角川文庫
やさしい季節(下)
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
大通り
やさしい夜
怒 り
儚い空白
黒い関係
交 錯
別世界
発 作
クランク・アップ
スキャンダル
決 断
飛び入り
トランク
つなぐ手
試写室
夜の闇に
緊急連絡
絶 望
揺れるカーテン
憎悪の日
朝のうた
エピローグ
大通り
「あ、安土ゆかり!」
と、声が上がる。
「十五回」
ショーウィンドウを|覗《のぞ》きながら、ゆかりは言った。
「何だい?」
と、浩志はゆかりの方を振り返った。
「十五回って言ったの。今、私のこと、言ってたでしょ」
「日本の観光客だろ」
「そう。さっきホテル出てから、一時間の間に、十五回聞こえた、自分の名前」
「数えてたのか?」
と、浩志は|呆《あき》れて言った。
「ホテルに帰るまでに何回聞こえるか、|賭《か》けない?」
と、ゆかりは浩志の腕に、しっかり自分の腕を絡ませて、言った。
「いやだよ。僕は賭けるものなんかない」
と、浩志は苦笑した。
「浩志を賭けて」
「僕を?」
「私が勝ったら、浩志が今夜私のベッドに来る」
「負けたら?」
「私が浩志のベッドに行く」
二人は、一緒に大笑いした。
――ホノルルの大通り。
日本にいるみたい、というのは少しオーバーとしても、ともかく日本人の多いこと、予想はしていたが、驚くほどだ。
暑いというほどの陽気ではなく、泳ぐ気にはなれなかったが、こうして町をぶらつくには適当な気候だった。
「あ、どうも」
と、ゆかりは芸能人とすれ違って、会釈したが、「|誰《だれ》だっけ、今の?」
「知らないで|挨《あい》|拶《さつ》してるのかい?」
「顔は見たことあるもん。でも、TVとかと全然違うイメージで歩いてるから、分かんないのよね」
そう。――ゆかりなど、こうしていても、あまりTVで見るのと変わらないので、余計に気付かれるのだ。
下手をすると、誰も気付かないかも、と思うほどイメージの違うタレントもいるが、そこは当人も心得ていて、いやでも目をひく派手な格好をしている。
「ああ、やっと追いついた!」
と、大宮が走って来る。
「どうしたの?」
と、ゆかりが振り向く。
「だって――いつもそばにくっついてろ、って指示ですからね」
「ベッドの中でも?」
ゆかりがからかうと、大宮は真っ赤になって、
「いや、そこまでは……」
と、真剣に口ごもっている。
浩志は笑った。――少々気が重いのも確かだが、それでも、この休日を、浩志は楽しんでいたのである。
そろそろホテルに戻ろうか、ということになって、浩志とゆかり、それに大宮の三人は近道を通ることにした。
「ホテルの近くばっかり歩いてるから、やたらこの辺詳しくなっちゃったね」
と、ゆかりが言った。
確かに、目抜き通りから少し入ると、意外なほど静かなのだ。――まあ、観光客が通るような道じゃないのだろう。
「あのバス、何なの?」
と、ゆかりが、道ばたに寄せて|停《と》まっているマイクロバスを見て言った。「昨日もあそこにいなかった?」
「何か日本語で書いてあるな。――ああ、分かった」
と、大宮が言った。「射撃ですよ」
「射撃?」
「ピストルを撃てるんです。三〇ドルくらいかな。観光客相手の商売ですよ」
「ピストルって、本物の?」
と、ゆかりが言った。
「そうですよ。ゲームセンターみたいな所ですけどね。一回行ったことあるな」
浩志も、そういう場所があることは知っていた。客はほとんど日本人なのだろう。
「ね、誰でも撃てるの?」
と、ゆかりが目を輝かせる。
「だめですよ! 万一、事故でもあったら、どうするんです。僕は切腹、打ち首だ」
大宮は大|真《ま》|面《じ》|目《め》に言って、さっさと歩き出す。
「――さ、ホテルへ戻りましょう。今夜は取材が入ってんですよ」
ゆかりは口を|尖《とが》らしていたが、やがてスタスタ歩き出したと思うと――タタッと駆け出して、そのマイクロバスに飛び込んでしまった。
「ちょっと!――いけませんったら!」
大宮と浩志があわてて追いかけ、バスへ乗り込むと、ゆかりはアメリカ人のドライバーのそばに座っていた。そして、二人が乗って来たのを見ると、
「OK! レッツゴー!」
と、声高らかに言った。
バスの扉が閉まり、走り出す。浩志たちは、危うく引っくり返りそうになって、座席にドスンと腰をおろした。
「三人だけよ、お客。貸し切り」
と、ゆかりは|呑《のん》|気《き》なことを言っている。
「あのね……。こんなことして――」
「もう手遅れ。ね、浩志。二人で心中しようね」
浩志はふき出してしまった。
「かなわないな。大宮さん、大丈夫でしょう。普通の観光客も大勢行くんだから」
「社長にばれたら、大目玉だ……」
と、大宮が頭をかかえる。
「私の腕を見せたげる!」
と、ゆかりは指をポキポキ鳴らして、ドライバーの青年が愉快そうに笑い声を上げた。
マイクロバスは十五分ほど走って、少しごみごみした通りで|停《と》まった。
「こんな町の真ん中なの?」
と、ゆかりがバスを降りて、目を丸くする。「表の広い所で撃つのかと思った」
「機関銃撃つわけじゃないんですから」
と、大宮も|諦《あきら》めたのか、「この二階みたいですね」
三人で階段を上って行く。
下はゲームセンターで、ロックがにぎやかに鳴っている。
「いらっしゃいませ」
日系らしい女性が、受付に立っていた。
バン、バン、と奥の方から銃声が聞こえて来る。
大宮が現金で先払いし、三人とも書類にサインをする。
何か事故があっても自分の責任、という承諾書である。何でも訴訟になる国だから、こういう習慣になっているのだろう。
「ここは室内だから、二十二口径の、一番小型の銃しか撃てません」
と、大宮は言った。「これっきりですよ」
「はいはい。――どこで撃つの?」
「案内してくれますよ」
大柄な黒人の青年がやって来て、三人を手招きした。人なつっこい感じの青年で、何となく浩志はホッとした。
弾丸は十二発ずつ。ずつ、というのは、オートマチック、リボルバーの二種類の拳銃と、ライフルの、三種類を撃つことになっているからだ。
「ワクワクしちゃう」
と、ゆかりは喜んでいる。
「銃口を絶対人に向けないで、と言ってます」
と大宮が説明した。
「はい」
――二十二口径の拳銃とはいえ、鉄の塊だから、持つと手にずしりと来る。しかし、ゆかりのような女の子でも、両手でしっかり握れば、ちゃんと支えられる程度の重さである。
浩志は、弾丸をこめてもらったリボルバーを手にして、標的を眺めながら、これでも、近い距離なら充分に人が殺せるのだと思った。ちょっと背筋に冷たいものが走る。
教えられた通りに構え、|狙《ねら》いを定めて、ゆっくり引き金を引く。銃声は、映画とかで聞くのとは大分違って、短い破裂音。衝撃は意外なほど小さい。
細かく仕切られた隣では、ゆかりが一人でワーワー言いながら、撃っている。
「社長が知ったら……」
と、大宮はまだ|呟《つぶや》いていた。
――都合三十六発の弾丸は、アッという間に撃ち尽くし、三〇ドルの遊びは終わった。
「見て見て」
と、自分で撃った紙の標的をもらって、ゆかりははしゃいでいる。
浩志は、自分でもびっくりするほど、弾丸がよく命中しているのを見て、改めて怖いと思った。
「こんなこと、一回で充分」
と、大宮はゆかりをせかして、「さ、ホテルへ戻りましょ」
「はいはい」
ゆかりは、その紙の標的をたたんでバッグへしまい込むと、「帰ったら、邦子に見せてやろう」
と言いながら、階段を下りて行った。
「タクシーで帰りましょう。バスは今、迎えに出てるそうですから」
と、大宮が言った。
「ゆかり」
浩志がゆかりの腕をつかんだ。
「え?」
ゆかりは、浩志の視線を追って、やって来る男たち――国枝貞夫と、数人の子分たちに気付いた。
「どうしよう」
「黙って。偶然だよ。人目がある。大丈夫だ」
浩志は、ゆかりの肩を強く抱いた。
国枝貞夫は、ポロシャツ姿で、相変わらずどこか暗い光をたたえた目で、ゆかりを見た。
「やあ。――また会ったね」
ゆかりは、何も言わなかった。
国枝貞夫は、チラッと三人が下りて来た階段の方へ目をやると、
「射撃? 面白かったかい?」
と、言った。「もっともっと、いくらでも撃たせてあげるよ、君がやりたけりゃ」
「もう充分やりました」
と、ゆかりは言った。
「そう? じゃ、今度は、この二枚目さんを的にして撃つってのはどうかな? 面白そうじゃないか」
貞夫は、声をたてずに笑った。
「タクシーだ」
大宮がタクシーを停める。
「じゃ、失礼」
と、浩志は言った。
「また会えそうだね」
貞夫は、軽くゆかりに会釈をして、行ってしまう。
「――やれやれ」
タクシーが走り出すと、大宮はホッと息をついた。「とんでもない所で」
「冷や汗かいた? ごめんね」
と、ゆかりは後ろの座席で、浩志の腕を、まだしっかりとつかんでいる。
浩志は、ゆかりの中に、あの恐怖がまだしっかりと根づいて、忘れられないのだと思った。
もちろん、ホテルや大通りを歩いている限りは安心だろう。しかし、記憶は――過去の恐怖だけは、どう用心しても、それから逃げることはできないのである。
あちこちでフラッシュが光る。
甲高い笑い声。人を呼ぶ声も、びっくりするほど大きい。
――今夜はホテルで、ちょっとしたパーティーが開かれていた。このホテルは、浩志やゆかりももちろん泊まっているのだが、芸能人が一番多く泊まることでも有名だ。
他のホテルにいる芸能人も集まって、このバンケットルームで、ビュッフェスタイルのパーティー、というわけ。一つには、やって来ている取材陣へのサービスでもある。
サービスというのは、まとめて写真がとれるし、スターたちも着飾ったところを見せられるので双方にプラス。そして、食べものにありつけるという点でも、|誰《だれ》もこのパーティーにはいやな顔を見せないのである。
費用の方は、いくつかのプロダクションで分担している、ということだった。
もちろん、ゆかりも浩志と腕を組んでパーティー会場に入る。――もう、パーティーが始まって一時間ほどたっていた。
ゆかりの仕度に少し手間どったのである。
「やかましいね」
と、浩志は会場へ入るなり、顔をしかめた。
「ほらほら。ニッコリ笑って。いつ写真とられてるか分かんないのよ」
と、ゆかりが浩志の腕に自分の腕をしっかりと絡め直す。
「君がニッコリ笑ってりゃいいのさ」
と、浩志は言った。「それにしても、何でみんなこんなに声が大きいんだ?」
実際、間近にいる人とおしゃべりしていても、会場中に響きわたるような大声を出すのだ。それを大勢がやるのだから、大変なものだ。
「みんな目立ちたいの」
と、ゆかりが言った。「何をしゃべってても、食べてても飲んでても、同じ。みんな、こう言ってるのよ。『私はここにいるわ!』ってね」
「なるほどね」
カメラマンたちが、ゆかりと浩志の方へ集まって来る。そばについていた大宮がスッと離れた。
これも、ゆかりとの「友情」のためか。浩志は精一杯愛想よく笑って見せたが、フラッシュがひとしきりたかれて、途切れると、ゆかりがふき出した。
「何だい?」
「笑ってるつもりでしょ、浩志? 歯でも痛いのかって顔よ」
浩志は苦笑した。
「――さ、何か食べましょ。余らしたってもったいないわ」
と、ゆかりは言った。
二人で、皿に料理をとり分けていると、
「あら、珍しいところで」
と、声がした。
神崎弥江子が立っていた。
「どうも……」
ゆかりは、こわばった顔で、神崎弥江子に|挨《あい》|拶《さつ》した。
邦子の出番をカットさせた一件があるので、ゆかりは怒りを隠せないのだ。
「今日着いたの」
と、弥江子は、ゆかりの不愉快そうな様子など気にも止めず、「何しろ巨匠のお仕事は、予定通りには進まないのよね」
浩志は、邦子の話を思い出していた。――このベテラン女優と沢田慎吾が、いやに親切にしてくれて気味が悪い、と言っていたっけ。
「撮影は順調ですか」
と、浩志は|訊《き》いた。
「そうね。ときどき雷は落ちるけど、たいていは、あの二枚目さんの上」
と、弥江子は笑った。
「いい映画になるといいですね」
浩志は、そう言って話を打ち切るつもりで、「じゃ……」
と、ゆかりを促して行きかけた。
「なるでしょ、いい映画に」
と、弥江子が言った。「何といっても、巨匠が個人指導に熱心ですもの」
何か、含みのある言い方だった。
「原口邦子のことですか」
と、浩志は訊いた。
「そう。お正月休み中も、みっちり仕込まれてるようよ。ベッドの中で」
「|嘘《うそ》」
と、ゆかりがはね返すように言った。
「本当よ。あの監督の手の早さ、有名でしょ?」
「浩志。行こう」
ゆかりが浩志の腕をつかんで、神崎弥江子から離れた。
「やれやれ……」
「頭に来る女! フルーツポンチでも頭からぶっかけてやりたい」
「落ちつけよ。相手にしないことさ」
と、浩志は言って、料理を口に入れた。「――大味だな」
「嘘よね、浩志」
と、ゆかりが言う。
「邦子のことか?――どうかな」
「まさか……あの三神監督と?」
「邦子は、いつも仕事に恋をしてる。そうなっても、おかしくはないだろ。これまでにもなかったわけじゃない」
「そうだけど……」
と、ゆかりは不満げに言ってから、「ま、あの沢田慎吾なんかよりは、ずっとましか」
と、|肯《うなず》いた。
邦子と三神憲二。――ありえないことではない、と浩志は思った。邦子は、仕事の情熱が、そのまま現実の恋へと直結してしまうタイプの子なのだ。
しかし、浩志の胸中には複雑なものがあった。
やさしい夜
パーティーは、夜遅くまで続いた。
食べる物や飲み物も、途切れることなく出て、取材に来ているレポーターやカメラマンも、すっかり仕事は忘れてしまっている。
「もう、部屋へ戻っても」
と、大宮が浩志とゆかりの所へやって来て、言った。
「助かった!」
と、浩志は息をついた。「もう、さっきから頭が痛くて」
「そう言えばいいのに」
少し酔って、目の周りをほんのり赤くしたゆかりが言った。「いつでも部屋へ帰ったわよ」
「しかし、|誰《だれ》も帰らないじゃないか。何となく言い出しにくくてね」
確かに、もうずいぶん遅い時間なのに、パーティー会場の混雑は、一向に変わらない。
「みんな、解放感にひたってる、ってとこですかね」
と、大宮が言った。「知ってる顔は沢山いるけど、少なくとも、ここは日本じゃない。それだけでも、ずいぶん気分的に違うみたいですよ」
「なるほどね。そんなもんなのかな」
「この一夜だけのカップル、なんてのもできるんです。――みんな見て見ぬふり」
と、大宮は言って、「ひょっとすると、僕も美人スターに言い寄られるかもしれませんよ」
「そりゃそうよ。大宮さんってすてきだもん。ね、浩志?」
「ああ、同感だ」
「お二人でからかってて下さい」
と、大宮は少しむくれて見せた。「どうせもてやしないんだから」
「あら、本気で言ってんのよ」
「それより――そうだ、一応、Kプロの社長に|挨《あい》|拶《さつ》だけしといて下さい」
大宮は仕事の顔に戻った。「次の仕事で一緒ですから」
「どこにいる?」
「あそこです。――じゃ、石巻さん、すぐ戻ります」
「どうぞ」
と、浩志は言った。「少しテラスへ出てるよ」
実際、会場は人いきれで暑かったのである。浩志は、会場からつながっているテラスへと、出てみることにした。
ガラス扉が開けたままになっていて、涼しい風が入って来る。外へ出ると、思わず声が出るほど、涼しくて快かった。
テラスから中庭へ降りられるようになっていて、見渡すと、いくつかの人影が月明かりの下を、ぶらついていた。――男と女の、寄り添った影もある。
顔のほてりがさめて来て、浩志はやっと頭痛がおさまっていくのを感じた。
もともと、こういう席は苦手なタイプの浩志である。
ふと、会社の森山こずえのことを思い出した。せっかく温泉に誘ってくれたのを、断って来てしまった。
今ごろは、雪を見ながら、温泉にのんびりつかっているだろうか。――自分はこうしてハワイの夜空の下にいる。信じられないようだが、現実に、ここにいるのだ。
ふと、人の気配を感じて振り向いた。
「やっぱり」
と、神崎弥江子は言った。「後ろ姿が似てたから」
「僕のことですか」
「そうよ。――少しは酔ってるけど、人の顔を取り違えやしないわ」
と、弥江子は笑った。「少しは飲んでる?」
「僕は弱くて」
「ゆかりちゃんは? |可愛《かわい》いアイドル。今、日本で一番よく知られた二十……何歳? 二十一? 二十二?」
「ゆかりは二十三です」
「二十三……。そうか。若いわねえ。昔、私にも二十三のころがあったのよ。信じられる?」
と、弥江子は言って笑った。「何も怖くない、何でも自分の思い通りになる時代がね……。でも、そんな日々はアッという間に過ぎる」
浩志は、この女優の独白に付き合う気はなかった。ゆかりも、もう戻って来るかもしれない。
「――ねえ、石巻さん……だったわよね、確か。私のこと、怒ってるでしょ? 原口邦子の出番をカットさせたから」
浩志は、ちょっと肩をすくめて、
「僕がどう思っても、関係ないじゃありませんか」
と言った。
「いいえ! あるのよ。関係あるの」
と、弥江子は真剣な口調で言った。「お願い。言って。怒ってるって」
「まあ……確かに、怒ってます」
と、浩志は言った。「これでいいですか」
「そう……。当然よ。でもね、あなたには分からない。私がどんなに怖がってるか。一旦手に入れた人気……。それが指の間から、水みたいに、どんどんこぼれ落ちて行くのを、じっと見てる怖さって……。分からないでしょ」
「でも、あなたは大スターじゃありませんか」
「やめて。スターなんて……幻よ。『スター』なんて生きものはいないの。当たり前の女がいるだけよ。そう、ごく普通の、肉体を持った女がね」
神崎弥江子は、浩志の方へ近寄って来ると、
「やさしい人ね、あなたは」
と言った。「あなたがいるだけで、ゆかりちゃんは、私よりもずっと幸せよ」
「どうかしたんですか」
と浩志が|訊《き》くと、神崎弥江子はちょっとドキッとした様子で、
「どうか、って?」
「いや、何だか……。何て言うのかな。落ち込んでる、とでも言うんですか。そんな風に見えるから」
涼しい風が吹いて来た。
「落ち込んで? そうね。確かにそうかもしれないわ」
弥江子は、声を上げて笑った。少しも楽しくなさそうに聞こえる笑いだった。
「邦子と何かあったんですか?」
と、浩志は訊いた。
「あの子? いいえ、ちっとも。あの子は、スターになるわ。あの、安土ゆかりみたいなアイドルとは違ったタイプの、『通好み』のスターにね。――今度の映画は、一応私が主役だけど、事実上、あの子の映画よ」
浩志が意外に思うほど、弥江子の言い方はアッサリとして、裏がない印象だった。
「三神監督とは本当に……?」
と、浩志が訊くと、初めて少し皮肉っぽい表情を見せて、
「気になる?」
「もちろんです。でも、邦子は、ただ相手が監督だからというだけで、寝るような子じゃない」
「よく分かってるのね、あの子のことが」
「古い付き合いですから」
「三神監督もね、そうなったからって、女優を甘やかす人じゃない。ただ、映画の中で、あの子はますます輝くでしょうね」
と、弥江子は庭園の方へ目をやりながら、言った。「そして私や沢田慎吾は、太陽のそばの月の如く、影が薄くなるってわけ」
「沢田慎吾もここに?」
「ハワイにってこと? いいえ。あれは日本でおとなしくしてるわ。このところ神妙なの」
「邦子もそう言ってました。監督に絞られてるんですか」
「絞っても、もともと何もなきゃ何も出ないわ」
と、弥江子は首を振って、「私はあいつとは違う。原口邦子が、どう輝いて、どうすばらしいかぐらいは、分かってるつもり」
「あなたも立派な女優じゃありませんか。どうして、そんな風に言うんです?」
弥江子は、不思議な目つきで浩志を見ると、
「あなたって、本当にやさしい人ね」
と、言った。「私は……怖いの」
「怖い?」
「そう。もし……。あのことが――」
と、|呟《つぶや》くように言って、「おやすみなさい。少し飲みすぎたみたいだわ」
と、浩志に|微笑《ほほえ》みかけ、足早にテラスから、パーティー会場の中へと姿を消した。
入れ違いに、ゆかりが出て来る。
「あの人と話してたの?」
ゆかりは、浩志をにらんで言った。
「もう、すんだのかい?」
浩志は、ゆかりの肩に手をかけて、「じゃ、部屋へ戻ろう」
「うん……」
ゆかりは、何だかすっきりしない顔で、一緒に歩き出した。
パーティーの中を抜けていくと、あちこちから、
「ゆかりちゃん! おやすみ!」
「お二人さん! お似合いよ!」
といった声がかかる。
ゆかりも笑って応えた。これは仕事の内である。
大宮が会場の外で待っていた。
「じゃ、ルームキー、渡しときます」
「大宮さん、これからどこかに行くの? 分かった。悪いことしに出かけるんでしょう」
「悪いことですか」
と、大宮は澄まして言うと、「マネージャーはね、パーティーでパクパク食べちゃいられないんです。これから一人でレストランへ行って、夕食です」
「あら、お気の毒」
「どういたしまして」
と、大宮は会釈して見せ、「じゃ、明日は九時ごろ起こします」
「了解。おやすみ」
「おやすみなさい」
大宮が行ってしまうと、ゆかりと浩志は何となく一緒に笑った。
「おかしな人」
「しかし、いい人だ」
「そうね。私、好きよ」
ゆかりは浩志の腕をとって、「浩志と邦子の次にね」
と、言った。
共通のドアを開けると、左右に一つずつドアがある。
浩志とゆかりはここで別れて、泊まっているのである。
おやすみ、を言って、浩志は自分の部屋へ入った。
一人になって、急に疲れを感じる。――慣れない場に出ていたせいもあるし、昼間、あの国枝の息子に会ったことも、微妙に影響しているのかもしれない。
アメリカのホテルは、ベッドもバスルームも、ともかくビッグサイズで、体を休めるにはいいが、少々寂しいくらいでもある。
大きなバスタブにお湯を入れて、浩志はゆっくりとつかった。
体の中の疲れが、お湯へ溶けて出て行くようだ。――ふと、邦子のことを考える。
三神の腕の中で、燃え立っている邦子。
浩志の胸に、痛みがはしらないわけではない。自分の恋人ではないといっても、邦子は「親友」である。――これは|嫉《しっ》|妬《と》なのだろうか?
浩志には、自分の胸の内が、よく分からなかった。
ゆかりと邦子。
どちらも、浩志にとっては「友だち」である。しかし、浩志も男だ。二人に対して、自分が全く同じ気持ちで接していられるわけでないことは、分かっていた。
その違いを、どう言ったらいいのか、自分でもよく分からないが、あえていえば、ゆかりは「妹」に近い。
もちろん、本当の妹である克子とは全然違うにしても、ゆかりが甘え、それを浩志が抱いて許してやるという点で、二人の間は「兄妹」に近いかもしれない。
それに比べると、邦子は決して浩志に甘えない。甘えたいと思うときもあるだろうし、実際、浩志がそれと察して、やさしく接することもあるが、邦子には人に弱味を見せまいとするところがある。
邦子が男に抱かれていると考えると、浩志はふと胸苦しさを覚えるのだが、それは「恋人としての嫉妬」より、娘を他の男にとられた父親のような気分、と言うべきかもしれない。
――いずれにしても、浩志は二人のどっちとも「恋人」ではいられない。それだけは、よく分かっていた。
バスルームを出て、分厚いタオル地のバスローブをはおった浩志は、ソファに腰をおろして、ほてった顔で息をついた。
こんな正月休みは二度と来ないかもしれないな、と思う。
そういえば、克子はどうしているか。スキーをやって、足でも折らなきゃいいが。
電話が鳴り出した。何だろう、と取ってみると、
「――お兄さん?」
「克子か。ちょうどお前のこと、考えてたんだ」
「あら、お上手ね」
「本当だよ。もうスキーから帰ったのか」
「ついさっきね。そっちは今、夜でしょ?」
「|風《ふ》|呂《ろ》を出たとこさ」
「週刊誌のグラビアで、ゆっくり拝見するわ」
「からかうな」
「私の方はね、某社長のお坊っちゃんに言い寄られちゃった」
「何だって?」
「帰って来たら、ゆっくり話したげる。ゆかりさん、元気?」
「うん。もう寝てるだろ」
「お兄さん……」
「何だ?」
「ゆかりさんと、寝てないの?」
浩志はちょっと絶句した。
「そういう約束だよ」
「約束ね。――|可哀《かわい》そうに」
と、克子は言った。
そのとき、ドアを小さく|叩《たた》く音が聞こえて、浩志は、ギクリとした。「可哀そうに」という克子の言葉が、耳からまだ消えていなかった。
「もしもし」
と、克子が言った。「どうかしたの?」
「|誰《だれ》かドアを叩いたんだ。ゆかりだろ」
「じゃ、切るわ」
「ああ、しかし――」
「ゆかりさんによろしくね」
そう言って、克子からの電話は切れた。
浩志は立って行ってドアを開ける。
「――電話してた?」
ゆかりが、浩志と同じバスローブ姿で立っていた。ほてった肌の、しっとりした|匂《にお》いが、浩志を包む。
「うん」
「邦子から?」
「いや、違うよ。克子だ」
と、浩志は言って、ゆかりを中へ入れた。「どうかしたのかい?」
「うん……」
ゆかりは、大きなサイズのベッドに腰をおろした。「どうかした、と言えばしたし、してないと言えばしてない」
浩志は、ちょっと笑った。
「分かってるの」
と、ゆかりは、ベッドの上に仰向けに寝た。
「こんなことしちゃいけないって……。私一人の浩志じゃないもの。邦子と私と浩志……。三人で『一つ』なんだものね」
浩志は、胸苦しいものが、急にふき上げて来るのを感じた。
男一人と女二人の「仲間」たち。それは、高校生のころなら可能だったかもしれないが、もう、三人とも「大人」である。それでいて、互いに何も感じないでいる方が不自然だ。
「邦子は、三神監督と寝てる。――浩志のこと、好きなくせに。私とここへ来てることも、知ってるくせに。ずるいよ、邦子……」
ゆかりは遠い邦子へ呼びかけるように、言った。「私を恨まないで、浩志を誘惑したからって」
「ゆかり――」
と、浩志はベッドへ近付きかけて、足を止めた。
ゆかりが仰向けに寝たまま、片方の|膝《ひざ》を立てた。ローブの|裾《すそ》が割れて、白くまぶしいような|太《ふと》|腿《もも》があらわになる。
浩志は、ゆかりを抱きたい、と思った。これほど、その思いに圧倒されそうになるのは初めてだ。
「浩志……」
ゆかりが、左手の甲を自分の額に当て、光のまぶしさを遮るようにして、「ここへ来て」
「ゆかり」
「分かってる。いいの。何もしてくれなくて。ただ、ここへ来て、そばに寝て。――お願いだから」
ゆかりの声も、少しかすれていた。邦子を裏切っているという気持ちと、闘っているのだ。
浩志には、それがよく分かった。
浩志はなおも、しばらくためらっていた。
何もしないで? ゆかりに添い寝して、何もせずにいられるだろうか?
ゆかりの目が、訴えるように浩志を見ている。せつない、哀しい目だった。
拒むことはできなかった。
ベッドへ上り、ゆかりのすぐわきに、並んで横たわる。ゆかりが体を浩志の方へ向けて、半身を浩志の胸に預けた格好になった。
ゆかりの体温が伝わって来る。柔らかな手と、ローブ越しに感じる胸のふくらみと……。
「浩志の心臓の音が聞こえる」
ゆかりは、浩志の胸に耳を当てた。「私の音? どっちかな……」
浩志は、そっと左手でゆかりの髪をなでてやった。ゆかりが目を閉じる。可愛い子猫のように。
「このまま……。じっとしてて。このままで、いさせて……」
ゆかりは、眠ってしまうかとも見えた。しかしそうでないことは、少しずつ高まっていく互いの鼓動で分かる。
ゆかりが頭を上げた。浩志がゆかりを抱き寄せる。そのとき――。
ドアを、|誰《だれ》かが|叩《たた》いた。
「――誰かしら」
と、ゆかりが体を起こす。
ドアを叩く音は、少しこもって聞こえる。
直接浩志の部屋のドアを叩いているのでなく、その外の、共用のドアを叩く音なのだ。
トントン。トントン。
叩く音は続いた。
「出よう」
浩志がベッドをおりた。
「気を付けてね」
ゆかりは、国枝のことを思い出しているのだろう。
浩志は自分の部屋のドアを開けて、
「どなた?」
と、少し大きな声で言った。
「大宮です!」
「あら、何だ。もう食べ終わったのかしら」
と、ゆかりもやって来る。
浩志はドアを開けた。
「キャッ!」
ゆかりが、短く叫んだ。
「どうした!」
と叫ぶ浩志の腕の中へ、大宮はよろけてもたれかかって来た。
顔ははれ上がって、あざだらけだ。口の端が切れて、血が出ている。
「いきなり……ものかげに引っ張り込まれて……」
「大丈夫ですか? すぐ医者を呼ぶから。ゆかり、フロントへ電話して」
「はい!」
浩志は、腹を押さえて|呻《うめ》く大宮を、自分のベッドまで、何とか連れて行って寝かした。
殴られたのだ。――浩志は、厳しい顔で首を振った。
怒 り
「ええ。今、レントゲンをとってもらってます。――医者の話では大丈夫だろう、と……」
浩志は、日本へ電話を入れていた。
プロダクションの社長、西脇の自宅へかけているのである。
「――ゆかりはホテルで待っています。報道陣の目をひきますからね」
と、浩志は言った。「――じゃあ、また。結果が分かったら、お知らせします。では……」
病院からかけているので、長話はできなかった。
大宮は、一応、ホテルで応急の手当はしてもらっていたが、かなりひどく殴られているため、骨や内臓に異常がないか、浩志が病院へと連れて来たのである。
真新しい、きれいな病院で、何となく安心する。もちろん、大宮のけがとは何の関係もないことだが、夜間の当直の医師や看護婦も感じがいい。
医師が日系人で、日本語もうまく話せるので、ついて来た浩志は正直、ホッとしたのだった。
それにしても……何てひどいことを。
大宮は、ホテルの中で襲われたのである。――ホテルといっても、ともかく大きい。渡り廊下のようになった場所で、相手は待ち受けていたらしい。
顔など見る間もなく、アッという間に|叩《たた》きのめされてしまったのだ。|物《もの》|盗《と》りの犯行でないことは、札入れにも手をつけていないことで、分かる。
間違いないだろう。国枝貞夫がやったのだ。いや、当人は手を出していないにしても、手下にやらせたに違いない。
「何て連中だ……」
浩志は、怒りで身が震える思いだった。
大宮には何の責任もない。ゆかりを守るのが、彼の仕事である。国枝貞夫は、浩志の代わり[#「代わり」に傍点]に、大宮を袋叩きにしたのだ。
何でもなければいいのだが……。
――ずいぶん時間がたっていた。そろそろ朝も近いかもしれない。
「お待たせしました」
少しアクセントにくせはあるが、きれいな日本語が聞こえて、浩志は顔を上げた。
「検査しましたが、内臓は大丈夫です」
と、医師が|肯《うなず》いて見せる。
「良かった」
浩志は息をついた。
「ただ、|肋《ろっ》|骨《こつ》が――レントゲンで分かるほどではありませんが、少しひびが入っているかもしれません。日本へ帰られたら、念のためにもう一度、ていねいに調べた方がいいかもしれませんね」
と、医師は、ゆっくりした口調で説明した。
若い、いかにも温厚な感じの医師である。浩志はていねいに頭を下げた。
「今、服を着ています」
と、医師はレントゲン室の方を振り返った。
「お世話になって」
と、浩志は言った。
「いやいや。――それより、警察へ届けたんですか? |誰《だれ》かに殴られたということですが」
浩志はちょっと迷った。
「当人はどう言ってます?」
「個人的な|喧《けん》|嘩《か》だ、と。しかし、あれは一人が相手じゃない」
浩志は、大宮と話し合ってみようと思った。
もちろん、本来なら、ちゃんと捜査してもらうべき出来事だが、果たして犯人が捕まるものかどうか。それに、自分たちも国枝たちも、長くここにいるわけではない。
「色々事情があって」
と、浩志は言った。
「そうでしょうね。――安土ゆかりのマネージャーですって?」
と、医師は|微笑《ほほえ》んだ。「僕もファンです。頑張って、とお伝え下さい」
「どうも」
浩志も、何となく重苦しさから救われたような気がした。
大宮が、上着の|袖《そで》に手を通さず、肩にかけるようにして、出て来た。
「どうもすみません、待ってていただいて」
「どうですか?」
「ええ。――まあ、快適とは言えませんが、車の渋滞で、本番に遅れそうなときは、これくらい胃も痛みます」
少ししゃべりにくそうなのは、唇の端が切れて、紫色になっているせいだろう。
しかし、大宮にジョークを言う元気があるのを見て、浩志も安心した。
医師や看護婦に礼を言って、二人は病院前のタクシーでホテルへと戻った。
車中で、浩志は警察のことを持ち出した。
「むだですよ」
と、大宮は首を振って、「調べたって、分かりっこない。それにあの|馬《ば》|鹿《か》息子は、きっと自分じゃ手を下してないでしょう」
「悔しいですね」
と、浩志は首を振った。「それに――申しわけなくて。僕の代わりに大宮さんが……」
「これも仕事の内です」
と、大宮は言って、ちょっと笑った。「いてて……」
情けない声に、黒人のドライバーが愉快そうに笑った。
――大宮と一緒に、ゆかりの待つコネクティングルームへ戻ると、ドアを叩くなり、パッとゆかりが出て、
「どう? 痛む?」
と、|訊《き》いた。
「大丈夫です。――もう一人で歩かないようにしよう」
「私、あの息子に会ったら、ひっかいてやるわ!」
と、ゆかりが目をつり上げて言った。
「だめですよ」
と、大宮が言った。「ゆかりさんが無事でいりゃ、それでいいんです。あんな連中、まともに相手になっちゃいけません」
「分かったから、無理してしゃべらないで」
と、ゆかりは言った。「痛むでしょ?」
「ええ、いくらか……。ま、大丈夫ですよ。後は放っとけば治ります」
「日本へ帰ったら、ちゃんと検査するんだ」
浩志は自分の部屋へ入ると、「ゆかり」
「なあに?」
「明日、日本へ帰ろう」
浩志は、少し考えてから言った。「大宮さんがこんな目に遭って、向こうがまだこの先、何をするか分からない。帰国した方がいい」
「だけど、予定では――」
と、大宮が言いかけたが、
「うん。そうしましょ」
と、ゆかりが|肯《うなず》く。「私も、飽きたわ、このホテル」
「ゆかりさん――」
「どこへでも一人で歩き回れるっていうのならともかく、ホテルから自由に出ても行けない、なんていうんじゃ、何しに来たか分かんないもの。明日、帰りましょう。そんなに暇があるわけでもないし。大宮さん、明日の便、取ってくれる?」
「僕がやってもいい」
「いや、やりますよ」
と、大宮が首を振って、「いいんですか、でも?」
「大宮さんのことが心配なの」
ゆかりがわざと大げさに大宮の肩へ手をかけて、「あなたにもしものことがあったら……。誰が荷物運んでくれるの?」
浩志がふき出した。大宮も笑っては、
「いてて……」
と、顔をしかめている。
「でも、本当に心配してんのよ」
「どうも。――じゃ、ともかく少し寝ましょう」
大宮は息をついて、「フロントに頼んで、飛行機の手配、してもらっておきます」
「僕も一緒に行く」
浩志が大宮の肩を軽く|叩《たた》いて、「用心に越したことはないですよ。ゆかり、寝た方がいいんじゃないか」
「飛行機で寝るわ」
と、ゆかりは言って、「大宮さん」
「何です?」
ゆかりは黙って大宮へ歩み寄ると、大宮にキスした。――大宮がたちまち真っ赤になる。
「人をいじめないで下さい!」
と、目をパチクリさせて、「純情なんですからね!」
ゆかりが笑って、言った。
「これで、飛行機に乗るまでは、眠らずにすむでしょ」
実際――浩志たちが眠り込んだのは、日本へ向かう飛行機の中だった。
帰国の便としては、まだ時期が早いので、ファーストクラスも楽にとれた。
ゆかりが、大宮もファーストにすれば、と言ったのだが、
「社長に怒鳴られますよ」
と、大宮はエグゼクティブの席をとった。
ジャンボ機が日本へ向かって飛び立つと、浩志はホッとした。ともかく差し当たりは、あの国枝の息子たちと離れることができたわけだ。
日本へ戻ったら、西脇とも相談して、何か対策を練る必要があるだろう。大宮は気の毒だったが、向こうの|狙《ねら》いは浩志とゆかりである。
ゆかりも、ゆうべはほとんど寝ていないので、飛行機が飛び立ってしばらくすると、リクライニングを大きく倒し、アームレストを出して、眠り込んだ。
浩志も、やがて眠くなり、目を閉じると、間もなくスッと眠りに引き込まれて行った……。
夢の中を、ゆかりと邦子、そして克子の顔が交互に現れた。そう。それから森山こずえの顔も。――みんな精一杯に生きていて、愛し、悩み、悲しみをかかえた女たちである。
浩志は、その輪の中で、せっせと駆け回っていた。汗をかき、息を切らして、しかし浩志はそれでも幸せだった。
すばらしい女性たちと知り合ったこと。人生を触れ合わせたこと。それは何よりの宝だ……。
浩志――。ゆかりが、邦子が、呼びかけて来る。浩志。――浩志。
「浩志」
ゆかりが、肩を揺さぶっていた。
ハッと目を覚ます。飛行機の中だ。
「やあ、眠っちまった。どうした?」
浩志は、日本人のスチュワーデスがそばに立っているのに気付いた。ひどく緊張した顔をしている。
「あの――エグゼクティブの大宮様という方が――」
「大宮さん? 連れですが、何か?」
「さっきからひどく苦しがっておられて」
浩志はベルトを外し、あわてて後ろの席へと急いだ。
中年の背広姿の男性が、大宮の上にかがみ込んでいる。
「お医者様がいらしたので、お願いしたんです」
と、スチュワーデスが言った。「ひどく苦しんでおられて」
大宮の方を覗き込んで、浩志は青ざめた。
ただごとではない。息づかいは荒く、顔には一杯に汗がふき出して、全く血の気がない。
医者は、大宮のシャツをまくり上げて、診ていた。
「どうですか?」
浩志は、その医者に|訊《き》いたが、自分の声が震えているのに気付いていた。
「どこか、ひどく打ったりしましたか」
と、その医者は、浩志の方を見ずに言った。
「ええ。でも一応、向こうの病院で検査は受けたんです」
そんなことが何の意味もないということは、浩志にも分かっていた。現実に大宮は血の気を失い、苦しげに息をするだけで、目も開けない。
「ひどくやられてるな。――このあざは、殴られたんじゃないですか」
医者は、かなりのベテランらしく、口調は切迫しているが冷静だった。それが浩志を少し落ちつかせた。
「そうなんです。日本へ着いたら、精密な検査を、と言われました」
「大宮さん……。しっかりして!」
ゆかりが、いつの間にか浩志の後ろへ来て、覗き込みながら、声をかけた。
「中で出血したようですね。――ひどい貧血だ」
と、医者は大宮の|瞼《まぶた》を広げて、言った。「ショックで心臓をやられなきゃいいが。ともかく、できるだけのことはしておきます」
「お願いします」
医者はスチュワーデスに、
「空港に救急車を待機させるよう連絡して。輸血の必要もある。あと何時間?」
「三時間ほどですが……」
「できるだけ急いで! 一刻を争う。機長と話をさせてくれ」
「機長を呼びます」
スチュワーデスが駆けて行く。
「大宮さん……」
ゆかりが、大宮の傍らにしゃがみ込んで、手を握りしめた。「頑張って! 日本へ着いたら、すぐ病院よ」
周囲の乗客も、何となく沈黙して様子を見守っていたが、ゆかりに気付いたのだろう、ヒソヒソと言い交わす声がしている。
浩志は、医者が機長と話をしている間、震えそうになる体を引きしめながら、じっと唇をかんで突っ立っていた。
――このままですますものか! あの国枝の息子たちに、必ず償いをさせてやる。
しかし、今はともかく、大宮が助かってくれることを祈るしかない。
「大宮さん」
ゆかりは、全く聞こえていない様子の大宮の耳もとへ、話し続けていた。「こんなことで死んじゃだめよ! 私なんかのために――私みたいな、つまらない女の子のために、死んだりしないで! もっともっとすてきな子と出会わなきゃいけないんだからね! 頑張らなかったら、許さないから!」
ゆかりの|頬《ほお》を、涙が伝い落ちて行った。
永遠のように長い三時間だった。
いや、機長が管制塔と連絡をとって、二時間半ほどで成田に着いたのだが、それでも丸一昼夜もたったかのように、浩志には感じられた。
「着陸します」
スチュワーデスに言われて、ゆかりは自分の席へ戻った。
「着陸のショックが怖い。毛布を下に」
と、医者が言った。
機がどんどん高度を下げる。――浩志は、間ぎわになって、やっと席へ戻ってベルトをしめた。
ガクン、とかすかな衝撃があり、ついでゴーッとエンジンの逆噴射の音が空気を揺るがせた。急激に減速する。
「救急車だ」
と、ゆかりが窓の外を見て言った。
赤いランプが見えた。救急車が、ほとんど並んで走っている。
救急車が、こんなにも頼もしく見えたことはなかった。
機が停止すると、連絡のブリッジが寄せられ、シューッと音をたてて分厚い扉が開く。
担架を持った救急隊員が駆け込んで来た。
「僕が行く。ゆかり、君はマンションに戻ってろ」
と、浩志は言った。
「いや!」
ゆかりははねつけるように言った。「私も行く」
「分かったよ」
浩志はゆかりの肩を|叩《たた》いて言った。
そして、担架に乗せられた大宮が、運び出されて行く……。
気が付くと――というのは少し大げさか。いや、本当に、ゆかりと浩志はいつ病院の中に入ったものやら、|憶《おぼ》えていないのだった。
「社長さん」
と、ゆかりが言った。
西脇が、廊下を急ぎ足でやって来る。
「やあ、石巻さん。連絡をどうも」
と、息を弾ませて、「どんな具合です、大宮は?」
「今、手術室に」
浩志は、そう答えて、「僕……ご連絡しましたか?」
「ええ、さっき」
「憶えてない。いや――こんなことになって本当にどうしていいか……」
「大宮も|可哀《かわい》そうに」
西脇が首を振って、「ひどいことを! いくら大物だって、許せないですよ、これは」
本気で怒っている。
「私のせいで……」
ゆかりが、涙声で言った。「私の担当なんかにならなきゃ良かったのに……」
浩志は、そっとゆかりの肩に手をのせてやった……。
儚い空白
疲れ切って、浩志はアパートへ戻った。
雪でも降り出しそうな天気で、ひどく寒い。――今何時なんだ?
階段を上って、自分の部屋までが、ひどく長い。
夕方……。そう。たぶん、そろそろ夜になるころだ。スーツケースを成田で受け取って来なくてはいけなかったので、ずいぶん手間どってしまったのである。
大宮は、一応当面は危機を脱したということだが、意識不明のままだし、油断はできない状態だった。
スーツケースの重さが、応える。部屋へ入っても、冷え切っていて、とても体を休められる状態じゃないのだ。
浩志は、玄関の|鍵《かぎ》をあけ、ドアを開けて――。
「お帰り」
克子が、ちょこんとコタツに入って、こっちを見ている。
「克子……。何してんだ?」
「ご|挨《あい》|拶《さつ》ねえ。部屋をあっためといてあげたのよ」
確かに、石油ストーブが赤い火を見せて、体のほぐれる暖かさだ。
「ありがとう! 助かった」
浩志は、息をついた。「よく分かったな、今日帰るって」
「ホテルへまた電話してみたの。もうチェックアウトしたって言われて、びっくり。飛行機の時間、ゆかりさんのプロダクションに電話して聞いたの」
「そうか。この休みに、|誰《だれ》か出てたのか?」
と、コートを脱ぐ。
「うん。おばさんみたいな人が、電話番してた。――でも、予定より早いでしょ。どうしたの? 夫婦|喧《げん》|嘩《か》?」
「よせ」
と、浩志は顔をしかめた。「とんでもないことになって……。ともかく、着がえるよ」
「何か食べる? お|腹《なか》は?」
「お腹か……。そういえば|空《す》いてる」
「|呆《あき》れた」
と、克子は苦笑した。
「|俺《おれ》の車で何か食べに行こう。ファミリーレストランは開いてるだろ」
「いいわよ。スーツケースは?」
「そのままでいい」
「後で洗濯ぐらいしてあげる。――もうあと二日でお休みも終わりよ。早いわねえ」
浩志は、普段着になって、体がやっと自分のものに戻ったような気がした。
「――行こう。ストーブ、消してくれ」
「うん」
克子が、何となく元気で、若々しく見えるのに、浩志は気付いた。いや、若いのだから当たり前と言ってもいいが、いつもはもっと疲れた感じがある。今の克子から、逆にそう気付いたのかもしれない。
「ひどい目に遭ったのね」
と、克子は、しばらく食事の手を止めて、兄の話に聞き入ってから言った。
「全く。ああいう連中にゃ、誠意だの、人間らしい感情なんか通じないんだ」
と、浩志は、怒りに任せて(?)、むやみに食べていた。
実際、機内から何も食べていないので、ひどく空腹だったのである。
「そんなに怒りながら食べたら、体に悪いわよ」
と、克子は言った。
レストランは大混雑で、浩志と克子はすれすれ、待たずに座れた最後の客だった。今はもう何十人もが入り口の辺りで待っている。
家族連れがほとんどだ。正月休みにどこかへ出かけても、大方は今日あたりに帰っている。
「――お父さんたち、みんなくたびれてるわね」
克子が、待っている客たちを眺めて、言った。
「うん?」
浩志も、食後のコーヒーを飲んで、少し落ちついて来た。――大宮が、このまま順調に回復してくれればいいのだが。
「ほら、|欠伸《あくび》ばっかりしてる。きっと、何時間も車を運転して帰って来たのね」
浩志は、ゆっくりと首を左右へ傾けて、肩のこわばりをほぐした。
「誰でも、みんな何かしら問題をかかえてるんだ」
「そうね。殴られるほどでなくても」
と、克子は言った。「マネージャーさん、良くなるといいわね」
「うん。――これからどうしたらいいか、頭が痛いよ」
「でも、用心して。向こうはお兄さんのこと、恨んでるわけでしょ」
「ああ、気を付けるさ。しかし、まさかボディガードを雇うってわけにもいかない」
「難しいもんね。そんな連中を、どうして放っとくのかしら」
「いやな世の中だ。暴力でしか片付かないと思ってる人間、すべては金だと思ってる人間……。似たようなもんだよ」
浩志はふと思い出して、「そういえば、お前、電話で何か言ってたな。金持ちの坊っちゃんがどうしたとか」
「ああ、あれ?」
克子は笑って、「どうってことじゃないんだけどね……。スキー場に咲いた恋、とでも言うのかな」
「恋?」
「私に恋した男の子のこと。私が[#「私が」に傍点]じゃないのよ」
「そうか」
そういえば、あの中年男と克子との間は、どうなったのだろう、と浩志は思った。
克子の話を聞いて、浩志は目を丸くした。
「また、えらい|奴《やつ》と知り合ったもんだな」
「ねえ、私もびっくり」
と、克子は笑って、「いきなり黒木竜弘とご対面じゃ、面食らうわよね」
「その息子ってのは、もう帰って来てるのか?」
「まだでしょ。大学の休みは長いし。――スキーするのなら、ヨーロッパか、カナダにでも行きゃいいのにね」
浩志は、ちょっと妹を見つめて、
「で――お前、どうなんだ」
「どう、って?」
「その坊っちゃんと付き合う気、あるのか」
「やめてよ」
と、肩をすくめて、「しょせん、一時の気紛れ。――もう出ましょう。待ってる人に気の毒」
「そうか」
レストランの入り口辺りは、人が入り切れない様子。しかし、克子と浩志が立ってレジへ行くと、続いてゾロゾロと、三、四組が席を立った。
面白いもので、立つときは何となく「誘われる」ものらしい。
食事とおしゃべりで、帰り道、車を運転する浩志は、大分気持ちが軽くなっていた。
「どうする? 寄ってくか?」
「洗濯してあげる、って言ったわ」
「そうだったな」
浩志は、赤信号で車を停めると、「――克子」
「うん?」
「もちろん、お前がどんな男を選ぼうと、お前の自由だ。ただ――家族持ちは、結局、長く続かないぞ」
克子が、兄の横顔を見た。
「一度、偶然見かけた。結婚リングをはめた男と一緒だった」
「そう……」
「お前は二十一歳だ。若いんだ。忘れるなよ。その坊っちゃんとでも、少しのびのび遊んでみろ」
信号が変わり、車が走り出す。
「無理よ」
と、克子は言った。「当たり前の二十一に戻れやしないわ。お兄さんだって、そうでしょう? 二十五歳の男が、ゆかりさんと一つ部屋にいて、何もないなんて」
「それとこれとは――」
「同じよ」
と、克子は遮った。「私もお兄さんも、当たり前の恋をする前に、普通でない男と女を見すぎたんだわ」
ライトが流れて行く。冷たい空気は、透き通っていた。
「あの坊っちゃんと付き合えば、結局傷つけることになるわ。――自分が傷つくのは堪えられるの。でも、傷つけたくはない。それだけは、したくないの」
克子は、じっと前方を見つめながら言った。
「お前がそれでいいのなら」
と、浩志は言った。「ただ――お前はまだ結婚だの何だのと考えなくても、男と付き合える年齢だ。それを忘れるな、と言おうと思ったのさ」
「世間的には、そうでしょうね」
と、克子は言って、軽く息をつくと、「ま、黒木一族の若奥様におさまって、遊んで暮らすってのも悪くないか」
浩志はちょっと笑って、
「そのときは、運転手にでも雇ってくれ」
「お兄さんに運転なんてやらせられないわ。命が惜しいもん」
「言ったな」
浩志がアクセルをぐっと踏み、一気にスピードが上がると、克子は大げさに悲鳴を上げたのだった……。
「――いい加減でいいぞ」
と、浩志は言った。
「じゃ、すすぐの省く?」
「そりゃ困る」
「黙ってなさい、お兄さんは」
克子は、ハワイから浩志が持ち帰った下着やシャツを洗濯機に入れてセットすると、「もう買いかえたら、この洗濯機?」
と、言った。
――正月休みも、あと二日で終わり。
斉木は、どうしているだろう、とふと克子は考えた。黒木竜弘と食事をした、なんて言ったら、斉木はきっと目を丸くするに違いない。
社会的な地位のある人間、有名な人間というのに、斉木のようなタイプの男は、|憧《あこが》れを持っている。いや、それが普通なのかもしれない。
兄にはああ言ったが……。克子は、自分にあの「坊っちゃん」、黒木翔と付き合う気がないかどうか、自信はなかった。
もし誘われたら、一度くらいは、と出かけてしまいそうな気がする。それは別に悪いことではないだろう。
ただ、それを楽しみにして、裏切られるのが、怖いのかもしれない。お姉さんぶってはいるが、克子だってまだ若いのだ。
「そういえば、|親《おや》|父《じ》から、何も言って来ないな」
と、浩志が言った。
「え?」
克子は我に返って、「いいじゃない。放っとけば」
「もちろん、構やしないけどさ。いつかのヤクザの車に乗ってたことを考えるとな。その内、何か言って来そうな気がする」
「私たちとは無関係な人よ」
「分かってる。しかし、それで他の|誰《だれ》かに迷惑がかかるのが心配なんだ」
浩志には、このままではすまないだろうという、予感があったのである。
正月休みが明けて、いつもの通りの通勤ラッシュが戻って来た。
浩志は、仕事始めの日、森山こずえたちに渡すハワイみやげを下げて、混んだ電車で|潰《つぶ》されそうになりながら、何とか無事に会社へたどり着いた。
あの事件が起こる前に、おみやげを買っておいて良かった、と思った。帰り間際に、と延ばしていたら、おみやげどころではなかったろう。
――大宮の具合は、一応心配のないところまで来ていたが、当分は絶対安静で、面会も、ごく限られた時間に制限されていた。
「あら、お帰りなさい」
森山こずえが、もう机に向かっている。
「やあ。――今年もよろしく」
「こちらこそ。あんまり日焼けしてないのね」
「それどころじゃなかったんだよ」
「何かあったの?」
まだ周囲の席がほとんど来ていないので、浩志は手短に事情を説明した。
「――ひどい連中ね!」
と、こずえは|眉《まゆ》をひそめた。「気の毒に、マネージャーの人」
「ああ。結局、僕の代わりにやられたわけだからね。辛いよ」
「石巻さんのせいじゃないわよ。気に病んでても仕方ないんだから」
「分かってる。――しかし、これで終わるかどうか。ゆかりのこともあるし、今、プロダクションの社長が頭を抱えてる」
「何とかならないのかしらね、そういうのって。いつまでもヤクザとつながってなきゃ、やっていけないの?」
確かに、浩志もそう思う。
ロケをするときには、その辺の顔役に|挨《あい》|拶《さつ》しておかないと、現場に大きなトラックをわざと駐車させたり、そばで大きな音で音楽を流したりして、撮影ができないようにする、という話も聞く。
そういうところで、つい従来の「慣例」に従ってしまうのが、ああいう連中をのさばらせることにつながるのだ。といって、映画やTVの、厳しいスケジュールの中で、一分を惜しんで仕事をしているスタッフに、「そんな要求ははねつけろ」とはとても言えないだろう。
「まあ、あの社長も、大宮さんのことじゃ、相当頭に来てるからね。何か手を考えるだろう。――どうだった、君たちの方は?」
「ええ、のんびり温泉につかって、天国だったわ」
と、こずえはオーバーにうっとりした表情で、「これでいい男がいりゃ、言うことないね、って、女同士で話してた」
「迷惑かけたね。後でハワイのおみやげ、渡すよ」
「あら、そんな物――いただくわ」
と言って、こずえは笑った。
新年初日の仕事に調子が出て来るのは、やっと午後になってから。
といっても、よそも似たようなものだから、ちょうどいいのである。午後になって、一息ついているところへ、邦子から電話がかかって来た。
「――やあ、もう始まったのかい、撮影?」
と、浩志は|訊《き》いた。
「明日から。準備が手間どって」
と、邦子は言った。「ゆかりのマネージャーさんのこと、聞いたわ。大丈夫?」
「耳が早いね」
「もう、業界じゃ知れわたってる。具合、どうなの?」
「うん、命は取り止めたけど、当分入院だ」
「ひどい話ね。――ね、用心してね、浩志」
「ああ、気を付けてるよ」
「それと……大女優さんに会ったんだって、ハワイで?」
「神崎弥江子? うん、パーティーでね」
「何か言ってた、私のこと?」
「君はうまい、と言ってたよ。今さらって気で聞いてたがね」
もちろん三神とのことを、邦子に、それもこんな電話で訊くわけにもいかない。
「その内、会おうね。撮休の日、前もって分かるから」
「ああ、そうだな」
と、浩志は言って、「そういえば、克子の奴、スキー場で、ちょっとしたロマンスがあったらしいよ」
「あら、すてき」
「克子には僕から聞いたなんて言うなよ。殺される」
「分かってる」
邦子は笑って、「じゃあ。これから衣裳合わせなの。浩志の声、聞きたくってさ」
「頑張れよ」
「週刊誌にのるでしょ、ゆかりとの写真。楽しみにしてるよ」
「僕の方はトリミングされてるかもしれないぜ」
と、浩志は笑って言った。
電話を切って――ふと、浩志の脳裏に、三神に抱かれた邦子の表情が浮かぶ。それは、あのとき、ハワイで浩志に抱かれようとした、ゆかりの顔と重なった。
いつまでも、この「三人の関係」は続けて行けるのだろうか? 来年の今日、自分はゆかりや邦子と、同じように話していられるだろうか……。
「――石巻さん」
と、森山こずえが言った。「受付にお客様ですって」
「僕? 誰かな。――ちょっと行ってくる」
席を立つのも悪くなかった。体が久しぶりのデスクワークで、こわばっている。
しかし、受付に出て行った浩志は、一瞬足を止めた。毛皮のコートを着て立っているのは、父の後妻、法子だった。
黒い関係
「昨日、来てしまって」
と、法子はコーヒーを飲みながら、苦笑した。「まだお休みだったんですね、会社」
「普通の会社は今日からですよ」
と、浩志は言った。「何か急ぎの用ですか?」
追い返すわけにもいかず、浩志は法子を近くの喫茶店に連れて行った。
さぞかし、田舎の町では目立つだろう毛皮のコート。しかし、こんな場所では、何とも不似合いな、場違いな姿に見える。
法子は、ひどく落ちつかない様子だった。以前の法子は、浩志を|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にするような態度をとっていたものだ。それが、今はなぜか目が合うのすら避けている。
「――お父さんのことで」
と、法子は言った。
「何です?」
あなたの夫でしょ、まだ、と言いかけて、何とか抑えた。こんな女と言い争っても時間のむだだ。
「怖いんです」
法子は思いもかけないことを、言い出した。「あの人……仕返しに来るわ、きっと」
どうやら、演技ではないらしい、と浩志は思った。法子は本当に|怯《おび》えている。
「どうしたんです、一体?」
「あの人が世話になっているのは、こっちで結構力のある暴力団らしいんです。そこが、人をよこして」
「家へ?」
「ええ。――おとなしく、家と土地を返してやりな、と脅したんです。言葉はていねいでしたけど……あれは普通の男たちじゃありません」
「それで?」
「弟の方へも、|誰《だれ》か行ったようで、青くなって帰って来ました。――自分の車を持ってるんですけど……。何とかいう外国のスポーツカーを。それが駐車場で燃え上がって……」
「放火ですか」
「誰も見ていなかったんですけど、そうに決まっていますわ」
浩志は、ため息をついた。
「僕に相談されても……。父とあなたの間のことじゃありませんか」
「だって、あなたのお父さんですよ」
と、上ずった声で法子は言った。
「僕はそう思っていません。克子もです」
浩志はきっぱりと言った。
「そう……。あなた方が腹を立てるのも分かります」
法子は目を伏せて、両手はひっきりなしにコーヒーカップをいじっていた。「でも、初めから、あの家や土地を狙ってたわけじゃないんですよ。本当です」
「そうですか」
浩志は無関心な口調で言った。実際、土地のことなど、何の興味もない。
「あなたのお父さんは、頭が固くなって、もう商売ができなくなっていました」
と、法子は続けた。「好き嫌いが極端になって、人を信じなくなったんです。逆に、|一《いっ》|旦《たん》信用すると、その人に大金を任せて、大損したり」
「なるほど」
浩志は適当にあいづちをうった。
「あのまま放っておけば、きっと遠からずあの家や土地を失ってました。本当です」
法子は少し早口になった。「何もかも失くしてからじゃ手遅れです。そうでしょ? だから私は――」
|呆《あき》れて、ものも言えない。父を|騙《だま》して、土地ごと取り上げたのが、「父のためだった」と言うのだ。
「ご親切に」
と、浩志は言ってやった。「それで父を追い出したわけですか」
法子は少しひるんだが、
「自分で出て行ったんですわ、あの人」
と、言い返した。
「しかし、別に連れ戻そうともしなかったじゃありませんか」
法子も、そう言われると、何とも抗弁できない様子だった。
しかし、浩志としても、父がなぜこの東京で、暴力団の世話になっているのか不思議だった。もちろん、浩志の知らない内にそういう知り合いができていたとしても、おかしくはない。
だが、それなら初めに家や土地を取られたとき、なぜすぐに頼って行かなかったのだろう?
「浩志さん」
と、法子は少し身をのり出して、「お願いです。あの人と話して。いつでも帰って来ていいって。本当です。悪気があったんじゃないと説得してほしいの」
「僕にそんなことをする義務はありません」
と、浩志は言った。「むだですよ、何と言っても。これは、父とあなたの問題だ」
「聞いて。もし、あの人をうまく説得してくれたら……あの土地の半分、あなたにあげます。いいえ、もともと、あなたがもらっていい土地なんですもの」
全く言葉の通じない外国人と話しているのも同じである。――価値観の違いは、どうすることもできない。
「そんなもの、ほしくもありません」
と、浩志は言った。「お話はそれだけですか? 仕事があるんでね、僕は」
法子は青ざめて、じっと浩志をにらんでいたが、
「――分かりました」
と、|顎《あご》を上げて、「そのおつもりなら……。克子さんが泣くことになりますよ」
浩志は、じっと法子を|見《み》|据《す》えて、
「克子がどうしたんです」
と、言った。
法子は唇の端に、薄笑いを浮かべた。
何とか浩志に対して優位に立とうとしているようだ。その様子は、見ていて、こっけいだった。
「斉木って男、ご存知?」
「誰ですって?」
「斉木です」
法子はテーブルのガラスの上に、指で文字を書いた。
「心当たりはありませんね」
「商事会社に勤めている男性です。将来有望なビジネスエリート」
「その男がどうしたんです?」
「克子さん、その斉木と『深い仲』なんですよ。もう、ずっと。――もちろん斉木には妻子があります」
いつかホテルで見かけた、あの男か。浩志はじっと法子の視線を受け止めていた。
「そんなこと、いちいち調べてるんですか」
「あなた方がどうしてるか、少しは関心がありますから」
「それで? 克子はもう二十歳を過ぎた大人です。別に法律に触れることをしているわけじゃない」
「それはそうですけど……。私が斉木の奥さんに、克子さんのことを教えたら――。たぶん、克子さん、辛いことになるでしょうね。お兄さんとして、そんな立場に立たせたくないでしょ? 奥さんが、克子さんの勤め先に乗り込んだら? 克子さん職を失うかもしれませんね」
浩志は、法子の言葉を聞きながら、人間がどこまで卑劣になれるものか、信じがたい気持ちだった。――怒りが、静かにわき上がって来る。
「どうなさる? あなたが、お父さんと話をして――」
法子は、浩志の目に、怒りが燃え上がって来るのを認めて、言葉を切った。
浩志は腰を浮かして、それから思い付いて自分のコーヒー代を財布から出し、テーブルに置いた。
「浩志さん」
浩志を怒らせてはまずいと思ったのか、法子が急いで言った。「私だって、何も克子さんを泣かせたいわけじゃないわ。分かってちょうだい。あの人が何をするか分からないから――」
「克子は、もう泣いたりしませんよ」
と、浩志は言った。「十四のとき、充分に泣きましたからね。あんたのおかげで」
「浩志さん――」
と、法子が身をのり出して止めようとする。
浩志は、「当然なすべきこと」をした。平手で法子の|頬《ほお》を|叩《たた》いたのである。
力は入れなかった。何とか自分を抑えたのだ。しかし、びっくりするほど派手な音がして、喫茶店の中はシンと静まり返った。
他の客が、みんな浩志たちの方を見ている。
法子は、打たれた痛みよりも、思いがけない仕打ちのショックで、青ざめていた。
「これ以上、僕や克子につきまとわないでもらいましょう」
と、浩志は言った。「父のことは、あなたの問題だ。自分でまいた種は、自分で刈り入れることですね」
浩志は、喫茶店の中の客が一人残らず注目している中、ごく当たり前の足どりで、店を出たのだった……。
課長に来客があって、お茶を出すと、克子は自分の|湯《ゆ》|呑《の》みを手に、給湯室へ行った。
新しい葉を使ったから、自分でも一杯飲もうと思ったのだ。特別に飲みたいわけではないが、もったいない。
もちろん、大していいお茶を使っているわけではなかった。ただ、社員用のお茶(葉がなくて、ほとんど粉ばかり)に比べると、少しましという程度だ。
それでも、お茶を|注《つ》いで、立ったまま飲んでいると、いくらか息抜きになる。
「――石巻さん」
と、同年代の女の子が、サンダルをカタカタいわせながらやって来る。
「あら。田舎へ帰らなかったの?」
と、克子は言った。
「うん。飛行機がとれなくて。混んだ列車に何時間も揺られてまで、帰りたくないわ」
と、首を振ってから、「ねえ、|凄《すご》いじゃない!」
「何が?」
「隠したってだめ。玉のこし[#「玉のこし」に傍点]ってやつ」
「ああ」
何とまあ早いこと。――黒木翔のことだ。恵子か伸子か、いずれどっちかの口から|洩《も》れて、|噂《うわさ》になるだろうとは思っていたが、初日からとはね……。
「うまく|可愛《かわい》がっちゃいなさいよ! ね、『若奥様』におさまったら、ホテルの予約、取ってね」
現実的な「要望」に、思わず克子は笑ってしまった。
「そんなんじゃないわ。ただ珍しがってるだけよ、向こうは。私、好みじゃないの、ああいう人」
「もったいない! 私じゃだめかって訊いてみて」
克子は笑って、
「――ね、|誰《だれ》から聞いた?」
「みんな、もうお昼休みには知ってたよ」
「参っちゃうな」
と、苦笑する。
まあ、話の種にするな、と言う方が無理かもしれないが……。しかし、もし克子が他の誰かのロマンスを聞きつけても、誰にも洩らさないだろう。
たとえ悪気はなくても、その「噂」が、思いがけず、人を傷つけることもあるのだ。
黒木翔か……。
自分でも意外なことに、克子は帰ってから何度も、あの若々しい――というより、むしろ無邪気な――翔の笑顔を思い出すことがあった。
それで胸がときめくというわけではなかったが、ただ、小さいころから「大人の世の中」ばかり見て来た克子にとって、あの翔の|爽《さわ》やかな純情さは、いかにも新鮮だったのだ。
会いたい、といえば斉木の方に会いたいが、その一方で、克子は、もしこれきり黒木翔が何も言って来なかったら、ちょっと寂しいかな、と思ったりもした。
お茶を飲み終えて、席へ戻ろうとしていると、ちょうど武井恵子と出くわした。
「克子、ティータイム?」
と、恵子が言った。
「このおしゃべり」
と、克子が人さし指で、恵子のおでこをつついてやる。
「私じゃないよ。伸子さんの方。――ま、後から私も少し[#「少し」に傍点]しゃべったけど」
「少し、ね」
克子は笑って、「これで振られたら、どうなるのよ、見っともない」
「大丈夫。人の噂も七十五日、よ」
自分で言いふらしといて、よく言うこと。
克子は、半ば本当に腹を立てていたが、しかし、そんなことを他人に言ってもむだだと分かっていた。人を愛すること、傷つくことを知っている人間でなければ、分かるものではない……。
席に戻って、仕事をしていると、電話が鳴った。一瞬、ためらった。
斉木からか。それとも黒木翔からか。
「――はい、石巻です」
「克子か」
「何だ、お兄さん」
「がっかりしてるような声だな」
と、浩志が言った。
「まあね。会社から?」
「うん。――お前、今夜、遅いか?」
「別に今のところ……。たぶん、特に用はないと思うけど、どうして?」
「ちょっと話がある」
「いいよ。じゃ……会社出るときに電話する」
「ああ、そうしてくれ。夕食でも食べよう」
兄の声が、珍しく沈んでいる。
「何かあったの?」
と、克子は少し声を低くした。
「法子さんが来た」
「へえ。――父さんのことで?」
「それもある。詳しいことは、会ったときにな」
「うん」
電話を切って、克子はふと不安になった。法子が、自分のことを何か言って来たのだろうか。
兄はさりげない話し方をしていたが、克子には分かる。かなり深刻なことなのだ。
いやだな、年明け早々に……。
頭を振って、克子は仕事に戻った。
「克子さん」
と、受付の女の子が白い封筒を手にやって来た。「今、これが」
「え?」
「どこかの事務所の子が持って来たの。あなたに届けてくれって言われたんですって」
「ありがとう」
白い封筒。――結婚式の招待状などによく使うやつである。
表に毛筆で、〈石巻克子様〉とある。裏を見て、克子は首をかしげた。聞いたことのない会社の名前である。
ともかく、封を切ってみると、やはり何かの招待状らしい、厚紙の二つ折りの書状が入っていた。
どこだかの会社の創業十周年記念パーティーへの招待状である。しかし、どうしてこんな物が?
目を通して、最後に書き添えられた言葉で、やっと事情は分かった。
黒木翔からのメモである。
〈突然、こんな物をさし上げてすみません。この会社は、父のグループの一つなんです。パーティーにおいでになりませんか? 連絡して下されば、お迎えに行きます。翔〉
克子は、ちょっと笑った。――何とまあ、せっかちな。
これが「若さ」というものだろうか。
もちろん、誘ってくれるその気持ちは|嬉《うれ》しいが……。しかし、いい気になって、それに甘えていたら、ますます翔の方は夢中になってしまうだろう。
招待状を見直して、克子は目を丸くした。――パーティーって、明日[#「明日」に傍点]の夜じゃないの!
着て行くものだってない。
そう。とても無理だわ。
克子は、しばらくその招待状を眺めていたが、やがて封筒へと戻すと、バッグの中へしまって、仕事の方に注意を戻した。
とても、無理……。
克子は、そう|呟《つぶや》きながら、頭の中で、あれなら着て行けるかしら、と考え始めていた。もちろん、上等なドレスなどは持っていないが、仕事を持っている女性として、一応見っともなくないスーツやワンピースはいくつかある。
でも、あまり妙な格好で行ったら、翔に恥をかかせることにならないだろうか。
克子は、自分がすっかりパーティーに出る気になっているのに気付いて、苦笑した。
そう。お兄さんに相談してみよう。どうしたものか。
でも、分かっていた。兄がどう言うかも見当はつくが、兄の言葉とは関係なく、自分がそのパーティーに行くに違いない、ということが……。
交 錯
「悪かったな」
と、浩志は言った。「ただ――どうしてもあの女の言うことを、黙って聞いてられなかったんだ」
「分かるわ。当然よ」
と、克子は言った。「私だって――いえ、私だったら、きっと頭からお茶でもぶっかけてたかもね」
二人の前の〈定食〉は、半分ほどしか食べられていなかった。のんびりと食べながら話すというわけにはいかなかったのである。
「しかし、もしあの女が本当にその……斉木とかいう男の奥さんに知らせたりしたら……」
斉木、という名を兄の口から聞くのは、何だか奇妙な気持ちがした。まるで自分の全然知らない、よその人のようで……。
でも、確かにそうなのだ。斉木は「よその人」で、克子にとっては、「何でもない」。恋人? そうだろうか?
「――いいのよ」
克子は、はしを取って、「どうせ、終わりにしなきゃ、と思ってたの。ね、食べよう。夜中にお|腹《なか》が|空《す》くよ」
「ああ……」
浩志は、少し冷めたお茶を飲んで、「しかし、いいのか、それで?」
「良かないけど、仕方ないでしょ。あの法子さんのために、父さんのことをどうにかしてやるなんて、とんでもないわ。そのせいで、何かあったら、そのとき考えるしかないじゃない」
「そうだな」
浩志は、ややホッとした様子だった。「ああ言っていたが、本当は何もしないと思う。こっちをとことん怒らせるのは損だ、と思ってるんだ。|親《おや》|父《じ》のことがある限り、こっちも役に立つと思ってるだろうしな」
「おあいにくさま、ってとこね」
克子は、少し無理をして笑って見せた。「でも、お父さん、ずいぶん大物の所に世話になってるのね」
「それは気になってるんだ」
と、浩志は|肯《うなず》いた。「どういうつながりがあったのか……。それに、その暴力団が、親父を大事にして、どんな得をするのか、もな」
「そうね。見当もつかないわ」
と、克子は首を振った。「どうするの?」
「うん、西脇さんに、ちょっと相談してみようと思ってる」
「西脇さん? ああ、ゆかりさんの事務所の社長ね」
「うん。そっちの方面には詳しいはずだ。親父が世話になってるって人の名刺がとってある。あれを見せて、調べてもらおうと思ってるんだ」
「でも――いやね、本当に暴力団なんかと付き合いがあったんだったら」
と、克子は顔をしかめて言った。
二人は、少し落ちついた気分で、定食をきれいに食べ終えた。
――克子は、実際、複雑な気持ちだった。
もし、本当にこれが原因で、斉木との間が終わるようなことになれば……。そのときは、あの妻の南子との話がどうなるか。そして、最悪の場合、克子は、斉木と職場と、二つを失うかもしれないのだ。
――恋人と仕事を一緒に並べるのはおかしいかもしれないが、決して楽とは言えない暮らしをしている一人身のOLにとって、安定した収入は、恋人と同様に大切である。
「いいか」
と、浩志は言った。「もし、何か困ったことになったら、|俺《おれ》に連絡しろ。分かったか?」
「うん」
と、克子は肯いた。「でも、大丈夫。私は子供じゃないわ。ちゃんと自分で対処できるわよ」
「もちろん、分かってるさ。しかし――第三者がいた方がいいことだってある」
克子は|微笑《ほほえ》んで、
「お兄さんは、ゆかりさんと邦子さんのことで手一杯でしょ。それに、自分のことも心配しなさいよ」
「言ったな」
と、浩志は笑って人さし指で妹のおでこをちょっとついてやった……。
結局、克子は話さなかった。
黒木翔がよこしたパーティーへの招待状のことを。――だって、斉木と別れるかどうか、なんて話をしていて、ほかの男の子のことを持ち出すのも、妙な気がしたのだ。
アパートへ戻って、冷えた部屋に入ると、克子は身震いした。
もちろん、昼間は少し日も入っているのだが、夜まで暖かく保っていてはくれない。石油ストーブの火を|点《つ》けて、その前にしゃがみ込むように座り、赤い火が、体を、そして部屋そのものを暖めてくれるのを待つ。
時間がかかるのだ。しかし、そうしてから着がえないと、本当に|風《か》|邪《ぜ》を引いてしまう。
待つ間に、バッグからあの招待状を取り出してみる。――改めて見直すと、やはりいかにも自分など場違いな存在に見えて来そうで、ためらってしまう。
断るべきだ。――そう。しょせん、あの子は私と別の世界の人間なのだ。
克子は、電話をストーブの前まで持って来ると、招待状に書き添えられた番号へかけようとして、ためらった。二度、三度、ダイヤルしかけて、やめてしまう。
放っておけばいい。何も返事をしなければ、向こうは断られたと思うだろう。でも、それは失礼なことになるかもしれない。
目の前の電話が鳴り出した。そっと受話器を取ると、
「もしもし」
斉木の声が聞こえて来た。
「お帰りなさい」
と、克子は言った。「今、どこから?」
「外だよ。今夜は新年会で」
斉木の電話の周囲は、確かに大分騒がしかった。
「どうだった、スキー?」
「ああ、なかなか楽しかった。体中が痛いがね」
と、斉木は笑って、「どうだった、君の方は?」
まだ、少なくとも斉木は何も気付いていない。妻が他の男と新しい生活を始めるつもりでいることなど……。
「色々あったわ。転んだこと以外にもね」
と、克子は言った。「大学生の男の子と、向こうで知り合ったの。楽しかったわ」
「へえ。やけるね。どの程度の仲まで行った?」
「やめてよ」
と、克子は苦笑した。「ただおしゃべりしただけ。――もし、もっと進んでたら、どうする?」
「気が狂うかな、|嫉《しっ》|妬《と》で」
「よく言うわね」
克子は笑って、「奥さんもお子さんも、元気だった?」
「ああ。娘がすっかりスキー、うまくなってさ。子供ってのは|凄《すご》いな、全く」
その内、あなたでない「お父さん」と、スキーをすることになるのよ、と克子は心の中で|呟《つぶや》いた。
「一度、会わないか。忙しいけど、何とか時間を作る」
「いいわ。でも――明日はちょっと予定があるの」
克子は、招待状を眺めていた。
「僕も一週間くらいは、とても無理だな。じゃ、来週でも、また電話するよ」
「待ってるわ」
と克子は言って、「あなた……」
「じゃ、また。もう戻らないと。まだ他の連中と一緒なんだ」
「そう。それじゃ……」
「またかけるよ」
ポンと電話が切れて、たぶん斉木は忙しく駆け戻っているのだろう。
――新しい年。
しかし、たぶん今年は何もかも、けじめをつける年になるだろう。斉木のこと、父のこと、そして克子だけでなく、兄の浩志もまた……。
寒かった部屋が、やっと暖かくなって来て、克子の体もほぐれて来る。
着がえをすると、小さなお|風《ふ》|呂《ろ》にお湯を入れる。後はもう寝るだけ、か……。
「どうしよう」
克子は布団を敷くと、|腹《はら》|這《ば》いになって黒木翔から来た招待状を、何回も見直している……。
会社の帰り、大宮を見舞いに、浩志は病院へ寄った。
「やあ、どうも」
西脇が、廊下の|椅《い》|子《す》から立ち上がった。
「どうですか、大宮さん?」
と、浩志は|訊《き》いた。
「ええ。もう意識も戻ってるし、大丈夫だということです」
「良かった! ゆかりも喜んでるでしょう」
「ええ。大宮の|奴《やつ》、『いつもこれぐらいもてるといいのに』って言ってました」
「それだけ言えるようになりゃ上出来ですね」
と、浩志は笑って、「会えますか?」
「どうぞ」
そっとドアを開けて病室へ入ると、大宮がベッドで眠っている様子。
起こしても|可哀《かわい》そうだ。ともかく、そばへ行って、大分顔色が良くなっているのを確かめると、浩志はそっと病室を出ようとした。
「あ……。石巻さん」
と、声がして、大宮が目を開けている。
「何だ。起こしちゃったようですね」
「あんまり眠り過ぎて、病気になりそうですよ」
と、大宮は言った。
声に力はないが、目はしっかりと浩志を見ている。
「ゆっくり治療して下さい。大事をとらないと」
「ご心配かけて、すみません」
「とんでもない。僕こそ――」
と、浩志はちょっと詰まって、「僕の……代わりに殴られたんですからね、大宮さん」
「いつもスターの代わりにいじめられてますから、慣れてます」
と、大宮は言って、「用心して下さいよ。あの連中は、執念深い」
「僕のことより、自分のことをまず心配しなきゃ」
「ええ……。ゆかりさん、大丈夫かな。僕がいないと、時間に遅れそうだ」
「仕事の心配ですか? やせますよ」
「そう。――期待してんです。この入院で大分スマートになるんじゃないかってね」
大宮の明るさは、浩志にとって、大きな救いだった。
また来ます、と言って廊下へ出ると、
「石巻さん、ちょっとお話が」
西脇が、少し深刻な表情をしている。
「――何ですか」
「今朝お電話いただいた、大場という男のことですがね」
大場というのは、父が世話になっているという、どこだかの〈専務〉である。西脇が暴力団のことに詳しいと思って、浩志は今朝、電話で話しておいたのである。
「何か分かったんですか?」
「どうやら、厄介なことになりそうです」
と、西脇は言った。
浩志と西脇は、病院の中にある喫茶室に入った。
もちろん、インスタントなみのコーヒーが出て来るような店だが、ともかく客が少なくて、空いている。
「――どういうことです?」
と、浩志は言った。
「その大場という男のいる会社のことを、当たってみました。その筋への対策を専門にやっている人間もいますからね」
と、西脇は言った。「石巻さん。――あなたのお父さんが世話になっているという、この大場という男、あの国枝の子分なんですよ」
浩志は、耳を疑った。
「あの……国枝定治の、ですか」
「そうです。この会社も、もちろん名目上は違うが、国枝のものと言っていいそうです。つまり、あなたのお父さんは、国枝に面倒をみてもらっているということになります」
浩志にとっても、あまりに思いがけない事実だった。
「何か心当たりはありますか」
と、西脇は訊いた。「何もないのに、国枝の名前が出て来るとは思えない」
「そうですね……。いや、僕には見当もつきません」
浩志は首を振って、「何てことだ……。大宮さんをあんなひどい目に遭わせた奴のところにいるなんて」
「偶然かもしれません。しかし、その可能性は万に一つ、というところでしょう」
浩志は、おいしくもないコーヒーを、ゆっくりと飲んだ。少し時間が必要だった。
「父が、もとから国枝を知っていたとは思えません」
と、浩志は言った。「ですから、これはたぶん国枝の方が父に近付いた、とみるべきじゃないでしょうか」
「なるほど」
「どうしてだか、国枝は、僕の父が家をとり上げられて、上京して来たことを知ったんでしょう。そして結局、僕の所にも妹の所にもいられなくなり、父は出て行った。そこへ国枝が声をかけて……」
浩志は、ため息をついた。「父にしてみれば、渡りに船です。下手すりゃ、道ばたで寝なきゃいけないところを、面倒みてくれるというんですからね」
「しかし、何のために?」
「国枝は、僕を恨んでるはずです。ゆかりとのことは、一応息子が悪いということで決着をつけましたが、あれが国枝の本心とは思えません」
「確かにね」
と、西脇は|肯《うなず》いた。「――そうだ、ちょっと待っていて下さい」
西脇が、電話をかけに席を立つ。浩志は頭をかかえた。
とんでもないことになったものだ。
西脇は、五、六分電話で話して、戻って来た。
「一応調べさせておいたんです。あなたのお父さんが、今、どんな風に過ごしておられるか」
「何か分かりましたか」
「至って丁重に、もてなされているらしいですよ。車も自由に使えるし、若い男が二人ほどついて、好きに暮らしておられるようだ」
浩志は、西脇の話に、|呆《あき》れずにはいられなかった。
赤の他人が、それも国枝のような人間が、どうしてそこまでしてくれるのか、父は考えたことがないのだろうか。
その国枝のせいで、浩志がどれほど迷惑しているか、そこまでは父に分からないにしても、何か裏にあると考えて当然ではないか。
それを、土地を取り戻そうとして、自分の妻をおどすことまでやらせているのだ。――浩志は、これだけですむわけがないということに思い当たると、気が重くなった。
つまり、国枝は何か目的があって浩志の父を世話しているのだ。その目的とは何なのだろうか?
「ワッ!」
と、いきなり声を上げて、沢田は飛び起きた。
「何よ。びっくりするじゃない」
と、神崎弥江子は体を起こして、「せっかくいい気持ちで眠ってたのに」
「――明かり、|点《つ》けていいかい?」
「いいわよ。どうせ、いつまでも寝ちゃいられないし」
と、弥江子は、ベッドの中で伸びをした。
カチッと音がして、ナイトテーブルのスタンドの明かりが点く。
その光に浮かび上がった沢田慎吾の顔は、汗で光っていた。
「どうしたのよ?」
と、弥江子は|訊《き》いた。
「いや……。何でもない」
沢田は、強く頭を振った。
「夢でも見たの? あの事故のこと?」
沢田はチラッと弥江子を見て、黙ったまま、柔らかい|枕《まくら》に頭を落とした。
「――もう、|誰《だれ》も|憶《おぼ》えてやしないよな」
と、沢田が|呟《つぶや》くように言う。
「そうね。でも、用心しないと。あれから、車には乗ってないんでしょ?」
「正月に少し……。それだけさ」
「そう。――いつまでも、くよくよ考えてたって仕方ないわよ」
「君は強いな」
と、沢田は言った。「|羨《うらや》ましいよ」
弥江子は、沢田の、|怯《おび》えた横顔を眺めた。沢田は気の小さな男である。
自分から出頭する勇気はとてもない。しかし、その一方で、少女をはねて死なせてしまったことが、いつも頭から消えないのである。
神崎弥江子にしても、あの事故のこと、そして死んだ少女を放り出して逃げて来てしまったことを、気にしていないわけではない。
しかし何といっても、弥江子自身がはねたわけではない。そこは沢田と決定的に違うところだ。
それでも、もしこの件が明るみに出て、沢田と弥江子が一緒だったと知れたら、弥江子も同罪である。少なくとも、スターとしての生命を絶たれることは確かだ。
今さら、あの瞬間へ逆戻りして、少女を病院へ運ぶわけにはいかないのである。そうなれば、後はひたすら隠し通すしかない。
「車はどうした?」
と、弥江子は訊いた。
「車? ああ――。目立つ傷は自分で何とかした。しかし、警察が調べれば、分かっちまうだろうな」
「大丈夫よ。あなたを疑うきっかけはないんですもの。下手に修理工場へでも持って行けば、そこから足がつくわ」
「うん。分かってる」
沢田は、笑いを忘れてしまったかのようだった。以前の、あの軽薄だが愉快な二枚目のイメージはない。
正月明けから、また三神の下、撮影はスタートしていたが、沢田がいやにおとなしく黙っているので、スタッフの面々が首をかしげていることを、弥江子は知っていた。
「――もう起きて仕度しなきゃ」
と、弥江子はベッドに起き上がった。「遅刻は嫌いよ、巨匠は」
「気にしちゃいないさ、僕のことなんか」
と、沢田は|頬《ほお》をひくつかせて笑った。「あの天才少女さえいりゃいいんだ、監督には」
「|馬《ば》|鹿《か》言ってないで、起きるのよ」
弥江子はガウンをはおって、「今日は長いセリフがあるの。入ってはいるけど、セットでやってみないと」
「僕は出番がない」
「送ってくれないの? それに、出番のない日に、ちゃんと来て撮影を見てると、巨匠は喜ぶわ」
沢田はため息をついた。
「分かったよ。――先にシャワーを浴びてくれ。その間に目を覚ます」
本当はとっくに覚めているのだ。いや、あの事故以来、本当にぐっすりと熟睡したことはないような気がする、と沢田は思った。
ドラマではないから、毎夜毎夜、悪夢にうなされるというわけではないが、それでも、町を歩いていて、自転車に乗った少女を見かけるとハッとする。
あの事故の記事は、ほとんど目立たない扱いだった。もちろん、一応捜査はしているのだろうが……。
大丈夫。捜査の手が自分へ伸びて来ることはない。沢田は自分へそう言い聞かせていた。
別世界
向こうもずっと捜していたのだろう。
克子がエレベーターから宴会場のロビーへ歩み出ると、黒木翔がパッとソファから立ち上がるのが見えた。
その瞬間、克子はこのまま逃げ出してしまいたい衝動にかられた。――普通のワンピースに、くたびれたコート。
別に、貧しいことを恥じるわけではないが、いかにも場違いな気がしたのである。宴会場のクロークには、毛皮のコートを山と積み上げて預けている、いかにも「上流夫人」たちの姿が見えた。
コートを上のクロークに預けて来れば良かった、と悔やんだが、もう遅い。
「いらっしゃい」
と、タキシード姿の翔がやってくる。
「来ちゃったわよ」
と、克子はいたずらっぽく|笑《え》|顔《がお》を作って、「お似合いね」
「コート、僕、預けて来ます」
「でも……。係の人がびっくりするわ、あんまりボロで」
「そんなこと言って! さ、脱いで下さい」
「ええ」
克子はコートを脱いで、翔に渡した。こうなったら、覚悟を決める他はない。
しかし、翔がさすがにタキシードを着こなしているのには、感心した。慣れているから、といってしまえばそれまでだが、スキーウェアの翔と比べると、少し大人びて見える。
「パーティーの開始が少し押してるんです。|親《おや》|父《じ》が遅れてて。控室に行きましょう」
「ねえ、私、こんな格好で――」
やはり、ロビーで談笑している女性たちは、和服だったり、長い|裾《すそ》のドレスだったり。克子は、何だか「受付の女の子」という雰囲気だった。
「構やしませんよ。ちょっと待ってて」
翔がコートを預けにクロークへと駆けて行く。
克子は、ロビーの真ん中に突っ立って、何とも言えない居心地の悪さを感じていた。
「――じゃ、こっちです」
翔が案内してくれたのは、細かく仕切られた部屋の並ぶ奥の廊下。
「ここが、うちの連中の控室です」
と、翔が、ドアの一つを開けようとする。
「待って! ねえ、待って」
克子はあわてて言った。「どなたか――お宅の方がいらっしゃるんじゃないの?」
「いや、いません。みんなもう客の相手でパーティー会場に出てますから」
とドアを開けると、ソファの並んだ、こじんまりした部屋で、テーブルには、コーヒーカップやお|茶《ちゃ》|碗《わん》がそのままになっている。確かに、そこには|誰《だれ》もいなかった。
「片づけてないな。――何か頼みますよ。コーヒーか紅茶か……」
「じゃあ、紅茶を」
何か頼まなきゃ悪いようで、克子はそう言った。
控室で一人になった克子は、まるで迷子の子供のような心細い気分だった。
やはり、来るんじゃなかった。そう思っても、もう遅いが。
翔に黙って帰ってしまうわけにもいかない。――早く、戻って来てくれないかしら。
あのスキー場のときとは逆に、克子の方が「子供」みたいである。
そう。落ちついて。何もこっちが押しかけて来たわけじゃない。招待されたから、来たんだ。そうよ。堂々としていればいい。
頭ではそう思っても、無理な相談だった。
ドアが開いて、克子はびくっとした。
翔ではなかった。二十歳そこそこの女の子が、フワッと広がったドレス姿で、控室を|覗《のぞ》いたのだ。
「あら」
と、その娘は克子を見ると、部屋を間違ったのかと思ったらしく、ドアの外の表示へ目をやって確かめている。
そして中へ入って来ると、
「あの……黒木翔君、知りません?」
と、|訊《き》いた。
どう見ても自分より年下の子だと分かると、克子も多少安心する。
「すぐ戻ると思いますけど。飲み物を頼んで来るって、出て行ったんです」
と、克子は言った。
すると、その娘は目を見開いて、
「ああ!」
と、克子がびっくりするような声を出した。
「あなたが翔君の言ってた人ね」
好奇心丸出しの目で克子を見ているが、あまりに無邪気で、|却《かえ》って腹も立たない。
「失礼なこと言って、ごめんなさい」
と、その娘は|笑《え》|顔《がお》になると、「私、翔君のいとこで、久保泉といいます」
「石巻克子です」
と名のって、「泉さん、っておっしゃるの」
「黒木のおじさまの妹が私の母。今、十九です。大学の一年生」
「初めまして」
よろしく、とは言わなかった。相手がどう受け取るか、分からなかったからだ。
「大人ですね」
と、久保泉は|椅《い》|子《す》にかけると、まじまじと克子を眺める。「翔君と同じ年齢? 全然見えない」
「老けてるだけ」
と、克子が|微笑《ほほえ》むと、
「そういう意味じゃなくて。本当よ! そんなつもりで言ったんじゃないの」
元気のいい子である。そして|可愛《かわい》い。美人という顔でなくても、思わず克子でも目をひかれるほど可愛い顔をしている。
「翔君とはね、小さいころからよく一緒に遊んだの。おとなしいでしょ、翔君。女の子とでないと遊べなかったのよ」
と、訊かれもしないのに、よくしゃべってくれる。
何だか、この久保泉という娘を見ているだけで、克子は楽しくなって来た。
十九歳か。――克子とたった二つしか違わないが、そこには克子の全く知らない「十九歳」が、克子の通って来なかった「十九歳」があった……。
「翔君ったら、あなたの話ばっかり」
と、久保泉は言った。「スキー場ですてきな人に会ったんだぞ、って。でも――意外だなあ」
「パッとしないから?」
「そうじゃなくて、翔君がポーッとなるんだから、もっと派手な感じの人かと思ってた。でも、|凄《すご》くしっかりしてそうで、大人って感じ」
遠慮というもののない子である。しかし、妙に裏読みしたくなることもないから、聞いていて、気楽だ。
ドアが開いて、克子は翔が戻ったのかとホッとしたが――。
「あ、お母さん」
と、泉が言った。
「何してるの? パーティー、もうじき始まるのよ」
「だって、おじさまが来てないんでしょ。始まりっこないじゃない。ね、お母さん、こちらがほら、翔君の『|一《ひと》|目《め》|惚《ぼ》れ』の彼女」
黒木竜弘の妹か。――そういう目で見るせいか、いくらか似ているようにも見えたが、タイプとしては大分違っているらしい。
いや、むしろ正反対という印象を、克子は受けた。
「そう。――翔ちゃんは?」
その母親は、ことさらに克子を無視しているようで、娘に|訊《き》いた。
「飲み物、取りに行ったって。すぐ戻るわよ」
「じゃ、パーティー会場に来て、と言ってね、戻ったら」
「分かった。お母さん、少し休んで行ったら?」
「そんなことしてられませんよ」
と言って、少し迷っている様子だったが、結局、克子の前に歩み出て、「久保有里子です」
「石巻克子と申します」
と、立ち上がって頭を下げた。「申しわけありません、ご親類の方々のお部屋なのに」
「構わないんですよ」
と、久保有里子は首を振って、「翔ちゃんはとても素直ないい子ですからね。心配してたの。それがあなたのような方をね」
「あなたのような、って何? お母さん、失礼よ」
と、泉が口を挟んだ。
「何も悪いこと言ってるわけじゃないわ」
久保有里子は、娘の明るさとおよそ似ていない。丸顔で、太り気味の体格を、ウエストを絞らないドレスで隠している。
その目は笑っていない。克子には、よく分かった……。
「どうぞ、かけてらして」
と、久保有里子は言った。「翔ちゃんも、じきに戻るでしょう」
克子は言われるままに、ソファに元通り腰をおろした。
「兄とお会いになった?」
と、有里子が訊いた。
「スキー場でお目にかかりました」
何かお世辞らしいことの一つも言うべきかもしれない。
「光栄でした」とか「信じられないようで」とか。
しかし、こんなときには、克子の気骨のあるところが前面に出る。こっちには何も感激する理由などない。悪い人ではないと思ったが、それ以上ではなかった。
「そう」
と、久保有里子は素っ気なく言って、「今日のパーティーには、うちの親族がほとんど顔を|揃《そろ》えます。そのおつもりでね」
「はあ」
「何か――もう少しパーティー向きのお洋服だと良かったわね」
克子は、そんなことで傷つきはしない。
「自分のことはよく分かっていますから。急にすてきなドレスを着ても、身につかないと思いまして」
と、言ってやった。
「それはそうね。お勤めなんでしょ?」
「そうです」
「ご苦労様ね。じゃ、またパーティーで」
「はい」
余計なことは言わない。――これは克子が人生から学んだ知恵だ。
久保有里子が控室を出て行くと、娘の泉が、ため息をついて、
「本当に、お母さんったら……。ごめんなさい。感じ悪かったでしょ?」
「いいえ、ちっとも」
と、克子は|微笑《ほほえ》んだ。「普通のOLには、それにふさわしい格好ってものがあるわ」
「私、何となく分かる。翔君があなたにひかれたのが」
「ひかれた、って……」
克子は、ちょっと首を振って、「特別なことだと思わないで。今夜も、どうしようかって、ずいぶん迷ったの」
「でも、来なかったら、翔君、きっとがっかりしたわ」
「もっとがっかりするかも。私のこと、よく知ったら」
そこへ、ドアが開いて、
「ごめん、遅くなって」
と、翔が入って来た。「ジュースしかなくて。待ってたら、きりないから、持って来た。あれ、泉、いつ来たんだ?」
「ついさっき」
翔は、ジュースのグラスを、克子の前に置いた。克子は、それを手に取って、言った。
「ありがとう」
「スキー、行ったのかい、泉も?」
と、翔が訊く。
「大学の仲間とね」
と、久保泉が|膝《ひざ》をかかえ込むようにして、「でも、いい男はいなかった」
翔はちょっと笑って、
「親父、遅れてるんだ。いつも人が遅れると、ぶつくさ言うくせに」
「今、母が――」
と、泉がチラッと克子へ目をやる。
「叔母さんと? そうか」
翔は心配そうに克子を見た。どうやら、どんな風に克子に接したか、見当がついているようだ。
「今日は何人ぐらい集まるの?」
と、克子は話題を変えた。
翔がホッとした様子で、
「五百か六百か……。そんなとこだろうと思うよ」
と言った。「気楽にしてて。料理がどうせ余るから、食べててくれりゃいいんだ」
「もったいないわねえ。タッパーウェアに入れて、持って帰りたい」
と、つい本音が出る。
そこへドアが開いて、
「父さん」
「何だ、何してる。――みんなどこだ?」
「何言ってんの。もうパーティー会場の方にいるよ」
「そうか。|覗《のぞ》かないで真っ直ぐこっちへ来ちまった。――やあ」
黒木竜弘は、克子に気付いて、「石巻さんでしたね。お待たせした」
「とんでもありません」
克子は、立ち上がって頭を下げた。「図々しく押しかけて」
「いや、翔の奴が図々しくお招きした、という方が正確だ。そうだろ。泉ちゃん、母さんはどうした?」
「先にパーティーへ出てます。それからおじさま、『泉ちゃん』はやめる、って約束よ」
と、泉がにらむと、
「そうだったか? じゃ、『泉!』と呼び捨てにしようか」
「いいわよ。そんなことばっかり言ってるから、若い子に嫌われるんだ」
二人のやりとりを聞いていて、克子はごく自然に微笑んでいた。黒木はこの娘を可愛がっている。それは見ていてよく分かった。
「――さあ、行こう」
と、黒木はハンカチで額を|拭《ぬぐ》った。
「父さん。僕がタキシードだぜ。背広じゃおかしいよ」
「そうか。タキシードはどこだ? おい、泉ちゃん、うちの秘書を捜して来てくれんか。全く、気のきかん奴だ!」
黒木が服を脱ぎ出すのを見て、翔があわてて、
「父さん! 彼女の前だよ!」
と、止めた……。
克子は、人いきれで部屋の温度が上がりそうな混雑の中に立って、|却《かえ》って気楽にパーティーの客を「観察」していた。
克子の勤める会社でも、たまには「パーティー」なるものを開くことはあるが、もちろん克子のような女子社員は受付とか荷物の預かりの係。会場の中へは入らないのが普通だ。
それに、入ったところで、できるだけ「ケチ」に徹しようというのが克子の勤め先の方針。大した料理など出るわけもない。
しかし――ここはまるで違う。
今、パーティーは黒木竜弘のスピーチで始まったところだった。五百人か六百人、と翔は言ったが、この人数は、とてもそんなものじゃないだろう。
黒木竜弘のスピーチは、いかにも手慣れて、自信に満ちたものだった。大して内容のある話じゃないのだが、それでも聞いている方は、「あの」黒木竜弘の話、というだけで、ずいぶんためになることを聞いたような気がしているのだろう。
「――では乾杯の音頭を」
と、司会者が、|誰《だれ》やらえらく|年齢《とし》をとって、足下も|覚《おぼ》|束《つか》ない感じの老人を呼び出した。
ジュースを飲んでいるらしいが、グラスを落っことさなきゃいいけど、と克子は心配になった。
「克子さん」
翔が人の間をすり抜けてやって来る。「グラスは?」
「あ、私、だって……」
「乾杯だよ! さ、これ」
「何、これ?」
「ウイスキー。薄いから」
「ありがとう」
と、克子は言った。「ね、翔君、あの方はどういう方なの?」
「乾杯の音頭をとる人? あれ、僕のお袋の方のお|祖父《じい》さんさ」
「へえ。――大丈夫?」
本当に、今にも倒れそうだ。
「去年、軽い|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》で倒れてね。それ以来、思うように体が動かないんだ。でも、どうしてもやるって、自分で言うもんだからね」
その老人は、長峰隆三郎という名前だった。たぶんこの企業にとっては大事な人なのだろう。
乾杯の言葉も、舌がもつれて、よく聞きとれない。克子は、周囲の客の間に忍び笑いが広がるのを聞いていた。
――人は、いつか自分も老い、死を迎えることを、つい忘れがちだ。もちろん、翔のように若ければともかく、はた目には「老い」がそう遠くない壮年の人たちにも、「老い」など自分とは関係ない、と思っている人がいる。
「乾杯!」
その一言だけは、長峰隆三郎もはっきりと発声した。
会場が、それでやっと解放されたという様子でざわつき始める。
司会者が、
「では、お料理も充分にございますので、お時間の許す限りご歓談下さい」
と言ったときには、もう誰もが食べ始め、ザワザワとおしゃべりがあちこちで始まっている。
「遠慮なく取って食べてね」
と、翔が言った。「お|寿《す》|司《し》やうなぎの屋台が出てるだろ。あれ、すぐなくなるよ。並んでも食べた方がいい」
「ありがとう。そうするわ」
せっかく翔が|招《よ》んでくれたのだ。ここは充分に楽しまなくては申し訳ない。
お寿司のほうは大変な人だかりなので、多少楽そうな、うなぎの方へ並んだ。小さな器に一口かば焼きとでもいうのか、うなぎとご飯。びっくりするほどおいしかった。
近所のおそば屋さんから取る出前とは、大分違うわね、と克子は思った。
人が多くて、食べているとぶつかりそうになるので、克子は少し壁の方へ寄ることにした。
壁ぎわには、|椅《い》|子《す》も並べられて、少し高齢の人は、座り込んで食べている。もちろん克子は立って食べていたが……。
ふと気付くと、すぐそばの椅子に、さっき乾杯の音頭をとった長峰隆三郎という老人が座っている。
何も食べても飲んでもいない様子だ。
たぶん、誰か面倒をみる人がついているのだろう、とは思ったが……。
「あの――」
と、克子は、少し大きめの声で、身をかがめて言った。「何か召し上がりますか? お持ちしましょうか」
長峰は、ゆっくり顔を上げて、克子を不思議そうに見ると、
「あんたは……有里子んとこの娘さんだったかな」
と、言った。
「いえ、違います。ただの――客ですけど」
「ああ、そう。いや、結構だね」
|笑《え》|顔《がお》が柔和である。克子も自然に笑顔になった。
「そばがあったら、一杯――」
「おそばですね。あっちに確か。お待ち下さいね」
「すまんね」
克子は人の間をすり抜け、手打ちそばをお|碗《わん》に入れて出す屋台の所へと急いだ。割りばしとお碗を手に、長峰老人の所へ戻ると、老人は、目を閉じ、頭を傾けて、眠ってしまっている様子だった。克子は苦笑したが――ふと、笑みが消えた。
発 作
克子は、長峰老人に声をかけた。
「長峰さん。――長峰さん、聞こえますか」
長峰の呼吸は、どこかおかしかった。ヒューッ、と笛の鳴るような音と、かすれてひっかかるような音が交互に聞こえている。
もしかすると……。ずっと昔、克子の子供のころに、おじいちゃんが倒れたとき、こんな風だったような気がする。
何でもないことなのかもしれないが――。
克子は、お|碗《わん》を手近なテーブルに置くと、翔の姿を捜した。
黒木竜弘の姿が見えた。周囲に集まる人数が違うので目立つのだ。幸い、そのそばに、翔も立っていた。
「――ね、翔君」
克子は翔の腕をつついた。
「どうしたの? 僕も今、捜しに行こうと――」
「来て」
翔の腕をとって、引っ張って行く。「さっき乾杯した長峰さんって方」
「ああ、お|祖父《じい》さんがどうかした?」
「何だか、様子が変。気になるの」
――元の場所へ戻ると、長峰老人は、全く同じ格好で座っている。
「眠ってるだけじゃないの」
「でも、呼んでも起きないし、それに息づかいが……」
翔が、
「お祖父さん。――お祖父さん」
と、肩を軽く|叩《たた》いてみるが、一向に反応がない。
「待って」
克子は、翔を押しのけるようにして、老人の顔に耳を寄せた。――何の音もしない。
「呼吸が止まってる」
と、克子が言った。「人を呼んで! 口の中が乾いてると、舌を巻き込んで、|喉《のど》をふさいじゃうのよ」
「分かった」
翔があわてて駆けて行く。――もちろん、克子は看護婦でも何でもない。しかし、呼吸が止まっているのは、何とかしなくては……。
ともかく、口を開けて、息の通り道を。克子は、老人の口を開き、指を突っ込んで、舌を下げさせた。ヒューッという音がして、息を吸い込む。
ともかく、このままで頑張ろう。
パーティーはそのまま続いていて、|誰《だれ》も克子たちのことに気付いていない。何だか奇妙な気持ちだった。
急に老人がピンと背筋を伸ばし、体を固くした。同時に口をギュッと閉じたので、克子は指をまともにかまれることになった。入れ歯とはいえ、かなりの力だ。痛さに声を上げそうになる。しかし、口を閉じてしまったら、また呼吸が止まるかもしれない。痛みに堪えて、克子は唇をかみしめていた。
人が駆けつけて来るまでが、途方もなく長く感じられた。
ともかく、この老人の様子がただごとでないことははっきりしている。周りの人に助けを求めようかとも思ったが、翔が人を呼んで来るだろうと思うと、つい待ってしまった。
やっと、翔が人をかき分けてやって来る。
「ごめん!」
と、翔が言って、「この人たちが――」
地味なスーツ姿の女性が、青ざめた顔で、
「私が代わります」
と、言った。
「指が――」
と、克子は顔をしかめて、「ともかく、急いで運ばないと。このままでも構いませんから」
と、早口に言う。
「じゃ……。急いで、お医者様を」
他にがっしりした体格の男が二人、ついて来ている。
長峰老人の体を両側からかかえ上げると、急いでパーティー会場を出た。――客の中にはおや、という顔で見た者もあったが、ほとんどの人は気付かなかった。
「ソファに寝かせて」
と、その女性が言った。
克子はずっと長峰老人の口に指を入れたまま、ついて来ていた。
「私が口を開けますから、指を抜いて」
「はい」
|凄《すご》い力でかみしめているので、女性一人では、容易に開けられないほどだったが、それでも、やっと克子は指を抜くことができた。
「何かかませるものを!」
「お医者さんです」
と、翔が駆けて来る。
まだ若い背広姿の男が、ロビーを走って来た。――克子はホッと息をついた。
どうなるかは分からないが、これで自分のできることはなくなったのだ。
「克子さん……。指は?」
翔の顔がこわばっている。
克子は自分の右手の人差し指と中指を見て、びっくりした。血が滴り落ちている。
「体が硬直して、その力でかんだのよ。――凄いもんね。ハンカチで。でも、ちょっと水で洗って来る」
「ひどいや。ね、お医者に診せて」
「うん。でも、ともかく今は血を止めないと。カーペットを汚しちゃう」
克子はハンカチを出して、指をつつんだ。白いハンカチがたちまち血に染まる。
化粧室へ急ぐと、克子は思い切り水を出して、その中へ指を入れた。痛みで思わず声を上げそうになる。
あれで、長峰老人が助かればいいが……。
ペーパータオルを何枚つかっても、出血はなかなか止まらなかった。
化粧室を出ると、翔が心配そうに立っていた。
「ね、大丈夫?」
「あなた、ハンカチある? この指のつけねのとこ、きつく縛って。なかなか血が止まらないの」
「ね、救急車呼ぼうか」
翔が真剣に言うので、克子は笑ってしまったが、笑うと指がズキズキ痛む。
「笑わせないで。痛いわよ!」
何とも変な場面になってしまった……。
「――これ、食べて」
翔が控室へ入って来ると、料理をのせたお皿とフォークをテーブルに置いた。
「ありがとう」
克子は、肯いて見せて、「ね、あの方、どうした?」
「お|祖父《じい》さん? うん、病院へ運んで行ったからね。たぶん大丈夫だろうって」
「良くなるといいわね」
と、克子は言った。
克子も、このホテルの医務室で手当をしてもらった。相当ひどくかまれているが、出血が止まれば、どうということはないだろう、と言われた。
「不便ね、指二本使えないと」
と、オーバーなほど包帯をグルグル巻きにされた右手の二本の指を眺める。
「痛む?」
「痛み止め、のんだから。でも、眠くなっちゃうのよね。少し頭がボーッとしてる」
翔は、克子と並んで座ると、
「ごめんね。とんでもないことになっちゃって……」
と、情けない顔で言った。
下手をすれば、今にも泣き出しそうである。
「誰だって、|年齢《とし》をとるのよ。何も、悪気があってかんだわけじゃなし、お祖父さんだって」
と、克子は言った。
「いい人だなあ、克子さんって」
翔が、ホッとした様子で言った。
「外づら[#「外づら」に傍点]がいいだけ」
と、克子は笑って言った。「じゃ、せっかくだからいただくわ」
左手でフォークを使って、食べ始める。何とも食べにくいものだ。
「僕、食べさせてあげるよ」
「いいわよ、そんな」
「やらせて」
翔がフォークを取って、口に入れてくれる。何だか、子供になったみたいで、照れくさかった。
「――翔君」
ドアがパッと開いて、久保泉が入って来た。
そして翔が克子に食べさせているのを見ると、目を丸くして、
「あ、見ちゃった!」
ピョンととびはねた。
克子は真っ赤になって、
「だからやめてって」
と、座り直した。
「だって……」
と、翔は泉の方をにらむと、「ちゃんとノックぐらいしろよ」
「はいはい。いいじゃない。キスしてたわけじゃないんだし」
と、泉は両手を後ろに組んで、とぼけた。「お母様がお呼び」
「お袋が? 今ごろ来たのか」
「お祖父様のこと聞いて、途中で病院へ回ったんですって」
「分かった。行くよ。――何かほしいもの、ない?」
と、翔は克子に|訊《き》いた。
「そうね。じゃ、コーヒーいただける?」
「私、持って来てあげる」
泉は、さっさと出て行った。翔が追いかけて行く。
また控室で一人になると、克子は、左手にフォークを持って、食べ始めた。考えてみれば、パーティーではほとんど食べていないのだ。
お|腹《なか》は|空《す》いていた。左手で、何とか工夫しながら、口一杯にローストビーフを|頬《ほお》ばる。うまく切れなかったのである。
そのとたん、ドアが開いて、黒木竜弘が入って来た。
克子は、あわてて立ち上がったが、口の中はローストビーフで一杯。必死になって飲みこもうとして、四苦八苦していると、
「いや、ゆっくり食べて」
と、黒木は笑って言った。「さ、座って。あわてなくていい。――悪かったですな、どうも」
「い、いえ……」
と、ぬるくなったお茶をガブ飲みして、やっとローストビーフを飲み込んだ。
克子がフーッと息をつくと、黒木が首を振って、
「いや、あんたは面白い人だ」
と、言った。「翔から話は聞きました。おかげで長峰さんは命をとりとめたそうだ。本当にありがとう」
黒木が頭を下げる。
「やめて下さい。何もしたわけじゃありません、私」
と、克子はどぎまぎして言った。「でも、良かったですね、本当に。とても笑顔のやさしい方で」
「まあ、経営者時代には色々あった人でね」
と、黒木は落ちついて、座り直すと、「しかし今はもうすっかり、『悟りの境地』というところかな。――何か礼をさせて下さい。どんなことでも言ってくれれば」
「そんな――」
と言いかけて、克子は、「じゃあ……ちょっと血がついてしまったんで、このワンピースのクリーニング代を出して下さいますか」
克子のささやかな「要求」に、黒木竜弘は|微笑《ほほえ》んだ。
「分かりました。後で請求して下さい。それに、指の治療費も」
克子も、それぐらいはしてもらってもいい、と思って、素直に受けることにした。
「でも、それ以上のことはやめて下さい。本当に、あの方が助かったというだけで、充分です」
克子とて、黒木の言葉に心が動かないわけではない。立派なドレスや、宝石や、それに――いや、品物でなくても、たとえばもっといい勤め口を世話してもらうこともできるだろう。
しかし、そこまでやりたくはなかった。それはいわば(古い言葉だが)、貧しい者の誇りである。
善意の行動でお金をもらうのは間違っている。――その一線を通しておかなければ、必死に働いて生きていることが無意味になる。
それは理屈でなく、克子が人生から学んだプライドというものを守る殻のようなものである。
「分かりました。無理にとは言いませんよ」
と、黒木も、克子の頑固さに気付いているようで、「しかし、人間、誰かの助けを必要とすることもある。そのときは遠慮なく言って下さい」
「ありがとうございます」
と、克子は礼を言った。
ドアが開いて、翔が顔を出し、
「僕の母です……。石巻克子さん」
意外に若い、ふっくらした顔立ちの女性が、いささか派手すぎるようなドレス姿で入って来た。翔は、どっちかというと母親似らしく見える。
「まあ、どうも。――翔ちゃんから聞きました。父がおかげで……」
「いえ、とんでもない」
同じことを何度も言わされるというのは、疲れる。
「でも、指をけがなさって。――痛むでしょ? 翔ちゃん。ちゃんとお送りするのよ」
「分かってる」
と、翔は少し|苛《いら》|々《いら》している。「ね、彼女とちょっとお茶でも飲むから、いいでしょ、もう?」
「私、一人で帰れるわよ」
「そんなわけにいかない。――ね、構わないんでしょ、時間」
「それはまあ……」
「じゃ、行こう。ろくに食べてないし」
「もう充分。太りたくないもの」
「僕もほとんど食べてない」
「当たり前よ。主催者の側なんですからね」
と、母親が言った。
「うん。――さ、それじゃ」
ともかく、翔は二人きりになりたくて仕方ないのだ。克子は何だかおかしかった。父親の方も、それと分かって、苦笑いしている。
翔に引っ張られるようにして、克子はホテル内のメンバー専用ラウンジに連れて行かれた。
「何て言っていいのかな……」
と、翔は、飲みものも水だけで(もっともおいしい水だ)、迷っている。
「このけがのことは、もう本当に気にしないでね」
「ええ……。克子さん」
「なあに?」
「父も母も、あなたを気に入ってます。本気で考えてくれませんか。――もし、いやでなければ」
「考えるって……」
「僕と結婚することです」
克子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「ちょっと――待ってよ!」
「分かってます。今すぐなんて無理だ。でも、そのために、準備期間がいるでしょう」
「心の準備?」
「それもあるけど――。僕の|親《しん》|戚《せき》とかに紹介もしたいし」
「翔君――」
「いえ、克子さんを困らせるつもりはないんです」
と、翔は急いで言った。
もう困らせてるわよ、と克子は心の中で|呟《つぶや》いた。
私はあなたの思ってるような女じゃないのよ……。でも、恋している人間に、何を言ってもむだだ。
「お願い。――焦らないで」
と、克子は翔の髪にそっと手を伸ばした。「あなた、とってもいい人ね。でも、ただこうして付き合うのと、結婚するっていうのは、全然別のことなの。分かる?」
「それは分かってます。でも――」
「黙って。お願い」
と、克子は言った。「それ以上言うと、もうあなたに会えなくなるわ」
翔は、|頬《ほお》を染めて、
「すみません。つい、何だか気持ちがたかぶって」
「分かるわ。――そんな気持ち、もう今の私には持てない。あなたのこと、|羨《うらや》ましいわ」
克子はそう言うと――翔の頭を少し引き寄せて、そっと唇を重ねた。
何をしてるんだろう、私は? 突き放さなくてはいけないときに、こんなことをしている……。
「――アパートへ送ってくれる?」
と、克子は言って立ち上がった。
「僕、運転して行きますよ」
「あら、腕前は大丈夫?」
「安全運転。ノロノロ走ります。その間、あなたと話してられるから」
満更冗談でもないらしい。
「じゃ、参りましょ」
克子は、翔の腕をとって、言った。
――不思議なパーティーの夜だった。
クランク・アップ
「分からない……」
と、邦子は絞り出すような声で言った。「分からない……何も……」
机に手をつく。――後は? そう、これで終わり。これで……。
ただ、自分自身の息づかいが聞こえる。――邦子は、ライトの熱さも、周囲のスタッフの視線も、すべて忘れていた。
今はただ祈るような思いで、「その瞬間」を待った。
永遠かと思える時間が過ぎて、
「カット!」
と、三神の声がセットに響いた。「OK」
ホッと……一斉に息が|洩《も》れる。
誰もが、信じられないような気分で、そのまま動けずにいる。
三神がディレクターチェアから立ち上がった。そして、邦子の方へ歩いて行くと、
「ありがとう」
と言って、手を差し出す。
邦子は、無意識にその大きな手を握っていた。力強い手を。
「ご苦労様」
と三神が笑顔になる。
それが|呪《じゅ》|文《もん》か何かだったかのように、スタッフが動き始めた。
「お疲れさん!」
「おい、記念撮影!」
と、声が飛ぶ。「|椅《い》|子《す》、並べろ!」
助監督が椅子を一列に並べて、その中央に三神が座った。
「お隣に座ってもいい?」
と、神崎弥江子がニッコリと笑ってやって来る。
「ああ、いいよ」
「じゃ――邦子ちゃん、監督のそっち側へ座って」
と、弥江子が言ったが、
「いえ、沢田さんが……」
と、邦子は首を振った。
「何言ってるの。いいから座っちゃいなさい」
邦子もそれ以上、逆らわなかった。
三神を挟んで、二人の「女優」が座る。スチルカメラマンが、
「早く座って! どこでもいいから」
と怒鳴っている。
主なスタッフ、キャストが揃っていた。
――今日で撮影はすべて終わったのである。
「はい、みんな少し笑って!」
邦子は、不思議に涙も出なかった。そんなものなのかもしれない。
ただ、こんな|昂《こう》|揚《よう》した気分になるのは、初めての経験だ。もちろん、これで映画が完成したわけではない。
これからまだ編集や、音入れや、様々な仕上げの過程が待っている。しかし、ともかく、カメラの前での「演技」は終わったのである。
「――さあ、後は僕の仕事だ」
と、三神が立ち上がって、伸びをしながら言った。
「まだアフレコがあるでしょ」
と、弥江子が言った。
セリフを同時録音していないシーンに、画面を見ながら口の動きに合わせてセリフを吹き込むことである。
「ああ。しかし、とりあえずはね。――編集は楽しいからな。おい、沢田君」
と、二枚目を呼び止める。
「はあ……」
沢田一人、何だか|冴《さ》えない顔をしている。
「終わりに行くにつれて良くなったぞ。初めからあの調子だったら、あまり文句も言わずにすんだろうにな」
三神も今日は上機嫌なので、沢田にも|笑《え》|顔《がお》を見せている。
「どうも、お世話になりました」
と、沢田が頭を下げる。
「ああ、またアフレコのとき会おう」
「よろしく。――いい映画になりますね、きっと」
「そう願いたいね」
「どうもお疲れさまでした」
沢田がそう言って出て行く。
「――どうしたんだ、あいつは?」
と、三神が首をかしげる。「いやに元気がない。何か知ってるかい?」
「さあ」
と、弥江子が肩をすくめて、「監督に|叱《しか》られて、立ち直れないんじゃありません?」
「そんなに繊細とも思えんがね」
「まあ、ひどい」
と、弥江子が笑った。
しかし――邦子は、弥江子の目が笑っていないことに気付いた。こんなときなのに、邦子は人を見る目が、いつになく鋭くなっているのを感じていた。
いや、こんな気分だからこそ、かもしれない。沢田の様子がおかしいのは、神崎弥江子と何か関係があるんだわ、と邦子は思った。
スタジオの中から、スタッフが一人、二人と出て行った。
「じゃ、またね」
と、弥江子が邦子の肩を軽く|叩《たた》いて、マネージャーと出て行く。
邦子は、自分のマネージャーの方へ歩いて行った。
「大丈夫?」
「うん。――ね、一人で帰るから」
と、邦子は言った。
「でも……」
と、マネージャーは心配そうである。
もちろん、三神との間に何があったか、ちゃんと知っている。
「今夜は特別。ね、一人にして」
と、邦子は言って、「また明日」
と振り向く。
三神が、もう取り壊しにかかっているセットを、腕組みをして、じっと眺めているのが、目に入った。
邦子が近付いても、三神は一向に気付かないように見えたが、そうではなかった。
「いつもこの瞬間は|虚《むな》しいよ」
と、三神は邦子の方を見ずに言った。
「監督でも?」
「ああ。――夢が壊されて行くようでね。それに、これからまた長い道だ。そこへ踏み込むために、エネルギーをかき立てる必要がある」
「でも、いつも編集は楽しい、っておっしゃってるじゃありませんか」
「楽しいさ。天気がどうでも関係ないし」
「下手な役者も」
「そうだ」
と、三神は笑った。「しかし――もう、誰のせいにもできない。迷いも、諦めも、許されない」
真剣な口調になっている。
「監督でも、迷うこと、あるんですか」
「ああ」
三神は、邦子の肩をしっかりと抱いた。「いつも、自信なんかないんだよ。だから、君のような若い才能が必要なんだ」
邦子は、三神のそんな言葉を初めて聞いた。
「監督……」
「今日は帰りなさい」
と、三神は言った。「また、いつか君を必要とする日がある」
邦子が|肯《うなず》く。
「――分かりました」
「あの子に……安土ゆかりに、よろしく言ってくれ」
「はい」
邦子は|微笑《ほほえ》んだ。
すると、そこへ、
「直接言って下さい」
と、声がした。
「ゆかり!」
邦子がびっくりして、「どうしたの?」
ゆかりだけではなかった。浩志と克子が、その後ろに立っている。
「今日クランク・アップだって聞いたから」
と、ゆかりが歩いて来る。「おめでとう、邦子」
二人は、軽く抱き合った。
「美しいな」
と、三神が言った。「残念だ、カメラが回っていなくて」
「監督」
と、ゆかりが言った。「邦子、すばらしいでしょ?」
「ああ。もちろんだ」
「そうでしょ。私の親友ですもの」
邦子がゆかりの肩に手を回して、
「ね、何か食べに行こう!」
と、はしゃいだ声を上げる。
「僕の車で良きゃ、乗せてくよ」
と、浩志が言った。
「じゃ、二人で乗ってやるか」
と、ゆかりが偉そうに言って、笑った。
「克子ちゃん、凄いじゃないの」
と、邦子が言った。「黒木竜弘の息子にプロポーズされるなんて」
「大きな声出さないで」
と、克子があわてて言った。「本当に、どうってことないの。そんなの|馬《ば》|鹿《か》げてるわ」
――浩志、克子と、ゆかり、邦子の四人は、六本木の、深夜まで開いているレストランへやって来ていた。
場所柄もあって、ここは芸能人が多くやって来るので知られている。だから、ゆかりと邦子が一緒に来ていても、客は却ってそう珍しい目では見ないのである。
「だけど、黒木の息子って、本当に克子ちゃんに惚れてるんでしょ」
と、ゆかりが言った。
「たぶん、今のところはね」
と、ワインで少し|頬《ほお》を赤くした克子が|微笑《ほほえ》む。
「世間知らずの坊っちゃんなの」
「いい話じゃない! 断る手、ないわ」
と、ゆかりはすっかり自分のことのように舞い上がっている。「克子ちゃんなら堅実だし、ぴったりじゃない?」
「もう、人のことだと思って」
と、克子は苦笑いしている。
浩志は、何とも言わずに、三人の娘たちのにぎやかな話を聞いていた。
克子が、黒木翔という若者に恋されて、動揺していることは、よく分かっていた。父親を――その、母に対する仕打ちを、小さいころから身近に見て来た克子にとっては、男女の仲はまず「夢」である前に「現実」なのである。
たぶん、その翔という若者は、克子の言う通り「世間知らずの坊っちゃん」なのだろうが、それだけに、|一《いち》|途《ず》に克子に恋をしているようだ。
そんな恋があるということ。それは克子にとって、少なからずショックだった、というわけだ。
「でも、そんなことになったら、大変」
と、克子は言った。「財産目当てと見られて、騒がれるでしょうね」
「騒ぎたい|奴《やつ》にゃ、言わせときゃいいのよ」
と、ゆかりが言った。「それに、黒木竜弘ほどの人なら、ストップさせられるんじゃないの、週刊誌とかに載るのを」
「ゆかりさんや邦子さんを、あの子に紹介しないようにしなくちゃね。横どりされそうだもん」
克子の言葉に、ゆかりも邦子も声を上げて冷やかした。
――浩志は、克子と、斉木という男との間柄を知っている。だから克子も、その黒木翔との間が決して長くは続くまい、と分かっているのだろう。
だからこそ、話の種にして笑っている。そんな克子を見ていると、浩志はふと胸が痛くなるのだった。
料理が来て、四人が元気よく食べ始めると、
「――失礼」
と、声をかけて来る男がいた。「安土ゆかりちゃんでしょ」
町中でも、知らない人に声をかけられるのは慣れている。
「そうです」
と、少しそっけなく答えると、
「もう|憶《おぼ》えてないだろうけど、〈Tスポーツ〉の記者で、以前、芸能欄をやっててね、インタビューさせてもらったことがある」
腹の出たその中年男は、人なつっこい感じの|笑《え》|顔《がお》で、そう言った。
もちろん、多いときは一日に何件もインタビューを受けるゆかりである。いちいち、相手を憶えてはいない。
「そうですか」
と、大して関心のない様子で言った。
「もう、今は芸能の方を離れてるんだけどね――。実は、今日、デスクがしゃべってた」
と、その男はゆかりの方へ少しかがみ込むようにして、声を低くすると、「君のことで、何か明日、スクープが出るって」
「スクープ、ですか」
と、ゆかりは笑って、「ちょうど今、スープ[#「スープ」に傍点]が出たとこ」
「冗談じゃないんだ」
と、その男は真剣そのものの口調で、「あんまり君にとって、いい話じゃないようだ。君、確かめた方がいいよ。僕は君のことが気に入ってるんだ。もし芸能にいたら、掲載させないようにもできるんだけどね」
ゆかりは、初めて不安そうに浩志と顔を見合わせた。
「――私、何も書かれる憶え、ありませんけど」
「いや、事実無根ならいいんだけどね。――残念ながら、詳しいことは分からないんだが、どうやら『暴力団絡み』の記事らしいよ」
その言葉に、一瞬、テーブルは静かになってしまった。
「確かですか?」
と|訊《き》いたのは、浩志だった。
「うん。――ああ、あんた、ゆかりちゃんの彼氏だね」
「何とか、詳しい記事の内容、分かりませんか」
「もう遅いからね」
と、その男は言った。「むしろ、社長の西脇さん辺りなら、どこかにルートを持ってるかもしれない」
「訊いてみた方がいい」
と、浩志はゆかりに言った。「僕が電話してみよう」
「それがいい。たとえ記事が出ても、内容が前もって分かってれば、あわてずにすむしね」
「ご親切にどうも」
「いやいや。大したことでもないスキャンダルで、すばらしいスターを|潰《つぶ》したくないからね」
と、その記者は言った。
その〈Tスポーツ〉の男が席へ戻って行くと、浩志は、
「西脇さん、自宅にいるかな」
と、ゆかりに訊いた。
「たぶん……。昨日まで|香《ホン》|港《コン》だったから」
「電話して来る」
と、浩志が腰を浮かす。
「私が――」
「いや、僕の方がいい」
浩志は、レストランの入り口のわきにある、小さな電話ボックスへ急いだ。
西脇の自宅の番号も、手帳に控えてある。
――幸い、すぐに西脇が出た。
「やあ、ゆかりと一緒ですか」
と、浩志の声を聞くと、西脇は言った。
「西脇さん、実は、ちょっと――」
浩志の話で、西脇はしばし考え込んでいたが、
「また国枝の|奴《やつ》が何かしたのかな」
「僕も、それが心配なんです」
「〈Tスポーツ〉ですね。そこなら、私の同級生だった男がいる。記事は止められなくても、内容は分かると思います。今、どこです?」
「六本木の〈P〉という店です」
「ああ、ゆかりのお気に入りの店ですね。まだしばらくそこにいますね。こっちから連絡を入れます」
「よろしく」
浩志は電話を切った。
手帳をポケットへしまいながら、浩志は不安だった。
〈暴力団絡み〉か。――芸能界は、なかなかそういう世界との縁を断ち切ることができない。
しかし、そんなものだとみんな思っていても、もし何か、暴力団とのつながりが明らかにされると、芸能人は一斉に非難され、|袋叩《ふくろだた》きにあうのだ。
よほどの大物スターならともかく、ゆかりは何といっても新人スターだ。まだ若く、アイドル系の常として、若い人にファンが多い。
もし、暴力団とのつながりが表に出たとすると、それはゆかりの命とりにもなりかねないのである。
いや、もちろん――そんな大したことじゃないのだろうが……。
自分へそう言い聞かせても、浩志の不安は去らなかった。ある「恐ろしい予感」が、浩志の胸の中にふくらんでいた。
席へ戻ると、
「どうだった?」
と、ゆかりが心配そうに|訊《き》く。
「ああ、西脇さんが、すぐ調べて、うまくやるってさ。君は心配しなくていい」
と、浩志はわざと|笑《え》|顔《がお》を見せて、言った。
「そう……それならいいけど」
ゆかりも、すっかり安心したわけではない。ぎこちない笑顔に、その気持ちが出ていた。
邦子の映画のクランク・アップを祝っての食事が、その後、どこか意気上がらないものになったのは、仕方のないところだろう。
しかし、デザートが出るころには、大分ゆかりもいつもの調子をとり戻し、ワゴンで運ばれて来たデザートの中から三種類も選んで、邦子を|呆《あき》れさせた。
いつもはそう甘いものを沢山食べない浩志も、付き合って、やたら甘いケーキをとり、胸焼けしそうになりながら、何とか食べてしまった。
そして、食後のコーヒーを飲み始めたところへ、店のマネージャーが、
「石巻様でいらっしゃいますね」
と、やって来た。「お電話が入っております」
「ありがとう」
浩志は、すぐに立ち上がった。
店のカウンターにかかった電話に出る。もちろん西脇からである。
「――何か分かりましたか」
と訊く浩志に、
「ええ。明日、早版の記事を手に入れましたよ」
「それで?」
少しの間、返事はなかった。
「石巻さんには言いにくいんですが……」
と、西脇がためらうのを聞いて、浩志には分かった。
「父のこと[#「父のこと」に傍点]ですね」
と、浩志は言った。「そうですね」
「ええ……」
西脇はため息をついた。「全く、卑劣なことをやる連中だ。しかし、記事を止めるには、もう遅すぎます」
「内容は?」
と、浩志は言って、「いや、これから、ゆかりを連れてお宅へ伺います」
「そうして下さい。相談しましょう。何かいい手がないか」
と、西脇は言った。「ただ、あなたには散々世話になっておきながら、少なからずご迷惑をかけることになってしまって」
「そんなことはいいんです。問題はゆかりですからね。ともかく、ゆかりが一番傷つかずにすむ方法を考えましょう。――もう食事が終わるところですから」
「お待ちしてます。ここの場所はゆかりが知っていますから」
浩志が席に戻ると、|誰《だれ》もが、黙って浩志を見つめている。
「ゆかりと、西脇さんの家へ行って相談する。邦子、送れなくて悪いけど」
「あら、そんなことないわ。私も[#「私も」に傍点]行くもの。三人で話し合った方がベター。ね、ゆかり」
と、邦子が言うと、
「四人よ」
と、克子が加わって――四人は何となく笑っていた。
スキャンダル
〈安土ゆかりに、暴力団のパトロン!?〉
ファックスされて来た紙面には、大々的にその見出しが踊っていた。
西脇がテーブルに置いたその紙面を、浩志と克子、そして邦子と、もちろんゆかりも、食い入るように見ていた。
――記事は徹底したでっち上げで、ゆかりのデビュー以来、ここまで人気を高めたのは、背景に国枝の力があったからだ、と書いていた。
内容はすべて「一人の人物の談話」をもとに、それを、うのみ[#「うのみ」に傍点]にする形で書かれている。
その「人物」の名前も、写真も、大きく掲載されていた。――浩志たちの父、石巻将司である。
〈Tスポーツ〉紙は、ゆかりの恋人として公表されている浩志の父親が、国枝の下で「客分」扱いされ、記者の質問に答えて、「息子とゆかりの知り合ったきっかけも、国枝さんが作った」と語ったように報じている。
ゆかりと浩志が同郷で、同じ高校に在籍していたことぐらい、誰でも知っているのに、浩志の父は平気で、
「二人が知り合ったのは、国枝さんのお屋敷でのパーティーのときだった」
などとしゃべっているのだ。
そして、
「ゆかりは、国枝さんにゃ、足を向けて寝られないよ」
とまで言っている。
怒りを通り越し、哀しい思いさえ抱きながら、浩志はその記事を読んだ。克子も同じ気持ちだったろう。
――西脇の家の居間。
深夜、二時を回っていた。しかし、その場の沈黙は、夜のせいではなかった。
「ゆかり。――すまん」
と、浩志は頭を下げた。「|親《おや》|父《じ》がこんな|馬《ば》|鹿《か》なことをして……」
「浩志! やめてよ」
ゆかりは怒った口調で、「お父さんと浩志は別でしょ。いつもそう言ってるじゃないの。浩志に謝られたりしたら、私の立場、どうなるの? 怒って! 一緒になって怒ってよ!」
ゆかりの目に涙が光っている。
浩志は胸が熱くなって、
「ありがとう」
と言うと、ゆかりの肩を強く抱いた。
「私、平気よ。――ね、社長さん。記者会見しましょ。私、真っ向から否定してみせる」
「お前ならそうだろう」
と、西脇は苦笑した。「しかしな、一旦広がったダメージは、そう簡単にとり戻せない。この記事が正しいか、お前が正しいか、受けとり手にとっては、判断の決め手がないんだ。それに……この記事を否定すると、石巻さんのお父さんを『|嘘《うそ》つき』と呼ぶことになる」
「構やしません。その通りですからね」
と、浩志は言った。
「でも、お兄さん」
と、聞いていた克子が言った。「そうなれば、私たち兄妹と父との不仲も、知れわたるでしょう」
「いいじゃないか、分かったって」
「そうじゃないの。仲が悪いんだから、私たちが父のことを嘘つきだと言っても、それを他人が信じてくれるかどうか」
克子の言葉に、浩志はハッとした。
「すまん。――そうだったな」
と、ため息をつく。「どうしたらいいんだろう?」
――しばし、西脇を加えて、浩志、克子、ゆかり、邦子の五人は沈黙した。
「何とか、記事を止められないんですか」
と、克子が言った。
「無理だ」
と、西脇が首を振る。「こっちにも反証になるものはない。それに、時間的に、もう間に合わないんですよ」
ゆかりが肩をすくめて、
「じゃ、やっぱり会見やって否定するしかないわ。そうでしょ?」
「うむ……。何かいい手があるといいけどな……」
と、西脇が腕組みをしている。
「――待って下さい」
と、克子が言った。
穏やかだが、決然とした口調だった。
「電話、貸していただけますか。できれば、ここでない所で」
「克子――」
「お兄さん、黙ってて」
克子は、西脇に案内されて、寝室の電話を使って、かけた。
こんな夜中だが、起きているだろうか?
「――はい、もしもし」
すぐに向こうが出て、克子はびっくりした。
「いつも、こんなに電話の近くで番してるの?」
「あ、克子さん」
黒木翔が嬉しそうに、「この電話、僕の部屋のですから」
「まあ。甘やかされてるのね」
と、克子は笑った。
「しつけに来てくれませんか」
「いじめるのは趣味じゃないの」
と、克子は言って、「――翔君、お父様は今、ご在宅?」
「父ですか? ええ。明日の夜から、ニューヨークとか言ってましたが」
「会わせていただきたいの。すぐに」
「今ですか?」
翔もびっくりした様子。
「明日じゃ遅いの。私のことじゃなくて、古い友だちのことで、お父様にお願いしたいことがあるの。お願い。何とか、起こして頼んでみて」
翔も、克子が決して気紛れでそんなことを言い出す女性ではないと知っている。
「分かりました」
電話を通して、翔の表情が目に見えるようだった。「少し待って下さい」
「ええ、ごめんなさい」
克子は、じっと受話器を耳に当てたまま、待っていた。――何分待っただろうか。
ほんの二、三分か。それとも十分か。克子にもよく分からなかった。
「――もしもし」
やっと翔の声がして、克子は息をついた。緊張しているのが分かる。自分が、とんでもなく非常識なことをしているのは承知の上である。
「お待たせしちゃって」
と、翔が言った。「父がお目にかかる、と言ってます」
克子は耳を疑った。
「今夜でいいの?」
「ええ。場所、分かりますか」
「捜して行くから」
「無理ですよ。タクシーで。説明しますから、メモして下さい」
「ありがとう……」
克子の、受話器を持つ手は震えていた。
タクシーが、人っ子一人見えない、高級住宅地の中をゆっくり走って行くと、一軒の家――といっても、目をみはるような邸宅である――の門の前に立つ翔の姿が、ライトに浮かび上がった。
「そこで停めて下さい」
と、克子はホッとして言った。
ともかく、こういう住宅地には、目印というものがないのである。
「――すぐ分かりました?」
と、門のわきの小さなドアを開けながら、翔が訊く。「あ、頭、ぶつけないように気を付けて」
「ごめんなさいね、本当に」
「大丈夫ですよ、親父は夜ふかしに強い人間ですから」
と、翔は言ってくれたが――。
午前三時過ぎ。下手をすれば朝になる。
本当に、何て無作法なことをしているんだろう。克子は我ながら感心した。
兄が一緒に来たがったが、克子は一人で行くと言い張った。これは自分だけでやらなくてはならないことだ。
「――どうぞ」
翔が克子を通してくれたのは、意外に適度な広さの居間。いや、客間を、居間風にしつらえてあるのかもしれない。
翔が父親を呼びに行って、克子は一人、固い表情でソファに身を|委《ゆだ》ねていた。
「やあ」
意外なほど早く、黒木竜弘はガウン姿で現れた。「先日はありがとう」
「いえ。――申しわけありません。とんでもない時間に」
と、克子は立ち上がって頭を下げた。
黒木竜弘は、当然眠っていたところを|叩《たた》き起こされたのだろう。
多少、眠そうな目はしていたが、不機嫌な気配はなかった。
「何か急なご用と――」
と、言いかけて、「翔、お茶でもいれてさし上げなさい」
「はい」
翔が、居間を出て行く。
「あの……」
と、克子は言いかけて、迷い、「どこからお話ししたらいいか……。ともかく、あなたにお願いしたいことを、先に申し上げます」
克子は座り直した。
「ご存知でしょうか、今人気のあるアイドル、安土ゆかりを」
「安土ゆかり……」
と、黒木竜弘は少し考えていたが、「ああ、知っていますよ。確か一時、翔もファンだった。その――安土ゆかりのことが何か?」
「彼女を、黒木さんの企業のイメージガールに起用していただけませんか」
克子の言葉は、さすがに黒木をびっくりさせたようだ。
「――事情をうかがいたいですな」
「はい。安土ゆかりさんは、私や兄と同郷の子なんです。特に兄とは親しくて、一応、『恋人』ということになっています」
翔が、戻って来て、ちょうどその言葉を耳に入れたらしい。
「お茶、今――。安土ゆかりの恋人が、克子さんのお兄さん? 驚いたな」
「昔なじみなんです。安土ゆかり、原口邦子。二人は、兄を一番信頼しています」
と、克子は続けた。「でも実際のところ、兄は、ゆかりさんの『恋人』ではありません。ゆかりさんが、国枝定治という暴力団の顔役の息子、国枝貞夫に言い寄られて、困ったあげく、兄を『恋人』ということにしたんです」
克子は、ゆかりが誘拐されて、兄が命がけで、国枝貞夫の手から取り戻したいきさつを話した。
「また、えらくドラマチックな話だ」
と、黒木は面白がって聞いている。
「――ところが、それではすまなかったんです。国枝の方では、あれこれいやがらせを始めました。一つは、ゆかりさんのマネージャーが、ハワイで袋叩きにされたこと。一時は命が危ないというくらいのひどいけがでした」
「ああいう手合いは、|諦《あきら》めることを知らないものだ」
と、黒木が|肯《うなず》く。
「そして――実は明日、〈Tスポーツ〉の一面に、ある記事が出ます」
克子は、西脇の所から持って来たファックスされた記事を、テーブルへ置こうとして、「翔君、悪いけど、ちょっと外してくれない?」
と、振り向いて言った。
翔は、少しむくれた様子で、
「僕がいちゃ、いけないんですか?」
と、克子に言った。
「お願い。その方がお話ししやすいの」
克子の言葉に、翔は、
「分かりました」
と、渋々肯いた。
ちょうど、お手伝いらしい、若い女の子が眠そうな顔でお茶を運んで来てくれる。おかげで少し間が空いた。
「お手数かけて」
と、克子は、その女の子に言った。
「いいえ……」
と言いながら、|欠伸《あくび》をかみ殺しているのを、黒木竜弘は笑って眺め、
「ご苦労さん。もう寝ていいぞ」
と言った。
「はい。じゃ、おやすみなさい」
ピョコンと頭を下げて出て行く。
「ずいぶん若い方ですね」
と、克子は言った。
「十九かな。私の故郷の出身の子でね。よく働きますよ」
黒木は自分もお茶を少しすすって、「いつもお茶が苦すぎるのが、欠点ですがね」
と、顔をしかめた。
克子は、あの記事を黒木の前に置いた。
「お読みになって下さい」
「拝見しましょう」
黒木は、ガウンのポケットからメガネを取り出し、かけかえると、記事にじっくりと目を通している様子だった。
視線の動きから、二回読んでいることが分かる。――克子には、黒木がどう思いながら読んでいるのか、見当がつかなかった。
「ふむ……」
黒木は、読みおえて、「確かに、これは安土ゆかりという子にとっては、厄介なことだ」
「お分かりと思いますが、そこで記者相手に話しているのは、私の父です」
「そのようですな」
と、黒木が|肯《うなず》く。
「話の内容はでたらめですが、ゆかりさんの方では、そう証明する方法がありません。兄は――もちろん私もですが、何とか、ゆかりさんを救いたいと思っているんです。このままでは、ゆかりさんのスターとしてのキャリアが終わることになりかねません」
黒木は黙って克子の話を聞いていた。どう思われるかは別として、ともかく始めた以上、途中でやめるわけにはいかない。克子は話を続けた。
「もちろん、父がどうしてそんな|嘘《うそ》を並べているのか、お分かりにならないと思います。――私と兄は、家を飛び出して、二人で東京へ出て来たのです。兄は十八。私は十四歳でした……」
克子は今までしたことのないこと、自分の身の上を語るということを、今、初めて経験していた。
父の再婚と、それに傷ついて故郷を捨てた日々。そして、つい最近になって、父が家も土地も取り上げられて、子供たちのもとへやって来たことなど、克子は何一つ隠さず、黒木竜弘に話した。
とても長くかかったような気がしたが、実際はそれほどでもなかったのだろう。
「――なるほど」
黒木は、克子が一旦話を切ると、肯いて、「あなたのお父さんが、その国枝という男の言いなりになっているわけは分かりました。それで……」
「考えたんです」
と、克子は、両手を固く握り合わせた。「この記事が出るのは止められないとして、何とか、ゆかりさんをスキャンダルから救う方法がないかと。――父のやったことです。いくら関係ないとはいっても、兄も私も、責任を感じないわけにはいきません」
黒木にも克子の考えが分かりかけて来ているようだ。少し表情に変化が見えた。
「もし、ゆかりさんが黒木さんの所のイメージガールになるという話が――話だけでも広まれば、それはゆかりさんが暴力団なんかと何の関係もない証拠だと世間は受け取るでしょう。もちろん、ゆかりさんは記者会見を開いて、この記事を否定しますが、父が自分の話を嘘だと認めるはずがありませんから、双方の言い分は平行線になります。その針を『白』の方へ振らせるために、お力を貸していただきたいんです」
克子はそう言ってから、「とんでもなく、図々しいお願いだとは承知しています。こんなこと、お願いできる立場ではないことも……」
「しかし、翔の|奴《やつ》はあなたにプロポーズしたそうじゃないですか」
黒木が愉快そうに言った。「せっかちな奴だ、と|叱《しか》っときましたがね」
克子も、やっと微笑を浮かべた。
「翔君はとてもいい人です。気持ちはとても嬉しいんですけど、この――記事でお分かりの通り、父はこんな人間です。これ以上、私と翔君がお付き合いしていたら、父のことでどんなご迷惑をかけるか分かりません。それに――」
言いかけて、思いがけず、言葉が出なくなった。
「それに……何です?」
言わなければ。何もかも、はっきり言ってしまうのだ。それが、翔のためでもある。
「私は今……ある男性と付き合っています。妻子のある人です。でも――その奥さんにも知られていますから、もう長くは続かないでしょう。でも、ともかく私は翔君が|憧《あこが》れてくれているような女じゃないのです」
克子は、目を伏せて、「もう、翔君とは会わないとお約束します」
と、言った。
黒木が、克子の告白をどう聞いたか、それは克子自身にも見当がつかなかった。
「――よく分かりました」
と、黒木はもう一度ゆかりについての記事を取り上げて、眺めながら、「考えてみましょう。今、ここでご返事するわけにはいかない。それは分かって下さい」
「もちろんです」
と、克子は急いで言った。
常識的に考えれば、黒木が話を聞いてくれただけでも、満足しなければならないだろう。
「翔には、どう話しますか」
と、黒木が言った。
「さあ……。お父様から話していただくのが、私としては楽ですけど」
「それは困る。それでは私があなたに別れろと無理|強《じ》いしたと思いますよ、あいつは」
黒木は、どことなく|愉《たの》しそうですらあった。
「分かりました。私が話します」
「そう願いたいですな。恨まれたくない」
と言って、黒木はメガネを外した。「しかし、今の話で、やっと納得が行きましたよ。その若さで落ちついていると思ったが」
「老けてるだけです」
と、克子は笑った。「でも――お礼を申し上げなくては。あんなパーティーにまで|招《よ》んで下さって。いい思い出です」
黒木は、チラッと克子の手に目をやって、
「指の傷はどうです?」
と、|訊《き》いた。
「ええ、もう何とも……。あの方――長峰さんとおっしゃいましたね。具合、いかがですか? 本当はすぐにお訊きしなきゃいけなかったのに」
「もう退院しましたよ」
「じゃあ、良くなられて?」
「前よりしっかりしたみたいだと家内が言っていました」
「良かったわ。少しでもお役に立てて、嬉しいです」
黒木は、ちょっと唐突な感じで立ち上がると、
「もう休みますので。この件は、ご連絡しますよ」
と、言った。
克子も急いで立ち上がり、何度も礼を言った。
「翔が車を呼ぶでしょう」
「いえ、自分でタクシーを見付けますから」
「いや、この辺は夜中には通りません。夜中というより朝に近いか」
黒木は時計に目をやった。
「ありがとうございました、色々と」
克子は、もう一度頭を下げた。
――黒木が出て行くと、何か翔と話している声が聞こえて来た。
やれるだけのことはやった。克子は、体から力がふっと抜けて行くようで、ソファにぐったりと座り込んでしまったのだった。
決 断
アパートへ帰った克子は、玄関を入って、
「――お兄さん」
と言った。「待ってたの?」
「ああ」
浩志は、さめたお茶を飲んでいるところだった。「勝手にいれて飲んでる」
靴を脱ぎながら、
「どこから出した、お茶の葉? 上等のは高い方の棚にしまってあるのよ」
「知らなかった」
「|憶《おぼ》えといてね」
と、克子は上がって、「――もうじき朝ね」
「うん。――ゆかりは都内のホテルに泊まる。もちろん偽名で。記者会見も午後には開くと西脇さんが言ってた。邦子も待ってると言ったんだけど、明日の仕事で、寝不足が顔に出るとまずいだろ。帰って寝ろと言ったんだ」
「|可哀《かわい》そうに」
と、克子はスーツを脱いで、息をついた。「ああ、肩がこった」
「何が可哀そうだ?」
「邦子さん。ゆかりさんもだけど。――お兄さんがどっちにも手を出さないもんだから……」
「その話はよせ」
と、浩志は目をそらした。「何しに行ったんだ、お前?」
「話をしによ」
「財界の大物に何の話があったんだ?」
「ゆかりさんのこと、頼んで来たの」
「頼むって……」
克子の話を聞いて、浩志はびっくりした。「――それで夜中の三時に、黒木竜弘を|叩《たた》き起こしたのか」
「そう。偉い人ね。怒りもしないで、ちゃんと聞いてくれたわ」
「そうか……。しかし、いくら黒木でも、あの記事はどうすることもできないさ」
「でも、もし……。もちろん、大きすぎる期待を持っちゃいけないけどね」
克子は下着姿で畳に座り込んだ。「疲れたわ。こんな時間にお|風《ふ》|呂《ろ》にも入れないし」
「寝ろよ。明日は休めばいい」
「お兄さんは?」
「仕事がある」
「私にだってあるのよ」
浩志はちょっと笑って、
「お前も損な性分だよな」
と言った。
「お互い様でしょ」
と、克子が言い返す。「さ、帰って。レディがおやすみになるんですからね」
「分かった」
浩志は、立ち上がって、「|鍵《かぎ》は|俺《おれ》がかけるから」
「チェーンもかけるの。女の一人暮らしですからね」
浩志が靴をはくのを、克子は立ってじっと見ていた。
「じゃ、何かあったら連絡する」
と、浩志が言って、玄関のドアを開けようとした。
「お兄さん」
「うん?」
浩志は振り向いた。
「お父さんのこと、何とかしなきゃ」
浩志は、ちょっと目を伏せて、
「ああ……。しかし、どうすりゃいいんだ?」
「もし、これをゆかりさんがうまくのり切ったとしても、また何か起こるわ。――私とお兄さんで、何とかしなきゃ」
「お前はもういい。充分にやれることはやったよ」
浩志は、妹の手を軽く握った。「後は俺に任せろ」
「うん……。ともかく、今夜は寝るね」
「今朝だ。もう明るくなりかけてるぞ。早く寝ろよ」
「おやすみ。気を付けて」
克子は、兄の足音が――迷惑にならないよう、極力用心していたが――小さくなるのをしばらく聞いてから、ドアのロックをし、チェーンをかけた。
風呂に入らずに寝るにしても、最小限、やらなくてはならないことがある。
二十分ほどして、やっと布団に潜り込んだ。
布団は冷たかった。――じっと身を縮めて、体温が布団の中にたまるのを待つ。
|馬《ば》|鹿《か》なことをしたのだろうか?
翔とのこと……。いや、まだ翔当人には話していない。黒木竜弘との話で疲れはてて、とてもそこまで一気にやる元気がなかった。
しかし、父親の方へはもう話してしまったのだ。今さら取り消すことはできない。
兄にもそのことは言わなかったが、兄は斉木のことも知っている。翔との仲が、普通に進むとは思っていまい。
布団に顔の半ばを埋めながら、いくらしっかり目を閉じても、眠りは訪れなかった。
――いっそ、ずっと起きていようか。少なくとも、こうして横になっていれば、体は休まる……。
独りで、眠れぬ夜を過ごすときには、克子はいつも思い出す。兄と二人、東京へ出て来たころの日々を。あのころも、十四歳の克子は、夜、よく眠れなくて泣いたものだ。
しかし、兄に甘えることはできなかった。十八歳の兄は、必死で働いていて、いつも疲れきって眠っていたからだ。
そのいくつもの夜が、克子を大人にした。|誰《だれ》にも頼らずに生きて行くこと。それが、克子の「信条」になった……。
それは疲れる生き方ではあった。時として、何もかも振り捨てて、平和な、当たり前の暮らしへ身を|委《ゆだ》ねたいと思うこともある。でも――そう。「当たり前の暮らし」など、この世には存在しないのである……。
出社はしたものの、午前中、克子は頭痛がして、ほとんど仕事にならなかった。
一睡もしていないのだから当然といえば当然かもしれない。それに、ゆうべの黒木竜弘との話で、すっかりくたびれてしまっていたし……。
それでも、のろのろと仕事は進んだ。休むよりはいい。――休みを取ることを「犯罪」のようにみなしているという、古い体質の会社である。頭が痛いくらいで早退などしようものなら、上役からくどくどお説教されるのがおちだ。
時間はゆっくりと過ぎて行った。――早く昼休みにならないだろうか。
克子はそっと腕時計を|覗《のぞ》いては、ため息をついた。――壁の時計を見上げたりしていたら、上司にジロッとにらまれるに決まっている。
目の疲れもあってか、こめかみ辺りの頭痛はきりきりとねじ込むように続いて、克子を苦しめた。こんなものと、おさらばできたら、どんなにさっぱりするだろう、と思うことがある。
いや、ゆうべ徹夜したのは「自分の都合」で、今日、きちんと仕事をしなければならないということは、分かっている。堪えられないのは、「思いやり」というもののかけらもない、この職場の空気だった。
前に、三十過ぎの女性が、生理痛がひどくて早退させてくれと言ったとき、いつもしかめっつらをしている上司が、
「女はしょうがねえな、全く!」
と、吐き捨てるように言った。
その口調が今も克子の耳にこびりついている。
その女性は間もなく辞めて行って、その上司は、
「女はすぐ辞めるからな」
と、ブツブツ言っていたものだ。
克子は、そんな上司の姿に、「父」の身勝手な生き方を重ねていた。――男なんて、こんなもんだ。
もちろん、兄のような男もいるし、斉木のような男もいる。――黒木翔のような男も?
ちょっと|微笑《ほほえ》んでみる。翔は「男」というより、「男の子」だ。
でも、翔のような世代の男の子たちが、本当の思いやりの心を持った男になってくれたら……。そうなったら、少しは世の中も変わって来るのかもしれないが。
やっと十一時になった。克子は、ちょっと息をついて、さめ切ったお茶を一口飲んだ。
電話が鳴る。
「――はい。――あ、すみません。――もしもし」
「克子か」
「どうしたの?」
兄からだ。私用電話をいやがるこの職場のことを知っていてかけて来たのだから、よほどのことだろう。ゆかりのことで、何かあったのだろうか。克子は緊張した。
「何かあったの?」
と、克子は少し低い声で言って、受話器を握りしめた。
「今、ゆかりのプロダクションの西脇さんから電話があったんだ」
浩志の声は明るかった。「午後三時からホテルKで記者会見をやるって。西脇さん、仰天してたぞ。今朝、黒木竜弘からいきなり電話がかかって来たって」
「黒木さんが?」
「ゆかりを、黒木グループのイメージガールにする、と言って来たそうだ。当人は今日午後ニューヨークへ|発《た》つので、専務が代理で、その記者会見に出て発表するということだったよ」
克子は言葉が出なかった。――信じられない。夢を見ているのじゃないかしら?
「もしもし。克子、聞いてるのか?」
「うん……」
「黒木さんが、事情を説明したらしい。西脇さんが、お前のとこへ改めてお礼にうかがうと言ってた」
「そんなこと――いいのに」
「よくやってくれたな。ありがとう」
と、浩志が言った。「お前――」
「うん?」
「いや……。またゆっくり話そう。ともかく知らせてやりたくて」
「良かったね、ゆかりさん」
「ああ、本当にな。国枝の|奴《やつ》、歯ぎしりして悔しがるだろう」
と、浩志は笑った。「お前に借りができたな」
「そうよ。利子、高いからね」
と言ってやりながら、克子の目から涙がこぼれて頬をスッと落ちて行く。
そのくすぐったさが、快かった。
「お兄さん、記者会見、見に行くの?」
「仕事があるよ」
と、浩志は言って、「ま、たまたま外出して、近くを通りかかりゃ別だ」
克子はちょっと笑って、
「こら、さぼり屋め」
と、言った。「後で聞かせて」
「ああ。仕事中に、悪かったな」
「いいの。|嬉《うれ》しかった。じゃあ」
電話を切ると、克子の気持ちは、まるで翼が生えてどこかへ飛んで行く感じだった。
苦々しい顔でにらんでいる上司の視線など気にもならない。
午後からニューヨークへ……。間に合うだろうか?
克子は財布からテレホンカードを取り出して、席を立った。このままでは、あまりに恩知らずになる。
克子は足早に会社を出た。後で皮肉の一つも言われるかもしれないが、構うものか!
克子の足どりは飛びはねるようで――頭痛などどこかへふっとんで行ってしまっている……。
わざわざ表に出て、少し離れたショッピングビルの中の公衆電話を使うことにする。
克子は、翔の部屋の番号を押した。
「――もしもし」
少したって、眠そうな翔の声が聞こえて来た。
「翔君? 石巻克子よ」
「あ、克子さん! おはようって……、昼か、もう」
克子はふき出して、
「ゆうべはごめんなさい。お父様、もう出られた?」
「待って下さいね」
ドタドタと音が聞こえる。あわててベッドから飛び出して行ったのだろう。何しろ克子のアパートとは違って広いのである。
少し間が空いて、
「待たせてごめんなさい」
と、翔がハアハア言いながら、「もう出ちゃったそうです。でも、たぶん成田へ向かってるところだと思うんで、車へ電話できますよ」
「じゃあ、番号を教えてくれる? 待ってね」
克子は電話のわきのメモ用紙に、車の電話番号をメモした。
「克子さん」
「え?」
「父にばっかり電話しないで、僕にもかけて下さいよ」
翔の言い方に、克子は思わず笑ってしまった。
「はいはい。これがすんだら、かけるわ」
「約束ですよ。待ってますからね」
「かしこまりました」
と、克子は少しおどけて、言った。
車へかけると、すぐに男の声が出た。
「――黒木さんとお話ししたいんですが。石巻克子と申します」
すぐに黒木の声が、
「やあ、よく分かりましたな」
と、飛び出して来た。「翔の|奴《やつ》が教えたんですね」
「あの――何て申し上げていいか。本当にありがとうございました。さっき兄から連絡が……。ありがとうございました」
いざ話そうとすると、こんな当たり前の言葉しか出て来ないのが、もどかしかった。
「いや、そう決めたらすぐ実行できるのが、ワンマン企業のいいところでね」
と、黒木は楽しげに言った。「まあ、詳しいことは、ニューヨークから戻って、また相談しますよ。四、五日で戻ります」
「あんな無茶なお願いを聞いて下さって……。夢じゃないかと思いました、兄の話を聞いて」
黒木は、少し静かな声になって、
「もう、あんたも父親から振り回されないようにしなくちゃいけない。分かりますか? 父親のしたことを、自分のせいだなどと思わんことです」
克子には、黒木の言葉のやさしさが身にしみた。
「苦労すると、人は二通りに分かれる。この苦労を人に味わわせたくないと思う人間と、他人も一緒に不幸にしてやれ、と思う奴とね」
と、黒木竜弘は言った。「私はどっちかというと、後の方かもしれん」
「そんなこと……」
「いや、社員にとっちゃ、ケチでいやな経営者ですよ。しかし、翔の奴を見ていると、少しは考え直さなきゃいかんな、と思えて来る。あんたもそうです。自分のためでもないことに、あそこまで命をかけられる人間は、そういない」
「黒木さん――」
「今、仕事中でしょう」
「はい。でも、ともかくお礼を申し上げなくては、と……。|叱《しか》られるのは慣れていますから」
と、克子は言った。
「どうです。うちの社で働きませんか」
「は?」
「いや、秘書室はいつも手が足らなくて困っている状態でね。というより、役に立つ人間が少なすぎる。もしあんたがよければ――」
「でも……」
と、克子はためらって、「翔君のことがあります。いつまでもズルズルと――」
「男と女のことは分からんもんですよ」
と、黒木は言って、「――ああ、分かった」
車の中の|誰《だれ》かに答えたのだろう。
「もうじき空港へ着くのでね。では、また帰ったら昼飯でも付き合って下さい」
「黒木さん――」
「今日のお礼に。そう言えば断れんでしょう?」
そう言って、黒木は笑った。「それでは」
「行ってらっしゃい。お気を付けて」
克子は電話なのに、頭さえ下げていた。
会社へ戻る道が、いつもとまるで違う光景に見えた。
いや、黒木の言葉に甘えることはできない。翔との間をはっきり終わらせようとすれば、黒木の所で働くなど、とんでもないことである。
むしろ今、克子の心を弾ませているのは、黒木が克子の生き方について言った言葉の方だった。
――克子は、いつも自分が何か悪いことをして来たような、そんな後ろめたさを抱いて生きて来た。
不思議なことだが、人は辛い目に遭うと、それが「自分のせい」だと思ってしまうことがある。何も悪いことをしていないのに、どうしてこんな目に遭うのか、と嘆いている内、こんなことになったのは自分が何かしたからに違いない、と考え始める。
貧しい人、病苦に悩む人が、世の中を恨むより自分を恨んで、閉じこもってしまう気持ちが、克子にはよく分かった。
会社の席に戻ると、上司が何か言いたげに克子をにらんだが、克子の方では無視してさっさと仕事を始める。
その内、上司の方もタイミングを失って、黙ってしまう。克子は笑ってやりたい気分だった。
――確かに、克子も斉木と不倫の恋をしている、という点では、「罪」を犯しているのかもしれないが、黒木の言葉は克子の重苦しい人生に窓を開けてくれたようだった。
それは黒木が金持ちだからとか、実力者だからではなく、「人生の先輩」だからである。
そう。黒木が帰国したら、お昼ぐらいは付き合わなくてはならないだろう。――もちろんこっちがごちそうになるのだ。文句をつける筋はない。
「あ、いけない」
と、思わず声に出して言った。
翔に電話するのを忘れてた!
「――もしもし。翔君?」
昼休み。外へ出てから急いで翔の部屋へかけたものの、向こうは何も言わない……。
「翔君? 怒ってる? ごめんね。つい忘れちゃって。――ね、そう怒らないで何か言ってよ」
すると、何やらクスクス笑う声が聞こえて来て、
「石巻さんでしょ。私、久保泉」
「ああ! 何だ」
あのパーティーで会った、翔の従妹である。
「翔君、今、下でお食事中」
「そう。じゃ、後でまたかけるわ」
「指のけが、どうですか」
「ええ、もう何とも。あなた……遊びに来てるの?」
「大学、創立記念日で休みなの」
と、泉は言った。「さぼってんじゃないんですよ」
「いいわね、学生さんは」
と、克子は笑って言った。
「克子さん」
「え?」
「あんまり翔君におあずけ食わしてちゃ可哀そうよ。見るも哀れにやせ細って――」
「まさか」
「ま、あんだけ食欲ありゃ大丈夫だけど」
「私も、貴重なお昼休みで、お腹ペコペコなの。後で、またかけるって伝えてくれる?」
「言っときます。『おあずけ!』って」
そう言って、泉は笑った。
――克子は昼休みで混雑するラーメン屋へ入って、席が空くのを、並んで待っていた。
TVが|点《つ》いている。お昼のワイドショーとかいう類の番組だろう。
ちょうどゆかりの写真が出ている。克子はふと、その写真へと笑いかけていた。
飛び入り
記者会見は大騒ぎだった。
当日の朝、連絡が回ったばかりなのに、午後三時の会見の席は報道陣で埋まってしまった。
カメラマンは少しでも前へ出ようとひしめき合っている。
ゆかりは少し青ざめていたが、しっかりした足どりで西脇に伴われて現れた。カメラのシャッター音で、司会者の声が聞こえなくなるほど。
新聞記事については、西脇が全く事実無根と説明し、それ以外に付け加えることはない、と言い切った。
何か一言、と言われて、ゆかりは、
「私、暴力は嫌いです」
と言った。
笑いが起こった。
報道陣にも、もともとゆかりは受けがいい。その雰囲気は大切だった。
「ついで、と申しては何ですが」
と、西脇が続けた。「この場を借りて発表したいことがあります。ゆかりが暴力団などと一切係わりがない、何よりの証拠になると思いますが」
会場がざわつく。――何だか場違いな印象のビジネスマンが、大勢の記者やカメラマンに戸惑いを見せながら入って来た。
そして、黒木竜弘の代理でお話しします、と前置きして、ゆかりが黒木グループ全体のイメージガールになる旨を発表した。
ゆかりの|頬《ほお》が赤く染まった。もちろん、西脇から聞いてはいる。克子が力を尽くしてくれたおかげだということも知っていた。
「詳しいことは、いずれ黒木社長が戻ってから、発表することになると思います」
その専務は淡々と述べて、「では、これで……」
と、ゆかりの方へ会釈した。
ゆかりはあわてて頭を下げた。――何だか笑い出したくなるような、とぼけた光景である。
「――以上の話でもお分かりの通り、ゆかりに関する|噂《うわさ》は全くのでたらめで、強く抗議します」
と、西脇が強調する。「新聞社に対し、記事の取り消し、訂正を要求していくつもりです」
ワイワイガヤガヤしている記者の方では、本当なら問題の記事が石巻浩志の父の談話だという点がポイントのはずなのに、メモをとるのに必死で、質問は出そうもなかった。
「――じゃ、この件で、ゆかりちゃんの仕事に何か支障が出るということは」
と、一人が手を上げて言った。
「ありません」
と、西脇が言った。
すると、そのとき、
「ちょっと一言、いいかね」
と、よく通る声がして、何となく会場は静かになってしまった。
|誰《だれ》だろう、と顔を上げたゆかりは、記者たちの間を悠然と歩いて来る「巨匠」、三神憲二の姿を見て、目をみはった。
隣の西脇も、
「全然、聞いてないぞ」
と、戸惑い顔である。
「やあ」
三神は、何だかその辺でひょっこり出会った、という様子で、ゆかりの方へ|笑《え》|顔《がお》を見せた。
「どうも……」
ゆかりが頭を下げる。
「監督、わざわざおいでに――」
と、西脇が立ち上がる。
「うん、ちょっといいかな」
と、三神が言った。
「もちろんです! どうぞこちらへ」
西脇は自分の座っていた|椅《い》|子《す》を引いて、三神にすすめた。
「やあ、すまんね」
三神は、その椅子に腰をおろすと、「突然現れて、びっくりしたろう。これは別に演出じゃないよ」
会場に笑いが起こった。
三神は、ゆかりの前のマイクを少し自分の方へ引き寄せると、
「今、編集作業の最中で、ほとんど眠ってないのでね。ボーッとした顔だと思うけど、勘弁してほしい」
と言った。「今朝の問題の記事を読んで、心配になってやって来たんだが、今の話を聞いて安心した。というのは――ここにいるゆかり君も知らんことだが、次の作品で、ぜひゆかり君を使いたいと思っているからなんだ」
ゆかりはびっくりして三神を見た。
「監督、本当ですか」
「君にやる気があれば、だが」
「もちろんです!」
と、ゆかりは言った。
「それは良かった」
と、三神は|微笑《ほほえ》んで、「実をいうと、ここで交渉しちまえば、断れないだろうと踏んでたんだ」
記者たちが笑った。
「監督! ゆかりちゃんと並んで写真を!」
と、カメラマンから注文が飛ぶ。
「いいかね?」
と、三神がゆかりを見る。
「はい!」
二人が並んで立つと、一斉にカメラのレンズが二人を捉える。ストロボが光り、TVカメラのライトが当たった。
一体何の記者会見なのか、分からなくなってしまっている。
もちろん、ゆかりにも察しはついていた。邦子だ。邦子が、三神に頼んでくれたのだ。
黒木竜弘の話と、三神の映画への出演の話で、もう国枝の件など、どこかへふっとんでしまった。
三神と並んでフラッシュの光を浴びながら、ゆかりの目に熱い涙が浮かんで来た。
浩志、克子、そして邦子……。
みんなが、ゆかりのために、こんなに力を尽くしてくれている。――私、幸せだ。ゆかりはそう思った。
この場で倒れて死んでも良かった。今なら――この瞬間なら。ゆかりは、これほど幸せだったことは、なかった。
「もういいだろう」
三神はそう言ってカメラマンを|退《さ》がらせると、ゆかりの方へ、「具体的な企画が決まったら、改めて連絡するよ」
と言った。
「いつでも、駆けつけます」
「その元気だ」
と、三神はゆかりの肩をポンと|叩《たた》いた。「じゃ、僕は編集の続きが待ってるんでね」
「ありがとうございました」
ゆかりは深々と頭を下げた。
三神が記者たちの間を分けて、出て行く。――これで、記者たちも書く材料が充分にできて満足しただろう。
ゆかりは、空を飛んでいるような気分で、会見を終わります、と西脇が言うのも耳に入らなかった……。
控室へ戻ったゆかりは、目をみはった。
「浩志!」
少しガタの来たソファに座っているのは、背広姿の浩志である。
「やあ。見つかるとうるさいと思ってね、ここにいた」
「見ててくれた?」
「そこのTVで。――|凄《すご》い記者会見だったな」
「そう。何してるのか分かんなくなった」
ゆかりは笑って、それから真顔になると、「浩志……。ありがとう」
と、そばに並んで座り、浩志の手を握った。
「礼は克子に言ってくれ」
「それと邦子も……。あんなことまでしてくれるなんて」
ゆかりは目にたまった涙を、指で|拭《ぬぐ》った。
「ああ、立派だな、全く。ゆかりのことが大好きなのさ、みんな」
「幸せだわ、私」
ゆかりの言葉に、浩志は黙って肯いた。
西脇が入って来て、
「みえてたんですか」
と、興奮の面持ち。「いや、びっくりした!」
「ホッとしました。これで、あの記事はもう忘れられるでしょう」
「もう大丈夫! 黒木竜弘と三神憲二がついてりゃ、怖いもんなしですよ」
西脇が、まるでボディビルでもやっているように力こぶを作る格好をして見せたので、ゆかりはふき出してしまった。
「さあ、ゆかり」
と、西脇が息をついて、「仕事が待ってるぞ。張り切らなくちゃ申しわけないぞ、みなさんに」
「うん」
ゆかりは肯いて、「だから、お給料上げて」
と続けたので、聞いていた浩志も笑い出してしまう。
マネージャーと、別に雇ったボディガードに付き添われてゆかりが出かけて行くと、控室には西脇と浩志の二人が残った。
「いや、石巻さん。何とお礼を申し上げていいか……」
「僕の力じゃありませんよ」
と、浩志は首を振った。
「もちろん、妹さんが黒木竜弘に話して下さったことは分かっていますが――」
「いや、妹の力でもないんです」
浩志の言葉に、西脇は少し戸惑った様子で、
「しかし――」
「ゆかりが、それだけ大切にしたくなる子だということです」
と、浩志は言った。「いくら親友といっても、本当ならライバルでもある原口邦子が、あんなことまでするというのは……」
「ああ、三神監督のことですね。そうだろうと思いました。この世界でね、こんなことがあるとは、信じられんようです。私がこんなことを言うのは、おかしいかもしれませんが」
西脇はしみじみとした口調になって、「人間というものが信じられなくなって来るのが、この世界ですからな。しかし、ゆかりのおかげで、こんな貴重な体験をさせてもらった」
「その通りです」
と、浩志は肯いて、「ゆかり自身が、感謝するという気持ちを忘れずにいる。僕にとっては|嬉《うれ》しいことです。――ゆかりはたぶん大スターになるかもしれない。そんな気がします」
「大事にしなければね」
「そう。とりあえず、この一件はうまくのり切ったとしても、国枝の顔に泥をぬったようなものです。向こうがどう出て来るか。用心しないと」
「分かっています」
西脇は真剣な表情になった。「しかし、石巻さん」
「もう会社へ戻らないと」
と、浩志が腕時計を見る。「そうそうさぼらしちゃくれませんから」
「石巻さん。ゆかりと……結婚する気はないんですか」
浩志は、少しの間、答えなかった。そしてちょっと肩をすくめると、
「安月給でしてね、とても結婚なんて」
と笑った。「じゃ、もう行きます。何かあったら、連絡を」
浩志は軽く会釈して控室を出た。
ゆかりが会見をした会場はもう手早く片付けられて、違う宴席のための場所へと変えられているところだった。
何という速さだろう、と浩志は思った。
|誰《だれ》もが息せき切って駆けている時代だ。自分がどうして急がなくてはいけないのか、知っている人間はわずかでしかない。
ほとんどの人間は、ただ、
「みんな走ってるから」
必死で走るのだ。
ゆかりも邦子も、走っている。だが、同時に二人は、「走り疲れた人たち」のための、やさしいオアシスでもある。それがあの子たちの「仕事」なのだ。
浩志がロビーを抜けて行くと、まだカメラマンやTV局の人間がそこここに残っていたが、誰も気付く者はいない。
会社へ、急いで戻らなくては。
地下鉄の駅へと急ぎながら、浩志は、西脇の問いから逃げてしまった自分の気持ちを、考えていた。
ゆかりとの結婚。――世間には、ゆかりの恋人ということになっている浩志である。
しかし……今はまだ。まだ[#「まだ」に傍点]?
いつか、ゆかりと結婚する日が来るのだろうか?
ゆかりを抱こうとした、ハワイでの夜のことが思い出された。あのまま行ったら――おそらく浩志は間違いなく、ゆかりの本当の「恋人」になって、それは日本へ帰ってからもくり返されただろう。
そうなっても良かったのか? いつも克子がとがめるように、浩志は、ゆかりと邦子の双方を苦しめているだけなのだろうか。
浩志には分からなかった。
ゆかりの泣く顔も、邦子の苦しむ顔も、見たくない。それは二人を同じように好きだからなのか。それとも、自分が「いい子」でいたいだけの、卑怯な態度なのだろうか……。
地下鉄は、昼間の時間ということもあって空いていた。――ゆったりと座って行きながら、会社へ戻る前に、どこかから克子へ電話してやろうか、と思った。
しかし、克子の勤め先はそういうことを嫌う。夜、アパートへ電話しよう。その方がいい。
電車の揺れ具合と、安心した気の緩みがあったせいか、やかましい地下鉄の中で、浩志はいつしかウトウトしていた。
ほんの何分か――ふっと深い眠りに落ちて、ハッと目を覚ますと、乗り過ごしたかと思わず外を見た。
大丈夫だ。ちょうど駅を出るところで、降りるのは、まだ二つ先である。
ホッとして息をつくと、浩志は目の前に男が二人、立っているのに気付いた。
どこかで見たことがある。――一瞬、青ざめた。ハワイで、国枝貞夫について歩いていた男たちだったのだ。
空いた地下鉄で、いくらも空席はあるのに、男が二人、浩志の前をふさぐように立っているのは、奇妙な光景だったろう。
しかし、人目がある。そう無茶はしないだろうと浩志は自分へ言い聞かせた。
おそらく、この男たちが大宮を危うく死ぬほどひどい目に遭わせたのだ。そう思うと怒りもわいて来る。
「何か用ですか」
と、浩志は騒音にかき消されないように、しっかりした声で言った。
おそらく、この二人は、あの記者会見の場所へ来ていて、後をつけて来たのだろう。
「大した用じゃないよ」
と、一人が言った。「親孝行な息子にプレゼントがあるって、伝えろと言われて来たのさ」
「何のことです」
「プレゼントの中身を前もってばらしちゃ、つまらないってもんだ」
と、もう一人が笑う。「届いたときのお楽しみだ」
「ああ」
二人は顔を見合わせて冷笑すると、電車が次の駅に着くのを見て、
「――また会おうぜ」
と言って、扉の方へ歩いて行った。
浩志は、その二人がホームへ降り、扉が再び閉じるまで、じっと息をつめて座っていた。
電車が動き出した。ホッと息をつく。
汗をかいていた。暖房は入っていても、汗をかくほどではないのだが。
――親孝行な息子。
父のことを、改めて思い出す。
父への怒りは、おさまっているわけではない。もちろん、父は|詫《わ》びて来たりはしないだろう。
これで父がおとなしくなるとも思えない。不安の種は尽きなかった。
会社へ戻って、仕事を始めると、三十分ほどして電話が鳴った。
「――名女優さんからよ」
と、森山こずえが受話器を渡す。
「もしもし」
「浩志? 記者会見、見てた?」
「ああ。あれは君だろ。ゆかりが泣いて喜んでた」
「頼んだって言うより、|訊《き》いてみただけなのよ」
と、邦子が楽しげに言った。「監督、ゆかりを気に入ってるから、もともと」
「でも、おかげで何とか無事にすんだよ」
「良かったね。天下のアイドルを泣かせてやったか。悪い気はしない」
「そうだな」
と、浩志は笑った。「今日は仕事?」
「これから映画の宣伝で駆け回るのよ」
と、邦子は言った。
「そうか。大変だな」
と、浩志は言った。
「でも、初めての映画だもん。当たってほしいしね」
電話を通しても、邦子の弾む気持ちが伝わって来る。
「もう完成?」
「巨匠がこりにこってるから」
と、邦子は言った。「音楽も入るし。でもたぶん近々、|0《ゼロ》号の試写があると思う」
「0号?」
「音楽の入ってないフィルム。それは関係者だけのだから。――一応完成したのは、初号っていうのね。でも、きっと巨匠のことだから、何度も手を入れるでしょ」
「楽しみだね」
「プロモーションで、色々TVとかにも出るからね。好きじゃないけど、これも宣伝だから」
「知らせてくれ。できるだけ見るよ」
「うん!」
「あの大女優とは、その後、何もなかったかい?」
「神崎弥江子? 別に。もう会うことないしね。でも、TVとかに出るときは、また会うわね、きっと」
「でも、もう終わったわけだものな」
「そう。――終わった」
ふっと、邦子の声に、|虚《むな》しい響きが聞こえる。
役者というものは、一つの仕事がすめば、もう次のことを考えるものなのかもしれない。
しかし、邦子にとって、三神の映画に出たことは、人生の中の大きな一ページになるはずである。
「おめでとう、邦子」
と、浩志は言った。「落ちついたら、ゆっくりお祝いやろうな」
「そうだね」
と、邦子は言った。「じゃ、もう……。仕事があるから」
「ああ。――またね」
電話が切れる。
浩志は、邦子が泣いていたような、そんな気がした。気のせいだろうか?
「どうかした?」
森山こずえに訊かれて、
「いや、別に」
と、首を振る。「仕事、仕事」
――なぜ邦子が泣くのだろう。|嬉《うれ》しいのか。それとも、気が緩んでか。
いや、そうではない。きっと――きっと、そうではないのだ。
浩志の胸は痛んだ。
邦子もまた、浩志のことを愛している。今、そのことを、浩志は強く感じた。
自分は、一体どっちを愛しているのか。そう問いかけるのは、恐ろしいことだった……。
トランク
「何考えてるんです?」
と、黒木翔が言った。
「え?」
聞こえているくせに、そう|訊《き》き返す。――考える時間がほしいのだ。
口をすべらして、人に笑われてはいけない。いつもいつも、克子はそう思って、生きて来た。
「何も……。ただ、あなたのお父様に申しわけなくって」
「|親《おや》|父《じ》は今、ニューヨークですよ」
翔は、ワインを飲んでいた。――ワインの選び方が、さまになっている。
レストランが、決して固苦しくない、雰囲気のいい店なので、それだけ克子としては、やりにくい。
「親父に約束したからですか」
と、翔が言った。「僕ともう会わないって」
克子は、食事の手を止めた。
「――聞いたの?」
「聞いてました。――だって、気になるでしょ、僕だけ出てろ、なんて」
「でも――」
「居間の電話、マイクがついてるんです。隣で聞けます」
「まあ」
克子は、そう言って、「じゃあ――聞いたでしょ、私の話、全部[#「全部」に傍点]」
「聞きました」
翔は|肯《うなず》いて、「その人のこと、愛してるんですか」
斉木とは、このところ会っていない。何があったのか、電話しても、忙しいと言って出てくれないことがあった。
「たぶんね」
と、克子は言った。「言えば、あなたが傷つくと思って、黙ってたの。ごめんなさい」
翔は、ちょっと|微笑《ほほえ》んで、
「あんまり子供扱いしないで下さい。同じ年齢ですよ」
と、言った。
「そうね。――つい、忘れちゃう」
と、克子も|笑《え》|顔《がお》になった。
「僕は構いません」
「構わない、って……」
「その人と、克子さんがいつまでも続いたとしても。僕の気持ちは変わりません」
何てロマンチックな!
でも、そんなの幻よ。男と女の間はもっともっとドロドロしていて、散文的で、現実的で――。
でも、今の翔にそんなことを言って、何になるだろう?
「僕と付き合ってるのが、あなたの負担になるのなら……」
「そうじゃないわ。そうじゃない。楽しいのよ。本当よ」
克子は、つい早口にそう言ってしまってから、自分でもびっくりしていた。
「口をすべらしましたね」
と、翔は|嬉《うれ》しそうに言った。「僕と付き合って楽しいって。今さらそうじゃないなんて言ってもだめですよ」
克子は仕方なく笑った。
「本当に、しょうのない坊っちゃんね」
「何とでも。こう見えても、僕、しつこいんです。克子さんに食らいついて離れませんからね」
翔はますます食欲が出た様子で、デザートをワゴンから何と三品も取って、克子を|呆《あき》れさせた。
「負けないからね」
と、克子も三品。
どっちが子供? 克子は笑いながら、そう考えていた。
「大学をちゃんと出て。それからお勤めして。その後で、私にプロポーズしてちょうだいね」
と、克子はデザートを食べながら言った。「まだ若いのよ。それを忘れないで」
「克子さんもですよ」
「はいはい」
楽しいやりとりだ。
しかし――TVの中の恋人たちとは違う。
いつも、TVの恋愛ものとか見ていて、克子は不思議でならない。この人たちには、親とか兄弟とか、|親《しん》|戚《せき》とかはいないのかしら、と思うのである。
親戚の中には、たいてい一人や二人はみんなから|眉《まゆ》をひそめられている人がいる。それでも、結婚式とか葬式とかになれば、いやでも顔を合わさずにはいない。
それにドラマに出て来るビジネスマンやOLたちの、暇そうなこと。いつ働いているんだろう、と思う。しかも小ぎれいな職場で、帰りにも腰が冷えたとか|爪《つま》|先《さき》がしびれるというグチも出ない。
まあ、ドラマはドラマ。それでもいい。
二枚目が不精ひげにトロンとした目で出て来たらがっかりだろうし、美人OLがアパートの階段で手すりに寄りかかったまま酔って居眠り、じゃ夢がなさすぎる。
でも、克子はそんなものが人生だと思っている。――それを「見っともない」とは思いたくないのだ。
それを言えば、今、こうして翔と二人で食事している風景は、あたかもトレンディーなドラマである。
現実ではない。夢なのだ。
夢……。私は翔が好きなのだろうか?
翔と二人でいる「夢」を見るほどに、心ひかれているのか。
克子には分からなかった。――ただ、分かっているのは、翔には父も、母も、叔母もあり、数え切れないくらいの親戚がいるはずだ、ということだった。
それが、克子の前の「現実」なのである。
外は寒かった。
風が、身を切るようだ。――翔がハイヤーを呼んでくれて、アパートまで送ってくれることになった。
「――親父が、帰ったら克子さんとデートするって言ってました」
「え?」
克子が面食らって、「ああ。――お昼でも、っておっしゃったのよ。成田へ行く車との電話で。デートだなんて、そんな」
と笑う。
「だめですよ、親父の方へ浮気しちゃ」
「結婚もしてないのに浮気になるの?」
「なります」
と、翔が大|真面目《まじめ》に言った。
ハイヤーは夜の町を滑らかに駆け抜けて行く。――翔が克子の手を握って、克子の方も、そのままにさせておいた……。
「――そこがアパート」
と、克子は言った。「アパートの人がこの車を見たら、目を回すわ」
ハイヤーが|停《と》まる。
「どうもありがとう」
「部屋まで送ります」
と、翔は言った。
たぶん、そう言うと思っていた。いけない、と断らなくては。女一人の部屋なのだ。
「じゃ、部屋の前まで」
「分かりました」
少し先に行って待つように、翔は運転手に言った。
「――静かにね。足音たてないで」
と、低い声で注意する。「あなたの家とは違うの」
「空気より軽くなりますよ」
と、翔は言った。
――部屋の前まで来ると、克子は、
「じゃ、ここで」
と、小さな声で言った。「おやすみなさい」
「入れて下さい」
「だめ」
「ハイヤーが待ってるんだ。すぐ帰りますから。ね?」
克子は、翔を中へ入れた。――なぜだろう。頭と体が別々になってしまったように、翔の言う通りにしている。
「片付いてないわよ」
と、克子は明かりを|点《つ》け、「寒いでしょ。ストーブをつけて、あったまるまで、コート着たままでいるの。あなたには想像のつかない暮らしでしょ」
カチャカチャ音をたてて、石油ストーブを点ける。黄色い炎が、輪を描いた。
「翔君、もう――」
向き直った克子を、翔が力をこめて抱いた。
克子は、じっとしていた。コート着たままのラブシーンなんて……。でも、それは克子が知る、初めての安心感、後ろめたさのない抱擁だった……。
「だめよ、翔君」
と、押し戻すには、自分でも思いがけないほどの努力が必要だった。
「何もしてませんよ、僕」
翔が心外という顔で、「寒いから、あっためてあげただけです」
「悪い子だ」
と、克子は笑った。「じゃあ……」
二人の唇が重なった。それは、まるで初恋の思い出のように、克子の心をときめかせた……。
そのとき、電話が鳴った。
「邪魔だな」
と、翔が言った。
「兄からよ、きっと」
「もし、彼[#「彼」に傍点]からだったら?」
翔の問いに、克子はちょっと詰まった。
「――|誰《だれ》からでも、関係ないわ。早く出なくちゃね」
克子が受話器を取る。「――もしもし」
少しの間、向こうは何も言わなかった。
「どなたですか?」
いたずらか、と思いかけたとき、
「兄貴にプレゼントがある」
と、男の声が言った。
「え?」
「兄貴へ渡しとけ。今、お前のアパートの前に置いてある」
「何のことです」
「いいから、見りゃ分かる。車のトランクを開けてみるんだな」
低い笑い声を残して、電話は切れた。
「――どうしたんですか?」
と、翔が訊く。
「翔君。ちょっとアパートの前を見て来てくれる? 車があるかどうか」
「車?」
翔が部屋を出て行き、またすぐに戻って来た。
そっとドアを閉めて、
「車が一台、|停《と》まってます。誰も乗ってないみたいだけど」
「そう……」
克子は兄のアパートへ電話した。「――お兄さん? あのね、今、妙な電話が……」
克子の話を聞いて、浩志は、
「プレゼント、と言ったのか?」
「ええ。心当たり、ある?」
「ゆかりの記者会見の帰りに、国枝の所の|奴《やつ》に会ったんだ。プレゼントがある、と言ってた」
「何かしら? 車のトランクを見ろって」
「分からないが……。下手に開けるな。危険かもしれない」
「でも――どうする?」
「これからそっちへ行く。一人だろ?」
克子は少し迷ってから、
「あの……黒木翔君が一緒なの。送って来てもらって」
と、言った。
「そうか。じゃ、ついててもらえ。用心に越したことはない」
と、浩志は言った。「すぐ出るからな」
「うん。分かった」
克子は電話を切って、翔の方を見た。
「例の暴力団の?」
と、翔が克子のわきにかがみ込む。
「そう。――車のトランクに何か[#「何か」に傍点]入れて寄こしたのよ」
「開けてみましょうか」
「やめて!」
克子は翔の腕をつかんだ。「もし――危険なものだったらどうするの」
「でも……。それじゃ一一〇番しましょうか」
克子も、どうしたものか分からなかった。
「ともかく――今、兄が来るわ。ね、それまでここにいてくれる?」
翔は克子の肩を抱いた。
「いろと言われたら、いつまでだって、いますよ」
「ありがとう……。でも、こんな風に、あの連中は|諦《あきら》めないで、いやがらせをして来たりするわ。あなたに迷惑がかかる」
「また、すぐそういうこと言って」
翔が口を|尖《とが》らすと、「怒りますよ」
「あなたが怒っても、ちっとも怖くない」
克子はつい笑っていた。――そして、翔の肩に頭をもたせかけていたが……。
「車、見て来るわ」
「危ないって――」
「トランクを開けなきゃいいんでしょ」
「じゃ、僕も行きます」
「ええ。お願い」
二人は部屋を出ると、足音をたてないように用心しながら、一階へ下りた。
――車は、ごくありふれた中型の乗用車。大分古い型のようだ。
克子は、風の冷たさに首をすぼめつつ、車の中を|覗《のぞ》き込んだ。もちろん人の姿もないし、何か仕掛けがしてあるとも見えない。
「盗まれた車かもしれないな」
と、翔が言った。「ずいぶん古いでしょう。ろくに手入れもしてない」
「そうね」
トランク……。トランクに何を入れてあるというのだろう。
克子は、そっとトランクの方に回ってみた。
「危ないですよ」
「ええ。でも――」
と、言いかけて、「今……何か聞こえなかった?」
「え?」
「何か……動いてる音が」
風の音か、気のせいか、とも思ったが、そのとき、またガサガサと何かこすれるような音が、トランクの中から聞こえて来た。
「確かに音がしてる」
と、翔が言った。「開けてみましょう。大丈夫ですよ」
「でも……」
克子はためらっていた。
トランクの中に何が入っているのか。開けてみて、翔にでも万一のことがあったら……。
「声がする」
と、翔がトランクを軽く|叩《たた》いてみて、言った。
「え?」
「本当です。|呻《うめ》き声みたいな……」
克子は、心を決めた。
「私が開けるわ。でも、どこで開けるのかしら」
「たぶん運転席の方にロックを外すボタンが――」
翔が運転席のドアの内側をいじると、ガタッと音がして、トランクのふたが少し持ち上がった。克子は、ちょっと息を吸い込んで、ふたを大きく上げた。
「気を付けて!」
と、翔が言った。
街灯の明かりが、毛布に包まれたものを照らし出した。――人だ[#「人だ」に傍点]。動いている。
「|誰《だれ》かが――」
克子が手を出せずにいると、翔が近寄ってパッと毛布をめくった。
克子は短い悲鳴を上げた。
浩志は、車を停めた。
顔から血の気がひく。救急車が克子のアパートの前に停まっていたのだ。
何があったのだろう? もしかして、克子に何か――。
「お兄さん!」
捜すより早く、克子が救急車のそばから駆けて来て、しっかりと抱きついて来る。
「どうした! 大丈夫なのか?」
「怖かった……」
克子は身震いした。寒さのせいではない。
「どうなってるんだ」
「中を見たの。トランクを開けて。中に……お父さんが……」
「何だって?」
「今、救急車に――」
浩志は、急いで歩いて行った。
「すぐ運びますが」
と、救急隊員が言った。「知り合いの方?」
「息子です」
中を|覗《のぞ》き込んで、浩志は|膝《ひざ》が震えた。
膨れ上がった顔、あざだらけの父が、横たわっていた。鼻血が乾いて、口の周りにこびりついている。呼吸も苦しげだった。
「――ひどく殴られたりけられたりしたんでしょうね」
と、救急隊員が言った。「全身、あざだらけですよ。裸にして縛り上げて……。|肋《ろっ》|骨《こつ》が折れてるかもしれない」
「警察には?」
「連絡しました。もう来るでしょう」
浩志は、思わず目を閉じていた。
「お兄さん……」
「克子。悪いが、お前、一緒に乗っていってくれ。|俺《おれ》は警察の人に話をしなくちゃいけない」
「分かったわ」
克子は、青ざめてはいたが、しっかりと|肯《うなず》いた。「でも、どうしてこんなことに……」
「|親《おや》|父《じ》が、結局何の役にも立たないと分かったんだ。だから、返してよこした。見せしめに……」
「ひどいことして」
克子は、コートのえりを立てた。
「ああ。――たぶん、親父も相当勝手なことを言ってたんだろう。しかし、こんなことに……」
浩志は、ふと気付いて、「黒木さんの息子は?」
「救急車が来るのを見てから、帰ってもらったわ。名前が出ると、困るでしょう」
「そうだな」
浩志は肯いた。
パトカーがやって来るのが見えた。
「ニュースになるわね、きっと」
「仕方ないだろう」
「でも――自業自得だわ。同情しないわよ、私」
克子は、今の恐怖を克服しようとするかのように、キュッと眉を寄せ、厳しい口調で言った。
「もちろんだ。俺たちがやったわけじゃないさ。――しかし、黙って行かせるわけにもいかない。病院の方で困るだろうからな」
「ええ……。分かってるわ」
「しっかりしろよ」
浩志は、妹の肩をギュッとつかんで言った。
「――通報した人は?」
と、警官が足早にやって来た。
それにしても……何という連中だ。
浩志は、体が震え出すのを、必死で止めなくてはならなかった。父のあの様子を見たら――。
もちろん、国枝の所の手下たちがやったに決まっているが、それを証明するのはむずかしいだろう。父自身が、|怯《おび》えて証言をしないだろうし、この中古らしい車から、国枝へ直接つながる手がかりが出るとは思えない。その辺、抜かりのない連中なのだ。
父をあんなことに利用しようとし、失敗すると、容赦なく「借りを返させる」やり方。――克子の言う通り、これがいわば父が自ら招いた結果であることも、浩志は承知している。
だからといって、自分は全く無関係だとは言えない。これはいわば国枝の「予告」なのだ。
本当なら、浩志が、父のような目に遭う立場なのである。
救急車のサイレンが、夜の冷気の中を、遠ざかって行った。
つなぐ手
「こちらでございます」
レストランのマネージャーが、浩志を個室へ案内してくれる。
「どうも……」
「お連れ様は、少し遅れてみえるとのことでした」
「そうですか」
「何かお飲み物でも」
「じゃあ……オレンジジュースを」
「かしこまりました」
個室で一人になると、浩志は|欠伸《あくび》をした。
おしぼりが出ているので、それで、顔を|拭《ふ》く。少しさっぱりした。
ひどく疲れている。――西脇が、夕食の席を用意してくれたのが、気分的にずいぶんありがたかった。
「こちらでございます」
と、マネージャーが案内して来て、浩志は振り返ったが――。
「ゆかり!」
と、目を丸くする。
「邦子も一緒よ」
と、ゆかりがいたずらっぽく笑った。
「オス、浩志」
邦子が、ラフなジーパン姿で入って来る。ゆかりが、そのままステージにも出られそうな|衣裳《いしょう》なのと対照的だ。
「二人とも……。いいのか、仕事は?」
と、浩志は当惑しつつ言った。
「今日はね、浩志を励ます会」
と、邦子が言った。「私たちの、いつもの恩返しよ」
「その口実で、社長におごらせる、と」
と、ゆかりは笑った。「ね、何か飲もう」
「うん!」
浩志は、二人の気持ちをありがたく受けることにした。――この一週間、ほとんど安眠していない。
「少しは落ちついた?」
と、邦子が|訊《き》いた。
「少しね。まだアパートへ帰ると、何人かは週刊誌の記者が待ってるんだ。君たちの気分を少し味わったよ。――ま、克子の方へはほとんど行ってないようで、それは助かってるけどね」
あのゆかりの記事を語った、浩志の父親が|私刑《リンチ》を受けて重傷。――正に格好のネタである。
「お父さん、どう?」
浩志は苦笑して、
「どうもこうも……。僕と克子を恨んで、文句ばっかり言ってるようだ。病院の方でも、気をつかって、マスコミの人間はシャットアウトしてくれてる。西脇さんのおかげだよ」
「でも、変よね。恨むなら、国枝を恨めばいいのに」
と、ゆかりが言った。
「そこが、妙な心理だよな。散々勝手をしても、自分のしたことは忘れて、こっちを恩知らず、とののしってる」
と、浩志は肩をすくめた。
「お父さん、けがの方はどうなの?」
と、邦子がシェリーを飲みながら訊く。
「国枝もプロだな。散々痛めつけてはいるけど、内臓をやられたり、骨折させたりして、命を危うくさせるところまではやっていないんだ」
「じゃ、大宮さんのときよりはましね」
「ああ。そう長く入院していなくても大丈夫だろう。――その後のことを考えると、頭が痛いがね」
と、浩志はオレンジジュース。
しかし、浩志がホッとしているのは、父のことが、あれこれニュースにはなったものの、ゆかりへの影響が出なかったということ。
あの件は、黒木竜弘の決断で、すっかりけりがついてしまったのだ。
「黒木さんから、うちの社長さんに電話があったのよ」
と、ゆかりが言った。「今週から、具体的な宣伝会議があるから、一度出席してくれって。本人[#「本人」に傍点]が出ると、インパクトがあるんですって」
「そりゃそうよ」
と、邦子が言った。「反対する|奴《やつ》はいなくなる」
「楽しみだな、どんなポスターやCFができるか。――邦子も、映画のキャンペーンがあるんだろ?」
「最終的なタイトルが、やっと〈風の葬列〉に決まったの。プロダクションの方もホッとしてるわ。何しろタイトルなしじゃ、宣伝のしようもないしね」
「そうか。大当たりするといいな」
「ギャラは同じだけどね」
と、邦子は笑った。
「じゃ、食事を始めてもらうか?」
「もう少し待って」
と、ゆかりが言った。
「まだ|誰《だれ》か来るのかい?」
と、浩志が言ったとたん、
「あ、お兄さん」
と、克子が入って来た。
「何だ、お前も呼ばれてたのか」
「西脇さんから、この前のお礼ですって言われて……。たまにはこういうお店も悪くないわね」
「自分で払わなきゃな」
と、浩志が言ったので、みんな大笑いした。
「――あと一人」
と、邦子が言った。「あ、来たみたい」
「誰が?」
克子も面食らっている。そこへ、
「遅くなりました」
「――翔君!」
克子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「凄いなあ、美人がズラッと並んで」
翔が楽しげに言って、個室の中へ入って来ると、コートを脱いだ。
「ごめんね、黙ってて」
と、ゆかりが言った。「邦子と二人でね、話したの。この席に、男が浩志一人じゃ、|可哀《かわい》そうだって」
「でも……」
克子は、少し照れている。――翔の方は、何しろゆかりと邦子、二人のスターを前にして、少々舞い上がっていた。
「翔君」
と、克子は言った。「何かあなたやお父様の方に、迷惑はかかってない?」
翔は――ゆかりたちの方を見ていて、よく聞いていなかった。
「――え? あ……あの、そうですね、本当に」
と、あわてて言う。
「何よ! こっちの言うこと、聞きもしないで」
克子は真っ赤になって、プーッとふくれてしまった。「私がいない方がいいんじゃないの?」
「そんなことないですよ! ごめんなさい! この通りです」
と頭を下げるので、浩志は笑い出して、
「克子、無理言うなよ。この二人に気をとられるのが当たり前さ」
「お兄さんは黙ってて」
と、克子は言い返した。「これは私と翔君の問題なの」
「でも……そんな仲なんだ」
と、邦子が言った。「良かったね」
「そんな仲って……。別にどんな仲でもないわよ。ねえ」
「そうです……ね」
翔が、妙なところで言葉を切ったので、みんな大笑いした。
いい雰囲気だった。――父の事件以来、疲れ切っていた浩志も、救われたような気がした。
食事は、にぎやかだった。
何しろ、ゆかりと邦子の語る「芸能界裏話」だけでも、大いに盛り上がる。――もちろん、浩志は専ら聞き役になって、克子と翔の様子を時々眺めていた。
克子も、この若者にひかれている。
浩志は、克子の目に、今まであまり見たことのない輝きを見付けた。それは、あまりにも遅すぎたかもしれないが、克子にとっては、やっと訪れた「青春」の輝きなのかもしれなかった。
斉木という男との間がどうなったのか、気になってはいるが、それは浩志が口を出すことではないだろう。
ともかく今は――克子自身にとっても、意外なことなのかもしれなかったが――このいかにも世間知らずの坊っちゃんに、克子は恋し始めているのだ。
「ねえ」
と、ゆかりが言った。「克子ちゃん、いつごろ式を挙げるの?」
克子が真っ赤になって、
「突然、式を挙げるなんて言わないで!」
と、チラッと翔の方を見た。「まだ婚約したわけでもないのに」
「僕はいつだっていいんですけど」
と、翔の方は涼しい顔をしている。
「何言ってるの。あなたは学生でしょ」
と、克子は何とか立ち直った。「まず勉強よ」
「でも、婚約くらいいいんじゃない?」
と、ゆかりが言った。「ねえ、邦子」
「そうそう。――いやになりゃ取り消せるんだし」
と、邦子がとぼけた顔で言う。
「TVの録画予約じゃあるまいし」
と、ゆかりが笑った。「私、あれ絶対にできないの。TVに出てるくせしてね」
「そんなことより……。もういいんじゃない?」
「そうね。食事も、次はメインの料理か。この辺で?」
ゆかりと邦子が何を考えているのか……。浩志も見当がつかない。
「――克子ちゃん」
と、ゆかりが言った。「勝手なことして、ごめんなさい」
「え?」
邦子が、バッグから、何か小さな箱をとり出した。
「これ。――克子ちゃんにぴったりのはずなの」
|指《ゆび》|環《わ》。克子は、胸をつかれたように、絶句して、翔の方を見た。
「僕も知らない。本当ですよ!」
と、翔があわてて言った。
「これは、黒木さんの分」
ゆかりが、もう一つ、指環のケースをとり出して、テーブルに置く。
「同じデザインなの」
と、邦子が言った。「正式にどうっていうことじゃなくて、でも、何か[#「何か」に傍点]してあげたくてね。――浩志の月給じゃ、とても無理だろうから」
浩志は苦笑した。
「お兄さん……」
「お前が決めろ。受け取っていいかどうか。|俺《おれ》とは関係ない」
克子は、真剣な表情になって、翔と自分の前に置かれた、二つの指環のケースを見つめていたが……。やがて、手を伸ばして、翔の指環をとり出した。
「きれい……」
「小さな石よ。まだギャラ、安いから」
と、邦子が言った。
克子はじっとその石の輝きを見ていたが、やがて、翔の手をとると、その指に、静かに指環をはめてやった。
翔が|頬《ほお》を赤く染め、今度は、克子の指環をとり出した。
翔が克子の手をとろうとする。
克子は反射的に引っ込めかけたが、思い直したように、翔の手に、自分の左手を|委《ゆだ》ねた……。
翔が克子の指に指環をはめる。ぴったりと、克子の指にそれは合っていた。
「良かった!」
と、ゆかりが言って、「これで二人は恋人同士」
「黒木さん」
と、邦子が少し改まった口調で言った。「聞いて下さい。――克子さんのことは、あなたも色々聞いてるでしょ? 克子さんは、小さいころからずっと苦労して来たわ。色んなことがあったと思うの。でも、ゆかりのために、あんなに必死になってやってくれた。|誰《だれ》にもできないことだわ。もし、あなたが、克子さんのことを本当に好きなら、これまでの全部を含めて、好きになってあげて下さい。お願いします」
邦子が頭を下げる。
翔が、ゆっくりと肯いて、
「僕は、夢を見てるわけじゃありません。世間知らずで、頼りないかもしれないけど……。でも、父だって、色々なかったわけじゃないし。――ね、克子さん」
克子は、胸が一杯で何も言えない様子だった。
浩志は、立ち上がると、克子と翔の後ろへ立って、二人の手をとると、一つに重ね合わせた。
「お兄さん――」
「お前たちが、これからどうなるかは、神様だって分からない。そうだろ? しかし、ともかく今、この気持ちでいることを、大切にしろよ。ゆかりと邦子の思いやりだ」
「うん」
と、克子は肯いた。「――ありがとう」
翔の手が、しっかりと克子の手を握り、克子が握り返す。
「――名場面だ」
と、ゆかりが言った。
「ここでフェードアウト」
と、邦子が言って、みんなが笑った。
――食事は和やかに続いた。
「邦子、試写は?」
と、ゆかりが|訊《き》いた。
「うん。明日、|0《ゼロ》号の試写」
「楽しみだ」
「プレミアのとき、|招《よ》ぶからね」
「僕もぜひ」
と、翔が言った。
「ご心配なく。ちゃんとお二人でご招待いたします」
「邦子。タイトルは何番目?」
「そりゃ、大女優がいるからね」
「カットしちまえ」
TVのことでまだ腹を立てているゆかりが、そう言って、デザートのアイスクリームをスプーンで二つに割った。
「じゃ、ここで」
と、克子はタクシーを降りて言った。
「寄ってっちゃいけない?」
と、翔が訊く。
「だめ」
「分かりました」
と、翔は笑って、でも|嬉《うれ》しそうだった。「じゃ、おやすみなさい」
「おやすみ」
と、克子は言って、タクシーが走り去るのを見送った。
慣れない指環の感触。――冷たい風も、熱い頬には何の苦痛でもない。
こんなことって……こんな、「青春ドラマ」みたいなことって、あるのだろうか。
でも、考えてみれば、誰だって一度はこういう恋を経験するものなのかもしれない。克子の場合は、その順序が逆だったのだ。
克子はアパートの階段を上って行った。それほど遅い時間というわけではないが、やはり足音には気をつかう。
何といっても、この間の事件で、アパートの人たちは、克子がいるせいで迷惑をこうむらないかと気にしている。おとなしくしているに越したことはなかった。
ふと、克子は足を止めた。ドアの前に、コートを着た男が立っている。
一瞬、父がまたやって来たのかと思ったが、あのけがで、病院を出て来られるわけがない。では――もしかして、国枝の手下だろうか?
背を向けて立っていた男が、克子の方を振り向いた。
「斉木さん! あなた……どうしたの?」
「すまん」
斉木は、目を伏せた。「入れてくれないか、中へ」
「ええ……」
克子は、バッグからキーホルダーをとり出した。
部屋へ入ると、いつもの通り、ストーブに火を入れる。今日はすぐにコートを脱いだ。斉木も上がって来ると、コートを脱いで、部屋の中を見回した。
「よく片付いてるな。君らしいよ」
「寒いでしょ。何か熱いものでも……。お湯でとくスープがあるけど、結構おいしいわよ」
「ありがたいな」
斉木はあぐらをかいて座った。
「待ってね。すぐできるけど」
お湯を沸かし、モーニングカップにスープを作る。粉末とはいえ、味もそう|馬《ば》|鹿《か》にしたものではない。
「――私も飲むわ。顔、真っ青よ。ずいぶん待ってたの?」
「まあ……一時間くらいかな」
斉木は少し背中を丸めて、「ここを見付けるのに手間どってね。いつも送って来てるのに」
と、言った。
「さあ、スープ飲んで」
克子は、斉木がおいしそうに、熱いスープをすするのを見ていた。――何があったのだろう。
「このところ、連絡もしなくて悪かった」
と、斉木は言った。「色々、忙しくてね」
「仕方ないわよ。お仕事でしょ」
と、克子は言った。
「この間の事件、TVで見た。ここの前だったんだろ?」
「そう。――怖かったわ」
克子もゆっくりとスープを飲みながら、カップを両手で包んで、手をあたためた。
「大変だったね」
――少し、話がとぎれる。
「どうしたの、こんな時間に?」
と、克子は言った。
「うん……。このところ、女房の様子がどこかおかしくて。それもあって、君と会わないようにしてたんだが……」
突然、斉木の顔が|歪《ゆが》んだ。「あいつ……。女房に男がいたんだ!」
克子は、斉木南子の、あの冷ややかな笑いを思い出していた。何かのきっかけで、斉木は妻の恋人のことを知ったのだ。
「偶然のことでね」
と、斉木は言った。「今日、仕事で外を回っていたとき、たまたまタクシーが停まって、客を降ろしているところだった。そこへ駆けて行って乗ろうとしたんだが……。降りて来たのは、南子と、その男だったんだ」
「そう……」
「見付かっても、ちっとも悪びれる風もなくてね。――『この人が好きだから付き合ってるのよ。どこがいけないの?』と開き直るんだ。あいつ! 目を疑ったよ。あいつにあんな顔ができるなんて!」
斉木は息を荒くした。「しかも――帰ってから、娘を寝かして話をしようとしたんだが……。何て言ったと思う? 『離婚にはいつでも応じるわ』だとさ。ただし、娘は自分が引き取る、と言うから、怒鳴りつけてやった」
克子には、その場面の想像がつく。
「そうしたら、あいつ……。笑ったんだ! そして、『あなたに女がいるのに、どうして私に男がいていけないの』と言った……」
「知ってたのね、奥さん」
「そうなんだ。そして自分でも男と……。畜生! 僕はカッとなってあいつを殴った」
「斉木さん――」
「平手で軽くだ。痛くなんかないさ。あいつは、もっと笑った。もっと大きな声で、笑ったんだ……」
斉木が呻くような声で言った。
克子は、静かにカップを置いて、
「おしまいね、私たち」
と、言った。
「待ってくれ」
斉木が身をのり出すようにして、克子の手をつかんだ。
「だって――奥さんに知れた以上、続けてはいけないじゃないの」
と、克子は言った。
「僕は――あいつが許せない! そりゃ、僕だって君と浮気はしてたさ。しかしね、あいつには全く謝ろうって気持ちもないんだ」
斉木が怒りで熱するにつれ、克子の気持ちは冷えて行くようだった。
斉木は怒っている。それが、妻への愛から来る嫉妬なら、克子にも同情はできただろう。しかし、そうではない。斉木の怒りは、妻を他の男にとられたという怒り。プライドを傷つけられたことへの怒りなのだ。
それは本当のやさしさとは何の縁もないものだ。――克子は苦い失望を味わった。
「女房に娘をやってたまるか! 裁判にでも何にでもすりゃいい。絶対に娘はやらないぞ!」
斉木は、克子の方へにじり寄って来ると、抱き寄せようとした。克子は押し戻して、
「何するの! それどころじゃないでしょう」
「いいじゃないか。忘れたいんだ、何もかも。あんな女房のことなんか、忘れちまいたいんだ」
「斉木さん」
と、克子は言った。「奥さんをぶったって言ったわね。怒鳴ったとも」
「ああ……。それがどうかしたか?」
「娘さんは聞いてなかった?」
「何だって?」
「十歳にもなれば、両親の様子が、何となくおかしいってことぐらい、分かるものよ。本当にちゃんと眠ってたの?」
斉木は少し戸惑ったように、
「そんなこと……見てたわけじゃないからな」
「奥さんと|喧《けん》|嘩《か》するなら、娘さんのいないときにするべきよ。父親と母親がののしり合ってるのを見たら、子供は一生その光景を忘れないわよ」
「克子……」
「こんな所へ来て、どうするつもりだったの? あなたが謝るべきだわ。奥さんにも、娘さんにも」
斉木の表情がこわばる。
「本気か」
「そうよ。――あなたが言ったんでしょう。奥さんに知れたら終わりだって」
「それでいいのか」
「娘さんのことを第一に考えて。一番傷つかない道を選んでちょうだい」
「――分かった」
斉木は立ち上がると、コートをつかみ、「遊びだったんだな、君も。女なんか……下らん!」
足音も荒々しく、出て行く。
克子は、しばし部屋の真ん中にポツンと座って、動かなかった。――斉木との日々は何だったのか。虚しさが、冷たい空気のように、克子を包んでいた。
試写室
「おはようございます」
邦子の元気な声が、小さな試写室に響いた。
「やあ」
と、一番後ろの列に座っていた三神が|肯《うなず》いて見せる。
一番後ろといっても、そう何列も席があるわけではない。何しろ、せいぜい五十人くらいしか入らない試写室なのだ。
「監督、早いですね」
と、邦子は言った。「私、どこに座れば?」
「どこでもいいさ。スクリーンは小さいからね、一番前でも見にくくはないよ」
「はい。それじゃ……」
邦子は、マネージャーと二人で、一番前の列まで行って、バッグを席に置くと、三神の方へ戻って行った。
「他の人たちは?」
もちろん、いく人かのスタッフは席について、何やらおしゃべりしている。カメラマンや助監督、美術、メイク……。
実際、映画というものは、信じられないくらいに大勢の人々の力で作られているのである。
肝心の、神崎弥江子と沢田慎吾が現れていない。主役の二人が来なくては、試写は始められないだろう。
しかし、撮影のときと違って、三神は二人が遅れていることにも、大して苛立ちを見せなかった。
「監督、前の方で見ないんですか」
と、邦子が|訊《き》く。
「少し離れて見た方が、隅まで見えるんだ。それに、みんなの反応も分かるしね」
と、三神は言った。「どうせ、あちこち手直しはしなきゃいかん。――今日は観客の目で見なくちゃね」
「そうですね」
邦子も、珍しくソワソワしている。何といっても、初めて編集されたフィルムを見るのだ。
もっとも、今日のフィルムは|0《ゼロ》号といって、まだ音楽や効果音などがほとんど入っていないものだ。完成品とはいえないから、関係者以外は見に来ない。
むしろ、撮影時に気付かなかったミスとか、フィルムの色調とかをチェックするのが目的である。
三神の隣には、いつも三神と仕事をしているスクリプターの女性が、台本を手に控えている。上映しながら三神が気付いたことを、どんどん言って、それをスクリプターがメモするのだ。
邦子は、落ちつかない気分で、一番前の列に戻り、あまりクッションがいいとは言えない|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
目の前には、映画館のものと比べると大分小さなサイズのスクリーンが、白く四角い顔で、フィルムが回り始めるのを、待っていた。
邦子にしても、自分の顔をスクリーンで見るのは、今日が初めてというわけではない。
撮影中も、その日の内に、とったフィルムを映してみる。余計な人の影が入っていたり、通りかかった人がカメラの方を見てしまったりして、とり直さなくてはならないことがあるからだ。
これをラッシュと呼んでいる。そのラッシュのときには、邦子も自分の顔がスクリーンに大きく映し出されるのを見ている。
しかし、それは何といっても細切れのフィルムで、つなげられたシーンにはなっていない。――今日は、「自分の演技」に直面する日なのである。
「おはようございます」
と、聞き慣れた声がした。
神崎弥江子が入って来たのだ。
「やあ」
と、三神が顔を向けて、「沢田は? 一緒じゃなかったのか」
「沢田さん? いいえ、知りませんけど」
と、神崎弥江子は肩をすくめた。「来てないんですか」
「ああ。――困ったな」
と、三神が渋い顔をした。
「連絡してみましょうか」
と、助監督の一人が腰を浮かす。
「その内、来るわよ」
と、弥江子が言った。「始めちゃいましょうよ。どうせ見る機会は何回もあるんだから。ね、監督」
「そうだな。――じゃ、始めてくれ」
「はい」
と、返事があった。
弥江子は、邦子が立ち上がって、
「おはようございます」
と、頭を下げると、
「あら、ご苦労様。楽しみね」
と笑顔を見せ、三列目に腰をおろす。
試写室のあちこちで|囁《ささや》き声が起こった。
――弥江子と沢田慎吾の仲は、みんな知っている。しかし、今の弥江子の言い方は……。
振られたのか、あの二枚目。
みんなの目はそう語り合って、|肯《うなず》くのだった……。
「じゃ、始めます」
と、声がして、明かりが消えた。
|暗《くら》|闇《やみ》の中、邦子は、両手を胸の上に組んで、深呼吸した。カタカタと音がして、スクリーンに光と影の模様が点滅したと思うと、〈5〉〈4〉〈3〉と数字が出る。
そして――映画は始まった。
短いプロローグの後、タイトルが出る。
〈風の葬列〉。――美しい画面だ。
出演者のクレジット。〈神崎弥江子〉がやはりトップである。そして〈沢田慎吾〉。
何人かの助演クラスの名がクレジットされた後、主演と同じ扱いの一枚タイトルが出た。
〈原口邦子〉。その白い文字は、邦子の目にやきついた。
約二時間――正確には百八十分の|0《ゼロ》号試写フィルムの上映が終わった。
音楽が入っていないので、少し唐突な感じはするが、〈終〉の文字が出る。
三神は、最近の映面に〈終〉の文字の出ないものが多いので、怒っている。自分の映画には、きちんと入れているのだ。
スクリーンが白くなり、明かりが|点《つ》く。
ホッとした空気が、試写室の中に流れた。
「――|凄《すご》い」
|誰《だれ》かが言った。
と、それがきっかけだったかのように、拍手が起こった。
三神は立ち上がると、満足げに肯いて、
「原口君」
と言った。
「はい」
邦子は立ち上がった。
「良くやった」
もう一度拍手が起こった。前よりも、さらに力強く、大きな拍手だ。
邦子は何も言えなかった。無言で、深々と頭を下げる。――自分だけの力ではない。全スタッフあっての演技なのである。
「みんなご苦労さん」
と、三神はよく通る声で言った。「そう手直しする場所はないようだ。――初号が見られるのは、そう先じゃないと思う」
みんながゾロゾロと立ち上がって試写室を出て行く。
三神が、座ったままの神崎弥江子のそばへ来ると、
「貫禄だな。良かったよ」
と、肩を|叩《たた》いた。
「監督」
弥江子は、少し青ざめた顔で言った。「お世辞は監督らしくないわ」
「お世辞?」
「これはあの子[#「あの子」に傍点]の映画。――そうでしょ?」
もう邦子も他のスタッフに囲まれて、試写室を出ていた。
「そうかもしれん」
と、三神は肯いて、「しかし、ああいう子がエネルギーを注ぎ込んでくれているから、映画は死なずにすんでるのさ」
「分かってます」
弥江子は、じっと、今はただ白い布にすぎないスクリーンを見つめていた。「――私の時代は終わったのね」
「終わりは来ない。変化があるだけだ」
三神は、もう一度弥江子の肩に軽く手をかけて、「沢田の奴、とうとう来なかったか」
「見なくてもいいでしょ」
と、弥江子はちょっと笑って、「どうせ、誰も|憶《おぼ》えちゃいないわ。『あの二枚目役、誰だっけ、やってたの?』――そう言われるだけよ」
寂しさと苦々しい思いが、その言葉ににじんでいた……。
試写室を出たロビーでは、スタッフたちが何人かずつ集まって、話をしている。
「トップだな、今年の」
「決まりだね」
「新人賞も確実」
「総なめにするぜ、きっと」
あちこちから、そんな声が聞こえて来ると、邦子は何となく身のおきどころがない感じで、隅の方に立っていた。
フィルムというのは、何と不思議なものだろう。ロケのとき見た、何でもない風景、格別美しいとも見えない一本の坂道が、スクリーンの映像では、何と魅力ある場所に変身するか……。
自分自身もそうだ。
確かに、邦子も全力でこの役にとり組んだ。その点、必要以上に|謙《けん》|遜《そん》しようとは思わない。
しかし、その邦子を捉えるカメラの目、心の動きを伝える絶妙なカメラの移動、そしてフィルムのつなぎ。
それあってこその邦子の演技なのだ。
自分一人がやってのけたのではない。三神の下だからこそ、あそこまでやれたのだ。
「――どうだ、感想は」
と、三神がやって来て言った。
「自分じゃないみたいです」
「そうか。きれいにとったつもりだったが」
と、三神は笑った。「音楽がつくと、もっと変わって来る。しかし、土台がしっかりしてなきゃ、いくら頑張っても、いい家は建たない。君はよくやってる。自負してもいいよ」
「はい」
と、邦子は|頬《ほお》を染めて、「でも……ラストの所、もう少し何とかやれたような気がします」
「いつも、そう思うのさ。それでいい。次の機会にその反省が生きる」
「はい」
「今日は少しのんびりしよう。――どうだ、晩飯でも」
三神の目に、邦子は久しぶりにあの[#「あの」に傍点]輝きを見た。
「私……」
と、邦子は言いかけて、「知らせてあげたいんです。ゆかりと浩志に」
「そうか」
「すみません、勝手言って」
「いや、構わん」
と、三神は首を振った。「君は――あの石巻浩志を愛してるんだな」
邦子は、突然の言葉にうろたえた。
「そんな……。浩志は兄みたいな人です」
「君の情感の豊かさは、抑えて来た恋心のせいかもしれない」
と、三神は言った。「しかしね、恋しているなら、いつかはっきりそう言うべきだよ」
「はい」
と、邦子は肯いた。
「行きたまえ」
と、三神は邦子の肩を軽く|叩《たた》いた。「僕はスタッフと飲みに行く。これも監督の仕事の内だ」
「はい」
邦子は|微笑《ほほえ》んで、「お先に失礼します」
と一礼し、ロビーを歩いて行く。
しかし、ロビーから出る前に邦子の足は止まった。フラッとロビーへ入って来た男がいたのだ。
「沢田さん」
と、邦子は言った。
「やあ……。どうだったね、『スター君』」
と、沢田は舌足らずな声で言った。
ひどく酔っている。アルコールの匂いをまき散らしていた。
「自分のすばらしさに見とれたかい? それとも、この二枚目の大根ぶりを笑ってたか」
沢田はそう言って笑った。
「沢田君」
と、三神がやって来た。「どうして見に来なかったんだね」
「や、こりゃどうも……。世界の巨匠のお出ましですか。僕のことを憶えてて下さる? いや、ありがたい話ですなあ……。こんな取るに足らん役者を……」
沢田はトロンとした目つきで、足もともふらついていた。
「君もプロの役者なら、自分の仕事にプライドを持て。自分からプライドを捨てて、下手だの何だのと、聞き苦しいだけだ」
三神が冷ややかに言った。
「そりゃね……。僕はこの子のような天才じゃない。そうでしょ? 人にゃ、器ってもんがありましてね。しょせん僕は、大巨匠の映画に出る器じゃなかった、ってことですかね……」
沢田はフラフラとよろけて、ロビーに置かれたソファにドサッと身を沈めた。
「――勝手に自己嫌悪に陥っててくれ」
と、三神は肩をすくめた。「こっちは忙しい。君のグチに付き合ってる暇はないんだ」
「まあ、どうしたの」
と、神崎弥江子がやって来る。「こんなに酔っ払って!」
「やあ、大女優。スクリーンじゃどうだった? 夫婦に見えたかい、僕らは」
弥江子は、沢田を見下ろしていたが、
「監督。行って下さい、どうぞ。沢田さんのことは、私が見てます」
と、三神の方へ言った。
「分かった。頼むよ。――おい、時間のある者は、近くで飲もう」
三神が声をかける。
邦子だけでなく、他のスタッフの中にも、もう次の仕事にかかっている者もいるので、全員はついて行かない。
しかし、ともかくみんなゾロゾロとロビーを出て行き、弥江子と沢田の二人だけが残ったのだ。
ガランとしたロビーで、沢田と、少し離れて腰をおろした弥江子は、
「――何よ、見っともない」
と、顔をしかめた。「みんな私たちのことは知ってるのよ。こんなときぐらい、シャンとしてくれなきゃ」
弥江子がタバコを出して火を|点《つ》ける。
「――一本くれ」
と、沢田が言った。
弥江子は、火を点けた一本を沢田へ渡し、もう一本とり出したが……。
「どうかしたの?」
と、弥江子が訊いたのは、沢田の、タバコを持つ手が小刻みに震えていたからである……。
「――おしまいだ」
沢田が、絞り出すような声で言った。「もう、何もかもおしまいだ」
「何の話よ」
沢田はせかせかとタバコを|喫《す》って、灰皿にギュッと押し|潰《つぶ》した。そして、何度も深く呼吸すると、
「――警察が来た」
と、言った。
弥江子の顔から表情が消えた。
「――そう」
「あの日[#「あの日」に傍点]、どこにいたか、どこを車で通ったか、訊かれたよ」
沢田は神経質そうに両手をズボンにこすりつけていた。
「どうしてあなたの所へ?」
「分からない。――大方、|誰《だれ》かに見られてたんだろうな、あの近くで。誰もいないと思ったけど……」
「それで? 何て答えたの?」
と、弥江子は|訊《き》いた。
鋭い口調だった。
「何も」
と、沢田は肩をすくめる。「そんなこと、いちいち憶えてない、と言ったよ。その日はどこをどう通って帰りました、なんて答えられたら、却っておかしいだろ」
「そうね。――それで良かったと思うわ」
と、弥江子は言った。「で、警察は何て?」
「分からないな。一応納得したようにして、帰ってった」
と、沢田は首を振った。「でも――一旦目をつけられたら……。向こうがどの程度のことをつかんでるのか知らないけど、もしあの車を調べられたら……」
「車の方は、何もしてないのね」
「修理に出せば、すぐばれるだろ」
と、沢田は言って、ため息をついた。「なあ……。どうしたらいいと思う?」
「そうね」
弥江子は、考え込んでいた。
「――もちろん君の名前は出さない。どんなことになってもね。信じてくれ」
沢田は手を伸ばして、弥江子の手をつかんだ。
弥江子は、沢田に手を握られても、全く反応しなかった。
心はここにない、という感じである。
「弥江子……。信じないのか、僕を?」
「信じてるわよ、もちろん」
弥江子は、少し沢田の方へ身を寄せた。「でも――あの日、あなたの車を見た人がいるとしたら、当然、私のことも見ていたはずよ」
「うん……。だけど、君の所へは、|誰《だれ》も行ってないんだろ」
「裏付けをとってるのかも」
「じゃ……どうする?」
沢田は、すがりつくような目で、弥江子を見ていた。
弥江子は、ちょっと笑って、
「それで酔って来たの? |馬《ば》|鹿《か》ねえ」
と、沢田の髪をなでる。
「僕は君ほど度胸が良くないんだ」
弥江子は、立ち上がって、
「今日は車、どこなの?」
「家さ。酔っ払い運転で捕まるのはいやだからね」
「そう……」
正直、弥江子は沢田をまだ好いている。
しかし、だからといって、自分のスターとしての生命を賭けてまで、この気弱な男を守ってやる気はさらさらない。
「さ、どこかへ行きましょう」
と、沢田の腕をとる。
「どこへ?」
「二人になれる所よ。――行きたくないの?」
「いや行くよ、もちろん」
「しっかりして。歩ける?」
「大丈夫! 酔っちゃいないよ。そこまでひどく……」
弥江子は、考えていた。
この沢田は、今や「危険」をもたらす存在でしかない。
沢田が「ひき逃げ」の犯人と知れたら――。たぶん、沢田は弥江子の名前を出すだろう。弥江子には分かっていた。
沢田は|怯《おび》えている。たった一人で、罪を負う勇気は、この男にはない。
もし――このまま警察が沢田から目をはなせばともかく、事情聴取されて、何度もくり返し問い詰められたら、沢田はあっさりと認めてしまうだろう。
そして、弥江子と一緒だった、と白状する。
それで何もかも終わりだ。
たとえ、はねたとき運転していたのが沢田でも、被害者の少女を放って来たのだから、一緒にいた弥江子も、ただではすまない……。
二人のスター生命は、終わることになる。
いやだ! とんでもない!
弥江子は決心していた。何としても、沢田一人がやったことにしてしまうのだ。どんなことをしても……。
夜の闇に
病院の〈夜間出入口〉の前に、〈迎車〉の文字を明るく光らせたタクシーが|停《と》まっていた。
浩志は、チラッとそのタクシーへ目をやったが、大して気にも止めずに病院の中へと入って行った。
夜間受付の窓口に人の姿がない。珍しいことでもなかった。何といっても、夜の病院は忙しいのだ。
もちろん何度かやって来ているから、父の病室は分かっている。エレベーターで三階へ上ると、〈個室〉と書かれた矢印の方へと歩いて行った。
マスコミをしめ出すには、個室にしなくては他の患者の迷惑になる。そう高い方の個室ではないにしても、やはりその料金は普通のサラリーマンなどではとても払えないものである。
ここの費用は、ゆかりのプロダクション――いや、西脇個人のポケットマネーでまかなってもらっている。西脇にそんな義理はないのだし、申しわけないとは思っているが、浩志としても、それに甘えるしかなかったのだ。
父の病室の辺りに、看護婦と医師が立って、何やら話している。――どうしたのだろう?
「今晩は」
と、声をかけると、その中年の医師がホッとした様子で、
「石巻さん! いや、良かった」
と、歩み寄って来た。
「どうかしたんですか」
「実は、お父さんが、退院すると言い出しましてね。まだ完全に良くなったわけじゃないし、やめろと言ってるんですが」
と、困惑顔。
「父が、ですか」
浩志は面食らった。退院して、どこへ行くというのだろう。
「ええ。こんな時間にね、突然退院するなんて言い出されても……。話していただけませんか」
「分かりました」
浩志はため息をついた。――全く、どこまで手を焼かせるんだ!
しかし、浩志が入って行く前に、病室のドアが開いて――浩志は足を止めた。
「あら、浩志さん」
妻の法子だ。
「何してるんです」
と、浩志は言った。
「見舞いに来たの。いけないかしら? 妻が夫の見舞いに来ちゃ」
浩志に平手打ちされたことを、忘れているはずはない。その目には冷ややかな恨みの色があった。
「構いませんがね、別に……。あなたが父に退院をすすめたんですか?」
と、浩志は|訊《き》いた。
「本人にお訊きになったら?」
法子は人を|小《こ》|馬《ば》|鹿《か》にしたように、言った。
浩志が病室へ入って行くと、父はベッドに腰をおろしていた。
コートを着て、マフラーを首に巻いている。
「お前か」
と、浩志を見て、「|俺《おれ》は出て行く」
「そう」
浩志は肩をすくめた。「医者の話は聞いたんだね。まだ退院しない方が――」
「俺の体のことは、俺がよく知っとる」
と、父は遮った。
「じゃ、好きにしなよ。止めやしないさ」
と、浩志は|椅《い》|子《す》にかけた。「どこへ行くんだい? もう、国枝の所じゃ歓迎してくれないぜ」
父はフンと鼻を鳴らした。
「行く所がないと思ってるのか。――ちゃんと帰るんだ。自分の家へな」
浩志はチラッとドアの方へ目をやって、
「法子さんの所へ? 父さんを追い出したんだろ。そこへノコノコ帰ってくの」
「悪いことをした。帰って来てくれ、と頼みに来たんだ。――あいつも、|親《しん》|戚《せき》におどされてたのさ」
とても浩志にはそう思えなかったが、別に異議は唱えなかった。
「そりゃ良かったね」
と、浩志は言った。
「ああ。お前や克子とは違う。少しは恩ってものを知っとる|奴《やつ》だ」
父は胸を張って、「何といっても、俺は亭主なんだ。俺なしじゃやってけないことに、あいつも気付いたのさ」
――なるほど。
浩志にも合点がいった。要するに、父と法子は「共通の恨む相手」ができて、再び和解した、というわけだ。浩志と克子のことである。
父は、国枝にひどい目に遭わされたのを、浩志たちのせいだと思っているし、法子は人前で浩志からぶたれたことを恨んでいる。
浩志の悪口を言っていれば、互いの間の過去を忘れられるのか。――土地も家も取り上げられたことを、父はもう忘れてしまったのか。
いや、今の父には、自分を立ててくれる相手なら、悪魔だって何十年来の旧友と同じことなのだ。怖いものだ。永年、お世辞とお追従ばかりを聞かされて来た人間は、その中毒になって、「禁断症状」を呈して来るのだろう。
自分に同情してくれて、自分のグチを、
「そうそう。全くその通り」
と聞いてくれる相手なら、|誰《だれ》にでも飛びつくのだ。
そこには自分の過去への反省も、謙虚さのかけらもない。――もう何を言ってもむだだろう、と浩志は思った。
法子が、病室へ入って来た。
「タクシーが待ってるわ」
と、法子が言う。
「ああ……。行くか」
と、父が立ち上がって顔をしかめた。
まだ痛みは残っているはずだ。浩志は先に廊下へ出ると、待っていた医師へ、
「むだです。退院させて下さい」
と言った。
「そうですか」
医師はため息をついた。「しかし、この後何があっても、当方としては責任が負えませんね」
「もちろん、承知しています。でも、とても聞き入れる父じゃありませんから」
医師は|肯《うなず》いて、
「分かりました。――どこへ行かれるにしても、まだ当分治療は必要です。病院が決まったら連絡していただきたい」
「一応、伝えておきます」
と、浩志は言った。「迷惑をおかけして、申しわけありません」
病室から、父がゆっくりと出て来た。法子が、荷物をつめたバッグをさげている。
父は、医師に一言の礼も言わず、エレベーターの方へと歩いて行く。
浩志は、自分があんな男の息子であることを、恥ずかしいと思った。
この入院費用も、全部他人におんぶしているのだ。そんなことも、父にとっては何の意味もないことなのだろう。
浩志は、父たちが行ってしまうと、医師と看護婦にていねいに礼を言った。
一階へ下りて、公衆電話で西脇の自宅へかける。まだ事務所にいると聞いて、かけ直した。
「――西脇さんですか。石巻です」
「やあ、どうも。今日、ゆかりのポスターどりがありましてね。凄いスタッフでした。存分に金をかけて。何しろ、黒木竜弘、じきじきのお声がかりですからね」
「うまく行きましたか」
「ゆかりも興奮していました。大変な力の入れ方で。――いや、失礼、こっちばかり話して。何か……」
「父が退院しました」
と浩志は言って、事情を説明した。
「そうですか。大丈夫なのかな」
「何を言ってもむだですから。――西脇さんには、すっかりお世話になって」
「いやいや。ゆかりの成功のためです。しかし……苦労しますな、石巻さん」
「全く。これですんでくれるといいんですけど」
と言いながら、浩志は、あの法子が父にまた何を吹き込むか、気になっていた。
国枝には、もうこりて近付かないだろうが、これきり田舎へ引っ込んでいるかどうか……。
浩志は不安だった。
道端に立って、神崎弥江子は|苛《いら》|々《いら》しながら待っていた。
「もう……。何してるのかしら」
文句を言ってみたところで、相手が早く来るわけではない。それはよく分かっているのだが――。
夜中で、人通りが少ないとはいっても、全く人が歩いていないわけではない。チラッとでも見られたら、神崎弥江子であることにすぐ気付かれてしまうだろう。
スターというのは不便なものなのである。
風は冷たかったが、今の弥江子にその冷たさを感じている余裕はなかった。――自分の未来が、この一夜にかかっているのである。
何としてもうまくやってのけなくては。失敗するわけにはいかないのだ。
「あれかしら」
車のライトが近付いて来る。夜の暗い道では、ライトの光だけではどんな車やら見分けがつかない。そのライトが弥江子を捉えて、スッとスピードを落とした。
「――遅れてごめん」
と、運転席の窓から、沢田慎吾が顔を出した。
「もう三十分も立ちっ放しよ、この寒い中で。――乗せて」
「後ろへ乗れよ。その方が目立たない」
「そうね」
弥江子が後部座席に乗り込むと、車は走り出した。
「ちゃんと|素面《しらふ》で来た?」
「当たり前さ」
と、沢田は少しムッとしたように、「酒酔いなんかで捕まっちゃ、|馬《ば》|鹿《か》みたいだろ」
「それならいいわ」
弥江子は、沢田のピリピリした神経を鎮めるように、「何もかもすんだら、二人でホテルに行きましょ。予約してあるの」
と、|微笑《ほほえ》んだ。
「楽しみだね」
と、沢田は言ったが、言葉だけだ。
表情が固くこわばっているのが分かる。弥江子は沢田の肩に手をかけて、
「大丈夫。うまく行くわよ。心配しないで」
と、子供をなだめるように言った。
「この車、高かったんだぜ」
と、沢田も無理におどけて見せる。「ローンも終わってない」
「だからこそよ。まさか、自分[#「自分」に傍点]でこの車を壊すわけがない、と思うでしょ、みんな」
弥江子は道の前方へ目をやって、「あれを右よ」
「うん。――よく|憶《おぼ》えてるな」
「道の憶えはいい方なの」
と、弥江子は言った。「前にロケで使った場所よ。――そう。これをずっと|辿《たど》って行って」
道は上りになり、大きくカーブしながら、山を上って行く。
郊外へ出ると、ほとんどすれ違う車もなかった。
沢田も、山道なのでハンドルに神経を集中させ、|却《かえ》って落ち着いて来ているようだ。
「――もう少しだと思うわ」
と、弥江子が言った。「道のわきが少しふくらんで、夜景がきれいなの。アベックがよく車を停めて愛し合う場所よ」
「僕らもやるか」
「そんな|呑《のん》|気《き》なこと言って! よく見てよ。もし他の車にでも見られたら――」
「分かってる。冗談さ」
と、沢田は笑った。
「――警察からはその後、何も?」
「うん。言って来ない。気を付けて見てるけど、別に尾行されてる気配もない」
やがて道は山の一番高い辺りへさしかかった。弥江子はじっと前方へ目をこらし、
「もうすぐ……。スピード落としてね。――そう、そこ! 左へ寄せて」
タイヤが砂利をかむバチバチという音がして、沢田は車を|停《と》めた。
「――着いたか」
と、エンジンを切って、息をつく。
エンジン音が消えると、急に静寂に包まれる。
「外へ出てみましょ」
と、弥江子はドアを開けた。
山の高みだけに、風は一段と冷たい。しかし、確かに見下ろす町の灯はなかなかきれいでロマンチックな眺めだった。
「悪くないね」
と、沢田もコートをはおって降りて来る。
弥江子は、じっと腕組みしていたが、
「――のんびりしちゃいられないわ」
と言った。
「うん……。本当に大丈夫かな。却って怪しまれない?」
「怪しいと思ったって、証拠の車がめちゃくちゃに壊れてれば、立証は不可能。こっちは知らないって突っぱねればいいのよ」
「君とのことはばれる」
「それがいいカムフラージュになるわ。二人の関係が知れて、マスコミの前で恐縮してればいいわけでしょ。ひき逃げで捕まるより、ずっと楽だわ」
「うん……。でも、どう説明する?」
「サイドブレーキが甘かった。車を出てる間に動き出して――。だからあっちの、少し傾斜のある方へ向けておくのよ。車がガードレールを突き破って、落ちちゃった。停める間もなかった、って……」
「この下は?」
「|崖《がけ》。――大丈夫。下に家や道はないわ。相当の高さで落ち込んでるから、ぐしゃぐしゃに|潰《つぶ》れるわよ」
「燃えるかな」
「アクション映画じゃないからね。そう簡単には燃えないでしょうけど。でも、人をはねた傷なんか、見分けがつかなくなるわ」
と、弥江子は確信のある口調で言った。
沢田慎吾は、ためらいを振り切るように、大きく腕を振り回して、
「よし、やるか!」
と声を上げた。「まず車を……。どの辺まで持ってく?」
「勢いをつけないと、ガードレールで停まっちゃうかもしれないわ」
弥江子は歩いて行って、「――この辺でどう? そっちの方へ、ゆるい傾斜になってるでしょ」
沢田もその位置へ行って、しゃがんでみる。
「うん。――ハンドルを取られると、変な風にカーブするかもしれないけどな」
「短い距離よ。ともかくやってみましょ」
「ガードレールを突破できるかな」
と、沢田は不安げである。
「ガードレールっていっても、ここのはチャチなもんよ。それに、ずっとつながってなくて、間が空いてるでしょ。ロケのときは、あそこから斜面に少し降りてカメラマン、大変だったんだから」
「ローアングルの巨匠のときか」
「そうそう」
二人はちょっと笑った。――それが合図だったように、
「よし、やろう」
と、沢田は車へ乗り込んだ。
車を一旦バックさせ、弥江子の立っている辺りまで動かす。
「もう少し左へ。――そう。|崖《がけ》の方へ向けて。タイヤは真っ直ぐにね」
「分かってる」
何度かハンドルを切り返し、細かく前進と後退をくり返して、ともかく、車はほぼ直進すれば崖から転落するだろうという位置に落ちついた。
「――これでいいか」
「そうね」
弥江子は、車のすぐわきに立って、前方を見つめた。「――いい方向じゃない?」
沢田がちょっと笑って、
「監督みたいだぜ、そうしてると」
「私が監督。あなたはスタントマンね、さしずめ」
「後はブレーキを外して……。外へ出て押すか」
「動き出せば、後は重さで加速するわ。ともかく、やってみましょう」
「うん」
沢田は、ドアを開けた。「開けとかないとね。一緒に落っこっちまっちゃかなわないからな」
緊張して、青ざめている。
「もう少しよ」
弥江子は沢田を励ますように言った。
そして、弥江子は少し後ろへ退がると、手にしていたバッグを開け、中から鉄のスパナを取り出した。そのために大きめのバッグを持って来たのだ。
鉄の塊の重味が、ずっしりと手に感じられる。
弥江子はさして緊張していなかった。まるで映画のワンシーンのような気がしていたのである。
スパナを握りしめた右手を、背中へ隠して、
「ちゃんと、中を見た?」
と、沢田に言った。
「うん?」
沢田はドアを開けて外へ出ると、中へ上半身を入れて、サイドブレーキを外そうとしていた。
「――ね、そこ。ブレーキペダルの上に、何か落ちてない?」
沢田の肩越しに|覗《のぞ》き込むようにして、弥江子は言った。
「どこ?」
「その下。――そう、その辺」
「何もないぜ」
「そう。じゃ、いいの」
「ブレーキを外すぞ。どいてた方がいい」
「ええ」
弥江子は、スパナをゆっくりと振り上げた。
ガタッと音がして、ブレーキが外れる。
「よし」
沢田が体を起こした。その後頭部が目の前にある。弥江子は、力をこめて、スパナを振り下ろした。
沢田が少し振り向きかけていたので、スパナは頭のわきを一撃した。
「ワッ!」
と声を上げ、沢田は両手で頭を押さえた。
よろける沢田を、弥江子は車の中へと突き飛ばした。沢田の体が、車の運転席へ倒れ込む。
車が、ゆっくりと動き始めていた。――行け! 早く!
沢田が|呻《うめ》いている。もがいて、起き上がろうとする。車は徐々に速度を増して、崖へと真っ直ぐに向かって行った。
そうよ……。そのまま突っ込んで! さあ! もっと――もっと速く!
車がガタンと揺れながら、ガードレールへ突っ込んで行く。沢田の足が、車の開け放したドアから飛び出している。
車がガードレールにぶつかった。ライトのガラスが砕けて散るのが見えた。車体が横向きに滑って――その重味を、レールは支え切れなかった。
キーッと鋭い金属音がして、同時に張ってあるワイヤーが切れた。沢田の車は、持ち主を乗せたまま、ふっと崖の向こうへ消えた。
弥江子は崖へと駆け寄った。
車がクルクルと横転しながら落ちて行くのが、暗がりの中で見える。そして車は|闇《やみ》へ吸い込まれるように消えて――少し後に、激しい衝突音、火花の飛ぶのがチラッと見えた。
そして、後は何ごともなかったように、静かになった……。
緊急連絡
「邦子ちゃん、大丈夫?」
マネージャーに声をかけられて、|椅《い》|子《す》でウトウトしていた邦子は、フッと目を開いた。
「あ、もう?」
「ううん、あと二十分ぐらいあるけど。寝起きの顔じゃ、TVで分かるわよ」
「そうね。――大丈夫。五分前にはシャキッとしてる」
邦子はウーンと伸びをして、「ね、やっぱり何かアクセサリー、ほしいな。胸もとが寂しい」
「そうね……。なくてもいいとは思うけど。じゃ、何か捜して来るわ」
「お願い。あ、それとコーヒーをね」
――邦子は、TV局の一室で、出を待っているところだった。
不思議なもので、映画の撮影なら、どんなに早朝のロケでもパッと体が目覚めるのだが、こうしてTVの「モーニングショー」に出る、なんてときには、なかなか起きられない。
もともと、そう朝に強い方ではないから、いつもなら、こんな番組に出ることはないのだが、今度は何といっても自分の映画の宣伝をかねての出演。これを断るわけにはいかない。
三神は、そういう点、マスコミ嫌いで知られているから、めったに顔を出さない。しかし、いずれにしても、今回の「目玉」は邦子なのである。
「――はい、コーヒー」
と、マネージャーがカップを手に入って来る。
「ありがとう」
マネージャーというのも大変な仕事だ。
ありそうもない物でも、スターが、
「ほしい」
と言えば、どこからか見付けて来る。
「これ、どう? 少し大きいけど、ちょうど画面に入るでしょ」
と、ブローチをつけてくれる。
「うん。悪くないね。――どこで見付けたの?」
「今、廊下ですれ違った子役の子がつけてたの。貸してって頼んで。後で返しとかないとね」
邦子はちょっと笑った。
コーヒーを飲んで、頭をすっきりさせる。
セリフだって、スラスラ|憶《おぼ》えてしまえる邦子である。こういうショーの段どりくらいは一度聞けば頭に入ってしまう。
しかし、インタビューでどう答えるかは、シナリオにあるわけではないから、自分で考えて話さなくてはならない。
日本の芸能界では、タレントも役者も、あまりはっきり自分の考えを述べると、
「|可愛《かわい》くない」
と思われてしまう風潮がある。
邦子は、そんな空気にいつも反発を覚えていた。
「お願いします」
と、番組のADが顔を出す。
「はい」
邦子は、もう一度鏡で自分の顔をチェックする。
いくらかはれぼったい目をしているが、まあ、他の人は気付くまい。――生番組なので、いくらか緊張する。
「NGでとり直し!」ってわけにはいかないのである。
スタジオへ入って行くと、本番前のあわただしい空気が|漲《みなぎ》っていた。
映画の世界は、TVにくらべるとのんびりしている。ロケのとき、一番大変なのは、「天気待ち」――つまり、日が|射《さ》してくるのを、気長に待っている間、どうやって時間を|潰《つぶ》すかということだ。
その点、時間に合わせて動くことが第一のTVは、全く別の世界だった。
「原口邦子です」
と、司会の女性アナに|挨《あい》|拶《さつ》する。
「あ、どうも。――朝から大変ね」
いかにも、キャリアウーマンというイメージのスーツ姿。確か子供が二人いて、よく週刊誌などにも顔を出している人だ。
「映画の話が中心になるけど、まるきり宣伝になっても困るのね。だから、一応、あなた自身を紹介するという形で始めて、それから映画の話題に」
「分かりました」
「話の展開はキャスターがリードしてくれるから。答えは短くていいの。映画の話になったら、ここぞ、とばかりしゃべっていいからね」
「はい」
と、邦子は笑った。
生番組にあまり慣れていない邦子に気をつかって、緊張をほぐしてくれようとしているらしい。その心づかいは、ありがたかった。
「カメラテスト」
という声が入った。
「じゃ、こっちへ来て」
と、案内され、「足下、コードに足引っかけないでね」
「はい」
カメラがあちこち動き回るので、長くて太いコードが床を|這《は》い回っている。
少し高くなった台の上に上り、しつらえられた席に腰をおろす。
|椅《い》|子《す》がギイギイ鳴った。
「音がするわね。――ちょっと! 椅子、替えて!」
と、女性アナが指示すると、ADが飛んで来た。
「ライト、まぶしい?」
「いえ、大丈夫です」
代わりの椅子に腰をおろして、邦子は、大きく息をついた。
何度も台本を見直し、段どりのチェックをする。
キャスターの男性は、いつもTVの画面でニコニコしているが、スタジオでは、ニコリともしない。
こんなものなのだろう。――邦子は、こんなときでも、人間を観察している自分に気付いた。役者のくせというものか。
「じゃ、君、生年月日とか、データはもらってるけどね」
と、キャスターが言った。
「私、ちゃんとやります」
と、女性アナが言った。
「頼むよ」
キャスターは、「ネクタイ、曲がってないか?」
と、自分のスタイリストを呼んで、直させている。
女性アナは、ちょっと笑って、
「いつも気にして大変なの。強迫観念ね」
「見かけによりませんね」
「そう。でも、あなた、すばらしいわね。私、この間、試写を|覗《のぞ》いたの」
「ありがとうございます」
「巨匠には内緒よ。もちろん、こっちは何も見てないって前提で話をするから」
「はい」
「映画の公開予定とか、言えるわね」
「はい」
「じゃ、結構。――あと五分でスタート。あなたの出番は十五分くらいたってから」
「分かりました」
本番に向けて、緊張が高まる。
邦子も、少し映画の現場を思い出して、快感を覚えた。
「ヨーイ、スタート!」
の声はない。
ディレクターがキュー(合図)を出す。そこから、番組がスタートである。あと三分。
「ちょっと! このネクタイ、だめだ!」
と、キャスターがスタイリストを呼びつける。
「しめにくくてしょうがない。こんなものよこすなよ。そのブルーのでいい」
パッとむしりとって、新しいのをしめる。
どう見ても前の方がいい。しかし、これも気分の問題なのだろう。
ぎりぎりできちんとネクタイをしめ、息をつく。邦子は、そのキャスターの|膝《ひざ》が細かく揺れているのを見ていた。
番組が始まる。
「おはようございます」
パッと、みごとに|笑《え》|顔《がお》が出て来る。邦子は感心した。これも「演技力」の一つかもしれない。
「――今日のお客様は、三神憲二監督の新作『風の葬列』で映画デビューされる、原口邦子さんです」
邦子を捉えたカメラに赤いランプがつく。レンズに向かって、邦子は笑顔で頭を下げた。
番組は無事に進んで、邦子も大分落ちついて来た。
十五分後の出番。――ピッタリに、キャスターと女性アナが移動して、インタビューが始まった。
ありきたりの問いから始まって、邦子のキャリアの説明が続く。そして、今度の映画について、という順序。
「――映画は初出演ということですが、大ベテランと共演して、いかがですか」
「勉強になったことも沢山あります」
と、邦子は言った。「でも、自分なりのお芝居も、少しはやれたと思っています。三神監督のおかげですけど」
「監督も絶賛してらっしゃるようですね」
「はあ……」
――何だか、|馬《ば》|鹿《か》らしくなるようなやりとりである。
しかし、こういう「決まり文句」のやりとりも、TVの仕事の一つなのだろう。
「ところで」
と、キャスターが言った。「安土ゆかりちゃんとは、幼なじみだそうですね」
「中学時代からです」
「ライバル同士、と言われてますが、どうですか」
「目指しているものが違いますし」
と、邦子は淡々と言った。「それに仲がいいので、会えば昔の通りです」
「そうですか」
キャスターは、映画の説明に入った。モニターTVに、「風の葬列」のいくつかのカットが出ている。
邦子は退屈していた。生放送といっても、三神の映画の本番の緊張には、比べるべくもない。
すると――ADの一人が、何かひどくあわてた様子で、メモを持って来た。キャスターがそのメモを見て、目を丸くする。そして女性アナの方へ、
「君、続き、頼む」
と、小声で言うと、駆け出して行く。
「――何かしら?」
と、女性アナは首をかしげる。
カメラが、また邦子を捉える。
「じゃ、替わって私の方からの質問ですけど、邦子ちゃんは、いつごろから女優を志したんですか?」
「そうですね……。小さいころから、舞台に立つのは好きで――」
話しながら、邦子の目は、あわてて元の席へ戻るキャスターを見ていた。
何か、よほどのことがあったのだろう。
「途中ですが、邦子ちゃん、ごめんなさい」
と、キャスターが言った。「今、ニュースが入ったんです。あなたとも関係のあることで」
邦子は不安になって、|眉《まゆ》をくもらせた。
どうやら、あまりいいニュースではなさそうだ。
邦子の頭に真っ先に浮かんだのは、ゆかりの身に何か起こったのかもしれない、ということだった。あの国枝というヤクザとの間は、当然まだもめているはずだ。
邦子は自分の出番が途中で打ち切られたことなど、何とも思わなかった。
緊張して、ニュース原稿に目を落とすキャスターの方を見ていた。
「――たった今入ったニュースです」
キャスターの声も少し上ずっている。「俳優の沢田慎吾さんの運転する乗用車が、N市郊外の山道で誤って|崖《がけ》から転落しました」
スタジオ内がざわつく。
しかし、とりあえず邦子はホッとした(といっては申しわけないが)。「邦子にも関係がある」と言われたので、何ごとかと思ったのだ。
キャスターは、「風の葬列」の中で共演している、という意味でそう言ったのだろう。もちろん邦子にとっても、驚きではあったが、沢田と親しかったわけでも何でもない。
「――車は崖の下、かなり深い谷の間に落ちており、今のところ救助の手の届かない状態ということで、乗っている沢田さんの安否が気づかわれています」
と、キャスターが続ける。
でも、と邦子は思った。どうして沢田が乗った車だと分かったのだろう? 当然、|誰《だれ》か同行していた人間がいるということになる。
「――なお、沢田さんは、女優の神崎弥江子さんとドライブをしている途中だったとのことで――」
神崎弥江子の名が出て、邦子も一瞬ドキッとした。もちろんあり得ることだ。
「たまたま神崎さんは車を出ており、その間に、停めてあった車のブレーキが外れ、沢田さんを乗せたまま、崖から落ちたらしいということです。神崎さんは、現在近くの警察で、事情を話しているとのことですが……。偶然ではありますが、今日のゲスト、原口邦子ちゃんの出演している『風の葬列』にも、沢田さん、神崎さんは出演されているわけで……」
神崎弥江子が一緒で――。しかし、どうしてそんな所へ行ったんだろう? 邦子に分かるはずもなかったが。
「沢田さん、無事だといいんですが……。ここでコマーシャルです」
どんな大事件も、スポンサーには勝てないのである。
キャスターが立って邦子の方へやってくる。
「やあ、ごめんね、あんなことで」
「いいえ」
と、邦子は首を振った。
女性アナは、邦子に気をつかって、
「あれじゃ失礼よ。後で少し入れましょう」
と、キャスターに言った。
「うん……。しかし、次のコーナーはいつも時間が足りなくなるんだぜ」
キャスターは気が進まないようだ。
「ともかく、『今日はありがとうございました』も言わないで終わりってわけにはいかないわ」
邦子は、その女性アナが、「|可哀《かわい》そう」とか、「気の毒」とかでなく、「失礼よ」と言ってくれたことが|嬉《うれ》しかった。
邦子を一人前の「女優」と見てくれているからだろう。
「うん、それはそうだな」
と、キャスターも女性アナの言葉に肯いた。
どうやら、「形式」にこだわるタイプらしい。――人間というのは面白いものだ。
「でも、沢田さん、助かるといいですね」
と、邦子は言った。
「うん。――ま、今のところ入ってる情報だと、とても助かるとは思えないってことだ」
「神崎さんは、別にけがもないんですか」
「そうらしい。興奮してて、とても取材に応じられる状態じゃない、ということだ」
キャスターは首を振って、「まあ、あの二人のことは、誰でも知ってたけどね」
「もう席に戻って」
と、女性アナが言った。
「おっと、そうだな」
「じゃ、邦子ちゃんに、今後の仕事の予定と、抱負みたいなことを訊いて、終わりにするから」
「分かった。じゃ、こっちへ振るよ」
と、キャスターは肯いて、「事故のことは出さない方がいいな」
「そうよ。まだ、どうなってるかもはっきりしない内に」
キャスターが定位置に戻り、再び番組に戻る。
「――失礼しました」
と、女性アナが口を切って、「で、邦子ちゃん、これからの仕事の予定とか、分かっている範囲で結構ですけど――」
自分のPRは、邦子にとって苦手なことの一つである。
スターがこんなことじゃ仕方ないと思うけれど、性格というものだ。
とりあえず、映画の公開までは、いくつかTVの仕事。そして舞台やTVドラマの話もいくつかあるが、決定ではない。
「でも」
と、女性アナが暖かい|笑《え》|顔《がお》を見せて言った。「この映画が公開されたら、きっと出演依頼がドッと押し寄せますね」
邦子も|微笑《ほほえ》んで、
「そうなってくれるといいと思います」
と、答えていた。
絶 望
邦子は、TVの出演を終えても、それで終わりというわけにはいかなかった。
映画の配給元や、プロダクションの方は、ここぞとばかり邦子と新作のPRに力を入れていて、今日だけで、雑誌のインタビューが三件入っていた。
車で移動している途中、車内の電話が鳴った。マネージャーが取って、
「はい、お待ち下さい。――邦子ちゃん。西脇さん」
「私に?――はい、原口です」
「やあ。ニュース、聞いてね。大変なことだね」
「ええ。助かるといいんですけど」
「ゆかりがね、大女優も一緒に落っこっちゃえば良かったのに、と言ってた」
「そんな……」
と、邦子は苦笑した。
「今入った情報だと、神崎弥江子はこっちへ向かってるらしい。夕方には記者会見を開くそうだよ。一応知らせてあげようと思ってね」
西脇の心づかいが、邦子には|嬉《うれ》しかった。
「ありがとうございます。私、今日は一日インタビューとグラビア撮影で」
「頑張って。さっきのTVの生番組、見たよ。輝いてた。ゆかりが見たがると思ったんで、ビデオにとっておいたよ」
「よろしく言って下さい」
「ここが勝負どころだ。しっかり!」
「はい」
電話を切って、邦子は、息をついた。
ゆかりと違って、インタビューとかグラビアの撮影には不慣れな邦子である。西脇の励ましは嬉しかった。
「――でも、もし沢田さんが助からなかったら、いやね」
と、邦子は言った。「せっかくの映画なのに……」
「仕方ないわよ。そんなことだってあるわ」
と、マネージャーが言った。「撮影中の事故とかいうんだと、問題になるかもしれないけどね」
「うん……」
邦子は、理由はよく分からなかったが、|漠《ばく》|然《ぜん》とした不安に捉えられていた。
もちろん――もちろん、何でもないことなのだ。そうだとも。
邦子は、これからのインタビューのことを考えるようにした。
車の中で、疲れ切って、神崎弥江子は眠っていた。
疲労は、|嘘《うそ》でも何でもない。通りかかった車に拾ってもらい、警察で事情を聞かれて……。
結局、一睡もしなかったのだ。しかし、何といっても、弥江子はどこでも有名である。警察の方でも、ずいぶん気をつかってくれていた。
「もうすぐ着きます」
と、運転している事務所の男性が言った。
弥江子はハッと目を覚ました。
「もう?」
と、窓外を見る。「――どの辺?」
「ホテルへ直行でいいですか? 途中、マンションに寄ります?」
弥江子は、少し考えて、
「真っ直ぐホテルへ行って」
と言った。「このまま会見だけやってしまうわ。それから、ゆっくり休む」
「分かりました」
車は都心の混雑の中を、ノロノロと進んでいた。弥江子にはありがたい。少しでも時間がほしかった。
今の、この疲れ切った様子で会見した方がリアリティーがあるだろう。
警察では、弥江子の話を全く疑っている様子はなかった。弥江子も「女優」である。その辺は抜かりなく、沢田の死を悲しんで見せたのだ。
いや、死体は見付かっていないが、ともかく車まで救助隊が行きつけない状態である。まず、沢田が生きているとは思えない。
もちろん会見の席では、
「生きていてほしい」
と発言しなくてはいけないし、涙も流して見せることになるだろう。
|可哀《かわい》そうに、と思わないでもない。だが、もともと沢田が女の子をはねて死なせたのだ。沢田は命をもってそれを償った、というべきだろう。
弥江子はそれに手を貸した。――それだけのことだ。
無理な理屈と分かっていても、弥江子はそうして自分を納得させているのだった。
「ホテルの入り口はきっと大勢待ってると思いますよ」
と、事務所の男が言った。「どうします? 駐車場からでも入りますか」
「いいわよ。同じこと」
大分、頭もスッキリして来ていた。この分なら、うまくやれるだろう。
車がホテルの正面玄関へ近付くと、報道陣がひしめき合っているのが目に入った。
ふっと、つい|笑《え》みがこぼれて、弥江子はあわてて顔を引き締めた。――悲劇のヒロインを演じるのだ。
役柄を忘れてはいけない。
車が|停《と》まると、ドッと人が押し寄せて来る。
ドアを開けて外へ出ると、カメラのフラッシュが続けざまに光った。
「神崎さん! 今のお気持ちを!」
「沢田さんとはどれくらい――」
事務所の人間が何人かで弥江子を囲んで、
「会見の席でお願いします!」
と怒鳴りつつ、人垣を分けて行く。
弥江子は、乱れた髪をそのままに、ホテルの中へと入って行った。
「――少し休みますか」
と、マネージャーが言った。
「いいえ」
と、弥江子は首を振った。「やってしまいましょ。いくら待っても、同じこと」
「分かりました」
と、マネージャーは|肯《うなず》いて、「全体に好意的ですから。そうひどい質問は出ないと思いますよ」
「そう願いたいわね」
マネージャーが出て行くと、弥江子は、小さな控室で、一人、タバコに火を|点《つ》け、ゆっくりと煙を吸い込んだ。
記者会見が待っている。
TVは、どんな小さな表情も映し出してしまう。用心しなくては。
スターは、カメラの列を前にすると、つい|微笑《ほほえ》んでしまうくせがある。今度ばかりはそれは禁物である。
あの「事故」を警察が疑わないようにしなくては。――もし、女の子をはねた件で、沢田が疑われていたとしたら、その時点での車の転落というのは、タイミングが良すぎるかもしれない。
しかし、そのことに関しても、弥江子は抜け道を考えていた。
沢田が「自ら死を選んだ」という可能性である。
その可能性を、話の中に残しておくようにしよう。――弥江子はあれこれ考え抜いていた。
「――じゃ、始めていいですか?」
と、マネージャーが顔を出す。
「ええ」
弥江子は、タバコを灰皿に押し|潰《つぶ》して、立ち上がった。
――会見の席は、記者やカメラマンで|溢《あふ》れんばかりだった。
皮肉なものだ。ここ何年も、これほど自分の記者会見に人が集まったことはなかっただろう。
席につくと、たちまちフラッシュがたて続けに光った。
弥江子は、とりあえず、事故のいきさつについて、自分から話をした。落ちついて見えるが、内心はかなり動揺しているという印象を与えることに成功したと言っていいだろう。
ときどき、つっかえたり、言い直したりするのも、わざとらしくなく、うまくできた。
「――沢田さんが何か悩んでいるらしい様子だったので、じっくり話をしようと思って……」
と、弥江子は言った。「その場で車を降りたんです……。あんなことになるなんて」
「それは、沢田さんが自分で車を|崖《がけ》から落っことしたということですか?」
と、質問が来た。
「そんなはずはないと思いますけど……」
と、弥江子は|曖《あい》|昧《まい》に答えた。
事故の話が一応終わると、様々な質問が飛び交った。
「待って下さい! お一人ずつ!」
と、事務所の人間が汗をかいている。
しかし、質問の大半は、沢田との関係についてだった。
もちろん、二人の仲はある程度|噂《うわさ》になっていたし、今さら、という感じでもあったから、弥江子も事実をしゃべることができた。
「――沢田さんの捜索はまだ続いてるわけですか」
「今、地元の警察が、必死で車まで行き着こうとしているところです」
と、事務所の人間が言った。
「助かってくれたら……」
と、弥江子は言って、ハラリと涙をこぼした。
その涙は、決して演技ではない。沢田の死を悲しんでいるわけではないのだが、こういう席では、ごく自然に感情が|昂《たかぶ》って来て、涙が出て来る。
「――何か他にご質問がありましたら」
と、事務所の人間が言った。「本人も大変疲れておりますので、休ませたいと思いますが」
記者たちも、そう言われると何となくそれ以上|訊《き》きにくい様子だった。何といっても、神崎弥江子は大スターである。ポッと出の新人とはわけが違うのだ。
「じゃ、よろしいですね」
と、事務所の人間が言った。
ザワザワとカメラマンが退出しかける。
弥江子は、|椅《い》|子《す》にかけたまま、気が抜けたようで、ホッと息をついた。
やってのけた。――うまくやれたのだ。
もちろん、これで何もかも終わりというわけではない。警察の事情聴取もあるだろう。しかし、ともかく今日のところは――。
そのときだった。事務所の若い社員が、弥江子のマネージャーの所へ駆けて来た。そして何か話をする。
マネージャーがあわててマイクをつかんだ。
「ちょっと――ちょっとお待ち下さい!」
と、上ずった声で、「今、警察の方から連絡が入りました」
帰りかけた記者たちが足を止める。弥江子は顔を向けた。
「――今しがた、沢田慎吾さんが発見されたそうです!」
と、マネージャーが興奮気味に言った。「沢田さんは生きています!」
記者たちがワッと前の方へ詰めかける。
「車から投げ出されて、|崖《がけ》の途中に引っかかっていたそうです。かなりひどいけがで、骨折もしているようですが、命はとりとめるということで、今、病院へ運ばれる途中とのことです!」
――弥江子は、周囲の世界が、|闇《やみ》の中へ沈んで行くような気がしていた。
記者会見の席からどうやって出て来たものか、弥江子は全く|憶《おぼ》えていなかった。
気が付くと、車の中で……マネージャーが運転する車は、もう弥江子のマンションの近くまで来ていた。
「――気分、どうです?」
と、マネージャーが、車が赤信号で|停《と》まっている間に振り向いた。
「え?」
弥江子は、目が覚めているのかどうか、自分でもよく分からない状態だった。これは夢の中なのだろうか?
「大分顔色、戻ってますね。ゆっくり寝て下さい。差し当たり、TVの仕事はキャンセルしときましたから」
「そう……」
弥江子は、ぼんやりと窓の外を眺めた。
歩道を行く人々。――あのほとんどは、神崎弥江子の顔と名前ぐらいは知っているはずだ。でも……もう、それもあと何日かのことで……。
「女優、神崎弥江子」は、人々の頭から消えてしまう。後には「殺人未遂を犯した、|馬《ば》|鹿《か》な女」の哀れな姿が、ほんのしばらく、残るだけだ。
――あのとき、車のドアから沢田の足が出たままだった。車が崖から落ちたとき、沢田の体は外へ投げ出されたのだろう。
――NG[#「NG」に傍点]。やり直しのきかないNGだ。
弥江子は笑い出していた。
車をスタートさせながら、マネージャーがびっくりして、
「大丈夫ですか?」
と、チラッと振り向く。
「大丈夫。――事故起こすわよ、ちゃんと前を見て」
「はい」
そう。事故なんか起こしちゃだめよ。
ほんの一瞬の気の緩みが、とんでもないことをひき起こすんだから。
もし――もし、沢田があの女の子をはねていなかったら……。私だって、何もしないですんだのに。
どうして……どうして、沢田を殺そうなどと考えたのだろう? 何て愚かな!
もう遅い。――もう遅い。
弥江子は、もはや取り返しのつかないところへ、自分がやって来ていることを知った。
「――マンションです」
車は|停《と》まっていた。
「ありがとう」
弥江子は車を降りた。
「何か召し上がりますか。届けさせますが」
「お腹空いてないわ。――ゆっくり寝るから。こっちから電話する。電話して来ないで」
「分かりました。――じゃ、何かあったら、いつでも」
まだ、外は明るい。やっと|黄昏《たそが》れてくるところである。
部屋へ戻って、弥江子は、ゆっくりと居間を片付けた。
お|風《ふ》|呂《ろ》。――そう、お風呂に入ろう。
ゆっくり体を休めて、眠ろう。
目が覚めたら、何もかもうまく行っているかもしれない。沢田も元気で、弥江子のことを笑って許してくれるかも……。
そして、「風の葬列」は大ヒットする。
「さすがベテランの風格!」
と、評論家は絶賛してくれるだろう。
主演女優賞だって、いくつも手にできるかもしれない。――そう。それだけの値打ちは充分にあるでしょ?
熱い風呂にのんびりと|浸《つ》かって、それからバスローブをはおって居間へ戻ると、外はやっと夜になっていた。
ベランダへ出るガラス戸を開ける。もちろん外の風は冷たいが、少しのぼせていた|頬《ほお》には快いくらいだった。
この五階のベランダから、以前はずいぶん遠くまで眺め渡せたものだが、今は大きなビルが目の前に立ちはだかって、視界を遮っている。
居間へ戻ると、カーテンを引き、弥江子は自分でコーヒーをいれた。
ソファに身を沈めて、つい無意識の内にリモコンでTVを|点《つ》けている。アニメ番組の時間らしい。
チャンネルを変えてみたが、ニュースはやっていない。
そう。大したニュースじゃないのだ。沢田が助かったことなんて。沢田が生きていようといまいと、誰も気にしやしないんだわ。私とは違う。そう、私は大スターで、みんなに愛されてる。
誰も私のことなんか、捕まえたりしない。するもんですか、誰だって。
電話が鳴り出した。弥江子は、手をのばして、コードレスの受話器を取った。
「はい。――もしもし?」
「あ、すみません」
と、マネージャーの声。「寝てましたか」
「いいえ、いいのよ。何?」
弥江子に怒鳴られるかとびくびくしていたらしい。少しホッとした声で、
「実は――警察の方から連絡が」
「警察?」
「そうなんです。出頭してほしい、と……。言ったんですけどね。ともかく疲れてらっしゃるので、明日にしてくれと」
「そう。――それで?」
「何だか……その……どうしても至急話をうかがいたいんだって。あんまり逆らうわけにも……」
マネージャーは口ごもっている。
「それはそうよ。じゃ、行きましょう」
と、弥江子は淡々とした口調で言った。
「そうですか、すみません」
マネージャーのホッとした顔が、電話を通してでも見えるようだ。
「他に何か言ってた?」
と、弥江子は訊いた。
「え? いや――何だか、沢田さんが――。大方、大けがしたせいで混乱してるんですね。何でも人をはねたとか……。まあ、詳しいことは聞いてませんが」
「そう。じゃ、迎えに来てくれる?」
「もちろんです。すぐ出ます。そんなに時間はかからないと思いますよ。社長も一緒に行くそうですから。安心して下さい」
「じゃ、仕度して待ってるわ」
「ええ。よろしく。大したことじゃないと思いますから」
マネージャーの言葉が、何の根拠もないことは、すぐに分かった。
弥江子は電話を切って、そのまま受話器を目の前のテーブルに置いた。
TVが、まだついている。――リモコンで消すと、後には表面のガラスに室内の風景が|歪《ゆが》んで映っていた。
何でもない? 何もかもうまく行く?
馬鹿な!
そんなはずはない。沢田は、少女をはねて死なせたことを告白したのだ。当然、自分を殴って殺そうとしたのが誰なのか、しゃべっている。
沢田には、弥江子をかばわなくてはならない理由などないのだから。
当然、警察へ行けば、弥江子は厳しく問い詰められるだろう。マネージャーも社長も、そこでは何の力もない。スターであることなど、何の意味も持たないのだ。
殺人未遂――。はっきりと、弥江子には殺意があった。そして実行[#「実行」に傍点]した。
留置場に入れられ、たとえ保釈になっても、その後、裁判で、無罪になるのは不可能だろう。
刑務所へ入る。あの灰色の、厚い、高い塀の中へ。ロケではない。本当の囚人として、入らなくてはならない……。
弥江子は、じっと消えたTVの画面を見つめていた。
そこに、手錠をかけられ、惨めにうなだれた自分の姿が映し出されているのが、見えるような気がする。
「もう……何もかも……」
と、弥江子は|呟《つぶや》いた。
そして、ちょっと声を上げて笑うと、コードレスの電話を取って、ボタンを押した。
「――もしもし。――あ、神崎弥江子ですけど。――ええ、どうも。――あの、今、邦子ちゃん、どこに?――ええ、今、話したいんです。――そうですか。分かりました。かけてみます。――いえ、いいんです。ありがとう」
弥江子は再びボタンを押し始めた。
揺れるカーテン
邦子は、ホテルの一室にいた。
雑誌のグラビアの撮影と、インタビュー。この一部屋を時間で借りてあるのだ。
車のせいで早く着いてしまい、まだ向こうのスタッフは|誰《だれ》も来ていなかった。慣れないTVやインタビューで、くたびれていたので、この休息はありがたい。
マネージャーが、飲み物を頼んでくれて、ちょうどそのルームサービスがドアのチャイムを鳴らしたとき、室内の電話が鳴った。
「出るわ」
と、邦子が言ってソファから手をのばした。
「お願い。私、お金払わなきゃいけないから。たぶん、雑誌の人よ」
「うん。――もしもし」
と、邦子は電話に出た。
「名女優さん、元気?」
と、聞いたことのある声がした。
「え?――神崎さんですか」
邦子は面食らった。
「そう。良かったわ。あなたがいてくれて」
「あの――大変でしたね。沢田さん、でも助かったって。良かったですね」
邦子の言葉に、少しの間、相手は沈黙した。
「――もしもし? 神崎さん――」
「邦子ちゃん」
と、弥江子が言った。「あなたにお|詫《わ》びしたくて、かけたの」
「お詫び?」
「以前のドラマのこともあるけど。それだけじゃないの。せっかくの、あなたのすばらしいデビューなのにね」
「何のことですか」
「沢田はね、女の子を車ではねて、死なせたの」
弥江子の言葉に、邦子は絶句した。「――私も一緒だった。でも、もう女の子は死んでたし、田舎道で誰も見ていないし……。二人で逃げてしまったのよ」
「神崎さん……」
「ところが、警察が沢田の所までやって来たの。あの人は気が小さい。――|訊《じん》|問《もん》をうまく言い逃れできるような人じゃない。分かるでしょ?」
「ええ」
「もし、ばれたら私の女優としてのキャリアも終わり。それで私、沢田を車ごと|崖《がけ》から落としたの」
「落としたって……」
「殺すつもりでね。てっきり死んだと思った。ところが……。計算通りに行かないものね」
と、弥江子はちょっと笑った。「とんだNGを出したわけ」
邦子は、何とも言葉が出て来なかった。
「邦子ちゃん……。沢田には、大して悪いことしたとは思ってない。でもね、あなたには……」
と、言葉が途切れる。
「私のことより……神崎さん。自首した方が――」
と、邦子は言った。「自首して下さい」
飲み物の盆を運んで来た邦子のマネージャーが、
「どうかしたの?」
と、ただごとでない雰囲気に気付いたのか、邦子の方へ寄って来た。
邦子は、激しく首を振って、手ぶりでマネージャーを遠ざけた。
「神崎さん。やり直せますよ。沢田さん、死んだわけじゃないんだし。そうでしょう?」
少し間があって、神崎弥江子の声が聞こえて来た。
「あなたにも想像がつくでしょ? 私のような女が、殺人未遂なんて。――どんな風にTVや週刊誌で扱われるか。そんな惨めな思いはいや」
淡々とした口調である。
「でも――」
「聞いて」
と、弥江子は言った。「『風の葬列』の主役二人――一応、私と沢田が主演になってるわけですものね。その二人が、一人は女の子を車ではねて死なせ、放り出して逃げた。もう一人は、自分の身を守るために、彼を殺そうとした。――分かるでしょ」
邦子の顔が、固くなる。
「ええ」
「いくら巨匠の作品でも、こんな事件が二つも重なったら……。公開は当分見合わせることになるでしょう。――こんなことになるとは思わなかったの。本当よ。あなたの大切なデビューを、こんなことで……」
泣いているのか、弥江子は絶句した。
邦子の体から力が抜けて行く。確かに、弥江子の言う通り、いくら三神が、「作品とは関係ない」と主張したところで、世間のほとぼりが冷めるまで、映画は公開できないだろう。
出演者が麻薬などで捕まっただけでも、公開が無期延期という場合さえある。三神の作品となれば、そんなことはあるまいが。しかし――せっかく力を入れてプロモーションしようとしている矢先の出来事は、この傑作を、色メガネで見ることにしてしまいかねない。
何もかも――すべてを|賭《か》け、自分を燃焼させたあの映画が……。こんな「|馬《ば》|鹿《か》げたこと」のために……。
「でも、あなたはすばらしい女優になるわ」
と、弥江子が気を取り直したように言った。
「それは私が保証する。――私が保証したって仕方ないわね。犯罪者なのに」
弥江子がちょっと笑った。
邦子はハッとした。――なぜ、わざわざ弥江子がこんな所にまで電話して来たのか。
「神崎さん。神崎さん、聞いてますか?」
と声を大きくして、邦子は言った。
「聞いてるわ」
「いけませんよ。死んじゃいけません」
と、邦子は訴えるように言った。
弥江子は、邦子の言葉に、一瞬詰まったようだった。
「――神崎さん」
と、邦子は固く受話器を握りしめて言った。「聞いて下さい。あの映画の製作発表の記者会見、|憶《おぼ》えてますか?」
「記者会見? ええ」
「そのとき、私、言いました。役者にとっては、どんな経験も、演技の勉強だって。口幅ったいこと言って、ごめんなさい。でも本当に、そう信じてるんです、私。神崎さんの追い詰められた気持ち、よく分かります。でも、沢田さん、死ななかったんですよ。分かります? もし、死んでたら、違ってくるかもしれないけど、死ななかったんです! やり直しの機会が、与えられたっていうことですよ。そうでしょう? 神崎さん。死ぬのは逃げることですよ。せっかく、もう一つの道が残されたのに。私のことなんか――私のデビューなんか、どうでもいいんです。私、まだ若いんですもの。たとえあの映画がお蔵入りになって、日の目を見なかったとしても、またチャンスは来ます。そんなことより、生きて下さい! 神崎さん、お願いですから、生きていて!」
――長い間があった。
ちょうどドアが開いて、
「どうも、遅くなって――」
と、雑誌の編集の人間とカメラマンが入って来る。
マネージャーが、
「ちょっと今――。少し廊下で待ってて下さい」
と、面食らっている相手を押し出してしまう。
「神崎さん。――聞いてます?」
「ええ」
と、穏やかな声がした。「あなたみたいな子と一緒に仕事ができて、良かった。本当に」
「思い直して下さい。みんな、分かってくれますよ」
と、邦子は言った。「また、共演させて下さい。ね?」
「ありがとう」
と、弥江子は言った。「でもね、最後は私一人の主演で決めたいの。見っともなくないように、きれいにね。刑務所でやつれた神崎弥江子なんて、見てほしくないの」
「でも――」
「もう……いいの。あなたの気持ち、|嬉《うれ》しいわ。心残りといえば、あなたの成功をこの目で見られないことかしら」
と、弥江子がちょっと笑った。「じゃあ、頑張って」
「神崎さん! 待って下さい!――もしもし!」
電話は、沈黙だけを伝えて来た。
邦子は、ゆっくりと受話器を戻した。その|頬《ほお》を、涙が一筋、落ちて行く。
ドアの前まで来て、その足音はためらった。
浩志は、カチャリとロックを外し、ドアを開けて、言った。
「どうして、ノックでもしないんだ」
「――ごめん」
と、邦子は言った。「何だか――来ちゃいけないような気がして」
「入れよ」
と、浩志は促した。
「うん」
邦子は、浩志の部屋へ上がった。「TV、見てた?」
「さっきまでね。でも、どこも同じニュースのくり返しだ」
と、浩志も上がって来て、「何か飲むか?」
「コーヒーでいい」
浩志は、
「いれたところだ。|匂《にお》ってるだろ」
「うん」
邦子は畳にペタッと座って、足を伸ばした。
「大騒ぎだな」
「仕方ないわ。ショッキングですもの」
「しかし……。あのせいで、何か様子が変だったのか、ハワイでも」
と、浩志は言った。「すぐ、警察へ届けときゃ良かったのに」
邦子は、黙っていた。
浩志がコーヒーを熱くして、カップに入れ、持って来ると、
「ありがと」
と、邦子は受け皿を持って、そっと一口飲んだ。
「邦子も追い回されないかい?」
「あんまり。神崎さんと親しかった人は、沢山いるから」
「そうだな」
「今夜ね――」
「うん?」
「さっき、連絡があったの。映画、とりあえずは公開無期延期になった」
浩志は、何とも言いようがなかった。邦子の|悔《くや》しさは、浩志などには想像もつかない。
「私……恨んでる」
と、邦子は言った。「死んだ人のことだから、許さなきゃと思うし、最後に電話で話したときもそう言った。でも――やっぱり恨んでるの」
――神崎弥江子は、マネージャーが迎えに来る前に、五階のベランダから飛び下りた。即死だった。
沢田は、少女をはねて死なせたと自供。神崎弥江子が自分を殺そうとした、と青くなって報道陣に語った……。
「どうして、あんなことを……。何も、私の[#「私の」に傍点]映画のときじゃなくたっていいじゃないの!」
ほとばしるように、悲痛な声が飛び出した。
「分かるよ」
と、浩志は|肯《うなず》いた。「悔しいな。――僕も悔しい」
邦子は、熱いコーヒーを一気に飲み干して、カップを離れた所へ置いた。
「――すっかり暇になっちゃった」
と、笑う。「何しろこの何カ月か、映画のキャンペーンであちこち回ることになってたでしょ。スケジュール、ポカッと空いちゃったの」
「どこかへ行ったらどうだい? 旅にでも出てさ」
「社長さんもそう言ってくれるけど……。でも、帰ったら、もう忘れられてるような気がして」
「そんなことないさ」
「私ったら。――神崎弥江子みたいなこと言ってる」
邦子は両|膝《ひざ》を立て、かかえて、背中を丸めると、「飲んで、酔いたい」
「飲みに行くか?」
「いい。――どうせ酔えないって、分かってるし」
邦子は、TVをリモコンで|点《つ》けた。――ニュースショーの時間。当然、自殺した大スターの話である。
「消せよ。同じ話だ」
「うん。――でも、聞きたいの。これが夢じゃないんだって……。悪い夢じゃないんだって自分へ納得させるのに、何度も見なきゃだめなの」
邦子は、じっとTVの画面を見つめたまま、「――浩志」
「うん?」
「今夜、ここに泊まってもいい?」
浩志は、すぐには返事ができなかった。
「布団、冷たいぜ」
「いい。浩志の体であったまるもん」
「邦子――」
「お願い。今夜は特別でしょ。ゆかりだって、許してくれるわ」
邦子がTVから目を離して、浩志を見つめる。その目には涙がたまっていた。
浩志は、邦子を抱き寄せた。邦子は、体の重みをすべてその腕の中へ任せた。
「このままでいい……。明るいままで。浩志に抱かれるのなら、この目で、自分を見ていたいの!」
燃えるように囁いて、邦子は浩志にすがりつく。
「――お兄さん」
ドアの外から、声がした。「お兄さん?」
邦子は、身を引いて、涙を|拭《ぬぐ》った。
浩志と邦子。――二人の目が、じっと一つの糸で結ばれる。
「お兄さん、いる?」
「ああ」
浩志は立ち上がると、玄関のドアを開けに行った。克子が入って来ると、
「邦子さん。来てたの」
と、|呟《つぶや》くように言って、兄の顔を見る。
浩志が目をそらすのを見て、克子は察した様子で、
「ごめんなさい。――来ちゃいけなかったわね」
と、言った。
「そんなことないわ」
邦子は、もうみごとにいつもの顔に戻っていた。
「今、二人でTV見ながら、グチを言い合ってたとこ。グチって、一人で言ってちゃ面白くも何ともないでしょ。だからここに来て、二人で盛り上がってたの。克子ちゃんもどう?」
浩志は、邦子の「名演技」に胸が痛んだ。克子にも、分かっていただろう。しかし、今は邦子に|騙《だま》されてやることだ。
「いいわね」
と、克子が上がって来て、「本当に男らしくないわよね、沢田って」
ちょうどTVには、沢田慎吾の記者会見が映っていた。
「こんな男のせいで死ぬなんてね。神崎さんも|可哀《かわい》そう」
と、邦子は言って、息をつく。「――さ、帰って寝ようかな」
「いいじゃない、まだ」
「このところ寝不足なの。明日は|誰《だれ》が来ても起きないで、ぐっすり眠ろう」
邦子は立ち上がって、「じゃ、浩志。――またね」
「うん」
浩志は肯いて、「車で送ろうか?」
「タクシー拾うから、大丈夫。その後のことは、また知らせる」
「ああ。早く公開できるといいな」
「そうね、ギャラはもうもらっちゃってるんだけど」
邦子は、ちょっと笑って、「じゃ、克子ちゃん、おやすみ」
と手を上げて、出て行く。
気をつかった、静かな足音が消えると、浩志は玄関の|鍵《かぎ》をかけた。
「――ごめんね」
と、克子が言った。「知ってたら、来なかったのに」
「いや……」
浩志は、畳にゴロリと横になった。「これでいいんだ」
「でも――邦子さん、お兄さんに……」
「そう[#「そう」に傍点]なりかけてた。でも、良かったんだ、邪魔が入って」
「そうかな」
克子は、TVをリモコンで消した。「――抱いてあげるべきだったんじゃない?」
浩志はしばらく間を置いて、
「分からないよ」
と、言った。「|俺《おれ》には分からない」
そして浩志は、ふと起き上がると、
「克子。何かあったのか? どうして来たんだ、ここへ」
と、|訊《き》いた。
「うん……」
克子は、どう話したものか、迷っている様子だったが、「今日ね、会社へ国枝が来たの」
「国枝?」
「父親の方よ。一応紳士的だったから、別に会社の人も変には思わなかったみたい」
「どうして国枝がお前の所へ――」
「お兄さんの所には、顔を出しにくかったみたいよ。『あなたのお兄さんは、怖い方ですからな』って笑ってた」
「笑いごとかね」
と、浩志は苦々しげに言った。「で、何の話だったんだ?」
「父さんのこと」
「|親《おや》|父《じ》の?」
浩志は|眉《まゆ》をひそめた。
「何でも――電話があったらしいの。あんなひどい目に遭ってるくせに、犬みたいに|尻尾《しっぽ》を振って見せるなんてね」
「そういう人間さ」
と、浩志は言った。
「そうね。――ともかく、お兄さんと私のことにひどく腹を立てて、仕返ししてやりたい、って話したらしいわ。一旦戻りはしたけど、結局、奥さんの所にはいられなかったんでしょ」
「また出て来てるのか、こっちへ」
「そこははっきりしないの。でも、私たちに何かしようっていうのなら、当然、上京してるでしょ」
「物騒だな。しかし、国枝がなぜそんな話を?」
「息子のやったことで、あの父親は大分迷惑してるみたい。仲間内でからかわれたりして。――アイドルタレント一人に、ああもしつこくいやがらせしたりして、その世界で|馬《ば》|鹿《か》にされてるらしいのね」
「なるほど」
「だから、もしお父さんが私たちに何か[#「何か」に傍点]したとしても、自分はそれと関係ない、と言いたかったみたいよ。それも勝手な話よね」
「注意はしたぞ、ってことか」
「そんな所でしょうね。ともかく用心した方がいいって。そう伝えてくれってことだった……」
浩志は、ため息をついた。――父が「仕返し」するなら、むしろ国枝の方だろう。しかし、実際には自分に大した力もないことが分かっているのだ。
「――ねえ、何をする気なのかしら」
と、克子は言った。
「分からないな……。ともかく、用心しろよ。もう親父はまともじゃない」
「うん。――そのことだけ、知らせようと思って来たの。でも、邦子さんに悪かった」
「もう、その話はよせよ」
浩志は立ち上がって、「泊まってくか? 帰るなら、車で送るぞ」
と、言った。
父親のこともあるので、用心に越したことはない。
浩志は、克子をアパートまで送ってから戻って、風呂に入った。――そう遅い時間というわけでもないが、明日は会社だ。
眠気のささないままに、浩志は布団に入った。邦子と――もし、克子があのときやって来なかったら……。たぶん、邦子と寝ていただろう。
そうなった方が良かったのか。それともならなくて良かったのか。――浩志にも分からなかった。
どっちにしても、ハワイでの、ゆかりとのときといい、今夜といい、何か邪魔が入ることになっているようである。
「|俺《おれ》には、これでいいのかな」
と、浩志は|呟《つぶや》いた。
同僚の、森山こずえのことを、ふと思い出す。彼女も浩志のことを思っている様子だったが……。迷っている内に、みんなに逃げられてしまうかもしれない。
そうなったら、|却《かえ》って気楽かな、などと考えて、浩志は一人でちょっと笑った。
電話が鳴り出したのは、十二時を少し回ったところ。
「――もしもし。――やあ、さっきは」
邦子だった。
「ごめんね、克子ちゃんの前であんな……」
「そんなこと気にするなよ」
「でも、私はいつでもいいのよ。呼んでくれたら飛んでくわ」
「仕事がなきゃ、だろ」
「ひどいこと言うのね」
と、邦子は笑って言った。「でもね、帰ったら、いいニュースが待ってたの」
「へえ」
「巨匠がもう一度私を使ってくれるって」
「三神憲二が?」
「うん。それも、ゆかりと一緒」
「そうか。――おめでとう」
浩志は起き上がった。あの二人が共演する。その日が意外に早くやって来たのだ。
「三神監督が、うちとゆかりのプロダクションにかけ合ってくれたの。来年の企画だったのを、くり上げて撮るって。来週、製作発表をやるのよ」
「じゃ、二人で並ぶわけだ」
「うん。浩志も並んで座らない?」
「よせよ。僕は記者席の隅から見てる」
「――例の映画も、たぶん半年もすれば公開できるだろうって。沢田さんはともかく、神崎さんは自殺したわけでしょ。そう叩かれないだろうし。他にも色々事情はあるみたい。ともかく――少しホッとした」
「これで、ゆっくり眠れるだろ」
「うん。――浩志と一緒なら、もっとよく眠れるのに」
そう言って邦子は笑った。浩志の胸が、チクリと痛んだ……。
憎悪の日
浩志がロビーへ入って行くと、西脇の方が見付けてやって来た。
「石巻さん」
「どうも」
浩志は会釈して、「ずいぶん派手ですね」
と製作発表の会場を見やった。
「ええ、三神監督がいつになく力を入れていて。――いつもなら、こんな席は嫌うんですがね」
西脇も、少し興奮している様子だった。
「ゆかりは?」
「もう控室に。緊張してますよ。少しほぐしてやって下さい」
――「あの事件」から、二週間が過ぎて、そろそろTVや週刊誌からも、沢田や神崎弥江子の名が消えつつあった。
ゆかりのスケジュールの都合で、製作発表は今日までのびたが、三神の新作に、ゆかりと邦子が共演するという話は順調に進んでいた。
もともと邦子はそうスケジュールが詰まっているわけではないし、ゆかりに関しては、西脇が協力的なので、問題はほとんどなかった。ゆかりが持っているTVやラジオのレギュラー枠も、西脇が何とかやりくりして、映画のためのスケジュールを空けたのである。
控室のドアを開けて、浩志が中を|覗《のぞ》くと、ゆかりは大きなサンドイッチを|頬《ほお》ばったところだった。
「ちょっと……待って……」
と、あわてて紅茶で流し込む。
「落ちついて食べろよ」
と、浩志は笑って、「何も食べてないのか」
「――朝から、お水一杯しか飲んでなかったの」
と、ゆかりはフーッと息をついた。「ねえ、少し派手すぎるかなあ、この服」
「いいんじゃないか。製作発表の席だぜ。華やかな方がいい」
浩志はソファに腰をおろした。
「でも今度は『役者』として出るんだもん。もちろん邦子にゃかなわないけど」
「そんなこと気にせずにやれよ。のびのびやった方が、ゆかりらしい」
「うん……」
「邦子は?」
「今こっちへ向かってるって、連絡入ったみたいよ。――浩志、会社は?」
「今日は休んだ」
「さぼったな」
「ゆかりと邦子が並んで座るんだ。見逃せないさ」
ドアをノックする音。
「どうぞ」
と、ゆかりが声をかけると、意外な顔が覗いた。
「あら――」
「失礼します」
と、照れたような顔で入って来たのは、大宮だった。
「大宮さん!」
ゆかりが飛び上がった。「退院したの? いつ?」
「本当は来週辺りって言われてたんですけどね」
大宮は相変わらず太った体で、汗をかいている。
「今日は見逃せないですよ。マネージャーとしちゃ、これを手がけないわけにゃいきません」
「座って! ね、サンドイッチ、食べる?」
ゆかりは大はしゃぎで大宮の腕をとると、ソファに座らせた。
「いや……。食べたいんですがね、何しろ入院してて、ますます太っちゃったんで」
「何言ってるの! 仕事すりゃ、すぐにやせるわよ」
と、ゆかりは言った。
「じゃ、一つだけ……」
と、大宮の方も、すぐのせられてしまう。
浩志は、元気そうな大宮を見て、ホッとしていた。
「私、コーヒー頼んで来てあげる!」
止める間もなく、ゆかりが控室を出て行く。
「――良かったですね」
と、浩志が言うと、
「色々ご心配をおかけして」
と、大宮が頭を下げた。「大変でしたね。病院でTVを見ながら、飛び出して駆けつけたかったですよ」
「|禍《わざわい》転じて福、ってことになるといいんですがね」
「そうなりますよ。きっとなります」
大宮は、病院で大分「休息」したせいか、前よりもずいぶん元気そうだった。
――浩志は、大宮のけがに責任を感じていただけに、ホッとしていた。
とはいえ、心配の種がないわけではない。父がどこにいるのか、全く分からないままだった。
克子にも、できるだけ一人で歩くな、と言ってあるのだが、用心にも限度がある。何事もなければいいが……。
「――お待たせ」
と、ゆかりがコーヒーカップを手に入って来た。
「すみませんね」
「今日だけの特別サービス」
と、ゆかりはいたずらっぽく笑った。「ね、浩志、お客様」
「僕に?」
ドアが開くと、黒木翔が顔を|覗《のぞ》かせた。
「やあ……。どうも」
浩志は|曖《あい》|昧《まい》に言った。黒木翔がどうしてやって来たのか、分からなかったからだ。
「またさぼってるな」
と、ヒョイと翔の後ろから顔を出したのは、克子だった。
「克子、おまえはどうして?」
「私にも、有給休暇ってもんがあるのよ」
と、克子は言った。
「やっとデートしてくれるようになったんです」
と、黒木翔が言ったので、ゆかりが笑い出した。
「実感、こもってる。でも、良かったわね」
浩志は、ちょっと克子と目を見交わした。――ただの「デート」ではないはずだ。父のことを聞いて、翔は克子を守ってくれているのだろう。
しかし、それでも克子の表情は明るかった。ごく普通の「二十一歳」が、そこにいた。
「翔君がね、どうしてもお二人を見たいからって」
と、克子が言った。「邦子さんは?」
「もう来るころだ。ともかく座れよ」
大宮が立って、
「じゃ、会場の方を見て来ます」
と、ゆかりに声をかけた。
「ご苦労様。張り切りすぎないでね」
浩志たちが、大勢やって来たせいで、すっかりゆかりもリラックスしているようだ。
「――お待たせ」
と、ドアが開いて邦子が入って来たが、「わあ、どうしたの?」
と、目を丸くした。
控室はすっかりにぎやかになった。
「このままどこかに遊びに行きたいね」
と、ゆかりははしゃいでいる。
少しいつもより地味な格好のゆかり、きりっとした「勤め人」という雰囲気の邦子。それぞれに、「意気込み」がにじみ出ていた。
「――国枝から、何かないかい?」
と、少し落ちついたところで、浩志が|訊《き》いた。
「今のところはね」
と、ゆかりが首を振って、「でも、ちゃんと気を付けてるわ。すっかり|真面目《まじめ》になっちゃった、このところ」
「それくらいでいいんだ」
と、浩志は|肯《うなず》いた。
「ね、ゆかりさんのコマーシャル、いつから流れるの?」
と、克子が訊いた。
「来週、CF撮りで、ヨーロッパに行くの」
「|凄《すご》いじゃない」
「でも三日間。お天気が悪かったらどうしようって、スタッフが心配してる」
「大丈夫、きっと晴れますよ」
と、翔が言った。「親父も、ゆかりさんの出た番組のビデオ、ここんとこ、よく見てるらしい」
「すてきなコマーシャルになるわね、きっと」
と、克子が|微笑《ほほえ》みながら言った。
ドアが開いて、大宮が顔を出す。
「三神監督がみえてます。そろそろ仕度して下さい」
「じゃ、行こうか!」
邦子が立ち上がる。ゆかりも立ち上がって、胸を張った。
「きっとすてきな映画になるわね」
と、克子が言った。
「うん……」
浩志は、克子と二人で、製作発表記者会見の会場の隅に立って、明るいライトに照らされる正面の席を眺めていた。
まだゆかりたちは登場していない。空の|椅《い》|子《す》が、ズラッと並んでいた。
「克子、何かあったのか」
と、浩志が|訊《き》いた。
「何か、って」
「いや――翔君とデートっていうからさ」
「ああ……」
克子は、少し照れたように目を伏せて、「この間会って、お父さんのこと、ちょっとしゃべったら……。心配しちゃって、離れないの。毎日、会社の帰り、表で待っててくれるのよ」
「そりゃ凄い」
「私、見っともなくて。会社の人も知ってるじゃない。だから毎日冷やかされて」
と言いながら、克子は|嬉《うれ》しそうである。
これほど、他人から心配され、気をつかわれたことがないのだ。克子の気持ちは、浩志にもよく分かった。
「――お兄さん」
「うん?」
「私……翔君のお父さんから誘われてるんだけど。仕事、変わらないかって。使ってくれるらしいんだけど……」
「いいじゃないか」
「でも……図々しいような気がして。そんなことまで甘えていいのかしら」
浩志は、ちょっと|微笑《ほほえ》んで、
「お前は今まで|誰《だれ》も甘える相手がいなかったんだ。少しはいいさ」
と、言った。
「そうかな」
克子は、ホッとした様子で、「お兄さんにそう言われると、何だか落ちつくわ」
「お前さえ良ければ、気にすることないさ。彼とも付き合って行けよ」
「翔君?――そうね」
「どうしたんだ、あの男……」
「斉木のこと?」
克子は肩をすくめて、「奥さんに逃げられて、私たちの間も終わったわ」
「そうか」
「今、翔君といるのが楽しいの。でも――お付き合いしてるだけよ。それだけなの」
「無理することはないさ。お前は若いんだ」
克子はちょっと兄の方を見て、
「若い、か……。そうね。若かったんだ、私って。忘れてた」
と、笑った。「でも、言っとくけどね、お兄さんだって若いのよ」
浩志は苦笑した。
拍手が起こった。監督の三神を先頭に、ゆかり、邦子が入って来ると、一斉にカメラのフラッシュが光った。
「凄い人数ね」
と、克子が言った。
記者会見の会場としては広い部屋を借りたはずだが、それでも、カメラマンと記者で一杯である。TV局のカメラも三台、入っていた。
浩志は――しかし、何となく落ちつかなかった。
「どうしたの?」
と、克子が気付いて、「何、変な顔してるの」
「いや……何だか……」
説明はできない。しかし、何か[#「何か」に傍点]気になることがあるのだ。それが何なのか。浩志自身にも、よく分からなかった。
そこへ翔がやって来た。
「写真、とっちゃった」
と、小型のカメラを手にしている。
「私の分は残ってないんじゃない?」
「克子さんにはあと二十枚も残してますよ」
翔の反論がおかしかった。
「克子とここにいてくれ」
と、浩志は翔の肩を軽く|叩《たた》いた。「見回ってくる」
「お兄さん」
「大丈夫だ。――ここにいろよ」
どうしてだろう? 浩志の中に、|喉《のど》に引っかかった小骨のように、チクチクと刺しているものがある。
何か[#「何か」に傍点]を見たのか? 何か気になることを。
それは何だろう?
「――大変満足できるキャスティングだね」
と、三神が話している。
会見そのものは、順調に進んでいた。
誰かが邦子に、神崎弥江子のことを|訊《き》くのではないかと心配だったが、「亡くなった人間のことには触れにくい」という気持ちがあるせいか、その問題は全く出なかった。
浩志は、会場の一番後ろを、壁に沿って歩いて行った。
ズラッと並んだ椅子で、せっせとメモを取る記者たち。その前にしゃがみ込んでいるカメラマンたち。
明るくライトを浴びて、ゆかりと邦子が並んでいる。――ゆかりの方が緊張しているのが分かる。
本当なら、ゆかりはこんな席に慣れているはずだが、今日は「アイドル」としてでなく、「役者」として出席しているのだという気持ちがあるのだろう。
それに比べると、邦子は、これも「一つの場面」として演じている。だから、落ちついて見えるのである。
――浩志は、ゆっくりと会場の中を見渡した。
別に、国枝の所の人間らしい姿も見えないし、危険はないだろう。気のせいか……。
浩志は、克子たちの方へ戻りかけた。
「では、写真を……。皆さん、並んで立って下さい」
と、司会者が言った。
どこかおかしい。
浩志は、その印象をどうしても|拭《ぬぐ》い切れなかった。――ゆかりと邦子を挟んで、監督の三神と、プロデューサーが立つ。
カメラマンたちの出番である。フラッシュが一斉に光り、モータードライブのメカ音がシャッター音と混じって、やかましいほどである。
浩志はじっと立っていた。――不安がふくらんで来る。
何だろう? これは一体……。
「それじゃ、ゆかりちゃんと邦子ちゃんのお二人、残って下さい」
と、司会者が言った。
ゆかりと邦子が少し|頬《ほお》を上気させながら、並び立つ。さらに|凄《すご》いフラッシュの光。
一方、記者たちの方は帰り始めている。もう用はないというわけだ。
その中に――後ろから見ている浩志には、丸めた背中しか見えないが――少し年輩らしい男の後ろ姿があった。他の記者が立って帰り始めると、ゆっくり立ち上がって……。
ノートも何も持っていない。記者が、何も持っていない?
その歩き方。――浩志には分かった。
「|親《おや》|父《じ》だ……」
と、浩志は|呟《つぶや》いた。
なぜこんな所に来たんだろう? 記者のふりをして、中へ入ったのだろうが――。しかし、浩志や克子が来ていることなど、気にもしていないような……。
父の背中を見ながら、浩志は帰ろうとする記者たちの流れに逆らって、進んで行った。
父は、なぜか前方へ――カメラマンたちがフラッシュを二人のスターへ浴びせている、その方向へと歩いて行く。
もしや――ゆかり!
「ゆかり!」
と、浩志は大声で怒鳴った。
力の限りの声で。
「危ない! 伏せろ!」
浩志の声は届いても、その内容を聞き取るには、カメラのシャッター音がうるさすぎた。ゆかりがびっくりしたように浩志の方を見る。
父が飛び出すのを、浩志は見た。ポケットから出した右手に、ガラスのびんを握っている。
「ゆかり!」
浩志は目の前のカメラマンを突き飛ばして、父の背中へと――。
永遠のような数秒間。
石巻将司は、|呆《あっ》|気《け》にとられているカメラマンたちの前に出ると、びんのふたを開けて、中の液体を真正面に立つゆかりの顔に向かってぶちまけた。
同時に、危険を悟ったゆかりが両手を上げた。隣の邦子がゆかりの腕をつかんで引っ張る。
しかし――間に合わなかった!
液体はゆかりの手を焼いて、顔に向かって飛んだ。白い煙と悲鳴が上がる。
次の瞬間、浩志は父の背中に飛びかかっていた。
凍りつくような沈黙が、一瞬、会見の席を支配した。
浩志は父親を床へ押し倒した。ゆかりは邦子に引っ張られ、もつれ合うように転がった。
ガラスのびんが床へ落ちて砕けると、鼻をつく|匂《にお》いが立ちこめる。
「硫酸だ!」
と、|誰《だれ》かが叫んだ。
カメラマンたちがワッと散る。同時に、西脇を先頭にスタッフが駆けつけて来た。
「ゆかりを!」
と、浩志は叫んだ。「ゆかりを、早く!」
机が倒れ、|椅《い》|子《す》が転がる。
「ゆかり!」
西脇が駆け寄る。「ゆかり! 大丈夫か!」
呻き声が聞こえた。
「早く病院へ!」
邦子が叫んだ。「救急車を!」
畜生! 何てことだ!
浩志は、倒れて動かない父親を放っておいて、立ち上がった。
「ゆかり――」
しっかりと顔を両手で覆ったゆかりの、焼けて煙を上げる服と、ただれた手の甲を見て、浩志は絶句した。
「顔を……」
と、邦子が泣きそうな声で言った。「もっと早く気付いてたら……」
「ゆかり! 目は? 目は大丈夫か!」
ゆかりがかすかに肯く。細く、絞り出すような声が洩れた。
「早く救急車!」
と、西脇が怒鳴る。「病院の手配だ!」
スタッフの若い男たちが駆け出して行く。大宮が駆けて来た。
「大宮さん――」
「どうしたんです!」
「ゆかりの顔に硫酸を――」
「そんな……」
大宮は真っ青になった。「ともかく――こっちへ!」
大宮はパッと上着を脱いで、ゆかりの頭からかけると、抱きかかえるようにして、
「どいて! どいてくれ!」
と、集まって来たカメラマンや記者たちをかき分けた。
「退がれ!」
と、大声が響いて、記者たちが飛びのいた。
三神が記者たちの前に立ちはだかったのである。
「けが人だぞ! 邪魔するな!」
その声の迫力で、記者たちは会見場からあわてて出て行く。
「浩志……」
と、邦子が青ざめ、震えながら言った。「何があったの?」
そのとき、乾いた笑い声が、静かになった部屋に響いた。
父――石巻将司が、床に起き上がり、声を上げて笑っていた。
浩志は、床に砕けたびんの砕片、そして硫酸を浴びた机の白いテーブルクロスが、茶色くこげて、ねじれたようにちぢれているのを見た。
「お兄さん」
克子と翔が、机の間をやって来る。
「お前は、ゆかりについて行ってくれ」
「でも――」
「|俺《おれ》はこいつ[#「こいつ」に傍点]を警察へ引き渡す」
浩志の声は震えていた。「黒木君、妹と一緒にいてやってくれ」
「はい」
翔が肯き、「行こう」
と、克子を促す。
克子は、やりきれない表情で、父親の方へ目をやると、翔と一緒に、ゆかりたちの後を追った。
浩志は、床に座り込んでいる父親の方へと向き直った。
「――警察へ渡す、か」
と、石巻将司は鼻先で笑うと、「自分の親を引き渡すか。立派なもんだ」
浩志は父親の方へ歩き出した。
「浩志!」
邦子が、すがりつくようにして止める。「いけない。――だめよ」
「放っといてくれ」
と、浩志はじっと父親を|見《み》|据《す》えて、「何をしたか分かってるのか! 自分が何をしたか」
「ああ、だからやったんだ」
と、石巻将司は口を|歪《ゆが》めて笑うと、「お前らに教えてやったんだ。親を大事にしないと、どういうことになるか。よく分かったろう」
「何て人……」
邦子は、キッと石巻将司を見つめて、「ゆかりに何の罪があるっていうの! 大体、親らしいこともしないで、何が『大事にしない』よ!」
「生意気言うな」
と、ジロッと邦子を見上げると、「ついでにお前にもぶっかけてやりゃ良かったな」
「邦子」
浩志は、ギュッと邦子の肩を抱いた。「何を言ってもむだだ。――到底わかり合えない人間ってのが、世の中にはいるんだ」
邦子は、こぼれ落ちる涙を|拭《ぬぐ》って、
「こんなこと……。ひどすぎるわ……」
と、震える声で言った。
「おい、浩志、誰だってな、お前が父親にしたことを聞きゃ、俺に同情してくれるさ。分かってるんだ、俺には」
床にあぐらをかいて、まるで殿様のように胸をそらしている父親の姿は、こっけいでしかなかった。――浩志は、怒りがやがて哀しみに変わって行くのを感じていた。
ホテルの責任者が、警官を伴って会場へ入って来るのが目に入った……。
朝のうた
「浩志……」
かすかな声に、少しまどろんでいた浩志はふっと目を開けた。
薄暗い病室には、花の|匂《にお》いが立ちこめている。
「浩志……」
弱々しい声は、病室の中だけにも広がる力がないかのようだった。
浩志はベッドのわきへ行った。
「どうした? |誰《だれ》か呼ぼうか」
「いたのね……」
ゆかりが、包帯を巻いた手を少し動かした。
「帰っていいのに……」
と、|呟《つぶや》くように言う。
大きな声を出せないのだ。ゆかりの顔は、包帯でグルグル巻きにされている。目と鼻の所、そして口も開けられるが、|頬《ほお》に当てたガーゼがずれるといけないので、ほんのわずかだけ。
「痛いか?」
と、浩志は|訊《き》いた。
「少し……」
|馬《ば》|鹿《か》なことを訊いた、と悔やんだ。傷の痛みよりも、ゆかりにとって、顔の|火傷《やけど》がどんなにショックだったか。
手を握りしめることもできない。手の甲にも傷を負っているからである。しかし、そのおかげで、目をやられずにすんだのだ。
「眠ったか?」
「うん」
「――怖かったろう」
浩志は、ゆかりの、傷ついていない指先にそっと指を触れた。「守ってやれなかった。――すまないな」
ゆかりは、かすかに頭を横へ動かした。
「話は聞いただろ?」
と、浩志が続けた。「ちゃんと傷は分からないように治せるって。心配しなくてもいい。元の通りになるよ」
「うん……」
ゆかりは、じっと浩志を眺めている。
「病院の周囲は大変だ」
と、浩志は窓の方へ目をやった。「カメラが山ほど並んで、この窓を|狙《ねら》ってるからな。カーテンも開けられない」
「もう……朝?」
と、ゆかりは言った。
「もうじきだ。――事務所の女性が来てくれる。そしたら、ずっとそばについててくれるからな」
「浩志……。ごめんね。仕事、あるのに」
「一番の仕事は、ゆかりの面倒をみることさ」
と、浩志は|微笑《ほほえ》んで言った。
「浩志……。そばにいて」
「ああ、ここにいる」
「一人だと……死んじゃうかもしれない」
ゆかりの言葉が、浩志の胸に、刃のように切り込んで来た。
「ゆかり……」
浩志は、ゆかりの上にかがみ込んで、「すまないな。|親《おや》|父《じ》があんな――」
「浩志……」
「分かってる。怒るなよ。分かってる。だけど……」
浩志の目から涙が|溢《あふ》れ出た。――包帯をして、力なく横たわるゆかりを見ていると、自分がこの子のために何をしてやったか、何がしてやれるか、と考えてしまうのだ。
父のしたことで浩志が|詫《わ》びれば、ゆかりは怒る。――その気持ちが、また浩志には辛いのである。
「泣かないで……」
ゆかりは少ししっかりした声で言った。「浩志……。いつも私が泣いて、浩志が慰める役だったでしょ。泣かないで。――ねえ」
「うん。――分かってる」
浩志は、涙をのみ込んで、ゆかりの包帯を巻いた額に、そっと手を当てた。
「ちょっと――廊下を見てくる。誰か見舞いに来てるよ、きっと」
「戻って来る?」
「もちろん」
浩志は、そっと立ち上がると、病室を出た。
廊下の|椅《い》|子《す》に大宮が座って眠っていた。
浩志は、足音をたてないように気を付けながら、廊下の奥のロビーへと歩いて行った。――ソファに花束が山のように積んである。とても病室へ置ききれないので、ここへ積んであるのだ。
窓の外は、少しずつ白み始めていた。
長い、悪夢のような一日が、次の一日に代わろうとしている。
浩志は、広い窓から、少しずつ白んで来る都会の汚れた空を眺めていた。
「――浩志」
いつの間に来たのか、邦子が立っていた。
「何だ……。今来たのか?」
「うん」
邦子は、ジーパン姿で、大きなバッグをさげていた。「女の子の必要な物、持って来た。ゆかりに渡して。別に使わなくたって構わないけど」
「ありがとう」
浩志は、病室の方へ目をやった。「起きてるよ。会って行くか」
邦子は首を振って、
「私がゆかりなら、今はまだ会いたくないから……。傷、どう?」
「軽くはない。しかし、時間をかければ、分からないように移植できるだろうと言ってたよ」
「そう」
邦子は、息をついて、「良かった――って言うのも可哀そうだけど」
「精神的なショックの方が大きいだろう」
と、浩志は|肯《うなず》いて、「立ち直るのに、時間がかかるだろうな」
邦子は、ゆっくりと首を振って、
「時間だけじゃだめよ」
と、言った。「心の支えになる人がいなきゃ」
浩志は、当直の看護婦が|欠伸《あくび》しながら通りすぎて行くのを見て、
「君も力になってやれよ。僕もできるだけのことは――」
「いいえ」
と、邦子は遮った。「私じゃだめ。浩志以外の誰にも、それはできないわ」
「どうして?」
「浩志が、ずっと一緒で、いつも一緒だって――。それが、ゆかりの支えになるのよ」
浩志は、窓の方へ目をやった。
「浩志……。もう、無理よ。私もゆかりも、浩志のことが好き。浩志も二人を平等に好きでいる……。もう、三人とも子供じゃないのよ。どっちかを選ばなきゃ、浩志」
「邦子。僕は――」
「私はいいの」
と、邦子は言った。「私は、人生のどんなことでも、演技のために売り渡せる。でも、ゆかりは違うわ。いつも半分は作られたスターだけど、半分は本物の自分。浩志を失ったら、ゆかりはやっていけない」
浩志はずっと白み行く空を見て、言った。
「あのころ……君ら二人は、双子の姉妹みたいだった。屈託なく笑って、まぶしいようで……。まぶしいくらい明るくて、二人がそっくりに見えた……」
「そう。――でも、光が少し暗くなり始めれば、二人は違うってことが分かってくるのよ」
邦子は、浩志の方へ歩み寄ると、肩にそっと頭をもたせかけた。
「僕ら三人……。ずっと、あのままでいられると思ってた」
「そうね……。私も、一時はそう信じてた。でも――みんな、大人になって行くわ。それは変わって行くことよ。私たち三人も、変わって行かなくちゃ……」
「邦子――」
「ゆかりは、浩志を縛りたくないと思ってる。特に、傷を負わせたのが父親だからって、その責任を、浩志が感じてることも知ってる。だから、却って浩志を自由にしようとするわ。分かるの、私には。――浩志の役割は、責任感からじゃなく、愛情から、ゆかりを選んだ、って彼女に信じさせること」
浩志は黙って、邦子の肩を抱いた。二人の顔を、朝の弱い光が白く染めて行く。
「うんと、ゆかりを大事にするのよ。うんと|可愛《かわい》がるのよ。――ゆかりが浩志に愛されてるって信じるまで……」
邦子はそう言って、そっと顔を上げると、「そうしなかったら、私、浩志を許さない」
と、言った。
「そうだな」
浩志は、呟くように言った。「ゆかりを選んだ、と――」
「それでいいのよ」
邦子は、浩志の足下に、バッグを下ろした。「――これ、ゆかりに渡して。また、来るからね」
「うん」
二人は離れて、向かい合って立った。
「邦子」
と、浩志は言った。「僕はたぶん君の方を――」
「いけない」
邦子は、指で浩志の口を押さえた。「言わないで。もう、あなたは選んだのよ。ゆかりを幸せにする義務があるの」
「ああ……。できると思うよ」
「できるよ、浩志なら。――私の愛した人だもの」
浩志が邦子を、邦子が浩志を、激しく抱きしめた。二人の唇は水を求める乾いた唇のように、互いを求め合った。
しかし――それはほんの数秒間のことだった。
邦子は、浩志を押し戻すようにして、
「ゆかりに伝えて」
と、言った。「三神監督、ゆかりが復帰するまで、待ってるって。そう言ってたって」
「分かった。きっと喜ぶ」
「早く元気になれって言ってね。私の仕事でもあるんだから」
邦子はそう言って、ちょっと笑った。「じゃあ――また来るね」
「ああ」
邦子が足早に廊下を歩いて行く。振り向かなかった。浩志がじっと見送っているのを知っていたはずなのだが。いや、だからこそ、振り向かなかったのかもしれない。
――病室へ戻ると、ゆかりは、少しまどろんでいる様子だった。痛み止めの注射のせいもあるかもしれない。
浩志がそばの|椅《い》|子《す》に座ると、ゆかりは目を開けた。
「私……眠ってた?」
「少しね」
浩志は、邦子の持って来たバッグを持ち上げて見せ、「――邦子がこれを」
「邦子、来たの?」
「疲れさせるといけないって、帰った。またちょくちょく来るってさ」
「いいのに……。忙しいんだから、邦子も」
「そうだな。そうそう、例の巨匠からの伝言だ」
浩志の言葉を聞いて、ゆかりの目が輝いた。
「そんなに早く治るかしら? ねえ、どう思う?」
「治るさ。ゆかりは若いんだ。治るんじゃなくて、治すんだ」
と、浩志は力をこめて言った。
ゆかりは、大きく息をついた。
ファンに待たれている。――スターにとって、これほどの栄養源はないのかもしれない。
「僕もついてる。きっと、医者もびっくりするくらいの勢いで回復するさ」
「うん。――浩志。そばにいてくれる?」
「そう言ったろ」
「いつも?」
「ああ、いつもだ」
ゆかりは、浩志の目をじっと|覗《のぞ》き込むようにして、
「いつまでも[#「いつまでも」に傍点]?」
と、|訊《き》いた。
「いつまでも、だ」
少し間があった。
「私と……邦子のそばに?」
「ゆかりのそばにだ」
「浩志――」
「黙って。――何も言わなくていい」
浩志は、そっとゆかりの上にかがみ込んだ。
小さく震える唇に、浩志の唇が静かに重ねられた。
「――あの」
と、ドアが開いて、「あ、失礼しました」
大宮が頭を下げる。
「いいんです」
と、浩志は体を起こして、「何か?」
「あの……」
大宮が、言いにくそうに廊下へチラッと目をやる。
浩志は、立ってドアの方へ歩いて行った。
廊下へ出ると、後ろに二人の男を従えて、国枝貞夫が立っていた。ついて来た一人は、とてつもなく大きい花束をかかえている。
浩志は、後ろ手にドアを閉めた。
「見舞いに来たんだ」
と、国枝貞夫は言った。「どけよ」
「〈面会謝絶〉と書いてあるだろ」
と、浩志は札を指して、「字が読めないのか」
後ろの二人がジロッと目を見交わした。
「お前は入ってるじゃないか」
「それがどうした」
と、浩志は真っ直ぐに国枝貞夫を|見《み》|据《す》えた。
「お前の|親《おや》|父《じ》がやったんじゃないか。でかいつらするなよ」
と、貞夫は唇を|歪《ゆが》めて笑うと、浩志を押しのけようとした。
浩志が身構えると、拳を貞夫の|顎《あご》へ|叩《たた》き込んだ。手がしびれるほど痛かったが、貞夫の方は仰向けに引っくり返った。
「この野郎――」
花束を投げ捨てて、二人の男たちが進み出て来る。そこへ、
「待て!」
と声がして、大宮が点滴のびんを下げておくスタンドを両手で持ち上げ、駆けて来た。
大宮の剣幕はもの|凄《すご》かった。
「やるか! かかって来い! たった二人じゃ何もできないくせしやがって! さあ来い!」
相手の男たちもたじろぐほどの迫力である。
殴られた貞夫は、やっと起き上がった。大宮を見て、
「危ない! よせよ!」
と、あわてて立ち上がる。
「危ない? 決まってるだろ! 人を袋叩きにしたりすりゃ、自分も危ない目に遭うんだ!」
大宮の声で、看護婦が何人も駆けつけて来た。
「どうしたんです?」
「放っといて下さい! こいつらと決闘するんだ!」
大宮は歯をむき出して、|唸《うな》り声を上げながら突撃した。
「逃げろ!」
バタバタと足音をたてて、国枝貞夫たちは駆けて行った。
大宮は、フーッと息をつくと、ペタッとその場に座り込んでしまった。
「大宮さん……」
浩志は|呆《あき》れて、「何て無茶を!」
「いや……僕も同感です」
そう言うなり、大宮は大の字になって引っくり返ってしまった。
「――呆れた|奴《やつ》だ」
と、西脇が苦笑した。「すみません。ちゃんと、通すなと言っといたんですが」
「仕方ありませんよ」
と、浩志は言った。「大宮さんも、お返しができて良かったでしょう」
「それで失神? 全く、何て奴だ!」
ベッドのゆかりが、
「見たかった」
と、悔しがっている。「ビデオにとってない?」
「呑気なこと言うなよ」
と、浩志は笑って、「命がけだったんだぜ」
もう、朝になっていた。西脇は、医師が来るのを待っているのだった。
「――容態を聞いて、記者会見しなきゃいかんのです」
と、西脇は言った。「モーニングショーの生中継もある。まあ、おおよそのところは、ゆうべ聞いていますが」
「きっと、予想以上に回復が早い、ってことになりますよ」
と、浩志は言った。「それから西脇さん」
「何です?」
「記者会見で、もう一つ、発表していただきたいことがあるんですが」
浩志はそう言うと、ベッドのそばへ行って、ゆかりの手に、そっと手を重ねた。
西脇は、その光景を眺めて、ゆっくりと|肯《うなず》いた。――|笑《え》|顔《がお》で、肯いたのだった。
エピローグ
昼のそば屋は、いつものように混み合っていた。
克子は、少し並んで、席の空くのを待つことにした。ついTVに目が行く。
もちろん、ゆかりの事件がトップニュースである。あの恐ろしい出来事が、写真やビデオのスローモーションでくり返されると、克子はゾッとして目をそらした。
父が手錠をかけられて、平然と連行されて行く映像も出ている。――石巻という名前のせいもあるが、もちろん会社ではみんな克子の父だということを知っている。
ため息をついて、克子は目を伏せた。
「どうぞ」
と、声をかけられ、奥のテーブルへ行く。
相席だが、皮肉なことにTVがちょうど目に入る席。
そばを注文して、ふと画面に目をやり、克子は息をのんだ。
〈安土ゆかり、|噂《うわさ》の恋人と婚約!〉の文字が、画面一杯に踊っている。
兄が、TVカメラの前に座って、
「――結婚することを決心しました」
と、語っていた。
兄とゆかりさんが……。
克子は、兄の照れたような笑顔を、じっと見つめていた。――それでいいの? 本当にそれで良かったの?
TVは、もちろん答えない。
しかし、単にゆかりを元気づけるために、そんなことを口にする兄ではない。――婚約したというのなら、本気なのだ。
そう……。兄はゆかりを「選んだ」のだ。
いつかは決めなくてはならないことだった。
おめでとう、ゆかりさん。心の中で、克子は言った。
前の席の人が立ち、即座に店の人が器を下げて行くと、
「ご相席、お願いします」
「どうぞ」
と、克子は言って――前の席に座った黒木翔を、|呆《あき》れて眺めていた。
「ご注文は?」
と、額に汗を浮かべて、太った女の子がやって来る。
「この人と同じもの」
と、翔が克子を見て言った。
「はあ?」
「伝票も一緒でいい」
克子は、お茶を一口飲んで、
「またさぼって。大学は?」
「休講。本当ですよ」
と、翔は言った。「ゆかりさん、ちゃんと元の通りに治るって。良かったですね」
「ええ」
「実は、親父から言われて来たんです」
と、翔は言った。
「そう……」
克子は|肯《うなず》いた。
当然そうだろう。
克子と翔の付き合い。克子を雇ってもいいという話。――「石巻」の姓がある限り、そんなことは不可能だ。
「で、お父様、何て?」
と、克子は|訊《き》いた。
「返事を聞いて来いって。うちへ来る気があるのかどうか」
翔の言葉に、克子は目を丸くした。
「そんなこと……。無理よ」
と、克子は言った。「父のこと、見たでしょう? そりゃあ、私や兄は、父のしたことに責任はないと思ってるわ。でも、『石巻』って姓は消えない。私がお父様の会社へ入ったら、お宅のご|親《しん》|戚《せき》から、きっと反対が出るわ。そうでしょ?」
「親戚が克子さんを雇うんじゃありません」
「そりゃそうだけど……。そんなに単純なものじゃないのよ」
翔がちょっと笑った。
「何がおかしいの?」
「いつも克子さんは自分のことになると、急に古風になる。逃げてるんですよ、そんなの」
翔の言葉に、克子は詰まった。確かにそれはその通りだ。
「翔君……」
「克子さんが、親父の下で働きたくないのなら、断って下さい。でも、それ以外の理由じゃ、だめです」
「だめじゃない」
「だめ」
「だめじゃないってば」
「だめですよ」
押し問答していると、そばが二つ来た。
「――もう一つの理由は、僕ですか」
「そう」
「僕が嫌いですか」
「いいえ」
「じゃ、あの男性のことが……」
「別れたわ」
「じゃあ、いいでしょ」
克子は、割りばしを割って、
「気を付けて。とげ刺すわよ。――翔君。もしこんなこと続けてったら、どうなるの?」
「続けてみなきゃ分かりませんよ」
と、翔も食べ始めた。「そうでしょ? でも僕の気持ちは――いてっ!」
「ほら、とげ刺した」
克子は自分のはしを置いて、「見せて。――ここは、あなたがいつも行くような高級店じゃないの。割りばしはとげだらけ。だし[#「だし」に傍点]はインスタント……。じっとして」
克子は、翔の手を取って、小さなとげを抜いた。
二人の手に、あのリングが、はめたままだった。
翔は、克子の手を握ったまま、離さなかった。克子は困ったように目を伏せ、それから、また翔を見た。
「ね、お客が待ってるわ」
と、克子が言った。「手を離して」
「その代わり、キスしていい?」
「|馬《ば》|鹿《か》言わないで」
真っ赤になって、克子は翔をにらんだ。
「じゃ、離さない」
「翔君――」
「本気です」
昼休みのたて混んだそば屋。これほど、「愛」を語るのに向かない場所もあるまい。
しかし、それは二人が真剣かどうかとは、関係ないことなのだ。
「分かったわ」
と、克子は息をついて言った。
「じゃ、いいんですね」
「ええ」
克子は、翔の問いを、黒木の会社へ入ることだと思って返事をしたのである。ところが――身をのり出すと、突然翔は克子にキスしたのだ。
「何するの!」
克子はあわてて手を引っ込めた。
「だって、いいって、今――」
「そのことじゃなくて……」
店の客がチラチラ二人の方を見ている。
「もう!」
克子は財布をつかむと、立ち上がって足早に店を出た。
ほとんど走るように、表の通りへ出て……。足を止める。
どうして追いかけて来ないんだろう? 怒ったのかしら。
待っていると、翔が駆けて来た。
「克子さん――。払う所で待っててくれりゃいいのに」
「あ、いけない」
代金を払わなかった! この辺は、食券の店も多いので、つい、もう払っていたような気がしたのである。
「ごめんなさい。払うわ」
「いいですよ。――ね、克子さん」
腕をとられて、克子はもう逆らわなかった。
「あなたって……。おとなしいだけの坊っちゃんかと思ったのに。強引なんだから」
と、笑ってしまう。
「誤解したのは、そっちの責任」
「そうね」
克子は、胸のつかえが一気に消えたような気がした。
もちろん、この先、翔とどうなるか、分からないとしても……。今はこの現実を受け容れよう。
そう。中には「敵でない現実」もあるのだ。克子は、初めて肌でそう感じた。
「克子さん」
「うん」
「そば、ほとんど食べませんでしたよ。何か食べましょ。お腹ペコペコで」
翔の情けない声に、克子はふき出してしまった。――空腹という最も身近な「現実」を、二人はまず解決しなくてはならないのである。
やさしい|季《き》|節《せつ》(下)
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年2月9日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『やさしい季節(下)』平成9年9月25日初版刊行