角川文庫
さびしがり屋の死体
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
さびしがり屋の死体
長き眠りの果てに
死が二人を分つまで
できごと
三人家族のための殺人学
さびしがり屋の死体
1
一人|暮《ぐら》しの気ままなところで、|風《ふ》|呂《ろ》へ入って、さて|寝《ね》ようかと、|三《み》|神《かみ》|衣《きぬ》|子《こ》が|大《おお》|欠伸《あくび》をしたのはもう十二時近く。電話が鳴ったのはその時だった。
「こんな時間に……」
|間《ま》|違《ちが》いじゃないのかしら、と|戸《と》|惑《まど》いつつ受話器を取った衣子は、
「はい。三神です」
とぶっきら|棒《ぼう》な声を出した。
「もしもし」
か細い声が伝わって来た。「――衣子さん?」
「ええ。私です」
「ごめんなさい、こんな時間に」
「あ――なんだ、マリなの? いやにおしとやかな声出すんだもの、|誰《だれ》かと思っちゃった」
「ごめん……」
「いいのよ、まだ起きてたんだから。何なの?」
「あのね、|彼《かれ》……死んだの」
衣子は、その言葉を消化するまで、時間が必要だった。
「死んだって……|武《たけ》|夫《お》さんが?」
「そうなの」
「まさか!……どうしたのよ?」
「車にね、はねられて」
「そんな……」
「ちょうど病院の前だったんで、すぐ手当してもらったんだけど……ついさっき……」
「マリ、今どこにいるの? すぐ行くわよ! 待ってて!」
「いいの。いいのよ、衣子さん。私、ただ、あなたにだけはお別れを言っときたくて」
「マリ!」
「私、いつも言ってたでしょ。あの人のいない生活なんて考えられないって。――本当なのよ。あの人が死んだから、私も、もう死んでるの。私、|幽《ゆう》|霊《れい》よ」
マリの|口調《くちょう》が|冗談《じょうだん》めいてさえいるのが、|却《かえ》ってぞっとするほどの|真《しん》|剣《けん》さを感じさせた。
「マリ、落ち着いてちょうだい。今どこなの? アパート? ね、待ってて」
「あら、私、落ち着いてるわ。|大丈夫《だいじょうぶ》」
「マリ、あなたがどうしても死ぬっていうのなら、私、止めないわ。でも、その前に一度だけ顔を見せて。お願いよ! 引き止めないって|約《やく》|束《そく》するから。マリ!」
「早く行かないと、あの人に追いつけない[#「追いつけない」に傍点]わ。――さよなら、衣子さん」
「待って!」
「今、|踏《ふみ》|切《きり》のそばなの。電車が来たわ。じゃあ……」
「切らないで! マリ!」
電話は切れた。
「もしもし! マリ!」
受話器を|握《にぎ》りしめたまま、衣子は|床《ゆか》へガックリと|膝《ひざ》を落とした。
「マリ……」
「先生は幽霊って信じますか?」
三神衣子の言葉に、|森《もり》|川《かわ》は顔を上げた。
「どうして?」
「今、会って来たんです」
「じゃあ、信じる|他《ほか》はなさそうだね」
例によって、本気とも冗談ともとれる平板な口調である。
衣子の勤める〈森川クリニック〉の所長、森川|広《ひろ》|紀《き》はもう四十|歳《さい》にはなっているはずだが、最初に彼を見て三十五歳以上と思う者はあまりいない。一メートル八十センチ近い長身、すらりと長い足、「中年」というイメージにほど遠い、よく引き|締《しま》った体。しかし、何よりも森川を若く見せているのは、よく|陽《ひ》|焼《や》けした、しわのない|艶《つや》やかな顔だろう。ハンサムというには、やや骨ばった|面《おも》|立《だ》ちだが、男性的な太い|眉《まゆ》の下の細い眼にはいつも若々しいきらめきがあって、それが森川の顔の中でも強く若さを|印象《いんしょう》付けている。いつもキチンと|紺《こん》かグレーの三つ|揃《ぞろ》いに身を包んで、ノーマン・ハートネルのネクタイがゆがんでいたことは一度もない。
「先生は|憶《おぼ》えていらっしゃいます? 一か月前に私の友達が自殺して……」
「もちろんさ。君が|珍《めずら》しく無断で|休暇《きゅうか》を取った日だ。よほど一一〇番へ知らせようかと思った」
「あの時にも、ちょっとお話ししたかと思いますが、|彼《かの》|女《じょ》、ある商事会社に勤めている男の人と|同《どう》|棲《せい》して、自分もスナックで働いていました。お|互《たが》い、両親の|猛《もう》反対を|押《お》し切って|一《いっ》|緒《しょ》になっただけに、本当に、さわれば|火傷《やけど》しそうなほどの仲だったんです。|日《ひ》|頃《ごろ》から彼女、私に言ってました。『もし彼が死ぬような事があったら、私も死ぬわ。彼のいない人生なんて、私には生きる価値がないもの』って。そして……」
「その彼が事故で死に、彼女は言葉通り後を追った」
「そうです」
「で、君はいま彼女の幽霊に会ったってわけだね?」
「いいえ、彼[#「彼」に傍点]の方です。――|岩《いわ》|本《もと》武夫といって、私も何度か会ったことがあるので、憶えてるんです」
「どこで会ったの?」
「このビルの前で」
「他人の|空《そら》|似《に》だろう」
「彼の方も私に気付いたんです。お互いにびっくりして顔を見てたんですから確かですわ」
「で、幽霊は何と言った?」
「何も……。というより、私、このビルへ|駆《か》け|込《こ》んでしまったんです。|慌《あわ》ててしまって」
「君らしくもない」
「でもショックだったんですもの」
「それはそうだろうね」
「どう考えればいいんでしょう? 私、もう何が何だか……」
その時、|部《へ》|屋《や》のドアが急に開いた。
「勝手に入られては困ります!」
とドアの方へ|振《ふ》り向いた衣子は思わずアッと声を上げた。「……武夫さん!」
「まあ、入ってドアを閉めたまえ」
森川が言った。「ここには色々な客が来るが、幽霊の客は初めてだ」
入って来たのは、まだ二十五、六の若い男だった。上等な|仕《し》|立《たて》の背広を着込んでいたが、どうにも身に付いていない。
「やあ、衣子さん」
と幽霊[#「幽霊」に傍点]が言った。
「武夫さん! あなた……」
衣子は|呆《あっ》|気《け》に取られていた。
「ええと……森川先生ですね」
岩本武夫はおずおずと、言った。「急に飛び込んで来てしまって申し訳ありません。今このビルの前で衣子さんに会って――びっくりしている間に、衣子さんがビルの中へ駆け込んでしまったものですから、こうして追って来たわけなんです。仕事のお|邪《じゃ》|魔《ま》をするつもりでは……」
「いやいや、構わないよ。最初の客が来るまでに二十分以上ある。まあ|掛《か》けなさい。それとも|僕《ぼく》が|外《はず》してもいいが……」
「いいえ。とんでもない!――衣子さん、さぞびっくりしたでしょうね」
「ええ。だって……てっきり|亡《な》くなったと思ってたもの」
「そうなんです。――いや、本当に運の悪い|出《で》|来《き》|事《ごと》でした。車にはねられたのが、たまたま病院の前だったものですから、すぐそこへかつぎ込まれたんですが、小さな個人病院で、|充分《じゅうぶん》な|治療《ちりょう》のできない内に、僕は|危《き》|篤《とく》状態になり、一時仮死状態に|陥《おちい》ったそうです。それでそこの医者に僕が死んだと言われて……」
「マリさんがそれで……」
「ええ。本当に運の悪い|奴《やつ》です!――マリはそれを聞くと、そのままフラリと病院を出てしまったんです。僕が仮死状態から回復したのは、そのすぐ後でした……」
「マリ! |可哀《かわい》そうに!」
衣子は必死に|涙《なみだ》をこらえた。ここが職場だという意識がなかったら泣き|崩《くず》れていたに違いない。
「せっかく何もかも|巧《うま》く行くところだったんですが……」
武夫がため息をつく。「あの晩、母が来ていたんです」
「まあ。でもあなた方のことを……」
「やっと僕の両親は認めてもいいと言ってくれたんです。それを伝えにやって来た母を駅まで送って行く|途中《とちゅう》の事故でした。――あんなにマリを|憎《にく》んでいた母が初めて打ち解けて|冗談《じょうだん》を言って笑ってたんです。僕らにとって最高の夜だったのに……それがあんなことになろうなんて……」
「幸福の絶頂から絶望へ、か」
それまで|黙《だま》っていた森川が、|独《ひと》り|言《ごと》のように言った。「余計にショックが大きかったんだろうね」
「ええ、そうだと思います」
「何てことかしら!……マリ……可哀そうな、マリ!」
こらえ切れなくなって、衣子はすすり泣いた。
「――大丈夫かね?」
森川は、岩本武夫が出て行くと、席を立って、ソファに力なく|座《すわ》り込んでいる衣子の|肩《かた》を|叩《たた》いた。
「は、はい……すみません」
「もうすぐ最初の約束の時間だ」
「はい! すぐに|支《し》|度《たく》します」
ソファから立ち上った衣子は、もう事務に|徹《てっ》した|秘《ひ》|書《しょ》の顔に|戻《もど》っていた。
〈森川クリニック〉は個人営業の心理カウンセラーである。|欧《おう》|米《べい》にはすでに多い、エリートや中高年の婦人たちの心理学的な相談を受けるのが仕事だ。といって|鎮《ちん》|静《せい》|剤《ざい》を与えるとか|抗《こう》|鬱《うつ》剤を投与するということはやらない。医学的な治療が必要と判断した場合は、自分の親友がいる大学病院の神経科を|紹介《しょうかい》してそちらへ回す。森川の仕事は、|訪《おとず》れる人々の|悩《なや》みや相談を聞き、助言を与えることなのだ。
だから、クリニックといっても、デスクと小さなキャビネットがある他は、ただ少し広い応接間といった印象の、この部屋と、三神衣子が受付に座っている|控《ひか》えの小部屋しかない。当然、森川の|雇《やと》っている事務員は衣子一人である。しかし彼女は|有《ゆう》|能《のう》な秘書であり、森川の|右《みぎ》|腕《うで》ともなっていた。
衣子は二十五歳。この事務所に勤めて三年になる。大学を出て、やっと見つけた就職先への採用が|間《ま》|際《ぎわ》になって取り消され、アパートの一人住いでは|浪《ろう》|人《にん》暮しというわけにもいかず、職|捜《さが》しに歩いていて|偶《ぐう》|然《ぜん》飛び込んだのが、この事務所だった。
「ここの仕事はね、要するに|愚《ぐ》|痴《ち》の聞き役、新聞の|身《みの》|上《うえ》相談ってところさ」
森川は皮肉っぽく笑って衣子にそう言ったものだ。
見たところも衣子は秘書タイプである。あまり|大《おお》|柄《がら》ではないが、スタイルが良く、|年《ねん》|齢《れい》の割に地味なスーツがよく似合った。短く切った|髪《かみ》をちょっとボーイッシュな感じにして、|端《たん》|正《せい》な顔立ちと対照させていた。やや冷たい感じのする美人であるが、目下のところボーイフレンドもいない。
午前十時。待ちかねたという様子で、最初の客がやって来た。
「おはようございます、|奥《おく》|様《さま》」
衣子がにこやかに|挨《あい》|拶《さつ》する。せかせかと入って来たのは|寺《てら》|田《だ》という会社社長夫人で、ここの常連[#「常連」に傍点]の一人だ。
「おはよう三神さん」
落ち着かない様子で言うと、「今日で私がここへ来るのも最後よ。お世話になったわね」
「あら、奥様、どうなさったんですの?」
「私、自殺する決心をしたの!」
「まあ、そうですか」
これぐらいで|驚《おどろ》いていては、この仕事は勤まらないのである。「ともかく先生とお話しなさって下さい」
「ええ。でもね、さよならを言うだけ。本当よ。いくら森川先生でも、もう私の決心を|覆《くつがえ》すことはできないわ」
衣子はインタホンのボタンを押して、
「寺田様がおみえです」
「お通しして」
と森川の声が答える。このインタホンは、常にスイッチを入れた状態になっていて、受付での話は、実はちゃんと森川に聞こえているのだ。
衣子は寺田夫人を通すと、コーヒーを|淹《い》れに、カーテンの間仕切りの後へ行った。
「ええと、あの奥さんはミルクだけだったわね……」
これも仕事の一つである。――「自殺する」と宣言してあの部屋へ入って行く女性は珍しくないが、出て来た時には決ってケロリとして、自殺なんて、聞いただけで|身《み》|震《ぶる》いがすると言いたげな顔をしているのだ。
しかし、マリの自殺のことを考えると、今日ばかりは笑ってすませたくない気持だった。自殺する、自殺すると気楽に口にする、あの|有《ゆう》|閑《かん》マダムたちが腹立たしくてならなかった。
衣子とマリは、同じ|郷里《きょうり》の幼ななじみだった。衣子は二つ年下のマリを妹のように可愛がっていたが、マリの一家は、マリが中学生の時、東京へ移り、二人が再会したのは衣子が大学入学のために上京して来た時であった。――以来、衣子はマリの力になって来た。マリが家を出て|同《どう》|棲《せい》した時も、それでマリが幸せなら、と力づけてやったものだ。それがあんなことになろうとは……。
コーヒーを持って行くと、寺田夫人が立て板に水といった口調で|嫁《よめ》の悪口を言い、冷たい|息子《むすこ》の仕打ちを|嘆《なげ》いていた。いつもの話である。森川の方は口をはさまずに――はさもうにもはさむ余地もないのだが――ただ|肯《うなず》きながら聞いている。
衣子も最初はずいぶん楽な商売だと思ったが、その内、わがままな|大人《おとな》を相手にするのは、|凶悪犯《きょうあくはん》を相手にするより難しいのじゃないかとさえ思うようになった。
さよならを言うだけだったはずの寺田夫人の話は、優に一時間を|越《こ》え、イライラを洗い落としたサッパリした顔つきで夫人が出て来たのは十一時半近かった。夫人を送りに出て来た森川が、
「三神君、来週の後半に寺田さんの約束を取ってあげてくれ」
「はい。……金曜日の午後一時はいかがでしょう?」
「ええ、|結《けっ》|構《こう》よ。本当に、先生の所へ来ると、私、生き返ったような気持になるの」
自殺宣言など、とっくにお忘れらしい。
「じゃ来週また」
――衣子は寺田夫人が出て行くと肩をすくめて、
「気楽なもんですね」
「この一時間半で僕の言ったセリフは、『いらっしゃい』と『なるほど』と『ではまた』だけだったよ。――これじゃ|駆《か》け出しの|役《やく》|者《しゃ》|並《な》みだな」
「でもそれで人を生き返らすなんて、キリスト顔負け」
「|三《さん》|文《もん》役者からキリストとは、また|株《かぶ》も急|上昇《じょうしょう》だね。――次の約束は一時だね?」
「はい。|神《かみ》|山《やま》様です」
「あのエリート部長か。あの人の心の|耐久《たいきゅう》力は小学生並みだ。東大出のエリートなんて、|空《むな》しいもんだね」
「先生はどの大学を出られたんですか?」
「言わなかったかな?」
「ええ、|伺《うかが》ったことありません」
「オックスフォードさ」
「そうなんですか!」
「すぐ信じるところが可愛いね。昼食に行こうか?」
「大丈夫かい?」
「何がですか?」
衣子はコーヒーカップを置いた。
「大分ピリピリしてたようだが」
衣子は目を|伏《ふ》せた。
「――君の気持は分るよ」
森川が言った。「あの男、岩本といったか、彼に腹を立ててるね。恋人は、彼が死んだと思って後を追ったのに、彼は彼女の後を追わない。それが不満なんだろう」
「いえ……」
「人の死を望むのは許されないと分っていながら、彼が自殺してくれれば、と思ってる。違うかね?」
衣子は|肯《うなず》いた。
「ええ、その通りです。彼女があんまり可哀そうな気がして……」
衣子は気を取り直して|微《ほほ》|笑《え》むと、「でも大丈夫です。すぐ忘れます」
「よし、それでこそ君だ」
そう言ってから、森川は独り言のように続けた。
「しかしあの男、いやにいい背広を着ていたね」
2
幽霊[#「幽霊」に傍点]との出会いから一週間余りたった午後である。
「あら|堀《ほり》|江《え》さん」
「お|邪《じゃ》|魔《ま》しますよ」
「先生にご用ですね?」
衣子の質問は、いささか|奇妙《きみょう》なものに思えるかもしれない。ここを訪れて来るのは森川と会うために決っているからだ。しかし、この二十九歳の青年、堀江|準一《じゅんいち》に関してだけは、必ずしもそうとは限らないのである。
「ええ、先生に、もし時間があれば。今、|患《かん》|者《じゃ》さんがいるんですか?」
「いいえ、ちょうど約束の|空《あ》いてる時間なんですの。それから、堀江さん、当クリニックでは〈患者〉という言葉は使っておりません。皆さん、〈お客様〉です。お忘れなく」
「ああ、そうでしたね。失礼しました」
ドアが開いて森川が顔を出した。
「やあ堀江君。入りたまえ」
「どうも|突《とつ》|然《ぜん》お邪魔して……」
「|構《かま》わんよ。三神君、彼にコーヒーを」
「はい。堀江さんは紅茶専門でしたね」
「そうです。ミルク少し。すみません」
衣子が紅茶を三つ|載《の》せた|盆《ぼん》を手に部屋へ入って行くと、森川と堀江が当たりさわりのない|近況《きんきょう》報告を終えたところだった。
「――さて、堀江君、今日はここへ個人としてやって来たのかね、それとも|刑《けい》|事《じ》としてかね」
それから|傍《そば》の席に|腰《こし》をおろした衣子の方をチラリと見て、「でなければ、僕の美しい秘書にデートの申し込みをするために来たのかい?」
堀江はちょっと照れくさそうに笑って、
「衣子さんには振られっ放しでしてね。少し傷の回復するのを待ってるんです。いや、実は、今日は刑事としてやって来たんですよ」
堀江は背広のポケットから手帳を取り出すと、「ええと、先生は|船《ふな》|山《やま》|恵《けい》|子《こ》という女性をご存知ですか?」
「聞いたことがないね」
「衣子さんはどうです? ここの客にいませんか?」
「その質問にはお答えしかねますわ」
「あ、そうか。職業上の秘密ってやつですね。でもね、彼女の場合は大丈夫です。殺されたんですよ」
「なるほどね。しかし実際、その名はここの客にはないよ。ただし、ここに来る人々は必ずしも本名を使っているとは限らない」
「なるほど。じゃこの写真を見て下さい。あまり気持のいいもんじゃありませんがね」
堀江が取り出した写真を森川と衣子は|覗《のぞ》き|込《こ》んだ。――|床《ゆか》に|倒《たお》れた女は三十歳前後だろうか、白眼をむいて口を開いた死顔は、どうにもいい顔とは言い|難《がた》かった。首には電気のコードが巻きついて食い込んでいる。
「|見《み》|憶《おぼ》えのない顔だね」
森川は首を振った。「三神君、どうだね?」
「私も会った憶えはありません」
「堀江君、なぜわれわれがこの女性のことを知っていると思ったんだね?」
「死体の下に小さな紙片が見つかりましてね、そこにここの名前と電話番号がメモしてあったんですよ」
「ふむ……。するとこれからここに来ようという気だったのかな。大事な客を一人なくしたのかもしれん。メモは|被《ひ》|害《がい》者の|筆《ひっ》|跡《せき》に|間《ま》|違《ちが》いないのかね?」
「それが分らないんです。|鉛《えん》|筆《ぴつ》の走り書きでしてね、歩きながらにでも書いたらしくて、ひどい字なんです。ちょっと|誰《だれ》の字とは断定できないんですよ」
森川は写真を|眺《なが》めていたが、
「堀江君、被害者のそばに落ちているのは|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》の|帽《ぼう》|子《し》のように見えるが……」
「その通りです」
「看護婦だったのか?」
「それが妙でしてね。看護婦なんかじゃありません。スナックで働いてたんです。どうしてそんな物があったのか……」
「|白《はく》|衣《い》はなかったんだね?」
「ありません」
「犯人が看護婦ってこともあるまい。現場は病院じゃないんだろう?」
「自分のアパートです」
「発見したのは?」
「アパートの|管《かん》|理《り》人です。|今朝《けさ》九時|頃《ごろ》に家賃を取りに来てみるとドアの|鍵《かぎ》が開いてて、中へ入るとこの有様だったというわけで……。死亡推定時刻はおよそ真夜中、十二時前後だろうということです」
「ふむ。――|容《よう》|疑《ぎ》者らしい者は?」
「今の所は全く白紙です。まあ男関係なんかを調べれば何か出て来るでしょう。いや、お|邪《じゃ》|魔《ま》しました。ここのメモがあったので何かご存知かと思って」
「いや構わんよ。時間はあるから現場を見せてもらってもいいが」
「そうしていただけますか」
堀江はしめたといった顔で、「あまり先生好みの事件じゃないかなと思ったんですが」
「場所はどこだね?」
「|小《こ》|金《がね》|井《い》市です。〈|陽《よう》|光《こう》アパート〉というんですが、てんで|陽《ひ》の当らない所でね」
「陽光アパート?」
と衣子が声を上げた。
「ご存知ですか?」
「先生、この間の――ほら、自殺したマリと、武夫さんのいたアパートと同じ名ですわ」
「それはそれは……」
森川は何やら考え込みながら、「よし、やはり行ってみた方がよさそうだ」
森川のフォルクスワーゲンで三人は現場へ向った。途中、衣子はマリと武夫の不幸な出来事を堀江に話して聞かせた。
「そうですか……。そんな|恋《こい》|人《びと》たちが現代の世の中にも生きてるんですねえ」
「堀江さんなら、どうなさる? 恋人が死んだら」
「そうですね……。相手が衣子さんなら後を追いますよ」
「|巧《うま》く|逃《に》げたわね」
と衣子は笑った。
――森川が、どういう事情からなのか、|時《とき》|折《おり》警察から助言を求められて犯罪|捜《そう》|査《さ》に乗り出すことがあると衣子が知ったのは、勤めて三か月ほどたってからだったが、最初、刑事たちがゾロゾロと事務所へ入って来た時には、てっきり森川が、ゆすりたかりでもやったのかと思って|仰天《ぎょうてん》したものだ。しかし警察でも森川は「先生」と呼ばれて、かなりの尊敬をかち得ていると知って、改めてびっくりしてしまった。単に心理学者として、人の心理に通じているというだけでなく、天性の観察力と推理力に|恵《めぐ》まれているようであった。
「あそこです」
「やっぱりあのアパートだわ。私、以前に来た事があるんです」
衣子が言った。
車を|停《と》めると、アパートの前に立っていた警官がやって来た。
「ここへ停めないで下さい!」
と無愛想に言った所へ、堀江が車から出て来たので|慌《あわ》てて敬礼する。二人は堀江の後に続いてアパートへ入って行った。
「現場は二階の二〇六号室です」
ありふれたモルタル二階建のアパート。もういい加減古ぼけた感じである。|狭《せま》|苦《くる》しい階段を上りながら、森川が衣子へ、
「三神君、君の友達はどの|部《へ》|屋《や》に住んでたんだね?」
「彼女たちは一階でした。一〇五号室です」
ゴミバケツの並んだ|廊《ろう》|下《か》の両側にドアが三つずつ。二〇六号室は一番|奥《おく》の左側の部屋であった。廊下は行き止まりではなく、|突《つ》き当りのもう一つのドアから|非常《ひじょう》階段へ出られるようになっている。|裸《はだか》電球が一つぶら下がっているだけの、|薄《うす》|暗《ぐら》い寒々とした廊下に、制服の警官が手持ちぶさたに立っていた。
「中へどうぞ」
と堀江がドアを開ける。
部屋は衣子の|記《き》|憶《おく》にある、マリたちの部屋と全く同じ間取りだった。六|畳《じょう》と三畳の二間、狭い台所。トイレはあるが|風《ふ》|呂《ろ》はない。マリたちの部屋には、それでも「|新《しん》|婚《こん》」家庭の暖かさがあったが、ここにはただ|殺《さつ》|伐《ばつ》としたわびしさがあるだけだった。六畳間の|畳《たたみ》に、|白《はく》|墨《ぼく》で書かれた人の形が|妙《みょう》に|違《い》|和《わ》感もなく、似合って見える。
「あまり部屋を|飾《かざ》るという|趣《しゅ》|味《み》のない女性だったようだな」
森川は押入れやタンスの中を適当に|覗《のぞ》いていたが、やがて|肩《かた》をすくめて、「|暮《くら》しぶりはどうだったんだね?」
「ケチケチやってたようですね。|預《よ》|金《きん》通帳には百万以上の残高がありましたが、|普《ふ》|段《だん》はいつも同じ服ばかり着ていて、およそ|洒《しゃ》|落《れ》っ気とは|縁《えん》のない女だったようです」
「家賃をため込んでいなかったかね?」
「ええ、いつも三か月|遅《おく》れだったとか、管理人がこぼしてましたが。どうしてご存知なんです?」
「部屋の中がいやに片付いてると思わないかね? 押入れの中に電気製品なんかが全部しまい込んであるんだよ。|掃《そう》|除《じ》機ぐらいはまだしも、電気ポットやオーブントースターまでしまってある。これは管理人が家賃の|督《とく》|促《そく》に来た時に、目に|触《ふ》れないように|隠《かく》してあるんだよ」
「まあ|驚《おどろ》いた」
と衣子が|呆《あき》れたように言った。「お金がないように見せてたんですね」
「そうでした、思い出しましたよ。彼女はたまった家賃を近々全部|払《はら》ってくれるはずだったと管理人がこぼしてましたよ」
森川はちょっと目を見開いて、
「全部? これはこれは……」
「冬のボーナスには、ちょっと早いですわね」
「何か金の入るあてでもあったのかな? スナックの|同僚《どうりょう》にでも当ってみたまえ」
「分りました」
「被害者の預金通帳だが、入金は一定額かね? ふつりあいに多い入金は?」
「それはないようです。せいぜい十万どまりでしたよ。先生、|恐喝《きょうかつ》をお考えなんですね?」
「それも一つの可能性だというだけさ。――さて、見る物も大してなさそうだな」
森川は部屋を出ながら、「君の友達の彼はまだここにいるのかね?」
「さあ、どうかしら。行ってみますか?」
「あのメモのことも何か知っているかもしれんからね」
一〇五号室の|表札《ひょうさつ》は〈岩本武夫〉となっていた。
「まだいるようだね」
「前はマリの名前も書いてあったのに……」
と衣子が|非《ひ》|難《なん》がましい|口調《くちょう》で言った。「冷たいものですね、男の人って」
「おやおや、|怖《こわ》いね」
森川がちょっと皮肉っぽく|微《ほほ》|笑《え》むと、ブザーを押した。少し|間《ま》を置いて、
「どなた?」
と声があった。森川が衣子へ|肯《うなず》いて見せる。
「――私、三神衣子です」
「あ――衣子さん。ちょっと待って下さい!」
ドアの向うで、何やら話し声らしいものが聞こえた。
「お客らしいね」
森川が言った。「ちょっと|慌《あわ》ててる様子だな」
たっぷり三分近く待たされて、やっとドアが開いた。武夫は少々息を切らしている。
「や、やあ、衣子さん。あ、森川先生も」
「こちらは刑事で堀江君だ」
「刑事?」
ちょっとギクリとした様子。「ああ、二階の女が殺された件ですね」
「ええ。そのことでちょっと|伺《うかが》いたいの。お邪魔していいかしら?」
「あ――その、ちょっと、今、来客中で」
と、どぎまぎしている後ろから、
「私なら構わないわよ」
と女の声がした。
|一瞬《いっしゅん》、|当《とう》|惑《わく》気味に立ちすくんだ一同の前へ、背の高い、若い女が現れた。|気位《きぐらい》の高い女――おそらくは金持の|令嬢《れいじょう》というところだろう。美人といってもいい顔立ちではあったが、|高《こう》|慢《まん》さが表情に出て、およそ好感を与えるとは言い|難《がた》い。
「私、先に行ってるわよ」
彼女は武夫へ向って、「話が終ったら来てちょうだい。あんまり待たせないでね」
と言って、そのままさっさと廊下を行ってしまった。
「――あ、あの、どうぞ」
やっとの思いで、武夫が|笑《え》|顔《がお》を作った。
「――するとこのメモは君の字?」
「ええそうです」
と武夫は|鉛《えん》|筆《ぴつ》書きのメモを見て肯いた。
「船山さんが少しノイローゼ気味だってこぼしてたんで、ちょっと森川先生のことを話したんです。すると、ぜひ行ってみたいから、電話を教えてくれと言われて。――でも、|僕《ぼく》だって知りませんからね、仕方なく電話帳で|捜《さが》して、彼女にこのメモを|渡《わた》してやったんですよ」
「それはいつのことだね?」
「ええと……一昨日だったと思います」
堀江刑事が代わって、
「殺された船山恵子さんと、どの程度のお付合でしたか?」
「別に……。もちろん顔を合わせれば|挨《あい》|拶《さつ》ぐらいはしましたが」
「彼女の友人などについては――」
「それは分りませんね。まあ、女同士ってことで、マリは時々話し込んだりしてたようですが」
と言って、武夫は、固い表情のまま口もきかない衣子の方をチラリと見やった。
それ以上、特に得る所もなく、森川たちは|腰《こし》を上げたが、衣子は|玄《げん》|関《かん》で振り返ると、
「武夫さん、さっきの女性はどなた?」
と冷たい口調で|訊《き》いた。
「ええ、あの人は……|増《ます》|村《むら》|良《よし》|子《こ》といって、ウチの専務のお嬢さんなんです」
「そうなの」
「でも、別にどうって訳じゃないんですよ。ただちょっと用があって……」
「お|邪《じゃ》|魔《ま》しました」
武夫の言葉を断ち切るように、衣子はさっさと玄関を出た。
「やれやれ、あの二人、ちょうど|濡《ぬ》れ場の最中だったようですね」
アパートを出ながら堀江が言うと、森川が、
「シッ!」
と|鋭《するど》くたしなめるように首を振った。慌てて口をつぐんだ堀江を、表情をこわばらせた衣子が追い越して、そのまま車の方へは|戻《もど》らずに、どんどん歩いて行ってしまった。
「ショックでしょうねえ、衣子さんには」
と堀江は衣子を見送って、「いいんですか、一人にしておいて」
「そっとしておくんだ、今はね」
森川は言った。「さて、僕は事務所へ戻るよ。客との|約《やく》|束《そく》の時間なんでね」
事務所へ森川が戻ると、もう衣子はいつに変らぬ様子で受付に|座《すわ》っていた。
「あら、先生」
「何だ、戻っていたのか」
「|遅《おそ》かったんですね」
「ちょっと用事で寄り道していたのでね」
「|明石《あかし》さんから三十分ほど|遅《おく》れるとご|連《れん》|絡《らく》がありました」
「そうか。ちょうどよかった」
「あの、先生――」
と衣子が、部屋へ入ろうとする森川を呼び止めた。「すみませんでした。私、ちょっと取り乱して……」
「なに、僕ならあいつに一発お|見《み》|舞《まい》してるところさ」
と森川はニヤリとして、「ところで、久しぶりに夕食でも|一《いっ》|緒《しょ》にどうだね?」
「でも、よろしいんですか?」
「構わないとも」
「じゃ、お言葉に|甘《あま》えて」
――森川は|独《どく》|身《しん》である。いや、少なくとも彼自身はそう言っている。衣子は、彼が独身なのは、多分に彼自身があまりにさめて[#「さめて」に傍点]いて、自分の生活の|殻《から》を|壊《こわ》されることを|怖《おそ》れているせいだろうと思っていた。
「――違いますか?」
|北欧調《ほくおうちょう》の、木の|香《かお》りのするレストランで、夕食を終えると、衣子は自分の考えを口に出して|訊《き》いてみた。
「そうだね……。君の言う通りだとすると、僕はまだ小児的|傾《けい》|向《こう》を|脱《だっ》し切れていないことになる」
「あら、私ったら、心理学の先生に、とんでもないこと言っちゃったわ」
森川は笑って、
「いや、本人[#「本人」に傍点]のことはどんな大心理学者も分らないもんでね」
「でも――」
と言いかけて、「いいんですわ。先生が独身でいる間は、私も希望が持てますもの」
「そんなことを言って、明日あたり、『結婚するので|辞《や》めます』なんて言い出すんじゃないのかい」
「ひどいわ、先生!」
笑いながら、衣子の胸がチクリと痛む。本気で|惚《ほ》れるとか、結婚したいとかいうのではないが、彼に心|魅《ひ》かれていることだけは確かだった。気に止めるなという方が、無理だろう。
「――さて、そろそろ帰る時間だろ」
「私は|独身《ひとり》ですから」
「私も[#「私も」に傍点]と言うべきだぞ」
森川はニヤリとした。「明日の仕事に|差《さ》し|支《つか》えると困る」
「まあ、管理者的な発想ですね!」
笑いながら、衣子は席を立った。
レストランから出ると、底冷えのする寒気がコートの外からしみ込んで来るようだった。――そろそろ十時を過ぎている。
「車で送ろう。|途中《とちゅう》で降ろすよ」
「はい」
「|駐車《ちゅうしゃ》場はあっちだ」
横断歩道ではなかったが、交通量も少ないので、二人は足早に道路を渡ろうとした。突然、ヘッドライトが二人を照らし出した。
「危ない!」
森川が衣子を|抱《だ》きかかえるようにして身を投げ出した。二人をすれすれにかすめた車は、そのままスピードを上げて、たちまち|闇《やみ》の中へ消えてしまった。
「――|大丈夫《だいじょうぶ》かい?」
森川が起き上って息をついた。
「ええ……。何ともありません」
衣子はようやく立ち上ると、服の|埃《ほこり》を|払《はら》った。「今の車……まるで私たちを|狙《ねら》ってたみたい」
「そうだ。僕らが店を出た時には向うの方に|停《とま》っていたよ」
「まあ! じゃ本当に――」
「僕らをひこうとしたらしいね」
森川は|肩《かた》をすくめて、「僕らも|暗《あん》|殺《さつ》の対象になるほど重要人物になったわけだ」
「先生ったら、|呑《のん》|気《き》な事おっしゃって!」
衣子が森川をにらんだ。
「どうかな、僕は来日中のどこかの|大統領《だいとうりょう》に似ていないかね」
と森川は|真《ま》|面《じ》|目《め》くさった顔で言った。
3
「もしもし、三神衣子です」
「やあ、衣子さん」
堀江刑事の|威《い》|勢《せい》のいい声が聞こえて来た。
「昨日はどうも!」
「先生が、|捜《そう》|査《さ》の進み具合を|伺《うかが》ってみてほしいっておっしゃるものですから」
「そうですか。いや、ありがたいなあ。でもね、割と簡単に片付いちまうかもしれませんよ」
「まあ、犯人が分ったんですか?」
「いや、まだはっきりしないんですがね。|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》に男がいたんです。その辺のもつれ[#「もつれ」に傍点]じゃないかと思ってるんですが。今からその男に会いに行くんです」
「ちょっと待って下さい」
衣子はインタホンで森川へ堀江の話を伝えた。
「堀江君に僕らも一緒に行くと言ってくれ。その方がよさそうだ」
と森川の声が聞こえた。
「――男の名は|安井一《やすいはじめ》。小さなプロダクションに所属してる|助《じょ》|監《かん》|督《とく》です」
車の中で堀江が説明した。「被害者とは、ここ一年ぐらいの関係らしいんですが。最近はあまり|巧《うま》く行ってなかったらしいという|噂《うわさ》でした。――そうそう。それに、あのアパートの管理人が、あの晩、被害者を訪ねて来たらしい女を見ていたのを思い出したんです」
「どんな女だね?」
「それが、あの|薄《うす》|暗《ぐら》い廊下でチラリと見かけただけだったそうで……。二階へ上って行くと、ちょうどその女が、非常階段へ出るドアから出て行くところだったんだそうです」
「女だというのは確かかね?」
「赤いコートを着てたから、と言ってますがね」
「何時頃だったか|憶《おぼ》えていたのか?」
「テレビを見る前に、他の部屋での用を|済《す》まそうと思っていたそうで、九時ちょっと前だったとか」
「じゃ殺された時じゃないわけか」
「ええ。しかしその赤いコートの女が、もし安井って男のもう一人の女だとしたら……」
「そう先入観を持っちゃいけないよ。こうならいいが、と思っていると、無意識の内にそれに当てはまる事実だけが目に付いてしまう。それ以外の|手《て》|掛《がか》りを見落とすことにもなるからね」
「はあ」
「|例《たと》えば看護婦の|帽《ぼう》|子《し》だ。あれがなぜ被害者の部屋にあったのか……」
「あれはまだ出所が分っていません。たぶんはっきり|突《つ》き止めるのは|難《むつか》しいと思います」
車は、|汚《よご》れた大きな|土《ど》|蔵《ぞう》みたいな建物の前で|停《とま》った。
「倉庫みたい」
と衣子が見上げて言うと、
「スタジオなんですよ。ここで映画の|撮《さつ》|影《えい》なんかをやってるんです」
「ずいぶん|汚《きた》ない所ね」
パトカーから三人が降り立つと、建物の入口の所に立っていたジャンパー|姿《すがた》の男が飛んで来た。
「おい! あんた刑事かい?」
「ああ、そうだ」
堀江が|肯《うなず》くと、ジャンパーの男はいきなり堀江の|腕《うで》をつかんで、
「待ってたんだぜ! 遅れて来ちゃ困るじゃないか」
「何だって?」
「さ、早く、早く」
と|面《めん》|食《く》らっている堀江をぐんぐん引っ張って、スタジオの中へ入って行く。森川と衣子も急いで後からスタジオへ入った。
体育館を何倍にもしたような、ガランとした建物で、寒々としている。あちこちにステージがあって、ベニヤ板でできた窓やらドアやらが立っている間を、何人もの人間が|忙《いそが》しく動き回っていた。照明器具やコードがいたる所に転がっていて、よほど足もとに注意しないとつまずいてしまいそうだ。
衣子はあまりの薄汚なさに|驚《おどろ》いてしまった。――これが映画のセットなのか。スクリーンではあんなにきちんと本物らしく見えるのに、その実体はこんなチャチな物だなんて……。
堀江を引っ張って来たジャンパーの男が大声を出した。
「|監《かん》|督《とく》! |刑事《デカ》が来ました!」
「よし!」
石油ストーブにあたっていたヨレヨレコートの初老の男が肯くと、「本番行くぞ!」
「はい、本番行きます」
と助監督らしいノッポの男が|叫《さけ》んでいる。
「いいね、あんた分ってるね。主役があのドアから出て来る。あんたはその前に立ちはだかる。主役が一発であんたをのしちまう。それだけだからね」
ジャンパーの男は、|呆《あっ》|気《け》に取られている堀江へ言い|含《ふく》めると、「さ、ステージに上って!」
と堀江をステージの上へ押し上げた。
「先生、堀江さんが――」
と衣子が見ると、森川は|愉《ゆ》|快《かい》そうに、
「どうやら、やられ役と間違えられてるようだね」
「止めないと……」
「まあ、やらせとけよ。堀江君も楽しんでるらしい」
衣子は堀江が|苦《にが》|笑《わら》いしながら肩をすくめて見せるのを見て、思わず笑ってしまった。
「はい、用意……スタート!」
監督のかけ声。カメラの前でカチンコが鳴ってカメラが回り始めると、作り物のドアがパッと開いて、三つ|揃《ぞろ》いに身を包み、|髪《かみ》をペッタリなでつけた、キザを絵にかいたような主役が飛び出して来た。そして前に突っ立っている堀江へ鋭いパンチが――と思うと、堀江がその手首をグイとつかんだ。そして堀江の体が|素《す》|早《ばや》く|沈《しず》んで、主役の体はきれいに一回転。ステージの|床《ゆか》へズシンと音をたてて|叩《たた》きつけられた。床からもうもうと|埃《ほこり》が舞い上る。
|唖《あ》|然《ぜん》と見守る一同の前で、堀江は警察手帳を取り出し、
「警察の者ですが、助監督の安井さんはどなたですか?」
と|見《み》|渡《わた》した。
「おかげで主役のスターはカンカンに|怒《おこ》ってるよ」
安井はスタジオの|一《いち》|隅《ぐう》でブツクサ文句を言った。
「あんたが間違えたんだ。仕方ないよ」
と堀江は|澄《す》まして言った。堀江を|刑《けい》|事《じ》役の役者と|勘《かん》|違《ちが》いしたジャンパーの男が安井だったのである。三十五、六といったところか、いささかくたびれた映画青年という印象の男だった。
「――ええ、まあ、恵子とは付合ってましたよ」
「最後に会ったのは?」
「ええと、二週間ぐらい前かな。土曜日でしたよ」
「最近、あまり|巧《うま》く行ってなかったってのは本当かい?」
「え、ええ。――まあね。でも、|喧《けん》|嘩《か》してたってわけじゃないんですよ。ただ、何となく――こう、冷えて来たってのかな」
「原因は?」
「別に……。お|互《たが》い、|飽《あ》きが来たんですよ」
「女の方だけがあんたに飽きて、カッとしてやっちまったんじゃないのかい?」
「おい! |冗談《じょうだん》じゃねえよ!」
安井は|真《まっ》|赤《か》になって、「|俺《おれ》はやらないぜ! そんな――人殺しなんて!」
「分った、分った。一昨日の晩、どこにいた?」
「ええと……確か、仕事が終ってから、カメラマンと飲みに行ったよ。……十一時|頃《ごろ》まで飲んでたかな」
「それから?」
「自分のアパートに帰って|寝《ね》たよ」
「何時だった?」
「分らねえな……。相当|酔《よ》ってたから。気が付いたら朝――いや、昼だったよ」
「すると残念ながらアリバイにはならないな」
「おい! 俺は酔ってフラフラだったんだぜ! 一緒にいたカメラマンに|訊《き》いてくれよ」
「酔ってたのが|芝《しば》|居《い》でないと、どうして分る?」
安井の顔から血の気が|徐《じょ》|々《じょ》に|失《う》せて行った。
「まさか……本当に俺がやったと……」
「やってなきゃ、心配する事はないさ」
「ちょっと訊きたいんだがね」
と森川が口を|挟《はさ》んだ。「君が最後に会った時、船山恵子は近々金が入るあてのあるようなことを言っていたかね?」
「いいえ、別に」
「それ以前に、給料以外の|臨《りん》|時《じ》収入があったような様子を見せた事はなかったかね?」
「――そう言えば、一度、冷蔵庫と|洗《せん》|濯《たく》機を一度に買い|替《か》えたことがあったなあ。管理人には|月《げっ》|賦《ぷ》で買ったことになってるって、笑ってたっけ」
「いつ|頃《ごろ》だったね?」
「さて……一か月か、もっと前かな。よく|憶《おぼ》えてねえけど」
森川は|肯《うなず》いて、
「もう一つ訊きたいんだが、被害者の|傍《そば》に、看護婦の帽子が落ちていた。何か心当りはないかね?」
安井はキョトンとして、
「さっぱり分らねえな」
「よし、分った」
後は堀江に任せて、森川がスタジオを出ると、衣子もついて出て来た。
「やあ、どこに行ってたんだい?」
「監督さんや、主役の|雨《あま》|宮《みや》|茂《しげ》|夫《お》と話してたんです」
「女は女だな。いや、|軽《けい》|蔑《べつ》して言ってるんじゃないよ」
「あら、|手《て》|厳《きび》しいですね。取調べの方はどうでしたの?」
「殺しをやるほどの度胸のある|奴《やつ》には見えないね」
「まあ、それは非心理学的な言い方ですね」
衣子はやり返した。
「やあ、お待たせしました」
堀江が出て来て、ふうっと息をついた。
「いかがでした?」
「いや、どうもあまり|見《み》|込《こ》みはなさそうですね。まあ当ってはみますが。――先生、色々船山恵子の金のことを訊いてましたね。何か考えがおありなんですか?」
「なに、当てずっぽさ」
「先生のおとぼけにはいつもごまかされちまうからなあ」
と堀江は笑って、「さ、行きますか」
「――刑事さん!」
と呼ぶ声に振り向くと、さっきのヨレヨレコートの監督である。
「何か?」
「いや、ちょっとお話ししたいことがありましてな」
「はあ」
監督は堀江を少し|離《はな》れた|道《みち》|端《ばた》へ連れて行って、何やら熱心に話し始めた。
「何でしょう?」
衣子は心配そうに、「雨宮茂夫に|謝《しゃ》|罪《ざい》でもしろって言うのかしら?」
「さあね」
しばらくして堀江が|苦《にが》|虫《むし》をかみ|潰《つぶ》したような顔で戻って来た。
「どうでした、堀江さん?」
「どうもこうも……」
「何ですって?」
「僕に、アクションスターにならないかって言うんですよ!」
「あら、あなたは――」
衣子はカクテルのグラスから顔を上げ、|傍《そば》に立っている長身の女を見上げた。
「この間お会いしたわね」
増村良子は衣子の|隣《となり》へ|掛《か》けると、カウンターに、見るからに高価そうなバッグを|無《む》|造《ぞう》|作《さ》に|放《ほう》り出して、
「水割りちょうだい」
と|注文《ちゅうもん》してから、
「一人?」
「ええ」
衣子は冷ややかに答えた。「何かご用ですか?」
「あなたはたぶんここだろうって、マンションの受付で聞いて来たの」
「どうしてわざわざ私の所に?」
増村良子は|無《ぶ》|遠《えん》|慮《りょ》に衣子をジロジロ|眺《なが》めながら、
「インテリっぽい体つきね、あんまりセックスアピールはないけど」
衣子はムッとした様子で、
「何の用かって訊いてるのよ」
増村良子は|黙《だま》って水割りを一気に飲みほすと、ハンドバッグから分厚い|封《ふう》|筒《とう》を取り出して、衣子の前に置いた。
「百万、入ってるわ」
衣子はまじまじと封筒を見つめた。増村良子は続けて、
「これでもうやめてくれるでしょうね?」
「――何の話?」
「とぼけないで」
「分らないわ。何の事を言ってるの?」
増村良子はじっと衣子をにらみつけると、
「これじゃ不足だなんて言ったら|後《こう》|悔《かい》するわよ。――あなたの|嫌《いや》がらせをやめさせようと思えば、色々、手はあるんだから。ちょっと|荒《あら》っぽい手だってね」
それだけ言うと、カウンターへ五千円札を一枚放り出し、さっさとスナックを出て行ってしまった。衣子は封筒を手に、|慌《あわ》てて後を追ったが、表へ出た時は、もう相手は待たせてあったらしいタクシーに乗り込み、走り出していた。衣子は封筒を手に、|狐《きつね》につままれたような顔で、タクシーを見送った。
「百万とはまた……」
森川は手の切れそうな新札の|束《たば》を前に首を振った。「増村良子はそれで君に『嫌がらせをやめろ』と言ったんだね?」
「そうです」
衣子は|肩《かた》をすくめて、「あの女、|気《き》|狂《ちが》いなんだわ、きっと」
「いや、実際彼女の所へ、手紙か電話の嫌がらせがあるのに違いない。彼女とあの〈|幽《ゆう》|霊《れい》武夫〉君が来月結婚することになってるのは知ってるかい?」
「本当ですか!」
衣子は声を上げた。
「だから、たぶん、財産目当ての結婚だとか、色々やっかむ連中も多いだろう。その|誰《だれ》かが増村良子へ手紙でも出したんじゃないか。金は送り返してやればいいさ」
「――マリも|馬《ば》|鹿《か》だわ。あんな男のために死ぬなんて」
「新聞の経済人の|動《どう》|向《こう》の|欄《らん》で見たんだがね、彼女、大変な|資《し》|産《さん》|家《か》の一人|娘《むすめ》なんだね」
「じゃ武夫さんにとっても、マリが死んだのは好都合だったんだわ、きっと」
と衣子が|呟《つぶや》くと、森川は首を振って、
「少々好都合すぎる[#「好都合すぎる」に傍点]ようだね」
「どういう意味ですか?」
衣子は|探《さぐ》るように森川を見て、「先生、何かご存知なんですね?」
「いや、そういう訳じゃない」
「でも――」
と衣子が食い下がろうとした時、受付の電話が鳴った。急いで受付へ戻って、受話器を取る。
「はい。――あ、堀江さん。――え?」
「先生に言って下さい。安井が殺されたんです。昨日のスタジオで。もし来ていただけたら……」
堀江の声は上ずっていた。
「――殺されたのは午前一時頃とか言ってました」
と堀江は手帳を見ながら言った。
スタジオの前は、パトカーや|救急車《きゅうきゅうしゃ》などで|埋《うま》っていた。|白《はく》|衣《い》の男たちが|忙《いそが》しく出入りしている。今日ばかりは堀江も役者と|間《ま》|違《ちが》えられる心配はなさそうだ。
「現場は?」
森川が訊いた。どんよりと|曇《くも》って、風は|肌《はだ》を切るように冷たく、森川と衣子もコートの|襟《えり》を立てている。
「スタジオの中です。死体もまだそのままにしてあります」
スタジオの中は、方々のライトが|点《つ》けてあって、見違えるほど明るい。しかし明るいだけに、よけいごみごみと|埃《ほこり》っぽいのが目立つのだった。堀江は二人をスタジオの深い|隅《すみ》へ案内した。|書《かき》|割《わり》の木や草むらが雑然と積み上げてある|奥《おく》に、死体が横たわっていた。衣子が思わず口を手で|押《おさ》えた。安井の後頭部は、|潰《つぶ》れて無残だったが、顔は無傷で、|眠《ねむ》っているように表情が|穏《おだ》やかなのが、一層無気味さを増していた。死体から一メートルほど離れて、直径三、四十センチはありそうなライトと、丸|椅子《いす》が一つ、転がっていた。ライトは重さにすれば何十キロもあるだろう。
「あれでやられたのかね?」
「そうです。ひとたまりもありませんよ」
「でもあんな重い物、どうやって――」
と衣子は言いかけて、「落としたのね!」
「そうです。ほら」
堀江は|天井《てんじょう》を見上げた。「あの高い所に|狭《せま》い通路があるでしょう。犯人はあそこから下にいる安井めがけて真直ぐにライトを落としたんですよ」
「犯人がライトをかつぎ上げたのかな?」
「いいえ、使えなくなったのが、|邪《じゃ》|魔《ま》なんで通路の隅に置いてあったんだそうです」
「でも、巧く当ったもんですね」
「それはほら、あの丸椅子さ」
と森川は言った。「犯人は安井にスタジオのこの隅で待てと言っておいたんだろう。そしてさり気なくあの椅子を一つ置いておく。やって来て、まだ相手が来ていなければ、安井は|座《すわ》って一服していようかと思うだろう。何も知らずに安井は|標的《ひょうてき》の中心へ入って行ったわけだな」
「じゃ犯人はライトの落ちる位置に椅子を|据《す》えておいたんですね」
「そうさ。何か小さな物をあらかじめ落としてみれば、どこに落ちるかは簡単に分る。堀江君、犯人を見かけた者はないのかね?」
「いま|守《しゅ》|衛《えい》に訊いてるんですが。何しろこんな場所、夜中でも人が出入りしたって気にもとめないでしょうからね」
「しかし昨夜は|撮《さつ》|影《えい》はなかったんだろう?」
「十一時頃までTV映画の撮影があったんだそうです。もっともそれは安井とは関係ありませんが」
「その撮影に加わっていた連中が何か知っているかもしれないね」
「ええ、訊いてはみるつもりです。どうせ今日も続きがあるんだそうですから」
「安井を呼び出したのは手紙かね、電話かね?」
「安井の|部《へ》|屋《や》には電話がないんですが、アパートの管理人の所に夕方、六時頃呼出電話がかかったそうです。その電話が確かに犯人からとは断言できないんですが……」
「電話の主は?」
「女だったそうです。たぶん若い女だった、と言ってます」
「若い女、か……」
森川は考え考え|呟《つぶや》くと、もう一度安井の死体を見降した。そこへサファリジャケットを着込んだ色メガネの男がやって来て、
「刑事さんに話があるんだけど」
とキョロキョロ|並《なら》んだ顔を見回した。
「|僕《ぼく》がそうだ」
と堀江が前へ出て、「あんたは?」
「プロデューサーの|林《はやし》ってんだけどね、ここ、いつから使わしてもらえんの? 役者のスケジュールがつまってんでね、早くやらしてほしいんだけどな」
「こいつが片付いたらすぐだよ」
と堀江が死体の方へ目をやった。林という男は初めて死体に気付いたらしく、
「ワッ!」
と声を上げて二、三メートルも後へ飛びすさった。堀江が続けて、
「ちょうどよかった。あんたたちはゆうべもここで仕事をしてたんだろう? 何か変った事に気付かなかったか、みんなに訊いてみたいんだがね」
スタジオの入口近くにスタッフ、キャストを集めて、堀江は簡単に事情を説明した。
「そう言えば、僕……」
まだ十七、八らしい少年俳優が、ふっと思いついたように言いかけて、プロデューサーの林ににらまれ、|慌《あわ》てて口を閉じた。
「何だね?」
堀江は聞き|逃《のが》さない。「何かあったのなら、言ってくれ」
林が|渋《しぶ》い顔で舌打ちした。|下手《へた》に証言をして、|供述書《きょうじゅつしょ》でも取られようものなら、撮影の進行に|響《ひび》いて来る。それが気に入らないのだ。
「ええ……」
少年はモジモジしていたが、堀江に|促《うなが》されて口を開いた。「僕、ゆうべ仕事が終ってから|一《いっ》|旦《たん》駅前まで出て、深夜営業の|喫《きっ》|茶《さ》店に入ったんです。ところがそこで|財《さい》|布《ふ》をスタジオに忘れて来ちゃったのに気が付いて、慌ててここへ|戻《もど》ったんです」
「それは何時頃だった?」
「ええと……たぶん十二時ちょっと前ぐらいだったと思います」
「それで?」
「それで、ここへ戻って来た時、ここから女の人が出て行くのを見たんです」
「どんな女だった?」
「さあ。……大分手前から見たし、その人、反対の方角へ歩いて行ったんで、後ろ|姿《すがた》しか見えなかったんです。顔はさっぱり……」
「女だったのは確かかね?」
「真赤なコートを着てましたから」
死体が運ばれて行くと、その一角に|縄《なわ》を張って立ち入り禁止にした上で、スタジオはいつもの通り活動を始めた。
「赤いコートの女か……。どうもその女が|鍵《かぎ》ですね、先生」
「でも、堀江さん、本当に女だったのかしら?」
と衣子が口を|挟《はさ》んだ。「だって二度とも後ろ姿しか見られてないんでしょう? 赤いコートっていうのも妙じゃない? 殺人に|関《かかわ》ってるような人がそんな目立つ色のコートを着るかしら」
「なるほど! こいつは参ったな」
森川が笑って、
「堀江君を失業させちゃいかんよ、三神君。――まあ三神君の言うのももっともだが、ただ、赤いコートをわざと人目に|触《ふ》れさせたと考えるのは、ちょっと難点がある。つまりアパートの管理人やその若い俳優が、その時、そこに来ることを、赤いコートの主は知るはずがないんだ。どちらもたまたまそこへ来合わせたにすぎないんだからね」
「そうですね。残念だわ、せっかくの推理なのに」
「まあ、赤いコートには何か他の理由があるんだろう。それより一つ|奇妙《きみょう》なのは、どちらの場合も、|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》が殺されたと思われる時間より前に[#「前に」に傍点]、そのコートの女が現れていることだな」
「そこですね、問題は。どうも、その女は犯人じゃなさそうだな。しかし、そうすると、なぜそんな所へ現れたんだろう」
森川はその問題には|触《ふ》れず、
「堀江君、殺された安井の所持品に、何か変った物はなかったかね?」
「はあ……」
堀江はちょっと面食らった様子で、「さて、変った物ですか? |財《さい》|布《ふ》、定期入れ、ライター、|名《めい》|刺《し》が二、三枚、|鍵《かぎ》、ハンカチ、手帳……。そんな所でしたがね。特別、変った物はないようでしたよ」
「アパートの方はどうかな?」
「さて、僕はざっとしか見て来なかったんですが……。問い合わせてみましょう」
堀江はパトカーの方へ走って行った。衣子は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「張り切り屋さんですね、堀江さんって」
「彼が個人的な相談でやって来るのは、ただ君に会うためさ。安くもない相談料を|払《はら》ってね。――たまにはデートしてやったらどうだい。彼の|懐《ふところ》の方も助かるだろう」
「いいえ。せっかくの客を減らすなんて、とんでもない!」
断固として衣子は言った。
「先生、分りましたよ」
と堀江が、また走って戻って来た。「部屋を調べた|同僚《どうりょう》に訊いたら、洋服ダンスの中に、聴診器[#「聴診器」に傍点]が入ってたんだそうです。――看護婦の|帽《ぼう》|子《し》、|聴診器《ちょうしんき》。何かありそうですね」
「聴診器か……」
「先生、察しがついてたんですか?」
「どうかな」
「すぐにとぼけるんだからな。――しかし妙ですね、医者でもないのに。お医者さんごっこでもやってたのかな」
「まあ、堀江さんったら、いやらしい!」
衣子がにらみつけると、堀江は慌てて、
「いや、何も変な意味で言ったんじゃあ……」
と弁解した。
「案外、堀江君の言う通りかもしれないよ」
|真《ま》|面《じ》|目《め》とも|冗談《じょうだん》ともつかない顔で、森川が言った。
4
「さあ、入りたまえ」
森川は、ドアから|覗《のぞ》いた顔に向って言った。岩本武夫が、妙にそわそわと、落ち着かない様子で部屋へ入って来た。
「やあ、衣子さん」
と引きつったような笑顔を作って、傍に座った衣子へ声をかけたが、衣子は|黙《もく》|殺《さつ》した。
「まあ、座りたまえ」
と森川が椅子を指した。
「あの……何か|緊急《きんきゅう》のご用だとか」
「その通り。夕刊に|載《の》るとは思うが、先に知らせておこうと思ってね。――安井が殺されたよ。ゆうべだ」
武夫がさっと青ざめた。
「知らない男ではないようだね、そんなに顔色を変えるようでは」
「い、いえ、僕は――」
「やめたまえ!」
|鋭《するど》い|一《いっ》|喝《かつ》に、武夫は|震《ふる》え上った。
「君がかつて|同《どう》|棲《せい》していたことを増村良子に知らされるのを|恐《おそ》れて、|一昨日《おととい》の晩、僕と三神君を車でひき殺そうとしたのも、ちゃんと承知してるんだ。素直に何もかもしゃべるんだね」
武夫は無理に|虚《きょ》|勢《せい》を張って、
「|証拠《しょうこ》は? 証拠なんかないじゃないか!」
「なるほど、その件は証拠がない。しかし、君が船山恵子や安井を使ってやらせたことは、いくらでも立証できるんだよ」
武夫はじっと|探《さぐ》るように森川を見た。
「法律では|罰《ばつ》せられないはずだ! 僕は――」
「法律ではそうかもしれん。しかし社会的に罰することはできるぞ」
「というと?」
「増村良子に|総《すべ》てを知らせるのも一つの方法だろうね」
「待ってくれ! それだけは――」
「それが|嫌《いや》なら、ちゃんと質問に答えてもらおう」
武夫はがっくりと肩を落として、
「分ったよ」
と、息をついた。
「君はいつ頃から増村良子と付合い始めたんだ?」
「半年ぐらい前だよ」
「彼女は会社の重役の娘だ。君は彼女が自分に|夢中《むちゅう》になっているのを知って、マリという娘から乗り|換《か》えることにした」
「僕だけのせいじゃない! マリは……愛するというより、独占しようとした。息苦しくなっちまったんだ! 毎日毎日、『死ぬ時は|一《いっ》|緒《しょ》に死にましょう』なんて言われてみろ、いい加減、|逃《に》げ出したくなるよ。そこへ彼女[#「彼女」に傍点]が現れたのさ」
「君はマリと別れる決心をした。しかし、果して彼女が素直に別れるかどうか、不安だった。増村良子も君が同棲していることを知らなかったんだろう?」
「表向きは独身だったからね」
「別れ話がこじれたら、マリが増村良子に何もかもしゃべるかもしれない。そう思った君は、マリを殺そうと思い立った。しかし、直接手を下せば、まず|捕《つか》まる可能性が大きい。そこで君は彼女が自殺するように仕向けたらどうかと思いついた」
「考えたのは安井なんだ」
「なるほど。さすがに|助《じょ》|監《かん》|督《とく》だけのことはある。――君は近所の病院の顔見知りの医者が、家族旅行で一週間病院を|留《る》|守《す》にするのを知った。そこでたぶん安井と三人でその医者に、留守中に病院を映画のロケに使わせてくれと|頼《たの》んだんだろう。そして当日、安井は医者に、船山恵子は|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》に|扮《ふん》して待ち受けた。君はその病院の前で車にはねられたふりをする。――もちろん、実際にそんなことをしたわけじゃあるまい。彼女にタバコでも買いに行かせて、戻って来ると君が血まみれになって|倒《たお》れているって|次《し》|第《だい》さ。もちろん撮影用の血だ。彼女は目の前の病院へ|駆《か》け込む。当然だろうね。――医者と看護婦が現れて君を中へかつぎ込む。そして手当のかいもなく、君は死んだと知らされて、彼女は信じる。疑う理由があるはずもないからね。彼女は夜の町へフラフラと出て行った。そして電車へ飛び込んだ。言葉通りに彼女は死んだ。そして君はよみがえった、というわけだ」
森川はちょっと区切りをつけて、「どこか|違《ちが》っていたかね?」
「その通りだよ」
「武夫さん……」
衣子はじっと武夫を|見《み》|据《す》えた。「あなたは……何ていう人なの!」
「チャンスだったんだ! 僕の|唯《ゆい》|一《いつ》のチャンスだった! 一生、|平《ひら》のサラリーマンで終らずに|済《す》むんだ!」
「君がもし自分の手で[#「自分の手で」に傍点]、彼女を殺したのなら、僕も君に少しは同情できたろう。愛されることの重荷。出世のチャンス……。分らないことはない。しかし、彼女の愛情を利用した、その殺し方は許せない! 確かに法的に殺人と呼ぶことは難しいだろうが……。そして、もう一つ許せないのは、君の母親[#「母親」に傍点]だ。もともと君たちの仲を認めておらず、彼女を|憎《にく》んでいたし、君が重役の娘と結婚できると知って協力したのだろうが、|一《いっ》|旦《たん》彼女を喜ばせておいて、絶望のどん底へ|叩《たた》き込む。君の死のショックを一層深めるためには全く効果的な演出だったよ。――しかし、|残《ざん》|酷《こく》だ!」
武夫は椅子から立ち上った。
「話はそれだけですか」
「言うことはないのかね」
「別に。……マリは|可哀《かわい》そうだったけど、あいつは本当に僕が死んだと信じて後を追ったんだ。本人はきっと満足だったさ」
「何ですって!」
衣子は思わず|腰《こし》を|浮《う》かした。
「僕はもうすぐ増村武夫になるんだ。そうすれば、君たちが何を言っても相手にしない。そうとも! 中傷だ、デマだと笑いとばしてやる!」
「その前に後を見たまえ」
と森川が言った。
いつの間にかドアが開いて、増村良子が立っていた。その氷のような|眼《まな》|差《ざ》しが、|総《すべ》てを語っている。
「……良子」
武夫の声が|震《ふる》えた。増村良子はくるりと|踵《きびす》を返して、足早に事務所を出て行った。
「待ってくれ!」
武夫が後を追って駆け出して行った。
――しばらく、森川も衣子も|黙《だま》って、座っていた。
「先生は、いつから気付いていたんですか?」
と衣子が|訊《き》いた。
「|仮《か》|死《し》状態に|陥《おちい》るほどの|患《かん》|者《じゃ》がわずか一か月で平然としていられるのが不思議でね。それに、あの母親の件はあまりにドラマティックにすぎたよ。そしてあのアパートで、増村良子に会った。岩本武夫が不似合に高価な背広を着ていたこととつなげれば、動機らしいものはすぐに浮かんで来る。――僕は警察へ行って、あの日の交通事故の記録を調べてみたが、それに|該《がい》|当《とう》するような事故は全く報告されていなかった。そうなれば|狂言《きょうげん》としか思えないじゃないかね。そして僕はあのアパートから駅への道筋の病院に当ってみた。すぐに分ったよ。ちょうどあの日、|留《る》|守《す》にしていて、映画会社の男に頼まれて病院を貸したという医者がいた。ここまで分れば後は簡単だ」
「でも先生、|肝《かん》|心《じん》の二つの殺人事件の方は」
「ああ、あれかね」
「分ってるんですか|犯《はん》|人《にん》は?」
「ああ」
「――|誰《だれ》なんです?」
「幽霊[#「幽霊」に傍点]さ」
森川はあっさり答えた。
「先生……。|真《ま》|面《じ》|目《め》に答えて下さい!」
「真面目だよ。殺したのはマリという娘の|幽《ゆう》|霊《れい》だ」
「でも――」
「まあ、聞きたまえ。彼女は電車に飛び込んだ。君は死体を見たかね?」
「いいえ。とてもひどくて――」
「そうだろう。|車《しゃ》|輪《りん》やモーターにからまった死体なんて、とても判別できるもんじゃない。つまりそれはマリじゃなかったとも考えられる」
衣子は何か言いかけて、そのまま口をつぐんだ。
「彼女は君へ電話をした後、電車へ飛び込もうとした。ところがたまたま先客があって、他の誰かがその電車へ飛び込んでしまった。それがどこか地方から家出して来た娘か誰かだったら、|身《み》|許《もと》だって調べようがないからね。君からの通報でそれがマリだってことになってしまった。目の前で飛び込みを見て、マリは飛び込む気もなくなり、ともかく病院へ|戻《もど》る。そこで、死んだはずの武夫がピンピンしているのを、窓からでも|覗《のぞ》いて|騙《だま》されていたことを知り、|復讐《ふくしゅう》の決意を固める。――そこでまず、看護婦をやった船山恵子へ看護婦の帽子を送り、不安に陥れた。そして|一《いっ》|旦《たん》九時頃部屋へ行ったが、まだ帰っていないので、改めて夜中に訪れ、真相を証言してくれれば、|恨《うら》みはしない、と話を持ちかけて油断させ、|隙《すき》を見て|絞《こう》|殺《さつ》した。それから医者の役をやった安井へ聴診器を送って、あのスタジオへ呼び出した。少し前に行ってライトを通路の|端《はし》すれすれまで持って来ておき、真下に|椅子《いす》を|据《す》え、そこへ座ればライトが落ちるような|仕《し》|掛《かけ》を作って出て来たんだと思う。|薄《うす》|暗《ぐら》いスタジオだ。ピアノ線ででも椅子とライトをつないでおけば、安井はまず気付かずに椅子に座ったろう。体でピアノ線を引っ張って、ライトが落下。時間が過ぎてからもう一度スタジオへ行って、ピアノ線だけを外して持ち去れば、それで終りだ」
「先生――」
「岩本武夫については」
と森川は続けて、「むろん事件の張本人であり、|憎《にく》むべき|奴《やつ》だが、殺すよりもこのままにしておく方が、より効果的な|復讐《ふくしゅう》だと僕は思う。きっとマリもそう考えて彼には手を出さなかったのだろう」
「先生! 違います[#「違います」に傍点]! 違うんです[#「違うんです」に傍点]!」
と衣子が|叫《さけ》ぶように言った。
「マリはきっともうどこかへ行ってしまっているだろう。二度と姿を見せることもあるまい。――僕は復讐というものを認めはしない。しかし、彼女を|告《こく》|発《はつ》して今さら死人をよみがえらそうとも思わないね」
「先生!……」
衣子は肩を震わせて泣き|崩《くず》れた。
「今日は」
「やあ堀江君。久しぶりだね」
「どうも、すっかりごぶさたして……」
「まあ掛けたまえ」
「はあ」
堀江は落ち着かない様子で部屋の中を見回した。
「どうだね、例の殺人事件の方は?」
「は?――あ、あの件ですか。どうにも進まないんですよ。|迷宮《めいきゅう》入りの気配が出て来ましたねえ。先生、いつものようにスパッと解決して見せて下さいよ」
「僕も|万《ばん》|能《のう》ではないさ」
森川は|微《ほほ》|笑《え》んで、「それにここのところ忙しくてね」
「あの……彼女は……お休みですか?」
堀江がおずおずと訊いた。
「彼女?」
「衣子さんです」
「ああ、三神君は|辞《や》めたよ」
堀江の顔が次第に間のび[#「間のび」に傍点]して来た。
「そう……です……か」
「|田舎《いなか》へ帰って|嫁《よめ》に行くという話だった」
「……なるほど。……いや、それはどうも……おめでとうございます」
やや混乱している。「……全く、いい人でしたね……本当に……|惜《お》しいことを……」
「そう。――いい|娘《こ》だった」
森川が、武夫たちの使った病院を|捜《さが》し当てた時、医者は、一週間ほど前に、同じことを訊きに来た娘がいたのを思い出した。衣子は武夫が生きていたことを知ってすぐに、事故に疑問を持ったのに違いない。森川は胸が痛んだ。自分が衣子より早く事故の真相を|見《み》|抜《ぬ》いていたら、二つの殺人は防げたのだ。あの殺人は自分の責任でもある……。
だが、彼女を責めることができるだろうか。親友を殺された復讐。――自分でもやったかもしれない、と森川は思った。
別れ|際《ぎわ》に、森川は一つだけ衣子に|尋《たず》ねた。赤いコートを着た理由である。衣子は、マリが死んだ時、赤いコートを着ていたからだと言った。マリにかわって復讐するんだから、同じコートを、と思ったのだ。――でも、今考えてみると、と衣子は言った。赤いコートだったんじゃなくて、コートが血に染まってただけなんですね……。
堀江が弱々しい声で言った。
「先生……」
「何だね?」
「あの……|失《しつ》|恋《れん》の痛手から立ち直るのには、相談料、いくらでしょう?」
長き眠りの果てに
1
|深《しん》|夜《や》の|病棟《びょうとう》は静まりかえっていた。|時《とき》|折《おり》、その|静寂《しじま》を破って、|朗《ほが》らかに|響《ひび》く笑い声は、宿直室の三人の|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》たちだ――。その一人、|永《なが》|島《しま》看護婦はまだ|新《しん》|米《まい》で、宿直にも|馴《な》れていないせいか、大分前から|眠《ねむ》|気《け》を|振《ふ》り|払《はら》うのに苦労していた。
「――やっぱり私、六号室の|患《かん》|者《じゃ》さんと、|井《いの》|上《うえ》先生の間には何かあると思うわ」
もう三十代も|半《なか》ばの|黒《くろ》|川《かわ》看護婦が、しばらく続いた議論に終止|符《ふ》を打つように言った。
「そうかしら。私はそんな事ないと思うけど……」
|森《もり》看護婦は、異議をとなえた。別段、話題に興味があるわけではない。ただ、眠気ざましのおしゃべりが|途《と》|切《ぎ》れないように、と思っただけだ。
「だってね、あなたは若いから知らないでしょうけど、井上先生は前にも――」
永島看護婦は、まだそんなゴシップに|夢中《むちゅう》になれる|年齢《とし》でもなかった。他の二人に話の方は任せたまま、ぼんやりと、窓口|越《ご》しに薄暗い|廊《ろう》|下《か》を|眺《なが》めていた。あと何時間かしら……。廊下の向う側の時計を見上げて、さっき見た時からまだ二十分とたっていないのでがっかりする。視線を下へ|戻《もど》した時、それが見えた。――窓口のカウンターに、白い手が乗っている。弱々しく骨ばった手が、まるで|誰《だれ》かが置き忘れて行ったように。
永島看護婦は、自分が見ている物が理解できなかった。何かしら、あれは? 考えている内に、その手は彼女の方へ|這《は》うように動き始めた。
よろよろと立ち上り、無意識に後ずさりしようとして、おしゃべりを続ける黒川看護婦に|突《つ》き当ってしまった。
「何よ、どうしたの?」
|叱《しか》るように言う黒川看護婦に、永島看護婦は|黙《だま》って|震《ふる》える指で窓口の方を指した。――六つの目がしばし、それに|貼《は》りついた。手に続いて、白く細い|腕《うで》が見えた。|誰《だれ》かがカウンターにつかまって立ち上ろうとしている……。三人は、何か異様なものを感じて、動けなかった。
不意に、若い女の顔が現れた。死人のように青ざめて、長い|髪《かみ》が乱れてその顔を半分近くも|覆《おお》っている。
「すみません……」
ほとんど聞き取れない細い声を、その女性はしぼり出した。「……すみません……水を……水を下さい……」
永島看護婦が思わずアッと声を上げた。
「|上《かみ》|村《むら》さんだわ! 上村|綾《あや》|子《こ》さん!」
「|畜生《ちくしょう》……!」
|小林秀夫《こばやしひでお》は鳴り続ける電話へ毒づいた。いくら社会部の記者だからって、眠る時間ぐらいくれてもいいじゃないか。どこかの|気《き》|違《ちが》いが|猟銃《りょうじゅう》を持って行きずりの家に飛び|込《こ》んで立てこもった事件を、二十四時間ぶっ通しで取材し、アパートへ戻って来たばかりだった。水割りを一|杯《ぱい》あおって、ベッドへ死人のように転がり込んだところへ、電話である。
「いい加減、|諦《あきら》めろよ、おい!……|頼《たの》むよ……こっちは死ぬほど眠いんだぜ……」
無情に鳴り続ける電話を|叩《たた》き|壊《こわ》してやりたいという|衝動《しょうどう》をやっと|抑《おさ》えて、受話器を取る。
「小林」
とふてくされた声を出す。
「よかった! |留《る》|守《す》かと思いましたよ!」
向うでは若い助手の|藤《ふじ》|木《き》の声が|弾《はず》んでいる。
「|寝《ね》るところだったんだ……」
「聞いて下さい、上村綾子が目を覚ましたんです!」
上村綾子? 上村――上村――|誰《だれ》だったかな?――上村綾子?
|突《とつ》|然《ぜん》、眠気はふっ飛んで、小林は受話器を|握《にぎ》り直していた。
「目を覚ました? いつだ?」
「さあ、ついさっきだと思いますよ。ちょっと顔見知りの看護婦がいましてね、知らせてくれたんです」
「今、社からかけてるのか?」
「ええ」
「病院へぶっ飛んで行け! |俺《おれ》もすぐ行く」
受話器を叩きつけるように置くと、|身《み》|支《じ》|度《たく》する間ももどかしくアパートを飛び出す。こいつは俺のネタだ。誰にも|譲《ゆず》ってたまるものか!
小林の|脳《のう》|裏《り》には早くも明日の朝刊の大見出しが|浮《う》かんでは消えている。『“眠れる美女”目ざめる!』『|軽《かる》|井《い》|沢《ざわ》|山《さん》|荘《そう》殺人事件の真相、ついに明らかに!』『|唯《ゆい》|一《いつ》の生存者、三か月の眠りからさめる』……
|柘植《つげ》は眠りの中で、パトカーのサイレンを聞いていた。自分で、自分が眠っている事をちゃんと承知していて、やれやれ、警官とは|因《いん》|果《が》な商売だな、|夢《ゆめ》の中でまでサイレンを聞いてなくちゃならんとは、と一人ごちる。――まあ、それももうわずかの間だ。
柘植は、あと|一《ひと》|月《つき》で停年だった。結局|昇進《しょうしん》は警部どまりだったが、彼自身は満足していた。妻に先立たれ、一人|娘《むすめ》をすでに|嫁《とつ》がせた彼は、ただ退職金と年金とで、のんびり|暮《くら》す事を楽しみにしていた。
そうなっても、まだ夢の中でサイレンを聞くだろうか。――たぶん聞く事になるだろう、と思った。長い警察勤めで耳にこびりついた音は、今ではむしろ休日などに一日中聞こえないと|寂《さび》しくなるほどなのだ。
それにしても、夢の中の音にしては、ずいぶんやかましくなって来たな。
いつ目を覚ましたのか、自分でも気付かぬ内に、|布《ふ》|団《とん》に起き上り、近付いて来る本物のサイレンを聞いていた。――ここに来る! 直感して飛び起きると、サイレンが彼の家の前で|停《と》まった。|玄《げん》|関《かん》のブザーが鳴るのとほとんど同時にドアを開けると、部下の|小《こ》|池《いけ》|刑《けい》|事《じ》が目を丸くして立っている。
「警部、起きておられたんですか」
「年寄りは眠りが浅いのさ。何事だ?」
「上村綾子が意識を取り戻しました」
「いつだ?」
反射的に柘植は|訊《き》いていた。
「二時間ほど前らしいです。おいでになるかと思って――」
「もちろんだ! 二、三分待ってくれ」
上村綾子が目を覚ました。手早く服を着ながら、柘植は期待と不安が|膨《ふくら》んで来るのを感じていた。彼女は一体何を見たのか? あの日、何が起こったのか?
これは、俺の退職への|花《はな》|束《たば》代りになるかもしれないな。柘植の、浅黒く|陽《ひ》|焼《や》けした顔に、|微笑《びしょう》らしいものが浮かんだ。
上村|雄《ゆう》|一《いち》|郎《ろう》は、出社した時、まだ朝刊を見ていなかった。いつもなら六時半に起きて、ゆっくりと新聞を眺める時間があるのだが、昨夜、久しぶりに妻のベッドへ入って行ったのが、五十|歳《さい》の体には少々こたえたようだ。|迎《むか》えの車を二十分ばかり待たせて、生ジュースだけの朝食をとると、八時半にやっと家を出た。車が|渋滞《じゅうたい》に引っかかり、社へ着いたのは九時半を少し過ぎた|頃《ころ》であった。
「おはようございます」
部長室へ入ると、|秘《ひ》|書《しょ》が|慌《あわ》ててデスクの上の書類をいじりながら立ち上った。おおかた|恋《こい》|人《びと》に手紙でも書いていたんだろう、と上村は思った。秘書は勤勉とは言えなかったが、目を楽しませる役目は|充分《じゅうぶん》に果たしている。その|均《きん》|整《せい》の取れた体にチラリと目をやりながら、ゆうべ|抱《だ》いた妻の体と比べてため息をつく。
「妹様からさきほどお電話がありました」
「|暁《あき》|子《こ》から?」
上村はいぶかった。今頃、何の用だ。「何か|言《こと》づけは?」
「また電話するとおっしゃって……」
「分った。コーヒーを入れてくれ。少し|濃《こ》い目に頼む」
「かしこまりました」
広々としたデスクを見回しながら、上村は、一体いつまでこの席に|座《すわ》っていられるだろうか、と思った。業界全般を|覆《おお》う|不況《ふきょう》の影は、この社にも、いやこの部長室の中へも差し込んで来ていた。現在の社長が経営|不《ふ》|振《しん》の責任を取らされて|退《たい》|陣《じん》に追い込まれるのは、もう時間の問題だ。そうなれば、社長との個人的なつながりだけで、この|閑職《かんしょく》についている上村も、ここにいられなくなるのは自明の理である。――金さえあれば、引退も悪くなかった。しかし、わずか二年前の好況時、上村は|新《しん》|邸《てい》を建て、|別《べっ》|荘《そう》を買い、投機に手を出した。その時の借金はまだ半分も返済していないのだ。
仕事がないだけに、一層|憂《ゆう》|鬱《うつ》な気分で苦いコーヒーを飲みながら、上村はデスクにたたんで置かれた新聞を広げようとした。その時、電話が鳴った。
「妹様です」
秘書から受話器を受け取ると、
「ああ、暁子か。|珍《めずら》しいじゃないか」
「新聞を見てないの?」
いきなり|叱《しか》りつけるような|口調《くちょう》で言われて、上村はびっくりした。
「新聞? いや、まだだが――何事だい?」
「綾子が目を覚ましたのよ」
「綾子が?」
上村はびっくりして、あやうくコーヒーをひっくり返す所だった。「――何か[#「何か」に傍点]しゃべったのか?」
「それがね、意識は戻ったけど、|記《き》|憶《おく》を失ってるんですって。自分が誰かも分らないようよ」
「そうか……。で、どうする?」
「どうって、どうしようもないでしょう」
いらいらした口調だった。「ともかく、|今朝《けさ》、病院へ電話してみたんだけど、まだ誰にも会わせないのよ」
「親族にもかい?」
「親族だから[#「だから」に傍点]かもしれないわ」
と皮肉な口調になる。「ともかく一度みんなで相談しましょうよ。|雄《ゆう》|司《じ》君に|連《れん》|絡《らく》を取ってみてちょうだい」
「ああ、分ったよ」
――電話が切れると、上村は、いつの間にか|額《ひたい》に浮かんだ|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》って、新聞を開いた。大見出しが目に飛び込んで来る。
〈眠れる|目《もく》|撃《げき》者、|目《め》|覚《ざ》める!〉
小林記者の付けた見出しは多少手を入れられていた。
教室へ戻る途中、|伏《ふし》|見《み》暁子は、ぼんやりと考え込んでいた。綾子が記憶を取り戻すのに、どれくらい時間がかかるものだろう? 一日か、一週間か、一か月か――。このまま一生、記憶が戻らないという事はあり得るのだろうか? 電話に出た医師の口調では、「しばらく」の間だという事だった。要するに分らないのである。
自習[#「自習」に傍点]しているはずの教室のドアを開けると、まるでラッシュアワーの国電ホームの様な|騒《さわ》がしさ。それが暁子の|姿《すがた》を見て、ぴたりと|嘘《うそ》のように静まりかえると、暁子は子供じみた|優《ゆう》|越《えつ》の満足を味わった。
暁子は高校生を相手に、もう十年以上も英語を教えて来た。暁子は|教壇《きょうだん》に立つと、ほとんどが自分より背も高く、|大《おお》|柄《がら》な生徒たちを見回した。男の生徒の中には、すでに力強い性欲を感じさせる者もいる。少なくとも貧弱な夫よりも、私を満足させてくれるだろう、と暁子はひそかに思った。そして女生徒の中にも、豊かな胸の|膨《ふくら》みを、セーラー服の下からはっきり見せる、|熟《じゅく》した肉体が|珍《めずら》しくなかった。
急に、この教室から飛び出して行ってしまいたい、という|突《とっ》|飛《ぴ》な|衝動《しょうどう》に|駆《か》られて、暁子は必死に自制した。もういやだ[#「いやだ」に傍点]! 何としても、この学校――教職という|牢《ろう》|獄《ごく》から|抜《ぬ》け出したい!
「××君、九〇ページを読んで」
金だ。|総《すべ》ては金だ。――ここを抜け出し、自由になって、さてどうするかとなると、当てはなかった。金さえあれば……。
それがただの夢であれば、これほどの|焦燥《しょうそう》感はあるまい。なまじ手の届くところにあるからこそ、この息づまる現在から|脱《ぬ》け出したいという欲求が胸を焼くのだ。
上村家の兄弟は三人だった。一番上の上村雄一郎は、会社の重役こそしているが、実力でその座を手に入れた訳ではなく、ビジネスマンとしての才覚にも積極性にも欠けていた。次男の|康《やす》|雄《お》だけが兄弟の中で成功者だった。兄の雄一郎が投げ出した事業を受け|継《つ》いで大成功させ、大きな財産を作り上げたのだ。康雄はそれを投資して、さらに大きな事業に手を広げようとしていた。だが、それは結局実現しないままに終った。――突然の死が康雄を|襲《おそ》ったのである。いや、康雄だけではない……。
その日、軽井沢の康雄の別荘には、康雄と妻の|菊《きく》|代《よ》、二十二歳になる一人娘の綾子の一家の|他《ほか》に、新しい別荘へ招待されて来ていた雄一郎夫妻・|息子《むすこ》の雄司、暁子、それに夫の伏見|武《たけ》|治《じ》が|泊《とま》っていた。――深夜、続けざまに数発の|銃声《じゅうせい》が|闇《やみ》を引き|裂《さ》いて、|驚《おどろ》きと混乱の後、雄一郎と伏見が、|寝《しん》|室《しつ》で|無《む》|惨《ざん》に射殺されている康雄と菊代を発見したのである。そして綾子もネグリジェを血に染めて|倒《たお》れていた。だが、綾子は生きていたのである。血は父親のもので、|弾《だん》|丸《がん》の傷は彼女の頭に、きわどいかすり傷を残しただけであった。犯人は綾子も殺したと信じ込んでいたものと思われた。投げ出してあった|凶器《きょうき》のライフルは、狩猟を|趣《しゅ》|味《み》としていた康雄のもので、彼以外の|指《し》|紋《もん》はついていなかった。
警察は綾子の証言に期待をかけた。寝室には明りがついており、犯人についてはっきりとした証言を得られるものと思われたのである。ところが綾子はなかなか意識を回復せず、|昏《こん》|睡《すい》状態が続いた。三日が一週間になり、二週間になると、マスコミも騒ぎ始めた。医者はショックが原因だろうと語るばかりで、いつになったら綾子が目覚めるのかは、誰にも予測がつかなかったのである。――そしてついに三か月が過ぎた。
綾子が目覚めるのを待っていたのは、警察だけではない。雄一郎も、暁子も、一日ごとに焦燥を深くしながら待っていた。康雄の|遺《のこ》した|莫《ばく》|大《だい》な財産を、待っていたのである。当夜、別荘に誰かが|忍《しの》び込んだという|形《けい》|跡《せき》はついに発見されなかった。むろん、忍び込んだ者がいたのかもしれない。しかし、いなかったとしたら、犯人は|一《いっ》|緒《しょ》に泊っていた五人の中にいる事になる。従って、雄一郎も暁子も、この三か月、自分が|容《よう》|疑《ぎ》|者《しゃ》にされたような気持で、周囲の視線を気にしながら日々を過ごさねばならなかったのだ。
やっと綾子が目を覚ました。しかし、記憶を失っているのでは、まだ眠っているのも同じだ。その夜の記憶をはっきり取り戻した時、|果《はた》して綾子は誰を「犯人です」と指し示すだろうか?……
「――先生」
生徒の一人に呼びかけられて、暁子ははっと我に返った。
「読み終りましたけど……」
「はい。ではエクササイズの辧……」
暁子は|素《す》|早《ばや》く教師の顔に|戻《もど》った。
「どうしても、会わせてもらえないんですか」
雄司は食い下がったが、警官は|頑《がん》として聞き入れなかった。
「命令ですから」
とくり返すばかりだ。雄司は|諦《あきら》めて病院を出た。
ちょっとした遊歩道のある、病院前の庭のベンチに|腰《こし》を降すと、手にしていた新聞を広げ、綾子が意識を回復したという記事を読み直して、ため息をつく。――|安《あん》|堵《ど》と不安と、相反する思いの入り|混《まじ》ったため息だった。
上村雄一郎の息子、雄司は、綾子と同じ、二十二歳の大学生だった。二人は兄妹以上に仲の良い|従兄妹《いとこ》同士で、しじゅう海山へドライブをしたり、|互《たが》いの|部《へ》|屋《や》で時を過ごしたりしていた。
昏睡中の綾子を何度か|見《み》|舞《ま》った雄司は、スキーが|巧《うま》く、波乗りも得意で、父親に教わって、|狩猟《しゅりょう》までやり、車の運転もするスポーツ万能だった彼女が、見る|度《たび》に|蒼《あお》ざめ、やせこけて行く姿に、胸をしめつけられる思いだった。眠ったまま|衰弱《すいじゃく》して死んでしまうのではないかと、ひそかに|恐《おそ》れていた。
その綾子が意識を取り戻した。それだけでも、雄司は救われた思いだった。しかし、彼女は記憶を失っているという……。
雄司は、今でもあの夜、血に染まって倒れていた|叔《お》|父《じ》夫婦と綾子の|凄《せい》|惨《さん》な姿を昨夜の光景のように生々しく思い出した。一体誰が、あんな事をしたのか?――死んだ叔父の上村康雄は、雄司にとって貴重な人生の師だった。父の雄一郎にことごとく失望していた雄司が、道を|踏《ふ》み|外《はず》す事もなく成長して来たのは、叔父という生きた目標があったからだ。その死は、雄司にとってショックだった。しかも殺人者は、自分の両親と、自分自身をも|含《ふく》めた五人の内の一人かもしれないのだ……。
雄司は新聞を|畳《たた》んで立ち上ると、|諦《あきら》め切れない思いで、|病棟《びょうとう》の方をふり返りながら、歩き出した。
2
「おはようございます、|医師《せんせい》」
「やあ警部さん。ゆうべはお休みになったんですか?」
まだ三十代半ばの|新《しん》|村《むら》医師は昨夜ほとんど眠っていないのに、まるまる八時間眠った後のように|溌《はつ》|剌《らつ》としていた。若さというのはいい。柘植はつくづくと思った。
「この|年齢《とし》では、そう眠らなくてもいいのですよ。――彼女はどうです?」
「相変らずです」
「今は眠っているのですか?」
「いや、三十分ばかり前に目を覚ましました」
「|誰《だれ》かそばに?」
「もちろん、看護婦をつけてあります。それに、部屋の前には、刑事さんも|頑《がん》|張《ば》っていらっしゃる」
新村は皮肉っぽく言った。
「|警《けい》|戒《かい》するに|越《こ》した事はありません。大事な証人ですからね。何か思い出した様子は?」
「残念ながら、さっき見た限りでは何も思い出していないようです」
柘植は|唇《くちびる》をかんだ。
「何とか手はないでしょうかね」
「あせらない事です」
新村は真剣な口調で、「彼女の記憶が戻らないのは、外傷によるものではありません。あくまでも精神的なものです。目の前で両親を殺されたのですからね、そのショックははかり知れないものでしょう。だから彼女自身、無意識に思い出すのを|拒《こば》んでいるのです。恐ろしい記憶から身を守ろうと、|亀《かめ》が|甲《こう》らの中に頭と手足を引っ込めるように、自分の|殻《から》の中に閉じ込もってしまった、というわけで」
「その殻を何とか打ち破れませんか」
新村がやや表情を固くした。
「できない事はありません。しかし、彼女の心に一生消えない傷を残す事になりかねないのです。――彼女がその記憶に|堪《た》えられる|抵《てい》|抗《こう》力を身につけたら、自然に思い出しますよ。それまで待つべきだと私は思いますね」
といって、ひと月以上待ってたら、|俺《おれ》は退職だぞ、と柘植は心の中で|呟《つぶや》いたが、口には出さず、
「よく分っています。無理はしませんよ」
と、しかめっ|面《つら》のような|笑《え》|顔《がお》を作って見せた。「時に、看護婦は誰が付いているのですか?」
「永島看護婦です」
「ベテランですか?」
「いや、まだホヤホヤの若い看護婦です」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?――いや、失礼、気を悪くなさっては困るんですが――」
「お気持は分りますよ。でも、なぜか患者は、あの看護婦がそばにいると、一番落ち着くようなんです。たぶん、年齢が近いせいでしょう」
「なるほど」
柘植は、新村と別れて、上村綾子の病室へと向った。ドアの前に|椅子《いす》を置いて、刑事が一人、警戒についていた。柘植はその刑事にちょっと|肯《うなず》いて見せると、
「何か変った事は?」
「ありません」
「看護婦は中か?」
「いえ、今、|薬局《やっきょく》へ行きましたよ」
「今?」
「ええ、つい今です」
柘植はちょっと思案してから、病室へ入った。レースのカーテンを通して、晩秋のほの白い|陽《ひ》が|射《さ》し入っている。
彼女はベッドに起き上って、窓の方を|眺《なが》めていたが、ドアを閉める音に気付いて、柘植の方へ顔を振り向けた。太陽の光の中で見ると、その顔色の異様な青白さが一層|際《きわ》|立《だ》った。柘植は、|一瞬《いっしゅん》、目の前の女が|白昼《はくちゅう》の|幻《げん》|影《えい》にすぎないような気がした。|瞬《またた》きする間に消えてしまう|幻《まぼろし》のような……。
「やあ」
彼女は、やせて、そぎ落とされたような|頬《ほお》を|微《かす》かに|震《ふる》わせた。大きな目が、やせこけた顔の中で、異様に大きく見える。しかし、その目は空気を見ているように、柘植を見ていた。彼女は|薄《うす》い唇を軽く開いたまま、何も答えなかった。白いネグリジェから|覗《のぞ》いている白い手は神経質に、腰から下を|覆《おお》った薄手の|毛《もう》|布《ふ》をいじっていた。
「心配しなくていいよ。私は警官だ。君の味方だよ。私を|憶《おぼ》えているかね?」
上村綾子は、しばらくしてから、そっと首を横に|振《ふ》った。
「そうか。――まあいい。気分はいいかね?」
綾子は、微かに肯いて、
「ええ……」
と|呟《つぶや》くように低い声で言った。柘植は、今初めて彼女の声を聞いたのだという事に気が付いた。昨夜、この病室へ駆けつけて来た時は、彼女はもう|鎮《ちん》|静《せい》|剤《ざい》を|射《う》たれて|眠《ねむ》っていたのだ。――柘植は、どういう風に話を進めればいいのか、考えあぐねて、彼女のベッドの方へゆっくり|歩《ほ》を進めて行った。
「――君の名前は?」
「上村……綾子」
一瞬、柘植は、彼女が記憶を取り戻し始めたのかと胸をときめかせた。しかし、綾子は続けて、
「看護婦さんが、そう言ってました……」
「ああ。――なるほどね」
看護婦か。今はいない。柘植は、ふと、彼女に少し記憶を思い出させてみようか、と思った。看護婦が戻ってからではやりにくくなる。――なに、あの若造の医者の言う事など気にする事はない。医者は何でも難しく考えたがるものだ。やってみれば意外に――。
「軽井沢を知ってるかね」
「軽井沢――」
「そう。林がずっと広がって、|別《べっ》|荘《そう》があちこちに建っている所だ」
「軽井沢。――ええ、憶えています」
「行った事があるかね?」
「ええ、たぶん……」
「君はそこの別荘にいたんだ」
「私が……?」
「そうだ。憶えていないかな」
綾子は、しきりに考え込むように、頭をかしげた。
「ええ……何だか……階段があって……白く|塗《ぬ》った……」
「そうだ!」
いいぞ。その調子だ。柘植は|鼓《こ》|動《どう》が早まるのを感じた。
「君は眠ってた。お父さんとお母さんと一緒に」
「お父さん……お母さん……」
綾子は柘植の目を真直ぐ見ると、「どこにいるのかしら?」
柘植はためらった。両親が死んだ事はまだ持ち出さない方がいいだろう。
「――どこかしら?」
綾子はくり返した。
「心配ないよ。お父さんもお母さんも元気だ。もうすぐ来てくれるよ。――君は憶えてるかな? 別荘にいろいろな人が|泊《とま》ってた晩の事を。君の|伯父《おじ》さんや、|叔母《おば》さんや、いとこの雄司君や――」
雄司の名を聞いて、初めて綾子の顔に、|微笑《びしょう》らしいものが|浮《う》かんだ。
「――雄司さん。雄司さんは……」
「憶えてるね?」
「ええ。一緒に走ったり、泳いだりしたわ、そうでしょ?」
「そう。そうだったね。――夜、眠ってから、何があったか憶えていないかな?」
「夜……」
「そう。夜だ。暗くなって――静かになって――眠ってたんだろう? それから?」
「夜……」
綾子は|眉《まゆ》を寄せ、暗い鏡を|覗《のぞ》き込むように、目を見開いていた。柘植は、息を殺して、その様子をうかがった。何か思い出しているぞ。何か[#「何か」に傍点]を……。
「暗かったわ。……目が覚めて……声がして……」
「声?」
「大きな声だわ。それで目が覚めて……」
「それから?」
柘植は思わず、せかせるように言った。
「ドアが……」
「え?」
「ドアが開いて……明るかった……あのドアはとってもうるさいの……。音がして……」
「うん。それで、どうした?」
柘植は|焦《いら》|立《だ》っていた。今にも看護婦が戻って来るかもしれないのだ。もう少しだ。もう少し。
「私……起きて……とても暗くて……」
しばらく綾子は首を振り振り、考え込んでいたが、やがて、
「……分らない。憶えてないわ」
と呟いた。柘植は|唇《くちびる》をかんだ。あと一歩なのに! |額《ひたい》にいつの間にか|汗《あせ》が浮いている。
綾子は全身で息をつくと、
「|疲《つか》れたわ……。眠りたい」
と横になりかけた。自分でも気付かない内に、柘植は綾子の|腕《うで》を|荒《あら》|々《あら》しくつかんでいた。
「思い出すんだ! よく考えろ!」
おびえて身を固くする綾子へ、柘植は|叩《たた》きつけるように言った。
「|誰《だれ》かが入って来て、君のお父さんとお母さんを|銃《じゅう》で|撃《う》った。そうだろう?」
「銃?……撃った?」
「そうだ! お父さんとお母さんは殺されたんだぞ! 撃ったのは誰だ?」
「殺された……」
「そうだ。誰がやった……殺したのは誰だ!」
しばらく、綾子は|虚《こ》|空《くう》を見つめていた。柘植はじっと綾子の表情を見守っていた。さあ、思い出せ! さあ!
|突《とつ》|然《ぜん》、綾子が悲鳴を上げた。人間の声とは思えないような、|凄《すさ》まじい|叫《さけ》び声だった。柘植は|愕《がく》|然《ぜん》とした。綾子はベッドから飛び出すと、部屋の|隅《すみ》へと駆けて行き、|壁《かべ》に身をすりつけるようにしながら、間断なく悲鳴を上げ続けた。思いもかけない事態に、柘植はただ|呆《ぼう》|然《ぜん》と突っ立って、部下の刑事や、|白《はく》|衣《い》の男たちが次々に飛び込んで来るのを、ぼんやりと眺めていた。
「――でも、私って、とてもお|馬《ば》|鹿《か》さんなのよ。何度手紙を出したって、返事なんかくれっこないのに、それを承知で、また出すんですものね……」
永島看護婦は言葉を切って、そっと、横になった上村綾子の様子を見た。――眠ったわ。永島看護婦は|椅子《いす》から立ち上って|背《せ》|伸《の》びをすると、窓が閉まっているのを確かめて、明りを消し、病室を出た。暗い|廊《ろう》|下《か》にはほとんど|人《ひと》|影《かげ》もなく、ただ、廊下の|奥《おく》に、|椅子《いす》に腰かけて居眠りしている刑事の|姿《すがた》が見えている。
永島看護婦は腹立たしげに、その刑事をにらみつけた。あの何とかいう警察の人が、綾子さんに無理に過去を思い出させようとするものだから、綾子さんはますます自分の中に閉じ込もってしまうようになったんだわ。
――綾子が目覚めて、もう二週間が過ぎていたが、記憶を取り戻す様子は全くなかった。上村雄一郎と伏見暁子は、刑事の立ち会いの下で面会を許されたが、綾子には二人が分らなかった。
永島看護婦は、看護婦|控室《ひかえしつ》へ向って歩き出したが、しばらく行ってから、ふと足を止めて振り返った。|微《かす》かではあったが、ヒタヒタとリノリウムの|床《ゆか》を踏む足音が聞こえたのだ。だが、ほの暗い廊下に人影はなかった。ずっと向うの居眠りしている刑事は、動いた様子もない。――気のせいかしら。そう思いかけた時、はっきりと、ドアの閉まるカチリという音が静かな廊下に|響《ひび》くのを聞いて、はっと体を固くした。誰かが病室の中に素早く入り込んだのに|違《ちが》いない。しかし、どの病室だろう? どのドアだろう? 永島看護婦は、綾子の病室ではないかと思った。他に、そんな事の起こりそうな|患《かん》|者《じゃ》はいない。それにしても、あの刑事、|肝《かん》|心《じん》な時に何をしているんだろう。
刑事に知らせに行こうとして、綾子の病室の前を通りかかった永島看護婦は、足をとめた。――もし間違いだったら? ただ気のせいだったとしたら? 刑事に馬鹿にされるのが落ちだろう。刑事への反感も手伝って、彼女は、ちょっと病室を|覗《のぞ》いてみようと決心した。なに、ちょっと開けて見ればいいのだ。何も危ない事はない……。
永島看護婦はドアのノブをつかんで、ゆっくり回すと、そろそろとドアを開け、細い|隙《すき》|間《ま》から、そっと中を覗き込んだ。病室は暗く、静かで、さっき出て来た時と少しも変りないように見えた。――気のせいだったのかしら。永島看護婦は、念のために、暗がりになった綾子のベッドをよく見ようと、上体を病室の中へのり出した。突然ドアが内側へぐいと引っ張られ、彼女は部屋の中へ転がり込んだ。バンとドアの閉まる音、|暗《くら》|闇《やみ》の中で、立ち上ろうとして、永島看護婦は、太い、がっしりした腕に|捉《とら》えられた。大きな手が彼女の口をふさいだ。
――小池刑事はふと居眠りからさめた。廊下は静かで、何の変りもないように見えた。椅子から立ち上ると、こわばった体を思いきり伸ばす。退屈な仕事だった。女の子の見張りと言っても、すぐそばについていられるならいいが、こんな|殺《さっ》|風《ぷう》|景《けい》な廊下に椅子を置いて|座《すわ》っているのだ。しかも通りすがりの医師や看護婦たちは、何となくうさんくさい目つきで、ちらりと見て行く。全く、損な役回りだった。早く朝になって、解放されたい。そればかりを小池は考えていた。
ぶらぶらと廊下を歩き出したのも、|警《けい》|戒《かい》よりは、眠気ざましのつもりだったのだが、例の|娘《むすめ》の病室の前へ来て、ドアの下から明りが|洩《も》れているのに気付いて|眉《まゆ》を寄せた。もう十二時を過ぎているのに、まだ起きているのだろうか。別に深くも考えずにドアを開けて、小池は立ちすくんだ。――ベッドは|空《から》だった。毛布は床に放り出され、その|傍《そば》に、看護婦が|倒《たお》れている。
小池は|慌《あわ》てて看護婦に駆け寄り、手首の脈を見た。大丈夫、気を失っているだけだ。小池は自分の目が信じられない思いで、病室の中を何度も見回してから、ようやく病室を飛び出して行った。
3
「あと、どれくらい?」
伏見暁子は、ハンドルを|握《にぎ》った夫に|訊《き》いた。
「もうそろそろだ。――|畜生《ちくしょう》、どこもかしこも同じに見えるぜ」
伏見武治は、ヘッドライトが照らし出す林の中の道をじっと見つめながら|愚《ぐ》|痴《ち》を言った。伏見は四十八歳。|芸《げい》|能《のう》|界《かい》の人間だけに、ピンクのカラーシャツに赤いネッカチーフを首に巻いた、派手なスタイルだったが、|細面《ほそおもて》の顔は、不健全な生活を思わせて、|肌《はだ》にも|艶《つや》がなく、消える事のない|疲《ひ》|労《ろう》を感じさせた。
「今、何時だ?」
「七時四十分よ」
「手紙には八時とあったんだな」
「ええ……」
暁子は手元の手紙をもう一度見直した。
『今夜八時、あの別荘へ来て下さい。綾子』
「本当に綾子の字なんだろうな?」
「ええ、あの子の字よ」
「一体どういうつもりなんだ」
伏見は首を振った。
「行ってみなきゃ、分らないわ。|総《すべ》てを思い出したのかもしれないし、――ともかく、康雄兄さんの遺産がかかってるんですからね。行って損はないわよ」
前夜、綾子が病室から姿を消した事は、暁子も警察から聞いていた。警察では、綾子が|誘《ゆう》|拐《かい》されたものとみて、その事件を|一《いっ》|般《ぱん》には|伏《ふ》せていた。当然、暁子も雄一郎も警察に呼び出されたが、|監《かん》|視《し》を付けていながら、綾子を連れ去られた事で、警察も|戸《と》|惑《まど》い気味の様子であった。
警察から戻った暁子を待っていたのが、綾子の手紙だった。|郵《ゆう》|送《そう》されたのではなく、直接郵便受けに入れられていたのである。
暁子は警察に知らせようかと思ったが、考え直して、夫と共に軽井沢へやって来た。兄の雄一郎にも|連《れん》|絡《らく》しなかった。
「今の立て|札《ふだ》には見憶えがあるぞ。確か、この少し先だ」
伏見は言った。「――しかし、やっぱり兄さんには知らせておいた方がよかったんじゃないのかい?」
「いいのよ。――綾子は私だけに来てほしがっているのかもしれないわ」
「どういう意味だい?」
暁子は平然と、
「もし、雄一郎兄さんが犯人だったとしたら?――知らせたら、それこそ大変な事になるわ」
伏見は|唖《あ》|然《ぜん》として妻を見つめ、危なく車を立木にぶつけそうになって、慌ててハンドルを切った。
「――|驚《おどろ》いたな、お前には」
と首を振って、「俺はとても考えつかなかったよ」
「気を付けて運転してちょうだい」
「その角を曲った所だったと思うな。……ああ、やっぱりここだ」
晩秋というより、すでに初冬の軽井沢である。|途中《とちゅう》、目についたいくつもの別荘は、どれも真っ暗に閉ざされていたが、今、目の前に見る康雄の別荘は、どの|部《へ》|屋《や》の窓にも黄色く|灯《ひ》が見えて、ポーチにも照明が当っていた。事件のあった三か月以上前から、久しぶりでやって来たのに、暁子は、まるであの夏の日の夕方にここへ着いた時の光景を再現されているような気がして、|奇妙《きみょう》な|懐《なつか》しさに|捉《とら》えられた。――今にも|玄《げん》|関《かん》のドアが開いて、康雄が笑顔で迎えに出て来るかと思える。
同時に、暁子の心には、あの時、胸に|湧《わ》き上った強い|羨《せん》|望《ぼう》と|嫉《しっ》|妬《と》が昨日のもののようによみがえった。これといった仕事もなく、ブラブラして、いつまでも妻を収入のいい教職に置いて、自分は何の責任感にも|縛《しば》られていない、ふがいない夫への|怒《いか》りと、成功した兄、康雄へのねたみであった。康雄に続いて出て来た妻の菊代――。暁子はこの|兄《あに》|嫁《よめ》も好きになれなかった。四十五|歳《さい》だったが、まだ四十そこそこにしか見えなかった若さも、娘の綾子にも受けつがれている、知的な|美《び》|貌《ぼう》も、暁子の反感を|煽《あお》るばかりであった。
――しかし、今は、玄関から誰も出ては来ない。昔の話なのだ。三か月も前の話なのだ。車が玄関前に横づけになると、暁子は外へ出て、底冷えのする寒さに震えた……。
車を玄関わきへ|停《と》めて、伏見が暁子の方へやって来た。
「さて、中へ入るか」
「ええ」
二人が玄関のチャイムを鳴らしかけた時、背後から、
「やあ」
と声がして、二人はギクリと振り向いた。
「――びっくりした」
と、暁子は息をついて、「雄司君、何してるの、こんな所で?」
二人を驚かして|嬉《うれ》しいのか、上村雄司はニヤニヤ笑いながら、
「綾子から手紙をもらってね。|叔母《おば》さんたちも?」
「ええ、そうよ」
「|他《ほか》に誰かいるのか?」
と伏見が玄関のドアへ目をやる。
「分りませんよ。|僕《ぼく》もまだ中へ入ってないんです。五分ほど前にタクシーで来たばかりで」
「こんな寒い外で、何してたの?」
「|懐《なつか》しくってね。入る前に、外をひと回りしたんです。康雄叔父さんの事を思い出しながらね。いい人でしたね」
「お兄さんは一緒に来たの?」
「|親父《おやじ》ですか? 知りませんよ。手紙はアパートの僕の部屋へじかに来たんですから。綾子が僕に何か話したいのかと思ったから、親父にも知らせず、一人で来ました」
雄司は両親と|暮《くら》すのを|嫌《きら》って、アパートで一人住いをしているのだ。
「――さて、じゃ中へ入るか」
伏見が言うと、雄司はチャイムも鳴らさずさっさとドアを開けて中へ入って行った。
別荘はかなりの広さである。二階建で、二階には|寝《しん》|室《しつ》が四つ。下は玄関を入ったホールを囲んで、居間、食堂、それに康雄が使っていた|書《しょ》|斎《さい》がある。
「居間へ行ってみよう」
三人はホールを横切って、居間のドアを開けた。アンチックの応接セットが中央に置かれた、|優《ゆう》|雅《が》な調度の部屋である。
ソファから、上村雄一郎と妻の|志《し》|津《づ》|子《こ》が立ち上った。――お|互《たが》い、何となくバツの悪い様子で向き合っていたが、やがて伏見が、
「まだ酒はあるのかな。一|杯《ぱい》やりたい」
と言うと、サイドボードの方へ歩いて行った。ほっとして、一同はソファへ集まった。
「綾子は?」
暁子が|訊《き》くと、雄一郎は首を振って、
「まだ見ていないよ。十分ばかり前に来て、ずっとここにいたんだ」
「じゃ、部屋の明りをつけたのは……」
「綾子だろう」
「どういうことなのかしら。気味が悪いわ」
雄一郎の妻、志津子が言った。志津子は、もと水商売の女で、年齢に似合わぬ派手な|化粧《けしょう》や|服《ふく》|装《そう》に、今でもその|面《おも》|影《かげ》があった。いつも何か不平を言っている、|浪《ろう》|費《ひ》|癖《ぐせ》のある女だった。
「酒の用意や、グラスを洗っておいてくれたのも、綾子さんかな」
伏見がウイスキーのグラスを|傾《かたむ》けながら言った。
「でも綾子は|誘《ゆう》|拐《かい》されたんじゃないの?」
志津子が言った。
「それがどうもすっきりしない」
雄一郎が|眉《まゆ》を寄せた。「警察の態度がどうも、もう一つ|煮《に》え切らないんだ。裏に何か事情があるんじゃないかね」
「手紙は確かに綾子の|筆《ひっ》|跡《せき》よ」
「そうだ。――今、七時五十五分だ。八時、という事だったからな。その内、現れるだろう」
「|捜《さが》してみようか?」
と伏見が言った。
「八時になっても、姿を見せなかったら、でいいだろう。――私も一杯もらうよ」
急に、雄司が笑い出した。みんながびっくりして顔を向けると、雄司は皮肉な笑いを残しながら、
「これだけの人間が、誘拐されたはずの娘から手紙を受け取って、一人も[#「一人も」に傍点]警察へ通報した人間はいないんですね。――みんな、綾子が何を言うか、|誰《だれ》が殺人犯だと言うか、それしか考えてないんでしょう? もっとはっきり言えば、康雄叔父さんの財産の分け前がどれだけになるか、それしか気にしていない」
「雄司!」
雄一郎がたしなめたが、雄司はいっこうに平気な様子で無視すると、叔母の暁子の方を向いて、
「違いますか、叔母さん?」
暁子は|苦笑《くしょう》した。
「あなたなんかには分らないのよ。お金ってものの持つ意味がね」
「そうかもしれませんね。でも、みんなどうするつもりなのかな」
「何がだい、雄司君?」
伏見が訊いた。
「つまりね、僕らはこうしてここに集まってるけど、この内の誰か[#「誰か」に傍点]は犯人なんですよ。むろんそいつは綾子が|記《き》|憶《おく》を取り|戻《もど》せば自分の罪が|暴《あば》かれる事は承知してる。――すると、どうなりますか? 犯人以外の、ここにいる人たちは。犯人を|捕《とら》えて警察へつき出す? でも犯人だって、そんな事は当然承知してるはずですよ。|予《あらかじ》め対応策を考えていないはずはない。――近くの他の別荘はどこも人がいないし、みんながここへ来た事も誰も知らない。犯人は、綾子に|指《し》|摘《てき》される前に、綾子を殺すかもしれない。または、みんな[#「みんな」に傍点]を殺すかもしれない。――違いますか?」
他の面々は顔を見合わせた。考えてもみなかった、という表情だ。しかし、暁子はいたずらに考えあぐんではいない。ちょっと思案してから、静かに口を開いた。
「私――思うんだけど、この中の誰が康雄兄さんたちを殺したにせよ、それを今さら|暴《あば》き立てる必要はないんじゃないかしら」
授業のように、冷ややかな|口調《くちょう》である。
「つまり、ここには五人の人間がいるけど、事実上は二組の家族がいるわけでしょう。康雄兄さんの財産は、半分になっても、私たちにとって、|充分《じゅうぶん》なだけはあるんじゃなくて?」
「それはそうだ」
雄一郎が|肯《うなず》いた。暁子は続けて、
「つまり、ここで綾子が誰を犯人だと言うか知らないけど、それはここだけの|秘《ひ》|密《みつ》にして、決して|口《こう》|外《がい》しないという|約《やく》|束《そく》をしたらどうかしら」
雄司が|憤《ふん》|然《ぜん》として、
「じゃ叔母さんは、人殺しを|見《み》|逃《のが》せって言うんですね!」
「その通りよ」
暁子は|挑戦《ちょうせん》的に、正面から雄司を|見《み》|据《す》えて言い切った。「死んだ人は戻らないのよ。生きている人間の方が大切だわ」
「|詭《き》|弁《べん》だ! ごまかしだ! よく|恥《は》ずかしくないもんですね! 僕は絶対に承知できませんよ!」
雄司は叫ぶと、一同を|見《み》|渡《わた》して、「みんなが真相を|隠《かく》したって、僕が[#「僕が」に傍点]しゃべりますよ。それに綾子はどうするんです? 綾子が証言すれば、警察は信じますよ」
――|沈《ちん》|黙《もく》があった。雄司は静かに言った。
「僕と綾子を、永久に[#「永久に」に傍点]|黙《だま》らせる気ですか?」
「馬鹿言っちゃいけない」
伏見がグラスを振り回しながら、「何か方法はあるさ。君だって金がほしいだろうし……おっと、失礼!」
グラスのウイスキーがソファの背にかけてあった志津子のコートに飛んだのである。
「あそこにかけて来てよ、あなた」
志津子が雄一郎に言った。雄一郎は妻のコートを取ると、居間の|一《いち》|隅《ぐう》の壁にはめ込みになった、来客用のコート|棚《だな》の方へ歩いて行った。棚には小さな|扉《とびら》がついている。
「君には、まだ将来があるんだろう、金は必要だし――」
伏見は雄司を説得しようとしている。雄一郎は扉を開けた。何かが倒れかかって来て、雄一郎は慌てて飛びのいた。
「わっ!」
その声にみんなが振り向いた。――志津子が短い悲鳴を上げる。
男の死体だった。背に深々と肉切り|包丁《ほうちょう》が|突《つ》き|刺《さ》さって、血がどす黒く|上《うわ》|衣《ぎ》の背に広がっている。
「こ、これは!」
雄一郎が叫んだ。「どうしたんだ!」
「誰だ?」
「警部だよ、その人」
雄司が死体の顔を|覗《のぞ》き込んで言った。
「そうだ。思い出した。確か|柘植《つげ》、といったんじゃないか」
雄一郎が青くなって|震《ふる》えながら、顔の|冷《ひや》|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》って、
「それにしても――一体、誰が?」
「何かあったんですか?」
突然、ドアの所から、別の声がした。
4
「確か新聞社の方ね」
驚きからさめると、暁子は戸口に立った若い男へ言った。
「そうです。A新聞の小林といいます」
男は名乗ってから、柘植の死体に歩み寄り、別に気味悪そうな様子も見せずに|触《さわ》ってみると、
「死後、五、六時間はたっていそうですね。|詳《くわ》しい事は分りませんが」
小林は立ち上って、「大変な事になりましたね」
「君は一体どうしてここへ来たんだ?」
伏見が訊いた。
「僕はずっとこの事件を始めから追い続けて来たんです。|殊《こと》に、綾子さんが目覚めてからは、あなた方の動きを細かくチェックしていたんで、今夜、みなさんがここへ集まるのをつけて来たってわけですよ」
暁子が、|探《さぐ》るような目つきで小林を見ながら言った。
「私たちの話を聞いてたの?」
「ええ」
「いつから?」
「大体はね」
「じゃ、聞いたわけね、私たちが――」
「犯人を見逃そうって相談してた事をですか?」
暁子は、|唇《くちびる》をかんだ。小林は|狡《こう》|猾《かつ》な|笑《え》みを浮かべて、
「どうです。財産が三分の一になっても、大したものなんじゃありませんか?」
「おい! |脅迫《きょうはく》するつもりか!」
伏見がカッとなって言った。暁子は|遮《さえぎ》って、
「待ってよ。――小林さん、三分の一は、少し取りすぎじゃないの?」
「そうは思いませんね。どうです、その代りに、この警部の死体を引き受けますよ」
「何て|奴《やつ》らだ!」
雄司が声を上げた。「僕は黙ってないぞ、絶対に――」
はっと口をつぐむ。頭上で何か物が倒れる様な音がしたのだ。小林が|鋭《するど》く、
「この上の部屋だ!」
「綾子の部屋だわ」
と暁子が叫んだ。小林が居間を飛び出して行った。他の者たちも|一《いっ》|斉《せい》に続く。ホールへ出て、階段を|駆《か》け上る。
「綾子さん! 中ですか!」
ドアへ行きついた小林が呼びかけた。返事はない。小林はドアを開けた。鋭い銃声が廊下に響き渡って、同時に小林が後へふっ飛び、正面の壁へぶつかって、廊下へ|崩《くず》れ落ちた。――続けて駆けつけて来た者たちは立ちすくんだ。小林は胸を|射《い》|抜《ぬ》かれていた。完全に死んでいる。
「中に犯人が……」
「でも誰が?」
雄司がつかつかと、開いたドアへ歩み寄る。
「危ないわ!」
志津子が叫んだ。雄司は部屋の中を|覗《のぞ》き込むと、一同の方を向いて、
「大丈夫ですよ」
と言った。
|巧妙《こうみょう》な|仕《し》|掛《か》けだった。|椅子《いす》が一つ、背の方をドアに向けて、正面に置いてあり、|猟銃《りょうじゅう》が椅子の背もたれの|隙《すき》|間《ま》にくくりつけて固定してあった。引金に結ばれた細い|紐《ひも》は、椅子の下をくぐって、ドアのノブにつながれていた。ドアを開ければ、|銃弾《じゅうだん》はドアの正面にいる人間に命中するようになっていたのだ。
「康雄の銃だ。――|何挺《なんちょう》も持っていたからな。ここに置いたままだったんだ」
雄一郎は|呆《ぼう》|然《ぜん》として言った。
「一体、誰がこんな事を?」
と伏見は言った。「――俺はともかく、最後にここへ来たんだから、こんな仕掛けをする|暇《ひま》はなかった」
「じゃ、私がやったというのか!」
雄一郎は顔を|紅潮《こうちょう》させた。
「誰だってできましたよ」
雄司が冷ややかに口を|挟《はさ》む。「前もって一度ここへ来て、仕掛けを作ってから、いったん出て行って、改めてやって来ればいいんですからね」
「でも、一体この仕掛けは誰を殺すためのものだったのかしら?」
暁子が考え込みながら言った。「ここは綾子の部屋だけど――」
「ああ! こんな所いやよ! 下へ戻りましょう」
と志津子がヒステリックに叫ぶと、伏見が、
「同感だ」
と肯いた。小林の死体はそのままに、五人は居間へ戻った。
「|畜生《ちくしょう》! 何てこったい!」
伏見は|悪《あく》|態《たい》をつくと、飲みかけだったウイスキーのグラスを取り上げ、一気に飲みほした。
「こんな事になるとは……」
雄一郎が首を振って、「とても警察に黙っておくというわけには行かないね」
「待ってよ、お兄さん」
暁子は|焦《いら》|立《だ》ちを見せながら、「ここで私たちがみんな引き|揚《あ》げてしまって、ここへ来た事を黙ってさえいれば、|面《めん》|倒《どう》な事には巻き込まれずにすむわ。もちろん、ここにいた|跡《あと》を残さないように――あなた! どうしたの!」
暁子は夫の様子に気付いて叫んだ。伏見はグラスを|床《ゆか》へ落とし、|喉《のど》を|押《おさ》えて、|苦《く》|悶《もん》に顔をゆがめていた。目をカッと見開き、開いた口から、|押《お》し|潰《つぶ》されたような|呻《うめ》き声を上げると、床へどっと倒れる。
「あなた!」
暁子は駆け寄って、伏見を|抱《だ》き起こした。
「どうしたの?」
志津子が|真《ま》っ|青《さお》になって覗き込む。
「死んでる!……」
暁子もさすがに顔を|蒼《そう》|白《はく》にして、「ウイスキーだわ! グラスに毒が!」
暁子は、居間の奥へ目をやって、
「見て、ドアが――」
と言った。居間の奥には、裏階段へ通じるドアがあって、今、それが少し開いたままになっているのだ。暁子は立ち上ると、
「誰かいるんだわ! あそこに!」
と叫んで、そのドアへ駆け寄った。
「おい! 気を付けろ!」
雄一郎が声をかけた時は、もう暁子はドアを開けていた。――銃声と共に、暁子の体は二、三メートルも後へはね上った。|仰《あお》|向《む》けに倒れた胸から血が飛び散って、|絨毯《じゅうたん》へ吸い込まれて行く。開いたドアの向うに、階段の手すりに|縛《しば》りつけたライフルが見えた。……
残った三人は、ストップモーションをかけられた画面のように、立ちすくんでいた。
「|逃《に》げよう!」
雄一郎がやっと我に返って、震える声で叫んだ。「誰かが我々を皆殺しにしようとしているんだ!」
「行きましょう、早く」
「よし!」
雄一郎と志津子は先を争うように居間を飛び出して行ったが、雄司はじっと動かなかった。
車の音が|遠《とお》ざかって行く。雄司は、しばらく居間のソファに腰を降ろして、待った。
柘植と、伏見と、暁子の三つの死体が転がっているのを、無表情な目つきで眺めていると、ホールに足音がした。居間へ近付いて来る。雄司はソファから立ち上った。
居間の入口で、雄司を見て、その人物は立ち止まった。
「やはり君だったね」
雄司は言った。
「あなたは行かなかったの?」
綾子が不思議そうに言った。
「君じゃないかと思っていたんだ。君は昔から頭が良かったものね」
雄司は静かに言った。「でも、どうしてこんな事を?」
綾子は、戸口にもたれて、疲れたように息をついた。
「仕返しよ」
「お父さんとお母さんを殺されたから?」
「違うわ。――雄司さんは何も分ってないのよ」
「何があったの? 話してくれ!」
綾子はしばらく|間《ま》を置いてから、口を開いた。
「雄司さんは、私のお父さんを尊敬していたわね。でも、お父さんが、本当はどんな人間だったか、あなたは知らないのよ。|冷《れい》|酷《こく》で、|総《すべ》て計算ずくで生きている人だったわ。お母さんや私を、一度だって、心から愛した事なんかなかったのよ。そのくせ、お母さんが少しでも他の男の人と親しく口をきいたりすると、ひどくやきもちをやいて、お母さんを|殴《なぐ》りつけたわ。――本当に|怖《こわ》い人だったの」
雄司は|唖《あ》|然《ぜん》として聞き入っていた。
「あの晩、何か予感みたいなものがあって、私、寝つけなかったの。夜中すぎになって、廊下に|忍《しの》び足の足音がして、|隣《となり》のお父さんとお母さんの寝室のドアがそっと開いたの。お父さんが『どこに行っていたんだ!』って|訊《き》く声がしたわ。お母さんが、お父さんの眠っている間に部屋を出ていたのよ。『分ってるぞ! 下の居間で、伏見の奴と乳くり合っていたな!』ってお父さんは|怒《ど》|鳴《な》ったわ。『ええ、そうですとも』ってお母さんが、口答えしたの。『あいつは、人間のくず[#「くず」に傍点]だぞ』って言われると、『ええ、でも、あなたと違って、少なくともあの人は人間[#「人間」に傍点]ですよ』ってお母さんは言ったわ。――お父さんが何かゴソゴソする音がして、お母さんは『何をするんです?』って声を震わせて――私、とんでもない事が起こりそうな気がして、隣の部屋へ飛び込んだの。お父さんが、お母さんを銃で|射《う》ったのは、その|瞬間《しゅんかん》だったわ。……それから、お父さんは銃を|放《ほう》り出すと、私になんかまるで気付かない風で、倒れたお母さんを見降してたの。私、自分でも気が付かない内に銃を拾っていたわ。お父さんが振り向いて、びっくりした顔で、『綾子!』って叫んだ。私、|引《ひき》|金《がね》を引いたわ。お父さんが胸を押えて倒れたけど、それでも、何度も|夢中《むちゅう》で引金を引いて……それから突然、頭に痛みを感じて、そのまま気を失ったの。たぶん、どこかにはねかえった弾丸が頭をかすめたんだと思うわ……」
雄司は、悪夢を見る思いで綾子の話を聞いていたが、|強《し》いて自分を落ち着かせると、
「――そうだったのか。でも、それなら、なぜこんな事をしたんだ?」
「その警部さんはね、私を病院から無理に連れ出したのよ」
「この警部が?」
「ええ。もうすぐ停年なんで、何とか私に記憶を取り戻させて、|手《て》|柄《がら》にしたかったのね。あの手紙を書かせ、この別荘へ連れて来たの。ここへ来てみんなに会わせれば、私が思い出すだろう、ってあてにしてたのね。でも、本当はこの前、その警部さんに訊かれた時に、何もかも思い出していたのよ」
綾子は息をついて、続けた。「私は|隙《すき》を見て、台所の包丁で刺し殺して、それから、あちこちに銃の|罠《わな》を仕掛けて、待ったの。――みんなをね」
「しかし、なぜ? なぜみんなを?」
と雄司は叫んだ。
「伏見の叔父さんは、お母さんが殺される原因を作ったから。雄一郎叔父さんと、暁子叔母さんは、お父さんの兄妹だから……。見てごらんなさいよ。お父さんが死んだって、悲しむ訳でもない。――お金の事ばかりで、人間の心なんて、かけらもないのよ! お父さんの血筋の人間は、一人も生かしておけないわ!」
雄司は、ふっと綾子の表情に、|冷《れい》|酷《こく》な狂気を見て、|戦《せん》|慄《りつ》した。彼女こそ、父親の冷酷さを受けついでいるのだ。自分では何も気付いていないが……。
「私ね、みんなの話をちゃんと聞いていたのよ。――内線の電話が、ソファの下へ隠してあって、受話器を外したままにしてあるの。上の部屋の電話で、全部聞いたわ。だから、少しも|哀《あわ》れだとは思わない」
「でも僕の両親は逃げたよ」
「あら、車のブレーキを切ってあるのよ。さぞ、|慌《あわ》てて車を飛ばして行ったでしょうね」
雄司は青ざめた。
「君は狂ってる[#「君は狂ってる」に傍点]!」
「そうかしら?」
綾子は平然としていた。
「僕をどうするんだ?」
「|一《いっ》|緒《しょ》に車で行ったと思ったのよ」
綾子は|肩《かた》をすくめた。「あなたと|素《す》|手《で》で争っても、勝ち目はないわ」
「それじゃ僕と一緒に来るね?」
「ええ」
雄司は綾子の腕を取って、急ぎ足で居間を出た。
「伏見の叔父さんの車がある。あれで行こう。|親父《おやじ》たちを追いかけるんだ」
ホールを横切ろうとした時、突然、綾子は雄司の手を振り切って、食堂のドアへ走った。
「待て!」
綾子は食堂のドアのノブに手をかけると、さっと振り向き、
「動かないで!」
と叫んだ。雄司はギクリとして足を止める。
「ちょっとでも動いてごらんなさい。このドアを開けるわよ。あなたは今、ドアの正面にいるわ。絶対に命中するわよ。仕掛けてあるのは散弾銃ですからね」
雄司は、綾子の異様に|輝《かがや》く目を見て|戦《せん》|慄《りつ》した。本気なのだ。
「これであなたが死ねば、お父さんの|血《けつ》|縁《えん》は絶えるのよ」
「君は[#「君は」に傍点]どうなんだ! 君は?」
「私はお父さんを|憎《にく》んで育ってきたのよ。あなたとは違うわ」
雄司は必死に言葉を|捜《さが》した。綾子の手が、そっとドアのノブを回している。雄司の額に汗が浮いた。――突然、|天《てん》|啓《けい》のように、ある事実が雄司の頭に|閃《ひらめ》いた。
「待て! 君はお父さんが少しも君を愛さなかったと言ったね」
「ええ」
「それは違う! 聞かなかったのか? あの|凶器《きょうき》の銃には、お父さんの指紋[#「お父さんの指紋」に傍点]しかついていなかったんだ! 分らないか? お父さんは君に|撃《う》たれた後、死ぬ前に、君が持っていた銃から君の|指《し》|紋《もん》を|拭《ぬぐ》い取って、自分の指紋をつけた。だからこそお父さんの血が君の服にもついていたんだ。――なぜ、お父さんはそんな事をしたと思う? 君を人殺しにしないためだ[#「君を人殺しにしないためだ」に傍点]! そうだろう?」
青白い綾子の顔から、勝ち|誇《ほこ》った表情が、|徐《じょ》|々《じょ》に消えて行った。
「……|嘘《うそ》よ! そんなはずは……そんなはずはないわ!……」
「じゃ、どうだったというんだ? 言ってみたまえ!」
――長い張りつめた沈黙があった。突然、綾子は、
「ああ!」
とひと声叫ぶと、自らドアの前へ立って、ドアを開けた。雄司が止める間もなかった。
銃声がホールを|揺《ゆ》るがすように響き渡った。
死が二人を分つまで
1
「どうぞ、ごゆっくり」
|荷《に》|物《もつ》を運んで来たボーイが、チップを受け取ると、そう言って出て行った。
「ノーチップっていったって、|渡《わた》せばちゃんと受け取るんだからな」
|矢《や》|野《の》|兼《けん》|一《いち》は非難がましく、閉じたドアを見やった。
「それはそうよ」
|久《く》|美《み》|子《こ》は|微《ほほ》|笑《え》んだ。あんまりケチケチしたくない。|新《しん》|婚《こん》旅行なんだもの。
「やれやれ……」
何となく二人で息をつく。やっと二人きりになれたわ、という意味のため息である。午後三時の|挙《きょ》|式《しき》から、|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》は六時まで続いて、息せききって|羽《はね》|田《だ》空港へかけつけたが、九州行の飛行機の中はこれまた新婚で|溢《あふ》れんばかり。空港でタクシーを待つ間も、何だか他の旅客の物好きな視線にさらされているようで落ち着かず、今ホテルの一室へ着いて、どうにか二人きりになったという実感が|湧《わ》いて来たところである。
「久美子……」
兼一が久美子を|抱《だ》き寄せると、久美子の方は軽く身をよじって、|逆《さか》らう風に、
「だめよ……」
と言いかける。その|唇《くちびる》を兼一の|優《やさ》しい|接《せっ》|吻《ぷん》が|封《ふう》じて、久美子は美酒の|酔《よ》いが体の|隅《すみ》|々《ずみ》にしみ渡って行くように、全身が内側から熱くなるのを感じて大きく息をつく……。
「――まだだめよ」
「本当だ。腹が鳴ってる」
「いやあね!」
久美子は笑って、「でも本当にお|腹《なか》が|空《す》いたわ。もうすぐ九時ですもの」
「よし! じゃレストランに行こう」
「荷物は?」
「そのままでいいさ」
久美子は兼一について|部《へ》|屋《や》を出ながら、私もずいぶん変ったもんだわ、と思う。以前なら、きちんと片付ける物は片付けてしまわなくては、食事どころか水一|杯《ぱい》飲む気もしなかったのに、今はスーツケースをベッドの上へ放り出したまま、|部《へ》|屋《や》を出て来てしまう。
結婚すると、|誰《だれ》もがこんなに変ってしまうものなのだろうか。エレベーターで最上階の展望レストランへ向いながら、久美子はそっと兼一の横顔を|盗《ぬす》み見る。兼一はその目立つ長身が少々|後《うしろ》めたいかのように、少し体を前かがみにして立っている。初めて久美子が彼を見た時も、そんな風に立っていたものだ。
去年の夏――夏の終りの、暑さの|厳《きび》しい日であった。
「人間、明日はどうなるか分らないねえ」
係長の|田所《たどころ》が、ありきたりのセリフを|吐《は》いて、|誰《だれ》かの同意の声を期待するように、同席している一同の顔を|窺《うかが》った。だが、残念ながら係長のご|機《き》|嫌《げん》を取り結ぶには、みんな|疲《つか》れすぎていて、|黙《もく》|々《もく》と冷たいおしぼりで|汗《あせ》のにじんだ顔を|拭《ぬぐ》っているばかり。
冷房のきいた|喫《きっ》|茶《さ》店の中でも、その一角はいやに暑苦しい感じだった。みんなの黒衣のせいである。
「あんなに若くてねえ……」
田所係長が未練がましく言い続けているのを、やり切れない思いで聞きながら、|小《お》|畑《ばた》久美子は照りかえしが目を|射《い》る外の通りへ目をやった。お|葬《そう》|式《しき》に来てまで、わけ知りぶっていなければ気の|済《す》まない人間なんて! 腹立たしげにひとりごちる。
死んだ|同僚《どうりょう》の|広《ひろ》|江《え》|奈《な》|美《み》は、そう久美子と親しかったわけではない。たまたま二人とも同じ私鉄の利用者で、時々帰りが|一《いっ》|緒《しょ》になるので、何となく話をする程度であった。大体、広江奈美は目立たない女性で、同僚の女子社員ともほとんど付合いがなく、誰かに話しかけられても、無理にこしらえた|微笑《びしょう》で応じるだけ。|構《かま》わないで下さい、という気持があからさまに分った。
そんな風だったから、高速道路での三重|衝突《しょうとつ》に巻き込まれ、判別もつかない焼死体となって発見された時も、会社では泣き声も起こらなかったのである。しかし、久美子だけは、いくらか奈美の死を悲しんだ。自分が|寂《さび》しいからでなく、あんなにひっそりと生きていた人が、こんな死に方をしなければならなかった、その|哀《あわ》れさを悲しんだのだ。
それにしても寂しいお葬式だったわ、と久美子は思った。両親を早く|亡《な》くしたとは聞いていたが、ほんの数人の親類だけの告別式は、何ともわびしいものであった。もともと出身は九州の方らしく、東京にいる親類だけしか集まらなかったせいであろう。
アイスコーヒーが運ばれて来て、みんな、黙々と飲んだ。
やっと一息ついて、アイスコーヒーのグラスから表へ目をやった時だった。一人の青年が、道の向う側の|木《こ》|陰《かげ》に立って、こっちを見ているのに気付いたのである。青年は長身の体を持て余し気味に、やや前かがみにして、どう|避《さ》けようもない照り返しの熱気に顔をしかめていた。久美子は|一瞬《いっしゅん》、彼の目が、視線の合うのを|恐《おそ》れて、わざとらしく横を向くのを見て、彼が自分を見ていた事を知った。
見も知らぬ顔である。どう考えても|記《き》|憶《おく》の中に、そのノッポの青年は見つからなかった。誰だろう?――白い|上《うわ》|衣《ぎ》を着て、暑苦しそうに|時折額《ときおりひたい》の汗をハンカチで|拭《ぬぐ》っているその青年から、なぜか久美子は目を|離《はな》せなかった。
だが、その日はそれ以上何事もなかった。全員で店を出た時、青年の|姿《すがた》は|木《こ》|陰《かげ》から消えていたのだ。久美子は軽い失望を|憶《おぼ》えた。
「もしもし」
「もしもし、営業二課です」
「小畑久美子さんをお願いします」
「私ですが、どなた様でしょう?」
「…………」
「もしもし?」
「一度お目にかかって、お話ししたい事があるんですが」
「どなたですか?」
「矢野と申します」
「矢野さん……ですか?」
「ご存知ないと思いますが……」
「どんなお話でしょう?」
「電話ではどうも……」
「でも、何のお話か分らなくては――」
「広江奈美さんの事について、|伺《うかが》いたい事があるんです」
「広江さん? 彼女は事故で――」
「存じています」
「あなたはどういうご関係の方です?」
「会社の帰りで結構ですが、手近な|喫《きっ》|茶《さ》店にでもおいで願えませんでしょうか?」
「でも――」
「ぜひ、お会いしたいんです」
喫茶店「エトワール」の|扉《とびら》を|押《お》した時、|奥《おく》のシートにあのノッポの青年を見つけても、久美子は少しも|驚《おどろ》かなかった。
「――|探《たん》|偵《てい》社の方?」
「そうです」
矢野兼一、と|名《めい》|刺《し》にあった。|某《ぼう》探偵社の調査員。
「で、広江さんの事で、何をおききになりたいんでしょう?」
「親しくしておられたと聞きまして」
「別段親しかったわけではありませんわ」
久美子は、広江奈美の会社での様子を簡単に説明した。
「ですから、個人的なお付合はありませんでしたの」
「そうですか」
矢野兼一はメモを取ると、開いた手帳を仕方なく閉じて、「残念だな」
「――こんな事、伺っていいのかどうか分りませんけど、なぜ広江さんの事をお調べになっていらっしゃいますの?」
矢野は、やや考え込んでから、息をついて身を乗り出すと、
「そうですね、お話ししてもいいと思いますが。――あなたは|白《しら》|井《い》|由《ゆ》|美《み》という女性をご存知ですか?」
「いいえ」
「ご存知のはずですよ」
矢野は白い上衣の内ポケットから一枚の写真を取り出して、「この女性です」
写真を見て、久美子は目を見張った。
「これは……広江さんだわ」
「本名、白井由美。以前勤めていた地方銀行から一億円を|横領《おうりょう》して姿を消した女です」
あの、物静かな広江さんが……。
「白井由美。広江奈美。――似ていますわね」
「早く|慣《な》れるように、|響《ひび》きの似た名前を使ったんでしょう」
「でも……変だわ、お葬式に親類の方もちゃんといらしていたのに」
「白井由美の親類ですよ。死んで初めて居所が分ったわけでしてね。親類たちにしても、わざわざ|彼《かの》|女《じょ》が横領犯人だと知らせる事もないと思って、|黙《だま》っていたんでしょう。――この横領事件は、実は|公《おおやけ》にはされていないんです」
「というと……」
「行員の不正事件というのはその銀行の信用を|著《いちじる》しく|損《そこ》ねますからね。小さな地方銀行にとっては、|預《よ》|金《きん》者にそっぽを向かれるのは何より|怖《こわ》い。そこで警察へも届けずに、内部でもみ消してしまったわけです」
「それであなたが――」
「うちの探偵社へ、|極《ごく》|秘《ひ》で白井由美を|捜《さが》し出すよう、銀行から|依《い》|頼《らい》があったんです。見つけ出して、金を取り|戻《もど》せれば、犯行には目をつぶるという条件でね」
矢野はため息をついた。「足を|棒《ぼう》にして捜し回り、やっと彼女が広江奈美という名で、あなたの会社にいると分った。そこへ事故死の|報《しら》せでしょう」
久美子は|肯《うなず》いた。
「それじゃ、何もかも水の|泡《あわ》で――」
「いや、まだ|肝《かん》|心《じん》の点が残っています」
「何ですの?」
「金です。横領した一億円がどうなったのか。使い|尽《つ》くしてしまったのか、それともどこかに|隠《かく》してあるのか……。それを何とか|突《つ》き止めなければ、|僕《ぼく》の仕事は終らないんです」
一億円! 久美子などには、単なる数字としてしか受け取れない金額だ。
「でも、広江さんは――いえ、彼女はとても地味な人でしたわ。着ている物も、持っている物も。とてもそんなお金を使っているようには……」
「それはそうです。派手な生活をすれば人目につきますからね。しかし分りませんよ。夜には全く別の生活をしていたのかもしれない」
矢野は、久美子の顔を|窺《うかが》うように見ながら、「どうでしょう? 力を貸していただけませんか?」
「私がですか?」
久美子は驚いて、「でも、私に何ができるんでしょう?」
「彼女の住んでいたアパートをご存知ですか」
「ええ……。一度、電車が事故で|停《とま》ってしまって、|泊《と》めてもらった事があります」
「部屋の中を調べてみたいんですよ」
「でも|鍵《かぎ》が――」
「そこを、あなたに|巧《うま》く管理人に話して、鍵を借りていただきたいんです。実は、昨日行きましてね、鍵を貸してくれと|頼《たの》んだんですが、僕ではだめなんですよ」
矢野は|苦笑《くしょう》した。「人相が悪いのかな」
「私――そんな事できませんわ」
久美子は|唖《あ》|然《ぜん》として矢野を|眺《なが》めた。
「なに、簡単ですよ。友達だけど、彼女に貸したままになっているものがあるから、とでも言えば。あの手の老人は、あなたのような若い女性には弱いですからね」
「私、そう若くはありませんわ」
久美子は冷ややかに言い返した。
「二十八はまだ若い|盛《さか》りですよ」
久美子は目を見張って、
「どうして私の|年齢《とし》を?」
「ちょっと調べさせていただきました」
矢野がいたずらっ|児《こ》のような笑いを|浮《う》かべて言った。久美子はムッとして、
「失礼しますわ、私。とてもお手伝いなどできません」
と席から立ち上った。|誰《だれ》がそんな事、するもんですか! 誰が――。
「ま、ゆっくりお捜しなさい。帰りに鍵を置いてって下さい」
「すみません」
「なに構いませんや」
初老の管理人は愛想良く|微《ほほ》|笑《え》んで出て行った。本当に、|呆《あっ》|気《け》に取られるほど簡単な事であった。以前の記憶と、さして変っていない広江奈美の――いや、白井由美の部屋の中でぼんやりしていると、ドアが静かに開いて、矢野が顔を|覗《のぞ》かせる。
「|巧《うま》くやってくれましたね」
「管理人のおじいさんに見られませんでした?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》、|抜《ぬ》かりはありませんよ。さて、早いとこ済ましてしまいましょう」
矢野は部屋の中を見回した。そしてやおらコマネズミの様に目まぐるしく、方々の|戸《と》|棚《だな》や引出しを調べ始めた。久美子は、彼の調べっぷりの、|素《す》|早《ばや》く、しかも順序立った正確さに舌を巻いた。死んだ人の部屋を、こんな風に|物色《ぶっしょく》するなど、何だか|後《うしろ》めたい思いだったが、横領された金を見つけるためなのだと自分を|納《なっ》|得《とく》させる。今はそれよりも、矢野の仕事が早く終らないかと、気が気でなかった。さっきの管理人が様子を見に来たらどうしよう?
矢野は手紙の|束《たば》を見付けると、ざっと|宛《あて》|名《な》を見て、ポケットへねじ込んだ。
「そんな! いけませんわ!」
と思わず口を出すと、
「今読んでいる|暇《ひま》はありませんからね。女が金を横領するのは大体が男のためと決ってるんです。この手紙で男が誰だか分るかもしれない」
そう言われれば久美子も黙らざるをえなかった。それに自分も、この|空《あき》|巣《す》まがいの仕事の片棒をかついでいるのだ。
矢野は、他に銀行の通帳を調べて、残高が十万足らずしかないのを見て首を|振《ふ》った。目立つほどの金額の出し入れはない。
「まあ、当り前の用心だろうな……」
矢野は、それから押入れから台所の食器戸棚の|隅《すみ》|々《ずみ》までを、十分ほどの間に|手《て》|際《ぎわ》よく調べて、
「さて、少なくともここには金の|行方《ゆくえ》の分る物はないようだ。引き|揚《あ》げましょうか」
久美子は一人で先に管理人室へ行って、鍵を返しがてら、管理人の老人と短い立ち話をした。矢野の方はその間に、管理人からは死角になる|壁《かべ》|際《ぎわ》を身をかがめてすり抜けて出て行った。久美子は冷汗を|拭《ぬぐ》って、アパートを出た。
「あの荷物はどうするんでしょう?」
駅への道すがら、久美子は|訊《き》いてみた。
「白井由美の|親《しん》|戚《せき》が引き取りに来るでしょうね。その前に捜さなくちゃならなかったので、急いだんですよ。すみませんでしたね」
久美子は黙っていた。
もう八時に近く、とっぷりと日は|暮《く》れて、昼の暑さも大分やわらいでいた。
矢野が一つ|咳《せき》|払《ばら》いして、
「どうでしょう……その……夕食でも」
「|結《けっ》|構《こう》です」
「まあ、そう言わないで。ほんのお礼のつもりです。ぜひ――」
「主人と子供[#「主人と子供」に傍点]が待ってますから」
矢野がちゃんと自分の事を独身と調べているのを承知の上の|冗談《じょうだん》だったが、矢野は一瞬、
「えっ?」
と目を丸くした。――それから、二人で一緒に笑い出してしまった。
「驚いたなあ。そんな冗談を言う人だとは思わなかった」
「一人暮しのハイミスだって冗談ぐらいは言いますわ」
「まだ若いですよ」
「そうかしら?」
「一緒に食事できたら、あなたにそれを|納《なっ》|得《とく》させてあげますがね」
久美子はちょっとためらってから、
「――ご一緒しますわ」
と言った。
二人は駅前の商店街へ抜ける近道へ折れた。二、三十メートルの|薄《うす》|暗《ぐら》い細い|小路《こうじ》で、他に|人《ひと》|影《かげ》もない。明りといえば小路の中ほどに一本だけ、街灯がポツンと立って、小路に青白い光を投げているだけだ。
久美子は、こんな静かな、|人《ひと》|気《け》のない道を男と二人で歩いているのだと気付いて、急に|鼓《こ》|動《どう》の早まるのを感じた。――|馬《ば》|鹿《か》ね! 十六や十七の|娘《むすめ》でもあるまいし! 自分にそう言い聞かせても、胸の高鳴りは|抑《おさ》えようもなかった。
久美子は会社でも男|嫌《ぎら》いで通っていた。生来の|芯《しん》の強さと、|頑《かたく》ななまでの|潔《けっ》|癖《ぺき》さが、自然に男性を遠ざけていたのである。|小《こ》|柄《がら》な|体《たい》|躯《く》、やや|細面《ほそおもて》ながら、きりっと整った顔立ちは、ふっと通りすがりの目を引くほどの美人といってもよかったのだが、それはやや人好きのする顔とは|違《ちが》っていた。
久美子自身、学校時代の友人たちが、すでに二児の母親になったり、結婚したり、といった|報《しら》せを受け取る|度《たび》に、全く平静でいられたわけではない。しかし、別に|焦《あせ》ったり、ねたんだりはしなかった。自分は自分だ。――強がりでも負け|惜《お》しみでもなく、そう言い切る事が彼女にはできた。
今のこのときめきが、だから彼女には不思議だった……。
短い小路は終ろうとしていた。矢野は二、三歩|遅《おく》れて、タバコに火をつけていた。そこへ――曲り角の向うに足早な足音がしたと思うと、白井由美が現れたのである。
久美子も相手も、ほとんど同時に足を止めた。数メートルの間を置いて、向き合っていたのは、ほんの数秒間であったに違いない。だが、久美子には、世界の|総《すべ》てが永遠に動きを止めたようにも思われた。
短く息を|呑《の》んで、身を|翻《ひるがえ》したのは白井由美の方だった。かき消すようにその姿が消えると同時に、久美子は、
「広江さん!」
と口走って|崩《くず》れるようによろけた。矢野の|腕《うで》が危なく抱き止める。
「お、おい、大丈夫?」
矢野がすっかり|面《めん》|食《く》らった様子で、「ど、どうしたんです、一体!」
「ああ! 広江さんだわ!」
「え?」
「見なかったの? 今、ここに――」
「広江って――白井由美が? まさか!」
「ここにいたのよ! そこに立っていたのよ!」
「誰かいたのは分ったけど……」
「顔を見たでしょう?」
「タバコに火をつけていたもんで、見なかったんですよ」
「確かよ! 確かにあの人よ!」
よろめく足をようやく|踏《ふ》みしめて、久美子は走り出て、角を曲った。
白井由美の姿は、もうどこにもなかった。
2
「何を考えてるんだい?」
久美子はふっと夫の顔へ視線を|戻《もど》した。
「別に、何も……」
ホテルの展望レストランは、もう十時を回っているのに、かなりの|混《こ》みようであった。
「新婚がちらほら目に付くね」
「ほんとね。みんな楽しそう」
「向うもそう思ってるさ」
久美子は暗い窓の外へと視線を向けた。海辺に建てられたこのホテルは、|荒《あら》|波《なみ》が岩を|噛《か》む|崖《がけ》を見降している。はるか眼下の庭園には|柔《やわ》らかい照明の中に、そぞろ歩くカップルたちの姿が小さく|眺《なが》められる。
「何か飲むかい?」
「え?」
「カクテルか何か……」
「ああ。いえ、いらないわ」
「そうだね。|眠《ねむ》っちまっちゃ困る」
と兼一が|微《ほほ》|笑《え》んだ。
久美子の|笑《え》|顔《がお》がやや固くなる。――久美子は兼一に|接《せっ》|吻《ぷん》以上を許した事がない。別に大した事じゃないんだわ。みんな、ちゃんと済ませてるんだもの。
「部屋へ行こうか?」
久美子の思いを察したように兼一が|訊《き》いた。
「ええ」
二人は席を立った。他のテーブルの間を抜けて行く間、レジのカウンターで、兼一が伝票にサインするのを待つ間、久美子は、客たちの視線を一身に浴びているようなきまり悪さを感じて、顔を|伏《ふ》せたままだった。みんな、これから私たちが何をするか知っているんだわ……。
エレベーターに乗ると、ホッとした。
「――一緒でなくても、いい?」
部屋へ戻って、スーツケースの中から|寝衣《ねまき》などを取り出しながら、久美子は訊いた。入浴の事だ。
「いいよ。先に入っておいで」
「ありがとう」
本格的な洋式のバスに少々|戸《と》|惑《まど》いながら、ていねいに体を洗う。洗面台の大きな鏡に|裸《ら》|身《しん》が映るのがきまり悪く、見ないようにしながら、つい目が向いてしまうのだった。
熱いシャワーを|充分《じゅうぶん》に|浴《あ》びて、やっと入浴したという気になる。――|淡《あわ》い水色のネグリジェ姿で部屋へ戻ると、兼一は明日からの旅行の日程を見直していた。
「お先に……」
振り向いた兼一の目が、湯上りの新妻の寝衣姿をなめるように見つめた。久美子は照れくさくなって、
「早く入ったら」
「ああ、じゃ浴びて来るか」
兼一がバスルームへ消えると、久美子は、シャワーのせいばかりでもないほてり[#「ほてり」に傍点]に、|頬《ほお》を染めながら、鏡の前に|座《すわ》った。二人が寝るベッドが映っている。
本当に、こんな風になるなんて……。久美子は|湿《しめ》った|髪《かみ》をブラシでゆっくりとくしけずった。
「死んだのが|誰《だれ》か分りましたよ」
矢野兼一が言った。――あれから三日後の昼休み、久美子の勤めるオフィス・ビルの地下にある|喫《きっ》|茶《さ》店である。
「誰ですの?」
と思わず久美子が乗り出した。
白井由美が生きていたとすると、彼女の車で死んだ人間は別人だった事になる。矢野は、久美子の見たのが|幻《まぼろし》ではないと信じたのだ。
「あの部屋にあった手紙にね、ある女友達からのがありましてね、車の|免《めん》|許《きょ》が切れてるんだが、ぜひレンタカーを使いたいので、彼女に借りてほしいと頼んでるんですよ」
「まあ、それじゃその人が……」
「死体は全く判別できないほど焼けてしまってたんです。だから警察も、レンタカーを借りたのが白井由美だったので、当然死体も彼女のものだと考えたわけですよ」
「その死んだ女の人は……」
「調べてみますと、バーの|臨《りん》|時《じ》|雇《やと》いで働いてた女でね、|田舎《いなか》から出て来て一人|暮《ぐら》し、あの日、勤めてたバーをやめてるんですよ。だから|行方《ゆくえ》不明になっても誰も気が付かなかったんでしょう」
「まあ。――でも黙ってるわけにはいかないでしょう?」
「何とか実家の住所を調べて知らせてやりましょう。ただし」
と付け加える。「白井由美を見つけてからです」
「どうしてですの?」
「死んだのが白井由美でないと分れば、当然警察が乗り出して来るし、そうなれば、なぜ彼女が別名を使っていたのか疑問に思うでしょう。横領の一件が明るみに出ては銀行側が困りますからね」
「でも、人が死んでるのに」
「僕らの商売はね、信用が第一です。客の秘密を絶対に守る。それを破ればたちまち依頼は|途《と》|絶《だ》えてしまいますよ」
久美子は|渋《しぶ》|々《しぶ》|納《なっ》|得《とく》した。
「どうやって彼女を捜し出すんですの?」
「まだ分りません。――ただ、あの事故は白井由美にとっても思いがけないものだったはずですからね。自分が死んだと思われているのを知って、姿を隠す絶好の機会と考えたんでしょうが、前もって準備する時間はなかったと思います。だからああしてアパートへ戻ろうとしてたんじゃないでしょうか」
「管理人かアパートの人に見られるかもしれないのに?」
「何かよほど大切な物があったんじゃないですかね。あの手紙か、それとも金を預けた貸金庫の鍵……」
「でも部屋には――」
「ええ、何もなかった。僕も探し物には、いささか自信がありますがね」
「手紙から何か分りまして?」
「表面上は何も」
「男の名前か何か……」
「男からの手紙はありませんでしたよ。もちろん、だからといって男がいなかったとは言えませんがね」
「ええ、きっと男がいたはずですわ。そうでなければ、とても……」
久美子は女なんて|哀《あわ》れなものだと思った。白井由美もきっと男をつなぎ止めるために、銀行の金をごまかし続けていたのだろう。たぶん、彼女自身は一円の金も|懐《ふところ》にしてはいないに違いない。それほど親しかったわけでもないのに、久美子はそう信じて疑わなかった。あの|控《ひか》え目で、いつも何かを|忍《しの》んでいるような女に、その想像はあまりに似つかわしかった……。
「あれ以来、毎晩アパートの近くに張り込んでるんですよ」
矢野が言った。「彼女がまた現れるかもしれないと思ってね」
「来るでしょうか?」
「分りません。しかし、今の所、|他《ほか》に彼女の居場所を知る|手《て》|掛《がか》りもなくてね」
矢野は一息入れて、「ところで――どうです、今夜、夕食は?」
「張込みはどうなさるんですの?」
「九時や十時までは人の出入りが|激《はげ》しいですからね、来るとしても真夜中ですよ」
「分りました。ご一緒しますわ」
「よかった!」
矢野は伝票を取って立ち上った。「じゃ会社が終ったらここで待っていますよ」
八時半|頃《ごろ》から雨になった。
「すみませんね」
「いいえ」
矢野と久美子は、一つの|傘《かさ》に身を寄せ合って歩いていた。久美子の女物の折りたたみ傘では、いくら二人が寄り|添《そ》っても、外側の|肩《かた》は|濡《ぬ》れてしまう。
「アパートの向いに小さなスナックがあります。あそこにいると見張っていられますから」
「一晩中?」
「閉店になったら、|軒《のき》|下《した》に突っ立ってますよ」
と矢野は苦笑した。
「もう少しね」
白井由美のアパートへの道である。雨がひどいので、傘のある久美子が矢野を送って来たのだった。
久美子は、矢野にほとんど抱きかかえられるような|格《かっ》|好《こう》で歩きながら――いささか|唐《とう》|突《とつ》だが、幸福だった。|誰《だれ》かに寄りかかり、自分を任せて歩くのは、初めての事だったから……。
今さらの様に、久美子は、自分が|孤《こ》|独《どく》に|疲《つか》れているのに気付いて驚いた。男性と食事をし、|互《たが》いの事を話し合い、ウインドゥショッピングをして歩く。高校生――いや中学生だってやっているような、そんな事が何と楽しく、心を生き生きと|弾《はず》ませてくれるのだろう!
矢野は楽しい話し相手だった。今までに|扱《あつか》った色々な事件の裏話などを面白く聞かせて、また|軽妙《けいみょう》な冗談で久美子を笑わせた。以前、こんなに笑ったのはいつだったろう? 久美子はふと自問した。ずいぶん長い間、笑いを失っていた様な気がする。
「濡れちゃったでしょう」
歩きながら矢野が心配そうに訊いた。
「ええ、少し」
「申し訳ないです」
「構いませんわ」
「もうちょっとこっちへいらっしゃい」
矢野の腕で|腰《こし》を強く抱き寄せられ、久美子がちょっと身を固くした。どちらからともなく足を止める。久美子は不意に矢野の胸に抱かれて、無我|夢中《むちゅう》で、生れて初めての|接《せっ》|吻《ぷん》を受けた。傘が頭上で、久美子の心そのままに|揺《ゆ》らいで、雨が二人の髪へ降りかかる……。
――その車は、草原に|潜《ひそ》んで|獲《え》|物《もの》を待ち受ける|猛獣《もうじゅう》のように、|総《すべ》ての明りを消して、雨の暗がりの|奥《おく》に息をひそめていた。二つの影が向い合って重なると、車は静かに|唸《うな》りを立てて|身《み》|震《ぶる》いした。ヘッドライトがカッと目を開く。車は動き出すと、たちまちのうちにスピードを上げ、雨の|幕《まく》を切り|裂《さ》いて|突《とっ》|進《しん》した。
|唇《くちびる》が|離《はな》れると、息を弾ませながら、久美子はうつむいた。自分が何をしたのか、やっと分ったのだ。こんな事になるなんて、私が[#「私が」に傍点]こんな風になるなんて!
「|怒《おこ》ってるんですか?」
矢野が久美子の顔を|覗《のぞ》き|込《こ》む。
「いいえ……」
か細い声が雨音に消え入るようだ。
「僕はつい、その……」
急にまぶしい光を浴びて、矢野ははっと振り向く。二つのライトがもう目前だった。
「危ないっ!」
矢野が久美子を思い切り突き飛ばして、自分は反対側へ飛びすさった。車は二つに|割《わ》れた影の間を|間《かん》|一《いっ》|髪《ぱつ》で走り抜けた。
「何て車だ!」
矢野は、久美子へ|駆《か》け寄った。むろん傘は地面に転がって、|倒《たお》れた久美子はびしょ濡れだ。
「大丈夫?」
矢野が抱き起こすと、久美子はようやくショックからさめて頭を振った。
「けがは?」
「ええ……大丈夫らしいわ……」
「本当に乱暴な車だな。全く――」
矢野は言葉を切って顔を上げた。ヘッドライトがこっちへ向って近付いて来る。|一瞬《いっしゅん》、|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「戻って来た!」
久美子はもう何が何だか分らなかった。矢野に引きずられるように道を走った。車が、たった今まで二人のいた|道《みち》|端《ばた》をかすめて、置いてあったポリバケツを宙へはね飛ばした。そして道の中央へと戻って方向を定めると、再び加速して二人を追う。
みるみるうちに車と走る二人の|距《きょ》|離《り》が|狭《せば》まる。矢野は久美子をかつぎ上げるようにして道の|端《はし》へと身を|躍《おど》らせた。車が二人に水しぶきを浴びせて走り抜ける。息を切らしつつ二人が体を起こすと、急ブレーキの音がして、次いで赤いテールランプが|闇《やみ》の中からぐんぐん迫って来た。バックして来たのだ。
殺される[#「殺される」に傍点]! 久美子は初めて|恐怖《きょうふ》を感じた。
「――弱りましたなあ」
|副《そえ》|田《だ》という五十がらみの|刑《けい》|事《じ》は、お手上げといった様子で、矢野と久美子を|交《こう》|互《ご》に見やった。
「それじゃ、お二人とも、殺されかかった事を否定なさるんですね?」
「もちろんですよ」
矢野は、馬鹿馬鹿しいというように肩をそびやかした。「そりゃあ、|無《む》|鉄《てっ》|砲《ぽう》なドライバーの車に、あやうくはねられる所でしたよ。でも|故《こ》|意《い》に殺そうとしたなんて……」
「しかしですね、たまたま二階の部屋の窓から見ていた通報者は同じ車がまた戻って来て、あなた方をひこうとしたと言ってますよ。たまたま反対方向から別の車が通りかかったので、その車は走り去ったそうですが、そうでなければ、お二人とも死んでいただろうと」
「夜で、しかも雨の中でしたからね、|見《み》|間《ま》|違《ちが》えたんでしょう」
刑事は|諦《あきら》めたようにため息をついて、久美子を見ると、
「あなたも同じ意見ですか?」
と|訊《き》いた。久美子はやや間を置いて|肯《うなず》いた。
「ええ」
「それでは仕方ありませんな。|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》であるあなた方がそうおっしゃるのなら、間違いありますまい」
矢野が早くも|椅子《いす》から腰を浮かして、
「それじゃ|忙《いそが》しいので、これで――」
「まあ、ちょっと待って下さい」
「まだ何かあるんですか?」
「手続き上の事ですが、一応事件の通報があった以上、報告書を作成しなければなりませんのでね、いや、全くお手数で|恐縮《きょうしゅく》ですが、お話を|口述《こうじゅつ》筆記したものに署名と印をいただきたいんです」
「分りました」
矢野は諦めてまた腰を降す。副田という刑事は|隣《となり》の部屋へのドアを開けて、
「では、矢野さん――でしたな? こちらの部屋で、速記係にお話し下さい。なに、|大《おお》|雑《ざっ》|把《ぱ》なところでよろしいんですよ」
矢野はちらりと久美子を見ると、仕方ないといった苦笑を見せて、隣の部屋へ姿を消した。久美子には、矢野の視線の意味が分っていた。一人になっても、決して刑事の口車に乗せられないように、とその目は言っていたのだった。あくまで事故[#「事故」に傍点]で押し通すように……。
一夜明けた今も、あの恐怖の思いは、まるで数分前の出来事のように、久美子を|怯《おび》えさせた。あの赤いテールランプが目前に|迫《せま》って来た時、久美子は本当に殺されると思った。たまたま別の車が通りかかって、救われたものの、数分の間、立ち上る事もできずに、冷たい雨に打たれ、濡れた|舗《ほ》|道《どう》に腰を降していたのだ。
二人はびしょ濡れの体でタクシーを拾い、久美子のアパートで一夜を明かした。矢野は久美子に手を|触《ふ》れようとはしなかった。ただ、警察に届けようという久美子に反対して、
「あれを運転していたのが白井由美だとしたら、身近にいるわけだから、見つけ出すチャンスがあります。警察には口出ししてほしくないんです。分って下さい」
久美子も、いやとは言えなかった。ただ、|目《もく》|撃《げき》者の通報と久美子が道に落として来た定期入れから、警察へ呼ばれる事になったのだった。
本当に、この人、刑事なのかしら?――久美子は思った。副田刑事は|釣《つり》や|孫《まご》の相手をして過ごしているのがいかにも似合いそうな、どこにでもいる|平《へい》|凡《ぼん》な老人に見えた。
「いや、どうも……」
副田は、矢野が|隣《りん》|室《しつ》へ行くと、ぶらぶらと自分のデスクへ戻りながら言った。「わざわざ足を運んでいただいて」
「いいえ、とんでもない」
父に似ている、と思った。どこかおっとりとして、楽天家で、それでいて、何か人生を諦めてしまったような|寂《さび》しさが、ふと顔をのぞかせる……。
「小畑久美子さん、でしたな」
「はい」
「おいくつです?」
「二十八になります」
やはり一人にしておいて|訊《じん》|問《もん》するつもりなんだろうか、と久美子は|警《けい》|戒《かい》した。――副田はちょっと笑って、
「私の娘も同じ|年齢《とし》ですよ」
と言った。久美子は思わず|微《ほほ》|笑《え》んでしまった。
「警察の連中なんて、|優《やさ》しそうに見えるだけですよ」
外へ出ると、矢野が言った。
「あら、でも、今の人、本当に気さくな人だったけど」
「|凶悪犯《きょうあくはん》が相手になれば、ガラリと態度が変るんですよ」
それはそうだろう、と思った。でなくては勤まるまい。しかし、久美子には、あの副田刑事が、ヤクザを|怒《ど》|鳴《な》りつけている図は、どうしても想像できなかった。
「これからどうするんですの?」
「さて……。何とか白井由美の|潜《ひそ》んでいる場所を突き止めなければ。――あなたにも、ずいぶん|迷《めい》|惑《わく》をかけて申し訳ありません」
「いいえ」
「そうだ、|他《ほか》にも|謝《あやま》る事がありましたね」
「え?」
一瞬|戸《と》|惑《まど》ってから、久美子は、矢野の言うのが、昨夜の|接《せっ》|吻《ぷん》の事だと気付いて、顔を赤らめた。|慌《あわ》てて話をそらす。
「でも――あれは本当に彼女[#「彼女」に傍点]だったんでしょうか?」
矢野はため息をついて、
「他に誰かに命を|狙《ねら》われる覚えがありますか?」
「いいえ」
久美子は答えてから肯いた。「そうですわね。でもどうして私たちを……」
「さあね。顔を見られたからか、それとも……」
「それとも?」
「分りません」
矢野は首をかしげて、「命を狙うほどの必要があるのかどうか、不思議ですよ」
二人は通りがかりのパーラーで軽い昼食をとった。警察に呼ばれたので、久美子は仕方なく会社を休んでいたのだ。
「矢野さんは、広江さんを――いえ、白井由美を、見た事があるんですの?」
食後のコーヒーにひと息つきながら、久美子が訊いた。
「いいえ。写真と資料で知ってるだけですよ」
「そう。でも、もし彼女を知っていたら、私たちを殺そうとしてるなんて、きっと信じられませんわ」
「おとなしい人間ほど、追いつめられると危険なんですよ。何をするか分らない」
矢野は|真《しん》|剣《けん》な|口調《くちょう》で言った。「あなたをとんでもない事に巻き込んでしまったようですね」
「いいえ。だって、私も|大人《おとな》ですもの。承知の上でお手伝いしているんですから、そんな心配はなさらないで」
「いや、そうは行きません。僕と一緒でない方が安全でしょう。この調査の|目《め》|処《ど》がつくまで、お会いしないようにしましょう」
「でも――」
「様子は電話でお知らせします」
「分りました」
|落《らく》|胆《たん》を極力顔に出さないように、久美子は無理に場違いな|微笑《びしょう》を作った。
その二日後の夜だった。残業が長びいて久美子が退社したのはもう九時近くであった。
私鉄の駅を降りて、アパートまでの|寂《さび》しい夜道を|辿《たど》りながら、久美子は、矢野との、あの雨の中の接吻を想い出していた。ほとんど夢中で、何一つ実感として残ってはいなかったが、それを考えるだけで、不思議にときめきが戻って来た。――あれが私の最初で最後の接吻になるんじゃないかしら。久美子は今日も矢野から電話がなかった寂しさに、ついそんなぐちめいた独り言を|呟《つぶや》いた。
夜になっても、まだ昼の熱気が|淀《よど》んでいるようで、ブラウスが汗ばむ|肌《はだ》にまつわりついた。
その人影は、電話ボックスの|陰《かげ》で、待ち受けていた。|一《いっ》|旦《たん》久美子をやり過しておいて、背後から|襲《おそ》いかかる。久美子の顔を、分厚い布が|覆《おお》った。ツンと頭の|芯《しん》までしびれるような薬の|匂《にお》いが鼻をつき、|抵《てい》|抗《こう》する間もなく、久美子は急速に意識を失って行った……。
3
兼一はまだバスルームから出て来ない。
ネグリジェ姿で、簡単な化粧を済ませた久美子は、部屋の中をぶらぶら歩いたり、ベッドへ腰を降してみたり、落ち着かなかった。いっそ先にベッドへ入っていようかと思ったが、彼がどんな風にするのか――分らないし、と思い直して、ますます|緊張《きんちょう》してしまう。
少し落ち着かなくちゃ。久美子は自分にそう言い聞かせて、小さなベランダへ出てみる事にした。暗い夜が広がって、その奥から波のざわめきが立ち|昇《のぼ》って来る。|霧《きり》のように立ちこめる潮の|香《か》を胸に吸い込むと、少し気分が静まった。――春の夜は、暖かく、優しく肌へまとわりつくようだ。
手すりに両手をついて、じっと暗い水平線に目をやっていると、
「何してるんだい?」
兼一の声がした。振り向くと、室内の明りに、兼一のシルエットが浮かんでいる。
「お入りよ。|風邪《かぜ》引くぞ」
「――ええ」
久美子は、そろそろと室内へ戻った。
「待たせちゃったね。ひげを当ってたもんだから」
兼一は|顎《あご》を|一《ひと》|撫《な》でしてニヤリと笑うと、「痛いと困るからね」
何となくちぐはぐな感じの真新しいパジャマ姿の兼一は、久美子の肩を抱いて、ベッドに|並《なら》んで腰を降した。
「どうしたんだい? 顔色が悪いよ」
兼一は久美子の青ざめた顔を見て|驚《おどろ》いたように声を上げた。
「そう?」
「潮風に当りすぎたんじゃないのかい? 大丈夫?」
「大丈夫よ。ただ――」
「何だい?」
久美子は、しばらくためらってから、言った。
「ね、お願いがあるの。――私、何だか|怖《こわ》くて。あの――これからする事が」
「ああ。分るよ。でもね、そんなに――」
「ええ、頭では分ってるのよ。何も心配する事はないんだって。ただ、不安が――|鎮《しず》まらなくって。ね、兼一さん、悪いんだけど、ほんの少しでもいいの、一人にしてくれない?」
「それはいいけど――」
「あのラウンジにいてくれたら、私、気持が落ち着いたら、電話をかけるわ。ほんの十分かそこらでいいの」
「分った」
兼一は快く|肯《うなず》くと、パジャマをツィードとスラックスに|着《き》|替《が》える。
「じゃ、待ってるからね」
「ごめんなさい」
「なに、いいさ」
軽くウインクして兼一は出て行った。
久美子は張りつめていた糸が切れたように、ベッドへ|崩《くず》れるように座ると、両手に顔を|埋《うず》めて、深く息をつく。――そしてそのまま、どれくらい動かずにいただろうか。再び顔を上げた時、その表情は|穏《おだ》やかだった。
静かに手をのばして、受話器を取る。
暗がりの中で、久美子は意識を取り戻した。少し前から意識が戻りかけていたのだろう、固い|床《ゆか》の上に、手足を|縛《しば》られて横たわっているのにも、別に驚かなかった。
帰宅|途中《とちゅう》で襲われ、どこかへ運ばれて来たのをはっきり|憶《おぼ》えていた。目かくしをされたまま、車のトランクに入れられていた時、一時意識を取り戻したのだったが、犯人の方も、途中車を|停《と》めて、トランクを開け、もう一度久美子に|麻《ま》|酔《すい》薬をかがせて眠らせたのだ。
ここはどこなのだろう? もう目かくしはなかったが、周囲は全くの、|闇《やみ》で、少しも様子が分らない。
まだ恐怖は実感できなかった。むしろ、一体何のために、こんな事をされるのか、それが不思議だった。犯人は――おそらく白井由美であろう。二度目に薬をかがされた時、トランクへ近付いて来るハイヒールらしい|靴《くつ》|音《おと》と、かすかに|漂《ただよ》う|香《こう》|水《すい》の|匂《にお》いを憶えていた。
矢野は果して助けに来てくれるだろうか?
そう考えて、久美子ははっとした。白井由美が自分を|誘《ゆう》|拐《かい》したのは、矢野をおびき出すためではないだろうか? この|人《ひと》|気《け》のない場所で、二人を殺すためでは?
考えれば考えるほど、そうに違いないと思えて来て、久美子の不安は|募《つの》った。しかし、手足を縛られていては、どうする事もできない。
じっと耳を|澄《す》ますと、風が|木《こ》|立《だち》を|渡《わた》る音が聞こえる。そういえば夏の夜といっても、少しも|蒸《む》し暑さが感じられないのは、ここが、どこか山の中であるせいかもしれない。――それにしても、白井由美はどこにいるのだろう? 人のいるような物音が少しも聞こえないのだ。
体の|節《ふし》|々《ぶし》が痛んで、手足からも感覚が|失《う》せていた。そのまま、何時間そうしていただろうか。ふと、自動車の音が近付いて来るのに気付いた。音が下から聞こえるのは、今いるのが二階だからなのだろう、と思った。
車は家の前に|停《とま》って、ドアの開閉する音がした。――しばらくの|静寂《しじま》があった。そして突然、階下で|激《はげ》しい争いの音がした。男女の声が入り乱れた。男の方は確かに矢野の声だ。何かが|壊《こわ》れる音、倒れる音。そして階段を|駆《か》け上って来る足音が聞こえたかと思うと、久美子の目の前でドアが開いて、矢野が立っていた。
「久美子?」
|部《へ》|屋《や》へ戻って来て、兼一は戸惑った。全部の明りが消えて、真っ暗だったのである。
「|寝《ね》ちゃったのかい?」
まさか、電話で「もう大丈夫」と言って来たのに。「ほんの十分」が三十分にもなったが、兼一はおとなしく待っていたのだ。
「明りをつけるよ」
言いながら、ドアのわきのスイッチを|手《て》|探《さぐ》りで押す。明るくなると、兼一は一瞬立ちすくんだ。――ベッドの前に、久美子が|全《ぜん》|裸《ら》で立っていた。
「ごめんなさいね」
久美子は言った。「もう迷ったり、心配したりするのはやめたの。これはあなたのものよ」
若々しい、|汚《けが》れを知らぬ白い裸身を、兼一はほとんど荒々しく抱きしめ、ベッドへ押し倒した。服を|脱《ぬ》ぎ捨てるのももどかしく、兼一が彼女に重なって、二人が一つの体になるのに、数分とかからなかった。
「ああ、あなた! あなた!」
久美子は兼一を抱き寄せて夢中で口走った。
矢野は急いで久美子の|縄《なわ》を解くと、抱きかかえるようにして立ち上らせた。
「大丈夫?」
「ええ。――あなたは?」
「ちょっと手をけがしたけど、大したことはありません」
「まあ!」
「それより早く下へ」
「彼女は?」
と久美子は階段をまだよろける足で降りながら|訊《き》いた。
「白井由美ですか? 下で気を失ってると思います。全く|卑《ひ》|劣《れつ》だ! あなたのように無関係の人を、こんな目に会わせて」
「ここはどこですの?」
「|奥《おく》|多《た》|摩《ま》の山中のバンガローですよ。空家になっているんです。あなたを預ったから、ここへ来いと呼び出されましてね。なに、そう簡単にやられやしません。何といっても女ですからね。|猟銃《りょうじゅう》を持ってましたが一瞬の|隙《すき》に|巧《うま》く|殴《なぐ》り|倒《たお》しましたよ」
二人は階下の部屋へ入った。椅子が倒れ、ガラスの破片が散っていたが、誰もいない。矢野が見回して|叫《さけ》んだ。
「しまった! |逃《に》げたな」
外でエンジン音がした。二人がポーチ風の|玄《げん》|関《かん》から外へ出ると、車が|猛《もう》|然《ぜん》と走り去る所だった。
「僕の乗って来た車がある。追いかけましょう」
道は|塗《ぬ》りつぶしたような|闇《やみ》の中、くねくねと曲ってどこまでも|山《さん》|腹《ぷく》を巻くように続いていた。
「無茶だ!」
矢野が、ぐんぐん離れて行く前方の車を見ながら言った。「あんなスピードを、この山道で!」
言い終るより早く、久美子が思わず息を|呑《の》んだ。前方の車が急にかき消すように見えなくなったのだ。
「落ちたわ!」
矢野が車を停めた。久美子は、赤いテールランプがゆっくり回転しながら闇の中を転がり落ちて行くのをじっと見つめた。――やがて、それも見えなくなると、ちょっと|間《ま》を置いて、黄色い|炎《ほのお》の|塊《かたまり》が眼下の谷底を|一瞬《いっしゅん》照らして燃え上った。
「一段ときれいだよ、久美子」
兼一が言った。
「よして、こんな所で」
久美子はあたりへ目をやった。――朝。ラウンジで生ジュース、ゆで卵といった朝食をとりながら、二人は何となく|黙《だま》りがちだった。夫婦になった翌朝の、きまり悪さだろうか。
「いい天気になりそうだね」
兼一が窓の外を見ながら言った。遠く水平線が青空と|溶《と》け合うあたりは、白くかすんでいた。
「そうね」
久美子がぼんやりと言った。「でも、気の毒な人だったわ」
「え?」
兼一が訊き返した。
「――白井由美のこと」
兼一が顔を|曇《くも》らせて、
「何を言い出すんだい。もうとっくに済んだ事じゃないか」
と、ゆで卵をむき始める。
「済んでいないわ」
兼一は手を止めると、
「どういう意味?」
と訊いた。「まさか、また彼女に会ったとでも言うんじゃあるまいね」
|冗談《じょうだん》めかした言い方にも、久美子は笑わなかった。
「そうじゃないわ」
「それじゃ、一体何だっていうんだい?」
少し|苛《いら》|々《いら》した口調になる。久美子は、まっすぐに兼一を|見《み》|据《す》えて、
「あなたが彼女を殺したんでしょう[#「あなたが彼女を殺したんでしょう」に傍点]」
「|突《とつ》|然《ぜん》……何を言うんだ」
兼一はしばらくたって、やっと口を開いた。「冗談のつもりかい?」
「いいえ。真剣な話よ」
「分らないね。どういう意味だい、僕が白井由美を殺した[#「殺した」に傍点]というのは」
「あなたが彼女の愛人[#「愛人」に傍点]だったんでしょう」
「おい! 僕はまるで彼女を知らなかったんだぞ!」
「|嘘《うそ》だわ」
「どうして嘘だというんだ?」
久美子は深く息をついて、
「本当に簡単なことなのに、簡単すぎて気が付かなかったのよ。――私たちが|狭《せま》い|小路《こうじ》の出口で、彼女と出くわした時の事を憶えていて?」
「ああ」
「彼女は私の顔を見るなり、驚いて逃げてしまった。私はそう思い込んでいたの。――ところが、そんなはずはないのよ、なぜって、あの小路は、|真《まん》|中《なか》あたりに街灯が一本立っているだけで、他に何の明りもなかったわ。だから小路の端へ来ていた私たちは街灯を背にしていた[#「街灯を背にしていた」に傍点]事になるでしょう。白井由美は光を正面から受けて、はっきり顔が分ったけれど、彼女から見れば、私は光を背にしたシルエットでしかなかったはずなのよ」
「それは僕も同じじゃないか」
「違うわ。あなたはタバコに火をつけていた[#「タバコに火をつけていた」に傍点]。あなたの顔はマッチの火で照らし出されていたはずよ。だから、彼女は私の顔を見て驚いたんじゃなくて、あなたの顔を見て驚いて逃げたんだわ。それでいてあなたが彼女を知らないはずはないでしょう」
久美子の口調は淡々として、しかし、ためらいもなく確かだった。兼一は押し黙ったまま、手もとのコーヒーカップに目を落としている。
「あなたがどうして|嘘《うそ》をつく必要があったのか」
久美子は続けた。「それは、あなたが一刻も早く、彼女の手紙[#「手紙」に傍点]を手に入れたがっていたのを考えれば、当然分って来るわ。あの中に、あなたの手紙があったのね。――彼女に銀行の金を|横領《おうりょう》させていた愛人は、あなただったんだわ。どういう理由かは知らないけれど、彼女はあなたから逃げた。そして|巧《うま》く死んだと思わせた矢先、顔を見られてしまったので、車であなたと私をひき殺そうとした……」
久美子は首を振って、
「彼女があんな事をした理由が、私にはどうしても分らなかった。横領罪を|免《まぬが》れるために殺人を犯すなんて。――その理由があるとすればただ一つ、あなたを殺さなければ、自分が殺されるからだわ。そう気が付いてみると――あの最後の|出《で》|来《き》|事《ごと》も、真相が分って来たのよ」
久美子は|淀《よど》みがちになる言葉に|鞭《むち》|打《う》つように、背筋をのばして深々と呼吸した。
「私は自分を|誘《ゆう》|拐《かい》したのが白井由美だと思い込んでいたけれど、考えてみれば、彼女の姿を見たわけでも、声を聞いたわけでもない。そうなると、意識を失った私を車のトランクへ入れたり、あのバンガローの二階へ運び上げるのは、とても彼女の力では難しいから、むしろ私を誘拐したのは、あなた[#「あなた」に傍点]じゃなかったのか、と気付いたの。――あなたは、白井由美の居場所を探り当てたのね。そして彼女を私と同様、薬で眠らせて、あのバンガローへ閉じ込めておいた。それから、次に私を誘拐して、犯人が彼女だと思わせたんだわ。実際、途中で意識を取り戻すのを|見《み》|越《こ》して、わざとハイヒールの音を聞かせ、香水を|匂《にお》わせた――でも、彼女は香水なんか使っていなかったわ。そしてあの二階で私が気が付くのを待って、わざと白井由美に|隙《すき》を見せて彼女が逃げ出すように仕向けたのね。二階へかけ上って来て、私を助け出す[#「助け出す」に傍点]と、計算通り、彼女はキーの差したままになっていた車で逃げ出した……」
見るからに新婚と分るカップルが、楽しげに笑いながら、二人のテーブルのわきを抜けて行った。久美子は、ちらりとその後姿を見やってから、続けた。
「あなたは、あの車に|細《さい》|工《く》をしておいたんでしょう。彼女は車ごと転落して――今度こそ本当に死んだわ。警察もあなたの話を信じて別に|疑《ぎ》|惑《わく》も持たなかった。横領の件は明るみに出たけど、お金の|行方《ゆくえ》は分らずじまい、何もかも|巧《うま》く行ったわね。でも、いつまでも|隠《かく》しおおせるものじゃないのよ」
久美子が言葉を切ると、
「話はそれだけかい」
兼一が冷ややかに言った。
「お願いよ、兼一さん、私には嘘をつかないで、正直に言ってちょうだい。今、私が言った通りなんでしょう?」
「|馬《ば》|鹿《か》らしい!」
兼一が|吐《は》き捨てるように言った。
「そう……。でも、話は終っていないわ」
「まだあるのかい」
久美子が兼一の背後へ目をやった。振り向いた兼一の目に、ラウンジの入口に手持ちぶさたな様子で立っている、副田刑事の姿が見えた。
「君は――警察へ知らせたのか」
兼一の顔から血の気がひいていた。
「ごめんなさい。でも……」
久美子は|喉《のど》をつまらせながら、「何も知らないふり[#「ふり」に傍点]をして、|一《いっ》|緒《しょ》に|暮《くら》してはいられないわ。――警察が|詳《くわ》しく調べれば、あなたと白井由美との関係も、一億円の使い|途《みち》も、遠からず分ってしまうわ。お願いよ、本当の事を言ってちょうだい。私は――何年でも何十年でも、あなたを待つわ」
「やめろ!」
兼一が|怒《いか》りに青ざめた顔で叫んだ。「貴様は夫を売ったんだぞ! 正義|面《づら》しやがって、よくも平気でいられるもんだな!」
久美子は顔を|伏《ふ》せた。
兼一は、やや声を静めて、
「そうさ。その通りだよ。最初は別の事件の調査であの銀行へ出かけた。そしてあの女と知り合ったのさ。|一《いっ》|旦《たん》ものにしちまえば、面白いくらいに言う事をきく。それが女ってもんだ。ところが、横領がばれそうになって、あいつは逃げ出した。そして皮肉な事に、その|捜《そう》|査《さ》|依《い》|頼《らい》がこっちへ回って来たんだ。――見つけ出さなきゃ仕事にならないし、見つけりゃ、自分の首を|絞《し》める事になる。殺す他はなかった。巧くやったと、我ながらうぬぼれてたんだがな」
副田刑事が三人の刑事を従えてテーブルの|傍《そば》に立った。
「矢野兼一さんですな」
「ああ、分った。行くよ」
「兼一さん……」
「いいさ。早く忘れろよ」
兼一はいつもの口調に戻っていた。「君のような頭のいい女に|惚《ほ》れたのが間違いだったな」
と笑顔さえ見せて立ち上り、三人の刑事に囲まれて出て行った。副田は、兼一のいた席に腰を降すと、
「大丈夫ですか?」
と久美子へ声をかけた。死人のように血の気の|失《う》せた顔で、久美子は肯いた。副田はため息をついて、
「ゆうべ電話をいただいてから、彼の部屋を|捜《そう》|索《さく》しましてね、新聞の山の間に、白井由美からの手紙が一通|挟《はさ》まってるのを見つけましたよ。|紛《まぎ》れ込んでいたんですな」
「それじゃ……やっぱり間違いなく……」
「ええ、あなたの考えた通りでしょう。――しかし、いつ気付かれたんです?」
「ゆうべ、バルコニーへ出ていて、彼の姿をシルエットで見たんです。その瞬間に、白井由美と出会った時の事を思い出して……」
「ずいぶん苦しかったでしょうな」
久美子は答えなかった。副田は続けて、
「昨夜、すぐにここの警察から人をやる事もできたのに、なぜ朝まで待つようにおっしゃったんですか?」
久美子は、しばらくためらってから、|囁《ささや》くような声で言った。
「私たちの――初夜を済ませたかったからですわ」
副田はまじまじと久美子を見つめた。
「では、あなたは、彼の事を分っていて……」
「はい」
「愛しておられるんですね」
「――分りません。でも、式で|誓《ちか》いましたもの。何事があろうと、私たちは夫婦なんです。死が二人を分つまで……」
副田はしばらく黙って久美子を見ていたが、やがて席を立つと、
「ご一緒に行かれますか?」
と訊いた。
「いえ……」
久美子は首を振った。副田は深々と一礼すると、静かにラウンジを出て行った。
できごと
1
「じゃ、行って来るね」
と|圭《けい》|子《こ》が立ち上った。「何かほしいもの、ない?」
「別にないわ」
|布《ふ》|団《とん》の中で|克《かつ》|子《こ》は答えた。
「そう。じゃ静かに寝てるのよ」
「うん、分ってる」
「じゃあね」
「行ってらっしゃい……」
|襖《ふすま》がピシャリと音をたてて閉まる。圭子も、|浮《う》き|浮《う》きとはしゃいでいるのを、|押《おさ》え切れないらしい。
ああ、ついてないんだから、本当に。
克子は布団の中で、|寝《ね》|返《がえ》りをうった。自分の家の布団ならともかく、こんな旅館の、|誰《だれ》が寝たか分らないような布団では、少しも体は休まらない。
「まあ、運のいい方だぞ」
と|担《たん》|任《にん》の教師、|若《わか》|原《はら》は言ってくれたが……。
「ずっと同じ旅館に|泊《とま》ってるから、休んでいられるが、そうでなかったら、どんなに具合が悪くても、バスで移動しなきゃならん」
それにしたって……高校三年生の春。最後の修学旅行で熱を出して寝込んでしまったのに、「運がいい」とは、どういう神経の持主なら言えるのだろうか?
「ごめんなさい」
襖の外から声がした。
「はい」
克子は少し頭を持ち上げて答えた。襖が開いて、旅館のおかみさんが顔を出す。
「具合はどう?」
「ええ……」
「お茶を持って来ましたからね」
「すみません」
「ねえ、せっかくの修学旅行なのに」
と|盆《ぼん》を|枕《まくら》もとへ置いて、「何かほしいものがあったら|遠《えん》|慮《りょ》なく言って下さいね」
「ありがとう」
「じゃ、少し|眠《ねむ》った方が」
「そうします。……どうも」
いい人だ。まるで母親のようなイメージのある人で、|頼《たよ》りがいがある、という感じだった。京都の旅館のおかみさんなのに、標準語をしゃべる。何かそれがユーモラスな感じがする。
克子は、息をついた。こうなったら、あせったって仕方ない。まだ明日と|明後日《あさって》、二日間残っているのだ。――今日一日、寝ていればよくならないとも限らないし……。
克子は目を閉じたが、なかなかそう眠れるものではなかった。
今日は自由行動の日、他の日はバスへ|詰《つ》め|込《こ》まれて、どこもかしこも同じように見える寺社めぐり。だから、本心を言えば、みんな今日だけが本当の旅行の楽しみなのである。
「みんな、どこへ行ってるのかな……」
大体、グループになるのは決っている。|誰《だれ》|々《だれ》と誰々……。そして女の子たちはキャッキャとはしゃぎながら、東京の|新宿《しんじゅく》やら|渋《しぶ》|谷《や》やらを歩くのと少しも変りなく、京都の|街《まち》を歩いているだろう。
「あっ、|甘《あま》いものがある! 入ろうよ!」
「私、あんみつ」
「お|団《だん》|子《ご》!」
――きっとこんな具合だ。
「ああ、太っちゃうなあ……」
と言いながら、ムシャムシャと。
克子は想像して、ふっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。ああ、本当についてないんだから。
まだ昼前で、旅館の中は、静まりかえっている。人の話し声も、足音も聞こえて来ない。大通りに面した旅館とは思えないほど。やっぱり京都は静かなのだろうか……。
水に|潜《もぐ》るような感じで、眠りの中へ引き込まれる。いつの間にか、眠っていた。
――|突《とつ》|然《ぜん》、目がさめたのは、何かが顔に|覆《おお》いかぶさって来たからだった。
「あ……」
声が出ない。布団をかぶせられているのだと分った。もがこうとして、のしかかって来る重みに押えつけられた。
何が起こっているのか、理解できなかった。誰かがふざけているのかもしれない、と思った。しかし、|乱《らん》|暴《ぼう》に押えつけて来る力には、そんな思いを|吹《ふ》き飛ばす|荒《あら》|々《あら》しさがあった。
やめて! やめて!――|叫《さけ》んだのは|喉《のど》の|奥《おく》だけで、声になっては出て来なかった。
誰か来て! 誰か……。
旅館の中はひっそりとして、休日の学校のようだった。
2
「|半《はん》|田《だ》」
呼ばれた生徒が、|慌《あわ》てて|膝《ひざ》の上のマンガ週刊誌を机の中へしまい込むのを、|高《たか》|木《ぎ》は|苦笑《くしょう》しながら見ていた。
昔はおれも、よくあんなことをやっていたもんだ。教師には気付かれていないと思っていたが、本当は何もかも見られていたんだな。
「は、はい……」
|椅子《いす》をガタガタさせながら、生徒が立ち上る。周囲の連中はクスクス笑っている。
「この前書いたフランス革命の経済的な側面は何だった?」
生徒の方は、まるでヒンズー語でも聞かされたようにポカンとしている。高木は、
「ノートを見ていいぞ」
と続けていった。生徒が|慌《あわ》ててノートをめくる。――絶望的な表情になって、
「あの……この間、休んだもんですから……」
と頭をかいた。
「だったらちゃんと友だちからノートを借りて写しておけ」
「はい」
「|座《すわ》ってよし」
高木は、教室の半ばまで歩いて来ていたが、|教壇《きょうだん》へ|戻《もど》ると、|白《はく》|墨《ぼく》を持って黒板に向った。そこへ、
「高木先生」
と事務室の女の子が、戸を開けて顔を|覗《のぞ》かせた。「ちょっと……」
高木は|肯《うなず》いて|廊《ろう》|下《か》へ出た。
「何か?」
「|板《いた》|谷《や》さんという方が、お目にかかりたい、と……」
「板谷? 板谷克子の……」
「ええ、お父さんだそうです」
「板谷君は僕の担任じゃないよ」
「分ってるんですけど、何か修学旅行の時のことで、とおっしゃってるんです」
「二か月以上も前だぜ」
「ええ。でも一応あの時の責任者だから、と……」
「今、授業中なんだ」
「そう申し上げたんですけど、大事な用だとおっしゃって」
「分った。じゃ応接室へ」
「はい」
と行きかける女の子へ、
「ああ、板谷君は、今日は?」
「休んでいます」
「そうか。――分った、すぐ行くよ」
教室へ入ると、もうガヤガヤと、大変な|騒《さわ》がしさだ。クラス委員を呼んで、少しの間|自習《じしゅう》させるように言いつけて、教室を出た。
自習などと言っても、要するに教室にいるというだけの話だ。勉強などしないのは分り切っている。――自分の学生時代を考えたって、それに|違《ちが》いなかった。
高木は三十五歳になる。この私立高校へ来て、五年たつ。なかなかスマートな二枚目で、服の|趣《しゅ》|味《み》もいいという女生徒たちの評判であった。
「お待たせしました」
応接室へ入って、高木は言った。板谷は、五十がらみの、物静かな感じの|紳《しん》|士《し》だった。会社の課長クラスらしい、と高木は察しをつけた。
「板谷克子の父です」
「高木と申します。まあ、どうぞ」
「授業中にお|邪《じゃ》|魔《ま》をいたしまして……」
「いえ、とんでもない」
高木はソファに座った。クッションが古いので、少しお|尻《しり》が痛くなる。そろそろ買い|換《か》えればいいのに、校長はケチだからな……。
「板谷君はお休みだとか」
「はあ、家で寝ております」
「それはいけませんね。――で、どういうご用件でしょう?」
板谷はしばらくためらっていた。高木は、|促《うなが》すように言った。
「修学旅行のことで何か?」
「そう――ええ、そうなのですが――」
「確か京都で|風邪《かぜ》をひいて寝込んでしまったんですね。残念でした。高校生活のいい思い出になる旅行だったんですが」
板谷がこわばった表情で、
「それが、とんでもないことになりまして」
と言った。
「何がです?」
板谷は大きく息をつくと、思い切ったように言った。
「|娘《むすめ》は|妊《にん》|娠《しん》しているのです。そして、それはあの旅行の時、|誰《だれ》かに乱暴されたのだというのです」
高木は、しばし何とも言葉が出なかった。こんな話だとは、思ってもいなかったのだ。
「それは……板谷君が……お|嬢《じょう》さんが、そうおっしゃっているんですか?」
「そうです」
板谷は|肯《うなず》いた。
「それは――」
と言いかけた時、ドアが開いて、女の子がお茶を運んで来た。
高木は、口をつぐんでから、ヒヤリとした。もし、ドアが開かなかったら、「それは確かですか?」と|訊《き》いてしまうところだった。当の娘の父親に、そんなことを訊けば相手を|怒《おこ》らせるだけだ。
事務の女の子が出て行くと、高木は、
「くわしくお話し願えませんか」
と言った。
「一体どういうことなんでしょうねえ」
「本当に。こんな所へ呼んで……。何のお話ですかしら」
|滝《たき》|田《た》|節《せつ》|子《こ》と|叶良江《かのうよしえ》は、|迷《めい》|惑《わく》げに言い合っていた。お|互《たが》い、顔見知りの仲である。
「勉強のことで何かあるのなら、学校へ呼べばよろしいのに」
「本当にねえ。こんな妙な|喫《きっ》|茶《さ》店などへ……」
「どういうつもりなのかしら?」
「進学のことでしょうかしら」
「でも今さら……。もう|狙《ねら》いは決ってるんですし」
「最近急に成績が落ちたっていうこともないようですのに……」
学校からは大分遠い喫茶店の、個室になった、小さな会議室風の|部《へ》|屋《や》である。学校から|離《はな》れてはいるが、駅に近くて便利なので、よくPTAの会合などでは使っていた。
それにしても、二人とも今は何の役員もやっていない。学校から呼ばれる覚えがまるでないのである。
ドアが開いた。
「あら――」
「まあ、|片《かた》|岡《おか》さん」
片岡|岐《たか》|子《こ》という、やはり二人とは顔見知りの母親である。
「やっぱり高木先生に呼ばれていらしたの?」
「ええ、そうなんですよ」
片岡岐子は肯いて、「うちの子はあの先生の受持ではないのに」
「うちもそうですわ」
と叶良江が言った。「それに、あの先生、別に受験担当というわけでもありませんでしょ」
学校の用といえば受験のことと思っているのだ。
「何のお話なのかしら……」
三人は一向に思い当る節もなく、首をひねるばかり。ドアが開いて、ウエイトレスが入って来た。三人はひとしきり何を|頼《たの》むかもめた|挙《あげ》|句《く》、全員コーヒーという単純な結論に達した。
「私にもコーヒーを頼む」
と、そこへ入って来たのは、四十代半ばの上等なスーツを着込んだ男。三人の女性たちの視線など、まるで気にならない様子で、少し離れた席へ腰をおろすと、タバコを|喫《す》い始めた。
女性たちは顔を見合わせ、一番年長の滝田節子が、
「あの……」
と|恐《おそ》る恐る声をかけた。「父兄の方でいらっしゃいますか?」
「ええ、そうですよ。|永《なが》|倉《くら》といいます」
とやや|横《おう》|柄《へい》な|口調《くちょう》で言った。
「永倉――」
「じゃ、永倉|貞《てい》|二《じ》君のお父様でいらっしゃいますの?」
と叶良江が訊いた。
「そうです」
永倉は|肯《うなず》いてタバコをふかした。三人の間に|素《す》|早《ばや》く視線が飛び|交《か》った。
永倉貞二といえば、学年で常にトップの座にある優等生で、高校一年の時にはもう三年生の数学の問題を楽々と解いたという秀才であった。
「永倉ほどじゃないけどな」
というのが生徒たちの間での|慣《かん》|用《よう》句になるほどで、おそらく三年生になっても、永倉がトップの座から落ちることは考えられないというのが、大方の意見だった。それほど、永倉貞二の成績は他の秀才たちを圧していたのである。
「まあ、あの[#「あの」に傍点]永倉君のお父様でしたの」
片岡岐子が愛想良く言った。「|奥《おく》|様《さま》には何度かお目にかかったこともございますんですが」
「そうですか」
永倉はあまり気のない様子で、「家内はちょっと出かけていましてね」
「で、代りにお父様が」
「|忙《いそが》しいのに、困りますな、全く。どういう用なのか、電話で訊いても何も言わんし」
「本当ですわねえ。私どももさっぱり見当がつきませんで……」
「そろそろ三時ですわよ。先生はどうしたんでしょう?」
と言っているところへ、
「お待たせしました」
と高木が入って来た。みんな、|一瞬《いっしゅん》にして取り|澄《す》ました表情になる。
「B組を担任している高木です。皆さんには何度かお目にかかっていますが――」
と永倉に目を止め、「永倉貞二君のお父さんですか?」
永倉が|黙《だま》って肯く。
「どうも皆さんお忙しいところをおいでいただいて|恐縮《きょうしゅく》です。今日お集まり願ったのは――」
と言いかけて、「あ、それから申し上げておきますが、私は校長の代理としてここへ参っておりますので、そのつもりでお聞き下さい」
四人の父兄の間に、|緊張《きんちょう》感が走った。これはどうもただごとではなさそうだという気がして来たのである。
「この四月に、三年生は京都へ修学旅行に行きました」
高木は本題へ入った。「旅行の三日目は自由行動の日で、各自、気の合った者同士が方々へ遊びに出ていたのです。ところが、一人の女生徒が風邪で熱を出し、旅館に残って寝ていました」
「板谷さんでしょ」
と口を|挟《はさ》んだのは滝田節子だった。高木は彼女を見て、
「ご存知でしたか」
「|一《いち》|郎《ろう》がそう言っておりました。割合にお宅が近くなものですからね」
高木が息をついた。
「まあ……そうですね。どうせ分ることです。板谷克子君といってD組の生徒です――一人、部屋で寝ていた彼女を、誰かが|襲《おそ》ったのです」
「襲った?」
と永倉が|眉《まゆ》をひそめた。「それはつまり……」
「そして板谷君は今妊娠しているのです」
「まあ!」
三人の女性が同時に声を上げた。|驚《おどろ》きと、同情と、|好《こう》|奇《き》心の入り|混《ま》じった表情である。――永倉はさすがに頭の回転が早かった。
「それをなぜこの四人に話すのですか?」
と訊いた。高木は静かに言った。
「私どもはその日、その時間の全生徒の行動をチェックしてみました。大仕事のようでしたが、実際には、みんなグループで行動していて、しかも行く先々で出会ったりしていますので、それほど困難なことではありませんでした。特に時間的に、全員が出かけて間もなくだったものですからね。ほとんどグループから|抜《ぬ》けていた者はいなかったのです」
高木は四人の顔を見回した。「ここにおられる皆さんの|息子《むすこ》さん方を|除《のぞ》けば、です」
高木の言葉を、四人がかみ|砕《くだ》いて飲みこむのに、しばしの時間が必要であった。
「それはつまり――」
「まあ、それじゃ――」
「まるで私どもの」
と三人の女性の反応は同時だった。
「お待ち下さい」
高木は立ち上って、|遮《さえぎ》った。しかし、この年代の女性が興奮している場合、その|弁《べん》|舌《ぜつ》を|抑《おさ》えるのは無理な相談というものである。
「何という言いがかりを!」
「そんな無茶なことってないわ!」
「|名《めい》|誉《よ》|毀《き》|損《そん》で|訴《うった》えます!」
と口々に|喚《わめ》き始めると、もう高木もお手上げだった。
「ちょっと落ち着いて下さい――」
という言葉など、女性たちの|抗《こう》|議《ぎ》の|奔流《ほんりゅう》の中に|埋《う》もれてしまう。三人の言葉を|途《と》|切《ぎ》らせたのは、コーヒーを運んで来たウエイトレスであった。
高木はほっと息をついて、|額《ひたい》を|拭《ぬぐ》った。ウエイトレスが出て行くと、すかさず、
「ま、どうか冷静になっていただきたいと思います」
永倉が女性たちに代って口を開いた。
「お話の通りなら、それは重大事だと思います。しかし、いささか|納《なっ》|得《とく》できない点がありますな。|伺《うかが》ってよろしいですか?」
高木は、やっとまとも[#「まとも」に傍点]に話ができるので喜んで肯いた。
「どうぞ、どうぞ」
「その、襲われた――板谷といいましたか、その女生徒は、犯人を見ていないのですか?」
「布団をいきなり頭からかぶせられたということです」
「それなら犯人は生徒とは限りませんな」
「その点も考えたのです。しかし、この時、旅館はうちの団体だけで|一《いっ》|杯《ぱい》でした。他の客はいなかったのです」
「外部の人間ということは?」
「板谷君は、二階の奥の部屋に寝ていたのです。いくら何でもそんな所まで|忍《しの》び込んで来る変質者はいないと思いますが。それに何かが|盗《ぬす》まれたといったこともない。――どう見ても外部の人間の犯行とは思えないのです」
「旅館の従業員や出入りしている者は?」
「旅館には、その時は女性しかいなかったことが分っています。出入りの業者なども来ていませんし、来るとしても二階へ上るはずはありません」
「なるほど。――で、この四人に|絞《しぼ》った理由は?」
「最初から単独行動を取っていたのは、四人だけなのです。永倉貞二君は、旅館を出る時は何人かのグループと一緒でしたが、すぐに図書館へ行くと言って別れています。京都まで来て図書館もないだろうと、みんな|呆《あき》れていたそうで、よく|憶《おぼ》えていました」
「あれは勉強熱心なので」
と永倉は言った。
「次に滝田一郎君は――」
「一郎ちゃん[#「ちゃん」に傍点]に、そんなことができるはずはありません!」
ヒステリックな滝田節子の抗議を無視して高木は続けた。
「滝田一郎君は旅館を出た所で、|一《いっ》|緒《しょ》だった三人に、頭が痛いから、少し休んでいくと言って、近くの喫茶店へ入っています。後から追いついてはいますが、それはもう昼過ぎのことです」
高木は一つ息をついて、「次に叶|順弥《じゅんや》君は、最初から単独行動を宣言して、一人で出かけ、一人で帰って来ています」
「あの子は詩人なんです」
と母親はぐっと高木をにらんで、「|孤《こ》|独《どく》を愛しているんですわ」
「片岡|信《しん》|也《や》君については……どうもはっきりしません」
「はっきりしないって、どういうことですの?」
と片岡岐子が|気《け》|色《しき》ばんで身を乗り出す。
「二人の友人と一緒だったというのですが、その二人の方は一緒でなかった、というわけでして……」
「じゃ、その二人の思い違いですわ」
と片岡岐子は|即《そく》|座《ざ》に断言した。しかし、高木の方も、そうですか、と引きさがるわけにはいかない。
「まあ、ともかく一応〈?〉マークというわけでして……」
永倉がまた口を|挟《はさ》んだ。
「一つ伺いたいのですが」
「はあ、何でしょう?」
「当日の全員の行動をチェックされたとおっしゃいましたが、それではこの四人に――つまり、疑いをかけられたということは、他の生徒たちに知れてしまうのではありませんか?」
「そうだわ! これは大問題よ!」
「人権無視だわ!」
「本人の一生をめちゃくちゃに――」
「ちょ、ちょっとお待ち下さい!」
高木は|慌《あわ》てて大声を出した。「ご心配はごもっともですが……その辺はこちらも|充分《じゅうぶん》に神経を使いましたので、決してご心配はいりません」
「というとどういう風に?」
「当日、自由行動の記録を全員に提出させてあったので、それでチェックしたのです。誰々とどこへ行ったかを書かせまして。ですからそれを照らし合わせると、大体のことが分るわけでして……」
「ふむ。それならいいんですが……何しろ一番傷つきやすい年代ですし、受験を|控《ひか》えて|大《たい》|切《せつ》な時期です。たとえこの四人の中の一人がその犯人だとしても後の三人は何の関係もないわけでしょう。本人たちにそれを問い|糺《ただ》すつもりですか?」
「そ、その点を皆さんにお伺いしたかったわけです。息子さんたちに、どこかおかしなところはなかったか、とか……。いや、何といいましても事件が事件です。できることなら、|素《す》|直《なお》に申し出てもらって、|穏《おん》|便《びん》に解決を、というのが校長の考えでございまして……」
「その点はよく分ります」
と永倉は言った。「しかし、こういうことも考えられるのでは……」
「何でしょう?」
「つまりですね」
永倉はちょっと口ごもりながら、「その娘さんが|果《はた》して本当のことを言っているのかどうかということなんです。疑いたくはないが、可能性としては否定できないでしょう。まあ……例えばボーイフレンドの子供を宿したのが分ってしまい、問い|詰《つ》められて、襲われたという話をでっち上げるとか」
「そうだわ! そうに違いありません!」
片岡岐子がすぐに飛びついた。「きっと彼女にも誰の子か分らないんですよ。今なら|珍《めずら》しい話じゃありませんわ」
「そうだわ。そんな|嘘《うそ》のために、うちの子が巻き|添《ぞ》えにされるなんてごめんです」
と叶良江が同調する。「うちの順弥は、そりゃあデリケートなんですから」
高木は少々むっとして四人を見回した。
「もしあなた方にお嬢さんがいらして、同じ|被《ひ》|害《がい》を受けられたら、そんなことを言われて平気でいられますか?」
高木の言葉に、さすがの四人も|沈《ちん》|黙《もく》してしまった。
3
「|馬《ば》|鹿《か》らしい!」
夫から話を聞いた永倉|和《かず》|美《み》は腹立たしげに言った。「貞二にそんなことができるはずがないじゃないの」
「|俺《おれ》に言ってもしようがない。そんな大声を出したら貞二の|奴《やつ》に聞こえるじゃないか」
「|予《よ》|備《び》|校《こう》へ行ってるわよ」
「今日は行かない日じゃなかったのか?」
「もう三年生よ。最後の追い込みですからね、毎日よ」
「ふーん、そうか」
「この大事な時に、そんなつまらないことで貞二の心を乱してほしくないわ」
和美はすっかりカッカしている。
「しかしなあ……」
永倉はウイスキーのグラスを|傾《かたむ》けながら、「正直なところ、お前はどう思う?」
「何が?」
「貞二がやったんじゃないと思うか?」
和美は|呆《あき》れて夫を見つめた。
「あなた! 本気で――」
「受験、受験で、もう何年になると思う? あいつだって十八だ。男が十八にもなれば、女にだって興味が出て来るのは当り前だろう?」
「だからって、そんなことまで――」
「そりゃ、あいつでないに|越《こ》したことはないさ。しかしな、あいつの部屋でヌード写真の一枚、エロ本の一冊も見付けたことがあるか? どうだ?」
「そんな物、見たことないわよ」
「そうだろう。だから心配なんだ」
永倉は首を|振《ふ》った。「それは|普《ふ》|通《つう》じゃない。男なら、そんなことがあるはずはないんだ」
「それは考えすぎよ。――あの子は受験のことで頭が|一《いっ》|杯《ぱい》なのよ。女のことなんか考える|余《よ》|裕《ゆう》がないんだわ」
「頭じゃない、セックスはね。体のことだ。頭で考えなくても体の方が黙っちゃいないはずだ」
「あなたがいやらしいだけよ」
と和美は笑ってごまかそうとした。しかし、本当の笑いにならない。
「あいつ、京都で図書館へ行くと言っていたらしい。しかし、修学旅行に行ってまで図書館とは、ちょっと考えられん。おそらくどこか|他《ほか》の所へ行ったんだろう」
「他の所?」
「ストリップとかポルノ映画とか……」
「まさか!」
「だが、それならいいんだ」
「よくないわ!」
「婦女暴行で|捕《つか》まるよりよかろう」
永倉に言われて和美は青くなった。
「まさか、あの子が本当に……」
「分らん」
永倉は少し考え込んでいたが、やがて顔を上げると、「――あいつ、まだ帰って来ないのか?」
「まだ一時間ぐらいはね。どうして?」
「あいつの|部《へ》|屋《や》を見てみよう」
「そんなこと――」
と抗議しかける和美には|構《かま》わず、永倉は、さっさと立って二階へ上って行く。和美も|慌《あわ》てて後を追った。
「あなた、そんなことをして、もし貞二に分ったら――」
「分らんようにやるさ」
「そんな……」
和美はまだ|渋《しぶ》っていたが、永倉はためらいもせずに、貞二の部屋へ入って行った。
永倉は正直なところ、息子の部屋というのを|覗《のぞ》いたことはほとんどなかった。十八|歳《さい》といえばもう一人前であり、プライバシーというものを意識している。それを尊重すべきだと思っていたし、また永倉も忙しくて、そんな|暇《ひま》がなかったのだ。
「こいつは驚いた――きれいなもんだな!」
貞二と同じ|年《ねん》|齢《れい》の|頃《ころ》の自分を思い出してみて、永倉は|当《とう》|惑《わく》しないわけにはいかなかった。
室内には何とも|鼻《はな》につくような体臭が立ちこめ、|棚《たな》は乱雑に本がつみ重ねてあり、机の上は空間がわずかに覗いている程度。野球のバット、グローブなどがその辺へ|放《ほう》り出してあり、|薄《うす》|汚《ぎた》ないことでは|物《もの》|置《おき》も同然。――男の部屋ならどれもそんなものだ。
それが、貞二の部屋と来たら――どこかのインテリア雑誌のグラビアがそのまま抜け出て来たようで、きちんとしわ一つなく整えられたベッド、オレンジ色のカーペットにはごみもなく、|壁《かべ》|紙《がみ》は女の子のような|花《はな》|柄《がら》。ミニ・サイズのステレオ。机は|磨《みが》き上げたようにピカピカで、きちんと片付いている。本棚の本も、ちゃんと背が|揃《そろ》って、一|分《ぶ》の|狂《くる》いも|歪《ゆが》みもない。
「これは……お前が整理してるのか?」
「いいえ。あの子に|任《まか》せっきりよ。それでもいつもこうしてきれいにしてるから……」
「お前が|掃《そう》|除《じ》するより、よほどきれいだな」
「あの子はきれい好きなのよ」
永倉は壁にも机の上にも、女の子の写真一枚、アイドルスターのブロマイド一枚ないのが気になった。
「引出しの中を見よう」
「そんなことして、あなた……」
「仕方ないさ」
永倉は大きな引出しから開けて行った。
引出しの中も、驚くばかりに整理されている。ノート、教科書も、一つ一つ、分類のラベルを|貼《は》られ、ナンバーが打たれ、中をめくってみても、全くきれいに使ってある。
次々に引出しを調べて行ったが、どれも全部、本とノート、その他の勉強のための道具ばかりである。
「――何もない」
「ね、あの子は今、勉強だけで手一杯なのよ。分るでしょ?」
永倉はしかし、妻ほど単純に、この事実を受け|容《い》れることはできなかった。本棚の本も、一つ一つ、カバーを外して中を見てみた。どれも辞書や参考書、でなければ文学史、歴史書の|類《たぐい》であった。本の間から、せめて女の子の写真一枚でも落ちて来てくれたら、と永倉は思った。
何とも|妙《みょう》な話である。理想的な優等生の息子を持っていながら、その部屋でヌード写真を|捜《さが》しているのだから……。
「あいつ、日記はつけてないのか?」
「小学生の頃はつけさせてたわ。作文力がつくって言われて。でも、今じゃ、そんな暇があったら、数学の練習問題を一問でもやった方がいいと言って……」
永倉は|腕《うで》|組《ぐ》みをした。そして、清潔に、ちり一つなく片付けられた部屋を見回して、ふっと|恐《おそ》ろしいような気になった。これはまとも[#「まとも」に傍点]じゃない。
あいつがやったのかもしれん、と永倉は思った。
「もしもし」
「片岡でございますが」
「滝田でございます」
「あら、先ほどはどうも――」
「いいえ、ご苦労さまでした」
ひとしきり、片岡岐子と滝田節子は雑談を|交《か》わした。
「ね、奥様、さっきのこと、息子さんに訊いてごらんになりました?」
と滝田節子が訊いた。
「あ――いえ、あの、まだ信也は進学教室から帰って来ないものですから」
「そうですか」
「あの、そちらは?」
「ええ、一応主人に話してみましたの。そうしましたら、カンカンに|怒《おこ》りましてね、人の息子を|変《へん》|態《たい》呼ばわりするのか、って、校長先生のお宅へ電話をしたんですの」
「まあ! で、どうなりまして?」
「何だか押し問答していたようですけど、|納《なっ》|得《とく》できないからと言って、校長先生のお宅へ出かけていきましたわ」
「こんな時間に?」
「すっかり腹を立ててしまって。で、一郎には決して言うな、と……」
「そうですか。――私も主人が帰ったら相談してみますわ。うかつに話してノイローゼにでもなられたら困りますものねえ」
「そうですわ、本当に」
「校長先生とご主人のお話、どうなったか、明日にでも聞かせて下さいません?」
「ええ、もちろんですわ。こういう時は助け合いませんとね」
「本当にね」
「じゃ、どうも失礼しました」
「いいえ、わざわざ……」
片岡岐子は受話器を置いた。
「何なの、ママ?」
急に後ろで声がして、
「ああ、びっくりした!――信也、帰ってたの?」
「さっき帰って来たんだよ。|誰《だれ》なの電話?」
「あ、これ? あの――滝田さんよ。ちょっとPTAのことでね」
「ママ、もう役員じゃないだろ」
「そうよ。でも色々とね……。どう? ケーキ食べる? 紅茶|淹《い》れましょうね」
と急いでダイニングキッチンへ。信也は後からついて来て、
「何だか変だよ、ママ。|隠《かく》さないで」
「な、何をよ?」
「本当は|僕《ぼく》の話なんだろ?」
「あなたの?」
「『うっかり話してノイローゼになられたら』なんて言ってたじゃないの。僕のことに決ってる。何のことなの?」
岐子は困って、
「あの……ちょっとね。パパと三人でお話ししましょうよ」
「ママ。僕も子供じゃないよ。何を聞いても大丈夫。――話してよ。さあ!」
そう問い詰められると、岐子も言い|逃《のが》れるすべがない。|渋《しぶ》|々《しぶ》口を開いた。
「あのねえ、つまらないことなのよ。本当に|馬《ば》|鹿《か》げた話で……。板谷克子って子がいるでしょ?」
「同級生だよ。その子がどうしたの?」
「――妊娠したんですって」
岐子は、息子の顔から|一瞬《いっしゅん》血の|気《け》がひくのを見て、ギョッとした。
「信也! どうしたの?」
「いや――何でもないよ。――何でもない。それでどうだっていうの?」
「つまりね……」
岐子は旅館での事件のことを話して聞かせた。「――あなたには関係ないのよ。きっと他の三人の内の誰かがやったか……でなきゃその女の子が|嘘《うそ》をついてるんだわ」
信也は突然きっと母親をにらんで、
「彼女は嘘をつくような子じゃない!」
「な、何よ、大声を出して」
「彼女は本当に|真《ま》|面《じ》|目《め》な……いい子なんだ。嘘なんかつかない」
「そう。それなら事実かもしれないけど、ともかくあなたには何の関係も――」
「勉強して来る」
信也は母の話を|遮《さえぎ》るようにそう言うと、さっさと二階へ上って行ってしまった。
「信也……」
片岡岐子は|呆《あっ》|気《け》に取られて、紅茶のティーバッグを手にさげたまま、突っ立っていた。
「克子」
呼ばれて、ベッドに寝ていた板谷克子は目を開けた。
「お父さん、何?」
「先生がみえたよ」
同時に、高木が板谷のわきを抜けて入って来る。克子は急いで起き上った。
「ああ、いいんだ。寝ていてくれ」
「いえ、|大丈夫《だいじょうぶ》です」
克子はベッドに座って、「――わざわざすみません」
と頭を下げた。
「いや、本当なら担任の|若《わか》|原《はら》先生が来るところなんだが、今日はあいにくどうしても|外《はず》せない会合があってね。日を改めて――」
「いいんです。そんな……」
と言ってから、克子はちょっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。「若原先生、いやがってるでしょう?」
「え?」
「いつも、トラブルが起きると|凄《すご》くいやな顔するから」
高木は思わず笑った。――実際、今夜も、高木が一緒に行こうと|誘《さそ》ったのに、|口《こう》|実《じつ》を作って、やって来なかったのだ。
「お父さん。先生にお茶を――」
「今、持って来る」
板谷が|姿《すがた》を消すと、
「母は二年前に死んだんです」
と克子は説明した。「父には私のことが何よりも大切で……。今度も、私はやめてくれと言ったんだけど、聞かないで学校へ行ってしまったんです」
「いや、それは当然のことだよ」
と高木は言った。「で、具合はどうなんだい?」
「ええ、ちょっとつわりがあって……。母もひどかったそうですから、体質ですね」
「そう。無理をしないで」
高木は、正直なところ、板谷克子と向き合って話をするのは初めてではないか、と思った。他のクラスでもあり、授業で教えてはいるが、そう目立つ子ではない。
こうして目の前にしてみて、ずいぶん|普《ふ》|段《だん》持っていたイメージと違うのに、ちょっとびっくりしていた。ただ、|控《ひか》え目で、顔立ちも十人|並《な》みの女の子と思っていたのだが、こうして見ると、どこか|大人《おとな》びたところがある。――母親を|亡《な》くしたことで、そうなって来たのかもしれない。
「本当に、ご|迷《めい》|惑《わく》をかけてすみません」
と克子は顔を|伏《ふ》せた。
「君が|謝《あやま》ることはないよ。僕はあの時の旅行の責任者だった。僕の方こそ君に|詫《わ》びなくちゃならない」
「そんな……。先生だって|千《せん》|里《り》|眼《がん》じゃないんですから……」
「その代り、今からできることは何でも力を|尽《つ》くすつもりだ。それは|約《やく》|束《そく》するよ」
「ありがとうございます」
「それでね、一応、説明しておくと……」
高木は、永倉を初めとする四人の生徒に、その犯人の可能性があること、その点を父兄に説明したことを話した。
「そんなことまで……父がそうしろと言ったんですか?」
「いや、校長先生とも相談した結果だよ。君の将来のことを考えると、事件を警察|沙《ざ》|汰《た》にするのはどうかということになってね」
克子はしばらく目を伏せていたが、やがて高木を真直ぐに見て、
「私、本当は忘れてしまいたいんです。誰がやったのか、そんなこと、どうだっていいような気がして。――でも、あの時の恐ろしさ……。それを思うと、どうしてもこのままには……」
「分るよ」
「子供は、少し気分がよくなったら、病院へ行って、処置してもらいます」
「そうだね。それがいい」
克子はゆっくり息を吐いて、
「適当に遊んでる子も多勢いるのに、そんな子は妊娠なんかしないんですね。――私なんか、たった一度で……」
「あまり考えない方がいいよ」
高木は克子の腕に手を当てた。
「ええ。そうします」
「君には何の責任もないことだ。妙に|捨《す》て|鉢《ばち》になっちゃいけないよ」
「大丈夫です」
克子は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「暴行されて、それから男に|溺《おぼ》れるなんて、小説か映画の中だけの話ですわ。ただ|怖《こわ》かっただけで、他には何も|憶《おぼ》えていません」
「それならいいがね。――安心したよ。元気そうなんで」
「大丈夫です、本当に」
と克子はくり返した。
「順ちゃん」
叶良江は、順弥の部屋のドアをノックした。
「何?」
と|無《ぶ》|愛《あい》|想《そう》な返事が返って来る。
「夜食ができたわ。持って来る? 下で食べる?」
ちょっと|間《ま》があって、
「下に行くよ」
と答える。「十分ぐらいしたら」
「分ったわ」
良江は階段を降りて、ダイニングに入ると、夜食のオープンサンドイッチを|皿《さら》に|盛《も》りつけ、ジュースを|注《つ》ぐコップを取り出した。
「これでいいわ」
と自分も|椅子《いす》に座る。――ほどなく、順弥が入って来た。
「どう、調子は?」
と良江は訊いた。
「眠いや」
と順弥は言って椅子に座って|欠伸《あくび》をする。
「来週、テストでしょ?」
「うん。ジュース」
「はい」
急いで冷蔵庫の生ジュースを持って来てコップへ注ぐ。「――いい点、取れそう?」
「分るわけないだろ、そんなこと」
順弥はぶっきら|棒《ぼう》な口調で言った。
「そ、そうね。――きっと大丈夫よ」
順弥は|黙《もく》|々《もく》と、|旨《うま》いともまずいとも言わずにサンドイッチを食べている。良江はぼんやりとテーブルの表面を見ていた。
何か話すことがあったような……。そうだわ、あの暴行事件。でも、|黙《だま》っていよう。馬鹿げた話だ。順ちゃんが、そんなことをするはずがない。
受験生はいつも欲求を|抑《おさ》えるのに慣れてしまっているので、大学へ入ってガールフレンドができても、まともに付き合えなくなる、という話をどこかで聞いたことがある。確かに、男の十七、八歳といえば、もう成熟した大人の体を持っているし、エネルギーを持て余していることだろう。それを無理に抑えつけたら、|歪《ゆが》んだ形で|爆《ばく》|発《はつ》することも、あるかもしれない。
でも、大丈夫、うちはそんなことはないわ、と良江は満足げに思った。
「――父さんは?」
と順弥が訊いた。
「出張よ。明日帰るって。夕ご飯の時に言ったでしょ」
「そう。忘れたよ」
順弥は、また黙って食べ続け、サンドイッチをきれいに平らげてしまうと、「――じゃ、行くよ」
と立ち上った。
「コーヒー、持って行きましょうか?」
「うん」
「じゃ、すぐ作るから」
良江は湯を|沸《わ》かして、コーヒーを|淹《い》れる|支《し》|度《たく》をした――もう午前二時になっている。
コーヒーの粉をフィルターペーパーに落としていると、
「母さん」
と声がした。順弥が、ダイニングの入口に立っている。
「どうしたの?」
「――|苛《いら》|々《いら》するんだ。|頼《たの》むよ」
「そう。――いいわ」
良江はガスの火を止めた。「じゃ、ソファへ行きましょう」
居間へ入って、良江は明りを消した。
「ずいぶん|我《が》|慢《まん》していたものね、今度は」
と言って、良江は服を|脱《ぬ》ぎ始めた。
うちの子が、そんな女の子に乱暴するはずはないわ。こうしてちゃんと欲求を満たしてあげているんだから……。
良江は息子の体重を受け止めながら、そう考えていた。
4
「どうも、お集まりいただいて」
永倉は、会社近くの日本料理屋の一室に、この間と同じ顔ぶれ――滝田節子、叶良江、片岡岐子の三人を集めて、そう口を切った。
「ここはよく社用で使う店でしてね。お口に合いますかどうか……。どうぞ何でも|注文《ちゅうもん》なさって下さい。といっても、昼は大したものはありませんが」
結局、定食の一番高いのを四つ注文しておいて、
「――今日、お集まり願ったのは、|他《ほか》でもない、先日の話の件について、私どもで対策を|講《こう》じてはどうかと思ったからです」
「対策、と申しますと?」
と訊いたのは滝田節子だった。
「どうも、この間の話から三日たっていますが、|一《いっ》|向《こう》に事態は進展しないようです。皆さん、もちろん息子さんにはお話しになったんでしょうね」
永倉は三人の女性の顔を見渡した。
「え、ええ、むろんですわ」
叶良江が言った。「全然知らないと申しておりました」
「私の方も同じです」
と滝田節子。片岡岐子だけが、少し低い声になって、
「私も……」
と言った。
永倉は軽く声をたてて笑った。
「お隠しにならなくてもいいですよ。息子さんには何も言っておられない。そうでしょう? 私もです。息子の耳には入れていませんよ」
三人の女性はほっとしたように笑いを浮かべた。永倉は続けて、
「実際のところ、学校当局も困っている、というのが|本《ほん》|音《ね》だと思います。被害者の娘の父親の抗議で、腰を上げたものの、別に警察と違って、|捜《そう》|査《さ》や|訊《じん》|問《もん》の権限があるわけではありません。四人に|絞《しぼ》ったものの、さて、|誰《だれ》という決め手があるわけではない。たぶんああして話をすれば、やった生徒が素直に|謝《あやま》って出て、あちらの娘の方へ|謝《しゃ》|罪《ざい》して、うまくおさまるだろう、と期待していたんでしょう。しかし、現実にはそうはならない。――学校側としても、どうしたものか、頭を痛めていると思います」
「それはその通りですわ」
滝田節子が言った。「主人が話を聞いて怒りまして、校長先生のお宅へ伺ったんですけど、校長先生も、当の女の子がこのまま黙ってしまってくれればとおっしゃっていたそうです」
「まあ、校長先生としては当然でしょうな」
と永倉は|肯《うなず》いた。「誰がやったにせよ、学校の生徒なら同じことですからね。校長としては|遺《い》|憾《かん》の意を表明するぐらいのことはしなくてはなりますまい」
「――で、永倉さんに何かお考えがあるんですの?」
「まあ、|提《てい》|案《あん》といったようなものです」
と永倉は言った。「――ああ、食事が来ました。食べながらお話ししましょう」
しばらく四人は黙ってはしを動かした。
「要するに、私は、誰がそれをやったかは、どうでもいいことだと思います」
急に、永倉が言った。「まあ、若い時、それも受験、受験で追いまくられ、好きなこともろくにできない若者たちには、ありがちなあやまちにすぎません」
「同感ですわ」
と叶良江が言った。「取り立てて問題にする方が、どうかしています」
「その通り。そこで考えたのですが……」
永倉は三人の顔をゆっくりと見渡して、言った。「やった生徒を|捜《さが》すより、当の女生徒に出て行ってもらった方がいいのではないかと思うのです」
「出て行ってもらう、とおっしゃいますと……」
「つまり、他の学校へ移ってもらうのです」
「そんなことが――」
「できますとも。私立校ですからね。その辺は何とでもなります。その娘がいなくなれば、もう何の問題もなくなるわけです」
「それはそうですけど……。父親がひどく強硬なんでしょう?」
と片岡岐子が言った。「おとなしく転校するでしょうか?」
「むろん、そのためには色々と手を打つ必要があります」
と永倉は|微妙《びみょう》な言い方をした。「――私が心配するのは、このまま誰がやったか分らずじまいになったとしても、あの娘が学校にいる限り、この事件が明るみに出て、マスコミなどに書き立てられる|恐《おそ》れがある、ということなのです。いうまでもなく、受験名門校のスキャンダルとなれば、マスコミが飛びつくのは目に見えていますからね」
永倉の話に、女性たちは一様に肯いた。
「その危険性は、こうしている間にもあるわけです。何しろ週刊誌の記者などは、正に動物的といっていいようなカンを持っていて、事件を|嗅《か》ぎつけて来ますからね」
「じゃ、早く何とかしないと……」
「そうです。週刊誌に疑惑の持たれている四人の生徒などと書かれたら、受験勉強どころではなくなりますからねえ」
「本当ですわ」
叶良江が、気が気でない様子で、「何とかなるでしょうか?」
と永倉の方へ身を乗り出した。
「私に考えがあります」
永倉は言った。「もし、皆さんが私にお任せ下さるのでしたら、私は|然《しか》るべき手を打って、板谷克子という女生徒を、他の学校へ転校させます」
永倉の言葉には、物事の表と裏をよく知り抜いた男の、確信が|溢《あふ》れていた。
「私はお任せしますわ」
滝田節子がためらわずに言った。
「私も」
「私もです」
他の二人も続いた。永倉は静かに肯いて、
「分りました。では、お任せ下さい」
と言った。
「一体、どうするつもりなんでしょう?」
永倉と別れた後、片岡岐子が言った。
「さあ。何か考えがおありの様子でしたわね」
叶良江は、気が楽になった、という口調で言った。「ともかくああおっしゃるんですもの。お任せしておきましょうよ」
「そうですわね」
――滝田節子は一人、黙って、何かを考え込みながら歩いていたが、ふと他の二人を見て、
「ちょっとお話ししたいことがあるんですけど。お時間は大丈夫?」
「ええ、私は……」
「結構ですわ」
三人は手近な喫茶店へ入った。
滝田節子はコーヒーをすすりながら口を開いた。
「私、どうも永倉さんのお話、妙だと思いますわ」
「というと……?」
「あの女生徒を転校させるとおっしゃったけど、それにはきっとあまりまともでない手を使うんだと思いますわ」
「例えばどういう?」
「お金ですよ、きっと」
滝田節子は自信ありげに言った。「お金をつかませて、追い|払《はら》うんですわ」
「そうかもしれませんね」
と片岡岐子が肯いて、「でも、それがどうして妙ですの?」
「だってそうでしょう? 自分の息子がやったかどうかも分らないのに、一人で[#「一人で」に傍点]お金を出そうとするなんて。私どもと四人でお金を出し合って、ということなら分りますけど」
「それはそうですね……」
と二人は顔を見合わせる。滝田節子は続けた。
「ですからね、あれ[#「あれ」に傍点]はきっと永倉さんの息子さんだと思いますわ」
「何が?」
「例の女生徒を|襲《おそ》った犯人ですよ」
「まあ!」
「自分の息子が犯人だと分ったからこそ、金を一人で出しても、その娘を転校させて、うやむやにしてしまおうとしてるのに違いありませんわ」
「でもあそこの息子さんは学校でもトップの――」
「そういう生徒に限っておかしくなるもんですわ」
「そうでしょうか?」
「そこで、私にちょっと考えがありますの」
と滝田節子は声を低くした。「――永倉さんの息子さんが犯人だということを、ばらしてしまったらどうでしょう?」
「そんなこと――」
叶良江と片岡岐子は|異《い》|口《く》|同《どう》|音《おん》に言った。
「もちろん、ストレートには言いません。実は私、週刊誌の記者をやってる人をよく知ってるんですの。主人の|親《しん》|戚《せき》で、――その人に情報を提供して、書いてもらうんです。名門校のトップの秀才が暴行事件。――必ず記事になりますわ」
「そうなると学校の名に傷がつきません?」
「大丈夫ですよ、それぐらいのこと。それよりも、|例《たと》えば|仮《か》|名《めい》で出ても、トップの秀才と書かれれば、誰のことかはすぐに分るでしょう。そうなれば、勉強どころではなくなるに違いありません。――どうお思い? みんなあの子がトップにいるおかげで、どうしたってトップになれっこないんだから、ってやる気を出せないという話を聞いてますの。あの子がトップから|滑《すべ》り落ちれば……」
「驚きましたわね」
と叶良江が言った。
「ええ、本当に」
肯いたのは片岡岐子である。――滝田節子と別れて後、二人とも同じ駅なので、|一《いっ》|緒《しょ》に電車に乗っていたのだ。
「あそこまでやる|方《かた》だと思いませんでしたわ」
叶良江はため息をついて、「あの方、息子さんがいつもベストスリーにギリギリの所でしょう? だから必死なんですね」
「優秀なお子さんをお持ちだと大変ですわね。うちなんか、一人増えようが一人減ろうが、大して変りありませんわ」
「あら、そんなこと。とってもいいお点を取っていらっしゃるじゃありませんか」
「とんでもない、お宅の|坊《ぼっ》ちゃんこそ」
と、ここでしばしお|世《せ》|辞《じ》の|押《お》しつけ合いがあって、
「――でも、結局滝田さんのお考えには同意したんですのよ、私たち」
と叶良江が結論づけるように言った。
「ええ、分っていますわ」
「あんまり後味は良くないですね」
「本当に……」
正直なところ、片岡岐子は、|誰《だれ》でもいいから犯人が早く分ってくれればいいと思っていた。むろん信也でさえなければ、だが。
板谷克子の事件を話してやった時に、信也が顔色を変えたことが、岐子の胸に引っかかっていた。まさか、とは思うが……。
「大体あの方、少し、差し出がましいところがありますわ」
と叶良江が言った。
「は?」
「滝田さんですよ。いつも大物の|奥《おく》|様《さま》然として、ちょっとこう他の人を見下ろすような感じでしょ? とっても感じが悪いんですよね」
「そ、そうでしょうか……」
岐子は困って|曖《あい》|昧《まい》に、「私、よく分りませんけど」
と|逃《に》げた。
「いいえ、そうなんですのよ」
と叶良江は決めつけておいて、「前も、PTAの役員をやってらしたときに――」
あれこれと、グチとも|中傷《ちゅうしょう》ともつかない話が、電車が駅に着くまで続いた。
「――あら、もう着いたんだわ。早いですわね」
「ええ」
岐子は、やっと着いたか、とほっとしながら立ち上った。
「あんな人の言うなりになるなんて、しゃくじゃありません?」
改札口を出た所で、叶良江がまた言い出した。
「あんな人?」
「滝田さんですよ。本当に感じの悪い人なんですから。ねえ?」
「え、ええ……」
「あんな風に人を|陥《おとしい》れるなんて、良くありませんわ」
「そうですね」
「あんなことを言って、きっと自分の息子さんが犯人なんですよ」
岐子は目を丸くした。
「まさか!」
「いいえ、きっとそうですよ。だから永倉さんの息子さんを犯人に仕立て上げようとしてるんです。|間《ま》|違《ちが》いないわ」
「はあ……」
岐子は困ってしまった。ちょうど家の方へ曲る角へ来たので、ではここで、と言いかけたとたん、
「ねえ、奥様、私どもで滝田さんをとっちめてやりましょうよ」
と叶良江にぐいと腕をつかまれてしまった。
「でも……そんなこと……」
「ちょっとそこの喫茶店へ入って相談しましょうよ」
良江は|有《う》|無《む》を言わさず岐子を引っ張って行った。
「もしもし、お父さん?」
「克子か。どうした?」
「お仕事中ごめんなさい」
「いや構わんが。どこからかけている?」
「病院の近く」
「お前――」
「お父さん|忙《いそが》しいし、気分が良かったから、一人で済まそうと思って来たんだけど、親がいないと、って|渋《しぶ》ってるの」
「当り前だ! 無茶な|奴《やつ》だな」
「出て来られないでしょう?」
「行ってやる。どこだ?」
克子が場所を説明すると、「――よし、三十分くらいで行く。どこかで休んでいろ。分ったな」
「ええ。ごめんね」
「何を言ってるんだ」
父親の言葉は|優《やさ》しかった。
克子は電話ボックスから外へ出た。――もう六月も終りに近い。|梅雨《つゆ》が明けかかっているのか、ここ何日か|雷《かみなり》が鳴っていた。少し蒸し暑いような陽気になっている。
三十分。――どうしていようか。
どこか、パーラーみたいな所でも、と見回した克子は、
「あら」
と声を上げた。「片岡君」
「やあ。……どうしたの?」
「どうしたの、って――それはこっちの|訊《き》くことよ。学校は?」
「急病で早退」
「まあ、いけないわね」
と笑って、「それにしちゃ元気そう」
「三年生はずる休みも大目に見てくれるから平気さ」
信也はそう言って、「君も元気そうで、ほっとしたよ」
と克子を見つめた。
「お母さんから聞いた?」
「うん。災難だったね」
克子は、信也が妙に|慰《なぐさ》めめいたことを言わないので、|却《かえ》ってありがたかった。悲劇のヒロインになるのはいやだったから。
「お茶でも飲まない?」
と信也が|誘《さそ》った。――少し歩いて、少女|趣《しゅ》|味《み》の|甘《かん》|味《み》喫茶へ入ると、克子はアンミツを頼んだ。
「|酸《す》っぱいものが欲しくなるなんて、|嘘《うそ》っぱちね。やっぱり甘いものの方がいいわ」
克子はあっさり言った。
「もう……病院には行ったのかい?」
「今、父が来るのを待ってるの。来たら一緒に行って。――すぐ済むそうよ」
「早く忘れろよ」
「そうするわ」
信也はしばらく黙っていたが、
「僕はあの時、旅館に|戻《もど》ったんだ」
と言った。克子は目を見開いて、
「片岡君、それじゃ――」
「いや、違うよ。そんなことしないぜ、僕は」
と急いで言って、「ただ、君が|寝《ね》|込《こ》んでるってのを聞いたもんだから、心配になってさ。様子を見ようかと思って戻って行ったんだ」
「それで?」
「旅館のすぐ近くまで来た時、旅館から出て来る奴を見た」
信也は言葉を切って、また少しためらってから、続けた。「ひどく|慌《あわ》ててる様子でキョロキョロ周囲を見回してね。……僕には気付かないで行っちまった。変だな、と思ったけど、別に大して気にもしなかった。旅館へ入ろうと思ったら、あそこのおかみさんが|玄《げん》|関《かん》の|掃《そう》|除《じ》を始めたんで入りにくくなって、結局また逆戻りしたんだ」
「じゃ、きっとその、あなたの見た人が……」
「うん。間違いないと思うよ」
「誰だったの?」
信也はちょっと|唇《くちびる》をなめた。
「それはね――」
5
永倉には|成《せい》|算《さん》があった。それは、板谷克子の父が、自分と関係の深い|企業《きぎょう》の|下《した》|請《う》けの会社に勤めていると分ったからである。
永倉はその企業を通して板谷に圧力をかけるつもりだった。永倉自身はそれほどの力があるわけではない。しかし、永倉の父親は今も健在で、四つの会社の会長を|兼《か》ね、かなりの勢力を持っていた。板谷の勤める会社の親会社に当る企業の社長は、永倉の父には相当に恩を受けていて、頭が上らないはずであった。
父のオフィスを|訪《おとず》れて、永倉は面会したいと申し入れた。
「社長はお|忙《いそが》しいので――」
若い女性の|秘《ひ》|書《しょ》はもったいぶって、「どちら様でしょうか?」
永倉は苦笑した。相変らずだな、|親父《おやじ》も。
「何だ。お前か」
ちょうど父親が姿を見せた。「入れ。――ああ、いいんだ。これは|息子《むすこ》だ」
オフィスの深々としたソファに座ると、秘書が|慌《あわ》ててお茶を運んで来る。
「忙しいの?」
と永倉は言った。でっぷりと太って、いわゆる一昔前の重役タイプの体つきの父親は笑った。
「なに、仕事など大してありゃせん。しかし『忙しい』と言わせることにしとるんだ。そうでないと客に軽く見られるからな。――ところで何の用だ?」
「実は貞二のことでね」
「ほう。どうした?」
永倉は、父親が孫のことになるとすぐ話に乗って来ることを知っていた。――貞二が、妙な女学生を|妊《にん》|娠《しん》させたという疑いをかけられて困っていると説明して、
「その娘の父親ってのがI|開《かい》|発《はつ》に勤めてるんだ」
「I開発? 聞いたような名だな」
「ほら、|坂《さか》|口《ぐち》さんの会社の子会社だよ」
「ああ、そうか。思い出したぞ。ちっぽけな会社だろう」
「だから父さんから坂口さんへ口をきいてほしいんだ。どこか地方の支社へでも飛ばしてくれれば、娘も転校して行くだろうから、話も自然と立ち消えになる」
「そんな奴なら、すぐクビにしてやればいい。理由などいくらでもくっつけられる」
と、電話へ手をのばそうとするのを、
「いや、そりゃまずいよ」
と慌てて止めて、「そこまでやっちゃ、またやけになって何をするか分らない」
「そうか。じゃ、北海道あたりにでもやるか。――何という奴だ?」
「板谷というんだ」
「よし、待ってろ」
永倉は、父親が電話をかけるのを|眺《なが》めながら、これでうまく片がつく、とほくそ|笑《え》んでいた……。
「――これでいいだろう。九州に出張所があるそうだ。そこへやらせる」
「ありがとう、父さん」
「貞二は|頑《がん》|張《ば》っとるか?」
「相変らずトップを独走してるよ」
「それでこそわしの孫だ!」
「そうとも。――じゃ、仕事があるから、これで失敬」
「いつでも来い。それから貞二の|奴《やつ》にも、たまには遊びに来いと言っといてくれ」
「分ったよ」
笑って手を|振《ふ》ると、父親の|部《へ》|屋《や》を出る。ちょうど電話を取っていた秘書が、
「あの、お電話が……」
と受話器を差し出した。
「僕に?」
一応会社には行き先を言っておいたが、そんな急用があるとは……。「はい、永倉」
と言ったとたん、妻の取り乱した声が飛び出して来た。
「あなた!」
「和美。どうしたんだ?」
「今、警察から電話があって――」
「いないようだな」
高木は受話器を置いた。――放課後の職員室は、|閑《かん》|散《さん》としている。
「高木君」
と声がして、振り向くと、校長の|渋《しぶ》|沢《さわ》が立っていた。
「ああ、校長先生」
「どうだね、例の件は?」
「困りました。――あの四人の親からは何とも言ってきません」
「そうか。板谷君が水に流そうと言ってくれると助かるんだが」
「しかし、責任ははっきりさせなくては」
「それはそうだが。――で、彼女はもう始末をつけたのかね?」
始末をつけるという言い方に、高木はちょっといやな気分になった。
「今、電話してみましたが、誰も出ません」
「そうか。何か分ったら電話してくれたまえ」
「校長はお帰りですか?」
「ちょっと集まりがあってね……」
校長が急いで出て行くと、高木はため息をついて、タバコに火を|点《つ》けた。
校長のような地位になると、ああも事なかれ主義になってしまうものなのか……。若原にしてもそうだ。板谷克子の担任でいながら、一度も|見《み》|舞《まい》に行こうともしない。
職員室の|扉《とびら》が開いた。
「やあ、これは――」
入ってきたのは板谷だった。見ればその後ろにいるのは片岡信也だ。
「どうも色々とご|厄《やっ》|介《かい》をかけまして」
と板谷は頭を下げた。「実はちょっとお話があるのですが」
「分りました。応接室へ行きましょう」
高木は先に立って歩いて行った。板谷が片岡信也をつれて来たということは、片岡が犯人と分ったのだろうか?
「さあ、どうぞおかけ下さい」
と板谷へすすめて、「片岡、君は、早退したんじゃなかったのか?」
「はい、彼女の見舞に行ったんです」
「彼女?」
「克子のことを心配してくれましてね」
と板谷が言った。「今日、病院で|処《しょ》|置《ち》を済ませて来ました」
高木は深く息をついた。
「そうですか。――お|嬢《じょう》さんは大丈夫ですか?」
「ええ、二、三日は寝ているように言われましたが、すぐにも起きられそうです」
「それはよかった」
板谷は一つ|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「で、実はここにいる片岡君が、大変に重要なことを話してくれましてね」
「重要なこと?」
「僕、見たんです」
と片岡信也は言った。
「見たって?」
「あの日、彼女のことが気になって旅館の方へ戻って行くと、旅館から、こそこそ人目を|避《さ》けるように出て来る奴がいたんです。――大して気にもしなかったけど、あの話を聞いて、思い当りました。板谷君を|襲《おそ》って、逃げて来るところだったんです」
信也の口調ははっきりして、|嘘《うそ》とは思えなかった。高木は、
「それは誰だったんだ?」
と|訊《き》いた。
「若原先生です」
と信也は言った。
「あの……電話をいただいた永倉といいますが……」
自分の声が、どこか遠くから聞こえて来るような気がした。受付の係官は顔を上げ、
「どなたです?」
「永倉です」
「こちらへ名前と住所を」
とノートを出され、永倉は|震《ふる》える手で名前と住所を記入した。
「息子はどこに……」
「そちらでお待ち下さい」
と係官は固い木の|椅子《いす》を示して、立って行った。
――待つほどもなく、中年の|穏《おだ》やかな感じの男が書類を手にやって来た。
「永倉さんで?」
「そうです」
「どうぞこちらへ」
|薄《うす》|暗《ぐら》い|廊《ろう》|下《か》を歩いて行く。「――息子さんが非行に走っているらしいとお感じになったことはありましたか?」
「いえ、全く……。あれは何をやったんでしょう?」
「奥さんからお聞きになりませんでしたか? まあ軽い|窃《せっ》|盗《とう》です。過去にもいくつかやっているようなので、今、訊いているところでしてね。――ここです」
ドアを開けて、|狭《せま》|苦《くる》しい部屋へと入って行く。机が一つ。その前に、背もたれもない木の|椅子《いす》があって、若いアベックがうなだれて座っていた。
「お父さんがみえたよ」
|刑《けい》|事《じ》の声にアベックが顔を上げた。――永倉はポカンとして、それから笑い出した。
「刑事さん……これは私の息子じゃありませんよ!……人違いだ!……そんな|馬《ば》|鹿《か》なことがあるわけはないと思ったんです、うちの息子はそんな――」
「違いますよ、永倉さん。男の方じゃない。女の方[#「女の方」に傍点]です」
永倉は、|髪《かみ》を染め、|濃《こ》い|化粧《けしょう》をした女の顔をじっと見つめた。目の前が真っ暗になるような気がした。よろけて、背後の壁にもたれかかると……体中の力が抜け落ちたように、|床《ゆか》へ|座《すわ》り|込《こ》んでしまった。
「全く、何とも申し訳ありませんでした」
「いやいや、わざわざどうも……」
板谷は渋沢校長を送り出すと、玄関を閉めて、克子の部屋へ戻って行った。
「帰ったの?」
「ああ。全くくどくどとうるさい人だな」
「責任者ですもの、仕方ないわ」
「事を|公《おおやけ》にしないでくれ、とそればっかりくり返しとった」
「学校の|名《めい》|誉《よ》が第一ですもの。――若原先生はどうなるのかしら?」
「表向きは急に|田舎《いなか》へ帰った、という話になってるようだよ」
「そう。――もう、どうでもいいわ」
「あの高木って先生は誠意があったな。しかし、他の奴はどれもこれも……」
「もう済んだことよ」
「どうだ、お前、学校を移るか?」
「学校を?」
「うん、実はな……」
板谷はちょっとためらって、「今日、急に九州の出張所へ行けと言われたんだ」
「九州? |転《てん》|勤《きん》なの?」
「そうだ。わけが分らんよ。時期でもないのにな。ともかく出張所の責任者として行ってくれというんだ」
「九州か。――それもいいわね」
「行くか?」
克子はちょっと考えてから、
「二、三日考えさせて。あと一年足らずで卒業でしょう。大学へ行こうと思ったら、ちょっと不利ね」
「そこなんだ。もし行きたくなければ、お前だけ残ってもいいしな」
「うん。よく考えてから決めるわ」
「そうしろ。転勤といっても一か月先のことだ」
「夕ご飯の|支《し》|度《たく》をするわ」
「起きて|大丈夫《だいじょうぶ》か?」
「もう平気よ」
と克子は笑って言った。「寝てると|退《たい》|屈《くつ》で困っちゃう!」
克子が、九州行きをちょっと渋っているのは、片岡信也のせいもあった。
片岡君、私のことが好きらしい……。全く思ってもいなかっただけに、克子の胸はときめいた。
克子は夕食のいためものを作りながら、我知らず|鼻《はな》|歌《うた》を歌っていた。
「まあご苦労だった。ともかく、丸くおさまって何よりだ」
校長が椅子で|微《ほほ》|笑《え》んだ。「君もご苦労だったな」
「はあ、それが……」
と高木は言い出しにくくなって言葉を切った。
「何かあるのか?」
「実は、私あてにこんな手紙が……」
「何だ?」
「|匿《とく》|名《めい》の手紙です」
「何だというんだ?」
「滝田君のお母さんが、例の事件のことを、〈週刊××〉へ売り込んだ、というんです」
「何だと?」
校長の顔色が変った。「滝田といえば……あの四人の中に入っていたな」
「そうです」
「自分の息子を巻き込むような話をわざわざ週刊誌へ売り込む奴がいるか!」
「永倉君を犯人に仕立てあげようとしているというんです」
「永倉? あの優等生を、か? いくら何でも――」
「ただ、永倉がここ二日、休んでるのが、ちょっと気になるんですが」
「それは|偶《ぐう》|然《ぜん》だろう」
「そうだとは思いますが……」
「そんな手紙は|放《ほ》っとけ」
「分りました」
高木が校長室を出ようとすると、事務室の女の子が入って来た。
「校長先生、お客様ですが」
「誰だ?」
「〈週刊××〉の方だとか……」
校長が|唖《あ》|然《ぜん》として高木を見た。
「僕は授業がありますので」
高木は一礼して早々に校長室を逃げ出した。|廊《ろう》|下《か》に、記者らしい男とカメラマンがぶらぶらしている。
しばらく歩いて振り返ると、記者と事務の女の子が押し|問《もん》|答《どう》をしているのが見えた。きっと校長は|留《る》|守《す》だといって断ろうとしているのだろう。
勝手にやってくれ、と高木は|呟《つぶや》いた。
次の授業はD組だった。少し|遅《おく》れて入って行くと、ざわざわしていた教室が静かになる。礼をして、出席|簿《ぼ》を取り上げながら、教室を見回した高木は、板谷克子が出て来ているのに気付いた。――克子の斜め後ろの席にいる片岡が、小さく丸めた紙を克子の机の上へ放り投げた。克子がちょっと片岡をにらむ。そして急いで紙を広げてそれに見入っている。
昔はよくあんなことをやったもんだ、と高木は思った。
今度だけは見逃すことにして、高木はノートを広げ、|白《はく》|墨《ぼく》を手に取った。
三人家族のための殺人学
1
「殺してやる!」
「どうぞどうぞ。あなたに私が殺せるもんですか!」
「|俺《おれ》にできないっていうのか?」
「ええ。その前に私があなたを殺してるからね」
「フン、笑わせるな! 俺を殺せるもんか」
「あら、そう? じゃ見てなさいよ、何なら今ここで――」
そこへ、|廊《ろう》|下《か》を近付いて来るスリッパのパタパタという音がして、二人ともピタリと口をつぐむと、|素《す》|早《ばや》く|椅子《いす》へ|腰《こし》を降ろす。
「おはよう、パパ、ママ」
食堂へ入って来たのは九|歳《さい》になる|娘《むすめ》のルミである。
「おはよう。お顔は洗った?」
と母親の|幹《もと》|子《こ》が|微《ほほ》|笑《え》みながら声をかける。
「うん、洗ったわよ」
「はい、ミルク。ちゃんとゆで卵を食べるのよ」
「はい」
と素直にコックリ|肯《うなず》くと、父親の方へ向いて、「パパ、今日はお帰り|遅《おそ》いの?」
「さあ、ちょっと分らないな。――早く帰って来るようにするよ」
「私ね、|縄《なわ》とびの縄がほしいの」
「よし、買って来てやる」
「ありがとう!」
|篠《しの》|原《はら》|武《たけ》|志《し》は手をのばして娘の|髪《かみ》をクシャクシャにした。ルミが顔をしかめて、
「パパ、やめてよ! 髪が乱れるわ」
武志と幹子は声を上げて笑った。
「あなた、パンが焼けたわよ」
「うん」
「マーマレードでいいの?」
「ああ、|頼《たの》むよ」
幹子が|丁《てい》|寧《ねい》にオレンジマーマレードをトーストに|塗《ぬ》って武志へ|渡《わた》す。
「ありがとう」
「コーヒーのお味はどう?」
「うん、ちょうどいい。さすがに君だよ」
夫と妻は暖かい|微笑《びしょう》を|交《か》わす……。
「ルミ、そろそろ行かないと学校、遅れるわよ」
「はーい」
ルミがミルクの残りを一気に飲みほすと、
「じゃ、行って来ます、パパ」
「ああ、車に気を付けるんだよ」
ルミが|玄《げん》|関《かん》から、ランドセルをしょって表へ出る。少し年上の、ヒョロリと背の高い男の子が通りで待っていた。
「やあ!」
「おはよう」
送りに出て来た幹子が、
「|進《すすむ》君、よろしくね」
と声をかける。二人は手をつないで元気よく走り出した。まるで|兄妹《きょうだい》のようなその|後姿《うしろすがた》を見送って幹子はため息をつくと、家の中へ|戻《もど》って行った。
食堂では、武志がコーヒーを|淹《い》れ直している。
「私の淹れたのはお気に召さないのね」
「当り前だ。よくもあれほどまずく淹れられるもんだな。その点では天才だよ、君は」
「さっさと|胃《い》|潰《かい》|瘍《よう》にでもなって死んじまえばいいんだわ」
「残念ながら、そう簡単には死ねないね。もっといい女房をもらって、人生を楽しんでからでなきゃな」
「へえ! それは残念でした。その|暇《ひま》はなさそうね」
「そうかい?」
「ええ、近々、私は|未《み》|亡《ぼう》|人《じん》になって、保険金をたっぷりいただいて世界一周旅行をすることになってるの」
「そいつは初耳だ!」
と武志がコーヒーをカップへ|注《つ》ぎながら、
「|僕《ぼく》の方は男やもめになって、可愛い女房と|新《しん》|婚《こん》旅行へ|発《た》つことになっててね」
「あの役者の卵の女の子と?」
「あいつは関係ない!」
と武志が腹立たしげに言った。
「あらそう? この間、あなたのハンカチから|彼《かの》|女《じょ》のと同じ|香《こう》|水《すい》が|匂《にお》ったわよ」
「|鼻《はな》がいいんだな。犬の生れ変りか?」
「あなたはさしずめドブネズミの生れ変りね」
「何だと!」
「何よ!」
二人はにらみ合った。ギラギラと|憎《にく》しみに燃えた視線が空中で火花を散らすようだ。そこへ、時計が八時半を打つ。
「時間だわ。出かけましょう」
「ああ……」
幹子が手早く|皿《さら》やカップを片付ける。――十五分後には、背広を着た武志と、地味なスーツ|姿《すがた》の幹子が家を出てガレージへ向った。
「どっちが運転する?」
「今日は私の番よ」
「そうだったかな」
「疑うの?」
「事故の時は、助手席の人間がいちばん死ぬ確率が高いっていうからな」
「|馬《ば》|鹿《か》|馬《ば》|鹿《か》しい!」
――二人の乗った車は、静かに朝の住宅街へと|滑《すべ》り出して行った。
篠原武志は三十八歳。日本人のこの年代としては、まずスマートな部類に入るだろう。そう背は高くないが、スラリとスポーティな体つきで、アルコールはビールもやらないせいか腹も出ていない。かなりまめ[#「まめ」に傍点]に|鍛《きた》えている体つきだ。顔立ちは、やや骨ばっているが、色浅黒く、なかなか男性的な|魅力《みりょく》がある。よく見ると左の|頬《ほお》に、整形手術で傷を|隠《かく》した|痕《あと》が分る。
幹子の方は言うなればキャリアウーマン風。三十四歳という|年《ねん》|齢《れい》にふさわしく、落ち着いた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を身につけているが、それは決して|老《ふ》け|込《こ》んでいるとか、|世《せ》|帯《たい》やつれしているといった意味ではない。その点で言えば、|肌《はだ》のつややかさや、きびきびとした身のこなしは二十代の独身女性といっても|充分《じゅうぶん》に通用する。真直ぐに鼻筋の通った|美《び》|貌《ぼう》は、やや冷ややかな印象を与えるものの、充分に魅力的だ。
はた目[#「はた目」に傍点]から見ればこの夫婦、まことにバランスの取れたカップルで、目のパッチリとした娘ルミと三人で歩いている光景は、どこぞの女性雑誌あたりがグラビアに|載《の》せたがるのではないかと思うほど、絵になっているのだが……。
「こればかりは分らんもんだな」
と|巨《きょ》|体《たい》を特別製の椅子の中でモゾモゾと動かしながら、社長の|神《かみ》|永《なが》は|呟《つぶや》いた。それからデスク――|主《あるじ》に|劣《おと》らず巨大な――のボタンを手で|叩《たた》いた。|間《かん》|髪《ぱつ》をいれずにドアが開き、
「はい!」
と|秘《ひ》|書《しょ》の|一柳《いちやなぎ》女史が息せききってメモとペンを手に|駆《か》けつけて来る。
「何もそんなに急いで来んでもよろしい」
と神永は言った。
「ですが、今ボタンをお|押《お》しになった強さは〈|至急《しきゅう》〉の音でしたわ」
「わしは|普《ふ》|通《つう》に押したんだぞ。強さによって〈至急〉〈やや至急〉〈|普《ふ》|通《つう》〉の区別をつけるなんて|芸《げい》|当《とう》はわしにゃできん!」
「あら、でもせっかくそのほかに〈お茶〉〈紅茶〉の別までつけられるようにしてあるんですから、利用しなくては、もったいないですわ」
「わしはピアニストじゃないぞ。そうそうタッチを|微妙《びみょう》に変えられるか。――まあいい。篠原夫婦はもう来てるか?」
「今、地下の|駐車《ちゅうしゃ》場へ車を入れておられます」
と一柳女史は|腕《うで》時計を見ながら、「あ、今車のドアをロックしました」
「どうして分る?」
「時間は正確ですから、お二人とも」
「そんなことはいい。ともかく二人が来たら、仕事へ出る前にここへ来るように言え」
「はい」
「ただし、一人ずつだぞ」
「分りました」
と、一柳女史は行きかけたが、「あの、どちらを先にします?」
「どっちでも好きな方にしろ!」
と神永は|苛《いら》|々《いら》した声で言った。
「レディファーストなら|奥《おく》|様《さま》が先。名前の五十音順ならご主人ですね」
「どっちだって|構《かま》わん!」
と神永は|怒《ど》|鳴《な》った。
その|頃《ころ》、武志と幹子は一柳女史の推測どおり駐車場からエレベーターへ乗り込むところだった。
|新宿《しんじゅく》副都心(地元では新[#「新」に傍点]都心と称している)に|林《りん》|立《りつ》する|超《ちょう》高層ビルの一つ。その三十一階に、二人の勤める〈KNエージェンシー〉がある。といっても事務所というほどのものはなく、社長室、秘書室、資料室があるだけだ。社員はすべて外回り[#「外回り」に傍点]の仕事である。
エレベーターに乗ると、武志が|訊《き》いた。
「今の仕事はいつ終る?」
「今日中には片付くわ」
「そいつは|偶《ぐう》|然《ぜん》だ。僕の方も今日片付ける」
「そう! |昔《むかし》なら、『やっぱり僕らは気が合うね』っていうところね」
「昔なら[#「昔なら」に傍点]、ね」
「全く、変れば変るもんだわ」
「それはこっちのセリフだ」
そこへ一階からドヤドヤとサラリーマン、OLたちが乗り込んで来たので、二人の|舌《ぜつ》|戦《せん》はしばし中断、となった。
〈KNエージェンシー〉と金文字で書かれたガラス|扉《ど》を押して二人は入って行った。
TVカメラが二人の姿を|捉《とら》えて、秘書室のブラウン管に映し出すと、一柳女史がそれに気付いて席を立った。
武志と幹子がそれぞれ自分のキャビネットの|鍵《かぎ》を開けようとするところへ、一柳女史が顔を出して、
「幹子さん」
「あら、おはよう、何か?」
「社長がお呼びよ」
「そう、何かしら?」
「私にも分らないわ。――あ、それから武志さんも、奥さんの後で社長がご用ですって」
「分った」
武志はちょっといぶかしげに|肯《うなず》いた。
幹子が社長室へ入って行くと、神永は|満《まん》|面《めん》に|笑《え》みを|浮《う》かべて、
「やあ! 相変らず美しいね」
「お世辞は社長に似合いませんわ」
幹子が椅子にかけて「ご用は?」
「仕事はどうかね?」
「今日、終らせるつもりです」
「結構! |依《い》|頼《らい》期日より一週間も早い。さすがだね!」
「そのお言葉は終ってからにして下さい」
「いやいや。君の腕なら、もう終ったも同然さ」
「最後は運ですわ、社長。いくら|完《かん》|璧《ぺき》に仕組んでも……。一体何のお話ですか?」
「ウム……。ちょっとこれは余計な差し出口かもしれんのだが……」
「仕事ぶりがお気に|召《め》さないのなら――」
「いや、とんでもない! 満足しておるよ」
神永はしばらくためらっていたが、やがて思い切ったように、「君たち夫婦はどうもうまく行っていないようだね」
幹子が表情を固くした。
「どうしてそれを……」
「|噂《うわさ》が耳に入ってね。悪いがちょっと調べさせてもらった」
「私生活に|干渉《かんしょう》されるのは困ります」
「そう言うな。君らを引き合わせたのはわしだ。言ってみれば|仲人《なこうど》のように君らのことは気にかけて来たつもりだよ」
幹子は息をついて、
「すみません」
「いや、夫婦のことに他人が口を出すのは確かに無益なことかもしれん。だから忠告などしようとは思わんが……。どうなのかね、そんなに悪くなっているのか?」
「もうおしまいです」
「考え直す余地はないのか?」
「ありません」幹子のきっぱりとした言葉に神永はため息をついて、
「残念だな……」
「でも仕事は仕事です。きちんとやりますからご心配なく。……もうよろしいでしょうか?」
「ああ、結構だ」
「失礼します」
幹子が足早に社長室を出て行った。
武志も幹子と同じ返事だった。
「もうおしまいです」
「何か打つ手は……」
「ありません」
「残念だな」
「仕事には決して|影響《えいきょう》させませんから、ご心配なく」
武志が出て行くと神永は首を振って、
「似た者同士の夫婦なんだが……」
と呟くと、デスクのボタンを押した。――ややあって、一柳女史が、紅茶のカップを|載《の》せた|盆《ぼん》を手に入って来た。
「わしは〈お茶〉のつもりだったんだが……」
「今の鳴り方は〈紅茶〉でしたわ」
「紅茶でいいよ」
と神永はため息をついた。
「お|義母《かあ》様」
|丹《たん》|野《の》|秋《あき》|子《こ》は|障子《しょうじ》を開けると、床に|伏《ふ》せた義母、丹野|久《く》|米《め》へ声をかけた。「では出かけて参りますので……」
「何だって!」
久米の目がキラッと光って、「出かけるって? 私を|放《ほ》っておいて出かけると言うのかい?」
「お義母様、昨日申し上げましたわ。今日は同窓会だと」
「私は知らないね。何も聞いてないよ」
「お義母様、おっしゃったじゃありませんか、今日は家政婦さんの来る日だからゆっくり行っておいで、と……」
「フン、勝手な作り話だね。私は許しませんよ」
「ですけど――」
「私の薬はどうなるんだい?」
「家政婦さんにお願いしてあります」
「私は三時からTVを見るんだよ。それまでに|戻《もど》って来てくれるのかい?」
「それは……。スイッチはリモコンですから、ご自分で――」
「お医者様に手を使わないように言われてるんだよ! 分らないのかい!」
秋子が|唇《くちびる》をかみしめて、必死で感情を|抑《おさ》えながら、
「ともかく今日は出かけなければなりませんので。行って参ります!」
と素早く|廊《ろう》|下《か》へ飛び出した。
「お待ち! 勝手は許さないよ!」
と義母の声が追いかけて来るのに耳をふさぎながら、玄関へと急ぐ。目にこみ上げて来るくやし|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》って、
「もう少しの|辛《しん》|抱《ぼう》なんだわ……」
と呟いた。玄関へ着くと、ちょうど、家政婦がやって来た。
「出かけますから。|義母《はは》のことをお願いします」
「はいはい」
家政婦は愛想よく|微《ほほ》|笑《え》むと台所へ姿を消した。
秋子は丹野|邸《てい》の正門に|並《なら》んだ通用門をくぐると、急に別世界へ来たような気持になった。そこには自由[#「自由」に傍点]があった。たとえ|束《つか》の|間《ま》の自由でも……。それにしても、と秋子は大通りに足を向けながら思った。あの人たちは本当に|契《けい》|約《やく》を守ってくれるのかしら?
家政婦が久米の|部《へ》|屋《や》の障子を開けると、起き上って|菓《か》|子《し》をつまんでいた久米は|慌《あわ》てて|布《ふ》|団《とん》へ|潜《もぐ》り込んだ。
「具合はいかがですか、奥様」
「体中が痛くてね……」
と久米が|哀《あわ》れっぽい声を出す。
「それはいけませんねえ。軽くマッサージをして差し上げましょうか」
「お願いしますよ。全く、|嫁《よめ》が気がきかないものだから……」
布団をめくって久米をうつぶせにすると、家政婦がしなやかな指で|腰《こし》をもみ始めた。
「ああ、いい気持……。今日もね、嫁は私のことを|放《ほ》ったらかして出かけてしまうんだから。全く、近頃の|嫁《よめ》と来た日にゃ……」
「本当ですねえ」
と調子を合わせながら、|肩《かた》をもんで行く。久米は快い|刺《し》|激《げき》に、目を閉じているうち、うとうとと|眠《ねむ》り込んだ。――家政婦の指が、静かに気管を|圧《あっ》|迫《ぱく》した。静かに。静かに……。
|総《すべ》ては数分で終った。家政婦は久米の息が絶えたのを確かめると、立ち上った。そして、障子や、台所のテーブル、玄関のノブ、と手を|触《ふ》れたところを|布《ぬの》で|拭《ぬぐ》ってから、玄関を出た。ここの玄関は周囲の家から見えない位置にあるので、|好《こう》|都《つ》|合《ごう》だ。前庭の|植《うえ》|込《こ》みの|陰《かげ》へ入って三分余り。スーツ姿に小型のスーツケースを持って、立ち上ったのは幹子だった。
どう見ても化粧品か何かのセールスという感じだ。幹子は通用門から表へ出た。幸い、通りかかる人間もない。幹子は仕事[#「仕事」に傍点]の一部始終を素早く思い返してみて、し忘れたことのないのを確かめてから、ゆっくりと歩き出した……。
最も効果的で確実な方法とは、最も単純な方法である。――これが武志の、経験から得た真理だった。
すでにかなりの高さまで|鉄《てっ》|骨《こつ》の組まれた工事現場のすぐ近くでタクシーを降りると、武志はトラックが来るのを待った。ここ何日か観察していて、トラックが必ず二、三台固まってやって来るのに気付いていたからだ。それも、この時間なら、十分と待つことはないはずである。
ぴったり五分後に、三台のダンプが、|地《じ》|響《ひび》きをたてながらやって来た。一台、また一台と工事現場の囲いの中へ|呑《の》み込まれて行く。――三台目が中へ入った時には、武志はもう現場へ入り込んでいた。トラックの陰について入ればいとも簡単なことだ。
ただし、現場なのだから、ヘルメットや作業服をつけていないと目につくおそれがある。しかし工事現場というものはいろいろなものが転がっている所で、五分後には武志はその両方を手に入れていた。次はアセチレンのバーナーだ。これはちょっと手間取ったが、十分後には手に入れた。
工事現場の|隅《すみ》に細長い板が何枚もつみ上げてあった。鉄骨の間に、通路代りに渡すのである。武志は素早く周囲を見回してからバーナーに点火した。ゴーッと音を立てて青い|炎《ほのお》が|吹《ふ》き出す。それを地面に置いて、炎を板の山へ近付ける……。
目指す相手は地上二十メートルの足場の上にいた。いつもは高い所が苦手で、足がすくんでしまう武志だが、仕事となると全く気にならない。|怪《あや》しまれないように、|忙《いそが》しげに早い足取りで上へ上へと登って行く。上に着いてホッと息をついた時、計算どおり、|騒《さわ》ぎが起った。
「火事だ!」
「板が燃えてるぞ!」
下の方で声が上ると、足場に上っていた連中が|一《いっ》|斉《せい》に下り始めたが、その男はここの責任者だけに、そうすぐには動かず、残って様子を見ていた。――武志の計算どおりだ。
「すみません」
と足場に|人《ひと》|気《け》のなくなったのを見て、武志は近付いて行った。
「何だ?」
振り向いた顔を確かめる。この仕事では、|人《ひと》|違《ちが》いは許されないのだ。武志は、
「ちょっと、お話が……」
と言いながら、力を|込《こ》めて男を|突《つ》き飛ばした。男は足場の|端《はし》で|踏《ふ》みこたえたかに見えたが、次の|瞬間《しゅんかん》には武志の前から消えていた。
――下へ降りると、火を消すのに、現場の人間が一人残らず集まっている。武志はヘルメットと作業服をその辺へ放り出すと、工事現場を出て行った。
2
〈|劇《げき》|団《だん》・ペガサス〉――えらく気取った名前の|看《かん》|板《ばん》がかかった入口を、武志は入って行った。看板がなければ取り|壊《こわ》し寸前の建物かと思うようなあばら家である。もとはスポーツ・ジムか何かだったのを、ただ同然で借りているらしい。
明りもなく暗い廊下を、放り出してある椅子につまずきながら進むと、奥に〈|稽《けい》|古《こ》場〉と書いた紙を|貼《は》りつけたドアがある。ドアを開けると、そこは体育館のように、板ばりの広い部屋だった。ガランとして何もない部屋だ。――|床《ゆか》に、十人ばかりのタイツ姿の若者たちが思い思いの|格《かっ》|好《こう》で休んでいた。いや、休んでいる、と見えたのだが、よく見るとどうもそうでもないらしい。
みんな、まるで人形か何かのように、じっとして動かないのである。ある者はあぐらをかき、ある者は|寝《ね》そべり、ある者は|片《かた》|膝《ひざ》をついている。しかしみんな、じっとしたままなのである。武志はマダム何とかの|蝋《ろう》人形館にでも|紛《まぎ》れ込んだのかと思った。
彼女は、立て|膝《ひざ》の格好で、火の|点《つ》いていない|煙草《たばこ》をくわえていた。武志が入口に立って、軽く|咳《せき》|払《ばら》いすると、彼女一人がまるで|呪《じゅ》|縛《ばく》が解けたといったように立ち上って手を振り、急いで走って来た。
「早かったのね!」
「仕事が早く終ったんだ。君はいいのか?」
「ええ。構わないわ。行きましょう」
そう言って彼女は自分の格好に気付き、
「あ、すぐ|着《き》|替《か》えて来るわ。待ってて!」
と稽古場の奥のドアから姿を消した。武志は胸の|弾《はず》むのを感じていた。もう彼女とは半年以上になるのに……。
|大《おお》|友《とも》|美《み》|幸《ゆき》。それが彼女の名だった。二十一歳。劇団研究生で、TVのチョイ役に、たまに顔を出している。ちょっと|小《こ》|柄《がら》で、|田舎《いなか》くささが|抜《ぬ》け切らないが、その|飾《かざ》り気のないところが|魅力《みりょく》だった。むろん、ただそれだけではない。|溌《はつ》|剌《らつ》とした若さ、愛くるしい顔立ちで、少しずつ、着実に仕事をつかんで来ていた。
美幸を待ちながら、武志は|壁《かべ》にもたれてぼんやりしていたが、そのうち、ふっと|誰《だれ》かの視線を感じて、不動のままの若者たちへ目を向けた。しかし、その時には、もうその[#「その」に傍点]眼は自分を見ていなかった。
「――お待たせ」
美幸が走って来た。明るいセーターにジーパンのスタイルだ。
「行こうか」
「ええ!」
美幸が武志の腕につかまるように寄り|添《そ》う。稽古場を出る時、武志ははっきりと感じた。自分の背中へ向けられた視線を。
「あれはみんな何をやってるんだい?」
表へ出て、武志は|訊《き》いた。
「新しい劇の稽古よ」
「動かないでじっとしてるのか?」
「そういう劇なの。主役以外は最初から終りまで動かないのよ」
「へえ! 僕の理解力では付いていけないね」
と武志は首を振って、「君は稽古を抜けていいのかい?」
「ええ。だって、私がいろいろな出演料を全部入れてるから、あの稽古場も借りていられるんですもの。スターのわがままは許されるのよ!」と美幸は笑った。
「よし、じゃ、まだ二時だ。一つ映画でも見て、食事をして、それから……」
と武志が問いかけるように美幸を見ると、美幸はちょっとはにかみながら、
「いいわ」
と|肯《うなず》いた。「奥さんはいいの?」
「あんな|奴《やつ》、構わんさ!」
と苦々しげに言って、武志は通りかかったタクシーを|停《と》めた。
経験のない人間にも容易に理解されるだろうが、殺人というのは、神経の|疲《つか》れる仕事である。
幹子は一つ仕事[#「仕事」に傍点]を終えると、デパートで服やら|靴《くつ》やらを買い込むことにしていた。
買物というのは、女性の最もいいストレス解消法の一つなのである。買物を終え、両手に合計四つの|紙袋《かみぶくろ》をさげて、幹子はデパートの|一《いち》|隅《ぐう》の|喫《きっ》|茶《さ》室へ入った。ミルクティーを飲んでいると、|昂《たか》ぶっていた神経が、いつしか|鎮《しず》まっているのを感じる。
仕事は仕事と割り切っているから、良心の|呵責《かしゃく》などというものはない。しかし|綿《めん》|密《みつ》に計画を立てて、細心の注意を払いながら実行へ移して行く過程は|緊張《きんちょう》の連続だ。その点、武志の方はかなり気楽にアッサリとやってのける。多分に運まかせのところがあるが、今のところ危ない目に|陥《おちい》ったことはなかった。
「運のいい人なんだから……」
と幹子は|呟《つぶや》く。――その、どこか人を食った|朗《ほが》らかさに、若い幹子は|魅《ひ》かれたのだったが、今となってはそれも|堪《た》え|難《がた》い無神経さに思える。
|苛《いら》|々《いら》したら、本当に殺しかねないわ、と幹子はぶっそうなことを考えた。早々に|離《り》|婚《こん》してしまおう。ただ、ルミのことが問題だ……。|微妙《びみょう》な|年《ねん》|齢《れい》だし、どちらかといえば母親似の神経質な性格。両親の離婚が、あまりショックにならなければいいのだが。
小学生の自殺などという新聞記事を見ると、幹子はつい考えてしまうのだ。
腕時計を見ると、もう午後四時になっている。幹子は席を立って、カウンターの所の赤電話から家へ電話をかけた。
「もしもし。ルミ? ママよ」
「今どこなの?」
「デパートよ。夕ごはんまでに帰るからね。一人なの?」
「進君が|一《いっ》|緒《しょ》」
「そう。じゃ遊んでいてもらってね。火遊びはだめよ。それから二階のバルコニーへは出ないのよ。まだ手すりを直してなくて、危ないから。――それと冷蔵庫のアイスクリーム、食べていいわ」
「今、食べてるの」
幹子は思わず笑って、
「あら、そうなの。それならいいわ。じゃ、できるだけ早く帰るからね」
「バイバイ、ママ」
幹子は受話器を置いた。進君というのは、ルミ自身の言葉によればルミの未来の夫で、今、十二歳。小学校の六年生である。登下校も引き受けてくれるし、幹子にとってはありがたい存在だった。それに男の子にしては|行儀《ぎょうぎ》もよく、おとなしい。
「進君が一緒なら……」
と少し安心して席へ|戻《もど》ろうとした時、出ようとする中年の男とすれ違った。そこへ、
「そのお客さん、他人の紙袋を持ってる!」
と誰かの|叫《さけ》び声。幹子がハッと見ると、|空《あ》いた椅子に|載《の》せておいた四つの紙袋が三つしかない! 振り返ると、その男が紙袋を放り出して、店から飛び出して行った。
袋から出てしまった品物を拾って紙袋へ戻していると、
「|壊《こわ》れませんでしたか?」
と声がした。見上げると、二十歳そこそこの|長髪《ちょうはつ》の青年だ。
「教えて下さったのはあなたね。助かりました。ありがとう」
「いえ、何の気なしに見てただけなんですよ」
若者は照れて頭をかいた。体が大きいのに、その仕草がいかにも子供っぽくて、幹子は思わず|笑《え》|顔《がお》になった。
「何か好きな物を召し上って。どうぞ。お礼の代りですわ」
向い合って座ると、幹子は若者にそうすすめた。「何がいいかしら?」
「そうですか……」
若者はしばらくもじもじしていたが、「じゃ……チョコレートパフェを」
幹子は目を丸くした。
「……こういうもんは、男一人じゃ|頼《たの》めないでしょ。大好物なんですが」
と、若者は、幹子がゲッソリするような大きなパフェをペロリと平らげてしまった。|羨《うらやま》しいわ、この若さ……。幹子は若者をじっと見つめているうちに、不意に、この若者に|抱《だ》かれてみたい、と思った。
「あなた、今、お時間ある?」
「ええ。ありすぎて。|浪《ろう》|人《にん》中ですから」
「一時間ほどでいいんだけど」
「何でしょう? 荷物持ちですか?」
「一緒に来てちょうだい」
幹子は先に立って喫茶店を出た。
「パパ、どうしたのかしら?」
ルミが夕ごはんを食べながら言った。
「お仕事が|忙《いそが》しいんでしょ」
と幹子は答えたが、むろんそうではないと分っているのである。あの俳優の卵の娘とホテルにでも行っているのに違いない。全く、何て人だろう!――自分だって今日は一時間ばかりのあわただしい|情事《じょうじ》を楽しんで来たのだが、幹子はそれとこれとは別、といささか虫のいいことを考えていた。
あの名前も知らない若者は、ただその若さだけで|夢中《むちゅう》になって彼女の内へ押し入って……アッという間に終ってしまった。そしてしきりに|恐縮《きょうしゅく》していたのだが、幹子の方はそれで|充分《じゅうぶん》だった。緊張の後の、解放のひととき、男の|肌《はだ》を感じているだけで、|疲《ひ》|労《ろう》が洗い流されていくような気がしていた。
以前なら、武志の胸へ飛び込んで我を忘れたのだが、二人の間にはもうここ何か月も「|接触《せっしょく》」がなかった……。
「ねえ、ママ」
とルミが言った。
「何?」
「パパとママ、うまく[#「うまく」に傍点]いってるの?」
幹子はギョッとした。
「あ、当り前よ! 一体どうしてそんなこと|訊《き》くの?」
「ううん、ちょっと気になっただけなの」
「そう……」
幹子はそっと息を|吐《は》いた。
「じゃあ、離婚したりしないわね?」
幹子は椅子から飛び上りそうになった。
「仲がいいんだから、そんな……そんなことするはずないでしょ!」
「ふーん。それならいいんだけど……」
「テレビつける?」
幹子は|冷《ひや》|汗《あせ》をかきながら、立って行って、テレビのスイッチを入れた。「ニュースの後で、マンガがあるわよ」
「ママ、ごはん食べながらテレビ見ちゃいけないのよ」
幹子はグッと|詰《つま》った。
「う、うん、そうだけど……」
「もうすぐごはん終りだからいいのね」
とルミが助け船を出してくれた。
「やれやれ……」
子供っていうのは何か|理《り》|屈《くつ》でない直感を持ってるものなのかしら。気を付けなくちゃね……。
幹子の目がふとテレビの画面に吸い寄せられた。|見《み》|憶《おぼ》えのある|門《もん》|構《がま》えが映っている。丹野邸だ。あの老女の死体が見つかったのだろう。幹子はアナウンスに耳を|傾《かたむ》けた。
「今日、|昼《ひる》|頃《ごろ》、一人で|留《る》|守《す》番をしていたお|婆《ばあ》さんが何者かに刺し殺されました[#「刺し殺されました」に傍点]」
幹子は耳を疑った。|刺《さ》し殺された? そんな……そんなはずはない!
「……久米さんは包丁で胸や|喉《のど》を何度も刺されて血まみれになって死んでいました。室内は|荒《あ》らされた様子がなく、警察では久米さんに|恨《うら》みのあった者の犯行と見ています。……」
幹子は悪い|夢《ゆめ》であってくれたら、と思った。――一体、何があったのだろう?
「警察では義理の娘に当る女性を重要参考人として任意出頭を求め、事情を訊いています。……では次に……」
「ママ、どうしたの?」
幹子ははっと我に返った。
「いいえ、何でもないのよ。……ちょっと一人でテレビを見ていてね。ママ電話をかけて来るから」
幹子は廊下へ出ると、電話をかけた。めったに回すことのない番号だ。
「わしだ」
神永がすぐに出た。「かかって来ると思っとったよ」
「とんでもないことになりました」
「うん。一体どうなっとるんだ?」
「私にも見当がつきません。ただの|発《ほっ》|作《さ》と見えるように始末して来たのです。それなのに……」
「妙な話だな。それにまずいことに、|依《い》|頼《らい》|人《にん》が容疑をかけられている」
「でもあの人は同窓会へ出ていたはずです。アリバイがあるでしょう」
「それならいいが……。もし|訊《じん》|問《もん》されて、われわれのことを|洩《も》らしでもしたら……」
「ええ、よく分ります」
「君も分っとるだろうが、この始末は――」
「はい。私が必ず。万一、私が失敗したら、決りどおりに処置して下さい」
「うむ……そうならないように|祈《いの》るよ」
「では、できるだけ早くご|連《れん》|絡《らく》します」
幹子は受話器を置いた。
同じニュースを、武志はラブホテルの一室で見ていた。|汗《あせ》ばんだ体をシャワーで流し、バスタオルを腰に巻いてテレビをつけたのだった。自分の仕事の仕上りを確認する、というところだろうか。
もっともあれがニュースに出るようでは困るのだ。工事現場での|墜《つい》|落《らく》事故などはテレビニュースにはいちいち報道されない。だから、ニュースに出ないことを確かめたかったのだ。
美幸はまだシャワーを浴びていた。武志はぼんやりとテレビを|眺《なが》めながら、このまま別れるのももったいないな、と思っていた。もう一勝負、|頑《がん》|張《ば》ってみるか。エネルギーは充分残っている。――そこへ、あのニュースが流されたのである。
武志は、バスルームから、まだシャワーの音がしているのを|窺《うかが》いながら、電話をかけた。
「やあ、君はどこにおるんだ?」
神永はすぐに出た。「奥さんからも、つい今しがた電話があったぞ」
「何と言っていますか、彼女は?」
「さっぱり分らんらしい。いつもどおり片付けたのに、と言っとるよ」
「そうですか。しかしまずいことに……」
「全くだ。君に話がある。すぐ来てほしい」
武志はちょっとためらったが、
「――分りました」
と言った。「事務所ですね」
「わしも今から出る」
電話を切ると、武志は急いで服を着た。美幸が赤くほてった顔で出て来ると、
「あら、何を|慌《あわ》ててるの?」
「悪いが、急に仕事で行かなくちゃならない」
「まあ、今から?」
「そうなんだ。もっと付き合いたかったんだがね」
「本当? 奥さんが|怖《こわ》くなって、飛んで帰るんじゃないの?」
と美幸が可愛くにらんでみせる。武志は笑って、
「何を言ってるんだ。また電話するからね」
と、まだバスタオル一つの彼女を|抱《だ》きしめてキスした。「……ずっとこうしていたいが、仕事は仕事だ」
「仕方ないわね」
美幸は|肩《かた》をすくめて、「でもこの次はもっとゆっくりね……」
社長室だけに明りがついていた。
武志は軽くドアをノックして入って行った。神永が椅子から|微《ほほ》|笑《え》みかけた。
「女と一緒だったのかね?」
「え?」
「髪が少し|濡《ぬ》れとるぞ」
武志は慌てて頭へ手をやって、|咳《せき》|払《ばら》いすると|椅子《いす》に腰をおろした。
「お話というのは……」
「君にも察しはつくだろうが……」
「あれは幹子がけりをつけるべき問題ですよ」
「それはむろんだ」
神永は少し|間《ま》を置いて、「わしが言うのはその後[#「その後」に傍点]のことだ」
武志はやや|戸《と》|惑《まど》った顔で、
「と言うと……つまり、幹子が失敗した場合のことですか」
「そうだ。考えたくはないが、やはり考えておかねばならん」
「分ります。……しかし、あれはちゃんと自分の始末はつけますよ」
「どうかな」
「あれもプロです。失敗すれば自分で責任を取ります」
「子供さんがいる。女は子供を残しては、そう簡単に死ねんものだ」
武志は、言われてみて初めてなるほどと思った。
「どうしようとおっしゃるんですか?」
「彼女がどうしても、このごたごたを片付けられなかった場合は、〈使い〉を送ることになるな」
「彼女をやる[#「やる」に傍点]のは、そう容易なことじゃありませんよ」
「だから君を呼んだ」
――しばし、|沈《ちん》|黙《もく》があった。武志はそろそろと立ち上って、
「待って下さい。ごめんですよ、僕は!」
「どうしてかね? 君はこの会社きっての腕ききだ。それに奥さんとは別れるつもりなのだろう?」
「それはそうですが……しかし、それとこれとは……」
「ビジネスだよ。彼女をいちばん楽に眠らせてやるのも君だ。……いいね?」
椅子へ再び体を落として、武志はゆっくり|肯《うなず》いた。
「……分りました」
「その時にはわしが|指《し》|令《れい》を出す」
と神永は立ち上って、「ではおやすみ」
3
翌日の朝刊を開いて、幹子はいよいよ自分が追いつめられたことを知った。あの丹野秋子が|逮《たい》|捕《ほ》されたのだ。同窓会へ出るつもりで家は出たものの、それほど気乗りもしないまま、自由なひとときを楽しむべく、あちこち一人で歩いていたらしい。アリバイはなかったのだ。
幹子は、いつ計画を実行するかを依頼人に決して明かさない主義だった。特に今度の場合のように、依頼人が|被《ひ》|害《がい》者の身辺にいる場合には、依頼人の態度で被害者が|怪《あや》しむことがある。それどころか、秋子は、家政婦が実は殺人者だということも知らない。
計画どおりに事が運べば、帰宅してみると義母は発作を起こして死んでいた、ということになるのだから、別に|誰《だれ》が怪しまれるはずもないのである。その時になって、初めて家政婦が殺人者だったことに思い当るかもしれないが、通いの家政婦の顔など、そうそうよく|憶《おぼ》えているものではないし、幹子にしても、ちゃんと|老《ふ》けて見えるように工夫をしていたから、たとえ町中で出会っても分りはしないだろう。依頼人は極力何も知らない方がいい、というのが幹子の考えだったのである。
しかし、それが今度ばかりは裏目に出た。秋子が同窓会へ行くと聞いたので、好機を|逃《のが》さず決行したのだが……。
「行ってらっしゃい」
とルミを送り出すと、幹子は食堂へ戻って、
「今日はあなた一人で行って。私は用があるから」
「分った」
武志は肯いたきり新聞へ目を落とした。お|互《たが》いの仕事の話はしないのが原則だったが……。
「|厄《やっ》|介《かい》なことになったようだな」
と武志はさり気なく言った。幹子は肩をすくめて、
「何もこれが初めてじゃないわ」
「ま、そりゃそうだが……。何か手伝おうか?」
「結構よ」幹子ははねつけた。「それよりゆうべずいぶん早いお帰りでしたわね」
武志はムッとして、
「帰らない方がよかったか?」
「あら、彼女と|駆《か》け落ちでもなさるつもり?」
「どうして僕が逃げ出さなきゃいけないんだ! ここは僕の家だぞ!」
「あらそう? じゃ|玄《げん》|関《かん》の|把《とっ》|手《て》ぐらいなら持って行っていいわよ」
武志は|黙《だま》って立ち上ると、さっさと家を出た。
「せっかく親切に言ってやったのに! あいつめ!」
と車を走らせながら、|吐《は》き捨てるように言った。
実際のところ、「死んじまえ!」とか「殺してやる!」とか言ったところで、言葉どおりに受け取っていいわけではない。それなら世の中に人間は死に絶えてしまうだろう。
武志だって、たとえば幹子が事故か何かで|巧《うま》い具合に死んでくれればと思わぬではないが、自分の手で殺すとなれば、話は別である。何と言っても十年以上、夫婦として生活して来たのだし、そのうちの七年間ぐらいは、まあまあ楽しくやって来たのだ。
それに、娘のルミのことがある。父親が母親を殺したことが、まず万に一つでもルミに知れることは考えられないが、武志の内に、しこり[#「しこり」に傍点]になって残りそうな気がした。
神永に言って、そんな役はごめんだと断るか?――しかし、神永が一度決めたことを決して変えない人間であることを、武志は永年の付き合いでよく承知していた。あのとぼけた顔の|奥《おく》には、時には氷のような|冷《れい》|徹《てつ》な意志が|秘《ひ》められているのだ。
まあ、それでなくては、殺人を|請《うけ》|負《お》うという商売をこれだけ長い間やってはいられないだろうが……。
武志は|道《みち》|端《ばた》へ車を|停《と》めて、しばらく考えていたが、やがて思い切ったように車をターンさせた。
公衆電話から事務所へ電話を入れ、休みを取ると伝えた。――仕事が片付いた後は、三日間は休める規定になっていたから、別に問題はない。それから武志は美幸のアパートへ電話をして、出て来ないか、と|誘《さそ》った。声を|弾《はず》ませて彼の誘いを受ける美幸のことを思うと、武志は、幹子のことなど放っておこうかという気になるのだったが……。
幹子は、丹野|邸《てい》の周囲をゆっくりと|巡《めぐ》った。丹野邸は正門前に警官が一人立っているほかは、ひっそりと静まりかえっている。もともと久米と秋子の二人しかいなかったのだから、今は|誰《だれ》もいないわけである。
幹子は自分なりに|状況《じょうきょう》を整理してみた。彼女が久米を殺したことは、間違いなかった。つまりその後で、何者かが死んだ久米に包丁を|突《つ》き立てたわけだ。なぜそんなことをしたのかはともかく、それは幹子が丹野邸を出てすぐのことだったに違いない。時間がたっていれば、久米の死因が|刺《さ》し傷でないことは分るはずだからだ。
するとその人物は、幹子が出てすぐに|邸《やしき》へ入り込んだか、それとも、邸のどこかに|潜《ひそ》んでいたことになる。広い邸だから、身を|隠《かく》す場所には事欠かない。そして久米を刺して出て行った。――どこから?
出ようと思えば正門のわきの通用門から出られる。しかし、おそらく裏の小さなくぐり戸から出たのではないか、と幹子は思った。久米を何度も刺していたことを考えると、その人物はあまり落ち着いていたとは思えない。そういう場合は裏から出て行く方が心理的に自然である。裏だから目に付かないということはないのだが、表から堂々と出て行くのはやはり度胸のいることだ。それに返り血を浴びていたかもしれない。
裏口へ回ってみると、丹野邸の様子を|窺《うかが》うように、ウロウロと歩いている男がいた。三十五、六。ごく当り前のサラリーマン風の男だ。幹子が足早に歩いて行くと、ギクリとした様子で、|慌《あわ》てて反対側へ歩き出した。
確かにおかしい。幹子は男の姿が曲り角で消えると、|踵《きびす》を返して男の後をつけ始めた。
「ねえ」
美幸の声で、武志ははっと我に返った。
「何だい?」
「どうしたの、ぼんやりしちゃって? 心配事?」
「いや、別に……」
「隠したってだめよ。――奥さんと何かあったの」
二人は|超高層《ちょうこうそう》ビルの五十階にある喫茶店にいた。そこからは武志の会社[#「会社」に傍点]の入っているビルも見える。せっかく休みを取って、二人でいるのだから、とは思うのだが、やはり幹子のことが気になるのだ。
「|女房《にょうぼう》が……ちょっと困ったことになってね……」
「どうしたの?」
「うん……まあ、命にかかわること、とでも言うかな」
まさか、美幸に本当のことは話せない。
「まあ。……それで|悩《なや》んでるの?」
「まあ、そんなところだ」
「私と……別れたいの?」
武志は慌てて首を振って、
「いや、とんでもない!……ただね、このまま女房を見殺しにするのも、あまり後味はよくなさそうだし」
「奥さんを助けたいの?」
「君はどう思う?」
「どうって……。あなたの好きなようにすればいいわ」
と美幸がふと暗い表情になって顔を|伏《ふ》せる。
「|怒《おこ》ったのかい?」
「いいえ、あなたを信じてるから」
美幸は顔を上げて|微《ほほ》|笑《え》んだ。武志は美幸の手を取って、
「よし。――女房を助けてやるよ。そしてはっきりと別れる。これがいちばんいい方法だと思う。分ってくれるね?」
「ええ」
美幸がゆっくりと肯いた。
「もしもし」
「|尾《お》|崎《ざき》ですが……」
やや|間《ま》のびした男の声がした。幹子は電話ボックスから、相手のいる、目の前のビルを|眺《なが》めながら、
「尾崎|信《のぶ》|宏《ひろ》さんですね」
「そうです。そちらは……」
「実は私、あなたの定期入れを拾いまして。それでお電話差し上げたんです」
「あ、そ、それはどうも……。いや、助かります! 本当にどうも……」
「お勤め先は銀座ですわね」
「はあ」
「私、ちょうどその近くへこれから行く用がありますので、お持ちしますわ」
「あ、いや、そんなお手数を……」
「いえ、ついでですから」
「そうですか……」
「会社の近くへ三時頃には参れると思いますの」
「そうですか。では……」
「近くに喫茶店でもございます?」
「は、はい。地下に降りると〈マロニエ〉という喫茶店が……」
「まあ。それじゃそこでお待ちしてますわ。三時頃に」
「はい! どうもまことにお手数を……」
幹子は受話器を置くとニヤリとした。定期入れをスリ取るぐらいのことができなくてはこの仕事はつとまらないのだ。
まだ三十分ばかりあったが、幹子は通りを|渡《わた》って、その喫茶店へ降りて行った。|狭《せま》くて空気の悪い店で、長くいると|頭《ず》|痛《つう》がして来そうだったが、そんな文句を言っている場合ではない。
何しろ、あんなことをした人間を早く見つける以外に、丹野秋子を救う手はない。そして秋子が万一、会社のことを|洩《も》らしでもしたら……。むろん、殺人の|依《い》|頼《らい》や|受《じゅ》|諾《だく》の手続きは事務所でやるわけではないから、そういう会社が存在することが警察に知れても、すぐに危険になるわけではない。しかし、そうなれば、どんな細かいことから|総《すべ》てを知られないとも限らないのだ。
特に、秋子は、今では当然家政婦が殺人会社の人間であることを察しているだろうし、それをしゃべってしまうと、最も早く警察の手が及ぶのは幹子ということになる。
幹子も、神永がこういう時、どう処置するかをよく承知していた。彼女とて、常にその|覚《かく》|悟《ご》はある。しかし……ルミがいた。ルミを|遺《のこ》して死にたくはなかった。――何としてでも、犯人を見つけてやる!
ちょうど三時ぴったりに、尾崎という男がキョロキョロしながら入って来た。席から|腰《こし》を|浮《う》かして幹子が|肯《うなず》くと、尾崎はいそいそとやって来て、
「あ、尾崎です。どうも。ええと……」
「私の名前はよろしいでしょう? 拾った物をお届けに上っただけなんですから」
「はあ、そうですね。いや……しかし何かお礼を……」
「そんなお|気《き》|遣《づか》いはご無用ですわ」
「いえ、そういうわけにも……。定期は買ったばかりですし、身分証明書も入っているし全く困っていたんですよ」
「そうでしょうね。きっと困っていらっしゃるだろうと思いましたわ」
「そうなんです、全く」
幹子はハンドバッグから定期入れを出すとテーブルに置いた。
「確かにお返しします」
「いや、どうもありがとうございます!」
「中をお改めになったら?」
「いえ、とんでもない!」
とポケットへしまおうとする。
「この写真が|抜《ぬ》けていますわよ」
幹子は、テーブルへ、|縁《ふち》を切り取った写真を置いた。尾崎が慌てて手をのばすのを、|素《す》|早《ばや》く|押《おさ》えて、
「尾崎さん。この女性は丹野秋子さんですね」
「え?」
尾崎の顔が青ざめた。
「あなたと秋子さんの仲は承知してるんですよ!」
「あ、あなたは……警察の人ですか?」
「秋子さんの友人です」
「し、しかし、一体――」
「秋子さんが殺人|容《よう》|疑《ぎ》で|捕《つか》まっているのは知ってるでしょう。なぜ|放《ほう》っておくんですか?」
「そ、そういうわけでは……」
「あなたが丹野久米を殺したからじゃないんですか?」
「と、とんでもない!」
尾崎は慌てて首を振って、「私が行った時はもう――」
と言いかけて、口をつぐんだ。
「行った? いつです? |昨日《きのう》ですね?」
尾崎はしばらくためらってから、ゆっくり肯いた。
「なぜ行ったんです? 話して下さい」
「ええ……。私と秋子さんは……|結《けっ》|婚《こん》する|約《やく》|束《そく》をしています。私は独身だし、彼女もご主人に死に別れて、二人とも自由な身なのです。ところが、あの母親が……」
「許さない?」
「ええ。もちろん、あんな年寄りの許しを得る必要などないのです。ところが秋子さんの方が、勝手には結婚できない、と……」
「一体どうして?」
「秋子さんの両親や兄弟はみんなあの年寄りの言いなりなんです。ともかく大変な資産家でしたからね。反対を押し切って結婚すれば秋子さんにビタ|一《いち》|文《もん》残さないのは目に見えています。言うなりにしていれば、行く行くは遺産を|継《つ》いで、彼女の|親《しん》|戚《せき》もそれにたかれるというわけで……」
「いやな話ですね」
「全くです。しかし秋子さんは家族思いで……。私がいくら言っても、結婚を承知してはくれません。それで、私は昨日、会社を休んであそこへ出かけたんです」
「何時|頃《ごろ》でしたか?」
「さあ……。昼頃だったんじゃないかと思います。はっきりしませんが。ともかく、表の通用門が開いていたので|邸《やしき》の中へ入りました。|呼《よび》|鈴《りん》を押しても誰も出ないので、裏へ回ってみたんです。すると――」
と言いかけた時、店の入口から、
「尾崎!」
と|怒《ど》|鳴《な》る声がした。「勤務中に何をしてるんだ!」
「は、はい! すみません!」
と尾崎は席を立つと、幹子へ、「すみません。今夜でも家へ来ていただけますか?」
「ええ。ぜひ|伺《うかが》います」
尾崎は取り出した名刺に住所を走り書きして、幹子へ渡し、
「では、その時に――」
と言って、急いで店を出て行った。
|冴《さ》えない外見の割りにはしっかりした男性だわ、と幹子は思った。「行った時にはもう――」という言葉から考えて、尾崎は、丹野久米が殺されているのを見て、|慌《あわ》てて逃げ出したのに違いない。どう見ても、|彼《かれ》自身があの殺人を|犯《おか》したとは考えにくい。だが、彼は何か[#「何か」に傍点]を見たかもしれない。あるいは誰か[#「誰か」に傍点]を……。
尾崎が警察へ行かないのも、考えてみれば当然のことだろう。秋子に|恋《こい》|人《びと》がいて、久米の反対で結婚できないでいたと知られれば、ますます秋子の立場は悪くなるばかりだ。
幹子は喫茶店を出た。――警察で、秋子が何をしゃべっているのかが気になったが、心配したところでどうしようもない。
まだ時間がある。|一《いっ》|旦《たん》家へ帰ろう、とタクシーを拾った。
「もしもし」
「はい。パパ?」
「ああ、そうだよ、ママは?」
「まだ帰って来ないわ」
「そうか。――一人なのか?」
「進君と一緒」
「そう。じゃ仲良くしてるんだよ」
「もちろんよ。だって私の|旦《だん》|那《な》様なんだもん!」
武志は笑って、
「バイバイ」
と電話を切った。――さて、それでは、幹子の|奴《やつ》、どこに行っているのだろう?
武志は電話ボックスを出ると、あまり人通りのない道を、丹野邸の方へ歩いて行った。幹子がここへ来ているかと思って来てみたのだが、姿が見えない。
何か|手《て》|掛《がか》りをつかんだのだろうか? まああいつは|俺《おれ》より頭は切れる。|巧《うま》くケリをつけてくれればいいが。
武志も、ルミの声などを聞くと、どうも幹子をこの手で殺す気はしなくなってしまう。いかにビジネスとはいえ……。
丹野邸の裏|木《き》|戸《ど》のある通りをゆっくりと歩いてみる。――誰が一体、死んだ人間に|刃《は》|物《もの》を突き刺すような|真《ま》|似《ね》をするだろうか? 考えられるのは、死んでいると知らず、眠っているのだと思い込んでいたということだ。物|盗《と》りなら、騒がれない限り殺したりはしない。だから、あれをやった奴は初めからあの年寄りを殺す気だったのに違いない……。
歩いていた武志は、背後から近付いて来る|爆《ばく》|音《おん》に、ふと|振《ふ》り返った。オートバイだ。黒皮のジャンパー、ヘルメット姿の男が乗ったオートバイが走って来る。
武志は男の左手が太い|棍《こん》|棒《ぼう》を|握《にぎ》りしめ、振りかざしているのに気付いて、ハッとした。飛びのく|暇《ひま》はなかった。オートバイが、体をかすめるように駆け抜けると同時に、武志は頭に|激《はげ》しい一|撃《げき》を食らってどっと|倒《たお》れた。そしてそのまま意識を失ってしまった……。
4
「ふむ……。それで?」
神永は電話にじっと聞き入った。「なるほど。……分った。ありがとう」
受話器を置くと、深々とため息をつく。それからデスクのボタンを押した。
「はい」一柳女史が、いぶかしげな顔で入って来ると、「今の押し方はなんですか? ちょっとよく分りませんでしたが……」
「新しい押し方だ」
「はあ?」
「ウイスキーを持って来てくれ」
「アルコール類はございませんが……」
「店はあるだろう! 買って来い!」
|怒《ど》|鳴《な》られて、一柳女史は慌てて飛び出して行ったと思うと、すぐにウイスキーのポケットびんを手に戻って来た。
「何だ。いやに早いな」
「私の個人的な持ち物です」
「君がウイスキーをやるのか?」
神永が目を丸くした。「初耳だな、そいつは!」
「特別の場合だけです」
「わしの特別の場合は今だ!」
神永が、ウイスキーのびんをひったくるように取って、ガブ飲みした。そして、大きく息を|吐《は》くと、
「娘も同然に思っていた人間に死の宣告をするには、これぐらいのアルコールが必要だ……」
「篠原幹子さんですか?」
「そうだ」
一柳女史はウイスキーを神永から取り返すと、
「私にも特別です」
とグイとあおって、「……何とか逃がしてあげるわけには……」
「だめだ。……あの依頼人は、警察の|訊《じん》|問《もん》ですっかり参っているらしい。しゃべるのも時間の問題だ、と情報屋は言っている。奴の言葉に間違いはない」
「ですが、今までこんなに――」
「分っとる!……しかしな、彼女一人ではすまん。われわれや社員全部に危険が及ぶのだ。それだけではない。今までわれわれが|扱《あつか》って来た仕事の依頼人たちにまで、|疑《ぎ》|惑《わく》が及びかねん。……やむを得ない。彼女の家の電話を」
「はい」一柳女史がダイヤルを回し、神永へ受話器を渡した。
「ああ、もしもし。……ん? ああ、ルミちゃんだね。パパはいるか?……ママは?……そうか。じゃ後でかけ直すよ。いい子だね……。バイバイ」
受話器を置くと、神永はため息をつき、それから一柳女史を見た。
「……よし。今夜の十二時まで待とう」
「ただいま」
幹子が玄関を上ると、ルミが飛び出して来た。
「お帰りなさい、ママ!」
「パパは?」
「さっき、ママいないかって電話があったわ」
「そう。進君と|一《いっ》|緒《しょ》?」
「うん。お庭で|大《だい》|工《く》さんごっこしてるの」
「まあ、大工さん?」
「そうよ! 見に来て!」
そう広くもない|芝《しば》|生《ふ》だが、どこから持って来たのか、板きれが何枚もころがって、進が、せっせとのこぎりを動かしている。
「あらあら、大変ね!」
と幹子は苦笑いした。
「お|邪《じゃ》|魔《ま》してます」
進がのこぎりの手を休めて立ち上ると、頭を下げた。至って|礼《れい》|儀《ぎ》正しい少年なのだ。
「いつもルミと遊んでもらってありがとう。大工さんはいいけど、手をけがしないでね」
「大丈夫です。よく家でやってますから」
「でもちょっとお休みにしない? ショートケーキがあるわよ」
「はい!」
進が元気よく答えた。
幹子は紅茶を|淹《い》れ、ルミと進に出してやった。
「ルミ、ちゃんと手を洗った?」
「洗ったわよ」
「それならいいけど――あら」
玄関のチャイムが鳴った。「|誰《だれ》かしら」
急いで玄関へ出て、
「どなたですか?」
と声をかけたが、返事がない。下へおりて、ドアを開けると、
「あなた!」
頭を血まみれのハンカチで押えて、武志が転がり込んで来た。
「――大丈夫?」
と幹子は、武志の顔を|覗《のぞ》き込んだ。――ソファへ横になって、頭にぐるぐると|包《ほう》|帯《たい》を巻きつけた武志は、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで、
「なに……大したことはないよ。何しろ石頭だからな。……イテテ……」
「起きちゃだめよ!」
「|畜生《ちくしょう》! どこのどいつだ! こんな……」
「怒るとますます痛くなるわよ。ウイスキーでも少し飲む?」
「そうだな……」
幹子はグラスへ少しウイスキーを入れて持って来ると、
「じゃ、あなた、私のことを手伝おうと思って、こんな目に?」
「まあね……」
「私が死ぬのに任せておくと気がとがめるの?」
「君を助けて恩を売りたかったのさ。スムーズに離婚できるだろう」
「なるほどね。そういうわけ」
「それに……ルミが|可哀《かわい》そうだ」
「立派な親心ですこと」
「おい! 冷やかすのか」
「いいえ本心よ。――今夜、ある男の人に会って来るわ。それで何かつかめるかもしれない……。だめなら、もう望みはないかもね」
「どうするんだ?」
「私だってプロよ。自分の始末は自分でつけるわ」
武志は複雑な顔で幹子を見た……。
夕食を終え、幹子がルミを寝かせに二階へ上って行くと、電話が鳴った。武志が出た。
「はい」
「わしだ」
「ああ……。何でしょう?」
「事態は悪くなっている」
「そうですか。彼女は何か手掛りをつかんだようですが」
「あまり待てないのだ」
「分ります。――いつですか?」
「今夜の十二時。いいな?」
武志は少し|間《ま》を置いて、
「分りました」
と答え、受話器を置いた。
二十分ほどして、幹子が降りて来た。
「やっと寝たわ。じゃ、私は出かけてくるわよ」
「僕も行く」
「どうして? けがしてるのに……」
「いいだろう。僕も興味がある」
「物好きね。ご自由に」
と幹子は冷やかすように笑った。武志は、上着の上から、めったに持つことのない|拳銃《けんじゅう》にそっと手を|触《ふ》れた……。
二人の車が、尾崎のアパートの前へ|停《とま》ったのは、もう九時過ぎだった。尾崎は一人|暮《ぐら》しの六|畳間《じょうま》へ二人を|迎《むか》えた。
「――話の続きを聞かせて下さい」
と幹子が|促《うなが》すと、
「はあ。ええと……どこまでお話ししましたかね」
「通用門から入って、玄関の呼鈴に返事がないので、裏へ回ったというところです」
「あ、そうでしたね。……私が裏へ回って行くと、裏の勝手口から急に誰かが飛び出して来ました。えらく慌てふためいた様子で、そのまま裏木戸から出て行ってしまったんです」
「それはどんな男でした?」
「男? いえ、女です。若い女[#「若い女」に傍点]でした」
「若い女?――以前に見たことは?」
「いえ、全然ありませんね」
「そうですか。それから?」
「ええ。|恐《おそ》る|恐《おそ》る勝手口から中へ入って……声をかけても返事がなく、ともかく上ってみたんです。あのお年寄りが出かけるはずはありませんからね。きっと眠っているんだと思いまして。|捜《さが》し回ってやっと部屋を見つけたのですが、もう……」
「刺されていた。そうですね?」
「ええ。もうひどいありさまで。……ともかく私も無我|夢中《むちゅう》で、気が付くと外の通りを走っていたんです。その時はまさか、秋子さんに容疑がかかるとは思いもしませんでした」
幹子は、身を乗り出すようにして、
「その、飛び出して来た若い女ですけど、どんな女だったか|憶《おぼ》えていますか?」
「さあ……。ともかく、あっという間に目の前を駆け抜けて行ったので……」
「何か|特徴《とくちょう》のようなものは? |服《ふく》|装《そう》は?」
幹子は必死に食い下がったが、尾崎は首をひねり、頭をかくばかりだった。
「もう一度見れば思い出すかもしれませんが……」
と心もとなげに言って、「申しわけありません。はっきり憶えていれば警察へ申し出るんですが、こんな|曖《あい》|昧《まい》な話では|却《かえ》って怪しまれるだけでしょうし……」
「分りました」
幹子はため息をついて、「何か思い出したら、ここへ電話して下さい」
とメモを渡すと、武志と一緒に、アパートを出た。
「当て外れか……」
幹子は|呟《つぶや》くように言って、「私も|年《ねん》|貢《ぐ》のおさめ時かしら」
「まだ|諦《あきら》めるのは早いよ。何かて[#「て」に傍点]があるかもしれない」
「|慰《なぐさ》めてくれるの? 親切ね。でも、犯人が自分から私たちのところへ名乗り出てくれるような|奇《き》|特《とく》な人でない限り無理なようね」
二人が夜の道へ出て、|駐車《ちゅうしゃ》しておいた場所へと歩き出した時だった。武志の耳に、聞き憶えのある爆音が届いた。振り向くと、ライトが|猛《もう》スピードで突っ込んで来る。
「危ない!」
武志は幹子を突き飛ばすと同時に、自分は反対側へ身を投げ出した。|間《かん》一|髪《ばつ》、オートバイは武志の|靴《くつ》をかすめるようにして駆け抜けて行った。
「大丈夫か?」
武志ははね起きて、幹子の方へ駆け寄った。
「ええ、大丈夫よ。――見て!」
幹子が指さすのを見ると、オートバイが、Uターンして、再び向って来た。武志は道の中央へ出ると、拳銃を抜いて、両手にしっかりと握りしめ、|両腕《りょううで》を|一《いっ》|杯《ぱい》にのばして腰を落とした。近付いてくるまぶしいライトの中心へ向けて、引金を|絞《しぼ》る。
|鋭《するど》い|銃声《じゅうせい》が夜を|貫《つらぬ》いた。その|瞬間《しゅんかん》、キキーッと激しく何かのきしむ音がしたと思うと、オートバイが、武志の数メートル手前で横倒しになり、そのまま道の|端《はし》まで|滑《すべ》って行って、|塀《へい》に|激《げき》|突《とつ》した。流れ出したガソリンに火がついて、たちまち|火柱《ひばしら》が上る。
皮ジャンパーの男が足を押えながら路上で|呻《うめ》いていた。足を折るかどうかしたらしい。武志がゆっくり近付いて行くと、そこへ、もう一台、オートバイが走って来て、停った。
武志はその乗り手を見て目を丸くした。
「美幸!」
「大丈夫だった?」
と駆け寄って来る。
「どうしてここに……」
「この人の後を追って来たの。――私の劇団の人なのよ。私に言い寄って来たから断ると、あなたを殺してやる、と言って……」
武志は、あの|稽《けい》|古《こ》場で感じた視線を思い出した。頭の一撃は警告だったのか。
「なるほどね。……足をやられてるらしい。救急車を呼ばないと」
「|健《けん》|治《じ》君!」
美幸が、倒れている皮ジャンパーの男へかけ寄った。「しっかりして!……こんな無茶をして!」
「君を……あんな奴にやるもんか!」
まだ幼さの残る|童《どう》|顔《がん》の若者は、苦しげに顔をしかめながら吐き出すように言った。
「おい、|坊《ぼう》や。命は大事にするもんだぜ」
と武志が声をかけた。そこへ、
「どうしました?」
と走って来たのは、尾崎だった。「何か|凄《すご》い音がしたんで……。事故ですか?」
「すみませんが、救急車を呼んでくれませんか?」
「いいですよ」
と|肯《うなず》いて、尾崎はふと立ち止まると、若者の|傍《そば》に|膝《ひざ》をついている美幸の、|炎《ほのお》に照らし出された顔をまじまじと見つめた。「――あの女だ!」
「え?」
「そこの女の人です! あの時、勝手口から飛び出して来たのは!」
しばし、|凍《こお》りついたような沈黙が続いた。
「美幸……」
武志が、やっと口を開いた。「君は本当に……」
「私じゃないわ! 私は……ただ、あなたの奥さんの後を面白半分につけてみたのよ。……ちょっと興味があったから。……あの時は、入って行った時と出て来た時で全然様子が変ってるんで、一体何事かと思ったの。それで|一《いっ》|旦《たん》は帰りかけたけど、何だか気になって、また|戻《もど》ったの。裏木戸から入り込んで、中を|覗《のぞ》いて……そしたら、あのお|婆《ばあ》さんが殺されてたのよ! 本当よ! 私は何もしてないわ!」
武志は美幸の両腕をつかむと、
「本当のことを言ってくれ! 女房の命がかかってるんだ!」
「何よ! やっぱり奥さんの方が大事なんじゃないの!」
美幸は泣きながら|叫《さけ》んだ。
その時、倒れていた皮ジャンパーの若者が、最後の力を振りしぼって起き上った。その手にナイフが光っていた。
「あなた、危ない!」
と幹子が叫んだ。しかし、ナイフは武志ではなく、美幸の背へ深々と突き立った。
「美幸……」
武志が一瞬、|棒《ぼう》|立《だ》ちになる。美幸はゆっくりと|崩《くず》れるように倒れた。
「あの|娘《こ》の言うとおりだったのかもしれないわ」
車の中で、幹子が言った。
「なぜ?」
「あの娘は裏木戸から入った、と言ったでしょう。裏木戸は開いていなかったはずなのよ。誰か[#「誰か」に傍点]が先に入るか、そこから出るか、しない限りね」
「|嘘《うそ》をついたのかもしれない」
「理由がないわ。それに、あの年寄りをあんな目に会わせる動機もないし」
「尾崎って男が、彼女の飛び出して来るのを見たと証言すれば……」
「警察は信用しないわ。恋人の証言で、しかもあの娘は死んでしまったし。でも、あの若い人も、思いつめて無理心中なんて、もったいないわ! あの若さで……」
「そうだな」
「あの娘……とても可愛かったじゃないの」
「ああ……」
武志はじっと正面を|見《み》|据《す》えた。
家へ帰りつくと、二人はゆっくりとソファにくつろいだ。武志は、時計を見た。もう十一時を回っている。
「明日、社長のところへ行ったら、私からよろしく言ってたと伝えてちょうだい」
「君は?」
「ルミを送り出してから、ケリをつけるわ」
武志はしばらく黙って幹子を見ていた。
「僕から|頼《たの》んでみるよ。どこか遠くへ行けば……」
「だめよ。そんなことを言ったら、あなただって危なくなるわ。ルミをみなし|児《ご》にしないで」
幹子はそう言ってから、大きな|欠伸《あくび》をした。
「疲れた……」
ふっと目を閉じると、そのまま|寝《ね》|入《い》ってしまう。
武志は、そんな幹子の姿を、じっと見つめていた。――十二時が鳴った。
ソファから立ち上ると、武志は拳銃を抜いた。せめて、眠っている間に……。|唇《くちびる》が|乾《かわ》いていた。銃口を、静かに幹子のこめかみへ押し当てる……。
電話のベルが静けさを破った。武志は駆け寄って受話器を取り上げた。
「はい!」
「わしだ! もうやっちまったか?」
「いえ、これからやろうと……」
「よかった!」
神永がホッと息を吐く音が、まるで台風の|唸《うな》りのように聞こえて来た。「たった今、あの依頼人が自供したよ」
「何ですって?」
「包丁で刺したのは、やはり彼女だったのさ。忘れ物をして戻ってみると、あの婆さんがいい気持で眠ってる――と思ったんだな。|日《ひ》|頃《ごろ》の積り積った|恨《うら》みが急に|爆《ばく》|発《はつ》して、発作的に刺しちまったんだ」
「しかし、それではやっぱり殺人罪で……」
「もっといい知らせがある」
「何ですか?」
「死体を|解《かい》|剖《ぼう》した結果、|被《ひ》|害《がい》者は刺される前に、発作で死んでいたと判明した」
「すると……」
「あの女性も殺人罪でなく、死体|損《そん》|壊《かい》罪ということになるな。大した罪ではない。いや、君の|奥《おく》さんの腕はさすがだよ!」
「では、命令は取り消しですね」
「当り前だ、彼女を殺してみろ。わしが君をこの手でしめ殺してやる!」
武志が受話器を置くと、幹子が目を覚ましていた。
「何だったの?」
武志が神永の話をくり返すと、幹子は大きく息をついた。
「よかった!……これで死なずにすんだのね!」
「そうだとも!」
武志は幹子の肩へ手をかけて、「ねえ、ちょっと考えたんだが……」
「何を?」
「君はもうこの仕事から足を洗ったらどうかな。そしてルミの|面《めん》|倒《どう》をみてやるんだ」
幹子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「そうね。……考えてもいいわ」
「ゆっくり相談してみるか」
「二階で?」
「正確に言うとベッドの中で、だ」
二人の|唇《くちびる》がしっかりと出会った……。
カーテンの|隙《すき》|間《ま》から、月明りが|洩《も》れて、ベッドで|休憩《きゅうけい》中の二人の上へ白い筋を|描《えが》いている。
幹子はベッドから出ると、裸のまま、そっとカーテンから外を|覗《のぞ》いた。
「満月だわ!……真昼みたいに明るいわよ」
「バルコニーへ出てみるか」
「手すりを直してないわよ」
「手すりに近付かなきゃ大丈夫さ」
「じゃネグリジェを着るわ」
「そのままだっていいじゃないか」
「|馬《ば》|鹿《か》言わないで!」
と幹子は笑った。武志も起き出してパジャマを着込む。カーテンを開けると、白い光が部屋に|溢《あふ》れるように|射《さ》し入って来た。
ガラス戸を開け、二人は手をつないで、バルコニーへ出た。
声を上げる間もなかった。バルコニーがメリメリと音をたてて|崩《くず》れ、二人の体は、下のコンクリートのテラスへ|叩《たた》きつけられた。その上へ、バルコニーが|覆《おお》いかぶさるように落ちて来た……。
大きな物音に目を覚ましたルミは、窓から下を覗いた。バルコニーの|残《ざん》|骸《がい》の下に見えるパパもママも、まるで動く様子がない。ルミはゆっくりベッドへ戻った。
「二人とも死んだらしいわ……」
と毛布をかぶりながら|呟《つぶや》いた。「この家も、貯金も、私のものなんだわ!」
そして|夢《ゆめ》|見《み》るようにウットリと、
「本当に、進君って、のこぎりの使い方が|上手《じょうず》なんだから!」
さびしがり|屋《や》の|死《し》|体《たい》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年1月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2000
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角川文庫『さびしがり屋の死体』昭和56年12月10日初版刊行
平成4年1月30日62版刊行