角川文庫
インペリアル
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 中断
2 |宴《うたげ》
3 訪問者
4 交渉
5 離婚
6 才能
7 契約
8 母と娘
9 |虎《とら》と|狐《きつね》
10 取り引き
11 |妬《ねた》み
12 見舞に来た男
13 幻影
14 ひらめく
15 埋れ火
16 奇跡
17 夜の息吹
18 女の顔
19 宿命
20 怒り
21 夜の声
22 |失《しっ》|踪《そう》
23 |喝《かっ》|采《さい》
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〈ベーゼンドルファー・モデル290
[#ここから2字下げ]
通称「インペリアル」
長さ二九〇センチ、幅一六八センチ
通常のグランドピアノの八八|鍵《けん》に対し、
「インペリアル」は九七鍵。
最低音|C《 2》の弦の振動部分の長さ二・二二メートル。
弦の外径七・七ミリ。
基音の周波数は一六・三五ヘルツに達する〉
[#ここで字下げ終わり]
1 中断
〈展覧会の絵〉は、力強い「プロムナード」で始まった。
ともかく、始まったのである。
「やれやれ……」
|太《おお》|田《た》はステージの|袖《そで》で汗を|拭《ぬぐ》った。
太ってもいて、汗っかきだが、今|拭《ふ》いたのは八割方冷汗であった。
始まってくれれば大丈夫。いくら何でも、二千人の聴衆を前にして、曲の途中で、演奏をやめることはないだろう。
もっとも彼女――女性ピアニストとして、すでに三十年のキャリアを持つ、|影《かげ》|崎《さき》|多《た》|美《み》|子《こ》は、ある地方の小都市でのコンサートのとき、客席で何とお弁当を広げて食べている客を見付け、ショパンを唐突に終らせてしまうと、
「猫に小判」
の一言を残して、ステージから引っ込んでしまったことがある。
しかし、今夜は違う。何といっても、日本のコンサートホールの中でも、一、二を争う美しい響きで知られるKホール。音楽評論家の顔もいくつか見えて、客席も九割方埋っている。
決して若くない影崎多美子のリサイタルで、これだけの客が入るというのは、なかなかのものだ。今は、演奏家も、「若く、美しい」ことが求められるのである。
それでも今夜これだけの客が集まったのは、開演前に太田がマネージャーとして何度も影崎多美子に強調した通り、三年ぶりの多美子の演奏を聞きたいというファンが多いこと。それから、これは当人には言っていないが、今夜たまたま東京都内で、大きなピアノのリサイタルが他にない(コンチェルトも含めて)ことも幸いしただろう。
ともかく、客が多いということは、悪いことではない。――実際、もしこれでホールの半分ほどしか埋っていなかったとしたら、多美子はキャンセルしてしまいかねなかった。
ムソルグスキーの〈展覧会の絵〉がプログラムに入っているのが、気に入らなかったのである。
これは、当人がいやがるのを承知で、太田が入れさせたものだ。こうでもしなければ、多美子は、ほとんど現代物ばかりでプログラムを埋め尽くし、客はほとんど寄りつかなかっただろう。
太田は多美子をなだめすかし、スタンダードな曲をどう弾くか、それも立派に個性の主張だ、と説得した。
――曲は順調に進んでいる。
力強い音が、ホールの空間へしみわたって行く。――よしよし。本人ものっている[#「のっている」に傍点]。
当人だって嫌いじゃないのだ。通俗名曲といわれる曲を、実際、プロは意外なほど愛しているものである。
ただ、「これを弾かなきゃ客が来ない」と思われることが、面白くない。その多美子の気持を、太田はよく知っていた。
最終的に彼女に承知させる決め手になったのは、「芸術的理由」でなく、
「これで入りが悪かったら、後のコンサートができなくなる」
という、経済的脅迫(?)だった。
その代り、普通なら最後に弾く、この大曲を、多美子は前半に持って来てしまった。それがせめてものレジスタンスだったのだろう。
太田はそこにはこだわらなかった。後半の難解なプログラムを敬遠して、途中で帰る客もあるかもしれないが、入場料はちゃんと払ってくれている。
それに、前半でこの調子を見せていれば、後半も聞いてみよう、ということになるに違いない。――マネージャーとしての経験で、太田は知っていた。
太田は、袖の|椅《い》|子《す》に腰をおろした。スチールパイプの折りたたみ椅子は、太田の重みでギッと鳴った。太田は一瞬肝を冷やした。音楽家の耳は信じられないほどいい。
冷たいジュースを入れたコップが差し出された。
太田は、
「どうも」
と、低い声で言った。
「いいえ」
このホールのチーフプランナーである|佐《さ》|竹《たけ》|弓《ゆみ》|子《こ》は、やはり小声で言って、「いいですね、影崎さん」
「やりゃできる人なんだ。しかし、何しろあの気性で……。――うまい」
ジュースを一気に飲み干して、コップを返す。佐竹弓子はそれを受け取って、すぐに事務の女の子へ渡した。
落として大きな音をたてるような物を、いっときでもそばに置きたくはなかったのである。
佐竹弓子は、そばに置いてある小テーブルにちょっと腰をかけると、
「体の具合は?」
と、小声で|訊《き》いた。
太田は、ちょうど視線の高さに来る、佐竹弓子の腰の曲線に目をやって、
「魅力的だよ」
と、言った。
弓子は苦笑して、
「何を言ってるの」
と、太田をにらんだ。
四十八歳の太田は、相当の肥満体、弓子の方は今年三十六だが、正に「女盛り」の|匂《にお》い立つような体つきをしている。
こうして気楽に言葉を交わせるのは、実のところ、二人はごくたまにだが、ベッドを共にすることのある仲だから。
もっとも、主導権を握っているのは専ら弓子の方で、彼女がその気にならなければ、太田は何か月も待ち|呆《ぼう》けを食わされることになる。
――曲は「ビドロ」に移っていた。牛が引く荷車のことだ。
ぬかるみの道を、|喘《あえ》ぎ喘ぎ車を引く牛の|哀《かな》しみが、重い、引きずるようなリズムで表わされている。
「――|凄《すご》いな」
と、佐竹弓子が言った。「描写的に弾いてるじゃない、彼女」
聴衆の誰もが、その情景を思い浮かべ、圧倒されていることが分る。客席の空気というものは、伝わって来るものなのである。
「――僕への当てつけさ。分ってる」
「当てつけって?」
「自分が、こき使われてる牛と一緒だと言うんだ。冗談じゃない。こっちが牛だよ」
「確かに体つきではそうね」
と、弓子が笑いをかみ殺して言った。
「おいおい……」
太田が苦笑する。
「もう心配ないわね」
と、弓子が言った。「曲は進んでるわ、順調に」
「うん……」
太田の|眉《まゆ》が少しくもった。
「心配ごと?」
「体のことさ。彼女の」
「元気そうよ」
「確かに。しかし、医者には要注意と言われてる。――もちろん、コンサートをやめたら、それこそストレスになるから、適度な[#「適度な」に傍点]コンサートはいい、と言ってた」
太田は首を振った。「〈適度な〉コンサートなんてものをやったら、演奏家は命とりだ。分るだろ?」
「それは仕方ないわよ。お医者さんは、悪気で言ってるわけじゃないんだから」
「そりゃそうだが……。彼女には大したことないと言ってあるんだ。ああ見えても、結構気にするたちだからね」
「誰でもそう。あの人だって、人間なんだから」
太田には、演奏家というものが、何千人の目の前で、演奏に集中するために、どれだけのエネルギーを要するか、よく分っている。それを知っているのは、身近にいる人間だけだろう。
「――どうだい」
と、太田が、そっと佐竹弓子の腰に手をのばす。
「もうずいぶんごぶさただ」
「人目があるのよ」
と、弓子はにらんだが、本気で怒ってはいない。
太田は、脈あり、と見た。
「――今夜、彼女がすんなりと家へ帰ったらね」
と、弓子は言った。
「OK。何とか寝かしつける」
「私のマンションでもいい?」
「文句ないよ」
――もちろん二人の会話は、ほとんどささやくような声で交わされていたのである。
曲は後半に入って来ている。「リモージュの市場」。女たちの大騒ぎが、にぎやかに描写されている。
「――|由《ゆ》|利《り》さんは、どうしてるの?」
と、弓子が言った。
「由利? そのみさんじゃなくて?」
「そのみさんのことは私も知ってるわよ。男と|同《どう》|棲《せい》して――」
「もう別れた」
「そう。じゃ、家に?」
「次を見付けた」
弓子はため息をついて、
「こりないのね」
と、言った。
「そのみさんばかりが悪いんじゃない」
と、太田はステージの方へ目をやった。「母親のせいもあるんだ」
「それにしても……。自分をだめにするのが、仕返しになるとは思えないわ」
と、弓子は言った。「まだ弾いてるの、少しは?」
「どうかな。今度の男が、ろくに働かないらしいから、少しは弾かないと、食べて行けないかもしれない」
と、太田は考えながら、「声をかけてみるかな。向うからは言い出しにくいだろう」
「プライドの高いところは母親譲りね」
「そう。――人間的には、由利さんの方が、はるかにできてる」
「でも、もう彼女、全然……」
「ああ。由利さんにとっちゃ、ピアノは『敵』なんだ。憎悪の対象とでも言うかな」
「OLをしてるんですって?」
「うん。――|松《まつ》|原《ばら》由利の名前でね。安アパートで一人暮し。会社でお茶くみをやったり、コピーをとったり……」
「よく知ってるわね。調べたの?」
「必要さ。いつ、母親が倒れるかもしれないんだ」
「それもそうね」
と、弓子は|肯《うなず》いて、「結構働いてるのね、あなたも」
「言ってくれるね」
と、太田は苦笑いした。
「でも――もったいない。二人とも、あんな腕を持ってて」
「仕方ないさ。人生は人それぞれだ。親だって、それを押し付けるわけにはいかない」
「まあね」
と、弓子は肩をすくめ、「子供なんて、いらないわ。厄介なことばっかり」
「君に母親は似合わないかもしれないね」
と、太田は言った。「影崎多美子も、ピアニストとしては一流だが、妻、母としては、とても水準にも達してないね」
「音楽家は家にいないもの。普通の母親でいろって方が無理よ」
「うん。まあ、それでも――」
異変に気付いた。
客席がざわついている。太田はパッと立ち上った。
「どうしたの?」
「具合が悪そうだ」
太田は、影崎多美子が、ピアノの|鍵《けん》|盤《ばん》に突っ伏すようにしているのを見た。そして、|愕《がく》|然《ぜん》としている太田の目の前で、多美子の体はゆっくりと傾き、床へ音をたてて倒れた。
「救急車!」
と一声叫んで、太田はステージへ飛び出した。
佐竹弓子が電話へ飛びつく。ホールの係が二人、太田を追って駆けつけると、影崎多美子の頭と足を持って、袖へ運んで行く。
客席は騒然としていた。
「――今、救急車が来るわ」
と、弓子が言った。「どう?」
「君は客席にアナウンスだ」
「分ったわ」
弓子が、内線の電話で指示を出す。
「――影崎さん。聞こえますか?」
太田が、多美子の耳もとで言った。「聞こえたら、返事して下さい!――え? 何です?」
ピアニストは何か|呟《つぶや》いた。――ほとんど意識はない様子だが、目はかすかに何かを見ている。
「影崎さん。――何て言ったんです?」
多美子の目が、ゆっくりと太田を見る。そこには、はっきり相手を見分ける力があった。
大丈夫だ。この元気があれば。
すると――多美子の唇が動いて、はっきり聞きとれる声で言った。
「インペリアル……」
と。
2 |宴《うたげ》
エコーのかかった歌が、いつ果てるともなく続く。
カラオケバーの一隅で、由利は、ジュースを飲みながら、じっと頭痛に堪えていた。
その頭痛の原因がはっきりしていて、しかも、それを取り除くことができないのが分っている。――その思いが、さらに頭痛をひどくした。
「ウォーッ!」
犬の|遠《とお》|吠《ぼ》えみたいな歓声が上り、拍手が起る。由利も手を|叩《たた》いた。
仕方ない。――これが仕事なのだ。
手を叩く。こんな簡単なことが、どんなに難しいことか。
歌っているのは、由利の勤め先のお得意で、五十歳くらいの部長なのだが、もう五曲も一人で歌い続けている。
「やあ! もうくたびれた! 誰か代れよ」
と言いながら、一向にステージから下りようとしない。
「アンコール!」
と、声のかかるのを待っているのだ。
しかし――さすがに、五曲もその歌を聞かされると、「もう一曲」と声をかける勇気のある人間はいないようだった。
「さ、誰だ、次は?」
とマイクを握ったまま言って、店の中を見回す。
自分から名のり出たら嫌われる。それが分っているので、誰も口を開かないのである。
「――よし。|俺《おれ》が指すぞ」
と、その部長は言った。「いやとは言わせないぞ」
アンコールの声がかからないので、意地悪になっている。
――お願い。お願いですから、ここ[#「ここ」に傍点]へ来ませんように。
由利は祈った。そして、同時に自分が[#「自分が」に傍点]当てられそうな、いやな予感を覚えている。
いやな予感は、当るものなのである。
しかし――大丈夫だろう。
あの部長は、単なるお茶くみの名前など、知りはしない。当てたくとも、名前が分らなくては……。
由利は目を閉じた。頭が痛いのは、空気が悪いせいでもあったが、それだけではなかったのだ。
自分でもよく分っている。音程の外れた歌や音に、敏感に反応する。これは、由利の身につけてしまった「特技」である。
あのひどい歌。エコーをかけて、何だか歌詞の全く聞きとれない歌。
よくみんな、あの歌を聞いていられるものだ……。
目を閉じて、指でギュッと目の間を押す。そんなもので、少しも頭痛は良くならないのだが――。
「おい、松原」
と、課長の|三《み》|浦《うら》が呼んだ。
違う[#「違う」に傍点]。あれは空耳だ。じっと目をつぶっていれば通り過ぎて行く|嵐《あらし》だ。
「松原! 聞こえないのか」
由利は、無理に目を開けた。
「何だ、眠ってたのか」
と、あの部長が不愉快さを隠そうとせずに言った。「俺の歌は退屈か」
由利は、答える気になれなかった。
「いや、聞き|惚《ほ》れてたんですよ! なあ、松原?」
と、三浦が大げさに笑って言った。「ほら、ご指名だ。次はお前だぞ」
そんな……。やめて。やめて。
どうしてそっとしておいてくれないのだろう? 他にこんなに大勢の人がいるのに。
「松原、早く出て来い」
由利は、そろそろと立ち上った。
拍手が起る。――馬鹿げてる! こんなことって……。
由利は、のろのろとテーブルの間を進んで行った。
「初舞台だ!」
「そうよ。聞いたことないものね」
と、声が上る。
「ほら、ステージに出ろ」
三浦がマイクを由利へ押し付ける。
「課長……。頭痛がして……具合悪いんです。勘弁して下さい」
と、低い声で言うと、
「馬鹿! 断れると思ってるのか。何でもいい。一曲歌って引っ込みゃそれですむんだ」
三浦に押し上げられるように、由利はステージに上った。ライトがまぶしく目を射る。
「拍手、拍手!」
と、誰かが叫んだ。
由利は、自分がひどく惨めに思えた。
こんな場所で歌うような歌は、全く知らない。――といって、ここへ立って、何もせずには戻れそうになかった。
「あの……」
と、マイクを口もとへ近付けて、「私、歌は下手なんです、本当に……」
「ストリップでもいいぞ!」
と、課の若い男が叫んだので、みんながドッと笑った。
由利は当惑し、店の中を見回していたが……。その目が、ふと、フロアの隅に置かれたピアノに止る。
セミグランドだ。白塗りで、もちろん、ジャズやポピュラーを弾くように置いてあるのだろうが……。
「おい、早くしろ!」
と、あの「部長」が怒鳴った。
三浦が、気が気でない様子で、由利を見ている。
由利は、ちょっと唇をなめて、
「あの――歌の代りに、ピアノを弾いてもいいでしょうか」
と、かすれた声で言った。
一瞬、戸惑いがあった。
「ピアノ? 弾けるのか」
と、「部長」が言った。
「少し、ですけど……」
「〈猫ふんじゃった〉か」
と、誰かが笑った。
「よし、ピアノだ」
と、「部長」が言った。「おい、そっちへライトを当てろ」
由利は、マイクを置いて、ステージから下りると、白いピアノへと歩いて行った。
ライトが向きを変え、白いピアノを照らす。
反射光が目に入って、由利はちょっと手で遮った。
「――お借りします」
と、店の人に言って、椅子にかける。
高さを調節して、鍵盤に向った。
「本格的だ!」
「〈猫ふんじゃった〉協奏曲!」
笑いが起る。
白と黒の音[#「白と黒の音」に傍点]が、由利を待っている。――何を弾くか、考えていなかった。
ちゃんと調律してあるのだろうか? もちろん、そんなことを要求してもむだなことは分っている。
いくつかの|鍵《キー》に指を滑らせると、思いの外、狂ってはいないことが分った。
しかし――弾くのなら、本当に〈猫ふんじゃった〉でもいいのだ。こんな所で、〈ペトルーシュカ〉を弾いても仕方ない。
だが、すでに遅かった。
ピアノは弾かれたがっていた[#「弾かれたがっていた」に傍点]。
私の中の曲をとり出して、と叫んでいた。
そう……。弾くんじゃない。私は、扉を開けるだけだ。
そっと両手が鍵盤にのびた。――何の曲を弾く?
考えない内に、ショパンの〈プレリュード〉を弾き始めていた。
もう、ずいぶん長いことピアノには触っていない。それなのに、指は次の鍵を探り当てる間もなく、目指す鍵へ吸いつけられて行く。
誰もが、度肝を抜かれていた。
その腕前もともかく、音の大きさが……。店内を一杯に満たすほどの音量。
叩いているのではない。ただ、なでているようにしか見えないのに、ピアノは全体が震動するほどに鳴った。
いけない! 抑えて。抑えて。ピアノを壊してしまう……。そう。そうよ。力を抜いて……。
オクターブの跳躍、左右の手の交差、指が目に止らないほどのスピードで動く。
ペダルを踏む足は、たぶんこのピアノが経験する初めてのデリケートなコントロールを加えている。
由利は、じっと天井の方を見上げていた。鍵盤を見る必要は全くない。どこに指があるか、次はどこを叩くか。――考えなくても、指が記憶していた。
低音が|轟《とどろ》くように鳴る。床が震えた。
何をしてるんだろう、私は?
――これでみんなが感心してくれるか?
とんでもない!
みんなは許してくれないだろう。たどたどしく〈エリーゼ〉でも弾けば良かったのだ。しかし、由利はそれにはうますぎる[#「うますぎる」に傍点]。
――カラオケで突然、シューベルトの〈冬の旅〉でも歌ったらどうなるか。感心される代りに、いやな目で見られるに違いない。
今、自分がしているのも、それと同じことである。
何か適当なポピュラー曲でも弾いておけば良かった。しかし、指が[#「指が」に傍点]それを許さなかったろう……。
最後の和音を鳴らしたとき、いくつかの鍵が狂ったことに気付いた。たぶん、こんな風に弾かれたことがなかったのだろう。
余韻が消えて――店の中は静まり返っていた。
「失礼しました」
立ち上って、一礼すると、急いで席へ戻った。――誰もが|呆《あっ》|気《け》にとられて、由利を眺めている。
「いや、大したもんだ」
あの「部長」が、酔いの覚めた様子で、「うちの娘もピアノをやるが……。|桁《けた》が違ってる」
拍手が起った。そして店内の客は全員拍手をした。
やめて! やめて……。
もういらない。拍手はいらない。
「――松原さん?」
と、店の女性がそばに来ていた。
「はい」
「お電話」
由利は戸惑った。
「私に……ですか」
「太田さんって方」
と、その女性は言った。「急用ですって」
「由利さん」
と、声がして、太田が廊下をやって来る。
「太田さん。母は?」
と、由利は訊いた。
「今、意識不明だ」
太田は、由利を促して、夜の病院の薄暗い廊下を歩いて行った。「悪かったね、あんな所にまで」
「いいの。早く出たかったし」
と、由利は言った。「リサイタルの途中で?」
「〈展覧会の絵〉を弾いてた」
「そう」
「やらせるんじゃなかったよ」
「でも……。言うことを聞く人じゃないわ」
由利は、病室へ入って行った。
母が、ビニールで顔の辺りを囲われて、眠っている。
「久しぶりだろ、お母さんと会うのは」
「そうね」
由利は、椅子を引いて、座った。
「今夜がやま[#「やま」に傍点]だと言ってた」
「ついてるわ、私。太田さん、もし用があるなら――」
「僕は帰れないよ」
太田は首を振って、「これが仕事だ。それに――」
と言いかけてやめる。
「それに……何?」
「いや、後でゆっくり」
太田は腕を組んで、「カムバックしてほしいと思ってた。裏目に出たかな」
「仕方ないわ。こんなこと、お医者さんでも分らないわよ」
と、由利は言って、「ねえ、――お姉さんには?」
「連絡がとれないんだ。マンションへ電話しても、誰も出ない」
「いても出ないのかも」
と、由利は言って、「ここから近いわ。私、行ってみる」
「そう? 僕が行っても――」
「私の方がいいわ」
由利は立ち上って、「母をお願いね」
と言うと、病室を出た。
――本当は、太田に行ってもらっても良かったのだ。
しかし、今、由利は一人になりたかった。
母から、離れたかったのである。
表に出て、少し迷ってから、歩くことにする。寒いという気候ではなかった。姉のマンションまで、歩いても二十分とはかからないだろう。
母が倒れた。――そしてそのとき、自分がピアノ[#「ピアノ」に傍点]を弾いていたこと。
それが、由利を動揺させていた。もちろん偶然ではあるけれども、暗示的にも思える。
何を? 何を暗示しているのか。
――母は助かるだろうか。
由利は、夜の道を急いだ。姉に会うのは気が重かったが、仕方ない。
いや、むしろ会っても話すことがあるのは、安心だった。
足を早めた。母の病気が、やっと実感として、感じられて来ていた。
3 訪問者
やっと、Kホールは空になった。
|佐《さ》|竹《たけ》|弓《ゆみ》|子《こ》は、汗を|拭《ふ》く気にもなれずにいた。――もうホールの中はひんやりとして、聴衆の熱気も消えているが、それでも汗がひかない。
仕方のないことだ。もちろん弓子にも分っている。
アーティストだって人間だ。病気で倒れることだってある。直前のキャンセルなど、珍しいことじゃないので、いちいち気に病んでいたら、いくつ体があってももたない。
しかし今夜のように、演奏の途中で倒れるというのは、めったにないことである。
しかも、一時的な貧血とかでなく、救急車で入院。聴衆は、二十分ほど待たされて、コンサートの中止を知らされた。
まあ、アーティストのわがままというわけではなく、目の前で倒れるところを見ているので、それほど苦情は出なかった。そういう点、日本のクラシック音楽ファンは行儀がいいとも言える。
問題は今夜のチケットを払い戻すかどうかで……。何しろ一曲目の途中で倒れたのだ。払い戻さないわけにもいくまい。
ステージの照明が消える。コンサートグランドの|蓋《ふた》が閉じられた。
あれが、|影《かげ》|崎《さき》|多《た》|美《み》|子《こ》の弾いた最後のピアノだということにならなければいいが。
弓子は、通路ぎわの席に腰をおろすと、息をついた。
「やれやれだわ……」
このホールのプランナーとして、弓子はここで企画したコンサートについては、全部の責任を負っている。
もちろん、Kホールは貸しホールでもあるから、内容的には弓子が一切タッチしていないコンサートも、ずいぶんあるわけだ。
今夜の、〈影崎多美子リサイタル〉は、弓子が自ら望んで通した企画だった。マネージャーの|太《おお》|田《た》から何度も頼まれていたのは事実だが、それで決めたわけではない。
弓子自身、影崎多美子のファンであり、何度もその演奏を聞いている。――三年間のブランクの後、彼女がカムバックするなら、何とかこのホールで、と思っていた。
実現するにはしたが……。結果はこういうことだ。
ホールの事務局の中でも、
「今さら影崎多美子でも」
という声はあった。
それを弓子が押し切って、このホールのスポンサーとも交渉し、やっと実現にこぎつけたのである。
それがこういう結果に終ると、当然、弓子への風当りが強くなる。一つのコンサート分の入場料を払い戻すと、大変な損害になるからだ。
「――くよくよしたって、始まらない」
と、弓子は肩をすくめて|呟《つぶや》いた。
そう。言われる前にパッと謝って、次の仕事にとりかかる。――これが弓子の「元気法」なのである。
コツ、コツ……。
靴音がした。ホールの係の人間とは違うようだ。
振り返ると、中年の、背広姿の男性が薄暗くなったホールの中を見回しながら歩いて来る。
「何かご用ですか?」
と、弓子は立ち上って、言った。「もう、ホールを閉めるところなんです」
「あの……」
髪が半分白くなったその男は、おずおずと、
「今夜、ここで影崎多美子さんの――」
「ええ、やったんですけどね、ご本人が演奏中に倒れられて中止になったんです」
「倒れた?」
男が目をみはった。「多美子[#「多美子」に傍点]が倒れたんですか」
弓子は、改めてその男を見直した。――そう。どこかで会ったことがある……。
「|松《まつ》|原《ばら》さんですね」
と、弓子は言った。「影崎さんのご主人だった――」
「え、ええ……。まあそんなところです」
と、その男は申しわけなさそうに、「あなたは……」
「|憶《おぼ》えてらっしゃらないでしょうけど、以前、TVの音楽番組をやっていたことがあって。そのときお目にかかりました。佐竹弓子といいます」
「佐竹さん……。ああ! 思い出した。以前は髪を短くしてましたね」
「はい。遠い昔のことですけど」
と、弓子は照れて言った。
「今はこのホールで?」
「ここのチーフプランナーをやっています」
つい反射的に名刺を出していた。「それより、影崎さんが――」
「ああ……。いや、本当はチケットも買ってあったんですが、仕事で遅くなって。――八時過ぎに来たら、何だかもう人がゾロゾロ出て来るし、どうしたんだろうと……」
「弾いている最中にステージで。マネージャーの太田さんが付添って病院へ救急車で――」
「どこの病院か分りますか?」
「T病院です。ここから十分くらいですし、このホールの館長の顔がきくので」
「知っています、T病院なら。あそこは悪くない……」
弓子は改めて、松原|紘《こう》|治《じ》を見直した。――前に会ってから、七、八年はたっているだろうが、それにしても、そのころから二十も|年《と》|齢《し》をとったように見える。
「ロビーへ出ましょう」
段々照明を落としていくホールの客席から弓子は松原紘治を促してロビーへと出た。
「心臓ですか、やはり」
と、松原が言った。
「だと思います。――これから病院へ行くつもりでした。ご一緒にいかがですか。私の車でよろしければ」
「それはまあ……ありがたい話ですが」
と、松原はためらった。「ご迷惑では?」
「とんでもありません。ここでちょっとお待ちになっていて下さい。ちょっとバッグを取って来ます」
「ああ、どうぞ。もちろん――」
と、松原は口の中で呟くように言った。
弓子は楽屋の奥の事務室へ戻ると、急いで靴をはきかえ、バッグと薄いコートを手に、そこを出た。
明りを消し、|鍵《かぎ》をかけなくてはならない。走ることは苦にならなかった。いつも走っているようなものだ。
ロビーへ出て――弓子は戸惑った。
松原の姿が見えないのだ。
「松原さん。――松原さん!」
ロビーに、自分の声が反響する。
しかし、松原はどこにも見当らなかった。
雨が降りそうだ、と|由《ゆ》|利《り》は思った。
姉のマンションまで、あと数分。たぶん降られずにすむだろう。
音楽家は湿度に敏感である。雨が降って、客席に沢山、|濡《ぬ》れた傘とかがあると、ホール全体の空気が湿って重くなる。
フォルテの音のぬけ[#「ぬけ」に傍点]が悪くなるのだ。
もちろん、それに負けないくらいピアノを鳴らす腕を持っていなかったら、プロのピアニストとしてやってはいけない。
まだ、腕や指に軽い「しびれ」が残っている。久しぶりにピアノに触れたせいだ。
コピーをとったり、お茶を出したり、おつかいに出たり……。結構、雑用は雑用なりに忙しく駆け回っているのだが、あの厳しい練習をこなしたころのことを考えれば楽なものだ。
久々に、指先とペダルを踏む足に神経を集中して、ひどく疲れた。このしびれは、精神的なものだったかもしれない。
ただ……由利は怖かった。この腕のしびれを、決していやなものと思っていない自分に気付いていたから……。
「あれだ」
白いマンションが見えて来て、ホッと息をついた。
新しくはないが、防音設備のついた部屋があるというので、姉はここを買ったのだ。
十二階建だったか。姉の部屋は、確か五階だった。
一階のロビーで、郵便受を見る。
〈影崎・今井〉というプレート。|今《いま》|井《い》? 前は確か違ったはずだ。
ともかく、〈506〉の部屋には違いない。エレベーターで、五階へ上った。
五階で降りて廊下を歩いて行くと――何やら、住んでいる人たちらしい五、六人が、廊下に出て、ひそひそ話している。
姉の部屋の辺りだ。
「あの……」
と、声をかけると、ピタリと話が|止《や》んだ。
「影崎の所へ行くんですけど」
「ここよ」
と、中年の主婦らしい女性が言った。「あんた、知り合い?」
「ええ。――どうかしたんですか」
由利の言葉に、集まった人たちは、顔を見合せている。
「あのね……」
と、一人が言った。「ひどいのよ、ここんとこ。毎晩ケンカでさ。もう、やかましくって……」
「はあ」
「怒鳴り合うわ、物は壊すわ……。夜中の二時三時にそれをやられちゃうから、かなわないの」
「そうですか」
「で、今夜はえらく早くから始まって」
「ケンカが、ですか」
「そうなの。で、さっきは『殺してやる!』『そっちこそ死んじまえ!』って……。穏やかでないのよ。それっきり静かになっちまったから、もし[#「もし」に傍点]何かあったら、迷惑でしょ。一一〇番しようかどうしようかって、相談してたとこなの」
「そうですか。――ご迷惑かけて」
と、由利は言った。「でも、大丈夫だと思います。私、呼んでみますから。どうぞ、お帰りになって下さい」
「そう……。気を付けた方がいいわよ。まともじゃないからね、ここの人は」
「よく知ってます。大丈夫ですから」
と、くり返して、由利はやっと集まった人たちを部屋へ引き取らせたのだった。
「本当にもう……」
とため息をつくと、由利は玄関のチャイムを鳴らした。
もちろん、一度や二度で出て来るわけがない。根気良く押しつづけていると、
「誰? 水ぶっかけるわよ!」
と、インタホンからヒステリックな声が飛び出して来た。
「お姉さん! 私よ。開けて。急用なの」
と、急いで言うと、少し間があって、
「――由利?」
「そう」
「待ってて」
それきり五分以上は待たされただろう。
やっと玄関のロックが開く。
「――何しに来たの?」
ガウンを少々だらしなくはおった姉のそのみが顔を出す。「ともかく入って」
「うん」
由利は、玄関を上った。
|埃《ほこり》っぽい|匂《にお》いがした。ろくに掃除していないのだろう。
「コーヒーでも飲む?」
と、ボサボサの頭をかいている。
「それどころじゃないわ。出る仕度して」
「どこへ?」
「T病院。お母さん、倒れたの」
そのみは、ちょっとの間、ポカンとしていたが、
「――死んだの?」
「病院よ。まだ生きてる。――たぶんね」
「そう」
「行くでしょ?」
「一応、まずいか、行かないと」
と、そのみは肩を揺すった。
「誰だい?」
と、声がして、若そうなわりには太った男がトランクス一つの格好で出て来た。
「ちょっと! 何か着て来なさいよ」
と、そのみがにらむ。
由利は、その色白で腹の出た男を見ていたが――。
「今井さんって……。ああ! 音大のときの――」
「由利ちゃんか! 何だ、びっくりした」
びっくりしたのはこっち、と由利は思った。
今井は音楽大学でそのみの一年先輩だったヴァイオリニストである。――ソロで活動するには力不足で、時たま臨時編成のカルテットとかに名前を見ることはあったが……。
しかし、学生のころはこの半分くらいだったような気がする!
「お母さん、倒れたって?」
と、今井がバスローブをはおりながら、「大変じゃないか」
「仕度して出かけるわ。寝てていいわよ」
「うん……。明日、昼すぎに出かける」
「分ったわ」
そのみは、ろくに聞いてもいない。「由利、待ってて。シャワー浴びる」
「うん」
由利は、ソファに座り直した。どう少なくみても三十分はかかる。
アルコールの匂いもしたし、汗の匂いも。――今まで今井とベッドにいたのだろう。
影崎そのみは二十四歳。妹の由利は二十一である。もちろん、どちらも小さいころから、母に厳しくピアノを|叩《たた》き込まれた。
そのみは、小さいころから、プライドが高く、負けん気で、一年中、誰かとケンカしていたものだ。気性の|烈《はげ》しさをうかがわせる顔立ちは、美人と言って良かった。
由利はいつも、姉が太陽なら月の役回りで、影が薄い存在だった。人と争うことが嫌いで、ピアノは好きだったが、コンクールへ出ようといった気持にはなれない。
見たところも、由利は地味だし、格別、目立つところもなかった。
「――どこで倒れたの、お母さん」
と、今井がソファに座って、タバコに火を|点《つ》けた。
「ステージで。〈展覧会の絵〉を弾いてたんですって」
「そうか……。お母さんらしいな。良くなるといいね」
「どうも」
と、由利は言って、「いつから姉と?」
「うん……。この半年ぐらいかな」
「姉といて、良くやせませんね」
由利の言葉に、今井は苦笑した。
「つい食べちまうんだ。――分ってる。ストレスなんだよ。どこかのオケにでも入ろうかとも思うが……。妙なプライドがある。といって、今さらコンクールに出て、って根気もないしね」
「姉といると、ずっとそんな風になっちゃいますよ」
と、由利は言った。
そうなのだ。――そのみはその気性の烈しさで、相手を疲れさせてしまうのである。
「うん……。君はもうピアノは……」
「きっぱり手を切りました」
と、由利は言った。
「え。もったいない。|巧《うま》いのに」
「惜しまれるほどの腕じゃないわ」
と、由利は首を振った。「お姉さん、早かったじゃない」
そのみが、ジーパンをはいてやって来た。
「行こう」
と、促して、「出るとき、鍵かけるの、忘れないでよ」
と、今井に向って言った。
4 交渉
「タクシー拾う?」
と、外へ出て、そのみが言った。
「私は歩いて来たけど」
「じゃ、歩きながら、空車が来たら、拾うか」
「うん」
二人は夜の道を歩き出した。
何年ぶりだろう、姉妹、こうして歩くのは――。
「雨が降るね」
と、そのみが言ったので、由利は、ちょっとドキッとした。
「お母さん、何弾いてたの、倒れたとき」
と、そのみが|訊《き》いた。
「〈展覧会の絵〉だって。どの辺だったか知らない」
そう言ってから、由利はふと気付いた。母がステージで倒れた、とは姉には言っていない。
「知ってたの?」
「え? 誰が?」
「お姉さん。母さんが――」
「今日、弾くのは知ってたよ。お節介に教えてくれる奴もいたしね」
「行ってたわけじゃないのね」
「まさか」
と、そのみは笑った。「あんただって、行かなかったんでしょ」
「忙しいの。――会社のお付合いでね、カラオケ」
「へえ、あんたが? 何歌うの?」
と、そのみが愉快そうに訊く。
「歌わないわよ。私は座ってるだけ」
「何だ。相変らずね」
「あ、タクシー……」
由利がパッと車道へ出て手を上げる。タクシーがスッと寄せて来て|停《とま》った。
「近くてごめんなさい、T病院へ。母が倒れて」
「どうぞどうぞ。急ぎましょう」
気のいい運転手だった。
「やるね」
と、そのみが小声で言った。
タクシーが走り出す。
近くへ気持良く行ってもらうには、それなりのやり方がある。姉なら、文句を言われたら、すぐ怒って降りてしまうだろう。
少なくとも、その辺は、由利のOL生活も役に立っているようだ。
「――今井さんとは、どうなってるの? 近所の人から苦情聞かされた」
「みんな暇なのよ。放っときなさい」
「|凄《すご》いケンカしてたって」
「レクリエーション」
と、そのみは涼しい顔をしている。「人のことは放っといてほしい」
「せっかく防音室があるんでしょ。ケンカはそこでやることにしたら?」
「そういう手があったか」
と、そのみが苦笑した。
タクシーは間もなく病院へ着いた。
「ありがとう。おつり、結構です」
「こりゃどうも。――お大事に」
「どうも」
由利が会釈する。タクシーを見送って、
「あんた愛想いいのね、あんなのに」
「気持ちいいでしょ、その方が」
「私は怒鳴りつけた後の方がスッとするけどね」
「こっちよ。夜間出入口があるから」
と、由利は姉を手招きして言った……。
「ごぶさたして」
と、太田が、そのみへ頭を下げる。
「また太った?」
「お姉さん!」
「ご苦労さま」
と、そのみは妹を無視して、「どう、母の具合?」
「心臓が――。何しろ持病で、ろくに医者にも|診《み》せてない。これで、持ち直せば、|却《かえ》っていい休養なんですがね」
太田は、ちょっと息をついて、「待って下さい、当直の医者を呼んで来ましょう」
廊下は暗く、陰気だった。
「いやね、こういうのって」
と、そのみは顔をしかめた。
「心臓……。かなり悪かったのね」
と、由利が少しうつむいて、「私のせいかも……」
「よしなさい。誰だって、親のマリオネットじゃないのよ。好きに生きていいはずじゃない」
そのみの強い口調。――由利は聞き慣れている。
以前なら、その姉の「強さ」が|羨《うらやま》しかったろう。しかし、今はそれも一面では「強がり」にすぎないと分っている。
自分自身、どこかに後ろめたさを持っているから、こうして強く出るのである。
中年の医師が眠そうにやって来た。
「どうも」
と、二人に向って、「ピアニストの影崎さんですね。いや、びっくりした。何度か聞いてるんですよ」
「そうですか」
「心臓が前から?」
「ええ。――何度か入院を勧められたんですけど、当人がいやがって」
「分りますが、今度ばかりはね。――しばらく絶対安静です。当面、危いところは何とか脱しましたが」
「そうですか……」
ともかく、由利はホッと胸をなでおろした。
「検査をします。少し落ちついてからですが。その結果で、考えましょう」
「はい」
「もし、本人が退院したいとおっしゃっても、何とか説得して下さい。もちろん、私が話しますが、そちらも力を貸していただきたい」
「もちろんです」
と、由利は言った。「よろしくお願いします」
「入院の手続を。明日、九時から事務室が開きますから、そちらでお願いします」
「分りました……」
入院のために必要な物の一覧を書いた紙をもらって、由利は、何度も医師に礼を言った……。
「――ともかく良かった」
と、太田が言った。「しばらくは静養するしかないな」
「そんなお金、あるの?」
と、そのみが言った。
由利にも、その点は気になっていた。ともかく三年近く、リサイタルも開いていないのである。
「現実的に言うと、むずかしい状況です」
と、太田が言った。「もちろん、ある程度はうちが面倒をみます。しかし、無期限というわけにはいかない」
「私、何か働きますから」
と、由利が言った。
「しかし、今でも――」
「OLの仕事は大して|辛《つら》くないんです。日曜日とか、パートで出られれば」
「あんたまで病気になるよ」
と、そのみが言った。
「そう。無理しても、長くは続きませんよ」
と、太田は|肯《うなず》いて、それから少し間を置いて、
「――もっといい方法があります」
「え?」
「そのみさんに弾いていただくこと。こっちでお|膳《ぜん》|立《だ》てはします」
「いやよ」
と、そのみは顔を紅潮させた。「絶対にいや!」
「しかし――」
「待って下さい」
と、由利が太田を抑えて、「話し合ってみます。任せて下さい」
姉のことは、よく分っている。こんな風に強制されるのを、一番嫌う人である。
「何と言われても――」
と、そのみが言いかけたとき、
「まあ、そのみさん?」
と、足音がして、「由利さんも。――佐竹弓子です」
「どうも」
と、由利は頭を下げて、「Kホールだったんでしょ、母が倒れたの」
「ええ、びっくりしました」
と、弓子は言って、「容態は?」
太田の説明を聞いて、弓子も一安心したようだ。
「――うまく行けば、すばらしいリサイタルでしたわ」
と、弓子は言ってから、「あ……。そうだわ。あの方――松原さん、ここへみえませんでした?」
由利は、戸惑って、
「父が、ですか」
「会場へみえたので、ここを教えたんですけど」
「いえ……。見ていません」
「そうですか。でも――心配なさってる様子でした」
由利とそのみは、チラッと目を見交わした……。
太田と弓子が、中止になったリサイタルの後始末のことで話している間、由利とそのみは、自動販売機で、ジュースを買った。
「――お姉さん」
「私はいやよ」
と、そのみは言った。「あんた、やればいいじゃない」
「私じゃお金はとれないわ。お姉さんなら、お客が呼べる」
「もう昔の話よ、腕も落ちたし」
そんなことはない。由利は、そのみの腕や肩の肉のつき方で、充分に修練を重ねているのを見抜いていた。
「お願い。太田さんに任せて、引き受けてよ」
と、由利は言った。「お母さんはぜいたくだわ。きっと入院費用もかさむだろうし」
「自分でそうすると決めた結果でしょ」
「でも……見殺しにできないわ」
「私だって、そうは言ってない。でもね、今さら、そんな……」
「お父さんが来たって……。どういうつもりだったんだろ」
「さあね」
二人は、遠くを見つめるような目で、空を見ていた。
思い出していたのだ。父と母のいたころ、母だけと暮していたころ。
どっちも、姉妹にとっては、正に刑務所だった……。
「――そうそう」
と、太田がやって来て、「|多《た》|美《み》|子《こ》さんがね、倒れたとき、一言言ったんだ。その意味が分るか、訊こうと思ってた」
「何と言ったんですか」
「うん……。一言。『インペリアル』と言ってね」
「インペリアル?」
由利とそのみが低い声で言った。
忘れたくて、やっと忘れかけていたものを思い出させられたような、そんな気がしていたのである……。
5 離婚
|由《ゆ》|利《り》は、母、|影《かげ》|崎《さき》多美子のマンションに来て、戸惑った。
玄関のドアが、開いている。――誰が入ったのだろう。
用心しながら、まさか空巣ということはないだろうが――玄関へ入ると、男ものの靴が脱いであり、室内も明りが|点《つ》いていた。由利には分った。
「お父さん。――いるの?」
と、呼んでみる。
「ああ。――由利か」
居間から、父が顔を|覗《のぞ》かせる。
「びっくりした。誰がいるのかと思って」
由利はドアを閉め、反射的にロックしていた。女一人でアパート住いをしていると、ちょっと下までゴミを出しに行くだけでも、しっかり|鍵《かぎ》をかけるのが習慣になる。
母のマンションに来るのは久しぶりだ。
「――相変らずひどいもんだな」
と、父、|松《まつ》|原《ばら》|紘《こう》|治《じ》が居間のとり散らかしようを眺めている。
「だって、お母さん一人だし……」
と、由利は言った。「Kホールに行ったって?」
「うん」
松原は、少し間を置いて、「どうだ、母さんは」
と|訊《き》いた。
「一応落ちついたみたい。小康状態っていうの?」
「そうか。――良かった」
松原が、目を閉じて、息を吐き出す。「いや――あの女の人……。|佐《さ》|竹《たけ》さんか。一緒に病院へ、と誘われたんだが……。怖くてやめたんだ」
「分るよ」
「ここにいれば、いずれにしろ、お前かそのみが戻って来ると思ってな」
「入院に必要な物、取りに来たの」
と、由利は言った。
「僕が来てたこと、母さんには言うなよ」
と、松原は言った。「心臓に悪いだろ、カッカくると。それとも――」
と、松原は苦笑して、「気にもしないかもしれないな」
由利は、父の老け方に、ショックを受けていた。髪がこんなに白く……。
「もう帰る」
と、松原は言って、息をついた。「お前……。今、何してるんだ」
「OLよ。電話、教えとくね」
由利はメモ用紙を見付けて(母の部屋では、それも容易でない)、勤め先とアパートの電話番号を書いて渡した。
「一人でいるのか。――そのみは?」
「恋人と。音楽家向きのマンションにいる」
「あいつは相変らずか」
と、松原は笑った。「どっちに似たのかな」
「お父さん――」
「由利。長くなるのか、入院」
松原の問いに、由利はちょっと肩をすくめた。
「たぶん……。検査してからでないと、はっきりしたことは……」
「そうか。大丈夫なのか、費用は」
「事務所の方で、当面はみてくれるわ。でも、それだけじゃ足らないでしょ。お母さん、ああいう風だから」
「そうだな」
松原は|肯《うなず》いて、「グランドピアノつきの病室にしろ、と言い出さなきゃいいが」
二人は一緒に笑った。――父と笑ったのは何年ぶりだろう、と由利は思った。
「何かあったら、会社へ電話をくれ」
松原は名刺を由利に渡した。
「仕事……大変?」
「まあな。しかし、そんなことも言っておられんよ」
父が玄関へ出て行く。
靴をはくのを見ながら、
「彼女、元気?」
と、訊く。
「ああ。――近所の子にピアノを教えているよ」
「赤ちゃん――何てったっけ」
「|早《さ》|苗《なえ》だ。もうすぐ三つだ。赤ちゃんでもないさ」
父は確か四十九だ。三歳の娘。三十になるかならずの妻は、ずいぶんと若い。
「頑張んなきゃね」
「ああ」
松原が、ホッとしたような笑みを浮かべて、
「じゃあ……」
と、ちょっと手を上げて見せ、出て行こうとした。
「鍵あけて」
「そうだったな」
と、松原は笑った……。
一人になると、由利は、あまり時間をむだにしなかった。
何といっても、由利はOLで、明日も仕事があるのだ。それに、入院手続で、どうしても遅刻して行かなくてはならない。その分、一日の仕事はきつくなるのである。
久しぶりにこのマンションへ来た感慨にふける余裕もなく、由利は、旅行用のボストンバッグに、母の着がえや|寝衣《ねまき》を詰めた。
「――これでいい、と」
病院でもらった紙を取り出して確認すると、由利は肯いて、口に出して言った。
もう、行こう。|一《いっ》|旦《たん》病院へ行って、容態次第でそばに一晩中いるか、それともアパートへ帰るか、決めることになる。
居間を出ようと明りのスイッチへ手を伸したとき、電話が鳴るのが聞こえた。――どこ?
あわてて捜して、やっと戸棚の中にしまい込んだ電話を見付ける。
「――はい。もしもし?」
「多美子、君か」
男の声が飛び出して来て、由利は面食らった。
「あの……どなたですか」
と由利が言うと、今度は向うがびっくりした様子で、
「影崎さんのお宅では?」
「そうですけど、母は入院しています」
少し間があった。
「娘さん?」
「そうです。どなた様ですか」
向うは答えなかった。プツッと、切れてしまう。由利はムッとして、
「何よ!」
と文句を言うと、ちょっと乱暴に受話器を戻してやったのだった……。
由利は、アパートの階段をそっと上った。
足音を忍ばせて、まるで空巣か何かのように。――何しろもう午前二時を回っているのだ。
ドタドタ足音でもたてようものなら、たちまちアパート中から苦情が殺到するだろう。
由利は、それでも体重をゼロにはできないので、古びた階段や、廊下の床板がギイギイ音をたてる度に、ヒヤリとした。
やっと自分の部屋へ|辿《たど》り着く。自分の部屋といっても――六畳一間と台所、そして小さなお風呂……。
部屋へ入り、鍵をかけ、チェーンをかけて、やっと息をつく。
上って畳の上にペタッと座り込むと、急に疲れが出て来た。
色んなことがあったし、それに、母のことで、やはり神経が参っているようだ。一応病状が安定しているというので、一旦帰って来た。
明日の朝、銀行へ行って、少しお金もおろして来なくては、そして病院で手続。
早くすむといいけれど。――会社へ行くのは何時ごろになるだろう?
遅刻や早退に、やかましい会社である。中小企業の常で、
「一番安いのは人間」
というのが、上の方の基本的な考え方である。
こうしていても始まらない。今からお風呂へ入るわけにはいかない――音がうるさいからだ――ので、せめてサッとシャワーだけでも浴びよう。そうでもしないと、眠れそうもない……。
立ち上ったところへ電話が鳴り出し、飛び上るほどびっくりした。
こんな時間に――。母の容態でも急変したのだろうか?
急いで出ると、
「もしもし」
と、意外な声がした。
「|工《く》|藤《どう》さん。どうしたの、こんな時間に?」
「いや、ごめん」
同じ会社の営業にいる工藤|県《けん》|一《いち》は、早口に言った。「今、大阪でね。ちょっと課の奴に電話したら、君、お母さんが倒れたって聞いて……」
「それで大阪から、かけて来たの?」
「うん。どうなんだい?」
「今のとこ、大丈夫。心臓がもともと悪かったの。当分入院だと思うけど」
「そうか……。起しちゃったかな」
「いいの。今、帰ったところ」
由利も、少し気持が落ちついて来た。
今、必要なのはこんな心を許せる会話なのかもしれない。
「じゃ、もう寝なきゃ。悪かったね」
と、工藤が気をつかって切ろうとするのを、
「待って」
と、止めた由利は、「あの――出張、どうだったの?」
「仕事? うん、まあ……どうってことはないよ。いつもの調子。少し飲んで、十二時ごろ、ホテルに戻って来た」
「そう。――体、こわさないで」
何か他に話すことがあるはずだ。そう思うのだが、何も出て来ない。
「いつ、帰るんだっけ」
「明日。夕方は会社へ顔を出すよ」
と、工藤は言った。
「そう。じゃあ……明日会えるね」
当り前のことを言って――でも、少なくとも、工藤のとりたてて「いい声」ともいえない声の響きを聞いているのが、快い。
「ともかく、無理するなよ」
「うん。ありがとう」
「じゃあ……」
「じゃ……おやすみなさい」
向うが切るまで、待っていた。――たっぷり十秒近くもあったろうか。
プツッと音がして、電話が口をつぐむ。
由利は、胸の辺りに重くのしかかっていたものが、少しとれたようで、大きく息をついた……。
手早くシャワーを浴びて(できるだけ音をたてないように)、布団へ潜り込む。
あまり干す暇もないので、冷たい布団だけれど、少なくともそこは自分だけの「小さな世界」である。
――工藤県一とは、一応の付合いはあるにせよ、「恋人」という仲ではなかった。工藤は少々単純だが気のいい青年で、二十五歳。由利より四つも年上だが、由利の方が何となく「姉さん」のようだ。
不器用で、およそ女の子にもてようと努力するタイプではないのが、むしろ|爽《さわ》やかである。――恋しているというわけでもなく、由利としては「気をつかわなくてすむ」相手、というところだった。
目を閉じると、疲れのせいか、じきに眠気がさして来る。
チラチラと視界に白い光の破片が踊って……それは父の顔になった。
老け込んで、疲れた父の顔。――三つの子供が、成人したとき、一体いくつになっているのか。
しかし、そんな先のことなど、今の父には考えていられまい。母と別れ、今の妻と再婚したときも、未来など考えている余裕はなかったはずだ。
ふと、由利は、父の家へ行ってみたいと思った。――意地悪でなく、父が、三つの子の相手をしているところを、見てやりたかったのだ。
|和《わ》|田《だ》|宏《ひろ》|美《み》。――それが父の今の妻である。
かつて、母の弟子だった、若手のピアニスト。才能の豊かな人で、母も|可《か》|愛《わい》がっていた。
あの気難しい母が――めったに弟子をとらず、大体、弟子の方で逃げ出してしまうのだったが――ただ一人、家族同然にしていた……。それが、裏目に出た。
いつしか、和田宏美と父は愛し合うようになっていたのだ。
もういい。――すんだことだ。
忘れよう。忘れよう。
由利は力一杯目をつぶって、眠りが訪れるのを待った。
由利が眠ったのは、一時間近くもたってからのことだった……。
6 才能
「遅くなりまして」
|由《ゆ》|利《り》は課長の|三《み》|浦《うら》の机の前へ行って頭を下げた。
「ああ」
三浦は、チラッと見上げただけで、それきり何も言わない。由利も別に何か言ってほしかったわけではなく、一礼して席へ戻って行った。
銀行へ寄り、入院手続をして、担当の医師に話を聞くので、一時間以上待たされて……。
結局、出社は午後になってしまった。
寝不足で少し頭痛がする。――今日も帰りに病院へ寄らなくてはならない。姉が行くとはとても期待できないからである。
たぶん、マネージャーの|太《おお》|田《た》が寄ってはくれるだろうが、アイドルタレントのマネージャーとは違って、クラシックの演奏家の場合、一人のマネージャーが何人もを受け持っているから、もちろん太田も、影崎多美子一人に|係《かかわ》り合っているわけにいかないのである。
ともかく、机の上に積み上げられた仕事を片付け始めると、
「はい、お茶」
と、同じ年齢の後輩、|沢《さわ》|田《だ》|千《ち》|加《か》|子《こ》が由利の|茶《ちゃ》|碗《わん》を置いてくれる。
「ありがとう」
由利はホッとして言った。
「お母さん、倒れたんですって?」
「うん。もともとね、心臓が……」
沢田千加子は、明るく、屈託のない二十一歳である。――何でも重役の|親《しん》|戚《せき》とかで、もちろんコネの入社だが、気持のいい子だった。
千加子はチラッと三浦の方へ目をやって、
「何だか、三浦課長、ご機嫌良くないのよね」
と、低い声で言った。
「そう?」
「ねえ、私、昨日は休みとってて、知らなかったんだけどさ、|凄《すご》かったんだって、由利?」
「何が?」
由利は当惑していた。
「ピアノ。凄い腕前だった、って。その話でもちきり」
「ああ……」
すっかり忘れてしまっていた。「そんなのオーバーよ」
「でも、|呆《あっ》|気《け》にとられたって。私、悔しかったなあ、聞けなくて」
由利はちょっと笑って、
「お聞かせするほどのもんじゃないわ」
と言った。
「今度、聞かせてよね。じゃ」
沢田千加子がサンダルをカタカタいわせて行ってしまうと、由利は改めて、少し気が重くなった。
ゆうべのカラオケバーでのピアノ……。
思い出すのも|辛《つら》い。確かに、お昼休みの話題にはなったかもしれないが、しかし、そんなものは三日と続くまい。早く忘れてしまってほしかった。
「――松原」
と、三浦課長が呼んだ。
「はい」
と、立ち上ると、三浦は席を立って来て、「ちょっと会議室へ来い」
「はい……」
何だろう。――課長に一人だけ呼び出されるというのは、あまり|嬉《うれ》しいことじゃないのである……。
空いた会議室に入ると、
「座れ」
と、三浦はぶっきらぼうに言った。
「はい」
|椅《い》|子《す》をガタつかせて引き、腰をおろす。三浦は立ったままだった。
いつも、酔うとひどく絡む課長である。アルコールのだめな由利にも、無理やり飲ませる。飲むまでそばを離れないのだ。
同年代の中では出世が遅れ、ポストからいっても、あまり先の見込みはない。屈折したものを抱えているのは、由利にも分るのだが、それを下へぶつけるやり方は、好きになれない。
「ゆうべのことだ」
と、三浦は言った。「言わなくても分ってるだろ」
由利は、戸惑った。
「何のことでしょうか」
「決ってるだろ! 歌えと言われて断っといて。お前は何で月給をもらってるか、分ってるのか?」
三浦は、|苛《いら》|々《いら》と歩き回っていた。
「すみません。でも、歌えないんです。本当に――」
「ピアノは弾けてもか」
と、三浦は顔をしかめた。「自分はあんな低俗なことはやれません、ってわけか」
由利は絶句した。とても大人の言うこととは思えない。
しかし――逆らってもむだなことは、よく分っている。
「そんなつもりじゃありませんでした。すみません」
と、頭を下げる。
「|俺《おれ》がな、文句を言われるんだ。どういう教育をしてるんだ、ってな」
三浦は、机の端に腰をかけて、「あの部長から、呼び出されてる。行って来なきゃならん」
「そうですか」
「そうですか、だと? お前のわがままの尻ぬぐいをするんだぞ、こっちは!」
三浦の怒鳴り声は、廊下にもたぶん聞こえているだろう。
由利は顔を伏せた。
「いいか。今度、あんな|真《ま》|似《ね》をしたら、許さんからな!」
吐き捨てるように言って、三浦は出て行った。――由利は、息を吐いて、机に|肘《ひじ》をつき、両手で顔を覆った。
――何やってるの! この怠け者! またさぼってたのね! 私がコンサートツアーに出てる間、何時間弾いたの? 五時間? 六時間? 素人芸じゃないの、それじゃ! そんなものでピアニストと呼べないわよ!
耳の奥で今も反響するあの声。
あれに比べれば……。そう、三浦に怒鳴られるくらいが何だろう。
ドアがそっと開いた。
「由利……」
「――千加子」
沢田千加子が、そっと顔を覗かせている。
「大丈夫?」
「うん……。聞こえた?」
と、由利は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「会社中に|轟《とどろ》きわたった」
「オーバーね」
と、由利は笑った。
「何なの、一体?」
「何でもないのよ」
と、由利は立ち上った。
「もうちょっと待ってる方がいいわ」
と、千加子が言った。「今、三浦課長、出かけるとこだから」
千加子が入って来て、ドアを閉める。「ね、由利。――新聞で見たけど、ピアニストの影崎多美子って人、演奏中に倒れたって。あれ、もしかして……」
由利は、ちょっとためらったが、
「ええ。母なの」
と言った。
「やっぱりね! 何となく違うと思ってた」
千加子は、椅子にかけると、「影崎って、ステージネーム?」
「ううん。私が、勝手に父の方の姓を名のってるの。父と母、離婚してるから」
「そうだったのか……。ピアノ、うまいわけだね」
と、千加子は言った。「私もピアノ、習ってたのよ。――ハイドンのソナタとか弾くとこまで行って、|挫《ざ》|折《せつ》したけど」
「そう」
「一度、聞いたことがあるの。あなたのお母さんの演奏。――小さいころで、よく|憶《おぼ》えてないけど」
由利は、ちょっと肩をすくめて、
「私も落ちこぼれ。――母に年中怒鳴られてたの」
「でも……。大変ね。重いんでしょ、病気」
「病気もだけど――何しろ、芸術家はわがままで」
と、由利は苦笑した。「もう仕事しなきゃ。残業できないの。母の所へ寄らなきゃいけないからね」
「帰っちゃえばいいのよ。三浦課長の言うことなんか、気にすることない」
「そうもいかないわ」
そう。――母の入院が長びけば、ここの給料だけでは足らなくなる。
姉が弾く気になってくれれば……。
由利は、席に戻ると、仕事を始めた。
オフィス内の目が、こっちをチラチラと見ているのが感じられて、しかし、あえてそれは無視している。
三浦の席は空いていた。――あの得意先の「部長」に呼ばれて出かけて行ったのだ。
何を言われて帰って来るか。それ次第では、また怒鳴られる覚悟をしておいた方が良さそうだ……。
佐竹|弓《ゆみ》|子《こ》は、ホールへ入って、ホッと息をついた。
ここは「自分の城」だ。この中では、落ちついていられる。音楽のことだけ、考えていればいいのだ。
赤字のことも、支配人の|叱《こ》|言《ごと》も忘れて。
しかし――いつまでもここが「自分の城」でいられるかどうか。
弓子も少々自信を失いつつあった。
ポーン、ポーン、とピアノを|叩《たた》く音。
調律師が、今夜のコンサートに備えて調律している。
「どうも」
と、弓子が客席の間をやって来るのを見て、調律師が顔を上げた。
「ご苦労様」
と、弓子は言った。
「大変でしたね、ゆうべは」
「ええ。今朝もそれで大騒ぎ」
と、弓子は笑ってステージに上った。「でも、今夜もコンサートはあるのよ」
「そうですな。影崎さん、良かったらしいじゃないですか」
「凄かったのよ。あのまま行ってればね……」
と、弓子はため息をつく。「ピアニストも人間だから」
「影崎さんですら[#「ですら」に傍点]ね」
と、調律師は笑った。「――今夜はヴァイオリンソナタでしたね」
「そう。ソロはないわ」
「じゃ、そのようにやっときます」
ピアノソロの場合と、ヴァイオリンに合せる場合、調律は微妙に違う。
「――いいピアノだ。当り[#「当り」に傍点]ですよ」
と、調律師が言った。
ピアノも手作り。一台一台、個性を持っている。
「ねえ」
と、弓子が言った。「〈インペリアル〉、知ってるでしょ」
「ベーゼンドルファーの、あの一番でかい奴でしょ?」
「そう。調律したこと、ある?」
「いや、私の受持の人にはね、あれを弾く人、いないんです。どうしてです?」
「いいの」
弓子は首を振った。
〈インペリアル〉は、通常のコンサートグランドピアノより一オクターブ下までのびた、巨大なピアノだ。
あのとき、影崎多美子が言った、
「インペリアル」
とは、その意味なのだろうか?
それとも、何か別のことか。――弓子の知っている限り、彼女が〈インペリアル〉を使ったことはない。
コツコツと靴音がした。
「どなた?」
と、声をかけて、「――まあ! そのみさん!」
弓子はステージからスカートを翻して飛び下りた。
そのみはジーパン姿で、のんびりとやって来ると、
「母が倒れた所を見に来たの」
と、言った。「ごめんなさい。続けて」
「弾きますか」
と、調律師が言った。「ヴァイオリンと合せるようにしてあるけど」
「いえ、結構」
と、そのみは首を振った。
「お母様の具合――」
「知らないわ。妹任せ」
そのみはステージに上った。「このホールに来るの、久しぶり」
ポンと手を打って、反響を聞くと、「良くなったみたいね」
「おかげさまで」
弓子はそのみを追って、またステージに上った。「――そのみさん。ぜひ、ここの自主企画で弾いて下さいな」
即座にはねつけられるかと思っていた弓子は、そのみが返事をしないので、|却《かえ》ってびっくりした。
そのみは、ゆっくりとステージの上を歩き回った。――まるで、陸上の選手がトラックを点検している、という様子だ。
弓子は、あえて押さなかった。そのみに、やる気があることは、分ったからだ。
「でもね……」
と、そのみは言った。「いつも私は母と比べられるわ。あんな化物と一緒にされたくないもの」
「あなたはあなたでしょう」
「気楽に言わないで」
と、そのみは苦笑した。「弾くのはこっちよ」
そのみは不安なのだ。
「母親には遠く及ばない」
と言われることが怖い。
|弓《ゆみ》|子《こ》には意外なことだった。しかし、あんな親を持ったことが、同じピアニストとして、どんなに辛いか……。弓子には想像することしかできない。
「終りました」
と調律師が言った。
「――弾いてもいい?」
と、そのみが言った。
「どうぞ。狂ったら、また直しますよ」
「じゃ……」
そのみはピアノに向った。――一瞬の沈黙。
意外に、そう構えることもなく、そのみの手は|鍵《けん》|盤《ばん》を|捉《とら》えていた。
7 契約
「〈インペリアル〉か……」
と、そのみはコーヒーを飲みながら、言った。
「どうしてお母様がそうおっしゃられたのか、伺ってみたいですね」
と、|佐《さ》|竹《たけ》弓子は言った。
「〈インペリアル〉ねえ。ベーゼンのピアノのことでなきゃ、ウィーンのホテルかな」
と、そのみは言った。
「ああ。ムジークフェラインの隣の?」
「ウィーンに何度か行って、母はあそこが気に入ってたから」
そのみはジーパンの長い足を組んで、息をついた。
Kホールの真向いにあるレストラン。コンサート前の一時間ほどは混雑するが、こんな昼間の時間は|空《す》いていて、ケーキがおいしい。
「一ついかが?」
と、ケーキのサンプルがワゴンで運ばれて来ると、弓子はそのみにすすめた。
「太っちゃうな」
と言いながら、そのみは中でも特別甘そうなのを選んだ。「じゃ、これ。――ピアノを弾いた分、エネルギー使ってるから大丈夫よね」
「そのみさん」
弓子の|膝《ひざ》には、分厚いノートがあった。Kホールに関するスケジュール表である。
「やりましょうよ。あれだけ弾けて、ためらうことないわ」
そのみは、目を伏せた。――絶対にいや、と言わなければOKしたも同じ。そのみのことは、弓子もよく知っている。
「三か月先の週末がちょうど一つ空いてるの。この間、急に亡くなっちゃったでしょ、ロシアの巨匠が」
「ああ。びっくりしたわ。死にそうもない人だったけどね」
と、そのみは言った。
「その週末がまだ埋ってなくて。いい日だと思うわ。もしコンチェルトが良ければオケもどこか押えるけど。でもやっぱりソロリサイタルをやってほしい」
「そうね……」
と、そのみが|曖《あい》|昧《まい》に言う。
相当に「やる気」になっている証拠だ。
「じゃ、決りね! 良かった。絶対に満席にして見せる」
と、弓子は言った。
相手の気が変らない内に、どんどん話を進めてしまうに限る。
「やりたいわけじゃないのよ」
と、そのみは、まだ未練がましい。
「そのケーキで買収されたってことにするの。どう?」
弓子の言葉に、そのみはちょっと目を見開いて、それから笑った。
「じゃ、じっくり味わって食べるわ」
と、運ばれて来たケーキにフォークを入れる。
それがいわば契約のサインだ。――佐竹弓子はホッとした。
芸術家は、とかく子供っぽい一面を持っているものである。うまくおだてて、ご機嫌をとり、「のせる」のもプランナーの大切な仕事の一つだ。
「何をメインに弾きます?」
と、弓子が言うと、そのみは苦笑して、
「そこまですぐ決められないわよ」
と言った。
しかし、弓子には分っていた。そのみがここまで言うからには、すでに頭の中にプログラムはでき上っているはずだ。
「何も、全部でなくてもいいの。後で変えたって。ただ、上の方の頭の固いのに話を通すとき、〈曲目未定〉だとね、やりにくいんです。分るでしょ?」
「ええ……。まあたぶん……ラヴェル辺りね、後、ドビュッシーか」
「いいですね。このところ〈モーツァルト〉ばっかり聞かされて、みんな少し食傷気味だもの」
と、素早くメモする。
「〈展覧会の絵〉は弾かないわよ」
そのみは、少しいたずらっぽく言った。
「ラヴェルで充分。そのみさんのファンには大いにアピールしますよ」
「私のファン? そんな人、まだいるのかしら」
と、そのみは言って、「ともかく、やるしかなさそうね」
と、自分に向って言うように、付け加えた。
「そうですよ。すぐ情報流しちゃうから」
弓子はパチッとボールペンの|芯《しん》を引っ込めて、「じゃ、契約書は事務所を通して?」
「そうね……。もう、あの事務所とは全然切れちゃってるの。担当の人もいないし」
「じゃあ、|太《おお》|田《た》さんにやってもらえば? とりあえずは、そのみさん個人との契約ということにしておきますから」
「太田さんか……。そうね、太ってる人って、あんまり好きじゃないんだけど」
「また、そんなこと言って」
と、弓子は笑った。
「でも、あいつ[#「あいつ」に傍点]も太ってるしな」
と、そのみは自分の言葉に苦笑いした。「いいわ。あなたに任せる」
「結構です。前の事務所の契約がどうなってるかも調べますから」
「お願いね」
こういう点、弓子は決して忘れたり手を抜くことがないし、他人任せにもしない。だからこそ信用されるのである。
「そうそう」
と、そのみは言った。「後半でもう一台ピアノを用意して」
「え?」
「デュオをやりたいの」
「二台のピアノ?」
弓子にも、これは驚きだった。そのみは個性の強いソリストだ。自分から二重奏を言い出すのは、珍しい。
「誰と弾くんです?」
と、弓子が|訊《き》くと、そのみはちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで、
「由利[#「由利」に傍点]よ」
と、言った。
何があったのか、|由《ゆ》|利《り》には見当もつかなかった。
ともかく、自分に関係のある「何ごとか」で、社内が大あわてしている。それだけは確かだった。
課長の|三《み》|浦《うら》が帰って来たのは、もう夕方近くになってからだった。何を言われるかと覚悟していた由利にとっては、何とも意外なことに、三浦はチラッと由利を見たきりで、自分の席を素通りして、部長の席へ行った。
何か小声でのやりとりの後、あわただしく、幹部が集められ、会議となった。もう三十分以上たつ。
「――どうしたのかしら」
と、書類を持って来た|沢《さわ》|田《だ》|千《ち》|加《か》|子《こ》がそっと言った。「何も言ってなかったの?」
「全然」
と、由利は首を振った。「会議って、社長も出てるの?」
「出てる。副社長も。お偉方総出って感じよ」
「どうしたんだろ……」
由利も、仕事はしているものの、気が気でない。
「あなたの名前が出てたのは確か。でも、秘書の子が、お茶出しましょうか、って|覗《のぞ》いたら、『いらん!』って怒鳴られたって。そのとき、『ともかく|松《まつ》|原《ばら》は――』って、誰かが言ってたらしいわよ」
「そう……。いやだなあ」
クビだろうか? 自分が一体何をしたというのだろう。
誰だって、勤務以外の時間、場所で、「したくないことを断る」権利くらい持っているんじゃないだろうか。
クビならクビでもいい。――しかし、たかが由利一人をクビにするには、少々騒ぎが大げさだ。
「――ただいま!」
元気のいい声が、会社の中に響きわたった。顔を上げると、|工《く》|藤《どう》|県《けん》|一《いち》がボストンバッグをさげて入って来たところだった。
由利はホッとすると同時に、ふっと胸が熱くなって、工藤に向って微笑むと、手を上げて見せた。
「やあ、何だ。――課長連中は? 部長もいないのか。みんな食当りかい?」
工藤の明るさは、この会社の中でも目立っている。「他に目立つ点がない」と言っては、工藤が|可《か》|哀《わい》そうかもしれないが。
「何だか緊急会議ですって」
と、女の子の一人が教えてやると、
「へえ。僕の給料を倍にしてくれる相談かな」
と、笑わせておいて、「これ、お菓子。配ってくれ」
「ごちそうさま!」
工藤は、自分の机の下にボストンバッグを置くと、由利の方へチラッと目をやった。
由利と工藤が付合っていることは、女子社員の間では知られている。こういうことを隠しておくのは、至難のわざなのである。
それに――特別隠さなくてはいけない理由もない。
工藤は、女の子がいれてくれたお茶を一口飲んで息をつくと、みやげに買って来たお菓子を持って、由利の机までやって来た。
「お帰り」
と、由利は言った。
「これ。――変り映えしないけどな」
「ありがとう」
「お母さん、どうだい」
「ええ、今のところ……。帰りに病院へ寄るわ」
「そうか。お大事にね」
本当なら、二人でおしゃべりしたいところだ。しかし、そんな余裕は今の由利にはない。いや、今の「会議」次第では、それどころではなくなるかもしれない……。
「何の会議なんだ? 聞いてる?」
と、工藤は不思議そうに言った。
由利自身からは話しにくい。しかし、説明する必要もなかった。
課長の三浦を始め、会議に出ていた面々がゾロゾロと席に戻って来たのだ。
「おっと。こっちも席に戻らないとやばいや」
と、工藤は言った。「今夜でも、電話するよ」
「ええ」
と答えながら、由利は苦虫をかみつぶしたような(いつものことだが)三浦の方をチラッと見ている。
三浦は、由利の方へ目も向けなかった。
――何だったのだろう? 見当もつかない。
机の上の電話が鳴った。
「はい。――あ、佐竹さん、どうも。――え?」
佐竹弓子の話に、由利はびっくりした。
「じゃ、姉がリサイタルを? 本当ですか」
「そうなの。Kホール独占! さっき、Kホールへみえてね。少し弾いたのよ」
「そうですか……」
由利はホッとした。「良かったわ。でも――」
気がかりなのは、同居している|今《いま》|井《い》との間だ。妙にこじれたら、姉はリサイタルどころじゃなくなるだろう。
「一つ、そのみさんの希望があるの」
と、佐竹弓子が言った。
「姉の?」
「最後に、由利さんとデュオをやりたいって」
由利は絶句した。――そこへ、社長秘書の女の子がやって来て、
「社長がお呼び」
と言った。「すぐ来て」
「はい。――あの、佐竹さん、また後で――あの――」
「夜でも連絡するわ。ぜひ実現させたいの、そのみさんのリサイタル」
「ええ、それは……」
「協力して。お願いよ。それじゃ」
忙しい人である。言うだけのことを言って、パッと切ってしまう。
由利は混乱した気分のまま、立ち上った。
え? どこへ行くんだっけ、私?
「社長がお呼び」
そう言われたような――。間違いかしら?
でも、課長は下を向いて、何か書いている。――それに呼びに来たのは社長の秘書だし。
そう。社長に呼ばれているんだわ、私。何の用事か、見当もつかないけど。
由利が歩いて行くと、心配そうに目で追っている工藤と、目が合った。由利は小さく首を振って、社長室へと歩いて行った。
――社長室のドアを|叩《たた》くのは、初めてのような気がする。いや、たぶん、初めてだろう。
「入れ」
と、返事があった。
クビかしら。でも、そんなことで、いちいち社長が直接呼んだりするだろうか?
由利は、ちょっと呼吸を整えて、ドアを開けた。
8 母と娘
「はい、そうそう。よくできたじゃない。|昭《あき》|子《こ》ちゃん、よく練習してるわ」
|賞《ほ》められていやな子はいない。――本当のところは、毎日どころか、三日にいっぺん、十五分も練習しているかどうかだろうが、それでもニコニコしている。
「もうちょっとね。この左手の方が、どうしても遅くなるでしょ。それに気を付ければ……。ウーン、ま、いいか。おまけしてあげる!」
一曲、「マルをもらって」、子供の顔にはホッとした表情がうかがえる。
「はい、それじゃ、また来週ね。この次の曲は、前にやったのとよく似てるから、自分で練習してみてね」
ろくに先生の言葉なんか聞いていない。
手早く楽譜をバッグへ入れ、
「さよなら!」
バタバタと玄関から飛び出して行く。
「車に気を付けて」
と、|宏《ひろ》|美《み》は声をかけた。
聞こえてはいないだろうが、ともかく、つい、そう呼びかけてしまうのは、自分が母親になってからのことである。
――さて。この後は一時間空いている。
次の生徒は、中学生の女の子で、いつも全く練習して来ないので、一向に先へ進まないのが悩みの種だった。
それでいて母親からは、
「ちゃんとお月謝を払ってるんですから、真剣に教えて下さい」
と文句を言われる。
教師のできることなど、大してありはしない。本人が好きで、練習すること。それしかない。
しかし、こんな所で、〈ピアノ教室〉を開いている限り、そんな生徒でも、大事な「お客さん」である。
ともかく――この間に夕ご飯の仕度をしなくては。
宏美は、茶の間を覗いた。|早《さ》|苗《なえ》が、昼寝から覚めて、指をしゃぶりながら、絵本を見ている。
「あら、起きたの?」
と、宏美は笑顔で言った。
「ママ、おやつ」
と、待っていたように、宏美の|膝《ひざ》にのって来る。
「はいはい。何かあったかなあ……」
早苗の好きなゼリーが冷蔵庫に入っている。
「あ、これがあった! 食べる?」
「ウン」
早苗にスプーンを渡して、
「こぼさないでね」
と、頭を軽くなでてやって、台所へ立つ。
――早苗が生まれて、宏美の生活は一変した。もちろん、忙しさは何倍にもなり、生徒をとる数も、減らさざるを得なくなった。
しかし、それでも宏美は幸せである。充実していた。
あのころ……ピアノがイコール「人生」そのものだったころに比べて、もちろん、比較にならないほどささやかな幸せかもしれないが、ともかく、ここにはずっと「人間的なぬくもり」があった。
夫――|松《まつ》|原《ばら》|紘《こう》|治《じ》と結ばれるまでの、|嵐《あらし》のような日々の後だけに、今の日々の平穏が、退屈でもなく、幸せと感じられるのかもしれない。
冷凍しておいたシチュー。――これで我慢してもらおう。明日はレッスンのない日だから、買物に行ける。
後はミソ汁を作って、サラダ……。もう若くはない夫の体を考えると、できるだけ野菜をとらせておきたい。
電気|釜《がま》のスイッチを入れた。――これで、夫が早く帰って来てくれるといいのだが。
玄関のチャイムが鳴った。
「はあい」
公団住宅の中層の中古を手に入れたこの家は、手狭ではあるが、建物がしっかりしているので、ピアノのレッスンをしても、下の部屋から苦情が来たりしないのが何よりである。
もっとも、そのために、下の部屋の小学生の女の子には、タダでピアノを教えている。
「――はい」
と、玄関へ出ると――。
「|鍵《かぎ》もかけないの?」
「お母さん……」
と、宏美は言った。「生徒が帰って、そのままだから……。大丈夫なのよ、いつも出入りしてるから」
「そう」
宏美は、
「上って」
と、スリッパを出した。
買って来たばかりの新しいスリッパである。
|和《わ》|田《だ》|涼子《りょうこ》は、上り込んで、
「今はレッスン中?」
と訊いた。
「ううん。そうじゃないの。今は空き。――早苗、おばあちゃんよ」
早苗は、この見るからに厳格そうな祖母に、恐れを感じている様子で、
「おばあちゃん……」
と、小さな声で言って、母親のスカートのかげに隠れている。
「また大きくなったわね」
和田涼子も、孫を見ると笑顔になる。
「もう、ずいぶん見てないでしょ」
「そうね。一年くらい? もうじき三つでしょ」
「うん」
「大きくなるわけよね……」
と、和田涼子は茶の間へ入って、座布団に座った。
「ママ、ピアノいじってていい?」
と、早苗が言った。
「いいけど、お手々を|拭《ふ》いてから」
宏美は、タオルで、早苗の手をていねいに拭く。
早苗が隣の部屋へ駆けて行くと、すぐにポン、パン、と|鍵《けん》を叩く音が聞こえて来る。
「――お茶を」
「ありがと」
宏美は、母の髪にずいぶん白いものが目立つのに気付いた。
「どうかしたの?」
と、宏美は言った。「具合でも――」
「聞いてないの? |影《かげ》|崎《さき》先生のこと」
宏美は、その名前を久しぶりに聞いてハッとした。
「先生が……」
「倒れたの。演奏中に。知らなかった?」
「倒れた?」
宏美は一瞬青くなった。「知らなかった……。新聞見てる間もないの」
「一応命はとり止めたらしいけど、心臓ですって。当分入院の様子よ」
「そう……」
「松原さんは知ってるの?」
「あの人? さあ……。そういえば、ゆうべ遅かったけど、ずいぶん。朝はあわただしく出て行くから、そんな話する暇なかった」
宏美はそう言って、「お母さん、私も〈松原〉よ」
「そうだったね」
母の涼子は、少し冷ややかな口調になって、「紘治さん――だっけ。もう五十?」
「まだ四十九よ。なったばかりだわ」
「四十九で、子供が三つね。――大変だね」
「お母さん、やめて……。そのことはもう――」
「分ってるわよ。でもね、あんたがこんなアパートで、近所の子供相手にバイエルだのブルグミュラーだの教えてるのかと思うとね……。こんなことさせるために、あんたを音大へやったわけじゃなかった」
「それを言いに来たの?」
と、宏美は少し挑むような口調で、言った。「夕ご飯の仕度をするの。あと四十五分もしたら、次の生徒さんが来るわ」
「宏美」
と、母が言った。「今日、電話がかかって来たの。あんたの連絡先を知りたいって」
「何の用で?」
「今井さんって、|憶《おぼ》えてる?」
「今井?」
「ヴァイオリンの。ほら、影崎先生の上の娘さんと――」
「ああ、今井君か。今井|初《はじめ》君でしょ」
「そう。今、そのみさんと暮してるんですって」
「そのみさんと?――結婚してるの?」
と、宏美は訊いた。
「いいえ。知ってるでしょ、そのみさんのことは」
「うん……。じゃ、今は今井君なのね」
今井は宏美より大分後輩である。ここのところ、名前をあまり見ない。
「今、何してるの、今井君」
「ちょっと鳴かず飛ばずね。――で、今度、Tホールの小さい方で、室内楽をやるんですって。ピアノ五重奏――ドヴォルザークに出るはずだったピアノの人が、突然ドイツへ留学しちゃったとかで。代りの人を必死で捜してるの。で、あんたにどうかって訊いてみてくれってことなの」
涼子の早口な言葉は、途中で遮られることを恐れているようだった。
「そんな……。無理よ」
と、宏美は首を振って、「もうずっと本格的に練習なんかしてないわ」
「分ってるけど……。もちろん、お金になる仕事じゃないわ。でも、あんたが少しでも……」
言いかけて、母の声が小さく消える。
宏美は、母がまだ夢を捨てていないことを知った。――娘が、いつの日か一流のピアニストとして、ステージに立つ、その夢を。
「とても無理。そう言って」
と、宏美は言った。
「でも――」
「無理よ」
宏美の言葉に、母親は|諦《あきら》めた様子で、
「そうだろうとは思ったけどね……」
と、ため息をついた。「一応、連絡先を置いてくわ。――今井さんのじゃなくて、そのコンサートのマネジメントをしてる人の所ですって。今井さんは今、あの人と一緒だものね」
メモ用紙がテーブルに置かれる。――むだよ。持って帰って。捨てられるだけなんだから。
宏美はそう言おうとして、何とかのみ込んだ。それだけきつい言葉を母に向って言うためには、宏美にも後ろめたいところがあったのである。
「――いつから幼稚園?」
と、母が話題を変えた。
宏美は、十分遅れて来たその中学生の女の子が、いつもの通り、少しも練習しなかったことを、すぐに見ぬいた。
「ちゃんとやってんだけど」
と平気で言っても、プロの目はごまかせない。
「はい。このくり返しの所から、もう一度」
辛抱強く、宏美は言った。
実際、近所の子供たちを教えてみて、宏美はずいぶん辛抱強くなった。教える身にとって、生徒が練習しないで来ることが、どんなに腹立たしいかも、よく分った。
「――ほら、よく見て!」
と、宏美は言った。
同じところで、もう五回も引っかかっている。
「面倒かもしれないけど、くり返してけいこするしかないの。分る? 指が憶えるまでやるのよ」
注意されるとか|叱《しか》られるということに、今の子は慣れていない。すぐにプーッとふくれてしまうのである。
叱る方が悪い。教え方が悪い。――何でも悪いのは「自分じゃない」のである。
「ね、先生」
「なに?」
「先生の|旦《だん》|那《な》さんって、|凄《すご》い|年《と》|齢《し》とってんですって?」
宏美は一瞬絶句した。
「そんなこと、あなたと関係ないでしょ」
「聞いたよ、ママから」
「何を?」
「よその旦那さん、とっちゃったんだって? やるじゃない、先生」
宏美は、怒りがこみ上げて来るのを、必死で抑えた。――この子の母親は、この辺では有名な「実力者」である。
「そんなこと、どうでもいいの。はい、もう一度」
「もう飽きたよ!」
と、女の子は伸びをして、「ね、先生、弾けんの?」
「何を」
「これ。先生弾くの、聞いたことないなあ。ママが言ったよ。『あの先生、本当はうまくないんじゃないの?』って」
どこまで本当か。しかし、あの母親なら言いかねない。――宏美は、目の前で、人を小馬鹿にしたような顔で笑っている女の子を、ひっぱたいてやりたかった。
自分が習っていた先生だったら――影崎|多《た》|美《み》|子《こ》ほど偉くなくても――とっくに一発くらっていただろう。
いやならやめればいい。――親の意志で無理に習わされている子には、宏美も同情していた。そういう子は、少々できが悪くても、あまり叱らないようにしている。
しかし、この子のように「練習しないけど、うまくなって、いいカッコしてみたい」という子には猛烈に腹が立つのだ。
「どいて」
と、宏美は言った。
「え?」
「どいてごらんなさい」
女の子が立つと、宏美はピアノに向った。そして――猛然と弾き始めた。|鍵《けん》|盤《ばん》が揺らぐかと思うほどの力で、叩きつけ、指は目にも止らぬスピードで走った。
びっくりした早苗が覗きに来たくらいだ。中学生の女の子は、その|凄《すさ》まじい勢いに、|呆《あっ》|気《け》にとられて立っていた。
ほんの何分かだろうが――小さなレッスン室の中は、弾くのをやめてもしばらく、ジーンと音が鳴り響いているようだった。
宏美は立ち上って、
「もう、帰っていいわ」
と、言った。
「でも……」
レッスンの時間は、まだ十五分も残っている。
「練習して来なかったら、一時間やっても同じ。来週は少しでも練習してらっしゃい」
「はい……」
女の子はすっかり|呑《の》まれてしまっている。
「さよなら」
「楽譜、忘れたわよ」
「あ、はい!」
あわてて飛び出して行く生徒の後ろ姿を見送って、宏美は息をついた。
体が熱い。久しぶりの経験だった。
「ママ……」
と、いつの間にか、早苗が足下に来ていた。
「早苗ちゃん。――どうしたの?」
「ううん……。大っきな音だったね」
「そうね」
と、宏美は笑った。
心から笑った。久しぶりの、|爽《そう》|快《かい》な気分。
思い切り弾いた、という快感が、宏美を|捉《とら》えていた。
宏美は、茶の間へ入って、自分でお茶を飲んだ。電話が鳴る。
「――はい。――あなた。今夜は?」
「あと三十分くらいで出られると思う。一緒に食べられそうだな」
と、松原紘治は言った。「早苗は起きてるか?」
「ええ。代るわ。――パパよ」
「もしもし、パパ?――うん……。うん……」
早苗が大きな受話器を、持て余しそうにしている。――宏美は、ふとテーブルに目をやった。
母の置いて行ったメモ。
ドヴォルザークのピアノ五重奏か。――宏美の好きな曲だった。
でも……。あんな子をびっくりさせるぐらいは簡単でも、ホールで、一般の聴衆を前に弾くというのは、全く別のことである。
とても無理。――とても。
宏美は、そのメモを手にとった。ギュッと握り|潰《つぶ》して……。
しかし、捨てなかった。もう一度、しわをのばすと、
「どうでもいいけど……」
と、|呟《つぶや》きながら、ていねいに二つに折って、引出しへ入れたのだった。
9 |虎《とら》と|狐《きつね》
「どうも遅くなりまして」
課長の三浦が、ペコペコ頭を下げているのを、由利はしらけた表情で眺めていた。
「おお、来たか。まあ座れ」
その〈部長〉は、ゆうべカラオケのマイクを握ってはなさなかった男とは別人のようだった。
大きなデスク、革ばりの立派な|椅《い》|子《す》。
傍に美人の秘書を従えて、その|貫《かん》|禄《ろく》は大変なものだ。もちろん、企業自体、由利の勤め先とは比較にならない大企業なのである。
「君だ、君だ」
と、その部長は由利の方へやって来た。「まあかけてくれ」
「ゆうべは失礼いたしました」
と、由利は頭を下げた。
「いやいや。君こそ、いやなものを押し付けられて気の毒だったな。何しろマイクを持つと人格が変るんでね、私は」
と、笑って、「君は――|三《み》|田《た》君だったか」
「三浦でございます」
「おお、そうか。君がこの子の上司か」
「はあ。色々至りませんで」
「ま、かけろ。――おい、コーヒーか何か……。何を飲むね?」
「あの――では、コーヒーを」
「うん、コーヒー三つだ」
「はい」
と、スラリとした長身の秘書が立って出て行く。
大きな窓から、明るく日が|射《さ》し込んでいる。
「君のとこの社長から、話は聞いたかね」
と、部長は言った。
「あの……よく意味が分りませんでした」
と、由利は正直に言った。
「そうか。あいつは大体回りくどい。同じ話を何回もしたりな。――君は何といった?」
「あの……名前でしょうか」
「そうだ」
「松原です。松原由利と申します」
「松原由利か。――ピアノは誰に習ったんだね」
「は?」
由利は面食らった。「あの――母からです」
「ほう。そうか。しかし大したもんだな。私はよく分らんが、音楽のことは。しかし、あの腕前は相当なもんだ」
「いえ、とんでもない」
と、由利は目を伏せた。
由利は、社長の言いつけでここへ来ている。しかし、何の用事か、実際よく分らないのだった。
分っていることは、ただゆうべのことで、この部長が由利を気に入ったということ。何か由利にさせたいことがあるということ……。それくらいだった。
「|中《なか》|山《やま》部長は、しかし、多才でいらっしゃいますから」
と、三浦が口を出した。「評判はうかがっております。|小《こ》|唄《うた》からカラオケまで、ともかくどんなことでも――」
「下らん」
と、中山(初めて由利は〈部長〉の名前を知った)は遮って、「|俺《おれ》のは素人芸だ。自分でもそれくらいのことは分っとる」
「はあ、しかし……」
三浦は口ごもって、黙ってしまった。
由利は笑いをかみ殺していた。――三浦の「お世辞」も、通じないと惨めなものだ。
「――コーヒーが来た。まあ飲んでくれ」
中山は、由利の方にだけ目を向けている。三浦が面白くなさそうにしているのが、おかしかった。
「実は、君のとこの社長に話したのはこういうことだ」
と、中山は自分のコーヒーを一口飲んで言った。「今、うちのグループ全体のイメージ戦略を立てている。分るかね」
「はあ、何となく」
「特定の製品の宣伝というのでなく、企業グループ全体のイメージ作りに、何かふさわしい広告を、と考えてたんだ。うちのグループは今、三十五社ある」
「そんなにですか」
由利は正直、びっくりした。
「うん。だからどの一社にも、偏った宣伝は打てない。――分るかね?」
「はい」
「それで頭を悩ませてたんだ。ゆうべ、君がピアノを弾くところを見ていてピンと来た。――ピアノを弾く少女と美しい自然。これがいい、とね」
「はあ……」
「で、君のとこの社長に今朝電話を入れたんだ。うちのイメージ広告に、君を使いたい」
由利は、それこそ|呆《ぼう》|然《ぜん》として、中山を眺めていた。いや、そのときには「中山」という名前すら、どこかへふっとんでしまいそうだった。
「あの……」
「聞いてなかったのかね、何も」
と、中山は|眉《まゆ》をひそめて、「おい、君のとこは何をしとるんだ? あんな簡単な話がどうしてちゃんと伝わらんのだ?」
三浦は、まずいときだけ自分の方へ話が来るので、顔をしかめたが、
「いえ、その――お話の内容について、色々と当方で話し合っておりまして……」
「話し合う? 何をだ?」
「いえ――つまりその……」
「ともかく、今は分るな」
と、中山は由利に言った。
「はあ……。広告に――出るんでしょうか、私が」
「そうだ」
「あの――ポスターとか、新聞広告とかですか」
「検討はこれからだ。しかし、私の考えでは、TVのCFから、新聞、雑誌、あらゆるメディアに使いたいと思っている」
「私は……あの……。こんなことを申し上げては変ですけど、美人でも何でもありません。もっと|可《か》|愛《わい》い人とかスターとか――」
「いや、|手《て》|垢《あか》のついたタレントは困る」
と、中山は首を振って、「素人でいいんだ。その方がイメージに合う。しかし、一方で、ちゃんとピアノが弾けてほしい。そうだろう? 格好だけつけても、見る人間にはすぐ分るもんだ。君なら正にうってつけだ」
由利は、そっと自分の膝をつねってみた。――痛かった!
「もちろん、君の了解をとるのが第一だ」
と、中山は言った。「その上で、こっちとしても計画を進めたい」
三浦が、座り直して、
「いや、大変すばらしいご計画で。うちの社員をお使いいただけるというのは、光栄の至りでございまして――」
「誤解するな。私はこの子、個人に話をしてるんだ。おい三浦といったか。ちょっと外で待ってろ」
「はあ?」
「外の受付で待っているか、それとも、帰ってもいいぞ、先に」
三浦の顔がサッと赤くなったが、もちろん〈部長〉に逆らうわけにはいかない。
「では……。受付で待たせていただきます」
と、腰を上げた。
三浦が出て行くと、中山は、
「うるさい奴だ」
と呟いた。「君はあいつの下にいるのか」
「そうです」
「口やかましいだろう」
由利は、何と答えたものか、迷ったが、
「みんな、疲れてるんだと思います」
と言った。
「疲れてる、か。――確かにそうだ」
中山は笑った。「君の気持はどうだ」
「はあ……。思いもかけなかったので。……でも、これはたぶん上からの業務命令になりますね」
「うむ。しかし、いやいややってもらってもこっちも後味が良くない。――君の方で望めば、こっちの社へ引き抜いてもいい」
「引き抜く?」
「それとも、君が独立してもいいじゃないか。あの腕なら、プロでやれる」
とんでもない、と言いかけて、何とかこらえる。
「私は――上手な素人の域を出ていません。とてもプロには……」
「そんなものかね。私にゃ大した腕前に聞こえるが」
と、中山は言った。「で、どうかね、君の気持は。まずやる気があるかどうかだ」
もちろん、とんでもないことだ。断るべきだろう。母が知ったら何と言うか……。
由利は普通のOLとして暮すと決めたのだ。
しかし――母の入院のことを考えると、そう即座に断ることもできかねた。
「あの……」
と、少しためらいながら、「仕事ということでしたら、当然お金は出ませんね」
「金のことなら、相談には応じる。何億ってギャラは出せんが」
「そんな……。母が入院していて、多少お金が入れば、と思ったものですから」
「そうか。――ゆうべ急いで帰ったのは、そのことか?」
「そうです」
「なるほど。――たぶん、君が今の会社にいたら、一銭も出んだろうな。しかし、うちの――たとえば契約社員という扱いで、どうだ? 契約金は上のせ[#「上のせ」に傍点]するということで。いや、いずれにしても、名のあるタレントを使うより、ずっと安く上るし、フレッシュだ。君の気持一つだ」
――由利は、少し落ちついて来ると、この中山の申し出に、びっくりした。いや、話の中身にはもう驚きずみ(?)である。
中山が、由利の意志を尊重しようとしてくれていることに、びっくりしたのだ。
本当なら、「出ろ」の一言ですむ話である。――ゆうべ、カラオケでしつこく歌い続けていたのとは別人のようだ。
逆に言えば、もちろん向うも何かのメリットがあって、由利を、と考えている。それだけの考えがなければ、とても部長をやってはいられまい。
現実的に考えよう、と思った。
姉がリサイタルをやる。しかし、それは何か月も先のことで、しかも、クラシック音楽のプレイヤーのギャラは、新人のポップス歌手並に安い。それが母の入院費用の内、どれくらいの足しになるか。
由利はいくらか貯金もあるが、それだけでは母の入院が一か月以上になったら、とてももつまい。助けてくれる人もいない。
太田が頑張ってはくれるだろうが、事務所だって、台所は苦しいはずだ。いつまで面倒をみてくれるか。
姉が貯金しているとは考えられない。由利にはよく分っている。
――由利は、ちょっと息をつくと、
「分りました」
と、言った。「お言葉に甘えて……。こちらの契約社員ということにさせていただけますか」
「よし。決りだ」
と、中山はニッコリ笑って|肯《うなず》いた。
「で――あの――こんな|図《ずう》|々《ずう》しいことを申し上げて……」
「構わんよ。お母さんの入院費用ということなら、少し準備金を出そう」
「そうしていただけると……」
「で、いくらにする? 契約金だが」
それこそ、由利には見当もつかない。
「あの……いかほどでも」
と答えて、中山を大笑いさせてしまった。
会社へ戻るタクシーの中で、三浦の機嫌のいいのに、由利は面食らった。
あんな風に部長室を追い出されて、さぞ怒っていると思ったのだ。
「社長もご満悦さ」
と、タクシーの中でタバコをふかしながら言った。「何しろ、あの中山部長は、あの会社でも事実上のトップだ」
「そうなんですか」
「あの会社の社長とか専務は全部創業者の一族だ。どれも大したことないんだよ。あの部長がいなかったら、とっくにどこか人手に渡っていただろうな」
大したことない、なんて「大したことのない」人間が言うと、おかしい、と由利は思った。
「あの部長と特別のつながりができるってのは、大したことなんだ。――社長も感心してくれる」
由利は、少々戸惑ってはいたが、やっと三浦がどうして喜んでいるのか分った。
中山は由利個人を気に入って、使いたいと言っているわけだが、それも三浦にとっては、「自分の功績」の内なのだろう。
もちろん、由利は、今の会社を辞めて、あの会社の契約社員になるなどとは、三浦に話していない。中山が自分から社長へ連絡してくれることになっているのである。
辞める、となったら、ずいぶん気が楽になった。三浦の上機嫌ぶりも、おかしくなる。
しかし――とんでもないことになったものだ。
ピアノを弾くところを、TVとか新聞に出される。――母は怒るだろうし、姉も、そういうことは嫌う人である。
でも、どうせこのまま行ってもプロになれるわけではないのだ。一度だけ出て、それで母の入院のお金が出れば……。
由利は、簡単に考えていたのである。
「あ、そうだ」
と、思わず口に出していた。
「何だ?」
と、三浦が由利を見る。
「いえ――何でもありません」
姉のリサイタルのことでの、佐竹弓子の電話! 忘れていた!
姉と一緒に出ろって? 冗談じゃない! そんなこと、とても……。
「おい、松原」
「はい?」
「何か、甘いもんでも食べてくか。俺はな、一人のときはよくフルーツパフェを食べるんだ」
これが、昼間自分を怒鳴りつけた同じ人間だろうか? 由利は|呆《あき》れて、腹も立たなかった……。
10 取り引き
「TVに出る?」
そのみは呆れて言った。
「お母さんには内緒ね」
と、由利はチャーハンを食べながら、言った。
病院に近い中華料理の店。――そのみを誘って、見舞に行くところである。
そのみの方も、由利を引張り出そうという下心があるせいか、おとなしくやって来た。
「CFに出るのよ。成り行きよ。仕方ないの」
と、由利は言いわけがましく言った。「お金のためよ」
「お母さんが聞いたら、あんた、ぶん殴られるね」
「黙っててってば!」
と、由利は念を押した。「ね? お母さん、TVなんか見ない人だし、分りゃしないわ、きっと」
「そりゃどうかしら」
と、そのみはそばをすすった。
由利だって分っている。
母は、一流の域に達した人間なら、何をしても干渉しない。しかし、由利のように、「ピアニストまがい」の人間が、それこそ「プロらしく」TVで弾いて見せたりしたら、カンカンになって怒るだろう。しかも、自分の娘が……。
「じゃ、黙っててあげる」
と、そのみは言った。「その代り、あんたは私のリサイタルに出るのよ」
「お姉さん……」
「情ない顔しないの。よくやったでしょ、昔。たぶんプーランクのソナタ」
「勘弁してよ」
「ガーシュインにする? あんたの好みに合せるわ」
「どっちも同じじゃない。それに全体のプログラムの中でどうかってこともあるでしょ」
「やる気、出してくれてるのね。――ありがとう」
と、食べ終って、「――ああ、おいしかった!」
「ちゃんと食べてるの?」
「ホカ弁とか、|牛丼《ぎゅうどん》とかね」
「体に悪いわよ」
「料理なんてできないじゃない、私たち」
そう。――母は何もやらせなかった。
もし包丁でもいじっていて、手にけがしたら、どうするの!
何もかも、ピアノがすべてだったあのころ……。
しかし、気は進まないにせよ、由利は姉のリサイタルに出る気ではいた。
ゆうべの姉と比べ、今の姉ははつらつとして、若く、目に力がある。それほど、ピアニストにとって、「ピアニストであること」は大切なのだ。
リサイタルが決ったことで、そのみの生活に張り[#「張り」に傍点]が出て来るだろう。――由利は、それが|嬉《うれ》しかった。
「じゃ、プーランクのソナタ」
と、由利は言った。「楽譜、持ってる?」
「マンションにある」
「借りに行くわ。――練習する場所もない」
「あそこでやれば?」
「考えるわ」
由利も食べ終えて、お茶をもらった。「――ね、今井さんと、どうするの?」
「ああ。――忘れてた。あんなのがいたね」
「ひどいわね」
「しばらく出ててもらうしかないわね」
「行く所、あるの?」
「あるでしょ。何しろ女出入りの激しい人だから」
由利は、少しホッとしていた。姉が本気でリサイタルに取り組む気持でいることが分ったからだ。
そう時間はない。もちろん、得意な曲だけでプロを組むとしても、演奏として完成させるためには、「初めて弾く」気で取り組まなくてはならない。それには、今井との生活であれこれ気を散らすわけにはいかないだろう。
「――じゃ、病院へ行く?」
と由利は立ち上った。
「うん。何か買った?」
「容態も分んないのに。ともかく、お医者さんの話を聞きましょ」
と、由利は言った。
「――どうかしたのか」
夕食の席で、松原紘治は言った。
「え?」
宏美はご飯をよそいながら、「何のこと?」
「帰って来るとき、エレベーターの所で、下の部屋の……何てったっけ、あの派手な奥さん」
「|山《やま》|形《がた》さん?」
「ああ、そう。あの人に会ったら、何だか凄い音がしてたって、ピアノの。壊れてるのかと思ったそうだ」
「何でもないわ」
と、宏美が笑うと、
「ママ、すっごく大きい音で弾いてたよ」
と、早苗が言った。
「何だ、君が弾いたのか。変だと思った」
松原は笑った。
「あんまり生徒がやって来ないから、頭に来て」
と宏美は苦笑した。「少しびっくりさせてやりたくて」
「そうか。――大変だな。発表会もあるんだろ? 会場、取れそうか」
「何とかするわ。この辺だと数が少なくて、なかなか取れない」
「――|旨《うま》いな、我が家の夕飯は」
と、松原がため息をつく。「毎日こうできるといいんだが」
「あんまり無理して働かないでね」
と、宏美は言った。「体をこわしたら、何にもならない」
「ああ……。来年は幼稚園を受けなきゃな」
「どこか近くで……。遠くは大変よ」
と、宏美が言った。
「ね、今日、おばあちゃんが来た」
早苗が報告[#「報告」に傍点]する。
松原は、宏美を見て、
「お母さんが?」
「ええ……。ちょっと寄ったのよ」
と、宏美は言って、「それより――影崎先生、倒れたって……」
「うん」
松原が、ちょっと目をそらす。
「知ってたの」
「しかし、何とか持ち直したからな。わざわざ言うこともないと思って」
「会ったの?――会ったんでしょ?」
松原は、息をついて、
「いや……。会わなかった。娘の由利には会ったが。あの子がそばについてることになるだろう」
「新聞で見たわ。母に言われるまで知らなくて……。演奏中ですって?」
「そうらしいな。僕は見てない」
と、松原は首を振る。
「ほら、もう食べないの? もう少し食べたら?――そう? じゃ、『ごちそうさま』して」
「ごちそうさま」
と言って、「TV、見ていい?」
「三十分だけよ。あんまりそばで見ないでね」
「うん!」
早苗が駆けて行く。
――宏美は、影崎多美子が、演奏中に倒れたという記事を見て、ショックを受けた。
あの人は、相変らず命がけだ。命をかけて、ピアノを弾いている。
|年《と》|齢《し》はとっても、その情熱は衰えない。凄いものだ。
「あなた」
と、宏美は言った。
「うん?」
「私……昔知ってた人から、ちょっと頼まれてるの。ピアノ五重奏を一曲だけ、手伝ってくれないかって。――どう思う?」
言うつもりではなかった。しかし、あの影崎多美子の記事が、宏美を何か[#「何か」に傍点]に駆り立てたのだ。
「そうか。しかし――」
「練習も含めて三回もあれば……。よく弾いた曲だし」
と、宏美は言った。「あなたに迷惑はかけないわ」
「そんなことはいいよ。誰なんだい?」
「あの――ヴァイオリンの今井君っていう後輩。今、そのみさんの『彼氏』だそうよ」
「へえ。そのみの? 忙しい奴だな、あいつは」
と、松原は笑った。「いいじゃないか。少しやった方が、鈍らなくてすむだろう?」
「そうね。――じゃあ、弾いてもいい?」
「平日か?」
「うん。早苗は、誰かに頼むわ。一曲だけだから、五十分もかからないと思うし」
「いや、聞きに行こうかと思ってさ」
「やめてよ。下手なのを聞いても、良くないわ」
「何を着るんだ?」
そう。そんなこと、考えてもいなかった。
ドレスの|類《たぐい》は、一切持って来ていない。
「お母さんに言えば、持って来てくれるでしょ」
と、宏美が言うと、
「買えよ」
と、松原が言った。
「でも――もったいないわ」
「大した出費じゃない。買えばいいじゃないか」
松原の言い方にはこだわりが――妻に、コンサート用のドレス一着買ってやれない、と言われたくないという――感じられた。
でも、もちろん宏美も嬉しいことは確かである。
「じゃあ……買っちゃう」
「そうさ。君は可愛いのが似合う。大学生に見えるぞ、きっと」
「もう! 三十になった女をつかまえて何よ!」
と、宏美は夫をにらんだが、その目には、いつにない輝きがあった。
アパートへ帰って、由利は、息をついた。
幸い、そう遅い時間でもないし、夕食も姉と済ませた。
お風呂に入って、ゆっくり眠ろう。ゆうべの寝不足は、まだ|応《こた》えている。
母の方は、まだ意識がはっきりしない。
「ときどき、目を開けるんですけどね」
と、医師は言った。「そのときは、ちゃんとご自分のことも分っておられる。大丈夫ですよ。時間の問題です」
時間の問題……。それが実は大きな問題なのである。
入院費用のこともあるが、ピアノに触れない日がそれだけふえるということでもある。
母にとって、ピアノを失うことは、死ぬのも同じだ。
由利は、浴槽にお湯を張って、ゆっくりと入った。――こんな風にのんびり湯をつかっていると、ごく自然に手首を軽く曲げたり、動かしたりしているのに気付く。
風呂を出て、パジャマ姿で夕刊を広げていると、電話が鳴った。
「――はい。――あ、工藤さん」
工藤県一だった。
「どうしたのかと思ってさ」
「ごめんなさい。話す時間もなくて」
「どうなったんだい、会社の方?」
「あのね……」
少し迷ってから、「これ、まだ内緒ね。たぶん、私、辞めるの」
「何だって?」
「色々、わけがあるの。でも、クビっていうんじゃないのよ。今度ゆっくり話すわね」
「そうか……。でも……また会えるかい、辞めても?」
「うん。もちろんよ」
「ま、それならいいけど」
と、工藤は安心した様子だった。
本当なら、何もかもしゃべってしまっても良かったのだが、由利は、何ごとも絶対確かでないと、口にしない。それが性格というものなのである。
「お母さん、どう?」
「ありがとう。今のところ、まだはっきりしないわ」
と、由利は言った。
「看病で、あんまり疲れないようにね」
工藤の心配が、身にしみて嬉しい。
しかし――妙な言い方だが、母がああいう状態ならまだ楽なのだ。
意識が戻って、回復して来たら……。それこそ「大変」なことになる。
由利にはよく分っていた。そして姉はリサイタルへ向けて、母の見舞どころではなくなるだろうし。
「ね、由利さん」
と、工藤が言った。
「え?」
「ゆっくり一度、食事しようよ。君が辞める前にさ」
工藤の言葉には、「その先」のことまでが含まれているような気がした。
考えすぎだろうか? でも、ともかく今の由利には、予定というものが立たない。
「また今度ね」
と、由利は言って、「じゃあ……おやすみなさい」
――まだ、夜になったばかりのような時間で、姉のそのみは、そのころ、ピアノに向って、ていねいにスケールを弾いていた。
11 |妬《ねた》み
「多美子、君か」
――不意に、由利は思い出した。
母のマンションにかかって来た電話。男の声で。そして母が入院していると言うと、切ってしまった。
あの後、あまりに色んなことがありすぎて、すっかり忘れていたのである。
どうしてお昼を食べてるときなんかに思い出したんだろう?
「どうかしたの、由利?」
と、|沢《さわ》|田《だ》|千《ち》|加《か》|子《こ》が心配そうに、「急に黙り込んじゃって」
「あ、ごめん、何でもないの」
と、由利は首を振って、「何かデザート食べようか」
「うん」
OL生活にとって一番楽しいのは、このひとときである。――それも、一人でいるしかないと、|辛《つら》いこともある。
由利は、後輩とはいえ、千加子がいて、助かっていた。
「『何だ、君か』ですもんね。頭に来るわよね。そう思わない?」
千加子がボーイフレンドの悪口を続ける。
そうか、と由利は思った。「何だ、君か」という言葉を聞いて、反射的にあの電話を思い出したのだ。
すっかり忘れていたが……あの電話は誰からだったのだろう?
聞き|憶《おぼ》えのない声だった。それに、母のことを「多美子」と呼び、「君」という口をきくのは……。
恋人? 由利は、思いもかけない考えに、我ながらびっくりした。
いや、母もまだ四十七だ。恋人がいて、おかしくはない。しかし、もしそんな男ができたら、由利にも何となく分るような気がする。何といっても、姉のそのみと違って、家は出ても、ときどき連絡くらいはとっていたのだから。
|太《おお》|田《た》。――そう、マネージャーの太田に|訊《き》いてみよう。何か分るかもしれない。
「――男なんて、みんな同じね」
と、千加子が恋のベテランらしき口をきいた。
「口じゃ何だかんだカッコつけても、いざ女の方が稼ぎが良かったりすると、機嫌悪くしてさ」
むくれて、デザートに当っている。由利はちょっと笑って、
「|可《か》|愛《わい》いもんじゃない。その辺を、うまくおだてて、自分のいいように持ってけば?」
千加子が愉快そうに、
「やったことあるの、由利?」
「ないけど」
「だと思った」
二人は一緒に笑った。
「――楽しそうだね」
ことさらに暗い声でくさびでも打ち込もうというのか……。
「課長……」
由利は、|三《み》|浦《うら》の引きつったような笑顔を見上げた。「ご用ですか」
「お昼休みですよ」
と、千加子が口を挟む。
「分ってる」
三浦は、二人のテーブルのわきに立った。明りを遮っている。
「ま、長いことご苦労さん。――才能のある奴は|羨《うらやま》しいね」
由利には分った。あの|中《なか》|山《やま》という「部長」が、由利を引き抜く話を、社長へ言って来たのだ。
そして三浦もたった今、社長からそれを聞いた。
「今週一杯で君はあの部長と『契約』した身になるわけだ」
と、三浦は肩を揺すって、「しかしね、水くさいじゃないか。辞めるときは、せめて一言、|俺《おれ》に先に言っといてもらいたいね」
千加子が、由利を見て、
「辞めるの?」
と、訊いた。
「お話はありましたけど、確定的じゃなかったんです」
と、由利は言いわけした。「それに、いつになるかも、私は聞いていません」
「まあいいさ。成功を祈るよ。――俺を追ん出した後で、中山部長と、そういう話になってたのか」
三浦は唇を|歪《ゆが》めて笑うと、「ついでに愛人の契約でも結んだのか」
由利は|呆《あき》れた。腹を立てるのも馬鹿らしかった。
しかし、千加子の方がカッとして、
「失礼じゃありませんか。いくら課長でも!」
「おっと、怖い怖い」
と、三浦は笑って、「こちらはコネつき、と来てるからな。こっちの首が飛ばないように用心しないとね」
ブラッと店を出て行く。
「――いやな奴!」
と、千加子はまだ怒っている。「由利、ぶん殴ってやりゃ良かったのに」
由利は黙って肩をすくめた。
あんな人間はいくらもいる。成功したら、とたんに名のり出てくる「恩人」の|類《たぐい》である。
「でも、由利、どういうことなの?」
「うん……」
由利が中山からの提案を話して聞かせると、千加子の方が興奮してしまった。
「|凄《すご》いじゃない! 人気ピアニストになれるかもよ」
「やめて、そんな気ないわ」
と、由利は言って、「すみません、コーヒー二つ」
と、注文する。
「でも、きっとすてきなCFになるわ。私、絶対見るからね!」
千加子の気持はありがたい。
しかし……。由利は、コーヒーをゆっくりブラックで飲みながら、思った。できることなら、そこそこにうまく行って、CFが二、三本つづいてくれたら。
そしてそれで充分だ。
心配するまでもないだろうが、ピアニストに限らず、結局、人気は実力相応にしかついて来ないものだ。
由利も、ピアニストのはしくれである。コマーシャリズムにのせられて、「商品」として売り出され、実力が伴わずに、やがて消えて行った演奏家を何人も見て来た。
なまじ「人気」が先行すると、それにふさわしい力を身につけるのが、人一倍大変なのだ。もちろんそれを克服して「本物」に育って行く者もいるが、消えて行く数に比べれば取るに足りない。「プロ」であることは厳しいし、「芸術家」であることは、もっと厳しい。
――少し重苦しい気分で会社へ戻った由利の机に、メモがたたんでのせてあった。
〈今夜の都合は? 僕の方は、何とかやりくりした。君もぜひ! 工藤〉
|工《く》|藤《どう》|県《けん》|一《いち》の、あまり|上《う》|手《ま》いとは言いかねる字である。
それを見て、由利は|微《ほほ》|笑《え》んだ。やっと心が軽くなったような気がした。
「きれいになったのね」
と、|松《まつ》|原《ばら》|宏《ひろ》|美《み》はTホールの、小ホールの中へ足を踏み入れて、思わず言った。
ステージにはスタインウェイのグランドと、弦楽奏者のための|椅《い》|子《す》が四つ。
ヴァイオリンの音が|袖《そで》から聞こえていたが、宏美の声を耳にしたのか、ピタリと止って、
「やあ、|和《わ》|田《だ》さん」
と、|今《いま》|井《い》が姿を見せた。
「今井君。久しぶり」
と、手にした譜面を振って見せる。「私、今は松原宏美」
「あ、そうか。失礼」
今井は、ずいぶん太って見えた。あまりいい太り方ではない。肌につやが感じられなかった。
「お招き、ありがとう」
と、宏美は言って、空の客席から、ステージへ上った。「役に立たないと思ったら、そう言ってね」
「安心してるよ」
と、今井は笑った。
タオルを腰にぶら下げていて、それで顔を|拭《ふ》いている。
「よく汗かくんだ。何しろ太っちゃって」
「どこの部屋へ入門するの?」
「おや、厳しいね」
と、今井は目を見開いて、「ヴァイオリニストはデブが多いんだ。スターンもオイストラフも」
気楽にポンポン言葉を投げ合える。学生のころのような楽しさがある。
「――子供さん、いるんでしょ」
と、今井が訊く。
「ええ。もう三つ。今日はご近所の奥さんに預けて来たわ」
本当なら、母の所へ置いてくるのが、宏美としては一番気楽なのである。それに母の|涼子《りょうこ》は、宏美がこの仕事を引き受けたので大喜びしている。
実際、何も宏美が言わないのに、
「|早《さ》|苗《なえ》ちゃん、みてようか?」
と言い出したほどだ。
しかし、肝心の早苗が、「おばあちゃん」を嫌っている。嫌い、と言うときつすぎるかもしれないが、ともかく行きたがらないし、もし連れて行っても、一人で残るとなれば泣き出すだろう、と宏美にも分っていた。
「――後の三人が、まだ来てないんだ。悪いね」
と、今井が言った。
「いいのよ。こっちも久しぶりだから、少し慣れておきたい」
椅子の高さを調節して、宏美はピアノに向った。
「――夕方四時には出たいの。娘を迎えに行く約束だから」
「分った。それまでには充分終るよ」
と、今井は|肯《うなず》いた。「もし暇なら、晩飯でも、って誘うところだけどね」
宏美は譜面をめくりながら、
「私は夕食を作らなくちゃいけないの。――今井君、そのみさんと一緒なんですって?」
今井はちょっと目をそらして、
「まあ……。一緒っていうかね……」
と、|曖《あい》|昧《まい》に首を振った。
「あら、照れてるの?」
宏美が笑うと、
「そうじゃないんだ」
と、今井がため息をついた。「今、ほとんどマンションにいないんだよ。――たまにいても、練習室に閉じこもってる」
「そのみさんが?」
「リサイタルなんだ。久しぶりの」
宏美は今井の方へ向いた。
「リサイタル?」
「そう。で、僕のことなんか、まるで空気[#「空気」に傍点]と同じさ。目の前にいても、全然気付かないこともあるくらいだ」
「そう……。そのみさんがね」
「お母さんが倒れたろ。入院のお金とか、大変なんだよ、きっと」
と、今井は大きく息をついて、「さ、ドヴォルザークがぐちっぽくなるな、こんなことやってちゃ」
「そうね」
宏美は微笑んだ。「テンポの設定は? 今井君、決めてね。私、他の人たちはよく知らないから」
少し、開いたページから弾いてみる。指が固い。なめらかなレガートが、どうしてもむずかしい。
まあいい。今日が本番というわけではないのだ。その内には手が慣れてくるだろう。
――そのみがリサイタルを開く。
宏美は、今井に同情していた。何といっても、宏美は影崎多美子の弟子で、そのみのことを身近に見て来た。
そのみも母には反抗的だったし、特に男関係では、やたら派手だったが、しかし、いざというときの集中力は凄いものがある。母親の血を受け継いでいるのだ。
特に、久しくなかったリサイタル。母親が倒れた後である。そのみがおそらく命がけでいることを、宏美は知っていた。
今井は、リサイタルが終るまで、相手にされないだろう。いや、今一緒にいるマンションから、|叩《たた》き出されるかもしれない。
そのみは、それぐらいのことをやりかねないのである。
「――そうだ」
と、今井が言った。「リサイタルでね、由利君とデュオをやるらしいよ」
「まあ。由利さんと?――よく由利さんがやる気になったわね」
「きっと、姉に無理やりやらされてるのさ。ときどき、練習に来てるらしい」
今井は、ヴァイオリンの弦を少し弾いて、「こんなもんかな。――時間がもったいない。少しやってようか。このホール、内装を変えて、よく響くようになったろ?」
「ええ。いい感じだわ。でも――エアコンの音?」
かすかな雑音だが、耳につく。
「うん。言っとくよ。何とかするだろ」
と、今井は肯いた。「じゃあ、どこからにする?」
「スケルツォから。――いい?」
宏美は譜面をめくった。
何かが宏美の中で騒いでいる。何か、目覚めようとするものがあった。
そのみがリサイタルを開く。――それに比べれば、この室内楽の会など、まるで注目を集めることはないだろうが……。
しかし、そのみに負けられない。そう、負けやしない!
宏美の手が、力強く|鍵《けん》|盤《ばん》を|捉《とら》えた。
12 見舞に来た男
「だめ……。ねえ……」
由利は、工藤の手を押し戻した。「約束でしょ」
工藤県一が、ため息をついて、そっぽを向く。――気まずい沈黙。
こうなるだろうという予感はあった。
工藤は決して由利に無理を言っているわけではない。――一緒に食事をして、二人で夜の道を歩いて……。
通りすがりのホテルへ、押し込まれるように入ってしまった。道でもみ合うのもみっともないと思ったのだが、|一《いっ》|旦《たん》中へ入ったからには、由利がOKしたと工藤に受け取られても、仕方のないところがある。
「ごめんなさい」
と、由利はベッドに腰をおろしたまま、言った。
「そんな気分じゃないの。――本当はここへ入る前にそう言うべきだったけど、でも、あなたが――」
「分ってる」
工藤は、ドサッと|仰《あお》|向《む》けに寝て、「だめだろうと思ってたんだ」
「そう?」
「だめでもともと」
二人は顔を見合せ、一緒に笑い出してしまった。
「――じゃ、せっかくだ、すぐ出るのも馬鹿らしいだろ」
「私、母の病院へ寄りたいの」
「そう。じゃ、送るよ」
「ごめんね、むだづかいさせて」
「いいさ。将来のための投資」
工藤がさっぱりとした表情なので、由利はホッとした。
「しかし、びっくりしたなあ。それで三浦課長、ご機嫌斜めだったのか」
「斜め、なんてもんじゃないわ」
「来週から、もう?」
「ええ。――でも、会えるわよ。|却《かえ》って時間が作れるかもしれない」
どうだろうか。由利にも見当がつかない。
「どこへ連絡すりゃいいんだい?」
「そうね。私のアパートか、姉のマンション。電話番号、メモしとくわ、姉の所」
「ありがとう。――そのCFって、いつごろ出来るんだい?」
「まだ分らない。あんまり期待しないでね。結局、没になるなんてこと、充分あり得るんだから」
由利は、いつもこうなのだ。――実際に出来上って、TVでの放映日が決っても、まだ「もしかしたら……」と言っているだろう。そのみとは違う。「プロ意識」に欠けているのである。
「でも、うまく行くといいよね」
と、工藤は言った。「ねえ……。僕もちょっと話があったんだ」
「何?」
少しためらってから工藤は、
「友だちの会社から誘われてる。今の所にいても、あんまり先行き、明るくないしね。君もいないとなると……」
「何のお仕事?」
「営業は営業さ。それには向いてるからね、僕は。ただ……」
「迷ってるわけね」
「しばらく九州へ行くことになりそうだ」
由利も、一瞬言葉に詰った。
「しばらくって……。どのくらい?」
「たぶん、一年か二年。向うで落ちついたら、君を連れに戻ろうかと思ってる」
由利は、しばらく無言だった。――これは工藤からのプロポーズだろう。
しかし、突然だから、というのではなく、時期が悪い。母の入院も、この先どれくらいつづくか分らないし、姉のリサイタルも控えている。
それに、仕事を変って、どの程度忙しいものやら、あるいは暇ができるのか、由利にも全く分らないのである。
「今、返事してくれなくてもいいんだよ」
と、工藤は言った。
「ごめんなさい。少し時間がほしい」
と、由利は言った。「――お|詫《わ》びのしるし」
由利は顔を近づけて、そっと工藤にキスしたのだった。
病院の〈夜間受付〉に、時間外の面会というので、何度も謝って、通してもらう。
あまり足音をたてないように……。もう病院は寝静まっている。
母の病室のドアをそっと開ける。――母は少し落ちついた状態で、二人部屋に入っていた。とても個室では払い切れない。
もう一人の患者が目ざとく由利を見た。
「すみません、いつも遅くに」
と、小声で言って、由利は母のベッドへ目をやったが――。
ベッドは空だった。どこかへ行っているというのではない。すっかり片付けられてしまっている。
由利の顔から血の気がひいた。――まさか[#「まさか」に傍点]!
「大丈夫よ」
と、向い側のベッドの患者が言った。「病室、移ったの」
由利は、胸をなで下ろした。
「すみません、知らなくて」
と、由利は礼を言った。
まだ心臓が高鳴っている。――びっくりしたわ、本当に!
「ついさっきよ」
と、その患者が言った。
「こんな夜中にですか?」
「ええ。何だかもめてたけどね」
六十過ぎのその女性は、面白がっているような口調だった。
もめて?――母が、もしかして、意識をとり戻したのだろうか。
「当直のお医者さんに訊いてごらんなさい」
「そうします。お騒がせして」
「いいえ。――お母様、ピアニストなのね」
「はい」
「眠ってらしても、指が動いてるの。何してるのかしら、って見てたんだけど。ピアニストって聞いて、ああ、と思ったわ。お元気になるといいわね」
「ありがとうございます」
その女性の親切が身にしみた。
病室を出て、看護婦に訊くと、
「ああ、影崎さんね。一階上です。特別室へ移ったの」
「特別室?」
「ええ。高いけど、個室で、電話もついてるわ。――待ってね」
特別室? しかし、そんな部屋へ、なぜ移ったのだろう。
「〈1206〉だわ」
と、調べて来てくれる。
「どうも……」
わけが分らなかった。ともかくその〈1206〉へ行ってみるしかない。
階段を上って行くと、そこは廊下も広く、静かで、どことなくマンションの中といった雰囲気を漂わせたフロアだった。
一日何万円もとられるだろう。――誰が母をこんな所へ移したのか。
〈1206〉のドアのわきに、確かに〈影崎多美子〉の名札が入っている。
中に明りが|点《とも》っていた。――ドアを開けようとして、由利はためらった。
すると、いきなりドアが中から開いたのである。びっくりして立ちすくんでいると、
「――どなた?」
と、その男が言った。
がっしりした体格、大柄で、由利を見下ろすような長身だが、髪が白く、年齢はもう五十を超えていよう。背広にネクタイ。どう見ても音楽家ではない。
「あの……どちら様ですか」
と、由利は訊き返して、「娘ですが、影崎の――」
「ああ」
と、よく通る声で、男は肯いた。「電話に出たのは君か」
そう。この声だ。由利も、すぐに思い出していた。耳がいいせいか、人の声も憶えている。
「次女の由利です」
「私は|西《にし》|尾《お》|国《くに》|治《はる》。君のことは色々聞いてる。お母さんから」
「あの――」
「今は眠っている。興奮させない方がいいだろう」
由利は、個室のベッドで静かに眠っている母を見やって、少しホッとした。いずれにしても、悪くはなっていないようだ。
西尾という男は、由利を促して、休憩所へ連れて行った。
「――ずっと海外へ行っていてね」
と、西尾はソファに座ると、「見舞にも来られなかった。やっと今夜やって来たんだが……。君のお母さんはユニークな人だ。他の人と同室じゃ、とてもやっていけない。それで特別室へ移してもらったんだよ」
話し方に、妙に高飛車なところはなかった。しかし、由利としてはまずこの男が何者か、知る必要がある。
「西尾さん、とおっしゃるんですか」
と、由利は言った。「失礼ですけど、母とはどういう……」
西尾は、ちょっと由利を見つめていたが、「聞いたことがない? 全然?――そうか。じゃ、面食らったろうね」
と、微笑んだ。
「ともかく――母のことを助けて下さってるんですね」
たぶん、音楽家には珍しくない、「パトロン」という存在なのだろう。母はそういうものに頼るのをいやがる人間だが、西尾を気に入ったのかもしれない。
「助ける、というかね……。まあ当然のことだろう。夫が妻を助けるのはね」
由利は、耳を疑った。
「――夫?」
「そうだよ。僕と多美子は二か月ほど前に結婚したばかりだ」
と、西尾国治は言った。
「あなた」
と、宏美は言った。「ごめんなさい」
松原|紘《こう》|治《じ》は、新聞を見たまま、
「もういいさ」
と、言った。
「でも……」
「君も、ほとんど外へ出てないからな」
と、松原はゆっくり新聞をたたんだ。「少しは出るようにした方がいい。――そうだろ?」
宏美は、黙って、夫のそばに座った。
「――今度から、僕が早苗をみるよ。その方がいい」
穏やかな言い方だが、松原がすっかり機嫌を直しているわけでないことは、宏美にもよく分っていた。
「――早苗、寝てるか」
「ええ」
宏美はそう答えたが、「もう一回、見てくるわ」
と、奥へ入って行った。
早苗は、よく眠っている。そっとかがみ込んで、布団を直しながら、宏美の胸は痛んだ……。
約束の四時を、はるかに過ぎて、結局宏美が家へ帰って来たのは八時近くになってしまった。
預かってくれていたご近所で、早苗は泣き叫んでいて、そこの夫婦を閉口させていたのである。もちろん宏美は平謝りに謝って、早苗を連れ帰ったが、昼寝をしそびれた早苗のご機嫌は一向に直らなかった。
そして、夫が帰ってから、早苗を預かってくれていた家のご主人から電話があり、もう二度と預からない、と言われてしまった。宏美が夫に隠そうとしていたのも、良くなかったのだ。
松原は珍しく怒って、宏美を怒鳴りつけた……。
もちろん、自分が悪かったのだということは、宏美にも分っている。しかし、夫に詫びながら、宏美の内にはそれに抵抗する「何か」があった。
――分らないのだ。この気持は。あのときの、あの燃え立つような気持は。
リハーサルが、白熱し、時のたつのを宏美に忘れさせてしまった。今井以外は全く見知らぬメンバーだったのに、「ドヴォルザーク」を軸に、一瞬の内に同志[#「同志」に傍点]になった。
テンポ、ダイナミック、休符のとり方……。
一つ一つについて、激しいやりとりがあった。おそらくはた目にはほとんど「|喧《けん》|嘩《か》」にしか見えなかっただろう。
しかし、宏美の中には久々に炎が燃え上ったのだ。もう消えて行くだけかと思っていた、小さなくすぶりが、まるで二十代の初めのころのように、|烈《はげ》しく新しい炎をふき上げて来たのだ。
「もう二度と、こんなことしないから」
と、宏美は夫の肩にそっと頭をもたせかけた。
「ごめんなさい」
この人には分らない。――いくら説明しても、分ってくれるはずがない。
「ここまででやめて、後はこの次にしよう」
と言えるものではないのだ。音楽というものは。
今、燃え立ったら、その火がとことん燃え広がるまで、|止《や》めてはならない。それが音楽というものなのである。
しかし――分らないだろう。この人には。
たぶん、影崎多美子なら、あの先生なら分ってくれる。でも、この人には無理だ。
分る人には、話す必要などない。そして分らない人には、いくら話しても分りはしないのである……。
今井も、時間に気付いてあわてていた。
「ご主人に電話しようか」
とも言ってくれたが、断った。
もちろん、あんなことになっているとは、思ってもいなかったのだ。
松原は、宏美の肩に腕を回した。
「――もういい。怒っちゃいない」
「そう?」
「ああ。ただ……」
と、松原は少しためらってから、言った。「今日、早苗が泣いてるのを見て、後で事情を聞いて……。思い出したんだ。多美子がよく娘たちを放り出して、練習練習に明けくれていたことをね。娘たちは|可《か》|哀《わい》そうだった。あんな親を持ったことを恨んだとしても責められない」
松原は淡々とした調子で、続けた。
「なあ。――うちだけはあんな風にしたくない。君には、多美子のようになってほしくないんだ」
宏美は、胸をつかれる思いだった。
夫の言葉は、正しい。あの「家庭」とも言えない家庭から、松原は逃げ出したのだし、宏美も、松原に同情したのがきっかけで、愛し合うようになった。
その宏美が、多美子と同じことをくり返したら、松原としては、やり切れないだろう。
「心配しないで」
と、宏美は言った。「私、影崎先生のようにはならないし、なれっこないわ。今日はたまたま……。久しぶりで、時間の感覚が狂ったの。それだけよ」
「分った」
松原は、軽く宏美の肩を叩いて、「もう忘れよう」
と、笑顔になった。
「お風呂、入るでしょ? 熱くしてくる」
宏美はホッとして夫から離れると、浴室へ行った。
――もう二度としない、か。
次のリハーサルは? どうなるだろうか。まだまだ、練り上げなくてはならない点はいくらもある。
そして、宏美は、この仕事をやめる、とは頭から考えなくなっていたのだ……。
13 幻影
「はい、お疲れさん」
カメラマンが投げるように言って、「もうおしまい。立っていいよ」
分ってるけど……。由利は、立たないのではなかった。立てない[#「立てない」に傍点]のだった。足がしびれて。
「いたた……」
と、顔をしかめて立ち上っても、歩けない!
スタジオのコンクリートの床にカーペットを敷いてあるが、ともかく下は固く、冷たい。そこに横座りになって、子供のオモチャのピアノを叩いているところ。
カメラマンの|狙《ねら》いは、「自然な表情」である。
「――大変だったでしょ」
と、まだ若い(せいぜい由利と同じくらいだろう)カメラマンがやって来て、由利の腰をポンと叩いた。
「疲れるんですね、写真って」
と、由利は素直な意見を述べた。
「慣れてないモデルさんのときはね、くたびれさせるんです。疲れて、気どってなんかいられない。そこでやっといい表情になるんです」
「はあ……」
その点なら、もともと気どっている余裕なんかない。
由利は、気どったつもりではなかった。ただガチガチにあがって、緊張していたのだ。
「良かったよ」
と、由利に声をかけて来たのは、|佐《さ》|田《だ》|裕《ひろ》|士《し》という男だった。
「そうですか」
と、由利は息をついて、「すっかり汗かいちゃった」
佐田は二十七、八だろうか、スラリとして、一見して普通のサラリーマンでないことが分る。「芸術家」風の雰囲気を身につけていた。
今はちゃんと上着を着て、ネクタイもしめているが、それでも人とは違った、独特の印象を与えた。――悪く言えばキザだが、人は|好《よ》さそうである。
「今日はこんなところにしとこう」
と、佐田は言った。「良かったら、夕食でも食べない?」
「あ……。私、ピアノの練習が――。三十分くらいでしたら」
「いいですよ。じゃ、この近くで。――おい、どこか見付けてくれ」
佐田はいつも二、三人の「助手」を連れて歩いている。
「じゃ、着がえます」
と、由利は言って、スタイリストの女性と一緒にスタジオの更衣室に入った。
「――ああ、くたびれた」
と、ドレスを脱ぐ。「慣れない格好、するもんじゃないですね」
スタイリストの女性が、由利の顔のメークを落としてくれる。中年の女性だが、てきぱきとして、気持のいい、「プロ」だった。
「佐田さんには気を付けて」
と、スタイリストが言った。
「え?」
「女の子に手が早くて有名なのよ」
「そう……。でも、私は別に……」
「充分、狙われる可能性はあるわよ」
そうだろうか?――由利は姿見に自分を映して、首をかしげた。
足も短いし、スタイルも悪い。ちっとも美人じゃないし……。美人というなら、そのみの方がずっと美人である。
「あの佐田さんって、何してる人なんですか?」
と、由利は当人には訊きにくいことを、訊いてみた。
「何ていうのかしら。本人は〈コーディネーター〉と称してるけど、要するにコマーシャルに関することを中心に、企画、監督、プロモーション、何でもやるの。新人のタレントを売り出すとか、何かステージで上演するときに、|予《あらかじ》め話題作りを色々やるとか。――〈仕掛け人〉って言ってるけどね、私たちは」
「仕掛け人……。へえ、色んな仕事があるんですね」
と、由利は感心してしまった。
「結構、その方じゃ有名なの。あの人が手がけた新人はね、たいてい伸びるのよ。だから、結構なお金をとるけど、引っ張りだこらしいわ」
「よく私のことなんか……」
「よほど中山さんから出してもらってるんじゃないの」
と、スタイリストの女性は、すっかり打ちとけた口調になって言った。
「でも、私、タレントになるわけでもないのに」
「いつの間にか、なってるかもしれないわよ」
――由利は、その言葉が気にかかった。
中山は、どういうつもりでいるのだろう? 一度、はっきりさせておかなくては、と由利は自分の服を着て、ホッと息をつきながら、考えていた……。
「――北海道?」
と、由利は言った。
細い道を入った所に、小さなパスタの店があって、そこで佐田とスパゲティを食べていたのである。
「北海道へ行って、何するんですか」
と、由利は言った。
「CFどりさ」
佐田は淡々と言った。「中山さんからは、ヨーロッパでもいいと言われてる。しかし、そんな必要はないと思う。北海道の大草原だ。そのイメージでいきたい」
イメージねえ……。由利は、こういう人たちの発想には、とてもついて行けない。
「企業グループ全体のイメージ広告だからね。どれか一つを連想させるのはうまくないんだ。分るだろ?」
「ええ、まあ……」
「大草原。その真中にグランドピアノを置いて、君がそれを弾いている。風がそよいで、草が揺れる。――そこへキタキツネの親子がやって来て、ピアノに聞き入る。どうだい?」
「野っ原の真中でピアノ弾くんですか?」
と、由利は|呆《あっ》|気《け》にとられていた。
「そう。君がやればぴったりだと思うよ」
「キタキツネって……。そううまく来ますか?」
「もちろん、連れて来るのさ」
「ピアノ、聞いてますかね」
「そう見えればいいんだ。任せてくれ。こっちはプロを|揃《そろ》えるよ」
と、佐田は笑った。
「はあ……」
気が重かった。――姉や母に何と言われるか。
いや、姉はからかって終りだろうが、母の方はそうはいくまい。
この二、三日、母は意識が戻って来ていた。まだ話はできないが、由利の言葉に肯いたりはする。――由利もホッとしていた。
しかし……母が本当にあの西尾という男と結婚しているのかどうか、それを母に訊くには、まだ早すぎる。いや、あの西尾が|嘘《うそ》をつく理由はないだろうから、おそらく事実だろう。
由利は、そのみに何も言っていなかった。――母が誰とどうしようと、表向きは何も言わないに違いないが、その実、姉が「父と母」のことにひどく敏感なのを、由利は知っていた。
むしろその点では、由利の方が割り切って考えられるだろう。
西尾が、母の入院の費用をみると言っているのだから、本当なら由利がこんなCFの仕事をしなくてはならないわけではないのだが、姉に打ち明けられないのと、それに中山との約束もある。約束を破ることは、嫌いだった。
これきりで終りということになるだろうから、ともかくこの何か月かだけ、付合っておけば……。由利はそう思っていたのである。
「――来週、北海道へ行って、下見してくる。いい場所が見付かったら、できるだけ早くとりたい」
と、佐田が分厚い手帳を開けて言った。
「はい」
素直に肯いておく。由利にしても、早いところ片付けてしまいたいのだ。姉との練習も日に日に真剣なものになって来ている。由利も一日に何時間か、弾いておかないと、姉とのデュオについて行けない。
西尾のことは、リサイタルが終ってから打ち明けよう、と思った。
「――おいしかった」
と、由利はナプキンで口を|拭《ぬぐ》って、「あの、お代は」
「心配しないで」
佐田は笑って、「これくらいで、君に恩は売らないよ」
由利はちょっと笑った。佐田が、そう「女たらし」とも見えなかった……。
いきなりパッとドアが開いて、今井が出て来た。
由利は、姉のマンションに来て、玄関のチャイムを鳴らそうとしていたので、びっくりして、今井とぶつからないように、あわててよけなくてはならなかった。
「――由利君か」
今井の顔はこわばっていた。
「あの……どうしたんですか」
由利は訊いたが、今井が左手にヴァイオリン、右手にスーツケースをさげているのを見れば、答えを聞くまでもない。
「姉さんに訊けよ」
と、今井は肩をすくめて、「じゃ、頑張って」
「どうも――」
今井がエレベーターの方へ|大《おお》|股《また》に歩いて行く。
「――お姉さん?」
上って、声をかけると、
「由利?」
と、声がした。「|鍵《かぎ》、かけて」
「うん。――今井さん、出てったの?」
「追い出したの」
と、そのみはあっさり言った。
「どうしたのよ?」
「どうもしないわ。邪魔だから、しばらくよそへ行っててくれ、って言ったら、勝手に怒って出てっちゃった。――ま、仕方ないわよね」
そのみは、ソファに寝そべって、譜面を広げていた。
「どっちが勝手?」
と、由利はため息をついた。「気の毒じゃない。行く所あるの?」
「子供じゃないんだもの。自分で捜すわよ」
そのみは、|欠伸《あくび》をした。「ああ、譜読みって面倒ね」
どんなピアニストも、あらゆるレパートリーを暗記しているわけではない。一度弾いても、しばらく間が空くと、改めて楽譜を見直さないと、細かい部分で間違って記憶していることもある。
その点、ピアノは音符の数が多くて、大変なのである。
「それより、新人タレントさんの方はどうなの?」
「やめてよ。――北海道だって」
「北海道?」
そのみは、由利の話を聞いて笑い転げた。
「――草原の真中で何を弾くの? ショパンが聞いたら目を回すかもね」
「笑わないで。契約した以上、仕方ないんだもの」
と、由利はそのみをにらんだ。
「ま、音楽好きのキタキツネが見付かるといいわね」
「けとばしていい?」
「練習しよう!」
パッと立ち上って、そのみは練習用の防音室へと入って行った。由利はため息をついたが――姉がこんなに活気に満ちて、上機嫌でいるのを見たのは、久しぶりだと思うと、いつまでも腹を立てているわけにもいかなかったのである。
やはり姉は根っからのピアニストなのだ。
「早くおいで」
そのみの呼びかけに、
「一休みさせてよ」
と文句を言いつつ、由利は立ち上った。
玄関のチャイムが鳴って、宏美はドキッとした。
早苗がやっと寝入ったところである。――目を覚ましては、と急いで玄関へ行ったが……。
誰だろう? 松原は出張で、明日の夜まで戻らない。それとも、予定より早く戻って来たのだろうか?
「どなた?」
と、ドア越しに声をかける。
「あの……今井です」
おずおずとした声が聞こえた。
宏美は急いでドアを開けた。
「今井君……。どうしたの?」
と言って、「ともかく、上って」
「悪いね、こんな時間に」
「そう遅くないけど……。荷物?」
今井が、ヴァイオリンとスーツケースを上り口に置く。
宏美には、訊かなくても分った。
「さ、そのスリッパ、はいて」
「うん」
「静かにね。――子供が眠ったとこなの」
「ああ」
宏美はそっと|襖《ふすま》を閉めた。
今井は、ソファに座って、しばらく黙っていたが、
「すぐ失礼するから――」
と言いかけたとたん、お|腹《なか》がグーッと鳴って、真赤になる。
宏美はふき出してしまった。
「お腹|空《す》いてるのね。何かありあわせで良ければ」
「何でもいい。――悪いね」
今井は、穴でもあったら入りたいという様子だが、これで重苦しさがなくなったようでもあった。
――宏美が残ったご飯でチャーハンを作ると、今井はアッという間に平らげてしまった。
「――足りないんじゃない?」
「いや、差し当りは大丈夫」
と、今井は大きく息をついた。「聞かなかったけど……ご主人は?」
「今日は出張。明日の夜、帰るわ」
と、宏美はお茶を飲みながら、「そのみさんと喧嘩?」
「叩き出された、って方が近いね」
「あらあら」
と、宏美は笑った。「ごめんなさい。笑いごとじゃないわよね」
「どうせ長くは続かない。分っていたんだ」
今井は、一気にお茶を飲み干して、「今、彼女の頭はリサイタルのことで一杯だよ」
宏美にも、そのみの気持は分った。あの|影《かげ》|崎《さき》|多《た》|美《み》|子《こ》ほどではないにしても、そのみもしばらくリサイタルを開いていない。
カムバックのプレッシャーは、他の人間には想像もつかないほど大きい。今の宏美も、同じような気持だった。
「――今度の室内楽、何としても成功させなきゃ」
と、今井が言った。「君の力が必要だ。頼りにしてるよ」
「そのみさんを見返すため?」
「いや……。まあ、それもあるけど……。彼女も、僕が一線で仕事をしてりゃ、何も言わなかったと思うんだ。僕自身、自分のこんな暮しにいやけがさしてたからね」
今井は今井で、自分の「復活」を|賭《か》けたコンサートなのだ。
宏美は、あくまで「主婦の合間の副業」ということにしてある。今井もそう思っているだろう。
だが、そうではなかった。そのみのリサイタル。今井の悔しさ。――そのどれもが、宏美自身のことでもあった。
宏美ははっきりと、自分の「カムバック」を、賭ける気になっていた。
「――もう行くよ。ごちそうさま」
と、今井は立ち上った。
「泊る所、あるの?」
と、宏美は訊いていた。
「誰か、大学のときの友だちで泊めてくれる奴がいるだろ」
と、今井が肩をすくめる。
「良かったら泊って行って」
と、宏美が言うと、今井は面食らって、
「しかし……まずいだろ、そんなの」
と、口ごもった。
「心配しないで。毛布貸すから、ソファで寝てもらう」
「いいの?」
「ええ。――大丈夫よ。友だちでしょ」
今井は、ちょっとの間、宏美を見ていた。
「そうだね」
――宏美は、今井の食べた皿を片付けた。
何でもないとは言っても、こんなことを、夫には言えない。
宏美は、「秘密」を抱え込んだのだ。――それは、やがて宏美の中に根を張って行くことになる……。
14 ひらめく
「遅くなって……」
と、|由《ゆ》|利《り》はちょっと頭を下げた。
「いやいや。――さあ、かけて」
|西《にし》|尾《お》|国《くに》|治《はる》は|微《ほほ》|笑《え》んでいた。落ちついた、穏やかな笑顔だ。
「仕事が長引いてしまって」
と、由利は言った。
「先に一杯やってるよ」
西尾が小さなグラスを取り上げて見せる。
「何か飲むかね」
「アルコールはだめなんです。ジュースでも……」
ビルの地下に入ったレストラン。もちろん、由利はフランス料理をこんな店で食べる機会など、めったにない。
「――姉さんは、そのみさんと言ったね」
と、西尾はオーダーをすませてから、言った。
「はい。三つ違いで、今、二十四です」
と、由利は言った。「姉は、その世界の人には知られたピアニストです。私とは違って、才能のある人ですから」
「聞いてみたいね。それに一度ゆっくり話をしておきたい。ともかく、私は君らの父親ということになるわけだ」
「勝手を言って、すみません」
と、由利は言った。「姉は久しぶりのリサイタルを控えています。あと二か月ありません。本番当日に向って、ぴりぴりしてくるのは目に見えていますから。――今、あなたのことを話さない方がいいと思ったんです」
「よく分った」
と、西尾は|肯《うなず》いた。「君は若いが、しっかりした娘さんだな。君がいいと思った時に、姉さんを紹介してくれ」
「はい」
由利もホッとした。
西尾国治は、いかにも見た通りの紳士である。白髪はよく手入れされ、「老けこんだ」というより、むしろ「渋い気品」さえ感じさせる。
食事を始めるまで、西尾は由利の身辺のことを、あれこれ|訊《き》いた。ともかく、由利の緊張をほぐすのが第一、と思ったのかもしれない。
由利としては、さほど固くなっているわけではなかったが、西尾にしてみれば、「自分の娘」との出会いなのだ。気をつかいすぎるほどつかって当然かもしれない。
TVのCFに出ることになったいきさつを話すと、西尾は面白がった。
「キタキツネ? それはいい。ぜひ見たいもんだね」
「どうせなら、キタキツネにピアノを弾かせればいいんですよね」
と言って、由利は笑った。「そう提案してみようかしら」
「君のイメージにはぴったりじゃないのかな。うまくいくといい」
「絶対に自分じゃ見ません」
由利はスープを飲みながら、「――西尾さん」
もういいだろう。準備はできた。
「母とはどんなお知り合いなんですか」
「来たね」
と、西尾は少しいたずらっ子のような表情になって由利を見た。
「母は何も話してくれませんでした。びっくりしています、正直言って」
「そうだろうね」
と、肯く。「私もだ。いや、こういうと、妙な風に聞こえるかもしれないが、本当なんだ」
西尾はスープ皿を空にすると、ナプキンで口を軽く押えた。
「実は、君のお母さんに初めて会ったのはもう大分前だ。七、八年になるかな」
「そんなに?」
「ウィーンで、初めて会った。私はムジークフェラインの隣にあるホテル・インペリアルに泊っていて、君のお母さんもそうだった」
インペリアル……。またその言葉に出会った。
「インペリアルのロビーで、私は初めて彼女に声をかけたんだ。夕食は一人でね。何しろ向うじゃ、一人で食事というのは格好がつかない」
「母も一人だったんですね」
「そう。――前の晩、コンチェルトハウスで、彼女はベートーヴェンの一番のコンチェルトを弾いていた。私ももちろん聞いていたから、ロビーに一人で座っている彼女のことはすぐに分った。ゆうべの演奏の話になり、大いに|賞《ほ》めると、とても|嬉《うれ》しがってくれた。そして食事を付合ってもらったんだ」
音楽家は(誰でもそうだろうが)、賞め言葉に弱い。――一|+《プラス》一で答えのはっきり出るものはまだいい。演奏などというものは、たとえ不当なけなされ方をしたとしても、明快に反論できないのだ。
特に、ウィーンで日本人がモーツァルトやシューベルトを弾くのは、|鬼《き》|門《もん》とさえされていて、母、多美子は堂々とそれをやってのけた。聴衆は|大《だい》|喝《かっ》|采《さい》だが、批評は悲惨なものだった。
そんな中で、見知らぬ同国人とはいえ、手ばなしで絶讃してくれたら、嬉しいに決っている。
「そのインペリアルでの出会いから、日本へ戻ってのお付合いになるんですか」
と、由利は訊いた。
「いや……日本で会ったのは、つい何か月か前のことだ。そう……。四か月くらいのものかな」
「母はずっと弾いていませんでした」
「そう。たびたび弾いててくれれば、こっちも消息の調べようがあったがね。結局、Sホールのロビーで、彼女を見かけた。そして話しかけると、向うも私のことをすぐ思い出してくれて……」
「ドラマチックでした?」
西尾は笑って、
「二人で立ってアイスクリームを食べたよ」
と、言った。
そこへ、ウェイターがコードレス電話を持ってくると、
「|松《まつ》|原《ばら》様、|佐《さ》|田《だ》様からお電話が」
「すみません」
佐田? あの〈コーディネーター〉の佐田だろうか?
ここへ来ることを、一応佐田のオフィスへ連絡してあった。何か電話が入るかもしれない、と言われていたからである。しかし、まさか食事中にかけてくるとは思わなかった。
「ちょっと失礼します」
と、西尾へ断って、「――もしもし」
そばのテーブルの邪魔にならないように、小声で言った。
「やあ、良かった、捕まって」
佐田の明るい声が聞こえて来た。
「あの――何か?」
「うん、今ね、北海道にいるんだ。いい場所が見付かった。一面花が咲いててね。すばらしく絵になるところだ。今が時期的に盛りなんだよ。君、明日、こっちへ来てくれ」
由利は仰天した。
「明日……ですか?」
「そう。飛行機も全部押えた。後は君が来てくれれば、それでいい。ピアノやドレスはこっちで用意して待ってる」
佐田の言い方は、もう「既定事実」という感じで、押し付けがましくはないが、いやとは言えないものだった。
「はあ……」
「まだ食事中だろ? 悪かったね」
「いえ……」
「今夜中に君の所へ航空券とかを届けさせるよ。――今夜は帰る?」
「は?」
「いや、食事の相手とどこかへ泊るとか」
佐田は少しもからかっているのではないのである。由利はちょっと西尾を見て、|頬《ほお》を赤らめた。
「ちゃんと帰ります」
「結構。じゃ、三、四日こっちへ泊るつもりで来てくれ。特別必要なものはないと思う。何か足りなきゃ、こっちで買えばいい」
佐田は早口に言って、「――何だ?――分った」
と、そばの誰かと言葉を交わしてから、
「じゃあ、待ってる。空港に迎えにやるからね、誰か」
「はい――」
何も訊き返す暇はない。さっさと電話を切られてしまって、由利は|呆《あき》れていた。
「――仕事の話かね」
と、西尾は訊いた。
「ええ。――明日北海道へ来いって……。せっかちですね」
由利は、電話をウェイターへ返して、言った。
「みんな、あんな風なのかしら」
「広告の世界なんて、それこそ一秒を争うせわしなさだろうね」
と、西尾は肯いた。
「西尾さん……。何のお仕事をなさってるんですか?」
「貿易会社――というと聞こえはいいが、何でも売って、何でも買ってくる。雑貨屋の海外版のようなもんだね」
と言って、西尾は笑った。「さあ、料理が来た」
二人は食事をとることにしばし専念した。――佐田からの電話で、由利は落ちつかない気分ではあったが、料理の味までは変らない。
「――おいしい」
と、由利は言った。「いつもこんな所でお食事してらっしゃるんですか?」
「私の好物が分るかね」
「いいえ」
「お茶漬とのり[#「のり」に傍点]だ」
と言って、西尾は笑った。
由利もちょっと笑って、
「――西尾さん」
「何だね?」
「母が……ステージで倒れたとき、『インペリアル』と|呟《つぶや》いたんです」
西尾の、ナイフとフォークを持つ手が止った。
「――インペリアル?」
訊き返す声は、少しそれまでと違っている。
「そうなんです。何のことなのか、まだ母にも訊いていません。西尾さんは心当り、ありますか」
西尾は、また食事を続けた。柔らかい肉――由利などめったに食べられない――をナイフで切り分け、フォークに刺して口へ運ぶ。肉汁とソースが、数滴、たれた。
その動作が、少し[#「少し」に傍点]ゆっくりのように、由利には感じられた。
「――さあ、何かね」
西尾は、その肉のひと切れを|呑《の》み込んでから、言った。
「もちろん、何でもないことかもしれないんです。でも――。何だか気になって」
「そうか」
「母が西尾さんとお会いしたホテルのことかもしれませんね」
と、由利は言った。
「そうだね」
西尾は微笑んだ。「そうだと嬉しいがね」
由利は、西尾の微笑のかげに、何か他の意味を探れそうな気がしたが、今、ここでそこまで言うのは、ためらわれた。この人が何か知っていたら、きっと話してくれるだろう。
「母とは――もう届も出しているんですか」
と、由利は訊いた。
「ああ」
と、西尾は肯いた。「お母さんが君らに黙っていたのは、たぶん私がずっと仕事で海外へ行っていたからだろう。ちゃんと紹介しようにも、本人がいないのではね」
「それに、母も久しぶりのリサイタルを開いたわけですし。終るまで、余計なことには気をつかわない人です」
「そう。――そうだろうね」
西尾は料理を食べ終えて、ナイフとフォークを静かに皿に置いた。
由利の方は、とっくに食べ終ってしまって、いささか恥ずかしい。
「姉さんの――そのみ君のリサイタル、ぜひ聞かせてもらいたいな」
「そうですか。でも――私も弾くんです」
と、由利が少し照れる。
「そりゃすばらしい」
「姉と二人で。ついて行くの大変です」
デザートが、ワゴン一杯に、のせられて来た。
「さあ、好きなものを取って」
と、西尾は言った。
「お|腹《なか》一杯! でも、食べちゃいそう」
そう言って、由利は笑った。
確かに、「満腹で、とても入らない」と思った由利だったが、しっかりデザートを三種類も頼んでしまったのだった。
「――北海道へ行ってる間、母のこと、見舞ってくれますか」
「もちろんだ。毎日というわけにはいかないかもしれないが、できるだけ毎日、顔を出すようにする」
「そうしていただけると、安心です。姉はたぶん行かないと思いますし、母も、姉がリサイタルの準備に打ち込んでいる方を喜ぶでしょう」
「そうだね。――きっとそうだろう」
急に西尾の声が、遠くへ向けられたように聞こえて、由利はデザートの皿から顔を上げた。
西尾の表情に、奇妙に苦く、重いものが――遠い日の出来事を、突然思い出した、とでもいったかげり[#「かげり」に傍点]が浮かんだように、由利には思えた。
しかし、それもほんの一瞬のことで、すぐに、
「ここのデザートは定評がある。悪くないだろう?」
と、子供のような表情をとり戻していた。
「はい」
由利は、明日は食事を控えよう、と決心していた。撮影用に用意してくれたドレスが入らなかったら、みっともない!
――北海道か。
確かに、いい季節だろう。
由利は、|工《く》|藤《どう》へ電話しておこう、と思った……。
15 埋れ火
「悪いわね、付合わせて」
もう、松原|宏《ひろ》|美《み》は同じことを三回も口にしていた。
「いいさ。別に行く所もないし」
|今《いま》|井《い》も、同じ答えをくり返していた。
「こんなの、どうかしら?」
と、宏美は、鮮やかなオレンジ色のドレスを手にとって、体に当ててみた。
「いいよ。とてもよく似合う」
と、今井は少し離れて眺める。
「何でも賞めてるんじゃない?」
と、宏美は笑って言った。
「そんなことないさ」
「まあ――これで悪くないけど、手がよく動くかどうかね」
宏美は姿見の前に立って、体に当ててみる。
「そうね……。試着してみよう。――今井君、悪いけど、バッグ、持っててくれる?」
「ああ」
宏美は、売場の女性に声をかけて、試着室に入った。
――リハーサルの二日目の日である。
|早《さ》|苗《なえ》は母の所へ預けて来た。夫、松原|紘《こう》|治《じ》が会社の帰りに寄って、連れ帰ってくれることになっている。
早苗がいやがらないかと心配だったが、母があれこれ、お菓子やオモチャを用意して待っていたので、早苗もしばらくは遊んでいそうだった。
宏美は、母がこんなに協力的なのを見て、苦笑していた。これが、コンサートのためでなかったら、こうまでしてくれまい。
しかし、前回に時間がずっとのびてしまったことを考えて、今井が問題点を|予《あらかじ》め整理しておいてくれたので、今日のリハーサルは、二時間の予定が、一時間ほどですんでしまった。
もちろん、ドヴォルザーク以外の曲もあるわけだが、それには宏美は加わらない。
前回のような熱い討論こそなかったが、ピタリ、ピタリと勘所が決っていく快感は、何とも言えないもので、終ったときには、宙を|翔《と》んでいるような気分になったのだった。
そして、今井と一緒に帰りかけ、宏美は、本番用のドレスを、デパートで見て行こうと思い付いたのである。今井に付合せて、こうして〈パーティ用ウェア〉のコーナーへやって来て……。
宏美は、ワンピースを脱ぐと、オレンジ色のドレスを頭からかぶった。――コンサート用の場合は、デザインより何より、手足が自由に動くかどうかである。
演奏家に、自分でドレスを縫ったり、母親に作ってもらったりする人が多いのも、そのせいだ。
フーッと息をついて、乱れた髪を直す。
そして試着室の中の鏡に、自分を映して立った。――まるで、タイムマシンにのって、二十代の初めのころへ飛んで帰ったようだった。
そこには、「将来を大いに期待できる」と言われ、「新人とは思えない音楽性」と賞讃された宏美が――和田宏美[#「和田宏美」に傍点]がいた。
|烈《はげ》しく、宏美の中にふき上げ、燃え立つものがある。このオレンジのドレスが、「パンドラのはこ」を開けたかのようだった。
何を考えてるの?――馬鹿な!
私はもう、プロの道を捨てたんじゃないの。あの人と結婚したときに、そう決めたんじゃないの。
そう。――どうせ不可能なのだ。
子供までいて、二十近くも年上の夫と家庭を持ち、家事と育児に時間をとられながら、プロの演奏家でいようとしても、とても無理なことだ。
そんなことは、よく分っていたのではないか……。
「いかがですか、お客様」
と、カーテン越しに声をかけられて、宏美はハッと我に返った。
「あ、すみません」
と、カーテンを開ける。
「よくお似合いですわ」
と、中年の女店員は肯いて言った。「音楽をなさってるんですか?」
「ええ、まあ……」
「やっぱり。何となく雰囲気がおありですもの」
「そうでしょうか」
と、少し赤くなる。「ちょっと下の丈が……。心もち、長いような気がするんですけど」
「でも、見たところ、ちょうどよろしいですよ」
「あの――ピアノを弾くので、ペダルを踏みますから」
「ああ、さようですか。じゃ、ほんの少し、短くしましょうか?」
「お願いします」
女店員が、足下にしゃがみ込む。――すると、数メートル離れて、今井が立っているのが見えた。
今井は、じっと宏美を見ていた。このドレス、どう、と訊こうとした宏美は、訊くのをやめた。今井が見ているのはドレスではなく、宏美でもなかった。いや宏美には違いないが、現実にここに立っている宏美ではなく、今井が胸の中に描いている宏美だった。
その宏美は、今井の腕の中に抱かれて、火のように燃えていた。今井にすがりつき、汗にしめった肌を、激しくこすり合せていた。
宏美には分った。今井の目に、自分がどう映っているのか、このドレスを見ても、今井の目はドレスを突き抜けて、その下の素肌を見ていた。そして、宏美はその視線で自分の体の奥底に、熱くうごめくものがあるのを、感じていた……。
「これくらいでいかがですか?」
と、女店員が足下で訊いた。
「ええ、結構です」
宏美は下を見ていなかった。目は、今井の目とぶつかり、せめぎ合うように光って、そして絡み合った。
「――ただいま」
と、宏美が上って行くと、
「何だ、早いじゃないか」
と、松原が顔を|覗《のぞ》かせた。
「あら、皮肉?」
「そうじゃない」
「何て格好?」
と、宏美は笑い出してしまった。
松原が丸裸で、早苗の体をせっせとバスタオルで|拭《ふ》いてやっていたのだ。
松原も笑って、
「仕方ないじゃないか。今、風呂へ入れたところだ」
「私、やるわ。あなた、入ってないんでしょ、ゆっくり」
「ああ。じゃ、頼む。入ったんだか入ってないんだか分らん」
「はいはい。|風《か》|邪《ぜ》ひくわよ、あったまらないと」
宏美は、バスタオルを受け取ると、早苗の頭をギュッギュッと拭いてやった。
夫が、風呂へつかる音がして、
「君のお母さん、ずいぶんご機嫌だったぜ」
と、声がした。
「そう?」
「ああ。君がステージに立つのが嬉しくて仕方ないらしい。早苗にもピアノを習わせた方がいい、とか言い出してさ。はあはあ、って聞いてたがね」
「放っときゃいいのよ」
と、宏美は言って、早苗にパンツをはかせ、パジャマを着せた。「もうおねんねよ」
早苗も、祖母の所で疲れたのかもしれない。|欠伸《あくび》していたと思うと、布団へ入るなり、眠ってしまった。
宏美は、早苗のわきに寝そべって、その寝顔を眺めている。――お風呂では、夫のシャワーを浴びる音が聞こえていた。
宏美はそっと自分の髪へ手をやった。少ししめっている。
信じられなかった。
こうして、夫に笑いかけ、娘に添い寝して、何も[#「何も」に傍点]感じない自分が。――つい、一時間前には、ホテルのベッドの中で、今井の汗にまみれた体を受けいれていたのに。
帰り道は、気がせいて、胸苦しく、|辛《つら》かった。夫や早苗の顔を、まともに見られるだろうか、と思った。
しかし――|一《いっ》|旦《たん》玄関を入ると、宏美はいつもの通りに、夫と話し、娘を|可《か》|愛《わい》がって、何らぎくしゃくしたものを感じなかった。まるで、「外と内では別の宏美」だとでもいうように……。
私は夫を裏切った。そう自分に向って言ってみても、何の変りもない。
それどころか、このまま夫が何も知らなければ、その方が結局夫も幸せなのだ、と――そう納得さえしていたのである。
「――眠ったのか」
と、松原が、バスタオルを腰に巻いて、そばへ来た。
「ええ」
宏美は起き上って、「ごめんなさいね。あとはもう、本番の直前にざっと合せるだけだから」
「そうか。|俺《おれ》も何とか時間を作って聞きに行こう」
「早苗がいるわ」
「何とかなるさ」
宏美はちょっと笑って、
「じゃ、お風呂、入ってくる」
「ああ。いい湯加減だ」
宏美は、浴室の前で服を脱いだ。
今井は――そう。今井は、宏美を愛しているわけではない。宏美も、それは承知していた。
そのみに追い出され、捨てられた、その屈辱の思いが、宏美への欲望になって爆発しただけだ。
もう、二度と、あんなことはないかもしれない。しかし、宏美にとっては、世界が全く違って見えるような衝撃だった。
自分の、もう一つの顔が、初めて見えたような気がしたのである。
湯舟につかって、じっと目を閉じていると、何もかも忘れられるような気がする。――あんなこと[#「あんなこと」に傍点]は、大したことじゃない。そうなんだわ。
今井だって、もう二度とあんなことはしようとしないだろうし、自分も……。自分も?
渦巻く湯気の中に、宏美は自分が吸い込まれていくような気がしていた……。
――風呂を出ると、
「おい、電話だ」
と、松原が叫んだ。
「え? 今?」
「今、かかってる」
と、松原は言った。「今井って、一緒に弾く人だろ」
「ええ、そうよ」
と、宏美は肯いた。「何かしら」
「後でかけると言おうか」
「いいえ、出るわ」
宏美はバスタオル一つ、体に巻きつけて電話へと急いだ。「――もしもし」
「やあ」
と、今井が言った。
「どうも……」
「風呂へ入ってたのかい?」
「ええ」
「じゃ、まだ裸なんだね」
「ええ……」
「君は後悔してる? 僕はしてない」
「あの――」
「忘れられないんだ。そのみとは違う。あいつと寝ても、こんな気持になったことはないよ。本当だ」
「――ええ」
と、肯く。「私も[#「私も」に傍点]よ」
「そう? 嬉しいよ。そう言ってくれて」
「ええ」
「また会ってくれ。いいだろ? リハーサルなんかじゃなくて、二人だけで過せるように。いいだろ? ね?」
宏美は、夫が後ろを通るのを感じた。
「そうね。きっと本番はうまく行くわ」
「ご主人がいるんだね、そばに?」
「ええ、そうなの」
「構わない。君が聞いててくれれば。君を離したくない」
「ええ」
「また会おうね。――いつ?」
「ええ」
夫がパジャマを着ている。「そうね。そうしましょう」
「また電話するよ。昼間なら」
「ええ、そうしてくれる?」
「待ち遠しいよ。こんな気持、初めてだ」
「ええ」
宏美は、夫が洗面所へ行くのを目の端で追って、
「私も楽しみだわ」
と、言った。
電話を切ると、宏美は洗面所で歯をみがいている夫の背後に近付いた。
肌がほてっているのは、湯上りのせいか、それともどこか体の奥が燃えているせいか。今井の声を聞いていたからだろうか……。
「何だ?」
鏡の中に妻の顔を見て、松原が歯ブラシを口へ入れたまま言った。
宏美は、後ろから夫に抱きついた。
「おい……。どうしたんだ?――おい」
夫が口をゆすぐ。そして妻の方へ向き直ったとき、バスタオルが外れてハラリと落ちた。
16 奇跡
母の背中が見えた。
まるで壁か|断《だん》|崖《がい》のように、そそり立ち、由利を見下ろしている。ピアノに向っているのは姉のそのみで、母はその後ろに立って、じっと身じろぎもせずに、娘の指の動きと、譜面とを見つめているのだった。
「――そう! 良くできたわ」
母の上機嫌な声が響くと、由利の身がすくむ。次に自分の番が来ることを知っているからである。
「由利! あんたの番よ」
そのみがピアノの|椅《い》|子《す》からスルッとすべり下りて、由利を勝ち誇ったように見る。
「由利。早く座って」
母の声に、由利は従う。そうするしかないと知っているからである。
逃げ出したい。本当に逃げ出したい。
ピアノなんて、大っ嫌い!
そう叫んで逃げ出せたら……。毎日、毎日、由利は起きる度にそう決心する。――今日こそ逃げ出すのだ。
母の手の中から、何とかして――。そして、もう二度とここへ帰れなくてもいい。
どこかで親切なおじさんにでも拾ってもらって、皿洗いでも、お掃除でも、お洗濯でも、何でもする。ともかく、母の所へ追い返さずに、置いてさえくれれば……。
でも――だめなのだ。
母の視線は由利を標本の|蝶々《ちょうちょう》のようにピンでピタリと止めてしまう。どんなにもがこうと、やってくる運命を逃れることは、とてもできない……。
「さあ、弾いて」
――大丈夫。きっと今日は大丈夫。
練習で、あれだけちゃんと弾けたんだもの、今、弾けないはずがない。そう自分へ言い聞かせて、ピアノに向う。
でも……だめなのだ。母に見られている、と思うだけで、とたんに由利の指はこわばって言うことを聞かなくなってしまう。そしてたちまち、もつれて妙な具合になって、収拾がつかなくなる……。
「――もう一度!」
母の声に|苛《いら》|立《だ》ちが混る。
そして、やり直してみても同じことだ。一旦、道を見失うと、歩けば歩くほど正しい道から外れてしまうように、由利の指はとんでもない所を|叩《たた》いてしまう。
「何やってるの!」
母の|叱《しっ》|声《せい》が飛ぶ。「お姉ちゃんはあんなに上手にできるのに、どうしてあんたにはできないの!」
首をすぼめ、由利は|嵐《あらし》をやり過そうとする。でも、その嵐は由利一人を|狙《ねら》いうちしてくるのだから、とても避けるわけにはいかないのである。
「始めから、もう一度!」
と、母が怒鳴る。「手の形が悪い! 何度も言ったでしょ!」
ピシッと手の甲を叩かれる。何度も叩かれて、由利の手の甲は、練習が終るころには真赤になってしまった。
「――もう一度!」
お願い。もうできない。もう弾けないよ……。
「もう一度!」
お母さん、やめて! もう勘弁して! もう……。
「もう一度!」
もう一度!――もう一度!
お母さん……。許して。もういや。もういやだ……。
「もう一度!」
「――いやよ」
激しく頭を振って、由利はハッと目を覚ます。
窓から、|爽《さわ》やかな風が入ってくる。
東京の風じゃない。ガソリンの|匂《にお》いも、どこかのBGMも含まれていない。透明な、きれいな風。
――北海道なのだ。
「大丈夫?」
スタイリストの女性が、マイクロバスの中を覗き込んでいる。
「私……眠っちゃったんですね」
由利は、息をついた。「すみません」
「いいのよ。出番が来るまでは何してたって」
と、スタイリストの女性が首を振る。
「もう一度!」
と、外で声がしている。
佐田|裕《ひろ》|士《し》の声である。由利は、立ち上って、
「どんな具合ですか?」
「今、ピアノをね……」
マイクロバスを降りると、風が由利の全身をやさしく包む。青空が、信じられないほど高い。
まぶしさに手をかざして見上げる、深海のように青い空の中を、真白なグランドピアノが漂っている。
それは不思議な光景だった。
「もっと奥だ!――そう、その辺へ下ろせ!」
と、佐田が怒鳴る。
クレーンでピアノを|吊《つ》り上げて、目の前の一面の草原の真中へ下ろそうとしているのだ。
時計を見ると、一時間ほど眠っていたことが分る。しかし、状況は一時間前とあまり変っていないようだ。
ともかく野外にグランドピアノのような何百キロもある物を置こうというのだ。下の足場をしっかりさせなくては、水平に置くことすらむずかしい。位置を決めても、そこへ置いたときには、もう太陽の位置が動いている。
「そっと下ろせ!――そっとだ!」
ピアノは、何とか無事に着地した。
「――目が覚めた?」
と、佐田は汗を|拭《ぬぐ》った。
「はい。――すみません」
「いいんだ。君はピアノを弾くんで、運ぶんじゃない」
と、佐田は息をつく。「カメラはもう用意がすんでる。――ドレスに着がえといてくれないか」
「はい」
「ともかく、君のカットだけでも撮っておきたい」
佐田は、スタッフの方へ、「おい! 回すぞ!」
と声をかけた。
由利は、バスの中へ戻って、カーテンで仕切られた一角に、スタイリストと二人で入った。
「――さあ、こいつを着て」
「はい」
「頭は大丈夫。後でちゃんと直すから。――どう? きつくない?」
「大丈夫です」
と、由利は肯いた。「佐田さん、何だか|苛《いら》|々《いら》してるみたい」
「キツネよ」
「キツネ?」
「例のキタキツネがね、手違いで来てないのよ」
「じゃあどうするんですか?」
「だから、あなただけでも撮っとこうっていうんでしょ。後でつなげても、光の具合とかね、うまく行かないのよ」
「そうですか……」
カーテンをシュッと開け、由利は椅子にかけて、ヘアスタイルとメイクを直してもらう。
気恥ずかしいような、可愛いドレスである。姉が見たら、何と言うか……。
「――はい、OK」
スタイリストの女性がポンと肩を叩く。
由利はバスを下りた。
「やあ、すてきだ」
と、佐田がやって来る。「クレーンにのせたカメラで、何度も回すからね。君は、できるだけ表情豊かに弾いてくれ」
「表情豊かに、ですか」
「しかつめらしい顔でじっとピアノをにらみつけてちゃ、絵にならない。分るだろ?」
「ええ」
「ともかく、光の具合がいいのは、そう何時間もないんだ。早速弾き始めてくれ」
「はい」
これも仕事。――契約の内なのだ。
由利は、ドレスの|裾《すそ》を持ち上げながら、草原の中へと入って行った。
ビデオカメラではなく、35ミリのフィルムを使う。普通の劇場用の映画と同じだ。TVで見ると、16ミリフィルムでもそう違わないのだが、微妙なところで「高級感」が出るのだという。
それにしても、スタッフの人数の多いことにはびっくりした。――ビデオどりでは何分の一かの人手で充分なのだそうだが、フィルムというだけで、こんなに手間のかかるものなのである。
北海道へやって来て三日目。
明日には、もう戻る予定になっていた。動物業者の手違いで肝心の「聴衆」がいないのでは、佐田が苛立つのも分る。
「――さっきの電話じゃ、もうこっちへ着くってことだったんだけどね」
由利にくっついて来たスタイリストの女性が言った。「この分じゃ、怪しいわね」
「残念ですね」
「そう。――さ、座ってみて、高さはどう?」
椅子の下には、ちゃんと板が敷いてある。
由利は椅子の高さを調節した。
「これくらいですね」
と、由利は言って、「あ、ピアノの|蓋《ふた》、どうします?」
「開けるんでしょ。――あなたはいいの。ちょっと! ピアノの蓋!」
由利は、何となく妙な気分だった。
何もやらなくてもいい。周りが全部やってくれる。――もちろんそれは、由利がスターだからではなくて、せっかくのドレスが汚れたりしたら、この撮影が台なしになってしまうからである。
それにしても、こんな風に周囲が何でもやってくれて、ただピアノさえ弾いていればいいという経験は、由利にとって初めてのことだ。――確かに少々「いい気分」になれるものではあった。
「――OK、何か弾いててくれ」
と、佐田がカメラの向うで声をかけた。
少し指をならした方がいい。由利は、とりあえずモーツァルトのソナタを弾き始めた。
音はピアノの胴体から果しない広がりの中へと広がって行って、もちろんホールのように戻っては来ない。不思議な音だった。
モーツァルトがモーツァルトでなくなるような……。ショパンを弾く。
ショパンはいわば超高級な「サロン音楽」である。こういう開放された空間には一番似つかわしくない音楽かもしれないが、それでも乾いた空気と、草花をなでて行く風にのって、美しい響きを感じさせた。
「――大したもんだ」
と、スタッフの一人が言うのが聞こえた。
「本当に弾けるんだ」
などと呆れているのもいる。
どうやら、由利を駆け出しのタレントで、ピアノを弾くふり[#「ふり」に傍点]をしに来ただけ、とでも思っていたらしい。佐田の方へチラッと目をやると、得意げに笑っている。
――ショパンのエチュード、スケルツォを何曲か弾いて、サティの〈ジムノペディ〉にした。この風のゆるやかな動きに、よく似合う。
「――同録でとるぞ」
と、佐田が言った。
大きなマイクが、カメラの視野ぎりぎりの所までピアノに近付く。
カメラは一旦地面に据えられて、いくつか位置を変えてフィルムを回した。
「――すてきだ! よし、クレーンにのせろ」
と、佐田が指示する。
「どうします、キツネ?」
「仕方ない。いざとなりゃ、彼女だけでやるさ」
佐田がクレーン車の方へ手を振った。
クレーンの先の台へカメラを据えつけ、それを上昇させたり斜めに動かしたりして撮ろうというのだ。
「――ちょっと髪を」
と、スタイリストの女性がやって来て、いじる。
「これでいい」
「少し風が冷たい」
「そうね、午後になると」
「弾いてた方がいいわ。手が少しこわばってくる」
由利は、|鍵《けん》|盤《ばん》に指を置いて、何を弾こうか、と考えながら、ふと目を上げたが――。
「――見て」
と、由利は言った。
忙しく動き回っていたスタッフたちが、スッと静かになり、動きを止める。
ピアノの斜め前、ほんの三、四メートルの所に、茶色い動物が、ちょこんと座って、由利の方を眺めていた。
「――驚いた」
と、スタイリストの女性が言った。「キタキツネよ」
佐田が、我に返ったように、由利に向って手を振っている。――弾いていろ、ということだと察しがついた。
由利が再び弾き始める。スタイリストの女性は、ゆっくりとピアノを離れた。
誰もが無言だった。一言でも発すれば、キタキツネが逃げ出すとでもいうように。
カメラをそっとクレーンに据えつけ、カメラマンと佐田が、小さな椅子に腰かける。――静かにクレーンが上昇し始めた。
由利は、目の前の光景が、信じられなかった。
キタキツネの親子だ。首をかしげるようにして、この不思議な音を発する大きなものを見上げている。
何とも可愛い。由利はごく自然に、その小さな動物に微笑みかけていた。
何を弾こう?――まさかキタキツネに「リクエストは?」と訊くわけにはいかない。
野原で弾く。――野原か。
とっさの連想で、ジョン・フィールド[#「フィールド」に傍点]の〈ノクターン〉を弾き始めた。アイルランドの作曲家で、それほど知られてはいないが、ショパンより以前、〈ノクターン(夜想曲)〉という名称の曲を、初めて作曲したのだ。
ショパンに比べれば単純だが、メランコリックで、やさしい曲想を持っている。
由利は、記憶に頼って、弾きつづけた。カメラをのせたクレーンが、空高く上って、ピアノと由利を見下ろしている。
すると――キタキツネの子供が、トットッと歩き出し、ピアノの下へ入って行く。音の鳴る箱を、じっと見上げている。親がやって来て、子を追い立てようとする。
子は素早く逃げて、ピアノの足の周囲をクルクルと回りながら、遊び出した。
カメラは低く下って、その光景をフィルムに収めていた。
誰もが興奮し、真赤な顔をしている。――誰も演出したのではない。しかし、目のくらむような場面である。
由利は、次第に体が熱くなってくるのを感じた。音楽が、あの動物に分っているわけではあるまい。しかし、ノクターンを伴奏に、野生の生き物が遊び戯れているさまは、胸を一杯にした。
もっと弾いて! もっと!
佐田が目を輝かせ、息さえ止めて、由利を見つめている。由利は、指がまるで命を得たように、自由に鍵盤の上で踊るのを感じた。こんなことは初めてだ!
さあ、踊って! 遊んで!
もっと弾いてあげる。もっと! もっと!
汗が流れた。降り注ぐ陽光の下、その汗はきらきらと宝石のように輝いていた……。
17 夜の息吹
|宴《うたげ》は深夜まで続いた。
スタッフの泊ったホテルのバーは、夜中の一時までだったが、佐田が特別に話をつけたらしく、二時近くなっても、まだ誰もが飲みつづけている。
「――いや、|凄《すご》かった!」
と、カメラマンが声を上げた。「あんなのは一生に一度だぜ」
「それはさっきから五回目だ」
と、一人がからかう。
ドッと笑いが起った。
由利も、少しビールとか飲んでいたが、いつもなら、こんな席に遅くまでいると、すぐ頭痛がしてくる。しかし、今夜だけは不思議と平気でいられた。
いや、むしろ他のスタッフともども同じ興奮を味わっていたのである。
確かに、カラオケバーで、聞きたくもない下手な歌に拍手しなければならない、あんな宴会に比べれば、この席はずっと「正直」だった。
「松原君のピアノのおかげだ」
と、佐田が言った。「このCFは僕の人生の中でもハイライトだよ」
由利は少し頬を染めて、
「キタキツネにお礼を言って下さい」
と言ったが、自分でもまだあの瞬間の|昂《こう》|揚《よう》した気分が残っているのを感じていたし、その気持には素直になろうと思っていた。
「あれで話題にならなかったら、俺は首を吊るよ」
と、一人がオーバーなことを言ったが、それが納得できる雰囲気だった。
「君はスターになるぞ」
と、カメラマンが言った。「本当だ。間違いない」
「私、タレントじゃありません。ピアニストなんです」
と言ってから、由利はふと口をつぐんだ。
ピアニスト? 私はピアニストかしら?
そうじゃない。ピアニストというのは、姉や母のような人間のことを言うのだ。自分はただ、「ピアニストもどき」にすぎない。
「そう。君は自分の道を行くべきだ」
と、佐田が言った。「しかし、それで有名になれば、拒んじゃいけないよ」
由利は、ちょっと微笑んで、
「有名になんて……。私はただの契約社員ですもの」
と、言った。
「もったいねえな。世の中、有名になりたい奴が山ほどいるのに」
と、スタッフの一人が言った。
「有名になるならないは、自分の意志とは関係ないよ」
と、佐田が由利を見て、言った。「ただ、僕の経験から言うと、君には、充分にその輝きがある」
「もう……寝ます」
|居《い》|辛《づら》くなって、由利は立ちかけた。
「おっと。もうこんな時間か――。居座ってちゃ気の毒だ。もう行こう」
誰もが十二分に酔いしれているようだった。
ホテルの中なので、バーを出て、エレベーターで上るだけでいい。
「――ゆっくり休んでくれ」
と、佐田がエレベーターの中で言った。「明日の飛行機は夕方だ。昼ごろ起きれば充分だからね」
「はい」
由利は少しホッとした。「――おやすみなさい」
スタッフ、それぞれが別のフロアで、ばらばらだった。由利は一人でツインルームを使っていた。
ルームキーで中へ入ると、急に疲れが出たようで、服のままベッドに|仰《あお》|向《む》けになった。
疲れてはいたが、眠くはなく、目が|冴《さ》えていた。――何もかもが初めての経験で、そしてあんな奇跡のような光景を見たのである。
興奮が冷めないのも当然かもしれない。
明りも|点《つ》けず、じっと天井の暗がりを見つめている。――今日一日が夢のようだ。
トントン。
ドアをノックしている音。――この部屋だろうか?
トントン。
由利は起き上った。
ドアをそっと開けると、佐田が立っていた。
「――佐田さん。どうかしたんですか」
と、由利は言った。
「いや……。すまないね、せっかくホッとしてるところに」
と、佐田は少し照れたように、目をそらしている。
「いいえ、横になってただけです。あの――何か?」
「君に……お礼を言いたかった」
「礼?」
「そう。みんなのいる前じゃなくて、君と一対一でね。――今日みたいなすばらしい日は、初めてだ。ありがとう」
佐田の目は、輝いていた。あの撮影のときの、燃えるような輝きを、まだ|止《とど》めていたのだ。
「そんな……。私はただピアノを弾いただけです」
と、由利は言った。
「君が呼んだのさ」
「あのキタキツネを、ですか?」
「いや、奇跡[#「奇跡」に傍点]をだ。君にしかできないことだった」
「もしそうだとしても……あれを考えたのは、佐田さん、あなたです」
「プランを立てるのなんて、簡単さ」
と、佐田は首を振った。「すばらしい場面を手に入れるには、全く別の才能が必要なんだ。金をいくら積んでも買うことのできない才能がね」
「買いかぶらないで」
と、由利は笑った。「私は落ちこぼれのピアニストなんです」
「そんなことはない。人間は技術だけで評価されるわけじゃないだろう。君は、他のどんなすぐれたピアニストにもないものを持っている」
「もうやめて……」
由利は、ドアを押えて立っていた。
「すまない」
と、佐田は息をついて、「つまらないことで、邪魔しちゃったね」
「いえ……」
「じゃあ。――おやすみ」
「おやすみなさい」
由利は、ドアを閉めた。
佐田の足音は聞こえなかった。カーペットを敷いた廊下である。
じっと、ドアを押えたまま、動かなかった由利は、思い切ったように、パッとドアを開けた。
――分っていたのだ。
そこ[#「そこ」に傍点]に佐田が立っていることは。
もう何も言わなかった。ドアを開けたとき、由利は佐田を受け|容《い》れたのだ。
数秒後には、由利は佐田の腕に息苦しいほどきつく抱かれ、唇を唇でふさがれ、そのまま部屋の中へ押し込まれるようにして、一気にベッドの上に倒れ込んだ。
烈しい息づかいと、こすれ合う布の音だけが、しばしこの小さな「夜」の中に聞こえていた……。
「いかがですか、仕上りの具合は」
|佐《さ》|竹《たけ》|弓《ゆみ》|子《こ》の声は、至って|呑《のん》|気《き》だった。
「まあまあね」
と、そのみは答えた。「何しろ、パートナーが北海道でキツネと遊んでるもんだからね」
佐竹弓子はちょっと笑った。
「由利さんのことは聞いてます。CFに出られるとか」
夜中の電話。――しかし、そのみには、朝早くの電話より、ずっとありがたい。
「由利が出たら、売れるもんも売れなくなるわね」
「まあひどい」
と、佐竹弓子は言った。「由利さんなら大丈夫。ちゃんとやられますよ」
「こっちも|真《ま》|面《じ》|目《め》なもんよ」
現に、そのみは今も楽譜を眺めていたのである。
「嬉しいわ。チケット、もう来週発売ですから」
「売れ残っても知らないよ」
と、そのみは冗談めかして言ったが、その底に不安が通奏低音のように響いていることを、佐竹弓子はちゃんと承知している。
「残念でした。私でも個人用のチケット、手に入らないかもしれないんです。社員用の分はなし、と早々に決りました」
「私の分は?」
と、そのみは笑って言った。
「由利さん、いつ戻られるんです?」
「明日の夜とか言ってたわ。少しお説教してやって」
「お母様の具合いかがなんですか?」
佐竹弓子が、|太《おお》|田《た》から聞いていないわけがない。しかし、こういう話をして、緊張をほぐすのも、プランナーの仕事の一つである。
「悪くないんじゃない? 由利に訊いて」
「そうします」
と、言って、「そうそう。あの――お父様と結婚した|女《ひと》……。|和《わ》|田《だ》|宏《ひろ》|美《み》さん、でしたよね」
「あの人がどうかしたの?」
そのみは大して気にもしていない、という口調。
「今度、室内楽で久しぶりにステージに出るようですよ」
「へえ。何を弾くの」
「ドヴォルザークの五重奏。臨時の編成ですけどね」
「知らないな。リーダーは?」
「第一ヴァイオリンは今井|初《はじめ》さんですって」
そのみが、初めて起き上った。
「――今井君?」
「ええ。そのみさん――」
「何でもないの。じゃあ、由利が戻ったら、またかけて」
「そうします。頑張って下さい」
「ありがとう」
そのみは素直に礼を言った。――こうした励ましは嬉しい。
今井が……あの女[#「あの女」に傍点]と?
まあ、不思議とは言えない。互いに知っているし、今井には、一流のピアニストをゲストに呼ぶ力はない。ほとんどノーギャラに近くて、弾いてくれる人、といえば、半ば引退同然の「元、有望なピアニスト」しかいないだろう。
「――宏美さんがね」
父と一緒になって、今は近所の子供相手の「ピアノの先生」をしていると聞いていた。もちろん母は、宏美のことなど、一言も口にしないので、音楽仲間の|噂話《うわさばなし》からである。
今井と、和田宏美か。――そのみは、ちょっと皮肉な笑みを浮かべた。
「まあ、せいぜい頑張って」
今井を嫌いになったわけではない。しかし、そのみは二つ三つのことに没頭することはできないのである。
今はリサイタルが何よりも大切だ。今井のことはその後でもいい。
正直なところ、そのみはベルさえ鳴らせば、いつでも今井が|尻尾《しっぽ》を振って飛んでくると思っていたのである。
夜が、熱くほてっているようだった。
汗ばんだ肌に、佐田の柔らかい指がゆっくりと滑った。
「もう……眠るわ」
と、由利は言った。「部屋へ戻って」
「分ってる」
佐田が、少し体を起こして、「初めてじゃなかったんだね」
「がっかり?」
「いや、ホッとした」
由利はちょっと笑った。
「音楽家はね、早熟なの。――知らなかった?」
「君も?」
「私は……十七のとき。母があんまり厳しいので、それに反抗して。――大して好きでもない男の子だった」
と、由利は言った。「もう顔も忘れちゃった」
「姉さんもその口かい?」
「姉は別。――うまいんですもの。何をして遊んでも、ちゃんとピアノさえ弾けば、母は黙ってた。でも、それでやりすぎて、結局母と|仲《なか》|違《たが》いしたんだけど」
「そうか。――姉さんのことはいい。君のことさえ分ってりゃ、僕には充分だ」
「何人か恋人はいたけど……。でも、まだ若すぎる」
「ああ。――分ってる」
佐田はそっと由利にキスした。白い体がかすかに震える。
――佐田が自分の部屋へ戻って行った後、由利はじっとベッドで動かなかった。
こんなことになるとは……。しかし、今日、あの昼間の出来事を通して、何か[#「何か」に傍点]が始まろうとしている予感を、覚えていたのも事実だった。
それが、これ[#「これ」に傍点]だとは思ってもいなかったのだけれど……。
ふと、工藤の顔を思い浮かべる。胸が痛んだ。
とても――もう無理だ。佐田にああは言ったが、十七歳のとき以来、佐田は二人目の男だった。何人もいた、と言ったのは、佐田に「遊び」と思わせたかったから。
おそらく、「真剣」になれば逃げていく男なのだ。
由利は、ベッドから出ると、バスルームへ入り、熱いシャワーを浴びた。
じっと目を閉じて、正面から熱い雨を受け止めていると、色とりどりの光の破片が乱舞する中に、あのまぶしい|日《ひ》|射《ざ》しの下、戯れ遊んでいたキタキツネの親子の姿が、浮かんでは消えた……。
18 女の顔
そのみの手が止った。
しまった、と|由《ゆ》|利《り》は思った。どこが悪かったかぐらいは自分でも分る。
「ごめん。走りすぎた」
と、文句を言われる前に謝っておくことにする。
「由利」
そのみは、譜面を閉じると、何か言いかけて、やめた。「――今夜はこれで終りにしよう」
「でも……。まだ三十分しかやってないよ」
「いいじゃない。時間だけやりゃいいってもんでもないし」
由利は、そのみが腹を立てているわけでもないらしいと知って、ホッとした。
「うん」
と、自分のパートの譜面を閉じる。
「お|腹《なか》|空《す》いたでしょ。何か食べない、その辺で?」
と、練習室の重い扉を開けて、そのみは居間へ戻ると、ソファの上に楽譜を投げ出した。
「私……ちょっと約束があるの」
と、由利が少しためらいがちに言った。「ごめんなさい」
「謝ることないじゃない」
そのみは、ソファに横になって手足を伸すと、
「あんたも〈夜行性〉になったもんね。夜の十一時から、『お約束』?」
「だって……。OLじゃないんですもの。仕方ないわ」
と、由利は言いわけした。
「成長したのを喜んでんのよ」
「別に――」
と、言いかけて、「少し郵便物、整理したら?」
テーブルに山積みになった新聞と郵便。一体いつからたまっているのだろう?
「片付けてあげるわ」
と、由利は、新聞と広告、郵便、そして郵便物の中でも、捨てていいDMをどんどん分けて行った。
「その内やるわよ」
と、そのみが言った。「いいの、時間?」
「うん。今行ったら早すぎる」
由利はチラッと時計に目をやる。「こんな風になってると|苛《いら》|々《いら》するの」
そのみは、じっと妹がてきぱき「分類」していくのを眺めていたが、やがて、口を開いた。
「男ができたね、由利」
由利が手を一瞬止めて、
「そう……。いいでしょ、できたって」
「何を気取ってるの、真赤になって」
と、そのみは笑った。「それで、やけに先を急ぐのか。アレグロがプレストになるわけだ」
「やめて。そんなんじゃない」
と、由利は少しむきになって言った。
「干渉しないわよ、人の恋には。でも、一人で舞い上んないでよ、デュオのときに」
由利は聞こえないふりをしていた。一枚のハガキを取り上げて、いらないDMの山の方へ入れかけてふと見直し、
「お姉さん」
「うん?」
「これ――。|今《いま》|井《い》さんじゃない」
「ああ。ドヴォルザーク?」
「うん。招待状よ。行く?」
「行くわけないでしょ。いつ?」
「ええと……あさってだ」
「あんた、行ったら」
と、そのみは言った。
「私が行っても――。お姉さんが行ったら喜ぶよ、きっと」
「怪しいもんね」
そのみは起き上って、「お父さんに会えるかもよ」
「お父さん? どうしてお父さんが――」
と言いかけて、由利はハガキを見直し、「これ……ピアノの〈|松《まつ》|原《ばら》|宏《ひろ》|美《み》〉って――」
「そう。彼女[#「彼女」に傍点]よ」
「へえ。また始めたんだ」
由利は、単純にびっくりしているだけだった。宏美が完全に演奏活動から手を引いたものと思っていたからである。
「今井君が頼んだんでしょ。安いギャラで出る人を捜して」
「そう……。じゃ、お姉さん知ってたんだ」
「聞いたのよ。興味ないわ。あんた、行くなら行って」
由利は少しためらってから、
「じゃ――一応持ってる。行けるかどうか分らないけど」
と、ハガキを自分のバッグへ入れた。「じゃ、こっちが見た方がいい分。他のは捨てとくから」
「ご苦労さん。明日、来られる?」
「病院に寄ってから」
由利は帰り仕度をした。「時間は?」
「いつも通り。じゃ、|鍵《かぎ》、かけてって」
「無精ね」
と、由利は笑って、姉のマンションを出た……。
タクシーを拾って、TV局へと向う。
着けば十二時くらいになるだろう。たいていは、それでも早すぎるのだが、待つのは大して苦にならない。待っても、自分は言われた時間に着いておきたい。由利はそういう性格である。
――北海道での、あのロケからそろそろ一か月が過ぎようとしていた。
もちろん、ロケだけ[#「だけ」に傍点]があったわけではない。すばらしいロケだったが、由利にとっては、「恋」の始まりだったのだ。
恋か……。タクシーの窓から、暗い夜を眺める。
|佐《さ》|田《だ》|裕《ひろ》|士《し》との仲は、ずっと続いている。ずっと、と言うほど長くないかもしれない。たかだかひと月ほどでは。
しかし、由利は内心、一度きりで終るのではないかと思っていたのだ。あれは、「特別な一日」だった。あの|昂《こう》|揚《よう》した気分の中での、一瞬の放電のようなものだった。
それが――東京へ戻った翌日、ベッドに入った由利を、佐田が迎えに来たのである。由利は真夜中過ぎに、二度目の夕食を取り、午前二時すぎにホテルへ入って、佐田に抱かれた。――目が覚めたのは、もう午後の三時ごろで、シャワーを浴びて表に出ると、日は傾きかけていた。
由利にとっては、それが「恋の始まり」だった。今まで全く知らなかった生活[#「生活」に傍点]が、由利を|呑《の》み込んでいた。
音楽家が夜ふかしなのは、由利も知っている。しかし、由利自身は長くOL生活をして来て、朝に起き、夜、遅くとも十二時ごろには眠るという暮しに慣れていた。
佐田の、夜昼が完全に逆転したような生活に、自分も巻き込まれていくようで、正直なところ恐ろしかった。
妙なものだが、由利は佐田との恋に|囚《とら》われていくことよりも、また逆にその恋を失うことよりも、こんな夜中に出かけるのが、当り前になることの方を、心配していたのである。
自分の生活が変ることは、「自分自身」を失うことのように感じられたのだろう。
それはまるで、青春時代に、悪い遊びにひきつけられて、「もう二度と行かない」と誓いながら、ついつい足を向けてしまう、あのやましさにも似ていた。
――タクシーがTV局の通用口に着くと、由利はもう顔を|憶《おぼ》えてくれている守衛に会釈して中へ入った。
TV局が眠らないといっても、やはり深夜になると送り出しなどはコンピューター任せになり、人の姿はぐっと少なくなる。
由利はいつも通り、小さなコーナーの|椅《い》|子《す》に腰をかけて、佐田が出て来るのを待った。
佐田といつも一緒のスタッフには見られてしまうわけだが、どうせみんな知っているのだ。今さら隠すことはない。
由利は、ぼんやりと、壁に並んでいる新番組のポスターを眺めていた。――いかにも「人気番組」というように見えるが、佐田のスタッフとしゃべっていて、「視聴率がとれずに打切りだ」と聞かされているものもいくつかあって、おかしい。
もっとも、制作に|係《かかわ》った人たちにとっては、「おかしい」どころじゃあるまいが。
「――由利さん」
足早にやって来たのは、北海道でも一緒だったスタイリストの女性である。
「あ、今晩は」
と、由利は腰を浮かした。
「ね、ここにいちゃまずいわ」
と、早口に言って、「こっちへ」
と促す。
「え?」
由利はわけが分らず、面食らっていた。
「いいから! ついて来て!」
スタイリストの女性に引張られて、TV局の中を、右へ左へ、どこへ向っているのかさっぱり分らない。ともかく、しまいにはどこかの倉庫みたいな部屋へ入って、やっと息をついた。
「――これで何とかなった」
と、息を弾ませている。「ごめんなさい、びっくりさせて」
「何だったんですか?」
由利は、|呆《あっ》|気《け》にとられているばかりだった。
「|山《やま》|口《ぐち》|真《ま》|理《り》。――知ってる?」
「山口真理……。タレントさんでしょ? 歌手じゃないですか」
「まあ、あれで歌手って呼べりゃね」
と、スタイリストの女性は笑って、「でも、ともかく男に取り入るのは上手なの」
「その……山口真理さんがどうしたんですか?」
「あなたを捜してたの。たぶん、まだあの出口辺りにいるでしょ。目をこんなにしてね」
と、目尻を指でキュッと上げて見せる。
「私のこと――」
と、言いかけて、やっと由利にも分った。「じゃ――佐田さんと?」
「そう。もう半年くらいかな。この世界じゃ、みんな知ってたわ」
「そうですか……」
「山口真理にとっちゃ、まだ駆け出しの身で佐田さんの『彼女』って立場は絶対に失いたくないのよ。で、あなたがそれを横どりした、と|噂《うわさ》で聞いてね」
と、少し心配そうに由利を見て、「ショックだった?」
「いいえ」
由利は即座に答えた。「私、そんなにうぶ[#「うぶ」に傍点]じゃありませんわ。佐田さんが手が早いって忠告してくれたのも、ちゃんと憶えてるし」
「罪な男よね」
と、スタイリストの女性はため息をついた。
「みんなあなたに同情してる。この仕事がすむまでだよ、って」
「分ってます」
と、由利は|肯《うなず》いた。「佐田さんとの間がずっと続くとは、思っていません。私も自分の意志でお付合いしてるんですし、別に|騙《だま》されてる、ってわけじゃないし……。でも、その人と佐田さんを奪い合ったりするのはいやだわ」
「しっかりしてるのね、あなた」
と、由利のことを見直した様子。
「少しは自分のことを知っている、ってだけです」
と、由利は言った。「ずっとここに隠れてるんですか」
「見て来てあげる。――佐田さんがうまいこと彼女のご機嫌とってやるでしょ。今夜は会えないかもよ」
「ええ」
由利は、肯いた。――一人になって、改めて自分の妙な状況に苦笑した。
まるでこそこそと不倫でもしているよう。こんなとき、姉なら相手の女をはり倒しているだろう。いや、男が自分から戻って来るのでなければ、
「そんな男、くれてやるわよ」
と言うに違いない。
誇り高い人なのだ。
由利がこうして、あまりショックも受けずにいられたのは、姉とは逆に、自分に相手を縛りつけておくのが|可《か》|哀《わい》そうだから、なのである。
だって――そう、佐田の周囲には、私なんかより、ずっとずっと|可《か》|愛《わい》い子たちがいくらもいるのだから……。
足音がして、ドアが開いた。
「悪かったね」
「佐田さん……」
由利は戸惑った。
「怒ってるだろ?」
と、佐田が由利の肩を抱く。
「いえ……大丈夫なの?」
「ああ、もう帰ったよ」
二人は、TV局の廊下を歩き出した。
「――君に謝らなきゃ」
「どうして? 別に私、あなたを独り占めしたいとは思ってないわ」
「思ってほしいけどね、僕は」
肩を抱く手に力が入る。
その言葉が、|嬉《うれ》しくないわけではない。でも、由利は、分っているのだ。この恋が長く続くわけがないことを。
「――佐田さん」
と、通用口の所で待っていたのは、あのスタイリストの女性で、「由利さんを泣かせちゃだめよ」
「ああ。分ってる。――彼女は?」
「タクシーで帰ったわ」
「そうか」
と、佐田が肯く。
「ね、やめましょう」
と、由利は言った。「今夜はもう……。やめた方がいいわ」
「どうして? 気にすることないんだ。あの子の方が勝手につきまとってるだけなんだから。――さ、行こう」
佐田は、いつになく強引に由利を自分の車へと押し込んだ。
|諦《あきら》めて、少々狭苦しいスポーツカーの助手席でシートベルトをしながら、由利は不思議だった。
男は、どうして気付かないのだろうか。
「勝手につきまとっているだけ」
その言葉が、いつか自分について言われる日が来る。――女がそう考えるだろうということを、なぜ考えないのだろう。
「――待たせたね」
佐田が車を走らせる。「例のCFがね、もうでき上ったんだ」
「あの北海道の?」
「ああ。すばらしい出来だ。例の――何てったかな。|中《なか》|山《やま》か。あの『部長』も、いたく気に入っていたよ」
「見たいわ」
と、由利は言った。「でも、恥ずかしい」
「早速来週からの、あの社の枠でオンエアだ」
「来週から?――もう?」
由利にも、意外なことだった。画面に出るのはもっと先のことと思っていたのだ。
「いいものをしまい込んどくことはないさ。そうだろ?」
――由利が反対したり、苦情を述べる筋合ではない。ただ、心配なのは姉のリサイタルに、何か影響が出はしないか、ということである。
由利はちょっと笑った。――何をうぬ|惚《ぼ》れてるの! 誰も憶えてやしないわよ、あんたのことなんか。
憶えてるとしたら――そう、あのキタキツネの親子のことだろう。
「ねえ」
と、由利は言った。「何か食べたいわ」
「いけね! そうだった。ごめんよ」
佐田も、山口真理のことで動揺していたのだろう。早速車を、なじみのレストランへと向けた。
19 宿命
「お会いになっても構いませんよ」
医師のその言葉が、むしろ|佐《さ》|竹《たけ》|弓《ゆみ》|子《こ》には恐ろしかったのである。
しかし、自分の方から、
「会ってもいいでしょうか」
と|訊《き》いておいて、今さら「やめます」とは言えない。
「今は特別室の……〈1206〉に入ってらっしゃいますが」
そう言われて、佐竹弓子は少し戸惑った。
このところ忙しくて、|影《かげ》|崎《さき》|多《た》|美《み》|子《こ》の様子を耳にする機会がなかった。今日、たまたま二、三時間の空きができたので、病院へやって来たのである。
何といっても、弓子自身の企画したリサイタルで倒れたのだ。
しかし――特別室? マネージャーの|太《おお》|田《た》は何も言っていなかったが。
ともかく、医師に言われた通り、弓子は特別室の並ぶフロアへ上って、〈1206〉のドアの前に立った。〈影崎多美子〉の名札が入っている。
だれが費用を出しているのだろうか。
軽くノックをして、弓子は静かにドアを開けた。
もちろんホテル並みというわけにはいかないが、立派な病室である。ベッドに寝ていた患者が、ゆっくりと顔を向けた。
弓子は、医師から「大分良くなっている」とは聞いていたが、それでも影崎多美子が相当に老け込んだ様子を想像していた。
その方が実際に顔を合せたとき、ショックを受けても表情に出さずにすむ。
しかし、影崎多美子は、髪などはひどい様子だったが、恐れていたほど変ってはいなかった。
「お邪魔してもよろしいですか」
と、弓子はそっと声をかけた。「佐竹です」
多美子が小さく肯いたので、弓子はホッとして中へ入り、ドアを静かに閉めた。
ベッドの方へ近付いて行くと、
「お花の一つもお持ちしないで……。すみません、仕事の途中でうかがったもんですから」
と、弓子は、笑顔を見せて、「でも安心しました。ちっともお変りになっていないんですもの」
多美子はかすかに首を横へ動かして、左手で椅子をすすめた。
「どうも……。お医者様ともお話ししましたら、信じられないくらい頑丈ですね、ってびっくりされていましたわ」
多美子は、何も言わない。もちろん弓子にも分っている。――ただ元気でいるだけでは、何の意味もないのである。ピアノのない影崎多美子は、抜けがらでしかない。
「ご迷惑……かけたわ……」
思いの他、はっきりした言葉だった。
「いいえ、そんな。こちらこそ、気になっていたんです。でも――ファンの方から、心配して山ほど手紙が来ています。今度お持ちしますわ」
多美子が初めて笑みを浮かべた。
「あの――何か必要なものは? おっしゃって下さいな」
と言ってから、弓子は付け加えた。「グランドピアノ以外のものでしたら」
「そうね……」
と、多美子も小さく笑った。「もう……おしまいかしら」
「影崎さんらしくもない! 負けちゃだめですよ。ピアニストとしては、まだまだこれからじゃありませんか。幸い、手の方はちゃんと動くとお医者さんもおっしゃってますし」
弓子は少し強い口調で言った。
「ありがとう」
「親子共演でも。ぜひうちのホールで、カムバックして下さいね」
「親子?」
「そのみさんがリサイタルをやられるんです。お聞きじゃありませんでした?」
「ああ……。由利がそんなことを――」
と、小さく肯き、「そのみは気負いすぎるから……気を楽にさせてやって下さい」
娘のことになると、はっきりした言葉が出てくる。やはり心配なのだ。当然のこととはいえ、弓子は胸を打たれた。
「由利さんとデュオを一曲やられるんですよ。プーランクを」
「由利と?――あの子、そんなこと言ってなかったわ」
「先生[#「先生」に傍点]が怖かったんじゃないでしょうか」
と、弓子はいたずらっぽく言った。「ご本人もお忙しいし……」
「由利……勤めを変ったのかしら。聞いてます?」
と、多美子が少し心配そうに、「昼間の妙な時間に来たり……。服装も、何だか少し変ったわ」
病人は敏感なものだ。いつもの多美子なら、由利の服など、気にもしないだろう。しかし、弓子としては、由利がCFに出るという話をしていいものやら、判断がつかなかった。
「今度うかがっておきますわ」
と、逃げることにした。「あの――」
誰かがドアをノックした。弓子は立って行ってドアを開けた。
「――まあ」
「あ、どうも……」
松原|紘《こう》|治《じ》は、ちょっと頭を下げて、「この間は失礼して」
「いいえ」
と答えてから、弓子は松原が言っているのが、多美子の倒れた夜、この病院へ一緒に来ると言って、姿を消してしまったことだと気付いた。
「起きてらっしゃいますよ。どうぞ」
「はあ」
松原は、おずおずと、ぎこちないさりげなさで、ベッドへ近付くと、
「やあ」
と、言った。「どうだ」
「見た通り……」
と、少しかすれた声で言って、「座ったら」
「うん」
松原は、椅子に腰をおろした。「また弾けそうか」
弓子などには言いにくいことをポンを訊けるのは、やはり夫婦だったせいだろうか。
「医者は、そう言ってるけどね。どうだか」
と、多美子が言う。
「お前らしくないな。医者がだめだと言っても弾いて見せる、とでも言わなきゃ」
と、松原が淡々と言う。
「そうね」
と、多美子がちょっと笑った。「あなたにそう言われちゃおしまいね」
松原も笑顔を見せたが……。
「――彼女は元気?」
と、多美子が訊いた。
松原が少し前かがみに目を伏せて、肯く。
「元気だ」
言葉とは裏腹に、松原の|眉《み》|間《けん》に深いしわが寄った。
「何かあったのね……」
と、多美子が言った。「すぐ分るわ、あなたの様子で」
佐竹弓子が、
「私、もう失礼させていただきます」
と、声をかけた。「じゃ、また伺いますので」
「どうもありがとう……」
と、多美子が肯いて見せた。
弓子は、廊下へ出て、ドアをそっと閉めながら、多美子と松原の話を聞いていたい誘惑にかられた。もちろん実際にそんなことはしないけれども。
何か、よほど微妙な話なのだろう。その空気を感じたので、席を外すことにしたのである。――腕時計を見る。もう戻る時間だ。
エレベーターの方へと、弓子は歩いて行った。
――病室では、松原が、多美子の病状を聞いていた。
もちろん、多美子自身の説明は、「怠慢な医者」の悪口にしかならない。しかし、文句を言っていられる内は大丈夫だ。
「明日の夜な……」
と、松原が唐突に言った。
「明日?」
「宏美が久しぶりにステージに出る」
多美子は、ちょっと目をしばたたいて、
「宏美さんが……。何を弾くの」
「ピアノ五重奏と言ったかな。ドヴォルザークだそうだ」
「ゲストね」
「うん。――今井|初《はじめ》というヴァイオリンの……。知ってるか」
「今井って――そのみとどうとか」
「うん。そうらしい」
多美子は、かつての夫の表情を、じっと探るように見て、
「それで、やって来たのね」
と、言った。
「僕は……間違ってたんだろうか」
松原は、独り言のように、「宏美はこの何週間か、まるで昔に戻ったように若くなった。――いや、それまでだって、幸せだったはずだ。それは確かだと思う。だが、この何日かの、宏美の様子は、全く違ってるんだ」
「何かあったの」
松原は、初めの練習のとき、宏美が夜遅くまで帰らず、大変だったことを話した。
「――それからは、宏美も気をつかっている。ただ、あのとき、思ったんだ。宏美は結婚したことを後悔してるんじゃないかと」
多美子は黙っていた。
「結局、あいつも音楽家なんだろうか」
と、松原は言った。「本人は、これ一度きりだと言ってる。――僕としては、やりたければやってもいいじゃないか、と――。そう言ってやるべきだ。そう思ってるんだ。しかし……」
「私のようになっちゃ困る?」
と、多美子がかすかに笑みを浮かべる。
「いや、そうは言わないが――」
「分ってるわよ。あなたの気持は」
多美子は、天井へ目を向けた。「心配してもしようがないこと。宏美さんが、もしプロとしてやって行くのなら、誰にも止められないわ。でも――私は難しいと思うけどね」
「そうか?」
と、松原は顔を上げた。
「心配なのね。宏美さんが傷つくのが」
と、多美子は言って、松原を見た。
「当人は張り切っている。しかし、どんなものかと思って……。もちろん、そんな大ホールでのコンサートじゃない。評論家が来るかどうか分らないさ。しかし、もし、批評でも出て|叩《たた》かれたら……。仕事の厳しさは、良く知ってる。あれだけのブランクがあったんだ。取り戻すのは容易じゃあるまい」
「やさしいのね」
と、多美子は笑った。「ちょっと、|妬《や》けるわ」
「何だ。お前らしくない言葉だな」
「そう?――私だって、人に頼りたくなることがあるのよ」
と、多美子は|呟《つぶや》くように言って、「大丈夫、心配することないわ。一度やって、|辛《つら》いと思えばやめるでしょうし、叩かれたって、音楽家は少々のことでは傷つかない。それに、宏美さんにはあなたも、|早《さ》|苗《なえ》ちゃんもいるんだから」
「ああ……。そうだな」
「明日、行くの?」
「そのつもりだ」
「頑張って、と伝えて」
「そうしよう」
松原は、大分気が楽になった様子で、立ち上った。「また来る。――しかし、立派な部屋だな。高いだろう」
「出してくれてる人がいるの」
松原が意外そうに、
「個人で? パトロンかい」
「そんな|洒《しゃ》|落《れ》たもんじゃないわ」
と、多美子は言った。「亭主よ」
松原が絶句していると、ドアがゆっくり開いた。
「由利――」
と、松原が振り向いて、「何だ。ずいぶんきれいにしてるな」
「お父さん……。来てたの」
由利は、紙袋をさげていた。「お母さんのお弁当。口がおごってるから」
「ご苦労だな。――もう行かないと」
松原は、ちょっとためらってから、「また来る」
と言って出て行った。
由利は、母のベッドへ近付いて、
「どう? 食欲ある?」
と、声をかけた。
「まあまあね」
多美子は肯いて、少し体を起こした。「由利――」
「うん?」
多美子は少しの間、じっと由利を見ていたが、
「何でもないわ」
と、首を振った。「何を買って来てくれたの?」
「松原さんですか」
病院の一階、正面玄関を出ようとした所で、呼び止める声があった。
「はあ」
松原は、その|垢《あか》|抜《ぬ》けした印象の紳士を、不思議そうに眺めた。
「|西《にし》|尾《お》と申します」
と、その紳士が言った。「ちょっとお話ししたいことが」
「何でしょうか? 仕事がありますので」
「お手間は取らせません。私は多美子さんの夫です」
松原は、目をみはった。
「恋人ができたの」
と、由利は言った。「おかしくないでしょ。もう二十一よ、私」
「それで、その格好?」
と、多美子は由利の買って来た弁当を食べながら、|呆《あき》れたように、「その恋人の趣味なの? 安っぽいアイドルタレントみたいな格好するのが」
由利は、母をにらんで、
「私の自由だわ、何を着ようと。干渉しないで!」
と言った。
「むきになって。――遊ばれてるんじゃないの?」
由利は、口をつぐんだ。今の母と|喧《けん》|嘩《か》してはいけない。心臓に負担をかけることになるだろう。
「あんた、そのみと弾くんだって?」
由利はギクリとした。
「一曲だけよ」
「何を弾くの」
「プーランク……」
「譜面を持ってる? 見せてご覧」
由利は、バッグから楽譜を出して来て、母へ渡した。
パラパラとめくって、
「そうね。そのみとあんたなら、弾けるでしょ」
と、肯いた。「ペンを。――テンポを入れといたげるわ」
「結構よ」
由利は母の手からパッと楽譜を取り上げた。多美子が表情をこわばらせて、由利を見る。
どうして――どうしてこんなことをしたんだろう、と由利は思った。母の気持を、踏みにじるようなことを。
好きにさせておけば良かった。もし、母の記入したテンポが気に入らなかったら、変えればいい。それを……。
「お姉さんと二人で決めるわ」
と、急いで言った。「自分で決めるべきでしょ」
「そうね。悪かったわ」
母の口調には、いくらか皮肉が混って聞こえた。
「もうあんたはピアニストを見限ったと思ってたからね」
由利はゾッとした。母があのTVのCFを見たらどう思うか。
「行くわ」
と、急いで仕度をする。「お姉さんと合せるの」
「由利――」
「また来るわ!」
由利は逃げるように、病室を出て行った。
20 怒り
私鉄の電車で三十分。駅からの徒歩で十五分。――さらに余裕を見た二十分。
丸々一時間も、松原は早く着いてしまったのである。
やれやれ……。
松原は、足を止めた。――会社は休みを取って、時間がある。
しかし、全く知らないホールなので、念のために早く出て来たのだが、いくら何でも、こうも順調に着いてしまうとは思わなかったのだ。
ホールの場所も確かめたが、もちろん開いていない。開場は三十分前だ。
「どうするかな」
駅前に戻って、松原は周囲を見渡した。
新しい駅で、駅前もまるでオモチャのようにカラフルに可愛い。真新しい住宅や団地、マンションが高台に並んでいる。
コンサートは午後三時から、という変則的な時間だった。主婦が終演後に帰宅して、夕食の作れる時間、ということなのだそうだ。しかし、宏美の話ではチケットも八割方|捌《は》けているという。無名のカルテットとしては上出来である。
松原も、多美子と一緒にいる間、大勢の若い演奏家たちが、自分でリサイタルのチケットを苦労して売っているのを見て、同情していたものだ。
ろくに音程もとれないポピュラー歌手が何万人もの客を集めて、必死で腕を磨いて来たピアニストが、たかだか四、五百人の客を呼べないのだから……。
しかし、そんなグチをこぼしていても仕方ない。
朝から宏美は出かけ、松原は早苗を宏美の母の所へ預けて来た。当然、娘の演奏を聞きたいだろうが、早苗を預かる方が大切、と割り切ったようで、上機嫌だった。
昼食を――というか、朝昼兼用だが――軽くしかとっていないので、少しお腹が空いて来た。食事のできる所、と見回すと、スーパーマーケットのビルがある。中にレストランぐらい入っているだろう。
デパート風の造りで、中は小さい子を連れた母親で|溢《あふ》れている。
食堂も行ってみたが、子連れのせいでにぎやかなこと……。逃げ出して、結局、売場の奥のティールームが比較的静かだということを発見した。
サンドイッチとコーヒー。
まあ、しばらくはもつだろう。若者ではないのだから。
ガラス張りの店内は、表の明りがまぶしいほど|射《さ》し込んでくる。
目を細くして、表の風景を眺める。
〈ホテル〉というネオンが――もちろん今は光っていない――ビルの向うに|覗《のぞ》いていた。
車で入って、一時間とか二時間とか休憩[#「休憩」に傍点]して出てくる、あまり表通りにはないホテルの一つである。
松原は、少し微笑を浮かべて、運ばれて来た真黒なコーヒーをそっと飲んだ。味は、見かけほど悪くない。
――ああいうホテルに、宏美と入ったことがある。もちろん、多美子の目を盗んで会っていたころのことで、わずかな時間に、お互い、|貪《むさぼ》るように抱き合ったものだ。
宏美はよく泣いた。――松原に妻を裏切らせ、自分は師を裏切っている、という思いのせいだったろう。
今は、遠い昔のことのような気がする。正直なところ、松原は宏美が本当について来てくれるとは信じていなかったのだ。結婚してみれば、やはり「年齢の差」に失望し、幻滅して、去って行くのではないか、と……。
早苗が生れ、宏美が乳を含ませているのを見て、松原は時々、|目頭《めがしら》を熱くしたものだ。中年男の感傷か。しかし、その涙を、恥ずかしいとは思わなかった。
「――どうぞ」
サンドイッチが来て、思ったよりはいい味だった。松原は、今夜、宏美と二人で夕食をとろう、と思った。祝福してやるべきだ。たとえこれきりでステージに立たないとしても――自分と結婚するために、宏美が捨てたあまりに多くのものを考えたら、「ドヴォルザーク」に|嫉《しっ》|妬《と》しても始まるまい……。
あの〈ホテル〉の駐車場の出入口が、ちょうど松原の位置から見えている。そこから車が一台、ゆっくりと出て来て、こっちへ曲って来た。
このスーパーのわきの通りへ入ってくると、松原がすぐ下に見下ろす信号の手前で、道の端へ寄せて停る。
そして――車から、宏美が降りて来たのである。
松原は、無意識にサンドイッチをかみしめていた。
宏美……。間違いなく宏美だ。服も、見覚えがある。いや、ちゃんと顔も見える距離なのである。
宏美は電話をかけに車を出たらしい。すぐに戻ると、車は走り去って行った。
――今井君。今井君がね……。
宏美はよくそう話して笑った。太ってるの、若いくせにね。
松原は、今井という男を弁護してやったものだ。そのみと一緒にいたら、やけ食いして太るさ。
宏美は|愉《たの》しげに笑った。――愉しげに。
今、あのホテルで、宏美は今井と愉しげに笑って来たのだろう。この馬鹿な亭主のことを……。
松原は、とっくに空になったカップから、幻のコーヒーを飲みつづけていた。
「やあ、来てくれたの?」
今井が、会場の前に、由利を見て、嬉しそうに声をかけた。
「ええ。招待状、姉さんとこからせしめてね。宏美さん」
「久しぶりね」
と、|衣裳《いしょう》を入れた大きな袋を手に、宏美はやって来た。「何だか、きれいになって」
「みんなそう言うの」
と、大げさに、「以前は、よっぽどひどかったのね」
「入りましょう。楽屋へ来てよ」
「いいの?」
「構わないわ、開場まで三十分以上あるし」
由利は、今井たちと一緒に〈楽屋口〉から入って行った。
「緊張よ」
と、宏美は言った。「人前で弾くの、何年ぶりだろう」
「旦那様[#「旦那様」に傍点]は来るの?」
宏美は、ちょっと目をそらして、
「そのはずよ」
と言った。「今井君。他の人たちに、由利さんを紹介してあげて」
「あ、本当に……気にしないで。適当にやってるから」
今井以外は、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、全部女性である。今井が、
「影崎多美子さんの娘さんだよ」
と紹介すると、一瞬、声が|洩《も》れた。
由利は、久しぶりにこの感覚を味わったのだった。
「――さ、少し合せとくか。ピアノはもういいって」
弦の音が、ホールに響く。
由利は、ステージから空の客席を眺め回した。客のいないステージは怖くない。怖いのは何百、何千の「眼」である。
「もう少し椅子、|退《さ》げる?」
「ピアノが入ったら、左右へ広がるだろ。もうちょっと近付けて……」
「譜面台は?」
「あるはずだよ」
色々な言葉が飛び交う。――少しずつ、緊張が増していくのが、聞いていて分ってくる。それは、快く張りつめた糸のようで、弾けば美しく鳴り響くかと思えた。
宏美は、後半のドヴォルザークの五重奏曲のために、今はステージの隅へ寄せてあるグランドピアノに向って、軽く指ならしをしている。調律は、うまくできているようだ。
「由利さん、弾く?」
と、宏美が振り向く。
「とんでもない」
「でも、出るんでしょ、そのみさんのリサイタルに」
「惨めな引き立て役」
と、由利は笑って言った。
宏美が、ピアノを弾く手を止めた。
「あなた」
由利は、父がステージに出てくるのを見て、ちょっと意外な気がした。
「もう来たの。早かったのね」
と、宏美が立って行く。
「ああ。早すぎたよ」
由利は、父の様子がおかしいことに気付いていた。――何か[#「何か」に傍点]あったのだ。
「あ、どうも」
と、今井がヴァイオリンを椅子に置いて、やってくる。「今井です」
「ここにいても仕方ないでしょ。客席に座っていたら?」
「宏美。荷物を持って来い。帰るんだ」
当惑が、ステージの上を走った。
「帰るって……」
「理由は分ってるはずだ」
と、松原は言って、「今井君には、少なくともな」
本気だ、と由利は悟った。
「お父さん――」
「由利。お前には関係ない」
と、松原は遮って、「君らが、駅の近くのホテルから車で出てくるのを、見ていた」
宏美がサッと青ざめ、身を震わせた。
「あなた……」
「君がピアノに夢中になって、僕のことを忘れるのなら、諦めもする。しかし、この男と会うのが目的でこんなことをしているのなら――」
「違うわ。そうじゃない。ただ……」
「ただ? 何なんだ?」
松原は、厳しく問い詰めるように言った。そして、同様に棒立ちになっている今井の方へ、
「妻を連れて帰る。文句があるかね」
と、言った。
「松原さん……。僕の責任です。ただ、コンサートはもう中止できないんです」
「私の知ったことじゃない」
松原は、宏美の腕をつかんで、「行こう」
と促した。
「待って下さい」
今井が、松原の肩に手をかけた。
「手を離せ!」
由利は、父がこれほど怒りをあらわにするのを、初めて見た。――宏美と今井が?
何てこと!
「貴様は――」
松原が、今井の胸ぐらをつかんだ。
「やめて!」
宏美が二人を引き離そうとした。「やめて、あなた!」
「どけ!」
二人の男がもみ合ってよろけた。宏美が、それに押される格好で、タタッと後ずさった。
「危い!」
由利は叫んだ。――宏美が、ステージから落ちるのが見えた。
「宏美さん!」
由利は駆け出した。
「――骨がやられてるかもしれない」
と、由利は言った。「何てことしたの」
ステージから、松原と今井が見下ろしている。三人の弦の女性たちも、|呆《ぼう》|然《ぜん》と眺めているばかりだった。
宏美は、床に座り込んで、左腕の痛みに、顔をしかめていた。赤く、はれ上っている。
「医者へ連れて行くわ」
と、由利は立ち上った。
「私が送って行く」
と、松原がステージから降りる。
「お父さん――」
「由利。こんなことになるとは思わなかったんだ」
「ええ。分ってるわ」
由利は今井の方へ向いて、「今井さん。自分のしたことが分ってる?」
と、厳しく言った。
「ああ……」
今井は、しゃがみ込んだ。何を言っていいかも分らない様子だ。
「――ねえ」
と、チェロの女性が言った。「どうするの? あと二十分で開場よ」
今井は、ぼんやりしているばかりだ。
宏美はやっと立ち上ると、
「由利さん……。代りに弾いてくれない?」
と、弱々しい声で言った。
「私は無理。弾いたこともないわ」
「そう……。この腕じゃ……」
しかし、今井も、とても演奏できる状態ではない。誰もが途方にくれていた。
足音が――コツコツとステージ上へ出て来た。
由利は、目を疑った。
「お姉さん」
そのみが、今井のそばまでやってくると、
「立って」
と、言った。「第一ヴァイオリンがそれでつとまるの?」
「そのみ……」
「ピアノは私が弾くわ」
「お姉さん……」
「大体憶えてる。できると思うわ」
そのみはきびきびと言って、「後半でしょ?」
弦の女性たちが、黙って肯く。
「リハーサル室にピアノが二台ある? じゃ由利。弦のパートを弾いて。|曖《あい》|昧《まい》な所だけでいい」
「分った」
と、由利は肯いた。
「そのみ。――すまん」
と、松原がステージの下から言った。
「話は後。お金を払ってチケットを買ったお客さんたちが待ってるのよ。その人たちには浮気も夫婦喧嘩も関係ない。今井君。あんたがしっかりしないでどうするの」
そのみは大きく見えた。一人で、ステージを圧するようだ。
母に似ている。――由利は、そのみを見て、そう思った。まるで母が若返って、そこに立っているかのようだ。
今井は、背筋を伸ばして|真《まっ》|直《す》ぐに立つと、
「じゃ、誰かホールの人に連絡して。|貼《はり》|紙《がみ》を出してもらおう。ピアニストの交替だ」
と、しっかりした声で言った。
「私が行くわ」
チェロの女性が、楽器を床に寝かせて、足早に|袖《そで》へ向かう。
「名前の字を間違えないでね」
と、そのみが後ろから声をかけ、ふっとその場の空気が和んだ。
「お父さん、宏美さんを病院に」
と、由利は言った。
「うん。分った」
松原は、宏美の肩に手をかけると、「痛むか」
と、訊いた。
「そうでもないわ……」
宏美の言葉は、「あなたの痛み[#「痛み」に傍点]ほどじゃない」と言っているように聞こえた。
「由利。練習」
と、そのみがぶっきらぼうに言った。
「はいはい」
由利は何となく嬉しくなった。――どうなるかと思った瞬間が過ぎて、今、コンサートだけが、目の前に迫っている。
由利は急いで姉について袖へさがって行った……。
21 夜の声
力強い和音の残響がホールの中を一巡りしてから、拍手が起った。
ピアノの前から、そのみが立ち上る。今井や、他の弦のメンバーの女性たちも。
誰の額にも汗が光っている。そのみの顔には汗はなかったが、|頬《ほお》が紅潮している。
由利は、ステージの袖で手を叩いていた。
このドヴォルザークがプログラムの最後ということもあるにせよ、拍手の波が一段と大きいのは、そのせいばかりでもなかった。
そのみを先頭に、袖へ入ってくる。
「ああ、窮屈!」
そのみは、戻ってくるなり言った。「このドレス! よく入るわね、こんなので」
そのみもドレスまでは用意していないので、宏美が持って来たものを着たのである。何とか着られたものの、やはりぴったりというわけにはいかない。
「やったね、お姉さん」
と由利は言った。「ほら、ステージに出て」
「はいはい。冷たいタオルくらい用意しときなさい」
「私はマネージャーじゃないのよ」
由利は、今井が汗もふかずに、じっとヴァイオリンを握りしめているのを見た。全力を出し切った、という満足感が、表情に現われている。
「出るわよ」
そのみが促して、全員がまたステージへ戻って行く。拍手がまた盛り上る。
もちろん、ここの聴衆の大部分は、自分で楽器などできない人だろう。しかし、誰の耳にも、「最後の何とかいう曲の何とかいうピアニストは|巧《うま》かった」のである。
前半の二曲のカルテットでは、客席で居眠りする人も見えたが、最後のドヴォルザークは、ピンと張りつめた緊張感がホールを支配して、楽章の間もほとんど|咳《せき》|払《ばら》いの音がしなかった。
やはり、そのみのピアノの力である。弦の四人を、完全にピアノが引っ張っていた。力強いフォルテの音量だけでも、そのみのピアノは弦を圧倒しそうだった。
もちろん、室内楽だから、ちゃんとピアノがかげに回る部分では、そのみも弦を支えたが、その音色の多彩さは、聞く者をひきつけていた。
三回、カーテンコールでステージへ出ても、拍手はおさまらなかった。
「――アンコール、やる?」
と、由利は言った。
そのみは息をついて、
「他の曲はできないわ」
と言った。「いくら何でも、ぶっつけ本番じゃね」
「君一人で弾いてくれ」
と、今井が言った。「お客も喜ぶよ」
そのみは今井を見た。
「私、一人で?」
「うん。その方が――。なあ」
他の弦の三人も、肯き合っている。
「馬鹿ね」
と、そのみは言ったが、本気で怒ってはいなかった。「これはあなたたちのコンサートなのよ。いいわ、ドヴォルザークのスケルツォをもう一回やりましょう。できるでしょ?」
「ああ。でも――」
「筋は通さなきゃ」
と、そのみは言って、「今井君、お客にそう言って」
「分った」
そのみは、由利へチラッとウインクして見せて、ステージへ出て行く。
由利は、スケルツォ楽章がもう一度演奏されるのを聞いていたが――ふと振り向くと、宏美が立っていた。
「宏美さん、大丈夫?」
と、小声で訊く。
「ええ」
左手首から腕にかけて、たっぷり包帯を巻かれている。「折れてはいないって……」
「良かった。――聞いてた?」
宏美が肯く。
「客席の隅で……」
「そう。ともかく何とか無事にすんで――」
と言いかけて、「ごめんなさい。でも――また弾けるわよ、宏美さん」
宏美は、ゆっくりと首を振った。
「いいえ……。甘かったわ」
「甘かった?」
「そのみさんのピアノ……。音色も、表情も、あんなに豊かで、キラキラしてて、笑ったり泣いたりしてるようで……」
宏美はじっとステージで弾くそのみの背中を見つめていた。「――あれがプロの仕事ね。私、とても……。どんなに頑張っても、もうそのみさんに追いつけやしない」
宏美は、深々と息をついて、
「近所の子供たちにピアノを教えて、その内天才に出会うのを楽しみにしてるわ」
と、言った。
「宏美さん」
「もちろん、あの人が許してくれたら、だけど……」
「早苗ちゃんがいるわ。そうでしょ?」
宏美は、やっと微笑を浮かべた。
「そうね。迎えに行かなくちゃ」
「行って。父は――大丈夫よ。宏美さんには甘いから」
宏美は、由利の言葉にちょっと笑った。
アンコールが終り、再びホールは拍手の渦に巻き込まれた……。
「――くたびれた」
と、そのみが着がえて楽屋から出てくる。「このドレス……。あの人は?」
「宏美さん、お父さんと帰ったよ」
と、由利は言った。「早苗ちゃんを迎えに行くからって。お姉さんによろしく言って下さいって」
「よろしくはいいけど、このドレスは?」
「もう着ないって。良かったら使って下さいってさ。私、入るかなあ」
「あんたならやせっぽちだからね」
そのみは大して気にもしていない様子。「じゃ、あんた持ってって」
「うん。――あ、今井さん」
着がえをすませた今井たちがやって来た。
「今日はありがとうございました」
と、女性たちが礼を言う。
「リサイタルの度胸だめし。と言っちゃ失礼ね」
と、そのみは言って、「何か言うこと、ないの?」
今井は、目を伏せて、
「いや……。ありがとう」
とだけ言った。「宏美さんに悪いことしたな」
「私には悪くないの?」
「いや、そりゃあ……」
と、口ごもる。
「どうせ、傷なんかつかない鉄の心臓くらいに思ってるのよね」
と、そのみは笑った。「ま、そうかもしれない。――今井君。また私の所へ転がり込みたかったら、もっと腕を上げてからにして」
今井が、やっと笑みを浮かべて、
「そうするよ」
と言った。
「それにはね」
そのみが今井のせり出した腹をポンと叩いて、「まず、これ[#「これ」に傍点]を何とかしな」
他の三人の女性たちが一斉に笑った。今井は真赤になって、また汗をかいたようだった……。
「――おやすみなさい」
早苗は口の中でムニャムニャと答えて、あっという間に眠ってしまった。
「――寝たか」
居間で、松原は新聞を開いていた。
「ええ」
宏美は、夫の隣に座ろうとして、「――いい?」
「自分の家だぞ」
「あなたの……私の家?」
「そうじゃないのか」
「私は……。でも、あなたはいいの?」
松原は、新聞をたたんでテーブルにのせた。
「君のお母さんには恨まれるだろうな」
「母には分らないわ。私に夢をかけて、それを諦め切れないんだから」
「もう――やらないのか」
と、松原は言った。
「馬鹿なことしたわ。自分を見失ってた」
と、宏美は言って、「虫のいい言い方だけど……。あなた――」
「僕が言ってるのは、今井のことじゃない。ピアノのことだ」
宏美は夫を見た。松原は、妻の肩に手を回して、
「相手が今井くらいなら、ノックアウトしてやれるけどな。グランドピアノじゃ、とてもかなわない」
松原の胸に、宏美は顔を埋めた。夫の胸がこんなに広かっただろうか、と思いながら。
「――もう寝た?」
と、由利は暗がりの中に呟いた。
「なあに?」
そのみは面倒くさそうに、「弾いた夜は、男でも欲しいわね。眠れやしない」
由利は、姉のマンションに泊っていたのだ。
「私じゃお役に立てませんで」
「本当にね。あんたの彼氏、貸してよ」
「いやよ」
と、暗い中で舌を出してやる。「やっぱり今井さんが気になって見に行ったの?」
「今日? 違うわ。あれ[#「あれ」に傍点]の腕前は見当がつく。宏美さんの方よ」
「カムバックだから?」
「自分より下手なのを聞くと、自信がつくの」
冗談めかしているが、半分くらいは事実である。
自信をつけるためなら、親友が失敗するのだって見たいかもしれない。それほど、演奏とは恐怖でもあるのだ。
「由利。――あんた、知ってる? お母さんがステージで失敗したのを」
由利は、ゆっくりと姉のぼんやりしたシルエットの方へ顔を向けた。
「お母さんが?」
「そうよ。もうずいぶん前。――七、八年前かな」
「七、八年? 私がまだ中学生くらいだ。どこの話?」
「私だって若かったわよ」
と、そのみは言い返してから、「ウィーンで」
「ウィーン?」
「だから、あんまり知ってる人はいないわ。でも、お母さん、帰ってからずっと仕事をキャンセルしつづけてた」
「知らなかった……。何だったの、失敗って?」
「私も見てたわけじゃないからね」
と、そのみは言った。「もちろん、お母さんも何も言わなかった。私、たまたまウィーンに留学してた子がそこに居合せて、その子から聞いたの。詳しいことは聞かなかったし、もちろんお母さんになんて訊けないでしょ」
「そりゃそうよね」
と、由利は言った。「でも、お母さんだって人間よ。間違えたことくらいあるでしょう?」
「あるわよ。だから、そのときのウィーンでのミスは、たぶんミスタッチなんてものじゃなかったんでしょうね」
母がそんな大きなミスを?――由利などには信じられないことだ。しかし、事実なら母自身にとって、どんなに大きな傷になっただろうか。
「由利。――お母さんと何か話した? 私のリサイタルのことで」
「え? ああ……。少しね」
「何か言ってた、お母さん?」
「別に」
と、由利は言った。「私が恋人作ったって言ったら、機嫌悪かった」
「そりゃ正常だ」
と、そのみは笑った。「後はあんたのTVCFね」
「来週から放映だって。――どうしよう」
「仕方ないでしょ。勘当されたって、今と大して変んないじゃない」
「人のことだと思って!」
と、由利はむくれた。
ふと――七、八年前? ウィーンで?
思い出した。どこかで同じ言葉を耳にしていたことを。
「そうだ。あの人……」
「うん?」
「お姉さん。西尾って人、知ってる?」
「西尾? どこの西尾」
「今、お母さんの入院費用、出してくれてる人なの」
母と結婚しているということは、リサイタルがすむまで言うまい、と由利は思った。
「へえ。パトロン? 知らないな」
「その人がね、七、八年前にウィーンでお母さんと会ったんだって」
「ウィーンで? でも――偶然でしょ、きっと」
「そうだね……」
由利は、母の倒れたときの「インペリアル」という言葉を、思い出していたのだ。西尾も、何か[#「何か」に傍点]思い当ることがあるように見えたが……。
その母のミスのことと、何か関係があるのだろうか?
「でも――」
と、そのみが言った。
「え?」
「お母さん……。ピアノが弾けるようになるって?」
そのみの言葉は、ほとんど子供が|怯《おび》えているような響きを持っていた。
「分んないけどね。でも、コンサートがやれるかどうか」
「お母さんに死ねって言うのも同じね。もう弾けませんよ、って言うのは」
「立ち直るわよ、きっと」
「そう……。最近、分るの、お母さんの気持が」
そのみは、|闇《やみ》の中で、じっと目を見開いている。由利にはそれが分った。
「私もね、由利。もし、ピアノが弾けない、って言われたら、死んだ方がいいな」
「変なこと言わないで!」
と、由利は怒って言った。
「はいはい」
そのみは笑って言った。「やっぱり、弾いた夜は、男が必要ね」
「おやすみ」
由利は無理に目をつぶった。
22 |失《しっ》|踪《そう》
「由利!」
懐しい声が飛んで来た。
「|千《ち》|加《か》|子《こ》!」
かつての同僚と、TV局の廊下で会うというのは、予想もしていないことだった。
|沢《さわ》|田《だ》千加子は、|垢《あか》|抜《ぬ》けしたブレザー姿だった。
「千加子、どうしたの、その格好?」
「私、この局に勤めてるんだ」
「え? じゃ――」
「辞めたの、あそこ。あんまり陰気くさくってさ。忙しいでしょ」
「そうね。でも――今は待ち時間」
「じゃ、喫茶に行こう!」
もちろん、由利も拒むわけがない。
昼下り、TV局はやっと活気を呈してくる時刻である。
「食券、私が買う」
と、千加子が言った。「社員用のカードがあるから」
二人は奥の少し静かな席についた。
「――あの課長、憶えてるでしょ?」
「|三《み》|浦《うら》さん?」
「そう。TVで由利のコマーシャルが流れ出すと、ひどいの。昼休みとか宴会とかで由利の悪口ばっかり。由利、すっかり『体を武器にタレントになった女』にされてるわよ」
由利は苦笑した。
「放っとくしかないわ。面白くないんでしょ。自分以外の人間の幸運はね。でも、私は特別幸運とも思ってないけど」
「でも、すてきよ、あのCF! 私、その三浦課長のこともあって、頭に来て辞めちゃった。ちょうど、|叔《お》|父《じ》がこの局にいてね」
コネの多い子なのである。「今日は何の仕事?」
「スタジオでインタビュー。ピアノも何か弾かなきゃいけないの」
由利はため息をついて、「早く忘れられないかしら」
と、言いつつ、紅茶を飲んだ。
「変ってるわねえ。もう『有名人』よ、由利。うちの局でも、知らない人はいないわ」
「そうでしょうね。ともかく、ドラマに出てくれ、とまで言われたわ。セリフ一つ、学芸会でだって、言ったことないのに」
「いいじゃないの」
「人のことだと思って、気楽に言わないでよ」
と、由利は顔をしかめた。
――TVで放映された、あの「白いピアノとキタキツネ」のCFは、大反響を呼んだ。それは同時に、
「ピアノを弾いてる子は誰だ!」
という問い合せとなって、スポンサーや、佐田のもとへ殺到したのだ。
あの中山部長や佐田は得意満面だが、由利にとっては命の縮む思いだった。
中山との約束もあって、何から何まで、いやだとは言えない。どうしても出たくないものは、中山に頼んで断っているが、今日のように、断り切れないTVの出演や雑誌、新聞などのインタビューが、毎日のようにある。
由利は、世の中に雑誌がこれほど溢れ出ているのだと初めて知った。
「――そうだ」
専ら、TV局の「内幕話」を聞かせてくれていた千加子が、ふと思い出した様子で、「由利、|工《く》|藤《どう》さんのこと、知ってる?」
「え?」
由利はドキッとした。佐田との付合いは続いていた。工藤とは連絡も取っていない。
「知らないわ。どうかしたの?」
「工藤さんとはお付合いしてたんでしょ?」
「少しね。でも……今は全然」
「そう。工藤さんね、クビになったのよ」
「どうして?」
由利はびっくりした。工藤は、よく仕事をする男だった。よそから来てくれと言われていたはずだが。
「三浦課長がね、酔って、しつこく絡んだの。由利に振られたのか、って。で、我慢できなくなったんでしょうね。ポカッて」
「殴ったの?」
「当然だよ、あんな奴」
と、千加子は肯いた。
では、工藤は、話していた友だちの所へ行ったのだろう。――寂しい気もしたが、それは身勝手というものだ。正直、ホッとしてもいたのである。
「やあ、ここにいたのか」
と、声がした。
佐田がやって来る。思いがけないことで、由利は戸惑った。
「佐田さん。――どうしたの?」
「打ち合せでね」
と、佐田はさっさと同じテーブルについて、
「君が来てる、って聞いたから」
千加子がポカンとしている、由利が紹介すると、千加子は、目を丸くした。
「あの[#「あの」に傍点]佐田さん? びっくりした!」
「じゃ、千加子、またね。ここにいるなら、また会えるね」
千加子は、敏感に佐田と由利の間を察したらしい。
「じゃ、また」
と手を振って、出て行った。
「――可愛い子だ」
と、佐田がごく自然に言う。
そう言って、由利が不安になるとは考えないのである。――もちろん、由利もそんなことは言わない。
しかし、佐田の頭には、この局の「沢田千加子」という名がしっかりおさめられているだろう。ふと、胸が小さく痛んだ。
「そうだ」
と、佐田は言った。「いつか話してたリサイタル、あれはあさってだろ?」
「え?――ああ、姉の? ええ、もう受験生の追い込みよ」
と、由利は言って笑った。「それがどうかしたの?」
「いや、僕もうっかり忘れててさ。だめだな、そんな大事なことを」
「何か仕事? でも、あれは出ないわけにはいかないの」
「分ってる。そうじゃないんだ」
と、佐田が口を開きかけたとき、
「松原由利さん。お電話です」
と、呼ぶ声がした。
「私? 何だろ。――待ってね」
由利は急いで立って行った。
「――はい、松原です」
「由利さん? 良かった! 佐竹弓子ですけど」
「あ、どうも」
何だろう? 姉がどうかしたのだろうか。
「実はね、今日ホールの上司から呼ばれて、あさっての、そのみさんのリサイタルに、あなたの名前も入れろって。ジョイント・リサイタルにして、あなたのソロも入れてくれないか、って言われたの」
「何ですって?」
由利は|唖《あ》|然《ぜん》とした。「あれは姉のリサイタルですよ」
「分ってるわ。でも、そういう形にしてほしいってスポンサーが――。うちのホールに、TV局のお金が入ってること、知ってるでしょ?」
「ええ……」
由利には分って来た。同時に、顔から血の気がひいて来る。
「それで困っちゃって。由利さんを捜してたの」
「でも、チケットは売れちゃってるんですよ。今さらそんなこと――」
「私もそう言ったわ。でも、そのみさんの弾くのを減らさなければいいだろうって」
「そんな……」
由利は、ため息をついた。「まさか、その話、姉には?」
「もちろん話してないわ」
「良かった。言わないで下さい。私が何とかして止めます。絶対に姉には黙っていて」
「分ったわ。お願い」
「ええ。また連絡します」
由利は、電話を切った。
そうか。――そうなのか。
席へ戻る由利の表情は厳しかった。
「僕も話があるんだ」
と、佐田は言った。「簡単に言うけど、あさってのリサイタルをね――」
「やめて」
と、由利は言った。
「え?」
「今、聞いたわ。私の名前を大きく出せって。あなたのアイデア?」
「いや、局の人間が飛びついて来てね。ちょうど今注目されてる君のリサイタルだ。もちろんメインは姉さんでも、君が出るとなれば、話題になる。それにね、君がTVでピアノを弾いても、『果して本当に弾いてるのか』って思ってる人間が多いんだよ。本当の君の腕前を知らせる絶好の機会だ。そうだろ? TV中継ってわけにはいかないが、当日の朝から始めて、リハーサル、本番と、ずっと取材して、後でビデオでまとめる。絶対に話題になるし、君の姉さんにとっても、損な話じゃないよ」
損な話じゃない、か。――損か得か、それしかこの人たち[#「この人たち」に傍点]の判断の基準はないのだろうか。
由利の胸の中に、冷たい風が吹き抜けて行った。
「聞いて」
と、由利は言った。「ジョイント・リサイタルなんて、どっちも同じくらいの力のある人同士がやるものよ。私と姉じゃ、天と地ほども差があるの。そんなの不可能だわ」
「何言ってるんだ。人気だよ、人気! 今は君の方がずっと人に知られてる。客だって姉さんの何倍も集められる。人気のある人間が表に立つのは、どの世界も同じさ」
佐田は気楽な口調で言って、「じゃ、もう行かないと。――その話はまた今夜ゆっくりしよう」
佐田はウインクして見せると、席を立った。
「どうしてもやるのなら」
と、由利は大声で言った。「私、リサイタルに行かないわよ」
佐田は、顔をしかめた。
「何言ってるんだ? 子供じゃあるまいし。もう話は進んでる。今さらやめるわけにいかないんだよ」
「今さら? 私に一言も言わずに、進める方がおかしくないの?」
由利は立ち上った。「そんなことをして、姉のプライドがどれだけ傷つくか、分らないの?」
「そんなこと心配いらないよ。君の姉さんだって、『どうぞ』と言ってくれたんだ」
――由利は、佐田の言葉を分りたくなかった。しかし、その意味は、はっきりしている。
「姉に……話したの?」
「ああ」
と、佐田は肩をすくめて、「さっき電話でね。説明すると、『ああそうですか』って。向うはそんなに気にしちゃいないのさ」
「私が承知してるのか、訊いたでしょう」
佐田が詰った。
「――うん。だから……もちろん承知してますって……。いいじゃないか、ちゃんとギャラも出す。姉さんの分を君の倍にしよう。それでいいだろ? 困らせないでくれよ、そんなに?」
佐田はもう、由利の前で創造の火を燃やしつづける男ではなかった。すべてがソロバン勘定で決って行く、つまらないレジスターにすぎなかった。
「何てことしてくれたの」
と、由利は言った。「もう二度と私の前に現われないで」
「何だって?――おい! つけ上るなよ、君は|俺《おれ》がスターにしたんだ!」
佐田が興奮するほど、由利は冷め、落ちついて来る。今はともかく、一刻も早く、姉の所へ行かねばならない。
「じゃあ、いつでも『スター』はあなたにお返しするわ。ついでに、あなたを山口真理さんにね」
と言うと、由利は駆け出した。
喫茶の客たちが、興味|津《しん》|々《しん》という様子で、その光景を見守っているのだった。
そっと病室のドアを開ける。
「――由利?」
暗いベッドから、母の声がした。
「お母さん……。起きてたの?」
もう夜中だ。由利は、静かにドアを閉めると、暗いまま、ベッドのそばへ行った。
「お姉さん、来なかった?」
と、由利は言った。
「そのみ? いいえ」
「そう……」
由利は両手で顔を覆った。「どうしよう……」
「何があったの」
「いなくなっちゃった。――リサイタル、あさってなのに。私のせいなの」
多美子が、そっと手を伸ばして、
「泣いてちゃ分らないわ。どういうことなの?」
と言った。
由利は、TVのCFのことから始めて、佐田のことも隠さずに話した。
「――急いでお姉さんのマンションへ行ったけど、いなかった。あちこち、音大時代の友だちとか、今井君の所とか、電話してみたけど……」
「むだよ。そんなとき、友だちの所に行ってグチをこぼすそのみじゃない」
「そうね……。私のこと、怒ってるわ」
由利は手の甲で涙を|拭《ぬぐ》った。
「あんたのTVは見たわ」
母の言葉に、由利はギクリとした。
「何も言わなかったじゃない」
「そうよ。批評するレベルじゃないからね。でも、ああいうものがあってもいい。――そう思うようになって来たの」
と、多美子は言って、息をついた。「キツネは可愛かったわよ」
「私は?」
「まあまあね」
由利は泣き笑いの顔で、
「ひどいなあ。――あんなもの、出るんじゃなかった」
「すんだことは仕方ないわ」
「うん……。でも、どうしよう? あさってのこと。お姉さん、きっと戻らないわ」
「さあね。――あんたは、予定通りに準備していなさい。今になって中止ってわけにはいかないよ。急病でもなければね」
「そうね。もし当日――」
「そのとき心配すればいいわ」
母の手が、いつになくやさしく、由利の手に重なって、手の甲の涙を、かわかして行った。
23 |喝《かっ》|采《さい》
「――もう六時だ」
と、マネージャーの太田が言った。「告示を出そうか? 〈急病のため〉? それしかないよ」
「悪いわね」
と、佐竹弓子が言った。
弓子とて、辞表をポケットに入れている。由利は、ドレスを着て、一緒に楽屋に座っていた。――三人とも、ほとんど口をきかない。
「いいダイエットさ」
と、太田が笑って見せた。
「すみません。私のせいで」
と、由利がうなだれる。
「由利さんのせいじゃない。謝ることなんかないよ」
と、太田は腹立たしげに、「由利さんを利用しようとした奴らが許せない! ふざけやがって」
「そうよ」
と、弓子が肯く。「気にしないで、由利さん。もし、そのみさんが来なかったら、辞表を出すけど、私はそのみさんを恨んだりしないわ。そのみさんも、私も、自分の信じていることを貫き通しただけ」
「佐竹さん……」
「でも、由利さん、大丈夫なの? 契約の方とか――」
「中山さんって方に話して、分ってもらってます。これ以上、仕事をつづける気のないことも、了解してくれました」
「それならいいけど……」
太田がもう一度時計を見て、
「畜生! せっかくソールドアウトなのに! 滅多にないんだぜ、この世界じゃ」
「元気出して。今夜付合うわよ」
と、弓子が太田の肩を叩く。
「君に慰められちゃね。――じゃ、もう客が来始めるよ。僕がホール前で説明する」
「私が貼紙を出すわ」
由利は、太田と弓子の二人に何と言っていいか分らなかった。自分にもっと力があれば、代ってリサイタルをやってもいい。しかし、今の由利では、それこそ「素人芸」を聞かせることになってしまう。
「じゃ、行こう」
と、太田がドアを開けて――。
「どうも」
と、松原が言った。
「お父さん。――どうしたの?」
由利は、父の後から、コートを着た母が入って来るのを見て、目を疑った。
「影崎さん――」
「その節はご迷惑かけて」
「いいえ」
弓子は、夢でも見ているように、「あの……どうしてここへ?」
「由利じゃ、そのみの代りはつとまりませんよ」
多美子がコートを脱ぐ。下は、あの日[#「あの日」に傍点]着ていたロングドレスだった。「そのみが来ないときは、私が弾きます。お客様にそう言って」
と、太田へ声をかける。
「はあ。しかし――」
「お母さん! 無茶よ。お医者さんは――」
「もちろん、こっそり|脱《ぬ》け出して来た」
と、松原が言った。「急用だ、って呼ばれて。仰天したよ、全く」
「影崎さん。お気持は嬉しいですけど。やめて下さい」
と、弓子が言った。「お体が大切です」
「いいえ」
と、多美子は首を振って、「病院のベッドで死にたくないの。ステージで死ねば、一番だわ」
「お母さん――」
「大丈夫よ。今日は調子がいいの」
と、多美子は笑顔で、「太田さん。早くそう言って来て。そのみの体調が良くないので、万一のときは私が代りに弾くって」
「はあ」
ためらっている太田へ、
「言う通りにして下さい」
と、松原が言った。「どうせ、言っても、聞きゃしません」
「分りました」
太田が急いで出て行く。
「由利、プーランクはちゃんと弾けるの?」
「うん」
「じゃ、あんたに合せるわ」
多美子は、ソファに座った。「あと……四十分ね」
弓子が出て行くと、由利は首を振って、
「本当にいいの?」
「心配しないで」
由利は、もう言わないことにした。母が自分で決めたことなのだ。もしこれで倒れても、仕方ない。
「――お母さん。西尾さんは、呼ばなくていいの?」
多美子は、ちょっと目を見開いて、
「会ったの?」
「うん。――結婚してるの?」
「|弾《はず》みでね」
と、多美子は言って、「母さんも気が弱くなることがあるのよ」
「ねえ。この前倒れたとき、お母さん、『インペリアル』って言ったんですって? どうして?」
多美子が、不思議な目で由利を見て、
「私が? そう言ったの?」
「うん。太田さんがそう言ってた」
「そう……。自分じゃ憶えていないけど」
と、肯く。
「何のことなの?」
「インペリアル……。ずっと昔のことよ」
と、多美子は言った。
――時間が流れた。
一番落ちついているのは、多美子のようだった。
「もうお客が入ってるわね」
「見て来るか?」
と、松原が言った。
そのとき、楽屋のドアが開いた。
由利は立ち上った。
「お姉さん!」
そのみは、真直ぐに母の方へ歩いて行くと、
「馬鹿なことして! 死ぬわよ!」
と、怒鳴るように言った。
「そうね。でも分ってたわ。絶対にあんたが来るってね」
多美子は悠然と肯いて言った。
「ひどい! 私をおびき出したのね」
「そう。でも、近くにいなきゃ、それもできないでしょ。あんたは必ずここへ来ると思ったの」
「出る気なかったのよ」
と、そのみはそっぽを向いた。
「お姉さん! 私、何も知らなかったの。本当よ」
そのみは、固い表情で座り込んだ。
「――分ってるのよ」
と、多美子は言った。「そうでしょ、そのみ? 由利のことを、あんたはよく知ってるもの」
「お母さん――」
「由利は黙ってて。そのみはね、怖かっただけ。そうでしょう。――そこへ、その話が飛び込んで来たから、いい口実になった。逃げ出すためのね」
そのみは、じっと床へ目を落としている。
「――ブランクの後のリサイタル。その怖さは誰にも分らない。そうでしょ?」
多美子は、そのみの肩に手をかけた。「私も、何年も出なかったことがある。インペリアル[#「インペリアル」に傍点]、ね」
と、息をついて、
「ウィーンで、もう八年前かしら。私はベートーヴェンのコンチェルトを弾いた。ホテル・インペリアルで、ある男性から声をかけられたわ。――私は、心細かった。どうせひどい批評が出ることは分っていたし、その人の言葉が嬉しくて……。私は恋に落ちた。いい|年《と》|齢《し》でね」
と、ちょっと笑った。「その人は、知人の大使の前で、私に弾いてくれと言ったわ。ある大使館で、プライベートなリサイタル。――私は嬉しかった。その人のために弾けることで、宙を飛んでいるみたいだったわ」
多美子は、遠くを見るようにして、つづけた。
「その大使館の広間に、数十人の人が集まって、私はピアノに向った。――ベーゼンドルファーのインペリアルだった」
由利は、じっと母の言葉に耳を傾けていた。
「インペリアルは、私の|憧《あこが》れのピアノだったわ。いつか、自分でも手に入れ、コンサートでも使いたい、と……。まだ日本のコンサートホールには、あまり入っていなかった。私は、その人[#「その人」に傍点]が一番前の列にいるのを知っていたし、たぶん、我知らず、あがっていたんでしょう。――あんたたちも知ってるでしょうけど、インペリアルは、普通のグランドより一オクターブ下までのびている。今はその一オクターブの|鍵《けん》は、黒く塗ってあるけど、そのころのインペリアルは、その分だけふたがついて、開閉するようになっていたの。そのふたが、たまたま開いていた。私はそれに気付かず――。錯覚して、いきなり一オクターブ低く弾き出してしまったの」
そのみが、多美子を見た。
「――聞いている人たちから笑い声が上ったわ。たぶんいつもなら……。そう、別に大したことじゃないんだから、こっちも笑って弾き直せばすむのに。私はカッとなって――そのまま立ってホールを飛び出してしまった……」
多美子は、深く息をついて、「その人は、私を慰めてくれたわ。むしろ自分の方が無理なことを頼んだと言って。でも、私は自分が許せなかった。次の日、その人に何も言わずに、ウィーンを|発《た》ったの」
「そんなことが……」
と、由利は言った。「それが西尾さんね」
「ええ。――カムバックのリサイタルを控えて、|苛《いら》|立《だ》ってたとき、偶然コンサートホールで会って……。もうあんたたちもいないし、意地を張ることもない、と思って、プロポーズを受けたわ」
「良かったじゃないの」
「そうね。――でも、西尾に会って、また八年前のことを思い出していたんでしょう。倒れたとき、またしくじった、と思って、つい、『インペリアル』と呟いたんでしょうね」
多美子は、そのみの肩を抱いた。「失敗しても、怖がることはないわ。必ず、それは乗り越えられるものよ。そのみ、あんたにはその力がある」
そのみは、母を見て、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「少なくとも、オクターブは間違えないわ」
「言ったわね」
多美子は笑って、「私もね、今度カムバックするときは、インペリアルを弾くわ」
と言った。
ドアが開いて、
「どうですか」
と、佐竹弓子が入って来た。「――そのみさん!」
「心配かけて、ごめんなさい」
と、そのみは立ち上った。「ドレスを何か。それから、母を病院へ連れ戻して」
「僕が送って行く」
と、松原が言った。「そのみ、宏美も聞きに来てる。しっかりな」
「うん」
そのみが肯く。弓子は駆け出して行った。
「お母さん」
と、由利は母親の腕をとって、「おとなしく寝てるのよ」
「ここまで来たのよ。聞いていってもいいじゃないの」
「だめ。お母さんの具合が悪くなったら、西尾さんに恨まれるでしょ」
「分ったわよ」
と、多美子は肩をすくめて、「親孝行なことね」
「そうよ。後で顔を出すから」
由利は、母親を松原に託して、送り出した。
「――汗をかくよ」
太田が、袖でそっと言った。
「でも、|凄《すご》いわ、そのみさん」
と、弓子が微笑む。
「後はデュオか。――何とか無事に終りそうだね」
「そうね」
「さっきの約束は?」
「約束?」
「今夜、付合ってくれるって」
「あれは事情が――」
と言いかけて、弓子は笑った。「いいわ。その代り、夜食はおごってよ」
「やった!」
と、太田はニヤッと笑った。
――由利は、袖の椅子にかけて、そのみの演奏を聞いていた。
自分の出番が近付くことは、それほど気にならない。今、由利の胸を一杯にしているものは、目をつぶれば「母の音」としか思えない、姉の指から生み出される音たちであり、その母と姉を持ったことへの誇りだった。
曲が終る。――拍手がホールを揺がした。
「凄かったよ!」
と、由利が、戻って来たそのみへ声をかける。
そのみはニコリともせずに、
「何、|呑《のん》|気《き》なこと言ってるの。次はあんたも弾くのよ!」
と一言。
もう一度ステージへ出て行く姉を見送って、
「本当にお母さんそっくり」
と、由利は口を|尖《とが》らしたのだった。
本書は、一九九二年十一月、カドカワノベルズとして刊行された作品の文庫化です。
[#地から2字上げ]取材協力 日本ベーゼンドルファー
インペリアル
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年8月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『インペリアル』平成8年2月25日初版発行