角川文庫
ふしぎな名画座
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
[逢びき]のあとで
[天使の詩]が聞こえる
[非情の町]に雨が降る
[コレクター]になった日
[ドラキュラ]に恋して
[もしも…]あの日が
お出かけは[13日の金曜日]
[間違えられた男]の明日
[ローマの休日]届
[逢びき]のあとで
[#ここから2字下げ]
逢びき
Brief Encounter
1945年イギリス
[監督]デビッド・リーン
[原作・脚本]ノエル・カワード
[出演]トレヴァー・ハワード/シシリア・ジョンソン/スタンリー・ホロウェイ
[#ここで字下げ終わり]
1
雨上りの、|濡《ぬ》れた路面に原色の光が散らばっていた。
ネオンサインも、こうして足下に映してみると、なかなか芸術だね、と竹中は|呟《つぶや》いた。口に出して呟いたのかどうか、自分でもよく分らない。
それにしても……。こんな道があったかな? いつもこの辺で飲んで行くから、たいていの道は知っているつもりだったが、今歩いている通りには、|見《み》|憶《おぼ》えがなかった。
少なくとも今は前にも後ろにも誰も歩いていなくて、ちょっと寂しい道だ。あんまり人通りがない道なのかもしれないな。
今の竹中の気分には、ちょうどぴったり来た。|下《へ》|手《た》に会社の同僚なんかと顔を合わせて、無理やり付合わされたりしたら、かなわない……。
一人でいたいんだ、|俺《おれ》は。誰にも邪魔されたくない。誰にも――。
竹中は足を止めた。
〈名画座〉。――〈名画座〉だって?
何とも懐しい響きじゃないか。竹中の顔には、我知らず、笑みが浮かんでいた。
ずっと昔。若いころ――高校生、大学生の時代に、ずいぶん小さな〈名画座〉へ通い詰めたもんだ。入場料も安くて、その代り画面は傷だらけ。雑音は入るわ、上映の途中でフィルムは切れるわ、もちろん今のビデオ時代なんか、想像もできない時代だった。
しかし今は……。もうこんな〈名画座〉なんて姿を消したのかと思っていたのに……。
ドア一つぐらいの小さな入口。ポカッと開いたその空間は、何だか遊園地の〈お化け屋敷〉か何かの入口みたいに見えた。その上に、〈名画座〉というネオンサイン。
「〈逢びき〉だって?」
思わず、竹中は声に出して言っていた。入口のわきに|貼《は》った一枚のポスター。
「〈逢びき〉か……。何とまあ……」
ちょっと首を振って呟くと、自然に竹中の足はその入口へと向って歩き出していた。
少し怖いぐらいの、急な階段を下って行くと、小さなロビー。布張りの厚い扉越しに、あの曲が聞こえてきた。
もう、ここから引き返すことはできなかった。竹中は、|財《さい》|布《ふ》を取り出したが……。
どこで切符を買うんだ?――不思議に思って、周囲を見回したが、だいたい一目で見渡せる狭いロビーなのである。
自動券売機もなければ、半券を切るおばさんもいない。――どうなってるんだ?
ともかく入ってみることにした。中へ入れば……。
竹中は重い扉を、力をこめて引っ張った。
見ているとなぜかホッとする、古いモノクロの画面。蒸気機関車。プラットホーム。
トレヴァー・ハワード。シシリア・ジョンソン。そして――ラフマニノフ。
この映画をこの前見たのは、何十年前のことになるだろう?
途中からではあったが、竹中は細かい部分もよく|憶《おぼ》えていた。そして、雑音だらけのサウンドトラックから鳴るラフマニノフのピアノ協奏曲第二番の旋律は、若い日々のように、竹中の胸をしめつけたのである。
しかし――胸の痛み[#「痛み」に傍点]は、若いころのそれと、少し違っていた。平凡な人妻に訪れた束の間の恋。小さな冒険。
若い日の竹中は、その二人の「恋」に、心から共感することができた。一緒に泣くことができた。
しかし今は――。
平凡な人妻に「ふと訪れる恋」だって?
男には? 疲れた男には、何もやって来はしないのだ。そうだろう。
この映画に出てくるような「当り前の恋」さえも、俺を見放しているのだ。
そうさ、と竹中は皮肉っぽく|微《ほほ》|笑《え》んだ。
現実の中では、たとえ誰か心をひかれる相手に出会ったとしても、お互いにゆっくり話をする時間がうまくとれるわけがないし、万一、うまく時間があっても、入ろうとした喫茶店が満員だったり、やたら音楽をでかい音でかけて、話なんかできなかったり……。
そんなものさ。――この現実の世界には「サウンドトラック」なんてついてなくて、ラフマニノフが聞こえてくるわけじゃないんだからな――。
映画は終りかけていた。そして、ラフマニノフのメロディが……。
そのとき、竹中は急に腕をつかまれて、びっくりした。
隣に座っていた客が、不意に竹中の腕をつかんだのだ。
「あの――」
と、戸惑った竹中が言いかけると、
「すみません。ちょっと気分が……」
女だった。竹中は初めてそのことに気付いた。
「大丈夫ですか。ええと……」
「申し訳ないんですけど……。ちょっと外へ……」
「ああ……。いいですよ。立てますか?」
竹中は先に立ち上って、その女性の腕を取り、少し力をいれて、立たせてやった。
「足元に気を付けて……。つかまっていいですよ、肩にでも」
「本当に、あの……」
二人して、扉を開けてロビーへ出る。ロビーも薄暗いくらいだったが、映写中の所から出て来ると、まぶしい。
「そこの長|椅《い》|子《す》に。――空気が悪かったんじゃないかな」
女を座らせて、竹中は言った。「何か飲みますか、冷たいものでも。――といっても、自動販売機もないんだな、ここ」
と、ロビーを見回す。
「いえ、じっとしていれば、大丈夫です」
女は、何度か深呼吸した。――竹中は、初めて女を見下ろし、ゆっくりと眺めた。
髪を短めに切って、まとめてある。ほっそりした体つきを、地味なコートで包んでいた。
年齢は、まあ三十代の後半から――もしかすると四十ぐらいに届いているのかもしれない。いずれにしても、竹中より十歳近く年下だろう。
細面の、少し青白い顔。気分が悪いせいもあろうが、もともとよく日焼けしているという顔ではない。
二、三分、女は目を閉じていたが、やがて呼吸も大分静かになって、顔に血の気が戻ってきた。
「大丈夫ですか」
と、もう一度声をかける。「外の空気に当った方がいいかもしれない」
「ええ……。そうですね」
女は、自分の体が自分のものではないように、そろそろと立ち上った。
「階段が危い。――僕につかまって、上った方が」
「すみません、すっかりご迷惑を――」
と、女は言いかけて、「あの……」
「何です?」
「映画、終っていなかったのに……。ご覧になれませんでしたね」
「いや、いいんです」
と、竹中は笑顔になった。「昔、何回も見たんですよ」
「そうですか」
女はホッとした様子で、竹中の肩に手をかける。そして、狭くて急な階段を上りかけて、ふと、
「私も」
と、言った。「私も、何回も見ているんです、この映画」
――このとき、初めて竹中は胸が不思議な感覚で満たされ、顔がほてるように熱くなるのを感じた。
「ただいま」
と、玄関を上って、竹中は言った。「――おい、いないのか」
台所を|覗《のぞ》くと、妻のユキが洗いものをしていた。
「おい」
と、もう一度声をかけると、
「ああ、びっくりした!」
と、ユキは息をのんだ。「――何よ、いきなり!」
「さっきから、『ただいま』と言ってるじゃないか」
「聞こえないわよ。水を出してるんだから」
と、ユキは、水を|一《いっ》|旦《たん》止めて、「何か食べるの? もう食事はすんだんでしょ」
「ああ。――お|茶《ちゃ》|漬《づけ》でもするか」
「お湯、沸かすわ」
と、ユキは言った。「珍しいこと」
「何が?」
と、竹中は戸惑って言った。
「帰ってきて、いちいち『ただいま』なんて言ったこと、なかったくせに。――何かいいことでもあったの?」
竹中はドキッとした。いつもと全く同じに振舞っているつもりだったのに、どうやらそうでもないようだ。
「何もあるわけないだろ」
と、竹中は言った。「|風《ふ》|呂《ろ》は?」
――風呂へ入って、じっと熱い湯に浸りながら竹中は、今夜の出来事は現実だったのだろうか、と思い始めた。
あんなこと[#「あんなこと」に傍点]が、|俺《おれ》の身に起こるのか。五十に手が届こうという、この疲れた中年男に……。
あの映画のトレヴァー・ハワードはいくつだったろう? 西洋人は老けて見えるから、今の俺よりもちろんずっと若いに違いない。
そう。――映画の中でなら、あんなことがあってもおかしくない。しかしこの現実の世界で……。
モノクロでもなく、バックにラフマニノフも流れないのに……。それでもあの女は俺に笑いかけ、まるで子供のような、無邪気な声で笑ったのだ。
竹中の胸はときめいた。――少年のように。
それが言いすぎなら、青年のように、と訂正しようか。五十歳から戻るには、どっちも遠い過去である。
「いつまで入ってるの、あなた?」
と、ユキの声がして、竹中は我に返った。
「もう出るよ」
竹中は、いつもの[#「いつもの」に傍点]声で、答えたのだった……。
2
「竹中さん」
昼食から戻って、自分の机につくと、竹中は同じ課の女の子から声をかけられた。
「うん? 電話かい?」
「お客様が。――十分くらい前から、下のロビーでお待ちです」
「誰だろう? すぐ行くよ」
一口、冷めたお茶を飲んで、立ち上ると、
「女の人ですよ。竹中さん、隅に置けないんだ」
と、女の子にからかわれて、
「おいおい」
と、苦笑しつつ、竹中は顔が赤くなるのを感じて、あわててエレベーターホールへと歩き出していた。
昼休みに?――まさか!
俺を訪ねてくるなんてことが……。
あの夜[#「あの夜」に傍点]から、五日たっていた。竹中の日々は、それまでと一向に変りない。仕事も、家も、どこも変らなかった。
それでいて、竹中はどこかで自分が変ったこと、次の日を楽しみにしている自分に気付いていた。あの女[#「あの女」に傍点]のおかげだろうか。
エレベーターで一階へ下りると、ロビーを見回す。
昼食を終えた同僚たちがゾロゾロと戻ってくるので、のんびりはしていられない。
キョロキョロしていると、
「お父さん!」
ポンと肩を|叩《たた》かれて、振り向く。
「|朋《とも》|子《こ》。――お前か、客って?」
「あら、がっかりした?」
去年結婚した一人娘である。
「そうじゃないさ。ただ――仕事の客かと思ったんだ。どうしてこんな所に?」
「お友だちと会って、帰り。――お茶ぐらいおごって」
一人っ子の朋子には、竹中も甘い。顔が見られたら、|嬉《うれ》しいのである。
ちょうど通りがかった同僚に、少し遅れる、と声をかけて、朋子を促して外へ出た。
「何か用なのか? 金を貸せっていうのなら、母さんに言ってくれ」
「やめてよ」
と、朋子はむくれた……。
――近くの喫茶店で、朋子はちゃっかりとランチを食べた。
「お父さん、いいの、時間?」
「ああ。――別に俺が少々いなくたって、誰も困らん」
と、竹中は言った。
仕事が生きがい。そんな日々は、もう遠くに去った。三十代の末に、胃をやられて入院し、竹中は出世コースから外れた。
あとになって考えれば、そのときに新しい生き方を考えれば良かったのだ。まだ何でもやり直せる年齢だった。
しかし、将来を|賭《か》けていた会社が自分を見捨てた、というショックは大きかった。竹中は一気に老け込み、やる気を失った。
ユキとの間が、何となく冷え冷えとしてきたのも、そんなころだったかもしれない。一人っ子の朋子を軸に、何とか「家」は形を保っていた。
しかし、その朋子も去年、妙な顔をした、「どこがいいのかさっぱり分らない」男が、かっさらって行ってしまった。
ユキとは、一日中口をきかないことも珍しくない。今さら|喧《けん》|嘩《か》したいとも思わないし、お互い、静かにしていれば、邪魔にもなるまい。――そんな仲だった。
「そのネクタイ、お父さんが買ったの?」
朋子が、竹中の新しいネクタイに気付いた。
「うん……。おかしいか? いつも暗いのばかりしめてるからな。たまには少し派手なの、と思って」
と、手で持ち上げてみる。
「悪くないわよ」
と、朋子は言った。「――コーヒーもらおう。お父さんは?」
「ああ……。もう一杯飲むか」
竹中は、朋子がじっと探るように自分を見つめているのに気付いて、面食らった。
「何だよ、おい。――何か顔についてるか?」
「お父さん」
朋子は、座り直して言った。「お母さんが別れたい、って」
竹中は耳を疑った。
「――何だと?」
「お母さん、お父さんと離婚したいんだって」
竹中は、コーヒーが来るまで、ポカンとして、娘を見つめていた。
「頼まれて来たの」
と、朋子は言った。「お母さん、直接話したら、お父さんが大騒ぎするだろうから、って」
「何の話だ?――離婚?」
「そう。お父さんも感じてなかったの? そんな気配、あったでしょ」
竹中は、朋子が冗談でも言っているのかと思った。しかし――朋子は真剣だ。
「待ってくれ。俺は……。いや、ユキの奴、どうしてそんなことを言い出したんだ?」
「お母さん、気が付いているのよ。分ってないの?」
「何を?」
「お父さんに恋人ができたことよ」
竹中は、|唖《あ》|然《ぜん》として、コーヒーに砂糖を二回も入れてしまった……。
あの道は、どこだったろう?
竹中は、くたびれて足を止めた。足が棒のよう、とは、こういうことを言うのだろう。
もう、さっきから二時間近く、歩き回っている。それでいて、あの〈名画座〉を、どうしても見付け出すことができないのだ。
こんなことがあるだろうか?
もちろん、〈名画座〉を見付けたからといって、どうなるものでもない。しかしあの女は、この前、別れるときに言ったのだ。
「あの〈名画座〉でね、また」
と――。
もちろん、あの女も毎日あそこへ足を運んでいるわけではあるまい。しかし、竹中には他に女を見付ける何の手がかりもないのだ。
――仕方ない。
|諦《あきら》めて、竹中は帰ろうとした。この足を少し休めて……。
あの女と、映画館を出てから入った喫茶店が目に入る。あそこで少し休んでいこうか。
店は空いていた。
四人がけの席にゆっくりと腰をおろして、息をつく。腰が痛んだ。
ココアを頼んで、水をガブガブと飲み干した。
ユキの奴……。一体俺が何をしたっていうんだ!
しかも、娘の朋子に、あんな話を……。
確かに、竹中はあの〈名画座〉で会った女と、しばらく時間を過した。しかし、ホテルへ入ったのでも何でもない。
ただ、お茶を飲み、話をし、少し一緒に歩いただけだ。
歩くときに、女と腕を絡め、ちょっと恋人気取りでいたりしたのは事実だが、そんなものは浮気でも何でもない。そうだろう?
竹中の中に、あの女にまた会いたいという気持、たぶん、会えるだろうという期待があったことは否定できない。そしてもし――そんなことはあり得ないだろうが――あの女の方で、竹中を誘って来たら……。
拒むことはできないだろう、と竹中は思った。
「お待たせしました」
ココアが来て、竹中が熱いカップをそっと持ち上げると、目の前の席に、あの女が座った。
幻か? 竹中はぼんやりと女を見つめていた。
「見かけたんです。さっき、チラッと。遠かったから、見失って……。もしかしたら、ここにおられるかと思って」
と、女は言った。「今日も〈名画座〉に?」
「いや」
と、竹中は首を振った。「君に会いたくてね」
「ごめんなさい。この間、名前も何も言わなかったわ」
「ああ……。いや、こっちも|訊《き》かなかったしね」
「私に、何かご用が?」
と、女は訊いた。
「実は――」
竹中は言おうと思った。妻からとんでもないことを言われたのだと。
しかし、それはこの女と何の関係もないことだ。そうだ。俺と妻との間の問題なのだ。
「いや……。会いたかったのさ。理屈じゃない。そうだろう?」
と、竹中は言った。
「ええ。――理屈じゃないわ」
女が、輝くような目で、じっと竹中を見つめる。その|瞳《ひとみ》の中へ、吸い込まれてしまいそうだった。
そのとき――喫茶店の中に、音楽が流れ始めた。竹中は耳を疑った。
そして二人は、ちょっと笑った。
それがラフマニノフのピアノ協奏曲第二番だったからだ。――これが現実の中で流れるなんて!
竹中は、ここで女と会ったことを、もう不思議とも思わなかった。
「出ようか」
と、竹中が女を見つめたまま言った。
「ええ……」
「一緒に……来るかい?」
「ええ」
女は|肯《うなず》いた。
ためらいは、もうなかった。
竹中は女と一緒に喫茶店を出て、夜の道を歩き出していた。
3
竹中は、ぼんやりと夜道を歩いていた。
道そのものも、竹中自身と同様、いやに間隔の開いた街灯で、ところどころポカッと明るくなっているだけだ。――家まで、あとどれくらいだろう?
歩き慣れた道なのに、いやに遠く感じるのは、ただ疲れているだけなのか。
疲れている? どうして[#「どうして」に傍点]疲れているんだ?
竹中は、苦々しく笑った。どうやら俺はどうかしちまったらしいぞ。
とっくに夜中になっている。――あの女(と呼ぶしかない)と、〈名画座〉の近くの喫茶店で出会い、二人して「覚悟を決めて」店を出てから……少なくとも四、五時間はたっているのだ。
一体、何があったんだ? 竹中は、まるで自分が一瞬のうちに時間を駆け抜けてしまったような、奇妙な印象に|捉《とら》えられていた。
女と――どうしたんだろう、俺は?
喫茶店を出た。それははっきり|憶《おぼ》えている。どこへ行くつもり[#「つもり」に傍点]だったのかも、分っている。そして二人でホテルへ入ったことも……。入ったのか[#「入ったのか」に傍点]? 本当に?
なぜか、その記憶はおぼろげなのだ。酒を飲んでいたわけでもないのに。
その先のこととなると……。たぶん、竹中は女と寝たのだろう。しかし、思い出せない。
なぜだろう? こんなことがあるのか。
ともかく――憶えているのは、ホテルの前で、女が彼の肩に頭をもたせかけて、
「すてきな夜だったわ」
と、言ったことだった。「――また、あの〈名画座〉へ来てね、私に会いたくなったら」
そう言って……。竹中が何も言えずにいるうちに、女は足早に夜の中へ消えてしまった。
そして、竹中はこうして――やっと自分の家へ帰ってきた、というわけだ。
どうなってるんだ? 竹中は、ちょっと肩を揺って、玄関の|鍵《かぎ》を開けた。
家の中は暗かった。――ユキの奴、寝ちまったのか。娘にあんなことを伝言させて、自分はさっさと床へ入っているとはな。全く!
妻と、どんな話になるものやら、竹中にも見当がつかなかった。寝ていたら、わざわざ起こすまでのこともあるまい。こっちも明日は会社がある。
妙だな、と思った。――ユキは寝るときでも台所の小さな明りは|点《つ》けておくのに、今は全く、真暗なのだ。
玄関の明りを手探りで点け、上ると、竹中は居間に入った。そして明りを点けると――。
どうしたんだ? カーテンも引いていないのを見て、竹中は当惑した。こんなこと、ユキらしくないことだ。
竹中は寝室を|覗《のぞ》き、それから家中を捜し回って、ユキの姿がどこにも見えないことが分ると、途方にくれてしまった。どこに行ったんだ? 何も言わずにどこかへ出かけるなんてことは……。
そこまで考えてから、やっと竹中は思い出した。妻が、彼の「浮気」に腹を立て、別れたがっていたのだということを。では――あいつは出て行ってしまったんだろうか?
|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた竹中は、コートを脱ぐのも忘れていた。コートをソファへ投げ出したのは、娘の朋子に電話をかけようとして、手帳を取り出すときだったのだ。
「――朋子か?」
「お父さん? どうしたの、こんな時間に?」
朋子は眠そうな声で電話に出てきた。
「いや……ユキ、そっちへ行ってるか?」
少し間があって、
「お母さん? 来てないわよ。いないの?」
「いないから、電話してるんだ」
「そりゃそうね」
朋子も、少し目が覚めたらしい。「今……夜中よ。お父さん、今帰ったの?」
「ああ。真暗で、カーテンも引いてない。どこへ行く、ってメモもないし……」
「待って。――確かにお母さんらしくないわね。お隣の人とかに訊けない?」
「こんな時間にか?」
「隣の――ほら、いつも遅くまで仕事してる絵かきさん、いたじゃない。まだ起きてるでしょ」
「ああ……。そうか。じゃあ――訊いてみるかな」
「そうして。何か分ったら電話してよ。ね?」
「分った」
そう言ったものの、気は進まなかった。大体、近所付合いなど、竹中は苦手なタイプである。しかし、今は他に思い付けない。
町会の名簿で、隣家の電話番号を調べてかけてみた。――実際、すぐに向うが出たので、びっくりした。ちょっと|咳《せき》|払《ばら》いして、
「隣の竹中です。申し訳ないです、こんな時間に。実は今、帰ってきますと、女房の姿が見えなくて。――はあ。何か、お宅へことづけでもなかったかと……。はあ?」
――どうも、と礼さえ言ったかどうか、定かではなかった。
電話を切った竹中は、自分で気付かないうちに、ソファに腰を落としていた。
出かけるのを見かけた。ユキが男の車に乗って……。タクシーでなく、自家用車だった。相手の男と、ユキは助手席に乗って何やら熱心に話し込んでいた……。
そして出かけた。出かけたのだ。
もうこんな時間になって、まだ帰っていない。ユキの奴……。
電話が鳴り出す音で、竹中は飛び上るほどびっくりした。
急いで出てみると、朋子からで、
「何か連絡でもあった?」
と、訊いてきた。
「朋子、お前――」
と言いかけて、口ごもる。
「どうしたの?」
「知ってたのか? ユキが……」
「何よ? お父さん……」
「あいつは男と出かけたんだ。俺と別れたいだって? 自分の方がそうしたかったんだ!」
言葉の勢いで、竹中は怒鳴っていた。「お前も知ってたんだな!」
「待ってよ、お父さん――」
「ふざけやがって! ユキと二人して俺を――」
こんなに一気に頭に血が上ることは珍しかった。突然、鋭い痛みが胸の奥を突き刺した。
「何言ってんのよ! お父さん、聞いてる? 馬鹿なことを――もしもし?」
竹中は痛みに声も上げられず、うずくまった。受話器が落ちる。とても、そんなものに構っていられなかった。
「もしもし?――お父さん!」
朋子の声が受話器から飛び出してくる。
しかし、竹中は、答えることもできなかった。痛みは大波のように竹中を|呑《の》み込み、暗い、黒い底へと沈めてしまった……。
*
「――気が付いた?」
朋子の、半ば冷やかすような、皮肉っぽい声を耳にしたとき、竹中は自分が助かったのだと悟った。
いくら何でも、「あの世」で、こんなしゃべり方をする奴はいないだろうからな……。
やがて視界がはっきりして来ると、|覗《のぞ》き込んでいる娘の顔と、白っぽい天井が見分けられた。
「何してるんだ」
と、竹中は|呟《つぶや》いた。
「ここは病院よ」
と、朋子は苦笑いして、「何してるんだ、じゃないわよ、本当に」
「そうか……。いつ来たのかな? よく|憶《おぼ》えてないが」
「ゆうべ遅く。意識失ってたのよ。救急車呼んで、大変だったんだから」
朋子は、文句を言いながら、上機嫌の様子だった。「心臓、悪かったんだって? 知らなかった」
「俺だってそうさ……。死にそこなったわけか」
と、竹中は苦笑した。「ユキは?」
「お父さんに食べさせる物、持って来るって帰ったよ、|一《いっ》|旦《たん》。好みのやかましいお父さんじゃ、病院の食事はまず口に合わないだろうって」
朋子は、クスクス笑いながら、「早とちりなんだから! お母さんが浮気? 何言ってんの! お母さんはね、お友だちのお父さんが亡くなって、お葬式に行ってたのよ。ご近所だった親戚の方が迎えに来てくれて、その人の車で行ったんだって。お友だちと話し込んで、帰りが遅くなったらしいけど、お父さんのあわてんぼも、相当なもんね」
「そうか」
竹中は拍子抜けする気分で言った。「――そうか」
朋子は座り直した。
「お父さん。――どうなの、お父さんの方は?」
竹中は、|枕《まくら》の上で、ゆっくり頭を左右に振った。
「分らん」
「分らん、って?」
「どこの何て女かも、知らないんだ……。おい、朋子、すまんが頼まれてくれないか」
「何を? どうせ大した仕事もないから、いいけど」
竹中は、あの〈名画座〉で〈逢びき〉を見たことから、朋子に話してやった。何もかも。――しかし、話しながら、自分自身、あれが本当の出来事だったのか、自信がもてなくなってきたのだ……。
「――分ったわ」
朋子は|肯《うなず》いて、「じゃ、私、その〈名画座〉を捜してみる。うまくその女の人に会えるといいけどね」
「頼めるか? すまんな」
「あとで何か買ってよね」
と、朋子は笑って言うと、「じゃ、もう行くわ」
「帰るのか」
「こう見えても、亭主のいる身ですからね」
朋子はちょっとウィンクして見せると、「じゃあね、お母さんの言うこと、よく聞くのよ」
と立ち上って、小さく手を振り、病室を出ていった。
4
病室は薄暗かった。
もう夜になったのかな?――竹中は、すっかり時間の感覚を失くしていた。
昼でも夜でも、ふっと眠り込んだり、目を覚ましたりする。そばについていてくれるユキが|呆《あき》れるくらい、竹中はよく眠った。
そんなに眠れる自分に、竹中は驚いた。俺はこんなに疲れていたのか? まるで何年分――いや、何十年分の眠りを取り戻そうとしているかのようだ。
そして今は……。何時だろう? ユキはいない。夜中なのかな? いやに静かだし。
この同じ病室にいる患者も眠っている様子だ。
ドアが、音をたてずに開くと、シルエットの人影が見えた。その姿は竹中のベッドのそばへ来て、座った。
「君か……。よく来てくれたね」
と、竹中は言った。
あの女[#「あの女」に傍点]は、少し|哀《かな》しげに|微《ほほ》|笑《え》んでいた。
「大変だったのね」
「ああ……。長いこと、自分を放っておいた報いだね」
と、竹中は言った。「君は……」
「あんまりしゃべると疲れるわ」
と女は言った。
「いや、しかし……」
「古い映画のフィルムの中で生きて、笑って、恋をしてる人たちのことを考えて。みんな、今はもうこの世にいないか、それとも年老いて、じっと寝ているかだわ。でも〈名画座〉のスクリーンでは、若返って、活き活きと飛び回ってる。――私のことも、そんな影だと思って」
「影? 君がか?」
「ええ。――あなたの若いころの思い出の中にいる影」
「君と……どこかで会ったかな、昔」
「たぶんね」
と、女は楽しげに微笑んだ。「〈名画座〉の中で、度々、会っていたわ」
「〈名画座〉か……」
竹中は、女が立ち上る気配を見せたので、「もう、行っちまうのかい」
と、声をかけた。
「奥様がみえるわ」
「ユキが?」
「あなたの可愛い人が」
「昔の話だ」
と、竹中は笑った。
「いいえ。今でも、とても可愛い奥さんだわ」
「そうかな。――君」
「何?」
「俺は君と……一夜を過した。そうだろ?」
「ええ」
と、女は|肯《うなず》いた。
「しかし、俺は憶えてないんだよ、何も。酔ってたわけでもないんだが……」
「私たち〈名画座〉で会ったんですもの」
「どういう意味だい?」
「〈逢びき〉を憶えてる? ラブシーンらしいラブシーンなんか、一つもなかった。昔の映画は二人が寝室へ入ってドアが閉ると、もう翌朝。――それと同じよ。私たちの恋は、二つの場面の間の|暗《くら》|闇《やみ》の中」
「なるほど」
と、竹中は笑った。「古い映画ファンの恋にはふさわしいかもしれないな……」
「そうよ。――さあ、目を閉じて。眠いんでしょ?」
「いや、もう充分すぎるくらい、眠ったよ……。もう充分だ……」
しかし、ごく自然に|瞼《まぶた》は閉じ、スッと竹中は眠りに引き込まれていった。
「――お父さん」
目を開けると、朋子が座っていた。
「お前か。今、あの女が――」
竹中は、明るく日の射し込む病室を見渡した。廊下にも忙しげな足音や、人の声が行き交っている。
「大丈夫? 夢でも見てたの?」
と、朋子は言った。「――調べてみたわよ、お父さんの話。でもね、どこにもそんな〈名画座〉なんてなかったわ」
「何だって?」
「本当よ。ずいぶん捜して見付からなかったんで、役所へ行って調べたの。あの付近にはもう、映画館は一軒も残ってないのよ」
竹中は、ぼんやりと天井を見上げた。
「お父さん、幻でも見たの? それとも、狐にでも|騙《だま》されたのかもね」
朋子は、そう言って笑った。「あ、お母さんだ。――じゃ、私、行くね」
「朋子……」
「幻の彼女[#「彼女」に傍点]によろしく」
と、朋子は言って、病室へ入って来た母親の方へと歩いて行った。
――ユキが、朋子を送ってから戻ってきた。
「お腹は?」
「空いているかな……。よく分らん」
「頼りない人ね」
と、ユキは苦笑した。「お弁当、作ってきたわよ」
「もらうよ」
竹中は、少し体をずらして起き上った。「――なあ、ユキ」
「何?」
「その女[#「女」に傍点]のことだが……」
「もういいのよ。――疲れてたのね、あなた」
ユキの目には、いたずらっ子を見るような光があった。
「そうだな」
竹中は、言う言葉を見付けられなくて、手をのばすと、病院で貸してくれるポータブルラジオのスイッチを入れた。
「――おい」
「何だか聞いたような曲ね」
と、ユキが弁当の包みを開けながら言った。
ラフマニノフのピアノ協奏曲第二番だ。どうしてこの音楽が今……。
「さ、どれから食べる?」
ユキが弁当の|蓋《ふた》を開ける。
竹中は――何も考える間もなく、身を乗り出すようにして、妻にキスしていた。
「――何してるの!」
ユキが身を引いて、真赤になった。「馬鹿ね! どうかしちゃったんじゃないの?」
ユキはパッと立ち上った。|膝《ひざ》にのせていた弁当は、当然床へ落ちて、中身が辺りに飛び散ってしまう。
「まあ……。どうしよう! こんなこと……。あなたが変なことするからよ。もう、本当に!」
こんなにあわてている妻の姿を見るのは、初めてだった。竹中は、|雑《ぞう》|巾《きん》を取りに駆け出して行くユキを見ながら、声をたてて笑い出していた……。
*
「俺はもう失礼するよ」
「そうか。あんまり無理しない方がな。気を付けて帰れよ」
退院して、まだ間がない竹中のことを、同僚が心配してくれている。
「ありがとう」
竹中は、夜の道を歩き出した。――軽く一杯やっての帰り道は、快い軽さが足どりに宿っている。
元気でいられること、当り前に暮していられることのすばらしさを、今、竹中は実感しているところだった。
心臓は幸い、そうひどくもないらしく、急激な運動やストレスを避ければ、勤めにも戻れるということだったのである。
会社への屈折した思いも消えた。会社は生活の中の「一部」でしかない。家へ帰れば、ユキとのんびりおしゃべりをして過す時間がある。――妻も夫も、お互いに、相手がこれほどおしゃべりだったとは知らなかったようだ。
朋子も、あと半年もすれば母親になるらしい。そうなると、また竹中やユキはこき使われることになるだろう。
――この道は? ふと、竹中は足を止めた。
道の先に、あのネオンが見えた。
〈名画座〉。――それはそこにあった。
「もういいんだ」
と、竹中は|呟《つぶや》いて首を振った。「ありがとう……」
そして、足早に〈名画座〉の前を通り抜けた。チラッと女の面影が頭をかすめたが、足は止めなかった。
しばらく行って足を止め、振り向くと――。
もう、〈名画座〉は消えていた。
竹中はちょっと肩をすくめると歩き出した。
もちろん、竹中は見なかったのだが、彼が立ち去ってしばらくすると、あの場所には再び〈名画座〉のネオンが灯り、明るく華やかに、懐しい光を放ちながら、訪れる人を待っていたのだった……。
[天使の詩]が聞こえる
[#ここから2字下げ]
天使の詩
Incompreso
1967年 イタリア
[監督・脚本]ルイジ・コメンチーニ
[原作]フロレンス・モントゴメリー
[脚本]レオ・ベンレヌーティ/ピエロ・デ・ベルナルディ
[出演]アンソニー・クエイル/ステファーノ・コラグランテ/シモーネ・ジャンノッツィ
[#ここで字下げ終わり]
1
いつものように、タクシーの中でぐっすりと眠って、|梶川貢《かじかわみつぐ》は家の少し手前で目を覚ました。
これは、出張帰りの梶川にとって、一種の儀式のようなもので、出張の間、どんなに駆け回って、くたくたになって帰っても、この一眠りでスッと疲れがとれるのである。
もっとも、そのためには多少の投資を必要とした。タクシーの運転手にも色々ある。すぐに何かと話しかけて来る運転手だと、眠れないこともあるのだ。
梶川は、いつもタクシーに乗り込んですぐ、行先を言うと同時に千円札を何枚か握らせて、
「これから眠るからね、一切話しかけないでくれ。カーラジオも切っといてくれよ」
と、「宣言」してしまう。「その代り、今の金は料金外だ」
おかげで、郊外のニュータウンの真新しい我が家まで、一時間半の道のりを一切邪魔されることなく、眠って行けるというわけである。
梶川は、必ずしも「いつでも、どこででも眠れる」体質ではない。しかし、帰りのタクシーの中、というのはまるで別の空間ででもあるかのように、即座にぐっすりと眠ることができた。
そして、あと二、三分で我が家に着くという辺りで、ちゃんと目が覚める。――不思議だが、事実だった。
「――よく眠れましたか」
と、梶川が|欠伸《あくび》しているのをバックミラーで見て、運転手が言った。
「ああ、おかげでね。――その信号を左だ。やあ、結構時間がかかったんだな」
「途中で、工事がありましてね」
「そうか。最近は多いね、工事が」
もう、夜の十一時を回っていた。麻衣はともかく、久実子は寝ているかもしれない。
梶川は、空いた席に置いたおみやげの方へ手をやった。――どこへ行っても、二人の娘のためのおみやげは決して忘れない。
「道が古くなってますからね。ひびだらけで、つぎはぎですよ、どの道路も」
タクシーは細い道へと入って行った。
ひび[#「ひび」に傍点]だらけ、か……。道だけじゃない。人と人の間だって、同じことだ。
ただ、人と人の間のひび[#「ひび」に傍点]は、どんなものでも埋めることができない……。
「あれ? また工事かな」
と、運転手の言う声で、梶川は我に返った。
前方に、赤い灯の点滅が見える。
「パトカーですね。何かあったのかな」
「こんな所に? 普通の家しかないのにね」
梶川は少しのび上るようにして、「うちの辺りだ」
ふと、不安が胸をよぎった。――いや、まさか、いくら何でも……。
「ここでいい。――ご苦労さん」
あえて、タクシーを少し手前で降りると、急ぎ足で家へ向う。
パトカーが停り、近所の人が何人か寄って不安げに|覗《のぞ》いたりしているのが、我が家に違いないと分ると、梶川の顔からは血の気がひいた。――麻衣! 久実子!
手から、みやげものの袋が落ちた。|鞄《かばん》も投げ出して、駆け出していた。
「何ですか?」
と、若い警官が梶川を止めた。「立入禁止です」
「何があったんです! 一体何が――」
梶川が叫ぶように言うと、近所の人が気付いて、
「ここのご主人ですよ」
と、声をかけてくれた。
「ああ。――どうぞ」
警官は、無表情に言って、道をあけた。
玄関が開け放してあって、人が出入りしている。梶川は、まるで見知らぬ家に入るような気持で、玄関へ入って行った。
「――ここのご主人?」
と、コートをだらしなくはおった中年の男が、出て来て言った。
何だか冗談のような、TVの刑事ドラマなどで見る通りの刑事である。
「そうですが……」
「上って下さい」
促されて、梶川は上り込んだ。
「今出張から戻ったばかりで……。何があったんですか」
「まあ……あんまり気は進みませんが、誰かがお話ししませんとね」
と、刑事は言った。「奥さんは?」
「妻とは――離婚したんです。ここには娘二人で……」
「そうですか」
刑事は、|肯《うなず》いて、「実は……下の娘さんがね……」
久実子。――久実子。
いつの間にか、居間に立っていた。そして、白い布に覆われた「誰か」を見下ろしている自分に気付いた。
――確認。久実子の年齢。十三歳だった。
たったの十三歳だったのだ……。
「お気の毒です」
と、刑事は淡々とした口調で言った。「凶器は包丁。|尖《とが》ったので、心臓を――。アッという間で、苦痛はほとんどなかったでしょう」
「はあ」
「慰めにもならんでしょうがね」
と、刑事は言った。
「それで……」
梶川は、ゆっくりと刑事の方へ顔を向けて、「犯人は捕まったんでしょうか」
「いや、それが……」
「女の子二人ですから、用心しろと言い聞かせていたんですが。――まさか、こんなことに」
しゃべっているのが、どこかの他人のようだった。そして、梶川はハッとした。
「麻衣は? 上の娘ですが……。麻衣はどうしたんですか」
と、居間の中を見回したのは、もちろん無意識である。
刑事は不思議な目で梶川を見た。
「梶川さん。――落ちついて聞いて下さい」
「それじゃ……麻衣も死んだんですね。何てことだ!」
「いや、そうじゃありません」
と、刑事は首を振って言った。「上の娘さんは、ここにはいません」
「じゃ、どこに?」
「分りません。我々も捜していますが」
梶川は当惑して、刑事を見つめた。
「それは……どういうことですか?」
「つまり――下の娘さんを刺して逃げたのが、上の娘さん、麻衣さんだ、ということです。自殺の恐れもあるので、捜しているんですが、今のところ――。梶川さん! 大丈夫ですか!」
梶川の前の風景が揺れた。そして、そのまま床へ崩れて、気を失ってしまったのである……。
*
何をしているんだろう、俺は?
梶川は、じっとダイニングキッチンの|椅《い》|子《す》に座っていた。
自分が生きていること。それが不思議だった。どうして生きていけるんだ? どうしてこの心臓は止らないんだ?
もう夜中――二時を大分回っていた。
警察も引き上げ、久実子も……運び出されて行った。
一人、我が家に残って、ただぼんやりと座り込んでいるばかりだったのである。
電話が鳴った。――また[#「また」に傍点]か。
帰って間もなく、気を失って介抱されているところへ、会社の人間から電話が入った。梶川はちゃんと返事をし、明日は休むことにしたから、と言って仕事の指示を出しておいたものだ。
そしてまた、今……。二時過ぎに?
梶川は、やっと腰を上げた。居間へ入るのは気が進まなかったが、仕方ない。
電話は鳴り続けていた。そっと受話器を上げる。
「――もしもし」
向うは、しばらく沈黙していた。それから、
「お帰りなさい」
と、麻衣が言った……。
「お前か。――麻衣。今、どこにいるんだ?」
「遠くよ。ずっと遠く。お父さんに捕まえられないくらい、遠く」
麻衣の声は、そう遠い感じではなかった。
「麻衣――」
「ごめんなさい。びっくりしたでしょ」
と、麻衣は言った。「謝りたかったの。せめて一言だけ」
「お前、本当に――」
梶川はあとが言えなかった。
「そう。わたしが久実子を殺したの」
「どうして? どうしてだ? あんなに仲がいい姉妹だったじゃないか」
梶川は、その場に座り込んでしまった。「教えてくれ。――麻衣、何があった? 教えてくれ、お願いだ」
少し間があって、
「話しても仕方ないでしょ」
と、麻衣が言った。「もう戻って来ないわ、あの子」
「ああ……。しかし、お前は――お前はどうするんだ?」
「自分のことは自分で決めるの。もう忘れて」
「何を考えてる? お前のことを――」
「お父さん」
麻衣が少し強い口調で遮った。――そして、息をつくと、
「疲れたの、私。久実子もよ。疲れたの」
と、言った。
梶川はゾッとした。まるで、中年にさしかかった大人のような麻衣の言葉に、自分を鏡で見ている思いがしたからだった。
「お父さん。――お母さんを許してあげて」
麻衣は唐突にそう言うと、「じゃ、さよなら」
と、電話を切った。
梶川は、いつまでも受話器を握りしめて、床に座り込んでいた……。
2
〈真知子〉とだけ書かれた紙が、表札入れに|貼《は》りつけてある。
梶川は、ためらうことなくブザーを鳴らした。待つほどもなく、ドアが開いた。
「あなただと思ったわ」
と、かつての妻は言った。「入って。――ひどい顔よ」
「仕方ないだろう」
「ひげぐらい、当ったら?」
真知子は、小さな六畳間へ上って、「ドタドタ足音をたてないでね。下の部屋のおじいさん、|凄《すご》くうるさいの」
真知子は、梶川の記憶の中と、そう変っていなかった。二人はほとんど同じ年齢で、以前は真知子の方がむしろ老けて見られたものだが、今は逆かもしれない。
何しろ、この二日間で、梶川は十歳以上も|年《と》|齢《し》をとったような気がしていたのだから。
「何か食べた?」
と、真知子は|訊《き》いた。「倒れちゃうわよ、そんな様子じゃ」
「ああ……。大丈夫だ」
梶川は、あぐらをかいて座ると、簡素な部屋の中を見回した。
「麻衣は、まだ……?」
と、真知子が言った。
「うん。どこにいるのかな。――お前、ここで一人なのか」
「そうよ。昼はパートで事務の仕事。夜は近くのコンビニエンスで働いてるの」
「あの男、どうしたんだ」
真知子は、ちょっと笑って、
「一文なしになった私について来るほど、殊勝な男じゃないわ。こっちも期待はしてなかったし」
「そうか、俺はまた……」
「私が幸せにやってると思ってた? でも、今だって結構楽しいわ。誰に気がねもいらないしね」
真知子が、出張がちの夫の留守に、若い男と知り合って、結局離婚に至ったのは、五年前のことだ。二人の娘は梶川のもとに残り、母親抜きの分は、麻衣が頑張ってやって来た。
「何があったの?」
と、真知子が訊いた。
「知らん。お前が何か知らないかと思って来たんだ」
「どうして私が? もう何年も会ってないわ、二人とも」
「しかし――麻衣の奴が言ったんだ。『お母さんを許してあげて』と」
梶川が、麻衣からの電話のことを話すと、真知子は深々とため息をついた。
「どうなんだ。心当りはあるか」
「いいえ……。でも、私のことを忘れてなかったのかと思うと、|嬉《うれ》しいの」
「嬉しいだと?」
梶川は、カッとなって声を上げた。「あいつは久実子を殺したんだぞ!」
「だからって、二人とも私たちの子でしょう」
「俺の子だ! お前のじゃない!」
激しい言葉に、真知子の顔は|蒼《そう》|白《はく》になった。|一《いっ》|旦《たん》、口をついて出た言葉の流れは、止らなかった。
「お前が、あんな真似をせずに、ちゃんと家にいりゃ、こんなことにはならなかったんだ! 久実子を殺したのは、お前だ!」
|叩《たた》きつけるように言って、立ち上る。「いいか、葬式には出るなよ。来ても入れてやらんぞ」
真知子は何も言わなかった。
梶川は、そのアパートを飛び出すと、しばらく、すれ違う人が思わず振り向くほどの勢いで、歩いて行った。
足どりを緩めたのは、息が切れ、心臓が激しく打って、苦しくなってからのことだった。
――どこを歩いているのか、分らない。
ともかく、梶川は目についた喫茶店に入ると、コーヒーを頼んだ。しばらく、じっと座っている必要があったのだ。
何てことだ……。
真知子に、あそこまで言うつもりではなかったのだ。しかし、つい、言い出したら止らなくなってしまった。
いや、真知子に向って言ったことは、梶川の本音である。ただ、久実子の葬式には、来させてやってもいいと思っていた。
だが、今さら、あの言葉を取り消すことはできない。そうだとも。――俺は間違っていない……。
「どうぞ」
コーヒーが置かれた。
「ありがとう……」
ブラックのまま、そっと飲んでみると、思いの外おいしかった。――何か、救われたような気分になる。
ひどく疲れていたのだろうか。コーヒーを飲んだのに眠くなるなんて……。
この二日間、ほとんど眠っていない。緊張していたせいで、疲れを感じなかったのだろうが……。
何秒も、もちこたえることができなかった。梶川はソファの隅に体をもたせかけたまま、眠り込んでいたのだ。
*
梶川は、家の前に立っていた。
いつもと何の変りもない家。――夜だ。明りが|洩《も》れ、中からは笑い声が響いて来る。
その笑い声は、麻衣と久実子のものだった。もちろん、聞き分けることができる。
夢か。――これは夢なんだな、と梶川は思った。
久実子は死んでしまったんだし、麻衣も今ごろは、どこにいるのか……。
夢の中ででも、二人に会えれば、嬉しかった。梶川は玄関を入って行った。
「――ただいま」
と、居間へ顔を出すと、麻衣は女性週刊誌を広げており、久実子はソファに寝そべって、TVを一心に見つめている。
やれやれ………。俺が帰って来ても、見向きもしないのか?
梶川は、居間の中へ入って行くと、
「久実子、何見てるんだ?」
と、声をかける。
しかし、久実子は父親を見ようともしない。
そうか。――やっと、思い当った。
夢の中だから、梶川の姿は二人には見えないのだ。
それにしても――これが現実だったら、以前なら、
「そんな下らんものを見ないで、ちゃんと勉強しろ」
とでも文句を言っただろう。
しかし、今は[#「今は」に傍点]そんなことを言う気にもならない。二人が、生きて、そこにいてくれるだけで充分だ。
梶川はじっと二人の娘を見つめて、息すら殺していた。いっそ、いつまでもこのまま夢を見続けていたい、と思った――。
「ただいま」
と、玄関で声がした。
「あ、お母さんだ」
と、麻衣がパッと週刊誌を閉じ、玄関へ出て行く。
久実子は、多少心残りな様子ではあったが、TVを消すと、姉の後からついて行った。
「お腹空いた? ごめんね」
真知子が、大きな紙袋を手に居間へ入ってくる。「お弁当、買って来たわ。麻衣、お茶いれてね」
「うん!」
麻衣がダイニングキッチンへ駆けて行く。
「私のは、何のお弁当?」
と、久実子が袋の中を|覗《のぞ》いた。
「シューマイよ。温めといてあげるから」
「うん。お豆腐もあるよ」
――どうして、真知子が出て来るんだ?
梶川はその光景を眺めて、戸惑った。こんなことはあり得ない[#「あり得ない」に傍点]。そうだろう?
しかし、真知子も、全く様子が違う。
たった今会って来た真知子とも、以前一緒に暮していたころの真知子とも違うのである。
若々しい。そして、働く女性という印象の、シンプルで機能的なスーツ姿だ。髪も短くまとめて、何よりも肌はつややかで、目が活き活きと輝いているのである。
夢の中では何の意味もないとはいえ、梶川は、真知子がこれほど魅力的に見えたのは初めてだ、と思った。
真知子が着がえている間に、麻衣と久実子が食卓の用意をする。
「――さ、食べましょ」
と、真知子がやって来る。
おい、俺はどうなってるんだ?
食卓について食べ始めたのは、真知子、麻衣、久実子の三人である。――俺は出張中ってわけなのかな。
「お母さん。父母会の通知、来たよ」
と、久実子が言った。
「そう。いつ?」
「来週の火曜日。三時からだって、出られる?」
「火曜日ね」
真知子は、ちょっと考えて、「三時なら、たぶん何とかなるわ」
「無理ならいいよ。先生も知ってるし、お母さんが働いてること」
「できるだけ出るわよ」
と、真知子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「でも――」
と、麻衣が言った。「久実子、何も言われないでしょ、お友だちとかから。お父さんがいなくても」
「言われないわよ。珍しくないもん。離婚してる家とか、結構あるし」
真知子が、ちょっと食べる手を休めて、
「お父さん……電話して来ること、ある?」
と、言った。
「やめなよ、お父さんの話」
と、麻衣が言った。「家を出てったんだもの。初めからいないのと同じ。そう思ってりゃ」
――梶川は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
この夢では、自分の方[#「自分の方」に傍点]が、家を出たことになっているのだ……。
3
梶川は、ぼんやりとその「食卓の風景」に見入っていた。
いくら夢の中と分っていても、それはあまり楽しい光景とは言いかねた。何しろ父親である自分抜きで、真知子と二人の娘が、いとも楽しげに食事をしているのだ。どうしてこんな夢を見せられなきゃいけないんだ?
文句を言いたくても自分の[#「自分の」に傍点]夢である。それに――少なくともここでは、殺された久実子が、生きて、笑って、ご飯を食べている。そうだ。久実子はお米が大好きで、いつも「もっとおかずを食べるのよ」と、真知子に言われていたっけ。
「ほら、久実子。おかずも食べなきゃ」
と、ちょうど真知子がそう言ったので、梶川はドキッとした。
俺はこんなことを言ったことはなかった。――それはそうだ。年中忙しくて、一緒に夕食をとることなど、めったにない。
その点は、麻衣がよくやってくれていた。もともと、いかにも長女らしく、しっかりした子だったが、真知子がいなくなってからは、文字通り「母親代り」で、少しわがままでむらっ気な久実子の面倒を、よくみてくれた。
梶川は麻衣に感謝していたものだ。本当にありがたいと思っていた……。
その麻衣が――。なぜだ。麻衣、お前はなぜ妹を殺したりしたんだ!
梶川は叫び出したかった。しかし、今は何を叫んでもむだなことだ。これは夢の中なのだから……。
「あっ、電話。きっと私だ」
麻衣がはしを置いて、駆けて行く。すると久実子が、真知子の方へ、声を低くして言ったのである。
「今日、お父さんに会ったよ」
「まあ。どこで?」
「お姉ちゃんに内緒。怒るから」
「うん。で――何ですって、お父さん?」
と、真知子が少し身を乗り出して訊く。
「学校から出たらね、道の向う側に立ってて。でも、友だちと一緒だったから、私。少し行ってから、『忘れ物した』って言って、戻ったの」
「お話ししたの?」
「うん……。元気にしてるか、って。顔が見たかっただけだって」
「そう」
真知子は|肯《うなず》いた。「お父さん――元気そうだった?」
「少しやせたよ。でも、元気だって言ってた。お母さんを手伝ってやってくれ、って」
「そんなこと言ったの?」
と、真知子はちょっと笑った。
「でも……。お父さんって、そんなに悪いことしたのかなあ。お姉ちゃん、|凄《すご》く怒ってるけど」
久実子は、またご飯を食べながら、言った。
「そうねえ……。確かにね、出て行っちゃって、私たち大変だったものね。でも、あなたも大人になったら分るわ。人間って、大人になっても、どうしようもないくらい、誰かを好きになることがある、ってね」
と、真知子は、静かに言った。「だから――久実子も、大人になってから自分で決めなさい。お父さんのことが許せるかどうか」
久実子は、分ったのかどうか、ともかくコックリと肯いて見せた。
「私は許さない」
――麻衣が、いつの間にか戻って来て、話を聞いていたのだ。
「麻衣――」
「お父さんたら、久実子の方から手なずけようなんて! だめよ、口なんかきいちゃ!」
麻衣の口調は厳しかった。
「でも、お姉ちゃんのこと、一番心配してたよ。歯の痛いのは治ったのか、って訊いてた」
「大きなお世話よ」
麻衣はテーブルに戻ると、残ったご飯にお茶をかけ、一気にかっ込んで、
「ごちそうさま!」
と、走るように自分の部屋へ行ってしまった。
「――お父さんのことだと、すぐ怒る」
と、久実子がふくれっつらをする。
「そうじゃないの。麻衣はね、そりゃあお父さんと仲が良かったのよ。あなたがお母さんに甘えて来ると、いつもお父さんの所へ行って甘えてた。大好きだったのよ、お父さんのことが」
「そうかなあ」
「大好きだったから、お父さんが家を出てっちゃって、余計に腹が立つのね。久実子だって、知らない子に何かいやなことをされるより、仲がいいと思ってた子に悪口とか言われたら、いやでしょ」
「うん……」
分ったのかどうか、久実子は|曖《あい》|昧《まい》に肯いてみせた……。
梶川は、立ち上った。――いくら夢でも、これはあんまりだ。
ここではどうやら、自分の方が誰か愛人を作って、家を出たことになっているらしい。まるきりあべこべじゃないか。
お父さんを許す、だって? 冗談じゃない。俺は許してもらわなきゃならないことなんか、何一つしていない!
梶川は、二人で食事を続ける真知子と久実子を横目に見ながら、ダイニングを出た。
――麻衣。そうだ。確かに、今真知子の言っていたことは、本当である。久実子は真知子によくなついていたし、麻衣は梶川に甘えることが多かった。――もちろん、それは小さいころの話だが。
梶川は、少しためらってから、階段を上って行った。麻衣は何をしているだろう?
夢の中で、話はできないにしても、現実にも[#「現実にも」に傍点]もう麻衣と話すことはないかもしれない。もう一度会っておきたかった。
麻衣は自分の部屋で、ぼんやりと机に向っていた。勉強するでもなく、本を読んだり、雑誌をめくったりしているわけでもない。
麻衣……。何がお前を変えてしまったんだ?
あの電話の声が、梶川の耳の中に、まだ響いているようだった。
「疲れたの、私。久実子もよ。疲れたの」
凍りつくような、老いた言葉だった。
あれは何だったのか。麻衣……。お前は何が言いたかったんだ?
すると――麻衣が机に敷いたフェルトのシートをそっと持ち上げた。その下から滑らせるようにして取り出したのは――梶川と二人でとった写真である。
よく|憶《おぼ》えている。麻衣がまだ十歳ぐらいだったか。どこかの公園のような所でとったものだ。
二人で行ったのは、久実子が病気になって、
「麻衣とどこかへ出かけて来て」
と、真知子に言われたからだった。
麻衣が家にいると、久実子がつい遊びたがる、というわけだ。
梶川は、あてもなく麻衣を連れて家を出た。カメラを持って。――しかし、麻衣は大はしゃぎだった。腕にぶら下ったりして、梶川を面食らわせたものだ。
少しカラーの色もあせたような、その写真を、今、麻衣はじっと見つめている。そして――麻衣は泣き出した。
梶川は|愕《がく》|然《ぜん》とした。麻衣の泣き方は、子供らしくなかった。声も上げず、ただはらはらと涙は|頬《ほお》を伝い落ちて行く。そこには押し殺された悲しみがあるようだった。
「麻衣ちゃん」
階下から真知子が呼ぶ声がして、麻衣はハッとすると、写真を元の通り、フェルトの下に隠して、
「はーい」
と、返事をした。
「ケーキ、食べない?」
「今、行く!」
麻衣は立ち上り、洗面所へ駆けて行って顔を洗うと、ちょっと頭を振って、元気よく階段を駆け下りて行った。
「私に選ばせてよ!」
と、大声で言っている。
梶川は、階段の上に、しばし黙って立ちつくしていた。
*
夜の道を、梶川は歩いていた。雨が降ったのだろうか。|濡《ぬ》れた路面が、街灯の光を映している。
夢なのか、これも?――目が覚めたという記憶はないから、夢なのだろう。
そういえば、家の近くにこんな道はなかっただろう。それにあのネオンサインも……。ネオンサイン?
何だあれは?
〈名画座〉というネオンサイン。小さな入口。こんな所に映画館が。
不思議だった。梶川は格別映画好きというわけではない。それなのに、どうして夢の中にこんなものが出て来るんだ?
梶川は、光に引き寄せられるように、その明るい入口へと近付いて行った。
ポスターが貼ってある。
〈天使の詩〉だって?
聞いたこともない映画だ。男の子が二人――兄弟だろうか、可愛い顔立ちをしている。
ポスターの雰囲気からも、大分古い映画らしかった。
〈天使の詩〉。〈詩〉の字には〈うた〉とルビがふってあった。
狭い階段を下りて、重い扉を開ける。|暗《くら》|闇《やみ》の中に、まるで光の窓のように、スクリーンが広がっていた。
美しい庭園。|哀《かな》しいピアノの曲が流れている。――梶川はクラシック音楽など全く聞いたこともないが、その調べは今の気分にぴったりで、まるで胸の中へとしみ入って来るようだった。
母親が死んだ。――どうやらそんな状況で、映画は始まったばかりのようだ。それにしても、見たこともない映画を、どうして夢の中で見たりするんだろう……。
いつの間にか、椅子にかけていた。そして、父親と、二人の男の子のドラマに見入っていたのである……。
しっかり者の長男に、父親は「男らしく」悲しみに堪えろ、と言い聞かせる。ひ弱な下の男の子の方へ、父親の目はつい向いてしまう。
自分では、どっちの子も平等に愛しているつもりで、それでいて長男の内に秘めた、「甘えたい」気持に気付かない……。
父親の誤解、少年の孤独。――そして悲劇が起こる。
半ば自殺とも言える事故で、長男は死ぬ。その死の迫った床で父親は、初めて自分が我が子を全く理解していなかったことに気付くのだ。公務に追われて、話をしたくてやって来た長男を追い返してしまったことを、後悔する。しかし、すべては遅すぎたのだ。
涙が――とめどなく|溢《あふ》れてきた。
自分の内の、一番奥深いところを揺さぶられたような気がした。
映画が終り、場内が明るくなる。梶川はハンカチを取り出して、涙を拭いた。すると――。
「どうだった?」
梶川は、隣の席に麻衣が座っているのを、|唖《あ》|然《ぜん》として見つめていた。
4
麻衣は黙って歩いていた。
梶川の二、三歩前を。――梶川は、コートのポケットに両手を突っ込んで歩く麻衣の背中を、じっと見ていた。
夜の道は遠く、暗く、静かだった。
電車の音が聞こえた。どこか近くを線路が通っているらしい。
梶川は奇妙な気分だった。自分が夢の中にいるのか、それとも現実の夜の中にいるのか、分らなかった。しかし、それが大したことでないようにも思えるのだった。
麻衣が、ふと足を止めた。梶川も立ち止って、じっと麻衣の背中を見ていた。
「お父さん」
と、麻衣が言った。
「うん?」
「お母さんを、許してあげて」
梶川は身震いした。あの電話[#「あの電話」に傍点]でも、麻衣はそう言ったのだ。
「お父さんが正しくて、お母さんが悪かったって、私、思ってた。でも――分ったの」
「何が、だ?」
麻衣がゆっくりと振り向いた。麻衣が急に|年《と》|齢《し》をとって、大人になったように見えて、梶川はドキッとした。
「お父さんはいつも遠く[#「遠く」に傍点]にいるわ。私がそばにいてほしいと思っても。お母さんだって、いつも思ってたのよ、きっと。お父さんに、そばにいてほしい、って」
「麻衣……」
「お母さんの寂しさが、私にも分るの。今になると」
「確かに俺は――忙しすぎたかもしれん」
「そうじゃないのよ。お父さんが、いつもいつも、私に大人[#「大人」に傍点]でいてほしいと思ってること。それが寂しいの」
梶川はじっと麻衣の言葉を聞いていた。
「私はいつも『久実子のお姉ちゃん』でしかなかった。でも、たまには……『お父さんの子』でいたかった」
麻衣の言葉は刃物のように、梶川の胸に切り込んだ。
「――ね、お父さん、お母さんだって、いつも『私たちのお母さん』でいるだけじゃなくて、『お父さんの奥さん』でいたいときがあったと思う。お父さん、それを分ってあげた?」
梶川は何も言えなかった。
電車の響きが近付いて来た。――麻衣は軽く息をつくと、
「お父さん。――私、久実子の所に行くわ」
「何だって?」
これは夢だ! そうだろう?
麻衣が突然駆け出した。
「麻衣!――麻衣!」
足が動かなかった。麻衣が夜の闇へと消えて行く――。
電車の音が大きくなって――そして急ブレーキの音。火花が、夜の中に飛んだ。
「麻衣!」
梶川は駆け出した。「麻衣!」
叫び声が、夜を切り裂く。
*
体が前のめりに揺さぶられて、梶川はハッと目を開けた。
麻衣!――やめろ!
「や、すみません」
運転手が振り向いて言った。「今、犬が一匹、ライトの中を駆けてったもんで……。大丈夫ですか?」
タクシーは、夜の道を走っていた。
隣の空いた席に、おみやげが置いてある。
「そろそろですか?」
と、運転手が訊いた。
もうそろそろ……。今、俺はどこへ向ってるんだ?
「どの辺を曲るんですか?」
ここは……家の近くだ。俺は……俺は、今帰って来た[#「今帰って来た」に傍点]のか?
「大丈夫ですか?」
運転手がチラッと振り返った。
「ああ……。次の信号を左折してくれ」
ほとんど無意識に、梶川は言っていた。
タクシーが家の前に停る。――パトカーも警官もいない。
「ありがとう」
タクシーを降りる。――夢だったのか?
何もかもが? それともこれが夢なのか?
家には明りが|点《つ》いていた。玄関まで行ったものの、しばらくはチャイムを鳴らすことができなかった。
ドアを開けると、久実子が刺されて血まみれで倒れているかもしれない。あるいは梶川抜きの、母と娘たちの家庭風景が、待っているかもしれない……。
すると、ドアが中から開いた。
「やっぱりお父さんか」
と、麻衣が言った。「車の音がしたのに、ちっともチャイムが鳴らないから。――何してるの?」
「いや……。久実子は?」
「起きてるよ」
「お帰り!」
久実子がパジャマ姿で飛び出して来た。
「お父さんが帰って来るまで起きてる、っていうから。もう寝な」
「おみやげ、見てから」
と、久実子は言った。
梶川は玄関から上って、二人の娘をじっと見つめた。
「――どうしたの、お父さん?」
と、麻衣が不思議そうに言った。
梶川は、両腕に二人の娘をしっかりと抱きしめた。そして泣き出していた。
「――すまん。――びっくりしたろ?」
面食らっている麻衣と久実子を見て、梶川は泣き笑いの顔で言った。「お父さんもな、ときどき寂しくて泣きたくなることがあるんだ。お前たちだって、あるだろう?」
麻衣が、ゆっくりと|肯《うなず》く。
「――さ、おみやげを開けよう」
と、二人を居間へ連れて行く。
「お父さん、お腹空いてる?」
と、麻衣が訊いた。「お|茶《ちゃ》|漬《づけ》ならできるけど」
「ああ、もらおうか」
「私もほしい」
と、久実子が言った。
「だめ、もうとっくに寝てる時間だよ」
「いいさ」
梶川は久実子の頭を軽く|叩《たた》いて、「たまには夜ふかしも。眠くなったら寝ればいい。みんなで夜食にしよう」
麻衣は面食らっていたが、やがてニッコリ笑って、
「お湯、すぐ沸かすよ」
と、台所へ駆けて行った。
「――旨いな」
と、梶川はコンブをつまみながら、言った。「これ、どこで買ったんだ?」
麻衣が、少しためらって言った。
「お母さんが、持ってきたんだよ」
少し沈黙があった。
「母さんが……。来たのか」
「学校の帰りに待ってて……。ごめん、黙ってて」
「そうか。――どうだ、母さん、元気そうか?」
「一人で働いてる、って。お父さんにあんまり脂っこいもんばっかり食べさせないで、って言ってた」
「そうか……」
三人はしばらくお茶漬を黙って食べていた。
「――お父さん」
と、麻衣が言った。
「何だ?」
「お母さんのこと……怒ってる?」
梶川は、手を休めると、言った。
「実はな――考えていたんだ。いや、正直に言うと母さんがいなくて、寂しくてたまらないんだ。母さんに、ここへ帰って来てくれと頼もうと思ってる。どう思う?」
麻衣と久実子の顔が紅潮した。
「いいの?」
「ああ。――喧嘩したときは、たいていどっちにも悪いところがあるんだ。父さんも、やっとそのことが分った。麻衣、母さんの住んでる所、知ってるか?」
「うん!」
と、麻衣は肯いた。「行ったことないけど――でも、住所は聞いたよ」
「よし。じゃ、明日はそこを訪ねて行こう。三人でな。荷物も運ばなきゃいけないだろ」
麻衣も久実子も、この夜はひどく夜ふかししてしまった。
たぶんこの夜、一番よく眠ったのは、父親だったかもしれない。
梶川は、眠りの闇の中に、ぼんやりと明るく、〈名画座〉のネオンサインが浮かび上るのを見たような気がした……。
[非情の町]に雨が降る
[#ここから2字下げ]
非情の町
Town Without Pity
1961年 アメリカ/スイス/西ドイツ
[監督]ゴットフリード・ラインハルト
[脚本]シルビア・ラインハルト/ゲオルグ・ハードレック
[出演]カーク・ダグラス/クリスチーネ・カウフマン/ハンス・ニールセン
[#ここで字下げ終わり]
1
その夜、社長室の明りは、深夜まで消えなかった。
そのこと自体は、決して珍しいわけではなかった。古河建三は、社長になっても、徹夜で仕事をすることなど、一向に平気な人間だったからである。
ただし、その場合、多くの社員もそれに付合わされて、ビル全体が、巨大なクロスワードパズルみたいに、あちこちの窓が明るく|灯《とも》っているのが普通である。しかし今夜は……ビルの最上階にある社長室以外の明りは、すべて消えていた。
――古河建三は、広い窓から、もうどこのビルにも明りの残っていない、オフィス街を眺めていた。古河はこの一帯のオフィスの中でも、「帝王」を自認し、また多くの他の経営者たちからも、それと認められる存在だった。
彼は力を手にしていた。巨大な力を。
そこへよじ上って来るまでには、大変な努力が――たぶん、このビルの外壁を、この高みまで、実際に素手で上って来るのと変らないくらいの、人並み外れた努力が必要だったのだ。しかし、古河はそれを成しとげた。古河建三は。
ほとんど裸一貫でスタートし、一代で、これだけの企業グループを築き上げた男。――業界でも伝説的な成功を、彼は手に入れた男だった。
しかし……。
古河は、ビルの正面に一台の車が停るのを遥か眼下に見下ろした。古河の顔は厳しくなった。もう長いこと、見せたことのない、危機感を感じさせる顔だった……。
待つほどもなく、社長室のドアがノックされた。
「入ってくれ」
と、古河は言って、背もたれの高い社長の椅子に身を沈めた。
「遅くなりまして」
と、ドアを開けて言ったのは、四十代の初めながら、すっかり頭の|禿《は》げ上った顧問弁護士、石上だった。
「――あいつは?」
と、古河は言った。
「こちらに」
石上がわきへさがると、少し小太りの若者が、うなだれた様子で、おずおずと入って来た。
「大分手間どりまして」
と、石上が言った。「フルにコネを利用しまして何とか……」
古河は、石上の言葉など、耳に入っていない様子だった。
「こっちへ来い」
と、息子へ声をかけ、立ち上って、机の前へ回って行った。
そして、うつむき加減にやって来た息子の|頬《ほお》を、いきなり平手で打った。社長室に音が反響した。
古河|雄《ひろ》|夫《お》は、打たれて、そのままの格好でよろけるようにソファに身を沈めた。
「馬鹿め!」
と、古河は吐き捨てるように言った。
石上は、黙ってその光景を眺めている。――顧問弁護士といっても、何もしない人間に金を出す古河ではない。石上は事実上、古河の秘書みたいなものだった。
「どうなんだ」
と、古河は机にもたれかかると、石上へ向って言った。「何とかなりそうか」
石上は、少し考えながら、言葉を選ぶようにして言った。
「楽観はできません。何と言っても、婦女暴行の、それも現行犯ですから。完全にシロにすることは不可能です」
古河は、ちょっと鼻を動かした。|苛《いら》|立《だ》ったときのくせ[#「くせ」に傍点]である。
「全く、馬鹿をやってくれたもんだ」
と、雄夫をにらんで、「女なら、金で手に入るのがいくらもいるだろう。それを何だ! 夜の公園で襲いかかって……。しかも、パトロールに来た警官にとっつかまるとは」
「ごめん……」
と、雄夫は、消え入りそうな声で言った。
「裏から手を回して、何とかできんか」
と、古河は石上に言った。
「可能性は、すべて考えてみました」
石上の口調に、いささかの自負がにじんだ。「しかし、婦女暴行、それも未遂じゃないのですから、決して軽犯罪というわけではありません。雄夫さんの二十一歳という若さや、反省の情をくみとってもらっても、何年かは刑務所入りということになるでしょう」
雄夫が、|怯《おび》えたように身を縮める。
古河建三は今年六十二歳。――二十歳近く若い妻、絹江との間の一人っ子が、雄夫である。二十一歳、私立大学の三年生。
好き勝手に育って、わがままではあるが、少し気が弱いくらい、おとなしい性格である。その辺は、父親の闘争的な性格と似なかったことになる。
「息子を、刑務所へ入れるわけにはいかん」
と、古河は、歩き回りながら言った。「そんなことになったら、|俺《おれ》もこの地位にはいられん。ここまで築き上げて来たものが、すべてゼロになる」
「何とか手を考えましょう」
と、石上は言って、ソファに座った。
「どうにかなるか?」
古河が石上をじっと見つめる。――石上は、この瞬間に自分の存在価値がかかっているのを感じて、胸の中に熱く火が燃え立つのを覚えていた。
「被害者は、同じ大学の女子学生です」
と、石上は言った。「名前は沼田浩子。二十歳で、大学二年生です」
「美人か」
「可愛い子です。大学でも真面目な学生で通っているようですが……」
石上は、そう言いかけて、言葉を止めた。
「何だ?」
「たとえば、その娘に男性経験があったかなかったかで、刑も違って来ます。特に、真面目そうに装ってはいるが、遊び好きで他にも男がいた、ということになれば……。雄夫さんが襲ったことは、警官にも見られているのですから、否定はできません。しかし、それが彼女の側の挑発によるものだということになれば……。話は全く違って来ます」
「無罪にできるか?」
「それは無理です」
と、石上は苦笑した。「しかし、執行猶予にまではもっていけるでしょう」
「そうか」
古河は考え込んだ。「――その娘の方を悪者にする、か。それなら、雄夫は誘惑にのっただけ、ということになる」
「そうです。しかし、その子がどういう娘か、これから当ってみなくては」
「それで行こう」
と、古河は言った。
「は?」
「沼田……浩子といったか? その娘には|可《か》|哀《わい》そうだが、真面目な外見とは大違いの不良ということにする。それなら、むしろ雄夫は被害者だ」
「しかし、そううまく行きますか」
「それをやるのが、お前の仕事だ」
と、古河は表情のない声で言った。「いいか、何としても、息子を執行猶予までもっていけ」
石上は、古河がこの口調で言い出したら、とことんやりつくすことを、よく知っていた。
「分りました。やり方は――」
「任せる」
と、古河は即座に言った。「金はいくらかかってもいい。いいな。必ずやってみせろよ。悪いようにはしない」
古河は注文も厳しいが、支払いを決してケチらない男である。石上は、しっかり|肯《うなず》いて、
「やってみます」
と、言った。
「やってみる、じゃなく、やってのけてくれなくては困る。――いいな、期待しているぞ」
古河は、息子を促して立たせると、「石上、戸締りしてきてくれ。いいな」
「はい。ご心配なく」
と、石上は言った。
古河父子が出て行った後も、しばらくの間、社長室の明りは消えなかった……。
2
「お先に」
と、沼田が声をかけても、誰も返事をする者はない。
いつものことで、沼田は一向に気にしなかった。オフィスを出て、ロッカールームで帰り仕度をする。
初めの何カ月かは、会社を出る度に胃が痛くなったものだが、慣れてしまうと、どうということはない。――特に、今は早く帰ってやらなくては。
沼田和信は、足早に会社を出た。
四十八歳。本来なら、一番忙しい年代である。実際、彼と同世代の同僚たちは、連日の残業で何人かは胃や腸をやられて入院した。
しかし沼田は――一度、心臓の発作を起こしてから、ガラッと人生観を変えたのである。
他人が何と言おうと、自分の生活が第一。――こうして沼田は、ほとんど同僚が残業している中、一人で定時に会社を出てしまう。
しかし……もちろん、今、沼田の心は重く、暗く沈んでいる。娘の浩子にふりかかった、あのとんでもない災難のせいである。
裁判になって、浩子がますます傷つかないかと、それが心配だったが――。
「失礼」
と、声をかけられて、沼田は振り返った。
「は?」
頭の|禿《は》げ上った、銀ぶちメガネの男が、いかにもパリッとした身なりで立っている。
「沼田さんですね」
と、その男は言った。
「はあ」
「これを」
と、男は、黒い|革鞄《かわかばん》の中から何やら紙包みを取り出して、沼田へ差し出した。
――沼田は、反射的にそれを受け取って、
「何です、これは?」
「五百万、入っています」
「何ですって?」
「私は、古河さんの弁護士の石上と申します。古河さんは、息子さんのなされたことに、ひどく責任を感じておられまして。とりあえずお|詫《わ》びのしるしに、と――」
沼田の顔が紅潮した。
「冗談じゃない!」
と、包みを相手に押しつけると、「娘にあんなことをされて……。金ですまそうとでもいうのか」
「いえ、決してそのような。これは単なる気持ですから」
「じゃ、気持だけで充分だ」
と、沼田は|叩《たた》きつけるように言った。「二度と俺の前に現われるな!」
沼田は|大《おお》|股《また》に歩き去った。――それを見送っていた石上は、ちょっと笑って包みを鞄へ戻した。
ジャンパー姿の男が、カメラを手にやって来る。
「とったか?」
と、石上は|訊《き》いた。
「バッチリだ」
「包みを受け取ったところを?」
「任せとけよ。はっきり分るはずだ」
「よし。焼付けたら、持って来てくれ」
石上は、足早に立ち去った。
*
沼田充子は、ふと人の気配で振り向いた。
「――浩子。びっくりした」
と、笑顔を作って、「起きても大丈夫なの?」
浩子は、パジャマを脱いで、いつものジーパン姿だった。
「別に病気ってわけじゃないんだもの」
と、浩子は台所へ入って来て、「おかず、何?」
「煮物。好きでしょ?」
「うん。――お腹空いたよ」
「じゃ、すぐ仕度するから」
と、充子は、嬉しそうに言った。「いいのよ。お母さんやるから。あんた、休んでなさい」
「お母さん――」
と、浩子は言った。「気をつかわないで。もう大丈夫」
充子は、手を休めて娘を見た。
「浩子――」
「ショックはショック。でも、いつまでもくよくよしてたって……。大体、あんな人と出かけたのも間違いだった」
浩子は、少し青白い顔色で、額には暴行されたときのすり傷も残っていたが、笑顔は自然だった。
「でもねえ……。もう少し早くお巡りさんが来てくれてたら」
と、充子は言った。
「すんだことはしょうがないよ」
と、肩をすくめて、「いつまでも大学、休んでらんないし。そうでしょ?」
「行くの?」
「うん。明日からね。――友だちとしゃべってる方が、元気出る」
「そうかもしれないわね」
充子も、やっと笑顔になった。
「裁判で、うんととっちめてやる!」
と、浩子は言って、「陽子んとこに電話するね」
と、台所を出て行った。
充子は、ホッと息をついた。――一人っ子で、大切に大切に育てて来た浩子。その浩子に、何という災難がふりかかって来たことだろう。
あの古河雄夫という男の子は、有名な大企業のオーナーの息子ということだったが、見たところ、とてもおとなしそうだった。
それがまさか……。あんなことをしようとは。
充子は頭を振って、流しに向った。――早く仕度しないと、夫も帰って来る。
夫は、もちろん今度の一件で怒り狂っている。――充子は、裁判にもし夫が行ったら、相手を殴りつけるんじゃないかと心配だった……。
*
「――もしもし、陽子? 私、浩子よ。――うん。もう元気。明日から大学に出ようと思ってさ。どうせ今は陽子もさぼってるだろうと思ったから。――どう、大学の方?」
陽子は、高校時代からの、浩子の親友である。
「浩子」
と、陽子は少し間を置いて、言った。
「うん?」
「何だかね、変なのが来たの、昨日」
「変なの?」
「うん。大学でね、お昼休みに一人でいたらさ、中年のおっさんが寄ってきて、私のこと、名前で呼ぶのよ。びっくりして、何ですか、って言ったら……」
「何なの?」
「浩子のこと、聞かせてくれって。どこで聞いたのか、高校で一緒だったこととか、知っててさ。いやだから黙ってたの。そしたら、そいつ、浩子に男がいたんじゃないかって」
「男が?」
「うん。肉体関係のある男がいたかどうか、知らないかって」
「何ですって?」
「そう訊いたのよ。頭に来て、舌出してやっちゃったけど……」
「ひどいこと言うのね」
「でしょ? それだけじゃないの」
「まだ何かあるの」
「ゆうべ、電話がかかって来たの。〈週刊××〉ですって」
「週刊誌?」
「そう。それもね、あの事件のことを書くっていうのよ。それで……怒んないでよ。私が言ったわけじゃないんだから」
「何のこと?」
「浩子がね――|凄《すご》い遊び人で、あの古河の他にも、少なくとも三人は恋人がいたって」
「三人?」
「そう。で、私に、そのこと知ってるか、って訊くの。腹立つより、|呆《あき》れてさ。どうかしてんじゃないですか、って言ってやった」
「で……向うは何て?」
「その三人の恋人からは、ちゃんと取材してるっていうの。確かに一緒にホテルに行ったとか――」
「馬鹿言わないで!」
「私が言ったんじゃないわよ」
「分ってる……。でも、ひどい話ね」
「そうなのよ。三人の男って、誰と誰ですかって訊いたら、それは教えられないって。でも、私が何言っても信じない感じ。記事、書くみたいよ」
浩子は、玄関の方で物音がするのを聞いて、
「父だわ。――じゃ、明日ともかく大学でね」
「うん」
浩子が電話を切ると、父が居間へ入って来た。
「何だ、起きたのか。もういいのか?」
「うん。明日から大学へ行く。負けてらんないわ」
浩子は、明るく言ってみせた。しかし、今の陽子の話は、何だろう?
「浩子、手伝ってくれる?」
と、台所で母が呼ぶ。
「はあい」
浩子は、急いで台所へと入って行った。
*
「おい、俊一」
父親が話しかけて来るのは珍しい。
桂木俊一は、雑誌から顔を上げて、父親を見た。
「何さ?」
「お前……沼田浩子って知ってるか」
「浩子? ああ。――沼田だろ。あの[#「あの」に傍点]。知ってるよ。同じゼミだ」
「そうか」
父親は、ひどく老け込んでいた。今夜は特に老けて見える、と桂木俊一は思った。
数年前、会社が傾いて、目前だった昇進がフイ。それで、めっきり老けてしまった。
「付合ったことは、あるのか」
「沼田と? そりゃ、仲間同士でお茶飲むくらいはね」
「二人きりで会ったことは?」
「二人で?――どうかな」
と、俊一は首をかしげた。「ああ、同じテーマを調べるんで、図書館に行ったりしたことはある。でも、どうして?」
「恋人ってわけじゃないんだな」
「恋人?――まさか!」
と、俊一は笑った。「でも、いい子だよ。あんなひどい目にあって、可哀そうに。古河って、みんなに嫌われてたんだ。たぶん、沼田も同情してデートしたんだろ。それが――」
「俊一」
と、父親は遮った。「お前は、沼田浩子と付合ってたんだ」
「――何だって?」
と、俊一は目をパチクリさせた。
「年中ホテルにも行ってた。それも彼女の方から誘ってだ」
「父さん。――待ってよ。何の話?」
「そういうことにするんだ」
俊一は、父が冗談を言っているのではないと知った。
「父さん……」
「古河さんは、うちの社の大株主だ。簡単に握り|潰《つぶ》せる。俺一人くらいな」
「じゃあ……」
「お前が証言するんだ。沼田浩子って子は、いつも自分から男の子を誘惑してた、とな」
「そんな! できないよ、そんなこと!」
俊一は|唖《あ》|然《ぜん》として、言った。
「やるんだ。――お前が証言しなきゃ、俺はクビだ」
「父さん――」
「それも、会社の金を使い込んだことにされて、下手すりゃ刑務所行きだ。いいな。言われた通りにしろ」
父親は淡々とした口調で言うと、居間を出て行く。
俊一は、いつの間にか手から雑誌が落ちているのにも、気付かなかった……。
3
逃げ出す暇はなかった。
気が付いたとき、彼女は目の前に立っていたのだ。
「桂木君」
と、沼田浩子は言った。「訊きたいことがあるの」
桂木俊一は、学生食堂で、ランチを食べているところだった。一人ではない。仲間同士五、六人でワイワイやりながら食べていたのだが、沼田浩子が目の前に立つと、みんな黙り込んでしまった。
俊一は、ゆっくりと目を上げた。
「――何だい?」
「この記事……。知ってるでしょ、もちろん」
浩子が、俊一の前に週刊誌を置いて、ページを開く。「私のこと、書いた記事。この中の〈S・K君〉って、桂木君でしょ?」
「いや……。知らないよ」
俊一は目をそらした。「そんな頭文字なんて、いい加減だろ」
「|嘘《うそ》つかないで!」
浩子の鋭い声は、学生食堂の中に響きわたった。――ガヤガヤとざわついていた食堂は、静まり返った。
「分ってるのよ」
と、浩子は言った。「週刊誌の記者が、話してくれたわ。ちゃんとあなたの写真まで見せてくれたわよ。二人でよくホテルへ行って楽しんでた。あの子は男なしじゃいられない性格で――。こう話したの? どうなのよ!」
浩子の声が震えた。悔し涙が浮かんでいる。
俊一は、目を伏せて、ランチを食べ続けた。
「桂木君――」
「何も話すな、って言われてる」
と、俊一は食べながら言った。
「誰から?」
「弁護士。――裁判になったら、証言しなきゃいけないんだから、って」
浩子の顔は真青だった。
「じゃあ……桂木君、裁判でも、こう言うつもりなのね。私が――私が――」
体が震えて来て、浩子は言葉が続かなくなった。――陽子がそばへ来て、
「浩子、もう行こう」
と、肩を抱いた。
「ひどい……。どうしてなの……」
浩子は、必死で涙をこらえていた。|顎《あご》が震えて、こらえるのも限界のようだった。
「ね、行こう……。こんな奴、放っといてさ!」
陽子に、抱きかかえられるようにして、浩子は食堂を出て行く。誰もが、じっとその退場を見送っていた。
ただ一人、それを見ていなかったのは、ランチを食べ続けている桂木俊一だった……。
*
食欲はなかった。
それでも「カレーの大盛り」を頼んでしまったのは、多分に同僚たちの目に対する挑戦の気持からだったろう。
ここは別に社員食堂というわけではないのだが、会社のすぐ近くなので、客の半分近くは、この昼休みの時間、同じ社の人間たちになる。
それにしても――。沼田和信は、人間が信じられない気分になって来ていた。週刊誌のあの記事! 浩子が、大学でも有名な「男遊び」の好きな娘で、あの古河雄夫という若者に暴行されたのも当人のせい、と言わんばかりだった。
そして、その記事は一回では終らなかったのである。別の週刊誌が、今週は浩子のことを取り上げ、もっとひどいことを――浩子が古河雄夫を挑発して、わざと襲わせ、慰謝料をふっかけようとしたのだ、とさえ|匂《にお》わせていたのである。
沼田は、週刊誌を訴えようと思った。出版社へ怒鳴り込んで行こうともした。しかし、そんなことをすれば、新たなネタを提供するだけだ、と妻の充子に止められて、やっと思い|止《とど》まったのである。
訴えるにしても、費用がかかる。――結局、このまま放っておくしかないのだろうか。
しかし、傷ついている浩子の気持を考えると……。家では極力明るく振舞っているが、このところ、ちょくちょく大学を休んでいるのを見ても、悩んでいることはよく分る。
沼田は怒りを抑え切れなかった。乱暴した犯人と、乱暴された被害者と。――マスコミはどっちの味方なんだ!
カレーライスを無理に食べていると、
「やあ、沼田」
そばに寄って来たのは、同期の林である。沼田とは対照的に、出世志向の強い男で、昔はともかく、今はほとんど口をきくこともない。大体、沼田と違って、林はもう部長代理のポストにいる。
「どうも」
と、沼田はそっけなく言った。
「何食ってるんだ」
と、林は向いの席に座った。
「カレーですよ」
見りゃ分るだろ、と心の中で付け加える。
「もっと高いもの食えばいいじゃないか。俺たちに遠慮はいらないぜ」
「何のことです?」
遠回しに、何か言おうとしている。沼田は真直ぐに林を見た。
「金が入ったんだろ。俺にも少し貸してくれよ」
林はいやな笑い方をした。
「月給日はまだでしょう」
と、沼田は言ってやった。「どうして僕が金を持ってるんですか」
「たっぷりせしめたんだろ、あの古河という奴から」
沼田の顔がこわばった。
「――何ですって?」
「ちゃんと出てるぜ。ほら」
と、週刊誌の写真ページを沼田の前に置いた。
「この包みの大きさからすると、一千万は下らない。大したもんじゃないか」
あの男だ! 弁護士の――石上とかいった。
あのときの、石上が包みを沼田に渡している写真だった。その写真に〈高くつく? 処女の代金〉というキャプションがついている。
何て奴だ……。どこかにカメラマンを潜ませておいて、黙って包みを持たせた。その写真をこうして週刊誌に……。
「いくら入ってたんだ? 少し貸せよ」
と、林がからかう。
「こんなもの、その場で突っ返したんですよ」
と、沼田は言った。「受け取るわけがないじゃありませんか」
胸が悪くなって、沼田は水をガブ飲みすると、立ち上った。
「失礼します」
レジで代金を払っていると、林がしつこくついて来た。
レジを打っている女の子に、
「三倍にしてやりな。何しろこのところ、娘のことで荒稼ぎしてるんだ、こいつは」
と、笑いながら言った。「なあ、そうだろ、沼田?」
林が、沼田をもとから嫌っていることは承知の上だ。しかし、沼田にも我慢の限度というものがある。
振り返りざま、沼田は林を殴りつけた。
*
古河は、人の気配に、ふと顔を上げた。
「――お前か」
会社に、息子が来るのは珍しい。「何か用か?」
と、古河建三は、ゆっくりと|椅《い》|子《す》にもたれて言った。
「うん……」
雄夫は、青ざめた顔で、父の机の前までやって来た。古河は笑って、
「何だ、その顔は。――しっかりしろ! もうじき何もかも終る。俺に任せておけ」
もう、夜の九時になっていた。しかし、社員の半分近くは残業していただろう。
雄夫は、ソファに、ぐったりと疲れたように身を沈めた。
「父さん……」
と、小さな声が|洩《も》れた。
「何だ? はっきり言え。お前は大体言いたいことも言えん性格だからいかんのだ」
雄夫は、父親の方へ目を向けると、
「もうやめて」
と、言った。「ひどすぎるよ、あれじゃ」
「何のことだ」
「あの子さ。――沼田君だよ。週刊誌なんか、ひどいことを書いてる。あの子は本当に真面目ないい子なんだ」
と、雄夫は一気に言った。「あれじゃ、いくら何でも|可《か》|哀《わい》そうだよ」
古河は立ち上ると、ソファのそばへやって来て、息子の肩に手をかけた。
「忘れろ」
と、古河は言った。「このことに関しては、俺に任せておけ。――世の中にゃ、どうしてもやり抜かなきゃならんことがあるんだ。どんなにいやなことでもな」
「だけど……。悪いのは僕なんだ。それなのに――」
「お前、刑務所へ入りたいのか?」
父の言葉に、雄夫は詰った。「――お前の気持も分る。しかしな、今さら引き返せない。分るか? 途中で戦いをやめるのは、初めから降伏するより、もっと悪いんだ」
雄夫は、指の爪をかみながら、
「でも……大学でも、|噂《うわさ》になって、彼女、全然出て来てないってことだよ。それに――」
そのとき、ドアがノックされ、すぐに開いた。
「石上か。どうした」
弁護士は、いささか興奮の面持で入って来た。
「やりました。――沼田は告訴をとり下げましたよ」
古河の顔が紅潮した。
「本当か!」
「はい。――父親が、会社で、例の記事のことでからかわれて、上役を殴ったんです。当然クビで、あの家は、裁判どころじゃありません。娘もノイローゼ気味で、家から一歩も出ないそうです」
「そうか……。すると、もう大丈夫なんだな」
「当事者が、暴行じゃないと認めたわけですから。世間的には、金目当てに息子さんを誘惑した、と見られることになるでしょう」
「良くやったぞ」
古河は、石上の肩を|叩《たた》いた。「ちゃんと礼はするからな」
「はあ」
石上は、嬉しそうに目を輝かせていた。「ただ――これは余計なことかもしれませんが」
「何だ」
「沼田家に、見舞金を出してはどうでしょう? こっちの誠実さを印象づけることにもなりますし」
古河は少し考えて、
「いいだろう。いくらにする?」
「百万でいかがでしょう」
「五十万でいい。どうせ受け取らんだろうがな」
古河は、大きく息をついて、「雄夫! これで安心だろう」
と、息子の肩をつかんで揺さぶりながら、笑ったのだった……。
4
雨が降っていた。
古河建三は、珍しく車をやめて、夜の町へぶらりと一人で出た。――歩きたかったのだ。一人だけで。
酒はやらない。こんなとき、少しは飲めるといいと思うが。
雨は気にならなかった。あの娘も――沼田浩子も、あのとき[#「あのとき」に傍点]は、たとえ雨が降っていても分らなかったろう。
重く、苦く、心の奥底に|淀《よど》んでいるものがあった。
胸が痛まない、と言えば|嘘《うそ》になる。自分のしたことの非道さを、たぶん古河は誰よりもよく知って、嫌悪していた。ただ、守りたかったのだ。自分がこれまで作り上げてきたものを……。
「何だ?」
ふと、足を止める。
|見《み》|憶《おぼ》えのない道で、暗く、人通りのない中に、ポツンと、ネオンサインが色を落としていた。
〈名画座〉だって? こんなものが、今でもあったのか。
古河は、若いころ、映画に熱中していたことがある。アメリカ映画の健全なモラルとハートウォーミングな世界に、涙したこともあった。
しかし……世の中は、モラルや愛情では動いていなかったのだ。嘘と、欲。それが、世の中を動かしている。
それを知ったとき、古河は幻滅した。しかし、その幻滅を、受け入れ、闘志に変えたのである。それができたから、古河は勝ったのだ。
――古河は、その〈名画座〉の、地下へ下りる階段に、用心深く足をおろした。
〈非情の町〉。――知らない映画だった。
入ってみると、モノクロの画面が映し出されていて、懐しさに思わず|微《ほほ》|笑《え》みを浮かべたのだったが……。
見て行くうちに、古河の表情は固くなって来た。今度の事件を思い出させるような内容だったからである。
ドイツで、駐留している米軍の若い軍人たち四人が、美しいドイツ娘を|強《ごう》|姦《かん》して、軍法会議にかけられる。――弁護に立った中佐は、その罪を憎みながらも、その娘の方が四人を挑発したという印象を裁判官に与え、四人は死罪を免れる。
しかし、傷つき、名誉も失った娘は、自殺してしまう……。
映画が終り、スクリーンが白くなっても、古河はしばし立ち上れなかった。まるで、自分自身を、スクリーンの上で見たような気がしたのだ。
明りが点くと、小さなその映画館には、他に一人の客もいなかった。
映画館を出るまでに十分はかかった。
そして、しばらく夜の道を歩いてから、あの〈名画座〉には、切符を買う所すらなかったことに思い当って、首をかしげた。
何だったのだろう? 夢を見たというわけではあるまいが……。
ふと気が付くと、表の広い通りに出ていて、雨はもう上っていた。
古河はタクシーを止めて、家へ帰ることにした。
タクシーが自宅前に着いたのは、もう真夜中を過ぎていただろう。金を払って外へ出ると、足音がした。
「社長」
石上だった。「――お待ちしてました」
「ああ……。ちょっと、たまには寄り道しようと思ってな。何してるんだ、お前は?」
「社長……」
石上の顔は、青ざめていた。「大変なことが……。自殺を――」
古河は、ポカンとしていた。
そうだったのか。あの映画で見たのは、この「予言」だったのかもしれない。
「そうか」
と、古河は言った。
「社長――」
「|可《か》|哀《わい》そうだが……。仕方あるまい」
と、古河は言った。「その娘[#「その娘」に傍点]はノイローゼだったんだろう? 止めようがなかったさ。いずれにしてもな」
「社長……」
と、石上は戸惑ったように言った。「自殺なさったのは――雄夫さんです」
古河は、じっと石上を見ていたが、
「そうか」
と、|肯《うなず》いて、「女房は? 息子にも[#「息子にも」に傍点]訊いてみよう。何か知ってるかもしれない」
「社長……」
「もう遅いぞ。帰ったらどうだ」
と言って、古河は玄関へと歩き出していた。
*
「あなた」
と、妻の絹江が言った。「あなた。――あの人[#「あの人」に傍点]が」
「うん?」
古河は、黒のスーツにブラックタイ、椅子にかけて、ぼんやりと、リボンで飾られた息子の写真を眺めていたのだが、妻につつかれて、やっと我に返った。
告別式に集まった人々の間に、どよめきが起こった。
――沼田浩子が、黒いワンピース姿で現われたのである。
「誰だったかな」
と、古河は妻に|訊《き》いた。
「あの子よ。雄夫が――。沼田浩子っていう子」
そうか。この子だったのか。
古河は、その娘を直接見たことがなかったのだ。――こんな娘だったのか。
報道陣が、大勢やって来ていた。この中までは入れていないが、沼田浩子の焼香する姿を、入口からひしめき合うようにしてとっている。
沼田浩子は、ていねいに手を合わせ、目を閉じると、頭を下げた。そして、古河たちの方へと歩み寄ってきた。
「――お気の毒でした」
と、浩子が言うと、絹江が泣き出した。
「許して下さいね……。あの子は……気にしていました、あなたのこと。あなたを傷つけたことを……」
絹江の言葉に、浩子はかすかに肯いた。
「ずっと――恨んでいました、息子さんのこと」
と、浩子は言った。「でも――私を傷つけたとき、息子さんは自分自身を傷つけていたんです。もし、そのことに気付いておられたら……」
古河は、ゆっくりと目を浩子へ向けて、
「あんたは自殺したんじゃなかったかね」
と言った。
「あなた!」
「確か……自殺することになってたような……。あの〈名画座〉で見たんだよ。うん、そうだったよ……」
浩子は、一礼して、歩き出した。
外へ出ると、報道陣がどっと寄ってくる。
カメラが向けられ、マイクが突き出されたが、浩子は一切無視して歩いて行った。
大分離れて、やっと一人になり、ホッとした浩子が足を止めると、
「沼田君……」
と、小さな声がした。
桂木俊一が立っていた。
「桂木君。――お焼香、したの?」
と、浩子は訊いた。
「うん。ただ……もしかして、君が来るんじゃないかと思って待ってた」
「そう」
「――悪かった」
と、俊一はうなだれた。「父の会社のことがあって……。仕方なかったんだ」
「聞いたわ」
浩子は、正面から俊一を見つめると、「でもね、拒む勇気があなたにあったら、古河君も死なずにすんだかもしれないわ」
俊一は、黙って目を伏せた。
「今度、自分が何か決めなきゃいけないときは、勇気を出せる?」
浩子はそう言って、「じゃ、さよなら」
と、歩き出した。
桂木俊一は、もう浩子が大学へ戻っては来ないことを、知った。浩子の後ろ姿は、もう「大人」のもの――本当の[#「本当の」に傍点]大人のものだった。
俊一は、雨が降り出したのに気付いたが、その場を動かなかった。やがて雨は本降りになったが、それでも、立って、|濡《ぬ》れるに任せていた。
まるで、その雨が、自分の過去を洗い流してくれると期待しているかのように。
[コレクター]になった日
2[#ここから2字下げ]
コレクター
The Collector
1965年 アメリカ
[監督]ウィリアム・ワイラー
[原作]ジョン・ファウルズ
[脚本]スタンリー・マン/ジョン・コーン
[出演]テレンス・スタンプ/サマンサ・エッガー
[#ここで字下げ終わり]
1
「言っときますけどね」
彼女の声は、まるでマイクでも使っているかの如く、喫茶店の中に響きわたった。「私、あなたみたいな、がさつなタイプの男って、嫌いなの。分った? もう、声をかけて来ても返事はしないからね」
正に、ピシャリ、と眼前で戸を閉めるように言って、彼女は足早に喫茶店を出て行った。
――しばし、喫茶店の中は静まり返っていたが、やがて元のざわざわした空気に戻る。もちろん、どの席でも、今の「出来事」に関して、
「気の強い|娘《こ》だな」
「あの男の子、|可《か》|哀《わい》そうに。真青よ」
といった会話が交わされていることは分り切っていた。
大勢の目の前で、女性から面と向ってああ言われたら……。青くなるのも当然のことだ。
松永俊一は、コーヒーカップを手にしたまま、青ざめて、飲むのも忘れていた。――しかし、松永は、彼女から言われた当人ではなかった。少し離れた席で、彼女が、ちょっとキザなプレイボーイ気取りの相手をやっつけるのを、「見物」していたのである。
言われた当の「がさつな男」は、周囲の視線を、当然のことながら、いやというほど感じていただろう。顔から血の気がひいていたが、そこは何とか最後のプライドだけは保とうと、自分のコーヒーを飲み干すと、椅子をずらし、テーブルの上の伝票をつかんで立ち上った。
が、動揺しているせいだろう、彼女が、ちゃんと自分の飲んだジュースの分の代金を、伝票の上に置いて行ったことに気付いていなかったのである。
喫茶店の床に、派手な音をたてて硬貨が散らばった。この気の毒な男は、もう一度喫茶店中の客の目をひくことになって、真赤になった。
落ちて方々へ転がって行った硬貨を、いちいち拾うわけにもいかなかった。その一つが、松永の足下まで、ツーッと転がって来て、テーブルの足に当り、チリチリと音をたてて止った。
その男は、もう体裁を構う余裕などなかった。足早にレジへ行くと、伝票と千円札を一緒に置いて、逃げるように店を出て行ってしまう。レジの女の子が、
「おつりが――」
と言いかけたときには、もう男の姿は消えていた。
笑い声が起こった。やれやれ、ひどく取り乱していたな。可哀そうに。
しかし、あの|娘《こ》、本当に美人じゃないか。あの男じゃ、やっぱり不つりあいだよ……。
そんな会話の断片が、松永の耳に届いて来る。
「ね、百円玉。どうしたらいい?」
落ちた硬貨を拾った女の子が言う。
「いただいとけよ。あとで拾いにゃ来ないだろう」
「そうね」
屈託のない笑い声。――松永は、自分の足下に落ちている十円玉を、じっと見下ろしていた。
拾う気にはなれない。その十円玉は、まるで床がじっと松永を見上げている、その「目」のようにも見えた。
その目は語っていた。
分るだろう? あれがお前の運命さ。彼女に|惚《ほ》れたりすりゃ、あの男と同様に、人前でピシャリとやっつけられるだけ。恥をかき、二度と女に近付けなくなってしまうかもしれないぞ。
やめとけ、やめとけ。お前には、もっとふさわしい子がいるよ。そうだろう?
そう。――分っている。
松永にも分っていた。でも、分ったからといって、|諦《あきら》められるものならば、そんなのは恋ではない。
とても、相手が|応《こた》えてくれそうにないと思えば、ますます燃え立つのが恋というものである。――だから、松永俊一は、やっぱり室田恵を恋していたのだった。
*
それにしても……。
松永は、夜の街を歩きながら、考えていた。――どうして、ドラマの中のようなことが、現実のこの世の中には起こらないんだろう?
それが当り前と言ってしまえばそれまでだが――でも、自分のように、二十五歳の今日まで、何一ついい思いなんかさせてもらったこともない人間に、一つぐらい人生から「プレゼント」があってもいいんじゃないだろうか。
たとえば、不良にからまれている彼女を見付けて助けるとか……。松永は体も大きく、腕力には自信があった。
しかし、女に対しては、まるで子供のように緊張し、言いたいことも言えなくなる。それに、どうひいきめに見ても、松永は女の目をパッとひきつけるほどの二枚目とは、ほど遠いのである。
室田恵は女子大生で、今、二十一歳。松永が彼女に惚れてしまったのは、彼の勤めている食品会社――といっても、松永はその製品を運ぶトラックの運転手なのだが――が、その大学の学生食堂へ製品を入れていて、たまたま段ボールを運んでいた彼の前を、彼女が横切って行ったという、それだけのことなのだった。
一目惚れ。――松永は、自分がそんなはめになろうとは、想像したこともなかった。
現実は、到底手の届かない高みにある「花」を、松永に見せてくれたのだ……。
それが二カ月前のことで、あれ以来、松永の眼前を、いつも室田恵の底抜けに明るい笑顔と、高慢そうな目と、スカートから|覗《のぞ》く太ももの、まぶしい白さがチラつくのだった。
松永は、できる限りのことを調べた。大体、彼女の名前が室田恵だということを調べ上げるまでがひと苦労。そして、こっそりとあとをつけて彼女の自宅をつきとめ、毎日、どの道を通って駅へ出るか、何曜日は何時に大学へ行くのか、遊びに出るのはどの辺りか……。知り得る限りのことを調べた。
しかし、それが松永と室田恵の間の距離を、少しでも縮めてくれたわけではない。相変らず、彼女にとって松永は「ゼロ」でしかないのだ。
何か方法はないだろうか? 彼女が松永の存在に気付き、目を向けてくれるような、そんなうまい方法が。
――ふと、足を止めると、見なれない道を歩いていた。
どこだ、ここは? 夜になると、よくこの辺りで飲むので、たいていの道は知っているが……。こんな寂しい道があったっけ?
いやに暗くて、人通りもなくて……。
たった一つ、そのネオンサインが、声を上げて彼を呼んでいるかのようだった。
〈名画座〉。――〈名画座〉だって?
そんなものに用はないよ。特別映画好きってわけじゃないしな、俺は。
しかし、何となく、松永は地下へ下りる急な狭い階段を下り始めていた。入口にポスターが|貼《は》ってあり、そこには〈コレクター〉とあった。
妙な映画館だ。券を買う所もなきゃ、人もいない。重い扉を開けると、カラーの画面が、緑一杯の田園風景を映し出している。
そこで、網を手に駆け回っている男。――どうやら、|蝶《ちょう》を採集しているらしい。それで〈コレクター〉か。
大して面白くもなさそうだ、と思ったが、ともかく腰をおろすことにした。他に客は、と見回すと、一番前の列に一つ頭が見えているが、他には誰もいないらしい。
よく|潰《つぶ》れないで、やってけるもんだな、このガラ空きで。
松永は、首を振って、そう思った。しかし――十分としないうちに、松永はその映画の中へ引きずり込まれていた。他の客がいようといまいと、もうどうでも良かった。
その主人公は、蝶を採集することだけが楽しみの、当世風に言えば「暗い」男である。その彼が、くじで大金を手に入れる。
郊外の一軒家を借りた主人公は何をやろうとしているのか。――かねてから、ひそかに|憧《あこが》れていた女子大生を誘拐し、その|田舎《いなか》|家《や》の地下へ閉じ込めるのだ。
しかし、力ずくで彼女をものにしようとはしない。居心地のいいように、家具を|揃《そろ》え、服も揃えて、彼女が自分に好意を持ってくれるのを待つのである。
しかし、そんなことが可能だろうか?
松永は、食い入るように、スクリーンに見入っていた……。
2
「私、帰る」
恵はそう言って、立ち上った。
「恵……」
友人の久代が、困ったような顔で恵を見た。「もう少し、ここにいようよ。ね?」
「帰りたいの。久代、いればいいじゃない」
「だって――もう遅いわ。一人で帰るの、危いわよ」
「平気よ。もう子供じゃないのよ」
「でも……。あと十五分。ね? そしたら一緒に帰るから」
久代は情ない顔で言った。
パーティは、大いに盛り上っていた。久代がもう少しいたい、と言うのももっともだ。
「帰るわ」
恵は、パッと久代の手を振り払って、出口の方へと歩き出した。
「恵!――ねえ、待ってよ!」
久代の声が、パーティの音楽の中に埋もれて行く。
恵は、外へ出ると、当てずっぽうに歩き出した。――どっちから来たっけ?
恵は方向に弱い。しかも、来たときはまだ明るかったが、今はすっかり暗くなっている。
ともかく、足を止めずに歩いた。
面白くなかった。何もかも。
久代ったら! 私を一人で帰す気なんだわ。追ってこない。本当なら、走って追いかけて来て、
「一緒に帰るわ。私も本当は帰りたかったの」
とでも言うべきなのに。
――分っていた。久代が残りたがっているのは、前から目をつけていた男の子が、ちょうど遅れてやって来たからだということ。
そして、自分が帰ると言い出したのは、久代が楽しい思いをするのを、邪魔したいからだということも……。
「いやな奴ね、あんた」
と、恵は|呟《つぶや》いた。「最低の、やきもちやき!」
恵は、胸がチクリと痛むのを覚えた。
どうしていつも、こんな風なのだろう。
人を怒らせたり、傷つけたりするのが、まるで生きがいみたいに。どうして、こんなことばっかりしてしまうのだろう。
私だって……。私だって、好かれてみたいのだ。
「恵っていい人ね」
と、言われてみたい。
本当に、本当に、心から、そう願っている。熱望している、と言ってもいいくらいだ。
それなのに、口をついて出るのは、あんな憎まれ口。
恵は、いつも自分のことがいやになる。友だちなんか、そのうち一人もいなくなるだろう。
男? 男なんて、みんな同じ。
デートすればキスしたがる。キスすれば、もうどうでも思いのままになると思い込んでいる。
どうしてあんな男ばっかりなんだろう?
恵は、恋に|憧《あこが》れている。恋してみたいと思っている。でも、だめなのだ……。
誰も知らない。――そう。恵がどんなに友だちを愛しているか。好かれたいと思っているか。恵がどんなに寂しいか……。
道は、大して広くなかった。
その道幅、ほぼ一杯に、ライトバンが停っている。
いやだわ……。塀との|隙《すき》間を抜けて行くしかない。服が汚れないかしら。
でも、車はライトも消えて、人はいないようだ。文句も言えない。
仕方なく、体を横向きにして、車と塀の隙間を通り抜けることにした。服がこすれないように用心しながら……もう少し。
と、そのとき、ガラッとライトバンの扉が滑るように開いた。
恵は顔に何か布を押し当てられて、びっくりした。強烈な|臭《にお》い。それを吸い込むと、頭がくらっとして、よろけた。
ギュッと抱きしめられて、さらに強く、布を押しつけられる。息を止めているのにも限度があった。
吸い込む度、気が遠くなって行くのが分る。誰かが……誰かが、私に薬をかがせている。どうして? 一体何のために……。
それ以上は考えられなかった。恵は意識を失って、崩れるように倒れた。
*
「あなたが、もし――」
と、突っかかるように言いかける妻を、
「よせ」
と、夫は止めた。「今さら何を言っても仕方ない」
「だって、あなた……」
妻が突っかかろうとした「あなた」は、夫のことではない。今、二人の前ですすり泣いている、加納久代である。
「ともかく、恵を誘拐した犯人は、何か要求して来るはずだ。それを待とう」
と、室田は言った。
「本当に申し訳ありません」
と、久代はかすれがちな声で言った。「私が一緒に帰っていれば……」
「いや、君のせいじゃない」
と、室田は、久代の肩を軽く|叩《たた》いて、慰めた。「――だが、このことは誰にも言わないようにしてくれ。いいね?」
久代は|肯《うなず》いたが……。
「でも……警察へ届けるとか、しなくてもいいんですか」
「もちろん、本来なら、届けるべきだ」
ソファに身を沈めて、室田は言った。どっしりと落ちついた姿。
神経質にハンカチをいじくり回している妻とは対照的だった。
「しかし、恵は私の娘だ。警察へ届けて、犯人を刺激することは避けたい。――分ってくれるね? 金で解決することなら、いくらでも出す。警察へ届けるのは、あの子が戻ってからでも間に合う」
「分りました」
久代は、室田の冷静さに感銘を受けていた。
室田は――どんな仕事をしているのか、久代はよく知らなかったが――ともかくその世界では「大物」と言われているということだ。
そして、今の態度は、その風評を裏付けるものだった。
――久代は、結局、恵が帰ってから一時間、パーティに残っていた。そして帰り道、道端に落ちている恵のバッグと、引きちぎられたネックレスを見付けたのである。
久代は、どうしてもパーティに残りたかった。そして、充分に残ったかいはあったのだ。ひそかに|憧《あこが》れていた男の子と、たっぷり三十分も話し込むことができ、今度、彼の方から電話してくれるという約束まで手に入れることができた。
明日になったら、きっと恵から散々いやみや皮肉を言われるだろうが、そんなことは大して気にもならなかったのである。恵は、表面上、わがままで強がって見せているだけで、実際のところは、傷つきやすい寂しがり屋だということを、長い付合いの久代は知っていたのだ。
しかし、まさか――まさか、こんなことになるとは、思ってもいなかった……。
久代は、室田家を出た。
昼下りで、ひどく日射しがまぶしい。ゆうべ一睡もしなかったこと、そして家には、電話を一本入れただけだったことを思い出した。
疲れ切ってはいたが、同時に(ひどく惨めな気分になりながらも)お腹が空いているのにも気付いた。
恵がどんな目にあっているか、分らないというのに……。でも、仕方ない。ゆうべのパーティだって、ろくに食べるものは出なかった。若い久代にしてみれば、空腹になって当然である。
恵の家のすぐ近くにレストランがあった。昼食どきを過ぎているので、空いていたし、久代は、手早く食べて行くことにして、中へ入った。
窓際の席は避けた。もし、恵の父親でも出て来て、目についたらいやだったからである。
奥まった席で、コーヒーとカレーを頼む。できるだけ簡単なものを注文したのが、久代なりの、恵への「お|詫《わ》び」でもあった。
すぐに目の前に置かれたコーヒーを一気に飲み干して、|喉《のど》がかわいていたことを知った。
おかわりをもらって、やっと気持が落ちついて来る。
恵を誘拐……。一体誰がそんなことをしたのだろう?
お金が目当て、ということなら、分らなくはない。室田家は金持で、「|狙《ねら》いがい」のある家だ。
もしこれが、恵個人を狙ったものだとしたら……。恵は無事では戻らないだろう。
恵を恨んでいる男の子は大勢いる。ともかく恵は自分が可愛くて、男の目をひくことを充分に承知していて、身近に引き寄せておいて、ポンとけとばしてしまう。
そんなこと、よしなよ。久代は、いつも恵にそう言ってやったものだ。でも、恵は肩をすくめて笑うだけだった。
ただ、いくら恵に振られたといっても、人を誘拐しようというのは、普通じゃない。そんなことをしそうな男がいるだろうか?
――久代は、恵の家でずっと泣いていたので、ひどい顔をしているに違いない、と、思った。
カレーが来る前に、ちょっと顔を洗っておこう。家にも電話しなくては。
洗面所へ行って、顔を洗い、髪を少し直して、大分生き返った気分になる。自分の外見がすっきりしたことを確かめると、人間はずいぶん気分的にも落ちつくものだ。
席へ戻ろうと、洗面所を出て、
「――あ、ごめんなさい」
誰かとぶつかりかけて、よろけた。
「どうも……」
失礼、とでも言ったのだろうか。口の中でモゴモゴと|呟《つぶや》いて、入れ代りに洗面所に入って行く、若い男……。
席へ戻りつつ、久代は首をかしげていた。
今の人、どこかで見たような気がするけど――。どこでだろう?
体ががっしりした感じなのに、いやに気の弱そうな人。確かにどこかで見たような……。
でも、どうしても思い出せない。
席に戻ると、カレーが来ていた。久代はほとんど夢中になって、カレーに取りかかった。
たった今、ぶつかりかけた男のことは、少なくとも、カレーを食べている間、久代の頭からは、消えてしまっていたのである。
アッという間にカレー皿を空にして、久代は息をついた。水を飲もうとして、コップが空になっているのに気付いた。
水。――お水、もらえないかな。
久代は店の中を見回した。すると、さっきの男が洗面所から出て来るのが目に入った。
そのとき、思い出した。
あの人、大学へよくトラックを運転して来る人だわ。そう、学食の近くで何度か見かけたことがある。
でも……。こんな所で何してるんだろう?
久代は、そばにウェイトレスが立っているのに気付いて、
「あ――あの、お水、下さい」
と、あわてて頼んだのだった……。
3
加納久代は、決して無鉄砲な娘ではない。
冒険好きとか、ミステリーマニアというわけでもない。むしろ、ロマンチックな恋愛に|憧《あこが》れたり、|逞《たくま》しい男性の胸に抱かれて、ウットリとする自分を夢見ているタイプなのである。
しかし――やはり、室田恵が何者かに誘拐されたことでは、久代なりに責任を感じていて、それが、いつもなら、やるはずのない行動をとらせたのだろう。
久代は、自分でも信じられなかった。
私、何をしているのかしら?――こんなお|尻《しり》の痛い所に座って。
痛いのは当り前だ。ライトバンの荷台に、ペタンと座り込んでいるのだから。やはり、座席にクッションというものが必要なのだということを、久代は思い知ることになった。
――久代がこんな所にいるのは、室田家を出て、向いのレストランに入っているとき、いつも大学へトラックを運転して来ている男を見かけたからだった。
もちろん、偶然そこに居合わせただけ、という可能性もあるが、恵がいなくなった翌日、という点が引っかかった。しかも、レストランでも窓際に座って、じっと室田邸の方を眺めている。
レストランを出ると、その男は室田邸の周囲をゆっくりと回りながら、明らかに中の様子を探ろうとしている気配。――怪しい、と久代は直感した。
もしかすると、この男が恵を誘拐したんじゃないかしら、と考えたのだ。そして、男が停めてあったライトバンに乗り込むのを見て、ほとんど発作的に――とでも言うしかない――荷台へと忍び込んでいたのだった。
車は、郊外の方へと出て、何だか人気のない川沿いの道を走っていた。
久代は、そっと頭を持ち上げてみたが、その男は一向に気が付く様子もない。どこへ行くんだろう?
ガクン、と車が大きく揺れて、久代は危うく声を出すところだった。ライトバンは坂道を下って、やがて停った。
バタン、とドアの音――。男が外へ出て行く。
しばらくはこのままでじっとしていよう、と久代は思った。男が戻って来ないとも限らないし、もし恵のいる場所の近くなら、向うも用心しているだろうし……。
「――そうだな」
と、人の声が、窓の|隙《すき》|間《ま》から聞こえてきた。
「じゃ、あとはよろしく」
「ご苦労さん」
二人の男が話をしている。そして足音が遠ざかって……。
久代は、そっと体を起こした。関節が痛い!
「探偵って楽じゃないのね」
と、久代は|呑《のん》|気《き》なことを言っている。
ギー。ガタガタ。
何の音だろう? 久代は、窓から外を|覗《のぞ》いてみた。
スクラップになった車の山。高さが一体何メートルあるだろう?
「|凄《すご》い……」
こういう廃車の置場なんだわ、ここ。――久代は、車から降りようと荷台のドアへと|這《は》って行った。とたんに――。
グラッと車が揺れた。ガタン、と車の天井が大きな音をたてる。
「ど、どうしたの?」
と思わず口走った。
すると――車がフワッと宙に浮かび上ったのだ! 久代は仰天した。
「何よ、これ!」
外を見て、やっと気が付いた。大きなクレーンで、この車を|吊《つ》り上げているのだ。どんどん車は高く持ち上げられて行く。
あのスクラップの中へ投げ込まれる! 冗談じゃないわ!
〈007〉とか、映画じゃよくある場面だけど、実体験したくはない!
久代は窓を大きく開けると、
「やめて! 助けて!」
と、大声を上げたのだった。
*
「誰が誘拐されたって?」
と、松永は言った。
「恵よ。――室田恵よ」
久代はそう言って、震えそうになる体を必死で引きしめ、松永という男をにらんだ。「あんたがやったんでしょ!」
「馬鹿言え。何で俺が――」
「私を車ごとスクラップにして、殺そうとしたじゃないの」
松永は、ムッとした様子で、
「そっちが勝手に乗り込んで、隠れてたんだぞ。こっちが知るわけないだろ」
そう言われて、久代もたじろいだ。
ガーンと大きな音がして、振り向くと、あのライトバンがスクラップの山の中へと落ちて、ガラスが粉々に砕け飛ぶのが、目に入った。
久代は改めてゾッとしたが……。
冷静になって考えてみると、確かにこの男が自分を殺そうとしたと見るのは、無理があるようだ。
「俺は頼まれて、あのポンコツをここまで運転して来ただけだよ」
と松永は言った。「それのどこが誘拐なんだよ」
「分ったわよ」
と、久代は口を|尖《とが》らして、「でも――あんた、大学へトラック運転して来てるでしょ。さっき、恵の家を|覗《のぞ》いてたじゃない」
松永は、ちょっと目をそらして、
「知ってるのか」
と言った。「――確かに、俺は室田恵に|惚《ほ》れてるんだ。でも、誘拐なんてしやしないぜ。そんなことしてたら、家の回りをうろついたりすると思うかよ」
「まあ……そうだけど」
「だけど、本当に誘拐されたのか、あの子」
「私が|嘘《うそ》ついて、どうするの?」
松永はじっと久代を見ていたが、やがて、
「話してくれ」
と、真顔で言った。「どんな様子だったんだ?」
久代は、話しているうちに、どうやらこの松永という男は、恵をさらってはいないらしい、と思えてきた。
少々いかつくて、とっつきは悪いが、根は正直な男のようである。
川べりの道を歩きながら、久代は、パーティの帰り道、恵が姿を消して、あとにバッグとネックレスが落ちていたことを説明した。
松永は、少し難しい顔で話を聞いていたが、
「――犯人からは、何も言って来てないのか?」
「ええ。少なくとも、私が出て来るときまでは」
松永は黙って|肯《うなず》いた。そして、少し考え込んでいたが――。
「あそこに電話ボックスがある」
と急に足を止めて、言った。「電話してみろよ」
久代は、面食らった。
「どこへ?」
「決ってるだろ。室田恵の家さ。犯人が何か言って来たかどうか、|訊《き》くんだ」
「でも――」
久代は、言いかけて、「分ったわ。かけてみる」
と言うと、ボックスへ向って駆け出して行った。
「――どうだった?」
松永が訊くと、
「要求して来たって。五千万円。――あの家、お金持だから、何とかして作るでしょうけどね」
と、久代は少し息を弾ませながら、言った。
「要求してきたのか」
「そうよ。でも、|却《かえ》ってその方が――」
松永がいきなり|大《おお》|股《また》に歩き出したので、久代はびっくりして追って行った。
「どうしたのよ!」
「行ってみるんだ、あの家へ」
松永は、広い通りへ出ると、タクシーを止めた。
「どうするの、行って?」
「そんなの分らないさ。ともかく、何となく妙な気がしてるんだ。早く乗れ。置いてくぞ」
「はいはい」
久代はふくれっつらで、タクシーへ乗り込んだ。
――道が空いていたせいか、一時間ほどで室田邸の近くへ来る。
少し手前でタクシーを降り、二人は歩いて行った。
「ねえ、何を考えてるの?」
と、久代は言った。
「考えてやしないよ。見に行くだけさ」
「何を?」
「分らない」
久代は、このさっぱり「分らない」男に|苛《いら》|立《だ》ちながらも、何となく興味をひかれるものを覚えていた。少なくとも、この松永は、大学の男の子たちとは、まるで別世界の人間のようだ。
室田邸の門が静かに開いた。車が滑るように出て来る。
「あれ、室田さんの車だわ」
と久代は言った。「お金を用意しに行くのかしら」
車は、二人のわきを駆け抜けて行った。
「――今のが、親父さんか?」
と松永が訊いた。
「ええ、そうよ。運転してるの見えたでしょ?」
松永が、また出し抜けに歩き出した。久代は、また走って追いかけなくてはならなかった。
「今度は何よ!」
「金、持ってるか?」
「お金?」
「今のタクシー代で、もう|財《さい》|布《ふ》が空だ。レンタカー、借りたい。金、あるか?」
「少しくらいなら」
「出せ」
「車借りて、どうするの?」
「いいから出せ」
久代は、|諦《あきら》めてバッグを開けると、やけ気味になって、財布ごと松永へ渡してしまったのだった……。
4
「この道……」
と、久代は言った。「|憶《おぼ》えがあるわ、何となく」
「室田家の別荘がある。この先だ」
と、松永は言った。
車は、山の中の道を走り続けている。
「そう……。そうだわ。でも、どうして知ってるの?」
「調べられることは、全部調べた」
と、ハンドルを握って、じっと前方を見つめながら、松永は言った。「――|侘《わび》しいもんさ。どうせ手の届かない花だ。せめて、どんな所に住んで、どんな所で遊んでいるのか、知りたかったんだ」
久代は、松永の口調ににじむ寂しさに、本当の心を感じた。――この人は|嘘《うそ》をついていない。久代にとって、そんな風に感じられる男性は、初めてだった。
「どうして、別荘に行くの?」
と訊いたが、松永は答えない。
不思議なことに、久代は、それに腹を立てなくなっていた。
「――恵は、とても寂しいのよ」
と、久代は言った。「はた目には、高慢な子に見えるだろうし、確かに、男の子をずいぶん振って来た。でも、振られてもしょうがないようなのばかりだったのよ」
松永は、じっと前方を見据えたままだった。
「あの子の家……。こんなこと言ったら悪いかもしれないけど、ご夫婦があんまりうまく行ってないみたい。恵、ずっとそういうご両親を見て育ったせいで、あんな風になっちゃったんじゃないのかな。強がってるけど、その実、弱いの。でも、それを隠すために、ますます強く出る」
久代は首を振って、「ゆうべ、恵が帰っちゃったのも、私が男の子を待っていると知ってて、寂しかったからだわ。その気持をああいう風にしか、表現できない子なのよ」
松永は、黙っていた。久代の話は、確かに聞こえていただろうが、松永は何も言わなかった……。
「――もうじきだ」
と、口を開いたのは、十分近くたってからだった。
別荘には|人《ひと》|気《け》がなかった。当然のことではあったが。
「――どうするの?」
と久代は言った。
「入れる場所を捜してる」
と松永は歩きながら言った。
「そんな! 勝手に入るなんて……」
「入るのは俺さ。君は関係ない」
松永は、手近な石をつかむと、窓の一枚をアッサリ|叩《たた》き割った。
「私も入るわよ」
久代は意地になっていた。
別荘の中へ入り込むと、松永は、まず一階、そして二階と、次々に見て行った。
しかし、どこにも人の姿はない。
「何を捜してるの?」
「おかしいな……。ここじゃないのか」
松永は、一階の玄関ホールへ来て、息をついたが……。「おい! 聞こえるか」
「え?」
久代は耳を澄ました。――どこかで、トン、トン、と叩くような音がしている。
「そうだわ、ここ、地下室がある」
「そこだ! 入口、分るか?」
「たぶん……裏口のそば」
地下へ下りる入口は、背が低く、棚で隠してあって、すぐには目につかないようになっていたのだ。
中へ入って、手探りで明りを|点《つ》ける。
狭い階段を下りて行くと、地下室が目に入った。
「恵!」
ベッドの上に、恵が目かくしをされ、手足を縛られて、横たわっていた。
「大丈夫?」
と、久代は、恵を抱きかかえるようにして、一階へ上って来た。
「ありがとう……。怖かった……」
恵はすすり泣いていた。
「この人が見付けてくれたのよ」
恵が松永を見る。――初めて、松永が|頬《ほお》を染めた。
「でも、恵、どうしてお宅の別荘に……」
「分らないわ。まさか、自分の家の別荘にいたなんて!」
恵は信じられないように、別荘の中を見回した。
「家へ帰ろう」
と、松永は言った。「あとで、何もかも分るよ」
*
室田は、革のボストンバッグを、テーブルに置いた。
「あなた……」
「五千万、何とか用意した。――これで恵が戻れば、安いもんだ」
「あなた――」
室田は、ドアが開いて、見知らぬ男たちが入って来るのを見た。
「誰だ?」
「警察の者です」
と、その一人が言った。「お嬢さんの誘拐の知らせを受けましてね」
「お前、知らせたのか!」
と、室田は妻をにらんだ。
「私じゃないわ!」
「じゃ、誰だって言うんだ!」
「室田さん」
と、刑事が言った。「お気持は分りますが、我々もお嬢さんの安全を第一に、行動します」
「しかし……」
と言いかけて、室田は息をついた。「分りました。知れてしまったものは仕方ない。犯人は五千万、要求して来ました。ここに用意してある。ともかく、娘が戻るまで、手は出さんで下さい」
そのとき、
「戻ったわ」
と、声がした。
誰もが、|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。
「恵! まあ、無事で!」
と、母親が駆け寄る。
「そりゃ無事よ」
と、恵は言った。「私を誘拐したのは、お父さんですもん。警察へ知らせたのもね」
「何を言うんだ!」
「自分の別荘に監禁されるなんて、思いもしなかった。――お父さん、その中の五千万円、見せてちょうだい」
室田が真青になった。そして、よろけるようにソファに身を沈めると、頭を抱えて、|呻《うめ》くような声を出した……。
「会社の……会社の金に、手をつけてしまったんだ。女に狂って……。金ぐりがつかなかった、どうしても。それで……その五千万の使いみちを、何とかでっち上げなくちゃならなかったんだ……。恵……。すまん」
恵は、自分の手首の、縛られた傷跡をそっと隠しながら、
「正直なお父さんを、初めて見たわ」
と、言った。
*
「――松永さん」
呼びかける声で、すぐ分った[#「分った」に傍点]。しかし、信じたくなかった。
あの子が俺に声をかけてくれるなんて。
「やあ」
段ボールをおろす手を休めて、松永は恵を見た。「大学に出て来たんだね」
「ええ」
恵は本をかかえて、「大学休んでても、何の解決にもならないし……。父のしたことで、私が恥じること、ないんだ、と思って」
松永は|肯《うなず》いた。恵はちょっと笑って、
「そして、久しぶりに出て来てみたら、何が分ったと思う?」
「さあ」
「誰も私のこと、冷たい目でなんか見ないの。私、自分で思ってたほど、注目の的じゃなかったのよ」
そう言って、恵は笑った。――明るい笑いだった。
「恵!」
と、久代が駆けて来る。「ずるいぞ! 抜けがけして」
「あら、何のこと?」
「松永さんに目をつけたのは、こっちが先ですからね」
「久代ったら――。松永さんは、私のことが好きなのよ」
「そんなの分んないじゃない。付合ってみたら、私の方が気に入るかもよ」
松永は、面食らって、二人の娘のやり合うのを見ていた。
――あの奇妙な映画館。
あそこで、もう一人[#「もう一人」に傍点]、〈コレクター〉を見ていた男を、松永は|憶《おぼ》えていた。それが室田だったのである。
おそらく室田も、金の手当てがつかず、途方にくれて歩いていて、フラリとあそこへ入ったのだろう。そして、映画の中の誘拐を見て、あの狂言を思い付く。
しかし、自分の娘を、あんな風に閉じ込めておくなんて残酷なことが、よくできたものだ。松永は、室田を一発ぶん殴ってやりたかった。
「――これ、運んじまうから」
と、松永は段ボールをかかえ上げると、学生食堂の中へと運び込んだ。
「ここで待ってるからね!」
と、二人の娘が呼びかけて来る。
――松永は、自分が〈コレクター〉よりは、〈蝶〉の方になったような気分だった……。
[ドラキュラ]に恋して
[#ここから2字下げ]
ドラキュラ
Dracula
1979年 アメリカ
[監督]ジョン・バダム
[脚本]W・D・リクター
[出演]フランク・ランジェラ/ローレンス・オリビエ/ケイト・ネリガン
[#ここで字下げ終わり]
1
「とんでもないこと、しちゃった」
珍しく、久司がしょげ返っている。
「何よ。――久司らしくもないじゃない。元気出しなさいよ」
とは言ったものの、|円《まどか》香子は、内心、心配してはいたのである。
杉山久司が、こんな風にしょげているというのは、よほどのことだ。こう言うと、杉山久司が、少々「抜けてる」と見られるほど、明るい大学生だと思われそうだが――事実、その通りだという声も、この大学の中で、決して少なくなかった。
まして円香子は、高校生のころから、久司のことをよく知っている。
N大学のキャンパスは広い。――古い大学で、建物も、相当に「古典的」かつ「文化財」並みの古さだが、これはこれで味があり、学生たちにも評判は悪くない。
今、久司と香子は、そのキャンパスの一画、研究棟の並ぶ、静かな道に来て、すっかりペンキのはげたベンチに腰をおろしていたのだった。
「どうしたっていうのよ?」
と、香子は言った。「わざわざ、午後の講義、さぼって来ちゃったんだからね。はっきり言って。とんでもないこと、って何なのよ!」
香子は少々短気である。久司はそれに比べると、おっとりして、神経が細やかで芸術家肌。
「うん……。とんでもないことなんだ」
久司の話はなかなか前へ進まない。
「いい加減にしてよ」
香子は、いささか本気で腹を立てながら言ってから、「――まさか、久司……」
大学生として、ありがちな出来事を、頭に浮かべた。
「女の子のこと? その――妊娠させちゃったとか?」
「よせよ、そんなことじゃないよ!」
久司はむきになって、「僕がそんなことすると思うのかよ」
「分んないじゃない。お互い、十九歳よ。私だって――」
「お前、もう[#「もう」に傍点]?」
と、久司が目をみはる。
「そのうち、ってこと。そうでないなら、何なのよ」
「うん……」
久司は、研究棟の一つで、一番古く、百年近くも前に建ったという木造の建物を見ながら、「あそこに、歴史研究室があるの、知ってるだろ?」
「うん、行ったことあるよ。クモの巣だらけの、お化け屋敷みたいな部屋でしょ」
「まあな」
と、久司は苦笑いした。「僕は西洋中世史の講座をとってるから、ときどき行くんだ。確かに、ガラクタだらけに見えるけどな、ずいぶん貴重な史料も置いてあるんだぞ」
「ふーん。で……その大事な史料を失くしちゃったとか?」
「それぐらいのことなら……」
と、久司はまたため息をついて、「あの研究室に地下室があるっていうの、知らないだろ」
「そんなものあるの?」
「うん。結構な広さで、やっぱり色んな物が山と積んである。今じゃ、担当の三沢先生も、地下室に何があるか、よく知らないんだ」
「そこへ入ったの?」
「うん。――レポート書くのに、どうしても必要な文献があってさ、先輩に|訊《き》いたら、研究室にあるはずだって言われて、捜しに行ったんだ。昨日の、ちょうど夕方だった」
久司は、明るい空を見上げて、「明るいうちに行きゃ良かったんだよな」
「わけの分んないこと言ってないで、早く先へ進んでよ!」
「分ったよ。――で、ともかく研究室の中を|埃《ほこり》だらけになりながら捜したんだけど、文献は見付からない。それで、こっそり|鍵《かぎ》を持って来て、地下室の戸を開けたんだ……」
*
しかし、地下室の捜索も、結局、むだに終りそうだった。
大体、物が多すぎて、どこをどう捜せばいいのやら、見当もつかない。研究室は、いくら雑然としていても、一応普段利用されているから、どこに何があるか、分るようになっている。
しかし、この地下室は――それこそ、三沢悠一教授の言葉によれば、
「百年前からの物が、そのままになっている、タイム・カプセルみたいな部屋だ」
ということなのである。
それでも、久司は、かなりていねいに地下室の中を見て回った。性格的に、中途半端にやめることはできないのだ。
地下室の奥へ奥へと進んで行って――。久司は足を止めた。手にしていたライト(地下室には一応照明もあるが、奥の方はまるで届かない)の丸い光の中に、一番隅っこの方に押しやられた奇妙な荷物を見付けたのである。
古ぼけた布で覆われたそれは、細長い箱のようだった。高さはせいぜい久司の|膝《ひざ》くらい。
見下ろすと、その布の真中に、くっきりと十字架の絵が描かれていた。布そのものも、触れてみると、ごわごわした感じの古いもので、その下に何があるのか、見当もつかなかった……。
やめとけ。――余計なものを見るな。
久司の中で、そう|囁《ささや》く声がした。しかし、香子ほどではないが(ここで、香子の「どういう意味よ!」という横ヤリが入った)、やはり好奇心は持ち合わせている。
しばし迷ったものの、久司は、その布をめくって、何が現われるか見てみたいという誘惑に勝てなかった。
ゆっくりと布をめくって行くと、光の中で埃が舞った。そして現われたのは、夜の底のように暗く、黒く光った、棺[#「棺」に傍点]だった。
立派な棺だ。日本式の白木のものではなく、豪華ともいいたい装飾を施された西洋風のもの。これは火葬なんかにしないだろうと思えた。
「へえ……。何でこんなものがあるんだ?」
と、口に出して|呟《つぶや》く。
そう。――よく吸血鬼の映画とかで見るような、あんな棺なのである。
いくら歴史研究室だって、「吸血鬼の見本」まで置いてないだろう。そう思って、久司は笑った。
そして、少し離れて、棺を眺めたのだが――。妙なものが、|貼《は》りつけてあった。
ふたを閉めてある、その境目。ふたと下の箱とにかけて、ちょうど封筒に封をした後、シールでも貼るように、白い紙が貼りつけてあった。それも何枚も。
もちろん、紙自体も相当に古くて、色が変ってしまっていたが、そこにははっきりと――十字架が描かれていたのだ。
*
「――何、それ?」
と、香子は言った。
「つまり……封印みたいなもんだと思うんだ。それを貼っとくと、中の吸血鬼が出てこられない……」
久司の顔を、香子はまじまじと眺めた。
「久司……。本気?」
久司のことは、よく分っている。こんな冗談を言う人間じゃない。しかし、それにしたって、あんまり突拍子もない話じゃないの!
「誓って、|嘘《うそ》じゃないよ」
と、久司は言った。「あんな物、見付けなきゃ良かった」
「ふーん。――ま、誰か迷信深い人がいて、そんなこと、やったのかもね。でも、いいじゃない。知らん顔して、放っとけば?」
「そうはいかないんだ」
と、久司は暗い表情で言った。
「どうして?」
久司は、少しためらって、それから言った。
「僕が――その封印を破っちゃったんだ」
香子は、目をパチクリさせて、
「そう」
と、|肯《うなず》いた。「でも――やっちゃったんなら、仕方ないでしょ。そんなことで|叱《しか》られやしないわよ」
「だけど……そのせいで、あの中[#「あの中」に傍点]から、吸血鬼が出て来たら……」
香子は、ちょっと心配になって、久司の額に手を当てた。
「――うん、熱はない」
と、肯く。「ねえ、久司。何も、中を|覗《のぞ》いて、そこに本当にマントを着込んだ吸血鬼がいたってわけじゃないんでしょ? 中は空っぽよ。心配しなくたって――」
「いたんだ[#「いたんだ」に傍点]」
と、久司は言った。
香子は、しばしポカンとしていた。
「いた[#「いた」に傍点]?」
「うん。――ふたを開けた。そしたら中に――いた」
「ネズミか何か?」
「吸血鬼だよ。あんなマントは着てなかったけど、きっとあれはあとで映画化するときに発明したスタイルだろ。昔風の、レースの飾りのついた、貴族みたいな格好してた」
「へえ」
としか、言いようがないよね……。
「死んでるのにしちゃ、肌もつやつやしてるんだ。青白いけどね」
「貧血症なのね、きっと」
「ちょうど夕方だった」
久司は、身を震わせた。
「大丈夫?」
「うん……。たぶん、あのとき、日が沈んだんだ。そいつがね、目を開けた[#「目を開けた」に傍点]んだよ。真赤に光る目だった。――僕、悲鳴を上げて、飛び出して来ちゃった!」
久司は頭をかかえた。「どうしよう! 吸血鬼が出て来て、人を襲い始めたら!」
どう見ても、本気である。
香子は、何と言って慰めていいものやら、見当もつかなかった……。
2
まさか。――そう思いつつ、安物の十字架を、|原宿《はらじゅく》のアクセサリーショップで買って来た。というのは、やはり香子も、万に一つとはいえ、吸血鬼に血を吸われるのはいやだなあ、なんて考えていたからである。
ヤブ|蚊《か》に吸われたって、いい加減かゆくて辛いんだから、吸血鬼に吸われたらどうなるんだろう? やっぱりキンカンが効くのかね。
「――久司」
と、香子は手を振った。
「やあ」
久司が、ホッとした様子で、やって来る。
――夜中のキャンパス内というのは、あんまり気持のいいものではなかった。
もっとも、研究棟の中には、徹夜で研究をしている部屋もあって、明りの|点《つ》いている窓はいくつかあるし、人もいるわけだから、そう心細くはない。
「今、何時?」
「十一時過ぎ」
と、久司が腕時計を見る。「吸血鬼が出て来るとしたら、真夜中だよね」
「そうね。でも、日本時間[#「日本時間」に傍点]に合わせてくれてる?」
「知らない」
何だか、我ながらわけの分らない会話を交わして、ともかく香子は久司と一緒に、歴史研究室に向った。
「――ねえ。明りが点いてる」
と、香子は言った。
「ああ……。そうだな」
「こんな時間に、誰かいるの?」
――香子は、何だか自分がドラマの中に入り込んでしまっているような気がして、怖いつもり[#「つもり」に傍点]ではいたが、どこか本気で怖がっていないところがあった。
二人は、廊下を進んで行った。――歴史研究室に明りが点いて、ドアが開けたままになっている。
中を|覗《のぞ》くにも、お互い譲り合うという、うるわしい友情を証明してみせた後、結局、久司がそっと顔を出す。
「――誰もいないみたいだ」
「何だ……」
ホッとしながら、「でも、誰かが明りを点けたわけよね」
「うん。――地下室の戸が開いてる」
久司が足を止める。「遅かったのかな」
香子は、この時点では、恐怖よりも好奇心の方が先行していて、久司の言った「棺」を見たいと思った。
「中へ入る。ライト、持ってる?」
「うん。大丈夫か?」
「美女は|狙《ねら》われるかもね」
「じゃ、大丈夫かな。――いてっ!」
久司は香子にけっとばされたのだった。
半信半疑の香子ではあったが、いざ実際にそれ[#「それ」に傍点]を見ると、一種の感動を覚えた。
棺は[#「棺は」に傍点]、確かにそこにあった!
「ね、入ってるのかしら?」
「知らないけど、開けない方がいいと思うよ」
香子も、ふたを開けて中を覗こうという気にはなれない。覗きたいという気持はあっても、そこは怖さの方が好奇心を抑えているのである。
「――どうする?」
と、香子は言った。
「ともかく、上で様子を見ていようよ」
「そうね」
二人は、地下室から上って来た。
すると――目の前にヌッと人影が――。
「キャーッ!」
と、香子が叫び声を上げる。
「何だ、円じゃないか」
「あ――三沢先生」
香子は、胸をなで下ろした。
「何してるんだ? 杉山も一緒か」
西洋史の三沢悠一教授である。――少し髪が白くなりかけているが、なかなかすてきな中年紳士で、女子学生に人気がある。
「あの――ちょっと地下室の探検に」
と、香子は笑顔を作って、「すみません、勝手に入って」
「子供みたいだな」
と、三沢教授は笑った。「何か面白いものがあったか?」
「いえ……別に」
と、久司は言った。
「そうか。もう戸締りするぞ。遅くならないうちに帰れ」
「はい。じゃ、失礼します」
香子は久司を促して、足早に研究棟を出た。
「――ああ、びっくりした!」
と、香子は胸をなで下ろした。「久司。どうする?――久司?」
久司は、何やら考え込んでいる。
「なあ、香子……。今、三沢先生の顔、よく見たか?」
「どうして?」
「うん……。何だか、歯が|尖《とが》ってたみたいだった」
と、久司は言った。
*
まさか、ね……。
香子は、昼休みの学生食堂で、ラーメンを食べていた。
「ねえ、聞いた?」
いきなり隣に来て、香子の腕をつかんだのは、同じゼミにいる浜野ユリである。
「何よ」
「研究室の女性が、行方不明ですって」
「行方不明?――家出でもしたの?」
「そうじゃないわよ。この間、夜中まで研究が終んなくて、四、五人で残ってたんだって。夜中に夜食、買って来ようってことになって、男の子と二人で、近くのコンビニヘ出かけたの。帰りに、大学の中までは一緒に戻って来たのよ。で、男の子が前を歩いていて、何か後ろで音がしたんで振り向くと、もう彼女の姿がなかったって。買った物が落ちて散らばってたんですってよ」
「へえ」
「急いで、他のメンバーを呼んで、その辺探して、一一〇番もしたりして。でも、姿はかき消すように見えなくなって、それっきり」
「妙な話ね」
「ね、怖いでしょ。――ま、私たち、夜中はここへ来ることなんてないけどさ」
と、浜野ユリが言っていると、
「ここ、いいかね」
と、声がした。
「あ、三沢先生」
ユリは立ち上って、「どうぞ。――香子の隣がいいんだ」
と、からかう。
「うん。内密の話があってね」
と、三沢が言った。
「へえ! そういう仲だったんだ」
「ユリ――」
「どうぞ、ごゆっくり」
ユリがピョンピョンと飛びはねるように行ってしまう。
「悪いね」
三沢は、コーヒーを飲んでいるだけだった。
「先生……。お昼は?」
「うん。食欲がないんだ、このところ」
確かに、三沢の表情には、どこか生気がなかった。目が充血して、疲労がにじみ出ている。
「あの……私に何か?」
「うん。君、この間、地下室へ入ったね」
「すみません」
「いや、いいんだよ」
と、三沢は首を振って、「あのとき――見たかね、棺を」
少し押し殺した声。――香子は、ちょっとためらったが、
「見ました」
と、|肯《うなず》いた。「杉山君と二人で」
「そうか」
三沢は息をついて、「あれは――全く妙だ。どこから送られて来たのか、もう今となっては分らない。何しろ、百年近く前のものだからね」
「先生は……中を見たんですか」
三沢は、不思議な表情で、
「歴史学者ってものは、墓をあばくのが仕事の一つさ。古い棺がある。開けずにいられると思うかい?」
「じゃあ……」
「見たんだね」
学食は、空いて来ていた。――午後の講義が始まる。
「あの……私、講義が――」
と腰を浮かしかけると、三沢がパッと香子の手を押えた。
「見たんだね」
「吸血鬼を、ですか」
三沢は、ゆっくりと手をはなした。
「吸血鬼か。――学者の言うことじゃないな」
と、笑う。「しかし、現にそれ[#「それ」に傍点]を目の前に見たら……。否定できない」
「私は……見ていません。杉山君が」
「そうか。――じゃ、封印を破ったのも?」
「ええ。先生、でも、その封印のことを――」
「僕はていねいにはがして、またあとできちんと貼っておいた。ところが……。破ってしまえば、もうあいつは自由に出入りできる」
「本当に……吸血鬼なんですか」
三沢は肩をすくめて、
「少なくとも、何百年か生き続けている人間だってことは、確かだね」
と、言った。「研究生が一人、いなくなった。知ってるだろ?」
「今、ユリから聞きました。じゃ、その吸血鬼が?」
「分らん」
「見に行ったんですか、地下室に?」
「もちろんさ」
「棺の中は?」
三沢は、ゆっくりコーヒーを飲み干すと、
「中も何も……。棺そのものが、なくなってたんだよ、地下室から」
と、言ったのだった……。
3
「もしもし……」
香子は、半分寝ぼけた声を出した。
夜の十一時。いつもなら、まだまだ眠る時間ではないのだが、テストがあって、ゆうべは完全に徹夜。
いくら香子でも、今夜は十時ごろからベッドへ入っていた。そこへ電話。
両親は二人で温泉だかへ出かけていて、香子は一人だった。深い眠りから香子を覚ましたのだから、電話も、かなりしつこく鳴り続けていたのに違いない。
「香子? いたのか! 良かった!」
「ユリ?」
と香子は言った。「ユリなの?」
「そう。ね、香子、今私、大学にいるんだけど」
と、浜野ユリが早口に言った。「ね、何だか怖いの。来てくれない?」
「ええ? どうしたっていうのよ。大体どうしてこんな時間まで――」
と言いかけて、思い出した。「あ、そうか。文化祭の実行委員だったね」
「そうなの。それが、手分けして資料を|揃《そろ》えてたら、みんな先に帰っちゃって、一人になっちゃったのよ」
ユリのふくれっつらが、目に見えるようである。
「怖いって……何かあったの?」
「今、学生部の部屋なんだけど――さっきから、窓の外に人影が。それに足音もしてるし……。何だか出て行く気がしないの。お願い、香子!」
こんな時間から、とは思ったが、香子としても、このところ大学で起こった「吸血鬼」をめぐる奇妙な出来事を考えると、ユリに一人で帰れとは言いにくい。
「――分った。友情代は高いぞ」
と、香子は言ってやった。
「恩に着る! アンミツおごる!」
「安いんじゃない、それじゃ」
と、香子は笑って、「私が行くまで、部屋の|鍵《かぎ》かけて、開けないようにしてなさい」
「うん。――香子、早く来てね」
ユリは、本当に|怯《おび》えている。
香子は、急いで冷たい水で顔を洗うと、車のキーを手に、家を出た。免許を取ってまだ半年だが、結構スピード狂である。
今夜は、存分にスピード出してやれ!
眠気覚ましに、と窓を開けたまま、香子は車を飛ばした。
夜遅いので、道も空いている。快適に車を走らせていると――。
サイレン!
「しまった!」
白バイが追いかけて来る。香子は道のわきへ車を寄せて停めた。
「――スピード違反だよ!」
と、白バイの警官が怒鳴った。
「良かった! 先導して下さい!」
「何だって?」
「大学で、友だちが襲われそうなんです!」
「本当か?」
「|嘘《うそ》だっていうんですか!」
香子は、思いっ切り|甲《かん》|高《だか》い声を上げて、警官の度肝を抜いた。「友だちがひどい目にあったら、あなたのせいですよ!」
香子の剣幕にたじたじの警官は、
「分ったよ。しかし、もし嘘だったら――」
「早く! 一刻を争うんです!」
こんなときは、香子も自分の声が大きいことに感謝したくなるのだった。
ともかく、白バイの先導で、大学まで十五分ほどで着く。
キャンパスの中へ駆け込んで、学生部のある建物へ入った香子は、息を弾ませていた。
「誰もいないじゃないか」
と、ついて来た警官が言った。
「学生部の部屋……。あそこだ!」
廊下を走って行って――足を止める。
ドアが開いていた[#「開いていた」に傍点]。
「――ユリ。いるの?」
と、声をかけて、香子は部屋の中を|覗《のぞ》いたが……。
「こりゃひどい」
警官が目を丸くした。
部屋の中は、めちゃくちゃに荒らされていた。――香子は青ざめた。
ここへ来るまで、香子自身、半信半疑だったのだ。しかし、この荒らされ方は、普通ではない。
机も椅子も引っくり返り、戸棚まで倒されて、ガラスの扉が粉々に砕けている。
「何があったんだ?」
と、警官が、やっと口を開いた。
「分りません。でも……。ユリ!――ユリ! どこなの!」
必死に呼びかけていると――。
ウーン……。どこかで低い|呻《うめ》き声が聞こえた。――空耳かしら?
「誰か……」
と、かすかな声。
「ユリ!」
香子は、やっと声のしている所を見付けた。倒れた戸棚が、壊された椅子の上にのって、床との間に|隙《すき》|間《ま》ができている。そこから、ユリが顔を覗かせたのである。
「ユリ!――大丈夫?」
「香子……。足が……」
と、ユリが顔をしかめる。
「挟まれてるんだわ」
と、香子は言った。「何とかして、この戸棚をどかさないと」
「すぐ、助けを呼ぶ」
と、警官が駆け出して行った。
「――少しの辛抱よ。我慢して」
と、かがみ込んで、香子は元気づけた。
「香子……。ドアを……」
「え?」
「開けないで……ドアを……」
そう言ったきり、ユリは気を失ってしまった。
「ユリ……。しっかりして」
と呼びかけたが、ユリの手首の脈をとってみて、しっかり打っているのが分ると、このまま失神させておいた方が、痛みも感じないですむかもしれない、と思い直した。
ともかく、すぐに救急車も来てくれるだろう。――香子は、|苛《いら》|々《いら》と、サイレンが聞こえるのを待った。
ドアの所に誰かが立った。
「救急車は――」
と言いかけて、香子は息をのんだ。
白バイの警官が――頭から血を流し、よろけるように部屋へ入って来ると、そのままバタッと倒れたのだ。
*
香子は、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、倒れた警官を見ていた。
こんなこと……あるわけないわ。こんなこと……。
一体誰が? 誰がこんなひどいことを?
香子は、そろそろと、倒れた警官へと近付いて行った。
「――香子」
突然呼びかけられて、香子は、
「キャッ!」
と飛び上った。
そして、胸を押えると、
「何だ! びっくりさせないでよ!」
と、息をついた。
久司だったのである。
「悪い。いや、びっくりさせるつもりじゃ――。どうしたんだ?」
「どうしたも何も……。久司、何してるの、こんなに遅く?」
「うん……。三沢先生のことが気になってさ」
と、久司は重苦しい口調で言った。
「三沢先生のこと?」
――確かに、このところ三沢教授は休講が目立つ。
研究室の女性の行方も、分らないままである。しかし、今はともかく久司と会ったことで、香子は救われた気分だった。
「――助けを呼びに行かなくちゃ」
と、事情を説明して、香子は言った。
「ひどいことになったな。――でも、三沢先生がもし、本当に吸血鬼にやられたんだったら……」
「どこかへ棺を移して、隠してるのかしら?」
「ともかく、今出ると危いよ。朝まで待った方がいい」
と、久司は言った。
「そんなわけにいかないわ」
と、香子は言った。「ユリだって、このお巡りさんだって、急いで手当しなきゃ」
「分るけど……。でも、またこんな風にやられちゃうぜ」
「だからって……」
もちろん、香子にも、いい考えがあるわけではない。
「ここ、電話はないの?」
と、香子がふと思い付いて、言った。
「この部屋にはないよ。建物の入口にあるけど」
香子は、戸棚の下で足を挟まれて失神しているユリの方を見た。――ためらっている暇があったら、何とかするんだ!
「久司、ここ、見てて」
「どうするんだ?」
「電話、かけて来る」
「無茶だよ!――香子!」
やり合っていると、怖くなるかもしれない。
香子は、一気に駆け出していた。
「ユリをお願いね!」
と、振り返って言いながら――。
4
電話の所はポカッと明るくなっていた。
香子は、しばらく辺りの様子をうかがっていたが、いつまでも隠れていても仕方ない、と心を決めた。
もちろん怖いし、心臓は飛び出さんばかりに打っていたが、ユリを助けなきゃ、という思いが、怖さを圧倒した。
小銭入れを持って来て良かった。ここの公衆電話は古いので、十円玉でないとかけられないのである。
汗のにじむ手に十円玉を握りしめて、タタッと電話へ駆け寄る。
お願い! 通じますように! 十円玉を入れる。
発信音が聞こえた! 香子はホッとして、指をダイヤルへかけた。
そのとき――影が動いた。誰かが――。
振り向いた香子は、三沢の顔を見て、青ざめた。
「何してるんだ」
と、三沢が言った。「危いじゃないか、こんな時間に」
「あ――あの――。けが人が……」
と、香子は言いかけたが、|膝《ひざ》が震えて、立っているのがやっと、という有様。
「けが人?」
「ええ……。先生――何してるんですか、こんな時間に」
お互いに質問し合ってりゃ世話ないや、などと、香子は|呑《のん》|気《き》なことを考えていた。
「奴を捜してるのさ」
と、三沢は言った。「この大学の中の、どこかに隠れてるはずだ」
「先生……」
香子は、三沢が、上衣のポケットから重そうな銀の十字架を取り出したのを見て、目を丸くした。
「気が狂ったとでも思ってるかい?」
三沢は、すっかり|頬《ほお》がこけて、確かに別人のようだ。
しかし、三沢本人が十字架を握りしめているというのは、どういうことだろう?
「いえ……。今も、お巡りさんが一人、ひどいけがをしてるんです」
と、香子が言った。
「何だって?」
香子の話を聞くと、三沢は|眉《まゆ》を寄せた。
「じゃ――杉山が今、その部屋にいるのか」
「そうです」
香子は、三沢の疲れ切っていながら、一種の高揚した状態にある表情を、見守っていた。
――吸血鬼。
馬鹿げているようだが、もし本当に存在するとしたら……。こんな風に疲れ切っているだろうか? もし三沢がそいつ[#「そいつ」に傍点]にやられて、吸血鬼と化しているのなら、もっと力に|溢《あふ》れていて当然ではないだろうか。
「先生」
無謀だと思いつつ、香子は正面切って言った。「吸血鬼にかまれたんですか?」
「僕が? いや、僕はやられてない。ただ――誰かがやられたことは確かだろう。だから、奴[#「奴」に傍点]はこの大学の中を隠れ家にしているんだ」
もしかして……。恐ろしい想像が、香子の胸を凍らせた。
「先生。――久司――杉山君が、もし[#「もし」に傍点]、吸血鬼に……」
「こんな時間に大学に残っていることだけでもおかしい。――行ってみよう」
「ユリが危いわ!」
二人は駆け出した。
部屋のドアは、閉じていた。
香子は開けようとしたが、中から何かでドアが押えてあるらしい。
「久司!――久司! 開けて!」
三沢が、力をこめてドアを押すと、わずかに|隙《すき》|間《ま》が開く。
「来ちゃいけない!」
と、その隙間から、久司が顔を|覗《のぞ》かせた。
「久司! どうして――」
「僕は、あの人[#「あの人」に傍点]のために働いてるんだ」
久司は、何かに酔っているような声を出した。「僕は昔から、ずっと吸血鬼に|憧《あこが》れて来た。そうなんだ。――本物に会ったとき、もう自分のことなんか、どうなってもいい、と思った……」
「しっかりして! 何をしてるの?」
と、香子は叫んだ。
「静かに」
と、久司は言った。「今、あの人[#「あの人」に傍点]が、浜野ユリの血を吸ってるところだ」
「何ですって……。久司! 開けて!」
香子は叫んだ。「お願い、やめて!」
「もう遅いよ」
と、久司が言った。「あの子は血を吸われて、吸血鬼のために死ぬ。名誉なことなんだ」
「馬鹿言わないで! 久司、目を覚ましてよ!」
「行けよ。君も死ぬことになるぞ」
と、久司が言った。
そのとき、ドアのわきに隠れていた三沢が、手にした十字架を、ドアの隙間から差し込んだ。
「ワッ!」
久司が、十字架を額に押し当てられて、よろけた。後ずさって、悲鳴を上げる。
すると――ドアが、それほど力を入れて押していなかったのに、ゆっくりと開いた。中でドアを押えていた机が、バラバラに砕ける。
三沢が、中へ飛び込んだ。
香子は、それに続いて、部屋の中へ入ったが――あの、倒れた戸棚の辺りから、誰かが立ち上るのが見えた。
ほんの一瞬だったが、香子は確かに見た。
古めかしい、レース飾りのついたシャツを真赤な血に染めて、白髪が|嵐《あらし》のように波打っている、|凄《すさ》まじい顔の老人が立ち上るのを。
三沢が十字架を手に、それに向って突っ込んで行く。
そして――まぶしい雷のような白い光が部屋に充ちたと思うと、次の瞬間、すべての明りが消えた。
同時に、香子は見えない手ではじき飛ばされたように、したたかに壁に|叩《たた》きつけられ、そのまま気を失ってしまった……。
*
体中が……痛い。
どうしたんだろう? 何があったの?
香子は、目を開けて、もう明るくなっていることを知った。
窓から、朝の柔らかな日射しが差し込んでいる。――荒らされた部屋の中。
そう。ゆうべ……。何があったんだっけ?
悪い夢を見たような。でも――本当に[#「本当に」に傍点]何かとんでもないことが……。
「香子……」
と、弱々しい声が聞こえた。
「ユリ!」
香子は、床を|這《は》って来るユリの方へと駆け寄った。「しっかりして!」
「うん……。足が……折れてるのかも」
と、ユリは顔をしかめた。
「すぐ、救急車を呼ぶからね」
ハッとした。――そう。三沢先生は? 久司、そしてけがをした警官。それから、あいつ[#「あいつ」に傍点]は?
足音がした。――三沢が、入って来た。
「気が付いたのか! 今、救急車が来た」
「先生……。杉山君は?」
「うん。失神していたから、今、運ばれて行った。警官も」
「――あいつ[#「あいつ」に傍点]は?」
「消えた」
「消えた?」
「まだ、充分に血を吸っていなかったので、力を取り戻していなかったんだろう。僕の十字架で、何とかやっつけることができた。そこに――」
と、三沢は床の方へ目をやって、「灰が少し残っているよ」
目をやると、白っぽい灰が、もうずいぶん風に吹き散らされたように、わずかにこぼれている。
「あれが……?」
「どう説明したらいいのかな、警察に」
と、三沢は首を振った。「確かに棺は残っている。体育館の裏に隠してあった。しかし、もちろん中は空だ。吸血鬼がいた、なんて話をしても、一体誰が信じてくれるかね」
「そうですね……。あの研究生は?」
「この付近をふらふら歩いているところを保護されたよ。ぼんやりしていて、何も|憶《おぼ》えていないらしい」
「じゃ、助かったんですね。良かった!」
と、香子は息をついた。
救急隊員が担架を運んで来る。ユリが運ばれて行き、香子も一緒に、と言われたが、特にどこもけがをしてはいない様子だったので、断った。
「先生」
と、香子は言った。「杉山君は――」
「うん。警官を殴ったのは、酔っ払った挙句のことだったとか、何とか説明するしかないな」
と、三沢は言った。「幸い、警官のけがも、そうひどくはなかったようだ」
香子は、やっと笑顔になって、それからフラッとよろけた。
「おい、大丈夫か! どこかけがを?」
三沢があわてて支える。
「いいえ……。お腹が空いてるだけだと思います」
と言って、香子は赤面した。
*
「――やあ」
学生食堂で、お昼にラーメンを食べていた香子は、その声に顔を上げた。
「久司。――もう停学処分、とけたの?」
「うん」
久司は、きまり悪そうに、「かけてもいいかな」
「いいけど、何か食べるもの、買っといで。このラーメンはあげないよ」
久司はホッとしたように笑って、セルフサービスの列に並びに駆けて行った。
――香子は先にラーメンを食べ終えて、ランチを食べている久司を眺めていたが、
「久司が吸血鬼ファンだったなんて、知らなかったよ」
「もうやめたんだ。こりごりだよ」
久司は、ため息と共に言った。「――香子」
「うん?」
「今度……映画でも見に行かないか」
久司が、おずおずと言う。
香子は、少し考えて言った。
「考えてもいいわ。吸血鬼の映画でさえなきゃね」
[もしも…]あの日が
[#ここから2字下げ]
if もしも…
If
1969年 イギリス
[監督]リンゼイ・アンダーソン
[脚本]デビッド・シャーウィン
[出演]マルコム・マクダウェル/デビッド・ウッド
[#ここで字下げ終わり]
1
久仁子は目を覚ました。
そして――急に不安に襲われて、体を起こす。
寝室は真暗だった。必死で明りのスイッチを手で捜し、カチッと押すと――光量を落とした照明に、隣の布団で寝ている「彼」の姿が目に入った。
ホッと息をつくと、久仁子は明りはそのままにして、枕に頭を落とす。
ちゃんと彼はそこにいた。――当り前のことだ。
しかし、少なくとも久仁子にとっては、それは信じられないような奇跡で。――それは「恋」と呼ばれる奇跡、誰にでも訪れる奇跡の一つ、なのだった。
本当に……。こんなことになるなんて。
今でも信じられないような気分だ。あの会社での出来事が、今でも夢だったんじゃないかと思えて……。
久仁子は目を閉じる。もう眠れないかもしれない。起きる時間まで、あとせいぜい三十分ぐらいだろう。カーテンを通して、少しずつ朝の明るさが忍び寄って来ている。
それでも、目を閉じる。疲れた体が、少しでも休まるように。
けれども、|一《いっ》|旦《たん》考え始めると、いやでも思い出されてしまうのだ。あの、ひと月前の「事件」が。突然、仕事時間中に、会社の中に響きわたった怒鳴り声――。
*
「ふざけるな!」
と、怒りをこめた一声が、会社中の人間の仕事の手を止めさせたかと思うと――。
バシッ。
殴られた部長は、椅子へドタッと落ち込み、勢いがついて、車輪つきの椅子は、後ろの壁まで滑って行った。
「どうしたの?」
佐伯久仁子は目を丸くして、隣の安西由子に言った。
「殴ったのよ、久米さん、部長を」
と、安西由子は面白がっている。「やったわね、ついに!」
「貴様……」
|禿《は》げ上った部長は、顔を真赤にして、「出ていけ! この場でクビだ!」
本当は殴り返してやりたかったのだろうが、久米は若い。それにがっしりした体つきで、誰が見たって、腕力となると、とても勝負にならないのははっきりしていた。
「頼まれたって、いてやるもんか」
久米哲郎は、部長の机の上に積んであった書類を思い切りはね上げて、まき散らしてやると、大股に自分の机の方へ戻って行った。
久仁子は|唖《あ》|然《ぜん》として、その様子を眺めていた。
久米哲郎が、そんなことをする人間だとは、思ってもいなかったのである。――久仁子は久米と特別付合いがあるわけではなかった。ただ、仕事の上で、ときどき話をすることがあり、そんなとき、久米は至って照れ屋で、内気な風に見えたのだった。
「――何があったの?」
と、久仁子は安西由子に|訊《き》いた。
由子は、「情報通」として知られているのである。
「部長の娘さんがね、久米さんにお熱[#「お熱」に傍点]なの。それが部長の方は面白くなくて、ここんとこ、久米さんに当り散らしていたのよ。久米さん、よく我慢してるなあ、と思ったけど――。ついに爆発ってとこね」
と、由子は楽しげに、「でも、あそこまで思い切ったことやるとは思わなかったわね」
思い切ったこと。――そう。何しろ部長を殴ったのだ。
それは、他人の目には「面白い」出来事かもしれなかったが、当の久米にとってはどうだろう?
久仁子は、久米が一人暮しで、故郷の両親にお金を送っていることも知っていた。あんな風に会社を辞めて、明日からどうするのだろう。
久仁子自身、上京しての一人住まい。親へ送金こそしていないが、といって、親から小づかいをもらう身分でもない。つい、現実的な心配をしてしまうのだった。
もちろん、久仁子がどうしてやれるわけでもないし、久米とは友だちでさえないのだから……。
自分の机の引出しから私物を持ち出すと、久米は黙って会社を出て行く。部長は、殴られた|顎《あご》をさすりながら、まだ真赤な顔で、出て行く久米の後ろ姿をにらみつけているのだった。
*
「あら、久米さん」
と、久仁子は目を見開いた。
あやうく、ビルの出入口でぶつかりそうになった相手の顔を見て、びっくりしたところである。
「やあ、佐伯さんか」
久米は、久仁子に気付くと、ホッとしたような笑顔になった。
「偶然ね」
そう。本当に偶然だった。
お使いに出て、やっと捜し当てたビル。
入ろうとして、危うく、ぶつかるところだったのである。
「何してるの、今?」
出会いが偶然だったせいか、気軽に訊くことができた。しかし、よく見ると、久米には、会社にいたころの生気が感じられない。
疲れて、老け込んで見えた。たった半月しかたっていないのに。
「いや、まあ……。適当にやってる」
目をそらす久米の姿を見て、突然久仁子は、何とかしてあげたいという衝動を覚えた。自分でもびっくりするような、突然の感情だった。
「ね、ここで待ってて」
と、久仁子が言うと、久米は戸惑ったようだったが、
「うん」
と、|肯《うなず》いた。「君は――」
「この封筒、届ければすむの。ここで待ってて。お昼、どうせ食べて戻るつもりだったから。一緒にね。いいでしょ」
久仁子は、我ながらどうしちゃったんだろう、と思った。年上の人間に――確か、久米は久仁子より二つ上の二十八歳だ――こんな口のきき方をしたことはない。
しかし、久仁子は急いで封筒を届けると、元の場所へ戻って、久米がそこに立っているのを見てホッとしたのだった……。
「――やっぱりね」
と、ランチを食べながら、久仁子は肯いて、「そんな様子だな、と思ったわ」
「大変だね、やっぱり。今から独力で新しい仕事を捜すっていうのは」
久米は、ランチをアッという間に平らげていた。
朝から何も食べていなかったんだろう、と久仁子は思った。
「でも、ぜいたくは言ってられない。早く仕事を見付けないとね」
「そうね」
「住む所もないんだ。あと三日でアパートを出なきゃいけないんだよ」
久仁子はびっくりした。
「アパートを? どうして?」
「部長が余計なことを知らせたらしい。僕が失業中で、家賃の払えない身になった、とね」
「ひどいことするのね」
正直、久仁子は腹が立った。もし、あの部長が目の前にいたら、ぶん殴っていたかもしれない。
「で――仕事の口がありそうだ、というんであのビルの中の会社へ行ってみたんだ」
「だめだったのね」
「――うん」
久米は肩をすくめて、「ま、当座はアルバイトでしのいで、いい仕事を捜すさ。焦ると、ろくなことはない」
「そうよね。――急がない方がいいわ」
久仁子は、久米のやさしい目に、初めて気付いた。
胸が熱くなる。何だろう、これは?
同情? それとも――恋なのだろうか。
妙なことだ。これまでも、ずっと知っていた人に恋をするなんて。
でも……恋とは、そんなものなのかもしれない。
その人の、これまで気付かなかった一面を見て、突然恋に落ちる。そんなことがあるものなのだ。
「――久米さん」
「やあ、もう行かなくちゃ」
と、久米は腕時計へ目をやった。「君も早く戻らないと。午後の仕事が始まってから帰ると、うるさいだろ」
「あ、いいのよ」
と、久仁子は伝票を押えた。「私が払う」
「しかし――」
「払わせて。お願い」
久米は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「分った。じゃ……借りておくよ」
と、言った。「ごちそうさま」
「久米さん」
と、久仁子はバッグからキーホルダーを出して、アパートのキーを外すと、「これ、私のアパートの。持っていて」
久米は面食らって、久仁子を見ている。
「先に行ってて。私、夕ご飯のおかずを買って帰るわ。一緒に食べましょう」
「佐伯君……」
「アパート、出なきゃいけないんでしょ。私の所にいればいいわ」
そう言うと、久仁子は、初めて頬を赤らめたのだった。
ともかく――こうして、久米との|同《どう》|棲《せい》生活は始まったのである。
2
「帰るの、久仁子?」
と、隣の席の安西由子が言った。
「もちろんよ。――どうして?」
と、久仁子は帰り仕度をしながら、「何か用事あったっけ、今日?」
「そうじゃなくて、暮れの話。|田舎《いなか》へ帰るのかな、と思って」
「あ、なんだ」
と、久仁子は笑った。「帰るつもりよ。でも、列車の切符がね」
「じゃあ……例の彼氏も連れてくんだ」
「しっ!」
と、久仁子はあわててロッカールームの中を見回した。「内緒よ! こんな所で言わないで」
「分ってるわよ」
と、由子は笑った。
何しろ、安西由子の「地獄耳」にはとてもかなわない。どこから聞いたのか、久仁子が久米と同棲していることを、探り出してしまった。
久仁子としては、
「お願いだから、黙ってて」
と、頼りない約束をとりつけるしかなかった……。
「――一応、両親に会わせようと思ってるのよ」
と、久仁子は小声で言った。「ね、誰にも言わないでよ。お願いだから」
「分ってるって。――しかし、意外だったわね、久仁子が同棲生活を始めるなんて」
と、安西由子は、面白がっているのである……。
――気にしたって仕方ないわ。
会社を出て急ぎながら、久仁子は思い直した。
ともかく、あと二十日もすれば、今年も終りで、久仁子は久米と一緒に故郷へ帰るつもりである。
両親には、もちろん同棲のことは内緒のまま。できるだけ悪い印象は与えたくない。
――駅から近いコンビニエンスストア。
結構広い店で、二十四時間営業だが、夜中でも客が来ている。
どうして久仁子が、そんな夜中のことを知っているかといえば、久米が今、ここで働いているからである。
ここにずっといるわけではないにしても、一緒に生活し始めた以上、お金もかかる。久米はとりあえずこの店に入ったのだった。
人当りのいい久米にとっては、この仕事もなかなか楽しいようだ。ただ時間帯が不規則で、夜勤があると、調子が狂って、寝不足になることもある。
しかし、一応は仕事に就いているということで、両親に久米を紹介するときには、大いに違って来る。
ガラガラと自動扉が開く。――久仁子は、久米の姿を捜して店の中を見回した。
何があったのだろうか?
棚の一つが、何かぶつかったようで、傾いてしまっている。もちろんのせてあった商品も散らばって、壊れているものもある。
若い店員が二人、その片付けをしていて、そのわきで渋い顔をしているのは、店長だった。
「あの……」
と、久仁子は声をかけた。
店長は、久仁子を見ると、
「あんたか」
と、いやな顔をした。
「何か――あったんですか」
「あったどころじゃない」
と、店長はため息をついた。「久米が客と大喧嘩になったんだ」
久仁子は棚の方へ目をやって、
「じゃ――これも?」
「客を殴りつけて、この棚に体ごとぶつかって――。冗談じゃねえよ、全く」
「そんなこと……」
久仁子は|唖《あ》|然《ぜん》としていた。
「まあね」
と、店長は首を振って、「確かに、たちの悪い客で酔っ払ってた。しかし、あんなことでカッとなってちゃ、この仕事はやってけないぜ」
「はい……」
「全く、いつもはあんなにおとなしいのにな。こっちも|呆《あっ》|気《け》にとられちまった。カッとなると、大暴れするたちなのかい?」
「いえ……。すみませんでした、本当に。あの――弁償させていただきます」
店長は、少し落ちついた様子で久仁子を見ると、
「いいよ。こんなことも、たまにゃあるさ」
と、言った。「しかし、久米はクビだ。仕方ないだろ」
「はい……」
「三十分くらい前かな。何だか思い詰めた顔して出てったよ」
「ありがとうございます。あの――本当に申し訳ありません」
久仁子は何度も頭を下げて、コンビニエンスストアを出た。
――何てことだろう! せっかくうまく行っていたというのに。
久仁子は、アパートへと急いだ。
あの人は帰っているだろうか?
*
久米は、夜の町を歩いていた。
酒が飲めれば、せめて、と思う。いや、たとえ酔っても、覚めればまた思い出すのだから。
――やってしまった。また[#「また」に傍点]。
昔から、久米にはこういうところがあったのだ。
いつもは、誰よりもおとなしい。しかし、我慢が限界に達すると――突然、何も分らなくなるのだ。
自分が別の人間になったかのようで、相手に殴りかかり、つかみかかる自分を、久米はまるで他人のように、はたから眺めている。
もう、よせよ。そう声をかけてやりたいくらいだ。
長いこと、その爆発は鳴りをひそめていたのだが、あの会社での出来事以来、また熱い溶岩が、自分の内にたぎり始めたことを、久米は感じていた。
怖かった。自分が。
こんなことを、くり返すのだろうか?
しかも、前の部長のときに比べれば、今夜の客は、以前の久米ならカッとなるほどのこともなかったのだ。
|一《いっ》|旦《たん》、爆発する快感を覚えると、それは容易にはけ口を見付け出してしまうかのようだった。
いけない……。久仁子が知ったら、どう思うだろう?
帰らなければ、と思いつつ、久米の足は、あてもなく夜の道を|辿《たど》り続けている。
――|人《ひと》|気《け》のない道。
どこだろう、ここは?
ネオンサインが、目に入った。
〈名画座〉だって? 懐しいじゃないか。久米は、ちょっと笑った。
名画座か。――今でもこんなものがあるんだな。
ポスターには、〈if もしも…〉とあった。
何の映画だ? タイトルとポスターだけでは見当がつかない。
少し迷ったが、久米は入ってみることにした。ずいぶん長いこと、映画も見ていない。
そうだ。何か違うことをやれば、気分も変るかもしれないじゃないか……。
狭い階段を下りて行く。
不思議なことに、どこにもチケット売場がない。どういうことなんだろう?
ともかく、扉を開けて中へ入ると、客は他にいないようだった。
適当に腰をおろして、スクリーンへ目をやる。
学園ものか? 英国によくある寄宿制の名門校。そこの「反抗児」たちの話らしい。
見ているうちに、久米は次第に映画に引き込まれて行った。
権力の代表である校長が、あの部長に見えてくる。
正面切って抵抗する学生たちへの過酷な体罰。その苦痛と屈辱は、久米の身を震わせた。
まるで自分が[#「自分が」に傍点]|辱《 はずかし》められているようだった。――もし、それが目の前で、現実に演じられているのだったら、久米は校長を殴りつけていただろう。
しかし、やられた方は黙っていなかった。
大事な学校の式典に、催涙弾がうち込まれる。
逃げ出す教師たち。そこへ、屋根の上から、機関銃をぶっ放す主人公。迫撃砲弾が|炸《さく》|裂《れつ》し、銃弾が教師たちをなぎ倒していく。
久米は固く手を握りしめていた。引金を引いているのは、久米自身の手だった。激しい怒りを|叩《たた》きつけている学生は、久米自身だった。
殺せ! 殺せ!
もっと、もっと。――久米は、声を上げて応援したいと思った。
そして、突然映画は終った。
館内が明るくなっても、しばらく久米は席を立てなかった。
――そうだ。俺はいつも我慢しすぎて来たんだ。
反抗しろ。戦え。
カーテンの閉じたスクリーンの奥から、まだ銃声が聞こえているような気がした。
3
とうとう、久米は帰って来なかった。
久仁子は、次第に明るくなって来る窓を見ながら、ふと涙が頬を落ちて行くのを感じて、急いで手の甲で|拭《ぬぐ》った。
「馬鹿ね……。何も泣くことなんかないじゃないの」
と、自分に言い聞かせる。
そう。――久米にとっても、ショックだったのだ。
せっかく、うまく行きかけていたのに。ついカッとなって……。
あんなにやさしい人なのだから、きっと、よほどのことがあったのに違いない。コンビニエンスの店長は、大したことでもなかったように言っていたが。
人間、受け取り方は様々である。他の人にとって、どうというほどでもないことも、ある人にとっては、生死を分けるほどの意味を持つこともあるのだ。
久米も、きっと、深いところで傷ついている。それをいやすために、一晩くらい帰らなくても、仕方がないことだ。
久仁子は、そう自分を慰めて、ともかく今日は会社を休んで、久米の帰りを待とう、と思った。それとも――|却《かえ》って、いつもの通りに出勤した方が、久米は戻りやすいだろうか。
朝の六時を少し過ぎている。
足音……。でも、あの人[#「あの人」に傍点]のじゃないわ。似ているけど、少し違う。そうだろうか? でも、近付いて来る。こっちへ――そう、こっちへ。
アパートへ入って来た!
久仁子は玄関へ行って、急いでドアを開けた。
「――起きてたのか」
久米が言った。
「お帰りなさい」
と、久仁子は言った。「寒いでしょ? 真青よ」
「そうか? ずっと、起きてたのか」
久米は上って、コートを脱いだ。
「何か……食べる?」
久仁子は、久米が着がえるのを、じっと待っていた。――長い沈黙の後で、
「うん」
と、久米は言った。「お腹が空いてる。死にそうだよ」
久仁子はホッとした。――帰って来てくれたのだ。帰って来てくれた。
――食事をしながら、
「心配かけて、すまない」
と、久米は言った。
もちろん、久仁子がコンビニエンスでの出来事を知っていることも、分っているのだ。
「いいのよ。勤め先は、また見付かるわ」
「うん。――もう大丈夫だ。もう二度とあんなことはないよ」
久米の言葉は穏やかで、目にも、いつものやさしい光があった。
この人が、他人に乱暴する? そんなこと、あるわけないわ!
久仁子は、そう確信した。
「眠いでしょ。布団敷くわね」
と、久仁子は立ち上った。「後片付けは、会社から戻って、やるわ。ゆっくり休んでね」
久仁子が布団を敷くのを、久米はじっと見ていたが、
「――君も休めよ。寝てないんだろ」
「もう暮れよ。そう休めないわ。それに一人の方が、よく眠れるでしょ」
と、久仁子は言った。
久米は立ち上って、後ろから久仁子の腰を抱いた。
「だめよ……。ちゃんと寝ないと……。ねえ……」
言葉とは裏腹に、布団の上に押し倒されて、久仁子は久米に抱かれるままになっていた。
「久仁子……。会社、休んでも、大丈夫だろ?」
彼には、今[#「今」に傍点]、私が必要なのだ。久仁子には分った。拒んではいけない。
「もちろんよ」
と、久仁子は笑顔を見せて、「でも、せめてカーテンだけ閉めさせて」
と言った……。
*
「――連絡が遅くなってすみません」
と、久仁子は言った。「――ええ、今日一日、寝ていれば治ると思いますから。――よろしくお願いします」
電話を切ろうとすると、久米が、からかうように小声で、
「さぼってるだけですよ!」
と言ったので、久仁子はふき出してしまった。
「やめてよ! 本当にもう……」
昼を過ぎていた。――愛し合った後、二人はぐっすりと眠り、目を覚ますと、こんな時間だったのである。
「ちゃんと服を着ないと。――誰が来るか分らないわ」
久仁子は、薄いネグリジェだけという格好だった。久米はまだ布団の中にいる。
「誰も来やしないよ」
「そんなことないの。一日、家にいてごらんなさい。色んな人が来て、ろくに座ってもいられないわ」
久仁子は、伸びをした。「――ね、お正月、一緒に家へ行ってくれるでしょう?」
「うん。それまでに、いい勤め先を見付けないとな」
「焦らないで。じっくり捜してね。別に邪魔するわけじゃないけど」
「いや。君のご両親に会うときには、無職でいたくない」
久米の言葉は、久仁子の胸を熱くした。
この人は私を愛してくれている。――夢のようだが、本当なのだ。
「キスして」
久仁子はかがみ込んで言った。そのまま、久米と一緒に布団の中へ潜り込んでしまう。そこへ――ドアを|叩《たた》く音がした。
「失礼します。――警察の者ですが」
久仁子はあわてて飛び起きた。
「はい! あの――ちょっと待って下さい」
久仁子は大あわてで布団を引っくり返し、自分の下着を捜したのだった……。
*
「――まあ、そんなことが」
久仁子は目をみはった。「で、殴られたお巡りさんは?」
「ひどく殴られていましてね」
と、若い巡査は暗い表情で言った。「何とか命はとりとめたんですが、あとで何か障害が残るだろう、と……」
「怖いわ。――犯人は?」
「後ろから殴られているので、犯人を見ていないんです。しかし、一番の問題は、その巡査の銃が盗まれていることなんですよ」
と、若い巡査は言った。「充分に用心して下さい。誰かが来ても、すぐにはドアを開けないように」
「はい」
と、久仁子は|肯《うなず》いた。
「お一人ですか?」
「いえ――あの――主人がいます」
と、久仁子は少し赤くなる。
「ああ、それなら大丈夫でしょうが。でも、一人になる時間もあるでしょう。気を付けて下さい」
「はい、充分に」
と、久仁子は言った。
「もし、怪しい人間を見かけたら、いつでも連絡して下さい」
と言って、巡査は帰って行った。
「――帰ったのか」
久米は洗面所から出て来た。
「聞いた? ひどいわね。拳銃を盗んだんですってよ。何をやるつもりなのかしら」
「さあね。世の中にゃ、色んな奴がいるからな」
「ね、帰り、遅くなったら、気を付けてね」
「君の方だろ、遅くなるのは」
と、久米は笑って、「迎えに行くよ、そのときは。用心に越したことはない」
「そうね」
久仁子は、|欠伸《あくび》をした。「――買物に行かなきゃ! 冷蔵庫、空っぽだわ」
久仁子は、もうあの若い巡査の話を、半分忘れかけているのだった……。
4
もう、二時間たっていた。
受付の前の、古ぼけた椅子。そこに、久米はじっと座っていた。
「ここで、ちょっと待っててくれ」
人事担当の太った男は、そう言ったきり出てこない。電話で、
「朝九時に来てくれ」
と言ったのに、だ。
言われた通り、久米は九時に――正確には九時十分前に――やって来た。
そして二時間。大勢の人が出入りし、みんな、久米の方をチラッと見て行った。
受付に座った女の子は、初めのうちこそ、久米の方を気にしながら見ていたが、もう今は目も止めない。
そう。――分っていたのだ。
こんな風に扱われることは。世の中は、いつも俺を無視して来た。そうなのだ。
久米は、コートを|膝《ひざ》の上に、きちんとたたんで置いていた。十一時を過ぎても、一向に人事担当の男は出て来る様子がない。
しかし、久米は動かなかった。
あの男は「待っていてくれ」と言ったのだ。だから座っている。それだけだ。
さっさと帰ってしまってもいい。しかし、久仁子のことを考えると……。
|可《か》|哀《わい》そうな久仁子。――今日こそは、新しい勤め先が決ると思っている。
久仁子のためにも、ぎりぎり一杯、辛抱し、待つことだ。久米は自分にそう言い聞かせていた。
しかし、時間は|虚《むな》しく過ぎて、人は、久米を空気か何かのように、無視して通って行った。
そして、十一時半。――あの人事担当の男が欠伸しながら、出て来た。
だが、その男は……久米の前を素通りしてしまったのである。
そして、数メートル行ったところで、足を止めると、
「――何だ」
と、振り向いて言った。「まだいたのか?」
久米は、座ったまま、
「待っていろと言われました」
と、答えた。
「ああ……。そうか。忘れてた。いや。ごめんごめん」
と、男は笑いながら、久米の方へ戻って来た。「一声かけてくれりゃ……。すっかり忘れてたよ。ここに待たせてたことなんか」
「そうですか」
「悪いがね、出直してくれ。いや、年が明けてから、電話してくれ」
と、男は言った。
「雇っていただけるんですか?」
「それは……」
男は少し困ったように、「実は……あんたを待たせてるのを忘れてたんでね。よそからの話で決めちまった。――ま、悪く思うなよ」
「そうですか」
受付の女の子がクスクス笑っている。
確かにおかしい。こいつは傑作だ!
「じゃ、そういうことだ」
と、男が言って、「また機会があったらな」
と、行きかける。
「あの、ちょっと」
と、久米は立ち上って言った。
「うん?」
久米は、上衣の下から拳銃を取り出すと、人事担当の男に銃口を向け、引金を引いた。
*
「――電話よ」
と、隣の席の安西由子が受話器を渡して来る。
「私に? どこから?」
と、久仁子は訊いた。
忙しくて、仕事が机の上に文字通り、山積みになっている。
「警察からですって」
と、由子が低い声で言った。
「本当?――もしもし?」
久仁子は電話に出た。「――はい、私ですが。――久米さんでしたら。――ええ、そうです。――何ですって?」
久仁子の顔から、血の気がひいて行く。
由子がびっくりした様子で、
「どうしたの? 大丈夫?」
と、腰を浮かした。
「――すぐ行きます。――いえ、すぐに」
久仁子は、受話器を戻そうとして、取り落とした。
「久仁子――」
「あの人が……あの人が……」
久仁子は両手で顔を覆った。
*
久米は欠伸をした。
眠いわけでもないのに、と思った。ゆうべ、充分に眠ったはずだ。
床には、あの太った男が大の字になって、寝ている[#「寝ている」に傍点]。――もっとも、この男の場合は、二度と目を覚ますことはない。
心臓の辺りに、丸い穴が開いていて、血が、しわくちゃのワイシャツに広がっている。
もう「うっかり忘れる」こともできなくなったわけだ。
雑然としたオフィスは、静かだった。当然だろう。空っぽなのだから。
今、オフィスにいるのは、久米と、青くなってグスグス泣いている受付の女の子の二人だけだ。他の連中は、みんな逃げてしまったのである。
「心配しなくていいよ」
と、久米は受付の子に言った。「君を撃ちゃしないさ。――震えてるね。可哀そうに。君も、僕も。久仁子もだ」
久米は、自分が手にした拳銃を見下ろした。――本当なら、機関銃でもほしかったのだが、そんな物、手に入れるのは大変だ。
「しかし、ひどいね。君の会社の男どもは」
と、久米は言った。「君一人、こうやって残してさ。さっさと逃げてしまう。代りに人質になるという男が、一人くらいいてもいいのに」
久米は、もちろん知っていた。このビルの周囲は大変なことになっている。
パトカー、警察、報道陣……。
俺もすっかり有名人だな、と久米は思った。いや、有名になんかなりたかったわけじゃない。
俺はただ、きちんと、「人間らしく」扱ってほしかっただけだ。それなのに……。
「殺さないで……」
と、受付の子が、かすかな声を出す。
「君を? 大丈夫だよ」
と、久米は笑った。「君は僕のことを笑ったね」
「あの……ごめんなさい。謝るわ」
「いいんだ。でも、もう二度と笑っちゃいけないよ。もし、誰かがここへやって来て、二時間も待たされたとしてもね」
「ええ……」
「その人間にとっちゃ、生きるか死ぬか、なんだ。笑いごとじゃない。――世の中はね、ある種の人間にとっては、とても住みにくくできてるんだよ」
と、久米は言った。
そのとき、
「久米さん」
と、声がした。「――あなた」
久仁子が、オフィスの入口に立っていたのだ。
「久仁子! 君……」
「ね、その子は、もう帰してあげて」
と、久仁子は言った。「私が来たんだから、いいでしょう?」
「ああ……。別に、どうしてもここにいろって言ったわけじゃないんだ。本当だよ」
「分ってるわ」
久仁子は、死体をまたいで、久米の方へやって来た。そして受付の女の子へ、
「行って」
と|肯《うなず》いて見せた。「大丈夫よ。さ、行って」
「はい……」
ガクガク震える足で、受付の子は、何とかエレベーターの方へと歩いて行った。
「あなた……」
久仁子は、久米と並んで、机に腰をかけた。「辛かったのね。――そうでしょう」
「うん」
久米は、肯いた。「二時間も、待たされたんだ。声一つかけてくれず、『何をしてるんですか』とも、訊かれなかった。僕は、何でもなかった[#「何でもなかった」に傍点]んだ」
「可哀そうに」
久仁子は、久米の肩へ頭をもたせかけた。「でも、私にとっては違うわ。あなたはかけがえのない人よ」
「君はやさしいね」
と、久米は言った。「こんなことになって……」
「いいのよ。――あなたのせいじゃない。そうよ。あなたを受け入れようとしない、この世の中が悪いのよ」
「久仁子」
分ってくれる。久仁子だけは、分ってくれる。
二人は、しっかりと抱き合った。
――久仁子は、かすかな音を耳にした。
非常階段のドアが開く音だ。もうじき、警官隊が突入して来るだろう。
「ね、それを貸して」
と、久仁子は言った。
「ああ」
久仁子は、久米から拳銃を受け取った。
「重いのね」
「足の上に落とすと、痛いよ」
と、久米は言った。
「そうね。やりかねないわ、私じゃ」
久仁子は笑った。久米も笑った。
二人の笑い声が、オフィスの中に響きわたった。
こんなに……こんなにやさしい、いい人なのだ。それなのに……。
久仁子は、久米の肩をしっかりと抱いて、言った。
「私たち、もう離れないわ。ずっと一緒にいるのよ」
「でも、仕事を見付けなきゃ」
「そうね」
「まともな人間は、仕事を持っているもんだよ。そうだろ?」
「そうね」
「不思議だな。ろくでもない奴に仕事があって、まともな人間に仕事がない」
久仁子は、しっかりと拳銃を握り直した。
人の気配が……。近付いて来る警官の姿が、チラッと視界をかすめる。
「そうよ」
と、久仁子は言った。「世の中が間違ってるのよ!」
久仁子は引金を引いた。
――オフィスに駆け込んだ警官たちは、一人の男が、ぐったりとした女を抱いて泣いているのを――その女の額には弾丸の穴があり、その手にはまだ銃が握られていて、銃口からうっすらと煙が立ち上っているのを、発見したのだった……。
お出かけは[13日の金曜日]
[#ここから2字下げ]
13日の金曜日
Friday The 13th
1980年 アメリカ
[監督]ショーン・S・カニンガム
[脚本]サイモン・ホーク
[出演]ベッツィ・パルマー/アドリエンヌ・キング
[#ここで字下げ終わり]
1
「それで?」
と、小坂啓子は言った。「結局、振ったんでしょ、結城君のこと」
「仕方ないでしょ」
と、駒沢エリは肩をすくめて、「ええと、何か忘れ物……。大丈夫か。入れちゃった、ボストン一つに」
「良かったわね」
と、小坂啓子はベッドに寝そべって言った。「でも、結城君って真面目じゃない。あんまり手ひどく振っちゃったりしたら|可《か》|哀《わい》そうよ」
「だって、はっきり言わなきゃ。希望持たしたら、|却《かえ》って可哀そう」
「そうかなあ」
と、啓子は仰向けになって、大分薄汚れている天井を見上げる。
「啓子、結城君に気があるの? 喜んで譲ったげるわよ」
と、エリは言った。
「変なこと言わないで」
と、啓子が少しむきになって言い返すと、ドアをノックする音。
「はあい」
「仕度、できたか?」
ドア越しの声は、水科先生だった。
「はい、どうぞ」
と、エリが答える。
「やあ。――この部屋はいつも片付いてて気持がいいな」
しわくちゃのパーカーを着込んだ水科は、ドアを開けると、「小坂、お前……。そうか、留守番だったな」
「そうです。行ってらっしゃい。気を付けて」
と、啓子はベッドから起き出して、「先生、夜中に襲われないように、寝室の|鍵《かぎ》、かけといた方がいいですよ」
「俺は学生たちを信用してる。来る者は拒まず、だ」
と、水科は笑った。「おい、駒沢。出かけるぞ」
「はあい。じゃ、啓子こそ、いい子にしてんのよ。男なんか引っ張り込まないで」
「エリとは違うわよ」
と、啓子は言い返してやった。
――K女子大の寄宿舎は、もうずいぶん古い建物である。
ここにいる学生の数も年々減っていて、近々、寄宿舎そのものが取り壊されるという|噂《うわさ》もあった。しかし、近くの学生向けアパートを借りても、家賃は結構取られるし、何といっても、大学の敷地内のこの寄宿舎では、講義の始まる十分前に目が覚めても、駆けつければ間に合う。これは学生にとって、大きな魅力だ。
今、寄宿舎にいる女子学生は十五人。――この週末は初秋の湖ヘキャンプに出かける。
もちろん、外から来ている普通の学生たちも行くのだが、ここの学生たちはマイクロバスでまとまって行くことにしていた。
「――早く乗れ。もう、みんな乗ってるぞ」
ドライバーをつとめる水科高敏は三十代前半の、なかなか渋い二枚目。学生たちの間でも人気がある。
駒沢エリがバッグを手にバスへ乗り込むと、もう中は何百人分もの騒がしさだった。
見送りに出て来た小坂啓子は、親友の林ゆかりが窓を開けて手を振っているのを見て、歩いて行った。
「――啓子、行かないなんて、残念だなあ」
おとなしくて(見かけは大柄で力持ち、という印象なのだが)、気の弱い林ゆかりは、口を|尖《とが》らしている。
「しょうがないわよ。くじ運がなかった」
と、啓子は言った。「ま、楽しんでらっしゃい。夜、結構寒いわよ、湖の辺り。|風《か》|邪《ぜ》ひかないで」
ゆかりは、よく風邪をひくのである。
寄宿舎を完全に空っぽにしてしまうわけにはいかないので、全員でくじを引いて、啓子が「居残り」と決ったのだった。
「ね、啓子、何だか気が進まないの」
と、窓から顔を出して、ゆかりが言った。
「どうして?」
「だって――今日、何日だか知ってる?」
「十……三日。そうか『十三日の金曜日』だね」
「ね? そんなときにさ、人里離れた湖に行くなんて……。怖いわ」
結構本気で言っている。啓子は笑って、
「平気よ。何が出たって、大勢いるんだから、先生も学生も。心配ないって」
「そりゃそうだけどね……」
と、ゆかりはため息をついて、「私も残りたかった」
「何言ってんの! 湖畔ですてきな男の子に会うかもしれないわよ」
と、啓子は言ってやった。
「忘れもの、ないか!」
バスの中で、水科先生が怒鳴っている。
「ありません!」
バスを揺がすような大合唱の返事。
「よし。出発だ」
扉がバタンと閉じる。
「啓子――」
と、ゆかりが言った。「電話するね、向うから」
「うん。行ってらっしゃい!」
マイクロバスが走り出す。中で、女の子たちがワーワーキャーキャー騒いでいる声が、周囲に|轟《とどろ》きわたらんばかりだ。
だが――バスが見えなくなると、やがて周囲は静かになり、啓子は一人で寄宿舎の前に立っていたのだった。
「さて、と――」
と、自分に言い聞かせるように、「仕事、仕事」
K大のキャンパスの外れにある寄宿舎は、周囲を、最後に残った林に囲まれていて、夜ともなると寂しい場所である。
そこで一人、留守番というのだから、あまりいい気持はしない。
しかし、もちろん木立ちの中の道を抜ければ、すぐに住宅地で、バスも走っているから、危険はまずなかった。
ただ、一人で残っていると、結構忙しいのである。ここにいる子の親や友人から電話も入るし、郵便、小包の類も来る。廊下や玄関ホールの掃除、夜はちゃんと戸締りを見回って……。
啓子は、割合まめな性格だから、苦にはならないが。
「そうだ」
どうせ、夕食は外へ出て食べることになる。
啓子は、一階の廊下の電話を取ると、やっと|憶《おぼ》えた番号を押した。
「――はい、業務一課です」
と、少し眠そうな声が聞こえて来た。
「居眠りはいけませんよ」
と、啓子は言ってやった。
「君か」
と、久野の声が明るくなった。
「この週末は忙しい?」
「日曜日は課長のおともで接待ゴルフさ。かなわないよ」
と、久野はこぼして、「今夜と明日は空いてる」
「私も」
と、啓子は状況を説明した。
「そりゃ|凄《すご》い! じゃ、泊りに行くかな」
「馬鹿言わないで。ばれたら退学よ」
と、啓子はあわてて言った。
「冗談だよ。じゃ、晩飯でも?」
「おごってくれる? 出て行くわ」
「少しぐらい遅くなってもいいんだろ?」
「少しはね」
と、強調しておいて、「じゃ、いつものお店?」
「そうだな。八時」
「了解。じゃ、頑張って」
啓子は電話を切った。
久野隆二とは、大学一年生のときのバイトで知り合った。二十六歳の、おっとりしたサラリーマンである。
およそ「切れる」というタイプじゃないが、人の好さが顔に出ていて、啓子は気楽に付合えるので気に入っていた。
二階の、駒沢エリと二人で使っている部屋へ戻ろうとして、階段を上りかけると、電話が鳴り出した。急いで戻る。
「――はい。――もしもし?」
「あの……駒沢エリさん、お願いします」
抑揚のない、力のない声だった。
「出かけてるんですけど。あの――全員、キャンプで」
と答えて、「結城さんでしょ? 私、エリと同室の小坂啓子。いつか一緒に会ったわよね」
少し間があって、
「じゃ、いないんですね、彼女」
と、相手は言った。
「ええ、この週末は……。もしもし?」
「聞いたでしょ、彼女から」
と、結城は言った。「振られたんです、僕」
「ああ……。何だか、そんなこと言ってた」
「仕方ないんですけどね。何しろ僕って退屈だから」
と、笑ったが、少しも笑いになっていない。
「結城さん。エリは少しわがままだし、派手好きな子だわ。あなたには向かないと思うわ、私。――ね、元気出して。きっと、あなたにぴったりの人が――」
「元気出して? 僕は元気ですよ! 凄く元気です」
と、突然大きな声で言って、結城は|甲《かん》|高《だか》い声で笑うと、電話を切ってしまった。
啓子は、ため息をつくと、受話器を戻した。
確かに、結城という若者には何だか近付きにくいところがある。真面目も純情も、度を過ぎているのだ。
それは、エリのような子にとって、格好のからかいの種になった。
エリは初めから結城のことなど相手にしていなかったのだ。面白がって、苦しめて遊んでいただけ。――啓子など、たまりかねて注意もしたが、エリは聞かなかった。
まあいい。どうやら、すっかり手を切ったようだし、時間がたてば、結城も立ち直るだろう。
部屋へ戻ると、啓子は、今夜久野と出かけるのに何を着て行こうかしら、と考えていた……。
2
「畜生! どうしてどこも一杯なんだ!」
と、久野が八つ当り気味に|拳《こぶし》を振り回した。
啓子は笑いをこらえて、
「もう|諦《あきら》めなさいよ」
と言った。「ね、週末よ。どこも満員に決ってるでしょ」
「やれやれ」
と、久野はため息をついて、「前もって言っといてくれりゃ……」
「あわてることないわよ。ね?」
久野は仏頂面から苦笑いして、
「それもそうだな。君はまだ大学生だ」
「そう。――キスだけで我慢しなさい」
と、啓子は言ってやった。
二人で食べて飲んで、少々酔った勢いもあって、啓子が、
「ホテルに行ってもいいよ」
と、口を滑らしたのである。
かくて、大張り切りで久野がホテルを捜し回った、というわけだが――。結果は前述の通り。
啓子も、酔いが覚めると、少々まずかったか、と思っていたので、ホッとしているのだった。
「――何だか暗い道だな」
と、久野は腕を組んで歩きながら、「こんな道、初めてだ」
「とか言って」
と、啓子は言った。「怪しげな所へ連れて行こうっていうんじゃないの?」
「僕を信用しないのか?」
と、久野は不服そうである。
「そうじゃないけど。――あら、何、あれ?」
暗い道の途中に、ポカッと明るくなっているのは……。
「〈名画座〉だって。こんな所に映画館なんてあったのか」
「今どき珍しいわね、名画座なんて。何やってるのかしら?」
と、足を止めて、「――まあ! 見てよ」
「こりゃおかしいや」
と、久野も笑った。
入口のわきに|貼《は》ってあるポスターは、あの〈13日の金曜日〉だったのである。
「今日にぴったりね」
「全くだ。しかし――このシリーズって、一体何本あったっけ?」
「知らないわ。TVでちょっと見たくらいだもん」
「女の子って、好きなんじゃないの? こんなの見てキャーキャー騒ぐのが」
「私は違うわ。それに、こういう映画って、怖いっていうより、もう笑っちゃう感じでしょ」
「そうだよな。――しかし、今どきこんなの見に入る奴、いるのかな」
と、久野は首を振って歩き出した。
少し行くと――コツコツと足音がして……。
「いたんだ、客が」
と、久野が振り向いて言った。「何だか暗そうな奴だな。しかし、一人しか出て来なかったから、きっと客は一人だけだったんだよ。――どうかした?」
啓子は、ハッと我に返った。
「え?――ああ、そうじゃないの。ただ……あの人、知ってるから」
「へえ」
間違いない。――啓子は一度しか会っていないが、結城の顔を、よく|憶《おぼ》えていた。
結城に間違いない。エリに振られて、たぶん夜の街を歩き回っていたのだろう。そして、何となく映画館に入った……。
「さあ、行こう」
と、久野は促して、「もう少し付合う時間くらいあるんだろ?」
「ええ、いいわ」
と、啓子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
歩きながら、啓子はあの結城の、どこか異様なまでに思い詰めた表情が、忘れられなかった。
そして、ふと思い出した。マイクロバスが出るときに、ゆかりの言った言葉。
――今日、何日だか知ってる?
*
人の気配。
そんなもので目を覚ますことがあるとは、思ったこともなかった。
しかし、啓子は目を開けたのである。もちろん、ただの偶然だったのかもしれないし、一人で寄宿舎の留守番をしているという意識が、いつになく啓子を神経質にさせていたのかもしれない。
「――誰?」
半ば寝ぼけていたせいか、恐怖を覚えるより前に、ベッドに起き上り、明りを|点《つ》けていた。
部屋の中に、結城が立っていた。
「結城さん……。何してるの?」
と、ポカンとして言ってから、結城が手にしている物を見て、目をみはった。
|斧《おの》。――本当の斧だ。
その刃は、黒く汚れていた。
「今、エリを殺して来たんだ」
と、結城は表情のない声で言った。
「何ですって?」
「エリの頭を、こいつで真っ二つにしてやった。もう僕のことを笑ったりできやしないさ」
「まさか……。何てことを!」
「次は君だ」
と、結城は斧を持ち直した。
「待って!――私が何したっていうのよ!」
「君も、エリと一緒になって、僕のことを笑った。分ってるんだ」
「違う! そんなことしてないわ」
「分ってるんだ、僕には」
結城が近付いて来る。そして、両手で斧を高々と振り上げて――。
「やめて!」
啓子は叫んで、両手を|虚《むな》しく突き出した――。
「やめて!」
叫んでいた。たぶん、本当に[#「本当に」に傍点]。
ベッドに起き上り、びっしょりと汗をかいている。
夢。もちろんだ。
さっき、あんな映画のポスターを見たりしたから……。
しかし、結城をあそこで見かけたこと、そしてあのときの結城の顔……。あれは夢でも幻でもない。
もちろん、夢は夢で、何でもないことだろうが――。
そのとき、啓子はやっと気付いた。電話が鳴っている。
急いで廊下へ出た。二階でも、電話は取れるようになっている。
「――はい、もしもし?」
と、息を弾ませて言うと、
「啓子?」
と、なぜか押し殺した声が聞こえて――。
「もしもし。ゆかり?」
「啓子。大変なの……。殺される[#「殺される」に傍点]……」
ゆかりの声は震えていた。
「何ですって? ゆかり、どうしたの?」
「助けて……」
プツッと電話は切れた。
「ゆかり!――もしもし!」
啓子は、受話器を手にして|呆《ぼう》|然《ぜん》と、立っていた。
部屋に戻って、時計を見る。午前一時。
キャンプするといっても、ちゃんと宿泊できる建物があるので、そこの電話番号をメモしてあった。
急いでその番号へかけてみる。しかし――電話はつながらなかった。
呼出音も聞こえない。――どうしたのだろう?
啓子は、しばし立ちつくしていた。しかし、あのゆかりからの電話は本当だ。
殺される、とゆかりは言った。
もしや……結城が? あの夢は、正夢だったのか?
啓子は一瞬考えて、それから電話をかけた。――起きてよ、早く!
「はい……」
と、声にならない声。「誰?」
「久野さん。私、啓子」
「え? やあ、どうも。久しぶり」
「何言ってんの! しっかりしてよ」
「うん……。あれ、会ったの、今夜だったよね」
「聞いて。ね、車、あるでしょ」
「車? うん。ローンが終ってないけど」
「そんなこと、どうだっていいの! キャンプ先で何かあったらしいのよ。お願い、車を出して! 急いで駆けつけたいの」
「何だって?」
啓子の説明を聞いている間に、久野も目を覚ましたらしい。
「分った。すぐ出るよ。そっちへ迎えに行く」
「道へ出てるわ。正門の所。お願い! 急いでね」
「分った。三十分――いや、二十分で行く」
啓子は、電話を切ると、部屋へと駆け戻った。
一体何があったのだろう?
急いで服を着ると、啓子は部屋を出ようとして、
「――そうだ」
留守番の護身用に、と、ベッドのわきに置いてあったバットをつかむと、廊下を駆け抜け、飛ぶような勢いで、階段を下りる。
ゆかり! 無事でいてね!
外へ出ると、月明りが異様なほどまぶしい。
啓子は正門へと、キャンパスの中を急いで通り抜けて行った……。
3
啓子はいくらか久野のことを見直した。
一つには、初めての、曲りくねった山道だというのに、危げのないしっかりした運転をしていること。もう一つは、すっかり頭に血の上ってしまった啓子は全然思い付かなかったのだが、
「地元の警察へ連絡して、先に行ってもらっておいた方がいいよ。こっちが着くよりずっと速い」
と、現実的な提案をしてくれたからであった。
もっとも、啓子と違って、曲りなりにも(?)社会人で二十六歳なのだ。多少は冷静な判断ができても当然かもしれない。
いずれにせよ、道に迷うこともなく、啓子たちの車は午前三時を少し過ぎたころに、目指す湖に着いた。
月明りが、湖畔の木造二階建のコテージを明るく照らし出していた。
「あれか」
と、久野が少しスピードを落として、「道が空いてて、良かった」
「気を付けて」
と、啓子が少し低い声で言った。「どこかに結城君が|斧《おの》を持って隠れてるかもしれないわ」
「おいおい。それは君の見た夢だろ? いくら何でも、そんな映画みたいなこと……」
「それはそうだけど……」
啓子は、しっかりとバットを握りしめていた。「ライト、消した方がいいんじゃない?」
「え? ああ……。ま、これだけ明るいからね、月の光で」
久野はヘッドライトを消した。
道は、湖の周囲をぐるっと回って、コテージへと近付いて行く。
「――ね、久野さん。警察の車がないわ」
「そうだね。来てくれてないのかな。ちゃんと説明したのに」
月光が、湖面に細かく砕けている。少し風があって、|梢《こずえ》の音が車の中にも聞こえて来るようだった。
道が、|一《いっ》|旦《たん》林の中へと曲り込んでいる。
「ちょっとライト|点《つ》けるよ」
と、久野が言って――。「ワッ!」
急ブレーキで、啓子は自分の握りしめたバットにいやというほどおでこをぶつけてしまった。
「痛いじゃないの!」
「ごめん。でも――ぶつかるところだった」
と、久野が息をつく。
「え?」
すぐ前に車が一台――パトカーが停っていたのだった。
「こんな所に……」
細い道で、とても追い越しては行けない。パトカーはライトも消えて、放り出してあるように見えた。
「誰もいない?」
「らしいね。――どっちにしても、ここで降りなきゃ。パトカーの上を飛び越してくわけにはいかないからね」
「そうね……。ああ、痛い」
おでこをさすりつつ、啓子は車から出た。
エンジンの音がしなくなると、異様な静寂が二人を取り囲む。――虫の音は絶えず聞こえているし、風が枝を揺らす音もしていたが、どっちも慰めにはならない。
「――誰もいないな」
と、パトカーの中を|覗《のぞ》き込んで、久野が言った。
「どうしてこんな所に置いてあるの?」
「さあ。エンストでも起こしたかな」
啓子は、運転席のドアを引いてみた。
「――開くわ」
「ロックしてない? それは変だな」
ドアを開けて、啓子は鋭く息を吸い込むと、後ずさった。
「どうした?」
「――見て」
声が震えていた。
啓子のそばへ来ると、久野が、
「何だこりゃ……」
と、思わず口走る。
運転席とドアの内側に、月明りに照らされて、一杯に広がる血の「赤」が目に飛び込んで来た。
「――久野さん」
「うん。こいつはただごとじゃない」
久野も青ざめている。「――どうする?」
「コテージヘ行ってみるわ。ゆかりとか、みんなのことが心配」
「よし。しかし、充分用心するんだ」
「もう一本、バット持って来りゃ良かったわね」
と、啓子は言った。
*
「明りが消えてるね」
と、久野は言った。
コテージの窓には、一つの明りも見えなかった。――もちろん、普通なら眠っている時間なのだが、それでも廊下や入口の小さな明りくらい、点いていても良さそうである。
「やっぱり……何かあったのかな」
と、久野が言った。
月明りのせいだけでもなく、少々青ざめて見える。
「入りましょ。――懐中電灯持って来りゃ良かった」
「そうか! 取って来るから待っててくれ」
「いやよ! 一人で置いてかないで」
と、啓子はギュッと久野の腕をつかんだ。
「いてて……。分ったよ。じゃ、ともかく入ってみよう」
「うん……」
二人ともおっかなびっくりである。久野がそっとコテージ入口のドアのノブを回してみて、
「――開くぞ」
「おかしいわね、やっぱり」
バットは、啓子がしっかり握りしめていて、離さない。
二人は、そっとコテージの玄関へと入った。――中は暗いが、窓から月明りが射しているので、真暗というほどでもなかった。
「前にも来たことがあるのかい?」
と、久野が低い声で|囁《ささや》くように言った。
「うん……。確か、その正面のドアが広間だと思う。そこへ入る? たぶん、電話とかそこにあると思うから」
「つながってなきゃ仕方ないよ」
「そりゃそうだけど……」
ブツクサ言いながら、ともかく正面のドアをそっと開ける。
|暗《くら》|闇《やみ》。――カーテンがきっちりと閉めてあるのか、全くの闇だった。
そして、啓子は感じた。人の気配[#「人の気配」に傍点]、誰かが広間の中にいる。一人や二人じゃない、大勢が――。
突然、パッと明りが点いた。
ワーッと声が上って、
「ハッピバースデー・トゥーユー」
の合唱。
啓子と久野の二人は、ポカンとして突っ立っていた。
寄宿舎の仲間たちが笑いこけながら、
「ひっかかった!」
「啓子、男まで連れて来たの?」
と、寄って来る。
「これ……どうしたの?」
「ごめんね」
と、林ゆかりが顔を出す。
「ゆかり! あんた――」
「思い出したの、ここへ来てから。啓子、明日誕生日でしょう。それなのに留守番じゃ可哀そうだってことになって。で、一つドラマチックにご招待しようじゃないの、ってわけでね」
「あの……。ゆかり! もう! 人を心配させといて!」
「ごめんごめん。でも――この人、誰?」
と、拍子抜けの様子で立っている久野の方を見る。
「へえ、啓子、留守の間に、男の人、連れ込んでたんだ」
「やってくれる!」
と、声が上って、
「違うわよ! この人はただ――。もう、ゆかりったら!」
啓子は、本当にバットでぶん殴りかねないくらい、頭に来ていたのである。
「いいじゃないの。さ、ケーキも用意してあるわよ」
「そちらの方もどうぞ」
ワイワイと引張って行かれて、結局、啓子は久野と並んで、即製のバースデーケーキの前に座らされてしまった。
「良かったじゃないか、何でもなくて」
と、久野は笑っているが、啓子の方は顔を真赤にして、まだ怒っている。
「ごめんなさいね、大騒ぎさせて」
「いいよ。どうせ明日は休みだ」
「――はい、お二人でローソクの火を消して下さい!」
「明り、消して!」
ケーキのローソクに火が点くと、広間がまた暗くなる。
「カメラ、カメラ!――ちょっと待ってね!」
と、誰かが騒いでいる。
しかし……啓子は少し落ちついて来て、首をかしげた。何だか妙だ。
そう。――あのパトカーは? あれも、小道具なのだろうか。でも、あんな物がそう簡単に借りられるわけもない。
「ゆかり」
と、啓子はそばにいるゆかりに声をかけた。
「ぶたないで!」
「ぶちゃしないわよ。ね、ここへパトカーが来なかった?」
「パトカー? いいえ」
と、ゆかりが首を振る。
「じゃあ……。ね、水科先生は?」
「先生は別のコテージで用があるって。だからこんなことできたのよ」
「そう……」
気になった。あのパトカーは何だったのだろう? 運転席の血は、本物のように見えたが……。
「はい、カメラOK!」
「じゃ、火を吹き消して、啓子!」
「はいはい」
啓子は思い切り息を吸い込んでから、一気に火を消した。パッとフラッシュが光る。
パチパチと拍手が起こり、明りが点いた。
「さ、ケーキ、切ろう。ちゃんとお二人で食べてね。仲良くして――」
「キャーッ!」
と、鋭い悲鳴。
突然の沈黙が、広間を支配した。
そうだ。何かが欠けていると思っていたのだ。この場面に。
それは啓子と同室のエリ――駒沢エリだった。そして今、エリは広間の入口に立っていた。Tシャツを血に染めて。
「エリ!」
と、啓子が大声で呼ぶと、エリはよろけながら二、三歩進んで、
「助けて!」
と|呟《つぶや》くと、そのままバタッと倒れた。
誰もが|唖《あ》|然《ぜん》として、その場から動けなかった。
久野が、真先に駆け寄って、エリの手首の脈をとると、
「――失神してるだけだ。しかし、けがしてる。これは切り傷だろう。急いで手当しないと――」
言葉が途切れた。
広間の明りが、完全に消えてしまったのである。
4
「助けを呼びに行かなきゃ」
と、啓子は言った。
「でも――どうやって?」
ゆかりが心細げに言って、ローソクの光でほのかに明るい広間の中を見回した。
誰もが|怯《おび》えて小さく固まっている。無理もないことだろうが。
運悪く、月が雲に隠れてしまったので、外はかなり暗いと思わなくてはならない。
しかも、今度こそ本当に電話線を切られている。
「近くのコテージまで、大した距離じゃないでしょ」
と、啓子は言った。
「でも、途中、真暗よ。――エリをあんな目にあわせた奴が出て来たら……」
と、ゆかりは身震いする。
久野が二人の方へやって来た。
「どうも出血が止らない」
と、久野は低い声で言った。「何とかしないと……。やはり、僕が行くしかないよ」
「だめよ」
と、啓子は首を振った。「ここにいてくれないと。もし犯人がここへ来ても、今の状態じゃ、誰も立ち向って行けないわ」
「じゃ、どうする?」
「私が行く。近くのコテージに行けば、先生もいるし」
「しかし――」
「大丈夫、これがあるわよ」
と、啓子はバットを持ち上げて見せた。
もちろん、刃物を持った犯人相手に、これでどこまで戦えるか、それは啓子にも知りようがなかった。
「――分った」
と、久野は|肯《うなず》いて、「ここは引き受けるよ」
「お願いね」
「君は勇敢な子だ」
久野はそう言うと、啓子にそっとキスした。
「じゃ――行くわ」
「気を付けて」
啓子は、広間を出ると、玄関へと足を忍ばせて行った。
靴をはき、しっかりバットを握りしめる。
――怖がって、ノロノロ歩いていたら、|却《かえ》って格好の的になるだろう。
「啓子……。気を付けてね」
ゆかりが、そばへ来ていた。
「私、パッと飛び出すから、そしたらドアを閉めて、しっかり鍵かけるのよ。チェーンもね。分った?」
「うん」
「じゃ、あとで」
と、笑みを見せておいて、啓子は玄関のドアを一気にパッと開けると、外の|闇《やみ》の中へと飛び出した。
この道を左へ回って――そう、ここだ!
あとは湖に沿って行けば……。あそこにコテージの灯が見える。
啓子は必死で突っ走った。地面が足下で飛んで行くようだ。
と、――少し雲が切れて、月が顔を出した。啓子の前の道を白く照らし出す。
そうだ! あとはひたすらこの道を――。
突然、道に誰かが出て来て、啓子は叫び声を上げそうになった。バットを構えて、足を止める。
「――結城さん」
結城だった! 本当に[#「本当に」に傍点]結城だ。
しかし、結城は|斧《おの》を持ってはいなかった。いや、どこか力なく、啓子の方へ歩いて来たと思うと、その場に|膝《ひざ》をついて、倒れたのである。――啓子はハアハア|喘《あえ》ぎながら、結城のわき腹に血が広がっているのを見ていた。
「誰だ?」
と声がして、飛び上りそうになる。
「――水科先生!」
茂みから姿を見せたのは、水科だった。
手にナイフを持って、シャツが血で汚れている。
「小坂か……」
「先生。どうしたんですか、これ?」
「この男が――急に襲いかかって来たんだ。もみ合ってるうちに、ナイフを奪って……。つい刺してしまった」
水科は額の汗を|拭《ふ》いた。「どうなってるんだ?」
「この人、エリを傷つけたんです。エリに振られて、恨んでたから。今、エリ、コテージに。けがしてるんで、助けを呼びに行くところだったんです」
と、啓子は言った。
「そうか。――それで分った。駒沢のけがはひどいのか」
「早く手当しないと。意識がないんです」
「よし。じゃ、ともかくコテージに行こう。こいつをやっつけたから、もう大丈夫だろうが」
「電話線も切られてます。あっちのコテージで、ともかく救急車を」
「そうか。――分った。じゃ行こう」
啓子はホッとして、水科と一緒に歩き出したが、途中、倒れている結城のわきをこわごわ通り抜けた。
月明りが、結城の体を照らしていたが……。
歩き出して――どこかおかしいな、と思った。
「どうした?」
と、水科が言った。
「いえ……。あの人がエリを刺したのなら、どうして手に血がついてないんだろう、と思って」
啓子は足を止め、振り返った。「――まだ息があるかもしれない」
「おい、やめろ! 危いぞ」
「大丈夫です。刃物も持ってないし」
啓子は、結城の所へ戻ると、膝をついて、
「結城さん。――しっかりして。あなたがやったの? あなたがエリを――」
突然、結城が起き上ると、
「危い!」
と叫んで、啓子を突きとばした。
「キャッ!」
と、転がった弾みに、バットを落としてしまう。
一瞬の差で、啓子はナイフの刃をよけることができた。
「水科先生!」
啓子は、|尻《しり》もちをついたまま、ナイフを構えた水科を見上げた。「先生が……」
水科の顔はゆがんでいた。
「気のある素振りを見せといて、いざってときに笑い出したんだ! 駒沢の奴! あいつは許せない!」
「やめて……。先生」
「お前も死ぬ。そうすりゃ、誰も……」
「エリは知ってるんですよ!」
「これから殺してやる。ゆっくりな」
と、水科がナイフを持ち直す。「そしてあいつに罪をなすりつければ――」
チラッと後ろを見て、水科は息をのんだ。
結城がバットを振り上げていたのだ。
「やめてくれ!」
バシッと音がして、バットはみごとに水科の頭に命中した。
「ホームラン……」
と、啓子は|呟《つぶや》いて、息を吐き出したのだった……。
*
「じゃ、もとから水科先生がおかしいと思ってたの?」
と、啓子は|訊《き》いた。
久野の運転する車の中。――助手席に啓子、後ろの座席には、思ったより傷が軽かった結城が乗っていた。
「ええ」
と、結城は|肯《うなず》いた。「彼女と付合ってる男のことを知りたくて、色々調べてると、あの先生が浮かんで来て。――で、少し行動をマークしてみると、何だか妙なんです。ナイフを買い込んで、ロープとかも用意して……。キャンプに行くと聞いて、その準備だったのかと思ったんですけど、たまたま通りかかった映画館でね、あれ[#「あれ」に傍点]を見たんですよ」
「〈13日の金曜日〉でしょ」
「あれ、知ってるんですか?」
「まあね」
「何だか、いやな予感がして……。来てみたら、林の中で警官が殺されてて、その近くでエリがあの先生に縛られて乱暴されそうになってたんです。飛びかかって争ってるうちに、ちょっとやられて」
「でも、あなたのおかげで命拾いしたわ。ね、久野さん」
「ああ。もう二度とごめんだね、キャンプなんか」
「大丈夫よ」
と、啓子は言った。「13日の金曜日にしなきゃいいのよ」
結城がちょっと笑った。――どこかふっ切れたような、当り前の笑いだった。
[間違えられた男]の明日
[#ここから2字下げ]
間違えられた男
The Wrong Man
1956年 アメリカ
[監督]アルフレッド・ヒッチコック
[脚本]マックスウェル・アンダーソン/アンガス・マクファイル
[出演]ヘンリー・フォンダ/ベラ・マイルズ/アンソニー・クエイル
[#ここで字下げ終わり]
1
「ママ!」
両手両足を泥だらけにしたミキが駆けて来ると、「ね、ミキね、プール作ったんだよ!」
と、得意げに報告した。
「あらそう。良かったわね」
ベンチで一人、日当りの良さについウトウトしかけていた内山幸江は、二歳になったばかりの我が子に笑って見せて、「でも、そのお手々で目をこすったりしちゃだめよ。いいわね? プールができ上ったら、ちゃんとお手々を洗いましょうね」
「うん」
ミキはまん丸な顔でコックリと|肯《うなず》くと、「ちゃんとできたら、見に来てね」
「はいはい。見せてもらうわよ」
と、幸江は肯いて見せた。
ミキはタッタッとはね[#「はね」に傍点]を上げながら、また駆けて行ってしまう。
この団地の中の公園は、たいていいつも見知った顔ばかりで、子供たちも、ほぼ同じ時間に同じ子たちが集まる。その意味では安全だし、遊ばせていても気が楽なのである。
内山幸江は、公園の入口に飾ってあるピンクの時計へちょっと目をやった。――午後の二時。
そろそろ、ミキが眠くなる時間だ。例の「プール工事」がすんだら、連れて帰って、シャワーを浴びさせると、ちょうどお昼寝の時間になるだろう。
三時を過ぎれば、晴子も帰って来るから、ミキのことは晴子に任せて買物に出ればいい。――幸江の頭の中には、しっかりと計画が立っていた。
晴子は十四歳、中学二年生だから、ミキを任せておいても大丈夫。ずっと一人っ子だったし、「あのこと」があってからはあまり口をきかない陰気な子だったのだが、幸江が内山と再婚、ミキが生れて、この団地に越して来ると、見違えるように明るくなった。
幸江もホッとしていた。何といっても、晴子は一番むずかしい年ごろだったから……。
でも、もう大丈夫。晴子はミキのおしめをかえてやったり、ミルクを飲ませたりするのが何より楽しそうだし、新しい父親にもすっかりなついている。
本当に……。幸江は、深々と息をついて、まぶしいほどの|爽《さわ》やかな秋空を見上げた。
本当に、何が幸いするか分らないものだわ。――一時は、どうして自分がこんなひどい目にあうんだろう、と泣いたのに、今は何の不安もない。
そう。――この青空のように。
足音が、少し離れた所で止った。
「失礼」
と、男の声が言った。「戸川[#「戸川」に傍点]幸江さん?」
幸江はギクリとした。その名で呼ばれることは、もう二度とないと思っていたのに。
見たことのある男……。くたびれた背広を着て、すっかり頭が|禿《は》げ上っている。
「あの……」
「失礼。戸川さんじゃなかった。今は――内山さんでしたか」
「ああ。――刑事さん」
思い出した。何て名前だったろう?
「|憶《おぼ》えていてくれましたか」
と、その刑事は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「倉田です。その節は」
「あ、そう、倉田さんでしたね。すみません、うっかり忘れていて」
「いや、当然ですよ。もう七年になる」
倉田刑事は、ベンチの方へやってくると、
「よろしいですか?」
「どうぞ。今、子供が――」
「ママ!」
と、ミキが走って来ると、「もうちょっとだからね!」
「はいはい」
と、幸江は手を振った。
「内山さんの――」
「ええ。今、二歳です。上の子とは大分離れてしまいました」
幸江が少し|頬《ほお》を染めた。
「娘さん――晴子さん、でしたか。お元気ですか」
「ええ、とても。ここへ越して、すっかり気持が切りかえられたようです」
「それは良かった」
倉田は|肯《うなず》いた。「私はすっかり薄くなりまして」
と、頭をツルリとなでるので、幸江は笑った。
しかし――何の用事もなく、この刑事がやっては来ないだろう。しかも、引越し先までわざわざ足を運んでいるのだ。
「何かあったんでしょうか」
と、幸江は|訊《き》いた。
「ええ。実は……」
倉田が少し重苦しい表情になって、「ご主人のことで――いや、元の[#「元の」に傍点]ご主人ですな。戸川治夫のことで」
「あの人が……どうしたんです?」
倉田は、幸江から目をそらすと、口を開いた。
「ママ! できたよ、プール!」
と、ミキが勢いよく駆けてきた。
*
「戸川」
と呼ばれて、雑誌をおろすと、
「はあ」
と、戸川治夫は固いベッドから起き上った。
看守の大津が、苦虫をかみつぶしたような顔で、
「面会だ」
と言った。
戸川は戸惑った。――今日は面会日ではない。それに、ここ何年も、誰も面会に来たことなどなかったのだ。
「早くしろ!」
大津はいやに不機嫌である。――戸川は心配だった。
何かまずいことでもやっただろうか? 覚えがない。
しかし、大津を怒らせると、ろくなことにならない。それはこの刑務所での六年余りの日々で、充分身にしみている。
「何だい」
と、同じ房の男が言った。
「さあ……。ともかく行くよ」
「気を付けな。大津の奴には用心しないと」
ささやくような声でしゃべっている。大津に限らず、看守の耳は鋭い。
廊下へ出ると、大津について歩いて行く。――いやな気分だった。
刑務所での日常は、時計がいらないくらい、正確に管理されている。その時間割にないものが割り込んでくるというのは、いい前兆ではない。たいていはろくでもないことなのだ。
戸川は戸惑った。
いつもの面会室ではない。所長室へ連れて行かれたのだ。
「入れ」
大津に言われて、おずおずと中へ入る。
「やあ、来たな」
所長の神田は、ここへ来て二年だ。戸川が、自分よりずっと若いこの所長を、こんなに近くで見るのは初めてだった。
「かけたまえ。――この人を憶えてるか?」
もう一人の男が、分厚い鞄をかかえて、ソファに座っている。戸川も、すぐに思い出した。
「弁護士さんですね。浜口さんでしたね、確か」
「そうそう。いや、元気そうだ。ホッとしたよ」
「あの節はお世話に……」
「いやいや。実は――」
と、弁護士が言いかけるのを、所長の神田が遮った。
「いい話なんだよ、戸川君」
「はあ?」
「君は釈放される」
戸川は耳を疑った。
「――何とおっしゃいました?」
「真犯人が|挙《あが》ったんだ」
と、浜口が言った。「半年前、ある男が、幼稚園帰りの女の子にいたずらしようとして、泣き出され、草むらへ連れ込んだ。通りかかった大人が見付けて、その男を取り押えてね。子供は無事だった」
戸川は黙って聞いていた。――理解するのに、時間がかかりそうだ。
「警察の取り調べで、男は他にも何件かの犯行を自供した」
と、浜口が続けた。「その中に、何と君がやったことにされていた、例の事件も含まれていたんだよ。――私が呼ばれて、その男と会った。確かにね、君と良く似ている。薄暗い所で会えば、間違えるかもしれない。体つき、背丈、どれも似ているんだ」
「はあ……」
「念のため、あのときの目撃者にも面通しをした。もう七年も前のことだから、確かじゃないが、似ている、という意見だった」
浜口は笑顔になって、「何よりね、あのとき、失くなっていた女の子の靴の片方。あれがその男のアパートの押入れで発見されたんだ。これで間違いない、ということになった。――君は無実だった。主張していた通りにね」
戸川の体は震えて来た。――これは現実なのか? 夢じゃないのか。それとも、俺をからかって、面白がってるだけじゃないのか……。
「再審請求をして、手続に少しかかるが、何日でもない。君は無罪放免になる。良かったな、本当に」
「はあ……」
「戸川君は至っておとなしく、模範囚だった」
と、神田所長が言った。「私も、いつも不思議に思ってたんだ。この男が、小さな女の子を襲って、半死半生の目にあわせるなんて、信じられない、とね。――疑いが晴れて良かったね」
「全く」
と、浜口が肯いて、「警察の大黒星さ。君にとっても、謝られたところで、腹の虫がおさまるまい。しかし、ともかく分って良かった。その後のことは、ゆっくり考えよう」
「はあ……」
他に何も言えなかった。――戸川は、突然涙がこぼれて来るのを止められず、顔を伏せてしまっていた……。
2
「お世話になりまして」
と、戸川は頭を下げた。
「ご苦労さん。大変だったね」
重い扉を開けてくれる係員が、言った。
戸川は胸が熱くなった。それは、ここ何年かの間に聞いた、一番暖い言葉のように思えた。
――無実と判明して、新聞やTVでニュースは流れたが、それでもすぐに刑務所を出るわけにはいかなかった。色々ややこしい手続というものが待っていたからだ。
しかし、「無実だった」という話が広まると、刑務所内で戸川は丁重に扱われるようになった。
他の受刑者たちからねたまれるのでは、と心配していた戸川だったが、むしろ誰もが、「出て行く者」に、「自分もいつか」という夢を重ね合わせているようだった。
いつも何かと戸川をいじめて喜んでいた粗暴な男も、急に戸川にやさしくなり、別れるときは涙ぐみさえしていた。――みんな寂しいのだと戸川は思った。どんな形ででも、人とつながりがほしいのだ。
今、刑務所を出るときになって、やっと戸川はそれを知った……。
――明るい昼下りだった。
重い扉が背後で閉り、戸川は一人で、高い灰色の塀の外に[#「外に」に傍点]立っていた。
どこへ行こうと、何をしようと自由なのだ。――自由[#「自由」に傍点]。
それは、扱い方の分らない電気製品のように戸川を戸惑わせた。
ともかく……どこへ行こう?
そのとき、戸川は少し離れた所で、学生鞄を手に立っている、セーラー服の少女に気付いた。その少女は、はっきりと戸川を見ていた。
そして、歩いて来ると、
「お父さん」
と言った。「お帰り」
「晴子か」
「うん」
と、少女は|肯《うなず》いた。「分んない?」
「だって……七つのときだ、最後に見たのは」
「そうだね」
「写真も送ってくれなかったしな、母さんは。――お前、迎えに来てくれたのか?」
「お母さん、来られないから……。でも、黙って来たの。学校さぼって」
晴子は、チラッと舌を出した。
そのしぐさは、戸川にとって、まぶしいほど可愛かった。
タクシーに乗り、ターミナル駅の駅ビルへ入った。――晴子がよく友だちと入るというレストランに、二人で入った。
値段の高さに、戸川は目をむいたが、何しろ七年ぶりの世間である。
何でもないハンバーグライスが、信じられないほど|旨《うま》い。
「――出て来たって実感があるよ、やっと」
と、戸川は笑った。「コーヒーをもらおう。何しろあそこ[#「あそこ」に傍点]の自動販売機のやつは、色のついたお湯だ」
「お父さん……」
と、晴子は少し言いにくそうに、「私たち、もう……」
「聞いてるさ、もちろん。弁護士の浜口さんから」
と、戸川は肯いた。「――母さんとは離婚したんだ。誰と再婚しようと、自由だよ」
「でも……。ひどいよね」
「ああ」
戸川の声が、わずかに震える。「ろくに証拠もないのに、あいまいな目撃者と、アリバイがないってことだけで、何日も眠らせずに、供述書にサインさせた、あの刑事が憎いよ。検事、裁判官……。ぶっ殺してやりたい」
「分るよ」
戸川は、フッと息をつくと、
「しかし……何をしても、この七年間は戻らない。何もかも失って……。仕事も家族もな」
「お父さん……。私もあのときは辛かった。父親が変質者だって言われて。小さかったけど、意味は分るし、お母さんはほとんど家から出なくて……」
「そうだろうな」
「そんなとき、力になってくれたのが、内山さんだったの。――お母さんが働けるようにしてくれて、あれこれ言われないように気をつかってくれたわ。それで……三年くらいして、結婚したの。いい人だわ。やさしいし、私にもよくしてくれる」
内山のことは、戸川もよく知っている。元の部下である。三つ若いから、今、四十二歳だろう。三十八の幸江とは、ちょうどいいバランスかもしれない。
「子供が生れたって?」
と、戸川が|訊《き》いた。「いくつだ?」
「今、二つ。ミキちゃんっていうの」
「女の子か」
「そう。可愛いよ。私もよくお|守《も》りする」
と、晴子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「お前が赤ん坊のお守りか」
と、戸川は笑った。「あんなチビだったお前が」
「もう十四よ」
コーヒーが来て、戸川はゆっくりと飲んだ。
「お父さん……」
「分ってる。お前の言いたいことは」
戸川は、淡々とした口調で、「もう、俺の帰る場所はない。そう言いたいんだろ?」
晴子は、少しためらっていたが、
「――そうなの」
と、辛そうに言った。「不公平だと思うし、お父さんにはひどい仕打ちだと思うけど、でも、もう私たち、家族としてうまくやっているの。もしお父さんが帰って来たら……」
晴子の目から涙がこぼれた。
「ごめんね、お父さん。ひどいことを言って」
戸川は、じっとコーヒーの表面に浮かぶ白い泡を眺めていた。
「――よく、言いに来てくれた」
と、戸川は言った。「そうしてくれなかったら、ノコノコ押しかけて行っただろうな」
晴子が涙を|拭《ぬぐ》った。戸川は首を振って、
「心配するな。お前たちの邪魔はしない。約束するよ」
と、言った。
「本当?」
「ああ、もちろんだ」
「ありがとう、お父さん」
「他人行儀だぞ」
と、戸川は笑った。「もう学校へ行ったらどうだ? 遅刻扱いになるかもしれないだろ」
「お父さん……。ときどき会ってね」
「いいのか」
「どこへ住むの?」
「さあ……。友だちの所かな。落ちついたら連絡する」
「うん」
晴子がホッとしているのが、戸川にもよく分った。もちろん、当てなどなかったのだが、娘を安心させてやりたかったのである……。
*
戸川は、店の名前も変ってしまって、全く昔の面影のないバーで、ビールをゆっくりと飲んでいた。
昔は結構飲めたのだが、今は子供並みと思わなければならない。――アルコールは慎重に。出所するとき、しつこく言われた。
奥の小さなテーブルで、一人、新聞を広げていると――誰かが目の前に立った。
「座っていいか」
「どうぞ」
と、戸川は言った。
「出られて良かったな」
と、倉田刑事は言った。
「残念だ、と言いたいんじゃありませんか?」
「俺も仕事だったんだ。悪く思うな。――おい、水割り」
「何の用です」
と、戸川は新聞を置いて、「七年間、あそこ[#「あそこ」に傍点]にいりゃ、少々のことには平気になる。しかしね、あんたたち刑事のことは恨んでますよ。当り前でしょ」
「分っとる」
と、倉田はグラスをゆっくりと取り上げる。「しかし、もともとは、たれ込みがあったからだ。お前が小さい女の子の写真をとってるとな」
「カメラが好きだった。普通に遊んでる子たちの写真だけですよ」
「ああ。しかし、きっかけとしちゃ充分だった」
「変態扱いされて、女房や娘はノイローゼ寸前。――離婚しなかったら、今ごろ地獄でしょう」
「それでな」
と、倉田はグラスを空にした。
「まだ何か?」
「この間、お前のことで、団地まで奥さんと話しに行った。夕方、|旦《だん》|那《な》が帰って来て、俺は初めて内山って男に会った。知ってるんだろう?」
「元の部下です」
「らしいな。俺は、問題のたれ込みの匿名電話を聞いてるんだ。――もちろん昔のことだから、はっきりとは言い切れないが、あの内山って男と話したとき、ふっと思った。あの匿名電話の声とよく似てる、とな」
「何ですって?」
「思い過しかな」
と、倉田は笑って、「じゃ、まあ達者でな」
さっと立ち上ると、自分の分の料金だけ払ってバーを出て行く。
戸川は、しばし動かなかった。
「――おさげしても?」
空のビールびんが、とぼけた顔で、突っ立っていた。
3
まるで頭の中で雷が鳴り響いてでもいるかのようだった。
戸川治夫は、|呻《うめ》き声を上げながら、何とか起き上った。――どうしたんだ、一体?
二日酔か……。そうだ。思い出した。
ビールを飲んで、それから水割りを一杯。それだけでこの始末か。やれやれ……。
しかし――ここはどこだ?
まるで|見《み》|憶《おぼ》えのない場所だが、同時に何となく懐しい気分にさせられる場所だった。ありふれたアパートの一室。
布団を敷いてあるのは六畳間で、大して広くはないが、戸川にとっては、長いこと過して来た「部屋」と比べれば、「とんでもない」ほどの広さである。
起き上ったまま、あぐらをかいて座っていると、ガラッと|襖《ふすま》が開いた。
「あら、起きたんですか」
三十過ぎかと思える女が、エプロンをつけて立っている。「もう午後の一時ですよ」
「はあ……」
戸川は、自分がシャツとズボン下という格好なのに気付いて、赤くなった。
「顔洗って、食べるもの――大したものはないけど、仕度してありますから」
「いや、そんな――」
と言ったとたん、戸川のお腹がグーッと派手な音をたてたのだった……。
「――じゃ、何も憶えてないんですね」
女は面白そうに言った。
「申し訳ありません」
戸川は、三杯目のお|茶《ちゃ》|漬《づけ》を流し込むように食べて、フーッと息をつくと、そう言った。
「体に悪いわ、そんな食べ方」
「分ってます。しかし、ずっと『体にいい』生活をして来たもんですから、思い切り無茶をしてみたくて」
正直な気持だった。「あの――僕は……」
「知ってます」
と、女は|肯《うなず》いた。「お店の子が、『どこかで見たわ、この人』って言って。――無実の罪で七年間も刑務所にいたって、あなたでしょ?」
「ええ」
戸川はホッとした。「そのせいでアルコールにもえらく弱くなって……。すみませんでした」
「いいえ」
と、女は笑って、「酔って暴れられるよりは――交番へでも渡しちゃうんですけどね、いつもは。でも、あなたのこと知ったら、そんな気になれなくて」
「ありがとう」
と、戸川は心から言った。「目が覚めて――もし、警官の姿が一番に目に入ったら、気が狂ってたかもしれません」
「そうでしょうね」
女は、戸川が酔い|潰《つぶ》れたバーの雇われマダムだった。しかし、あまり水商売という雰囲気のない女だ。
「すっかりご迷惑かけて……。いてて」
と、戸川は胃の辺りを押えて、急に|呻《うめ》いた。
「ほら。あんなにお茶漬を流し込むんですもの。大丈夫? 横になったら?」
「いや……。いい気分[#「いい気分」に傍点]です。こういう痛みなんて、あそこじゃ絶対に――。いてて……」
女は|呆《あき》れ顔で戸川をまた布団へ寝かせた。
「じきにおさまりますから――」
と、戸川は何度も深呼吸した。「やれやれ……。馬鹿だな、全く」
「でも、仕方ないでしょ」
と、女は面白がっている様子だ。
ふっくらとした、丸顔が優しい。
「ああ……。少しおさまって来た」
と言って、戸川は、「あの――ここは、お一人で?」
「ええ。たまに、店の子が泊ることもありますけどね」
「そうですか……」
戸川は少しためらってから、「あの……ゆうべ、何かあなたに失礼なことをしましたか?」
「え?」
女はキョトンとして、それから笑い出した。
「――そんなこと! そんな真似ができるくらいなら、少しは憶えてるでしょ」
「そうですね」
戸川は赤面した。ドラマみたいなことが起こるものではないのだ。
「いつ、出てらしたの?」
「昨日です」
「じゃあ……。ゆうべが第一夜ってわけ? 自由になって」
「記念の二日酔ってわけですな」
と言って、戸川は笑った。「いてて……」
「大丈夫?」
「ええ……。困ったもんですね、こんなことじゃ。いつまでもお邪魔するわけにも……。もう失礼します」
と、起き上りかけるのを、
「寝てていいんですよ。どうせこっちの出勤は夕方だし」
と、女は止めた。「お家の方は?」
「離婚したので。――もう、女房は再婚してますし。行く所もないんです」
「じゃあ……その事件のせいで? ひどい話!」
「誰を恨んでも、始まりませんがね」
と言って――戸川は思い出していた。
ゆうべ会った、あの刑事、倉田が言っていたことを。
戸川が怪しいという密告の匿名電話の声が、内山に似ていたという……。まさか!
そんな馬鹿なことが!
内山はいい部下だった。そんなことをする理由はない。恨まれるような覚えもないし――。
幸江? もしや幸江のことを、内山が好きになっていたとしたら?
内山は、何度か家に遊びに来たこともあった。幸江とも気が合ったようだ。もし、あの二人の間に……。
いや、内山が一方的に幸江に恋したとしても、おかしくはない。たまたま戸川の家の近くで起きた幼女の暴行事件……。
内山は、ふと思い付いたのかもしれない。もし戸川が犯人ということになれば、幸江を手に入れられるかもしれないと……。
「どうかしました?」
女が不思議そうに|訊《き》く。戸川は我に返って、
「いや、どうも。――本当にもう失礼します」
と、立ち上りかけた。
「待って」
女が、戸川の腕をとる。「――もし、その気になれたら……。私はいいのよ」
「え?」
戸川は戸惑って――女の手が自分のひげのザラつく頬を|撫《な》でるのを感じた。女の手のやさしさ、柔らかさ。
戸川の胸が震えた。女を抱きしめたい思いに駆られる。しかし――首を振って、
「気持だけで……」
と、布団の上に正座していた。「本当に嬉しいです」
戸川が頭を下げると、女は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「分りました。お引き止めしませんわ。でも、もし行く所にでも困ったら、いつでも来て下さいね」
戸川は黙って、もう一度頭を下げた。女の言葉が、身にしみて嬉しい。
――ひげを|剃《そ》らなきゃな、と戸川は思っていた。
*
「申し訳ございませんが」
と、受付の女の子は戻って来て、言った。「内山はただいま手が離せないとのことで……。お目にかかれないと伝えてほしいとのことでございます」
戸川は、耳を疑った。
「しかし――いるんでしょう、会社に」
「はあ。でも大変忙しくて、お会いできないと――」
「ちゃんと伝えてくれましたか、こっちの名前を」
「はい。申し訳ございませんが、お引き取り下さい」
戸川の知らない顔だった。もちろんそうだ。戸川がこの会社にいたころ、この受付の子は、まだ女学生だったろう。
戸川は、しばらく身じろぎもせずに立っていた。――まさか、こんな対応を受けるとは思っていなかったのである。
歓迎はされないかもしれないが、しかし内山としては、戸川に合わないなどと言う権利はないはずだ。
「――分りました」
と、戸川は言った。「どうも」
「申し訳ございません」
受付の子を困らせても、仕方のないことだ。
戸川は、七年間の刑務所生活の中で、「堪えること」を|憶《おぼ》えた。
しかし……。
かつて自分が勤めたビルを出て、足を止めると、戸川は振り返った。――まだ戸川のことを知っている人間も多いはずだ。
受付なんか無視して、オフィスの中へ入って行けば、内山だって戸川と顔を合わせないわけにはいかない。そうしたって構わないのだ。
戸川が無実だったことは、みんな知っているのだから。
だが――そんなことをして、内山を困らせるつもりは戸川にはなかった。幸江や晴子まで、巻き込むことは避けたい。
だから、こうして会社へやって来た。そして、ちゃんと受付を通して、内山に、会いたいと伝えてもらったのだ。その返事がこれか……。
――ゆっくりと、怒りがこみ上げて来る。
どうしてこんな目にあうんだ? 何もしていない俺が。どうして?
戸川は、あと三時間もすれば、終業の時間だと知ると、内山が出て来るのを待つことにした。
待つのは慣れている。――七年間も、「自由の日」を待ち続けたのだ。三時間ぐらい、どうということはなかった。
4
〈間違えられた男〉か。――俺みたいだな。
時間|潰《つぶ》しに、通りかかった〈名画座〉へ入ってみたのだが、何だか変った映画館だった。どこにも料金を払う所がない。
ともかく、入って席につくと、すぐに映画は始まった……。
しかし――結局、戸川は疲れ切って、その〈名画座〉を出て来ることになった。
それはまるで自分自身の物語だった。身に覚えのない逮捕。指紋を採られたときのショック。留置場での恐怖の夜……。
やはり、
「この人に間違いないわ!」
と叫ぶ目撃者も出て来る。
戸川は、涙で目がくもって、画面が見えなくて困った。――ラストで、本当の犯人が逮捕され、主人公が釈放されると、思わず拍手しそうになった。
しかし、完全なハッピーエンドではない。ノイローゼで入院してしまった妻が完治するのは、まだずっと先のことなのである。
ああならなかっただけでも、良かったのだろうか。
――外へ出ると、もう暗くなりかけていた。
内山は仕事を終っただろうか?
戸川は、しばらく立って、考え込んでいたが、やがてゆっくりと歩き出した。けり[#「けり」に傍点]をつけてやらなくては。――七年間の悪夢に、結末をつけてやるのだ。
*
|凄《すご》いもんだ。
見渡す限り、と形容したくなる大きな団地である。夜の団地は、まるで一つの都会のような、光の海だ。
バスは混雑している。勤め帰りのサラリーマンたちは、誰もが疲れ、口もききたくない様子だった。
内山は七年前に比べると少し太って見えた。もう四十を過ぎているのだから、当然かもしれない。
戸川は、会社からずっと内山の後を|尾《つ》けて来たのだ。気付かれてはいないだろう。内山は何か考え込んでいる様子で、一向に周囲には気が回らないようだった。
次の停留所を告げるテープが流れると、内山がハッと我に返る。他の誰かが〈降車〉のボタンを押していた。
内山は、真先に降りた。間に三、四人降りる客があって、戸川は最後にバスを降りた。
それにしても、バス代の高いこと!
内山が歩いて行く後ろ姿が、街灯の光の下に見える。戸川は、一つ息をついて、歩き出した。
一緒に降りた客も、次々に左右へ散って、内山は一人になった。――そして、小さな公園の中に入って行く。
何だ? 近道なのかな。
戸川は見失うまいと、足を速めた。しかし、公園の入口へ来て、足を止める。
内山の姿は、どこにもなかった。――どっちへ行ったんだ?
公園は、中央に広場のような場所があり、そこから放射状に道が何本も走っている。内山がどの道を行ったのか、木立ちが多くて、見えないのだ。
ともかく広場の真中へ出て、見回していると――人影らしいものが、木立ちの合間に動いた。
誰かが隠れている。――そうか。気が付いていたのか。
「――内山」
と、戸川は声を出した。「俺だ。戸川だ。――話がある。出て来てくれ」
返事はなかった。戸川は、ゆっくりと、人影の見えた道へと進んで行った。
「内山……。どうして隠れるんだ。出て来てくれ。お前のことを恨んじゃいない。そんな理由はない。そうだろ?」
確か、あの辺の木のかげに……。
「内山。――なあ、聞いてくれ。幸江も幸せらしいし、俺は何も邪魔しに来たんじゃないんだ。ただ、昔話でもと思って……。内山。聞いてるんだろ?」
木立ちの間の道を進んで行く。「おい、聞いてたら、返事してくれ」
ガサッと音がして、伸びて来た手が、戸川の腕をつかんだ。
*
「――お帰りなさい」
と、幸江は玄関へ出てドアを開け、戸惑った。「あら……」
「奥さん」
と、倉田刑事は言った。「ご主人は?」
「いえ、まだ……。もう帰ると思うんですけど」
と、幸江は言った。「娘も帰っていなくて、てっきり――。あの、何か?」
倉田の不安げな表情が、幸江には気になった。
「いや、どうも……。心配になりまして」
「どういうことですの?」
「戸川は――いや、戸川さんはここへ来ましたか」
「いいえ。戸川が何か――」
「どうも、ご主人の会社へ押しかけたらしいんです」
「まあ」
「何だか……自分を陥れたのが、内山さんだと信じ込んでるらしい」
「何ですって?」
「どうも気になりましてね。――ご主人はいつもどの道から?」
「あの……その道です」
幸江は、玄関からサンダルをつっかけて出ると、外廊下の手すりから、下を見下ろした。「――あの公園を通り抜けて来るんですの。近道なので」
「公園ですか……。|人《ひと》|気《け》がないな。気になる。行ってみます」
「あの――私も」
幸江はカタカタとサンダルの音をたてながら、エレベーターへと急いだ。
公園の中へ駆け込むと、
「内山さん!――内山さん!」
と、倉田は呼んだ。
「あなた!」
と、幸江も大声で叫んだ。
「いないようだ……。おや?」
倉田はかがみ込むと、ハンカチで、何かを拾い上げた。
「何ですの?」
「ナイフです。――血はついていないが。拭き取ったのかもしれない」
幸江は息をのんだ。
「じゃ、主人が――」
「お宅の電話を貸して下さい。応援を呼びます」
「はい!」
二人が急いで棟へ戻り、玄関のドアから入ると、
「――ママ、どこへ行ってたの?」
と、晴子が立っていた。
「晴子! いつ戻ったの?」
「今よ。途中でお客さん[#「お客さん」に傍点]に会って」
「お客?」
「――やあ」
と、居間から、戸川が出て来た。
「まあ、あなた……」
「『あなた』はよせよ。今はもう内山が『あなた』だろ」
と、戸川が笑顔で言った。
「え、ええ……」
幸江は上って、台所へと急いで行った。
玄関でポカンと突っ立っているのは、倉田刑事である。
「刑事さん」
と、晴子が進み出て来て、言った。「パパにあなたが話してるの、聞いちゃったの。今のパパにね。『戸川はあんたを恨んでる。あんたが密告したと信じてますよ。仕返しに来るかもしれない』って……。でも、私、お父さん[#「お父さん」に傍点]のことは知ってるもの。そんな人じゃないってこと。心配だから、公園で待ってたの。パパが、お父さんを刺そうと隠れてた。私が止めなかったら、きっと――」
晴子は、厳しい目で、倉田を見つめた。
「どうして、こんなことするんですか。お父さんには、パパが密告の電話をかけた、って言ったんですってね。――二人が憎み合うように仕向けるなんて! ひどいじゃない!」
倉田は青ざめていたが、やがて肩をそびやかして、
「刑務所に入るような奴はね、それなりの理由があるんだ。|匂《にお》いがある。必ず、いつかまた何かやらかすんだ」
「お父さんは無実だったのよ」
「証拠がないだけだ。俺の鼻は間違いない」
倉田は胸を張って、「見てることだ。今に、また何かやらかすさ」
「――帰って」
と、晴子は怒りに燃える目で、倉田をにらんだ。「帰って!」
倉田が出て行くと、晴子は|叩《たた》きつけるようにドアを閉め、|鍵《かぎ》をかけた。
そして、肩を震わせて泣き出した……。
そっと肩に置かれる手。――顔を上げると、戸川が穏やかな目で、見ていた。
「お父さん……どうして、あんなことができるの? 無実の人を刑務所へ入れて、謝りもしないで……」
「晴子。――見返してやるさ。父さんは、ちゃんと働いて、この世の中に正義ってものがあることを、証明してやる」
「お父さん……私、自慢してやる、友だちに」
「戸川さん」
と、内山が出て来た。「中で、一杯やりましょうよ、昔みたいに」
「いや、酒はだめだ。ウーロン茶にしてくれ!」
そう言って、戸川は笑った。
晴子は、戸川と内山の腕に両方の腕を絡めて、
「|凄《すご》いなあ。すてきなパパが二人もいる!」
明るい笑い声が重なった。そこへ――ワーッと泣き声が響いて、
「あ、ミキちゃんのおムツ!」
と、晴子は駆け出して行った。
[ローマの休日]届
[#ここから2字下げ]
ローマの休日
Roman Holiday
1953年 アメリカ
[監督]ウィリアム・ワイラー
[脚本]アイアン・M・ハンター
[出演]オードリー・ヘップバーン/グレゴリー・ペック/エディ・アルバート
[#ここで字下げ終わり]
1
王女はそこに立っていた。
――幻でも何でもない。高井啓は、夢を見ているのでないことを確かめるために、目をこすってさえみなかった。
それほどはっきりと、そこに王女は立っていたのである。
夜風が巻いて、王女の髪をとかして行った。王女は風を顔に浴びるのが、いかにも心地良い様子で、うっとりとした表情で目を閉じている。まるで美しい音楽に聞き|惚《ほ》れているといった風であった。
高井がアンナ王女のことをすぐに見分けたのは、つい二時間ほど前に、当の王女と会っていたからだ。といって、高井が個人的に王女と親しいわけでも何でもない。
雑誌記者である高井が、各新聞、TV、通信社などの共同記者会見に出席して、今、目の前に見ているままの服装の王女を間近に見ていたのである。
王女は、深々とため息をついて――そばに立っている日本人に気付く。
高井は、初めて夢から覚めたような気持で、
「あの――」
と、口を開きかけた。
「今晩は」
と、王女は言って、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
母親がモンゴル系で、アンナ王女は黒い髪と黒い|瞳《ひとみ》を受け継いでいる。王女の国Pは、日本から遥かに遠い中米の片隅にある。
「どうも……」
と、高井は言って、「あの――何してるんですか?」
そう言ってから、いけね、と思った。もっとていねいな口をきくべきだった。
「よく分らないの」
と、アンナ王女は首を振って、「気が付いたら――ここに立ってたんです」
王女が日本語を――それも、下手すりゃ高井にだって真似のできないような、きれいな発音で話すのは、子供のころ、五、六年にわたって、日本で暮していたことがあるからだということを、高井も知っていた。
「はあ……」
しかし、実際、一流ホテルにSP付で宿泊しているはずの一国の王女が、どうしてこんな所に立っているのやら、見当もつかない。
「ここは、どこかしら?」
と、王女は戸惑った様子で辺りを見回している。
「え……。|四《よつ》|谷《や》の近くですよ。しかし、あなたは――」
「よく分らない……。何も|憶《おぼ》えてないの」
と、王女は首を振った。「私……何をしてるのかしら、ここで?」
ふざけてるのか、と高井は思った。しかし、どう考えたって、王女が夜中に一人でフラリと散歩に出るなんてことは考えられない。
ホテルからは、歩いて二十分ほど。近いことは確かである。
「あの――僕はですね、さっきの記者会見で――」
と言いかけて、高井は|呆《あっ》|気《け》にとられた。
王女が、その場にフワッと、まるでスローモーションの画面でも見るように、倒れてしまったからである。
「ちょっと! 大丈夫ですか!」
と、駆け寄ったものの、手を触れるのは少々ためらわれて、「あの――アンナ王女様! あの……」
どうやら完全に気を失っている。高井は途方にくれてしまった。
「参ったな……」
と、頭をかいて、周りを見回すが、もともと人通りの少ない道で、通りがかる人も見当らない。
ともかく、ホテルへ連絡して、ここに王女がいる(何でこうなってるのかは、さっぱり分らないが)と、教えてやらなくては。
「しょうがないな……」
こわごわ王女の体をだき起こすと――アメリカ映画なら、ヒョイと抱え上げるところだろうが、高井は若いとはいえ、そう頑丈な体格ではない。
「ヤッ!――よいしょ!」
かけ声つきで力をふり絞り……何とか王女を背中におぶって立ち上った。
これでホテルまでおんぶしてくのか?
高井は明日になったら、体中が痛いだろうと思ったものの、まさかここに放り出して行くわけにもいかず、何とか歩き出した。
パタッ。パタッ。――パタパタ。
「ええ?――おい冗談じゃないよ!」
と、思わず高井は雨の落ち始めた空へ向って文句を言ったが、雨の方はそんな苦情を気にとめる様子もなく、たちまち本降りになっていったのである。
*
「――何よ、一体?」
と、ガウン姿で出て来た細野さゆりが仏頂面をしていたからといって、文句は言えない。
誰だって、つい一週間前に喧嘩別れした恋人を歓迎はしないだろう。
「すまん。ただ――降られて、困っちゃったんだ」
と、高井はハアハアと息を切らしている。
「あ、そう。お気の毒ね」
と、さゆりはアッサリ言って、「このマンションのロビーも、雨は降らないわよ。あそこで寝てれば?」
ドアを閉められそうになって、高井があわてる。
「一人じゃないんだ! 頼む、中へ入れてくれよ」
「――誰と一緒なの?」
と、廊下へ顔を出して、高井に支えられてやっと立っている王女を見ると、「何よ! 女が酔い|潰《つぶ》れたからって、私の所へ連れて来たの?」
と、かみつく。
「そうじゃないんだ! ともかく説明するから、中で――」
今少しもめはしたが、さゆりは結局渋々中へ入れてくれた。
「おぶってたら、雨でこの人、びしょ|濡《ぬ》れになっちまって……。僕はおかげでそう濡れなかったけどね」
と、高井は王女をカーペットの上に寝かせた。「――重かった!」
ペタッと座り込んでしまう。
「美人ね。どこかのホステス?」
「P国のアンナ王女だ」
と、高井が言うと、さゆりは一瞬|唖《あ》|然《ぜん》として、
「|叩《たた》き出されたい?」
と、|訊《き》いたのだった。
――高井の話を、さゆりが信じるまでには大分かかった。
そこまで放っておくと、王女は|風《か》|邪《ぜ》をひいたろう。途中で、さゆりは|一《いっ》|旦《たん》高井を廊下に押し出しておいて、王女の濡れた服を脱がせ、体をタオルで|拭《ふ》いてから、自分の物を着せたのだった。
そして、ソファへ寝かせ、毛布をかけてやると、王女はまたぐっすりと眠り込む……。
「――|嘘《うそ》ばっかり」
と、さゆりが言った。
「本当だってば」
と、高井がため息をつく。「こんなでたらめ、言うと思うか?」
「思う」
さゆりは決して本来「分らず屋」ではない。しかし一週間前、酔った高井が、名前もろくに知らない、新入社員の女の子のアパートで目を覚ましたところを目の前に見て、「男性不信」に陥ったのも仕方のないところであろう。
「アンナ王女? ともかく、TVでも|点《つ》けてみましょ」
と、さゆりはリモコンへ手をのばした。「もし、この人が本当の王女なら、今ごろ大騒ぎになってるわ」
カチッと音をたててTVが点く。画面はエアコンのCMだった。
「このマンションも古いから、冷房がきかないの。やっと夏が終って一息よ」
と、さゆりは言った。「何か飲む?」
「でも――いいのかい?」
「一杯五千円」
ともかく、さゆりがジョークを口にしてくれるようになったので、高井はホッとした。
いや、正直なところ、成り行きで喧嘩はしたものの、さゆりが機嫌を直してくれるのを心待ちにしている高井なのだ。
「はい、ウーロン茶」
と、コップをくれて、「アルコールはだめよ」
「分ってる」
と、TVの方へ目をやる。「チャンネル変えてみてくれよ」
「どこだって同じよ。もし本当にこの人が王女なら――」
パッパッとチャンネルを変えて行くと――突然、王女の写真が画面に現われた。
さゆりは唖然として、ソファに寝ている女と見比べ、
「そっくり!」
と、声を上げた。
「だから言ってるだろ――」
「シッ!」
TVには、めちゃめちゃに壊れた車の|残《ざん》|骸《がい》が映し出されている。
「――事件が起きたのは、今夜十時少し過ぎのことで、アンナ王女の乗った車がホテルへ戻る途中、××土手の道へさしかかったところ、突然爆発が起こったものです。王女の車は大破、前後を走っていた白バイの警官四人も、爆発で投げ出されて、しばらくは動けなかった、ということです」
高井とさゆりは顔を見合わせた。
「――アンナ王女の姿は車の中にはなく、現在警察官約五十人が出動して周辺を捜索すると同時に、王女が誘拐された恐れもあるとみて、真相の解明を急いでいます」
アナウンサーの話が頭に入るにつれ、高井とさゆりの顔から、徐々に血の気がひいて行ったのだった……。
高井が、あわてて電話へ手をのばすと、
「ちょっと! 何するのよ!」
と、さゆりが腕をつかんだ。
「一一〇番するんだ。当り前だろ」
「あのね、この人、何があったのか、全然|憶《おぼ》えてないのよ。私たちが誘拐犯だと思われたらどうするの!」
高井は思ってもみないさゆりの言葉に、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
2
「しょうがない?」
と、高井は言った。
「しょうがないわよ」
と、さゆりが|肯《うなず》く。
「そうか……」
高井は、アンナ王女をまたおんぶすると、玄関から廊下へ出た。
「早くして。――誰かに見られるとまずいわ」
さゆりが急いで玄関の|鍵《かぎ》をかけ、先に走ってエレベーターへと急ぐ。
「地下の駐車場へ下りるのよ。――ゆうべガソリンを入れておいて良かった」
ガタゴト音をたてるエレベーターが下りて行く。
確かに、これで王女を無事に送り届けたとしても、警察は、誘拐犯が怖くなって王女を返したのかもしれない、と考えるだろう。さゆりの言葉に、高井も納得した。
もちろん王女をこのマンションに置いといて、それが見付かったりしたら、誘拐犯扱いされることは必定だ。
となると――道は一つ。この王女を、どこかへ置いてくるしかない。幸い、王女はずっと眠り続けていたし、雨も上っていた。
そのうち、誰かが王女を見付けるだろう。
「――乗せて」
小型車なので、少々窮屈ではあったが、何とか王女を後ろの席に寝かせて、毛布をかけ、二人は息をついた。
「私が運転するわ。助手席に。――どこへ行く?」
「そうだな。現場近くじゃ、検問に引っかかる恐れがある。少し反対の方へ行って、適当な所に……。公園のベンチにでも寝かしとくか」
「分ったわ」
車がマンションの地下から走り出す。
――深夜なので、車もほとんど通らない。
「やれやれ……。とんでもない荷物だ」
と、高井がぼやいている。
さゆりがちょっと笑った。
「何だい?」
「思い出したの。〈ローマの休日〉を」
「〈ローマの休日〉? ああ……。そうか。しかしありゃ事情が違う」
「そうね。『東京の休日』とでもしゃれ込んでるのなら、あなたも特ダネにできたかもしれないけど」
「特ダネか」
チラッと後ろの座席を見て、「あの爆発にあってるんだ。病院で診てもらわなきゃ。ずっと眠り込んでいるのも心配だよ」
「そうね。――こんなに可愛いのに、国での麻薬ゲリラに|狙《ねら》われるなんて」
「P国は、麻薬ルートの途中にあるからね。国王が先頭に立って、麻薬と闘おうと呼びかけてる。日本へ王女を寄こしたのも、国内でのテロを心配してのことなんだ」
「そうだったの……」
と、さゆりが肯いた。「でも、これで警察も警備をもっと厳重にするでしょ」
「そうだな。お付きの人間が二人も死んでる。ひどいもんだ」
と、高井は首を振った。
さゆりの車は、夜の道を走り続けていた。表通りは避けて、できるだけ裏道を選んでいる。
「――どの辺にする?」
「そうだな。あんまり妙な所でも……。何か公園らしいもん、ないか?」
「公園ね……」
「――レストランは?」
「こんな所に、レストランなんかないよ」
と、高井は言って……そっと後ろを振り向いた。
アンナ王女がニッコリ笑って座っている。
「お腹空いちゃって。――何か食べたいんだけど」
と、王女は言った……。
*
「おいしい!」
食事の間に、アンナ王女が口に出したのはこの一言だけだった。
高井とさゆりは、黙って顔を見合わせただけで、何か話そうにも――何しろ問題の当人[#「当人」に傍点]が目の前にいるのでは……。
それにしても、意外なことだ。ともかくお腹が空いてるから何でもいい、というので、仕方なく二十四時間営業のチェーンレストランへ入った。
「こんな所の料理、食べないんじゃないの?」
と、さゆりがそっとつついて言ったのだが、高井としては、こんな時間に開いている店を他に知らなかったのである。
しかし、当の王女は、びっくりするような勢いで、ごく普通の「ハンバーグステーキ」を食べた。
「――おいしかった!」
と、一息。
「良かったですね」
「ええ……。生き返ったみたい」
と、王女はキラキラ目を輝かせて、レストランの中を珍しげに見回した。
「あの……体の方は?」
と、高井は訊いた。
「え?」
「つまり……どこか痛いとか、苦しいとかってことはありませんか」
「苦しいわ。お腹が」
と、王女は笑った。「――こちら、奥さん?」
さゆりがあわてて、
「とんでもない! ただの――友だちです」
「そう……。恋人でもないのですか」
「ただの[#「ただの」に傍点]友だちです」
と、さゆりが強調する。
「それなら良かった」
と、王女はニッコリ笑った。
「良かった、って?」
「この人に……。何て言ったっけ――ほら、そう! 『|一《ひと》|目《め》|惚《ぼ》れ』しちゃったの、私!」
と、王女はウットリとした目で高井を見つめたのである。
*
「――どうすんのよ」
と、さゆりはふくれっつらになっている。
「今さら追い出すわけにはいかないだろ」
と、高井は困り果てた様子で、「しかし――本当に何も憶えてないのかな」
「でしょう。だって……。自分のことが分らないふりをする理由なんてないじゃない」
「うん……。といって、ここにずっと置いとくわけにもいかないしな」
「当り前よ! いやよ、私、刑務所に入れられるの」
と、さゆりは腕組みして、「ま、あなたはうまく行きゃP国の王子様になれるかもね」
「よせやい」
と、高井は顔をしかめた。「君が僕のことを『ただの友だち』だって言うからいけないんだぞ」
「だって、事実でしょ」
「しかし――」
と、言いかけて、「そんなことより……」
バスルームから、シャワーの音と、王女の鼻歌が聞こえてくる。
「あれ、演歌だわ」
「何となく憶えてるのかな。――ともかくもう朝になっちまう。今日は寝よう。明日起きてから考える」
「ここへ泊る気?」
「いいだろ。君も困るだろう、明日になって」
「そうね……」
と、さゆりは自分のマンションを見回して、「どう見たって、宮殿にゃ見えないと思うけど」
と、言った。
アンナ王女がバスローブを着て出て来た。
ほんのりと|頬《ほお》が赤くなって、ドキッとするほど可愛い。――俺に「一目惚れ」? 冗談じゃないよな、と高井は思った。
さゆりが|風《ふ》|呂《ろ》に入る。――高井は、
「あの――君の名前は?」
と、多少砕けた口調で|訊《き》く。
「名前を思い出せないの」
と、アンナ王女は、肩をすくめて、「名前だけでも分ればね……。ね、さゆりさんに迷惑じゃないかしら」
「そんなこと……ないさ、ハハ」
と、無理に笑って、「君も少し、疲れてるみたいだ。早く寝た方がいいよ」
「ええ。――明日は何時に起きるの?」
「昼まで寝てたっていいんだ、記者はね」
と言ってから、しまった、と思う。
しかし、王女は「記者」という言葉にも、全く反応を見せず、
「じゃあ良かったわ」
と、タオルで|濡《ぬ》れた髪を|拭《ふ》き始めた。
何となく黙ってしまうと、高井は湯上りの王女の姿から目をそらした。
「まあ……明日でも、君のことをご家族が捜してるかもしれないからね、少し調べてみよう。なに、きっと君も自分のことを思い出すよ」
と、目をそらしたまま言った。「――さっきはああ言ったけどね、あのさゆりとは……ついこの間まで恋人同士だったんだ。ちょっとした誤解でね。こじれ始めると、なかなか元には戻らなくて。でも、やっぱり僕はさゆりの方が……。向うはどう思っててもね。大切にしたいと思ってるんだ……」
そして、王女の方へ目をやると――もう王女はソファに横になって、眠ってしまっている。
「もう……眠ったの?」
と、そっと|覗《のぞ》き込む。
すると、王女が息をついて寝返りを打った。バスローブの|裾《すそ》が割れて、白い足がむき出しになる。
高井はあわてて目をそらした。
アンナ王女は寝息をたてていたが、高井はとても眠れそうもなかったのである。
3
高井は、マンションに入って行った。
エレベーターのボタンを押すと、ガタゴト音をたてて、下りて来る。ここは細野さゆりの住んでいるマンション。
高井は別にさゆりの夫というわけじゃないのだが、このところさゆりのマンションから勤め先へ通っている。
さゆりと二人で住んでいるというのなら、色っぽい話にもなるかもしれないが、残念ながら「もう一人の住人」が目下の大きな問題[#「問題」に傍点]なのだった。
エレベーターの扉がガラッと開くと――高井は目をパチクリさせた。
「編集長! 何してるんです?」
小太りで、すっかり頭の|禿《は》げ上ったこの男が、高井の働く雑誌の編集長、川口である。
「お前……。帰って来たのか」
川口は、何だか夢でも見ているような目で、高井を眺める。「俺は……急に、原稿の差しかえがあったんだ。それで――」
記者は、四六時中、連絡がとれなくてはならない。高井は仕方なくこのマンションの電話番号を社に残して出かけていたのだ。
「それにしても……。わざわざここまで?」
「うん。近くにいたもんだからな。お前いつか、彼女のマンションだと言って、ここでタクシーを降りたことがあるだろ」
そんなこともあった。高井は肩をすくめて、
「ま、別に構いませんけど、用事の方は――」
と言いかけて、高井は気付いた。
どうして編集長が、こんな目つきで自分を眺めているのか。それを悟ったのである。
「編集長……。会ったんですね」
「あれは――幻じゃなかったのか?」
やれやれ。高井はため息をついた。いつか分るに決っている。そう思ってはいたのだが……。
「ちょっと、その辺でお茶でも」
と、高井が誘うと、
「俺はウィスキーのラッパ飲みでもやりたい」
と、川口は胸を押えた。
*
「じゃ、しゃべっちゃったの?」
と、細野さゆりは言った。「だめね! どうなっても知らないわよ」
「仕方なかったんだ。まともに顔を合わせてるんだぜ。別人だなんて言えやしないよ」
――夜、さゆりが帰って、三人での夕食をすませていた。今、「話題の主」――P国のアンナ王女はお風呂に入っている。
「で、どうしたの、編集長さんは?」
「もう、興奮のあまり今にもぶっ倒れるか、って感じだった。――無理もないけどな。パッとしないサラリーマンだぜ、編集長なんていっても。それが一世一代の大スクープを手にしたんだ」
高井の言葉に、さゆりは、
「ちょっと待ってよ」
と、身を乗り出した。「まさか――王女のこと、記事にするんじゃないでしょうね」
「止めてもむださ」
と、高井は首を振って、「こっちが何を言っても、全然耳に入ってない。『独占手記!』『アンナ王女の自由な日々・グラビア特集!』『私は平凡な幸せがほしい! 王女の叫び!』」
「何、それ?」
「編集長が口走った見出しさ。何言っても聞こえやしないんだよ」
「だからって……。どうするの?」
と、さゆりはチラッと浴室の方へ目をやる。
――アンナ王女が、このさゆりの部屋に同居するようになって、一週間。もちろん世間は王女の行方不明の話でもちきり。
王女はここから一歩も出ないというわけではなかった。食事の用意をしたりするのに、必要なものを一人で買いに出たりしていたのだが、高井もさゆりも昼間はいないのだから、王女を止めるわけにもいかなかったのである。
しかし、近所では、王女を見て気付く人間はまるでいない様子だった。頭から、考えてもいないせいか、それとも服やヘアスタイルが、新聞の写真とまるで違っているせいだろうか。
いずれにしても、初めは迷惑がっていたさゆりも、今は王女にすっかり同情する身となっているのだ。それほど王女の無邪気さは、魅力的であった。
「――いずれ、ここにはいられなくなる」
と、高井は言った。
「そうね」
と、さゆりは|肯《うなず》いた。「話すべきだわ」
「うん。――僕が?」
「当然でしょ。あなたが連れて来たのよ。それに……私、辛くていや」
と、さゆりは少し涙ぐんでいる。
高井は心を動かされた。さゆりのやさしさに、である。
「分った。じゃあ……」
「彼女がお風呂出たら。――私が入ってる間に話してね」
「そうするよ」
しかし、高井の中には、まだいくらか疑う気持が残っている。アンナ王女は本当に記憶を失っているのか? それとも、自分の身分から逃げ出したいばかりに、すべて忘れたふりをしているのか。
アンナ王女が、風呂から上って、タオルで髪を拭きながらやって来た。
「何の話?」
と、笑顔で二人を見て、「お邪魔だった?」
さゆりはちょっと高井を見て、
「じゃ、私、お風呂に――」
と、立ち上った。
*
「――涼しくて気持がいいわ」
と、アンナ王女が夜空を見上げながら大きく息をついた。
「そうだね」
と、高井は並んで歩きながら言った。
こんな口のきき方も、やっと慣れた。何しろ相手は王女である。つい、ていねいな口をききそうになるのだ。
「――何なの、お話って」
と、王女が言った。「やっぱり、私、いない方がいい?」
「いや、そんな――」
と、つい言いかけて、「ただね、いつまでも三人で暮しちゃいられない。そうだろ?」
「ええ」
「つまり、その――君の身許のこともね、色々調べなくちゃいけないし……。その結果しだいじゃ、君も、僕らと一緒にいられないかもしれない」
王女は、聞いているのかどうか、少し足どりを緩めて、夜空へ顔を向けながら、
「自分が誰か分らないって――怖いようでもあるけど、とても楽しみでもあるわ」
「楽しみ?」
「そう。だって『何でもない』人間なら、それから何にでもなれるわけでしょ。親も兄弟も関係ない、まったく白紙の人生でしょ。そんな機会って、めったにないし……」
「そりゃそうだね」
「ねえ、こんな機会が与えられる人って、そんなにいないでしょ。私、むしろ今は自分が誰か、知りたいと思わないの」
そういうわけにはいかないのだ。だって、あなたは……。
二人は、夜道をぶらつくうち、高井の全く見憶えのない道へ入って来ていた。――こんな道、あったっけ?
ふと、薄暗い中に、明るく光るネオンが目を|捉《とら》える。〈名画座〉。懐しい響きだ。
「――あれは何?」
「映画館だよ。特に古い名画をやってる」
「映画? 見たいわ!」
と、目を輝かせて、高井の腕をとる。
「そう……。何やってるのかな」
その名画座の前まで来て、足を止める。
こんなこと……。本当に?
「〈ローマの休日〉ですって。知ってる?」
「うん……。有名な映画だよ」
「見たいわ。――いいでしょ?」
高井は少し迷っていたが、
「よし。入ろう」
と、|肯《うなず》いた。
地下へ階段を下りて行く。
妙な映画館だった。切符を買う所もない。ともかく、重い扉を開けて中へ入ると、客席には他に人の姿はなかった。
席につくと、すぐ暗くなり、映画が始まった。――高井は、これを何度も見ている。
そう……。この映画が、話の代り[#「代り」に傍点]になってくれるかもしれない。そうだろう?
映画を見ながら、高井はチラチラと王女の方へ目をやっていた。王女は一心に画面を見つめている。
――ローマの街へさまよい出たアン王女が、グレゴリー・ペックの新聞記者と知り合う。二人の束の間の触れ合い。
しかし、もちろん「自由の日々」は長く続かない。王女は再び、自分の「地位」へと戻って行く……。
何度見ても、高井は涙を誘われる。しかし、今夜ばかりは、それどころではなかった。
映画が終ると、アンナ王女は、ちょっと指先で目を|拭《ぬぐ》った。泣いたのだろうか。しかし、ほとんどそうとは気付かせないほどだった。
「出ましょう」
と、王女が立ち上る。
名画座を出た二人は、しばらく黙って歩いた。
高井は、マンションへの道に、いつの間にか戻っているのに気付いた。
王女が歩みを止める。――高井は数歩行って、振り向くと、
「どうなさいました」
と、言った。
「時間ね」
と、王女は言った。「馬車がカボチャに戻る時間」
「王女様――」
「何も訊かないで」
と、王女は首を振る。「今、思い出したのか、もとから分っていたのか。自分でも分らないのです」
高井は、深く息をつくと、
「お戻りになりませんと」
「ええ……。さゆりさんにお礼を」
「それに服を着がえられて下さい」
「そうね」
と、王女は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
マンションの見える辺りまで来て、王女がハッと足を止める。黒い大型の車が、マンションの前に停るところだった。
「どうしました?」
車から、男が二人降りてくると、マンションの中へ入って行こうとした。
「キャーッ!」
突然、王女が大声で叫んだ。「殺される! 逃げるのよ!」
二人の男がびっくりして、高井と王女の方を見る。
「走って!」
王女が高井の手をつかんで、夜の道を駆け出した。
4
「何とか、大丈夫そうですね」
高井は、息を弾ませて、後ろを振り返った。
「まいた[#「まいた」に傍点]って言うんでしょ、こういうことを」
と、王女が言って、ちょっと笑う。
「いや……しかし、どうして?」
「私がマンションにいないことを知らせないと、さゆりさんが危かったから」
「危かった?」
「私を殺しに来た人たちです」
高井はゾッとした。
「警察へ。保護してもらいましょう」
王女も、逆らわなかった。
「一番近いのは? 連れて行って下さい」
「分りました。確かこの通りを行くと、警察署です」
高井は、左右に用心しながら、歩き出した。
「――父が来ているんですね」
「ええ、昨日おいでに。喜ばれますよ、ご無事と分ったら」
王女は、何も言わなかった。
五分ほど行くと、赤い灯が見えた。
「あれだ。――どうしましょう?」
「私、一人で行きます」
と、王女は言った。「色々お世話になって」
「いえ……。貴重な経験でした」
「私も同様です」
王女はそう言って、ふと目を伏せると、「あの映画のアン王女が|羨《うらやま》しい。だって――」
「何です?」
王女は不意に高井を抱き寄せると、唇を触れ合わせた。しばし、二人の熱い息が混り合った。
「――さようなら」
王女はそう言うと、警察署へと駆けて行く。高井は、じっとその後ろ姿を見送っていた。
突然、鋭い銃声が夜を貫いた。王女がよろけて|膝《ひざ》をつく。
「やめろ!」
高井は、必死で駆け出すと、王女の上に覆いかぶさった。次の瞬間、肩に焼けつくような痛みが走った。銃声の方があとから聞こえたように思えたのは、気のせいだろうか。
いずれにしても、高井は、血が流れ出しているのを自分でも意識しながら、王女を抱えるようにして、走り出し、
「アンナ王女だ! 早く中へ!」
と、警官に向って叫んでいた。
そして王女が警官に支えられて行くと、急に目の前が暗くなり、高井はそのまま倒れて気を失ったのだ。
*
「――どう?」
ぼんやりした視界から、さゆりの声が聞こえる。
「君か……」
と、高井は|呟《つぶや》いた。「僕は……助かったのか」
「馬鹿ね」
と、さゆりが皮肉るように、でもやさしく、「死ぬようなけがじゃないって。でも、当分は仕事を休める程度のけがよ」
「そうか」
と、高井は言って、「王女は? 彼女[#「彼女」に傍点]はどうした?」
「足にかすっただけ。大丈夫よ、もう」
「良かった!」
「あなたに謝りたいって人が」
「謝る?」
――頭をゆっくりめぐらすと、編集長の川口がベッドの方へやってくる。
「俺のせいなんだ」
「編集長……」
「何とかスクープをものにしたくて、来日した国王の側近に強引に頼み込んで、直接国王に会った」
「国王に? そりゃ|凄《すご》い」
「ところが、だ。二十分としないうちに、殺し屋があのマンションへ向った」
高井は戸惑った。
「どういうことですか?」
「麻薬密輸に、国王も一枚かんでいたんだ」
川口の話に、高井は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「それを――王女も知ってたんですか」
「そうだ。それで王女は日本へ来た。何度も父、国王をいさめたが、むだだったんだ。ところが、王女が事実をぶちまけるんじゃないかと心配して、国王は王女を殺させようとした」
「自分の娘を?」
「ひどい話だよな。しかし、結局王女は全部、記者会見で明らかにした。国王は急いで帰国したが、向うでクーデターがあり、退位させられたよ」
「じゃあ……」
「アンナ王女が帰国して、王位を継ぐということだ」
――川口が出て行った後、高井は、しばし無言で天井を見上げていた。
自分の父を告発すべきかどうか。娘にとって、辛い選択だったのは当然である。姿を消してしまいたくなるのも当り前のことだろう。
それを……。〈ローマの休日〉を見せて、それでお説教したつもりになっていたのか、俺は?
「でも、良かったわ」
と、さゆりがベッドのわきへ寄って来て、「二人とも大したけがじゃなくて」
「でも痛かったぜ」
と、高井は言った。
そこへ、帰ったと思った川口が飛び込んで来ると、
「おい!――高井! 今……今……そこに……」
と、口をパクパクやっている。
「何してるんです?」
と言って――高井は、アンナ王女が入って来るのを見て、目を疑った。
「まあ、意識が戻ったのね」
|杖《つえ》をついて、軽く片足をひきずってはいるが、アンナ王女は元気そうだった。
「またうるさくなります」
と、さゆりが言うと、王女は声を上げて笑った。
「――寝ていて下さい」
と、王女はそばへやって来ると、「あなたにお礼をと思って。私はもう日本を離れます」
「礼なんか……。何も知らずに、私は――」
と、高井が言いかけると、
「いいえ。あなた方と過した日々が、勇気を与えてくれたのです」
と、王女は言った。「たぶん、もう当分は日本へ来られないでしょう」
「お元気で」
と、高井は言った。
「ありがとう。もし――私が生きのびられたら、また会いましょう」
王女の言葉は、大げさでも何でもない。王女は戦場へ帰って行くのだ、と高井は思った。
本物の戦場へ出るよりも、ずっとずっと勇気の必要な戦いに臨むのだ。
「取材に行っても構いませんか」
高井の言葉に、王女は|嬉《うれ》しそうに笑った。
「どうぞ、ご夫婦で。ねえ、さゆりさん」
「はあ……」
さゆりが真赤になっている。
「もう時間だわ。――では」
アンナ王女は、軽く高井の手を握り、病室を出て行った……。
「――おい、高井」
と、川口が言った。「本当に取材に行くのか?」
「分ってますよ。とてもそんな金は出せんぞ、でしょ。ちゃんと休暇をとって行きますよ」
「ハネムーンにね」
と、さゆりが、高井の額にチュッとキスした。
「そりゃいい!」
と、川口が笑顔になって、「じゃ、そのついでに[#「ついでに」に傍点]、取材して来てくれ。休暇届には、喜んでハンコを押してやる」
「当り前のことで恩を着せないで下さいよ」
と、高井は苦笑いした。
川口が帰って行くと、
「――大変ね、王女様っていうのも」
と、さゆりが言った。
「ああ。雑誌記者で良かった」
高井は、さゆりの手を握って、言った。「ローマじゃなくても休日はあるしな」
本書は一九九三年十月、小社の単行本として刊行されました。
ふしぎな|名《めい》|画《が》|座《ざ》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『ふしぎな名画座』平成10年3月25日初版発行