角川文庫
ハ長調のポートレート
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
短い恋の物語
送迎バスの客
|欠伸《あくび》のてんまつ
満員電車にて
無口な男
亜紀子、危うし
煙の問題
亜紀子様のご入浴
未来の問題
逃げる日
孫にも意見
ピアニッシモ
他人の空似
危ない日
強き者、|汝《なんじ》の名は……
亜紀ちゃんの「自立」
短い恋の物語
「私、かげ[#「かげ」に傍点]のある男が好きなの」
常々、そう宣言していたことを、小泉玲子は、今になって後悔していた。
なぜといって……。今の若い男たちの明るいことと来たら!
どこかに影を置き忘れて来たんじゃないのと、つい足下を|覗《のぞ》いてみたくなるくらいだ。
同じ「かげ」でも、意味は違うとはいえ、本当に「影はあれども、かげ[#「かげ」に傍点]はなし」という男ばっかり。
よくしゃべる。よく笑う。芸達者といえば聞こえはいいが、要するに「目立ちたがり」で、子供っぽい。
といって「芸」を磨いてプロの世界に、なんてことは、とてもじゃないが、
「面倒くさい!」
それに、TVでも何でも、「|素《しろ》|人《うと》っぽさ」の受ける時代で、それこそ、歌番組を見ればその辺のカラオケバーでの平均水準よりはるかに低い歌唱力の歌手はいくらも出ているのだ。
黙々と、ひたすら努力するとか、苦しさに堪える、というのは、「もうはやらない」のである。
「ま、そう気を落とすなかれ」
と、小泉玲子の肩をポンと|叩《たた》いたのは、同じ会社の同僚で、これは本人も明るい、丸山祐子。
「別にがっかりしちゃいないわよ」
玲子は、強がりを言って、ネオンがまぶしい夜の街をぶらぶらと歩いている。
「分ってんのよ、玲子の気持ちは」
すでに大分アルコールの入った丸山祐子は、少し舌足らずな声で、「今夜の、あの彼のはしゃぎぶりに、がっかりしたんでしょ」
「はしゃぎぶり? あそこまで行くと異常よ!」
つい、口調もきつくなる。
「ま、いいじゃないの。営業向きの人間なのよ、彼は」
「仕事ならいいわよ、いくら明るくたって。でも――|真《ま》|面《じ》|目《め》な話がまるっきりできないってのは、行き過ぎだわ」
腹を立てているのは事実である。
何を言ってもダジャレにして一人で笑っている、彼氏に対しても腹が立ったが、そんな男に、一度は「かげ[#「かげ」に傍点]のある男」のイメージを重ねた自分にも、もっと腹が立っていたのだ。
「その内、めぐり会うわよ。玲子の理想の男性にも」
と、祐子は言って、「あ、ここから私、左へ行くんだ。じゃあね」
「ちょっと! 祐子、そっちは地下鉄の方じゃないわよ!」
てっきり、酔って分らないんだと思って、玲子は呼びかけた。
「いいの」
と、歩きかけた祐子は振り向いて、ウインクすると、「この先のホテルで待ち合せ。へへ……。じゃ、気を付けてね!」
鼻歌なんか歌いながら、祐子はバッグを振り回しつつ、歩いて行ってしまう。
――取り残された玲子、何だか一人で馬鹿みたい……。
「勝手にしろって!」
と、|呟《つぶや》いて、またぶらぶらと歩きだす。
小泉玲子は二七歳。OL生活も六年目に入った。
断っておかなければならないが、玲子に、恋人ができないわけじゃない。その気になれば、付合いたがっている男性の十人や二十人――は、少しオーバーか。二人や三人、いないことはない。
しかし、いずれも、玲子の、「かげ[#「かげ」に傍点]のある男」という基準には遠く外れて、明るい男ばかりなのだ。
ずっと年上の男では、やはり「かげ[#「かげ」に傍点]」だけじゃなくて、「とし[#「とし」に傍点]」という問題もあるし、といって年下の方は、ひたすらまぶしいほど明るい男の子ばかり。
大体、今の新入社員は、男も女も、入社前から、ちゃんと決まった恋人のいることが多いのである。
「|焦《あせ》ることないや」
と、玲子は独り言。「そう! まだ若いんだ! じっくり構えてよう」
その内、きっと……。
今に、いつか……。でも、何年も前からこう言ってんのよね、と心の声が玲子に|囁《ささや》きかけるのである。
フラリと見知らぬスナックへ入った時には、もちろん何の予感も、期待もなかった。
アルコールも、明日の仕事のことを考えると、もう控えなきゃ、という気分。ただ、終電までの時間|潰《つぶ》しだった。
「コーラちょうだい」
と、カウンターに向って、玲子は言った。
静かな店で、他には二人しか客がいない。
それぞればらばらで、一人はテーブルの席にいて、ウォークマンで何やら聞いている。
ひげをはやした芸術家風で、目をつぶっているのは、聞き|惚《ほ》れているのか、眠っているのか、どっちとも判断できなかった。
もう一人は――。
カウンター席の一番奥に、ポツンと座っている。
三十そこそこ、だろうか。少なくとも横顔だけで見れば、なかなかいい男だった。
白っぽいジャケットで、軽く背中を丸めて何を考えているのか、心はここにあらず。
時折、腕時計を見ては、軽くため息をつく。――誰かが来るのを待っているのかしら、と玲子は思った。
少しぬるいコーラで、氷が溶けるのを待っていると、店の戸がカタンと音をたてて開いた。
玲子は、奥の男が、素早く入口の方へ顔を向けるのを見た。そして、すぐにがっかりした表情をあらわにして、視線を戻す……。
やはり、誰かを待っているのだ。
いつの間にか、玲子はその男の横顔から目が離せなくなっていた。そして、男の方も、やがて玲子の視線を感じたらしい。
ふと、男がこっちを見た。――その瞬間、玲子は、背筋がゾクゾクッとした。
こんなことは初めてだ!
いささか自信のある玲子の笑顔も、この時は大分こわばっていたに違いない。
男も、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで見せた。しかし、目は|寂《さび》しげで、笑っていない。
玲子はグラスを手に席を下りると、その男の隣の席へと歩いていった。|図《ずう》|々《ずう》しいと思われるかしら?
「――ここ、かけていい?」
「どうぞ」
と、男が言った。
顔から想像した通りの、よく通る低めの声だった。
玲子は、どう切り出したものかと思った。当り前のセリフじゃ、嫌われるかもしれない。でも、いきなり、
「あなたって、私の好みのタイプなの」
なんてやったら、びっくりしないかしら。
すると、男の方が言った。
「一人?」
ホッとした。月並みのセリフで始まるのが一番いいのかもしれない。
「ええ」
玲子は、そう答えて、相手には同じことを|訊《き》かなかった。
彼が誰かを待っているのは、よく分っていたからだ。
「今、何時かな」
と、彼が言った。
「え?」
玲子は少し|戸《と》|惑《まど》ったが、「――今、十一時を少し過ぎたところよ。腕時計、持ってるのに」
「うん……。何だか時間のたつのが、いやに早かったり遅かったりでね。時計が壊れてるのかと思ったんだ」
と、自分の腕時計をまじまじと眺め、「疑ってごめんよ」
と、言った。
玲子は、ちょっと笑った。彼も、それにつられたように。しかし――彼の目は、再び、カウンターの上に、水で書かれた文字へと向いた。
何と書いてあるのだろう? その字はとぎれとぎれで、よく分らなかったが、しばらく眺めている内に、やっと分った。
〈女〉と書いてあるのだ……。
彼は、深い傷を抱いた者らしい、忍耐強い穏やかさで、
「終電待ちかい」
と、訊いて来た。
「ええ……。会社のお友だちと一緒だったんだけど、彼女はそこで別れて恋人と……。一人でぶらぶらしてたの」
「そうか」
「あなたは――待ってるんでしょ?」
「うん」
彼は|肯《うなず》いた。
カウンターの奥で、電話が鳴った。彼はハッと息をのんだ。
「――はい、スナック〈R〉です。――ああ、久しぶりだね……」
違ったか。――彼は軽く息をついて、こわばった筋肉をほぐすように、首を左右にねじったりした。
「もうずいぶん待ってるの?」
「いや……。二時間……ぐらいかな」
二時間も!――そんなに待って来なければ、来るはずがないのに。
玲子は、その男の胸の痛みに反応するように、自分の胸の痛むのを感じた。|頬《ほお》が熱くなる。
今、言わなきゃ!――あまりに唐突だろうか? でも、本当の気持ちなのだ。
私、あなたのような人をずっと待っていたの。
これじゃ、芝居じみてるだろうか?
一目見て分ったの。あなたこそ――だめ、これじゃ押しつけがましい。
だけど――|嘘《うそ》じゃないんだから。真心から訴えれば、きっと分ってくれる。
言葉じゃないんだわ。心なんだから!
今、言わなかったら、一生悔やむことになるかもしれない。たとえ、
「僕には好きな人がいる」
と、断られたとしても、何も言わずに後悔するよりもいい。
玲子は、心を決めた。彼の方を向いて、
「ねえ――」
と、言いかけた時だった。
店の戸が|凄《すご》い勢いで開くと、黒い弾丸みたいに、若い女の子が飛び込んで来た。
「どうした!」
と、男が席からはじけるように飛び下りる。
「お兄ちゃん!」
高校生ぐらいのその女の子は、|甲《かん》|高《だか》い声で叫んだ。「産まれたよ!」
「産まれた? 本当か! で、元気か?」
「母子、共に、すこぶる健康!」
「そうか! で――どっちだ? 男? 女?」
「お兄ちゃんのお望み通り、〈女〉!」
「やった!」
男が、まるで|檻《おり》の中の猿みたいに飛びはねた。「やったぞ! 万歳! 女の子だ!」
「早く病院に。お|義《ね》|姉《え》さんが待ってるよ」
しかし、男の方は、そんな声など耳に入らない様子で、テーブルでウォークマンを聞いていた客を揺さぶり起こすと、
「いや、産まれたんだ! 良かった! ありがとう!――すばらしい!」
と、ギュウギュウ手を握って、相手を|呆《あき》れさせた。
「お兄ちゃん!」
「分ってるとも! しかし――じっとしちゃいられないよ。――おい、ここの客、みんな|俺《おれ》のおごりだ!」
ポンと千円札を何枚かカウンターに投げ出すと、玲子のことを思い出したのか、
「君! 待ったかいがあったよ。人生はすばらしい!」
と言ってから、玲子の頬にチュッとキスした。
「もう! お兄ちゃんたら、みっともないなあ! 少し落ち着いてよ」
妹に怒られて、やっと、
「今、行くよ。しかし――女の子か! 畜生、誰が嫁になんかやるもんか!」
「いいから早く……。お騒がせしました」
と、女の子は、男を先に押し出しながら頭を下げた。
男が高らかに歌う、『幸せなら手をたたこう』の調子外れな歌声が、しばらくは聞こえていた……。
「――明るい奴だな」
と、ウォークマンの男が、外れてしまったイヤホンを、また耳の中へ押し込みながら言った。
玲子は……。彼にキスされた頬に、そっと手を当てた。
何だか……夢から覚めて、まだ、半分まどろんでいるような気分だった。
かげ[#「かげ」に傍点]のある男?――そんなもの、ただの幻なのかしら。
「どうかしましたか?」
と、店の男に訊かれて、玲子は我に返り、
「いいえ、別に」
お金を払おうとして、あの男がおごりだと言ったから、と断られ、そのまま店を出た。
――何て短い恋。
玲子はちょっと笑って、夜空を見上げた。
これが――坂上家に赤ちゃんが誕生した日に起こった、ちょっとしたドラマである。
もちろん、坂上家の人々は幸せに包まれていたのだが、そのかげには、わずかばかりの涙もあったのだ。
さて、それでは、坂上家の日々へと目を転ずることにしよう……。
送迎バスの客
楽な仕事というものは、しばしば退屈である。
しかし、退屈な仕事が必ずしも楽でないことは、言うまでもない。
そのバスの運転手は、その日、既に十回も同じ区間を行き来していた。もちろん普通の路線バスではない。
ターミナル駅前から、あるデパートまで、ほとんど切れ間なく客を運ぶのが、彼の仕事だったのである。
片道五分。それぞれ、駅前とかデパート前での停車に十分――多少のずれを見込んでも、三十分足らずで一往復してしまう。
こうなると、次はどの信号で引っかかるか、とか、次のバスには男が何人乗って来るか、とか、自分にクイズでも出して楽しみながら走らせないことには、やり切れなくなる。
――そろそろ夕方だった。
午前中は、もちろん駅からデパートへ行く客が圧倒的に多い。それが、今は逆転し始めていた。
「――どうもありがとうございました」
運転手だから、別にいちいち礼を言うこともないが、まあ言って減るものでもないし……。
駅前で停め、あまりもう乗る客はなく、運転手は、今日初めてホッと息をついた。
そして――ふと気が付くと、バスの奥の方に、初老の男性がポツンと座っている。
あの男――確か、大分前にこのバスに乗ったんじゃなかったかな?
何しろデパートにしか行かないバスなのだから、九割方は女性だ。ああいう年配の男は珍しいので、何となく記憶に残っていたのである。
じっと顔を伏せて動かないので、眠ってるのかな、と思った。立ち上がって歩いて行くと、
「着きましたよ」
と、声をかける。
「え?――ああ」
眠っていたわけではないらしい。「いや、失礼。ついぼんやりしていてね」
「いえ、構いませんがね。駅ですよ」
「そうか」
と、その初老の男は立ち上がりかけて、「もし良かったら、少し座らせといてくれないかね」
「別にいいですけど……」
いわゆる住所不定風の男ではない。かなり立派な服装は、会社の重役かと見えるくらいだ。
「考えごとをしていてね。ともかく、どこへ行っても、やかましいし、人は多いし。ゆっくりできる所がないもんだから」
運転手は、ちょっと笑って、
「いいですよ。じゃ、まあごゆっくり。でも十分したら、デパートの方へ行きますよ」
「ああ、気にしないでやってくれ」
何を考えているのやら……。
その次に駅へ戻った時も、またその次に戻った時も、その男は一番奥の席から立とうとしなかったのだ。
「――お客さん」
空っぽのバスの中を、また運転手は歩いて行った。「すみませんが、もうこれでバスの運行、終わりなんですよ」
「そうか。いや、迷惑をかけてすまんね」
「迷惑ってことはありませんがね。――一体何をそう悩んでるんです?」
「うん……」
その男は、ちょっと息をつくと、「実はね、つい先日、孫が産まれて」
「へえ! それはおめでとうございます」
「いや、それでもめてるんだよ」
と、男は顔をしかめた。「名前を誰が考えるか、でね」
「お孫さんの?」
「女の子で……。私は当然のように自分が付ける気でいた。私の息子の名は、私の父が考えたものだ。今度は私が孫の名前を考える番だ、と楽しみにして来た。産まれると分ってから、何か月も、男の子ならこれ、女の子ならこれ、と一体いくつ考えたか。――そして、産まれた」
「それで?」
と、運転手も席に腰をかけて、|訊《き》いた。
「私は、早速、病院に嫁をねぎらいに行った。そしてその時に、私が決めた名前を教えてやったんだが……」
「どうしました?」
「嫁は、けげんな顔で、『その子の名前はもう考えてあるんです』と言うんだよ」
「なるほど」
「えらくモダンな名前で、いかにも若い子が好みそうだ。しかし――姓名判断とか、色々やった上で私が決めた名前を、『そんなの古いですよ』と一言で片付けた。私も、ちょっと意地になって、息子に、絶対に私の決めた名前にしろ、と|怒《ど》|鳴《な》ってしまった……」
「そうでしたか。――息子さんは何と?」
「間に立って、困ってるよ。嫁もなかなかしっかり者で気が強い。ま、息子は少しのんびり屋で、人はいいが気が弱いから、少し強いぐらいの嫁でいいんだがね」
「今度ばかりは困った、というわけですか」
「その通りだよ。――私も、もちろん年寄りなりに頭の固いところはあるだろう。しかし、何かというと『今の若い者は――』とグチをこぼす、分らず屋の老人ではないつもりだ。しかし……」
と、首を振って、「今度ばかりは譲れないんだ。これだけはだめだ」
「それで、このバスに?」
「いや――別にどこへ行くでもなく歩いていて、つい乗ってしまったんだよ。すまんね、もう降りる」
と、腰を浮かしかけ、ふと、「君はどう思うね」
と、訊いた。
「私、ですか?」
運転手は、ちょっと|面《めん》|喰《くら》った様子だった。
「見たところ、四十代かな? 子供さんもあるんだろう」
「まあ……」
「君のとこは、誰が名を付けたんだね?」
「うちでは私が……」
と、運転手は言った。
「君のご両親は何ともおっしゃらなかったかね」
「結婚した時は、もう二人とも生きていませんでしたからね」
「なるほど。それなら、もめようもないわけか」
と、初老の男は|肯《うなず》いて、「私は|頑《がん》|固《こ》|爺《じじ》いなのかな。どう思うね」
「さて……。私には何とも申し上げられませんね」
と、運転手は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
「そうだな。いや、妙な話を聞かせて悪かった」
「とんでもない」
運転手はそう言ってから、「ですが――」
と、言いかけてポケットを探ると、定期入れを出し、中から一枚の写真を取り出した。
「これが娘です」
「どれ。――|可《か》|愛《わい》い子だ。中学生かね」
「二年生です」
「ほう。これからが楽しみだね」
と、写真を返すと、運転手はそれを見つめて、
「もう、こいつは大きくならないんです」
と、言った。「去年、事故で亡くしましてね」
「それは……。すまなかった。余計なことを――」
「いえいえ」
運転手は、その写真をしまい込むと、「どうなんでしょう。名前というのは、結局、誰が付けようと、違いはないんじゃないでしょうか。それを背負って行く当人[#「当人」に傍点]が、自分で選べるわけじゃないんですからね。それなら同じことですよ」
初老の男は、しばらく黙っていた。そして立ち止まると、
「いや、すっかり邪魔してしまったね」
「どういたしまして」
と、運転手は言った。「お気を付けて」
「ありがとう」
と、バスを降りかけて振り向き、「君の娘さんは何という名だったのかね」
と訊いた。
「――父さん」
ベッドのわきの|椅《い》|子《す》にかけて赤ん坊の顔を見ていた坂上勝之は、父親が入ってくるのを見て立ち上がった。
「どうだ、元気か」
坂上康俊は孫の顔を|覗《のぞ》き込んで、「よく寝るもんだな」
と、言った。
「そりゃ、赤ん坊だからね」
「エリさんは?」
「うん、ちょっと売店に。すぐ戻るよ」
と、勝之は言った。「ね、父さん。この子の名前のことだけど――」
「あ、お|義《と》|父《う》さん」
エリが、ゆっくりとした足どりで戻って来た。お産が重かったせいもあって、大分やつれているが、童顔の愛くるしさは、いつもの通りだ。
「動いて大丈夫なのか?」
「ええ……。でも、体が軽くなっちゃって」
と、笑顔で言うと、ベッドに腰をおろした。
「横になってくれ。――いや、名前のことではすまなかった。苦しい思いをしてこの子を産んだのは、あんただ。あんたが名前を決めるべきだよ」
と、康俊は言った。
横になったエリは、夫の勝之とちょっと顔を見合わせた。
「いや、父さん。二人で話し合ってね。父さんの決めた名にしようってことになったんだよ」
と、勝之は言った。
「いや、しかし、それは――」
「もうそう決めたんですもの、お義父さん」
三人は、ちょっと黙って、それから笑い出した。
「じゃ、どうだろう」
と、康俊は言った。「前の二つは、なかったことにして、〈亜紀子〉というのは、どうかな」
と、字を書いて見せた。
「すてきだわ」
と、エリは言った。
「実はね。今日、バスに乗っていて……」
康俊は、バスの運転手のことを話して聞かせた。
「じゃ、その人の娘さんの名前?」
「そうなんだ。――どう思う?」
「これに決めましょう。ね、あなた」
と、エリが言った。
「OK。じゃ、決まりだ!」
勝之が、ポンと手を|叩《たた》く。
「――ホッとしたな」
と、父親が帰ると、勝之は言った。「じゃ、また明日、来るよ」
「ええ。帰ったら、忘れずに支払いをしといてね」
「大丈夫だよ」
勝之が廊下へ出ると、
「あ、お兄ちゃん」
と、やって来たのは、学校帰りの勝之の妹、美由紀。
「やあ、遅いじゃないか」
「クラブよ。高二ともなると、忙しいんだから」
一七歳の美由紀は、やたらに元気な娘である。本人は、「タレントを目指す」と言っているが、確かになかなか可愛い。
「ね、決まった?」
と、美由紀は言った。
「うん。今、|親《おや》|父《じ》が来て、三人で話し合ってな」
「お父さん、来たの。ゆうべは怒ってたよ」
「丸くおさまったのさ、それが」
「へえ」
と、美由紀は目をパチクリさせて、「あの頑固親父が折れたのか」
「おい、何だ、その言い方は」
と、勝之は苦笑した。
「で、何て決まったの?」
と、言いながら、美由紀は|鞄《かばん》から何やらメモを取り出した。
「亜紀子だ。――何だ、それ?」
勝之は、美由紀の広げた紙を見て、目を丸くした。
紙一杯に、女の子の名前がズラッと並んでいる。
「友だちと|賭《か》けをしたの」
「賭け?」
「この中に、私の|姪《めい》っ子の名があるかどうか。なけりゃ私の勝ちで、千円」
「|呆《あき》れた奴だな」
「どの字?――これじゃないね」
「違うよ。〈|亜《あ》|細《じ》|亜《あ》〉の〈亜〉と〈|紀《き》|元《げん》〉の〈紀〉」
「やった!」
美由紀がパチンと指を鳴らした。「千円|儲《もう》かった」
「しょうがない奴だな」
「さすが、我が姪っ子! 見込みがあるよ、将来!」
美由紀は、|鞄《かばん》を勝之へ押しつけて、「持ってて。可愛い姪の顔を見て来るから」
と、さっさと行ってしまう。
勝之は、妹を見送って、
「将来は、亜紀子もああなるのかな」
と、思わず不安げに|呟《つぶや》いたのだった。
|欠伸《あくび》のてんまつ
「あら――」
坂上エリは、ふっと目を覚まして、「いやだわ。私ったら、寝かしつけるつもりが――」
いつしか、自分が眠ってしまっていたのである。ま、そんなことは珍しくもない話ではあるが。
亜紀子は、母親より早かったのか遅かったのか、ベビーベッドで、スヤスヤと眠っている。――エリはホッとした。
これで、何時間かは「平和」が訪れる。
もちろん、その平和は、朝までは続かないのだが。
エリは欠伸をしながら、寝室を出て、リビングルームへと歩いて行った。――3LDKのマンションは、親子三人には充分な広さだが、子供が二人になったらどうなるか……。
もう、エリはそんなことを心配していた。
――ゴトッ、と玄関の方で音がした。
エリはギクリとして足を止めた。じっと様子をうかがったが、誰も上がって来る気配はない。
あの音は――確かに玄関の中で[#「中で」に傍点]聞こえた。もし夫の坂上勝之が帰ったのなら、とっくに上がって来ているはずである。
エリの頭に、この近くに空巣や「居直り強盗」が出没しているので、ご注意を、という回覧板の文句がよみがえった。――まさか! ここに強盗?
でも――用心に越したことはない。
エリは、リビングの中を見回して、空っぽの花びんに目に止めるとそれを両手でつかんで、いざとなれば、相手を一撃すべく、ソロソロと玄関の方を|覗《のぞ》いた……。
玄関の明りの下で、上がり口に座り込んで頭をかかえ込んでいる男の背中が……。
「あなた。何してるの?」
エリが声をかけると、坂上勝之はびっくりしたように、立ち上がった。
「エリ。起きてたのか」
「今、亜紀子を寝かせたとこ。しばらくは起きないと思うわ」
「そうか……」
勝之は、何だか元気なく|肯《うなず》いて、「変わりないか、亜紀子?」
「ええ。今日はミルクもずいぶん飲んだわ」
「そうか……。良かった。僕にとっては、君と亜紀子さえいれば、生きる支えになる」
「――大丈夫? 熱があるんじゃない?」
と、エリは夫の額に手を当てようとして、まだ花びんを持ったままでいるのに気が付いた。
「何で、そんな物持ってるんだ?」
と、勝之が不思議そうに|訊《き》く。
「え? ああ、これね。これ――ちょっと置き場所を変えようと思って、今考えてたのよ」
「そうか。それでぶん殴られるのかと思ったよ」
と、勝之は、やっと笑顔を見せた。
もちろん、自分が本当のことを言い当てていたとは、思ってもいない。
――殴ってほしいよ、全く。
リビングの入口で、ネクタイをむしり取るように外しながら、勝之はそう思った。
俺みたいな間抜けは、いくら殴られたって仕方ないんだ!
そもそもは――|欠伸《あくび》のせいだった。
「坂上!」
と、課長が怒鳴った。「何だ、その態度は!」
確かに、会議の席で大欠伸をするというのが、賞讃に値することだとは、勝之も思っていない。
しかし、人にはそれぞれ事情というものがあって、決して不真面目だから欠伸をしているとは限らないのである。
「すみません」
と、勝之は素直に|謝《あやま》った。
しかし、課長の前田は、今朝はことのほか|機《き》|嫌《げん》が悪いようだった。
「俺の話がそんなに退屈か?」
「いえ、とんでもない。ちょっと――あの――」
「何だ? 言ってみろ。課長の話をろくに聞かずに欠伸をしてていいという、納得できる理由があるというのなら、聞いてやる」
会議室の中はシンと静まり返った。
課の全員の会議である。新入りの女子社員など、顔をこわばらせて息を殺し、成り行きを見守っていた。
「――何もありません」
と、勝之は少し青ざめた顔で言った。「申し訳ありませんでした」
前田は、見た目は太っ腹な重役タイプだが、その実、しつこくて細かい性格だった。もちろん、それなりにいい所もあるのだが、ここでは最悪のパターンになってしまったのである。
「俺の話が退屈でつまらんと思う|奴《やつ》は、何も貴重な時間をこんな所で|費《ついや》してもらわなくていい!」
と、一人でカッカと腹を立て、「いつでも出て行っていいぞ!」
――いくら何でも言いすぎじゃないか、という表情で、課員たちがそっと目を見交わす。何も居眠りしていたというわけじゃないのだ。欠伸したくらいで、そこまで言わなくたって……。
「課長――」
と、穏やかな声で言ったのは、課長補佐の橋口だった。
いかにも高血圧タイプの前田とは対照的に、学校の教師のような、地味な印象を与える。
「先月の、交際費の件は、幹部会でどういうことになったんでしょうか」
橋口が、話題を変えようとしたことは、誰にも分った。前田は、まだ何か言いたげだったが、渋々ファイルを開けて、
「いつだったかな、あれは」
と、ぶっきらぼうに言った。
ホッとした空気が、会議室の中に流れる。――勝之は、しばらく血の気のひいた顔を、じっと下へ向けていた。
そして午後のことだ。
勝之は、コピールームで、資料をコピーしていた。他に誰もいないと思うと、また大欠伸が出て来る。
フフ、と笑う声がして、振り向くと、田代令子が入って来るところで、
「坂上さん、眠そうね」
と、勝之の肩をポンと叩いた。
「子供の夜泣きでね。――このところ、ろくに寝てないんだ」
「あ、そうか。大変ね」
「女房は、まだ完全に体調が戻ってないから、ぐっすり眠らせたいんでね。つい僕が無理して起きちまう」
「優しいんだ。奥さん、幸せね」
「どうかな。――あんまり出世の見込みはないけど」
と、勝之はため息をついた。
田代令子は、勝之より二年ほど下の、しかし女性社員としては、かなりのベテランの一人である。独り者の気楽さで、なかなか優雅な暮らしをしているらしかった。
そこへ――勝之の課の新人の女の子が入って来ると、
「坂上さん」
「何だ? 君もコピーかい? 僕のは、もう終わるよ」
「いえ、あの……」
と、少し言い辛そうにして、「これ、コピーしろって、課長さんが」
ドサッ、と何百ページもありそうなファイルを置く。
「僕がこれをコピーするのかい?」
「私がやりますって言ったんですけど……。でも、課長さんが、坂上さんにやらせろ、って……」
「分った」
勝之はムカッとしたが、この子に当たっても仕方ない。――自分の仕事に必要なコピーならともかく、関係のない資料までコピーしろなんて!
「どうかしたの?」
と、田代令子も、気になった様子。
「畜生! あの豆ダヌキめ!」
「前田課長のこと?」
「そうさ。午前中の会議で一つ欠伸をしたら、いつまでも根に持ちやがって!」
「そうだったの。――大変ね」
「あんな|肝《きも》っ玉の小さい奴は、あそこでストップさ。上に立てるような器じゃないよ」
田代令子は何となく|肯《うなず》いて、自分の分のコピーが終わると、出て行った。――一方、新人の女の子が、何だか奇妙な顔で、まだ立っているので、
「君、戻っていいよ。課長命令だからな。僕がコピーする」
「ええ、でも……」
「何だい?」
「いいんですか? 田代さんに、あんなこと言って」
「どうして?」
「ご存知ないんですか。田代さん、前田課長と……あの、親密[#「親密」に傍点]なんですよ」
「何だって?」
「女の子なら、誰でも知ってます。男の人だって……。坂上さん、本当に知らなかったんですか?」
勝之は、知らない間に、コピーのボタンを押しっ放しにしていた。――白紙のままのコピー用紙が、次々に|吐《は》き出されて来た。
翌日の勝之が、およそ楽しい気分でなかったのは、当然のことであろう。
昨日のことは、エリにも話さなかった。もし――もし、クビにでもなったら……。いや、クビにはしないまでも、前田のことだ、またネチネチといびり続けるに違いない。
ゆうべ、田代令子が前田と会ったかどうか、そこまで知りようもなかったが……。
午前中は幹部会だった。――社長、部長、課長たちが集まっている会議。もちろん、勝之はお呼びでない。
十一時ごろだった。――前田が、いやに青い顔をして席へ戻って来ると、一言も口をきかずに、仕度をして帰ってしまった。
「――どうしたんだ?」
と、誰もが顔を見合わせていると、お茶出しをしていた女性社員から、話が伝わって来た。
社長が、今期の目標について大演説をぶっている時、グーグーといういびきが聞こえ、話は中断された。何と、前田が大口を開けて、居眠りしていたのだった。
「出て行け!」
と、社長に|一《いっ》|喝《かつ》されて、さすがに目は覚めたらしいが……。
勝之は笑い出したいのを、何とかこらえた。
見ろ! 天罰ってもんだ!
いい気分で、お茶をいれに給湯室へ行くと、田代令子が|茶《ちゃ》|碗《わん》を洗っていた。
「お茶? おいしいのがあるわ。幹部会に出したのがね」
「じゃ、もらうよ」
と、勝之は言った。「ねえ、田代君――」
「私、今朝の幹部会でお茶を出してたの。もちろん私一人じゃなかったけど」
と、田代令子は|遮《さえぎ》って、言った。「私、ここんとこ、不眠症の気味があってね。睡眠薬を使ってるのよ」
「え?」
「前田課長のお茶に、カプセル一つ分、溶かして入れちゃった」
勝之は|唖《あ》|然《ぜん》として、
「田代君……。でも、君は――」
「これで許してあげて」
と、田代令子は、勝之の湯呑茶碗へお茶を注ぎながら、「気の小さい人なのよ。いつも失敗しないかってびくびくしてる。だから、つい下に当たってみたくなるのね、きっと」
「うん……」
「夜泣き、ねえ」
と、田代令子は、ちょっと目を伏せて、「私も、起こされてみたいわ。どんなに眠くてもいいから」
「田代君……」
「でもね、きっと無理でしょうね。前田課長には奥さんがいるし。それに――」
田代令子は、ちょっといたずらっぽく笑って、「坂上さんにもいるしね」
と、言うと、オフィスの方へ歩いて行った。
それを見送って、勝之は熱いお茶をゆっくりと飲んだ。
ステレオのボリュームつまみを上げて行くように、亜紀子の泣き声が高くなった。
「はいはい」
エリは、頭を振りながら起き上がった。「オムツをかえましょうね。――どうせ、しばらくは眠らないんだから」
「僕がやるよ」
と、勝之が起き出して来た。「君は疲れてる。寝てろよ」
「いいわよ。あなた、会社で眠くてしょうがないわよ、今ごろ起きたら」
「大丈夫。これが永久に続くわけじゃないさ。なあ亜紀子」
勝之は、亜紀子を抱き上げた。亜紀子は泣くのをやめて、少しキョトンとした目で勝之を見ている。
「すっかり目が覚めちまってる。――ま、少しお付合いしようじゃないか、我が子に」
エリは笑って、台所へと歩いて行く。
「――とても静かね」
と、エリが言った。
「うん」
こうして三人でいると、この静けさもいいもんだ、と勝之は思った。
一人きりの夜の静けさは、寂しいものかもしれないが……。
亜紀子が、小さな口を精一杯開けて欠伸をした。
満員電車にて
「ねえ、見て、ほら」
と、友だちの一人がつっついた。
少しぼんやりしていた美由紀は、我に返って、
「え? なに?」
と、振り向く。
何しろ電車はかなりの混雑である。電車の中がこみあっていても、学生が多いと、そう|殺《さつ》|伐《ばつ》としたムードにならずにすむ。
しかし、この電車は勤め人が多いので、時にはあちこちで|喧《けん》|嘩《か》も始まる。ただ、今友だちが美由紀をつついたのは、喧嘩が始まったからではなかった。
「また乗ってるよ」
「本当だ。よくやるわねえ」
美由紀はいつも大体同じグループで、この電車に乗っている。五人か六人だから、おしゃべりを始めりゃ、いともにぎやかではあるのだ。
友だちが、「また乗ってる」と言ったのは、いつもではないが、まあ三日に一度くらいの割で、よくこの電車に乗って来る親子連れだった。――「親子連れ」といえば、別にどうってことはないようだが、この場合の取り合せは少々変わっていて、「父と子供」。それも、「赤ん坊」なのだった。
赤ん坊は、まあせいぜい一つかそこいら。父親は、サラリーマンらしく、ちゃんと背広にネクタイのスタイルである。それで、リュックみたいなのを前にかついで、子供を抱っこしているのだから、いやでも目立っている……。
「――何かいやねえ。もう、生活の疲れがにじみ出ていて」
と、一人の子が言った。
「奥さんに逃げられたのかね」
「そうよ、きっと」
なんて、勝手なことを言い合っている。
もちろん、みんな本気でそう思ったり、馬鹿にしているわけではなく、何もすることのない電車の中で、ただ時間|潰《つぶ》しのおしゃべりの種にしているだけのことなのである。
美由紀は、あまりその話に加わらなかったが、確かにその男が人目をひくのはしょうがない、と思った。
よく見れば、せいぜい三十歳というところなのだろうが、印象は四十――それも四十代の後半といってもおかしくない。顔立ちや、体つきではなく、寝ぐせのついて、ピョコンと立った後頭部の髪の毛とか、しわになったまま、アイロンもかけていないズボンとか……。
そんなものが、「老けてる」という印象を与えているのだ。
「あれじゃ、逃げたくなるわよ」
と、一人の子が言った。
「逃げられたから、ああなったんじゃないの?」
「言えてる」
――その男は、もう人に見られることなんか、慣れっこなのだろう。ただ、|吊《つ》り革につかまって、眠そうな目で窓の外を眺めている。
すると――何が原因だったのか、急にその赤ちゃんが、ワーッと|凄《すご》い声で泣き出したのである。
「こんにちは」
ベランダで洗濯物を干していたエリは、いきなり義妹の美由紀がヒョイと顔を出したので、びっくりして、
「キャッ!」
と、声を上げてしまった。「ああ、びっくりした! 美由紀さん、いつ来たの?」
「ごめんなさい。チャイム鳴らしたんだけど、誰も出ないから勝手に入って来ちゃったの」
「あら、ごめんなさい。ここにいると聞こえないのよね」
と、エリは笑って言った。「すぐ終わるから何か冷蔵庫から出して飲んでて」
「いいわ、別に。手伝いましょうか」
「何言ってるのよ。――珍しいじゃない。学校、早く帰れたの?」
「今日はテストで半日」
「あら、ご苦労様。――これでよし、と」
軽く息をついて、エリは中へ入った。
「亜紀ちゃん、この間熱出したんですって?」
と、美由紀は居間に入って、言った。
「そうなの。夜中にね。大変だったわ。二人して、大騒ぎ」
エリは、台所へ入って行って、「――紅茶飲む?」
と、声をかけた……。
美由紀は一七歳。エリは二八だから、一回り近く離れている。しかし、もともと妹がいるエリは、美由紀のことが本当の妹のように思えるのだ。
カラッとして明るく、まあいかにも「別世代の人間」ではあるけれど、何となくエリとは気が合った。
「――亜紀ちゃんは?」
「今、寝てるわ」
と、エリは言った。「本当に、静かな時間なんて、ほとんどないんだから」
紅茶を飲みながら、美由紀は、
「はた[#「はた」に傍点]で見てる方が可愛いね、赤ちゃんって」
と、言って笑った。
セーラー服の美由紀を見ていると、同じような制服だったエリは、つい昔のことを思い出す。まるで、ついこの間のことのようだ。
「――それで、結局、大丈夫だったの?」
と、美由紀が訊いた。
「ああ、熱出した時のこと? そうね。日曜日だし、夜中だし……。もう近くの先生に片っ端から電話をかけまくったわ。でも、今のお医者さんって、時間外には電話も出てくれない人が多いのよね」
「そんなもんなの?」
「もちろん、お医者さんの立場にしてみりゃ分るけど。――結局、やっと捕まえた女医さんにあれこれ説明してね」
「|診《み》てくれたの?」
「それが――」
と、エリは思い出して笑ってしまった。「その女医さんがね、『ぐったりして元気がないようなら、連れて来てください』っておっしゃったの。で、『すぐに連れて行きます!』って、勝之さんが……。それで――ヒョイと見たら、いないじゃないの、亜紀ちゃんが。あれっと思って、居間を|覗《のぞ》いたら……。あの子、マガジンラックの雑誌を次から次に引っ張り出してたの」
「へえ、面白い!」
「もう、勝之さんがあわてて、もう一度女医さんの所へ電話してね、『元気はいいようです』って。――汗かいちゃったわ」
「その女医さん、怒ってた?」
「よくあるんですよ、って笑ってたって。――本当に、後になると笑い話だけど、その時は、大変な病気だったらどうしようとか、悪いことばっかり考えちゃうのよね」
美由紀は肯いて、
「なかなか大変なんだ、子育てって」
「そりゃそうよ。美由紀さんはまだ縁がないでしょうけどね」
「あったら大変。――でもね」
と、美由紀は立って、畳の部屋でスヤスヤ眠っている亜紀子を見に行きながら、言った。「あ、よく寝てる……」
「もう起こしてもいいわよ。大分眠ったから、ご機嫌悪くはならないと思うから」
と、エリは言った。
「そう? でも、|可《か》|哀《わい》そうじゃない。せっかくおやすみ[#「おやすみ」に傍点]なのに、さ」
美由紀が、亜紀子の小っちゃな手にそっと人さし指の先を当てると、亜紀子がギュッとその指を握った。
「へえ、結構力もちだ」
「そうでしょ? そうやって、ギュッとしがみつかないと、生きていけないのかもしれないなあ、なんて思うことがあるわ」
「やっぱり不安なんだろうね」
美由紀は、まじまじと亜紀子の顔を見ながら、言った。「私――末っ子でしょ。だから、赤ちゃんって、苦手だったんだ」
「そう?」
「だって、見たことないじゃない。扱い方も分んないしね。それに、好きじゃなかった。うるさいし、言うこと聞かないし」
「そりゃそうね」
と、エリは笑って、「正直言えば、私もよ。あんまり子供好きじゃなかったの」
「へえ、そうなの」
「勝之さんと結婚しても、子供なしでやって行こうかな、と思ったりもしたけど……。でも、やっぱりできてみればね」
「|可《か》|愛《わい》い?」
と訊いて、美由紀は照れたように、「|野《や》|暮《ぼ》な質問だったか」
「そりゃ手間はかかるわよ。でも、お人形のように手のかからない子だったら――そんな子はいないでしょうけどね。きっと、こんなに可愛いと思わないでしょうね。手がかかるから可愛いの。それは何だってそうでしょう」
「そうね。――うちは犬や猫も飼ったことないし、私、何かを手間かけて育てたってこと、ないのよね」
と、美由紀は言った。
「じゃ、亜紀ちゃんで練習してちょうだい」
「そうね。――おい、練習台」
美由紀がちょっと|頬《ほお》っぺたをつついてみると、たぶん偶然ではあったのだろうが、亜紀子がギャーッと泣き出した。
「わ! ごめん! ごめんね!」
と、美由紀はあわてて謝ったのだった……。
帰りの電車だった。
クラブのある日は、いつも遅くなる。美由紀は、うまい具合に空席を見付けて、座った。
もちろん朝の電車に比べりゃずっと楽なのだが、それでも座れることはめったにない。
今日はツイてる、と思った。いくら若くたって、疲れる時は疲れるんである。
何だかウトウトしそうになって……。
ワアワア。――赤ちゃんの声みたい。亜紀ちゃんの夢でも見てんのかな、私?
中途半端な気分で、そんなことを考えていると、コツンと、何かが頭に当たった。
「こらこら。だめじゃないか」
目をパチクリさせて、見上げると――あの、朝の電車の「親子連れ」が、立っている。
「ごめんね。この子がそれを投げちまって」
「あら」
|膝《ひざ》の上に、おしゃぶりが落っこちていた。
「はい、どうぞ」
と、男の人へ渡して、美由紀は、「どうぞ、座ってください」
と立ち上がった。
「あ、いや、大丈夫。君も運動部で、疲れてるんだろ。座っててくれよ」
「いえ、少しウトウトしてたら、すっかり元気になりました」
とは、いささかオーバーだが、確かに大分楽にはなったので、立つのはいやじゃなかった。
「じゃ……。悪いね」
と、腰をおろすと、フーッと息をつく。
「――朝、よく同じ電車に乗ってますね」
と、美由紀が言うと、その男は顔を赤くして、
「じゃ、君、あの中に? そりゃ知らなかった」
と、照れ笑いをした。
「ここんとこ、見かけませんね」
「この間、これが|凄《すご》い勢いで泣いた時、あそこにいた?――それじゃ、分るだろ。もうあの電車には乗りにくくてね。できるだけ、他の電車を使うようにしているんだよ」
「そんなこと、気にしなくていいのに。文句言う人には言わせときゃいいんだわ」
「いや、朝の満員電車の中で、|苛《いら》|々《いら》してる時に、ギャーギャー泣かれちゃね。そりゃ、いやな顔もしたくなるさ」
「あの時はどうしたんですか?」
「目にゴミか何か入ったらしいんだ。でも、あれだけ泣いたから、涙で流れちゃったんだけどね」
「赤ちゃんは、何か訴えようとしても、泣くしかないんですもの。泣かせてあげなきゃ。ねえ」
それを言うなら、私たちの方がよっぽどうるさいかもしれない、と美由紀は思った。
「君の所、赤ちゃんがいるの?」
「兄の子が、今やっと六か月ぐらい」
「そうか。やっぱり赤ちゃんが身近にいる人でないと、なかなか笑ってすませちゃくれないもんだよ」
みんな、昔は赤ちゃんだったのにね。
この人だって、きっと好きでこんな赤ん坊を、満員電車で連れ歩いているわけじゃないだろう。理由なんか、赤ちゃんにとっては関係ない。
「男の子?」
「うん。今、九か月だ。抱いてるだけでも疲れるよ」
と言いながら、その男は笑った。
いい笑顔だ、と美由紀は思った。
「また、あの電車に乗ったら、お姉ちゃんのこと、思い出して手を振ってよ」
と、美由紀が言うと、赤ちゃんは美由紀の顔を見て、笑った。
「やっぱり可愛い女の子には目がない」
と、男が言ったので、美由紀は吹き出してしまった。
――周囲の人が、何事かと不思議そうに眺めていた。
無口な男
勝之が、台所へ入って来た。
「おい、大丈夫か?」
と、妻のエリへ声をかける。
「ええ、大丈夫よ」
と、エリは|微《ほほ》|笑《え》んで、「あなた、いいわよ、あっちにいて」
「うん……。もう帰ると思うけどな」
と、勝之は少し低い声になって言った。「悪いな。今日だけだから」
「平気よ。――あ、それじゃ、これ、持って行ってくれる?」
「うん」
「ちょっと亜紀ちゃんの様子をみてくるわ」
「分った」
勝之は、おつまみの皿を手に、リビングへ戻って行った。
「やあ! ちょうど何かほしかったところだ!」
「お前のかみさん、気がきくな」
「うちなんか、全然だめだ。さっさと寝ちまうよ」
「こっちだってそうさ……」
誰が何をしゃべっているのやら……。
何だか勝之にもよく分らなかった。
ともかく、もう十一時をとっくに回っていて、しかも宴会[#「宴会」に傍点]は一向に終わりそうもなかったのである。
「――一度、うちへ遊びに来いよ」
と、会社での昼休み、勝之が言ったのが、ことの始まり。
亜紀子が生まれてからはもちろんのこと、結婚して、新居を構えてから、一度も同僚を呼んだことがない。
それはまあ、たまたまそうなっただけのことで、別に勝之が特に付合いの悪い人間というわけではなかった。
「じゃ、週末にでも邪魔するか」
「いいとも。歓迎するぜ」
「じゃ、俺も」
――たまたま昼食の席に、同年代か、少し年上の人間がやたら大勢いた。
俺も、俺も、というわけで……。何とこの狭いリビング(といっても、マンションとしてはごく普通の広さだが)に七人も客が入って、身動きもとれない、という感じだった。
せいぜい三人ぐらいのつもりでいた勝之は、さすがにいささか|焦《あせ》って、帰ってからエリに恐る恐る、
「実はね……」
と、話をしたのだが、
「いいじゃないの」
と、エリは明るく笑って、「たまには会社の方もお呼びしないと。私は大丈夫よ。三人でも七人でも同じよ」
でも、やっぱり――三人と七人じゃ、大分違っていた。
飲む酒の量、ビールの数、おつまみの量……。
エリは、夫がゾロゾロと客を連れて帰って来た七時から――いや、|鍋《なべ》|物《もの》を軽く食べることにしていたので、その一時間前からずっと台所に立ちっ放しだったのだ。
勝之がいささか気にするのも、当然のことだった。
しかし、酔えば酔うほど、人間は時間の方にも気が回らなくなる。
勝之も飲んではいたが、あまり酔えなかった。
「――坂上」
と、二年先輩の同僚が、「お前はいい奥さんを持って幸せだ」
多少ろれつが回らなくなって、「幸せだ」が「しわわせだ」と聞こえたりしている。
「うん……」
と、勝之は|肯《うなず》いた。
おつまみの皿が、たちまち半分近く空になる。
これじゃ、いくらエリが頑張ってもキリがないな、と勝之は思った。
「おい、戸山。お前は飲むといやに静かになるな」
と、誰かが言った。
「そうですか」
戸山は、確かに話にもあまり加わらないで、一人、ポツリポツリと飲んでいる。
――戸山は、しかし、もともと無口な男なのである。
アルコールが入っても、一向に変わらない、というだけだ。
戸山は勝之より二つほど年上のはずで、二八かそこいら。エリと同年齢ぐらいだろう。
しかし、いやに老け込んだ感じで、見た印象は三十代も後半だった。
会社には必ず何人か、「変わり者」という定評のある人間がいて、何かと話の種になるものだが、戸山もその一人だった。
昼休みもたいてい一人でポツンと本など読んでいるし、帰りに一杯、とか誘われても、あまり付合わない。
それに、途中入社で、まだ三年もたたないくらいだった。
今日、こうしてやって来たのは珍しいことだったが、勝之と仕事の上で関係が深い、というせいもあっただろう。
――勝之は、ふと亜紀子の泣き声を耳にして、
「ちょっと失礼」
と、立ち上がった。
――寝室へ行くと、案の定で、
「あら、いいの?」
エリが亜紀子を抱いている。
「うん。目を覚ましたのか? やかましいからな」
「仕方ないわよ。お酒が入ると、声も大きくなるし」
「僕が抱こうか。疲れるだろ」
「じゃ……。ちょっとお願い。おつまみは大丈夫?」
「うん。まだ充分だ」
と、勝之は言った。
エリは、ベッドに腰をかけて、
「ああ、やっと座れた!」
と言って笑った。
「いや、大変だな! こんなに大勢来るなんて」
「お仕事よ、これも。――ね、一人、ほとんどしゃべらない人がいるのね」
「ああ、戸山だろ」
と勝之は肯いた。
「戸山さん、っていうの?」
「君と同じくらいの|年《と》|齢《し》だ」
「へえ! 老けてる」
「だろ?」
「奥さんは?」
「いない。――いや、結婚して、子供もいたんだけど、病気で奥さんを亡くしてるんだ」
「まあ、その年齢で?」
「うちの会社へ来た時はもう、やもめで、両親の所から通ってるらしいよ」
もちろん、その辺の話は、社の「情報担当」の女子社員から聞いたのである。
「じゃ、割と苦労してるんだ」
「そのせいで老けたのかもしれないな」
――リビングの方から、ワッハッハ、と豪快な笑い声が聞こえて来た。
「そろそろ何か用意した方が良さそうね」
「しかし、無理をしなくていいぜ」
「沢山買い込んどいてよかったわ」
と、エリは言った。「さて、と――」
ベッドから立ち上がったエリが、少しふらついた。勝之はびっくりして、
「おい、大丈夫か?」
「平気。――平気よ。ちょっとめまいがしただけ」
「もういいよ。横になってれば?」
「そうもいかないわ。おつまみを出したら、亜紀ちゃんを寝かしつけるから」
「うん……。しかし、寝るかな」
と、勝之はリビングの騒ぎを聞いて、ため息をついた……。
エリがリビングへ行くのに、勝之もついて行った。どうせ亜紀子もすっかり目が覚めてしまっている。
「――あら、すみません」
と、エリが空の皿を手に取って、「すぐ何かお持ちしますね」
「や、奥さん、どうもすみませんね!」
「すっかり楽しんでおります!」
「どうぞごゆっくり」
と、エリは笑顔で言った。
「じゃ、すみませんが、もう少し酒を――」
「はい。すぐに」
と、エリが台所へ戻ろうとすると、
「奥さん」
と、呼んだのは……戸山だった。
「はい。何か、お持ちします?」
と、エリは振り向いて言った。
「いいえ、もうおやすみになって下さい。我々は失礼します」
ちょっと戸惑いの様子で、他の面々が顔を見合わせた。
「でも――いいんですのよ。ゆっくりして下さって」
と、エリは言った。
「いや、お顔を拝見すれば分ります。お疲れですよ、かなり。――みんな、もう失礼しよう」
「戸山。せっかくあちらが、ああおっしゃってるんだぞ」
「我々はここで座って飲んでるだけだ」
と、戸山は言った。「しかし、奥さんは、夕方からずっと台所で立ちづめのはずだ。もうみんな充分飲んだじゃないか」
何となく、しらっとした空気になる。
「じゃ、お前だけ帰ったらどうだ?」
と、一人が言った。「俺たちはもう少し、この可愛い奥さんのそばで、楽しんで行く。なあ?」
笑い声が起こった。
すると――戸山が顔を真っ赤にして、突然、
「いい加減にしろ!」
と、怒鳴ったのだ。
みんな|仰天《ぎょうてん》して、目を丸くした。
「遠慮ってものを知らないのか、君らは! 赤ちゃんのいる家に上がり込んで、真夜中まで大声で騒いで、それがどんなに迷惑なことか分らないのか!」
誰も言葉が出ない。
勝之も、リビングの入口で亜紀子を抱いて立ったまま、|唖《あ》|然《ぜん》としていた。
戸山が、こんな風に怒るのを、初めて見たのだ。いや、およそ感情をむき出しにするということのない男なのである。
それが突然こうして怒鳴り出したのだから、びっくりしてしまう。
「坂上さん」
戸山は、少し落ち着いた口調になって、勝之の方へ言った。「あなたもあなただ。奥さんが疲れてることぐらい、分らないんですか」
「いや……。それはまあ……」
「会社の同僚との付合いと、奥さんの体と、どっちが大事なんです? どうして、『家内がもう疲れてるんで、引き取ってくれないか』と言えないんですか」
そう言われると、勝之の方も、返す言葉がない。
「――お産の後、一年くらいは、用心しなきゃ。同僚の手前、亭主関白のふりをして見せるなんてことほど、馬鹿げたことはありませんよ。それで奥さんに寝込まれたら、どうするんです」
戸山の言葉は、本心からのものだった。勝之にも、それはよく分った。
「――そうだな」
と、勝之は肯いた。「じゃ、すまないけど、これでお開きにしてくれ」
みんなが、何だか酔いも半ばさめてしまった様子で、モソモソと立ち上がった……。
――玄関へ見送りに出た勝之とエリは、最後に靴をはいている戸山を見ていた。
「いや……」
戸山は、少し照れたように、「余計な口を出したようで」
「そんなことないです」
と、エリは言った。「優しいんですね」
「とんでもない」
戸山は首を振った。「前の会社で――僕は、それ[#「それ」に傍点]で家内を亡くしたんです」
「まあ」
「同僚の手前、見栄を張って。――お産の後、まだ一か月そこそこの時、大勢引き連れて帰って……。夜中までドンチャン騒ぎをやりましてね」
戸山は目を伏せて、「家内は次の日から熱を出して寝込みました。でも、赤ん坊がいると、無理をして起きますからね。――結局、肺炎になって、|呆《あっ》|気《け》なく……」
「そうだったのか」
勝之は亜紀子を抱いたまま、「――いや、ありがとう。僕の方が悪いことをしたね」
「いや、とんでもない。――あんなことで会社をやめるなんて、つまらないですよ。もっとつまらないのは、男の見栄なんてもののために奥さんを病気にすることですね」
「よく|憶《おぼ》えとくよ」
「お気を付けて」
と、エリは言った。
――みんなが帰って、リビングには、空のコップや使った皿が、山になっている。
「片付けるの、明日にするわ」
と、エリは言った。
「そうだ。少しぐらい散らかってるのが何だ。病気するよりいい」
「じゃ、あなた、これ、全部洗ってくれる?」
エリに言われて、勝之はギョッとした。
「ワア」
亜紀子が元気よく手を振り回した。
亜紀子、危うし
いつもなら、もう少し早い時間にスーパーへやって来るのだった。
エリは乳母車を押しながら、スーパーの入口で、ちょっとためらった。それくらい中は混雑していたのである。
レジを全部開けているのに、|凄《すご》い行列ができている。あれじゃ、並ぶだけで三十分はかかりそうだ。
でも、引き延すわけにはいかない。どうしても買わなきゃいけないものも、いくつかあるし……。
仕方なく、エリは乳母車を押して、混雑するスーパーの中へと入って行った。
この辺は、次々に新しいマンションができて、住民も増えているのだが、大きなスーパーマーケットはここしかない。
バスに乗れば、もっと大きなビルになったスーパーもあるが、やはり赤ちゃんなど連れていると、歩いて来られる所へ来てしまうのである。
「静かにしててよ。お願いだからね」
と、エリは、乳母車の中の亜紀子に言った。
「ワア」
分っているのかどうか、亜紀子は今のところは上機嫌である。
やはり赤ん坊だって、外出というのは楽しいものなのだ。色々、珍しいものが見られるし、色んな音や|匂《にお》い、犬の鳴き声、車のクラクション……。
もちろん、外だから色々と危ないこともあって、ホコリが飛んで来て目に入ったりすることもあるし、車はビュンビュン飛ばしているし、すれ違ったよその子に物を投げつけられたりすることもあるし……。
でも、たまにギャーギャー泣いても、やっぱり外出する、ってのは楽しいことに違いない。
今日、出て来るのが遅くなったのは、義母が来ていたからである。
前もって分っていれば、昨日の内か、それとも午前中に買物をすませていたのだが、お昼近くになって、何か軽く食べてから買物に出ようかと思っているところへ、突然やって来たのだ。
エリは別に義母としっくりいっていないわけではないが、それでも、せっかく来てくれたのに、
「買物へ行くんで、またにしてください」
とは言えない。
上がり込んだ義母は、もうそれこそ亜紀子を見ていて何時間でも|飽《あ》きない、という様子でのんびりしている。おかげで、エリは昼食も抜きで、やたらとお茶ばかりガブガブ飲むはめになってしまった。
孫を可愛がる気持ちというのは、エリにも分るし、ありがたいとも思うのだが、正直、困ってしまった。――結局、
「お|義《か》|母《あ》さん、すみませんけど、私、スーパーへ行かなきゃならないんで」
と、やっと言い出して、義母は帰ってくれたのだが、エリの言葉に多少ムッとしているのがよく分った。
「そんなこと言ったって……。仕方ないわよねえ」
エリは乳母車の中の亜紀子へ話しかけながら、棚の間を苦労して進んで行った。
何しろ混雑のピークである。しかも、みんな買物用のカゴを下げたり、カートを押しているから、それを縫って乳母車を進めて行くのはひと苦労だ。
「|邪《じゃ》|魔《ま》ねえ、もう!」
と、遠慮なく文句を言って、エリをにらむ人もいる。
エリは聞こえないふりをしておくことにした。
確かに、この時間には、小さい赤ん坊を連れての買物は避ける人が多い。エリだっていつもはそうなのだ。でも……。
仕方ない事情があることだってあるんだ。
義母たちと、赤ん坊をかかえたエリたちの生活時間というのは大分違っているのだが、それを分ってくれ、と言うのはなかなかむずかしいことである。
「ちょっと――すみません」
あのジュース……。亜紀ちゃんはあれが大好きだ。天然果汁で、あんまり甘くないし。
「こいつは甘党じゃないんだ。飲んべえになるかな」
なんて、いつもパパが言っている。
でも――棚の前が|凄《すご》い人。
何とか人と人の|隙《すき》|間《ま》に体を横にして押し込もうとしたのだが、乳母車を引いていたのでは、とても無理だ。その棚の前は特に狭くなっていて、人が立っていると、とても乳母車が通れないのである。
困ったわ……。
いつまでもここで待っているわけにはいかないし、それに十分や二十分待ったところで空いて来やしないのである。
仕方ない。棚から必要な品だけ取って来るのに、何分もかかるわけじゃないんだから。
エリは、乳母車を売場の隅へと押して行って、ブレーキをかけておいて、
「ちょっと待っててね。ママ、すぐ戻るからね」
と、亜紀子の頬を、ちょっと指でつついた。
「ワア」
大丈夫。さっきたっぷり眠ったし、出て来る前にオムツもかえたし。
「じゃ、ちょっと持って来るからね」
エリは、急いで人の間を縫って、その棚へと歩いて行った。
「すみません。――ちょっと。失礼します」
手を伸ばして、小さなパックのジュースを取る。そう、それにパパ用のミルクも買っとくんだった。日付は?
古い日付のものほど、手前の方に並べてあるから、奥のものを取った方が。一日で全部飲んでしまうのなら、どれでもいいんだけれど……。
ところで、エリが乳母車を置いて来た所は、少し空いているのだが、商品を運ぶ台車をいつも置いておくところなのだった。
「――失礼します。ちょっと開けてください」
若い女店員が、汗を流しながら、空の台車をガラガラと押して来た。
「これでいいかな……」
両手に紙パックのミルクやら何やら、一杯にかかえて、エリは|呟《つぶや》くと、乳母車の方へ急いで戻ろうとした。
ちょうどそのとき、女店員は、いつもの通り、そこが空いていると頭から疑いもしないまま、台車を押して来た。――乳母車? どうしてあんな所に乳母車が?
疲れていたせいで、真っ直ぐ台車を押して行けばどうなるのか、ということまで頭が回らなかったのだ。
エリは人をかき分けて、やっと――。
ガシャン、と音がした。台車は、乳母車に真横からぶつかった。
エリは、乳母車がゆっくりと横に倒れるのを、|呆《ぼう》|然《ぜん》として見ていた。
亜紀子が、床に投げ出される。
「亜紀ちゃん!」
両手にかかえていたものを全部放り出して、エリは駆け寄った。亜紀子が、スーパー中に響き渡るほどの声で泣き出した……。
エリは、眠っている亜紀子の顔に、自分の顔を、くっつきそうなくらいまでそっと寄せて行った。
――大丈夫。スー、スー、と小さな、でも確かな呼吸をしている。
もう何十回もこうして確かめている。
亜紀子のおでこには、日の丸みたいに消毒液がぬってあった。
夢中で駆け込んだ医者は、
「大したけがじゃない。大丈夫ですよ」
と、笑っていた。
ホッとしたが、でも、やっぱりちゃんと調べた方がいいんじゃないかしら、とかエリは思ったものだ。
でも、亜紀子もじきに泣きやんで、元気そうにしていたので、エリもやっと安心したのだった。
スーパーの方でも大分心配してくれて、台車を押していた若い女店員は、真っ青になって謝ってくれたが、何といっても乳母車を置いておいたのはエリがいけないのだし……。
「何でもなかったんですから」
と、エリはその女店員を慰めたりしてやった。
そして、家へ帰ってから、エリは義母の伝言もあったので、夫の会社へ電話をしたのだった。スーパーでのことも、話をして……。
――亜紀子のそばを離れて、エリは居間へ戻った。
勝之の姿はなかった。お風呂へ入ったらしい。
今夜は、傷口をぬらすといけない、というので、亜紀子をお風呂へ入れなかったのである。
ソファに腰をおろして、エリは考え込んでしまった。
「どうして、ちゃんとついてなかったんだ!」
電話口で怒鳴った勝之の声が、今でも耳の奥で響いていた。
――もちろん、勝之とエリだって、|喧《けん》|嘩《か》ぐらいしたことはあるが、大体がおっとりした勝之が、あんな風に怒鳴ったのは、初めてのことだった。
エリは、思いがけない勝之の言葉に、返事ができなかったのだ。
確かに、エリがちゃんと乳母車を押していれば、あんなことは起こらなかっただろう。しかし、エリは「そばについていなかった」のではなくて、「ついていられなかった」のだ、ということ――それを勝之は分ってくれると思っていたのだ。
いくら私が子を愛する母親だって、二十四時間、子供のそばにくっついているわけにはいかない。子供は時に思いがけないけがもする。そういうものなのだ。
「――寝てるかい?」
と、勝之がパジャマ姿で、バスタオルで頭を拭きながら、やって来た。
「ええ」
「そうか。検査してもらわなくて大丈夫かな。――いつもの先生に|診《み》てもらった方がいいかもしれない」
「そうね」
「何だ。元気ないな」
「あなた」
「何だい?」
「その内、亜紀ちゃんは歩き出すのよ」
「分ってるさ。――何だい突然?」
「私はいつも亜紀ちゃんのことを心配してるわ。亜紀ちゃんがけがするぐらいなら、自分が代わりに痛みだけでももらってあげたいくらい。でも、それでもきっと、亜紀子ちゃんは、転んだり、すりむいたりやけどしたりするわ。いくら私がいても、それを止めるわけにいかないのよ」
勝之も、やっと分ったようだ。
「悪かったよ。――あんな風に怒鳴ったりして」
「いいのよ」
エリは立ち上がって、「お風呂へ入って来るわ」
と、言った。
――エリは、ゆっくりとお風呂に入った。
いつも亜紀子を入れるので、夫と二人で大騒ぎだ。今日は静かである。
ホッとしてもいたが、何だか物足りなくもあった。
――風呂から上がって、バスタオルを体に巻いて居間を|覗《のぞ》くと、勝之はいない。
「やっぱり――」
勝之は、亜紀子の寝顔に、じっと見入っているのだった。
「ちゃんと寝てるでしょ」
と、エリは言った。
「うん」
勝之は肯いて、「今、お袋から電話があったんだ」
「お|義《か》|母《あ》さんから? 亜紀ちゃんのけがのこと――怒ってらしたでしょ」
「いや。悪いことした、って」
「え?」
「つい長居しちゃったから、そんな時間に買物に行くことになって、って。謝っといてくれ、とさ」
「そんなこと……。それまでお義母さんに分ってくれ、って言っても無理よ」
エリは、義母が来ていたせいで、あんな混んだスーパーで買物することになったのだということを、勝之には言わなかったのだ。
エリの方だって、もっとはっきり理由を説明して、早目に買物へ出ることができたかもしれないのだし。
「――別に何ともなさそうだ」
と、勝之は言った。「明日は風呂へ入れよう」
亜紀子はお風呂が大好きなのだ。
「そうね」
エリは微笑んだ。
「怒鳴った分のお|詫《わ》びをしよう」
勝之が、エリを抱いてキスをした。
「ちょっと――バスタオルが落ちるじゃないの」
「構やしない」
「ワア」
エリと勝之は、亜紀子が愉快そうに手を振り回しながら、こっちを見ているのに気が付いて、あわてて離れたのだった……。
煙の問題
その日は珍しく、坂上勝之は、ほとんど一日中仕事で外出していた。
もちろん、外出が珍しいというわけではなかったが、こんな風に一日中ほとんど出っ放し、ということは珍しい。
昼食も外出の途中、レストランと喫茶を兼ねた、小さな店で済ませた。十二時ちょうどに昼食、というわけにはいかないが、少しぐらいのんびりしてもいいだろう。
次の訪問先まではすぐ近くだし、向こうはまだ昼休みだ。
勝之がコーヒーを頼んで、週刊誌などめくっていると、隣の席に親子連れが座った。
女の子で、たぶん三つぐらいか。母親が一緒だったが、こちらは少し老けて見える。
二人でスパゲッティを頼んで、いかにも楽しそうだった。
実際、自分に子供が産まれてからというもの、勝之は、町を歩いていても、小さな子供――特に女の子が目に付いて仕方がなかった。
三つ四つともなると、外出着は結構おしゃれで、大人並みに|凝《こ》ったデザインの物も珍しくない。勝之も、デパートで子供服など見たりして、大人の服より高かったりするのに、目を丸くしていた。
今から、亜紀子の服のための貯金でもしておいた方がいいかもしれない。
もちろん、子供にそんな高い服を着せて、と顔をしかめる人もいるだろうが、父親として、我が娘に|可《か》|愛《わい》い格好をさせてやりたい、と思うのも、また当然の感情だろう。
隣の席の女の子も、なかなか可愛い顔をしていた。――ま、うちの亜紀子ほどじゃないけどな、なんて考えたりして……。
まだ一つにもならない子を比較したって意味がないだろうが、親ってのは、そんなものである。
コーヒーを飲み終えて、そろそろ出ようかと思っていると、その女の子の所に、アイスクリームが来た。
母親が言った。
「仕方ないわね。溶けちゃうから、先に食べなさい」
女の子が、ウンと肯いて、早速スプーンを手に取る。母親が、
「でも、ちゃんとスパゲッティも食べるのよ、分った?」
なんて言っても、耳には入らない。
その子の、アイスクリームの食べっぷりがあんまりみごとなので、勝之は思わず笑顔になって眺めていた。――すると、女の子が勝之の方を見た。
二人して笑顔を見交わすと、女の子が、
「少しあげようか?」
と、言った。
「まあ、何言ってるの!」
と、母親があわてて言った。「すみません、失礼なことを――」
「いえいえ」
勝之が笑いながら言った。「僕の方が、きっとものほしそうな顔をしてたんでしょう」
勝之は伝票を手に立ち上がって、
「バイバイ」
と、女の子に手を振った。
女の子は口のまわりをアイスクリームで真っ白にしながら、手を振って答えてくれた。
――勝之は、店を出ようとして、何となくエリの声が聞きたくなった。もちろん亜紀子の声も……。でも、まだ電話に出て話はしてくれない。
もちろん今の女の子を見たせいだろう。急いで店の公衆電話で家へかけてみた。
「――はい、坂上です」
「僕だよ」
「あら、どうしたの?」
「いや……。用事じゃないんだけど、今、外を歩いててね。ちょっと声を聞きたくなったもんだから」
「まあ、さぼってていいの? 私より、亜紀ちゃんの声を聞きたかったんじゃないの?」
と、エリは笑っている。
「両方だな」
「残念ながら、さっき眠ったところよ」
「そうか。――じゃ、うちのお姫様によろしく言ってくれ」
「はいはい。今夜は早く帰れるんでしょ?」
「たぶんね」
「あら、誰か来たみたい。それじゃあ」
向こうで、玄関のチャイムが鳴っているのが聞こえた。
「うん。じゃ――」
電話は切れた。勝之は、肩をすくめて受話器を置くと、さて仕事だ、と自分に向かって|呟《つぶや》いた。
「――よく分ったわねえ」
エリは、|座《ざ》|布《ぶ》|団《とん》を出しながら言った。
夫の電話を切って出てみると、学校時代の友だちが訪ねて来たところだったのだ。
「この近くに来たの。住所で捜し当てるのは|上《う》|手《ま》いもんよ。仕事柄ね」
と、フリーのライターをしている古川恵子は言った。「これがエリのスイートホームか」
「大してスイートじゃないけれどね」
と、エリは笑って、「コーヒー?」
「お願い。――旦那は毎晩遅いの?」
「普通じゃない? たまには早く、たまには遅く……」
「――あ、それが亜紀子ちゃんか。亜紀子ちゃんだったわよね」
「そうよ」
「へえ。――エリとあんまり似てない。ま、こんなに小ちゃくちゃね。よく寝てるじゃないの」
「それが商売だもの」
ちょうどコーヒーを|淹《い》れたところだった。カップへ注いで出し、
「元気そうね」
「そう? こっちは亜紀子ちゃんと違って、寝ないのが商売でしょ。|応《こた》えるわよ、寝不足って。肌は荒れて来るし……」
古川恵子は独身で、一人住い。張り切り屋で、昔から、よくクラブの用事などで駆け回っていたものだ。
恵子がフリーのライターと聞くと、たいていの旧友が、あまりにイメージがぴったりすぎる、といって笑うのである。
「昨日も寝たのが朝の五時。八時から打合せが入ってるっていうのにさ」
「大変ねえ」
「ま、好きでやってんだから……。ね、灰皿ある?」
恵子はバッグからタバコとライターを出して、言った。
「あ、ごめんなさい。出して来るわ」
「悪いわね」
――エリも勝之もタバコを|喫《す》わないので、つい灰皿を出すのを忘れてしまう。もちろん来客用に、用意はしてあるのだが、言われないと気付かないものである。
「はい。|洒《しゃ》|落《れ》たのはないけどね」
「どうも。――お宅、旦那も喫わないんだっけ?」
と、火を|点《つ》けながら|訊《き》く。
「うん」
「そうか。――いいね。やめたいんだけど、私も。でも、何となく間がもてなくってね」
「らしいわね」
よく、タバコの好きな人はそう言う。
エリはチラッと亜紀子の方へ目をやった。
奥の部屋へ寝かせとくんだったわ、と思った。タバコの煙や匂いに、亜紀子は慣れていないからだ。もちろん、それで目を覚ますってことはないだろうが……。
「ここんとこ、ひと月ばかり男と暮らしてんの」
と、恵子が言った。
「へえ。どんな人?」
まるで知らなかったエリは――もちろん知っているはずがないのだが――目を見開いて、身を乗り出した。
「――今から社へ戻る。――うん。何か電話は?――分った」
勝之は、用事を済ませて、会社へ電話を入れると、地下鉄の駅へと歩き出した。
やれやれ……。会社へ帰って、何か|厄《やっ》|介《かい》な仕事でもたまってなきゃいいけどな。
何となく、早く帰って、エリや亜紀子の顔を見たい、と思う日がある。特別な理由はなくても。
地下鉄の駅へ下りる階段のところで、勝之は、おや、と思った。
あの母親と女の子――さっきレストランで会った二人だ。
買物をした帰りらしい。母親の方は左手に紙袋を二つ下げ、右手に女の子の手をひいて、大分息を切らして、階段を下りて行くところだった。
女の子の方が勝之のことを|憶《おぼ》えていたらしい。顔を見てニッコリ笑うと、手を振った。
勝之も思わず手を振って見せて――その親子から、少し遅れて、階段を下りて行く。
改札口まで、五十メートルほどの地下通路を通る。通勤時間帯というわけでもないのに、結構な人出だった。
勝之は、小銭を用意して、手の中で確かめながら歩いていた。すると――。
少し前を行く、あの女の子が、突然ワーッと泣き出したのだ。
母親がびっくりして、
「どうした?――何?――ほら、泣いてちゃ分らないでしょ!」
と、声をかけるが、女の子の方はただ泣き叫ぶばかり。
勝之は急いで駆けて行くと、
「どうしました?」
「あ――いえ、あの――何だか急に泣き出して」
と、母親の方はオロオロしている。
「目がどうかしたみたいだな。――どうしたの?」
かがみ込んだ勝之は、目を押さえて泣いている女の子の手を外させた。
目のふち、すれすれのところが、赤くなっている。
「ぶつけたの? でも、何も……」
母親は戸惑って、ハンカチでその赤いところを拭こうとした。女の子は、痛むのか、母親の手を振り払って泣いている。
勝之はハッとした。この親子と、ちょっと前にすれ違った男がいる。
「そうか。――ちょっと失礼」
勝之は、通路を駆け戻って行くと、階段を上りかけたその男の肩をつかんだ。
「ちょっと、君!」
「――何か?」
勝之より大分年上のサラリーマンだった。いぶかしげに勝之をジロッと眺める。
「そのタバコですよ」
男は、火のついたタバコを、だらりと下げた右手に持って歩いていたのだ。火のついた方を、外側へ突き出すようにして。
「これが何だよ。禁煙じゃないぜ、ここは」
「今、すれ違った子供の顔にタバコが当たったんですよ。危うく目をやられるところだ」
「そっちが気を付けてりゃいいんだ」
「何だって?」
相手の態度に、勝之は頭に来た。「子供は顔にやけどしたんだぞ。謝って来い!」
「うるせえな。そんなヒマ人じゃねえよ」
さっさと行ってしまおうとする、その男の手から、勝之は思わずタバコを|叩《たた》き落としていた。
「何するんだ!」
と、相手は真っ赤になって勝之に詰め寄って来た。
「――ただいま」
勝之が帰ったのは、夜の九時過ぎだった。
「どうしたの?」
と、エリが急いで出て来る。「心配したわよ。電話もないし……」
「うん……。ちょっと」
勝之は、頭を振って、「変わりなかったか?」
「ええ……。タバコがね――」
「何だって?」
勝之はびっくりした。「僕もタバコのせいで遅くなったんだ」
二人はキョトンとして、顔を見合わせていた。
――|寛《くつろ》いだ勝之が、地下鉄の駅での出来事を話すと、エリは肯いて、
「それで|喧《けん》|嘩《か》に? 警察へ連れて行かれたの?」
「いや、そこまではいかなかった。ただ、駅員が駆けつけて来たんで、|却《かえ》ってややこしくなってね」
「私の方は昔の友だちが訪ねて来てくれたのよ」
と、エリは言った……。
話は楽しかった。しかし、恵子はエリの知っていたころからは想像もつかないほどの、チェーンスモーカーになっていた。
無意識なのだろうが、次から次へと灰皿へタバコを押し潰し、新しい一本に火を点ける。部屋は煙だらけになってしまった……。
「――どうりで匂うよ」
と、勝之は言った。
「恵子に悪いけど、おしまいには、もう話なんか聞いてられないの。亜紀ちゃんが|喉《のど》をやられやしないかと思って。――オムツを見なきゃ、と言って連れ出しちゃったわ。そしたら目を覚まして泣き出したんで、恵子も帰ったんだけど……」
勝之は肯いた。
「あの男だって、喫わずにいられないのなら喫ったっていいさ。でも、火の点いた方を自分の方へ向けて持つとか、それぐらいのことはしなきゃな。――ちょうど子供の目の高さに来るんだから」
「私も、言おうかと思ったんだけど……。でも、なかなか言いにくいもんよ」
「分るよ」
勝之は息をついて、「腹が空いたな」
「今、お魚を焼くわ」
「その煙の匂いなら、いくらでも吸っていたいけどな」
と、勝之が言ったとたん、お|腹《なか》の方がグーッと悲鳴を上げたのだった。
亜紀子様のご入浴
亜紀子は、お風呂が大好きである。
赤ん坊によっては、お風呂をいやがって泣く子もいるのだが、亜紀子は一度も泣いたことがない。
むしろ、お風呂に入ると、喜んで泣きやんでしまうくらいである。
お風呂へ入れるのは、原則として、パパ――すなわち坂上勝之の役と決まっている。もちろん、仕事で帰りが遅くなった時は、ママのエリが入れるのだ。
勝之が、初めて亜紀子をお風呂に入れた時には、おっかなびっくりで、のぼせてしまったものだ。
何しろ、ちょっと乱暴に扱ったら壊れるんじゃないか、と心配になる。
しかし、やはり赤ん坊を風呂に入れるのは、男の方が向いてるんじゃないか。慣れて来ると、勝之はそう思うようになった。
頭を左手で受け止めるように持って、体をお湯につけ、右手でそっと体を洗ってやる。
――すると亜紀子は、気持ち良さそうに目をつぶって、その内スヤスヤと眠ってしまうのだった。
勝之が、
「おーい、すんだよ」
と、声をかけると、
「はい」
と、エリがお風呂場へ入って来て、亜紀子を受け取る。
バスタオルでくるんで、後はエリの役目だ。
勝之は、やっとホッとして、一人湯船につかるのだった……。
男の方が、お風呂に入れるのに向いているというのは、一つにはもちろん力があるからで、まあそんなにまだ重たくないとしても、やはり赤ん坊の方も安心する。
それと、左手で頭を支えながら、親指と中指で、両方の耳を、お湯が入らないように押さえるのだが、ママがやると、手が小さいので、ちょっと指が届かないのである。
しかし――勝之が、できるだけ亜紀子をお風呂に入れるようにしているのは、実は勝之自身のためだったかもしれない。
エリは、昼間もずっと亜紀子と一緒だが、勝之の方は、夜になって帰ってから、やっと亜紀子とご対面だ。
何しろ朝、出勤のころには、亜紀子はぐっすりおやすみである。
だから、
「俺の顔を忘れるんじゃないか」
という心配もあった。
それはともかく、亜紀子をお風呂に入れて、気持ちよさそうにスヤスヤと眠り始める亜紀子を見ていると、勝之は、つくづく我が子への愛情を確かめられるのだ――と言ってはキザだろうか?
しかし、ともかく勝之が、亜紀子をお風呂に入れることを、帰りに同僚と一杯やることより、よっぽど楽しいと思っていることは確かだった……。
「おい、大丈夫か?」
朝、勝之は玄関を出ようとして、エリに訊いた。
「ええ」
エリが|肯《うなず》く。
「でも――何だか顔色が良くないみたいだぞ」
ゆうべから、エリは少し風邪気味なのだ。
「大丈夫よ。|却《かえ》って、寝たらだめなの。こんな時は、忙しく|駆《か》け回っている方がいいのよ、その内、ケロッとしちゃうわ」
と、エリは|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「それならいいけど――無理するなよ」
「ええ」
エリはサンダルをはいて、「行ってらっしゃい」
「行って来るよ」
――ドアを閉めると、エリはチェーンをかけようとした。
ヒョイとドアが開く。
「ああ、びっくりした!」
「今日は、早く帰るようにするからな」
「はいはい。じゃ、楽しみに待ってるわ」
と、エリは笑顔で言ったのだが……。
正直なところ、頭痛もして、確かに風邪を引いていると分っていた。
しかし、熱っぽくはない。
熱さえ出なければ、大丈夫だろう、とエリは思っていた。こんなこと、時々あるんだもの……。
「さ、頑張って!」
と、エリは自分に言い聞かせるように言った。
「坂上さん、少しは赤ちゃんの面倒もみてるの?」
勝之は、少し古手の女子社員にそう訊かれて、
「少しはね」
と、肯いた。「もちろんおしめもかえるんだよ」
「不器用そうだけど」
「今は簡単になってるからな。それに、お風呂はたいてい僕が入れる」
「へえ、偉いのね」
と、ちょっと見直した、という顔になる。
「いや、あんな楽しいもの、女房にやらせる気がしないね。僕の独占だ」
「オーバーねえ」
と、相手は笑う。
「しかし、しょせん男は赤ん坊を自分で産むわけにはいかないんだからさ。父親としては、ああやって風呂へ入れてやる時に、一番、我が子を身近に感じるんだよ」
と、勝之は言った。
「なるほどね。でも、女の子でしょ? 大きくなって来たら、その内、パパとじゃいやだって言い出すわよ」
「そうか……。そうだなあ」
と、勝之は本気で心配(!)し始めた。
電話が鳴った。
「――はい、坂上です。――あ、これはどうも!――は?」
勝之は、一瞬、返事をためらった。「――いや、かしこまりました。――は、結構です。――では、お待ち申し上げております」
「――何なの?」
電話を切って、勝之は、
「大阪のお得意さんだよ。上京して来て、今夜はヒマだから、付合えってさ」
「仕方ないわね、仕事じゃ」
「うん……」
「何か用事だったの?」
「いや……。子供を風呂へ入れてやるつもりだったのに」
「まあ」
と、その女子社員は笑い出してしまった。
勝之は家に電話を入れた。――もう四時だ。もう少し早く分っていれば……。
「そう。分ったわ。――いいわよ。お仕事でしょ。――ええ、私は大丈夫よ」
エリは、夫からの電話を切って、息をついた。
実のところ、エリは気分が悪くて横になっていたのである。少し熱も出て来たようだった。
夫が帰れないというのでは仕方がない。
何とか起きましょ。
「フア」
と、亜紀子がママに向かって、プラスチックの三角の積木を投げつけた。
「こら!」
と、エリはにらんだが、笑い出して、「元気ねえ、亜紀ちゃんは。あなたが元気でいてくれて、助かるわ」
そろそろ半年を過ぎて、亜紀子が母親から受け継いだ|免《めん》|疫《えき》も切れてくる。これから寒くなるし、用心しなくてはならない。
立ち上がったエリは少しめまいがして、柱につかまり、目を閉じた。
玄関のチャイムが鳴った。――誰か来た。
しかし、インターホンまで駆けて行く元気がなかった。
「――お|義《ね》|姉《え》さん。私」
勝之の妹、美由紀だ。良かった!
「ごめんなさい、突然来ちゃって」
セーラー服の学校帰り。美由紀は、玄関で靴を脱いだ。
「いいのよ。今日、あの人、遅くなるって」
「そう、別にいいの。兄貴に用事じゃないのよ。ただ、亜紀ちゃんの顔を――お義姉さん! どうしたの?」
居間へ入ってから、美由紀がびっくりして言った。
「どうって?」
「顔色悪い。――青白いよ」
「ちょっと風邪気味なの」
「寝てなきゃ! 私がやるわ、亜紀ちゃんのミルクぐらいなら」
美由紀は張り切って、「任せといて!」
と、腕まくりした。
天の助け、というのもオーバーかもしれないが、正直なところ、エリは美由紀が来てくれてホッとした。
美由紀にすすめられて、医者へ行き、注射を一本打ってもらって薬をもらい、帰って来ると、亜紀子は美由紀に抱かれて、眠っていた。
「――気分はどう?」
「ありがとう。注射が効いたみたい」
と、エリは言った。「今寝ると、なかなか夜、眠らないかもしれないわ」
「でも、寝るな、とも言えないしね」
「そうよ。――お風呂へ入れられれば、ぐっすり寝ると思うんだけど」
「お風呂好きだもんね」
「でも――私一人で入れると、こっちが湯ざめしちゃって……」
「だめよ、風邪引いてるのに」
と、美由紀が言った。「ひどくなったら困るでしょ」
「そうね」
と、エリは肯いた。「晩ご飯、何か取りましょうか」
「うん。おそばでいい。――兄さん帰って来るまで、いてあげるわ」
申し訳ないとは思ったが、エリも今一つ気分がすぐれないので、美由紀に頼ることにした。
「――そうだ」
と、美由紀が言った。
「どうしたの?」
「私が、亜紀ちゃんをお風呂に入れてあげる!」
「ええ?」
「だって、お湯に入れて、洗ってあげればいいんでしょ?」
「そりゃそうだけど……」
「大丈夫。落っことさないわ」
「そんなことじゃないの。疲れるわよ、やっぱり」
「でも、やるわ。――ね、やらせて」
美由紀に熱心に言われて、エリも承知した。
何といっても、その方が亜紀子も眠るし、それにエリも、いつもの通り亜紀子を拭いてやるだけでいいわけだ。
「じゃ、いい?」
と、エリは言った。
「はい、どうぞ」
先にお風呂に入った美由紀は、戸を開けて亜紀子を受け取った。「わあい、スベスベしてるんだ、亜紀ちゃんの肌って」
「そうよ。――じゃ、呼んでね、ここにいるから」
「任せとけって」
エリから説明してもらって、美由紀もやり方は分っている。
「さ、お姉ちゃんと一緒に入ろうね。――あんないかついパパと入るより、お姉ちゃんの方がよっぽどいいよ」
勝手なことを言っている。
エリが、お風呂場の前でバスタオルを手に立っていると、玄関で、ドタドタッと音がして、
「おい帰ったぞ!」
と、勝之が息を切って、やって来た。
「あなた!」
「亜紀は?」
「今、お風呂に――」
「一人で?」
「まさか! 美由紀ちゃんよ」
「あいつが入れてるのか? 危ないじゃないか!」
「大丈夫よ。ちゃんと説明して――」
と、お風呂で、
「キャッ!」
と声が上がった。
「どうした!」
勝之が、戸を開けると、
「お兄さん! 帰ってたの?」
美由紀が、両手で亜紀子を捧げ持つようにして、自分が頭までびしょ|濡《ぬ》れになって、目をパチクリさせている。
「足をすべらせたの。でも、大丈夫! 亜紀ちゃんは高く持ち上げたから」
「まあ、大変ね」
と、エリが笑った。「じゃ、こっちへ」
「うん。――お兄さん! 向こうに行ってよ!」
「あ、はいはい」
妹は一七だ。勝之は後ろを向いてやった。
せっかく、お得意に謝ってまで帰って来たのに。――勝之は不満だった。
畜生、明日はきっと早く帰って来て、亜紀子を風呂へ入れてやる!
坂上家は、差し当たり、至って平和なのである……。
未来の問題
亭主は元気で留守がいい、とかよく言うものだが……。
この坂上家では、まだ幸いそこまで亭主は|邪《じゃ》|魔《ま》|者《もの》扱いされてはいない。現にこの日も土曜日だったが、夫の勝之は出張中。
明日の夜にならないと帰って来ないので、妻のエリとしては、
「早く帰って来てくれないかしら……」
と、思わず|呟《つぶや》いたのだった。「明日の夜には食べないと、あの煮物、いたんで捨てなきゃいけないのよね。もったいない……」
ま、理由はどうあれ、早く帰って来てほしいには違いないのだ。
もちろん、エリも、赤ん坊の亜紀と二人でテレビを見ていても、
「ねえ、私はあっちの男優の方が好みだけどな。亜紀ちゃんはどう?」
とか話し合うわけにはいかない。
至って退屈――といっては、夫に悪いような気もする。もちろん、亜紀ちゃんの世話だけだって結構忙しいのだ。
「明日あたり、おじいちゃんの所にでも遊びに行きましょうか」
このところ、エリが風邪を引いたり、亜紀子が鼻風邪を引いたりで、あんまり孫の顔を見せに行っていない。――遠回しではあるが、勝之の会社へ、
「亜紀ちゃんは元気か」
なんて電話が入っているのだという。
私も、亜紀ちゃんがお嫁に行って、孫が産まれたりしたら、
「たまには見せに連れてらっしゃい」
てな電話を入れたりするのかしら?
いささか気の早いことを考えていると、電話が鳴り出した。
「ワア」
亜紀子は、電話の音が大好きという、ちょっと変わった趣味(?)を持っている。
「パパからかな? パパなら、亜紀ちゃんの声を聞かせてあげなきゃね」
「ワア」
エリは受話器を取った。
「坂上です。――もしもし?」
少し間があってから、
「あの……美由紀」
勝之の妹の美由紀からである。
「あら、どうしたの? 声が近いわね」
「すぐ近くなの。――行ってもいい?」
「もちろんよ。勝之さん、いないけど」
「知ってる。じゃ、突然で悪いけど」
「何言ってるの。晩ご飯は? まだ? じゃ用意しとくわ」
――何だか変ね、様子が、とエリは思った。美由紀はいつも、もっと明るくてカラッとしているのだ。
何かあったのかしら。
まあ、いくらしっかりしているとはいえ、美由紀も一七歳の高校生だ。子供と大人の中間にいる。難しい年代である。
いつも、エリには力になってくれる、|可《か》|愛《わい》い義妹なのだ。
何でも困ったことがあったら、相談にのってあげよう、とエリは思った。
確かに、美由紀は悩みを抱えているらしかった。
しかし――エリが用意した晩ご飯をすっかりきれいに平らげてしまうその食欲は、悩みには影響されていない様子だった……。
ただエリとしては、美由紀に、
「どうしたの? 食欲ないじゃない」
とは訊けなくなってしまったのである。
「お|義《ね》|姉《え》さんに相談があって」
食事がすんだら、美由紀の方から言い出した。
「何なの?」
「子供のこと」
「子供って?」
「産もうかどうしようかって迷ってるの」
エリは、一瞬|焦《あせ》った。
「あ、あの――美由紀ちゃん、じゃ、あなた今、その――」
「今の話じゃないわよ。将来のこと」
エリは、胸を|撫《な》でおろした。
「ああびっくりした!――将来ったって、何か月後ってことはないんでしょうね」
「まさか」
と、美由紀は笑って言った。「それだったら、もっと深刻な顔してる」
「そうね……。じゃ、どうしてそんな先のことを悩んでるの?」
「うん」
と、美由紀はお茶を一口飲んで、「今、付合ってる子がいるの」
それは不自然ではない。何といっても、美由紀は可愛いのだ。
「それで?」
「その子がね、『僕は絶対に子供なんかいらない』って」
「へえ」
「いつもそれで|喧《けん》|嘩《か》になっちゃうの。このままじゃ、決裂だわ」
と、結構、美由紀にとっては深刻らしい。
「どうしてそんなことで喧嘩になるの?」
と、エリはまた心配になってきた。「あなたとその子、そんなことまで具体的に話し合ってるってことは……。やっぱりそういう仲なの?」
「え?」
美由紀は、しばしキョトンとした顔でエリを見ていたが、やがて、「ハハハ」
と、元気良く声を上げて笑い出した。
つられて亜紀子までが、手を|叩《たた》きながら笑っている。
「――何がおかしいの?」
と、エリがややムッとすると、
「ごめん! だって――私の説明が悪かったわね。付合ってる、っていっても、私が、じゃなくて、友だちが、なの」
「ええ?」
「グループで会って、ハンバーガー食べたりしてるのよ。でもね、私の友だちと、その男の子は、割と本気で付合ってて、ちょっと特別って感じなのよね」
「何だ、美由紀ちゃんの話じゃないのか」
心臓に悪いわ、とエリは思った。
「私の恋人のことだったら、もっと前から、お義姉さんに紹介して見てもらうわよ」
「楽しみにしてるわ」
と、エリは言った。「で、その男の子は子供が|嫌《きら》いなの?」
「何か馬鹿みたいでしょ? 高校生のくせに、そんなことで喧嘩するなんて」
「そうね。ま、大人になりゃ、意見も変わるかもしれないし」
「でも、|凄《すご》く真面目な子なの、二人とも。だから、喧嘩になっちゃうのよ」
美由紀はため息をついて、「いつも、間に入ってなだめる役で、疲れちゃった! たまには入られる役回りになりたい」
と、言った。
「子供、好きだよ」
と、その男の子は真剣に言うのだった。「僕の兄のところにも姉のところにも子供がいるけど、うちの|親《おや》|父《じ》やお袋、つまり、おじいちゃん、おばあちゃんより、よっぽど僕の方になついているんだ」
「じゃ、面倒みることもあるの?」
「年中だよ。楽なもんだから、僕に押し付けちゃ、買物とかに出かけちゃうんだ」
「へえ」
と、美由紀は感心して、「じゃ、そんなに子供が好きなくせに、どうして自分の子供はいらないの?」
「今の世の中に産まれて、幸せになれると思うかい? 三つのころから幼稚園や学校の受験まで予備校があってさ、大学まで行ったって、別にどうってこともない。――世界は核兵器や原発の事故でいつ滅びるか分らない。世界からどんどん緑がなくなって、気象が変わり、食糧危機が来るかもしれない。大地震で日本の経済なんてたちまち崩壊しちゃうかもしれない。エイズの患者は増える一方だし、野菜は農薬で|汚《お》|染《せん》されている。しかも、こんな世の中に、政治家は何をしてるかっていえば、金集めと権力争いだよ。こんな世の中に子供を産んだら、それこそ子供に対して申し訳ないじゃないか」
「――なるほどね」
エリは感心した。「そういうことを真剣に考えてる高校生もいるのね」
「真剣すぎる、って私は思うんだけど」
と、美由紀は言った。
「そうねえ」
――確かに、エリも新聞だのテレビだの見ていて、亜紀ちゃんが大きくなるころ、世界は存在してるのかしら、なんて考えることがないではない。
特に高校生ぐらいのころには、そういう「危機意識」が先に立つ、ということもあるだろう。
「まあ、その子が間違ってる、とは言えないしね……。大人になれば、ものを見る目も変わるわよ」
「そうかなあ」
「しょうがない、と|諦《あきら》めるんじゃなくて、だったら、どうしたらこの子を守れるかしら、っていう風に考えることもできるんじゃないの。本当に子供がいたら、そう考えると思うけどなあ」
と、エリは言った。
「ワア」
「ハハ、亜紀ちゃんも賛成してる」
と、美由紀は笑った。
次の日――日曜日のお昼ごろ、また美由紀から電話がかかって来た。
「お客を一人連れてっていい?」
「いいけど……。どなた?」
「すぐ行く」
と、美由紀は電話を切った。
亜紀子が眠っているので、起きてしまわないように、エリは玄関のドアを開けて待っていた。
「――ごめんね、突然。ほら、私のお義姉さん」
美由紀が紹介した男の子を見て、エリはすぐに昨日の話に出た「真面目すぎる子」だな、と思った。
居間へ通して、お茶など出してやると、
「いただきます」
と、礼儀正しい。
まあ、美由紀の好みじゃないとしても、女の子によってはこういうタイプに|憧《あこが》れる子も少なくないだろうと思える。なかなか端正な美少年、という|雰《ふん》|囲《い》|気《き》なのである。
「――ね、この子、お義姉さんのこと話したら、ぜひ亜紀ちゃんに会いたいんだって。一目|惚《ぼ》れする恐れはあるけどさ、会わせてやってよ」
と、美由紀は愉快そうに言った。
「いいけど……。子供は慣れてるんでしょ?」
「そのつもりです」
と、少年は言った。
もちろん、背丈ももうエリより高いし、大人並みの体格だが、変にませた感じがしないので|爽《さわ》やかだった。
「今、眠ってるの。そろそろ起きるかもしれないけど――」
と、言いかけると、いいタイミングで亜紀子が泣き出した。「やっぱりだわ」
エリが立って、亜紀子を寝かせた奥の部屋の方へ|駆《か》けて行こうとしたが――。
エリは足を止めて、振り向くと、
「ねえ、あなた、亜紀ちゃんを抱っこしてあげてよ」
「僕がですか」
「ええ、慣れた人なら大丈夫でしょ」
少年は、エリについて奥へ入って行くと、布団の上で、顔を真っ赤にして泣いている亜紀子の方へそっとかがみ込んで|覗《のぞ》いていた。
ヒョイと抱き上げ、腕の中にスッポリはめ込むように抱く、その手つきは、全く不安がない。亜紀子はすぐに泣きやんで、不思議そうにその少年を眺めていた。
「――|可《か》|愛《わい》いなあ」
と、少年がため息をついた。
「へえ、上手なんだ」
と、覗いた美由紀が目をみはっている。
「でもねえ」
と、エリは言った。「赤ん坊をそうやって抱っこしてる、って、とても不自由でしょ」
「不自由……ですか」
「そう。両手が使えないし、一人なら走って間に合うバスも、赤ちゃん抱いちゃ走れないものね。何かと不便だし、|厄《やっ》|介《かい》よ。――でも、抱いてる時はそんなこと感じないでしょ?」
「ええ」
少年は|肯《うなず》いた。
それから、亜紀子をエリに渡して、
「ありがとうございました」
と、少年は頭を下げた。
「いいえ。――何かお役に立った?」
少年は、ちょっと照れたように、
「ええ」
と、|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「厄介なことを抱えてるから、人間って大人になるんだな、と思ったんです。まるきり|独《ひと》りで自由だったら、本当の難しさって分らないんじゃないかな、って……。失礼します、僕」
「そうあわてなくても――」
「あいつと仲直りしなきゃ」
そう言って、少年は帰って行った。
「――気持ちのいい子ね」
と、エリは言った。
「今時の若いのも、捨てたものじゃないでしょ?」
美由紀がそう言った時、電話が鳴った。「私、出る。――もしもし。――何だ、お兄さんか。――うん、分った。それじゃ」
「帰って来たって?」
と、エリは訊いた。
「今、東京駅ですって」
「厄介なものが、もう一つふえるわ」
そう言って、エリは笑ったのだった。
逃げる日
「え? なあに?――パパが遅い、って? 本当にねえ。これで亜紀ちゃんが風邪でも引いちゃったら、どうするのかしら。――え? 何ですって?――きっと会社の|可《か》|愛《わい》い女の子にでもつかまって、ヘラヘラしてるんだ、って?――うーん、そうかもしれないわねえ……」
一人で「二人の対話」を演じているのは、おなじみの坂上エリである。ベビーカーをわきに置いて、亜紀子を抱っこし、なおかつ着替えだの何だのを詰め込んでパンパンにふくれ上がったボストンバッグを肩からさげているという、何とも大変な状態なのだった。
もちろん、亜紀子が、パパのことを、「会社の可愛い女の子……」なんて言ったりするわけもなく(言ったら、ホラー小説になってしまう!)あくまでこれはエリのグチなのである。
ま、大体この寒い時期に、いくら待ち合わせの場所を思い付かないからといって、ターミナル駅のホールの真ん中に突っ立っているのは馬鹿げた話だった。
しかし、今日は金曜日で、夫の勝之が、
「必ず五時に会社を出て、六時には待ってるから、ゆっくり来いよ」
なんて言うもんだから、ついエリも安心して、亜紀ちゃんかかえて喫茶店なんかで、他のお客に気がねしながら座っている必要もない、と思ってしまったのだった。
ところが、もう約束の六時はとっくに過ぎて、六時半になってしまったというのに、勝之の姿は一向に見えない。会社へ電話しようかとも思うが、亜紀子と荷物に、ベビーカー……。
電話の所まで行くのだって、一苦労である。
エリがグチっているのも、まあ無理からぬところであった。
――亜紀子を連れて、初めての旅行。温泉でのんびり三日ほど過ごそうという計画で、お風呂好きの亜紀子のことも考えて決めたのだ。
しかし――戸外というわけじゃないのに、ホールに立っていると、結構北風が吹いて来て寒い。冬だからしょうがないが、亜紀ちゃん、風邪引かないかしら、とエリは気が気ではなかった……。
「おい」
声がしたものの、勝之とは似ても似つかぬだみ声で、エリは|面《めん》|喰《くら》った。
「はあ?」
一目見て、足がすくんだ。――頭を刈り上げて、サングラス。白のスーツにエナメルの靴。
どう見たって、「ヤクザ」である。
「誰を待ってるんだ?」
と、その男は低い声で言った。
ごく普通の口調なのが|却《かえ》って怖い。
「あ、あの――」
と言ったきり、後が続かない。
「誰を待ってるんだ、と|訊《き》いてんだよ」
「あの――主人です」
と、エリはやっと言った。
「フン、名前は何てんだ?」
「この子のですか?」
「そんな赤ん坊の名前を訊いてどうするんだよ。亭主の名前を訊いてるんだ」
一体何だろう? エリは、夫が|駆《か》けつけて来てくれないかしら、と思わず左右へ目をやった。
と、足早にやって来る男が一人。――これも、ヤクザにしか見えない男だった。
「おい、何やってんだ」
と、その男が、白いスーツの男に声をかけた。
「こいつが、もしかしたら、奴の女かと思って」
「馬鹿。奴の女は、まだ産まれてねえんだぞ。腹がでかいんだ」
「あ、そうなのか。だって、|詳《くわ》しいこと、聞いてねえからよ」
「そんなので見付かると思ってるのか。――奥さん、どうも失礼」
と、エリの方に|会釈《えしゃく》する。
「ちょっとした勘違いでね」
と、白いスーツの男は、へへ、と笑って、行ってしまった。
もう一人の男は、ゆっくりと左右へ目をやりながら、反対の方向へ歩いて行く。エリは、ホッと息をついた。
「怖かったわねえ、亜紀ちゃん」
「ワア」
亜紀子は、一向に怖くないようで(当然のことながら)、寒い風にも負けずに手を振り回して、エリをあわてさせた……。
でも――何ごとなんだろう? あんなヤクザが何人もで、誰かを捜しているらしい。
きっと、何かまずいことをやって、追われているんだ。女を連れて。しかも|妊《にん》|娠《しん》しているという……。
駅って、色んなことがあるもんなのね、とエリは思った。
「それにしても、パパ、遅いわねえ」
と、エリが駅の入口の方へ目をやると、急に誰かがすぐ後ろに立った。
「あなたー」
と、振り向くと、
「静かにしてろ」
と、押し殺した声。
「え?」
「静かにしてりゃ、何もしねえよ」
脇腹に何か固いものが押しつけられた。
「あなたは……」
「銃が|狙《ねら》ってるぜ」
銃。――銃が?
エリはゾッとした。
「あの――お金なら、バッグに――」
と、言いかけると、
「そのベビーカーを押してやる。いいか、俺と一緒に歩け」
「でも――」
「夫婦みたいなふりをして。いいな、楽しそうにしてろ」
無茶な注文である。
しかし、亜紀子を抱いているエリとしては、言われる通りにする他はない。
「ど、どこへ行くんですか」
「黙って歩け」
仕方ない。エリは亜紀子をかかえ、バッグをさげたまま、その男と、ロッカールームの方へ歩いて行った。
コインロッカーがズラッと並んでいて、人の出入りも結構ある。
「中に入れ」
と、男が低く|囁《ささや》いた。
ロッカーが並んでいる列の間を抜けて行くと、奥にドアがあって、〈出入り禁止〉となっている。
どうやら、駅の作業員用の出入口らしい。
「よし」
と、男がやっとエリから少し離れた。「おとなしくしてろよ」
「どうするんですか」
エリは、しっかりと亜紀子を抱きしめていた。
「いいから、黙ってろ」
と、男は言った。
思っていたより、ずっと若い。たぶん、まだ二四、五歳ぐらいではないだろうか。
かなり緊張しているのは確かなようで、この寒いのに額に汗を浮かべている。
「――畜生。何してるんだ」
|苛《いら》|々《いら》と|呟《つぶや》く。
どうやら、エリたち同様、誰かを待っているらしい。でも――まさか――。
女が一人、ロッカールームへ入って来た。
「おい、ここだよ」
と、声をかけられて、その女はホッとした様子で、急いでやって来る。
「遅いぞ。見付かるところだったぜ」
「ごめんなさい。なかなか家を出られなくって」
エリは、少々|呆《あっ》|気《け》に取られていた。いや、ドキドキしているのに変わりなかったのだが。
さっきのヤクザが捜していたのは、やはりこの二人らしい。女の方はもうお|腹《なか》が目立って……。でも、エリがびっくりしたのは、どう見てもその女が、まだ十代――せいぜい一八歳ぐらいにしか見えなかったからだ。
「こいつは気にするな」
と、男の方はエリのほうをチラッと見て、女に言った。「持って来たか?」
「はい、これ」
分厚い封筒を男へ手渡す。それをポケットへねじ込むと、
「あちこちで見張ってる。別々に入ろう。いいな」
「でも――」
と、若い女は不安そうに、「会える?」
「列車は決まってんだぜ。中で捜すさ。ともかくホームで一緒にいたら、目につく。分ったな」
「ええ……。でも切符は?」
「切符か。入場券を買って入れよ。見送りみたいな顔して。もう、行かないと」
「私は――」
「少し後で来い。いいか。ホームで会っても知らん顔だぞ」
女が|肯《うなず》く。心細い表情だ。男の方が笑顔になって、
「何だよ。元気だせ。列車が動き出しゃ、もうこっちのもんさ」
と、肩をつかんで言った。「後でな」
歩き出した男へ、
「気を付けて」
という女の声は届いたかどうか……。
その女は、何となくエリの、腕の中の亜紀子を見て、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「可愛い」
「あなた、今何か月?」
とエリは訊いた。
「七か月くらいかな」
「まだ|二《は》|十《た》|歳《ち》より前?」
「一九。でも、ちゃんと結婚届は出してるのよ」
と、女は自慢するように言った。
エリは、少し迷ってから、
「追われてるのね」
と、言った。「一緒じゃ、危なくないの?」
「でも……二人一緒なら、何とかなるもん」
と、女は肩を揺すった。
荷物も何もない。マタニティウエアも、そう暖かくはなさそうに見えた。
「余計なお世話かもしれないけど」
と、エリは言った。「あの人に渡したの、お金でしょ? 本当に列車で待っててくれるの?」
女は表情をこわばらせて、目をそらした。――分っているのだ。男が、一緒に行く気などないかもしれないってことが。
「いいの」
と、少し詰った声を出す。
「でも――」
「どうせ、家にいられなくなるもの。この子を産んだら。どこかへ里子に出されるかもしれない。そんなのいやだもの」
「ご両親に話しても?」
「二度と顔も見たくない」
と、女は唇を|歪《ゆが》めて言った。「行くわ」
「待って」
と、エリは声をかけていた。「ヤクザが、お腹の大きい女の人を捜してるわ。一人じゃ目に付くわよ。私が一緒に行ってあげる」
女は戸惑ったように、エリを見た。
「どうして?」
「いいから。このベビーカーを押して。少しうつむいて押せば、お腹が目立たないわ」
ロッカールームを出て、ホールを横切る前に、さっきのヤクザたちの姿を、エリは目に止めていた。ともかく、何とか改札口にまでやって来て、エリは自分で入場券を買って来た。
「これ、使って」
「――どうも」
エリは、女の腕に一方の手をかけた。
「彼が列車に乗ってるといいわね」
「うん」
女は肯いた。「ありがとう」
その笑顔は、子供のように幼く見えた。
改札口を入って、通路を歩いて行く後ろ姿は、頼りなかった。
エリは、亜紀子を抱え直した。
列車に乗って、男がいなかったら、あの子――いや「女の子」は、どうするんだろう?
家へも帰らず、恋人に見捨てられて、どこで子供を産むんだろう?
「ああして産まれて来る子もいるのね」
と、エリは亜紀子に話しかけるように、言った。「でも、赤ちゃんは赤ちゃん。ねえ、きっと元気な子が産まれるね」
「ワア」
と亜紀子が言った……。
「――すまん!」
ハアハア息を切らして、勝之が走って来た。
「出ようとしたら、間際に課長に呼ばれて……。客の相手をさせられたんだよ。本当にすまん! 亜紀ちゃん、ごめんよ!」
と、勝之は亜紀子を受け取って抱っこした。
「行きましょ。もう時間すれすれ」
「ああ。いや、ごめん。本当に――」
「怒ってなんかいないわよ」
「――本当に?」
「ええ。ちゃんとパパがいて、遅れたって必ず来てくれる、って分ってるんだもの。とっても幸せよ、ねえ、亜紀ちゃん」
エリが、持っていた切符を取り出して、改札口を入って行く。
勝之は亜紀子を抱いて、それについて行きながら、
「なあ、今のは何の皮肉かな? 亜紀はどう思う?」
と、真剣な顔で訊いているのだった……。
孫にも意見
坂上康俊は、チラッと腕時計を見た。
前には、決してこんなことはなかったのである。――いや、腕時計を見ることは年中あったが、大切な商談の席で、時間を気にしてしまうなんてことは、絶対になかった。
今だって、やっぱり内心、いくらか気恥ずかしいのだろう、一口飲んだお茶がこぼれていないか、とズボンを見るふりをして、こっそり腕時計を見たのである。
しかし、相手は坂上康俊の素振りに敏感に気付いた。
「坂上さん、お急ぎですか」
と訊かれて、康俊は、
「え?――あ、いや、別に」
と、あわてて首を振った。
「お急ぎでしたら――おい、そのグラフの細かい説明は省略しろ」
「はい」
立って、資料のスライドを映しながら説明していた課長は、「では、結論を先に――」
「ああ、いや、いいんだよ」
と、康俊は手を振って、「すまんね。気をつかわないでくれ。説明は充分に聞きたい」
会議室のドアが開いて、女子社員が、コーヒーを運んできた。
「ちょうどいい。一息いれよう」
と、康俊は言って、「ちょっと失礼」
会議室を出ると、受付の外線用電話へ駆けつけて、プッシュボタンを押すのももどかしい様子。
「――もしもし。――母さんか。亜紀子はまだいるのか?――泊る? エリさんも一緒にか」
向こうで妻の笑い声が響く。
「――当り前だな。それならいい。――うん、もう少し遅くなりそうなんで、帰るまで待っててくれ、と言いたかったんだ。――ああ、亜紀子が眠るまでには帰りたいな」
康俊はニヤニヤしながら、電話を終えて、会議室へ戻った。
「坂上さん、本当に、ご用事じゃないんですか」
取引先の社長、井田は、ちょうど坂上と同じ年代だ。康俊は部長だが、会社の規模は大きく、大企業の一つに数えられる。井田の所は、自分が創業した社員百人足らずの会社である。
しかし、井田は極めて堅実な男で、康俊は気に入っていた。――この新規契約の話だって、内容はこれまでの契約とそう変わらない。普通なら、康俊の所へ、
「この度もよろしく」
と、手みやげでも持って|挨《あい》|拶《さつ》に来ればすむのに、こうして部下を連れて来て、きちんと説明する。
こういう律義なところを、康俊は買っているのである。
「いや、用事といってもね……」
と、康俊は照れくさそうに笑って、「実はうちに、息子の嫁が孫を連れて遊びに来ているのさ」
「おや、そりゃ早くお帰りにならんと……」
「大丈夫。今電話したら、嫁と孫は泊って行くそうだ。のんびり孫の顔を見ていられるよ。息子は出張中でね」
「そうですか」
井田は笑顔になって、「しかし、スヤスヤ眠ってるだけじゃ、つまらんでしょう」
「井田さんのとこは、もうお孫さん、大きかったね」
「ええ。もう中学生です」
「そうか。早いもんだね」
「父親より背が高くなっちまいましてね」
と、井田も楽しげに笑う。
二人とも五十代後半に入っているから、孫がいてもおかしくはない。ただ、井田は結婚が早く、孫がもう中学生というのに、康俊の方は、孫の亜紀子がまだ赤ん坊。大体、娘の美由紀は高校生である。
「男の子だったかな、井田さんのとこは」
「そうです。息子に似なくて良かった。おかげでなかなかの二枚目で」
と、井田が笑う。
「いや、――|可《か》|愛《わい》いもんだね、孫ってのは。私も、子供のことは女房任せで放っておいたもんだが、孫となると全然違う」
「全くです。不思議な気分ですねえ、あれは」
二人して「孫談義」をやっていると長くなりそうなので、康俊は仕事の話に戻ることにした。
――井田の息子は、父親の会社に入っている。それはまあ、オーナー社長の息子なのだから、当り前のようなものだ。
しかし、康俊が感心するのは、井田が会社を息子には継がせない、と決めていることである。
「あれは経営者には向きません。本人も|可《か》|哀《わい》そうですよ」
不思議がる知人に、いつも井田は、そう説明していた。
確かに、康俊も知っているのだが、井田の息子は気が優しく、誰からも好かれる代わりに決断力というものに欠けていた。なまじ、オーナー社長だけに、自分の一存ですべてが決まって行く立場である。
そんな座についたら、どうしていいか分らなくなって、ノイローゼになってしまうだろう。――井田は、そういう息子の性格をよく見ていて、自分が社長を退いた後は、何人かの幹部の合議制で、会社を運営させていくことにしていた。
こういうことは、現実に、なかなかできるものではない。
経営者の神様みたいに扱われ、本を出したりしている大物の経済人が、いざ後継者問題となると、ただの「道楽息子」に地位を譲ろうとして評判を落とす、という実例はいくらでもある。
その点、井田は血のつながりだけで、経営はできないことを、よく承知しているのである。康俊は敬服していた……。
「――まあ問題はないんじゃないかな」
一通り説明が終わったところで、康俊は|肯《うなず》いた。「この程度の値上げはしかたない。ま、よろしくお願いしますよ」
「こちらこそ。貴重なお時間をどうも」
と、井田が深々と頭を下げる。
「それじゃ――」
と、康俊は書類をまとめながら、「孫とのデートへ、急ぐかな」
「お待ちかねじゃないですか」
と、井田は笑って言った。
「失礼します」
と、女子社員が顔を出して、「井田様。お電話が入っております」
「や、どうも。――申し訳ありません」
井田と一緒に出て、康俊は部長室の方へと歩いて行った。
ドアを開けようとして、康俊の手は止まった。
「何だと!」
井田の声が耳を打つ。ただならぬ様子だ。
「しかし、それは――うん。――うん。それで、和明は?」
和明というのは、確か井田の孫の名前である。どうしたんだろう? 康俊は気になって、動けなかった。
「――そんな馬鹿な!――和明のせいじゃない。そりゃ、向うが悪かったんだ!――決まっとるじゃないか!」
井田は、康俊が見たこともないほど、動揺していた。息づかいが荒くなるのを、何とか押えて、
「――うん。そうか。――分った。じゃ、ここへ寄ってから?――ああ、じゃ、待ってるよ」
受話器を置くと、井田がふらついた。康俊はびっくりして駆け寄ると、
「大丈夫かい?――さ、座って」
と、受付の|椅《い》|子《す》に座らせてやる。
「すみません……。どうも……」
井田は苦しそうに胸を押えた。
「少し落ちついた?――何事だね、一体」
「いや……。馬鹿げた間違いでしてね。孫が……孫が警察に……」
「警察? なにかやったのかな」
「間違いですよ。色々いい加減なことを言う奴がいるから……。すみません。息子が今、こっちへ向かってるそうなので、少し待たせていただいても――」
「ああ、いいとも。すると、今の電話は――」
「嫁からです。女はだめですな、取り乱して泣いたりして。なにも心配することはない。そんなのは何かの間違いに決まってるんだから……」
井田は、「間違い」という言葉をくり返している。当人は落ちついているつもりらしいが、はた目には、気の毒なほど取り乱しているのがよく分る。
帰ったものかどうか、康俊が迷っていると――。
「お父さん」
と、声がして、井田の息子がやって来るのが見えた……。
明るい笑い声が茶の間から聞こえて来ると、康俊はホッとした。
「――ただいま」
「あ、お|義《と》|父《う》さん、お帰りなさい」
と、エリが立ち上がりかける。
「いいのよ、エリさん。他人の亭主にまで気をつかわなくても」
と、康俊の妻、貞子が立ち上がって、「遅かったのね。亜紀ちゃんは、もう寝ちゃいましたよ」
「たった今です。まだ起きているかもしれませんわ」
と、エリが立とうとするのを、今度は康俊が、
「いいよ、寝かしといてくれ」
と、止めて、「いや、疲れた!」
ドッカリと座り込む。
「何かあったんですか?」
「ああ……。孫ってのは怖いもんだ」
康俊の言葉に、エリと貞子は顔を見合わせた。康俊は肩をすくめて、
「まあいい、飯にしてくれないか」
と、言った……。
――夕食を終えて、熱いお茶を飲むと、康俊はやっと肩がほぐれた、という感じだった。
「実は会社で、こんなことがあったんだよ……」
康俊は、井田のことを話してやった。
「――じゃ、その中学生のお孫さんが?」
と、エリは|訊《き》いた。
「うん、何人かで、下級生をおどして、金をださせてたんだそうだ」
「まあ」
「残念ながら、井田の言うような『間違い』じゃなかった。他の子に無理やり仲間にさせられて、というのでもないらしい。どうやら、その子がリーダー格でやったことらしいね」
「どうしてそんなことを……」
「金には不自由していなかった。ともかく、お|祖《じ》|父《い》さんが、どんどん小づかいをやっていたらしくてね」
「その社長さんがですか」
「うん……。うちの会社へ迎えに来た息子と、口論になったんだ」
康俊は、思い出すのも|辛《つら》い、という様子だった。「いつも、そつなく冷静にしている人がああも我を失うのを見るのは、本当に居たたまれなくなるね……」
「その子は、ぜいたくに慣れちゃったんですね」
「うん。仲間にもおごったりするのが当り前になってしまって、そうなりゃ、いくら小づかいがあっても足らないさ。そう年中、お祖父さんの会社までもらいにも行けない。手近なところで、ということになる」
「息子さん――その子のお父さんは?」
「薄々気付いてはいたんだろうが、子供を|叱《しか》ることもできない男なんだ。二人して、相手が悪い、と言い争いを始めてね」
「いやですねえ」
と、妻の貞子が顔をしかめる。
「いや、つくづく、怖いと思った」
康俊は、ちょっと息をついて、「さあ、うちのお姫様の顔を拝見して来るか」
「ええ」
「あなた、起こさないでよ」
「分っとる」
康俊は、一階の奥の日本間に寝かされた亜紀子へ、そっと近寄って、その鼻息が顔にかかるほど、顔を近付けた。
「――|可《か》|愛《わい》いもんだな」
と、低い声で|呟《つぶや》く。
「最近は|凄《すご》く表情豊かで」
「そうか」
康俊はエリの方へ、「我が子ってやつは、どんなに可愛くても、親には責任ってものがあるからな。ところが孫にはない。だから孫ってやつは、余計に可愛いんだね」
「はあ……」
「子供が非行に走れば親の責任だ。しかし、今のように、みんな長生きになるとねえ。祖父や祖母も、孫の育て方に責任を持たなければならんね」
「でも、お義父さんは――」
「いや、分らんよ。分らんところが怖いんだよ」
康俊は肯いて、「孫のため、と思うことが、逆に孫をだめにすることもある。――いいかね、エリさん」
「はい」
「もし私が、亜紀子のことで、少し可愛がり過ぎるとか、物を与え過ぎるとか思うことがあったら、いつでもそう言ってくれ」
「まさか、そんな――」
「いや、本当だよ。一人の子供がまともな大人に育たなかったら、どうなる? 両親だけじゃない、その結婚相手、子供にまで、辛い思いをさせる。その責任は、と言っても、もう祖父や祖母はいない。――そんなことにしちゃいけないからね」
「かしこまりました」
と、エリがわざと堅苦しく、「うんと厳しく、意見をさせていただきます」
この嫁に意見をされたら、本当に怖そうだ、と康俊は思った。
クッシュン、と亜紀子がクシャミをして、二人はあわてて布団をかけ直したのだった。
ピアニッシモ
「|儲《もう》かった、儲かった」
と、坂上美由紀はそのチケットを両手で捧げ持つようにして、一礼した。「ありがたや!」
「何やってんの」
と、見ていた吉住リカが笑って、「さ、入ろうよ」
「うん!」
美由紀は、真新しいコンサートホールの入口を入りながら、「一度、ここへ入ってみたかったんだ!」
入るとすぐにロビーになっていて、高い天井からは、モダンなデザインのシャンデリアがまぶしい光を降らせている。
「いいねえ、この|雰《ふん》|囲《い》|気《き》」
と、美由紀は足を止めてポカンとシャンデリアを見上げていて、後ろから来たお客に追突されてしまった。「あ、ごめんなさい」
「――ほら、二階席だから、こっちよ」
と、リカはよく知っている様子で、階段の方へと歩いて行く。
「リカ、もう何回も来てるの?」
と、美由紀は訊いた。
「うん。――十回ぐらいかな」
「|凄《すご》い」
この新しいホールがオープンしてから、まだ一年はたっていないはずだ。その間に十回も来ているなんて……。
でも、リカの家は父親が音大の教授で母親がピアニスト、という音楽一家だ。リカも当然のことながら、ピアノが上手で、大学は音楽の道へ進むと決めている。
本人もそう決めているだろうし、周囲も頭からそう思っているのである。
ところで、美由紀が、「|儲《もう》かった」と|騒《さわ》いでいたのは、別にどこやらの未公開株をもらっていたわけでは、もちろんなくて――高校生なんだから――今夜のチケットが一枚余ったから行こうよ、とリカに誘われて、S席一万円也のチケットをタダでもらってしまったからなのだった。
高校生の懐具合にとって、一万円のチケットがタダで手に入るというのは、正に「大事件」である。
「コンサートっていえば、うちの親は、いくらでもお金出してくれるの」
と、階段を上りながら、リカは言った。
「へえ……」
正直なところ、美由紀と吉住リカは、同じクラスになったことがある、というだけで、そう親しいわけではない。
ただ一週間ほど前に、たまたま電車で一緒になって、この日のコンサートの話が出た。かなり人気の高い外国のピアニストで、テレビのCFにも顔を出している。
お母さんと行くことになってて、というリカの話に、美由紀が、
「いいなあ」
と、声を上げたのを、リカが憶えていたのである。
「お母さん、用事ができて行けなくなったの。一緒に行かない?」
と、電話をもらって、一も二もなくOKした。
「――わあ、凄くいい席」
二階の、ほぼ正面。前から三列目。――同じS席でも、かなり端の方まである。
もう席は大分埋っていた。もちろんチケットは売り切れているので、時間までには満席になるはずである。
「コーヒー、飲もうか」
と、リカが言った。
二人で一旦席を立って、二階のカウンター式になった喫茶コーナーへ行く。リカはコーヒーだが、美由紀はアイスクリームにした。
コンサートの最後に渡そうというのか、花束を持った女の子も、目につく。
「いやね、ああいうの」
と、リカは、|眉《まゆ》をひそめて、「ロックコンサートか何かのつもりで来てるんだから。音楽のことなんて、分ってないのよ」
美由紀としても、多分にミーハー的な気分で来ていたから、他人のことは言えない。
リカは、同年代の子にしては少し大人びていて、ちょっと冷たい感じも与えた。あまり親友という子もいないようだ。
美人だし、頭もいい。みんなと一緒になってはしゃぐでもない。――これでは、親しくなるにも「|隙《すき》がない」のである。
美由紀の友だちの中には、リカのことを、
「お高く止まって」
と、|嫌《きら》う子もいる。
しかし、美由紀は人それぞれ、という考えだから、別にリカのことを敬遠したことはなかった。
美由紀は、足に何かが当たるのを感じて振り向いた。――誰もいない、と思って、ふと下を向くと――。
「あら、|可《か》|愛《わい》い」
つい、笑ってしまう。
せいぜい三つになるかならないかぐらいの女の子が、美由紀のスカートを引っ張っているのだった。お人形みたいな、可愛い柄のワンピースを着ている。
「何してんの? 誰と来たの?」
と、美由紀が声をかけると、その女の子はクリッとした目で、美由紀の方を見上げている。
「あ、すみません」
と、母親らしい女性が急いでやって来ると、「だめよ、アキちゃん。ほら、アイス食べましょ、あっちで」
と、女の子を抱き上げた。
「あ、スプーン、これを使うんですよ」
と、美由紀が、カウンターに用意してあるスプーンをその母親に渡してやる。
「あ、どうも――」
と、スプーンを受け取って……。「まあ、リカさん?」
驚いたように、リカを見つめている。
リカの方は、何も言わずに目をそらしてしまった。
「すっかり大人になって……。先生はお元気?」
と、その女性が|訊《き》いたが、リカは完全に無視して、コーヒーを飲み干すと、
「先に席に戻ってる」
と、さっさと行ってしまった。
まだアイスクリームを半分食べ残していた美由紀は、少々気まずい思いで、その女性が少し|哀《かな》しそうにリカを見送っているのを横目で眺めていた……。
ショパンはやっぱりいい!
美由紀は、これが自分もたまに(!)練習したりするのと同じピアノという楽器なのかしら、と疑いたくなってしまった。
ホールとしては、決して小さくないのだが、その空間を一杯に満たすように、ピアノが鳴る。――前半はショパンプログラム。後半にもショパンがある。
リカはその点少々物足りないようで、
「プロコフィエフでも聞きたいのに」
とか言っていたが、美由紀としてはショパンでありがたい、というのが正直なところだった。
〈別れの曲〉。――うん、これはいくら私でも知ってるぞ。
|囁《ささや》くようなピアニッシモが、ホールの中に広がって行く。聴衆も、うっとりと聞き惚れている様子だ。すると――。
「ワーア」
突然、子供の声が響き渡った。――まあ、これがオーケストラのコンサートで、大行進曲でもやっていたのなら、大して目立たなかったかもしれないが……。今は、最悪のタイミングだった。
みんなの視線が|一《いっ》|斉《せい》に、「声の主」を求めてホールの中を|巡《めぐ》った。
美由紀は、二階の端の方の席から、さっきリカに声をかけていた女性が、急いで立ち上がるのを、目に止めた。あの女の子を抱いている。
泣いているわけではないようだが、確かに子供にとっては、もう眠くなる時間だ。
カタカタと足音がして、その女性がホールを出て行くと、美由紀はホッとした。
静かになって良かった、というのとは少し違う。突き刺さるような非難の目に、あの親子がさらされるのを見るのが、|辛《つら》かったからである。
ピアニストの方は、別に腹を立てた様子もなく、〈別れの曲〉を結んだ……。
――そこで|休憩《きゅうけい》に入る。
「いいね、やっぱり生演奏は」
と、美由紀は言ったが、リカは何も答えずにパッと席を立って、行ってしまった。
気になった美由紀は、リカの後を追って行った。
「――やっぱり」
と、美由紀は通路へ出て、|呟《つぶや》いた。
女の子を抱いた女性の所へ、リカが歩いて行って、
「どういうつもりなの」
と、問い詰めるような調子で言ったのである。「あなただって、ピアニストになりたかったんでしょ。そんな子供なんか連れて来て。迷惑になるのが分らないの」
言われている女性の方は、青ざめた顔で、無言のまま目を伏せていた。リカは、
「帰りなさいよ。あなたが母の弟子だったこと、知ってる人も来てるんだからね」
「リカ、やめなさいよ」
美由紀はリカの肩に手をかけて言った。
「美由紀は黙ってて」
「そうはいかないわ」
美由紀は引きさがらなかった。「リカの言うことが正しくても、言い方ってものがあるわ。私たち高校生よ。大人に向かって、そんな言い方しちゃいけないわ」
リカは、キュッと口を結んで、そのまま行ってしまった。
「――ごめんなさい」
と、その女性は息をついて、「無理は分ってたんだけど……」
女の子は、抱かれたまま眠っていた。
「リカさんのお友だち?」
「そうです。同じ学校で。――今、いくつですか?」
「この子? 二歳半」
「兄のところ、まだ赤ん坊なんです。|可《か》|愛《わい》いなあ」
何しろ、最近は小さな子を見ると、ついニコニコしてしまう美由紀である。
「ありがとう。でも、やっぱりショパンは早かったみたい」
「リカのお母さんに――」
「ええ。――ずいぶん長く、教えていただいてたの。厳しくやられたけど、それだけ私のこと、期待してて下さったのよ」
「|凄《すご》いなあ。私なんか全然期待されてないけど」
「それが――四年前に、私が今の主人と会ってね、黙って結婚しちゃったものだから、先生、怒って……。当然でしょうけど」
「じゃ、もうピアノは――」
「自分の力の限界も分って来てたの。だから、結婚の方を取ったのよ。それで破門、ってわけで……。リカさんに何と言われても仕方がないわ」
と、その女性は子供を抱き直して、「この子が産まれてから一度もピアノを聞いてなくて……。このホールに友だちがいるの。たまたま今日、昼間電話で話してたら、このコンサートなら入れてあげる、と言われて。そう聞いたら、何だか……とても我慢し切れなくて」
「ご主人に子供さん、みてもらうとか――」
「主人は海外なの。この半年ね。急だったから、預かってくれる人も見つからなくて……。大人しくしてるから、絶対に、って、友だちに頼んで、入れてもらったんだけど……。この子にとっちゃ、迷惑だったんでしょうね」
と、笑った。
「そうですね。でも、せっかく……」
「後半のショパンがね。私が最後の発表会で弾くことになってた曲なの。それもあって、つい、ね。――あ、もう始まるわ」
開演のチャイムが鳴って、ロビーに出ていた客たちがホールへ戻り始める。
「どうするんですか」
「帰るわ。――ごめんなさいね、リカさんと……」
「そんなこと、いいんです」
と、美由紀は首を振って言った。「私が、抱いて座っててあげます」
「え?」
「私、子供好きだから。眠っちゃえば、もう目を覚ましませんよ。ここにいるから。聞いて来て下さい」
「そんなわけに――」
「どうせ私も、タダ券なんです。ね、私に任せて」
その女性が|頬《ほお》を染めて、|嬉《うれ》しそうに|微《ほほ》|笑《え》んだ……。
「いいことしたわね」
と、エリが言った。「喜んだでしょ」
「ショパンだけ聞いて、帰ってったわ」
と、美由紀は言って、|這《は》いずり回る亜紀ちゃんを追いかけた。
「確かに、連れて行った方が悪いんでしょうけど……」
「でも、母親だって、音楽聞きたいよね。私に赤ちゃんがいても、そう思うな、きっと」
と、美由紀は膝をかかえて座ると、「それよりね、周りの人が、憎らしいって目で、その人のことにらんでたのが、腹立つの。――自分だって、いつひどい|咳《せき》が出たりして、同じ立場になるか分らないじゃない。そういう人に気をつかってあげるのが、音楽の好きな人の心だと思うけどなあ」
「そのお友だちは?」
「リカ?――うん、帰りにね、悪いこと言ったな、って」
美由紀は微笑んで言った。「しっかり、ケーキ食べて帰った」
「|羨《うらやま》しいわ」
「お|義《ね》|姉《え》さんも、今度、コンサートでも行ってきたら? 兄貴と二人で。私が亜紀ちゃん、見ててあげる」
「まあ、本当?」
「うん」
――美由紀は、その時には兄からいくらバイト料をもらおうか、と考えていた……。
他人の空似
「いや、どうも……」
と、いささか若さの割に太り気味の夫は照れまくっている。「本当にその――いつもご主人にはお世話になってまして」
「あなた」
と、妻が突ついて、「それはもうさっき……」
「言った?」
「二回もね」
「そうだっけ」
二人のやりとりを聞いていた坂上エリは思わず吹き出してしまった。
それでまた新婚夫婦の夫の方は、真っ赤になって汗を|拭《ふ》いているのである。
「本当にどうぞ、気を楽になさってね。主人ももう戻ると思いますから」
と、エリは言って、「お茶、冷めますから、どうぞ。甘い物がお好きとうかがってたので」
「どうも。いただきます」
エリの夫、坂上勝之が仕事で付合いのあるこの男。勝之より四、五歳年下だが、勝之によれば、
「まれに見る純情青年」
で、会社は違うのだが、何となく個人的に仲良くなってしまった。
名を笹口良平といい、前述の通り、年齢の割には大分太っている。
太った人というのは、見かけは何となくおっとりしていて、その実、神経質なタイプが多いものだが、この笹口良平は、もろ[#「もろ」に傍点]見かけ通り。
大らかで、人の良さが、そのふっくらとした真ん丸な笑顔にも現われていた。
その笹口がつい先日、結婚し、ハネムーンから帰って、今日の日曜日、夫婦で坂上家に|挨《あい》|拶《さつ》に来た、というわけである。
エリも夫と一緒に、結婚式に呼ばれたので、ウエディングドレス姿は見ていたが、こうして間近に笹口の妻を見るのは初めてだった。
妻の|香《かおり》は、夫より確かに二つほど年上のはずだが、笹口があんまり照れ屋のせいか、もっと年上みたいに見える。美人というわけではないが、いかにも堅実なタイプの、しっかり者という印象。
地方の大家族の長女、という紹介が披露宴であった時、エリは、やっぱりね、と思ったものだ。
「お宅、お子さんはすぐにでも?」
と、エリが|訊《き》くと、
「え……まあ……。な?」
と、また笹口が真っ赤になって、妻の香の方を見る。
香は黙って|微《ほほ》|笑《え》んだだけだった。
そこへ、急な用事で出かけていた勝之が、息を切らして帰って来る。――正直、エリもホッとした。
何だか子供のお守りをして疲れたような、そんな気分だったのである。
「やあ、すまん。――お帰り。ハネムーンはどうだった?」
「どうも、その節は色々お世話になりました」
と、香が頭を下げる。
「いやいや。多少でも役に立てればね。――何だ、おい、もう少し太ったんじゃないのか?」
「よして下さいよ、坂上さん」
と、笹口は、また照れたように笑って頭をかいた……。
――勝之のすすめで、結局、笹口と香は、ここで夕食を一緒に、ということになった。エリもそのつもりで仕度をしていたので、特別忙しかったわけでもないが、香が手伝ってくれるというので、力を貸してもらうことにした。
大家族の長女として、十代のころから家事をやって来たという香は、さすがに手際も良く、味つけや盛りつけも、プロ並みの腕前で、エリは舌を巻くばかりだった。
さて、食事、となって――。
「おい、飲めよ。大丈夫だろ? 車ってわけじゃないし」
と、勝之は、笹口に酒を注いだ。「奥さんもお強いんでしょ? 確か、酔いつぶれた笹口を|介《かい》|抱《ほう》したって話だから」
「まあ、|凄《すご》い」
と、エリは目を丸くして、「どうぞ、ご遠慮なく。私はあんまりいただけないんですけど」
「どうも……」
と、香はちょっとためらってから、「あの――実は、お酒やめておりまして」
「へえ。じゃ、結婚を機に禁酒ですか」
「いえ、それが……」
エリが察して、
「おめでたなんですね」
と言った。
「はい。そうなんです」
これには勝之がびっくりした。
「やあ、それじゃ――。おい、笹口」
「は?」
「とぼけるな。付合い出して三か月で結婚だとか言ってたじゃないか」
「|嘘《うそ》じゃないですよ! 今――香は三か月なんです」
むきになって言い返す笹口は、何とも可愛いものだった……。
これは、坂上家に「お姫様」亜紀ちゃんが産まれる前のお話。
そして、日は過ぎて……。
「やあ、どうしたんだ?」
会社の地階にある喫茶店に入った勝之は、待っていた笹口に声をかけた。
「どうも。ごぶさたして……」
異動で、このところ勝之とあまり会う機会のなくなってしまった笹口は、以前より少しやせた印象だった。
「お忙しいのに、すみません」
「いや、残業ったって、連絡のテレックスを待ってるだけ、という退屈な仕事なんだ。構わないよ」
勝之はコーヒーを取って、一口飲むと、「何だい、相談って」
「はあ……」
と、相変わらず笹口はもじもじしている。
「育児の相談ならだめだぜ。結婚は後でも、君のとこの方が四か月も早いんだからな」
「そうじゃないんです」
「そうか。――元気かい。君のとこの子、男の子だったよね」
「そうです。信平とつけたんですけどね」
「笹口信平。いいじゃないか。大物になりそうな名だぜ」
「――坂上さん」
と、笹口は思い切ったように言った。「香が信平を連れて、家を出てしまったんです!」
「何だって?」
勝之は|唖《あ》|然《ぜん》とした。「一体どうしたんだい?」
「それが……」
笹口も、いつもの元気は、すっかり消え失せてしまっている。
「|喧《けん》|嘩《か》したのか。でも、出てっちゃうっていうのは……」
「実は、一か月くらい前になります」
と、笹口は話し始めた。「会社へ、一人の男が僕を訪ねて来ました。まるで見たこともない男で、桜木という名でした」
「その男が――」
「外資係の会社に勤めているということで、なかなか知的な、立派な男でした。そして、これから、自分はアメリカへ|発《た》って、向こうにたぶん永住することになると思うので、それを奥さんに伝えてほしい、と言うんですよ」
「香さんへ?」
「ええ。僕はわけが分りませんでした。どういうことなのか、|訊《き》いてみると……。つまり、香は、僕と付合い出す前に、桜木という男と付合っていたらしいんです」
「へえ」
「それもかなりぎりぎりまで。――結局、エリートコースを歩いて来た桜木と香とでは、あまりに違いが大き過ぎるとか、色々あって、かなり苦しんだ挙句に別れたようなんです」
「そうか。――ま、しかし、香さんだって、一六、一七の子供じゃない。君の前に誰か恋人がいたって、むしろ当然だぜ。まだ別れてない、っていうのなら問題だろうけど、別れたんだろう?」
「ええ……。桜木という男の態度も立派でした。香に直接会って話してもいいが、それが分って、僕の誤解を招くといけないので、伝えてもらえたらと思った、と言うんです。そして香に、幸せを願ってる、ということと、自分は向こうで誰か結婚相手を見付けるつもりだと……」
「それで済まなかったのか。またそいつは何か言って来たんだな?」
「いいえ。桜木はその翌日にアメリカへ発ってしまって、約束通り、香には手紙一本、出していません」
勝之は首をかしげた。
「分らないな。それじゃどうして一か月もたって、奥さんが家出するんだい?」
「はあ……。実は――」
と、笹口が言った。「その桜木という男、|眉《まゆ》が濃かったんです」
勝之は、ますますわけが分らなくなってしまった……。
「――一体、誰に似たんだろうね、っていつも言ってたんです」
と、香は言った。「私はこの通り眉が細いし、主人も、とても眉毛は薄いんです。それがこの子は、ご覧の通りで」
――笹口信平が、坂上家の居間のソファで、スヤスヤと眠っていた。
「とっても鮮やかな眉ね。りりしくて、すてきじゃない」
と、エリは言った。
「ええ。ところが、主人は桜木に会い、その眉が濃くて、くっきりとしているのを見て……」
「信平君がその人の子だ、と思い込んじゃったのね」
「この一か月ほど、どうも様子がおかしいので……。我慢し切れなくなって、訊いてみると、突然そんなことを言われて。――確かに」
と、香はため息をついて、「桜木とは結婚の約束をしていました。笹口と付合い出したのは、桜木と別れた辛さから立ち直りたくて、すがりついたようなところもあります。でも……。他の人の子を|騙《だま》して押し付けるようなこと、私はしません」
「当然よ」
と、エリは|肯《うなず》いた。「でも――困ったわね」
玄関の方に、
「ただいま」
と、勝之の声がした。「――やあ。――あれ?」
居間を|覗《のぞ》いた勝之は、香と信平を見て、目を丸くした。
あれかな?――いや、違った。それじゃ今、信号の所に立ってる娘かな?
笹口は、目が疲れて頭を振った。もう一時間以上待っている。本当に来るのかな?
横断歩道をガラス越しに見る喫茶店で、笹口は待っていた。香から連絡があって、ここで待っていてくれれば、香の妹が代わりに会いに行って、笹口を案内する、というのだった。
しかし香の妹といっても、式の時に会ったきりで、しかも何人もいるから、顔を思い出せない。おかげで、さっきから、それらしい若い娘が横断歩道を渡って来ると、ついじっと見つめてくたびれてしまう、というわけだった。
あれかな、と思う。どこか似た感じの娘は三、四人は通ったのだが、どれも違っていたらしい。――笹口は、いい加減くたびれて、引き上げようかと思い始めていた。
すると、誰かが不意に、向かい合った席に座ったので、笹口はびっくりした。
「――坂上さんの奥さん!」
「いかが?」
と、エリは訊いた。「奥様と似た人は何人くらい通った?」
「はあ……。じゃ、奥さんが、あの連絡を?」
「ええ。他人の中にも、『姉妹です』と紹介されて納得してしまいそうな、よく似た人っているもんでしょう? みんながみんな、隠れた血のつながりがあるわけじゃないわ」
「それはまあ……。香と信平は――」
「うちにいらっしゃるわ。戻ってほしい、と?」
「ええ。――僕も心を決めました。もし、信平が桜木の子でもいい。僕の子として、育てようと――」
「分ってないのね」
と、エリは首を振って、「香さんは、許してくれることを願ってるわけじゃないんです。信じてくれることを望んでるんですよ」
「ええ、ですから――」
「女は誰のために、苦しい思いをして子供を産むと思うんですか? その相手が自分のことを信じてくれなかったら……」
エリは立ち上がって、「本当に奥さんを信じられる、と思ったら、迎えに来て下さい。それまでは、家でお預りしますわ」
と、さっさと店を出てしまった。
すると――ものの十歩もいかない内に、
「奥さん!」
ドタドタと足音がして、笹口が追いついて来る。
「どうなさったの?」
「いや、今、奥さんを見てて、誰かと似てる、と思ったんです」
「私が?」
「ええ。口もとが、うちの信平とそっくりです」
|呆《あっ》|気《け》に取られていたエリは、吹き出した。そして、笹口も明るい声で笑ったのだった。
危ない日
「ゆうべは危なかったのよね」
と、近所の奥さんが言った。
「あら、それじゃ、断われば良かったのに」
と言い出したのは、坂上エリよりも四つも年下ながら、もう二歳になる男の子のいる、水原結子という主婦。
主婦ったって、こんな風に近所の奥さん四、五人集まると、水原結子はひときわ目立つ。何しろその格好たるや、どう見たって、お|洒《しゃ》|落《れ》な女子大生……。
「断わるって?」
と、初めに口を開いた奥さんが、不思議そうに|訊《き》き返すと、水原結子は、
「だって、ゆうべは出来ちゃいそうな時期だったんでしょ? そんな時は、いくら旦那が要求して来ても、断固、拒否すりゃいいのよ!」
と、主張した。
「あ――いえ、そうじゃないのよ。そんなことじゃないの」
「あら、違うの? また、私って早とちりで、ハハハ」
当の水原結子があっけらかんと笑っていて、周囲の奥さんたちの方が照れて赤くなったりしている。
そこに加わっていたエリも、吹き出しそうになるのを、何とかこらえていた。何を言っても、怒る気になれないのが、水原結子の得なところかもしれない。
「うちの隣にね、小学生の女の子がいるのよ。四年生かな。|可《か》|愛《わい》い子でね、ちょっとモデルにでもしたくなるような」
と、その奥さんが話し始めた。「その子がゆうべピアノのおけいこに行って、帰りに、変な男の人に声かけられてね。車に乗ってて、『道を教えてくれないか』って言ったらしいのね」
「まあ」
と、他の奥さんたちも、真剣な表情になる。
「で、その子が車に近付いて、道を説明しようとしたら、いきなり車の中に――」
「引っ張り込まれたの?」
「ちょうどうまい具合に、ソバ屋の出前の人が通りかかったんですって。女の子が大声を出したんで、車は逃げちゃったそうよ」
「良かったわねえ」
「泣いて帰って来て、お隣の奥さんがびっくりして……。もちろん警察にも届けたらしいけど」
「何てことでしょ!」
――同じ子供を持つ母親として、子供を|狙《ねら》った犯罪くらい、腹の立つものはない。
それはエリだって同じだ。いくら亜紀子が小さいといったって、ほんの十年もすれば、立派な「女の子」である。
「お隣じゃ、ピアノをやめさせるか、必ずお母さんが付添うか、どうするか、って頭をかかえてるみたい」
「分るわ。――変な男が多いのよね。本当に」
みんなが黙って|肯《うなず》き合った。
小さな子を狙えば、犯人の顔だってはっきり憶えていないだろう。――そういう「計算」が見えるのも、腹が立つ。
「充分用心しましょうね」
と、一人の奥さんが言って、みんなは口々に、
「何か考えなきゃね」
「交替で見てるとか……」
「いつもいつも、連れて歩けないしねえ」
などと言い合っている。
一人、水原結子が、のんびりと髪の乱れを気にしていた……。
暖かい日だった。
水原結子は、二歳の広実を、公園で遊ばせていた。
近所の子供たちも大勢来て、一緒に遊んでいる。――まあ、時には喧嘩もするし、ワーッと泣き出す子、けがをする子、色々いるが、それなりに楽しくやっていた。
広実は、人なつっこい。一人っ子なのに、人見知りということもしない子である。
結子の夫は、いつも、
「お前に似て社交的なんだ」
と、笑う。
まあ、そうかもしれないわ……。結子も反対はしなかった。
広実、なんて名をつけるのに、夫はちょっといやな顔をした。女の子みたいじゃないか、というわけだ。
でも、これからは男だって可愛い方がいい時代なのよ、と結子が頑張って、押し通してしまったのだ。
そして実際、広実は女の子みたいに可愛かった。目がパッチリして、笑うとえくぼなんかできて……。
「あら、可愛い」
と、通りすがりの奥さんなんかが、言い合っているのを聞くと、結子はいささかいい気分だった。
そうよ。何しろ、「母親似」なんだからね!
もう二歳ともなると、チョコチョコよく歩いて、結構遠くまで行ってしまったりするのだが、結子はあまり気にしなかった。
そうそう年中ついて歩いていられやしないわ……。
ベンチに、結子は一人で腰をおろしていた。
今日は、いつもおしゃべりしたりする奥さんたちが、一人も来ていない。何しろ、みんな、習いごとで忙しいのよね、今は。
その点、結子は面倒くさがりやで、あまり外に出ない。ただし、自分の洋服とかバッグとかを買う時だけは別である。
退屈ね、本当に……。お昼になったら、もう家へ帰って、テレビでも見せときましょ。
そんなことを考えている内に、いつしか結子はウトウト眠り込んでいった。
ハッと目が覚めて、
「――あら、いやだ。寝ちゃったんだわ」
と、頭を振って、公園を見回すと……。
もう、子供たちは、ほとんどいなくなっていた。十二時を過ぎている。
お昼を食べに帰っているのだ。広実も、お腹を空かして――。
「広実。――広実ちゃん」
と、結子は立ち上がって、呼んだ。
広実の姿は、どこにも見えなかった。結子は歩きながら、キョロキョロと左右を見回して、広実の姿を探した……。
「ただいま」
と、坂上勝之は、玄関を入って言った。
「あなた!」
と、エリが飛び出して来て、勝之はびっくりした。
「どうしたんだ?」
「大変だったのよ!」
と言われて、勝之の顔色が変った。
「何だって? 亜紀子に何か――」
「そうじゃないの。そうじゃないけど……」
「ワア」
当の亜紀ちゃんが玄関へ|這《は》い出して来て勝之はホッとした。
「びっくりさせるなよ!」
「ごめんなさい。でもね――。ほら、水原さんって、面白い奥さんがいるでしょ」
こういう話にパッとついて行くには、普段から、よほど訓練のできている必要がある。
「ああ、あの派手な……」
「そう。まだ二四ぐらいの」
と、エリは|肯《うなず》いて、夫の上着を受け取りながら、「あそこの子がいなくなってね、ついさっき、見付かったの」
「迷子?」
「それが、誰か、男の人に連れられてったらしいのよ」
「何だって?」
と、勝之は目を丸くして、「でも、あそこの子、まだ小さいだろ」
「二つ」
「そんな子を、どうして連れてくんだ?」
「知らないわ。ともかく連れていかれて、でも、お腹が空いて泣き出したんで、困って置いてったみたい」
「ふーん。しかし、無事でよかったな」
「ね。――もう大騒ぎ」
やっと話が一段落して、勝之は、夕食にありつくことができたのだった。
「――犯人は分らないのかい」
と、勝之は言った。
「だって、二歳の子よ。どんな人ったって、話せやしないわ」
「そりゃそうだな」
と、勝之は首を振って、「そんな奴が、あちこちを歩き回ってるのかと思うと、ゾッとするな」
「本当ね。気を付けないと、亜紀ちゃんも。その内、大きくなったら……」
「いつまでも今のままだといいかもしれないけどな」
と、勝之は言った。
「まさか」
「ヤア」
と、亜紀子が、いやだよ、とでも言うように手を振って、二人は大笑いしたのだった……。
「じゃ、お願いね」
と、エリが言って、足早に行ってしまうと、勝之はベビーカーを押しながら、
「さて、どこへ行こうか?」
と、亜紀子に声をかけた。
「タァ、タァ」
と、外へ出られて、亜紀ちゃんはご|機《き》|嫌《げん》である。
暖かな午後で、平日なので人通りも少ない。
久しぶりに休みを取った勝之は、お昼までぐっすり眠って、ついさっき起き出して来たところである。
エリは、大学時代の友だちの出産祝いに外出。この午後は、父と娘の水入らず、というわけだった。
つい、足は公園の方へ向く。何といっても、子供にとって面白いのは、他の子供たちを見ること、なのだから。
「――あれが、例の子だな」
と、勝之は|呟《つぶや》いた。
広実という、女の子でもつけられる名前をつけている。確かに可愛い子である。
おまけに誰にでもニコニコ笑いかける。人なつっこいのは、悪いことじゃないと思うが、しかし……。
大人を信用するな、と子供に教えなきゃいけないような、そんな時代なんて、いやだな。
しばらく公園を眺めて、勝之はまたベビーカーを押して歩き始めた。
「さて、今度はどこに行こうか。――スーパーかい?」
スーパーの大型店の屋上には、小さな遊園地ができていて、亜紀ちゃんのお気に入りである。
「よし、それじゃ、二人で小さな電車に乗ろうな」
と、スーパーの方へ足を向け、信号の所で待っていると……。
何やら、足に触るものがある。見下ろすと――広実という子が、ニコニコと笑いながら、勝之のズボンを引っ張っているのだった。
「何してるんだい?」
と勝之はびっくりして言った。
そして、ドタドタという足音に振り向くと、五、六人の奥さんたちが、|凄《すご》い形相で走って来るのが見えた。――勝之は、青くなったのだった……。
「――お宅のご主人とは知らなくて」
と、水原結子は頭を下げた。「ごめんなさい、本当に」
「いいのよ。もうすんだことだし」
と、エリは言った。「もう忘れましょ」
「本当に……。ご主人に、申し訳ありませんでしたって」
「伝えるわ、大丈夫よ」
結子は、何度も頭を下げながら、帰って行った。
「――もう帰ったのか」
と、勝之が出て来る。
「ええ」
「しかし――|厄《やく》|日《び》だな、今日は」
勝之はソファに引っくり返った。
――夫の気持ちは分る。何しろ、変質者扱いされて、交番へ引っ張って行かれたのだから……。
たまたま、その交番にいた巡査が、勝之を知っていたのだ。
母親たちが交替で見張ったり、「自警団」風に、グループを作ったりする、その気持ちも分るのだが……。
エリも、夫に何も言う気になれなかった。
「――おい」
台所にいるエリに、勝之が声をかけて来た。
「え?」
「あの家――水原っていうんだっけ」
「そうよ」
「一緒にご飯でも食べよう」
「あなた――」
「互いに亭主の顔も知ってれば、こんなことはないんだし、それに妙な奴のせいで、付合いをやめるなんて、しゃくじゃないか」
「本当ね!」
エリはホッとして言った。「でも、あなた――」
「何だ?」
「本当は、あの奥さんに会いたいんじゃないんでしょうね」
と、エリは言ってやったのだった。
強き者、|汝《なんじ》の名は……
「何だ、これは!」
前田課長の声が響き渡って、みんな一瞬息をのんだ。
坂上勝之は、ゆうべ亜紀ちゃんが遅くまで眠らなかったせいで、|欠伸《あくび》していた。――もっとも、前に会議中に欠伸をして、前田課長にひどくやっつけられたので、もちろん今はこっそり隠しながら欠伸していたのである。
そこへ、前田の|怒《ど》|鳴《な》り声。――一度で目が覚めてしまった。
「こんな物が部長へ出せると思ってるのか!」
怒鳴られているのは、まだ新入りの男性で、こういう|叱《しか》られ方にあまり慣れていないのだろう、真っ青な顔をしている。
「いいか、こんなものは――」
と、言いかけて、前田は言葉を切った。
どうしたんだ? あんまり突然だったので、みんなが振り向いた。
「おい!」
勝之が、びっくりして立ち上がった。「課長が――」
前田が、机に突っ伏してしまっている。
「あの――僕、何もしていませんよ」
と、怒鳴られていた新人が、あわてて言った。「|殴《なぐ》ったりしてませんよ!」
「分ってるよ。――おい、手を貸せ。応接室のソファに寝かせよう」
勝之と、他に若い男が二人やって来て、前田を両側から支えるようにして、立たせてやる。
「――大丈夫だ。――ちゃんと歩ける」
と、前田は力のない声で言った。
しかし、その実、足に全然力が入らないのである。
「――さ、そこに横にして」
勝之は、応接室のソファに前田を寝かせると、「課長。救急車を呼びますか?」
と|訊《き》いた。
「馬鹿言え。ただめまいがしただけだ。少し横になってりゃ良くなる」
と、前田は言った。
「分りました。じゃ、しばらくここで休んでいて下さい」
「ああ……」
前田は、息をついて、「四時には出かけるんだ。時間になったら、知らせてくれ」
「でも、もう三時半ですよ。三十分ぐらいで出歩いて、大丈夫ですか?」
「大丈夫だろうがなかろうが、仕事だ。――仕事となりゃ、しゃんとする」
「分りました。――おい、行こう」
こう言い張られては仕方ない。勝之は、他の課員を促して応接室を出た。そして〈使用中〉の札を出しておいた。
勝之は席へ戻ろうとして、ふと思い付き、給湯室を|覗《のぞ》いてみた。
「あら、坂上さん」
「田代君、やっぱりここだったか」
田代令子を、勝之はちょっと廊下へ連れ出すと、
「前田課長が、具合悪くて応接室で寝てるんだよ」
と、言った。
「え? また?」
田代令子は顔をこわばらせた。
「また、って……。前にも何かあったの?」
と、勝之は訊いた。
田代令子は、前田と「親密な仲」の独身OLである。
「そうなの。このところ、あんまり具合が良くないみたいなのよ」
と、ため息をついて、「少し休めばいいのに……。自分で体を悪くするようなことばっかりしているんだもの」
「君、ちょっと様子を見てあげたら?」
「ええ。――ありがとう、わざわざ」
と、田代令子は微笑んだ。
勝之は席に戻りながら、余計なお世話だったかな、と考えていた。
「いやねえ、そんなの」
と、エリは言った。
「何のことだい?」
「その課長さんと田代さんって女の人のことよ。――無責任だわ」
「うん……。そうだな。しかし、他人が口を出すことでもないさ」
と、勝之は言って、「おかわり」
夕食は、いつもの通り三人である。
そろそろ、亜紀ちゃんも、やわらかいものなら食べるようになっている。
「食欲が出て来たら、もう太り出しちゃった。いやだわ、女の子なのに」
と、エリが早々と心配している。
「たてにのびたり、横にのびたりして、ちゃんとバランスを取るさ。なあ、亜紀ちゃん」
「ワア」
と、手を振り回して、もっとよこせ、と労働者のデモの如く要求している。
「あら、電話」
「出るよ」
勝之が急いで電話に出る。「――もしもし。――どなた?」
「坂上さん! 私、田代よ」
「やあ、どうしたんだい?」
「あのね、悪いんだけど……。すぐに出て来られない?」
「今?」
「ええ。――前田課長が倒れちゃったの」
勝之は目を見開いて、
「どこで?」
「あの――ホテルなのよ」
勝之も了解した。まさか、田代令子がついて病院へ運ぶというわけにもいくまい。
「分った。――すぐ行くよ。どこだい場所は?」
エリがけげんな顔でやって来る。亜紀ちゃんが早く食べさせて、と主張して、にぎやかに声を上げていた。
「――もう大丈夫ですよ」
と、眠そうな顔をした医師が、勝之に言った。
「何か特に原因が……」
「色々ですな」
と、医師はあっさり言った。「肝臓、血圧、その他、検査すりゃ色々出て来ますよ、きっと」
「そんなに、ですか」
「過労ですね、要は。少しリラックスしないと、それこそ本当に要入院ってことになります」
「はあ」
俺に言われてもね、と勝之は思った。「――話しても大丈夫ですか?」
「構いませんよ」
と、医師は肩をすくめて、「目下のところは、要注意ですな」
「どうも」
勝之は、診察室の中へ入って行った。
「――坂上か」
固い寝台の上に、前田が寝ている。「あいつ、余計なことをして……」
いつも、こんな風に前田のことを見たことはなかったが、確かに顔色は良くない。
「過労だそうですよ、課長。少しアルコールの方を控えるとかして……」
「大きな世話だ」
勝之はムッとした。――しかし、こんな所で喧嘩を始めるわけにもいかない。
「奥さんがみえますよ」
「一人で帰れる。明日は早いんだ」
前田は、そろそろと起き上がった。
「でも、課長、もうお宅に連絡してありますから――」
「帰れる。放っときゃいい」
前田は上着をつかむと、診察室を出た。
「でも、奥さんが――。課長」
廊下へ出ると、コートをはおった女性が、立っていた。
「――何だ」
前田が、目を伏せた。「もう来てたのか」
「奥様ですか。さっきお電話をさし上げた坂上です」
と、勝之は|挨《あい》|拶《さつ》した。
「まあ、どうも申し訳ありません。お手数をかけて」
意外にも――と言うのも妙だが――前田の妻は、上品な、ふっくらとした女性で、どことなくいい育ちを思わせる、おっとりとした印象があった。
「お医者様は? お話をうかがわないと」
「そんな必要はない。車か?」
「タクシーが待たせてあるわ」
「じゃ、行くぞ」
「でも、あなた……」
前田は、さっさと行ってしまう。夫人の方は、あわてて、
「あの――すみませんでした。坂上さんですね。改めて、あの――」
と言いながら、夫の後を追いかけて行った。
「やれやれ……」
一緒に飲んでいて、気分が悪くなったということにするために、勝之もわざわざ背広にネクタイという格好をして来たのだ。
ああいう奴は、一度入院でもしなきゃだめなんだ、と勝之は思った。
「ごめん下さい」
玄関の方で声がして、エリは起き上がった。
ちょうど亜紀ちゃんが眠そうだったので、寝かしつけていたのである。
いやだわ。玄関の鍵、かけるの忘れてたんだ。
保険の勧誘にでも来られたんだと面倒だな……。
おそるおそる玄関へ出ると、
「――坂上さんの奥様でいらっしゃいますか」
と、割合に上品な感じの婦人が立っている。
「はあ」
「前田と申します」
「前田……。あ、課長さんの?」
エリはびっくりして、「ど、どうぞ!」
と、あわててスリッパを出した。
「――お構いなく」
と、前田夫人はソファに浅く腰をおろして、「ゆうべは主人のことで、色々ご迷惑を」
「いいえ。――もう、よろしいんですか」
と、エリは訊いた。
「今日も夕方から出張だと申してました。大分つらそうでしたけど」
「まあ……。無理をされると――」
「何度申しても、聞きませんの」
と、|諦《あきら》めたように|微《ほほ》|笑《え》んで、「昨日、主人は本当にお宅のご主人と一緒だったんでしょうか」
「え?」
「いえ……。こんなことおうかがいして、妙ですけど、主人、誰か女の人と一緒だったんじゃないかと思いまして。――いかがでしょう」
エリも、まだ若い。特に、前田が会社の独身OLと付合っていることに、抵抗もある。つい、目を合わせるのが|辛《つら》くて、目を伏せてしまった。
「――そうでしょうね」
と、夫人は|肯《うなず》いた。「私が――こんな風に太ってますけど、体があまり丈夫でないものですからね。主人も、つい他に女性を……」
「奥様――」
「でも、体をこわされるのが、一番心配なんです。主人が寝込んだら、本当に困ってしまいますし。娘が一人いるんですけど、まだ中学生ですから。一人前になるには、しばらくかかりますし」
「ご主人にも、そうおっしゃって――」
「聞きゃしませんよ。仕事、仕事ですもの」
と、夫人が肩をすくめる。
エリが顔を紅潮させると、何を思ったのかパッと立ち上がって、電話を手にコードを引っ張りながら戻って来る。そして、|呆《あっ》|気《け》に取られている夫人の前に、それを置いた。
「会社へ電話なさったらどうですか」
と、エリは言った。
「私が?」
「ご主人でなく、その上の|方《かた》に。――男だから、仕事で倒れても本望だ、なんて間違ってます。男は一人で生きてるんじゃありません。家族が男の生活を支えてるんです。だから、少し休ませて下さい、ぐらいのこと、要求したって構わないんじゃありませんか」
「でも――」
「もしご主人がまた倒れて、今度こそ入院ってことになったら、次には看護疲れで、奥さんが倒れてしまうかもしれませんよ。そしたら、どうなさるんですか」
エリの強い口調に、夫人の方も言葉が出ない様子だった。
――亜紀ちゃんが、完全に眠っていなかったらしく、また泣き出した。エリは急いで立って行って抱っこして来た。
「――女の子さん? |可《か》|愛《わい》いですね」
と、夫人が言った。「主人も、娘がそんなころには、よく抱いて歩いてました……」
独り言のように|呟《つぶや》くと、少し間を置いて、前田夫人は立ち上がった。
「お邪魔しました」
「いえ……つい、偉そうなことを申し上げてしまって、すみません」
と、エリは言った。
「とんでもない」
玄関へ出て靴をはくと、夫人は言った。「私、これから会社へ行って、主人を引っ張って帰りますわ!」
夫人はニッコリ笑って出て行った。見違えるような明るい笑顔だった。
「――そう! 病気したら人間、何もやれないわ。ねえ、亜紀ちゃん?」
と、呼びかけてみると……。
亜紀ちゃんは、スヤスヤと眠っているのだった。
亜紀ちゃんの「自立」
「おい、坂上」
と、午後の仕事が始まるとすぐ、課長の前田が声をかけて来た。
「はい、課長」
坂上勝之は、開き始めた書類をそのままにして、席を立った。「――何か?」
「うん。今夜の会議なんだが」
と、前田は手帳を開いて見ながら、「うっかりして、他の接待とかち合っちまったんだ。すまんが代わりに――」
「だめです」
と、勝之はアッサリ言った。
「だめ……?」
「申し訳ありませんが、今日はどうしても、定時で帰らせていただきます」
勝之の言い方は、穏やかではあったが、頑として譲らないという意志がはっきりとしていた。前田の方は、怒るよりも|呆《あっ》|気《け》に取られてしまって、
「――そうか。じゃ、いい」
「よろしく」
勝之は頭を下げて、さっさと席へ戻って行った。
前田は、渋い顔で勝之の方をにらんでいたが、体の具合を悪くした時に、勝之に少々手数をかけたこともあるし、妻もそのことを知っていたし……。ま、借りがあるので、うるさくも言えない、ということだろうか。
「全く、今の若い奴は、仕事ってもんを、何だと思ってるんだ」
と、ブツクサ|呟《つぶや》きながら、「誰を代わりに出すかな」
と、|顎《あご》をなでつつ、課の中を見回した。
机の電話が鳴る。前田は受話器を取った。
「前田です」
「あの、私です」
田代令子だ。「今、下からかけてます」
「そうか。何か用事で?」
前田は少し素気ない口調で言った。社内の愛人からの電話では、特に用心しなくては。
「今日は、坂上さんを早く帰してあげてね」
「何だと?」
前田は目を丸くした。
「ずいぶんお世話になったでしょう」
「そりゃ分ってるが……。何だっていうんだ?」
「今日はね――」
と、田代令子は言った。
「ちょっと、坂上さん」
まずい、と美由紀は足を止めて舌を出した。
でも、振り向いた時には、もちろんにこやかな笑顔になっていた。
「あ、先輩」
クラブの先輩が、しかめっつらをして立っていた。
「何よ、今日は出られません、って。どういうこと?」
と、先輩は美由紀の書いたメモを手にしていた。
「あの……ちょっと家で大事な用があって」
「いくら大事な用か知らないけど、みんな無理して出てるのよ。分ってるんでしょ」
「はい」
「じゃ、出るわね」
先輩は、美由紀のメモをクシャッと握りつぶした。――美由紀は|頬《ほお》を紅潮させた。
負けちゃいないのが、美由紀の性格である。
「出られるのなら、初めから出ます」
と、美由紀は、先輩の目を真っ直ぐに見て、言った。「私、そんなにいい加減にクラブのことを考えていません」
先輩はムカッとした様子で、
「何よ、その言い方は!」
と、にらみつけた。
二人の視線がぶつかって火花を散らした。
――学校の廊下である。通りかかった他の生徒たちが、何事かと足を止めて眺めている。
まずい、と美由紀は思った。みんなが見ていては、先輩の方も、ますます意地になるだろう。
「今日は、私の|姪《めい》っ子の一歳の誕生日なんです。みんなで集まってお祝いしようってことになってるんです。――お願いします。後で何でもやりますから、今日だけは帰らせて下さい」
今の学校では、先生は友だち扱いだが、先輩後輩の関係は厳しい。――美由紀としても、かなりの度胸が必要だった。
「誕生日?」
と、先輩が訊き返した。
「ええ。満一歳なんです」
何だか、先輩はポカンとしていた。――どうしたのかしら、と美由紀が不思議に思っていると――。
「誕生日だ!」
と、先輩が突然飛び上がった。
「どうしたんですか?」
と、美由紀が目を丸くする。
「今日、私の誕生日なのに!」
と、顔を真っ赤にして、「うちの連中も、みんな忘れてる! 許さないから!」
「はあ……」
「今日はクラブ中止! 思い切り高いレストランに連れて行かせるんだ!」
堂々と宣言して(?)、先輩は行ってしまった。――美由紀はポカンとして、それを見送っているのだった……。
「さあ、これでよし、と……」
坂上エリは、息をついて、|呟《つぶや》いた。
額に手をやると、汗をかいている。――実際午前中から、買物や料理の仕度に、大忙しだったのである。
亜紀ちゃん、満一歳のお誕生日なのだ。
今夜は、家族三人と美由紀、それに夫の両親もやって来て、お祝いをすることになっている。エリが張り切っているのも、当然だろう。
もちろん、主役[#「主役」に傍点]の亜紀ちゃんは、まだ大したものは食べられないが、一応、|可《か》|愛《わい》いバースデーケーキも、エリの手作りで、ローソクを一本だけ立てて……。
エリは時計を見た。
――もうこんな時間!
亜紀ちゃん、起きたかしら? お昼寝しているので、これ幸い、と台所に立っていたのだが……。
そろそろ目を覚ますころだろう。
タオルで手を拭いていると、インタホンが鳴った。
「――美由紀です」
「あら、早かったのね」
急いで玄関へ出て行く。
「クラブの方は、いいの?」
「うん。今日はなくなったの、うまい具合に。――わあ、いい匂い!」
と、美由紀は飛びはねそうな勢い。
「ちょっとあのお鍋を見ててね。亜紀ちゃんが起きているかどうか見て来るわ」
「うん」
エリは、奥の部屋へ入って行ったが――。
「亜紀ちゃん!」
と、エリが大声を出すのを聞いて、美由紀は仰天して飛び上がった。
何かあったのか?――まさか!
「お|義《ね》|姉《え》さん! どうしたの!」
と、|駆《か》けて行くと、――エリはポカンとして突っ立っているし、亜紀ちゃんは?
いつもの通り、ちょこんと座って――これもいつもの通り、パパを嘆かせているのだが――パパが毎月買って来ている経済誌を、ビリビリ、一ページずつ、感心するほどのていねいさで、破っているのだった。
「ワアワア」
と、美由紀の顔を見ると、喜んで手を振る。
「ほら、お姉ちゃんが来たぞ! 亜紀ちゃん!」
と、美由紀が、頬っぺたをつっついてやると、亜紀ちゃん、キャッキャッと喜んでいる。
「元気そう。――ね、お義姉さん、何をびっくりしてたの?」
「え? ああ……」
と、エリは息をついて、「入って来たらね、亜紀ちゃんが雑誌を引きずって、立ってたの」
「へえ。それが――」
と、言いかけて目を丸くし、「立ってたの? 本当に?」
「うん……。夢でも見たんでなきゃ、本当だわ」
と、エリは言って笑った。
もちろん、一歳の子が立ったり、よちよち歩くというのは珍しい話じゃない。まあ、一歳の子がタップダンスを踊ったら、これは誰でもびっくりするだろうが。
ただ、当の親にとっては、我が子がいつ立ち上がって、いつ歩くか、というのは大問題である。
亜紀ちゃんも、近所の同じくらいの子が次々につかまり立ち歩いたり、すぐにつかまらずに歩いたりしている中、悠然と(?)|這《は》い|這《は》いを続けていた。
別に、それで深刻に悩むわけではないにしても、エリも、そろそろ立ってくれないかしら、と思っているところだったのである。
「やったね!」
と、美由紀はパチンと指を鳴らして、「お兄さんに知らせよう」
「オーバーよ。それにもう、会社を出てると思うわ」
と、エリは笑って言った。
五時のチャイムが鳴ると、勝之はパッと机の上を片付けて、立ち上がった。
帰りに、どこかでシャンパンを買って来てね、と、エリから頼まれている。――急がなきゃ。
「じゃ、お先に」
と、帰りかけると、
「おい、坂上」
と、前田が呼んだので、勝之はドキッとした。
「はい……。課長、何でしょう?」
と、少々用心しながら机の前に立つと、
「これを――」
と、前田は机の引出しから、リボンをかけた小さな箱を出して、「娘さんの誕生日祝いだ」
少し、照れた顔だった。
「課長」
「俺と、田代君からだ」
と、前田は少し声を低くして言った。「もちろん、買ったのは彼女だ」
「そうですか……。ありがたく、ちょうだいします」
「うん。――田代君は今月で辞めるんだ。故郷へ帰るんだよ」
前田の言葉は、いつになく穏やかだった。「君には礼を言ってくれ、とのことだ」
勝之は、手の中の小さな箱を、そっと握った……。
そして――。
夜、七時。夕食の席の真ん中には、エリの手作りのバースデーケーキが陣取り、勝之も、美由紀も、勝之の両親も席について、にぎやかにお祝いを――しているはずだったのだが……。
みんな、いやに静かだった。目の前の料理には手もついていない。
エリが、奥の部屋から出て来た。
「困ったわ。ぐっすり眠っちゃってるの」
と、弱り果てた様子。
「参ったな……」
と、勝之がため息をついた。「ともかく、みんな集まってるんだし……」
「でも、起こしたら、泣くだけよ」
「昼間、ちゃんと寝かせときゃ良かったんだ」
「ええ。――すみません、お|義《か》|母《あ》さん」
「いいのよ。夜は長いわ。もう少し待ちましょう」
「ええ……」
エリは、泣きたい気分である。
「お兄さん」
と、美由紀が言った。「そんなこと言っちゃ、お義姉さん、|可《か》|哀《わい》そうよ。これだけの仕度するのが、どんなに大変か分る? ずっと亜紀ちゃんのこと見てたら、こんな用意、できなかったのよ」
「そりゃ分ってるよ」
「いいのよ、美由紀さん。ありがとう」
と、エリが|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「いや、全くだ」
と、坂上康俊が|肯《うなず》いて言った。「お祝いといっても、当人にはまだ分らんのだ。大人の都合に、赤ちゃんが合わせてくれんからと言って、文句を言うのは勝手だよ」
「そうだそうだ」
と、美由紀が拍手した。
「よし。ケーキのローソクは後にして、我々で乾杯しようじゃないか」
グラスにシャンパンが注がれる。美由紀もこれくらいは飲めるのである。
「じゃ――亜紀ちゃんの一歳の誕生日を祝って」
と、美由紀が言うと、康俊が、
「それだけじゃない。この一年の、エリさんの苦労に感謝して、だな」
と、付け加えた。「子供には、愛情と幸運が必要だ。この家庭には、どっちも充分にある。エリさんのおかげだよ」
「そんなこと……」
エリが目に涙を浮かばせて、グラスを取った。
「じゃ、乾杯!」
「乾杯!」
グラスがチリン、チリンと音をたてて触れ合う。すると――。
「ヤア!」
もう一人[#「もう一人」に傍点]、加わった。
みんなが振り向くと……。亜紀ちゃんが、部屋のしきいの所に、ニコニコ笑いながら、立っていた。そして、一歩、二歩、|覚《おぼ》|束《つか》ない足取りながら、歩いて来て、バタッと倒れると、|唖《あ》|然《ぜん》としているみんなを見上げて、キャッキャ、と笑ったのである。
――数秒ののち、坂上家の食堂がどんな騒ぎになったか、下の部屋の住人がびっくりして茶碗を取り落とさない内に、幕を閉じることにしよう……。
本書は、一九九〇年二月、小学館より刊行されたものを文庫化したものです。
ハ|長調《ちょうちょう》のポートレート
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年7月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『ハ長調のポートレート』平成6年1月10日初版発行