堂|進《しん》|吾《ご》という爺さん、ご存知でしょう」
「この間、暗殺された方でしょう」
「ええ、殺されなくても、|棺《かん》|桶《おけ》に頭の|天《てっ》|辺《ぺん》以外は全部突っ込んでいたという老人でね、学者ったって大したことはなかったんです。新聞はごたいそうな大先生|扱《あつか》いですが、あれは首相の恩師だというんでそう書いているんですよ。――まあ、そんなことはいいんだが、これを国葬にしようということになったらしいんです」
「国葬に? でもあれは首相とか、そういう偉い人が……」
「テロで殺されたということもあるんでしょうね。今度の土曜日にやると決ったんですよ」
「それが主人と何か関係ありますの?」
「その会場で、倉田君にNフィルを振れというわけなんです」
絹子は一瞬言葉を失った。佐々木は続けて、
「明らかに意図的なものですよ。国の行事なんだから、もし必要ならN響を使えばいい。それをわざわざNフィルで、しかも倉田君に振れと言って来ているんです」
「主人はもちろん断ったんでしょうね」
「そりゃね。それで言い合ってたわけです。――奥さんだって、去年の事件の後はずいぶんいやがらせをされたでしょう。今度断ればそれじゃ済まない。間違いなく、倉田君はNフィルを追われます。たぶん日本の楽界から締め出されるでしょう」
絹子は受話器を|握《にぎ》り直した。
「で、結局どうなりましたの?」
「一応――何とか承知させようと思ってるんですがね。時代が悪い。|我《が》を通すのはいいが、彼だけでなく、奥さんにもどんな災いが|及《およ》ぶか分りませんから」
「でも、主人はきっとやりませんわ」
「奥さんからもおっしゃってもらえませんか。ほんのいっとき、馬鹿になっていてくれればいいんだ、と。何ならNフィルの連中によく言って、指揮棒を見ずにコンサートマスターを見て演奏するようにさせます。彼は棒を振る真似をするだけでいい。それで気が済むのなら」
「そんなごまかしは、主人の一番嫌いなことです。ご存知でしょう」
「ええ。しかし……|下《へ》|手《た》をすれば、倉田君は一生指揮台に立てなくなるかもしれませんよ」
「帰って来たら、よく話し合ってみますわ」
絹子は、受話器を置いた。――それから、しばらくして、倉田が戻って来た。
「ただいま」
「お帰りなさい。――あら、どうしたの?」
倉田はケーキの|箱《はこ》をぶら下げていた。
「買って来た。久しぶりだ。二人で食べよう」
「まあ珍しい。あなたがケーキなんて。じゃ、紅茶を|淹《い》れましょうか」
「ああ、頼むよ」
台所へ立って行った絹子の耳に、倉田が電話している声が聞こえて来た。
「――ああ、俺だ。――うん、やることにしたよ。――君のためだぜ。済んだら一杯おごってもらうよ」
絹子は、|目頭《めがしら》が熱くなって来るのを覚えて、急いで指で拭った。
「お電話してたの?」
ケーキと紅茶の|盆《ぼん》を手に入って行く。
「うん、佐々木の奴にね」
「何のご用?」
「いや別に、大したことじゃない」
と、倉田は言って、微笑んだ。
|久《く》|仁《に》|子《こ》は、手を伸ばして、ディジタル・オーディオ・ディスクの一枚を、プレイヤーへセットした。
直径十二センチの、銀色のレコードである。――久仁子は、少なくとも和室なら四十|畳《じょう》近い広さの自分の部屋一杯に|溢《あふ》れるような音で、クラシック音楽を聞くのが好きだった。
正面に置かれたJBLの4375から、突き抜けるような金管のファンファーレが鳴り渡った。グランカッサが部屋の空気を|揺《ゆ》さぶる。
じっと目を閉じて、|弦《げん》の|滑《なめ》らかな|艶《つや》ののった音、鮮やかに浮き上がる打楽器のきらめきに聞き入る。
このところ、チャイコフスキーを聞くことが多くなって来た。以前は、ごくたまにしか聞かなかったのに。――楽に聞いていられるのだ。|疲《つか》れているのだろうか。
重松から、あれきり連絡のないのも気にかかっていた。――どうしたのだろう? あの|真《ま》|面《じ》|目《め》人間と来たら、要領よく生きるなんてすべをまるで知らないのだから。
「兵器部門へ行って、ミサイルの|誘《ゆう》|導《どう》装置を作らされることになっても、仕事は仕事と割り切るよ。できるだけ性能の悪いのを作ってやる」
と笑っていた。久仁子も、
「発射した人の所へ戻って来るやつを設計したら?」
と言って、一緒に笑ったのだが。そんなことのできる重松なら、久仁子も心配しないのである。
ふと、音楽がピアニシモになって、電話が鳴っているのに気付いた。急いでレコードを一時停止させ、受話器を取る。
「やあ、何してるんだい?」
「まあ、あなたのこと、考えてたのよ」
「へえ、調子いいなあ」
「どう?――あれから電話もかかって来ないから、心配してたわ」
「うん、配置換えで引き継ぎや何か、|忙《いそが》しくてね。帰りがずっと夜中になってるもんだから。今日は珍しく早く帰って来たんだ」
「やっぱり……その通りになったの?」
「仕方ないよ」
と、重松はため息をついた。
「兵器部門に回されたの?」
「うん。――まだ何を担当させられるか分らないけどね」
「我慢して。そのうち、きっといいことがあるわ」
「速度計のメーター作りでもやらされりゃ気が楽なんだがね」
と、重松は言って、「どうだい、そのうち、二人でドライブにでも行かないか?」
「ええ、いいわよ」
と久仁子は言って、「お母さんと三人じゃどう?」
「お袋、連れて行くのかい?」
「だって、あなたがいないと一人ぼっちじゃないの。|寂《さび》しいでしょ」
「たまにはいいよ。泊ってさえ来なきゃ、何も言わないさ」
「分ったわ。でも、まだ予定は立たないんでしょ?」
「日曜日は休めると思うけどな」
「じゃ、私も空けとく。スケジュールを調整しなきゃ」
「どうしてそんなに忙しいのさ?」
「勉強ですよ、もちろん」
そう言って、久仁子は吹き出してしまった。
――あれなら、まず安心。久仁子は、チャイコフスキーの続きを聞きながら、ずいぶん気持が軽くなったのを感じていた。
少し、こっちも元気が戻ったようだ。マーラーでもかければ良かった。でも、そろそろお|風《ふ》|呂《ろ》へ入らないと……。
曲が終ったところで、久仁子は浴室へ行った。自分の部屋の中にある、専用の浴室だ。|浴《よく》|槽《そう》へ湯を入れていると、また電話が鳴っているのが聞こえた。浴室でも取れるが、今はやかましい。
重松君、何か言い忘れたのかな。
「はい、久仁子です」
「久仁子? 私、真知子よ」
「何だ、誰かと思った。この間はどうも」
久仁子は、急に真知子が声を|詰《つ》まらせたのにびっくりした。「どうしたの?」
「久仁子……ありがとう」
涙声になっている。
「何のこと? お父さんの――」
「仮釈放になるって、通知が来たの!」
「そう」
久仁子は我が事のように胸が|弾《はず》んだ。
「話してくれたのね、ありがとう!」
「ちょっと、ね。でも――そんなにお礼言われるほどのこと、しちゃいないわ」
「忘れないわ、このご恩は」
「やめてやめて。いやよ、そんな他人みたいな。――ともかくよかったわね。落ち着いたら、また電話ちょうだい。今の真知子じゃ、まともに話ができないわ」
「ええ……本当ね」
泣き笑いの声になって、「ともかくお礼が言いたくって。――本当にありがとう」
何度もくり返して、やっと電話は切れた。
よかった。本当によかった。
久仁子は|口《くち》|笛《ぶえ》の出る気分で浴室へ行った。お湯がほぼ半分まで入っている。鏡の前で、久仁子は服を脱いで行った。
それにしても、不思議といえば不思議だった。スパイ容疑の|囚人《しゅうじん》に、そう簡単に仮釈放が許されるのだろうか?
|鶴《つる》の一声。――おそらくは、滝首相の直接の裁断だろう。
それだけでも……プロメテウスへ入った価値はあったかもしれない。
久仁子は、|全《ぜん》|裸《ら》になって、浴槽に身を沈めた。
「――何を考えてるんだ?」
夫に声をかけられて、河合信子はふと我に返った。
「え? 何か言った?」
「眠ってたのかい?」
「そうじゃないわ」
信子は夫の顔へ手を触れた。「考えごとしてたのよ」
「他の男のこと?」
「違うわ」
信子はちょっと笑って、「明日のテストのことよ」
「やれやれ」
河合|安《やす》|彦《ひこ》は、笑い出した。「先生|稼業《かぎょう》ってのは、ベッドの中でまで、試験問題を作らなきゃならないのか」
二人は、裸で、ベッドに寄り添っていた。今夜、久しぶりに交わりを持ったばかりだった。
「ベッドで作るのは子供だけかと思ってた」
と河合は|冗談《じょうだん》めかして言った。
「ごめんなさい。色気がないのよ、私って」
「そんなことはない。充分さ。君のように、|堅《かた》い感じの女性を抱くのも、|却《かえ》って色っぽいもんだぜ」
「そうかしら」
「久しぶりだったものなあ」
河合は伸びをして言った。「もう、危い時期は過ぎたのかい?」
「ええ、たぶん」
と、信子は|曖《あい》|昧《まい》に言った。
「でも、信子」
河合は手を伸して、信子の|肩《かた》へ回した。「子供を作ったっていいじゃないか」
「ええ……」
信子は目をそらした。
「いやなのかい」
「まだ、今は……やらなきゃいけないことがあるのよ。それが済んだら……」
それが済んだら、私はもうこの世にはいない。粉々になって、吹っ飛んでいるだろう……。
「勝手言ってすみません」
「謝ることないさ。そういう条件で一緒になったんだからな」
河合は優しく言って、信子の裸身をまさぐった。「あれ、こんな所に傷があったかなあ?」
下腹部を探る手が止まった。信子はギクリとしたのを何とか隠して、
「ええ、そうよ。――|盲腸《もうちょう》の|跡《あと》。――気が付かなかったの?」
と、さり気なく言った。
「初めて気が付いたよ。今までもう少し下に気を取られすぎてたのかな」
「いやな人!」
信子は赤くなって、夫の鼻を指でつついてやった。
河合は、ごく|平《へい》|凡《ぼん》なサラリーマンだ。朝、七時半に家を出て、夜はたいてい七時までに帰宅する。だから、朝は、信子の方が後から家を出て、帰りは夫より早いことが多い。
教師は教師同士で結婚することが多いのは、昔も今も同じだが、信子は|敢《あ》えて、この平凡な、どこといって|取《と》り|柄《え》のない男を選んだのだった。
しかし、今、信子は、後悔していた。――|結《けっ》|婚《こん》するのではなかった、という思いに、責められていた。
それは河合がいやだったからでなく、逆に河合が、愛すべきお人好しで、信子が想像もしなかったほど、優しい男だったからである。
信子が結婚する決心をしたのは、死をもって、首相暗殺を決行しようと決意した後のことだった。
ちょうど母からうるさくすすめられて、結婚などする気もなしに見合いをしたのだが、依田から結婚した方がいいと言われたのである。当局の疑惑をそらすのに結婚は絶好の手段だ、というのだった。
それならば、と信子は思った。どうせ何か月もいられるわけではない。ひどい亭主でも、それくらいの間なら、何とか我慢できるだろう。そんな気持で、河合と結婚したのだった。
だが、困ったことに――というのも|妙《みょう》だが、河合は実にいい夫だった。
信子は、ほんの何か月かで、彼を残して死ななければならない。ましてや、首相を暗殺した犯人の夫として、河合までも、責任を問われないとも限らない。
それを思うと、申し訳ない気持になるのだった。
「シャワーを浴びて来るわ」
信子はベッドから出て、浴室へ行った。
シャワーを浴びる前に、信子は、鏡の前に立った。手で、そっと下腹部の手術の跡に触れてみる。
ここに〈死〉があるのだ。
夫に抱かれるのが怖かったので、今日まではあれこれ理由をつけて拒んで来た。しかし、全く苦痛や違和感はなかった。依田が心配していた拒否反応はないようだ。そういえば依田は無事だろうか?
依田と一緒にいた円谷恭子も、そして……。
熱いシャワーを浴びて、信子は、じっと目を閉じていた。
|滝《たき》首相の車は、完全に交通規制された道路を、国葬の会場である国立会館へと向っていた。
沿道は警官、機動隊、兵士が厳重に警戒していた。
「会場の方は大丈夫だろうな」
と、滝が言った。
「まず心配はありません」
|並《なら》んで座っているのは、滝よりも大分若い――四十そこそこだろう、ほっそりとして目立たない男である。
これが滝直属の秘密警察の長官峰川だった。一見そうは見えないところが、いかにも役職にふさわしい。
「この間死んだテロリスト……依田といったか」
「はい」
「何を|企《たくら》んでいたのか分ったか」
「残念ながらまだです」
「当人が死んでしまったのだ。危険はあるまい」
「そうとも限りません」
峰川は首を振った。「警戒するに越したことはありませんから」
「どんなに警戒しても、|完《かん》|璧《ぺき》ということはないよ」
と、滝は|愉《たの》しむように言った。「女房が私を|恨《うら》んでいて殺そうとしていたら、いくら秘密警察でも防ぎようがない。――死ぬことはそう恐ろしくはないよ。ただ、それで私のやりたいことが|挫《ざ》|折《せつ》するのが怖い」
「大丈夫です。首相はやりとげられますよ」
車の中の電話が鳴った。峰川がすぐに取った。
「――ああ、私だ。――そうか。――よし、その線を追ってみろ」
「何か分ったのか」
「依田はモテルで射殺されたのですが、その少し前に、近くのレストランで食事をしていたことが分りました」
「ふむ、それで?」
「女が二人、|一《いっ》|緒《しょ》だったそうです」
「二人か」
「一人はモテルに一緒にいた女でしょう。もう一人は先に車で出て行ったということですが……」
「女二人か」
「今、ウェイトレスを連れて来て、依田に近かった女の写真を見せています」
「|憶《おぼ》えているかな?」
「時間がたっていますから」
と峰川は首を振った。「しかし、全く絶望ということはありません」
車は、高速道路をおり始めた。――国立会館の銀色の屋根が陽光を反射して目を射た。
「あれは――」
峰川が、国立会館を固める警備の人垣の中の赤い点に目を止めた。「プロメテウスの娘たちですか?」
「そうだ」
峰川は少し間を置いて、
「あのグループを作られたのがどういうお考えからかは分っていますが、あまり表立って使うのはどういうものでしょうか」
と言った。
「君が私に意見するとは珍しい」
「いえ、決してそのような――」
と峰川はあわてて言った。
「分っている」
滝は|悠《ゆう》|然《ぜん》と笑った。「私なりの考えがあるのだ。心配するな」
「はい」
ロールスロイスは、警備陣の列の間を静かに滑るように走り抜けて行った。
久仁子は、どうにも落ち着かなかった。
今日の警備に、プロメテウスも加わるようにと、首相から連絡があったのは、昨日の夜だった。
もちろん首相から久仁子の所へ、直接連絡があったのではない。|東昌子《あずままさこ》から、夜中に久仁子へ電話が入ったのである。
朝六時、本部へ集合。
何しろ|朝《あさ》|寝《ね》|坊《ぼう》の久仁子としては|辛《つら》かったのだが、何とか眠い目をこすりつつ本部へ出た。
「プロメテウスが公の場に出るのは、これが初めてよ。みんな、充分に自覚して行動するように」
東昌子は、極力抑えてはいたが、かなり気持が|昂《こう》|揚《よう》している様子だった。
しかし、久仁子には、首相の意図が分りかねた。プロメテウスは、あくまで自主的に結成された組織という建前になっている。それを公式行事の警備に加えるというのは、どういうことなのか。
実際に、プロメテウスの隊員たちは、車が入って行く会館の門のすぐ手前――ここは、要人の出入りが多いので、車ごと建物の中へ入るように作られている――に、一番目立つ最前列に並ばせられた。
黒や灰色、それに|紺《こん》の警備陣の中で、真赤なブレザーのプロメテウスはいやが上にも目についた。
TVニュース、新聞社のカメラマンたちも、何時間も前からやって来て、撮る物もないのだろう、プロメテウスの隊員たちを、競ってカメラにおさめて行く。
久仁子は、できるだけ顔を伏せていたが、東昌子のすぐ近くにいたので、そううつむいているわけにもいかない。TVのニュースにでも出たら、重松がどう思うだろう……。
「首相の車です」
と、声がした。
あの、父の会社の地下で見たロールスロイスの化物が、なめらかに、地を|這《は》って来る。
あの重装甲は、銃弾はもちろんのこと、少々の爆薬などでは破れない、という評判だった。そんな車に乗りながら、この警備である。
車は、会館の中へと吸い込まれるように消えて行った。続いて、次々に|閣僚《かくりょう》の車が到着した。
後はほとんど切れ目なく、財界人や、文化人、大学関係者などがやって来る。それを眺めながら、久仁子はいい加減疲れて来た。
「久仁子さん」
東昌子に声をかけられて、久仁子はハッと背筋を伸ばした。
「はい」
「私と一緒に来て」
久仁子は、東昌子の後について、警備の列を離れた。何の用でも、ともかく、じっと立っていなくて済むのはありがたかった。
二人は、警備の機動隊の装甲自動車の並んだ間を抜けて、歩いて行く。かつて、大学に紛争のあった頃はせいぜい放水するぐらいだったが、今は格段に重装備になっている。
「どこへ行くんですか?」
と久仁子は|訊《き》いた。
「ちょっとね、あなたに|頼《たの》みたい仕事があるの」
「何でしょう?」
二人は、会館の通用口へやって来た。もちろん、ここも厳重に警戒態勢が取られている。
「ここから誰か忍び込んだらどうするんですか?」
と久仁子は中へ入りながら訊いた。
「心配ないわ。こっちからは舞台裏に出るようになっているんだから」
「舞台裏?」
「そう。ここを上るのよ」
東昌子は、先に立って、らせん階段を上って行く。
かなり長い階段で、久仁子は少し息が切れた。上り切ると、幅の広い通路が、真直ぐに伸びている。片側は壁、もう一方の側は、ガラス張りになっていた。
そこから|覗《のぞ》くと、広い会場が、眼下に一目で見渡せる。正面には、中堂進吾の馬鹿でかい写真。それも、かなり若い――といっても六十ぐらいか――写真である。
その前にステージが設けられ、オーケストラ用に、|椅《い》|子《す》と譜面台が並べられている。そして、約二千人収容する椅子席は、ほぼ三分の二が埋りつつあった。
「ここから|狙《ねら》ったらいちころね」
と東昌子は言った。「爆弾でも落とした方が早いかな」
「そうですね」
「でも、このガラスは特殊強化ガラスなの」
と、窓ガラスを|叩《たた》いて、「銃弾はとても歯が立たないし、爆弾にもまずびくともしないってことよ」
「|凄《すご》いですね。厚さ、二センチぐらいあるわ」
「ここでね、下の様子を見ていてほしいの」
「下の様子?」
「オーケストラが、ベートーヴェンの〈英雄〉の葬送行進曲をやることになっているの。指揮は、倉田宗一郎」
「まあ、そうなんですか」
「知ってる?」
「ええ、クラシックが好きなので、倉田宗一郎も聞いたことがあります」
「じゃ、顔、分る?」
「はい」
「よかった。実はね、倉田宗一郎を見ていてほしいの」
「なぜですか?」
「反政府分子の一人なのよ」
と、東昌子は言った。「もし、舞台へ出て、妙な素振りを見せたら、すぐにここを降りて、今通って来た通路を見張ってちょうだい」
「どうすればいいんですか?」
「あの舞台から|退《さ》がって来ると、この下の通用口から出ることになるの。逃げないように見張って。必要なら、通用口の外にいる警備員を呼びなさい」
「分りました」
まさか倉田宗一郎が逃げ出すようなことはあるまい。東昌子が階段を下へおりかける。久仁子は、
「隊長!」
と呼びかけた。
「なに?」
「もし――倉田が逃げようとしたら?」
「もちろん、|撃《う》って構わないわよ」
東昌子はそう言って、らせん階段を降りて行った。
「オーケストラが出ました」
会館の職員が、知らせに来た。
「分った」
楽屋の椅子に座って、倉田はコーヒーを飲んでいた。
佐々木が、どこか落ち着かない顔で、倉田を見ている。心配で、ここまでついて来たのである。
「君の方が舞台へ出るみたいだな」
倉田は笑って言った。――黒い|背《せ》|広《びろ》姿で、指に軽く指揮棒を|挟《はさ》んで持っている。
「ほんの二十分くらいだ。辛抱しろよ」
「しつこいな、君も。頭が|禿《は》げるぜ」
倉田は軽く笑った。
「行かなくていいのか?」
「音を合わせてる」
舞台の方から、オーボエのA音に合わせて、全楽器が鳴るのが聞こえて来た。
普通のコンサートとは|違《ちが》うから、音合せも、すぐに終った。
「さて、行くか」
倉田は立ち上って伸びをした。
「じゃあ――」
言いかけて、佐々木は言葉を切った。どう言っていいものか、分らないのである。
|頑《がん》|張《ば》れ、と言うのも変だし。――ともかく、早く終ってほしいのだ。
もちろんこういう席だから、|拍《はく》|手《しゅ》などはない。
倉田は指揮棒を手に、舞台へ進み出た。二千人近いだろう聴衆の中で、ベートーヴェンの分る人間がどれくらいいるのだろうか。
時代は変っても、政治家が音楽を好まないことは変らない。――今なお、オペラ劇場の建設が実現せずにいるのも、当然といえば当然だった。
指揮台へ向って歩きながら、チラリと客席の方へ目が行く。首相は少し後ろの列に座っていた。テロが怖いのだろうか? 全く、だらしのない話である。
倉田は指揮台に上った。オーケストラが、静かになって、一瞬、緊張が走る。
音楽にすら、音楽家は命をかけている。たかが、五線紙に書かれたドレミファのためにである。
倉田はオーケストラを見回した。誰もが彼の手にした指揮棒が上るのを、じっと待ち続けているのだ。
|巧《うま》くやれるだろうか?――倉田は、しかし、自分でも驚くほどに落ち着き払っているのが分っていた。そうなのだ。|俺《おれ》は指揮台の上に、自分の部屋を持っている……。
オーケストラの連中が、ちょっと不安そうな目つきになって来た。
倉田はいつも、あまり間を置かず、素早く音楽を始めるからだ。オーケストラのメンバーに、緊張する時間を与えないのが、実力を発揮させる一番の方法だと知っているのである。
今日は、少し間が空きすぎる……。
一つ息をついて、倉田は指揮棒を前へ突き出して止めた。弦のメンバーが弓を構える。これを振りおろせば、音楽は始まる。
べートーヴェン! エロイカの葬送行進曲だ。
佐々木が、ドキドキしながら、舞台の|袖《そで》で見守っているだろう。――許せよ、佐々木。絹子。
倉田は、指揮棒をゆっくりと横にして、両手でつかんだ。オーケストラのメンバーの顔に、けげんな表情が浮かぶ。
倉田は、しっかりと指揮棒の両端を握りしめたまま、二千人の、聴衆の方へと向いた。そして力をこめて、指揮棒を二つに折った。
どよめきが起こる。
「ベートーヴェンは――」
倉田の声は|震《ふる》えていなかった。「こんな人間のために葬送行進曲を作曲したのではありません」
倉田は折れた指揮棒を、足下へ放り出すと、指揮台を降りて、当り前の足取りで舞台の袖へと歩いて行った。
場内は騒然となった。
「――倉田! 何てことをしたんだ!」
佐々木が真っ青になっていた。「あんな真似をして、ただで済むと思ってるのか!」
「思っちゃいないよ」
「どうする気だ! 奥さんのことを考えてみろ!」
「女房は昨日ヨーロッパへ発たせた」
「何だって?」
「後から行く、と言ってある。しかし、たぶん二度と会えないだろうな」
「倉田……」
佐々木は今にも泣き出しそうだった。
「お前も早くオケの楽屋へ行け。俺と一緒にいたら、|逮《たい》|捕《ほ》の|巻《ま》き|添《ぞ》えを食うぞ」
佐々木は目を|潤《うる》ませていた。
「早く行け! 家族のことを考えろ!」
倉田の言葉に、佐々木は、|肯《うなず》いた。倉田の手を固く握りしめると、足早に立ち去って行く。
倉田は狭い階段を降りて、個室になっている|控室《ひかえしつ》へと戻った。
|総《すべ》ては終った。ゆっくりとソファに腰をおろす。
奇妙なほど、心は平静で、昂揚した気分にもなっていない。
別に難しいことをやりとげた、という気はしない。これで当り前なのだ。本当に良心のある音楽家なら……。
倉田はタバコをくわえて、火を|点《つ》けた。――まだ、逮捕に来ないのかな。事態を収拾するのに大変なのかもしれない。
最高の演奏をした後のような気分である。これは、俺の|生涯《しょうがい》最高の名演かもしれない。ドアが開いた。やっと来たか。射殺してくれても一向に構わないんだが。
「あなた」
倉田の口からタバコが落ちた。
「絹子!――どうしてここに……」
「飛行機には乗らなかったの。あなたが何をするつもりか、私に分らないと思って? ちゃんと私だけを逃がすつもりだと分っていたのよ」
「なぜ行かなかった!」
「あなたの妻よ、私は」
絹子は、立ち上った倉田の方へと真直ぐに進んで来た。「死ぬつもりでしょう」
「君が死ぬ必要はない!」
倉田は絹子の腕を握りしめた。「僕一人で充分だ!」
「あなたが音楽を奪われて、生きて行けないのと同じで、私もあなたを失ったら生きて行けないわ。あなたの真似をするからって、人のことを|怒《おこ》る権利はないでしょ」
倉田は絹子を抱き寄せた。
「――あなた。急がないと、逮捕しに来るわ」
「僕は一人で毒を|服《の》む気だった」
倉田は、ポケットから、小さなカプセルを取り出した。
「一人分しかないの? 冷たい人ね!」
絹子は笑って言った。ハンドバッグを開けると、小型の|拳銃《けんじゅう》を取り出す。
「おい、どこでそんなものを――」
「苦労して手に入れたのよ。高かったわ」
絹子はそれを彼の手に置いた。「|弾《だん》|丸《がん》は三発しか入っていないけど、充分でしょう」
「君を……撃つのか」
「秘密警察に逮捕されたら、どんなことになるか、考えて。こうした方がずっと楽よ。きっと殺されないまでも、一生精神病院入りでしょう」
「分った……」
倉田はその小さな拳銃を握りしめた。
ドアが開いた。二人は身を固くして、振り向いた。
久仁子は、指揮棒を折った倉田が、舞台の袖へ消えると同時に、階段を駆け降りて行った。
あんなことをして! 自殺するようなものだ!
通路を奥の方へと|辿《たど》って行く。初めてなので、どこに倉田が|戻《もど》って来るのか、分らなかった。
おそらく、秘密警察が動き出しているはずだが、今日はともかくマスコミの目が多い。これは全国にTVで中継されているのだから、報道を規制しようにも手遅れなのである。
この場で倉田を逮捕するのは難しいのではないか。むしろ、黙殺するような態度を見せておいて、ともかく二度と倉田を指揮台には立たせず、あらゆる手で|脅迫《きょうはく》して自殺へ追い込む、といったやり方を取るだろう、と思った。
部屋を捜しているとき、久仁子は足音を聞いて、物陰に身を隠した。
若い――といっても二十七、八の婦人だ。迷いのない足取りで、通路の奥へと進んで行く。久仁子は、その女性の後を|尾《つ》けて行った。
そして、話を総て耳にしてしまったのである。
「早く逃げて!」
ドアを開けた久仁子は言った。
「君は誰だ?」
倉田がいぶかしげに言った。
「あなたは――」
絹子が先に気付いた。「〈プロメテウスの処女〉の人でしょう」
「プロメテウス? そうか。しかし、それなら僕とは逆の立場の人間だろう」
「あなたが逃げないように見張れと言われました」
久仁子は急いで言った。「でも、私はあなたを尊敬しているんです。生きのびて下さい。何か方法はあります。今ならまだ出て行けます」
「いや」
と倉田は首を振って、「ここを出てどこへ行く? たとえ今逮捕されなくとも、同じことだ。この国から出られればともかく、それは不可能という他はない」
久仁子はそれに返す言葉はなかった。それはその通りだ。しかし――。
|廊《ろう》|下《か》に足音がした。一人ではない。少なくとも、五、六人の足音である。
「やって来たようだ」
倉田は言った。「君の気持はありがたいが、ここは二人にしておいてくれ」
久仁子は急いで廊下へ出てドアを閉めた。通路をやって来るのは、黒の背広の男たちだった。
「何をしている?」
先頭の男が鋭い声で訊いた。
「〈プロメテウスの処女〉の者です。隊長の命令で、逃走しないように監視に立っています」
「そこに倉田がいるんだな」
「そうです」
「よし、後は我々に任せろ」
「あの――でも、隊長の命令ですから」
「私は首相直属の護衛官だ」
と男は言った。もちろん秘密警察であることは、久仁子にも分っている。表向き、そうは言えないのだ。
「後は引き受ける。向うへ行っていたまえ」
「ここにいてはいけませんか」
「なぜだ?」
「隊長から命令を解除されませんと――」
鋭い銃声が|響《ひび》いた。
「おい!」
男があわてて久仁子を押しのけ、ドアを開けようとした。「鍵がかかっている」
拳銃で、鍵を撃って壊すと、ドアを蹴破った。
久仁子は、ソファに座って、妻の死体を|膝《ひざ》へ横たえた倉田を見た。倉田は、
「やあ諸君」
と一言言って微笑むと、自らのこめかみに当てた拳銃の引金を引いた。
「静かだな」
重松が言った。
「うん」
久仁子は、草の上に|仰《あお》|向《む》けに寝転んで、青空を見上げていた。しばらく見ているうちに、何か|平《へい》|衡《こう》感覚が狂って来て、自分が空へ浮き上がっているような気がして来る。
ドライブの途中で、ふと車を停めて、なだらかな、海を見下ろす斜面に、二人して寝転がっていた。
|爽《さわ》やかで、よく晴れ上った日だった。ドライブの約束は一週間のびていたが、そのせいか、青空はもう秋の気配で、風も乾いて|涼《すず》しかった。重松が言った。
「――何もかも忘れて、全部放り出して、どこかへ行っちまいたい」
「私のことも?」
「馬鹿だな、二人でだよ、もちろん」
と重松は笑って言った。
「そうね。そうできたら……」
人間は、いやが応でも、今生きている時代に|縛《しば》りつけられている。そこから脱け出すことはできないのだ。
「時々、考えることがあるんだ」
と重松は海の方へ目をやった。
「何を?」
「車に一人で乗ってさ、思い切りぶっとばして、|崖《がけ》から一気にダイビングするんだ。――それで何もかも解決できる」
「そんなの|卑怯《ひきょう》よ!」
久仁子が強い口調で言った。重松はびっくりして、
「考える、って言っただけさ、やりゃしないよ」
「考えるもんじゃないわ、そんなこと」
久仁子は少し|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》そうに口を|尖《とが》らして言った。
「そう怒るなよ」
「あなたにはお母さんがいるのよ。一人残して死ぬつもり?」
「君もいるしね」
「私?――そうね」
久仁子は呟くように言った。「これから、どうする?」
「これから、って?」
「これから、よ。――今日の予定」
「ああ、そうか」
「何だと思ったの?」
「何か、これから先の生き方を訊かれてるように聞こえたからさ」
「そんなの分らないわ。そうでしょ? こんな世の中だもの」
「そうだな……」
重松は空を見ながら、まるで暗い|淵《ふち》を覗き込んでいるような目をしていた。「どうしてこんな世の中になっちまったんだろう」
「急になったわけじゃないわ。少しずつ、少しずつ、このくらいなら、まだこの程度なら、と思ってるうちに、どうしようもないところまで来ちゃうのよ」
「そうだな。――でも、どうすりゃいい?」
久仁子は答えなかった。重松は続けて、
「この前の土曜日、あの指揮者のこと――憶えてるだろ」
久仁子は少し間を置いて、
「ええ」
と答えた。
「指揮棒を折ったのをね、僕はTVで見てた。勇気があるよな。――あの後、どうしたんだろう?」
「さあ……」
久仁子は首を振った。――倉田夫妻の自殺は公表されていない。
銃声を耳にした人間はいるかもしれないが、口にする者はいないだろう。みんな関り合いになりたくないのだ。
しかし、ああして、自分を|貫《つらぬ》いて死ねる人間は、まだいいのではないか。いや、倉田にしても、あの事件のために、オーケストラのメンバーや、責任者は、きっとかなりの苦境に立たされているに違いないのだが、それを考えずに死ねるのが、やはり、芸術家というものなのだろう。
「そんなこと考えてたら、ドライブに来た意味がないわよ」
と、久仁子は言った。
「それもそうだな」
重松はちょっと笑った。
「ともかく今日の予定を決めましょうよ」
「行き当りばったりでもいいじゃないか」
「時間は? 早く帰らなくていいの?」
「子供じゃないぜ」
「子供のくせに」
「何だ、こいつ」
重松は笑って指で久仁子の鼻をつついた。
「いやあね。低くなるじゃないの」
「どこかへ行きたいのかい?」
「そうね。――どこかのホテル」
重松が目を丸くした。
「冗談よせよ」
「冗談だと思ったら、ためしてみたら?」
と、久仁子は言った。
久仁子は少し体をずらして、重松の重みをそらした。
どれくらい時間がたったのか。――もう、夜になったのだろうか?
|薄《うす》|暗《ぐら》い部屋の中に、ディジタル時計の文字が緑色で浮き出ている。――やっと四時半か。では、まだしばらくは外も明るい。
重松は、|充《み》ち足りた表情で|眠《ねむ》っている。
久仁子が重松と初めて寝たのは、一年くらい前のことだ。しかし、押し流されて行くのが|怖《こわ》くて、それからはずっと|拒《こば》み通して来た。
重松にしてみれば、久仁子の気持が良く分らない、というところだったろう。久仁子にも、それなりに考えるところがあってのことだった。
重松の体の下から、そっと脱け出ると、重松はつっ伏したまま少し身動きして、また眠ってしまった。久仁子は、ベッドから出て、裸のままバスルームへ入って行った。
今は色々な薬も開発されていて、|妊《にん》|娠《しん》の心配はない。しかし、やはり体質的に受けつけない女性もいるので、中絶や|堕《だ》|胎《たい》も、全くなくなったわけではなかった。
だが、今のこの世の中を考えれば、子供を生みたいという気にはなれないだろう。もっともっと悪くなる――とはいっても、その方がいいという人間もあるわけである。
たとえば二宮|武《たけ》|哉《や》もその一人だ。
久仁子は熱いシャワーを出した。――久仁子にしても、重松以外の男とは寝たことがないのだから、久しぶりの|抱《ほう》|擁《よう》に、汗をかいていた。
「プロメテウスの処女か……」
シャワーで汗を流しながら、久仁子は、看板に|偽《いつわ》りありだわ、と思って笑った。もっとも、東昌子にしても、他の隊員にしても、その名にふさわしい娘はたぶん一人もいないだろうが。
この次に、重松に抱かれる日は来るだろうか?――久仁子は、|揺《ゆ》れ動く気持を、どうにも制御することができなかった。
総て分っていて、決心したのではなかったか。重松への|想《おも》いも、父との親子の|絆《きずな》も、友人も。あらゆる絆を断ち切る決心をしたはずだ。
それでいて、今、プロメテウスの隊員という、絶好の立場にありながら、なぜこんなことをしているのだろう?
久仁子は、下腹部の、今はもうほとんどめだたなくなった|傷《きず》|痕《あと》を、指でさすった。
「長官」
峰川は顔を上げた。腹心の部下の一人である|剣《けん》|持《もち》が立っている。三十五歳。見るからに、目の鋭い、|精《せい》|悍《かん》な男である。
「何だ?」
「今、警視庁から連絡がありました。モテルで依田と一緒にいた女の指紋が分ったそうです」
「|今《いま》|頃《ごろ》か。――ありがたいよ、全く」
峰川は鼻を鳴らした。「こっちを|厄《やっ》|介《かい》|者《もの》扱いしてやがる!」
「はっきりした指紋が一つもありませんでしたからね。流れた指紋を復元するのに手間取ったようです。後は至って容易です。コンピューターがはじき出してくれるわけですから」
優秀な男だが、冷静で、激するということがない。そこが峰川を時々|苛《いら》|立《だ》たせた。
「で、誰なんだ、女は?」
「|円谷恭子《つぶらやきょうこ》。A新聞の記者です」
「記者か。ふん、怪しいな、いかにも」
「どうしますか」
「どうするのが能率的かな」
と、峰川は椅子にもたれて、考え込んだ。
今は、十八歳のとき、国民全部が指紋を登録する制度になっている。かなり根強い反対はあったのだが、それは押し切られてしまった。
始まってしまうと|諦《あきら》めのいいのが日本人である。すでに実施されて八年。今はこの制度を問題視する者はいない。むしろ、犯罪の検挙率が上ったとして、評価する社説が新聞にのるほどなのである。
「他にも女がいました」
と、剣持が言った。「その女と接触するかもしれません」
「泳がせておくか。――それとも引っ張って来て聞き出すかだ」
「自白薬ですか」
「そうだ。|拷《ごう》|問《もん》より手っ取り早い」
強力な自白薬は、後に精神障害を|遺《のこ》すことがあり、使用を禁じられているが、秘密警察には禁じられていることなど何もない。そもそもが存在しないものなのだから、問題になることもないわけである。
「では、連行して来ますか」
「うむ……」
「もし自殺でもされると却って――」
「そいつだ。そこが難しいところだな」
「巧くやりますよ」
「ただ、新聞記者というのが、厄介だな」
「行方不明で済ませるわけにはいきませんからね」
「どうする。――剣持、お前の考えは?」
「素早くやることです。さらって来て、訊き出したら、すぐに事故[#「事故」に傍点]に|遭《あ》わせる。途中に時間があかないようにするべきです」
剣持の言葉は自信に|溢《あふ》れている。「A新聞にしても、記者一人の事故死など問題にしないでしょう」
「いや、そう甘く見てはいかん」
剣持の性急な発言が、却って峰川の慎重さを呼びさました。「我々はまだ表向き存在しないのだからな。それを忘れるな」
「はあ」
「もう一人の女以外にも接触している仲間がいるかもしれん。少し監視して様子を見てみよう」
「分りました」
剣持の表情には不服そうな色がありありと出ていた。
「このことを警察に気づかれないようにしろよ」
「承知しております」
剣持が、部屋を出て行く。峰川はタバコに火を|点《つ》けた。
首相|官《かん》|邸《てい》の地下。広大な図書室がある。これが秘密警察の本部なのである。
峰川も、肩書は首相の秘書、兼図書室長となっている。ここで働いている部下はせいぜい五、六人で、他の部下は都内のいくつかの場所に分散されていた。
警察庁では、もちろん秘密警察の存在を知っていたが、首相の警護や、公安関係の捜査などでは、|縄《なわ》|張《ば》り意識が強いせいか、しばしば両者は対立することがあった。
目下の峰川の不満は、秘密警察に独自の捜査局がないことで、そのために、円谷恭子の指紋を調べるのに、わざわざ警視庁に照会しなくてはならなかったのである。
「もう二、三年待て。必ず予算をつけてやる」
いつも滝首相はそう言っているのだが……。
「ごちそうさん」
円谷恭子はラーメン屋のレジにカードを出した。――全く、味気ないというのか、恭子がまだ子供の頃には、ごみごみした、小さな店が軒を並べる中の一軒だったのだが、今は、二十階建のビルの中に入っている。
小ぎれいにはなったが、ラーメンなんて、きれいな店で食べるものではないのだ。
「毎度どうも」
なじみの店の主人の声も、以前ほど元気がない。それはそうだろう。光の溢れるプロムナードの中だ。大声を張り上げる、という場所ではない。
恭子は、のんびりと歩き出した。――デスクが彼女をあまり使いたがらないので、このところ、|暇《ひま》なのである。
もちろん、いつまでも勤めていられるというわけではない。辞めてしまっても、と思うこともある。しかし、滝首相へ近付くには、記者という立場は大きなメリットがある。
なかなか機会はつかめないかもしれないが、焦ってはいけない。一度失敗したら終りである。やり直しはきかないのだ。
恭子が狙っているのは、首相が、誰か外国の元首を出迎えるときであった。それ以外、滝は用心深くて、決して無防備に人前へ出て来ようとはしないのである。
相手が外国の元首となれば、やはり大勢の関係者の間で出迎えることになる。それがおそらく唯一の機会だろう。もちろん、警戒は厳重を極めるだろうが……。
恭子は一人|暮《ぐら》しである。夕食も、自分のアパートに近い、この食堂街のどこかで済ませることにしていた。
それにしても――全く驚きだった。
あのプロメテウスの中に、あのとき、一緒に手術を受けた|娘《むすめ》の顔を見つけたときには、目を疑ったものである。新聞社へ流れて来る情報では、プロメテウスに入るのは、有力者の子女に限られる、ということだったから、よけいに驚いたのだ。
もし私が失敗しても、あの子がやってくれるかもしれない、と恭子は思っていた。
プロメテウスが、何の目的で作られたのかは、様々な|臆《おく》|測《そく》もあったが、はっきりしたところは、誰も知らなかった。しかし、ともかく、中堂進吾の国葬の警備に加わっていたことから考えて、おそらく、首相か政府に直結した何かを持っているはずだった。
あの娘は――恭子は名前も知らなかった――そのメンバーの一人なのだ。おそらく、首相に近づく機会も、恭子よりずっと多いだろうし、疑いを持たれることもあるまい。
少し、恭子は明るい気持になっていた。実際|奇妙《きみょう》なことだが、手術をして、すでに、生きていながら、半ば死んでいるとも言うべき状態で、恭子はずっと気が軽くなっていたのである。 恭子は、まだ人通りの絶えないプロムナードを歩いていた。
突然、
「待て!」
と叫ぶ声に、恭子は射すくめられた。振り向くと、走って来る男がいる。その後から警官が走って来る。
自分のことでないと分って、恭子はホッとしたが、走って来る男と危うくぶつかりそうになって、あわてて|傍《わき》へよけた。
「止れ! 撃つぞ!」
警官が拳銃を構えた。恭子は急いで床へ伏せた。――無茶だ! こんな人ごみで!
一発の銃声がプロムナードに響きわたった。
「キャーッ」
と悲鳴が起こって、歩いていた人々が次々に床へ伏せる。恭子は頭を上げた。
男は、一人、走り続けている。警官は両手に拳銃を握って、狙いを定めた。――撃たれる。
二発目の銃声と共に、男が数十センチ、飛び上るのが見えた。恭子は息を|呑《の》んで、血が飛び散るのを見つめていた。
――しばらく、誰も動かなかった。
警官が、|靴《くつ》|音《おと》をたてて、そばを通り過ぎて行くと、恭子は立ち上った。それにつられるように、他の通行人たちも立ち上り始めたが、恭子は、すでに一人の記者に戻っていた。バッグから、小型のマグネカメラを取り出す。
フィルムでなく、磁気板に記録するカメラだ。一枚のマットに百コマがおさまるので、報道用としては|重宝《ちょうほう》で、必ず持ち歩いているのだった。
男は一発で即死だった。最初の一発は、他の通行人への警告として天井へ向けて撃ったのだろう。
警官が、男の死を確かめている間に、恭子は、素早く、五回シャッターを切った。シャッター音がほとんど無音に近いので楽である。
最近は現場写真を|撮《と》るにも、警官がうるさい。これも、撮りたいと言えば、十中八九、許可されないだろう。
恭子はカメラをバッグへしまった。
警官が立ち上って、拳銃をホルスターへ納めた。
「あの……」
と声をかけると、警官が振り向いた。
「何だ?」
「何やったんですか、この人?」
「引ったくりだよ。ハンドバッグをね」
恭子は驚いた。
「それで射殺したんですか? 引ったくりで?」
「逃げるからだ。足を狙ったがね」
|嘘《うそ》だ、と恭子は思った。弾丸は、男の心臓を射抜いていた。明らかに殺す気で撃ったのだ。
「さあ、見せ物じゃない! 行って!」
警官が、遠巻きにしていた通行人たちへと|叫《さけ》んだ。みんなが、あわてて歩き出す。
警官の制服も、今は|紺《こん》のスマートなものになっているが、拳銃はずっと強力なものが使われている。警官が犯人を射殺するケースは、このところ目立って多くなっていた。
恭子も、あまりいつまでもそばにまつわりついていて、|怪《あや》しまれても困るので、振り返りながら歩き出したが、少し行って、ピタリと足を止めた。
男が撃たれた、その正面で、プロムナードはゆるくカーブしていて、その途中に、電話ボックスが並んでいる。
プラスチックのカプセル形をした、モダンな電話である。そのプラスチックの板に丸く開いた穴が、恭子の目に、飛び込んで来た。
|弾《だん》|痕《こん》だ! あの男を貫通した弾丸が、正面の電話ボックスに命中したのだ。
近付いて、恭子は息を呑んだ。受話器がぶら下がっている。そしてカプセルの底に、若い女性が倒れていた。
駆けつけて|扉《とびら》を開けると、恭子はその女性を抱き起こした。手にぬるっとねばりつくものがある。――血だ。
横腹へ弾丸が入ったらしい。
恭子は急いで手の血をハンカチで|拭《ぬぐ》うと、電話ボックスを飛び出した。構内用の電話があるはずだ。――あれだ! 〈救急用〉――〈救急用〉――この番号か。
ボタンを押す恭子の手が震えた。
「――これは|載《の》せてもいいなあ」
デスクは、恭子の記事に興味を示した。「現場写真も生々しい。――それに、巻き添えで負傷した女性のことも、書くべきだろうな。少し警察にも自重してほしいからな」
恭子は|嬉《うれ》しさとともに|憤《いきどお》りがこみ上げて来るのを抑えられなかった。
「あんな人ごみで発砲するなんて、無茶苦茶です。その女性は三か月の重傷ですよ」
「インタビューは取れんか?」
「昨夜はずっとついてましたが、意識不明のままでした」
「行ってみろ。しゃべれる状態なら、面会謝絶でも構わん。一言でいい、コメントを取ってこい」
「家族のもですね」
「|亭《てい》|主《しゅ》持ちか?」
「はい。昨日、かけつけて来て、一緒にいました。とてもいい人です」
「よし。その亭主の言葉も入れよう。子供は?――ないか。残念だな。今から作れないか」
デスクらしい無茶を、久しぶりに恭子は聞かされた。
病院へ行くと、恭子は、すでに勝手が分っているので、直接その女性の病室へ行った。――|高《たか》|橋《はし》|紀《のり》|子《こ》という二十八歳の女性だった。
病室へ来て、恭子は|戸《と》|惑《まど》った。名札が変っているのだ。
「すみません」
恭子は看護婦の一人をつかまえて、「ゆうべ、この病室へ入っていた高橋紀子さんという方は――」
「|交《こう》|替《たい》前だから調べないと……。ちょっと待って下さい」
恭子は、その看護婦について行った。各階ごとの受付へ行くと、コンピューターへ名前を打ち込む。
「そういう方は入院なさっていませんよ」
「そんな……」
恭子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。「昨夜、救急車で運ばれて来たんです。銃で撃たれて。間違いありません!」
「でも、記録がありませんもの」
恭子は、理解した。手違いなどではない。もみ消しだ。患者をどこかへ移して、記録を|抹消《まっしょう》したのだ。
恭子は公衆電話へと走った。カードを差し込み、彼女の夫の勤務先へと電話した。
「――販売一課の高橋さんを」
しばらくして、女性の声が答えた。
「外勤ですので、今外へ出ております」
「至急連絡したいんです」
「お待ち下さい」
しばらくして、その女性の声が、「車の方の機械の故障らしくて、連絡が取れません」
と、事務的に答え、一方的に電話は切れてしまった。
恭子は、|漠《ばく》|然《ぜん》とした不安に|捉《とら》えられた。
しばらくの間、病院の中を歩き回って調べたが、手がかりはつかめなかった。
やむを得ず、社へ電話を入れた。
「デスクですか。円谷です。実は……」
事情を説明すると、
「そうか」
デスクはそれほど意外そうでもなく、「おい、つい今しがたのニュースだが、車が一台、高速道路から転落した。運転していた男は即死だ」
「それが何か……」
「高橋という男だ。君が記事に書いたのと、ぴったり当てはまる」
恭子は声を上げそうになって、ハンカチをかみしめた。――殺されたのだ! おそらくは彼女の方も……。
「もういい。帰って来い」
デスクの声は、いつになく優しかった。
「はい」
恭子は低い声で答えた。「デスク」
「何だ?」
「記事は|没《ぼつ》ですね」
「現場の記事は載せるよ。それに、〈万一けが人が出たらどうするのか〉という文章は入れておく」
それが|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》なのだろう。
「ありがとうございます」
恭子は受話器を置いて、病院の出口へと歩き出した。
病院を出た所で、恭子は二人の男にいきなり|挟《はさ》まれ、|腕《うで》を取られた。
「何するんです!」
振り離そうとしたが、しっかりとつかまえられていて、動けない。
「警察だ。来てもらうぞ」
恭子は少し離れた車の方へと引張って行かれた。
逮捕されるのか、容疑は? おそらく、そんなものはあるまい。ここで待ち受けていた所を見ると、昨夜の事件について調べられるのだろうか?
口を塞ぐつもりだとしたら……。今はだめだ! そんなことをしてはいられない。大きな目標があるというのに。
「|偽《にせ》|刑《けい》|事《じ》ね! あんたたち!」
と恭子は大声を出した。
「静かにしろ!」
「助けて! 人殺し!」
さすがに道行く人が振り返る。一人があわてて車のドアを開けようとして恭子から離れた。恭子が、すかさずもう一人の手に思い切りかみついた。
力がゆるんだところで、力一杯突き飛ばす。恭子は走り出した。
「待て! おい!」
幸運だった。救急車出入口から、ちょうど救急車が出て来るところだったのだ。恭子は突っ走ってその鼻先を横切った。急ブレーキが鳴る。
追って来た刑事は、勢いがついていて足を止められなかった。救急車の車体へもろにぶつかって|倒《たお》れた。
恭子は走りに走った。――そして、タクシーを拾うと、飛び乗って、出まかせに行先を言った。
刑事たちはもう追っては来ない。恭子は、息を弾ませながら、座席に身を沈めて、目を閉じた。
「――どうした?」
峰川は、昼食の最中を呼び出されて、ふてくされ気味の顔でやって来た。
「まずいことになりました」
剣持が言った。「円谷恭子を見失いました」
「何だと! 何をしておったんだ!」
「尾行していた者の責任ではありません。尾行は|完《かん》|璧《ぺき》でした。警視庁の刑事が手を出したのです」
「何の容疑で?」
剣持が、昨夜からのいきさつを説明した。
「――彼女を連行しておどす気だったんでしょうか。へまな連中で、逃げられてしまったんです」
「|畜生《ちくしょう》! 何てことだ!」
峰川が机を力一杯叩いた。
「だから、早く引っ張って来ておくべきだったんです」
と、剣持が言った。
「今さら言っても始まらん」
「どうしますか」
「捜せ。女の行きそうな所を当らせろ。――警視庁の方は、おそらく罪名をつけられんだろうから、手配できまい。特に相手はまだ記者だからな」
「何とかこっちで押えましょう」
「そうしてくれ」
「分りました」
剣持が足早に去った。――峰川の机の電話が鳴った。
「滝だよ」
「首相、どうも……」
「実は、例の予算の件だがね、何とかなりそうだ」
「それはありがとうございます」
峰川の声がいきいきとして来た。
「ただ、秘密警察としてはやはり取りにくい。そこで新しく、護衛官という部署を作ろうと思う」
「人員をふやすのですか」
「いや、ほんの何人か、名目上、いればいいのだ。その費用を多めに計上して、そっちへ回す」
「結構です」
「一応、君の部下から何人か、そうだな、三人もあればいいと思う。その候補を出しておいてくれ。いないことには格好がつかんからな」
「分りました」
「あまり|下《した》っ|端《ぱ》や|駆《か》け|出《だ》しは困るぞ。一応多額の予算を食っても仕方ないという連中でなくてはな」
「かしこまりました。しかし、三人ぐらいでいいのですか」
「他からも出させる。SP、警察庁、それにプロメテウスからも出す」
「あんな小娘たちをですか?」
「予算のためには、少し派手にやらなくてはならん。あの子たちを使うのが一番効果的だよ。マスコミもそっちの方へばかり注目する。君の部下には目もくれんだろう」
「なるほど。分りました」
「悪いようにはしないよ。私を信じていたまえ」
首相の電話が切れると、峰川は、受話器をしばらく持ったまま、まるで、それが首相ででもあるかのように、|畏《い》|敬《けい》の|眼《まな》|差《ざ》しで|眺《なが》めていた。
第三章 |殉教者《じゅんきょうしゃ》たち
「気を付けてね」
子供を学校へ送り出す母親の言葉はどの家も似たようなものだ。
しかし、|古《ふる》|市《いち》家にあっては、これは切実な言葉なのである。毎朝、中学二年になる娘の|千《ち》|香《か》を送り出すとき、|美《み》|紀《き》|子《こ》は、一緒について行ってやりたい、という思いに駆られる。しかし、しっかり者の千香は、
「平気よ、そんなこと」
と口を|尖《とが》らして、「この|年《と》|齢《し》になって、母親|同《どう》|伴《はん》なんて、笑われちゃうわ」
と言うのだった。
美紀子の不安は、しかし、決して故なき取り越し苦労ではない。どちらかといえば、美紀子とて|呑《のん》|気《き》な性格であり、心配性、苦労性ではない。だからこそ、夫の古市|啓《ひろ》|也《や》ともうまくやって来た。何しろ古市は、一昔も二昔も前の作家のように、気むずかしい、神経質なタイプだったからだ。
古典的な、最近には珍しい「作家らしい作家」などと呼ばれることもある古市は、いかにもそれにふさわしく、愛人も作ったし、|失《しっ》|踪《そう》もしたし、自殺|未《み》|遂《すい》までやってのけた。しかし、美紀子は千香と共に、家に|頑《がん》として留まり、夫はどうせそのうち|戻《もど》って来るのだから、と、のんびり構えていた。――そして、それは正しかったのである。
六年前、病気で一度倒れてから、古市は|見《み》|違《ちが》えるように節制し、著作に打ち込むようになった。忘れられかけていた作家の復活として、世間の注目も集めた。
さらに千枚を越す大作が、二つの賞を受けて、古市の地位は確立された。
この、五年前なら別世界のように見えた高級住宅地に、|豪《ごう》|邸《てい》とは言えないまでも、庭つきの家を買い、生活も安定した。千香も中学からは名門と言われる私立に入れた。
美紀子も、ちょっとした名士夫人の気分を味わったのである。
だが、この|穏《おだ》やかな日々は、そう長く続かなかった。
千香を送り出して台所に戻った美紀子は、自分も簡単に朝食を済ませることにした。以前はミソ|汁《しる》やご飯でないと物足りなかったのだが、このモダンな造りのダイニングキッチンで食べるようになってからは、パン食が多くなった。
我ながらおかしくなるくらいだが、人間というのは、環境にずいぶんと左右される動物らしい。
トーストを焼いて、千香流にアメリカンコーヒーを|淹《い》れて飲む。慣れてしまうと、これもあっさりして、胃にもたれず、悪くない。
スリッパの音がして、美紀子はびっくりして|振《ふ》り向いた。
「あなた!――どうしたの?」
古市啓也は、|冴《さ》えない顔つきで、|顎《あご》のあたりを、のびたひげで薄黒くしながら入って来た。美紀子が選んで来た、英国製の薄手のカーディガンを着ていたが、やはり、美紀子がどうひいき目に見ても、似合わなかった。
しかし、古市自身、着る物などにはまるで|無頓着《むとんじゃく》であり、妻が出していた物なら女物だって着てしまうほど――これは千香が父親をからかって言ったのだが――なのである。
「コーヒーあるか」
無理に|絞《しぼ》り出すような声だった。
「眠らなかったの?」
「うん」
古市は椅子を引いて、ドシンと腰を落とした。美紀子は不安げに夫を見ながら、
「体を|壊《こわ》すわよ、眠らないと。――そんなに仕事が詰まってるの?」
「新聞の|連《れん》|載《さい》は穴をあけるわけにいかないよ」
美紀子は少し間を置いて、言った。
「しばらく休載させてもらったら? 充分に貯金もあるし。――少し、旅行でもして」
「こんなときにか? だめだ」
古市は首を振った。「|一《いっ》|旦《たん》休めば、もう、あの続きは書けない」
美紀子は黙って、古市のカップにコーヒーを|注《つ》いだ。古市は時計を見て、
「千香はもう行ったのか」
と|訊《き》いた。
「ええ」
「このところ……何もないのか?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》なようよ。お|友《とも》|達《だち》と行くようにしてるし」
「そうか」
古市は頭を振った。
「少し眠らないと。――もう原稿はできたの?」
「うん」
「じゃ、すぐに送ったら? 私がやっておく?」
古市はちょっと迷ったが、
「いや、|俺《おれ》がやる。担当者とも話しておきたいし」
オートバイが、毎日原稿を取りに来たのは昔の話で、今は、電話回線を使ったファクシミリを使う。――古市のような、古くからの作家は、何となく違和感を覚える。原稿を確かに手渡したという|手《て》|応《ごた》えがないのである。
電話が鳴った。美紀子が立ち上る。
「|誰《だれ》かしら……」
古市家には二本の電話が引いてある。一本は古市の仕事部屋、もう一本は|居《い》|間《ま》の方だ。電話帳に出しているのは仕事部屋の方だけで、居間の電話は、特に親しい友人など、ごく限られた人間にしか番号を教えていなかった。鳴り出したのは居間の方の電話だった。
「はい、古市です」
と、美紀子は気楽な口調で言った。ここにかけて来るのは、気の張らない相手しかいないからだ。
「もしもし」
若く、きびきびした男性の声だった。誰だろう? 美紀子には思い当らない。
「どちら様ですか」
「僕はご主人を殺します」
「何です?」
「ご主人は日本人として、愛国心に欠け、共産国の利益のために働く非国民です」
「あなたは?」
「僕は日本人です」
まるで演説でもしているような、|誇《ほこ》り高い口調である。「古市啓也を殺すのが、僕の義務です」
電話が切れた。
「――どうした?」
古市がやって来た。
「|脅迫《きょうはく》よ。あなたを殺す、って……」
「いつものことじゃないか」
と、古市は苦笑した。「放っとけ。相手になるな」
古市が二階の仕事部屋へ行こうと階段の方へ歩きかけると、
「でも、あなた」
と、美紀子が追って来た。「こっちの電話にかかったのよ。――誰も知らないはずなのに」
「そうか」
古市も初めてそれに気付いた様子だった。
「しかし……不思議はないさ。調べる気になれば簡単だ。連中[#「連中」に傍点]にはバックがある」
「そんなこと言ってて大丈夫? 千香のこともあるし……」
古市はちょっと妻の目を避けるように、目を|伏《ふ》せた。
「あいつはしっかりしてる。大丈夫さ……」
半ば自分に言い聞かせるように言って、古市は階段を上って行った。
美紀子は、ダイニングへ戻ると、朝食の片付けを始めたが、どうにも落ち着かなかった。
古市は決して政治的な人間ではない。それでも、不道徳だと非難されることもあったし、わいせつ視されて、警察ににらまれる、ということもあった。
それにしても、ここ一年ほど、脅迫やいやがらせの手紙、電話の数の多いことは、美紀子を不安にさせた。もちろん、大部分はそれだけで終るものだったが、石を投げ込まれてガラスが割れたことがあったし、犬の|死《し》|骸《がい》が|玄《げん》|関《かん》へ放り込まれたこともある。
古市は、色々と無茶をやって来ているから、それに|怯《おび》えるようなことはなかったが、妻や娘の身はやはり案じていた。美紀子にも夫が気を|遣《つか》っているのはよく分る。しかし、何しろ、二十四時間、警戒しているというわけにはいかない。一応、近くの警察へ、話はしてあるのだが。
いつもなら、食器洗い機を使うのだが、今日は手で洗うことにした。何かしている方が、不安が|紛《まぎ》れるのである。
さっきの電話が、気になった。公表していない方の番号へかかって来たのは、向うが、かなり古市家のことに精通しているということを示している。そして、あのてきぱきとした、軍隊風の口調。
今までの脅迫電話とは、どこか違っていた。それは美紀子の勘に過ぎなかったが、明らかに違っていた……。
後で、夫によく注意しておこう、と美紀子は思った。今はだめだ。もう眠っていることだろう。――後で、起きて来てからでいい。
「あ――」
と思わず声を上げた。
コーヒーカップが一つ、洗剤をつけた手から|滑《すべ》り落ちて、流しに|砕《くだ》けた。それほどの勢いでもなかったのだが、当り方が悪かったのか、みごとに――というのも変だが――砕けてしまった。
美紀子は、しばらくその破片を拾おうともせずに、じっと見つめていた……。
足音がして、振り向くと、古市が、薄いコートをはおって降りて来る。
「あなた、どこかに出かけるの?」
「うん。ちょっと約束を忘れていたんだ」
と、玄関へ急いだ。
「でも、原稿は送ったんでしょ?」
と、夫の後を追って、玄関へ。
「それとは違う話だ」
古市は|苛《いら》|々《いら》とした口調で言うと、靴に足を無理やりねじ込んだ。「行って来る」
言い終ったときには、もう、古市は外へ出ていた。――美紀子は、しばらくその場に突っ立ったままだった。
仕事の話で、編集者等と会うのなら、あんなにあわてて出ては行かない。たとえ約束に一時間遅れていても、のんびりと出かけて行く。それに、たいていは、編集者が、ここへ訪ねて来るから、古市が出向くことは、|滅《めっ》|多《た》にないのである。
一体どこへ出かけたのだろう?――美紀子が、玄関から動かずにいると、二階の夫の仕事部屋で電話が鳴っているのが、聞こえて来た。
下の廊下の電話でも取れるようになっている。急いで出ると、
「S学園です」
千香の通っている私立中学からである。
「古市千香さんのお母様ですね」
と、事務的な口調が伝わって来る。「少々お待ち下さい」
少し間を置いて、
「お母様ですか? 担任の|八《や》|木《ぎ》です」
と、中年の、穏やかな女性の声になる。
「古市です。娘がどうも――」
「実は今日、学校へみえていないのです」
「いつも通りに出ましたが……」
美紀子は、一瞬声が|震《ふる》えた。
「それで、いつも一緒に来る|植《うえ》|草《くさ》さんに、訊いてみたのですが、どうも怯えていて、様子がおかしいのです」
「何か……あったんでしょうか」
「別室でよく訊いてみました。実は……」
と、教師は声を少し低くした。
その朝も、千香は、いつも通り、植草|知《とも》|美《み》の家へ寄った。知美とは小学校のとき、同級だったことがあり、そのときは格別親しかったわけではないのだが、S学園中学で再会し、家も近所ということで、たちまち恋人同士でもこうはいくまいという親友になったのである。
「お待たせ!」
と、植草知美が|弾《はず》むような足取りで出て来る。
二人は、地下鉄の駅へと歩き出した。
私立校の制服は、一時ほとんど|廃《はい》|止《し》されかけていたのだが、ここ数年、復活する所が多くなっていた。S学園では、|旧態依然《きゅうたいいぜん》の制服を、紺のブレザーに改めて、スカートや靴は自由ということになっていた。もちろん|鞄《かばん》などは持たない。手にしているのは、小さなファッションバッグで、中には、電卓やマイクロカセットのレコーダーがおさまっている。
「――何か心配ごと?」
と、知美が歩きながら訊いた。
「お父さんのことが、ね」
と、千香は言った。
「何かあったの?」
「このところ、脅迫も多いし、万一のことを考えてるみたい」
「まさか! 大丈夫よ」
「たぶん、ね」
と、千香は|肯《うなず》いた。「でも……テロまでは防げないわ。首相と違って、SPがつくわけでもなし」
知美が、じっと千香の顔を見て、
「そんなに危いの?」
「お父さんはその|覚《かく》|悟《ご》ができてると思うの。でもね、問題は私やお母さん」
「千香が?」
「私たちにもし何かあったら、と思って、それでろくろく眠れないみたいなの」
知美は何とも言いようがない様子で、肯いた。千香は腕時計を見た。
「急ごう。間に合わないわ、五十分の電車に」
二人は少し足を早めた。――高級住宅地のせいか、|却《かえ》ってこんなに早く出かける人は少ないようだ。あまり他に人影はなかった。
エンジンの音がした。最近の車にしてはうるさい。千香は振り返った。
「知美――」
「え?」
振り向いた知美は目を見張った。「プロメテウスじゃないの」
赤いブレザーの制服が、燃えるように|鮮《あざ》やかだった。ジープ二台に、三人ずつが分乗している。千香と知美は、道のわきに寄った。
ジープの、先に走っていた一台が、スピードを上げて二人を追い抜くと、ブレーキをきしませて、横を向いて停止した。背後でも同じ音がした。千香と知美は前後をジープで|遮《さえぎ》られる形になった。
「千香……」
知美が青ざめて千香の手を握りしめた。
プロメテウスの隊員たちが降りて、二人のほうへやって来た。
一番年長らしい、長い髪の隊員が、千香を真直ぐに|貫《つらぬ》くような目で見つめた。
「古市千香さんね」
思いがけず優しい声だった。
「そうです」
千香は、精一杯しっかりした声で答えた。
「一緒に来てちょうだい」
「学校へ行かなくちゃならないんです」
と千香は言った。
目にも止まらぬ勢いで、隊員の平手打ちが飛んだ。千香は投げ出されるように倒れた。
「千香!」
知美がかがみ込もうとするより早く、他の隊員たちが駆け寄って来ると、半ば気を失っている千香をかかえ上げるようにして立たせ、ジープの方へ運んで行った。
「千香をどうするの!」
追おうとする知美の足を、長い髪の隊員がそのブーツの先で引っかけた。知美が前のめりに倒れる。
知美は、顔を上げた。じっと見下ろしている、冷たい目に出会って、身震いした。
「このことは誰にも言わないように」
と、その隊員は言って、ブーツの先で、知美の|頬《ほお》を|叩《たた》いた。「――分った?」
知美は泣き出しそうになりながら肯いた。
「いい子ね」
と、その隊員は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
知美は、そのまま顔を伏せてすすり泣いた。ジープの音が、遠ざかっていった。
「お早うございます」
久仁子は、東昌子の前に出て、真直ぐに立った。プロメテウスに敬礼はない。東昌子に言わせれば、
「私たちはSSとは違うんだからね」
ということだった。SS。ヒットラーのナチスドイツに組織されていた親衛隊のことである。
新聞や雑誌には出ないが、プロメテウスを、かつての親衛隊と関連づけて見る者があることを、東昌子も知っていたのだ。
「お早う」
東昌子は机についたまま顔を上げて肯いた。
「今朝は――任務があったんでしょうか」
「あなたはいいのよ」
「そうですか。忘れたのかと思って……」
久仁子はホッと息をついた。
「後で仕事があるわ。待っていて」
「はい」
久仁子は隊長室を出て、このマンションの居間に当る部屋へ行った。隊員の|休憩室《きゅうけいしつ》になっていて、命令を待つ間、ここで|寛《くつろ》ぐことが許されている。
久仁子はいつもかなり早目に本部へやって来る。ところが今朝は、自分より先に、七、八人の隊員が出て来ているのが、表示板で分ったので、気になっていたのである。
「お早うございます」
一番新しい隊員の|長《おさ》|田《だ》|加《か》|奈《な》|子《こ》が、カウンターの向うで頭を下げた。
「お早う」
久仁子は、休憩室の中を見回した。「まだ誰も来てないのね。――先に来た|松《まつ》|井《い》さんたちは?」
「私が来る前に出かけられたみたいです」
と加奈子は言った。「コーヒー、飲みますか?」
「ええ、お願い」
久仁子は革ばりのソファに腰をおろした。
久仁子が、プロメテウスの隊員になって、二か月が過ぎていた。隊員の数も若干、増えていた。加奈子は十七歳という若さである。もちろん、大企業の社長の娘であり、いわば滝首相への忠誠の|証《あかし》――人質として隊員に加わった点は、他の者たちと同じである。
「ありがとう」
久仁子は、コーヒーカップを受け取ると、「松井さんたち、どこへ行ったか、知ってる?」
と訊いた。
「いいえ、全然聞いていません」
「そう」
――久仁子が入ってから、特に、中堂進吾の国葬の警備に加わってからは、プロメテウスの存在は広く知られるようになっていた。
それが滝の|狙《ねら》いだったのかどうか、マスコミがプロメテウスを、単に話題として|捉《とら》える限りでは、報道は全く規制されなかった。もちろん、批判的な言説が活字になることはなかったが、隊員たちの活動は、ほとんどの場合、TVや新聞社のカメラにさらされることになった。
これは久仁子には|辛《つら》いことだった。当然、その写真やニュースのビデオは、重松の目に止まるに違いなかったからである。
事実、ドライブに行って、ホテルで愛し合って以来、久仁子は一度も重松と会っていない。電話をかけてみても、会社の方は、兵器部門の人間には電話をつながないことになっているらしいし、自宅にかければ、忙しくてまだ帰りませんが、と母親が申し訳なさそうに答えた。
もう重松は知っているのかもしれない、と久仁子は思った。だから、わざと避けているのではないか。そう思うと、しつこく電話もかけられなかった……。
滝の話では、あくまで大学生という立場でプロメテウスに加わってくれればいい、ということだったが、もう久仁子は大学にも通っていなかった。――久仁子がプロメテウスの隊員であることはたちまちのうちに知れ渡って、大学に行っても、誰も久仁子に近付こうとしない。楽しげに話をしているグループに話しかけようと歩いて行くと、たちまち向うは|黙《だま》り込んでどこかへ行ってしまうのだ。
久仁子にとっては辛かったが、しかし、それはある意味で健全な反応でもあった。誰でも、言葉遣い一つにも気を付けなくてはいけないような相手と、友人でいたくはないだろうから。
こうして、ごく自然に、久仁子は大学を休学したような形になり、毎日、この本部へ出て来るようになった。他の隊員たちも似たようなものらしかった。
制服姿で街を歩くと、誰もがあわてて避けて行く。目が合わないように、うつむいて通り過ぎて行くのだ。――それは不思議な気分だった。
単に|嫌《きら》われているというだけでなく、恐れられている、と意識することは、奇妙に|自虐《じぎゃく》的な快感を与えた。久仁子ですら、それを感じた。他の隊員たちは、なおさらだろう。――時々、久仁子はふっと恐ろしくなることがあった。
休憩室のドアが開いて、松井|澄《すみ》|代《よ》が入って来た。久仁子はカップを置いて立ち上った。
長い髪を肩へ垂らした松井澄代は、東昌子に次ぐ、副隊長の地位にある。おそらく生来が|傲《ごう》|慢《まん》な性格なのだろうが、それが「力」を握っているのだから、その結果は当然想像がつくというものだ。|過《か》|酷《こく》なことでは、隊長の東昌子にすらたしなめられることがあるほどだった。
「あの人はやりすぎる……」
と、東昌子が|呟《つぶや》くのを、久仁子は聞いたことがあった。
「二宮さん、ちょっと隊長室へ来て」
と松井澄代が言った。
「はい」
久仁子は、あまり気が進まなかったが、従わないわけには行かない。松井澄代の後について隊長室に入る。――久仁子は、その場に立ちすくんだ。
一人の少女が――おそらく、十四、五歳というところだろう。部屋の中央に立っていた。裸だった。全裸で、打ち震えるように、細かく身震いしながら、立っていた。
|円谷恭子《つぶらやきょうこ》は、誰かの手で|揺《ゆ》さぶられて、目を開けた。視界が、まだかすんでいる。
「おい、こんな所で寝て、どうしたんだ?」
男の声。――焦点が定まると、警官の制服が、|覆《おお》いかぶさるように立っていた。
恭子は|弾《はじ》かれたように起き上った。
「酔っ払ったのかい?」
警官は笑いながら言った。一瞬のうちに、恭子は自分の立場を思い出していた。
そうだ。ここは公園の中の、休憩所だった。昨夜、疲れ切ってここで横になり、ほんの二、三時間の仮眠のつもりで、眠り込んでしまった……。
「すみません」
素早く、恭子は、笑顔を作った。珍しく、気のいい警官らしい。全く気付いていないようだ。
「まあ、いい季節だからね」
と警官も笑った。「冬なら|凍《こご》え死ぬよ」
「ええ。つい眠り込んじゃって」
と、恭子は頭をかいた。髪を自分で短く切っておいたのが、よかったらしい。
女は髪型で大きく印象が変る。警官は、今、自分が揺り起こしたのが、全国に指名手配されているテロリストの一味とは、全く思ってもみない様子である。
「いやだ、もう遅刻だわ」
と、恭子はわざと大きくため息をついた。
「じゃ、早く行くんだね」
「どうも、すみませんでした」
と、恭子はピョコンと頭を下げて歩き出した。足が少し小刻みに震えていたが、怪しまれることはあるまい。
しばらく歩いて、振り返ってみた。もう、警官の姿はない。恭子は、額の|汗《あせ》を、そっと|拭《ぬぐ》った。
「危い、危い……」
と、呟く。あの警官がウッカリ屋でなかったら、今頃は両手が金属の冷たい|腕《うで》|環《わ》でつながれているだろう。
恭子は公園を出ると、どこへ行こうかと思案しながら、歩き始めた。もう、周囲の視線はあまり気にならなかった。――気にするだけむだだと分っていたからだ。
指名手配されてからの逃亡生活は、すでに二週間になる。――予想しているべきだった。あのモテルの部屋から、当然、自分の指紋が出ているはずである。
ただ、それにしては、手配されるのが遅かった。もちろん、遅くて幸いだったのだから、文句を言う筋合ではないのだが。
もちろん、新聞社は|即《そく》|時《じ》|解《かい》|雇《こ》されているし、かくまってくれるような友人、知人も思いつかない。いや、頼めばかくまってくれるかもしれないのだが、それでは相手に|迷《めい》|惑《わく》がかかる。無縁の友人たちを、同罪にしたくはなかった。
だが、恭子は、あてが全くなく逃亡していたわけではない。目的はすでに決っている。アメリカから、副大統領のハリソンがやって来るのだ。滝が、当然空港へ出向く。それが|唯《ゆい》|一《いつ》の機会である。
もちろん、恭子の顔は知られているし、警戒厳重を極める空港へ入り込むのも至難の技に違いないが、ともかくやってみなければ。――このままでは、むだに捕えられて、終りだ。
それだけではない。一緒に手術を受けた二人のことも、しゃべらされてしまうだろう。いくら黙秘するつもりでも、今は自白薬がある。公式には使用が禁じられているが、今の警察が、特に公安関係の逮捕者に、遠慮などするはずがない。
もし、捕まりそうになったら、何としても死んでしまわなくてはならない。その方法が、悩みの種だった。昔のスパイのように、口の中に青酸カリを|含《ふく》んでおくというわけにはいかないのだ。
一応、恭子もバッグの中に、ナイフを持ち歩いている。しかし、刑事に不意を襲われたら、そんなものを出している暇はあるまい。――何か、手を考えなくてはなるまい。
ふと、足を止めた。いつの間にか、どこか見慣れた場所を歩いていた。どこだろう?
「恭子!」
と呼ぶ声にギクリとする。「――恭子」
振り返ると、|懐《なつか》しい顔があった。
「|岡《おか》|谷《や》さん……」
白ワイシャツにネクタイ姿の、見るからに若々しいビジネスマンが駆け寄って来る。
「やっぱりそうか。君じゃないかと思った」
と息を弾ませた。
「あなたは……どうして分ったの?」
「僕の勤めてる会社だぜ、ここは」
と、岡谷|茂《しげ》|夫《お》が、目の前のビルを指さした。
「そうか……。つい無意識にこっちへ歩いて来ちゃったんだわ」
と、恭子は、力なく笑った。「元気でやってる?」
「うん。君は――大変なことになったね」
岡谷茂夫は、声を低くして言った。「僕の席は三階の窓際でね、何気なく下を見てたら……。びっくりしたよ」
「あんまり私と口をきかない方がいいわ」
と恭子が言った。「|巻《ま》き|添《ぞ》えを食うわよ」
「何を言ってるんだ」
と、岡谷は笑った。
笑顔は少しも変っていない、と恭子は思った。――岡谷とは、専門学校に通っているときに知り合った。純情な若者で、付き合っていて気持のいい相手だったが、岡谷の方が恭子のことを思い詰めて、それが息苦しくなった恭子が、結局、彼を捨てたような格好になってしまった。
それ以来の再会である。
「君……行く所あるの?」
と、岡谷が訊いた。
「そうね。天国とか|地《じ》|獄《ごく》とか、色々あるわ」
と恭子は冗談めかして言った。
「何か僕にできることがあったら言ってくれよ」
岡谷の言葉はありがたかった。しかし、その好意に甘えることは、彼をも同罪に|陥《おとしい》れることである。
「それじゃ……」
恭子はためらいながら言った。「少し……現金を持ってたらくれない? カードを使うとすぐに分っちゃうから……この二、三日あまり食べてないのよ」
岡谷はちょっと顔を|曇《くも》らせた。そして、ポケットからキーホルダーを出すと、
「僕のいたアパート、|憶《おぼ》えてる?」
「ええ」
「今でもあそこに一人住いなんだ。これが|鍵《かぎ》だ。入って休んで行ってくれ」
「だめよ! そんなこと――」
「いいんだ」
岡谷は恭子の手に鍵を押しつけると、「冷蔵庫に食べる物も少しは入ってる。好きにしててくれ。――分ったかい?」
呼び止める間もなく、岡谷はビルの方へ戻って行く。そして、ちょっと立ち止まると、振り向いて笑顔を見せた。
恭子は鍵を握りしめて、涙が|溢《あふ》れて来るのを、じっとこらえた……。
「|河《か》|合《わい》先生、どうしました?」
|本《ほん》|間《ま》が、|隣《となり》の席から声をかけて来た。
「いえ……別に……」
河合|信《のぶ》|子《こ》は、笑顔を作って、「ちょっとめまいがして……」
「そりゃいかん。疲れとるんじゃありませんか?」
「大丈夫ですわ」
信子はテストの答案用紙をめくり始めた。
「そうか。もしかすると、おめでたかもしれませんよ」
「本間先生! すぐに|噂《うわさ》が広まりますから、やめて下さい」
「いや失礼、失礼!」
本間が愉快そうに笑った。
信子も笑った。しかし、本物の笑いにはならなかった。
昼休みというのに、校庭は静かなものだ。もう、|泥《どろ》だらけになって駆け回る生徒たちの姿は、一向に見かけなくなった。
信子は、席を立って、トイレへ行った。
鏡の中の顔を|覗《のぞ》き込む。――本当に、|妊《にん》|娠《しん》しているかもしれなかったのだ。
昨日、検査を受けた。結果が今日の昼には分っているはずなのである。
信子は|動《どう》|揺《よう》していた。まさか、と思っていた。避妊薬も|服《の》んでいるのに。もちろん、あれが百パーセント確実というわけではないのは承知している。
しかし、九十九パーセントと言われれば、大丈夫と思うのが当然だろう。
もし妊娠していたら。――いえ、そんなことは関係ないはずだ!
決意は変らない。そうだ、変えてはならない……。
職員室へ戻って席につくと、電話が鳴った。
「はい、河合です」
「あ、河合信子さんですね」
「そうです」
「K大学病院の産婦人科です」
「はい」
「検査の結果が出ました。ご妊娠ですよ。おめでとうございます」
その後の言葉は耳に入らなかった。信子は機械的に返事をして、受話器を置いた。
妊娠。
本間が、ちょうど席にいないのを見て、信子は、そっと、手で下腹部を|撫《な》でてみた。この中に、生命が宿ったのだ。何という皮肉! 生命と死を、両方|胎《たい》|内《ない》に宿しているのだ!
だが、生むわけにはいかない。自分はもう死んでいるのも同然の人間なのだ。
こんなことになるとは……。信子は、皮肉な運命の|巡《めぐ》り合せを、|呪《のろ》ってやりたかった。
しかし、こんな体で、暗殺などできるものだろうか。いつ、めまいがして倒れるかもしれないというのに。――だめだ。
子供を|堕《お》ろそう、と思った。どうせ生れて来ることのない子なのだから。
信子が職員室へ戻ってみると、本間がTVを見ていた。ディスプレイ用のブラウン管の入力を切り替えて、TVを受信することができるのである。
「何ですの?」
と信子は訊いた。
「ニュースですよ」
「何かありまして?」
「いや、アメリカの副大統領が来月やって来るそうです」
「副大統領。――ハリソンですか」
「いや、名前は知らないんだけど」
と本間は笑った。
「―来月十日に来日するハリソン副大統領は、最近の日本からの武器輸出が大幅な伸びを示しているため――」
「平和憲法はどこへ行っちまったんですかねえ」
と、本間がため息をつく。が、信子は聞いていなかった。
「|成《なり》|田《た》へ着くのかしら」
「そうでしょう。どうせ日本は首相やら何やら、|偉《えら》いのが総出でお出迎えでしょうな」
「そうですね……」
信子は、じっとTVの画面を見つめていた。――当然、滝は出迎えに行く。その日、空港はどうなるだろう? |閉《へい》|鎖《さ》? いや、そんなことはあるまい。あれだけの便をさし止めることはできないはずだ。
友人を出迎えに行く、と言えば、通れないことはあるまい。検問がどんなに厳しくても、手荷物の中を調べるぐらいはするかもしれないが、飛行機に乗るわけではないのだ。金属探知器までは使わないだろう。
たとえ、首相に近付けなくとも、ある程度の距離なら……。|爆《ばく》|発《はつ》はかなりの力だということだった。
来月の十日。――いつまでも待ってはいられない。それがチャンスだ。
早く病院へ行かなければ、と信子は思った。
その日は、少し家へ帰るのが遅くなった。買物をして、急いで帰ってみると、家はまだ真暗だった。
「まだ帰ってないのか……」
半ばホッとしながら、上って明りを|点《つ》ける。
「お帰り」
と声がして、信子は、
「キャッ」
と飛び上りそうになった。「――帰ってたの? ああびっくりした」
「ごめんごめん」
河合は笑ってソファに起き上った。
「どうしたの、電気もつけないで」
「いや、ちょっと|眠《ねむ》ってたのさ」
「具合でも悪いの?」
「そうじゃない」
と、河合は首を振った。
「何だか変よ。――どうしたの?」
河合は元気がなかった。もう何か月も暮しているのだ。それぐらいのことは分る。
「うん……。ここへ来てくれ」
言われるままに隣へ座ると、河合は信子を|抱《だ》き寄せてキスした。
「何してるの……」
「何でもない――と言いたいがね」
「何かあったの?」
「仕事でね、失敗しちまった」
「そう……」
信子はちょっと考えてから、「いいじゃないの。誰だって時には失敗するわ」
「大分でかいんだ、それが」
河合は天井を見上げて、ため息をついた。
「――クビになりそう?」
「そんなことはないと思うがね」
「じゃ、いいじゃない」
「そうは行かないよ。たぶん会社の方じゃ僕が辞表を出すのを期待してるんだ」
「で……出すの?」
「出して失業するのか。君に養ってもらわなくちゃならない」
「そうね……。じゃ、平気で|粘《ねば》ってりゃいいじゃないの。それでどうしてもだめなら、考えれば」
そうは言ったものの、それほど単純でないことは、信子とて承知している。特に河合のように、|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な男は、思いつめてしまうのだ。
あまり要領良くふるまうということのできない男なのである。信子とてその点は同じだったから、よく分るのだ。
「明日一日休んで、考えてみるよ」
と、立ち上る。
「夕ご飯にするわよ」
「少し散歩して来る」
これほど元気のない夫の姿を見たのは、初めてだった。信子は胸を|締《し》めつけられるような気がした。
「あなた」
といつの間にか声をかけていた。
「――何だい?」
玄関の方へ行きかけた河合が振り向く。――だめ! 言ってはいけない! 何も知らない方がいいのだ。
「あの……私、子供ができたのよ」
言葉が、自然に流れ出て来た。河合は|一瞬《いっしゅん》ポカンとして信子を見つめていたが――
「そう……か。でも……薬を」
「たまたま効かなかったみたい」
と言って、信子は笑った。言ってしまって、急に体が軽くなったようだった。
「本当か、おい!」
河合は顔を|輝《かがや》かせて、信子の肩に手をかけた。
「|嘘《うそ》ついたって仕方ないでしょ」
「それじゃ――何だって買物なんかして来るんだ! 僕が車で行ってやる。さあ、そっちで休んで。動かないようにして――」
「ちょっと、ちょっと」
信子は笑いながら、「そんなにしなくても大丈夫よ。学校にだって行くんだし」
「仕事、休んだらどうだ? 生れるまで」
「間近になったらね。心配ないわよ」
「でも重い物を持つなよ」
「学校で持つのは教科書とマーカーぐらいのものよ」
「それだって危い」
「大げさねえ。だって、あなたが、会社どうなるか分らないのに、学校をやめるわけに行かないじゃないの」
「会社? 誰が辞めるもんか! クビになっても机に体を|縛《しば》りつけて月給をふんだくって来る」
二人して笑い出すと、しばらく止まらなかった。
やっと笑いがおさまると、二人はソファに座って息をついた。
「おい」
「ん?」
「笑いすぎたんじゃないか? 大丈夫か?」
「やめてよ」
信子はまた吹き出してしまった。
夜、ベッドに入ると、河合が言った。
「名前を考えなきゃいけないな」
「早過ぎるわ」
「そうか? そうだな。しかし、早く決めておいて悪いこともあるまい」
信子はちょっと笑った。
「おかげで考えることができたよ」
と河合は言って、「おやすみ」
軽く信子にキスした。
夫の|寝《ね》|息《いき》を聞きながら、信子はじっと|天井《てんじょう》を見上げていた。――何ということをしてしまったのだろう。
知らずにいれば悲しむこともないだろうに。|残《ざん》|酷《こく》なことをしてしまった……。
|薄《うす》|暗《くら》がりに、夫の横顔がうっすらと浮んでいる。――信子は、自分が、この男を愛してしまっていることに、気付いた。
こんなつもりではなかったのに。ただ、目的を果すまでの、仮の、形だけの結婚のつもりだったのに。
信子は、天井へ目を戻した。光が影と|戯《たわむ》れて、無言のパターンを造っている。
信子の脳裏に、河合と、自分と、そして|乳母車《うばぐるま》の中の赤ん坊の三人が、美しい|陽《ひ》|溜《だま》りの中を歩いている姿が鮮明に像を結んだ。
「だめ……。そんなことを考えちゃいけない……」
信子は|枕《まくら》へ顔を埋めた。
だが、胎内に新しい生命が宿ったという事実は、信子を圧倒していた。何でもないことで、始末してしまえば済むことだ、と言い聞かせてみても、どうにもならなかった……。
信子は手で、そっと下腹部を探った。手術の|跡《あと》が触れる。――信子は|冴《さ》えて眠れぬ目を、暗がりへと向けた。
体内に仕掛けられた爆弾が、赤ん坊と隣り合っている。いや、それはまだ赤ん坊などという段階でなく、胎児の、ほんの原型に過ぎないだろう。しかし、一つの生命には違いない。――どうすればいいのだろうか。
答えは出なかった。やがて信子は眠った。
夢の中で、赤い乳母車が、静かに彼女の方へと近付いて来た。
「どうした」
父の声に、久仁子は、ふと我に返った。
平面の長方形ブラウン管には、もう何の映像も映し出されてはいなかった。
「何の用?」
久仁子は|長《なが》|椅《い》|子《す》に寝そべったまま言った。
「夕食をほとんど食べなかったそうじゃないか」
「放っといてよ」
二宮は、ゆっくりと長椅子の前へ回って来ると、
「プロメテウスで何かあったのか」
と言った。
久仁子は父親をじっと見返した。
「何もないわよ。プロメテウスは、ちゃんとその任務を果しておりますので、ご心配には及びません。そう首相に言っておいて」
「話してみなさい」
二宮は、近くの椅子を引き寄せて言った。
「お前とゆっくり話す|暇《ひま》もなかったな、最近は」
「話すことなんか別にないわ。プロメテウスの今日の戦果は|裸《はだか》の少女一人。立派なもんでしょう。わがプロメテウスの、深遠なる理念にぴったりだわ」
久仁子は|唇《くちびる》の端を|歪《ゆが》めて笑った。
「何のことだ?」
二宮は|戸《と》|惑《まど》ったように言った。
「作家の娘よ。古市啓也――不道徳な作家。日本人を|堕《だ》|落《らく》させる、|退《たい》|廃《はい》の作家」
「ああ、知っている」
「その娘をね、|誘《ゆう》|拐《かい》して来たのよ。プロメテウスが人さらいまでやるなんて知らなかったわ」
「何のために?」
「古市啓也に、連載小説を中止させるためよ」
「ああ、A新聞の……。首相がいつか話していたよ」
「滝首相が?」
「日本の伝統を|破《は》|壊《かい》する小説だ、と言っていたな。しかし、|干渉《かんしょう》はしない、言論の弾圧になる、ということだった」
久仁子は笑い出したくなった。
「分ったわ、それでプロメテウスが意を体して行動したわけね」
「娘をさらったって?」
「そして父親を呼び出して、その場で新聞社に電話をかけさせたのよ。――健康上の理由で当分|休載《きゅうさい》する、ってね。もう二度とペンを持つことはないんじゃない、きっと」
「そうか。――まあ、手段はいささか無茶かもしれないが、それも国のためさ」
二宮がのんびりと言った。ピッ、ピッと電子音がして、電話がかかっていることを知らせた。この邸内のどこにいても、音が耳に入るようになっている。
「電話だ」
二宮は立ち上った。「ここのを使っていいか」
「やめて。自分の部屋で取ってよ」
と久仁子は、白っぽく光っているブラウン管へ目を向けたまま言った。「――私、使うの」
「そうか、分った」
二宮は別に|怒《おこ》った風でもなく、久仁子の肩を軽く|叩《たた》いて、久仁子の部屋から出て行った。
久仁子は、体中で息をつくと、天井を見上げた。――白い壁面照明が、柔らかい光を降らせている。それさえもまぶしいような気がした……。
隊長室の中で、東昌子や松井澄代の視線にさらされて震えていた、古市の娘の、白い|肌《はだ》が、その照明にダブった。久仁子は叫び出したかった。飛びかかって、松井澄代を、しめ殺してやりたかった。
もともとが、そういう性向のある澄代なのだろう。抵抗するような気力もない、少女を|殴《なぐ》り、|蹴《け》り、その挙句に、椅子に座らせ、部下が押えつけて身動きもできない少女の裸身をまさぐって、いたぶった。
その澄代の、ぎらぎらと光る眼は、もう正気の人間のものとは思えなかった。
久仁子はたまりかねて東昌子の方を見た。だが、東昌子は、まるで患者を見る女医のような冷ややかな目で、久仁子を制した。隊長室の中に、古市の娘のすすり泣く声と、澄代や、見物している隊員たちの、忍び笑いとが、しばらく入り混って、まるで毒を含んだガスのように久仁子を包み込んだ。
――あのまま続いていたら、あの娘は一体どうなっていただろうか。東昌子が突然立ち上って、
「松井さん、もういいわ」
と言った。「父親がやって来る|頃《ころ》よ。その子に服を着せなさい」
澄代は、|渋《しぶ》|々《しぶ》、命令に従った。あのままなら、おそらく、澄代は少女を殺していたかもしれない……。
休憩室に戻った久仁子は、ぐったりとソファに座り込んだ。全身に汗が吹き出た。何も知らない長田加奈子がびっくりして駆け寄って来た。そして、久仁子は、水をもらうと、|貪《むさぼ》るように飲みほした……。
久仁子は、頭を振った。もう、何もかも忘れてしまいたい。今は家へ帰って来たのだ。ここは自分の部屋だ。
立ち上って、久仁子は、部屋の中をゆっくり歩き回った。――電話が鳴る。
「はい、久仁子です」
少し間があって、
「東昌子よ」
と、静かな声が伝わって来た。反射的に、久仁子は背筋を伸ばして立っていた。
「何か?」
「今日は大分|辛《つら》そうだったわね」
久仁子はどう答えたものか、一瞬迷った。
「――はい」
「ああいうことには反対?」
「それは……」
久仁子は、唇をなめた。「プロメテウスは、隊長もおっしゃっておられるように、暴力集団でも、SSでもありません。ああいうことは反感を買うだけではないでしょうか」
一気に言ってしまって、そっと息を吐き出した。東昌子は少し黙っていたが、
「そうね。私もそう思うわ」
と言った。「よく言ってくれたわ。なかなかみんなそうは言わないものね。――松井さんはプロメテウスに|相応《 ふさわ》しい人ではないと思うわ」
久仁子は黙っていた。
「――おやすみなさい」
「失礼します」
久仁子は、東昌子が電話を切るのを待って、ゆっくり受話器を置いた。いつの間にか、体が、こわばりそうなほど|緊張《きんちょう》している。
もう、今夜は寝てしまおう、と思った。浴室の方へ歩きかけると、電話がまた呼び止める。
「二宮久仁子です」
「二宮さんですか!」
「長田さん? どうしたの?」
長田加奈子である。
「大変なんです! 来てもらえませんか」
すっかり取り乱している。
「落ち着いて! 何があったの?」
「松井さんが……|刺《さ》されて……」
「刺された?」
久仁子は|愕《がく》|然《ぜん》とした。「――どこなの? 場所は?」
久仁子は電話の台にセットされた録音テープのボタンを押した。しどろもどろになる加奈子を|叱《しか》りつけて、やっと、場所が|銀《ぎん》|座《ざ》通りの地下街だと知った。
「警察は? まだ? じゃいいわ、私が全部連絡するから、あなたはそこにいて」
久仁子は電話を切ると警察へ連絡し、それから東昌子の家へかけた。話を聞くと、
「すぐに行くわ。あなたも来てね」
と、東昌子が言った。
「はい」
「制服を着て、|拳銃《けんじゅう》を持っていらっしゃい」
東昌子はそう言って電話を切った。
以前は、制服も銃も、本部に置いていたのだが、今は各自が保管している。久仁子は、運転手の水上にすぐに車を出すように言って、手早く制服に着替えた。
階下へ降りて行くと、二宮が出て来た。
「何事だ?」
「緊急よ。車は出てるかしら」
「お|嬢《じょう》様」
水上がもう|玄《げん》|関《かん》で待っていた。「いつでもご用意は」
「ありがとう」
久仁子はブーツに足を入れた。
「何があったんだ?」
二宮がついて来て|訊《き》いた。
「副隊長が刺されたのよ」
久仁子はホルスターの拳銃を手で押えて言った。「私もいつそうなるか分らないわ。|覚《かく》|悟《ご》しておいてね」
久仁子は、足早に玄関を出て行った。
現場は、地下街の一角、バーが並ぶ、比較的入り組んだ場所だった。――以前は地下街といえば、ショッピングと、せいぜい女の子の立ち寄る喫茶店ぐらいだったが、近年、こうした盛り場を地下へ入れるという方針が、徐々に|徹《てっ》|底《てい》して来た。
大の男が酔って歩くのに、明るい地下街はどうにも似つかわしくないと不評であったが、人間は決められたことに、そのうちに慣れてしまうものである。
久仁子が歩いて行くと、集まっていた見物人たちが、あわてて道を開ける。
驚いたことに、東昌子はもう先に着いていた。ごくありふれた造りのバーの入口に、長田加奈子が立っていて、緊張した顔で、唇をかみしめている。
「隊長。遅くなりまして――」
と言いかけると、
「いいえ、私は近くだから」
と東昌子は|遮《さえぎ》った。
「この中ですか?」
「そう」
「でも松井さんがバーで何を?」
「お酒を飲んでいたんです」
加奈子が言った。「|凄《すご》い勢いでした。私、止めたんですけど……」
「それで?」
「酔ったお客の一人が、松井さんに――副隊長に|絡《から》み始めたんです。『お前たちみたいな小娘にでかいつらをさせておけるか!』と|怒《ど》|鳴《な》って……」
「それで?」
「副隊長が、拳銃を抜いて、その男を撃ちました」
「撃ったの?」
「|腕《うで》に当っただけですけど。そうしたら相手がウィスキーのびんを叩き割って、その|尖《とが》った先で副隊長を………」
加奈子の声が震えた。「そばについていながら、申し訳ありません」
「あなたが悪いわけじゃないわ」
と、東昌子が言った。
「で、松井さんは……」
「ついさっき、救急班が来て連れて行ったけれど、もう虫の息だったわ。助からないでしょう」
久仁子は思わず深々と息をついた。――松井澄代が殺された。そのことは別に悲しくも何ともない。
しかし、プロメテウスの隊員が殺されたというのは、やはりショックだった。むろん内心では久仁子自身、プロメテウスを|嫌《けん》|悪《お》しているが、日々、行動を共にしている者同士の仲間意識は、久仁子も知らないうちに、心の中へ|忍《しの》び|込《こ》んで来ていたようだった。
「警官は来ないんですか?」
と、久仁子は訊いた。
「帰したわ」
と、東昌子は言った。
「帰した?」
「後で呼ぶ、と言ってね。中へ入りましょう」
東昌子がバーの中へ入る。久仁子もそれに続いた。――久仁子とて、バーぐらいは入ったことがあるが、ここは思ったよりずっと広い造りだった。カウンターの他に、テーブルが四つ。その間のフロアに、液体が、ガラスの破片と共に広がって、|鈍《にぶ》く光っている。
割れたびんに入っていたウィスキーなのか、それとも松井澄代の血なのか、ほの暗い照明と、床の色に|紛《まぎ》れて見分けられない。
奥のテーブルに、コートをはおった、五十がらみの男が座っていた。肩を落として、|虚《うつ》ろな目で、床を見ている。
「――あれが?」
「そう。松井さんを刺した男ね」
東昌子は感情のない声で言った。
「警察へ引き渡さないんですか」
「私が決めるわ」
東昌子はゆっくりと進み出た。それから、久仁子の方を振り向くと、
「あなたに任せたら……」
「何でしょうか?」
東昌子は、自分の拳銃を抜くと、安全装置を外した。その金属音に、男が身を縮めるのが分った。
「さあ、持って」
久仁子は、東昌子の差し出す拳銃を、ためらいながらつかんだ。
「どうするんですか」
「あの男を|処《しょ》|刑《けい》しなさい」
久仁子は息を|呑《の》んだ。
「でも――そんなことが――」
「大丈夫。警察に口出しはさせないわ。あの男が飛びかかって来ようとしたので撃ったと言えば、正当防衛で通る。――私の銃よ。心配しないで」
久仁子は、ゆっくりと男に目を向けた。――生活に疲れた、ごくありきたりの男。今は酔いがさめて、青ざめ、震えている。
「さあ」
東昌子は|促《うなが》しておいて、わきへ退いた。
久仁子の方を、男が見上げた。いきなり男は床へ|崩《くず》れるように|膝《ひざ》をつくと、
「助けてくれ!」
と、両手をついた。「頼む! 警察へ連れて行ってくれ!」
久仁子は唇を固く結んだ。拳銃を握る手が、小刻みに震えている。
「女房も子供もあるんだ、頼む! 撃たないでくれ!」
男は頭を床へこすりつけんばかりにした。
「目を見ない方が撃てるでしょう」
と東昌子は言った。
「でも――隊長、こんなことを……」
無理だ、と思った。とても引金は引けない。もしここであくまで命令を|拒《こば》めば、プロメテウスを辞めさせられるかもしれない。そうなれば、滝を暗殺する機会は永遠に失われてしまうかもしれないのだ。それは、久仁子にもよく分っていた。
だが、それだからといって、この、目の前にうずくまって、震えている男を射殺できるだろうか? 久仁子はそこまで非情であることはできなかった。
「できなければ私がやるわ」
東昌子が、久仁子の手から拳銃をもぎ取るようにして、自ら、その男に|狙《ねら》いを定めた。久仁子は顔をそむけた。
拳銃が二度、鳴った。だが、その音は、入口の方から聞こえて来た。
男は|弾《はじ》かれたように上体をのけぞらせて、床を転がった。久仁子は、入口に立って、まだ|硝煙《しょうえん》の残った拳銃を握りしめた両手を一杯にのばして立っている長田加奈子を見た。
東昌子も、しばらく長田加奈子の方を振り返って見ていたが、やがて自分の拳銃はホルスターに納めて、男の方へ歩いて行った。もう男は死んでいる、と久仁子は直感的に思った。東昌子も、ちょっと確かめただけで、
「警察を呼びましょう」
と、さり気ない口調で言った。「二宮さん、警察を呼んで」
「はい」
久仁子は、やっと声の震えを押し殺した。
「長田さん、よくやったわ」
と、東昌子が言った。しかし、加奈子の方は、まだ拳銃を握ったまま、身動きもせずに立っている。まるで|彫像《ちょうぞう》のようで、大きく見開いた目も、何も見てはいないのだった。
「長田さん!」
久仁子が肩をつかんで揺さぶると、加奈子は、息を吐き出した。それでも、まだ|呆《ぼう》|然《ぜん》として、自分でも、何が起こっているのかよく分らないらしい。
久仁子は加奈子の手から拳銃を取ると、ホルスターに戻してやった。表に出ると、入口の近くの|人《ひと》|垣《がき》が、さっと飛び散る。そして一人残らず逃げるように、立ち去ってしまった。
久仁子は、ゆっくりと周囲を見回した。――二度の銃声が、プロメテウスを変えてしまった。ついに――ついに、プロメテウスの名において、人殺しが行なわれたのだ。
今、ここに集まっていた見物人たちの中で、それを|弾《だん》|劾《がい》する勇気を持つ者は、一人もあるまいが、おそらくこの事実は、口伝えに、あらゆる人々に伝わって行くだろう。
東昌子が、一時の|激情《げきじょう》に|駆《か》られて行動に走る性格でないことは、久仁子もよく知っていた。おそらく、これが正当防衛として不問に付されることは、予め承知しているのだ。滝首相から、了解を得ているのかもしれない……。
久仁子は重い足取りで、〈警備室〉の表示を目当てに、地下街を歩いて行った。
目を開くと、|畳《たたみ》に、ゆるく射し込む落日の残照が、のびきった長方形を描いていた。
円谷恭子は、肩までを|覆《おお》う毛布に気付いた。頭をめぐらせると、あぐらをかいて見下ろしている岡谷茂夫の優しい視線があった。
「目が覚めた?」
と岡谷は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「眠っちゃったわ。――あなたが帰って来る前に出て行くつもりだったのに」
恭子は起き上って、頭を振った。「もう夕方?」
「うん、ゆっくりしてていいんだよ」
岡谷は立ち上ると、「ろくな物がなかっただろう。少し仕入れて来たから、夕飯にしよう」
と、台所の方へ立って行った。
「もう、私行かなきゃ」
と恭子は言った。
「どうして? いいじゃないか」
岡谷は冷蔵庫から、ポリ|袋《ぶくろ》のパックを取り出して、「電子レンジで温めるだけだから、そう|旨《うま》くはないけどね」
とウインクしてみせた。
「カーテン、閉めるわ」
と、恭子が立ち上りかけると、岡谷が急いで窓へと走って、カーテンを閉めた。
「君は姿を見せない方がいい。もし、外から見られたら、まずいだろう」
室内の明りを点けると、岡谷は、食器を出して並べ始めた。
「そうだ。シャワーでも浴びて来たら? |疲《つか》れてるだろ?」
「でも……」
恭子はためらった。「あなたにどんな迷惑がかかるか……」
「大丈夫だよ。僕が昔君に|惚《ほ》れてたなんて、誰も知りゃしないよ」
と、岡谷は笑った。「ねえ、そこに紙袋があるだろう。洋服を一|揃《そろ》い買って来たんだ。着替えるといいよ。サイズは大体Mでいいんだろ?」
「そんなことまで……」
「もっとも下着はちょっと買いにくかったんでね、女の店員に頼んで買ってもらったんだ。ガールフレンドがコーヒーをひっくり返してすっかり汚しちゃったんで、って言ってね」
「ありがとう。――じゃ、好意に甘えさせていただくわ」
「|他人行儀《たにんぎょうぎ》だなあ。さっぱりしておいでよ。その間に食事の仕度をしとくからさ」
岡谷は|口《くち》|笛《ぶえ》を吹きながら、湯を|沸《わ》かし始めた。
入浴は三十分以上もかかってしまった。もちろん、このところずっとシャワーも浴びていないし、|髪《かみ》も大分|汚《よご》れていたので、すっかりのぼせ上るほど、何度も洗ってしまったのだ。出て来て新しい服を着ると、すっかり気持が軽くなった。動きやすいスラックスにセーターだったが、今まで着ていたものと、全く違う色、|柄《がら》になっているのは、おそらく岡谷が気を使ったのだろう。
「やあ、大分元気そうになったね」
と、岡谷が|嬉《うれ》しそうに笑った。「ちょっと夕飯が冷めちまったな。もう一回温めようか?」
「いいわ、そのままで」
「そう? じゃ、いくらでも――って言うほどのもんじゃないけどね」
食事を落ち着いて取るのは、一体何日ぶりだろう。恭子は、冷めかけたパック食品が、今までに食べたどんな高級料理よりすばらしい味に思えた。
「――あなたの親切、忘れないわ」
食事の後、岡谷がコーヒーを|淹《い》れているとき、恭子は言った。
「そんなこと、いいんだよ」
岡谷は、恭子のカップへコーヒーを|注《つ》いだ。
「みんな、世の中がこのままじゃいけない、とは思ってるんだ。いや、みんなじゃないな。でも、そう思ってるのも大勢いるんだ。でも――毎日の生活に追われて、何もできない。君のように勇気のある人に、昔|恋《こい》してたなんて、僕の|自《じ》|慢《まん》になるよ」
「やめてよ。私は……コソコソ逃げ回ってるだけ。英雄でも何でもないわ」
恭子はコーヒーカップに目を落とした。
「ねえ、よかったらここにいれば? 昼間は外へ出ないようにしてれば、誰にも分りゃしないよ」
「そんなことしたら、あなたも私と同罪よ」
「構うもんか」
岡谷は肩をすくめた。「僕には幸い妻子もないしね」
「ありがとう……」
恭子は|囁《ささや》くように言った。
「もちろん、無理にとは言わないよ」
岡谷は気軽な調子で、「色々と計画もあるだろうからね」
恭子はコーヒーを飲み干すと、奥の部屋へ入って行って、明りを消した。
「どうしたんだい?」
岡谷も立って来る。恭子は、振り向くと、その場でゆっくりと服を脱ぎ始めた。
「いいんだよ」
岡谷が言った。「そんなことしなくたっていい。そんなつもりじゃないんだから。――ねえ、いいんだってば!」
「抱いてよ」
恭子は裸の胸に、岡谷の手を導いた。「私のために……」
――ダイニングの明りも、やがて消えて、カーテンの|隙《すき》|間《ま》から射し入る表の街灯の光だけが、二人の肌をかすかに光らせているのだった……。
「――松井澄代さんの死は、新しいモラルの確立した社会を築くべく、勇気ある戦いを続けるプロメテウスの処女たちが払った尊い|犠《ぎ》|牲《せい》であります」
滝首相は、TVカメラに向って、|淀《よど》みなくしゃべり続けていた。「憎むべきテロリストは幸いその場で射殺されました。しかし、松井澄代さんは、二度と戻っては来ません。心からの|追《つい》|悼《とう》の意を表したいと思います。――しかしながら、今回の事件にもかかわらず、プロメテウスから脱退しようという少女は、一人もいなかったのです。これこそが、|無《む》|垢《く》の愛国心、|無償《むしょう》の情熱です。私は、プロメテウスの処女たちを、心から誇りに思います」
TVスクリーンの前に、プロメテウスの隊員が全員揃って、整列していた。
東昌子は、滝の話が終ると、TVのスイッチを切った。
久仁子は、東昌子が何の話をするだろう、と身構えていた。しかし、東昌子はただ、
「では、全員、今日の任務につくように」
とだけ言った。
久仁子は、一つの|班《はん》のリーダーとして、ある中学校へ行くことになっていた。そこでは、反政府的な言動の教師がはびこっていて、祝日にも日の丸の|掲《けい》|揚《よう》が行なわれていないという通報――密告がなされていたのである。
「二宮さん」
と東昌子が呼び止めた。「あなたはいいから」
「――どういう意味でしょうか」
「その班には|草《くさ》|間《ま》さんを行かせるから。あなたは私の部屋に来て」
「はい」
やはり……。除名されるのだろうか。もしそうなったら、これを口実に、何とか滝首相に面会するようにできないだろうか、と久仁子は思った。一度会えればいいのだ。一度だけ……。
「ドアを閉めて」
隊長室に入ると、東昌子は言った。「――座ってちょうだい」
久仁子は、机を|挟《はさ》んで、東昌子と向い合った。
東昌子は引出しを開けると、シガレットケースを取り出して、タバコを一本くわえた。久仁子は驚いた。東昌子がタバコを|喫《す》うのを初めて見たのである。
「あなたは?」
「いえ、結構です」
久仁子は、東昌子が、旨そうに煙を吐き出すのを、じっと眺めていた。
「――ごく最近よ、覚えたのは」
と、東昌子は言った。「やっぱり何かと疲れちゃってね」
久仁子は黙っていた。東昌子は、立ち昇る白い糸のような煙を見ながら、
「私は後三か月で二十一歳になるわ」
と言った。「つまり、プロメテウスの隊長の地位を退くわけ」
「そうですか。でも――」
「長すぎるのもよくないわ。それに、二十歳までという規則は崩すべきでないしね」
「残念です」
必ずしもご機嫌取りの言葉ではない。東昌子には、常にさめた何かがあった。ただ狂信的に行動する松井澄代のようなタイプの娘が隊長になっていたら、今頃、プロメテウスは殺人集団と化していたに違いないのだ。
だからこそ、昨夜の男を射殺するように命じた東昌子の言葉は、久仁子にとって、重い意味を持っていた。
「ところでね――」
と、東昌子が言いかけたとき、机の上のインタホンが鳴った。
「|剣《けん》|持《もち》様がおみえです」
「通して」
久仁子は立ち上った。
「私、失礼した方が――」
「いいえ、あなたがいてくれないと困るのよ」
と、東昌子は止めた。
ドアが開いて、スラリとした、しかし、引き締った筋肉を感じさせる男が入って来た。
「剣持さん。――どうぞおかけになって」
と東昌子は言った。
久仁子は、|斜《なな》め前の席に座った、目の鋭い、|彫《ほ》りの深い顔立ちの男から、目をそらすことができなかった。いかにも|冷《れい》|徹《てつ》な印象の男で、同時に|傲《ごう》|慢《まん》さも備えているようだった。
「秘密警察の剣持さんよ」
と、東昌子が言った。
「二宮久仁子と申します」
と久仁子は頭を下げた。
「ああ、ではこちらが二宮さんのお嬢さん」
剣持という男は、軽く|会釈《えしゃく》した。
秘密警察か。――いかにも、そんな印象の男だった。
しかし、秘密警察が何の用で来ているのだろう。
「人選は済みましたか」
と、剣持は東昌子に訊いた。
「はい。この二宮さんです」
剣持は肯いた。
「申し分ない。――首相も喜ばれるでしょう」
久仁子は当惑して東昌子を見た。
「まだ二宮さんには話していなかったので。――あなたに、外の任務についてもらいたいの」
「はい、どんな任務でしょうか」
「首相官邸の警備なの。|名《めい》|誉《よ》なことだわ」
久仁子は、|顎《あご》が震えそうになるのを、必死の努力で抑えた。
「新たに護衛官というポストが設置されたわけでね」
と、剣持が言った。「秘密警察から私と他に数名、警察庁からもSPとは別に、よりすぐった者たちが加わる。本来の警備はそのまま続けられるし、夜間は、首相もほとんど官邸にはおられないから、まず危険はないと言える」
ほとんどいない、ということは、時にはいることもある、という意味でもある。――久仁子は、その瞬間が、現実に目の前に立ち現れて来た事実に|圧《あっ》|倒《とう》されていた。
「二宮さんのお嬢さんならうってつけだろう」
剣持が微笑んだ。笑うとは思えない顔に浮んだ笑みの優しさが意外だった。
「彼女を選んだのは、別に父親のせいではありません」
と東昌子は言った。「彼女が最も優秀な隊員だからです」
久仁子は、ちょっと当惑して東昌子を見た。意外な言葉だった。東昌子は微笑みながら続けた。
「だからこそ、二宮さんを、私の次の隊長にと、首相へ|推《すい》|薦《せん》したのです」
「誰が来ても出ちゃだめだよ」
と、岡谷が言った。
「分ってるわ。――でも、本当に会社休んで|大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
円谷恭子は朝食の後片付けをしながら言った。
「一日ぐらい休んだって、クビにはならないさ」
と、岡谷は笑って、クレジットカードをポケットに入れた。「じゃ、ともかく買物して来るよ。電話にも出ないで」
「ええ、大丈夫よ」
岡谷が、部屋を出て、|鍵《かぎ》をかける音がした。
恭子は、軽く息をついた。――こんなに気持のいい朝を迎えるのは何日――いや、何か月ぶりだろう。
岡谷の優しさが、今の恭子には何よりの救いだ。間近な死を約束された人間にとっての、|祈《いの》りのようなものだった。
恭子は、用心深く窓辺に寄って、カーテンの端を少し開いて表を|覗《のぞ》いた。――岡谷の部屋は二階である。表の通りが見渡せた。
刑事らしい人影はない。岡谷が出て来て弾むような足取りで歩いて行った。
恭子はふっと微笑んだ。彼の歩き方は、昔の学生時代から、少しも変っていない……。
岡谷は、アパートから歩いて五分ほどのスーパーマーケットで買物を済ませた。レジでカードを出し、支払いを終えると、大きなビニール袋をかかえてスーパーの表に出た。
|誰《だれ》かがわきに寄って来た。
「岡谷茂夫さんですね」
振り向くと、背広姿の、無愛想な男が二人立っている。
「そうですけど……」
「警察の者ですが、ちょっと|伺《うかが》いたいことがありまして」
「僕にですか? 何でしょう?」
岡谷は辛うじて動揺を隠しおおせた。
「円谷恭子という女をご存知ですね」
「円谷……。もしかして、昔、専門学校にいた円谷さんかな」
「そうです。恋人同士だったんでしょう?」
一体どこからたぐって来たのだろう? 岡谷は、恭子ほどには、今の警察の|恐《おそ》ろしさを知らなかった。
「恋人同士、ですか」
岡谷は軽く笑って、「正確に言うと、僕の片想いで、振られちゃったんですよ。――彼女が何か?」
「ご存知ないんですか? テロリストの一味として指名手配されているのを」
「彼女が?――いや、知りません。めったにTVも見ないもんだから」
「今朝、あなたの会社の方へお邪魔したんですよ。お休みと聞きましてね、お宅へ伺おうと思ったら、ここでちょうどお見かけして……。円谷恭子のことを色々お聞きしたいんですが、お宅までご一緒してよろしいですか」
岡谷は、刑事の言い方に、有無を言わせぬものを聞き取った。見当はついた。おそらく、昨日、岡谷が路上で恭子を呼び止めて話をするのを、会社の誰かが見ていたのだ。女の顔までは分らなかったろうが、今日この刑事たちに訊かれて、そのお節介な|奴《やつ》が、そのことをしゃべった。
刑事たちは、岡谷がどう答えようとアパートまでやって来るつもりだ。
「構いませんよ。散らかっていますがね」
「そんなことは一向に」
と刑事は、あくまでうわべだけは|丁《てい》|寧《ねい》に言った。「参りましょうか」
岡谷は歩き出した。二人の刑事が、ごく自然に、岡谷を左右から挟むような格好で歩いている。
どうやったら恭子に知らせられるだろう?
岡谷は、袋をかかえた手ににじむ汗を、握りつぶそうとでもするように、|拳《こぶし》を固めた。
五分の道が、まるで数十メートルのように、たちまち|尽《つ》きた。
「あの二階でしたな」
と刑事が言った。
おそらく、前にも来て知っているのだろう。どの部屋に住んでいるのかも。
「カーテンを閉めたままなんですか」
と刑事の一人が訊いた。
「開け忘れたんですね」
と、もう一人が言った。いたぶられているような気がして、岡谷はちょっと一人の方をにらんだ。
恭子。――あの窓から見ていてくれたら。そして急いで逃げてくれたら……。
アパートの階段を、岡谷は上って行った。二人の刑事がそれに続く。上から、隣の部屋の主婦が降りて来た。狭い階段である。しかも、でっぷりとした堂々たる|体《たい》|躯《く》とすれ|違《ちが》うには、片側の手すりに身を寄せなくてはならなかった。
「こんにちは」
と、その主婦が、大きなビニールの包みをかかえて言った。ゴミの袋だ。一階の|集塵《しゅうじん》ダクトへ放り込みに行くのだろう。
サンダルの音が、コトコトと階段を降りて行く。刑事たちも仕方なく道を開けて、手すりに身を寄せた。
岡谷は、かかえていた買物の袋を、すぐ後ろの刑事の顔に叩きつけた。刑事の体勢が崩れる。そこを力一杯突き飛ばした。
「キャーッ!」
押された主婦が倒れそうになってもう一人の刑事にしがみつく。
「恭子! 警察だ! 逃げろ!」
岡谷は力一杯|叫《さけ》んだ。聞こえたはずだ。岡谷は、手すりを乗り越えて、下へ飛び降りた。
「待て!」
やっと主婦の重量を押しのけた刑事が|怒《ど》|鳴《な》る。岡谷は、アパートから飛び出した。表の通りを突っ走る。すれ違った買物帰りの主婦たちが、目を丸くして振り返る。
「止れ!」
刑事の声が、背後に遠ざかって行く。岡谷は、ただめちゃくちゃに走り続けた。
二発の銃弾が、岡谷の胸を|貫《つらぬ》いて、追い抜いて行った。
――恭子は、足を止めて、振り向いた。
今の音は? 何だか銃声のようだったが。
恭子は、バッグを肩にかけ直した。バスが来るのを待っていたのである。
気のせいか。まさか、こんな所で撃ち合いでもあるまい。
恭子は、もう一度、岡谷のアパートのことを思い出してみた。感傷でなく、自分のいた|痕《こん》|跡《せき》を、完全に消して来たかどうか、である。着替えた服などは全部表で捨てた。使った食器は洗ったし、自分が|触《ふ》れた所の|指《し》|紋《もん》は|拭《ぬぐ》ってある。浴室の|排《はい》|水《すい》|孔《こう》にひっかかっている髪の毛も捨てて流して来た。
まず大丈夫、と恭子は|肯《うなず》いた。
岡谷はのんびり構えているが、警察は信じられないほどの細い糸をたぐって、あらゆる知人、友人に当って来るものなのだ。岡谷とて、いつ調べられるか分らない。
岡谷を同罪にしてしまうことだけは避けたかった。――彼と一夜を過しただけで、もう|充分《じゅうぶん》すぎるほどに充分だ。
もう恐らく、彼と生きて会うことはあるまい、と恭子は思った。――バスが来た。恭子は乗り込むと、小銭を料金ケースに入れ、空いた座席の一つに|腰《こし》をおろした。
よく晴れた、気持のいい日だった。
岡谷と生きて再び会うことがあるまいという想像が、すでに冷厳な事実となっていることを、恭子は全く知らなかった。
「あなた、もう行かないと……」
古市美紀子は、夫を促した。
古市は、きれいに整理された仕事場を|眺《なが》めていた。――いつも、本や書きかけの|原《げん》|稿《こう》、手紙、新聞などが、でたらめに、しかし不思議に心を和ませる日常を広げていたのに。|総《すべ》ては片付けられてしまった。彼自身も……。
「あなた」
「分ってる」
古市は肯いた。
「窓は閉めた? カーテンを引いておいてね」
「ああ」
皮肉でなく、古市は女というものが、あらゆる悲しみや苦痛を、日常の細々とした仕事で|麻《ま》|痺《ひ》させる、その生きる知恵に感心していた。
男のように、いつまでも未練がましく立ち止ってはいないのだ。どちらにしても、結末は同じなのだから、苦しみを長びかせるだけ損なのだとは分っていても、男はそこから脱け出せない。
「千香は?」
「お|友《とも》|達《だち》の家よ。植草知美さんのところ」
「そうか。あの子もひどい目に|遭《あ》ったもんだな」
「うちが引越して行けば大丈夫でしょう。この辺の人もホッとしてるわよ、きっと」
美紀子の口調も、やや|寂《さび》しげだった。「――|田舎《 いなか》はいいわよ。のどかだし、妙な人たちもいないし」
それはどうだろう、と古市は思った。そこにはプロメテウスの赤いブレザーはないかもしれない。しかし、権力の手の|及《およ》ばない場所が、今、日本の中にあろうとは思えない。
家の中は、もうすっかり戸締りをしているせいで、ほの暗かった。
「車は来てるのか」
「ええ、表に」
「じゃ、千香を呼んで来たらどうだ?」
「そうね。友達といると時間を忘れてしまうでしょうし、それに奥さんにもご|挨《あい》|拶《さつ》をして来ないとね」
「よろしく言ってくれ」
美紀子が玄関に鍵をかけると、急ぎ足で歩いて行った。古市は、表に停っているタクシーの中を覗き込んだ。運転手が眠り込んでいる。
古市は、ふっと微笑んだ。そろそろ夕方になりかけて、空が紫色に変りつつあった。
静かだった。空を見上げて、古市は大きく息をついた。深呼吸しても、東京の空気は、|鉛《なまり》を溶かしたように、ただ重苦しい。
「――千香、もう失礼しましょう」
美紀子は、ソファから立ち上って、知美と話の|尽《つ》きない千香を促した。
知美の母にすすめられるままに、上り込んで、つい話し込んでしまった。
「じゃ、手紙書くからね」
と千香は|涙《なみだ》ぐみながら、知美の手を|握《にぎ》った。
「電話もときどきはね」
知美の方は千香より涙もろい。もう三十分ばかり泣きっ放しだった。
「さあ、行きましょう」
「いやねえ、この子は」
と知美の母が笑って、「もう二度と会えないってわけでもないのに」
千香と美紀子は、植草家を出たものの手を振る知美に、いつまでも千香が振り返っているので、すぐ近くの距離を五、六分かかって、やっと自分の家の前まで戻った。
タクシーが停っているが、古市の姿が見えなかった。
「お父さんは?」
「変ね。また戻ったのかしら?」
「タクシーの中にいるみたい」
千香が、後ろのドアを開けて、「――お父さん!」
と叫んだ。
古市は、座席にもたれて、目を閉じていた。胸にナイフが突き立って、流れ出た血が腹の辺りまでを染めている。
「お父さん……誰が……」
千香はその場に座り込んだ。美紀子は、じっと言葉もなく、その場に立ちすくんでいた。
「あーあ」
突然声がして、千香と美紀子は身をすくめた。――運転手が|欠伸《 あくび》をしながら、目をさまして、
「ああ、眠っちまった。もういいんですか、奥さん?――奥さん」
運転手は不思議そうに、美紀子と千香の顔を|交《こう》|互《ご》に眺めていた。
肩に触れる手があった。
久仁子は、目を覚ました。――かがみ込んだ男の顔が間近にあって、ギクリとした。
「時間だよ、お嬢さん」
「剣持さん……」
久仁子はベッドに起き上った。「ああ、びっくりした」
「|揺《ゆ》さぶられるまで起きないんじゃ、殺されてるぞ」
「寝てるうちに殺されりゃ楽でいいわ」
と久仁子は言い返した。剣持は、軽く笑って、
「表で待ってる」
と、部屋を出て行った。
ここは首相官邸の地階、警備員の仮眠室である。久仁子は、夜の番に当ったときには、夕方、ここで少し眠ることにしていた。
久仁子は欠伸をしながら、赤のブレザーを着て、ベルトを締めた。ホルスターを肩からかけたベルトへ通し、腰に落ち着かせる。
洗面所へ行って顔を洗ってから、久仁子は表へ出て行った。
「もう時間ですか」
と、|廊《ろう》|下《か》に立っている剣持へ声をかける。
「まだ十五分ある。眠気ざましにコーヒーでも飲むか」
「ええ」
久仁子は、剣持と一緒に、廊下を歩いて行った。
古めかしい石造りだった官邸も、滝首相になってから、全くモダンな建物に変身した。もっとも、滝首相が気にしたのはまず防犯――テロや|襲撃《しゅうげき》に対して、|旧《ふる》い官邸が無防備だという点だったらしい。
その点、この新しい官邸は、見かけこそ小ぎれいな、それほど変哲のない建物だが、様々な防犯装置と、ちょっとした爆弾にはびくともしない、|堅《けん》|牢《ろう》さを誇っていた。
剣持と久仁子は、集中|監《かん》|視《し》室へ入って行った。ブラウン管と様々な色のランプが、今の官邸の状況を映し出している。
「やあ、ご苦労さま」
と監視員が二人を見て微笑んだ。
「コーヒーをもらうよ」
「どうぞ」
剣持が、ポットのコーヒーをポリエチレンのコップに入れて、久仁子へ手渡した。
「ありがとう」
久仁子は、両手でコップを持つと、ゆっくりとすすりながら、ずらりと並んだブラウン管に映し出された、邸内のあちこちを眺めた。高感度のカメラが至る所に仕掛けてあって、このモニターテレビですぐに侵入者を発見するようになっているのだ。
久仁子が、官邸の警備に他の二人のプロメテウスの隊員と共に加わって、一週間が過ぎた。しかし、滝首相に近付くどころか、その姿を|垣《かい》|間《ま》|見《み》ることさえなかった。
ともかく、官邸の警備は厳重を極めて、久仁子たちが|巡回《じゅんかい》するのは、形式に過ぎない、という感じだった。
「正に形式さ」
一緒に巡回をしていて、話をするようになった剣持はそう言った。「人間、偉くなるほど形式が好きになるもんだ」
不思議な男だった。どこか孤独な|影《かげ》を引きずっているようで、底の知れないところがある。
「――あら、車が」
ブラウン管を見て、久仁子は言った。
裏門を映し出したブラウン管に、|黒《くろ》|塗《ぬ》りのベンツが映っていた。
裏門の警備員が中を覗いて、カメラの方へ手を上げて見せる。監視員がパネルのボタンを押すと、画面には出ないが、|扉《とびら》が開いたのだろう、車は官邸の中へ乗り入れて来る。
久仁子の目が、裏庭の画面へ移った。車は官邸の中の地下|駐車場《ちゅうしゃじょう》へ入って行った。
「誰なのかしら、こんな時間に」
と久仁子は言った。「首相はいらっしゃらないはずでしょう」
「あれはね」
と監視員が言った。「|植《うえ》|田《だ》|美《み》|那《な》|子《こ》だよ」
「植田美那子……。あの評論家の?」
元女優で、今はタレント風評論家というか、評論家風タレントというか、微妙なところにいる、三十五、六の、なかなかの美人であった。
「そうそう。その女だよ」
「どうしてこんな夜に?」
「彼女、首相の恋人でね」
「ええ? 本当?」
「|内《ない》|緒《しょ》だよ」
と監視員がウインクしてみせる。
「わあ、面白い」
久仁子は、地下駐車場の画面を見つめた。
運転手がドアを開けると、ちょっと派手なコートをはおった女が降りて来た。
「あれがそう?」
「そうだよ、アップにしてあげようか」
監視員がカメラの操作ボタンを押した。カメラがズームして、女の顔を映し出す。
「本当だ! 植田美那子だわ」
地下駐車場で、カメラが植田美那子をクローズアップしているとき、車のトランクが静かに開いて、一人の男が、布の包みをかかえて|滑《すべ》り出していた。男はそのままベンツの下へと|這《は》って行った。
カメラは、植田美那子を追って、ゆっくり首を振った。
車にもたれて、タバコに火を点けていた運転手は、ふと物音に|振《ふ》り返った。頭上に何かが振り下ろされて、運転手は声もなく|崩《くず》れた。
男は運転手を車の中へ押し込み、カメラを見た。ゆっくりとカメラの目が|戻《もど》って来る。男はカメラの真下へ向って突っ走った。
画面は、再び駐車場の全景を広角レンズで映し出していた。
「じゃ、首相は私邸にお帰りになっていないんですか」
「今夜はね。たいてい週に一度はこうだよ。相手の女性はときどき変るけどね。今のところ彼女が半年ぐらい続いてるかな」
「へえ」
久仁子とて女の子である。その手の話題は|嫌《きら》いではない。
「首相のお部屋にモニターカメラがあればいいのに」
「君、|凄《すご》いこと言うね」
と監視員が笑った。
久仁子は、三階の廊下に、あの女が歩いている姿を見付けた。首相の私室があるのだ。
ドアの前に立ってノックしている。すぐにドアが開いて、彼女の姿は中へ消えた。
今夜は、首相がここにいるのだ。
「――さ、巡回の時間だ」
と、剣持が言った。
二人は、官邸の一階へと出て行った。
後は決められたコースで、邸内を回るのである。
「|馬《ば》|鹿《か》らしくならないかね」
と剣持が歩きながら言った。
「え?」
「いや、必要もないのに、こうやって歩き回って、さ」
「任務ですもの」
「首相が女を連れ込んで汗をかいてるのを護衛するのが、かい? 僕は馬鹿らしくてたまらないよ」
久仁子はつい笑ってしまった。
「そんなこと言っていいんですか」
「大丈夫。カメラにマイクはついちゃいないからな」
二人は広大な官邸の中を歩いて行った。
「剣持さんって変ってますね」
「そうかい?」
「秘密警察の方なんでしょ?」
「誰かに聞いた?」
「|噂《うわさ》です。女の子は噂の感度は|抜《ばつ》|群《ぐん》なのよ」
「君も変ってる」
「私が?」
「他のプロメテウスの馬鹿娘どもとは一人だけ違ってるよ」
「まあ、馬鹿だなんて」
「目を見りゃ分るよ。少しおかしい目つきさ、みんな」
「私は?」
「君は違うな。冷静な、優しい目をしている。どうしてプロメテウスに入ったのか、それこそ変ってる」
「父の関係です」
「それだけじゃあるまい」
「じゃ、何だとおっしゃるんですか」
「分らないな」
剣持は首を振った。「君はしかし、本当はプロメテウスの仕事を喜んでいないように見えるね」
「どうぞご自由に」
久仁子は、ごまかした。――どういうつもりなのだろう。この男は、私を|怪《あや》しんでいるのかしら?
しかし、本当に怪しんでいるのなら、こんな、相手を警戒させるようなことを言うだろうか?
ともかく、久仁子は、何とかして一人になりたかった。そうすれば三階へ行って、首相を射殺するチャンスもあるかもしれない。
しかし、この剣持と一緒では不可能だった。剣持を殺すことは問題外だ。できればやってもいいが、剣持の様子は、かなりいい加減に見えて、その実、|鍛《きた》え上げられた|隙《すき》のなさ、というものを感じさせられる。
とても久仁子などでどうなる相手ではなかった。
チャンスには違いないが、大きな壁は、剣持と、そしてあのTVカメラだ。
二人が廊下を|辿《たど》って行くと、カメラが、常に首を振って追い続けるのだ。もし、|巧《うま》く一人になって三階へ行けたとしても、カメラに|捉《とら》えられればすぐに怪しまれる。誰かが駆けつける前に、首相の部屋へ行ってドアを破り、中の首相を殺せるだろうか? もし、それがだめでも、首相の近くまで行って死ねれば、それでいい。
死ねれば、である。もし、生きて逮捕されたらどうなるか。どんな運命が待っているのだろうか。
しかし、ともかく、今夜が一つのチャンスなのだ。今でなくては、というわけではない。しかし、これを逃せば、もう二度とこんな好機は訪れないかもしれないのだ。むだに死んではならない。しかし、死を|怖《おそ》れたら、機会を|逸《いっ》する。
今思えば父の会社で滝と食事をした、あのときが絶好の機会だった。しかし、まだ心の準備も何もできていなかったのだ。父を一緒に殺すこともためらわれた。また機会はある、と思い止まってしまったのだ……。
「おっと」
ピーッという音に、剣持が舌打ちした。
「何ですか?」
「呼出しだ」
剣持は、背広のポケットから、超小型の発信機を取り出し、ボタンを押した。「ちょっと地下へ行って来る。君、一人でやっていてくれるか」
「はい」
「早く済んだら追いつくよ」
剣持はそう言って、廊下を戻って行った。
久仁子は、|鼓《こ》|動《どう》の早まるのを感じた。|頬《ほお》に血が昇って、熱い。
絶好のチャンスだ。後はカメラさえどうにかできれば……。立ち止っていてはいけない! 久仁子は歩き始めた。カメラが、じっと、怪しい人影を目で追う番犬のように、彼女の動きにつれて首を振った。
監視員は、久仁子が一人で歩き出すのを、ぼんやりと眺めていた。
|可《か》|愛《わい》い娘だな。|小《こ》|柄《がら》だが、|裸《はだか》にしたら、結構いい体をしているだろう。
プロメテウスの処女、なんていうが、本当に処女かしら? いや、まさか! 今の女の子で、あの年頃まで処女なんてことがあるはずはない。
しかし、一度昼食でも誘ってみるかな。誘うだけなら悪いことはあるまい。
何しろ金持の娘だからな。うまく夢中にさせりゃ|大《おお》|儲《もう》けできるかもしれねえ……。
監視員は、手もとのスイッチで、久仁子の顔をズームアップした。――可愛い顔だ。
監視員がニヤリと笑って首を振る。そのとき、TVの画面も、パネルの照明も、全部が消えた。
おかしい。
久仁子はカメラを見上げて、足を止めた。カメラがこっちを向いていない。――今、通って来た方へ向いたきり、動かないのだ。
あのカメラは、動く物を見付けると、それが人間かどうかを判別して、ちゃんと追いかけて捉えるようにできているのだ。それが、動かない。
久仁子は先へ進んで行った。次のカメラがこっちを向いている。久仁子は足を進めた。カメラはびくともしない。
久仁子は小走りに次のカメラへ向った。それも動かない! 故障か?――ともかく、今だ! 久仁子は階段へと走った。
二階、三階。一気に|駆《か》け上って、ピタリと足を止める。
一階だけの故障かもしれない。そっと、久仁子は三階の廊下へ踏み出した。
カメラは、微動だにしない。誰もかけつけて来ない。
久仁子は足を早めた。――どの部屋だろう? 首相の私室は、久仁子も見たことがない。
この三階は、巡回のルートから外されているのだ。
どこだ? 久仁子は廊下を進んで行った。早く見付けなくては、故障が直るかもしれないし、警備員が万一のためにやって来るかもしれない。
廊下をどんどん進んで行った。もうカメラの方へは目もくれない。ここまで来たら、もうやるだけだ!
久仁子は、突然、さっきのTVで見た場所に出ている自分に気付いた。
カメラは、まだそっぽを向いたままだ。
あのドアだ。確かそうだ。
久仁子はドアの外に立って、そっと耳を押し当てた。
女の、|喘《あえ》ぐ声が、低く伝わって来る。――久仁子の額に|汗《あせ》が|吹《ふ》き出した。今、この中に滝首相がいるのだ!
久仁子は|拳銃《けんじゅう》を抜いた。手が汗でじっとりと|濡《ぬ》れていた。
ドアのノブへ手をかける。そっと回して、引いた。――開いている!
信じられない思いだった。一瞬、|罠《わな》かと思った。しかし、この官邸そのものが、|完《かん》|璧《ぺき》に警備されているのだ。
鍵がかかっていなくてもおかしくはない。
女の喘ぐ声が、はっきりと|洩《も》れて来る。久仁子は拳銃を握りしめた。――安全装置! 急いで安全装置を外す。
足が震えた。汗が、こめかみから、額から流れる。――早くやらなくては。早く!
そっとドアを開いて行く。
突然、背後に足音がした。振り向くと、男が一人、廊下の角を曲って現れた。ライフルを手にして、ジャンパーにジーパンというスタイルだった。
一瞬、久仁子とその男は立ちすくんだ。
男がライフルを構えた。――撃たれる! 久仁子は後ずさろうとして、よろけて倒れた。
ライフルが火を吹いた。ドアの板が|削《けず》れて、破片が久仁子の頬を切った。
「いや! やめて!」
久仁子は夢中で叫んでいた。ライフルがたて続けに火を|噴《ふ》いた。
やめて、やめて、私は――。言葉にならない。死の|恐怖《きょうふ》が久仁子を圧倒した。今死んだら――今は――今はだめ!
久仁子は拳銃の引金を引いていた。ライフルとは比較にならない小さな叫びのような銃声が三度、鳴った。
男が、不意によろけた。ライフルの銃口が床へ向いた。もう一度ライフルが火を噴き出して、銃身がはね上った。
同時に久仁子は、頬に焼けつくような痛みを感じて、顔をそらした。目の前が真っ赤に焼けた。
そしてその紅が、暗く、黒へと溶けて行く。
死ぬのか、と思った。――それならそれでいい。死ねばいい。これでいい……。
「久仁子……」
どこかで聞いた声がする。「久仁子。私だよ」
お父さん。――お父さんの声だ。
不意に、視野が、くっきりと|焦点《しょうてん》を結んだ。父の顔があった。
「分るか、久仁子?」
「お父さん……」
「大丈夫だ。もう心配ないぞ」
ゆっくり顔をめぐらそうとすると、左の頬に鋭い痛みが走った。
「銃弾で傷を負ったんだ。しかし、大したことはない」
病室だった。――しかし、広い個室で、まるでホテルの一室かと思うばかりだった。
「私は……生きてるのね」
「当り前だよ」
二宮は笑って、「じきに退院できるぞ。それに|傷《きず》|痕《あと》は、整形手術をすれば、ほとんど分らないくらいになるそうだ」
「――首相は?」
「無事だよ。お前が助けたんだ。見ろ、これを」
二宮が、新聞の一面を久仁子の目の前へ差し出した。〈プロメテウスの処女、首相を救う――テロリストを射殺、自らも負傷〉
カラーの、久仁子の写真が、大きく一面を飾っていた。プロメテウスの制服姿で、おそらく、国立会館の警備のときにでも撮られたもののようだった。
「首相がお前に感謝していたぞ。ぜひ一度見舞に来る、と言っていた。よくやったな。おかげで二宮商事の株がはね上ったよ」
と、二宮は笑った。「お前の|小《こ》|遣《づか》いもあげてやるか」
「あの人は?」
「誰だね?」
「ライフルの……」
「テロリストか。死んだよ」
そうか。新聞の見出しに〈射殺〉とあったのだった。
「私が――殺したのね」
「当然のことだ。気にするな」
久仁子は、天井をじっと見つめた。
「何かほしい物があれば言いなさい。別に病気じゃないんだ。何でも食べられる」
「そうね……」
「この病室はどうだ? |凄《すご》いだろう? ここはVIP用の最高の部屋なんだ。首相が特にここを使うようにと言って下さったんだよ。――腹は空かないか?」
「そうね……」
「どうだ、ここでマキシムのフルコースでも? 持って来させよう」
久仁子は笑い出した。
「おい、傷口が開くぞ」
久仁子は笑い続けた。――傷が痛んだ。しかし、構わずに、久仁子は笑い続けた。
第四章 |炎《ほのお》の終結
冷たい雨が、|日《ひ》|比《び》|谷《や》の映画街を濡らしていた。――夜、六時半。
「異常ないか?」
日比谷シネマポートの支配人、|川《かわ》|口《ぐち》は、映画館の入口へやって来ると、背広姿のガードマンに|訊《き》いた。
「ありません」
「そうか」
川口は、安心しながらも、不安が胸の中で|増殖《ぞうしょく》して行くという、|矛盾《むじゅん》した感情を味わっていた。もう、大分うすら寒い日だったが、川口ははげ上った額の汗を、ハンカチで|拭《ぬぐ》った。
「川口さん」
二階席へ行く階段から、映画評論家の|堀《ほり》|喜《よし》|哉《や》が降りて来た。
「あ、どうも、堀先生。おいででしたか」
川口は急いで歩いて行った。
「つい、さっきね」
「気が付きませんで、失礼しました」
「いや、いいんですよ」
五十がらみ、映画評論家としてはかなり名も通り、特にTVで顔の売れた堀は、川口と長い付き合いだった。
「よかったですね、大入りだ」
「ありがとうございます。先生のおかげで」
「いやいや、僕なんか大して力にもなれませんがね」
と堀は、あまり|柄《がら》にもなく、|謙《けん》|遜《そん》した。
「最終回でほぼ一杯ですからね。この分なら|充分《じゅうぶん》に採算は取れそうです」
川口はこの「黒い炎」の出資者の一人でもある。実際、大入り満員になってやっと赤字を出さずに済むという状態だったから、この初日の入りに救われた思いでいるのは確かだった。
映画産業も、TVがシネマスコープタイプの|薄《うす》|型《がた》になってからは、|衰《すい》|退《たい》するばかりだったが、このところ、安上りなビデオテープでなく、金はかかるが、旧来のフィルムを使った、本物の〈映像〉の魅力が再評価されて、やっと力を盛り返しつつあった。
長くTVドラマで生活費を|稼《かせ》いでいた古くからの映画監督たちも、やっと映画の世界に戻って来た。
もちろん、いつの時代も、大当りするのは金をふんだんにかけたアメリカの|娯《ご》|楽《らく》映画で、ヨーロッパの地味な映画は|滅《めっ》|多《た》に輸入されることもなかったが、本当の愛好家たちの手で、自主上映という形で細々と公開のルートを保っていた。
ポルノの規制が厳しくなって、群小プロダクションは次々に|潰《つぶ》れた。アングラ的に活動を続ける者もあったが、今、当局の目を逃れるのは、ほとんど不可能に近い。ほとんどが逮捕され、また自ら映画を捨てて行った。
「|妨《ぼう》|害《がい》はなかったんですか?」
と、堀が訊いた。
「ええ、今のところ、全く」
「そいつは良かった」
「|却《かえ》って心配なんですがね」
と、川口は、灰色の雨が降り続ける表を眺めながら言った。
「考えすぎですよ」
と堀が笑う。
しかし、川口にも、堀がこんな時間にやって来たのは、妨害や襲撃を予想して、巻き添えになるのを避けたからだ、というのが分っていた。まあいい。――とかくインテリというのは、安全な所からだけ、勇気のある発言をするものなのだ。
「黒い炎」は、日本をファシズムが|覆《おお》いつくした、太平洋戦争、日中戦争下の日本で、迫害され、殺されて行った作家や思想家たちを|描《えが》いたドラマである。当然、右翼や政府からの脅迫や圧力はある。
しかし、今、川口が一番心配しているのはプロメテウスだった。――脅迫も警告もない。いきなりやって来て、破壊して行く。
初日の朝、一回目がまず危いと思っていた。だからこそ、わざわざ臨時にガードマンを|雇《やと》っておいた。もちろん、ガードマンもプロメテウスに逆らうことはできない。しかし、少なくとも、観客を安全に逃がしたり、フィルムを運び出すことはできるのではないか、と思ったのである。
だが、今日一日、何の波乱もない。――こんなことがあるだろうか?
「プロメテウスが心配ですか」
と、堀が言った。
「ええ。お察しの通りです」
「全く……妙な世の中になったものですな」
「今日やって来るんじゃないか、と……」
「|忙《いそが》しいんじゃないですか、方々、駆け回ってるから」
「このところ目立ちますね。ほとんど報道されないから、完全には分らないが」
「僕の友人に政治記者がいましてね」
と、堀は少し声を低めた。「そいつが言っていたんだが、プロメテウスのメンバーが、このところ、大分入れかわっているらしい」
「隊長が代ったと新聞で見ましたよ。この前、首相の命を救った|娘《むすめ》が隊長に就任したとか………」
「二宮商事の二宮武哉の娘ですね。――いや、その友人が言うには、プロメテウスの隊員たちは、大体が一流企業の幹部の娘でしょう。しかし、どの企業でも、というわけじゃない。今まではある|財《ざい》|閥《ばつ》系の企業が多かった。ところが今度、隊員が入れかわって行くのを見ていると、別の系列の企業でほぼ占められている、というんですよ」
「経済界の事情が|絡《から》んでいるわけですか」
「おそらくね。あれは滝政権への忠誠を示す踏み絵のようなものですからな」
「若い娘たちを使うというのが、どうも気に入りませんねえ」
と、川口は苦々しげに首を振った。
「考えようによっては、アイディアですよ。純潔な乙女たち――かどうか知りませんが、権力を持った子供ほど怖いものはない。|一《いち》|途《ず》に信じ込んでいるだろうし、うわべは確かに純粋に見える。これがいい|年《と》|齢《し》をした大人たちがやったら、暴力団ですからね」
堀はそう言って、|肩《かた》をそびやかし、「まあ、関り合いにならないのが得策ですよ」
そう言ってから、ふと気付いたように、
「|永《なが》|田《た》さんは?」
と訊いた。「黒い炎」の|監《かん》|督《とく》、永田|繁《しげ》|和《かず》のことである。
「夕方電話して、成功だったと伝えておきました。最終回に、間に合えば来ると言っていたんですがね」
「永田さんも十年ぶりだものな。|嬉《うれ》しいでしょう。たぶん、もうこんな大作は撮れないだろうし……」
「もう七十五ですからね。よくこれを撮り上げましたよ」
川口は、雨の降りやまぬ表を、じっと眺めやった。
車が停った。――ドアが開いて、レインコートをはおった、|白《しら》|髪《が》の男が、雨を|避《さ》けるように、首をすぼめながら降りて来た。
「永田さんだ!――監督!」
川口は、駆け出した。
「やあ、どうも……」
少し足もとの危くなりかけている、七十五歳の老監督は、映画館へ入って来ると、息をついた。
「おめでとうございます」
堀が永田の手を握る。
「どうもありがとう。――音はどうかな?」
「充分いい音がしてますよ」
「そうか。何しろ気に入らなくて、三日前まで入れ直してたんだ。客の反応はどう?」
「食い入るように見てますよ」
「ちょっと間伸びするところがあるような気がしてね。――いつになっても、自信作なんてできないもんだ」
永田は照れたように笑った。|頬《ほお》は嬉しそうに染まっていた。
「どうです。後三十分ぐらいだが、見ますか?」
「いや、他の人の|邪《じゃ》|魔《ま》はしたくない。またにするよ。――何か問題はなかった?」
「今のところは静かなもんです」
と川口が言った。堀が川口の腕をつかんだ。
まるで手品か何かのように、映画館の入口に、赤い制服の列が広がっていた。
「プロメテウスだ……」
堀は、後ずさった。永田は入口に立ちはだかるかのように、両足を広げて立った。
「監督、ここは私に。危いですよ!」
川口が|囁《ささや》いた。だが、永田は動かなかった。
プロメテウスの列の、一番前に立っていた娘が、ゆっくりと進み出て来た。
「――永田繁和監督ですね」
「そうだ」
「プロメテウスの隊長です。そこをどいて下さい。けがをしますよ」
「君らはどういうつもりか知らんが――」
と言いかける永田を、川口は押し止めた。
「監督、ともかく|一《いっ》|旦《たん》引き上げて下さい!」
「断る」
永田は言った。「あのフィルムは私の命と同じだ。それを殺す[#「殺す」に傍点]気なら、私を殺すのと同じことだ」
プロメテウスの隊長は、一歩退いて、クルリと振り向いた。赤い制服の隊列が、一瞬のうちに映画館の中へなだれ込んだ。
「――監督!」
と川口が、叫んだ。
「出て行け!」
永田は、よろけながら、顔を真赤にして叫んだ。「お前らのような連中に、何が分る! この|気《き》|狂《ちが》いどもが!」
裏口のほうからも、同時に他の隊員たちが、押し入っていた。
――二宮久仁子は、表に立っていた。真直ぐに、胸を張って、軽く両足を踏んばり、両手を後ろに組んでいた。
|湧《わ》き起こる悲鳴、ガラスの割れる音、銃声……。
観客たちが、我先に飛び出して来た。そして、映画館を出ると、目の前の久仁子にギョッとしたように足を止め、あわてて、左右へ分れて行く。
混乱はしばらく続いた。――もうすっかり、慣れた、と久仁子は思った。
東昌子から隊長を引き継いで、どれだけの任務をこなしたか、自分でも記憶になかった。
破壊、そして逃げ|惑《まど》う人々。次第に、そんなことには何の興奮も覚えなくなっていた。
あのテロリストを射殺し、滝の命を救って、英雄になって以来、久仁子は総てに興味を失ってしまったようだった。
あの後、滝と会う機会もあった。病院に、滝が見舞に来たのだ。もちろん、カメラマンの列に取り囲まれ、滝が久仁子と|握《あく》|手《しゅ》している写真が、あらゆる新聞、雑誌に|載《の》り、TVの電波にのった。
そしてもう一度、プロメテウスの第二代隊長に任命されたとき、滝の手で、隊長のバッジをつけてもらっている。
やる気になれば、できたのだ。――だが、今の久仁子には、暗殺も抵抗も、空しいことのように思えた。
滝一人を殺して、どうなるというのだろう。日本が急に変るのか。いや、誰かが滝の席に座り、そして何も変るまい。ただ、一層、反政府運動への弾圧が強化されるだけだろう。
そんなことのために、なぜ死ぬのか。
「――隊長」
映画館の中から、長田加奈子が駆け出て来た。「大体片付きました」
久仁子は、中へ入って行った。――売店、ロビーなどは、めちゃくちゃになっている。壁の絵や写真のパネルも、|叩《たた》き落とされていた。
「フィルムは|没収《ぼっしゅう》しました」
と加奈子が言った。
「明日、他にプリントがないかどうか調べて来て」
「はい」
久仁子は、客席の方へと入って行った。
明りが点いて、人っ子一人いなくなった空間に、まだ叫びや泣き声が|反響《はんきょう》しているようだった。
「客にけがは?」
「二、三人が押し倒されて負傷したくらいです」
「そう」
久仁子は、スクリーンを見つめた。幕は開いたままで、白いスクリーンが、巨大な窓のように見えた。|空《くう》|虚《きょ》を映し出しているスクリーン。
じっと見つめていると、何かが映っているようにも思えて来る。
「加奈子」
「はい」
「スクリーンに火をつけて」
と久仁子は言った。
ロビーに出て、久仁子は出口の方へ歩きかけたが、階段の下に、支配人の川口の姿を見て足を止めた。誰かの上にかがみ込んでいる。
歩み寄って行くと、永田が倒れているのだった。
「具合が悪いの?」
と久仁子が訊いた。「病院に運ばせましょう」
川口が顔を上げた。涙で頬が光っている。久仁子は、永田の顔に、もう生気の絶えているのを見て取った。
「心臓が……弱っていた」
川口が声を震わせた。「いつ死んでもいいという気持で……あれを撮っていたんだ。それを……貴様たちは!」
久仁子は、何か言いかけて、口をつぐんだ。――死んでしまった人間に、何を言ってもむだなことだ。
「隊長、行きませんか」
と、加奈子が声をかけて来る。
「今行くわ」
久仁子は振り返りつつ、その場を離れた。途中、扉を開けて、客席を覗いてみた。スクリーンを、赤い炎がなめながら、ゆっくりと上へ上へ、のび上って行く。裏側のスピーカーが、むき出しに見えていた。
温度を感知して、スプリンクラーが|一《いっ》|斉《せい》に作動した。
シューッという音と共に、白い|霧《きり》が客席の空間一杯に立ちこめた。久仁子の顔にも、細かい|水《すい》|滴《てき》が吹きつけて来た。
映画館を出ると、隊長用の車が、ドアを開けて待っていた。以前はジープだったが、今は特別に作られた車で、外見は普通の車に近いが、真赤に塗られて、かつ防弾|装《そう》|甲《こう》になっている。
「――ご自宅でよろしいですか」
運転しているのは、運転手の水上だった。
「本部まで一旦帰るわ」
と久仁子は言った。
隊長車が走り出すと、隊員たちを乗せた小型のバスがそれについて走り出した。
「隊長」
一緒に乗っている加奈子が言った。「あの年寄りは誰ですか? 入口の所に突っ立ってた」
「監督の永田繁和よ。知ってる?」
「知りません」
「そう。――もう、ここ十年ぐらい映画を|撮《と》ってなかったからね。あの人の〈水底の太陽〉や〈|蒼《あお》ざめた明日〉なんか、よく観たわ」
「そうですか。あんなもの、作らなきゃいいのに」
「そうね」
久仁子は窓の外へ目を向けた。不意に涙が浮んで来たのである。――何の涙か、自分でもよく分らなかった。
永田が死んだことが悲しいのではない。そうではなかった。ただ、何かが、久仁子の内側で、|喚《わめ》き出していたのだ。
「――遅かったな」
家へ帰ると、父親が、ブランデーを飲みながら、書類を見ていた。
「仕事のこと以外、何か考えられないの?」
久仁子はからかうように言って、父親の手から、ブランデーのグラスを取り上げ、一気に飲み干した。
「おいおい――」
「私だって強くなったのよ」
久仁子は制服のまま、ソファに横になった。
「首相が、プロメテウスのことを|賞《ほ》めていたぞ」
「ありがたい話ね」
「お前が隊長になってから、ますます気に入っているようだ」
久仁子は答えずに|天井《てんじょう》を見上げた。少し間を置いて、二宮が言った。
「そうだ。重松君から電話があったぞ」
「重松君から?」
久仁子は起き上った。
「そうだ。一時間ばかり前かな」
「何か言ってた?」
「電話してくれとか言っていたよ」
「どうしてすぐ言わないのよ!」
久仁子は飛び起きて、二階の自分の部屋へ|駆《か》け上った。
もう重松から見捨てられたと思っていたのだ。その彼から電話である。
制服を脱ぎ捨てると、ガウンだけはおって、電話に手をのばした。
番号はもちろん忘れていない。
「――重松です」
母親が出た。
「あの……二宮久仁子です」
「まあ、久仁子さん。わざわざすみません」
母親の愛想のいい声に、久仁子はホッとした。
「卓也さんは――」
「おります。ちょっとお待ち下さい」
電話の所まで来ていたのだろう。すぐに彼の声に変った。
「やあ。久しぶりだね」
「うん。――もう振られたのかと思ってたわ」
「何言ってるんだ」
重松は照れたように言った。
「でも、一時遠ざかったのは、本当でしょ?」
「そう……。何しろ君は|偉《えら》くなっちゃったからなあ」
「やめてよ。別に――好きでやってるわけじゃないわ。あなた、元気?」
「うん、元気だよ」
「何か……用で電話して来たの?」
「いや……用っていうかな……君の声も聞きたかったし、それに知らせたいこともあってね」
「あら、まさか他の女性と婚約した、なんて言うんじゃないでしょうね」
「よせよ、忙しくって、それどころじゃない」
「仕事が?」
「うん。今度ね、主任になったんだ。最年少だよ」
「凄いじゃないの」
「この間出した特許がね、優秀と認められて。高く売れたんだ」
「才能ね。おめでとう」
「それに機会だな。――僕は君のお父さんのことをずいぶん悪く言ったりしたけど、兵器へ移ってみてよく分ったよ」
「どういうこと?」
「こういう研究も必要だってことさ。現実に戦争があるんだからね。兵器を造るのも売るのも、自分がやらなきゃ、他の誰かがやるんだ。そう思えば同じことさ」
久仁子は、何も言わずに聞いていた。重松は続けて、
「それにね、研究室の空気が全然違うんだ。あれに比べりゃ、今までやってたことなんて子供のままごとだよ。何しろピンと張りつめてて、つまらない雑用で|煩《わずら》わされることなんかない。研究員は一人に一台、コンピューターを自由に使えるんだぜ! 前みたいに順番待ちで何日もむだにすることもない。それにね、優秀なのが|揃《そろ》ってるだろ。もう討論したって話をしてたって、どんどん先へ進んで行くんだ。いちいち、年取ってよく分らない上役に説明する必要もない。会議の中味の|濃《こ》いことと来たら、前の百倍ぐらいだな。本当に面白いし、一日があっという間さ」
重松はしゃべり続けた。「材料だって好きなだけ使える。失敗しても平気でポイポイ捨てちまうしね。ぜいたくなんだよ、本当に。それで主任だろ。給料も倍以上さ。倍だよ! 聞いてびっくりしちゃった。今度、車を買い替えるからね。そしたら、ドライブに行かないか。どうだい?――もしもし。――もしもし?」
「聞いてるわ」
「何だ、|黙《だま》ってるから……。一人でしゃべりすぎちゃったな。今度の日曜、空いてないか?」
「分らないの、まだ、ちょっと……」
「そうか。隊長さんだものな。何となく知れ渡っててさ、君のこと。よく上司にも言われるんだ。今度プロメテウス用の秘密兵器でも作ってやろうか」
「そうね」
「また電話するよ」
「ええ……」
「さっき、お父さんとちょっとしゃべったんだ。一度一緒に食事でもしようって言ってたよ。じゃ、また」
「さよなら」
久仁子は受話器を戻すと、そのままベッドに向って走って行った。そして、|枕《まくら》に顔を埋めると、泣いた。声を上げ、身をよじって、泣き続けた。
チャイムを鳴らすと、少しして、
「はい、どなた?」
と聞き|憶《おぼ》えのある声がした。
円谷恭子は、インタホンへ呼びかけようとして、ためらった。
「どなた?」
くり返し訊く声がする。
だめだ。――帰るんだ。恭子は、歩き始めた。
背後でドアが開いた。
「恭子! どうしたのよ」
振り向くと、旧友の|真《さな》|田《だ》|裕《ゆう》|子《こ》が――今は結婚して|片《かた》|岡《おか》裕子になっている――サンダルを引っかけて出て来た。
「久しぶりねえ!」
「そうね……」
恭子はためらいがちに言った。「上ってもいいかしら?」
「当り前よ。何言ってんの」
裕子は、恭子の手を引張った。
ごく平凡なマンションである。――恭子は、ソファに座ると、体中の疲れが一気に出て来るのが分った。
「よく来てくれたわね」
と裕子は、急いで紅茶を出しながら、「心配してたのよ、あなたのこと、主人と二人で」
「知ってるんでしょ、私が……」
「手配されてること? もちろんよ。どこでどうしてるのかと思ってね。――どこにいたの?」
「あちこちよ。友達の所に一晩だけ泊めてもらったり、公園で寝たり……」
「恭子、ひどい顔してるわね」
と、裕子は首を振った。「ろくに食べてないんじゃないの?」
「うん、まあね……」
「待って、夕食の|冷《れい》|凍《とう》パックがあるから。すぐに解凍してあげる」
「悪いわね」
と恭子は言った。「すぐ出て行くから……」
「何を言ってんのよ。友達じゃない」
「迷惑がかかるわ」
「今の警察なんて、頭へ来ることばっかりじゃない。ちっとは鼻をあかしてやらなくちゃね」
電子レンジが鳴って、夕食の|献《こん》|立《だて》のパックが、温まった。裕子が仕度してくれると、恭子はあっという間に平らげてしまった。
「もっと食べる?」
「いいえ、大丈夫。――お茶をちょうだい」
「どうぞ。――ずいぶん食べてなかったんじゃないの?」
「この三日間、ほとんどね」
「ひどい……。早く来ればいいのに」
「何しろ買物したくても、カードを使えばすぐに分っちゃうでしょう。仕方ないから、少しずつ万引してね。――よく捕まらなかったわ」
「ここにいる間は大丈夫よ。安心して」
と、裕子は、学生の頃そのままの、丸っこい顔に笑みを浮かべて言った。
「そうはいかないわ」
恭子は、そう言って息をついた。「あなたやご主人が、困ったことになるもの」
「平気よ。主人は私の言うなりで、|抵《てい》|抗《こう》するほどの気力はないわよ」
「ひどいわねえ」
恭子は笑った。
「ほら、やっと笑って恭子らしくなった。疲れてるんでしょ? 寝たら?」
「そうね……。それより、お|風《ふ》|呂《ろ》へ入りたいんだけど」
「ああ、いいわよ。じゃ、服も|着《き》|替《が》えなさいよ。私のをあげるから」
「そんなことまで……」
「いいじゃないの。お互い様よ」
裕子は浴室へ行くと、|浴《よく》|槽《そう》へ湯を出して、戻って来た。
「すぐ一杯になるわ。何しろ小さなお風呂だから。ゆっくり入って」
「ありがとう。恩に着るわ」
「|馬《ば》|鹿《か》ねえ」
裕子が恭子の肩を叩いた。
恭子が浴室へ入って、裸になると、外から、
「着替えを置いとくわよ」
と声がした。
「ありがとう!」
恭子は、まずシャワーを浴びて、一度スポンジで全身を洗った。それから、湯の満ちた浴槽に、ゆっくりと|浸《ひた》る。
気持がいい……。ここしばらく、安心して眠ったことも、休んだこともない。
岡谷のアパートで一夜を過して以来、初めて、といってもいいだろう。何度も、岡谷のアパートの方へ足を向けては、思い直した。たった一度の、甘えが、命取りになる。
それでも、結局こうして裕子の所へやって来てしまった。もちろん泊る気はなかったが、危険であることには変りない。
もうしばらくの辛抱である。来週、ハリソン副大統領がやって来る。そのときまでの辛抱だ。
ふと、眠気がさして来る。
「お風呂で眠っちゃ、|溺《おぼ》れちゃうわ」
恭子はそう|呟《つぶや》いて笑った。いつまでも、湯に浸っていたかった……。
「河合先生、おめでたですって?」
本間に訊かれて、河合信子はちょっとはにかみながら、
「ええ……」
と肯いた。
二人は授業を終えて戻る途中だった。
「そいつはおめでとう。私のカンも|満《まん》|更《ざら》じゃないでしょう」
「本当に……」
「その包み、何です?」
「え? あ、これはノートです、生徒の」
「持ちますよ」
「え――でも――」
「いや、今が大事なときです」
「すみません」
信子は素直に包みを本間へ渡した。
「やっと昼休みか。河合先生は、お弁当ですか」
「いいえ、|怠《なま》け者ですから」
「じゃ、食堂へ行きましょう」
「ご一緒しますわ」
教職員の食堂は、学生とは別で、奥の小さな部屋だった。TVが|点《つ》いていて、ちょうどニュースだった。
「いよいよですねえ」
と本間が言った。
「何がですか?」
「試験ですよ。あまり無理しないようにした方が……。何なら手伝いましょう」
「ありがとうございます」
本間はふとTVの方へ目を向けて、
「そうか。――来週か、アメリカの副大統領が来るのは」
信子は、TVの画面を見つめた。ミサイルが、火の尾をはためかせつつ、青空を切り裂いて行く。――今度の日米会談が、日本の核武装の問題を中心にしたものであることはもはや、滝首相も隠そうとはしなかった。だがマスコミは沈黙を守っている。
信子は、黙って食事を続けた。
こうしている間にも、|胎《たい》|内《ない》の生命は、徐々に形を整えつつあるのだ。
信子は、迷い、悩んでいた。夫の喜びようのせいだけではない。自分自身の内に、生きたいという欲望が|激《はげ》しく|吹《ふ》き上げて来るのを、どうすることもできなかったのである。
子供を生み、育てる。――それが幸福というものなのではないだろうか。たとえこんな世の中でも。いや、こんな世の中だからこそ、だ。
信子は、決しかねていた。もう、決行すべき時は、来週に迫っている……。
食事を終えて、二人は職員室へ戻った。
「さて、今日の採点をしてしまおうか」
と、本間は、赤いサインペンを手にした。
信子は〈電話アリ〉のランプに気付いて、ディスプレイ装置のスイッチを入れた。
〈ご主人より:重い物を持つな。今日は買物はして帰る〉
文字が出て、信子は笑った。
そのとき、不意に、職員室の中が、静まり返った。
もちろん、いない教師が多いので、もともと静かではあったのだが、それにしても、不自然な|沈《ちん》|黙《もく》だった。
信子は、入口の方を見て、顔から血の気のひくのが分った。一見して、刑事と分る男たちが、五、六人、立っている。
刑事たちが、信子の方を見て肯き合うと、ゆっくりした足取りで近付いて来た。
信子は、自分を|呪《のろ》った。あれこれと迷っているうちに、こんなことになってしまった。これでは、何もかもがむだではないか。
死んでやろう。たとえ、この男たちの内の一人とでも一緒に死んでやる。
信子は、じっと目を前方へ向けて、刑事たちがやって来るのを待っていた。
だが、刑事たちは、信子の後ろで止まらなかった。本間の席まで行って、足を止めたのである。
「――一緒に来てもらうぞ」
と刑事が言った。
本間は、一向に気に止める様子もなしに、テストの採点を続けていた。そして顔も上げずに、
「何の容疑ですか?」
と訊いた。
「分ってるはずだ。首相暗殺|未《み》|遂《すい》の|首《しゅ》|謀《ぼう》|者《しゃ》だ!」
信子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。――本間が!
本間は顔色一つ変えなかった。
「ちょっと待って下さいよ」
「何だ?」
「採点の途中なのでね。終るまで待ってくれませんか」
「ふざけるな!」
刑事の一人が、本間の手から、サインペンを叩き落とした。本間はため息をついた。
「分りましたよ」
本間は答案用紙を|束《たば》ねると、
「河合先生」と信子の方へ差し出した。
「すみませんが、続きをお願いします」
信子はそれを受け取った。
「分りました」
「さて、行きますか」
と本間は立ち上った。
いきなり本間が、刑事の一人を突き飛ばした。そして開け放ってあった窓から校庭へと身を|躍《おど》らせた。
「待て! |撃《う》つぞ!」
刑事が|拳銃《けんじゅう》を抜いて構える。
「やめて!」
信子は叫んだ。
銃声が、響き渡った。――校庭の真中を、走っていた本間の体が|揺《ゆ》れた。足がもつれたと思うと、そのまま、突っ伏して倒れた。
信子は、目を閉じた。そして、ゆっくりと椅子に腰を落とした。
刑事たちが、駆け出して行く。校庭に生徒たちが出て来て、本間を、遠巻きにして|眺《なが》めている。
本間は、撃たれるつもりだったのではないか。逃げるのなら、わざわざ何もない、絶好の標的になるような校庭へ逃げるはずがない。
本間は、生徒たちの見ている前で、撃たれたかったのだ。誰もが、一つの死を憶えていてくれるように……。
信子は、折りたたんだ答案用紙に、そっと手をのせた。まだ本間の、ぬくもりが残っているようだった。
「続きをお願いします」
と、本間は言った……。
信子は、答案用紙の束の上に、じっと手を置いたまま、動かなかった……。
恭子は、|丁《てい》|寧《ねい》に体を洗って、やっと生き返ったような気分になった。
本当に、友人ほどありがたいものはない。しかし、それだけに、長居をして、迷惑をかけることだけは避けなくては。
疲れているのは確かだった。もし、裕子が許してくれるなら、一晩だけ泊めてもらって、明日は出て行こうか、とも思った。
来週の成田はきっと厳戒態勢だろうが、何とか|潜《もぐ》り込めれば……。
記者章はまだ持っている。運さえ良ければ、首相へ近づくことができるかもしれない。近づきさえすればいいのだ。後は、駆け出して行けば、まず間違いなく射殺される。それが勝利の瞬間になる。
それまで捕まらないことだ。――決して捕まってはならない。
「――どう? 大丈夫?」
ドア越しに、裕子の声がした。
「ええ、いい気持よ」
「それならいいけど、あんまり長いから、溺れたかと思ったわ」
「|髪《かみ》も洗いたいんだけど」
「ええ、どうぞ。お湯ぐらい、いくら使ってもいいわよ」
恭子は前へかがみ込んで、髪を洗い始めた。シャンプーとリンスで洗い流すと、目が覚めるようにいい気持だった。
シャワーの湯を頭からかぶって、恭子は大きく息をついた。
ドアが開く音がした。
「――何か?」
恭子は流れ落ちる湯に、目を閉じたまま言った。
突然、手首をつかまれたと思うと、背中へねじ上げられる。|床《ゆか》へうつ|伏《ぶ》せに押えつけられて、両手首に後ろで|手錠《てじょう》が鳴った。
「起きろ!」
男の声がして、恭子は髪をつかんで引きずられた。
部屋の中へと投げ出されて、恭子は体をねじった。刑事が二人、立っていた。
目を移すと、裕子が、台所の方から顔を覗かせている。
「裕子!」
声をかけると、裕子はあわてて引込んでしまった。
恭子は、目を閉じて息を吐き出した。|悔《くや》しさも、怒りもない。無性に寂しかった。
「さあ、行くぞ」
刑事が恭子を立たせた。
「裸のまま連れて行く気? 軽犯罪法違反よ」
恭子は刑事の目を正面から|見《み》|据《す》えた。
「――おい、何か着せてやれ」
一人が言った。
「おい」
もう一人が、裕子へ声をかけた。「レインコートのようなもの、ないか」
「はい」
裕子は、|渋《しぶ》|々《しぶ》出て来ると、恭子と目が合わないようにしながら、急いで洋服ダンスを開けて、|薄《うす》いレインコートを一枚取り出した。
「着せてやれ」
裕子は、気が進まない様子だったが、刑事に|促《うなが》されて、仕方なく、コートを裸の恭子へとかけた。
「悪く思わないで」
裕子が低い声で言った。
恭子は力一杯、体を裕子へぶつけた。裕子が倒れる。コートが落ちて、恭子は全裸のまま、窓へ向って走った。
「撃つな! おい!」
一人が叫んだとき、もう一人が拳銃の引金を引いていた。
胸を撃ち抜かれて、恭子は窓の手前で、|膝《ひざ》をついた。急速に、力が失われ、意識が薄れて行く。
これでいい……。撃たれようとして、恭子は逃げたのだった。捕えられて、自白薬を|射《う》たれるよりは、この方がいい。
――裕子、あなたを|恨《うら》みはしないけど、一緒に死んでもらうわよ。
「馬鹿! 殺すなと言われてるんだぞ!」
刑事は、そう怒鳴ると、急いで、恭子の|傍《わき》へ膝をついて、動脈へ手を当てた。
裕子が両手で頭をかかえ込むようにして泣き出した。
「――だめだ。死んでる」
刑事は立ち上った。「ともかく本庁へ――」
そう言いかけたとき、|轟《ごう》|音《おん》と共に、何もかもが、粉々になって吹っ飛んだ。
「円谷恭子は爆弾を隠し持っていたらしく、逮捕を逃れられないと知って、自ら爆発によって死を選んだものとみられます」
TVのニュースを、河合信子は|涙《なみだ》に|曇《くも》った目で見ていた。
円谷恭子が死んだ。おそらく依田も死んだのだろう。
信子は、TVを消した。――もうすぐ、河合が帰って来る。夕食の仕度だ。
涙を|拭《ぬぐ》って、信子は台所に立った。
「――ただいま」
少しして、河合が帰宅すると、台所へ顔を出した。「おい、いい名前を思いついたぞ。今日な、本を読んでて……おい、どうしたんだ?」
河合は信子へ近寄って、
「泣いてるのか、どうした?」
信子は首を振った。
「タマネギよ。――着替えて来たら?」
「ああ、何だ、そうか」
河合は笑って、「びっくりした。何事かと思った」
と言って、奥へ入って行った。
信子の目から、涙が|溢《あふ》れて次々に流れ落ちて行った。
「爆弾か」
峰川は首を振った。「気に入らん」
電話が鳴って、峰川は飛びつくようにしてそれを取った。
「首相ですか」
「何だね、急用とは」
「テロリストの女のことは――」
「知っているよ」
「爆弾を所持していたようです」
「そうらしいな。刑事たちは|可《か》|哀《わい》そうなことをした」
「来週のハリソン副大統領ですが――」
「それが何か?」
「お|出《で》|迎《むか》えはやめられた方が……」
「なぜだね?」
「爆弾です。――かなり強力なものですし、同じ物がもし他にも――」
「そんなことはできん」
「しかし――」
「向うはどう思うかな?」
峰川はため息をついた。
「分りました」
「万一を考えるのは結構だが、それを防ぐのが君たちの役目だ」
「はい」
「官邸の警備も、案外|脆《もろ》いものだったじゃないか。あの娘がいなかったら、私は死んでいる」
それを持ち出されると、峰川も、一言もなかった。
「では絶対に間違いのないようにいたします」
「そうしてくれ」
電話は切れた。峰川はいまいましげに、受話器を叩きつけた。
「――どうしたんだ」
と剣持が訊いた。
「何が」
「君は変ったな」
「そう?」
「そうさ」
「どんな風に?」
「いいようにでないのは確かだ」
久仁子は顔を上げた。――ベッドの中で、裸の体を仰向けにして、
「あなたと寝て、それであなたに文句言われちゃ合わないわ」
と言った。
「文句じゃない」
「じゃ、何なの?」
「君のことを心配しているんだ」
久仁子は、声をあげて笑った。
「ご親切に、どうも」
「信じないのか」
「全然。――あなたは信用できない人よ。何を考えてるのか分らないし、何をやらかす気か分らない」
「僕はただ、秘密警察の幹部の一人、というだけさ」
「私のことなら心配いらないわ。何しろ国民的英雄ですものね」
「国家的だ」
「どこが|違《ちが》うの?」
「大違いだ。国民の中にゃ、滝首相が死んだら喜ぶのが大勢いる」
「あなただって、その首相を守ってるじゃないの」
と、久仁子は剣持の口にキスした。
「恋人はいないのか」
「何よ、突然」
「いないのか」
「今はいるわ。あなたがね」
「僕は、うさ晴らしに使われてるだけさ」
「まあ、自信がないのね」
「のぼせないのさ」
久仁子は、天井を見上げた。
「――いたわよ。愛し合ってたし、いい人だったわ」
「どうしたんだ」
「別に。別れただけよ」
「それで、やけになってるのか?」
「やけになんかなってないわ。あなたもしつこいのね」
と久仁子は言って、剣持の上へのしかかって行った。「もう一度抱いて……」
ピーッという音がした。
「やれやれ、お呼びだ」
と剣持は起き上った。
「|野《や》|暮《ぼ》ねえ、お宅の上司は」
「|妬《や》いてるのかもしれないよ」
剣持はニヤリと笑った。電話で峰川へ連絡を取る。
「――剣持です。――今ですか? ホテルにいます。――女と二人ですよ。――分りました」
久仁子はクスクス笑っていた。
「どう? |怒《おこ》ってた?」
「いや、|呆《あっ》|気《け》に取られてたらしい。さて、引き上げよう」
「つまんないわ」
「会議があるんだ」
剣持はバスルームへ入った。久仁子も後から入って行くと、一緒にシャワーを浴びた。
「何の会議?」
「来週の、ハリソン来日で、成田へ首相が出向くだろう。その警備さ」
「私たちも出るのかしら?」
「さあね」
剣持はシャワーの雨の中で目を閉じた。「命がけだ。やめといた方がいい」
「どうして?」
「爆弾が出て来ると物騒だ」
「爆弾って?」
「知らないのか。昨日、女のテロリストが一人自爆して死んだよ」
「女?」
「円谷……恭子といったな。指名手配されていた女さ」
久仁子はしばらく黙ってシャワーを浴びていた。
「――死んだの?」
「粉々になってね。刑事二人、他に三人が道連れだ」
「死んだのなら、もう大丈夫でしょう」
「女がもう一人いたことが分ってるんだ」
「もう一人?」
「だから警戒してるのさ」
久仁子は、先に出て、バスタオルで体を拭った。
一人が死んだのか。――久仁子は、ベッドに|腰《こし》をおろすと、両手で顔を|覆《おお》った。
後から、剣持が出て来ると、久仁子は、
「先に行って。少しのんびりして行くわ」
と言った。一人になりたかった。
「どうしたんだ?」
「眠くなったの。こういう所でも、一人で寝てたっていいんでしょう」
「そりゃ構わないさ」
と、剣持は言った。「出るとき制服は着ないで手に持つようにしろよ。ホテルの連中が震え上る」
そういえば、確かにこういうホテルはプロメテウスの攻撃の目標にしておかしくない。しかし、それでは、ほとんどの隊員が困ることになるだろう。
剣持が行ってしまうと、久仁子はもう一度シャワーを浴びた。下腹部の傷跡は、もうほとんど消えかかっている。
ホテルを出てみると、まだ表は明るい。時計を見て、やっと三時なのを知って驚いた。
剣持の車で来たので、タクシーを止めねばならなかった。もちろん、乗車|拒《きょ》|否《ひ》する運転手はいない。
本部のマンション前で降りると、ちょうど任務を終えた隊員たちが数人、車から出て来るところだった。
「ご苦労様」
と久仁子は加奈子に声をかけた。
「順調でした」
「そう。中で聞くわ」
と、マンションの入口へ歩き出す。
そのとき、駆けて来る足音が耳を|捉《とら》えた。久仁子は振り向いた。
「隊長、危い!」
加奈子が飛び出した。ナイフを手にした女が、久仁子へ向って走っていた。よける|余《よ》|裕《ゆう》はなかった。
だが、加奈子の体が、その間に立ちはだかっていた。――ナイフは加奈子の胸を貫いた。
「加奈子!」
久仁子は加奈子の体を支えた。同時に、他の隊員たちが、その女に飛びかかって、地面に押し倒した。
「救急車! 早く!」
と、久仁子は叫んだ。
だが、加奈子の様子を見て、久仁子はすでに絶命しているのを知った。
「加奈子……」
久仁子は血にまみれた自分の手をじっと見つめた。
「――隊長、この女は……」
声をかけられて、久仁子は我に返った。
「もちろん警察へ渡すわ」
「殺してしまえばいいんだわ!」
と、声を|震《ふる》わせる隊員もいた。
久仁子は、隊員たちに殴られ、|蹴《け》られて、ぐったりとしているその女の顔を見た。そして、|唇《くちびる》を固く結んだ。
「手錠をかけて隊長室へ」
そう言うと、久仁子は足早にマンションの中へ入って行った。
手についた血を洗い落として、隊長室へ入って行くと、女は|椅《い》|子《す》に座って、後ろ手に手錠をかけられていた。両側についている隊員へ、出て行くように手を振って、久仁子は席に座った。
「――真知子」
と、久仁子は呼びかけた。
伊藤真知子だった。父親を、滝に頼んで釈放してもらった、旧友だ。
真知子は、切れた唇から流れた血を|顎《あご》に伝わせていた。
「どうしてなの? 私を、なぜ殺そうとしたの?」
「そんなことが分らないの」
真知子は冷ややかに久仁子を見た。
「お父さんは釈放されたんでしょう」
「ええ、そうよ」
「それなら――」
「父は帰って来たわ。|廃《はい》|人《じん》になってね」
久仁子は耳を疑った。
「何ですって?」
「薬、薬よ。自白薬、麻薬、|催《さい》|眠《みん》薬。――毎日そのどれかを注射されたり、|服《の》まされたりしたのよ。――時たま正気に戻りかけて、そう口走るけど、すぐにまた何も分らなくなるわ」
「知らなかった……」
久仁子は|呟《つぶや》くように言った。
「あなたが深刻そうな顔することないわ。そうでしょ。たかが私の父一人ぐらい」
「やめて!」
久仁子は立ち上って叫んだ。
しばらく、二人の間に重苦しい沈黙が流れた。――真知子が言った。
「あなたを殺して、死のうと思った……。あなたが憎いわけじゃないのよ。ただ、私はプロメテウスの隊長を殺しに来ただけなの」
「真知子。あなた何かの組織に入ってるの?」
真知子は肯いた。
「久仁子。私を殺して」
久仁子は目を見開いた。
「馬鹿言わないで!」
「警察へ引き渡されたら、間違いなく秘密警察行きだわ。そうしたら、自白薬を射たれて何もかもしゃべってしまう。――久仁子、お願いだから、私を殺して」
「やめてよ、そんなこと……できっこないじゃない!」
久仁子は真知子に背を向けた。
「どうせ父と同じようになるんだもの。一生|監《かん》|獄《ごく》から出られないで。――ね、久仁子、お願いよ。あなたが射ち殺したって、誰も不思議に思わないわ」
「そんな……」
久仁子は激しく頭を振った。
ドアが開いた。
「隊長」
「何なの?」
「警察が――」
「今行くわ。待っていてもらって」
「はい」
ドアが閉まった。
「久仁子。お願いよ!」
久仁子は、青ざめた顔で、じっと立っていた。
「真知子。――立てる?」
「ええ」
「ドアへ向って走って。私が撃つわ」
真知子は目に涙を浮かべた。
「ありがとう……」
久仁子は真知子の腕を取って立たせると、力一杯|抱《だ》きしめた。
「さあ、久仁子。怪しまれるわ。――もういい?」
久仁子は拳銃を抜いて、安全装置を外した。――真知子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。昔の通りの笑顔だった。
久仁子は、拳銃を握った右手を一杯にのばして、左手を手首に|添《そ》えた。
「さよなら、久仁子」
真知子がドアへ向って走った。久仁子は引金を引いた。弾丸が自分の胸を貫くような気がした。
「先生」
生徒の一人が言った。
「何、|神《かん》|田《だ》君?」
信子は顔を上げた。
「上の窓、閉めていいですか。|埃《ほこり》が入って来るんです」
「いいわよ。――待って」
テストの最中だった。「いいわ。私がやる」
生徒を歩かせるわけにはいかない。信子は欠席の生徒の椅子を持って来ると、|靴《くつ》を脱いでその上に上った。
「先生、|大丈夫《だいじょうぶ》?」
と女子の一人が声をかける。
「大丈夫よ、これぐらい」
と、信子は笑って手をのばした。
上の方の窓が、動きにくくなっていた。レールに、砂埃が詰まっているのだ。
「動かないわね。これ――」
信子は力を入れた。いきなり、窓が|滑《すべ》った。信子は体のバランスを失った。
「危い!」
と女生徒が叫んだ。
信子は床へ体を打ちつけて、|呻《うめ》いた。――動こうとして、下腹部に激痛を感じた。
「先生!」
「起こして……」
と信子は言った。足の間に、冷たいものが広がっている。信子は、手をのばしてみた。
「血が――」
女生徒の一人が青くなってよろけた。
「救急車を呼んで……」
信子は言った。「早く!」
目の前がかすむような気がした。――ひどい出血だ。どうしたというのだろう。
「――今、|弓《ゆみ》|田《だ》さんが職員室へ行ってます」
「そう……。起こして」
「先生、動かない方が――」
「いいから……手を貸して……」
両方から支えられて、信子はよろけながら立ち上った。
出血は続いている。生徒たちは、床に広がる血に、壁の方へと集って青ざめている。
女の子二人が、信子を椅子の所へ連れて行った。
「ありがとう……」
めまいがする。――|悪《お》|寒《かん》が、体を貫いた。このままでは死ぬかもしれない、と思った。
ショックで、輸卵管が|破《は》|裂《れつ》したのかもしれない。それとも……。ともかく、この出血が続けば、命が――。
信子は、|愕《がく》|然《ぜん》として、生徒たちの顔を見回した。
ここで死んだらどうなるか。爆発が、子供たちを殺してしまう。――だめだ! どこか他の場所へ行かなくては。
信子は立ち上った。足がふらついた。
「先生――」
「来ないで!」
信子は|鋭《するど》い声で言った。「誰も[#「誰も」に傍点]この教室から出てはだめ! 分ったわね!」
言葉の気迫に押されたように、生徒たちが|肯《うなず》いた。
信子は、ドアへ向って歩き出した。途方もなく遠い。一歩が、アリの歩みのようだ。膝から力が抜けて行くのが分る。
死ぬのだ。こんな所で。――不思議に、信子の脳裏には、滝首相のことは全く浮かばなかった。生徒たち、本間、そして、夫の顔が、ちらついた。
ドアへ|辿《たど》りつくと、信子はノブを回して、開けた。廊下へ出て、膝をついた。――だめだわ、もう立てない……。
「先生」
女生徒が追って来た。
「中へ入って!」
最後の気力をふり|絞《しぼ》って、信子は叫んだ。
「ドアを閉めるのよ! そして教室の奥へ行って! ドアからできるだけ離れて!」
壁に手をついて、ようやく、信子は立ち上った。血の手形が、くっきりと|跡《あと》を残した。
エレベーターだ!
あの中へ入れば……。信子は、よろけながら、進んで行った。出血は続いている。もうだめだ。――歩けない。
エレベーターの、ほんの一メートルほど手前で、信子は倒れた。
誰かの足音がする。知らせを聞いて、誰かがやって来たのだ。いけない! 巻き添えにしてしまう。
半身を起こし、信子は、エレベーターへとにじり寄った。ボタンへ手を伸ばす。震える指先が、ボタンへ触れた。|扉《とびら》がスルスルと開いた。
信子は、その中へと、|這《は》って行った。力が失われつつある。やっと、中へ入った。扉が閉った。
鉄の扉だ。少しは、防壁の役を果してくれよう。
信子はホッとすると同時に、急速に意識が薄れて行くのを感じた。そして……もう感じることすらできなくなった。
最後の一瞬に、暗黒は白い光に変って、消えた。
――爆発は、校舎全体を揺るがした。エレベーターシャフトを貫いた火柱が、屋上の機械を空中へと放り上げた。炎と黒煙が、空へ向って、巨大な|蛇《へび》のようにうねりながら立ち昇った。
「|休暇《きゅうか》、ですって?」
久仁子は|訊《き》き返した。
「そうだ」
二宮は、デスクの上のファイルを閉じた。――父のオフィスである。久仁子は、電話で呼ばれてやって来たのだった。
「どういうことなの?」
と、久仁子は訊いた。
「どうって、ただの休暇さ」
と、二宮は言った。
「首相がそう言ったの?」
「そうだよ。お前も良くやってくれている。少し休んだ方がいいんじゃないか、というわけだ」
「でも……」
久仁子は|戸《と》|惑《まど》っていた。「これから大変じゃないの。明後日は、ハリソン副大統領が来るでしょう」
「首相に言わせると、そういうときは雑用ばかりが多い。プロメテウスには特別の用はないというんだ」
「でも、全員が休暇というなら分るけど、私だけなんておかしいわ」
「いいじゃないか。休みをくれるとおっしゃってるんだ。もらっておけよ」
何かある。――久仁子は、父の言い方に、微妙な|苛《いら》|立《だ》ちを聞き取っていた。
「いいわ、そんなに言うのなら」
と首をすくめる。
「そうか」
二宮は、なぜかホッとした様子だった。「じゃ、どうだ。九州にでも行って来たら?」
「いいわね」
「じゃ、明日、飛行機を取ってやる」
と早速秘書の永本京子に手配を言いつける。
久仁子は父の話し方から、もうその切符が手配済なのだと察しをつけた。
一体どういうことなのだろう? なぜ急にハリソンの警備から、プロメテウスを外すのか。――それとも、自分が|怪《あや》しまれているのだろうか?
久仁子は、しかし、それ以上父に訊くのはやめた。疑惑を持たれては|却《かえ》って損だ。
「なあ久仁子」
「え?」
「あの重松という男だが」
「重松君がどうしたの?」
「どうだ、結婚する気はあるのか?」
久仁子は首をすくめた。
「分らないわ。どうして?」
「なかなかいい若者じゃないか」
「調べたの? お父さんらしいわ」
久仁子は立ち上って、「じゃ、任務があるから、これで」
「何だ、少しゆっくりして行け」
「上に立つ者は辛いのよ」
と久仁子は笑いながら言って、父のオフィスを出た。
「あら、お嬢さん、もうお帰りですか」
と永本京子が顔を上げる。
「ええ、色々|忙《いそが》しくって」
久仁子は、ふと父のオフィスの方を振り返った。――ここで、初めてプロメテウスの隊員を見たのだった。
もう、ずっとずっと遠い以前のような気がする……。
「どうかなさいました?」
「いいえ、別に。――じゃ、さよなら」
久仁子は軽く手を振って、部屋を出て行った。
ビルの地下へ降りて、|喫《きっ》|茶《さ》店で昼食を取ることにした。
TVが、ニュースを放送している。久仁子は、河合信子の死を、初めて知った。
その日、空港へ向う道路は、完全に規制されていた。
「――いい天気だな」
と、滝は言った。
「はあ」
|隣《となり》で、峰川が落ち着かない様子で肯いた。
「何をそわそわしてるんだ。君が何もハリソンと握手するわけじゃない」
と、滝は笑いながら言った。
――よく晴れて、暖かい日だった。滝の車は、例によって、厳重な|警《けい》|戒《かい》の中を空港へ向っている。
「例の女教師の件は、やはり爆弾か」
と滝が訊いた。
「そのようです」
「これで二人か……。しかし、なぜ学校で爆発させたのかな」
「それは分りません。妊娠していて、その前にひどく出血しています。たぶん出血多量で死んだかもしれないと……」
「|哀《あわ》れだな」
と滝は言った。
「今日が心配です」
と、峰川が首を振る。「万全の手は打ってありますが……」
「それなら心配あるまい」
滝は気楽に言った。「予想外の事が起こるのが人生というものだ」
――午後一時になるところだった。
「もう首相もつくころね」
と、久仁子は腕時計を見て言った。
「変ってるね、君も」
剣持が微笑んだ。
「どうして?」
「休暇をもらったというのに、わざわざ空港までやって来て」
「いけない?」
久仁子は、空港のロビーを見下ろす階段の上に立っていた。「私、空港って好きなのよ」
「お父さんは君が九州に行ったと思ってるんだろう?」
「でしょうね。でも、プロメテウスの|誇《ほこ》り高き隊長としては、やはりアメリカの副大統領をお迎えするときに出席していなくちゃね」
「君を|黙《だま》って連れて来て、ばれたら大目玉だな、きっと」
「あなたが? まさか」
と久仁子は笑った。
その瞬間が近付いている。しかし、久仁子は全く、恐怖も何も感じなかった。
「|閣僚《かくりょう》が到着だ」
と、剣持が言った。「さあ、下へ行こうか」
「どうして首相の方が後なの?」
「用心のためさ。テロリストがいれば、まず先頭の車を|狙《ねら》うからね」
「用心深いこと」
久仁子はため息をついて言った。
「――何なのかしら、一体?」
「知らないわよ、そんなこと」
副隊長の、|上《かみ》|村《むら》|美《み》|雪《ゆき》は落ち着かなかった。――まだ、副隊長になって日が浅いのである。
急に隊長が休みを取ったと思うと、こうして突然の|召集《しょうしゅう》である。
召集が、首相の直接の命令だったのも、異例のことである。プロメテウスは、あくまで独立した組織のはずなのだ。
しかし、そう言われて、断ることもできない。――こうして、隊長を除く全員が、本部に集っているのだが、一向に誰もやっては来ないのだった。
「――官邸に電話してみたら?」
「もう一時間ぐらい待ってるのよ」
と、口々に不平が出る。
そのとき、表に自動車の停る音が、続けて聞こえた。
「あ、やっと来たみたい」
美雪はホッとして、入口の方へ歩いて行った。ドアを|叩《たた》く音がする。
「はい、どうも――」
ドアを開けて、美雪の顔は|凍《こお》りついた。目の前に、|銃口《じゅうこう》があった。
「あの……これは……」
兵士たちが、次々に入り込んで来た。手に手に、機関銃や小銃を持っている。
「何ですか? 一体何が――」
美雪は言い終えることができなかった。小銃が鳴って、美雪は胸を撃ち抜かれて、その場に倒れた。
プロメテウスの娘たちの悲鳴が聞こえて、それにかぶせるように、機関銃の発射音が|轟《とどろ》いた。
ロビーには、全部の閣僚が|揃《そろ》って、手持ちぶさたにしていた。
何か|妙《みょう》だ、と久仁子は思った。
滝の現れるのが遅すぎる。いくら慎重といっても、もう間もなく、ハリソンの飛行機が着くというのに。
それに、副大統領を迎えるのに、外務大臣は分るが、なぜ全閣僚が顔を揃えているのか。――実際、|愚《ぐ》|痴《ち》を言い合っている閣僚もあるように、遠くからでも見えた。
剣持はどこかへ姿を消していた。久仁子に、閣僚たちと離れているように、とだけ言い残していた。
その言葉も、ひっかかる……。
突然、ロビーに兵士たちが姿を現わした。久仁子は|愕《がく》|然《ぜん》とした。どこから出て来たのだろう?
一瞬のうちに、閣僚たちは銃口に取り囲まれていた。
「何だ、これは!」
「どういうことだ!」
「おい! やめろ! |俺《おれ》は――」
|怒《ど》|号《ごう》が飛んで、騒然とした。――銃声が一発鳴って、閣僚の一人が倒れた。
ロビーは静まり返った。
久仁子にも、やっと分った。――クーデターだ! では、滝は?
「諸君、静かに聞いてもらいたい」
滝の声が響いた。見上げると、滝と、防衛大臣が、さっきの階段の上に並んで立っている。
「私は、ここに全権を|掌握《しょうあく》したことを宣言する」
滝は力強い声で言った。「軍が全面的に私を支持してくれる。あなた方は全員、この場で辞意を表明してもらいたい」
逆らう者のあるはずもない。――久仁子が|唖《あ》|然《ぜん》としていると、剣持が、いつの間にかそばに立っていた。
「あなたもこれを――」
「秘密警察の仕事の一つだからね」
「それで父が九州へ行けと……。じゃ、父も知っているの?」
「資金的な面は君のお父さんの力だ」
軍事政権。――兵器産業にとっては、願ってもないことだろう。
「|今《いま》|頃《ごろ》は放送局も|占《せん》|拠《きょ》されている。町中に戦車が出動しているはずだ。それだけじゃない」
「え?」
「プロメテウスの隊員は人質になっている」
「どういうこと?」
「業界の再編成のためだ。そのために、隊員を選んだんだからね」
|総《すべ》て、計算されていたのだ。しかも、その計算をしたのが、父だったのだ……。
閣僚たちが、兵士たちに追い立てられるようにロビーから姿を消した。
久仁子は、滝が、階段を降りて来るのを、じっと見上げていた。
「やあ、君か」
滝が、久仁子を認めて手を上げた。滝が近付いて来る。
時は来た。
久仁子は、重松のこと、真知子のこと、そして、死んで行った二人の仲間のことを考えていた。
滝は目の前にいた。久仁子の拳銃は、安全装置が外してあった。撃って、当らなくてもいい、射殺されれば、それでいい。
久仁子は、何も|怖《こわ》くなかった……。
「来ているとは思わなかったよ」
と滝が言った。「私と君のお父さんで、新しい日本を造る。君にも力になってもらうことになるよ」
滝が手をさし出した。久仁子は、その手をじっと見ながら、おもむろに拳銃を抜いた。
数秒の後、ロビーには炎が|渦《うず》を巻いた。
爆風でガラスが粉々に吹っ飛んだ。
遠い一般用のゲートで、乗客たちは、銀色の煙が空へ舞い上るのを見た。ガラスの破片が、光を受けて、銀色に輝いていたのだ。
エピローグ
少女が、雨の中を歩いている。
冬の冷たい雨が、林の中の道に灰色にけむっていた。
レインコートのえりを立てて、包みをかかえ、少女は、足早に歩いていた。
軍隊のトラックが、道端に停って、兵士たちが、所在なげに空を見上げている。カーラジオのニュースが流れていた。
「本日、二宮首相は議会で演説し、戒厳令はここ当分続くだろうと……」
トラックの前まで来て、少女は足を滑らせた。
「いやだ!」
と声を上げたのは、包みが破れて、リンゴが転り出たからだった。兵士たちが笑った。
「おい、大丈夫か?」
「ええ」
「拾ってやろうか」
「いいです。汚れちゃったもの」
「いいものやるぜ。入ってけよ」
少女は、ちょっと笑うと、肩をすくめて、また歩き出した。
道は少し上りになって、また下っていた。少女は上りつめた所で、立ち止まると、振り向いた。
トラックから、七、八十メートルは来ていた。少女の顔に、ちょっと不安気な表情が浮かんだ。
トラックが、爆発した。赤い炎を吹き上げて、兵士たちが火に包まれて転り出て来た。
少女は走り出した。向うから、ジープが来る。少女は立ち止って、道からそれて茂みの中へと飛び込んで行った。
「待て!」
声が雨を|縫《ぬ》って少女の耳に届いたが、少女は走り続けた。
ジープが茂みへと突っ込んで来る。
「止まれ!」
少女は林の間へと駆け込んだ。
「撃つぞ!」
頭を下げて、少女は走り続けた。息が弾む。
機関銃が鳴った。銃弾が幹を|抉《えぐ》り、枝を払った。しばらくの間、銃声は続いた。そしてジープは茂みの中でUターンすると、道の方へ戻って行った。
――少女は、林の奥に倒れていた。
気まぐれな一弾が、少女の腹を射抜いていた。少女は、もう苦痛も感じなかった。
雨が|頬《ほお》を打ち、口に流れ込んだ。その冷たさも、やがて失われて行く。
林に雨が降り続いている。――静かな林の奥で、ひっそりと、名もない少女は死んだ。
雨が、ひときわ降りを強めて、灰色の幕で、総てを覆いつくした。
プロメテウスの|乙《おと》|女《め》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年9月13日 発行
発行者 福田峰夫
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『プロメテウスの乙女』昭和59年10月10日初版発行
平成 4 年 7 月20日29版発行