角川文庫
キャンパスは深夜営業
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 小麦粉のロマンスグレー
2 真夜中の恋人
3 尾行の果て
4 父と娘
5 美術館にて
6 逃亡計画
7 旅立ち
8 新 居
9 波乱含みの朝
10 知香の|KO《ノックアウト》
11 学部長の椅子
12 良二の人助け
13 人質は一人
14 恋人の役回り
15 消えた車
16 ついに殺人
17 再び、知香親分
18 小部屋の話
19 知香と二人の男
20 写真の女
21 屋根裏の居候
22 可愛い女子大生
23 危ないシャワールーム
24 捨て身の知香
25 大団円
1 小麦粉のロマンスグレー
「この道しかないのか!」
突然、不機嫌そうな声を出したのは、パトカーの後ろの座席で、腕組みをしていた、太った男である。
運転していた警官は、びっくりして、あわててスピードを落としながら、
「あの――何かまずかったでしょうか、警部?」
と、|訊《き》いた。
警官がびっくりしたのは、もちろん、思いもしないことを言われたせいでもあったが、|米《よね》|田《だ》警部がてっきり眠っているものとばかり思い込んでいたからでもある。
「|俺《おれ》は質問したんだ」
米田警部は、笑った顔を見たことがない、とからかわれる、|苦《にが》|虫《むし》をかみつぶしたような表情で、言った。
「はあ――あの――道は他にもあります。しかし、この時間、ここ以外は大変混んでおりまして。狭いので、サイレンを鳴らしても道は|空《あ》きません。この道ですと、多少遠回りですが、時間的には早いかと……」
「分った」
「あの――この道でよろしいのでしょうか?」
「うむ」
米田は、もうすっかり興味を失った、という様子で、窓の外を、まぶしげに眺めた。
ただでさえ細い目が、ほとんど一本の筋のようになる。
「この道は、S大学のそばを通るな」
と、米田が言った。
「はあ……。そうです。ちょうどS大のキャンパスの中を抜けて行くんです。それが何か……」
「いや、何でもない」
米田は、それきり、また目をつぶってしまう。運転している警官の方は、ますますわけが分らなくなって、首をかしげているばかりだった。
――時期は四月も末。|大《だい》|分《ぶ》、陽射しは暖くなっていて、パトカーの中も、いささか暑くて汗ばむぐらいだ。
特に、大の男が五人も乗っているのだから、それだけでも、暑苦しい。
運転席と助手席には、制服の警官。そして後ろには三人の男――。
米田と、もう一人の刑事の間に座っているのは、いささか疲れの出たゴリラ、という印象の男だった。言うまでもなく、人間である。
両手に手錠がかけられ、大柄な二人の男に挟まれているので、見るからに窮屈そうである。
「何だか息苦しいな」
と、米田が|苛《いら》|々《いら》した様子で、言った。「ちょっと窓を開けろ」
「はい」
前と後ろの窓が細く開けられると、風が吹き込んで来て、車内も少しホッとした気分になる。米田は、いささか薄くなった髪が風で乱れるのを気にして、しきりと手でなでつけたりしていた。
「米田さん」
真中のゴリラが、「髪の毛の量じゃ、勝ってますね」
と、言ってニヤリと笑う。
米田はムッとした様子で、
「つまらんことを自慢するな!」
「うちの家系はね、|禿《は》げないんだよ。|親《おや》|父《じ》もね、フサフサのまま白くなりましたから」
「そりゃよかったな」
と、米田はそっぽを向いた。
「中年過ぎてから、もてましてねえ。髪がたっぷり波打ってて、半分ほど白くなってる、ってのは、結構渋くていいんですよ。女の子に言い寄られて困ってましたね」
ゴリラ――いや、本当の名前は|宍《しし》|戸《ど》という――は、楽しげに言った。
「お前の親父の話なんか、聞いとらん」
米田は打ち切るように言って、「おい!」
と、運転している警官に声をかけた。
「はあ」
「少しスピードを落とせ。サイレンも止めろ」
「しかし――」
「いいから! 大学の構内を抜ける間だけだ!」
「分りました」
――S大学のキャンパスは広大である。
今でこそ、都心から郊外へと大学が引越して来るのも、珍しいことではなくなったが、S大の場合は、|先《せん》|見《けん》の|明《めい》があった、というべきか、かなり早い時期から、この郊外の丘陵地帯に、そっくり移転して来た。
当初、学生たちには評判が悪かったが、周囲が開発されるにつれ、むしろ「環境の良さ」を売りものにするようになって来ている。
S大のキャンパスの中を抜ける道は、トンネルではないが、一段低くなっていて、キャンパス内を車から見ることはできない。パトカーは、その道へとさしかかった。
少し、下り坂になり、両側にコンクリートの壁がせり上って来る。――途中、三本の陸橋が、学生の行き来のために、頭上を横切っていた。
「――ここがS大ですか」
と、手錠をかけられた宍戸が言った。「いいねえ、若い人たちってのは」
「刑務所だって、広さからいや、似たようなもんだ」
と、米田が言った。「一部屋は狭いけどな」
パトカーは、ごく普通の速度で、かつ、サイレンも止め、二本目の陸橋の下を通り過ぎた。
「ふむ……」
米田が、なぜか少しホッとしたように、言った。「何でもなかったか……」
運転している警官は首をひねるばかりである。こんな大学の構内で、一体、何があるっていうんだ?
「――おい!」
と、突然、米田が怒鳴った。「上に気を付けろ!」
上? 上って何のことだ?
三つ目の陸橋の真下へさしかかっていた。陸橋の、ちょうど真中辺りに、工事用の手押し車みたいなものが置いてあるのが、チラッと見える。しかし、それが別に――。
突然、目の前が真白になった。真暗ではない。白い粉が、パトカーの上にドサッと降りかかったのだ。
窓を開けているので、白い粉はパトカーの中にもたっぷりと飛び込んで来て、何も見えなくなってしまった。
「危ない!」
「止めろ!」
と、声が飛び|交《か》う。
パトカーが急ブレーキをかけた。車体が、まき散らされた粉のせいか、滑って、二、三回クルクルと回った|挙《あげ》|句《く》、外側の壁にドカンとぶつかった。
「畜生! ――何も見えんぞ!」
米田が怒鳴った。
「粉が――粉が口に――」
「小麦粉だ! 死にゃせん!」
ドアを開けて、むせ返りながら、次々にパトカーから|転《ころ》がり出る。
「――馬鹿め! 用心しろと言ったろう!」
米田は、全身、小麦粉で真白になって、怒鳴った。
「おい! 宍戸の奴を逃がすなよ!」
「大丈夫です!」
と、もう一人の刑事が答える。「ちゃんとつかんでいます!」
米田は|咳《せき》|込《こ》みながら、やっと目を開けたが……。
「つかんでいる、だと?――何をだ!」
と、怒鳴った。
刑事がつかんでいるのは、|上《うわ》|衣《ぎ》の|袖《そで》|口《ぐち》だった。ただ、その上衣の中身は、もう消えてしまっていたのだ。
「早く追え! まだ遠くへは行っとらんぞ!」
「は、はい! しかし、警部――」
「何だ?」
「髪が白いと、なかなか警部もいい男です」
米田は刑事の|尻《しり》をけとばしてやった……。
「遅れてすみません」
と、講義室へ入って来た女子大生は、ピョコンと頭を下げた。
「また君か」
講師は、|呆《あき》れたように言ったが、「講義開始以来、毎回遅れて来るという学生も珍しいね」
と、大して怒っている様子もない。
「そうですね」
と、その学生は明るく同意した。
「ま、さぼるよりは、遅れても出席した方がいい」
と、講師は言って、視線をチラッと|隅《すみ》の方へ投げた。「あるいは、出席しても、週刊誌など読んでる|奴《やつ》よりもな」
やばい! ――|久《く》|保《ぼ》|山《やま》|良二《りょうじ》は、あわてて、週刊誌を閉じた。
よく見てるんだよな、あいつ……。よっぽどヒマなんだ、きっと。
どっちがヒマなんだか。――ま、久保山良二が、決して|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》な学生ではないが、といって不良学生でもないということは、はっきり言っておいてもいい。
良二という名の通り、至って|呑《のん》|気《き》で、人のいい次男坊である。
「席に着きたまえ」
と、講師は言った。「――では、講義を続ける」
久保山良二が、その後はちゃんと講義に耳を傾けていたかというと、残念ながら、答は「否」である。
良二の注意は、遅刻して入って来た女の子の方へ向けられていたのだ。
彼女が後ろに座っていたのなら、わざわざ振り向いてまで見なかっただろうが、ちょうど真横――五つ離れた席に腰をおろしたのである。
いつもこの講義の時、遅れて来る子がいる、ということは、良二もおぼろげながら、|憶《おぼ》えていた。しかし、まじまじと見たのは、これが初めてだ。
横顔はなかなか|可《か》|愛《わい》い。――美人、といえるほど整ってはいないが、少し上を向いた鼻と、キラキラ輝く大きな目が、まず印象的だった。
良二は、しばらくぼんやりと、彼女の横顔を眺めていたが……。
ふと、彼女が良二の方を見た。戸惑ったような顔をしている。
あ、そうか、と良二は思った。――いつの間にか、持っていたボールペンの先で、ノートをトントンと|叩《たた》いていたのだ。
すると――彼女の方も、指先で、机を叩き始めた。
今度は良二がびっくりする番だ。良二が叩いていたのは、モールス信号だったからである。
中学生のころ、物好きな教師がいて、生徒にモールス信号を教え込んだ。良二も、不思議とよく憶えてしまい、今もって、それだけは忘れないでいるのだ。
何気なく、つい無意識に指でモールス信号を叩くこともある。「三つ子の魂百まで」というが、怖いものだ。
良二がびっくりしたのは、彼女の方も、ちゃんとモールス信号で打ち返していたからなのである。
〈ナニヲ、カンガエテルノ?〉
と、彼女は打って来た。
良二は、
〈キミガドウシテオクレテキタカ、カンガエテル〉
と、答えた。
彼女は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
〈ウソバッカリ。ワタシノナマエモシラナイクセニ〉
〈キミハ、ボクノナマエヲシッテル?〉
〈クボヤマリョウジデショ〉
〈アタリ!〉
〈ワタシハ、ワカバヤシチカ〉
――二人は、何となく、笑顔を見交わした……。
うん、こいつはいい出会いだ、と良二は思った。
当り前に、声をかけて、デートに誘うなんてのより、ずっと気がきいてる。
この時の良二の気持としては、それ以上ではなかったのである。しかし……。
2 真夜中の恋人
「恋におちるのに、大して時間は必要ないんだな……」
と、良二は|呟《つぶや》くように言った。
「何だって?」
面食らって、危うくメガネがずり落ちそうになったのは、良二の親友――というより悪友か――で、高校時代からずっと一緒の|小泉和也《こいずみかずや》である。
「お前、突然変なこと言い出すなよな」
と、小泉和也は呆れ顔で、「お前に詩人は似合わないぜ」
「冗談じゃないよ。本気だ」
良二は、ゴロリとベッドの上に寝転んだ。
ここは良二のアパート。――いや、一応は狭いながらも、マンションという名がついている。
次男坊で、高校入学の時、独りで上京して来た良二のために、両親がここを借りてくれた。一人住いなので、和也のように親の家から通っている男は、気楽に年中ここでゴロゴロしているのである。
「何だよ、例の『馬鹿林』か?」
「|若林《わかばやし》だ! 若林|知《ち》|香《か》。――しょうがねえだろ、好きになっちまったんだから」
「そりゃ、個人の自由ですがね」
見たところ秀才タイプの小泉和也。ヒョロリと背の高い良二とは反対に、和也は、昔から小柄で丸っこい体つきだ。顔も丸くて、かつ丸ぶちのメガネをかけているので、ますます丸い印象を与える。
「で、何を悩んでんだ? 彼女が鼻も引っかけてくれないのか?」
と、和也が|訊《き》く。
「いや、必ず週末には会ってる」
「じゃ、彼女の両親が猛反対?」
「両親いないみたい」
「いつも、いざ、ってところで逃げられる」
「いざ、ってほど、|切《せっ》|羽《ぱ》詰った仲じゃないよ。こっちもそこまでする気ないし」
「ふーん。じゃ、何を悩んでるんだ?」
「うん……」
良二は、何となくはっきりしない。
「お前は、そういう|優柔不断《ゆうじゅうふだん》なところが良くない」
「しょうがないよ。性格ってもんだ」
「何を悩んでるんだ?」
「うん……」
良二は、ぼんやりと天井を見上げながら、「あの子なあ……。どうも、よく分らないところがあるんだ」
「女なんて、みんなそうだよ」
と、和也が、分ったようなことを言った。
「いや、そういう意味じゃなくってさ」
「じゃ、何だ?」
「どうも、他に誰か付合ってる男がいるんじゃないか、って……」
「へえ」
和也が、メガネを直して、「要するに、振られるのが心配なわけか」
「そうじゃない。――いや、別に、僕だって彼女を独り占めにできるとは思ってないさ。まだ大学一年生だ。色々と付合ったって当り前だと思う」
「じゃ、いいじゃないか」
「ただなあ……。毎晩、彼女が家にいない、となると――」
「毎晩?」
「うん。彼女、ここよりはもうちょっと本格的なマンションに、独りで住んでるらしいんだ」
――らしい、というのは、いつもデートの帰り、若林知香を送って、そのマンションの前までは行くが、中へ入ったことはないからである。
知香は、会っていて疲れるところのない子だった。のんびりしていて、良二が気をつけてやらないと、一回のデートで、必ず二度はバッグをどこかへ置き忘れそうになる。
妙に気取ってもいないし、といって、ベタベタくっつくわけでもない。
会っていれば楽しく話も|弾《はず》むし、まだ「恋人」というところまでいっていなくても、良二としては今の関係で充分満足だった。
だから、いつも、マンションの前で、
「じゃ、また」
と、|爽《さわ》やかに別れる。
だが、その夜は、別れて歩き出してから、良二は知香に、貸してくれと頼まれていた本を、渡さずに別れてしまったのを思い出したのである。
この週末に読むの。――そう言っていたのに、当人もうっかり忘れていたのだ。
良二は、迷ったが、戻って本を渡そうと決めた。別に部屋へ上る必要はない。何なら、マンションのロビーへ下りて来てもらえばいいのだから。
良二は、彼女のマンションへ戻ると、一階の、インターホンのボタンを押した。――一応、インターロックシステムになっていて、中でロックを解除しないと、ロビーから奥へは入れないのである。
知香の部屋は、六〇一。――ボタンを押してしばらく待ってみたが、|一《いっ》|向《こう》に返事はない。
帰ったばかりで、シャワーでも浴びてるのかな……。
少し待って、またボタンを押してみた。
結局、二十分近くも、それをくり返し、良二は彼女が部屋にいないと結論しないわけにはいかなくなったのである……。
「――電話もかけてみたよ」
と、良二は言った。「でも、誰も出ないんだ」
「ふーん」
和也は、|肯《うなず》いて、「それで悩んでいるのか」
「それから、僕は彼女を送って行ってから、少しして電話をかける、というのを三回くり返したんだ。――彼女が部屋にいたのは、一度だけだった」
「なるほどな」
「気安く言うなよ。――彼女、一体どこへ行ってるんだろう?」
「|俺《おれ》が知るか」
「どうしたらいいかな。正面切って訊いてみるのも何だか……」
「ふむ」
和也は、腕組みをして、「そんなに気になるのか」
「気になる」
「今度の週末は?」
「うん、映画」
「じゃ、帰りは送って行くんだな」
「そうなるだろうな」
「じゃ、簡単だ」
と、和也は言った。
「じゃ、またね」
と、知香が手を上げて、マンションの中へ入って行く。
良二は、知香が自分のキーでインターロックを開け、中へ入って行くのを、マンションの表から見送って――これがいつものパターンだった――それから、歩き出した。
「おい、良二。――良二」
暗がりから、声がする。
「和也か?」
「こっちだ!」
和也が手招きする方へ、良二は急いだ。
「どこに――」
「裏だよ、裏!」
細いビルの|隙《すき》|間《ま》を抜けて、二人はマンションの裏手に出た。
いささかパッとしない軽乗用車が置いてある。
「借りて来たんだ。乗れよ」
「お前、いつの間に免許取ったんだ?」
と、良二はびっくりして訊いた。
「安心しろ。もう十日も前だ」
ともかく――しょうがない。
良二はまだ免許を持っていない。ここは和也の腕を信頼するしかないのである。
「――あの車、見ろよ」
と、和也が言った。
二人の乗った車も、マンションの裏口から少し離れて|停《と》めてあったが、そのワゴン車は、いかにも、ものかげに身を|潜《ひそ》める、という様子で、目が暗いところに慣れて来ないと、気付かないくらいだった。
「あの車が……?」
「中年の男が運転してる。二十分くらい前に来て、ずっとあそこにいるんだ」
「そいつも車の中に?」
「うん。もしかすると、あれが例の彼女を待ってるのかもしれないぜ」
「そうかなあ……」
でも、中年男と深夜のデート、というには、あの黒塗りのワゴン車ってのは、何だか――。
「どんな男?」
「よく見えなかったけど、ちょっとこう――髪が白くなりかけてて、いかにも渋めだったぜ」
良二は内心|穏《おだ》やかでない。
「でも、彼女、年上が好みなんて、言ったことないけど……」
「しっ!」
――誰かが、マンションの裏口から出て来た。
「違うな」
と、和也が言った。「彼女じゃない」
「うん……。いや――知香だ!」
良二は、目をみはった。
あれが知香?
ほんの十分ほどの間に、知香は、まるで別の女になっていた。
歩き方も、いつもののんびりした気まぐれなものでなく、きびきびと、まるで運動選手のようだし、それに――黒のジャンパー、黒のジーパン。まるで、オートバイにでも乗ろうか、というスタイル。
いつも肩に長く垂らしている髪も、後ろに短くまとめている。
「どこに行くんだろ?」
「知らないよ」
と、良二は言った。
「少なくとも、中年男とデートって格好じゃないな」
と、和也は言った。
知香が歩いて行くと、例のワゴン車から、中年男が出て来て、ワゴン車の後ろの扉を開けた。知香の姿が中へ消える。
「――行くぞ」
和也がエンジンをかける。
ワゴン車が走り出すと、少し間を置いて、良二たちの車はそれを尾行して行ったのだった……。
3 尾行の果て
初めから、かなり無理な話ではあったのである。
いかに小泉和也が天才的ドライバーであったとしても、免許を取って十日にして、こっそりと他の車を尾行しようというのは……。
ただでさえ、真直ぐ前にしか注意が行かなくて、教習所で|散《さん》|々《ざん》教官に怒鳴られていたのである。久保山良二が、
「ほら、車線が違ってる!」
とか、
「おい、見失っちまうよ! もっとスピード出せ!」
「近付き過ぎると、気付かれるよ!」
――といった親切な忠告をするのも、免許取り立てのドライバーにとっては、混乱の原因でしかなかった。
「うるさい! 黙ってろ!」
と和也は、必死の|形相《ぎょうそう》で前方をただひたすら、にらみつけている。
しかし、良二の方だって必死である。もちろん愛しの若林知香を乗せた黒いワゴン車がどこへ行くのか知りたい、という意味でも必死だったが、同時に、自分もこの車に乗っているのだから、事故を起こしたら、和也と運命を共にすることになる、という意味でもそうだった。
だが――やはり、人間、精神力だけでは限界があるのだ。
「あーあ」
と、良二はため息をついた。「見失っちまったじゃないか」
「そうだな……」
和也は、じっとハンドルを握りしめたまま、「少し休んでいいか?」
「ああ、どうせ走ってたってしょうがないからな」
和也が、車を道の端へ寄せた。
ガタン、ドタン、と音がした。
「お、おい、何だよ、今の?」
「知るか!」
和也は体中で息をつくと、「くたびれたよ!」
と一声、座席にへたり込んでしまった。
「|呆《あき》れたな」
と言って、良二は窓から頭を出すと、「ああ、ゴミのバケツを引っくり返したんだ。|空《から》みたいだから、構わないや」
「うん……」
「おい、大丈夫か?」
良二は、和也が、汗びっしょりになっているのを見て、「免許取って、本当に十日もたってんのか?」
と、|訊《き》いていた。
「もちろんだ。ただ――運転するのは三回目だけどな」
「三回目?」
「夜は初めてだから、余計に疲れた……」
良二は、今さらながら、ゾッとした。
――しばらく休むと、和也も|大《だい》|分《ぶ》元気になっていて、
「どうする? 明日もやるか?」
「やめよう」
と、良二はあわてて言った。「気付かれてもまずいよ」
大体、今夜の尾行だって、向うは|怪《あや》しいと思っているかもしれない。
「――じゃ、こうしよう」
と、和也が言った。
「何だ?」
「あのマンションに戻るのさ。今の車、当然いつかはマンションに戻って来るだろう?」
「そりゃまあ……そうだろうな」
「それを見張ってるのさ」
「ふーん」
良二は|肯《うなず》いて、「見張ってて、帰って来たら、どうするんだ?」
「そんなことまで、俺が知るか」
と、和也は肩をすくめた。「『今晩は』とでも言ってやれば?」
彼女が帰って来るのを待ってたって、あまり意味があるとも思えなかったが、ともかくいつまでもここに車を停めておくわけにはいかなかったし、和也も、「車を運転したい」という気分になっていたので、取りあえず、二人は知香のマンションへと戻ることにしたのだった。
Uターンするのに、かなり手間取って、他の車にクラクションを鳴らされたりしたが、何とか無事にUターンを終え、二人の車は、知香のマンションへ戻って行った。
途中、道に迷って、その責任をなじり合いながら、何とか|辿《たど》り着いた、知香のマンションの裏手。
「――やれやれ」
と、和也は息をついて、「大分上達したな、|俺《おれ》の運転も」
自分で言ってりゃ世話はない。
「ここでぼんやり待つか」
「そうだな。――でも、良二。彼女が外泊したらどうする?」
「まさか」
と、良二は首を振って、「必ず、マンションへ帰って来るさ」
「ふーん。じゃ、ここで待つか」
「うん。そうするよ」
ともかく、彼女が何時ごろ帰って来るか、それだけでも確かめよう、と良二は思った。といって、面と向って、知香を問い詰めるなんてことは、良二にはできない。
大体、良二は知香にとって、単なる「ボーイフレンド」でしかないのだ。そこまで彼女の生活に干渉する資格はあるまい。
まあ、いいや……。ともかく、ここで待ってみよう。とりあえず様子を見る、ということで……。
しかし――良二も和也も、刑事や探偵に向いていないことだけは、はっきりした。
二人とも車の中で、いつしかグーグー眠りこんでいたのである。
「――起きろ!」
と、体を揺さぶられて、良二は目を覚ました。
「ん? ――ど、どうかしたのか?」
良二は目をパチクリさせて、「やばい! 講義中か!」
「何を寝ぼけてやがる」
目の前に――カッとまぶしいほどのライトが、真直ぐ良二の方を向いている。
「まぶしいよ」
と、文句を言うと、
「そうかい」
グッと目の前に突き出て来たものを見て、良二は、たちまち完全に目が覚めてしまった。――|拳銃《けんじゅう》だったのだ!
そうか。和也と二人で車に……。
ヒョイと隣を見ると、和也の方は、口を開けて、ガーッと寝息をたてて眠っている。
「友だちってのはいいもんだな」
と、その男が言った。「親友の命が危ねえってのに、グウグウ眠ってやがる」
「あ、あの――お金なら大して持ってないけど――」
「誰か金を出せといったか?」
「いいえ」
「じゃ、出すことはねえ」
「はあ……」
ライトを当てられているので、良二には相手がよく見えない。かなり大柄な男らしいが、それも、良二が座っていて、向うは立って車のドアを開け、見下ろしている、という位置関係のせいで、そう見えるのかもしれない。
「代りに質問に答えろ」
「はあ」
「なぜ、俺たちの車を|尾《つ》けた?」
「車?」
そうか。ではこの男、あのワゴン車に乗っていた中年男か。
「ごまかしたってだめだぜ」
と、その男が言った。「前代未聞、空前絶後の|下《へ》|手《た》くそな尾行に、俺たちが気付かないほど馬鹿だと思ったのか」
こんな時ながら、良二は、相手の男の言い方に、ユーモアを感じて、それは言えてる、なんて考えたりした。
「いえ……。ちょっとわけがあって」
「どんなわけだ?」
と、男が言った。「正直にな。俺は正直な人間ってのが大好きだ」
「僕もです」
「そうか。気が合うな」
「そうですね」
と、良二は|微《ほほ》|笑《え》んだりしている。
「じゃ、話してみろ」
銃口は、あくまで冷ややかに良二をにらんでいる。
「あの……僕は、ただ彼女がどこへ出かけるのか、知りたくて」
「彼女?」
「若林知香って……。僕のガールフレンドなんです。それで、どうも夜中によく出かけてるみたいだから……。気になったんです。どこに行くんだろう、って。それで、つい、尾行してみようかと思って……」
相手が、しばらく黙っていた。
こういう場合、沈黙はあまりいい徴候とはいえない。
「あの――でも、もういいんです」
と、良二が言った。「気にしないことにしましたから。ええ。もう帰ります」
「そうはいかねえ」
と、その男は言った。「見てたんだな、俺たちの車に乗るところを」
「ええあの――」
「そうか。気の毒だな」
「あの――気の毒って?」
「お前さ」
「僕が?」
「ここで死んでもらうことになる」
良二は、ポカンとして、
「いや、……でも、僕はどうも若死にするタイプじゃないんですよ。易者さんにみてもらった時も長生きするって言われたし、雑誌の占いとかでもたいてい、八〇歳まで生きるだろうって……」
「間違いってこともあるさ」
「でも――それじゃ、せめて|遺《ゆい》|言《ごん》を」
「すぐ|済《す》むよ。痛かねえから」
「歯医者さんみたいなこと言わないでくれ! 助けて……。僕は無実だ――」
良二は目をつぶった。
バアン!
銃声。――ああ、死ぬんだ、と思った。
でも、死ぬってこんなにゆっくりしたもんなのか?
何だか……段段暗くなって……居眠りするみたいで……。
良二は、やがて完全に意識を失った。
リーン。リーン。
旧式な電話のベルだ。――もっとモダンなやつに替えたこともあるのだが、これでないと、眠ってる時にかかって来ても、目を覚まさないのだ。
何てったって、このリーンってのが一番だよ。
え? ――天国にも電話がひいてあるのか? NTTも|凄《すご》いことやってるんだな!
起き上って、良二は目を開いた。
いやに雑然として、薄汚ない天国だった。
いや――天国じゃない! 地獄でもなかった。自分の部屋だ。
「どうなってんだ?」
と、思わず|呟《つぶや》いた。
確かに銃口が目の前に……。そしてバアン、と――。
「――まさか!」
夢だったのか? 何もかも。
ポカンとして、ベッドに起き上っていると、リーン、とまた電話が鳴り出した。
「あ、はいはい。――もしもし」
と、受話器を取る。
「やっと出たのね!」
と、女の子の声。「もしもし? ――久保山君、大丈夫?」
「君……知香?」
「そうよ。私の声も忘れちゃったの?」
「いや、|憶《おぼ》えてるよ! もちろん」
「ふーん。どうしたのよ、一体。今日休むなんて言ってなかったじゃない。心配しちゃった」
「休む、って?」
「大学よ。――あのね、大丈夫? 大学生なのよ、君は」
「分ってるけど……」
知香と映画に行って、尾行したのが土曜の夜だ。「今日――日曜日だろ?」
「何を寝ぼけてんのよ。月曜日! 分った? 日曜日、丸一日、眠ってたの?」
「月曜だって?」
「そうよ。熱でも出してんじゃないの?」
良二には分らなかった。何がどうなってるんだか、さっぱり……。
4 父と娘
「夢ですって?」
と、知香が言った。
「うん……。そうなんだ」
と、良二はためらいがちに、「君のことでね」
「へえ。私の夢? ――じゃ、許す」
と、知香は笑った。
大学のキャンパス。――|穏《おだ》やかな陽気で、とても講義に出る気にはなれない(?)日だった。
しかし、今はもう講義中ではない。二人は、広々としたキャンパスの|芝《しば》|生《ふ》に腰をおろして、少し帰るのが惜しくなるような昼下りを過ごしていた。
「それが、凄くリアルな夢なんだ」
「どんな夢だったの?」
「うん……」
良二はためらった。――もちろん小泉和也にも|訊《き》いてみたのだ。和也の返事は、
「お前、どうしちゃったの?」
だった。「|俺《おれ》が免許取ったなんて、そんなことあるわけないだろ!」
要するに、和也に知香についての悩みを打ち明けたこと、知香のマンションを見張って、黒いワゴン車を追っかけたこと、拳銃をつきつけられたこと――すべてが「夢」だった、というわけだ。
しかし……そんなことってあるのだろうか? あんなに入りくんで、しかもリアルな夢が。
でも、本当に夢だったのだから、仕方ない。――それを一部|始終《しじゅう》、知香へ話す気にはなれなかった。
「ま、いつかそのうち話すよ」
と、良二は言った。
「じゃ、楽しみに待ってるわ」
と言って、知香は立ち上ると、「私、ちょっと図書館に寄りたいの。先に帰るわ」
「うん。それじゃ」
「また明日!」
と、知香は明るく言って、スタスタと歩いて行くと、クルッと振り向いて、「良二君、って呼んでもいい?」
「いいよ、もちろん!」
と、良二はどぎまぎしながら、赤くなって答えた。
「じゃ、そうする!」
知香は手を振って、小走りに、立ち去った。
良二は、すっかりいい気分になって、立ち上ると、
「良二君、か……」
と呟いてニヤニヤしながら、「|可《か》|愛《わい》いなあ!」
――そばで誰も見ていなかったからいいようなものの、見られたら、大学中にそのしまらない様子が評判になったであろう……。
口笛など吹きながら、良二は大学を出た。
ただ一つ、気になっていたのは、そもそもの疑問、つまり知香が、週末の夜、どこへ行っているのか、という点だった。
しかし――そんなことで、知香への信頼は揺るがない。知香だって、良二のことを憎からず思っているのだから。
今の良二は、それで充分に満足だった。
――一台の車が、良二の後を|尾《つ》けるように、ゆっくりと動き始めた。
そして、前後に他の学生の姿が途切れたとみると、スッと近付き、ドアが開いて、
「何するんだよ!」
良二は、その車の中へ引張り込まれていた。
「――私は米田警部」
と、その太った男は名乗った。「久保山良二君だね?」
「そうだけど……」
良二は、憤然として、「何だよ、一体! 人をいきなりかっさらったりして」
「うるさいぞ」
と、車を運転している男が言った。「痛い目にあいたいのか」
「よせ」
と、米田と名乗った男は言った。「我々は警官だ。ヤクザじゃないぞ」
「身分証を見せろよ」
と、良二は言った。
「疑うのかね?」
「公務員だろ。市民が要求したら、きちんと見せるのが義務じゃないの?」
「このガキ……」
と、運転していた男がムッとしたように、「一発ぶちかましてやりましょう」
「よせ! ま、いい。それは正論かもしれん。これでいいかね?」
良二は身分証を見ると、写真と実物を見比べて、
「髪の量が違うじゃないか」
と、言った。
米田はさすがにムッとした様子で、
「警官も人間だ! 見栄というものがあるのだ!」
「ま、いいや。――何の用なの?」
「署まで来てもらって、ゆっくり話をしたいね」
「逮捕令状は?」
「誰が逮捕するといった?」
「じゃ、どういう法的根拠で僕を連行するのさ?」
「この野郎――」
「よせ!」
と、米田は前の席の男を制して、「君は署へ来ることを拒否するんだね?」
「理由もないんじゃいやだ!」
良二は、大体、|度胸《どきょう》はない方だが、「手続き」とか「正当性」といった点にこだわる性格だった。
「困ったね」
「じゃ、いいよ」
と、良二は言った。「僕のマンションへ来てくれたら、話を聞く」
「こいつ! 言わせておけば――」
「よせ!」
――同じパターンが、更に三回もくり返された|挙《あげ》|句《く》、米田は、良二のマンションに行くことに同意したのである。
「――一人暮しか」
と、米田はマンションの良二の部屋へ入ると中を見回して、「大学生がマンションで一人住いね。世の中も変ったもんだ、全く」
「僕に何の用?」
と、良二はソファに腰をおろした。
「うむ。――君のことはよく調べさせてもらった。なかなか|真《ま》|面《じ》|目《め》な、いい学生らしい」
「僕のことを?」
「ま、怒るな。君が何かした、というんじゃない」
「じゃあ、何なのさ?」
「この写真を見ろ」
米田がポンと投げ出した写真を手にして、良二は目をみはった。
「これ……」
「知ってるだろうな、その娘」
「娘? ――どう見てもおばさんじゃない、警部さんと肩組んでる人」
米田はあわててその写真を取り返すと、
「いかん! こりゃ、行きつけのバーのマダムだ」
と、真赤になって、ポケットへ入れた。「こ、こっちだった」
その写真こそ、驚きだった。
「――知香」
と、良二は|呟《つぶや》いた。
知香だ。しかし、|大《だい》|分《ぶ》前の写真だろう。一五、六歳に見える。そして、一緒にうつっているのは、大柄で、いかにも優しそうな、中年紳士……。
「若林知香。君の恋人だ」
と米田は言った。
「恋人って……ガールフレンドだよ」
と、良二は訂正した。
「ごまかすことはない」
と、米田はニヤついて、「もうここへ引張り込んだのか? それともホテルで?」
良二は、キッと米田をにらみつけて、
「もう一回言ってみろ!」
と、怒鳴った。
「わ、分ったよ。そう怒るな。――君は真面目な子だな、本当に」
「彼女が何だっていうんだ?」
「一緒にいる男を知ってるか?」
「知らないよ」
「そうか。その娘の父親だ」
「父親……」
そう言われるまでもない。よく見れば、笑った目もとがそっくりだった。
「若林|善《ぜん》|一《いち》といった。有名な泥棒だったのだ」
「へえ」
と、言ってから、「有名な――何だって?」
「泥棒だ」
「泥棒?」
「そうだ。大物で、大勢の手下をかかえて、なかなか人望もあった」
大物か。確かに、写真で見るだけでも、そのおっとりした様子で、ただのお人好しでないことは分る。
「二年前に惜しくも死んだ。我々は、|奴《やつ》を追って、かなり追い詰めたのだが……」
「どうして死んだの?」
「若林らしい死に方だった」
と、米田は肯いた。「駅のホームから落ちた子供を助けたのだ。そして自分は電車にはねられた」
良二はホッとした。
――手下に裏切られたとか聞かされるのでは、と心配したからだ。
「新聞にも出たよ。英雄扱いだ。我々は苦い思いをかみしめたものだ」
米田は、ちょっと息をついて、「しかしね、奴の支配していた組織は、奴の死後、いくつかに分裂したものの、|未《いま》だに残っている。特に、若林に忠実だった手下たちは、今でも組んで仕事をしているらしい」
「それがどうしたの? 知香には関係ないじゃないか。父親は父親、娘は娘だ」
「分っとる。――しかし、それが関係あると言ったら?」
「どういう風に?」
米田は、ちょっと楽しげに、良二を眺めて、
「今、その娘が、父に代って、泥棒のグループのトップに立っているのだ」
と、言った。
いささか芝居がかった決めのセリフだった。
5 美術館にて
「良二君」
と、呼ばれて、ハッと我に返る。
「あ、ああ、君か。――どうも。お久しぶり」
「毎日会ってるじゃない」
と、知香は不思議そうな顔で、「それとも、私と会ったことなんか、忘れちゃうの?」
「と、とんでもないよ! 誰が忘れるもんか!」
「そう?」
「そうさ。――ね、何か食べようか」
「そうね。今、並んでるわ」
と、知香は|肯《うなず》いて言った。
二人とも、学生食堂の、セルフサービスの列に並んでいるのだ。当然、何か食べるためである。
「ああ。――そうか。そうだったね」
久保山良二は、わざとらしい笑い声をだした。若林知香は首をかしげて、
「ねえ、勉強か何かしたんじゃない、もしかして?」
と、言った……。
「いや、別に。勉強なんて、そんな悪いことするわけないじゃないか」
「そう……」
会話も、かなり|支《し》|離《り》|滅《めつ》|裂《れつ》ではあった。
二人は、カレーをもらって、サラダとコーヒーをつけ、盆を手に、空いた席を探した。
「奥の方へ行きましょうよ」
と、知香が、どんどん先に立って、奥の方のテーブルへと歩いて行く。
良二は、あわてて知香の後を追って行った。何しろ、郊外にあるこのS大学では学外に出ても、レストランとかそば屋はほとんどないので、この学生食堂を、大部分の学生は利用する。その広さも相当なものだった。
それでもこの昼休みには、空席を待つ列ができる。もっとも、回転も早いので、長く待つ必要はない。
「ここがいいわ」
知香がついたテーブルは、かなり奥まっているせいか、半分ほどしか埋っていなかった。
「うん」
良二は知香と並んで席につくと、黙々とカレーを食べ始めた。
もちろん――知香と一緒に昼食をとれるのは|嬉《うれ》しい。でも、今、その喜びに、暗い影が落ちているのも確かだった。
それというのも、あのデブで|禿《は》げた米田という警部のせいだ!
もちろん、太っているとか、髪が少ないとかいうことで人を差別するほど、良二は人間ができていないわけじゃない。しかし、その話の中身は、およそお話にならないものだった(変な言い方だけど)。
知香が、泥棒の親分だって? 何を寝言、言ってるんだ!
知香は女子大生、一八歳だぞ! 一八歳の女の子が、泥棒の親分だなんて。一体誰がそんな話、信じるもんか。
そうとも。あの警部、少しおかしいんだ。いや、相当におかしい、と言うべきだろう。
「――良二君」
と、知香が言った。「何をブツブツ言ってるの?」
「え? ――何も言ってないよ」
「今、何だか、『おかしい、おかしい』とか言ってたわよ」
つい、本当に口に出してしまったようだ。良二は笑顔を作って、
「何でもないよ、その……レポートの点がね、つけ方がおかしい、って……」
誰が聞いても言いわけでしかない言い方だった。我ながら、何て|嘘《うそ》をついたり、ごまかしたりすることが下手なんだろう、と感心した(!)。
「やあ、君たち、人目を避けて、こんな席に座っとるのかね?」
顔を上げると、テーブルを挟んで向いの席に、西洋史の助教授、|安《あ》|部《べ》が座るところだった。
「いいえ」
と、知香が|微《ほほ》|笑《え》んで、「私たち、二人とも『隅における』人間ですから」
「なるほど」
と、安部は笑った。「いや、君はなかなかユニークな女の子だ」
安部は、額が少し禿げ上っているので、老けて見られるが、実際はまだ四〇代の前半だった。スマートな体型、服のセンスも、なかなか渋くていい、と女の子には結構人気がある。
まあ、二枚目とは言い難いにしても、大学の先生、というイメージの中では、かなりいい部分を集めたようなタイプだ。
良二も知香も、安部の講義は取っていた。話術も巧みで、あまり眠くならない、数少ない講義の一つだったのである。
「時に――」
と安部はトンカツ定食を食べながら、「君たちは、S美術館の中世肖像画展には行ったかね」
と、|訊《き》いた。
「いいえ、まだです」
と、知香が答えた。「行きたいな、とは思ってるんですけど」
「なかなか充実しているよ。もちろん、ホルバインも悪くないが、名もない画家の手になる肖像画は、時代の雰囲気を伝えてくれる」
「ぜひ行ってみますわ」
と、知香は言った。「久保山君と一緒に。――ねえ?」
「う、うん。もちろん僕も行こうと思ってたんだよ」
良二は、S美術館の場所も知らない。
「そりゃいい」
と、安部は肯いて、「もし、久保山君の都合が悪くなったら、僕が案内してあげよう」
「先生が?」
知香は、目を見開いて、ちょっといたずらっぽく笑うと、「危険だな。先生、独身のプレイボーイって評判ですよ」
「そんなことでひるむ若林君とは思わなかったがね」
と、安部も笑って言った。
そこへ事務室の女性がやって来た。
「安部先生」
「何だね?」
「お電話が入ってますけど」
「分った、すぐ行く」
と、安部は急いで席を立って行った。
「――良二君」
「え?」
「いつ、行く?」
「行く、って……。どこへ?」
「S美術館じゃないの」
「あ、ああ……。そうだね。いつでもいいよ。君の都合のいい時で」
「じゃ、明日、お昼から行かない? どうせ午後は休講よ」
「うん……。構わないよ」
と、良二は言った。「でも――説明してくれよね。僕はさっぱり分らない」
「あら」
と、知香は澄まして、「私だって。大体、どこにあるの、S美術館って?」
二人は、顔を見合わせて、笑い出した。
平日の午後の美術館は、あまり人の姿もなかった。
その意味では、絵を見に来たのか、人を見に来たのか分らないような、有名な絵を売りものにした展覧会よりは、ずっと「美術」というムードではある。
「いいわね」
と、知香が言った。
「うん」
何だかよく分らないが、でも一応、人並みの感受性を持っている良二は、その肖像画の列に、どこか「歴史の重味」といったようなものを覚えはしたのだった。
「座ろうか」
と、知香が言った。
「うん」
良二は、知香に促されて、会場の一角、少し広くなったスペースに並べられた椅子に腰をおろした。
二人の他には、せいぜい、一人か二人、ポツリ、ポツリ、と絵を見て回る人が目に入るだけ。
二人が口をきかずにいると、ほとんど人の話し声もない。これが都心のビルの中かと思うほどの静かさだった。
「――静かね」
と、知香は、そっと息を吐き出して、「こんな場所って、他にないわね。どこでも、都会は何か音楽が鳴ってたりするし……。私、音楽も好きだけど、でも一日中聞こえてるのって堪えられない」
「そうだね」
「あなた、何が好き? 私、ベートーヴェンの弦楽四重奏が好きなの」
「あ、そう」
良二はいささか焦って、「いや――何でも音楽なら好きだよ」
と、いい加減な返事をした。
知香はちょっと目を伏せて、
「迷惑した? ごめんなさいね」
と、言った。
「迷惑? 君とデートするのが、どうして迷惑なんだい?」
「そのことじゃないのよ」
と、知香は言った。「米田警部に会ったんでしょ」
良二は、不意に訊かれて、どう答えたものか、迷う暇もなかった。
「うん……」
「父のこと、聞いたのね」
「聞いたよ」
良二は肯いて、「でも、お父さんはお父さん、君は君だ。それにあの米田って奴、君のことまで、ひどいでたらめを言いやがって! ふざけてるよ」
「でたらめじゃないわよ」
「そうとも。大体君が――」
良二は、言葉を切って、「何だって?」
と、訊いた。
「本当よ。私、泥棒なの」
――美術館の中は、二人が口を閉じると、相変らずの静寂だった。
しかし、それはついさっきまでの静けさとは違って、重苦しく、同時に、|弾《ひ》けば音がするほど緊張した静寂だったのである。
良二は、何といっていいのか分らなくて、黙っていた。
知香が泥棒? そんなことが――そんなことが、もしあり得るとしたら、夜と昼が逆さになっちまう!
知香が立ち上った。
「行きましょ。今日は大丈夫だわ」
「大丈夫、って?」
「時々、尾行されてるの、あの米田警部の部下にね。――でも、大丈夫。今日はいないわ。私のマンションに来て」
知香が歩いて行く。良二はあわてて、後を追った。
6 逃亡計画
「あれは、夢じゃなかったんだね」
と良二は言った。
「ええ」
知香は、良二にコーヒーを出しながら、「あなたを殺さなきゃって、ずいぶん古顔の子分に言われたわ。でも、できなかった」
良二は、ソファに身を沈めて、部屋の中を見回した。
「いい……部屋だね」
「そう? 男の人を入れたの、初めてよ」
と、知香は言った。「もちろん、宍戸とか主な子分はたまに来たけど。――もう今は来ないわ。ここに来るとやばいから」
「だけど、――それじゃ、小泉の|奴《やつ》は、|嘘《うそ》をついたのか」
「小泉君も脅したのよ。悪いと思ったけど、でも、そうしないと殺されるところだったんだもの」
「信じられないよ!」
と、良二は、首を振って、言った。
「私だって」
知香は肩をすくめて、「父が二年前に死ななかったら、私は今でも平凡な女子大生だったわ、きっと」
「君が大勢子分を従えてるの?」
「大勢といっても、そんなにいないわ。父が死んで、抜けた人も沢山いるし。やっぱり一八歳の女の子じゃ、信用できないっていってね」
「なるほどね」
「でも、そんなにゾロゾロ引き連れて泥棒に行くわけじゃないもの」
そりゃそうだろう。遠足じゃないのだから。
「大きな仕事でない限り、直接は手を出さないわ。この間は、ちょっと大仕事だったの」
「そう……」
「本当に――申し訳ないと思ってるわ」
「いや、僕のことなんか、構わないよ。でも――僕は君が手錠をかけられるのを見たくない」
良二は、やっと言葉が出て来るようになった。
「今からでも、何とか足を洗えないのかい?」
知香は、|微《ほほ》|笑《え》んだ。その笑顔は、良二が今までに見たことのない、優しい、|嬉《うれ》しそうな笑顔だった。
「優しいのね! 私のこと、心配してくれるの」
「そりゃあ、好きだからね、君が」
「私もよ」
と、知香は言うと、ソファから立ち上った。
そして良二の方に手をのばすと、
「来て」
と、言った。
「どこへ?」
「来て」
知香はくり返した。
良二が彼女の手を軽く握ると、居間から奥のドアへと導かれて行く。そこは寝室だった。
カーテンが引いてあって、薄暗い。セミダブルぐらいのベッドが、きちんと整えられていた。
知香は、ベッドの向う側へ回ると、
「今朝、ちゃんとこうしておいたの」
と、言った。「いつもは、飛び出して来ちゃうから、こんなにきれいじゃないのよ」
「ねえ――」
「黙って」
と、知香が|遮《さえぎ》る。「もう、口をきかないで。その必要、ないわ」
確かに、その必要はなかった。知香が、黙って服を脱いで行く。――それには、何の説明もいらなかった……。
知香が、そっとベッドから出たのを、良二は気付いていた。
疲れて、眠りかけていたのだが、毛布が動いて、目が覚めたのである。しかし、眠っているようなふりをして、薄く目を開けていた。
知香は、絹のガウンをはおって腰にキュッと|紐《ひも》をゆわくと、鏡台の方へと歩いて行った。
良二は、不思議な気分だった。――幸せか?
もちろん幸せだった。
ただ、何だかこれが現実のことと思えないのだ。すばらしい体験だった……のだろうが、何もかもが、光のもやに包まれているみたいで……。
何をしてるんだろう?
薄く目を開けて見ていると、知香は、鏡台の前にじっと座って身じろぎもしない。そして、鏡台の引出しを開けると、ドライヤーを取り出した。いや――ドライヤーじゃない。拳銃だ!
知香は、|拳銃《けんじゅう》を手に立ち上ると、ゆっくりとベッドの方へ近寄って来た。殺す気かな?
知香が、ベッドの二、三歩手前で足を止める。――良二は、銃口が真直ぐ自分の頭へと向けられるのを見た。
何を言う気にも、する気にもなれなかったのは、やっぱり、これが現実だと思えない気持が、半分はあったせいだろう。
知香は、キュッと唇をかみしめて、引金にかけた指に力を入れようとしていた。――撃たれる!
しかし――銃声はしなかった。
どれくらいの間、そうしていただろうか。知香は、拳銃を持つ手を、静かに下げた。
息を大きく吐き出す。体の緊張が、一度に解けたようだった。
殺すのはやめたのかな?
知香は、しばらくその場に立ったまま、動かなかったが、やがて、手の拳銃を見下ろすと、クルッと振り向いて、寝室に付属しているシャワールームに入って行った。
やれやれ……。助かった。
良二も、ホッと息をつく。
助かった、か……。良二は、シャワールームのドアが閉まる音を聞いた。
良二は、ベッドに起き上った。――彼女は? シャワールームで、何してるんだ?
突然、良二には分った。
「やめろ!」
と、叫ぶと同時にベッドを飛び出していた。
シャワールームのドアを開けると、知香がびっくりして振り向く。
知香は、自分の胸に、銃口を当てて、引金を引こうとしているところだった。
「やめろよ!」
と、良二は言った。「どうしてもどっちかが死ななきゃいけないのなら、僕を撃てよ!」
「良二君……」
「君を代りに死なせるなんて……。一生|悔《くや》むことになる。そんなこと、僕にさせないでくれよ」
これは、良二の生涯でも、「名言集」の筆頭に入るべき文句だった。
「良二君!」
知香がワッと抱きついて来る。良二はひしと知香を抱きしめた――だけで終れば良かったのだが、良二はあまり体重のある方ではなかったので、抱きつかれて、|仰《あお》|向《む》けに引っくり返った。
ゴン、と|鈍《にぶ》い音がして、良二は後頭部をシャワールームの床のタイルに打ちつけ、気を失ってしまったのだった……。
「――気分は?」
と、知香が|訊《き》いた。
「天国にいるみたいだ」
と、良二は言った。「ちょっとした頭痛を除けば、ね」
「うんと食べてね」
夕食の支度ができていた。――知香の手料理である。少々の頭痛ぐらいで文句言ってられるもんか。
「――|旨《うま》いよ、|凄《すご》く」
と、良二は言った。
「そう? 嬉しいわ」
知香と良二は、今はちゃんと服を着ていた。
何といっても、良二の方はシャワールームで気絶した時、パンツもはいていなかったのだ。知香が、かなり苦労して、パンツとシャツをつけさせたのである。
「――これから、どうするかが問題ね」
と、知香は、食べながら言った。
「君が泥棒を続けるのなら、僕も仲間に入ろうか」
と、良二は|真《ま》|面《じ》|目《め》に言った。「でも、不器用だから、|却《かえ》ってすぐ捕まっちゃうかもしれない」
「良二君をこの仕事に引きずりこんだりはしないわよ」
と、知香は言った。「でも――私があなたを殺さなかったと分ったら、きっと他の子分たちが、あなたを殺しに行くわね」
「他の?」
「宍戸とか、何人かの、父が昔から|可《か》|愛《わい》がってた子分は、私のこと信じてくれてるし、だからこの間は、あなたのことも助けられたのよ」
「じゃ、他の子分は、どうしても僕を殺せ、と……」
「そうなの。そうしないと、組織がバラバラになりそうで、仕方なく、私も承知したのよ」
「そうか。困ったね」
「でも、もうふっ切れたの。大丈夫」
と、知香は首を振って、「あなたが死んだら、私も一緒よ。愛してるんだもん」
良二は感激した。「死ぬほど愛してる」なんて文句は、珍しくもないが、この場合は極めて「リアルな言葉」なのである。
「どうしたらいいんだろう?」
「逃げるのよ」
と、知香は言った。「二人で身を隠すの」
「でも……どこに?」
「どこか、遠くね。でも――私自身が手もとに持ってるお金なんて、大したことないし」
と、知香は考え込んだ。
「逃亡生活ってのも、楽じゃないだろうな」
「あなたにとっては、苦労をしょいこむようなもんね」
「君と一緒なら楽しいさ。ただ、現実的に考えると、ここや僕のマンションはだめだ」
「そう。――東京ってのは人が多いから、隠れるには便利だけど、でも、お金を稼ぐのがねえ……」
「大学にも行けなくなるか。――|親《おや》|父《じ》が嘆くだろうな」
「仕送りはあるの?」
「うん。バイトもしてるけどね。でも、仕送りだって、行方不明になったらストップだ。――二人で暮すとなると、食費だけでも結構かかるだろうね。学食みたいに安い所は、どこ捜したって……。どうかしたのかい?」
知香が大きく目を見開いて、
「大学よ!」
と、声を上げた。
「大学がどうかした?」
「大学の中に、隠れるのよ!」
「何だって?」
「あの広さ、それに食事もできるし。ね、どう、このアイデア?」
良二は|呆《あっ》|気《け》に取られて、
「うん……。しかし、そんなことができるかな?」
「やってみましょう! 荷物をまとめて、毛布とか、最小限、必要な物を持って」
「大学に居候か」
「いい場所がないか、捜してみるわ。たとえ誰かが捜しに来ても、あのキャンパスの中を全部調べて回るのは、容易じゃないわよ」
「なるほど。――よし、やろう!」
良二と知香は、固く手を取り合ったのだった……。
7 旅立ち
「まず第一の問題は」
と、若林知香は言った。「小泉君をどうするか、なのよね」
「そうか」
久保山良二は|肯《うなず》いて、「あいつも知ってるんだ、君のことを」
「そう。私とあなたが姿を消したと知ったら、私の部下たち、また小泉君の所へ行くでしょうね」
「|拷《ごう》|問《もん》されるかな?」
「馬鹿言わないで」
と、知香は少々|憮《ぶ》|然《ぜん》とした表情で、「いくら落ちぶれても、私の部下に、そんな真似をする奴はいないわ」
「ごめん。そんなつもりで言ったんじゃないんだ」
と、良二はあわてて言った。
知香は、ため息をついて、
「私こそ」
と、首を振った。「もう、泥棒の親分じゃなくなったのに、つい、気分が抜けきらないのね」
「その内には忘れるさ。夢でも見てたみたいにね」
「ありがとう……。優しいのね。――大好きよ」
知香は、良二にすばやくキスした。
「さて……。何だっけ?」
「小泉君のこと」
「あ、そうか」
ポーッとなって、忘れてしまっているのである。
「何も知らせないのが一番だけどね」
と、知香は言った。「でも、心配することは間違いないし」
「一応、友だちだからね」
と、良二は言った。「――ねえ、やっぱりあいつには知らせておこう。どんなことで連絡を取る必要ができるか分らないからね」
「それはそうね。じゃ、あなたから話してくれる?」
「うん。それに、もう一つ、便利な点があるしね」
「なあに?」
「あいつ、車の運転ができるんだ。僕は免許持ってないし、君もだろ?」
「ええ……」
「何かの時には、あいつを使えばいい」
「運転手じゃないの、まるで」
「そうさ。構やしない。友だちだからな」
向うがどう思うかはともかく、良二の方は、その理屈で行くことにした。
「じゃ、引越しも手伝ってもらえるかしら」
「引越し? ――ああ、そうだね」
「車なら、毛布とか運ぶのに便利だわ」
「もちろん、利用できるさ。ここに取りに来させよう」
「サービス、いいわね」
「しかも無料だ」
良二と知香は一緒に笑った。そして――キスした。
「――笑いごとじゃないのにね」
と、知香が|囁《ささや》くように言った。
「そうだね」
「でも笑いたくなるの。幸せだから」
「僕もだよ……」
二人はもう一度、唇を合わせた。
「お前が晩飯おごるなんて!」
と、小泉和也は言った。「話がうま過ぎると思ったんだ」
「なあ、協力してくれよ。友だちだろ?」
と、良二は和也の肩をつかんだ。
「|馴《な》れ馴れしく、さわるな。俺にはそういう趣味はないんだ」
と言いつつ、和也は、せっせとマーボ豆腐を食べている。
「食ってるってことは、頼みを聞いてくれる、ってことだな」
「待て」
と、和也は言った。「これは、この間、こちらの彼女に脅された分の|償《つぐな》いだ」
「ごめんなさいね。仕方なかったのよ」
良二と知香も、一緒に食べていたのは言うまでもない。
「おい、――お前、男らしくないぞ。いつまでもこんな女の子のことを恨んでるなんて」
「うるさい――この後の料理は?」
「よく食う|奴《やつ》だな」
と、良二は|呆《あき》れて、「ギョーザと春巻だ」
「よし」
と、和也は肯いて、「それが、お前の頼みを聞く分だ」
知香がニッコリ笑って、
「いいお友だちね」
「へへ……」
と、和也は少々照れた。「だけどユニークなこと考えたな。大学に住み込むとは」
「うん。ただ、問題はどこがいいか、考えつかないってことなんだ」
と、良二は言った。「お前、何かアイデアないか?」
「そうだなあ。――ご飯、おかわり!」
と、茶碗を出して、「腹が一杯になったら、何か思い付くかもしれない」
「変な奴だな」
と、良二は笑った。
ともかく、安心した三人は、食べることに専念した。大学生三人が、一心に食べれば、相当の量になることは間違いない。
「――よく食った!」
と、和也は目を丸くして、息をついた。
「いくらでもいいわよ」
と、知香が言った。
実は、今夜は知香のおごりなのである。
「――まず条件を出して、それから考えるんだ」
と、和也が言った。「第一の条件は?」
「見付からない所だ」
「そうだ。となると、ガードマンの回る道筋をよく調べておく必要がある」
「あ、そうか」
「私に任せて」
と、知香が言った。「商売柄、そういうこと調べるの、得意よ」
「あ、そうか。泥棒にとっても第一の条件だもんな」
「おい! 大きな声でそんなこと言うんじゃないよ!」
「や、すまん」
と、和也は自分で頭をコツンと|叩《たた》いた。「第二の条件は出入りが簡単なことだな。いざ見付かった時、逃げられる道があること」
「正解」
と、知香が肯いて、「あなた、きっといい泥棒になれたわ」
と、声を低くして言った。
「僕もそう思う」
と、和也は得たり、という顔。「それから、やはり、湯を沸かすぐらいのことは必要だろ?」
「そ、そうだな……。自動販売機はあちこちにあるけど」
「ガスかそれとも電気が来ている所だ。ま、電気の方が無難だな」
「寒くなったら、アンカぐらい入れなきゃいけないものね」
「食事は、何食わぬ顔して学食を利用すればいい、と……。しかし、二人とも、講義はどうするんだ?」
二人は顔を見合わせた。
「そこまで考えてなかったよ」
「そうか。しかし、出てないとまずいだろう。欠席なのに食堂にくるってのは」
「出ましょうよ」
と、知香は言った。「私、聞きたい講義もあるし」
「だけど――」
「大丈夫よ。私の部下だって、まさか姿を消して大学の講義を聞きに来てるなんて、思わないわ」
「そりゃそうだ」
と、和也が楽しげに笑って、「そんなこと、誰も思い付かないよ」
良二は肩をすくめて、
「他に何かあるかな、条件?」
「そうねえ。トイレの近い所とか……」
「そんなうまい場所、あるか?」
和也は、しばらく考え込んでいた。
そして、やおらウエイトレスを呼ぶと、
「あのね、アイスクリーム一つ」
と注文した。
「まだ食べるのか?」
「思い付いた報酬だ。安いもんだろ?」
「いい場所を?――本当か?」
「何なら、これから下見に行くか」
良二と知香は、一瞬、顔を見合わせたが、
「そんな時間ないわ」
と、知香が即座に言った。「今夜の|内《うち》に、移りたいの」
「よし。じゃ、取りあえずそこで我慢しろ。またいい所を思い付いたら、引越しゃいい」
良二は肯いて、
「敷金と権利金はいいのか?」
と、言った。
「――これでいいわ」
と、知香は、両手にスーツケースを下げて、マンションの中を見回した。
「じゃ、行こうか。僕が持つよ」
「うん」
良二は、知香の手からスーツケースを受け取ると、
「和也の奴の車、もう来てるかな」
「時間的には充分でしょ」
「何しろ免許取りたてだもん。不安だよ」
「ええと……。私、この毛布をかかえて行くから」
「|鍵《かぎ》、かけてくんだろ?」
「そうね。いくら泥棒の家でも、泥棒に入られたくないから」
「何だか変だな」
と、良二は笑った。「さ、行こうか」
玄関のドアを開けて、知香は立ちすくんでしまった。
目の前に立っていたのは――。
「宍戸さん――」
「お嬢さん。どちらかへお出かけですか」
と、宍戸が言った。
「ちょっとそこまで」
と、知香は、開き直った様子で、肯く。
「そこに立ってるのは、幽霊ですか?」
と、宍戸は良二を見て、「足がついてるようですが」
「ええ。これから二人で天国へ行こうと思ってるの。付合う?」
「お嬢さん――」
宍戸は中へ入って来ると、後ろ手にドアを閉めた。
「言いたいことは分ってるわよ」
と、知香は肩をすくめて「だけど、私、この人が好きなんだもん。しょうがないでしょ」
「お気持はお察しします」
と、宍戸はポケットへ手を入れて、「しかし、|掟《おきて》は掟です。ボス自らが決まりを破られたんじゃ、しめしがつきません」
「もう、どうでもいいの」
知香は、宍戸をにらみながら、「私、この人と逃げるんだから!」
「どこへです? どこへ隠れたって、すぐ見付かりますよ」
「その時は心中するわ」
宍戸は、ため息をついて、
「お嬢さん。――今は時期が悪いですぜ。例の|笠《かさ》|間《ま》の奴が、本格的に攻勢をかけて来る、って情報も入って来てます」
「どうなろうと知ったこっちゃないわ」
と、知香は首を振って、「あなたが好きなようにやってよ」
「いや、やっぱり若林の名が大切です。その名前の重みが、お嬢さんには、よく分っておられるはずだ」
「分ってるから、逃げ出したいのよ! この人と新しくやり直すの」
「そう!」
と、良二が|肯《うなず》く。
「――そこまで決心を?」
「そうよ」
知香が良二の腕をしっかりと握った。ちょっと強すぎて、痛いくらいだった。
「分りました」
宍戸が肯くと、ポケットから手を出した。
|拳銃《けんじゅう》が握られている。
「――私を撃つの?」
「いや、その青二才です」
「僕は一八歳です」
と、良二は言った。
「やめて。私を撃ってよ」
「どっちも撃たないでくれた方がいいけど……」
と、良二は素直に言った。「でも、君、一緒に撃たれると――」
「構わないの」
「お嬢さん。どいて下さい」
「そうだよ」
と、良二は、知香の肩をつかんで、「君は、その人の後ろに行っていた方がいいよ」
「だって――」
知香の目が、宍戸の後ろへ行く。――靴箱の上に、花びんがのっている。
「そう? じゃ、言われる通りにするわ」
「うん。二人とも死ぬことはない」
「やっと分っていただけましたか」
宍戸がホッとしたように、「――おい、若いの」
「僕は久保山というんです」
「一発でしとめてやるからな」
宍戸の後ろに回った知香は、花びんを手に取ると、頭上高く振り上げて、力一杯、宍戸の頭へと振りおろした。
花びんもかなり丈夫だったとみえて、ゴーン、という音はしたが、割れなかった。
宍戸は、ドサッと引っくり返った。
「――死んだ?」
と、良二は|訊《き》いた。
「大丈夫よ。この人、石頭だから」
知香は、花びんを元の位置へ戻して、「さ、今の内に早く!」
良二は、和也の車が来ていますように、と祈りながら、知香と一緒にマンションを後にしたのだった……。
8 新 居
「――どうだ?」
と、和也は言った。
「悪くないわね」
知香は気に入った様子で、「間取りはちょっと不便だけど」
良二は、|呆《あき》れたように、
「お前どうしてこんな所を知ってるんだ?」
と、言った。
「うん。クラブの用事でガラクタを集めに大学中を捜し歩いたことがあるんだ。その時、ここを見付けた。――なかなかのもんだろ?」
屋根裏――といっても、相当の広さだ。
建物は木造の古い棟で、今は入口の近くの三つの部屋がクラブ用に使われている。
「化学研究部が入ってるから、電気、ガス完備だ」
と、和也は言った。「夜中に使えば分りっこなしさ」
「ガードマン、来るかな」
「来たとしても、屋根裏には天窓しかない。何も見えないよ、下からじゃ」
出入りは、隅の方の上げ戸から。もちろんはしごを使わないと上り下りできない。
「物置から持って来たはしごを、いつも上に上げときゃいいんだ。必要に応じて、それをかけて下りる」
「上げ戸の上に、何か置いた方がいいわね」
と、知香は言った。「誰かが下から押し上げても、そう簡単に動かないように、戸が開かなきゃ、|諦《あきら》めるかもしれないもの」
「食堂までは大分遠いぜ」
「ぜいたく言うな」
と、和也がつつく。
「冗談だよ。いや、助かった」
「本当。すてきな新居だわ。ねえ、あなた?」
知香が甘えるように良二の首に手をかける。
「――あれ、何か邪魔みたいだな」
と、和也が言った。
「そう。邪魔だ」
「それじゃ、また来るよ」
と、和也が、上げ戸の方へ歩いて行って、「そうだ。――|俺《おれ》がここへ来る時は、どうすりゃいいんだ?」
「下から呼べよ。それとも石でも投げてから声をかけるとか」
「分った。じゃ、まあごゆっくり」
「気を付けろよ」
と、良二は、はしごを下りて行く和也に声をかけた。
「大丈夫。俺はこう見えても身が――」
ドタドタッ! ――少し間があって、
「いてて……」
と、|呻《うめ》く声が聞こえた。
「おい、大丈夫かよ?」
「うん……。ちょっと飛び下りの運動をしてみただけだ……」
と、和也の声がした。「じゃあな……」
良二は、はしごを引き上げ、戸を閉めた。
「――明りを何か工夫しなきゃね」
と、知香が言った。
今夜のところは、さし当り、乾電池式のライトがある。しかし、これじゃたちまち切れてしまうだろう。
「でも、こんな生活、面白いと思わない? 私、大好きよ」
と、知香はすっかりお気に入りの様子だ。
「なかなか風流だね」
天窓からは、ちょうど月が見えた。
「天井裏って、私もよく仕事で入ったけど、こんなに広いのって初めて」
実際、頭もつかえないくらい高さがあって、広さも何十畳分あるだろうか。
ま、いささか|埃《ほこり》っぽいのは仕方ないが、想像していたほどひどくはなかった。
「――今、何時?」
「もうすぐ夜中の十二時だよ」
「そう。ガードマンの巡回は何時なのかしらね」
「明日でもゆっくり調べたら?」
「そうね。でも――」
知香は、二人が寝る場所を、ちゃんと掃除して、運んで来た毛布を重ねて敷いたのだが――。
「少し、汚れちゃったしね。――シャワーでも浴びようかな」
「ここで?」
「まさか。――運動部の部室へ行けば沢山並んでるじゃないの」
「あ、そうか」
「石ケンもシャンプーもあるから、女子用の方には。タオルはちゃんと持って来たからね!」
「しっかりしてら」
と、良二は笑った。
「じゃ、出かけましょ」
「僕も?」
「私がシャワーを浴びてる間、見張っててよ。いいでしょ?」
「もちろん!」
二人は、上げ戸を開けて、はしごを下ろし、下へ下りた。――問題は、二人で出ている間、どうするかという点だったが、このまま放っておくわけにはいかない。
取りあえず、はしごを手近な階段の下へ隠しておくことにした。
「じゃ、行こうか」
と、知香はタオルを肩にかけて言った。
まるで|銭《せん》|湯《とう》へ出かける感じだ。
夜の大学構内というのが、こんなに静かなものかと、良二はびっくりした。
当り前のことではあるが、やはりこうして現実にその中に立ってみると、驚かされる。
「――いくつか明りの|点《つ》いてる窓もあるじゃないの」
と、知香が言った。
「研究棟だ。遠いから、見えやしないよ」
「誰が残ってるのかしら?」
「助手とか院生は、研究や実験で、徹夜もするみたいだよ」
「へえ。初めて知ったわ」
二人は、建物の裏手の道を、|辿《たど》って行ったが……。
「待って」
と、知香が足を止めた。
「どうしたんだい?」
「しっ!」
知香は、じっと耳を澄ましていた。「――誰か来るわ」
良二には何も聞こえなかったが、知香に手を引張られて、一緒に建物の角を曲って、暗がりの中に身を潜めた。
――やがて、かすかな足音が、良二の耳にも届いて来た。
「本当だ」
良二は、|囁《ささや》くように、「君、|凄《すご》い耳、持ってるね」
と、言った。
「商売柄ね」
と、知香が答える。「話しながら歩いて来るわ。二人ね」
確かに、二人だった。
暗すぎて姿は見えないが、どうやら男と女らしい。ゆったりした重々しい足音と、甲高いハイヒールらしい足音が、入り混って聞こえる。
「――そんなこと!」
と、女の声が、高くなって、良二にも聞こえた。
男の方が、何やら低い声でブツブツ言っていた。
良二には、断片的な、「先生が……」とか、「今だったら……」という言葉しか聞こえて来ない。
その二人は、すぐに遠ざかって行ってしまった。
「やれやれ」
と、良二は息をついて、「結構、人がいるものなんだね」
「そうね……」
知香は、何だか上の空で返事をしている。
良二たちは、またシャワー室の方へと歩き出した。知香は、何やら考え込んでしまっている。
「――どうかしたの?」
と、良二は訊いた。
「いえ――今の話」
知香は、首を振って、「聞き違いだといいんだけど」
と、言った。
「今の話?」
「ええ。よくは聞こえなかったけど――」
「僕にはまるきりだよ。意味のある言葉は聞こえなかった」
「私も断片。でも、気になったの」
「何が?」
知香は良二を見て、
「男の方が言ったのよ。『先生を殺そう』って」
と、言った。
9 波乱含みの朝
ん? 何だ、この|匂《にお》い?
良二は、鼻をピクピク動かした。――しかし、良二は眠っていたのである。目が覚めるより早く、鼻の方が(というよりお腹の方が)反応を示したというのは、至って健康で、食欲があるという証拠かもしれない。
「――ほら、起きて」
と、良二はつつかれた。
「え?」
目がやっと開くと、そこには|可《か》|愛《わい》い知香の笑顔が……。そうか! 僕らは新しい生活を始めたんだ。
「おはよう」
と、まだはっきりしない頭をブルブルッと振って良二は言った。
「犬みたいよ、頭を振ったりすると」
と、知香は笑って言った。「ほら、朝ご飯を食べて」
「うん……」
アーアと|大《おお》|欠伸《あくび》。
まず、いつもの通りマンションで目覚めるのに比べると、何かと不便なのは|止《や》むを得ない。――何しろ、ここは屋根裏なのだから。
屋根裏部屋なら、まだ分るが、ただの屋根裏。事情が事情とはいえ、大変なことを始めてしまったものだ、と良二とて思わぬでもない。
しかし、|総《すべ》てはこの知香の笑顔の前に帳消しになってしまうのである。
「顔、洗って来たら?」
と、知香が言った。「早くしないと、さめるわよ」
どこから運んで来たのか、段ボールを伏せて、その上に花柄のテーブルクロス。驚いたことに、皿やコップこそ紙製だが、目玉焼にトースト、コーヒーと|揃《そろ》っている。
「おい、どうやって作ったんだい、これ?」
と、良二は目を丸くした。
「だって、少しは用意して来たんだもの。材料だって。冷蔵庫がないから、今日一杯しかもたないけど」
「だって、フライパンとか――」
「それも持って来たの。下の化学実験室のガスバーナーを拝借してね」
「大丈夫かい?」
「まだ朝の七時よ。誰も来やしないわ。――ほら、早く顔を洗って来て」
「分ったよ」
「はしご、かけたままにしてあるわ。落っこちないでね」
「うん……」
「タオル、その|紐《ひも》にかけてある」
屋根裏の|梁《はり》に、洗濯用のロープを渡して、そこにタオルだの|上《うわ》|衣《ぎ》だのがかけてある。
良二は、屋根裏という一風変った環境で、それなりにきちんと生活が始まっていることに、オーバーながら、一種の感動を覚えていた。やっぱり女は|逞《たくま》しい!
こわごわはしごを下って、実験室へ入ると、ここにはちゃんと水道が来ている。顔を洗うぐらいなら|一《いっ》|向《こう》に不自由しないのだ。
ゆうべだって、シャワーも浴びたんだし……。なかなか文化的な生活とすら言えるだろう。
屋根裏へ戻ると、はしごを|一《いっ》|旦《たん》上へ引張り上げておいて、上げ戸を閉める。
「――洋服が、バッグに詰め込んだままじゃしわになっちゃう」
と、知香がトーストをかじりながら、言った。
「洋服ダンスを置こうか」
「タンスは無理よ。上げられないわ。組立て式のファンシーケースを買って来ましょう」
「なるほど」
良二は、アッという間に皿を|空《から》っぽにしてしまった。
「――いかが? 初めての朝食の気分は?」
「最高だよ」
と、良二は心から言った。
「口に卵がついてるわ」
「そう?」
「取ってあげる……」
知香が、そっと顔を寄せて、唇を良二の唇に重ねた。
天窓から、朝の光が射し込んで、ほのぼのと暖い。まずは申し分のない第一日だった……。
ドン、と上げ戸に何かぶつかる音がして、
「おい、起きろ! |俺《おれ》だ!」
と、小泉和也の声がした。
「――えらく早いじゃないか」
と、はしごをかけて、和也が上って来ると、良二は言ってやった。
「だって、遅く来ちゃ人目につくだろ。――あれ?」
と、和也は二人の「食卓」を見て、目をパチクリさせると、「参ったな! しっかり朝飯の最中か!」
「コーヒーだけなら、どうぞ」
と、知香が言った。
「いや、お前らが腹を|空《す》かしてるかもしれないと思って――ほら」
和也が紙袋をあけると、「〈ほか弁〉だ。ちゃんと四人分ある」
「四人?」
「俺が二人分食うからな」
「いいわ、じゃ、私たちの分は今夜まで取っときましょ」
と、知香は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「小泉君って優しいのね」
「今ごろ分ったの?」
と、和也は|真《ま》|面《じ》|目《め》な顔で言った。
「――今日は忙しいわ」
と、知香がコーヒーを飲みながら言った。
床に座り込んで足をのばして|寛《くつろ》ぐというのもなかなか|乙《おつ》なものだ。下はビニールを敷いてあるが、知香は、安物のカーペットを買って来て敷こう、と言っていた。
「その方が、物音たてても下に響かなくて済むしね」
「忙しいって、何するんだ?」
と、良二は|訊《き》いた。
「色々買いたいものもあるけど、手紙を書いて、出しとかないと」
「手紙?」
「そうよ。あなた、ご両親に出しておかなくちゃ」
「あ、そうか。でも何て出すんだ?」
「勉強の都合で、友だちの所にしばらく同居させてもらうことになった、とでも書いとけば? ともかく、あなたがわけも分らずにあのマンションから姿を消したら、心配して捜索願ってことになりかねないわ。そうならないように、|予《あらかじ》め手紙を出しておくのよ」
「なるほど」
良二は感心した。
「私の方は別にどうってことないけど。――子分たちが大学へ捜しに来るなんてこと、まず考えられないからね」
「来たって、どこを捜しゃいいか分んねえだろうしな」
和也も、この事態を楽しんでいるようだった。
「――面白い! どこまでやれるか、やってみようぜ」
「面白いだけで済めばいいんだけどね……」
と、知香が言った。
良二と知香が顔を見合わせ、いやに深刻になって、|肯《うなず》き合う。和也は不思議そうに、
「何だ、どうかしたのか?」
と二人の顔を眺めて、「もう夫婦喧嘩か?」
「よせよ」
「じゃ――もしかして、できちゃったのか?」
「そんなんじゃないの」
と、知香が真赤になって言った。「そうね。小泉君になら話しておいてもいいかもしれない」
「何だよ、一体?」
――知香は、ゆうべ良二と二人でシャワーを浴びに行って、通りかかった男女の会話を|洩《も》れ聞いたことを、和也に話してやった。
「『先生を殺そう』って……。確かにそう言ったのか?」
「僕には聞こえなかったんだ。でも、知香は抜群に耳がいいからな」
「私だって、絶対って確信はないのよ」
と、知香は首を振った。「でも、そう聞こえたことは確かだわ」
「話してたのが誰なのか、分らなかったのかい?」
「暗かったし、それに静かだから、二人とも声を低くしてしゃべってたもの。大体、大学の人を、私そんなに知らないわ」
「そりゃそうだ。まだ入りたてだもんな」
「心配しててもしょうがないよ。僕らでどうできるって問題じゃない」
と、良二が肩をすくめて言った。
「同感だな」
和也は、自分の弁当を食べ終って、「そろそろ出かけよう。誰かがこの棟へ入って来たら、出られなくなっちまう」
「うん」
三人は、通学(?)の支度をして、上げ戸を開き、下の様子をうかがった。
「――OK、行こう」
と、良二が言った。
ゆうべの通り、はしごは近くの階段の下へ押し込んでおき、三人は表に出て行った。
「講義が始まるまでには、まだ時間があるけど」
と、和也が言った。
「大学の裏手の喫茶店へ行きましょ」
と、知香が裏門の方へ足を向けながら、「新聞を見たいの。それにできたらTVのニュースも」
「何かあるのかい?」
「うん……。もうどうでもいいことなんだけどね、本当は」
と、知香が首を振る。
「ああ、あの宍戸とかいう子分が言ってたね」
と、良二は思い出して、「何とかいう|奴《やつ》が攻撃して来るとかって――」
「笠間っていう男よ」
と、知香は肯いて言った。「戦争になるかもしれないの」
――穏やかな春の朝だった。風もなく、きっと昼間は暖くなるだろうと思わせる。
「戦争? 君はどこかの王女なのか?」
と、和也は訊いた。「ついでに泥棒もやってるとか」
「泥棒同士の戦争よ」
と、知香は言った。「でも、人が死ぬのは同じだわ。撃ち合ったり、日本刀で切り込んだり。――馬鹿馬鹿しいでしょ? でも本当に攻めて来たら、戦うしかないのよ。一一〇番するってわけにもいかないんだし」
「そりゃそうだな」
と、和也が感心している。
三人は、大学の裏手にある、小さな喫茶店に入った。
良二と知香はコーヒーだけだったが、既に弁当を二つ食べている和也が、モーニングセットを取ったので、二人は目を丸くした。
この喫茶店は、まずここの大学生しか利用しないので、大学が休みの期間にはほとんど閉ってしまう。普段は、まだ時間が早いので|空《す》いているが、十時ごろからは、夕方までほとんど常に満員。
先生たちもよくここに入っているのは、教職員用駐車場が、裏門を入った所にあるためだ。
学生も結構マイカーの通学が多くて、駐車場もかなり用意されている。――教職員の駐車場より、学生用駐車場の方に、ズラッとピカピカの新車が並んでいるのが現実であった……。
「――今日のところは何も起こってないみたいだわ」
新聞を見終った知香が、ホッとした様子で言った。
店の中には、三人以外には、やはり学生らしい三人組、そして、ちょっと変った女が一人、窓際の席に座っていた。
どう見ても学生じゃない、と何気なく眺めて、良二は思った。年齢も、もう二七、八歳というところだろう。顔色が|冴《さ》えなくて、ひどく疲れている様子だ。
この暖い日なのに、黒のコートをはおって、店の中でも脱ごうとしない。
知香が、化粧室へ立った。そして、少しして出て来ると、その女の席の近くを通って、窓から裏門を眺め、
「先生たちも、遅いのね。ほとんど来てないんじゃない?」
と言いながら、席に戻ってきた。
「大体、出席をやかましく言うのに限って、自分も時間にだらしがないんだよな」
と、和也が言っている間に、知香は何やら紙ナプキンにボールペンで走り書きして、良二と和也の方へ回して見せた。
〈窓際の女、刃物を持ってる!〉
良二と和也は、顔を見合わせた。
10 知香の|KO《ノックアウト》
「――そろそろ行く?」
と、知香がさり気なく言って、|椅《い》|子《す》をがたつかせて立ち上った。
さすがに泥棒の親分というだけのことはある、と良二は感心していた。窓際に座った女が、まさか知香や良二を刺しに来たってわけじゃあるまいが、それにしても、まるで何もなかったような顔で平然と立ち上ってレジの方へ歩き出すなんてことは、なかなかできるものじゃない。
良二も和也も、ついチラチラと女の方へ目をやってしまう。
知香に続いて、良二と和也もレジの方へ歩いて行ったが――。
「あら、安部先生の車だわ」
と、知香が言った。
独身のプレイボーイというイメージにふさわしく、外車――それも真赤なスポーツタイプに乗っている。その赤い外車が、裏門を入って行くのが、店のガラス扉越しに見えていた。
「あの車! 学生だって、あんなダサイのに乗ったりしないぜ」
と、和也が少々負け惜しみ気味に言った。
すると、いきなりあの窓際の席にいた女が立ち上って、ほとんど走るような勢いで、良二と和也を突き飛ばすようにしながら、店を飛び出して行く。レジの女の子があわてて、
「ちょっと、お代を――」
と、叫んだ。
「小泉君! あの人の分も、払っといて!」
と、知香が言った。「来て!」
良二の手をつかんで引張る。良二はあやうく前のめりに転びそうになった。
「おい――」
|呆《あっ》|気《け》に取られて、和也は二人を見送っていたが……。渋々財布を取り出したのだった。
「――どうしたんだよ!」
「いいから!」
知香と良二の二人は、店を飛び出して行った黒いコートの女を追って、走った。女は裏門から中へ駆け込んだ。
「駐車場の方だわ」
と、知香が叫ぶように、「急いで!」
そうか。――あの女、安部の車を追いかけているのだ。
入ってすぐ駐車場がある。先生のスペースは決まっているから、いつも同じ所に停めているのだ。赤いスポーツカーは、今、何台か先に停められた車の間を縫って、奥の方の専用スペースへと入って行く。
女が、足を止めて、近くに停めてあった車の陰に身を隠した。ハアハア息を切らしているのが見える。
「こっち!」
知香は、良二を引張って、駐車場の手前で足を|緩《ゆる》めると、「後ろへ回るのよ」
「ど、どうすんのさ?」
「止めなきゃ」
「何を?」
「あの|女《ひと》、安部先生を刺す気よ」
「でも――」
「しっ!」
スポーツカーが停って、安部がいつもながらのダンディないでたちで現われる。女が、右手にキラリと光る物を握っていた。
「危ないよ」
と、良二が言った。
「でも、あの人、何かわけがありそうよ」
そりゃ、人を刺そうってんだからわけはあるだろう。しかし……。それを止めてこっちが刺されたら、困るんじゃない?
良二は至って常識的にそう考えたのである。
だが、その女が止められるかどうかはともかく、知香を止めることはできない、と良二は悟っていた。何しろ泥棒の親分なのだ。
しかし、どうやって止めようというのだろう?
まさか後ろからポンポンと肩を|叩《たた》いて、
「ちょっと、やめた方がいいんじゃない?」
とか言って……。
「そうね。じゃあ、やーめた!」
てな具合に行けばいいが、そううまくは行かないだろうし……。
安部が、アタッシュケースを下げて、その女の隠れている車の前へと近付いて来る。腕時計など見て、女のことには全く気付いていないらしい。あの腕時計は、確かジャガー・ルクルトだったっけ。
と、知香がその女の方へ、頭を低くしたまま近付いて行って、肩をポンと叩いたのである。良二は仰天した。――危ないじゃないか!
女がギョッと振り向く。知香が右手の|拳《こぶし》を固めると、ガン、と一発、女の|顎《あご》に叩きつけた。女がアッサリと地面に崩れるように倒れる。
呆気に取られた良二がポカンとして眺めていると、知香はピョンと立ち上って、車の前へ出て行った。
「あら、先生、おはようございます!」
「何だ、若林君じゃないか」
と、安部がとたんに笑顔になった。「早いじゃないか、今日は」
「先生、今度のレポートなんですけど、何かいい参考書があったら教えて下さいよ。ね?」
良二は、知香が安部と一緒に歩きながら、倒れている女が安部の目に入らないように、巧みに隠しているのに気付いた。
そのまま少し先まで歩いて行った知香は、
「ありがとう、先生! 優しいから大好きよ!」
と、はしゃいだ声をあげてから、「じゃ、後で!」
と、手を振って別れる。
安部が遠ざかって見えなくなると、知香は小走りに戻って来た。
「――おい、ドキドキさせないでくれよ」
と、良二は言った。
「他に手がなかったんだもの。――ああ痛い」
と、女を殴った右手を振る。「ちょっとすりむいちゃった」
「どれ?」
良二は知香の手を取って、すりむいた傷をなめてやったりして……。そこへ、
「おい!」
と、和也の声が割って入った。「人に金を払わせといて、何だよ!」
女が、低く|呻《うめ》き声を上げて、身動きした。
「気が付いたみたいだな」
と、良二が言った。
「用心しろよ。かみつかれるぞ」
と、和也が恐る恐る言って|覗《のぞ》き込む。
「犬じゃあるまいし。いいから、小泉君は、誰か来ないか、見張ってて」
と、知香が言った。
「はいはい」
――何となく、知香が指図すると、従わなきゃならないようなムードになるのだ。やはり、これが貫禄というものかもしれない。
ここは、ある教授の、研究室。今日、休講という教授を調べて、その部屋を拝借しているというわけである。
大して広い部屋ではないが、一応古ぼけたソファなども置いてあり、その上に、例の女が寝かされていた。
目を開くと、女は不思議そうに、知香と良二を見上げた。
「ごめんなさい。殴ったりして」
と、知香が言って、水で濡らして来たハンカチを、女の顎に当ててやる。
女は、ちょっと顔をしかめて、それから、知香を|呆《あき》れたように眺め、
「あなたが殴ったの?」
と、|訊《き》いた。
「そう」
「ボクシングでもやってるの」
それには知香も返事のしようがなかった。
「――いいわ。ともかく、やり損なったのね」
と、女は、ゆっくりソファに起き上った。「警察を呼ばないの?」
「呼んでほしいなら呼ぶわ。でも、実際に人を刺したわけじゃないんだし」
女は、目をパチクリさせて、知香を見ていたが、やがて髪をかき上げると、
「学生さん?」
「そう」
「じゃ、あいつの教え子か」
「あいつって、安部先生? そう、安部先生の講義を取ってるわ」
「で、あんたもあいつの『お手つき』なの?」
「古いわね。大名や将軍様じゃあるまいし」
と、知香は苦笑した。「安部先生はこのこと知らないわ」
「そう。――そうね。あいつなら、警察へ突き出すに決まってるもんね」
女はそう言って、深々と息を吐き出した。
――喫茶店で見た時と比べ、こうして近くで見ると、少なくとも良二の目には二四、五歳に見える。ただ、何だかひどくやつれて、疲れ切っている感じだ。
「良二君」
と、知香が言った。「ポット、もうお湯沸いてる? じゃ、そこの棚を開けて、コーヒー作ってよ」
「勝手に使っちゃっていいのかい?」
「分りゃしないわよ」
それもそうか、というわけで、良二は、インスタントコーヒーをドカドカカップへ入れて(自分のじゃないわけだから)、コーヒーを作った。
「ミルクと砂糖は?」
良二が訊くと、女は、やけ気味に肩をすくめて、
「ブラックで結構」
と、言った。
よく見ると、なかなか整った顔立ちで、美人といっても良さそうだ。ただ、髪も肌も、ろくに手入れをしていない感じなのである。
女がゆっくりコーヒーを半分ほど飲むと、知香は口を開いた。
「どうして安部先生を刺そうなんてしたの?」
「あんたみたいな子供にゃわからないわよ」
「子供ったって、あなただって二四――ぐらいでしょ」
「私ね、二五。既婚で、子供までいるんだから」
「へえ。私、両親亡くして、現在この人と|同《どう》|棲《せい》中よ」
変なところで張り合っている。
女は、急に、いかにもおかしそうに笑い出した。何だかふっ切れたという感じの、カラッとした笑いだ。
「――面白い子ね。私、|中《なか》|沢《ざわ》|厚《あつ》|子《こ》っていうの」
「若林知香よ。これは久保山良二君」
「止めてくれてありがとう。あんな奴のために刑務所へ入るなんて、考えてみたら、馬鹿らしい」
「そうよ」
「でも、私、あいつのために、家庭も何も、全部を失ったのよ……」
と、中沢厚子は言って、顔を伏せた……。
11 学部長の椅子
「許せない!」
と、良二は言った。「安部の|奴《やつ》!」
「そうだ」
と、和也も|肯《うなず》いて、「奴に|天誅《てんちゅう》を加えてやろう」
「時代劇みたいな言い方、やめなさいよ」
意外に、女である知香の方がさめている。
「君、頭に来ないのか?」
と、良二は不思議そうに訊いた。
三人は、初めの講義に出るべく、構内を歩いているところだった。
安部を刺そうとして知香に止められた女、中沢厚子は、胸の内を三人に語り尽くすと、|大《だい》|分《ぶ》気が楽になった様子で、裏門から帰って行ったのだった。
「そりゃ、私だって、責任の大半は安部先生の方にあると思うわよ」
と、知香が言った。「でもね、一方の話だけでは分らないわ。男と女の仲っていうのは複雑だから」
「そんなもんかな」
と、良二は首をかしげる。
「もちろん、私だって、詳しいわけじゃないのよ」
と、知香は念のために言った。「ただね、振られた側にとってみれば、ああ言いたくなるのは当然だし、それに、あの女の人だって、まだ安部先生に未練があるのよ」
「刺そうとしたのに?」
「未練がなきゃ、そんなことまでしないと思うわ。――私たちと話して、大分ふっ切れたみたいだったけどね」
「まあ、安部があの女を引っかけた、ってのは事実だろうけどな」
と、和也が言って、首をかしげる。「安部なんて、どこがいいんだ?」
「ともかく」
と、知香は息をついて、「安部先生のことは放っておきましょ。これ以上何もなければね。――他人の恋愛関係に口を出すもんじゃないわ」
「それはそうだな」
と、良二も、肯いて、「僕らのことを、まず心配しなきゃ」
「そうよ!」
知香がぐっと自分の腕を良二の腕に|絡《から》める。
「俺はどうなるんだ」
と、和也がオーバーに天を仰いで嘆いた。「――そうだ。なあ、良二」
「何だ?」
「その、ゆうべ耳にしたっていう、『先生を殺そう』って話」
「うん、それが?」
「その先生ってのが安部のことだったら、ピッタリなのにな」
「それもそうだな」
と、良二は言って、笑った。
しかし――知香は笑っていなかった。
何かを考え込んでいるように、|眉《まゆ》を寄せ、黙り込んでしまっていた……。
昼休み、三人は学生食堂で一緒に昼食を取っていた。
「――見ろよ」
と、和也が言った。「安部が来たぜ。このテーブルに来るんじゃないか」
「いやだな」
と、良二は顔をしかめる。「ニコニコしてられないよ」
「いや……大丈夫だ。一人で座った」
「助かった」
良二はホッとした。「珍しいな。いつも君のそばに来たがるのに」
「気が付かなかったのかも」
と、知香はスパゲッティを食べながら、「ここのスパゲッティ、ゆですぎか、かたいかどっちかなのよね」
と、ため息をついた。
「オス!」
と、元気良くやって来たのは、|小《こ》|西《にし》|紀《のり》|子《こ》だった。
「お邪魔?」
「いいよ。こっちへ座れよ」
と、和也が一つずれて席を空けた。
「サンキュー。優しいのね、小泉君」
小西紀子は、決して美人でもなく、成績も優秀とは言いかねたが、まれに見る明るさで目立つ子だった。実際、誰からも好かれるという貴重な存在で、パーティなどには欠かせない顔だった。
「ここんとこ、久保山君、知香とべったりしてんのね。もう売約済?」
と、小西紀子が訊く。
「売り切れ」
と、知香が答える。
「やったね!」
と、小西紀子はパチンと指を鳴らした。「知香に思いを寄せてた男の子、沢山いたのにな。哀れ……」
「そう? たとえば?」
と、知香が身を乗り出す。
「聞く必要ないだろ!」
と、良二がむきになって割って入った。
小西紀子が大笑いして、その笑い声は、にぎやかな学生食堂中に響き渡った。
「――あれ、安部先生、一人で食べてんじゃない。珍しい」
と、小西紀子が目ざとく見付ける。
「何だか元気ないみたいだ」
と、和也が言った。
「そうね。あの先生でも、たまには悩むことがある」
「ひどいこと言ってる」
と、知香が笑って、「紀子、何か理由を知ってる?」
「そりゃ、例の件じゃないの?」
と、紀子はアッサリと言った。
「例の件って?」
「知らないの? 学部長選挙でさ、安部先生、難しい立場なのよ」
「へえ、学部長選挙?」
良二は、そんなことがあるのも知らなかった。「よく知ってるな、そんなこと」
「地獄耳」
と、小西紀子は、得意げに、「今の学部長がもう老いぼれちゃって、全然出て来らんないっていうんで、引退するのよ。で、次の学部長の席を争ってるわけ」
「安部先生が?」
と、知香は不思議そうに、「まだ若すぎるんじゃないの?」
「もちろん! 安部先生が立つんじゃないわよ。――|金《かな》|山《やま》教授と、|平《ひら》|田《た》教授」
「金山と平田か」
と、和也が肯いて、「それなら分る」
「でも、安部先生がどうして難しい立場なの?」
「金山教授ってのは、安部先生の直接の先生なの。つまり恩師。分る?」
「分る」
「普通なら、当然安部先生は金山教授の側について、票をまとめたりしなきゃいけない立場なのよ」
「そりゃそうでしょうね」
「ところが――」
と、小西紀子は、ここで声を低くして、ぐっと身を乗り出した。
つられて、知香と良二も身を乗り出す。なかなか聞き手の心をつかむすべを心得ているのである。
「ここで登場するのが、対する平田教授の夫人の|千《ち》|代《よ》|子《こ》さん」
「平田教授の奥さん?」
「そう。教授とは、恩師と教え子って関係で、平田教授が今年五一歳なのに、千代子夫人は――いくつだと思う?」
と、気をもたせる。
「若いのね」
と、知香が、ちょっと考えて、「三〇!」
「|外《はず》れ。――二八歳」
「ええ? そんなに若いの?」
「千代子夫人が学生のころ、安部先生も彼女を教えていた。そして、在学中、安部先生と彼女との間には……」
「――じゃ、先生、その人に手をつけてたの?」
「ま、要するにそういうこと」
三人は、小西紀子の話に、|唖《あ》|然《ぜん》として聞き入っていたが……。
「そのこと、どうして紀子が知ってるの?」
と、知香は|訊《き》いた。
「誰でも知ってたんですって、当時の学生たちは。たまたま私のいとこが、千代子夫人と同窓でね。そっちから仕入れたネタなの。でも、絶対に間違いないのよ」
と、小西紀子は自信たっぷりに肯いた。
「へえ!」
と、良二は|呆《あき》れて、「安部ってのも、ひどいもんだな」
「でも、紀子、もちろん、当の平田教授は、まさか安部先生と奥さんが――そんな仲だったなんてこと、知らないんでしょ?」
「私、平田教授じゃないから、分らないわ」
と、紀子はもっともな言い方をして、「でも、知らないでしょうね」
「だったら、安部先生だって、平田教授を応援したりできないじゃない。金山教授を応援しなかったら、|却《かえ》って変だと思われるだけでしょ」
「理屈はね」
と、紀子は肯いた。「でも、ここに今一つの|噂《うわさ》が流れているの」
「どんな?」
「あのね――」
と、言いかけて、紀子は、「おっと、噂をすれば何とやらよ。やばい!」
四人は黙々と昼食を食べ始めた。
「やあ、この辺は空気まで若々しいね」
と、相変らずきざなセリフ。「若林君」
「はい」
と、知香が顔を上げる。
「君に、ちょっと頼みたいことがあるんだ。時間、あるかね」
と、安部は言った。
「ええと……。久保山君と打合わせたいことがあって」
「じゃ、その後でいい。僕の研究室へ来てくれないかな」
「分りました」
「手間は取らせない。五分もあればすむよ。じゃ、頼む」
「はい!」
安部が行ってしまうと、良二がふくれて、
「あんな|奴《やつ》の部屋に行ったら危ないよ」
と、文句をつけた。
「大丈夫よ。いくら何でも、研究室の中で、妙なことしないでしょ」
「分るもんか」
「じゃ、表で待ってれば?」
「言われなくても待ってる!」
と、良二は言った。
小西紀子が笑って、
「|羨《うらやま》しい。アツアツだね」
と、冷やかす。
「それより、紀子、今の話の続きは?」
「ああ、つまりね、ここへ来て再び、古い恋に火がついたって噂なの」
「古い恋って……。じゃ、安部先生と平田教授夫人?」
「もちろん! 現在進行形の恋の相手が平田教授の夫人で、夫人が、夫のために協力してくれって頼んだとしたら……。分るでしょう?」
良二、知香、和也の三人は、顔を見合わせて、ゆっくりと肯き合ったのだった……。
12 良二の人助け
知香がドアをノックしようとした時、
「約束が違うじゃないの!」
と、|甲《かん》|高《だか》い女の声が、ドア越しに研究室の中から聞こえて来た。
知香は手を止めて、良二の方を振り向く。――もちろん、安部助教授の研究室へやって来たところなのだ。
「はっきりしてよ! 一体あなたはどっちの味方なの!」
女の声は甲高いから、ドアを通して聞こえて来るが、相手の声は|一《いっ》|向《こう》に聞こえない。
「どうする?」
と、良二が|囁《ささや》いた。
「もちろん」
と、知香が|肯《うなず》く。「立ち聞きするのよ」
しかし、それ以上は、話も|洩《も》れては来なかった。
「――出て来るとまずいわ」
知香は、良二を促して、廊下の曲り角まで戻った。
ドアが、ちょうど開いて、女が出て来た。
「あれかな……」
「たぶんね」
小西紀子の言った、平田千代子だろう。二八歳といっても、見た目はもっと若い。小柄なせいもあるが、大体少し童顔なのである。
それでも、夫との年齢のバランスを一応考えているのか、服装は、至って地味なスーツ姿だった。
その女性が、出口への階段を下りて行ってしまうと、知香は、
「ね、良二」
と、つついた。
「何だよ」
「あの|女《ひと》の後を|尾《つ》けて」
「尾行するのかい? どうして?」
「どうしてでもいいから。早く!」
「分ったよ」
何だかよく分らなかったが、良二は言われた通りに、急いで階段を下りて行った。
知香は、ちょっと|咳《せき》|払《ばら》いしてから、安部の研究室のドアをノックした。
「どうぞ」
という返事に、ドアを開けると、安部がにこやかに、
「やあ、すまないね。入ってくれ」
「何ですか、ご用って?」
知香も精一杯、「|可《か》|愛《わい》い女子大生」の顔をして見せる。
「うん。君、アルバイトをやる気はないかい?」
「どんなアルバイトかによりますけど」
「そりゃ当然だな――実はね、今度の学部長選挙のことなんだよ。知ってるかい?」
知香は何くわぬ顔で、
「そんなものがあるってことは知ってますけど」
「それなら大したもんだ」
と、安部は笑って言った。「僕は忙しくてね、充分に手伝いもできない。君に、ぜひ事務的なことを手伝ってほしいんだよ」
「大したこと、できませんけど」
「英文タイプができたね、君?」
「一応は」
「じゃ、充分さ。そんなに時間は取らせないよ」
「講義が終ってからでいいんですか?」
「もちろんさ。さぼってやれなんて、僕の口からは言えない。もっとも――」
と、安部はニヤリと笑って、「僕の講義を君が自主的に休んで、そのアルバイトに精を出しても、僕は欠席とはしない」
「話が分るんですね」
と、知香は持ち上げた。「で、先生、誰の応援をなさるんですか?」
「もちろん金山先生さ。僕にとっては恩師だからね」
「分りました」
「ただね……」
と、安部は顔をしかめると、「君、今、ここへ上って来る時、女の人とすれ違わなかった?」
知香は、ちょっと考えて見せ、
「ええ。誰だか知りませんけど、二四、五ぐらいの――」
「二八だ。金山先生と争ってる平田先生の奥さんなんだよ」
「へえ! 若いですね!」
「僕の教え子でね、彼女。僕にご主人の応援をしてくれと頼みに来た。困ったもんだよ」
どうして、訊かれもしないのに、こんなことを話すんだろう? 知香は、奇妙な印象を受けた。
「じゃ、お断りになったんですね」
「そうするしかないからね」
と、安部は肩をすくめた。「――じゃ、具体的な仕事の内容を説明しよう」
「あっ!」
と声を上げて、急にその女性はよろけた。
尾行していた良二は、ちょっと、どうしたものかと迷ったが、そばには人もいない。
裏手の、駐車場への道の途中だから、あまり学生も通らないのだ。だから、良二も用心して、少し距離を取って歩いていたのだった。
どうやら、足をねじって、足首を痛めたらしい。放っておくわけにもいかず、良二は、足を早めて彼女に追いつくと、
「大丈夫ですか?」
と、声をかけた。
「あ、悪いけど……。ちょっと手を貸して下さる? ――痛い!」
と、顔をしかめる。
「|捻《ねん》|挫《ざ》じゃありませんか? 保健室へ行った方が――」
「いいえ、大丈夫。車が駐車場に……。痛い……」
と、良二の肩につかまって歩き出したものの、かなり痛むようだ。
「やっぱり手当した方がいいですよ」
「そうね。じゃ、悪いけど、保健室まで……」
「すぐそこですから。おぶってあげましょうか」
「でも――」
「大丈夫ですよ。ほら、どうぞ」
「ありがとう……」
小柄なので、おぶってもそう重くはない。
良二は、誰にも見られないといいな、と思いながら、保健室の方へ歩き出した。
「あ、その入口から入った方が近いわ」
「そうですね。――よく知ってますね」
「ここの卒業生だもの」
「そうですか」
「あなた、何年生?」
「一年です」
「一年か。――一八?」
「一九です」
「一九。いいなあ、若くて」
良二は笑って、
「まだ若いでしょ」
「私? ――私はもうおばあさん」
と、いやに寂しげな調子で言った。
保健室へ運んで行って、そこの女医に任せると、
「あら、平田先生の奥さん」
やっぱりこれが平田千代子か。知香の勘は当ったわけだ、と良二は思った。
「じゃ、これで――」
と、良二は出て行こうとした。
あんまりここでぐずぐずしているのも妙なものだ。
「あ、待って」
と、平田千代子が言った。「あなた、名前は?」
「久保山です。久保山良二」
「久保山君ね……。どうも親切にありがとう」
「いいえ」
良二は保健室を出た。
やれやれ。――あれが安部の恋人?
あんな奴のどこがいいんだ、と良二は首をかしげたのだった。もちろん安部のことである。
平田千代子は、確かに、ちょっと男心をときめかせるような魅力を持っている。もちろん、知香とは比べものにはならないが。
しかし、二〇歳以上も年上の平田教授と結婚し、安部とも関係を続けているなんて……。どうなってるんだ?
「――ちょっと」
と、少し歩いたところで呼び止められた。
保健室の女医が、追いかけて来ている。
「何ですか?」
「ね、あなた悪いけど、今の人、送ってあげてくれない?」
「僕が?」
「平田教授の奥さんよ、若いけど」
「そりゃまあ……。でも、ちょっと用事が……。それに、車があるって」
「あの足じゃ、運転できないわよ。平田先生、今日は学会でいないし。自宅まで送ってあげてよ。私、あそこを空けられないの」
「はあ……」
「いいでしょ? タクシーを呼んで。平田先生、次の学部長かもしれないから、親切にしとくと、いいことあるわよ」
そんなの関係ないや、と良二は思ったが、しかし、成り行き上、断るわけにもいかなくなってしまった……。
「――悪かったわね」
と、タクシーの中で、平田千代子は言った。
「いいえ、別に……」
と、良二は、ややそっけなく答えた。
「急ぎの用事があったんでしょ?」
「できたらですけど……。クラブの用で。でもすぐ戻れば大丈夫です」
「このタクシーで戻って。料金は払っておくから」
それぐらいはしてもらっていいかな、と良二は思った。
ただ――この女性を尾行して、という知香の注文に、これで応じたことになってるんだろうか?
「私のこと、聞いた?」
「え?」
「平田教授の妻。――妙な気分よ」
と、千代子は窓の外へ目をやって、「大学院には、学生のころの知ってる人も残ってるわ。それでいて、私は教授夫人」
「平田先生には、ならってないんです」
と、良二は言った。「安部先生ですから、西洋史は」
「安部先生?」
千代子は、ちょっとドキッとしたように、良二を見た。「そう。――私も、あの先生のゼミにいたことあるわ」
タクシーは、やがて、広い邸宅の前に停った。
「|凄《すご》い家だな」
と、思わず|呟《つぶや》く。
「古いだけよ」
と、千代子は言った。「悪いけど、家まで支えて行ってくれる?」
「ええ、もちろん」
タクシーは門の前で待たせておいて、良二は、千代子に肩を貸して、屋敷の玄関へとゆっくり歩いて行った。
「――奥様、どうなさいました」
玄関の戸が開いて、初老の和服の女性が、急いで出て来る。
「捻挫したらしいの。この学生さんに、助けていただいて」
「まあ、それはどうも。じゃ、床をお敷きしましょう」
「ええ。――久保山君だったわね」
「はあ」
「ちょっと上って。せめてお茶一杯でも」
「いえ、僕、もう失礼しないと……」
「そう」
千代子の顔に、はっきり落胆の表情が浮かんだ。
――大学へ戻るタクシーの中で、良二は、平田千代子の、あの表情は、どういうことだろうと考えていた。
13 人質は一人
「おミソ汁は?」
と、知香が|訊《き》く。
「うん、もう一杯もらおうかな」
と、良二は、お|椀《わん》を空にして、「旨い! 僕は大体、ミソ汁って、そう好きじゃなかったんだ。でも君のは本当においしい」
「そう? あんまり|賞《ほ》められると、|却《かえ》って、皮肉言われてるみたい」
「何言ってんだよ」
「ご飯も、良かったらお代りして」
「うん、これ、食べちゃうから……。あ、和也の|奴《やつ》だ」
屋根裏部屋の上げ戸をトン、トン、と|叩《たた》く音。叩き方を決めておいたので、和也と、すぐに分る。
和也の方も、初めの内は、下から石を投げたり、大声で呼んだりしていたのだが、投げた石が、落ちて来て自分の頭に当ったり、大声で呼んでも二人が全然目を覚まさなかったり、ということがあって、今は長い棒を用意しておいて、その先で、天井をつつくことにしていた。
良二が、上げ戸を開け、はしごをおろしてやる。――和也が、よっこらしょ、と上って来て、
「おい、良二、悪いんだけどさ」
と、言いかけると、
「お邪魔しまあす」
と、和也に続いて、はしごを上って来たのは、小西紀子だった。
「あれ! おい、和也、お前――」
「ごめん! 彼女に問い詰められちゃってさあ」
と、和也が両手を合わせる。
「小泉君を怒らないで。私、生命にかえても秘密を守るから!」
「いいわよ」
と、知香が笑って、「紀子なら、大丈夫。歓迎するわ」
「手みやげに、手製のクッキー持って来てやった! ――わあ、凄い!」
初めて、屋根裏部屋の中を見回した紀子は、|唖《あ》|然《ぜん》とした……。
――若林知香と久保山良二の「屋根裏生活」も、もう三週間になって、後から後からの改良で、|大《だい》|分《ぶ》住いらしい体裁を整えていた。
ファンシーケースはもちろん、組立て式の食器棚、本棚から、テーブルと|椅《い》|子《す》、それに、二人が寝る場所は、薄いカーテンで囲ってあった。
加えて、カセット式のコンロで、前述の通り、ミソ汁も作れれば、お湯も沸かせるようになっていたのだ。
「屋根裏に隠れてる、って言うから、もっと|惨《みじ》めな生活してんのかと思ったわ。――これなら、私のアパートよりよっぽどましじゃない!」
「座ってよ。椅子は二つしかないけど、そこの箱にでも」
と、知香は笑って言った。「コーヒー、飲むでしょ。――これ食べちゃうまで、待っててくれる?」
「ごゆっくり」
紀子は、楽しげに、天井を眺めて、「ロマンチックねえ! 星を見て寝るわけか」
「強い雨が降ると、|洩《も》るんだよ」
と、良二が言った。「今度、何とかしようと思ってる」
「すっかり新婚家庭ね。――でも、その机とか椅子は、どうしたの?」
「これも組立て式。バラしてないと運んで来れないからね」
「俺も散々手伝わされた」
と、和也が言った。
「いいだろ。いつも昼飯、おごってやってるじゃないか」
「いばるな。昼飯ったって、百五十円の定食だぞ」
「――ともかく、今のところは無事ね」
知香は、食事が済むと、手早くテーブルの上を片付けて、コーヒーをいれた。
「ほう。本格的、コーヒーカップか」
と、和也が言った。
「やっぱり紙コップじゃ、おいしくないもんね。――はい、紀子」
「サンキュー。いいねえ。その内、一部屋貸してよ」
「アパートやってんじゃないわよ」
と、知香は笑って言った。
「ところで……。知香、どう、安部先生の手伝いは?」
「うん、どうってことないよ」
知香は肩をすくめて、「安部先生の秘書の|凄《すご》いおばさんと、やたら電話かけたり、手紙のタイプしたりするだけ」
「払いはどう?」
「そのおかげで、ここまで部屋らしくなったのよ」
「なるほどね」
紀子は|肯《うなず》いて、改めて周囲を見回し、「凄い!」
と、感嘆の声を上げた。
「――どうなんだい、学部長選挙の見通しは?」
と、良二は言った。
「今のところ、金山教授の方が優勢らしいわね。安部先生も、一応、金山教授を応援してるし」
と、紀子は言った。「でも、このままじゃ終らない、と見てるんだ、私は」
「どうして?」
と、知香が興味深げに訊く。
「平田教授がおとなし過ぎるの。却って無気味なのよ。大体、平田教授は策士で知られてる人なんだから」
「へえ」
良二は、ゆっくりとコーヒーを飲んで、「しかし、あの奥さん、あんまり幸せそうじゃなかったな……」
それに、知香と二人で、安部の研究室の前で立ち聞きした時、平田千代子は、
「約束が違うじゃないの!」
と、怒っていた。
「あなたは、どっちの味方なのよ」
とも――。
ということは、平田千代子と安部の間は、うまく行っていない、と見るべきだろう。
「きっと、平田教授、何かウルトラCを隠してるのよ」
と、紀子は肯いて見せた。
「――あ、そうだ。これ、夕刊」
と、和也が、新聞を渡す。
「ありがとう」
知香が、新聞代を小銭で払った。「――ここ、TVがないのが不便でね」
「ぜいたく言ってら」
と、和也は笑った。「いいじゃないか、却って静かだ」
「ねえ! 本当にすてき」
紀子はすっかり感激の|態《てい》である。
「あんまり足音たてられないから、スリッパを買って来ようと思ってるんだ。ねえ? ――おい、どうしたんだ、知香?」
知香が、やや青ざめて、固い表情になっていた。
「何でもないの」
「見せろよ」
知香が、黙って、社会面を開いて渡す。
〈前科二十犯の怪盗殺さる――仲間割れか〉
という見出し。
「これ……。君の……?」
知香が黙って肯く。
あの宍戸という男とは違っていたが、やはり泥棒のプロらしい。
「君の言ってた、笠間って奴の仕業かな」
「もちろんよ。――宍戸たちは、たとえ仲間割れしたって、殺したりしないわ」
良二は、知香が、自分と闘っているのを、見守っていることしかできなかった。
泥棒の仲間は捨てて、良二との暮しを選んだのは知香自身だが、やはり、かつての部下が殺されたとなると、心中|穏《おだ》やかではいられないのだろう。
「――俺たち、引き上げよう」
と、和也が、紀子を|促《うなが》した。
「そうね。じゃ、知香。また明日」
「うん」
――二人が下りて行き、上げ戸を閉じると、
「気になるんだろ?」
と、良二は言った。
「そうね……。でも、私はもう、親分でも何でもないもん」
「それでいいのかい?」
「いいのよ」
知香は迷いを振り捨てるように、良二に抱きついて来た。
「真直ぐ帰るのかい?」
と、キャンパスの中を歩きながら、和也が言った。
「どうでもいいけど……。もう夜よ」
「分ってるけどさ」
紀子は、ちょっといたずらっぽく笑って、
「少しなら、お付合いしてもいい。夜通しはだめだけど」
「よし! じゃ、ともかく、どこかへ出ようぜ」
和也がスキップしながら言った。
と――いきなり目の前に、ヌッと誰かが立ちはだかって、
「ワァッ!」
和也は飛び上りそうになった。
「お前だな」
と、その男は言った。「お嬢さんの恋人と仲の良かった奴は」
「あ、あの……宍戸さん、でしたっけ」
「そうだ。よく|憶《おぼ》えててくれたな」
「どういたしまして」
と、和也は笑顔を作って、「あの――一度見たら忘れられない、怖い――いえ、印象深い顔ですから、はい」
「お前の友だちは、どこにいる」
と、宍戸は言った。
「あの――良二のことですか? あいつ、ここんとこ、ずっとさぼってて……。しょうがない奴なんです。全く」
「いないのは知ってる。どこへ逃げた?」
「それは――」
「あらゆる駅や、ホテルを張らせた。深夜バスから、ヒッチハイクのトラックまで。――しかし、どこでもあの二人を見たって話はない。どこかにかくまってるんじゃないだろうな」
「ま、まさか」
「お前の所にいないのも分ってる。どこにいる?」
「知りません」
「そうか」
「本当ですよ……」
宍戸が、ぐいと和也の胸ぐらをつかむ。凄い力だ。和也は息が苦しくなって、目を白黒させた。
「いいか。――のんびりしてる暇はねえんだよ、こっちには。どこにいてもいい。三日以内に、連れて来い!」
「連れて、ったって……」
「もし、連れて来ない時は――」
宍戸が手を離すと、和也がドサッと地面に|尻《しり》もちをつく。
宍戸は、いつの間にかナイフを手にしていた。その刃が……紀子の鼻先に突きつけられる。
「あ、あの……私、関係ないんですけど」
と、紀子が震える声で言った。
「たまたまここにいたのが、不運だった」
「そうですね」
「三日以内に、こいつがお嬢さんと、あの若いのを連れて来なかったら――」
「ど、どうしようってんだよ」
と、和也が言った。
「この娘は生きてないぞ」
と、言うなり、宍戸は、紀子を、ヒョイとかつぎ上げた。
「お、下ろしてよ!」
「騒ぐな!」
ナイフが、目の前に。――紀子も、おとなしくせざるを得なかった。
「じゃ、まあ、頑張って捜せ」
宍戸が、のっそりと消えて行く。――和也は、メガネをかけ直して、
「大変だ!」
と、改めて青くなったのだった。
14 恋人の役回り
良二は、〈平田〉と札の出たドアの前で、ちょっと呼吸を整えた。
それからドアをノックする。――すぐに、
「どうぞ」
と、返事があった。
「失礼します」
良二が入って行くと、正面の奥の机に、平田教授がいた。
習っていないとはいえ、平田教授の顔ぐらいは良二も知っていたが、こうして近くで見るのは初めてだ。
「何か用かね?」
と、平田は、メガネを外した。
「あの――呼ばれて来ました。久保山ですけど」
と、おずおずと名乗ると、
「ああ、君が久保山君か」
平田の、不機嫌そうだった顔が、ふっと緩んで、笑みがこぼれた。「まあ、かけたまえ」
「はあ」
古びた|椅《い》|子《す》に腰をかける。
「今日、秘書が休みを取っていてね。この忙しい時に、困ったもんだよ、全く。お茶も出せなくて、すまんね」
「いいえ、そんな……」
「いつぞやは家内が困っている時に、助けてくれてありがとう」
「あ――いえ、とんでもない」
と、良二は急いで言った。「奥さん、大丈夫でしたか」
「うん。大したことはなかったんだよ。君によく礼を言っといてくれ、ということだった」
平田は、机の上の本を閉じると、「ところで――」
と、立ち上り、ゆっくりと窓際へと歩いて行った。
一体、何の用事で平田が呼んだのか、良二には見当もつかない。
「君……うちの家内を、どう思う」
と、平田が|訊《き》いた。
「はあ?」
良二は面食らった。
「会った印象だ。――どうだね。正直に言ってくれ」
平田の口調は、とらえどころがなかった。
「あの……とても若くて、可愛い方ですね」
「若い、か。確かにね」
平田は|肯《うなず》いて、「私よりも、むしろ君の方に近い年齢だ。よく、こんな年寄りと結婚した、と思ってるだろう」
「別に……。他人がそんなこと――」
「まあいい」
平田は、ゆっくりと良二の方へ歩いて来ると、
「学部長選挙が近付いてることは、君も知っているね」
「ええ」
「私も立候補している。しかし、相手の金山は、人脈作りのうまい男だ。私はそういうことが苦手でね」
「はあ」
「目下の情勢では、絶対的に、私が不利なんだよ」
どうして、こんな話を? 良二には分らなかった。
「しかし、私は勝ちたい。金山と私は、ほとんど年齢も違わないから、彼が学部長になれば、私の所へその椅子が回って来るチャンスは、まずない」
平田の口調は淡々としていた。「金山を数で破るのは難しい。となれば、金山が自分から、立候補を辞退するようにもって行くしかない」
「そんなことが――」
「もちろん、容易じゃないさ」
平田は、|微《ほほ》|笑《え》んで、「そこで、君の手を借りたいんだ」
「僕の……ですか」
良二は|呆《あっ》|気《け》に取られた。こんな一学生に何ができるというのだろう?
「金山が、立候補を辞退せざるを得ないような、スキャンダルを作り出すんだ」
「作り出す……。つまり――でっち上げるんですか」
「早く言えば、そうだ」
「そんなこと――」
「君の若い正義感が許さないだろうね。しかし、学部長に私がなれたら、もちろん君にとって、大きなメリットが生じる。加えて、かなりのこづかい稼ぎにもなる」
良二は、もちろん、やりたくはなかったが、平田が何を|企《たくら》んでいるのか、聞いてみたいと思った。
知香だって、きっと興味を持つだろう。
「――何をするんですか、僕は?」
と、良二が訊くと、平田はニヤリと笑った。
あんまり、品のいい笑いとは言えなかった……。
「何ですって?」
知香が、昼飯を食べる手を休めて、言った。
「僕にさ、奥さんと浮気しろ、って言うんだ。少しイカレてるよ、あの先生」
――学生食堂はもう|空《す》いて来ていた。
午後の講義が休講になったので、少し時間をずらして昼を食べることにしたのである。
「和也の奴、どうしたのかなあ」
と、ふと思い付いて、良二は言った。「休むなんて珍しいよ」
「ね、それより――」
と、知香は、良二をつついて、「平田教授の話は?」
「うん。そんな馬鹿なこと言い出したからさ、怒って帰って来ちゃったよ。当然だろ?」
「何だ」
知香が、何だか、がっかりしたような声を出す。
「だって……。当り前じゃないか」
「そりゃね、君の気持は分るわよ。ありがたいとも思うし。でも――その先まで話を聞いて来りゃ良かったのに」
「それじゃ、断れなくなっちゃうかもしれないだろ」
「それはそれ。何とでもなるわよ」
知香は、定食を食べながら、「――気になってるの」
「あのこと?」
「え? ――ああ、殺された部下のことね? そうじゃないの。あれはもう割り切るしかないもん」
と、知香は首を振った。「そうじゃなくて、あの、『先生を殺そう』って言葉の方」
「ああ、あれか」
良二は肯いて、「でも、誰も殺されてないじゃないか」
「うん。――これからかもしれない」
「これから?」
「学部長選挙が|絡《から》んでるんじゃないか、と思うのよ」
「まさか、人殺しまで――」
「しっ!」
と、知香がにらんで、「大きな声出さないのよ。いい? もし、誰かを殺す計画が進んでるとしたら、それを止められるのは、私たちだけなのよ」
「だからって、僕が平田教授の奥さんと浮気するのかい?」
「ともかく、教授の説明を聞くのよ。一体それでどうやって金山教授をスキャンダルに巻き込むのか」
「うん……。でも、どうしてもやるのかい?」
「やってみたら?」
「もし――」
「成り行きで、平田教授夫人と浮気しても、怒らないから」
「するもんか!」
と、良二は腹を立てて、言った。「絶対にしない!」
「気が変りました、って言うのよ」
と、知香は言って、ポンと良二の肩を|叩《たた》いた。
「行ってらっしゃい」
「分ったよ」
良二が、渋渋、平田教授の部屋へ向った後、知香はキャンパスの中を歩いて行った。
ちょっと気になっていたのは、小西紀子が今日、休んでいることだった。もちろん、休むことはあっても、小泉和也と一緒というのは……。
「でもねえ、まさか」
あの二人が?――ホテルかどこかに行ってるのかしら?
とても想像がつかなかった。
車の音がした。振り向くと、構内の駐車場から出て来たらしい、赤い小型の外国車が、走って来たのだが……。
見ていると、何だかガタゴト変な音をたてて、スピードが落ち、やがて停ってしまった。
どうしたのかしら?
見ていると、女が降りて来た。――知香はびっくりした。
平田千代子だ!
「全くもう!」
と、車に向って、「いやになっちゃうわね!」
と、文句を言うと、ドアをロックして、そのまま、歩いて行ってしまう。
「――置いてっちゃうのかしら」
|呆《あき》れて、知香は|呟《つぶや》いた。
平田千代子は、さっさと棟の中へ入って行く。
知香は、その車に近付いて、そっと中を|覗《のぞ》き込んだ。
「――あなた!」
平田千代子は、教授室のドアを開けるなり、言った。「車が急にエンコよ。何とかして!」
良二に気付いて、千代子は、
「あら、いつかの……。どうもありがとう、あの時は」
「いいえ」
と、良二は頭をかいて、「今、先生はちょっと出られてます」
「そう」
千代子は、入って来て、「ここはどの|椅《い》|子《す》にも座る気になれないわ」
と、言った。
「すぐ戻られると思いますけど」
千代子は、窓から外を眺めた。――そして、振り向くと、
「久保山君、だったわね」
「はい」
「今夜、私と会ってくれない?」
「え?」
「夫は出張よ、夕方から。――私と会って。ゆっくり話したいの」
千代子の目には、|妖《あや》しいような火が燃えていた……。
15 消えた車
「はあ、あの……」
と、良二は言った。「お食事ぐらいでしたら、お付合いさせていただいても……」
「まあ、|嬉《うれ》しいわ」
と、平田千代子は言って、ちょっとドアの方へ目をやると、「いいこと? このことは主人に内緒。分ってるわね?」
「はあ……」
もちろん、良二がどんなに|鈍《にぶ》いとしても(たとえば、の話である)、千代子の言い方を聞けば、夕食を一緒にするだけで終らないことははっきりしている。
しかし、良二は、当の千代子の夫、平田教授から、
「妻と浮気してくれ」
と、持ちかけられたばかりだ。
この奥さんは、|旦《だん》|那《な》の考えを知っていて、こっちを誘ってるんだろうか、と良二は首をかしげた。
たまたま、そんなことになった、なんて、少しできすぎてるような気もする。
「じゃ、今夜、私の家へ来てくれる? |憶《おぼ》えてるでしょ、場所は?」
「たぶん分ります」
「ただね、この間も言ったと思うけど、うちには、昔からのお手伝いさんがいるの。その人に見られると、主人に言いつけられると思うから、七時に、門の前で待っていてくれる?」
「門の前ですか」
「私、必ず七時ちょうどに家を出るようにするから。――どう?」
「分りました」
良二は気が進まなかった。しかし、何しろ「愛妻」の知香が、「行って来い」と言うのだから、どうしようもない。
それが、たとえ殺人を防ぐためだとしても、気が進まないことに変りはないのである。そこへ、ドアが開くと、当の平田が入って来た。
「あなた」
と、千代子が言った。
「何だ、来てたのか。――久保山君は知ってたな」
「もちろんよ。ねえ、車がエンコしちゃったの。何とかして」
「またか」
平田はため息をついて、「乗り方と手入れが悪いんだ。あれじゃ、いくらいい車を買っても同じだぞ」
文句を言ってはいるが、顔の方はちっとも怒っていない。
「そんなこと言ったって……」
と、千代子が口を|尖《とが》らすと、
「分った、分った」
と、平田は苦笑して、「どこに置いてあるんだ?」
「すぐそこに放ってあるわ」
「後で私が動かしておくよ。キーを貸せ」
「はい。お願いね。私、タクシーを拾って帰るから」
千代子は、机の上にポンとキーを投げ出して、「久保山君。じゃ、失礼するわ」
「さようなら」
と、良二は頭を下げた。
千代子が出て行くと、平田は席に落ちついて、
「あれが何か言ったかね?」
と、|訊《き》いた。
「あの――今夜会いたい、と」
「なるほど。で、君は?」
「その――つまり――」
と、良二はかなりためらってから、「やっぱり、その――お金は大切ですから」
平田は、それを聞くと、ニヤリと笑った。良二は、どうもこの笑いが好きになれない。
「気が変ったわけだね。大いに結構」
「でも――」
「何だね?」
「先生がご承知だってことを、奥さんはご承知なんですか?」
何だかややこしい話である。
「知っている必要はないさ」
と、平田は言った。「そうだろう? 夫が知らないからこそ、浮気なんだよ」
それも理屈だ。平田は内ポケットから札入れを取り出すと、一万円札を五枚出して、良二に手渡した。
「これは準備金だ。うまくいったら、充分に君が満足するだけのもの出すよ」
「どうも」
良二はその金をポケットへねじ込んだ。「でも、先生」
「まだ何か訊くことがあるのかね?」
「――一体、何をやるんですか?」
「心配することはない」
と、平田は言った。「君はただ、妻と浮気してくれれば、それでいいんだよ」
平田は、千代子の置いて行った車のキーを手にして立ち上ると、
「さて、ちょっと手伝ってくれるかね」
「はあ」
「何しろ、家内は車をエンストさせる名人でね」
と、平田は笑って、ドアを開けた。
だが――平田と良二が建物を出てみると、少し前に出たはずの千代子がぼんやりと突っ立っていたのだ。
「おい、どうした?」
と、平田が声をかける。
「あなた、車が――」
「どこだ? ないじゃないか」
「なくなっちゃったのよ」
「何だって?」
「そこに置いといたのに……。下りて来てみたら、影も形もないの」
「そんな馬鹿なことが……」
「だって本当にないのよ! 盗まれたんだわ!」
と、千代子は、ヒステリックに声を上げた。
「あら、久保山君」
と、声がすると、何と知香が何食わぬ顔でやって来た。「どうかしたの?」
「や、やあ」
良二は、ちょっと焦った。いきなり出て来んなよ!
「平田先生の――奥さんの車が、なくなっちゃったんだ」
「車が?」
「そうよ。ここに置いといたのに」
と、千代子が手で場所を示した。
「あの……もしかして、赤い、カッコいい車ですか?」
「そうよ! あなた、見た?」
「誰だかが乗って行きましたよ、今」
「何ですって?」
「そりゃおかしいな」
と、平田が言った。「車はエンコしてて、キーもここにあるんだ」
「先生ったら」
と、知香は笑って、「車のエンジンかけて盗むなんて、ちょっとした泥棒なら、いくらでもやりますよ」
「泥棒か! 畜生!」
「でも、走ってったの、つい今しがたですから。すぐ届けを出せば、見つかるかも」
「いや、むだだろう」
「じゃ、あなた、放っとくの?」
「いや、そうじゃない。しかし、今から一一〇番したって、非常線を張ってくれるわけじゃなし。届けは私が出しておくから、君はタクシーで帰っていたまえ」
「分ったわ」
と、千代子は肩をすくめて、「じゃ、久保山君。さよなら」
「さようなら」
良二は馬鹿ていねいに頭を下げた。
「君は、安部先生を手伝ってる子じゃないのかね?」
と、平田が知香を見て、言った。
「そうです。ただの雑用ですけど」
「そうか。ま、しっかりやってくれ」
平田は、良二の肩をポンと|叩《たた》くと、建物へ戻って行った。
「しっかりやれ、って、何の意味かな」
と、良二は言った。
「しっ! ともかく、このまま何気なく別れて、それから、うちの裏へ来て」
「うちの?」
「そう。――じゃ、後で」
知香は、さっさと歩いて行ってしまう。
良二は、ちょっと首をかしげて、それから別の方向へと歩いて行った。
――あまり人の通らない、建物の間の通路を歩いて行くと、良二は、足を止めた。
|傍《そば》の石の上に座り込んで、何事か考え込んでいるのは、何と小泉和也である。
「おい、和也」
と、良二が呼びかけると、和也は、ボケッとした様子で、
「良二! お前どうしたんだ?」
「どうした、って……。それはこっちが訊くセリフだぜ。てっきり休んでると思ってた」
「いや……休んでない」
「じゃ、どうして講義にも出なかったんだよ?」
「うん……。ちょっと、考えごとをしてたんだ」
「ふーん」
そりゃ、和也だってたまには(?)考えごともするだろうが……。「だけど、何だか、元気ないな」
「そうか?」
「ああ。――何かあったのか?」
「いや別に」
「もしかして――小西紀子と何かあったのか?」
良二がそう言うと、和也はパッと立ち上って、
「何もない! 彼女は関係ないんだ!」
と、怒鳴るように言って、駆けて行ってしまった。
良二は、|唖《あ》|然《ぜん》として、和也を見送っているばかりだった……。
――知香はもう先に来て、待っていた。
「何してたの? 迷子にでもなったのかと思ったわ」
「いや、今、和也の奴と会ってさ」
「小泉君?」
「何だか変なんだ、様子が」
良二の話に、知香はフーンと|肯《うなず》いたが、
「そりゃ小泉君だって年ごろだもの。色々悩むことだってあるでしょ」
「年ごろ、ねえ」
「それよりさ、こっちに来て」
と、知香は、良二の手を取って、大学の隅に少し残っている、雑木林の方へと連れて行く。
「何だよ?」
「いいから!」
木々の間を抜けて行くと、何だか、枯れた枝がこんもりと盛り上った所がある。
「何だい?」
「ちょっと枝をどけて見て」
「これを?」
良二は、枝を何本か持ち上げて、目を丸くした。
「おい、これ――」
「そう。平田夫人の車よ」
「だけど……。どうやって?」
「私が、もと何だったか忘れたの?」
そりゃそうだ。
「しかし……。こんなことしたら、泥棒だぜ」
何だか妙な言い方だった。
「でも、必要になりそうな気がしたのよ」
「車が?」
「平田先生との話、どうなったの?」
「うん……。あの奥さんの方から、誘われたんだ」
良二が詳しく話すと、知香は肯いて、
「やっぱりね。で、あなたは奥さんと二人で出かける。それを私がこの車で追っかける。――どう?」
「それなら安心だよ」
と、良二はホッとして、「でも――赤い車じゃ目立つな」
「ご心配なく」
知香は、車にかぶせた枝をパッパッと払い落とすと、「じゃ、出かけて来るわ」
と、さっさと車に乗り込んだ。
「どこに行くんだ?」
「車を塗りかえて来るの」
「夕方までに?」
「盗んだ車の色をすぐに変えてくれる所があるの。大丈夫よ、間に合うから。あなたは約束通り、平田夫人と会ってね。私のことは心配しないで」
「分った……」
と、言い終らない内に、知香は車で早々に木の間を抜けて、たちまち走り去ってしまった……。
「知香の奴――」
と、良二は思い付いて、|呟《つぶや》いた。「免許も持ってないのに……」
泥棒には、何でもできるのかもしれない。
――少々、良二は落ち込んでしまったのである。
16 ついに殺人
「いい気持ね!」
と、平田千代子は言った。
「そうですね……」
良二の声は、ともすれば、開けた窓から吹き込んで来る風に、かき消されてしまいそうだった。
「最高だわ!」
「でもスピードは最高でない方が……」
「え? 何か言った?」
「別に」
――千代子が、これほどスピード狂だとは、思ってもいなかったのである。
レンタカーだというのに、どう見ても制限速度の倍は出ている感じだ。
一体、知香の|奴《やつ》、本当について来てるんだろうか。
「後ろを気にしてるの?」
と訊かれて、良二は、あわてて、
「いえ――あの、白バイでもいると、まずいから」
「大丈夫! そういう点、私はね、ツイてるの。絶対捕まらないように生れついてるんだから」
と、千代子は|大《おお》|見《み》|得《え》を切った。
確かに、良二もそういう奴を知っている。年中、違法駐車とか、スピード違反、一方通行を逆に抜けたり、なんて無茶をやるくせに、捕まったことがない、という男がいる。
一方で、いつも|真《ま》|面《じ》|目《め》なのに、たまたまどうしようもなくて、五分間車を置いといたら、レッカーで持って行かれたとか……。
良二が、もし車を運転したら、きっと、後の方だろう。
「――どうだった?」
少しスピードが落ちて、普通の声でも聞こえるようになった。
「え?」
「夕ご飯。気に入った?」
「え、ええ、そりゃもう!」
良二なんか、まちがっても食べられない、高級フランス料理である。
「良かったわ! あそこ、通の間でも評判がいいのよ」
「素人にもいいです」
良二の言葉に、千代子は楽しげに笑った。――|大《だい》|分《ぶ》ワインが入っている。
飲酒運転で捕まったら、ただじゃすむまい、と思った。
良二は、道の矢印を見て、
「帰らないんですか?」
と、|訊《き》いた。
「当り前よ」
「じゃ、どこへ――」
「分ってるでしょ。――ホテル」
「でも……。ご主人がいるのに」
「いなきゃ、ホテルに行かなくたっていいんだわ」
「そりゃそうですね」
変なことに感心している。――頼むよ、知香、ちゃんとついて来てくれよ。
「いつものなじみの所があるの」
いつも? ――つまり、年中こんなこと、やってるわけだ。
「奥さん……」
「何も訊かないで」
と、千代子が遮って、「私たちが身の上を語り合ったって、どうなるってもんでもないでしょ?」
「そりゃまあ……」
「じゃ、ここはただ、楽しむことだけを考えましょ。――ヤッホー!」
ぐんとスピードが上る。良二は、危うく引っくり返りそうになった。
ドアを開けると――何だかほとんど冗談のような、派手な部屋だった。
「こんなにキンキラだから、じめじめしてなくていいのよ」
千代子は、ホッと息をついて、「じゃ、時間をむだにしないように」
いきなり抱きつかれて、良二は、危うく転びそうになった。
二人は、やたらにでかいベッドの上に、一緒に倒れ込んだ。
「あ、あの――」
と、良二は焦って、「ちょっと、その――シャワーを……」
「後でいいわよ」
「でも汗をかいて……」
「汗の|匂《にお》いって好き」
と、千代子はさっさと良二の服のボタンを外し始めた。
「あ、あの――でも、僕はサッパリしてる方がいいんです」
「そう? じゃ、早くしてね。待ってるから!」
「わ、分りました」
ひとまずホッとして、バスルームへ入ったものの……。
どうなるんだ? ――この後、千代子が一人でシャワーを浴びるのならともかく、良二だけ、ということになると、もし知香が来ても、ドアも開けてやれない。
といって――あの様子じゃ、千代子は、良二が出て来たとたんに食らいついて来そうである。
「参ったな……」
ともかく良二はシャワーを浴びることにした。ボケッとしていても仕方ない。
しかし――どうすりゃいいんだ?
本気で千代子の相手をする気にはとてもなれない。だからといって、ここまで来ておいて、
「気が変りました」
じゃ済まないだろうし……。
――シャワーをできるだけ長引かせていたら、のぼせてしまった。
|諦《あきら》めた良二は、バスローブを着て、恐る恐る、ドアを開けた……。
「――ワッ!」
目の前にヌッと誰かの顔が出たので、思わず声を上げる。
「――良かった!」
知香だったのだ。「そこにいたのね」
「君……」
「部屋が分んなくなって、手間取ったのよ、つい」
「だけど、助かったよ! どうしようかと思ってたんだ」
「服を着て」
「うん」
良二は急いで服を着て、バスルームから出た。
「急いで」
「でも――あの奥さんは?」
「遅かったのよ」
「遅かった?」
「見て」
知香が指さす。――床に、千代子がうつ伏せに倒れていた。
その首に、|紐《ひも》が巻きついていた。
良二は目を丸くした。
「これ……死んでるの?」
「もちろんよ」
そう言われても、とても現実とは思えない。
「でも――誰がやったんだ?」
「分らないわ」
と、知香は首を振った。「あなたがバスルームへ入って、私がここを見付けて来るまでの、ほんのわずかの間よ」
「でも……。僕には何も聞こえなかった」
「シャワーの音がしてりゃ、聞こえないわよ。早く!」
と、知香はせかした。
「どうするの?」
「逃げるのよ!」
「でも――」
「犯人はきっと、あなたを殺人犯に仕立てるつもりよ」
「僕を?」
「だから急いで! 警察が駆けつけて来るわ」
「わ、分った!」
二人は、部屋から飛び出して行った。
――間一髪というところだったろう。
知香の運転する車が、ホテル街を出ると、パトカーとすれ違った。
「あれかな?」
「たぶんね」
「――何てこった! どうして奥さんを殺したんだろう?」
「犯人が誰かにもよるわね」
「だって――平田先生だよ。決まってるじゃないか」
「そうかしら?」
「だって……」
「そう単純じゃなさそうよ、この事件は」
と、知香は言った。
「今だって、ちっとも単純じゃない」
良二は、思わずそう|呟《つぶや》いた。
それから、やっと気が付いた。夫人の車の色がいつしか黒に変っていたことに。
17 再び、知香親分
良二はバスルームから出て来ると、ベッドに腰をおろして、平田千代子の後ろ姿に声をかけた。
「奥さん」
――千代子は返事をしない。良二は、エヘン、と|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「ね、奥さん。やっぱりいけませんよ、ご主人に悪いし、僕にも恋人がいるんです。こういうことはしちゃいけないんですよ」
千代子は、少し頭を前に垂らして、眠ってでもいるかのように思える。
「――あの、奥さん。もうホテルには入ったけど、僕ら、何もしていないんですから……。このまま帰りましょうよ。ね?」
良二は、千代子の肩に、そっと手をのばした。――千代子が、ゆっくりと首を振って、言った。
「もう、手遅れよ」
「そんなことありませんよ。まだ間に合います」
「いいえ、もう手遅れよ」
と、くり返して振り向いた千代子は――白目をむいて、土気色の、|凄《すさ》まじい顔だった。
首には、深々と紐が食い込んでいる――。
「た、助けて!」
と、良二は飛び上って――逃げようとした。
だが、足が震えて、動けないのだ。千代子は、スッと立ち上って、
「さあ、楽しみましょうよ……」
と、言いながら、両手を良二の方へさしのべて、近付いて来る。
「や、やめて下さい! ね、あなたは――あなたは、死んでるんですよ!」
「それがどうしたっていうの? 死んだって、ちゃんと楽しめるわよ」
と、千代子は笑った。
良二は総毛立って、腰を抜かした。
「さあ――いらっしゃい」
千代子が、良二の上にかがみ込んで、手をのばし……。
「やめてくれ! 助けて!」
千代子の手が|頬《ほお》に触れた。氷のように冷たい。良二は悲鳴を上げた。
「良二君! しっかりして!」
「――助けて!」
パッと良二は起き上った。
「私よ! 大丈夫?」
知香が良二の腕をつかむ。
「ああ……」
ここは――屋根裏だ。そうだ。知香と二人で暮している屋根裏……。
「大丈夫?」
と、知香が言った。「|大《だい》|分《ぶ》うなされてたわ」
「ごめん……」
「汗、びっしょりよ」
「うん。――着替え、あったっけ」
「ある。もう乾いてるわ」
「いやな夢を見たよ。でも――」
良二は、ハッとして、「あれは本当だったのかな。平田千代子が殺されたのは……」
「本当よ。でも、もう大丈夫。ちゃんとここへ帰って来たんだから」
「そうか……。今、何時ごろだろう?」
知香は、目覚まし時計を手に取って、
「もうすぐ二時。――どうする? シャワーを浴びて来る?」
「そうだな。このままじゃ、気持悪い」
良二は頭を振った。
「じゃ、私も付合う」
「だって、君は別に汗かいてないだろ?」
「そうね」
知香は肯いて、ちょっと考えると、パジャマ代りのTシャツを脱いで、
「じゃ、私も少し汗をかこう」
と、良二の唇に唇を押し付けた……。
「――銭湯の帰りってムードね」
二人で交替にシャワーを浴びると、のんびり夜中の大学構内を歩いて来る。
「だけど――一体誰があの奥さんを殺したんだろうな」
と、良二は言った。
「そうね。問題の第一。あれが果して予定通りの犯行だったのかどうか」
「どういうこと?」
「平田先生としては、奥さんを殺す理由があるかしら? そしてあなたに罪を着せる、っていうのは少し単純すぎない?」
「うん……。何かよっぽどの動機があったんだろうな」
「それに、奥さんを殺して、あなたを犯人に仕立て上げたところで、学部長選に、プラスにはならないわ」
「そりゃそうだな。金山教授のスキャンダルをでっち上げるとか言ってたけど――」
「金山教授は全然関係ないものね」
「うーん。もしかして、奥さんが殺されたってことで同情票を……」
「普通の選挙とは違うのよ。それに、奥さんを他の男に取られてた、なんて、同情されるより馬鹿にされるのがオチ」
「そうか」
と、良二は|肯《うなず》いた。「じゃ、一体、何のために、僕と奥さんを浮気させようとしたのかな」
「それは、朝になれば分ると思うわ」
「どうして?」
「TVのニュースか、新聞を見れば、平田教授が、警察にあなたのことを話したかどうか、はっきりするでしょ」
「なるほど。だけどいやだなあ。あの奥さんを殺した、とか言われて捕まるなんて」
「でも当分は大丈夫よ。あの屋根裏には捜しに来ないわ」
「それもそうだな」
「明日は起こさないから、ゆっくり寝てね」
と、知香は良二の腕を取って、やさしく言った。
「どうして?」
「ノコノコ講義に出てって、捕まっちゃ困るでしょ」
「あ、そうか」
「だから、私が、ともかくニュースを見て、状況を――」
と、言いかけて、知香は足を止めた。
二人の行手を|遮《さえぎ》るように、ヌッと立っていたのは、あの宍戸という男だった。
「お嬢さん」
「宍戸さん……」
「お迎えに参りました」
「でも、私は――」
背後に足音。振り向くと、やはり元の子分が三人、立っている。
そして、その後ろに、小さくなって立っていたのは、小泉和也だった。
「和也! お前――」
「すまん!」
と、和也は、地面にペタッと座り込むと、頭を下げた。
「待って」
と、和也の方へ駆け寄って来たのは、小西紀子だった。
「紀子! どうしたの?」
「小泉君のこと、怒らないで。私がこの連中に捕まっちゃったのよ。知香たちの居場所をしゃべらないと、私のこと、手ごめにしてやる、って言われて、小泉君――」
「分ったわ」
と、知香は肯いて、「宍戸さん、ずいぶんあくどいやり方ね」
「すいません」
宍戸は、アッサリと謝って、「他に方法がなかったんでさ。急を要したんです」
「それにしても――」
「もちろん、その女の子にゃ、指一本ふれてません」
「荷物みたいにかついだじゃないの」
と、紀子は抗議したものの、「ま、でも、親切にはしてくれたわ」
と、認めた。
「お嬢さん」
「分ったわ。宍戸さん。二人で話しましょうよ」
「はい」
知香は、宍戸を促して、良二たちから離れた場所まで歩いて来ると、
「――私にどうしろって言うの?」
「状況は……」
「知ってるわ。笠間の方が、攻勢を?」
「|闇《やみ》うちですよ」
と宍戸は、渋い顔で首を振った。「|卑怯《ひきょう》な奴らだ! 正々堂々とやって来りゃ、負けやしねえんですが」
「そんな時代じゃなくなったのよ」
「全くで」
宍戸は、ため息をついた。「泥棒が、暴力団と同じになっちまった」
まあ、普通の人間から見りゃ、そう違うようにも見えないかもしれないが、当人たちにとっては大違いなのである。
「お嬢さん。どうか戻って下さい」
「宍戸さん――」
「やっぱり、お嬢さんは、みんなの団結の『核』みたいなもんです。お嬢さんがいねえと、どこへ集まっていいものやら分らねえ」
「私なんて、大して力もないわ」
「いや、とんでもない!」
と、宍戸は力強く首を振って、「お嬢さんが戻られりゃ、笠間の奴も、二の足を踏みますよ」
「今でも、そんな力があるかしら」
「あります!」
知香は、少し考え込んでいたが、
「もし――戻ったとして、どうするつもりなの?」
「話し合いをしたいと思います。無用な血は流したくない」
知香は、宍戸を見て、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「良かったわ。あなたがそう言ってくれて。力しかない、って言うんじゃないかと思ってたの」
「向うはそのつもりかもしれません」
「ええ、そうね」
と、知香は肯いた。「警戒だけはしておかないと」
「武器も集めてあります。万が一のためですが」
「そう。――分ったわ」
と、知香は肯いた。
「戻っていただけますか?」
宍戸が目を輝かせる。
「ええ。でも、条件があるの」
「何でしょう? 朝ご飯にはミソ汁をつけるとか?」
「何を言ってんの。私の夫のことよ」
「オット? オットセイですか」
「私は、あの人と暮してるの。あの人に手は出さないで」
「そりゃ、もちろん」
「それと、この一件が片付いたら、私は戻るわ、あの人のところに」
「――分りました」
「その時は邪魔しないで」
「お嬢さん。何でしたら、あのオットセイもこみで、戻られたら?」
「あの人に危ない真似は――」
と言いかけて、「そうね……」
何やら思い付いた様子。
「ね、宍戸さん」
「はあ」
「今、本部はどうしてるの?」
「捜してるところです。今の所は、いつ笠間の手の連中が襲って来るかもしれないもんで」
「そうね。でも、どこへ移しても、すぐに分っちゃうでしょ」
「それが悩みの種でして」
「ね、いい所があるの」
と、知香は宍戸の肩をポンと|叩《たた》いて、言った。
18 小部屋の話
良二は、ウーンと|呻《うめ》いて、目を覚ました。
何で、こんなに体が痛いんだ?
頭を振って起き上ると……。ん? 何だ、これ?
左右を見回して、良二はギョッとした。何だか人相のあまり良くない男たちが、少なくとも七、八人、眠りこけている。
一瞬、どこに泊ってたっけ、と考えてから思い出した。
そうだ。ゆうべ……。
「おはようございます」
と声がして、顔を上げると、宍戸がヌッと立っている。
「ど、どうも……」
「お嬢様がお待ちです」
「はあ」
いつもの屋根裏だが、昨日まで二人だけの城だったのに、今や――何人いるんだろう?
知香の主だった子分たちが、みんなここへ引越して来たのだ。
朝までに全員をここへ上げるのは、大仕事だった。
「――おはよう」
と、知香が、いつものテーブルで待っていて、キスしてくれる。
「今、何時だろう?」
「十一時。もちろん、お昼よ」
「音をたてて、大丈夫?」
「大丈夫。今日はここ、クラブがないの」
知香は、良二にコーヒーを注いだ。「宍戸さん」
「はあ」
「二人きりの時間なの。あっちへ行っててよ」
「かしこまりました」
「カーテン、引いといてね」
良二は、トーストをかじりながら、
「ゆうべの引越しは大変だったね」
と、言った。「それに――あ、そうだ! あの事件は?」
「それが妙なのよ」
と、知香は首を振った。
「というと?」
「TVも新聞も、まるで取り上げていないのよ」
「まさか!」
「本当よ」
と、知香は、良二に新聞を渡した。
なるほど、社会面を開いても、それらしい記事はない。
「どういうことだろう?」
「まだ発見されてないってことは考えられるわ。あのパトカーが、全然、別の事件で来たんだとすれば。でも、TVでもやってないってことは……」
「こんな時間で、まだ?」
「ホテルの人がのんびりしていて、起こしていないか、それとも――」
「それとも?」
「何かの事情で、警察が公表を押えているか、よ」
「そんなこと、あるのかい?」
「もちろんよ。――待って」
知香は、立ち上ると、「宍戸さん、ちょっと来て」
「何か?」
「ゆうべ話したこと、憶えてるでしょ?」
「殺しの件ですね」
「そう。――ね、警察の方から、情報を集めてみてよ」
「分りました。じゃ、二、三、心当りを当ってみましょう」
泥棒が、警察に情報源を持っているというのも、妙なものだ。
良二は、すっかり感心してしまっていた。
「そうだわ、それより……」
と、知香が、何か思い付いた様子で、「ね、宍戸さん。こうしましょう」
と、言った……。
〈|覗《のぞ》き部屋〉だと? フン、下らん!
米田警部は、|軽《けい》|蔑《べつ》の目で、その看板を眺めた。
どうせろくでもない女が、面白くもない裸をチラッと見せて、はいおしまい、ってなもんだ。いつもそうだからな。
米田は、しかし、しばらくそれを見て、ためらっていた。
呼出しがあったのは、確かに、この店の前である。しかし、時間はまだ|大《だい》|分《ぶ》早かった。
だとすれば――周囲の様子を探っておくのも、警官としては、必要かもしれない。
「うん、これも任務だ」
と、自分に言い聞かせるように肯きながら言って、その〈覗き部屋〉と書かれた入口から中へ入って行った。
「毎度どうも」
と、声をかけられ、米田は|仏頂面《ぶっちょうづら》で、
「俺は初めてだ」
と、言い返したりした……。
金を払って、開いているドアを開けた。
腰をおろすと、もう身動きできない感じの小さな部屋。そこに、小さな窓がついていて、今は閉じている。
米田は、それでも何となく落ちつかない気分で、エヘンと|咳《せき》|払《ばら》いしたり、意味もなく、左右を見回したりしていたが――何も見えやしないのである――その内、コトッと音がして、窓が開いた。
「――警部さん」
と呼ばれて、びっくりした。
「ん?」
窓の向うで、見たことのある顔が、笑っている。米田は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「あ! ――若林知香!」
「いらっしゃいませ」
と、知香はいたずらっぽく言った。「残念ですけど、ヌードは見せられませんの」
「おい! そこを動くな! 今――今――」
ドアを開けて、飛び出そうとしたが……。「ドアが――畜生! どうなってるんだ!」
「開かないわよ」
と、知香が言った。
「何だと?」
米田は|愕《がく》|然《ぜん》として、「じゃ、ここへ閉じ込めるつもりだったのか!」
「あら、入って来たのは、そっちの勝手でしょう」
米田も、そう言われると弱い。
「うむ……。しかし、これはずるい!」
知香は笑って、
「私は、お話があって、来てもらったのよ。こんな風でないと、ゆっくり話もできないしね」
「何だ、一体?」
「一つは、笠間たちのこと」
「こっちの知ったことか」
「笠間たちがのさばったら、もっともっと凶悪な事件がふえるわよ。――もちろん、これは私たちの問題だけど」
「笠間は、なかなか抜け目のない|奴《やつ》だ」
と、米田は言った。「用心するんだな。大物とつながっているという|噂《うわさ》だ」
「大物?」
「それが誰かは知らん。しかし、かなり、政界の上の方の誰かだってことだ」
「政界の……。そうか、それであんなに強気なのか」
と、知香は|肯《うなず》いた。
「お前じゃ、とても相手にならんぞ」
「心配してくれるの?」
「お前が殺されちゃ可哀そうだ、と思ってるだけだ」
「ありがとう。結構やさしいんだ」
「何を言うか! この手でお前に手錠をかけてやるぞ」
「その時が来たらね。――もう一つ、訊きたいんだけど」
「何だ?」
「昨日、〈K〉ってラブホテルで、女が殺されたでしょ」
「何だと?」
米田が目をむいた。
「そういう話、入ってない?」
「うむ……。確かに、そんなことは聞いたが……。しかし、あれは――」
「報道してない。どうして?」
米田は、知香の顔を|覗《のぞ》き込んで、
「どうしてそんなことを、お前が知ってるんだ?」
と、言った。
「わけがあってね。ね、教えてよ、どうしてなの?」
「うむ……。よくは知らん」
と、米田が目をそらした。
「どうして隠すの? 死体の身許だって、分ってるんでしょ? 平田千代子だって」
米田は、ため息をついて、
「そこまで知ってるのか」
「どうして公表しないの?」
「事情があるからだ」
「どんな?」
「言えん」
知香は、しばらく間を置いて、
「もしかして……警官がやったんじゃないか、とか?」
「そんなことは――言えん!」
米田は、ますます渋い顔になった。
「そこまで言ったら同じよ。教えてよ。ねえ?」
米田は、しばらくして肩をすくめ、
「いつまでも伏せちゃおけんしな……。いいだろう」
と、言った。「女と付合っていた男の名が出たところで、ストップがかかったんだ」
「どうして? 男って誰?」
「うむ。――お前の通っていた大学の、金山という教授だ」
金山が、平田千代子と? 知香はびっくりした。
「でも――金山先生だと、何で警察がまずいの?」
「金山教授というのは、今の警察庁の金山長官の弟なんだ」
「長官の……」
知香は肯いた。
金山と平田千代子。――果して本当に、二人は関係があったんだろうか?
そう。それとも、平田教授がそう言ったのか。
「――ありがと、米田さん」
と、知香は言った。「バイトの女の子のヌードでも見る?」
「いいから、出してくれ」
「五分したら、そのドアが開くわ」
知香はニッコリ笑って、「バイバイ」
と手を振り、窓を閉めたのだった……。
19 知香と二人の男
「金山教授が、長官の弟ね」
と、良二は、知香の話を聞いて、|肯《うなず》いた。「それじゃ、公にしないわけだ」
「問題は、金山教授と平田千代子の間に、本当に関係があったのかどうか、ってことよ」
知香は歩きながら言った。
二人は、米田警部を閉じ込めた〈覗き部屋〉の裏を抜けて、何だかゴミゴミした細い道を通っていた。
「――ここ、どこへ出るんだい?」
と、良二は|訊《き》いた。
「区役所の裏」
「へえ」
「この辺、遊びに来たことないの?」
と、知香に訊かれて、良二はムッとしたように、
「ない!」
と、答えた。
「そうむきになんないでよ」
知香は言って、「私たちみたいな仕事は、こういう裏通りに詳しくないと、命取りだから」
「それはそうかもしれないな」
「――金山先生と平田千代子か。あり得ないことじゃないけどね」
「確かめられるかな」
「本人に訊くしかないわね」
と、知香は言った。
「平田教授は?」
「昨日は、あの先生、出張だったはずよ」
言われて、良二も思い出した。だから、平田千代子が、良二を誘ってきたのだ。
「出張してたって、もちろん近くなら、車を飛ばして帰って来ることもできるけど。差し当りは、金山先生に直接当ってみたいわ」
「でも、警察が当然調べてんじゃないの?」
「もちろん、直接訊いたって、本当のことなんて言うわけないじゃない。当るっていうのは、見張るってこと」
「なるほどね」
「妙なのは、良二君のことなのよね」
「僕の?」
「そう。一向にあなたの名前が出ないでしょ」
「出ない方がいいよ」
「そりゃそうだけど、何のために、平田先生があなたを奥さんとホテルへ行かせたのか……。面白いと思わない?」
――良二はもちろん、知香のことを心から愛しているが、それでも、「殺人事件」のことを、「面白い」という神経にはなかなかついて行けなかった……。
二人は、道というより、|隙《すき》|間《ま》、といった方が近いような、細い露地を抜けようとして、向うから、男が二人、やって来るのと出くわしてしまった。
サングラスをかけた、白いスーツの、見るからにヤクザという二人組である。
「おい、邪魔だぜ」
と、一人が知香へ言った。「|退《さ》がりな」
「女性に道を譲るのが礼儀よ」
と、知香が言い返す。
この度胸も、良二のついて行けないものの一つである。
「おい、退がろうよ」
と、知香の手を引張る。
「いいのよ」
と、知香は別に気負ってる様子もなく、「向うが譲って当然だわ」
「だけど――」
「あっ!」
もう一人の方が、知香の顔を指さして、「こいつ! 若林の娘だ!」
と、叫んだ。
「それがどうかした?」
「――そうか。そりゃいい所で会った」
と、男たちが|上《うわ》|衣《ぎ》の内側へ手を入れる。
知香は、ドン、と良二を後ろへ突き飛ばした。良二は、
「ワッ!」
と一声、みごとに引っくり返る。
同時に、知香の体が宙に飛んで、サッとのびた右足が、相手の胸を直撃した。
何しろ狭い道である。一人がのけぞって倒れると、もう一人も一緒に転んでしまう。
そっちのお腹の上に、知香はドシンと着地したのである。
「グッ!」
と、変な声を出して、のびてしまう。
胸をけられた方も完全にダウン。――アッという間に、二人の男がのされていたのである。
「――ね、けがはない?」
知香が、立ち上った良二に訊く。訊き手が逆だ。
「ああ……」
良二は|唖《あ》|然《ぜん》として、「君――|凄《すご》いね」
「商売柄よ」
と、知香は言って、男たちの内ポケットを探った。「こんな物、忍ばせて」
一人は刃渡り二十センチもある短刀。もう一人の方は――。
「こりゃ凄いや」
と、知香は、銀色の小型ピストルを手にして言った。
「本物かい?」
「当り前よ。――いただいとこう」
「おい――」
「大丈夫よ。知らない人が見りゃ、モデルガン」
「うん……。まあ、いいけどさ」
と、良二はやや不安げに言った。「夫婦ゲンカの時に、それを持ち出さないでくれよね……」
「馬鹿ね」
知香はのんびり良二にキスなどしている。
それから知香は、男たちのポケットを探った。
「何してんの?」
良二は気が気じゃない。「早く行こうよ……」
「何か大切なものでも持ってるかもしれないわ」
知香は男たちの札入れを抜いて、「後でゆっくり見るわ。――行きましょ」
と、良二を促した。
「うん……」
良二は、のびている二人をまたいで通りながら、
「失礼します」
と、|呟《つぶや》いていたのだった。
「遅くなって、すみません」
知香は、安部の部屋へ入って、言った。
「いや、構わないよ」
安部は、ちょうど講義から戻ったところらしい。
「やれやれ。――くたびれた」
と、|椅《い》|子《す》に腰をおろして、息をつく。
「先生。コーヒーでもいれましょうか」
と、知香が言った。
「頼む。すまんね。その棚の中にある」
「はい」
――知香は、手早くコーヒーをいれて(もちろん自分の分も)、一緒に飲みながら、
「何があったんですか」
と訊いた。
安部が、チラッと知香を見て、
「どうしてだね?」
「何だか、事務の人とか、先生方、朝から落ちつかないみたいだから」
安部は、ちょっと間を置いて、
「――君はなかなか、いい勘をしてるね」
と、言った。
「そんなことないです。みんな言ってますよ」
「実は――ちょっと不幸な事故があってね」
「事故? どなたか亡くなったんですか」
安部はゆっくりと|肯《うなず》いた。
「――先生ですか?」
「いや、そうじゃない。しかし……学部長選挙に、微妙な影響が出て来るだろう」
「まさか……金山先生とか、平田先生……。でも、まだそんなお|年《とし》じゃないですものね」
安部が、少し声を低くして、
「これは絶対に内緒だよ」
と、言った。
「はい! 誓います」
「平田先生の奥さん。――君も知ってるだろ?」
「ここへ来た時、すれ違った方でしょ」
「そうだ。彼女が殺された」
「エーッ!」
知香は、一般の女子大生風に、びっくりして見せた。「殺された?」
「しっ! おい、君――」
「す、すみません。でも――どうして?」
と、突然、声のトーンを落とす辺り、役者である。
「よく分らないんだよ。しかしね――発見されたのは、ラブホテルだったってことだ」
知香はホーッと息をついて、
「信じらんない!」
「そんなわけで大騒ぎさ」
と、安部は首を振って言った。「平田千代子は、僕の教え子だったからね。実に残念だよ」
「そうですねえ。じゃ、一緒にいた男が犯人?」
「可能性は高いだろうね」
「まさか安部先生じゃ……」
と、知香はおどけてにらんでやった。
「おいおい。――僕よりずっと若い男だったらしいよ」
「じゃ、誰でしょう?」
「どうも、ここの学生じゃないかと思うんだがね」
「学生?」
「そう。おかしくはないさ。彼女はまだ二八だからね」
「へえ。――うちの学生が」
と、知香は肯いて言った。
「その内、刑事が君たちの所にも、聞き込みに行くかもしれないね」
「そうなったら、面白いなあ。あることないこと、どんどんしゃべっちゃおう!」
「かなわないね、君たちの世代には」
と、安部は苦笑した。
「でも、それじゃ平田先生、学部長選挙どころじゃないんじゃありませんか?」
「しかし、辞退もしていない。ま、別といえば別だからね」
「そりゃそうですけど……」
「しかし、ともかく事件の真相がはっきりするまでは、少なくとも選挙運動はできないだろうね。――君も、また声をかけるから、それまではお休みだ」
「なあんだ。楽しかったのに」
「もちろん、来たきゃ、いつでも拒まないけどね」
「危ないな。安部先生はプレイボーイだから」
笑って言って、知香は、「じゃ、また来てみます」
と、立ち上った。
「ああ。そうしてくれ」
安部は、ドアの所へ行った知香へ、「若林君」
と、声をかけた。
「はい?」
「本当に、いつでも来たければ構わないんだよ」
明らかに、「男としての誘い」だった。
知香はニッコリ笑って、
「もう少しテストが近くなってから、考えますわ」
と、言って、部屋を出た……。
廊下を少し行くと、小西紀子が立っていた。
「どう?」
「うん。こっそり打ち明けてくれたわよ」
と、知香は言った。「学内では?」
「まだ、みんな知らないようよ」
「そう。――安部先生は、私に、内緒だよ、って言ったけど、あれは要するに、知れ渡ってほしいのよ」
「どうして?」
「分らない。でも、確かだわ。そんな話を聞いて、内緒にしておける子がいると思う?」
「絶対に思わない」
「じゃ、早速、安部先生の期待通りにしようじゃないの」
「しゃべり回るの?」
小西紀子は目を輝かして、「それなら、任せて!」
と、胸を|叩《たた》いた。
20 写真の女
「じゃ、親分」
と、宍戸が知香の所へ来て、言った。「晩飯の買出しに行って参ります」
「目立たないようにしてね」
と、知香は言った。「あ、そうだ。ちょっと待って」
と、財布を出し、
「このお金、使って。笠間のとこの子分から巻き上げたの」
「へ?」
宍戸が目を丸くしている。
――ここはもちろんマンション「屋根裏荘」である。紀子がこう名付けたのだった。
「|俺《おれ》たちも一緒に食べていいのかな」
と、和也が、ニヤニヤしながら言った。
「どうせ、その気だろ」
「うん。まあな」
和也と紀子も一緒である。――どうやら、紀子が宍戸にさらわれるという出来事以来、この二人、恋人同士というムードなのである。
何が幸いするか分らないものだ。
宍戸が子分を何人か引きつれて弁当の買出しに行っている間、知香は、レポートなどを書いて、しっかり学生していた。
「――そうだ」
ふと思い付いて、あののして来た二人からいただいた財布をあける。お金は宍戸に渡したが、他にも何か入っているらしい。
「――レンタルビデオの会員券。それから、クラブの割引券か。大したもん、入ってないわね」
「宝くじぐらい、ないの?」
と、紀子が|覗《のぞ》きに来た。
「残念ながらね。――あら、女の写真」
と、知香は見て、すぐに投げ出そうとしたが……。
「どうかしたの?」
と、紀子が言った。
「これ……。ね、良二君!」
「何だい?」
「見て! あの財布に入ってたの」
良二はその写真を見て、
「どこかで会ったことあるな」
と言って――。「あ! これ、例の……」
と、目をみはった。
「どうしたんだ?」
と、和也もやって来た。「そんなにいい女?」
「違うよ! これは殺された平田千代子だぜ!」
「間違いないわ」
知香は肯いて、「でも、なぜこの写真が、こんな所に……」
「ファンだったんじゃないのか?」
「スターのブロマイドじゃねえぞ。――変だな。たまたま持ってたなんてこと……」
「待って」
と、知香は言った。「もし――この写真が、顔を確かめるためのものだったら」
「顔を?」
「そう。――殺す相手の」
良二は、目を丸くして、
「つまり、その笠間って奴のところで、あの平田千代子殺しを請け負ってた、ってわけか!」
「充分にあり得るわよ」
と、知香は言った。「もしそうなら、犯人は当然その時間、絶対に確実なアリバイを用意するわ。そのために、他の人間に頼むんだから」
「そりゃそうだな」
「たとえば――」
「たとえば、出張か」
「じゃ、平田先生が?」
と、紀子が言った。
「ね、紀子。平田千代子と金山先生って|噂《うわさ》、どう?」
「全然。誰もそんな話、知らないわ」
紀子は、学内の情報には実によく通じているのだ。
「事務の人にもそれとなく訊いてみたけど、全然」
「すると、金山先生の線は、やっぱり平田先生から出たと見た方がいいわね」
「でも、平田先生がなぜ?」
知香は、それには答えず、写真を、ちょっと不安げに眺めている。
「――何か心配なのかい?」
と、良二は言った。
「え? ――うん。こんなことを頼むには、大変なお金がかかるのよ」
「そりゃそうだろうな、人殺しをやらせるんだから」
「つまり、誰が依頼したにしろ、その人にはその大金を払って、なお充分なメリットがあるってことよ。そんなに得をする人間……」
知香は、ゆっくりと首を振った。
「やっぱり平田先生しかいないよ」
と、和也が言った。「確か、あの奥さんの実家、相当の金持だぜ」
「でも、奥さん自身が財産を持ってなきゃ平田先生には何の利益もないわ」
と、知香は言って、「ね、紀子。その辺のこと、誰かに当ってみてよ」
「OK。任せて!」
と、紀子はウインクした。
「おい」
と、和也が紀子をつつく。
「何よ?」
「ウインクは俺以外の|奴《やつ》にするなよ」
――一瞬、間を置いて、ドッと笑いが起こった……。
宍戸がどっさり弁当を買い込んで来たので、屋根裏は時ならぬ宴会気分。
もちろんアルコールは抜きだし、そう大騒ぎはできないが。
「――宍戸さん」
と、知香は、食事を終ると、言った。「子分を二人くらい貸して」
「何にお使いで?」
「ちょっと出かけて来たいの」
「じゃ、私がお供しますよ」
「悪いわね」
「とんでもねえ」
「おい、知香、どこに行くんだい?」
と、良二が声をかけた。
「金山先生の家よ。どうしても会って来なくちゃ」
「僕も行くよ」
「そう? でも……。危ないかもよ」
「僕は男だ!」
と、良二は胸を張った。
宍戸がニヤリと笑った。
「――この家よ」
と、知香は、足を止めた。「宍戸さん、刑事がいないか、見て来て」
「分りました」
宍戸の姿が、スッと暗がりの中へと消えて行く。
さすがに身のこなしは素早く、なめらかだ。
「――もし、笠間の子分が、この事件に|絡《から》んでるとしたら、一挙に解決できるかもしれないわね」
「一挙におしまい、ってことにならなきゃいいけど」
「心配性ね」
と、知香がやさしく良二の肩に頭をのせて言ったが……。
人殺しだの、泥棒同士の殺し合いだの、ってやってるのに、心配しないでいられるか!
良二は、そう叫びたかった……。
「戻って来たわ」
と、知香は言ったが、良二の目には一向に見えない。
「どこに?」
キョロキョロしていると、いきなり目の前に、ヌッと宍戸が現われたので、良二は、飛び上りそうになった。
「親分、様子が変です」
「どうしたの?」
「刑事が二人、やられてます」
「やられてる?」
「殴られて。こりゃ、何かありますよ」
知香は、明りの|点《つ》いた家の方へ、目をやった。
「――やばいですよ。戻りましょう」
「家の中を見て来なきゃ」
と、知香は言った。
「それじゃ、私が――」
「いえ、宍戸さんは表で見張っていて」
と、知香は言った。「私一人で行って来るから」
「僕もいるんだよ」
と、良二は主張したのだった……。
知香と良二は、金山教授宅の門から入ると、庭の方へ回った。
「――立派な家だな」
「でも、静かすぎるわ。人っ子一人、いないみたい」
「中へ入れる?」
「もちろん」
と、あっさり言って、知香は庭へ出るガラス戸の方へと近付いて行った。
「――開いてるわ」
「大丈夫かい?」
居間だった。明りが点いたままだ。
「何かあったんだ」
と、良二は言った。
居間の中は、ひどく荒らされていた。テーブルが引っくり返り、置物も|砕《くだ》けている。
「いやな予感がする」
と、知香が言った時、
「その通りだ!」
と、声がした。
「――米田警部!」
知香と良二が仰天したのも当然だった。
米田が、入口の所で、|拳銃《けんじゅう》を手に立っている。しかし――額からは血が流れ、今にも倒れそうなのだ。
「どうしたの?」
「寄るな! 逮捕する! 貴様らを現行犯……で逮捕……」
と、言いかけると、そのまま米田は倒れて気を失ってしまったようだった。
21 屋根裏の居候
「あれま」
と、良二は言った。
この場には、ややふさわしくない言葉だったかもしれない。
しかし、刑事が血を流して倒れてるっていうのは、少なくとも状況としてはあまり普通でない。
刑事というのは、血を流して倒れてる人間を見下ろして、首をかしげたり、手帳に何か書いたりしているものなのに。
知香は、倒れた米田警部の方へ駆け寄ると、手首の脈を取った。
「――死んでる?」
と、良二はこわごわ|訊《き》いた。
「生きてるわ。相当な石頭ね」
と、知香は妙なことに感心している。
「そうか。でも良かったね」
「それにしても――ただごとじゃないわ」
居間の中の、ひどく荒らされた様子を見て、知香は言った。「中を調べましょう」
良二としては、あまり気は進まなかったのだが、ここで帰ろうとも言えず、知香について行った。
「――何もないね」
良二はホッとしながら言った。
「そうね。でも、金山先生はどこに行ったのかしら?」
「出かけてんじゃないの」
「こんなに周囲を刑事が固めてるのに?」
と、知香は首を振って、「どこかおかしいわ――その戸は?」
「物置か何かだろ」
良二は、ガラッと戸を開けた。「別に何も――」
目の前に、金山教授がぶら下っていた。
首を|吊《つ》っているのだ。
「わ……」
と言ったきり、良二はヘナヘナとその場に座り込んでしまった。
「やっぱりね」
と、知香が|肯《うなず》く。「こんなことじゃないかと思ったのよ」
「そ、そう?」
「今さら、どうしようもないわ」
と、知香は首を振って、「さ、行きましょう」
「う、うん……。ちょっと待って」
良二は、やっとこ立ち上った。
「大丈夫?」
「うん……」
知香の手前、何とか頑張ったものの、そうでなきゃ、気絶していたかもしれない。
「――米田さんも|可《か》|哀《わい》そうに」
と、知香は、米田を見下ろして、「どうしようかしら」
「救急車でも呼んであげれば?」
「そうねえ……」
知香は、しばらく考えてから、「――いいわ。良二君、表の宍戸さんを呼んでくれない?」
「ここへ? どうすんの」
「ちょっと荷物を運んでもらうのよ」
と、知香は言った。
「うーん……」
と、米田が|唸《うな》った。
「こりゃなかなかいい声だ」
と、聞いていた宍戸が言った。「|浪花《なにわ》|節《ぶし》にゃ、向いてますぜ」
「|呑《のん》|気《き》なこと言って。――傷は?」
「大したことありませんよ」
|他《ひ》|人《と》のことだと思って、宍戸は呑気なものである。「命にゃ別状ないだろうし、頭の中身の方はもともと大したことないだろうし」
ドッと笑い声が上った。
ん? ――何だか、えらくにぎやかだな。
米田は、うっすらと目をあけて……。
「天国か、ここは?」
と、|呟《つぶや》いた。
また周囲がドッとわく。
「――どう、ご気分は?」
と、知香が顔を出すと、米田はやっと目が完全に覚めたようで、
「お前か? ――何をしてるんだ!」
と、怒鳴って、あわてて顔をしかめ、「イテテ……」
「しばらく動かない方がいいわよ」
と、知香は言った。「頭の傷、結構ひどいみたいだから」
「ああ……」
米田はそっと頭に手をやって、包帯が巻いてあるのを知った。
「どう? なかなか慣れたもんでしょ」
「誰が……やったんだ?」
「宍戸さん」
「任せときな」
と、宍戸がニヤリと笑って、「|俺《おれ》は、麻酔なしでけがの手当をするのが得意なんだ」
「お前か……」
米田は、情ない顔で、「わざとひどくやったんじゃないだろうな」
「それはないわよ」
と、知香がムッとしたように、「気に入らなきゃ、窓から放り出すわよ」
「わ、分った。やめてくれ」
米田はあわてて言った。「いや――手当してくれたことは礼を言う」
しかし……。米田は周囲を見回して、
「どこだ、ここは?」
「ペントハウス」
「何?」
「特別マンション、ってとこかな。ま、病院の前に放り投げといても良かったんだけどね。それじゃ、ちょっと可哀そうかな、と思って。長い付合いだし」
米田は、
「ともかく俺は、捜査本部へ行かなければ……」
と、起き上ろうとして、「いてっ!」
と、悲鳴を上げた。
「静かにしてよ」
と、知香は顔をしかめた。「このマンションはね、絶対に騒音をたてちゃいけないの!」
「俺がいつ騒音をたてた!」
「あなたは、普通にしてても騒音なの」
二人のやりとりを聞いていた良二は、思わず吹き出してしまった。
「――ともかく、今動くと、傷口が開くよ」
と、宍戸が言った。「しばらくおとなしくしてるんだな」
米田は、渋々という様子だったが、ムスッとしたまま、腕を組んだ。
「――はい、熱いスープ」
と、知香が持って行くと、
「いらん!」
プイとそっぽを向く。とたんにお腹がグーッと鳴った……。
「――あの家で何があったの?」
と、知香は、米田がスープをきれいに飲み、買って来た弁当を二つも平らげるのを見て|呆《あき》れながら言った。
「うむ……。金山の所へ我々は出向いて行った。例の平田千代子殺しの件で、事情を聞きに行ったのだ」
「外に刑事を置いて?」
「逃走する心配があった」
「金山先生が?」
「情報が入っていたのだ。金山が、ブラジル行きの航空券を手配しているとな」
「へえ。その情報はどこから?」
「そりゃ知らん。ともかくこっちは逃げられちゃいかんというので、あの家へ急行した」
「それで部下を外に待たせて?」
「私は一人だけ部下を連れて、入って行った……。もちろんチャイムも鳴らしたが、返事がなかったのだ」
「それで?」
「上り込んで、中を手分けして捜し始めた。すると、銃声がして――」
「銃声?」
「そうだ。いや――たぶん銃声だと思う」
「頼りないのね」
「仕方ないだろう。家の中だ。違う部屋にいたから、よく分らんのだ」
「ま、いいわよ。それで?」
「急いで、もう一人の刑事を捜した。だが返事もなく、どこにいるのかも分らん。そして表の部下にも、銃声は聞こえたはずなのに、誰もやって来ん。こりゃ何かあるな、と思って――」
「逃げ出した?」
「何を言うか! 逃げようと思ったことは思ったが、やはり思い止まったのだ」
正直な男である。
「誰に殴られたの?」
「分ってりゃ、苦労はせん」
と、米田は渋い顔で言った。「居間の方で物音がしたのだ。それで|覗《のぞ》いてみようと近付いて行くと、後ろからいきなり――」
「ポカン、ね。じゃ、犯人の姿は全然見てないんだ」
「金山だろう。追いつめられて、やみくもに暴れて逃げたのだ」
知香と良二は顔を見合わせた。――なるほど、今の話の通りなら、米田は何も知らないことになる。
「あのね、金山先生は死んだのよ」
「何だと?」
米田は目をむいた。――知香の話を聞くと、
「――そうか。俺を殴って、殺したと思い、罪の深さにおののいて、死を選んだ。どうだ、これで?」
「こじつけよ。外の部下まで殴られてたのが説明できないじゃないの」
「うむ、そうか……」
「金山先生は殺されたのよ」
「誰に?」
知香は、ちょっと間を置いて、
「たぶん――笠間の手の男に」
と、言った。
「知香」
と、良二は言った。
「――うん?」
「いいのかい、米田警部をこんな所に置いといてさ」
「そうねえ……。いびきがあんなにうるさいとは思わなかったわ」
「いや……。まあそれもあるけど」
夜。――みんな寝静まっている。
二人きりの〈愛の巣〉だったこの天井裏も、何だかどこかのクラブの合宿所みたいになってしまった。
「――ね」
と、知香が言った。「ちょっと散歩でもしましょうか」
「いいね」
良二は早速起き上った。
こうツーカーと来るところが、良二のいいところなのである。
二人して、そっと天井裏から下りると、下の廊下に、宍戸が立っていた。
「何してるの?」
と、知香が言った。
「見張りです」
「まあ。他の人にやらせればいいじゃないの」
「いえ、自分でやった方が、気が楽ですからね」
と、宍戸は笑って言った。「どちらへお出かけで?」
「夫と散歩」
と、知香は良二の腕を取った。
「お気を付けて」
と、宍戸はニヤリと笑って、頭を下げた。
――夜の大学構内は、もちろん相変らず静かである。
「どうなっちゃうのかなあ」
と、良二は言った。
「何が?」
「もちろん殺人事件さ。それに、君の方の、例の笠間とかって|奴《やつ》……」
「よく分らないけど……。何だかぼんやりと形が見えて来たような気がするのよね」
「形って?」
「事件の。安部先生がどう絡んでるのか、とかいったことも……」
「そう」
良二には、さっぱり見当もつかない。
「――誰か来るわ」
と、知香が言った。
例によって、良二には全然足音は聞こえないのである。知香は緊張して耳をすましていたのだが……。
やがて、ホッと息をついて、
「何だ。小泉君だわ」
その時になっても、良二には足音が聞こえない!
しかし、実際、やがて和也が息を切らしながら、やって来るのが見えた。
「――良かった! ここにいたのか」
「何だ、どうしたんだよ?」
と、良二は|訊《き》いた。
「いや、大変なんだ……」
和也は息を切らして、「ホテルでラジオをつけてたら――」
「ホテルで?」
「あ……あの、つまりだ、そりゃ別だけど、この話とは」
「紀子と一緒ね? まあ」
と、知香が笑って言った。
「と、ともかくニュースを聞いたんだ」
「金山先生のこと?」
「そりゃ知ってたけどさ。――警察じゃ、あの米田って警部が姿をくらましていて、怪しいって発表してるぜ」
良二と知香は思わず同時に、
「まさか!」
と、言っていた。
実によく気が合うのである。
「本当だ。あの警部が、金山とグルだったとか、そんなこと言ってた」
知香は首を振って、
「警察って、お互いに信頼してないのね」
と、|呟《つぶや》いたのだった。「泥棒の方がましだわ」
22 可愛い女子大生
ひたすら|真《ま》|面《じ》|目《め》に職務を果して来た人間ほど、裏切られた時のショックは大きいものである。
もちろん、泥棒たちの親分として、組織を率いて来た知香は、その辺の心理をよく理解している。だから米田警部にも、充分に気をつかって、
「落ちついて聞いてね」
と、優しく肩に手までかけて――もっとも、良二ににらまれて、すぐ離したのだが――やったのだった。
さらに、
「人間、真面目にやってれば、たとえ一時的に誤解されることはあっても、きっといつかは、みんな分ってくれるものよ」
と、元泥棒としては少々妙な慰め方もしたのである。
しかし、いきなりそう言われても、米田が面食らうばかりだったのも当然で、かつ知香の話を、笑って真に受けなかったのも、また当然のことだった……。
米田の顔色が変ったのは、ポータブルのラジオが、やっとニュースの時間になってからである。
映画とかTVドラマの中だと、特にサスペンス物の場合、いつでもラジオやTVはちょうどニュースの時間になっているが、現実にはなかなかそううまくニュースをやってくれるものではない。
知香も、米田に「米田自身に関する」ニュースを聞かせるまで、一時間以上、演歌だのアイドルのポップスを聞いていなくてはならなかったのだ……。
「――米田警部は大学教授夫人、平田千代子さんが殺害された事件で、容疑がかけられていることを、金山に知らせて謝礼を受け取ったのではないか、との観測が有力です」
と、アナウンサーは言っていた。「しかし、金山が自殺、何らかの形で、米田のことを告発したので、米田としては逃亡せざるを得なくなったもの、と当局では見ています」
ニュースを聞きながら、米田の口は、段々開きつつあった。
「ね、落ちついて」
と、知香が言ったのも、およそ耳に入っていないようである。
「現職警官が、殺人事件のもみ消しを図り、逃亡するという|前《ぜん》|代《だい》|未《み》|聞《もん》の不祥事に、警察庁では頭を痛めており――」
「|俺《おれ》の方がよっぽど頭が痛い」
と、米田が割合にまともな言葉を吐いた。
「――本日付で、米田警部を免職にすることを決めました。では次のニュース……」
カチッとスイッチを押してラジオを消すと知香は、
「元気出して。人生、長い間にはこんなこともあるわよ」
と、慰めた。
泥棒が刑事を慰める、というのも、何だか妙な光景ではある。
しかし、米田は意外にさばさばした表情で、
「ふん、免職か!」
と、肩をすくめ、「気楽でいいや。どうせそろそろ辞めたいと思ってたんだ」
「そうよ。その調子」
「全く、馬鹿にしてる。いくら真面目に働いても、ろくに出世もできん。月給は少なく、休みも少なく、上役の文句だけは多い」
「そうそう」
「誰が、そんな所で働いてやるか! 頼まれたって、断る!」
「その意気!」
「見ていろ! 今に警視総監が、俺の前に両手をついて、『俺が悪かった! どうか戻って来てくれ!』と|詫《わ》びるんだ。その時、目の前で、持って来た菓子をけとばしてやる」
「その調子!」
「見てろ! 俺は……俺は……」
とたんに米田の顔が|歪《ゆが》んで、「情ない! 何のために俺は……」
と、泣き出してしまう。
やれやれ、と知香は、良二と和也の二人の方を見て、首を振ったのだった……。
「結局ね」
と、知香は言った。「|鍵《かぎ》は安部先生にあるのよ」
「同感」
と、紀子が|肯《うなず》く。「どう考えたって、あの金山先生と平田千代子が関係あったなんて、思えない」
「でも、警察はどう思ってるんだ」
と、和也が言った。
もちろん、良二も一緒に、学生食堂で昼食を取っているところである。
良二も別に指名手配されたわけでもなし、こうして食堂へやって来たのだが。
「どうしたもんかな」
と、良二は首を振って、「平田千代子のことも、例の笠間って連中のことも……。頭が痛いな」
頭は痛くても、食欲には何の変化もないらしい。
知香も、ランチをきれいにたいらげて、
「でもね、私、|却《かえ》っていい機会だと思う」
「いい機会?」
「もし、平田先生が、奥さん殺しを笠間に依頼したとしたら、その証拠さえあがれば、笠間をその罪で|潰《つぶ》せるんですもの」
「なるほど。殺人犯は見付かるし。――一石二鳥か」
と、良二が感心している。
「そのためにはどうすればいいか、考えるのよ」
「しかし、もう殺人は金山先生のやったこと、って決めつけてるしな」
と、和也が言った。
「それを引っくり返すの」
と、知香は少し声を低くした。「いい? |一《いっ》|旦《たん》しずまっちゃった水面を波立てるには、誰かがかき回すしかないのよ」
「誰が?」
と、訊いた良二を、知香がじっと見つめる。
「――おい、僕が?」
「そう。平田千代子が本当は誰とホテルにいたか、知っているのはあなただけよ」
「君だって知ってる」
「馬鹿ね。平田先生が、そう思ってる、ってことじゃないの」
「そりゃまあ……」
「先生としては、あなたにしゃべられては困るはずよ。もちろん普通ならしゃべらないでしょ。かかわり合うのがいやだってね。でも、良二がギャンブル狂で、お金がほしいと思ってたら――」
「僕はギャンブルなんて嫌いだ」
「分ってるって。平田先生に、そう思わせるの。そして、黙っているから、金をよこせって」
「じゃ、まるで恐喝じゃないか?」
「そうよ。恐喝だもん」
と、知香は肯いた。
「いやだよ、僕はそんなことするの」
と、良二は言い張った。「今まで真面目な人生を歩いて来たのに……」
「オーバーねえ」
と、紀子が|呆《あき》れて言った。「犯人を引っかける手じゃないの」
「分ってるけど……」
「いやなものを、夫に無理にはやらせないわ、私」
と、知香が言ったので、良二はホッとして、
「そうだよ。何でも無理はよくない」
「私がやるわ」
良二は、目をパチクリさせて、
「何をやるんだ」
「私が平田先生を誘惑して、白状させるわ」
良二が目をむいた。
「ゆ、誘惑するってね、君――」
「だって、仕方ないじゃないの。もしかしたら成り行きで平田先生に抱かれることになるかも――」
「だめだよ、そんなの!」
紀子が面白がって、
「じゃ、久保山君が抱かれたら?」
「よせやい。そんな趣味ないぜ」
と、良二はため息をついて、「分ったよ。――僕が平田先生をゆすりゃいいんだな」
「やってくれる? さすがは私の夫」
と、知香がニッコリ笑って、良二はへへへと頭をかいたりする。
「しまんねえ|奴《やつ》」
と、和也が|呟《つぶや》いたが、なに、自分だって紀子に、
「これ、和也の好物でしょ。ハイ、アーンして」
なんて食べさせてもらったりしているのだから、えらそうなことを言えたもんじゃないのだ。
「紀子の方にも、やってほしいことがあるのよ」
と、知香は言った。「安部先生の方を頼むわ」
「安部先生を誘惑するの?」
「おい――」
と、今度は和也が青くなる。
「安部先生と平田先生が組んでるのは、まず間違いないと思うのよね。その証拠を何とかして手に入れたいの」
「だけど」
と、良二が言った。「安部先生の部屋に、平田千代子がいた時、『あなたはどっちの味方なのよ』って怒ってたじゃないか」
「そう。――あれがよく分らないのよ」
と、知香は考え込んだ。「平田千代子の方は、何も知らされていなかったのかもしれないわね」
「私、何とか考えてみるわ」
と、紀子が言った。
「誘惑するのはやめろよ」
と、和也が念を押す。
「はいはい」
と、紀子は笑いをかみ殺した。「――ほら、|噂《うわさ》をすれば」
安部が食堂へ入って来て、空席を捜している様子。
「呼ぶ?」
と、紀子が言った。
「待って」
と、知香が止める。「見て」
安部の後から、男が二人入って来た。一人は平田だ。
「平田先生! 奥さん亡くしたばっかりなのに――」
と、紀子が呆れたように言った。
「シッ、聞こえるぜ」
と、和也があわてて言った。
確かに、紀子の声は大きいのである。
「もう一人は誰だろう?」
と、良二は言った。
「知らない顔ね」
安部が、どうやら席を見付けて、平田と、もう一人の男を案内して行く。
良二たちとは|大《だい》|分《ぶ》離れたテーブルへついてしまった。
「どこかの重役ってタイプだね」
と、紀子が分ったような口をきく。
「そうね。着てるものもいいし」
知香の方はさすがに商売(?)を感じさせる発言である。「――ちょっと、そばへ行ってくるわ」
「危なくないか?」
「危ないのはもともとでしょ」
と、知香は立ち上ってから、「そうだ、良二も来て」
「僕も? でも平田先生がいるよ」
「だから都合いいんじゃないの! さ、早く!」
知香は、良二の手を引張って、テーブルの間を足早に進んで行く。
「――いや、とてもいい敷地ですよ」
と、重役風の男が言っているのが耳に入った。
「お話し中、すみません」
と、知香が声をかけた。
「やあ、若林君か」
と、安部が笑顔で言った。
「お仕事のお話なんでしょ。すみません。また出直します」
「いや、いいよ。何だい?」
「あの……」
と、知香は少し照れて見せ、「私、今度、久保山君と結婚することになったんです」
「ほう」
安部は、ややオーバーに驚いて、「そりゃおめでとう。いや、やっぱり可愛い子というのは、みんな、放っておかないものだな」
と、笑った。
平田は良二を見て、ちょっとギクリとしたが、すぐに素知らぬ顔に戻った。
「あ、平田先生」
と、知香は、初めて気付いたように、「すみません、気が付かなくて。奥様のこと、本当にお気の毒でした」
「いや……。ありがとう」
と、平田は目を伏せて見せる。
「すみません、こんなお話をしたりして。安部先生に、ぜひ式に出て、|一《ひと》|言《こと》お願いしたいと思ったものですから」
「いや、そりゃ|嬉《うれ》しいね。喜んでやらせてもらうよ。日取りが決まったら、早目に知らせてくれたまえ」
「はい! ありがとうございます」
と、知香は頭を下げた。「お邪魔してすみませんでした」
「いやいや。良かったら、一緒に座らないか?」
「でも――」
「構わないよ。実はね、こちらの方はN建設の常務さんだ」
なるほど、N建設といえば、誰でも名前を知っている大手だ。その常務なら、「重役風」でも当り前である。
「――常務の|柳《やな》|井《い》です」
と、そつなく|挨《あい》|拶《さつ》する。
「初めまして。――わあ、|凄《すご》い! ね、久保山君、ほら、売り込んどいたら? 就職の時、プラスになるかもしれないわよ」
知香の言葉を聞いて、柳井という常務、愉快そうに笑った。
良二は、いかにも「明るい女子大生」をみごとに演じている知香に、すっかり舌を巻いていた。
俺、きっと一生知香の|尻《しり》に敷かれるんだろうな、と良二は思った。――それは、でもなかなか悪くない予想でもあった……。
23 危ないシャワールーム
「へえ、それじゃ、学部を建て直すんですか」
と、知香は言った。
「そう。それで、こちらの柳井さんに、色々とお力になっていただいてるわけさ」
と、安部は|肯《うなず》いて言った。
――良二と知香は、ちゃっかり安部たちのテーブルに加わって、コーヒーを飲んでいた。
食堂はもう大分|空《す》き始めていて、紀子たちも先に出てしまっていた。
「いや、これは大きな仕事ですからな」
柳井は、ゆったりと|椅《い》|子《す》にかけている。
かなり太った男で、食堂の安物の椅子では、体重を支えるのが、|辛《つら》そうだ。
「じゃ、きれいになるでしょうね。残念だなあ! きれいになってから、また入り直そうかしら」
と、知香は悔しそうに言った。
「そうしても構わないよ、僕は」
と、安部が笑って、「それまで留年するかい?」
「いいですね。でも、子連れ学生になりそうだわ」
「いや、若い方ってのは、いいですね」
と、柳井は|微《ほほ》|笑《え》んで、「みなさんのご意見も充分にうかがって、設計したいと思っていますのでね」
――良二は、ほとんど口を開かずに、話を聞いているだけだったが、しかし、どうも妙だと思っていた。
確かに、最近の大学の郊外移転の流行には、この大学は大分先がけている。
だから、建物にしても、そう新しいとは言えない。しかし、建て直すというほど古いとも思えないのである。
もちろん、新しくてきれいで便利になるのなら、学生は喜ぶだろうが……。
しかし、建て直すとなれば、|莫《ばく》|大《だい》な費用がかかることぐらい、良二にだって分る。
そんなお金、あるのかな。良二は首をかしげた。
「そう」
と、知香は肯いた。「あなたに、ゆすりをやってもらわなくても、いいみたい。はっきりして来たわね、これで」
「何が?」
良二は、知香の方を見た。
――いつもの「屋根裏荘」である。
夜になって、宍戸を始めとする子分たちは、外へ出ていた。笠間との争いに決着をつけるために、その支度をしているのである。
二人で残った知香と良二は、はしごを上げて、久しぶりにのんびりと二人で――というわけだ。
「動機よ」
と、知香は、毛布を引張って、裸の胸を隠しながら、「この学部の建て直し。|凄《すご》い大金が動くわ」
「それは僕にも分るけどな」
「当然、うまいことやれば、学部長の|懐《ふところ》にも、かなりのこづかいが転がり込む。そう思わない?」
「うん。――じゃ、今度の事件に、それが関わってる、っていうのかい?」
「紀子が当ってくれてるわ。学部の建て直しなんて、大きな問題ですものね。先生たちの間で、かなり話題になってるはずよ」
「すると、金山先生と平田先生が、それに賛成と反対で対立して――」
「反対してたわけじゃないと思うわ。ただ、問題はどっちが学部長になって、建設の主導権を取るか」
「なるほどね」
と、良二は肯いた。「金が|絡《から》んでるのか」
「世の中、たいていのことはそうよ――」
と、知香は言って、「愛情以外はね」
と、良二にキスした。
良二は知香を抱きしめて……。
ここで映画なら暗くなるところだが、活字ではそうもいかない。まあ「……」で済ませることにして……。
「――あの警部さん、どうしたんだ?」
と、良二が言った。
「落ち込んじゃってたから、宍戸さんが連れてったみたい。何かしてた方が、気が紛れるでしょ」
刑事が泥棒に気をつかわれてるってのも、妙なもんだ、と良二はおかしかった。
「ね、シャワーを浴びて来ましょうか」
と、知香が起き上った。
「OK」
良二も異議はない。
――二人が、外へ出ると、いつもながらに大学の中は静かなものである。
「お先にどうぞ」
シャワールームの前まで来ると、知香は言った。「私、少し考えごとをしたいの」
「そう? それじゃ」
良二は先にシャワールームへ入って、熱いシャワーを浴びた。
出て来ると、知香が階段に腰をおろして、考え込んでいる。
「――君の番だよ」
「うん」
知香は、立ち上って、「髪を洗うから、少し時間がかかるわよ」
「ああ、分った」
良二は、知香が入って行くと、ドアを閉めて、大きく伸びをした。
中から、やがてシャワーの音が聞こえて来る。良二は、知香と同じように、階段に腰をおろして、息をついた。
静かなもんだ。――誰もいないと、物音も人の声も……。
良二は、|欠伸《あくび》をした。
後ろで、小石の鳴る音がした。振り向こうとすると、冷たい物が、首筋に押し当てられた。
「動くなよ」
と、低い声が言った。「一発でお前の頭は吹っ飛ぶぜ」
銃口だ。――良二はスーッと血の気がひいて行くのを感じた。
「立て。そっとだ」
ゆっくり立ち上ると、ザワザワと音がして、どこにいたのかと思うほどの男たちが、顔を見せた。
五人、六人――いや、後ろの男を入れると七人だ。
「こいつが、あの娘の恋人ですよ」
と、後ろの男が言った。
声に聞き|憶《おぼ》えがある。――あの男だ。知香が、あの細い道でやっつけてしまった男……。
「なるほど。鈍そうな奴だ」
失礼なことを言って、ゆっくり進み出て来たのは、黒い背広の、五〇がらみの男だった。
「俺のことは、若林の娘から聞いてるだろう。笠間というんだ」
笠間……。この男が!
「大分捜したぜ」
と、笠間が言った。「あの娘には、こっちも骨を折らされたからな。ゆっくり礼をしてやらなきゃいけないんだ」
――シャワーの音が聞こえている。
いくら知香でも、シャワーを浴びている所を襲われたら、どうにもならないだろう。
畜生! 何のために見張ってたんだ!
良二は歯ぎしりをした。
「こいつを押えとけ」
と、笠間が言った。
良二は二人の男に両腕をつかまれ、口の中へハンカチを丸めて押し込まれてしまった。声も上げられない。
「――俺が引きずり出して来ます」
と、あの男が言った。「この前の礼をしてやらなきゃ」
「いいだろう」
と、笠間は肯いた。「どうせ裸だ。そいつの前で、|可《か》|愛《わい》がってやれ」
良二は、何とかして知香に危険を知らせたかった。しかし――|呻《うめ》き声を上げたぐらいで、シャワーを浴びている知香に聞こえるわけがない。
笠間という男は一見してヤクザ風ではない。
むしろ実直なビジネスマンという印象で、それが|却《かえ》って冷ややかな、気味の悪さを感じさせている。
あの男が、|拳銃《けんじゅう》を手に、シャワールームのドアを開け、中へ入って行く……。
良二は、必死で手を振り離そうとしたがとても不可能だった。
知香! 危いぞ!
と、突然。
「ワーッ!」
と、叫び声が上った。
だが、それは、知香の声ではなく、入って行った男の声だったのだ。
24 捨て身の知香
男の叫び声が途切れた。
「おい! どうした!」
笠間が怒鳴った。
二人の男に押えつけられて動けない良二の方も、何が起こったのか、さっぱり分らなかった。
てっきり、知香の悲鳴が聞こえて来るものと覚悟していたのだ。
シャワールームのドアは半開きになったままだった。
「おい! 返事をしろ!」
笠間がもう一度怒鳴ると……。
ドアがスッと開いて、笠間の手下の男がフラッと現われた。
「どうしたんだ? あの娘は?」
笠間の問いに答えることはできなかった。男は、その場にバッタリと倒れてしまったのである。
一人が駆け寄って、倒れた男の方へかがみ込む。
「――親分」
と、顔を上げて、「死んでます」
「何だと? そんな馬鹿な!」
笠間の顔が真赤になった。
みんなが|唖《あ》|然《ぜん》としている。――チャンスだった!
つかんでいる手の力が抜けた。良二は、
「エイッ!」
と、思い切り、一方の男の足を踏みつけ、続いて、左外側の男の腹へ、|肘《ひじ》鉄砲をくわした。
全く用心していない相手には、効き目充分だった。
「ワッ!」
「いてて……」
二人とも、良二から手を放してしまった。
良二は二人を突き飛ばしておいて、必死で駆け出したのだった。
「逃がすな!」
笠間の声が飛ぶ。
笠間の手下が三人、良二を追って駆け出した。
良二は大学の構内を夢中で駆けた。もちろん、逃げ出したわけで、知香のことを見捨てたように見えそうだが、実際にはそうではない。
あの男が逆にやられたことで、知香が、どんな方法でか分らないが、敵がいることを察し、巧みに逆襲したのは確かだった。そうなれば、むしろ良二が下手に手を出すのは、却って知香の行動を邪魔するようなものだ。
良二としては、ともかく、笠間の手下に捕まらないようにするのが第一だった。
その点、何といっても、大学の中なら、勝手が分っている。良二は、わざと建物の一つを通り抜けたり、二階へ上ると見せて、階段のわきへ回ったり、あの手、この手で、追いかけて来る三人を振り切ろうとした。
一方、良二に逃げられた笠間の方はすっかり頭に来て、
「畜生!」
と、靴で地面をけっとばしている。
「靴がいたむわよ」
背後で声がした。
笠間が振り向きかけると、
「動くと頭を撃ち抜くわよ」
と、知香の声。「そこで亡くなってる|奴《やつ》の拳銃をいただいてあるんだから」
「こいつ――」
手下の一人が向って行こうとした。
鋭い銃声が鳴り渡って、その男が足を押えて、転がった。
「――分った?」
「分った」
笠間は|肯《うなず》いた。
「手下たちに、離れるように言いなさい」
「おい、|退《さ》がれ」
笠間は、ちょっと息をついて、「しかしな、お前一人じゃ、|俺《おれ》たち全部はやれないだろうぜ」
「でも、あんたの頭を撃ち抜くことはできるわよ。分った?」
「ああ……」
笠間は、何とか腹立ちを押えている。「うまく逃げたもんだな」
「いくらあんたたちが静かに隠れててもね、ここへ来て虫の声も聞こえない、ってのは、まともじゃないもの」
「そうか。じゃ、知ってたんだな」
「妙だな、とは思ってたの。だから、中の洗面台のコンセントから、コードを引いておいたの。あの人は、びしょ|濡《ぬ》れになって、電気の来ている|把《とっ》|手《て》に触れたのよ」
「ただですむと思ってるのか!」
「さあね。あんたの返答しだいだわ」
「何だと?」
「あんたが、平田千代子さんを殺すのを請け負ったことを、素直に認めるかどうかね」
笠間はフン、とせせら笑った。
――その時、知香も気付いた。
背後に人の気配がある。二人や三人ではなかった。
「おい、今の内にそいつを捨てて降参した方が身のためだぜ」
と、笠間が言った。
笠間の手下たちが、まだいたのだ。
知香は、しかし、迷わなかった。たとえ手を上げたって、助かるわけじゃない。殺されるより、もっと|辛《つら》いことが待っているだけだ。
「気が付かないと思ってるの?」
と、全く動じないで、知香は言った。「いい? 後ろの奴が、それ以上近づいたら、笠間の頭をふっとばすわよ」
すると――。「後ろの奴」が言った。
「そりゃ面白いですね、お嬢さん」
知香の顔に、ホッとした笑みが浮んだ。
「宍戸さん!」
今度は笠間が青くなる番だった。
「そいつの手下はみんなおねんねしてますよ。――おい、武器を取り上げろ」
知香は、宍戸がやって来ると、息をついて拳銃を下ろした。
「大した度胸ですぜ、お嬢さん」
「汗びっしょり。ガタガタ震えてたのよ、ほら」
「当り前でさ。で、ご亭主の方は?」
「そうだ!」
知香は飛び上った。「良二さん! 追いかけられてたんだ。――誰かついて来て!」
知香は、良二が逃げて行った方へと、夢中で駆け出した。
もう大丈夫かな……。
良二は、息を弾ませながら、じっと様子をうかがっていた。
「そっちはどうだ?」
「いないぞ」
「向うへ回れ」
遠くに聞こえていた声は、やがてもっと遠くへ去って、何も聞こえなくなった。
やれやれ……。こんなに必死で走ったのは、中学生のころの運動会以来かもしれない。
しかし、結構僕の足もしっかりしたもんだな、と良二は一人で悦に入っていた。
ここは……どこだろう?
建物の中へ逃げ込んで来たのだが……。
「そうか」
安部助教授の部屋がある棟だ。何となく見憶えがあったはずである。
良二は、もう少し待ってから、知香がどうなったか見に行こう、と思った。
すると――。何だか人の声がしたのだ。
何を言ってるのかまでは聞き取れないが、確かに話し声だ。
もしかして、あの声は……。
良二は、足音をたてないように気を付けながら、廊下を進んで行った。
部屋から、明りが|洩《も》れている。――安部の部屋だ。
「しかし、君は――」
と、男の声。
「分ってますよ、先生。しかし、向うは実際に手を下した人間ですからね。多少の無理は聞いてやらないと」
と言っているのは、安部だった。
先生? すると相手は――。
「安い金じゃないよ、三百万といえば」
そうか、平田教授の声だ。
「分っています。しかし、何とかなる金額でしょう」
「そうだな……」
平田は、ため息をついて、「それじゃ、本当に三百万でいいんだね」
「よく、言い含めておきますよ」
「分った。――二、三日待ってくれ」
「向うも、一日を争うってことはないでしょう」
と、安部は言った。
「ところで、あの学生は?」
「ああ、久保山ですか」
良二は、いきなり自分の名前が出て来て、ギクリとした。――気安く呼び捨てにするない、畜生!
「心配いりませんよ。今の学生は、人のことなんか考えやしません。隣で人が殺されたって、好きなTV番組が終らない内は一一〇番もしないでしょう」
人のことを馬鹿にしやがって! 良二はムッとした。
「しかしね――」
「卒業、就職、と控えてるんです。大丈夫。うまく丸めこみますよ。任せて下さい」
「分ったよ」
と、平田は息をついて、「じゃ、後はよろしく頼む」
良二が、廊下の隅で息を殺していると、平田が出て来て、足早に歩いて行った……。
やれやれ。――今の話はどういうことだろう?
手を下したのは、とか言ってたところをみると、やはり知香の言っていた通り、平田千代子を、あの笠間という奴の手下に殺させていたのだろう。そして、どうやら金を出せと言われているらしい。
安部がその仲介をしている、といったところなのだろう。
しかし――ここはともかく|一《いっ》|旦《たん》引き上げるしかないな、と良二は思った。ここで聞いた話を、あの米田って警部へ伝えてやれば、きっと喜ぶだろう。
別に、あの警部に義理があるわけじゃないんだが。
それじゃ、行くか。――良二はそっと振り向いた。
「やあ」
ニヤリと笑ったのは、追いかけて来ていた笠間の手下だった。
「や、やあ……」
良二は、思わず笑顔で答えていたが……。
どうも、ニコニコしてる場合じゃない、ってことは、いくら|呑《のん》|気《き》な良二にも、よく分っていたのだった。
「――誰だ?」
安部が廊下へ出て来た。そして目を見開いて、
「何だ。久保山君じゃないか。そうか、今の話を聞いてたんだね」
「まあ……そうです」
良二は仕方なく言った。
「入りたまえ」
と、安部は言った。「そこの三人も」
25 大団円
「君はどうやら誤解しているようだね」
と、安部はゆったりと|椅《い》|子《す》に|寛《くつろ》いで言った。「僕は別に|極《ごく》|悪《あく》|人《にん》ってわけじゃないんだよ」
「善人にも見えませんけど」
と、良二は言ってやった。
安部はちょっと笑って、
「君も、色々迷惑をかけられたからね。少しは事情を知る権利があるだろう」
良二は、椅子に縛りつけられていた。もちろん、笠間の手下が二人、そばに立っている。
一人は、ここに良二がいることを知らせに戻っていた。
「平田千代子さんを殺させたんですね」
と、良二は言った。
「それはね、平田先生の頼みさ」
と、安部は言った。「平田先生は、もともと他に恋人がいたんだ。女子学生のね」
「よくやるよ」
「全くだ。――あの千代子も、結婚したらつまらなくなってしまったんだね。それで平田先生は他の女に、千代子はまた、僕の所に、というわけだ」
「今度の学部の建て直しが|絡《から》んでるんだろ」
「その通り。大きな利権だからね。――金山、平田、二人がそれを|狙《ねら》って、学部長の椅子を争っていた。僕はうまくその両方を操って、双方自滅するように仕向けて行ったんだ」
「千代子と一緒に?」
「僕は、彼女に、何とか平田と別れたい、と相談を受けた。平田先生は、選挙前で、離婚はしたくなかったんだよ。で、僕は、『先生を殺すしかない』と言った」
あの、夜中に聞いた会話だ!
「でも、殺されたのは彼女の方だった」
「そうさ。平田の弱味を握り、しかも金山を消してしまえば、こわいものはなくなる。それにはあの方法しかなかったのさ」
「平田千代子をホテルで殺して、金山先生に罪を着せる?」
「そう。平田先生にはアリバイが必要だ。千代子をホテルへ行かせるには、君のような若い学生も必要だった」
「ひどい奴!」
「まだ、仕上げはこれからさ。――金山先生は自殺した」
「殺したんだろ」
「俺がな」
と、そばに立っていた、笠間の手下が自慢げに言った。
「警察の方は、行方不明の警部に、疑いをかけてるらしいな。気の毒なことだ」
と、安部は笑った。「|大《だい》|分《ぶ》、荒っぽいことをやってくれたんで、自殺と見てくれないんじゃないかと心配したがね。警察のほうで、つじつまを合わせてくれたよ」
「これで平田先生は学部長?」
「そうさ。しかし、実質上は僕が権力を握るんだ」
と、安部は言った。
「どうやって?」
「さっきの話を聞いてなかったのかね?」
良二には、やっと分った。
「金を渡すところを――」
「そう。平田先生が現金を、笠間へ渡す。どうしても直接手渡してくれ、と言ってね」
「それを写真にとって……」
「殺人の罪をのがれるためだ。何でも僕の言うことを聞くよ」
「じゃ、自分が学部長になりゃいいじゃないか」
「助教授だよ僕は。それに、学部長となりゃ、色々雑用も多い。陰で糸をひいてる方が面白いじゃないか」
良二は、安部をにらみつけたが、縛られていてはどうしようもない。
「最初に知香を呼んだとき、平田千代子が『あなたはどっちの味方なの』って怒ってたのは?」
「何だ、あれを聞いてたのか、もちろん僕に怒ってたんじゃない。選挙のことで、他の助教授へ電話して、頭に来たのさ」
電話か! 彼女の声しか聞こえなかったのも当然だ。
「僕をどうするんだ?」
「そうだね。――君と、あの若林君の出方しだいだ」
「おとなしく言うことを聞く知香じゃないぞ」
「分ってるさ。しかし君の命と引きかえなら……。あの子を一度、ものにしてみたかったんだ」
安部はニヤリと笑った。
――畜生! 知香の奴、大丈夫だろうか?
今ごろ笠間たちに捕まって……。
「君を殺したくはない」
と、安部が言った。「しかし、若林君の方は、そこの連中が、かなり恨んでいるらしくてね」
「ぶっ殺してやる」
と、笠間の手下が言った。
「ぶっ殺されちゃえ」
「何だと!」
ジロッとにらまれて、
「別に」
と、あわてて良二は目をそらした。
「まあ、君も本気であの娘に|惚《ほ》れているようだし、あの娘一人で死なせちゃ|可《か》|哀《わい》そうだろう」
「何だって?」
「僕がゆっくり味わってから、あの娘をこいつらへ渡す。君と若林君が、二人でドライブの途中の事故で仲良く天国へ、というのはどうだい?」
「そううまく行くかい」
「行くと思うがね」
と、安部は言った。「――仲間が戻って来たようだ」
ドアが開いて、笠間の手下が立っていた。
「どうした、あの娘は?」
「あ、あの……」
と言うなり、その男は部屋の中へ転がり込んで来た。
いや、突き飛ばされたのだ。
部屋へ入って来たのは――知香だった。
「安部先生」
と、|拳銃《けんじゅう》を構えて、「あくどいことは、ほどほどにした方がいいと思いますわ」
「君ね――」
安部は青ざめたが、「こっちは三人だよ」
「こっちは……」
宍戸をはじめ、知香の手下たちがゾロゾロと入って来る。
笠間の手下二人は、アッサリと降参してしまった。
「――プラス一名だ」
と、入って来たのは、米田警部だった。
「さ、どうぞ、米田さん」
と、知香は言った。「これを手みやげに、大きな顔して警察へ戻れますよ」
「いや、すまんね」
米田はニヤニヤしながら、「笠間たちもこれでおしまいだな」
安部は、体から力が抜けたのか、椅子から立ち上ることもできずにいた。
――知香は、急いで良二の縄を解いてやって、
「良かった! 大丈夫?」
「君も無事だったんだね」
二人は、しっかりと抱き合ってキスした。
「――君らは、パトカーが来る前に、どこかへ行っててくれんかな」
と、米田が言った。
「そうします。――さ、みんな行くわよ」
笠間の手下たちは、一緒に、縄で縛り上げられている。
「さて、ゆっくりお話をうかがいますよ」
米田が、安部の肩をポンと|叩《たた》く。
良二と知香は、早々に建物を出たのだった。
「――お嬢さん」
と、宍戸が言った。
「宍戸さん。これで笠間たちのことは心配ないわ。私と良二君のこと、そっとしておいてよ」
「分りました」
宍戸はため息をついて、言った。「おひまな時にはいつでも、仕事にいらして下さい」
ひまだから、ちょっと泥棒でも、ってわけにはいかないだろうが。
――遠くにパトカーのサイレンが聞こえていた。
「じゃ、ここで」
と、宍戸は一礼して、「お嬢さん、これからどこに?」
「そうね」
知香は、良二の腕をつかんで、「この人と相談して決めるわ。差し当りは、あの〈愛の巣〉にいるつもり」
「じゃ、お幸せに」
「あなたも気を付けて」
と、知香が手を振ると、
「へえ。――行くぞ」
宍戸の一声で、その素早いこと! 知香の手下たちは、たちまち姿を消してしまった。
「――|凄《すご》いね」
と、良二は目を丸くしている。
「さ、あそこへ戻って」
と、知香はニッコリ笑った。「ゆっくり、話をしましょ」
「そうだな」
「それともドライブでもする?」
「あの車で?」
と、良二は言った。「いいけど……。君、やっぱり免許取ってから、運転してくれないかな」
「おい、良二」
と、和也が声をかけて来た。
――昼休みのキャンパスである。
良二は芝生に寝転がっていた。
「一人か」
と、和也は言った。「彼女は?」
「今来るよ。――お前、紀子は?」
「うん、今来る」
二人は何となく笑い出した。
大学も、やっと|平《へい》|穏《おん》に戻っていた。
平田も安部も逮捕され、スキャンダルがマスコミをにぎわして、しばらくは大騒ぎだったのだ。
「――今、聞いて来たんだ」
と、和也が言った。
「何を?」
「大学の建て直しさ。当分はないってことだよ」
「そりゃそうだろ」
「しかし、お前たちのアパート。あそこだけは取り壊すかも、って話なんだ。古いからな」
「そりゃまずいな」
もう隠れている必要もないのだが、二人して、すっかりあの屋根裏部屋に落ちついてしまっているのだ。
「でも、住いが変るのも、いいかもしれないぞ。大体、マンションだってあるんだし」
「分ってる。――ところで、うまく行ってんのか、紀子と」
「まあな」
和也はニヤニヤして、「見ろよ」
良二は、芝生の向うから、楽しげにおしゃべりしながらやって来る、知香と紀子を見つけた。
それにしても――あんなことがあったなんて、夢みたいだ。
もちろん、あの明るい笑顔、笑い声は夢じゃない。そして、やさしく知香が良二にキスしてくれる、その感触も、夢じゃないのだ。
知香たちが走って来た。その軽やかな足取りは、いかにも明るいキャンパスの芝生に、よく似合っている……。
本書は一九九四年二月光文社文庫として刊行されました。
キャンパスは|深夜営業《しんやえいぎょう》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『キャンパスは深夜営業』平成12年7月25日初版発行