角川文庫
フルコース夫人の冒険
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 突然、風のごとく
2 家庭の平和
3 ある誘い
4 写真と名刺
5 思い出の|女《ひと》
6 からめ手
7 |母娘《おやこ》|坂《ざか》
8 迷える父親
9 暖かい季節
10 怪しい|匂《にお》い
11 旧 友
12 申し込み
13 キスの予感
14 カメラの前で
15 恋人立候補
16 事 故
17 藤原の告白
18 二階の少年
19 開けられた窓
20 名もない娘
21 身替り作戦
22 自由な恋
23 読み合わせ
24 七階の問題
25 青ざめた夜
26 無実の判定
27 セット
28 ロ ケ
29 準優勝の娘
30 |撮休《さつきゅう》の日
31 空っぽの講堂
32 愛人の部屋
33 意外な|居候《いそうろう》
34 追って来た男
35 池のほとりの人影
36 初 日
エピローグ
1 突然、風のごとく
講師は酔っていた。
酒に酔っていたわけではない。酒も嫌いじゃないのだが、四十人からの生徒を前に、酔っ払ってしゃべるという度胸はない。
いや、この講師、おのれの弁舌の|冴《さ》えに酔っていたのである。
確かに、このカルチャーセンターの授業風景を眺め回しても、生徒が一人も眠っていない教室はここしかなかった。
これが普通の学校ならば、教師が、
「こら! 起きろ!」
と怒鳴りつけてやるところだろうが、ここの生徒は、ほとんどが三十代、四十代の主婦。
いいとし[#「とし」に傍点]をしたご婦人を怒鳴りつけるわけにもいかないし、大体講師はまだ四十前の男性で、自分より年上の生徒もいるのだから、たとえ最前列の夫人が、いびきをかきながら眠っていても、とても起こしてやるなどということはできないのである。
しかし、この講師は、このカルチャーセンターでも、|話上手《はなしじょうず》で知られていた。ともかく言葉が途切れるということがなく、リズミカルなのである。これで話の中身が面白くなかったら、聞いているほうは心地よく眠ってしまうだろう。
その点、この講師はまさに熟練の技術で、途中途中に、ドッと笑わせるところを作っておくのだ。多少眠気がさしていた人も、これでハッと目が覚める、というわけだ。
話は、やがて一番の山場にさしかかる。一同がドッと笑い崩れるはずなのである。
そこから、一気に結論へ。そして|締《し》めくくりは簡潔に。
最後に、
「念のため――」
と、付け加える一言が、総ての効果を台無しにすることを、講師は、充分に承知していた。
「ところで」
と、一声高く、クライマックスへの準備に入った時だった。
ピピピ……。妙な音が、教室の中に鳴り渡った。
大きな音じゃないのだが、何しろ講師一人がしゃべっているだけだから、よく響くのである。
講師は言葉を切って、教室の中を見回した。
「――あ、ごめんなさい」
と、立ち上がった女性がいる。「もう行かなくちゃ。時間だわ」
その女性、腕時計のアラームを止めると、バッグを持って、そそくさと席を離れ、急ぎ足で、教室の戸口のほうへ歩いて行った。
「奥さん」
と、講師は頭に来て、「話は終っていませんが」
「ええ、分ってますの」
と、その女性はにこやかに|微《ほほ》|笑《え》んで、「でも、いいんです。もう同じお話を二度、うかがいましたから。あと三分すると、みんながワッと笑うんでしょ?――じゃ、失礼します」
ポカンとしている講師を|尻《しり》|目《め》に、その女性は、さっさと戸を開けて出て行く。――と思うと、ヒョイと顔を出して、
「先生。差し出がましいようですけど」
と、言った。「そのネクタイ、上着の色と合わないように思いますが。それじゃ、どうも」
戸が閉まると、しらけた空気が漂った。
講師が、立ち直るべく必死に気を鎮めていると、
「先生」
と、最前列の女性の一人が、言った。「あの人にかかっちゃ、どの先生もかなわないんですよ。ここのだけでなく、他のカルチャーセンター、文化教室の類、ほとんどに顔を出してて、たいていの話はもう聞いてしまってるんです」
「はあ……」
「あの人のことなの?」
と、他の誰かが言った。「ほら、何とか夫人っていう――」
「そう。何でもやってるから、『フルコース夫人』っていうの」
「フルコース夫人?」
講師が目を丸くして、「外国人なんですか?」
――教室中が笑いに包まれた。
講師が、みんなを大笑いさせたことは、確かだったのである。
かの「フルコース夫人」こと、|中《なか》|沢《ざわ》なつきは、自分のことが話題にされているとは、思いもしないまま、地下鉄の駅へと急いでいた。
「三分遅れてるわ」
と、腕時計を見て|呟《つぶや》く。「でも、大丈夫。五分間、余裕をみてあるんだから」
それでも、少し足を早めた。
中沢なつきは、三十八歳である。
こうして人の流れの間を縫って、足早に進んでいるところは、まるでイルカが泳いでいるような、しなやかさを感じさせた。
見た通り――といっても読者には見えないだろうが――十代の少女では通らないとしても、かなり若く見える。
動きがはつらつとして、滑らかなのが、若い印象を与えているのかもしれない。
実際には、やはり年齢相応に、少し肉もついてきたし、急いで歩くと息も切れる。しかし、まだまだ、充分に「予定」はこなせる自信があった。
ふっくらした面立ちは、もとからである。おっとりした印象の、口もと。目は大きくて、彼女の夫も、その目に|惚《ほ》れた、と専らの評判。しかし、当の夫は、
「その目ににらまれたんだ」
と主張している。
ともかく、服装や物腰に、いい所の奥様、といった雰囲気がある。こればかりは、一朝一夕で身につくものではない。
地下鉄の駅に着いた、なつきは、回数券を財布から出した。券売機に並ぶという時間のむだを省いているのである。
ホームへ下りて行くと、ちょうど電車がやって来る。
「ついてるわ」
普段の心がけがいいのね、と一人で納得する。
ええと……。あそこへ行く時は、三両目の三番目の出口が一番近いんだわ。
電車に乗ると、車両を渡って、三両目へ。二番目の扉の近くに、空席があった。
やった!――これで十五分、いや十七分間、座っていける。
座席に落ちつくと、なつきは、ハンドバッグを開け、中からパンフレットを取り出した。
「今月の観劇の予定は、これでおしまい、と……」
なつきは、これから見る芝居の予備知識を仕入れるべく、パンフレットを広げた。
「――ああ、あの役をやった人ね。――ふーん、原作は向うの人か」
と、|呟《つぶや》きながら、パンフレットに目を通し終ると、まだあと駅にして四つある。
「八分間はあるわね」
何もしないでぼんやりしているのは、もったいない。
なつきは車内|吊《づ》りの広告に目をやった。
化粧品、お酒、旅行……。あんまり役に立ちそうなもの、ないわね。
ふと、二、三人離れた席に座っている二人の奥さんたちの話が耳に入って来た。
ちょうど電車が駅に|停《とま》っていたのである。でなきゃ聞こえっこない。
「――ねえ、この間のフラメンコの公演、見た?」
「まだ。どうだった?」
「良かったわよ!――もう興奮! やっぱりいいわねえ、情熱的で、スペインは」
「そう。私も行こうかな」
「早くしないと、売り切れてるみたいよ、どんどん。ともかく、足が長いの。それにおなかも出てないし。お|尻《しり》がキュッとしまってて。――カッコいいわ。うちの亭主なんて、ズボンが八十センチよ!」
何に感激しているのやら。
「フラメンコ、かあ……」
なつきは、ふと考えて、「それも面白そうね」
手帳を取り出して、早速メモする。
ま、場所や時間は、〈ぴあ〉でも見りゃ分る。
フラメンコね。そういえば、まだフラメンコは習ったことないなあ。
バレエ、モダンバレエ、ジャズダンス、エアロビクス、一通りやったけど……。
フラメンコやると、おなかが引っ込むかしら?――なつきは、目的の駅に着くまで、それを考えることにしよう、と決めた。
これで、何分間かの時間も、むだにならずに済むわけである……。
2 家庭の平和
「ねえ、お母さんは?」
と、中沢さやかは居間を|覗《のぞ》いて、声をかけた。
「知らんな」
と、中沢|竜一郎《りゅういちろう》は新聞から目を離さずに答えた。「メモはないのか」
「ないみたい」
「それなら帰って来るだろう」
「分った」
さやかは肩をすくめて、自分の部屋へと上がって行った。
二階建のこの家、三人家族には少々広いのだが、ちっともそんな風には見えない。
主婦――つまり、中沢なつきのことだが――が、物を片付けない天才だからである。
仕方なく(?)、娘のさやかが、せっせと片付けて回ることになっているが、家中まではとても手が回らない。それに、さやかも十五歳。色々と忙しい年ごろなのである。
「――全くねえ」
さやかは、自分の部屋でベッドに引っくり返ると、「あれでよく主婦がつとまるわよ!」
と言った。
さやかは一人っ子だが、その割には独立心も強く、ものおじしない、しっかりした子、という定評があった。
もちろん、それが悪いことであるはずはないが、そうなったのも、母親のなつきがあんまり忙し過ぎて、ちっとも構ってくれなかったせいなのである。
さやかとしては、母親というものは、普通家にいないものだ、と小さいころから思い込んで来た。
小学生のころだ。――友だちの家へ|招《よ》ばれて行ったさやかは、その家のお母さんが、土曜日なのに[#「土曜日なのに」に傍点]家にいて、さやかのために、お昼を用意してくれるのを見て、感激したものだ。
私も、将来はこういうお母さんになろう。さやかは子供心に、そう決心したのだった。
しかし、もう十五歳ともなれば、見方も変って来る。
母親には年中文句ばかり言っていて、それは今でも変らないが、それはそれとして、母親にも、それなりの事情があったのだということも分って来る。
もうさやかが十五歳、というのでも分る通り、なつきは二十二歳で女子大を卒業すると、すぐに――卒業式の三日後だった――結婚した。すぐ妊娠して、さやかが生まれる。
後はしばらく子育て。
結局、大学時代も含めて、なつきは、およそ遊びに出歩くということがなかったのである。
大学は厳格をもって知られる私立女子校で、毎日、駅までの道には、先生が監視に立ち、寄り道しないように見張っている、という有様だった。大学でもそうなのだ!
なつきはこの女子校に、幼稚園から、ずっと通った。――従って、男っ気、ゼロ。教師も全員女性だったのである。
結婚も当然見合いだった。三年生の時見合いして、四年生の春に|結《ゆい》|納《のう》。
婚前旅行などもっての外、というムードのまま、結婚式を迎えたというから、箱入りどころか、「保育器入り娘」と呼んだほうが当っていたかもしれない。
なつき自身、それで不幸だったわけではなかった。夫の竜一郎は、なつきといい勝負の|坊《ぼ》っちゃん育ちで、二つ年上。
父親の経営する会社で、今は課長のポストにいる。野心? かけらもなし。
将来、父の跡を継がなくてはならない、ということが、この|呑《のん》|気《き》な夫の唯一の悩みなのである。
「さやかの所って、本当に現代かと思っちゃうよ」
と、遊びに来た友だちが、よく言っていた。
「何だか、さやかの家の中だけ、時間の進み方が違うみたい」
そう。――さやかも、同感である。
あの父親と母親の子かと思うと、自分が怖くなる!
でも、仕方ない。それに、さやかは、両親のことも、世間の子供並みには、好きだったのである。
何といったって、|憎《にく》みようがない!
さやかは、私立の、しかし共学の中学校に通っている。これだけが、さやかの、ささやかなレジスタンスである。女子校から、中学へ上がる時、受験して出たのだ。もちろん、それはさやか自身の決めたことだった。
「――ただいま」
と、声がした。
さやかは、起き上がって、部屋を出た。
階段を下りて行くと、母親が紙袋を下げてやって来た。
「お帰り。夕ご飯は?」
「お弁当買って来たわ」
と、なつきが言った。
「ふーん」
「おみそ汁、作るわね」
母親が台所のほうへ歩いて行くのを見送って、さやかは、玄関へ出て行った。
「やっぱりね」
何か荷物を持って帰って来た時は、たいてい、玄関の|鍵《かぎ》をかけ忘れている。いつもさやかがかけて、チェーンもしておくのだ。
「私がいなかったら、この家はたちまち泥棒のえじきね」
と、さやかは|呟《つぶや》いた……。
「何をやるって?」
と、カツ弁を食べながら、さやかは|訊《き》いた。
「フラメンコ」
と、なつきが言った。「とっても体にいいんですって」
「あんなもんが、か?」
と、中沢竜一郎が言った。
「あんなもの、って、あなた、見たことあるの?」
「ああ。よくTVでやっとるじゃないか。あんな、腰を振ったりして、何が面白いんだ?」
「腰を振る?」
「大体、裸同然の格好じゃないか。みっともない」
「お父さん」
と、さやかが言った。「もしかして、フラダンスと間違ってるんじゃない?」
「どこが違うのか?」
――しらっとした空気が流れた。
しかし、いつのころから、なつきが出歩くようになったのか、夫の竜一郎にもよく分らなかった。
いくら|呑《のん》|気《き》な竜一郎も、人並みに会社では忙しいこともあり、特に三十代の初めからは、連日、夜中に帰る、という日が続いた。
そんなころ、ちょうどさやかも手がかからなくなり、なつきが、初めて、自分の生活を考えるようになったのだろう。
「でも、お母さん、新しいもの習う時間なんてあるの?」
「何かやめて、そこへ入れるわ」
さやかも、母親の、スケジュールを巧みに組む才能は認めていた。
「だけど――あ、電話だ」
「私が出るわ」
そう。普通の家なら、中学三年の子がいると、夜の電話はたいてい子供にかかって来る。この中沢家では、母親にかかる確率がきわめて高いのだ。
だが、今夜ばかりは――。
「さやか、お友だちよ」
「はい。――誰?」
なつきは、ちょっと考えて、
「聞いたけど、忘れちゃった」
|訊《き》くべきではなかった、とさやかは思った。
「もしもし。――何だ、|宏《ひろ》|美《み》か」
同じクラスの子だ。家も近いので、よく行き来している。
「さやか、タレントにならない、とか誘われたこと、ある?」
「何よ、出しぬけに」
「どうってことじゃないんだけど……」
「どうもスカウトする人に、見る目がないみたいね。まだそういう話、ないわ。もしかして宏美――?」
「そうじゃないの! 今日、学校の帰りにさ、呼び止められたの、家の近くで」
「誰に?」
「知らない人よ。で、写真見せられて、この子、知ってるか、って。それ、さやかの写真だったのよ」
「私の?」
「うん。一年ぐらい前のかな、たぶん」
「で、何て言ったの?」
「知りません、って言っといたわ。何か、気味悪いじゃない?」
「そうね。その人、何か言った?」
「何も。どうも、って行っちゃった。何だろうね」
「変ね。――気を付けるわ。美女は|狙《ねら》われやすいから」
「よく言うよ!」
二人は一緒に笑った。
二人の話が、これで終らなかったのは、言うまでもない。
二十分もしゃべっている内に、初めの用件など、さやかの頭の中から、すっかり消えてしまっていた。
3 ある誘い
「先輩! お先に失礼します」
と、二年生が声をかけて行く。
「バイバイ。明日、ちゃんと練習に出るのよ!」
と、中沢さやかは手を振って言った。
「はあい!」
さやかは、友だちの|浜《はま》|田《だ》宏美と二人で部室の方へ歩いて行きながら、
「いいね、二年生はまだ気楽で」
と、言った。
「本当。三年生は辛いよ」
浜田宏実は、いささかオーバーに、ため息をついた。「これで来年になりゃ、また一年生よ。どうする?」
もちろん、中学から高校へ進むことを言っているのだ。さやかたちの通っている私立校は、共学で、中学、高校と続いている。
大学は短大のみ。さやかは、他の大学を受けようと今のところは考えている。
一年生は、クラブではともかく徹底的にいばられていなくてはならない。三年生は、何かと責任を負わされるので、さぼれない。二年生が一番気楽、というのが実感なのである。
さやかと宏美は演劇部に入っていた。男女共学というのは、演劇部にとってはありがたいことで、これが女子校だと大変である。
男の子の役を女がやるか――|宝塚《たからづか》みたいになってしまう――他の学校から、男の子を借りて来るか。どっちにしてもやりにくいには違いないのだから。
学校は都心にあるので、至ってせせこましく、校庭はなきに等しい。従って、クラブの部室なども、校舎の片隅へと追いやられているのが実情なのである。
〈演劇部〉と札の下がったドアには、〈美男、美女のみ入室を許す!〉と書いてある。
「――失礼」
と、ドアを開けて、さやかは、「あ、すみません」
パッと離れた二人は、高校二年の、副部長|川《かわ》|野《の》|雅《まさ》|子《こ》と、高校では数少ない男子部員、一年生の|高林和也《たかばやしかずや》だった。
「ノックぐらいしなさいよ」
と、川野雅子は、メガネをかけながら、ツンとした表情で言った。
「すみません」
さやかは、全然応えた様子もなく、「でも、部長に呼ばれたから、来たんですけど」
「部長に? 何の用事で?」
「さあ。何も……。川野さん、知らないんですか?」
「私は――高林君と、打ち合わせしてただけよ」
一年生といっても、まるで「中学」の方かと思える、色白で童顔の高林和也は、顔を赤くして、隅の方でおとなしくしていた。
「じゃ、高林君、行こうか」
と、川野雅子が促して、「邪魔が入っちゃ、練習にならないもんね」
「はい」
高林和也は、おとなしく川野雅子の後について部室を出て行く。
「そうだ」
と、出て行きかけて、川野雅子は振り向くと、「この間のバザー、演劇部は出品が少なかった、って文句言われたわ。中学生、少し頑張んなきゃだめよ」
「はい。すみません」
ドアが閉まると、さやかと宏美は顔を見合わせて、
「いやねえ」
と、一緒に言った。
「自分は何も出さないくせして」
と、宏実が、机の上の|埃《ほこり》をはたいて、腰をかける。
「高林君も|可哀《かわい》そう。まるきりオモチャだね、川野先輩の」
「そういう顔してるもん、高林君って」
宏美は、部室の中を見回して、「汚いわねえ、いつ来ても」
「どこの部も、こんなもんよ」
「それにしたって――足の踏み場もない、って、こういうこと言うんじゃないの」
「私は、うちで鍛えられてる」
と、さやかは言った。
「だけど、部長、何の用だろうね。さやかだけ呼んだんだ」
「そうね、川野先輩も知らないんじゃ」
「じゃ、もしかして……」
「何よ、その目つき」
「部長、さやかをくどく気じゃないの? 私は邪魔者かもね」
「趣味じゃないよ」
と、さやかが言ったとたん、ドアが開いて、
「何が趣味じゃないって?」
と、部長の|石《いし》|塚《づか》|進《しん》|二《じ》が顔を出した。
「あ、いえ――切手集めの趣味について、今話してたんです」
と、さやかは急いで言いわけした。
言いわけがスラスラ出てくるのは、さやかの特技の一つだった。
「私、邪魔なら帰りますけど」
と、宏美が言うと、石塚は、
「どうしてだ? 邪魔なんかじゃないぞ、ちっとも」
と、不思議そうに言った。
石塚は、この学校のイメージに、およそ合わない、がっしりした体格の、ちょっと|野《や》|暮《ぼ》ったい若者である。演劇部より、柔道か空手のイメージだが、こと演技にかけては、|素人《しろうと》らしからぬ情熱と才能を持っている。
さやかも、およそ石塚とデートしたいとは思わないが、演技の才能は尊敬していた。
「部長、ご用は?」
と、さやかが|訊《き》いた。
「うん。――これ、いつの写真だ?」
石塚が、窮屈そうに着ているブレザーのポケットから、くしゃくしゃになった写真を一枚出して、さやかの方へ投げた。
「私のだ」
「だから訊いてるんだ」
「文化祭ですね。――去年だな」
母親の、なつきと一緒に撮ったもので、背景は演劇部が上演した劇のポスター。さやかは、劇中の衣裳でうつっている。
もっとも、スラム街の浮浪児の役だから、あんまり、|見《み》|映《ば》えはよくないが。
「あ!」
と、|覗《のぞ》き込んでいた宏美が声をあげた。「ほら、さやか、この間電話で言ったでしょ、どこかのおじさんがさやかのこと知らないか、って写真見せた、って。この写真よ!」
「そんなこと言ってた?」
「健忘症!」
「部長、これがどうかしたんですか」
と、さやかは訊いた。
「今日、主事に呼ばれたんだ。主事の友だちが、これを持って来たって。何でも、どこかのプロダクションのプロデューサーで、映画の企画を立ててるんだとか言ってたらしい」
「映画の?」
さやかと宏美は素早く目を見交わした。
――もしや!
「で、何の話だったんですか」
と、思わずさやかは身を乗り出していた……。
「――お口に合いましたでしょうか」
レストランの支配人の笑顔は、心なしか引きつって見えた。
「ええ、とてもいいお味でしたわ」
と、その奥さんは言って、「ねえ?」
と、同行していた奥さんたちの方を見た。
「ええ、とても……」
「デザートも良かったし」
「お店もいい雰囲気ね」
と、みんな、口々に言って|肯《うなず》き合った。
「さようでございますか」
支配人はホッとした様子で、「ぜひ、またお越し下さいませ」
と、店の外まで出て、見送りながら、
「ありがとうございました」
を、三回もくり返した。
ゾロゾロと連れ立って歩いていた奥さんたちは、レストランから少し離れると、
「――まあまあね」
「少しくどいわ、味つけが」
「メインの量が少ない」
「そう! あれで終りじゃね」
「飲物別っていうのも、ちょっとね」
と、正直な批評を交わし合う。
「ランクとしては二つ星ね」
「厳しいのね。私は三つでいいと思うけど」
「甘い甘い。二つでもおまけしたぐらいよ」
「――じゃ、今日のお店のランチは二つ星、と」
みんなが足を止め、一斉にバッグから手帳を出して書き込んでいるのを、道行く人たちが、不思議そうに眺めていた。
「じゃ、私、ここで」
「私も、今日展覧会があるから」
「友だちの踊りの発表会なの。気が進まないけど、行かなくちゃ……」
次々と抜けて行って、結局、中沢なつきは一人になってしまった。
なつきだって忙しいことでは他の奥さんたちに負けないが、今日はたまたま、ハープの教室の先生が急に休んじゃったのである。
「どうしようかな……」
少しの間、なつきは道に立って、考えていた。
あちこちで知り合った奥さんたち同士での、〈ランチ・グルメの会〉も、なかなか面白いが、本来なつきは、ご飯党で、あっさりお茶漬でも食べる方が|性《しょう》に合っているのだ。
でも、まあ、これもお付き合い、ってものだし。
実際、店の名にかかわるだけに、|下手《へた》な料理は出せない上に、値段を抑えておかないと、たちまちそっぽを向かれてしまうというので、〈ランチタイム評論家〉の主婦たちには、どのレストランも神経を使っているのである。
だから食べる方にとっては何とも楽しみではあって……。
「ちょっと」
と、肩を|叩《たた》かれて、なつきはびっくりして振り向いた。
見たことのない、中年の男が立っていた。
「どちら様ですか」
と、なつきは|訊《き》いた。
「退屈してるの? ちょっと遊ばないか? 小づかいをあげるから」
なつきは、黙ってその男を眺めると、ハイヒールの|尖《とが》ったかかとで、思い切り、男の足を踏んづけた。――男が、あまりの痛さに声も出せず、口をパクパクしている間に、なつきはタクシーを拾って、家へ帰ることにしたのだった。
4 写真と名刺
なつきとさやか。この二人が|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》だったら、いくら夫の中沢竜一郎が楽しげにしていても、家の中のムードは暗く沈んでくるのが当然である。
「――おい、何かあったのか」
夕食を取りながら、あまりに静かなのに耐え切れなくなった竜一郎が言った。
「何も」
と、さやかが言った。「お母さん、おかわり」
「はい。――私も別に」
これではどうにもならない。
竜一郎は、果して自分が何か妻や娘の気にさわるようなことをしただろうか、と必死で考えていた……。
なつきの方は、あの変な男に声をかけられたことで、まだムカムカしていたのである。――もしや、うちの夫も、外へ出りゃあんなことをしてるんじゃないか。そう思っただけで腹が立ってくる。
あの男が、見るからにまともでない、ヤクザみたいなタイプなら、どうってことはなかったのだが(もっとも、足を踏んで、ただですまなかったかもしれない)、ごく当り前のサラリーマンらしかったのが、ショックであった。
ま、そんな男に声をかけられた、というのも頭に来た理由の一つだが、それは自分が魅力的なのだから仕方ない(と、なつきは自分で納得していた)。でも――うちの亭主も、残業、接待、出張とかいって、何をやっているのやら……。
なつきは少々男性不信に取りつかれていたのだった。
食事が終ると、さやかが、
「話があるの」
と、突然切り出した。
「な、何だ、いきなり」
と、竜一郎の方がギョッとしている。「お前、まさか好きな男ができたから結婚させてくれと……」
「私、中学生よ」
「そ、そうか……」
竜一郎は、額の汗を|拭《ぬぐ》った。「ヒヤッとしたぞ」
「何なの、さやか?」
「これ、|見《み》|憶《おぼ》え、あるでしょ?」
と、さやかが写真をテーブルの上に置く。
「あら、あなたと私の……。運動会の時のだわね」
「文化祭」
「そうそう。あなたが乞食の役をやって」
「浮浪児。――これ、誰かにあげた?」
「さあ……。どうして?」
「今日ね、学校にプロダクションの人が来たの」
「プロダクションって?」
「映画の。出演してくれる新人を探してるんだってさ」
「あら」
なつきは、目をパチクリさせて、「じゃ、あなたに話が来たの?」
「それが――」
「いかん!」
と、竜一郎が目をむいて、言った。「まださやかは中学生だぞ。芸能人になるのは、早過ぎる!」
「お父さん、落ちつきなさいよ」
と、なつきはなだめて、「まだそんなこと決めたわけでもないじゃない。どんな話だったのか、聞くだけでも――」
「いや、だめだ。何も分らん子供のうちから、TVや映画に出たり、歌を歌ったりするのは、教育上良くない!」
「そう?」
と、さやかは|頬《ほお》づえをついて、|訊《き》いた。
「そうだ!」
「中学生じゃだめ?」
「だめだ! お父さんは許さん」
と、竜一郎は首を振った。
「主婦なら?」
「だめだ! まだ何も分らん……。何と言った?」
「主婦。奥さん。女房。ワイフ」
「さやか、何の話?」
と、なつきが訊くと、
「あのね。私を映画に、って話じゃなかったの。――お母さん[#「お母さん」に傍点]なのよ、|狙《ねら》いは」
「――まさか」
「本当なの。もう子供みたいなタレントには客も飽きてきてる。だから、こういう落ちつきのある、しっとりとした女らしい人妻の魅力が求められているのだ、って」
「誰がそんなこと言ったの?」
「そのプロデューサー」
さやかは、名刺をポンと投げ出して、「明日、電話して来るってさ、お母さんに」
「ね、さやか――」
「部屋に行ってるよ」
さやかは、さっさと行ってしまった。
――しばし、夫と妻は、口をきかなかった。
「おい……」
と、竜一郎が言った。「|真《ま》|面《じ》|目《め》な話か?」
「らしいわね」
なつきは、その名刺を取り上げた。
「――さやか、お母さん、何て言ってた?」
翌朝、一緒に学校へ行くので、道で会うなり、宏美が訊いて来た。
「知らない」
と、さやかはそっけない。
「どうして? 伝えたんでしょう?」
「もちろん。後は知らないよ。お母さんの問題だからね」
「へえ、冷たいのね」
「子供じゃないもん、お母さん」
「フフ、さやか、やいてるな」
「何よ!」
「すぐそうむきになる。確かに、やいてる」
「フン!」
と、上を向いて――さやかは笑い出してしまった。
「でも、さやかのお母さん、|可愛《かわい》いもんね」
「そうねえ。――子供みたいなもんだから、あの人」
と、さやかは言った。
「今ごろクシャミしてるかな」
「そうね」
――確かに、なつきはクシャミしていた。
「おい、|風邪《かぜ》か?」
と、中沢竜一郎が上衣を着ながら、|訊《き》いた。
「ううん、鼻がちょっとムズムズしただけ」
「そうか」
玄関で靴をはくと、「おい、どうするんだ?」
「何が?」
「|昨日《きのう》の話だよ」
「ああ、あれ」
と、なつきは笑って、「冗談じゃないわ。今さら私がスターになるなんて。向うも本気じゃないわよ」
「そうかな」
と、竜一郎は、まだ不安げだった。「話が来ても、断われよ」
「はいはい。行ってらっしゃい」
なつきは、夫を送り出して、|鍵《かぎ》をかけると、ちょっと息をついた。
「とんでもない話だわ」
電話して来るなんて、きっと口だけで、それきり忘れちゃうのよ。
そう。――そんなこと、ありっこないんだから。
台所で洗いものをしていると、インタホンが鳴った。
「こんなに早く……」
誰かしら、とボタンを押すと、
「Mプロダクションの|藤《ふじ》|原《わら》と申しますが」
なつきはびっくりした。昨日、さやかがくれた名刺の人ではないか!
5 思い出の|女《ひと》
「あの……」
と、中沢なつきは言った。
「は?」
その男は、紅茶のカップを、もう一分間以上も、じっと持ったままだった。
「いえ、私の顔に何かついてます?」
なつきは、そう|訊《き》いてやった。
「あ、いや――そうじゃありません。いや、失礼しました。お気に触りましたら、お許し下さい」
藤原というその男、早口で、まくし立てるように言った。
「別にそういうわけじゃありませんけど」
なつきとしては、客に黙っていられたのでは困ってしまう。何といっても、向うが、用事があってやって来たのだ。
「あの……お話というのは」
と、仕方なく言ってみると、
「そう、そうでした。――こりゃどうも」
と、また謝っている。「いや、実際のところ、お嬢さんからお聞きかと思っていたものですから……」
「ええ、さやかから、何だか映画の新人を捜しておられるとかうかがいましたけど――」
「さやか[#「さやか」に傍点]さん! いいお名前ですね。母親が『なつき』で、娘が『さやか』。――これ以上の取り合わせはありませんよ」
「どうも」
「お写真を拝見しましたが、実によく似ておられる。美しい。|清《せい》|楚《そ》で、涼しげです。奥様の若いころも、あんな風でしたでしょうね」
「まあ、さやかが聞いたら、きっと喜びますわ」
と、なつきはちょっと笑って言った。
「その笑い方!」
「は?」
「実に、落ちつきがあって、かつ少女のように無邪気で、気品ある笑い方です。すばらしい!」
「そ、そうでしょうか」
いちいち笑う時に笑い方なんか考えちゃいられない。なつきはすっかり調子が狂って、そう簡単に笑うわけにもいかなくなってしまった。
それにしても……。映画のプロデューサーって、みんなこんな人なのかしら?
Mプロダクションという名は、なつきも耳にしたことがあった。芸能界について、ごく世間並みの知識しか持ち合わせていないなつきが耳にした|憶《おぼ》えがあるというのだから、Mプロダクションそのものは、決して小さくないのだろう。
藤原というその男の様子にも、貧乏くさいところや、いかがわしげな|匂《にお》いはなかった。ごく普通のサラリーマン風に、ビジネススーツを着込み、ネクタイの趣味も悪くなかった。メガネも顔によく合ったフレームの物を選んでいる。
年齢は――なつきも、人の年齢を見るのが得意とは言えないが――たぶん、なつきと同じくらいの、三十七、八歳というところではないだろうか。
色白の、少しのっぺりした顔立ちは、かなり若い印象を与える。
「で、いかがでしょうか」
と、突然思い出したように、「ぜひ、奥様のような方に、スクリーンを飾っていただきたいのです」
「はあ」
なつきは、やっと話が進んだので、ホッとした。何しろ、この藤原という男、話に脈絡というものがない。
気まま勝手にあちこち飛び回る、という有様なのである。
「お話にはびっくりしましたわ、正直に申しまして」
と、なつきは言った。「もちろん、お|賞《ほ》めにあずかって、私も大変|嬉《うれ》しいんですけれども。――でも、残念ながら、お断わりしますわ」
「しかし、奥様、すぐにお決めになるのは――」
「いえ、私はもともとそんな素質のある人間ではありませんし、今さら無理をして、新しい冒険をしてみようとは思いません。娘もおりまして、手もかかりますし、主婦業だけで結構忙しいのです」
これもカルチャーセンターで、講師の話をよく聞いているおかげかもしれないが、自分でもびっくりするくらい、言葉がスラスラと出て来る。
「お分りでしょ? 私はとても女優なんかには向きませんわ。自分のことは、自分が一番よく知っています」
藤原は、ちょっと息をついた。――がっかりした、とも、ホッとしたとも聞こえる。
「いや、残念です」
と、藤原は、やっと紅茶を飲んだ。「――お気持は変りませんか」
「はい。申し訳ありませんけど」
何も、なつきの方が謝る必要はないのだ。でも、藤原という男、そう悪い人物でもなさそうだし……。
「では、これで失礼いたします」
唐突に、藤原は立ち上がった。「大変お邪魔いたしました」
「いえ、何もお構いしませんで……」
後は、普通のお客と同様に、なつきは藤原を玄関まで送った。
――藤原が帰ってしまうと、なつきは何となくぼんやりして、居間のソファに座っていた。
本当は、洗濯を午前中に片付けておかなくてはならないのだ。午後からは英会話のクラスがある。親しい奥さんと一緒なので、休むわけにいかない。
すぐに動いて、やることをやってしまわなくちゃ。――分っているのだが、動く気になれない。
「女優ねえ……」
と、ふと|呟《つぶや》く。
そう。やっぱり、いくらかは断わったことが残念なのである。
もちろん、引き受けるなんてとんでもないことで、それはよく分っているのだが、心の隅では、自分の顔が大きくスクリーンに出た時の気持って、どんなものかしら、などと考えているのだ。
考えるだけなら構やしない。――ねえ、そうじゃない? いくらロマンチックな|夢《ゆめ》を見たって、誰にも迷惑がかかるわけじゃないんだものね。
なつきさん……。
藤原は、タクシーが走り出すと、ハンカチを取り出して、汗を|拭《ぬぐ》った。
汗をかくような陽気じゃなかったのだが、それでも中沢家を辞した時には、背中に汗をかいていた。
間違いない。なつきさんだった。
少しも変っていない、と言えば、もちろん|嘘《うそ》になる。十七、八のころと三十八歳とで変っていなかったら、それこそ気味が悪いというものだ。
しかし、見かけはともかく――その印象、人に与える感じ[#「感じ」に傍点]では、ほとんど何の変りもなかった。少なくとも、藤原はそう感じたのだった。
「懐かしい……」
藤原は、目を閉じた。――今も|瞼《まぶた》の裏には、高校生の制服に身を包んだ、なつきの、まぶしいような姿が焼き付いている。まぶしい? いや、|透《す》き通ったような、と言うべきだろうか。
高校生だった藤原が、たまたま通学路が同じで、ふと見かけて一目で参ってしまった相手。それがなつきだったのである。
当時の姓は何といっていたのか、藤原は知らない。ただ、友だちが、彼女のことを、
「なつき」
と呼んでいたので、名の方だけは知っていたのである。
もちろん、彼女の方は藤原のことなど全く知らない。話をするどころか、視線すら合ったことがなく、終ったのだから。
しかし、藤原は忘れたことがない。この業界に入り、何人かのスターを見出し、育てたが、その若い女の子たちの中に、無意識のうちに、「幻のなつき[#「なつき」に傍点]」の面影を求めていることに、時々気付いてハッとすることがあった。
そして――。
「熟年の新人って|奴《やつ》を見付けて来い! 変っていて、当るかもしれん」
プロダクションの社長にそう言われた時、すぐに思い付いたのが、なつきのことだった。
彼女の通っていた女学校の同窓会名簿を苦労して手に入れ、〈なつき〉という名の子を捜した。――見付けるのはそう苦労ではなかったが、問題は、今、彼女がどんな女性になっているか、である。
会うのが怖いようでもあった。しかし、偶然のことから手に入った、なつきと娘の写真を見た時、藤原は、全く奇妙な印象を受けたのだ。そこには、「|大人《おとな》になったなつき」と「昔の通りのなつき」が並んでうつっていた。
もちろん、さやかという娘は、かつてのなつきと似ていて当然だ。しかし、外見よりも、一見して受ける印象が、ハッとするほど、かつてのなつきそのものであった……。
「|諦《あきら》めないぞ」
と、藤原は|呟《つぶや》いた。
あっさりと引きさがって来たのも、作戦の一つである。
人間、「美しい」と言われて悪い気はしないものだ。断わりながらも、心のどこかで、
「でも、無理にでも何とか、と頼んで来ないかしら」
と思っていることが多い。
そこをパッと引きさがられると、却って、不満になって、「もう一度誘ってくれないかしら」と思ったりする。そこがチャンスなのだ。
「勝負はこれからだ」
と、藤原は呟いて、腕組みをしたのだった……。
6 からめ手
「社長がお呼びです」
そう言われると、たいていの社員は一瞬ドキッとするだろう。
その点、中沢竜一郎の場合は、「社長」|即《すなわ》ち「父親」なのだから、別にびくつく必要はないようなものだが、実際には、人一倍ギクリとするのである。
「|親父《おやじ》が? 何だろう」
と、中沢竜一郎は、社長の秘書に|訊《き》いてみた。
「存じません。直接お訊き下さい」
「うん……」
竜一郎は、課長の|椅子《いす》から立ち上がると、「ね、親父、ご機嫌はどうだった? 何か怒ってる様子だったかい?」
「そんなことないみたいですわ」
と、秘書が笑いながら答える。
「あ、そう。――じゃ、行ってみるよ」
本当のところ、いちいちそんなことを訊いたりすれば、笑われるだけだというのは、竜一郎もよく分っている。それでも、つい訊かずにはいられないのは、別に父親が怖いからではない。
父親が、何かとんでもない仕事を回して来るのじゃないか、と心配なのだ。情ない話だと、自分でも思うのだが、こればかりは生まれつきというもので、どうしようもない。
父親の方も、いい加減|諦《あきら》めているはずだ。しかし、親というものは、子供に関する幻を、いつまでも捨て切れないものだ。
というわけで、竜一郎は、こわごわ社長室のドアを開けたのだった。
「――忙しいか」
父親の一声で、竜一郎はホッとした。これなら大丈夫。
「まあまあだね」
と、竜一郎は言って、|椅子《いす》にかけた。
中沢|竜《たつ》|重《しげ》は、髪こそ白くなっているが、まだまだエネルギッシュな雰囲気を|溢《あふ》れんばかりに|具《そな》えており、ある意味では|息子《むすこ》の竜一郎よりずっと若々しくすら見えた。
「何か用?」
と、竜一郎は言った。
「用があるから呼んだ」
と、中沢竜重は、当り前のことを言った。「なつきさんは元気か」
「女房? うん、相変らず、あちこち飛び歩いてるよ」
「さやかにもこのところ会っとらん。たまには遊びに来させろ」
竜重は、さやかを|可愛《かわい》がっている。孫だから当然でもあろうが、しっかりしたさやかに、自分と似たところを見出しているのかもしれない。
「友だちと、休みっていうとどこかへ出かけてる。何しろ、もう中三だからね」
「さやかの|奴《やつ》は心配ない。お前よりよっぽど生命力がある奴だ」
と、竜重は言いにくいことを、はっきり言うと、「実はコマーシャルの件だ」
「コマーシャル?」
やはりまずいと思った。
以前、アメリカでコマーシャルを撮って来いと言われて、アメリカ西部の荒野で撮影隊もろとも迷子になり、三日間、砂漠をさまよったことがある。
「僕は向いてないよ。細かい計算は苦手だし、現地にも慣れてないし――」
「誰もアメリカへ行けとは言っとらん」
と、竜重が苦笑いした。
「そう」
と、竜一郎は胸をなでおろした。
「今度は国内。それも都内でのロケぐらいだ」
「それならまあ……」
「ただし、出演[#「出演」に傍点]だ」
竜一郎は、ポカンとして、
「何だって?」
「出演さ。コマーシャルに出るんだ」
竜一郎は|唖《あ》|然《ぜん》として、
「だめだよ! 僕は、そんなピエロみたいな格好して、町の真ん中で大声出したりできないよ!」
「誰がそんなことをしろと言った」
「でも、たいていそうじゃない。社員が出るってのは――」
「社員じゃない。お前の女房が出るんだ」
「女房って……なつきのこと?」
「他にいるのか?」
「いないよ! いないけど……。でも、なつきがどうしてコマーシャルに?」
「制作を請け負ったプロダクションが、ぜひと言って来た」
竜一郎は|眉《まゆ》を寄せた。
「プロダクション? その――担当の奴は何ていうの?」
「ええと……」
竜重は名刺を取り出して、「藤原とかいう男だ」
「やっぱり!」
「知っとるのか?」
「いや……大して」
――なつきに、映画へ出ないかと持ちかけて来て断わられたのが、一週間ほど前である。今度はコマーシャル!
「でも、なつきは別に役者でもタレントでもないし……」
「そこが新鮮だ。いいじゃないか。なつきさんは今だって|可愛《かわい》い」
「まあ、そりゃね」
と、竜一郎は肩をすくめた。「でも、女房の顔がTVに出るなんて……。何を言われるか」
「構うもんか。変に|手《て》|垢《あか》のついたタレントなど使って高い金を出すより、よっぽど清潔感があっていい」
竜一郎は不安になって来た。
「父さん。――本当になつきを使うつもりなの?」
「ああ。お前の女房だ。会社に協力してくれてもよかろう」
「だけど……。本人の気持次第だよ」
と、竜一郎は言った。
「あら」
と、なつきは言って、ご飯をよそうと、「もうご返事したわよ、お|義《と》|父《う》|様《さま》には」
「何だって?」
竜一郎は、|茶《ちゃ》|碗《わん》を受け取ったものの、はしを持った手は動かない。「どう返事をしたんだ?」
「やりますって。だって、あなたにとってもプラスになるんでしょ?」
「いや――しかし、いやなのを無理してやることはないんだ」
「何なら、私が代りに出てあげようか」
と、さやかが言った。
「お前はいかん。中学生だぞ」
「お母さんだって、大して変んないと思うけどね」
と、さやかはそっと|呟《つぶや》いた。
「心配ないわよ」
と、なつきは|微《ほほ》|笑《え》んで、「撮影なんて、一日か二日で済むんですって。ギャラも一応少しは出るみたいだし」
「その話、例の藤原って奴が持って来たんだぞ。コマーシャルを終ったら映画へと引っ張り出す気だ!」
「断わりゃいいんでしょ」
と、なつきはあっさりと言った。
お母さん、本当に断わるだろうか? さやかは、母の|活《い》き活きした表情を眺めていた。
何といっても、ごく平凡な妻、母として、十何年か過して来た女にとって、映画やTVに出るっていうことは――それもクイズ番組とかでなく、女優として出るというのは、|凄《すご》い刺激ではあろう。
さやかとしては、母の出演に反対しているわけではない。
もちろん、それがきっかけで家庭崩壊ってことになると困るのだけど……。
まあ、ただの気晴しなら、いいんじゃないかしら。
もし、万一、人気がワッと出たりしたら、面倒かもしれないけど、でも、そんなこと、あるわけないしね。
さやかは、自分にそう言い聞かせていたのだが……。
7 |母娘《おやこ》|坂《ざか》
なつきが、町を歩いて来る。
何だかお|伽《とぎ》の国みたいな、|可愛《かわい》い家並み、芝生の緑、つた[#「つた」に傍点]のからまる赤い柵……。
その中で、なつきはまるで空中を飛んでいるかのように、|颯《さっ》|爽《そう》としていた。
そう。――本当に、地面を踏んで歩いているのだとは信じられないくらい。
いささか悔しい思いと共に、さやかは自分の母が、こんなにすてきな人だったのか、と改めて感心していた。同時に、私もお母さんに似ていて良かったわ、と考えてもいた……。
なつきが、ふと足を止めると、降り注ぐ|陽《ひ》|射《ざ》しに、少しまぶしそうに目を細め、カメラの方を向いて、ニッコリ|微《ほほ》|笑《え》んだ。
――しばし、誰も動かなかった。
やがて、当惑の気配が、辺りに漂う。みんなの視線が、カメラの横に立った一人の男に集中した。
その男は、ポカンと口を開け、何だか見てはいけないものを見てしまったかのように、少々|怯《おび》えている目つきで、なつきから目を離さずにいた。
「監督!」
たまりかねて、藤原がつつくと、
「――ん。そうだ! カット!」
ホッとして、みんなが息をつく。レントゲンを撮る時に、
「はい、息を止めて」
と言われてそれきり放り出されていたようなものだったのである。
「――いかがでした?」
と、なつきが監督の方へ歩いて来る。
「すばらしい! OKです。これ以上のOKがあり得ないくらいのOKですよ!」
ひげづらの監督は、やおらなつきの手を取ると、その甲にチュッとキスしたのだった。
「まあ、|恐《おそ》れ入ります」
なつきは、少し赤くなって笑った。
「――お母さん」
さやかが声をかける。
「あら、さやか! いつ来たの?」
「二十分ぐらい前」
「全然気が付かなかった。――くたびれたわ、本当に!」
と、なつきは大げさに息をついた。
「お疲れさまでした」
と、藤原がやって来て、「いや、すばらしい。このCFは今年最大の話題になりますよ!」
「まあ、お世辞がお|上手《じょうず》で」
と、なつきは笑って、「あ、さやかは初めてね。藤原さん……」
「どうも」
と、さやかは藤原に頭を下げて、「母は、スターになれそうですか?」
「さやか、何を言ってるの」
「さやかさん」
と、藤原は|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で言った。「あなたのお母さんは、生まれながらのスターですよ」
「――へえ」
藤原と別れ、なつきとさやかは、二人して近くの駅へと歩き出していた。さやかは、母の方を冷やかすように見て、
「お母さん、生まれながらのスターですって」
「ああいう人は口がうまいのよ。それがお仕事ですもの」
「それだけじゃないと思うけどな」
と、さやかは言った。「お母さん、これでまた映画に出てくれとか言われたら、どうする?」
「一日で終るCFとは|違《ちが》うのよ。とてもじゃないけど……」
「そう。それがいいね」
さやかは母の腕に、自分の腕を絡ませて、「お母さんが家にいつもいないんじゃ、寂しいもんね。今でもあんまりいないけど」
「それ、皮肉?」
母と娘は、一緒に笑った。
――日曜日。すばらしく晴れ上がった、穏やかな日だった。
さやかも、やっぱり気になって、撮影現場までやって来たのである。一日で終るとはいっても、そこはやはりプロの仕事で、たっぷり朝から午後遅くまでかかってしまった。
「――さやか」
と、なつきはふと思い付いて、「お父さんは?」
「家にいるよ」
「お昼、何か食べたのかしら」
「知らないけど、子供じゃないんだから、自分で何とかしたでしょ。カップラーメンもあるし」
「そうね」
と、なつきは|肯《うなず》いた。
その、|母娘《おやこ》の後ろ姿を、並んで見送っていたのは、藤原と、このCFの監督、|雨《あま》|宮《みや》である。
「いいなあ、絵になってる」
と、雨宮が、首を振りながら、「母と娘の語らい。――美しい光景だ」
まさかカップラーメンの話をしているとは思わないのである。
「ね、監督、いいでしょう?」
と、藤原など、若き日の思い出もこみ上げて来て、感傷で目をうるませている。
「いいなんてものじゃない。――君が見付けて来たんだって? どこで捜したんだ」
「それはまあ……。企業秘密ですよ」
「このCFは絶対に評判になるぞ。奇をてらったCFの多い中で、あくまでスタンダードにやる。素材の良さだけで充分いけるからな!」
雨宮がこんなに興奮しているのは珍しい。大体がクールで、ビジネスライクな男として知られているのである。
「うちの社長も、この出来を見たら、絶対に本腰を入れて、売り出そうとしますよ」
と、藤原は言った。「何とか|口《く》|説《ど》き落として、映画にと思ってるんですがね」
「そいつは君の腕次第だな。しかし――」
と、雨宮は藤原の肩をギュッとつかんで、「もし映画となったら、|俺《おれ》にやらせてくれよ! 頼むぜ」
「話しときますよ、社長に」
と、藤原は逃げた。
確かに、雨宮はCFの世界では「巨匠」である。しかし、十秒とか五秒とかが勝負のCFと、一時間半の映画では、才能の質が違って来る。
藤原としては、じっくりと、中沢なつきの魅力を引き出してくれる監督を選びたかった。もちろん雨宮がだめだというわけではないのだけれど……。
それに、社長が何と言うか。――いくら藤原や雨宮が|惚《ほ》れ込んだって、要は金を出すところの問題になるのだから。
――複雑な気分だった。
藤原としては、かつての「自分だけのアイドル」を、他人の目にさらすことに、抵抗もある。しかし、この仕事を進めない限り、なつきと会うこともできないのだから……。
「――いかがです?」
藤原は、明るくなった試写室で、社長の顔色をうかがった。
「うむ……」
社長の|舟《ふな》|橋《ばし》は、そう言ったきり、しばらく口をきかなかった。
気に入らなかったのかな、と藤原は思った。
「あの、これはまだ編集前のフィルムですから。もっときちんと整理して――」
「もう一度見たい」
と、舟橋は言った。
「はあ……」
何度も撮り直したりして、そのNGの分も全部上映している。再び試写室が暗くなって、カタカタと機械音がした。
NGのカットの中に、見物人が入り込んだ所があった。カメラがずっと横に振って行ったら、そこに立っていた野次馬が、画面に入ってしまったのである。
そこに、さやかも入っていた。
「社長、あれが――」
中沢なつきの娘ですよ、と言おうとしたら、
「止めろ!」
と、舟橋が怒鳴った。「フィルムを止めろ!」
画面が静止した。
「――社長、何か?」
と、藤原が|訊《き》いた。
「その女の子は何だ?」
と、舟橋は腰を浮かしている。
「あの正面のですか? 中沢なつきの娘さんです。さやかといって、なつきさんの若いころとそっくりで――」
「いける!」
「は?」
「あの子はいける!」
「しかし――」
「母親の方も、もちろんいい。しかし何といっても娘の方が先が長い」
「そりゃそうですが――」
「親子共演ってのはどうだ? 実の母と娘が映画でも母と娘をやる。しかも二人とも初々しい新人!」
「なるほど」
「これで行こう!」
舟橋は、出っ張り気味の腹をポンと|叩《たた》いた。「来年の正月映画にどうだ。『|母娘《おやこ》|坂《ざか》』。いいタイトルだ!」
「どうして『坂』が出て来るんですか?」
「そんなことまで知るか。昔から『坂』がつくとしっとりしたドラマと決まっとる」
無茶な発想である。
「おい、藤原」
「はあ」
「何としても二人を|口《く》|説《ど》き落とせ。娘の方からでも母親の方からでもいい! 分ったな? 失敗したらクビだ!」
これ以上、はっきりした説明はあり得ないほど、舟橋の命令は明確そのものであった。
8 迷える父親
「何よ、これ?」
演劇部の部室に入ったさやかと宏実は、|唖《あ》|然《ぜん》とした。
ただでさえ、ゴタゴタしてて、居る所のないような部室のど真ん中に、でん、と居座っているのは、巨大な花束だった。
「誰か死んだっけ、うちの部の人?」
と、さやかは言った。
「知らない。でも、これ、お葬式の花じゃないわよ」
「そりゃそうだけど……」
宏美は、花束についたカードを取ると、広げてみた。
「さやかあてよ」
「私?」
「ほら。――何とかプロダクションの藤原、って」
「お母さんを映画に誘った人だ!」
さやかは、そのカードを手にして、「でも何だって、私にこんな花を?」
「その人にウインクでもしたんじゃないの、さやか?」
「よしてよ。中年男って趣味じゃない」
ドアが開いて、入って来たのは、部長の石塚進二と、副部長の川野雅子だった。
「あ、部長」
さやかは、あわててカードを手の中に隠した。石塚はともかく、川野雅子の目に止まるとうるさい。
「――これか」
と、石塚が、花束を見て、言った。「うちの部室にゃ合わないな」
「中学生のくせに、こんな物もらうなんて」
と、川野雅子は仏頂面をしている。
「私、別に――」
と、さやかはムッとして言い返しかけたが、何とか思い|止《とど》まった。
「先生が、困ってたぞ」
と、石塚が愉快そうに言った。
「困ってたって……。どうしてですか」
「ぜひお前を映画に出してほしい、って、プロダクションの|奴《やつ》に頼み込まれたと言ってさ」
「私を?」
「知らなかった、なんて言わないでよ。どうせ売り込みに行ったくせに」
と、川野雅子は、面白くもなさそうに言った。
「待って下さい」
と、さやかは言った。「何の話ですか? 交渉が来てるのは母の方です」
「じゃ、お前、本当に知らないのか」
と、石塚が、机の端に腰をおろして、「|母娘《おやこ》共演って企画を立ててるらしいぞ」
「母娘……。母と私が?」
「驚くふり[#「ふり」に傍点]は名演技ね」
と、川野雅子がいやみを言った。
「まあ、いいじゃないか」
と、石塚が言った。「問題は結果だ。きちんとやりゃ、それでいいんだ」
「私出ません」
と、さやかが言った。「そんな世界、好きじゃありませんから。何でしたら、川野さん、代りに出ます?」
さやかも、それぐらいのことは言ってやらないと気が済まない。
「何ですって?」
と、川野雅子は、さやかに詰め寄った。「あんた、先輩に向って――」
「よせってば」
石塚が|遮《さえぎ》る。「これは中沢の問題だ。お前が自分で決めればいい」
「はい」
と、さやかは両手をギュッと握り合わせた。
その手の中で、藤原のカードは、くしゃくしゃになっていた。
「私、用事があるので、失礼するわ」
川野雅子は、部室を出て行ってしまった。
「怖いなあ、あいつは」
と、石塚がのんびりと言った。「しかし中沢、お前は役者の素質があると|俺《おれ》は思ってるんだ。よく考えてから決めろよ」
「はい」
「他の|奴《やつ》の言うことは気にするな。――先生の方は俺からうまく言いくるめてやるからさ、いざとなったら」
「ありがとうございます」
さやかは、ふと胸が熱くなった……。
さて、一方――。
「あんな子のどこがいいのよ!」
と、川野雅子は、一年生の高林和也に八つ当りしていた。
「ええ……」
高林和也は、|曖《あい》|昧《まい》に言った。「そうですね」
「間違ってるわ。大体、さやかの母親なんて、遊び好きで有名なんだから。これで母と娘が芸能界入りなんてことになったら……」
空っぽの教室で、川野雅子は、高林和也に、「演技指導」をしていた。
「家庭崩壊か」
と、川野雅子は言って、何やら思い付いた様子で、目をキラッと光らせた。「ね、高林君」
「はあ」
「さやかとさ、付き合ってみる気、ない?」
高林和也は、不思議そうな顔で、川野雅子を|眺《なが》めていた。
「いいじゃないか」
と、中沢竜重が言った。
中沢竜一郎は、父の言葉に、やや戸惑って、
「父さん……。それ、どういう意味?」
と、|訊《き》いた。
中沢竜重と竜一郎、親子で珍しく夕食を取っているところである。
「いいじゃないか、と言っただけだ」
と、竜重は言った。
「いいって……。なつきだけじゃない。さやかにまで、映画に出ないか、って話が来てるんだよ!」
「お前はどうなんだ」
「とんでもない話だよ。まださやかは中学生だ。これからが勉強の時期だっていうのに」
「本人次第だ」
と、竜重はワインをゆっくりと飲みながら言った。「人間、勉強の場は学校の中だけとは限らん」
「だからって芸能界に――」
「要は当人と周囲の問題だ。自分のやりたいことを、ちゃんとはっきり分っていれば、そう心配することもないさ」
竜一郎は、まじまじと父親の顔を見て、
「父さん……じゃ。なつきやさやかが映画に出たりするのに賛成なの?」
「それは私の決めることじゃない。お前たち親子で話し合って、決めればいい」
「そりゃそうだけど……。父さんが反対だと言えば、なつきもきっと考えるよ」
「私が反対する筋のものじゃないさ。それに、私の意見としては、『いいじゃないか』だ」
「参ったなあ。父さんに意見してもらおうと思って、頼みに来たのに」
と、竜一郎は苦り切った顔。
「そいつは気の毒だったな」
と、竜重は笑って、「しかし、なつきさんもさやかも、お前が思っているより、よほどしっかりしているぞ。向うに振り回されないように気を付けていれば、まあ大丈夫だろう」
「だけど、ああいう世界は――」
と、竜一郎が言いかけた時、
「失礼します」
と、声がした。
女性が立っていた。見たことのない――いや、見たことはある[#「ある」に傍点]。しかし、どこで会ったか、まるで竜一郎には思い出せない。
「あの、失礼ですけど、中沢竜一郎さんでいらっしゃいます?」
「は、はあ」
パッと目を見張るような華やかさのある女性だった。まるで女優みたい……。
「あなたは……」
と、竜一郎が目を丸くした。「女優の――」
「|池《いけ》|原《はら》|洋《よう》|子《こ》です」
TVやCFで年中見ている顔だ。見たことがあって当然である。
「今度、奥様やお嬢様とご一緒することになりましたの」
と、池原洋子は|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。「フィルムで拝見しただけですけど、とってもすてきな奥様で」
「い、いやどうも……」
「お店の方が、教えて下さったので、ご|挨《あい》|拶《さつ》と思いまして。どうかよろしく」
「こ、こちらこそ」
と、竜一郎はあわてて立ち上がって頭を下げた。「なつきとさやかをよろしくお願いします」
それを見ていた竜重が笑いをかみ殺して、池原洋子の方へ、そっとウインクして見せた。
9 暖かい季節
「先生」
と、カルチャーセンターの女性事務員が声をかけた。
「なあに?」
このところ、とみに名が売れて来て、すっかり大物らしくなった(態度が、である)その女性講師は、尊大な口調で、「もう時間になってるの。用事なら早く言ってもらわないと……」
「実は、今日の講座に、取材が入ってるんです」
「取材?」
「はい、TV局とか週刊誌とか――」
女性講師の顔がパッと輝いた。
「そう」
と、口だけは|素《そっ》|気《け》なく、「ま、仕方ないんじゃない? あちらも仕事なんだから」
「あの、講義の邪魔にならないように、と注意はしてあるんですけど、もし――」
「分ってるわ。大丈夫。うまくやるわよ」
「はあ。ただ――」
「任せといて」
と、女性講師は、ポンと事務員の肩を|叩《たた》いて、さっさと行ってしまった。
事務員は、ホッとした様子で、戻りかけたが……。ふと足を止め、不安げに、
「先生、何か|勘《かん》|違《ちが》いしてるんじゃないかしら?」
と、|呟《つぶや》いたのだった。
――一方、「先生」の方は、TVが来るのなら、美容院へ行って来るべきだったわ、と、後悔していたが、まあ今日の格好なら、まずどこへ出ても恥ずかしくはない。
TV番組で、〈星回りによる夫婦の相性について〉のコーナーを受け持ってから、がぜん顔が売れ、この先生は今や引っ張りだこであった。当人も、今が稼ぎ時、と張り切っている。
今度、ここの講演謝礼も値上げしてもらわなきゃね、などと考えながら、教室の戸を開けると――。
十五、六人は取材に来ている! 思わず目をみはった。
重いTVカメラをかついでいる男が二人。他に、照明用のライトだの、一眼レフ、テープレコーダー……。
「先生」は、胸が熱くなった。――私って、こんなに注目を集めていたんだわ!
そして、堂々と胸を張って(かなり、そっくり返っていたが)、壇上へと上がって行ったのだった……。
しゃべる方は、もちろんベテランである。TVカメラがあろうが何があろうが、あがったりすることはない。
むしろ、いつもよりスラスラと|淀《よど》みなく、話が流れ出すという感じ。――正にいい気分であった。
しかし……。しばらく話しているうちに、どうもおかしい、と思い始めた。
確かに、TVカメラも回り、フラッシュが光り、色々撮ってはいるのだが――そのレンズは、一向に肝心の講師の方を向かないのである。
何だか知らないが、そんな教室の中――つまり、話を聞いている生徒たちの方を向いているのだ。生徒といったって、もちろん、主婦がほとんど。――「先生」は首をかしげた。
いや、自分のことを紹介するのに、講義の様子を撮るのは確かに必要だろう。しかし、そればっかりというのは、妙なものだ……。
段々、この先生、|苛《いら》|々《いら》して来た。
そのうち、カメラマンは、教室の中をうろうろ動き始めた。
と思うと――一人がTVカメラをかついで、ヒョイと壇上に上がって来ると、レンズを生徒の主婦たちの方へ向けて、
「おい、ライト当てて」
と、助手らしい男に指示している。
「あのね――」
我慢し切れなくなった女性講師は、そのカメラマンをつついてやった。
「あ、すみませんね、もうちょっとですから」
と、カメラマンは、ちっともすまなそうでない口調で言った。
「一体何を撮ってるの、あなたたち?」
と、にらみつける。
「知らないんですか?」
カメラマンが|呆《あき》れ顔で、「今、CFで大評判の中沢なつきですよ」
「誰ですって?」
「中沢なつき。〈永遠の|乙《おと》|女《め》〉ってキャッチフレーズで。ほらその席にいる――」
と、光が当てられている女性を指す。
すると、その女性がパッと立ち上がった。
「すみません、先生。私、ちょっと用事がありますんで、失礼します」
と、手早く机の上を片付けて、「あの――ご講義は前にもうかがっていますので。じゃ、失礼します」
急ぎ足で出て行ってしまう。
「――何だ、帰っちゃったぜ」
「じゃ、終りか」
カメラマンや記者たちは、機材をかかえて、ゾロゾロと出て行く。
「やっぱりそうだったのね!」
「どこかで見た人だと思ったわ」
と、主婦たちが口々に話している。
「きれいな人ね!」
「育ちの良さが――」
一方、女性講師は、しばし立ち直れずに、壇上で黙って突っ立っているばかりだった……。
ビルの正面へ出て行くと、ハイヤーの前に立って待っていた藤原が、
「なつきさん! 早く早く!」
と、手を振った。
「ごめんなさい。なかなか出られなくて」
なつきが車に乗り込むと、藤原もすぐに続いて乗って来て、
「急いでNテレビ!」
と、運転手へ声をかけた。
「――間に合うかしら?」
「ぎりぎりですね」
「ごめんなさい」
と、なつきは、また謝った。「でも、講師の先生が一生懸命話してらっしゃるのに、中座するなんて、申し訳なくて……。もちろん、藤原さんやTV局の方にも申し訳ないとは思ってるんですけど」
藤原は、ちょっと間を置いてから、
「――いいんですよ」
と、|微《ほほ》|笑《え》んだ。「そこが、なつきさんらしいところです」
「でも……」
「なつきさんはなつきさんらしくしていて下さい。そのせいで他に迷惑をかけたら、私が謝ります。それが私の仕事なんですからね」
「ありがとう」
と、なつきは言って、「藤原さんって、いい方ね」
「い、いや、とんでもない」
藤原はあわてて外へ目をやった。
そして額の汗を|拭《ぬぐ》う。――もちろん、照れているのだ。
でも、汗をかいてもおかしくない季節にはなりつつあった。
なつきの出たCFの放映が始まって、一か月。――反響は、藤原や、舟橋社長の思惑を|遥《はる》かに|超《こ》えて、|凄《すご》いものであった。
なつきとさやか共演の『母娘坂』もたちまち企画が通り、何も考えていなかった藤原をあわてさせた。
今、このタイトルと、主役二人にふさわしい話をひねり出すべく、シナリオライターが頑張っている最中だった。
「そうだわ」
と、なつきは思い出したように、「今夜のおかず、考えてなかった。ちょっと電話を」
「ええ、どうぞ」
なつきは車の中の電話で、自宅へとかけた。そろそろ、さやかも帰っているころだ。
「――あ、もしもし、さやか? お母さんよ。――そう、これからTV局なの。――そうね、帰りは八時過ぎると思うわ。何か出前を取っといてくれる?」
藤原は、そんななつきを横目で眺めて、これでいいんだろうか、と思った。
社長の舟橋は、もちろん大喜びである。
「ガンガン稼げ!」
と、声を上ずらせている。
しかし、なつきは、あくまで普通の主婦であり、当人も主婦であることを、二の次にする気はない。
あくまで家庭が優先。さやかの場合は、学校優先。それが条件である。
しかし、藤原はよく知っていた。そんな条件など、|一《いっ》|旦《たん》マスコミという巨大な機械が動き始めたら、たちまちかみ砕かれ、のみ込まれてしまうということを。
――|嬉《うれ》しくもあり、困ってもいた。
こんなにも、なつきのCFが大ヒットするとは思わなかったのだ……。
「――じゃ、お父さんの分もね。――頼むわよ」
なつきは電話を切った。「藤原さん」
「はあ。何です?」
「TV局で、私、何をするんですの?」
「そ、それはですね――」
藤原は焦った。本業をすっかり忘れていたのである。
10 怪しい|匂《にお》い
なつきが車から電話をかけた時、さやかはちょうど学校から帰ったばかりだった。
「――出前かあ」
いつものことなので、大して驚きもしない。別に母がCFに出たから、そうなったわけじゃない。もともと、年中出かけているんだから、出前で夕食を済ませたりするのは、慣れているのである。
「さて、着替えるか」
二階へトントンと上がって、ジーパンスタイルになって下りて来ると――ヌッと誰かが前に立った。
「お父さん!」
さやかは、胸を押えて、「ああ、びっくりした!」
「いや、すまん。驚かす気じゃなかったんだが」
中沢竜一郎は、ネクタイを外して、「ちょっと頭が痛かったんでな、早退して来た」
と言った。
「へえ。|風邪《かぜ》? 気を付けてよ」
さやかは、台所の方へ行きながら、「今夜、何を取る?」
「何でもいいよ」
「お|寿《す》|司《し》?」
「うん」
スラスラと話がまとまる。いかに慣れているか、である。
「お父さん、コーヒーいれる?」
「ああ、頼む」
さやかは、このところ、コーヒーにこる[#「こる」に傍点]ようになっていた。中学生のくせに、と言われそうだが。
――母、なつきの影響は、まださやかの方にはそう及んで来てはいなかった。
もちろん、|母親《おやこ》共演の話はマスコミにも流れていて、学校でも、ずいぶん評判になっていた。しかし、現実には、まださやかは何もしていないし、撮影は夏休みに、ということだったので、さやかは至ってのんびりと構えていた。
まるで演技経験のない|素人《しろうと》と違って、さやかは、発声だのダンスだのの基本練習はクラブでやっているから、準備というほどのこともない。
もちろん、実際に撮影が始まったら、何かと大変なのだろうが、そんなことを今から心配してもしょうがない……。
「――はい、コーヒー」
と、さやかは、居間のソファに座っている父の前にカップを置いた。
「やあ、すまんな」
「一杯千円」
と、さやかは言ってやった。
自分はモーニングカップで飲むので――至って薄いコーヒーなのである――台所の方へ戻りかけたが――。
ふと足を止め、
「お父さん」
と、振り向いた。
「何だ?」
少し間を置いて、
「何でもない」
と、さやかは首を振って、また台所へ入って行く。
今の|匂《にお》い。あれは、石ケンかシャンプーの匂いだったんじゃないかしら?
でも、会社を早退して来たお父さんが、どうして?
さやかは、
「まさか」
と、|呟《つぶや》いた。
どこかで父がお|風《ふ》|呂《ろ》へ入って来た、なんてことが……。そんなことって、あるだろうか。
父の会社にお風呂なんかあるわけもない。ということは――どこかホテルにでも寄って来た……。
まさか、お父さんが浮気なんて!
さやかは考え込んでしまった。
電話が鳴るのが聞こえた。
「私、出る」
と、さやかは急いで駆けて行った。
宏美から、かかることになっていたのである。
「もしもし。――もしもし?」
相手は何も言わない。いたずらかな、と思った。すると、
「あの――さやかさん?」
男の声だ。
「ええ……」
「高林ですけど」
「ああ、高林さん」
川野雅子副部長の「ペット」の高校一年生である。「何かご用ですか」
「うん」
高林は、少し間を置いて、「さやかさん!」
「は?」
「僕と付き合って下さい!」
さやかは、目を丸くした。
「――どういうこと?」
と、さやかはベッドに引っくり返って、言った。
「分んないね」
床のカーペットに立て|膝《ひざ》をして座っているのは、浜田宏実である。さやかの電話で、飛んで来たのだ。
何しろ家も近所同士である。
「だって、いやよ、私。あの川野副部長にネチネチいじめられるのかと思うと」
「おかしいね。どうして高林さんがさやかに……」
「あら、それはどういう意味?」
と、さやかが言うと、宏美が吹き出してしまった。
さやかも一緒に笑い出して、
「だけど、どうせあんな人、趣味じゃないんだ、私」
「でしょ。だったら、ただそれだけの理由で断われば?」
「うん……」
「何よ、さやか、未練があるの?」
「ないわよ、そんなもん。大体付き合ってもいないのに、未練があるなんて言う?」
「そうか。それは言えてる」
「変なことに感心しないで。――ねえ、何だか裏にありそうな気がするんだよね」
「どういうこと?」
「高林さん、副部長が|惚《ほ》れてるのを分ってて、私に声かけて来たりするほど、度胸あるかなあ」
「ふーん」
と、宏美は|肯《うなず》いた。
「何か目的があって、私に付き合ってくれ、って言って来たんじゃないかと思うのよね」
「どんな目的が?」
「分んないけどさ、そんなの」
「じゃ、付き合ったら、ますますやばいじゃん」
「といって……。付き合ってみなきゃ、向うの|狙《ねら》いも分らない。でしょ?」
「まあね」
と、宏美が言った。「あ、下で誰か――」
「お母さんだ。宏美、一緒にお寿司つままない? 私、そんなにお|腹《なか》空いてないんだ」
「いいの? お邪魔じゃない?」
「何言ってんの」
二人が居間へ下りて行くと、
「あら、いらっしゃい」
と、なつきが息を弾ませている。
「どうしたの、お母さん。真っ赤な顔して」
と、さやかが|訊《き》く。
「変な男の人に追いかけられたのよ、そこで」
「ええ? 本当」
「何だか、『サインして下さい!』ってしつこくて……」
「じゃ、ファンじゃないの」
「でも、いやよ、何だか。スターじゃあるまいし」
なつきは|眉《まゆ》を寄せて言うと、「――お寿司食べましょ。それから、この|折《おり》|詰《づめ》、TV局でもらって来たわ」
かくて、父はもちろん、宏実も加わって、ワイワイと夕食になった。
「――うちの父も、すっかりファンですよ」
と、宏実が言った。
「まあ、どうしましょ」
と、なつきは笑った。
「そのうち、さやかもアイドルスターになるしね」
「よしてよ」
と、さやかは顔をしかめた。
「でも、いやだわ。ちっともTVを見られなくなっちゃって」
と、なつきは言った。「私、どうして、たいていのTV番組がつまらないか、分ったわ」
「へえ。どうして?」
「TVに出る人って、忙しくて、TVを見る時間がないのよ。だから、どんなにつまらないか、分らないんだと思うの」
何だか分ったような、分らないような話だった。
「ああ、そうだ」
と、竜一郎が言った。「なあ、なつき」
「何? お茶?」
「いや、そうじゃない。うちの部長がな、お前のサインがほしいそうなんだ」
竜一郎の言葉に、なつきとさやかは顔を見合わせ、笑い出した。
そんな|馬《ば》|鹿《か》なこと!――でも、これは現実なんだわ、と、さやかは思った……。
11 旧 友
何となく、誰かの視線を感じる、ということはあるものである。
特別、そういうことに敏感とは言えない(むしろその逆である)中沢なつきが、その視線に気付いたのだから、相手は相当前からチラチラとなつきの方を見ていたのだろう。
「――どうかしましたか?」
と、藤原が、カレーライスを食べる手を休めて言った。
「あ、ごめんなさい。グラタンが|冷《さ》めちゃうところだったわね」
と、なつきは言った。
「いや、そんなことはいいんですけどね。どうせ大して|旨《うま》かないんだから」
大きな声でそう言っても、別に店の人間が気を悪くする|恐《おそ》れはない。ここは、TV局の中の食堂である。やたら広くて、明るく、人の出入りが激しい。それだけに、注文したら即座に料理が出て来るのである。
「でも、藤原さん、いつもカレーばっかりで、飽きません?」
と、なつきに|訊《き》かれて、藤原は、ちょっとむせた。
ガブガブ水を飲むと、
「――いや、何しろ早く食べなきゃいけないでしょ。カレーが一番早い、っていう思い込みがね、あるんですよ」
「まあ」
なつきはニッコリ笑って、「藤原さんらしいわ」
藤原はどぎまぎして、真っ赤になった。
「あ、あの――ちょっと電話をかけて来ますので」
「どうぞ。私、猫舌だから、これをゆっくり食べてますわ」
何の話をしてたのかしら?――あ、そうそう。来週の制作発表記者会見の打ち合わせね。
記者会見なんて! 大げさなことするもんだわ。
なつきも、よくTVのワイドショーとか、週刊誌のグラビアで、「制作発表記者会見」というやつを見ることがある。しかし、映っているのは、いつも発表する側の、役者とか監督とかばかりなので、果して、取材する側に何人ぐらいの人が集まっているのか、さっぱり分らない。
もしかしたら、あんなの、二、三人しかいないのかもしれないわ。大体、TV局の人だって、新聞の人だって、そんなにヒマなはずないもの。
しかも、役者といっても、まるで|素人《しろうと》の、なつきとさやかの二人。――これじゃニュースにならないわ。
誰も来なかったらどうするのかしら? それでも、「一言ご|挨《あい》|拶《さつ》を」とか言われて、何だか分ったような分らないようなことをしゃべるのかしら。
「一生懸命やります」とか、「頑張ります」とか、たいてい最後には付け加えるんだけど……。でも、三十八にもなって、「頑張ります」もおかしいわね。
ま、いいわ。しゃべることも、藤原さんが考えてくれるんだわ、きっと……。
グラタンが、やっと|冷《さ》めつつあった。
そう。――そういえば、誰かがこっちを見てたんだっけ。それが気になってたんだわ。
なつきが、そっちを見ると、その女性と目が合った。
もちろん、このところ、なつきも大分顔を知られて来て、町を歩いていても、喫茶店に入っても、よく他の人が自分の方をジロジロ見ては、ヒソヒソ|囁《ささや》き合っている、という状況に出くわすようになっていた。だから、見られること自体は、気にしないようになっていたのだが……。
しかし、その女性の場合、ただ「見られている」というのとは、どことなく違っていた。
なつきは、何となく、その女性から目をそらすことができなくて……。
「まあ!」
なつきが突然大きな声を上げたので、びっくりした藤原が、電話を放り出して飛んで来た。
「なつきさん! どうかしましたか!」
「え?――あ、いえ、そうじゃないんです。ごめんなさい」
なつきは、立ち上がると、その女性の方へ急いで歩いて行った。
「|文《ふみ》|代《よ》! 文代じゃないの!」
「なつき。――|憶《おぼ》えていたのね」
「当り前よ! まあ懐かしい!」
なつきは、その女性の隣の空席に座り込んだ。「元気?――本当に懐かしい。何年ぶりかしら」
「大学を出て以来だもの。十……六年?」
「本当ね。でも、変らないわ」
「そんなことないわよ」
「私のこと、すぐに分ったの?」
と、なつきは|訊《き》いた。
「当り前よ! TVを見てりゃ、いやでもお目にかかるもの。あのコマーシャル見て、すぐに分ったわ」
「そう?」
「エヘン」
と、|咳《せき》|払《ばら》いしたのは藤原だった。「失礼ですが、なつきさん――」
「あ、この方、私のマネージャーの藤原さん。こちらね、私の大学時代の――いいえ、中学からずっと親友同士だった、|北《きた》|原《はら》文代さん。でも……今は何ていうの?」
「北原よ。一度、結婚したんだけど、うまく行かなくて」
「まあ、そうだったの」
「あのね、なつきさん」
と、藤原は、なつきの前に食べかけのグラタンを置いて、「それを食べちゃっといて下さい。今夜は少し遅くなりますから」
「はい。あら、ごめんなさい。運ばせちゃって」
「どういたしまして」
藤原は首を振って、「じゃ、僕は先に食べて、スタジオへ行ってます。時間になったら、呼びに来ますから」
「ありがとう。じゃ、それまでは、おしゃべりしててもいいわね」
「ええ、どうぞ」
藤原は、自分の席へ戻ると、カレーを猛スピードで平らげてしまった。
――確かに……。不用意に、なつきは、北原文代のことを、「変らない」などと言ってしまったが、それは一種の決まり文句のようなもので、実際のところは、よく見るまでもなく、文代はなつきに比べ、十歳も|老《ふ》け込んで見えた。
着ているスーツも、とても上等とはいえないもので、なつきの目には、それがよく分った。でも、どうして……。
北原文代の家は、学生のころには、なつきの実家などとは比較にならないくらいの金持だったのである。
迷子になりそうな広い庭のある、古い屋敷。車が五台、別荘は箱根、|軽《かる》|井《い》|沢《ざわ》、大島にあり、休みの度に、よくなつきは呼ばれて行ったものだ。
「――早く食べたら?」
と、文代は、目を伏せながら言った。「私の格好、そんなに見すぼらしい?」
「あ、ごめんなさい……。そんなつもりで見てたわけじゃないのよ」
なつきは、グラタンを一口、二口食べたが食事をする気分じゃなかった。
「文代、今……何をしてるの?」
「私? このTV局で働いてるの」
「ここで?」
「そう。パートでね。雑用のような仕事よ」
「あの……ご実家にいるんじゃないの?」
文代は、定食を食べ終っていた。
ミソ汁の残りを飲み干すと、息をついて、
「同窓会とかから、何も聞いてないの?」
と言った。
「全然」
「そう……。実家は消滅よ」
「消滅?」
「父が、晩年になって若い女に狂ってね、財産をほとんど使い果した挙句に、死んだの」
「あのお父様が?」
「私も、頭に来て、ろくでもない男と|駈《か》け|落《お》ち。――でも、そんな暮し、続きゃしないのよね。もともと、父への当てつけだったんで、別に愛してたわけじゃないんだから」
「じゃ、別れて……?」
「子供一人――女の子でね、それをかかえて、私が働かなきゃ、どうにもならないの」
「そう……」
なつきは、|肯《うなず》いた。「大変だったわね」
「一人でやってくって、やっぱり大変なことね。何だかんだ親の悪口言いながら、やっぱり、飛び出しちゃやっていけないんだから」
「元気出して。――いいこともあるわよ」
なつきは、文代の手に手を重ねた。
かさかさと乾いた肌。それに重ねたなつきの手の柔らかなこと……。
「なつきは恵まれてるわよ。裕福だから、若くてきれいだし、TVに出て映画に出て……。こんなにも違っちゃうのね、出発点が同じでも」
「文代――」
「ごめんね、忙しいのに」
と、文代は言って、盆を手に立ち上がった。
「もう見かけても、話しかけたりしないから。何しろ大スターだものね」
「ねえ――」
「じゃ、頑張って」
文代は、足早に、立ち去った。
なつきは、何だか急にみんなが自分のことを、責めるような目で見ているような気がして、顔を伏せてしまった。
「――なつきさん」
と、藤原の声がした。「どうしました?」
顔を上げると、なつきの|頬《ほお》を、涙が一筋、伝い落ちた。
12 申し込み
「あのね……」
と、さやかは、ため息をついて言った。「ついて歩かないでくれません?」
「す、すみません」
と、さやかの三歩後ろに立っている高林和也が、謝る。
さやかは、クルッと振り向いた。
下校の途中である。――今日はクラブのない日で、さやかも早く下校して来たのだが……。
「でも――返事を聞かせてもらえないかと思って……」
高林和也は、おずおずと言った。
これが先輩なんだからね、全く!
さやかは、演劇部の未来を|憂《うれ》えずにはいられなかった。
「ですから、しばらく考えさせて下さい、って言ってるじゃありませんか」
「でも、もう二日たったし、しばらく、ってのがどれくらいか、よく分らなかったもんだから」
それも理屈である。
「高林さん」
さやかは、高林和也の方へ歩み寄って、「あなたは、川野先輩とお付き合いしてるんでしょ?」
「え……まあ」
「じゃ、私になんかに声かけちゃ、まずいんじゃありません?」
「そ、そんなことはない!」
と、高林は首を振って、「だって――あの――交際は自由だ。そうでしょ?」
「そりゃまあ……」
「僕は別に、川野先輩に命令される通りに動くわけじゃないんだ。好きな相手と付き合う権利ぐらいあるんだ! そうだとも!」
しゃべりながら、自分で興奮して来たらしい。|拳《こぶし》をかためて振り回しながら、
「僕が誰を好きになろうと、誰にも文句なんか言わせるもんか! そんなのは僕の勝手なんだ!」
「声を小さく」
と、さやかはあわてて言った。「道路ですよ、ここ」
「あ、そうだった」
高林は、我に返った様子で、赤くなると、「いや……お恥ずかしい」
「でも――とてもいい演説だったわ」
「そうですか?」
「そうね」
さやかは、|肯《うなず》いた。「じゃ、一度ぐらいなら、デートしてもいいわ」
「本当?」
高林は飛び上がりそうになった。
「ええ。今度の日曜日。――一応、|空《あ》けときます」
「うんと空けといて!」
「土曜日に電話して下さい」
さやかはそう言うと、「じゃ、さよなら」
と、手を振って、さっさと歩き出した。
「さよなら……」
高林は、|呟《つぶや》くように言って、さやかの後ろ姿をじっと見送っている。
さやかの姿が見えなくなると、高林の背後に近付いたのは――。
「やったじゃない」
川野雅子である。「なかなか良かったわよ、今の」
「そうかな……」
「そうよ。あなたの最上の演技の一つだったわ」
と、川野雅子は言った。「日曜日に、いきなりホテルへ、ってわけにはいかないと思うけど、ある程度は強引にやんなきゃだめよ」
「強引に?」
「そう。キスぐらいは力ずくで奪わなきゃ」
「そんなこと……」
と、高林が青くなる。
「大丈夫。キスしたぐらいで、婦女暴行にはならないから」
川野雅子は、ポンと高林の肩を|叩《たた》いて、「さ、学校へ|戻《もど》りましょ。昨日のセリフの|稽《けい》|古《こ》の続きがあるわ」
「はあ……」
高林は、川野雅子について、学校へと戻って行った。
「――これが、記者会見の出席者です」
と、藤原が、コピーした紙を、なつきとさやかに渡す。「席の順はこの図の通り。いいですね」
「当日でいいでしょ、こんなこと」
と、さやかが言った。
「ええ、まあね。でも、一応――」
「さやか、藤原さんがせっかく説明して下さってるのよ」
と、なつきがたしなめる。
「だって、お母さんも、どうせ忘れちゃうに決まってるじゃないの」
「そりゃそうだけど」
|母娘《おやこ》の会話もユニークである。
――ここは、中沢家の居間だ。
今夜は珍しく、仕事が入っていないので、なつきは藤原をよんで、一緒に夕食、ということになったのである。
「お父さん、遅いわね」
と、なつきが言った。「何か言ってた、お父さん?」
「知らないよ」
「そう。――もう帰ると思いますわ。ごめんなさいね、藤原さん」
「いや、とんでもない。せっかくの御家族の食事に私なんかが入りこんで――」
「いいえ、そんなこと構わないの」
「そうよ、藤原さん」
と、さやかが言った。「いつも母が言ってるわ。藤原さんて、いてもいなくても分らない人だって」
「はあ……」
藤原としては、喜んでいいものやら……。
「そうだわ。何を着ていけばよろしいの?」
と、なつきが|訊《き》く。
「そうですね。なつきさんは、ごく普通のスーツで。それが一番良くお似合いですよ」
「そうね。じゃ、少し明るめのを」
「さやかさんはセーラー服でお願いしたいんですが」
「セーラー服?」
「こっちで用意します。どこかの学校の制服と同じだとまずいので、少し変えてありますから」
「私、うんと派手なの着てやろうと思ったのに」
と、さやかが口を|尖《とが》らした。
「――似てる!」
と、藤原が思わず言った。
「え?」
「いや、何でも……」
昔のなつきとそっくり、という意味なのである。
しかし、もちろん、昔のことは藤原、今でもなつきに話していない。
「そうだわ」
と、なつきは言った。「藤原さん、おり入って、お願いがあるの」
「何です、改まって?」
「実は、Aテレビでパートで働いている人なんだけど、北原文代といって――」
「ああ、この間、食堂にいた人ですね」
「あの人に、何か仕事ないかしら?」
「仕事ですか」
「ええ、彼女、子供をかかえて、一人で苦労してるの。何か力になってあげたくて」
「なるほど。でも、どんな仕事がいいんでしょうね?」
「よく分らないけど……。今度の映画に、何か出る役ないかしら?」
「役者さんじゃないんでしょ?」
「でも、とてもきれいな人だったのよ。――今は、少し|老《ふ》けたけど」
「何か、他の所で当ってみますよ。いい仕事が見付かるといいですね」
「助かるわ! お願い!」
なつきは、目を輝かせた。
その旧友の話は、さやかも聞いていた。
でも――仕事を世話してあげるのが、果していいことなのかしら?
「ただいま」
「あ、お父さんだ」
さやかは、玄関へと飛んで行った。
13 キスの予感
危ない、という予感があった。
別に、さやかはこういうことに慣れているわけではない。しかし、女の直感(?)というのか、どこか不自然な沈黙というやつには用心した方がいいと分っていたのである。
加えて、今まで公園の中の広い遊歩道を歩いていたのに、突然細い、わき道へ入ったこと。|口《くち》|下《べ》|手《た》ながら、一生懸命しゃべっていた高林和也が、急に黙りこくって、何やら、緊張して顔をこわばらせていたこと……。
こういったいくつかの点を考え合わせると、
「危ない!」
と、思わざるを得なかったのである。
またタイミング良く、さやかが、警戒しなきゃ、と身構えたとたん、高林が、
「さやかさん!」
と叫んで、抱きついて来たのである。
キスしようと、高林は、しっかりさやかを抱きしめる――はずだった。
しかし、さやかは、すばやく頭を下げ、高林の腕から、スポッと抜けてしまったので、高林は、空気を抱きしめることになってしまった……。
これでやめときゃ、まだ良かったのである。高林は、あわてて、もう一度、と、
「さやかさん!」
ビデオテープの再生じゃあるまいし、同じことやるな、って!
さやかは、迫って来る高林をパッと横へかわした。と、そのつもりはなかったんだけど、足で、高林の足を引っかけていたのだ。
かくて、高林は、前のめりに倒れてしまった。ガツン、と地面に顔を打ちつけ、
「いたた……」
と、声を上げる。
「大丈夫?」
さやかも、高林があんまり勢いよく、地面にキスしたので、心配になってしまった。
「ウーン……」
モゾモゾと起き上がったものの、高林は、声が出せない。
ちょうど通りかかった三、四人連れの女の子たちが、それを見て、キャッキャと笑っている。
「まあ、血が!」
さやかは、びっくりした。
「いや……鼻血……」
打ちつけた拍子に出たのだろう。かなりひどく流れている。
「待って――ね、待ってて」
さやかは、駆け出して行って、水飲み場を見付けると、ちょうど水を飲んでいた男の子を、
「ちょっとどいて!」
と、押しのけ、ハンカチを水で|濡《ぬ》らして、取って返した。
高林は、道のわきの、芝生の柵に腰をおろして、手の甲で、鼻血を|拭《ぬぐ》っている。
「ほら、これで|拭《ふ》いて!」
と、さやかは、濡らしたハンカチを渡し、「ティッシュペーパーもあるから……。ほら、鼻に詰めるといいわ。少し上を向いて。ね、こうやって、鼻の骨のところを両側からギュッと強くつまむの。――そう。そうやって、しばらくじっとしてて。私、拭いてあげるから」
さやかは、ティッシュペーパーとハンカチで、高林の顔の汚れをていねいに拭ってやったのである。
――十分ほどすると、鼻血も止まった。
「まだ、ティッシュペーパー、詰めといた方がいいわよ」
「いや、もう大丈夫」
と、高林は息をついた。「水……どこかにあるかな」
「口の中に入ったのね、血が。水飲み場、これを濡らして来たのが、その左手の方にあるわ」
「ありがとう」
高林は、水飲み場へ行って、口をゆすいだ。
「――もう、良くなった?」
と、後ろで見ていたさやかが訊く。
「うん」
高林は、ついでに下の水道で手を洗うと、「みっともないとこ、見せちゃったな……」
「そんなことないけど……。でも、いくら何でも唐突よ」
「うん」
と、高林は|肯《うなず》いた。「君のハンカチ、すっかり汚れちゃったね」
「いいのよ。どうせ安物だもん」
「買って返すよ」
「気にしないで」
さやかは、首を振って、「でも、ねえ高林先輩」
「何?」
「私、まだ中学生なの。ああいうこと、少し早いと思うんだけど」
「うん……」
「そりゃ、お互いに好きなら、キスぐらい、いいかなとも思うけど。今日が初めてのデートでしょ。焦り過ぎよ」
「そうは思うけど――」
と、高林はうなだれて、「最初で最後になるかもしれないと思って」
よく分ってるわ、と、さやかは思った。
「あんなことしたら、ますます最後になっちゃう」
「そうだね。――話も退屈だし、|洒《しゃ》|落《れ》た所も知らないし、僕といてもつまんないよな。分ってるんだ」
「そう」
と、さやかは肯いて、「じゃ、手伝ってあげましょうか?」
「何を?」
「自殺するんなら、ガスの栓をひねってあげる。それとも、|椅子《いす》をける? |崖《がけ》から突き飛ばす?」
高林は、ゴクリとツバをのみ込んで、
「そ、そんなに僕が嫌い?」
「私は、あなたのこと、好きとか嫌いとか考える前の段階。でも、あなた自身が、自分のこと嫌いみたいだから」
「僕が?」
「いっそのこと、けり[#「けり」に傍点]をつけちゃったら? きっと誰も同情してくれないわ」
「きついなあ」
「哀れっぽい人って嫌いなの。|真《ま》|面《じ》|目《め》くさってたって、暗くたって、それが素直な自分ならいいのよ。あなたは哀れなポーズを取ってるだけ。最低よ」
さやかは、言いたいだけ言うと、さっさと歩き出した。
――追っかけて来るかしら?
しばらく行って振り向くと、高林が、まだあの水飲み場の前で、うなだれて立っているのが見えた。
「付き合ってらんないよ」
と、ため息と共に、さやかは|呟《つぶや》いた。
公園の出口で、友人の浜田宏実が待っていた。
「あれ? どうしたの?」
と、宏実はさやかを見て、「入る時は二人で、出る時は一人?」
「中で迷子になって泣いてるかも」
と、さやかは言った。「行って、慰めて来る?」
「いやよ。どうしたの? 口げんか?」
「実力行使に及ぼうとしたの、あの人」
「ええ! 本当?」
宏実が目を丸くして、「で、やられちゃったの?」
「言い方が悪いわよ。いきなりキスしようとするから、足払って、引っくり返してやった」
「|可哀《かわい》そう」
と、宏実が笑い出す。
「私の方だって可哀そうよ。あんなのに休日を|潰《つぶ》してさ」
さやかは、伸びをして、「あーあ! 腹が立つ! ね、何か食べよ」
「いいけど……。放っといていいの?」
「構うもんか」
二人は休日の街を歩き出した。
「でも、不思議だね」
と、宏実が言った。
「何が?」
「高林先輩、初デートで、いきなりキスしようなんて、そんな度胸、あるとは思えないけど」
「だって、実際にそうだったんだから」
「誰かの演出[#「演出」に傍点]だったんじゃない?」
さやかは、宏実を見て、
「どういう意味? 宏実、何か知ってるわけ?」
と、|訊《き》いた。
「ある人がね、見たんですって、放課後の教室で」
「何を?」
「並んで歩いていて、いきなりキスする、という練習を、高林先輩と、我らの副部長が、熱心にくり返してるのを」
「川野さんが?」
「そう。――どう思う?」
さやかは考え込んだ。
高林が、さやかとデートしたと知ったら、川野雅子が怒るのではないかと思っていたのだが……。
当の川野雅子が、本当に高林に、さやかとデートしろと言ったのだとしたら……。
目的は何なのだろう?
さやかは、何だかいやな予感がして――それでも、甘いものはしっかり食べることにしたのだった。
14 カメラの前で
「藤原!」
と、大声で呼ばれて、藤原はびっくりして飛び上がりそうになった。
「社長! 何してるんです?」
「心配で来てみたんだ」
と、社長の舟橋は、少し渋い顔で、「順調か?」
「ええ、二人とも今、仕度してます。落ちついたもんですよ」
「そうか。――ちょっと来い」
ここは、赤坂にあるPホテル。
今日は、中沢なつき、さやか|母娘《おやこ》の共演第一作、『母娘坂』の制作発表記者会見である。
藤原は、会場の用意ができているかどうか見に行こうとして、控室から、出て来たところだった。
舟橋は、藤原を促して、ロビーの隅へと歩いて行った。
「ここなら大丈夫だな」
と、舟橋は足を止めて、言った。
「どうかしたんですか」
「まずいことになったぞ」
「はあ? 企画に何かクレームでも?」
「いや、あの二人に関してじゃない。企画もいい。脚本も、急いで書かせたにしては、よくできている」
「じゃ、何です?」
「中沢なつきの亭主だ」
「中沢竜一郎さんですか? あの方が何か……」
「なつきとさやかをこの世界へ引っ張り込むのに、池原洋子の手を借りたろう」
「ええ、中沢竜重さんのアイデアで。それは|効《き》きました」
「効き過ぎた」
と、舟橋は言った。「目下、池原洋子と中沢竜一郎は、『親密な』交際中だ」
「まさか!」
と、藤原が目を丸くする。
「本当だ。――幸い、今のところは、写真週刊誌も気付いとらん。しかし、もし、ばれたら、なつきもさやかも、映画どころじゃなくなるぞ」
「そ、そりゃそうですね」
「そうなる前に、何とかブレーキをかけるんだ」
と、舟橋は言った。
「分りました。中沢さんに話してみましょう」
と、藤原は|肯《うなず》いた。「困ったもんですね。あの|年齢《とし》で火遊びじゃ」
「あの年齢だから、火遊びするんだ」
と、舟橋は、もっともなことを言って、「どうしても止まりそうもなかったら……」
「どうします?」
「その時はその時だ。やりようがある」
舟橋は、ポンと藤原の肩を叩いて、「さし当り、あの亭主と話し合え。分ったな」
「分りました」
「池原洋子の方には、事務所を通して、注意しとく」
舟橋は、ちょっと息をついて、「何としても、『母娘坂』は成功させるんだ。大スターが生まれるかどうか、これにかかってるんだからな」
と、力強く言った。
「ワハハ」
と、浜田宏実が笑った。
「笑うな」
と、さやかは不機嫌である。
ここは記者会見の出席者のための、控室だった。さやかは、いささか時代遅れのデザインのセーラー服姿。
|覗《のぞ》きに来た宏実が、それを見て、笑ってしまったのである。
「せめて、ドレスでも着たかった」
「いいじゃない。清純そうに見えるよ」
「じゃ、本当は何だってのよ」
と、さやかは苦笑いした。
「あら宏実さん」
と、母のなつきがやって来る。
「わあ、さやかのお母様、シック!」
と、宏実が、落ちついたスーツ姿のなつきを見て、声を上げる。
「これじゃ、戦後間もなくの物語だわ」
と、さやかは言った。「お母さん、|挨《あい》|拶《さつ》は考えた?」
「藤原さんが考えてくれるんじゃないの?」
「まさか。自分で考えてしゃべるのよ」
「あら、大変」
と、なつきはのんびり言った。「でも、何とかなるわよ」
なつきは、ソファの所へ行って、座り込んだ。
「――度胸だけはベテラン女優」
と、さやかが、母親を見て、感心する。
「生まれつき、素質があったのかもね。さやかも」
「やめてよ。これ一本でおしまい。――ね、高林さんのこと、何か聞いた?」
「あれから、ずっと休んでるのよ。何だか、熱が下がんないとか、連絡が来てるんですって」
「熱が?」
「さやかに振られたショックじゃないの」
「やめてよ、子供じゃあるまいし」
「川野さんも、|苛《いら》|立《だ》ってるみたい。しばらくは近寄らない方がいいかもよ」
「そうね」
さやかは、いささか気が重い。
ま、熱を出そうとどうしようと、高林は自業自得としても、あの時、少し[#「少し」に傍点]強く言い過ぎたかな、とも思っていたのだ。
――共演者、監督、プロデューサー、といった面々が控室へ入って来て、急にざわつき始める。
「じゃ、会場を|覗《のぞ》くね」
と、宏実が|一《いっ》|旦《たん》控室を出て行くと、入れかわりに、藤原が戻って来た。
「藤原さんがいないと心細いわ」
と、なつきは言った。
「大丈夫ですよ」
藤原は、そう言って、「あの――今日、ご主人は?」
「うちの主人? 来られないとか言ってたわ。仕事が忙しいんでしょ」
「そうですか」
「主人に何か?」
「いや、そうじゃないんです」
藤原は、気がとがめていたのだ。
自分が、なつきたちをこの世界へ連れて来た。そのせいで、もし、中沢竜一郎が本当に……。
確かに、なつきは、出歩くことも多くなったし、夜遅く帰ることも、珍しくない。夫としては、色々、面白くないこともあるだろう。
――|俺《おれ》の責任だ、と藤原は思った。
何とかして、中沢家を、元の通りに戻してやらなければ。池原洋子との浮気が、誰にもばれないうちに、中沢竜一郎をいさめるのだ……。
「そろそろ時間ですので」
と、声がかかる。
「じゃ、行きましょう」
と、藤原は、なつきを促した。
さやかは、母について会場へ入ってみて、仰天した。
|凄《すご》い人! 百人? いや、百人どころじゃない!
TVカメラ用のライトが当り、ストロボが光る。
カメラのシャッター音が、やかましいくらいだ。
指定された席につくと、司会者が、|挨《あい》|拶《さつ》を始めた。
わきに立っていた藤原は、長テーブルの前に下がった、名前を大きく書いた紙を見て、ギョッとした。
〈なつき〉と〈さやか〉の席が、入れ替っている。いや、紙の方を|貼《は》るのが、間違えているのだ。
あわてて駆けて行って、紙を貼りかえると、集まった記者たちから、笑いが起きた。
しかし――間違えても、無理はない、と言えたかもしれない。
母と娘であっても、この日、並んだ二人の初々しい輝きは、いずれ|劣《おと》らぬものがあったからだ。
なつきもさやかも、落ちついて、しっかりと挨拶を述べた。もちろん、二人とも、多少興奮していたのは確かである。
カメラの、押し寄せるようなシャッター音を聞きながら、二人の|頬《ほお》は紅潮して、その微笑は、すばらしく美しかった……。
15 恋人立候補
「何やってんのよ!」
と、空気をビリつかせるような声が飛んで来た。
さやかは、まずい、と思った。
演劇部の練習中である。――何といっても、川野雅子は副部長で、さやかとしては、言い返したりできる相手ではない。
しかも、今は確かに、さやかの方がぼんやりしていて、全然練習に身が入っていなかったのである。
ま、しょうがない。何と言われても、
「すみません」
と、謝っちゃうしかないや。
だが――川野雅子がツカツカと歩いて行ったのは、さやかに向ってではなかったのだ。
「そんな歩き方ってのがある? 何度言ったら分るのよ!」
と、|凄《すご》い勢いで川野雅子が怒鳴りつけたのは、高林和也だったのだ。
「すみません」
と、高林は、汗をかきながら頭をかいている。
「あんたが無器用なのは分ってるけど、だからこそ、身を入れて練習しなきゃいけないんじゃないの」
「ええ……」
「一体何を考えてるのよ! |可愛《かわい》い女の子にでも見とれてたんでしょ」
高林は真っ赤になったが、何も言い返さなかった。
「――歩くことは演劇の基本よ! 分ってるわね!」
川野雅子の声はほとんどヒステリックなまでに高くなっていた……。
「気が重い」
と、さやかは言った。
「さやかのせいじゃないよ」
と、浜田宏実が言った。
「そう思う?」
|訊《き》き返されると、そう断言もできない様子で、
「うん……。だって、仕方ないじゃないの」
練習も終って、二人は学校を出たところだった。
すっかり夏という感じ。――まだ充分に外は明るい。
「――先輩、お先に」
と、中学一年生の部員が、勢いよく二人を追い抜いて駆けて行った。
「さよなら」
と、さやかが言った時には、もうずっと先の方を走っていた……。
「元気だなあ、一年生は」
と、宏実は言った。
「いいわねえ、若くて」
――二人は顔を見合わせて噴き出した。
「やだね、すっかり年寄りじみて」
と、宏実が笑う。
「色々苦労も多いからね」
「――おい、楽しそうだな」
二人の肩をポンと|叩《たた》いたのは、部長の石塚である。
「部長。早いですね」
「うん。どうだ、何か食ってくか」
「珍しい。おごってくれるんですか」
と、宏実が言うと、
「中沢と二人で腕組んで歩いていいなら、おごってやる」
「わあ、いいんですか、そんなことして」
「あそこでカメラマンが|狙《ねら》ってるからな」
「え?」
さやかも、初めて気が付いた。――車が|停《とま》っていて、その中から、望遠レンズが|覗《のぞ》いている。
「いやねえ、全く」
と、さやかは顔をしかめた。
「な? |俺《おれ》と組んで歩いてるところを撮られたら、絶対写真週刊誌に載る」
どこまで本気なのか、石塚の言い方はカラッとして面白い。
「腕組むのはだめです」
と、さやかは言った。「でも、おごらせてあげます」
「そりゃないぜ」
と、石塚はオーバーに言って笑ったのだった……。
でも、もちろん結局はさやかの言う通りになって――三人は、山盛りのクリームアンミツだのくずもちだのに取り組むことになったのだった。
「――川野も、悪い|奴《やつ》じゃないんだけどな」
と、石塚が言った。「すぐ周囲に当り散らすのが玉にキズだ」
キズだらけだ、と言いたいのを、さやかは何とかこらえた。
「でも、何で、あんなに高林さんに当るんだろ?」
と、宏美が言うと、
「そりゃ、中沢のせいさ」
と、石塚が言った。「知らないのか?」
「私の?」
さやかはびっくりした。「どうして私のせいなんですか」
「高林を振ったろ」
「振った、って……。それ以前の段階ですけど」
「高林、どうやら本気でお前に熱を上げてるらしい。それで、川野がますます|苛《いら》|立《だ》ってるってわけだ」
「|可哀《かわい》そう」
と、宏美が言った。
「高林さんが? それとも私が?」
「両方よ、もちろん」
と、宏美はあわてて言った。
「――部長、何とかならないんですか」
「俺はそんなところまで目が届かない」
と、石塚は笑って言った。「しかし、中沢はこれから忙しくなるだろう」
「ええ……」
「川野さん、それも面白くないのよね」
と、宏美が言った。「絶対にそうだと思うな」
「そりゃ当然だ」
と、石塚は言った。「しかし、その気持をもろに出すかどうかは、大違いだからな」
「いやだわ、何だか」
と、さやかはため息をついた。「みんな私が悪いって感じで」
とは言いながら、さやかはよく食べていたのである。
「しかしなあ」
と、石塚が言った。「中沢、確かにきれいになったぞ」
「何ですか、いきなり」
「いや、本当だ。人に見られてるっていうのは、一番のホルモン剤なのかな」
「じゃ、前はひどかったんですか」
「|垢《あか》|抜《ぬ》けしてなかった。――ま、クリーナーでみがいた、ってとこかな」
「ガラス板じゃあるまいし」
「俺も立候補しようかな」
と、石塚は言った。
「え?」
「お前の恋人にだ。――どうだ?」
さやかはポカンとして石塚を眺めていたが、そのうち、声を上げて大笑いしてしまった。
「傷つくなあ、その笑い声は」
と、石塚が苦笑いして、「俺は本気だぞ」
「――部長。だって、私、まだ中学生ですよ!」
「しかし、俺は来年もう卒業だ。今から声かけとかないと、それきりじゃないか」
「それにしたって……」
「安心しろ、俺は高林や川野と違う。恋人だからって、いい役を回してやったりしないからな」
「何だ。それじゃやめた」
「こいつ!」
三人で大笑いになった。
――しかし、もちろん石塚も、冗談でこんなことを言っていたわけではないらしい。
さやかとしては、ありがたいような、困ったような話である。
石塚と別れて、宏美と二人になると……。
「――いいなあ、もてて、さやかは」
「こっちはそれどころじゃないのに」
と、さやかは渋い顔で言った。
「でも、悪い気はしないでしょ」
正直なところ、さやかには分らなかったのだ。
もちろんさやかも十五歳ともなれば、これまでに、ほのかな|憧《あこが》れに胸をこがしたりしたことも、ないではない。
しかし、本当の意味で、「恋に身を焼いた」なんて経験があるわけではない。
高林も石塚も、その点では同じことだ。
ともかく、さやかにとっては、ずっとずっと遠い国での話に過ぎなかったのである……。
さし当りは、夏休みからの撮影がある。さやかの頭はそのことだけで一杯だった。
16 事 故
なつきにとって、この二週間ばかりは、前にも増して目の回る忙しさだった。
世の中っていうのは、こんなに|凄《すご》い早さで動いてるんだわ、と、なつきは感心したものである。
ま、それまでのなつきの生活テンポが、少し(?)通常より遅すぎたというのも事実かもしれない。
何といっても、習いごとなどでスケジュールが詰っているのと、仕事で忙しいのでは、まるで違う。
「――少しは休まれちゃどうです」
と、移動の車の中で藤原が言った。
「え? ああ……。大丈夫ですわ」
「でも、お疲れでしょう」
「ゆうべはぐっすり眠りましたの」
と、なつきは|微《ほほ》|笑《え》んだ。「それに、忙しいけれど、楽しいことも色々あって」
「そうおっしゃっていただけると」
と、藤原は言った。「気がとがめてるんですよ。|奥《おく》さんをこんなに引っ張り回して」
「お仕事ですもの。それに、引き受けた以上、私にも責任がありますから」
藤原は、なつきがそう言ってくれると、ますます気が重くなるのだった。
いや、藤原としても、なつきに余計な神経を使わせまいとして、インタビューなど、できるだけ断わるようにしている。しかし、撮影開始が近付くにつれて、衣裳合わせだの、セリフの練習だの――何といっても、なつきは|素人《しろうと》なのだから――の時間が入って来るのだ。
それに、藤原としては、なつきの知らない問題をかかえ込んでいる。――夫の中沢竜一郎と、女優池原洋子の問題だ。
社長の舟橋に言われて、藤原も改めて当ってみたが、間違いなく二人の仲は、ただの「友人」の域を|超《こ》えてしまっていた。
困った話だ……。
藤原は、車を運転しながら、ため息をついた。今夜は珍しく、自分でなつきを送って行くところである。
池原洋子は大体「恋多き女」で、誰と|噂《うわさ》になろうと、一向に気にもしない。そんな彼女が中沢竜一郎にとっては珍しかったし、新鮮でもあったのだろう。
しかし、今はまずい。――なつきとさやかの|母娘《おやこ》は、芸能マスコミの注目を集めているのだ。
そこへ、なつきの夫が、池原洋子と……。絶好のネタである。
なつきがそのことをどう考えるかはともかく、マスコミ攻勢だけで、ノイローゼになってしまうだろう。
困ったもんだ。何とか話をして、けり[#「けり」に傍点]をつけてしまわないと……。
社長に言われてから、藤原も忙しくて、中沢竜一郎に会う時間が作れずにいるのだ。
早々に会わなくては。こういうことは、早め早めに手を打っておくに限る。
車は、渋滞を避けて裏道を走っていた。
「――あと二十分ぐらいでお宅に着きますよ、なつきさん」
と、藤原が言った。
返事がない。――見ると、「疲れていない」とは言っていたものの、なつきはやっぱりスヤスヤと眠り込んでいるのだった。
寝顔には、何だか、「無邪気さ」とでも呼びたいものがあって、藤原の青春時代への郷愁を刺激した。
|可愛《かわい》いな……。あのころと少しも変っていない。
つい、見とれていた。
裏道とはいえ、割合真直ぐな、そう細い通りでもなかった。それが却ってまずかったのである。
黒い影が、目の前に――。ハッとブレーキを踏んだ。
遅かった!――ドン、という衝撃があった。
車がキュッと音をたてて|停《とま》る。その勢いでなつきも目を覚ましていた。
「どうしたんですの?」
――畜生! 何てことだ!
「藤原さん。真っ青ですよ」
よりによって、なつきさんを乗せている時に! はねられた|奴《やつ》はどうしたろう?
「藤原さん……」
「いや、何でもないんです」
と、藤原は、ほとんど無意識に言っていた。「すみませんでした。何でもないんですよ……」
「でも――」
「本当に何でもないんですよ」
エンジンをかけようとしたが、なかなかかからなかった。汗が額から伝い落ちて行く。
「藤原さん。言って。何があったの?」
藤原は、体中で息をついた。
「人を……はねたようです」
「まあ、大変」
「すみません。つい――」
「それより、はねた人を……。病院へ運ばなきゃ」
「そうですね」
藤原は|肯《うなず》いた。「すみません。どうかしてたんだ。このまま行っちまおうなんて考えたりして」
「無理もないわ。ショックですものね。でも放っておいちゃいけないわ」
「分りました。ともかく外へ出ます。あなたはここに――」
「一緒に行くわよ」
なつきはもうドアを開けていた。
「そうですか」
汗を|拭《ぬぐ》って、藤原も外へ出た。――やれやれ。大したことがないといいんだが。
「――あそこだわ」
なつきが言った。
Tシャツ、ジーパンという格好の若い娘が道の端に倒れている。
二人は急いで駆け寄って行った。
なつきの方がやはり落ちついている。その娘を抱き起こすと、心臓の辺りに耳を当てた。
「――生きてるわ。ちゃんとしっかり打ってる」
藤原は、ホッと息をついた。これで、最悪の事態は何とかまぬがれたわけだ。
「けがは……。分らないわね。気を失っちゃってるし」
「病院へ運びましょう。救急車といっても、来るまでに時間もかかるし」
「知っている所、ありますの?」
「この近くの外科なら。よくタレントを連れてく所です。秘密も守ってくれるし」
「でも、ちゃんと届けないと。――じゃ、ともかく車に乗せましょ」
二人がかりで、その娘を車へ運び入れると、藤原も大分落ちついて来た。
「なつきさん」
と、車を再びスタートさせながら、藤原は言った。「すみませんが、この道を抜けた所で降りて、一人で帰って下さい」
「でも、大丈夫?」
「なつきさんが乗っていたと分ると、ただの事故じゃすまなくなりますからね」
「そう。――分りました」
「すみませんね、|厄《やっ》|介《かい》をかけて」
なつきは黙っていた。
車が広い通りに出た所で、なつきは降りて、
「じゃ、後で電話して下さい」
と、藤原に言って、タクシーを拾った。
――藤原は、なつきの乗ったタクシーが走り去るのを見送って、息をついた。
「さて、病院だ」
車なら五分の所だ。ともかく軽く済んでくれるといいんだが……。
藤原は、車を出す前に、ふと後ろの座席に寝かせた娘の方を振り返った。
「――ねえ、君。聞こえるかい?――ねえ、君」
だめだ。しかし……もちろん[#「もちろん」に傍点]気を失ってるだけだろうな。
藤原は、ふと手をのばして、その娘の手首を持ち上げて、脈をみてみようとした……。
「――へえ、なかなかいいじゃないか」
と、中沢竜一郎が言った。
「そんなの着るの、初めて。恥ずかしかったわ」
居間で|寛《くつろ》ぎながら、なつきが衣裳合わせをして撮って来たポラロイド写真を見ているのである。
「いいなあ、お母さんは」
と、さやかが|覗《のぞ》き込んでふくれる。「私なんか、セーラー服ばっかり。|野《や》|暮《ぼ》ったいんだから」
「仕方ないわよ。そういう役なんだもの」
と、なつきは言った。「それより、セリフを|憶《おぼ》えるっていうの、大変ねえ。さやか、何かいい方法知ってたら、教えてよ」
「知らないよ、だ」
と、さやかは舌を出してやった。
「何をやってんの」
三人で笑い出す。――いとも|和《なご》やかなムードであった。
しかし、なつきはともかく、さやかの方はどこか、「わざとらしさ」を感じ取っていた。
父親がいやに|愛《あい》|想《そ》良く、なつきのご機嫌を取っているからである。もともとそんな風だったのならともかく、父はそういう点、気のきかない人だ。
――いつか、父が石ケンの|匂《にお》いをさせていたことを、さやかは思い出していた。
どこかおかしい……。
さやかは、一向に気付かない様子の母親を、少々不安げに眺めているのだった。
17 藤原の告白
「ね、さやか。ちょっと相談したいことがあるんだけど」
と、なつきは言った。
普通は娘の方が母親に相談を持ちかけるのだが、中沢家では逆――とまでは言わないが、無邪気ななつきが、しばしばクールなさやかに相談するということがあった。
「なあに?」
と、さやかは|訊《き》いた。
「忙しければいいんだけど」
「構わないわよ」
さやかは映画『|母娘《おやこ》|坂《ざか》』の台本を閉じた。
――なつきとさやか、二人して、今日はポスター用の写真撮影である。
ただの写真といっても、映画のポスターのためとなると、ちゃんと役の衣裳もつけなくてはならないし、メーキャップもして、ヘアスタイルも……。
なかなか準備も大変なのである。
場所は都内の、ある古い屋敷。よくこの手の撮影で借りる場所らしい。
カメラマンが、色々とアングルやら構図やらを工夫している間、二人は、ソファにかけて、呼ばれるのを待っていた。その間に、さやかは台本を広げていたのである。
「でも、|憶《おぼ》えてたんじゃないの、セリフ」
と、なつきが言った。
「え? ああ、この台本?――今日は写真とるだけよ。セリフしゃべるわけじゃないんだし」
「そりゃそうだけど……」
「それにもう暗記しちゃったわよ」
「まあ|凄《すご》い」
と、なつきは目を丸くして、「私なんか、何回読んでも憶えないわ」
「大丈夫。あんまり無理して憶えようとしない方がいいわよ。そのうち、スーッと頭に入って来るから」
「でも、私の頭はたいてい素通りしてっちゃうのよね」
と、なつきは|真《ま》|面《じ》|目《め》に言った。「我ながら感心しちゃう」
「変なことに感心しないで」
と、さやかは笑って、「で、何なの、話って?」
「うん……」
なつきは、カメラのセッティングをそばで眺めている藤原の方へ目をやった。
「――お母さん」
「え?」
「まさか……藤原さんのこと、好きになったとか言うんじゃないでしょうね」
「ええ?」
なつきは目を丸くした。「藤原さん? そりゃ、いい人だし、頼りにしてるわ。でも、お仕事の上でのお付き合いじゃないの」
「向うはそう思ってないよ」
なつきは面食らって、
「何を言い出すの」
「本当よ。気が付いてないのは、お母さんぐらいじゃない? 誰が見たって、藤原さんはお母さんに参ってる」
「まさか」
と、なつきは笑って、「そんなことじゃないのよ。――いえ、そんなことかもしれないわ」
「何よ、それ?」
「ねえ、お母さんが藤原さんに対して失礼なことしたと思う?」
「ええ?」
さやかはわけが分らずに|訊《き》き返した。
「いえね。きょうは、会ってからほとんど口をきいてないの。いつもなら、藤原さんの方からあれこれ話しかけて来るんだけど、今日に限って……。だから、何か自分で気が付かないうちに、失礼なことを、言うかするかしたのかもしれないと思ったのよ。さやか、どう思う?」
「そんなこと――」
知らないよ、と言おうとして、さやかはためらった。
実のところ、さやかは今、家の中が何かと不安定になっていることに気付いている。
たぶん母は何も分っていないけれども、父は女を作っているようだ。もしそれが知れたら、母がどう反応するか、さやかには想像もつかなかった。
およそ、さやかの両親は夫婦|喧《げん》|嘩《か》なんかしたことがないのだから。
しかし――もしかすると藤原は、父の浮気に気付いているかもしれない。
藤原が母に|惚《ほ》れていることは、さやかにも確信があった。その藤原にしてみれば、父の浮気は、母に接近する絶好のチャンスだ!
今日、藤原が何となく母によそよそしいというのも、もしかすると、藤原の「手」かもしれない、と思った。
相手が気になるように、わざとそっけなくする、というのは、よくある手だ。現に、母は気にしている[#「気にしている」に傍点]。
しかし、さやかとしては、父の浮気を何とかやめさせて、家の平和を取り戻したい、と思っているのだ(今でも、一応は平和だけれども)。そこへ藤原と母の恋となったら、ややこしくて仕方なくなる。
これは何とかしてやめさせなければ!
「どうしたの?」
と、なつきが気にして、「何を考えてるの?」
「別に」
と、さやかは首を振った。「そんなの、考え過ぎよ、お母さんの」
「そうかしら」
「そうよ。藤原さんだって、忙しいんだから、色々考え込むことだってあるわ」
「そりゃそうだけど……」
「気にしないのよ」
さやかは、ポンと母の肩を|叩《たた》いた。「元気出して!」
どっちが親だか……。
そこへ、カメラマンの、
「じゃ、お願いします」
という声。
藤原がやって来て、
「初めは一人ずつお願いします。それから、庭へ出てお二人で一緒に」
「分りました」
と、なつきは|肯《うなず》いて、「じゃ、どっちから先に?」
「なつきさんからにしていただけますか」
「分りました」
と、なつきが立ち上がる。
「お母さん、頑張って」
と、さやかが声をかけた……。
「はい、階段をゆっくり下って来て下さい。――はい、いいですよ。いい雰囲気。――目はあのシャンデリアの辺り。――はい、すばらしい!」
カメラマンの、リズミカルな声が屋敷の中に響いている。
さやかは、離れた所で、母の|撮《さつ》|影《えい》を見ていたが……。
「いつもセーラー服ですみませんね」
と、藤原が来て言った。「この次は、何か|可愛《かわい》い服を考えますから」
「別にいいですよ」
と、さやかは笑って言った。「あのね、藤原さん」
「何です?」
「一つ、|訊《き》いていい? いや、二つかな」
「いくつでもどうぞ」
「その一」
「はい」
「母のこと、好きでしょ」
藤原はドキッとした様子で、
「そ、そりゃ――お母さんを好きな男は、今、日本中にいますよ」
「そうじゃないの」
と、さやかは首を振った。「個人的に、母のこと、好いてるでしょ。隠さないで」
「それは、その……」
と、しどろもどろ。
「答えたと同じね。その二。父に女の人がいるの、知ってます?」
藤原は、それこそ目をむいた。
「ど、どうしてそれを――いや、そんなことを」
「やっぱりね。相手の女を知ってる?」
「あ、あのですね、さやかさん。人間というのは、何といっても――」
「答えて。母はまだ何も気付いてないの。気付いてないうちに、解決したいの」
藤原は、ため息をつくと、撮影しているなつきの方を、チラッと見て、
「同感です」
と、|肯《うなず》いた。「しかし――相手は、池原洋子ですからね」
「女優の? |呆《あき》れた!」
と、さやかもびっくりした。
「こっちもびっくりです。しかし、何とか手を打ちますから」
「父と池原洋子ねえ……。イメージ合わないなあ」
と、さやかは首をかしげた。「――ね、藤原さん、そのチャンスに、うちの母を、つり上げようっていうんじゃないわよね」
「とんでもない!」
と、藤原は強く首を振って、「昔から、なつきさんは僕の|憧《あこが》れでした。それを何で今になって――」
「昔から[#「昔から」に傍点]?」
さやかに|訊《き》かれ、しまった、という顔になった。
「藤原さん」
さやかは、藤原をにらむと、「正直に白状しなさい!」
「――分りました」
藤原はため息をついた。「でも、これは、なつきさんには内緒ですよ」
「お話によります」
何といっても、さやかの方が強い[#「強い」に傍点]のである……。
18 二階の少年
「はい、そこで片手を手すりにかけて下さい!――いいなあ! うーん、これはすばらしい!」
カメラマンは、もちろんいつもながらに調子がいいのだが、特にさやかを撮りながら、一人で興奮している様子だった。
「いやあ、セーラー服ってのは、いいなあ! 今や、本当にその格好の似合う子はいないんですよ。いや、本当にすばらしい!」
さやかの方は、もういい加減、時代もののセーラー服にはうんざりしているのだが。
それでも一応言われた通りにポーズなどとりながら、男って単純ね、などと考えていた。
藤原は、昔の女学生のころのなつきに遠くから|憧《あこが》れていたことを、さやかに打ち明けたのである。
まあ|可愛《かわい》いと言えば可愛いが、よくも気長に、と、どっちかといえば気の短いさやかなど、感心するより|呆《あき》れてしまう。
ともかく、藤原が母に妙な下心は抱いていないことは分ってホッとした。しかし、問題は父の浮気。
藤原は、
「必ず何とかする」
と、言っていたが……。
「はい、フィルムをかえるから、待っててね」
と、カメラマンが助手に、「早くしろよ!」
と怒鳴っている。
助手ってのも大変ね、とさやかは思った。
広くて、ゆるやかな、昔のヨーロッパ映画に出て来そうな階段。その踊り場の所にさやかは、立っているのだった。
上は何だろう? 誰か住んでるのかな。
さやかは、まだ下で準備をしているので、ふと思い付いて、その階段を二階の方へと上って行った。
ここが――二階。
広い家だな。お掃除、大変じゃないかしら、なんて考えていると――。
「おい」
と、後ろから声をかけられた。
「え?」
さやかは振り返った。
十七、八歳か。ちょっとやせた、色白な少年が立っていた。
「この家の方?」
と、さやかは言った。「ちょっと撮影に借りてるの」
「二階は立ち入らないって約束だぞ」
と、その少年は、神経質な声を上げた。「一階と階段だけだ」
「あ、そうですか」
さやかは、カチンと来て、「失礼いたしました」
と、頭を下げ、さっさと階段を下りた。
「――お待たせ! 始めるよ」
と、カメラマンが手を上げる。「ゆっくり階段を下って来て!」
さやかは、チラッと上の方へ目をやった。誰かが――あの少年だろうが――見ているような気がしたのである。
庭へ出ると、その広さにびっくりしたが、暑さも厳しい。
撮影のプランが決まるまで、なつきとさやかは、木かげに座っていた。もちろん、折りたたみの|椅子《いす》を、藤原が用意しているのである。
「暑い所で、すみませんね」
と、藤原が言った。
「ここ、よく使うんですか?」
と、さやかが|訊《き》いた。
「ええ。ちょうどおあつらえ向きですからね。こういう背景には」
「さっき、上で男の子に会ったわ」
「ああ、そうですか。ここの|息子《むすこ》ですよ」
と、藤原は|肯《うなず》いて、「何だか生っちょろい感じの……」
「十七、八歳かしら」
「それぐらいでしょうね」
と、藤原は肯いた。
「ここの家の人って、何してるんですか?」
「もともと大変な資産家でね。ところが当主が早く亡くなって、未亡人はまるで仕事のことなんか分らない人で。――結局、いくつかアパートを持っててその家賃で暮らしてるんです」
「へえ」
「でも、なかなか楽じゃないようですね」
「そうでしょうね」
と、なつきが肯いて、「これだけのお家や庭を手入れするだけでも大変」
「維持費がかかりますからね。それで、ロケや撮影に貸すようになったんですよ」
「ふーん」
と、さやかは言った。
古い洋館。――見た目にはムードがあって、すてきだが、中に住む人にとっては、どうだろう。
それは、この「スター」っていうのも似たようなもんだわ、とさやかは思った。
スターになりたい子はいくらもいるが、いざそうなってみると、外の世界の方が、よほどすてきに見えたりする……。
さやかは、古い建物の方を見上げていた。すると――。
二階の窓の一つに、あの少年の顔が|覗《のぞ》いていた。さやかたちの方を見ている。
さやかと目が合うと、少年はスッと姿を隠してしまった……。
「今は未亡人とその男の子だけ?」
と、なつきが言った。
「たぶん、そうでしょう。未亡人が、このところ具合悪くてね。手伝いの女性がつきっきりです」
「まあ、気の毒に」
「息子の方もね」
さやかは、藤原を見て、
「息子の方も、って、それどういうこと?」
と、訊いた。
「顔色、悪かったでしょう? 生まれつき心臓が弱いんです。とても二十歳までは生きられないと言われてるそうですよ」
「二十歳まで……」
と、さやかは|呟《つぶや》いた。
あと、二年か三年の命?――そんなこと言われたら、私だったらどうするだろう?
「――お願いします」
と、カメラマンがまぶしさに顔をしかめながら言った。「お母様の方から」
「はい」
と、なつきは立ち上がった。
さやかは、あの窓を見た。また少年が、こっちを覗いている。
さやかは、手を上げて、振って見せた。少年がパッと隠れる。
が――しばらく見ていると、また少年の顔が見えた。
さやかは、手を振って見せた。今度は少年も隠れないで、じっとさやかを見ている。
そして少年が、ためらいがちに手を上げた……。
――さやかの番になって、なつきはまた木かげに戻って来る。
「ご苦労様。汗を|拭《ふ》きましょう」
「いいえ。少したってからで。どうせまた出るわ」
と、なつきは首を振った。「ねえ、藤原さん」
「はあ」
「この間の人、大丈夫だったの?」
「この間の……?」
「ほら、車ではねた女の人――」
「ああ、あれですか」
藤原は少しオーバーに|肯《うなず》いて、「いや、びっくりしました。でも幸い、大したことなくて。――もうすっかり片付いたんです」
「良かったわね」
「ええ、どうしようかと思いましたよ」
藤原は笑ったが……。
何だか変だわ、となつきは思った。
藤原の笑い方が、いやにわざとらしく、無理がある。|嘘《うそ》をついてるんだわ、と直感的に思った。
どうなったんだろう、あの女の人は?
なつきは気になってならなかった……。
19 開けられた窓
「気になるのよ」
と、なつきは言った。「ね、どうしたらいいと思う?」
そんなこと、自分の娘に|訊《き》くなって。
さやかは、いささかくたびれて来た。母のお守り[#「お守り」に傍点]も楽じゃない!
「だったら、藤原さんに訊いてみりゃいいじゃないの」
「訊いたけど、何だか本当のこと言ってないようなのよ」
と、なつきはため息をついた。「きっと、私のことを信じてないんだわ」
こういう飛躍が、母らしいところだ、とさやかは思った。
――なつきとさやかは、居間で休んでいるところである。
古い屋敷を借りての『|母娘《おやこ》|坂《ざか》』のポスター用の写真撮影も、二日目。
一日で済むはずだったのが、昨日の光の具合がどうしてもうまく行かず、もう一日、ということになって、
「またセーラー服?」
と、さやかが口を|尖《とが》らせたのだった。
庭にセッティングしている間、なつきとさやかは、一階の居間で待っている。藤原は庭へ出て、カメラマンとあれこれ打ち合わせていた。
その間に、なつきは、さやかにこの間の自動車事故のことを話したのである。
「もし、死んじゃってたりしたら、どうしよう」
と、なつきは思い詰めている。
「いくら何でも――」
と、さやかは言った。「考え過ぎじゃないの? じゃ、藤原さんが、死体をどこかへ捨てちゃったとでもいうわけ?」
「まさか、とは思うけど……」
と、なつきはこだわっている。
さやかとしても、母の「論理的思考力」にはあまり信頼を置いていないが、「第六感」というやつは、あなどれない、と思っている。
子供のようなところを多分に残しているだけ、なつきは真実を見抜いたり、言い当てたりすることがあるのだ。
しかし、藤原が、人をはねて……。それを、隠してしまうなんてことがあるだろうか? いくらなつきの言葉でも、さやかには信じられない。
「――どうぞ」
という声で、さやかは、ふと我に返った。
この家のお手伝いさんらしい女性が、冷たい飲物を、二人の前に出してくれた。
「ありがとうございます」
と、なつきは礼を言って、「こちらの奥様、お体の方はいかがでいらっしゃいますの?」
相手は、ちょっと面食らったようだったが、すぐに、
「ええ、先月ごろ大分お悪くて。でも、このところ、持ち直されて」
「まあ、それは結構ですわ」
なつきにしてみれば、もちろん、全く見も知らない他人だが、古い知人のように心配するのが、なつきらしいところ。
手伝いの女性も、
「よく奥様が、おっしゃっておられます。TVのコマーシャルをご覧になっていて、本当にすてきな方ねえ、と」
「まあ、大変」
と、なつきは笑った。「いつも娘にやっつけられていますのよ」
「お母さん」
と、さやかは母をつついてやった。
「今は寝こんでいらっしゃるんですか?」
と、なつきは訊いた。
「奥様ですか? いえ、一応、起きていらっしゃいます。外にはお出になれませんけれど……」
「あら、それじゃ、こうして二日もお邪魔してるんですもの、ご|挨《あい》|拶《さつ》をさせていただけません?」
手伝いの女性はびっくりしていたが、
「それでは――あの、ちょっとうかがって参りますわ」
と、急いで居間を出て行く。
「物好きねえ」
と、さやかは言った。「どうせ今日限りじゃないの」
「長く寝てる人にとってはね」
と、なつきは言った。「お客と会うくらい楽しいことはないのよ」
さやかは、ちょっと肩をすくめただけで、何も言わなかった。
お手伝いの女性は、すぐに戻って来て、ぜひお目にかかりたいとおっしゃってます、ということなので、早速なつきとさやかは、立ち上がって、居間を出て行った。
「――こちらです」
ドアが開くと、カーテンを引いた、ほの暗い部屋だった。
「――お邪魔します」
と、なつきは、挨拶した。「中沢なつきと申します。これは娘のさやか」
「拝見していますわ」
と、その婦人は言った。「わざわざ|恐《おそ》れ入ります」
「とんでもない。――お騒がせしてしまって」
「いいえ、気も紛れますし」
さやかは、その、ソファに身を委ねている女性を、母の少し後ろに立って、眺めていた。
年齢は、なつきとそう変らないはずだが、ともかく「生気」というものが感じられない。
ソファに座っているところが、まるで一枚の絵のようで、そこから動くことができないように見えるのだ。
すると、何だか背後に人の気配がして、振り向くと、昨日会ったあの少年が立っていた……。
「申し遅れまして」
と、その女性は言った。「|財《ざい》|前《ぜん》|令《れい》|子《こ》と申します。それが|息子《むすこ》の|浩《ひろ》|志《し》です」
さやかが会釈すると、その少年は、照れたように下を向いた。
「浩志」
と、財前令子が言った。「お嬢さんに、家の中を案内してさし上げなさい」
「うん……。でも――」
と、少年は|肩《かた》をすくめて、「面白くもないじゃない」
「そんなことないわ」
と、さやかは言った。「拝見したいわ」
「じゃ……」
と、浩志は口をちょっと|尖《とが》らして、歩き出す。
さやかはその後からついて行った。
「――|沢《たく》|山《さん》絵があるのね」
廊下を飾る絵の列を見て、さやかは、目をみはった。
「絵は詳しい?」
と、浩志が|訊《き》く。
「全然」
「じゃ、良かった」
「どうして?」
「ほとんど偽物だから」
「これが?」
「金に困って、売り払ってるんだ」
「そう……」
さやかは、一つ一つの絵を見て行って、「でも、どれもすてきに見えるけど」
「死んでるよ」
と、浩志が、強い口調で言ったので、さやかはちょっとドキリとした。
「死んでる?」
「古い物ばっかり。――TVの中にしか、新しい物なんかない。君は……」
と、浩志はさやかを見て、「新しいね」
「まだ生まれて来て十五年だからね」
と、さやかは言った。「でも、あなただって――」
「今、十七だよ。でも、そう長くないんだ、僕は」
「聞いてるわ」
と、さやかは言った。「でも、私の知ってる人、お医者さんに半年の命って言われて、もう十年も生きて、世界中駆け回ってる」
浩志はさやかを見た。
「寿命なんて、分らないわよ。私だって、今日、交通事故で死ぬかもしれない」
浩志は、ちょっと笑って、
「明るいなあ、君は」
「それで女の子をほめたつもり?」
と言って、さやかは笑った……。
いくつかの部屋をグルッと見て回り、元の部屋へと戻りながら、
「少しは外へ出ないの?」
と、さやかは言った。
「|陽《ひ》に当ると、すぐめまいを起こすんだ」
「ハハ、ドラキュラだ」
「本当だ」
と、浩志も笑った。「――しっ!」
「え?」
「聞いて」
浩志は、驚きで、目を開いている。「――母が、笑ってる」
なつきの声と混じって、楽しげな笑い声が廊下に響いている。
「きれいな方ね、お母様」
と、さやかは言った。「息子に比べても」
「ひどいなあ」
「さっきのお返し」
浩志は楽しげに笑った。
「――大分、お話が弾んでるようね」
と、さやかは、母に言った。
「偶然、同じお花の先生に習ったことが分ったのよ」
と、なつきは言った。「あら、あれ何かしら?」
遠くで、「なつきさん!」「さやか君!」と呼ぶ声。
「藤原さん、私たちのこと、捜してるんだ」
と、さやかが言った。
「まあ、大変」
なつきは、カーテンを引いた窓へと歩いて行くと、カーテンを大きく開けた。
部屋に光が|溢《あふ》れる。
それはさやかがハッと息を止めるほど、大きな変化だった。
なつきは、窓を開けると、
「――藤原さん!」
と、大声で呼んだ。「ここよ! ここにいるの!」
「心配しましたよ!」
「ごめんなさい! 今、行くわ!」
と、なつきは手を振った。「――すみません、勝手に開けてしまって」
「いいえ」
と、財前令子は言った。「開けておいて下さい。カーテンも窓も」
「奥さん……」
「外の風、外の光が、こんなにいいものだったなんて……」
財前令子の目に、涙が光っていた……。
20 名もない娘
車が走り出すと、さやかは振り向いて、
「あ、手を振ってる!――バイバイ!」
「あの|息子《むすこ》ですか」
と、藤原が言った。
「なかなか、面白い子よ」
と、さやかは座席に落ちついて、「ねえ、お母さん」
「いや、なつきさんは不思議な力を持った人ですよ」
と、藤原は言った。「あの未亡人、別人のように|活《い》き活きしてた」
――なつきが、とうとう財前母子を庭まで引っ張り出し、記念撮影までしてしまったのである。
「今度、お花の会にご一緒する約束もしましたわ」
「いや、大したもんですよ」
と、藤原は笑った。
「さやかは?」
「私がどうしたの?」
「あの息子さんと、何かお約束でもしなかったの?」
「いやだ、やめてよ」
と、さやかは肩をそびやかし、「悪い人じゃないと思うけど、好みのタイプじゃないわ」
「あら、結構気が合ってたみたいだったのにね」
「私、ボランティアじゃないの」
と、さやかは言って、車の外へ目をやった。
もちろん、黙っていた。あの家の電話番号をメモして、持って来たということは……。
「――お疲れさん」
藤原は、タクシーを先におりて、スタッフに声をかけ、手を振った。
「やれやれ……」
|欠伸《あくび》が出る。夜中の三時だ。
なつきとさやかについて歩くのも、もちろん藤原の仕事だが、それだけでは終らない。
なつきとさやかを、家まで送った後、山ほど仕事が残っているのだ。
それを片付けてマンションへ帰ると、もうこんな時間。
これで、朝の七時には起きなくては、明日の仕事に間に合わない。
この|年齢《とし》まで独りなのも、無理はない、というところである。
藤原は、エレベーターに乗ると、また欠伸をした。――さて、今日はどうだろう?
日を重ねるごとに、絶望的な気分になって来る。
自分の部屋のドアまで来て、藤原は|鍵《かぎ》を出したが、まず手でノブをつかみ、開くかどうかためしてみた。
「――だめか」
と、ため息をつく。
鍵をあけ、中へ入って、藤原は、居間へ入って行った。
ソファに横になって、若い女が、眠り込んでいる。
この間、藤原が車ではねた女である。
病院へ運ぶ前に、意識が戻ったのはいいのだが、自分の名前も住所も、何も|憶《おぼ》えていない。車にはねられたことも、忘れてしまっていたのだ。
藤原は、これならうまくごまかせるかも、と、このマンションへ娘を連れて来たのである。
何日かすれば、記憶も戻るだろうし、そうしたら、金でもやって、口止めすれば……。
その考えは、悪くないと思えた。ところが――。
肝心の記憶が、一向に戻らない。
娘の方も、何だか、台所の仕事をしたり、掃除をしたり、このマンションに居ついてしまいそうな雰囲気になって来た。
藤原としても、この数日、悩んでいたのである。
出かけている間に、記憶が戻って、いなくなっているんじゃないか、と毎日期待して帰って来るのだが、今のところ、全くその様子もない。
といって――今さら警察へ届けるわけにはいかない。今まで放っておいたことを説明できやしないのだから。
藤原は、肩をすくめて、
「シャワーだけ浴びるか」
と|呟《つぶや》いた。
バスルームへ入り、汗を流すと、大分疲れも消える。
何といっても、なつきやさやかと毎日仕事をしているのだ。同じ仕事でも、疲れ方が違う。
フウッ、と息をついて、バスタオルを腰に巻き、寝室へ入って行く。
明りをつけて、藤原はギョッとした。
ついさっき居間のソファで寝ていた娘が、ベッドに入って、目を開いている。
「びっくりさせないでくれよ」
と、藤原は胸を押えた。「そこで寝たいのかい? じゃ、僕はソファで寝よう。大丈夫さ、慣れてる」
娘は、ベッドにスッと起き上がった。そしてベッドを出て、藤原の方へ歩いて来る。
藤原は|呆《ぼう》|然《ぜん》として、裸の娘を見つめていた。
娘は黙って藤原の手を取ると、ベッドの方へ引っ張って行く。
藤原は、何だかわけの分らないうちに、ベッドへ入っていた。そして娘の体が自分の上に……。
その先まで、「わけが分らなかった」では通用しないとしても、藤原は、最後まで、自分が夢を見てるんじゃないか、という気持でいたのだった……。
朝、藤原は、電話の音で目が覚めた。
「ワッ!」
手をのばしたら、何か、やわらかいものに触れて、それがあの娘の肌だと知ると、完全に目が覚めてしまった。
本当に……。何てことだ!
「なつきさん!」
と、藤原は悲痛な声をあげた……。
電話の方は、藤原の嘆きに同情する気配もなく、鳴り続けている。
「――はい」
「いつまで寝とるんだ!」
社長の舟橋の声が飛び出して来た。
「す、すみません」
「早く出て来い! 急用だ」
「何か?」
「何しとったんだ、お前は」
「といいますと?」
「池原洋子と、中沢竜一郎の件だ」
「あ、あのですね――一応、プロダクションへ話をして――」
「手ぬるい!」
「はあ」
「情報が入ったぞ。二人の仲をかぎつけた|奴《やつ》がいる」
「週刊誌ですか」
「そうだ。誰かがネタを売ったんだ」
「どうします?」
「それをお前が考えろ?」
――藤原は、電話を切ると、ベッドの方を見て、いとも無邪気な顔で寝ている、名前も知らない娘が目につくと、頭をかかえて、天を仰いだのだった……。
21 身替り作戦
「あ、もしもし」
と、電話を取って、中沢竜一郎は言った。「中沢ですが。――もしもし?」
耳を澄ましていると、
「フフ……」
と、忍び笑いが聞こえて来る。
とたんに竜一郎の顔が、デレッとしまらない表情になる。
「なんだ、誰かと思った」
「お仕事中でしょ? ごめんなさいね」
会社に午後の二時ごろ電話すりゃ、「仕事中」に決まっている。
「いや、構わないよ。どうしたの?」
構わないことはない。大いに構うのである。
課長たる者が、女性からの電話にヘラヘラしていたのでは、仕方ない。
「その分じゃ、まだ大丈夫みたいね」
と、池原洋子は言った。
「大丈夫って、何が?」
「今日ね、うちの社長から言われたの」
と、池原洋子はつまらなそうな口調で、「中沢なつきの亭主とはやめとけ、って」
「な、何だって?」
竜一郎は仰天した。
何しろ、池原洋子との付き合いには充分に用心しているつもりでいるのだ。もっとも、そう思っているのは、当人だけだろうが。
「だから、そっちにも話がいってるかと思ったの」
「いや、こっちは別に――」
と、竜一郎は言って、「しかし……どうして……」
「色々、口やかましい人がいるからね」
「そうだね。しかし……」
竜一郎としては、ばれることが怖いよりも、これで池原洋子と会えなくなることの方が、心配なのである。
「私は、社長に言ってやったわ。『恋愛の自由を侵さないで』ってね」
「そうだとも! 基本的人権だよ!」
何を言っているのか、自分でもよく分っていない。
「私、あなたのことを|諦《あきら》めないわよ。あなたも、でしょ?」
「も、もちろんだ!」
「良かった。――じゃ、また金曜日にね」
「分ってるよ」
「愛してるわ」
「僕も愛――」
と、言いかけて、さすがに、部下の女の子たちの耳が気になり、口をつぐんだ。
「じゃあね」
チュッとキスの音がして、電話が切れた。竜一郎は、しばし夢見心地で、受話器を握っていたが、やがて、フッと我に返ると、受話器を戻して、仕事にかかった。
「課長」
と、女の子が呼ぶ。
「何だね?」
「社長がお呼びです」
「ああ、分った」
竜一郎は席を立つと、「君ね、これをまとめといて。――僕がいないからって、のんびりさぼってちゃいけないよ」
「注意します」
「じゃ、頼むよ」
竜一郎が出て行くと、女の子たちがドッと笑い崩れた。
「――よく言うよ!」
「本当! 自分は女の電話でデレデレしてるくせして」
「でも、|可愛《かわい》いと思わない?『僕も愛してる』って言いかけて、あわててやめるとこなんか」
「ほんと、ほんと!」
完全に見抜かれているのだ。
知らぬが仏の竜一郎は、父、中沢竜重の部屋、つまり社長室のドアを|叩《たた》いていた。
「どうぞ」
ノックの音に、池原洋子は言って、「あ、そうか」
ここはホテルだ。ドアの|鍵《かぎ》は自動ロックである。
もっとも、池原洋子がこのホテルに泊ったといっても、男と一緒ではない。ゆうべの仕事が、午前三時までかかり、「くたびれた」と文句を言ったら、TV局で、ここを取ってくれたのである。
おかげで、二時までぐっすり眠ってしまった。
自分が払うわけじゃないから、いくら超過料金がついても平気である。
「――どなた?」
と、ドアの方へ歩いて行って声をかける。
「Mプロの藤原です」
意外な相手だった。
「まあ、どうも」
と、ドアを開けて、「珍しいじゃないの、ねえ!」
「どうも、いつもお世話に」
「いいから入ってよ。――びっくりしたわ」
池原洋子も、藤原のことは良く知っているのだ。
とにかくこの世界は、口ばかり達者で、あてにならない人間が多いのだが、その中で、藤原はちょっと変っている。つまり、信用できる相手なのである。
「失礼します」
と、藤原はまだドアの所に立っている。
「何よ。――さ、入って」
「いいですか、ドアを閉めても」
池原洋子は噴き出して、
「珍しい人ねえ、あなたって。もちろん、閉めていいわよ」
「それじゃ……。いや、局の方へ電話したら、たぶんまだここだろう、というんで」
「今起きたところ。電話くれたの?」
「ええ、でもつなぐなと言われている、って……」
「そうなの。ごめんなさい」
「いえ、とんでもない。――実は、お話があって」
池原洋子は、
「待って。――ねえ、コーヒーを飲みたいのよ。ルームサービス、頼んでくれる?」
「いいですよ」
「あなたも、よかったらどうぞ。どうせ局の払いよ」
「じゃ、遠慮なく」
藤原は、ルームサービスでコーヒーを二つ頼んだ。池原洋子は、窓から表を見ながら、
「社長から聞いたわよ。中沢さんとのことでしょ?」
と、言った。
「まあ……そうです」
「ただの遊びよ。|大人《おとな》同士。放っといてくれない?」
「それが、そうもいかなくなって」
「どうして? あのなつきさんが、気付いたの?」
「いや、あの人は……。およそ人を疑うなんてことのない人ですから」
「この世界じゃ珍しいわね。あなたと同様にね」
藤原は、落ちつかない様子だ。
「いや、実は――例の写真週刊誌が、あなたと中沢さんのことをつかんだんです」
「へえ」
と、池原洋子は目をパチクリさせて、「そう! なかなかやるわね」
「感心してる場合じゃありません」
「私、平気よ。年中やられてるもん」
「ですが、中沢さんの方は……。これから『|母娘《おやこ》|坂《ざか》』の撮影って時に、まずい、とうちの社長が――」
「そりゃそうね。でも、止められるの?」
「今は何とか。――でも、握り|潰《つぶ》すわけにはいきません」
「じゃ、どうするの?」
「色々考えました」
と、藤原は言った。「で、結論としましては……」
「なあに?」
「その……身替りを立てて、この場をしのごう、と」
「身替り?」
「はい。不本意とは存じますが、池原さんの相手に別の人間を用意して、その写真をとらせて、スクープさせよう、と……」
「へえ、面白い。でも、代りになるような人がいるの?」
「はあ、色々と考えまして……」
と、藤原は額の汗を|拭《ぬぐ》っている。
「誰なの?」
池原洋子は、興味|津《しん》|々《しん》という様子。
「あの……甚だ役不足ではありましょうが、もしおいやでなければ、私が……」
藤原は、やっとこ言葉を押し出した。
「藤原さんが?」
池原洋子は、飛び上がって笑い出した。
「いや、そりゃ――無理な組み合わせであるのは百も承知でして――」
「だけど……。ああ、びっくりした!」
池原洋子は、笑い過ぎて涙が出たのを|拭《ふ》きながら、「でも――藤原さんって、奥さん、いないの?」
「おりません」
「じゃ、まあ、その点はいいわね。だけど――そのアイデア、社長さんの?」
「いえ、私のです」
「ふーん」
と、池原洋子は|肯《うなず》いて、「大変ねえ、あなたの仕事も」
「いかがでしょう?」
池原洋子は、窓辺に立って、外を見ながら、しばらく考え込んでいた。藤原は、じっと黙って、答えを待った。
やがて、池原洋子は振り向いて、
「もし、私がOKしたら、どうなるの?」
「ちょうどホテルにおられるので、カメラマンを連れて来ております。この部屋を、腕を組んで出たところをパッと一枚とらせることにして――」
「手回しのいいこと」
「|恐《おそ》れ入ります」
藤原は、両手をギュッと握り合わせて、「ご承知いただけますか」
「――そうね」
と、言った時、ドアにノックの音がした。
「ルームサービスでございます」
「藤原さん、受け取って」
「はい」
藤原は、ドアを開けに行った。「――あ、中へ運んで。テーブルに置いてくれ」
「失礼いたします」
と、ボーイが盆を手に部屋へ入ると、「――よろしいんですか、入って?」
「どうして?」
振り向いて、藤原は仰天した。
池原洋子が、服を素早く脱ぎ捨てて、ベッドに入り、裸の肩を出しているのだ。
「あら、そこへ置いてもらって」
と、平然と言って、「それからね、あと一時間、この部屋を延長する、とフロントの人に伝えてね」
「かしこまりました」
と、ボーイは、目を丸くしながら、盆をテーブルへ置いた。
「ねえ、あなた[#「あなた」に傍点]」
と、池原洋子は藤原を見て、ニッコリ笑った。
「一時間あれば、もう一回愛し合えるじゃないの」
藤原は、笑ったつもりだったが、ただ顔が引きつっただけでしかなかった……。
22 自由な恋
「まあ」
と、なつきが言った。
「どうしたの、お母さん?」
さやかは、顔を上げて、意外な光景を見た。
母が、写真週刊誌を見ているのだ。――大体母は、ゴシップの類に、ほとんど興味を示さないという、珍しい人である。
「どうしたの? うつりの悪い写真でものってる?」
と、さやかは、母の手もとを|覗《のぞ》き込んで言った。
「自分で見なさい」
と、なつきは、その週刊誌をさやかへ渡して、「あなた、藤原さんが、私のことを好きだとか言ってたじゃないの」
「ええ?」
面食らって、さやかはその開いたページを見ると、「――まさか!」
と、思わず口走った。
〈池原洋子、またもホテルの朝!〉
相手は、Mプロダクションの独身プロデューサー……。
「藤原さんだわ」
「そうね」
と、なつきは言った。「これで分ったでしょ」
「何が?」
「あの人が、私のことを別に好いちゃいないってこと」
なつきはプイと立って、台所へ入ってしまった。
どうやら、ご機嫌斜めらしい。
「でも……どうなってんの?」
さやかは、居間のソファに座って、首をかしげていた。
藤原から、池原洋子と父の仲を聞いているので、とてもこの写真を額面通りには受け取れない。
「何かあるんだわ」
と、|呟《つぶや》いた。
――日曜日である。
いよいよ明日から撮影に入るので、今日は午後から、その前のミーティングがある。藤原も、あと一時間もすると、来るはずだ。
「おはよう」
と、父が|欠伸《あくび》しながら、居間へ入って来る。「何だ、早いな」
「お父さんが遅いのよ」
「仕方ないだろ、仕事で夜が遅くなるんだから」
怪しいもんだ、と言いたいのを、何とかこらえて、この写真週刊誌をテーブルの上にわざと置いておく。
TVをつけて、そっちへ顔を向けながら、そっと父の様子をうかがっていると……。
何気なく目をやって、ふと池原洋子の名に目を留めたらしい。手に取って、開いている。
そして――目を丸くした。
やっぱりね。藤原の言った通りだ。
「ね、その写真、藤原さんね」
と、わざと声をかける。
「うん。――そうだな」
「池原洋子って、今度、映画にも一緒に出るのよ」
「そうなのか」
「今日、ミーティングに来るわ。面白いわね、きっと」
「うん……」
父は立ち上がって、「ちょっと――急にいる本があるんだ。本屋へ行って来る」
「はい」
父があわてて出かけて行く。藤原と顔を合わせたくないのだろう。
しばらくして、表に車の音がした。
さやかが急いで玄関から出てみると、やはり藤原がやって来たところで――。
「どうも、さやかさん」
「どうも、じゃないわ」
と、さやかは言った。「あの記事、どうしたんですか?」
「なつきさんも?」
「もちろん! |凄《すご》いショックだったみたいですよ」
「いや、全く……」
と、藤原は、いやにくたびれた様子。「ゆうべから、私自身がTVや何やらに追いまくられて」
「ご苦労様。入って下さい」
玄関で、さやかは、
「――あれ、本当なんですか?」
と、|訊《き》いた。
「カムフラージュです」
「やっぱり。じゃ、父の?」
「あれしか方法がなくて」
「大変なんですね」
と、さやかは言った。
居間へ入ると、なつきはいつもの明るい笑顔で、
「いらっしゃい。藤原さん、この写真――」
「何ともお恥ずかしい」
と、藤原がうなだれる。
「いいえ? そんなことないわ。恋愛は自由じゃありませんか。でも、藤原さん、もっと、よくとってもらえば良かったのに」
なつきは明るく言った。
藤原はホッとした様子だった。
もちろん、本気にされるのも辛いだろうが、|軽《けい》|蔑《べつ》されたり、無視されたりするのはもっと辛かっただろうから。
「すぐに仕度しますわ。――さやか」
「うん!」
居間を出ようとして、さやかは、チラッと藤原を見て、ウインクした。
――なつきは、着替えをしながら、
「お父さんは?」
と、|訊《き》いた。
「さっき出かけたよ。何だか本屋さんに行くって」
「そう。――ね、このネックレス」
「はいはい……。もうセリフ、|憶《おぼ》えた、お母さん?」
「やっとね。――でも、本番になったら、きれいに忘れそう」
「大丈夫よ」
と、さやかは言った。「でも、お母さん、心がひろいのね」
「藤原さんのこと? でも、ちょっとはいやな気分よ。だけど、恋なんて、他人の口出すことじゃないし」
「そうだね」
直接[#「直接」に傍点]関係なきゃね。さやかはそう思った。
「ほら、急いで。――お母さん!」
「はいはい」
さやかは、母の後から居間へと戻りながら、撮影は果して無事に終るのかしら、と思っていた……。
23 読み合わせ
「さすが……」
と、さやかは|呟《つぶや》いた。
明日が撮影の初日。――クランク・インというやつだ。
前日のミーティングは、明日の場面のセリフを読み合わせすることから始まった。
「――はい、もう一度」
と、ボールペンをクルクル回しながら言ったのは、この『母娘坂』の監督をする、|早《はや》|坂《さか》である。
なつきの出るCFを撮った雨宮がやりたがっていたのだが、やはり、
「本編[#「本編」に傍点]には不向き」
という舟橋の一言で、早坂に決まった。
TV映画と区別して、劇場用の映画のことを、「本編」と呼ぶのだということを、さやかは初めて知った。
早坂は、雨宮に比べると、ずっと年輩で、髪もほとんど真っ白になっていた。見た目は雨宮の方が「芸術家風」であるが、早坂の方が監督の格[#「格」に傍点]としてはかなり上らしい。
「ベテランですよ」
と、藤原が言っていた。
さやかは、少なくとも今日のところは、早坂に好感を持った。紳士的だし、常識人という感じがする。
丸顔で、童顔だが、目はいかにも苦労人のそれ。
もう何度も同じ場面を読み直している。
早坂は、何も注意しない。さやかもつい緊張して、初めは何でもないセリフで引っかかってしまったが、別に怒られもしなかったのだ。
びっくりしたのは、母のなつきが、案外すらすらとセリフをしゃべることだった。
――池原洋子も、加わっている。
正に、さすが、という|貫《かん》|禄《ろく》だった。それに、セリフも、やはりプロ。当り前のことではあるが、|椅子《いす》に座って読んでいるだけでも、動作が目に見えるようだった。
「もう一度行きましょう」
と、早坂が言った。「――お茶」
助監督が、アッという間に飛んで行って、お茶を全員にいれてくれる。
さやかは、早坂が何か――このセリフはこんな風に、とか、こういう気持で、とか言ってくれたらいいのに、と思ったが、何度もくり返して同じセリフを読むうちに、何となく分って来た。
つまり、セリフが、「自分の言葉になって来る」のだ。
「読む」のではなく、「しゃべる」という感じになる。早坂も、それを待っているのだろう。
ま、考えてみりゃ、いくらベテランの監督とはいえ、主人公の母と娘が「ずぶの|素人《しろうと》」と来ているのだ。やりにくいだろうな、と同情してしまう。
「――大分良くなりましたね」
やっと早坂の口が開いた。「もう一回やりましょう」
池原洋子は、少しずつニュアンスを変えてセリフをしゃべっている。監督の顔色をうかがいながら、どれがいいのか、つかもうとしているようだ。
――なつきのセリフに来た。
すると、なつきが、急にハアハア大きく息をし始めたのだ。さやかはびっくりした。
「お母さん! どうかしたの?」
と、思わず声をかけると、
「今からセリフを言うんじゃないの」
と、心外、という顔をする。
「だって、ハアハア息を切らしてんだもの」
「今、気が付いたの。その場面の前で、私は部屋の片付けをして汗だくなのよ。だから、息を切らしてるのが自然かと思って」
早坂が、ニッコリ笑って、
「そうですね」
と、言った。「僕が言わないのに、よく分りましたね」
さやかは、改めて母を見直した。
こりゃ、自分の方が、よっぽど素人なのかもしれない。
――もう一度通して、早坂は、
「いいでしょう。――後は明日、セットで実際に動いてみる。その結果で、また間合も変って来ますから」
と、|肯《うなず》いた。「じゃ、今日はこれで」
池原洋子はさっさと立ち上がって、
「じゃ、私は、お先に」
と、にこやかに見回して、部屋を出て行ってしまった。
「――お疲れさんでした」
部屋の隅で座っていた藤原が立ち上がって、言った。「監督、どうですか、手応えは」
「いいですね」
と、早坂は肯いた。「いいものになりそうだ。じゃ、また明日」
なつきとさやかに会釈して、出て行く。
――何となく、ホッと息をついた。
「|呆《あき》れてらっしゃるんじゃないかしら。お話にならないって」
と、なつきが言った。
「いや、そんなことはないです」
と、藤原が言った。
「そう?」
「私はよく知ってますから、あの監督。――なかなか、クランク・インの前に、『いいものになりそうだ』なんて言わない人なんですよ」
もちろんお世辞かもしれない、とは思っても、藤原の言葉で、なつきとさやかはホッと顔を見合わせた。
「――じゃ、帰りましょうか」
と、なつきは言った。「藤原さん、どうなさる?」
「もちろん、お送りしますよ」
と、藤原が目をパチクリさせて、「どうしてです?」
「だって、池原さんがお待ちじゃないの?」
藤原は、|咳《せき》|払《ばら》いして、
「いや、なつきさんもお人が悪い。私なんか遊ばれてるだけですよ」
と、言った。「さ、どこかで食事でも。撮影に入ったら、ろくなものは食べられませんよ」
「ちょっと送っていただきたいの」
と、なつきは言った。
「どこへです?」
「お花の会があって、あの奥さんと待ち合わせてるのよ」
「財前家のですか」
「ええ。あの人も、夕方にならないと出て来られないということだったから。ちょうどいいわ」
「分りました。場所はどこです?」
「Pホテルの宴会場。――さやか、どうする?」
さやかは、肩をすくめて、
「どうでもいいけど……。だって一人で家へ帰ってもね。いいわ。お母さんに付き合ってあげる」
「何だか恩着せがましいのね」
と、なつきは笑った。
さやかは、黙って仕度をした。
撮影所というのも、何ともごみごみした、妙な場所だ。
ここで「夢」を作っているのかと思うと、不思議な気持になる……。
やっと、外も|黄昏《たそが》れて、暑さが息をひそめようとしていた。
「――すみません!」
車に乗ろうとしていると、高校生ぐらいの女の子が、三人、駆けて来た。
「サインして下さい!」
なつきとさやか、二人とも、三人にサインしてやって――。
「楽しみにしてます!」
「頑張って下さい!」
口々に言って、帰って行く。
「――何となく、大変なことになった、って気分だわ」
と、なつきは言った。
「ね。まだ映画もできてないのに」
「これがスター[#「スター」に傍点]ってもんですよ」
藤原はそう言って、「さ、行きましょう」
と、ドアを開けた。
そういえば――と、さやかは思った。
もう夏休みに入ったが、演劇部の合宿が来週からある。もちろん、さやかは行けないのだが。
あの、高林君と、川野雅子のこと、どうなったんだろう? 石塚部長のこともある。
夏休みは、『母娘坂』の撮影であっという間に過ぎ去ってしまうだろう。問題はその後だ。
二学期に入って、何が起こるか。――さやかには、父と母のこと以外でも、悩むことがいくつもあったのだ……。
24 七階の問題
「やあ」
ポンと肩を|叩《たた》いたのが、さやか。叩かれたのは、財前浩志だった。
「来たのか」
と、浩志はホッとした様子で.「そろそろ引き上げようかと思ってた」
「来てたのか」
と、さやかは言い返した。「待ってたくせに。強がるんじゃないの」
「誰を?」
「私に会いたかったんでしょ」
浩志は笑って、
「|凄《すご》い自信だな」
「不必要にへり下らないだけ」
さやかは、母が財前令子を知人に紹介して回っているのを見ていた。
「――お袋、楽しそうだよ」
と、浩志は言った。
「いいじゃない。すてきよ、とても」
「うん」
浩志は、ちょっと背筋を伸ばして、「――僕は?」
「あなたがどうしたの?」
「いや、何でもない」
さやかは、フフ、と笑った。
「外に出ようよ」
と、さやかは浩志の腕を取った。
「え?」
「庭があるわよ」
「でも、お袋が――」
「うちの母と一緒よ。大丈夫」
「うん……」
「それとも、お花、見てる?」
「いや。外に行こう」
「そう!」
二人は、宴会場のわきのドアから、表に出た。
日本庭園が、ほのかに青白い|灯《ひ》に照らされて、なかなかロマンチックな雰囲気。
「――少し涼しくなったね」
と、さやかは言った。「歩こうよ、ね」
「うん……」
「気が進まない?」
「そんなことないけど……」
浩志は不思議そうに、「君、退屈じゃないのか」
「あのねえ」
と、さやかは言った。「退屈するには、もっと時間がたたないと」
浩志は笑った。――軽くて、明るい笑いだった……。
藤原は、ホテルになつきとさやかを送り届けて、|一《いっ》|旦《たん》はそのまま帰ろうかと思ったのだが、どうせ食事もしなくてはならないし、と思い直し、車を駐車場へ入れた。
マンションへ帰ると、またあの、名前も分らない娘と二人になる。――藤原は、何とも気が重かった。
しかも、あの娘が、なかなか魅力的で、毎夜藤原のベッドへ入って来る。それを、藤原もまた拒まない、というのだから……。
他人のせいにはできないのだが。
「――さて、何か簡単に食って行こうかな」
藤原はロビーに出て、コーヒーハウスの方へと歩き出した。
すると、すれ違った若いOLらしい二人連れが、
「池原洋子ね」
と言っているのが耳に入って、おや、と思った。
「そう、今の人、きっとそうよ」
「似てたもんね」
「サングラスなんかかけちゃって、間違いないわよ」
藤原は、少し足を速めた。――池原洋子がここに?
エレベーターの前まで来て、藤原は足を止めた。正に、池原洋子がエレベーターに乗り込むところだったのだ。
どうしてこのホテルに……。
見ていると、エレベーターは七階で停った。他に客はいない様子だったし、エレベーターはそれからまた下へ下り始めたから、七階で降りたのだろう。
男か? こんな時期に!
しかし、池原洋子は、カメラマンが|狙《ねら》っている時期だからといって、男と会うのを控えるなんて殊勝な女ではない。
まあ、それだけスターとしても、自信があり、スキャンダルなど気にしない、と言っていられるのだろうが……。
しかし、問題は彼女でなく、相手の方だ。
中沢竜一郎も、ここへ来ているのだろうか?
藤原は気になって、ロビーを見回した。もしこれから中沢竜一郎が来るとしたら、どこからだろう?
カメラマンが狙っているのは、中沢も知っている。
正面ロビーから入って来る度胸はあるまい。すると、宴会場入口?
いや、自分のように、駐車場から、上って来ることも考えられる。
もちろん、池原洋子が後から来たという可能性もあるが、もし彼女が先だったら?
ルームナンバーは、チェックインするまで分らない。だから、彼女が先なら、部屋へ入ってから電話する。――どこへ?
このホテルの中で、待っている所……。
「バーか」
藤原は、一階下のバーへと、階段を駆け下りて行った。
「――ありがとうございました」
と、声がして、バーから出て来たのは、確かに中沢竜一郎だった!
藤原は苦笑いした。
サングラスなんかかけて! あれじゃ、人目につくばかりだ。
エレベーターに乗ろうとする中沢へ、藤原は声をかけようとしたが……。
「失礼いたします」
宴会場が近いので、空のコップやグラスを山とのせたワゴンが通って、藤原は、あわててわきへよけた。
ワゴンが通過した時には、もう中沢はエレベーターで上に行ってしまっていた……。
「しまった!」
舌打ちして、藤原は悔しがったが……。
「そうだ」
駐車場からのエレベーターは、客室用とは別なので、四階の結婚式場までしか行かない。
当然、中沢は七階へ行くのだろうから、四階で降りて、他のエレベーターに乗りかえることになる。
間に合うかもしれないぞ。
藤原は、客室用のエレベーターへと駆け出して行った。
「――あら」
と、さやかは言った。
「ごめん」
と、浩志が言った。
「え?」
「いや……。悪かった」
さやかは、少しポカンとしていたが、
「ああ。――今のこと? いいの。それでびっくりしたんじゃないの」
「あ、そう」
浩志は、ちょっとがっくり来た様子だった。
ほの暗い庭園の|小《こ》|径《みち》で、ふと立ち止まり、キスしたのだが……。
さやかも、何となく、映画の撮影でもしているみたいで、さして実感はなかったのである。
「どうしたんだい?」
「今、あの廊下を、走ってったの、藤原さんだわ」
ガラスばりの廊下が、庭の方からはよく見える。そこを、藤原らしい男が駆けて行ったのだ。
「確かに藤原さんよ」
「藤原って、あの――」
「マネージャーさん。どうしたのかな」
「急用だったんだろ」
「行ってみよう。ね、一緒に来てよ」
「どこへ?」
「私が知ってるわけないでしょ」
さやかは、浩志の手を引いて駆け出した。
「おい!――僕は心臓が悪い――おい!」
文句を言いつつ、浩志は仕方なく、さやかと一緒に駆け出していた。
さやかは、廊下へ入ると、藤原の走って行った方へ、小走りに急いだ。
「エレベーターだわ」
藤原が乗って、扉が閉まるのが、チラッと見えた。さやかは、息を弾ませて、
「間に合わなかった!」
「――どこへ行ったんだ?」
「見てて」
階数表示の明りは、1、2、3……と動いて、〈7〉で停った。
「七階で停ったな」
「七階ね。――何なのかしら」
「関係ないだろ、君とは」
「でも……。気になるわ。あの走り方、ただごとじゃなかった」
「七階って客室だろ」
「どの部屋か分らないけど……。行ってみるわ、ともかく」
さやかは、上りボタンを押した。
浩志が、ちょっと笑った。
「何よ」
「いや――君の行動力が|羨《うらや》ましくてさ」
さやかは、浩志の腕をつかんで、
「付き合わせてやる」
と、言った。
25 青ざめた夜
待っている時に限って、なかなか来ないのは、タクシーもエレベーターも同じようなものだ。
もちろん、さやかと財前浩志が待っていたのはエレベーターだった。
「あ、やっと来た」
と、さやかは言った。「七階へ、いざ!」
「何だか戦場へでも行くみたいだな」
と、浩志は笑った。
エレベーターの扉が開くと――。
「ワッ」
エレベーターに乗っていた、妙なサングラスの男が、さやかを見て、なぜか飛び上がった。
さやかは、それを見て、キョトンとしていたが――。いくらサングラスなんかかけていても、自分の父親[#「父親」に傍点]ぐらいすぐに分る。
「お父さん!」
「や、やあ、こんばんは」
「何言ってんの! その格好は――」
と、言いかけて、さやかはハッとした。
母親のなつきが、ロビーへたまたま出て来たのか、さやかを見付けて歩いて来るのが見えたのである。――まずい!
「お父さん! お母さんよ」
「え?」
「早くサングラスを外して! ポケットへ――」
「あら、さやかじゃないの」
相変らずのんびりと、なつきがやって来る。
「まあ、浩志さん、さやかの相手をしてくれてるの?」
「いえ……」
と、浩志が照れている。
「お母さん、間違えないでよ」
と、さやかは言った。
「何を?」
「私がこの子の相手をしてあげてるの」
「まあ。――あなたは中学三年生よ。分ってるの?」
と、なつきは言って、「――あら、あなた!」
やっと、目の前に立っている夫に気付いたのだった。「何してるの。こんな所で?」
「いや――その――」
中沢竜一郎のうろたえようは、はた目にも気の毒になるくらいだった。
さやかはため息をついた。――これが我が父かと思うと情ない!
「偶然よね、要するに」
と、さやかは助け船を出した。
当然、あのサングラスを見りゃ、見当はつく。――父は、池原洋子と会おうとしていたのだ。
しかし、|下手《へた》な言いわけをすれば、ますますボロが出るだけ。ここは、単純に「偶然」で押し通した方がいい、とさやかは判断したのだった。
「偶然。――そう偶然なんだ!」
と、竜一郎は何度も|肯《うなず》いて、「いやあ、偶然ってのは、全く偶然だなあ!」
などとわけの分らないことを言っている。
「そう。――あ、浩志さん、お母様が捜してましたわよ」
と、なつきが言った。
「そうですか」
浩志は、さやかの方をチラッと見て、「じゃ、行ってきます」
「後で、ラウンジへ。一緒にお茶を飲みましょう、ということになってるの」
「分りました」
浩志が足早に行ってしまうと、中沢一家の三人がエレベーターの前に残った。
「それで……」
と、なつきが思い出したように、「ここで何してたの?」
「うん。私がね、ちょっと上に行こうと思ったら、ばったりお父さんと……」
「そうなんだ。いや、偶然ってのは面白い」
と、竜一郎はしつこく言った。
「上に、って……。何かご用だったの?」
「別に」
と、さやかは肩をすくめて、「ただ、あの子とちょっと泊って行こうかと――」
「おい、さやか!」
と、竜一郎が青くなる。
「冗談よ」
と、さやかは笑って言った。
「あんまり親をからかうな!」
「|真《ま》|面《じ》|目《め》なお父さんとお母さんの子だもの。男の子とホテルに泊るなんて、そんなことするわけないじゃないの」
と、さやかは言ってやった。「――本当はね。藤原さんが、何だかひどくあわててエレベーターに乗るのが見えたの。それで、何だか面白そうっていうんで、後を追っかけようとしてたのよ」
「藤原さんが?」
「そう。七階へ上ったらしいから、私たちも七階へ行ってみようと――」
「七階だって?」
と、竜一郎が目を丸くした。
「じゃ、私も行ってみよう」
と、なつきが言った。
「そう? じゃ、お父さん、どうする?」
「うん、|俺《おれ》は……」
と、竜一郎は詰って――。
「じゃ、お父さん、ロビーで休んでれば? 何か|疲《つか》れてるみたいよ」
「そ、そうか?」
「うん。顔色が悪いし、どことなく熱っぽいし、目が充血してるし、よだれが――」
「狂犬病か、俺は?」
「ともかく、休んでなさいよ」
色々言われて、何となく本当に気分の悪くなった竜一郎は、しきりに額に手を当ててみたりしながら、歩いて行った。
なつきとさやかはエレベーターに乗り、七階に向った。
「――でもねえ」
と、突然、なつきが言った。
「何よ?」
「邪魔しちゃ悪いわ」
「何のこと?」
「もしかしたら、藤原さん、池原洋子さんと会ってるのかもしれないわよ」
「|凄《すご》いカン! |冴《さ》えてるじゃない、お母さん!」
まさか、相手が自分の夫とは、思ってもいないのだろうが……。
さやかも、なぜ藤原があわてていたか、いくらか見当がつき始めていた。
藤原は、父と池原洋子が、ここで会おうとしているのを、どうにかして知ったのだ。クランク・イン直前の今になって、もし二人の仲がばれたら大変!
というわけで、あわてて七階の部屋へ駆けつけた。父はきっと、七階のどの部屋かとウロウロしていて、藤原の姿を見かけ、あわてて、エレベーターに飛び乗って逃げて来たのだろう。
さやかは別にシャーロック・ホームズではないが、この程度の推理はできるのである。
「七階よ」
と、なつきが言った。
廊下は静かで、誰の姿も見えない。
「――これじゃ、どこに藤原さんがいるか、分んないね」
と、さやかは言った。
「そうねえ。一つずつドアを|叩《たた》いて歩くわけにもいかないし……」
と、なつきは真面目な顔で言った……。
「じゃ、戻る?」
「せっかく上って来て?」
――二人して、ボヤッと突っ立っていると……。
ドアの一つが開いた。
そっちの方へ目を向けると――。
「藤原さん!」
と、なつきが目をみはった。
本当に(というのも変だが)藤原が、よろけるように廊下へ出て来たのだった。
なつきとさやかは、急いで駆けて行った。
「――なつきさん!」
「藤原さん、どうしたの?」
「いや……。えらいことになって――」
藤原は、真っ青になっていた。いや、それだけではなく、|膝《ひざ》がガクガク震えていた。
なつきとさやかは思わず顔を見合わせた。
いつも、取り乱すことのない藤原が、こんなに動転しているのは、ただごとではなかった。
「――この部屋で、何か?」
と、なつきは、藤原の出て来た、開いたままのドアを見て、|訊《き》いた。
そして藤原が何も答えないうちに、スタスタと、その部屋の中へ入って行ったのだ。
「なつきさん!」
と、藤原があわてて止めようとしたが、遅かった。
さやかも、母を追って、部屋へ入って行った……。
「お母さん、何かあった?」
と、訊いて、さやかは、答えを聞くまでもなかったことを知った。
ツインルームで、セミダブルぐらいの大きなベッドが二つ並んでいた。
その一つの上で、若い女が死んでいた。――いや、もっと正確に言えば、殺されていたのである。
26 無実の判定
さやかは、二つのことに感心していた。
一つは、母が、こんな場面に出くわしても一向に取り乱したり、叫んだり失神したりしないこと。
もう一つは、自分も一向に騒いだり悲鳴を上げたりしないことだった。――どっちも似たようなものだ。
それは、一般的に、他殺死体を見付けたからといって、女がキャーキャー叫んで回るものではない、ということなのか、それともなつきとさやかの|母娘《おやこ》が特別なのか、どっちとも分らなかった。
藤原が、部屋へ入って、ドアを閉めた。
「――この人、藤原さんが殺したの?」
と、さやかは|訊《き》いた。
「とんでもない!」
と、藤原は目をむいた。「信じて下さい。私じゃないんです。この階に――池原洋子が|泊《とま》ってるらしいので、やって来たんです。そしたら、このドアが少し開いていて、入ってみると……」
「さやか」
と、なつきが、いつもと少しも変らない口調で言った。「藤原さんが人を殺すと思う?」
「なつきさん!」
と、藤原が胸迫って、「あなたがそうおっしゃって下さると――」
「そりゃ、殺すことだってあるんじゃないの?」
と、さやかはアッサリと言った。「でも、この場合は違うみたい」
「そうよ。刺されて死んでるけど、血が――。藤原さん、少しも返り血を浴びていないじゃないの」
なつきは、そう指摘した。
「同感」
と、さやかは|肯《うなず》いた。「大体、この人、誰?」
池原洋子ではないのだ。
もっと若い女で――ほとんど裸同様の格好だった。
「私、どこかで、この女の人、見たことがあるわ」
と、なつきが歩み寄って、まじまじと見つめる。
さやかも、母の度胸に|唖《あ》|然《ぜん》とした。
さやかは、別に失神はしないまでも、やはり死体に近付きたい、とは思わなかった。
「――誰だったかしら?」
と、なつきは首をかしげている。
藤原が、ちょっと|咳《せき》|払《ばら》いして、
「なつきさん」
と、言った。「その娘は――」
「ああ!」
と、なつきは肯いた。「思い出したわ! 藤原さんが車ではねた人ね」
「そうなんです」
と、藤原は、すっかり沈み込んだ様子で、言った。
「でも――この人がなぜこんな所で殺されてるの?」
「見当もつきません。本当ですよ。なつきさんに|嘘《うそ》はつきません」
「この人の|身《み》|許《もと》は?」
と、さやかが言った。
「それが、分らないままでして」
「ええ?」
なつきが目を丸くした。「分らないって――」
「聞いて下さい」
藤原は、この娘がすっかり記憶を失って、彼のマンションに居座ってしまっていたことを説明した。
「――まあ、そんなことがあったの!」
と、なつきは目をパチクリさせた。「それじゃ、この人と、藤原さん……」
「はあ」
と、藤原は素直にうなだれた。「この娘の方が、私のベッドへ入って来るんです」
「怪しいな」
と、さやかが言った。「藤原さん、力ずくでこの人をものにしようとして、抵抗されて、つい……」
「さやかさん――」
「心配しないで」
と、なつきが言った。「さやかは本気で言ってるんじゃないのよ」
確かに、さやかも藤原がこんな残酷なことのできる人間だとは思わないが、しかし、人間、追いつめられると、何をするか分らないものだし……。
「――ともかく、とりあえずは、今、どうするかよ」
なつきはそう言って、考え込んだ。
ものの一、二分、考えただろうか。なつきは、軽く息をついて、
「ここを出ましょう」
と、言った。
「どうするの?」
「ここを出て、近くからホテルのフロントへ匿名電話を入れるのよ」
「じゃ、逃げちゃうの?」
「仕方ないでしょ。このまま警察へ届けたりしたら、まず、藤原さんが捕まるわ」
「なつきさん、さやかさん」
藤原が、やっと平静に戻って、「お二人とも、何もかも忘れて下さい。私のことで、ご迷惑はかけられません」
「手遅れよ」
と、さやかは言ってやった。「それに、この人の身許とか、興味あるじゃない」
――映画のクランク・インを明日に控えてとんでもない「前夜祭」だわ、とさやかは思った……。
「――お待たせして」
ラウンジへ、なつきとさやかが入って行くと、財前令子と浩志の二人は、もう先に座っていた。
「いいえ。のんびりしていましたの」
と、財前令子は言った。「本当に、こんな気持、もう何年も忘れていましたわ。外出するって、すばらしいことですね」
「良かったわ、喜んでいただけて」
と、なつきも席に落ちついて、言った。「後で疲れが出て、寝込まれないとよろしいんですけど」
「あなたが充分、気を付けてあげるのよ」
と、さやかは浩志に言った。
「分ってるよ」
浩志は、素気なく言ったが、それはただ照れているだけで、充分に母親のことに気をつかっているのは、はた目にもよく分った。
「さやかさん」
と、財前令子は言った。「この子を、ちょくちょく引っ張り出して下さいね。まだ若いんですから」
「承知しました」
さやかは即座に肯いた。「しっかり、こき使います」
二人の母親が、声を上げて笑った。
さやかは、二人の笑い声が、とてもよく似ていることに、気が付いた……。
――帰りに、タクシー乗り場へ歩きながら、母親同士と子供同士、少し離れた格好になった。
「明日から、撮影だろ」
と、浩志が言った。
「うん」
「じゃ、忙しくて、なかなか会えなくなるだろ」
「そうね。あなたが来りゃいいのよ」
「どこへ?」
「ロケ地とか、撮影所とか」
「行って何するんだ?」
「ボディガード」
浩志は笑って、
「こんな頼りないボディガード?」
「本気よ」
と、さやかは低い声で言った。「危険があるかもしれないの」
「何だって?」
「来てくれる?」
さやかは、浩志を見た。
「――行くよ」
と、浩志は言った。
――タクシーに、先に財前親子を乗せて、お別れを言う時、さやかが、
「ああ、そうだ」
と、言った。「浩志さんたら、このホテルの庭で私にキスしたんですよ!」
「おい!」
タクシーが走り出した。中で浩志が母親にあれこれしゃべっている。
「フフ、面白い」
と、さやかは笑った。
「さやか。本当なの?」
「キス? うん」
「そう」
「さりげなくね」
二人はタクシーに乗った。
「――さやか、あれで正しかった?」
と、なつきが言った。
「藤原さんのこと? もう決めたんだから、くよくよしても――あ!」
と、さやかが声を上げた。
「どうしたの? 忘れもの?」
「うん。――お父さん、忘れて来た」
「あら、本当だ」
と、なつきは言って、「誰かが拾ってくれてるかしら?」
と、真顔で|呟《つぶや》いたのだった。
27 セット
「カット」
と、早坂の声が飛ぶ。
さやかはホッと息をついた。早坂監督は、ヘッドホンを頭につけた録音技師の方へ目をやって、音声の問題がないか確かめる。
録音技師が|肯《うなず》いて見せると、早坂は、
「OK。結構だった。今日はここまで」
と、言って、ディレクターチェアから、腰を上げた。
「お疲れさん」
「お疲れ」
と、セットの方々から声が飛んだ。
「どうもありがとうございました」
と、さやかは、今のシーンで共演していた池原洋子に頭を下げた。「|素人《しろうと》相手で、大変でしょ」
「そんなことないわ」
と、池原洋子は笑って、「私はただ、慣れてるだけ。あなたもお母さんも立派なもんよ」
満更、お世辞ばかりでもないらしい。
「ご苦労様」
と、やって来たのは、藤原である。
「あら、私の|可愛《かわい》い藤原さん」
池原洋子がわざとらしく笑いかけると、藤原は赤くなって、
「人をからかっちゃいけませんよ」
と、苦笑した。「さやかさん。お母さんが表の喫茶店でお待ちです」
「ええ、すぐ行くわ。お先にどうぞ」
さやかが、セットの隅の方に立っている財前浩志へ手を振った。浩志も手を振って見せる。
「あの子、なかなか可愛いじゃない」
と、池原洋子が言った。
「もう私のお手つき[#「お手つき」に傍点]です」
と、さやかは言ってやった。
「明日は、|鎌《かま》|倉《くら》の方でロケですから、早く寝て下さいよ」
と、助監督が声をかけて行った。
「じゃ、今夜は男抜きで寝るか」
と、池原洋子は伸びをすると、「じゃ、私の[#「私の」に傍点]藤原さん、おやすみなさい」
パチッ、とウインクして、自分のマネージャーの方へと歩いて行く。
「――やれやれ」
藤原が汗を|拭《ふ》いたのは、スタジオの中が暑いせいばかりでもないようだ。
「どうだった、今日は?」
と、さやかは|訊《き》いた。
「日に日に|上手《うま》くなりますよ」
「ハハ、口が達者なんだから」
と、さやかは笑って言った。
――クランク・インして五日たっていた。
セットでの撮影、それも比較的、やりやすいシーンを頭に持って来ているのは、おそらく早坂の気配りなのだろう。
それにしても、なつきもさやかも、スタッフや共演者を手こずらせることなく、順調に撮影をこなして来ていた。
まあ、なつきは時たま、セリフをポカッと忘れたり、トチッたりすることがあったが、それは他のプロの役者だって同じであった。さやかは、演劇部員のプライドにかけて(!)セリフは完全に頭へ|叩《たた》き込んでいたので、母親よりNGは少なかった。
いずれにしても、並の新人とは全く違う、という周囲の評価は、決してお世辞ではなかったのである。
「早坂さん、何してるの?」
と、さやかは藤原に訊いた。
「カメラマンと、明日の打ち合わせでしょう」
「晴れるといいわね」
「そうですね。雨だとまたセットですから」
「――やあ」
と、浩志がやって来た。
「見てた?」
「うん。すっかり落ちついてやってるじゃないか」
「落ちついてるからって、いいとは限らないのよ」
と、さやかは言った。
ベテランや名優の方が「あがる」という話はよく耳にすることだ。あのチャップリンでさえ、晩年になっても、本番前は青くなって震えていた、というのだから。
「行こうか」
「うん」
さやかは、浩志と二人で、スタジオを出ようとした。
「――おっと」
と、出口で、誰かとぶつかりそうになる。
「あ、社長さん」
と、さやかは言った。
プロダクションの社長、舟橋だ。
「何だ、せっかく見に来たのに、もう終ったところか」
と、舟橋は言った。「――やあ、監督」
早坂が、舟橋と握手をして、
「いい仕事になりそうですよ」
と、肯いた。
藤原が、
「社長、何かご用ですか」
と、やって来る。
「うむ。例のチョコレートのCFの件で、今日電話が入ったんだ」
|大人《おとな》たちの仕事の話が続くのを後にして、さやかと浩志は、撮影所の門の方へと歩き出していた。
もう夜の九時を回っている。
「――疲れたかい?」
と、浩志が言った。
「大丈夫。まだこれからよ。今から疲れてちゃ、お話にならないわ」
「張り切ってるな」
「あなたも、|陽《ひ》|焼《や》けして、ずいぶん元気そうになったわ」
「付き合わされてるからね」
浩志はそう言ってから、ちょっと周囲を見回して、「例の事件、何か分ったのかな」
と、言った。
浩志に、ボディガードに来てもらう(?)以上、|隠《かく》しておくわけにもいかず、さやかはホテルで、あの名前も分らない女性が殺された事件について、話してある。
「TVのニュースをビデオにとってるんだけど、今のところ|身《み》|許《もと》も分らないようね」
「身許が分っても、藤原さんと彼女を結びつけるものって、あるのかな」
「ないことはないわ」
と、さやかは言った。「池原洋子よ」
そこへ、
「じゃ、また明日!」
と、当の池原洋子が、マネージャーの運転する車で、二人を追い越しながら、窓から手を振った。
「さよなら」
と、さやかも手を振った。
「――そうか。現場の部屋を借りたのが、彼女かもしれないんだろ」
と、浩志が|肯《うなず》く。「でも、それなら、とっくに分ってていいんじゃないか?」
「私もね、どうしてだろう、って考えたのよ」
と、さやかは言った。「たぶん、池原洋子が別の名前で借りたからよ」
「そうか。――そういえば、本人の名で借りるわけないものな」
「ね? ホテル側も、あんまり進んで協力したくないだろうし。――でも、そのうちには分るでしょうね」
「そうなると、藤原さんの名も出て来るんじゃないか?」
「どうかしら」
さやかは首を振った。「ま、ともかく、今のところは無事ってわけよね」
――ところが、さやかの思っているほど、無事でもなかったのである……。
「あら、藤原さんは?」
撮影所の前の喫茶店で、なつきが一人で座っていた。
「今、舟橋さんが来たから、しゃべってたわ」
「そう。――毎日ご苦労様」
と、なつきは、浩志に声をかけた。
「いえ……」
と、浩志は照れている。
「お母様、お変りない?」
「ええ、今日は朝から起きて、台所に立ったりしてました」
「まあ、すてき。――ほら、お|腹《なか》|空《す》いたんじゃない?」
「今はいいわ」
と、さやかは腰をおろして、「アイスティーだけもらう」
何しろ、ここのサンドイッチはまずいのだ!
三人が、明日のロケのことをしゃべっていると、
「失礼」
と、声をかけて来た男がいる。
「何か!」
と、なつきが|訊《き》いた。
「あ! 部長!」
と、さやかが仰天した。
演劇部長の石塚なのだ。――背広を着ているので、別人のように見える。
「よっ。頑張ってるな」
石塚はニヤリと笑った。
「どうしたんですか、そんな格好して」
と、さやかは目を丸くした。
「これか。――通行人Aだ」
「え?」
「明日、鎌倉でロケだろ」
「ええ」
「そこにチラッと出るんだ。エキストラ」
「部長がですか?」
「ああ。アルバイトさ。それにお前の活躍ぶりも見られるしな」
「はあ……」
さやかは、|呆《あっ》|気《け》に取られている。
「じゃ、明日会おう」
石塚は、浩志の方を見て、「この子[#「この子」に傍点]は?」
「あの……友だちです」
「ほう。そうか。荷物持ちにしちゃ、頼りないと思った」
浩志がムッとしたように石塚をにらんだ。
「じゃ、失礼」
石塚が喫茶店を出て行く。
「さやか……。今の人は?」
なつきが、キョトンとした顔で訊いた。
しかし、さやかには、母の声が耳に入らなかった。
部長がエキストラ?――やりにくい!
さやかは、仏頂面をしている浩志を元気づける余裕もなかった……。
28 ロ ケ
微妙な天気だった。
晴れもしないが、雨も降らない、という……。待っているさやかは|苛《いら》|々《いら》したが、他のスタッフは慣れっこのようで、池原洋子ものんびりと本など読んでいる。
なつきはロケバスの中で眠っていた。――さやかは、改めて母の「度胸」に感心した。
「私なんかより、お母さんの方が、よっぽど役者に向いてるのかもしれないわね」
と、さやかは、ぶらぶらしながら言った。
もちろん、言った相手は浩志である。――わざわざ鎌倉まで出て来ているのだ。ご苦労様である。
「でも、やっぱり君の方がすてきだよ」
「まあ、ありがと。気をつかっていただいて」
と、さやかは言って笑った。
神社の境内だった。――いつでも、撮影に入れるように、カメラマンや助監督が駆け回っている。
その数、全部で三十人近いだろうか。
さやかは、画面の外に、いかに多くの人が隠れているのか、初めて知った。
「――ゆうべね」
と、さやかは言った。「ふっと考えたんだけど」
「何だい?」
「池原洋子が、あの部屋を借りたとするでしょ? そして、藤原さんの話だと、池原洋子がエレベーターに乗るのを見て、藤原さんは追いかけた、ってわけよね」
「うん」
「そして――あの部屋で死体を見付けた」
「そうなんだろ?」
「でもね。それなら、池原洋子が先に死体を見付けてると思わない?」
浩志は、ちょっと目をパチクリさせて、
「そうか」
と、|肯《うなず》いた。
「ね? 例の部屋に、先に入っていたのなら、池原洋子が死体を見付けてるはずよ。でも彼女は、そこにいなかったのよ」
「どこにいたんだろう?」
「今まで、それを考えなかったの。でもね、考え出すと妙だな、と思えて」
「もし、死体を見付けたとしたら、スキャンダルになるのを|恐《おそ》れて、逃げ出したかもしれないよ」
「うん。私もそう思う。でも、翌日の彼女の様子、全く、変ったところがなかったわ」
「それは――」
「女優だからね、確かに。そう装ってるのかもしれないわ。でも、間の時間とかに、少しは不安そうな様子を見せるんじゃないかしら? いくら何でも、現実の[#「現実の」に傍点]殺人に出くわすことなんて、めったにないでしょ」
「そう年中あったら、大変だ」
「ねえ。――だから、思ったの」
「どういうことだい?」
さやかは、少し雲の切れかかった空を見上げて、言った。
「池原洋子は、あの部屋まで行かないで戻ったんじゃないか、って」
「気が変って?」
「それとも――」
さやかは、少し声を低くして、「池原洋子が、あの女を殺したか」
「まさか!」
と、浩志は目を丸くした。
「もちろん、動機とか、見当もつかないわ」
と、さやかは肩をすくめた。「でも、可能性はあるじゃない」
「そうだな……」
「それなら、全く普通にしているのも、すべて演技ってことになるし。――ともかく、池原洋子がどこへ消えていたのか、それが一つのポイントじゃないのかな、って思ったんだ」
「なるほど」
浩志は、感心したように肯いて、「君は、探偵業もやるのか」
と、言った。
「からかわないでよ」
さやかは、少し赤くなった。「――ほら、|陽《ひ》が出て来た」
助監督が、二人の方へ駆けて来た。
「本番行きます!」
「はい!」
さやかは、元気良く答えたのだった……。
周囲には大勢の見物人が詰めかけていて、その視線が集中している所で、演技をする。――さやかも、さすがに少々あがって、テストで、セリフをトチッたりした。
しかし、そのうち、周囲に誰がいようと、気にならなくなる。そんな気持になってしまうのが、ロケというものの面白いところなのかもしれなかった。
――そのさやかの演技を、なつきは|傍《そば》で眺めていた。
「すばらしいな」
と、藤原が、低い声で言う。
「あの子、度胸がいいわ。我が子ながら、感心しちゃう」
「なつきさんの子ですよ、やっぱり」
「まあ」
監督の早坂が、
「よし、本番行こう」
と、言った。
助監督が、見物人の方へ、
「本番ですから、静かにして下さい!」
と、怒鳴っている。
「おい、エキストラ出して」
「はーい」
神社の境内をぶらつく男女、七、八人。
ゆうべの、あの石塚も、|大人《おとな》びた格好でその中に入っている。
「――一人、そっちから歩いて来て。――そう。おい、その三人はひとまとめ」
助監督が、適当にエキストラを散らしている。
カメラを|覗《のぞ》いていた早坂は、
「――OK。じゃ行こう」
と、肯いた。
本番。――ピッと緊張が走る。
「|陽《ひ》が射してる。今のうちに行こう」
レフ板という、大きな反射板で、光をさやかに当てて、カメラが、ゆっくりとレールの上を動く……。
誰が見ても、奇妙な魅力を持った光景である。
すると――エキストラにしては何だかむさ苦しい感じの男が、トコトコと境内へ入って来て、
「ちょっと――ちょっと失礼します」
と、声を上げた。
「カット!」
早坂が頭に来た様子で「そいつは何だ! つまみ出せ!」
と、怒鳴った。
「いや、失礼」
と、その男は、ポケットから手帳を出して、「警察の者です」
と、言った。
「――刑事さん?」
なつきは目を丸くして、藤原を見た。
「来ましたね」
と、藤原が、顔をこわばらせる。
「そうね。――でも、平気な顔をしているのよ」
なつきの方は、至っておっとりしている。
「いや、失礼。撮影中とは知らなくて」
と、その中年の刑事は、ノコノコ監督の方へとやって来て、言った。
「ともかく、これがすむまで、笑ってて下さい」
「はあ?」
刑事がキョトンとしている。
「笑うってのは、見えないところへどかせるってことです」
と、助監督の一人が説明した。
「ああ、なるほど」
刑事は肯いて、隅の方へ行った。
――一体誰に会いに来たのか?
なつきもさやかも、好奇心に満ちた目を、その刑事の方へと向けた。
29 準優勝の娘
本当に、演技って、面白いもんだわ、とさやかは思った。
いざ本番、って時に刑事がやって来て、しかもエキストラには演技部長の石塚がいる。
いかに度胸のいいさやかでも、とても演技に集中できない状況であった。
刑事がなぜ来たのか。もちろん、あの|身《み》|許《もと》の分らない女性が殺された事件についてだろうとは思うが、誰の話[#「誰の話」に傍点]を聞きに来たのかという点が問題である。
それに、エキストラで、何食わぬ顔をしている石塚にしたところで、さやかの「恋人候補」を宣言している。――つい、気になっても当然であろう。
刑事が飛び込んで来て、NGとなって、やり直しの本番一回目。
ここは、さやかが、幼いころ別れたきり会っていなかった父親と、再会する場面(よくある設定だ)。さやかのセリフも、かなり複雑なニュアンスが必要になる。
しかし、他のことに気を取られていたさやか、セリフを間違えはしなかったが、つい棒読みに近くなり、しかも途中、チラッと石塚の方へ目をやったりしてしまった。
こりゃNGだ。さやかは覚悟していた。
「――カット!」
監督の早坂の声が飛んだ。「録音は?」
「OKです」
と、録音技師が手を挙げる。
「OK! 良かったよ、今の。――じゃ、休憩だ」
と、早坂はニッコリ笑って、さやかに|肯《うなず》いて見せた。
さやかは、すっかり面食らってしまった。
――今のでOK?
「おい、中沢」
と、石塚がやって来て、ポンと肩を|叩《たた》く。
「部長。――今の、だめですよね」
「そんなことない。良かったぞ」
「本当ですか?」
「肩の力が抜けたのさ。テストの時は、ちょっと硬くなってたけどな」
「はあ。でも……」
「演技ってのは、結構そんなもんさ。当人がいいと思っても、必ずしもいいとは限らないんだ」
さやかも、一つ勉強した。
「――さやかさん」
と、藤原がやって来る。「ちょっと、いいですか」
「今行きます」
「――何で警察が?」
と、石塚が不思議そうに言った。
「左側歩いたからじゃないですか、昨日」
と、さやかは言ってやった……。
「――お忙しいところへ、すみません」
その刑事は、|太《おお》|田《た》といった。
ロケ現場に近い、|可愛《かわい》い喫茶店。
ここは、ロケ隊の待機場所になっている。店の表には、野次馬が寄って来て、中を|覗《のぞ》き込んでいた。
「ロケの予定が詰っていますので、お話は手早く」
と、藤原が言った。
さやかは、隣のテーブルにいる浩志の方へちょっと目を向けて、ウインクしてやった。
「よく分ってます」
太田という刑事は、手帳を出して、開けると、なつきとさやかを交互に眺めて、「いや感激ですな! お二人にお会いできるとは。帰って、娘に自慢してやります」
「|恐《おそ》れ入ります」
と、なつきは言った。「それで、お話というのは……」
「六日前、Pホテルへおいでになりましたね」
「はい」
「実は、その七階で、若い女が殺されたんです。ご存知ですか」
なつきは肯いて、
「翌日、新聞で見ました」
「裸に近い格好で殺されていましてね。まず男関係のもつれ、とも思えるんですが」
「その方が何か……」
「身許が、今朝になって分りました」
藤原が、一瞬座り直した。
太田刑事は続けて、
「名前は、|堀《ほり》|口《ぐち》|万《ま》|里《り》。――この名前、ご存知じゃありませんか」
なつきは、首を振った。
「一向に。――さやかは?」
「私も知らない」
「そうですか。実は――」
と、言いかけた太田を、
「あの――」
と、藤原が遮った。「今の名前、もう一度聞かせて下さい」
「堀口万里。――ご存知ですか?」
妙な話だった。あの女を知っていた、ということを、何より藤原は否定したいはずなのに……。
「どこかで……。堀口万里……。もしかして、その子は――」
「思い出しましたか」
と、太田は肯いて、「あなたはご存知だと思っていました」
なつきとさやかは、素早く目を見交わした。どういうことなんだろう?
「うちのプロダクションが、オーディションをやった時、受けに来た娘です」
と、藤原は言った。
「まあ」
なつきが目を丸くした。
「そうなんです。それで、何かご存知じゃないかと思って、こうして|伺《うかが》ったんですよ」
と、太田は言った。
「いや……」
藤原も、|下手《へた》にしゃべり過ぎると、ボロが出る、と思ったのだろう、急に口が重くなった。
「別に何も……。堀口万里は、準優勝だったんです」
「なるほど」
「しかし、当人が何だか気が進まなかったのか、やめてしまいましてね。結局、芸能活動らしいものは、何一つしなかったんです」
「そのオーディションは、大分前ですね?」
「ええ。確か……そう、四年前じゃないですかね」
「その後、堀口万里と会ったことは?」
「いや、全然ありません」
と、藤原は首を振った。
「そうですか。――いや、当て外れだったな、それは」
と、太田が肩をすくめる。
「私たちが何か知っている、と、どうして思われたんですの?」
と、なつきが|訊《き》く。
「いや、ホテルで聞き込みをしている時に、あなた方が、六日前あそこのホテルにいらしたことが分りましてね。私も――まあ何といいますか、お二人のファンでして」
と、太田は、ちょっと照れくさそうに言った。
「それで、今朝になって、被害者の身許が分りました。家族は九州でしてね。友だちの女性と暮していたらしいんですが、その友だちの話で、大分前から、帰っていなかったことが分ったんです」
その間は、藤原の所にいたわけである。
「その友だちから聞いたんです。彼女はオーディションを受けたことがあること。そのプロダクションの名を聞くと、お二人と同じ所だ。それで、もしかすると、彼女が今度の映画の仕事にでも何か|係《かかわ》ってたのかな、と思ったんです」
「そうでしたの」
と、なつきは肯いた。「でも、残念ながら、その方と私たちが六日前Pホテルにいたのは、偶然だと思いますわ」
「そうですな。よく分りました。じゃ、すっかりお手間を取らせました」
太田刑事は、そう言って立ち上がると、「では、これで――」
と、頭を下げてから、
「あの……サインをいただけますか?」
と、おずおずと言った……。
――太田が出て行って、助監督の一人が、
「このまま、お昼にするそうです」
と、伝えに来た。「少しまた曇って来たんで」
「分りました」
と、なつきは言って、「ここで何か食べましょうか」
「そうね。お弁当もおいしくないし」
と、さやかは言った。「だけど、あの女の人の身許、やっと分ったわけね。藤原さん、隠してたの?」
「とんでもない」
と、藤原は首を振って、「本当ですよ! 全然気が付かなかった。四年前ですよ、何しろ。別人ですからね、ほとんど」
「それはそうよ」
と、なつきも納得した様子。「分らなくて当然だわ」
「なつきさん……」
藤原は感激している様子。
「でも、その堀口万里が、どうしてあの部屋で殺されてたのか」
「しっ、さやか。聞こえるわよ、他の人に」
「大丈夫よ。ね、六日前のことは偶然だとしても、その人を、藤原さんが車ではねた、っていうのは? それこそ偶然というには、無理があるんじゃない?」
「なるほど……」
藤原は考え込んだ。「しかし――偶然でない[#「ない」に傍点]としたら……。彼女がわざとはねられたとでも?」
「よく分らないけど」
と、なつきは言った。「ともかく、何か[#「何か」に傍点]あることは、確かみたいね。――ね、さやか何を食べる?」
店の前の人垣は、ますますふえ続けていた。
30 |撮休《さつきゅう》の日
一人で出歩くって、久しぶりだわ。
なつきはそう思った。――暑い日だが、その強い|日《ひ》|射《ざ》しも、大して気にならない。
一人での外出が楽しいなんて、何だか子供みたい。なつきは、思わず一人で笑ってしまった。
しかし、確かにそうかもしれない。
いつもいつも、藤原が付き添ってくれて、たいていのことなら、藤原がやってくれる。なつきは、車に乗れば眠ってしまえばいいし、家へ帰っても、撮影が始まってからは、料理など、するひまもない。
夫の中沢竜一郎も、このところ忙しくて、あまり食事の時間に帰って来ることはないようだ。なつきも、少し気が楽だった。
しかし今日は――撮休、といって、撮影が休みの日。
藤原の方でも、少し休ませようと気をつかってか、今日はTVの仕事も何も入っていない。完全なオフ、というわけだ。
なつきは、買物に出て来た。
近くのスーパー、というわけには、なかなかいかない。やはり、近くでは顔も知られているし、買物しづらい。
電車に乗って、都心の方の、高級品を置いてあるので知られたスーパーへとやって来たのである。
車で買物に来る人も多く、大きな駐車場を持っている。――大量に買い込んで帰る客も多いのだ。
もちろん、品物はいい代り、値段も高い。まあ、ちょっと買うと、すぐ一万円札が飛んで行く、という感じ。
しかし、やはり、お肉にしても魚にしても、高いだけのことはある。――今夜は夫も帰りが早い。
なつきの休みと、夫が早く帰る日が、うまく重なることはめったにないので、わざわざここまで出て来て、高いお肉でも買おう、というわけである。
近くのスーパーとは違って、ともかく中が空いている。静かで、なつきのように、のんびり買物をする人間には、ありがたかった。
空いていても、一人一人の客が、かなり大量に買い込むので、充分に採算はとれるのだろう……。
「一番高いのね」
と、言う女の声がした。「そう。――それを五百グラム」
牛肉の売場。――一番高い肉となると、いくらなつきでも、初めから買おうとも思わない値段である。
どこの奥様かしら? なつきが、ついチラッと目をやったのも、当然だろう。
「――いいわ、多めでも」
「いつもありがとうございます」
と、店員が言っているところを見ると、お得意さんなのだろう。
「やっぱりね、一度、これを食べちゃうと、安いのはだめね」
などと言っている、その奥さん……。
あら? なつきは、少し離れた所から、その女の顔を|覗《のぞ》き込んだ。――でも、まさか[#「まさか」に傍点]、あの人……。
「どうも」
と、その女は、買物用のカゴを手に、歩き出した。
棚の物に気を取られて、なつきのことには全く気付かない。
やっぱり!――文代だ。
北原文代。
なつきが、いつかTV局の食堂で会った、中学時代からの親友だ。
しかし、今は女の子を一人かかえて、苦しい暮しをしていて……。藤原に頼んで、仕事を紹介してもらったはずだ。
その後、どうなったのか、なつきは聞いていないが、いずれにしても、こんな店で買物をするような余裕はないはずだと思えた。
しかし、今の北原文代は……。昔、なつきが知っていたころのように、いいスーツを着て、|大《たい》|家《け》の奥様然としている。
そして、棚から、ろくに値段など見ずにカゴへ品物を放り込んでいる。
どうなってるの?
なつきは、意外な光景に、戸惑うばかりだったが……。
一方、さやかの方も一人で外出していた。
といっても、こちらはずっと[#「ずっと」に傍点]一人じゃなくて、待ち合わせの場所へと急いでいるところだった。
待ち合わせた相手は、浩志ではない。浩志の方は毎日会っているわけで、今日は、浜田宏美と会うことになっている。
「――オス!」
待ち合わせたアクセサリーショップへ入ると、宏美の方から、さやかを見付けて、やって来る。
「ごめん、遅れて」
「たった五分よ」
と、宏美が言った。「さやか、急に時間にうるさくなったの?」
「つい、撮影のこと考えちゃうからね。――ね、何か食べよ」
「うん!」
なぜか、会うとすぐに食べる話になってしまう。
「私に任せて」
と、宏美が胸を張った。「おいしいケーキの店、見付けた」
「支払いも?」
「それは別」
てなわけで、二人は、そのやたら混んだケーキ屋に、何とか潜り込んだ。
「――どう、クラブの方?」
と、ケーキを食べながら、さやかは|訊《き》いた。
「部長がエキストラで出たでしょ。あれで、すっかり川野先輩、頭に来ちゃって」
「へえ」
「それに、高林先輩もここんとこ、全然出て来ない」
「本当?」
高林和也のことは、結局、さやかが振ってしまったようなものだ。
「登校拒否じゃない?」
と、宏美は言った。
「そこまで責任持てない」
「そりゃそうね」
――二人でケーキを食べ終ると、
「あ! 中沢さやか!」
と、どこかの女の子が大声で叫んだ。
「えーっ!」
「本当だ!」
「動いてる!」
と、大騒ぎ。
「出よう」
さやかは、あわてて席を立った……。
――何とか逃げ出して(もちろん、支払いはしたが)、さやかは息をついた。
「この暑いのに、走らせるな、って」
「どこへ行く?」
さやかは、ちょっと迷ったが、
「学校へ行こうかな」
「ええ? どうして?」
「ちょっと気になって」
今日も、主な部員は、学校へ出て、練習しているはずである。
「部長に会いたいの?」
「よしてよ」
と、さやかは宏美をにらんだ。
――まあ物好きな、と思わないでもないが、さやかは、浩志と付き合いだしてから、|却《かえ》って、高林のことが気になっているのだ。
もちろん、高林がどうっていうわけじゃないのだが、ただ勝手にしろ、ですませておくのは、|可哀《かわい》そう、という気になっていた。
宏美と二人、学校へ行って、演劇部の部屋へと足を向ける。
が、部室は|空《から》だった。
「――きっと講堂ね」
と、さやかは言った。
「行ってみる?」
「うん」
汗を|拭《ふ》きながら、二人が歩き出した時だった。
「あら。高林先輩だ」
と、宏美が言った。
「どうしたんだろ?」
高林が、真っ赤な顔をして、あわてふためいて廊下を走って来たのである。
31 空っぽの講堂
高林が走るというのは、よほどのことである。
いや、これは皮肉でも何でもない。前の、さやかとのデートでの態度でも分る通り、高林という男、まあ、必死で走ったことなど、小学校の運動会でも、きっとなかったのじゃないか。――と、これは、さやかの意見である。
その高林が走って来る!
「高林先輩! どうしたんですか?」
と、さやかが言った。
何といっても、学校の中では、「先輩後輩」の間である。
「さやか君……。君――何してんだ?」
と、足を止めた高林、ポカンとして、さやかを見ている。「撮影は?」
「今日はお休みです」
「あ。――そうか。休みって、あるの?」
「あるから休んでるんです」
「そうか。そりゃそうだね」
「何かあったんですか?」
「――そう! そうなんだ!」
と、突然、大声を上げた。「大変なんだよ、講堂で――」
「講堂で何があったんですか?」
「それが――」
と、言うなり、高林はヘナヘナと座り込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
びっくりした宏美が|訊《き》くと、
「うん……。ただ――急に走ったら、貧血が――」
と、見る見る青くなって、ペタンと|尻《しり》もちをつく。
「やっちゃいらんないわね」
と、宏美が、低い声で言って、さやかも|肯《うなず》いた。
「講堂へ行ってみましょ」
と、宏美を促す。
「ね……。僕を保健室へ連れてってくれないか」
高林が、何だか情ない声を出している。
「貧血なんて、休んでりゃ治ります」
と、さやかは冷たく言い放って、さっさと歩き出す。
もちろん宏美もだ。
「――おい、待ってくれよ! ねえ、君たち!」
フラフラと立ち上った高林は、ハアハアと息を切らしながら、さやかたちの後について歩いて行った……。
――講堂は、休みの期間中、大体演劇部の「稽古場」となる。
まあ、サッカー部やバスケット部が講堂で試合をするわけにもいかないのだから。ここの講堂は、よくある、体育館兼用ではなくて、固定椅子のホール風の造りなのである。
重い扉を開けて、中へ入った二人は、いやに静かなので、ちょっと拍子抜けの気分だった。
「――誰だ?」
と、ステージの上から、言ったのは、部長の石塚。
「中沢です」
と、さやかは言った。
「お前か」
石塚は意外そうに、「何しに来たんだ?」
「今日は撮休で。それに、私もまだ部員ですし」
と、さやかが言うと、石塚はちょっと笑った。
「分ってるさ」
と、ステージから、ポン、と身軽に飛び下りた。
「高林先輩が、走って来たんです」
と、宏美が言った。「何かあったんですか?」
「まあな」
と、石塚は言った。
講堂の中が静かなのも道理で、石塚一人しかいなかったのだ。普通なら、他の部員たちが、舞台の|袖《そで》|辺《あた》りに、ウロウロしているのだが。
「――みんなは?」
と、さやかは言った。「どこへ行ったんですか」
「今日は帰した」
石塚が、手近な椅子に腰をおろした。
「練習は中止ですか」
「そうなんだ」
さやかは、石塚がそれ以上言わないので、事情を察した。
「私のせいですね」
「間接的にはな」
と、石塚は肯いた。「しかし、お前が責任を感じることはない」
「そう言われても……」
――さやかにも、何となく分っている。
やはり、同じクラブの中から、「スター」が出た、ということが、部員の中に小さからぬ波紋を広げているのだ。
あんなことで、簡単に有名になって、TVや映画に出られるのなら、私だって、こんな面倒な練習をしてなんかいないで、オーディションやコンクールにせっせと応募した方が……。
そんな気になる子も、いるはずだ。
さやかが、そう言ってみると、石塚は、苦笑いして、
「お前は頭がいいな」
と、言った。
「当ってます?」
「あらかたな」
「じゃ――」
「川野が頭に来たんだ。分るだろ?」
「ええ」
「俺がエキストラで出たのも気に入らなかったんだろう」
「いえ、そんな風に言っちゃ気の毒です」
と、さやかは言った。
「というと?」
「川野さんは、本当にお芝居が好きなんですもの」
と、さやかは続けた。「だから、みんなが、安易に有名になった私のことを|羨《うらや》ましいとか思うのが、我慢できなかったんだと思います」
これは決して、川野雅子をかばったのではない。さやかは、川野雅子のことを好きじゃないが、しかし、演劇を愛している、その気持は本当のものだと思っていた。
「うん」
と、石塚が肯く。「俺も、それは分ってるよ」
「直接には何がきっかけだったんですか?」
と、宏美が訊いた。
「三番目の役を、誰にするかで、みんながワイワイやってたんだ。誰かが、中沢にしようと言い出した」
「何も練習してないのに」
「うん。しかし、お前が出りゃ、マスコミの人間も見に来て、他の奴も目をつけられるかもしれない、ってわけさ」
「そんなこと!」
「まあ、半分冗談、半分本気、ってところだろう。――ところが、聞いてた川野が、急にヒステリックな声を上げて、『そんなにスターになりたきゃ、演劇部なんかやめて、芸能プロの社長の前ででも踊ってなさい!』と叫んで……。どこかへ行っちまったんだ」
さやかは肯いた。――気は重かった。
「分ります」
「まあな。で、ともかく、練習ってムードじゃなくなってさ。今日はおしまい、ってわけだ」
石塚は、いつの間にやら、高林が入って来たのに気付いて、「何だ。川野は見付かったのか」
「いえ。――まだです」
「捜してみろ」
「はい」
高林が、素直に肯いて、出て行く。
さやかは、石塚の方を見て、
「部長」
と、言った。「私、退部届を出したいんですけど」
「さやか!」
と、宏美が目を丸くする。
「やめるべきだったんだわ。映画に出ると決った時点で」
と、さやかは言った。「夏の練習にも全然出られない部員なんて……。部員の資格、ないもの」
「中沢――」
「私、やめます」
石塚は、少し|間《ま》を置いて、
「分った」
と、言って、さやかの肩を軽く|叩《たた》いた。「その方がいいかもしれないな。お前のためにも」
「ええ。母は、別にクラブには入ってませんから」
石塚はちょっと笑った。
「――じゃ、届は部室に出しといてくれ」
「はい。簡単でいいですね」
「一身上の都合か」
「それ、一度書いてみたかったんです」
と、言って、さやかはニッコリと笑った。
32 愛人の部屋
何してんのかしら、私?
なつきは、我ながら、|呆《あき》れていた。
いくら、撮休の日は暇だといっても……。
いや、別に、なつきは、ただ暇だから、人の後を|尾《つ》けていたわけではない。
もちろん、なつきは私立探偵でも何でもないのだし……。
ただ、なつきは心配だったのである。
あの北原文代がなぜ……。どうして、突然、そんな金持になってしまったのだろうか?
気になり出すと、放っておくわけにもいかなくて、なつきはスーパーを出る文代の後をついて行った。
文代が、待たせてあったハイヤーに乗って走り去った。
そこで、やめておこうかと思ったのだが、気持とは別に、なつきは手をあげてタクシーをとめていた。
急いで乗り込むと、
「あの車を尾けて」
と、頼んでいたのだった……。
ハイヤーが|停《とま》ったのは、割合、小さなマンションの前だった。
なつきもタクシーをその少し手前でおりると、文代の入って行った、そのマンションの入口まで行ってみた。
郵便受が並んでいる。名札を見たが、〈北原〉という名はなかった。それとも、何も名札のない所がそうなのか。
いずれにしても、もう帰るしか仕方なかった。文代に会ったとしても、何を話していいものか、分らないのだから。
なつきが、そのマンションを出ようとした時、
「――なつきじゃないの」
と、声がした。
振り向くと、文代が立っている。
「文代……」
「何してるの、こんな所で?」
文代は、郵便物を取りに来たらしい。なつきとしては、困ってしまったが、うまい言いわけなど、とっさに思い付くわけもなくて、
「実は、あなたを|尾《つ》けて来たの」
と、正直に言った。
「――そうなの」
と、文代は、別に怒った様子もなく、「分ったわ。ともかく、ここまで来たんだもの。上ってよ」
なつきは、迷ったが、断わるわけにもいかなかった。
「待ってね」
文代は、名札のない郵便受から、中の物を出すと、「――DMばっかりね。どうぞ」
「ええ」
「二階だから、階段で」
二階の文代の部屋へ上ってみると、広さはあまりないが、なかなか|洒《しゃ》|落《れ》た内装だ。
「かけて。――コーヒーでも?」
「それじゃ……」
文代はコーヒーをいれながら、
「なつきらしいわね」
と、言った。「私のこと、そこまで心配して」
「ねえ、文代……」
「そうよ」
と、文代は言った。「分るでしょ? あなたの思ってる通り。ある人の愛人になってるの」
なつきは、何とも言えなかった。
「――どうぞ」
と、コーヒーを出して、文代もソファに腰をおろす。「まだ二、三週間よ。いつまで続くかね。今のところは、結構うまく行ってる」
「でも――娘さんは?」
「承知よ。もう小さな子供じゃないし」
と、文代は肩をすくめて、「そりゃ、色々思ってるでしょうけど、これが一番楽な方法だってことも、分ってるはず」
なつきは、コーヒーをゆっくりと飲んで、
「ねえ、文代。相手の男の人、どんな人なの?」
と、訊いた。
「TV局で会った人なの」
「TV局で……」
なつきは、ドキッとした。――藤原に頼んで、文代の仕事を探してもらったのは、なつきだ。もし、それがきっかけで……。
「あなたの考えてること、分ってるわ」
と、文代は言った。「確かに、紹介してもらった所で、会った人なのよ」
「そう…‥」
「でもね、なつき。あなたが責任感じることなんてないわ」
「でも――」
「私は大人よ。向うもね。大人同士、自分のしていることは分ってるわ」
と、文代は言って、部屋の中を見回した。
「こんな生活、もう二度とできないと思ってた。それがまた手に入ったんだもの。なつきのことは、ありがたいとさえ思ってる」
「そんなの変よ」
「変じゃないわ。――お金だって大切なものよ。そうじゃない? なくなってみなきゃ、分らないわ」
文代の言い方には、実感がこもっていた。
「――私が口を出すことじゃないのね」
と、なつきは言った。「じゃ、もう失礼するわ」
「そう?」
なつきが立ち上りかけると、玄関のドアの開く音がして、
「ただいま」
と、声がした。
「娘だわ。――お帰り」
中学生らしい女の子が、入って来た。
「こんにちは」
と、なつきが言うと、女の子は目を丸くして、
「嘘! 中沢なつき?」
「何よ、その言い方」
と、文代が苦笑い。「分ったでしょ、お友だちだって」
「本当だったんだ! |凄《すご》い!」
と、少女は感激した様子で、なつきの手を握った……。
――なつきは、マンションを出て、足を止め、複雑な思いで、振り返った。
確かに、あの女の子も、母が「愛人」という立場にあることを知っているのだろうが、そのことを、そう深刻に受け止めてもいないようだ。
玄関の所で、なつきが出ると、すぐ女の子が、文代に、
「今夜は、あの人[#「あの人」に傍点]、来るの?」
と訊いているのが聞こえて来た。
あの人、というのは、そのTV局で会ったという男のことだろう。――なつきは、自分がどうすることもできないと分っていながらも、重苦しい思いで歩き出したのだった……。
「――ここにもいないね」
と、宏美が言った。
「どこへ行っちゃったんだろ?」
「二人で心中したとか?」
「宏美! いやなこと言わないでよ」
と、さやかは顔をしかめた。
学校中を、二人で捜し回っていたのだ。もちろん、川野雅子のことを、捜していたのである。
「高林さんもいないしね」
と、宏美が言った。
「どこにいるんだろ?」
さやかも、いい加減歩き回って、汗をかいていた。
「――もう|諦《あきら》めて帰ろう」
宏美の提案に、さやかも同意しかけていた……。
すると、
「そうじゃないよ」
と、聞いたことのある声が、二人の耳に届いた。
二人は顔を見合わせた。――確かに、今のは高林の声だ。
二人は足音を忍ばせて、声のした方へと近付いて行った。
階段の下の小部屋。物置になっている所である。
「あんな所に――」
「しっ」
と、さやかは宏美を抑えて、「静かにして」
――少し間があって、
「本当のこと、言ったら?」
と、川野雅子の声がした。「石塚さんに言われて、仕方なしに、私のこと、捜しに来たんでしょ」
「そうじゃないってば。心配だったんだよ」
「あらあら。――可愛いさやかちゃんが嘆くわよ」
「僕は振られたんだ。ねえ、僕も確かに、あの子に夢中だったし、今でもまだ諦め切れない」
「でしょうね」
「でも、君のことも、本当にすばらしい人だと思ってるんだ」
「よしてよ」
「本当だってば!――君の、芝居にかける熱意は、凄いよ。尊敬してる」
間が空いてから、
「ありがとう」
と、川野雅子が言った。
打って変って、優しい口調だった。
33 意外な|居候《いそうろう》
「ああ、やれやれ――」
と、ホテルのロビーに入って、藤原は息をついた。「クーラーが入ってる!」
「まあ」
と、なつきが笑って、「こんな涼しい所に来てまで、クーラーなしでいられないんじゃ、藤原さんの〈都会病〉も相当なもんね」
「何と言われても、辛いものは辛いです! ねえ、さやかさん」
と、藤原は、さやかの方に救け舟を求めている。
「私は若いの」
と、さやかは冷たく言った。「夏は暑い方が好き。それが自然でしょ?」
「まあね……」
と、藤原はハンカチで汗を|拭《ぬぐ》った。
確かに、ここは東京に比べると、大分涼しい。高原の中のホテル。
映画『|母娘《おやこ》|坂《ざか》』のロケ先なのである。
もう今日で四日間、ロケ隊はこのホテルに泊っていた。
「何か冷たいものでも飲みましょうか」
と、なつきが言うと、藤原もホッとした様子だ。
もちろん、ラウンジと言っても、東京の大ホテルのような、豪華なムードではない。でも、緑に囲まれたホテルのイメージにはぴったりの、木の|匂《にお》いのする山小屋風の造りだった。
三人が、奥のテーブルにつく。――この四日間で、この席は、何となく、なつきやさやかたちの「専用」という雰囲気になっていた。
もちろん、他にも、池原洋子のようなスターも来ていたが、専らバーの方が縄張り。
「オレンジジュース」
と、さやかは言った。
残念ながら、コーヒー・紅茶は、おすすめできる味ではない。
ホテルにも、もちろん普通の宿泊客がいて、なつきたちを見て、騒いでいるが、もう大分それにも慣れっこである。
「――しかし、怖いぐらい順調ですね」
と、藤原が手帳を見ながら、「東京へ戻ってから、またスタジオと都内ロケです。――ここで少し余裕を作っとくと、後で楽だ」
「早坂さんがいい監督さんだから」
と、なつきが言った。
確かに、ベテランらしく、早坂は、なつきとさやかの二人の力をよく見ていて、ここが限界、というところでパッと切り上げる。
既に撮影は後半に入っていて、八月も半ば。確かに、藤原の言う通り、
「怖いほど」
順調な毎日だった。
「――このところ、忘れそうになるわ、つい、あの事件のこと」
と、なつきが言った。
「私、今、忘れてた」
と、さやかは水を一口飲んで、「――ね、あの太田って面白い刑事さんから、何も言って来ないの?」
「何の連絡もありません」
と、藤原は首を振って、「こっちから|訊《き》くのも、おかしなもんですしね」
「本当ね。――犯人が捕まった、って記事も見かけないし」
と、なつきは、考え込んでいる。
「いや、どうしても分らないのは――」
と、藤原は少し声を低くして、「あの堀口万里が、どうして僕の車の前に飛び出してきたか、なんです。――偶然というにはできすぎてるようで」
「率は低いわよね」
と、さやかが|肯《うなず》く。「でも、走ってる車にわざと[#「わざと」に傍点]飛び込む、なんてこと、できる?」
「私、あの時は眠ってたんだけど」
と、なつきが言った。「あの子は、パッと飛び出して来たの?」
「いや、それが……」
藤原は、少し口ごもって、「ついわき見してまして……。まさかあんな所に人がいるなんて思いませんからね。気が付くと、目の前に立ってたんです」
まさか、眠っているなつきに見とれていた、とも言えない。
「そんな所で、車道に出たっていうのが妙よね」
「さやかさんも、そう思うでしょう?」
「わざと[#「わざと」に傍点]、だったとして……。自殺しようとしたってことになりそうね、その場合は」
「そうね」
「でも、藤原さんの車と分ってて……。そんなこと、可能?」
飲物が来る。――少し|間《ま》が|空《あ》いて、その間に、藤原は考え込んでいたが、
「なつきさんのスケジュールを、よほどよく知っていないと無理ですね」
と、言った。「それに、なつきさんを送って行く時、あの裏道を通る、ってことも知っていないと」
「プラス、藤原さんの車を、遠くからでも見分けられる、ってこと」
と、さやかが付け加えて、「かなりその条件をクリアするのは、厳しいわ」
「すると、やはり偶然か……」
「でも、あのホテルになぜ彼女が来たのか、ってこともあるわ」
と、さやかは続けた。「ね、本人が本当に何も|憶《おぼ》えてないのなら、あそこまで来ることだって――」
「それはそうですな」
「それと、池原洋子……」
と、さやかは言って、チラッと藤原にウインクして見せる。
母、なつきは、もちろん池原洋子と夫が浮気していたことなど、知らないのである。さやかとしても、できることなら、知らせずにすませたい。
「池原さんに直接訊いてみたら?」
などと、なつきは無邪気なことを言っている。
「――あれ?」
藤原は、腰を浮かした。「社長だ」
「まあ、本当」
と、なつきも立ち上がった。
プロダクションの社長、舟橋が、暑そうに、|扇《せん》|子《す》で顔をパタパタやりながら、ロビーへ入って来た。
藤原があわてて|駆《か》けて行く。
「社長!」
「藤原、ちょうど良かった。表のタクシー、金、払っとけ」
「はい」
藤原があわてて財布を出しながら、ホテルの玄関前に待っているタクシーへと走って行く。舟橋が、
「|俺《おれ》の荷物も、下ろせ!」
と、怒鳴った。
藤原が、タクシーの運転手と二人で、せっせと荷物を運び、フロントに、部屋を何とかしろ、とかけ合っている間に、
「やあ、我らのスターのご機嫌はどうかな?」
と、舟橋は、なつきたちの方へニコニコしながらやって来た。
「社長さん! びっくりしましたわ」
と、なつきが面食らっている。
「いや、監督の早坂さんから電話をもらってね」
「二人とも困ったもんだ、って?」
と、さやかが言うと、舟橋は声を上げて笑った。
「全く! ぜひ見に来い、と言われてね。こんなすごい新人は久しぶりだ、と、あの男が珍しく興奮していた」
「――社長」
と、藤原がやって来た。「お部屋は何とか取れました」
「当り前だ」
と、舟橋は言った。「連れ[#「連れ」に傍点]が次のタクシーで来る」
「はあ」
「すまんがね」
と、舟橋は言った。「君らの部屋はスイートルームだろう?」
「ええ」
「一人、|居候《いそうろう》させてもらえんかね」
なつきは、目をパチクリさせて、
「構いませんけど……。どなたさま?」
「実は連れの女の子供なんだ。まさか一緒ってわけにもいかんので、できれば……」
「分りました。どうせ広いお部屋を使ってるんですから」
と、なつきが答えていると、ホテルの玄関前にタクシーが|停《とま》った。
「来たか。――おい、藤原、荷物を頼む」
「はい」
また藤原が駆けて行く。そして、夏らしく淡い色のスーツでタクシーから降りて来た女性……。
なつきは、まさか、と思いつつ、その女性が近付いて来るのを見ていた……。
「おい、知っとるだろ」
と、舟橋が言った。「中沢なつきとさやかだ」
「ええ、存じてます」
と、北原文代が言った。「北原文代です。――これは娘の|浩《ひろ》|子《こ》」
北原文代の少し後ろで、なつきがあのマンションで会った少女が、ピョコンと頭を下げた。
北原文代が、舟橋の愛人?
なつきは、|唖《あ》|然《ぜん》として、しばらくは言葉が出なかった。
もちろん、TV局で会うこともあるだろう。それにしても……。
「じゃ、浩子は、この二人の部屋に間借りさせてもらえ。いいな?」
「はい」
と、浩子という子が答える。
「よろしくね」
と、さやかの方から手を差し出すと、浩子は、はずかしそうに、しかしホッとしたように、その手を握った。
「お前たち、|一《いっ》|旦《たん》部屋へ行ってろ。|俺《おれ》は監督と話がある。――おい、監督はどこの部屋だ?」
「三〇三です」
「分った。一人で行く、大丈夫だ」
舟橋が、さっさと行ってしまうと、北原文代と浩子は、ボーイに荷物を持ってもらって、部屋へ向う。
――なつきは、息をついた。
「なつきさん」
と、藤原が言った。「あの女性、確か……」
「ええ、文代だわ。何てことでしょ!」
なつきは、それだけ言って、またため息をついたのだった……。
34 追って来た男
「じゃ、あの子が?」
と、言ったのは、財前浩志だった。
「うん……」
さやかは、やや複雑な面持ちで、「でも、|凄《すご》く明るくて、いい子なの。負けるわ」
――なぜここに浩志が出て来るのか、というと……。要するに、浩志も母親と二人で、このホテルに来ているからなのである。
病気ばかりしていて、外へ出ようとしなかった財前令子が、何かにつけて、なつきが外へ引っ張り出すので、ずいぶん元気になってしまって、浩志ともども、ついにこのロケ先にまでついて来てしまったのだ。
もちろん、テニスやゴルフはやらないが、昼間、少し日かげを散歩したり、涼しい風に当ったり、温泉につかったりしている。ここは本物の温泉が出るので、なつき、さやかも一日、三回も四回も入っていた。
浩志とさやかの仲も進展――は別にしなかった……。
まあ、何といっても二人ともまだ若い[#「若い」に傍点]。
若い、と言えば、北原浩子は、さやかより若い中学一年生。
「〈浩〉の字が共通だし」
と、さやかは言った。「妹みたいでしょ」
「妹ねえ……」
――夜である。
ロビーが、ちょっとしたディスコみたいになって、音楽に合わせて、若者たちが踊っている。
さやかも、浩志をここへ引っ張って来た。
そしたら、浩子が他の客に混じって踊っていたのである……。
「妹のように、かまってあげなさい」
と、さやかは言った。「ただし、恋人のように、はだめよ」
「何言ってんだ」
と、浩志は笑って、「こんなおっかないのは一人で沢山」
「言ったな!」
さやかは浩志の腕をつかんで、「踊ろ!」
「心臓が悪いんだぜ」
「どの心臓が? この辺の?」
と、さやかは、浩志の頭をつついた。
浩志も笑って――結局、軽く体を揺するようにして、踊り出した。
「――さやかさん!」
と、浩子が気付いて、やって来る。「これ[#「これ」に傍点]が例の?」
「財前浩志君。――見た目は悪くないでしょ?」
浩子は、踊ったせいか、赤い顔で息を弾ませつつ、浩志を見て、
「――うん、合格!」
と、|肯《うなず》いた。「何か冷たいもの、おごってくれる?」
度胸のいいところは、さやかに似ているかもしれない。
三人は、バーのカウンターへ行って、コーラを頼んだ。
「楽しい、|凄《すご》く」
と、浩子は言った。
「そう?」
「さやかさんには迷惑じゃないですか」
「そんなことないわ。私の年代の子、一人もいないから、退屈してたの。――うちの母を除いてね」
浩子が噴き出した。
「あ、あなたのお母さんよ」
と、さやかは、北原文代が舟橋とバーへやって来るのを見て言った。
「このホテルにいる間は、他人のつもりです」
と、浩子は言った。「変でしょ? 恥ずかしがらなきゃね、私。ママがあんなことをしてるんだから」
浩子は、目を伏せた。――さやかと浩志は、ちょっと目を見交わした。
三人、一緒にグラスを手にゆっくりと歩き出すと、浩子が言った。
「でも……ママだって、私がいなかったら、あんなことしなかったかもしれないし……。ママのこと、悪く言っても仕方ないと思うから」
「そうさ。人間、他人の生き方に点数なんかつけられないよ」
と、浩志は言った。「肝心なのは、生きてる、ってことさ」
「ありがとう」
浩子が、浩志のことを、目をうるませて見ている。――さやかは、少々面白くなかった。
そして、ふと……。
薄暗いロビーを、色とりどりの照明がめぐる、その中に――。
「ちょっと、このグラス、持って」
と、浩志へ預けて、「この子、お願いね」
「おい……」
さやかは、人の間をかき分けて、廊下を急いで歩いて行った。――今のは確か……。
「ワッ!」
角を曲ったとたん、目の前に「背中」があって、さやかは追突してしまった。
「いや、失礼!――おや」
と、その男は振り向いて、「さやかさんですね」
「やっぱり! そうじゃないかと思った」
太田刑事である。
「見付かりましたか」
と、そう困った様子でもなく、頭をかいている。
「いつから、このホテルに?」
「今日の夕方です」
「あの事件のことで、いらしたんですか」
「そんなとこです」
太田は、ちょっと周囲を見回して、「ここじゃ、どうも……。後でゆっくり話しましょう」
「でも、他の人には――」
「内密に。絶対ですよ」
「ええ……」
「あなたはしっかりした娘さんだ。|訊《き》きたいことがあるんです。――どこか、人目のない場所はありますか」
太田の目は真剣だった。
「庭なら……。夜、もっと遅くなると、アベックがいますけど」
「じゃ、三十分後に?――どこか目印になるもののある所がいいですね」
「それなら……。庭の向う側に、小さな池がありますから。その前で」
「了解。では、後で」
太田は、さやかに敬礼して見せると、ニヤッと笑って、行ってしまった。
――刑事が、何をしに来たんだろう?
さやかは、自分では理由はよく分らなかったが、不安だった。
太田に会ったから、というだけではない。
今日、母と藤原と三人で話したことが、さやかの心に引っかかっていたのである。
ただ、具体的にどの点が、となると、よく分らない。何となく……。何となく、気になるのだ。
太田がここへやって来たというのも、その「不安」が当っているからではないのか。
さやかは、ロビーの方へ戻って行った。
――打って変って、スローバラードがロビーに流れている。
「――|呆《あき》れた」
と、さやかは|呟《つぶや》いた。
浩志と浩子が、熱いカップルよろしく、少し無器用に踊っている。
フン、恋人同士にゃ見えないわよ、とさやかは、むくれながら思ったのだった。
35 池のほとりの人影
さやかは、太田刑事との約束通り、三十分後に、ホテルの庭へ出た。
夏とはいっても、高原なので、夜になると、肌寒いくらいである。――庭には人気がなく、さやかは|小《こ》|径《みち》を通って、小さな池へ出た。
池の周囲にはベンチが並んでいて、時々はアベックがラブシーンなんかやっていることもあるのだが、今夜は幸い、誰もいないようだった。というより、どうせアベックったって、ここに泊っているのだ。
何もこんな所でラブシーンを演じなくても、部屋へ行きゃいいわけだから。
私は刑事さんとデートか。色気ないな、とさやかは思った。でも――確かに三十分後と言ったのに、太田の姿は見えなかった。
さやかは、約束の時間に遅れるとか、そういうことが嫌いである。太田も、約束の時間を平気で破ることのない人のように見えたが……。
「太田さん」
と、さやかは呼んだ。「――太田さん。いませんか」
植込みが、池の向う側に、囲いのように続いている。そっちの方から、カサッという音がした。
「――太田さん? そこですか?」
さやかは、音のした方へと歩いて行った。どうして返事をしてくれないんだろう?
植込みのかげから、足が[#「足が」に傍点]|覗《のぞ》いている。
「太田さん、何か――」
足を止め、さやかは立ちすくんだ。――太田が、倒れている!
「太田さん! しっかりして!」
さやかは、かがみ込んで、太田を揺さぶった。太田が、かすかに|呻《うめ》いた。
生きてる! どうやら、頭を殴られたらしい。頭をかかえ上げると、手にべたっとした感触があった。血らしい。
何てことだろう!――早く、早く誰か呼んで来なきゃ。
さやかは、立ち上がって、ホテルの方へ戻ろうとしたが……。目の前に黒い人影が立っていた。
さやかは、しばらくその人影を見ていた。そして――誰なのか、分った。
「社長さん……」
舟橋は、難しい顔で立っていた。ゆっくりと首を振ると、
「どうして、こんなに早く来たんだ!」
と、言った。「あと五分遅かったら、間に合ったのに!」
「社長さん……。この刑事さんを殴ったんですね!」
「そうだ。しかし、手ごろな凶器がなかったんだよ。殺せなかった。あと五分あれば――」
さやかは、やっと気付いた。今日、母と藤原と、三人で話したことの中で、何が[#「何が」に傍点]ひっかかっていたのか、を。
堀口万里を知っていたのは、藤原よりも、むしろ舟橋だったろう。そして、なつきのスケジュール、藤原が車で通る道、そして車そのものまでよく知っていたのは、舟橋ではないか。
「あの子を殺したんですね。堀口万里を」
と、さやかは言った。
「仕方なかったんだよ。――あの子はおかしくなっていた。あれは自分で死のうとした」
「自分で?」
「止めようとしてもみ合っているうちに――つい、本当に刺してしまった」
舟橋は、ため息をついた。「黙っているしかなかったんだよ。この映画に、私は|賭《か》けていた。もし私が殺人罪で捕まったり、オーディションに来た子を愛人にしていたと分ったら、この映画は、大打撃を受けるだろう」
「じゃ……堀口万里を、ずっと?」
「そうだ。ところが、フッと姿を消してしまった。私は、気が変って、出て行ったのかと思ったんだが……。まさか藤原の所にいるとは思わなかった」
「社長さん……。でも、この刑事さんまで……。それじゃ、もう逃げようがありませんよ」
と、さやかは言った。
「いや、道はある。君はこのまま黙ってホテルへ戻れ。何も見ず、知らなかったことにして」
「そんなこと――」
「できるとも! 君は役者だ。しかも、すぐれた役者で、スターだ。分るね。私がこの刑事を始末する。君はここでの数分間を、忘れればいい」
「できません」
「いいかね。君にはスターの輝かしい未来が待ってるんだ。今、このことを明るみに出したら、映画は中止になるかもしれない。君とお母さんの二人も、このまま忘れられて行くかもしれない。せっかくのチャンスだ!」
舟橋の言葉が、さやかの耳に|空《むな》しく響いた。――スター。未来。チャンス。
世の中に、価値のあるものは、それだけしかない、と思い込んでしまった人間。さやかは、そんな人間になりたかったわけではないのだ。
「私、そんなことできません」
と、さやかは言った。「人を呼んで来ます」
さやかは、ホテルに向って駆け出した。舟橋が、背後からさやかに飛びかかった。
「キャッ!」
よけようとして、足がもつれた。――二人は池の中へと転落した。さやかは声を上げようとした。
舟橋が、さやかの上にのしかかり、頭を押えつけた。水から顔を出せない!
さやかは、必死でもがいたが、息の苦しさに、気が遠くなって行くようだった。
――このまま死ぬのかしら?
映画の撮影はどうなるんだろう? そんなことが頭をかすめた。
突然、押えつけていた力が弱くなる。――そして、さやかはぐっと体を引っ張り上げられた。
「大丈夫か!」
池の中へ入って、さやかを抱き上げているのは、浩志だった。
「私――何とか」
さやかは|咳《せき》|込《こ》んだ。「どうしたの?」
「こいつを石で殴ったんだ。君のとこの社長じゃないか!」
「ええ……。殺されるところだった……。ありがとう」
舟橋は、気を失っている様子で、池のふちに頭をもたせかけるような格好で、倒れていた。
「そこに、刑事さんが倒れてるわ、頭を殴られて。早く手当てしないと……」
「今、あの子が人を呼びに行ってる、大丈夫だよ。けが、ないか?」
「うん……」
さやかは、ずぶ|濡《ぬ》れの体を震わせた。「あの子って?」
「浩子だよ」
「そう……」
さやかは、ふと浩志を見て、「浩志、どうしてあの子と二人でここへ出て来たの?」
と、|訊《き》いた。
「別に――何でもないよ。ただの散歩だよ!」
あわてて言いわけしている浩志を見て、こんな時なのに、さやかは笑い出してしまった……。
「いやはや、面目ありません」
と、太田が、頭に巻いた包帯を、そっと手で触りながら言った。
「大丈夫ですの?」
と、なつきが言った。「でも、何てことかしら」
――ここは、なつきとさやかの部屋。
太田の他に、まだショック状態の藤原、そして浩志がいた。
「じゃ、あの堀口万里って子は、車の前へ、突き飛ばされたんですか」
と、さやかは言った。
「そうです。いや、愛人の座を奪われて、頭に来た女が、カッとなって、堀口万里を薬で眠らせ、藤原さんの車の前へと突き飛ばしたんです。ところが、堀口万里は死ななかった。その代り、記憶を失ってしまった。――藤原さん」
「はあ」
「すぐに届けなかったのは、間違いですぞ」
「すみません」
藤原はシュンとしている。
「その女っていうのは?」
と、なつきが|訊《き》いた。
「あなた方もよくご存知の女です。池原洋子ですよ」
さやかも|唖《あ》|然《ぜん》とした。――池原洋子と舟橋?
「藤原さんは知ってたの?」
「いや、全然知らなかった」
「池原洋子の華やかな男遊びは、ある意味では、舟橋との関係を隠すためのものだったんですな」
と、太田は言った。「ところがその二人の間に割り込んで来たのが、堀口万里だった」
「じゃ、もめた挙句に、堀口万里を殺そうとしたんですね」
と、さやかは言った。「でも、本当に殺したのは、舟橋さんでしょ」
「そうです。舟橋は用事で藤原さんの留守中、マンションに立ち寄って、そこで堀口万里を見たのです。びっくりしたが、万里の方は、舟橋を忘れている。――舟橋は、思い出させてやろうと、あのホテルに部屋を取ったのです」
「でも、池原洋子が――」
「ええ、運悪く、池原洋子が、舟橋の机にメモを見付けてしまった。ホテルの名とルームナンバーのね。舟橋に別の女ができたのかと思った池原洋子は、あそこへ出かけて行ったのです」
「私は、それを見かけて、追いかけたんです」
と、藤原が言った。
「ところが、問題の部屋にいたのは、何と堀口万里だった。池原洋子はびっくりして逃げ帰った。――死んでいると思っていたんですからね」
「そこへ舟橋さんが行ったのね」
と、さやかは言った。
「万里の方も、池原洋子を見て、思い出したのでしょう。そして、その部屋へ池原洋子がやって来たのは、舟橋が承知した上でのことと思った。――混乱した彼女は、やって来た舟橋の前で、ナイフを振りかざして、私とあの人のどっちを取るか決めないと、死ぬと言い出した。止めようとした舟橋ともみ合っているうちに――つい、ナイフが万里自身の胸を、刺していたのです」
「運が悪かったのね」
と、なつきは言った。「でも、それを隠そうとしたのは、運じゃないわ」
「全く、その通り。舟橋も、判断を誤ったんですな」
と言って、太田は、頭が痛そうに、|眉《まゆ》を寄せた。
「――これで映画もお流れね」
と、さやかは言った。「せいせいした!」
「いや、そんなことはありません!」
突然、大声で言ったのは、藤原だった。
びっくりして、なつきとさやかが見つめていると、藤原は、
「社長から言われました。プロダクションの後のことは頼む、と。私の責任において、この『母娘坂』は、必ず完成させます!」
「でも、池原さんまで……」
「彼女の出番の主なところは大体終ってますからね。何とかつじつまの合うように、シナリオを直させます」
藤原が、こんなに張り切っているのは、珍しかった。太田が、
「私も応援しますよ」
と、言って、ニッコリ笑った。
なつきとさやかは、顔を見合わせたのだった……。
36 初 日
「見ろよ。|凄《すご》い人だぜ」
と、中沢竜一郎が言った。
なつきとさやかが、窓辺に寄って来て、この映画館の建物を囲む行列を見下ろした。
「あれが、みんな私たちの映画を見に来た人たち? 信じられないみたいね」
と、なつきは言った。
色々とあったが、ともかく、『母娘坂』は完成した。そして今日は、その初日。
一回目の上映を前に、二人の舞台|挨《あい》|拶《さつ》があることになっている。
「これから、どうする?」
と、竜一郎が言った。「女優をつづけたいのなら、そうしてもいいぞ」
なつきが首を振った。
「私はこれきり。もうくたびれたわ。それに習いごとできないし……。あなたのこともしっかりつかまえておきたいしね」
「お前……」
竜一郎は、なつきに手を握られて、赤くなった。「そうしてくれると、|嬉《うれ》しいよ」
「仲のよろしいことで」
と、さやかはからかった。「私は、少しずつやって行きたいわ」
「あなたはその方がいいわ。せっかくの機会ですものね」
「うん。それには、お父さんとお母さんが仲良くしてくれなきゃね」
と言って、さやかはウインクして見せた。
「――急にスターになって、映画に出て、人殺しがあって……。大変な何か月かだったわね、本当に」
と、なつきがしみじみと言った。
控室に、藤原が顔を出した。
「あと十分です。それから、お客様ですよ」
入って来たのは、財前浩志と、北原浩子だった。
「あら、いらっしゃい!」
と、なつきが嬉しそうに迎える。「浩子ちゃん、お母さんは?」
「お仕事で。――必ず映画館で見ますって」
「そう。良かったわ。頑張ってね」
「はい。あ、さやかさん」
「やあ、いじめてない、その子のこと?」
「何で僕がこの子をいじめるんだよ?」
「私は、浩子ちゃんに、あなたをいじめてないかって|訊《き》いたのよ」
と、さやかは言った。
今、北原文代はファッション関係の仕事について、忙しく駆け回っている。――人間、働いていれば、妙なことにやきもちをやく必要もないのだろう。
「うちの母も、いつか映画館へ来たい、と言ってました。よろしくって」
と、浩志が言った。
「そう。いつでもおっしゃって。ちゃんと席をお取りするわ」
と、なつきは言った。
藤原が、顔を出して、
「客が入り始めました。|凄《すご》い入りですよ!」
と、興奮した面持ち。「呼びに来ますから!」
と、また行ってしまう。
「あの人も、一向に社長らしくならないね」
「仕方ないわよ。人間、時間が必要よ、何ごとにも、慣れるには」
さやかは、やはり少し緊張しているのか、|喉《のど》が乾いて、お茶を一口飲んだ。
もう秋である。――夏休みはアッという間に過ぎた。
撮影は長く、短かった。そして、今、藤原の所には、なつきとさやかの、次の仕事の企画が、山と持ち込まれているらしい。
でも――ともかく、一つの仕事が終ったのだ。
もちろん、色々と不満はあっても、さやかは、|充《み》ち足りていた。
父と母の間も、何とか破局に至らずにすんだ。池原洋子の取調べの過程で、父のことが出たらどうしよう、と心配していたのだが……。何とか大丈夫だった。
学校の方では、川野雅子が、今や本気で高林和也に|惚《ほ》れられていて、大いに幸せらしい。ぐっと練習中もやさしくなった、という評判である。
「お願いします」
と、藤原が呼びに来た。
「はい。――じゃ、あなた、後でね」
と、なつきは夫に言って、歩き出した。
――ステージの|袖《そで》に立つと、客席のどよめきが、足下に伝わって来る。
「やあ、お二人さん」
と、監督の早坂が、いつになく笑顔を見せている。
「色々お世話になって」
と、なつきが頭を下げ、「私は、これきりで引退しますわ」
「やあ、そりゃ残念だ。しかし――個人的には賛成ですな」
「娘は、まだやりたいと申しておりますので、よろしく」
「僕の力でやれることは、きっとやらせてもらいますよ」
と、早坂は言った。
司会者が、|挨《あい》|拶《さつ》をして、続いて、なつきとさやかが呼ばれた。
「お母さん、先に」
「でも――」
「やっぱり、|年齢《とし》の順」
「そうね」
と、なつきは笑った。
二人がステージに出て行くと、映画館を揺がすような拍手と歓声が、|湧《わ》き上がった。
――藤原は、ステージの袖で、フットライトを浴びている二人を、じっと見つめていた。
「いいですな」
と、いつの間にか、中沢竜一郎がやって来て、|覗《のぞ》いている。「あれがわが女房と娘とは信じられない」
藤原は、何も言わなかった。――胸が一杯で。
今、藤原は、自分の「夢」が現実のものになるという、まれな瞬間を、体験していたのだから。
なつきとさやかが短い挨拶をして、|袖《そで》に戻って来た。
「あなた。――どうだった?」
「すてきだよ」
「ありがとう。――さやか、お母さん、一足先に、お父さんと帰るわ」
「うん。分った」
さやかは、父と母の後ろ姿を見送って、「結構、さま[#「さま」に傍点]になってるじゃない」
と|呟《つぶや》いた。
映画の上映が始まって、音楽が高らかに鳴り始めている。
「どうだね」
と、早坂が言った。「この映画作りから、何か得るところはあった?」
「ええ」
さやかは微笑んで、肯くと、言った。「朝、パッと起きられるようになりました!」
早坂が明るく笑った。
エピローグ
講師は緊張していた。
――間違いない。あそこに座っているのは、中沢なつきだ。
この前、|俺《おれ》の話の「いいところ」でパッと席を立って帰ってしまった。おかげでこっちは調子が狂うし、クラス中の奥さんたちには笑われるし……。
いや、こっちが笑わせようとして笑ってくれるのならいいが、あの時はそうじゃなかった。「フルコース夫人」という、彼女のあだ名を知らなかったせいもある。
今日は大丈夫。絶対にあんなことをくり返したりしないぞ。――講師はかなり気負っていたのである。
この講師、別になつきに腹を立てていたわけではなかった。『母娘坂』を見て、なつきのファンにさえなっていた。
そして、なつきが映画やTVの世界に何かとコネを持っているだろうから、その辺から、自分をTV局に売り込んでもらえないか、などと考えていたのである……。
「ところで――」
と、講師はいよいよ話のクライマックスへとさしかかった。
すると――今度はピピピ、というアラームの音はしなかったが、中沢なつきが急に机の上を片付けて、立ち上りかけたのである。
「あの――奥さん」
と、講師が言った。「中沢さん。まだ話が――」
「ええ、申し訳ありません」
と、なつきはちょっと頭を下げた。
「次の予定が詰っておられるのは分ってますがね、今日の話は、これまでとは違うんです。ぜひ聞いて行って下さい」
と、講師は|愛《あい》|想《そ》良く言った。
「ええ……。そうしたいんですけど――」
と、なつきは少しためらって、「やっぱり失礼しますわ。これからは、自分の本当に興味のあるものだけを勉強しようと思ってますの。家族で過す時間も大切ですし、このクラス、やめようかどうしようかと迷っていたんですけど――。やっぱり、やめさせていただくことにしました。どうもありがとうございました」
「はあ……」
講師は落胆の色を隠さない。
なつきは、教室を出ようとして、ふと足を止めると、
「その内、うちの娘が、ここへ通い出すかもしれませんわ。その時まで、頑張っていて下さい。たぶん――二、三十年もすれば」
なつきが出て行くと、何となく教室の中はシンとしてしまった。
二、三十年して、自分の娘が、ここへ通って来ているところを想像して、みんな、何だかしんみりしてしまったのである。
「――みなさん」
と、講師は、一種悲壮な印象さえ与える口調で言った。「予定を変更して、今日は我々の幸せな老後について、考えてみませんか」
教室に集まった主婦たちは、一斉に無言のまま|肯《うなず》いた。
――たぶん、この日の話は、この教室始まって以来、最も充実した、切実なものになったに違いなかった……。
フルコース|夫《ふ》|人《じん》の|冒《ぼう》|険《けん》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『フルコース夫人の冒険』平成4年3月10日初版刊行
平成11年3月10日19版刊行