角川文庫
アンバランスな放課後
[#地から2字上げ]赤川次郎
プロローグ
「あんなことになるなんて!」
と、その少女は、叫ぶように、言った。
「あんなことになるなんて思わなかったのよ!」
そして、激しく体を震わせると、大きく息を吸い込み――それからゆっくりと、大きな風船がしぼんで行くように息を吐き出した。
「畜生!」
と、彼は言った。「何てことだ!」
少女は死んだのだ。
そのひどい出血からみて、少しぐらい早く見付けていたとしても、とても助からなかっただろうが、だからといって、慰めにはならない。
もう少し早くパトロールに出ていたら。あの交差点の薄暗がりで抱き合っている恋人たちを、のんびり眺めたりしていなかったら……。この少女は助かったかもしれないのに。
犯人は? まだその辺に潜んでいるかもしれない。
若い警官は、その時になって、初めてそのことに気付いて、ゾッとした。もし犯人がその気になれば、いつでも背後から、襲いかかることができたのだ。
ゆっくりと立ち上り、周囲を見回す。
ただでさえ、月のない夜だ。しかも、街灯は、ポツリ、ポツリと、忘れられたように、|暗《くら》|闇《やみ》のところどころを照らしているだけ。
――この近くには、名門として知られる、M女子学院がある。静かで、落ちついた町であり、住宅地としても第一級という評価を得つつあるところだ。
しかし、町としての外観はともかく、内容の充実という点からは、ひどく立ち遅れているのが現実だった。それは、たった二人で、この広い町全域をパトロールして回らなくてはならない、この警官が一番良く知っている。
まだあちこちに残る|雑木林《ぞうきばやし》、宅地とはいっても、家がいつ建つのか、草の伸び放題になっている空き地……。道は寂しく、特にこの晩秋の時期ともなると、夕方五時を回れば暗くなってしまう。
街灯をふやして。信号の設置を。パトロールの強化……。
地元からの要望は、ここ数年、数こそふえても、内容は同じだった。それだけ対応がなされていないということである。
「その内何か起る」
という住民の声は、
「まだ起っていないじゃないか」
という役所の声で棚上げされるのだ。
起ってからでは遅い。――その正論も、日々の生活に要する予算ですら、不足しているという市の財政の前には、現実的な力を持たないのである。
正直、この若い警官も、気は重かった。パトロールの区域が徐々に広がるのは仕方のないことで、そう苦でもなかったが、目の届かない所で、何か[#「何か」に傍点]起るかもしれないという不安は、この何か月か、募っていたのだ。
痴漢が出る、とか、怪しい男が近所をうろついている、といった電話が、この何か月か、目立ってふえていた。
その矢先……。
少女は、枯草の中から、白い足の先だけを見せて、倒れていた。自転車の光の中に、チラッと白い物が見えた時、警官は事態を察して青くなっていたのだ。
枯草は、それでも腰の辺りまで来ている。
犯人が、すぐ近く、ほんの二、三メートルの所に潜んでいても、気付かないだろう。
懐中電灯の光を、周囲へめぐらして行く。
ガサッ、と草が鳴った。警官は飛び上るほど驚いた。
「誰だ!」
と、発した声は、震えていた。
風か? それとも野良犬か猫か……。
そうであってほしい、と祈っている自分に気付いて、若い警官はショックだった。自分がそんなに|臆病《おくびょう》だとは、思ってもいなかったのだ――。
ザザッ、と草の間を、はっきりと何かが動いて行った。犬や猫にしては大き過ぎる。
「待て!」
警官は、拳銃を抜いていた。もちろん、人を撃ったことなどない。
「止れ!」
それ[#「それ」に傍点]は止らなかった。どんどん遠去かって行く。――このままでは逃げてしまう。
「撃つぞ! 止れ!」
どうしたらいいんだ? 追いかけるか。それとも、この少女の方が先か。――いや、もう救急車を呼んでも手遅れだろう。
だが俺は医者じゃないのだ。本当にこの子が死んだとどうして言える? 万一、まだ助かるとしたら――。
「逃げるな!」
畜生、止れ! 止ってくれ!
警官は枯草の奥に銃口を向けて、引金を引いた。その瞬間、一発目は警告として空へ向けて撃つべきだった、と気付いていた。
ガーン、という銃声が、警官の鼓膜を打った。
1 学院の姫君
やっと一日の授業が終った。
私は、ホッと息をついて、目を閉じた。
周囲では、ガタガタと|椅《い》|子《す》を机の中へ入れて、帰り仕度をする音が聞こえている。にぎやかなおしゃべり、はやくもタタタ、と駆け出す足音。
でも、すぐに帰り仕度にかかる元気は、私にはなかった。――といって、特別に私が疲れやすいとか、このM女子学院での授業が厳しいというわけじゃない。
何しろ、前の学校では「ミス・元気」に選ばれたくらい元気一杯だったのだ。
でも、いくら元気な私でも、まだM女子学院に来て一週間目では、「のんびりやろう」って気にはなれなかったのだ。
「|芝《しば》さん、帰らないの?」
呼びかける声で、私は目を開いた。|山《やま》|中《なか》|久《ひさ》|枝《え》が、屈託のない笑顔で見下ろしている。
「帰るわよ、もちろん」
と、私は言った。
「じゃ、駅まで一緒に。――目つぶってるから、眠ってたのかと思った」
「まさか。それほど図々しくないもの」
「真面目にやりすぎるんじゃない、芝さんは?」
と、山中久枝は笑って言った。
そう。――この「芝さん」っていうのにも、ちょっと疲れてしまうのだ。
ここへ編入するまでは男女共学の高校にいて、女の子からは、
「|奈《な》|々《な》|子《こ》!」
と呼ばれ、男の子はもちろん、
「おい、芝!」
と、呼び捨てだった。
こっちも、もちろん男の子は呼び捨てにしてやっていたし、それで別に注意もされなかったのだ。それが、このM女子学院では、
「必ず姓を『さん』づけで呼ぶこと」
という規則があり、これに慣れるには、大分かかりそうだった。
「前の高校じゃ、結構要注意だったのにね」
と、机の上を片付けながら言った。
「へえ。人は見かけによらない」
「そう? いつも見かけ通り、って言われたわよ」
私は|鞄《かばん》を手に立ち上った。「行こうか」
教室を出るのは、もう最後に近かった。わずかに残っているのは、クラブ関係で、役員をやっている子ぐらいだ。
このM女子学院は、いわゆる「良家の子女」が多い、ということで、放課後のクラブ活動というものは原則として認められない。クラブ活動は授業時間の中に組み込まれているのだ。これも、学校を移ってみて、びっくりしたことの一つである。
前の高校では、もう二年生ともなると、クラブで夜の八時九時まで残るのは年中だったし、文化祭の前など、深夜までみんなでワイワイやりながら、準備をしたものだ。
このM女子学院は、やや周囲が寂しい場所にあり、かつ女子校ということで、「帰宅は暗くならない内」を厳守しているのである。
「お先に失礼します」
「さようなら」
――至ってお行儀のいい挨拶が、あちこちから聞こえて来る。
前の学校では、相手が先生だって、
「先生、さよなら!」
が普通だったし、友だち同士なら、バイ、でも、また明日、でも――何でも良かった。
それが、この学校では、生徒同士が別れる時でも、
「さようなら」
と、きっちり発音しなくちゃならないのである。
細かいことではあるけれども、こういった一つ一つ、慣れるのには大分時間がかかりそうだ……。
「まだ暑いね」
つた[#「つた」に傍点]の絡まる校門を出ると、山中久枝が言った。
「そうね。――この制服じゃ、余計に」
「前の学校は?」
「私服だったの」
「それじゃあ|辛《つら》いわね」
二年生の二学期からの編入。おかげで、ボテッとしたセーラー服を九月の残暑の中で、着ていなくてはならない。もちろん夏服ではあるけれど、涼しいとはとても言えない。
「――お宅の方はもう片付いた?」
と、山中久枝が|訊《き》く。
「やっと、っていうところね。――母一人でやってるから、なかなか……。今度の日曜日に、せっせと片付けるわ」
「手伝いに行きましょうか。私、そういうことするの、大好きなの」
「まさか、そんなわけにいかないわ」
と、私は言った。
「どうして?」
そう訊かれると困ってしまうのだけれど……。
「一応形がついたらね。後、整理の時にでも手伝ってちょうだい」
「そう? じゃ、いつでも呼んで。――といっても、お休みの日でないとね」
一週間たって、やっと気楽に口をきくことのできる相手が見付かった。それが山中久枝だ。
見るからに人なつっこい、少し大柄な女の子で、私はやや小柄なせいか、並んで歩くと二回りも違うように見えそうだ。
「山中さん」
と、後ろから声をかけて来たのは、私の知らない少女だった。
「あら、|矢《や》|神《がみ》さん」
と、久枝は、何だか緊張した様子で、「珍しいのね、一人?」
「ええ」
と、その少女は、私の方へ鋭い目を向けた。「転校してきた芝さんね」
「ええ」
「私、矢神|貴《たか》|子《こ》。よろしく」
「芝奈々子です」
つい、「です」などと言ってしまったのは、その矢神貴子という娘、背も高く、持っている雰囲気がいやに大人びているせいだった。
「ご近所ね」
と、矢神貴子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「え?」
「あなた、〈Sフラット〉に住んでるんでしょ?」
「ええ」
「うちはすぐ裏手なの。引越して来るのを見かけたわ」
「あら。――偶然ね」
「そうね。お母様とお二人なんですって? 一度、うちにも遊びに来て」
「ええ、ぜひ。うちがまだ片付かないので、落ちついてから――」
「待ってるわ」
矢神貴子は、私の言葉を遮るように、言った。
「じゃ、私、ここから寄る所があるからこれで」
と、手を差し出す。
私は戸惑いつつ、右手を出した。矢神貴子の、長い指をした白い手が、私の手を軽く握った。
「さようなら」
「さようなら」
矢神貴子は、山中久枝には声もかけず、道をそれて歩いて行った。
なんとなく、ホッとして、息をつく。
「あの人、二年生?」
と、私は|訊《き》いた。
「そう。A組にいるわ。アメリカに一年行ってたから、年齢は一つ上なのよ」
でも、あの大人びた雰囲気は、そのせいばかりではあるまい、と思った。
私と久枝は、駅へ向って、再び歩き出した。
「――母と二人、なんてことまで、よく知ってるわ」
「そりゃ、あの人、情報網を持ってるもの」
「情報網?」
「そう。学校の中でもね」
と、久枝は|肯《うなず》く。「あの人には気を付けてね」
「何かあるの?」
質問しながら、私も矢神貴子には、ある種の警戒心を抱いているのを感じていた。
「うーん、何て言ったらいいのかなあ」
と、久枝は考え込んだ。「ま、簡単に言えば、二年生の中では、ボスというか――」
「ボス?」
「あ、でもね、いわゆる番長とか、そんなのじゃないの。暴力振ったり、子分を|顎《あご》で使ったりとかするわけじゃないし。でも、精神的にね、何となくみんなの上に立ってるって感じなのよ」
「へえ。――人気がある、っていうのとは、また違うのね」
「あなたも分るでしょ? どことなく、人を近付けないってムードがあるの」
私は|肯《うなず》いた。
「ちょっと気になったもの。同じ駅だとしたら、一緒に電車に乗って行くのはしんどいな、って」
「大丈夫。矢神さんはね、帰りにたいてい寄り道して行くの」
「どこへ? 寄り道は禁じられてるじゃないの」
「|建《たて》|前《まえ》よ。特例っていうのは、常にあるものだわ」
と、久枝は言った。
「どこへ寄ってるの? 毎日だなんて……」
「さあ、どこかしらね」
と、久枝は肩をすくめて、「知りたいとも思わない。知っているのは、いつも彼女にくっついて歩いてる、五、六人の取り巻きだけよ」
「そんなのがいるの」
「うん。――お姫様とお付きの人、って感じでね」
お姫様か。私にも、矢神貴子が持つ、そのニュアンスは、分るような気がした。
「ま、あの人には近付かず、遠去からず、ってのが賢明ね」
と、久枝は言った。「あ、もう駅だ。――じゃ、私、ここで」
「バイバイ。――あ、いけない。さようなら!」
と、私が言い直すと、久枝は楽しげに笑って、
「いいじゃない。私たちの間では、『バイ』にしよう」
「そうね。それじゃ」
「バイ!」
久枝は、駅前からバスに乗って行く。
私は、久枝が、ちょうどバス停に停っているバスへと駆けて行くのを見送った。乗る前に、ちょっと振り向いて、久枝が手を上げて見せるのが分った。
「バイ」
と、私も手を上げて、口の中で|呟《つぶや》いたのだ……。
2 入れ違った電話
「ただいま」
母の返事を期待したわけではないけれど、一応、家の中に入ったら、そう言うものだろう。
マンションの暮しには、もう慣れている。私は大体、物心ついたころから、マンション住いなのだ。
この〈Sフラット〉は、一応高級マンションの内に数えられている。
ロビーも広くて、受付にはちゃんといつも管理人がいる。もっとも、朝の九時から夕方五時までという通いの管理人だから、防犯の役にはあまり立たない。
インターロックシステムで、受付の奥にもう一つ扉がある。
ルームキーか、でなければ、住人の部屋でボタンを押さなくては、この扉は開かないのだ。
そこを入ってエレベーターで四階。私と母の住んでいるのは〈四〇二〉という、三十坪ほどの広さの部屋である。
そして部屋の|鍵《かぎ》をあけて中に入りながら、
「ただいま」
と、私は声をかけたのだが……。
案の定、母は留守だった。明りを|点《つ》けると、カーテンも引いていない。早くに外出したのだろう。
ともかく、まずはこのセーラー服!
パッと脱ぎ捨てたいところだけれど、カーテンが開け放してあって、明りが点いているのじゃ、外から丸見えだ!
ほとんど駆け回るようにしてカーテンを閉めて回ると、自分の部屋へ行って、セーラー服を脱ぐ。
しばらくは、ホッとして、軽くなった体の実感を味わうように、ベッドに座ったまま動かずにいる。――囚人服を脱ぎ捨てた脱走犯の気分かな?
少し落ちついてから、着替えをして、リビングへ。――たいてい母は簡単なメモを残して行く。
今日のメモは、一番簡潔な文面だった。
〈夕食までに帰ります〉
「お願いしますわ、お母様」
と、私は|呟《つぶや》く。
この母のメモは、あまりあて[#「あて」に傍点]にならないことが多いのだから……。
ともかく、七時ごろまでは待つとしよう。そのころには、お腹の方が、夕食時間だぞ、と訴え始めるだろう。
リビングの隅にセットしたステレオで、軽い音楽を流す。――新聞を眺め、母が買って来た婦人雑誌をめくったりするのだ。
もちろん、久枝に言ったのはオーバーで、もうこのマンションに越して来てから一か月近いのだから、一応、部屋だって、毎日の生活に困らない程度には片付いている。
大体、家の中が雑然としているのは、昔からで、お嬢さん育ちの母は、物を整理するというのが大の苦手である。
ま、私も母の娘で、あまり母のことを言えた柄じゃないのだが。
――母が離婚して、もう三年たつ。
父は外務省の外部団体に勤めていて、もともと日本にはあまりいない人だった。本当なら家族も海外へついて行くものなのだろうが、気の弱い母には、言葉も通じない国での生活など、考えられなかったのだ。
で、当然の如く、父は向うに愛人を作り――それも日本人の同僚の奥さん!
かくて、もめにもめた一年間の挙句、父と母は離婚した、というわけである。
離婚しても、別に働く必要がない母は、それだけ恵まれていたのだろう。また、経済的に不安がないから、気が弱いくせに、割とアッサリ離婚に踏み切った、とも言えるかもしれない。
私の生活には、あまり変りはなかった。――もともと父は「家にいない人」だったのだから。
私は、何となく立ち上って、テラスに出てみることにした。
あまり高い所は好きじゃないので、この四階のテラスにも、越して来てから、数えるほどしか出たことがない。
六時になりかけていたが、まだ外は明るく、昼間の暑さの名残りが空気中にとどまっているようだった。
車がマンションの前に停る。――ちょうど下を見下ろすと、その車から母がおりて来るのが目に入った。
「今日は珍しく早いのね」
と、聞こえない皮肉を言ってやる。
珍しい車だった。
真上からではよく分らないけれど、外車、それもベンツとかBMWといった、よく見るタイプじゃないのは確かだ。
誰の車だろう?
母は、車をおりても、中の誰かとしつこく話を続けていた。話が終らないのなら、おりなきゃいいのに。
やっと終ったらしい。母が、ちょっと手を振って、車が走り出す。
「へえ」
と、|呟《つぶや》いた。
母が、あんな風に親しげに手を振るというのは……。ボーイフレンドだろうか?
離婚した後、母に恋人ができたという話は聞いていない。でも、母もまだ四十を越えたばかりなのだから、再婚に反対する理由は、私にはない。
母が上って来るので、私はテラスからリビングに戻った。
玄関へ行こうと歩き出したところで、電話が鳴り出した。
駆けて行って、受話器を取る。
女だけの家なので、向うが名乗るまでは黙っていることにしている。
「――もしもし? 芝さん?」
「はい。芝ですけど」
「帰ってたのね」
と、その女性の声は言った。
「え?」
「とぼけないで! 分ってるでしょう。主人と会ってたのね」
私は面食らった。向うは、かなり怒っている様子だ。
「あの――」
「前にも言っておいたわよ。人の夫に手を出すなんて……」
母と間違えているのだ。でも――母が既婚の男と?
「私の方にも考えがありますからね」
と、その声は、切り口上、という感じで、そう言ってから、電話を切ってしまった。
「――参ったな」
と、|呟《つぶや》いて、受話器を置く。
この電話のことを、母に伝えるべきかしら? でも、黙っていたら、母が困ることにもなりかねない。
「ただいま」
玄関から、母の|呑《のん》|気《き》な声が聞こえて来た……。
「学校はどう?」
夕食は、結局母がどこかのデパートで買って来たお弁当。
まあ、まずくはないけど、「手作りの味」ってわけにはいかない。
「うん。――ま、ちょっと窮屈だけど、それなりに面白い」
と、正直な感想を述べる。
「そう。高校の途中の転校だから、心配してるのよ」
「大丈夫よ」
「それに――お母さんが離婚してるし」
「あ、それは別に珍しくないみたい。クラスでも二、三人いるのよ」
「そう」
母は、何だか少し安心した様子だった。
母は芝|千《ち》|代《よ》|子《こ》。――芝というのは、母の実家の姓だ。三年前まで、私は「田中」という、あまり珍しいとは言い難い姓だったのである。
「お友だち、できた?」
「ぼつぼつね」
と、私は|肯《うなず》いた。「このマンションの裏にいるって人がいたよ」
「あら。そう。じゃ、一度ご招待しなきゃね」
「でも、クラス違うから」
と、あわてて言う。「親しくなったら、でいいわよ」
「そうね」
「――お母さんの方は?」
「何が?」
「彼氏でもできないの」
母は愉快そうに笑った。
「そうもてるといいんだけどね」
――これが演技なら、母も大した役者ってことになる。
少しはドキッとして当り前だと思うのだが……。あの電話は間違いなく母へかかったものだ。すると、あの女性が、勘違いしているのだろうか?
「あら、電話。――出るわ」
母が、急いで(ということは普通の速度である)電話を取りに行く。
電話はリビングだから、ダイニングで食事をしていると、話は耳に入らない。
少しして、母が戻って来た。――何だか妙な顔をしている。
「誰から?」
もしかして、さっきの女性か、と思った。
「あなたと間違えたみたいよ」
と、母が言った。
「私と?」
「うん。――だって、学校の人みたいだったから」
「誰?」
「名前を言わないの」
「何て言った?」
「それがねえ……。あなた、生徒会長に立候補したの?」
「ええ?」
これにはびっくりした。「まさか! 入って一週間よ。生徒会長ってものがあるってことしか知らないわ」
「そうよねえ……。でも――」
と、母は首をひねっている。
「何て言ったの、その電話?」
「生徒会長に立候補しても、ろくなことにならないわよ、って。それだけ言って、切れたの」
私は、わけが分らなかった。
「かけ間違いじゃないの?」
「でも――『芝さんですね』って、初めに言ったわ」
――どういうことだろう?
「何かの間違いよ」
と、私は肩をすくめた。
「そうねえ。生徒会長なんて――」
「私、そういうの苦手だもん。立候補なんて、するわけないし」
「いくら何でも入ったばかりで、変よねえ」
「気にしないことにしましょ」
と、私は言った。「このお弁当、結構いけるね」
「そう? 高かったのよ」
母が|嬉《うれ》しそうに言った。
あの電話のことを、母に言うべきだろうか?
私は、ともかくこれを食べ終るまでは、口に出さずにおこう、と決めた。
――別に、この日はまだ何も起ったわけではなかったのだ。少なくとも、大して変ったことのない、夕食であった。
3 泣き出した娘
女の子が泣く、というのは、もちろん別段珍しいことじゃない。
男の子だって、特に最近はよく泣くようだし……。
もちろん、私も「泣き虫」というのは男でも女でも好きじゃないが、同じ泣くにしても、いじけて泣いているのと、心を揺さぶられて泣くのとは全く違う。
どんな時でも涙一つ見せない、なんていうのは、|却《かえ》って人間味が欠けているようで、気味の悪いものだ。
でも、全体的に言って、女の子の方が感激屋で泣き虫だというのは事実だろう。私はどっちかというと、「水分の少ない子」として知られていたけれど。
その子の泣き方は、ちょっと普通じゃなかった。
――昼休みのことだ。
私は、お弁当を食べ終って、例によって山中久枝と二人で、おしゃべりをしていた。話題が何だったのかは、しゃべっている当人だって、五分後には忘れているという、典型的な「おしゃべり」だった。
M女子学院に来て、そろそろ一か月が過ぎようとしている。あまり環境に順応しやすい方ではない私も、やっとこの学校の、少々息苦しいような上品さについて行けるようになっていたが、それはあくまで学校にいる間だけ。
家へ帰れば、カーテンを引くのももどかしく、セーラー服を脱ぎ捨てるという毎日に変りはなかった。
ここへ編入して一週間ほどたったころにかかって来た、二本の奇妙な電話のことは、もう忘れかけていた。誰にも話さなかったし、それに、私の知っている限りでは、二度とかかって来ていなかったのだ。
「――本当にね」
と、山中久枝が|頬《ほお》|杖《づえ》をついて、言った。
これは久枝の口ぐせの一つで、大した意味もなく、話のつなぎ[#「つなぎ」に傍点]として出て来る。
次の話題がすぐには出て来なかったせいもあったが、私は、教室の中を見回した。
お昼休みにすることといえば、こういう学校では「おしゃべり」とか「読書」ぐらいしかない。
「にぎやかね」
と、私は言った。「前の学校じゃ、よく校庭に出て、バレーボールとかやったもんだけど」
「この|可愛《かわい》い校庭じゃ、駆け足したって、すぐ端まで行っちゃうし、ボールが外へ飛び出したら面倒よ」
「それもそうね」
「バレーボール、強かったの?」
「女子対男子でやると、いつも女子が勝ってた」
「何となく分るな」
「どういう意味よ」
と、私は笑った。
ふと、目が向いたのは――クラスでも比較的おとなしい、目立たない子で、昼休みもたいてい一人で何か読んでいる、|今《いま》|井《い》|有《あり》|恵《え》という子だった。
教室へ入って来た誰かが――私の知らない顔の子だった――今井有恵の机の上に、何かメモか手紙のようなものをポンと置いて行った。
今井有恵が、読んでいた本から顔を上げた時には、もう、その紙を置いた子は教室から出て行くところだったのだ。――有恵は、ちょっと不思議そうな顔で、その紙を手に取って広げると、目を通した。
私の席から、今井有恵の席は五列も離れているのだが、それでも私の目にはっきりと分るほど、有恵は青ざめた。こっちもびっくりするくらい、はっきりと瞬間的に青ざめたのである。
そして、その紙を折りたたむと、手の中にギュッと握りしめ、立ち上って、足早に教室を出て行った。
私がじっと目で追っているのを、久枝も気付いていて、
「どうしたのかしら」
と、私が言うと、
「さあ……」
と、首を振った。
「ただごとじゃなかったわよ、今の青ざめ方」
「あの子、デリケートだから」
久枝は|曖《あい》|昧《まい》に言った。「ねえ、昨日、TVでさ、ドキュメント見た? 面白かったよ」
話をそらそうとしている。つまり、久枝は何かを知っている、ということだ。
しかし、しつこく|訊《き》いて、久枝を困らせるのもいやだったので、何となく久枝の言っていることを、聞いているふり[#「ふり」に傍点]をした。しかし、目は空いた今井有恵の席を見ていたのだ。
「――そろそろ終りか」
と、久枝が腕時計を見て、「休み時間って、どうしてこうたつのが早いんだろ」
「そうね」
と、私は言った。
「いけない!」
と、久枝はポンと自分の頭を|叩《たた》いて、「英文法のノート、貸したままだったわ。取り返して来なきゃ!」
あわてて立ち上ると、教室を出て行こうとして、戸をガラッと開けた。――そこで、久枝は立ち止ってしまった。
目の前に、今井有恵が立っていたのだ。
まるで幽霊みたい、といっても、別にどう変っているというわけではなかったが、しかしどう見ても、まともな状態じゃなかった。顔は青ざめたのを通り越して血の気を失い、目は正面を向きながら何も見てはいない。
そして、目の前の久枝のこともまるで目に入っていない様子で、そのまま教室へと入って来たので、久枝があわててわきへよけた。
自分の席へと、足が地に触れていないような足取りで戻って行く今井有恵に、クラス中の子たちが気付いていた。クラスの中が、静かになる。
今までのにぎやかさが、まるでボリュームを絞りきったTVみたいに、|嘘《うそ》のように静まり返って、全部の目が、有恵を見ていた。
有恵は、誰が見ているのか、など、全く気付いていなかったろう。ほとんど無意識の内に、自分の席に着いた。そして――きちんと机に向って座っていたのだが……。
有恵の体が、ゆっくりと前後に揺れ始めた。まるで地震にでもあったかのように。そして、何だかそれは|霊《れい》|媒《ばい》が、死者の霊を呼び出している様子を思わせたが。
突然、有恵は、机に額を打ちつけるようにして顔を伏せると、激しく声を上げて泣き出した。――それは、すぐには近寄って、声をかけようという気になれないほど、ちょっと普通でない、激しい泣き方だったのだ。
誰もが止った映画の一コマのように、どうしたものか戸惑っている内に、昼休みの終り五分前を知らせるチャイムが、鳴り渡った。それは何だかその場面にはおよそ似つかわしくない効果音だった。
しかし、ともかくその音をきっかけに、久枝はノートを取り戻しに教室から出て行ったし、有恵の周囲の席の子たちが何人か、彼女の周囲に集まって、おずおずと声をかけたりし始めた。
私は、ほとんど有恵と直接話したこともなかったし、ここで口を出す立場でもないと思ったので、ただ見守っているだけにしておいたのだが、結局、有恵は二、三人の子に、左右から支えられるようにして、泣きながら教室を出て行った。
――ホッとした空気が流れ、みんなが、低い声で|囁《ささや》き合っている。――何だか|苛《いら》|々《いら》した。
何が起っているのだろう?
はっきりしていたのは、みんな今井有恵が泣いた理由を知っていた――少なくとも、察していた、ということだ。
誰もが当惑してはいたが、それはびっくりしている、というのとはどこか違っていた。
私は、有恵が泣いた理由を知りたくなった。私には関係ないこと、と澄ましてはいられない。何といっても、クラスメートなのだから。
久枝が戻って来た。しかし、久枝は私と口をきくと、有恵のことを何か|訊《き》かれるだろうと分っていたせいか、そのまま自分の席に戻って、ノートを広げて、眺め始めた。
その内、始業のチャイムが鳴って、みんな席に着く。もちろん今井有恵の席は空いたままだったが。
いつの間にか、有恵に付き添って出て行った子たちも戻って来ていた。
午後の最初の授業は、世界史だった。
先生が入って来て――五十歳ぐらいから|年齢《とし》を取っていないような、いかめしい女性だったが――出席を取った。
「今井有恵さん」
もちろん、返事はなかった。「今井さん?」
「先生」
と、一人の子が立ち上って言った。「今井さんは、気分が悪くて早退しました」
「そう」
先生は、別に心配する風でもなく、出席を取り続けた。
妙なもんだわ、と私は思った。早退だなんて。――机の上には、本も置いたままになっているし、|椅《い》|子《す》には、布のバッグがかかったままになっている。
早退していないことぐらい、誰にでも分りそうなものなのに。
――授業が始まって、私もそうそう今井有恵のことばかり気にしていられなくなった。
しかし、気が付くと、視線は彼女の机の方へと向いて、そのつど、空いた椅子になぜかハッとさせられるのだった……。
4 手首の傷
「何かあったの?」
私がそう|訊《き》くと、母は、少しぼんやりとして私を見ていたが、
「――どうして?」
と、訊き返して来た。
「一年もたってから、そんなこと言って」
と、私は笑った。「ちっともおしゃべりしないし、いつものお母さんとは全然違うじゃないの」
「そう?」
「いつもの通りに振る舞ってるつもりだったの、それでも?」
私は、食後のコーヒーを飲んでいた。
食後にコーヒー、という習慣は、父譲りで、小学生の高学年のころから、父に頼まれてコーヒーをいれるのを|憶《おぼ》えて、その内、自分でも飲むようになってしまっていた。
母はいつも渋い顔で、
「あなたみたいな子供には悪いわ」
と言っていたが、さすがに高校生になってからは、何も言わなくなった。
「あなたこそ」
と、母が言い返して、「何だか考え込んでたじゃないの、今日帰って来た時には」
「へえ。たまには娘のことも心配してるんだ!」
「何ですか、親をからかって」
母は苦笑いした。「――学校で、何かあったの?」
「ちょっとね」
私は、母に話すべきかどうか、迷った。
――何も確かな事情を知らずに、勝手に話すのは、無責任なようにも思えたし。
「ね、奈々子」
と、母が言った。「ちょっとあなたに話しておきたいことがあるんだけど……」
「待って」
私はコーヒーを飲み干すと、立ち上った。
「一本電話をかけて来る」
私は、部屋へ行って、学生名簿を取って来ると、リビングの電話で、今井有恵の家へかけた。
「――はい」
と、何だかいやに遠い感じの声が聞こえて来る。
こわごわ電話に出た、という感じだ。
「あの、同じクラスの芝といいますが、有恵さん、いらっしゃいますか」
「芝さん?」
「はい。芝奈々子といいます」
少し間があってから、
「ああ。新しく転校されて来た方ね」
母親らしいその人は、なぜかホッとしたような声を出した。「待って下さい。今、呼びますから」
「すみません」
実際、向うの口調はガラッと変って、明るくなっていた。どうして初めはあんなにためらいがちに電話に出たのだろう?
――大分、間が空いた。出られないのかしら? またかけ直そうか。
電話の向うが、何だか騒がしくなった。大声で怒鳴っているような声も聞こえる。
「もしもし!」
さっきの母親の声が、飛び出して来た。
「すみません、娘が――あの――」
「有恵さん、どうかしたんですか? もしもし!」
「あの――けがを――手首を切って――」
「分りました。切りますから、すぐ一一九番にかけて下さい」
「ええ。ええ――そうしますわ」
私は、受話器を置いた。ショックで手が震えている。
「どうしたの?」
母が、顔を出した。私の話を聞くと、
「こっちでも一一九番してあげた方がいいわよ」
と、母は言った。「家の人は混乱してるから。二重になっても、謝れば済むことなんだから」
「そうね」
私は、即座に一一九番を回して、今井有恵の住所を知らせた。
私が母の意見にすぐ従うのは、全く珍しいことだった……。
病院の廊下に、突っ立ったまま、ハンカチを口に押し当てているのが、きっと今井有恵のお母さんだろう、と私は思った。
「今井さんですか」
声をかけると、当惑した様子で、
「ええ。――あの――」
「芝です。さっきお電話した」
「ああ、あの――救急車を呼んで下さったのね」
「はい。勝手なことをして、すみません」
「いいえ。助かりました。もう私――気が動転して、娘の血を止めるのに夢中で……。この病院へ着いてから、一一九番へかけなかったのに気付いたんです。本当にありがとう」
「いいえ」
これは、母の得点[#「得点」に傍点]だわ、と私は思った。
「有恵、今は注射で眠っています。心配はないということでしたけど……」
「良かった。――どうしても気になって」
「こんな時間に。申し訳ありませんね」
「とんでもない」
とは言ったものの、確かに、夜中の十二時に近い。
病院の廊下も、人の姿はもちろんなく、話も小声でなければできなかった。
「芝奈々子さんでしたね。私、有恵の母で、今井|由《ゆ》|樹《き》といいます」
電話で声を聞いていた時より、大分若い印象を受けた。
「――かけましょう」
落ちついて来た様子の、有恵の母親は、私を促して、廊下の一角に作られた休憩所のような、|椅《い》|子《す》の並んだ場所へ行って、一緒に腰をおろした。
「娘と二人なものですから、私も、何かあるとすっかりあわててしまってね」
そう。今井有恵の家庭も、母一人娘一人。我が家と同様、父親のいない家なのだ。
「うちも同じですから」
「そうですってね。有恵から聞きました」
「有恵さん――どうしたんですか? 何かわけでも……」
もちろんないはずはない。
「よく分りませんわ」
と、今井由樹は首を振って、「母親としては本当に情ない話ですけど、仕事に出ているものですから、なかなか話す機会もなくて。あなた、何かご存知?」
私にしても、何も知っているわけではないのだ。今日の昼休みに、有恵が泣いていたことにしても、その理由は知らない。
「このところ、何だか考え込んではいたようですけど……」
と、今井由樹は言った。「でも、いつも大体がおとなしい、無口な子なので」
「でも――」
と、私が言いかけた時、廊下をやって来る足音がした。
「あ、先生」
と、私は言った。
「担任の先生に、さっきお電話したの。――先生、わざわざどうも」
有恵の(ということはもちろん私の、ということでもあるが)担任の|吉《よし》|田《だ》|浩《ひろ》|代《よ》は、五十歳ぐらいだろうか、年齢のよく分らない、若い印象の女性である。
少し冷たい感じはするが、いかにも教師然とした風格のようなものを見せていた。
「いかがですか、有恵さん?」
と、吉田浩代は|訊《き》いた。
そんな口調にも、親身になって心配しているというところは聞き取れなかった。
「おかげさまで――」
今井由樹が説明するのを、吉田浩代はじっと聞いていたが、
「――大事に至らなくて結構でした」
と、|肯《うなず》いた。「もう少しお母様がそばにいて、気を付けてあげると良かったと思いますけどね」
「本当に……」
と、今井由樹が顔を伏せる。
私は、ちょっと吉田先生の言い方に引っかかるものを感じていた。今日の昼休みの出来事が、有恵が手首を切る直接のきっかけになったことは、まず間違いないだろう。
そうなれば、原因はむしろ「学校の中」にある。
「――芝さん」
と、吉田先生は私に気付いて、「どうしてここに?」
今井由樹が説明すると、吉田先生は、
「そう。それはよくやったわね」
と、無表情な声で言った。
「ちょっと心配だったものですから」
と、私は言った。
「有恵さんのことが?」
「お昼で早退したので、気になって、電話してみたんです」
「有恵が早退?」
今井由樹が、びっくりした様子で言った。
「ご存知なかったんですか」
と、私は言った。
「ええ。――あの子は何も言わなかったので」
妙な話だった。
あの女子校は、用心のため、生徒が早退すると、必ず保護者にその旨を連絡することになっているのだ。
もちろん、母親が働いている場合でも、その勤め先に連絡が行くはずである。それを、今井由樹が知らなかったというのは、担任の吉田先生が連絡を忘れていた、ということになる。
「有恵さんは早退じゃありません」
と、吉田先生は言った。「お昼にちょっと気分が悪くなったので、保健室で横になっていたんです。結局、午後の授業は出られなかったようですが、帰りはみんなと一緒だったんです」
なぜそんなでたらめを?――私は、よっぽどそう|訊《き》いてやりたかったが、何とかこらえた。
有恵の持物は、午後の授業の間に、見えなくなっていたのだ。
「芝さん」
と、吉田先生が言った。「ご苦労様。明日は学校があるわ。もう帰ったら?」
「本当だわ。すっかり引き止めてしまって、ごめんなさい」
と、今井由樹が言った。
「いいえ。タクシー、表に待たせてありますから」
と、私は言って、「じゃあ、有恵さんによろしく」
そして吉田先生に頭を下げ、私は病院を出た。
まだ、夜だからといって寒いような陽気ではなかったが、この夜は何だか妙に肌寒いものを、私は感じていた……。
5 照れた母親
「すぐに寝る?」
家へ帰ると、母が起きて待っていた。
「どうせここまで夜ふかししたんだもの」
私はソファに引っくり返って、「もう一杯コーヒーを飲んで、おしゃべりしたい」
「いいわ」
と、母は笑って、「でも、ちゃんと寝るのよ」
「うん」
――私はコーヒーを飲みながら、今日の(厳密にはもう『昨日の』だったが)、昼休みの出来事と、病院での様子を、母に話して聞かせた。
「何かあるのよ、裏で。――いやだわ、何だか陰険な感じ」
「そう。でも、あんまりかみつかないのよ、先生に」
「失礼ねえ。いつ私が先生にかみついたのよ!」
「ほら、それがいけないのよ」
と、母は笑って言った。
「そうか」
と、私もちょっと笑って、「――でも、もし今井さんが助からなかったら、こんな風に笑っちゃいられなかったわ」
「そうね。人一人の命ですものね、問題は」
と、母はゆっくりと|肯《うなず》いたのだった……。
「お母さんの方の話って、何だったの?」
「え?――ああ、そうだったわね。別に今でなくてもいいのよ」
「今、話してよ。|却《かえ》って気になる」
「そう?」
母は、ちょっと目を伏せたまま、照れたようにもじもじしている。本当に可愛いんだから!
「好きな人ができたんでしょ」
と言ってやると、母はびっくりして、
「どうして知ってるの?」
と来た。
「顔にそう書いてある」
「|嘘《うそ》。――そんなに顔に出る?」
「出ないと思ってたの?」
私はからかってやった。「相手はどんな人? 二十歳の大学生?」
「奈々子!」
「冗談よ。再婚するつもり?」
母は、ちょっとためらって、
「その――つもり[#「つもり」に傍点]だけどね」
と、言った。「どう思う?」
「いいじゃない」
「簡単に言わないでよ」
「じゃ、絶対いや! お母さんが再婚するなら、私、家を出て不良になる」
「極端ねえ」
「私が反対する理由、ないじゃない。だって、お母さんの|旦《だん》|那《な》さんなんだもん」
「でも――」
「私、もう十七よ。あと五、六年すりゃ結婚していなくなるんだから」
「アッサリ言うのね」
「本決り?」
「それが、まだそうでもないの」
と、母は言った。「こっちだけそのつもりでもね」
「じゃ、これから頑張るわけね」
「そうね」
――あの電話を思い出す。
「人の夫に手を出さないで」
と、私を母と間違えて、食ってかかって来た女の電話……。
その男が果して今の奥さんと別れてくれるのかどうか。――それが母にとっては気がかりなのだ。
「ま、しっかりやって」
と、私は母の肩をポンと|叩《たた》いた。「じゃ、寝るわ」
「シャワーだけ浴びたら?」
「朝、浴びる。今じゃ、目が覚めちゃうから」
と、私は言って、部屋へ入って行った。
さすがに、私も眠くなっていた……。
「――どう?」
私は、ベッドの今井有恵に笑いかけた。
「いいなあ、テスト、さぼれて」
有恵は、少し青ざめてはいたが、思ったより元気そうだった。
病室は二人部屋だが、もう一つのベッドは空いていた。
「昨日まで、いたのよ、そこ」
と、有恵は空いたベッドの方へ目をやって言った。
「退院しちゃったの?」
「亡くなったの。ゆうべ」
「――へえ」
「まだ二十歳ぐらいの女の人でね。|凄《すご》くきれいな人だった」
「そう」
「私、何だか恥ずかしかった」
と、有恵が言った。「健康なくせに、こんなことして」
手首の包帯へ目をやる。
「それなりの事情はあるんだから。もうやらなきゃいいのよ」
「うん」
「これ。――クラスみんなの寄せ書き」
と、私はノートを渡した。「お花とね。何かほしいものはない?」
「別に」
有恵は首を振った。「――ね、芝さん」
「奈々子って呼んで。学校じゃないんだから、ここ」
「そうね。私がどうしてこんなことしたのか、知ってる?」
「知らない」
「聞きたい?」
「まあね。――野次馬根性からだけど」
有恵は、少し考えていたが、
「少し考えさせて。|却《かえ》って、知らない方がいいかもしれないわ」
「奈々子、有恵って呼ぶ仲になったのに、それはないじゃないの」
と、私は言った。
「そうね。でも……」
有恵が何か言いかけた時、有恵の母親が入って来た。
結局、私はあと十分ほど有恵のそばにいて、病院を出て来てしまったのだ。
出た所で、足を止めた。
「芝さん」
と、矢神貴子が言った。「今井さんのお見舞に?」
「ええ。クラスの代表ってことで」
「あなたが助けたんですってね。|凄《すご》いじゃない」
「ただの偶然よ」
「ちょっとお話があるんだけど」
と、矢神貴子は言った。
「私に? 何かしら?」
「良かったらうちへ来て」
矢神貴子は私の腕を取って言った。「前から、ゆっくり一度話してみたかったの」
何となく、私は刑事に連行されて行く犯人みたいな気分だった。
6 貴子の家
「紅茶でいい?」
と、矢神貴子は、|訊《き》いた。
「ええ。でもお構いなく」
と、私は言った。
「そう言わないでよ」
矢神貴子は笑って、「お客様にお茶の一杯も出さないんじゃ、M女子学院の名がすたるわ」
「いただくわ」
と、私も|微《ほほ》|笑《え》んで見せた。
確かに|凄《すご》い家だ。――私と母の住んでいる〈Sフラット〉から、歩いて四、五分とかからないだろう。
旧家とはいえ、今、こんな場所にこれだけの屋敷を構えているのは、相当の資産家ということになる。
「矢神さんも、今井さんのお見舞に?」
と、私は出された紅茶を一口飲んで言った。
「そう。――A組代表で、様子を見て来てって。別に公式の使節[#「使節」に傍点]ってわけじゃないから、元気そうとか、様子さえ分ればいいのよ」
「ずいぶん元気そうだったわ、有恵さん」
と、言ってから、「あ、今井さんね。つい名前の方が出ちゃう」
「いいじゃない」
と、矢神貴子は肩をすくめて、「学校の中だけでいいわよ、規則に縛られるのは」
学校からの帰りに病院へ寄ったので、私は制服姿だった。矢神貴子も制服のままで紅茶をいれてくれたのだが、
「窮屈でしょうがない。――ちょっと待っててね。着替えて来るわ」
と、居間を出て行った。
私は紅茶をゆっくり味わいながら、広い居間の中を見回していた。母と住んでいるマンションだって、普通の家に比べれば広い造りだろうが、こういう古い「お屋敷」は、|桁《けた》が違う。
それにしても静かだ。――一体何人で住んでいるんだろう?
私は、立ち上ると、広い窓の所まで歩いて行って、庭を眺めた。
そこから目に入るのはほんの一角で、庭の広さも、ため息が出るほどだ。
ただ――不思議に、陽射しの下の、よく手入れされた庭園は、人間らしい暖かさを感じさせなかった。のんびりと歩くためでなく、こうしてガラス越しに眺めるための庭だ、という気がした。
でもこういう所に住んでりゃ、正に「お嬢様」ね、などと考えていると、ドアが開いた。
「貴子!」
いきなり鋭い声が飛んで来て、私はびっくりした。
「どういうことなんだ! はっきり説明して――」
振り向いた私を見て、その男は、初めて、人違いに気付いたらしい。とっさには言葉も出ない様子で、
「いや……ごめん。ちょっと、あの……」
「貴子さんは、今着替えに行かれてます」
怒鳴られてびっくりしたことで、まだ心臓が高鳴っていた。
「失礼」
やっと気を取り直したのか、その男は――いや、若者と言った方が正しいだろう――髪をかき上げた。
二十二、三歳か、社会人になって、そう間のない感じだ。背広にネクタイのスタイルはビジネスマンだが、少し派手めの色の組合せから見て、銀行員やお役人ではないだろうという気がする。
「君は……」
「同じ学校の生徒です。芝奈々子といいます」
「芝奈々子……。|可愛《かわい》い名前だね」
「ありがとう」
エリート、という印象である。でも、笑顔になると、坊ちゃんくさい人の好さがにじむようだった。
「いや、人違いでごめん。同じ制服だったもんだから」
どうやら急いで来たらしく、額に汗を浮かべている。ハンカチを取り出して拭いていると、開いたドアから、Tシャツとジーパンという、およそいつもとイメージの違う矢神貴子が入って来た。
「お待たせ。――あら」
と、若者に気付いて、「何しに来たのよ?」
「話したくてね、ゆっくり」
と、若者は言った。「でも、今はお客のようだから」
矢神貴子は、少し小馬鹿にしたような目で、その若者を見てから、私の方へ、
「あなたも|寛《くつろ》いで。ここじゃ貴子と呼んでね、私も奈々子って呼ぶから」
と、思いがけない笑顔を見せた。
「そうさせてもらうと助かるわ。もう、息苦しくて」
「何なら、制服脱いだら? 私の服を貸してあげるわ」
「いえ、それはご遠慮するわ。ここは涼しいから、この格好でも苦にならないし」
「そう」
貴子は、若者のことなど忘れたかのようにソファに寝そべって、足をクッションの上にのせた。
「――僕は、失礼するよ」
と、若者が言った。
「あら、話があるんじゃないの?」
「そうだけど――」
と、チラッと私の方を見る。
「私、失礼しようかしら」
と、私が腰を浮かしかけると、
「いいの。座ってて。奈々子は親友だから、構わないのよ、何でも話して」
私は、戸惑った。貴子は続けて、
「この人、|永《なが》|倉《くら》っていうの。いつも|重《しげ》|夫《お》さんって呼ぶんだけどね。K大出のお坊ちゃん。――いかにも、でしょう?」
「よろしく」
と、永倉重夫というその若者は、私の方に会釈した。
「私のいいなずけなの。もう十歳ぐらいのころから決ってるのよ、話が」
「へえ。――じゃ、学校出るのを待って?」
「どうなるか、分らないわ」
貴子は、愉快そうに、「ねえ、重夫さん」
貴子の言い方は、明らかに当てつけがましいもので、相手はムッとした様子だった。
「帰るよ」
「そう? でも、母に挨拶して行ってね。そうしないと後で分った時、うるさいわよ」
「分った。――じゃ、芝君、だったね。またいずれ」
永倉重夫は足早に居間を出る。貴子はその背中へ、
「ドアを閉めてってね!」
と、声をかけた。「――|苛《いら》|々《いら》するの。鈍いんだから、あの人」
私は、何とも言えなかった。男性に対する口のきき方など、完全に大人の女である。
まだ純情な十七歳としては(?)圧倒されてしまった。
貴子は、自分の紅茶が、もうさめかけていたのを、一気に飲んだ。
「――今井さんには困ったわ」
と、唐突に言った。「自殺しかけたっていうのは知ってるわね。公式にはけがをしたってことになってるけど」
「ええ」
「あて[#「あて」に傍点]にしてたのよ、あの人を」
「何のことで?」
「生徒会長の選挙でね」
私は、その一言で、このところあまり思い出すこともなかった、あの奇妙な電話のことを、頭に浮かべていた。
「選挙って――」
「十一月なのよ、この。二年生の三学期から三年の二学期まで、つとめる生徒会長を選ぶわけ」
そういう制度のことは、私も知っていた。
「じゃ、今井さんが――」
「副会長になってもらうつもりだったのよ。私が会長に立候補して」
「そうだったの」
「ところが彼女は失恋して自殺未遂」
「失恋だったの?」
「知らない? ちょっと不良っぽい子に|惚《ほ》れちゃってね。学校でも問題になってたんだから」
「知らなかったわ」
果して本当だろうか、と思った。もちろん疑う理由があったわけではないが……。しかし、それならなぜ、学校の中で[#「中で」に傍点]、泣き出したのだろうか?
「ともかく、立候補の届出は十月二十日なの。もう間がないわ。――立候補は、会長、副会長、ペアでしなきゃいけないから、誰か見付けないとね」
「いつも、どれくらい立候補が?」
「二組か三組ね。それ以上だと、先生の方で調整するのよ。ちゃんと、十一月の投票日まで、選挙運動をして、演説をして、大変なんだから」
「へえ。でも、あの学校のイメージと合わないみたい」
「そりゃ、普通の選挙みたいに、車で回るなんてことはしないけど」
と、貴子は笑って言った。
矢神貴子なら、たとえ誰と組んでも勝つだろう、と思った。彼女には、それだけの「スター性」がある。
「ねえ」
と、貴子が、起き上って、言った。
「あなた、私と組んで立候補しない?」
7 父の言葉
「ただいま。――お母さん」
マンションの部屋へ帰ると、ホッとした。もっとも、今日は矢神貴子の家から歩いて来たのだから、大分楽はしている。
「お母さん……。いないのかな」
今日は出かけるようなこと、言ってなかったけど。
「ま、いいや」
ともかく、セーラー服を早く脱ごう!
何だか、スッキリしないので、シャワーを浴びることにした。そう汗をかいているというわけじゃないのだけれど、気分的に汗をかいたようだった(?)からだ。
シャワーの下に、頭から突っ込んで、ギュッと目をつぶる。
それにしても――びっくりしたこと。まさか、矢神貴子からあんな話を聞こうとは思わなかった!
全く、妙な暗合という他はなかった。あの奇妙な電話は、一か月先のことを、まるで予告していたかのようだ。
生徒会長に立候補するのはやめなさい、か……。もちろん、矢神貴子の申し出は、丁重にお断り申し上げたのだ。
貴子の方も、そう強くは言わなかった。
「そうね。まだ入って二か月もたってないんですものね。無理言ったかな」
と、アッサリ引っ込んだ。
正直、私はホッとしたが、同時に、あんまり簡単に向うが引きさがったので、|却《かえ》って気味が悪いようでもあった。
山中久枝にでも、ちょっと電話してみようかな、と思った。
シャワーから出て、バスタオルで体を|拭《ふ》いていると、電話の鳴っているのが聞こえる。
あわてて、バスタオルを体に巻きつけて飛んで行く。
「――奈々子?」
と、母の声。
「お母さん。出かけたの?」
「急にお友だちに誘われて。奈々子、今、帰ったの?」
「うん。今、どこ? 声が遠いよ」
「鎌倉の方なのよ。帰りが大分遅くなりそうだから。あなた、どこかで夕ご飯食べてくれない」
「あ。娘を放っておいて! 非行に走っても知らないわよ」
そう言って、自分で笑ってしまう。「どうぞごゆっくり」
ふと思い付く。――母は大体、知らない場所へ、ノコノコ出かけて行くタイプじゃないのだ。
「お母さん。正直に答えてね」
「何よ、急に」
「例の彼氏と一緒。図星でしょ」
「え――ええ……。まあ……そうなの」
口ごもったりするところは、四十過ぎとは思えないね。
「今夜、帰って来るんでしょうね」
「当り前よ。どんなに遅くなっても、帰るから」
裏返せば、相当遅くなるのは間違いない、ってことだ。
「いいわ。先に寝てるかもね」
「チェーンは外しといてね」
と、母は真剣に言った……。
夜中になるってことは、これからどこかで食事。――でも、食事だけで、そんなに遅くなるだろうか?
まあ、いいや。お母さんはお母さん。大人なんだから、その生活に干渉するのはやめましょう。それより、今夜のエサをどうするかだけど……。
「そうだ。もしかしたら……」
私には、ちょっと思い付いたことがあったのだ。
一本電話をかけただけで、夕食はタダで上げられることになった。それから、山中久枝に電話をする。
「――矢神貴子の所に行ってたの?」
と、久枝は、興味|津《しん》|々《しん》ってところで、
「|凄《すご》い家なんですってね。評判よ」
「屋敷ね。大邸宅。ま、大したもんよ。それでね――」
生徒会長のことを、久枝に話すと、向うはしばらく黙っていた。
「久枝。――どうしたの?」
と、少々不安になって|訊《き》くと、
「断ったのね、矢神さんの申し出を」
「だって、当然でしょ。まだ新入生よ」
「大変なことになるかもしれないわよ」
「おどかさないで」
「本当よ。どうして、ちょっと考えさせて、って逃げなかったのよ。私に相談してくれれば……」
正直なところ、久枝の言い方は少しオーバーに思えた。
「でも、向うもすぐに納得してくれたわよ。そんな、いやな顔しなかったし」
「あの人の言うことには、すぐOKしなきゃ。そうされることに慣れてる人なのよ。断られたら……。そりゃ、プライドの高い人だから、顔には出さないわ。でも、きっと心の中じゃ……」
「でも――じゃ、どうするの? 今さら、考え直すってわけにもいかないわ。それに、何と言われたって、やる気ないし」
「そうね」
久枝はため息をついて、「分ったわ。――彼女が、いつになく上機嫌だったことを、祈るしかないわね」
電話を切って、何だか|憂《ゆう》|鬱《うつ》になってしまった。――そんなこと言われたってね。
「いびるなら、いびってみろって!」
と、私は|呟《つぶや》いた。
「――学校、どうだ?」
と、|訊《き》いたのは、髪に白いものが目立ち始めた紳士。
どことなく私に似たところがあるとしても当然で、これが(といっても見えないでしょうけど)私の父親である。
母と別れはしたけれど、私とは会いたくて仕方ないのだから、こうして電話一本かけりゃ、ご飯くらいは当然おごってくれるのだ。
父は田中という。だから、三年前までは、私も田中の姓になっていたわけだ。
私は、父に、
「学校はどうだ?」
と訊かれて、つい笑い出していた。
といっても、ここは、かなり高級なフランス料理店である。みっともないほどの声で笑ったわけではない。
「何がおかしい?」
と、父は不思議そうに私を眺めた。
「だって――いかにも、別れた父親ってセリフじゃない。TVドラマでも見てるみたいよ」
「そうか」
父は笑って、「その分なら、うまくやってるようだな」
私は|鴨《かも》料理にして、少し甘いソースを味わった。
「――お父さん、ずっとこっちの勤務なの?」
「うん。もうこの|年齢《とし》だ。そう外国へ出ることもないと思う。もちろん、仕事で短期間の出張はあってもね」
「ふーん。じゃ、ずっとマンション暮し?」
「まあな。忙しい時はホテルに泊ったりもするよ」
「じゃ、奥さんは?」
「今は独りさ」
と、父は言った。「聞かなかったのか、母さんから?」
「初耳。じゃ――あの人[#「あの人」に傍点]は?」
父が浮気した、相手の女性のことだ。
「正式に再婚する前に別れたよ。やっぱり、子供を置いて来たことで、不満も募るんだな」
「そう」
私は、|肯《うなず》いた。「じゃあ、あちらは――」
「復縁した。つまり元のご主人とまた一緒になったってわけだ」
「へえ、そうなのか。じゃ、お父さん、振られたわけだ」
「はっきり言えば、そうだ」
と、父は苦笑して、「馬鹿なことをしたものさ」
「全くだね」
と、私は言ってやった。
しばらく、私たちは黙って食事をしていた。父の|訊《き》きたいことは見当がついたが、こっちから話し出すことでもないだろう。
「――母さん、どうしてる?」
料理を平らげ、デザートになってから、父は言った。
「うん。元気だよ」
と、私は言った。「何か――好きな人ができたみたい」
「そうか。そりゃ良かった」
本音かどうか、父はアッサリとした口調で言った。「再婚するって?」
「まだ、決めてないみたいよ。でも、そうなるんじゃないかな、と思う」
「お前はどうだ?」
「私? 女子校よ。チャンスもないもん」
「いい男を選べよ」
と、父は言って、「――何だ、君か」
知った顔を見付けたらしく、私の後ろへ目をやる。
「あ、部長。どうも――」
振り向いて、その声の主を見た私は面食らった。
矢神貴子の家で会った、永倉重夫だったのだ。しかも、二十歳ぐらいの、ちょっと派手な感じの女性を連れている。
「今日見た報告書はなかなか良くできていたよ」
と、父が言った。
「ありがとうございます」
永倉重夫は、私のことに気付いていない。セーラー服と、このワンピースじゃ、別人のように見えるのだろう。
父も私を紹介しようとはしなかった。
永倉はその女性と、少し離れたテーブルについた。
「あの人は?」
「部下だよ。――頭はいいが、どうも、少し頼りない」
「そんな感じね」
と、私は|肯《うなず》いて、「一緒にいた女の人は誰?」
「さあ。恋人かな。しかし、職場でも、二、三人、|噂《うわさ》になってる娘がいる。もてそうだろ?」
「私の好みじゃないけど」
と、言ってやった。
矢神貴子は知ってるのかしら? 知っているから、昼間、あんな態度を取ったのだろうか。
「さて、コーヒーにするか」
と、父は、ウエイターを呼んだ。
8 刃物の女
「おやすみ、お父さん」
と、車をおりて、私は手を振った。
「母さんを頼むぞ」
と、父が窓をおろして言った。「お前の方がしっかりしてるからな」
「お父さんも頑張って。娘みたいな恋人でも作れば?」
「お前一人で充分さ」
父は笑って、「じゃ、おやすみ」
と、手を上げて見せ、車を走らせて行った。
十時に近かった。でも、電話の様子じゃまだ母は当分帰りそうもない。
満腹になって、少し眠くなって来ていた。マンションの受付には、もう人がいない。
私はインターロックの|鍵《かぎ》を開け、扉を開けて、中へ入ろうとした。
タタタッ、と足音がしたと思うと、
「入って!」
女の声がして、私はぐいと前へ押された。危うく転びそうになって、やっと踏み止まると、私は振り向いた。
「何するんですか!」
「静かにして」
その女が、手に刃物を握っているのに気付いて、私は、ゾッとした。
「芝っていうんでしょ、あなた」
「ええ……」
その声。私は、思い当った。
私のことを、母と間違えて、「夫に手を出さないで」と電話して来た女だ。
「部屋へ上るのよ」
私はエレベーターのボタンを押した。
「母なら、留守です」
「分ってるわ」
と、その女は言った。「私の夫と出かけてるのよ」
「そうですか」
「乗って」
エレベーターに二人で入る。
「四〇二号ね。ボタンを押して」
エレベーターが上り始める。
私は、まだ|切《せっ》|羽《ぱ》|詰《つま》った危険を感じていなかった。母が戻るまで、当分間があるだろうから。
意外だったのは、その女性が、どう見てもまだ二十代だったことで、緊張で青ざめてはいるものの、公平に見れば美人に違いないだろう。
でも、そんな|呑《のん》|気《き》なことを言っている場合じゃない。この女性の|狙《ねら》いは、母なのだろうから。
「どうするんですか」
と、私は言った。
「決ってるでしょ。あなたのお母さんと話をつけるの」
「でも――」
「帰りを待つわ」
「母を殺すんですか」
「主人のことを、|諦《あきら》めてくれれば、何もしないわ」
私のような子供にはよく分らないけれど、|一《いっ》|旦《たん》こんな状態になって、それでも夫を取り戻したいと思うものなのだろうか?
私なら、さっさと他の男を捜すけど、なんて、いい加減なことを考えていると、エレベーターは四階に着いた。
扉が開くと、目の前に、同じ四階に一人で住んでいるお|婆《ばあ》さんが立っていた。
「あら、どうも……」
ゴミの袋を重そうに両手に一つずつ下げている。
このマンションは、地下の部屋に、ゴミを置いておけばいいことになっているのだ。
私は、とっさに、
「重いでしょ。私、持ってあげますよ」
と、パッと手を伸して、一方のゴミの袋を取った。
「でも――」
「いいんです。一緒に持って行きましょ」
「あら、すみませんね。――こちらは?」
と、その女性を見る。
まさか、他人の前で、刃物をチラつかせるわけにもいかず、その女性は、息をつくと、
「分ったわ」
と、言った。「今日は帰るけど、お母さんに伝えておいて。いつまでも我慢してはいませんって」
エレベーターを飛び出して、階段を一気に駆けおりて行く。――私はホッとした。
「どうかしたの?」
と、お|婆《ばあ》さんが、キョトンとして、私を眺めている。
母が帰ったのは、もう夜中の二時近かった。
「――あら」
居間に私が座っているのを見て、母はびっくりした。「まだ寝てなかったの?」
「ご挨拶ねえ」
と、私はため息をついた。「こっちの心配も知らないで」
「私のことなら別に――」
「刺されたい? 恋人の奥さんに」
「何ですって?」
母はポカンとしている。
「お母さん。――奥さんのいる人と付合ってるのね」
母は、少しためらってから、|肯《うなず》いた。
「そう。――でも、今、離婚の話し合いをしてくれてるのよ」
「その気、ないみたいよ」
「ここへ来たの?」
やっと分ったらしい。
「そう。お母さんとけり[#「けり」に傍点]をつけるって、|凄《すご》い形相でね。刃物を持ってたよ。大丈夫なの、その男?」
「まあ。――大変だわ」
母は、ソファに腰をおろした。
「食事は?」
「済ませたわよ、もちろん。あなた――」
「おごらせた。お父さんに」
「お父さんに?」
「お母さん、お|風《ふ》|呂《ろ》は?」
「もう……いいわ」
ということは、どこかでお風呂も済ませて来たってことだ。
「ねえ、奈々子――」
「私は構わないの。でも、その人、本当は離婚話、進めてないんじゃない?」
「そんなこと……」
「ともかくまた来るって。用心してよ。向うは相当カッカ来てるから。――じゃ、寝るわ」
私は手を振って、自分の部屋へ引っ込んだ。
ベッドへ潜り込んで、ウトウトしかけていると、
「――お父さん、元気そうだった?」
と、母の声がした。
「うん……。一人だってね、今」
「そうらしいわ。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
私は、目を閉じた。
――忙しい一日だったけど、明日の方が、もしかしたら、もっと……。
私は、矢神貴子のことを、この時には、ほとんど忘れかけていたのだ。
9 ロッカールーム
秋の学校は行事が多い。
それは、このM女子学院も同様だった。
十月十日は体育祭。要するに運動会だ。そして十一月には文化祭と続く。
編入で、様子のよく分らない私も、あれこれ役を|仰《おお》せつかって(何しろ、生徒数が多くないから仕方がないのだ)、忙しかった。
もっとも、前の共学の高校に比べると、女子校の体育祭は、|正《まさ》に「祭」で、おっとりしたものである。
共学の時には結構女の子も荒っぽい競技をやったものだが、今度はリズム体操とか、踊りとかが中心。
徒競走なんてものもあるが、本気で走っているのは半分くらいで、あとは、
「くたびれちゃ損」
とばかりに、歩いているのか走っているのか、よく分らないスピードなのである。
――十月十日の当日、私は、進行係を仰せつかって、役員本部とグラウンドの間を、時計の振子よろしく、行ったり来たりしていた。
「ああ、くたびれた!」
と、体を折って、ハアハアいっているのは、山中久枝だ。
クラスから、私と二人、進行係に選ばれたのである。
「少し休もう」
と、私は言った。「この次は別に準備ないから。リズム体操が始まったら、動けばいいわよ」
「そうか」
久枝は、役員本部のテントの裏に置いてある|椅《い》|子《す》に腰をおろして、息をついた。ひどく汗をかいている。
「大分ばててるみたいね」
と、私は言った。
「もう最悪!――日ごろの運動不足がねえ!」
「何か飲物、持って来てあげようか」
「お願い! 奈々子は優しいのねえ」
「気持悪いこと言わないで」
と、私は笑って言った。「じゃ、待っててね」
小走りに校舎の事務室へと急ぐ。冷たい飲物の自動販売機があるのだ。
「あ、いけない。小銭が……」
いくら何でもタダじゃ、コーラやジュースは出て来ない。財布はロッカーの中だった。
ロッカー室まで行くのも面倒だったが、久枝をがっかりさせるには忍びない。
「これも友情のため!」
と、自分へ言い聞かせて、途中で進路を変更、ロッカールームへと向った。
今、十一時を少し回ったところで、午前の部もほぼプログラムの三分の二を終っていた。九時半の開会の時は、少し寂しかった父母席も、十時を回ると、満員になっていた。
お母さん、来てるのかな……。
父母席の方へ、捜しに行くなんて余裕は、進行係には、とてもない。
ワーッという歓声が、グラウンドの方から聞こえて来る。――早く行って来よう。
ロッカールームの辺りに、もちろん人の姿はなかった。ロッカーの|鍵《かぎ》は、数字を合せて外すようになっている。
私は、自分のクラスのロッカーへと歩いて行った。
――運動靴で、足音がしなかったせいもあるだろう。その三人は、私がいることに全く気付いていなかった。
ロッカーが並んだその奥まった場所で、誰かがうずくまって、その子をスポーツ着の子が三人、取り囲んで、けったりこづいたりしていたのだ。
私は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「――何してるのよ!」
と、声をかける。
スポーツ着の三人が、パッと振り向く。見知った顔じゃなかった。――三年生だ。
三人が一斉に駆け出して、私を突き飛ばして逃げて行った。危うく転びそうになるのを、ロッカーの|把《とっ》|手《て》につかまって、何とかまぬがれると、
「大丈夫?」
と、まだうずくまったままの女の子の方へ声をかけた。「――ねえ」
駆け寄って、そのセーラー服の女の子が顔を上げたのを見て、びっくりする。
「有恵!」
自殺しかけて入院していた今井有恵なのだ。
「奈々子……」
「大丈夫? どこかけがしてない?」
「うん……。お腹が――けられたから」
「ひどいわね……。今の、三年生?」
「そうらしい」
「先生を呼ぶわ! 有恵、保健室へ――」
「いいえ! やめて!」
有恵が、夢中で私の腕をつかむ。「先生に言わないで、お願い!」
「だって――」
「お願いよ! 私のためを思うんだったら、誰にも言わないで!」
ひどく|怯《おび》えている。
私は、有恵の、少し汚れた顔を見ながら、
「分ったわ」
と、|肯《うなず》いた。「でもどうして、こんな目に?」
「|訊《き》かないで」
と、有恵が言った。「来たのが悪かったのよ」
有恵は一応退院して、自宅で治療しているはずだった。おそらく、この体育祭が終ったら、登校して来るはずで……。
「でも――内出血でもしてたら、危ないわ」
「大丈夫。そうひどくやられたわけじゃないもの」
有恵は、セーラー服の汚れを払って、「手と顔を洗って、帰るわ」
「お母さんは? いらしてるの?」
「いいえ」
「一人で大丈夫?」
「うん。――心配かけて、ごめん」
と、有恵は言うと、急いでロッカールームから出て行った。
まるで、自分が何か悪いことをしていたみたいに、逃げるように、出て行ったのである……。
「――遅くなって、ごめん」
と、私は冷たいコーラの缶を、久枝に手渡した。
「サンキュー。お金、あったの?」
「うん。大分進んだ?」
「先生がね、この後、少し休憩時間を入れるって。体操に出た子が、すぐ次に出るのよ」
「じゃ、良かった。のんびりできるね」
「本当! これでお昼も食べられなかったら、死ぬよ!」
久枝はオーバーにため息をついた。
死ぬ。――有恵は、本気で「死のう」としたのだ……。
「今、今井さんに会ったわ」
と、私は言った。
「有恵? 本当に?」
久枝がびっくりしたように言った。
「ええ。――来てちゃ、おかしいの?」
「そうじゃないけど……」
と、久枝は少し間を置いて、「あの子、学校やめる、って言ってたのに」
「やめる? 本当?」
「知らないけど、そんな話、聞いたわ」
有恵は何も言っていなかった。――やめる、という話も、他の[#「他の」に傍点]誰かが流しているのではないか。
しかし、なぜ、有恵があんなに目の|敵《かたき》にされ、三年生にまで、ああして乱暴されたりするのだろう?
久枝は何か知っているようだった。しかし、今日はそんな話を持ち出すのにふさわしい日じゃない。
「――奈々子」
と、久枝が言った。
「え?」
「その後、矢神さんは何か言って来た?」
「生徒会長のことで? 別に」
と、私は首を振った。「誰か、いい副会長を見付けたんじゃない?」
「それならいいけど」
久枝はホッとした様子だった。「あと十日したら、立候補の締切だもんね」
「あの人、当選するでしょ」
「もちろん!」
と、久枝が缶を空にして、フーッと息をつくと、「でも、無投票ってわけにいかないから、誰かが、『負け役』で立たなきゃいけないのよ」
「どうして?」
と、私は|訊《き》いた。「信任投票なら、満票取るんじゃない?」
「そんなの、彼女の趣味じゃないわ」
「矢神さんの?」
「ちゃんと相手がいて、正々堂々と戦って、勝つ。――これが矢神流よ」
「でも、立候補する人、いる?」
「さあ、知らない」
久枝は、大きく伸びをすると、「やっと少し生き返った!」
「コーラで生き返りゃ安いもんね」
と、私は笑った。「――あ、そろそろ行こうよ」
「OK!」
私たちは、次の種目の準備で、足早にグラウンドへと出て行った。
ドン、ドン、と花火が頭上で鳴っている。
10 四角関係
午前の部のプログラムが終ったのは、十二時二十分だった。
まずまずの進行だ。――昼休みは一時十分まで、とアナウンスがあって、進行係は、最後の競技の片付けを終えると、
「一時には持場に戻るように」
と、ありがたい(?)お達しがあった。
「昼休みが三十分もないじゃないの」
と、久枝は文句を言っていたが、
「いい方よ」
と、私はなだめた。「前の学校の時は、お昼抜きだったのよ」
「やってらんない!」
と、久枝はオーバーに天を仰いだ。
いいお天気で、少し暑いくらい。
「陽に焼けちゃう」
と、気にして、ハンカチをかぶる子も|沢《たく》|山《さん》いた。
乙女心の微妙な季節である。
「奈々子、お母さんは?」
と、久枝が言った。
「うん、来てるはず」
私は歩き出しながら、「じゃ、また後でね!」
と、手を振った。
本当に来てるんだろうね、お母さん。
いくらかは不安だった。彼氏とデートしてて、忘れちゃった、とか。――ありえないことじゃないのだ。うちのお母さんなら!
――あの夜以来、刃物を持った物騒な訪問者は現われていない。
母と、その恋の相手との間も、どうなっているのか、こっちも忙しいので、|訊《き》かなかった。
有恵のこと。矢神貴子のこと。母のこと。――気にかかることはいくつもある。
でも、学生の身では、その前に、やらなくちゃならないことが、山ほどあるのだった……。
「――やだ。お母さん、本当に来てないのかな」
と、私は周囲を見回して、|呟《つぶや》いた。
進行係で、昼休みになるのが少し遅れるから、この辺りで待ってて、と言っておいたのだけど。
「奈々子!」
思いがけない声に、びっくりして振り向く。
「お父さん!」
父が、|大《おお》|股《また》にやって来る。――背広姿だが、上衣を腕にかけて、ネクタイは外してしまっている。
「頑張ってるな」
「来たの?」
「ここに来てる」
「サンキュー!」
|嬉《うれ》しかった。――ま、娘は父親になつく、とか。私も、いくらかは、ファザコンなのかもしれない。
「午前中から来てたの?」
「十一時半ごろかな。母さんは、どこにいるんだろう?」
「私も捜してるの。この辺で待ち合せたんだけど」
「そりゃ無理だ」
と、父は笑って、「母さんは、場所を間違える天才だからな」
そりゃ、私もよく分っていた。しかし、だからって、あの混雑した父母席を捜す気にはなれない。
「ここにいろ。見て来てやろう」
「でも――」
「ざっと見れば分るさ」
と、父はグラウンドの方へ足早に歩き出したが、その時、私は母がやって来るのに気付いていた。
「お父さん!」
と、呼び止めて……。
でも――呼び止めない方が良かったのかしら?
「ごめんね、遅れて!」
母が、走って来る。「フルーツ買うのに手間取っちゃって」
母は、一人じゃなかったのだ……。
「あら」
と、母は、父に気付いた。「あなた」
「やあ」
父は、すでに、母の後からやって来る男に気付いているはずだった。
「みえてたの……」
「うん。奈々子を見物したくてな」
と、父は言った。「元気そうだ」
「ええ……。あなたも」
母は、どうしていいか分らない様子だった。
「おい、紹介してくれよ、こちらの人を」
と、父がアッサリ言って、その場の|気《き》|詰《づま》りなムードが消えた。
「ええ……。あの――|黒《くろ》|田《だ》さん。こちら、私の――」
「千代子の、もと[#「もと」に傍点]亭主です。田中といいます」
父は、黒田という男の手を握った。「お若いですな。失礼ですが、おいくつです?」
「三十五になります」
「そうですか。もっとお若いのかと思いました。千代子もずいぶん若返ったと思った」
「何よ、あなた」
母が照れて赤くなっている。
「ねえ、お昼を食べようよ」
と、私は言った。「一時には進行の仕事に戻るんだから」
「そうだ。じゃ、どこかその木の下|辺《あた》りで」
と、父が指さす。
「四人で食べよ。――お母さん、いいでしょ?」
「え、ええ」
母は、黒田という男に気がねしている。
しかし、黒田も、
「ぜひ、そうしよう。大勢の方が楽しいよ」
と、笑って言った。
ホッとした。
ここで、母を挟んで乱闘にでもなったら、私、学校へ来られなくなっちゃうもんね!
それにしても――私は、母の作って来てくれたサンドイッチをパクつきながら、思った――よく、こんな若い男と!
でも、心配していたような、きざったらしい男ではなかったので、安心していた。
黒田は、確かに三十五といっても、三十二、三にしか見えない。二枚目じゃないが、丈夫そうで、丸顔と小さな目は、お人よし、という印象を与えた。
せっせと母や私にサービスし、父に対しても、妙な対抗意識を出さず、年下の人間として、ごく自然に接していた。
「――飛び入りが入って、悪かったな」
と、父もサンドイッチをつまんで、「しかし、ずいぶん沢山作ったじゃないか」
「間違えちゃったの。ハムを倍も買い込んじゃって」
「相変らずだな」
と、父は笑った。「――おや」
「どうしたの、お父さん?」
「永倉の奴だ」
永倉重夫だった。きざな赤のシャツなど着て、矢神貴子と歩いている。
「何してるんだ、あいつ?」
「知らないの? フィアンセ同士なのよ」
と、私は言った。
「何だって?」
父は目をみはった。「永倉が?」
「そう聞いてるわ。あの子、矢神貴子っていうの。同じ二年生」
「まさか」
「どうして?」
「永倉は、今度結婚するんだぞ、同じ部の女の子と」
「本当?」
「ああ。馬鹿な奴で、俺の所に|仲人《なこうど》を頼みに来た」
母が笑い出してしまった。父の言い方が、いかにもおかしかったのだ。
いいムードだ。――私は、改めて、父のことを、すてきだな、と思った。
いや、だからって、別れたのは母のせい、なんて言うつもりはない。夫婦の間のことは、分らないものだから。
でも、少なくとも今の父は、私にとって、理想的男性だった……。
気になるのは矢神貴子と、永倉の様子だった。
二人とも、かなり大っぴらに、肩など抱き合って歩いている。――生徒たち、先生たちの目にふれるのは、承知の上だろう。
しかし、永倉は、他の女性と結婚する。
矢神貴子は、それを知っているのだろうか?
――楽しいランチはアッという間に終ってしまった。
「もう行かないと」
私は、手を|濡《ぬ》れタオルで|拭《ふ》くと、立ち上った。「じゃ、お父さん、またね」
「ああ。適当に帰るよ。お前、どれに出るんだ?」
「二番目のゲーム」
「それだけ見て行く」
「うん。じゃあね」
黒田という男にちょっと頭を下げて、私は役員本部の方へと戻って行った。
11 煙
さすがに、午後三時、あとはハイライトのリレーを残すだけ、というところになると、いい加減、私もばてて来た。
自分も出ながら裏方をやるというのだから、楽じゃない。
「奈々子! もう、だめ、私」
と、久枝は、本部の裏で、引っくり返っている。
「しっかりしてよ。閉会式のために、台を出さなきゃいけないんだから」
「分っているけど……。大体、何で三年生はさぼってばっかしいるわけ?」
「しっ、聞こえるよ」
と、私は言った。
「聞こえたっていい!」
「そう言っても、しょうがないじゃない」
確かに、三年生は、大変なことを全部二年生にやらせて、自分たちは楽な仕事ばかりやっていた。先輩だから仕方ないとはいっても、やはり、面白いものではない。
一年生は、直接先生の下で働いているので、結局、二年生が、一番いいようにこき使われているのである。
「ともかく、リレーの間は休めるわよ」
と、私も|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
本当なら、リレーは見たかったのだが、もうそんな気も失せてしまった。
「――おい」
と、先生の一人が飛んで来た。
「はい!」
私はピョンと立ち上った。久枝の方は、てこ[#「てこ」に傍点]でも動かない、という感じで、座り込んでいる。
「マイクが調子悪いんだ。閉会式で使うから、他のを持って来てくれ」
「どこにあるんですか?」
「備品室だ。保健室の裏側の」
「分りました」
仕方ない。久枝には期待できなかったので、私は、重い足を引きずりながら、校舎へと歩いて行った。
保健室の裏、と……。
外から回った方が近いのかもしれなかったが、どこから入るのかよく分らなかったので、急がば回れで、中から行くことにした。
保健室は、今日は結構忙しいはずだ。転んでけがをしたり、目に砂が入ったり、色々な子が出る。
保健室の前を通りかかると、気のいいおばさんという感じの保健の先生が、
「あら、芝さん。どこか悪いの?」
と、声をかけた。
「頭以外は別に」
と、答えると、先生は楽しげに笑った。
「備品室って、この先から入れるんですよね?」
「そうよ。準備の係? ご苦労さん」
私は、小走りに廊下を急いだ。左へ曲って、もう一つ左……。
足を止めた。
バシン、という音が、廊下に響きわたるようだった。
「何するんだ!」
と、殴られた永倉が、矢神貴子に|詰《つ》め寄った。
「|卑怯者《ひきょうもの》!」
と、貴子が、言葉を投げつけた。「分ってるんだから!」
「そうか。――気の毒だけど、君のそのプライドの高さが、鼻もちならないんだ」
「帰ってよ!」
貴子は、怒りで顔を真赤にしている。
私はびっくりした。――きっと、永倉が他の女と結婚することを、怒っているのだろうが、貴子がこんなに怒りを見せるなんて、思ってもみなかったのだ。
「帰るとも」
永倉の方が、今は冷ややかだった。「僕のことなんか、何とも思ってないくせに」
「そうよ」
「なぜ怒るんだ?――そうか。僕の方から[#「僕の方から」に傍点]断るっていうのは、君のプライドが許さないんだな。そうなんだろう」
永倉の言葉は当っていただろう。
「帰って、と言ったわよ。二度と顔を出さないで!」
「喜んでそうするよ」
貴子が、私に気付いた。
「あの――」
と、私は言った。「備品を取りに来たの……」
「どうぞ」
貴子は、いつもの冷ややかな口調に戻っていた。そして、足早に立ち去った。
「やれやれ」
永倉は、殴られた|頬《ほお》を押えて、「君……この間、彼女の家で」
「ええ」
「あいつと友だち?」
「というほどでも……」
「その方がいいよ。――苦労するぜ」
永倉は、頬をさすって、「おお、いてえ……」
と、|呟《つぶや》きながら、歩いて行った。
私は肩をすくめて、備品室の中へ入った。のんびりしちゃいられない。
マイクの箱をいくつか開けたが、どれも空っぽだった。困っていると、ふと何かが|匂《にお》った。
こげくさい匂い。――何だろう?
備品室から出ると、匂いは強くなった。
廊下を戻って行くと……。うっすらと煙が漂っている。
まさか……。まさか……。
体育館の方へ目をやると、白い煙が、カーテンのように、視界を遮っていた。
「火事だわ。――大変だ!」
私は、保健室へと走った。大声で、
「火事です! 火事よ!」
と、叫びながら。
「――くたくたよ」
家へ帰った私は、そのままソファにドサッと引っくり返った。
「大変だったわね」
母が、熱いタオルを持って来てくれた。
「サンキュー」
私はタオルで顔を|拭《ふ》いて、ホーッと息をついた。「こんなにくたびれた日って初めてだ!」
「火事、でも大したことなくて、良かったわね」
「うん」
体育館の入口辺りを焼いただけで、火は消し止められた。
「あなたが発見したから、早く消し止めたんでしょ。偉かったじゃない」
「そんなこと……。偶然よ」
と、私は言った。
「運動会も、最後が大騒ぎになっちゃったわね」
「本当。――でも、一応、済んだわ」
「早くお|風《ふ》|呂《ろ》へ入って寝るのよ」
「その前に、ご飯!」
「分ってるわよ」
と、母は笑って言った。
元気をふるい起こして、私は食堂へと足を引きずって行った。
「――ねえ、奈々子」
「うん?」
「ありがとう」
「何が?」
「黒田さんのこと」
「ああ。――礼なんて、変よ」
「だけど……」
「お父さんも、カッコ良かったよ」
「そうね」
母は、ニッコリ笑った。
夕食を、母が|呆《あき》れるくらい食べると、大分元気が戻って来た。
「じゃ、お風呂に入ろうかな」
と、立ち上りかけると、電話が鳴り出した。
「出るわ」
急いで、電話へと駆けつける。
「はい。――あ、久枝。無事に帰り着いたの?」
「死ぬ一歩手前」
と、久枝が言った。「――ね、奈々子」
「うん?」
「今日の火事ね、放火らしいって」
「本当?」
びっくりしたが、しかし、考えてみれば、あんな所に火の気はないのだし、充分に考えられる結論だろう。
「でも、誰がやったんだろ?」
と、私は言った。
「ちょっと|噂《うわさ》で聞いたんだけど」
「え?」
「見た人がいるんだって」
「犯人を?」
「犯人かどうか分らないけど、あの辺から、走って行くのを」
「誰なんだろ?」
「それが……有恵だっていうのよ」
私は、言葉もなく、突っ立っていた。
12 代 休
代休っていうのは、学生時代、最も|嬉《うれ》しいことの一つじゃないだろうか。
もちろん大人から見りゃ、学生なんて気楽な稼業で、
「学生のころに戻りたい」
なんてよく言っているが、その実、もし戻ったら、いやなことが目について、
「やっぱり大人[#「大人」に傍点]でいい」
とか、言い出すんじゃないかな。
でも学生と大人の決定的な違いの一つは、「休み」である。
学生には、夏休みのように社会人にはない長い休みがあるが、逆に、普段の日に、
「用事があるから休みます」
ってわけにはいかない。
有給休暇ってやつである。
学生にとっては、それに代る貴重な休日が、「代休」なのだ。
十月十日、体育祭が終った翌日、当然代休となって、私は昼ごろまで眠ってしまった。
もちろん、昨日の火事のこと、有恵が火をつけたんじゃないか、という|噂《うわさ》のことも気にはなっていたが、だからといって、代休の楽しさを忘れることもない。
体中が痛かったけれど、それでもせっかくの休み。家で寝てるだけで終らしてなるものか!
つまらないことに意地になって、起き出すと、
「お母さん、出かけて来るね」
と、昼食もそこそこに立ち上った。
「あら、どこへ?」
母が、ちょっと困ったように、「遅くなるの?」
と|訊《き》いた。
「別に……。何か用事あったっけ?」
「そうじゃないんだけどね……」
と、母は、何だか煮え切らない。
「何よ?」
「ええ、あの――ほら、昨日、せっかく顔も合せたし、この機会にあれ[#「あれ」に傍点]するのもあれ[#「あれ」に傍点]じゃないか、って――」
照れて口ごもっているところは、十代だね、全く。
「昨日の黒田さんって人?」
「そ、そうなの。もし、良かったら、今夜夕食でもどうだろうって電話して来たのよ。あの――もちろん、あなたが忙しけりゃ、今日でなくたっていいんだけど」
「別に構わないわよ、今日でも。夕ご飯までに帰って来ればいいんでしょ?」
「そうしてくれる? 七時に迎えに来てくれることになってるの」
「じゃ、外でおごってくれるんだ。へえ、うんと高いもの食べよ」
「奈々子――」
「ご心配なく。私、質より量だから」
私は、急いで自分の部屋へ飛んで行った。――見たい映画があったんだ。
平日なら、そう混んでないだろう。
「そうだわ、奈々子」
着替えていると、母が顔を出して、「十時ごろ、今井さんって|方《かた》から電話があったわよ」
「え?」
有恵から?――昨日のことが頭をかすめた。
「あの――クラスの子?」
「そうだと思うわ」
「何か言ってた?」
「別に。まだ寝てます、と言ったら、『じゃ結構です』って。――ね、いつかの、自殺しかけた子?」
「そうよ」
「じゃ、起こせば良かったわね」
しかし、母としては、まだ寝てます、と答えて当然だろう。
「いいわ。電話してみる」
私は出かける|仕《し》|度《たく》をしてから、有恵の家に電話してみた。
しかし、いくら鳴らしても、誰も出ない。母親は、仕事があるのだから、それに出ているのだろう。
気にはなったが、どうしようもない。私は予定通りに、外出することにした。
「――お母さん」
玄関の所で、思い付いて、「夜までは、家にいるの?」
「ええ。――ちょっと美容院へ行くかもしれないけど」
「私、外から電話するから、もし、今井さんから電話があったら、用事、聞いといてくれない」
「いいわよ」
「それか、連絡場所が分ったら、メモしておいて」
「はいはい」
「じゃ、行って来ます!」
私は、ほとんど走り出すように、秋の爽やかな空気の中へと出て行った。
甘かった……。
世の学校の大半は十月十日が運動会で、従って、今日は、たいていの学校は、「代休」だったのだ。
――|凄《すご》い混みようで、それでもせっかく来たんだから、と、立ち見も覚悟で、中へ割り込む。
何とか、スクリーンの見える位置は確保したものの、いざ映画が始まったら、やたら大柄な女の子が目の前に立ってしまったのである。
ま、こればかりはお互い様で文句を言うわけにもいかない。――仕方なく、その子の肩越しに首を伸して、スクリーンに見入ったので、映画が終った時は、すっかり首が疲れてしまった……。
それでもまあ、映画の方は、好きなスターがなかなかカッコ良くうつっていて、満足。
痛む首をさすりながら、映画館を吐き出されて見ると、次の回を待つ行列ができているので、びっくりした。
――そこへ、
「奈々子」
ポンと肩を|叩《たた》かれて振り向くと――。
「久枝! 何よ、来てたの?」
「奈々子も来てんじゃないかと思ってたんだ!」
山中久枝は、ニヤニヤしながら、「これ、見たい、って言ってたでしょ」
「だけど、少しは空いてるかと思って来たのよ。久枝も立見?」
「私、指定席」
「わ、大富豪!」
「映画見てて、よく痴漢とか出るじゃない。だから、母上の命令で、いつも指定席なの。学生席との差額は母上がもってくれるのよ」
「いいなあ。私もその手で行こう!」
「いい時ばっかりじゃないわよ」
「どうして?」
「そりゃ、今日みたく混んでりゃ、いい気分、だけどさ、これが、入りの悪い映画でガラ空きだったら、どう?――指定席なんて私一人、なんてことあるのよ。みっともないっちゃありゃしない」
私は、笑い出してしまった。
「何だか久枝らしい話ね」
「どういう意味、それ?」
「だけど、昨日の、死にそうだって騒いでた同じ人間とは思えないよ」
「それが若さよ」
と、久枝は気取って、「あ、そうだ。そこで何か食べてかない? ここのケーキ、甘くなくて、おいしいのよ」
「うん、いいよ」
その店もいい加減混んでいたが、何とか席を確保できた。
「あ、そうだ。ちょっと家へ電話かけて来るわ」
「勝手に頼んどく?」
「任せる! 紅茶とね」
私は店の入口近くにある公衆電話へと走った。――家へかけると、割合スンナリと母が出る。
「もう帰って来るの?」
「今、山中さんと会っちゃって、一緒なの。ね、今井さんからは?」
「あの後はないみたい。お母さん、今戻って来たんだけど。美容院が混んでてね」
どこもかしこも混雑である。
「じゃ、六時ぐらいまでには帰れると思うから」
と、電話を切って席へ戻る。
――確かに、ケーキは甘味を抑えてあって、おいしかった。久枝は二つも頼んだのだ。
「――本当に有恵がやったのかなあ」
と、久枝が言った。
「まさか。そんなことしないと思うけどね」
もちろん、私にも自信はない。
特に、あの直前、三年生に殴られていたことを考えると……。有恵が、学校そのものを恨んだとしても、分る気がする。
「学校やめるんなら、それきりになるんじゃないかと思うけどね」
と、久枝は言った。
確かに、有恵のためには、別の学校へ移った方がいいかもしれない。
人間、心機一転ってことがあるものなんだから……。
「そうそう。それより、例の生徒会長の選挙よ、問題は」
と、久枝が言った。
「どうせ、矢神さんじゃないの?」
「そりゃ決ってるけど、問題は相手」
「負けると分ってて、立つ人がいる?」
久枝が、何となく黙って、私を見つめた。
「――よしてよ」
と、私は笑って、「入学早々で立候補なんて!」
「でも、|噂《うわさ》よ」
「噂? 何よ、それ?」
「奈々子が、矢神さんの対立候補って」
「まさか!」
「知らないのは当人だけじゃない?」
「――ね、久枝、本当なの、それ?」
「うん」
「冗談じゃない! 私、絶対にいやよ」
と、私は宣言した。
「でも、それが矢神さんの希望なら……」
「誰の希望だって――」
と、私は言った。「いやなものはいや」
絶対にいやだ。私は、断固として断るつもりだった……。
13 不幸の足音
「いや、暑い!」
|鍋《なべ》をつついているせいか、それともあがって[#「あがって」に傍点]いるせいか、黒田という男は、しきりに汗を|拭《ぬぐ》った。
上衣はとっくに脱いでしまっている。
小さな座敷での鍋物は、冬なら良かっただろうけれど、この季節には少々暑かったかもしれない。
だが、妙に取りすましたフランス料理なんかおごられるより、ずっとこの黒田という人にはふさわしい感じだった。
「もっと食べてくれよ。残しても仕方ないからね」
と、黒田は言った。
「もうお腹一杯」
と、母も顔を真赤にしている。
「じゃ、奈々子君は?」
「私も、もう……」
「若いんだから、そんなこと言わないで」
そう言われたってね。十七歳の|乙《おと》|女《め》としては、「太る」ってことも考えなきゃいけないんだから!
「ちょっと――」
と、母が座敷から出て行く。
私は、黒田と二人になっても、大して気詰りではなかった。これはまあ、いいことかもしれない。
「――奈々子君」
と、黒田が言った。「改まって言うのもおかしいけど――」
「おかしいです」
と、私は言った。「でも、母にしては、なかなかいい選択だったと思います」
黒田は|嬉《うれ》しそうに笑った。
「いや、君は本当にしっかりしてるね」
「母が子供みたいな人だから」
と、私は言ってやった。「でも――奥様がいらっしゃるんでしょ?」
「迷惑をかけたらしいね。すまなかった」
「そんなこといいんです。でも、やっぱり、刺されたりするの、好きじゃないから」
「妻とは、話し合って、別れることになったんだ。向うも、もう落ちついている」
「そうですか。それならいいんですけど」
と、私は言った。「でも、ずいぶん若い人ですね」
「ちょっと子供っぽいところがあってね。見合い結婚なんだが……」
「子供さんは?」
「子供はいない。――ま、それも、うまく行かなくなった原因の一つなんだけど」
「原因まで私に話すことないです」
「そうだね」
と、黒田は笑って、「君のお母さんとは、七つほど年齢が違う。でも、本気で愛してるんだ。必ず幸せにしたいと思ってる」
「ふつつかな母をよろしく」
と、私は頭を下げた(!)。
母が戻ったので、私は入れかわりに座敷を出て、また有恵の家へ電話してみた。
――誰も出ない。
もう九時に近いというのに。何だか、気になったが、どうすることもできなかった。
仕方なく、私は座敷に戻った。
母と黒田が、「幸せそのもの」という顔で、笑っている……。
その後、マンションへ戻ったのは、もう十時半になろうとするころだった。
黒田は車でマンションの前まで送ってくれた。
「――ごちそうさまでした」
と、母が車を出て言った。
「いやいや、僕の方こそ、とても楽しかったよ」
「どうも」
と、私はアッサリ言って、「お母さん、お二人で話があるのなら、先に帰ってるけど、私」
「もう遅いわよ。――ねえ」
母が黒田に向けた目は、そんなことないよ、と言ってほしがっていた。
「明日は奈々子君も学校だろう? また電話するよ」
「ええ、そうね」
母は、明らかにがっかりしていた。
「じゃ、おやすみ、奈々子君」
「おやすみなさい」
母は黙って、手を振って見せた。
黒田の車が遠去かるのを、母はかなり未練がましく見送っていたが、やがてすっかり見えなくなると、
「さて!」
と、気を取り直したように、「お|風《ふ》|呂《ろ》へ入って、寝ましょうか」
「まだ早いわよ」
エレベーターの方へ歩いて行きながら、私はまた不安になっていた。
母は、何も感じていないようだったが……。
今の黒田の態度が、私には、気にかかったのである。
母は、明らかに、黒田に寄ってほしがっていた。黒田にも、それが分らなかったはずはない。
それなのに、黒田は――いや、明日が仕事で早いとか、何か理由があるのならともかく、私のことを持ち出して、寄るのを断ったのだ。
あれは「理由」でなく、「言いわけ」である。
つまり、他に、寄って行けない本当の理由があって、それを母には言いにくかった、ということだ。
気に入らなかった。――私には全く気に入らなかった。
「――あなたとも、うまくやれそうだ、って喜んでたわ」
と、母がエレベーターの中で言った。
「私はどうでもいいわ。お母さんの|旦《だん》|那《な》さんなんだから」
「すぐそんなこと言って」
と、母は笑った。
「――ねえ」
「え?」
「本当にあの人、奥さんと別れる話を進めてるの?」
「もちろんよ。今日だって、弁護士さんの所から来たのよ、あの人」
「ふーん」
「どうしてそんなこと言うの?」
「別に」
と、肩をすくめて見せ、「気になっただけよ。お母さん、お人好しだから」
「変なこと言わないでよ」
と、母はむくれてしまった。
「ごめんごめん」
私は、少しおどけて見せた。
全く!――世話の焼ける親だこと!
部屋へ入ったら、電話が鳴っていた。私は靴を脱ぎ捨てて、走った。
「――はい」
「あ、芝奈々子さん……ですか」
「はい。今井さんですね」
「ええ。――色々、あなたにご迷惑をかけたようで」
「そんなことありません。あの――有恵さんは大丈夫ですか?」
「それが……」
と言いながら、有恵の母、今井由樹は泣き出してしまった。
「もしもし。――有恵さん、どうしたんですか?」
「あの……家を出て、ふらついてるところを保護されたんですけど……」
「じゃ、無事に?」
「入院しました」
「――入院?」
「ノイローゼというか……。何だか、わけの分らないことばかり言って……。入院させるしかないとお医者様が――」
「じゃ、学校の方は?」
「先生にお電話しました。自主的に退学すれば、火事の責任は問わない、とおっしゃって……」
「火事の責任って……。あれは、本当に有恵さんがやったんですか?」
「本人は、絶対に違うと言い続けていました。でも――もう分りません」
と、涙声で、「どうでもいいことですわ。――もう、早く忘れて……」
「そうですね」
としか、私にも言えなかった。「有恵さんは、どこの病院に?」
「――たまには、見舞ってやって下さいますか?」
「もちろんです!」
「ありがとう……。有恵は、あなたのことだけを頼りにしていました」
「そんな……。何もできなかったのに、私――」
「もし、会われても、あの子はあなたのことが分らないかもしれません」
そんなに……。私は暗然たる気持にさせられた。
「構いません」
と、私は言った。「すぐ良くなりますよ。明日、行きます、学校の帰りに。場所を教えて下さい」
「え、ええ……。でも、どうぞ、無理なさらないでね……」
「無理します。それが友だちですから」
今井由樹の声は、やっと明るくなって、
「じゃ、申し上げますね。――割と近くなんですよ……」
もうその声は、涙声でなくなっていた……。
14 二つの頼み
「――どうした」
と、喫茶室へ入って来た父は、私の前の席に座って、言った。「何かあったのか」
私は制服姿で、父の職場へやって来たのだった。
「頭痛で、早退」
「さぼりか?」
「これも、人のためよ」
「何か注文したか?」
「その辺はぬかりない」
と言ったとたん、ドサッと山盛りのフルーツパフェが置かれた。
父は笑って、
「その元気なら大丈夫だな。――僕はコーヒーだ。何の話だい?」
「一つはね、いい病院、知らない? ノイローゼとかの」
「お前が入るのか」
「それはその内。今は友だちなの」
私は、有恵のことを、説明した。
「――そんなことがあったのか」
父は|眉《まゆ》を寄せて、「あの学校でもか」
「どこも同じじゃない? ただ目立つか、目立たないかの違いで」
「お前はクールだな」
と、父は苦笑した。「今、入院してるんだろ?」
「専門病院じゃないの。だから、そういつまでも置いてくれないんですって」
「なるほど」
父は|肯《うなず》いた。「――父さんの大学の時の友だちが、確かよく知ってるはずだ。|訊《き》いてやるよ」
「お願い! ちゃんと治してくれて、きれいで、近くにあって、看護婦さんが親切で」
「おいおい」
「それで安い所ね。何しろ、お母さんが働いてるんだから、あんまり高い病院じゃ、入れておけないわ」
「難しい注文だな」
と、父は笑った。「ま、お前の頼みだ。それに何とか近い条件の所を捜してみよう」
「よろしく」
私は、フルーツパフェを食べながら、「もう一つは、お母さんのことなの」
「母さんがどうした?」
「この間、黒田って人に会ったでしょ。どう思った?」
「うん……。まあ、真面目そうだし、優しそうじゃないか」
「同感。でもね、心配なの。お母さんに|嘘《うそ》ついてんじゃないかと思って」
「嘘」
「離婚に、奥さんも同意したって言ってるのよ。でも、私、そうは思えない」
私が、あの夜の印象を説明すると、父は目を丸くして、
「お前、いつの間に心理学者になったんだ?」
と、言った。
「からかわないでよ。真剣なんだから!」
「分ってる。からかってるんじゃないよ。感心してるんだ」
「お父さん、どう思う?」
「うむ。――お前の印象が正しい可能性は、充分ある」
と、父は肯いた。「黒田って男が、悪い奴だとは思わん。しかし、優しい人間ってのは、どっちも傷つけまいとして、結局、自分で自分を困った立場に追い込んで行くことが多いからな」
「うん、分る」
「母さんは、|年齢《とし》は取っても子供みたいなもんだ。あの黒田を、信じ切ってるだろう」
「お父さん、馬鹿らしいと思うでしょうけど、黒田って男のこと、調べてよ」
「いいとも。馬鹿らしいことなんてあるもんか」
父は即座に言った。「母さんにも、お前にも幸せになってほしいんだ」
「話が分るね!」
私は父の肩をポンと|叩《たた》いてやった。
「しかし、いいか、このことは母さんには内緒だぞ」
「もちろんよ。――また私から電話かけるわ」
「分った」
――私は、フルーツパフェを平らげて、喫茶室を出た。
大分、気持が軽くなっていた。
正直、有恵を見舞うのは、気の重くなる仕事だったのだ。
有恵は、一応私のことも分っているようだし、会えば少しはしゃぐのだが、その内、何だか私に借りた物を返していないと言い始めて、いくらなだめても、納得せず、しまいには泣き出してしまうのだった。
――こういう病気は、気長に接するしかない。医者にはそう言われたが、有恵をあそこまで追い込んだ人たち――乱暴していた三年生も含めて――を許す気には、とてもなれなかった。
「――君、芝君だろ」
地下鉄の駅への通路を歩いて行くと、声をかけられた。
「あ――永倉さんですね」
矢神貴子にひっぱたかれた永倉重夫である。
「君、どうしてこんな所に?」
「父が、おたくの部長でして」
「え? 君、田中部長の?」
と、永倉は目を丸くした。「知らなかった! 参ったな!」
「別にいいじゃないですか」
と、私は笑った。
「それは失礼したね。――君、貴子から僕のことを……」
「別に聞いてません。もう、矢神さんとは別れたんでしょ」
「うん。結婚祝にって、|凄《すご》いカーペットが届いた。あいつらしいよ」
「矢神さんが?」
「電話で話した時は、至って冷静だったよ。それに、当人も忙しいと言ってた」
「選挙でしょ。生徒会長の」
「そうそう。そんなこと言ってたな。――そういえば君の話が出たよ」
「私の?」
「うん。『この間、うちでも会った芝さんって子が、対立候補なの。強敵よ』と言ってたよ」
「そんなの冗談ですよ」
と、私は笑って言った。「当人が立候補しないのに」
「そうか。ま、あれと争わない方が賢明だと思うよ。――じゃ、また」
「どうも」
永倉も、矢神貴子との間がスッキリしたせいか、それともやはり仕事中だからだろうか、こうして見ていると、なかなか切れる二枚目って感じがする。
――それにしても、あの人もしつこい。
誰が立候補なんか!
地下鉄に乗った私は、時計を見た。
ちょうど今から帰れば、いつも通り学校を出たのと同じくらいだ。いちいち母に早退した、と話すのも面倒だったのである。
――秋になり、学校生活も忙しくなって来る。
色々、気にかかることはあっても、それなりに学校は楽しかった。
しかし――それも長くは続かなかった。
早退したこの日、私の知らない内に、誰かが、私の「生徒会長選挙、立候補届」を出していたのだ……。
15 立候補
何だか妙だな、って気はしていた。
朝、学校へ行く途中で、当然のことながら、知った子にも出会う。
「おはよう」
と、声をかけると、
「おはよう」
と、返事をしてくれて――。
ここまでは同じだったのだが、それきり、何だか向うは目をそらして、足を速めて行ってしまったのだ。
いつもなら、いくら取り澄ました「お嬢様学校」だって、何やかやと話ぐらいはするのに。今朝はどうして……。
それも、一人だけなら、向うが話したくない気分だってこともあるだろうが、三人声をかけて、三人とも、全く同じ反応を見せたのである。
これにはこっちも、少々気が滅入ってしまった。――何よ。私が何をしたっていうのよ!
少々ふてくされながら、学校へ着く。
――どうやら、ただごとじゃない、と気付いたのは、教室へ入って行った時だった。
私が入って行くと、教室の、ほぼ半分くらいは、もう席に着いたり、仲のいい同士で固まったりしていたのだが、ぴたりと話をやめ、私の方へ顔を向けた。
そして、私が自分の席へ歩いて行くのを、じっと目で追っていたと思うと、やがて、何か合図でもあったように、ワーッと話を再開したのだ。
どうなってんの、これ?
山中久枝は、まだ来ていない。誰かをつかまえて|訊《き》いてみたかったが、どうも、まともに答えてくれないだろうという気がした。
しかし、こんな状態で、今日一日過ごすなんて、とんでもない!
私は、教室の中を見回してから、立ち上ると、大きく息を吸い込んで、
「ワーッ!」
と、思いきり大きな声を出した。
もちろん、教室中が、シーンと静まり返った。
「結構」
と、私は腰に手を当てて、「お話があるのなら、うかがいます。どなたでも構いませんけど」
「――|芝《しば》さん」
入口の所に、久枝が立っていた。
「来てたの? じゃ、教えてよ。私が一体何をしたの? クラス中の人から、つまはじきにされるようなこと、した?」
「そうじゃないわよ、芝さん」
「奈々子って呼んでくれないの?」
「学校の中よ」
「そうだったわね」
と、私は肩をすくめた。
「あなたが立候補したから、みんなびっくりしてるのよ。それだけだわ」
「立候補?」
私は|訊《き》き返していた。「何の話、それ?」
「生徒会長に決ってるじゃないの」
「私が?――立候補なんてしないわよ」
「ちゃんと|貼《は》り出してあるわよ」
と、他の子が言った。
「そうよ」
と、いくつか声が上った。
「待ってよ。――どこに貼り出してあるって?」
「生徒会の掲示板」
私は、教室から、ほとんど走るような勢いで廊下へ出た。
「――ねえ、待って」
久枝が追いかけて来る。
「どうなってんのよ、この学校は!」
と、私は、歩きながら、「本人[#「本人」に傍点]の知らない内に生徒会長の立候補届が出てるなんて!」
「本当に知らないの?」
「当り前でしょ! 何度も言ったじゃないの。そんなものに出る気はないって」
「でも、それじゃ――」
掲示板の前には、十人ほどの生徒が固まっていた。私が来るのに一人が気付いて、周囲の子をつつくと、サッと散る。
「どうも」
と、私は言った。
――事実だった。そこには、〈今日までの立候補者〉という紙があって、そこに、私の名が書かれていたのである。
〈芝奈々子〉。――まるでその名は、見も知らない他人のもののように見えた……。
「確かに」
と、担任の吉田浩代は|肯《うなず》いて、「昨日、お昼休みが終って、ここへ戻ってみると、立候補の届が、机の上に置いてあったのよ」
「私、出していないんです」
「妙ね。それじゃ、一体誰が出したのかしら?」
「分りません。でも、ともかく届は私が出したものじゃないんです。取り消して下さい」
職員室へ行って、その話をしている間も、私は何となく妙な気分だった。
他の先生たちも、顔こそ向けないが、私の話に耳を傾けているような気が、私にはした。
「困ったわね」
と、吉田浩代は首を振って、「ともかく、もう正式に受け付けられてしまったのよ。それを、なかったことにするのは、簡単じゃないわ」
私は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「でも、先生……。本人が知らないと言ってるんですから――」
「分ってます。ともかく、一応、教務主任の先生に話しておきます。選挙の担当は、教務主任ですからね」
ただのいたずらかどうかはともかく、本人が知らない内に出た届を、取り消すこともできないのだろうか?
私は、少々馬鹿らしい気持になったが、ともかく、
「よろしくお願いします」
と、頭を下げて、職員室を出た。
「――どうだった?」
廊下で待っていた久枝が|訊《き》く。
「何だかくどくど言ってたわ」
と、私は言った。「ともかく、こんな無茶な話って、ないわよ」
「分るけど……。どうなるかしらね。あと締切まで一週間よ」
「矢神さんは、まだ届を出してないのね」
「そう。ぎりぎりに出すんでしょ、きっと」
「他に出るかしら?」
「どうかしらね。今年はもう、矢神さんで決り、だものね」
教室へと戻りながら、私は、
「ね、あの、副会長の候補になってたのは、どんな子?」
「知らないでしょ。一年生よ」
「一年生でも、なれるの?」
「副会長はね」
「ふーん、全然知らない子と組んで立候補? 誰のいたずらだろ」
――私と組んだ副会長は|竹《たけ》|沢《ざわ》|千《ち》|恵《え》という名だった。もちろん、私は顔も知らない。
「いたずら、かしらね」
と、久枝は言った。
「何のこと?――ね、何か知ってるなら、教えて」
「私は何も知らないわ」
と、久枝が言った。
本当だろうか? 問い詰めて、久枝を怒らせるのも気が進まないので、やめておいた。
「――芝さん」
と、呼び止められる。
振り向く前に、相手は分っていた。
「矢神さん」
「立候補したのね。お互い、頑張りましょう」
「私じゃないわ。誰かが勝手に出したの」
「あら、そう」
と、矢神貴子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「でも、あなたに出てほしい、って人がいたということじゃないの。立つべきだわ」
「そんな――」
と首を振って、ふと思い出した。
昨日会った永倉重夫の話。――矢神貴子が、私の立候補のことを話していたということだ。
つまり……矢神貴子は、立候補の届が出る前に、そのことを承知していたのだ。
「他にも立ってくれる人がいるといいのにね」
と、矢神貴子は言った。「その方が盛り上るわ」
私は、何も言わずにいるのが精一杯だった。矢神貴子は、
「それじゃ」
と、軽く会釈して、歩いて行ってしまった……。
16 一年生
私が沈み込んでいるのに、母はまるで気付かなかった。
それは、しかし幸いでもあったのだ。母に相談したところで、学校の内情を分ってくれているわけでもなし、何の役にも立たなかっただろう。
それから、立候補の届出締切までの一週間は、何ともいえず長い日々だった。
私は、何度も担任の吉田浩代の席へ足を運んだが、向うは、
「担当じゃないから」
と、逃げるばかり。
担当の教務主任に会おうとしても、
「忙しくて」
と、会ってくれない。
恋人に振られる時ってのは、こんな気分なのかな、と考えたりしていた……。
私に比べると、母の方は、対照的に盛り上っていて、ほとんど一日おきに、「|愛《いと》しの黒田さん」と会っているようだった。
「――そろそろ本決り?」
と、その日、夕食の時に、言ってやると、
「え? まあね」
と、母は、ニコニコしている。「でも心配しないで。ちゃんとあなたのことも考えてるから」
「ご親切に」
と、私は言ってやった。「で、何を考えてるの? ハネムーンに連れてってくれる、とか?」
「どうしようかと思ったんだけど……」
と、真顔で言うので、
「やめて! 冗談よ。私、一人で大丈夫だから」
「心配よ。だから、一時、お父さんの所にでも、と思って……。あなた、いや?」
「いやじゃないわよ。でも――それきり、帰って来なくていいよ、とか言い出すんじゃないの?」
「まさか」
と、母は笑った。
私は食事を続けながら、
「今日の、いい味だね。――で、黒田さんの方はすっきりしたの?」
「すっきりって?」
「離婚のことよ。もうすんだの?」
「今、弁護士さんを入れて、どう分けるか、相談してるらしいわ。私は、全部奥さんにあげて来ちゃえば、って言ってるんだけど」
「|気《き》|前《まえ》いいんだ」
「だって――ある意味じゃ、申し訳ないことしてると思うから、やっぱり」
申し訳ないこと、ねえ……。
あれから、あの奥さんが刃物を持って現われる、ってことはなかったから、まあ、実際に黒田って男も、別れる話を進めてはいるのかもしれない。
「それでね、結婚式を、今年の暮れにでもあげようかと思ってるのよ」
「ええ?」
私は目を丸くした。「何よ、だしぬけに、そんな」
「まずかった?」
と、母が急に情ない顔になる。
この顔を見ると、だめとは言えないんだよね、もう……。
「構わないけど、別に」
「良かった! じゃ、|早《さっ》|速《そく》、どこか捜さないとね」
「派手に|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》とかやるの? 高さ何メートルのケーキにナイフを入れて、とか」
「芸能人じゃあるまいし」
と、母は笑った……。
――母が先にお|風《ふ》|呂《ろ》へ入って、私がTVを見ていると、電話が鳴りだした。
「――はい」
「奈々子か」
「お父さん!」
「母さんは?」
「今、お風呂だよ」
「そうか」
「後でかけようか?」
「いや、そうじゃない。きっとこの時間、母さんは風呂だろうと思って、かけたんだ」
「へえ、さすが」
と、私は言ってやった。「やっぱり、元夫婦だね」
「からかうな」
と、父は苦笑した。「お前、明日は時間がとれるか?」
「夜中の十二時ごろなら|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》|辺《あた》りにいるけど」
「おい――」
「冗談よ。こっちも、会って話したかったの」
「そうか。じゃ、帰りにこっちへ寄ってくれないか」
「事務所の方に?」
「この間の喫茶店で六時にどうだ」
「結構。――でも夕ご飯は、お母さんと食べないとね」
「長くはかからん」
「分った。じゃ、明日ね」
私は電話を切った。
ちょうど母がバスタオルを体に巻いて、現われ、
「電話?」
「うん。友だちから」
「そう」
「黒田さんじゃないわよ、残念ながら」
「何よ」
と、母は少し赤くなった。
いや、お|風《ふ》|呂《ろ》上りで、もともと赤かったのかもしれない。
「私も入って来よう、っと」
ピョンと立ち上って、私はバスルームへと歩いて行った。
お風呂から上ると、母が立っていた。
「何? 娘の湯上り姿の色っぽさに見とれてるの?」
「何言ってんの」
と、母は吹き出してしまった。「お客様ですよ」
「私に?」
「ええ、学校の方」
「学校のって……」
「竹沢さんとか」
竹沢千恵。――私と組んで立候補したことになっている一年生だ。
でも、私は会ったこともなかった。
「分ったわ。じゃ、待っててもらって」
「お茶を出しとくわ」
私は急いで髪を乾かし、服を着た。
居間へ入って行くと、ピョコンと小柄な女の子が立ち上った。
「竹沢さん?」
「はい。竹沢千恵です。よろしくお願いします」
|見《み》|憶《おぼ》えはあった。何といっても、小さな学校である。
下級生でも、顔ぐらいは見ている。ただ名前と一致しないのだ。
竹沢千恵は、高校一年というより、中学一年といってもおかしくないくらい、「|可愛《かわい》い」感じの子だった。
小柄で童顔。メガネをかけたところは、何だかマンガの主人公だ。
「妙なことになったわね」
と、私は言った。「立候補のこと、知ってたの?」
「いいえ、全然」
「じゃ、あなたも?――一体誰が出したのかしら」
「先輩もご存知ないんですか?」
「ええ。――ね、その『先輩』っていうの、やめてくれない?」
「はい」
と、ペロッと舌を出す。
何とも可愛い。つい笑ってしまう。
「迷惑な話よね。何度も先生にかけ合ってるんだけど」
「私もです。でも、むだみたい」
「といって……。矢神さんも立つわけでしょう」
「今日、矢神さんの届が出たそうですよ」
「そう。――他には?」
「いません。二組の争いで」
「争う気なんか、全然ないのに」
と、肩をすくめた。
「でも、取り下げは認めてくれないと思います」
「どうして?」
「選挙は、社会科の勉強の一つ、ということになってるんですもの。無投票で当選したんじゃ、選挙になりません」
「だからって、私たちが恥かくわけ?」
「矢神さんはそれが楽しいんだと思いますけど。圧倒的な差で、自分が勝つっていう気分が」
私は、ちょっとびっくりして、
「竹沢さん。あなた、矢神さんのこと、知ってるの?」
「有名ですから」
と、言って、竹沢千恵は少し間をおいて、続けた。
「それに、うちの父の会社は、矢神さんのお父様の会社の子会社です」
「へえ」
「芝さんは、転校されて来たばかりだし。――そういう二人を組合せたのが、あの人らしいところですね」
|可愛《かわい》い外見に似ず、しっかりした子らしい。
「で、どうする?」
と、私は言った。「どうせ、矢神さんには勝てっこないし」
「そりゃそうです。でも、馬鹿にされっ放しっていうのも、しゃくじゃありません?」
「うん……」
「やれるだけはやらなきゃ、と思ってるんです」
「やるって……?」
「正々堂々と闘うことです」
と、竹沢千恵は言った。
「選挙運動をやるわけ?」
「いずれにしても、演説会とかは、規定で、やらなきゃいけないんですよ。だから、何もしないわけにはいきません」
「そうか。――苦手なんだけどね、私」
と、ため息をつくと、
「でも……」
「え? なあに?」
「私、矢神さんより、芝さんの方が、会長に向いてると思います」
私は、ちょっと面食らったが、
「ありがとう」
と、笑って言った。「じゃ、|諦《あきら》めて、やるしかないか」
「精一杯やりましょう!」
何となく、この子を見ていると明るくなって来てしまうのだ。
私は、差し出された手を、つい、しっかりと|握《にぎ》っていた。
「――そうだ」
と、ふと思い付いて、「矢神さんの副会長は?」
「山中久枝さんです」
と、竹沢千恵は言った。
17 ある疑惑
「あら」
父を待っていた喫茶店に、永倉重夫が入って来たのを見て、私は、目を見開いた。
「やあ、君か」
と、永倉は、手を上げて、「部長と待ち合せ?」
「そう。あなたは?」
「僕も、ちょっと人と――」
「分った」
と、私は|肯《うなず》いて、「フィアンセでしょ?」
「まあね」
永倉は、ちょっとためらってから、「お互い、相手が来てないようだから、いいかな、ここに座ってて」
と、私の向いの席に腰をおろす。
「構いませんよ。彼女が怒らなきゃ」
「大丈夫。僕が女学生にこりているのは、よく知ってるからね」
「矢神さんのこと?」
「まあね」
と、永倉は笑った。「――コーヒー! ねえ、君、どうなったんだい?」
「何のことですか?」
「立候補さ」
「ああ……」
私が事情を話すと、永倉は、
「そんなことだろうね」
と、|肯《うなず》いた。「あの子は、表面強がってるけど、内心は|凄《すご》く|臆病《おくびょう》なんだと思うよ」
「矢神さんが、ですか」
「だから、絶対に勝てる相手としか、勝負しないんだ。君のような転校して来た子と、一年生を組ませて、勝手に届を出しちまうなんて、あの子のやりそうなことさ」
なるほど。私は、そんな風に考えたことはなかったが……。
「しかし、誰かが、一度、あの子のそういうやり方をこらしめてくれるといいんだがね」
と、永倉は言った。「本人のためにも、良くないと思うよ。このまま行ったらね」
「そうかもしれませんね。でも、私は、そんな役には向きません」
と、私は言ってやった。
「どうかな」
「――どうかな、って?」
「矢神貴子は、決してみんなに好かれちゃいないよ。それは君にも分るだろ?」
「ええ。――でも、みんなやっぱり彼女に入れますよ」
「いや、そうとも限らない。貴子は、自分を取り巻いている子たちを信じてないからね。本当の意味での友人というのは、いないも同じさ」
「それも寂しいですね」
「うん。――あの時は頭に来たけど、貴子にしてみれば、僕に裏切られたような気分だったんだろうな。|可哀《かわい》そうな子だよ」
と、永倉は、コーヒーが来ると、ゆっくり口をつけた。
「でも、私も可哀そうですよ」
と、私は言ってやった。「立候補する気もないのに、立たされて、コテンパンに負けるなんて」
「いや、君は結構、票を集めると思うね」
「へえ。同情してくれるんですか?」
「本気さ。貴子の言いなりにするのを面白く思ってない子は、いくらでもいるよ」
「分ったようなこと言ってる」
と、にらんでいると、
「おい、何してるんだ?」
と、声がして、父がやって来た。
「部長。――お嬢さんと、ちょっとお話をしていました」
「俺の恋人を取るな」
と言って、父は笑った。
「じゃ、失礼します。コーヒー代は――」
「それぐらいは出してやる」
「ごちそうさまです」
と、永倉が、馬鹿ていねいに頭を下げる。
ちょうど彼女が来たようで、永倉は急いで店を出て行った。
「――何の話をしてたんだ?」
「うん。ちょっとね」
生徒会長のことは、後で、ゆっくりと話すつもりだった。
「で、お父さんの方の用って?」
「うん。母さんのことだ」
父は、ミルクティーを頼んで、少しためらっていた。
「――あんまり、いい知らせじゃなさそうだね」
「いや、そうでもない」
と、父は首を振った。「考えようだ。まだ完全にはつかめてないからな」
「どういうこと?」
「いいか」
と、父は身をのり出すようにして、「これは、母さんに絶対に内緒だぞ」
「分ってるよ」
「黒田のことは調べてみた」
と、父は言った。「確かに、仕事の面では、なかなか真面目に、よくやっている」
「それで?」
「ただ――前にも一度、女性とのことで色々あって、離婚寸前まで行ったことがあるらしい」
「気が多いんだ」
「いや、生真面目なんだろうな。だから、適当に遊んでおけない」
「そういう言い方もあるか」
「奥さんとは別れることにした、と近所の人に話しているらしい」
「じゃ、話し合いはついたの?」
「弁護士を入れてどうこうってことだったな?」
「お母さん、そう言ってたけど」
「そういうことはないようだ」
「――というと?」
「もう、今は一人でいる。奥さんはいなくなったらしい」
「じゃ……」
「実家へ帰った、ということだ」
「それならいいじゃない。――もう、あの人も|諦《あきら》めたんだ」
刃物を振り回していた、あの奥さんの|凄《すご》い剣幕を思い出すと、そうあっさり別れちゃうというのも妙な気がしたが、まあ、女心は分らないから……。なんて、私も女ですけどね、一応[#「一応」に傍点]。
「うん……」
父はそれでもなお、少しふっ切れない様子だった。
「どうかしたの?」
「ちょっと気になっていることがあるんだ」
「気になってるって?」
「その奥さんの方だが……。調査を頼んだ人間の話じゃ、近所の、仲良くしていた奥さんが、こう言ってたというんだ。『あの人は、出てったんじゃない』とな」
「どういうこと?」
「その奥さんが、何かの用事で、黒田の家に上ったらしい。黒田は、女房が実家へ帰っていて、と話していたそうだが、部屋に、奥さんの物が、全部残っていたというんだ」
「つまり――」
「いや、それはただの野次馬的な意見だ。しかし、調べてみても、奥さんが家を出るところを見たという人間は一人もいないんだ」
と、父は言った。「今、調べさせている」
「何を?」
「本当に、奥さんが実家にいるかどうかを、だ」
私は、じっと父を見ながら、
「もし――いなかったら?」
父は黙って首を振った。
もちろん、そんなことはあり得ない。でも……もしかして……。
何となく、私たち二人は黙り込んで、いつまでも座っていた……。
18 運動開始
「奈々子」
と、山中久枝は、こっちの顔色をうかがうようにして、言った。「怒ってんの?」
「怒ってんじゃない!」
と、私は言った。「面白くないの」
「怒ってるんじゃない、やっぱり」
そうじゃないのだ。
怒るのと、不機嫌なのとは、似てはいるかもしれないが、全く別のものだ。でも、今ここで、久枝を相手にそんな解説をする気にもなれなかった。
特にここはマンションの私の部屋で、土曜日の午後、久枝は、
「話したいことがあるの」
と、やって来ていたのである。
「――仕方なかったのよ」
と、久枝は、いささか哀れっぽい声を出した。
「こっちも、そんなこと全然知らなくてさ、前の日に突然よ。――矢神さんに呼ばれて、『あなたと組むことに決めたわ。頑張りましょうね』だもん。いや、なんて言える雰囲気じゃないのよ」
「分ってるわ」
私はベッドに引っくり返った。
「ね、十一月の選挙までのことじゃない。そんなに怒らないでよ」
久枝のように、割と体の大きな子が、こんな口をきくと、何だかおかしい。
「怒ってない、って言ってるでしょ」
と、私は笑いながら、言った。「そうじゃないの。面白くない原因はね」
「本当?」
「しつこいのねえ! 本当に怒るぞ!」
「分った! 信じる!」
と、久枝はあわてて言った。
「演説会はいつだっけ?」
「来週の土曜日よ」
「一週間か。――矢神さんはきっと、しゃべるのも上手なんでしょうね」
「そうね。いい声してるし」
全く。――何もかも[#「何もかも」に傍点]|揃《そろ》ってるっていう、およそやきもちすらやく気になれない人間ってのが、世の中にはいるものなのだ。
もちろん、矢神貴子が、そういう「天に愛された人」の一人なのかどうか、私は知らない。
少なくとも――矢神貴子には、「思いやり」とか、「優しさ」とか、人に「愛される」ための美徳が欠けているように思えた。
でも、そんなことを、この久枝に言ったりしてはいけない。
大切な友人ではあっても、まだ知り合ってそうたっているわけではない。本当に心を許し合っているとは言えないのだ。
「――何で機嫌が悪いの?」
という久枝の質問に、
「色々あってね」
と、答えておいて、「久枝、そのことで来たの?」
「ううん。実は……そうじゃないの」
久枝は、何となく言いにくそうに、目をそらした。
「なあに? 何か私に悪い|噂《うわさ》でも立ってるの?」
「そうじゃないわよ」
と、久枝は急いで言った。「あのね――今井有恵のこと」
「有恵のこと? 何なの?」
有恵は、父が見付けた病院に、おととい移ったばかりである。
まあ、私の注文が全部聞いてもらえたわけではないが(大体、無茶な注文なんだから)、父のよく知っている医師の紹介で、ずいぶん感じ良く受け|容《い》れてくれたらしい。有恵の母親から、お礼の電話がかかって来ていた。
「例の火事のことよ」
と、久枝が言った。
「有恵が火をつけた、って言われた?」
「そう。――ひどいもんね。反論できない人間に、押しつけて」
「何か分ったの?」
「三年生の中で、|噂《うわさ》になってるの。あれをやったのが誰と誰だ、って」
「分ってるの、それじゃ?」
「噂だからね。証拠は何もないわけじゃない。でも、学校側も知ってるみたいよ。ただもう片付いた事件だし、今さら、またかき回すこともないと思ってるんでしょ」
「でも有恵はどうなるの! ひどいじゃない」
「うん。――同感だけどね。でも、告発するってわけにもいかないじゃない。ただ、奈々子、気にしてたしさ。本当のことが分れば、安心するかと思って」
正直なところ、久枝がなぜ、その話をわざわざ私に知らせに来てくれたのか、今一つ納得できなかったが、私は素直に礼を言っておくことにした。
そして久枝は帰って行ったが……。
――実際、私が、どこか|苛《いら》|立《だ》っているのは、選挙のせいではなかったのだ。
いくらかはそれもあったとしても、たかが学校での生徒会長ではないか。そんなこと、大したことではない。
私の関心はもちろん母に[#「母に」に傍点]あった。いや、もっと正確に言えば、母と黒田とのことに……。
今日も、母は出かけている。当然、黒田と会っているはずだ。
母の話では、もう黒田と奥さんの離婚は、ほとんど手続きも終って、後は簡単な事務的処理だけ、ということになっている。
しかし、そんなに「簡単」なら、なぜいつまでも終らないんだろう?
そんなことを|訊《き》けば、
「どうしてそんな意地悪を言うの?」
と、母がむくれるに決っているので、私は口に出さなかった。
もともと、子供っぽいというか「世間知らず」のところのある母だが、恋をしていると、その純真なこと、正に十代の|乙《おと》|女《め》の如しだ。
私の方がよっぽどクール――とは、まだ燃えるような恋を知らないから言えるのかもしれないが。
いずれにしても、母と黒田が無事にゴールインするのは、別にこっちとして何の異議もない。問題は、父の調べで出て来た疑惑である。
あれがもし、本当に[#「本当に」に傍点]その通りだとしたら……。
黒田の妻は、どこへ消えたのか。そしてなぜ?
軽々しく結論に飛びついてはいけない。それは分っているのだが、少なくとも可能性としては否定できない。
黒田が、妻を殺して[#「妻を殺して」に傍点]しまった、ということを……。
父は、黒田の妻の実家を調べさせているはずだ。その結果はまだ聞いていないが、そこに黒田の妻の無事な姿が見られることを、私は祈っていた。
――チャイムが鳴る音で、我に返った。
インタホンに出てみると、
「今日は!」
相変らず、小気味いいくらい、元気一杯の竹沢千恵の声が聞こえて来た。
「――やあ。上ってよ」
と、私はドアを開けて言った。
「どうも」
と、竹沢千恵は、上って来て、「すみません、眠くて! コーヒー一杯、いただけませんか!」
こういう、はっきりしたものの言い方は、私の好みである。
「――さ、どうぞ」
私も、ちょうどコーヒーがほしいところだった。|早《さっ》|速《そく》、|淹《い》れて、二人で飲むことにする。
「来週、話すこと、考えました?」
と、千恵は言った。「おいしい! いいコーヒーですね」
「どうも。――私、何をしゃべっていいのか、見当もつかないわ」
と、正直に言う。「だって、何しろこの学校に入ったばっかりよ」
「そりゃそうですね。でも、それを逆に強調するしかありませんよ」
と、千恵は言った。
「逆に、って?」
「外から来た人にこそ、我が校の欠点がよく見える、とか」
「そりゃ……。普通の選挙ならそれでもいいわよ。でも、同じ学校の中よ。そんな批判めいたことを――」
「でも、個人攻撃でなきゃ構わないと思いますけど」
「そうかしら……」
「それぐらいやらなきゃ。向うは絶対に油断してます」
「そりゃそうでしょ。負けるわけないんだから」
「だから、今度の演説会で、向うの思ってもいないようなことをしゃべれば、びっくりしますよ。みんなだって、これは、と考えると思うんです」
千恵の言うことはよく分るし、明快だった。私は、一年生の千恵に|叱《しか》られているような気がして、少々恥ずかしくなった。
――有恵のことに怒っていながら、一方では、つい今の学校の問題点を指摘したりして、みんなにどう思われるか、と不安だったのである。
「私、来週中に、二、三回、話し合いの会を持ったらどうかと思うんですけど」
と、千恵は言い出した。
「話し合いって?」
「ですから、今の学校について、何か意見はないか、っていうことで、昼休みとかに声をかけて集まってもらうんです」
「へえ……。でも集まる?」
「やってみなきゃ分りません」
そりゃそうだ。
私は、いつもなら自分が言っているようなセリフを千恵に聞かされて反省した。
私だって、この千恵だって、好きで立候補したわけではない。押し付けられただけのことだ。
しかし、千恵は、それが断れないとなったら、精一杯、考えて何かやろうとしている。それなのに私の方と来たら……。
「分ったわ」
と、私は|肯《うなず》いた。「じゃ、その旨を、どこかに掲示しましょうか」
「もちろん、生徒会用の掲示板に|貼《は》り出します。でも、その他にビラを作って配りましょう」
「ビラを?」
「ええ。大した数じゃないですもん」
「そうか。コピー取れば早いしね。よし、じゃ、これから作るか」
「ええ!」
二人して盛り上った。――早速、二人で買い出しに行って、白い紙とサインペンなどを買い込み(ついでにお菓子も)、戻って来て、ビラ作りを始める。
――電話が鳴った時、十枚目ぐらいのやり直しが終ったところだった。
「誰だろ。――待っててね」
私は、急いで電話へと走って行った。
「奈々子か」
と、父の声。
「お父さん。今、どこから?」
「うん。外だ。仕事でな」
「そう。お母さん、出かけてる」
「そうか」
父の口調はやや重苦しかった。
「何か――分った?」
「うん。調べさせてみたんだが……。黒田の妻は実家へ戻っていない」
私は、思わず受話器を握り直した。
「それ、確かなの?」
「うん。――もちろん、知人の所、友だちの家、色々身を寄せる所はあるだろう。軽々しく結論は出せない」
「そりゃそうだけど、もし……」
「お前の心配は分る。私だって、心配だからな」
「その男[#「その男」に傍点]と、母さん、いつもデートしてるのよ! もし――」
「まあ待て。もっと、はっきりした証拠がつかみたい」
と、父は言った。「その上で、私が直接黒田に会って話すつもりだ」
「そうね。――その方がいいかも」
「奈々子、お前はしっかり者だ。母さんのことをよく見てやってくれ」
「うん……」
「じゃ、またかけるからな」
――父の電話が切れて、受話器を戻してからも、私はしばらく立ちつくしていた。
黒田は本当に妻を殺したのだろうか?
たった今、母はその殺人犯に抱かれているのかもしれない……。
「――どうかしました?」
と、千恵に声をかけられて、私は飛び上りそうになった。
19 母の言葉
その日、母が帰って来たのは、もう九時近くだった。
「――ごめんね、奈々子!」
と、母は息を切らして上って来ると、「何か食べた?」
「ちっとも連絡してくれないんだもん」
と、私はソファに引っくり返ったまま、
「お腹空いて、死にそう」
「ごめんね。――電話できなくて。こんなに遅くなると思わなかったのよ」
「時間のたつのを忘れてたんでしょ」
と、私は言ってやった。「カップラーメン食べたし、おやつも食べたから、何とか大丈夫」
「何か作るわ」
「いいわよ。そこのホットドッグでも買って来るから」
「そう?――ごめんね本当に」
母は、頭を振って、「車が混んでて……。でも、途中で事故があったの。黒田さんのせいじゃないのよ」
「分ってるって」
私も少々|苛《いら》|々《いら》していた。
母があんまり黒田のことをかばうので、頭に来たのだった。
「私が、ちょっと休んで行きたい、って言ったもんだからね。それですっかりラッシュに巻き込まれちゃったのよ」
「もう分ったってば!」
私は叫ぶように言った。母は、びっくりしたように私を見て、
「奈々子……」
「どうなってるの? 離婚の話は? もう届を出したの?」
と、私はつい、つっかかるように、言っていた。
「それは……もう、ほとんど終ったも同じだって――」
「もう何週間も同じことばっかり言ってるじゃないの。別れる気なら、とっくに別れてるんじゃない?」
「それは――」
「奥さんに会ってみれば? 直接|訊《き》いた方が早いわよ。いつ別れてくれるのかって」
「そんなこと……」
母は、どうしていいか分らない様子で、ただ突っ立っていた。
「どうなの? 一度でも奥さんに会ったの?」
「いいえ……。だって、私のことを憎んでるだろうし……」
「会ってみなきゃ分らないでしょ。彼に頼めばいいじゃない。今度、三人でゆっくり話し合いましょうって。――そう、言ってみれば?」
母に、そんなことが言えるわけはない。そう分っていて、こんなことを言う私も、ひどいものだと思った。
「奈々子――」
母は、悲しげな目で、私を見ながら、「私のことを……怒ってるのね」
「お母さんのことじゃないわ。黒田さんのことよ」
私は、息をついて、「ごめんなさい」
と、首を振った。
「お腹空くと、私、機嫌悪くなるから。――ホットドッグ、買って来る!」
私は、財布を握って、玄関から飛び出して行った……。
「ねえ、奈々子」
夜、十二時を回って、母はもうてっきり寝たものだと思っていた私は、のんびりTVなど見ていて、声をかけられ、びっくりした。
「――起きてたの?」
「うん」
母は、ネグリジェ姿で入って来ると、「何を見てるの?」
「TV」
「TVは分ってるけど……」
「TVを見てるだけ。中の番組は知らないのよ」
「――変ってるわね」
と、母は笑った。
「何か用事?」
「ちょっと……お話があって」
私は、肩をすくめて、
「いいけど……。でも、別に怒ってないわよ、私」
「ええ、それは分ってるわ。そのことじゃないの」
母は、ソファに腰をおろすと、ぼんやりとTVを眺めていた。
私は、リモコンでチャンネルを変えて行ったが、どこも面白くない。それでも、TVを消せないのが、土曜日の夜というものかもしれない。
母は、しばらくたってから、
「あなた、弟か妹ができたら、どう?」
と、言った。
私は、しばらく何のことやら分らなかった……。
プツッ、と音をたてて、TVが消えた。いつの間にか、リモコンのオン・オフスイッチを押していたらしい。
起き上って、
「お母さん……妊娠してるの?」
と言った。
もちろん、私だって、男と女がそういうことをすりゃそうなるってことは知ってるが……。でも、お母さんが!
「そうじゃないわよ」
と、母は顔を赤らめて、急いで言った。「もしも、ってこと」
「――そうか。びっくりさせないでよ」
私は、胸をなでおろした。
「ただ……黒田さんがね、ぜひ子供を作ろうって言ってるの。私はもうこの|年齢《とし》だしね……。できるかどうかも分らないけど。あなたの気持も|訊《き》いてみたくてね」
私は、ためらっていた。
もし、黒田が、本当に妻と別れて母と一緒になるのなら、子供を作ったって別に――多少は複雑な気持ではあるが――構わないのだ。
しかし、もし、黒田が妻を殺していたとしたら?
それがばれたら、当然、母との結婚どころではない。その時、もし母のお腹に黒田の子がいたら……。
「別に――反対はしないけど」
と、私は言った。
「そう」
母はホッとした様子だった。
「でも、結婚式、あげてから、作ってくれる? 式の最中につわりじゃ、いくら何でも私の方が照れちゃうわ」
「もちろんよ」
と、母は笑った。
私は精一杯、明るく言ったのだが……。
でも、このことは父に話しておかなくちゃ、と私は思った。
「――生徒会長の方は、どうなったの?」
と、母が|訊《き》いた。
「うん。来週から、選挙運動よ」
と、私は答えて、もう一度、TVをつけていた……。
20 父の恋人
日曜日、私は昼ごろ、父のマンションを訪ねた。
ゆうべの母の話を、早いところ父に伝えた方がいいと思ったからだ。
前もって電話しなかったのは、別に理由があってのことではなかった。ただ、父ならそれで文句も言うまいと分っていたからである。
チャイムを鳴らしたが、なかなか返事はなかった。――出かけてるのかな。
もちろん、父がいなくても、出て来たからにはどこかに出かけるつもりではある。
母は今日、珍しく家にいるということだった。――インタホンから、
「――はい」
と、いささか眠そうな父の声がした。
「奈々子よ」
と、言うと、少し間があって、
「何だ。来てるのか、そこに?」
「そりゃそうよ。これ、電話じゃないんだから」
「ああ、そうだな。――あ、ちょっと待ってくれないか」
「うん、いいわよ」
「奈々子、あの……悪いけどな、このマンションの前に、〈M〉って店がある。そこにいてくれないか。昼、まだだろ? 一緒に食べよう」
「分った。〈M〉ね」
「十五分で行く」
「ごゆっくり」
――私は、エレベーターで一階までおりた。父の部屋は、マンションの七階である。
〈M〉に入って、紅茶を飲んでいると、十分余りで、父が現われた。
もちろん、スポーツシャツにスラックスという格好。
「ごめんね。起こした?」
「いや……。ちょっとな」
父は、息をついて、「――何か食べよう」
と、言った。
「うん」
ランチを注文して――ふと私は、何かの匂いに気付いた。これは、香水かしら?
「お父さん」
「うん?」
「今、女の人がいたの、一緒に?」
父は、ためらってから、
「実は――そうだ」
と、|肯《うなず》いた。
私は、笑い出してしまった。
「ごめん……。あわてたでしょ。知らなかったんだもん!」
「いや……。照れるもんだな」
と、父は苦笑した。
「ま、お父さんに恋人いても、おかしくはないよ」
「そう言ってくれると助かる」
「どんな女?」
「いいじゃないか。遊びと割り切っての仲だよ」
と、父は照れている。
「マンションから出て来るね、きっと。よく見てよう」
席から、マンションの出入口が、よく見えるのである。
「悪い席だったな」
と、父はため息をついた。「――同じ職場の女の子さ」
「若い人?」
「二十四かな」
「へえ! お父さんの好みは大体分ってんだけどな」
「おいおい……。何か用事だったのか?」
「そうだ。お母さんのこと」
ランチを食べながら、ゆうべの母の話を、聞かせてやると、父の表情はかなり深刻になった。
「――子供はまずいな」
「でしょ? だから、念を押しといたんだけど」
「いや、母さんの口ぶりはどうだったか知らないが――もう、そうなってる可能性はあるな」
「そう思う?」
「うん。何もかも信じ切ってる男が相手だ。いくら娘に言われたって、気にしやしないさ」
「そうね……。どうしたらいいかな」
「こうなったら――私が自分で、黒田の奥さんの実家を訪ねてみるしかないな」
「どうするの?」
「向うの家族に話をぶつけてみる。いくら何でも、どこかに身を寄せているなら、その連絡先ぐらいは、実家へ知らせているだろう」
「そうね。――もし、最悪の事態になったら?」
「母さんにはショックだろう。しかし、その時は、早く真実をあばくことだ」
父はきっぱりと言った。「早ければ早いほどいい」
「同感」
――食事を終えて、しばらく私たちは黙っていたが……。
「お父さん」
「何だ?」
「彼女、出て来た?」
「いや――そうか。気が付かなかったな」
「私も。出て来りゃ、気が付くと思うよ」
「まだいるのかな?――起こして来たんだが、また眠っちまったのかもしれない」
「じゃ、どうする?」
父は肩をすくめて、
「起こすさ。もう帰らないと、彼女もまずいはずだ」
「どうして?」
「今日の夜はお見合いだ」
「――やるね!」
と言って、私は笑った。
レストランを出て、私たちは、マンションへ入って行った。
エレベーターで七階へ上ると、
「――田中さん」
と、急ぎ足でやって来た男がいる。
「やあ、どうも」
と、父は挨拶して、「これは娘です。お隣の|平《ひら》|田《た》さんだ。――どうかしたんですか」
「今……何だかおたくから、叫び声みたいのが聞こえて」
「何ですって?」
「通路へ出てみると、誰か男が飛び出して来たんです。危うく突き飛ばされそうになりましたよ」
「私の部屋から? それは妙だ」
父は、私の方へ、「ここにいろ」
と、言って、
「平田さん、一緒に中へ入っていただけますか」
「ええ、構いませんよ」
「実は――女性が一人でいたはずなんです」
「そうですか。じゃ、泥棒でも入って、あの声を……」
二人が、ドアを開けて入って行く。
私は、表の通路に立って、待っていた。
――どれくらい待っていただろう? 五分か。いや、もっと短かったかもしれない。
平田という人が出て来ると、自分の部屋へ入って行ってしまう。
すぐに父が出て来た。難しい顔をしている。
「――どうしたの?」
「えらいことになった」
「というと?」
「彼女[#「彼女」に傍点]が殺されている」
父の言葉に、私は、息をのんだ。
――これが、いわば事件の「前ぶれ」だったことなど、その時の私に分るはずもなかったが……。
21 殺された娘
マンションの前は、大変な人だかりだった。
まあ、殺人事件というものが、いくらTVドラマで年中起っていても、現実に身近で起るってことは、あまりない。
近所の人たちが見物に来るのも、当事者としては腹が立つが、仕方のないことではあるだろう。
私だって、すぐ近所で殺人事件があったと聞いたら、怖さ半分、駆けつけるだろうから。
でも――直接それに父が関っていた、となると、やはり気は重いものだ。
私は、父に、
「お前は下に行っていなさい」
と言われて、マンションのロビーにいた。
もちろん、他の住人も出入りするし、私がロビーの|椅《い》|子《す》に腰かけていても、別に誰も見とがめはしない。
「――どうなってるんだろう」
と、私は|呟《つぶや》いた。
もちろん、マンションの前にはパトカーが何台か停って、警官も立っている。
父の部屋では、いわゆる検死というのが行なわれているのだろう。まだ死体は運び出されていなかった。
私は表を見ていて、タクシーから母が出て来たのを見て、びっくりした。
「――お母さん?」
「奈々子」
ロビーへ入って来た母は、何だかわけの分らない様子だった。「どうしたの、一体?」
「どうしたの、って……。お母さんこそ、どうして来たの?」
「電話をもらったのよ、お父さんから」
「そうか」
「あなたを迎えに来てやってくれって。どうしてお父さんの所へ行く、って言わなかったの?」
私は、ちょっと迷った。
母に、父との相談の内容を打ちあけるわけにはいかないのだ。
「うん……。ちょっと、おこづかいをね」
「だったら、お母さんに言えばいいでしょ」
「だって、何だか悪くて。――いけなかった?」
「悪くはないわよ。だけど……。ね、何があったの?」
仕方ない。事件のことを隠しておくわけにもいかないので、
「女の人がね、お父さんの部屋で殺されたのよ」
と、最も簡単な説明をした。
「殺された……」
母が|唖《あ》|然《ぜん》としたのも、まあ無理はない。
「もちろん、お父さんが殺したんじゃないのよ」
「当り前よ」
と、母が即座に言ったので、私は少しホッとした。
「お父さんの会社の女性だって。恋人ってわけじゃないみたいだけど……」
「お父さんはどこ?」
と、母は|訊《き》いた。
「部屋よ。警察が今、現場を調べてる」
「会いに行きましょ」
と、母がエレベーターの方へ歩いて行くのを、私はあわてて追いかけた。
「でも――お父さん、下にいろ、って」
「上だって下だって、一キロも離れてないでしょ」
ま、そりゃ言えてる。
私は改めて、母のユニークさを再認識したのだった。
エレベーターがおりて来るのを待っていると、夫婦らしい男女が、ロビーをせかせかとやって来た。
どっちも五十代の初めぐらいか。青ざめて、ひどく興奮している様子だ。
「あ、あの――失礼ですが」
と、その男の方が、母へ、「あの――事件のあった部屋というのは……」
「七階だと思いますよ」
と、母が言った。「そうよね、確か?」
「うん」
と、私は|肯《うなず》いた。
「そうですか」
と、その男の人は、エレベーターの扉が開くと、「これで七階へ行きますね」
「ええ、もちろん」
「じゃ――おい、乗って」
と、奥さんらしい女性を促す。
エレベーターが上り出すと、急に女性の方がハンカチを取り出して、泣き出した。
「おい……。まだ、あの子と決ったわけじゃないよ。しっかりしろ」
と、元気づけている夫の方も、声が弱々しい。
そうか。――私にも、もちろん分った。
父の部屋で殺された女性の両親だ。
母にも分ったらしい。私は母とチラッと目を見交わした。
七階に、やっとエレベーターが着く。
目の前に警官が立っていて、
「ここにお住いの方?」
と、|訊《き》く。
「いえ……。呼ばれまして。うちの娘が――」
「ああ、ええと、お名前は」
「|河《かわ》|井《い》です」
「そうだ。娘さんは――」
「河井|知《とも》|子《こ》です」
「こちらへ」
と、警官は、その夫婦を案内して行ってしまった。
「――お母さん。まずいね」
と、私は言った。「お父さん、殴られるかも」
「仕方ないわよ。若い女の子を泊めるなら、殴られるぐらい覚悟しなきゃ」
と、母は言った……。
私たちは、父の部屋まで行って、開けたままの玄関から中へ入った。
「――どなた?」
と、刑事らしい男が、顔を出す。「今、入られちゃ困ります」
「田中の元、妻と娘です」
と、母が言った。「主人に会ってもよろしいでしょ?」
返事も待たずに、リビングルームに入って行く。
見ていた私は、母の思いもよらない度胸に|呆《あっ》|気《け》に取られていた……。
父はソファに座っていたが、母と私を見ると、びっくりして立ち上った。
「千代子……。お前――」
「心配で。放っておけないわよ」
と、母は言った。「会社の人ですって?」
「うん。――|可哀《かわい》そうなことをした」
と、父は、ソファにまた腰をおろした。
「いくつだったの?」
「二十四だと思う」
「二十四……」
「早く帰しておくんだった」
と、父は息をついた。
「――失礼」
と、あの刑事がやって来た。「こちらは元の奥さん?」
「そうです」
と、父が|肯《うなず》くと、母が何を思ったのか、パッと立ち上って、
「主人は人を殺したりしませんわ」
と、言った。
「は?」
「犯人が誰か知りませんが、少なくとも主人――いえ、元の主人は、人を殺したりする人じゃありません」
刑事の方は、すっかり母に|呑《の》まれている格好で、
「いや……。よく分ります」
と、答えた。
「それでしたら結構ですけど」
私は、いつもの母とは別人のような、ものの言い方にびっくりして言葉も出なかった。
「おい、千代子」
と、父が言った。「別に、僕が疑われてるわけじゃない。心配するな」
「あら、そうなの? てっきり私――」
「強盗が、お留守と思って、忍び込み、河井知子さんに見られて、焦って殺害してしまったのだと見ているんですがね」
と、刑事が言ったので、母は少しホッとした様子だった。
「じゃ、早く犯人を捕まえて下さいな」
母の注文は全く……。私は少々汗をかいたのである。
すると――寝室のドアから、さっきの夫婦が、出て来た。
二人とも青ざめて、何だか空中を歩いているような足取りである。
「――間違いなく、お嬢さんですか」
と、刑事が念を押す。
父親の方が、コックリと|肯《うなず》いた。母親の方は、涙も出ない様子。
「お気の毒です。強盗のしわざと思われますが……。必ず犯人を見付けます」
刑事の言葉は、気休めでしかないのだろうが、それでもショック状態の両親には、いくらか効果があったようだ。
「娘は……知子は……今日、お見合いだったんですよ」
と、母親が、涙声で、「まさかこんなことに……」
父が立ち上って、河井知子の両親の前に歩いて行くと、
「上司の田中です」
と、言った。「知子さんのことは、全く申し訳ないと思っています」
「はあ……」
私は、父親が怒って、殴りかかるんじゃないかと、気が気ではなかった。
しかし、まだショックの方が大き過ぎて、怒る余裕もない様子だ。
「どうも娘がお世話に――」
と、礼まで言って、|却《かえ》って父に|辛《つら》い思いをさせたのだった……。
22 目撃者の証言
「参ったな」
と、父は言った。
「ちゃんと再婚しなくてはだめよ」
母が父に意見するというのは、珍しいことだった。
しかし、今は父としても、何とも言い返すことができまい。
「もう若い子には手を出さないのよ」
と、母は言ったが、その言い方は少しも皮肉っぽくない。
本当に、心から父のことを心配しているのである。――これが母の人の好さ、なのだ。
「ああ、そうしよう」
と、父は|肯《うなず》いた。
私たちは居間に残っていた。――死体は運び出されて、警察の人たちも、大分少なくなっている。
「失礼」
と、あの刑事が戻って来た。
|沢《さわ》|田《だ》というこの刑事は、なかなか礼儀正しくて、好感が持てる。
「お隣の平田さんをお呼びしたんで、ここでお話をうかがいたいんですがね」
「もちろんです。お通しして下さい」
考えてみれば、平田という隣の人が、逃げて行く犯人を見たおかげで、父は容疑をかけられなくて済んだようなものだ。
「――お邪魔します」
と、平田が入って来て、「いや、大変でしたね」
と、父へ声をかける。
「ご迷惑をかけて――」
「いやいや、いつもご|厄《やっ》|介《かい》になってますからね」
と、平田は言った。
年代は父と同じようなものだろうか。頭が少し薄くなって、ちょっと疲れた感じのする男だ。
父が、母のことを平田に紹介し、挨拶が続いた。
「――平田さん」
と、沢田刑事が言った。
「はい」
「事件が起った時のことなんですが」
「ええ。いや、私は自宅で仕事をするんですよ」
と、平田は言った。「大したもんじゃありませんが、一応もの書きのはしくれでしてね」
「なるほど」
「で、仕事は夜が多い。朝まで働いて、ベッドへ入る、という具合で。ゆうべもそうでした。ベッドへ入ったのが、ゆうべ――というより|今朝《けさ》ですね、六時ぐらいでしたか」
平田は、少し間を置いて、「あの声を聞いた時も、実はまだ少しウトウトしていたんです。本当は少し早く起きて、仕上げておかなきゃいけない原稿もあったんですが」
「声が聞こえたのは――」
「十二時……半ごろだったと思いますね」
沢田刑事が父の方を見た。
「私は、この娘が急に訪ねて来たので、あわてて、彼女を残して表のレストランへ行ったんです。十二時……ちょうどくらいでしたか」
「河井知子さんは、その時は?」
「まだベッドの中で……。起こして、帰った方がいいんじゃないか、と言って、知子も、『そうするわ』と言ったんですが」
「実際には――」
「また眠ってしまったようですね。運が悪かった」
と、父は首を振った。
「聞こえたのは、どんな声でした?」
と、沢田刑事が平田へ|訊《き》く。
「二人のようでしたね。女の人の叫び声――これはよく分りません。出てって、とか、そんな風に聞こえましたが」
「なるほど」
「男の声で、『黙れ!』と何度も言うのが聞こえました」
平田は、ゆっくりと思い出している様子だった。
「田中さんの声はよく分っていますしね。それに、あんなに怒鳴ったりする方じゃない」
「もちろんです」
と、急に母が言った。
「で、こっちもびっくりして、起き出したわけです。何事かと思って……。服を着ていると、また叫び声が……。前よりも何かこう――|切《せっ》|羽《ぱ》|詰《つま》った感じでした。で、私は通路へ出たんです」
「それで?」
「急に、田中さんの部屋のドアがパッと開いて、男が飛び出して来ました。私の方へ走って来たので、こっちはびっくりして――。捕まえてやりゃ良かったんですが」
「いや、それは危険ですよ」
と、沢田が言った。
「ともかく、あわてて何とかよけると、男は、通路の奥へ駆けて行って、非常階段から消えてしまいました」
沢田は|肯《うなず》いて、
「河井知子さんは、刃物で胸や腹を刺されていました。かなりあわてて刺した傷のようでしたね」
「|可哀《かわい》そうに」
と、父がため息をついた。
「ネグリジェのままでした。――田中さん、出られる時、玄関の|鍵《かぎ》は?」
「もちろん、かけて出ました」
「すると、犯人は、開けて入ったのかな。こじ開けた跡はないようでしたが……」
「それは分りません。しかし、かけておいたのは確かです」
沢田は肯いて、
「それで……。平田さんに、犯人らしいその男のことをうかがわなくてはいけないんですがね」
と、言った。
「分っています」
と、平田は肯いた。「よく思い出してみました。いや、相手も、誰かが表にいると思っていなかったようでしてね。私を見て、ギョッとして立ちすくんだんです」
「すると、顔をよく見られたわけですね」
と、沢田刑事が勢い込んで|訊《き》く。
「ええ、何秒間か分りませんが、お互い、顔を見合せて、突っ立ってたんですよ」
「どんな男でした?」
「そうですね……」
と、平田は、じっくりと考え込んで、「――年齢はたぶん――三十代の半ばか、前半でしょうね。若い感じでした。三十そこそこかもしれない」
「体つきは――」
「少し太っていて、しかし、そう肥満ってほどではありません。ま、中肉中背で、やや太めってとこかな」
「服装はどうでした?」
「サラリーマンですね。|紺《こん》の上下にネクタイで。それもストライプの。よくある安物という感じで」
「なるほど」
「顔は何となく丸顔でしたね。目が小さくて。――笑うと筋になっちゃう、ってやつです」
「メガネは?」
「ありません。ヘアスタイルも、普通に分けていて、長くも短くもなし」
沢田刑事は、|肯《うなず》いて、
「いや、これだけ教えて下さると助かりますよ。しかし、あまりはっきりした特徴はないですね」
「そうですね。平凡な男、という感じで」
「どうでしょう。お手数ですが――」
「モンタージュ写真というやつですか。いいですよ」
「いや、ありがたい。ご都合がよろしければ、これからでも――」
「分りました。じゃ、ちょっと、仕度をして来ましょう」
平田が出て行くと、沢田は、ちょっと難しい顔になった。
「どうも、妙ですね」
「分ります」
と、父が言った。「強盗とは思えないですね、今の話では」
「そうです。――服装といい、平田さんと、しばらく顔を見合せていたことといい……。もちろん、押し入るのに慣れていない奴かもしれませんが」
「他の可能性も?」
「当ってみる必要がありそうです」
私は、父に、
「他の可能性って?」
と、訊いた。
「つまり、河井君を知っていた人間の犯行ってことさ」
「モンタージュ写真ができたら、あなたもご覧になって下さい」
と、沢田刑事は言った。
「もちろんです」
「誰か、ご存知の人間かもしれませんからね」
――ご存知の?
三十代前半。中肉中背でやや小太り。丸顔に小さな目……。
私はふと、そんな男を知っているような気がした。誰だろう?
――平田の仕度ができて、沢田刑事は一緒に出て行った。
やっと、三人になった。しかし、もちろん昔の三人[#「三人」に傍点]とは違う。
「あなた」
と、母が言った。「どうするの、今日から?」
「どうする、って?」
「このマンションにいるつもり?」
「仕方あるまい。行く所もない」
「でも――」
「寝室は使わないよ。――ま、夜中に悪い夢ぐらいは見るかもしれないが、夢で死にゃしないさ」
母は心配そうに、
「でも……。それだったら、他が見付かるまで、うちへ来てたら?」
母の言葉には、私もびっくりした。しかし、考えてみれば、これが「母らしい」ところなのかもしれない。
「そんなわけにはいかんさ」
と、父も苦笑して、「恋人同士の邪魔はできないよ」
その時、私は思わず声を上げてしまいそうになった。
あの平田という人が述べた犯人像。――それは、母の恋人、黒田[#「黒田」に傍点]とそっくりだ……。
でも――もちろん、そんなのは、偶然に決っているけれど。
「――じゃ、帰りましょ、奈々子」
と、母が促す声で、ハッと我に返る。
「うん」
父は、玄関へ出て来て、私に、小さく、
「また連絡する」
と、|囁《ささや》いた。
私は|肯《うなず》いて見せたが……。父も、黒田を見ている。犯人の特徴が黒田と一致することを、知っているのだろうか?
私は、もう一つ、この事件のせいで、父がどうなるか、心配だった。父が罪を犯したわけでないにせよ、立場というものもある。
それに、母と黒田の問題も、父がこんなことに巻き込まれて、調べていられなくなるかもしれない……。
帰りのタクシーの中で、私はいつになく無口になって、母を心配させた。
23 圧 力
あの事件はあっても、学校はいつもの通りに始まり(当り前か)、火曜日の朝のことだった。
私と竹沢千恵の作った、〈今、学校を考える!〉というビラは、月曜日に早々と|貼《は》り出されていた。
水曜日と金曜日の二回、昼休みに、生徒会の小さなホールへ集まってもらって、意見を聞きたい、ということなのである。
もちろん、何人ぐらいの生徒が集まるものか、もしかしたら、私と竹沢千恵の二人だけ、なんてことになるかもしれないが、それならそれでもいい。
ともかく、何か[#「何か」に傍点]やることが大切だ、ということで、私と千恵の意見は一致した。
そして火曜日――。
私は学校へ着いて、廊下を歩いて行くと、何だか三年生らしい子が五、六人、固まっているのに目を止めた。
有恵が乱暴されたのを見て以来、こういう光景に敏感になっているので、私は足を止めた。
やはり、誰かが囲まれているのだ。
私は、わざと、|咳《せき》|払《ばら》いをした。三年生たちが振り向いて、ギクリとする。
そしてパッと散って行って……後には、竹沢千恵が立っていたのだ。
「竹沢さん! 大丈夫?」
と、私は駆け寄った。
竹沢千恵は、青ざめていた。しかし、やっと笑顔になって、
「大丈夫です。――助かりました」
「どうしたの?」
「囲まれて、どういうつもりだ、って締め上げられたんです」
「締め上げるって――本当に?」
「ええ」
と、千恵は首をそっと手で触って、「怖かった! 首をギュッとつかまれて。両手両足、押えつけられて」
「ひどいことするのね!」
私は怒りで声が震えた。「矢神さんがやらせたのかしら」
「そうだと思います」
と、千恵は|肯《うなず》いて、「でも、もちろん、矢神さんは、否定するでしょうね」
「|卑怯《ひきょう》だわ! 私にやればいいのに」
「私、本当に大丈夫ですから」
と、千恵は息をついて、「自分が言い出したことですもの」
私は、この千恵という子の強さに、ほとほと感心してしまった。
「でも――」
と、千恵は、ちょっと|眉《まゆ》をくもらせて、
「明日、誰も集まらないかもしれませんね」
「いいわよ。こっちは、ちゃんと準備して待ちましょう」
「そうですね」
と、千恵はしっかりと肯いた。「あ、もう始業! それじゃ、失礼します」
千恵が歩いて行く。――私は、何とも言えない不安が、胸に広がって来るのを、感じていた。
お昼休み。私は、明日の話し合いの進行を考えていた。
むだかもしれないが、ともかく、やるだけはやっておかなくては、と思ったのだ。
教室の中は、いつもの通り、おしゃべりでにぎやかだ。
すると――何だかスーッと話し声が消えてしまった。
顔を上げると、矢神貴子が入って来たのが目に入る。
そして彼女の後ろには、千恵をおどしていた三年生が五人……。
私を連れ出しに来たのかしら、と思った。
やれるもんなら、やってみろ、と私は思った。自慢じゃないが、ケンカには強い方なのだ。
矢神貴子は、|真《まっ》|直《す》ぐ私の机の所へ来た。
「こんにちは」
「こんにちは」
と、私は座ったまま、言った。「何か?」
「明日の話し合い、楽しみね」
と、矢神貴子は言った。「どんどん新しいことはやってみるべきだわ」
「ありがとう」
「それから――」
と、後ろの三年生を見て、「今朝、この人たちが、あなたの副会長を、おどしたらしいわね。ごめんなさい。私は知らなかったんだけど、この人たち、私のために、と思ってやったらしいの。――とんでもないことだわ。二度としないと約束させたから、勘弁してあげて」
私は、三年生たちが、うなだれて口を|尖《とが》らしているのを見た。
「私に言われても」
と、私は言った。「竹沢千恵さんに謝って下さい」
「分ってるわ」
と、矢神貴子は言った。「でも、あの人は一年生。三年生としては、やっぱり謝りにくいのよ」
「分りました」
と、私は言った。「二度としないで下さい」
「――良かったわ、分ってくれて」
矢神貴子は、ニッコリ笑った。
三年生を引き連れて、彼女が出て行ってからも、しばらく教室の中は静まり返っていた……。
24 迫 害
「やったね!」
私は、いささか興奮していた。
「ええ、びっくりしました」
と、竹沢千恵も、少し汗をかいている。
「さ、急がないと、午後の授業が始まっちゃう」
私は、テーブルの上を片付け始めた。
――水曜日の昼休み。
〈今、学校を考える〉という集いには、もしかしたら一人も来ないのでは、という私と千恵の心配を裏切って、ホールが満員になるくらいの生徒がやって来たのだ。
一応、お茶ぐらい出そうよ、というので、家から持って来た紙コップ百個、すっかり使い切ってしまった。
「あ、コップは私がやります」
と、千恵が言った。「芝さんは、資料の方を」
「そう? じゃ、悪いけど」
空っぽになったホールを、二人して駆け回る。――千恵は使った紙コップを、大きなビニール袋へ放り込んで行く。私は、配ったアンケート用紙を、せっせと集めて回った。
意見の方は、そう活発に出たというわけではなかった。しかし、ともかくこれだけの生徒が出てくれたということ自体、やはり意味のあることだ。
「――今夜、うちへ来て、金曜日の打合せしない?」
と、私は言った。
「私、今日はピアノのレッスンで――」
「そう。じゃ、いいの」
「七時過ぎでもいいですか?」
「もちろんよ!」
と、私は言った。「夕ご飯、一緒に作って食べようか」
「いいですね」
と、千恵はニッコリ笑った。
実際、この千恵の明るい笑顔に出会うと、こっちまで楽しくなってしまう。
「でも、百人はいたわね。びっくりしたわ、正直なところ」
「本当ですね。――矢神さんがどう出て来るか、見もの」
「無茶はしないでしょ」
「ええ。でも、黙ってはいないと思うんですよね」
と、千恵は言った。「――これでいい、と。この袋、ちょっと捨てて来ます」
「手伝う?」
「大丈夫です。――早くしないと授業に遅れちゃう!」
千恵は、サンタクロースよろしく、大きな袋をかかえると、ホールを出て行った。
私は、アンケート用紙と、録音したカセットを持って、ホールの中を見回した。
「――|椅《い》|子《す》もちゃんと戻した、と……。これでいいわ」
廊下へ出て、私はギョッとして足を止めた。――目の前に矢神貴子が立っていたのである。
一人ではなかった。いつも、矢神貴子は一人ではいない。
後ろに立っているのは、何だか気がとがめているような顔の、山中久枝だった。
「何か」
と、私は言った。
「大盛況だったようね。おめでとう」
と、矢神貴子は言った。
「ありがとう」
「金曜日にも開くの?」
「そのつもり」
「いいことだわ。私も出てみようかしら」
「よろしかったら、ぜひどうぞ」
「でも――」
と、矢神貴子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「対立候補の私が出るってのもおかしなものね」
そして、私の手にしているアンケート用紙とカセットを見て、
「それが今日の意見?」
「ええ」
「どんな結果が出るか、楽しみね。――じゃ、また」
足早に立ち去る矢神貴子の後から、久枝があわててついて行く。
私は、ホッと息をついた。
もちろん、表面上はああしてにこやかだが、内心、穏やかでないものがあるのかもしれない。
何といっても、矢神貴子のようなタイプは、自分の知らないことがある、ということを面白く思わないからだ。
私は、教室の方へと歩き出して――ふと、手にしたカセットとアンケート用紙に目を落とした……。
午後の初めの授業が、半分ほど進んだ時だった。
教室のドアがノックされて、先生が開けると、
「あの――ちょっと」
と、他の教科の女性教師が顔を|覗《のぞ》かせた。
「芝奈々子さん、いる?」
「はい」
と、私は立ち上った。
「ちょっと」
手招きされて、私は席を離れた。
廊下へ出て、ドアを閉めると、
「何ですか?」
「ね、あなた、今日お昼休みに、ホールで何かやったんでしょ」
「ええ」
「竹沢千恵さんも一緒だった?」
「ええ、そうです」
「そう。――竹沢さんがどこにいるか、知らない?」
私は、ちょっと青くなった。
「それじゃ――姿が見えないんですか」
「そうなの。午後の授業に、出ていなくて。保健室にも|訊《き》いたけど、行っていない、ってことで」
「おかしいわ。ゴミを捨てに行ったんです。そのまま教室へ戻ると言ってたのに」
「もう三十分もたってるから、気になってね。そしたら、生徒の一人が、もしかしたら、あなたが知ってるかも、って」
「見て来ます」
私は、小走りに廊下を急いで、外へ出た。
ゴミ焼却炉が、校舎の裏手にある。大きなゴミは、そこへ捨てることになっていた。
私は、裏手に出て、
「竹沢さん」
と、呼んでみた。「――竹沢さん、いない?」
ゴミ焼却炉の手前に、紙コップを詰めたビニール袋が、落ちていた。
やはり何かあったのだ。私は、千恵を一人でやるんじゃなかった、と後悔した。
「――芝さん」
と、低い声で呼ばれて、私は飛び上った。
「竹沢さん! どこ?」
「ここです」
道具置場というのか、|掘《ほっ》|立《たて》小屋が一つ、隅の方にあって、その隅から、竹沢千恵が顔を|覗《のぞ》かせているのだった。
「良かった!――どうしたの?」
と、駆けて行くと、
「あの――みっともないんですけど」
「え?」
小屋の角を曲って、びっくりした。
竹沢千恵が、下着だけの、裸同然の姿で立っている。
「どうしたの? 服は?」
千恵が黙って指さした方を見ると、木の枝に、服がぶら下っている。
「干してるんです。少しは乾かないかなあ、と思って」
「寒いじゃない! 何かあったの?」
「ええ……。ゴミ捨てに来たら――待ち伏せされてたらしくて」
「まあ」
「いきなり地面に押え付けられて――灰を溶かした真黒な水をザブザブかけられたんです」
私は言葉もなかった。
「けがとかはなかったんですけど……。真黒になっちゃって。で、そこの水道で、ともかく服を洗って、できるだけ落としたんです。それから、頭と体を洗って。誰も見てなくて良かった」
そう言って、ハクション、とクシャミをした。
「|風《か》|邪《ぜ》引くわよ。――待ってて。保健室へ行って、何か毛布でももらって来るから」
「いいです。あの服着て、保健室まで行きます」
「でも――」
「同じですもの、|濡《ぬ》れてるのは。――ひどい目にあっちゃった」
千恵は、|呑《のん》|気《き》に言ったが、さすがに、笑顔もこわばっている。
「ごめんなさいね」
と、私は、言った。「私と組んだばっかりに、こんなことに……」
「芝さんが悪いわけじゃないんですから」
「でも――」
「これで終らないかもしれませんものね」
と、千恵は言った。
私は、激しい怒りが胸に|湧《わ》き上って来るのを感じた。
おそらく初めて――私は、矢神貴子を、選挙で破ってやりたい、と思ったのだった。
25 父の辞職
千恵を保健室へ連れて行って、何とか代りに着られる物を捜してもらった。
だぶだぶの白衣を着て、照れながら、
「大丈夫。一人で行きます」
と、千恵はすっかり立ち直っている。
「そう?」
保健室を出て、私は、「このこと、どうする?」
と、言った。
「先生に? そんなことしたら、負けです」
「だけど……」
「何もなかったような顔をしてます。勝手に水の中へ飛び込んだ、ってことにして。――みんなには分りますよ、何があったのかってことは」
何だか私より千恵の方が、よほど覚悟を決めているらしい。
「分ったわ」
私は千恵の肩を軽く|叩《たた》いて、「無理しないで。今夜はどうする?」
「もちろん行きます。お料理の腕をご覧に入れますからね」
そう言って、ニッコリ笑うと、千恵はパタパタとスリッパの音をたてて、走って行った。
――私は、あの千恵のためにも頑張らなきゃ、と思った。
ちょうど、ベルが鳴って、休み時間に入る。私は、教室へと戻って行った。
――入ったとたんに、妙な雰囲気だと気付いた。
みんなが黙って私の方を見ている。
私は、自分の机のそばに、三年生が二人、立っているのを目に止めた。
私は、足早に近付いて行って、
「ご用ですか」
と、言った。
二人の三年生は顔を見合せ、
「別に」
と、肩をすくめた。「行きましょ」
二人が、教室を出て行く。一人が、出る時に振り向いて、
「もう少し机の中を整理しとくのね」
と、言って行った。
見当はついている。机の中、|鞄《かばん》の中……。
めちゃくちゃにかき回されていた。
あのアンケート用紙とカセットを捜しに来たのだ。
「――奈々子」
と、久枝がおずおずとやって来ると、「私は知らなかったのよ」
「いいのよ。分ってる」
私は、机の中を片付け始めた。
教室の中が、やっといつものようにざわつき始める。
「――気が重い」
と、久枝がため息をついた。
「むだな手間をかけさせちゃった」
と、私は気楽に言った。「ロッカーもやられてるかな」
「ロッカーへしまったの?」
「ううん」
と、首を振って、「それほど馬鹿じゃないよ」
「そう。でも――」
「矢神さんが怒るでしょうね。悪いね、久枝。当られるよ」
「私は構わない」
と、久枝は肩をすくめて、「でも、気を付けてよね、奈々子」
「ありがとう。ほんの何日間のことじゃないの」
と、私は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
本当は、もちろん笑うような気分じゃなかったのだ。しかし、千恵のことを考えると、ここでカッとなってはいけない。
問題は、金曜日の昼休みである。
果して無事に済むだろうか?
私は、不安も怒りも、一切顔に出さず、黙々と机の中を片付けていた……。
マンションへ戻ると、母はまだ帰っていない。
今日は、黒田と、式場の下見に行くと言っていた。
――父から、連絡はなかった。
父のマンションで、河井知子が殺された事件も、その後どうなったのか。
気にはなったが、ともかく今の私には、心配することが多すぎた。
着替えながら、何となくシャワーを浴びたくなって、また服を脱ぎ、バスルームへ入った。
気分転換というやつだ。――スッキリして、バスタオルを体に巻いてソファに腰をおろしていると電話が鳴った。
「奈々子。帰ってたの」
「お母さん、今日は帰れるの?」
私は皮肉でなく、言った。
「もちろん帰るわ。でも、色々、手間取っちゃって――」
「いいわよ、晩ご飯は。友だちが来て、一緒に作ろうってことになってるの」
「そう、じゃそうしてね」
母はホッとした様子だ。
「いい所、見付かった?」
「何とかね。でも、|空《あ》いてないのよ、なかなか」
「頑張って捜して」
と私は言ってやった……。
服を着て、竹沢千恵が来た時のために、コーヒーでもいれとこうか、と仕度していると、部屋の玄関の方のチャイムが鳴った。
「――はーい」
と、玄関へ出て行くと、
「私だ」
「お父さん!」
急いでドアを開ける。父はインターロックの鍵を持っているのだ。
父は思いの他、元気だった。
「――友だちが来るのか。邪魔しちゃ悪いなあ」
「そんなことないよ。一緒に食べてったら?」
「そりゃいい。若い女の子に挟まれて――」
と、明るく言いかけて、「いかんな……。つい、浮かれてしまう」
「どうなったの、あの後」
と、私は、ソファへかけた。「今、コーヒーが入るから」
「うん。――警察の方は、平田さんの記憶でモンタージュ写真を作った。見せようと思って来たんだ」
「見せて」
父が上衣のポケットから、写真を出す。
もちろん、目、鼻、口……。全部バラバラの寄せ集めだから、不自然ではあるが、一応一つのまとまったイメージが出来ている。
「――どうだ?」
と、父が|訊《き》いた。
「分ってるでしょ」
「うん……。お前もそう思うか」
「黒田さんとよく似てる」
「そうなんだ」
父は、ため息をついた。「平田さんの話を聞いた時にもそう思ったんだが……」
「私もよ」
「そうか。しかし、なぜ黒田が……」
「お父さんが、いなくなった奥さんのこと、調べてるのに気が付いたんじゃない?」
「かもしれんな」
「誰もいないと思ってか、それともお父さんが一人でいると思ったのか、あのマンションへ忍び込んで……」
「思いがけず、河井君に出くわした」
「騒がれて夢中で刺しちゃった……。筋は通るわ」
「しかし、私に会ってどうするつもりだったんだろう? 殺すのか?」
「かもね。脅したって、逆効果でしょ」
「そこまでの悪党とも思えないんだが、あの男……」
父は天井を見上げた。
「でも、お父さん……。どうするつもりなの?」
「何を?」
「分ってるでしょ。この写真のこと。あの刑事に、心当りは、って|訊《き》かれたら――」
「訊かれたよ」
「どう答えたの?」
「知らない、と言った」
少し間を置いて、父は続けた。「他人の空似ってこともある」
「うん……」
「それに、何とか、母さんを巻き込みたくないんだ」
「分るけど……。無理じゃない?」
「やってみるさ」
と、父は言った。「ああ、それからな、来月から、勤め先が変る」
私はびっくりした。
「お父さん! やっぱりクビ?」
「いや、自主退職だ。まあ、同じ職場の女の子に手を出したんだからな。自業自得さ」
「どこへ移るの?」
「前から誘われていたんだ。心配しなくていいぞ。給料は少し上る」
「別に心配してないよ」
と、私は笑って言った。
「ちょうど、勤め先も変るし、少し休みが取れる。この機会に、黒田の奥さんの実家へも行って来ようと思ってるんだ」
「早くしないと。今日は式場捜しよ」
「そうか。――何もなきゃ、それに越したことはないんだが」
しかし、あのモンタージュ写真といい、奥さんのことといい、黒田に「何もない」とは、とても考えられなかった……。
チャイムが鳴って、急いで出ると、千恵がやって来たのだった。
ドアを開けて待っていると、
「――お邪魔します!」
竹沢千恵が、買物の大きな袋をかかえて、やって来た。
26 |喧《けん》 |嘩《か》
「うん、こりゃ旨い! いや、実に旨い!」
父はすっかり感激している。
「|嬉《うれ》しい! どんどん召し上って下さいね」
と、千恵は飛び上らんばかり。「どうせ材料を買い込み過ぎて、どうしようかと思ってたんですから」
私は少々すねていた。
何しろ、自慢するだけあって、千恵の料理の腕は相当のものだったのだ。
父は、私より一つ年下の千恵が、こんなにおいしいものを作るというのに、心底びっくりしたようで、
「いやあ、今日は実にいい日だ!」
と、ご満悦。
一方、千恵の方も、台所でこっそりと私をつついて、
「芝さんのお父さんって、渋くて、すてきですね!」
「そう?」
と、そっけなく言ってやると、
「そうですよ。私、ああいう人、好みなんです」
と、大胆なことを言っている。
「いいけど、お|鍋《なべ》、こげつかないようにしてよ」
と、わざと言ってやったりして……。
「今日、あのアンケート用紙とカセット、どこへ隠したんですか」
と、千恵が|訊《き》いた。
「どうして知ってるの?」
「私の机もかき回されました」
「そうか……。どうせね、あんなこともあるかと思って、職員室へ寄って、教員用の郵便物の箱へ入れといたの。いくら矢神さんでも、あんな所を引っかき回したりしないでしょ」
「さすが! 頭いいですね」
「そうでもないわよ」
なんて、ついニヤニヤして、「で、帰り際に、またそこから出して来たわけ」
「後でまとめて、用紙とテープは処分しますか?」
「でも、取っとかないと。家の中なら大丈夫でしょ」
「そうですね。――金曜日のことが、心配だわ」
「自分のことも心配してよ。一人きりにならないように気を付けて」
「大丈夫です。まさか殺しゃしないでしょうし」
殺す?――私はドキッとした。もちろん、河井知子の殺された事件と、何の関係もないけれど……。
――さて、食事は無事に終り、デザートまで、千恵のお手製のチョコレートムース。
「全く、大したもんだね」
と、父は舌を巻いていた。
「私たち、仕事があるの」
「そうだったな。そろそろ帰るよ」
と、父は腰を上げた。
電話が鳴る。母かな、と思った。
「はい、芝です。――あ、ちょっとお待ち下さい。千恵さん。お宅から」
「うちからですか?」
千恵が当惑顔で、電話に出る。「――もしもし。――うん。――え? どうして?――でも。――分ったわ」
首をかしげながら、受話器を戻す。
「どうしたの?」
「すみません。至急帰って来い、って」
「まあ。それじゃ……。お父さん、彼女を送って行ってよ」
「いいとも。タクシーを拾おう」
「でも――」
「構わないんだよ」
「そうよ。ちゃんと送ってもらった方が、私も安心」
でも、遠慮しながらも、千恵は|嬉《うれ》しそうだった……。
台所の片付けをして、明日までの宿題の残りをやってしまおう、と思った。
それから、アンケートやカセットの中身を、少し整理してみよう。母は、まだしばらく帰らないだろう。
――母の帰宅は結局、十時過ぎだった。
「ああ、くたびれた」
と、母はソファでのびてしまっている。
「式の前に死んじゃいそうよ」
「どうだった? いい所、見付かったの?」
と、私は|訊《き》いた。
「内輪で、とはいってもね……。結局ホテルにしたの」
「暮に?」
「十二月の二十七日。――どうかしら?」
「冬休みだね」
「そう。一人で大丈夫?」
「男を引っ張り込む」
「何言ってるのよ」
と、母は笑った。
「じゃ、忙しいね」
「そう。――そうだわ……。こんなこと、してられない」
母は、いそいそと寝室へ入って行った。
「――好きにしてよ」
と、私は|呟《つぶや》いた。
電話が鳴った。お父さんかな?
「もしもし」
「あ、竹沢です」
「無事に帰ったのね」
「ええ、まあ……」
「どうしたの? 元気ないのね」
「ちょっと難しいことになっちゃって」
「え?」
「いえ……。前にお話ししましたよね。うちの父の勤め先、矢神さんのお父さんの会社の――」
「子会社だったわね」
「ええ。それで、会社の上の人から父の方へ言って来たらしいんです」
「何を?」
「矢神さんの娘に楯ついてるようだが、本当かって」
私は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「――関係ないじゃないの! 選挙なのに!」
「そうなんですけど、父が大分言われたみたいで。こっちが散々文句言われて」
「そう」
「大ゲンカしてやりました」
と、千恵は笑って言ったが、|辛《つら》いことは確かだろう。
私は胸が痛んだ。
「ねえ。――無理しないで。うちはともかく、あなたのお父さんが――」
「いいんです」
「でも……」
「父だって、分ってるんです。私の方が正しいってことは。だから、頭ごなしに怒鳴るんです」
「――申し訳ないわね」
「またあ。芝さんのせいじゃないですよ」
「でも……」
「手伝えなくてすみません。何か面白い結果、出ました?」
「これからやるところなの」
「じゃ、明日、聞かせて下さい」
「金曜日は、私、一人でやろうか」
「そんなこと! 大丈夫ですよ。父が怒ったら、『男を作るのとどっちがいいの』って言ってやります」
千恵の明るい言い方が、私には大きな救いだった……。
――自分の部屋へ戻って、私は机に向ったが、しばらくは何も手につかなかった。
これから、もっと何か[#「何か」に傍点]大変なことが起るかもしれない。
学校で、そして家で。
そんな予感がして、ならなかったのだ。
27 千恵の反撃
十二時のチャイムが鳴る。
「――では、今日はこれまで」
先生の言葉なんか耳には入らない。
立ち上るのに|椅《い》|子《す》を動かしたり、教科書をしまったりする音で、かき消されてしまうのである。
「――起立! 礼!」
と、必死で叫ぶクラス委員の声が、辛うじて聞こえて来た。
私も忙しい。今日は金曜日。
十二時十五分から、〈今、学校を考える〉という二回目の集会。水曜日の一回目は予想をはるかに越える百人もの生徒が集まった。
色々、妨害も障害もあったが、ともかく、予告した以上はちゃんとやろう、ということで、私も竹沢千恵も、意見が一致したのである。
十五分から開くということは、当然、私や千恵はお昼抜き、ということだ。私は、すぐに、今日の資料とか、メモ用紙などをかかえて、教室を出た。
「――奈々子」
と、追いかけて来たのは、山中久枝だ。
「どうしたの?」
「手伝おうか」
「いいわよ」
と、私は笑って、「矢神さんがうるさいんじゃないの」
「大丈夫よ。――友だちは友だち。それ、持つわ」
「サンキュー」
私たちは一緒に歩き出した。
千恵の所は大変だ。父親の方にも、色々圧力がかかったりして、当人は悩んでいると思うが、学校ではいつもの通り、カラッと明るい笑顔を見せてくれている。
しかし、前回のアンケートの結果は、「今の学校の雰囲気が良くない」と思っている生徒が、意外に多いことを示していた。
〈その理由〉という項目では、ごくあいまいに、「何となく」とか「人間関係の点で」とか書いている子が多かったが、中には、はっきりと、「一人の人がいつもリーダーになって好きなようにするのは良くない」と、矢神貴子のことを、正面切って批判している子もいた。
私は、ここではまだ新入生である。以前から、この学校にいる子にとっては、色々と、積り積った不満もあるのだろう。
ともかく、今度の選挙は、矢神貴子の、「女王」の地位を揺るがすことになるかもしれない、と私は思った。
たとえ勝てなくても、私と竹沢千恵に入った票の数が多ければ多いほど、矢神貴子にとっては、ショックなはずである。
やれるだけやるのだ。――私は、心を決めていた。
「明日は、演説会ね」
と、久枝が言った。
「そうね。矢神さんは準備してる?」
「と思うわ。私なんか、そばにいるだけ。何もさせてくれないし、教えてもくれないんだから」
と、久枝は肩をすくめた。「奈々子は、原稿、作ったの?」
「今夜やるわ。考え過ぎると、|却《かえ》ってだめだと思うから」
と、私は言った。「あら、竹沢さん」
竹沢千恵が、集会の会場になっている、生徒会ホールの前に立っている。来た人にお茶を出すための、紙コップの入った段ボールをかかえていた。
「どうしたの?」
と、声をかけると、
「あ、芝さん」
と、歩いて来て、「ホールが――」
「どうしたの?」
「使ってるんです、ダンス部が」
「何ですって?」
私はびっくりした。「でも――何て言ってるの?」
「さあ。まだ話は――」
「分ったわ。じゃ、私が話して来る。これ、持ってて」
「はい」
荷物を千恵に渡して、私はホールの戸を開けた。
ダンス部の部員たちが、十人ほど、音楽をかけて踊っている。
「――ちょっと」
と、三年生の部員が、私の方へやって来た。
「文化祭の練習なんだから、入らないで。戸に紙が|貼《は》ってあるでしょ」
「ここはお昼休み、集会で使うんです」
と、私は言った。
「何言ってんの。今、私たちが使ってんのよ。見りゃ分るでしょ」
「片付けて、出て下さい」
と、私が言うと、相手は真赤な顔になった。
「ちょっと! それが先輩に対する口のきき方なの!」
しかし、私は一向に怖くなかった。
「お使いになるのなら、ちゃんと届を出して下さい。私の方は先週から届を出してあるんですから」
「そりゃ妙ね」
と、その三年生は、ニヤッと笑った。「私たち、ここが|空《あ》いてるから使うことにしたのよ」
「生徒会の方に|訊《き》いて下さい」
「あんたが訊けば?」
私は、その三年生の態度に、ふと不安を覚えた。――もしかして……。
私は、ホールから出た。千恵が心配そうな顔で立っている。
「ここにいて」
と、私は言って、職員室へと急いだ。
教務主任の先生の机の上に、〈生徒会〉というファイルがあった。この中に、ホールの利用状況を記入したノートがあるのだ。
私はそのノートを取り出し、ページをめくった……。
ホールの方へと戻って行くと、入口の辺りには、もう二、三十人の生徒が集まっている。
「――芝さん! どうなったんですか」
と、千恵が言った。
「ホールは使えないわ」
と、私は言った。
「ええ?」
「私たちが届を出して、それが記入してあったんだけど、その上に白い紙が|貼《は》ってあるの。そこに、ダンス部が使用、って書いてあった」
「そんな……」
千恵は|呆《ぼう》|然《ぜん》としている。
「誰かが、集会を開かせないためにやったんだわ」
と、私は言った。「――せっかく来てくれたのに、ごめんなさい」
集まった生徒たちは、何となく顔を見合せていた。
やがて、一人が、
「別にここでなくたって……」
と、言い出した。
「そうよ」
と、誰かが|肯《うなず》く。「どこか他でやろうよ」
「校庭でやれば?」
また他の一人。「こんなにいいお天気なんだし」
「同感!」
「校庭なら、届出さなくてもいいし」
と、口々に声が上る。
私は胸が熱くなった。――そうだ。何もホールにこだわることはない。
「竹沢さん。紙に、会場を変更します、って書いて、ここに|貼《は》っておきましょ」
「はい!」
千恵も、|頬《ほお》を紅潮させていた。
急いで、白紙に赤のフェルトペンで、大きく、「〈今、学校を考える〉の会は、校庭で開くことになりました」と書いた。
すると、千恵が、「人数が多すぎるため」と書き足したので、私は笑ってしまった。
千恵は、戸に貼ってある、ダンス部の〈使用中〉の紙をはがした。
「――これでよし、と」
千恵が、今書いた紙を貼って|肯《うなず》く。
すると、ガラッと戸が開いて、さっきの三年生が顔を出した。
「あんた、何してんのよ」
「別に」
「――どうして私たちが貼ったのを破ったの?」
「はがしただけです。破ってませんよ」
と、千恵が差し出す。「お返しします」
いきなり、その三年生が、平手で千恵の頬を打った。
私が進み出ると、千恵は、
「いいんです!」
びっくりするほど鋭い声だった。
千恵は、ホールの中へと入って行った。そして、ダンス部員が|呆《あっ》|気《け》に取られている前で、音楽を流していたラジカセを手に取ると、窓の所へ行き、ガラッと窓を開けて、外へ放り出してしまった。
「――あんた! 何すんのよ!」
と、頭に来た三年生の一人が、千恵につかみかかった。
すると――私は目を疑った。千恵がパッと身をかがめたと思うと、その三年生の体がクルッと一回転して、ドタッと床に投げつけられていたのだ。
さっさと出て来た千恵が、
「じゃ、行きましょう」
と、言った。
「待ちなさいよ!」
と、あの三年生が、千恵の肩をつかむ。
千恵がサッとその足を払うと、三年生は、みごとに仰向けに引っくり返ってしまった。
「転びやすいですから、ご用心」
と、千恵は言って、歩き出した。
「――ちょっと!」
私は焦って追いかけると、「あなた、今のは?」
「柔道です。中学生の時は、これでも地区のチャンピオンだったんです」
と、千恵は言った。「さ、校庭のどこがいいかしら」
私は、|唖《あ》|然《ぜん》として、声もなかった……。
28 三人のテーブル
その夜、私はせっせと明日の演説会の原稿を作っていた。
母は珍しく――というと皮肉に聞こえるかもしれないが――家にいて、色々と電話をかけまくった挙句、
「もう遅くなっちゃったわね」
と、私の所へやって来た。「晩ご飯はどうする?」
私は目をパチクリさせて、
「お母さん……何も用意してないの?」
「だって忙しかったのよ」
全く! どういう母親だ?
でも、私も、演説の原稿作りに夢中で、お腹が|空《す》いていることも忘れてしまっていたのだ。
言われると、急にお腹が空いて来た。
「一時間くらい待ってくれたら、何か作るけど……」
「いい! どこかこの近くで食べよう」
と、私はあわてて言った。
私はまだ死にたくなかった!
二人でマンションを出て、さてどこへ行こうかと歩き出すと、
「おい、奈々子」
と、呼ぶ声。
「――お父さん!」
父が、タクシーから降りて、手を振っている。
「あなた。何かご用だったの?」
と、母が|訊《き》いた。
「いや、近くへ来たんでな。――出かけるところか」
「お母さんが、晩ご飯作るの忘れたの」
「いやねえ。忘れてないわ。うっかりしてただけよ」
「どこが違うの?」
「三人で食事か? 黒田君と」
「そうじゃないわ。今日はあの人、出張ですって」
と、母が言った。
「そうか。じゃ、一緒に|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》辺りへ出て食べるか」
「わあ! やった!」
と、私は跳びはねた。
とたんにお腹の方がグーッと音をたてたのだった……。
「あ、ねえ、あそこにいるの、TVスターの……」
といった声が聞こえたりするところが、いかにも六本木。
夜中の二時までやっているというイタリア料理の店は、まだこの時間は割合に静かである。
普通なら、一番混み合う夕食時間なのだが、ここが混むのは十二時過ぎだということだった。
スパゲティだの何だの、色々頼んで、まずはオードブルでお腹を取りあえずなだめておく。
「――そうか十二月二十七日にしたのか」
と、父は母から聞いて、|肯《うなず》いた。「いいじゃないか。奈々子ももう子供じゃない」
父が、黒田のことをどう思っているにせよ、その口調に、そんな気配は全くなかった。
「――それで、あなたにお願いがあるんですけど」
と、母は言った。
「何だ? お前と黒田君の|仲人《なこうど》をしてくれと言われても断るぞ」
「まさか!」
と、母は笑って、「大体あなたは独身じゃありませんか」
「冗談だよ。何だ、頼みって?」
「奈々子のこと。私がハネムーンに行ってる間、みててやってほしいの」
「ああ、そりゃ構わないとも。――ただ、奈々子の方でいやだと言うんじゃないか?」
「そんなことないわ」
と、私は言った。「でも、その間はお父さん、一人で寝てよ」
「もうこりたよ」
と、父は苦笑した。「一生、女ぬきの人生を送ろうと決心した」
「怪しいもんだ」
と、私は言ってやった。
「じゃ、いいのね」
母はホッとした様子。「それで――あの事件、何か分ったの?」
「いや、今、警察で調べてくれてる。今のところ、連絡はないな」
「すぐに犯人、捕まらないね」
と、私は言った。
「うん……。早く捕まってほしいが……。おい、千代子、ワインでも飲むか?」
父は、ワインリストをもらって、眺め始めた。
「――ちょっと失礼」
私は、席を立って、トイレに行った。
店の奥の廊下の突き当りがトイレである。私が戻ろうとすると、やって来る若い男が一人。
狭い廊下なので、体を横にして、すれ違おうとすると、
「おい」
と、その若い男が突然私の腕をつかんだ。
「何するんですか」
私はその男をにらんだ。「声出しますよ」
「出せよ」
二十歳ぐらいらしい、その男は、私をにらんでいる。――その目には、怒っている色があった。
「あんた、誰?」
「俺はな、河井知子の弟だ」
と、男は言った。
河井知子の弟?――父のマンションで殺された、あのOLの弟か。
「親父と一緒だな」
「ええ……」
「ここでお前のこと、半殺しにしてやりたいぜ。俺やお|袋《ふくろ》の気持が、少しは分るだろうからな」
その声は、震えていた。
「お気の毒だったと思うわ」
と、私は言った。「殴って気が済むのなら、殴って下さい」
その男は、じっと私を見ていたが、やがて息をつくと、
「その内、親父に会いに行くからな!」
と、言うと、店の方へと戻って行った。
私は、ホッと息をついた……。
席に戻りながら、店の中を見回すと、あの若い男が、出て行くところだった。
「――トイレはあの奥?」
と、母が立ち上る。
「そう。突き当りよ」
私は席に着いた。――父と二人になると、あの弟のことを言い出そうと思って――。
「どうかしたのか?」
と、父が|訊《き》く。
「ううん。別に」
私は首を振った。「何か用だったの、お母さんに?」
「いや、お前に話しておこうと思ったんだ。それと、確かめたくてな」
「何を?」
「母さんが黒田と会ってるんじゃないってことだ」
「今日? だって出張って――」
「そうじゃない」
と、父は言った。「会社へ問い合せた。黒田は今日、休みを取ってる」
「じゃ、どうして、|嘘《うそ》ついたんだろ?」
「分らん。――まあ、大して理由のないことかもしれんが……」
「何か分ったの?」
「どうやら、黒田の妻の両親が、こっちへ出て来るらしい」
「じゃ、黒田と会いに?」
「いや。私とさ」
と、父は言った。「心配になったんだろうな。娘のことで問い合せをしたし、向うも黒田の所へ、連絡を入れてるだろう。娘が電話に出なかったりすれば、心配するはずだ」
「そうだね。いよいよ大詰めか」
と、私は言った。「でも――ねえ、もしかして」
と、ハッとして、
「黒田、逃げちゃったんじゃない?」
「うむ。――その可能性はある」
と、父は|肯《うなず》いた。「それきり姿を消してくれれば、罪を認めるようなもんだからな。しかし、母さんがどう思うかは別だ……」
私と父の話は、それきりになった。母が戻って来たからだ。
――母は大いに食欲を発揮した。私や父がびっくりするくらい、沢山食べたのである。
幸せ一杯、というその様子に、私と父は、複雑な思いで、目を見交わしたのだった……。
29 演説会
「――|凄《すご》いね」
と、私は言った。
矢神貴子の演説は、正に格調高く、立派なものだった。
「演説の|仕《し》|方《かた》」なんて本があれば、そのお手本になるような、出来栄えである。
学校の理念とか、校則とかも巧みに織り込んで、時には笑わせたりしながら、話を進めて行く。
しかし、その言葉も、私と千恵との運動に対する色々な妨害のことを思うと、何とも|虚《むな》しい、ゾッとするようなものに聞こえてしまう。
「――|上手《うま》いですね」
講堂の、舞台の|袖《そで》で聞いていた千恵が言った。
「とってもかなわないわ。あの声!」
と、私はため息をついた。
よく通る、張りのある声。――それが、矢神貴子の大きな魅力の一つになっていることは、私も認めないわけにいかない。
「内容です」
と、千恵が言った。「学校の古い出来事とか、去年の旅行のこととか並べて。――芝さんのような新しい人はだめ、という印象を与えようとしているんですよ」
「なるほどね」
と、私は|肯《うなず》いた。「私より、あなたが会長になった方がいいみたい」
「|器《うつわ》ってものがあります、人間には」
と、千恵は真面目な顔で言った。
「ちゃんとしゃべれるかしら」
と、私は、原稿を見下ろして、言った。
「自信ないなあ」
矢神貴子は、原稿なしで、しゃべっているのである。
その時、
「――芝さん」
と、小さく呼ぶ声がする。
「何?」
と、歩いて行くと、一年生だが、あまりよく知っているとは言えない子が、立っていた。
しかし、昨日の校庭での集会にやって来て、熱心に話を聞いていた子だ。
「あの、今、ちょっとロビーで立ち聞きしたんです」
「立ち聞き?」
「三年生が十人くらいで。――芝さんの演説が始まったら、火災報知器を鳴らすって」
「何ですって?」
「大騒ぎになって、演説どころじゃなくなるだろうって。反対している人もいましたけど、ともかく、大声で|野《や》|次《じ》を飛ばしたりして、邪魔するつもりらしいですよ」
私は、ゆっくりと|肯《うなず》いた。
「そう。――ありがとう」
「頑張って下さい!」
と、その子は、私の手を、ギュッと握りしめた。「私、芝さんに入れます」
そう言って、駆けて行ってしまう。
「――聞いた?」
私は千恵に言った。
「ちょっと待ってて下さい」
千恵が、ロビーへ出て行く。
すぐに戻って来て、
「――会場のあちこちに、矢神さんの取り巻きの三年生が、散ってます。何かやる気ですね」
と、言った。
「どうしたらいいかしら?」
「負けずにやるしか……」
「そうね。でも、火災報知器なんか鳴ったらけが人が出そうよ」
「困りましたね」
と、千恵が言った。「――あ、終ったみたい」
拍手が講堂を満たす。
――矢神貴子と、山中久枝が|袖《そで》へ入って来た。
「ご苦労様」
と、私は言った。
「しっかりね」
矢神貴子は、|微《ほほ》|笑《え》んで、「山中さん、行くわよ」
と、さっさと行ってしまう。
――私は、竹沢千恵の肩をポンと|叩《たた》いて、
「じゃ、行こうか」
と、言った。
司会役は、今の生徒会の副会長。――私と千恵の名が呼ばれ、舞台に出て行くと、ワーッと拍手が起った。
二人で並んで一礼し、千恵が少し後ろへ|退《さ》がる。私は、マイクの前に立って、一つ大きく深呼吸した。
「生徒会長に立候補した、芝奈々子です」
と、私は言った。
その時、生徒の間から、
「旧姓田中でしょ!」
と、声が飛んだ。「ご両親の離婚の原因は?」
私は|唖《あ》|然《ぜん》とした。――そんなことを言い出されるとは、思ってもいなかったのだ。
無視しよう、と決めた。
「私は、みなさんもご承知の通り、この二学期からの編入生です」
と、私は語り始めた。
「裏口入学!」
と、野次が飛ぶ。
「いくら払ったの!」
私は、ゆっくりと呼吸を整えて、
「私たちの学校は、そんな不正を許していないと私は信じています」
と、言った。
拍手が起った。――その拍手は、どんどん大きくなった。
私は、ちょっと千恵の方を振り向いた。千恵がウインクして見せる。
これで私も気が楽になった。
「私は、いくつかの提案をしたいと思います」
と、私は続けた……。
「――お疲れ!」
私は、千恵と、グラスを触れ合せた。
といって、もちろんお酒を飲んでいるわけじゃない。オレンジジュースで乾杯である。
――帰りに、千恵は私の所へ寄っていたのだ。
「これからですね、選挙戦は」
と、千恵はすっかり張り切っている。
「でも、間に文化祭があるのよ」
そうなのだ。十一月の頭には、文化祭。
選挙のことも、しばらくは生徒たちの頭から消えてしまうだろう。
「だから、その間なんですよ」
と、千恵が言った。
「何が?」
「深く静かに、運動を進めるんです。一人一人に当って。――ねえ、あの矢神さんに対して反感持ってる人って、少なくないんですよね」
確かにそうだ。
しかし、問題は――矢神貴子のことを、面白く思っていないからといって、あえて逆らって私たちに投票してくれるかどうか、ということである。
「――さ、何か食べよう」
と、私は言った。
「また芝さんのお父さん、みえないかなあ」
「やめてよ」
と、私は苦笑した。
二人で、簡単に何か作るか、ということになり――結局、作ったのは、千恵の方だったが、ともかく少し早い夕食を、居間でTVを見ながら取ることになった。
「――でも不思議だな」
と、千恵が言った。
「何が?」
「芝さんのお母さん、何であんなすてきな人と離婚したんですか?」
「そりゃ父のせいよ。恋人ができてね」
「やっぱりね……」
と、千恵は|肯《うなず》く。
TVでは、どこやらの車の事故のことを報じていた。湖に落ちて、乗っていた夫婦が死亡……。
少しして、電話が鳴った。
「――はい、芝です」
「奈々子か」
「お父さん。今、ちょうど千恵が来てるんだよ。――え? TV?」
「ニュースだ」
「ああ、車が湖に落ちたとかいうやつ? うん、見たよ」
「あの名前に|見《み》|憶《おぼ》えがあったんだ」
「誰か知ってる人?」
「黒田の妻の両親だ」
私は、言葉が出なかった。
「まず間違いない」
と、父は続けた。「上京して来る途中であそこに落ちたんだろう」
――二人とも、しばらく黙っていた。
「お父さん――」
と、私は言った。「本当に事故だったと思う?」
30 千恵の心理学講義
黒田の妻の両親が上京して来る。
それは、もし黒田が妻を殺していたとしたら、何としても防がなくてはならない、困った事態だろう。
そして、本当に[#「本当に」に傍点]、妻の両親は車ごと湖に落ちて、死んだ。
「――あの人は、会社を休んでたんでしょ? それなら、時間的には合うわけね」
と、私は言った。
「うん……」
電話の向うで、父が、いつになく重苦しい声を出した。「偶然で片付けるには、あまりに疑わしいことが多すぎる」
「私もそう思うわ」
「母さんは出かけてるんだな」
「たぶん、黒田と一緒よ」
「遅くなるって?」
「そう言ってたわ。――お父さん、どうする?」
父は少し黙っていたが、
「私がじかに黒田を問い詰めるしかないかもしれないな」
と、言った。
「でも、気を付けて!」
と、私は言った。「殺されるかもしれないよ」
「用心するさ。ただ、問題はそっちじゃない。黒田がどうなろうと、こっちは知ったことじゃない」
「うん」
「問題は母さんの方だ」
その点は私も同感だった。
何しろ母は、私以上に(?)子供のような、人を信じやすい人間である。
もちろん今は完全に黒田を信じ切っているわけで、その黒田が、妻を殺し、その両親まで殺した、などと知ったら、どうなるか……。
失神ぐらいじゃ、とてもすむまい。
「一緒の時に話をするか、それとも別々に話すか、だな」
と、父は言った。「その時[#「その時」に傍点]には、お前の力も借りるかもしれない」
「分ってる」
「ともかく、今は母さんに気付かれないようにしてくれ」
「そうするわ。でも、あの女の人も殺してるとしたら、お父さんのことを、もう危険だと思ってるのよ。用心して」
「分ってる。――いくら何でも、そっちには危険はないと思うが、真相が分ったと悟ったら、やけになって、何をするか分らん。いいな、お前も気を付けろ」
「分ってるわ。じゃ、何かあったら連絡してね」
「ああ。あの料理の|上手《じょうず》な友だちによろしく言ってくれ」
父に言われて、私はハッとした。
黒田の妻の両親が死んだ、という、ショッキングなニュースに、すっかり千恵のことを忘れてしまったのだ。
電話を切って振り向くと……。
当然のことながら、「殺人」だの「女を殺した」だのという話に仰天して、|呆《ぼう》|然《ぜん》としている竹沢千恵が突っ立っていたのだった……。
「あ、あの――ごめんね、竹沢さん。つい、うっかりしてあなたがいること忘れちゃってさ、ハハ……」
と、私は笑って見せて、「――少し時間を戻して、目をつぶってられない?」
「無理です!」
と、千恵は即座に言った。
「でしょうね……」
私は|諦《あきら》めた。
まあ、あれだけ色んなことを聞かされて、
「何も|訊《き》かないで」
という方が無理ってものだ。
私が千恵だったら――他人の家には、それぞれ事情ってものがあるんだから、と諦める……わけがない!
脅迫してだって、全部を聞き出さなきゃ気が済まないだろう。
「芝さん」
と、千恵はぐっと迫って来る。
「何? キスしたい?」
千恵がジロッとにらむ。私はため息をついて、
「分ったわよ」
と、|肯《うなず》いた。「何から話そうか?」
「初めから!」
と、千恵は言った。
「――大変じゃないですか!」
私があらかたの事情を話し終えると、千恵はすっかり興奮した様子で、「選挙なんてやってていいんですか? のんびりご飯なんか食べてて――」
「食べるぐらいいいでしょ」
と、私は言った。「ともかく、そんなわけなのよ」
千恵は肯いて、
「その男、きっと奥さんを殺したんでしょうね」
と、言った。
「たぶんね。――父の所にいた恋人も、それから奥さんのご両親も、としたら――四人[#「四人」に傍点]よ! 四人も殺すなんて」
私は、ちょっと信じられないような気分だった。「そんなに悪い人には見えないんだけど」
「そんなに悪い人じゃないから[#「から」に傍点]、殺したりするんですよ」
千恵の言葉に、私は戸惑った。
「どういう意味?」
「もともと、そんなにずる賢い男なら、うまく遊ぶか、奥さんと|上手《じょうず》に別れますよ。それができない、きっと気の優しい、弱気な人なんです。そして見栄っ張りで」
「よく分るわね」
「奥さんにも離婚を切り出せない。一方で、芝さんのお母さんとは結婚の準備まで進めてしまう。――どっちの女性も、嘆かせたくないと思うから、ますます泥沼にはまって行くんですよ」
「そうね」
「その内、奥さんの方がそれに気付いて、芝さんのお母さんの所へ行く。――それを知って黒田って男がカーッとなる。こういう男は、自分中心ですから、妻が自分の思いやりをぶちこわした、と取るんです。で、言い合いの末に、首を絞めて――かどうか知りませんけど、殺す」
「なるほどね」
「体育祭の日に、黒田はお父さんに会って、これは|騙《だま》せない相手だ、と気付いたんだと思います。お父さんがあれこれ調べているのを知って、妻殺しの罪を暴かれるのが怖くなり、お父さんを殺そうと決心する……」
「で、別の女を殺してしまう、か」
「二人も殺すと、もう後は同じです。妻の両親が上京して来ると知って、簡単に決心したんだと思いますわ。二人だって四人だって同じだ、と」
――私は、少し圧倒されていた。
「あなたって、心理学か何かやってるの?」
と、私は|訊《き》いた。
「いいえ」
千恵は首を振った。「うちの父が――」
「まさか」
と、私は目を丸くして、「奥さんを殺したわけじゃないんでしょ」
「そりゃそうですけど。やっぱり、似たようなタイプの人です」
「じゃあ……」
「やっぱり一時、女の人ができて、あんまり家に帰らなかったことがあるんです。その女性にも、うちの母にも、謝ってばかりいました。――もう、見てるのが|辛《つら》いくらい」
「へえ」
「結局、会社の上役でいい人がいて、間に入って、そっちの人と父を別れさせてくれたんです。情ないなあ、とか、子供心に思いました。でも、父は優しいんです。だからそうなっちゃうんです」
「なるほどね……」
私は、一見|呑《のん》|気《き》そうな竹沢千恵が、意外に色んな苦労をしてきているんだ、と分って、少々気恥ずかしいような思いだった。
何といっても、私の所では、両親は別れたものの、別に憎み合っているわけじゃないのだ。
「でも、むずかしいですね」
と、千恵は言った。「その黒田って男、よっぽど用心しないと」
「凶暴になる?」
「それもそうですけど、たとえば、お母さんを道連れに心中とか――」
「ええ?」
「やりかねませんよ。気が弱いでしょうから、逮捕されるくらいなら、死のう、と……。でも一人じゃ怖いとか」
「そうか……。じゃ、警察に逮捕してもらうまで、こっちで|下《へ》|手《た》に手を出さない方がいいわね」
「同感です。でも、急がないと。――もしも、本当に四人も殺しているんだったら、何でもやりかねないですよ」
「うん」
「お母さん――もし、本当にその男の子供ができてるんだったら、|辛《つら》いでしょうね」
そう。母のためにも、そうゆっくりはしていられないのだ。
私は、たとえ母にとってはショックでも、一日も早く、黒田の正体を暴く必要がある、と思った。
31 とっさの顔
演説会でくたびれた私は、その土曜日の夜、いつもより早目にぐっすりと眠ってしまった。
母は帰っていなかったが、ちゃんと|鍵《かぎ》は持っているし、何も、子供が[#「子供が」に傍点]親の帰りを待つこともないだろう、と思ったのだ。
そして日曜日……。
目が覚めると、もう時計は十時半を指していた。――やれやれ。
別に、急ぐ用事があったわけではないが、千恵と、もし時間があったら会おうか、ということになっている。
今では久枝よりも、千恵の方がずっと心を許せる存在になっていた……。
ドアを開けると、プンと|匂《にお》って来たのは、コーヒーの香りで、大いにこっちの胃袋を刺激してくれた。
私はパジャマのままで、ダイニングの方へと歩いて行き、
「ねえ、お腹|空《す》いちゃった、私――」
言葉が止った。――目の前に、黒田が立っていたのだ。
思ってもいないことだった。
分っていれば、ちゃんとそつなく笑顔でも見せられたのに、不意に、四人も人を殺したかもしれない男が現われたら、いくら私でも、ドキッとしてしまう。
「やあ」
黒田は、いつもながらの優しい笑顔を見せて、「起きたのか。悪かったね、突然やって来て。――どうした? 真青だよ」
「いえ……。別に」
と、私は、必死で、いつもの通りにふるまおうとした。
「あら、奈々子。起きたの?」
母が顔を出す。「これから、ホットケーキを作るところよ。食べるでしょ」
「うん……」
と、私は|肯《うなず》くのが精一杯だった。
「気分でも悪いの?」
と、黒田が|訊《き》く。
「いいえ。――私、低血圧だから。朝の内は何となく元気出ないんです」
私はそう言い逃れると、「着替えてから来るわ」
と、母へ声をかけた。
「じゃ、あなたの分は最後に焼くわよ」
「うん」
自分の部屋へ戻って、ドアを閉め、私は体中から力が抜けて行くのを感じた。
まさか――まさか母が黒田を連れて来ていたなんて!
今日になってやって来たのではない。ゆうべ遅く帰って来て、黒田は泊ったのだろう。
私は、急いで着替えをしながら、どうしようかと迷っていた。
一日、黒田と母に付合わされるのはかなわなかった。といって、父の所へ行くというのも……。
ともかく、千恵と会って、選挙の打ち合せをすることにしよう、と決めた。
それにしても……。今、私は黒田をはっきり、「殺人犯」として見てしまったのだ。
黒田も、気付いたのではないだろうか?
私が、真相を知っている、ということに……。
もし、そうだとすると、黒田にとって、私も「危険人物」の一人に数えられることになるのだ。
でも――もちろん、私を殺したりはしないだろうけど。
本当に?
私は、ダイニングへ顔を出すまでに、かなりの時間が必要だった……。
「――今日はどうするの?」
と、ホットケーキを食べながら、母が|訊《き》いた。
「私? ちょっと友だちの家に行くことになってる」
「そう。帰りは?」
「分んないな。選挙も近いし」
と、私は肩をすくめた。
夕ご飯を三人で、とか言われては困ると思ったからだ。
「生徒会長に立候補してるんだって? 大したもんだね」
と、黒田が|愛《あい》|想《そう》良く笑いながら言った。
その笑顔も、以前見た時には、割合に好感の持てるものだったのだが、今見ると、背筋が寒くなる「殺人鬼」の笑いに見える。
「落選候補です」
と、私は言った。「ただ、やるだけのことはやらないと」
「それはそうだね。頑張ってくれよ」
「ええ。――お母さん、今日は出かけるの?」
「さあ……。ちょっと見ておきたい物もあるから……。もしあなたが遅いんだったら――」
「いいよ、食事して来て。私、竹沢さんの所でごちそうになる」
「まあ、悪いじゃないの」
「様子を見て、決める。二人でどこかへ出るかもしれないし」
「分ったわ。もし何なら、電話してみて」
「うん」
ここは素直に|肯《うなず》いておくことにした。
黒田が、また何か話しかけて来そうだったので、私は、テーブルにのっていた新聞を広げて見始めた。
――社会面を開けると、一つの記事が、目に飛び込んで来る。
〈湖の転落車――殺人か?〉
という見出し。
あの事件だ。検死の結果、夫婦は、湖に車が落ちる前に死んでいたとみられる、と出ていた。
やはり……。殺されたのだ!
私は、さり気なく、ページをめくった。
そして――どうしてそんなことをしたのか、よく分らないのだが、私は、元の社会面を、まためくっていた。
「へえ」
と、私は言った。「湖に落ちた車――殺人か、ですって」
「湖って?」
と、母が顔を上げる。
「夫婦で乗ってて、車ごと湖に落ちて死んだの」
「じゃ、|溺《おぼ》れたの」
「それが、調べたら、落ちる前に死んでたらしいって。保険金目当ての殺人か、ですってよ」
「いやねえ」
と、母は首を振った。
私は、目を向けないままに、黒田の反応を|窺《うかが》っていた。
しかし、黒田は、私の話が耳に入らなかったかのように、黙々とホットケーキを食べている。
私は新聞を閉じた。
「――いや、旨いな、これは」
と、黒田がホッと息をつく。「さすがだね!」
「まあ。もっと他のものでほめてよ」
と、母が笑う。「こんなもの、誰が作っても同じだわ」
「いや、そんなことないさ」
と、黒田は言った。「やっぱり君でなくちゃ!」
私は、黒田が果して本当に、気の弱い男なのかしら、と思った。
自分の犯した殺人の話に、|眉《まゆ》一つ動かさないなんて……。
「じゃ、私、出かけて来る」
と、席を立つ。
部屋へ戻って、|仕《し》|度《たく》をすると、私は千恵の家へと出かけた。
マンションを出て、私は少し歩いて――ふと振り向いた。
四階の、うちの窓が見える。――そこに人影があった。
黒田だ。じっと、私のことを見送っている。
私が振り向いたのを見ても、姿を隠すでもない。私に向って、手を振って見せた。
私はためらったが、怪しまれても困る、と思って、手を上げて見せた……。
――どういうつもりなのだろう?
私は少し足を早めた。
「――芝さん」
呼びかけられて、私は、足を止めた。振り向く前に、もちろん分っていた。
「今日は」
と、矢神貴子は言った。
「どうも」
「お出かけ?」
「ええ、ちょっと」
「竹沢さんと、作戦会議?」
そう言って、矢神貴子は笑った。
「何かご用?」
「お話があるの。うちへ寄って」
そう言って、矢神貴子は、さっさと歩き出す。
相手が自分の思い通りになる、と信じ込んでいる人間なのだ。
私が動かずに立っていると、矢神貴子は少し行って立ち止り、
「どうしたの?」
と、|訊《き》いた。
「いいえ、別に」
私は、彼女について歩き出していた。
今の時期に、矢神貴子が何を言いたいのか、興味があったからだ。
32 板挟み
ところが――何だか私はわけが分らなくなった。
矢神貴子は、自分の家へ私を招いて、ケーキやお茶を出してくれたのだが(ケーキは少々うんざりだったが)、話といえば、学校での取りとめない話題ばかり。
そして、文化祭のことを少し話すと、矢神貴子は時計を見て、
「ああ、ごめんなさい」
と、立ち上った。「私、友だちを呼んでいるの。そろそろ来る時間だわ。今日はありがとう。楽しかったわ」
私は|呆《あっ》|気《け》に取られたものの、まさか居座るわけにもいかず、
「ごちそうさま」
と、礼を言って、失礼することにした。
玄関まで送ってくれた矢神貴子は、
「じゃ、気をつけて」
と、言っただけだった。
――どうなってんの?
私が首をかしげながら、矢神家の門を出ると、同じ二年生の子が三人、ちょうどやって来たところだった。
「今日は」
と、声を交わし、「この近くなのよ」
と、二言三言、話をして、別れる。
矢神貴子が、なぜあんな風に私を招いたのか、見当もつかなかった。――何も考えなしに、行動する人じゃないが、私としては、別に何一つ、まずいことを言いもしなかったのだから……。
「ま、いいや」
と、肩をすくめて――住宅街の、静かな通りを歩き出す。
本当に、こんな昼間でも、全然人が通らないことがあるくらい、この辺りは静かなのである。
その時――背後に、急に車のエンジンの音がした。
振り向くと、猛然と突っ走って来る車――。アッと思う間もない。
私は、立ちすくんで動けなかった。とてもよけられない!
いきなり、誰かが私をかかえるようにして地面に体を投げ出した。車が風を巻き起こして、走り去る。
一瞬の差――一秒とはなかった。
私は、起き上った。
今のは……。今の車は……私を殺そうとした!
私は、助けてくれた人の方へ目をやった。
「ありがとう!――あら」
起き上ったのは、見たことのある若い男だった。
「河井知子さんの……」
父のマンションで殺された、河井知子の弟だ。
「何で、お前なんか助けたのかな」
と、不機嫌な顔で立ち上る。
「でも――ありがとう。死んでるところだったわ」
と、私は言った。
「フン、別に、お前のこと、許したわけじゃないぞ」
河井は、パッパと手を払うと、「ただ、あの電柱の陰で見てたら、車が走って来て……。自分でもよく分らない内に飛び出してたんだ」
「そう」
「――けがは?」
と、河井は言った。
「私は大丈夫。――あら、その|肘《ひじ》のところ」
河井の左の肘に少し血がしみ出していた。
「――すりむいただけさ」
「でも、手当しないと」
「放っといてくれ」
「そうはいかないわ」
と、私も頑固である。「手当させてくれなきゃ」
「だけど――」
「一緒に来てよ」
と、私は言った。
「芝さんも、本当にドラマチックなんですねえ」
と、千恵が言った。
「悪いわね、突然」
「いいえ、どうせ一人で退屈してたから」
千恵は、河井の肘の傷に包帯を巻いてやりながら、「でも、良かったですね、|危《き》|機《き》|一《いっ》|髪《ぱつ》で助かって」
「この人のおかげ」
「お|節《せっ》|介《かい》なんだ、要するに」
と、河井は相変らず不機嫌である。
「――さ、これでいい、と」
千恵は、救急箱を片付けながら、「骨は大丈夫だと思いますけどね」
と、言った。
「あなたって、本当に器用ね」
私は舌を巻いた。
「じゃ、俺は行くぞ」
と、河井は言って、立ち上った。「手当をありがとう」
「どういたしまして」
千恵は、河井を玄関まで送って行ってから、戻って来た。
「ご両親は?」
と、私は|訊《き》いた。
「出かけてます。どこへだか知らないけど。――ね、今の人、何ですか?」
ゆうべ、何もかも話してしまっているのだ。私も|諦《あきら》めて、河井のことを説明した。
「へえ! じゃ、その弟が、芝さんの命を助けた? |凄《すご》い! 面白い!」
「面白くないわよ。命あっての、だわ」
「でも、その車は、わざとひこうとしたんですね」
「そうとしか思えない」
「どんな車か|憶《おぼ》えてます?」
「全然。何だか白っぽい車だったな、ってことしか分らないわ」
「そうですか。――黒田って人の車じゃないんですね」
「分らない。確かに黒田も車に乗るとは思うけど……。でも、たいていレンタカーみたい。いつかも外車に乗ってたけど、友だちから借りた車だって言ってたし」
「じゃ、どんな車とは限らないわけですね」
と、千恵は言った。
「そうね」
「でも、芝さんを殺そうとするなんて、その黒田っていう人しか考えられないし……。それとも、あちこちで男を振って、恨まれてるとか?」
「怒るぞ」
「冗談です。――もし、黒田がやったのなら、用心しないと、またやられますよ」
「気楽に言わないでよ」
「だって、私がやられるわけじゃないですもん」
と、千恵は|呑《のん》|気《き》に言った。
――家にいても仕方ない、というので、私と千恵は、出かけることにした。
もちろん、出かけるといっても、海外旅行ってわけにはいかないので、まあ、買物がてらの|原宿《はらじゅく》とか|渋《しぶ》|谷《や》の辺り……。
「あ、いけない」
と、外へ出たところで、千恵が言った。「お財布にお金入れて来るの、忘れちゃった。ちょっと待って下さい」
「ええ、ここにいるわ」
私は千恵が戻って来るのを待っていた。すると――。
「あの――」
「はい」
振り向くと、うちの母ぐらいの女性が立っている。
「芝さんですね」
「はい」
「千恵の母です」
「あ、どうも……。お出かけとうかがっていたんで、今二人で出かけようとしてたんです――」
「ええ、見ていました」
と、千恵の母は、少し悲しげな顔で言った。「お願いがあって。千恵には黙っていて下さい」
「え?」
「どうか千恵をこれ以上巻き込まないで下さいませんか」
「巻き込むって……」
「あの矢神さんという方から、主人の方へあれこれ言って来ていて……。主人はこのところ、悩んでいるんです」
私としても、困ってしまった。
「――そのことは存じてます。でも、私も、自分で立ったわけじゃないんです。千恵さんを選んだのも、私じゃありません」
「ええ、分ってますわ。無茶なお願い、と承知しての上です」
「私にどうしろと?」
「千恵と|喧《けん》|嘩《か》して、他の人と組んで下さいませんか」
私は、言葉がなかった。いくら何でも、そんなことは――。
「でないと、主人が仕事を失うかもしれません」
千恵の母の口調は真剣そのものだった。
33 |原宿辺《はらじゅくあた》り
|原宿辺《はらじゅくあた》りを歩きながら、千恵は、何かイベントがある|度《たび》に、|覗《のぞ》いていた。
私は、少々|呆《あき》れて、
「好きなのね、こういうもの見るのが」
と、言った。
「いいえ。別に」
「でも――」
「選挙運動の研究です。人の関心を集めるのに、どんな方法があるか」
私は、ちょっとギクリとした。
会長に立っている私より、千恵の方が、よほどよく考えているのだ。こりゃまずい、と思った。
同時に――千恵の家を出て来る時、千恵の母に言われたことも、心に残っていたのだ。
私が千恵と組んでいると、千恵の父が、クビになるかもしれない……。
もちろん、そんな無茶な話はない。――子供同士の、生徒会の選挙である。
それがどうして親の仕事にまで関って来るのか。
そんなこと、何の関係もないじゃないか、と、言ってのけることは易しい。しかし、大人の社会は、そういう理屈で動いているわけではないのだ。
千恵の母の気持はよく分った。しかし、だからといって、私に何ができるだろう?
もちろん、矢神貴子に、直接抗議したところで、そんな覚えはない、と否定されてしまえば、おしまいだ。
「どうかしました?」
と、千恵が私のことを心配しているように、「どこかで休みましょうか」
「え?――そうね」
「疲れたでしょ? やっぱりもう若くないんですから……」
「ちょっと! 一つしか違わないのよ!」
と、私は抗議した。
「でも、私たちの年代で、一歳の差は大きいですよ」
と、千恵が言うと、何となく本当のような気がして来る。
まあ、別に疲れていたわけではないが、私たちは、やたら若い子たちで一杯の喫茶店に入ることにした。
「あっち、あっち」
こういう所で、素早く動いて席を見付けてしまうのも、千恵は|上手《うま》いものだ。
やっと|椅《い》|子《す》に腰かけて、オーダーも終ると、私は、千恵に、
「あなたに話があるの」
と、言った。
「もうだめです」
「何が?」
「私には恋人がいます。お姉様から愛を打ちあけられても……。ハハハ」
私も一緒に笑ってしまった。――何て明るい子だろう!
私は、この頭のいい子には、妙な|嘘《うそ》をついても仕方ない、と思った。
「さっき、お母さんにお会いしたわ」
と、私が言うと、千恵の顔が少しかげった。
「そうですか」
「大変だというじゃないの、お父さんの方……」
「ええ、何だか騒いでます」
と、気楽そうに言ったが、目は笑っていない。
「ひどいと思うわ。大体、あなたを副会長の候補に選んだのも、矢神さんじゃないの!」
「そうですね。――でも、ああいう人には、怒っても通じませんよ」
「だけど本当に、困ったことになるでしょう」
「まさか、父をクビにはしないと思ってますけど」
「でも――」
「ご心配いりません」
と、千恵は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「いつおりてもいいのよ。病気とか、何か理由はつけられるわ」
「その時になったら、ご相談しますから」
と、千恵は明るく言った。「文化祭はどうするんですか?」
私も、それ以上、言うのはやめた。
この子に私が意見できる柄だろうか。――私よりよっぽどしっかりしている、この子に……。
二人して飲物を飲みながら、若者たちでごった返している町を眺めていると、
「何だ」
と、男の声がした。「おい、千恵」
千恵が声の方を振り向いて、一瞬、表情をこわばらせた。
「久しぶりだな」
やって来たのは、たぶん大学生……。しかし、勉強よりは、女の子をおっかけて歩くことに生きがいを見付ける、という|類《たぐい》の大学生だろう、と思えた。
いささか趣味の悪いスーツなど着ていて、見ている方が気恥ずかしくなるくらいだった……。
「どうも」
千恵は、やっと笑顔を作って、「元気ですか」
と、|訊《き》いた。
「うん。――お前も変んないな」
その男が、ジロジロと無遠慮に千恵のことを眺め回すので、私は少し腹が立った。
「おかげさまで」
と、千恵は言って、黙った。
その男が、私の方を、興味ありそうに見ている。千恵が、
「お連れさんがお待ちですよ」
と、言った。
少し離れたテーブルで、ちょっと目をひくようなスタイルの女の子が、口を|尖《とが》らしている。
その男、チラッとそっちを見て、
「ああ。――遊び相手さ」
と、肩を揺すって、「じゃ、またな」
「さよなら」
と、千恵は言った。
――しばらく、私たちは黙っていた。
「あの……」
と、千恵が言いかける。
「別に、言いたくなければ、いいのよ」
と、私は言った。
「でも、聞きたいでしょ?」
千恵が、いたずらっぽく笑う。
「まあね」
と、私も笑った……。
「私、あの人にのぼせたことがあって」
そうかな、とは思っていたが、意外であった。
「あなたの好みに見えない」
「そうですね。今は、さっぱり分りません。自分でも、どうしてあんな男に……」
千恵が首を振って、言った。「若かったんですよね」
「いくつの時?」
「十五です。一年前」
なるほど。――でも、夢中になったら、ひたすら突っ走りそうな、千恵のこと。
私も、いくらかは分るような気がしていた……。
34 外車の男
家へ帰るのも、気が重かったので、私は外から一応電話を入れることにした。
「――あ、奈々子? 良かったわ。夕ご飯どうするのか、迷ってたとこよ」
「黒田さんは?」
「帰ったわ。あなたによろしくって」
「そう。何時ごろ?」
「時間?――そうね、あの後、割とすぐじゃない? どうして?」
「別に。じゃ、今から帰る」
「分った。何かこしらえとくわ」
ホッとして、私は電話を切った。
千恵とはもう別れていた。――あの子といると、本当にこっちまで元気が出て来る。
ああいうエネルギーを発散するのは、まあ天性みたいなものだろう。
家まで、歩いて十分ほどの所から電話していたので、私は少しのんびりと歩いて行くことにした。
黒田は、あの後、『割とすぐに』家を出ている。
私をはねかけた車が、黒田のもの、という可能性は、大いにあるわけだ。
そろそろ、辺りが薄暗くなる時刻だった。
車の音がして、私は振り返った。つい、敏感になっている。
何だか、道幅一杯という感じの大きな外車が、滑るように走って来たと思うと、私のそばに来て停った。
何だろう?
戸惑っていると、車の窓から、
「芝奈々子君かね」
と、声をかけられた。
「はあ……」
ドシッと落ちついた感じの、紳士。まあ会社の社長か重役ってところだろう。
「ちょっと話がある。乗ってくれないかね?」
「え?」
私は|面《めん》|食《く》らった。
「私は矢神。貴子の父だよ」
矢神貴子の父親!――私は一瞬、息をのんだ。
「あの……お話って?」
「長くはかからない。乗ってくれないか」
「はあ」
運転手が降りて来て、ドアを開ける。
仕方ない。――私は、矢神の隣に乗り込んだ。
車がゆっくりと走り出す。
「あの……」
「娘が、いつも世話になっているね」
「あ、いえ……」
何のつもりだろう?――私にも、選挙から手を引けとか言うつもりかしら。
「今度、生徒会長の選挙があるそうだね」
と、矢神が言った。
「ええ。――ご存知でしょう」
「実はね、うちの子会社の社長が、困って相談して来たのだ」
「え?」
「どうも貴子が、君と組んでいる子に、色々、圧力をかけているらしい」
「ご存知なかったんですか」
と、私は|唖《あ》|然《ぜん》として言った。
「そこで、君の話を聞きたいと思ったのさ。本当のところを、聞かせてくれないかね」
私は、しばらく何と言っていいのか、分らなかった。
しかし――考えてみれば、矢神貴子は、それぐらいのこと、勝手にやりかねない。
「分りました」
私は、そもそも立候補からして、おそらく彼女の仕組んだことだというところから始めて、特に竹沢千恵の方に、色々ないやがらせや圧力があることを説明した。
もちろん、矢神がそれを信じるかどうか、私には分らなかったが、ともかく、向うが話してくれと言うのだ。遠慮なく、言わせてもらうことにした。
「――そうか」
矢神は、私が話を終えると、|肯《うなず》いて、「その子の家は、そんなに深刻になっているのか……」
「ええ。千恵当人も、考えています。表には出さないけど、分ります」
「なるほど」
矢神は肯いて、目を閉じた。
しばらく、重苦しい沈黙があった。
矢神が何と言い出すか、私は、じっと待っていた……。
「――分った」
矢神は目を開けた。「君や、その竹沢という子には、全く、すまないことをしたね」
私はホッとした。
「じゃ――」
「貴子のすることを信用して、何も口は出さなかったが、|却《かえ》って、あの子にとってはまずいことになったようだ」
矢神は、ため息をついた。「――あの子は大人だ。君も分っているだろうが」
「ええ」
「だから、私も、あの子の自主性を尊重していた。しかし、社長の娘という立場を利用するというのでは、放っておけない」
矢神は私を見て、ニッコリ笑った。「君はなかなかしっかりした子だね」
「いえ……」
「貴子の奴も、まだ人を見る目がない。君や、その竹沢という子なら、自分の思い通りになると思ったんだろう」
「だと思います」
「ところが、当てが外れて、当人も焦ったんだな」
「でも――私はともかく、竹沢さんは|可哀《かわい》そうです」
「うん」
矢神は肯いた。「そのことは心配ない。子会社の社長へ、そんなことを仕事の場へ持ち込むな、と言っておいた」
「良かった」
「貴子にも、よく言っておく。――君らは、心おきなく選挙を戦ってくれ」
車は、いつの間にか、マンションの前に来ていた。「ここだね、君の家は」
「そうです」
運転手がドアを開けてくれる。私は、
「ありがとうございました」
と、礼を言って、外へ出た。
「その内、会社へ一度遊びにおいで」
と、矢神は声をかけて来た……。
――車が走り去るのを見送って、私は心が軽くなっているのを感じた。
良かった!
もちろん、矢神貴子は頭に来ることだろうが、少なくとも、表立って、妨害したり圧力をかけたり、ということは、もうできなくなるに違いない。
私は、千恵にこのことを知らせてやろうと急いでマンションへ入って行った。
35 ショック
「そうそう。――そうなのよ。――だから、何も心配することないわ。――うん。じゃ、また明日ね」
私は、電話を切った。
千恵の声も弾んでいた。――当然だろう。
「奈々子。ご飯よ」
と、母が声をかけて来る。
「うん!」
「――何だかいやに元気がいいのね」
と、母は笑って言った。
「お母さんほどじゃないでしょ」
と、私は言ってやった。
「まあ」
――久しぶりに、母と二人、明るい食卓だった。
もちろん、黒田のことは、何も解決していないのだが、今はともかく、この上機嫌な気分を、そのまま保っていたい。
今夜ぐらいはね。せめて……。
「――あら」
と、母が顔を上げた。「誰かしら」
玄関のチャイムが、少ししつこく鳴った。――誰だろう?
父ではない。父はこんな鳴らし方はしない。では――黒田?
たちまち、私の明るい気分は吹っ飛んでしまいそうになった。
「出るわ」
母が立って行く。――インタホンで、
「どなたですか?」
と、|訊《き》く母の声。「はい。――どうぞ」
「どうしたの?」
「荷物ですって」
「何だ」
私はホッとした。「じゃ、私が受け取るわよ」
私は玄関へ出た。ドアをノックする音。
「はあい」
私はドアを開けた。
――荷物ではなかった。
男が二人、アッという間もない内に、上り込んで来た。
「ちょっと!」
私は叫ぶように、「何ですか?」
母もびっくりして出て来る。
「どなたですか」
と、母が面食らって|訊《き》くと、
「警察の者です」
と、手帳を|覗《のぞ》かせて、言った。
――警察!
私と母は思わず顔を見合せた。
「何のご用ですか」
と、母は青ざめた顔で言った。
「黒田さんをご存知ですね」
と、刑事の一人が言った。
「ええ……」
「ここに来ませんでしたか」
「来ました。でも……」
「いつ帰りました?」
「さあ……。もうずいぶん前です」
「ちょっと捜させてもらいます」
「あの――」
母が止めるのは、無理な話だった。
刑事たちは、マンションの中を、素早く見て回った。
「――いないな」
「どういうことですの?」
と、母が、腹立たしげに言った。
「黒田さんの奥さんが|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》でしてね」
「行方不明?」
「別れようとしていたのは、ご存知でしょう」
「はい」
「あなたが原因ですね」
母は、少しためらって、
「まあ……そうです」
と、言った。
「奥さんは拒んでいた。そのことで、大分、ケンカしていたようです」
「そうでしょうけど――」
「そして、突然、奥さんの姿が消えた」
刑事は意味ありげに言った。
「そんなことが――」
「どうもね。黒田さんが奥さんを殺した、とも考えられるんです」
母がよろけた。私はあわてて母を抱きかかえると、ソファに座らせた。
「母は体が丈夫じゃないんです」
私は、刑事に向って、食ってかかるように言った。
「失礼。しかし、どう言っても同じことですからね」
と、刑事は淡々と言った。
「そんなこと……ありえません」
と、母はやっと口を開いて、「奥さんと、別れる話をしている、と……」
「彼が言っただけでしょう? 奥さんに、直接会いましたか」
「いいえ」
「そうでしょう」
刑事は|肯《うなず》いて、「それに心配した奥さんのご両親が、上京しようとしていました」
「そんなこと、初耳です」
「途中で、夫婦とも亡くなったんですよ」
母がポカンとして、
「――亡くなった?」
「車が湖へ落ちた、というニュースを見ませんでしたか」
母が私を見た。――私には、何も言わなかった。
「殺されたんです。それから車ごと湖へ落とした」
「それも――黒田さんがやった、と?」
「嫌疑がかかっています」
「|嘘《うそ》です、そんな!」
「まあ、当人を見付けるのが第一ですね」
と、刑事は言った。「どこにいるか、心当りは?」
「家へ――帰ったと思ってました」
「いや、いません。大分あわてて、姿をくらました形跡があります」
「そうですか……」
母は|呆《ぼう》|然《ぜん》としている。――実感がないのは当然のことだろう。
「いいですか」
と、刑事が言った。「もし、黒田さんから連絡が入ったら、警察へ出頭しろと言って下さい」
「はあ」
「本人のためです。もし無実なら、その説明を聞きたい」
刑事たちは、互いに|肯《うなず》き合って、
「では」
と、帰って行く……。
私は、複雑な思いだった。
――こうなればいい、と願っていたはずなのに、いざ、母が呆然としているのを見ると、母が哀れに思える。
「元気出して」
と、私は母の肩に手をかけて、「まだそうと決ったわけじゃないんだし」
「そうね……」
母は立ち上って、「ご飯、食べてしまいましょ」
と、フラフラとダイニングへ入って行く。
「お母さん。――お父さんを呼ぼうか?」
と、私は言った。
「うん……。そうね」
「分った」
私は、父の所へ電話をかけた。
「――やあ、どうした」
「あのね、今、刑事が……」
「刑事?」
私の話を聞いて、父は、ため息をついた。
「なるほど。――来るものが来たか」
「お父さん……じゃないの?」
「警察へ連絡したのがか? いや、違う」
「そう。ともかく、お母さんが参っちゃってる」
「分った。すぐ行くよ。母さんを気を付けててくれ」
「うん」
私は、電話を切った。
「――すぐ来るって」
母は、窓から外を見ていた。
「いるわ」
「え?」
「今の刑事さん。ここを見張ってるんだわ」
私も|覗《のぞ》いてみた。なるほど、一人の刑事が道に立って、マンションの方を見ている。
「――何てことかしら」
母は、|呟《つぶや》いた。
電話が鳴り出す。――母が、びっくりするような勢いで、飛んで行った。
「お母さん!」
あわてて後を追う。
「――もしもし」
電話を取った母が、息をのむのが分った。「黒田さん! どこにいるの?」
と、母が叫ぶように言った。
36 マンション脱出
黒田からの電話!
私は息を殺して、母の顔を見つめていた。
「――ええ、今、ここに警察が。――聞いたわ。もちろん信じないわ、そんなこと。あなたにそんなことができないってこと、私にはよく分ってるもの」
母の口調は確信に満ちていた。
こんな時でもあり、それに私も父も、黒田がおそらく犯人に違いないと思っていたのに、私はその母の言葉に胸を打たれたのだった。
「――どうしたらいいの、私?――何を言ってるの。私はあなたについて行くわ。何でも言って」
ちょ、ちょっと待ってよ! 私はびっくりしてしまった。
「――ええ、分ったわ。ちゃんとお金を持って行きます」
お母さん! 私は母に向って強く首を振って見せたが、母の方は全く無視している。
「――ええ。――よく分ってるわ。ちっとも迷惑なんかじゃないのよ。――それじゃ」
母は電話を切った。
「お母さん!」
「ね、奈々子」
と、母はきっぱりとした口調で言った。「あなたの言いたいことは分ってるわ。でもね、お母さんはもう大人よ。自分のしていることはよく分ってるの」
「どうする気? 逃げたって、すぐに捕まっちゃう」
「でも、あの人は一人じゃだめなのよ」
と、母は言った。「一人じゃ、どうしていいか分らない人なの。逃げるか、出頭するか……。もちろん、とんでもないぬれぎぬよ。でも、あの人一人じゃ、ただ、どこかでじっと隠れてることしかできない」
母の言い方は、少しもヒステリックではなく、別人のように冷静で、落ちついていた。
「ともかく、あの人に会うわ。そして、ゆっくり話し合うの。――どうするのが一番いいのか。その上で、決めるわ」
私は、ちょっと間を置いて、
「もし――逃げよう、ってことになったら、逃げるの?」
「そういうことになるわね」
母はあっさりと言った。私は、母がこんなにもきっぱりと決断するのを見たのは、初めてだった。
「でも、心配しないで。すぐに本当の犯人が捕まるわよ」
この楽天家ぶりは、母らしいところで、私も、少しホッとした。
「でも、お母さん。今、お父さんがこっちへ来るわ。それまで待ってよ。ね、一人じゃ無理だから」
「いいえ」
母は|微《ほほ》|笑《え》んで、「お父さんはきっと私のことを止めるわ」
そりゃそうだろう。
母はさっさと寝室へ入って行く。あわてて追いかけて行くと、母は洋服ダンスの奥の方から、スーツケースを引張り出し、中に下着だのタオルだのを詰め始めた。
この手早さ!――恋というのは、本当に偉大なもんだ、と私は思った。
いや、感心してる場合じゃない。何とかしなきゃ!
出かける仕度をしている母は、見たところ、楽しそうでさえあった。
たぶん――そうなのだろう。「楽しい」と言うと妙だが、母は、いつもしっかりした父のそばにいて、「頼りない人」だったのだ。
それが、黒田に出会って、初めて母は、「頼られる人」になった。――あの人を守ってあげなくちゃ、と母は張り切っているのだ。
しかし、母の心理分析をやったところで、状況は良くならない。
母が黒田と逃亡して逮捕されたら……。母も殺人の共犯ってことになるかもしれない。それは何としても避けなくては……。
「でも、お母さん」
と、私は言った。「表は刑事が見張ってんのよ。どうやって出て行くの?」
「ああ、そうね」
と、母は、やっと気が付いた様子。
|呑《のん》|気《き》なんだから!
「――いい方法があるわ」
と、母は言った。
「やめること?」
「いいえ。誰かが刑事の注意をそらしてくれればいいのよ」
「注意をそらすって……。誰が?」
母が、当り前の顔で私を見つめる。――冗談じゃない!
「いやよ、私」
と、頑として腕を組み、「絶対にそんなこと、やらないからね! 冗談じゃないわ! わざわざお母さんが捕まるのに手、貸すようなこと、できっこないでしょ! 当り前じゃないの……。全く、もう……」
マンションの前にタクシーが来た。
私は、母の方を振り向いて、
「本当に、どうしてもやるの?」
と、|訊《き》いた。
「やるのよ」
母は堂々と(?)言い放った。「そんな情ない顔しないで、結構良く似合うわよ」
情ない顔をしたくもなろうってもの。だって、母の地味なスーツに母のコートをはおり、頭からネッカチーフをかぶって、すっかり「おばさん」になってしまっていたからである。
まあ、もちろん今はこんなことを言っている場合じゃないことは分っている。でもね、十七歳の|乙《おと》|女《め》としては……。
「さ、行って!」
ポンと母に背中を突かれた私は、重い足取りで、マンションから出て行った。
タクシーのドアが開くと、私はいかにも人目を避けるように頭を低くして、さっと乗り込んだ。
「ええと――東京駅」
と、運転手に言うと、声を聞いてびっくりしたのか、
「ずいぶん若い人だね、老けてる割には」
と、わけの分らないことを言っている。
「早く行って!」
タクシーが走り出すと、私はチラッと外を見た。
見張っていた刑事が、あわてて駆け出すのが見える。どうやら、うまく引っかかってくれたようだ。
――この後、もう一台、タクシーを呼んである。母は、刑事がいなくなってから、悠々とマンションを出る、というわけだ。
このタクシーは、あの刑事がナンバーを見ているだろう。
少し走ったところの駅の近くで、
「あ、そこでいいです」
と、私は言った。
「え?」
運転手が面食らって、「東京駅へ行くんじゃないの?」
「そこ、駅です。東京の駅[#「東京の駅」に傍点]ですから」
強引な理屈だ。――タクシーを降りると、私は、駅前のトイレに入って、コートを脱ぎ、スーツの|上《うわ》|衣《ぎ》も脱いで、手にした紙袋の中のジャンパーに替えた。
それから、バス停に並んで、バスでマンションの近くまで戻ることにする。
それにしても――これで良かったんだろうか?
母を、無理にでも引き止めておくのが、私の役目だったのかもしれない。
「ま、やっちゃったことは仕方ない」
と、私は|呟《つぶや》いた。
バスは割合すぐに来て、マンションに戻った時、まだあの刑事の姿は見えなかった。
「――奈々子」
ロビーへ入ると、父が立っていた。「どこへ行ってたんだ! 部屋へ行っても誰もいないし、心配したぞ」
「ごめん」
「母さんは?」
「うん……」
私は、ちょっとためらって、「ね、部屋へ行って話さない?」
と、言った……。
――父は、部屋で私の説明を聞くと、
「何て無茶を!」
と、|呆《あき》れ顔で言った。
「引っぱたかないの、私のこと?」
「どうして|叩《たた》くんだ?」
「よくTVドラマでやるじゃない」
父は、ちょっと笑って、私の肩を軽くつかむと、
「お前の気持は分る。母さんのような人を、無理に止めれば、|却《かえ》って傷つくだけだ」
「でも……。どうなるんだろうね」
私は、今さらのように、事態が深刻になっていることを痛感した。
「しかし、一つ分らないことがある」
と、父は言った。
「え?」
「誰が、黒田のことを警察へ知らせたのか、ということだ」
「それは私も不思議」
「刑事が来た時の話を、もう一度聞かせてくれ」
私は、刑事がここへやって来た時のことを詳しく話した。
「――ふむ」
父は|肯《うなず》いた。
「何か、気が付くこと、あった?」
「一つある」
「なあに?」
「誰か知らんが、その通報した人間は、河井知子が殺されたことを、言っていない」
「あ、そうか」
「しかも、河井知子の場合は、隣の平田さんが、顔を見ているんだ。黒田とそっくりの……。黒田の妻のことだけでなく、両親のことまで知っている人間が、なぜ河井知子のことを知らないのかな」
「よく……分んないね」
父は、ゆっくりと息をついた。
「――ともかく、今はどうしようもない。母さんが何か連絡して来るのを待つしかないだろうな」
「じゃ――お父さん、泊ってく?」
「もちろんだ」
父が、|微《ほほ》|笑《え》んだ。私はホッとした。
父がいてくれる。――その安心感を、こんなにも強く感じたのは、初めてだ。
37 通報者
私が目を覚ましたのは、もう夜中だった。
自分の部屋で、何か連絡が入って来るかと待っている内、いつの間にか自分のベッドで眠ってしまったらしい。
起き上って、頭を振ると、時計を見た。一時過ぎ。
――ふと、話し声に気付いた。
居間の方で、男の人がしゃべっている。父の声もしたが、他にも二、三人……。
誰だろう?
私は、そっと部屋を出て、居間を|覗《のぞ》いた。
「奈々子か」
父は、すぐに気付いて、「入りなさい」
「やあ、すっかり|騙《だま》されたな」
と、笑ったのは、さっき表で見張っていた刑事である。
私も、逮捕されるのかと思っていたので、いかにも明るいその笑いにホッとした。
「お母さんから、何か?」
「いや、まだだ」
と、父は首を振った。「しかしな、どうもこの事件は、違う角度からも見る必要があるんじゃないか、と、今話していたところさ」
「違う角度って?」
「さっき言ったろう、一つは誰が警察に通報したのか、という点。今、刑事さんにうかがって、男の声で、匿名の電話があったことが分った」
「匿名の?」
「もう一つ、妙だったのは」
と、父は続けて、「黒田が、なぜ警察の来る少し前にあわてて逃げ出したか、だ」
「それはもしかしたら――」
と、私はソファに腰をおろして、「私を殺しそこなったからかもしれない」
「何だって?」
私は、昼間、黒田のものかもしれない車に、危うくひかれそうになったことを話した。
「――なるほど」
と、刑事は|肯《うなず》いて、「しかし、黒田は車を持っていない」
「レンタカーなら?」
「いや、それもだめだね」
「でも――」
「黒田は、三日前に、軽い事故を起こして、免許を取り上げられている。レンタカーは借りられないよ」
私は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「じゃ……。誰が一体――」
「その誰か[#「誰か」に傍点]は、おそらく黒田の容疑を確実にするつもりで、お前を|狙《ねら》ったんだ」
と、父は言った。「ところがしくじった。もしかすると、お前がチラッとでも、顔を見たかもしれない。そこでそいつは、警察へ黒田のことを通報し、同時に黒田に、警察が逮捕しに向っていると知らせた」
「あの人、気が弱いから、どうしていいか分らなくなって……」
「逃げ出したんだ。逃げりゃ、犯人だと認めたようなものだからね」
私は、胸がドキドキして、思わず手で押えた。――思いもかけない展開!
「誰なの、それ?」
父は、黙って刑事たちと顔を見合わせた。
「――行ってみましょう」
と、刑事は立ち上った。
「そうですね」
父も立って、「当ってみるのが一番だ」
「ねえ」
と、私は、半ば|諦《あきら》めながら、言った。「私は行っちゃいけないんでしょ?」
「いや」
父は、意外なことに、私の肩に手をかけて、「お前が行ってくれないと、困るんだよ」
と、言った……。
「――どうも、恐縮です」
と、父が言った。「こんな時間に、お呼び立てして」
「いやいや」
と、笑って、父の部屋へ上って来たのは、隣室の平田である。「お隣ですからね。それに、こっちは夜中が仕事時間ですから」
「まあ、どうぞ」
父が居間へ平田を通す。「かけませんか。今、コーヒーをいれます」
「ええ。それじゃ、いただきましょう」
平田がソファに|寛《くつろ》ぐ。「しかし、田中さんも、ずいぶん夜ふかしでいらっしゃる」
「年をとると、睡眠は少なくてもいいんですよ」
と、父は言って、笑った。「――おい」
台所にいた私は、
「はい」
と、返事をした。
「コーヒーを持って来てくれ」
「はい」
――平田が、
「おやおや、田中さん、また若い彼女ができたんですか?」
と、|冷《ひ》やかすように言った。
「ま、若い彼女には違いないですな」
「いや、|羨《うらやま》しい! 物書きなんて、一向にもてませんよ」
と、平田が笑う。
私は、コーヒーを盆にのせて、居間へ運んで行った。
「どうぞ」
平田が、
「や、どうも――」
と、言いかけて、私の顔を見ると、ハッとするのが分った。
「ご覧の通り」
と、父が言った。「娘の奈々子です。前に確か――」
「え、ええ……。そう、お目にかかりましたね」
平田がニヤニヤしながら言った。その顔は引きつっている。
私は、わざと平田の顔を、少し離れて、じっと、眺めてやった。――平田は、
「私の顔に何かついてますかね、お嬢さん」
「いいえ、別に」
「奈々子。失礼だよ。――あっちへ行ってなさい」
「はい」
私は、台所へ戻った。
「――どう?」
待っていた刑事が、|訊《き》く。
「反応ありです」
と、私は|肯《うなず》いて見せた。
「やっぱりね」
刑事の声は、あまり小さくなかった。
居間で、平田が、
「どなたか、お客ですか」
と、言っているのが、聞こえて来る。
「いや、どうしてです?」
「何だか……声がしたようで」
「そうですか? 台所にもTVがあるんで、その声でしょう」
「ああ、なるほど。――で、ご用とおっしゃるのは?」
「実は、あなたに、二、三うかがいたいことがありましてね」
と、父が言った。
そこへ電話が鳴った。
「おっと、失礼」
父が、受話器を取る。
「――もしもし。――ああ、そうか。――うん、ちょっと待ってくれ」
と、少し間を置いて、「平田さん、すみませんが、五分ほど……」
「ええ、どうぞ」
「仕事の話なので。――もしもし。待っててくれ、仕事部屋の電話に切りかえる」
父は、居間を出て行った。
私は、台所の水道を大きくひねって水を勢い良く出した。
さて。……うまく行くかどうか。
しばらく水を出しっ放しにして、止める。――父が台所へやって来た。
「どう?」
「いなくなったよ」
と、父は言った。「成功だ」
「行きましょう」
刑事が|肯《うなず》いて、言った。
廊下へ出て、二人の刑事と父が、平田の部屋のドアのわきに、ピタリと体をはりつけて立った。――私は、父の部屋のドアを細く開け、息を|呑《の》んで、様子をうかがっている。
ガタゴト音がして、平田の部屋のドアがそっと開いた。
平田が、ボストンバッグを手に出て来て――父と刑事に気付いて、ギョッとする。
「急にお出かけですか」
と、刑事が言った。
「どけ!」
平田が刑事にいきなりボストンバッグを|叩《たた》きつけた。不意をつかれて、刑事がたじろぐ。
平田が駆け出した。こっちへ来る!
私は、パッと思い切りドアを開けてやった。平田が、ドアに正面衝突、ガーンという、何ともいい音をたてたのだった……。
38 哀れな告白
「前から……何度か彼女のことは見かけてたんです」
平田は、消え入りそうな声で言った。「それで、……|可愛《かわい》い子だな、と……」
平田の部屋の中。――独り住いの部屋は、どことなく|侘《わび》しい。
「それで、あの日は?」
と、刑事が事務的な口調で|訊《き》く。
「はあ……。私はもの書きですが、大して仕事があるわけでもありません」
と、平田は、すっかり肩を落として、「あの日も、前の晩から、徹夜で書いた原稿を、昼前にやっと仕上げて……。雑誌の編集部へ電話を入れたら、もうその原稿はいらなくなったよ、と言われて……」
平田の額には、大きなこぶ[#「こぶ」に傍点]ができていた。
「それで?」
「はあ。――腹が立つやら、がっくり来るやら、で……。お隣からは、彼女の明るい声が聞こえて来ます」
平田は、ゆっくりと首を振った。「畜生、と思いました。どうして俺はこんなにツイてないんだ、と……。その内、田中さんが急いで出て行く音がしました。――彼女は中で一人きりだ、と思いました。たぶんまだベッドの中で……。そう思うと――」
平田は、大きく息をついた。
「どうしてあんなことをしたのか……。気が付くと、私は包丁を手にして、廊下へ出ていたんです。チャイムを鳴らすと、彼女がドアを開けたんです。きっと田中さんが戻って来たと思ったんでしょうね」
「それで――」
「私は、甘く考えてました。刃物をつきつければ、女は怖くて声も出ないだろう、と。――何をされても、きっと、恋人には黙ってるだろう、と……。とんでもないことでした」
平田は、ちょっと苦笑して、「彼女は寝室へと逃げて行きました。追って行くと、|凄《すご》い勢いで暴れて……。悲鳴を上げ始めたんです」
「それで殺したのか」
「ちょっとけがをさせれば黙るだろう、と……。でも、もみ合っていたし――気が付いたら、深々と刺してしまっていたんです」
父が、顔を両手で覆うのが見えた。
「――とんでもないことになった、と思って、それでも、動かなくなった彼女を見下ろして、ぼんやり立っていたんです。すると、玄関で誰かの声がして」
平田は、ぬるいお茶を一口飲んだ。「びっくりして、私は、洋服ダンスのかげに隠れました。――その男は『誰かいませんか』と、声をかけながら上って来て、寝室を|覗《のぞ》いたんです。仰天して、腰を抜かしてしまって……」
平田は、笑い出した。
「あの時の、あいつの顔ったら……。本当に……見られたもんじゃなかった……」
ヒステリックに笑う平田の肩を、刑事が強くつかんで、揺さぶった。
「おい! しっかりしろ!」
平田は、笑うのをやめると、
「すみません。――大丈夫です」
と、|肯《うなず》いた。
「そいつが逃げ出すのを待って、この部屋へ戻ったんだな」
「ええ。――その人相は、申し上げた通りです」
「黒田だ」
と、父は言った。「たぶん、私に会いに来たんだろう。死体を見て、怖くて、誰にも言わずに逃げ出したんだ」
「全く……。悪い夢を見てたようです」
と、平田は言った。「殺す気はなかった。本当です」
「そうだとしても」
と、刑事は言った。「すぐ後で、知らん顔をして出て行き、他の人間に罪をなすりつけようとしたのは、許せんな」
平田がうなだれる。
「教えてくれ」
と、父が言った。「なぜ黒田が、妻を殺したとか、知らせたんだ?」
平田は少しためらってから、言った。
「教えてくれた人がいるんです」
「教えた人?」
「はあ。誰だか知りませんが、私が犯人らしいことを知っていて、黒田って奴に、この殺人の容疑もかけてやればいい、と」
「つまり――黒田が妻と、その両親を殺したらしいと、君に教えたんだね」
「そうです」
「で、なぜこの子を車でひこうとした?」
「それも、その男が、いや――男か女かよく分らない声でしたけど」
「私を車ではねろって?」
「そうすれば、黒田が犯人ってことがはっきりする、と……。ともかく、私は自分が疑われてるんじゃないかと怖くて。言われる通りにしてしまったんです」
「その声が誰のものか、見当はつかないのか?」
と、刑事が|訊《き》いた。
「全然。――知ってる人間の声じゃなかったと思います」
刑事の一人が、
「凶器を見付けましたよ」
と、顔を出す。
「――よし、行こう」
と、刑事は平田を促して、立ち上った。
「――哀れね」
父の部屋へ戻って、私は言った。
「平田のことか? しかし、殺された彼女が、もっと哀れだ」
「うん、そうだね」
父が、自分を責めているのを、私は分っていたので、何も言わなかった。
父は、息をつくと、
「母さんは、どうしたのかな」
と、言った。
「うん……。マンションにいなきゃ、こっちへかけて来ると思うけど」
もう、夜中の三時に近い。
「――ね、お父さん」
「何だ?」
「河井知子を殺したのは黒田じゃなかったけど、他のことは……」
「うん。――まだ、黒田が妻とその両親を殺したという可能性はある」
「そうね」
「しかし……さっきの平田の話を聞いても、果して黒田にそんなことができたかな、と思えて来るよ」
「それはそうね」
「いずれにしても、早く警察へ出頭した方がいい。母さんが連絡して来れば、そう言ってやるんだが」
父は時計を見て、「――奈々子、どうする?」
「うん。マンションへ戻ってようかな。もしかして、帰って来るかも」
「そうだな。タクシーを呼ぼう」
「学校は休む。それどころじゃないもん」
「それは確かだ」
と、父はため息をつくと、タクシーを呼ぼうと電話へ手をのばした。
39 逆 転
私は、くたびれ切って、マンションに戻った。
もう四時近く、ということは、朝に近い、ということである。
「電話でもして来りゃね」
と、玄関を入って、|呟《つぶや》く。「黒田さんが人殺しじゃないかもしれないよ、って、教えてあげるのに」
明り、|点《つ》けっ放しだったっけ。
靴を脱いで上ろうとすると、何かをけとばしていた。――ん? 男ものの靴。
お父さんの靴じゃないし……。
私は、母がはいて行った靴も、そこに並んでいるのを見て、自分の目を疑った。――帰って来てる!
「お母さん!――お母さん!」
私は居間へ飛び込んだ。
ソファに、母と黒田が横になって、眠り込んでいるようだった。私は、気が抜けてしまって、その場にしばらく突っ立っていたが……。
「そうだ!」
父へ電話しよう。知らせてやらなくちゃ。
父も、まだ起きていたようで、すぐに出た。
「お父さん?」
「奈々子か。どうした?」
「ご安心下さい。帰ってみたら、お母さんと黒田さんが、ソファで寝てるの」
「何だって?」
「ねえ、|呑《のん》|気《き》なもんよね。こっちに散々心配かけてさ」
と、私は笑いながら言った。
「そうか」
と、父は言って、「――二人とも、起きたのか?」
「ううん。ぐっすり寝てるよ」
と、私は言った。「起こすのも可哀そうかな、と思って」
「起こしてみろ」
「え?」
「ただ眠っているだけならいいが、もし、二人が薬でものんでたら――」
私は青くなった。そんなこと、考えてもいなかった!
「待って! ちょっと待っててね。このまま」
あわてて母へ駆け寄り、思い切り揺さぶって、「――お母さん! 起きてよ! お母さん!」
――しかし、母は一向に目を覚ます気配がなかった。脈を取ってみると、一応打ってはいるが、弱々しく感じられる。
私は受話器へ飛びついた。
「お父さん! 目を覚まさないよ!」
「すぐ救急車を呼べ。私もそっちへ行く」
父がそう言って、「一一九番だ。いいな?」
と、念を押す。
「うん。すぐかける」
――私は一一九番にかけて、救急車を頼んだが、その間、手から受話器が滑り落ちそうになるのを、必死で抑えていなくてはならなかった……。
肩を軽くつかんで揺さぶられ、私は目を覚ました。
「――お父さん」
首が痛かった。――病院の|長《なが》|椅《い》|子《す》に座ったまま眠ってしまっていたのだ。
もう、朝になって、病院は動き出し、看護婦さんたちが忙しく動き回っている。
「お母さんは?」
と、私は|訊《き》いた。
父が、隣に座る。ひげを|剃《そ》っていないので、ずいぶんくたびれて見えた。
「母さんは助かる。大丈夫だ」
「――良かった!」
と、私は息をついた。「ずっと起きてようと思ったのに、眠っちゃった」
「当り前だ。学校へも連絡した方がいいんだろう?」
「うん。――今、何時?」
「もうすぐ八時だ」
「じゃ、事務の人、誰か来てるな。電話して来る」
「小銭あるか?」
「貸してくれる?――サンキュー」
私は、立ち上がって、頭を振ってから、「お父さん」
「うん?」
「あの人――黒田さんは?」
父が、ちょっと目を伏せて、
「死んだよ」
と、言った。「薬の量は同じだったらしいが、体質的に弱かったんだろう」
「お母さん……そのことを?」
「いや。まだ母さんも意識は戻ってないからな」
「そう……」
私は、病院の外来受付の近くの公衆電話へと歩いて行った。――黒田の死を聞いて、母がどう思うか、それに堪え切れるだろうか、と私は心配だった……。
学校へ電話を入れ、休むことを伝えてもらうようにして、私は千恵の所へも、電話を入れておこうかと思った。
「ええと……竹沢さんの所、何番だったかしら」
と、思い出そうとしていると……。
診療は八時からだが、もう患者さんたちは次々にやって来て、順番を取って待っている。
私は、ふと、正面玄関を入って来る女性に目を止めた。――見たことのある人。
誰だろう? どこかで会った……。
その女性は、案内の窓口に行って、何か|訊《き》いている。
私は、顔から血の気のひくのを覚えた。
まさか!――でも、確かにあれは――。
「――待って」
と、私は、小走りに駆け寄っていた。「あなたは……」
振り向いたその女性は、私のことを思い出したようだ。
「あなた、娘さんね」
と、黒田の妻[#「黒田の妻」に傍点]は言った。
「どこにいたんですか、今まで!」
つい、声が高くなっていたらしい。看護婦さんに、
「大きな声を出さないで下さい」
と、注意された。
「黒田が――入院したって聞いて」
私は黙って、先に立って歩いて行った。
父が、医師と話しているのが目に入る。
「お父さん」
「学校へ連絡したのか」
「うん。――お父さん。黒田さんの奥さん」
私は、わきへ退いた。
父が、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、黒田の妻を見つめていた。
「あの人――どんな具合ですか?」
「こちらへ」
父は、黒田の妻を促して、|長《なが》|椅《い》|子《す》の方へと歩いて行った。
「今、君のお父さんと話してたんだがね」
と、医師が言った。「お母さんは、二週間ぐらいは入院していた方がいいと思う。精神的なショックもあるだろうから、できるだけ、家族の人が誰かついていてあげてくれると――」
医師の言葉が、耳の外を流れて行く。――私は、父が黒田の妻に話をしているのを、じっと見ていたのだった。
「じゃ、結局、黒田さんは何も[#「何も」に傍点]していなかったの?」
と、私は言った。
「そういうことになる。――何てことだ」
父は、ゆっくりと首を振った。
病院の食堂へ入って、もう昼食の時間だったので、何か食べようかと言ったのだが、二人とも、目の前の定食に、ほとんど口をつけられなかった……。
「奥さんにしてみれば、黒田が、別れるとか別れないとか、はっきりしないので、いい加減ノイローゼ気味だったらしい。それで、古い友だちの所へ泊めてもらって、しばらく気持の整理をしたかった、ということだ」
「でも、連絡ぐらいすれば良かったのに」
「電話しても留守だった、と言ってる。――まあ、声も聞きたくない、という気持だったんだろう」
「だけど……。じゃ、奥さんの両親のことは?」
「よく分らないが、あれもたぶん、強盗か何かに襲われたんじゃないかな。黒田に、そんなことはできないよ、きっと」
「じゃあ……何も死ぬことはなかったのに」
「全くだ」
と、父はため息をついた。「よほど気の弱い人間だったんだな。|怯《おび》えて、逃げ回るのも怖かったんだろう。――たまたまお母さんが一緒なので、二人で死のう、と……」
私は、あまりおいしいとは言えないスパゲティを、無理に口へ入れて、
「――お母さんに何て話すの?」
「私が話すよ。支えになってやらなくては」
「そうだね……」
私は、もちろん母が助かって|嬉《うれ》しかったが、事実を知ったら、きっと母は、一緒に死んでいれば良かったと思うだろう。
そんな母に、どうすれば再び生きる力を与えられるだろうか。――私には、見当もつかなかった……。
「田中さんですね」
と、看護婦さんが呼びに来た。
「そうです」
「芝千代子さんが、意識を取り戻されました」
私と父は、急いで食堂を出た。――急ぎながら、足取りは、つい重くなっていたが。
40 仕返し
「奈々子!」
母の入院した翌日、学校へ出た私は、校舎へ入ったところで、いきなり山中久枝に腕をつかまれた。
「久枝。どうしたの?――びっくりさせないでよ。そうでなくても参ってるのに」
「それどころじゃないわよ」
と、久枝は真顔で言った。「ね、奈々子、あなた、矢神さんのお父さんに、選挙のこと訴えたの?」
「訴えた?――大げさね。向うが話してくれ、って言うから、事実を説明しただけよ。それがどうしたの?」
と、私は言った。
「じゃ、会ったのね、本当に」
「あっちが、私に声をかけて来たの。話を聞きたい、って。――ね、一体どうしたっていうのよ?」
久枝は、私を人目につかない隅へ引張って行って、
「矢神さん、父親に相当ひどく言われたみたい。本気で怒ってるわ。用心して」
「そう言われてもね……。私は何も――」
「分ってる。でも、矢神さんにしてみれば、プライドを傷つけられたのよ。今まで、父親の前じゃ、『いい子』で通してたんだから」
私は、ため息をついた。
「もう疲れたわ。母は入院するし、選挙のことまで、頭が回らない」
「大変ね」
久枝は、私の肩を|叩《たた》いて、「何かあったら、知らせるわ。――でも、気を付けて」
「ありがとう」
久枝の気持は、|嬉《うれ》しかった。
「それにね、|噂《うわさ》が流れてるの」
「噂って?」
「一年生の、竹沢千恵。あなたと組んでる」
「彼女がどうしたの?」
「今日、休んでるの。――ゆうべ家へ帰らなかったって、お家から電話が入ったらしいわ」
「千恵が、帰らなかった?」
「もちろん、それが矢神さんと関係あるかどうかは分らないけど……」
――私は、教室へ入って、クラスの子たちの視線に、何かを感じた。
誰もが、何か[#「何か」に傍点]知っている。――前にも時々感じた、そんな印象が、この日は特に強かった。
私自身は――もちろん、母を、何とか元のように元気な母に戻さなくては、ということはあったものの――そう大きな問題をかかえているわけではなかった。むしろ、心配なのは、竹沢千恵のことだ。
授業にも、一向に身が入らない。昼休みになったら、千恵の家へ電話してみよう、と私は思った……。
昼休み、パンの昼食を手早く済ませた私は、事務室まで行って、千恵の家へ電話してみた。――しかし、誰も出ず、|虚《むな》しく鳴り続けているばかり。
|諦《あきら》めて、事務室を出ると、生徒会の掲示板に生徒が集まっている。
何だろう? 近づいて行くと、誰かが私に気付いた。――そして、スッとみんなが散ってしまう。
私は、掲示板を見た。自分の目が、信じられなかった。
そこには、まるで写真週刊誌のゴシップ記事みたいに、母の大きな写真――それも、黒田と一緒に、マンションの前で車に乗ろうとしている写真が|貼《は》ってあった。
そして、大きな字で、〈生徒会長候補芝奈々子さんの母親、心中未遂!〉と書かれていたのだ。その下に〈相手の殺人容疑者の男は死亡〉と付け加えて、さらに細かい字で、母と、黒田の名を出して、新聞記事風に、今度の出来事のいきさつを、簡単にまとめていた。
しかも、父の若い恋人が、父の住むマンションで殺された事件まで、触れてある。
私は、膝が震えた。――矢神貴子が、プロを使って調べさせたのに違いない。
そうでもなければ、こんな写真まで、とれるわけがない。
私は、掲示板の、その写真と「記事」を、引っぱがし、手の中で握り|潰《つぶ》した。
周囲からその様子を眺めていた生徒たちは、私と目が合うのをさけるように、歩いて行ってしまった。
私は、掲示板の前に、一人で立っていた。――急に、校舎の中が寒々と感じられて来た……。
「――芝さん」
と呼ばれて、我に返る。
事務室の女性だった。
「何か?」
「電話が。竹沢さんって方」
私は、事務室へと駆け込んで行った。
「――もしもし!」
「竹沢千恵の母です」
「あ、芝です。あの――千恵さんのこと、今日、学校で聞いて。何か――」
「あなたのせいよ」
と、千恵の母親の声は、震えていた。「千恵が、あんなひどい目にあって……。あなたが、千恵のことを……」
泣いている。――私は、受話器を握りしめた。
「もしもし! 何かあったんですか?――今、千恵さんは?」
長く、重苦しい間があった。
「病院にいます」
千恵の母親の声は、涙で|濡《ぬ》れていた。「自分の目で見てみなさい……」
「病院に?」
私は、まさか、と思った。――いくら何でも、そんなことが……。
「あの子、|憶《おぼ》えてる? お父さんに、ご飯作ってくれた、メガネの子。――あの子がね、男たちに連れ出されて、乱暴されたの。一晩中……。今、ショックで入院してる。以前、付合ってた男の子に、車で送ってやるって言われて、気軽に乗ったらしいのね。そしたら、途中で他の男が何人も乗って来て、逆らうこともできなくて、そのまま車で郊外へ連れ出されて……。体中、打ち身やすり傷だらけだって……。私のせいなの。私が悪かったんだわ!」
――父のマンション。
一気にしゃべってしまうと、私は、父の肩に顔を|埋《うず》めて、思い切り泣いた。
――何十分、泣いていただろう?
「ごめん……。もう、どうしていいか分らなくなって」
と、私は息をついた。
「やった奴らは捕まったのか」
「ううん。親が、|表沙汰《おもてざた》にしたくないって」
「そうか」
と、父は|肯《うなず》いた。
「でも、分ってる。――あの人が仕組んだのよ。矢神貴子が。お母さんのことだってそうだわ」
あの平田を、黒田のことを密告するようにそそのかしたり、私を車で狙わせた電話も、おそらく矢神貴子に頼まれて、母と黒田のことを調べていた人間だろう。
父がコーヒーをいれてくれる。
「ありがとう」
思い切り砂糖を入れて甘くして飲むと、ホッと息をついた。「お父さん」
「何だ?」
「私、学校やめる。とてもいられない」
「そうか。――分った」
父は、私の手を、優しく、包むように握って、「しばらく、母さんのことを見ててやってくれ」
と、言った。
「うん」
私は|肯《うなず》いた。「お母さん、立ち直ってくれるといいね」
「立ち直るさ。大丈夫だ。お前と、それに私もいる」
「そうだね」
私は|微《ほほ》|笑《え》んだ。そして、父の手を、しっかりと握り返した。
――退学届を、その夜、父のマンションで書いた。もちろん、父の印も必要だったからだ。
「今夜はマンションへ帰るのか」
と、父が言った。
「泊ってっていい?」
「ああ、もちろんだ」
と、父は笑顔になって、「明日は、朝から母さんのそばについててやる。――先に|風《ふ》|呂《ろ》へ入るか?」
「うん」
私は、まだ涙のあとの目立つ顔で、笑って見せると、父の額にチュッとキスしてやった……。
「――奈々子」
久枝が、校舎の前で待っていた。
「久枝。もう午後の授業、始まってるよ」
と、私は言った。
「いいよ。さぼるから」
「そう?」
私たちは、校門の方へと歩き出した。
「――短かいけれど、長かった」
と、私は言った。「色々、大変だったね」
「うん……」
久枝は、目を伏せたまま、「恨まないでね」
と、言った。
「まさか」
久枝の腕を、私は取って、「また、手紙でもちょうだいね」
と、言った。
「うん。――その内、ここも変るかもしれない」
「そうね。そうなるといいけど……。ともかく、私の力じゃ、どうにもならなかったわ」
「そんなことないよ。みんな、少しは考えてると思う」
「考えてるだけじゃだめよ。何か[#「何か」に傍点]しなくちゃ。自分にできる範囲でいいから、何かできることを」
私は、久枝の手を軽く握って、「じゃ、さよなら」
と、言うと、校門を出て、歩き出した。
41 終 末
「なるほど。――そういう事情だったのか」
刑事は、ゆっくりと|肯《うなず》いた。
私は、落ちつかなかった。――別に犯人として捕まっているわけではないにしても、警察で話をするのは、あまり楽しいものではない。
でも、私は、あまり自分に都合のいいようにねじ曲げたりせずに話ができた、と思っていた。もちろん、それには、一年という時間がたっていたせいもあっただろう。
「あの……彼女には会えますか」
と、私は言った。
「もう落ちついたと思うよ。待っててくれ」
と、刑事は席を立つと、部屋から出て行った。
一人きりになって、ホッと息をつく。やはり緊張していたんだろう。
――もうあの色々な出来事から一年たった。
母は、前より少し老けた感じにはなったが、元気で、最近は美術館巡りが趣味になったようだ。
父とも、このところよく会っているし、このままいくと、復縁ということにも――と、私は想像している。
もちろん焦る必要はないわけだが。
黒田の妻の両親を殺した犯人は、三か月ほど後になって、他の強盗事件で逮捕され、自供した。――黒田の奥さんがどうしたのか、私は知らない。
今、私は、父の知り合いの人の紹介で入った女子高の三年生。短大にこのまま進むか、それとも、どこか四年制の大学を受けるか、まだ迷っているところだ。
千恵は、
「受けなさい」
と、たきつけるけど……。
千恵とは、もちろん竹沢千恵のこと。何の縁か、千恵も退学して、私と同じ学校へ入って来た。
会ってびっくり、というところだが、どうも千恵の方では分っていたんじゃないか、と私は思っている。
でも――あのひどい事件を、みごとに乗り越えた千恵の|逞《たくま》しさは、今でも私を励ましてくれている。
もちろん、千恵とは一年違いでも大の仲良しで、年中一緒である。――これで、大学まで一緒だったら……。
そんな予感も、正直なところ、しているのだけれど……。
M女子学院の子とは、もう会うこともなかった。――もちろん、あの出来事を忘れてはいなかったにしても、もう何もかも、終ってしまったことだった……。
今になって、こんな話をすることになろうとは。
ドアが開いた。
「――矢神さん」
と、私は言った。「久しぶりね」
矢神貴子は、別人のようだった。――もちろん、たった一年でしかないのだから、外見は少しも変らないが、やつれて、ほとんど眠っていない様子だ。
「座って」
刑事に|椅《い》|子《す》をすすめられて、矢神貴子は、寒そうに身を震わせながら、座った。
「話は、大体この子から聞いたよ」
と、刑事は言った。「君が保護してくれと言うのは、分るが、まあ、自分のせいでもあるようだね」
矢神貴子は私を見た。――一年前の、あの尊大な光は、その目にはなかった。
「有恵さんが?」
と、私は|訊《き》いた。
矢神貴子は|肯《うなず》いた。
「まさか……。あんなことになるなんて……」
と、|呟《つぶや》くように言う。
「有恵さんの彼氏を、あなたが奪ったのね」
「ええ……。人の物っていうものは、何でもほしかったのよ、私」
「でも、それだけじゃなくて、三年生にいじめさせたりして。有恵さんが入院したのは、あなたのせいよ」
「分ってるわ!」
と、叫ぶような声で、「でも――その時は、知らなかったのよ。他の子が勝手にやったんだわ」
「それは通用しないわよ。いつも、上に立ってるのは、あなただったんだから」
と、私は言った。
「――今井有恵は、母親がノイローゼで自殺して、その葬儀の席から姿を消しているんだ」
と、刑事は言った。
「いつのことですか?」
と、私は|訊《き》いた。
「四日前。――今日までに、女の子が二人、殺されている」
二人とも、矢神貴子の言う通りに動いて、有恵をいじめたりしていた子たちだった。
有恵が復讐しているのだ。
「怖いのよ……」
と、矢神貴子は、目を伏せた。
「お父さんが守ってくれるわ」
と、私は言った。
矢神貴子は、唇を引きつらせるようにして、笑った。
「あなたや、竹沢千恵のことが後で分って……。父は口もきいてくれないわ」
「でも――」
「ともかく、警察に頼むしかない、と思ったの。有恵から電話がかかって来て……。『会いに行くからね』って。――当り前の、静かなしゃべり方なの。ゾッとしたわ。学校から、ここへ真直ぐに来たの」
「まあ、用心してれば大丈夫。君のお父さんとも電話で話した。ちゃんと、人をつけて、安全なようにする、とおっしゃってたよ」
と、刑事は言った。「家へ送るよ」
矢神貴子は、ゆっくりと立ち上った。
――警察署の玄関を出て、私は、
「生徒会長になったんでしょ?」
と、|訊《き》いた。
「ええ。でも――」
「でも?」
「白票がね、三分の一もあったのよ」
そう言って、肩をすくめる。
「そう……」
刑事が、
「今、パトカーを回してる。――すぐだからね」
と、言った。
矢神貴子は、外の空気に触れて、少し気分が良くなったらしい。
晩秋にしては暖い、よく晴れた日である。
「今度の学校はどう?」
と、矢神貴子の方から、訊いて来る。
「ええ。のんびりしてるし、楽しいわ。それに選挙もないし」
「私もいないしね」
「そうね」
矢神貴子が、ちょっと声を立てて笑った。
「――山中さん、どうしてる?」
「久枝? 副会長を、体の具合が悪い、ってやめてね。それ以来、あんまり……」
「悪いの?」
「あなたにすまないと思ってるみたいよ」
「そう」
矢神貴子は、自分の満足のために、何人もの子を傷つけ、友情を壊して来たのだ。
「分ってるの?」
と、私は言った。「誰もあなたのこと、愛してなんかいないのよ」
矢神貴子は、怒った様子もなく、
「たぶんね」
と、|肯《うなず》いた。
その横顔の寂しさに、私はハッとした。
「――さ、来たよ」
と、刑事が促す。
パトカーが停った。
「じゃ――」
と、私が言うと、矢神貴子は、黙ってパトカーの方へと歩み寄った。
すると――突然、誰かが走って来るのが見えた。
髪をふり乱し、コートをひるがえして。
「有恵!」
と、私は叫んだ。「だめよ!」
矢神貴子は立ちすくんで、動けなかった。
刑事が、やっと飛び出そうとしている。
有恵が鋭く光る刃物を構えて、矢神貴子にぶつかって行った瞬間、私は、矢神貴子の顔に、ふと、ホッとしたような表情が浮ぶのを、見たような気がした……。
アンバランスな|放《ほう》|課《か》|後《ご》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『アンバランスな放課後』平成3年10月25日初版刊行
平成11年2月10日21版刊行