角川文庫
シングル
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 二人の「あなた」
2 逃亡犯
3 電話の問題
4 危い秘密
5 悩みは深し
6 打ち明け話
7 絡まりの始まり
8 危険な出会い
9 償いの品物
10 一時的別居
11 目 撃
12 包 囲
13 安堵のとき
14 二つのホテル
15 お隣同士
16 ショックが一杯
17 もつれる心
18 ランチタイム
19 集 合
20 銃 口
21 質 問
22 思 惑
23 予約席
24 交錯する思い
25 危い平和
エピローグ
1 二人の「あなた」
昼休みまでにまだ間があるのに、お腹がグーッと鳴るというのは情ないものである。
まあ、自分でギョッとしているほどには、その音は人に聞こえていないものだが、やはり同じ課で机を並べている山崎|聡《さと》|子《こ》には聞こえてしまったようで、
「|辻《つじ》|山《やま》さん」
と、仕事の手を休めて、「朝、何も食べて来なかったの?」
その口調には少々非難めいたものも混じっている。しかし、山崎聡子は決して辻山|房《ふさ》|夫《お》当人を非難しているわけではないのである。
「いや、寝坊してね」
と、辻山房夫はお茶をガブガブ飲んで言った。「食べてる暇がなかったんだよ」
「でも、奥さんが起すべきよ」
と、山崎聡子は腹立たしげである。
「まあ、女房も仕事があるからね。そう無理も言えない」
「でも、体に悪いわ。ちゃんと食べるものは食べないと」
「大丈夫。食べてるよ」
と、辻山房夫は|肯《うなず》いて見せた。
二人の間にある電話が鳴る。すぐに山崎聡子が取った。
「――はい。――ちょっとお待ち下さい」
聡子は、少し冷ややかな感じで言って、受話器を辻山の方へ差し出した。
「辻山さん。奥様から」
「あ、そう。ありがとう。――もしもし」
辻山房夫は三一歳。年齢の割に少し頭が薄くなりかけているのを除けば、まあごく当り前の(ということは、少しくたびれた印象の)サラリーマンである。
〈K事務機株式会社〉の総務に勤めて七年。――平社員のままでいることに、別に何の劣等感も抱いていない。
おっとり、のんびり、というのが生まれつきの性格で、死ぬほど働いてまで、「長」の字を名刺に印刷してほしいとは一向に考えていないのである。
隣の席で、そんな辻山の|呑《のん》|気《き》ぶりを、やや|苛《いら》|々《いら》と眺めているのが山崎聡子。二八歳になる独身の聡子は、この四年間、辻山と仕事上のパートナーである。
もちろん、辻山の方が先輩なのだが、今ではすっかり聡子が辻山を「見守る」という関係になってしまっている。
なかなか端正な顔立ちの聡子だが、性格的に何でも思ったことをポンポン口に出すのと、それに(当人の見解によると)何とも時代遅れなグレーの事務服のおかげで、ひどく老けて見られるのが大いに不満である。
――〈K事務機〉の事務服が時代ものなのは、社長がケチで、従って、その下の部長、課長、みんながケチだからだ。
当然、月給だって喜んで出しゃしない。
|噂《うわさ》によると、この〈K事務機〉の社長、倉田は、毎月月給日になると、社員に支払う給料の額がどうしてこんなに多いのかと涙する、ということだった……。
「――うん。今日はいつも通り帰るよ。――ああ、それじゃ」
と、辻山房夫は電話を切った。
「――奥様、何て?」
と、聡子が|訊《き》く。
「うん? ああ、別に大したことじゃないんだ。帰りの時間が分ると、よく待ち合せてスーパーで買物して帰るもんだからね」
「幸せね、奥さん」
と、聡子は伝票を束ねながら言った。
「どうかな。こんな安月給の亭主じゃね」
「でも、問題は人間でしょ。お金じゃ代えられないわよ」
と、聡子は言って、「奥さん、何ていったっけ? 京子さん?」
「洋子だよ。太平洋の〈洋〉」
「洋子さんか」
聡子は|肯《うなず》いて、「一度お会いしたいわ」
と、言った。
辻山が一瞬ドキッとしたことには、幸い山崎聡子は気付かなかった……。
「ね、|涼子《りょうこ》!」
と呼ばれて、水野涼子は足を止めた。
五月の午後、明るい坂道を駆け下りて来るのは、同じS大学二年生の池山リカ。
「リカ! 走らなくていいわよ。待ってるから」
と涼子は大声で言った。
「走ってんじゃないのよ! 止まらないだけなの!」
運動神経がまるきりゼロの池山リカは、ドタドタと涼子めがけて坂を駆け下りて来る。
「危い! リカ!」
「止めて! どいて!」
と、矛盾したことを言って、リカは涼子に抱きついた。
「キャッ!」
二人して引っくり返りはしたものの、リカの重さは涼子が大分引き受けていたので、二人とも、多少スカートが|埃《ほこり》になったくらいですんだ。
「――ああ、びっくりした」
と、水野涼子は立ち上がって、リカの手を取って立たせると、「けが、しなかった?」
「うん……。ごめん」
と、池山リカは大きな目をパチクリさせている。
自分の方がびっくりしているのである。
「本当に、リカって……」
と、涼子は仕方なしに笑う。
大学での一番の仲良しである。こんなことで、いちいち腹を立ててはいられない。
「何かあったの?」
と、涼子は落した教科書を拾いながら言った。
「聞いた? |久《く》|仁《に》|子《こ》のこと」
「久仁子?」
と、並んで歩き出しながら、「久仁子って……。ああ、金田久仁子のこと、一年生の?」
「そうそう。知ってるでしょ? 同じ演劇部だもんね」
「でも、あの子、あんまり練習とか出て来ないわよ」
と、涼子は言った、「あの子がどうかしたの?」
水野涼子、池山リカ、どちらも二〇歳。
若さが|匂《にお》うような、この明るい日射しの下でいかにも快げな二人である。――まあ外見上、涼子がほっそりして、リカが多少太めという違いはあるにしても、どっちもまぶしいような「青春」のエネルギーを感じさせる。
「ちょっと相談があるの」
と、リカが言った。「時間ある?」
「うん……。そう長くなくていいのなら」
と、涼子は腕時計を見て、「家庭教師があるから」
「すぐすむよ」
「じゃ、ケーキ一つだね」
というわけで……数分後には二人の前にケーキをのせた皿が置かれていた。
「――妊娠?」
涼子がスプーンを持つ手を止めた、「久仁子が?」
「そう。で、泣きつかれちゃって……。もし学校にばれたら、当然、親にも連絡行くしさ。何とかしなきゃ、ってわけ」
と、リカが|肯《うなず》く。
「そう」
涼子は紅茶をゆっくりと飲んで、「――でも、どうしてリカが、あの子のために?」
「あの子、高校の後輩なの」
「へえ。知らなかったわ」
「同じバレー部にいてね。やっぱり、あんまり|真《ま》|面《じ》|目《め》に出て来る子じゃなかったけど……。ま、一応先輩としては、放っとくわけにもいかなくてさ」
リカはあっという間にケーキを食べてしまって、何だか物足りない様子である。
「じゃ、手術代、集めるの?」
「それしか仕方ないでしょ」
「だけど、男の子は? 相手がいるわけじゃない」
と、涼子は言った。
「それがさ、家庭持ち」
「じゃ……不倫ってこと?」
「養子で、奥さんに頭が上がらないって男なんだって。同情して、つい……。でも、そんな言いわけ、怪しいと思うけどね」
「だから、その男はお金も出さないってわけね。――情ない!」
と、涼子は首を振った。
「本当でも|嘘《うそ》でも、情ないよね。でも、そんな男、期待してたってだめだと思うんだ」
「うん、そうだね」
「ね、力貸して。涼子は先生の受けもいいしさ。そういうことしてても、ばれないでしょ」
「そうねえ……」
涼子は、何やら考え込んでしまっている。
「――あ、|真《さな》|田《だ》君」
と、リカが言った。
「え?」
涼子が店の入口の方を振り向くと、同じ二年生の真田|邦《くに》|也《や》が、入って来たところだった。
「真田君!」
と、リカが手を振る。
「やあ」
と、真田は二人のテーブルへとやって来て、「大事な話かい?」
「そう」
と、涼子は肯いて、「男は許せない、って話をしてたの」
「怖いね」
と、真田は笑った。
「ケーキ食べに来たの?」
リカに|訊《き》かれて、
「いや、ゼミの会合のことで、五、六人集まるんだ。ここでやると女の子が必ず来るからさ」
と、店の中を見回し、「僕が一番乗りか。奥のテーブル、取っとかなきゃ。それじゃ」
店の奥へ入って行く真田を見送って、
「真田君って、いい[#「いい」に傍点]よね」
と、リカが言った。「そう思わない?」
「そう?」
と、涼子はまだケーキを小さくフォークで切っては食べている。
「やさしそうだしさ。涼子、ああいうタイプ嫌い?」
「別に、好きでも嫌いでもない」
と、肩をすくめる。
「涼子って……」
「うん?」
「どうなってんの? いないわけないのに、男[#「男」に傍点]が」
「決めないでよ」
と笑って、「焦っても仕方ないでしょ」
「余裕あるご発言」
と、リカはおどけて、「美女はいいね」
「何言ってんの。――ね、そのこと[#「そのこと」に傍点]、何をすればいいの?」
「助けてくれる? ありがとう! 恩に着る!」
「リカに恩に着てもらっても、あんまりメリットなさそうね」
「あ、言いにくいこと言って!」
二人は一緒に笑った。
十五分ほど話をつめて、二人は店を出ることにした。
「私、クリームが指についちゃった。手洗って来る」
と、リカが化粧室へ行く。
涼子は、チラッと奥のテーブルを見た。真田が文庫本を開いて、一人で座っている。
涼子は、足早に歩いて行くと、
「遅くなるの?」
と、小声で訊いた。
真田は顔を上げて、やはり小声で、
「いや。ここで一時間くらい話すだけさ」
と答えた。
「良かった」
涼子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「今夜のおかず、買っちゃってあるのよ。ちゃんと帰って来てね」
「うん、分ってる」
「じゃ、後で。――あなた[#「あなた」に傍点]」
と、小さくウインクして、涼子はレジへと歩いて行った。
「――ただいま」
辻山房夫は、アパートのドアを開けると、声をかけた。
もちろん――部屋の中は真っ暗で、何となく湿っぽい匂いがこもっている。
「やれやれ……」
辻山は、明かりを|点《つ》けると、敷きっ放しの布団へ目をやった。
また今夜も、冷え切った布団で寝るのか。一人[#「一人」に傍点]寂しく。
辻山は、|欠伸《あくび》をした。晩飯は駅前のラーメン屋ですませて来た。そこが一番安くあがるのである。
カーテンを引き、ネクタイをむしり取ると、
「――そろそろ買って来ないとな」
と、かなりヨレヨレのネクタイを眺めて|呟《つぶや》く。
辻山は、別に女房に逃げられたというわけではない。逃げられようにも、もともと女房なんて存在しないのだから。
トントン、と玄関のドアを|叩《たた》く音。
「誰?」
「私よ」
と、「洋子」の声がする。
「ああ……」
辻山は玄関へ下りて、チェーンを外し、ドアを開けた。
「忘れなかったでしょ、電話するの」
と、隣の[#「隣の」に傍点]部屋の主婦が言った。
「はいはい」
辻山は、財布を取って来ると、二千円を渡して、「またよろしく」
と言った。
「また、ちゃんと電話してあげるわよ、あなた[#「あなた」に傍点]」
と、隣の主婦は笑って、二枚の千円札をエプロンのポケットへしまい込んだ。
2 逃亡犯
ああしなきゃいけない、こうしなければ、と分っていて、何もできないことが――何をする気にもなれないことが、人間にはあるものである。
|小《お》|田《だ》|切《ぎり》|和《かず》|代《よ》も、ちょうどそんな気分だった。はやらないスナックのカウンターの中にじっと突っ立って、その男[#「その男」に傍点]が来るのを待っていた。
まるで、このカウンターの中にいれば、誰にも手は出せないと信じてでもいるかのように。ちょうど、子供がよくTVのSF物を見て言う……何といったっけ?
バリヤー。そう、「バリヤーだぞ!」ってわけだ。
目には見えない壁があって、自分を守っている。そんなものがあったら、どんなにいいだろう。
誰が来ても、ここから自分を連れ去ることはできない。目には見えても、手を触れることができなかったら……。
和代はちょっと笑った。
もちろん、そんなのは夢物語だ。いや、もしそんな「バリヤー」があるのだったら、あんな奴に殴られていなくてすんだのだから、こんなことにもならなかった……。
和代には、守ってくれる壁も、人もなかったのである。
結末は、ずっと前から分っていた。それを、あえて見ようとしなかったのは、自分が悪い。そう。それは認める。でも、だからといって、女を殴ったり|蹴《け》ったりして、|苛《いら》|立《だ》ちを解消する権利は、どんな男にもないはずだ……。
外は明るかった。――五月の午後で、信じられないくらい穏やかな……。
あのレマルクの言葉を借りれば、「西部戦線異状なし」というところだ。――和代は文学少女だった。
その夢見がちな少女が、まだやっと二七歳だというのに、まるで四〇過ぎかと思えるほど老け、疲れて、そして――。
男の影が、店の入口のくすんだガラス戸越しに、シルエットで浮かんだ。
来たのか、やっと。――ホッとした。待たされるのは、もういやだ。
その男は店の中を|覗《のぞ》き込むようにして、それから戸を押して入って来た。
「いらっしゃいませ」
と、和代は言っていた。
習慣みたいなものだ。
「いたのか」
と、その男は意外そうに言った。
「いけない? 私を捜しに来たんでしょ」
「ああ」
と、男は|肯《うなず》いて、「お前がどこにいるか、心当りがないかと|訊《き》こうと思って来た」
「目の前にいるわ。本物よ」
と、和代は言った。「ご注文は?」
「お前――」
「何か注文して下さい。話はそれから」
と、和代は言った。
「分った」
|室《むろ》|井《い》刑事は苦笑して、カウンターにもたれると、「ビールだ」
「ちゃんと払って下さいね」
コップにビールを注ぐ。泡がふくれ上がって、コップの外側にいくすじか、こぼれ落ちた。
こぼれ落ちる。私みたいに。
「――和代。お前だな、やったのは」
室井刑事は、コップ半分ほど一気に飲んでから、言った。
「他に誰がいるの」
「そうだな」
すっかり|禿《は》げ上がって、苦労も多いのだろう。室井は和代を哀しげな目つきで見ていた。
「お前に言っといたぞ、島崎の奴と別れろってな。いつか、こんなことになると思ってた」
「すんだことよ」
と、和代は言って、「お代を」
「ああ……消費税つきか」
「お|上《かみ》は、取りっぱぐれやしないのよ。弱い者からはね」
と、和代は言った。「誰が見付けたの?」
「家賃の催促に来た管理人さ」
「あのじいさん? さぞびっくりしたでしょうね」
と、和代は笑った。
「そりゃそうさ。中へ入ったら、島崎が血まみれで倒れてる。腰を抜かして、廊下へ|這《は》って出たそうだぞ」
「見たかったわ!」
と、和代は楽しげに言った。
「しかし……奴はもう死んだが、お前はこれから罪を償わなきゃいけないんだ」
「罪ね。――男にだめにされたのも、私のせい? 何とかして、島崎を立ち直らせようとしたわ。それも罪になるの?」
「お前の気持はよく分ってる。しかしな、人を殺していいってわけじゃない」
和代はジロッと室井をにらんだ。
「私は馬鹿じゃないわ。それぐらいのこと、分ってるわよ」
「自首すりゃ良かったな。こうやって、逃げずに待ってるんだったら、やってすぐ自首すれば……。大分違ったかもしれないぞ」
「二十年が十五年になる? それとも十年? 大して違わないわ。どっちにしたって、私の人生はおしまい」
と、和代は言った……。
長い長い年月を思った。これから、灰色の壁の中で過す、気の遠くなるような数の日々のことを……。
分っていた。島崎を殺せばそうなることは。
でも、分ってはいても、納得したわけではない。
そう。あんな男のために、どうして刑務所へ行かなくちゃならないの?
この親切ごかした刑事が忠告してくれたところで、しょせん島崎から逃げ出すことなど、不可能だったのだ。島崎はヤクザの「兄貴分」でもあって、和代がどこかへ姿を消したところで、必ず追って来て、見つけただろう。
そのときには、どんな仕返しが待っているか。――和代の体が、よく知っていた。
だから、殺すしかなかったのだ。それしか、「島崎と別れる」方法はなかった。
しかし、裁判官に、そんな女の気持は通じまい。事件は、どこにもある「情痴による犯罪」で片付けられる……。
――突然、|烈《はげ》しい怒りが、和代の中に燃え上がって来た。
島崎を殺したときの感触が、その右手によみがえって来たが、それは一種の|昂《こう》|揚《よう》した快感さえ、和代の中に呼び起した……。
「――さ、行くか」
ビールを飲み終えて、室井刑事は促した。
「ちょっと待って下さい」
と、和代は言った、「お店の主人に言ってかないと。お店、空にできませんからね」
「どこに行ったんだ?」
「その辺まで材料買いに。――あ、戻ったみたい」
室井が店の入口の方を振り向く。和代は、フライパンをつかみ、両手で高く振り上げると、力一杯、室井の禿げた頭に|叩《たた》きつけた。ガーン、という音がして――和代の手がしびれたほどの、強烈な一撃だった。
うーっ、と|呻《うめ》いて、室井がうずくまる。
和代はエプロンを投げ捨てると、カウンターの奥から飛び出し、店の外へ出た。
そして、人ごみへ向かって、駆けて行った。
――数秒後には、あの「大勢の中の一人」になっているだろう。
捕まるもんか! 絶対に、捕まってたまるか!
小田切和代は、こうして逃亡殺人犯の道を進んで行ったのである……。
「――小田切和代容疑者を全国に指名手配しました。殺された島崎文哉の内縁の妻で、犯行後もスナックで働いているところを、訪ねて行った刑事を殴り、逃走したものです……」
TVニュースをぼんやりと眺めていた辻山房夫は、画面に出た写真を見て、ちょっと意外な気がした。そこに映っているのは、大学出たてという感じの、若々しいOLの姿で、その笑顔はあくまで明るい。
二十……七といったかな?
ほんの何年かの間に、どんなことで人生が狂ってしまったのだろうか。
昼休みの喫茶店。――お昼にそばを食べて、コーヒーでも飲もうとフラリと入った店で、そのニュースを見たのである。
「ご注文は?」
と、ウエイトレスがやって来る。
「ブレンド」
いつもと同じだ。これが一番安い。ブルマンなど頼むと、千円もとられるのである。
「――お一人?」
と、山崎聡子が、ヒョイと向かいの席に座った。
「何だ。――君もコーヒー?」
「ええ。カフェオレね」
と、注文しておいて、「ちょっとショックなことがあって」
確かに、聡子の表情はいつになく硬い。
「どうしたんだい?」
「今、見てた? TVのニュース」
「うん」
「女が愛人の元暴力団員を殺して逃げたって……。小田切和代って人」
「ああ、見たよ。知ってるのかい?」
「ええ」
と、聡子は肯いた。「同じ高校の同級生だったの」
「そりゃまあ……」
何と言ったものやら、分らない。「大変だね」
「|可《か》|哀《わい》そうに……。学校でも評判の秀才で、美人だったの。それなのに……」
と、聡子は声を詰まらせた。
「うん、僕も写真見て、びっくりした。――どうして、そんなはめになったのかね」
「詳しいことは知らないけど……」
と、聡子は首を振って、「大学時代の恋人が、サラ金だかに借金をこしらえて、彼女は気がいい子だったから、それを返すのにせっせとアルバイトしたらしいの。そのときに、少し危いことをやって……。で、あの男と知り合ったとか」
「何が人生を変えるか、分らないもんだなあ」
と、辻山は言った。「逃亡中だって?」
「ええ。――どうせ捕まっちゃうんでしょうけどね」
と、聡子は言って、首を振った。
「可哀そうな和代……」
いつも冷静そのもののような聡子がこれほど動揺していることは珍しい。辻山は何とか慰めたかったが、もともと、そういう点、器用な辻山ではない。
結局、店を出るときに、
「あ、僕が払うよ……」
と言うだけが、精一杯の「親切」だった……。
一時五分前に、二人が社へ戻ると、
「あ、聡子さん」
と、受付の子が呼び止めた。「お客様よ」
「え? 私に?」
「ええ。そっちの|方《かた》」
受付前のベンチ(とっくに捨ててもいい古い|椅《い》|子《す》だった)に、頭を包帯でグルグル巻きにした男が、座っていた。
見ればウトウトしている。
「知らないな、こんな人」
聡子は首をかしげたが、「――あの、ちょっと」
と、肩を叩くと、目を覚まして、
「うん?――ここは?」
と、キョロキョロしている。
「そちらがご用だったんでは?」
と、聡子は言った。
「や、こりゃ失礼」
男はあわてて立ち上がって、「いてて……」
と、頭を手で押えながら、
「山崎さん……というのは……」
「私ですけど」
「実は――こういう者で」
と、男は|上《うわ》|衣《ぎ》の内ポケットから、警察手帳を|覗《のぞ》かせた。
「刑事さん?」
「室井といいます。実は――」
「あ、それじゃ」
と、立ち止まって聞いていた辻山が声を上げた。「あなたが殴られた刑事さんですか」
「すっかり有名になってしまいましたな」
室井という刑事、苦笑いして、「小田切和代をご存じですね」
と、聡子に|訊《き》く。
「ええ」
聡子は厳しい顔で|肯《うなず》いた。
「じゃ、ご存じですね、彼女が男を殺して逃げていることも」
「知っています」
と、聡子は肯いて、「でも、悪いのは男の方です!」
「よく分っています。私も、和代とは長い付合いで……。頭もいいし、しっかり者だ。どうしてあんな男にくっついているのか、不思議でした。しかし……やはり人殺しは人殺しだ」
室井の言葉には、あたたかいものが感じられた。聡子も、ホッと息をついて、
「分ってます」
と、言った。
「アパートに残してあった住所録に、あなたの名前と、この会社の名があったんでね。もしかして、あなたに連絡して来やしないかと思って」
「何もありません」
「そうですか。もし――何か連絡して来ることがあったら、伝えて下さい。事情を充分説明すれば、決して重い罪にはならない、と」
黙って肯く聡子の目には、光るものがあった。――それを見ていた辻山は、胸が熱くなるのを感じたのだった。
3 電話の問題
辻山は、聡子と刑事の話をいつまでも聞いているのも、何だか悪いような気がして、席に戻った。
ちょうど、一時の始業のチャイムが鳴る。
資料の整理を続けようと、ファイルを開けたとき、電話が鳴った。
いつもなら、聡子がパッと手を伸ばして取るのだが、今は席にいない。辻山は受話器を取った。
「はい。もしもし」
少し間があった。
「あの――K事務機ですか」
少しかすれた女性の声。
「そうです」
「あの……山崎聡子さんは、いらっしゃいますか」
「山崎ですか。今ちょっと来客中でして」
辻山の返事にも、何となく向うはホッとした様子で、
「じゃ、まだいるんですね、そちらに」
と言った。
「いや、今、席にはいませんが――」
「いいんです。すぐ戻られます?」
「ええ、すぐ戻ると――思いますけど」
「じゃ、またかけ直します」
「あの、どちらさま――。もしもし?」
もう切れていた。
やれやれ。せっかちだな。辻山は、机の上を見回して、
「ここじゃ狭いな」
と、|呟《つぶや》いた。「――あ、山崎君」
聡子が席に戻って来た。
「遅れてごめんなさい」
「いや――今、電話があったよ」
「電話? 誰から?」
「さあ、女の人だけど、名前は言わなかったよ。またかけるって」
「そう……」
と、聡子が|肯《うなず》いた。
「あのね、このファイル、会議室で整理しよう。ここじゃ、どうしても並べ切れないよ」
「そうね。じゃ、手伝うわ」
と、聡子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「でも、いいの? 仕事あるだろ?」
「今は、何か機械的にやれることをしたいの」
辻山にも、聡子の言葉が理解できた。
「じゃ、行こう。どこか会議室が空いてるだろ」
「ファイル、運ぶわ」
「じゃ、半分頼むよ」
――三十近いファイルに、資料を順番通りとじ込まなくてはならないのだ。
比較的大きな会議室が空いていたので、そこの机の上にズラッと資料を並べ、ファイルにとじて行くことにした。
聡子は、
「ちょっと待って」
と出て行き、すぐ戻って来た。
「受付の子に頼んどいたわ。電話がかかったら、こっちへ回してくれって」
「ああ、そうだね」
聡子は、そういう点、実によく気が付くのである。
二人が資料を並べていると、会議室の中の電話が鳴り出した。
「きっと君だよ」
「出るわ」
聡子が急いで駆け寄る。「――もしもし。――あ、ちょっとお待ちください」
聡子が送話口を手で押えて、
「辻山さん。辻山さんから」
「え?」
「お父様だそうよ」
「親父から? 珍しいな」
辻山は、受話器を受け取った。「――もしもし」
「房夫か! 元気でやっとるのか?」
辻山|勇《ゆう》|吉《きち》の声が大きいのは、山の中に住んでいて、大声をいつも出し慣れているからかもしれなかった。
「父さん。どうしたんだい?」
と、辻山は言った。
「いや、このあいだ町へ出たとき、真田の|伸《のぶ》|子《こ》に会ってな」
「ああ、あのおばさん? 元気なのかな」
「三〇そこそこのいい女に見えるぞ」
と、辻山勇吉は笑って言った。「そのとき、話をしているうちにな、向うも大学生の邦也が、どんな所に住んどるか知らんと言うんだ。こっちも、お前の家や嫁さんも見たことがない。それで二人して、意見が一致してな」
「意見って?」
「一緒に東京へ出かけて行くことにしたんだ!」
辻山の顔から、血の気がひいた。
「そっちへ出てくんだ。構わんだろ?」
「まあ、そりゃ……。でも、突然で……」
「そう何か月も居候しようってんじゃない。ほんの二、三日おられりゃいいんだ。何も気をつかわんでいいぞ。二人ともいい|年《と》|齢《し》の大人だ。勝手に切符を買うから」
「父さん……。だけど――」
「一応な、あっちの都合もあって、この次の週末に行こうと決めた。みやげは何がいい?」
「みやげなんて、そんな――」
「じゃ、嫁さんの顔を見るのを楽しみにしとるぞ。仕事中に、悪かったな」
「いや、そんなことは……」
「じゃあな! 会うのが楽しみだぞ!」
相当遠くからかけているはずなのに、父親の声は、ビリビリと辻山の耳を打った。
そして――辻山がそれ以上何を言う間もなく、電話は切れてしまっていたのである。
「――辻山さん」
と、聡子が言った。「どうかした?」
辻山はハッと我に返って、
「え?――あ、いや、何でもない」
あわてて受話器を置く。
「お父様、何かご用だったの?」
「うん……。こっちに遊びに来るって」
「まあ、すてきじゃないの。もうずいぶん会ってないんでしょ?」
「そう……。何年もね」
「楽しみね」
「そうだね……」
辻山は、机の前に戻って、資料を拾い上げながら、「大変だ……」
と、|呟《つぶや》いた。
今の父からの電話で頭が一杯になっていた辻山は、また電話が鳴って、聡子がそれに出たことにも気付かなかった。
「――もしもし。――あ、私……。――ええ。聞いたわ。――ええ」
聡子は、しっかりと受話器を握りしめて、話していた。
「今夜は何にしようかな……」
と、冷蔵庫を開けて、中を|覗《のぞ》き込みながら、水野涼子は独り言を言った。
涼子は、一人住まいが長いので、自分で料理するのはちっとも苦にならない。特別、どこかで習ったというのではないが、そうメニューに苦労することもなかった。
それに、真田邦也の方も自分で多少料理ができて、よく二人は一緒に台所に立つ。
「――よし、今日はシチューだ」
と、涼子は決めて、体を起した。
いくつか買って来なくてはならないものがあるが、どうせスーパーへ行くつもりだったのだし……。
そろそろ邦也が帰って来るだろう。そしたら二人で出かけよう。二人の方が何といっても沢山買物ができる。
「そうそう。貯金の方、見とかないと」
自動引き落しの電気代やその他、つい念入りにチェックしてしまうのは、一人暮しのころからのくせ[#「くせ」に傍点]である。
「――ええと、今月は、何の支払いが残ってたっけ」
と、台所のメモをめくる。
電話が鳴り出した。――邦也からだろう。少し遅くなるのかしら? だったら、一人でスーパーへ行かないと、閉まってしまう。
「――はい、もしもし」
と、気楽に出ると、
「もしもし」
と、けげんそうな女性の声がした。「あなた、誰?」
「え?」
一瞬、涼子はカチンと来た。「そっちこそどなた?」
と、|訊《き》き返してやる。
「真田邦也の母ですよ」
涼子は息をのんだ。言葉が出て来ない。
「――もしもし? そこは真田邦也の部屋でしょ?」
と、向うが重ねて訊く。
どうしよう? どう返事をしたらいいんだろう?
涼子は切ってしまおうかと思った。でも、まさか――。
と、玄関で音がして、
「ただいま」
と邦也の声。
「良かった!」
と、送話口を押えて、「ねえ、電話よ!」
「僕に? 誰から?」
と、邦也が入って来る。
「お母様よ」
「お袋?」
邦也が目を見開いて、「君――何て言った?」
「何も! あっちが、『誰なんだ』って訊いてるの。どうしよう」
「ちょっと……。じゃ、出るよ」
と、邦也は|咳《せき》|払《ばら》いして、「――あ、もしもし、お母さんか」
「邦也なの?」
真田伸子の声は、不機嫌そうだった。「今出た女の人は誰? 礼儀知らずな子ね」
「え? ああ! 今のはね、このマンションの子だよ。回覧板持って来ててね」
「奥さん?」
「いや――。まだ若いんだ」
「独り者? あんたを|狙《ねら》ってるんじゃないの?」
「そんな……」
と、邦也は笑って、「あの子、まだ中学生だよ。そんなわけないさ」
「ふーん。でもね、今どきは中学生でも結構……。ま、いいよ。むだ話しててもしょうがない」
「何か用だったの?」
「次の週末にね――」
電話で話している邦也を眺めながら、涼子は少々むくれていた。
「――分った。――じゃあ」
と、邦也が電話を切ると、
「誰が中学生ですって?」
と、涼子は文句を言った。「セーラー服でも着る?」
「それどころじゃない……」
と、邦也は青くなっている。
「――どうしたの?」
「お袋が出て来る!――そんなことするわけないと思ってたのに!」
「お母様が? いつ?」
「次の週末だって……。何てことだ。――どうしよう!」
邦也は、ダイニングの|椅《い》|子《す》に、ペタンと座り込んだ。
「そう……」
涼子は邦也の肩に手をかけて、「でも……仕方ないじゃない。正直に話すしかないわよ。もう結婚してる[#「結婚してる」に傍点]んだって」
「いや――そう言って、スンナリ納得するお袋じゃないよ」
邦也は頭を抱えた。「どうしよう。――参ったな!」
涼子は少し複雑な表情で邦也を見ていた。
「そうか。辻山さんとこの親父さんと出てくる、って言ってたな。電話してみよう」
邦也は手帳を取り出して、必死にめくり始めた……。
山崎聡子は、化粧室の入口まで来てチラッと左右へ目をやると、急いで階段を駆け下りた。
エレベーターでは、同じ会社の人間と会うかもしれないからだ。
ビルを出ると、聡子は急いで通りを渡って、少し先の牛丼の店に入った。
立ち食いのテーブルがいくつかあって、今は半端な時間なので|空《す》いていた。
「牛丼二つ」
と、注文して代金を払う。
すぐにできて来た器を両手にして、隅のテーブルへ持って行くと、客が一人、店へ入って来て、聡子と一緒になった。
「カウンターへ背を向けて」
と、聡子は低い声で言った。「――二つとも食べて」
「ありがとう」
と、コートをはおり、えりを立てた女は言った。
「もっと普通に。かえって目立つわ。大丈夫よ、誰も気付かない」
「そうね……」
と、女はホッと息をついた。
もちろん、小田切和代である。
「悪いわね」
「さ、食べて。お茶、もらって来る」
聡子がお茶を二つ、紙パックで持って来ると、和代は一つの牛丼をほとんど食べ終わっていた。
「|凄《すご》い食欲ね」
と、聡子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「少し安心したわ」
和代はお茶をガブ飲みして、
「――迷惑かけないように、すぐ消えるから」
と言った。
「何言ってるの」
聡子は、和代の手に自分の手を重ねると、「力になるわ。信じて」
と、力強く言ったのだった。
4 危い秘密
「そう……」
と、小田切和代は|肯《うなず》いた。「じゃ、あなたの所にも来たのね」
「ええ。頭に包帯巻いた刑事。何ていったかしら」
山崎聡子は、思い出そうとして、考え込んだ。
「室井さんね」
と、和代は笑って、「悪いことしちゃった。別にあの人に恨みがあったわけじゃないんだけどね」
――小田切和代と山崎聡子は、牛丼の店の近くにあるコーヒーショップで、入れたてのコーヒーを飲んでいた。
「ああ、おいしい」
と、和代は|呟《つぶや》いた。「刑務所に入ったら、こんなもの飲めなくなるのね」
立ち飲みのスペースで、今は人がほとんどいない。
「何も、自首なんかすることない」
と、聡子は憤然として言った。「そんな奴、自業自得よ」
「そうね……」
と、和代は|微《ほほ》|笑《え》んで、「私もそう思ってるわ」
「私、もう社へ戻らないと」
と、聡子は時計を見た。
「ごめんなさい。私のことなら何とかするから」
「何言ってるの。友だちでしょ」
聡子はキーホルダーを取り出すと、中の|鍵《カギ》を一つ外して、「うちのアパート、知ってたわよね」
「うん……」
「行ってて。電話にもチャイムにも出ないで休んでて」
「でも……」
和代はためらって、「あなたも罪になるわ」
「そのときは法廷で徹底的に戦うわよ」
と、聡子は和代の肩をつかんで、ギュッと力をこめた。「心配しないで、行ってて。――あ、これ、電車賃」
と、千円札を握らせる。
「聡子……恩に着るわ」
和代の目から涙がこぼれた。
「ほらほら。――人目につくわよ。しっかりして」
と、聡子が自分のハンカチで|拭《ぬぐ》ってやる。
「ありがとう……」
「でも、あの室井って刑事が私のこと、目をつけてるかもしれない。用心してね」
「うん」
「ずっと私の所にいるのは危いわ。どこか、うまい場所を見付けるから。とりあえず二、三日は大丈夫でしょう」
「聡子」
和代は、旧友の手を握った。やっと、力をこめられるようになった、という感じだった。
「ありがとう。迷惑かけるわ」
「何言ってんの。よくノート見せてもらったでしょ」
「ずいぶん昔の話だ」
「それはそうだけど」
二人はちょっと笑った。
「――もう行って。会社、うるさいんでしょ?」
「うん。でも、一緒に仕事してる人が、とてもいい人なの」
「男の人?」
「そうよ」
「じゃ――もしかして?」
「残念ながら、奥さんがいるの」
と、聡子は笑って、「じゃ、夕ご飯のおかず買って、七時ごろには帰るから、ドアの外から声かけるようにするからね」
聡子は、そう言って、足早にコーヒーショップを出た。
――あの室井という刑事の言葉を、忘れたわけではない。
自首すれば大して重い罪にはならない。
人殺しは人殺し……。
分っている。しかし聡子には、女をいじめ、いたぶって、うっぷん晴らしをしているような男は許せないのだ。
そんな奴のために、たとえ短い間とはいえ和代が刑務所へ行くなんて、許せない!
そう。絶対に私が和代を守って見せる。と聡子はファイトを燃やしていたのである……。
辻山房夫は、待ち合せた喫茶店に入って、真田邦也がまだ来ていないのを見ると、
「僕はコーヒー」
と、注文しておいて、入口の見える席に座った。
そのとたんに自動扉が開いて、真田邦也が入って来る。
「やあ邦也君か。すっかり大人になったね」
と、辻山は手を上げて、「もう大学の……二年? 早いなあ」
「久しぶりですね」
と、邦也も座って、「僕はココア。――少し太りました?」
「え? そんなことないさ。何しろしがない宮仕えだ」
「でも、結婚すると太るんでしょ」
辻山はジロッと邦也を見て、
「そこ[#「そこ」に傍点]だ」
と、言った。「うちの親父、君のお袋さん。二人して東京へ出て来たら……。困ったことになるんだよ」
「僕の方はね」
と、邦也が|肯《うなず》いて、「でも、辻山さん、別に問題ないんじゃないですか。ま、あのアパートが少しボロすぎるってことを除けば」
辻山は顔をしかめて、
「言いにくいことをはっきり言うね」
何しろ、辻山が、今にも取り壊されそうなボロアパートに住んでいるのと対照的に、真田邦也の方はれっきとしたマンション住いだ。
邦也の母、真田伸子は、故郷の町でも指折りの旅館の持主である。未亡人で、ほとんど女手一つで邦也を育て、東京の大学へやっている。
真田伸子と辻山の父、辻山勇吉は昔からの顔なじみで、気心の知れた仲だが、こと収入の方は天と地ほどの差がある……。
「邦也君、君の方は何が困るんだい?」
「え? ああ……。まあ、ちょっと――」
と、邦也は言葉を濁して、「辻山さんはどうして?」
二人は、ちょっと黙って、それから笑い出した。
「ま、隠しても仕方ないな」
と、辻山はコーヒーを飲みながら、「実は僕には女房なんかいないんだ」
邦也が|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「でも――|挨《あい》|拶《さつ》状、もらいましたよ! 確か……洋子さん、でしたっけ?」
「ありゃ『お化け』でね」
と、辻山は首を振った。「実在しない女なんだ」
「まさか!――でも、どうしてそんなことを?」
「親父から送金してもらうためさ」
と、辻山は言った。「何しろ、今の給料じゃ、結婚どころか、自分一人食べていくのもやっと。ところが、アパートの家主が何と家賃を五割も上げて来た。それで困ってね。ちょうど会社からは旅行の費用を借りたばかりだったし……。それで親父へ頼んだんだ」
「じゃ、そのときに結婚するから、と言って?」
「うん。親父は面倒な手続きとかにはこだわらない人間なんだ。『もう一緒に暮してるんだ』と言ってね。『そりゃ良かったな』てなもんさ」
「で、毎月援助を?」
「うん。――会社の方にも届けを出して、手当をもらっている。雀の涙だけどね」
「びっくりだなあ! じゃ、どうするんですか?」
「それで困ってるんじゃないか。何かいい手はないかと思ってさ。――親父は、あの町を出るのが嫌いだった。『嫁さんのご両親によろしく言っといてくれ』で終わりだ。こっちも安心してた。ところが……」
「気が変わった、ってわけですね」
「そういうことだね。――ま、こっちも色々苦労してる。特に会社内では、結婚したってことにしてあるから、みんなと話を合わさなくちゃならない。つい忘れそうになるんだよ。もともと僕はそう付合いのいい方じゃないから、同僚を家へ招かなくても、誰も不思議には思わないんだがね」
辻山はため息をついて、「親父にゃ、東京で暮してくのが、どんなに金のかかるもんか、見当もつかないだろうな。――ところで、君の方は?」
「え?」
「いや、君も何か困ったことがあるんだろう?」
「ええ……。まあそうなんですけど……」
と、邦也は|曖《あい》|昧《まい》に言って、「これ、内緒ですよ」
「当り前だろ。こっちだって、ばらされちゃ困るよ」
「そうですね。まあ――辻山さんに比べると大したことじゃないんです」
「何だよ、それ」
「ええ。――ただ、結婚しちゃったってことなんです、お袋に黙って」
コーヒーを飲みかけた辻山が、むせ返った……。
そのころ、成田空港の到着ロビーに一人の男が降り立った。
いや、もちろん、ここには毎日何万人もの男女が降り立っているのだが、この男は一見して目立った。
白のスーツ、黒のワイシャツ、赤いネクタイ。サングラス。
まるで――いや、もろ[#「もろ」に傍点]、ヤクザそのものという格好である。
そして、この男、|安東一《あんどうはじめ》は本当にヤクザであった。
子分を四人引き連れている。そして出口では、十人の出迎えの子分たちが一列に並んで、安東を待ちうけていた。
他の客たちが、チラチラ見ながら、避けて通り過ぎていく。
自動扉が開いて、安東が姿を現わすと、
「お帰りなさいませ」
十人の男が一斉に頭を下げた。
「ママ、何してんの?」
と、見ていた小さな女の子が不思議そうに|訊《き》いて、あわてた母親に手を引張られて行く。
「ご苦労」
と、安東は言って、「車は?」
「はい、正面に」
「行こうか」
と、安東は|肯《うなず》いて言った。
安東はまだ三十代の半ば。――年齢は若いが、この世界では恐れられている。
大胆で、凶暴。一方では計算に強く、事務所にコンピューターを入れて、自らいじるのが好きである。
大きなリムジンが、正面につけて待っている。――バスの邪魔になるが、職員も文句は言わなかった。
リムジンが安東を乗せて走り出すと、他の子分たちは、三台の車に分乗して、その後に従った。
もう夜である。――空港から離れると、周囲は暗い|闇《やみ》が広がるばかり。
「――日本はいいな」
と、安東は言った。「おい、一杯くれ」
「はい」
子分が、リムジンの中のポットから、熱いミソ汁をカップへ注ぐ。
ミソ汁を飲まないと、日本へ帰った気がしない、という安東である。
「――|旨《うま》い」
と、一口すすって、ため息をつくと、「白ミソに限るぜ、ミソ汁は」
「そうですか」
子分の|竜《たつ》が、何やら重苦しい顔で、「実は……親分……」
「何かあったのか」
と、安東は言った。
「はあ。お留守の間に……」
竜は、五〇歳ぐらい。目つきは鋭く、頭は|禿《は》げ上がっているが、一見したところ、普通のビジネスマンである。
「言ってみろ」
「はあ。――島崎の兄貴のことなんです」
「島崎の?」
「|同《どう》|棲《せい》していた女が……」
「ああ、知ってる。いい女だ。何てったかな……。和代か」
「その和代が、島崎の兄貴を殺したんです」
安東はしばらく黙っていた。静かにミソ汁を飲み干すと、
「旨かった」
と、カップを返し、「――殺された? 兄貴が」
「はい」
「そうか……。なんてことだ」
安東は、そう言ったきり目を閉じていたが――。「で、女は?」
「室井って刑事を――」
「知ってる」
「あいつをぶん殴って、逃げてるんです。まだ見つかっていません」
「逃げた?」
安東の目がキラリと光って、「好都合だ。こっちでけり[#「けり」に傍点]をつけてやれよ」
「はあ」
「おい。腕のいいのを選んで、女を捜させるんだ。見つけたら、生かして連れて来い。俺が兄貴の|敵《かたき》をとってやる」
安東は、淡々とした口調でそう言うと、じっと窓の外の暗がりを見つめていた……。
5 悩みは深し
「それで、結局、どういうことになったの?」
と、水野涼子は言った。「――おかわりは?」
「うん、いいよ。自分でやる」
真田邦也は、自分でご飯をよそった。――お米のご飯をたっぷり食べないと、食事した気がしないという体質である。
「――ま、辻山さんも困ってた」
と、邦也は言った。「ともかく、二、三日のことだからね。何とかうまくごまかして乗り切ろうってことで」
「そう……」
涼子は――正式に婚姻届を出しているから、「真田涼子」なのだが――冷淡な口調で言った。「簡単じゃないの、そんなこと」
「何が?」
と、邦也は目をパチクリさせる。
「問題ないわよ。辻山さんの所は、いるはずの奥さんがいない。こっちは、いないはずの妻がいる。――要は向うに奥さんがいて、こっちにいなきゃいいわけでしょ」
「そりゃまあ、そうだけど」
「私が、その三日くらいの間だけ、辻山さんの奥さんになりゃいいのよ」
「君が?」
邦也は面食らって、「まあそれも――一つのやり方だけど、君は若すぎるよ、辻山さんには」
「あら、いいじゃない。私、落ちついた年上の人って嫌いじゃないわ。その代り、その三日間で、私と辻山さんの間に何か[#「何か」に傍点]あっても、怒らないでね」
「おいおい――」
邦也が情ない顔で、「そういじめないでくれよ」
「いじめるわよ」
ベェと舌を出して、「お母さんに、『結婚した』の一言も言えないの?」
「そりゃあ……、君はうちのお袋を知らないからそう言うんだ」
と、邦也は首を振って、「何しろ|凄《すご》いんだ、お袋は」
涼子だって、邦也を困らせたいわけではなかった。
確かに、学費を送ってもらっている学生の身で、親に黙って結婚してしまったことには多少後ろめたさも感じている。しかし、法律上は二人とも二〇歳を過ぎていて、自由に結婚できるのだし、先のことも考えず、向う見ずに同棲してしまったというわけではなかった。
現に、こうして邦也と二人、ぜいたくもせずに、堅実に暮している。卒業するまでは子供も作らないように、と用心していたし。
涼子としては、ここで邦也が母親に対して、
「この子と結婚したんだ」
と、堂々と言ってほしいのである。
たとえ、邦也の母親と離れて住むにしても、|曖《あい》|昧《まい》なままの関係ではいやだ。涼子の性格に合わないのである。
涼子は何ごとも黒白をはっきりさせ、きちんとしておきたい。――邦也と一緒になったときも、邦也の母に会いに行こうと言ったのだが、邦也が、
「今はまだ早いよ」
と、止めて、それっきり。
あのとき、ちゃんと|挨《あい》|拶《さつ》に行っておけば、たとえそのときは大騒ぎになったとしても、今、こんなことで困らずにすんだのである。
まあ、今さら言っても始まらない。――確かに、邦也はすてきな男の子で、涼子も|一《ひと》|目《め》|惚《ぼ》れだった。
しかし、そのやさしさは、裏を返すと、優柔不断。いざ、ってときをできるだけ後へのばそうとすることにもなる。
「――おいしかった」
と、邦也は言って、「な、涼子――何か考えるからさ、少し待ってくれよ」
その訴えるような目に、涼子は弱い。
「分ったわよ」
と、|微《ほほ》|笑《え》んで、「その代り、キスして」
二人の唇が軽く触れる。
「それから、お茶碗洗うの、手伝って」
と、涼子は言った。
サイレンが……。
サイレンが近付いて来る。――とうとうやって来たのだ。
和代は、眠りから完全に覚めない頭で、ぼんやりと考えていた。――いつまでも逃げられるものではないと分っていた。
そう。いつか、こうなると……。
ドアを|叩《たた》く音。――表には警官がズラッと並んでいる。
トントン。――早く入って来たら?
逃げも隠れもしないわよ。私はここにいるわ……。
「和代。――私よ」
え? 和代はゆっくりと起き上がった。
暗い部屋。もう夜なのだ。
「待って」
と、和代は言った。でも、どこで明かりを|点《つ》ければいいのか分らない。
手さぐりで玄関へ下りると、ドアを開けた。
「眠ってた?」
と、聡子が入って来て、「真っ暗じゃないの!」
「気が付いたら、夜だったの」
聡子が明かりを点ける。――和代の目にはまぶしかった。
「カーテン、引いてあるわね。体、楽になった?」
「うん」
和代は|肯《うなず》いて、「ありがとう。もう何日も眠ってなかったような気がする」
「いくらでも寝てちょうだい」
と、聡子は微笑んで、「でも何か食べてからね」
「そうね。――手伝うわ」
「じゃ一緒に。といっても、簡単なものばっかりよ」
――二人は、まるで長いこと一緒に暮しているルームメイトのように、手ぎわ良く、夕食の仕度をした。
「サイレン、聞こえなかった?」
と、台所に立って、和代は言った。
「ああ、救急車ね。途中で追い越して行ったわ」
「パトカーかと思った」
「私が裏切ったとでも?」
「まさか」
二人は笑った。――和代は、もう一生、笑うことなんかないような気がしていたのだ。
――食事は大いに、盛り上がった。
学生時代の友人のことや、聡子の会社の上役の悪口(いつも、悪口が出ると話は面白くなる)、結婚した友人のグチの話など――。
話は尽きなかった。
「――もう満腹!」
と、和代は息をついて、「太っちゃって、手配写真と全然別人みたいになるかもしれないわね」
「和代……」
聡子は、少し間を置いて言った。「私はいつまであなたがいても、一向に構わないのよ。でも、ずっと一歩も外へ出ないってわけにもいかないでしょ?」
「そうね」
「どこか身を隠せる所、ある? 心当りがあれば、私、お|膳《ぜん》|立《だ》てするから」
「聡子」
和代は、真顔になった。「聡子の気持は、本当に|嬉《うれ》しい。でもね、いつまでも私と係り合ってちゃいけないわ」
「和代、私、平気よ。たとえ刑務所へ入れられたって――」
「そうじゃないの」
と、和代は首を振った。「警察なら、まだいいわ。少なくとも裁判にかけてくれる。でもね、私が殺した島崎は、ヤクザなのよ」
「知ってる」
「しかも、兄貴分で、大勢、弟分がいるわ。――その島崎を殺した。当然、今ごろその弟分たちが、私を捜し回っているはずよ」
「でも……」
「連中はしつこいわ。|諦《あきら》めないし、大勢の人間を動かせる。鉄道の駅、長距離バスのターミナル、どこも見張ってるはず」
「そんなに?」
と、聡子は目を丸くした。
和代は、ちょっと微笑んで、
「ああいう連中が、どんなに|凄《すご》い網を張りめぐらすか、あなたには分らないわ」
と、言った。「警察と違って、捕まえたら裁判も何もない。生きてはいられない」
「和代……」
「あなたに、そんなことの巻き添えを食わせたくないの。一人や二人、余計に殺したりするのは平気な連中よ」
聡子は、緊張した面持ちで、
「じゃあ……どうするの?」
「考えてないけど……。ともかく、ここに長くはいられないわ」
「だけど、どこへも行けないのなら、|却《かえ》ってここにいた方がいいじゃないの。外へ出ないようにして。――アパートの人には、|親《しん》|戚《せき》が来てるとか、適当に言っとく。それが一番安全よ」
「ええ……。ただ、万一のときにね、聡子まで――」
「何言ってるの」
と、聡子はきっぱりと言った。「危険は承知でやってるのよ。子供じゃないもの。人のせいにして恨んだりしないわ」
「聡子……」
和代は、涙のたまった目で、旧友を見つめた。
「ほら、すぐ湿っぽくなって。――ビールでも飲む?」
「いいわね」
二人は一緒に笑った。
そのとき、電話が鳴り出して、一瞬、二人は沈黙した。
「――ただの電話よ」
と、聡子は息をついて、「私にだって、電話くらいかかるのよ。――もしもし」
「山崎さん? こんな時間にすまない。辻山だけど」
聡子は面食らった。
送話口を押えて、
「会社の人。――もしもし。何ごと?」
「実はね、ちょっと相談にのってほしいんだけど……。アパートへ行ってもいいんだけどね」
「あの――ちょっと今は……。それより、どこにいるの?」
「駅前。君のとこの近くの」
「まあ……。どうしたの? 奥さんと|喧《けん》|嘩《か》でも?」
「――女房のこと[#「女房のこと」に傍点]には違いないんだがね」
と、辻山は言った。「ちょっと困ってるんだ。知恵を借りたくて」
「待ってね。――じゃ、そこの近くに『P』っていうスナックが……分る?――そうそう、看板、見えるでしょ? そこにいてくれる?」
「分った。悪いね」
「いいのよ。じゃ……十分くらいで行けると思うわ」
聡子は電話を切って、「――ちょっと出て来るわ。隣の机の人なの」
「とってもいい人だと言ってた人?」
「そう。――何かしら」
聡子は、財布を持って、薄いコートをはおった。「じゃ、ちょっと出て来る。疲れてたら、先にお|風《ふ》|呂《ろ》にでも入ってて」
「うん、ありがとう」
聡子は、アパートを出た。
もちろん、辻山の話というのがどんなことなのか、見当もついていなかったのである……。
「兄貴」
ドアの外から声がした。
「何だ」
と、安東は起き上がって、「忙しいんだ」
「あの――例の奴を呼んでありますが」
安東は少し考えて、
「〈サメ〉か?」
「そうです」
「三十分したら会う。何か飲んでてくれと言え」
「分りました」
――安東は、ベッドにまた横になった。
「邪魔が入ったわ」
と、ミキが口を|尖《とが》らして、裸の体をすり寄せてくる。「三十分? 物足りない。何日放っとかれたと思ってんの?」
「そう言うな」
と、安東は笑って、「島崎の兄貴のためだ」
「あの殺された人? 私、嫌いだったわ」
と、ミキは言った。「すぐ女を殴るの。怖かった」
「ああ……。俺も好きじゃなかったさ」
と、安東は言った。
「じゃ、どうして気にするの? もう組を離れてたんでしょ?」
「色々事情があったんだ。それに、組を離れても、兄貴は兄貴。殺されたとあっちゃ、放っとくわけにいかない」
「嫌いでも?」
「|面《メン》|子《ツ》ってもんがある」
安東はミキを抱き寄せて、「三十分ですませよう」
「いやよ……」
と言いつつ、ミキは安東にすがりつくように抱きついて行った……。
6 打ち明け話
「殺さないでくれ、と?」
その男は、少し意外そうな口調で言った。
安東と話を始めてから、その男が感情らしいものを見せたのは、そのときだけだった。
「そうだ」
安東は、シルクのガウンをはおった姿で、革ばりの背もたれの高い|椅《い》|子《す》に座っていた。右手はパソコンのキーボードをほとんど無意識に|叩《たた》いている。
目の前に座っているのは、〈サメ〉というニックネームで呼ばれている、一匹狼の殺し屋である。
もちろん、安東自身も自分で手を下して殺しをやってきた人間だが、今は大物になりすぎてしまった。自分で動けば、警察が目をつける。
まあ、警察も少々のことには目をつぶってくれるが、やはり「殺し」となると、そうもいかないのだ。特にあの刑事――室井という奴は、何だかボーッとして|捉《とら》えどころがないくせに、どこか油断できない。
島崎を殺した和代が、室井をフライパンでぶん殴って逃げたという話は、安東を大いに面白がらせたものだ……。
それはともかく――今、目の前にいるのは、どう見てもパッとしないくたびれたサラリーマン。
着ているスーツも、量販店で〈二着で一着分のお値段!〉といって売っている類のものだろう。これが裏の世界で知られた〈殺し屋〉だとは、とても思えない。
安東のように、一見して辺りを払うような迫力を身につけることは、組織の中にいる限りは必要だ。しかし、この〈サメ〉のような人間には、目立つことは禁物。
できるだけ、すぐ人に忘れられる存在でいた方が、都合がいいのである。
「――お話がよく分りませんね」
と、〈サメ〉は神経質そうに両手を組み合せたり離したりしながら、言った。「私は殺すのが仕事です。生かして捕まえて来い、とおっしゃるのなら、そちらには充分人手がおありでしょう」
「確かに」
と、安東は|肯《うなず》いた。「しかし、今回はあの連中は動かしていない」
「どうしてまた……」
「血の気の多い連中だ。それに、殺された島崎の兄貴を慕ってた奴も少なくない」
と、安東は言った。「奴らが、あの女を見付けたら、その場で殺すか、半殺しの目に遭わせるだろうからな。そうはさせたくない」
「つまり……自分の手でやりたい、と」
「そんなところだ」
安東の言い方は少し|曖《あい》|昧《まい》だった。「あんたにとっちゃ、迷惑な依頼かもしれん。しかし、殺す相手を見付け出すことにかけちゃ、右に出る者はないってことだし。――ぜひ、引き受けてほしい」
「――分りました」
少し考えてから、〈サメ〉は肯いた。「ただ、殺さないとしても、料金の方は変わりませんよ」
「もちろんだ」
と、安東は肯いた。「じゃ、やってくれるね」
「いいでしょう。しかし、無傷で連れて来るとなると、少々手間どるかもしれません」
「急がない」
と、安東は言った。「といって、いつまでも待てるわけじゃないがね」
「こちらも、仕事が詰まってますので」
と、〈サメ〉は立ち上がって言った。「では、これで」
「何かあったら、いつでも連絡してくれ」
〈サメ〉は、かすかに首を振って、
「この次は、女を連れてここへ現われます」
と言った。「では、失礼します」
ほとんど足音もたてずに消えて行く。
「変わった男だ」
と、安東は|呟《つぶや》いた。
わきのドアが開いて、ミキが薄いネグリジェ一つで入って来る。
「もう帰ったの?」
「ああ。――何だよ。そんな格好で」
「ちゃんと[#「ちゃんと」に傍点]着てるわよ」
「そういうのを『ちゃんと』っていうのならな」
と、安東が苦笑する。
そこへドアが開いて、竜が顔を出し、
「親分。組から使いが――」
と言いかけて、ミキの格好を見て真赤になる。「し、失礼しました!」
「おい待て。何だって?」
「あ、あの――使いの若いのが来てます」
と、ドアの向うへ出て、細い|隙《すき》|間《ま》から声を出す。
「分った。すぐ行く」
安東は、ドアが閉まると、ミキの方へ、「おい、竜の奴は気が小さいんだ。びっくりさせちゃ|可《か》|哀《わい》そうだぜ」
と笑いながら言った。
「|可《か》|愛《わい》いじゃない、照れちゃって。いい|年《と》|齢《し》なのに」
と、ミキは愉快そうに言った。「ね、夜、ディスコにでも連れてってよ」
「時差ボケでくたびれてるんだ。若いのと行って来な」
「フン」
ミキは口を|尖《とが》らして、「じゃあ……竜ちゃん[#「ちゃん」に傍点]とでも行って来ようかな」
「奴がギックリ腰になっても知らねえぞ」
と、安東は言って、「さ、着がえるか」
ミキのお|尻《しり》をポンと|叩《たた》いて、自分の部屋へと戻って行く……。
山崎聡子は、しばし無言だった。
「――ま、こんなわけでね」
と、辻山房夫は言った。「何かいい知恵はないかと思ってさ」
「辻山さん……」
「うん?」
「夢じゃないわね、これ?」
辻山は、スナック〈P〉の中を見回して、
「夢なら、もうちょっと豪華な場所が出て来ると思うけど」
「でも――|呆《あき》れた!」
と、山崎聡子はやっと首を振って、「よくごまかしてたもんね」
「そう言うなよ。こっちもドキドキものだったんだ」
「だけど……。わざわざ、隣の奥さんに電話をかけさせたりして! 手がこんでるわ」
「悪気じゃなかったんだよ」
「悪気があったら大変よ」
と、辻山をにらんで、「私、|真《ま》|面《じ》|目《め》に電話に出ちゃって……。人を馬鹿にしてるわ」
と、段々腹が立って来る様子。
「怒らないでくれ。頼むよ」
と、辻山が拝むように両手を合わせた。
「それに――分ってるの? 会社から手当までもらってる。違法行為よ。いくら安月給だって!」
「ああ……。弁解はしないよ」
と、辻山は小さくなっている。
聡子はちょっと肩をすくめて、
「あそこの月給自体が違法行為[#「違法行為」に傍点]よね」
と笑った。「でも――どうするつもり?」
「それで困ってるんだ。親父が出て来る二、三日の間だけでも、何とか格好をつけないと」
「そんなこと……。どうせ、いずれはばれるわよ」
「うん。しかし、ともかく次の週末までに結婚するってわけにはいかないし。ここを何とかのり切れば、後でちゃんと始末はつけようと思ってる」
辻山もどうやら本気らしい。
「そう……。ま、あなたが悪いんだとは思わないけどね」
聡子も毎日机を並べて仕事をしている身である。辻山のこともよく分っていた。
「でも、何かいい知恵って言われてもね……」
「君ぐらいしかいなくてね、相談できる相手が。――何かうまい手はないかな」
辻山がため息をつく。
ふと――聡子は、辻山をまじまじと見つめて……。
「そう……。でも、いけないわ、やっぱり」
「え?」
「あなたと……。もし、それで何とかなったとしても……。やっぱりそんなこと――」
「何をブツブツ言ってるんだい?」
と、辻山は不思議そうに言ってから、「山崎君――もしかして、君が?」
「え?」
聡子は|訊《き》き返してから、真赤になって、「何を考えてるのよ!」
「いや、ごめん。でも……」
「私が考えてたのはね。彼女[#「彼女」に傍点]をあなたの所へ置いてくれたら、ってことだったの」
「彼女?」
聡子は、じっと辻山を見つめて、
「小田切和代」
と、言った。
辻山は、それが誰のことか、少し考えていたが、やがて目を丸くして、
「もしかして……あの[#「あの」に傍点]?」
「今、私のアパートにいるの」
と、聡子は言った。「私、あの人をかくまって、何とか逃がしてあげたい。男の暴力に|堪《た》えかねて、殺すしかなかったのよ。そんなことで刑務所へ入るなんて、ひどいわ」
「でも、君まで――」
「分ってる。覚悟の上よ」
聡子のあっさりした言い方に、辻山は|呆《あっ》|気《け》にとられていたが、やがてちょっと笑うと、
「君らしいや。いや、立派なもんだ」
聡子も一緒に笑った。
辻山をそこまで信用しているということ。――言われるまでもなく、辻山にも、そのことはよく分っていた。
「警察に追われてるだけじゃない。殺したヤクザの身内も、彼女を捜してるわ」
「君も危いじゃないか」
「彼女を、『臨時の奥さん』として、置いてやってくれない?」
「うん……」
辻山もさすがに少し考えたが、「いや、むしろ、こっちからお願いしなきゃいけないね、それなら」
聡子はホッとしたように|微《ほほ》|笑《え》んで、
「ありがとう! 私のところは、あの刑事も目をつけるかもしれないし、危いな、と思ってたの。何日間かでも、あなたの所に置いてくれたら、私、彼女を逃がす手を考えるわ」
「分った」
辻山は|肯《うなず》いて、「しかし、色々考えなきゃいけないな。今のアパートに突然彼女を連れて来るってのも……」
そうなのだ。適当な女性を、その何日間かだけ置いとけばすむというものでもない。
アパートの他の住人たちと父親がちょっとでも話をすれば、すぐにばれてしまうだろう。
特に、父、辻山勇吉はあまり細かいことを気にしない性格だが、一緒に来る真田伸子。――当然、彼女も辻山のアパートへやって来ると思わなくてはならない。
真田伸子は旅館の女主人らしく、至って細かい所に気の付く女性だ。辻山がごまかそうとしても、たちまち見抜いてしまいそうである。
「待ってくれよ……」
と、辻山は言った。
「何かうまい手が?」
と、聡子が身をのり出す。
「いや、実は同郷の子でね、真田邦也って大学生がいるんだ……」
辻山が、邦也の方の「困っている事情」を説明すると、聡子は|呆《あき》れ、それから笑い出してしまった。
「笑いごとじゃないよ」
と、辻山は渋い顔。
「ごめんなさい……。でも、そんな話って――」
「|嘘《うそ》みたいだろ。ところが本当なのさ」
「じゃ、本当はその子の奥さんを、あなたが借りりゃいいわけね」
「女子大生だよ。僕とどうしたって結びつかない」
辻山も、自分のことはよく分っているのである。
「その子はどうしようとしてるわけ?」
「さあ。――お互い、『困った』と言ってるだけさ」
と、辻山は言った。「ね、どうだろう。僕の今のアパートへ、その彼女を突然連れて来るのはまずい。二人で、全然別の所へ一時的に引っ越すってのは」
聡子は肯いて、
「それの方が疑われなくてすむわね」
「だろ? もともと引っ越し先を探してたってことにすりゃいいんだし。ほんの何日かだ。誰かの部屋をちょっと貸してもらって――」
「でも、秘密が守れる人でないと」
「だからさ、自分も[#「自分も」に傍点]人に知られちゃ困る秘密を抱えてる奴なら大丈夫」
「つまり――」
「邦也君のマンションを、ちょっと拝借するのさ」
「でも、その子たちはどうするの?」
「――あ、そうか」
「二世帯同居ってわけにもいかないでしょ」
と、聡子は言って、「ともかく、来て。彼女に紹介するわ」
と、立ち上がった。
二人はスナックを出た。
「それから、言っときますけどね」
と、聡子は言った。「彼女、とても傷ついてるのよ。同居するからって、妙な気を起さないでね」
「分ってる! 信じてくれよ」
「そうね。――信じてるわ」
と聡子は微笑んで、足早に歩き出した。
7 絡まりの始まり
ふと、誰かに大切な秘密を打ち明けたくなるときというものがある。
その日のお昼休みの涼子が、ちょうどそんな気分だった。
「涼子!」
と、相変わらず元気なリカがやって来ると、少し|空《す》き始めた学食の空気を全部吸い込んでしまいそうな勢いで、「――ああ、お腹空いた!」
「何か食べたら?」
と、涼子は言った。
「うん……。涼子は?」
「食欲ないの」
涼子の前には、プラスチックの器に入ったスープのみ。
「どうかしたの? 病気? 食べ過ぎ? 失恋?」
「あのね――『〇×テスト』じゃないのよ。大丈夫、ちょっと落ち込んでるだけ」
実は、このスープの前にラーメンを一杯食べているのだ。しかし、リカの心配ぶりに、そうは言えなくなってしまった。
まあ、確かにいつもよりは[#「いつもよりは」に傍点]、食べていないから、まるきり嘘ってわけでもない。
「あ、真田君」
と、リカが言った。
涼子は、真田邦也が――自分の夫が――やって来るのを見た。そう、落ち込んでるのは、あいつ[#「あいつ」に傍点]のせいだ。
「やあ」
と、邦也が笑顔で言った。「掲示板見たかい? また本を買わなきゃいけないな」
「安くないもんね」
と、リカが|肯《うなず》く。「ね、一冊買って、回して使う? コピーとると高いからさ」
「それも手だね」
邦也は、昼食の盆を手にしていたが、「あ、国友の奴だ。――じゃ、また」
と、同じクラブの男子学生の方へ行ってしまう。
「ふん……」
と、涼子は言った。
「え?」
リカが不思議そうに涼子を見る。
「何か言った?」
「何でもない」
掲示板の本の話は、今朝、マンションを出るときに、話していたのだ。それをここでは全く知らないふりをしてしゃべらなくてはならない。
涼子はふっと|虚《むな》しくなる。――私たち、どういう夫婦なんだろう?
リカが食べ終わると、涼子も一緒に学食を出た。――いいお天気で、キャンパスの中をぶらつくのも気持がいい。しかし……。
「涼子。――どうしたのよ」
と、リカが歩きながら、「ふさぎ込んじゃって」
「別に」
「別に、じゃないでしょうが! 夫婦|喧《げん》|嘩《か》でもしたか」
もちろん、リカは冗談で言ったのである。だが、涼子はしごく|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で、
「そうなの」
と、答えた。
リカが目をパチクリさせて、
「そうなの、って……。何が?」
「自分で言ったでしょ」
「夫婦喧嘩って言ったのよ。涼子、まだ結婚してないじゃない」
「そうよね。ハハハ」
と、涼子がわざとらしく笑う。
リカがピタリと足を止めた。
「涼子……。本当に? 結婚したの?」
冗談よ。そう言って笑い飛ばせばいい。――そう。リカにしゃべるなんて、とんでもないことだ。
涼子には分っていた。それでも涼子は、ニコリともせずに、
「そうよ」
と、答えていたのだ。「結婚してるの、私」
どうして言ってしまったんだろう?
涼子自身、よく分らなかった。ただ、邦也があくまで母親に、結婚していることを隠し通そうとしているのが、面白くなかったのは事実である。
「涼子!――心臓が止まるかと思った!」
リカが本当に胸を押えて見せる。
「大げさね。もう二〇歳すぎてるんだから、構やしないでしょ」
「だって……。涼子、そんなそぶりも……。ね、相手は誰なの?」
リカの目の輝きを見て、涼子は初めて、しまった、と思った。黙っていれば良かったのだ。
もし大学中にこのことが広まったら、邦也は、涼子がわざとしゃべったと思うだろう。――涼子は邦也と本当に「夫婦喧嘩」をしたいわけではなかった。
「ね、涼子、そこまで言って黙っちゃうなんて、ひどいよ! 私の口が固いの、知ってるでしょ」
壊れたガマ口くらいには固いわよね、と涼子は思った。
「あのね……」
と、涼子は周囲を見回して、「みんなのいる所じゃちょっと……。ね、今日帰りに話してあげるから。絶対にしゃべらないでよね」
「うん! 神かけて誓う!」
何の「神」に誓っているのやら。
「お願いよ。――リカのためなの。しゃべると危いのよ」
「危い?」
「そう。命に[#「命に」に傍点]かかわるの。――くれぐれも、口をつぐんでいてね」
涼子のわけの分らない話に(当人もよく分っていない)、リカは狐につままれたような顔で、コックリと肯いたのだった……。
ハッと起き上がって、小田切和代は深く息をついた。
今のは?――夢か。
手首を思わず見下ろす。そこには手錠などかかっていなかった。
――そう。夢なのだ。
山崎聡子のアパートの中を見回して、やっと少し気持が落ちついて来る。
聡子にも、とんでもない迷惑をかけてしまっている。和代も気にしてはいるのだが、何しろ聡子の方がどんどん積極的に動いてくれているので、やめてくれとも言いにくいのである。
夕方――やがて六時になるところだ。
まだ外は明るく、レースのカーテンからは柔らかい光が射し入って来ている。
まだ、昼夜の感覚がおかしい。こんな風に、昼間、横になってふっと眠り込んだりすることがあった。
それにしても……。考えてみれば、あの島崎との日々は何だったのか。
こうして逃げていて、もう島崎のことを思い出すことは、全くといっていいほど、ないのだ。
一度は愛したつもりだった。この体も、あの男のものだった。しかし――今、和代の心には、「島崎」のかけらすら残っていない。
今、和代は「生きたい」と思っていた。
あの男のためにむだにした日々を、何とか取り戻し、やり直したかった。
そのためには、生きていなくてはならないのだ。
警察と、そして島崎につながる「組」の男たちが、今、必死になって和代を捜しているだろう。見付かったら、もうおしまいだ。
死にたくない! 和代は心から、そう思った。
落ちついて……。何も、そう自分を追いつめることはない。
お茶をいれて、飲んだ。
昨日会った、あの辻山という男を、思い出す。聡子も、とんでもないことを考えるものだ。
昔から、聡子は考えるより早く行動してしまう子だった。そういう性格は、一向に変わらないものらしい。
しかし、あの辻山という人……。あれも相当なお人善しというべきだろう。
逃亡中の殺人犯を前に、自分の方から頭を下げて、
「どうぞよろしく」
などと、なかなか言えるものじゃない。
聡子は、辻山と和代を「臨時の夫婦」ということにして、|一《いっ》|旦《たん》ここから出すつもりだ。もちろん、和代のことを考えての計画である。
あの室井刑事は、遠からずここにもやって来るだろう。
辻山のことを思い出すと、つい笑みがこぼれる。――外見はパッとしないし、大して度胸もなさそうだが、
「申し上げておきますが、その――夫婦ということではありますが、もちろん、これは『偽装』でありまして……。その……決して、そのような[#「そのような」に傍点]心配はありません、はい」
と言いながら、赤くなっていた。
要するに、夫婦として何日か過しても、絶対に和代に手は触れないということで、きっと聡子からもきつく言い渡されているのだろう。
たぶん……和代にしても、「男」を受け入れるような気持にはなれまい、逃げているからでなく、島崎との日々が、あまりに地獄そのものだったから……。
あんなものが「男」だという、肌にしみついた絶望は、頭だけで「そんなことはない」と思ってみても、決して消えるものではなかった。
辻山みたいな男も、世の中にはいる。
いや――もちろん、辻山にしたところで、一緒に生活してみれば、「違う顔」も持っているのかもしれないが、しかし基本的な生き方が、島崎のような男とは全く違うのである。
和代は辻山の、あのパッとしない外見と、たどたどしいしゃべり方に、心の和むのを覚えたのだった……。
和代は時計を見た。――電気|釜《がま》のスイッチを入れておこう。聡子はちょうど、会社を出たころだろう……。
「――親分」
安東は、大分前から、ソファの後ろに|竜《たつ》が立っているのを知っていた。
「――何だ」
安東の目はパソコンの画面にカラフルに表示された棒グラフを見ていた。
「お邪魔してすみません」
「いいさ。――話せ。ちゃんと聞いてる」
ソファに|寛《くつろ》いでいても、安東は昔通りの鋭い勘を持っている。
「島崎の兄貴を殺した、あの女のことですが……」
「あの女がどうかしたか」
「あの……。俺にやらせてもらえませんか」
竜が、おずおずと言った。
安東の手が止まった。ゆっくりと振り向いて、
「やらせろ、ってのは、どういうことだ?」
と、|訊《き》く。
「はあ……島崎の兄貴にゃ、若いころずいぶん世話になりました。その兄貴があんな死に方をして……。この手で、|敵《かたき》をとってやりたいんです」
竜の声に力がこもった。「お願いします。あの女をぜひ、俺の手で――」
「竜」
と、安東はパソコンの方へ目を戻した。
「はい」
「俺は言ったぞ。あの女を無傷で連れて来させる、ってな」
「分ってます。そこを――」
「分ってりゃいい」
安東は|遮《さえぎ》った。「他に何かあるか?」
少し間があって、竜は、
「いえ……。お邪魔しました」
と出て行った。
安東は、じっとパソコンの画面に見入っている。
竜の気持は分る。――他にも同じように考えている連中が何人もいるだろう。
しかし、正直なところ、安東は島崎が好きでなかった。気に入らないと暴力で言うことを聞かせる。
もちろん、安東も「力」は使う。しかし、島崎のように「趣味」で暴力を振うことはない。
島崎は、まともじゃなかった。これからは、あんなことではやって行けない。今求められているのは、クールで、知的な方法で事業を拡大して行く手腕だ。
どうしても必要なときには、思い切った手を使う。カッとなりやすい、古いタイプの組員たちには、その判断ができないのだ。
安東は、一方で、島崎のようなタイプの男が、「兄貴分」として慕われやすいことも知っていた。何といっても、「肩で風切って歩く」タイプは、一見、偉く見えるし、頭の中の軽めな連中には「カッコイイ」と映る。
しかし、安東は島崎が決してトップまで行くことはないと読んでいた。あの女に殺されなくても、いずれつまらない抗争で命を落していただろう。
時代は変わっているのだ。
安東はパソコンのキーボードに手をやった。――あの女はどこにいるのだろう?
「おい」
と、安東は言った。「食事に出る。ミキの奴を呼べ」
使い走りの若いのが、駆けて行く。
少し若向きの店にするか。――安東は立ち上がって、伸びをすると、パソコンのディスプレイを消した。
8 危険な出会い
「こんなんで、ご機嫌とろうったって、だめよ」
と、涼子はそっぽを向いて言った。
「何もそうむくれなくたっていいじゃないか……。僕だって色々考えてるんだからさ。――ね、食事のときは楽しくやろうよ。そうしないと栄養にならない」
いかにも邦也らしい言い方に、つい涼子は笑ってしまった。
「――しょうがないから、食べてやるか」
と、メニューを広げる。
このところ、週刊誌とか若者向け雑誌でとり上げられて、いわば流行の「デートスポット」になっている、レストラン。
一応イタリア料理ということになっているが、実際は雑多なメニューがあって、しかも店は|洒《しゃ》|落《れ》ていて上品なインテリア。
値段も、そう格別に高いわけでもなく、邦也のように、「多少余裕のある」大学生なら、充分に払える。
これで混雑しなかったら、どうかしているというものである。
「――よくテーブルが取れたわね」
と、涼子が言うと、
「ここのマネージャー、大学の先輩なんだ。ちょっと知ってるんだよ」
と、邦也は言った。「さ、何にする?」
スパゲッティを始め、あれこれ取って、二人で分けて食べようとか、色々やっている間に、涼子の機嫌も直って来た。
オーダーをすませて、涼子は、
「で、どうすることになったの?」
と、|訊《き》いた。
「うん。ちょっと困ったことになってね」
と、邦也は言った。「辻山さん、僕のマンションを、二、三日貸してくれないかっていうんだよ」
「どうして?」
邦也が、辻山から頼まれたことを話してやると、涼子は、
「|呆《あき》れた。二人で何やってんの?」
「まあ、辻山さんの気持は分るんだけどね。僕の方だって、お袋が来て、あのマンションにいなかったら大変なことになるからな」
と、邦也はナプキンを取って|膝《ひざ》の上に広げた。
「で――断ったの?」
「まあ……少し待ってくれって言ってある」
「そう。――でも、辻山さんって人、よく見付けたわね、『奥さん』を」
「訊いたんだけどね、どこで見付けたんですかって。でも、それは言えないんだ、って一人で照れてた」
もちろん、辻山の『臨時妻』が、逃亡中の殺人犯だなどと、邦也が知るはずもない……。
「でも、気の毒よね、その人も。何かうまい手があるといいけど」
と、涼子が考え込む。
前菜の皿が出て来た。
「今晩は」
と、邦也が言った。
皿を運んで来てくれたのが、例の「先輩」だったのである。
「やあ、すてきな彼女、連れてるじゃないか?」
と、冷やかして、「今日は大変だったんだ、テーブル取るのが」
「何かあったんですか」
「奥のテーブル、空いてるだろ?」
一番奥まったテーブルと、その両側。三つのテーブルが空いて、〈予約席〉の札が置かれている。
「誰か来るんですか」
「そう。――ちょっと気をつかう客がね」
ピシッとタキシードの決まった、そのマネージャーは、ため息をついた。
「マネージャー」
と、ウエイトレスの女の子が小走りに、「おいでになりました」
「そう」
急ぎ足で、マネージャーが行ってしまう。
「――よっぽど大切なお客なのね」
と、涼子が言った。「誰かしら?」
「さあね……」
邦也は首をかしげ、「ともかく食べようよ、僕らは」
「ええ」
食事を始めた二人だったが、すぐに手を休めることになった。
店の中が何となく静かになる。
白いスーツを着た、まだ三十代の半ばくらいと思える男が、テーブルの間をやって来る。
そのわきには、えらく派手なドレスの若い女。そして後ろに四人の男が従っていた。
「ね、あれ――」
と、涼子が小声で、「ヤクザ?」
「しっ」
と、邦也があわてて言った。「聞こえるよ!」
どう見ても、ついて来る男たちは、普通ではない。店の中の客たちに、ジロッと鋭い視線を投げかけ、客たちはあわてて目をそらしている。
しかし何といっても――トップを歩いて来る白いスーツの男が、その存在感で、周囲を圧倒していた。
涼子は、見てはいけないと思いつつ、その白いスーツの男から、目が離せなかった……。
「――おい」
と、後ろについていた男の一人が、スッと涼子の方へ寄って来た。「何を見てるんだよ?」
「いえ――別に」
涼子はあわてて首を振った。
「おい、よせ」
と、白いスーツの男が、一番奥のテーブルにゆったりとつく。「他のお客に迷惑かけに来たんじゃねえ」
「はあ」
「早く座れ」
四人の子分たち(だろう)は、両側のテーブルに分れて座る。
白いスーツの男は、涼子の方を見て、
「失礼しました」
と言った。
涼子は黙って会釈した。
「――見ない方がいいよ」
と、邦也が低い声で言う。
「ええ……。でも、|凄《すご》い迫力」
涼子はホッと息をついた。何だか店の空気がピンと張りつめたようだ。
「いらっしゃいませ、安東様」
と、マネージャーが|挨《あい》|拶《さつ》に行く。「色々と特別メニューも用意させてありますので」
「私、お腹|空《す》いちゃった!」
と、連れの女が甲高い声を上げる。「ね、スパゲッティ食べたい!」
「かしこまりました。ただ今メニューを――」
「落ちつけよ」
と、安東という男は、女の腕に手をのせると、「食いものは逃げやしないさ」
「だって、お腹ペコペコなんだもん」
「こういう場所にゃ、それなりのマナーがあるんだ。まあ、たっぷり食べろ。その代り、うるさく言うなよ」
安東という男の声はよく通り、相手に有無を言わせぬ「力」があった。
涼子は、「ヤクザ」といっても、あんな大物――若いが、そうとしか思えない――をそばで見たことはない。
何だか足もとからゾクゾクするような、奇妙な興奮を覚えるのだった。
「どうかした?」
と、邦也が|訊《き》く。
「ううん、別に」
と、涼子は首を振った。
そう。――涼子の方だって、問題[#「問題」に傍点]を抱えているのである。
つい、昼間、口をすべらして、池山リカに、
「結婚している」
と、しゃべってしまったこと。
念入りに口止めはしてあるものの、本当のことをしゃべらない限り、向うも納得しそうにない。
リカにしゃべったことを、もちろん邦也には言っていないのである。
今日、帰りに話してあげる、とリカに言っていたのを、「少し待って」と引きのばしたが、さて、どう説明したものか……。
――食事が進むと、涼子も、あの白いスーツのヤクザがあまり気にならなくなって来た。
少々ワインなども飲んでいたせいかもしれない。
店の中は、にぎやかで、話し声も少し大きくする必要があるくらいだった。
「――おいしい! ね、これ食べてみて?」
「俺はもう充分食べたよ」
と、白いスーツの男が言っている。
「お願い! 少し食べて!」
どうやら、|可《か》|愛《わい》くはあるが、頭の中身の方は少々幼い女らしい。
安東という男、苦笑いしながら、女の差し出したフォークを口に入れている。
四人の子分たちも、大いに食べていた。しかし、ボディガードとしてついて来ているからだろう、アルコールは安東と女だけが飲んでいた。
「――ずいぶん若いわよね、あの白のスーツの人」
と、涼子は言った。
「うん。何だか――怖いな。目つきとか、普通じゃないよ」
「そうね。ああいう世界があるのね」
と、涼子は言って、「ね、そういえば、この間、女の人がヤクザの愛人を刺して殺したって……」
「ああ、刑事をフライパンで殴って逃げたってやつだろ」
「そうそう。|凄《すご》いわねえ。だって、ずっと一緒に暮してたわけでしょ? それが刃物で刺すって形で終わるなんて……」
涼子は、愛と憎しみ、どっちにしても、「殺意」にまで行きついてしまうということが信じられない。
「きっと、地獄みたいな毎日だったんでしょうね」
まさか、その当人[#「当人」に傍点]が、辻山の『臨時妻』とは思いもしないのである。
「あ、ちょっとトイレに――」
と、涼子は、ナプキンをテーブルに置いて、立ち上がろうと|椅《い》|子《す》をずらした。
ちょうどその後ろを、料理のワゴンを押したウエイトレスが通りかかっていたのである。
ガタッ、と椅子がワゴンにぶつかった。
「あ、ごめんなさい」
と、涼子は体をひねって、後ろを向いた。
顔を伏せがちにしていたウエイトレスが、パッと涼子を見る。
涼子は――それが、ウエイトレスの格好をしているが、男だ[#「男だ」に傍点]と知って、目をみはった。
「何なの!」
自分でもどうしてなのか――何を突然考えたのか、後になってもよく分らなかった。
「この人、男よ!」
と、涼子は我知らず叫んでいたのである。
「畜生!」
と、その男[#「その男」に傍点]は叫ぶと、涼子を突きとばした。
「キャッ!」
涼子はテーブルの上にもろに引っくり返った。
同時に、あの四人の子分が立ち上がっていた。椅子が音をたてて倒れる。
ウエイトレスに変装した男は、靴を脱ぎ捨てると、かつらを投げ捨て、一目散にレストランの中を駆け抜けて行った。
ワゴンが、その弾みでゆっくりと倒れる。料理の皿が砕けたが――。同時に、布の下から、黒光りする|拳銃《けんじゅう》が|転《ころが》り出た。
「あの野郎!」
と、追いかけようとする子分へ、
「よせ」
と、安東が言った。「店の奴に任せるんだ」
「ハジキが――」
「触るな」
と、安東は言った。「警察が来る。そっちが拾うさ」
マネージャーが真青になってやって来た。
「おい! こいつはどういうことだよ」
と、子分の一人がマネージャーの胸ぐらをつかんだ。
「やめろ」
と、安東が厳しい声で言った。「この店のせいじゃねえ」
「へえ……」
「誰か、制服をとられたのか?」
と、安東がマネージャーに言った。
「はあ……。一人、更衣室で気を失っていました」
「けがは?」
「大丈夫です。薬をかがされたようで」
と、マネージャーが言った。
「病院へ連れてった方がいいぜ。後に何か|遺《のこ》ると大変だ」
「はあ」
「一一〇番してくれ。その銃を渡すんだ」
「かしこまりました」
「食事がもうすぐ終わるところで良かった」
そう言うと、安東は立ち上がった。
そして、ぼんやりと突っ立っている涼子の方へやって来る。
「大丈夫ですか、お嬢さん」
その鋭い目がじっと涼子を見る。
「は、はい……。何とも――」
「服が汚れましたね。ソースがついて」
「あ、でも――大したことは……」
「あなたのおかげで命拾いしました。これはちゃんと弁償させて下さい」
いやとは言えない雰囲気。――涼子は黙って、コックリと|肯《うなず》いたのだった。
9 償いの品物
それは、何だか奇妙な光景だった。
床には倒れたワゴン、そして料理が散らばった中に、黒光りする拳銃が落ちている。
警察がやって来るまで、そのままにしてあるのだ。
そして、そこをよけてデザートのワゴンがテーブルのわきへやって来ると、
「デザートはどういたしますか?」
――そう|訊《き》かれたってね。
涼子と邦也は、顔を見合せた。およそ、のんびりとケーキだのシャーベットだの選んでいる雰囲気ではない。
「君――どうする?」
「そうね……。コーヒーだけいただこうかな」
と、涼子が言うと、マネージャーがやって来た。
「――どうも騒がせて」
と、マネージャーが低い声で言った。
「別にいいですけど……。大変ですね」
と、邦也も小声で言った。
「このテーブルの支払い、安東さんが持つからってことで……」
「安東さん?」
「あの人[#「あの人」に傍点]さ」
二人は、あの白いスーツの男の方へ目をやった。――落ちついた様子で、食事を続けている。隣の女は、
「私、デザート三つ食べようかな。ねえ、どう思う?」
なんて|呑《のん》|気《き》に話しかけていた。
「とんでもない」
と、邦也は言った。「ちゃんと僕が払いますよ」
しかし、邦也の先輩に当るマネージャーは、
「払ってくれると言ってるんだ。その通りにしてもらえ」
と、かがみ込んで、「あの人には逆らわない方がいい」
涼子は、ついまたあの白いスーツの男――安東の方を見てしまった。同時に、安東が顔を上げて涼子を見る。
「――どうぞ、デザートも、お好きなだけ」
と、安東が言った。「ほんのお礼の気持ですから」
邦也が、小声で、
「何か頼んだ方が良さそうだね」
「そうね……」
と、涼子も|肯《うなず》いたのだった。「じゃあ……このムースと、フルーツケーキ」
オーダーをすませて、ホッと息をつく。
こんなに緊張してデザートを注文したのは初めてのことである……。
そこへ、警官が何人か入って来た。マネージャーの説明を聞いているのは、なぜか頭に包帯を巻いた中年男である。
マネージャーの話に肯くと、
「――皆さん」
と、店内の客に向かって言った。「ご迷惑かと思いますが、これは殺人未遂事件と考えられます。ぜひ捜査にご協力を」
「そんな必要はないんじゃないか」
と、奥のテーブルで言ったのは、もちろん安東である。「やあ、室井さん」
その刑事は、ゆっくりと店の奥の方へとやって来た。
「悪運が強いようだね」
と、その刑事は言った。
「天は正直者を助けてくれるのさ」
と、安東は言い返し、「そこのお嬢さんを通してね」
涼子は、刑事に見られて、あわてて目を伏せた。
「――室井さん」
と、安東は言った。「俺を|殺《や》ろうとした奴の顔なら、こいつらが見てる。何も、店のお客たちの手を煩わせることもないだろうさ」
「ちゃんと教えてくれるかな」
「話すとも。好きなのを連れてってくれ」
室井という刑事は、ちょっと苦々しく笑って、
「こっちが見付けたときにゃ、そいつはもう息の根が止まってるってことにならなきゃいいがね」
「そいつは俺にも分らねえな。何ごとも天の配剤さ」
と、安東は言ってからニヤリと笑い、「ところで、どうだね、女にフライパンで殴られたご感想は」
涼子は、邦也と顔を見合せ、改めてその刑事へ目をやった。――これが、「あの刑事」か!
「小田切和代も、|可《か》|哀《わい》そうな女さ」
と、室井は言った。「今ごろ、もう海の底ってことはないだろうな」
「あの女は殺人犯だぜ。捜してるのは、そっちだろ」
「今の言葉、|憶《おぼ》えとくぞ」
室井の口調が、ふと厳しくなる。「あの女は殺させんぞ。島崎の奴は自業自得だ。和代はちゃんと罪を償ってやり直せる女だ」
室井の言葉に、安東の子分の一人が、
「島崎の兄貴のことを――」
と、真赤になって立ち上がる。
「やめろ」
安東の鋭い声が飛んだ。
子分が渋々|椅《い》|子《す》に腰を落す。――室井は安東へ、
「いいな。あの女は殺すな」
と、念を押した。
「くどいね。一度聞きゃ分る」
室井が合図すると、警官たちが、倒れたワゴンや、落ちている|拳銃《けんじゅう》の写真をとったりし始めた。
何となくホッと息をついて、運ばれて来たデザートに涼子が手をつけると、
「失礼」
と、室井刑事が声をかけて来た。「どんな様子だったのか、聞かせて下さい」
涼子が、起ったことを説明すると、室井は肯いて、
「分りました。――安東は命拾いしたわけだ。四人もついてて、一人もそのウエイトレスを怪しいと思わなかった」
子分たちが、いやな顔でジロッと室井を見る。
「いや、どうも」
と、室井は立ち上がった。
「あの――」
涼子は我知らず、声をかけていた。「あなたを殴った女の人って……。どんな人だったんですか」
室井は、ちょっと面食らった様子だったが、
「――いい女ですよ。どんな奴でも、必ず心を入れかえてくれると信じていた。それが結局、あんな悲劇を招いたんですがね」
室井は、軽く会釈して、「そうそう。――連絡先とお名前を一応」
と、手帳をとり出した。
「――変な夜だったわね」
と、涼子は暗い部屋の中で言った。
「うん……」
手探りでベッドへ潜り込むと、涼子は、大きく体を伸した。
「あの刑事……。なかなか|貫《かん》|禄《ろく》あったじゃないか」
「そうね。でも、小田切和代って殺人犯のこと、本当に心配してるのね。私、感激したわ」
「あの殺された男が、安東って奴の『兄貴分』だったんだな」
「そうらしいわね。ああいう世界って、必ず仕返しするんでしょ?」
「よく知らないけど……。そうだろうな。だからあの刑事も、あんなに念を押してたんだ」
「でも――」
「あの安東って奴、見るからに人殺しなんて、何とも思ってないって感じだ。きっと、その女も……」
「――もうやめましょ」
と、涼子は寝返りを打った。
女――小田切和代という女のことが、何となく、他人でないように感じられる。
いや、男と暮していても、自分のように楽しく日々を送っている「二人」と、憎み合い、ついには殺し合う「二人」――しかも、そうなるまで、一緒にいずにはいられなかったという「二人」……。
色んな「二人」が、この世の中にはいるのだ。
「――邦也」
と、涼子は言った。「もう寝た?」
「いや……」
涼子は、邦也のベッドへと滑り込んで行った。
「抱いて」
と|囁《ささや》くと、邦也の唇に、そっと自分の唇を押し当てる。「――明日、寝不足になっても、我慢してね」
「ああ」
邦也は、涼子を抱きしめた……。
涼子は、大|欠伸《あくび》した。
「――涼子」
と、隣へやって来たのは、リカ。
「あ、リカか」
と、涼子は言って、「ちょっと寝不足なの」
「そりゃ、新婚さんじゃね」
と、リカが冷やかす。
午後の講義。――さぼる学生も多いので、教室はガラ空きだが、それでも、涼子は周囲を見て、
「リカ。しゃべってないでしょうね」
と、小声で言った。
「大丈夫。――しゃべりたくても、もっと詳しいこと聞かないと、しゃべりようがない」
「ちょっと……」
「信用してよ。こっちは、久仁子のことでも涼子に頼ってるしさ」
妊娠したという一年生だ。
「そうね。――あっちはどうなってるの?」
「うん。涼子の口ききで、ずいぶんお金、集まってるの。もう少しよ」
「そう……」
もちろん――|堕《お》ろしてしまえればいいというものではない。
女の体と心には、消しがたい傷が残るのである。それを「不道徳」と非難しても始まらないだろう。
「今日はちゃんと話してね」
と、リカが|肘《ひじ》でつつく。
「うん……」
涼子は、口をすべらしたことを後悔していた。――何と説明しよう?
真田邦也と結婚している、と正直に話せば、一日の内に大学中に知れ渡るだろう。
「――あ、先生よ」
と、涼子は少しホッとして言った。
中年の、いかにもくたびれた感じの講師は、ガランとした教室を見回して、
「今日も静かでいいですね」
と、皮肉を言った。「テストのとき、悔むことになるんですけどね」
「――陰険」
と、リカが|呟《つぶや》く。
「じゃ、始めます」
と、本を開いて、「ええと……。この前の続きで――」
バタン、と教室のドアが開いた。講師は腹立たしげに、
「遅れて来て、何だね! もう少し静かに――」
と、言いかけて……。
どう見ても学生ではない。
涼子は青くなった。ゆうべのレストランにいた、安東の子分の一人である。
何やら大きな紙袋をさげていて、教室の中を見回していたが、
「――いたいた」
ドタドタ足音をたてて、涼子のそばへやって来ると、「ゆうべはどうも」
と、頭を下げる。
「あ、いえ……」
と、あわてて頭を下げ返す。
「ゆうべ汚れたお洋服の代りを、と、親分がおっしゃいまして」
「は?」
「親分のご指示通りに買って来ましたんで。もしお気に召さなけりゃ、とっかえてくれるってこってす」
机の上に、紙袋が置かれる。
「あの……結構です、そんな……。クリーニングに出せば、落ちる汚れですから」
「いや、受け取っていただかないと困りますんで。持って帰ったりしたら、親分に殺されちまいます」
涼子は一瞬ドキッとした。
「では、これで。――お邪魔しやした」
「いいえ……」
ドタドタと足音をたてて、出て行く男――どう見てもヤクザ。
教室の中が、しばし静まり返っていたのは当然だろう。
「――見て! シャネルのスーツ!」
と、袋を|覗《のぞ》いて、リカが声を上げた。「|凄《すご》いじゃない! 何十万よ」
「リカ……。やめて」
と、涼子はあわてて紙袋を手にすると、「先生――すみません」
と言って、教科書を引っつかみ、教室から、駆けるように出て行った。
|唖《あ》|然《ぜん》として見送っていた講師は、
「――近ごろの大学は、色々変わったことがありますね」
と、ため息をついて、「では……」
「先生、私もちょっと――」
と、リカも立ち上がって、「用を思い出したんで」
学生が「用を思い出した」もないものだが、リカも教室を出て行き、やる気の失せた講師も、
「じゃ、僕も失礼」
と、出て行ってしまったのだった……。
10 一時的別居
「――困ったわ」
と、涼子はため息をついた。「どうしたらいい、これ?」
そう|訊《き》かれても、邦也の方だっていい考えなどあるわけがない。
例の安東の子分が置いていった「シャネルのスーツ」の袋を前に、二人とも、途方にくれるばかりである。
「リカだって、どういうことか説明しろってうるさくて。いつまでも逃げてられないわ。おまけにあんなことがあって、大学中の評判になってるし……」
涼子と真田邦也は、大学から少し離れたレストランで夕食をとっていた。
できるだけ外食はしないようにしている二人だが、何かと忙しいと、ついそうなる。特に今夜の涼子は、食事の仕度なんかする気分ではなかった。
もちろん、ごく普通のレストランで、決して高級店というわけじゃない。
「僕の方も困ってるんだ」
と、邦也が言った。「何しろ辻山さんの頼みも、そうむげに断れないしね。いい人なんだ」
「分るけど……。あのマンション、辻山さんに貸したら、私たち、どこへ行きゃいいのよ?」
「うん……。そこなんだ」
と、邦也はため息をついた。
涼子も、邦也と毎日暮しているのだ。邦也が考えていることぐらい、見当がつく。
辻山という男にマンションを貸すなんてわけにはいかない。上京して来た母親が何と言い出すか――。
それに、結婚していることも、今はまだ母親に知られたくない。だから、母親が来ている間、涼子にどこかへ行っていてほしい……。
それが、おそらく邦也の本音である。しかし、そう言えば涼子が怒るに決まっているから、口に出せない。
「凄く高いんだろ、このスーツ」
と、邦也が言った。
「そうね。安く見ても三十万かな」
と、涼子は言った。「でも、返すっていってもね……」
「それで怒らせたりしたら、怖いしな。もらっとくしかないんじゃないか?」
「そうね」
と、涼子は言った。「リカに何て説明するかなあ」
「それより――」
と、邦也は言いかけて、ためらった。
「なに?」
「いや……。差し迫った問題があるからさ、その……」
「私のことね」
「僕らのことだ」
「同じでしょ」
と、涼子は言った。「でも、難しい問題じゃないわ。私と結婚してるって、お母さんに話す。それしかないじゃない」
「うん……。それはそうなんだけど……」
「じゃあ、何なの?」
分っていても、つい意地悪く|訊《き》いてみる。
「つまり、その……話はするけど、いきなり二人で住んでるってのを見たら、きっと、お袋、カッとなると思うんだ。だから、順序立てて、僕が君のことを話し、それから君を紹介して――」
「妻です、って? 同じことよ。どっちにしろ、お母さんを一度は怒らせることになる。そうでしょ?」
「そう……だね」
と、邦也は煮え切らない。
涼子は|苛《いら》|々《いら》して来た。
「はっきり言ったら? 私に出てってほしいのね」
「いや、そんな……」
「じゃ、何なの?」
「つまり、その……一時的にマンションを留守にして……」
「同じことでしょ。私がいちゃまずいってことに変わりはないわ」
涼子の言葉に、邦也も何とも言い返せない。
「もし、私がお母さんのいる間、マンションを出てたとする。そしたらあなた、お母さんに、結婚してるってこと、隠し通すつもりでしょ」
「いや、ちゃんと話すよ」
とは言ったが、いかにも自信なげである。
「当てにならないわ」
涼子は、カッカしていた。「いいわよ。いくらでも、あなたの好きなだけ、マンションを出ててあげる! その代り、二度と戻らないかもしれないから、そのつもりでいてよね!」
|叩《たた》きつけるように言うと、涼子は立ち上がってさっさとレストランを出て行く。
残った邦也が、ため息をついて、頭をかかえる。
一人の男が、涼子の後から急いでレストランを出て行ったことに、邦也はまるで気付かなかった……。
トントン。
ドアを叩く音で、それが辻山だと見当がつく。
しかし、一応は用心しなくてはならない。
小田切和代は、そっと玄関の方へと近寄って行った。すると、
「辻山です。いますか?」
と、タイミングを見はからって、声をかけて来る。
和代はチェーンを外した。
「――どうも」
と、辻山は中へ入って来て、「あれ? 山崎さんは?」
「まだです」
と、和代は言った。「たぶん、途中で買物して来るんじゃないですか? 上がって下さい」
「はあ」
辻山は、上がり込んで、「毎晩、悪いですねえ」
と言った。
「いいえ」
――山崎聡子の提案で、少しでも「本物の夫婦」らしく見せるために、夕食は毎晩ここへ寄って取っているのである。
「もう仕度、できますから、座ってて下さいな」
「はあ」
二人は、ちょっと顔を見合せて笑った。
「――山崎さんに|叱《しか》られちまうな」
「そうですね。でも、何だか照れくさいわ、やっぱり」
と、和代は再び台所に立つ。
聡子は、
「ちゃんと夫婦らしい口をきかなきゃだめじゃないの!」
と、いつも二人に文句を言っているのだが、人間、そう突然に、親しげな口がきけるものではない。
「慣れとかないと、いざってとき、困るわよ」
という聡子の言葉は正しいと思うのだが、二人きりだと、ついていねいな口をきいてしまう。
「お部屋の方のめど、つきまして?」
と、和代が|鍋《なべ》の様子を見ながら言った。
「捜してるんですがね。なかなか適当なのが見付からなくて」
と、辻山は首を振って、「邦也君の所が借りられるといいんですけどね」
「でも、あんまり無理は言えないでしょ」
と、和代は言った。「あちらにも都合のあることですし……。あ、ちょっと味を見て下さい」
「はあ」
辻山は立って、台所へ行った。「――うん、|旨《うま》い! おいしいですよ」
「そう?」
和代は|嬉《うれ》しそうに言った。「自信なくて。――あなたのお父様に何を出したらいいのかしら」
「親父は何でも食べます。それに、この味なら本当に――」
「そう」
和代は、ちょっと間を置いて、「――島崎は、何を食べても『おいしい』なんて言ったこと、なかったわ」
と言った。
「もう忘れることですよ」
と、辻山は言った。
「ええ……」
和代は、ちょっと|肯《うなず》いて、「そう思うんですけどね……。もちろん死んで悲しいなんて思いません。あの男は、どうしたってまともな死に方はしない人だったんです」
「あなたが罪を犯したわけじゃない。奴は自殺したんです。そうですよ」
辻山の言葉が、和代の胸にしみた。
「ありがとう……」
と、和代は辻山を見て言った。
ガステーブルの前で、二人はじっと立っていた。
たぶん、二人がこんなに間近に、向き合っていたことはなかっただろう……。
「――ただいま!」
と、ドアが開いて、山崎聡子が大きな包みをかかえて入って来た。
「僕が持つよ」
辻山があわてて玄関へと駆けて行った。
「お願い。――冷凍食品があるの」
「冷凍庫ね。分った」
袋を開けて、中のものをせっせととり出している辻山を、和代は眺めていた。
いい風景をぼんやりと見ているときのような、快い感覚がある。
恋だの愛だのと、互いを縛るのでなく、「他人である」ことを前提にして、こうして男を見ていられる……。
それは何という安心感だったろう!
こんな人もいるのだ。世の中には。
和代にとって、この平凡な勤め人は、大きな驚きだった……。
「どう? ちっとは夫婦らしくやってる?」
と、聡子が言うと、
「ああ。――やってるよ。なあ、和代」
「ええ、あなた」
と答えて、和代は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
カッカしながら夜の道を歩いていて……涼子は、足を止めた。
手にボストンバッグ。――身近なものだけ詰めて来たが、洋服だの下着だの、マンションに残したままだ。
邦也が何とか片付けるだろう。そこまでやってやることはない。そうよ!
とはいえ……。
もう一度、邦也と話し合えば良かっただろうか?
しかし、涼子は邦也と決定的にケンカしてしまうのがいやだったのだ。やっぱり邦也のことは好きである。
しかし、結婚となると――どうなんだろう? やっぱり、邦也はまだ若すぎたのだろうか。
――今ごろ、きっとマンションへ戻って、邦也は涼子がいないので、焦っていることだろう。それとも、ホッとしているかしら。
いやいや、そこまで言っては|可《か》|哀《わい》そうだ。邦也は、涼子を愛している。それは確かなのだから……。
すると――車が近付いて来て、スッと涼子のわきに|停《と》まった。涼子はびっくりして|退《さ》がった。
車といっても――目を丸くするような、長い車体のリムジン。とてつもなく大きく見える。
スーッと窓が下りると、
「乗りませんか」
と、その男が言った。
「え?」
「命を助けてもらった男です」
サングラスを外すと、安東の顔が現われた。
「あ――どうも」
と、涼子は言った。
「どうぞ」
ドアが開く。――しかし、涼子はためらった。
「ご心配なく」
と、安東は言った。「いくらヤクザでも、命の恩人に妙な|真《ま》|似《ね》はしませんよ。信じて下さい」
「はあ……」
涼子は、何だか自分でもよく分らない内に、そのリムジンに乗り込んでいた。
向かい合って座れる座席。――間にちゃんとテーブルもある。
「|凄《すご》い車」
と、素直に驚くと、
「不便なもんですよ」
と、安東は言った。「見栄で乗ってるが、こうでかくちゃ、狭い道には入れない。急なカーブは曲がれない。全く、日本向きじゃないです」
その言い方がおかしくて、涼子は笑った。
「おや、笑ってくれましたね」
と、安東は|愉《たの》しげに言った。「あの室井という刑事から何か聞いていますか」
「いえ……」
「まあいい」
と、安東は|肯《うなず》いて、「あなたのお役に立ちたい。それだけです」
「役に?」
「そう。――結婚はしたものの、彼の母親が上京して来る。それで二人は冷い戦争。そうでしょう?」
「どうしてそんなこと――」
と、涼子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「情報集めは得意でしてね」
と、安東はニヤッと笑って、手もとのボタンを押した。
パソコンのディスプレイがスッと現われる。
「あなたがどうしたらいいか、一緒に考えましょう」
と、安東は言った。
11 目 撃
「――このマンションでどうです」
と、安東はパソコンのディスプレイに、部屋の間取りの図面を呼び出した。「3LDK。
――当分、あなた一人でいるには、充分でしょう」
「広すぎますよ」
と、涼子は言った。「それに大学生の身分で、そんな高いマンション……。とてもお金だって払えません」
「もちろんタダですよ」
と、安東は当り前という口調で、「これはお礼のつもりです。気にしないで下さい」
「そんなわけには……。あんな高い服までいただいてるのに」
――妙な状況だった。
安東の巨大なリムジンの中。パソコンの画面を見ながら、「家捜し」をやっているのだから。
そして車はいつしか――郊外の道を走っている。あんまり静かに走るので、涼子は、車が停まっているのかと錯覚するほどであった。
どこへ行くつもりだろう?
涼子の中に、不安が頭をもたげて来る。
「命を助けてもらったんですからね」
と、安東は言った。「こんなことぐらいはさせていただかないと」
「でも……」
「心配は分りますよ。――こんな奴と係り合って、後で厄介なことになるんじゃないかと思ってるんでしょう」
「そういうわけじゃ……」
と、涼子は口ごもった。
いくらそう[#「そう」に傍点]思っていても、面と向かって口に出せるか!
「あなたは正直な人だ」
と、安東が笑った。「いや、歓迎されざる人種だってことは、こっちも百も承知ですよ」
涼子は、安東の笑顔に、ハッとするほど無邪気なものを感じとって、驚いた。
チラッと涼子が外へ目をやる。
「ちょっとした別荘がありましてね」
と、安東が言った。「とりあえずの宿に、と思ったんです。ここでマンションを決めても、今夜から泊るってわけにはいかないでしょう」
「はあ。でも……」
「ご心配なく。ちゃんと送り届けてすぐに引き上げます」
と、安東は言った。
本心だろうか? しかし、こんな連中の言うことなんか、信じられるだろうか。
「――安東さん」
「何です?」
「どうして……命を|狙《ねら》われるようなことに?」
安東は、ちょっと肩をすくめて、
「力の世界ですよ。色々、表向きは変わっても、中身は同じ」
「縄張り争い、とかですか」
「というより、中での[#「中での」に傍点]勢力争いですね。ご覧の通り、若くて幹部になった分だけ、ねたまれても、恨まれてもいるわけです」
安東は、細くて長い指を、軽く組み合せて、「もともとは、チンピラだったんですよ。少々手先が器用だったのでね。重宝がられている内に、のし上がったというわけです」
手先が器用?――でも、棚を|吊《つ》ってやった、といった話ではなさそうである。
「あの――女の方、|可《か》|愛《わい》いですね」
と、涼子は話をそらした。
「ミキですか。少し頭の中身は軽いが、気も楽でね」
と、安東は笑った。「あなたの彼氏はなかなか魅力的だ」
涼子は少し顔を赤らめ、
「夫です」
と、訂正した。
「そうそう。失礼しました」
と、安東は言った。「幸せ者だな、こんなすてきな奥さんがいるとは」
「あなたは……独身ですか」
「そう。一生そうでしょうね」
「どうしてですか」
「いつ消されるかも分らない身ですよ。女房子供は厄介だし、もしものときは|可《か》|哀《わい》そうだ。――俺も両親を知らずに育ったのでね」
安東はそう言ってから、「おっと、こんなことを話したのは初めてだ」
と、笑った。
パソコンのディスプレイにパッと文字が出て、ピッと音がした。それを見た安東の顔が緊張した。
その画面は、いやでも涼子の目に入る。
ディスプレイには、〈和代を見付けました〉と文字が出ていた。
全くの偶然だった。
「――ゴミ、下へ出しとかなきゃ」
と、山崎聡子が言って、立ち上がる。
「でも――朝出さないと、うるさいんじゃないの?」
と、辻山が言った。
「このアパートはね、下にゴミを置いとく場所があるの」
と、聡子は言った。「もちろん、表に出すのは朝よ。でも、出がけにゴミを持って出るのは大変だから、下まで下ろしとくの」
「なるほど。いいなあ、そいつは」
アパート住いの人間にとって、ゴミを前の晩に出しておけないというのは、悩みの種の一つである。一戸建てでも事情は同じだろうが、アパートは何世帯も入っているので、特にゴミの量も多い。
たまの休みでも、ゴミを出す日だと、朝起きなくてはならない。――寝不足の身には|辛《つら》いものである。
「一人じゃ大変でしょ」
と、和代が言った。「私も運ぶわ」
「いや、僕が――」
「あなたは座ってて」
と、和代が抑える。
「でも、外へ出ない方が……」
「外っていっても、アパートの裏手へ回るだけ。大丈夫よ」
と、和代は笑って、「少し外の空気も吸いたいし」
「そうね。夜だし。大丈夫でしょ」
と、聡子も|肯《うなず》いた。「じゃ、その新聞もついでに……。そう、紙袋に入れて」
「チリ紙交換に出さないの?」
「たまってる方が煩しいわ。――じゃ、行きましょ」
「ええ」
聡子と和代は、ゴミを手に部屋を出た。
二階から階段を下りて、|一《いっ》|旦《たん》アパートの外へ出る。
「――こんなに広かったのね、外って」
と、和代は笑って言った。「もちろん、ぜいたくは言わないけど」
「さ、裏へ」
グルッとアパートのわきを回って、ゴミ置場に、そっとゴミを並べる。
「――ね、どう、あの人と、うまくやってけそう?」
と、聡子は表の方へ戻りながら言った。
「辻山さん? いい人ね、本当に」
と、和代は心から言った。
「出世とは縁のない人だけど、でも人間として信じられるの。毎日、仕事しながら見てるから、確かよ」
「分るわ……。私も、あんな人にもっと早く出会ってたらね」
と、和代は、ちょっと足を止め、夜空を見上げた。「私……自分の、島崎への気持こそが愛だと思ってた。でも、そうじゃなかったのかもしれない。ただの意地だったんじゃないかって……。今は、そんな気がしてるの」
「和代……。やり直して。ね。どこか遠くでさ」
「辻山さんみたいな人、どこかよそにもいるかしら」
「辻山さんを連れてく?」
「だめ」
和代が首を振って、きっぱりと、「いつ、どんなことがあるか分らないのよ。あんないい人、巻き添えにしたくない」
「でも――」
と言いかけて、聡子は、「ともかく、戻りましょ。部屋に」
と促す。
二人がアパートの中へ入って行くのを、離れた所から見ていたのは、弟の所へ行って、帰り道、たまたま通りかかった、安東の子分の一人。
本当にチンピラなので、もし和代の方で見たとしても、顔は分らなかったろう。しかし、チンピラの方では、しっかり和代の顔が頭に入っていたのだ。
「あいつだ……」
何度も目をこすった。――チャンスだ!
これで、兄貴分になれるかもしれねえぞ!
チンピラは、あわてて近くの公衆電話を捜したが――捜すと、一向に見付からないもので、焦っているから余計である。
やっと見付けたときはハアハア息を切らしていた。――古い電話だ。テレホンカードは使えず十円玉のみ。
興奮していたせいで、手が震えて十円玉を何回も落してしまう。やっと組へ連絡できたのは、和代を見かけてから、十五分以上たってからだった。
安東はディスプレイの文字をパッと消した。
「――安東さん」
と、涼子は思わず言っていた。「和代さんって、島崎とかいう人を殺した――」
「あんたは見なかったことにしなさい」
と、安東は鋭く言って、車の中の電話を取った。
涼子は、忘れていなかった。あの、包帯を巻いた刑事が、
「和代は殺させない」
と言っていたことを。
つまり、安東たちが先に見付ければ、間違いなく和代という女は殺されるだろう、ということだ。
「――俺だ。和代を見たって?――ああ。――どこだ?」
安東は厳しい表情で言った。「――うん、分った。いいか、俺がこれからそっちへ行く。それまで誰も手を出すな。いいか。よく言っとけ。分ったな。――すぐそっちへ向かうからな」
安東は電話を切ると、涼子の方へ、
「申しわけありませんが、別荘へ行くのは後回しということに」
「ええ。でも――」
安東は、運転している子分へ、
「おい、聞いてたな」
「へい」
「急いでそこ[#「そこ」に傍点]へ行くんだ!」
「Uターンします」
長いリムジンが、大きくカーブを切って、中央分離帯をまたいでガクンガクンと揺れる。
強引に反対の車線へ入ったリムジンは一気にスピードを上げた。――|凄《すご》い馬力なのだろう。
乗っていても、猛烈なスピードを出していることが、涼子にも感じられる。
「安東さん」
と、涼子は言っていた。「余計なことと|叱《しか》られそうですけど……。その女の人を殺さないで」
安東は、黙っていた。――何を考えているのか、涼子には想像もつかなかったが……。
ミキは、退屈しのぎに、安東のパソコンの画面を眺めていて、和代を見付けたという、同じ文字を見た。
「へえ……。もうおしまいね」
と、|呟《つぶや》いていると、
「あの――親分は?」
と、竜が顔を出した。
「出かけてるわよ」
「そうですか。すみません」
と、竜は頭を下げ、行きかける。
「でも、戻る途中。あの女を見付けたんですって」
竜が、ちょっと間を置いて、
「あの女?」
「ほら――小田切とかいう――」
竜の顔がサッと紅潮する。
「本当ですか?」
「見て」
と、ミキがパソコンの画面を指さした。
「どこにあの女……」
「さあ、そこまで知らないけど」
と、ミキは肩をすくめた。
「失礼します」
竜が、飛び出して行く。
「忙しい人」
と、ミキが首をかしげる。
電話が鳴った。
「――もしもし。――あ、私よ」
ミキは|嬉《うれ》しそうな声を出した。
「ミキ、そこに竜の奴、いるか?」
と、安東が|訊《き》いて来る。
「竜さん? いないわ」
「そうか。じゃ、いいんだ」
「今、出てったとこ。呼んでみる?」
「――今? もしかして……あの女のことを?」
「うん。ここのパソコンに出てたもん」
「そうか……」
「ねえ、どこへ行くところだったの? もしもし?」
電話は切れてしまった。
「――何よ!」
不機嫌に、ミキはふくれっつらをしたのだった……。
12 包 囲
「親分からの命令です。到着するまで絶対に手を出すなって」
「分ってる」
竜は|肯《うなず》いた。「しかし、親分はまだ車の中だろ? こっちへ向かってるといっても、時間がかかる。ともかく俺があっちへ行ってる」
「分りました。今、至急人手を集めてます」
「その辺りを取り囲むんだ。いいな、アリ一匹、|這《は》い出る|隙《すき》|間《ま》もないぐらいにしとくんだぞ」
「へえ」
竜は、|大《おお》|股《また》に組の事務所を出た。
聞き出すことはもう聞いちまった。ここにいてもすることはない。
竜は、表に出ると、待たせておいた車に乗り込んだ。――安東の子分の中では、竜は「大物」である。
「そこ[#「そこ」に傍点]へやれ」
と言って、座席に身を沈めた。
――安東は、自分が着くまで小田切和代に手を出すな、と言っている。その点は、竜も聞いたし、分っている。
しかし、竜としては、いくら安東の命令とはいえ、自分の手で島崎の|敵《かたき》を討ちたいという思いを捨て切れずにいる。安東を怒らせることになるかもしれないが、仕方ない。
――これは「俺の仕事」だ。
竜は、そっとポケットを上から触った。固いものが手に触れる。|拳銃《けんじゅう》である。
あの女に弾丸を撃ち込んでやる。一発で死なせやしねえ。苦しんで、のたうち回るのを楽しんでから、殺してやるのだ。
安東も、同じ場所へ向かって急いでいることを、竜は知っていた。もし、安東が先にあっちへ着くことがあったら――。
「おい、急げよ」
と、竜は車を運転している子分へ言ってやった。
「――さあ、もう帰るかな」
と、辻山は時計を見て、腰を上げた。
「そうね」
と、聡子が伸びをして、「明日も会社が待っている、と」
「じゃあ……おやすみなさい」
と、辻山は何となく目をそらして和代に言った。
「気を付けて」
と、和代も立ち上がって、「明日もおいでになれるんでしょ?」
「ちょっと」
と、聡子が文句をつける。「夫婦でそういう口のきき方はないでしょ」
「勘弁してくれよ」
と、辻山が苦笑いして、「いざってときはちゃんとやるからさ」
「そう?――ま、大丈夫でしょ。何となく夫婦らしいほのぼのした感じが出て来たわ」
「そうかい?」
「この分なら何とかごまかせるかもね」
と、聡子は言って、「部屋の方、明日は私、用事で外出するから、ついでに少し捜してみる」
「山崎君の方が、そういう点は確かかもしれないね」
辻山は上着を着て、「ああ、こう毎日満腹でいられるなんて、夢みたいだ」
「はい、あなた」
和代が靴べらを渡し、「ネクタイ、曲がってる」
と、直してやる。
「ありがとう」
そんな簡単なことをしてもらうだけでも、ふっと胸が熱くなる。辻山は、長いこと一人でいたことの寂しさ――自分でも意外なほどに身にしみこんでいたらしい寂しさを、逆に教えられた気がした。
「じゃ、また明日」
と、辻山は靴をはいて、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「ええ。――行ってらっしゃい、あなた」
と、和代が送り出す。
「その調子」
眺めていた聡子が|肯《うなず》く。「大分気分が出てるわよ」
辻山は少し照れたように、聡子に手を上げて見せると、廊下へと出た。
アパートを出て、夜道をのんびりと歩き出す。
急ぐまでもない。自分のアパートでは、誰も待っていないのである。急いだところで仕方ない……。
待たれているということ。――それがどんなにすばらしいことか、辻山はこの何日かの間で、痛いほど感じていた。
小田切和代が……。あんなにすてきな女性が、男を殺したのだ。もちろん、彼女が悪いわけではない。
しかし――彼女がずっと逃げ切れるとは思えない。たとえ逃げられたとしても、当り前の職業につき、家庭を持つことは無理なのだ。
いつも逃げ回り、人の目を気にしながら、暮さなくてはならない。それも、刑務所以上の「罰」かもしれない、と辻山は思った……。
「馬鹿野郎!」
突然、|叱《しか》りつける声がして、辻山はギョッとして足を止めた。
しかし、どう考えても、こっちが叱られる理由はない。
「この間抜けめ! 何を見てやがったんだ!」
角を曲がって、男が二人、現われた。
どう見てもヤクザ。――反射的に辻山は暗がりの中へ身を寄せていた。幸い夜道は暗い。
「すいません」
と、もう一人が謝っている。「何しろ、連絡しなきゃ、と思って電話を捜し回ってたんですよ。あっちこっち曲がったもんで……。どこであいつを見たのか分んなくなっちまって……」
「ドジな野郎め」
と、一人はカンカンになって怒っている様子だ。「この辺だってことは間違いねえんだな」
「ええ……。こう暗いと、どこもかしこも同じみたいに見えて」
と言いわけしているが、確かに、この辺はややこしく道が入り組んでいて、分りにくいのである。
「畜生!」
と、怒っている男が舌打ちして、「見付けなきゃならねえんだ、何が何でも」
「でも……親分が来るまで待ってろって言われましたよ」
「分ってる」
と、素気なく言って、「今、何十人か集めて、この辺を固めてるはずだ。じっくり捜しゃ見付かるだろう。しかしな……」
「竜の兄貴」
「何だ?」
「兄貴……あの女のこと、自分の手でばらしたいんでしょ」
竜と呼ばれた男はジロッともう一人をにらんで、
「お前の知ったこっちゃねえ」
と、言った。「お前は和代を見かけた場所を、ちゃんと思い出しゃいいんだ」
「へえ。――アパートだったってことは確かなんです。前まで行きゃ分ると思うんですけど……」
「情けねえ奴だ、全く! こっちへ行ってみよう」
と、竜が促して、歩いて行く。
――辻山は、|膝《ひざ》が震えているのを感じた。
「和代」。――「和代」と言った。
間違いない! 小田切和代を捜している連中だ。
おそらく、さっきゴミを出しに行ったところを、見られたのだ。
何十人もで固めてる?――大変だ!
辻山は、あわてて山崎聡子のアパートへと戻って行った。今の二人は幸い、全く別の方へ向かっていた。
今のうちだ!
辻山は、走っていた。アパートの階段を駆け上がると、聡子の部屋のドアを|叩《たた》く。
「僕だ! 山崎君!」
中からドアが開いて、
「何よ。そんなやかましい音たてて――」
と、聡子が顔をしかめる。
「彼女は?」
と、辻山は息を弾ませながら、玄関の中へ入った。
「今お|風《ふ》|呂《ろ》。――何なの?」
「そこで……男たちが捜してた。ヤクザだ」
「え? 本当?」
「『和代』と言ってた。間違いないよ」
「大変! どうしよう!」
と、聡子が青ざめる。
「逃げるんだ。急いで。今ならまだ――。何十人もが、この辺を取り囲むらしい」
「分ったわ!」
聡子が、お風呂場へと駆けて行く。
もちろん、小さなお風呂で、ドアも見えている。
聡子が話をし、ザバッとお湯の音がして、和代がタオルを裸身に当てて出て来た。辻山はあわてて背を向けると、
「急いで服を着て!」
と言った。「今なら間に合うかもしれない!」
「ありがとう」
と、和代が服を着る音。「男って、何人?」
「僕が見たのは二人。このアパートを捜して歩いてる。一人は『竜』とか呼ばれてたよ」
「竜?」
と、和代が声を上げた。
「知ってるの?」
「ええ。――島崎が|可《か》|愛《わい》がってた弟分だわ。もう年齢は五〇くらいだけど」
「今は見当違いの方を捜してる。まだ逃げられるかもしれない」
「ありがとう。――聡子。もう迷惑はかけられないわ」
「和代――」
「ここで見付かったら、あなたも殺される。――色々ありがとう」
和代は押入れから小さなバッグを出して、
「必要な物は入れてあるから。じゃあ」
「和代……」
「僕が一緒に行く」
と、辻山が言った。
「いけないわ。あなたまで、無事じゃすまないわよ」
「君一人行かせられるもんか。毎晩ご飯を食べさせてもらったんだ」
辻山は断固たる口調で言って、「さ一緒に!」
と、和代の腕をとった。
「もめている暇はない」
和代もそれ以上逆らわなかった。
二人は、アパートを出ると、夜道を小走りに急いだ。
しかし、角を曲がろうとして、ハッと足を止める。
「いいか、妙な奴が来たら、通すなよ」
と、声がしている。
そっと辻山が|覗《のぞ》くと、ヤクザが三人、道をふさぐようにして、タバコをふかしている。
「だめだ。――違う道を」
二人は、アパートの裏手へ出た。
細い露地を抜けると、広い通りへ出る。
しかし――そこでも二人は息をのんで後ずさりすることになった。
やはり、どう見てもあの「竜」という男の仲間が、通りに四、五人、固まっていたのである。そして、その内の二人が、別の方向へと足早に立ち去る。
「――これじゃ、とても無理だ」
辻山と和代は、結局、聡子のアパートの前まで戻って来てしまった。
「もう少し早ければ……」
と、辻山は悔しそうに言った。
「辻山さん」
と、和代は言った。「ありがとう。本当にこの何日か……。楽しかったわ」
「和代」
と、ごく自然に辻山は呼んでいた。
「行って。私一人で、何とか逃げるわ。心配しないで」
「だめだよ。君は、死ぬつもりだろう」
「仕方ないわ。少し早いか遅いかの違いだけよ」
和代はそう言うと――素早く辻山の口に唇を押し当てた。「さよなら、辻山さん」
「いけない!」
辻山は和代の腕をぐっと握りしめた。「|諦《あきら》めるな。何か方法がある」
「でも――」
「ともかく、山崎君の部屋へ戻るんだ!」
半ば強引に、和代を引張って戻ると、足音を聞いてか、すぐドアが開く。
「どうした?」
「囲まれてる。逃げられないんだ」
と、辻山は中へ和代を押し込んだ。
「私さえ出て行けば――」
「だめだ! そんなこと、できるもんか」
と、辻山は荒く息をしながら言った。「何とかして逃げるんだ!」
「いい方法、あるかしら」
と、聡子が頭をかかえる。
「待てよ。――山崎君、救急車だ!」
と、辻山が言った。
「え?」
「君が突然の腹痛で苦しんでる。救急車で病院へ運んでもらうんだ」
「分ったわ!」
「待て、僕が電話する。亭主だと言って。救急車に彼女を乗せて、僕も一緒に乗って行く」
「そうだわ! 救急車なら、あの連中も邪魔できないわよ」
と、聡子は目を輝かせた。
――和代は、バッグを手に、玄関に立っていた。そして辻山が、電話をかけて、
「女房が苦しんでるんです! すぐ救急車を!」
とやっているのを見ていて……。
涙が、和代の|頬《ほお》を|濡《ぬ》らしていた。
13 安堵のとき
「こんな所だけど、仕方ないね」
と、辻山は言った。
「充分よ」
和代が部屋の中を見回す。「聡子のアパートにいると、やっぱり気になるの。もし、ここにあの連中[#「あの連中」に傍点]が押しかけて来たら、って。聡子もひどい目に遭うに決まってるし。出て来て良かったのかもしれない」
小さなビジネスホテル。料金は安いが、それにふさわしく(?)部屋もベッドと小さな机があるだけで、体を動かす余地もないくらいのもの。
「ともかく、今夜はここで過して、明日は何とか部屋を見付けよう。もしどうしてもだめなら、僕のアパートへ来てもらうことにするよ」
「ええ」
と|肯《うなず》いて、和代はベッドに腰をおろすと、深々と息をついた。
「いや……。とんでもない夜だったね」
と、辻山が言って、二人は顔を見合せ――一緒に笑った。
「――笑いごとじゃないのにね」
と、和代が首を振って、「でも、思い出すとおかしい!」
「そう。あの医者の|呆《あっ》|気《け》にとられた顔とかね」
辻山も、今になって笑いがこみ上げてくる。
救急車が、山崎聡子のアパートの前につけられると、和代を担架にのせて、辻山が付き添い、一緒に乗り込んだ。そして病院へ。
――うまく、あのヤクザたちの目をごまかして逃げ出すのに成功したのである。
病院へ着いて、当直の医師が診察しようとすると、
「あら、もう治っちゃった」
と、和代が突然元気になり、
「そりゃ良かった。どうもお騒がせして!」
と、辻山が和代の手を引張って、|唖《あ》|然《ぜん》とする医者や看護婦を後に逃げ出して来てしまったのである。
「お医者さんには悪いことしちゃった」
と、和代がまた笑いながら言った。
「仕方ないさ。事情が事情だ」
「そうね。でも――」
と、和代は真顔になり、「辻山さん。あなたに助けていただいたのね。本当にありがとう」
「毎晩、飯を食わしてくれてたんだ。これぐらいのお礼はしなきゃ」
辻山は、何となく和代から目をそらして、「じゃあ……ゆっくり眠るといいよ。明日、一度電話かけるから」
「待って。――聡子の所、無事にすんだか、不安だわ。電話してみましょうか」
辻山は少し考えて、
「もう少し待ってからの方がいいんじゃないかな。僕が後で様子を見に行って来てもいいよ」
「やめて! 危いわ」
と、和代が身をのり出す。
「分った。――じゃ、後で電話してみる」
「あの……。もう少しここにいてくれる? 私、お|風《ふ》|呂《ろ》に入りたいの。途中だったでしょ」
「ああ。――そうだったね」
「一人になるのが心細いの。ご迷惑でなかったら――」
「迷惑だなんて……。どうせ帰ってもすることもないんだ。ゆっくり入っておいで。といっても……」
何しろ小さい部屋だ。一応、ユニットのバストイレは付いているが、ドアを閉めたら湯気でのぼせてしまいそうである。
「少しドアを開けて入るわ」
「分った。じゃ、そっちへ背を向けて座ってるからね」
と、辻山は言った。
机の前の小さな|椅《い》|子《す》に腰をおろすと、和代が服を脱ぐ音が聞こえて来る。
やがてバスルームから、お湯をためる音が大きく聞こえて、辻山はホッとした。
やはり、振り向くこともできないというのは、窮屈なものである。
時計を見ると、もう真夜中といっていい時刻。確かに、山崎聡子のアパートのことも気にかかる。
もし、和代があそこにかくまわれていたと分ったら、聡子がどんなことになるか……。
ふと、辻山は薄汚れた鏡の中に映っている自分の姿を眺めた。汚れたところが、いかにも似合っている。
それにしても……。自分で言うのも何だが、よくやった!
思い出しても、あれが現実のことだったのかと、我ながら信じられないくらいなのである。
あんなヤクザたちの前を救急車で通り抜け、いかにも、苦しがる妻を心配する夫、という役をみごとにやってのけた。あんなことを、どうして思い付いたのだろう?
人間、いざとなれば、大したことができるものだということ。――辻山は改めて痛感したのだった。
だが、たぶん辻山をつき動かしたのは、一人、あの連中に捕まって死ぬことを覚悟した和代が、思いを込めて辻山に与えてくれたキスだったのかもしれない……。
「――だめです」
と、子分の一人が息を切らして、戻って来た。
「見付けられないのか」
と、安東はリムジンの中から言った。
「申しわけありません」
と、子分が汗を|拭《ふ》く。「この近くなのは確かなんですが」
「全く、何てざまだ!」
と、真赤になって怒っているのは、「竜」と呼ばれている男。
――涼子は、ずっとリムジンの中に、安東と一緒に乗っていた。そして、小田切和代が見付かるのかどうか、息をのむ思いで、見守っていたのである。
「そう怒るな、竜」
と、安東が言った。「急ぐことはない。時間はある」
「へえ……」
竜という男が、必死でその和代という女を見付けようとしていることは、涼子にも分った。それに対して、安東はどこかクールである。
「もう一度隅から隅まで当らせます」
と、竜が言った。「一軒一軒|叩《たた》き起してでも――」
「すぐ一一〇番されるぞ」
と、安東は言った。「何人か、この辺を見張らしとけば、また必ず姿を見せる」
「ですが――」
「待て。サイレンだ」
「え?」
竜がギクリとする。
涼子も耳をすましたが、何も聞こえない。と思っていると、やがてかすかにサイレンが近付いて来た。
安東の耳の鋭さに、涼子はびっくりした。
「こことは関係ありませんよ」
と、竜は言ったが、
「いや、こっちへ来る」
と、安東が首を振る。「何台もだ」
その通りだった。
パトカーが四、五台、安東のリムジンを前後に挟むような形で|停《と》まる。
その一台から、コートをはおった男が降りて来た。
涼子ももちろん|憶《おぼ》えている。頭に包帯を巻いた、室井という刑事だ。
安東がドアを開けて、表に出た。
「――安東。こんな所で何してる」
と、室井が言った。
「夕涼みですよ。仲間同士の|親《しん》|睦《ぼく》を兼ねてね」
「ふざけるな」
と、室井はつっぱねるように、「和代だな。分ってるぞ」
「和代がこの辺にいるんですか。そりゃ偶然だ」
「とぼけてろ。お前らにゃ殺させん。そう言ったぞ」
「憶えてますよ。まだ若いんで、記憶力は衰えちゃいない」
「それなら引き上げろ。さっきからこの辺をうろついてるって、何件も通報があったんだ」
「俺たちは道も歩いちゃいけねえのかい」
と、竜が口を出す。
「お前は黙ってろ」
と、安東がたしなめた。
「おい、竜」
と、室井が言った。「お前にも『殺し』だけはやらせたくないんだ。おとなしくしてな」
「気をつかって下さってどうも」
と、安東が先回りして言った。「ご心配なく。もうそろそろ帰って寝ようって話してたところでね」
「そりゃ結構。一人残らず、ちゃんと帰るまで見送ってやろう。ついでに、戻って来ないように、パトカーを一台置いてく」
「ご苦労さんです」
と、安東は会釈した。「――おい、引き上げるぞ」
子分たちが黙って散って行く。
竜は一人、悔しそうに室井をにらみつけていたが、やがてクルッと背を向けて、歩き去った。
「竜には用心することだ」
と、室井が言った。「お前のやり方に不満らしい。寝首をかかれるぜ」
「子分にやられるほど、ぼけちゃいません。女に殴られるほどにもね」
室井は苦笑して、
「大きなお世話だ」
と、肩をそびやかし、パトカーの方へ戻って行った。
安東が、リムジンの中へ戻って来ると、
「おい、別荘へやれ」
と、運転手へ言った。
リムジンは再び走り出した。
「――夜ですからね。道は|空《す》いてる。そうかからないでしょう」
と、安東は言った。
「あの……」
と、涼子が言いかけて、ためらう。
「何です?」
「どこかで――ハンバーガーか何か買いたいんですけど。お腹が空いて」
正直、ホッとしたら、お腹が空いて来たのである。安東はちょっと笑って、
「それもそうだ。――こっちも何か腹へ入れよう。おい、どこかレストランへつけろ」
と、言った。
「いえ、そんなんじゃなくても――」
「まあいい。どうせ夜の方が元気のいいのが若い人ってもんだ」
安東はむしろ楽しげで、そして(涼子の思い違いでなければ)ホッとしているようにも見えた。
ドアを開けると、聡子は、
「あら」
と、言った。「刑事さんですね」
「どうも」
と、室井は言った。
「何か?」
「ここに小田切和代が来ているんじゃないかと思いましてね」
と、室井の目が室内を素早く見回す。
「和代が? いいえ。お客はいましたけど。ご夫婦ですわ。さっき、気分が悪いというので、救急車を呼んで……」
「ほう」
「でも、何でもなかったようです。今、電話がありました」
「それは良かった」
と、室井は|肯《うなず》いた。「この辺に、例の、殺された島崎の子分たちが集まってたんでね」
「まあ怖い」
「もう行っちまいました。しかし……」
と、室井は言いかけて、「――ともかく、何か連絡があったら、必ず知らせて下さい」
「分っていますわ」
「よろしく」
と、室井は言って、「遅いですな。これからお風呂ですか」
チラッと、ドアの開いた浴室の方へ目をやる。
「和代が入ってるのかもしれませんね。|覗《のぞ》いてご覧になる?」
と聡子が言うと、室井は笑って、
「いやいや」
と、首を振った。「覗き[#「覗き」に傍点]で捕まっちゃみっともない。この|年《と》|齢《し》でね」
「じゃ、おやすみなさい」
「どうも」
室井の足音が遠ざかると、聡子はホッと息をついて、ロックをし、チェーンをかけた。
――辻山からの電話で、二人が無事に逃げたことは分っていたが、あの連中がここへ押しかけてくるのでは、という恐怖はあった。しかし、それも室井がやって来たから、もう大丈夫だろう。
奇跡のようなものだ。
そう。――本当に奇跡だ。
聡子は、きっと和代はうまく逃げられる、と思った。
こんなピンチを切り抜けたのだ。たとえ何があっても、きっと……。
聡子は、深呼吸をして、風呂にお湯を足そうと、歩いて行った。
14 二つのホテル
ビジネスホテルの小さな部屋。
しかも、換気もよくないのだろう。小田切和代が|風《ふ》|呂《ろ》に入っている、その湯気が、細く開けたドアから|洩《も》れて来て、窓ガラスがくもっている。
辻山は、狭いベッドに腰をおろして、何となく落ちつかなかった。――やはり、和代が今、すぐそこでお風呂に入っていて、ドアが開いているというのは、刺激的な状況に違いない。
「――ねえ」
と、和代が言った。「聡子、何だって?」
もちろんドアの細い|隙《すき》|間《ま》から、声だけが届いたのである。
「うん、大丈夫らしいよ。あの連中がウロウロしてるんで、誰か近所の人が一一〇番したらしくて、パトカーも来たって」
辻山は、バスルームの方へ背を向けたままで言った。
「じゃあ、良かったわ」
と、和代がホッとした様子で、「他に何か言ってた?」
「君が運の強い子だって。きっと何もかもうまく行くわ、と伝えてくれってさ」
「聡子らしいわ」
と、和代がちょっと笑った。「――ああ、少しのぼせちゃった。ドア、開けてもいい?」
「うん、構わないよ……」
辻山は、こう続けようかと思ったのだ。もう帰るから、僕は、と。
しかし、結局辻山は言わなかった。言葉の方が遠慮でもしているかのようで、出て来ないのである。
ドアが開くとき、少しキーッときしむ音がした。――辻山は、じっと正面の壁を見つめていた。
もちろん――そうだ。山崎聡子とも約束したのだ。決して和代に手は出さない、と。
しかし、今、和代は風呂上がりで、もちろん――いや、バスタオルを体に巻きつけてはいるだろうが……。
和代の方が[#「和代の方が」に傍点]、辻山に残ってくれ、と頼んだのだ。子供ではない。ああ言った以上、辻山が一緒に泊ることだって、考えていただろう。
それに甘えていいってものではないが、しかし……。
暑いのか、フーッと息をつく、その息が辻山の首筋に感じられるほど近かった。
「辻山さん……」
「は、はい」
と、あわてて返事をする。
「私……今夜は一人になりたくないの」
と、和代が、反対側からベッドに座って、辻山の体が上下に揺れた。
「あのね……」
「聡子との約束は知ってるわ」
と、和代は言った。「でも、お互い、子供じゃないし……。私、そうしたい[#「そうしたい」に傍点]の」
「和代――さん」
と、辻山は言った。
「和代って呼んでいいのよ」
「どうでもいいけど、呼び方は……。ともかくね、今夜のことで、僕に礼をしようというつもりでそう言ってくれるんだったら、ありがたいけど、その気持だけでいいんだよ。君が無事だった、ってだけで、僕は充分に|嬉《うれ》しい。――君は、男なんか、もうこりごりなんだろ」
辻山の肩に、和代の手がかかった。辻山がそっと振り向く……。
バスタオルを着けただけの和代の肌は、薄いピンクにほてって、つややかに光っている。
「――あなたのことを知る前だわ、それは」
「僕なんか……つまらない男だよ」
「そんなことない。私――もっと早くあなたを知っていたら、と思うわ。悔しいの。きっと、島崎を殺すなんて馬鹿なこと、せずにすんだわ」
「和代……」
肩に置かれた白い手に、辻山は自分の手を重ねた。
「お願い」
と、和代は言った。「力一杯抱いて。それだけでもいい」
――ここまで来て拒めるわけはない。
辻山は、こわごわ(?)和代の方へ体を向けると、そっと抱きしめた。ハラリとバスタオルがとれて落ちる。
ベッドは小さいが、二人にとっては充分だった。辻山は和代を抱いて、もちろん、「それだけ」ではなかったのである……。
六本木のレストラン。
深夜まで開いているとみえて、涼子と安東が食事をしている間にも、次々と新しい客が入ってくる。
「――これからどうします」
と、安東がパンをちぎりながら言った。
「え?」
涼子は、ナイフとフォークを持った手を止めた。
「もうこんな時間だ。別荘へ着いたら、眠る時間もなくなりそうですよ」
「ああ……。そうですね」
「どこかホテルへ泊りますか」
安東の言葉に、涼子が一瞬ギクリとすると、
「いや、ご心配なく」
安東は笑って、「ちゃんと一人で[#「一人で」に傍点]泊ってもらいますよ。こっちもミキの奴に引っかかれたくない」
涼子も照れ隠しに笑った。
「何だか、すっかりご迷惑かけたみたい」
「それはこっちですよ。妙なことに付合せちまった」
安東は、食事を終えて、ウエイターを呼んだ。「――コーヒーだ。ブラックで」
「私、紅茶。――眠れなくなりません?」
と、涼子は言った。
安東は何となく不思議そうな顔で涼子を見ていたが、
「おい」
ともう一度ウエイターを呼んだ。「――俺はミルクをくれ、ホットミルクだ」
「はあ」
ウエイターが面食らっている。
涼子もびっくりした。当の安東は何だか|愉《たの》しげに、
「いや、こんな風だとね、やっぱりコーヒーもブラックでないと、格好がつかないでしょう。ちっとも好きじゃないんですよ。苦いばっかりで、あんなもん」
涼子は、フッと笑ってしまった。
不思議だった。――きっと恐ろしい男なのだろうが、こうしていると、目つきもとてもやさしい。
「いや、お嬢さん、あんたは面白い人だ。おっと失礼。奥さん、でした」
「ええ」
涼子は少し顔を赤らめた。「――安東さん」
「何です」
「一つ、うかがってもいいですか」
「お答えできることなら、答えます」
「あの女の人――小田切和代さんっていう人、本当はあなたも殺したくないんじゃありませんか」
安東の顔から笑みが消えた。涼子は、いけないことを|訊《き》いたかしら、と思った。どうしよう?
「――怒りました?」
と、涼子はこわごわ言った。
「いや、そうじゃありません」
安東は首を振った。「確かに、その通りです」
「やっぱり。何となくそう思えたものですから」
「あの女には、強くひかれるものがあります。――頭もいい。度胸もある。それに……何というか、『情の濃い女』とでもいいますかね」
「何となく分ります」
「死なせるにゃ惜しい、と思っています」
「それなら――」
「いや、結局、やはりこっちの手で始末することになるでしょう」
と、安東は首を振った。「組織を守るためです。一人を見逃したら、もう誰も俺にはついて来なくなる」
「安東さん……」
「ご心配なく。あんたの目の前じゃやりたくないので、今夜は内心困ってたんです。あの|禿《は》げ頭の刑事さんに感謝したいところですな。――いずれ和代はこっちの手に落ちる。しかし、それはもう、あんたとは何の係りもないことです」
涼子は、何も言えなかった。
自分が口を出せる世界ではないのだ。
しかし――もちろん二人とも、涼子と小田切和代とが、まんざら無関係でもないことを、知るはずもなかったのである。
「どうです」
と、安東が話を変えた。「新しくできた、〈ホテルF〉。泊ってみますか」
「あそこ……|凄《すご》く高いんでしょ?」
最近評判になっているホテルである。
「ご心配なく、請求書がそちらへ行くことはありませんよ」
と、安東は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。
電話が鳴ると、邦也はあわてて手をのばした。
きっと涼子からだ!――邦也は、ずっと寝る気にもなれずに起きていたのである。
「もしもし!」
と、勢い込んで出ると、
「あ、真田……邦也さん?」
男の声だ。
「そうですけど……」
「やあ、室井刑事です。頭を殴られた」
「あ――どうも」
と、拍子抜けしてしまう。
「誰かから電話がかかるんですか?」
「あ、いえ、別にそういうわけじゃないんです。あの――何か?」
「ゆうべ一緒だった女子大生、涼子さんといいましたかね」
「え? ええ。涼子がどうかしました?」
「いや、実は、さっき例の安東と会ったんです。あのヤクザですね」
「|憶《おぼ》えてます」
「あいつは、でかいリムジンに乗ってましてね。私はそのそばで奴と話をしたんですが……。真田さん、今、彼女はそこにいますか」
「――涼子ですか? いいえ」
「そうですか……」
「何か?」
「いや、リムジンの中に女がいて……。よくは見えなかったんですが、どうもあの涼子さんに似てると思ったんです」
「まさか!」
「いや、もちろんそうでしょう。どうも気になり始めると、止められない性格でしてね」
と、室井は笑って、「じゃ、彼女によろしくお伝え下さい」
「はあ、どうも……」
電話を切って、「――いくら何でも!」
と、つい言っていた。
涼子があの安東って奴と?
そんな馬鹿なこと……。あるわけない!
しかし――あのシャネルの服をプレゼントして来たことを思い出すと、邦也は急に不安になって来た。
もし安東が涼子に目をつけていたとしたら? 涼子を脅して、自分の車へ無理やり――。
「どうしよう!」
と、青くなる。
涼子は今ごろ、あの安東って奴の手で手ごめにされているかも……。そう思うと、いても立ってもいられなくなる。
室井って刑事に連絡しようか? でも、証拠があるわけじゃないし、警察だって、そんなことまでしてくれないかもしれない。
といって、放っておくわけにも――。
また電話が鳴り出した。パッと受話器をとって、
「もしもし!」
――少し間があって、
「何て大きな声を出すの」
と、|呆《あき》れた声がした。「そんなに遠くにいるわけじゃないよ」
「お母さん」
と、邦也は息をついた。
「どうかしたの?」
「いや、別に。――今、家から?」
「〈ホテルF〉」
「え?――そんなホテル、できたの」
「何言ってんの。今、有名なんだろ、ここ?」
邦也は、確かに〈ホテルF〉という名前は知っている。しかしそれは東京[#「東京」に傍点]にあるのだ。
「お母さん……もう東京に?」
「そうだよ。こっちも旅館業だからね。一応今はやりのホテルへ泊ってみようと思って。明日、お昼でも食べに来ない?」
「あ、ああ……。いいね」
「じゃ、待ってるよ。〈1604〉だからね、部屋は」
「〈1604〉ね」
あわててメモをとる。「――お母さん、辻山さんと一緒に来るんじゃなかったの」
「一緒だよ」
と、真田伸子は言った。「もちろん部屋は別だけど」
「じゃあ、もう二人とも……」
「でも、あちらは房夫さんの所へ電話しても出ないんだって。夫婦でどこかへ行ってんのかね」
「そ、そうだね……」
「じゃ、明日お昼にね。待ってるよ」
「ああ……」
邦也は、電話を切ると、頭の中が混乱の極。
しばし、|呆《ぼう》|然《ぜん》と座り込んでしまっていたのだった。
15 お隣同士
「どうぞ」
と、安東が涼子の手に金色のルームキーをのせる。
少し古風な重いキーだが、|却《かえ》って重厚な印象の〈ホテルF〉には似合っているかもしれなかった。
「はあ」
涼子は、何とも言いようがなかった。「あの――いいんですか?」
「もちろん。ゆっくり休んでください」
安東は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「休みすぎて、大学へ行くのを忘れそう」
と、涼子は笑って言った。
「休みますか」
「え?」
「大学です」
「さあ……。どうしてですの?」
「いや――もしあなたがおいやでなければ、明日の昼でもご一緒にと思いまして」
安東がそう言って赤くなるのを、涼子は信じられない気分で見ていた。
――この人、恥ずかしがっている!
涼子の心は乱れた。|嘘《うそ》はつけない。確かに、この危険な男に、心の動くのを感じた。
しかし、涼子の中のある部分、たぶん邦也を愛しているという気持が、ブレーキをかけた。
「すっかりご親切にしていただいて……」
と、涼子は言った。「気を悪くされると困るんですけど……。やっぱり学生ですから、私。ちゃんと大学へ行こうと思います」
「そうですか」
安東は|肯《うなず》いて、「いや、それがいい。学校をさぼるのは非行の始まりです」
安東がそんなことを言うと何だかおかしい。涼子が笑顔になると、安東もホッとしたように笑った。
「妙なセリフだな、こいつは。――じゃ、これで」
「おやすみなさい」
涼子は、安東が足早にホテルのロビーから出て行くのを見送って、それからルームキーの数字を見ながら、エレベーターの方へと歩き出した。
「――一六階ね」
圧倒されそうな、金色に|溢《あふ》れた装飾。エレベーターの中まで、シャンデリアが下がっている。
一六階は何だか特別のフロアらしい。この格好で一人で泊る? 何だかオーバーね。
涼子は、エレベーターを出ると、深々としたカーペットを踏んで歩いて行った。
〈1602〉だわ。ええと……あ、ここだ。
中へ入って、明かりを|点《つ》ける。
広々としたリビングルーム。その奥に、さらにドアがあって、そこを開けると、目をみはるような大きなベッドが二つ。
「|凄《すご》い……」
涼子は、しばし呆然として突っ立っていたのである。
どんなに恋人のことを思っていても、眠気はやってくる。
いや、邦也の場合には、「妻のことを」と言わなくてはならないわけだが。
涼子のことも心配だが、その一方では早々と東京へやって来てしまった母のことで、邦也の頭は大混乱の状態だった。
しかし、夜中も大分遅い時間になってくると、健康な若者にふさわしく、邦也はウトウトしていたのである。
そこへ、|叩《たた》き起すような音で、電話が鳴り出した。
「――もしもし」
と、出たものの、少し舌はもつれ気味。
「こら、目を覚ませ」
と、聞き慣れた声がして……。
「涼子!」
とたんに目が覚めた。「涼子! 君――大丈夫か?」
「え?」
と、向うが面食らっている。「大丈夫って――何が?」
「あ……いや、何でもない」
と、邦也は少し拍子抜けの気分。
あの刑事が見間違えたんだろう。人に心配させて!
「涼子、あの……怒ってる?」
涼子がちょっと笑って、
「怒ってたけど、今はもう忘れた」
と、答えた。
「そうか。――良かった」
「ねえ、邦也。ちょっと遅いけど、今から出て来ない?」
「どこへ? 君、今、どこにいるんだ?」
「当ててみて」
「おい……」
「分るわけないよね。あのね、〈ホテルF〉」
邦也は、自分が夢を見ているのかと思った。
「どこ……だって?」
「〈ホテルF〉。ほら、一度行ってみたいね、って言ってたじゃない」
「うん……。でも……どうしてそんな所にいるんだ?」
「色々あってね。一言じゃ話せないの。ね、スイートルーム。凄い部屋なのよ。来てくれる?」
「今から?」
「あら、いやならいいのよ。私、誰か他の男と泊ろうかな」
「行く! すぐ行く!」
と、言ったものの……。「何号室?」
「〈1602〉。一六階よ」
邦也は、母の言ったルームナンバーのメモを見た。〈1604〉。――冗談じゃないんだろな、これ!
「分った。すぐ行くよ」
と、邦也は言った。「泊るんだろ?」
「当り前でしょ。ともかく凄いの! お|風《ふ》|呂《ろ》なんか、泳げそうよ」
と、涼子は一人で笑って、「じゃ、起きて待ってるからね」
「うん……」
邦也は、電話を切って――今のが夢でないのを確かめるために、自分の|膝《ひざ》をつねってみたりした。
母が、すぐそばの部屋に泊ってる! しかも明日のお昼に行くと約束してしまっているのだ。
どうしよう?
迷っている時間はない。――なるようになるさ、と邦也は急いでホテルへ行く仕度を始めたのだった……。
「TVも大きい!」
と、子供のようにはしゃいで、涼子はリモコンでやたらチャンネルを変えたりした。
ベッドに寝そべって、TVをぼんやり眺めている。いい気分である。
こんなことで機嫌を直してしまうのだから、涼子もやっぱり若いのだ。しかし、もともと本気で怒っていたわけではない。何か仲直りするきっかけがあれば良かったのである。
ポーンポーンと柔らかい音のチャイムが鳴った。涼子はTVを消して、
「邦也?」
まさか! 電話してから十分しかたっていない。――誰だろう?
またチャイムが鳴って、涼子は急いでドアへと歩いて行った。返事をする前に、念のためそっとドアの穴から|覗《のぞ》いてみる。
見たことのない、頭の|禿《は》げたおじさんが突っ立っていた。
「いるんだろ!」
と、ドア越しに声がした。「なあ。――怒らんでくれよ、伸子さん。ありゃ酒のせいだ。分るだろ? 何も妙な下心があったわけじゃない。頼むからドアを開けてくれよ!」
人違いしてる。涼子は、チェーンをかけたまま、ドアを細く開いた。
「伸子さん――」
「あの、部屋をお間違えじゃ?」
「へ?」
相手は目を丸くすると、「ここは〈1604〉……」
「〈1602〉です」
「や! こりゃ失礼! すみませんでした」
大の男が真赤になって、あわてて行ってしまう。涼子は、笑いを|噛《か》み殺した。
伸子さん、か。――大方、酔って、「伸子さん」に何かしたんだわ。それとも、何かしようとしたか。
どっちにしても、伸子さんという人にこっぴどく拒まれて、酔いをさましていたというところだろう。――男なんて似たようなもんよね。
邦也が来たら、せっかくだから、二人で夜食でもとって……。たぶん「仲直りに」と、あの大きなベッドを活用[#「活用」に傍点]することになるだろう。
明日は大学、さぼるかな。――安東さんには悪いけど。そう考えて、涼子はソファにゆったり腰をおろし、置いてあった雑誌を広げた。
「――飲物でもとっとくかな」
ルームサービスのメニューを広げ、電話でカクテルを注文すると、待つほどもなく、運んで来てくれた。
中のテーブルに置いてもらい、伝票にサインして、
「ご苦労様」
と、ドアを開ける。
ボーイが出て行くと、廊下に立っている若者がこっちを見ているのに気付いた。たぶん、二〇歳かそこら。大学生には見えない。
整った顔立ちだが、どこか普通でない雰囲気を感じさせる。
「あの……」
と、その男の子が涼子へ声をかけてくる。
「は?」
「呼びました?」
「私? どうして?」
「あ――じゃ、いいんです」
と、肩をすくめて歩いていく。
「変なの」
と、涼子は首をかしげて、ドアを閉めた。
もしかして――今の男の子、女の人に呼ばれてやって来たんだろうか? 「遊び相手」に?
何となく異様な雰囲気の子だった。
「――あなたね」
と、女性の声がした。「遅いじゃないの」
涼子は、ドアのスコープから廊下を覗いた。
四〇歳くらいか、きりっとした顔立ちの和服姿の女性である。
「一杯飲んでたのよ。待ちくたびれて」
と、あの男の子に言っている。
「すみません。見られないように入らないと、うるさくて」
「こっちよ」
「凄いホテルですね。初めてですよ、ここ」
と、男の子はキョロキョロしている。
「部屋の中の方がもっと凄いわよ。――さ、入って」
隣の部屋だ。――何となく涼子は落ちつかなかった。
これと同じスイートルームなのだろう。あの女性が一人で泊っていて……。見たところ、お金持らしい。若い男の子を呼んで相手をさせる。
「気持悪い」
と、涼子は|呟《つぶや》いた。
あんなお化粧でもしていそうな男の子、私なら絶対にいやね。
ま、人は色々だ。――涼子は、リビングルームへ戻って、またのんびりと雑誌を開いたが……。
ふと、顔を上げて、
「あの女の人の声……。どこかで……」
と、呟いたのだった。
「竜の兄貴。――ご用ですか」
と、弟分の一人が顔を出す。
「入れ」
竜は、|顎《あご》で促した。
「へえ」
店を閉めた後のクラブ。空気はまだタバコの煙で|淀《よど》んでいる。
竜は、丸テーブルを囲んでいる三人の弟分の顔を見回した。
この三人なら絶対に大丈夫。確信があった。
「妙な時間にすまねえな」
と、竜は言った。「お前らも見ていたろうが、あの和代って女のことだ。今夜は逃げられちまったが」
「残念でしたね。邪魔さえ入らなきゃ」
「それだけじゃねえ」
と、竜は首を振って、「親分にゃ、女をやる気がない」
三人が顔を見合せる。
「間違えるな」
と、竜は言った。「親分に逆らおうってんじゃない。しかし、あの女は俺の手で仕止めたい」
「分ります」
「お前たちにだけ、話をするんだ」
と、竜は言った。「俺は単独で動いて、和代を捜す。力を貸してくれないか」
三人は一緒に|肯《うなず》くと、
「いいですとも」
「何をやりゃいいんです?」
竜はニヤリと笑った。
「お前らのことは頼れると思ってたんだ。しかしな、親分を裏切ったら、殺されても文句は言えねえ。――お前たちは、俺が和代を捜してるってことを、親分に気どられないようにしてくれりゃいいんだ。分るか?」
「手伝わせて下さいよ」
「気持だけで充分だ」
竜は、|拳銃《けんじゅう》を取り出すと、手の中で軽く|弄《もてあそ》んだ。「あの女は、俺一人でやる。他の奴に手は出させねえ」
そして付け加えた。
「親分にもだ」
16 ショックが一杯
ウーン……。
ちょっと|唸《うな》って、辻山は寝返りを打つ。
「危いわ」
と、和代が言った。「ベッド小さいから、落っこちるわよ」
「うん……」
眠ってる。聞いちゃいないのだ。
和代は、しかし、目を覚ましていた。
小さなホテルの狭いベッドで、二人で寝ているのは窮屈だったが、構わなかった。
こんなに幸せだったことがあるだろうか?
和代は、辻山と愛し合った後、こっそり一人で泣いた。――悲しかったのではなく、幸せだったからである。
島崎との暮しの中で、こんな気持になったことは一度もない。島崎との生活は、「戦争」みたいなものだった。
確かに、和代は島崎を愛していたつもりだし、時として、二人の間は火山のように燃え上がることがあった。
でも、その後には、|涯《はて》しない憎しみとののしり合いがつづくのが常だった。――それに比べてこの「平和」はどうだろう。
辻山は、|逞《たくま》しい男ではないし、見た目もパッとしない。女に慣れているわけでもなくて、至って不器用な愛し方しかできない男である。
しかし、辻山の優しさが、どんな男の逞しさよりも和代を慰めてくれる。
こんな人がいたんだ。――和代は素直に驚いていた。
「ウーン……」
と、辻山がまた寝返りを打つ。
「危い……」
と言っている間に、ドサッ、と辻山の体は床に落っこちていた。
「辻山さん。――大丈夫?」
と、和代はのり出して床を見下ろしたが、辻山の方は、床に落ちたまま、そこで眠りつづけているのだった。
「|呆《あき》れた」
と、|呟《つぶや》いて、和代は笑ってしまった。
何て|呑《のん》|気《き》な人だろう。――きっと、人間を信じていられるから、こんな風に眠れるのだろう。
和代は、仰向けになって、天井を見上げた。
幻が――「二人の新しい暮し」という幻影が、天井の暗がりの中に浮かんでくる。
可能だろうか? この人と二人で、どこか遠い所へ行き、新しい暮しを始める。もしそんなことができたら……。
いや。――とても無理だ。
警察だけでなく、安東たちも和代を捜している。たとえ、当座は何とか逃げのびたとしても、いつか見付かってしまうだろう。
そのとき、和代だけでなく、辻山までがひどい目に遭わされることになる。
いけない。いけない。
この人に、そんな危険を冒させるわけにはいかない。
そうだ。初めの約束通り、「辻山の妻」の役を演じた後は、どこかへ一人、姿を消す。それが一番だ。
でも……それまでは。ほんの何日かのことであっても、この人の「妻」だ。
和代は、うつぶせになって、頭だけベッドの端から出し、床で寝ている辻山の、少し間の抜けた寝顔を見下ろした。
何時間でも――いや何日でも、こうして飽きずに見ていられそうな気がした……。
「――オス!」
ドアが開いて、涼子が立っている。
「やあ……。本当にいたんだ」
と、邦也は言った。「|凄《すご》いホテルだな」
「凄いでしょ! さ、入って」
涼子は、邦也の手を引張って中へ入れると、まるで自分の家みたいに、あれこれ説明して回った。
「――ね、こんな所にずっと住めたら、すてきよね」
すっかり涼子の機嫌が直っているのは|嬉《うれ》しかったが、
「どうしてこんなホテルに入ったんだい?」
と、邦也は|訊《き》いた。
「話せば長いの」
と、涼子は言った。「ともかく、座ろうよ」
「うん……」
ソファに|寛《くつろ》ぐ。――高級なソファなので、本当に「寛ぐ」という感じになる。
カクテルを飲みながら、涼子の語る「〈ホテルF〉へ|辿《たど》りつくまでの物語」を聞いて、邦也は目を丸くした。
「じゃ、やっぱり涼子だったのか、リムジンの中にいたの」
「何のこと?」
邦也が、あの室井という刑事からの電話のことを話すと、
「へえ! 全然こっちなんか見てないと思ってた。凄いもんね。プロって」
何だかやたらと「凄い」ことのつづく日である。
「そうか……。じゃ、この部屋も、安東の払い?」
と、邦也は部屋の中を見回した。
「まずかった?」
「いや……。そうじゃないけど」
と、邦也は首を振って、「後で、これと引きかえに何か、って言われないかな、と思ってさ」
「その点は大丈夫」
と、涼子は請け合った。「安東さんって、そういう人じゃないと思う。――もちろん、暴力団で、人を泣かせてるんだろうけど、あの人の中にはこだわりがあるのよ」
「こだわり、か……」
「どうせ、ここから出ても、むだになるだけよ。――ね、今夜はともかくのんびりしましょ」
「明日は――」
「一日ぐらい大学、さぼってもいいわ。ちゃんといつも|真《ま》|面《じ》|目《め》に出てるもん」
「そうだな……」
と、邦也は言った。
二人は何となく黙って――そして唇が触れ合った。
「これで仲直り」
と、涼子は言って|微《ほほ》|笑《え》んだ。「ともかく今夜はね」
「うん」
邦也としても、多少引っかかるところはあるにせよ、涼子と仲直りするのには、全く異存がなかったのである。
「――お|風《ふ》|呂《ろ》、入る?」
「そうだな」
「一緒に入ろうか。あんなに大っきいんだもん」
「いいね!」
というわけで――二人は恋人同士になったばっかりのころのような気分に戻っていたのである。
二人して早速バスルームへ、と行きかけると、
「何てざまだ!」
と、大声が廊下から聞こえて来た。
「何だ、あれ?」
と、邦也が振り向く。
「ああ、さっき間違ってこの部屋のチャイムを鳴らしたおじさんじゃないかしら」
「おじさん?」
「そう。連れの女の人と|喧《けん》|嘩《か》してたみたいよ」
そこへまた、同じ声で、
「いい|年《と》|齢《し》をして! ちっとは人目ってもんを考えなさい!」
「大きな声ね」
と、涼子が笑って言った。
あの声……。邦也は首をかしげた。どこかで聞いたことがある。
「ちょっと」
と、邦也は言って、入口のドアまで歩いて行くと、廊下を|覗《のぞ》いた。
凸レンズで|歪《ゆが》んで見えるが、廊下でわめいている、がっしりした体つきの男が見える。
「――やっぱり」
と、邦也は|呟《つぶや》いた。
あれは、辻山の父親だ!
母と一緒に来たというのだから、当然ここに泊っているわけだが……。「連れの女の人と喧嘩」? つまり、母と、ということか?
邦也は面食らった。
もちろん、母と辻山勇吉が昔から知り合いというのは分っている。しかし――それ以上の仲ではない。そのはず[#「はず」に傍点]だ。
「どうかしたの?」
と、涼子がやって来た。
「あ――いや、別に」
邦也としては言いにくい。それに、今ここで母と顔合せたら、どんなことになるか。
「じゃ、風呂へ入ろうか」
と、邦也は涼子の肩を抱いて、言った。
涼子と二人で大理石を|貼《は》った豪華な浴室で大きな浴槽に身を沈める。
――まあ、ちょっとヨーロッパ映画の一場面という感じである。喧嘩していたことも忘れて、邦也と涼子は少々はしゃぎながら、のんびりとお湯につかっていた。
「――ああ、いい気持!」
涼子はタオル地の大きなバスローブをはおって、ベッドルームへ入ると、ベッドに引っくり返った。
「暑い!」
と、息をついて、「何か冷たいもの、冷蔵庫から出して」
「うん」
邦也もバスローブを着て、冷蔵庫を開ける。「――何がいい?」
「甘いものはちょっとね。――ウーロン茶、ある?」
「あるよ。じゃ半分ずつ飲むか」
「そうね」
二人は、ベッドに座って、コップにあけた冷たいウーロン茶を飲んだ。
「明日はやっぱり、大学休もうよ」
と、涼子が言った。
「うん?――そうだね」
邦也としては迷うところである。
明日の昼は母と食べることになっているのだ。
「邦也も休むでしょ?」
「いいよ。明日はどうせ二限しかないし……」
「じゃ、のんびり寝てられるね」
「そうだな」
二人は互いのほてった肌から立ち昇る湯の|匂《にお》いをかぎながら、軽くキスした。
「――ね、さっき、隣の女の人がね、若い男の子を呼んでたのよ」
と、涼子が言った。
「男の子?」
「そう、何か、薄気味悪いの。ドア開けたとき、見ちゃったんだけど」
「男の子って……」
「相手させるんじゃない? 二〇歳そこそこかな」
「隣の女の人が?」
「うん。もう……四〇過ぎかなあ。和服姿のね、ちょっと色っぽい感じ」
邦也は、少しポカンとしていたが、
「隣って……どっちの隣?」
「え? ええと――そっち」
と、指さして、「ここ、端よ。隣って、そっちしかない」
「まさか?」
邦也は青ざめた。涼子がびっくりして、
「どうしたの?」
と、言った。「――知ってる人?」
邦也には、ショックだった。母がそんな若い男の子を?
まさか、そんなことが……。
「邦也。どうしたのよ」
涼子も、ただごとでないと気付いた。「隣の人って――」
突然、思い出した。あの女の人の声を、どこかで聞いたことがある、と思ったのだが……。
「あの人……邦也のお母さんね」
と、涼子は言って、視線は|唖《あ》|然《ぜん》として、隣の部屋の方へと向いていた。
――邦也が、やっと話ができるようになるのに、十分近くかかった。
「じゃあ、急に早めに出て来たの」
「そうなんだ。このホテルが評判だからって――。しかし、参ったな!」
「じゃ、あの大きな声のおじさんって、辻山さんって人?」
「うん。|見《み》|憶《おぼ》えがあるよ」
「辻山さんって、あなたのお母さんと……」
「いや、何もないはずだ」
「そうよね。だから、謝ってたんだから」
と、涼子は|肯《うなず》いて、「じゃ、さっき騒いでたのは……」
「きっとお袋が、その若い奴といるのを見て、怒ったんだ。でも――何考えてるんだ、お袋の奴!」
邦也はがっくりと肩を落している。
「邦也……。お母さんだって、ずっと一人でいたわけでしょ。仕方ないよ、子供じゃないんだし」
と、涼子が慰めた。
「冗談じゃない! そりゃ、たとえば辻山さんと、っていうのなら分るよ。でも、いくら何でも僕と同じくらいの年齢の――」
「見た目より老けてるのかも……」
涼子の言葉も、あんまり慰めにはならなかったようだ。
「辻山さん。――そうだ、何号室だろう?」
と、邦也は立ち上がった。
「邦也! どうするの?」
「やめさせる! いくら大人だからって……」
邦也は電話を取ると、「――あ、辻山勇吉さんのお部屋へつないで下さい」
と言った。
止めるわけにもいかず、涼子は複雑な表情で、邦也を見ているのだった……。
17 もつれる心
「――どなたもお出になりませんが」
と、交換手が言った。「どうなさいますか?」
「そうですか……」
邦也は少しためらってから、「――じゃ、結構です」
と、電話を切った。
「邦也……」
肩に置かれた涼子の手を、邦也は軽く握ると、
「大丈夫だよ」
と、言った。「辻山さんがいなくても……。そうだろ? 何しろ隣にいるんだ、お袋は。ここを出て、隣のドアをノックすりゃ、それでいい。ドアが開いたら、お袋が息子みたいな年齢の男といちゃついてるってわけだ」
「やめなさいよ」
「うん……。こんなこと、ぐちゃぐちゃ言ってても、仕方ないんだよな」
邦也は立ち上がった。
「どこへ行くの」
「隣の部屋」
「でも――」
「大丈夫。息子として、母親に説教してやるだけだ」
邦也はドアの方へ歩き出した。涼子も、ほとんど足が勝手に動いているというように、ついて行く。
「――ね、ここに泊ってるって知れるわよ」
「どうだっていいさ」
相当に投げやりになっている。そしてドアを開けて廊下へ出たが――。
「待って」
と、涼子が邦也の腕をとる。「あの子だわ!」
さっき隣の部屋へ連れられて行った男の子が、廊下をぶらぶらとやってくるのである。しかし、何だか首をかしげて、妙な表情であった。
「こいつが?」
邦也は、大きく深呼吸すると、「ちょっと」
「ん? 何か用?」
と、少しなまめかしい口調で、「さっきの人だね」
と、涼子の方へ目をやる。
「話があるのは僕の方だ。今、何して来た?」
と、邦也は|訊《き》いた。
「え? 何って……。別に」
と、肩をすくめる。「僕が何しようと、あんたに関係ないでしょ」
とたんに、邦也がその男の子の胸ぐらをぐいとつかんだ。相手は青くなって、
「何するんだ! 離してよ!」
「言え! 何して来たんだ!」
「苦しいよ……」
「邦也!」
涼子が、邦也の肩をつかんで、「他の部屋に聞こえるわ」
「分った」
邦也はその男の子を部屋の中へ引張り込んだ。涼子も急いで入り、ドアを閉める。
「乱暴しないでくれよ」
と、男の子は|怯《おび》えている様子。
「何もしてないだろ。隣の部屋で何して来たんだ! 言え!」
邦也の剣幕に、男の子は後ずさった。
「分ったよ……。でも――何も[#「何も」に傍点]してないんだ。本当だよ」
と、あわてて早口に言う。
「何も?」
「うん……。こっちもよく分んないんだよ。どうなってんのか。電話で呼ばれてさ。――いつもは、もちろん、おばさんたちのお相手で、こっちも金になると思うからやってるけど、たいていはうんざりしちゃうんだ」
「だったらやめりゃいいでしょ」
と、涼子がもっともな意見を述べた。
「だって、働くのなんて面倒だしさ。これはこれで、勉強もしなきゃいけないんだよ」
「そんなことどうでもいい。それで?」
「うん。――この隣の『おばさん』は、でも|凄《すご》くいい女でさ。こりゃいいや、と思ったんだ。でも、部屋へ入れても、何もしなくて、僕のこと色々聞いて、『そんなことしてちゃだめよ』とか意見されて」
「それだけってことはないだろ」
「でも――。何か、変なおっさんが来てさ。そいつが来たときだけ、突然、おばさんが僕のことギュッと抱きしめて。こっちはもう、わけ分んなくて、目を白黒さ」
さっき、辻山勇吉が廊下で騒いでいたときだろう。
「それで、そのおっさんがカンカンになって、わめいてんのを、あのおばさん廊下へ押し出して……。で、少しして、おっさんがいなくなったんだ。そしたら、おばさんが『もういいわよ』って……。で、金も余計にくれて、それじゃ、って」
「――で、廊下にいたの?」
「うん。何もしないで金もらっていいのかな、と思ってたんだ」
変なところで律儀である。
「本当だな」
と、邦也は念を押した。
「あんたに|嘘《うそ》ついてもしようがないだろう」
そりゃそうだ。――邦也は、その男の子を解放してやった。
「ああ、気味悪い奴」
と、邦也は息をついて、「でも、本当だろうな」
「あんだけ脅かしたんだもの、大丈夫よ」
涼子はホッとしていた。「安心した?」
「まあね。でも――お袋、何だってそんなことしたんだろ?」
と、邦也は首をかしげている。
涼子にはある考えがあった。もちろん、当っているかどうか分らないが、邦也の母の気持が、涼子なりに分るような気もしていたのである。
「――ね、邦也。ともかく今夜は寝よう。お母さんにはどうせ明日会うんでしょ。今、行くことないよ」
と、涼子は言った。
「そうだな……」
正直、邦也もホッとしている様子である。「ただ――」
と、続けようとして、ためらう。
「お昼ご飯でしょ。分ってる。私は遠慮するわよ」
「怒らないのかい?」
「怒っても、邦也のこと、嫌いになれないってことが分ったの」
涼子は|微《ほほ》|笑《え》んで、邦也の肩に手をかけた。「それにね、私、ちょっと考えてることがあるの。――八方丸くおさまるかもしれないわ、うまくいけば」
「涼子……」
「さ、いくら明日さぼるからって、いつまでも起きてちゃ、明日|欠伸《あくび》ばっかりしてるはめになるわよ」
と、涼子は言った。「寝る前に、ちょっとすることもあるでしょ?」
「そうだね」
二人はそっと顔を寄せて、唇を触れ合った。
そして――。
翌朝。
といっても、「朝」というより「お昼」に近い時刻。
「もしもし」
と、辻山房夫は電話をかけていた。「あ、山崎君?」
「おはよう」
と、山崎聡子は少し声をひそめて、「どう?」
「生きてるよ」
と、辻山は正直に答えた。「今、彼女はシャワーを浴びてる」
「今日はお休みって出しといたわ。風邪ひいたって連絡が入ったことにしてある」
「悪いね。起きるつもりだったんだけど」
と、辻山は狭いホテルの部屋を見回して、「床で寝てても、こんだけ寝ちまうんだから、大したもんだ」
「辻山さん」
と、聡子が言った。「もう私の所は危いわ、あなた……」
「うん。僕のアパートへ|一《いっ》|旦《たん》連れて行く。他に手がないものな」
「すまないわね、とんでもないことに巻き込んじゃって」
「いや、そんなことは……」
と、辻山は言いかけて、「あのね、山崎君――」
「辻山さん」
そう言ったきり、二人はしばらく黙っていた。浴室から、和代がシャワーを浴びる音が聞こえている。
「辻山さん。私との約束[#「約束」に傍点]、破ったんでしょ」
と、聡子が穏やかな口調で言った。
「すまん」
とだけ答える。
「いいのよ。――そうなって良かったのよ」
と聡子は言った。
「本当かい?」
「ええ。喜んでるの、私」
「そう言われるとホッとするよ」
辻山は本当に息をついた。「|叱《しか》られる覚悟をしてた」
「じゃ、お|詫《わ》びのしるしに、明日のお昼をおごりなさい」
と、聡子が笑う。
「分った」
と、辻山も笑って、「彼女と代るかい?」
「いえ、いいわ。課長、戻ってくるから。今日、帰りにあなたの所へ寄る」
「分った。じゃあ」
電話を切ると、和代が浴室から出て来た。
「――暑い」
と、赤い顔をして、「でも、さっぱりしたわ」
辻山は黙って、湯上がりの、バスタオルを体に巻いた和代をじっと眺めている。
「何見てるの?」
「すてきだよ」
二人は、見つめ合った。辻山は夢心地で。和代の方は哀しく切ない愛着をこめて。
「もう出ましょう」
と、和代は言った。
聡子は電話を切ると、自分でもどうかしたのかしら、と思うほどの勢いで、仕事に没頭し、我を忘れた。
いや、正直に言えば、忘れられなかった、自分の中の動揺を。
辻山に言った言葉に嘘はない。心から、和代と辻山のことを喜んだ。しかし、同時に――自分でもあまりに意外なことだったが――聡子の胸がキュッとしめつけられるように痛んだのである。
辻山を? 私が辻山さんを恋してる?
「まさか」
と、声に出して|呟《つぶや》いてみる。
でも、和代を救おうとして、必死になっている辻山の姿に、胸の熱くなるのを覚えなかったか。ゆうべ、おそらく辻山と和代が結ばれただろうと察して、まんじりともしなかったのは、なぜか……。
自分をごまかしても仕方ない。
確かに、聡子も[#「も」に傍点]また(和代も[#「も」に傍点]ということだが)、辻山に恋をしているのだ。
皮肉なものだ。こんなに長く机を並べて来て、悪い人ではないと知っていたが、それだけのことだった。それが、こんなとんでもない出来事のおかげで……。
しかし、この気持は、辻山にも和代にも隠し通さなくてはいけない。そう聡子は決心していた。
――聡子は席を立って、お茶をいれに行った。
給湯室へ行こうとして、誰かとぶつかりそうになる。
「おっと――」
「失礼しました」
と、聡子は謝った。
「いや、こっちこそ」
何だかパッとしない男である。二、三秒もしない内に、顔を忘れてしまいそうだ。
そして実際、聡子は忘れてしまった。
その「パッとしない」男は、聡子とぶつかりそうになってから、オフィスの中へ足を踏み入れた。
「何かご用ですか」
と、受付の子が|訊《き》く。
「あの……山崎聡子さんはいらっしゃいますか」
と、男は言った。
「山崎さんでしたら、今、そこから出てった人ですけど」
男はちょっと振り向いて、
「じゃ、今、ぶつかりかけた……。そうですか」
と、|肯《うなず》くと、「どうもありがとうございました」
「いえ……」
男がさっさと出て行ってしまったので、受付の子は首をかしげた。
「何かしら、今の人?」
しかし受付の子も、あの男のことは、すぐ忘れてしまったのである。
男の方[#「男の方」に傍点]は、山崎聡子の顔を、しっかりと頭に|叩《たた》き込んでいた。
そうでなければ、「殺し屋」などという仕事はつとまらない。
「サメ」は、獲物を見付けたのである。
いや、そのものでなくても、その「魚」を追っていけば、必ず目指す「大物」に|辿《たど》りつく。
「サメ」は今日の成果に満足して、静かにエレベーターに姿を消した。
18 ランチタイム
「邦也!」
レストランの奥の方で、母の伸子が手を振るのが目に入った。
「ありがとう。あそこだ」
邦也は、ウエイトレスに礼を言って、母のいるテーブルへと歩いて行く。
「母さん」
「――邦也」
と、伸子はしみじみと我が子を眺めて、「少しやせた?」
「太ったよ」
「そう? 体、悪くしてないの?」
「何ともない。――ね、もう何か頼んだの?」
席について、邦也は言った。
「何も」
伸子は首を振った。「お前の来るのを待ってたのよ」
「じゃ、何か食べよう。お腹ペコペコだよ」
邦也はメニューを広げた。
「そうね」
伸子もメニューを開いたものの、目は息子の方を向いている。
「ランチでいいね。僕はAランチの方」
「お母さんもそれにするわ」
伸子はろくにメニューなど見ないで、言った。
ウエイトレスにオーダーを伝え、邦也は水をゆっくりと飲んだ。
――正直、邦也はお腹が|空《す》いていた。つい三十分前に起きたばかりである。
母のことを巡って、ゆうべ寝るのも遅くなったが、もちろんそればかりではない。涼子との楽しいひとときも、大分長びいたのである……。
すっかり寝坊して、あわてて先にシャワーを浴び、部屋を出て来た。涼子はたぶん、今ごろシャワーを浴びているだろう。
「――母さん、変わりない?」
と、邦也は訊いた。
「見たとこ、どう?」
「若いよ」
と、邦也は笑顔で言った。
いや、事実、伸子は四六にとても見えなかった。もちろん、和服の着こなし、その|貫《かん》|禄《ろく》は、「普通の主婦」じゃないことをはっきり感じさせるが、化粧などは決して濃くないし、肌のつややかなピンクは、四〇過ぎと思えないものを見せていた。
「お世辞ね」
と、伸子は|嬉《うれ》しそうに言った。「大学の方は?」
「うん。うまくやってる」
邦也は、涼子がこの席には遠慮してくれてホッとしていたが、同時に、「結婚」の事実をきっちり告げなくちゃいけない、という「負い目」も覚えていた。
しかし、涼子の方が、
「少し待って」
と、逆にブレーキをかけたのである。「私に考えがあるの」
涼子が何を考えているのか、邦也には見当もつかなかった。
「なかなかいいホテルね」
と、伸子が、同業者としての感想を述べた。「これでもう少しフロントが慣れてくるといいけど」
「旅館の方、どうなの?」
と、邦也は言った。
「順調よ。どうして?」
「いや……。わざわざ東京まで来たりしてさ、何かあったのかと思って。――引退でもするのかな、と思った」
伸子は明らかに動揺した。しかし、そこへランチのオードヴルが運ばれて来て、とりあえず、気まずい空気にならずにすむ。
「――おいしいわね」
と、伸子は言った。「邦也。私は引退なんかする気ないわよ、言っとくけど」
「うん。そりゃ母さんの自由だからね」
伸子は、町の最近の様子を、あれこれ話し始めた。邦也の幼な友だちとか、学校の先生の消息とか。
もちろん、邦也にとって懐しい話題ではあるけれども、母が一人でしゃべりつづけているのを聞いていると、やはり何か自分の中の動揺を隠そうとしているという印象を受けた。
――スープが来て、スプーンを取ると、
「このランチをお願いします」
と、すぐ後ろで聞き慣れた声がして、邦也はドキッとした。
チラッと振り向くと、涼子が一人でテーブルについて朝刊を広げている。
もちろん、邦也が見ていることも承知だろう。
「――母さん」
と、邦也は言った。「辻山さんは? 一緒に食べなくていいの?」
伸子の表情が一瞬こわばった。
「一緒ったって、別に何でもないのよ」
と、伸子は早口に言った。「たまたま[#「たまたま」に傍点]一緒に来たってだけ。間違えないで」
ほとんど切り口上である。
「母さん。――何かあったの?」
と、邦也は|訊《き》いた。
「何かって?」
「だから……辻山さんとさ。そんなケンカ腰で」
「あんな人のこと、二度と言わないで!」
伸子はカッとなった様子で言った。きつい言い方、そしてよく通る声なので、レストランの中の客が振り向いて見ている。
伸子は、ちょっと|咳《せき》|払《ばら》いすると、
「邦也……。辻山さんはね、こんなホテルには向かない人なの。その辺、よく考えるべきだったわ」
「今――泊ってないの?」
「泊ってるでしょ。知らないわ」
と、肩をすくめ、「もうあんな人の話はやめましょ」
「うん……」
邦也も、それ以上は言わなかった。
――涼子が、隣のテーブルで、母と息子の会話に、じっと耳を傾けている。
「ちらかってるよ」
と、辻山房夫はアパートのドアを開けて言った。
「お邪魔します」
と、和代は玄関のドアの所で、少しためらった。
「さ、入って。――ここへ来てもらうと分ってりゃ、もう少し片付けとくんだった」
「構わないわ」
和代は上がり込んで、部屋の中を見回すと、「お掃除のしがいがあるわ」
と、言った。
「そう働くこともないよ。さ、荷物をどこかその辺に」
「ええ」
和代は台所に立つと、洗い物を手早く片付けた。
「ね、座って」
「ええ、ごめんなさい。つい……」
と、和代が畳に座る。
「ともかく、親父が来てからの何日間か、このアパートの住人たちともども、ごまかさなきゃいけない」
「あんまり顔を出さないようにするわ」
「しかし、どうせ誰かがいることは分るよ。もし、親父だけが来るのなら、何とかごまかせると思う。しかし、あの真田伸子さんが一緒となると……」
と、辻山は考え込んだ。
「急に結婚したとも言えないし」
「いや、それで通すしかないとも思ってるんだ。ちょっと事情があって、一緒に暮してなかったけど、と言ってね」
「どんな事情?」
「さあ……。何がいいかな」
ちょっと考えて、和代が言った。
「分った。――女房が殺人犯で逃げ回ってたもんですから、ってのはどう?」
二人は一緒に笑った。
「――笑いごとじゃないのにね」
と、和代は言った。「でも、こんな風に笑えるなんて幸せだわ」
「君……」
辻山は、目を伏せて、「僕にできることは何でも言ってくれ。気はきかないけど、言われたことはやる」
と、言った。
和代は胸を打たれた様子で、辻山の手をとった。
「これ以上、あなたに迷惑はかけたくないわ。――この『お芝居』がすんだら、出て行く。止めないでね」
「しかし――」
と、辻山が言いかけたときだった。
玄関のドアの外にドタドタと足音がしたと思うと――。
「おい! 房夫! いるのか?」
と、大きな声が|轟《とどろ》いた。
和代と辻山は顔を見合せた。
「あれ……」
「親父だ! こんなに早く……」
和代はパッと立ち上がって、
「大丈夫。任せて。――早く返事を」
と、自分の持物を押入れの中に放り込んだ。
「――今、開けるよ」
辻山はサンダルをひっかけ、ドアを開けた。
「どこへ行っとったんだ」
と、辻山勇吉がのっそりと入ってくる。
「いつ、着いたの?」
と、辻山は訊いた。
「昨日だ。何回も電話したが、誰も出んし……」
和代が出て来て、上がり口に正座すると、
「初めまして。――洋子[#「洋子」に傍点]です」
と、頭を下げる。
辻山は、和代がちゃんと「幻の妻」の名をしっかり頭に入れてくれているのに、感激した。
「やあ」
と、勇吉は和代を眺めて、「これが嫁さんか」
「至りませんが、よろしくお願いいたします」
と、和代がきちっと|挨《あい》|拶《さつ》する。
「いやいや、至らんのはこの房夫の方ですぞ」
と、勇吉は笑顔で言った。「もらわれてくれる人がいて、良かったな、房夫」
辻山は早くも汗をかいている。
「あのね、父さん……。ともかく上がったら?」
「うん。――いいなあ、新婚の家ってのは。希望があれば、ボロアパートも天国だ」
「父さん、どこへ泊ったんだい、ゆうべは」
と、辻山は訊いたが、答えを聞いて仰天した。「〈ホテルF〉? |凄《すご》い所に泊ってるんだな。あの――真田のおばさんも?」
「ああ」
勇吉は何となく、そっけない口調で、「あんな女は放っときゃいい。そうだとも。もう二度とごめんだ、あんな……」
「何があったんだい?」
「何でもない」
と、辻山勇吉は首を振って、「まだチェックアウトしてない。おい、どうだ、今夜は二人で〈ホテルF〉へ夕食をとりに来ないか」
ありがたい申し出である。
このアパートにいる時間が少ないほど、インチキのばれる可能性は低い。それに、何か知らないが、真田伸子と|喧《けん》|嘩《か》でもしたようだ。
少し希望が出て来た。――辻山はそっと和代と目を見交わしたのである。
「何よ!」
と、ミキはふくれっつらをしている。
「何、怒ってるんだ?」
と、安東が苦笑いする。
「ごまかさないで」
ミキはベッドから裸の上半身を|覗《のぞ》かせて、「他の女のこと、考えてるくせして」
「よく分るな」
と、安東はヒゲをそりながら、「その勘の良さを、馬[#「馬」に傍点]にでも生かせよ」
「フン」
と、ミキはうつぶせになった。「今度はどこの女?」
「やめとけ」
と、安東は言った。
アフターシェーブローションで顔をはたくと、フーッと息をついて、
「目が覚めた!」
「私に飽きたの?」
「ミキ……。俺はお前が|可《か》|愛《わい》い。本当さ。しかし、ときにゃ他の女に心が動くこともある」
と、安東は言った。「黙って見てろ。お前を追い出しゃしない」
「本当ね」
「本当だ」
安東はベッドの方へ戻ると、ミキにチュッとキスした。「――さ、俺は大切な会合がある。まだ寝ててもいいぞ」
「起きるわよ。あと一時間もしたら、自然に目が覚める」
「いい子だ」
安東は、軽くミキの頭をなでると、寝室を出て行く。
廊下に、竜が立っていた。
「何だ、どうかしたか」
「お願いがあります」
「言ってみろよ」
「何日か、お休みをいただけないでしょうか」
「お安いご用だ。少しうさ[#「うさ」に傍点]を晴らした方がいいだろう」
「へえ、よろしく」
そう言って竜は頭を下げた。
19 集 合
「救急車か」
と、竜は|肯《うなず》いた。「あれ[#「あれ」に傍点]だったのか」
「まず間違いないと思いますよ」
と、竜の弟分の一人が言った。「そのアパートの連中を二、三人捕まえて聞いてみました。山崎聡子って女の一人住いなんだそうですが、ここんところ若い女がもう一人部屋にいたらしいです」
車の中から、竜はそのアパートを眺めていた。――今はまだ昼間だ。
「味な|真《ま》|似《ね》しやがって」
と、もう一人の弟分が運転席で舌打ちした。「あのときの救急車か! 妙だと思ったんだ。ねえ、兄貴」
竜はちょっと笑って、
「どっちにしても、あの勝負は向うの勝ちさ。そいつは認めなくちゃな。しかし、今度はごまかされねえ」
「そうですよ。山崎聡子って女、思いっ切り痛めつけてやる」
「勤めに出てるんだな?」
と、竜は言った。
「そうです。帰りはそう遅くないらしいですが」
「すまねえが、和代とその山崎って女の関係を当ってみてくれ」
「へい、任せて下さい」
弟分の一人が素早く車を出ると、姿を消してしまった。
「――和代は、どこへ逃げやがったんでしょうね」
「その山崎聡子って女が知ってるだろうよ」
竜は言って、「――どうせその女は、夜でなきゃ戻らねえんだ。おい、|一《いっ》|旦《たん》ここを引き上げよう」
「見張ってますよ、俺」
「いや、いいんだ」
と、竜は首を振った。「それだけ手がかりを見付けてくれりゃ充分だ。――俺はな、お前らと夕方から温泉へ行くことになってる」
「温泉ですか」
と、運転席の男が目を丸くして振り向く。
「親分の手前な。いいか、お前、すまねえが、本当に温泉に予約を入れて、車で出かけてくれないか」
「俺一人でですか?」
「頼むよ。何なら女でも連れてけ」
「そんなことは……。でも兄貴は?」
「俺はこのアパートで用がある」
竜は、山崎聡子の住むアパートへ車の窓越しに目を向けた。「いいか。親分は切れるお人だ。俺がこんなときに温泉へ行くなんて、妙だと思ってるだろう」
「でも――」
「いや、俺には分ってるんだ。親分の悪口を言ってるんじゃねえ。あれだけ切れる人だから、俺はついて来たんだ。ただ、この一件だけは、親分にも邪魔されたくねえ」
「分りました」
と、弟分が|肯《うなず》く。「じゃ、俺が兄貴と一緒に温泉へ行ったことにすりゃいいんですね」
「そうだ」
と、竜はちょっとニヤリとして、「俺が一人でそんな所へ行けないことぐらい、親分も知ってるからな」
竜は、何をやっても決して不器用ではない。面倒くさがりでもないし、忘れっぽくもない。
しかし、たった一つだけ、旅行の手配をしたり、旅館に予約を入れる、といったことだけは、からきしできないのである。
別にむずかしいことでも何でもなく、電話一本入れりゃすむときでも、竜にはできない。
ともかく、その類のことをやろうとすると、手がこわばって、電話もかけられなくなる。そして何とかかけられたとしても、今度は|喉《のど》がしわがれて、まともな声にならないのだった。
どうしてこうなのか。自分でも分らない。心理学者なら、きっと竜に催眠術でもかけて、竜の「幼児体験」でも探り出そうとするだろう。
しかし、ともかく竜は今ではそういうことに一切、手を出さないと決めているのである……。
「何か食おう。車をやってくれ」
「いつもの店ですか」
「そうだ」
と、竜は肯いた。
車が動き出す。――竜はチラッと例のアパートへ目をやって、
「おい、その女のことを|訊《き》くとき、怪しまれなかったろうな」
と、言った。
「心配いりませんよ。ぐっとソフトに訊き出しましたからね」
「何と言ったんだ?」
「結婚のための調査だ、って。そういう話は、女は大好きですからね。訊くより先にペラペラしゃべってくれますよ」
「よし。――そうそう、お前、温泉へ着いたら、親分へ電話を一本入れてくれ」
「何て言うんです?」
「俺がよろしく言ってた、と。酔い|潰《つぶ》れて、とっても電話にゃ出られません、とそう言っとけ」
「そいつはいいや」
と、ケラケラ笑って、「――すんません」
バックミラーで、竜がにらんでいたのである。
――竜は、その女をしめ上げて、和代の居場所を吐かせることには自信があった。
たとえその女が和代の親友でも、暴力には弱いのが素人である。ちょっと痛い目を見せてやれば、すぐにしゃべるに違いない。いや、むしろ強情な奴なら面白いのだが。
たっぷり時間をかけて、いたぶってやる。
このところ、そんな機会は減っている。竜のような男にとっては、今の「ヤクザ」はえらくおとなしくて、行儀が良すぎる。面白くないのである。
命をかけた勝負に出ることも、すっかりなくなった。――そうだ。久しぶりに、和代の奴は好きなやり方でばらしてやる。
竜は、想像しただけで、体が熱くなってくるのを感じていた……。
青い水が、ゆったりとうねって、涼子のしなやかな体が水の下できらめいた。
邦也は、〈ホテルF〉のプールサイドのデッキチェアに身を横たえて、涼子の泳ぐ姿を眺めていた。――高級ホテルにふさわしいプールである。
もちろん、プールが人で一杯で、真直ぐに泳げない、なんてこともない。
涼子が水から上がると、バスタオルで軽く体を|拭《ふ》いて、邦也の隣のデッキチェアに横になる。
胸のふくらみが大きく上下しているのを見て、邦也はちょっとドキッとした。――考えてみればおかしな話だ。涼子は邦也の妻である。
「こっちをあんまり見ないで」
と、涼子が目を閉じたまま言った。
「う、うん……」
邦也も急いでガラスばりの天井に目を向ける。「――お袋なら大丈夫。泳いだりしないよ」
「でも、ここを|覗《のぞ》きにみえるかもしれないでしょ」
と、涼子は言った。「あなたも少し泳いだら?」
「うん……。ね、どうするんだ、これから?」
「例の辻山さんって人――。父親の方ね。まだここをチェックアウトしてないわ。調べたの」
と、涼子は言った。「ということは、ここへ戻ってくる。――うまくいけば、うまくいくわよ」
「何だか良く分らない」
と、邦也は正直に言った。「辻山さんとお袋がどうしたっていうんだい?」
「愛し合ってる」
涼子の言葉に、邦也は|唖《あ》|然《ぜん》とする。
「――まさか」
「本当よ! こっち見ないで」
「あ……。だけど、|凄《すご》い悪口言ってたんだぜ」
「恋人同士のケンカよ、あれは。他人なら、あそこまで言わない」
「そうかな……」
「お互い意地っ張り。だから、ケンカしちゃうのよ」
涼子にそう言われると、邦也もそんな気がしてくる。
「ふーん。でも、お袋の方が折れるってこと、まず考えられないよ」
「そこよ。何かうまい手を考えれば……。自分の恋に夢中なら、息子の恋のことなんかどうでも良くなるわ」
「なるほどね」
「しっ。――お母さんよ」
邦也が、ガラス窓の方へ目をやると、母の伸子が和服姿で手を振っている。邦也もちょっと手を振り返した。
「――もう時間か。買物に行くっていうから、付合ってくる」
「いいわよ。マンションの方には行かないの?」
「それが何も言わないんだ。|却《かえ》って心配さ」
邦也は立ち上がって、プールの出口の方へと歩いて行く。
涼子は、邦也が出て行くのを目の隅で追っていた。――もちろん、邦也の母が「恋愛中」というのは涼子の直感でしかない。しかし、まず間違いないと思っていた。
辻山がホテルへ戻って来てくれれば……。
涼子には、ちょっとした考えがあった。
体が快くだるい。――ゆうべ邦也と愛し合って、ゆっくりと寝て、そうしてプールでのんびり泳いで……。
まるで天国! 涼子は、大学をさぼったことに少々後ろめたさは覚えていたが、しかし、今のこの時間を大いに楽しもうという気になっていたのである。
隣の、邦也が立った後のデッキチェアに誰かが横になった。何げなく目をやって、涼子は目を丸くした。
「安東さん!」
「やあ」
安東が、バスローブをはおって、涼子の方へと笑顔を向けた。
「あの……」
「気にしないで。のんびり泊って下さい。何日泊ってもいいんですよ」
「いえ……。もう出るつもりでした。超過時間の分は払いますから」
「律儀な人だ」
と、安東は笑った。「お好きなように」
「こんな所にいらして……。いいんですか? お忙しいんでしょ」
「仕事はここでもできます」
安東は、携帯電話をちょっと持ち上げて見せた。
涼子は何と言っていいか、分らなかった。
安東は涼子に|惚《ほ》れている。――涼子としては勘違いであってほしかったが、ここまで来ては、間違えようがない。
しかし、不思議である。安東のような男なら、力ずくで、あるいは脅して涼子を思い通りにできるだろう。もちろん、そうしてほしいわけじゃないが。
しかし、安東は涼子に手を出しかねているのだ。
「――ご主人は今、出られたようだ」
「見てたんですか」
「母親にも会いましたよ。すぐそこでね」
と、安東は言った。「なかなか魅力のある女性だ」
「そうですね」
「夜は、母と息子で食事でしょう。いかがです、僕とあなたで」
――涼子としても、こうなっては拒むというわけにはいかなかった。
「――もしもし」
ミキは電話を取った。「――ああ、私よ。――何ですって?」
「今、親分は〈ホテルF〉においでで」
と、電話して来たのは、ミキがひそかに頼んで、安東の行先を連絡させている子分の一人である。
「女と二人?」
と、ミキの声はもうとんがっている。
「いえ。――でも、プールに入ってられるんで、見えないんです」
「プール……」
ミキは、安東が大して泳ぎを好きでないと知っていた。
わざわざ一人でそんなホテルのプールに入るものか。――そう。当然、女[#「女」に傍点]が待っているのだ。
「〈ホテルF〉ね。分ったわ」
と、ミキは言った。「プールからあの人が出たら、連絡して」
「分りました」
と、子分があわてて切る。
安東に知れたら、大変だとびくついているのだろう。
ミキの方は、しかし、カーッと頭に血が上っていた。
安東が女を作るのは、決してこれが初めてじゃない。ミキとそういう仲になってからでも、何人かの「女」はいた。
しかし、今度はちょっと違う。
ミキは本能的に、安東が本気で女に惚れていると見抜いていた。
とんでもない! そうはさせるもんですか。
ミキは出かける仕度をした。いつ連絡があっても出られる。
「そうだ」
あれ[#「あれ」に傍点]を持って行こう。
ミキは、洋服ダンスの引出しの奥から、小さなガラスのびんを取り出した。
硫酸が入っている。――これを、その女の顔にかけてやる!
ふたをきっちりとしめ直して、ミキはそのびんをバッグの中へと忍ばせたのだった。
20 銃 口
「結婚なんてね、下らないもの、絶対にするんじゃないよ」
母親の口から突然この言葉が出て来て、真田邦也は面食らってしまった。
もちろん、ドキッとしたのも事実。もしや、母が息子と涼子のことを知っていたのか、と……。しかし、そうではなかったらしい。
「母さん……。何のこと?」
「言った通りさ」
と、真田伸子は紅茶を飲みながら言った。「私が言うんだから間違いないよ。結婚ぐらい下らないもんはない」
――デパートの中を、散々伸子に引張り回され、邦也はヘトヘト。
「一休みしようか」
という伸子の提案に即座に賛成して、デパートの中の喫茶店で一息ついたところである。
母さん、どうかしてる。――邦也は、買物について歩きながら、そう思った。
ほとんどやけになって買いまくってでもいるようだ。もちろん、伸子は世間の水準からいえば「金持ち」であって、宝石だの着物だの、相当にいいものを持っている。仕事上、そう安物を身につけられないということもある。
しかし、今日の買い方は……。高いものばかりじゃない。
「これ、|可《か》|愛《わい》いじゃない」
と言って、中学生くらいの女の子が持って歩くようなバッグを買うかと思うと、
「ちょっと、それちょうだい」
と、百万円近くもする腕時計を、ろくに見もしないで買って、女店員をあわてさせる。しかも現金払い!
何かあったんだな、と邦也ならずとも思って当然であろう。そこへ「結婚」発言である。
「突然何だよ」
と、邦也は何とか笑顔を作って、「母さんだって、昔は結婚してたんじゃないか」
「そう。まだ何も分んなかったからね、あのころは。今はね、世の中も人生も、いやになるくらいよく見えるの。だから、あんたを不幸にしちゃいけない、と思ったんだよ」
「だけど……」
邦也はおずおずと言った。「相手によるんじゃない? 現に幸福な夫婦だっているわけだし……」
「外見をとりつくろってるだけさ」
と、一刀両断。「それとも、まだ[#「まだ」に傍点]現実に目覚めてないか。いずれにしろ、やがては不幸になるんだよ。いいかい? あんたは一生独身でいるの。それが人生、幸福になれる唯一の道だよ」
邦也としては、これ以上こだわるのはまずいと思った。何があったのか知らないが、もし母が、「邦也は結婚している」という事実を知ったら、どうなるか。
想像するだけでも、恐ろしかった。
「邦也」
と、伸子が鋭い目で見る。「お前――まさか結婚したい、なんて女の子がいるんじゃないでしょうね」
その視線の厳しさに、邦也が、
「そんな――そんなわけないだろ」
と、つい言ってしまったとしても、責めるわけにはいかなかっただろう――。
「それならいいんだよ」
と、伸子はホッとした様子で、「お前はまだ子供だものね。結婚だの何だの、考えるわけがないね」
邦也は母の笑いを受けて、一緒に引きつったような顔で笑ったのだった……。
「――〈ホテルF〉?」
と、山崎聡子は目を丸くして言った。「|凄《すご》いじゃないの。高いんでしょ、あそこ」
「親父がね、泊ってるんだ」
と、辻山房夫は言った。
辻山から電話がかかって来たのは、そろそろ五時になろうかと、机の上を片付け始めたところ。
「大したもんね。――え?――だめよ、そんなの」
と、聡子は言った。
「いや、君にいてもらった方が、話も楽だしさ。彼女もそう言ってるんだ」
と、辻山は言った。「親父には、僕らの結婚のとき、ずいぶん世話になった人なんだと言ってある。親父も、それならぜひ、と言ってるんだよ」
「でも……。私なんかいたら、邪魔よ」
「食事のときだけさ。それに、邪魔なんて、とんでもないよ」
辻山の気持はありがたい。しかし――聡子は、ためらわずにはいられなかった。
一つには、幸せそうな辻山と和代の姿をこの目で見るのが|辛《つら》い、ということもあったのである。
「ね、いいだろう」
と、辻山が熱心に言った。「彼女も――そう言ってるんだ」
「そう……」
聡子は、ふと思い直した。
辻山と和代の「幸せ」? しかし、それはほんの束の間のものでしかない。それを|羨《うらや》んだりしては、和代が|可《か》|哀《わい》そうというものだ。
「――分ったわ」
と、聡子は言った。「じゃあ、夕食代を節約しようっと」
「そうしてくれ。親父の懐だ。思い切り食べて構わないからね」
聡子は辻山の言い方にちょっと笑って、電話を切った。
〈ホテルF〉での夕食。――辻山たちにとっては、「結婚祝」になるかもしれない。それを祝福しに行くのだと思えば……。
そう。少しも悪いことじゃないだろう。聡子は、自分へそう言い聞かせた。
五時のチャイムが鳴る。――何を着て行こうかしら?
聡子の頭は、〈ホテルF〉へ着て行けるようなスーツ、あったかしら、という心配で一杯になってしまったが……。
もちろん他の心配も忘れていたわけじゃない。――この先、和代をどこへ逃がすか。そして、自分のアパートの近くに来ていたヤクザたちのこと。
でも今夜は大丈夫だろう。今夜ぐらいはまだ……。
聡子は手早く帰り仕度をして、ビルを出た。
足早に駅へと急ぐ聡子を、ピタリと尾行している男がいた。
あの人だわ。
涼子は、ホテルのロビーへ入ってくる辻山勇吉を見付けた。
確かに、ゆうべ間違って涼子の部屋のドアを|叩《たた》いた人である。
フロントでキーを受け取ると、辻山勇吉はエレベーターの方へと歩いて行った。涼子は、ソファから立ち上がって、その後を追う。
辻山勇吉がエレベーターに乗って、扉が閉まりかけるところへ、
「あ、待って!」
と、声をかけて、飛び込む。「ごめんなさい!」
「いやいや」
と、辻山勇吉は笑って、「何階かな?」
「あ、一六階です。すみません」
と、涼子は言って、「――あれ、ゆうべの……」
「え?」
と、勇吉が涼子を見て、「どこかで会ったかい?」
「私の部屋に来たでしょ、おじさん」
涼子は、わざと少しはしゃいだしゃべり方をした。「『伸子さん! 伸子さん!』とか言って」
「あ……」
勇吉も、やっと思い出したらしい。真赤になって――|禿《は》げた頭の方まで赤くなっている。
「ハハ、|可《か》|愛《わい》い」
と、涼子は笑った。
「おい、からかわんでくれよ」
と、勇吉は汗をかいている。「――着いたよ、一六階だ」
「ありがと。――ね、おじさん」
「うん?」
「私、今一人なの。ちょっと部屋に来ない?」
「え?」
面食らっている勇吉を、
「ほら、ちょっとおしゃべりでもしましょうよ! ね?」
と、半ば強引に引張って行く。
「あ、あのね――」
「何もしないから! ね、怖がらなくていいから」
どっちのセリフなんだか……。
ともかく、涼子は自分の部屋に辻山勇吉を連れ込んでしまったのである。
「――ほう、立派な部屋だな」
勇吉も、中へ入ると、珍しげに見て回る。
「おじさんの部屋は?」
「こんなに広くないよ」
と、勇吉は言って、「高いんだろうな、さぞかし」
「お隣の部屋も同じタイプでしょ。中、見なかったの?」
勇吉はちょっと詰まって、
「うん? ああ……。何といっても、女性一人でいるんでね。中へ入るのは失礼――。といっても、ここも一人か」
「私は恋人と二人」
「そうか。そう聞いて安心した」
と、勇吉はホッと息をつく。
「出かけてるの、彼が。退屈だからね、来てもらったのよ。ね、何か飲む?」
「いや、もう……。アルコールはこりた」
「ウーロン茶とか?」
勇吉はちょっと笑って、
「いいね」
と、|肯《うなず》いた。
冷蔵庫のウーロン茶を出して、グラスへ入れる。
「――はい、どうぞ。ね、伸子さんって誰なの?」
涼子は、大きなソファに横になって、言った。少々大胆なポーズである。
「ああ……。昔なじみでな。もちろん、もう四〇……いくつだったかな」
「年齢も忘れちゃったの? それじゃ怒られても仕方ないわ」
「そうか? いちいち|訊《き》くのも変だろ」
「そりゃそうよ。――何か失礼なことしたんでしょ、その『伸子さん』に」
「いや……。勘弁してくれ」
と、勇吉は頭をかいた。「何しろ、この年齢になって失恋するとは思わなかったよ」
「その伸子って人のこと、好きなんだ」
「――まあね」
と、勇吉は言って、照れ隠しに、ウーロン茶をガブ飲みした。
山崎聡子は、アパートの階段を上った。
――ここへ着くまでの間、スーツはどれにしようかしら、このスーツのとき、靴はあれ、これならバッグはこれ、と頭の中でコーディネートは終わっていた。
もともと、そう沢山持っているわけではないのだし。
「――太ったから、入らないのもあるかもね」
と|呟《つぶや》いて、一人で笑いながら、玄関の|鍵《かぎ》を開ける。
中へ入って、きちんとロックし、チェーンもかけて、さて――。
「待ってたぜ」
思わず声を上げるところだった。
目の前、一メートル足らずの所に、銃口があった。その銃身を貫く空洞が不気味に聡子を見つめている。
「上がれ」
と、男は言った。
聡子は、まだ恐怖が実感されないままに、上がって、バッグを落した。
「――座れ。おとなしくな」
と、男は言った。
「お金ならあげるわ」
「金が目当てじゃないってことぐらい、分ってるだろ」
「何の話?」
「とぼけてりゃいい」
と、男の唇が、ちょっと|歪《ゆが》んだ。「山崎聡子か。和代とは、高校の同級生だった、ってな」
知っているのだ。――やっと、聡子は青ざめ、|膝《ひざ》が震えてくるのを感じた。
「いいか、ここに和代がいたことは、もう分ってる。余計な手間は省こう」
と、男は言った。「質問は一つだけだ。和代はどこにいる? 答えるか、死ぬか、どっちかだぞ」
男は、落ちついていて、同時にこの場面を楽しんでいる様子だった。
聡子は必死で自分を励ました。
ここへ|訊《き》きに来ているということは、連中が和代の居場所をつかんでいないということだ。
殺さないだろう。それを訊き出さない内は。
むしろ、しゃべったら殺されてしまうに違いない。
聡子は、ゴクリとツバをのみ込んで、
「どこへ行ったかは……知りません」
と、やっと言った。
声が震える。それは止めようがなかった。
「そうか」
男は、銃口をぐっと近付けて、聡子の額にピタリと当てた。「――じゃ、あばよ」
引金を引く。カチッ、と音がして、聡子は激しく息を吸い込んだ。
「次は空じゃないぜ」
と言うなり、男が|拳銃《けんじゅう》で聡子の頭を殴りつける。
聡子は横倒しに倒れて、気を失っていた……。
21 質 問
カーテンが閉まった。
「始まったな」
と、二人の男の内、兄貴分の方が言った。
「声が|洩《も》れねえですか?」
もう一人が心配そうに言う。心配性で気の小さい男なのである。
「大丈夫さ」
と、鼻で笑って、「竜の兄貴が、そんなへまをするわけはねえよ」
この二人、竜の弟分である。もちろん、竜に言いつけられて、「一人で」温泉へわざわざ出かけているのとは別口[#「別口」に傍点]。
竜からは、
「一人でやるから、手を出すな」
と言いつけられているが、この二人、やはり「万が一」を考えて、黙ってくっついて来た。
しかし、まあ心配することもなかったようだ。
「――どうする、帰るか?」
と、一人が|欠伸《あくび》をした。
「そうですね。竜の兄貴に見付かると、ぶん殴られそうだし」
と、やはり心配性なのである。
「――失礼」
突然、すぐ後ろで声がして、二人は飛び上がらんばかりにびっくりした。
言い忘れたが、二人は、山崎聡子のアパートを見上げる路上に立っていたのである。
しかし、それにしても二人とも背後に近付いてくる足音や気配にまるで気付かなかったのだ。そこを、もう少し深く考えておけば良かったのだが……。
「何だ、てめえは」
つまらないことに仰天した自分にも腹を立てつつ、兄貴分の方が言った。
「いや、何を見てるんだろう、と思いましてね」
どこといって、特徴もないパッとしない男である。
「つまらねえことに口を出すな」
と、言い返して、「とっとと消えな」
と、|顎《あご》でしゃくる。
「いい眺め[#「いい眺め」に傍点]が見られるんなら、教えていただきたいもんですな」
と、その男はおっとりと言った。
「何の話だ」
「女の着替えでも見えるのかと」
フフ、と笑って、「それとも、山崎聡子の部屋で何かありますか」
「てめえ……。何だってんだ」
二人は、その男を左右から挟んだ。
「おい。――誰だ、てめえは?」
と、兄貴分の方が言った。「あの女の味方か?」
男は薄笑いを浮かべているだけ。
「おい」
と、心配性な方が、その男の胸ぐらをぐいとつかむ。「兄貴が訊いたことに答えな」
男は少しもあわてる様子はなく、
「手をはなしな」
「何だと?」
「耳が遠いのかい」
「おい――」
と言いかけて……ツツッ、と後ずさり、しゃがみ込む。
「どうした?」
「兄貴……。いてえよ……」
か細い声が洩れる。――街灯の弱い光の下でも、腹を押えてうずくまる、心配性の男の足下に、滴り落ちるものが目に入った。
「この野郎――」
|拳《こぶし》を振り上げかけて、まるでビデオを〈静止〉モードにしたみたいに、ピタリと止まってしまう。
息さえも止める。いつの間にか、|喉《のど》に鋭い刃物が押し当てられているのだ。
「動くなよ」
と、その男は静かに言った。「少しでも動くと動脈が切れる。威勢良く、花火みたいに血がふき出すぜ」
兄貴分の額に、玉の汗がじわっと浮かんでくる。
「よく切れるんだ、このナイフはな」
と、男が楽しげに、「下手に動きゃ、自殺と同じだぜ」
「やめて……くれ……」
声が震える。
「答えろ。山崎聡子の部屋を見張ってたのか?」
「そう……」
「今、『竜』と言ってたな」
「竜の兄貴が……中に……」
体が震えている。その細かい動きのせいか、喉がかすかに切れてスッと赤い線が浮かんだ。
「そうか。――殺しに行ったわけじゃないんだな」
「ああ……。でも……和代の行先……分ったら、きっと殺すよ……」
「馬鹿野郎め。――殺しは、ちゃんとした理屈があってやるもんだ」
と、男は言った。「だから、お前らも殺さない。しかしな、もし下手に逆らおうとしたら、立派に『殺す理由』になる。分ったか?」
「分っ……た」
「じゃ、このヒイヒイ泣いてるのを連れて帰りな。二度と来るんじゃねえぞ」
「来ない……よ。本当だ」
顔から血の気がひいている。
「いいだろう。行きな」
ナイフが静かに離れて行くと、兄貴分の方はヘナヘナと座り込んでしまった。
「兄貴……。立てねえよ」
と、涙声が聞こえる。「助けてくれ……。死んじまうよ」
「待ってろ! そんなに簡単に死ぬもんか」
よろよろと立ち上がると、「ほれ、つかまれ!――病院へ連れてくからな」
二人が、やっとの思いで山崎聡子のアパートを後にする。
――〈サメ〉は、ナイフの刃をていねいに|拭《ぬぐ》った。
「少しやり過ぎたか」
と、独り言。「まあいい」
こっちには関係のないことだ。〈サメ〉は、静かに階段を上って行った。
もうじき死ぬんだ……。
聡子は、激しくむせ返りながら思った。
いっそ、気絶してしまえば楽なのだろうが、相手は、ちゃんとどこまでやれば気を失うか、これ以上やれば命にかかわる、というところを、心得ているのだ。
「――どうだ?」
男は、水から聡子の頭を持ち上げた。
浴室のタイルに|膝《ひざ》をついて、聡子は、浴槽に張った水へ、頭をつけられ、肩まで押し込まれていた。水を飲み、苦しさに|身《み》|悶《もだ》えする。
すると、男は聡子を引張り上げる。
それを、もう何度もくり返している。――手首を固く縛られて、逆らうこともできないし、もうとてもそんな気力がない。
しかし、聡子はまだしゃべっていなかった。
殴られ、けられ、服を引き裂かれた。それでも、じっと堪えた。
少なくとも二つの思いが、聡子を支えていた。もししゃべれば、もう自分は用ずみとなり、殺されるに違いないということ。もう一つは、和代と辻山が自分のせいで死ぬようなことになったら、一生悔むに違いない、という気持。
しかし、その思いが自分を支えてくれるのも、いつまでのことか……。
聡子は自信を失いつつあった。
「夜は長いぜ」
と、男は笑って言った。「のんびり付合ってもらおう」
|濡《ぬ》れたタイルの上に半裸のなりで|転《ころが》されて、聡子は|咳《せき》|込《こ》んだ。泣いているのか、水で濡れているだけか、自分でも分らない。
髪が口に入って、まとわりついて来る。
「――お前も、なかなかいい根性だぜ」
と、男はタバコをくわえて、火を|点《つ》けた。「そうして頑張ってくれると|嬉《うれ》しいんだ。こっちもやりがいがある」
この男は、楽しんでいる。泣いて訴えたところで、ますます楽しむだけだろう。
「しゃべる気になったか?」
と、聡子の方へかがみ込んで、煙をはきかける。
聡子は咳込むばかりで、言葉など出て来ないのである。
「――そうして、我慢してるんだな。こっちはいくらでも、しゃべらせる手を持ってる」
火の点いたタバコを、指にはさんで、ゆっくりと聡子の鼻先へ持って行く。――顔に押しつけられる! 聡子は思わず目を閉じた。
と――ジュッ、と音がして、目を開けると目の前の水たまりに、タバコは押し|潰《つぶ》されて白い煙を上げて消えていた。
「さあ、次はどうするかな」
と、男はポケットに手を入れた。「いいヘロインがあるぜ。やってみるか? やったことがないんだろう」
聡子は、呼吸する度、胸が焼けるように痛んだ。
「やめて……。もう……」
と、かすれた声が震える。
「言うか。小田切和代はどこにいる」
「知り……ません……」
男は立ち上がって、
「じゃ、これからはもっと厳しくやるぜ」
と、言って聡子を見下ろした。「こんなに甘いもんじゃない」
男の大きな手が、聡子の髪をわしづかみにする。――悲鳴を上げたつもりだったが、かすかに|喉《のど》の奥で笛のようなかすれた音がしただけだった。
すると――男が手を放した。
「何だ、貴様は」
と、男が言った。「どこから入って来やがった!」
低い笑い声が、聡子の耳に届く。
「――妙なことを」
別の男の声だ。誰だろう?
「あんただって、入ったんでしょう」
と、その声は言った。
「邪魔しやがると――」
「そっちが邪魔してるんですよ、私の仕事をね」
「何だと?」
「手を引きなさい。そんな女をいじめたってしかたない」
「余計な世話だ」
男が相手につめ寄るようにして、「誰に頼まれたか知らねえが――」
沈黙が、唐突にやって来た。
聡子は、やっとの思いで、声のした方へ顔を向け、目をしばたたいた。
あの男は――倒れていた。
何があったのだろう? 新しくやって来た男は、聡子の方へ近付いて来ると、しゃがみ込んで、
「ひどい目に遭いましたな」
と、言った。「さ、立って」
いつの間にか、手首を縛っていた縄はとけていた。手品のようだ。
しかし、血が通っていなかった両手は、しばらくしびれて感覚がない。
「さ、起きて」
その男は、聡子の体を起してやる。
チクッと、何かを刺したような痛みを、聡子は感じた。
しかし、そんなことより、今は救われた、という気持の方が大きい。
「ありがとう……ございました」
と、やっと言うと、
「礼は言わないことだ」
と、その男は淡々と言った。「私もね、あんたに同じこと[#「同じこと」に傍点]を|訊《き》きたいのでね」
「同じこと?」
「小田切和代」
と、男は言って、「しかし、私はね、こんな野蛮な奴とは違う。あなたがごく自然にしゃべってくれるのを待ちます」
「知らないものは……ものは……」
頭がクラッとした。
聡子は、畳に手をついて、頭が垂れた。
あの男[#「あの男」に傍点]が、うつぶせになって、そのまま動かない。
「もう、あんたをいじめやしない」
と、もう一人が言った。「死んでいるからね、もう」
死んで!――聡子はゾッとした。
頭に徐々にもやがかかってくる。どうしたんだろう?
「よく聞いて」
男の声が遠ざかってしまう。「――あんたは、小田切和代を知ってるね」
「和代……。友だちです……」
誰か、知らない人間がしゃべっている。誰か聞いたことのある声……。
「今、和代はどこにいる?」
和代……。そう、待っててくれる。
「和代――」
「そう、和代だ。どこにいる?」
「辻……山さん」
「辻山?」
「二人で……待ってるわ……。夕ご飯を食べましょうって……」
「なるほど、どこで会うんだ?」
「〈ホテル……F〉」
「〈ホテルF〉か。――立派な所だ」
「そう……。そこで待ってる。私を。夕食にご招待してくれるの――」
何をしゃべってるの? どこで? 誰としゃべっているの?
男は、聡子の頭を軽くなでた。
「いい子だ」
そして、男は立ち上がった。
22 思 惑
「こ、これでいいのかね……」
と、辻山勇吉は口ごもりながら言った。
「そう! すてきよ」
と、涼子は励ますように言った。「|凄《すご》く若く見える。私だって誘惑しちゃいたいくらい」
「おい、おどかさんでくれ」
と、勇吉は情ない声を出した。「本当に、伸子さんに笑われんかな」
その辺は、涼子にも自信はない。何せ、真田伸子のことをよく知っているわけじゃないのだし、特に、その「美意識」となると、さっぱりである。
しかし、どんな意味であれ、辻山勇吉の今のスタイルが、パッと目立って人目をひくものであることは確かだった。
――ここは〈ホテルF〉の地階、ショッピングモール。
一流ブランドの店がズラッと並んでいるのだが、そうそう客はいない。涼子は、勇吉をここへ引張って来て、
「この人をダンディに仕上げて下さい」
と、店の女性に頼んだのである。
何しろ向うもヒマだ。他の店の女性も出て来て、
「ネクタイはこれ!」
「シャツの色は――」
「靴はね……」
と、やり出した。
勇吉は照れまくる間もなく、ほとんど「着せかえ人形」扱いで、一時間かかって、今のなり[#「なり」に傍点]にさせられたのだった。
まあ、涼子の目にも、絹のネッカチーフだの、紫のシャツだのは少しやりすぎかな、と思えたが、
「――ね、おじさん。大切なのは自信を持つこと。分る? 自分は魅力的だって信じるの。そうすれば、少しくらい派手な格好してたって、ちっともおかしくないわ」
「うん……。そうかね」
辻山勇吉はため息をつくと、涼子を見て、ちょっと笑った。「ま、いい。あんたがこんなに親切にしてくれたんだ。恥をかいても後悔はせんよ」
その言葉の暖かさに、涼子は打たれた。
いい人だわ、この人。――邦也の母と、一緒にさせてあげたい。涼子は心からそう思った。
「――あ、もう部屋へ戻らないと」
と、腕時計を見る。「伸子さん、きっとこのホテルのレストランを予約してるわ。電話して時間を確かめるのよ」
「そうだな。そうするか。いや、色々とありがとう。支払いをして行くから、あんた、急ぐならいいよ」
「ええ。じゃ、またね」
涼子は、地階からロビーへと、大理石の階段を上った。
すると――ちょうどロビーに入ってくる邦也と母の伸子が見えた。邦也は、両手にデパートの紙袋を一杯さげている。
邦也が涼子に気付く。涼子はしっと唇に指を当てて見せ、ちょっとロビーの奥のラウンジを指さして見せた。邦也が小さく|肯《うなず》く。
涼子が五分も待つと、邦也がラウンジへ入って来た。
「――やあ。部屋は?」
と、邦也が座りながら言った。
「もう一晩。あの人[#「あの人」に傍点]が借りてくれたの」
「あの人って……」
「安東さんよ」
プールへ安東がやって来たことを話すと、
「どうするんだ? もし夜も一緒に、って言われたら」
と、邦也が青くなる。
「私に任せて。それより、今夜はここのレストランね?」
「うん。君たちも?」
「そうなると思う。あと……四十分くらいで、安東さんが部屋へ迎えに来るはずよ」
「心配だな」
「辻山さんたちも来るのよ」
「辻山さんたち?」
「辻山勇吉さんから聞いたわ。息子さんが奥さんを連れてくるって」
「奥さんを?」
と、邦也は目を丸くした。「じゃ、辻山さん――」
「何とか見付けたようね」
と、涼子は肯いた。「ともかく、何とかしてあなたのお母さんと辻山勇吉さんを近付けるのよ。きっと、うまく行くわ」
「そうかな……」
邦也は、母の「結婚無用論」を思い出して、いささか悲観的にならざるを得なかった。
「ともかく、もう部屋へ戻って仕度するわ」
と、涼子は立ち上がった。「じゃ、後で部屋へ電話くれる?」
「隣へかい?」
「そう。近くて遠い仲ね」
と、涼子は笑って、足早にラウンジを出て行く。
邦也は一人、コーヒーを頼んで、肩をもんだ。荷物持ちも楽じゃないのである……。
ミキは、その女[#「その女」に傍点]がラウンジを出て行くのを、ずっと目の端で追っていた。
あれが?――安東が熱を上げている女?
「馬鹿らしい!」
と、|呟《つぶや》く。
あんなの子供じゃないの。どこがいいの? 胸だってペチャンコで、お|尻《しり》だって出ちゃいない。まだ幼稚園の制服か何かが似合いそうだわ。
と、ケチをつけてみたものの……。
確かに、その娘に初々しい魅力と、ミキにない若々しさがあることは否定できない。
ミキは、その娘と少し離れて座っていたので、話の中身までは聞きとれなかったが、どうやら、一人で残っている男の子は、あの娘の彼氏らしい。
安東は、娘に彼氏がいるのを知っているのだろうか?
しかし、ふざけた女だ! 安東に甘えて、何か高い物でもせしめようってつもりだろうか……。
「そうはいかないわよ」
と、ミキは、そっとバッグを開け、中を|覗《のぞ》いた。
しっかりとふたをした硫酸のびん。――これを、たっぷりあの娘の顔へかけてやるんだ。きっとお肌にいいからね。
ミキは一人で小さく笑った。
「――俺だ」
と、安東は言った。「どうした?」
〈ホテルF〉の中の、会員制クラブ。
夕食に、涼子を迎えに行くまで、安東はそこで一服していたのである。
傍に置いた電話が鳴り出したのは、そろそろ涼子を迎えに行こうかと思ったところだった。
「あ、親分」
と、子分の声が、少し上ずっている。
「どうした」
「あの……けが人が二人出たんです」
安東は、ちょっと|眉《まゆ》をひそめた。
「どういうことだ?――誰と誰だ?」
名前を聞いて、いやな予感がした。二人とも竜の|可《か》|愛《わい》がっている弟分だ。
「――やったのは誰だ」
「それが分らねえんです。相手は一人だったってんですが」
「一人か。――おい、竜は見かけねえか」
「竜の兄貴は温泉に――」
「知ってる。確かに行ってるかどうか、確かめろ」
「へい」
「分ったら連絡しろ。いいか」
「分りました」
――気に入らねえ、と安東は思った。
何かある。何か、勝手に[#「勝手に」に傍点]ことが運んでいる。
安東は気に入らなかった。
また電話が鳴り出した。
「――俺だ。――どこだって?」
「すんません。竜の兄貴がどうしても親分へかけろってもんですから――」
「竜はそこにいるのか」
「へえ、今ここに」
「かわれ」
「それが――電話させといて、そのまんま酔い|潰《つぶ》れて眠っちまったんですよ。全く……。兄貴! 起きて下せえよ!――どうしてもだめです」
「そうか」
と、安東は|肯《うなず》いた。「分った。無理に起すことはない」
「じゃ、明日でも、目を覚ましたら、またお電話しますんで」
「ああ。のんびりしろと言ってやれ」
「へえ」
――安東は電話を切った。
竜の奴……。ゆっくりと首を振る。
もちろん、今のは芝居だ。ということは、竜はこっちに残っている。つまり、何か「やること」があったのだ。
――和代を見付けたか。
|騙《だま》されたふりをしておく。そうしなくては竜が動くまい。
しかし、安東はもう竜が「動けなく」なっていることを、知らなかった……。
「――タクシーが来た」
と、辻山房夫は言った。
「ちょっと待って」
和代は、鏡の前にもう一度立った。「ねえ、おかしくない?」
「すてきだよ」
と、辻山は心から言った。
「ちょっと。――口紅つけたばっかりよ」
和代は、短く辻山にキスした。「さあ、遅れるといけないわ。出かけましょう」
「うん」
――〈ホテルF〉で夕食である。
一応、辻山も一番上等の(大して持っていないが)スーツ。和代は、急いでスーツを買って来たのである。
二人は、アパートを出た。
「あら、辻山さん」
と、すれ違いかけて足を止めたのは、隣の主婦。
「やあ、今晩は」
「お出かけ?」
と、辻山へ|訊《き》きながら、その主婦の目は和代を見ている。
「ええ。ちょっと食事にね」
と、辻山は言って、「ああ、ご紹介しますよ。家内の洋子[#「洋子」に傍点]です」
「初めまして」
と、和代が頭を下げる。
「さ、タクシーが待ってる」
「ええ。じゃ、失礼します」
「はあ……」
自分がいつも「洋子」の役をやっていた隣の主婦は、|呆《あっ》|気《け》にとられて、二人がタクシーに乗り込むのを見ていたのだった……。
――タクシーの中で、辻山から事情を聞くと、
「それで、あんなに面食らってたのね」
と、和代が笑いながら、「幻の妻が現われたわけですものね」
「ふき出すのをこらえるのが大変だったよ」
と、辻山も笑いながら言った。
「でも――あなたの妻ですって、|挨《あい》|拶《さつ》できるの、幸せだわ」
と、和代は言った。「ほんの何日かの間でもね」
辻山は、少し間を置いて、小声で言った。
「和代……」
「え?」
「二人で――どこかへ行かないか。二人だけで暮すんだ。何とかやっていけるさ」
「あなた……」
「|辛《つら》いこともあるだろうが、君と離れている辛さに比べりゃ」
「ありがとう」
和代は、辻山の手に、自分の手を重ねた。「でも、いけないわ」
「どうして?」
「あなたは一人ぼっちじゃない。あんなすてきなお父様もいらっしゃるのよ」
「親父は親父さ。僕はもう大人だ」
「|嬉《うれ》しいわ。あなたの気持……。でも――」
と、言いかけて、息をつくと、「湿っぽくなるのはよしましょう。これからごちそうを食べるっていうのに」
「そうだな」
と、辻山は肯くと、深呼吸して、「食うぞ!」
和代がそれを聞いてふき出した。
「――山崎さん。――山崎さん」
トントン、とドアを|叩《たた》く音。
誰かしら? 山崎って……どこかで聞いた名前ね。
聡子は、部屋の中に倒れて、半ば眠り込んでいた。頭がボーッとして、かすみがかかっているよう。
「山崎さん。――いるんですか」
山崎。――山崎聡子って、私の名前じゃなかったっけ?
「室井です。警察の室井です。――山崎さん?」
少し静かになったと思うと、ガン、と何か叩きつける音がして、室井刑事がドアをこじ開け、入って来た。
「何てことだ! 山崎さん!」
室井刑事が聡子へ駆け寄る。
同時に、室井の目は、倒れたきり動かない男の方へも、向けられていた。
――竜だ。死んでいる。
室井は、部屋の電話線が切られているのを見て、急いで隣の部屋へと駆け出して行った。
23 予約席
時間きっかりに、ドアをノックする音が聞こえた。
「はい」
と、涼子は返事をして、ドアを開けた。
「お迎えに参上しましたよ」
と、安東が軽く会釈して、「すてきだ」
「別に……」
涼子は少し照れた。何も特別に着るものは持って来ていない。えりもとに、バラを一輪さしただけである。
「トゲがあるから手を出すな、という意味かな」
と、安東は笑って、「中を|覗《のぞ》かせてもらっても?」
「どうぞ。あなたが借りて下さってるんですもの」
と、涼子は後ろへ|退《さ》がった。
「いや……。もちろん泊ったことはありますがね。この部屋は初めて入るな」
安東は、ドアを閉めて、ゆっくりとリビングスペースを見回した。
「こんな所で暮したら、すてきでしょうね」
と、涼子が言った。
「本気ですか」
「え?」
「本心からそう思っているのなら――」
「あ、いえ」
と、急いで、「私には合いません。私は……当り前の女の子です」
「分っていますよ」
安東は|肯《うなず》いて、「当り前でない世界に生きる我々とは、しょせん交わることのない平行線、というわけだ」
「そういう意味では……」
と言いかけて、「でも――やっぱりその通りです」
安東は、ソファに腰をおろした。
「あなたは誠実な人だ。僕のような人間でも、平等に扱ってくれる」
「安東さん」
涼子は、ソファに並んで座ると、「その気になれば――きっとあなたも私たちの世界へ来られますわ」
安東はチラッと目を伏せ、
「その気になれば、ね」
と、言った。「しかし、僕は僕一人のものじゃない。厄介です」
「義理とか、仁義とかですか」
「それもあります」
安東は、何か考えている風だった。
「あの女の人……。和代さん、といいましたっけ。見付かったんですか」
「おそらく」
「おそらく?」
「竜が見付けたようです。――どこにいるかは知りようがない」
「じゃあ……」
「今ごろ、竜はその女を殺しているでしょうな」
安東は淡々と言った。「止める方法がない。やむを得ません」
「そうですか」
涼子は、落胆した。「あなたが――その人を助けて下さるかと思っていました」
「できればね。――たぶん無理でしょうが」
「もし、殺されていたら?」
「竜は、命令を無視して、独断で行動したわけです。当然、その罰がある」
「殺すんですか」
「本人も覚悟の上です」
「やめて!」
涼子は叫ぶように言って、立ち上がった。「人を殺して、その罰にまた人を殺して……。狂ってる! 馬鹿だわ! そんなことを“仁義”だなんて格好つけても、同じことだわ。下らない!」
激しく言い切って、息をつく。
「――怒りましたね」
安東も、ゆっくり立ち上がると、「きれいだ。あなたが怒ると」
「安東さん……」
「食事はどうします」
涼子は、ちょっと間を置いて、
「予約を取り消すのは好みませんの」
「では――」
安東が、涼子の腕を取ろうとして、その手が一瞬止まる。そして、次の瞬間、涼子は安東の腕に抱かれて、唇を唇でふさがれていた。
小さく身震いして、涼子は、しかしじっとしていた。
「――行きましょう」
と、安東が言った。「時間だ」
辻山房夫と和代がロビーへ入ってくる。
「やあ、来たな」
と、いやに派手なスタイルの紳士が……。
「父さん!」
辻山は目を丸くして、「どうしたの、その格好?」
「似合わんか?」
辻山勇吉は少々照れていた。
「いいえ。|凄《すご》くすてき!」
和代がずっと勇吉を眺め、「若々しく見えますわ」
「そうかね」
勇吉は|嬉《うれ》しそうに、「洋子さんがそう言ってくれるとありがたい」
「山崎さんはまだかな?」
と、辻山はロビーを見回した。
「見えないわね。ロビーって言ったんでしょ? じゃ、遅れてるのよ。待ってましょう」
「うん」
辻山は、父と和代と三人で、ロビーのソファに腰をおろした。
ちょうどそのとき、エレベーターの扉が開いて、安東と涼子が降りて来たが、和代はロビーの入口の方へ向いて座っていて、お互い、全く見ていなかったのである。
「ちょっとトイレに」
と、辻山は立つと、ロビーの奥の化粧室へ行った。
化粧室も並の豪華さではない。手を洗う蛇口も金色。少々目が回りそうではあった。
辻山が化粧室を出て、戻ろうとすると、
「辻山さん」
と呼び止められた。
「何だ、邦也君か」
と、辻山は言った。「何してるんだ?」
「母と食事ですよ。そっちもでしょ」
と、邦也が小声で言った。
「うちは親父とさ。それと、女房[#「女房」に傍点]とね」
辻山はウインクして見せた。
「おめでとう。良かったですね」
「おかげさまで?」
辻山は苦笑して、「しかしね、急いで見付けたのに、すてきな人なんだ」
「のろけないで下さい」
と、邦也は笑って、「じゃ、そのままゴールイン?」
「いや……。それが色々あってね」
辻山はチラッとロビーへ目をやる。「君の方は? もう話したの?」
「母にですか? いいえ、とてもじゃないけど、そんなムードじゃなくて」
と、邦也は顔をしかめた。「それに……何だか、うちの母とそっちのおじさん、おかしくありません?」
「うん。今日も、君のお母さん、一緒じゃないしね。どうしたのかな」
「レストラン、同じでしょ? 様子を見ていましょうよ」
と、邦也が辻山の肩を|叩《たた》く。「あ、うちの母だ。じゃ、後で」
真田伸子が、和服姿でエレベーターを出てくる。
「母さん、もう行く?」
「もちろんよ。今話してたのは?」
何しろ目ざといのだ。
「辻山さんだよ、ほら――」
「房夫さん? へえ。すっかりおっさんね」
と、口が悪い。「ここで食事? いやねえ」
「いいじゃないか。同じテーブルってわけでもないんだし」
「そりゃそうだけど……」
と肩をすくめ、「じゃ、行きましょ」
タッタッとレストランへと歩いて行く。邦也はあわてて母の後を追った。
「和代! 逃げて!」
と、聡子は叫んだ。
和代と辻山が手をとり合って駆け出す。
同時に、機関銃の弾丸が何十発も二人の体へ食い込む。和代と辻山が血だらけになって倒れた。
「辻山さん! 和代!」
と聡子は駆け寄って――。「死なないで!」
パッと起き上がる。
「大丈夫。――大丈夫ですよ」
と、がっしりした手が、聡子の肩を抱いていた。
夢か……。聡子は、汗をかいていた。
「刑事さん」
と、初めて室井刑事に気付く。「ここは、どこ……?」
「病院です」
「病院……。そう。私、あの男に――」
体を動かそうとして、顔をしかめる。
「痛いでしょう。ひどい目に遭ったもんだ」
と、室井は言った。「やったのは?」
「男……。竜、とかいいました」
「やはりね」
と、室井は|肯《うなず》いた。
「でも……あの男、死んだんじゃありませんか。あれも夢だったのかしら」
「本当です。竜は殺されていた」
室井は厳しい表情で、「竜は腕ききです。それがアッサリやられている。犯人はよほどの男ですね。見ましたか」
「ええ……。よく|憶《おぼ》えていませんけど」
と、聡子は首を振る。
「おそらく、その男も、小田切和代を捜しています。別のルートから頼まれたプロでしょう」
「でも――私を殺さなかったわ」
「だから、プロなんです。余計な殺しはしない」
と、室井は言って、「今、和代がどこか分りますか」
「今……ですか」
「隠すと、和代が危い。あなたは薬を射たれていたんですよ」
「薬?」
「おそらく自白薬。何でも知っていることをしゃべってしまう薬です。もし、和代の居場所をあなたが知っていれば、当然その男はそこ[#「そこ」に傍点]へ向かっています」
聡子の顔から血の気がひいた。
「――しゃべった。そうだわ!」
と、叫ぶように、「どうしよう! 早く行って! 〈ホテルF〉です」
「〈ホテルF〉ですね。泊ってるんですか」
「いえ、夕食に。レストランにいるはずです! 〈辻山〉という人と」
「〈辻山〉ですね。ありがとう!」
室井は病室から飛び出して行った。
「ご予約のお名前は……」
と、マネージャーがノートを開く。
「真田です」
と、伸子が言った。
「真田様、お待ち申しておりました」
と、案内してくれる。
邦也はギクリとした。安東と涼子のテーブルのすぐ隣である。
安東がチラッと邦也を見て、笑みを浮かべたが、邦也の方は、笑顔で応えるほどのゆとりはなかった。
「どうぞ」
|椅《い》|子《す》を引いてくれて、伸子と邦也は、席についた。
「――遅いわね」
と、和代が辻山の方を見る。
「しかし、電話しても誰も出ない。もうこっちへ向かってるんだよ」
と、辻山は言った。
「そうね……」
和代は不安だった。もしも聡子の身に何かあったとしたら……。
辻山は、相手[#「相手」に傍点]がどんなに怖い連中か、身をもって知っているわけではない。
まさか、とは思うが……。
ガラッと入口の扉が開いて、反射的に三人の目が向く。
「違うか」
と、辻山は言った。「――先に入っていようか。予約の時間をあんまり過ぎると良くないだろ」
「そうだな」
と、辻山勇吉が言った。「レストランも分っとるんだろ。それなら、ちゃんと来るさ」
「じゃ、行ってよう。――洋子。どうしたんだ?」
和代は我に返って、
「いいえ。――行きましょう」
と、立ち上がった。
今、入って来た男……。パッとしない、どうということのない男。
しかし、和代はその男にどこか“危険”なものをかぎとっていた。――あれは普通の男ではない。
考えすぎだろうか?
三人は、レストランへと歩いて行った。
「――いらっしゃいませ」
と、入口でマネージャーがにこやかに言った。「ご予約のお名前は……」
24 交錯する思い
レストランは満席というわけではなかった。
しかし、そこは一流ホテルのレストランで、〈辻山〉と〈真田〉という客が、一緒にチェックインしていることを、ちゃんとフロントの方から連絡してもらっている。
で――決して悪気ではなく、いや、むしろ「気配り」のつもりで、その二つのテーブルを隣同士にしておいたのである。
「辻山様でございますね。お待ちしておりました。こちらへどうぞ」
マネージャーがにこやかに言って、レストランの奥へと案内する。
辻山はこういう場にあまり慣れているとは言えないので、大分緊張し、表情もこわばっている。和代がちょっと笑って、
「そんな怖い顔してないで」
「別に……普通だよ」
と、辻山が引きつったような笑顔を作った。
「こちらでございます」
マネージャーがテーブルの前で足を止める。ウエイターが素早く寄って来ると、|椅《い》|子《す》を引いてくれた。
「や、どうも」
と、辻山勇吉は腰をおろして、やれやれと息をつく。
勇吉も、この手の店には不慣れである。何を食やいいんだ?
「なかなか立派な店だ」
と、中を見回し……隣のテーブルに、真田伸子がいるのを見て、ギョッとした。
辻山房夫の方は、和代に見とれてボーッとしていたが、そういつまでもボーッとしているわけにもいかず、父親に、何か飲むかい、と言おうとして――気が付いた。
「あ……真田のおばさん」
と、あわてて腰を浮かす。「どうも、お久しぶりです」
「どうも」
と、伸子の方は冷ややかである。
邦也は気が気でない様子で|咳《せき》|払《ばら》いすると、
「お母さん」
「なに?」
「あの……房夫さんの奥さん、初めてだろ?」
伸子も、もちろん「その女」に気付いていたのだ。見逃すはずはない。
しかし、少々しゃくであった。何しろ辻山の息子にはもったいないような美人なのである。どこであんな人を見付けたのかしら?
何だか、伸子は(自分は別に関係ないのだが)いやに不機嫌になっていた。
「あ、あの――」
と、辻山も少し固くなりつつ、「家内の洋子です。真田伸子さん。|凄《すご》く大きな旅館をやってらっしゃるんだ」
和代が、腰を浮かして――その瞬間、サッと顔から血の気がひいた。
間に真田伸子と邦也のテーブルを挟んで、その向うのテーブルについているのは安東だった。安東も、和代を見ている。
二人の視線は、ほんの一、二秒、つながって、二度ととけることのない結び目ができたようだった。
「――どうかした?」
と、辻山が不思議そうに和代を見る。
「いいえ」
和代は首を振って、「失礼しました。洋子と申します」
真田伸子に向かって頭を下げる。
「よろしく」
と、伸子の方も、こんな所で感情を表に出すほど馬鹿ではない。
にこやかに会釈したのである。
マネージャーは、二つのテーブルのやりとりを見ていたが、
「もしよろしければ、テーブルをおつけしましょうか」
と、気をきかせた。
「いえ、結構」
と、すかさず伸子が言った。「この方がいいの」
「でも、母さん――」
と、邦也が言った。「房夫さんとも久しぶりだろ。話もあるんじゃないの?」
伸子も、そう言われると、何とも言い返せない。辻山勇吉の方は黙っている。
というわけで――マネージャーの指図で、たちまちテーブルはつなげられて、真田伸子と邦也、辻山勇吉と房夫、和代の五人が、テーブルを囲むことになったのである。
――なかなかやるじゃない。
涼子は、邦也の機転に感心していた。――こういう食卓で、もろにいやな顔を見せるような人ではない。涼子は、真田伸子を一目見て、そう思っていた。
それにしても、あの辻山さんって人の奥さん、不思議な雰囲気のある人だわ。どこかかげ[#「かげ」に傍点]があり、寂しげですらあるが、すてきだ。
「ご注文は」
と、ウエイターがやって来た。
涼子が先にオーダーしてしまうと、安東がふっと我に返った様子で、
「あ、いや、失礼」
と言った。「そうだな。何にするか……」
和代は、食前酒に軽いカクテルを飲みながら、そっと安東の方を見ていた。
安東がここにいるのが、偶然であるはずがない。――和代は安東のことをよく知っている。気紛れに何かをする、ということの決してない男である。
「あと一人、来ることになってるんだ」
と、辻山がウエイターに言っている。「オーダーはそれから」
「でも」
と、和代は言った。「大丈夫よ。注文しておきましょう」
「そうかい? じゃ、メニューを眺めて……。考えるだけでも、時間がかかりそうだしな」
と、辻山が笑った。
「私はもう決めたわ」
と、真田伸子が言って、ウエイターが急いでそのそばへ移動する。
――聡子、と和代は思った。ごめんなさい!
安東がここにいる。聡子がやって来ない。
十中八、九、聡子は、和代がここに来ることをしゃべらされ、何か――ひどい目に遭わされたか……もしかすると殺されたのかもしれない。
何てことをしたのだろう。自分一人、死んでいれば良かったのだ。それが……聡子やこの人まで巻き込んでしまった。
和代はもう一度、安東の方へ目をやった。安東が料理を頼んでいる。
一緒にいる女の子はずいぶん若い。確か、安東にはミキという恋人がいたはずだが。
ともかく、和代は覚悟を決めた。
生きて、ここを出られることはあるまい。いや、こんな所では殺さないとしても、子分が外に待っていて、和代をどこかへ連れて行く手はずになっているのだろう。
もう逃げることはできない。一緒にテーブルについている人たちにまで、どんな迷惑が及ぶか、分ったものではない。
騒がず、おとなしく連れられて行こう。できることなら、辻山に気付かれないように。
別れを言っている時間はない。しかし――分ってくれるだろう。
「お決まりでございますか」
と、ウエイターが傍に立つ。
最後の晩餐[#「最後の晩餐」に傍点]ね。和代は、ちょっと息をついて、オーダーした。
「おいしいわ」
と、涼子は言った。
「悪くない」
安東は、白ワインを少しずつ飲んでいた。
「――どうかしまして?」
「何が?」
「いやに無口になったわ」
「そうですか?」
安東は、静かに言った。「運命ってものについて、考えてるんです」
「あら。私と出会ったことかしら」
と、涼子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「それもありますが……」
安東は、オードヴルを食べ終えて、ナイフとフォークを静かに皿に置いた。
隣のテーブルでは、|専《もっぱ》ら辻山勇吉が故郷の町の話を、息子と嫁、そして邦也に向かって聞かせている。伸子は面白くもなさそうにパンをちぎって食べていた。
「他にも何か?」
と、涼子は|訊《き》いた。
安東が、水を一口飲んで、
「|旨《うま》い水だ」
と言った。「何か入っているからこそ旨い。純粋じゃないから、おいしいんです。世の中もそうだ。はみ出し者がいるからこそ面白い」
「はみ出し方によりますわ。人を傷つけるのは、間違ったはみ出し方です」
「親に黙って結婚するのもね」
涼子が赤くなって、
「かもしれませんね」
「あなたを悲しませたくない」
と、安東は言った。「こんな気持になったのは初めてです」
「私が……どうして悲しむんです?」
安東は隣のテーブルに目をやった。
「あそこに座っている女。――あれが和代です」
と、低い声で言う。
「――|嘘《うそ》」
と、涼子は言った。「本当ですか?」
安東は微笑んで、
「運命のことを考えている、と言ったでしょう」
「そんな……」
辻山の「妻」が――。何てことだろう!
「安東さん。見逃してあげて。お願いです」
と、涼子は言った。
「ここであの女を逃したとなれば、僕の立場は微妙なものになる。分りますか? すぐそばにいたことは、必ず知られる。何をしてたんだ、ということになる」
「お願い」
と、涼子はくり返した。「私、あなたの言う通りにします。何でも[#「何でも」に傍点]。ですから、あの人を見逃してあげて」
「どうしてそんなことまで? あの女はあなたと何の関係もない」
「あの人のためだけじゃありません。あなたにあの人を殺させたくないの」
安東は、しばらく涼子を見つめていたが、
「さ、スープが来た」
と、ナプキンを取って、「飲んでいて下さい。電話を一本かけてくる」
和代は、安東が席を立って行くのを、目の端で見ていた。
「――洋子さん、っておっしゃったわね」
と、伸子が言った。
「はい」
「房夫さんとはどこで?」
「ええ、あの……」
「それは極秘」
と、辻山が冗談めかして言った。「この後、バーででも付合って下さったら、お話しますよ」
「酔うと、変なくせ[#「くせ」に傍点]が出ない?」
と、伸子が言うと、辻山勇吉がむせた。
「あの――ちょっと失礼します」
和代はバッグを手に立ち上がった。
レストランの入口の方へ歩いて行く。
安東はどこに行ったのだろう? マネージャーが電話を受けている。
和代は、レストランから出て、左右を見た。電話ボックスが、いくつか並んでいる。そこに安東らしい姿があった。
ここで話をつけよう。ともかく、辻山に害が及ぶのを、何としても避けなくては。
「――静かに」
いつの間に近寄っていたのか、全く気付かなかった。その男は、ピタリと和代の背に体を押し付けるようにして、
「声を出すと、ナイフが腹を貫くよ。いいね」
さっき、ロビーで見かけた、あの男だ。
和代は小さく|肯《うなず》いた。
「いい子だ。このまま、ロビーを歩いて行こう」
これが安東の手[#「手」に傍点]だったのだろうか?
いずれにしても、和代は相手がプロだということを、知っていた。
「ここで殺さないでね」
と、和代は言った。「ホテルに迷惑だわ」
「感心な気のつかい方だ。――気楽に行こう」
二人は、ゆっくりとロビーに向かって歩き出した。
涼子は、邦也がこっちを見ているのに気付くと、ちょっと目配せして、立ち上がった。
化粧室が、入口のすぐ手前にある。そこで待っていると、邦也が来た。
「びっくりしたよ、ああ近くに――」
「それどころじゃないわ」
「え?」
「辻山さんの『奥さん』、安東さんたちが捜している女なのよ。ヤクザを殺して逃げた人」
「何だって?」
邦也が|唖《あ》|然《ぜん》とする。
「何とか逃がしてあげたい。今――化粧室にいたら、連れてくるから」
「ああ……」
邦也は、何だかわけが分らず、肯くだけだった。
25 危い平和
化粧室に入った涼子は、どこにも小田切和代の姿が見えないのを知って、すぐに出て来た。
「いないわ」
と、涼子は言った。「どこへ行ったのかしら」
邦也は、まだ状況がよくのみ込めずにいる。すると、マネージャーが電話を終えて、
「何かご用ですか?」
と、声をかけて来た。
「あの――女の人が出て行きませんでしたか? あの奥の、さっきテーブルをつけていただいた、あそこに座ってた女の人ですけど」
と、涼子が|訊《き》くと、マネージャーはちょっと考えていたが、
「ああ、そういえば。私が電話をしているときに後ろを通って行かれたような気がしますね。たぶんお電話されに出られたんじゃありませんか?」
涼子は、何も言わずに、レストランから出た。――電話ボックス。曇りガラスの扉がついたボックスが四つ並んでいる。
その一つの扉が開いて、安東が出て来た。
「やあ。――どうしたんです?」
と、安東が涼子と邦也を見て言った。
「あの人[#「あの人」に傍点]がいません」
「あの人?」
「トイレにもいません。安東さん、まさか――」
「僕が殺して来た、とでも?」
と、安東は両手を広げて、「そんな時間があるわけないでしょう」
それはそうだ。涼子は、邦也に言った。
「辻山さんを呼んで来て」
「分った」
邦也は|大《おお》|股《また》にレストランの中へ戻って行く。
「僕を見て逃げたのかもしれない」
と、安東は言った。
「今……どこへ電話を?」
涼子の問いに、安東は返事をせずに、逆に、
「どこへかけたと思いますか?」
と訊いて来たのだった。
ロビーは静かで、人の姿もまばらである。珍しいことだ。都心のホテルは、泊り客でなく、単なる待ち合せの客でたいてい混雑している。しかし、ここは泊り客か、食事に来る客以外、ほとんどロビーへ入って来ないのである。
和代は、名も知らない男にぴったりと身を寄せて、ロビーを横切って行った。フロントの前を通る。
「にこやかに|挨《あい》|拶《さつ》しな」
と、男が|囁《ささや》いた。
「ありがとうございました」
フロントの男性が、出て行こうとする二人に声をかけ、和代も笑顔で会釈した。
「いいぞ」
と、男は言った。「さあ外へ出よう」
しかし――その瞬間、ホテルの正面に、パトカーが着いたのである。
男が舌打ちした。
「何ごとだ?――止まれ」
と、命令して、「回れ右だな」
言われた通りにする他はない。和代は、フロントの向かい側に店を開けているドラッグストアの方へと歩いて行く。フロントの男が、何ごとかとカウンターから出て、正面玄関へと急いだ。
チラッと振り向いた和代は、目を見開いた。――あの刑事、和代が頭を殴りつけた室井が入って来たのである。
「厄介だな」
と、男が|呟《つぶや》くと、「ともかく店に入ろう。何気なく見て歩くようなふりをしてろ」
和代は、ドラッグストアへ入った。
たいていどのホテルにもある、薬の他に本や文具などの雑貨を売っている店だ。
「いらっしゃいませ」
と、女店員が言った。「何かお捜しですか?」
「いや、見てるだけだ」
と、男が言った。
和代は、雑誌の棚を眺めながら、どうしたらいいのか迷っていた。
「これはこれは」
と、安東が言った。「ずいぶん手回しがいいじゃないか」
室井刑事が、若い刑事を二人従えてレストランの方へやって来ると、安東と涼子を見て足を止めた。
「安東……。和代はどこだ」
「さあね」
と、安東は肩をすくめた。
「とぼけるな! 誰かが和代を捜しにここに来てるはずだ」
室井は安東をにらんでいる。「あの女にひどいことをしたのは、竜の独断か」
「竜が?――こっちへ来たのか」
「知らんのか。竜は死んだ」
安東の顔がこわばった。
「死んだ……。そうか」
「その誰か[#「誰か」に傍点]がやったんだ。そしてそいつは、和代を見付けにここへ来たはずだ」
「刑事さん」
と、涼子が言った。「和代さん、ここにはいません。姿が見えないんです」
「安東。どういうことだ」
安東が黙っている内に、邦也が辻山を連れて出て来た。
「あ、刑事さん」
と、辻山がギクリとして、「あの――山崎君は大丈夫ですか。ここへ来るはずが……」
「かなりひどい目に遭わされましたがね、大丈夫。和代をかくまってたんですね」
「あの……」
と、辻山が語る。
「今はそんなことはいい。和代がどこにいるかです」
と、室井が言ったときだった。
「誰か!」
と、甲高い女の声が、ロビーに響き渡った。
室井が二人の部下と一緒に駆け出す。涼子たちも、後を追った。
「――止まれ!」
と、男の声がロビーに響く。「こいつの|喉《のど》をかっ切るぞ!」
ロビーの床を|這《は》うようにして、売店の女性が逃げてくる。
そして、小田切和代を|楯《たて》のように前にして、左腕でしっかりかかえ込んだ男は、右手の鋭いナイフを、和代の白い喉にピタリと当てていた。
「――私が、棚を整理しようとして、ぶつかったんです。そしたら……」
と、売店の女性が真青になっている。「ナイフが見えて……。もう怖くて」
「分った。|退《さ》がっていなさい」
と、室井が言った。「おい。――その女を離せ」
相手は落ちついていた。
「残念だが、そうはいかないね」
「そのまま逃げる気か」
「悪いかね。表にゃタクシーもある。そうだろう?」
男はジリジリとロビーを玄関の方へ移動していた。
「――和代」
と、辻山が進み出た。
「来ないで」
和代が切迫した口調で、「危いわ、近付かないで」
「何ごとなの?」
騒ぎを聞きつけて、真田伸子がやって来る。「まあ!」
「おい、房夫!」
と、辻山勇吉もやって来ると、「どうしたんだ! あれは洋子さんじゃないか」
「父さん。彼女の名は本当は和代というんだ」
と、辻山は言った。「後で説明する」
――「サメ」は|呆《あっ》|気《け》にとられていた。
女一人、連れ出せばすむはずだったのに……。何だ、この連中は?
「お願い」
と、和代が言った。「手を出さないで、私だけが死ねばすむことなんです」
「和代……」
辻山は固く|拳《こぶし》を握りしめた。
「房夫。あの人は、お前の嫁さんじゃないのか?」
と、辻山勇吉が言った。
「僕の女房さ」
と、辻山は言った。「間違いなく、僕の女房だ」
「そうか」
勇吉は|肯《うなず》くと、「サメ」と和代の方へ歩き出したのである。
「父さん!」
「お前は引っ込んどれ」
と、勇吉は言った。「おい、刃物を持ってる兄ちゃん。若いもんを殺しちゃいかん。俺がその女と代ってやる」
「何だと?」
「要は誰か人質がいりゃいいんだろ? じゃ俺がなろうじゃないか」
「やめて下さい」
と、和代が言った。「この人の目当ては私です。危いですから。お|義《と》|父《う》さん、来ないで下さい」
それを聞いて、勇吉はニヤリと笑った。
「『お義父さん』と呼んでくれたな。それなら、あんたは私の娘だ。娘のために命を|賭《か》けるのは親のつとめさ」
勇吉がスタスタ歩いて行く。――室井刑事も、あまりに思いがけない成り行きに、|呆《ぼう》|然《ぜん》としている。
「サメ」は、何だか分らない内に、あっさりと女を離してしまっていた。――こいつら、何だ? 狂ってる!
「さ、俺が人質だ」
と、勇吉は、和代を息子の方へ押しやって言った。「ちゃんと、約束は守るぞ」
「サメ」は苦笑した。それから声をあげて笑い出した。――ナイフを持つ右手を見下ろして、
「年寄りを殺す趣味はないんだ」
と言った。「それにしても――間抜けな結末だぜ」
「さ、ナイフを捨てろ」
と、室井が近付くと、「サメ」は、
「刑事に降参する趣味もないんだ」
と、言った。
「おい!」
室井が叫ぶと同時に、「サメ」は自らの喉にナイフの刃を的確に走らせたのである……。
辻山が和代を抱きしめた。――和代が辻山の胸に顔を埋める。
「おい、良かったじゃないか」
と、勇吉がニヤニヤ眺めていると――。
「ちょっと」
と、真田伸子が、勇吉の肩をつついた。
「うん?」
バシッ!――伸子の平手が勇吉の|頬《ほお》に鳴った。勇吉が|唖《あ》|然《ぜん》として、
「何だよ……」
「あんな無茶して! もしあんた、本当に死んでたらどうすんの!」
と、伸子が|凄《すご》い剣幕で怒鳴った。
「だって……若いもんよりゃ年寄りの方が――」
「あんたに死なれたら……私だって、困るのよ!」
「困る?」
「そうよ。あんたと再婚できなくなるでしょ! この……この……」
伸子も真赤になっている。そして――何と、勇吉を抱きしめて熱いキスをしたのである。
誰もが呆気に取られて、「中年同士」のラブシーンを見守っていた。そして、勇吉はその後、やや貧血気味になった。
一方、涼子は、ロビーの隅に立っていた安東を見て、歩み寄った。
「あの死んだ男の人は?」
「僕の雇った男です。|可《か》|哀《わい》そうなことをした」
と、安東は言って苦笑し、「腕ききの殺し屋なのに……。あなたたちには勝てなかった」
「和代さんをどうするんです?」
「さっき電話したんです。和代を|狙《ねら》うのはもうやめだ。竜は死んだし、みんな多少不満があっても、納得するでしょう」
「ありがとう!」
涼子は、安東の手を握った。
「さて……。食事の途中だ。戻りますか」
涼子は、室井刑事が和代を促して、ロビーを出て行くのを見ていた。辻山もぴったりとついて行く。きっと、「本物の」夫婦が誕生することになるだろう、と涼子は思った。
邦也がやって来た。汗を|拭《ふ》いて、
「どうなるかと思ったよ!」
「どうかな。この三人で食事を続けるというのは」
と、安東が明るい口調で言うと、レストランの方へ歩き出す。
「ね、お袋に僕らのことを話そうか」
と、邦也が言った。
「そうね。今ならいいタイミングかも」
と、涼子が笑ったときだった。
「ミキ!」
と、安東が足を止めた。「何してるんだ?」
「その女ね! 人の男に手を出して!――こうしてやる!」
ミキがパッとバッグを投げ捨て、手にガラスのびんを構えた。ふたをねじ取る。
「やめろ!」
涼子に向かって、硫酸が浴びせられる。よける間はなかった。しかし――とっさに、間に安東が[#「安東が」に傍点]立ちはだかったのだ。
涼子が声を上げた。
硫酸は、安東の右|頬《ほお》から、首筋にかけて、白い煙と共に肌を焼いた。安東が|呻《うめ》いて、よろける。悲鳴を上げたのは、ミキだった。
「ああ! どうしよう! ごめんなさい! ごめんなさい!」
と、泣き出す。
残っていた若い刑事が駆けつけてくると、ミキの腕をつかんだ。
「待て!」
安東が、叫ぶように言った。「何でもない……。水が[#「水が」に傍点]かかっただけだ」
「しかし――」
「本人がそう言ってるんだ! 何でもない」
服も焼けただれている。下の肌もひどくなっているに違いない。
「安東さん……」
と、涼子は近寄ろうとして、足を止めた。
「何でもないんです。――ミキは、僕の女ですからね」
刑事が手を離した。ミキは泣きじゃくっている。安東は、ハンカチで顔の半分を覆うと、
「ミキ……。帰ろう」
と、震える肩を抱いた。「じゃ……涼子さん」
「さよなら。――色々と」
他に言葉もなかった。
安東は、泣いているミキの肩を抱いて、いつもの足どりで、ロビーから出て行く。
「――凄い奴[#「凄い奴」に傍点]だ」
と、邦也が圧倒されて言った。
「そうね……。でも、あなたも凄い[#「凄い」に傍点]わ。私たちのこと、ちゃんとお母さんに話せたら」
「ああ! 話すとも!」
邦也は、深呼吸すると、ロビーのソファで、辻山勇吉と手をとりあっている母親の方へと、力強く歩いて行ったのだった……。
エピローグ
山崎聡子は、ウトウトしていた。
何しろ入院生活を送るのは初めてのことである。――寝る以外にすることがない(当り前ではあるが)というのは、妙な気分だった。
ふと――夢を見た。
新婚家庭の朝。和代が|可《か》|愛《わい》いエプロンをつけて、せっせと朝食の用意をしている。辻山が、
「いかん! 遅刻する!」
と、あわててトーストを口へ押し込み、目を白黒させる。
だめじゃないの! ちゃんと和代の作った朝ご飯を食べてから出かけなさい! ちゃんと私が仕事はしといてあげるから! 辻山さん!
「辻山……」
「呼んだかい?」
と、声がして……ふと目を開けると、辻山がこっちを|覗《のぞ》き込んでいる。
一瞬、聡子はあの光景が自分と[#「自分と」に傍点]辻山のものだったのかと……。いや、そうじゃない。辻山は和代のもの[#「和代のもの」に傍点]だ。
「あら、見舞に来てくれたの?」
「来なきゃ、ばち[#「ばち」に傍点]が当るよ」
辻山は花束をかかえている。
「もうじき退院よ。――いい休暇だった」
「山崎君」
辻山は、真顔で言った。「君のように勇敢な人はいない。君の恩は一生忘れないよ」
「何よ、照れるでしょ」
と、聡子は笑って、「そんな風に言われるより、『君のように魅力的な女はいない』って言われたいわね」
「もちろんさ!――和代の次にね」
「馬鹿」
と、聡子は笑って言った。「あなたは、和代が罪を償って出て来たら、ちゃんと幸せにしてあげてくれればいいの」
「もちろんだ。約束する」
辻山はまるで別人のように、|逞《たくま》しく、力強く見えた。
聡子の胸はチクリと痛んだが……。
でも――残りものに福がある、とも言うしね。
「今度来るときは、食べれるものを持って来てね。花より団子」
と、聡子は言ってやった……。
「涼子!」
リカが手を振ってやってくる。
涼子は席を一つずらして、リカを隣に座らせた。――昼の学食はいつもながらの混雑。
「――久仁子のこと、うまくすんだわ」
と、リカが言った。「もう二度とこんなことしないって言ってた」
「自分を大事にしなきゃね」
「涼子と真田君のこと聞いて、感動してたよ。私も頑張る、って」
涼子は苦笑した。
――まあ、何もかもうまく行ったと言うべきかもしれない。
あの辻山と小田切和代ほどドラマチックじゃないにしても、辻山の父親と、邦也の母も結婚すると決めたようだし、自分と邦也の仲も、晴れて公認となった。
事情を聞いた邦也の母は、アッサリと一言、
「そう」
と言っただけで、邦也をひっくり返らせてしまった。
問題は誠実であること。――そう、涼子は思った。
でも、今も邦也に言っていないことがある。一度だけ、あの安東にキスされたこと。
あれはたぶん涼子が一生抱いていく、小さな秘密になるだろう。もちろん、もう安東と会うことはないだろうが。
「あら、ご主人よ」
と、リカが冷やかすようにつつく。
邦也がやってくるのが見えた。
「すてきでしょ、私の夫」
涼子はリカにそう言ってやると、「あなた[#「あなた」に傍点]、こっちよ!」
と、大きな声で呼んで、手を振った。
「――ごちそうさま」
リカは少々ふてくされて|呟《つぶや》いて、「あ、まだ何も食べてなかったんだ」
と、気が付いたのだった……。
本書は一九九三年二月、毎日新聞社より刊行されたものを文庫化したものです。
シングル
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『シングル』平成 8年 7月25日初版発行
平成11年10月10日 9版発行