角川文庫
こちら、団地探偵局 PART2
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
第一話 |勤《きん》|勉《べん》な夫の事件
第二話 健全な|野《や》|菜《さい》の事件
第三話 我らが|英《えい》|雄《ゆう》の事件
第一話 |勤《きん》|勉《べん》な夫の事件
1
夫が、仕事でもないのに、毎日|遅《おそ》く帰って来る、となれば、確かに妻としては心配である。
それとも、急に会社を休んで家でブラブラしていたり、|脱《ぬ》いだものもそのまま放り出すほど、だらしなくなったりしたら……。
しかし、|八《や》|木《ぎ》|沢《さわ》|良子《りょうこ》の|悩《なや》みは、それとはちょっと|違《ちが》っていたのである。
朝が来たんだわ。
八木沢良子は、ベッドの中で、まだ半ばまどろみながら、思った。
カンカンカン……。
建物の中に|響《ひび》く音。──カンカンカン、と|小《こ》|刻《きざ》みな、リズミカルな音は、実は足音なのである。
初めの内は、何の音だか分らなくて、首をひねったものだったが……。自分で階段を上り下りしてみると、階段に足音が響いて、ああいう音がするのだと分って来る。
カンカンカン……。そう。三人目だわ、これで。
この棟の三階には、なぜか勤め先のえらく遠い人が集まっていて、朝六時前から出かけて行く人が三人もいる。三階なので、エレベーターなどを呼ぶより、階段を下りた方が手っとり早い。それで、カンカンカン……と、毎朝三人の足音が聞こえて来るのだ。
八階建てのこの棟の、大部分の人は七時前後にここを出て行く。そのころには、エレベーターも|混《こ》んで乗れないことがあり、|遅《ち》|刻《こく》しそうな人が、|遥《はる》か上から、階段を|駆《か》け下りて来たりする。
八木沢家は二階に住んでいるので、その点は助かる。しかも|部《へ》|屋《や》は階段のすぐそば。
まあ、そのせいで、ああして足音が聞こえて来るわけである。
良子にとっても、あの「三人組」の足音は時報代りになっていて、ウトウトしながらあれを聞き、心の準備をしていると、|目《め》|覚《ざ》まし時計が鳴る、というわけである。
夫を起こして、良子は顔を洗い、台所へ行く。夫の方は、いつもまた|寝《ね》|入《い》ってしまうので、その辺でもう一度起こしに行く。
これで、やっと夫が目を|覚《さ》ます。それから少しあわてて|仕《し》|度《たく》をし、ちょうどいい時間になるのだ。
さて、今日も、いつもの通り、足音は聞こえたし、そろそろ……。
リリリ……とけたたましく目覚まし時計が鳴り始める。
「はいはい」
良子は手をのばして、目覚ましのベルを止めると、「あなた。──時間」
と言いつつ、起き上ると大|欠伸《あくび》。
「あなた……」
|隣《となり》のベッドを見た良子は、|戸《と》|惑《まど》った。|空《から》っぽなのだ。
でも──どこに行ったんだろ? トイレかしら。
そうではない。パジャマが、ちゃんと脱いで置いてある。夫はもう起き出しているのである。
良子も少し|焦《あせ》った。出張とか、何か言ってたかしら? 朝早く出るとか……。
ベッドを出て、|寝《しん》|室《しつ》のドアを開けると、プンとコーヒーの|匂《にお》いがした。
「あなた」
ダイニングキッチンを|覗《のぞ》くと、夫の八木沢|勝《かつ》|一《いち》が、何ともう出かけるばかりに仕度をして、新聞を開いている。
ワイシャツにネクタイもしめ、もちろん、ひげも|剃《そ》ってあるし、|髪《かみ》もちゃんと形よく整えられている。
「──どうしたの、あなた?」
と、良子は言った。
「やあ、起きたのか」
と、八木沢勝一は、至って|爽《さわ》やかな顔である。「どうかしたのか?」
「だって……まだ早いわよ」
と、良子は言った。
「うん。しかし、いつも|眠《ねむ》い目こすりながら行くんじゃ、|辛《つら》いし、体にも悪いだろ。こうやって、少し|余《よ》|裕《ゆう》を持って出ることにしたんだ」
「そう……」
夫にそう言われたら、確かに良子も文句は言えない。いや、感心こそすれ、文句をつける筋のものではないだろう。
「何か食べて行かないの?」
「今、トーストを焼いてる。コーヒーもいれたし。朝はこれで|充分《じゅうぶん》だよ」
八木沢は新聞を閉じると、「もう焼けたかな」
と、立って行った。
いつもなら、ボーッとして、目の前にトーストを置いても気が付かないような夫が……。
面食らって、良子は|突《つ》っ立っているばかりだった……。
東京の|郊《こう》|外《がい》、|山《やま》|並《なみ》を切り|拓《ひら》いて作られた大団地。
自然の|起《き》|伏《ふく》に沿って道ができ、色とりどりの棟が|並《なら》んでいる新しい都市。──遠くから見ると、本物の町というより、子供の積木でできた町のように見えるかもしれない。
公園や遊び場が方々にあって、この晩秋の昼下りには、小さな子供たちを遊ばせている母親たちが、カラフルなセーターやスカートで、ベンチに並ぶ。
おしゃべりをしながら、自分の子供が遊んでいるのを|眺《なが》めているのである。
確かに、こんな時、母親同士の会話は他愛のない、どうでもいいようなものが多くて、世の識者は、|眉《まゆ》をひそめるかもしれないが、これはこれで、一つの「知恵」とも言えるのである。
何しろ、小さい子供を持っていると、どうしても会話に神経を集中するわけにはいかないのだ。危いことをしていないか、|汚《きた》ない手を口へ入れていないか、よその子をいじめていないか……。
気にすることは山ほどある。自分の子供から目を|離《はな》さずに、会話を続けていようと思うと、どうだっていいような話題にするしかない。それにワーッと泣き出せば、子供の所へ駆けつけなくてはいけないのだ。
いつ中断しても構わない話でないと、困ることになる。──やはり、|東《とう》|欧《おう》情勢について話すのは、もっと落ちついた場に向いているのである。
「──そろそろ買物に行くか」
と、|西《にし》|沢《ざわ》|並《なみ》|子《こ》は、|腕《うで》時計を見て言った。「|政《まさ》|子《こ》、どうする? |一《いっ》|緒《しょ》に行く? それとも、ここで|竜介《りゅうすけ》を見ててくれる?」
「あのね」
と、木村政子は言った。「私はベビーシッターじゃないのよ。どうしていつも竜介君の|面《めん》|倒《どう》みてなきゃいけないわけ?」
「そりゃ、私の助手だから」
と、西沢並子はアッサリ言って、「助手は先生[#「先生」に傍点]が自由に活動できるように、努力しなきゃ」
「もう、いつもそんなこと言って!」
と言ってから、政子も笑い出してしまう。「うちも|冷《れい》|凍《とう》食品、ほしいの。付合うわ」
「じゃ、竜介をベビーカーに乗せなきゃ。|一《いっ》|旦《たん》帰ってからね。──竜介! おいで」
母親の命令には素直に従った方がいい、と経験が教えているのか(?)、呼ばれた竜介がトコトコとやって来る。
「ほら、おばちゃんと一緒に買物に行こうね!」
「ちょっと並子! 私のこと『おばちゃん』はやめてと言ってるじゃない」
と、政子は文句を言っているが、「ほら、竜介君、手をつなごう」
と、|可愛《かわい》くてたまらないのである……。
──西沢並子と木村政子は、高校、大学と同じだった親友同士。この団地で|偶《ぐう》|然《ぜん》すぐ近くに住んでいることが分って、今も学生時代以上に、一日中顔を合わせている仲だ。
西沢並子は、美人で、かつドイツへ留学したインテリだが、今は夫と二歳の竜介と三人|暮《ぐら》し。これに比べると、木村政子の方は、割りに|平《へい》|凡《ぼん》なOL生活から、少し年上の夫との生活に入り、今のところまだ子供はいない。
二人とも二十八歳。活力は|溢《あふ》れ、そして好奇心と情熱も、女学生時代に|劣《おと》らず|旺盛《おうせい》である。
──西沢並子は高層の棟の七階に住んでいる。
竜介を加えていつもの「三人組」は、並子の3DKに上ると、まず竜介の手と足を洗ってやって、|着《き》|替《が》えさせる。
「夕方になると、もう風が冷たいものね」
と、並子は言った。
「そうだ。ねえ、並子」
と、政子が言った。
「うん? お金ならないよ」
「いつ私がお金貸してくれって|頼《たの》んだのよ!」
と、政子が頭に来て言った。
「ハハ、|冗談《じょうだん》よ」
と、並子は笑って、「何なの?」
「今週の金曜日にさ、主人の会社のパーティがあるの。でもうちのはちょうど出張で出られないんだけど」
「あら、残念ね」
「一人で行くのもつまんないし、並子、|暇《ひま》だったら──」
「私が行ってもいいの?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》、|親《しん》|戚《せき》って言っとけばいいんだ」
「へえ。──そうね、もちろん予定はないけど、問題はこれ[#「これ」に傍点]ね」
その「問題」が、
「クーク、クーク」
と、言い出した。
「クッキーね。はいはい」
並子は、クッキーを二、三枚やって、「こぼさないでよ、あんまり。さ、出かけようか」
「うん」
「──母がみててくれるかどうか、|訊《き》いてみるわ」
と、並子は|玄《げん》|関《かん》でベビーカーに竜介をのせながら、言った。
「じゃ、|都《つ》|合《ごう》いいならね」
「それと、何を着て行くか、ね」
「気軽でいいのよ」
「でも、お|洒《しゃ》|落《れ》したいじゃない。政子は何を着るの?」
と、二人が通路へ出ると──。
「あの……」
と、声をかけて来た女性がいる。「失礼ですけど」
「はい、何か?」
と、並子が言った。
「こちらで──|探《たん》|偵《てい》さんをやっておられるってうかがって来たんですけど」
「私です」
と、並子は|肯《うなず》いた。
探偵といっても、もちろん本業ではない。あくまで「内職」として、並子と政子のコンビで、団地内の事件を|扱《あつか》っているのである。
「まあ、お若いんですね」
と、その女性は言った。「私、八木沢といいます。お話できます?」
「あ──ちょっと、ご|覧《らん》の通り、これから買物に行くところで」
「そうですね。じゃ、出直して来ましょう」
「すみません、何分、子連れ探偵なので」
「明日でも、また。──何時ごろでしたら?」
「お昼前なら、大体いつでも」
「分りました。じゃ十一時ごろ、うかがいますわ」
「よろしく」
と、話は終ったものの、下りのエレベーターでは|一《いっ》|緒《しょ》だし、八木沢良子というその女性は三十二歳で、夫が八木沢勝一、三十六歳だということが分った。
「主人が最近、あんまり変ってしまって……。何かおかしいんです」
と、良子は、|眉《まゆ》をくもらせた。
「帰りが|遅《おそ》くなったとか?」
と、政子が|訊《き》く。
「その逆です」
「というと?」
「朝は、起こさない内に自分で起きて出て行くし、帰りも七時半に、判で|押《お》したように帰って来るんです」
「それが気になる、と?」
「だって、おかしいと思うんです。別に職を変えたわけでもなく、ポストが動いたわけでもありません。それなのに……」
エレベーターが一階へ着くと、八木沢良子は、
「では、明日」
と、|会釈《えしゃく》して歩いて行った。
「──ぜいたくな|悩《なや》みね」
と、政子は笑って、「ご主人が|真面目《まじめ》になっただけのことかもしれないじゃない?」
「それはそうだけどね」
並子は、ベビーカーを押して、スーパーへと向いながら、「奥さんの心配も分るわ」
「ただ、心機一転ってことかもしれないわよ、ご主人が」
「だとしても──それまで[#「それまで」に傍点]は、どうして遅かったのか、ってことが気になるじゃない」
「あ、そうか」
「それに……あの奥さんの心配、それだけじゃないみたいね」
「どういうこと?」
「よく分らないけど……。かなり深刻かもしれないわよ、問題は」
政子は、並子が、眉を寄せて考え込んでいるのを見て、名探偵は、いつもわけの分んないこと言ってんのよね、と|嘆《なげ》くのだった……。
2
バッタリと、政子と並子は顔を合わせた。
「食べてる?」
「しっかり!」
まるで|合《あい》|言《こと》|葉《ば》のように言い交わすと、二人はまた遠征[#「遠征」に傍点]の旅に出るのだった。
なかなか|豪《ごう》|華《か》なパーティだった。何しろ食べるものは豊富にあり、人も多い。熱気で、中にいると|汗《あせ》ばむくらいだ。
「──やれやれ」
二人は、少しくたびれて、会場を出ると、ロビーで、一休みすることにした。
「正解だったわ、この服」
と、政子が言った。
「本当。──和服の人なんか、食べ|辛《づら》そうで気の毒みたい」
二人とも、お腹の|辺《あた》りがゆったりとしたドレスで、かつ、昼食を|抜《ぬ》くという、しっかりした計算が、成功していたのである。
「──まだ一時間しかたってない」
と、政子は|腕《うで》時計を見て言った。
「もう入らないわね」
と、並子はお腹をさすって、「少しマラソンでもして来る?」
「そこまでしてもね……。でも、このホテル、味は悪くないわね」
「そうね。独身のころ、時々ここに来たわ」
「男と?」
「|馬《ば》|鹿《か》ね」
と、並子は笑った。
ロビーは、あまり人がいなくて、静かだった。パーティ会場の中から、BGMがかすかに聞こえて来る。
ロビーを、いやにせかせかと|駆《か》けて来る男がいた。
背広姿ではあるが、どうもこういうパーティに出るという|格《かっ》|好《こう》ではない。
|誰《だれ》かを|捜《さが》しているのか、ロビーを見回して、足を止めたが……。並子たちに気付くと、少し迷ってから、近寄って来た。
「失礼ですが、八木沢さんですか」
若い男だ。まだ二十五、六といったところだろう。格好にはあまり構わない感じだが、なかなかインテリ風の印象だった。
「いいえ、|違《ちが》いますけど」
と、並子が言った。
「失礼しました」
若い男は、パーティの会場の方へ目をやると、「──あの中に八木沢さんという人はいませんか」
「さあ……。何しろ大勢ですから」
「そうですね。いや、すみません」
「受付の人にお|訊《き》きになっては?」
「そうします」
若い男は、|暇《ひま》そうな受付へと、急いで歩いて行った。
「──八木沢か」
と、政子が言った。「聞いたことある名前ね」
「そうよ。おととい来るはずだった──」
「あ、そうか!」
政子も思い出した。「もちろん別人だろうね」
「たぶんね」
並子は|肯《うなず》いた。
「八木沢って人、何か言って来た?」
「何も」
「じゃ、解決したのか」
「だと思うけど……。少し気にはなってるのよね」
と、並子は言った。「電話帳でひくか。電話番号ぐらい、聞いとけばよかったわ」
「でも、向うが話す必要ない、って思ったのなら……」
「そうだといいんだけど」
並子は、なぜか気がかりな様子だった。
「──ちょっとトイレに行って来る」
と、政子は立ち上った。
ロビーの|奥《おく》の方へ歩いて行くと、女性用のトイレがあった。政子は中へ入っていったが──。
洗面台の鏡の前に、女性が一人立っていた。
政子はチラッと見ただけで、そのまま奥へ入ろうとしたが──ふと、足を止める。
まさか……。もしかして……。
「あの──八木沢さんですか?」
と、声をかける。
その女性が、ゆっくりと|振《ふ》り向いた。少し不自然なほど、ゆっくりと。
青白い顔だったが、確かに、あの奥さんのようだ。
「私、団地の木村政子です。この間、西沢並子の所へみえた時に──」
八木沢良子はパッと目を見開いた。
「ああ! あなた──」
「|偶《ぐう》|然《ぜん》ですね。私たち、ここでパーティがあって──」
と、言いかけた政子へ、|突《とつ》|然《ぜん》、八木沢良子はもたれかかって来た。「ど、どうしたんですか?」
「私……女に|刺《さ》されたの」
と、八木沢良子は言った。
「何ですって?」
「若い女……|逃《に》げて行ったわ……」
政子は、初めて気がついた。八木沢良子の下腹辺りが、じっとりと|濡《ぬ》れて──血だ!
「女が……」
と、くり返すと、八木沢良子は、政子の足下に|崩《くず》れるように|倒《たお》れた。
政子は、両手に血がついているのを見下ろしている内、青くなって、ガタガタ|震《ふる》え出した。
「並子……。並子……来てよ」
大声を出したつもりだが、|囁《ささや》き声にしかならない。
トイレから出るのにも、|膝《ひざ》がガクガクしてまともに歩けないのだ。
「並子……。並子……」
やっと、並子が気付いて、|駆《か》けて来る。
「どうしたの!」
「トイレに──八木沢さんが──」
「何ですって? その血は?」
「刺されて──女──」
そう言ったきり、政子は、その場にヘナヘナと|座《すわ》り込んでしまった……。
「何てことかしら」
と、並子はくり返した。「──私のせいだわ」
ホテルの|宴会場《えんかいじょう》の近くにある、|控室《ひかえしつ》の一つ。
八木沢良子が刺された事件で、並子と政子は、ここに足止めされていたのである。
「ああ、|怖《こわ》かった……」
と、政子はまだ青白い顔をしている。
「ドレスが|汚《よご》れたわね」
「そんなこと、どうでもいいけど──」
「それにしてもねえ」
と、並子はため息をついた。「|名《めい》|探《たん》|偵《てい》、一生の不覚だわ」
「並子が悪いわけじゃないわよ」
と、政子は言った。「だって、まさかあの奥さんが刺されるなんて……」
「確かにね。でも、大きな危険があるってことは、あの人も察していたのかもしれないわ。それを考えてあげるべきだった」
「|悔《くや》んでもしょうがないわよ」
「そうね。せめて、命をとりとめてくれるといいけど」
と、並子は首を振った。「──ね、政子」
「うん?」
「刑事さんに訊かれたら、八木沢さんのことは、ただ同じ団地の人、とだけ答えるのよ」
「どういうこと?」
「八木沢さんが、私たちに相談しに来てたってことは|内《ない》|緒《しょ》」
「ちょっと──並子、ちょっと待ってよ」
と、政子は|座《すわ》り直して、「何やろうっていうの?」
「別に。──ただ、引き受けようと思ってるだけよ、あの|奥《おく》さんの|依《い》|頼《らい》を」
「無茶よ! いつも言ってるじゃないの。私たちは主婦なんだから、大きな犯罪なんか|捜《そう》|査《さ》できない、って」
「分ってるわ。でも、私の気がすまないの」
と、並子は言った。「政子に手伝えとは言わないわ。危険かもしれないものね。でも、|黙《だま》ってることはできるでしょ」
「並子ったら……」
政子はむくれる。「いつ、私が手伝わないって言ったのよ。──やるわよ。だけど、|充分《じゅうぶん》に気を付けて」
「分ってるわ」
並子はニッコリ笑った。「竜介にはまだしばらく母親が必要だと思うからね」
「いやだ。変なこと言わないで」
と、政子は顔をしかめた。
「──や、どうも、お待たせして」
と、|部《へ》|屋《や》に刑事が入って来た。
「刑事さん、あの人の具合、いかがですの?」
と、並子が身をのり出すようにして、|訊《き》いた。
「実は……。つい、今しがた|連《れん》|絡《らく》が入りまして」
と、刑事は言った。「亡くなったそうですよ。出血多量で」
並子と政子は息をのんだ。
「つまり……」
「そうです」
と、刑事は|肯《うなず》いた。「つまり、殺人事件になった、ということです」
──政子と並子がロビーに出たのは、一時間ほどしてからだった。
もちろん、ここで八木沢良子と会ったのは|偶《ぐう》|然《ぜん》だろう。しかし、なぜ──。
「女に|刺《さ》された、か」
と、並子は言った。「他に何も言ってなかったの?」
「刑事さんに話した通りよ。何度もくり返したわ。若い女、って」
「若い女、ね……」
「ね、手にまだ血がついてる。いやだなあ」
と、政子は情ない声を出した。
「ドレスはコートで|隠《かく》せるけどね」
「ちょっと、手、もう一回洗って来るわ」
政子がトイレの方へ行きかけたが、あのトイレは、ロープが張ってあって、使えない。それに、やはり入る気もしない。
政子は、遠くのトイレへ、急ぎ足で歩いて行った。
並子は、あのパーティが、もうとっくにお開きになって、受付のテーブルの所で、三、四人の女性がしきりに計算している様子なのを見て、近付いて行った。
「──失礼します」
と、並子は声をかけた。「パーティの受付をした方?」
「はい、そうですけど」
「パーティの|途中《とちゅう》、あの事件で|騒《さわ》ぎが起こる少し前に、ここへ男の人が来て、八木沢さんって人がいないか、訊きませんでした?」
「──あ、|憶《おぼ》えてます」
と、若い女の子が言った。「私、訊かれて、|名《めい》|簿《ぼ》を|捜《さが》してあげました」
「名前、あったんですか?」
「いいえ、結局、見付からなくて」
「そうですか。──あの若い男の人、何ていう人か、分ります?」
「ええと……お医者さんでしたよ」
「医者?」
「メモを置いて、もし、八木沢って人が来たら、この館内にいるから、呼び出して下さいって……。どこにあったかなあ、あのメモ」
と、とりちらかしたテーブルの上を捜していたが、「──あった。これだわ」
「すみません。見せていただける?」
ていねいな字で、〈N大学病院 内科 |倉《くら》|田《た》|正《まさ》|志《し》〉とあった。
大学病院の医師……。なぜその人が、八木沢さんを急いで捜していたのだろう?
並子は、その名を頭に入れると、
「ありがとう」
と、メモを返した。
政子が、急いで|戻《もど》ってくるのが見える。
並子は、大分|遅《おそ》くなったので、実家の母へ電話を入れておこうと思った。
団地でのお|葬《そう》|式《しき》は、集会所を使うことが多い。
八木沢良子の場合も、例外ではなかった。
「──並子」
政子が、集会所の前で待っていた。「どうしたのかと思った」
「ごめん! 竜介が|寝《ね》なくって」
と、子連れ|探《たん》|偵《てい》は息を切らしつつ、黒いスーツで駆けつけて来た。「もう、すんだの?」
「これから。でも、もうそろそろ最後よ」
「うん。じゃ、中へ入ろう」
並子たちは、受付にお|香《こう》|典《でん》の|袋《ふくろ》を出して、集会所へと入って行った。ビニールを|敷《し》いて、|靴《くつ》のまま入れるようになっている。
八木沢良子の写真が、正面からこっちを見つめている。
並子と政子は続けて|焼香《しょうこう》した。──八木沢勝一を、二人は初めて見ることになった。
ごく|平《へい》|凡《ぼん》な──といっても、|漠《ばく》|然《ぜん》としているが、メガネをかけ、ちょっとスリムな体つきの男で、一度や二度会っても、憶えられない、というタイプだ。
並子と政子が頭を下げ、戻ろうとすると、
「失礼ですが──」
と、八木沢が言った。「家内が……あの時[#「あの時」に傍点]に、居合せた方ですか」
「はい、私です」
と、政子が肯いた。「本当に──お気の毒でした」
「|恐《おそ》れ入ります。ご|迷《めい》|惑《わく》をおかけしたようで……」
「とんでもない」
並子は、二人の話を聞いていたが、
「何か手がかりはつかめたんでしょうか」
と、口を|挟《はさ》んだ。
八木沢は、ちょっと|戸《と》|惑《まど》った様子だったが、
「いや、残念ながら、今のところは……。妻は、人に|恨《うら》まれるような女ではなかったのです」
と、言った。
「そうでしょうね」
並子は|肯《うなず》いて、「でも、人は恨みだけで人殺しをするとは限りません」
八木沢が、何か言いかけたのを後に、並子たちは、外へ出た。
「並子! あれ、どういう意味なの?」
と、政子は訊いた。
「別に、大した意味はないのよ。それより、政子、ずっと見てたんでしょ、ここを」
「まあ……大体始まるころからいたから」
「誰かそれ[#「それ」に傍点]らしい女性、いた?」
「犯人がここへ来るっていうの?──まさか!」
並子は、ちょっと周囲を見回して、
「いい? もし、若い女で、あの|奥《おく》さんを殺す動機があるとしたら、それは?」
「あの夫」
「そう。──もし、八木沢さんに恋人がいて、ちょくちょく外で会っていたとしたら……。どう?」
「どう、って?」
「|鈍《にぶ》いのねえ! あの少し前から、八木沢さんは急に|真面目《まじめ》になって、帰りも早く帰るようになったのよ」
「うん」
「ということは──」
「分った」
と、政子は肯いた。「恋人に会う時間がなくなったってことね」
「その通り。──当然、八木沢さんと恋人の間は、ぎくしゃくし始めたでしょうね。八木沢さんへの思いが奥さんへの恨みに変り、ってことが、|充分《じゅうぶん》考えられるわよ」
「そうか……。でも、そんな女が、ここへ来る?」
「来ると思うわ。八木沢さんが、奥さんを殺されて、どう思っているか、知りたいでしょうからね」
「なるほどね」
「それに、もし、それがオフィスラブだったとしたら、|同僚《どうりょう》として、ここへ来るでしょうからね」
「オフィスラブって、どうして分る?」
「もちろん、そうと限ってはいないけど、ああいう男の人が、外で恋人作るのって、むずかしいと思うわ」
二人で話していると、急いでやって来た黒服の男女──。どうやら、八木沢の会社の人たち、と思えた。
「──|遅《おそ》くなって、どうも」
と、少し|年《ねん》|輩《ぱい》の男性が受付で言った。「八木沢君の社の者です。ここが分らなくて」
「どうぞ。まだ|大丈夫《だいじょうぶ》です」
「では──。おい、入るよ」
と連れの五、六人に声をかけたが、「あれ? 大崎君は?」
「|洋《よう》|子《こ》さん、ちょっと車に|酔《よ》ったみたいです」
と、女性の一人が言った。「あっちで休んでるって」
「そうか。仕方ない。じゃ、ともかく急いで──」
みんなが、次々に中に入って行く。
「大崎洋子、ね」
と、並子は|呟《つぶや》いた。「|憶《おぼ》えておく必要がありそうだわ」
「──あの人かしら」
政子はそっと指さした。──黒いワンピースの、二十四、五歳と見える女性が、少し|離《はな》れた所に立って、こっちへ来たものかどうかと迷っている様子。
「かもね」
並子は肯いて、「こっちも少し|退《さ》がって、見ていましょ」
会社の人たちが、焼香をすませて出て来ると、その女性は、おずおずとした足取りで、やって来た。
「やあ、大崎君、大丈夫か?」
「はい……。すみません」
「もう終るらしい。早く焼香して来た方がいいよ」
「はい」
顔を|伏《ふ》せがちに、その女性は、集会所へと入って行った……。
「車に酔った、ってのは、うまい言いわけよね」
と、政子は言った。「少しぐらい青い顔してても当り前だし」
「同感ね。──少し様子を見ていましょ」
すぐに、大崎洋子は出て来た。目が|潤《うる》んでいる。
ただの同僚の妻の死というのとは、やはり|違《ちが》っているようだ。
「|怪《あや》しいね」
と、政子がそっと言うと、
「他にもそう思ってる人がいるみたい」
と、並子が言った。
「|誰《だれ》?」
黙って並子が指さす方を見た政子は、ちょっと|眉《まゆ》を寄せて、
「誰だっけ? 見たことのある人ね」
「だめね、相変らず、人の顔を憶えないんだから」
「悪かったわね」
「刑事よ、ホテルに来た」
「あ、そうか」
政子は、その刑事が、そっと大崎洋子のそばへと寄って行くのを、見ていた。そして、声こそかけなかったが、明らかに刑事は、大崎洋子を「マークして」いたのだった。
3
全くね!
政子はブツクサ言いつつ、ランチを食べて、チャンスをうかがっていた。
あの|名《めい》|探《たん》|偵《てい》は、「子供がいる」のを理由に、|面《めん》|倒《どう》なことは全部、このワトスンに押し付けちまうのである。
しかし、文句を言いつつ、結構|面《おも》|白《しろ》がってもいるところが、政子らしいところでもあるのだが……。
お昼休みのチャイムが鳴るのが聞こえた。──オフィスビルの地下のレストランなので、よく聞こえて来るのである。
そして当然のことながら、二分後には、つい今まで|閑《かん》|散《さん》としていた店の中は、たちまちOLたちで|埋《うま》り、外には|空《あ》き待ちの行列さえ、できてしまった。
四人がけの席に一人で|座《すわ》っていた政子の所には、当然、ウェイトレスがやって来て、
「おそれ入りますが、ご相席を──」
「ええ、どうぞ」
と、政子は肯いた。
計算通り、ブルーの制服のOLが二人、同じテーブルについて、ランチを頼んだ。
政子は、店の人ににらまれないよう、ちゃんとランチの後、デザートも頼んで、自分の書類を見ているふり[#「ふり」に傍点]をした。
同席のOLたちの話は、課内の|噂話《うわさばなし》らしくて、さっぱり分らなかったが、少なくとも、その二人が、ゴシップの|類《たぐい》に、決して弱い存在でないことは、確かだった。
四十分ほどたつと、少し店内も落ちついて来て、空席もところどころにできるようになり、静かになった。
政子は、同席した二人のOLの、|尽《つ》きないおしゃべりに耳を|傾《かたむ》けていたが……。
「──ちょっとごめんなさい」
と、割って入った。
「え?」
「ちょっと、お話があるんだけど」
二人のOLは、どうやら、何か売りつけられるのかと思ったらしい。
「あの、ちょっと|忙《いそが》しいんで」
と、席を立とうとした。
「待って。私──こういう者なの」
と、|名《めい》|刺《し》を出す。
これは、並子が作った「捜査用」(と並子は称しているが)のインチキな名刺で、多少知られている週刊誌の記者、という|肩《かた》|書《がき》で、でたらめな名前が刷ってある。
「あら、記者なんですか、女の人で?」
「ええ。フリーライターなんだけど、女性も多いのよ、|凄《すご》く」
「へえ、カッコいいわね」
と、いい印象を与えたようだ。
「少し、うかがいたいんだけど……。構わない?」
「何のことですか?」
「おたくの社に、八木沢勝一って人、いるでしょ。最近、奥さんが殺された」
「ええ、課は別ですけど」
「そのへんのこと、何か|噂《うわさ》とか、なかったかと思ってね」
二人は、ちょっと顔を見合せた。
「──別に、直接記事にしようってわけじゃないのよ」
と、政子は気楽に言った。
並子の助手をやっている内に、ずいぶん|嘘《うそ》をつくのも、|上手《うま》くなったものである。
「ただ、あの事件をとりあげる以上、犯人が『若い女』って点がポイントになるの。分るでしょ?」
「ええ」
と、二人とも熱心に|肯《うなず》く。
「だから、八木沢って人の、社内での評判とか、あれこれ、聞かせてもらいたいの。ただの噂で構わないのよ」
「でも……そんなに|詳《くわ》しくないから……。ねえ?」
「そう。私たち、その手のことには、うといんです」
よく言うわよ! 政子は心の中でため息をついた。
「八木沢さんって人、女の子には、どう? もてるタイプ?」
「そうでも……。|真面目《まじめ》だけど、パッとしなかったし」
「そうよね。|影《かげ》がうすいっていうか」
「じゃ、たとえば、社内で噂されてた女の子とか、いなかった?」
二人のOLは、散々、「よく知らない」「分んない」を、くり返してから、やっと大崎洋子の名をあげた。
「その人のことは、社内でも、知れわたってた?」
「まあ、たいていの人はね」
「そうね。物好きね、って風に見てたと思う」
政子はメモを取りながら、
「このところ、八木沢さんに変ったことってなかった? もちろん、今度の事件の前に、ってことだけど?」
「そう、やっぱり──」
「ねえ」
と、二人が肯き合う。
「何なの?」
「──ガラッと人が変っちゃったんです、八木沢さん」
「へえ、どんな風に?」
「ともかく、急に行動的になった、っていうか……。|見《み》|違《ちが》えるくらい、てきぱきと仕事もこなすようになったって評判で」
「てっきり、|昇進《しょうしん》の話でも出たのかと思ってたんです、みんな。でも、そんなこともないみたい」
「何か理由があるわよね、そんな風になるには。──思い当ること、ない?」
二人は首を振って、|肩《かた》をすくめた。エネルギーは節約することにしているらしい。
「じゃ、いつごろから、そんな風に変ったの?」
二人はしばし考えては、|互《たが》いに、ああでもない、こうでもない、とやりあった|挙《あげ》|句《く》、ほぼ二か月ほど前からだ、という結論を出したのだった……。
「|疲《つか》れちゃったわよ、もう」
と、政子は言った。「おまけに、昼食代をこっちでもったし」
「ちゃんと|払《はら》うわよ」
と、並子は笑って、「これは私の[#「私の」に傍点]仕事ですからね。──こら! 何してるの!」
並子が|怒《おこ》っているのは、もちろん政子ではなく、竜介なのである。「だめって言ってるでしょ! お父さんが|未《ま》だ見てないんだから、その週刊誌は!」
「でも、並子」
と、政子が言った。「犯人が若い女、ってことは分ってるわけだし、警察も、その点は知ってるわ。大崎洋子に目をつけてるのは|間《ま》|違《ちが》いないわよ」
「でしょうね」
「だったら、いいじゃない。警察に任せとけば? その内、しっかり|証拠《しょうこ》を見付けて、彼女を|捕《つか》まえるわよ」
「捕まえるかもしれないけどね」
と、並子は言った。「それはとんでもない間違い」
「どういうこと?」
「いい?」
並子は、トコトコとやって来た竜介を|膝《ひざ》の上に|抱《だ》っこしてやった。いつもじっとしていない竜介も、|珍《めずら》しくおとなしく、抱っこされている。
「もし、八木沢さんと大崎洋子の間に、何かあったとしても、それで二か月前から、|突《とつ》|然《ぜん》八木沢さんが人が変ったように、てきぱきと生活し、仕事もやるようになったことは、説明できないわ」
「そりゃまあ……。でも──」
「問題は[#「問題は」に傍点]そこなの」
と、並子はきっぱりと言った。「誰が殺したか、を考える前に、それを|突《つ》き止めなきゃいけないのよ」
政子は、ため息をついて、
「分ったわよ。でも、どうやって──」
「もう一度、政子に足を運んでもらうことになるわね」
「また? 今度は何を|訊《き》いてくりゃいいの? 社長にでも会って来る?」
「違うわ。あの会社へ行って来るんじゃないの」
「じゃ、どこ?」
「N大学病院」
「病院?」
「ね、政子」
並子はやさしく[#「やさしく」に傍点]|微笑《びしょう》しながら、「どこか具合の悪いとこ、ない?」
と、訊いた……。
4
病院はいやだ。──政子は、散々|抵《てい》|抗《こう》したのである。
もちろん、具合が悪くもないのに、病院へ行くのが好きという人はあまりいないだろう。政子の場合は、具合が悪くても──よほど悪くない限りは、病院に足を運びたくない、というタイプなのである。
それなのに……。
「どうして私が、こんな所に|座《すわ》ってなきゃいけないの?」
と、情ない声で|呟《つぶや》くと、政子は待合室の中を見回したのだった……。
もちろん他にも、待っている人は沢山いて、改めて政子は、世の中にはこんなにも病人が多いんだわ、と思ったのだった。
こんな中に、健康な私が|紛《まぎ》れ込むなんて、申し訳ないわ。帰ろうかしら?
でも──きっと並子のことだ。
「もう一回行ってらっしゃい」
と、冷たく言い放つに|違《ちが》いない。
するとそこへ、白衣の若い医師がやって来た。レントゲン写真を手にしている。
どこかで見た顔だわ、と思って──さすがに、すぐ分った。
あのホテルで、八木沢を|捜《さが》しに来た、倉田という医師である。
診察室へとその倉田医師が入って行くと、少しして、
「木村さん、どうぞ」
と、呼ぶ声がした。
「は、はい!」
ピョコンと飛び上るように立って、政子はつくづく並子を|呪《のろ》いながら、診察室へと入って行った……。
「──ウーン」
倉田医師は|聴診器《ちょうしんき》を|外《はず》すと、深刻な表情で、「これまでに、心臓に問題がある、と言われたことは?」
と、|訊《き》いた。
政子はドキッとして、
「いえ……一度も。あの──どこか悪いんでしょうか?」
「いや、全く健康です」
そう言って、倉田はニヤッと笑った。
政子は、大きく息をついて、
「ああ、びっくりした!」
「そうでしょう。さて、ご用件は何ですか、一体?」
と、倉田は|座《すわ》り直した。「どこかでお会いしたことがあるような……」
「そうです。先日、Sホテルのパーティに出ていて」
「Sホテル?」
倉田は|眉《まゆ》を寄せて、「もしかして、あの殺人事件のあった日ですか」
「そうです」
「ああ! なるほど」
倉田は|肯《うなず》いた。「思い出した、ロビーに座っていた人ですね。確か、お二人で」
「私の友だちです。──私が、八木沢さんの|刺《さ》されているのを見付けたんです」
「そうでしたか」
倉田は肯いて、「いや、全く気の毒でしたね、あの方は」
「そのことで、少しうかがいたいことがあるんですが」
と、政子は言った。「改めてうかがってもいいんです。診察を待ってる方が、いくらもいらっしゃいますから」
「そうですね」
倉田は、少し考えていたが、「終るのを待っていただけますか」
「はあ」
「五時には……。|遅《おそ》くとも五時半には、ここを出られます」
「お待ちしてますわ」
「じゃ、この病院の向いに〈P〉という|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》があります。そこで」
「分りました。──お|邪《じゃ》|魔《ま》してしまって」
と、政子は立ち上った。
「いやいや。──木村さん、でしたね」
「そうです」
「ご主人がいらっしゃるんですね」
「ええ。でも|大丈夫《だいじょうぶ》です。いつも帰りが遅いので」
政子は、礼を言って、診察室を出た。
すっかり|冷《ひや》|汗《あせ》をかいている。
病院の|玄《げん》|関《かん》前の公衆電話から、並子へ電話を入れた。
「──よくやったじゃない。じゃ、できるだけ訊き出して来てね」
「気楽に言わないでよ。どこも悪くないのに、診察まで受けてさ」
と、政子は言ってやった。
「感じはどう?」
「悪くないわよ」
「それなら、話も聞けそうね」
「帰ったら、またかけるわ」
「待ってるわ」
並子は|呑《のん》|気《き》なものである。
政子は、病院を出て、〈P〉という喫茶店を見付けたが、大分時間がある。──少しその辺をぶらつくことにした。
病院前の通りを歩き出すと、|誰《だれ》かが後ろから|突《つ》き当るようにして、追い越して行った。
「危いなあ」
と、文句を言ったが、その男は、耳に入る様子もなく……。
「あれ?」
どこかで見たような──。政子は、急いで男の後をついて行った。
横断歩道の赤信号で、やっと追いつき、そっと横顔を見ると、やはり思った通りだ。
八木沢勝一なのである。
方向から見て、たぶんあの病院から出て来たのだろう。それにしても、固くこわばった、難しい表情をしているのが、政子には気になった……。
「さ、どうぞ」
「はあ……」
注がれたワインを、政子は、何だかよく分らないままに、飲んでいた。
まさか──こんなことになるとは、思ってもいなかったのである。
倉田の車がポルシェ、というので、まずびっくりして、それからこんなフランス料理のレストランへ連れて来られて、すっかり面食らってしまった……。
「大丈夫。ワインは体にいいんですよ」
と、倉田は言った。
医者の話だ。説得力がある。もっとも、倉田は車があるので、|一《いっ》|杯《ぱい》飲んだだけだったのだが。
食事やワインにポーッとしている内に、|肝《かん》|心《じん》の話を忘れそうになる。政子は頭を|振《ふ》って、
「あの時ですけど──」
と、切り出した。
「あの時?──ああ、あの事件のことですね」
「ええ。どうして八木沢さんを捜してらしたんですか」
「実はね、彼女は私の|患《かん》|者《じゃ》で──といっても、特にどこがひどく悪い、というんじゃありませんでした。ま、多少、高血圧で、|胃弱《いじゃく》でしたがね。ごく当り前の程度です」
「そうですか」
「あの少し前から、どうもご主人のことが原因で、ストレス性の|胃《い》|炎《えん》らしいものに|悩《なや》まされていましてね」
「ご主人のこと?」
「まあ──女がいるとか、そういう話です」
「そうですか」
と、政子は肯いた。「その女の人のことを何か──」
「気付いてはいたようです。でも、ご主人と別れる気もない、ということで……。もう一杯どうです?」
「あ、もう私……」
と、言っている間に、注がれてしまう。
「あの日、病院へ|連《れん》|絡《らく》が入りましてね。ご主人と彼女[#「彼女」に傍点]が会うのを突き止めたから、対決するつもりだ、と」
「まあ」
「──直接お付合いもないのに、|妙《みょう》な話でしたが、話し相手の少ない人のようでね。|僕《ぼく》も、つい親身になって聞いていたんです」
「分りますわ」
「しかし、そういうことは、直接やり合うと、どうしてもお|互《たが》い感情的になりますしね。第三者を交えて、話した方が、と忠告したんです。すると、ぜひ僕に来てくれ、と」
「で、あのホテルに?」
「ところが、|急患《きゅうかん》が入ってしまいましてね。ずいぶん|遅《おく》れたんです。それで、あちこち|捜《さが》していた、というわけなんです」
「そうでしたか……」
政子は、食事を終えて、息をついた。「すみません、お時間をとっていただいて」
「いや、楽しかったですよ。僕は|独《ひと》り者ですから、食事もいつも一人で、味気ないこと……。付合ってもらって、|嬉《うれ》しいです」
結局、ここは倉田が|払《はら》ってくれることになった。──政子としても、この「取材」は悪くなかったわ、と思い始めていた。
現金なもんである。
レストランを出ると、倉田は車を回して、
「──送りますよ」
と、言った。
「近くの駅で、おろして下さいます?」
と、政子は助手席に|座《すわ》った。
「いや、お宅まで送ります」
「とんでもない!」
と、政子はびっくりして、「遠いんです。それに、そんなことまで──」
「住所はカルテで見ましたよ」
と、倉田は笑って、「|大丈夫《だいじょうぶ》、夜の高速です。一時間とはかかりません」
|否《いや》も応もなく、ポルシェは勢い良く発進して、政子はぐっと体をシートに|押《お》し付けられていた……。
──確かに、団地の|辺《あた》りまで、五十分ほどで来てしまった。
「大きいなあ」
と、ゆっくり車を走らせながら、「話には聞いていたけど」
「中へ入ると、出られなくなります。もうその辺で」
「僕は方向感覚、|抜《ばつ》|群《ぐん》です。ご心配なく」
「あの──そこを右へ。坂を上って、グルッと回ったところです。どうも本当に……」
「いやいや。ドライブもいいでしょう、たまには」
「はあ……」
確かに、いい気分ではある。──フランス料理と上等なワイン、ポルシェ。
俗っぽいとは思うが、めったにできない体験ではあった。
「静かだな。まだ九時半なのに」
と、倉田は坂の途中、陸橋の下の暗くなった場所でポルシェを|停《と》めた。
「ええ。バスでも着けば、何人か歩いて来ますけど」
「別天地ですね、ここは」
──どうして、こんな所で車を停めたんだろう?
政子は……急に|酔《よ》いが回ったかのように、心臓が|鼓《こ》|動《どう》を早めるのを感じた。
もちろん──どうってことないんだわ。そんなこと[#「そんなこと」に傍点]、あるわけないわ……。
|突《とつ》|然《ぜん》、倉田が政子を|抱《だ》きしめた。政子は、押し返そうとしたが……。とても逆らい切れなかった。
|唇《くちびる》を押しつけられて、体が|震《ふる》える。──やめて! やめて!
心の中で|叫《さけ》びながら、体からは力が|抜《ぬ》けていった。
倉田が|離《はな》れると、政子は、混乱して、車を出ようとした。しかし、ロックを|外《はず》していないので、ドアは開かないのだ。
「──ロックはその下です」
と、倉田は言った。
「倉田さん──」
「お会いした時から、胸がときめいていたんです。──せっかちかな」
「私……夫のある身です」
声が震える。
「分ってます。しかし、安全な|浮《うわ》|気《き》は、当節|珍《めずら》しいことじゃありませんよ」
「そんな──」
再び、倉田の|腕《うで》が、しっかりと政子の|肩《かた》を抱く。
「Uターンして、ホテルへ行きませんか。一時間あれば、|戻《もど》れる」
「そんなこと……」
できない。できっこない。
「ご主人は|遅《おそ》いんでしょう?」
「ええ……」
「じゃ、大丈夫だ。いいですね」
エンジンがかかる。
「いいえ! 待って!」
と、政子は叫ぶように言った。「だめです──。今夜は……」
車の音がした。向うから車が一台、やって来る。
「──分りました」
倉田は、ポルシェを、そのまま進めた。「この次に」
政子は答えなかった。
自分の棟の前で、ポルシェをおりると、政子は、|逃《に》げるように|駆《か》け出した。
この次[#「この次」に傍点]? この次なんて……。
しかし、倉田から|誘《さそ》われたら、果して断れるだろうか? 自信がなかった。
──やっと家へ|辿《たど》りつくと、明りを|点《つ》けて、居間へ入り、そのまま|床《ゆか》へペタンと座ってしまう。
まだ|頬《ほお》が熱かった。
電話が鳴り出したが、政子は放っておいた。──自然にしゃべれる自信がなかったのだ。
5
「上って行かないの?」
と、西沢並子は不思議そうに|訊《き》いた。
「うん……。ちょっと頭が痛いの。帰って横になってるわ」
と、木村政子は言った。
「そう。──|風邪《かぜ》でもひいたんじゃない? 気を付けてね」
「ありがとう」
「じゃ、ほら、竜介、おばちゃんにバイバイしなさい」
竜介がベビーカーから、
「バイバイ」
と、声を上げ、手を|振《ふ》る。
「バイバイ」
政子は、やっと笑顔を作って、竜介に手を振って返した。
いつもなら、「おばちゃん」と呼ばれて腹を立てるところだが、今の政子にはその元気もない。
──どんよりと|曇《くも》って、|陰《いん》|気《き》な日だった。
私の心の中みたいだわ、と、政子は自分の棟に向って歩きながら、思った……。
やっとの思いで、自分の部屋へ辿り着くと、政子は居間のソファに身を|沈《しず》め、ぼんやりと|天井《てんじょう》を|仰《あお》いだ。
一体どうなってしまったんだろう?──政子は|怯《おび》えていた。
あの夜から、|既《すで》に三日たっていたが、今もショックから|抜《ぬ》けられずにいたのである。──倉田正志に強引にキスされた、あのショックから。
あのことは、夫にはもちろん、並子にも話していない。いかに親友といっても、打ち明けられる限界というものがある。
政子は、あれ以来、電話が鳴ったり|玄《げん》|関《かん》のチャイムが|響《ひび》く度に、ドキッとして青くなる。もしかして、倉田ではないか、と思うからだ。
夫にあれ[#「あれ」に傍点]を知られては、と怯える一方で、本当に政子が怯えていたのは、「自分自身」だった。つまり、心の底で、倉田が|誘《さそ》ってくれるのを、待っている[#「待っている」に傍点]ところがあったからだ。
一体、私は、どうなっちゃったんだろう……。
いつしかウトウトしていたらしい。──政子はふと目を開いた。
何か、玄関の方で音がしただろうか? それとも家の中で聞こえただけなのか。
立って行って玄関へ出る。──ドアの内側に取り付けてある新聞受けに、何か白いものが|覗《のぞ》いていた。
白い|封《ふう》|筒《とう》、|宛《あて》|名《な》も差出人の名もない。広告かしら。
開けてみて、中の手紙を広げた政子は、カッと|頬《ほお》が熱くなった。
「〈ホテル・P──〉で待っています。予約名はK・Mとしておきます」
走り書きの字。K・M。──倉田正志だ。
ここまで来たのだろうか? たぶん|留《る》|守《す》の間に。そしてこれを入れて行った。
帰宅してから三十分たっている。ということは、少なくとも三十分以内にこれを入れて行ったのだ。
〈ホテル・P──〉は、この団地の外にあって、そう遠くない。出入りするのを、知っている人に見られる心配もあるし、大体、こんな昼間に。
そう。──放っておけばいいんだわ。それで倉田も分るだろう。
あのうぬぼれ屋の二枚目気取りが、たまには待ち|呆《ぼう》けを食わされればいいんだわ。
政子はソファに|座《すわ》った。倉田の手紙は、テーブルの上に置いてある。
──政子は、五分後には|仕《し》|度《たく》をして、外へ出ていた。
タクシーでは行けない。バスを使って、少し手前の停留所で降りる。ちょうど、歯医者さんがそのすぐ近くだから、|誰《だれ》かと出会っても、歯医者へ行くと言えばいい。
政子は、逆らうことのできない流れの中にいた。押し流す力は|圧《あっ》|倒《とう》|的《てき》で、とても政子には|抵《てい》|抗《こう》できなかった。
それでも、バスに乗っている間に、政子は自分のための、うまい言いわけを見付けていた。──これから、私は〈ホテル・P──〉へ行く。でも、それは倉田と会って、話をするためなんだ。こんなことはいけない、と言ってやるためなんだわ。
そうだとも。私は浮気をしに行くわけじゃない……。
バスは、アッという間に、停留所へ着いて、政子は、足早に〈ホテル・P──〉へと歩いて行った……。
もちろん、〈ホテル・P──〉の中へ入るのは初めてだった。
受付は小さな窓口で、相手の顔も、こっちの顔も見えないようにしてある。
「あの……」
と、政子は声をかけた。「すみません」
「はい」
と、男の声。
「K・Mって名で取ってあると思うんですけど」
自分でも、声がかすれているのが分った。
──少し間があって、
「二階の〈204〉」
と、ぶっきら棒な返事。
「どうも……」
エレベーターで二階へ上る。──もちろん、すぐに〈204〉のドアは分った。
|激《はげ》しく心臓が|叩《たた》いている。──いきなり|抱《だ》きしめられたら、どうしよう? 話をする|暇《ひま》もなかったら……。
そうじゃない。自分をごまかしても仕方ないのだ。──抱かれに来たんだ。倉田に。
おずおずと、ドアをノックする。
物音がして、カチャリと音がした。そしてドアが開く。政子は思わず目をつぶっていた……。
「入って、政子」
思いもかけない人の声だった。
「──並子[#「並子」に傍点]」
「入って」
並子は、政子を中へ入れると、ドアを閉めた。政子は、夢でも見ているのかと、|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。
「この二、三日、政子の様子がおかしかったから」
と、並子は言った。「私、あの病院へ行ってみたわ」
「病院?」
「看護婦さんに話を聞いたの。──倉田は次から次へと若い看護婦さんに手を出し、|患《かん》|者《じゃ》さんの中にも、倉田と関係を持った人が何人かいる、ってことだわ」
「並子──」
「私が悪かったの。倉田がそんな男だと知ってたら、政子をやったりしなかったのに。──ね、政子、倉田と何があったの?」
政子は、そろそろとソファに座った。
「ここを借りて手紙を入れてったのは?」
「私よ」
と、並子は言った。「確かめたかったの。あなたと倉田のことを」
「そんな……ひどいわ!」
政子は真赤になって、声を|震《ふる》わせた。「人のことを|騙《だま》したのね!」
「政子」
「いくら並子だって──そんな権利ないわよ! ひどい! もう──もう、絶交だわ!」
政子は|叫《さけ》ぶように言った。そして……泣き出してしまった。
並子が、そっと政子の|肩《かた》を抱く。政子は並子に抱きついて、思い切り泣いた……。
「はい、お肉。──政子にはいいところをあげるわ」
と、並子はすき焼きの|鍋《なべ》をつつきながら、「泣いた分の栄養をとり|戻《もど》さなきゃね」
「ワァ」
「いいわよ。竜介君にあげて」
と、政子は笑った。「私はもう|大丈夫《だいじょうぶ》。泣いたら、ケロッとした」
「よく言うわよ。人に心配かけて、私の服、涙で台なしにしといて」
「もう過去は忘れる、って言ったでしょ」
「物忘れのいいこと」
二人は|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。何だかよく分らない竜介も、後から笑っている。
少し早い夕ご飯を、団地から車で十分ほどのすき焼きのチェーン店でとっているのである。
政子も、思い切り泣いて、すっかり立ち直った。
「──本当にね、あんな、にやけた|奴《やつ》に、どうしてフラッとしたんだろ」
「女心は|怖《こわ》いね」
と、並子は言った。「しかし、けしからん奴ね」
「そうよ。このままにしておけないわ」
政子はご飯をおかわりした。
「どうでもいいけど、よく食べるわね」
「エネルギーをたくわえて、ぶっ飛ばしてやる!」
「やれやれ。──はい、竜介、お|豆《とう》|腐《ふ》、食べな。ほら、お鍋は熱いから、気を付けて!」
──食事をすませて、お茶を飲みながら、政子は、もう一度|詳《くわ》しく倉田の話をくり返した。
「──八木沢良子が、倉田の患者だったってのは、まずでたらめね」
「どうして?」
「忘れたの? あのパーティの時、倉田が最初に私たちの所へやって来て、何て言ったか」
「何だっけ?」
「『失礼ですが、八木沢さんですか』って|訊《き》いたわ」
「あ、そうか」
と、政子は|肯《うなず》いて、「つまり、八木沢良子を知らなかったのね、倉田は」
「私たちを、夫[#「夫」に傍点]と|間《ま》|違《ちが》えたんでなきゃね」
と、並子は言った。
「それじゃ……なぜそんな|嘘《うそ》をついたのかしら?」
「それより、なぜ、知りもしない八木沢良子を|捜《さが》しに来たのか、が気になるわね」
「そうね……」
と、政子は肯いたが、「──待って。今、思い出した。病院の帰りに、ご主人の方を見かけたわ」
「ご主人って──八木沢勝一?」
「そう。あの病院から出て来たんだと思う」
並子は考え込んで、
「八木沢勝一がね。ということは……」
「マンマ」
「あんたは食べすぎ。──アイス?」
「アイシュ、アイシュ!」
と、竜介が両手を|振《ふ》り回した。
「分った、分った。──ちょっと、すみません。アイスクリーム三つ」
と、並子は注文した。
「これから、どうする?」
と、政子は訊いた。
「何よ。また倉田と会いたいわけ? 大丈夫なの?」
「絶対大丈夫! こらしめてやんなきゃ、気がすまない!」
「そうね。倉田の方と、八木沢良子を殺した犯人の方と、両方調べなきゃいけないわね」
「倉田が殺した、ってことは?──でも、倉田は『若い女』に見えないもんね」
「若い女、か……」
並子は、そう|呟《つぶや》いて、考え込んでいたが、「もしかすると……」
「どうしたの?」
「待って。──待ってよ」
並子が、何やら考え込んでいると、アイスクリームが運ばれて来た。
「アイシュ!」
と、竜介が|催《さい》|促《そく》したが、母親の方は、じっと考え込んで、
「ちょっと待って……」
と、相手にしない。
「アイシュ! アイシュ!」
声高らかに要求する竜介を、政子はなだめて、
「ほら、おねえちゃんが食べさせてあげるわ。──いい? おねえちゃんよ。おばちゃんなんて呼んじゃだめよ」
と、相変らずこだわっている。
政子が竜介にスプーンでアイスクリームを食べさせていると、並子は、やっと考えがまとまった様子。
「どうしたの?」
と、政子を見て、「私がやるのに。竜介のこと、|惚《ほ》れてるわけ? 年下の趣味だっけ」
「あのね……」
と、政子は並子をにらんでやった。
「アイシュ!」
竜介は、ともかくどっちからでも、アイスを食べさせてもらえば良かったのである。
6
コピールームのドアを開けて、大崎洋子はドキッとした。
ちょうど、八木沢が一人でコピーを取っていたのである。
「あの──すみません」
機械の音に|紛《まぎ》れて気付かなかったらしい八木沢は、|振《ふ》り向いて、
「あ──君か」
と、ちょっと目をそらした。「もう終るから」
「はい」
機械だけが、ピーッ、ピーッと音をたてて、二人はじっと|黙《だま》り込んでいた。
どうして……。どうして何も言ってくれないの? 君には|飽《あ》きたんだよ、とでも、一言言ってくれたら、心の整理もつくというのに。
でも──そうだろうか?
いいえ! そんな言葉を聞くぐらいなら、何も言わないでいてくれた方が……。まだ、少しは[#「少しは」に傍点]希望があるというものだ。
「──すんだよ」
と、八木沢が言った。
「はい……」
八木沢が、出来たコピーの枚数を数えている間に、大崎洋子は、自分の分の|原稿《げんこう》をセットした。
「|葬《そう》|式《しき》に来てくれて、ありがとう」
と、八木沢が言った。
「あ──いえ」
「やっと、少し落ちついたよ」
「お|寂《さび》しいでしょうね」
寂しいわ。私の方が、ずっと……。
「まあね。仕事で|忙《いそが》しくしてた方が、気が紛れるね」
八木沢がコピーを手に、出て行こうとする。
「八木沢さん」
と、洋子は呼んでいた。
「うん?」
「あの──原稿がそこに」
「あ、いけない。どうもいかんな。注意力|散《さん》|漫《まん》で」
と、八木沢は笑った。
「八木沢さん」
つい、言葉が口をついて出ていた。「どうして会って下さらないんですか。私──」
ドアが開いて、洋子はハッと口をつぐんだ。
「あの──失礼します」
受付の子が、|興味津々《きょうみしんしん》といった顔で、八木沢と洋子を|眺《なが》めている。
「|誰《だれ》に用?」
と、八木沢が言った。
「大崎洋子さんにです」
と、受付の子は、わざわざフルネームで言った。「警察の方ですって」
洋子は、キュッと|唇《くちびる》をかみしめた。八木沢が、
「コピーは|僕《ぼく》が見ててあげる」
と、言った。
「すみません」
洋子は、ちょっと|会釈《えしゃく》して、コピールームを出た。
受付に行くと、男が二人、手持ちぶさたな感じで、立っていた。
「大崎です」
不安げな声になるのは、どうしようもなかった。
「どうも。──N署の者です」
と、一人が警察手帳を示して、「実は、ちょっとお話をうかがいたくてね。|一《いっ》|緒《しょ》に来ていただけませんか」
「あの──警察へですか」
「そういうことです」
「長く……かかりますか」
「さあ、それはお話し次第ですな」
と、刑事は何だか楽しげに言った。「しかし、一応、退社されるつもりでいらして下さい」
──洋子は、とても|拒《こば》むことのできない、無言の圧力を感じた。
二人の刑事は、単なる「男たち」ではない。警察という機構と権力の|象徴《しょうちょう》なのである。
「分りました……」
洋子は、席へ|戻《もど》り、課長に〈早退届〉を出した。理由を説明すると、周囲の席の人間が|一《いっ》|斉《せい》に自分の方を見るのが分った。
──|可哀《かわい》そうに、しめ上げられるんだ。殺人容疑者なんだぜ。
あんな|大人《おとな》しそうな顔してね!
そんな声が聞こえて来る。
洋子は、必死で平静を|装《よそお》うと、机の上を片付け、ロッカールームへと歩いて行った……。
夜中の二時。
大崎洋子が、自分のアパートへ帰って来たのは、もう二時になっていた。
くたびれ切って、階段を上るのも|面《めん》|倒《どう》だった。このまま道に横になって、|眠《ねむ》りたい……。
果てしない質問と、おしゃべりのくり返し。──洋子は何度も泣き出してしまいそうになった。
刑事たちは、八木沢と洋子の関係を、ちゃんと調べ上げていた。もちろん、刑事たちにとっては、「ありふれた三角関係」なのだ。
しかし、洋子にとっては|違《ちが》う。本当に──本当に八木沢を愛している。
だから、八木沢の妻を殺すなんて、考えもしなかったのだ。八木沢は妻を愛していた。洋子とは少し違う形で、でも愛していたのだ。
洋子は、八木沢を悲しませるようなことをするつもりは全くなかった。──どうして、そんな簡単なことが、刑事には分らないのだろうか。
「若い女」が犯人……。「若い女」なんて、一体何人いるんだろう?
やっと、刑事たちは洋子を解放してくれた。しかし、疑いが消えたわけではない。むしろ、ますます|濃《こ》くなったかもしれない。
ただ、洋子が、事件のあった夜に、高校のころの友人と会っていたので、その点を確かめなくてはならず、|一《いっ》|旦《たん》帰してくれた、というだけなのである。
もし、その友人の記憶が、日にちなどが|曖《あい》|昧《まい》だったら、刑事たちは舌なめずりして、洋子に|襲《おそ》いかかって来るだろう。そして、その時、|抵《てい》|抗《こう》し切れるか、洋子には自信がなかった……。
階段を上ろうとした時、
「──君」
と、呼ぶ声に|振《ふ》り返った。
誰かが暗い道に立っている。
「どなた?」
「僕だよ」
明るい場所へ出て来た男を見て、洋子は、
「あら……」
と、|戸《と》|惑《まど》ったように言った。「どうしてここへ?」
「昼間、会社へ電話してね。君が警察へ行った、と聞かされて心配になってさ」
と、倉田正志は言った。「ずいぶん|遅《おそ》かったね。今まで警察に?」
洋子は|黙《だま》って|肯《うなず》いた。
「──そうか。|辛《つら》かったろうね。|疲《つか》れてるかい? 気晴しに、僕のポルシェで、ドライブでもしないか」
倉田の言葉のやさしさが、洋子の疲れ切ったプライドを|突《つ》き|崩《くず》した。洋子はすすり泣いて、倉田の胸に身を投げかけて行った……。
「──失礼」
声をかけられて、並子と政子は二人して同時に振り向いた。
大体、団地の中を歩いていて、男が声をかけて来ると、ろくなことはない。だから、反射的に、
「何よ!」
という感じの、きつい[#「きつい」に傍点]目つきになっているのである。
「い、いや、どうも、その節は」
と、二人にジロッとにらまれ、その男はたじろぎながら言った。
「ああ」
と、並子が先に気付いた。「刑事さんですね」
そうか。政子も思い出した。八木沢良子が殺された時、ホテルで話を聞いた刑事なのである。
「何かご用ですか」
と、並子は言った。
「実は、お二人にちょっとお話をうかがいたくて」
と、刑事は言った。「お|忙《いそが》しいですか」
「買物の帰りに声をかけるのは、うまい手じゃないと思います」
「というと?」
「買ったものの中には、必ず、冷蔵庫へ入れなきゃいけないもの、|冷《れい》|凍《とう》しなきゃならないものがあります。それを持った主婦に、じっくり話を聞くのは無理です」
「なるほど」
と、刑事は感心した様子で、「いや、よく|憶《おぼ》えておきましょう」
「じゃ、どうなさいます? 子供はご|覧《らん》の通り眠ってますし、よろしかったら、うちへ」
「いや、そりゃありがたい」
と、刑事はホッとした様子で言った。
それほどの|年齢《とし》でもないようだが、落ちついていて、なかなか好感の持てる人だわ、と政子は思った……。
「──どうぞ」
並子は、かしこまっている刑事にお茶を出した。
「いただきます」
刑事は、ゆっくりとお茶を飲んで、「お二人は、何か|探《たん》|偵《てい》のようなことをされてるんだそうですね」
並子は、政子とチラッと目を|見《み》|交《か》わし、
「それほどのことじゃありません。いわば、コンサルタントですわ」
「なるほど」
「団地というのは、いわば〈新しい社会〉です。下町とか山の手とか、これまでにあった人間関係とはまた違ったものがあるんです。生活の習慣にしても、物の考え方にしても」
「そんなものですか」
「中にいる人間にしか分らないこと、というものもあります。そんなことで、たとえば団地へ来られたばかりの人が、困ったことになったりする時、相談にのってあげる、というのが、私の仕事なんです」
「よく分ります」
と、刑事は肯いた。「いや、あなたはお若いのに、とてもしっかりして、頭の切れる方だと思っていたんです」
「まあ、主人に聞かせたいわ」
と、並子は笑った。
「いや、実は──」
と、刑事は息をついて、「今日は、仕事で来たというわけじゃないんです。他の用にかこつけて、やって来たんです」
「八木沢良子さんの事件ですね」
「もちろん。──我々は、大崎洋子を|逮《たい》|捕《ほ》しようと、準備しているんですよ」
並子は、ちょっと|眉《まゆ》を寄せて、
「|間《ま》|違《ちが》いですわ」
と、言った。
「そう思いますか」
「ええ」
「私もです」
と、刑事は言った。「それで、困っているんですよ」
「|証拠《しょうこ》はあるんですか」
「決定的なものはありません。──|訊《じん》|問《もん》の結果、八木沢勝一と関係があることは認めています。そして事件の日には、昔の友だちと会っていたと言ってるんです」
「そのアリバイは?」
「その友だちの記憶が|曖《あい》|昧《まい》でしてね。当日か、その前日か、はっきりしないのです」
「一つ、うかがっていいですか」
と、並子は言った。「大崎洋子は、八木沢良子さんと会ったことがありました?」
「ええ。もちろん、夫と関係がある女と知っていたかどうかは分りませんが、事件の二週間ほど前に、大崎洋子は八木沢勝一に書類を届けに行って、妻と会っています」
「そうですか」
「八木沢良子が『若い女』と言ったことは確かですからね。そうなると大崎洋子はどうしても不利になる」
刑事は首を|振《ふ》って、「しかし、どうも私の直感では、あの女は犯人じゃない、と思えるんです」
「それは正しいと思いますわ」
「何か理由が?」
「八木沢良子さんが、ただ『若い女』と言ったのはなぜか、ということです。大崎洋子のことを|見《み》|憶《おぼ》えていれば、必ず『会社の女』とか言ったでしょうし、もし忘れていても、『赤い服の女』とか言ったのじゃないでしょうか。『若い女』とくり返すことができたんですから。何か他に言えたはずだと思うんです」
「なるほど。しかし……」
「それなのに、『若い女』とだけ言ったのは、どうしてでしょう」
「あなたには、考えがおありですか」
「あります」
と、並子は肯いて、「でも、今は申し上げられません。他にも色々、考えなくてはならないことがあるんです」
「というと?」
「たとえば、八木沢勝一さんが、なぜ|突《とつ》|然《ぜん》早起きになり、よく働くようになったか、ということです」
「はあ……」
刑事は、面食らって、並子を見ていた。
「あ、目を|覚《さ》ました!」
並子は、急いで立ち上ると、|奥《おく》で泣き出した竜介の所へと、|駆《か》けて行った……。
7
「倉田先生、お電話が入ってます」
と、呼出しのアナウンスがあって、昼食を終え、ウトウトしていた倉田は、ハッと目を覚ました。
電話?──電話か。
|欠伸《あくび》しながら立ち上り、カウンターの方へ歩いて行く。ちっとも急いだりしないのである。
急ぎの用なら、もう一回かけて来るさ、というのが、倉田の考えだった。
「あ、倉田先生、こちらです」
「どうも」
と、受話器を取って、「はい、倉田です」
「あの……」
と、女の声。
「もしもし。──どなた?」
「私です」
と、その女は、思い切ったように言った。
「あ……」
誰だろう? 倉田は必死で考えた。
「あの──この間、すっかり混乱してしまって、私……」
どこかで聞いた声だな。ええと……。
「|怒《おこ》ってらっしゃる?」
と、女は言った。
「ああ──いや、とんでもない。怒ってなんかいませんよ」
ええと……あいつ[#「あいつ」に傍点]でもない。あの子は、こんな話し方しないし……。
「分ってるんです、自分の気持は」
と、女がため息と共に、言った。「本当は|誘《さそ》われるままについて行きたかったんです。でも、夫のある身ですし」
そうか。──待てよ。
「団地の近くのホテルに、来ていただけません?」
思い出した! あの女か。
「いや、奥さん、この間のことは──」
近くで誰かが聞いてると、まずい。倉田は声を低くした。
「また改めて|連《れん》|絡《らく》しますよ」
「お会いしたくてたまらないんです! 死んでしまいそうなんです」
死んでしまう? そりゃ問題だ。
何しろ、|俺《おれ》は医者なんだからな。死にかけてる|患《かん》|者《じゃ》は助けてやらないと。
「分りました。しかし──そこは少し遠いですね」
「じゃ、どこへでも参ります」
「それでは……。七時に、病院の裏手の通りを入ると、〈S〉というホテルがありますから、そこで」
「〈S〉ですね」
と、女は声を|弾《はず》ませている。「必ず行きます。──ありがとうございました!」
「どういたしまして」
倉田は、電話を切って、「──どうも」
と、レジの子に声をかけた。
「倉田先生」
「何だい?」
レジの女の子が寄って来る。
「今の、彼女[#「彼女」に傍点]から?」
「違うよ、患者さ」
「|怪《あや》しいもんね」
と、レジの子は笑って、「──ね、たまには付合ってよ」
「おい、こんな所で……」
「付合ってくれなきゃ、大声で泣いちゃう」
「分ったよ。でも、週末は学会だ」
「じゃ、来週、絶対よ」
「分った」
倉田は、ちょっと|肩《かた》を|揺《ゆ》すって見せ、食堂を出て行った……。
七時。──〈S〉か。
ポルシェを駐車場へ入れ、倉田はホテルの中へ入って行った。
「──どうも」
こういうホテルの人間となじみ、というのも大したものである。
|蝶《ちょう》ネクタイの男は、
「一番|奥《おく》の|部《へ》|屋《や》です」
と、|肯《うなず》いて見せる。
「ありがとう」
倉田は、ネクタイをしめ直して、|廊《ろう》|下《か》を歩いて行った。
|肝《かん》|心《じん》の相手の女の名前を忘れちまったが、まあいいや。会えば思い出すだろう。思い出せなくても、別に困らない。
愛し合ってる間、他の名前を呼ばないように気を付ければいいんだ。
ドアをトントンと|叩《たた》くと、
「待って」
と、女の声がした。
少し待っていると、ドアがカチリと音をたて、細く開く。
倉田が中へ入ると、中は明りが消えて、やけに暗い。
「君……。どこにいるの?」
「ここです」
と、女の声が奥の方から聞こえて来た。「ベッドの中」
「そうか」
と、倉田は笑って、「|恥《は》ずかしがることないじゃないか。──|可愛《かわい》いんだね」
と、暗がりの中、そろそろと進んで行き、やがてベッドに行き着く。
「入って来て……」
「ああ。──それじゃ、一つ|汗《あせ》をかいて、それから、ゆっくり君のすべてを拝見しようかな……」
倉田は服を|脱《ぬ》いで、ベッドの中へ|潜《もぐ》り込んだ。「──|逃《に》げるなよ」
「こっちのセリフだぜ」
と、|突《とつ》|然《ぜん》、太い男の声がして、パッと部屋の明りが|点《つ》いた。
「ワッ!」
倉田がびっくりして、飛び上る。
明りが点くと、悪趣味な、けばけばしい内装の部屋と、ベッドの中で|微笑《びしょう》している、見たことのない裸の女、そして、特大のベッドを囲むように立っている、三人の男たちが目に入った。
「何だ、君たちは!」
「その女はな、うちのボスの女なんだ」
と、がっしりした体つきの白いスーツを着た男が言った。「どうしてくれるんだ、この始末は」
「知らないよ!──人違い! 間違いなんだ!」
倉田があわててベッドから出ると、脱いだ服がない。
三人の男の一人が、丸めて持っているのである。
「僕の服だ!」
「返してほしいか? 売ってやるぜ。一千万でな」
「何だって?」
「この服、それから、お前とその女が|一《いっ》|緒《しょ》にベッドへ入ってる赤外線写真。セットで一千万。安いもんだぜ」
ひっかかった!──倉田は青くなった。
「なあ……。待ってくれよ。そんなお金……持ってるわけないじゃないか……」
「泣きごと言うなよ。──おい、もし払いたくないなら、指でもつめるか」
シュッと目の前に白刃が現われて、倉田は床にペタンと|座《すわ》り込んでしまった。パンツ一つの|格《かっ》|好《こう》である。
「|勘《かん》|弁《べん》してくれ……」
と、ガタガタ|震《ふる》えている。
「どうなんだ? 一千万、出すのか」
「ここには……」
「そりゃあそうだろう。ちゃんと後で話をつけるのなら、待ってやるぜ」
「そりゃ……もう、約束します」
と、倉田は何度も|肯《うなず》いた。
「そうか。──おい、服を返してやれ」
放り投げられた服を、倉田はあわてて着込んだ。
ともかく、一刻も早く逃げ出したいのだ。
「──待ちな」
と、男が言った。「誰でも、|担《たん》|保《ぽ》ってもんが必要なんだぜ」
「え?」
「お前、いい車に乗ってるそうじゃねえか」
「いえ──その──大した車じゃ……」
「キーをかしな」
「でも……」
「キーを出せよ」
倉田が車のキーをこわごわ取り出す。
「よし。お前が一千万、用意して来るまで、お前の車は預かっとくぜ」
「あの……」
「心配するな。俺が、ちゃんと乗っててやる。可愛がって、|汚《よご》さねえようにするから」
と、男は笑って言った。
「あばよ!」
こうして、倉田は部屋から|叩《たた》き出されてしまったのである……。
八木沢勝一は、会社に一人で残っていた。
もう夜、十一時を過ぎている。──もう帰るか、と息をついた。
あと少しで、区切りがつく。それで帰ろう……。
人のいないオフィス。静かなのを通り越して、どこか寒々としている。
いや、オフィスは、本来、人がいて、初めてオフィスになるのだ。人のいないオフィスは机と|椅《い》|子《す》の行列にすぎない。
八木沢は、書類に目を|戻《もど》した。
ガチャッ、と音がして、ドアが開いた。
「──失礼します」
と、入って来た女性に、八木沢は|見《み》|憶《おぼ》えがあった。
「あ、団地の──」
「西沢並子です」
と|挨《あい》|拶《さつ》して、「まだお仕事ですか」
「なかなかきり[#「きり」に傍点]がつかなくて」
と、八木沢は言った。
「お|邪《じゃ》|魔《ま》して、すみません」
「いや、いいんです。もう帰るつもりでしたから」
八木沢は、ファイルを閉じた。「しかし──どうしてこんな所へ?」
「主人が出張で、子供を連れて実家へ来ていますの」
並子は、|空《あ》いた椅子に、|腰《こし》をおろした。「ちょっとお話がしたくて」
「何でしょう?」
「八木沢さん」
と、並子は言った。「大崎洋子さんが、|逮《たい》|捕《ほ》されるかもしれないってこと、ご存知ですか」
「何ですって?」
八木沢は本当に|仰天《ぎょうてん》した様子だった。「彼女がなぜ……」
「もちろん、|奥《おく》さんを殺した、という容疑です」
「|馬《ば》|鹿《か》な!」
「本当です。──八木沢さん、大崎さんは苦しんでいます。助けてあげられるのは、あなただけです」
八木沢の|額《ひたい》に、深いしわ[#「しわ」に傍点]が|刻《きざ》まれた。
「いや……私には救えません」
と、首を|振《ふ》って、「だから、|突《つ》き放して来たんです」
「理由も言わずに? それは、彼女を本当に思っていることになりません」
「私は──」
「分っています」
と。並子は|肯《うなず》いた。「病気ですね、それもとても重い[#「とても重い」に傍点]」
八木沢はじっと並子を見つめていた。
「──どうして、それを?」
「あなたが、|突《とつ》|然《ぜん》早起きになり、仕事の上でも別人のようにめざましく働き出した、と聞いたからです」
並子は、八木沢良子が自分の所へ、相談に来たことを教えてやった。
「じゃ、良子が?」
「そうです。|悩《なや》んでおられたんです」
「何てことだ……」
八木沢は、ため息をついた。「何もかもきちんと整理しておきたくて、生き方を変えたんです。──それなのに」
「|却《かえ》って、不安になってしまったんですよ」
と、並子は言った。「人間、そんなに大きく変るには、よほどの動機が必要です。私もそこに気付いた時、察していました」
八木沢は、机の上を片付けながら、
「──私の命は、あと三か月ほどなんですよ」
と、言った。「洋子も、早く私のことを忘れて、|諦《あきら》めた方がいい。そう思って、そっけなくして来ました」
「彼女は、それを喜んでいないでしょう。もし事実を知ってもね」
「はあ……。しかし、何とか彼女を逮捕するなんてこと、やめさせなくちゃ」
「同感です」
と、並子は言った。「もう一つ、あなたのご存知ないことがあります」
「というと?」
と、八木沢は|訊《き》いた。
8
「やあ」
ドアが開くと、倉田が立っている。
「|遅《おそ》かったのね」
と、大崎洋子は言った。
「ちょっと診察が長引いてね」
倉田は、ホテルの部屋の中へ入って来ると、
「──悪かったね、呼び出して」
「いいえ」
洋子は首を振った。「あなたに会えるのなら、楽しいわ」
「そう言ってくれると、|嬉《うれ》しいよ」
倉田は洋子を|抱《だ》いてキスした。
「──待って」
と、洋子は|離《はな》れると、自分のハンドバッグを取って来た。
バッグから、銀行の通帳と|印《いん》|鑑《かん》を取り出して、テーブルに置く。
「三百万ほどしかないわ。少しは役に立つの?」
「大助かりだ! いや、すまないね」
倉田は、ソファに座ると、「君にこんなことまで|頼《たの》んで、全くひどい恋人だと思ってるよ」
「あら、でも、仕方ないわ。お友だちは大切よ」
「そうだけどね……。下手に保証人になったばっかりに、借金をしょい込むはめになっちまった」
「あなた、人がいいから」
「人がいいのも良し悪しだね」
と、倉田は苦笑した。「すまん! 必ず返す」
「いつでもいいわ」
と、洋子は言った。「その代り──抱いてね」
「ああ、もちろん……」
倉田は、洋子を抱き寄せようとした。
「待って。薬の|匂《にお》いがする」
「そうか。──じゃ、先にシャワーを浴びて来る」
「そうして」
倉田は、バスルームへ入って行った……。
中からシャワーの音が聞こえて、しばらくすると、倉田は裸の体にバスタオルを|腰《こし》に巻きつけ、出て来た。
「ああ、さっぱりしたよ」
と、息をついて、「君もどう?」
「ええ……」
洋子は、スーツを|脱《ぬ》いだ。「──私、別れたの」
「え?」
「八木沢と。──いつまでも追いかけたって、|空《むな》しいもの」
「そうさ。あんな|奴《やつ》、君にはふさわしくないよ」
と、倉田はベッドに|座《すわ》って、「しかし、|女房《にょうぼう》に死なれて、君の方へのりかえるかと思ったのに」
「あの人、病気なんですって」
と、洋子は言った。
「病気……」
倉田が、探るように洋子を見て、「本人がそう言ったのかい?」
「ええ。あと何か月の命ですって。──そんな人を恋してても、しようがないわ」
洋子がバスルームへと歩いて行く。
そして洋子の姿がバスルームへ消えると、倉田は、低い声で|忍《しの》び笑いを始めた。そして、やがて|抑《おさ》え切れない笑いへと拡大して行った……。
「何がおかしいの?」
|振《ふ》り向くと、ドアが開いて、洋子が立っている。
「何だ、まだシャワーを浴びてなかったのか」
「教えて。どうして笑ったの?」
「うん……。いやね、八木沢は|僕《ぼく》の|患《かん》|者《じゃ》なんだよ」
「あなたの?」
「そう。──君があいつに夢中になって、僕は振られた。頭へ来たよ。そうしたら、当の八木沢が、どうも調子が悪いって、僕の所へ来たのさ」
「まあ。何も言わなかったじゃないの、あなた」
「うん。僕はね、ちょいといたずらしてやったんだ」
「いたずらって?」
「もう治せない。見込みはない、ってね。──どうってことのない、ただの|胃《い》|炎《えん》だったんだ。そしたら、あいつ、真青になって……。|卒《そっ》|倒《とう》しかねなかったよ」
と、倉田は笑った。「今、思い出してもおかしいな」
そして、倉田は洋子の方を見て──。
「どうかしたの?」
と、|訊《き》いた。
洋子は、青ざめた顔で、じっと倉田を見つめている。
「|嘘《うそ》をついたのね!」
「悪いかい? 君をとられて、しゃくだったんだ」
「ひどい……。ひどい人!」
「おい──」
と、倉田がなだめるように、「八木沢と別れる、って言ったばかりじゃないか。あんな|奴《やつ》のこと──」
ガタッと音がした。
クロゼットの|扉《とびら》が開いて、中から出て来たのは、八木沢[#「八木沢」に傍点]だった。
今度は倉田が青くなる番だった。
「貴様──」
八木沢は|怒《いか》りに顔を真赤にして、「何て奴だ!」
と|叫《さけ》ぶなり、倉田へと飛びかかった。
「やめろ!」
倉田は|逃《に》げようとしたが、何しろバスタオル一つの|格《かっ》|好《こう》では、外へ出るわけにはいかない。ベッドの上で八木沢につかまり、|押《おさ》えつけられてしまった。
「こいつ!」
と、八木沢が|殴《なぐ》りつける。
「やめて……。おい! よせ! 助けてくれ!」
倉田が悲鳴を上げた。
「|誰《だれ》がやめるもんか! 殺してやる!」
「よせ!──洋子! 助けてくれ!」
洋子は歩いて行くと、ドアを開けた。
「──八木沢さん」
と、並子が入ってきて、八木沢の|肩《かた》をつかんだ。「もう、やめて下さい」
八木沢は倉田から手をはなし、よろけた。
そして、いきなり|駆《か》け出して行ってしまった。
「あの人は──」
と、洋子が言った。
「大丈夫。行先の見当はついてるわ」
と、並子は言った。「倉田さん。あなたのやったことは人殺しも同じですよ」
倉田は、|喘《あえ》ぐばかりで、言葉も出ない。
洋子は服を着て、
「私のお金、返していただくわ」
と、通帳と|印《いん》|鑑《かん》をバッグへ|戻《もど》した。
「行きましょう」
並子が|促《うなが》し、二人は部屋を出た。
倉田が、一人、ベッドの上でポカンと見送っていた……。
外に出て、大崎洋子は、足を止めた。
「ありがとうございました。──あんなひどい人とは思ってもいませんでしたわ」
「気が付いただけ、良かったわ」
と、並子は|肯《うなず》いて、「あなた、これから、どうするの?」
「八木沢さんのことは……」
「|諦《あきら》めた方がいいと思うわ」
と、並子は言った。「本人も、そう望んでると思うわ」
洋子は、キュッと|唇《くちびる》をかみしめた。そして涙の光る目で、
「分りました」
と、言った。「どこかへ行って、新しくやり直します」
「それがいいわ。|頑《がん》|張《ば》ってね」
「はい」
洋子は、肯くと、夜の道を足早に去って行った。
並子は、手を上げた。──車が寄って来て、|停《とま》る。
「どうだった?」
中に乗っていた政子が訊く。
「思った通りよ」
並子は、政子の|隣《となり》に|座《すわ》ると、「刑事さん、団地の、八木沢さんの家へやって下さい」
と、言った。
「|了解《りょうかい》」
あの刑事が、アクセルを|踏《ふ》む。車は一気に飛び出して、やがて歩いて行く大崎洋子を追い越して行った。
玄関のドアは、|鍵《かぎ》もかかっていなかった。
「──八木沢さん」
と、並子が呼びかける。「八木沢さん、います」
「上ってみる?」
と、政子が言った。
「そうね」
「じゃ、いくらか気は|咎《とが》めますが」
と、刑事も上り込んだ。
|奥《おく》の和室へ入った時、三人は立ちすくんだ。
正面の、八木沢良子の|遺《い》|影《えい》の前で、八木沢勝一が|突《つ》っ|伏《ぷ》していた。
「こりゃいかん」
刑事が電話へ飛びつく。
並子は、八木沢のそばに落ちていた紙を拾った。
「何?」
と、政子が|覗《のぞ》き込むと、
〈良子を殺したのは、私です。八木沢勝一〉
とあった。
「この人が、|奥《おく》さんを?」
と、政子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「そう。自分が病気で、先が長くないと知って、|怖《こわ》かったんだと思うわ。平静にふるまってはいたけれど、その実、奥さんに|頼《たよ》り切っていたのよ」
「でも──」
と、政子が言いかけた時、刑事がやって来た。
「今、救急車を呼びました」
と、八木沢の体を|仰《あお》|向《む》けにする。
八木沢は胸を|刺《さ》していた。──とても助かるまい、と政子は思った。
「何と……」
刑事は、八木沢の|遺《のこ》したメモを見て、目を丸くした。
「並子。でも、奥さんは『若い女』と……」
「ご主人を、|逮《たい》|捕《ほ》させたくなかったのよ」
と、並子は言った。
「どういうこと?」
「正反対[#「正反対」に傍点]を言ったのよ。『若い女』と言えば、誰もご主人を疑う人はいないでしょ」
「そうか……。でも、どうして──」
「あのホテルに、なぜ奥さんが来ていたか、考えてみるといいわ。──奥さんは、ご主人が変った[#「変った」に傍点]わけを察したんでしょう。それで、通っている病院を調べて、倉田に、話を聞かせてくれ、と言った」
「それで、倉田もあのホテルへ来てたのね」
「ところが、八木沢さんは奥さんがホテルで誰かと会うというのを知って、てっきり男がいると思った。──どうせ自分は長くないし、いっそ|一《いっ》|緒《しょ》に、と思って……」
「何てことだ」
と、刑事は首を|振《ふ》った。「その医者を逮捕してやる!」
「すべてを知って、八木沢さんは、奥さんの後を追うことにしたんですわ。止められなかったのは、残念ですけど」
「そうですな」
刑事は、立ち上って、「もう|手《て》|遅《おく》れだ。しかし……|可哀《かわい》そうに」
政子も同感だった。
八木沢の死体に向って、そっと手を合せる……。
「刑事さん」
と、並子が言って、「これを、倉田に返しておいて下さい」
「車のキーですか」
「ええ、車は元の所にあります、と言って下さい」
倉田を|脅《おど》したヤクザと女は、並子の大学時代に知っていた、演劇部の友人たちだったのである。
「竜介! どこに行くの!」
と、並子が、勝手にどこかへ行きかけた|息子《むすこ》を追っかけて行く。
政子は、ベンチに|腰《こし》をかけて、笑いながらそれを見ていた。
「──全く、もう、言うこと聞かないんだから!」
と、並子がため息をつく。
竜介は、いとも平然と、砂場での遊びを続けている。
「ね、並子」
「うん?」
「八木沢さんが、奥さんの後を追うって、分ってたんじゃないの?」
「そうねえ」
と、並子は少し考えて、「もしかしたら、とは思ってた。──止めるべきかどうか。迷ったのよ」
「当人はやり切れないでしょうからね」
「でも──あれで良かったのかどうか、自信ないわ」
「|珍《めずら》しいこと言ってる」
と、政子は冷やかした。
倉田は、もちろん医師の資格を失い、未来も灰色、ということになるだろう。
「このところ心配だったのよ」
と、政子が言った。
「何が?」
「主人が、いやに早く起きて、体操とか始めて。──もしかして、重い病気か、とか思ってさ」
「それで?」
「二日間だけでね、続いたの。|今朝《けさ》は、いくら起こしても、グーグー|寝《ね》てて。ホッとしちゃった」
並子は、ちょっと笑って、
「人間、あんまり急に変らない方がいいみたいね」
と、言った。「──あ、また指を口へ。竜介!」
並子が|駆《か》けて行く。
竜介も、やはりそう毎日は、変らないようである。
第二話 健全な|野《や》|菜《さい》の事件
1
モーツアルトの「ト短調|交響曲《こうきょうきょく》」は、今第四楽章へ入ろうとしていた。
|仲《なか》|田《た》|由《よし》|夫《お》は、目を閉じ、すべての神経を耳に集中させて、|哀《かな》しくも|烈《はげ》しく、第四楽章が始まるのを待っていた。
モーツアルトには「二五番」のト短調交響曲というものもあって、これは「小ト短調」なんて呼ばれることもある。
今、仲田由夫が聞いているのは、モーツアルトの|傑《けっ》|作《さく》中の傑作たる、「四〇番」の方であった。
この第四楽章を聞くと、いつも仲田はギリシャの神殿を連想する。気高く、おごそかで力強く、そしてどこか|悲《ひ》|壮《そう》な美にあふれているからだ。
さあ!──始まるぞ。
仲田は第三楽章の後の空白の中、思わず|椅《い》|子《す》に|座《すわ》り直して、サランネットを|外《はず》したスピーカーから、力強い|弦《げん》の合奏が飛び出して来るのを、待ち構えた。
そして──。
ターン、タタタッタ、ターン、タッタッ……。
仲田は顔を上げた。目を開け、サッと顔が|紅潮《こうちょう》する。
モーツアルトは鳴り始めた。しかし、その気高い調べは、調子外れな演歌の、とてつもない大音量に|妨《ぼう》|害《がい》されて、もはや音楽の形を成していないのだった。
「──|畜生《ちくしょう》!」
仲田はパッと立ち上った。「もう|我《が》|慢《まん》できんぞ!」
仲田は自分の|部《へ》|屋《や》を飛び出した。
ここは、仲田がやっとの思いで確保した「自分の部屋」だった。
この団地に越して来る時、本当はもう少し小さいタイプの部屋なら、ローンも大分楽だったのである。しかし、仲田はどうしても、好きな音楽にひたり切れる「自分だけの部屋」がほしかった。
考えてみれば──いや、考えてみなくたって──十四歳の娘、ユリ子が、自分の部屋を持っているのに、一家の|稼《かせ》ぎ手である父親の一人だけでいられる部屋があって、どこが悪い?
しかし、そう開き直るには、たいていの家庭同様、この仲田家でも「父親の|権《けん》|威《い》」は、あまり高いとは言えなかった。
|渋《しぶ》る妻の|弘《ひろ》|枝《え》に頭を下げて、仲田はなんとか一部屋余分なタイプの部屋に入居することになったのである。
たまの休日。──今日は久しぶりに取った|休暇《きゅうか》だった。
弘枝は買物に出ており、娘のユリ子は中学校。──一人で残った仲田は、モーツアルトの「はしる悲しみ」の世界に|浸《ひた》っていたのだった。そこへ──。
仲田は部屋を飛び出した。サンダルを引っかけ、ここは四階だったが、エレベーターなんて、のんびり待っている気はない。
タタタッと階段を|駆《か》け下りると、郵便受の|並《なら》んでいる下のホールを駆け|抜《ぬ》けて、外へ飛び出した。
「あなた!」
目の前に弘枝が立っている。「どうしたの? 何かあったの?」
「お前、買物に行ったんじゃなかったのか」
と、足を止めて、仲田は|訊《き》いた。
「知ってる|奥《おく》さんと、ばったり会ったもんだから、立ち話してたの。何よ|凄《すご》い勢いで」
「あの|八百屋《やおや》だ!」
と、仲田は|怒《ど》|鳴《な》った。「|馬《ば》|鹿《か》でかい音で、あんなものをかけやがって!」
「だって、仕方ないじゃないの」
と、弘枝は言った。「あの音楽を聞いて、みんなが買いに出て来るんだもの」
「音楽だと? あんなもん、雑音だ! |騒《そう》|音《おん》だ!」
「あなたが|怒《おこ》ったって──」
「|俺《おれ》は|黙《だま》ってないぞ!」
仲田は、すでに五、六人の主婦が集まっている、八百屋のトラックに向って|大股《おおまた》に歩いていった。
「待って! ねえ、あなた──」
と、弘枝が呼び止めても、今の仲田を止めることは不可能だった。
「──奥さん、大根が|旨《うま》いよ。今日のはね、絶対にお|買《かい》|徳《どく》!」
まくし立てるようにしゃべっているのは、まだ意外なほど若い男で、せいぜい三十そこそこと見えた。
仲田も、頭から|喧《けん》|嘩《か》をするつもりはない。できるだけ|抑《おさ》えた声で、
「君ね、ちょっと」
と、言った。
「はい、いらっしゃい!──|旦《だん》|那《な》さんですか、|珍《めずら》しいですね。何をさし上げます?」
と、いかにも商売人らしい笑顔を向ける。
「野菜を買いに来たんじゃない」
と、仲田は言った。
「うちは魚とか肉は|扱《あつか》ってませんけどね」
と言って、八百屋は笑った。
「その馬鹿でかい音でかけているテープを止めてくれないかね」
「え?」
キョトンとしてから、「──ああ。これですか。いや、いいでしょう? 大好きなんですよ。このこぶし[#「こぶし」に傍点]の所がね、何とも言えない……」
「君が好きかどうかはどうでもいい。ともかく、やかましいんだ。テープを止めてくれ」
「しかしね……」
やっと、八百屋の方も仲田が怒っているのに気付いたらしい。「これはうちのテーマソングですからね。これが聞こえて、みなさんが、あ、来た来た、ってんで出て来る。そうでしょ? これを止めたら、商売になりませんよ」
「君の商売の|邪《じゃ》|魔《ま》をするつもりはない」
仲田は、怒鳴りたいのを、必死に抑えて、「しかし、ここにいる間、流しっ放しにしておく必要はないだろう? それにこんなにでかい音でかけなくても、|充分《じゅうぶん》聞こえる。それから、このテープはもう|伸《の》びちゃって、調子っ外れで耳ざわりだ。聞いてると|苛《いら》|々《いら》して来る」
「そりゃお気の毒で」
と、八百屋は|肩《かた》をすくめて、「じゃ、耳に|栓《せん》でもしといたらどうです?」
聞いていた主婦たちが笑った。
「何だと!」
仲田は怒鳴った。「俺は|真面目《まじめ》に話してるんだ!」
「こっちだって、真面目に聞いてますよ。でもね、音がでかいって言うけど、|掃《そう》|除《じ》|機《き》なんかかけてると、こんぐらいの音にしなきゃ聞こえないんだ。何も一日中いるわけじゃないんだからね」
「あなた、やめて」
と、弘枝が夫の|腕《うで》を取った。
「|奥《おく》さんですか」
と、八百屋は|苦《にが》|笑《わら》いして、「こんな口うるさい旦那じゃ苦労しますね」
仲田は|拳《こぶし》を固めて、八百屋を|殴《なぐ》りつけた。
「──あ、来た来た」
と、西沢並子が言った。
「何が?」
木村政子は、週刊誌から顔を上げる。
「あの曲よ。──アイスクリームの|販《はん》|売《ばい》|車《しゃ》。見ててごらんなさい。竜介が目を|覚《さ》ますから」
いとも安らかに、大の字になって|眠《ねむ》り込んでいるのは、西沢並子の|息子《むすこ》、二歳になる竜介である。
「あれ、何の曲だっけ?」
と、木村政子が首をかしげる。
「知らないわ。六十年代のポップスじゃない?」
「へえ。並子でも知らないことがあるのね」
「皮肉のつもり?」
「お世辞のつもり」
と、政子は言ってやった。
すると、パッと竜介の目が開いて、ガバと起き上り、
「アイス! アイス!」
と、|甲《かん》|高《だか》い声で主張し始めたのである。
「条件反射ね、全く」
と、並子は苦笑して、「さて、じゃ、アイスを買いに出かけるか」
「たいしたもんね」
と、政子は感心している。
ここは西沢並子の住む、高層の棟の七階。
まだ子供のいない政子は、用のない時にはたいてい並子の所へ来ている。──これには多少、実用的な点もあって、二人は団地の中で、〈私設|探偵局《たんていきょく》〉をやっているのである。
もちろん、商売にしているわけではない。あくまで「|脳《のう》|細胞《さいぼう》をフレッシュに保っておくため」というのが目的。
探偵役は一応[#「一応」に傍点]西沢並子。木村政子は助手役で、時として、探偵が|忙《いそが》しい時には、単なる竜介のお守り役となってしまう。
しかし、それでも政子は文句など言わなかった。──何といっても、二人は高校、大学を通じての親友同士なのである。
二人とも今、二十八歳。この団地で|偶《ぐう》|然《ぜん》に出くわして、たまたますぐ近くに住んでいることが分った。
二人とも夫は忙しくて毎晩|遅《おそ》い。──となれば、どちらも、探偵業に|振《ふ》り向ける時間はいくらでも持てるというものである。
並子は、かつてドイツへ留学したこともある秀才で、政子はごく普通のOLになったのだが、二人とも何となく気が合う。並子も、|才色兼備《さいしょくけんび》の割には、少しももったいぶったところがなく、カラッとしている。
まあ、この二人、なかなかいいコンビではあった……。
──二人は、竜介を|抱《だ》っこして(もちろん抱っこしているのは、並子の方だ)、エレベーターで下へ下りることにした。
「この棟の前に、しばらく|停《とま》ってるから、|大丈夫《だいじょうぶ》よ」
と、並子が言ったが、竜介の方は、
「行っちゃう」
と、心配している。
「どっちに似たんだろ。せっかちなのよね、この子は」
と、並子は言った。
「でも、何でも来るようになったわね、最近は」
と、政子が言った。
「本当。子供の小さい人とか、雨の時とかは便利よ」
エレベーターが一階に着く。二人は棟の外へ出た。
アイスクリームの移動販売車というのは、比較的新しい。|可愛《かわい》いピンクにぬった小型のワゴン車で、子供が二、三人、買いに来ている。
──政子たちがこの団地へやって来たころ、まだ、そういう移動販売は|珍《めずら》しかった。
初めは野菜とか、果物のトラックが来て、「産地直送」を売りものにして商売していたのだ。
それが、肉とか魚のトラックも来るようになり、その内、同じ業種でもいくつかのトラックが別々に入って来た。
今は、曜日、地域で分けられていて、色々団地側の許可を取ったり、|面《めん》|倒《どう》になっているようだ。つまり、それだけ、業者がふえてしまったのである。
「──はい、ソフトクリームでしょ」
と、コーンカップ入りのソフトクリームを、竜介に持たせて、「私、レモンのシャーベット」
と、並子が注文した。
「私、アーモンド」
と、政子も|頼《たの》んで、「並子、すっぱいもんがいいの? 次ができたんじゃない?」
「まさか。──政子のとこができてから、と|亭《てい》|主《しゅ》には言ってある」
「うちのことなんて、関係ないでしょ」
「──さ、あっちで|座《すわ》って食べよ」
三人は、ベンチに|腰《こし》をおろして、|揃《そろ》ってペロペロとアイスとソフトをなめ始めたのである。
「──でも、今は|凄《すご》いね、この団地も」
と、政子が言った。「牛乳とか乳製品の車も来るし、ほとんど移動|販《はん》|売《ばい》で揃っちゃうでしょ。それに、生協とか生活クラブ……。スーパーも楽じゃないでしょうね」
「|沢《たく》|山《さん》来るのはいいけどね」
と、並子が、ちょっと顔をしかめて、「音楽がねえ……」
「みんなテーマミュージックを鳴らして来るものね」
「〈森の水車〉が行くと、今度は〈北の宿から〉、次が〈パーシー・フェイス〉だもんね。混乱して来る」
「気にしだすとやかましいよね」
「ひどいスピーカー使ってるじゃない。それに音量も少し上げすぎ。|寝《ね》た子が目を|覚《さ》ますこともあるわ。団地の中は|響《ひび》くしね」
と、並子が言った。
「商売とはいえね、何とか方法ってないのかしら」
と、政子が言った時だった。「──あら、ユリ子ちゃん」
学生|鞄《かばん》をさげた中学生の女の子が、うつむいて歩いている。
少し間を置いてハッと顔を上げ、
「あ……木村さん」
と、気付くと、「今日は」
と、頭を下げた。
「どうしたの? 今日は早いじゃないの」
と、政子は言った。「──この人はね、西沢並子。いつか話した|探《たん》|偵《てい》さんよ」
「ワァ」
「竜介が、自分のことも|紹介《しょうかい》しろって」
と、並子が笑って、「はい、今日は、しなさい」
「|可愛《かわい》い」
と、ユリ子が笑った。
「何かあったの?」
と、並子は|訊《き》いた。
「え?」
「中学校と反対の方向から、ひどく深刻な顔して歩いて来たから。──|悩《なや》みごと?」
仲田ユリ子は、じっとうつむいて立っていたが、やがて思い切ったように顔を上げると、
「私、今、とんでもないところ、見ちゃったんです」
と、言った。「どうしていいのか……」
「話してみてもいいわよ。無理に、とはいわないけど」
と、並子は言った。
「ええ……」
ユリ子は、「|座《すわ》っていいですか」
と、訊いた。
2
ユリ子は、|上機嫌《じょうきげん》だった。
学校が急に半ドンになるなんてこと、めったにあるもんじゃない。
団地内の中学校なので、生徒たちも、近所に|沢《たく》|山《さん》住んでいる。
「──じゃ、後でね」
この|突《とつ》|然《ぜん》の「|暇《ひま》な時間」をむだにする手はない。後で仲のいい同士、連れだって、駅前の大きなスーパーへ遊びに出よう、と話がまとまったのである。
勉強のこととなるともめるのに、こういう話はすぐにまとまる。
一番近くの棟にいる友だちと別れ、ユリ子は歩いて行った。──自分の住んでいる棟まで、ゆるい上り坂になっている。
あ、|八百屋《やおや》さんのトラック。
ユリ子も、父がこの八百屋さんと|喧《けん》|嘩《か》になったってことは聞いている。──昼間家にいるわけではないので、ユリ子がこの八百屋さんのトラックが来ているのを見ることはめったにない。
今は、トラックを坂の|途中《とちゅう》、ちょっと棟の方から見えない|辺《あた》りに|停《と》めて、食事にでも行っているのか、運転席には|誰《だれ》もいなかった。
父が八百屋さんを|殴《なぐ》ったのは確かに悪い。母が謝って、何とか治まったらしいけど。
でも──ユリ子も父が至っておとなしく、|滅《めっ》|多《た》に喧嘩なんかしない人だということを知っていた。ユリ子も生まれてこの方、一度も殴られたことがない。
その父が殴ったというんだから、よほどのことだったに|違《ちが》いない。──もう確か半月くらいも前のことだが、それ以来、父と母の間が少しギクシャクしているのに、ユリ子も気付いていた。
早く元の通りになってほしい。──子供にとって、両親がうまく行っていないということは、大きなことなのだ。
──四階に上って、ユリ子は家の|玄《げん》|関《かん》へやって来た。
お母さん、どこかへ出かけるとか言ってたっけ。
自分の|鍵《かぎ》で、家へ入ると、ユリ子は、玄関に母のサンダルと並んで男の|靴《くつ》が──それも|革《かわ》|靴《ぐつ》じゃなく、大分|汚《よご》れたスニーカーが置いてあるのを見て、|当《とう》|惑《わく》した。
|誰《だれ》か来てるのかしら?
居間を|覗《のぞ》いて、誰もいないので、
「お母さん。──いるの?」
と、言いながら、|奥《おく》へ入って行った。
|寝《しん》|室《しつ》のドアが閉まっている。|寝《ね》ているのかしら? 具合が悪いのかな。
「お母さん……」
ドアを開けて、ユリ子は|凍《こお》りついたように立ちすくんだ。
ベッドに──母と、見たことのない男が寝ている。毛布をかけてはいるが、裸の|肩《かた》が出ていて……。
「──ユリ子」
母が気付いて、体を起こした。「どうしたの、あなた──」
「や、こりゃ……」
と、男の方が目をパチクリさせる。
やっと、ユリ子にも分った。この人──八百屋さんだ。
ユリ子は、|膝《ひざ》が|震《ふる》えて来た。こんなことって……こんなことって……。
ユリ子は、玄関へと|駆《か》けて行った。
夢中で、靴をひっかけ、|廊《ろう》|下《か》へ飛び出る。
母が呼ぶ声が、聞こえたような気がしたが──どうせ、止る気はなかった。
少しでも早く、あの二人[#「あの二人」に傍点]から遠ざかりたかったのである。
階段を駆け下りて、棟から外へ出たユリ子は、やっと、|鞄《かばん》を持ったままだということに気付いたのだった……。
竜介が、ソフトクリームを食べ終って、並子は持っていたタオルで、ベタベタの口のまわりを|拭《ふ》いてやった。
「──それはショックだったわね」
と、政子が言った。
「でも──お話ししたら、大分落ちつきました」
と、ユリ子は言った。
「私は|探《たん》|偵《てい》業だけど、そういう問題には助言してあげられないわね」
と、並子が言った。「でも、あなたとしては、お母さんと喧嘩したければ、するといいわ。|妙《みょう》に|大人《おとな》のことだからって、気をつかっちゃだめよ」
「はい」
と、ユリ子は肯いた。「お母さん、|脅迫《きょうはく》してやろうかな」
「お父さんは知らないでしょうね」
「たぶん……。お父さん、おとなしい人だから、もし分っても、きっと、そんな|大《おお》|騒《さわ》ぎにはならないと思うけど」
と、ユリ子は言った。
「──その八百屋さんとお父さんのことは、聞いたことあるわ」
と、並子は、竜介を膝にのっけて、「ちょっと! ママのシャツで口ふかないで!」
「お父さんって、本当に趣味のない人なんです。マージャンもやらないし、お酒も飲まないし。ただ、音楽を聞くのだけが好き、っていう人で」
「その八百屋さんの演歌に頭に来るのは分るわ」
と、並子は笑って言った。「確かに少し多すぎるわよね、あの手の|販《はん》|売《ばい》|車《しゃ》が」
「最近はヘッドホンの少し高いのを買って来て、夜中に聞いてるみたいです。でも、物足りないってブツブツ言ってますけど」
「日本なんて、いくら金持ちっていばっても、好きな音楽一つ、満足に聞けないんだから」
と、並子は首を|振《ふ》って、「──その、お父さんが|殴《なぐ》った一件で、八百屋さんとお母さんが知り合ったのね」
「きっとそうだと思います。でも──不潔だわ!」
と、ユリ子は顔をしかめて言った。
「たまたま帰って来たのがお父さんじゃなくて良かったわね」
と、政子は言った……。
──ユリ子は、もうしばらく時間を|潰《つぶ》してから、帰って行った。
「──困った話ね」
と、家へ|戻《もど》りながら、並子が言った。
「中学生なんて、ああいうことに一番|敏《びん》|感《かん》な年ごろでしょ」
「そうね。でも、ご主人の方も……」
「ご主人がどうしたの?」
「たぶん、気が付くんじゃないかしら。娘さんの様子がおかしい、ってことはすぐに分るだろうし」
よいしょ、と竜介を|抱《だ》っこし直して、並子はエレベーターに乗った。
「──でも、今のところ、私たちの仕事とは関係なさそうね」
と、政子が言うと、並子はちょっと考えてから、
「まあ……。そのままですめばいいわね。私たちの出番が来ないことを|祈《いの》ってるわ」
と言って、そこに付け加えた。「警察の出番もね」
仲田由夫は、駅を出て、バス乗り場の方へ歩きかけて、ためらった。
今日はもう──。そうだ。帰らなくては。
もちろん、まだそう|遅《おそ》い時間じゃないが、寄ってしまえば、三十分やそこらですまないことは分っている。
しかし……。
バス乗り場へ向う足どりは、少しずつ|鈍《にぶ》くなった。そして、その手前で、パッと横断歩道を渡ると、全然別の方向へと歩き出したのである。
──今日だけだ。
今日一日で、これっきりにしよう。今日は特別に|疲《つか》れたし、|疲《ひ》|労《ろう》をいやす必要がある。
自分に対して、どうしてこんな言いわけをする必要があるんだ? |俺《おれ》は何も悪いことなんかしてない。そうだとも……。
仲田は、駅から五分ほど歩いて、堂々たる構えの、|屋《や》|敷《しき》の前までやって来た。
真新しい建物で、いささか悪趣味とも見えかねないが、立派なことは|間《ま》|違《ちが》いない。
仲田は、門柱にとりつけられたインタホンのボタンを|押《お》した。──そうだ。今日は|留《る》|守《す》かもしれないな。
きっと、どこかへ出かけていて……。こんな家の「|奥《おく》|様《さま》」ともなると、色々用事があるんだろうし。
「──はい」
びっくりするほど、すぐに返事があった。仲田がためらっていると、
「仲田さんですね」
と、その声は|訊《き》いた。
「そうです……」
「どうぞ、お入りになって」
ブーン、というモーターの音がして、|鉄《てっ》|柵《さく》の門が開いた。仲田は足を|踏《ふ》み入れて行った……。
「──何をお飲みになります?」
と、|今《こん》|野《の》|和《かず》|子《こ》は訊いた。
「いや、もう本当にお構いなく」
と、仲田は言った。「すぐ失礼するんですから」
「でもコーヒー一杯、お飲みになるぐらいの時間はあるでしょう?」
と、今野和子は、ちょっと笑いながら、言った。
「ええ、まあ……」
「じゃ、紅茶? コーヒー?」
「では、コーヒーを……」
いただきます、という言葉は口の中で消えてしまった。
全く! 初めから、素直に言えばいいんだ。どうせ一時間やそこいらは|居《い》|座《すわ》ることになるんだから。
用意してあったのか、すぐにコーヒーが出て来た。
「あちらでお飲みになる?」
と、彼女が訊いた。
「ええ!」
正直なところ、そうしたくてたまらなかったのである。それでいて、言い出せない。
あまりに|図《ずう》|々《ずう》しいような気がしていたのである。
「どうぞ」
和子が重い|扉《とびら》を開けて、中へ入れてくれる。
その二十|畳《じょう》ほどもある広さの部屋は、|柔《やわ》らかい照明も|灯《とも》されて、仲田の来るのを、待っていたようだった。
「何度うかがっても、すばらしい」
と、仲田は言った。
「何かお持ちになりました?」
「ええ。──ブラームスの三番を」
「じゃ、どうぞかけて下さい。私にはどこをどうしていいのか、分りません」
と、和子は|微笑《ほほえ》んで言った。
「失礼して……」
会社へ持って行っている|鞄《かばん》から、仲田はCDを一枚、取り出した。ブラームスの第三|交響曲《こうきょうきょく》である。
アンプのスイッチを入れ、CDプレーヤーのスイッチを〈ON〉にする。このプレーヤーだけで、仲田の月給の三倍近くもする。
CDをトレイにのせ、プレイボタンを押すと、CDはスッとプレーヤーの中へ|呑《の》み込まれて行った……。
ソファに|戻《もど》ると、すぐに正面の|壁《かべ》をふさぐほどの|巨《きょ》|大《だい》なスピーカーから、力強い音がほとばしり出て、仲田の体を|揺《ゆ》さぶった。
ため息をつく。──これこそ音楽だ!
この部屋は完全防音されていて、どんなにボリュームを上げても音は外に|洩《も》れない。そして外の音も、ここには|侵入《しんにゅう》して来ないのである。
「──コーヒーを」
と、和子が言った。「冷めますわ」
「ああ、どうも」
うっとりと聞き|惚《ほ》れていて、コーヒーのことなど、忘れてしまっていたのだ。
夢のような時間だった。──永久に続いてほしい、と思った。
仲田が今野和子と会ったのは、駅を出たところで、和子が足首をひねり、痛くて歩けなくなっていた時のことである。
仲田が声をかけ、家がすぐ近くだというので、結局彼女をおぶって運んで来た。──こんな大|邸《てい》|宅《たく》とは思っていなかったので、|唖《あ》|然《ぜん》としてしまったのだが。
上って、少し座っていると、痛みのおさまった和子が出て来て、礼を言った。
お|菓《か》|子《し》とお茶をもらって、話している内に、和子は今二十九歳だが、夫はもう五十代の半ばで、ずっとアメリカへ行っている、と分った。
この|屋《や》|敷《しき》に、和子は一人で住んでいたのである。
四十一歳の仲田から見ればずっと若い和子とは、話しやすかった。クラシック音楽が好きで、しかし家では、なかなか思うように聞けない、と話すと、
「主人もそういうことが好きで専用の部屋があるんです」
と、和子が言い出し、ここへ案内してくれたのである。
仲田にとっては夢のような部屋だった。オーディオの装置も、名前しか知らない高級品ばかりだ。
「どうぞ、かけてみて下さい」
と言われて、仲田は|誘《ゆう》|惑《わく》に|抗《こう》し切れなかった。
ここの主人はジャズが好みのようだったが、ヴィヴァルディの「四季」があったので、かけてみた。──その生々しい音は、正にカルチャーショックとでも呼びたいものだった。
「いつでもどうぞ。使わないと、|却《かえ》って良くないと主人が言っていました」
和子はそう言ってくれた。
そして……もうここへ足を運ぶのも、五度目である。
しかし、仲田は決して和子と、何か特別な仲になっていたのではない。
和子は、美人と言えたが、どこか活気がなく、|魅力的《みりょくてき》とは言えなかった。
|礼《れい》|儀《ぎ》正しく、ここのオーディオルームを借りて、一曲聞くと辞去する。──仲田は、一曲以上は聞かなかった。
それが礼儀だと思っていたのである。
「──あ、この曲」
と、急に、和子が言った。「知ってる! 聞いたことあるわ!」
和子のはしゃいだ声を、初めて聞いて、仲田は、ふと微笑んだ。
「映画で使われたことがあるんですよ。『さよならをもう一度』という」
「ああ、そうでしたね。──見たわ、あの映画、|怖《こわ》かった」
「怖い?」
「ええ。だって老いた女のことを、|凄《すご》くあからさまに|描《えが》いてたでしょ。私、自分もいつかああいう気持になるのかと思って、胸がキュッと……」
和子は、ハッとしたように、「ごめんなさい。お聞きになっているのに、|邪《じゃ》|魔《ま》しちゃって」
と、言った。
「いや、構いませんよ。コンサートじゃないんです。黙ってなくたって」
「そうですか……。一人で、|寂《さび》しいものですから」
と、和子は言って、仲田を見た。
ブラームスの三番は続いていた。
3
政子は、集会所での会合を終えて、自分の住む棟へと急いでいた。
何しろ、三十分の予定だった会合が、一時間半もかかってしまったのだ。かつてOLをしていて、なかなか有能だった政子としては、のろのろとした会の進行の手ぎわの悪さには、|苛《いら》|々《いら》して、気が|狂《くる》うかと思った。
しかし、|妙《みょう》な発言でもすれば、
「じゃ、木村さん、役員やってよ」
と、言われかねない。
じっと|堪《た》えるしかないのである。
ともかく、すっかり予定が狂ってしまって、みんな帰りは大急ぎ。のんびりおしゃべりというわけにもいかなかった。
集会の方は棟ごとなので、並子たちとは別。それに、今日は|珍《めずら》しく夫が早く帰って来て、しかも会社の客を連れて来るというので、家ですき焼きをしなくてはならないのだ。
その材料を、買いに行かなくちゃ。──全く、よりによって、こんな日に!
今日は並子と付合って、のんびり買物、とはいきそうにない。
政子は、ふと一台のトラックに目を止めた。もちろん、歩きながらだが。
あ、これは──例の「|八百屋《やおや》さん」のトラックだわ、と政子は思った。
あの仲田という一家の住んでいる棟に向って上り坂があり、トラックはその|途中《とちゅう》、ちょっとかげに|隠《かく》れるような|格《かっ》|好《こう》で|停《とま》っていた。
確か、あのユリ子の話も、こんな風じゃなかったっけ?
ユリ子が、母と、その男との「|浮《うわ》|気《き》現場」を見てから、一週間以上たつ。その後、どうなったのか、政子は全く聞いていなかった。
しかし──まさか、同じことをくり返してるわけじゃあるまい。
仲田ユリ子の母親は、政子も知っているが、あまり簡単に浮気とかしそうなタイプではない。娘にまで見られて、また同じことをくり返すとも思えないが……。
気にしながらも、政子は先を急いだ。すると──。
「キャーッ!」
と、背後で|叫《さけ》び声が上って、政子が|振《ふ》り返った。
何人かの主婦たちがワイワイやりながら、あの坂道を上って行こうとしていたのだが……。
バタバタと、その主婦たちが坂を|駆《か》け下りて来る。
「危い!」
「助けて!」
と、口々に叫びながら。
何事だろう? 政子は、|探《たん》|偵《てい》助手として、見捨ててはおけなかった。
少し駆け|戻《もど》ると、どうしてみんなが|逃《に》げて来るのか、すぐに分った。
トラックが──あの八百屋のトラックが、坂を下りて来るのだ。
人が乗っていない。きっと、ブレーキが何かの|拍子《ひょうし》に|外《はず》れてしまったんだろう。
「危い!」
と、みんなが左右へ散った。
トラックは、加速されて、どんどんスピードが上ると、下の道へ飛び出して来て、正面の標識をなぎ|倒《たお》した。そして、歩道へのり上げると、さらに|茂《しげ》みへ|突《つ》っ込み、正面の土手にぶつかったのである。
ドーン、という音がして、ガラスが|砕《くだ》けた。運転席のドアが開いて、大きくはためく。
|衝突《しょうとつ》のショックで、少しトラックは後戻りすると、どこがどうなったのか、ゆっくりと|傾《かたむ》き始めたのだ。
ああ……。|誰《だれ》もがポカンと口をあけて見ていた。
トラックの荷台が、みごとに横転し、|凄《すご》い音がした。
そしてみんな、トラックからトマトだのキュウリなど大根だのが次々に転り出て来るのを、|唖《あ》|然《ぜん》として|眺《なが》めていたのだった……。
「──ただいま」
玄関に入って、仲田は、男ものの|靴《くつ》が二足並んでいるので、誰だろうと|眉《まゆ》を寄せた。
「あなた」
居間から顔を出した弘枝は青ざめていた。
「何だ。どうかしたのか」
「刑事さんが……」
「刑事?」
居間へ入ると、小太りな男と、もう一人は対照的にやせぎすの男とがソファにかけていた。
仲田が入って行くと、
「仲田由夫さんですね」
と、立ち上って、「少しお話をうかがいたいんです」
「何ですか」
「今日、実はちょっとした事故がありましてね」
「事故?」
仲田はソファに|腰《こし》をおろした。
「ここへ野菜を売りに来るトラックをご存知ですね」
「ええ……。いやでも分りますよ」
「そのトラックが大破したんです」
「大破というと……。|壊《こわ》れたんですか」
「そうです。坂の|途中《とちゅう》に|停《と》めてあったのが、どうしてかブレーキが外れましてね」
「そりゃいいや。──いや、失礼。しかし、正直うんざりしてたんです」
「そのようですな」
と、刑事は|肯《うなず》いて、「しかし、トラックのブレーキを外して、ぶつけさせるとなると、少々やりすぎでは?」
仲田はポカンとしていたが、やがて、ちょっと笑って、
「本気で言ってるんですか? |冗談《じょうだん》じゃない! そんなことしませんよ」
「そうですか?」
「当り前です。──まあ、あのひどいテープの音楽、というか雑音を聞かされる度に、腹は立ちましたよ」
「|殴《なぐ》ったこともあるとか?」
「カッとなって……。しかし、ちゃんと謝罪しましたし、その後は文句も言っていませんよ」
「なるほど」
と言いはしたが、刑事が仲田の言葉を信じていないのは、明白だった。
「刑事さん、僕は──」
「いや仲田さん、あなたがやった、という|目《もく》|撃《げき》|者《しゃ》がいるとか、|証拠《しょうこ》がある、というわけじゃないんです」
「当り前ですよ」
「しかしですね──」
と、刑事は、ちょっと楽しげに言った。「今日、あなたは会社へ行くと言って家を出られた。ところが、会社へ電話すると、今日は休んでいるという。──どこへ行っていたんです?」
これを聞いて、仲田は|詰《つま》った。
弘枝が、じっと夫を見ている。
「──いかがです?」
と、刑事が言った。「今日一日、どこにいたんですか」
仲田は、ちょっと息をついて、
「それは言えません」
と、言った。
「どうしてです?」
「出かけていたんです」
「どちらへ?」
「個人的な用件です。お話しする必要はないと思います」
仲田は、きっぱりと言った。
刑事たちは、ちょっと目を|見《み》|交《か》わした。
「──いいでしょう」
と、一人が|肯《うなず》いて、「しかし、またやって来ますよ。よく考えておくんですね。正直に話すべきかどうか」
仲田は|黙《だま》っていた。
「では、|奥《おく》さん」
刑事たちは、弘枝の方に|会釈《えしゃく》して、帰って行った。弘枝が|玄《げん》|関《かん》で送った。
弘枝が居間へ|戻《もど》って来ると、仲田は|腕《うで》|組《ぐ》みをして、じっと前方を見つめていた。
「あなた……」
と、弘枝が言った。
「お前もそう思ってるのか」
「え?」
「|俺《おれ》がトラックを|壊《こわ》したって。そう思ってるのか」
「いいえ」
と、弘枝は首を|振《ふ》った。
「本当か?」
「もちろんよ。──あなたがそんなことをする人じゃないのは、分ってる」
仲田が、ネクタイを|外《はず》した。弘枝は、夫をじっと見つめて、
「でも……どうして言わないの? 今日、どこへ行ってたのか」
「言えないからさ」
「なぜ?」
「それが言えれば、何でも言える。しかし、トラックのことは、俺じゃない」
仲田は立ち上って、「着がえて来る」
と、居間を出て行ってしまった。
弘枝は一人残って、両手で顔を|覆《おお》うと、深々とため息をついたのだった……。
「──お客さんよ」
と、並子が言った。
「並子の、でしょ。ここは並子の家よ」
と、政子は文句を言った。
「いいから出て。竜介、もう少しで|眠《ねむ》るんだから」
「はいはい」
全く、|名《めい》|探《たん》|偵《てい》ってのは勝手なもんだわ、とブツクサ言って、インタホンに出てみる……。
「お|邪《じゃ》|魔《ま》ですか」
と、ユリ子の声がした。
「──聞いてるわ」
と、並子が肯いた。
「私、トラックの事故の現場に居合せたのよ」
と、政子は強調した。
「あれはやっぱりわざと誰かが外したらしいって……。本当でしょうか」
「警察の調べでは、そういう結論が出たようよ」
と、並子は言った。
「でも、お父さんじゃありません! 絶対にそんなこと……」
と、言いかけて、ユリ子は泣き出してしまった。
「──|大丈夫《だいじょうぶ》?」
「はい」
すぐに涙は止った。「学校でも、評判になっていて……。もう、みんな、すっかりお父さんのやったことだと思い込んでいるんです」
「なるほどね。同じ団地の子ばっかり来てる中学校っていうのも、|面《めん》|倒《どう》ね」
と、並子は言った。
「でも──それは|我《が》|慢《まん》できます。ただ、家の中でも、二人が口もきかなくて」
「お|互《たが》いに|隠《かく》してることがあるからでしょう」
と、並子は肯いて、「その誤解をとく必要があるわね」
「でもお母さんは本当に……」
「分ってるわ。でもね」
と、並子は言った。「人間、ふっと迷って|間《ま》|違《ちが》いをすることがあるのよ。分るでしょう?」
「ええ……」
ユリ子は、ためらいながら|肯《うなず》いた。「でも、やっぱりお母さん、お父さんに謝るべきだと思うんです。何もかも話して」
「その時が来たらね。きっと、そうすると思うわ」
と、並子は言った。「何とかしてあげましょうよ、私たちで」
「本当ですか」
「あなたも、元の通りの家に|戻《もど》ってほしいんでしょ?」
「そうです」
「じゃ、まずあなたが、いつもの通りにふるまっていること。たとえ、しばらくは何の|手《て》|応《ごた》えもなくてもね」
並子の言葉に、ユリ子はしっかりと肯いた……。
4
「全く、商売にならないよ」
と、ブツクサ言っているのは、あの八百屋──トラックが|壊《こわ》れて、今は小さなライトバンで、やって来ている。
「──はい、どうも」
と、おつりを渡して、「|奥《おく》さん、あんまり見かけないね」
「そう。初めてなの」
と、政子は言った。「いつもスーパーで買うから」
「スーパー? やめときなよ。あんなパックした野菜なんて。野菜はね、やっぱり土のついた、自然のやつが一番」
「これで料理してみるわ」
と、政子は言った。「うまく行ったら、また買わせてもらう」
「お待ちしてますよ!」
と、|威《い》|勢《せい》よく声をかける。
確かに、商売の上手な男に違いない。政子は、あまり必要でもない野菜をかかえて、
「並子に、経費として|払《はら》わせなきゃ」
と、|呟《つぶや》いた。
歩きかけて、少し行った時、車が一台、スッと来て|停《とま》った。
「──失礼します」
と、その車から顔を出した女性は政子に声をかけて、「あの野菜屋さんですか、この間トラックが壊れたという方……」
「ええ、そうですよ」
「どうも」
礼を言って、車をあのライトバンの所まで走らせる。──何だろう?
政子は、並子ほど頭はよくないとしても、好奇心の|旺《おう》|盛《せい》なことでは負けていない。
クルッと向きを変えて、あのライトバンの方へと戻って行ったのである。
「──ちょっと」
と、あの車の女性が降りて、|八百屋《やおや》に声をかけている。
「はい、何か?」
「このライトバンに、どれくらい積んであるの?」
「どれくらいって……」
と、八百屋の方も面食らって、「ま、大したことはないですよ。何しろトラックがね、やられちゃって」
「聞いたわ」
と、その女性は|肯《うなず》いた。
そして、言った。
「ここにあるもの、全部[#「全部」に傍点]いただくわ」
八百屋の方は、しばしアングリと口を開けていた。
「──全部、ですか?」
「そうよ」
「しかし……やっぱり、結構ありますよ」
「いいのよ。おいくら?」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
八百屋は、あわてて電卓で計算を始めたのだった……。
「──ね、面白いでしょ」
と、政子が言うと、並子は、
「ふーん」
と、肯いて、「ほら、もっとかんで! すぐのみこんじゃだめよ」
と、竜介にご飯を食べさせている。
「で、どこの誰だか、分ったの?」
「任せて」
と、政子は得意げに、メモを取り出した。「今野和子。二十九歳。駅の近くの|凄《すご》い|屋《や》|敷《しき》に住んでるの」
「へえ。──未婚?」
「人妻よ。|旦《だん》|那《な》は五十代で、ほとんど家にはいないんですって」
政子はそう言ってから、「ね、後つけるのに使ったタクシー代と、この話、近所のおばさんから聞き出すのに使ったお茶代、払ってよね」
「分ったわよ。そんなに私のこと、ケチみたいに言わなくたって……」
「だって、色々うるさいんだもん」
「で、他に何か?」
「その家には、今野和子が一人で住んでるのよ。でも、このところ、時々男が出入りしてるって」
「男が。──どんな?」
「サラリーマン風。たいてい帰りの途中に、寄って行くらしいの。年齢は四十くらいで、|真面目《まじめ》そうな感じ」
並子は、ちょっと目を見開いて、
「仲田由夫ね」
「イメージぴったり」
「すると、あの時、会社を休んで、その女性と会ってたのね」
「それそれ。私もね、そう思ったの」
「でも、奥さんにそうは言えない、か」
「お|互《たが》い様なのにね」
と、政子は言った。
「お互い、そう思ってない[#「ない」に傍点]から、始末が悪いのよ」
「これから、どうする?」
「──そうね、岡田って男のことを調べて」
「岡田?」
「岡田|俊《とし》|也《や》っていうの」
「知らないわよ、そんな名前」
「あの八百屋さんよ」
と、並子は言った。
ユリ子は、公園に入ると、ぶらぶらと並木道を歩いて行った。
団地の中は、公園がいくつもあって、散歩するのには便利だった。
でも、そろそろ暗くなりかけている。この時間は、もう公園も人気がない。
ユリ子は、|鞄《かばん》を軽く|振《ふ》りながら、歩いて行って、ベンチの一つに|腰《こし》を下ろした。
暗くなって、自動的に街灯が|点《つ》く。
ユリ子は、家へ帰るのが、|辛《つら》かった。
帰りたくないわけじゃない。ただ──父と母が、お互い、じっと|黙《だま》って口もきかずにいるのが、|堪《た》えられなかったのである。
夕食の時間まで待って、それから帰ろう、と思った。──少なくとも、食べている間は、何もしゃべらなくても、それほど不自然じゃない。
そしてすぐに自分の|部《へ》|屋《や》へ引っ込んでしまえばいい。後がどうなっても、そこまでは知らない。
|逃《に》げてるんだ。でも、仕方ないじゃないの……。
足音がして、ちょっとギクリとした。
「あれ?」
と、面食らって、「|大《おお》|町《まち》君?」
同じクラスの男の子だ。大町|純一《じゅんいち》といって体は大きいが、気のやさしい少年だ。
「何してんだ?」
と、大町純一は|訊《き》いた。
「別に」
「色んな話、聞いてるよ」
と、純一は言った。「でも、ちゃんと帰んなきゃ」
「帰るわよ」
「ここで|座《すわ》ってちゃ、帰れないぞ」
「放っといてよ!」
と、ついきつく言い返した。
「うん……」
純一は、頭をかいて、「ただ──危いと思ってさ、こんな所で。気を付けて帰れよ。じゃあ」
と、行きかける。
「ね、待って」
と、ユリ子は大町純一を呼び止めた。
「うん?」
心配してくれた純一に、ひどいことを言ってしまった。──ユリ子は後悔していたのである。
「ごめんね」
と、立ち上って、「帰るわ、これから」
「それがいいよ」
純一の|嬉《うれ》しそうな笑顔は、ユリ子の心を|和《なご》ませた。
「送ってくれる?」
と言うと、純一はびっくりした様子だったが、すぐに、
「いいよ」
と、|肯《うなず》いた。「どうせ、近くだもん」
──二人して公園を出て歩き出してから、
「でも、大町君の家、逆の方向じゃなかった?」
「同じ団地だもん」
そりゃそうだ。でも、とんでもなく広いのに。
ユリ子は笑ってしまった。
そして──ふと思い付いたことがある。
「ね、大町君」
と、ユリ子は言った。「ちょっと上って行ってよ」
「どこに?」
「家に決ってるでしょ」
純一が目をパチクリさせた……。
「──ただいま」
と、ユリ子は|玄《げん》|関《かん》で言った。「あ、お父さんも帰ってる」
ユリ子は、居間を|覗《のぞ》いた。──父と母、二人で黙って新聞を見ている。
「ね、ちょっと」
「──なあに?」
「友だちと|一《いっ》|緒《しょ》なの」
「お友だち?」
「うん。ボーイフレンド」
ボーイフレンド、と聞いて、父も母も飛び上った。
「──入って。大町純一君よ」
と、ユリ子が純一を紹介すると、
「いらっしゃい。──どうぞかけてね」
と、母があわてて台所へ。
「おい、ユリ子」
と、父が急に声をひそめて、「ちょっと来い」
「うん?」
居間を出ると、
「ボーイフレンド、って……。一体いつから付合ってるんだ?」
と、真剣に訊く。
「毎日会ってるよ」
「毎日[#「毎日」に傍点]?」
「同じクラスだもん」
「そ、そうか……」
と、仲田は息をついた。「お前は中学生だぞ。分ってるな」
「分ってるわよ。当り前でしょ」
「そりゃそうだが……」
「何を一人で|焦《あせ》ってるの?」
「焦ってなんかいない。ただ……」
「──まあ、どうも、いつもユリ子がお世話になって」
と、居間では、母が愛想良くやっている。
ユリ子は、そっと笑いをかみ殺した。
図に当った、とユリ子は思った。
大町純一は、三十分ほどの間に、ケーキ二つと、おせんべい五、六枚を食べて、帰ることになった。
「私、下まで送って来る」
と、ユリ子はサンダルをはいて、一緒に出た。「──ごめんね、びっくりしたでしょ」
「そりゃ、まあ……」
と、純一は笑って、「でも、ケーキ、|旨《うま》かった」
「助かったわ。大町君って、やさしいね」
「気が弱いんだ」
と、純一は訂正した。「じゃ、明日な」
「うん!」
棟の下で別れ、四階へと戻ると、ユリ子は玄関の|鍵《かぎ》をかけた。
「お母さん、ご飯は?」
「今すぐするわ」
と、弘枝が言った。「ね、ユリ子、今もお父さんと話してたんだけど……。あんた、まだ中学生よ、ボーイフレンドは早くない?」
「そうかなあ」
「ねえ、あなた」
「うん……。もちろん、いい子だとは思う。しかし……」
「ねえ、本当に素直ないい子なのよ」
と、ユリ子は強調した。「結婚するならああいうタイプがいい」
「ユリ子!」
「そうよ。早すぎるわ」
ユリ子は、父と母が、当面自分たちの|抱《かか》えている問題のことを忘れているのを見て、楽しかった。
大町純一に、また何かおごってやんなきゃね、とユリ子は考えていた。
「──あなた、頭がいいのね」
と、並子は言った。
「そんなこと──あるかな」
と、ユリ子が少し照れながら言った。
「今、調べていることがあるの」
と、並子は言って、政子の方へ、「何かつかめた?」
「もう少し待ってくれるとね……。何しろ主婦だから、こっちは」
「分ってます。ちゃんと料金は、おこづかいから|払《はら》います」
と、ユリ子は言った。
日曜日である。ユリ子は並子の所へ来ていた。
日曜日でも、並子の夫は出勤。政子の夫はゴルフである。
「電話だ」
と、政子が立って行く。
「──ボーイフレンドのことで、また二人で話をするようになったんです」
「きっかけを探してたのよ、お二人とも」
「そうですね」
ユリ子はそう言って、お茶を一口飲んだ。
「──並子」
と、政子が|戻《もど》って来た。「大変よ」
「どうしたの?」
「あの今野和子って人の所へ|泥《どろ》|棒《ぼう》が入ったんだって! 彼女も|殴《なぐ》られて、けが!」
並子は、さしてびっくりした様子もなかったが、
「ユリ子さん」
と、言った。「今日、お父さんは?」
「出かけましたけど……」
「そう」
「その女の人は?」
並子が、チラッとユリ子を見て、
「お父さんの付合ってる女性よ」
と、言った。
ユリ子の顔がサッとこわばった。
5
「|凄《すご》い家」
と、仲田ユリ子は、その|邸《てい》|宅《たく》を見て、|唖《あ》|然《ぜん》とした。「ここに──お父さんが?」
「ちょくちょく、訪ねて来てるの」
と、政子が肯く。「たぶん、今日も来てたんじゃないかしら」
「でも──」
「ともかく、話をうかがいたいわ」
と、並子が|遮《さえぎ》る。「先入観を持つのが一番いけないことなのよ」
インタホンのボタンを|押《お》すと、しばらく返事はなかった。
「警察へでも、呼ばれて行ってるのかしら?」
と、政子が、のび上って家の様子をうかがう。
「そうね、ゆうべ泥棒が入ったばかりじゃ、やっぱり──」
と、並子が言いかけた時、
「どなた様ですか」
と、女性の声が聞こえた。
「|奥《おく》|様《さま》ですか」
と、並子が呼びかける。
「はあ」
「お話ししたいことがありまして。お手間はとらせません」
「あの、今は──」
「ゆうべのことはうかがっています。私、仲田さんのお|嬢《じょう》さんと|一《いっ》|緒《しょ》なんです。ぜひ、あなたとお話ししたいということなので。もし、ご無理でなければ……」
少し間があった。
「──どうぞ」
モーターの音と共に、門が開いた。
三人は──いや正確には四人[#「四人」に傍点]だった──門の中へと入って行った……。
「──すみません、子連れで」
並子は、|眠《ねむ》り込んだ竜介を、貸してもらった毛布を|敷《し》いて、その上に|寝《ね》かせた。
「|可愛《かわい》い」
と、今野和子は|微笑《ほほえ》んだ。「私、一人っ子だったので、とても|寂《さび》しくて……。ユリ子さんでしたっけ。あなたも一人っ子ね」
ユリ子は少し固い表情を|崩《くず》さない。
「おけがの方は?」
と、並子は|訊《き》いた。
「大したことないんですよ。大げさですけどね」
と、頭に巻いた包帯に、そっと手をやった。
「|怖《こわ》いですね、本当に。犯人は──」
「暗かったので、何も見えなくて……。でも、私が夜中に起き出すとは思わなかったんじゃないでしょうか。びっくりして、何も|盗《と》らずに|逃《に》げました」
「そうですか。でも大したことがなくて良かったわ」
並子は、ちょっとユリ子の方へ目をやってから、「仲田由夫さんをご存知ですか」
と、今野和子へ訊いた。
「はい。──時々、うちへみえます」
「実は──」
と、並子が、仲田と八百屋の岡田という男が|喧《けん》|嘩《か》したこと、それをきっかけに、夫婦の間が、うまく行っていないことを説明した。
「ユリ子さんは、心を痛めているんです。仲田さんは、ここへうかがっていることを、奥さんに|隠《かく》しています。このままだと、ご夫婦の間は長くもたないでしょう」
並子ははっきりと言った。
「どうでしょう? 仲田さんと、あなたとの間に、何かあるのかどうか、|率直《そっちょく》におっしゃっていただけませんか」
和子は、心もち青ざめていたが、泥棒に入られたショックのせいか、それとも、話していいものかどうかと迷っているからか、見た目には判断できなかった。
「仲田さんには、|偶《ぐう》|然《ぜん》のことでお世話になったんです」
と、和子は言った。
足首を痛めて、仲田におぶわれて帰ったことがきっかけになった、と説明して、
「そんなことで、たまたま主人のオーディオ|装《そう》|置《ち》で、好きな曲を聞いていただくようになったんです」
「音楽を聞きに来てたんですか?」
と、ユリ子は面食らっていた。
「ええ。──ユリ子さんでしたね。私とあなたのお父様との間には、やましいことはありません。|誓《ちか》って申し上げますわ」
ユリ子は、しっかりと相手を見つめて、肯いた。
「分りました」
「ただ……奥様に話しにくいのも、分ります。何といっても、|大人《おとな》同士ですし、二人きりでいるわけですから……。私が|軽《けい》|率《そつ》だったんです」
「ちゃんと、そう話せば良かったのに」
と、政子が言うと、
「なまじ、こじれてる時だから、言い出せないのよ」
と、並子が言った。「今日は、仲田さん、来られませんでした?」
「ええ、今日は。──お休みの日には、ご家族のことが第一だ、といつもおっしゃってました」
「一つ、お願いなんですけど」
と、ユリ子が言った。「そのオーディオのある|部《へ》|屋《や》を見せていただけますか?」
「どうぞ」
と、和子は立ち上った。
その部屋へ入って、並子もさすがに目をみはった。
「これは|凄《すご》いわね」
と、政子も、目をパチクリさせるばかり。
「──主人がさっぱり使いませんし、私も使い方が分らなくて……。ですから、仲田さんが使って下さって良かったと思っています」
ユリ子は、自分の背より大きいスピーカーの前に行って、ポカンと|眺《なが》めていたが、
「うちのお父さんだったら、ここに|布《ふ》|団《とん》|敷《し》いて|寝《ね》るわ、きっと」
と、言った。
「仲田さんの気持はよく分るわね」
と、並子は|肯《うなず》いて、「でも、今はとても|微妙《びみょう》な時期なんです」
「分ります。──私から、それとなく申し上げた方がいいんでしょうか」
「そうですね。その方が、たぶん──」
と、並子が言いかけた時、
「おい、何してるんだ?」
と、|突《とつ》|然《ぜん》、男の声がして、みんなびっくりして|振《ふ》り向いた。
髪の大分白くなった、小太りな男が、上等なツイードを着て立っている。
「あなた!」
と、和子が、びっくりした様子で、「いつ──帰って来たの?」
「今さ」
と、今野は言った。「|途中《とちゅう》で電話しようと思ったが、|面《めん》|倒《どう》でな。──しかし、何ごとだ?」
「あの……主人です」
と、和子があわてて|紹介《しょうかい》する。
「どうも……」
と、今野は|曖《あい》|昧《まい》な|会釈《えしゃく》をして、「赤ん坊がソファで寝てるが……」
「うちの竜介です」
並子は微笑んで、「すばらしいお部屋を、見せていただいてましたの」
と、言った。
「はあ……」
今野はさっぱりわけが分らない、という様子。それも当然だろうが……。
「──びっくりした」
と、政子は門を出て、言った。
「いきなりアメリカから帰って来るってのも|凄《すご》いなあ」
と、ユリ子は感心している。「うちのお父さんじゃ、せいぜい名古屋だ」
「そうね……」
並子は、何やら考え込んでいた。
竜介の乗ったベビーカーを|押《お》しているのは、政子の方である。
「どうしたの?」
と、政子が訊く。「また|名《めい》|探《たん》|偵《てい》は|上《うわ》の空ってわけね」
ユリ子はちょっと笑って、
「でも、おかげさまで、ホッとしました。お父さん、|浮《うわ》|気《き》なんかする人じゃないと──」
ユリ子は足を止めて、「お父さんだ」
と、言った。
「ユリ子! お前、何してるんだ?」
仲田が、ケーキらしい箱を手に、やって来るところだったのである。
「今、今野和子さんとお会いして来たんです」
並子の言葉に、仲田は顔を赤らめた。
「私とあの人は、何も[#「何も」に傍点]ありませんよ」
「分ってます。でも今はともかく行かない方が……。ご主人が帰ってらしたんです」
「彼女のご主人?──そうですか」
仲田は、ちょっと|拍子抜《ひょうしぬ》けしたようで、「このケーキ、家で食べるか」
「いいよ。でも、お母さんの好きなのと|違《ちが》ってたら、まずいと思う」
「そうか……」
「じゃ、私の所で、食べましょう」
と、並子が提案した。
政子は、名探偵も、たまにゃいいこと言うわ、と思ったのだった。
──|偶《ぐう》|然《ぜん》のこととはいえ、〈ケーキを食べる会〉が開かれることになって、家に着くまでには目を|覚《さ》ましていた竜介も、大いに喜んで、ショートケーキの生クリームをスプーン代りの指で、すくってはなめていた。
「ちゃんと歯をみがかなきゃね」
と、並子は顔をしかめる。
「小さいころからの虫歯は、|可哀《かわい》そうですからね」
と、仲田は肯く。「この子も、家内が毎晩三十分くらいかけてみがいてやってましたけど、初めの内はいやがってギャーギャー泣きましてね。|諦《あきら》めておとなしくなるまでに、ずいぶんかかりました」
「お父さん、そんな昔のこと、やめてよ、人に言うの」
と、ユリ子が真赤になる。
「いいじゃないか。誰だって小さいころはあるんだから」
「ともかく、今はやめて!」
と、ユリ子はむくれて、「お母さんに言いつけるからね!」
「おい、親を|脅迫《きょうはく》する|奴《やつ》があるか」
と、仲田は苦笑した。「──しかし、今野さんが|泥《どろ》|棒《ぼう》に|殴《なぐ》られたとは知りませんでしたよ。お|見《み》|舞《まい》に行きたいが、今は……」
「ご主人がいらっしゃるから、おやめになった方が」
と、並子は言った。「政子、コーヒーのおかわりを」
「はいはい。──いつも、お手伝いさん代りなんですよ」
「何、文句言ってんのよ」
見ていて、ユリ子が笑い出した。
「──でも、良かったわ。もう、二度と笑うことなんかないんじゃないかと思ってたから」
と、ユリ子は言った。
「心配させて悪かった。しかし……問題はまだ解決されてないわけだしな。あの八百屋のトラックを、誰が暴走させたのか……」
「そうですね」
と、並子も肯いて、「あの犯人を見付けないと。──|証拠《しょうこ》はなくても、あなたがやったという|噂《うわさ》が広まったら、周囲の人は犯人|扱《あつか》いしてしまいますわ」
「人間なんて、弱いもんですねえ。人の話をうのみ[#「うのみ」に傍点]にして、他人を判断する。やっちゃいけない、と子供には注意していることを、自分でやって、気付かない。我が身を|振《ふ》り返ることは大切ですね」
しみじみと、仲田は言った。
並子は、仲田という男を見直した。──人間、この|年齢《とし》になると、たいていは、
「世の中、きれいごとじゃ通らないんだ」
と、妙な「現実主義」に|陥《おちい》りがちである。
そういう場合、「きれいごとで通さない方が楽」だから、そう言っていることがほとんどなのである。
今の仲田のような、自省の言葉を、四十過ぎの人から聞くことは、まずない。
「しかし、|至《し》|福《ふく》の時でしたね、正に」
と、仲田は首を|振《ふ》って、「あの完全防音された部屋で、体が|揺《ゆ》さぶられるような音圧で、|交響曲《こうきょうきょく》を聞く。──一生の思い出だ」
「お父さんって幸せね」
「何だ、皮肉か?」
「素直に|誉《ほ》めてんの」
「じゃ、素直に聞いとこう」
と、仲田は笑った。「いや……。正直なところ、家内とぎくしゃくし出してから、あの今野和子という女性と──その──|浮《うわ》|気《き》してみたい、と思わなかったわけじゃありません。でも、あの|部《へ》|屋《や》で、ベートーヴェンやブラームス、ブルックナーなんかに全身で|浸《ひた》っていると……。とても、そんな気になれなくなるんです」
「分ります」
「彼女も……|寂《さび》しかったんです。ご主人はほとんど家にいないし、子供もなく、一人住いで……。ご主人も、これからは少し用心して、何か手を打つようにするでしょう」
「うちにも、竜介に聞かせようと思って、バッハとかモーツアルトのCDがあるんですけど」
と、並子は言った。「聞いて喜ぶのは、TVのアニメの歌ばっかり」
「ワァ」
と、竜介が両手を上げた。
口のまわりは、生クリームが白いおひげ[#「おひげ」に傍点]のようにべっとりとくっついていた……。
──仲田由夫とユリ子が帰って行くと、
「まあ、何とか丸くおさまりそうじゃないの?」
と、政子がコーヒーカップを片付けながら言った。
「そうだといいけど」
並子の言い方は、必ずしも楽観的とは聞こえなかった。
「何かあるの?」
「あの岡田俊也って八百屋さんと、仲田さんの|奥《おく》さんとのあやまち[#「あやまち」に傍点]。それを仲田さんは知らないわけだし」
「そりゃそうね。でも、なまじむし返さない方がいいんじゃない?」
「むし返せって言ってるんじゃないの。これからどうなるかってこと」
「まさか──あの二人が、まだ続いてる、っていうの?」
並子は、それには答えず、
「もう一つ心配なのは、あの今野和子って奥さんのことよ。どうして岡田俊也の野菜を全部買い込んだりしたのか……」
「あ、そうか。訊かなかったわね」
「訊く前にご主人が|戻《もど》って来ちゃったからね」
と、並子は肯いて、「それに|泥《どろ》|棒《ぼう》に|殴《なぐ》られたっていうのも、気になるわ。本当[#「本当」に傍点]に泥棒だった、って|証拠《しょうこ》はないわけでしょ」
「それじゃ──誰かが|狙《ねら》った、っていうの? あの奥さんを?」
「様子を見るしかないわね」
と、並子は言った。「ね、そのお|皿《さら》、気を付けて。|滑《すべ》りやすいの」
言うのと、政子の手からその皿が落ちるのと同時だった。
「あーっ!」
と、二人は|叫《さけ》んで……。
皿は、割れなかった。
「良かった!」
二人して胸をなで下ろしているのを、びっくり顔で、竜介が|眺《なが》めていた……。
6
その曲[#「その曲」に傍点]が聞こえて来た時、仲田弘枝は、|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》を、洗濯機から|乾《かん》|燥《そう》|機《き》へ移しているところだった。
ハッとして、洗濯物をとり落とした。──せっかく洗ったのに、|汚《よご》れてしまう!
あわてて拾い上げると、家の中のことだ、別に汚れた様子もない。
乾燥機のスイッチを入れ、居間の方へ戻って行く。
あの[#「あの」に傍点]テーマソング。あの八百屋の車が来ている。
外を|覗《のぞ》いてみようという気にはなれなかった。ソファに|腰《こし》をおろすと、両手で耳をふさいでみる。
でも、前より一段と音量が大きくなったようなそのテーマソングは、しっかりと|押《おさ》えた手のかすかな|隙《すき》|間《ま》から、|忍《しの》び込んで来る。
どうして──どうしてあんなことになってしまったのだろう?
岡田を一度、ここへ上げてしまったのが|間《ま》|違《ちが》いだったのだ。夫が|殴《なぐ》ったのを、|詫《わ》びるつもりで、ただそれだけのつもりで……。
それがあんなことになるとは。──しかも、たった一度の、その現場を、ユリ子に見られてしまった。
ユリ子が、どんなに傷ついただろうか、と思うと、今でも胸をかきむしられるようだ。
もちろん、岡田とはそれきりで、一回も、言葉さえ|交《か》わしていない。
でも、ユリ子の目にやきついたあの光景[#「光景」に傍点]は、二度と消えないだろう。
──あのトラックの件で、刑事がやって来てから、もう二週間が過ぎた。
あれきり、事態は進展していないようで、次第にあの事件も忘れられつつある。弘枝はホッとしていた。
でも、あれから、岡田はこの棟の前には来ていなかったのだ。それが──また、来るようになったのだろうか。弘枝は、気が重かった……。
弘枝は、もちろん夫のように「いい音」を聞き分ける耳を持っているわけではないけれども、今聞こえている音楽は、前の時よりかいくぶん「いい音」に聞こえる。
弘枝はベランダに出てみた。見下ろすと──トラック[#「トラック」に傍点]が、|停《とま》っていて、岡田が大勢の奥さんたちを相手に、いつもながら、調子よくしゃべりまくっている。
新しいトラックだ! 以前の物に比べても少し大きいし、モダンな作りになっている。
買いかえたのだろうか? でも、とても高いものなのだろうに……。
岡田が、不意に弘枝の方を見上げた。弘枝と目が合う。
弘枝はハッとした。岡田は笑顔で、ちょっと|会釈《えしゃく》する。弘枝は急いでベランダから引っ込んだ。
心臓が|激《はげ》しく打っている。──他の奥さんたちは気が付いただろうか?
もし見られて、何か|妙《みょう》な|噂《うわさ》でも広まったら……。
じっと、弘枝はソファに|座《すわ》っていた。あのテーマソングが聞こえなくなるまで、座っていようと思ったのである。
しかし、なかなか音楽は遠ざかって行こうとはしなかった……。
「──あれ? また来てる」
と、ユリ子は言った。
「何だい?」
と、訊いたのは、自転車を|押《お》しながら|一《いっ》|緒《しょ》に歩いて来た大町純一である。
「あのトラック。例の、お父さんが殴っちゃった八百屋さん」
「ああ、そうか。──新しいトラックだな」
「ね、でも……」
ユリ子は、足を止めると、|離《はな》れた所から、そのトラックを眺めていた。結構はやっているようだ。
「一度、確か、ぶっこわれちゃったんだろ?」
「そうよ。だから小さなライトバンで来てたのに……。でも、何だか変だわ」
「何が?」
「だって、あんなトラック、|凄《すご》く高いと思わない? こんなにすぐに買えるもんかしら」
「そうだな」
純一も|肯《うなず》いた。
二人が見ていると、岡田が、
「じゃ、またうかがいます。どうもありがとうございました」
と、マイクを使って言っているのが聞こえて来た。
ユリ子は、岡田がチラッと自分たちの部屋の方へ目をやるのを、見ていた。ベランダに母の姿はない。
しかし──ユリ子は、あの時[#「あの時」に傍点]のことを思い出して、真赤になった。
「──どうかしたのか」
と、純一が|訊《き》く。
「うん……。お母さん、あの人と|寝《ね》てたの」
と、ユリ子が言うと、純一はポカンとしている。
「ごめんなさい、変なこと言って」
「いや……。お前、見たのか」
「うん。学校から早く帰ったらね」
「そりゃひどいな」
純一は、そう言っただけだったが、|怒《おこ》っているのが分った。「ひどい|奴《やつ》だ」
トラックが走り出す。──また別の場所で商売をするのだろう。
「|俺《おれ》、あいつの後、つけてみるよ」
と、純一が|突《とつ》|然《ぜん》言った。
「え?」
「向うはトラックだ。自転車でも|充分《じゅうぶん》追いかけて行けるよ」
純一は、自転車をこぎ出した。「それじゃあな!」
ユリ子は、|呆気《あつけ》にとられて見送っていたが──。
「待って!──待ってよ!」
と、駆け出して、純一の自転車に追いついた。
「何だよ?」
「私も乗せてって」
と、ユリ子は有無を言わせず、後ろに|腰《こし》をかけた。
「ええ? 重いじゃねえか」
「いいでしょ! ほら、見失っちゃうよ」
「分ったよ……」
純一は、仕方ないや、というように|肩《かた》をすくめると、自転車をこぎ出した。少し[#「少し」に傍点]重くなって、ややフラついたが、すぐに何とか安定した。
トラックの後をついて行くのは、そう難しくなかった。何といっても団地の中は車も少ないし、見失うことがない。
それに下り坂が多くて、純一にとっては楽だった。
トラックは、団地の外へ出てしまった。
「──もう|戻《もど》るのかしら」
「そうらしいな、どうする?」
「行けるとこまで行きましょ。──あの人がどこにトラックを置いてるか、知りたい」
「OK。でも近付くとばれちゃうぜ」
「そこが大町君の|腕《うで》だ」
「言うばっかりじゃ、ちっとも楽になんないよ」
「ほら、右折した!」
トラックは、団地の外、まだ山林が残っている、細い道を、すり|抜《ぬ》けるように走っていた。
おかげでスピードも出ないので、自転車でついて行くのも楽だった。
「──帰り道、分る?」
と、ユリ子は言った。
「何とかなるだろ」
トラックが、スピードを落とした。純一はブレーキをかけ、木立のかげに一旦|停《と》めて、先を見た。
「──こんな所にガレージがある」
あのトラックが、ゆっくりと向きを変えて、トラックが楽に四、五台も入るガレージの入口の前で停った。
「──貸ガレージかな」
と、純一が|覗《のぞ》いて見る。
「〈運送〉って文字が見える。その前が見えない」
「そうだな。行ってみるか?」
「あれが中へ入ってから」
と、ユリ子は言った。
ガレージの|扉《とびら》を自分で開けると、岡田がトラックを中へ入れる。エンジンの音が切れて、|辺《あた》りは急に静かになった。
少し、周囲に|黄昏《たそがれ》の色が立ちこめて、林の中はほの暗くなって来た。
「──出て来ないぜ」
と、純一が言った。
「荷物の整理でもやってるのかしら」
一向に、何の物音も聞こえない。
「暗くなると、戻るのが大変だぜ」
「じゃ、こっそり行ってみよう」
「よし」
自転車というのは、音がしないから、楽ではある。
ガレージの前まで来て、二人はその前面に書かれた、少しかすれた文字を読んだ。
「〈今野運送〉……。今野って……」
確か、父が行っていた、あのオーディオルームのあるお宅は「今野」だった。
何かこれと関係があるのだろうか?
トラックは奥の方へ入ったのか、暗くて良く見えなかった。
「引き返すか?」
「うん、待って」
〈今野運送〉の文字の下に書かれた電話番号を、ユリ子は手帳を出してメモした。
「何してるんだ?」
「このガレージの持主が|誰《だれ》なのか──」
と、ユリ子が言いかけた時だった。
|突《とつ》|然《ぜん》エンジンの音がブルル、と高鳴って、トラックがバックして来たのだ。
「危い!」
と、ユリ子が言った。
自転車の向きを変えるのが|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》だった。走り出そうとしたとたん、トラックの|後《こう》|尾《び》が、自転車の後輪をはね飛ばした。
「キャッ!」
と、ユリ子が声を上げる。
自転車は、林の間へと|突《つ》っ込んで行った。思いがけない斜面だった。
「ワッ!」
純一が、頭から転り落ち、ユリ子も|茂《しげ》みの中をグルグルと回転しながら、落ち続けた。
どうなるんだろう?──この先は?
|崖《がけ》か何かだったら──どうしよう!
止められなかった。必死で、草や小枝をつかんだが、勢いがついて、ユリ子の体は転り落ち続けた。
「アッ!」
と、声を上げたのは、急に体が宙に|浮《う》いたからで──次の瞬間、ユリ子は冷たい流れの中へ頭から突っ込んでしまっていた。
7
仲田は、残業していた。
もちろん、|忙《いそが》しいことも事実である。しかし、今日、どうしても残業しなくてはならないわけではなかった。
それでも、数人しか残っていないオフィスで仕事をしていると、確かに静かで、仕事もはかどるし、課長の目とかを気にせずにすむので、気は楽である。
しかし──仲田が残業しているのは、それだけの理由ではなかった。
弘枝には言っていなかったが、ゆうべ、家へ帰る時、郵便受を|覗《のぞ》くと、手紙らしいものが入っていた。
差出人の名もないので、ダイレクトメールかと思ったが、一応パッとその場で|封《ふう》を切ってみたのだ。
そこには──|律《りち》|儀《ぎ》な字で、妻の弘枝が、あの八百屋の岡田という男と「できている」と、書かれてあった。
仲田は、胸が悪くなった。こんな中傷、無視してやればいいのだ、と思った。
しかし……仲田は、それを捨てなかったのである。
本当だろうか? 弘枝に正面切って|訊《き》く度胸は、なかった。いや、少なくとも、ゆうべは迷っている内に、話す機会を|逃《のが》してしまったのである。
もしかしたら……。仲田は、そう思っていた。本当に[#「本当に」に傍点]、この通りだったかもしれない。
岡田を|殴《なぐ》った後、弘枝が岡田に何度も|詫《わ》びていたことは、仲田も知っている。その内に、二人がつい、そんなことになったとしても、不思議ではない。
仲田がその「|匿《とく》|名《めい》の手紙」を信じる気になったのは、やはりどことなく、弘枝の様子に、おかしなところがあると感じていたせいだろう。
これが事実なら、弘枝の様子も納得できるのである。
しかし、納得しても、忘れることができるわけではない。早く帰って、弘枝と当り前の顔で話をする自信がなかったのである。
「──仲田さん」
と、一人だけ残っていた女子社員が呼んだ。
「何だい?」
と、仲田は、手を休めた。
「お電話です。女の方から」
仲田は苦笑して、
「家からだろ」
「そうじゃないみたいですよ」
と、女子社員は冷やかすように言った。
「──はい、仲田です」
と、受話器を取って、言う。「──もしもし?」
「あの……」
おずおずとした声がした。「今野です。今野和子です」
ていねいな口調だった。
「ああ、どうも……。ひどい目にあったそうで。|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「ええ。ご心配いただいて」
「いや、お|見《み》|舞《まい》に行くのも、どうも、と思ってたんですよ」
「お仕事中、申し訳ありません。お|忙《いそが》しいんでしょう?」
「まあまあです」
「今夜、お寄りになりませんか」
仲田はちょっと|詰《つま》った。
「しかし、お宅は……」
「主人は今夜は大阪|泊《どま》りです。三日ほど帰りませんの。もし、よろしければ……」
仲田は迷った。しかし、|一《いっ》|旦《たん》思い出すと、あのオーディオルームで、音楽にすっぽりと包まれて過す時間が、また夢のように、よみがえって来る。
もちろん──今は訪ねてはいけないかもしれない。しかし、一晩ぐらいは……。
そう。今夜の気分には、|慰《なぐさ》めも必要だ。それに、今野和子と、何をするというのでもない。
ただ、音楽を聞くだけなのだから……。
「分りました」
と、仲田は言った。「それでは|伺《うかが》います」
「良かったわ。お待ちしてます」
と、和子はホッとした様子だった。
「ああ、しかし──」
そうか! 聞くにも、何かCDを持って行かなくてはならない。
この時間、どこかレコードショップは開いているだろうか?
「あの……」
と、和子が言った。「この間、おっしゃっていた、ブルックナーの九番。今日、買って来たんです」
「本当ですか」
「ええ。──これで良かったのかどうか、分りませんけど」
「いや、それはありがたい。じゃ、これからすぐに伺います」
「ええ、それじゃ、何か軽く食べるものを用意しておきます」
和子の声も、どこか|弾《はず》んで、上ずっているようだった……。
仲田は手早く机の上を片付けると、会社を出た。
そのすぐ後に、会社へ電話が入った。
「──はい。──え?」
さっきの女子社員が出て、「仲田さん、今出られたところですけど。──ええ。でも、どこかへ寄られるみたいでしたよ。──いえ、女の人から電話があって、仲田さん『これから伺います』って……」
電話を切ってから、女子社員は、
「言っちゃまずかったのかな」
と、|呟《つぶや》いて、|肩《かた》をすくめた……。
「──どうぞ」
和子は、手料理を出して、仲田を|迎《むか》えてくれた。
不思議だった。仲田はいつも、ここへ来ると、一刻も早くあの|部《へ》|屋《や》へ入って、音楽を聞きたかった。
それこそ、お茶|一《いっ》|杯《ぱい》飲むのも、もどかしいくらいだったのだ。
しかし、今日は、少し様子が|違《ちが》った。
大好きな指揮者の入れた|新《しん》|譜《ぷ》で、ブルックナーの九番の交響曲。それを、あの|装《そう》|置《ち》で聞く。
考えただけで、体の|震《ふる》えるような興奮を覚える。しかし──逆に、|焦《あせ》って聞きたいとは思わないのである。
和子の料理を、ゆっくりと味わって食べる|余《よ》|裕《ゆう》が、仲田にはあったのだ。
「いかが?」
と、和子は言った。
「結構ですね。いや、おいしい」
「お世辞じゃないんですか」
「本当ですよ! うちの|女房《にょうぼう》はもう少し|辛《から》くします。東北出身のせいでしょうかね」
「食べていただけて良かったわ」
と、和子は|微笑《ほほえ》んだ。「うちの主人は、何を食べても、何も言いません。株式新聞を広げて読みながらですもの。何を食べたかも分ってないんですわ、きっと」
「お忙しいんでしょう」
「でも帰った時ぐらいは──」
と、少しむきになりかけて、「ごめんなさい……。こんなお話をするために、来てもらったんじゃないんですものね」
「いや、構いませんよ」
と、仲田はお茶をゆっくりと飲んだ。「うちの女房が……」
「|奥《おく》|様《さま》が、どうかなさいまして?」
言ってはいけない。──赤の他人に話すことではないだろう。
「実は──どうも|浮《うわ》|気《き》しているようでね」
と、仲田は言った。
「そうですか」
何となく、二人の間の空気が重くなる。
仲田の一言が、何か[#「何か」に傍点]を変えたようだった。
「──おかわりを、いかが?」
と、和子は微笑んで言った。
「いただきます」
ホッとして、仲田は|茶《ちゃ》|碗《わん》を出した。
──食事の後、|香《かお》りの高いコーヒーが出た。
「主人が、どこだかで買って来たとか……。|自《じ》|慢《まん》だけは、うるさいんですよ」
と、和子は笑った。
「もしよろしければ……」
「あの部屋へ移りましょうか」
「ええ、ぜひ」
二人は立ち上った。
オーディオルームに入ると、仲田は、もうスイッチの入っている機器類を|眺《なが》めて、
「スイッチを入れてあったんですね」
と、言った。
「前にあなたがおっしゃったでしょ。スイッチを一時間ぐらい前に入れておくと、いい音になるって。それで……」
「あなたも、段々マニアになりそうですね」
と、仲田は笑った。
ブルックナーの九番が、スピーカーのコーン紙を|震《ふる》わせて、力強いオルガンのような|響《ひび》きが、部屋を|充《み》たした。
「すばらしい……」
と、仲田は|呟《つぶや》いた。
|並《なら》んで|座《すわ》っていた。──二人は。
和子も、初めのころのように、ただ首をかしげて聞くのではなく、じっと目をつぶって、音楽[#「音楽」に傍点]に引き込まれているようだ。
仲田は、不意に、音楽から現実に引き|戻《もど》されたような気がした。和子の手が、仲田の手に重なったのである。
和子の手は、少し冷たくて、きゃしゃで、そして|柔《やわ》らかかった……。
仲田は、手をのばし、和子を|抱《だ》き寄せて、キスしていた。和子も、されるままに、体の力を|抜《ぬ》いて、じっと目をつぶっている。
「──貴様!」
|突《とつ》|然《ぜん》、|怒《ど》|鳴《な》り声がした。
ハッと|離《はな》れる。和子が目をみはった。
「あなた!」
今野が、顔を真赤にして、二人をにらみつけていた。
「|怪《あや》しいと思って──帰ってみたら、この通りだ! 和子、お前は──」
「待って下さい」
と、仲田は立ち上った。「|奥《おく》さんのせいではありません。|僕《ぼく》が──」
音楽が|激《はげ》しく高鳴って、話をかき消した。
仲田がリモコンで、プレーヤーを止めると、急に|静寂《せいじゃく》がやって来た。
「申し訳ありません」
と、仲田は言った。
「あなた。この人のせいじゃないわ。私が──私の方が|誘《さそ》ったの」
と、和子は言った。「ね、あなた。向うで話しましょう」
「しかし──」
と、言いかける仲田を、
「いいの、あなたはここにいて」
と、和子は|押《お》し止めた。「主人と話しますから」
仲田は、ためらいながら、|腰《こし》をおろした。
今野は、相変らず真赤な顔で、
「後でゆっくり話をつけてやる!」
と、言い捨てると、和子と|一《いっ》|緒《しょ》に出て行って、|扉《とびら》が閉った。
とんでもないことになった。──仲田は、今さらのように青くなった。
|逃《に》げるつもりはない。和子にキスしたのは自分の責任だ。
しかし──弘枝やユリ子が知ったらどう思うだろうか。
もうとり返しはつかない。時間を逆に進めることはできないのだ……。
仲田は、じっと|椅《い》|子《す》に座って、待っていた。
アンプやCDプレーヤーのディスプレイの光が、目にしみるように|鮮《あざ》やかだった。
「──すみません」
ドアを開けると、立っていたのは、仲田弘枝だった。
「あ、仲田さんの奥さんですか」
と、並子は言った。
「夜分、すみません」
と、弘枝は、ひどく不安そうだった。
「構いません。お入り下さい。主人、出張で、いませんし」
「はあ……。あの──ユリ子はお|邪《じゃ》|魔《ま》していませんか」
「ユリ子さん?」
「ここのことを話していたものですから。何度かお邪魔していたとか」
「ええ。でも今夜は……。お帰りになってないんですか?」
「そうなんです。何の|連《れん》|絡《らく》もありませんし。心配で……」
並子は、ちょっと考え込んでいたが、
「ご主人は?」
と、|訊《き》いた。
「あの──帰っていないんです」
と、目を|伏《ふ》せる。「会社は出たようですけど、どこかへ寄っているようで」
並子は、
「ちょっとお待ち下さい」
と、急いで上ると、政子の所へ電話した。
「──あ、政子? 私よ」
「どうしたの?」
「|緊急《きんきゅう》事態かもしれないの。出られる?」
「そりゃまあ……。|亭《てい》|主《しゅ》はいるけど」
「悪いけど、ちょっと出て来てよ。竜介置いて行けないの。うちのが出張で」
「何よ。私、お守り?」
「しょうがないでしょう」
「ついて行く!──ちょっと待って」
政子は、少ししてから|戻《もど》って来た。「あのね、竜介君は、うちの|旦《だん》|那《な》がみてるって」
「ええ? 悪いわ、でも」
「いいの。じゃ、こっちへ連れて来て。|仕《し》|度《たく》しとくわ」
「分ったわよ」
並子は、少々|圧《あっ》|倒《とう》されて、電話を切った。
「助手も自己主張が強くなったのね」
と、|呟《つぶや》くと、急いで竜介のいる居間へと|駆《か》けて行ったのだ……。
8
「そんなことがあったんですか……」
タクシーの中で、並子の話を聞いて、弘枝は|肯《うなず》いた。
「ご主人は何も?」
「ええ……。でも、主人のことは安心していました。とても落ちついていたようでしたし……。それより自分がしたことの方が──」
「そのことは、もうお忘れになった方が」
と、並子は言った。
「ね、並子」
と、政子が言った。「いやにパトカーが追い|抜《ぬ》いていくと思わない?」
「そうね」
並子は、運転手に、「ちょっと! 急いでよ!」
と、強い口調で言った。
しかし、いずれにしても、今野|邸《てい》までは、もう大した距離ではなかったのだ。
「パトカーがあんなに」
と、政子が言った。
「何かあったんだわ」
と、並子は言った。「心配してたようなことでないといいけど……」
タクシーを降りると、三人は今野邸の門へと歩いて行った。
「ああ、ちょっと」
と、警官が三人を止める。「立ち入り禁止です」
「何があったんですか?」
と、並子が訊いた。
「あんたは何? 関係ない人はあっちへ行って」
と、にべもない。
すると、
「やぁ」
と、家の|玄《げん》|関《かん》の方から、若い背広姿の男が歩いて来た。「西沢さんじゃありませんか」
「どうも。──ちょっと中へ入れていただけます?」
「何か、この件に|係《かかわ》りが?」
「たぶん」
と、並子は肯いた。
「じゃ、どうぞ」
その刑事は、並子の顔見知りなのである。
「殺人ですか」
と、玄関へと歩きながら、並子は|訊《き》いた。
「そうなんです。ここの主人がね」
「今野さんが?」
「ご存知ですか」
「一度だけお会いしました」
並子たちは、玄関から入り、上り込んだ。
「犯人は?」
と、並子が訊く。
「これ……」
と、弘枝が、言った。「主人の|靴《くつ》だわ」
刑事が|振《ふ》り向いて、
「あなたは……」
「仲田といいます」
「じゃ、仲田由夫の|奥《おく》さん? そうですか」
「主人は──ここに?」
「ええ……。今のところは」
と、刑事は少し言いにくそうに言った。
「というと?」
「つまり──殺人犯として、連行しなきゃならないんですよ」
弘枝がよろけた。政子があわてて支える。
「しっかりして!」
「すみません……。でも、主人が……まさか……」
「自供してるんでね。お気の毒ですが」
──居間へ入って行くと、奥のソファに、仲田が、青ざめた顔で|座《すわ》っていた。
「あなた」
「──弘枝!」
と、目を見開いて、「お前……」
「どういうことなんですか、これは?」
並子が、弘枝を|押《おさ》えて、仲田の方へと歩み寄った。
仲田は、今野和子の電話で、ここへ来たこと、そして音楽を聞いている内に、|衝動《しょうどう》的にキスしてしまったことを話した。そこへ、今野が現われた……。
「──オーディオルームで待ってたんですよ。すると、彼女の悲鳴が……。びっくりして飛び出したんです。──今野が、あのソファの所で、彼女の首をしめようとしていました。何とかしなくちゃ、と……」
仲田は、首を|振《ふ》って、「|夢中《むちゅう》でした。とてもじゃないが、引き|離《はな》そうとしても、むだだったでしょう。目についた、そこにあった青銅の像を取り上げて──」
「|殴《なぐ》ったんですね」
「そう……。死ぬとは思わなかった。そんなことまで、考えていなかったんです」
並子は肯いた。あの若い刑事の方へと向くと、
「奥さんは?」
と、訊いた。
「奥で横になってますよ。ショック状態でね」
「話は聞けたんですか」
「ええ。今の話と一致しています」
「そうですか」
並子は肯いた。
「──弘枝、すまん」
と、仲田がうなだれた。「|俺《おれ》が──つい、ここへ来たばっかりに……」
「あなた」
弘枝は、夫のわきに座ると、「それに……ユリ子が帰らないの」
仲田は、顔を上げた。
「何だって?」
「まだ帰って来ないの。心配で、私──」
「しかし……どうして?」
「分らないわよ。それで心配で探していたら、あなたが……」
弘枝は混乱したのか、泣き出してしまった。
「──娘さんのことは、警察で|捜《さが》してもらいましょう」
と、並子が言った。「しっかりした娘さんですもの。|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
「家出ですか」
と、刑事が言った。
「そうじゃないと思いますわ」
並子の口調は、いやにきっぱりしていた。「これが、見かけ通りの事件でないように、ね」
「どういう意味です?」
「|恐《おそ》れ入りますけど、ここの|奥《おく》さんを呼んで下さい」
「はあ……」
刑事も、並子の自信たっぷりの|口調《くちょう》に|押《お》されて、居間を出て行った。政子が、そばへ行って、
「ちょっと! 何やる気?」
と、ささやく。
「見てらっしゃい」
と、並子は言った。
刑事に付き|添《そ》われて、今野和子が入って来た。
「まあ、この間の──」
「どうも」
並子は|会釈《えしゃく》して、「大変なことになりましたね」
「ええ……。私がいけなかったんです。主人が大阪へ行くと言ったのを信じて、仲田さんをお|招《よ》びしたのが……」
「ご主人があなたを殺そうとしたんですね」
「言いわけする間もなく、ここへ|押《おさ》えつけられて……。私、|叫《さけ》び声を上げたんです。仲田さんが飛んでみえて──。私が殺されていれば良かったんです。本当に申し訳ないことになってしまって……」
と、和子がすすり泣く。
少し間があって、並子が|突《とつ》|然《ぜん》、クスッと笑った。
「奥さん。|嘘《うそ》をついてもむだですよ」
並子の言葉に、和子は目を開いた。
「嘘って──」
「ここで叫び声を上げた? あのオーディオルームにいた仲田さんが、それを聞いてかけつけた……。そんなの、筋が通りません」
「どういうことです?」
と、刑事が言った。
「やってごらんになれば分ります。あの|部《へ》|屋《や》は完全防音[#「完全防音」に傍点]してあるんです。中の音も外へ|洩《も》れない代り、外の音も聞こえて来ません。女性の悲鳴が、あの分厚い|扉《とびら》を通して聞こえっこありません」
「何ですって?」
刑事が|唖《あ》|然《ぜん》とする。
「仲田さんは、ずっとオーディオルームで待っていたんです。そこへ奥さんが|戻《もど》って来る。──夫を殺してしまった、と言って」
和子が真青になっている。
「びっくりした仲田さんがここへ来てみると今野さんが、青銅の像で|殴《なぐ》られて死んでいた。奥さんは、もちろん、殺されそうになって|夢中《むちゅう》でやった、と言ったでしょう。それを聞いて、仲田さんは、こんなことになったのは自分のせいだと思った。そこで、この罪を自分が引き受けると申し出た。|違《ちが》いますか、仲田さん?」
仲田は目を|伏《ふ》せた。
「仲田さんは、時代|遅《おく》れなくらい、|真面目《まじめ》で責任感の強い人です。自分が罪をかぶることで、奥さんを裏切ろうとしていたことを|償《つぐな》おうとしたんでしょう。でも、仲田さん」
並子は首を|振《ふ》って、「あなたの|騎《き》|士《し》|道《どう》精神は、|的《まと》|外《はず》れなんですよ」
「というと?」
と、仲田が顔を上げた。
「入ってらっしゃい」
と、並子が言うと──居間へ、ユリ子が入って来た。
「ユリ子!」
と、弘枝が飛び上った。「どうしたの?」
ユリ子は、ずぶ|濡《ぬ》れになっていた。後ろに大町純一が立っている。
「仲田さんの奥さんのみえる直前に、ユリ子さんから電話をもらったんです」
と、並子は言った。「あのトラック|販《はん》|売《ばい》の|八百屋《やおや》──岡田が、この二人をトラックでひき殺そうとしたんです」
「何だって?」
と、仲田が立ち上る。
「そのトラックを入れていたガレージは、〈今野運送〉のガレージ。つまり、ここのご主人の持っている会社のものでした」
「わけが分らん」
と、刑事がお手上げ、という様子。
「私、危い、と思ったんで、ユリ子さんたちに直接ここへ来てくれ、と言ったんです。──でも間に合わなかった」
と、並子は、ため息をついた。
「並子、それじゃ──」
「和子さんが、あの岡田と組んで、ご主人を計画的に殺したのよ」
「何ですって!」
仲田は|仰天《ぎょうてん》した。
「あなたは見ていなかったわけでしょ? 大阪へ行ったはずの今野さんが|戻《もど》って来たのも、ちゃんと、あなたと和子さんがここで会っている、と知らせた人間がいたんです。和子さんは、あなたをオーディオルームに残して、夫とここへ来る。──|隠《かく》れていた岡田が、今野の後頭部を殴って殺したんですよ」
和子がよろけて、ソファに|崩《くず》れるように座り込んだ。
「あなたが、岡田のライトバンの野菜を全部買うのを、この政子が見ていました。岡田のことも、仲田さんから聞いていて、あなたは使えるかもしれない、と思った」
「野菜を全部?」
と、刑事が言った。「どうしてそんなことを……」
「届けてくれる[#「届けてくれる」に傍点]でしょ、もちろん」
と、並子は言った。「それに、お金があることも分って、当然、岡田は好奇心から、和子さんに近付く。──和子さんは、夫の遺産を手に入れるために、岡田に手伝わせて、殺そうとしたんです。しかも──代りに罪を引き受けてくれる、絶好のお人好しがいたんですもの」
仲田は、立ち上ると、|震《ふる》えている和子の方へ歩いて行った。
「本当なんですか」
静かな声だった。和子がとぎれとぎれに言った。
「──いやだったんです。もう……あんな人との生活なんて……。でも、別れたって、あの人は何もくれやしない……。私のために、この広い家に、お手伝いさん一人、|雇《やと》ってくれない人なんですもの」
並子は|肯《うなず》いて、
「広すぎるとは思ったわね、一人でやっていくには」
と、言った。
「では、岡田ってのをしょっ引きましょう」
と、刑事が言った。「奥さん。ご同行願いますよ」
和子は、立ち上ろうとして、よろけた。仲田が支えてやると、
「──気の毒な人だ」
と、言った。「やり直して下さい。必ず、そうして下さい」
和子が、泣きながら、刑事に|腕《うで》をとられて出ていく。
並子は、息をつくと、
「ユリ子さん、けがはない?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。でも──冷たい」
と言って、ユリ子はクシャミをした。
「ありがとうございました」
と、ユリ子が、並子の前に|封《ふう》|筒《とう》を置いた。
「これ、料金です」
「はい、どうも」
並子が、それを受け取って、「おこづかい、大丈夫?」
と、|訊《き》いた。
「はい。父と母と私で、三分の一ずつ出しました」
「あら、仲のいいことね」
と、並子は笑った。
「──|寝《ね》たわよ、竜介君」
と、政子が出て来る。「全く、寝かしつけるのまで、私にやらせるんだから」
「あのトラックのこと、分ったんですか?」
と、ユリ子が訊く。
「ええ。刑事さんと昨日、電話で話したの。|捕《つか》まった岡田が、自供したって。トラックの暴走も自分でやったんだそうよ」
「自分で?」
「あなたのお父さんをゆするつもりだったみたい。本当は軽くどこかにぶつかって、傷つくだけのはずだったらしいの。ところが、横転までしちゃって、警察が乗り出して来たんで、|却《かえ》って困っちゃったのよ」
「どこか|抜《ぬ》けてるね」
と、政子は言った。
「あの|泥《どろ》|棒《ぼう》は……」
「あの辺によく入ってる泥棒らしいわ。あの今野和子も、泥棒に入られて、夫に誰か雇ってくれと|頼《たの》んだけど、『もったいない』と言われたらしいのね。──それまで迷っていたけど、それで決心したらしいわ」
「あんまりケチするもんじゃないですね」
と、ユリ子は言った。「お父さんにも言ってやる。──じゃ、失礼します」
「お出かけ?」
「ええ。土曜日だし、三人で映画でも見に行こうって。本当は私……」
と、ユリ子は口を|尖《とが》らして、「大町君と出かけたかったんだけど」
「親孝行ね」
「そうですね。付合ってやります[#「やります」に傍点]」
と、笑って、ユリ子は帰って行った。
「──あら、こんなに」
と、封筒の中を見て、並子は言った。「ずいぶん無理したわね」
「山分けね」
と、政子が言った。
「竜介の分と、三分の一ずつ?」
「ずるい!」
「|冗談《じょうだん》よ。──あ、いけない」
並子が顔をしかめて、「寝たばっかりなのに!」
窓の外から、アイスクリーム屋さんのテーマ曲が聞こえて来た。
そして、竜介が、
「アイス!」
と、|叫《さけ》びつつ、飛び出して来たのである。
第三話 我らが|英《えい》|雄《ゆう》の事件
1
「今、何時?」
と、電車に|揺《ゆ》られて|居《い》|眠《ねむ》りしていた西沢並子が、ふっと目を|覚《さ》まして、|隣《となり》に|座《すわ》っていた木村政子に|訊《き》いた。
「え?──何か言った?」
こちらも居眠りしていて、並子の質問を聞いていないのである。
「いいわよ。自分の時計を見る」
「何よ。|腕《うで》時計ぐらい見なさいよ、|無精《ぶしょう》ねえ!」
と、政子は言ってやった。
「政子を起こしてあげようと思ったのよ」
「口のへらない|探《たん》|偵《てい》さんね」
やり合っている様子は、まるで大学生同士という印象だが、確かにこの二人、そのころからの大親友ではあるけれども、現在はともに二十八歳。れっきとした(?)人妻なのである。
西沢並子には、二歳になる竜介という子供もいる。──それでも、二人きりになると「気分は学生時代」ということになる。
二人の主婦が、どうして夜の十一時近くに、電車に乗っているのかというと、今日が土曜日で、二人とも夫が休み。そこで、二人して久々に来日中のオペラなど、見に行った帰り道なのである。
二人の住む|郊《こう》|外《がい》の大団地までは、都心から電車で約一時間。──オペラの後で、二人して少し|洒《しゃ》|落《れ》たイタリアレストランで食事をして来たので、この時間。
決して夫を裏切るような夜遊びをして来たわけではないのである。
「──竜介君はもう寝てるかしら」
と、政子が言った。
「たぶんね。──うちの|亭《てい》|主《しゅ》も|一《いっ》|緒《しょ》に寝てんじゃない?」
と、並子は笑った。
西沢並子は、団地の自室で、「探偵業」をやっている。本格的に営業しているのでなく、|余暇《よか》を利用しての「頭の体操」みたいなものなのだ。
かつて、ドイツに留学までした秀才で、かつ美人でもある並子は、|極《きわ》めて人間観察も|鋭《するど》い。一方、木村政子の方は、おっとりとして、|呑《のん》|気《き》なタイプ。
で、ごく自然に、政子が並子の「助手」という感じで活動を続けている。いうなれば、ホームズとワトスン、というところ。
ただし、このワトスンは、必要に応じて、竜介の子守りまでやらなくてはならない。
「もうそろそろね」
と、窓の外へ目をやったが、何しろ郊外でしかも夜|遅《おそ》いので、外は真暗。
「今、どの辺?」
と、政子が言った。
「さあ……。こう暗くちゃね。駅に着きゃ分るわよ」
ガクン、ガクン、と速度が落ちて、電車が駅のホームへ|滑《すべ》り込む。人気のないホームの駅名を見て、
「こんな駅、あった?」
と、政子が言った。
二人は顔を見合せ、
「乗り過した!」
と、同時に|叫《さけ》ぶと、あわてて開いた|扉《とびら》からホームへと飛び出したのだった……。
危険は、思いもかけない所に|潜《ひそ》んでいる。
まさかこんな時に、と思った時、出くわすものなのである。
|田辺恭子《たなべきょうこ》も、それを全く分っていなかったわけではない。しかし、頭で分っているのとそれが「現実」だと知るのは、全く別なのである。
恭子は十五歳で、こんな|遅《おそ》い時間に帰ることは|珍《めずら》しかった。──学校の、クラブの用事で残っている内に、こんな時間になってしまったのだ。
この道、こんなに暗かったっけ?
駅から団地の自分の棟に|戻《もど》る近道を通りながら、恭子は|当《とう》|惑《わく》していた。──前にも、これぐらいの時間にここを通ったことはある。
でも、そのころはこんなに両側の木が|一《いっ》|杯《ぱい》に葉をつけていなかったのである。
街灯の光は、大きく張り出した木の枝に|邪《じゃ》|魔《ま》されて、ほとんど道を照らしてくれてはいなかった。
もちろん──でも、|大丈夫《だいじょうぶ》。大して歩くわけじゃないんだもの。
恭子は足を早めていた。
|突《とつ》|然《ぜん》、誰かがいる、と恭子は気付いた。気配というのか、直感というのか──。
でも、気付いた時には、太い|腕《うで》が恭子を背後から|抱《だ》きしめていたのだ。
叫ぼうとしたが、|喉《のど》がこわばって声が出ない。──やめて! やめて!
恭子は知っていた。このところ、団地と、その周辺で、変質者による暴行事件がいくつか起こっていることを。
「気を付けるのよ」
と、いつも母は言っていた。「遅くなったら、電話しなさい」
だけど、恭子の下には、まだやっと三つの弟がいて、恭子が電話をしたところで、母は|迎《むか》えになんか出られないのである。父は仕事の都合で、この二年、大阪へ行ったきり。
でも、大丈夫だわ、と恭子は自分に言い聞かせていた。私、もう子供じゃないんだし、|逃《に》げ足も速いんだから。
でも、いざ[#「いざ」に傍点]となると、相手の力は強くて、とても恭子には|振《ふ》り|離《はな》せそうになかった。
「おとなしくしろ!」
耳もとでささやく声は、|凶暴《きょうぼう》さよりは、むしろ無気味なやさしさを感じさせた。
恭子は、道の傍の|茂《しげ》みの方へと引きずって行かれた。|鞄《かばん》が落ち、|靴《くつ》の片方が|脱《ぬ》げる。
やっと、|恐怖《きょうふ》が喉もとまでこみ上げて来る。
「助けて!」
恭子は、思い切り声を上げた。「誰か来て!」
正直なところ、本当にその声を聞きつけて、誰かが来てくれるとは、期待していなかったのだ。ただ、そうやって大声を上げれば相手がひるむかと──。
「おい!」
思いもかけない方向から、声が飛んで来た。「何してる!」
|駆《か》けて来る足音。
「|畜生《ちくしょう》!」
と、恭子を|押《おさ》えつけていた男が口走ると、パッと恭子を離した。恭子はよろけて、|倒《たお》れそうになる。
タタッと駆けて行く足音。
「おい、待て!」
恭子は、後を追って行く、黒っぽい背広の後ろ姿を見た。
二人の足音は、遠ざかって行った。──恭子は、急に|膝《ひざ》の力が抜けて、その場に|座《すわ》り込んでしまった。
「──どうしたの?」
と、突然声をかけられて、恭子は、びっくりして飛び上りそうになった。
声をかけた女性二人──並子と政子である。
|居《い》|眠《ねむ》りしていて乗り過し、逆方向の電車に乗って、やっと戻って来たのだ。
「今……通り|魔《ま》が……」
と、恭子は|途《と》|切《ぎ》れ途切れの声で言った。
「まあ。大丈夫?」
「誰か通りかかった人が……。今、追いかけて行ったんですけど」
「そう。でも、良かったわね。立てる?」
と、並子は恭子を支えて立たせた。
「鞄が落ちてる」
と、政子が拾う。
「どうもすみません。──追いかけてった人、大丈夫かしら」
「無理に深追いしない方がいいわ。危険ですものね。──犯人の顔は見た?」
と、並子が|訊《き》いた。
「いえ、急に後ろから──。暗かったし」
恭子の声は|震《ふる》えていた。
すると──足音がして、黒っぽい背広の男が戻って来た。
「君、大丈夫か?」
と、息を|弾《はず》ませる。
「ええ……。ありがとうございました」
「あら、佐川さん!」
と、政子が言った。
「やあ、木村さんの|奥《おく》さんじゃないですか」
と、その男は言った。
「あのね、うちの下の二階にいらっしゃる方なの。佐川さん。──私の友だちの西沢並子です」
「ああ」
四十歳ぐらいかと思える、その少し小太りな男は、息を切らしながら、「お名前は。確か|探《たん》|偵《てい》さんをやってらっしゃるんでしょう」
「|恐《おそ》れ入ります。探偵ってほどのことじゃないんですよ」
と、並子が|珍《めずら》しく控えめ[#「控えめ」に傍点]な表現をした。「犯人を追いかけられたんですって?」
「いや、|偶《ぐう》|然《ぜん》来合せたものですからね。しかし、危いところだったね、君」
と、恭子に声をかける。
「──犯人は|逃《に》げたんですか」
と、並子は訊いた。
「いえ、その先で|捕《つか》まえましてね、一発おみまいしてやりました。のびてますよ」
「まあ、|凄《すご》い」
と、政子が言った。
「じゃ、警察へ届けないと」
「気が付いて逃げるといけない。戻ってみましょう」
佐川を先頭に、並子たちはゾロゾロと歩いて行った。
「あそこです。まだ気絶してるな」
と、佐川が言った。
歩道の端、ちょうど四角い石を並べたところに、頭をのせるように、グレーの背広の男が|仰《あお》|向《む》けに|倒《たお》れている。
並子は、その男の方へ近付いて行った。
街灯の明りを受けて、その男の青白い顔が目に入ると、
「この人──知ってるわ!」
と、並子は言った。
「ええ?」
と、政子がびっくりする。
「奥さんの素行のことで、一度相談にみえたことがあるの。でも、もちろん私の引き受ける仕事じゃないから断ったんだけど……。確か、二丁目の方に住んでる人で、名前は──|生《いく》|田《た》さんっていったと思うわ」
「この人が通り魔?」
「とても、そんな風には見えなかったけど……」
並子はかがみ込んだ。
「並子、近寄ると危いよ!」
と、政子があわてて声をかけたが……。
並子は、少しして立ち上った。
そしてごく当り前のサラリーマンという|格《かっ》|好《こう》の生田を見下ろして、
「危険はないわ、もう」
と言った。「死んでるもの、この人」
2
木村政子は、いい加減頭に来ていた。──といって、相手を殺してやろうとか、会うなりぶっとばしてやろうというほど|怒《おこ》っていたわけじゃない。
何しろ、怒っている相手は親友の並子である。
ただ、この場合、政子の方には、立派な怒る理由があった。何しろぐっすり|眠《ねむ》り込んじまった竜介を、
「ちょっと|抱《だ》っこしてくれる?」
と、|押《お》しつけたきり、並子はどこかへ行ってしまって、十五分も帰って来ないのだ。
買物の帰り道でなければ、先に家へ帰って竜介を|寝《ね》かせておくこともできるというものだが、竜介を抱っこした上に、二台のショッピングカートを見ていなくちゃいけないのだから、身動きがとれないのである。
「今夜の夕ご飯の|仕《し》|度《たく》は、あんたのママにさせてやりましょうね」
と、政子は眠っている竜介に言った。
もちろん竜介は何も言わない。──食べられさえすれば、|誰《だれ》が作ってくれたって、関係ないよ、とでもいうところか。
──ため息をつきながら、周囲を見回していた政子は、ふと、一人の女と目が合った。
向うはパッと目をそらしたが、いかにもわざとらしく、薬局のウインドなどを|覗《のぞ》き込んでいて、どう見ても、政子の方を見ていたのに|違《ちが》いない。
|年齢《とし》はたぶん三十前後──政子より少し上くらいかな、というところで、なかなかの美人である。──よく見ると、この辺で、見かけたことがあるような気もする。
この団地に住んでいるのだろう。
誰かしら?──政子は並子ほど人の顔をよく|憶《おぼ》えられるわけではないが、それでも、知り合いといえるほどの相手でないことは確かだった。
用心しましょ。今の世の中、|妙《みょう》なのが沢山いるんだから……。
──あの、田辺恭子を|襲《おそ》った通り|魔《ま》が、ここの住人だったという大きなショックが団地を|騒《さわ》がせて、三週間がたった。
犯人の生田は死んでしまったので、それまでの一連の事件が、全部生田によるものかどうか、確実なところは知れなかったが、その後の調査で、生田は妻とうまく行かずに別居しており、このところ一人住いだったこと。会社での仕事も、かなりいい加減で、上司に注意を受けて言い争いをしたり、|同僚《どうりょう》ともほとんど付合いがなかったことなどが分った。
つまり、会社はほとんど毎日五時に帰っていたが、|隣《となり》近所の話では、帰宅はいつも夜遅かったということで、一連の事件の犯人として、可能性は高い、ということなのである。
──一方、田辺恭子を助けた佐川の方の評判は大変なもので、政子の棟には、佐川に直接会おうとする記者や、近所の話を聞こうとする、レポーターなどが、ずいぶんやって来た。
佐川としても、生田を死なせてしまったわけで、一応警察でも調べられたりしたが、何といっても、|殴《なぐ》られた生田が、|倒《たお》れた|拍子《ひょうし》に石に頭をぶつけたのだから、これは単なる不運としか言いようがない。
もちろん、罪に問われることも、まずないだろうということで、今や佐川は、ちょっとしたヒーローである。
このところ、やっと、訪れる記者の姿もなくなって、話題は別の方面へと移りつつあった……。
「──ごめん!」
と、並子が|戻《もど》って来た。「|疲《つか》れた?」
「当り前でしょ」
と、政子は言ってやった。
「そうむくれないで、──はい、竜介を、こっちへもらうわ」
「重いわねえ、本当に!」
竜介を渡して、政子は、|肩《かた》をほぐした。
「オーバーね。たった五分やそこらで」
「五分?──よく見てよ。二十分もたってる!」
「あら、本当? 時間の感覚って、当てにならないものね」
と、並子は平気なもの。「さ、帰りましょうか」
歩き出して、政子は、チラッとあの薬局の方を見た。
「ね、誰かがついて来てるの」
「ん?」
「三十くらいの女。──さっきから私の方を見てたんだけど、今、同じ方へ歩き出したわ」
「へえ。──知ってる顔?」
「見たことはあるような気がするんだけど……」
と、政子が首をかしげる。「──どうする?」
「簡単よ」
と、並子は言った。「直接、当人に|訊《き》く」
そして、政子が|唖《あ》|然《ぜん》としている目の前で、並子はクルッと後ろを向くと、びっくりして足を止めている、その女性の方へと歩いて行ったのである……。
「待ってよ」
と、さなえは言った。「いい加減にしてちょうだい!」
気まずい|沈《ちん》|黙《もく》が流れた。
そもそもが、静かな|丘《おか》の上で、誰もが|黙《だま》ってしまうと、本当の|静寂《せいじゃく》がやって来るのである。
つまらないことだった。──車二台。
|哲《てつ》|男《お》と|市《いち》|郎《ろう》の二人がそれぞれ運転して来た車である。どっちもイタリア製スポーツカーというわけにはいかず、国産の、それも中古を安く|譲《ゆず》ってもらった「新車」だった。
さなえと|浩《ひろ》|子《こ》、二人の女の子は、それぞれ、さなえが哲男の車に、浩子が市郎の車に乗って、この丘の上にやって来た。
夜中の十二時。──四人とも、少々「遊び人」ではあったのだ。
しかし、浩子はさなえに引張られて、いやいややって来た、というのが本音だった。
それに、分ってもいたのだ。──哲男も市郎も、そのお目当てはさなえの方で、浩子は単に「数を合せる」ために呼ばれただけだ、ということを。
夜のピクニック。ここへ来る時、浩子は市郎の車に同乗したわけだが、市郎はふくれっつらをして、ろくに口をきかない。──浩子は、|惨《みじ》めだった。
でも、さなえとは友だちだったし──さなえの方が三つ四つ、年上だったが──いやとも言えなかったのである。
ともかく丘の上について、四人で、持参のサンドイッチやフライドチキンを食べ、さて町へ戻って、その先は……。ディスコへ行くのか、それともアルコールを入れて、その勢いでホテルにでも……。
ところが、車へ乗ろうというところで市郎が、
「帰りは、女の子を|交《こう》|換《かん》しよう」
と、言い出したのだ。
つまり帰りには、さなえを乗せたい、というわけで、哲男とにらみ合っていた、ということなのである。
「あのね──」
と、さなえは言った。「そんなことでケンカなんかするのなら、もう二人とも家へ帰るわ」
哲男と市郎は、|互《たが》いに不服そうに、目を|見《み》|交《か》わした。
「見ろ、お前がつまらないこと、言い出すから──」
と、哲男が言いかけると、
「何がつまらないことだ!」
と、市郎が|遮《さえぎ》る。「|俺《おれ》は当り前のことを言ってるだけだろ!」
浩子は、気が気じゃなかった。──哲男が二十一歳、市郎が二十歳。
どっちもカッとなると止らない性格である。
「よし」
と、哲男が言った。「じゃ、俺たちでけりをつけようじゃないか」
「ああ」
「やめてよ」
と、つい浩子は口を出した。「ねえ──」
「引っ込んでろ!」
と、哲男が|怒《ど》|鳴《な》った。
「その子を怒鳴ってもしょうがないぜ」
と、市郎が笑った。「それで強がってるつもりか?」
「おい、余計なことはいい」
と、哲男は言った。「どうやって、けりをつける?」
市郎は少し考えていたが、やがて、自分の車のボディをポンと|叩《たた》いて、
「丘の下まで、どっちが先に着くか、競走しよう」
と、言った。
「面白い。俺に勝てると思ってるのか?」
「だから言ってるのさ」
「よし!」
二人がめいめい車に乗り込む。
浩子は、さなえの|腕《うで》をつかんで、
「ねえ! やめさせなきゃ!」
「──むだよ」
と、さなえは|肩《かた》をすくめた。「やらせとくしかないわ」
しかし、さなえの顔もこわばっていた。
エンジンの音が、|辺《あた》りの|静寂《せいじゃく》を破った。
哲男の車が飛び出した。市郎の車もそれを追った。
二台の車はアッという間に、浩子たちの目には見えなくなった。エンジン音が遠ざかって行く。
「──|大丈夫《だいじょうぶ》かしら」
と、浩子は言った。
「|馬《ば》|鹿《か》よ、本当に!」
さなえは|苛《いら》|々《いら》している様子だ。
「ねえ、あの二人、二人ともさなえのことが好きなのよ」
と、浩子は言った。「さなえはどうなの?」
「やめてよ」
と、さなえは首を|振《ふ》った。「まだ、好きも|嫌《きら》いも──」
その時だった。
下の方で、ドカン、という大きな音がして、パッと火が上るのが、二人の目に入った。
さなえも浩子も、しばし自分の見たものを信じたくなかった。
「──事故よ」
と、さなえが言った。「何てこと!」
二人は|駆《か》け出した。
走って丘を下りるのは大変だった。しかし、二人とも|夢中《むちゅう》だった。
下りて行くにつれ、燃え上る火が、はっきりと見えて来る。
車が──。どっちの車[#「どっちの車」に傍点]だろう?
車が、|仰《あお》|向《む》けになって、燃えている。しかし、どっちの車なのかは分らなかった。
さなえたちは、息を切らし、|喘《あえ》ぎながら、やっと、車がガードレールを|突《つ》き破って、落ちた所までやって来た。
道に車が|停《とま》っていて、そのガードレールが切れた所から、|呆《ぼう》|然《ぜん》と下の燃える車を見下ろしているのは──哲男だった。
「何したのよ!」
と、さなえがヒステリックに|叫《さけ》んだ。
「何も……。ただ……曲り切れなかったんだよ、あいつ……」
哲男は言った。
さなえは、キッと哲男をにらんで、
「あんた[#「あんた」に傍点]が死ねば良かったのよ!」
と言った。「彼じゃなくて、あんたが!」
哲男は、青ざめた。──さなえは「結論」を出したのだ……。
「見て!」
と、浩子が叫んだ。「上って来る!」
車の転落した斜面を、炎が照らし出していた。そこを、|這《は》って上って来るのは、相当にひどいなり[#「なり」に傍点]はしているが、市郎だった。
「生きてた! 生きてたのね!」
さなえは飛び上って、喜んだ。「市郎! |頑《がん》|張《ば》って!」
さなえは市郎の方が好きだったのだ。
浩子は、青ざめて立ち|尽《つ》くしている哲男の方へ、同情の目を向けた……。
「じゃ……その時の二人が?」
と、並子が言った。
「ええ」
と、|辻《つじ》|村《むら》浩子は肯いて言った。「佐川哲男[#「哲男」に傍点]、そして生田市郎[#「市郎」に傍点]だったんです」
「そのさなえという子は、もしかして……」
「生田市郎の妻だった、さなえさんなんです」
「すると、あの時の暴行犯人とその犯人を|殴《なぐ》って、死なせた男は、古い知り合いだったというわけですね?」
並子の目は、いつもの|如《ごと》く|輝《かがや》いていた。
ここは西沢家の居間。──結局、
「何かお話があるんでしょ」
と、並子が、後をついて来ていたその女性を引張って来てしまったのである。
竜介は|奥《おく》の|部《へ》|屋《や》でスヤスヤと|眠《ねむ》っており、政子も、子守りをさせられることなく、その辻村浩子の話に耳を|傾《かたむ》けていたのだった。
「|面《おも》|白《しろ》い|偶《ぐう》|然《ぜん》ね」
と、政子は言ってから、「あ──面白い、なんて言ったらいけないけど──。一人は亡くなっちゃったわけだし……」
|名《めい》|探《たん》|偵《てい》の方は、助手[#「助手」に傍点]の言うことなど、聞いてもいない様子だ。
「その二人がこの団地にいる、ってことは、前からご存知だったんですか」
と、|訊《き》いた。
「ええ。──といっても、最近のことですけど」
と、辻村浩子は言った。「私は三年前に、この団地へ越して来たんです。──夫と、二人の子供がいます」
政子が三十歳くらいと思ったのは、浩子が童顔のせいで、実際は三十六ということであった。
「一年くらい前かしら。下の子が通っている小学校の運動会があって、そこでバッタリ、佐川さんに会ったんです」
「同じ小学校に?」
「ええ。学年は|違《ちが》うんですけど。お|互《たが》い、見てすぐには分りませんでした。もう──二十年近くも昔のことですから」
と、浩子は|微笑《ほほえ》んだ。「たまたま父母席ですぐそばに座っていて、どこかで見たような人だな、と……。お互いにそう思っていて、やっと分ったんです」
「生田市郎の方もこの団地にいる、ということは──」
「二人とも、知りませんでした。その時は、です」
と、浩子は言った。「でも──それからしばらくして……。そう、この前の冬でしたかしら。私が買物の帰りに、スーパーの近くの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入って休んでると、声をかけられて──。それが生田さんでした」
「向うはあなたのことを分ったわけですね」
「ええ。でも私はたぶん──向うが名乗ってくれなかったら、分らなかったでしょう。ひどく変ってしまって……。|老《ふ》け込んでいましたもの」
浩子は、ちょっと複雑な気分のようで、|寂《さび》しげなものが、その口調には|漂《ただよ》っていた。
「その時はどんな話を?」
「お互いのことです。──生田さんが、さなえと結婚していたことは知っていました。でも、あの後はほとんどお付合いもなかったので」
「佐川さんが同じ団地にいるということを、生田さんには──」
「言っていません。言っても仕方ない、と思いましたし、それに──生田さんは仕事の面でも、家庭的にも、うまく行っていないのがよく分りました。佐川さんの方はそれに比べると落ちついていて……。もし、また二人が会ったとしても、いいことはないだろうと思ったんです」
「それは|賢《けん》|明《めい》なことでしたね」
と、並子は|肯《うなず》いた。「つまり、あなたは、どちらの人にも、二人が同じ団地にいることを話していなかったんですね」
「ええ……」
と、浩子はちょっと目をそらして言った。
並子は首を振った。
「正直におっしゃって下さい。──もし、どっちにも話をしていなかったのなら、あなたがそんなに不安になり、私の所へみえることもなかったはずでしょう」
浩子は、息をついて、
「実は──そうなんです」
と、肯いた。「私、佐川さんとは、その後も会う機会があって……。その時、ふっと口にしたんです。生田さんも、この団地にいるのよ、と……」
「佐川さんは、どう言ってました?」
「ええ……。私もびっくりしたんです。あんな昔のことだし、へえ、と笑ってすむだろうと思っていたものですから。でも──違いました。佐川さんの顔がサッとこわばって、『本当か!』と|凄《すご》い勢いで訊いたんです。──もう、びっくりして」
「昔のことを忘れちゃいなかった、というわけですね」
「私も、|詳《くわ》しいことは話しませんでした。でも、あの様子じゃ……。きっと、生田さんがどこに住んでいるか、調べただろうと思います」
それは簡単なことだ。団地の|名《めい》|簿《ぼ》というものがある。『生田』という名は、多くはあるまい。
「そして今度の事件です」
と、浩子は言った。「もちろん……あの通り[#「あの通り」に傍点]だったんだと思っています。でも、こんな|偶《ぐう》|然《ぜん》が、世の中にあるのかしら、と思うと不安になって。──それで|伺《うかが》ったんです。以前にうちのご近所の方が、西沢さんに相談ごとがあって、とてもうまく解決して下さったと聞いていたものですから」
並子は、
「どうぞ──紅茶が冷めます」
と、すすめておいて、自分も一口飲んだ。
もちろん政子のいれた紅茶なのである。
「あなたの不安は、要するに、この間の事件が、本当に[#「本当に」に傍点]偶然のものだったのかどうか、ということですね」
「ええ」
と、浩子は肯いた。「それに──少し、生田さんのことが気の毒という気持も……。もちろん、あんな事件を起こしたんですから、どうなっても|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》なんでしょうけど。でも二十年前には仲間同士だった二人です。──それが一人は暴行犯、一人は|英《えい》|雄《ゆう》。何だか、割り切れないものを感じるんです」
「分ります」
と、並子は肯いた。「よく分ります」
並子の方が、浩子よりずっと若い。しかし、こんな時の並子は、まるで人生の知恵者とでもいった|趣《おもむき》があって、ずっと年下の人間を見るように、相手を|眺《なが》めているのだった。
3
そりゃ、確かに、私は助手[#「助手」に傍点]よ。
政子は少しふてくされながら、考えていた。
それに子供もいないし、仕事を持ってるわけでもないし。
どうせ|暇《ひま》でしょ?
そう言われりゃ、「|忙《いそが》しい!」とは言えない。
でも──いつもいつも、こんな役は私ばっかり。
並子は、
「政子の方が人当りもいいし、生れ持った人の良さが出てて、相手に警戒されずにすむのよ」
なんておだてるが(また、政子の方もすぐそれにのせられちゃうのだが)、よく考えると、「あんたは大して頭良さそうに見えないのよ」と言われてるだけみたいな気もして来る……。
でも、しようがない。ふてくされていたって、この「仕事」から|逃《に》げられるわけじゃないんだ。
「──|突《とつ》|撃《げき》!」
と、自分へ号令をかけて、政子は一階下の佐川哲男の部屋のチャイムを鳴らしたのだった。
今日は、あそこの|奥《おく》さん、エアロビクスで出かけてるはず。子供は|塾《じゅく》に行ってるし。
きっとご主人一人のはずよ。
並子の話だって、どこまであて[#「あて」に傍点]になるものやら。ご主人がどこかへ出かけてるってことだって──。
「はい、どなた?」
インタホンから、その「ご主人」の声がした。やれやれ……。
「上の階の木村です」
「やあ、どうも、ちょっとお待ちを」
佐川の愛想のいい返事。──すぐに|玄《げん》|関《かん》のドアが開いた。
「や、いつぞやは」
と、佐川は笑顔で言った。「お上りになりませんか」
「あの──これ、うちで焼いたクッキーなんですけど、よろしかったら、|召《め》し上がっていただこうかと……」
「やあ、こりゃありがたい。さ、どうぞ」
「はあ……」
男一人の部屋に上る。──|即《そく》危険っていうのも考えすぎだろうけど、でも……。
──居間は、なかなか立派だった。
「色々お|騒《さわ》がせして」
と、佐川は、コーヒーを出してくれた。「|一《いっ》|緒《しょ》にいただきましょう」
「はあ。すみません図々しく」
「とんでもない。──取材に来る連中で、ずいぶんご|迷《めい》|惑《わく》をかけたんじゃないかと気になってたんです」
「別にうちは……。その後、警察の方では?」
「ええ、まだ何かと|厄《やっ》|介《かい》なことはあるようですが、幸い、|過剰防衛《かじょうぼうえい》ということにはならずにすみそうです」
「それは当然ですわ」
「いや、しかしねえ……。どんな相手でも、死なせたとなると、あんまり後味のいいものじゃありません」
佐川はクッキーをつまんで、「こりゃ|旨《うま》いや。──本当においしい」
「どうも」
政子は少し赤面した。〈手作りクッキーの店〉として有名なところで買って来たやつだとは言いにくい。
「しかし、あの死んだ男も気の毒でしたねえ。奥さんともうまく行っていなかったとかで……」
「本当ですね。でも──」
と、政子は、ぐっと声のトーンを落として、「どこの家でも、問題はあるんじゃないでしょうか」
と、目を|伏《ふ》せたりする。
少し間があって、
「──奥さん」
と、佐川が言った。「何か、|悩《なや》みごとでもおありになるんですか」
「あ、いえ──ほんのつまらないことですの」
と、政子は笑って見せて、「我らのヒーローにお会いして、元気を出そうと思ったんです」
「ヒーローだなんて」
佐川は苦笑した。「人を死なせて、|賞《ほ》められるというのは、いやなものですよ」
「でも、やっぱり勇気の必要なことです」
「そうでしょうかね」
佐川は、政子を見て、「奥さんはお若い。きれいだし、まだ独身といっても通用しますよ」
「あら、そこまでいくと、お世辞も皮肉になります」
と、政子は笑った。
「いや、そんなことはありません」
佐川は真顔になった。──政子の方へ、すっと寄って来ると、
「奥さん」
声の調子が変っている。「以前から、お会いする度に目をひかれていたんです。あなたには若々しさが──|僕《ぼく》や、|女房《にょうぼう》にはもう失われてしまったものがあります」
佐川の手が、政子の手をピタッと|押《おさ》えつけるように|握《にぎ》りしめる。政子は|一瞬《いっしゅん》ゾクゾクッとした。
興奮したわけではない。気味が悪くて、ゾッとしたのである。
「あの──いけませんわ、佐川さん。手を──」
「あなただって、何かを期待して、ここへ来たんでしょう? |遠《えん》|慮《りょ》することはない。今は誰もいません」
「あの──困るんです、私!」
「|大丈夫《だいじょうぶ》、誰にも分りゃしませんよ」
と、強引に政子を|抱《だ》こうとする。
政子も|焦《あせ》った。まさか、いきなりここまで来ようとは思わなかったのである。
「あの──少しは考える|余《よ》|裕《ゆう》が──」
「こんなものに、考えることは必要ありません!」
と、やおら政子を抱きしめて──。
電話が鳴り出した。いいタイミングだった!
「あの──電話ですよ」
と、政子は必死で佐川を|押《お》し|戻《もど》しながら言った。
佐川は、ちょっと顔をしかめて、
「誰なんだ……」
と、力を抜くと、電話の方へ立って行った。「──もしもし」
政子は、フーッと息をついた。
何て|奴《やつ》だ、これは!
「何だ、お前か。──そうか。今日は早く終ったのか」
佐川は妻と話しているらしい。
たった今、よその女性を抱こうとしていて、ああも平然と奥さんとしゃべれるものなのか。
|呆《あき》れながら、政子は、電話している佐川を横目に見て、さっさと出て行ったのだった……。
「そりゃ大変だったわね」
と、並子は|他人《ひと》|事《ごと》みたいな口をきいて、「もう電子レンジ、見てくれる? あったまってると思うから」
「あのね──」
と、政子は言いかけて、|肩《かた》をすくめ、電子レンジの方へ歩いて行った。
「ほら、竜介、じっとして! お|皿《さら》の中で食べるのよ!」
「でも、本当に危なかったんだからね!」
と、政子は強調した。
「分ってるわよ。手当をつけるわ。五百円でいい?」
「あのね……」
政子はため息をついた。「あそこで私が強引にものにされてたら、どうしてくれるわけ?」
「メロンでも届けるわ」
そういうケチな|名《めい》|探《たん》|偵《てい》っていた? 政子はすっかりむくれている。
「──じゃ、食べましょ。佐川ってのも、相当な俗物ね」
「ヒーローが聞いて呆れる」
と、政子はカッカ来ている。「あの辻村浩子って人の話じゃないけど、佐川は分ってて、わざと生田を殺したのかもしれないわよ」
「わざと?」
「そうよ。そりゃ生田があんなことをしたのは悪いけどさ、佐川が|偶《ぐう》|然《ぜん》行き合せて、|殴《なぐ》り合いになり……。相手にならなかったと思うのよね。生田はもう、めちゃくちゃな生活してたわけだし」
「それで、のしちゃってから?」
「そう。昔の|恨《うら》みを晴らすいい機会だ、っていうんで、あの石にわざと頭を打ちつけさせて殺したのかも……」
「でも、そんなことする必要ある? 生田は暴行犯として|捕《つか》まるのよ。それ以上の|恥《はじ》はないでしょう」
「うん……。そうか」
政子は、|渋々肯《しぶしぶうなず》いた。「だけど、ふざけてる!」
「ただ|浮《うわ》|気《き》っぽい男ってだけかもしれないわよ」
「それでも、あんな風に──」
電話が鳴り出して、|珍《めずら》しく(?)並子が立って行った。
「──はい。──ええ。西沢です。──ええ、よく分りました。では、明日」
並子は戻って来ると、竜介にグラタンをフーフーさまして食べさせながら、
「ほら、急いで食べると熱いわよ。──政子、明日、|暇《ひま》ある?」
「もう、佐川の所へは行かないわよ」
「誰もそんなこと言ってないわ」
と、並子は笑って、「今度は生田の家へ行くのよ」
政子は目を丸くして、
「だって、誰もいないんじゃないの?」
と言った。
「明日、奥さんが部屋の整理に来るの。ここしばらくは近付けなかったのよ」
「奥さんって、あの……」
「そう。さなえさんよ」
と、並子は|肯《うなず》いて言った。
「遅くなって、すみません」
と、やって来た女性を見て、政子は意外な印象を受けた。
「西沢です。──こちらは木村政子さん。私の仕事を手伝ってくれています」
「生田さなえです」
と、|会釈《えしゃく》した女性は、きちんとスーツを着込んだ、知的な女性で、|年齢《とし》の割にも落ちついた|雰《ふん》|囲《い》|気《き》があった。
「ご主人のことはお気の毒でした」
と、並子が言った。
「私、信じられませんの。主人は確かにだらしのないところもある人でしたけれど、若い女の子に乱暴する、なんてことは決してしない人です」
と、さなえは|穏《おだ》やかに、しかし、きっぱりと言った。
「そう思われますか」
「はい。──あの人が立ち直れなかったのは私のせいもあるんです」
と、さなえは言った。「私が勤めを持っていて、それがうまく行っていたので、夫は|却《かえ》って|焦《あせ》っていました」
「それで別居なさった?」
「はい。しばらく一人になった方が、あの人のためにもいい、と思ったんです」
「分ります」
と、並子は肯いた。「じゃ、お部屋へ行きましょうか」
竜介をご近所へ預けてあるので、並子もそうのんびりはできないのである。
三人は、高層の棟に入り、エレベーターで五階まで上った。
「──ここです。しばらくは近付かない方が、とご近所の方が教えてくれて。──記者やカメラマンが待っていたようです」
|鍵《かぎ》を出して、開けようとした生田さなえは、ふと|眉《まゆ》をひそめた。
「──どうかしました?」
「開いてるわ。変ですね」
ドアを開けて、三人は中へ入った。
異常は、一目で分った。|靴《くつ》|箱《ばこ》の靴が、|玄《げん》|関《かん》に散らばっている。
「何があったのかしら?」
「気を付けて、上ってみましょう」
と、並子は言った。「でも、できるだけ、あちこちに|触《さわ》らないようにして下さい。|指《し》|紋《もん》がついてるかもしれません」
家の中も同然だった。──|寝《しん》|室《しつ》は、背広から、下着まで、めちゃくちゃに投げ出してあり、居間や台所も、あらゆる引出しが中身をぶちまけられていた。
「──一体いつの間に?」
と、さなえは、やっと我に返った様子で、言った。
「|空《あき》|巣《す》らしいですね」
と、並子は言った。「政子、警察へ電話して」
「分ったわ」
「ここの電話じゃなくて、外の公衆電話からね」
「分ってるわよ」
電話にも犯人の指紋がついているかもしれないのだ。
「何か|盗《と》られてるものがありますか」
と、並子は|訊《き》いた。
「よく見てみないと……」
さなえは、もう、冷静さをとり戻していた。そして、寝室に散らばっている服を一つずつ手にとって、|眺《なが》めて行った……。
4
花を供え、手を合せる。
こんな簡単なこと……。しかし、その簡単なことが、生田さなえには、容易ではなかった。
──私がいたら。
私がずっとそばにいてあげたら……。あなたは、こんなことにならなくてすんだかもしれない。
そう思うと、そんなに簡単に、夫の|冥《めい》|福《ふく》を|祈《いの》るという気持にはなれないのだった。
|玉《たま》|砂《じゃ》|利《り》を|踏《ふ》む音がした。
さなえは立ち上って、|振《ふ》り向くと、
「──まあ」
と、言った。
それしか、言葉は出て来なかった。|月《つき》|並《な》みではあるけれども……。
「やあ」
佐川哲男が、花を手にして、やって来たところだった。「久しぶりだね」
「ええ……」
さなえは、|曖《あい》|昧《まい》に言った。
「墓に……お花を、と思ってね。いいかい?」
さなえは、二、三歩|退《さ》がって、
「どうぞ」
と、言った。
佐川は花を供え、手を合せた。
さなえはその佐川の背中を、じっと見つめていた。
「──何と言っていいのか」
立ち上った佐川は、首を振って、「まさかあれが生田だったなんて、知らなかったんだよ」
「そう?」
「もちろんさ。あの時は、暗かったし、|夢中《むちゅう》で……。名前を後になって聞いて、ハッとしたんだ。そしてあの顔を思い出したら、確かにあいつじゃないか。びっくりしたよ」
「私は、あなたの名前を新聞で見て、びっくりしたわ」
と、さなえは言った。「我らがヒーローですものね」
「やめてくれ」
と、佐川は顔をしかめた。「そんなことを言われても、ちっとも|嬉《うれ》しくない」
「そう?」
「当り前さ。──いくら|仲《なか》|違《たが》いしても、昔の仲間じゃないか。そうと知らずに、あんなことになって……」
「あなたは、いい気味だと思ってるんだとばかり考えてたわ」
「そりゃひどいな」
──二人は、|一《いっ》|緒《しょ》に歩き出した。
「しかし、生田も、どうしてあんなことを……。いい|奴《やつ》だったのに」
と、佐川は言った。
「あんなことって?」
「いや……つまり、あんな若い女の子に、さ……」
と、佐川は言いかけて、ためらった。
「私、あの人じゃないと思ってるわ」
と、さなえは言った。
「何だって?」
「あなたと|殴《なぐ》り合いになった時のことは知らない。でも、それまでの事件は、あの人じゃないわ」
「しかし……」
「あなただって、分ってるはずよ。昔のあの人を知ってれば」
「それはまあ……。しかしね、もう二十年もたってるんだ」
「分ってるわ。でも、やっぱり私にはそう思えるの。──人間って、基本的なところでは変らない、ってね」
さなえは足を止めると、「じゃ、これで」
と言って、足早に立ち去った。
佐川は、やや|呆気《あつけ》にとられた様子で、さなえの後ろ姿を見送っていた……。
──夜。
ガード下で、その男は待っていた。頭上を電車がけたたましい音をたてて通り抜けて行く。
男は、かすれた|口《くち》|笛《ぶえ》を|吹《ふ》いていた。──ポケットには、写真のネガが入っている。
男の名は|安《やす》|原《はら》。──フリーのカメラマンである。
トップカメラマンに|憧《あこが》れて、この世界に入ったものの、現実の|壁《かべ》は厚かった。
面白くもない写真をとらされている間に、初めの志など、どこかへ消えてしまって、今や金になることなら、何でもやる、という気分になっていた。
そして今、ポケットに入っているネガは、金になる[#「金になる」に傍点]かもしれなかった。そんなに|凄《すご》い金ではないかもしれないが、しかし、それを、どこかの週刊誌辺りに売るよりは、いい金になるはずだ。
安原は、そっちを選んだ。──もちろん、|違《い》|法《ほう》だってことは百も承知だ。
しかし、背に腹はかえられない、ってのはこのことだ……。
足音がした。──来たのかな?
ガード下は、当然のことながら、暗くて、相手の顔も定かには分らない。しかし、どうやら|間《ま》|違《ちが》いないらしい。
「──来たね」
と、安原は言った。「電話したのは、|俺《おれ》だよ」
相手は|黙《だま》っていた。
「写真のネガはここにある」
安原は、ポケットを手で|叩《たた》いた。「金は?」
相手が|肯《うなず》くのが、気配で分る。
「よし、先に金を出してもらおう。──おいおい、こっちの方が切り|札《ふだ》を|握《にぎ》ってるんだぜ」
少し間があった。相手が|封《ふう》|筒《とう》を差し出す。
電車の音が聞こえて来た。もうすぐ、このガードの上を通り|抜《ぬ》けて行くだろう。
安原は封筒を受け取ると、
「──よし、中を確かめるからな」
と、言った。「暗いな、どうも……」
電車の音が大きくなって来て、ガードの上を|轟《ごう》|音《おん》と共に|駆《か》け抜ける。
安原は、相手が近寄って来たことに、気付かなかった。
安原の背中に深々とナイフが|突《つ》き立ったとき、安原は声を上げたが、その声は、電車の音にかき消されて、聞こえなかった。
たとえ、|辺《あた》りが静かだったとしても、|誰《だれ》も聞いてはいなかっただろう……。
「人殺しですって」
と、佐川和代は言った。「割とこの近くだわ」
「ふーん」
佐川は、夕食をすますと、「おい、お|茶《ちゃ》|漬《づけ》にしてくれ」
「また? 太るわよ」
と、和代は苦笑いした。
「いいから。──お茶漬を食べないと、食事がすんだ気になれないんだ」
「はいはい」
と、和代はご飯を少しよそった。
「ルリ子はもう食べないのか」
と、佐川は、もう|空《あ》いた|椅《い》|子《す》の方へ目をやった。
「ダイエットですって」
「そんな|年齢《とし》じゃあるまい」
「気になるのよ」
和代は、お茶をご飯にかけた。「──今日、エアロビクスの先生から言われたわ。あなたのこと」
「|俺《おれ》の?」
「ええ。──暴行犯をやっつけたんですってね、って」
「お前が言ったのか」
「私が言うわけないでしょ。同じ教室の人が知ってたのよ」
|怪《あや》しいもんだ、と佐川は口の中で|呟《つぶや》いた。──何しろ、よくしゃべるからな、お前は……。
「来週から、少し|忙《いそが》しくなるの」
と、和代は言った。
「忙しく、って?」
「エアロビクスの大会があるのよ。うちの教室から十人出るんだけど、その一人に選ばれちゃったのよ」
和代は、いかにも得意げだった。
「じゃ、もっと[#「もっと」に傍点]出かけることになるのか」
「あら、いいでしょ? ルリ子も|塾《じゅく》で|遅《おそ》いし、あなただって、いつも帰りは遅いじゃない」
「そりゃいいが……。何曜日に?」
「土曜日。夕方から二時間、特別に練習があるの」
「土曜日か。──休みの日もあるんだぞ」
「だから安心でしょ。ルリ子がいても、あなたもいるんだし」
和代の話を聞いてると、何となく納得させられてしまう。これは佐川がいくら|頑《がん》|張《ば》っても、|抵《てい》|抗《こう》できない|理《り》|屈《くつ》だった。
「分ったよ。いつまでなんだ?」
と、佐川が|訊《き》くと、ルリ子が顔を出した。
「お父さん」
「ああ、何だ?」
「今、友だちと電話でしゃべってんだけどさ」
「あんまり長話しないのよ」
と、和代が口を|挟《はさ》む。
「うるさいなあ」
と、ルリ子が口を|尖《とが》らす。
「おいおい。──で、何の話なんだ?」
「うん。友だちのお父さんがね、週刊誌持って帰って来て、それに出てるんだってお父さんのことが」
「俺のこと?」
「そう。あの、お父さんの|殴《なぐ》った人、お父さんの昔の友だちだったの?」
佐川は、|一瞬《いっしゅん》、言葉に|詰《つま》った。
「──何の話?」
と、和代が言った。
「ね、お父さん──」
「ああ、それは本当だ」
と、佐川は言った。
「あなた! そんなこと、初めて聞いたわ」
「俺だって、ずっと後になって分ったんだ」
と、佐川は言った。「|偶《ぐう》|然《ぜん》なんだよ。二十年も昔のことだ」
「へえ、|面《おも》|白《しろ》いね」
と、ルリ子が言った。「それだけ。──じゃあね」
──和代は少しポカンとしていたが、
「あなた……。どうして|黙《だま》ってたの?」
と、訊いた。
「別に理由はない。そんなことを言えば、|却《かえ》ってややこしくなると思っただけさ」
佐川はお茶漬をかっこんだ。「──人殺しって、何のことだ?」
「え? ああ……」
和代は新聞を見直して、「フリーのカメラマンが、刺されたんですって。この一つ先の駅の近くよ」
「そうか……。|物《ぶっ》|騒《そう》な世の中だな」
佐川はそう言った。「おい、|漬《つけ》|物《もの》を取ってくれ」
これも、いつものパターンなのである。
5
「単なる|空《あき》|巣《す》か、それとも、何か理由があって|押《お》し入ったのか」
と、その刑事は言った。「ご意見を|伺《うかが》いたくて、やって来たんです」
「そんなことをおっしゃって」
と、西沢並子は、ちょっと刑事をにらんで、「私のこと[#「私のこと」に傍点]を|怪《あや》しいと思ってらっしゃるんじゃないですか? 主人がサラ金に借金をこしらえてるのを|突《つ》き止めて、こいつがどうやら犯人だ、と……」
「並子」
と、そばで聞いていた木村政子が目を丸くした。「本当なの?」
「まさか。たとえば、の話よ」
と、並子は|澄《す》まして言った。「結局、大した物は盗まれていなかったわけですね」
「ええ。あの未亡人──生田さなえ、といいましたかね。しっかりした女性で、細かいものまでよく|憶《おぼ》えていたんです。もちろん、現金がどこかにあったとしたら、とられているでしょうが」
と、刑事は|肯《うなず》いた。
まだ若くて、なかなかスマートなその刑事は、|大《おお》|坪《つぼ》といった。どう見ても政子たちより二つ三つは若い。
「他にどんな物がなくなっていたんですの?」
「黒っぽい背広上下が一着、これは大して高級なもんじゃなかったようです。それからルイ・ヴィトンの旅行|鞄《かばん》。|腕《うで》時計。それと、あの未亡人の置いていた、ネックレスとか小物少々。──こんなところですね」
「必ずしも、その時、盗まれたとは限りませんね」
「そうです。ネックレスとかは、まあまあの品だったそうですが、盗まれる前に、生田市郎が、どこかで売ったのかもしれない」
「|鍵《かぎ》は?」
「こじあけてあります。あの辺は、建物も古いので、鍵も古い型のものでしてね。必ずしもベテランの空巣でなくても、その気になれば、あけられるでしょう」
「|素人《しろうと》でも?」
「どうですかね。──ま、器用な人間なら」
と、大坪刑事は肯いた。「どう思われます?」
「私は、警察の方とは違いますもの。直感と、当てずっぽで、筋道を立ててみるだけですわ」
並子は、普段とは別人のような(?)|謙《けん》|虚《きょ》な発言をした。
「その当てずっぽ[#「当てずっぽ」に傍点]が、|怖《こわ》いんだ、と|先《せん》|輩《ぱい》から聞かされて来ましたよ」
と、大坪刑事は、何だか楽しげですらある。
「それはそうと──」
と、並子は、お茶を飲みながら、「佐川哲男さんと生田市郎が、古い友人だった、という週刊誌の記事……」
「ええ、見ました。うちでも、上司が困ってましたよ」
と、大坪刑事は言った。「何しろ、佐川さんは、暴行犯をやっつけた|英《えい》|雄《ゆう》ってことになってますからね。それが、もしかしたら、古い|因《いん》|縁《ねん》のある事件だった、ってことになると……」
「再捜査、なんてことは?」
「いや、それはないでしょう。一応、決着のついた事件ですから。よほどのことがない限り、むし返すってことはしないんですよ」
──大坪刑事が訪ねて来たのは、平日の夕方。
並子と政子が二人で買物から|戻《もど》って来ると、この並子の部屋の前に、ぼんやりと若い刑事が立っていたのである。
竜介が|眠《ねむ》くなって、うるさいので、ともかく大坪刑事には二十分ほどしてから来てもらうことにし、並子が竜介を|寝《ね》かしつけている間に、政子はお茶の用意をした、というわけだった。
「警察のいけないところは、|間《ま》|違《ちが》いを認めようとしないところですね」
と、並子が言った。「一般の人たちは、何も警察に|完《かん》|璧《ぺき》なんか求めてないんです。間違ったら、すみません、と謝ってくれれば何てことないのに、|一《いっ》|旦《たん》|逮《たい》|捕《ほ》すると、|面子《めんつ》にかけても|翻《ひるがえ》さないのはね、あれはいけないと思うわ」
「残念ながら同感です」
と、大坪刑事が素直に肯いた。「どうも、必要以上に|権《けん》|威《い》ってものを意識しすぎるんですね」
「あなたのような方が、少しずつ変えていって下さいね」
並子はソフトな口調で言った。大坪は少々照れて、赤くなっている。
「あの記事はどこから出たのかしら」
と、政子が口を|挟《はさ》んだ。
ワトスン役だって、ちっとは口を出したいというものである。
「そうね。たぶん……」
と、言いかけて、並子は、ふと思い出したように、「そうだわ。四、五日前にこの近くで殺人事件があったでしょう」
「この近くですか?」
「カメラマンが殺された……」
「ああ。|隣《となり》の駅のそばですね」
と、大坪が肯いた。「あそこは|管《かん》|轄《かつ》が違うんです」
「ちょっと待って」
並子は立って行くと、この団地で発行している〈便利帳〉を持って戻って来た。そして、テーブルの上で、地図を広げると、
「ここが、今私たちのいる地区です。──殺人事件のあったのは、確かに隣の駅ですけど……。ここ[#「ここ」に傍点]なんです」
並子が指さしたのは、かなり団地に近い|辺《あた》りだった。
「山一つ、越えなきゃいけませんけど、とても近いんですよ。ここが『団地のそば』でなく、『隣の駅の近く』と思われるのは、バスがこっちへ通っていないせいなんです」
「なるほど……。しかし、道はありますね」
「もちろん。車のある人なら、この山を越えて隣の駅前へ出て、買物した方がずっと楽です。スーパーも大きいですしね。現にそうしている人は、沢山います」
「気が付かなかったな。しかし──」
「それにこの間は私有地ですから、最近はいくつかホテルができていて、団地の奥さんたちの〈秘密の社交場〉になっているんです」
「というと?」
「手っとり早く言えば、|不《ふ》|倫《りん》の名所、ってことですね」
「そんなに近くで、ですか?」
と、大坪が目を丸くする。
「ああいう所って、バッタリ出くわしたりしないように、うまく作ってあるんですよ。車で出入りする時に用心してさえいれば……。それに、たとえ誰かを見かけたとしても、お互いさまですから、みんな口をつぐんでいます」
「はあ……」
大坪はポカンとして聞いていたが、「しかし──」
と言いかけて、ためらった。
「どうして、そういう場所のことを、私が知ってるのか、って思ってらっしゃるんでしょ?」
「いや、その……」
「私、残念ながら車を持っていませんの」
と、並子は|巧《たく》みにとぼけてみせた。「あの殺されたカメラマンの安原って、そのホテルの近くに車を|停《と》めて、望遠レンズで、出入りする車をとるのが趣味[#「趣味」に傍点]だったようです」
「何ですって?」
「たまたま、不倫カップルの顔がはっきり映ると、団地の中の知り合いに|訊《き》いて、名前を|突《つ》き止め、ネガと|交《こう》|換《かん》にこづかいをせしめてたんです」
「それじゃ──ゆすりを?」
「ええ。でも、しつこく一人をゆすり続けるとか、|途《と》|方《ほう》もない金額をふっかける、ということをしないんで、みんな何とか|都《つ》|合《ごう》をつけて払ってしまうんです」
「それにしても、ゆすりには|違《ちが》いありませんよ。どうしてそれを?」
「相談を受けたことがあるんです。ゆすられていた|奥《おく》さんの一人から。でも、ことを荒立てて、ご主人に知られたくない、ということで、私は手を引いたんですけど。安原って人に、その内何かあっても、不思議はないと思ってました」
「こりゃ、貴重な情報だ」
と、大坪刑事はメモを取っている。「|管《かん》|轄《かつ》は違いますが、|連《れん》|絡《らく》しておきますよ」
「でもね──」
と、並子は言った。「お金を払う代りに、人を殺すというのは、よほどのことですよ。あの安原ってカメラマンも、まさか、と思っていたんでしょう」
「どういう意味です?」
「つまり、今度の佐川さんと生田さんの事件なんか、安原みたいな人間にとっては、絶対に|見《み》|逃《のが》すはずのないネタだってことです」
「つまり……この殺人が、何かあの事件に関係ある、と?」
「もちろん、はっきりした|証拠《しょうこ》があって言ってるわけじゃありません」
と、並子は言った。「でも、その可能性はかなりある、と思っています。少々のおこづかいを|惜《お》しんで人殺しをする人間はいませんからね」
「分りました」
大坪刑事は、むずかしい顔で|肯《うなず》いた。「上司に話してみましょう。奥さんのご意見となれば、無視できないと思います」
いかにも|生《き》|真面目《まじめ》な、その若い刑事が帰って行くと、政子は、
「本当に関係あると思う?」
と、「|名《めい》|探《たん》|偵《てい》」に訊いてみた。
「そんなこと、調べてみなきゃ分んないわよ。──ね、夕ご飯は何にする?」
「何でもいいけど……。そろそろ|冷《れい》|凍《とう》してあるひき肉を使いたいんだ」
「じゃ、卵はあるし、オムレツでも作るか」
「そうね。──じゃ、その安田ってカメラマンが──」
「安原よ。人の名前を|憶《おぼ》えないんだから、全く」
「しょうがないでしょ。こっちは普通の主婦でしてね」
「ま、関係のある確率は一割くらいかな」
「大分さっきと話が違うじゃないの」
「それでも、あれくらい言わなきゃ、警察は考えないわよ。──さ、竜介が起きない内にオムレツの|仕《し》|度《たく》をしましょ」
名探偵は、主婦業の方へとスイッチを切りかえたようだった……。
佐川は、|苛《いら》|立《だ》っていた。
「全く、仕事になりゃしないや」
と、ブツブツ言っている。
それを聞いて、|隣《となり》の席の女子社員が声を殺して笑っている。──佐川は、女子社員の間で、結構人気がある。
面白い男だし、調子が良くて、話していると楽しいのだ。しかし、逆にいうと、あまり真剣に恋の対象にする、といったタイプとは見られていなかった。
もちろん、妻子があるのは承知だが、|魅力《みりょく》ある男なら、そんなこと(!)気にせずに言い寄っちゃうのが、今のOLってものなのである。
佐川は、上司の受けもいいが、多分に要領の良さで得をしている点もあった。上司の目につかないところでは、うまくさぼる。──これが、佐川の特技である。
だから、佐川が本気で、
「仕事にならない」
なんて言っていると、おかしくて仕方ないのだ。
確かに、今日の佐川は大変だった。
週刊誌に、街の武勇伝の相手の、死んだ男が、佐川の古い友だちだった、と出てしまったばかりに、またあれこれと電話がかかって来る。
午前中だけで五、六本もかかって来たので、佐川は|交《こう》|換《かん》|手《しゅ》に、
「取材だったら、断ってくれ」
と|頼《たの》んでおいた。
ところが、そうすると、向うは、「高橋です」とか「田中です」とか、個人名で言って来る。これでは、交換手も、電話をつながないわけにはいかないのである。
かくて、午後になっても、一向にその手の電話は減らないのだった。
「──ちょっとコーヒーを飲んで来る」
と、佐川は席を立った。「何かあったら、聞いといてくれ」
「はい」
と、隣の席の女の子は答えた。
それにしても、いくら苛々している時でも、ちゃんと課長が外出するのを見ているんだから大したもんだわ。
佐川が席を立つと、すぐに、電話が鳴り出した。
「──はい。──佐川さん。今、いませんけど、誰から?──女の人? じゃ、聞いてみる」
多分に好奇心から、出る気になったのである。「──もし、もし。ただいま、佐川はちょっと席を|外《はず》しております。代りに承りますが」
「そうですか」
少し遠い感じの女性の声だった。「じゃ、ご伝言願えますか」
「はい、どうぞ」
と、マニュアル通り、メモ用紙を手に、ボールペンを構える。「──は?」
女子社員は、目をパチクリさせた。
──十五分ほどして、佐川が|戻《もど》って来た。
「やれやれ、少しスッキリした。──何かあった?」
と、|椅《い》|子《す》に|腰《こし》をおろす。
「お電話が」
「誰から?」
「女の人で──名前言わないんです」
「へえ。すると、僕の数多い恋人の一人だな、きっと」
と、佐川は笑って、「何か言ってたかい?」
「そこにメモしときましたけど……。〈|上《うわ》|衣《ぎ》のことでお話が〉って……。分ります?」
メモを見た佐川がサッと青ざめたので、女子社員はびっくりした。
「他に……何か言ってたか?」
じっとメモを見つめながら|訊《き》く。
「いいえ……。またかける、と言って切っちゃいましたけど。──上衣のこと、って何ですか?」
「何でもないさ」
佐川は、そのメモを固く手の中に|握《にぎ》り|潰《つぶ》した。どう見ても、ただ捨てるため、とは見えなかった。
「何でもないんだ」
そのメモをくずかごへ投げ入れて、佐川は、やっとこわばった笑顔を作って見せた……。
6
「全くね」
と、政子は|嘆《なげ》いていた。「色気も何もあったもんじゃない」
男は[#「男は」に傍点]|黙《だま》っていた。
「人にゃ言えないわよね。こんなこと」
政子一人が、しきりにぐちっている。
政子は──男と二人[#「男と二人」に傍点]で、団地に近いホテルに入っていた。最近は「ラブホテル」という名称はあまりはやらず、「ファッションホテル」とか「ブティックホテル」なんて、わけの分らない名がついているようだが、まあ実情は別に変らないので、平日の昼間から、ここも三分の二の部屋が|埋《うま》っているという、結構な景気である。
「人に言えない」のは当然と思われそうだが、政子の場合は少々わけが|違《ちが》っている。
なぜなら──|一《いっ》|緒《しょ》にいる男は、丸いベッドの上で面白がってかけ回ったり、飛び上ったりしている、竜介[#「竜介」に傍点]だったからである。
いくら政子の夫がやきもちやきだったとしても、二歳の男の子と|浮《うわ》|気《き》したとは思うまい。
「あんたのママは、何考えてんのかね、本当に」
「マンマ、マンマ」
と、竜介が請求[#「請求」に傍点]する。
「はいはい。──お気に入りのクッキーよ」
政子は、持って来た|袋《ふくろ》から、クッキーを出して、竜介に渡す。
竜介は、金ピカのベッドの上で引っくり返ってクッキーをかじり始めた。
「たぶん、あんたは女と二人でホテルに入った、最年少ね。ギネスブックにでも|申請《しんせい》しようか」
「ワァ」
竜介は至ってご|機《き》|嫌《げん》。──いつも、家じゃママから、
「クッキーの粉をあちこちに落すな!」
と、無理な注文を出されているのに、ここではベッドに|寝転《ねころが》って食べても、別に文句を言われないからである。
「あんたのママは何してんのかしらね? もういい加減に──」
と、言いかけると、電話が鳴り出した。
「──はい。──あ、並子?」
「どう? 竜介、起きてる?」
「しっかりね。それで?」
「十五分前に入ったわ」
と、並子は言った。「あと五分したら、始めて[#「始めて」に傍点]」
「あと五分ね。OK」
「ちゃんとカッパを着とくのよ。竜介にも着せてね」
「分ってるわよ」
政子は、電話を切ると、「──さ、おばちゃんと二人で雨ふりごっこをしようか」
と、ポンと手を|叩《たた》いた。
バッグから引張り出したのはビニールの、雨ガッパ。
「はい、これを着るのよ。おばちゃんも着るからね」
ごわごわしているので、いやがるかと思えば、竜介は変った|格《かっ》|好《こう》ができて、面白がっている。
「少し大きめだったわね……」
|袖《そで》|口《ぐち》なんか、手が出ていない。竜介は、大きな鏡の前に行って、キャッキャ声を上げていた。
「結構目立ちたがりね、あんたも」
と、政子は言って、「よいしょ、と」
自分も|大人《おとな》用の雨ガッパを着る。
「──とてもじゃないけど、ファッションセンス、ゼロね」
と、|肩《かた》をすくめる。
さて……。あと二分。
政子は百円ライターを取り出した。
「タバコもやらないのに、もったいない」
と、ブツブツ言いながら、|椅《い》|子《す》を運んで来て、その上に上る。「──時間だ」
カチッと音がして、ライターが|炎《ほのお》を出す。政子は、その火を、|天井《てんじょう》の火災感知機の方へと近付けた……。
並子は|腕《うで》時計を|眺《なが》めた。
「そろそろだわ」
と、|呟《つぶや》く。
──|穏《おだ》やかな昼下りである。
並子は、木立ちにもたれて、そのホテルの方を眺めていた。風が|吹《ふ》き|抜《ぬ》けて行くと、思わず目を閉じてしまうほど、気持いい。
政子は、「それどころじゃないわよ!」と|怒《おこ》るだろうけども──。
ジリリ……。やった!
並子は、ホテルから少し|離《はな》れて立っているのだが、そこでも、非常ベルははっきりと聞き取れた。
さて……どんな|騒《さわ》ぎになるか。
ワーッ、という声。キャーッという悲鳴。
それが大きくなって来て、たちまち、ホテルの中から、数人がバラバラと|駆《か》け出して来る。
ひどくあわてるタイプの人か、それとも用心深いタイプだろうが、裸同然。シーツを体に巻きつけた女性が、|裸足《はだし》で飛び出して来ている。
「ごめんなさい。お|邪《じゃ》|魔《ま》して」
と、並子は小声で|詫《わ》びた。
続いて、少し間を置いて第二陣[#「第二陣」に傍点]。
|遅《おく》れたのは、何とか服を身につけていたひとで、それでも、ブラウスはスカートの外へ出たままだし、もちろんボタンなんかとめていない。しかし、しっかり、ハンドバッグはかかえている。
男も混っているが、大部分は車の方へ|逃《に》げたようで、何と、相手の女性は放ったらかしで逃げ出す車が二台、三台……。
あれできっと愛想をつかされるだろう。
そして──何とか服を着たものの、|髪《かみ》はまだ|濡《ぬ》れたまま、という|格《かっ》|好《こう》で──。
「来た」
並子は、道へ出てオロオロしている女性へと駆け寄って、「奥さん!」
と、腕をつかんだ。
辻村浩子は、ドキッとした様子で並子を見た。
「あ──西沢さん」
「早くこっちへ! 消防車が来ますよ! 人目につきます」
「ええ……」
二人は駆け出した。
道をそれると、足どりを|緩《ゆる》めて、
「もう|大丈夫《だいじょうぶ》」
と、並子は息を|弾《はず》ませた。「少し休んで行きましょう」
「ええ……」
辻村浩子は、かなり息を切らしていた。
「さ、ベンチがありますよ。|座《すわ》って。──髪を直した方が」
「ええ、すみません」
浩子は、ハアハア|喘《あえ》ぎながら、ペタンと|腰《こし》をおろし、しばらくは話もできない様子だった。
「──大丈夫ですか?」
並子は|訊《き》いた。「ここは、めったに人が通りませんから」
消防車のサイレンが、近くを駆け抜けて行く。
「大騒ぎですね」
と並子は言った。「通りかかったら、表に人が飛び出して来て……。びっくりして見てたら、あなたが目に入ったので」
「すみません。助かりました」
と、浩子は言った。「あの……バッグ、持っていただけます? パンティストッキングをはきますから」
「ええ、いいですよ」
浩子は、しばらくかけて、何とか身なりを整えると、少し落ちついた様子だった。
「──髪は、帰るまでに|乾《かわ》きますよ」
と、並子は言った。
すると──浩子が急に泣き出した。
「あの人──とっさに、自分だけ服をつかんで──『一人で行くからな! 後は勝手にしろ!』って……」
「奥さん……」
「もちろん──ただの|浮《うわ》|気《き》だったんです。でも──ひどい」
ひとしきり泣くと、浩子も気がすんだのか、ハンカチで目を|拭《ぬぐ》って、
「ごめんなさい……。勝手ばっかり言って……」
と、苦笑した。「保険会社の人なんです。保険のおばさんが病気の時、代りにやって来て……。私も、ちょうど……」
「奥さん」
と、並子が言った。「生田市郎さんと、親しくしてたんですね」
浩子は、ちょっと目を|伏《ふ》せて、
「そうです」
と、|肯《うなず》いた。
「昔の友だちが、家庭も仕事もうまく行かずにすさんでいるのを見たら……。同情なさっても当然です」
「ええ」
浩子は、ちょっと|寂《さび》しげに|微笑《ほほえ》んだ。「でも、同情だけでもなかったんです。私も[#「私も」に傍点]生田さんの方にひかれてたんです。もちろん、二十年も昔のことですけど。──主人が、このところ外に女を作ってて、そのせいで、よく|喧《けん》|嘩《か》もしてました。子供たちの前でだけ、仲のいい夫婦のまねごとをする。|虚《むな》しい遊びです」
「お|互《たが》いに、|誰《だれ》か、|慰《なぐさ》めてくれる人を求めてたんですね」
「ええ……。|逃《に》げ|口上《こうじょう》かもしれませんけど、そういう気持だったんです」
浩子は、息をついて、「──時々、あのホテルにも入りました。でも、何もしないで、昔話をするだけで出て来ることも多かったんです……。あの人は、やっぱり、さなえを愛してたんです。アルコールでも入っている時でないと、私を|抱《だ》きませんでした」
並子が肯いた。
「あなたが、わざわざ私の所へ来られたので、もしかしたら、と思っていました」
「あなた、お若いのに──。何だか、私の方がずっと年下のようで、|恥《は》ずかしいわ」
「そんなことはありません。私はただ、運がいいだけかもしれませんわ」
と、並子が言うと、浩子は、少しホッとしたように微笑んだ。
「──一つ、教えて下さい」
と、並子は言った。「あの夜──生田さんが田辺恭子っていう女子高生を|襲《おそ》おうとして死んだ夜ですけど、あの前に、あなたは生田さんと会っていたんじゃありません?」
「そうです」
浩子は目を見開いて、「どうしてそれをご存知?」
「|勘《かん》です」
と、並子は、ちょっといたずらっぽく笑った。「──あれぐらいの時間、あの道は、電車が着くと何人か人が通って、その後はまた誰も通らない。そのくり返しです。あの田辺恭子って子は、都心とは逆の方からの電車で帰って来ました。私と友だちも、乗り過して、|戻《もど》ったので、同じ電車だったんですけどね。──じゃ、生田さんも、同じ電車に乗っていたんですね」
「時間から言って、そのはずです」
と、浩子は肯いた。「あの夜は……子供は義母の所に|泊《とま》っていました。そして夫は出張……。本当かどうか知りませんけど、当人はそう言っていました」
「生田さんはどんな風でした?」
「実は……私、がっかりしたんです」
「というと?」
「夜、|珍《めずら》しく二人でゆっくりできるので……。私、期待してたんです。当然あの人は私を抱いてくれる、と」
と、少し、|頬《ほお》を赤らめる。
「じゃ、そうならなかったんですか?」
「ええ。──生田さん、いつになく元気でした。若返ったみたいで……。何でも、友だちの|紹介《しょうかい》で、前からやりたかった仕事に|就《つ》けそうだ、と。|詳《くわ》しいことは聞きませんでした」
「じゃ、陽気で?」
「ええ。──私、少し傷つきましたわ。だって、私とホテルに入ったのに、『これで、さなえも戻って来てくれるだろう。どう思う?』なんて訊くんですもの。腹が立ったけど、でも──彼のためには良かった、と思いました」
「じゃ、そこで別れて?」
「ええ。私は自分の車で彼を一つ先の駅前まで送り、自分は山を越えて帰りました」
「分りました」
と、並子は肯いた。「あなたが、どうしても生田さんがあんなことをしたとは信じられない、と思ってらっしゃる、そのわけが」
「そうです。あの夜、あの人は未来に希望を持ってたんですよ。それなのに、何分もたたない内に、女の子を襲うなんて……。一体何があったんでしょう?」
「何も[#「何も」に傍点]なかったのかもしれませんわ」
並子の言葉に、浩子は目をパチクリさせていた。──並子は、
「一つ、教えて下さい」
と、言った。
その答えを聞いて、並子はその場で浩子と別れた。
「どうもありがとう」
浩子は何度も礼を言った。「今日のことだけじゃなくて。何だか、あなたを見ていると、もっと自分を大切にしなくちゃ、という気になるんです……」
──浩子が立ち去ると、並子はまたベンチに|腰《こし》をおろした。
ベンチの後ろの|茂《しげ》みがガサッと|揺《ゆ》れて、生田さなえが出て来た。
「聞こえました?」
と、並子は言った。
「ええ」
さなえは、スカートの|汚《よご》れを払うと、「誰か恋人がいるな、ってことは分ってたの。でも……|怒《おこ》る気持にはなれないわ。浩子だったなんて、思ってもみなかった」
「そう言っていただけると、助手[#「助手」に傍点]も苦労のかいがあると思いますわ」
と、並子は微笑んだ。
「でも──どういうことなのかしら?」
さなえは、並子の|隣《となり》に腰をおろすと、「|盗《ぬす》まれた背広と何か関係が?」
「ええ、たぶん」
並子はゆっくりと肯いた。「ただ──どうやって立証するか、なんです」
7
田辺恭子は|充分《じゅうぶん》に用心していた。
もちろん、あんな事件があったので、学校の方でも、クラブの用といえども、決められた時間より|遅《おそ》くまで残ってはいけない、ということになって、今日もこの前よりは大分早い時間である。
しかし、やはり電車の|間《かん》|隔《かく》が空いて来ているので、人通りがスッと絶える時間というのがある。加えて、大きな団地というのは、同じ電車の客が、みんな同じ道で帰るとは限らない。
初めは五、六人|一《いっ》|緒《しょ》でも、右へ左へ、一人減り、二人減りで、とうとう一人になってしまう。
ちょっといやな気分だった。ちょうどこの前の──あの場所[#「あの場所」に傍点]だ。
もちろん、同じ子が二度も危い目に|遭《あ》うなんてことはないだろう。そんなの、|理《り》|屈《くつ》から言って、おかしいよ……。
でも──ちょうど同じ場所へやって来た時だった。
|突《とつ》|然《ぜん》後ろから|駆《か》けて来る足音がしたと思うと、背後から、|肩《かた》に手をかけられた。
「大声を出さないで」
と、男の声がしたのだ。「静かにしてくれ」
恭子は、この間の反省に立って、この次ああいうことがあったら、いかにすべきか、対策を講じていた。
まず思い切り|靴《くつ》で相手の足を|踏《ふ》みつける。
「ヤッ!」
「ワッ!」
相手が手をはなした。──やった!
それから、胸に下げていたペンダントの|紐《ひも》を思い切り引張る。ピーッ、と|甲《かん》|高《だか》い音が|辺《あた》りに|響《ひび》きわたった。
それから──これは「予定外」だったのだが、腹立ち|紛《まぎ》れに、|振《ふ》り向きざま、ヤァッ、と相手をけとばしていた。
ろくに相手の位置も確かめないでやったのに、何と恭子はまともにその男の下腹をけり上げていたのである。
「ウッ」
と、一声|呻《うめ》いて、その男は引っくり返ってしまった。
「大変!」
と、声がして、女の人が一人、駆けて来た。
「あれ?」
やっと少し落ちいた恭子は、その女性を見て、「この前の──」
「西沢並子よ。──だから、前もって何か言っときなさい、って言ったのに」
と、|倒《たお》れている男を|抱《だ》き起こす。
「その人は……」
「いえね。──刑事さんなの」
と、並子は言って、「しっかりして! |大丈夫《だいじょうぶ》?」
「何とか……」
ハアハア|喘《あえ》いでいるのは、若い大坪刑事。
恭子は、わけが分らず、目をパチクリさせているだけだった……。
「──あの時ですか?」
と、恭子は|肯《うなず》いた。「ええ、暗かったし、突然後ろから抱きつかれて……。声も、耳もとでささやかれたんです。そうはっきりとは……」
「そうでしょうね」
と、並子は言った。「──大坪さん、大丈夫ですか?」
「何とか……」
ベンチに|腰《こし》かけて、下腹を|押《おさ》えている大坪刑事は、呻くように言った。「生きてます……」
「ごめんなさい。思いっ切りやっちゃったんで」
「いや、しょうがないよ……。何も言わずにあんなことをした僕の方が……」
と、大坪はかなり無理をしている。「車で……送ろう」
「運転できます?」
「これしきのことで……へばってちゃ、刑事はつとまりません。ハハハ……」
と、笑って、「いてて……」
と、また顔をしかめる。
申し訳ないと思いつつも、恭子は笑い出しそうになって、何とかこらえた。並子の方を見ると、やはり同様で、こちらはそっぽを向いて、声を出さずに笑っているのだった……。
──ともかく、車で恭子を家まで送り届けることになった。
「じゃあ……」
恭子は|唖《あ》|然《ぜん》として、「あの時、私を|襲《おそ》おうとしたのは、佐川さん[#「佐川さん」に傍点]の方だったんですか?」
「そうに|違《ちが》いないと思ってるわ」
と、並子は肯いた。「あなたには、どっちの人が犯人で、どっちが追いかけて行った人か分るまい、と思っていたのよ」
「そんなこと、考えてもみなかったけど……。でも、どっちの人も、はっきり顔見てないんです」
「そうでしょ?」
「ただ……|上《うわ》|衣《ぎ》が」
と、恭子は言った。「後ろ姿だったけど、黒っぽい上衣だけは見えました」
「そう。そして戻って来た佐川も、黒っぽい上衣だった」
と、並子は言った。「そして死んでいた生田市郎はグレーの背広」
「上衣を──とりかえたんですね」
と、恭子が言った。
「その直前に、生田さんと会ってた人が、生田さんは、上下、別々だった、と言っているのよ。つまり、佐川は生田さんに追いつかれて、争っている内に|殴《なぐ》り|倒《たお》し、生田さんは石に頭を打ちつけて死んでしまった」
「その時、どうして|黙《だま》って|逃《に》げなかったんでしょう?」
「逃げれば、暴行|未《み》|遂《すい》プラス殺人犯。とんでもないことになるわ」
「そうか……」
「とっさに、自分の上衣がグレーで、生田さんのズボンと似た色なのを見て、思い付いたのよ。上衣をとりかえて、助けに来た男の役をやろう、と」
「危い|賭《か》けでしたね」
と、運転している大坪が言った。
「でも、成功すれば暴行の罪からも、たぶん殺人罪からも逃げられるんですもの」
「ズボンもかえちゃえば良かったのに」
と、恭子が言った。
「その時間もなかったし、サイズが違ってたんでしょう。──上衣だけなら、そうはっきり分らない。それに、あの暗い場所ですもの。ズボンの方が違っていても、そう目立たない、と思ったのね」
「つまり、佐川はグレーの上衣に黒っぽいズボンだった。生田はたまたま逆に、黒っぽい上衣とグレーのズボンだった……」
「そう。──ともかく、うまく行った。でも、思ってもいなかったのは、殺した相手が、昔の仲間だったこと。それから、マスコミの話題にまでなってしまったこと」
「誰かが、生田の上下が違うことに気付くかもしれない、と」
「心配になると、その不安で、いても立ってもいられなくなり、生田の部屋へ|忍《しの》び込んで、黒っぽい上衣に合うズボンと、ついでによく似た上衣を|盗《ぬす》んだりしたわけ。|却《かえ》って、そんなことするから、気が付いたんだけど」
「小心なもんですよ、犯罪者ってのは」
と、大坪が言った。「──君の家はこの辺?」
「あ、その先です。右へ曲って。──ええ、そこの入口」
「びっくりさせて悪かったね」
車が|停《と》ると、大坪が言った。
「いいえ。──じゃ」
恭子がドアを開けて、外へ出る。
「今夜のことは|内《ない》|緒《しょ》ね」
と、並子が窓を下ろして、言った。
「はい!」
恭子はしっかり肯いて、「あの……一つ訊いていいですか?」
「なあに?」
「お二人、恋人同士なんですか?」
大坪と並子は顔を見合せて真赤になった……。
「──全く、若い子はとんでもないことを考えますね」
と、大坪は車を走らせながら、まだ赤くなっている。
「そうね……」
並子はいやに考え込んでいる。
「あの──西沢さん」
「え?」
「ご心配なく。確かに西沢さんはとても|魅力的《みりょくてき》ですし、もし独身なら、僕だってアタックしてると思いますけど、でも、人妻に手を出してはいけない、と死んだ母に言われてますから」
並子は|呆気《あつけ》にとられ、それからふき出してしまった。
「──ごめんなさい!」
と、並子はやっと笑いをこらえて、「|嬉《うれ》しいわ。そんな心のこもったお言葉を。でも、そうじゃないんです」
「はあ?」
「あの──佐川の所にも女の子がいるんですよ。確か……十歳か十一歳か。もし、お父さんが、|英《えい》|雄《ゆう》なんかでなく、犯人[#「犯人」に傍点]の方だったと知ったら……」
「ああ……。そうですね。しかし──」
「もちろん、真実は明らかにしなくてはね。ただ……」
並子は、ため息をついた。「どうして、あんなことができるのかしら、と思って。──娘を持つ父親なのに」
大坪は|黙《だま》っていた。
車は、夜の団地を|駆《か》け|抜《ぬ》けて行く。
「──大坪さん」
「え?」
「いい結婚をなさって下さいね」
大坪は、ちょっと言葉に|詰《つま》ったようだったが、
「──はい」
と、先生にさとされた学生のように、|肯《うなず》いて答えたのだった。
8
佐川は、|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》った。
しっかりしろ!──やりとげなきゃいけないんだ。
駅前の公衆電話から、家へかける。
「──はい、佐川です」
と、出たのは娘のルリ子。
「お父さんだ。母さんは?」
「今、ちょっと出かけたよ。ご近所だって」
「そうか。何してるんだ?」
「TV見てる」
「|遅《おそ》くまで起きてちゃだめだぞ」
「うん。──お父さん、もう帰るの?」
「まだだ。先に|寝《ね》てろ。分ったな」
「うん。お母さんに言っとく?」
「ああ、|頼《たの》む」
「じゃあね」
「おやすみ……」
その声はルリ子に聞こえただろうか? 切れた電話を、しばらくぼんやり|眺《なが》めていると、
「もういいですか?」
と、後ろで|無《ぶ》|愛《あい》|想《そ》な声がした。
「あ、失礼」
公衆電話にも、五、六人が並んでいる。
佐川は、急いでその場を|離《はな》れた。
雨になりそうな空気だった。|湿《しめ》って、風もある。──駅を出て、|誰《だれ》もが家路を急いでいた。
佐川にとっては|好《こう》|都《つ》|合《ごう》だ。誰も他人のことなんか、構っちゃいないだろう。
佐川は、足早に歩き出した。できるだけ街灯の光の届かない|辺《あた》りを選んで歩いて行く。──もう大分遅いので、すぐに歩いているのは一人になった。
公園。──確か、向うの指定して来た公園は、この先を右へ行って……。
こういう団地の中には、公園が|沢《たく》|山《さん》ある。中には、どの棟からも死角になって見えないものもあり、昼間、親がついて子供を遊ばせることはあっても、子供だけでは決して遊ばせないように、と、地元の警察からも言われていた。
どんな変質者がいるかも分らないからだ。
変質者。──変質者か。
|俺《おれ》は違う。俺はただ──ふっと|魔《ま》がさしただけだ。いつもいつも、そんなことをしていたわけじゃない。
確かに、佐川は、あの少女──田辺恭子に手を出そうとした。しかし、それ以外のいくつかの事件は、何の関係もない。
その分まで、全部生田のやったことにされてしまうのは、気の毒だったが、仕方ない。死んだ人間は、何も感じない。──そうだとも。
俺は生きてる。和代もルリ子も。生きてる人間を守るんだ。何としても、守ってやらなくては……。
──あの日は、どうかしていた。
会社で、いつも親切にしてやっている女の子を、別に何の下心もなく、
「飲みに行くか?」
と、|誘《さそ》ったのだ。
「予定があって──」
と、断られ、佐川は、大して気にもしていなかったのだが……。
夕方、社内のトイレに入ると、女子トイレの話が、|換《かん》|気《き》|扇《せん》の工事をしていたせいか、よく聞こえて来た。佐川の|誘《さそ》った女の子が、
「いやらしい目してさ」
と、|同僚《どうりょう》にしゃべっていた。「自分が誘えば誰でもついて来ると思ってんの、最低ね。大体、自分で思ってるほどもてないんだよね、佐川さんって」
「ねえ。いい|年齢《とし》して、若ぶってるでしょ。相手すんの|疲《つか》れるよね」
三人か四人か……。女の子たちは口々に笑いながら、佐川の悪口を|並《なら》べていた。
もちろん、佐川とて自分をカサノバだとは思っていない。しかし──それなりに気をつかい、何かと相談相手にもなってやっていた女の子から、そこまで言われるとは、思ってもいなかった……。
──飲んでも|酔《よ》えず、帰り道で、くたびれ果てて、休んでいた。
その目の前を、あの少女が通って行ったのである。かげになった石の上に|腰《こし》かけていた佐川には全く気付かずに。
その白い足が、まぶしいくらいに佐川の目を射た。──何も考えずに、佐川は、少女の後を|尾《つ》けていたのだ。
一体どうする気だったのか、自分でもよく分らない。ともかく、|抱《だ》きついて、若々しいしなやかな体を|腕《うで》の中に感じた時、カーッとなってしまった。
そこへ……。
あいつ[#「あいつ」に傍点]が来た。──何てことだ!
生田が通りかかったのも、殴られた|拍子《ひょうし》に石に頭を打ちつけたのも、不運だった。
とっさに|上《うわ》|衣《ぎ》をとりかえて、何とか切り抜けたものの……。今度は「英雄」にまつり上げられてしまった。
|辛《つら》かったのだ。本当に、辛かった。
しかし、|一《いっ》|旦《たん》そうなった以上、その|嘘《うそ》を通すしかないのである。
──公園か。
「確か、ここだな」
佐川は、足を|踏《ふ》み入れ、左右へ目をやった。
人気はない。
ここを指定して来るということは、この団地の誰かだろう。
上衣のことを知っている。ご相談したい……。
金か? ゆする気なのか。
そんな金はない。ともかく、相手を見てからだ。
佐川は、ベンチの一つに腰をおろした。
自分がどうするつもりか、よく分っていなかった。殺すのか? また? そう何度も好運はやって来ないだろう。
それに、生田の時は、|弾《はず》みだったのだ。殺すつもりだったのではない。初めから殺すつもりで……。そんな度胸が、俺にあるだろうか?
──足音がした。
佐川は顔を上げて、やって来た人物を見、そして|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「──和代!」
「あなた……」
和代は、ゆっくりと歩いて来た。「本当だったのね」
「何してるんだ、こんな……」
「夫の服が違ってることぐらい、分らないと思ってたの?」
和代は、ベンチに並んで腰をおろした。
「じゃ、お前は──」
「おかしいと思ったわ。そこへ──安原ってカメラマンから電話が」
「カメラマン? あの殺された?」
「私が殺したのよ」
和代の言葉が、佐川の耳から頭へ届くのに、しばらくかかった。
「何だって?」
「あの人は、あなたがあの晩、駅を出て来るところを、フィルムのためしどりで、うつしてたのよ。ところが、後になって事件の現場へ行き、あなたが警察の人と話してるのを見た。上衣が|違《ちが》ってるようで、首をかしげてたのよ。──そして後になって、その意味を|悟《さと》ったんだわ」
「──すまん」
佐川は頭を垂れた。
「そして|脅迫《きょうはく》して来たの。『お宅のご主人が|英《えい》|雄《ゆう》から一転して、暴行殺人犯になるんですよ』って」
「お前、それで……」
「目に見えてたわ。一度じゃ終らないって。あの人のこと、団地じゃ有名だもの。──少しお金を用意して、覚悟を決めて行ったわ。あの人がお金を数えてる間に、私は背中を|刺《さ》して殺した……」
佐川は真青になっていた。──思ってもいないことだった。
「ルリ子のためよ。何としても|隠《かく》し通さなくちゃ。確かめておく必要があったの。本当にあなたがやったのかどうか」
「それで俺を呼び出したのか」
「ルリ子が聞いたら、大変でしょ」
と、和代は言った。「ここなら、誰もいないし──」
|突《とつ》|然《ぜん》、
「残念ですが」
と、声がした。「そうでもないんですよ」
明かりの下へ出て来たのは、大坪刑事と、並子だった。
「西沢さん……」
と、和代が言った。
「奥さんのことを、ずっと見張っていたんです。──佐川さん、あなたの出来心が、奥さんにまで、人殺しをさせてしまったんです」
佐川は両手で顔を|覆《おお》った。
「お気の毒ですが」
と、大坪は言った。「ゆっくりお話をうかがいたいですね」
「待ってくれ!」
と、佐川は言った。「カメラマンを殺したのもこの俺だ!」
「あなた──」
「何人でも殺してやる! お前らだって!」
佐川がそう|叫《さけ》んだ時だった。
「キャーッ!」
と、叫び声が聞こえて来た。
「あれは?」
と、並子が声のした方へ目を向ける。
「助けて!」
女性の悲鳴だ。
「大坪さん!」
「分りました!」
大坪が|駆《か》け出した。並子も後を追って駆け出す。
暗い道から、若い女性が転るように飛び出して来た。|靴《くつ》も|脱《ぬ》げ、スーツの上衣が|裂《さ》かれている。
「助けて!」
大坪はその女性に抱きつかれて、|一瞬《いっしゅん》よろけた。
追って来た男が、大坪たちを見て、ハッとすると、そのまま、大坪のわきを駆け抜ける。並子は、とっさに相手がナイフを持っているのを見てとっていた。あわててわきへ転ってよける。
犯人はそのまま駆けて行った。
「おい、止れ!」
その前に、佐川が立ちはだかった。
「危い!」
と、並子は叫んだ。「刃物を──」
「待て!」
大坪が、やっと、すがりつく女性を|振《ふ》り|離《はな》して、犯人を追って行った。
「傷は?」
と、政子が訊いた。
「すりむいただけよ」
並子は、|膝《ひざ》のすり傷に、バンソウコウをベタッと|貼《は》った。
竜介が、面白がってポンポン|叩《たた》いている。
「痛い! こら!」
並子が|叱《しか》っても、竜介は平気なもので、タタッと砂場の方へ駆けて行った。
「足どりも、しっかりしたもんね」
と、政子は言った。「すぐにどんどん大きくなる」
「私よりもね」
並子は、首を振って、「不思議なもんね、人間って」
──暖い午後。夕食はゆうべのカレーが残っているので、何もしなくていい。
三人はのんびりと日なたぼっこというところだった。
「佐川さんのとこ、今朝越して行ったわよ」
と、政子が言った。「|挨《あい》|拶《さつ》も何もしないでね」
「仕方ないでしょうね」
並子は|肯《うなず》いた。「ルリ子ちゃんは、奥さんの実家に?」
「そういうことみたい。お父さんのこと……複雑でしょうね」
佐川は「本当の暴行犯」に刺されて、出血多量で、間もなく死んだ。大坪も少しけがをしたが、犯人を|逮《たい》|捕《ほ》した。
──犯人は、一連の犯行を自供し始めているとのことだった。
「あの奥さん、どれくらいの罪になる?」
「さあ……。自供はあっても、|証拠《しょうこ》がね。どうなるか分らないわ」
「|怖《こわ》いわねえ人間って」
と、政子が言った。
「私だって──」
と、並子は言った。「竜介のためなら、人殺しでもするかも」
「並子──」
「そんなことにならないように|祈《いの》ってるわ」
と、並子は|微笑《ほほえ》んだ。
「本当よ。こっちを|狙《ねら》わないでね」
「政子を殺したって、一文の得にもならないわ」
「ひどいこと言って」
と、政子は笑った。
「──どうも」
と、声がして、|振《ふ》り向くと、大坪が立っている。
「あら、おけがの方は?」
「ええ。医者は、|腕《うで》を|吊《つ》ってろ、と言うんですけど、かったるくてね」
と、大坪は笑った。
「まあ。ちゃんと言うことを聞かなきゃ」
と、並子は苦笑した。「私が|可愛《かわい》い包帯をしてあげましょうか?」
「いやいや、結構です」
大坪はあわてて言った。「やあ、元気|一《いっ》|杯《ぱい》だなあ」
竜介が、勢いよく砂をはね上げてキャッキャと笑っている。
「──あのころが一番幸せね」
と、政子が言った。
「そう?」
「並子はどう思う?」
「僕はですね」
と、大坪が口を|挟《はさ》んだ。「お二人とも──もちろん竜介君も、ですが、とても幸せな方々だと思います」
並子と政子は、顔を見合せ、|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。
竜介は、笑い声に振り向くと、キョトンとして、母親たちを|眺《なが》めているのだった……。
こちら、|団《だん》|地《ち》|探《たん》|偵《てい》|局《きょく》 PART2
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年5月11日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『こちら、団地探偵 PART2』平成10年2月25日初版発行
平成10年7月10日再版発行