角川文庫
クリスマス・イヴ
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 聞こえた会話
2 死体と犯人
3 夜の語らい
4 予 約
5 再び、殺人
6 心変わり
7 |嫉《しっ》 |妬《と》
8 仮 面
9 屈 折
10 役 者
11 リハーサルの日
12 混 雑
13 |遥《はる》かな距離
14 まぐれ当り
15 雪が降る
16 スキャンダル
17 死 体
18 出会い
19 隠しどり
20 約 束
21 恋愛関係
エピローグ
1 聞こえた会話
「じゃあ、殺されるのは、あいつでいいんだな」
「そうだな。他にしようがないだろう」
二人の男の対話は、ごく普通の声で交わされていた。
ホテルのコーヒーラウンジは、適当ににぎやかだったが、その会話を埋れさせるほどやかましくはなかったのである。
「どうせ売れてないしね。仕方ない」
と、一人が|肯《うなず》きつつ、言った。「殺されるだけでもありがたく思わなくちゃな」
「そうそう。――じゃ、永田エリで決り、と」
「さて、次は、と……」
話が途切れた。
その二人の男の席と、観葉植物の鉢で遮られた席に、一人の女子大生が座っていた。――伊沢啓子という。
今、伊沢啓子は、口もとまで持って行ったコーヒーカップを、ストップモーションの画面よろしく、じっと持ったまま、動かなかった。
当然だろう。すぐ隣の席で、「人殺し」の話を始められたら……。
伊沢啓子は、耳を疑っていた。まさか、本当に「人殺し」の話をしてるわけじゃあるまい。
でも、聞き間違いではなかった。確かに、その二人は「人殺し」の話をしていたのだ……。
「水島雄太か」
と、一人が挙げた名前には、聞き憶えがあった。
「悪くないな」
「まあ、しようがないだろ。他に適当な|奴《やつ》はいないし」
「もうちょっとネームバリューがほしい、って気がしないか?」
「それを言い出しゃ、きりがないよ。それに水島は悪くない」
「うん……。ま、そこそこか」
「ギャラの関係もあるしな」
――何だ。
伊沢啓子は、ホッと息をつくと、同時におかしくなって、笑い出しかけた。
水島雄太は、啓子も時々見に行く、小さな劇団の中堅俳優である。もう四十近いだろう。
地味で、いい役者だ(と、啓子は思う)が、TVなどに出ると、たいてい刑事物の犯人役とか、殺され役。どうせ当人にとってもアルバイトなのだろうとは思うが、もう少し、ちゃんとした役をやらせたいと思うこともある。
水島雄太。ギャラ。
何のことはない。隣の男たちの話しているのは、劇かTVか、要するに役柄として、「殺す役」、「殺される役」のことにすぎないのだ。
そりゃそうよね、と内心、|呟《つぶや》く。――まさか、本当の殺人の相談を、こんなところでするわけがない。
ああ、びっくりした。――一瞬ドキドキした自分に腹が立った。
腕時計を見る。約束の時間を、十五分すぎている。
珍しいわね。
遅れてくるなんて、あの人が。
啓子は、コーヒーを半分くらい飲んで一息つくと、ハンドバッグから、手帳をとり出した。
今日の約束を見る。時間を確かめているわけではない。そんなもの、頭にしっかり入っているのだから。
ただ、その予定欄に、〈京介 4・00〉という記述があるのを、眺めたかったのである。〈京介〉という字は、三回書き直してあった。
気に入らなかったのだ。京介当人のことをイメージとして思い浮かべられる文字は、限られているのである。
京介の手帳には、〈啓子〉と書き込んであるのだろうか。
あまり、京介が手帳を出して見ているところを目にしていないが、決して遅れて来ることはない。今日は、それが……。
窓の外へ目をやる。――秋の気配は、ガラス越しに、せかせかと道を行く人々の服装にも、感じられた。少し風は出て来たようだ。
――伊沢啓子は、秋の似合う娘である。
枯葉が時折開いた本のページに、生きたしおりのように飛び込むこともあったりして、それを面白がり、ロマンチックと感じるだけの感受性を持っている。
本の読みすぎで、少し近視になり、時々メガネはかけるが、京介と会うときにはかけていない。なぜか京介は、恋人がメガネをかけていることを嫌うので、デートのときは、かけないのである。
コンタクトは、合わなくて|辛《つら》いので、やめている。メガネなしで困るほど、目は悪くなかった。
今も、少し笑いを含んだ細い目には、表の明るい日射しの中、風で揺らぐ木々の|梢《こずえ》のなめらかな動きが映っている。
そして――啓子は、人の気配で、顔を上げた。
「何だ」
と、啓子は笑って、「何突っ立ってんのよ?」
塚田京介は、いつもと違って、背広上下にネクタイ、啓子の目には、とてもいい趣味とは言えなかった。でも、そういうことをはっきり言うと、京介はむくれてしまう。
「啓子」
と、塚田京介は、立ったまま、言った。「話があるんだ」
「話?――ともかく座ったら?」
啓子は戸惑っていた。こんな京介は初めてだ。
「座ってられないんだ。これから出かける。――彼女とね」
京介の視線を追って、啓子は、ラウンジの入口に立っている、少し小柄な、明るいスーツの女性に気付いた。
「あの人……」
「婚約したんだ。見合いしてね。もう僕も二三だし、勤め先で紹介された子でね。こうなるとは思ってなかったんだけど、結局……」
京介は肩をすくめて、「隠して、両方と付合うのもいやでね。突然だったけど、こうして……」
「そう」
これは夢なの? 啓子は、冗談でなく、そっと自分の|膝《ひざ》をつねってみた。
「じゃ、これでね。――君も、元気で」
「うん」
「じゃあ」
啓子がまだぼんやりしている間に立ち去りたかったのだろう、京介は、急いで行ってしまった。
待っていた「彼女」の腕をとって、さっさと姿を消す。彼女の方へ肯いて見せているのが、啓子の目に入った。
ちゃんと別れて来たよ、大丈夫。
そんなことでも言っているのだろうか。
でも――わざわざ、「彼女」に、他の娘との別れ話の場面を見せるなんて。
別れる。――別れる。
京介と? どうしてこんな……。どうして……。
ウエイトレスが、水を一つ運んで来て、戸惑っている。大方、京介の入って来るのを見て、やって来たのだろう。まさか、そのまま出て行くとは思わなかったのだ。
「あの……おいでですか、こちら?」
と、啓子に、向い合った席を見ながら、|訊《き》く。
「ええ」
と、啓子は答えていた。「コーヒーを」
「お持ちしていいでしょうか」
「構いません」
と、啓子は言った。「すぐ戻りますから」
「かしこまりました」
――すぐ戻る?
とんでもないことだ。今の話を聞けば、京介が帰って来ないことぐらい、はっきりしている。
でも、啓子は、頼みたかったのだ。京介のために、何か……。
急に、周囲が寒々とした冬のように感じられて身震いした。
一人になった。一人ぼっちに。
もちろん、まだよく分っていなかったのだ。
京介と別れたということが……。
だって――だって、これまでの一年半は、どういうことなの? あれだけ一緒に歩き、語り、笑い合ったことが、何の意味もないのか。
たった一度のお見合いの相手の方が、京介にとっては、愛する対象だったのか……。
急に寒気がして、体が震えた。――どうしたんだろう? こんなこと……こんなことって……。
「――じゃ、そういうことで」
と、隣の席の男たちの声が、ちゃんと耳に入って来るのが、奇妙だった。
「また、結果を連絡しますよ」
「ああ、待ってるよ。チラシを作る関係もあるしね。――ああ、ここはいいよ、仕事だから」
と、伝票を押える。
「どうも。じゃ、これで」
一人が足早にラウンジを出て行くのを、啓子はちゃんと見ていた。ちゃんとこうして見ていられるのに……。どうして、体の震えが止まらないの?
コーヒーが少し残っている。飲もうとしてカップを取り上げたが、震える手の中から、それは逃げて行ってしまった。
カップが床で砕ける。粉々に。ばらばらになってしまったんだ。私みたいに。
「大丈夫ですか?」
と、声をかけてくれたのは、隣の席で話をしていた男の一人だった。
「あの……すみません……」
その男は、普通の背広姿だったが、胸にこのホテルの名札をつけていた。ホテルの人なのだ。
「いや、構いませんよ。すぐ片付けさせますから。しかし、顔色が良くない。少し横になった方が――」
「いえ……。もう帰りますから。本当にすみません……」
立とうとして、よろけた。
「危い! さ、つかまって」
その男が支えてくれて、啓子はやっと歩き出した。
どうしたのか、自分でも分らなかった。私――私、こんなみっともないことなんて、したことないのに――私。
バッグが手から落ちた。拾おうと手をのばして、啓子は膝をついてしまった。
「しっかりして! さ、つかまるんです」
男の声が、スーッと遠くへ吸い込まれて行くようだった。
ああ、一人になるんだわ、と思った。やっと一人に。これでいい。一人になったら、何がどうなっても、みっともないことなんかないんだから。
一人で……一人で……。
啓子は、そのまま床に崩れるように倒れた……。
もう、ずいぶん前から、目は覚めていたような気がする。
ただ、目は覚めていても体はベッドに横たわったままで、まるで重い石をのせられたかのように、動かない。頭と体が別々に「生きて」いるかのようだった。
ホテルの部屋。――このホテルに、啓子はちょくちょく来ている。でも、客室の中へ入るのは、これが初めてだった。いつも、ラウンジで京介と待ち合わせたり、同じ大学の女の子たちとケーキを食べに入ったり……。
このベッドで、一人で寝ている。
京介とは一年半の付合いだが、まだ一緒に泊ったことはなかった。その点、京介は二つ年上で、もうこの春からは社会人だったが、二人の間では啓子の方が、主導権を取っていたとも言えるだろう。
それが京介には気に入らなかったのだろうか? でも――デートのときだって、文句一つ言ったこともなかったのに。むしろ、啓子が行先や予定を決めてくれないと、不安そうですらあったのだ。
――もう、やめよう。
啓子は、また胸をしめつけられるような痛みと、全身が冷えて行くような感覚の中へ引きずり込まれそうになって、激しく頭を振った。
いくら考えたところで、仕方ない。もう、京介とは終った、終ったのだ。
カチッと音がして、ドアが開いた。
「どうですか、気分は」
入って来たのは、さっきラウンジで啓子を支えてくれた人だった。もう勤務時間でないのか、少しラフなジャケットを着ている。さっきは四十前後かと見えたが、今は三十代半ばという印象。
「すみません」
と、啓子は、つとめて自然に声を出した。
「もう大丈夫です」
「無理しなくてもいいですよ。どうせ空いてる部屋だし。――そろそろ六時になる」
「じゃ……二時間も寝てたんですね」
啓子は、天井を見上げて、深く呼吸した。
「さっきよりずいぶん顔色は良くなったけど、まだ少し青いかな」
と、その男は、ベッドのそばへ来て、「僕はこのホテルの広報にいる佐々木といいます」
「胸のプレート、見ました」
啓子は、小さく|肯《うなず》いた。「佐々木耕治さん――でしたっけ」
あんな状態の中で、よく憶えていたものだと自分で感心した。
「そうです」
と、佐々木耕治は笑顔になった。「大学生ですか」
「ええ……。今日は休講で」
と、しなくてもいい言いわけをしている。
「ま、気にしないで休んで下さい。ホテルってとこは、飲みすぎて倒れる人や貧血を起こす人なんか年中ですからね」
「ご迷惑かけて……。もう大丈夫です」
啓子はゆっくり体を起こした。
「大丈夫ですか? 無理しない方が」
「ええ、本当に……」
落ちついて来ていた。体の隅々に、血が通い始めた感じがする。
「あの――ここの部屋の料金は」
佐々木は笑って、
「こういうホテルは〈ご休憩〉ってわけにいきませんのでね。大丈夫、サービスの一つですよ」
「でも……すみません」
と、啓子は素直に好意を受けることにした。
「その代り――」
と、佐々木は言った。
「え?」
「夕食を付合っていただけませんか。僕はもう勤務あけで」
いかにも職業人らしかった笑顔は、今、人なつこい、おだやかなそれに変っていた。ふと、啓子の胸が熱くなった。
「――分りました」
「じゃ、いいんですね?」
「ええ、ただ――」
と、啓子は言った。「お化粧を直す間、外へ出てていただけません?」
啓子の顔には、ごく自然に、笑みが戻って来ていた……。
2 死体と犯人
「おい、水島」
と、細い廊下を、苦労してすり抜けようとしているところを呼ばれた。
いくら細い廊下でも、人が通れるようにはできている。ただ、今はあれこれ小道具だの段ボールだのが積み重ねてあって、通れる幅は、廊下の半分ほどしかなかったのだ。
「呼んだか」
水島雄太は、振り返った。
「来てくれ」
原は、ほとんど肉に埋れた感じの|顎《あご》でしゃくるようにして、言った。
水島は、劇団のオフィスへ入って行った。
オフィスといっても、実質上は物置に机と|椅《い》|子《す》と電話があるというだけの場所である。
「あら、雄ちゃん」
折りたたみの椅子に足を組んでいるのは、永田エリだった。
「やあ。戻ったのか」
水島は、原の机の空いた角に腰をかけた。
「TVのロケだったんだろう?」
「それがひどいの」
と、永田エリは顔をしかめて、「主役のアイドルが倒れちゃって。――つわりだったのよ。で、ドラマそのものがお流れ」
「へえ。ギャラは出たんだろ?」
「値切られたがね」
と、原が、唯一の|肘《ひじ》かけ椅子に、重そうな体をのせて、言った。
椅子が悲鳴を上げている。
「私の分、懐へ入れないでよね」
と、永田エリが言った。
「馬鹿いえ。そんな額じゃないぜ」
原はタバコに火をつけた。「次のとき、役を回すからって、プロデューサーに頭を下げられりゃ仕方ないよ」
原は劇団のマネージャーである。
もちろん、弱小劇団の事で、志こそ高いものの、台所は火の車。原があちこちからぶんどって来る、TVや映画の端役の仕事で、大半の団員は生活している。
色の浅黒さが、少しも健康そうなイメージに結びつかない原は、いつも無愛想だが、仕事はちゃんとやる男で、そうでなければ、とっくにこの劇団は消えてなくなっていたに違いない。
「で、何か仕事の話?」
と、水島は|訊《き》いた。
「うん……。今年のクリスマス・イヴだ」
「クリスマス・イヴ? まずいよ、そりゃ」
水島は顔をしかめた。「いつもろくに家にいないって、女房に文句ばっかり言われてるんだぜ」
「稼がなきゃ、文句も言われなくなるよ」
と、原はこともなげに言った。「やるだろう?」
「他の日じゃ?」
「一日だけ」
「そうか」
水島は、肩をすくめた。「夜中までかかるのかな」
「知らん。先方と相談してくれ」
「何の仕事だい?」
「ホテルS。クリスマス用のイベントだ」
「おい、待ってくれよ。まさかサンタクロースの|衣裳《いしょう》つけて立ってろ、ってんじゃあるまいな」
「一応、台本がある」
と、原は苦笑した。「衣裳までは知らんよ」
「ああ、それ知ってる」
と、永田エリが言った。「最近よくホテルでやってるやつじゃないの? 〈ミステリーの一夜〉とかいって」
「ご名答」
原は、ポンと出張った腹を|叩《たた》いた。「ホテルの中で殺人事件が起こる。それを名探偵が調査するって設定だ」
「なるほど。――|俺《おれ》は探偵役かい?」
「いや。犯人だ」
水島はため息をついた。
「散々TVの二時間ドラマで犯人をやってんだぜ。たまにゃ、違う役が来ないのか」
「見込まれたんだ。我慢しろよ」
と、原は笑った。「いいな?」
「そういうことじゃ、夜中までかかるな」
水島は|諦《あきら》めたように、「分ったよ」
と、肯いた。
「OK。――楽な割にゃ、払いがいいし、飯もつく。悪い仕事じゃないだろ」
原がノートにボールペンで書き込む。
「私の方は何の仕事?」
と、永田エリが訊いた。
永田エリは、三十代の半ば。美人とはいえないにしても、男っぽく、さばさばして、劇団の中でも頼られる存在だ。独り者で、気楽に暮していた。
「君も同じ仕事だがね」
「そのホテルの? じゃ、雄ちゃんと共演か!」
「犯人役じゃないんだろ? 犯人が二人じゃ見付ける方が手間どる」
原は、チラッと永田エリを見て、
「違う役だ」
と、言ったが……。
その微妙な雰囲気は、長い付合いの永田エリにはピンと来たらしい。
「ちょっと、ちょっと。――待ってよ! まさか……」
「その『まさか』さ」
と、原が言った。「君は死体の役」
「ありがたき幸せね!」
と、エリは両手を大げさにポンと打合せた。「ベタッと血を胸につけて、ドテッと倒れてるわけ? じっとして。それだけ?」
「それだけ」
「ひどい! いやしくも役者よ」
「何もしなくていいんだ。楽じゃないか」
「役者じゃない人間の言うことね」
「ともかく、ギャラは出るし、飯も食える」
原はボールペンを構えた。「――いいね?」
永田エリは、苦笑して、
「やるわよ。やりゃいいんでしょ。――探偵が来たら、ワッとおどかしてやろうかな」
「そうだ」
と、水島は言った。「他にも誰か?」
「うちからは君ら二人だけ」
「探偵役は誰がやるの?」
原は、ちょっと間を置いて、ノートを閉じると、
「川北竜一」
と、言った。
水島と永田エリは、一瞬動かなかった。
「いやなら断るか?」
と、原が言った。「しかし、このイベントは毎年のもんだ。一年やりゃ、来年も回って来るかもしれん。今年断ったら、もう二度とウチへは言って来ないだろう」
水島と永田エリは、目を伏せた。申し合せたように、同時に。
「――どうする?」
と、原はたたみ込むように訊いた。
水島は答えなかった。――何といっても、エリが先に決めるべきだ。
エリは、水島の方へ、
「どうする?」
と、言った。
結論は分っているのだ。ただ、自分でそう決めたくないのである。
「――やろう。仕事だ」
と、水島は言った。
「そうね」
永田エリは、ホッとしたように言った。
「ありがとう」
原はニヤリと笑った。「詳しいことは、また連絡するよ」
水島とエリは、立ってオフィスを出ようとした。原が、
「クリスマス・イヴだぜ」
と、声をかけて来た。「空けといてくれよ!」
「クリスマス・イヴか」
と、水島は歩きながら言った。
「ロマンチックな響きよね」
と、永田エリが夜空を見上げる。「子供のころは、プレゼントの楽しみ。大人になると、あげる楽しみが」
エリの笑い声が、ズラッと並んだ街灯の青白い光の中で|弾《はじ》けた。
「エリ……」
「大丈夫よ。ただ、思い出しただけ」
と、エリは言った。「あいつにあげたのがクリスマス・イヴだった、ってことをね」
水島は、横目でエリを見た。
「あいつが、初めてだったのか」
「そうよ。純情なもんでしょ。二七だった。それまではうぶな娘。それからは――」
「よせよ」
水島は腹立たしげに言った。「君は変わってない。あいつが卑劣だったってだけだ」
「男と女よ。――|騙《だま》すのも悪いけど、騙されるのも悪い」
エリは、大きく伸びをして、「もう八年たつわ。大丈夫よ」
「川北の奴は相変わらずだろ?」
「人気の世界ですものね。仕方ないわ」
と、エリは笑った。「せいぜい恨めしそうな目で、あいつの探偵をにらみつけてやりましょ」
「そうだな」
水島は少し無理して笑った。「捕まるときは一発ぶん殴ってやるか」
「それもいいかもね」
エリは、ちょっと間を置いて、「でも……」
「うん?」
「考えてみて。川北は、結構売れてる役者――スターだわ、今は」
「いつまで続くかね」
「待って。私情を抜きにして、どう?」
と、エリは言った。「どうしてこんな仕事を引き受けたと思う?」
水島は足を止めた。考えてもいないことだった。
「どう思うんだ、君は?」
「そうね……。何かあって、引き受けざるを得なかったか、よほどギャラが良くて、ちょうどお金に困ってたとかね」
「他には?」
「そろそろ落ちめになりかけたか……。でも、そんなわけないわね。この秋のTVの新番組にも、二つ三つ、顔を出してるわ。となると、本人が出たかったのかも」
「なぜ」
「共演者を指名するって条件で。あるいは、こっちは先に決ってて、それを聞いて、やる気になったか……」
「俺たちに会いたくなった、ってわけか」
「私か、あなたか、どっちかにね」
――川北竜一は、かつて同じ劇団にいた仲間だった。
ちょっとニヒルな二枚目役がよく似合って、ひところは、劇団の人気を支えていたが、やがてTVが目をつけ、引き抜いて行った。
そのこと自体はやむを得ないことだ。しかし、川北は、永田エリと長く愛人同士の仲で、人気が出始めたとたん、エリを捨てて、有名な女優と|同《どう》|棲《せい》し始めた。
もちろん、今や川北は「スター」であり、水島など、たとえ同じドラマに出ることがあっても、声もかけない。
確かに奇妙ではあった。川北のようなスターが、やる仕事ではない。
何か他の目的があるのだろうか?
「あいつが俺に会いたがるとは思えないな」
と、水島は言った。「しかし、君だって――」
「言ったでしょ。もう平気よ」
と、エリは笑った。
水島は、他の劇団員の知らないことを、知っていた。
エリが、川北の子をみごもって、|否《いや》|応《おう》なしに|堕《おろ》さざるを得なかったこと。それが原因で、エリが自殺未遂を起こしたこと……。
もちろん、ずっと昔といえば、その通りである。
しかし、女は、そういうことを忘れられるものだろうか。
「――じゃ、ここで」
と、エリは足を止めた。「ちょっとコンビニへ寄るから」
「じゃ、明日」
「おやすみなさい」
エリが、足早に陸橋を駆け上って行く。
いつもながらに軽快だが、その後ろ姿にどこか、無理をしている印象を受けたのは、気のせいだったろうか……。
3 夜の語らい
「川北竜一と一緒なんだよ」
と、水島が言った。
小さなダイニングキッチン――というより、ちょっと広めのキッチンだが――で、遅い食事をしながら、水島は、妻の久仁子へ、クリスマス・イヴの仕事のことを話したのだった。
文句を言われるのは覚悟していた。
娘の牧子は今、五つ。もう、休みともなれば、あちこち遊びに行きたい年齢だ。
しかし、水島が牧子をどこかへ連れて行くことは、めったにない。そう忙しい役者というわけでなくても、ギャラが安いから、細かい仕事を山ほどこなさなければ、食べて行けないのである。
「クリスマス・イヴの夜だけさ」
と、水島は付け加えた。「クリスマス当日は大丈夫。三人で、飯でも食おうや」
――久仁子は、ずっと黙って、ガステーブルの前に立っていた。夫の方へ背を向けたまま。
怒ったのかな。水島は、ちょっとため息をついて、お茶を飲んだ。
カチッと音がして、ガスの火が消えた。
「はい、卵は一つでいいのね」
と、久仁子は水島の前の皿に目玉焼を落とした。
「うん。――ありがとう」
「何よ」
と、久仁子は笑った。「そんなこといつも言わないくせに」
水島はホッとした。
「悪いな、いつも仕事が入って」
「いいわよ。牧子と二人で楽しくやってるから」
もう夜の十一時。もちろん牧子は、もう寝ている。幼稚園の年中組に通っているのである。
「まあ、断り切れなかったんだ。勘弁しろよ」
「川北さんとなんて、久しぶりでしょ」
久仁子は、自分もお茶をいれると、テーブルについて、両手をあっためるように、|茶《ちゃ》|碗《わん》を包んで支えた。
「そうだな。――会いたいわけじゃないが」
と、食べ始める。「漬物、あるかい」
「ええ」
冷蔵庫から漬物を出して、「――すっかりスターですものね、あの人も」
久仁子も、元劇団員である。
水島より八つ下の三二歳。大学を出て、劇団へ入って来たが、あまり才能があるとも言えず、その間水島と恋人同士になった。
妊娠して、劇団をやめ、正式に結婚、この団地のアパートに住むようになったのである。
童顔で、小柄な久仁子は、二十代半ばくらいにしか見えない。少し太ったとはいえ、あまり変わってはいなかった。
――いつも、もう一人子供を作ろう、と言っている。
一人っ子は|可《か》|哀《わい》そうよ、と水島にくり返しているが、何といっても、この2DKでは、子供二人は窮屈だし、経済的な問題もあるので、水島としては、ためらわざるを得ないのである。
「そういえば」
と、久仁子は言った。「今日、TVで見たわ」
「何を?」
「川北竜一。ワイドショーで。何だか、今度は若いタレントの卵の女の子に手を出したとか」
「こりずにやるもんだ」
と、水島は苦笑した。
「今度こそ、五月麻美が許さないだろうって言ってた」
五月麻美は、川北がずっと同棲している、かなりの人気女優だ。川北より少し年上で、たぶん四十は過ぎているだろう。
「いつも同じこと言ってるじゃないか」
「でも……。可哀そうね、あの人も」
「誰のことだ? 川北かい?」
「違うわよ。五月麻美。もう若くないでしょ。このところ、パッとしないし。どっちかというと、川北竜一の方が、のして来てるもの」
「辛いもんだな。人気が出るってのは。いつ落ちるか、ハラハラしてなきゃならない」
「でも、一度は出てみたい、でしょ」
水島は、笑って、
「こういう脇の役者も必要さ。そうだろ?」
「そうね」
と、久仁子は言った。「お風呂に入るのなら、静かにね」
団地では、騒音が問題になるのだ。
「ああ。そーっと入るよ。抜き足さし足で」
水島は少しおどけて、言った。
電話が鳴り出して、久仁子はギクリとした。
半分、眠っていたのだ。布団に入って、もちろん眠るつもりではいたのだが、夫が風呂から出て来れば、どうせ目を覚ますのだし……。
しかし、その前に、電話で起こされることになったわけである。――牧子が目を覚ますと大変!
あわてて電話へと駆け寄った。
それにしても、もう十二時を回っているのだ。誰からだろう?
「――はい。もしもし?」
いたずら、ということもあるので、名前は言わない。
「君……久仁子か」
聞き憶えのある声だった。――久仁子の顔からスッと血の気がひいた。
今日の昼、TVでも聞いたばかりの声だった。
「どうも」
と、久仁子は言った。「珍しいですね」
「久しぶりだなあ。|旦《だん》|那《な》は? もう帰ってる?」
「今、お風呂……です」
久仁子は、少し声を低くして、浴室の方へ目をやった。
「そうか。いい勘だった。今なら君が出ると思ったんだ。本当だぜ」
「酔ってるんですね」
「いくらかね。――水島から聞いたかい」
久仁子は、胸の乱れを、何とか抑え込んで言った。
「何時だと思ってるんですか? うちは朝が早いんです。娘は幼稚園なんですから」
「もうそんなか」
と、びっくりしている様子。「そんなになるか……」
「かけて来ないで下さい」
と、久仁子は押し殺した声で言った。「主人が出たら――」
「不思議じゃないさ。昔の仲間じゃないか。君だって」
久仁子の胸がきりりと痛んだ。
「もう切ります」
「待てよ。待ってくれ」
と、川北竜一は言った。「――なあ、どうだい。一度会わないか」
久仁子の顔にサッと血が上った。
「そんなこと、できるわけがないでしょう」
「どうして? 時間が全然ないってこともないだろ。昼間はこっちも結構暇だし。君だって、たまにゃ息抜きすればいいじゃないか」
「ともかく、無理です」
だめなら、切ってしまえばいいのだ。さよならと言って、切ってしまえば。
しかし――久仁子は、そうしなかった。
「俺はちっとも変わってないぜ」
「そうですね。今日もTVで見ました」
川北は、ちょっと笑って、
「あんなのは、やらせさ。あの子のプロダクションに頼まれてね。何にしろ、ワイドショーで名が出りゃ、顔が売れる」
本当かもしれない、と久仁子は思った。
川北を信用するわけではない。ただ、いかにもありそうなことだ、と思ったのである。
「でも、関係があったのは事実でしょ」
「そりゃあ、何か見返りがなきゃ、泥はかぶらないさ。それに、細かいことを知らなきゃおかしいだろ、恋人だってのに」
「相変わらずですね」
「そう言っただろ。どうだい、出て来いよ」
久仁子は、手が震えていた。
無理です、という言葉も、もう出て来ようとはしなかった……。
「メガネ、外す?」
と、啓子は|訊《き》いた。
「いや、君のそのメガネが好きなんだ」
啓子は、笑って、
「ひどい誉め方」
と、言った。「キスしにくいでしょ」
「そこをスマートにやるのがいいんだ」
二人の唇が重なった。――巧みに、メガネが邪魔にならないように、顔を傾けていた。
啓子は、熱い息を吐いた。
「もう……帰らないと」
――車は、夜の公園の傍に、静かに停っていた。
ダッシュボードの時計は、午前0時半を示している。
「帰らないと」
と、啓子はくり返した。
「送るよ」
エンジンが目を覚ますのに、少し時間がかかった。
「佐々木さん」
と、啓子は言った。「――私のこと、愛想が尽きた?」
「何だって?」
佐々木耕治は、当惑したように、啓子を見た。「まだ何回もデートしてないじゃないか。僕の方こそ、時間がいつもめちゃくちゃで」
「それはお仕事ですもの」
と、啓子は言った。
「だったら、どうして僕が君に愛想を尽かすんだい?」
車のエンジンを、佐々木はもう一度切って言った。
「だって……」
啓子は、じっと前方を見つめながら、「いつも、これ以上先へ行かないから……。私のこと――」
「やめなさい」
と、佐々木は少し子供を|叱《しか》るような口調になっていた。「そんなことを考えてたのか。あの男がどう思ったかは知らないが、僕は、彼とは違う。君のことをホテルへ連れ込まないからって、君を愛してないってことにはならない」
「佐々木さん……」
啓子は、|真《まっ》|赤《か》になって、「ありがとう」
と、小さな声で言った。
「いいんだ。自分の気持に逆らってまで、そんなことをして、どうなる?」
「そうね」
啓子は、軽く佐々木の肩へ、頭をもたせかけた。「――馬鹿みたいね、私って」
「そこが|可《か》|愛《わい》いのさ」
佐々木は、啓子の額に、唇をつけた。「さあ、送って行くよ」
エンジンも、今度は簡単にかかった。
啓子はすっかり気持が軽くなっていた。塚田京介に捨てられたことを、感謝したい気分にさえなっていたのである。
4 予 約
「もしもし」
と、永田エリは言った。「あの、そちらに、川北竜一さん、おいでですか」
電話の周囲は、ひどくやかましく、大きな声を出さないと、向うに聞こえないかもしれなかった。
「川北さん? ああ、お宅、ポスターの件?」
と、えらく早口の男が言った。
「そうなんです」
エリは、出まかせに、向うの言葉をいただくことにした。「至急ご連絡とりたくて」
「謝っといてよね。えらく怒ってたぜ、川北さん」
「申し訳ありません。どう直すか、ご相談したいんですが」
適当に話を合せてやる。
「ええとね……。たぶん、あそこにいると思うな。局の前の、〈N〉って店、知ってる?」
「はい」
「たぶんそこだよ。もしいなきゃ、また連絡して」
「はい、どうもお忙しいところ――」
もう電話は切れていた。
エリは、地下鉄の駅を出た所で、電話していた。――TV局まで、歩いて五、六分。〈N〉という店は、エリも知っていた。当の川北と、よく待ち合せた店である。
もっとも、そのころの川北はまだ駆け出しの新人で……。
遠い昔の話だ。今さら――今さら。
エリは、ためらっていた。ここまでやって来たものの、もし本当に川北と会えたとして、何を話せばいいのか。
恨みごとを言っても始まるまい。いや、それぐらいなら、こんな所へ来てはいない。
エリは自分の気持を知っていた。――まだ、心のどこかで、川北を待っているのだ。
川北が、人気もなくなり、落ちぶれて、どの女からも相手にされずに、最後にエリの所へやって来る。
そんな光景を、エリは今でも思っているのだった……。
馬鹿げているかもしれない。水島――あの人のいい水島など、とてもエリの気持が分らないだろう。
エリは、川北を忘れられない。いや、忘れられない、という後ろ向きの思いでなく、むしろ積極的に、愛しているのかもしれない。
エリは歩き出した、〈N〉へ行っても、会えるとは限らないが、しかし行かずに帰ることはできない。
水島が聞いたら怒るだろう。しかし、川北が「あんな男」だから、エリは愛しているのかもしれないのだ。
人を愛するのは、必ずしも愛されるためばかりではないのだ。
地下鉄の駅から表の通りへ出ると、風が吹きつけて来た。一瞬、ギクリとするほど冷たい風。もう、冬になりつつあるのだ。
――〈N〉は、昔と少しも変わっていなかった。店の入口、内装、壁を飾る、いかにも安物の抽象画。
中を見回して、川北の姿が見えないことを知ったとき、エリは半ばがっかりし、半ばホッとした。
「お待ち合せですか」
と、ウエイターに訊かれ、
「ええ」
と、答えていた、「まだ来てないみたい」
「じゃ、どうぞ入口の近くで」
「ありがとう。でも、奥の方にするわ」
広い店なので、奥の方へ入ると、外から目につかなくてすむ。もし、川北が入って来ても、会うかどうか、自分で決めることができる、とエリは思ったのである。
奥の席につくと、エリは紅茶を頼んだ。
「エリちゃんじゃないか」
と、男が一人、声をかけて来た。
「あ、どうも」
見たことのある顔。大方、局のプロデューサーだろう。いい年齢をして「ちゃん」づけで呼び合う。妙な世界だ。
「元気にやってる?」
「おかげ様で」
おかしいくらい、決り切った会話。そして、男の方も、腹が出て、赤ら顔で、派手なネクタイをして、おかしいくらい、TVマンである。
「たまにゃ遊びにおいで」
「ありがとうございます」
と、一応礼を言っておく。
「じゃ、またね」
一分後には、あの男は、エリと会ったことなど、忘れているだろう。――そういう世界なのだ。
紅茶が来て、エリはゆっくりと飲み始めた。
――少し気分が落ちつく。
もし、ここへ川北がやって来なくても、そうがっかりせずに、帰れそうな気がしていた。
今日の川北の仕事が、この局の生番組だと知って、出かけて来た。もちろん、局のスタジオへ行けば会えるのだろうが、人の目のある所では、会いたくなかった。
特に今は、マスコミの目も光っているだろうし……。
「――いらっしゃいませ」
と、ウエイターの声がした。
顔を上げると、川北が入って来るところだった。サングラスなどかけているが、誰だって、ひと目見れば分る。
それに、川北は女を連れていた。顔を伏せ加減にしているが――。
二人は、エリには全く気付かずに、離れた席へと行ってしまった。
エリの目は、川北でなく、連れの女の方へと、はりついて、動かなかった。
二人が、何やら話している。もし、すぐ近くにいて、二人の声が耳に入ったとしても、エリはその意味など分らなかっただろう。分る必要も、ない。
エリの目には、明らかだった。――二人がたった今、一緒に寝ていた仲だということぐらいは、分っていた。
彼と一緒に暮したことのある身だ。見ればすぐに分る。
女の方を見ても、よく分る。少し髪がしめっているのは、たぶん、後でシャワーを浴びたからだろう……。
川北は、女の手を取って、やさしく包んでいる。女の方は、うつむきがちで、半ば罪の意識に苦しんでいるという様子だ。
川北は、ジンジャーエールを一気に飲んでしまうと、すぐ席を立った。女に、
「また電話するからな」
と、言っているのが、エリにも聞こえた。
女の前には、口をつけられていないジュースが、置かれている。
川北が支払いをして、店を出て行く。――エリは、それを追う気にはなれなかった。
残った女は、ジュースに手を出すのも忘れているのか、ぼんやりと、表の方へ目をやっていた。
どうすべきだろう? 声をかけた方がいいのか。それとも……。
エリは、やっと驚きから、さめつつあった。思ってもみない成り行き。
川北が……。水島の妻と。
久仁子のことは、もちろんエリもよく知っていたが……。まさか川北が、彼女にまた手を出していたとは、思ってもいなかった。
しかも、今、水島との間に女の子もいるというのに。――何てことだろう!
久仁子は、ややまだボーッとした様子で、立って、出口の方へ歩いて行った。
視線を感じたのだろうか。足を止めると、ゆっくり頭をめぐらせて、やがて、エリの目と、出会う。
久仁子は、一瞬よろけた。エリは、あわてて立ち上ろうとしたが、久仁子はパッと駆け出していた。
「久仁子さん!」
と、エリは叫んだが、そのとき、もう久仁子は外へ飛び出して、人の流れの中へと駆け込んでしまっていた……。
「――何とかなんないかな」
男の声に、佐々木耕治は顔を上げた。
隣のフロントカウンターで、若い男が一人、予約係を相手に粘っている。
「もう、その日はずいぶん前から、ご予約が一杯になっておりまして……。キャンセル待ちの登録をしていただけば――」
「それじゃ困るよ。取れるかどうか、分らないんだろ?」
「キャンセル待ちの早い順番ですと、何日か前におとりできることもございます。ですが、今からですと、かなり後の順番になりますね」
「そこを何とかならない? 少し出すからさ」
佐々木は苦笑した。大方、クリスマス・イヴの予約だろう。
「そうおっしゃられましても……」
「いざってときのために、必ず部屋がいくつかとってあるんだろ?」
「この日は特別でございますから」
「だからさ。取れるかどうか分らないんじゃ、計画の立てようがないじゃないか」
「ですが、お客様の順番が――」
「そんなもの、何とかしてよ」
哀れっぽい様子ですらある。佐々木は、予約係に同情し、その若い男を|叩《たた》き出してやりたくなった。
「――お待ち下さい」
予約係は閉口した様子で、奥へ入って行く。
佐々木は、自分の仕事もあって、その後から奥へ入った。
「やあ、大変だね」
と、声をかける。
「参っちまうよ。特別扱いしてもらうのを当り前ぐらいに思ってるんだから」
「何かコネがあるのかい?」
「知り合いがいるって……。コネってほどのもんじゃないんだ」
佐々木は、その係のメモをチラッと見て、
「丁重にお断りするんだな」
と、笑ったが――。「待て」
「え?」
「見せてくれ」
佐々木はそのメモを手に取った。
「知ってるのかい?」
少し間があって、佐々木は|肯《うなず》いた。
「うん。直接は知らないが、ちょっとね……」
「そうか。どうする?」
佐々木は、しばらくそのメモを眺めていたが、
「僕が出る」
と、言って、カウンターへ出て行った。「お待たせいたしました。塚田様でございますね」
「ああ」
「塚田……京介様でよろしいですか」
「書いただろ。あのね、ここの人を知ってるんだよ。何なら、電話してもいいけど」
「一二月二四日のお泊りでございますね」
「そう。一杯なのは分ってるけど――」
「かしこまりました」
――塚田京介は、ポカンとして、
「というと……取ってくれるの?」
「ご用意いたします」
「そう」
塚田は、ちょっと笑って、「いや、そいつはありがたいや。――ありがとう」
「どういたしまして。お待ち申し上げております」
と、佐々木は言った。
「よろしく」
と、行きかける塚田へ、
「塚田様」
と、佐々木は呼びかけた。
「何か?」
「お泊りは、お二人でございますね」
塚田はニヤッと笑って、
「当り前だよ」
「かしこまりました」
佐々木は、軽く会釈した。
塚田が行ってしまうと、予約係がやって来た。
「おい、大丈夫か? どこを空けるんだ?」
「心配するな」
「しかし……」
「この一部屋、僕が用意する。――うんと歓迎してやるさ」
佐々木は、メモをたたむと、ポケットへ入れた。
スタジオが静まり返った。
甲高い叫び声の余韻が、まだスタジオの天井の高い空間を漂っている。
川北竜一は、セットの真中に突っ立って、五月麻美を見下ろしていた。
スター女優は、怒りで青ざめ、じっと川北をにらみつけている。
「よせよ」
と、川北は言った。「ここは仕事場だ」
「あんたは平気で女を仕事場へ連れて来てるくせに」
「言いがかりだよ。なあ、ともかく後にしよう、話は」
「いいえ、今、けりをつけるのよ」
と、五月麻美は激しい口調で言った。「その子を追い出して!」
スタジオの隅で、青ざめて立っているのは、川北と騒がれたアイドル歌手だった。五月麻美から見れば、娘のような年齢である。
「五月さん」
と、古手のベテランの女優が、寄って行くと、「それは無茶よ。あの子で、もう収録してるんだもの」
「じゃ、やり直すのね」
と、麻美は言い返した。「私を怒らせるのと、あんな子の一人や二人、いなくなるのと、どっちが損か、よく考えるのね」
そして、川北をキッと見据えて、
「あんたもね。ほどほどにしないと、黙っていないわよ」
と、言い捨てると、足音も高く、スタジオを出て行く。
アイドル歌手が、すすり泣きを始めて、スタジオの中はため息でざわついたのだった……。
5 再び、殺人
「何とかしないと……」
「そうなんだ。――しかし、もう話してもむだだよ」
「じゃ、どうするの?」
「うん。思い切った方法が必要だな。よほど思い切った方法……」
「殺すの?」
「しっ。聞かれたら大変だ」
――デジャ・ヴュというものがある。
初めての場所のはずなのに、「ここへ来たことがある!」と感じたり、目の前の光景を、「あ、前にこんな場面を見たわ」と思い出すことである。
ちょうど、今の伊沢啓子が、そんな気分であった。
こんな話を聞いたことがある。――何か月か前。
でも、あのときの話は、このホテルSの〈クリスマス・イヴ〉のためのイベントの相談で、「殺人」の話とはいっても、それは作り話の次元だった。
それに、あのとき話をしていた一人は、今啓子が待っている佐々木耕治だったのだ。今聞こえたのは……。何だったんだろう?
殺すの?――確か、女の方はそう言ったみたいだった。
でも、まさか……。そうよね。あのときはこのホテルのラウンジだった。今はホテルの中のバーで、確かに中は暗いし、客の数も少ないけれど、こんな所で、人殺しの相談を、本気でやるなんてことは……。
そろそろ夜の十一時を回っている。
伊沢啓子は、十分ほど前にここへ来たのだった。佐々木耕治はこのホテルSの広報にいるので、当然、バーの人とも顔なじみ。
今では、啓子のことも、みんな憶えてくれている。
「女子大生を捕まえて、|羨《うらや》ましい|奴《やつ》だ」
と、冷やかされているとのことだが、みんな親切にしてくれていた。
中には、
「振られたら、待ってますからね」
なんて冗談半分、言ってくれる人もいて。
啓子は以前塚田と付合っていたころに比べても、ずいぶん自分が大人になって、人との付合いが怖くなくなった、と感じていた。
前には、男の人と、ただ口をきくだけでもつい警戒してしまったし、その雰囲気が当然向うにも伝わって、ピリピリした女の子、と言われていた。でも、今はそうでもない。
恋人、と呼べるのは佐々木一人。その他の友だち、知人、顔見知り、と、それぞれに分けて、口をきくすべを心得るようになった。
それは人間としての落ちつき、自信にもつながって来るものなのだろう。
「――何かお持ちしましょうか」
と、ウエイターがやって来て、|訊《き》いてくれる。
「あ……。それじゃ、何か軽いカクテルでも」
と、啓子は言った。
「今の二人、気が付きましたか」
と、ウエイターが低い声で言った。
「え?」
「ほら。そこのかげの席にいた二人」
啓子は振り返った。――さっきの会話を交わしていた二人だ。いつの間に出て行ったのか、姿が見えなくなっていた。
「見なかったわ。誰か有名な人だった?」
と、啓子は訊いた。
「川北竜一ですよ、男の方は」
「ああ……。あの俳優?」
啓子はあまり好きでない。人気のある二枚目だが、どことなく|傲《ごう》|慢《まん》な印象を与えるタイプだった。
「今度、クリスマス・イヴのイベントに出るんですよね」
と、ウエイターが言った。
「あの――ミステリー・ナイトとかいう? 知らなかったわ」
水島雄太、永田エリという地味だが啓子の好きな二人が出ることになるのは、佐々木からも聞いて、知っていた。それに川北竜一も出るのか。
「一緒にいた女の子、最近騒がれたアイドルですね。何てったかな……」
「何かTVでやってたわね」
啓子も、人並みにゴシップやスキャンダルの|類《たぐい》を耳にするのは嫌いでない。しかし、それでいちいち役者や歌手を好きとか嫌いになっていたら大変だ。その辺は別ものと思っていた。
「でも、本当だったんだな、あの話。ここにいると面白いですよ。色んな人が来て」
「そうでしょうね」
啓子は、空いた席へ目をやっていた。
殺すの?――そう言ったのは、そのアイドルスターだったのか。まだ一八かそこいらだろうが。
でも――もちろん、そんなこと、冗談だろう……。
十分ほどして、佐々木がやって来た。
「やあ、ごめん、遅れて」
「いつものこと」
と、啓子は笑って、「いいのよ、焦らなくても」
「――僕はウーロン茶をくれ。車だからね」
佐々木はフーッと息をついた。「少し休ませてくれ。いいかい?」
「何かあったの?」
「川北竜一と会ってたんだ」
「え?」
啓子は、面食らっていた。「さっきまでここにいたのよ」
「知ってる。ここで飲んだ分、つけといた、って言われたよ。僕の方にね」
「まあ」
「一緒に、女の子を連れてただろ? 今、売り出し中の子だ。何ていったかな……。そう、|庄子《しょうじ》だ」
「庄子。ユリア。そう、変った名だったわよね。思い出した」
「その子を連れて来てさ、クリスマス・イヴのイベントに出演させろ、って。もうすっかり台本だって出来てるのに」
「へえ。――で、どうしたの?」
「その子を出さなきゃ、自分もキャンセルするっていうから、仕方ないだろ。これから作者に頼んで、役を作ってもらうさ」
「熱心なのね」
「それだけじゃない。要は当日、ここへ泊りたいんだ。二人でね。仕事となりゃ、誰にも見付かるまい、ってわけだろ」
「|呆《あき》れた。部屋、あるの?」
「何とかするさ。それに当日キャンセルも多いしね」
そう、その話は、啓子も聞いている。予約してからクリスマス・イヴまでに振られちゃったり、予約の時点では相手がいなくて、当日までに見付けられなかったり……。何を考えているんだろ、今の大学生って。
自分も大学生ながら、啓子は少々気恥ずかしい気分になるのだった。
「川北竜一は、今五月麻美と|同《どう》|棲《せい》中だからね。もし、彼女にばれると大変だろう」
「有名ね、それは。五月麻美か。スターらしい人よね」
「このホテルをよく使うんで、僕も知ってる。――ま、当日、かち合わなきゃいいけどね」
と、佐々木は笑って、冷たいウーロン茶を一気に飲み干した。「君、クリスマス・イヴはどうするんだい?」
「私?――さあ。家で寝てるわ、きっと」
「ここへ泊る? いや、もちろん僕はその夜は一睡もしないで働くことになるから、のんびりできないと思うけどね」
「だって……。部屋はあるの?」
「予約のキャンセル待ちの間へ入れるさ」
「まあ。公私混同じゃない?」
と、啓子は笑いながらにらんでやった。
「君みたいな子のためなら罪にならない」
と、佐々木は真顔で言った。
「そうね……。どうせ大学はもうお休みだし」
「よし。――ともかく入れとくよ、ウエイティングリストに。何か面白いハプニングが見られるかもしれないぜ」
と、佐々木は、ちょっといたずらっぽい口調で言った。
啓子は、もう忘れかけていた。川北竜一と庄子ユリアの会話を。――どうせ、本気で、「殺すの?」などと言っていたわけではないだろうし……。
啓子は実際、大して気にもとめていなかったのである。
いい加減寒い夜なのに――。
汗だくで走っていた。三一歳の若さとはいえ、心臓は今にも飛び出しそうな勢いで打っていたし、足が満足に上らないくらい、疲れていたが、それでも走るのをやめなかった。
そのビルは、やっと目の前に近付いて来ていた。遠くから、そのビルの明りが見えたときはホッとしたものだ。大した遅れにならずに着く。
しかし、その先がいけなかった。車、車の波。大渋滞で、ほんの一キロ足らずのところを四十分もかかってしまったのだ。
焦って、近道をしようとしたのもいけなかった。一方通行や右折禁止に引っかかって、|却《かえ》って時間がかかってしまったのだ。
結局、少し離れてはいたが、一番出やすい場所に車を置いて、村松は駆けて来たのである。
そのビルの正面玄関から飛び込んだとき、村松は苦しくて、しばらく立ち止まって、動けなかった。
「ご気分でも?」
と、ボーイがやって来る。
「いや……」
首を振って、ともかくエレベーターへ。
パーティは一二階だ。――四十五分の遅れか。
今さら時計を逆に戻すことはできない。村松は鉛でものみ込んだような気分だった。
汗がどっと吹き出て来る。ハンカチで、ともかく顔の汗だけは|拭《ふ》いた。一二階に着いて、エレベーターの扉が開いたら、笑顔でいなくてはならないのだ。
村松完治は、五月麻美のマネージャーである。マネージャーといっても、五月麻美のようなスターになると、マネージャーは荷物持ちと、「歩くスケジュール帳」ということである。
何か言いたいことがあれば、事務所の社長が直接言うし、五月麻美の方だって同様だ。村松としては、この女優のご機嫌が常にいい状態にあるように持って行かなくてはならない。
もっとも、言うはやすく、とはこのことで――。
エレベーターの扉が開くと、パーティを引き上げる男女が何人か前に立っていた。
「や、完ちゃん。元気?」
と、同じ事務所のタレントが、ポンと肩を|叩《たた》いて、入れかわりにエレベーターに乗る。
「どうも……。五月さんは――」
「うん。まだ会場にいる。大分酔ってたぜ」
「そうですか」
受付では、おみやげの紙袋を帰る客に手わたしている。村松は軽く会釈して中へ入って行った。
立食パーティだが、もうお開きも近い感じで、大分空き始めていた。彼女はどこにいるのだろう?
「村松さん」
と、腕をとられる。「五月さん、あっちよ」
顔見知りの、よそのマネージャーだった。
「そう? どうも」
「ずいぶん酔っちゃって。どうしちゃったの?」
「ここんとこ、川北さんとうまく行ってないんでね。ありがとう」
五月麻美の甲高い笑い声が、人の輪の中から聞こえた。
村松も、もう三年以上五月麻美についている。その声で、どの程度酔っているか、察することができた。
危い。――もう連れ出さなくては。
人をかき分けるようにして、
「すみません、遅れて」
と、大きな声で言った。
「あら、完ちゃんじゃないの。何してんの、こんな所で」
と、麻美は顔を赤くして、少しトロンとした目で村松を見た。
「お迎えに来ました。朝が早いですから、明日は」
「ああ、そうだっけ。――じゃ、もう行く? それじゃ、またね」
「失礼します」
村松は、何とかうまく麻美を連れ出して、ホッとした。
「離れて」
と、麻美が言った。
「はい」
カメラマンがレンズを向けているのだ。村松はパッと麻美から離れた。
さすがに女優で、レンズが向くと、シャキッとして|微《ほほ》|笑《え》んで見せる。
「すみません、遅くなって」
と、|叱《しか》られる前に謝っておく。「車がもの|凄《すご》く混んで……」
エレベーターに乗る。――二人きりだった。
麻美は、扉が閉ると、チラッと村松をにらんで、
「何時だと思ってんのよ」
と、言った。「明日、起きられなくても、私のせいじゃないわよ」
「すみません」
「謝ったって、時間は逆戻りしない。でしょ?」
「そうです」
「全く……。どうしてあんたはこう時間にだらしがないの?」
村松は、黙っていた。麻美が時間に遅れるのは年中だが、この前村松が遅れたのは、三か月前だ。しかし、そんな理屈の通る相手じゃないのである。
ロビーまでが、えらく長かった。
「車が少し離れてるんです。待ってて下さい」
と、村松は言った。「すぐ持って来ますから」
「ふーん。いいわよ、いつまででも待ってるわ。明日の朝まで?」
麻美の皮肉を背に、村松は玄関から飛び出した。――車まで歩いてくれ、などと言ったら、またどう言われるか。
しかし、麻美が皮肉を言うのは、機嫌のいいときなのだ。村松は少しホッとしていた……。
6 心変わり
「おい」
開け放したドアから顔を|覗《のぞ》かせて、水島は声をかけた。
原は、机の前で何やらじっと眺めていたが、ドキッとした様子で振り向いた。
「何だ?」
「何だ、じゃないよ。呼んだのはそっちだろう」
と、水島は言った。
「ああ。そうだった」
原は、手紙らしいものを、手の中で握り|潰《つぶ》し、|屑《くず》かごへ捨てた。
劇団のオフィスである。原は、ちょっと|咳《せき》払いして、
「公演の本読みのスケジュールなんだが、大丈夫かと思ってな」
「俺かい? 別に予定はないぜ」
と、水島は言った。
「それならいいんだ。念のために確かめたくて」
原は|曖《あい》|昧《まい》に笑った。
「ふーん……」
何となく妙だ、と水島は思った。原は、余計な口をきかないタイプである。
それに、水島のスケジュールなら、原は当人以上によくつかんでいる。
「何かあったのか」
と、水島は|訊《き》いた。
「いや、別に」
「そうか。――ホテルSの方だけど、リハーサルはあるのか」
「一応前日の午後だ。ホテルが一番暇になる二時から四時の間にやるってことだ」
「分った。また教えてくれ」
「ああ、ちゃんと連絡する」
原は立ち上って、「帰るか。――お前、どうする?」
「帰るよ」
水島はオフィスを出ようとして、「そうだ、エリが捜してたぞ」
「俺を?」
「うん。さっき、いなかったろ」
「出かけてたんだ。何の用かな」
「さあ。まだいるかもしれないぜ」
「そうか」
原はオフィスを出て行った。
永田エリが原を捜していたのは事実である。しかし、エリはもう引き上げてしまっていた。
水島は、原が歩いて行く、重そうな後ろ姿を見送って、それから、さっき原が何かを捨てた屑かごを覗き込んだ。
くしゃくしゃにされた封筒。――手紙。いや、便せんは白紙で、写真が一枚、中に挟んであった。
もちろん、写真もくしゃくしゃになっている。水島は少しためらったが、写真をのばしてみた。
どうも、さっきの原の態度が、いつもの原らしくないのだ。何かを隠しているかのように見えた。
写真は――水島の顔を青ざめさせるに充分だった。
久仁子だ。それもつい最近。ヘアスタイルで分る。
一人ではなかった。男と二人でホテルから出て来るところ。間違いない。
久仁子は、少しうつむき加減で、寒そうに見える。そして男の方は――。
ピントが少し甘い写真だったが、よく知っている顔を見間違えるほどではなかった。何とも堂々としている。
「少しは遠慮しろ」
と、水島は言ってやった。
川北の|奴《やつ》……。いつの間に、久仁子に手を出したのか。
水島は、原の戻って来る足音で、写真をすばやくポケットの中へ入れた。そして封筒を元のように握り潰して、屑かごへ放り込んでやった。
「――もういないよ」
と、原は戻って来て、言った。「どうだ、帰りに一杯やるか」
「いや、やめとく。今日は家で晩飯を食べると言ってあるんだ」
「そうか。それはいいことだ」
「娘に忘れられたくないからな。たまにゃ顔を見せとかないと」
水島は笑って、「じゃ、明日、また」
「ああ」
先に外へ出て、歩き出す。
もちろん、もう夜になっていた。このところ、日が短い。
歩き出し、歩きながら、水島の内に、怒りが燃えて来た。我知らず、足どりが速くなる。
川北が……。久仁子を抱いている。あいつめ!
不思議と、久仁子への怒りは|湧《わ》いて来なかった。まだ、現実味がないのだろうか。
水島は、川北への怒りを、ともかくぎりぎりまで燃え立たそうとした。その時期が過ぎたら、怒りは少しおさまって来るだろう。
これまでの人生から得た、知恵である。
とことん行けば、後は冷えるだけ。
しかしクリスマス・イヴのイベントで、他ならぬ川北と顔を合せることを考えると、気は重かった。
足を止め、街灯の明りの下で、もう一度写真を見る。
初めて、自分の受けたショックの大きさを知った。足下の大地が崩れて行くような、無力感と、恐怖と、そして惨めさだった。
帰って、どうしよう? いきなり久仁子を殴りつけずにすむだろうか。牧子の前では、|罵《ののし》り合うようなことをしたくない。
しかし、何くわぬ顔で、「ただいま」と言えるだろうか……。
そのとき、水島はやっと考えたのだった。
原のところへこれを送って来たのは、誰だったんだろう、と。
五月麻美のマンションのロビーに入って行ったとき、村松はくたびれ果てていた。
今日は別に走って来たわけではなかった。タクシーでここまで来る間、少し眠っていたのだし。――要は気分的に参っていたのである。
特にこれから麻美と話さなければいけないことを考えると……。つい、インタホンのボタンを押す手も、ためらいがちになるのだった。
「――はあい」
眠そうな声で、麻美が出て来た。
「村松です」
「あら。入って」
何だ? 忘れてたのかな。今日来るってことを。
まあいい。――インターロックがカチッと音をたてて外れ、村松が扉を開けて中へ入る。
エレベーターで五階へ。
――次のドラマのスケジュールが、大幅に変更になった。それを麻美に伝えなければならない。
麻美が怒るのは分り切っていた。しかし、仕方がないのだ。ドラマの目玉は今、人気が急上昇しているアイドルで、麻美ではない。
そのアイドルのスケジュールに合せて、収録の予定が組まれることになってしまうのである。
麻美も、もう主役というより、主役の子の「お母さん」が合う年代に入っているのだ。しかし、当人はそう思っていない。
納得するまでにひと|悶着《もんちゃく》あるだろうな、と村松は覚悟していた。
――ドアが開いて、ガウンをはおった麻美が顔を出す。
「どうしたの?」
「いや……。打合せがすんだんで、回って来たんです。そういうことにしてありましたよ」
麻美は、ちょっと不思議な目で村松を見ていたが、黙って奥へ入って行く。村松は、玄関に川北の靴がないことに気付いていた。
「――寝てたんですか」
と、居間へ入って、アルコールの|匂《にお》いに顔をしかめる。
「オフですものね。――ね、あんた、会社へ寄って来なかったの?」
「ええ。アパートから直接局へ行ったんで……。何かあったんですか」
村松はアタッシェケースを開けながら、言った。
「うん……。社長とね、話をしたの」
「何です? 正月休みですか」
村松は、笑顔を作って、「映画がずれ込むと思いますけどね」
「あんたのことよ。あんた、クビよ」
――麻美はタバコに火を|点《つ》けて、ソファにゆったりと|寛《くつろ》いだ。ガウンの前が割れて、形のいい足がむき出しになる。
「何ですって?」
村松は、まだ笑っていた。
「川北とうまく行ってないって、どこかの記者にしゃべったでしょ。出てたわよ、スポーツ紙に。マネージャーM氏の話、ってね」
「しかし……。そんなこと言いませんよ!」
「じゃ、どうして出てるわけ?」
分り切っている。川北と麻美がうまく行っていないことぐらい、関係者は誰でも知っているのだ。
何しろ当の麻美がTV局で騒ぎを起こしたりしているのだから。しかし――村松としてはそうは言えない。
「分ったでしょ。そんなこと、ベラベラしゃべられちゃ、やってらんないわ。社長も怒ってたわよ。マネージャー失格だって。クビになるか、事務にでも回されるか、知らないけど、明日から別の人にするって。分ったら帰って」
麻美はアッサリと言った。
村松は、それが冗談でも何でもないのだと知って、青ざめた。
「――今ごろ青くなっても遅いわよ」
と、麻美は愉快そうに、「売れないアイドルの担当にでもなるのね。頑張って」
灰皿へギュッとタバコをひねり|潰《つぶ》す。村松みたいな男一人、ひねり潰すのは簡単なことなのだ。あのタバコと同じだ。
「じゃ、私、また寝るから」
麻美が立ち上る。――歩いて行く麻美を見ていて……村松の中で、何かが音を立てて切れた。
「何よ!」
いきなり腕をつかまれて、麻美は声を上げた。「何のつもり! 放しなさいよ!」
「黙れ!」
村松は怒鳴った。「あんたの|気《き》|紛《まぐ》れにここまで付合って来たんだ。クビ? ああ、結構だ。その代り、こっちが苦労した分、あんたから返してもらう」
「何よ、その口のきき方!」
麻美の平手が村松の|頬《ほお》に音をたてた。
村松は、もう抑えがきかなくなっていた。
麻美を突きとばし、声を上げてソファに倒れるのを見ると、飛びかかった。
助けを求める声は上らなかった。二人とも無言で、激しくもみ合った。|呻《うめ》き声、荒々しい息づかい。布の裂ける音。テーブルがけられて、引っくり返り、アタッシェケースの書類が床に飛び散った。
そして二人は、もつれ合うようにして、床のカーペットの上に転がり落ちた。
――そして、時間がたった。
どれくらい? 村松にはよく分らなかった。
一時間か、二時間か。
いや、ほんの十分くらいのものだったのか。それとも一晩たったのか……。
サイレンが聞こえて、村松は我に返ったのだ。――サイレン。パトカーだ。
|俺《おれ》を捕まえに来たのか。きっとそうだ。麻美が一一〇番して……。
しかし――そんなわけはなかった。今、麻美は村松の下に組み敷かれていて……。
麻美の手がのびて来て、村松の髪をかき上げた。
「あんたも男だったのね」
麻美が笑った。
そう。俺は……。五月麻美を自分のものにしたのだ。
何てことだ……。
「いいのよ」
と、麻美は言った。「すてきだったわ」
村松は、麻美の胸に顔を埋めた。スターが吐息を|洩《も》らす。信じられないようなことが起こってしまった。
「ね……」
麻美は、ゆっくりと体を起こして、「お腹空いたわ。何か食べに行きましょ」
村松は、戸惑って、麻美を見ていた。
「――どうしたの? どこか予約して。いいお店を。あんた、私のマネージャーでしょ」
村松は、あわてて起き上った。
「分りました。どこにします?」
「任せるわ。あなたのいい所で」
五月麻美は立ち上って、ガウンをひっかけると、「シャワー浴びて来る。あなたも後で浴びなさいよ」
「ええ……」
「その間に社長へ電話しとくから。やっぱりマネージャーはあんたでなきゃだめだ、ってね」
麻美が居間を出て行く。
村松は、しばし|呆《ぼう》|然《ぜん》と座り込んでいたが、やがて、手帳を取り出して、近くのレストランを捜し始めた……。
7 嫉 妬
冬になって、ほとんど初めての穏やかな一日だった。
風もなく、よく晴れ上って、日なたにいると、暖かいと感じるほどだ。ベンチに座っている久仁子も、快い日射しに身を任せている。
ここは団地の中のスーパーマーケット前。
最近のこういうスーパーは、たいてい前が広場のようにしてあって、子供を遊ばせておけるようになっている。今、牧子も幼稚園の帰りに、ここへ来て遊び回っていた。
久仁子は、じっと牧子を眺めている。――何を考えてるんだろう、自分は?
この生活に満足していないのか。夫と娘との三人の暮し。それが何よりも大切だと思っていないのか。
大切だとは思っている、確かに。しかし、それでいて、川北の誘いに逆らうことができないのだ。
夫も感づいている。久仁子には分っていた。
いつもと同じようにふるまってはいるが、時折、ふっと久仁子から目をそらしたり、考え込んだりする様子で……。久仁子にも、分るのである。
もう、やめなくては。どうせ川北にとっては遊びなのだ。――そう、牧子が近所の子と遊んでいるのと大して違わないのだ。
現に、川北は今、あの庄子ユリアとかいうアイドルと|噂《うわさ》されているし、当人も否定していない。それでいて、五月麻美とも切れたわけではない。
そういう男なのだ。分ってはいるのだが……。
誰かがやって来る。目の端で|捉《とら》えたその歩き方で、久仁子はそれが知っている人間だと分った。
「――ここにいたの」
永田エリが立っていた。
「エリさん……」
「久しぶりね。――かけてもいい?」
「ええ……」
「牧子ちゃんは?」
「あそこで遊んでる」
「ああ、あの赤いスカートの子? 大きくなったんだ!」
と、永田エリは目をみはった。
「いつも主人が――」
「何言ってんの。そんな堅苦しいこと、抜きにしよう」
エリの言い方は相変わらずだった。
久仁子も、つい笑ってしまう。
「そうそう。久仁子には、笑顔が似合うの。いつも演出家に言われてたでしょ。久仁子は笑ってるときだけは名優だって」
「そうだった」
「あんたの家へ行ったら、お隣さんがね、教えてくれたの。たぶん、ここだって。それでさ、私のこと知ってて。こっちがびっくり。『永田エリさんですか』って」
「そう?」
「|嬉《うれ》しいもんね。TVの端役でも沢山こなしてると、それなりに顔が売れて来る。――悪いことはできないけどね」
エリはそう言って笑った。そして――少し間があった。
「お話があるんでしょ」
と、久仁子は言った。「私と川北のことで?」
「まあね」
エリは、軽く息をついた。「水島さん、気が付いてるよ」
「知ってます」
久仁子は、両手を握り合せた。「悪いと思うんだけど……」
「川北もしょうがない|奴《やつ》だね」
エリは首を振って、「子供と同じ。他の子が持ってると、取り上げたくなる。以前自分のものだったとなれば、なおさらね」
久仁子は、牧子がこっちを見てるのに気付いて、手を振った。
「――このところ、会ってないの。このまま、終ってくれれば、と思ってる」
「でも、また誘われたら? あなたが拒む決心をつけなきゃだめよ」
と、エリが言った。
「ええ……」
「クリスマス・イヴには一緒に仕事をすることになってる。――まあ、そんなに長いこと顔を合せるわけじゃないけど、やっぱりご主人だって、辛いでしょ」
「エリさんも出るんでしょ?」
「出るっていっても、私は死体の役」
「まあ」
と、久仁子は笑った。
「楽してギャラが出りゃいいけどね」
と、エリは苦笑した。「でも――考えた方がいいよ、良く」
「ええ……」
久仁子は|肯《うなず》いた。
「川北は今、本当にあの何とかいうアイドルと?」
と、エリが|訊《き》いた。
「庄子ユリア。ちょくちょく会ってるみたい」
「そう。――こりないのね」
と、エリは言った。「遊んでるつもりで、利用されてるだけなのに。人気が出て来たら、もう川北のことなんか見向きもしないわよ、その子」
「そうでしょうね」
と、久仁子は言った。「あの――うちへ寄る?」
「ううん。もう行くわ」
エリは立ち上った。「これからロケがあるの。サスペンスものの殺され役でね。死体づいてて、やんなっちゃう」
と、笑って、
「じゃ、またね、久仁子」
「ありがとう。また遊びに来て」
「その内ね」
牧子がトコトコやって来た。エリは、
「こんにちは」
と、かがみ込んで、「憶えてるかな、おばちゃんのこと」
「TVで見たよ」
と、牧子が言った。「ね、ママ」
「そうか。ファンになってね」
と、エリは笑って牧子の頭を軽くなでた。
「じゃ、さよなら」
「さようなら」
牧子も手を振って、「――ママ、もう帰る?」
久仁子は、エリの後ろ姿を、ぼんやりと見送っていたが、
「――え? ああ、これから買物よ。冷凍食品買わなきゃいけないから」
と、立ち上った。「中でお手々を洗ってなさい」
「はあい」
牧子がスーパーへと駆けて行く。
久仁子は、ショッピングカーを引いて、その後から歩いて行った。
永田エリも、忘れられずにいるのだ、川北のことが。
劇団仲間から、話は聞いていた。しかも、もうずっと昔のことだと思っていたのだが……。
庄子ユリアのことを話しているエリの口調には、はっきり、|嫉《しっ》|妬《と》の響きが混っていた。
女同士。そういう点は敏感である。
エリさんまで……。妙なことだが、久仁子は永田エリがまだ執着していると知って、初めて川北と会ってはいけない、という気持になった。なぜ、と問われたら、どう答えていいか分らなかったかもしれないが。
「さて、買物だわ」
久仁子は、スーパーへ入ると、店内用のカゴを手にとった。
チャイムが鳴っていた。
ユリアはベッドの中で寝返りを打った。毛布が足に絡みついて来る。
またチャイムが鳴る。――誰か出てよ。こっちはね、裸なんだから!
頭を上げる。バスルームからシャワーの音が聞こえて来た。
そうか。ここはホテルの部屋で、一緒にいたのは川北竜一……。シャワーの音で、チャイムなんか聞こえないだろう。
聞こえたとしても、
「お前が出ろ」
と、言われるに決っている。
またチャイムが鳴った。ユリアは、渋々起き上った。ガウンを取って、素肌にはおる。
誰だろう?
スイートルームなので、リビングルームを通って行く。
「どなた?」
と、声をかけると、少し間があって、
「川北さんは?」
と、男の声がした。
「今、ちょっと――。いることはいるけど」
チェーンをかけたまま、細くドアを開けると、とてもその|隙《すき》|間《ま》からは全身の見えない、太った男が立っていた。
「原といいますがね」
「原さん?――ちょっと待ってね」
ユリアは、バスルームまで行って、ドアを|叩《たた》いた。もうシャワーは止まっていたので、
「何だ?」
と、川北が返事をした。
「原さんって人が来たわよ」
「そうか、待たしといてくれ」
「どこで?」
「中へ入れていい。昔なじみだ」
「ふーん」
ユリアは肩をすくめ、ドアまで戻って行った。チェーンを外してドアを開けると、
「入って。――今、シャワーなんです」
「分りました」
原という男は、チラッとユリアの胸もとへ目をやった。ガウンの胸もとが少し開いている。ユリアはギュッとかき合せて、
「かけて待ってて下さい」
と、言った。
「そうしましょう。――お邪魔して」
原は、ソファにドカッと身を沈めた。キュッとソファが悲鳴を上げる。
ユリアは、この男、何者かしら、と思っていた。何といっても、売り出し中のアイドルだ。もし、顔つなぎをしておいた方がいい相手なら……。
「何か飲みます?」
と、ユリアは訊いた。
原は、ちょっと面食らっていたが、
「じゃあ……コーラでも」
冷蔵庫からコーラを出し、ユリアはグラスに注いだ。
「や、どうも」
原は、意外と人なつこい笑顔になって、「庄子ユリアさんにこんなことをしていただくとはね」
「あら、ご存知?」
「当り前です。私は大した力もありませんが、ファンですよ」
「どうもありがとう。あの――もう来ると思います」
「昔、川北さんのいた劇団のマネージャーをしていましてね」
「劇団の?」
「知りませんか。そうかもしれない。もうずいぶん前ですよ」
と、原は笑って、「今じゃ、川北さんは大スターだ」
「スター……。そうね」
ユリアはチラッと奥のベッドルームの方へ目をやった。「昔から、川北さんってあんな風ですか」
原は、ゆっくりコーラを飲んで、
「『あんな風』という意味は?」
「あんな風に――女の子に手が早い、とか」
原はちょっと笑って、
「三つ子の魂百まで、ってね。病気ですね、あれは」
と、言った。
「そう……」
「|噂《うわさ》になってますね。ま、私は大丈夫。口は固い方です」
「私は駆け出しですもの。川北さんのおかげで、ずいぶん助けられましたわ」
ユリアの言い方は、過去形で、原もちゃんとその点を分っている様子だった。
「ある時点までは助けも必要。しかし、そこを過ぎると、|却《かえ》って重荷ってこともある」
原の言葉に、ユリアは|肯《うなず》いた。
「ええ、そう。そうなんです。でも――」
「彼の方は、相変わらずあんたを自分の持物ぐらいに思っている」
ユリアは、この一見パッとしない男に、興味を覚え始めていた。
「よくお分りね」
「長いことこういう世界にいれば、同じようなケースをいくつも見ますよ」
「何か……いい方法をご存知?」
ユリアは、綱わたりをしているような気分だった。今会ったばかりのこの男に、こんな話をしている。自分自身でも信じられなかった。
「いい方法……。つまり、適当な時点で切るための?」
「――そう」
と、ユリアは肯いた。
原は、少し違った目でユリアを見ていた。
「それはむずかしいですよ。タイミングをよほどよく見ないとね。怒らせたら大変だ。自信家は、恨みも忘れないもんです」
「そうでしょうね」
「戸板返しですね」
「え?」
「知りませんか。『四谷怪談』で、パッと戸を裏返す……。まあいい。あんたが浮かび上ると同時に相手が沈む。これが一番です」
原の言い方は淡々として、却ってユリアを引き込んだ。
「そんなことが……」
「可能か、と?――まあ、やってやれないことはないでしょう」
ユリアはバスルームのドアの開く音を聞いた。
「あの――電話下さい、夜中に。いい?」
原は肯いて、手帳を出した。
ユリアは引ったくるように手帳をとって、自分の電話番号をかきつけて返した。
「必ずかけてね」
と、低い声で。
「――やあ、久しぶりだな」
川北が、ガウンをはおって出て来た。「おい、シャワー浴びて来いよ」
「ええ」
ユリアは、ベッドルームへ入って行った。川北がそのドアをバタン、と閉める。
――正直なところ、ユリアは川北にうんざりし始めていた。
まだ、利用価値はあると思う。しかし、こうも川北の気まぐれに振り回されては……。
それに、いくら今のアイドルが男っ気なしでいる必要がないと言っても、限度がある。これでは単に「川北の恋人」で終ってしまう。
もう大丈夫。仕事も順調に入っているし、事務所でも川北との関係にいい顔をしていない。
ユリアはシャワーを浴びながら、大きく息をついた。
私はもう一人で歩けるんだわ。川北の助けなんかいらない……。もちろん、川北はユリアの方が夢中だと思っているし、そう思わせて来たのも事実だ。
でも……。あの原という男。直感だが、頼りになりそうだ、と思った。きっと電話して来るだろう。今夜にも。
ユリアは、今日は早く帰ろう、と思っていた。何かいいことが待っているかもしれない……。
「知ってる?」
と、五月麻美は言った。
「何です?」
机に向って、領収証の整理をしていた村松は、領収証の仕分けをする手を休めずに|訊《き》いた。
「何してんの?」
と、麻美はベッドから訊いた。
「明日、一番で精算しとかないと、|叱《しか》られるんですよ」
「ロマンのない人ね」
と、麻美は笑った。「それでなきゃ、困るけど」
「そうですよ。何しろ金にルーズなのは、いやなんです」
しかし、妙なものだ。村松とて、バスローブ姿で領収証を分けているのである。
「川北、ホテルSのイベントに出るのよ」
「ええ、聞きました。何であんなものにね。よっぽど払いがいいんでしょうか」
「あの子も引張り出すのよ。庄子ユリア」
「へえ」
村松は、麻美を見た。「本当ですか」
「イヴの夜を、あの子と二人で過そうってわけでしょ」
「じゃ、ホテルSにそのまま? やれやれ」
と、村松は苦笑した。
「ねえ、完ちゃん」
「何です?」
「私たちもどう?」
「どう、って?」
「イヴの夜にさ、二人で泊らない?」
村松は目をパチクリさせていたが、
「無理ですよ。パーティがあるし……」
「顔だけ出しゃいいんでしょ。少し遅い方が入りやすいし。――そこでバッタリ川北たちと会うってのも楽しいじゃない」
「今からじゃ、部屋なんかとれませんよ」
「とれるわ。私、あそこの支配人、よく知ってるの。私が頼めば大丈夫。いいわね」
「でも――もし本当に川北と会ったら、何て言うんです?」
「決ってるじゃない。『メリー・クリスマス』よ」
麻美がそう言って笑うと、手をのばして来る。
村松は、領収証を置いて、ベッドの方へと引き寄せられて行った。拒むことなどできない。
村松は、火に焼き尽くされる|蛾《が》のような気分だった……。
8 仮 面
「――ええ、イヴの日です。六時半。――塚田です。間違いないですね。――じゃ、よろしく」
電話を切って、塚田京介はボックスから出ようとした。ふと、思い付いて手帳を開く。
仕事の電話……。これはもう必要ない、と。こっちは明日でないと相手が帰って来ない。
そして……。
「よし、大丈夫だ」
と、口に出して言うと、肯いて、電話ボックスを出る。
塚田が出るのを待って、立っていた中年の女性が、彼の言葉を聞いたらしく、ニヤニヤしている。塚田は少し赤面した。
足早に、ラウンジに戻る。
ここはホテルSではない。あのホテルは、啓子と別れてから、何となく入りにくく、使わないことが多い。もっとも、クリスマス・イヴにはあそこに泊ることになっていたが、泊るとなれば別だ。
啓子と会うこともないし……。いや、もちろん、ホテルSのラウンジだって、啓子と出くわす可能性なんかゼロに等しい。それでも何となく避けてしまうのは、やはり啓子に対して後ろめたい気分が残っているからだろうか。
ラウンジの席に戻って行くと、婚約者が待っているのが見えた。
「やあ、今来たの? ちょっと電話してたんだ、ごめん」
塚田は、プラスチックの、少し座りにくい|椅《い》|子《す》をずらして腰をおろした。
「また二十分遅刻ね。ごめんなさい」
と、浅井由美は、いたずらっぽく笑った。
「いいさ。どうせ仕事の電話が色々あって……。ここじゃ落ちつかないだろ。どこかへ出ようか」
実際、今どきのホテルのラウンジなどというのは、表通りと変わらないくらい、やかましい。
「でも、今、注文しちゃったから、アイスティー。|喉《のど》もかわいてるの」
「そうか。じゃあ……。大丈夫。店の予約時間には充分間に合うよ」
と、塚田は腕時計へ目をやりながら、言った。
浅井由美は二二歳。今年大学を出たばかりで、勤めの経験もない。しかし、彼女の父親は、塚田の勤め先の大口取引先である大企業の部長で、見合いの話も、塚田の直接の課長から出たものだった。
いかにも世間知らずのお嬢さんで、由美と会っていると、塚田は、伊沢啓子と付合っていたときにいつも感じたような、「ひけめ」を覚えずにすむのだった。
由美がちょっと笑って、
「父がこの間言ってたわ」
「僕のこと? 何だって?」
「結婚式に遅刻して行ったら、罰金でも取られそうだな、ですって。父はね、時間に正確ってこと、|凄《すご》く気に入ってるのよ」
「そいつは|嬉《うれ》しいな」
塚田は正直に言った。「それくらいしかとりえがないからね」
「まあ」
と、由美は笑った。
アイスティーが来た。由美はそれを少し飲んで、ふと思い出したように、
「母に電話しなきゃ。忘れるとこだった」
「僕と食事するって?」
「それは言って来てあるの。式のお客のことで連絡が入ってるかもしれない」
由美が、少し急ぎ足で、ラウンジを出て行く。――塚田は、コーヒーを飲みかけたが、カップはもう空だった。
来春挙式。――その予定は、もう現実の計画として、動き始めている。結納もすませた。
ただ、由美をまだホテルへ連れて行くところまでは行っていない。あと一週間すれば、クリスマス・イヴ。
その夜には――。もちろん、由美も承知の上である。
塚田は、つい無意識に手帳をとり出して、今週の予定を眺めた。年末も近く、手帳は予定で埋っている。
その忙しさに、やれやれ、と|呟《つぶや》いてみるのが、快感でもあった。
そう。――一人になると、時おり啓子のことを思い出す。
あの子は賢明で、しっかり者で、いつも塚田をリードしていたし、その点で、塚田を安心させてくれる存在でもあった。
しかし、どこかで塚田は不満だったのだ。今思えば、男としての自負や自信を、啓子は感じさせてくれなかったのだ、ということになろうか……。
もちろん、満点の女などはいない。あの由美にしても、世間知らずで頼りないし、少々|苛《いら》|々《いら》させられることがあるのも事実である。しかし……。
「コーヒー、おつぎしますか?」
と、制服姿の女性がポットを手に|訊《き》く。
「え? ああ、じゃ、半分くらい」
カップが三分の二ほど満たされてから――。
「塚田君?」
と、その女性が言った。
「え?」
びっくりして見上げても、すぐには分らなかった。
「塚田君でしょ。ほら高校のとき一緒だった――」
制服の名札に、〈山内〉という文字を見て、塚田はやっと思い当った。
「そうか。あの……。バレーボールをぶつけた山内か」
「いやね。変なことばっかり憶えてる」
と、彼女は笑った。
山内――そう、山内みどりといった。高校生のころは、太っていて、|垢《あか》|抜《ぬ》けしない、「のろま」で、よく塚田はからかってやったものだ。
そのお返しで、バレーボールを顔に猛烈な勢いでぶつけられ、引っくり返ったことがある。
しかし今、その山内みどりは、スラリとして、いかにもホテルで働くキャリアウーマンというイメージに変身していた。それもウエイトレスの制服ではない。
「ずっとここで働いているのか」
「二か月前から。他のホテルにいたんだけど、引き抜かれたの」
「凄いじゃないか」
と、塚田は正直に感心していた。「見違えたよ」
「どうも」
笑顔の作り方も、ちゃんと訓練されたものだった。「塚田君はいかにもビジネスマンね」
「サラリーマンって言ってくれよ。しがない稼業さ」
と、塚田は笑った。
「ねえ、今――」
「うん?」
「ここにいた人……。あなたの知り合い?」
「彼女? まあね。どうして?」
「もしかして浅井っていわない? 浅井由美」
「そうだよ。君、知ってるのか、由美を?」
山内みどりの顔に、ちょっと複雑な表情が浮かんだ。
「山内君――」
「彼女、あなたの……」
「婚約してるんだ。来春式を挙げることになってる。――どうかしたのかい?」
それを聞いて、山内みどりの顔はパッとプロのそれに戻った。
「何でもないの。ごめんなさい。余計なことを。ごゆっくり」
「おい……」
山内みどりは、他のテーブルへと歩いて行って、
「コーヒー、お注ぎいたしますか?」
と、やっている。
由美が戻って来た。
「ごめんなさい。またあとでかけてみるわ。どこかへ出かけてるみたい」
「そう……」
由美は、息をついて、
「あと一週間でイヴか……。ね、レストランとかホテルとか、大変だったでしょ。よく取れたわね」
「ああ、色々コネを頼ってね。でもさっきもレストランに確認の電話を入れておいたからね」
「すてき。――ねえ、私たち……」
と、由美が、ちょっと目を伏せる。
「何だい?」
「イヴの夜は、ホテルSに泊るわけでしょ」
「うん、まあ……」
「何だか、怖いみたいだわ」
と、由美が|頬《ほお》を赤らめた。「でも――大丈夫よね」
「心配するなよ」
塚田は、由美の手を、そっとつかんだ。「ただ、君のお父さんとか――」
「父はニューヨーク。母は知ってるけど、大丈夫。今の子なら、しょうがないって笑ってるわ」
「なら安心だ」
と、塚田は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
そして――塚田の視線は、由美の肩越しに、ラウンジの奥へと流れた。――山内みどりが、振り向いて、塚田のほうを見ている。
そして一瞬目が合うと、山内みどりはパッと背を向けて、他のテーブルの間に、見えなくなってしまった……。
「やあ」
と、塚田は言った。「悪かったね」
山内みどりは、無言で、カウンターに並んで腰をおろした。
「もう勤務は終ったの?」
「ええ」
と、山内みどりは|肯《うなず》いた。
私服は地味で、年齢よりも落ちついて見える。
「私、水割り」
と、バーテンに声をかけて、「――呼び出したりしちゃ、いけなかったわ」
「なぜ?」
塚田は、少し厳しい表情の、みどりの横顔を見ながら、「昼間の君の様子がどうしても気になってさ。彼女を自宅へ送って、それからここへ回ったんだ」
「来るんじゃなかった」
と、みどりは言った。
「どうしてさ」
「いいことないわよ、私と話したって」
と、みどりは言った。
「――浅井由美を知ってるんだろ」
「ええ」
「それで?」
しばらく間があった。山内みどりは、水割りのグラスを、一気に空にした。
カタッと音をたてて、カウンターに空のグラスが置かれる。
「私はホテルの専門学校へ通ってたの」
と、みどりは言った。「たまたま知り合った大学生のグループがあった。その中の一人の女の子と気が合って、親しくなったのよ。その子はその大学の助教授と付合ってた。なかなかハンサムでね。女子学生に人気もあったけど、|真《ま》|面《じ》|目《め》な人だったのよ。もちろん独身で、彼女とは七つ八つ、年齢が離れてたけど、将来は結婚しようってことになってた……」
「それで?」
「ある日――彼女、急に休講があって、時間が空いたんで、その助教授の研究室へと行ってみたのよ。そしたら……」
みどりは、空のグラスを、カウンターの上で滑らせた。「ソファで、女子学生とその助教授が……」
塚田は肯いた。
「|可《か》|哀《わい》そうに」
「その女の子は、出席が足らなくて、単位が危ないのを、家に知られたくなかったのよ。それで、その助教授に――。|可《か》|愛《わい》い子だったし、先生の方もつい、ってわけね。でも、見せられた彼女の方はショックで……」
「そりゃそうだろうな」
「自殺未遂を起こして、ノイローゼで退学したの。今はアメリカに行ってる」
と、みどりは言った。「後で聞くと、その女子学生は、その助教授が初めてってわけじゃなかったのね。大学の中じゃ、結構知れ渡ってたって……。私、その子を見に行ったの。頬っぺたの一つもひっぱたいてやりたくて。でも――実際はやらなかったけどね」
再び、長い間があった。
塚田は、もう分っていることを、|訊《き》いた。
「その助教授を誘惑した女子学生が……」
「浅井由美。――あなたのフィアンセよ」
みどりは、ため息をついた。「今さら、どうしようもないでしょ。学生時代のこと持ち出して、婚約解消なんてできないでしょ」
「うん。会社の上司のすすめてくれた話だ」
「だから、言いたくなかったのよ。でも、訊かれれば、話さないわけには――」
「分ってる。いいんだ」
塚田は肯いた。
「あなただって、過去に何もなかったわけじゃないんでしょ。結婚するって決めたからには、忘れるしかないわ。そうじゃない?」
「うん。――ありがとう。そうするよ」
「ね。学生時代に遊んだ子は、いい奥さんになるって話もあるわ。――ここ、いいわよ。私、払っとく」
みどりの勤め先のホテルのバーである。
しかし、塚田は、
「そんなわけにゃいかないよ。僕の方の用で呼び出したんだ。ちゃんと払う」
と、言った。
「そう。じゃ、ごちそうになるわ」
みどりは、あえてこだわらなかった。「じゃ、また。――その内、会うこともあるかもね」
みどりが、塚田の肩を軽く|叩《たた》いて、行きかける。
「――なあ」
と、塚田が言った。「君、恋人、いるのか?」
「私?」
みどりは、ちょっと目を見開く。――その顔に、学生時代の面影を、塚田は見た。
「今は忙しくて。こんな時間帯の仕事でしょ。恋してる暇もないわよ」
山内みどりは、そう言って笑うと、バーを出て行った。
塚田は、もう空になっている自分のグラスを、じっと見下ろしていたが、やがて、
「もう一杯、同じのを」
と、注文した。
無表情な声だった。
9 屈 折
夜中の一時に電話が鳴った。
こんな時間の電話は、佐々木からに決っている。――啓子も、そろそろ寝ようかと思っていたところで、すぐに電話に出た。
「はい。――もしもし。――佐々木さん?」
向うが黙っているので、啓子はちょっと心配になった。
「君か……」
低い声だったが、すぐに分った。
「塚田君……。あなた――」
「佐々木って誰だい? いや、別に誰だっていいけどさ」
と、塚田は笑った。
「あなた、酔ってるのね」
「少しね。ただ……君がどうしてるか、気になってさ」
「私は元気よ」
「そう。――そりゃ良かった」
塚田は、くたびれたような声を出した。「いや、君に悪いことしたと思ってたんだ。僕のことを恨んでるんじゃないかと――」
「やめて。終ったことでしょ」
と、啓子は言った。「もうお互いに忘れるべきでしょ」
「うん……。そうだ。君はいつも正しいことを言う子だよ。君はいつも正しかった。いつもね……」
「塚田君。――夜中よ。もう切るわ」
「分ってる。ごめんよ」
と、塚田は早口で言った。「君にはね、ぜひ幸せになってほしいんだ。本当だ。それだけは言いたかったんだ」
啓子は、塚田の声に、低い|呻《うめ》きを聞きとったような気がした。
「塚田君。いつかの人と、うまく行ってるの?」
「え?――ああ、彼女かい? 元気だよ。うん、うまく行ってるとも。来年の春、結婚なんだ」
「そう。おめでとう」
「ありがとう。本当にね……。おめでたい|奴《やつ》さ、僕は」
塚田が笑い出した。
「もしもし。大丈夫なの?」
「うん……。いいんだ。僕がどうなっても、自業自得さ」
「塚田君――」
「じゃ、悪かったね。こんな時間に。おやすみ」
「おやすみ……なさい」
もう、電話は切れていた。
塚田は泣いていたのだろうか? 笑いながら、その声は自分を笑っていた。
何かあったのだろう。――あの「彼女」とのことで。
でも、もう私には何の関係もないことだ。
そうよ。あっちが私から離れて行ったんだもの。
それでも、もちろん塚田に同情する気持はなかったものの、啓子は彼のことを全く気にしないわけにも、いかなかった……。
何があったんだろう?――塚田は今、糸の切れた|凧《たこ》のように、風のままに漂っている。
それが啓子には、よく分った。
「やっと会えましたね」
と、原は言って、大きな体を、|可《か》|愛《わい》いピンクのカバーをかけたソファに沈めた。
「ともかく一人になる時間がないんですもの」
と、庄子ユリアは言った。「何かお飲みになります?」
「いや、表で散々飲んで来たのでね」
と、原は首を振った。「大丈夫ですか、川北竜一の方は」
「彼は明日、仙台で舞台|挨《あい》|拶《さつ》」
と、ユリアは言った。「私にも一緒に来い、って言ってたんですけど、仕事が入ってる、って断っちゃった。|嘘《うそ》じゃないから、大丈夫」
ユリアの、小さなマンションである。
華やかなアイドルといっても、大した給料をとっているわけではない。
「長居はしません」
と、原は言った。「お話を伺いましょう」
「いつか、おっしゃったでしょ。その――川北と切れる方法がある、って」
ユリアは、神経質そうに、手にしたブラシをいじっていた。
「危険は伴いますよ」
と、原は言った。「それに、問題はあなた自身の気持です」
「どういう意味?」
「川北に、少しでも未練があるのなら、やめた方がいい。もう完全に縁を切って、彼がどうなろうと構わない、という決心がついていない限り、同情する気持のひとかけらがあっても、失敗しますよ」
アイドルは、この世界の裏を知り尽くしたようなこの男を、じっと見つめていた。
川北のいた劇団のマネージャーだった男。ユリアが言ったことを、川北へ告げ口しないと、どうして分るだろう?
しかし、直感的に、ユリアはこの男を信じたいと思っていた。
「平気です」
と、ユリアは言った。「川北がどうなろうと。もううんざりしてるんです」
「なるほど」
と、原は|肯《うなず》いた。「では、やりようもあるでしょう」
ユリアは、表情の全く読みとれない、この太った男をじっと見つめて、
「力になって下さる?」
と、|訊《き》いた。「もちろん、お礼はします。あなたのご希望は?」
原は黙っていた。
ユリアは、ちょっとためらってから、
「お金でも……。私のこと――私の体でもいいわ」
原はニヤリと笑った。
「自分のことはよく分ってますよ。お言葉だけで結構」
「でも……」
「あなたのような若い娘を満足させられる自信もありませんしね」
と、原は言った。「こういう話のときは、相手が切り出すまで待つんです。そうでないと、自分が弱い立場になる」
ユリアは、この不思議な男を眺めていた。
「来週はイヴだ」
と、原は言った。「川北は、ホテルSのイベントに出る。あなたもね」
「ええ……。そのまま泊ろうって。頭痛がするって、逃げて来ようかと思ってるんです」
と、ユリアは口を|尖《とが》らした。
「いや、言われる通りにしておきなさい」
と、原は言った。「イヴの夜がチャンスです。――色んなことが起こる夜だ。何があってもおかしくない。そうでしょう? 終りのない夜、とでも言いますかね」
「何が起こるんです?」
「まあ、私に任せて下さい」
原は、大きく息をついた。「うちの劇団の人間が二人出ます。スケジュールは全部つかんでいる。――ただ、あなたといつ連絡できるか、ですね」
「ここに来て下さって構いません。川北は決してここに泊らないわ。夜中なら、たいていここにいます」
「この一週間のスケジュールを、見せて下さい」
ユリアがノートを取って来て、原に差し出す。原はしばらくそれを眺めていたが、パタッと閉じて、ユリアへ返し、
「殺人的だな、正に」
と、笑った。「いいですか、この一週間、川北に逆らったりしないように。甘えてみせるんです。そうすりゃ、ああいう男は、すぐつけ上る」
「分りました」
「では――」
と、原は重そうに体を持ち上げると、「またお会いしましょう」
「待ってますわ、連絡を」
原は首を振って、
「あなたは、あまり知らない方がいい。後で何も知らなかった、ということにするためにもね」
と、言った。「では、おやすみなさい」
原は、静かに出て行った。
「不思議だな」
と、村松は言った。
「何が」
五月麻美が後ろの座席で、面倒くさそうに言った。
村松はチラッとダッシュボードの時計を見た。――大丈夫。TV局に十五分前には着ける。
赤信号で停っていると、横断歩道を渡って行く、セーラー服にコート姿の女学生たちの一団が、麻美に気付いた。
みんな口々に何やら騒ぎながら、車の中を|覗《のぞ》き込んでいる。
信号が変わって、車が走り出すと、女学生たちが手を振った。麻美も手を振り返してやると、またキャーキャー騒いでいる。
「――私も、あんなころがあったのね」
と、少ししてから、麻美は言った。「スターに憧れた時代。大人の汚ない世界も、何も知らない時代がね」
「今だって若いですよ」
と、村松が言うと、麻美は笑って、
「今さらセーラー服の役はできないでしょ」
と、ため息をついた。「一瞬の内に過ぎ去っちゃうわね、若さなんて。――ね、完ちゃん」
「はあ」
「さっき『不思議だ』って言ったのは、どういう意味?」
「ああ……。いや、大したことじゃないんです。川北のこと、どうして手を切らないでいるのかと思って」
「あら、やきもち?」
と、麻美は楽しげに言った。
「違いますよ」
村松は少し赤くなった。「ただ――もうちっとも未練なんかないみたいに見えるもんですから」
「お互いにね」
と、麻美は肯いた。「私も、もう川北には飽きたし、川北はあの子に夢中」
「庄子ユリアですか。いい加減、事務所の方じゃ迷惑顔みたいですよ」
「川北はそう思ってない。そういう男よ」
「他にもいるらしいですしね、女が」
「知ってるわ。昔いた劇団の女ね。――ね、完ちゃん」
「はあ」
「今、私が川北と別れたら、世間にはどう見える? 今は悔しいけど川北の方が売れてるわ。私の方がずっと年上。私が川北に捨てられたと見られる。そんなのごめんよ」
スターのプライドが、少し強い口調に出ていた。「特に、あんな女の子に取られた、なんて週刊誌に書かれたら、冗談じゃないわ」
「そうですね。しかし――このまま、放っとくんですか?」
麻美はそれには答えず、
「そうだ。完ちゃん、クリスマス・イヴは空けてあるんでしょ?」
「はあ、一応……」
「いいのよ。もし彼女でもいるんだったら、そっちへ行っても」
「そんなの、いませんよ」
と、村松は苦笑した。
「じゃ、ホテルSに付合ってね」
「取れたんですか」
と、びっくりして|訊《き》く。
「もちろんよ」
無理を通すことに慣れた、スターの言い方だった……。
10 役 者
水島は、ポカポカと日の当る席に座って、ウトウトしかけていた。
外は結構寒いのだ。当然だろう。いくら天気が良くても、冬、もうすぐクリスマスである。
出番待ちである。――二時間ものの、いつものサスペンスで、水島の役は例によって、「怪しい奴」。犯人なのかどうか、自分でも知らない。ひどいもので、シナリオが上っていないのだ。
「だから犯人にも、そうでないようにも見えるように|演《や》ってくれ」
と、無茶なことを言われている。
まあ、こんな役をやるのも生活のため。
何といっても、水島はスターではない。細かいギャラの積み重ねだ。
「まだかな……。本当に眠っちまうぞ」
と、水島は|呟《つぶや》いた。
この喫茶店で待っていれば、呼びに来てくれることになっている。もちろん、セリフは頭に入っていた。大した数ではない。
それでも、舞台を知らない若いタレント相手だと、向うが年中セリフを忘れるので、うんざりすることがある。
一体、役者のプライドや責任感はどこへ行ってしまったんだろう? トチることは、誰にもある。それが恥でなく、むしろ笑いの種になったりする。
水島のように、好きで役者をやっている人間には、理解できないことである。
腕時計を見た。もう四十五分も待たされている。
見当はつく。大方、階段を駆け上るシーンで、主役の女の子が転んでけがでもしたか、貧血でも起こしたか……。
ま、いいや。こっちは夕飯までに帰ればいいんだ。
「水島さん」
と、声をかけられ、目をパチクリさせる。
どこかで見たような顔だ。
「〈週刊××〉の草間です」
見るからに飲みすぎて肝臓を悪くしたという顔色の男だ。
「ああ、どうも」
「ちょっと、いいですか」
水島のことを役者として気に入っているらしく、小さな記事ながら、ちょくちょくとり上げてくれる。
「ええ。出番待ちで」
「今見て来ました。例のアイドルがヒステリー起こしてましたよ」
と、草間は笑った。
「やれやれ。じゃ、今日は中止かな」
と、水島は苦笑した。
「ちょっとね、お話が……。先に耳に入れとこうと思いまして」
と、草間が身をのり出す。
「何です?」
「奥さんと川北竜一のことです」
水島は、一瞬、体がスーッと冷えて行くような感覚を味わった。
「――事実ですか」
と、草間は言った。
ウエイトレスがやって来て、
「ご注文は……」
と、間のびした声で言った。
「ミルク」
「は?」
「ミルク。牛乳だよ。ぬるくしてね」
「はい……」
ウエイトレスが、面食らったような顔で、伝票を持って行く。
「否定してもしょうがないな」
と、水島は言った。「何かつかんでるんでしょ?」
「写真がね。投稿です。全く、妙な趣味の人間がふえたもんです」
「それで……。記事にするんですか」
と、水島は投げやりな口調で言った。
「幸い、僕しか見てないんでね。今のところ、編集長は知りません。そのまま握り|潰《つぶ》しても、と思ってます」
「そうしてもらえると……。川北はどうってことなくても、うちはめちゃくちゃになる」
「ええ。しかし、川北もその内、自分で墓穴を掘りますよ。あんなことばっかりしてちゃ」
と、草間は首を振った。
「確かに、一時、女房と川北が付合っていたのは事実です。でも、このところ会ってないはずですよ」
草間は、ちょっと言いにくそうに、
「送られて来た写真は、先週のものでしたよ」
水島の顔から、血の気がひいた。
草間は、ミルクが来ると、一口飲んで、
「ぬるく、って言ったのに……。冷たいままだ。――水島さん。うちはとりあえず押えときます。しかし、あの写真を送って来た人間は、うちに載らなかったら、よそへ送るかもしれない。そっちが載せたら……。うちも記事にしないわけにはいきません。その辺は分って下さい」
水島は黙って|肯《うなず》いた。
「水島さん。お願いします!」
と、入口の扉を開けて、アシスタントが呼んだ。
水島は立ち上った。自分の分の代金を置くと、
「わざわざありがとう」
と、言って、足早に喫茶店を出て行った……。
正直なところ、水島は何もかも投げ出して帰ってしまいたかった。
帰る?――しかし、どこへ帰るんだ。
他の男に抱かれている女房の待つ「我が家」へか。
|苛《いら》|立《だ》ちはつのった。何もかも、気に入らなかったのである。
ビルの谷間は、凍えるような風が吹き抜けて行く。もう水島はその寒風の中に二十分も突っ立っている。
満足のいく仕事のためなら、何時間だってここに立っていてやる。しかし、今の仕事は……。
待たされているのは、主役のアイドルスターが、
「風で髪が乱れる」
と、文句を言い出したせいなのである。
やり切れないよ、全く!
水島は、上着のえりを立てて、首をすぼめた。
もちろん――ついさっき聞いた草間の話のショックも、尾をひいている。当の川北と、クリスマス・イヴには共演しなくてはならないのだし。
それを考えると、気が重くならない方が不思議だ。
「悪いね、水島さん」
と、ディレクターが声をかけて来る。「あと四、五分だと思う」
「いいですよ」
と、顔をひきつらせて笑って見せる。
ここで腹を立てて帰る、なんてことは、水島のような売れない役者に許されることではないのだ。
水島は、立ち並ぶ高層ビルを見上げた。そういえば川北と仕事をするホテルSもこの近くだったな。
何くわぬ顔で、あいつは話しかけて来るだろう。握手さえして、さも旧友に会えて|嬉《うれ》しい、というように。
あれは、そういう|奴《やつ》なのだ。
しかし、会えばカッとして我を忘れそうだった。殴りつけずにすむだろうか?
水島にも自信はなかった。もし、そんなことになったら……。劇団そのものが迷惑する。
そうだ。原に言って、誰かと替ってもらおう。
当日になって、
「風邪をひいて」
とでも言えばすむことだ。
そうした方がいい。水島はそう思った。
「あの……」
若い女性が――女子大生だろう――声をかけて来たので、水島は当惑した。道でも|訊《き》かれるのかな。
「はあ?」
「水島雄太さんでしょ?」
水島は、面食らった。
「ええ、まあ……」
「よく拝見します、お芝居。水島さんと永田エリさんの。今日は何かの撮影なんですか?」
「まあね。TVのサスペンス物です。アルバイトみたいなもんですよ」
と、水島は照れながら言った。
「でも、水島さんが出られてたら、ほとんど見てるんです。大変ですね。寒いのに。頑張って下さい。――どうもすみません、いきなりこんな話を」
「いや、どうも……」
その若い女性は、足早にホテルSの方へと歩いて行った。
水島は、ポカンとして見送っていたが……。
「お待たせ! じゃ、いいかい?」
と、いうディレクターの声で、我に返った。
「ああ。――もういいのかい?」
「何とかね。なだめすかして。うまく合せてやってくれ」
ディレクターが、ポンと肩を|叩《たた》いて行く。
水島は、さっきの女性の言葉を思い出していた。
水島さんが出られてたら、ほとんど見てるんです……。
そんなファンもいるのだ。――水島がやっているから、同じ犯人役でも、どこか違うだろう、と期待して見ている人が。
アルバイトみたいなもの……。
そう言った自分を、水島は恥じた。
俺は役者なのだ。そしてここで演技をしなくてはならないのだ。熱いものが、水島の内に燃え立って来た。寒さが、気にならない。
水島は、イヴの夜の仕事を、他人に任せようとは、もう思わなくなっていた。
その少女は、校門を出て、ぶらぶらと歩き出した。
のんびり歩くには寒い日だったけれど、急いで帰っても、することがない。少女は一人だった。
いつもなら、友だちと三、四人で連れ立って帰るのだが、今日は先生から少々「お小言」をくらっていて、遅くなったのである。
この間の期末テストの結果が、とても誉められた出来じゃなかったので、|叱《しか》られてもしょうがない。親に直接通知が行くよりは良かった。
中学二年生。――その年齢にしては、少女はスラリとして背も高く、それでいて、やせっぽちじゃない。女らしい、ふくらみのある体つきになっている。それも、不自然でない程度で、バランスがとれていた。
近所の男子校の高校生が、ジロジロとこっちを見ながら、通り過ぎる。少女は、見られることに慣れていた。
自分が|可《か》|愛《わい》いことを、よく知っている。先生だって、たぶん自分では分っていないだろうが、他の子に対するよりも、彼女には甘い。
そう。私は可愛いのよ。
可愛いんだから、何だって許される。――そこまでではなくても、少女は、大人の機嫌を、巧みに操るすべを、心得ていた。
毎日が不満だった。
私は可愛いのよ! それなのに、どうして数学の定理だの公式だの、憶えなきゃいけないの?
少女は、少し口を|尖《とが》らして、空に近い、軽い|鞄《かばん》を振り回しながら、歩いていた。
いつかの男の人……。私に、声をかけて来た人。
「君はスターになれるね」
あの人は、そう言った。
どうしてあの男の人の名刺でも、もらっておかなかったんだろう。――後になって、何度も悔んだ。
友だちが一緒だったから、つい、逃げるように来てしまったが、一人でいるときだったら、きっと、喜んで話を聞いただろう。
あの男の人……。太って、動くのも面倒って感じだったけど。
でも、いかにも「そういう世界」の人らしかった。
――少女は足を止めた。
風が、スカートを巻いて流れて行く。
まさか……。でも、きっとあの人だ!
その男の方も、すぐに少女を見分けた様子だった。車にもたれて立ったまま、ちょっと手を上げて見せる。
少女は歩いて行った。
「――やあ」
と、その男は言った。「憶えてるかな、おじさんのことを」
「ええ」
「そりゃ嬉しいな」
と、男は笑った。「今日は一人?」
「うん」
「友だちは?」
「先に帰ったの。私――先生に叱られてた」
と、少女はちょっと舌を出した。
「おやおや、何か悪いことでもしたのかな?」
「そうじゃないの。ただ、この間のテストの点のことで」
と、少女は言った。「おじさん……何してるの?」
「もちろん」
と、男はちょっと|眉《まゆ》を上げた。「君を待ってたんだよ」
車のドアを開ける。
大丈夫かしら、乗っても? どこか人のいない所へ連れて行かれて、乱暴されて……。
そんな記事、いくらも出ている。
「家まで送るよ」
と、男は言った。「その途中で、話をしよう」
「うん」
少女は|肯《うなず》いて、すぐに車に乗り込んだのだった……。
11 リハーサルの日
電話がかかって来たとき、水島は風呂から出たばかりだった。
「――あなた」
と、久仁子が呼んだ。「お電話」
「誰だ?」
「草間さんっていったわ」
「草間。――そうか」
水島は、裸で、バスタオルを腰に巻きつけただけだ。
「後で、かけますって言う?」
「いや、すぐすむ」
水島は、その格好のまま、電話に出た。「――もしもし。ああ、どうも。――そうですか。――いや、仕方ないですよ。――いつの号です?」
すぐに話は終った。
「あなた。何だったの?」
「いや……」
水島は、曖昧に首を振って、「牧子は?」
「もう寝たわ」
「そうか」
――水島は奥へ入って行った。
久仁子は、夫の様子が、どこかいつもと違っていることに気付いていた。
確かに、クリスマス・イヴの仕事はもうあさってに近付いている。明日はリハーサルだと言っていた。そこで、夫は川北と会うことになる。
久仁子は、夫が何か言い出すだろう、と分っていた。
何と言われても仕方ない。|一《いっ》|旦《たん》思い切ったつもりでも、また川北の誘いに乗ってしまう。
自分が、つくづく情なかった。
「風呂へ入らないのか」
と、パジャマ姿の夫が戻って来る。
「入るけど……。一息入れてるの」
見たくもない夕刊を手にとる。
「そうか」
水島は、大きく息をつくと、「――久仁子」
と、言った。
「なに?」
「引越すか」
久仁子は夫の顔を、まじまじと見た。――無表情で、|捉《とら》えどころがない。
「どういうこと?」
「年明けの週刊誌が、記事をのせる」
と、水島は言った。「川北と、その愛人の写真入りで。たぶん、お前の名前も出るだろう」
久仁子の手から新聞が落ちた。
「団地で当然評判になる。幼稚園でも、その話が出るだろう。――お前が普通の主婦ならともかく、|俺《おれ》の女房だ。どうしても名前を伏せるってわけにゃいかないそうだ」
水島は、淡々と言った。「ここに居るのも|辛《つら》いだろう、そうなったら」
「あなた……」
「先のことは、また相談しよう。離婚したきゃ、それもいい」
久仁子は顔を伏せた。水島は続けて、
「ともかく、年が明けるまで間がある。その時間を、有効に使おう。暮れ間際で、みんなバタバタしてる。その間に引越しちまえば、何が何だか分るまい。金のことは、何とかする」
水島は立ち上った。「――引越し先を、探しといてくれ。そういうことは、お前の方が得意だ」
「あなた」
「先に寝る。おやすみ」
水島が行ってしまうと、久仁子は体中の力が抜けてしまったかのようで、ぐったりとソファに身を沈めた。
何ということをしてしまったんだろう?
夫を愛していて、子供と、三人の家庭が何より大切と分っていながら……。
久仁子も、子供ではない。川北のせいにできないことは、分っていた。あくまで、その誘いを拒み切れなかった自分の責任だ。
しかし――もう、はっきりと、久仁子は分った。
自分にとって、夫こそが大切なのだということを……。
もう遅すぎるだろうか?
久仁子は両手で顔を覆って、声を殺して泣き出した……。
「――もう四時だ」
と、水島は言った。「どうする?」
「そうね」
永田エリは首をかしげて、「ホテルの方はどうなんですか?」
「いや、どうも……」
と、担当の佐々木は困り切った様子で、「昨日も、ちゃんと確認の電話を入れておいたんですがね」
ホテルの中の会議室が、〈ミステリー・ナイト・イヴ〉の控室になっていた。
水島と永田エリは、午後三時ちょうどにやって来た。他にエキストラが数人。――ところが、肝心の川北が現われない。
ドアが開いて、佐々木の部下が息を|弾《はず》ませて入って来た。
「どうだ?」
「まだです。TV局にも連絡してるんですが――」
「事務所は?」
「誰も出ません」
永田エリが言った。
「私はね、死体の役だから、別にリハーサルなしでも構わないけど、他の人は困るんじゃないですか?」
「そう。特にシナリオが変わってるからな。庄子ユリアを出すので、無理に筋を変えてあるし」
と、水島は言った。「庄子ユリアもまだだな」
「当然、一緒でしょ」
と、永田エリが苦々しげに言った。
「そうだな……」
水島は|肯《うなず》いた。――いや、そうじゃないかもしれない。一緒なのは、他の女かもしれないのだ……。
「仕方ない、二人抜きでやりますか?」
と、佐々木が言った。
永田エリが反対した。
「川北竜一が来たら、きっと細かい部分を色々変えるわ。それをまた憶えるのは大変よ」
確かにそうだ。――みんな黙り込んでしまった。
すると、急にドアが開いて、その川北と、その後ろに庄子ユリアが立っている。
「やあ、待たせたね」
と、川北は明るく言って、「何しろ車が混んでさ。――やあ、水島」
水島は黙っていた。ニッコリ笑って会釈できるほどは、人間ができていない。
「エリ。久しぶりだな」
と、|馴《な》れ|馴《な》れしく肩に手を置く。
「プロは遅れないものよ」
と、エリは言った。
「厳しいね、相変わらず。――ああ、ともかく熱いコーヒーを一杯。ユリア、君は?」
入口の辺りにじっと立っていたアイドルは、
「何でも……。じゃ、ジュースを」
と、控え目に言った。
佐々木が急いでコーヒーとジュースを用意させる。
そして、長テーブルの上に図面を広げると、「ここが事件の起きる二五階です」
「どの部屋で、私は死んでりゃいいわけ?」
「この角のスイートルームです」
佐々木が図面の中の一部屋に印をつける。
「スイートね!」
と、エリが大げさにため息をついた。「生きた人間で、泊りたいわ」
笑いが起きた。
「で、段どりとしては?」
と、水島が図面を|覗《のぞ》き込んだ。
川北は、大して関心なさそうに図面をぼんやりと見ており、ユリアの方は、まるで別のことに気をとられている様子だった。
――リハーサルの打合せは、奇妙な雰囲気の中で、始まった……。
伊沢啓子は、ホテルのラウンジにいた。
佐々木と待ち合せていたのだが、大分時間がずれているので、遅くなりそうだという連絡があった。
別にあわてることもない。啓子は、のんびりとコーヒーを飲んでいた。
もちろん、ここでも啓子のことはみんな知っているので、コーヒーなど、ちょうどいれたてのを持って来てくれるのだった。
明日、啓子はここへ泊ることになっていた。
もちろん佐々木が一部屋とってくれたのである。
イヴの夜など、あのイベントがなくても、目の回る忙しさらしいから、たとえ佐々木が啓子の部屋へ来たとしても……。
でも……そうだろうか?
部屋をとった以上、佐々木もそのつもりなのか。
もしそうだったら?
しかし、佐々木なら、はっきりと啓子の意志を|訊《き》くだろう。
もし訊かれたら、何と答えるだろう?
啓子は、考え込んだ。――イヴの夜に、なんて、あまりに俗っぽいような気もするけれど、他人のことなんか関係ないと思えば……。
そう。もういい時機かもしれない。
そのときの気持で、自然にそうなるのだったら……。そうなってもいい。
啓子は、ゆっくりと香ばしいコーヒーを飲んだ。
誰かがそばに立っているのに気付いて、見上げた。
「塚田君」
あのときみたいだ。そう思った。
「何となく、君がいそうな気がしてね」
と、塚田京介は言った。「かけていいかい?」
あのときは、座らなかったのに。反射的に、啓子はラウンジの入口を見ていた。
「今日はいないよ、彼女」
と、塚田は言った。
「どうぞ」
塚田は、向い合って座ると、
「早いもんだね」
と、言った。「でも、あれから何年もたってるような気もするんだ」
確かに、塚田は急に老け込んでいるように見えた。
「すんだことだわ」
「そうだね。――待ち合せ?」
「ええ」
「僕は仕事の途中。明日の予約を確かめに来たんだ」
と、塚田は言って、オーダーをとりに来たウエイトレスに、「すぐ行くから」
と、手を振って断った。
「あなた……明日、ここに泊るの?」
「うん。奇跡的に部屋がとれてね」
「良かったわね。彼女と?」
「そう。――あの子とね」
塚田が目をそらした。
啓子は、自分でも気が付かない内に、口を開いていた。
「塚田君。うまく行ってないのね、彼女と」
「え? いや――そうじゃないよ。あの子の父親は大企業の重役だし、僕のことを気に入ってくれてる。それに、結婚式はうちの社長も出るんだ。こんな平社員の式にさ」
「でも……肝心の彼女はどうなの?」
塚田は肩をすくめた。
「見かけ通りってことはないさ、誰だって。そうだろ? 君は――君は例外だったね。今になって、よく分った」
傷ついている。打ちのめされていると言ってもいいくらいだ。
何もかも、適当にうまくこなして来た人間だ。たぶん、初めて、「幻滅」を知ったのだろう。
「塚田君」
と、啓子は言った。「どんなにいい家のお嬢さんか知らないけど、当人がどうしても気に入らないんだったら……。いやな相手と、ただ断りにくいからって結婚したら、一生後悔するわよ」
「一生か……」
「毎日、毎日のことよ。――よく考えて」
塚田は、ちょっと笑って、
「君はいい人だな」
と、言った。「僕のことなんか、放っときゃいいのに。――そうだろ?」
「塚田君……」
「じゃあ……。悪かったね、邪魔して」
塚田は忙しげに立ち去った。腕時計を見ながら、次の予定をこなしに行くのだろう。
啓子は、もの悲しくなった。
ああして、若さも情熱も失われて行く。
ただ、次の予定をこなすだけで手一杯になって、何十年も過すのだ。
外は木枯しが吹き、明日はクリスマス・イヴだった……。
12 混 雑
「雪でも降りそうよ」
と、久仁子は言った。
「ちょうどいいさ。クリスマスだ」
水島は、コーヒーを飲みながら、言った。「幼稚園はいつまでだ?」
「今日までよ」
久仁子は時計を見た。「今日、クリスマスの会があるの」
「そうか。明日からは冬休みってわけだ」
「そうね……」
久仁子は、ダイニングのテーブルにつくと、「何か、食べに行く?」
と、訊いた。
「いや、夕食がホテルで出る。食べ残しちゃもったいないからな。できるだけ、腹を空かしとくさ」
「そんなこと……。食べる暇もなかったら、どうするの?」
「いいじゃないか。飢えた顔つきでホテルの廊下を歩いてるってのは、本物の殺人犯みたいで」
と、言って、水島は笑った。
――いつも通りの、平和な会話である。しかし、話しながら、二人の視線は、絶えず出会うことなく、揺れ続けていた。
週刊誌に、川北と久仁子のことが出る。――水島も久仁子も、すでに「言ってしまった」のだ。
お互い、奇妙に礼儀正しく、気をつかっている。今日、昼近くになって起きて来た水島は、いつもよりよほどよくしゃべった。笑いもしたし、コーヒーを、|旨《うま》そうに飲んだ。
久仁子は、ゆうべの話が夢だったのではないか、とチラッと思ったりして……。しかし、楽しげに話しながら、夫の目が少しも自分の方へ向かないことに気付いたとき、|儚《はかな》い希望は消えた。
もう、おしまいなのか。謝って、やり直せないものだろうか。
虫のいい話か、とも思いつつ、久仁子は、まだ|諦《あきら》め切れなかった。そう、牧子のためにも。もう決して――決して、川北のような男の所へは行かない。
その決心を、もう少し早くつけておいたら……。悔んでも、悔み切れなかった。
「さて、出かけるか」
と、水島は空になったコーヒーカップを置いて言った。「今夜は……たぶん遅くなる。先に寝てろよ」
「ええ」
と、久仁子は言った。「気を付けてね」
仕事に行くのだから、「頑張って」とでも言えば良かったのだろう。しかし、夫は、自分の妻の浮気相手と仕事をしに行くのだ。
「気を付けてね」
としか、言えなかった。
「雪が降り出したら、どうやって帰って来るかな」
玄関で、水島が靴をはきながら、言った。久仁子は、一瞬、自分でも分らない内に、
「私が迎えに行くわ。何があっても、迎えに行く」
と、一息に言っていた。
水島が、面食らった様子で、妻を眺めている。――久仁子は、上り口に、座りこんだ。
「ごめんなさい」
と、絞り出すような声で、「お願い。――もう一度……」
後は言えなかった。――重苦しい沈黙の後、
「また考えよう」
と、水島は言った。「行って来る」
足早に出て行った水島の足音が、遠ざかると、久仁子はその場に座ったまま、静かに泣き出していた……。
ロビーは、一瞬、何ごとかと思うような混雑だった。
フロントにチェック・インを待つ行列ができている。客のほとんどは、若いカップル。
自分も泊りに来たのではあるが、伊沢啓子は、見ていて照れてしまった。この分だと、いつになったら佐々木と話ができるか。
「夕方からは大混雑になるからね」
と、言われて、早目に来たのだが、この有様。
どうしよう?――といって、待っていてもあの行列が短くなるとは思えない。
啓子は、ショルダーの、普通のバッグ一つという格好だった。いかにも「泊ります」という外見で、ホテルへ入って来るのは、何だか恥ずかしかった。
「伊沢さん」
と、呼ばれて振り向くと、ラウンジの若いボーイで、「奥の席が空いてますから」
「ありがとう。でも、部屋の方が――」
「佐々木さんに頼まれてたんです。みえたら、教えてくれって。ともかく席に」
啓子には、佐々木の心づかいがありがたかった。
ラウンジも、当然、ここで待ち合せのカップルで一杯だが、奥の一画は、外から目に入らないようになっていて、いわば「特別の客」のための席になっている。
座っていると、待つほどもなく、佐々木がやって来たので、びっくりした。
「来たね」
と、佐々木はそう疲れている様子でもなく、「戦場だよ。弾丸に当たらないように」
「あなた……大丈夫なの? こんな所にいて」
「今の時間は、フロントが忙しいだけ」
と、佐々木は言った。「チェック・インだけして、食事は何か月も前から予約したレストラン。帰って来るのは、まあ十時から十一時ってとこかな。それからシャワーを浴びて……」
佐々木は、首を振って、
「夜中だよ、色々、トラブルがあったりして、てんてこまいになるのは」
「邪魔じゃないの?」
「時々君の顔を見に行く。すると、疲れがとれて、また張り切れる」
「まるでスタミナドリンクね」
と、啓子は笑った。「――あのイベントは?」
「うん。問題ないさ。手順通りにやったとすりゃ。犯人探しに加わるカップルがどれくらいいるかね」
「川北竜一とか、もう――」
「いや、まだだ」
佐々木は腕時計へ目をやった。「どうせぎりぎりにならなきゃ来ないさ。君、部屋へ入ってる? 食事は届けさせるよ」
「まだいいけど……」
「今の内に、お風呂に入っておいた方がいいよ。ピーク時は、いくら大ホテルでも、お湯の出が悪くなる」
「じゃ、そうするわ」
佐々木が上衣のポケットからキーを取り出してテーブルに置いた。
「もうフロントを通さなくていいからね。――夕食は何時がいい? ルームサービスも混雑する。|予《あらかじ》め頼んでおくよ」
「どうせ一人で食べるんでしょ」
と、啓子は笑って、「じゃ、七時」
「分った。後で寄るよ」
佐々木は、ニッコリ笑って、足早に立ち去った。
ああ言ってはいるが、相当に忙しいはずだ。啓子に気をつかって、来てくれたのだろう。
忙しいのは夜中。――ということは、今夜啓子が泊っても、佐々木と「そうなる」可能性はまずない、ということである。
啓子はホッとしたような、少しがっかりしたような、妙な気分だった。ともかく、佐々木の仕事の邪魔をしてはいけない、と自分に言い聞かせる。
塚田京介のことを、啓子は思い出していた。
今夜、あの「彼女」と泊りに来る。――塚田は、気の小さな、ある意味では正直な男である。その彼女と、楽しげに過す演技をやり通せるだろうか。
もちろん、啓子としては、今さら塚田のことに気をつかう義理はない。――啓子は、佐々木にも、塚田のことは黙っていよう、と思った。
それにしても、こんな日の予約が、よくとれたものだ。
コーヒーをもらって、飲みながら、ともかく部屋へ入って一息つこう、と思った。このラウンジとロビーの混雑、騒音。それだけで疲れてしまう。
他の席を見渡しても、若いカップルばかり。
仕事での打合せ、といったグループも、今日は遠慮しているか、それとも早々に退散してしまっているのだろう。
ふと、啓子は、三つほど離れたテーブルに目をやった。
女の子一人で、オレンジジュースのグラスを前に、座っている。啓子がちょっと目を止めたのは、その子がいかにも|可《か》|愛《わい》くて、誰かタレントか何かだったかしら、と思ったからである。
しかし、どうやら、そうでもないらしい――。少し大人びた格好で、化粧をしているので、一七、八に見えるが……。
実際はもっと若そうだ、と啓子は思った。女の目は、服や化粧でごまかされない。たぶん、一五歳くらいじゃないかしら、と啓子は思った。
やはり、ボーイフレンドと待ち合せているのだろうか? まあ当節、あり得ない話ではないだろうが。
見ていると、その女の子が、ホッとした顔になって、手を振った。ラウンジの入口の方へ目をやった啓子は、そこにえらく太った、中年男を見て、面食らってしまった。
その男は、大して急ぐ様子でもなく(急ぎたくても、急げなかったのかもしれない)、女の子の所へやって来たが、腰はおろさず、二言三言、交わしただけで、伝票を取って、レジの方へ歩いて行ってしまった。女の子はバッグを手に、その後からついて行く。
あの二人は何だろう?――父と娘でないことは確かだが、話している様子からみても、どうにも想像がつかない。
といって――恋人同士?
「まさかね」
と、つい、口に出して|呟《つぶや》いている。
あの二人がラブシーンを演じているところを、想像するのは、啓子には不可能なことだった。
「色んな人がいるわよね」
と、啓子は独り言を言うと、コーヒーを飲み干し、立ち去った。
もちろん、伝票は佐々木の方へ回すこともできるのだが、私用の場合は、ちゃんと払っておきたい。これが啓子の考えで、佐々木もそれを尊重してくれている。
レジで、現金で支払いをして、エレベーターへと歩いて行く。
こんな時間から、エレベーターもこれほど忙しく働いたことはないかもしれない。
「少々お待ち下さいませ」
エレベーター前の案内嬢も、口調はていねいだが、額に汗が浮かんでいる。
啓子は、あの少女と太った男が、同じエレベーターを待っているのに気付いた。もちろん、他に十数人の客――ほとんどがカップルだ――がいる。
やっと上りのエレベーターが来た。
「お待たせいたしました」
という言葉もすまない内に、ワッと客が乗り込む。啓子は、まるで発車のベルにせかされている電車の中みたいだわ、と思って苦笑した。
ほぼ満員の状態で、エレベーターが上り始める。――幸い、啓子の泊る一八階は、誰かがもう押してくれている。
「ねえ、間違いないの?」
と、低い声が耳に入って来る。「本当に川北竜一が来るの?」
あの女の子だ。啓子は、例の太った男の肩に背中を押し付ける格好で立っていたのだった。
「大丈夫だよ」
と、太った男が言っている。「ちゃんと部屋に入ってから説明する。今は口をつぐんで」
「はあい」
女の子は、ゲームでもやっている感覚のしゃべり方だった。
川北竜一。――確か、そう聞こえたけど。
彼が今日のイベントに出ることは啓子も知っている。だが、この女の子と、川北竜一と、何の関係があるのだろう?
カチカチと音がした。チラッと目をやると、女の子が、ルームキーを振り回しているのだ。
プラスチックの札に金文字で入ったルームナンバーは、〈2511〉だった。
13 |遥《はる》かな距離
とてもじゃないが、恋など語れる雰囲気ではなかった。
しかし、塚田京介にとっては、むしろその方が良かった、と言えたかもしれない。
何も知らないふりをして、
「心配しなくたって、大丈夫だからね」
などと、演技のできる人間ではないのだ。
「|凄《すご》い混み方ね」
と、浅井由美はワインを飲みながら、言った。
「イヴだからね」
と、塚田は分り切ったことを言った。
これぐらいのことなら、自分にも言えるのだということを知って、笑った。
「何がおかしいの?」
と、由美は不思議そうに|訊《き》く。
そう。――みごとなもんだよ。
世間知らずのお嬢様か。男の手一つ、握ったことがありません、って顔をして、よくやるよ、全く。
しかし、そんな気持を、口には出せない。
だが、どう装ったところで、料理の食べっぷりと、ワインに|呆《あき》れるほど強いのを見ていると、とても「初夜を前に緊張している花嫁」には見えない。
クリスマス・イヴに混む店、ということで有名なこのレストラン。当然、満席。しかも、二時間で、コースを終らなくてはならない。次の予約が入っているのである。
ここの予約をとるのも、楽ではなかった。色々とつてを頼って、やっと取ってもらった店である。
「別に」
と、塚田は首を振った。「おかしいわけじゃないさ。何ていうのかな。――気のきいたセリフ一つ言えないのが、自分でも……」
「そんなこと、関係ないわよ」
と、由美は言った。「人間って、誠実さだわ。そう思わない?」
塚田は、じっと由美を見つめて、
「――思うよ」
と、|肯《うなず》いた。
料理の皿が下げて行かれる。――店で働く人間も気の毒だ、と塚田は思った。
たぶん、夜中過ぎても、この混雑はつづくだろうし、店を閉めたら、みんなぶっ倒れてしまうんじゃないか……。
誠実か……。
塚田は、自分のグラスのワインを、飲み干した。大して飲んではいない。ボトルの三分の二以上、由美が飲んだのではないか。
いやな相手と、ただ断りにくいからって結婚したら、一生後悔するわよ。
啓子の言葉が、塚田の耳の中で、まだ聞こえていた。
毎日、毎日のことよ。――よく考えて。
啓子は、塚田をひっぱたいても良かった。頭から水をぶっかけても当然だったのだ。
誠実か……。俺の結婚はスタートする前から、|嘘《うそ》で固めてあるわけだな。
「――お待たせしました」
デザートが来る。顔を|真《まっ》|赤《か》にして、額に汗を浮かべたウエイターは、シャーベットとフルーツを盛り合せた皿を、二人の前に置いた。
「キャッ!」
と、由美が飛び上りそうになった。
皿が傾いて、のせてあったスライスしたメロンが、由美のスーツの上に落ちたのだ。
「何してるの! 気を付けてよ!」
ほとんど反射的に、きつい口調で由美は言っていた。
「失礼しました!」
ウエイターがあわててナプキンでしみを|拭《ふ》こうとする。
「せっかく初めて着たのに」
由美は、別人のように、|眉《まゆ》をつり上げて怒っている。――塚田の視線に、全く気付いていないのだ。
「いいよ」
と、塚田が言った。「後でクリーニングに出せば。そうだろ?」
由美は、ちょっと面食らった様子で、塚田を見た。
「大丈夫だから」
と、塚田はウエイターに言った。
「申し訳ありません」
「この忙しさだもの。仕方ないよ」
塚田は|微《ほほ》|笑《え》んで言って、「そう怒るほどのことでもないさ。――そうだろ?」
と、由美を見る。
由美は、一瞬、表情をこわばらせた。しかしすぐに、「しとやかなお嬢様」に戻ると、
「そうね。そんなことで不愉快になっても、つまらないわね」
と、言った。
「そうさ。――さ、溶けない内に食べよう」
「ええ……」
塚田は、少なくともそれまではいくらか自分の内にほてりをとどめていたワインの酔いが、急速にさめて行くのを、感じていた。
今の出来事、そして瞬間、|垣《かい》|間《ま》|見《み》た由美の素顔が、塚田を「やさしく」させたのである。
不思議だった。――いつもの自分なら、きっと由美と一緒になって、怒っていただろう。いや、むしろ自分の方が怒鳴りつけていたかもしれない……。
それなのに、いつの間にか、あのウエイターの忙しさ、疲れた姿に、共感し、同情してしまっていたのだ。
そうだ。――たぶん啓子だったら、今の自分と同じように言っただろう。きっと塚田が怒るのをたしなめて、
「忙しいんですもの。仕方ないわよ」
と、言っていたに違いない。
塚田には、今の由美の怒りようと、啓子が言ったであろう言葉との間の、無限とも言える遠い距離が見えた。それに気付かなかった馬鹿な男の姿が、目に浮かんでいた。
俺は、あのかけがえのない子を捨てて、この女を選んだのだ。もう――取り返しはつかない。
そうだろうか?
いや、啓子を取り戻すことはできなくても、浅井由美との結婚を取り止めることは、まだできる。
しかし、そうなれば今の会社は辞めざるを得まい。仕事を失うのだ。また、ゼロから出直しだ。
そんなことはできない……。もう手遅れだ。
「――どうかした?」
と、由美が言った。
「え?」
「何か、考え込んでるみたい」
「何でもないさ」
もう、デザートの皿は空になっていた。
「コーヒーを頼もうか」
と、塚田は言った。
「じゃあ、私はこの部屋で待ってりゃいいのね」
と、庄子ユリアは言って、ツインルームの中を見回した。「私たち、ここに泊るの?」
「そうじゃないさ」
と、川北竜一は言って、後ろにいる佐々木の方を振り向いた。「なあ、もっと広い部屋を用意してくれたんだろ?」
「はい」
と、佐々木は軽く頭を下げて、「スイートをご用意してあります」
「良かった!――ここでも私は構わないけど」
と、ユリアはセミダブルのベッドに腰をかけて言った。
「スターの泊る部屋は、それにふさわしくなきゃ」
と、川北は言った。「じゃ、後でな」
「うん、待ってるわよ」
と、ユリアは甘えるような口調で言った。
「早いとこ、片付けようぜ」
と、川北は言って、笑った。「さ、行こうか」
――川北と佐々木が出て行くと、ユリアはドアへ駆け寄り、|覗《のぞ》き穴から、二人が歩いて行くのを確かめた。
「落ちついて……。どうってことないんだから……」
と、自分に向って|呟《つぶや》きながら、ユリアはツインルームの中を歩き回った。
ほんの二、三分もすると、電話が鳴った。ユリアは、急いで受話器をとった。
「もしもし」
「一人ですね」
あの、原という男の、無表情な声が聞こえて来る。
「ええ、今、入ったところ」
「そうですか、川北は?」
「今、ホテルの人と二人で、スイートルームに……。あの、事件の起こることになってる部屋へ行きました」
「分りました。こっちは、予定通り進めていますよ」
ユリアは、ゴクリと|唾《つば》をのみ込んだ。
「つまり……大丈夫ってことですね」
「心配いりませんよ」
と、相変わらずのんびりした原の言葉だ。「私の言ったこと、憶えてますね」
「ええ。――いつも、台本憶えるのに|凄《すご》く苦労するけど、今度は大丈夫」
ユリアの言葉に、原が初めてちょっと笑った。
「ジョークが出るくらいなら、大丈夫。あなたの気持さえ変わってなければね」
「変わりません」
と、ユリアは言った。
「結構。――それでは、後で。ノックしたら、ちゃんと相手を確かめてから、開けて下さいよ」
「分りました」
「じゃ、ゆっくりしてて下さい」
原は、のんびりと言って、切った。
ユリアは、心臓の高鳴りを、抑えることができなかった。
うまく行けば……。何もかもうまく行けば、私は大スターになれる。いや、そんなのはまだ先のこと。
ともかく、はっきりしているのは、川北と今の関係をズルズル続けて行く限り、ユリアは「パッとしない」ままで終ってしまう、ということだ。
やるしかない。――それに、ユリア自身は特別むずかしいことをやらなきゃいけないわけではなかった。
あの男――原が言ったように、
「美人には、どんなときでも、ちゃんと、手伝ってくれる男がいるものですよ」
と、いうことだ。
ユリアは、ベッドに|仰《あお》|向《む》けになって、じっと天井を見つめている。
――今夜がクリスマス・イヴだということさえ、今のユリアは忘れてしまいそうだった……。
打合せは、張りつめた空気の中で、進められた。
「つまり、こういうことね」
と、永田エリが|肯《うなず》いて、「このホテルの何部屋かに、支配人の手紙があって、それを読んで、部屋の中の手がかりを見付けた人が、まず〈2521〉の庄子ユリアの部屋へ行き着く。そこで彼女からまた手がかりを聞いて、死体のある――つまり私が倒れている〈2503〉へ|辿《たど》り着く」
「早い者勝ちってわけだ」
と、水島が言った。
「そうでもないわよ。犯人を見付ける手がかりに気が付かなくちゃいけないんだから」
「そうか。――でも、どれくらいのカップルが、これにのって来るかね」
と、水島は首を振った。
「いや、結構来ると思いますよ」
と、佐々木が言った。「三番目までに到着した人は、宿泊がタダ、トップの一組は、明日のディナーと、好きなときに使える宿泊券。――得なことにかけては、今の若い人たちは敏感ですからね」
「それで、あなたは何をするの?」
永田エリが|訊《き》くと、川北は、ニヤリと笑って、
「決ってるさ。一等のカップルと記念写真をとる」
「女の子の方だけ? じゃないの?」
と、永田エリは笑って言った。「ともかく、私はおとなしくねんねしてりゃいいわけね。――雄ちゃん、メイクを手伝ってくれる?」
「いいよ」
水島は、エリがバッグを開けるのを見て、感心した。こんな仕事だからといって、手は抜かない。ちゃんと死人に見えるように、顔を土気色に塗ろうというのだ。
「開始は何時だっけ?」
と、川北が伸びをする。
「一応八時にはスタンバイを」
「分った。――コーヒーを一杯もらえるかな」
「すぐご用意します」
佐々木が部屋を出て行くと、川北、水島、エリの三人が残った。
「久しぶりだなあ、三人揃うのは」
と、川北は屈託のない声で言った。「おい水島、奥さんは元気かい」
水島は、少し間を置いて、答えた。
「ありがとう。元気にしてるよ」
永田エリは、じっと水島を見ていた。川北は、深い意味があって訊いているわけではないのだ。本気で、旧友に話しかけているのだろう。
その「無邪気さ」は、危険ですらあった。時に、殺意すら、|喚《よ》び起こしかねないほどに……。
14 まぐれ当り
「ここか」
と、川北はスイートルームの中を見回して、「もっと広いタイプがあっただろ」
「あいにくふさがっておりまして。申し訳ございませんが、こちらでご勘弁を」
と、佐々木は笑みを浮かべて言った。
「ふん、ま、いいか」
と、川北は肩をすくめて、「もちろん、飲物ぐらいはサービスしてくれるんだろ」
「はい、どうぞルームサービスでお申しつけ下さい」
「分った。じゃ、時間になったら、呼びに来てくれ」
「かしこまりました」
と、佐々木が一礼して、部屋を出て行く。
――川北は、何となくあの佐々木という男が気に入らなかった。
どこ、といって気のきかない点はない。いや、申し分なく気を回し、すべてにわたって抜かりがない。
その点、プロであることは、川北も認めざるを得なかった。
それでいて……。何となく話しているだけで|苛《いら》|々《いら》させられるのだ。「うまが合わない」とでも言うのだろうか。
まあ、いい……。どうせ、今夜の仕事がすめば、顔を合せることもないのだ。それより、川北は早くユリアと二人になって、思い切り楽しみたかった。
ユリアの奴……。このところ、やっと川北の思う通りに、反応するようになった。ああなれば、女は容易に男から離れられないものだ。
久仁子のように。――水島の奴も、知っている。目つきでそれと分るのだ。
構うもんか。女房をとられるような奴は、自分が悪いのだ。役者は、女遊びも修業の一つさ。
ドアをノックする音がした。――ユリアだろう、と思った。
八時にはスタンバイ、か。まだ一時間もある。今夜の「準備」をしておくのもいいかな。
またドアを|叩《たた》く音。
「今、開けるよ」
川北は、ドアを開けて――笑顔は凍りついた。
「結構な部屋ね」
と、勝手に入って来ながら、「私は普通のツインにしたわ」
「麻美……。何してるんだ、このホテルで」
五月麻美は、振り返って、ちょっと笑った。
「あんたは仕事があるんでしょ?」
「ああ。今、演技設計を考えてたんだ」
「ご苦労様」
と、麻美は少し小馬鹿にしたような口調で言うと、「で、終ってからは?」
川北は、それには答えず、
「君も――部屋をとったのか」
「ええ。知らなかった? 私、ここの支配人とは親しいの」
「そう。だが、俺は仕事が――」
「庄子ユリアと?」
と、麻美は遮って、「あなた、この仕事に引張り込んだんですって? ユリアのとこのマネージャーがこぼしてた」
「新人は色んな仕事をやっといた方がいいんだ。そう思ったから……」
「同感よ。でも、その後のことまでは、プラスにならないわ」
川北は、気をとり直し、麻美の肩に手をかけると、
「なあ……。君は大スターだぜ。そんなことで|妬《や》くなよ」
「誰が妬くもんですか」
と、麻美は笑った。「こんなときに一人で泊ると思ったの?」
川北には、麻美の言っていることが、よく分らなかった。
「じゃあ……どうして部屋をとったりしたんだ?」
「あなたと同じ」
と、麻美は澄まして言った。「男と泊るのよ」
川北は、少しポカンとしていたが、
「――誰と?」
と、訊いた声は、動揺を隠せなかった。
「気になるの? |呆《あき》れたわね」
と、麻美は笑った。「自分はどうなの? あれこれ見さかいなく手を出して」
「麻美――」
「知りたきゃ教えてあげるわよ。村松完治」
「誰だって?」
「あなただって知ってるでしょ? 私の忠実なマネージャー」
「あの――村松と? 冗談だろう!」
と、川北は声を高くしていた。「あんな奴のどこがいいんだ?」
「あら、男の良さは、寝てみなきゃ分らないわよ」
と、麻美は言った。「まあ、あなたは若い女の子と頑張るのね。その内、あなたもただの『おじさん』だわ」
麻美は、ドアの方へ歩いて行くと、
「――ついでに言っとくけど、人の奥さんに手を出すのはやめときなさい。罪なことよ」
「何の話だい」
「水島雄太の奥さんとのこと、|噂《うわさ》になってるわよ。どうやら週刊誌もかぎつけたとか。――いい人じゃない、水島さんって。かつての仲間でしょ。そんな義理を踏みにじるようなことばっかりしてると、後悔することになるわ」
麻美は、ニッコリ笑ってドアを開け、「お邪魔したわね」
と、出て行った。
ドアが閉る。――川北は、しばらく部屋の中央に突っ立っていた。
混乱していた。
もちろん、五月麻美に未練などない。
しかし、麻美の方は、俺に夢中なのだ。いや、そうでなきゃならないのだ。
それが――村松だって? あのパッとしない男と麻美が寝てる?
川北の顔から血の気がひいた。――人を馬鹿にしやがって! 何だと思ってるんだ!
麻美は俺のものだ!
川北は、スイートルームの中をやたらせかせかと、歩き回った。まるで何かに追い回されているかのようだった……。
「へえ! 見はらし、いいじゃない」
窓へ駆け寄って、浅井由美は言った。
「雪でも降りそうだね」
と、塚田は言った。「――疲れたかい?」
「別に。お腹一杯食べちゃった」
由美は、ウーンと伸びをした。「ね、もうお風呂に入る?」
「どっちでもいいよ」
塚田は、ソファに腰をおろした。「ともかく、少しのんびりしよう」
「そうね……。ね、これ、何かしら?」
由美は、ベッドサイドのテーブルにのせられた封筒を手にとった。「〈支配人より〉ですってよ」
「印刷した|挨《あい》|拶《さつ》状だろ」
と、塚田は言った。
「そうじゃないみたい。ええと……」
封を切って、由美は、ソファにかけながら中の手紙を広げた。「――ねえ! 面白そうよ。〈ミステリー・ナイト〉の手がかりのある部屋なんですって、ここ!」
「〈ミステリー〉……何だって?」
塚田は、手紙を受け取って、目を通した。「――宿泊料タダ、か」
「ねえ! 探してみましょうよ。この部屋に何か手がかりが隠してあるのよ」
由美は、すっかりはしゃいでいる。
まるで子供みたいだ、と塚田は思った。
その、「子供みたい」な所と、何人もの男を知っていて、平気でごまかし通すところと……。不思議な混合物だ。
「ね、捜そう! ルームナンバーの入ったメモがどこかに隠してあるんだって」
塚田は、立ち上った。
少なくとも、由美を相手に、「恋人」の役を演じているより楽だ。
「どこかしら? ね、どこだと思う?」
「さあね」
塚田は、もともとこういうことが得意でない。――啓子ならきっと、理論的に考えて、見付けただろう。
なぜか、すぐに啓子のことを、思い出してしまうのである。
しかし、いずれにしても、そう難しいところへ隠してあるはずがない。ごく普通の客を相手にしているのだから、簡単に見付けられるだろう。
「ねえ、考えなさいよ!」
ワインの酔いが残っているのか、由美は塚田の腕をつかんで、せがむように振り回す。
「じゃあ、きっと――バスルームの石ケンの下じゃないか」
と、塚田が出まかせを言うと、
「石ケンの下?――見て来るわ」
と、由美がバスルームへ入って行く。
塚田は窓へと歩いて行った。――今夜、このホテルは、いや、都心とその周辺のホテルは、どこも塚田たちと同じようなカップルで|溢《あふ》れているだろう。
塚田は、突然自分がひどく惨めに思えて来た。雑誌にのっている「マニュアル」通りのデートとベッドイン。そんなことを、よく照れもせずにやれるものだ。
サラリーマンの暮しと、それはどこかで似通っている。みんなが残業していると、帰れない。マージャンの付合い、飲む付合い。
他人と同じことをやっていることから来る安心感。
今の自分と、どこが違うだろう?
クリスマス・イヴには、ちょっと|洒《しゃ》|落《れ》たレストランで食事をして、ホテルに泊る。
なぜ?――みんながそうするから。
塚田は、出て行きたかった。金なんか、惜しくもない。もし、キャンセル待ちをしているカップルがいたら、喜んで譲ってやる……。
気が付くと、由美がバスルームから出て来て、ポカンとした顔で、塚田を見つめている。
「見付かったかい?」
と、塚田が|訊《き》くと、
「どうして分ったの?」
と、由美が言った。
「何が?」
「バスルームの石ケンの下。本当にあったのよ!」
と、由美はその白いカードを振って見せた。
塚田の方こそ、びっくりした。出まかせを言っただけなのに!
「ね、〈2521〉ですって。二五階ね。行ってみましょ!」
「でも……」
「早く早く! 他にも、誰かが来てるかもしれないのよ!」
由美に、ほとんど引張られるようにして、塚田は部屋を出たのだった。
塚田の目には入らなかったのだが、窓の外を、チラチラと小さな雪が、舞い始めていた。
15 雪が降る
「あら、雪……」
と、口に出して、啓子は|呟《つぶや》いていた。
窓の外を、チラチラと白いものが舞い始めている。
ホワイトクリスマス、か……。でも、ひどい雪にでもなったら、外で食事をして、戻って来ようというカップルは苦労しそうである。
啓子は、もう食事を終えていた。
佐々木が約束してくれた通り、七時ちょうどにルームサービスが届いた。一人で食べるのは寂しかったが、まあ仕方あるまい。
何か本でも持って来るんだった、と思いつつ、啓子はベッドにひっくり返っていたのである。
すると、ドアのチャイムが鳴って、啓子は起き上った。
「――はい」
と、ドアの前まで行って、「どなた?」
「お届けものです」
ドアを開けると、佐々木が、花束を手に立っていた。
「まあ……。ありがとう」
啓子はなぜかひどく照れて、赤くなった。
「入れてくれないのかい?」
と言われて、あわてて、
「あ、どうぞ。――ごめんなさい」
と、傍へよけた。
「――雪か。雰囲気は満点だな」
と、佐々木は窓の近くへ行って、外を眺めた。
「大丈夫なの? もうゲームは始まってるんでしょ」
「そこを抜け出して来るのがスリルなのさ。授業をさぼるのと同じ」
啓子は笑って、
「不良学生ね」
と、言った。
「不良は嫌いかい?」
「人によるわ」
啓子は、佐々木の肩に、手をかけた。思いがけなかった分、緊張もなかった。
二人の唇が出会って――「メリー・クリスマス」と、|囁《ささや》き合った。
「もし……」
と、佐々木が言った。「今夜、時間があったら……」
「構わないわ」
と、啓子は言った。「そのつもりで来たのよ」
「よし」
佐々木は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「何としても、時間をひねり出す」
「五分や十分じゃ、いやよ」
と、啓子は言った。「でも、無理しないでね。途中でさよなら、なんて哀れでしょ」
「そんなことはしないよ」
と、佐々木が言ったとき、ポケットの中でピーッと音がした。
「おやおや。――電話、借りるよ」
佐々木はフロントへかけた。「――佐々木だ。――分った。すぐかける」
「どうしたの?」
「かの大スターが僕を捜してる。部屋へ電話してみるよ」
「川北竜一?」
「そうさ。まだスイートにいるはずだ。――あ、佐々木ですが。――何です?」
佐々木は当惑した様子で、「――フロントで分らなければ、私も、調べようがありませんね。――いえ、私は全く聞いておりません。――はあ、それで――」
佐々木は受話器を耳から離して、顔をしかめると、
「やれやれ。男にもヒステリーってのがあるんだな」
「何ですって?」
「五月麻美が泊ってるはずだというんだ。どの部屋か教えろ、って。知りゃしないよ」
「五月麻美って――川北竜一と|同《どう》|棲《せい》してた人じゃないの?」
「そのはずだ。泊ってるとしたら、男とだろ。川北は庄子ユリアと一緒のくせに。|妬《や》いてるんだな」
「男って勝手ね」
「人によるさ」
二人は顔を見合せて、笑った。佐々木はもう一度素早くキスすると、
「じゃ、ゲームの進み具合を見に行って来るからね」
と、出て行こうとした。
「待って!」
と、啓子は呼び止めた。「ねえ、私も行っていい?」
「君も?」
「邪魔しないわ。構わないでしょ?」
と言うなり、啓子はキーを取って来ると、「行きましょ!」
と、佐々木の腕をとった。
「そろそろ死ぬか」
と、永田エリは独り言を言って、ソファから立ち上った。
あんまり座り心地が良くて、立ち上りたくなかったが、仕方ない。どうせ自分のものじゃないんだ。体が、この快さを憶えてしまったら、|却《かえ》って後でみじめというものだ……。
それにしても――大した部屋だわ。
「スイートルーム」
それが、「続き部屋」を意味するとエリが知ったのは、最近のことだ。
TVのロケや何かだって、もちろんこんな部屋に泊ることはない。ただ、二時間もののサスペンスドラマの中で、スイートルームを使った撮影があり(やはり死体の役だった!)、そのときに初めて知ったのである。
「いつもスイートルームのときは床に寝ることになるのね」
と、エリは呟いた。
さて――どこで死ぬか。
一応役者である以上、あんまり平凡な死に方はつまらない。何か工夫してやりたい。
「ちょっとびっくりさせてやるか……」
エリは、クロゼットの中に立っていて、誰か入って来た人間が扉を開けると、バタッと倒れかかる、ってのはどうだろう、と思った。
平凡には違いないが、ただ床に寝転がってるよりもいいだろう。
あんまり相手がびっくりして、気絶でもしてしまったら、ちょっと問題だが……。まあ、どっちもゲームだってことは分っているのだし。
せっかくのスイートルーム。もう少し気のきいた趣向はないものか。
エリは、奥のベッドルームへ入り、さらにバスルームを|覗《のぞ》いた。
「広いわねえ」
バスタブ自体の大きさが、エリのいるアパートなんかとは全然違う。
毎晩、こんな大きなバスタブで、ゆったり手足を伸ばしてお湯につかっていられたら。
疲れのとれ方だって違うだろうが……。
ま、グチっていても始まらない。
エリは、バスルームの、ギョッとするほど大きな鏡の前で、自分の姿を見つめた。
土気色に塗った、死人のメイク。――我ながら良くできたと思う。こんなことで凝ってみても仕方ないだろうが、それが役者というものなのだ。
たぶん川北などには、分るまい。昔の川北なら……。そう、劇団にいたころの川北は、演技することの情熱を持っていた。
あのころだって、女にはだらしのない男だったが、それを許せたのは、役者として、光るものを持っていたからだ。
しかし、今の川北は、ちっぽけな才能を切り売りして、はったりで高く売りつけているセールスマンに過ぎない。
格別な才能なんてものはないのだ。――要は、自分がどの水準で自分を許すか、ということなのである。
エリは――本当に奇妙なことだが――今、この必要以上に大きな鏡を見つめながら、自分の中の川北への思いがふっ切れたような気がした。
あんな男……。そう、強がりでも負け惜しみでもなく、エリは「あんな男」と呼ぶことができた。
水島久仁子にも言ってやろう。「あんな男」と。――あんな男のために、生活をめちゃくちゃにされるなんて、全く馬鹿げた話だ。
久仁子だって、気付くだろう。エリと違って、夫と、子供さえある身なのだ。やり直せばいい。
一からやり直す。水島は、それを許してくれる男だ……。
――ふと、エリは誰かがこのスイートルームへ入って来たような気がした。
まだ早いんじゃない? それに途中の時点で、連絡してくれると……。
エリは、バスルームを出た。
「誰ですか?」
と、声をかけながら、ベッドルームを出る……。
「畜生!」
と、川北は悪態をついた。
みんなが|俺《おれ》のことを馬鹿にしてやがる!
五月麻美がどの部屋か分らない、だって? 五月麻美だぞ! 誰だって知ってる顔だ。
たとえ、偽名で泊ってたとしても、見かけりゃすぐに分るはずだ。知ってる人間がいないわけはない。
それなのに――あの佐々木って|奴《やつ》まで、
「分りかねます」
と、来た!
大体気に食わない野郎だ。うわべはていねいだが、内心じゃ、こっちを見下している。
そうに決ってる。俺は役者なんだ。ごまかされやしないとも。
――川北はルームサービスでとったウイスキーを飲んで、少し酔っていた。
ゲームがすんでから、とも思ったのだが、腹立ち紛れに、一杯だけ、と手をつけてしまったのである。
すると――電話が鳴り出した。
何だ? 麻美かな?
さっきはごめんなさい。やっぱり、私、あなたのことが忘れられないの。許してよ。ねえ……。
そう謝ってくりゃ、許してやらないでもない。そうだ。きっと麻美の奴だ。
川北は受話器を上げた。
「はい」
「あ――もしもし」
麻美ではない。もっと若い女の声だ。
「何か?」
「あの……川北竜一さんですか」
ちょっと面食らって黙っていると、相手は急いで続けた。
「私――ファンなんです。さっき、そのお部屋へ入るのを、お見かけしたもんですから」
若い子だ。――まあファンというやつに、あまり無愛想はできない。
「|凄《すご》くドキドキしました。ごめんなさい、お忙しいんでしょ?」
|可《か》|愛《わい》い声だ。
「別に忙しいってわけじゃないけどね」
「そうですか? あの――突然で|図《ずう》|々《ずう》しいとは思ったんですけど……。私たちの部屋へおいでにならないかなあ、と思って……」
「君たちの部屋?」
「女の子同士で来てるんです。パーティやろうって。もし――もし、よろしかったら、ですけど、ちょっとでもお顔を出して下さったら|嬉《うれ》しいな、と思って」
女の子たちのパーティか。面白そうだ。
川北の迷いは、長くは続かなかった。
「君らの部屋は?」
「同じ階なんです。〈2511〉」
「そうか。じゃ、これから行くよ」
「本当ですか? わあ、すてき!」
女の子は、いかにも愛らしく|弾《はず》んでいた。顔の方も、声ぐらい可愛いといいがな、と川北は思った。
ここを出てしまったら、あの佐々木って奴さぞかし青くなるだろう。
川北は、声をたてて笑うと、キーを手に、ためらうことなく、スイートルームを出て行った……。
16 スキャンダル
草間は|欠伸《あくび》をした。
週刊誌の編集部には、クリスマスも正月も関係ない。
むしろ、タレント同士のカップルが、このイヴと年末の休みをどこでどう過すか、あちこちに網を張らなきゃならない。
馬鹿げた記事だとは思う。
草間も思い、編集長もそう思っている。読者だって、一人一人に、
「こういう記事を載せるのを、どう思いますか?」
と、|訊《き》けば、十人中八人は、
「低俗ですね」
とか、
「|覗《のぞ》き趣味でいやね」
と、答えるに違いないのだ。
しかし、それでも、やめられない。
「よそがやるからにはうちもやる」
こっちの責任ではない、と……。まあ、お互い、そう言い合っているわけである。
――編集部には、草間一人しか残っていなかった。
みんな取材に出ているか、でなければ……。若い社員には、さっさと、
「彼女と待ち合せてるんで」
と言って帰ったのもいる。
さすがにそれはほんのわずかだが、草間など、それを見て、|羨《うらや》ましいと思う。堂々と、ああ言えなかったものだ、昔は。
もっとも、そういう若い連中も、編集長から、
「どこへしけ込んでも、誰か有名人がいないか、目を光らせとけよ!」
と条件をつけられていた。
草間一人、残っているのは、週刊誌の編集部には、時として「たれ込み」があるからだ。
「今、女優のOと歌手のTをどこそこで見かけた」
とか、
「アイドルタレントのSが、夫のいる女優NとホテルKに入って行った」
とか……。
物好きな、とも思うが、教えてくれれば、放ってはおけない。
話を聞いて、いたずらでないと判断したら、外を回っている誰かをポケットベルで呼び出し、そこへ行かせる。
この雪の中で、か。――草間は、こうして一人で残っていられて、気楽だった。
紙コップで、まずいコーヒーを飲む。
正直なところ、何か特ダネ的なスクープがないか、と草間は期待していた。
水島雄太の妻と、川北竜一の情事を記事にしたくなかったのである。
川北の方は、いくら書かれてもどうってことはあるまい。もとから|噂《うわさ》の多い男だ。
しかし水島の妻は……。いくら元女優といっても、ほとんど無名で終ったわけだし、今は普通の主婦である。川北の誘いに、一時的に迷ったとしても、長くは続くまい。
草間は、水島雄太が好きだった。今どき、ああいう役者は少ない。有名になることだけを考えていない、「役者バカ」と、親しみをこめて呼ばれるような男である。
その水島の家庭を、たぶんこの記事は破壊することになるだろう。
トップ記事というわけではないが、子供の幼稚園で、近所のスーパーで、話題になるのは避けられない。
草間は、何かとんでもない大ネタが出て、水島久仁子と川北のことなど、どこかへふっとんでしまわないか、と思っていたのだ。
しかし、そううまくはいかないだろう……。
電話が鳴った。――誰かな。
デスク直通の電話で、その番号は、業界の人間しか知らない。
「はい、〈週刊××〉」
と、草間は言った。「もしもし?」
「お知らせしたいんですがね」
低く、こもった、奇妙な声だった。いたずらか?
しかし、この番号を知っているというのは……。
「何ですか?」
「川北竜一のことですよ」
と、その「声」は言った。
やれやれ、またか!
「川北竜一がどうしたんです?」
「今夜、川北はホテルSで〈ミステリー・ナイト〉に出ています」
「ああ、そんな話でしたね」
「ところが――泊り客の未成年の女の子と寝てるんですよ」
草間は、耳を疑った。
「ちょっと――今、何といいました? 未成年の女の子?」
「一四歳。中学二年生の子です」
「――まさか」
中学生? とんでもない話だ!
「行ってごらんなさい。ホテルSの〈2511〉ですよ……。では」
「もしもし! あなたは――」
もう切れていた。
草間は、無意識に、〈2511〉という数字をメモしていた。
川北が、一四歳の女の子を抱いた……。もし、これがばれたら、大変なことになるだろう。
ホテルSにいることは、事実だ。――本当かもしれない。
草間は誰かを呼び出そうとして、思い直した。
自分で行こう。これが事実なら、大変なスクープになる。
草間は、全自動のコンパクトカメラをひっつかむと、編集部を飛び出した。外が雪だということなど、頭になかった……。
犯人は退屈していた。
水島雄太のことである。
犯人は、|予《あらかじ》め決められたいくつかのポイントを、時間を区切って動くことになっていた。
どこの時点で、客が死体を見付け、|謎《なぞ》をといて、探偵に知らせるか。――その時点で、水島はどこかのポイントにいる。
今は、まだ本番といっても、「発見」されるには少し早い。
水島はバーに入って、コーラを飲んでいた。
あの佐々木という男が、水島に気をつかってくれて、〈飲みもの券〉を何枚もくれていたのである。水島は、佐々木のことが気に入っていた。
水島に、役者として敬意を払ってくれていることが、伝わって来る。
水島は、面白い仕事ではないながらも、楽しんでいた。
あのロケ現場で声をかけてくれた、女子大生らしい娘のことを、思い出した。――どこで、どんな人間が水島を見ているか分らないのだ。
しかし――帰った後のことを考えると、水島の気持は重くなる。
久仁子と、どう話せばいいのか。
久仁子が悪いとは思っていない。川北の方が悪いのだ。それは分っている。
しかし、久仁子が、
「もう川北と会わない」
と、誓ったとして、それを百パーセント信用できるだろうか?
たとえそれが事実だとしても、川北に何度も抱かれた久仁子を、この腕の中に抱くことができるか……。
考えてみれば、馬鹿げた話である。
あんな男のために、家庭を壊され、引越しまでしなくてはならないなんて……。
しかし、久仁子だけでなく、牧子のことも考えなければならない。
今の子供は、TVを見、親の噂話を、ちゃんと聞いているのだ。牧子の耳にも、それは入らずにいるまい。
牧子が、それでいじめられでもしたら……。やはり、久仁子も|辛《つら》いだろうし、水島も、そのことで久仁子を責めないという自信はなかった。
やはり、まず引越して、新しくやり直すことだ。その上で、久仁子とどうするか、よく考えて決めよう……。
水島は、腕時計を見た。
そろそろ行くか。――これから二十分ほどの間、水島はこのホテルの地下にあるドラッグストアで雑誌を見ていることになっているのだ。
バーを出て、エレベーターの方へ歩きかけたが、そう、この一つ下だ。確かエスカレーターが……。
引き返そうとして――ふと目が、一人の女を捕えていた。
久仁子?――久仁子だ!
どうしてこんな所に……。|呆《ぼう》|然《ぜん》としている間に、久仁子の姿はエレベーターの中へと消えた。
「待ってくれ!」
水島が駆けつけたとき、もうエレベーターの扉は閉まり、上り始めていた。
「こちらが参ります」
案内嬢の声が、どこか遠くから聞こえて来た。
久仁子……。何か思いつめた表情だったが――。
何か……馬鹿なことを考えてなきゃいいのだが。
上りのエレベーターに乗ると、水島は、
「二五階を」
と、言っていた。
「ここだわ! 〈2521〉!」
と、由美は、ほとんど子供のようにはしゃいでいた。「ねえねえ、ノックして! ほら!」
「分ったよ」
塚田は、〈2521〉のドアを|叩《たた》いた。「――どうする? 死体でも転がってたら?」
「面白いじゃない! 大好き、そういうのって」
と、由美が言った。
ドアが開いて、
「あら、どうぞ」
と、一人の少女が顔を出した。
「あ! 庄子ユリアさん?」
由美が目を丸くして、「信じられない!」
「一番のりですよ。どうぞ」
と、庄子ユリアは、仕事用の笑顔で、二人を中へ入れた。
「わあ、感激だわ!」
と、由美は飛びはねんばかりだ。
「それで……どうすればいいんですか?」
塚田の方は、庄子ユリアをよく知らないので、そう感激もないらしい。
「ここに封筒が五つあるんです」
ユリアは、テーブルに並んだ白い封筒を示して、「この中の一つを選んで下さい」
「へえ……。じゃ、この中に手がかりが?」
と、由美が|訊《き》く。
「そうです。でも、ものによって、|凄《すご》くむずかしかったり、易しかったり。それは運ですからね」
「ね、あなた選んで」
と、由美が塚田に言った。「凄くいい勘してるじゃない」
「まぐれだよ、さっきは」
「いいから!」
塚田は肩をすくめて、封筒を見下ろした。
そこへ、ドアがノックされた。
「あ、また誰か――。待って下さいね」
ユリアがドアを開けに行った。「あ、佐々木さん。もう今、最初の方が」
「そりゃ凄い。有望ですね」
と、部屋へ入って来たのは――。
塚田は、そこに啓子が立っているのを見て、目を疑った。
啓子の方も、|唖《あ》|然《ぜん》としている様子だったが、すぐに佐々木の後ろに退った。
佐々木……。そうか。
塚田は、啓子が電話で、
「佐々木さん?」
と、呼びかけたのを、思い出した。
「ねえ、早く選んでよ」
と、由美がつつく。「他の人が来ちゃうかもしれないわ」
「うん……」
塚田は、五つの封筒を見下ろした。
――啓子。啓子。
僕を見捨てないでくれ。啓子……。
塚田は、封筒の一つを、選び出した。
〈2511〉のドアが開くと、川北は一瞬、戸惑った。
ハッと息をのむほど|可《か》|愛《わい》い女の子が、立っている。
「川北さん! |嬉《うれ》しいわ、来て下さって!」
少女は|頬《ほお》を紅潮させて、「入って下さい」
と、言った。
「うん……」
川北は、ツインルームの中へ入ったが――。
「友だちは?」
少女は後ろ手にドアを閉めて、
「ごめんなさい。パーティって|嘘《うそ》なの」
「嘘?」
「私一人。――ボーイフレンドに振られちゃって」
川北は、ちょっと大人びたワンピースの少女を、少し離れて眺めた。
「君……いくつ?」
「一八。――そう見えないでしょ?」
「いや……。可愛いからさ。でも、一八歳だね、やっぱり」
「そう?」
「大人の雰囲気があるよ」
「嬉しいわ。――怒ってない?」
「怒るもんか」
川北は、ゆっくりとソファにかけた。「何か飲んで、話さないか?」
その目は、すでに服の下の少女の肌に、届くようだった……。
17 死 体
〈双子は三人〉
「――何、これ?」
と、その紙に書かれた言葉を見て、浅井由美は言った。
「これが手がかりか」
塚田は、その紙を手にとった。「〈双子は三人〉……。何か意味があるんだ、この言葉に」
「でも、双子なら二人でしょ。三人なら三つ子だわ」
「そりゃそうだけど、これはきっと全然別のことを指してるんだよ」
伊沢啓子は、塚田と浅井由美が、〈ミステリー・ナイト〉の「手がかり」を一緒に|覗《のぞ》き込んでいるのを、少し離れて、眺めていた。
佐々木はもちろんその意味を知っているのだろう。しかし、啓子も、それが何なのかは知らない。
「ねえ、何か考えてよ!」
と、由美が塚田をつついている。
啓子は、ふっと笑った。――まるで子供のようだわ、あの子。
無邪気とか、天衣無縫という意味での「子供らしさ」ならともかく、浅井由美は単に「子供じみている」だけだ。確かに見かけは可愛いが、頭の方は空っぽというか、ろくに勉強などしたこともない、という感じである。
啓子は、由美に、
「しっかりしてよ! せっかく一番に着いたのに!」
と、せっつかれている塚田が、|可《か》|哀《わい》そうになった。
佐々木が、いつの間にか啓子のそばへやって来ていた。
「――大分苦労してるらしいね」
と、佐々木は低い声で言った。
「そうね。難しいの?」
「いや、すぐに思い付くはずだ。誰も分らないんじゃ、困るからね」
啓子は、庄子ユリアの方へ目をやった。
いかにもスターらしい雰囲気を、ユリアは身につけている。
「早く片付いてくれると、君の所へ行く時間が取れるんだがね」
と、佐々木が|囁《ささや》いたので、啓子はちょっと笑った。
そしてふと――啓子は、塚田が自分の方をそっと見ていることに気付いた。
そうだ。塚田から電話があったとき、「佐々木さん?」と呼びかけたっけ。塚田は察している。啓子と佐々木のことを。
でも、塚田の視線には、|嫉《しっ》|妬《と》や腹立ちは感じられなかった。――悔んでいるのだろうか。
でも、もう遅い! そうよ。
啓子は、しかし何となく少し佐々木から離れた。なぜなのか、自分ではよく分らなかったが……。
「双子……。何のこと?」
由美がしきりに首をかしげていると、部屋のドアをノックする音がした。
「どうやら、他にもこの部屋を見付けた人がいたようですね」
と、佐々木が言うと、庄子ユリアは、ドアの方へと歩いて行った。
「――どうぞ」
と、ドアを開けて中へ入れると、
「ウソ! 庄子ユリア? わあ、本物だ!」
と、どう見ても高校生ぐらいのカップルの女の子の方が、飛び上る。
「おい、それよりさ、先に進もうぜ」
と、こっちは男の子の方が積極的。
小づかいが助かる、という現実的な理由があったのかもしれない。
ユリアがドアを閉めない内に、
「すみません……」
と、また一組のカップルが顔を出した。
ユリアのいる〈2521〉号室は、たちまち人で一杯になってしまったのである。
「あれ?」
と、村松完治は言った。「草間さんじゃないですか」
草間は、ホテルのロビーに入って来て、これからどうしたものかと迷っているところだった。
あの〈たれ込み〉の電話の通り、川北竜一が未成年の女の子と寝ているとしても、|真《まっ》|直《す》ぐ行ってドアをノックし、開けてくれるとは思えない。
それに、同じ部屋の中にいたというだけでは、記事としてはショックが小さいだろう。
ドアを開けて、いきなり中をとれる、そんなうまい手がないだろうか、と草間はここへ来る車の中で考えていたのである。
「やあ、村松さん」
草間は、五月麻美のマネージャーのことはもちろん良く知っていた。
お互いにチラッと素早く相手の手にしている物を見ていた。
草間の手には全自動カメラ。村松の手にはウイスキー一びん。
「草間さん。――何かネタさがしですか」
草間は、ちょっと間を置いて、
「まあね」
と、言った。「知らなかったな」
「何です?」
「五月麻美がこのホテルにいたとはね」
「いや――」
「とぼけてもだめ。そのウイスキー、彼女の好きなレーベルじゃないですか」
村松は、苦笑した。
「かなわないなあ、草間さんには」
もちろん、草間とて、五月麻美とこの村松が、二人で泊っているのだとは、考えてもいないのである。
「内緒にして下さいよ。ね?」
と、村松は言った。「今、彼女の機嫌をそこねると、クビです」
「相手次第だなあ。有名タレント? 作家? ディレクター?」
「そんなんじゃないんです。本当ですよ」
と、村松は言った。「ただ……このところ、川北竜一とうまく行ってない。ご存知でしょ?」
「まあね」
「そのうさ晴らし、ってわけで。飲んで騒ごうってだけなんです」
草間は、耳を疑っていた。村松の話が本当かどうかはともかくとして――そんなことはどうでもいい――少なくとも、五月麻美は、川北と一緒ではないのだ。ということは、あの電話が本当だという可能性が高くなることでもある。
「しかし、川北もここにいるんでしょ?」
と、草間は言ってみた。
「ええ。でも仕事でしょ。彼女は別に川北に会いたくて来たわけじゃないんです」
「なるほど」
草間は、少し考えてから、言った。「ね、村松さん。力を貸してくれませんか。悪いようにはしませんから」
「何です? 怖いな、どうも」
と、村松は笑った。
「川北はね、未成年の女の子を連れ込んでるんです」
「――何ですって?」
「中学生。一四歳ですよ!」
「本当ですか?」
「まず間違いないんです。もし、五月さんが川北と切れたがってるんだったら、これは絶好の機会ですよ」
村松は、少し黙って突っ立っていたが、やがて口を開いた。
「彼女に|訊《き》いてみます」
「そうして下さい。僕はここで待ってます」
「分りました」
村松は、エレベーターの方へ、急いで歩いて行った。
もし草間の話が本当なら、そしてそれがどこかで記事になったら……。たとえ法律的に罰せられなくても、川北のスターとしての生命は、終りになるだろう。
五月麻美も、川北から自由になる。
しかし、村松は、女心の複雑なことを、いやになるほど知っていた。特に麻美のようなタイプの女のことは、よく分っている……。
本当に、川北に愛想をつかしているのかどうか。今一つ、村松は自信を持てなかったのである。
どうしよう?――村松は、迷っていた。
庄子ユリアのいる〈2521〉の部屋の中は、大変な騒がしさだった。
ここへやって来た三組のカップルが、封筒の中の手がかりを解けなくて、立ち往生という格好である。
庄子ユリアも、面白がって、それぞれのカップルを眺めている。
啓子は、正解が出るのを待っていた。ここまでいたのだ。どうせなら見届けてやろう、と思った。
「ちょっとトイレを借りていいですか」
と、由美がユリアに訊いた。
「ええ、どうぞ」
由美がトイレに入って、塚田は一人になった。
佐々木は、部屋の前の廊下に出て、他にも誰か来ないか、見ている。
啓子は、そっと窓辺に立って、舞い落ちて来る雪を見ていた。
「――あれが〈佐々木〉かい?」
気が付くと、塚田が立っていた。
「ええ。このホテルの人なの」
「そうか。感じのいい人だね。プロだよな」
と、塚田は言って、一緒に雪を眺める。
「彼女が戻るわよ」
と、啓子は言った。
「構わないよ」
塚田は、肩をすくめた。「あのクイズが解けなくて、愛想をつかされりゃ、|却《かえ》って|嬉《うれ》しいようなもんだ」
「まさか、そんなことで――」
「いや、そうなるかもしれないよ。そうしたら、僕も会社にいられなくなる。クビの方がいいね。なまじ、とんでもない支社へやられるよりは」
「しっかりしなさいよ」
啓子の言葉に、塚田はちょっと顔を赤らめた。
「すまないね。今さら君にこんな――」
「やめて」
と、啓子は遮った。「あなたにはあなたの生き方があるでしょう。誰にも邪魔されたくない、人生の目標が。それに自信を持つのよ。それが生きる、ってことだわ」
塚田の|頬《ほお》は紅潮していった。――恥じて、赤くなっているのではない。何かを決心したような表情だった。
「〈双子は三人〉ね……」
と、啓子は窓の外を見ながら|呟《つぶや》いた。
「え?」
「ここは何階?」
「二五階……。そうか、〈|二《ふた》|五《ご》〉か。じゃ――〈2532〉?」
「そうね。でも、〈32〉まではナンバーがないはずだわ。〈は〉を〈0〉と考えたら?」
「〈2503〉」
と、塚田は|肯《うなず》いた。「そうか。〈2503〉号室だ」
「たぶん、そうね」
「――何してんの?」
と、トイレから出た由美がやって来る。
「今、解けたよ」
と、塚田が言った。
「本当に?」
「ああ。――行ってみよう」
「ええ!」
由美は、すっかり夢中になって、塚田の手を引張る。啓子も、その後からついて行った。
廊下にいた佐々木は、塚田たちが出て来たのを見て、
「おや、どうしました?」
と、言った。「あの|謎《なぞ》は?」
「分った、と思います」
と、塚田は言った。「〈2503〉へ行ってみたいんですが」
佐々木は、ちょっと|眉《まゆ》を上げた。
「なるほど。――鋭いですね」
と、肯いて、「じゃ、ご案内しましょう」
と、先に立って歩き出す。
啓子は、その三人から少し遅れてついて行った。
どうして、わざわざ塚田にあんなことを教えたりしたんだろう? 自分でも、よく分らなかった。
ただ、今はどうでも、かつて自分が愛していた男が、あんな女の子に馬鹿にされている姿を、見たくなかったのかもしれない……。
「――ここです。スイートルームですね」
佐々木が、マスターキーを出して、ドアを開ける。「何が飛び出して来ますか……」
明りが点いている。
四人は、スイートルームのリビングの部分へと入って行き、足を止めた。
「いやだ!」
と、由美が青くなって、塚田にしがみついた。
リビングの床に、女が倒れている。
啓子は、すぐにそれが永田エリだと気付いた。――うまいもんだわ。
胸にナイフが突き立って、上衣は血で染まっていた。それは本物のように生々しかった。
土気色の顔、そして、カッと見開いた目……。
「あの――これは――」
と、塚田も青くなっている。
佐々木が、ちょっと笑って、
「ご心配なく。うちでお願いした役者さんです」
「なあんだ」
と、由美が息を吐く。
「これから、この犯人を見付けるわけです。探偵、川北竜一さんの力を借りて、ですね。この方は、永田エリさん。ベテランの役者さんです。――永田さん、ご苦労様。もう役はおしまいですよ」
佐々木は歩いて行って、かがみ込んだ。「永田さん。さあ――」
言葉が途切れる。佐々木は手をのばして、そっと永田エリの肩に触れた。
啓子は、まさか、と心の中で呟いた。これも趣向よね。そうでしょう?
ずいぶん長い時間がたったようだった。
立ち上った佐々木は、青ざめていた。
「――何てことだ。本当に死んでる!」
由美が、
「また! びっくりさせようなんて……」
と笑いかけて、やめた。
「とんでもないことになった。――ここから出て下さい。警察を呼ばなくては」
「佐々木さん――」
「君は部屋へ戻って」
と、佐々木は厳しい声で言った。「連絡するから」
「分ったわ。でも――」
何を言おうとしたのか。
啓子は、そのまま黙って、廊下を歩いて行った。
18 出会い
「何ですって?」
五月麻美は、村松の話に、さすがにびっくりした様子だった。「一四歳? 本当なの、その話?」
「草間さんは、いい勘をしてる人ですからね」
と、村松は言った。「ちゃんとガセネタかどうか、見分けられるんですよ」
麻美は、もうガウンをはおった格好で、ベッドに入っていた。シャワーも浴びて、後は村松が、好みのウイスキーを持って来るのを待つばかり、というところだったのである。
「馬鹿ね、川北も」
と、麻美は首を振って言った。
「もし、どこかにスッパ抜かれたら――」
「おしまいよ」
と、麻美は即座に言った。「ただでさえ、人気が落ちて来てるのに。――アッという間に、忘れられるでしょうね」
村松は、ベッドの足下に、ウイスキーのボトルをかかえたまま、立っていた。
「で……どうします?」
麻美は、少し間を置いて、
「あなたはどうしたらいいと思う?」
と、|訊《き》いた。
村松は、当惑げに目をそらした。自分の意見を求められるなんてことは、まずあり得ないのだ。
「いや……僕は、どっちでも……。あなたの気持次第ですよ。だから、少し草間さんに待ってもらってるんです。このまま――川北が落ちぶれるのを放っておいて、いいんですか? 後になって、悔んでも、とり返しがつきませんからね。何なら、川北に連絡して、その女の子の部屋から出るように言うか……。探し出せないことはないでしょう」
麻美は、じっと村松を見つめていた。
「つまり……私がまだ川北に未練を残してるか、ってことなのね」
「そうです」
「それなら……」
と、麻美は自分の両手を、マニキュアの具合でも見るように眺めて、「未練はあるわ。あれだけ暮した男ですもの。当然よ」
「分りました」
村松は、ボトルをテーブルにのせると、「急いで、その女の子の部屋を探します」
と、言って、部屋を出て行こうとした。
「待って!」
と、麻美が呼び止める。
役者らしい、よく通る声だった。
「はあ」
村松は振り向いた。
「未練がある、って言っただけよ。助けろとは言わないわ」
「でも……」
「こっちへ来て」
麻美は、村松がベッドのわきへ来るのを待って、言った。「――あんた、本当に私のこと、好いてくれてる?」
「そりゃあ……マネージャーですから」
麻美は笑い出した。――村松は戸惑っている。笑いながら、麻美が泣いていたからである。
「――ごめんなさい。びっくりさせて」
と、麻美は目をこすると、「台なしね、せっかくの〈若作り〉も」
「あなたは、化粧なんかしなくたって、きれいですよ」
麻美は、村松を見上げて、
「あんたの言葉だと、信じたくなるわ」
と、言った。「――ねえ」
「はあ」
「女優がマネージャーと結婚するなんて、ありふれてて、面白くも何ともないわね」
「そうですね。よくある話で」
「でも、私はそうしたいの」
と、麻美は言って、村松の手を取った。
啓子は、一八階まで下りようとして、じりじりしながら、エレベーターの前で待っていた。
今は使う客が多い時間帯なのだろうか?
なかなかエレベーターがやって来ない。
やっと、チーンと音がして、扉がスルスルと開いた。
「キャッ!」
中から飛び出して来た男とぶつかりそうになって、啓子は声を上げた。
「あ、失礼」
と、男は言って、行ってしまいそうになったが――。
「あら、水島さんでしょう」
と、啓子は呼び止めた。
振り向いた水島雄太は、啓子の顔を、ちょっと見ていた。
「ああ! この近くのロケのときに――」
「そうです。あの――どこへ?」
「いや、ちょっと……人捜しです」
と、水島が言った。「本当はね、こんなことしてちゃいけないんです。何しろ〈犯人役〉ですからね。しかし……」
「この辺は、もうじき大変ですわ、きっと」
「何のことです?」
「永田エリさんが、殺されたんです」
水島は、ちょっとポカンとしていたが、
「ああ、〈2503〉でね。もちろんですよ、彼女は死体の役なんですから」
と、|微《ほほ》|笑《え》んだ。「よほど真に迫ってましたか」
「そうじゃないんです」
と、啓子は首を振った。「私、この企画の担当をしてる、佐々木さんとお付合いしてるんです」
「佐々木……。ああ、あの人ですか」
と、水島は|肯《うなず》いて、「あれはいい人だ。でも――」
「さっき、一緒に入ったんです。〈2503〉へ。本当に、殺されていたんです。永田エリさんが」
「まさか」
と、水島は|呟《つぶや》くように言った。「じゃあ……」
「ゲームどころじゃありません。たぶん、すぐ警察の人が来ます」
水島も、やっと信じる気になったようで、
「何てことだ」
と、言った。「何てことだ」
「どこか――よそへ行っていた方が。私、自分の部屋へ行きます。ご一緒に」
なぜか、自分でもよく分らないままに、啓子は水島を誘っていた。
「しかし……」
「私なら、佐々木さんといつでも連絡がとれます。さ、どうぞ」
半ば|呆《ぼう》|然《ぜん》としている水島を一緒にエレベーターに乗せて、啓子は一八階へと下って行った。
その扉が閉まると、すぐに廊下をやって来た女がいる。――水島久仁子だった。
エレベーターの前まで来て、久仁子は、足を止めた。
何をしてるんだろう、私は?
急に、疲れが手足を重くして行くのが感じられた。――もう一歩も歩けないような気がする。
一体、ここへ来て、何をするつもりだったのか?
久仁子は、牧子を親しい奥さんの所へ預けて、出て来たのだった。もしかすると、二度と戻れないかもしれない、と思いながら……。
川北を殺す。――それが、久仁子にとってはやらなくてはならない唯一のことのように思えたのだ。
もう、すんでしまったことは、とり返しがつかない。夫も、決して自分を許すまい。
そう知ったとき、久仁子は川北が憎くなっていた。もちろん、自分にも責任はある。
しかし、川北を殺せば、少なくとも、夫に、自分の愛情を示せるだろう、と……。なぜか、久仁子はそう思ったのである。
バッグの中には、鋭く|尖《とが》った肉切り包丁が入っている。川北が今夜、このホテルにいることは、知っていた。
だからやって来たのだ。夫もいる。もしかしたら、夫の目の前で、川北を刺し殺せるかもしれない、と……。
何てことを考えたのだろう?
久仁子は、じっとバッグをつかんで、立ち尽くしていた。
川北に|復讐《ふくしゅう》して、どうなるだろう?
自分は殺人罪で逮捕される。牧子は、みんなから何と言われるか。夫が、どんな思いをするか。
川北を殺して、私は満足したとしても、それが一体誰を幸福にするだろう。
いけない。――だめだ。
久仁子は、激しく頭を振った。――夫から別れろと言われたら、おとなしく出て行く。牧子は夫の所へ残るだろうか。それも堪えなくては。
私が悪いんだから。――何もかも。
久仁子は、力なく、両手を下げて、エレベーターの前に立った。ちょうど、チーンと音がして、扉が開く。
そこに乗っていた男が、久仁子を見て、ハッとした。とっさに久仁子は身を翻して逃げようとした。
「待って下さい!」
と、男の声が追いかけて来た。「奥さん! 水島さんの奥さんでしょう」
久仁子は振り向いた。
「草間といいます。〈週刊××〉の」
カメラを手にして、その男は、久仁子に追いついた。
「あなたが……私と川北の写真を載せるんですね」
と、久仁子は言った。
「待って下さい。そうなるかどうか、まだ分らないんです」
久仁子は、突然、廊下のカーペットにペタッと座った。そして両手をつくと、
「お願いですから……。主人と、やり直したいんです。――どうか」
と、頭を下げる。
「奥さん……」
草間は、かがみ込んで、「立って下さい。――さあ」
久仁子は、よろけながら立ち上った。
「大丈夫ですか? 奥さん。私はね、水島さんが好きなんです。いい役者だし、いい男だ。そうでしょう?」
「ええ……」
「大丈夫。お約束しますよ、あなたと川北の写真は、出ません」
草間の言葉に、久仁子の|頬《ほお》がカッと赤らんだ。
「本当ですか」
「ええ。もっと大きなニュースで、誌面は一杯になるでしょう。たぶん、もう川北は二度とあなたを誘ったりしないはずですよ」
草間のやさしい笑顔は、久仁子の絶望を、少しずつ溶かして行った……。
エレベーターで、もう一人上って来た男がいた。
「やあ、似合いますね」
と、草間が言うと、その男は、
「窮屈で。――サイズが違ったかな」
ボーイの制服は着ているが、どうやら本物ではないらしい。一方の手の盆の上には、ウイスキーと氷がのっている。
「いや、さまになってますよ」
と、草間は言って、そのボーイの肩をポンと|叩《たた》いた。「行きましょう。〈2511〉だ」
久仁子は、その奇妙なとり合せの二人を、ポカンとして見送っていた……。
バタンと音がして、振り向くと、制服の警官が、従業員用のドアから二人、出て来た。
久仁子はドキッとした。どうしてこんな所に警官が? しかも、ただならぬ雰囲気である。
警官は、久仁子に目を止めると、
「何をしてるんです?」
と声をかけた。
「あの……」
「お客ですか。ルームナンバーは?」
「いえ、客じゃありません。ただ、ちょっと――」
「バッグを見せて」
「え?」
|否《いや》も応もなく、パッとバッグを取り上げられてしまった。
「あの……」
警官は、バッグの中を探って、ハンカチにくるんだものを見付けた。――肉切り包丁。
「これは?」
厳しい目が、久仁子を|怯《おび》えさせた。
「それは……あの……」
「一緒に来るんだ」
がっしりした手が、久仁子の腕をつかんだ。
久仁子は、引きずられるようにして、廊下を引張られて行った。
19 隠しどり
ドアをノックすると、
「誰だ?」
と、面倒くさそうな口調で、返事が返って来た。
「ウイスキーをお持ちしました」
「頼んでないぞ」
と、川北は言った。
バスローブをはおって、どうやらシャワーを浴びたばかりらしい。
「ホテルからのサービスでございます」
と、村松は、澄まして言った。
「何だ、そうか。――じゃ、置いてってくれ」
「失礼いたします」
村松は、ドアを細く開けておいて、中へ入った。
ベッドには、やはりバスローブを着た女の子が寝そべって、週刊誌をめくっている。
村松は、盆をテーブルの上にのせた。
「こちらでよろしいでしょうか」
「ああ、いいよ」
川北は手を振った。
村松は、チラッとドアの方へ目をやった。|隙《すき》|間《ま》から、草間のカメラが|覗《のぞ》いている。
しかし、川北がベッドから離れすぎていて、少女と一枚のカットに入らない。別々の写真では意味がないのだ。
「――他に何かご用はございませんでしょうか」
と、村松は言った。
「もういい。行ってくれ」
と、手を上げて見せ、川北がベッドの方へ近付いて行く。
「失礼いたします」
と、頭を下げた村松の耳に、カシャッとかすかな音が聞こえた。
廊下へ出て、ドアを閉めると、村松は息をついた。もう草間はドアから離れている。
「――どうです?」
と、村松は急いで歩いて行くと、言った。
「大丈夫。しっかり二人がうつってますよ」
と、草間は|肯《うなず》いた。「カメラの性能を信じるだけだ」
「やれやれ。――行きましょうか」
村松はボーイの帽子を取って、汗を|拭《ぬぐ》った。「ばれたらどうしようと思って、ドキドキしてましたよ」
「あなたのことは知ってるでしょう、川北も」
「ええ。でも、この格好だし、もう、少し酔ってたようですしね」
「スクープだ!――どうします、これから」
エレベーターに乗って、草間は言った。「ともかく、このフィルムを持って帰りますがね、私は。後で一杯?」
「いや、結構です」
と、村松は首を振って言った。「ちょっと約束ができまして」
「ほう。彼女と?」
「そんなとこです」
と、村松は言った。
「そりゃ|羨《うらや》ましい。――ま、のんびりするんですな」
エレベーターがロビーのフロアに着くと、草間は、
「じゃ、これで。――メリー・クリスマス」
と、言って、歩いて行った。
ロビーは、この時間も、まだ若い人たちで混雑していた。その人ごみの中に、草間の姿が消える。
「やれやれ……」
村松は、ふっと肩の力を抜いた。
これで、川北の足もとをすくう手伝いをしたことになる。――もちろん、後悔はなかった。何と言っても、「身から出たさび」というやつである。
しかし、草間が後で知ったら……。村松の「彼女」が、五月麻美のことだと知ったら、仰天するだろう。
借りた制服を返しに、村松は地階へと下りて行った。
川北は、首をかしげていた。
「どうしたの?」
と、少女が言った。
「いや……。考えてみたら、ここは君の部屋だな」
「そうよ」
「どうしてウイスキーがサービスで来るんだ?」
川北は、そう言って、「それに――何だか見たことのある顔してたな、あのボーイ……」
「そう? どうでもいいでしょ、そんなこと!」
少女は素早くバスローブを脱ぎ捨てると、ベッドへ入った。
川北はちょっと笑って、
「全くだ。どうでもいい!」
と、声を上げ、自分もベッドへ潜り込んで行った……。
「そんなことがあったんですか」
と、啓子は言った。
「女房の姿を見たもんでね、つい……」
水島は、啓子の部屋のソファにかけて、言った。「役者失格かもしれないな。こんなことで現場を離れて」
啓子は首を振った。
「そうは思いませんわ。――プロでいるってことと、人間らしくあることと、矛盾しないでしょ?」
水島は、|微《ほほ》|笑《え》んで、
「ありがとう」
と、言ってから、すぐ真顔に戻った。「しかし――どうしてエリが」
「永田エリさんも、川北竜一と……。ずいぶんひどい男ですね」
「まあ……人の色恋ざたに、口を出してはいけないかもしれないが、あの男は、責任をとるってことがない。逃げてばかりいる男ですよ」
「永田さんを殺したのは、誰なのかしら」
「見当もつきませんね」
と、水島は言った。「あんなに人から恨まれる理由のない人もいなかった。本当です」
「恨みじゃないんですね、きっと」
「しかし……分らない」
水島は首を振った。
ドアをノックする音。――啓子は急いでドアを開けに行った。
「佐々木さん――」
「すまない。ともかく大変で……」
水島を見て、佐々木が目をみはる。
「いや、どうも……。こちらの娘さんが、連れて来てくれたんです」
「水島さん! 捜してたんですよ」
と、佐々木は言った。
「何か?」
「捕まったんです。二五階で、刃物を持ってうろついていた女性が」
「刃物?」
「あなたの奥さんですよ」
佐々木の言葉に、水島はサッと青ざめた。
川北は、まどろんでいた。
酔いも手伝って、少女を抱いたかどうかも、よく憶えていない。
しかし、ともかく……。同じベッドに入ってるんだ。ちゃんと、抱いてやったんだろう。
少女が、少し体を起こした。
「どうかしたのかい?」
と、川北は言った。
舌足らずな声になっていた。少女は、ドアの方へ目をやって、
「ちゃんと閉めなかったの?」
と、言った。
「何だって?」
「お客様みたい」
川北は頭を持ち上げて――|唖《あ》|然《ぜん》とした。
ユリアが、開いたドアからゆっくりと入って来た。
「ユリア……」
「|呆《あき》れた」
と、ユリアは冷ややかに言った。「仕事はどうしたの?」
「仕事?」
川北は、目をパチクリさせて、「そうだった! 仕事か!」
「もう遅いわ」
と、ユリアは言った。「それどころじゃなくなったのよ」
「――何のことだ?」
「ともかく、ちゃんと部屋へ戻ったら?」
ユリアは少女の方を見て、「あなた、いくつ? まだ子供じゃないの」
「そう見えるだけさ。もう一八。――なあ」
と、川北が言うと、
「ごめんなさい」
と、少女が舌を出した。
「何が?」
「私、一四。――中学生なの」
一気に、酔いが|醒《さ》めた。
「何だって!」
「早く出たら?」
と、ユリアが言った。「人に見られたら、大変よ」
「ああ……。おい、ユリア! 待ってくれ!」
川北はパンツとランニングシャツだけで、他の服をかかえると、ユリアの後を追って、少女の部屋から飛び出した。
――残った少女はクスクスと笑っていたが……。
少しして、電話が鳴った。
「はい。――もしもし。――うん、今出てった。|凄《すご》くあわてて。――おかしかった!」
と、思い出して笑っている。「――え?――うん、そうね。じゃ、仕度してる。――川北さん? 全然、酔っ払っちゃって。何も分んなかったみたい」
少女は、伸びをすると、
「じゃあ、後でね。――はい」
電話を切ると、少女はベッドから出て、バスルームへ入って行った。
口笛が、最新のアイドル歌手の曲を吹いていたが、やがてシャワーの音に消されて、聞こえなくなる。
しばらく、シャワーの音が続いて、それが止まると、今度は少女の口ずさむ歌が、聞こえて来た。
ドアが――部屋のドアが、静かに開いた。
もちろん、バスルームの少女には、何も分らなかった。
20 約 束
約束なんて、いい加減なものだ。
その少女も、そのことはよく分っていた。でも、人間は、自分にとって都合のいい約束は信じようとする。――面白いものだ。
少女も信じていた。スターにしてくれる、という約束を。
だから、川北竜一なんて、あんな「おじさん」と寝てやったのだ。でも、本当は「何も」なかった。
川北は、酔っ払っていて、少女を抱こうとしている内に眠ってしまったのである。もともと酔っていたところへ、ホテルからのサービスですといって、お酒が届いた。
あれがおかしなところだけれど、川北は、
「もったいない」
と、言って、また飲んじゃったのだ。
有名なスターといっても、結構お金はないものだ。少女もそれは知っていた。派手な暮しをしているほど、お金は入らない。
それでも、人はスターになりたがる。みんなに見られ、|羨《うらや》ましがられたいのだ。
少女もそうだった。そのためになら、川北と寝ることだって……。ま、結局は、何もなくてすんだわけだが。
シャワーを浴び、さっぱりした少女は、裸身にバスタオルを巻きつけて、備え付けのドライヤーで髪を乾かし始めた。
ゴーッと吹出す熱風の音が、少女の耳を覆った。少女はまた歌を口ずさみ始める。
鏡に映った自分の姿に、少々見とれていた。――|可《か》|愛《わい》いね、あんた!
そう。放っとく手はないわよ。こんな可愛い子を……。
ブラシでゆっくりと髪をすきながら、ドライヤーの風を当てる。バスルームの中は、湯気がこもって、少しむし暑い。
少女は手をのばして、細く開いていたドアを開けた。
そこに――誰かが立っていた。
見定める間もなかった。少女の首を男の手が|捉《とら》えた。
声を出そうとして、少女はもがいた。
やめて! やめて! 私はスターなのよ!
スターになるんだから! いや! やめて……。
ドアを開けると、ソファに青ざめた顔で身を沈めている久仁子が見えた。
「久仁子」
水島は、部屋へ入って行って、声をかけた。
久仁子はゆっくりと夫の方へ顔を向けた。
「あなた……。あなたなの?」
まるで幻でも見ているかのようだ。
「どうしたんだ! 今、佐々木さんから聞いてびっくりして――」
水島が歩み寄ると、久仁子は崩れるように、夫の胸に身を|委《ゆだ》ねた。
「久仁子……」
「ごめんなさい……。私……何とかして取り戻したかった……」
「しかし、お前、刃物を持ってたって?」
久仁子は|肯《うなず》いた。
「一体何をする気だったんだ?」
「あの人を――殺そうと思ったの」
「川北を? 馬鹿だな!」
「ええ……。やって来てから、私もそう思ったわ。そんなことしても、あなたや牧子を、もっと苦しめることになるって」
「そうだよ。あんな|奴《やつ》のために、刑務所へ入って何になるんだ」
水島は、久仁子の|頬《ほお》に落ちる涙を、|拭《ぬぐ》ってやった。
「――失礼」
と、言ったのは、制服の警官だった。「この女性のご主人ですか」
「そうです。あの――妻は、何もしていません」
「しかし、何といっても刃物を持っておられたのでね。人が刺し殺されたわけですから」
「分ってます」
と、水島は肯いて、「妻のそばにいてやっても構いませんか」
「いいですよ。後で事情をうかがうことになると思いますが」
と、警官は言った。
水島はソファに並んで座ると、久仁子の肩に手を回し、力をこめて抱いた。
「あなた……。永田さんが……」
「うん。――聞いた」
水島は、重苦しい表情で肯いた。「ひどい奴がいるもんだ」
「いい人だったわ。あの人……私に忠告しに来てくれた」
「永田君も、川北の奴のおかげで、辛い思いをしてる。――全く。どうして殺されるなら、川北の奴が殺されなかったんだ!」
「しっ! やめて」
久仁子が、夫の腕をつかんだ。
警官がジロッと水島の方を見た。
「あなた……」
と、久仁子が言った。「私、草間さんに会ったの」
「草間?――あの週刊誌の?」
「ええ。私と川北の写真は出ない、と言ってたわ」
「本当か?」
「そう言って下さったの。でも――もちろん、何もなかったことにはできないけど」
久仁子は口ごもった。
水島は、涙のあとで汚れた、久仁子の顔を見ていた。
何もなかった、ってわけにはいかないだろう。確かに。
川北のことを、この仕事をしている限り、忘れることはできないだろうから。しかし、時がたてば……。時間さえたてば、久仁子を許すことはできそうな気がする。
水島は、ドアが開くのを見て、顔を上げた。――ちょっと面食らって、
「何してるんだ?」
と、言った。
「決ってるじゃないか」
原の太った体がゆっくりと入って来た。「マネージャーだぞ、俺は。劇団の人間が困ったときは現われる。それが仕事だ」
原は、まるでスーパーマンみたいなセリフを口にした。
五月麻美は、ルームサービスでとったサンドイッチをつまみながら、TVを見ていた。
馬鹿げてる、と言われるかもしれないが、麻美は満足していた。
村松は今、風呂に入っている。――麻美は、自分のマネージャーが風呂好きで、しかも長風呂だということを、初めて知った。
これから、まだまだ、色んなことを知らなければならないだろう。それも楽しみだった。
何人もの男を知るのを楽しむことより、一人の男を詳しく知ることの方が楽しくなる。麻美は、自分がそんな年齢になったのかもしれない、と思った……。
ドアをノックする音。――聞き間違いかしら?
TVの音を、リモコンで小さくした。
トントン。――確かに、誰かが|叩《たた》いているようだ。
しかし、この部屋なのかどうか、迷うほど、ノックの音は小さかった。
立って行って、そっとドアを開ける。
「麻美……」
川北だった。「中へ入れてくれ。頼むよ」
麻美は、ためらった。しかし、ドアを挟んでやり合うわけにもいかない。
ともかく、麻美は、川北を中へ入れた。
「ありがとう……」
川北は、疲れ切っている様子だった。ぐったりとソファに体を落とす。
「どうしたのよ、一体」
「やっと……見付けた。この部屋を。ボーイを何人も捕まえて訊いたんだ」
「そんなこと言ってるんじゃないわ。――一人じゃないの、私」
川北は、バスルームのドアの方へ目をやった。
「本当に――あのマネージャーと?」
「私の勝手でしょ」
「麻美……。助けてくれよ。|罠《わな》だ。はめられたんだ!」
「何の話?」
「中学生の女の子と寝ちまった」
川北は、ゆっくりと首を振った。「知らなかったんだよ、本当だ!」
「自分でしたことでしょ。自分で責任をとりなさい」
と、麻美は冷たく言った。「大体、今夜は仕事で来てるんでしょ。それなのに、女の子なんかに手を出して」
「それは……頭に来て、つい飲んじまったんだ」
と、川北は神経質に手を握り合せた。
「頭に来て?」
「君のことでさ。当然だろ。あんな村松なんかと……」
「大きなお世話でしょ」
麻美は、ますます冷ややかになった。
「なあ、麻美……。|俺《おれ》たちも、もう少し冷静になって、お互いのことを考えようじゃないか。君も大スターなんだ。恋の相手も、スターの名前にふさわしい男でなきゃ」
「私は女よ」
と、麻美は言った。「スターである前に、一人の人間なの。見た目やプライドで相手を選んでた、馬鹿な時代は終ったのよ」
「麻美――」
「あなたはあのユリアの所へでも行ってりゃいいじゃないの」
と、麻美は川北を追い立てるように、「出てって! さあ」
と、川北の腕を引張って立たせようとする。
「おい! やめてくれよ。ねえ、話し合えば分る――」
「どうしました?」
バスルームのドアが開いて、赤い顔をした村松が、バスローブ姿で出て来た。「――あ、川北さん」
「いいの。この人、帰るところなのよ」
と、麻美は言った。
川北は、ジロッと村松をにらんで、渋々ドアの方へと歩いて行ったが――。
「あ……」
と、声を上げて、振り向いた。「どこかで見た顔だと思ったんだ! あのボーイ……。貴様だな!」
「川北さん。あの――」
「何だったんだ! 畜生! 俺をはめやがったな!」
川北は村松へ飛びかかった。
「やめて!」
麻美が金切り声を上げる。
川北と村松は、取っ組み合って、転がった。テーブルが倒れ、上にのっていたポットや|茶《ちゃ》|碗《わん》が床に落ちてちらばる。
「やめて!――やめてったら!」
麻美は、手近なもの――ちょうど頭ほどの大きさのある花びんをつかむと、取っ組み合っている二人のところへ駆け寄って、中の花と(当然)水をぶちまけた。
「ワッ!」
川北が、頭からずぶ|濡《ぬ》れになる。「何するんだ!」
川北が体を起こして、麻美の方を見る。その|隙《すき》に、村松は|拳《こぶし》を固めて、川北の|顎《あご》を一撃した。
ガツン、といい音がして、川北はカーペットの上に大の字になってのびてしまった。
「――大丈夫?」
麻美が、村松を助け起こすと、言った。
「ええ……。でも、殴っちゃった」
村松は心配そうに言った。
何といっても、村松はマネージャー。川北はスターである。
「構やしないわよ」
麻美は、村松に軽くキスすると、「社長に何か言われたら、とぼけときゃいいの。この人だって、それどころじゃないわ」
「でも……。スターを殴るなんて」
と、村松は自分の手を情ない顔で眺めている。
「じゃ、私を殴らないでね」
と、麻美は笑って言った。「さ、手伝って。――この人を」
「どうするんです?」
「廊下へ放り出すのよ」
村松が目を丸くした。
「でも――」
「この人の目の前でベッドに入るつもり? さ、頭の方をかかえて」
――二人は、川北竜一をドアのところまで運んで、麻美がドアを開けると、廊下へゴロゴロと転がして出してしまった。
「さ、これで二人きり」
麻美はパッパと手をはたいて、「もう誰がドアを叩いても、聞こえないことにしましょうね」
「ええ……」
「ベッドへ運んで」
と、麻美は|囁《ささや》いた。
村松は、「スター」をかかえ上げると、ベッドへと歩いて行った……。
21 恋愛関係
「いつまでこうやって待ってなきゃいけないの!」
と、浅井由美が甲高い声を上げた。
塚田は、肩をすくめた。
「僕にも分らないよ」
「何とかしてよ! 男でしょ!」
由美はヒステリーで爆発寸前という様子だった。
塚田は疲れていた。――何もかもに。
どうしてこんな日に、こんな所へ来ちまったんだろう。――クリスマス・イヴか。
いつもと何の変わりもない日じゃないか。一日が二十五時間あるわけじゃないし、この日だけ、人間が変わるわけでもない。
クリスマス・イヴも、男は男で、女は女で……。
ただ、若者向けの雑誌やTVにのせられて、こっちは振り回されているだけじゃないのか。――結局は、大人が|儲《もう》けるための口実の一つにすぎないのだ。
「何とか言ったらどう?」
と、由美は、部屋の中を、|苛《いら》|々《いら》と歩き回っていた。「どうしようっていうの? 私をこんなことに引張り込んで!」
部屋のドアが開いて、二人はギクリとして振り向いた。
塚田はホッとした。――啓子が入って来たのである。
啓子の後から、佐々木もやって来た。
「お待たせして、申し訳ありません」
と、佐々木は言った。「何分、警察の方も今夜は特別に忙しいようでしてね」
「どうしてくれるのよ、せっかくのクリスマス・イヴなのに!」
と、由美がかみつきそうな声を出した。
塚田と啓子が、そっと目を合せる。
「夜はまだ長いですから、落ちついて下さい」
佐々木は軽くいなして、由美は、ムッとした様子だったが、黙ってしまった。
「犯人は? 捕まったんですか」
と、塚田が|訊《き》いた。
「いや、なかなか……」
と、佐々木は首を振って、「何といってもこういう場所です。人間が大勢出入りしていますからね。――今、担当の刑事さんがみえるので」
「分りました」
と、塚田は|肯《うなず》いた。
「冗談じゃないわ!」
と、また由美が騒ぎ出した。「何で、私たちが、刑事なんかと――」
「やめろよ」
と、塚田が言った。
由美は、まるで宇宙人か何かと話をしたみたいに、ポカンとして、
「え?」
と、塚田の顔を見た。
「やめろ、って言ったんだよ」
と、塚田は穏やかに、しかしはっきりと言った。
「あなた……誰に向って言ってるのよ」
由美は|真《まっ》|赤《か》になって、塚田をにらみつけた。
「いいかい」
塚田は、由美の目を|真《まっ》|直《す》ぐに見返して、「人が死んだんだ。そしてホテルの人も、警察の人も、クリスマス・イヴの夜でも関係なく働いてるんだ。僕らはこうやって、ただ座ってるだけじゃないか。文句を言うことなんかない。そうだろう?」
由美は、青くなったり赤くなったりをくり返していたが、やがて腕組みをして、ムッと黙り込み、ソファにふてくされて座った……。
啓子は、そっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
塚田も「大人」になったのだ。――啓子はそっと彼の方へ肯いて見せた。塚田は見ていなかったかもしれないが。
ドアを|叩《たた》く音がして、佐々木が急いでドアを開けた。
「あ、どうも」
「S署の者です。遅れまして」
厚ぼったいコートを脱いで、その刑事は息をついた。「いや、中は暖かくていい。外はすっかり雪景色ですよ」
半分髪の白くなった、その初老の男は、続けて、
「失礼。――S署の小田と申します。こんな夜に殺人に出くわすとは、運の悪い方たちですな」
「現場は〈2503〉のスイートルームです」
「手をつけずに、そのままになっていますか?」
「そのはずです」
「では、そちらの部屋で話をうかがいましょう」
「いやよ!」
と、由美が声を上げた。「私、あんな所、行かない!」
「死体には布をかけてありますから」
と、佐々木が言った。
塚田が立ち上ると、
「行きましょう」
と、肯いた。
啓子は、佐々木について、その部屋を出た。
由美が、渋々という様子で、塚田について来る。ふくれっつらで、まるで別人のように見えた。
「もう……。パパに言ってやるから……」
と、由美がブツブツ言っても、誰も聞いてはいなかったのである。
「――ここです」
〈2503〉のドアを、佐々木が開ける。
「ほう、こりゃ|凄《すご》い部屋だ」
と、小田という刑事は、死体よりも、部屋の豪華さに、まず感銘を受けた様子だった。
「このリビングが現場で」
と、佐々木が案内する。
死体は、佐々木が白いシーツで覆っていたが、その真中に赤黒く血がにじんで、死体は見えなくても、ゾッとさせるものがあった。
「なるほど」
小田が、布をめくってかがみ込んで、しばらく、あちこち見ていたが、やがて立ち上り、元の通りに布をかけた。
「一刺しか。即死でしょうな。――いや、検死官が忙しくて、なかなかこっちへ回って来られんので、申しわけありません」
と、小田刑事は頭をかいた。「――では、まず、こうなった事情をご説明いただきましょうか」
「私がご説明します」
と、佐々木が言った。「そもそもは、私どものホテルの企画したゲームだったのです」
「ほう。――いや、皆さん、適当に座って下さい」
何しろソファは沢山ある。しかし、なぜか塚田、由美、啓子の三人は、固まって同じソファに腰をおろした。
佐々木が話を始めると、すぐにポケットベルが鳴った。
「あ、こりゃすみません」
佐々木は、急いで、部屋の電話へと駆けて行った。
小田は、焦るでもなく、のんびりと窓の方へ歩いて行き、
「やあ、よく降りますな」
と、やっている。
「――もしもし、佐々木だ。――何だって? どこで?――そうか。酔ってるのか?――分った。それじゃ……。そうだな、〈2503〉へご案内してくれ。――うん、そうだ」
佐々木は電話を切ろうとして、「あ、そうそう。〈2521〉の庄子ユリアさんも一緒に。――うん。頼む」
「どうしたの?」
と、啓子は訊いた。
「いや、どうも……。例の川北竜一がね」
「どうかしたの?」
「廊下でのびてたそうだ。本人は何も言わずにムスッとしてるらしいが、どうやら五月麻美の部屋の前だったんだな。叩き出されたんだろう」
「まあ」
「|顎《あご》が赤くあざになってたというから、男に殴られたのかもしれないな」
「ほう、川北竜一も出とったんですか」
と、小田刑事が言った。
「そうなんです」
佐々木が、入口の方へ行って、間もなく、庄子ユリアと、そして浅井由美と同様のふくれっつらをしている、川北竜一を連れて戻って来た。
「これはどうも」
と、小田刑事は専ら庄子ユリアの方へ頭を下げている。
「――さて、話のつづきですが」
佐々木は、ゲームのあらましと、そのリハーサル、そして夕方から、この部屋での準備に至るまで、順序立てて説明した。
「なるほど。よく分ります」
と、小田刑事は肯く。
「そこで、死体発見のときの状況ということになるんですが」
佐々木は、塚田たちが、部屋のヒントを解いてここへやって来たこと。〈死体〉の役の、永田エリが、本当に刺し殺されていたことを説明した。
「ふむ……」
小田刑事は顎をさすりながら、布に覆われた死体を見下ろして、「ま、どう考えても、|物《もの》|盗《と》りや、通り魔的犯行ではない。となると、個人的な恨みから来たもの、ということになりますな」
小田刑事は、ふと思い出したように、
「そういえば刃物を持っていて、捕まった女性がいるとか? ここへ呼んでいただけますか」
「分りました」
――数分後に、制服の警官にともなわれて、水島久仁子が入って来た。
そして、でっぷりと太った男――劇団のマネージャー、原もついて来た。
「やあ」
原が、川北を見て声をかけたが、川北は顔をしかめているだけだった。
久仁子は、緊張した表情で、川北の方へは目を向けなかった。
「さて」
と、小田刑事が全員を見回して、「どういうつながりになっとるんですか? どなたか説明していただけませんかね。私も、週刊誌ぐらいは見ますので、川北竜一さんと、こちらの庄子ユリアさんのことは、承知しておりますがね」
ユリアは、ちょっと肩をすくめて、
「でも、もうすんだことです」
と、言った。
川北がジロッとユリアの方をにらむ。ユリアは、全然気付かないふりをしていた。
「私が説明した方が早いでしょう」
と、原が言った。「川北竜一は、元、この永田エリと同じ劇団にいました。そして当時、二人は恋人同士だった」
「そんなんじゃない」
と、川北は言い返した。
「そうかな? しかし、永田エリは君の子供を|堕《おろ》しているんだよ」
川北が顔をこわばらせた。原は続けて、
「マネージャーたる者、団員のことには何でも通じてなくちゃいかんのでね」
と、言った。「もちろん、川北君が有名になり、劇団を抜けてから、二人の間は切れていたわけですが」
「なるほど」
と、小田刑事が|肯《うなず》く。
「こちらの水島久仁子さんは、やはりうちの劇団の水島の細君です。当人も、元は劇団員でした。しかし……やはり、同様に川北君と付合いがあった」
「忙しいことね」
と、ユリアが皮肉っぽく言った。
「そして、水島君と結婚して、今は娘さんもいるが……。いくつだったかな」
「五歳です」
と、久仁子は答えた。
「もうそんなになるか! ところで、このところ、川北君はまたもや、この久仁子さんに手を出し始めた」
「そんなこと――とやかく言われる筋合はないぞ」
と、川北が言い返した。「大人同士の付合いだ。責任は半々じゃないか」
「確かにね」
と、原は肯いた。「しかし、君にとっては『またか』ですむ情事でも、この人にとっちゃ、一生を棒に振ることになるんだ」
「馬鹿でしたわ」
と、久仁子がうなだれた。
「しかも、二人の仲は、あちこちに知られつつあった。写真をとり、送りつけて来る人間もいて……。久仁子さんは追いつめられていた」
と、原は言った。「それで、刃物を持ってやって来た、というわけだ」
「すると、奥さん」
と、小田刑事が言った。「あなたの持っていた刃物は、川北を刺すためのものだったんですか」
「はい」
久仁子の答えを聞いて、川北はギョッとした様子で、腰を浮かした。
「怖がるくらいなら、火遊びはやめるのね」
と、ユリアが言った。
「全くです」
と、小田刑事が言った。「今はもちろん、刃物を持ってはいませんから、ご心配なく」
川北は、一人でムッとして黙り込んでいる。
「――すると、永田エリさんを殺す動機としては、どんなものが考えられますか」
と、小田刑事が言った。
「そこは分りかねます」
と、原が言った。「永田エリ君は、地味なわき役です。彼女を恨んでいる人間があるとも思えませんが」
誰もが、少し沈黙した。
「あの……」
と、久仁子が言った。「私のところへ――永田さん、忠告しに来てくれたことがあります。川北と付合うのはやめた方が、って……」
「ほう。そのとき、何か他に言っていましたか」
「実は――私、感じたんです。彼女の口調の中に。もちろん勘違いかもしれませんが、でも、たぶん正しかったと思います。永田エリさんは、まだ川北を愛していたんです」
川北が、チラッと久仁子の方を見た。
「なるほど、それは面白い」
と、小田刑事が肯く。「もし、二人がよりを戻していたとしたら……」
「そんなことはない!」
と、川北が言った。
「分るもんですか」
ユリアがからかう。「ともかく、過去の女でも、人にとられるのはいやなのよね」
「ユリア、お前……」
川北が|真《まっ》|赤《か》になって、ユリアをにらみつけると、「俺のおかげでスターになれたんだぞ! 忘れたのか!」
「やめてよ! もううんざり」
ユリアは正面から川北を見据えた。「あんたなんか、もういらないのよ。人のことを、自分の持ちものぐらいにしか思ってないくせして」
「何だと?」
川北は目をむいた。
「五月麻美にも放り出されたんですって? 私、明日になったら、週刊誌の人に教えて回ろう。あなたがホテルの廊下で寝てた、ってね」
「貴様――」
「まあ、お静かに」
と、小田刑事が言った。「個人的な|喧《けん》|嘩《か》は後回しにして下さい」
「川北君と永田エリ君が、もし今付合っていたとすると、動機はありますな」
と、原が言った。「永田君は、昔の川北君をよく知っている。色々、書かれて都合の悪いこともね。川北君が、遊びのつもりで永田君と付合い、永田君が、そういう過去を持ち出して、川北君をつなぎ止めようとしたのなら……」
「冗談はやめてくれ!」
川北が青ざめて立ち上った。「どうして|俺《おれ》が、こんな女を殺さなきゃいけないんだ! 俺はスターだぞ! 有名な人間なんだ。こいつは誰も名前も知らない〈死体〉役者だ。こんな|奴《やつ》を殺して、俺に何の得があるんだよ」
「川北さん。ひどい言い方ね」
と、久仁子は言った。「エリさんは、あなたとのことを、ごく親しい人にしかしゃべらずに、ずっと胸にしまい込んでたのに」
川北は肩をすくめて、
「俺は、別にどうってことはなかったんだ。向うが言い寄って来ただけさ」
と、口を|尖《とが》らして言った。
「川北さん。永田エリさんが殺されたとみられる時間、あなたはどこにいました?」
と、小田刑事が|訊《き》く。
「僕は――」
と、言いかけて、言葉を切る。
「どこです?」
と、小田刑事が重ねて訊くと、
「いや……。その……」
と、川北は口ごもった。
「私が教えてあげる」
と、ユリアが言った。
「やめろ!」
「この人、中学生の女の子と同じ部屋にいたのよ。一四歳の」
「ユリア、お前――」
「それは聞き捨てなりませんな。どこの部屋です?」
「確か〈2511〉だわ」
と、ユリアが言った。
「見て来ましょう」
佐々木が立って、足早に出て行く。
「――知らなかったんだ」
川北は額の汗を|拭《ぬぐ》った。「一八だっていうから……。少し酔ってたし。――本当だ! 知ってりゃ手は出さない!」
「お忙しい方ですな」
と、小田刑事が首を振って、「どうも、あなたから、もっと詳しい話をうかがいたい気分ですね」
「俺じゃない! その子の所にずっといたんだ。エリは殺せない」
と、川北は言った。
すると佐々木が、駆けるようにして戻って来た。
「どうしました?」
と、小田刑事が訊く。
「いや……。今、〈2511〉へ行ってみると……」
佐々木が半ば|呆《ぼう》|然《ぜん》としている様子で、「女の子がバスルームで――死んでます」
と、言った。
「何ですって?」
小田刑事が目を丸くする。
「今――警官がそばに。連絡を入れてくれています。誰かに首を絞められたようです」
誰もが、しばし口を開かなかった。
「川北さん」
と、小田刑事が言った。「どうやら、その女の子は、証言してくれなくなったようですな」
「知りませんよ、僕は」
と、川北は|真《まっ》|青《さお》になっている。「なあ、ユリア! 俺が部屋を出たとき、あの子は生きてた。そうだろ?」
「まあね」
と、ユリアは肩をすくめた。「でも、あなた、すぐ出てったじゃないの」
「俺は――麻美の所へ行ったんだ! 彼女に訊いてくれ」
「|叩《たた》き出されたこともね」
川北は、顔を引きつらせて、
「殺人犯にされるよりましさ」
と、吐き捨てるように言った。「それより、その女じゃないか、怪しいのは」
と、久仁子の方を指している。
「川北さん……」
「君は、エリがまだ俺に気がある、と言ったじゃないか。ここへ来て、エリを殺したんだろう」
「それは妙ですな」
と、小田刑事が言った。「ナイフは死体に残っている。この奥さんは、刃物を持っていたんですよ」
「二つ持って来たのかもしれない。そうでしょう?」
と、川北は立ち上って、「疑いをそらすために、わざと持って歩いてたのかも。――|凄《すご》いやきもちやきなんだから、この女は」
やたら手を振り回しながら、川北は言った。
「俺の誘いにすぐのって来た。もともと水島のことなんか、どうでも良かったんだ。そうだろう。良妻ぶって見せるのがうまいだけさ。この女なら、永田エリを殺す理由がある。エリだって油断しただろうし……」
まくし立てるようにしゃべっていた川北は、言葉を切った。
――冷ややかな空気が、川北をとり囲んでいた。
「何だっていうんだ」
川北は、虚勢を張って、一同を見わたした。「俺はスターだぞ! 水島やエリみたいな負け犬じゃないんだ。誰だって、俺の言うことを信用するさ。そうだとも!」
川北の額に、汗が光っている。怒鳴れば怒鳴るほど、薄っぺらな本性をさらけ出して行くようだった。
「殺さなくて良かったわ、こんな男」
と、久仁子が言った。
「全くだ」
と、原が|肯《うなず》くと、佐々木の方へ向いた。「もう充分でしょう」
「そうですね」
と、佐々木が肯く。
――啓子は、佐々木が部屋のTVのスイッチを入れるのを見た。
何してるのかしら?
佐々木は、TVの〈有線放送〉のスイッチを押した。すると――。
どこかで見たような部屋が映し出された。
そこに集まった人々。
これは……。啓子は、やっと気付いた。TVに映っているのは、今の私たちだわ!
「〈ミステリー・ナイト〉へようこそ」
と、佐々木が言った。
誰もが、しばらく、身動き一つしなかった。
やっと口を開けたのは、川北だった。
「何だ、これは?――どういうことなんだ?」
「今、ここでのあなたの大熱演は、あそこのTVカメラで、このホテルの全部の部屋のTVに映し出されているんです。もちろん、〈視聴率〉がどれくらいかは分りませんが、まあかなりの人が見ていると思って間違いないでしょう」
「何だって……」
川北は、まだわけの分らない様子で、突っ立っている。
すると、突然、白い布をはねのけて、死体が立ち上った。
「キャーッ!」
と、悲鳴を上げたのは、浅井由美だった。
永田エリが、胸にナイフを突き立てられて、ニコニコしながら、立っていた。
「いかが? 私の名演技は」
啓子は|唖《あ》|然《ぜん》としていた。――佐々木を見ると、向うはいたずらっぽく、啓子にウインクして見せた。
「エリ……」
川北が、目をパチクリさせている。
「もう、すっかりふっ切れたわ。今のあんたを見てたらね」
と、エリは言った。「久仁子。良かったね、こんな|奴《やつ》のために、一生をだめにしないで」
「ええ。でも……夫が許してくれなかったら――」
「大丈夫ですよ」
と、佐々木が言った。「ご主人は、何もかも分っておられます」
アッ、と啓子は声を上げた。
「分った! 刑事さん――あなたね! 水島さんでしょう!」
「よくお分りで」
小田刑事が、カツラを取り、手早くメイクを落とした。――水島雄太の顔が現われる。
「どうも、どこかで……。いつもTVで見てるせいだわ」
と、啓子は言った。「でも、すばらしかった!」
「ありがとう」
水島は久仁子の方へ、「おい、こちらの娘さんが分ったのに、女房のお前は分らなかったのか?」
「だって……」
久仁子は、涙がこみ上げて、夫の胸に身を投げかけた。
一人、青ざめて突っ立っているのは、川北だった。
「何だ、これは! 俺のことを――馬鹿にしやがって!」
声が上ずっている。「訴えてやる! みんな、憶えてろ!」
川北が、部屋から出て行こうと、|大《おお》|股《また》に歩いて行くと――ドアが目の前で開いた。
川北は目を見開いた。そして、ジリジリと後ずさって、
「何だ……。こんなはずが……|嘘《うそ》だ!」
入って来たのは――バスタオルを巻きつけた裸の少女だった。
「おあいにくさま」
と、少女が言った。「あんたに殺されるほど、かよわくないのよ」
少女が|拳《こぶし》を固めて、川北の顔にパンチをおみまいした。川北は、よろけてドシンと、|尻《しり》もちをついた。
「君を引っかけたのは私だ」
と、原が言った。「その子はタレント志望でね。君のやってることは、ひどすぎた」
川北は、ポカンとして、少女を見つめている。
「しかしね」
と、原は言った。「君がこの子を殺そうとしたと知って、私はこの佐々木さんと話し合って、君をとことんやっつけてやることにしたんだ。――それまでは、本来の〈ミステリー・ナイト〉の筋書だった。しかし、それにTV中継を付け加えて、話を変えたのさ」
「殺されちゃかなわないと思ったからね」
と、少女が言った。「いい加減なとこで白目をむいて、死んだふりしてやったの。この人、脈もみないで逃げてったわ」
「川北さん」
と、佐々木は言った。「殺人未遂ですよ、立派な」
「でも、大したもんでしょ。私の演技?」
と、少女が原に|訊《き》いた。「私、タレントになれる?」
「度胸だけでも充分になれるさ」
と、原が笑って言った。
「責任もって、スターにしてよね。何しろ殺されかけたんだから」
と、少女が胸をそらすと、バスタオルがパラリと落ちた。「キャッ!」
「おやおや」
原が目をパチクリさせて、「今、TVを見てた男どもは、目をみはっただろうね」
と、言った。
エピローグ
「ひどいわ」
と、啓子は言った。
「ごめんごめん」
佐々木は、素直に謝った。
「私には話しといてくれても良かったじゃないの」
「うん。――しかしね、もともと、別のアイデアがあったんだ」
「別の?」
「死体が本物だった、ということにして、君の元恋人がどうするか、見たかったんだよ」
「何ですって? じゃあ……」
「彼の予約を入れたのは僕さ」
と、佐々木は言った。「君にひどいことをしたんだからね。ちょっといたずらして、びっくりさせてやるつもりだった」
「馬鹿ね!」
啓子は、佐々木の腕をとった。「そんなこと、もう私は忘れてたのに」
「そうだね」
――二人は、スイートルームに残っていた。広いリビングが、いやに静かだ。
「でも……」
と、啓子が言いかけた。
「何だい?」
「塚田君にとっても、良かったと思うわ。あの子とは、きっと結婚しないわよ」
佐々木は、首を振って、
「やさしいんだな、君は」
と、言った。
「そうじゃないの。――捨てたことを後悔させる。それが一番の|復讐《ふくしゅう》よ」
「そうか。怖いね」
「そう。私って、怖い女なの」
啓子はそう言って笑った。「――ねえ、TVカメラは、もう切ってあるんでしょ?」
「うん」
「じゃあ……」
雪が絶え間なく落ちて行く窓辺で、二人の影はしっかりと重なり合った。
「やれやれ」
原は、息をついた。「忙しい夜だった」
「|呆《あき》れた」
と、ユリアが言った。「あの警官も、役者さんだったのね」
「しかし、今、川北を連れて行ったのは、本物だ」
「何だか哀れね」
と、ユリアは言った。「――これからどうする?」
「私は帰って寝るよ。君は?」
ユリアは笑って、
「せっかく、人が博愛精神を見せてあげてるのに」
「私は面倒でね」
と、原は立ち上った。「この〈2521〉は、今夜は使っていいはずだ。好きにしたらいい」
「そうね」
ユリアはウーンと伸びをして、「このベッドで、思い切り、手足を伸ばして寝るかな」
「それも、いいクリスマス・イヴの過し方じゃないかね」
原は、そう言ってコートをはおると、「じゃ、おやすみ」
「メリー・クリスマス」
と、ユリアは言った。
――原は、廊下へ出て、ゆっくりと歩いて行った。
ポケットから〈2511〉の鍵を出し、ドアを開ける。
「やっと来た!」
少女は、ベッドから手を振った。
「もう、警察の話はすんだのかい?」
原は、ドアを閉め、コートを脱いだ。
「明日、改めて、ですって。――ねえ、川北って、どうやってここへ入って来たの?」
「このドアは自動ロックを外してあったからさ。ユリアが君と川北の所へ来られるようにね」
「あ、そうか。じゃ、ちゃんとロックしとかなきゃいけなかったんだ」
「そう言っただろ」
「忘れてた」
と、少女は舌を出した。「ね、今は、ちゃんとロックした?」
「ああ、したとも」
原は、ゆっくりとネクタイを外した。
「――変わってるのね」
「昔からだ。君ぐらいの年齢の女の子でないとだめなんだ、私は」
「じゃ、私があと一つ二つ、大人になったら?」
「そのときは|諦《あきら》めるさ。――今は今だ」
「じゃ、乾杯しよ」
「うん……」
原は、軽いカクテルを口にしただけだった。
――しかし、一時間後、ベッドの中で、少女はスヤスヤと眠り、原の方は、永久に目を覚ますことのない眠りに入っていた。
心臓が、久々の少女の肌を前にして、とてももたなかったのだった……。
「――どうしても?」
と、由美は言った。
「すまないね」
と、塚田は言った。「さ、タクシーが来た」
ホテルの玄関を出ると、雪まじりの風が吹きつけて来る。
由美は一人でタクシーに乗ると、ドアを押えて、
「お願い、一緒に乗って」
と、言った。
「いや。一人で帰ってくれ」
塚田は、運転手に金を渡すと、ドアを閉めた。
由美は、こんな気持になるのは、初めてだった。――胸が、しめつけられるように痛い。
自分を拒んだ塚田のことが、忘れられそうもなかった。
「そうよ!」
と、由美は口に出して言った。「絶対にとり戻して見せる!」
運転手が、不思議そうにバックミラーを見て、ちょっと振り向くと、
「忘れものですか?」
と、|訊《き》いた。
「寒いわね」
と、永田エリが言って、身震いした。「ずっと床の上で寝てたから、腰が痛い」
「ねえエリさん。一緒にうちへ来ない?」
と、久仁子が言った。「牧子も一緒に、四人でクリスマスをやりましょうよ」
「それがいい。一緒に来いよ」
と、水島がマフラーをしながら言った。
「遠慮するわ」
と、エリは|微《ほほ》|笑《え》んで、「今夜は、あんたたちの特別な夜でしょ」
「エリさん……」
「また|稽《けい》|古《こ》場でね」
エリは、雪の中を|大《おお》|股《また》に歩いて行き、すぐに見えなくなった。
久仁子は、夫と一緒に歩き出した。
「――あなた」
「うん?」
「私……」
何も言う必要はなかった。水島が、しっかりと久仁子の肩を抱く。
「寒いか」
「大丈夫」
高層ビルの谷間で、雪は紙|吹雪《ふぶき》のように舞っていた。
「牧子のことが心配だわ。――夜中だけど、連れて帰りましょうね」
「ああ。どうせ、どの家も起きてるさ」
と、水島は言った。
「クリスマス・イヴですものね」
二人は歩いて行った。――身を切るような冷たい風も、苦にならなかった。
「あらいけない」
と、久仁子は思い出して言った。
「どうした?」
「あの肉切り包丁。返してもらうの、忘れちゃった。高かったのよ!」
久仁子は、ため息をついた。その息は白く煙のようにフワッと宙へ浮かんで、雪の間へと消えて行った……。
本書は、平成五年十一月に双葉文庫として刊行されました。
クリスマス・イヴ
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年11月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『クリスマス・イヴ』平成10年12月25日初版発行