角川文庫
こちら、団地探偵局
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
第一話 見知らぬ|主《しゅ》|婦《ふ》の|事《じ》|件《けん》
第二話 救急車|愛《あい》|好《こう》|家《か》の|事《じ》|件《けん》
第三話 |素人《しろうと》天文学者の|事《じ》|件《けん》
第四話 |寂《さび》しいクリスマスの|事《じ》|件《けん》
第五話 |優《やさ》しいセールスマンの|事《じ》|件《けん》
第六話 |身《み》|近《ぢか》なスターの|事《じ》|件《けん》
第一話 見知らぬ|主《しゅ》|婦《ふ》の|事《じ》|件《けん》
1
|木《き》|村《むら》|政《まさ》|子《こ》は、|退《たい》|屈《くつ》という名の病気に取りつかれていた。
こんなことを言えば、|亭《てい》|主《しゅ》族からはたちまち、
「退屈がどうして病気だ」
と|抗《こう》|議《ぎ》されるかもしれない。
しかし、こうしてゴロゴロと|寝《ね》|転《ころ》んで、頭が重くて、何をする気にもなれず、TVを見てもさっぱり|面《おも》|白《しろ》くない、となれば、これは|立《りっ》|派《ぱ》な病気である。
何かすればいいではないか、と言われるかもしれないが、習い事をやれば金がかかる。では何か|内職《ないしょく》でも、といえば、政子の夫は、多少|年《ねん》|齢《れい》が|離《はな》れているので、
「|世《せ》|間《けん》|態《てい》が悪いから、何もするな」
と言うのだ。
これではゴロゴロしているしか仕方ないではないか。
木村政子は二十八|歳《さい》で、|秘《ひ》|書《しょ》として|勤《つと》めていた、その当の|上司《じょうし》木村と結ばれて二年になる。|子《こ》|供《ども》はまだなかった。
木村は仕事の|性《せい》|質《しつ》上、朝はゆっくり出社で、十時|頃《ごろ》家を出て行く。その代り帰りはいつも夜、十二時を回っていた。
当然、夕食も外で|済《す》ませて来るので、政子としては、夫を送り出した後、|掃《そう》|除《じ》、|洗《せん》|濯《たく》をしてしまうと、|大《たい》してやることがないのである。
|団《だん》|地《ち》の3LDKは、|二人《ふたり》|暮《ぐら》しには広々している。荷物もそう|沢《たく》|山《さん》はないので、掃除は|却《かえ》って楽である。洗濯も、子供がいなければ、毎日やる必要はない。かくて、毎日が、
「|退《たい》|屈《くつ》で死んじゃう」
ということになるのである。
|趣《しゅ》|味《み》にあれこれと教室へ通うのも悪くはないし、木村も、何かやってみれば、と言ってくれているのだが、政子は、|割《わり》|合《あい》に人見知りの|激《はげ》しい|性《せい》|格《かく》で、学生の|頃《ころ》から、ごく少数の友人たちと親しく付き合って来た|位《くらい》で、クラブ活動とか、何かのサークル、グループに入るのは|苦《にが》|手《て》なのである。
子供でも生まれれば、またあれこれと付き合いも出来るのだろうが、政子はもともとがあまり|社《しゃ》|交《こう》|好《ず》きな方ではなく、結局、
「ああ、退屈だ」
という|結《けつ》|論《ろん》になるのである。
今日も、夫は十時|過《す》ぎに家を出て、掃除をしてしまうと、やっと十一時。
朝が|遅《おそ》いから、午後二時頃でないと、お|腹《なか》が|空《す》いて来ないのだ。
仕方なく、|窓《まど》|際《ぎわ》に|座《すわ》って、ぼんやりと外を|眺《なが》めている。政子の住んでいるのは、四階建の|棟《むね》の二階で、政子たちは|新《しん》|築《ちく》のときに|入居《にゅうきょ》しているから、ずいぶんと|真新《まあたら》しかった。
ここは大きな|団《だん》|地《ち》で――それも|郊《こう》|外《がい》の山を切り|拓《ひら》いた団地だから、緑や|起《き》|伏《ふく》には|富《と》んでいた。
|至《いた》る所に公園や遊び場があって、子供たちが遊び回っている。オフィスビルと|見《み》|間《ま》|違《ちが》えそうな|都《と》|心《しん》の団地とは|大《だい》|分《ぶ》イメージが|違《ちが》って、のんびり、大らかな生活|環境《かんきょう》だった。
ただ都心に出るのに多少時間がかかるのが|唯《ゆい》|一《いつ》の|難《なん》|点《てん》だった。そうでなければ、時々は気晴しに|六《ろっ》|本《ぽん》|木《ぎ》|辺《あた》りにでも出かけるのだが……。
「あら」
と、政子は|呟《つぶや》くように言った。
|丁度《ちょうど》、真向いの棟の三階のベランダが見える。付き合いが広くないので、団地内の|情報《じょうほう》にもあまり明るくない政子だが、あの三階の住人である|柏田《かしわだ》という男のことは耳にしていた。
一日中、家にいて、ほとんど人付き合いもない。もう|年《ねん》|齢《れい》は六十近くらしく、一人住いで、ごくたまに中年の|家《か》|政《せい》|婦《ふ》が通って来ているようだった。
ともかく、変人で近所の人と会っても|挨《あい》|拶《さつ》をしないという|評判《ひょうばん》だが、実は大金持なのだと聞かされて、政子はびっくりした。
もともとこの辺に住んでいた地主で、あちこちの土地を売って、|莫《ばく》|大《だい》な|財《ざい》|産《さん》を作ったらしい。それでいて、家を建てるというようなことに金を使う気はないらしく、この|団《だん》|地《ち》に住んで、|暮《くら》しぶりも決して|派《は》|手《で》ではない。
何しろ|気難《きむずか》しい、変人である、というのが、柏田に関する|一《いっ》|致《ち》した|評価《ひょうか》であった。
その柏田の|部《へ》|屋《や》のベランダを政子は|眺《なが》めて、目を|見《み》|張《は》った。
|若《わか》い女が、オレンジ色の、目も|鮮《あざ》やかなエプロンをして、|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》を|干《ほ》しているのだ。――|誰《だれ》なんだろう?
どう見ても、政子より若い。二十四、五|歳《さい》というところだろう。なかなか美人――というか|可愛《かわい》い感じで、何やら、歌を口ずさみながら、楽しげに働いている。
お手伝いさんか何かかしら?
干している洗濯物を見て、政子は目をパチクリさせた。|男物《おとこもの》の下着や|靴《くつ》|下《した》は当り前だが、女物の下着まで|並《なら》んでいるのだ。
「――ニュースだわ」
と政子は|呟《つぶや》いた。
その日、夕方になって政子はスーパーマーケットへ買物に行った。
ショッピングカーを引いて、ぶらぶらと歩いて行くと、大きなスーパーの|紙袋《かみぶくろ》をかかえて来る若い女性と出会った。――あの、柏田の部屋のベランダにいた|女《じょ》|性《せい》だ。
何となく|視《し》|線《せん》が合って、政子はためらいがちに|会釈《えしゃく》した。
「こんにちは」
と、向うはにっこり笑って|挨《あい》|拶《さつ》する。
「どうも……」
と政子は小さな声で言った。
「お向いの|棟《むね》の方ですね」
と、その女は言った。
「え?」
「|窓《まど》の所に|座《すわ》ってらしたでしょ。見えましたわ」
「そ、そうですか」
「|私《わたくし》、柏田の|家《か》|内《ない》です。まだ参ったばかりで何も分りませんけど、どうぞよろしくお願いします」
「こ、こちらこそ」
政子はあわてて頭を下げた。――相手が行ってしまってから、こっちの名前を言わなかったことに気が付いた。
それから半月が|過《す》ぎて、よく晴れた気持のいい午後、政子は、公園のベンチにぼんやりと座っていた。|砂《すな》|場《ば》では、|子《こ》|供《ども》たちが砂いじりに|夢中《むちゅう》で、親たちはそれを|眺《なが》めながらおしゃべりに|余《よ》|念《ねん》がない。
いかにものんびりして、つい|微《ほほ》|笑《え》みたくなる光景だったが、政子にはどうにも気になることがあって、|笑《わら》いは|浮《う》かんで来なかった。
「まさかねえ……」
と|呟《つぶや》く。
|誰《だれ》かに相談できればいいのだが、政子にはそういう知り合いはいないのだ。|下《へ》|手《た》に近所の|奥《おく》さんにでも|洩《も》らせば、たちまち|妙《みょう》な|噂《うわさ》となって広まるだろう。
政子は立ち上ると、|棟《むね》の間の細い道を歩いて行った。両側は|植《うえ》|込《こ》みがずっと続いている。
ヒョイ、と二つぐらいの男の子が飛び出して来ると、まだ少々|危《あぶ》なっかしい足取りで走って来た。目鼻立ちのはっきりした|可愛《かわい》い子で、気の重い政子も、さすがに笑いかけないわけにはいかなかった。
「|今《こん》|日《にち》は。どこに行くの?」
男の子は前の方を指さして、
「あっち」
と言った。
そこへ、
「こら! |竜介《りゅうすけ》!」
と、声がして、植込みの間から、母親らしい|女《じょ》|性《せい》がヒョッコリ顔を出した。「帰ってらっしゃい!」
「あっち、あっち」
|子《こ》|供《ども》の方は|構《かま》わずにさっさと走って行く。
「竜介! もう――」
母親はスカートをひるがえして、子供の後を追いかけた。
わきをかけ|抜《ぬ》けて行くその母親を見送って政子はまた歩き出したが……。
「まさか――」
と|呟《つぶや》いて、足を止め、|振《ふ》り返った。
「じっとしてろと言ったでしょ!」
子供をヨイコラショと|抱《だ》き上げた母親が、|戻《もど》って来る。「お昼ご飯をやらないわよ!」
「|並《なみ》|子《こ》じゃない?」と政子は声をかけた。
その若い母親は、政子を見つめていたが、
「まあ!――政子!」
「やっぱり並子か!」
「|懐《なつか》しいわね!」
二人は手を取り合って、飛び上った。抱かれている男の子は、振り落とされる|危《き》|険《けん》を感じたのか、あわてて母親の首にしがみついた。
「政子、この|団《だん》|地《ち》に?」
「そこの四階建よ」
「なあんだ。私はこの道の向うの|高《こう》|層《そう》。じゃすぐ近所だったのね」
「いつからここにいるの?」
「これが生まれてすぐよ」
と、男の子を抱き直して、「竜介よ。今、やっと二|歳《さい》」
「あなたに|似《に》てる。ハンサムね」
「サンキュー。どう、時間あったら、うちへ来ない?」
「時間? 山ほどあるわよ」
と、政子は言った。
並子と政子は、高校、大学と|一《いっ》|緒《しょ》の親友同士だった。しかし、並子が在学中にドイツへ|留学《りゅうがく》してしまったり、卒業してすぐ政子が|勤《つと》めたのが地方の会社だったりで、しだいに|疎《そ》|遠《えん》になってしまっていたのである。
「私の|結《けっ》|婚《こん》通知、|届《とど》かなかった?」
と政子は、一緒に歩きながら|訊《き》いた。
「実家の方にあるかもね。ここのとこ、ずっと行ってないの。あなた|姓《せい》は?」
「木村。ありふれてるけど。あなたは何ていったっけ?」
「|西《にし》|沢《ざわ》よ。こっちだってそう|珍《めずら》しい名じゃないわ」
並子は笑って、「さ、七階なんだ」
とエレベーターのボタンを|押《お》した。
3DKの、小ざっぱりした|部《へ》|屋《や》で、政子と並子は、しばらく会わなかった何年間かの時間を、|猛《もう》スピードで|回《かい》|顧《こ》していた。ちょうど、ビデオの早送りみたいなものだ。
並子は、政子から見て、ちっとも変っていなかった。同じ二十八歳だが、二十三、四で|充分《じゅうぶん》通るし、まだ学生っぽい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》さえ残っているのは、|髪《かみ》もごく自然に流して、|化粧《けしょう》っ|気《け》もなく、|肌《はだ》がつややかで|若《わか》|々《わか》しいせいだろう。
「あらあら、静かになったと思ったら……」
と、並子は立って行って、いつの間にか|眠《ねむ》ってしまった竜介にタオルケットをかけてやった。
政子は、並子が母親になっているというのが、何だかまだ信じられない気分だった。
並子は、|美《び》|貌《ぼう》と才知と、|人《ひと》|柄《がら》の良さ、|三拍子揃《さんびょうしそろ》った、|正《まさ》に|珍《めずら》しい|存《そん》|在《ざい》であって、大学時代は|却《かえ》って、男子学生たちは|恐《おそ》れをなして、|誰《だれ》も|近《ちか》|寄《よ》らなかったものである。
「何か変だ」
と、政子は言った。
「何が?」
「並子が|結《けっ》|婚《こん》して子供までいるなんて、さ」
「あら、そう?――私は|結《けっ》|構《こう》楽しんでるわ」
「働いてないの?」
「|翻《ほん》|訳《やく》とかは少しやってるけど、何しろ子供が小さいうちはね。学問はまたやり直せるわ。十年や二十年休んだって、どうってことない」
さすが言う事が|違《ちが》う。
「私はもう|退《たい》|屈《くつ》で死にそうなの」
と、政子は言った。
「|工《く》|夫《ふう》しだいよ。たとえ働きに出なくたって、色々、生活を|面《おも》|白《しろ》くすることはできるわ」
「どうやって? 並子、何かやってるの」
と、政子は身を乗り出した。
「まあね。ちょっとしたこと」
並子はいたずらっぽく|笑《わら》った。|昔《むかし》のままの|笑《え》|顔《がお》だ。親しい友人には、並子は決して冷たい|秀才《しゅうさい》ではなく、結構遊び|上手《じょうず》の、面白い|素《す》|顔《がお》を見せていたのである。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴って、
「ちょっと失礼」
と、並子は立って行った。
客が来て、玄関で立ち話の様子。|洩《も》れて来る|言《こと》|葉《ば》に耳を|傾《かたむ》けていると、
「|謝《しゃ》|礼《れい》が|遅《おそ》くなって――」
「いいんですよ、いつでも」
「で……これでよろしいのかしら」
「ええ、|結《けっ》|構《こう》です」
「でも、色々、お世話になって……」
「|規《き》|定《てい》料金ですから、ご心配なく」
――何をやってるのかしら、と政子は首をかしげた。
|戻《もど》って来た並子へ、
「規定料金って何のこと?」
と|訊《き》く。
「ああ、聞こえた? 私ね――」
と、並子は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「|私《し》|立《りつ》|探《たん》|偵《てい》をやってるの」
|唖《あ》|然《ぜん》としている政子へ、並子は説明した。
「ともかく、家にいるだけじゃ気が|狂《くる》いそうでね。あれこれ考えたけど、|内職《ないしょく》って、ほとんどが手仕事でしょう。|頭《ず》|脳《のう》労働でないと、頭がさびついちゃうからね。そこで思い付いたの。私立探偵。どう? いいアイデアでしょ」
「何をやるの? |浮《うわ》|気《き》の|調査《ちょうさ》とか?」
「|冗談《じょうだん》じゃない!」
と、並子は首を|振《ふ》った。「そんなこと、できっこないでしょ。このおチビさんを連れて。それにそんな調査じゃ、頭脳労働にならないじゃないの」
「じゃ、何をやるの?」
「何でもいいの。どんなささいな|事《じ》|件《けん》でも。お人形の首が|失《な》くなったとか、いつも自転車が置いた場所から動いてるとか。――これだけの|団《だん》|地《ち》よ。何万人という人が住んでる。|奇妙《きみょう》な事件、妙な|謎《なぞ》も、あちこちに|転《ころが》ってるわ。それを|解《かい》|決《けつ》するのが私の仕事。実費プラス三千円の低料金でね。別に|儲《もう》けなくていいんだから」
「|面《おも》|白《しろ》そうね。もう|大《だい》|分《ぶ》前からやってるの?」
「半月とちょっとかな。十|件《けん》くらいは|扱《あつか》ったわ。|結《けっ》|構《こう》楽しいものよ」
政子は、ふと考え|込《こ》んで、
「――ね、今は何か事件を|抱《かか》えてるの?」
と|訊《き》いた。
「今は手が|空《あ》いてるけど。どうして?」
「私が|依《い》|頼《らい》したいの」
と、政子は言った。
2
「あの三階の|部《へ》|屋《や》なの」
と、政子は言った。
「ボール!」
竜介が、持って来たボールを、かけ声と共に放り投げている。
「あの、オレンジのカーテンが引いてある所ね?」
政子の部屋へやって来た並子は、少し大き目のバッグを|肩《かた》から下げていた。その中から、小型の|双眼鏡《そうがんきょう》を取り出すと、|窓《まど》|越《ご》しに、|柏田《かしわだ》の部屋のベランダを|眺《なが》める。
「中で|誰《だれ》か動いてる。――|若《わか》い女の人ね。|奥《おく》さん?」
「そう。まだ二十四ですって。ご|亭《てい》|主《しゅ》は六十|過《す》ぎなのよ」
「それで、私に何を調べてほしいの?」
双眼鏡をおろして、並子は訊いた。「竜介! 本を出しちゃだめ!」
|本《ほん》|棚《だな》から、次々に本を引っ張り出して、ぶちまけている。
「いいのよ、後でしまうから」
と政子は言った。「――実はね、あの人、|奥《おく》さんが二人いるらしいの」
並子は、さほどびっくりした様子もなく、
「|詳《くわ》しく話して」と言った。
三日前のことである。政子は|郵《ゆう》|便《びん》局へ行った帰り、柏田が歩いて来るのに出会った。気むずかし屋で通っていた柏田だが、このところ、若い奥さんが来たせいか、急に|愛《あい》|想《そ》が良くなった、ともっぱらの|評判《ひょうばん》であった。
政子自身は口をきいたこともないのだが、思いがけず、柏田の方から、声をかけて来た。
「どうも、|今《こん》|日《にち》は」
「今日は」
政子は頭を下げた。
「いつも|家《か》|内《ない》の|美《み》|紀《き》が世話になっております」
「いえ、とんでもない」
政子は|戸《と》|惑《まど》った。柏田の夫人の名前を、今初めて聞いたのだ。|言《こと》|葉《ば》を交わしたのは、あのとき一度だけだった。
「たまには、うちにも遊びに来て下さい」
と柏田は言って、「では」
と|肯《うなず》いて行った。
あれが有名な変人のじいさんかしら? 政子は|呆《あっ》|気《け》に取られて見送った。
自分の|棟《むね》の方へ歩いて行くと、ちょうど柏田の若い夫人――美紀が、ゴミの|袋《ふくろ》を手に、ゴミ|容《よう》|器《き》の|並《なら》んだ場所へと歩いて行くのが見えた。
ゴミは|可《か》|燃《ねん》|物《ぶつ》、|不《ふ》|燃《ねん》|物《ぶつ》で分けるようになっている。青い容器に可燃物、オレンジ色の容器は、不燃物と決っていた。
柏田美紀は、オレンジ色の容器のふたを持ち上げて、中へゴミの袋を|押《お》し|込《こ》んだが、
「あ!」
と声を上げて、急いで手を|押《おさ》えた。
遠くから見ていた政子は、ちょっと|迷《まよ》ったが、足を早めて、柏田美紀の方へと|駆《か》け|寄《よ》って行った。
「どうしました?」
「あ……いえ、|大《たい》したことは……」
と、美紀は言ったが、左手でしっかりと右の手をつかんでいて、そこから赤く血が|滴《したた》り落ちている。
「まあ、大変!」
「ちょっと手を|突《つ》っ|込《こ》んだら、ガラスの|破《は》|片《へん》で切ってしまって……」
「手当しなきゃ。|大丈夫《だいじょうぶ》? 帰れますか?」
「ええ、大丈夫です」
だが、かなり|痛《いた》そうにしているので政子は、結局、美紀を|部《へ》|屋《や》まで送って行った。
「――すみません。どうぞ、よろしければ上って下さい」
と、美紀は言った。
「お薬は? どこかしら?」
「その|棚《たな》の上に……。どうもすみません」
美紀は、政子に薬箱を洗面所の方へ運ばせると、「後は自分でやりますから。――どうぞ中へお入りになって下さい」
「そう? じゃ……」
政子は、意外に明るく、すっきりと整理された|居《い》|間《ま》に入り、ソファに|腰《こし》をおろした。
あの柏田の|部《へ》|屋《や》というから、もっと、暗くて|雰《ふん》|囲《い》|気《き》の|異《い》|様《よう》な所かと思っていたのだが、おそらく、美紀が|改《かい》|装《そう》したのだろう。
「――どうも、すみません」
しばらくして、手首に|包《ほう》|帯《たい》をした美紀がやって来た。
「大丈夫?」
「ええ。私って、おっちょこちょいなんですよ」
と、美紀は|笑《え》|顔《がお》で言った。
|紅《こう》|茶《ちゃ》を出されて、しばらく政子は、話し込んだ。やはり、美紀も|若《わか》い話し相手が|欲《ほ》しいのだろう。いったん口を開くと、別に|訊《き》かれもしない内に、あれこれと話をした。
「――そりゃみんな反対でしたわ」
と、美紀は言った。「何しろ、私は二十四、主人はもう六十ですもの」
「でも、今お会いしたけど、お元気そう」
「ええ、とっても。運動でも若い人に負けませんわ、きっと」
「どこでお知り合いに?」
「私、図書館の仕事をしていたんです」
と美紀は紅茶をすすりながら、「あの人から、|大《だい》|分《ぶ》本があって、置き場所に|困《こま》っているので|寄《き》|付《ふ》したいと申し出があって」
「で、あなたが」
「ええ。男の|職員《しょくいん》と二人で、ここへ来たんです。そのとき、とても|珍《めずら》しい本を見付けて」
「あなたの|興味《きょうみ》のある本だったのね?」
「そうなんです。もちろんその本は寄付してもらえません。で、私、|図《ずう》|々《ずう》しかったけど、もう一度|伺《うかが》わせてもらって、この本を読ませていただけませんか、と|頼《たの》んだんです」
「快く承知してくれたわけ?」
「ええ。同じ|趣《しゅ》|味《み》の人間と知って、とても|嬉《うれ》しそうでした。私、次の土曜日に、ここへ来て、ゆっくりと本を見せてもらいました」
「それから近づきになったわけね」
「そうなんです。――二か月ぐらい、ほとんど毎週、土曜、日曜はここで|過《すご》しました。そして、ごく自然に、|彼《かれ》の方から|結《けっ》|婚《こん》してくれと言い出したんです」
「すぐに返事をしたの?」
「ええ。だって……とってもいい人だし、今までにも何人も男の人と|交《こう》|際《さい》はして来ましたけど、彼ほどぴったり来る人はいなかったんです」
「じゃ、|結《けっ》|構《こう》ね」
「もちろん、|年《ねん》|齢《れい》の差とか、気にならないことはありませんでしたけど、気の持ちようで、どうにでもなる、と思ったんです」
「|幸《しあわ》せそうだわ」
「ええ、|後《こう》|悔《かい》していませんわ」
美紀はそう言って|微《ほほ》|笑《え》んだ。
それはいかにも幸せな|若《わか》|妻《づま》の|姿《すがた》で、あれこれと|噂《うわさ》になっている、|財《ざい》|産《さん》目当ての結婚とか、そんな印象を、政子は全く受けなかった。
チュチュッという声がして、小鳥が一羽、飛んで来て、美紀の|肩《かた》に止った。
「まあ、なれてるのね」
「|十姉妹《じゅうしまつ》を|飼《か》ったんです。鳥が|好《す》きなので」
美紀は、その小鳥を指先にのせて、いかにも楽しげであった……。
「――ともかく、そんな|具《ぐ》|合《あい》で、実にいい|雰《ふん》|囲《い》|気《き》だったのよ」
と、政子は言った。
「それで?」
並子は、竜介におせんべいをやって、何とかおとなしくさせようと|奮《ふん》|闘《とう》しながら、「大丈夫、聞いてるから、話して」
「|一昨日《おととい》――つまり、その|翌《よく》|日《じつ》ね、私、午後はまた|暇《ひま》で、ぼんやりしながら、この|窓《まど》から、外を|眺《なが》めてたの。ほら、雨だったでしょう。外へ出る気もしなくてね」
「政子、|昔《むかし》からそうだものね。雨だからって|講《こう》|義《ぎ》さぼったりさ」
「本当だ」
政子はクスッと笑った。「――それでね、見てると、美紀さんがベランダへ出て来たの。雨だけど、|一《いち》|応《おう》|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》を出しているのよね」
「ここのベランダ|幅《はば》があるものね」
「そう。それはいいんだけど……。美紀さんがね、両手の|袖《そで》を、こう、まくり上げてたのよ、つまり、|肘《ひじ》まですっかり出てたわけ」
「それがどうしたの?」
「どっちの手にも、包帯も|傷《きず》|痕《あと》もないのよ」
「何ですって?」
「|確《たし》か、けがしたのは右の手首だったわ。でも、全然、きれいなものなの。あれだけ血が出たのよ。次の日に、すっかりきれいになるなんて、考えられる?」
並子はじっと考え|込《こ》んでいた。|膝《ひざ》に竜介が乗って来るのも気にならない様子で、
「|妙《みょう》な話ね」
と|肯《うなず》く。「|面《おも》|白《しろ》いわ。そういう|事《じ》|件《けん》が、|好《す》きなのよ、私」
目が|輝《かがや》いている。
「|懐《なつか》しい、その顔」
と、政子が言った。
「え?」
「大学時代、|講《こう》|義《ぎ》中に先生に食いついて行くときの並子、その顔だったわよ」
並子は|笑《わら》って、
「それだけ知的|刺《し》|激《げき》に|飢《う》えてるのよ」
「じゃ、引き受けてくれるのね」
「OK。実費プラス三千円よ」
「|旧友《きゅうゆう》よ。|割《わり》|引《び》きして」
「だめ」
「ケチ」
クスクス笑いながら、政子は言った。
チャイムを鳴らすと、ドアが細く開いた。
「|今《こん》|日《にち》は。いただきもののお|菓《か》|子《し》が|余《あま》ったもんだから、またちょっとおしゃべりしようかと思って」
と政子は言った。
チェーンをかけたまま、中から|覗《のぞ》いている顔は、|確《たし》かに美紀のものだったが、ニコリともせずに、「今、お客が来てるの」
と言った。
「あ、そう。じゃ、残念だけど、またね」
ドアがピタリと|閉《と》じる。政子は、|肩《かた》をすくめた。
一階へ降りると、表で並子が竜介を遊ばせていた。
「どうだった?」
「全然だめ。にべもなく追い返されちゃった」
「顔は見た?」
「うん。でも、美紀さんでないとしたら、|一《いち》|卵《らん》|性《せい》|双《そう》|生《せい》|児《じ》かしら。そっくり、うり二つよ」
「そう」
並子は|肯《うなず》いた。
「――|探《たん》|偵《てい》としては、どういう手を打つの?」
並子の|棟《むね》の方へと歩きながら、政子は|訊《き》いた。
「探偵としては、|企業秘密《きぎょうひみつ》よ」
「|本《ほん》|格《かく》的ね」
「私に|任《まか》せて」
と、並子は言った。「ねえ、どう? 今夜はうちで食べない? ご主人、|遅《おそ》いんでしょう」
「でも、|邪《じゃ》|魔《ま》じゃないの」
「うちも、いつも夜中よ。大学の|助教授《じょきょうじゅ》なんて、安月給の|割《わり》に仕事が多いの」
「じゃ、|一《いっ》|緒《しょ》に何か作ろうか」
「話は決った!」
二人は手を打って、|笑《わら》った。
政子は、少なくとも料理に関してだけは、並子より|才《さい》|能《のう》があることを発見して、大いに満足であった。
「今夜は良く食べるわね、竜介」
と、並子は口に入れてやりながら、「少しは味が分るのかな」
「並子、料理の勉強したの?」
「全然。でも|一《いち》|応《おう》主人も死なずに生きてるしね」
並子は平気なものである。「これから毎日作ってくれない?」
「いいけど、高いぞ」
「ひどい友達ねえ!」
並子は笑いながら言った。
「――あら、救急車」
「近いわね」
サイレンの音が、近付いて来た。何しろ|団《だん》|地《ち》の中は音が|反響《はんきょう》するので、どこにいるのかよく分らないが、ともかく近いことは|確《たし》かであった。
「見てみよう」
並子は、ベランダへ出た。「――政子、あなたの|棟《むね》の前よ」
「何かしら?」
「|探《たん》|偵《てい》としては、行ってみることにするわ」
並子は、食べ足りない様子の竜介を|抱《だ》き上げて|玄《げん》|関《かん》へと急いだ。
行ってみると、救急車は、政子の棟でなく、向いの、柏田のいる棟の前に|停《とま》っているのだった。政子は、知った顔の|主《しゅ》|婦《ふ》に、
「どうしたんですか?」
と声をかけた。
「あの人よ」と、声をひそめた返事。
「え?」
「柏田さん。急に|倒《たお》れたんだって」
政子と並子は顔を見合わせた。ちょうど、柏田をのせた|担《たん》|架《か》が運ばれて来る。
竜介はキーキーと声を上げていた。救急車の赤ランプが気に入ったのである。
3
「どんな|具《ぐ》|合《あい》だって?」
と、西沢並子が|訊《き》いた。「――このイチゴ、おかしくなってるわ。いやねえ」
並子は、木村政子と二人で、|団《だん》|地《ち》の中のスーパーで買物をしていた。いや|正《せい》|確《かく》に言うと二人半[#「二人半」に傍点]で、スーパーの店内用のショッピングカーにチョコンと|座《すわ》らされて、キャーキャー声を|張《は》り上げているのは、もちろん並子の一人|息子《むすこ》、竜介である。
「|柏田《かしわだ》さんのこと?」
と政子が言った。「何か|一《いっ》|進《しん》|一《いっ》|退《たい》ってとこらしいわよ」
「どこに入院してるの?」
「|隣《となり》の駅前にあるK大学病院ですって」
「ああ、あそこ。行ったことあるわ」
と、並子が|肯《うなず》く。「――ええと、後は|牛乳《ぎゅうにゅう》だ」
二人は〈乳製品〉のコーナーへと歩いて行った。
「|奥《おく》さんの方はどう?」
と並子が|訊《き》いた。
「ずっと付きっきりのようよ。もともとあのおじいさん、|心《しん》|臓《ぞう》は弱かったらしいけどね」
「でも、ちょっと|妙《みょう》ね。あの美紀って奥さんが、もしかすると別人とすりかわってるかもしれないと|怪《あや》しんだ、その|矢《や》|先《さき》だものね」
「ねえ、並子。本当にあの奥さん――かどうか分んないけど――あの女が殺そうとしたんだと思う?」
「それはこれから調べるのよ。あ、そこのヨーグルト、取って。――サンキュー」
「調べるって、どうやって?」
「ねえ、どこか悪い所ない?」
と、並子はニッコリ|笑《わら》って政子を見た。
「やめてよ!――|至《いた》って健康なんだから!」
「一時的にでもさ、頭が|痛《いた》くなるとか、手が動かなくなるとか、頭が悪くなるとか――」
「それは一時的じゃないわね」
と、政子は言った。「レジ、あっちが早そうよ」
「――それじゃ、|誰《だれ》か知人が入院してるってことにするわ」
「行くの、病院に?」
「そう。ご近所のお|見《み》|舞《まい》って言えばいいんじゃない?」
「でも|面《めん》|会《かい》|謝《しゃ》|絶《ぜつ》だって……」
「行きゃ何とかなるもんよ。――政子、|一《いっ》|緒《しょ》に行くでしょ?」
「もちろんよ!」
「じゃ、タクシーで行こう。タクシー代は、必要|経《けい》|費《ひ》だから、そっち持ちよ」
並子はそう言って、レジの順番が来たので、|財《さい》|布《ふ》を取り出した。
「病人って多いのねえ、この世の中には」
と、政子が感じ入ったように言った。
|総《そう》|合《ごう》病院といっても、そう大きくはない。しかし、内科、|小児《しょうに》科、歯科ぐらいなら|団《だん》|地《ち》の中で|済《す》むのだが、それでだめな病人は、ほとんどがここへやって来る。
|混《こん》|雑《ざつ》も当然なのである。
「ちょっと待って。――竜介、このおばちゃんといなさいね」
並子は、人をかき分けて|姿《すがた》を消した。竜介はいささか|緊張気味《きんちょうぎみ》で、通りかかる|看《かん》|護《ご》|婦《ふ》や医者を見る|度《たび》に、政子の|陰《かげ》に急いで|隠《かく》れている。
きっと注射をされたりした|記《き》|憶《おく》があるのだろう。
「――お待たせ」
と、並子が|戻《もど》って来る。「病室、分ったわ。三階ですって」
「|一人《ひとり》|部《べ》|屋《や》?」
「そうらしいわ。|奥《おく》さんが一人でついてるそうよ。|容《よう》|態《だい》はよくも悪くもないってところらしいわね」
「|誰《だれ》に|訊《き》いたの?」
「看護婦さんよ。知り合いなの」
「へえ、便利ね」
「ちょっと前に|事《じ》|件《けん》を一つ|解《かい》|決《けつ》してあげたことがあってね。何か|頼《たの》むことがあると、やってくれるのよ」
二人プラス竜介の|一《いっ》|行《こう》は、|階《かい》|段《だん》を上って行った。
「あの部屋か」
と、少し|離《はな》れた所で、並子は立ち止まった。「ねえ、政子」
「なに?」
「下へ行ってね、入口の所の|公衆《こうしゅう》電話から、電話一本かけて来てくれない?」
「いいけど。どこへかけるの?」
「この病院」
「ここへ?」
「柏田美紀さんを|呼《よ》び出してほしいの」
「でも――何を話すの?」
「何だっていいじゃないの。それぐらい考えなさいよ!」
「ウーン……。分った。じゃ何とか……」
政子が|渋《しぶ》|々《しぶ》階段を降りて行くと、並子は、取っておきのキャンディーを出して、竜介にやった。これがあると当分はおとなしくしているのである。
少しすると、
「柏田美紀さん、一階受付まで――」
と放送があった。
「こっちへおいで」
と、並子は、竜介の手を|引《ひ》っ|張《ぱ》って、わきへ|隠《かく》れた。
病室のドアが開いて柏田美紀が出て来る。|一《いっ》|旦《たん》エレベーターの方へ歩きかけて、思い返した様子で|足《あし》|早《ばや》に階段へ向った。
「よし、行くわよ」
並子は竜介の手を引いて、|廊《ろう》|下《か》を歩いて行った。ドアには、〈|面《めん》|会《かい》|謝《しゃ》|絶《ぜつ》〉の|札《ふだ》がかかっている。並子はその札を外すと、ちょっと左右を見回して、|足《あし》|下《もと》に落とし、中へ入って行った。
「失礼します……」
と小声で言って、中を見回す。
ベッドでは、柏田老人が、目を|閉《と》じている。並子はそっと近付いて、柏田の顔を|覗《のぞ》き|込《こ》んだ。
柏田の|睫《まつげ》が|小《こ》|刻《きざ》みに|震《ふる》えて、ゆっくり上った。――しばらくは、並子の顔を、ぼんやり|眺《なが》めていた。
「柏田さん……。分りますか?」
と、並子はそっと声をかけてみた。
「……美紀」
と、かすかな|呟《つぶや》きが、柏田の|唇《くちびる》から|洩《も》れる。
「|奥《おく》さんは今、ちょっと出ていますわ」
「美紀……」
「すぐ|戻《もど》って来られますよ」
「あれは……|違《ちが》う」
「え?」
「あれは……違う……」
「何が違うんですか?」
「美紀じゃ……ない」
「美紀さんじゃない?」
並子はハッと体を起こした。あわててベッドから|離《はな》れて、竜介を|抱《だ》き上げる。
ドアが開いて、美紀が立っていた。
「――どなたですか?」
美紀の|表情《ひょうじょう》は|険《けわ》しかった。
「あ、奥さん、ごめんなさい。|私《わたし》、木村さんに|頼《たの》まれて――」
「木村さん?」
「ええ、あなたのお向いの|棟《むね》にいる木村政子さん。ご|存《ぞん》|知《じ》でしょ。柏田さんの|具《ぐ》|合《あい》、どうかしらって気にしてるもんですから。ちょっと、私、今日、用があったので、ついでに聞いて来てあげると言ったんです」
「そうですか」
美紀の|口調《くちょう》は|穏《おだ》やかになったが、目には|警《けい》|戒《かい》の色が|浮《う》かんでいた。
「いかがですか、|具《ぐ》|合《あい》の方は?」
「まだどうにも。|面《めん》|会《かい》|謝《しゃ》|絶《ぜつ》なんですよ、|一《いち》|応《おう》は」
「まあ、それはどうも! すみません。|存《ぞん》じませんでしたわ」
美紀はドアを開けると、|廊《ろう》|下《か》へ出て、
「|札《ふだ》が落っこちてたんだわ」
と拾い上げた。
「ごめんなさい。何も知らなくて。――じゃ、失礼しますわ。どうぞお大事に」
と、並子は|愛《あい》|想《そ》良く|会釈《えしゃく》した。
「わざわざどうも……」
と、美紀の方も頭を下げたが、目は用心深く並子を追っている。
「あの――」
と、歩きかけた並子へ美紀が|呼《よ》びかけた。
「はい」
「お名前を|伺《うかが》わせていただけます?」
「まあ、すみません、私ったら。西沢と申します。お近くの|高《こう》|層《そう》にいるんですの。それじゃ、これで――」
並子は病室のドアが|閉《と》じると、ホッと息をついた。
「さ、降りて歩きなさい」
と竜介を降ろす。
竜介は、つまらなそうな顔で、並子の手を取った。
受付から外へ出ると、政子がやって来た。
「どうだった?」
「もうちょっと引き止めといてくれなきゃ、何も調べられないじゃないの」
「だってえ……。私は|探《たん》|偵《てい》じゃないんだもの」
「それにしたって……。何て言ったの、彼女に?」
「うん……。ちょっとアンケートをお願いしますって。|冗談《じょうだん》じゃないって切られちゃったわ」
「当り前じゃないの!」
並子は笑い出してしまった。「――ね、せっかく出て来たんだから、駅前のデパートに行かない? |早《はや》|目《め》に夕ご飯食べて帰ろうよ」
「|賛《さん》|成《せい》! ご主人|遅《おそ》いの?」
「早くたっていいわ、残り物があるから」
「犬か|猫《ねこ》と|間《ま》|違《ちが》えてんじゃない?」
と、政子は言った。
「それじゃ、やっぱりあれは美紀さんじゃないって?」
と政子は言った。
デパートといっても、スーパーを大きくしたような建物で、その五階が食堂|街《がい》である。竜介は、お子様ランチを|悲《ひ》|劇《げき》的な|状態《じょうたい》に|破《は》|壊《かい》しながら、母親が口へ|押《お》し|込《こ》んだご飯を、目を|白《しろ》|黒《くろ》させながら食べている。
「そう私には聞こえたけど」
と並子は|肯《うなず》いて、「――こら、ちゃんと食べなさい!」
「すると、どうなっちゃうのかしら? あの女が美紀さんそっくりの|偽《にせ》|者《もの》だとすると……柏田さんの命が|危《あぶ》ないわ」
「落ち着いて」
と、並子は言った。「いくら何でも、病院の中で|妙《みょう》な|真《ま》|似《ね》をすれば、自分の首を|絞《し》めるようなもんだわ」
「だけど――」
「私たちにだって、何も|捜《そう》|査《さ》の|権《けん》|限《げん》はないんですもの。勝手に|逮《たい》|捕《ほ》するわけには行かないし。――こら! こぼしたわよ!」
「じゃ、放っとくの?」
「まあ、考えさせてよ。何か手はないかと思ってるんだ……」
と、並子は考え|込《こ》んだ。
「ねえ、並子」
「なあに?」
「ここの|支《し》|払《はら》いも必要|経《けい》|費《ひ》に入るの?」
――二人は|団《だん》|地《ち》へ|戻《もど》った。
「|寄《よ》ってく?」
と政子が|誘《さそ》ったが、並子は、
「一応[#「一応」に傍点]帰っとくわ。もしかして|亭《てい》|主《しゅ》が早く帰って|餓《が》|死《し》してると|困《こま》るからね」
と|笑《わら》って、「じゃ、また明日」
と手を|振《ふ》った。
並子は|高《こう》|層《そう》の|棟《むね》へ入ると、自分の家の|郵《ゆう》|便《びん》|受《うけ》を見た。――何か|封《ふう》|筒《とう》が入っている。
「広告かしら」
ヒョイと手に取って、エレベーターで七階へ上る。夫はまだ帰っていなかった。
「ギューギュー」
と、竜介が言った。
別に|詰《つ》め|込《こ》むわけじゃない。|牛乳《ぎゅうにゅう》のことなのである。
「はいはい、ちょっと待って」
コップを出して、牛乳を入れてやる。竜介が両手で持って飲み出した。
「こぼさないでよ……」
電話が鳴った。並子が受話器を取ると、
「政子よ」
「あら、どうしたの?」
「うちの郵便受にね、手紙が入ってたの」
「手紙?」
「|脅迫状《きょうはくじょう》よ」
「脅迫状?」
並子は、今持って来てテーブルへ放り出した|封《ふう》|筒《とう》を見て、「こっちにも何か来てるわ。見てないけど。――何ですって?」
「〈|余《よ》|計《けい》なことに首を|突《つ》っ|込《こ》むと|危《き》|険《けん》です。|忠告《ちゅうこく》しておきます〉ですって」
「|簡《かん》|単《たん》な文面ね。こっちも見てみるわ。ちょっと待って……」
並子は封筒を開けてみた。中は同じ文面の手紙だ。|角《かく》|張《ば》って、|定規《じょうぎ》で書いたような字である。
「同じものね」
「やっぱり!――ねえ、どうしよう?」
「何よ、|怖《こわ》いの? だらしないわねえ、|探《たん》|偵《てい》のくせに」
「私は探偵じゃないわよ」
「あら、助手じゃない」
と勝手に決めつけておいて、「まあ|大《たい》して気にする必要ないわよ」
「だって……」
「明日、ゆっくり相談しましょ。――あっ、こら!」
並子は、ふっ飛んで行った。竜介が、牛乳をみごとにこぼしていたのである。
4
「――いいお天気ね」
|砂《すな》|場《ば》で、|大《だい》|奮《ふん》|闘《とう》している竜介をベンチに|座《すわ》って|眺《なが》めながら、並子は、やって来る政子に手を上げて言った。
「|呑《のん》|気《き》ねえ」
政子は並んでベンチに座ると、「私、|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》よ」
と目をショボつかせた。
「あら、じゃゆうべはご主人とお楽しみ?」
「|冗談《じょうだん》じゃないわ! 脅迫状が来てるのに。あれが気になって……。夜中にガタッと音がすると飛び起きたりして、ほとんど|眠《ねむ》れなかったのよ」
「まあ、意外と|神《しん》|経《けい》|質《しつ》なのね」
「『意外と』はないでしょ」
「それより|妙《みょう》だと思わない? そりゃ私たちがあの美紀と名乗ってる|女《じょ》|性《せい》のことを|疑《うたが》ってるのは事実よ。でも、それには何の|証拠《しょうこ》もないわけでしょ。こっちだって、|警《けい》|察《さつ》に話を持って行っても、とても取り合ってもらえないに決ってる」
「そうね」
「そこへ、あの脅迫状。あれはちゃんとした形のある証拠だもの。警察だって少しは話を聞いてくれるかもしれないわ」
「そう? じゃ早速――」
「あわてないで。でも、これだけじゃ、警察だって手の打ちようがないに決ってるわ」
「でも……」
「問題は、なぜわざわざこんな証拠を|犯《はん》|人《にん》がくれたのかってことよ」
「――わざとよこしたってこと?」
「そうとしか思えないわね」
と、並子は|肯《うなず》いて、「あ、竜介! だめ! ほら、他の子へ|砂《すな》かけちゃだめってば!」
探偵は|多《た》|忙《ぼう》である。
そろそろ竜介が|昼《ひる》|寝《ね》の時間だというので、政子の|部《へ》|屋《や》へと|一《いっ》|旦《たん》引き上げる。
|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》のシャワーで|汚《よご》れた足を洗ってやると、竜介はもう目をこすり始め、|布《ふ》|団《とん》へ横になると、たちまちスヤスヤと寝入ってしまった。
「いいわねえ、子供って」
政子が|窓《まど》|際《ぎわ》に|腰《こし》をおろして言った。
「生まれたら生まれたで大変よ。どっちもどっちだわ」
と、並子は息をついた。
「――あら。見て!」
「どうしたの?」
「|柏田《かしわだ》さんよ」
|窓《まど》から見下ろすと、タクシーのドアが開いて、柏田美紀が降り立った。そして中から、|杖《つえ》をつきながら、柏田が出て来る。
「|退《たい》|院《いん》したのかしら?」
「電話借りるわね」
並子は、電話でしばらく話してから、|戻《もど》って来た。「――どう?」
「中に|寝《ね》かせてるみたい」
「病院の方じゃ、|責《せき》|任《にん》が持てないって言ったらしいけど、当人がどうしてもって希望したんですって」
「じゃ、|危《あぶ》ないのかしら?」
「すぐにどうという心配はないだろうってことだったわ」
「でも、どうして、わざわざ退院して来たのかしら?」
「そこが問題ね。――しばらくはよく|見《み》|張《は》る必要があるわ」
「私がやるの?」
と政子はしかめっつらで、「助手は手当が出ないの?」
と|訊《き》いた。
その夜は、政子の所で夕食を取った。しばらくおしゃべりして、
「ああ、もうこんな時間。――じゃまた明日ね」
と、並子は竜介を|抱《だ》いて、|玄《げん》|関《かん》を出た。
「バイバイ」
と竜介も手を|振《ふ》る。
並子たちが、政子の|棟《むね》を出て、歩きかけたとき、|激《はげ》しくガラスの|割《わ》れる音がした。
ハッと振り向くと、あの、柏田の|部《へ》|屋《や》あたりらしい。
「並子!」
と、政子が窓から顔を出して|叫《さけ》んだ。「柏田さんが、大変よ!」
「一一〇番へかけて!」
と並子は叫んだ。
ダダッと|階《かい》|段《だん》を|駆《か》け降りて来る音がして、見ると、柏田美紀が飛び出して来た。並子を見るとハッとした様子だったが、すぐに右手の方へと|突《つ》っ走って行く。こういうときは子連れ|探《たん》|偵《てい》の悲しさで、追いかけるわけにいかないのだ。
少しして、政子が足早に降りて来た。
「どうしたの?」
「何だか分らないけど、ガラスの割れる音がして、びっくりして|覗《のぞ》いて見たの。そしたら、柏田さんが|胸《むね》をかきむしるようにして苦しんでるのが見えて……」
「一一〇番した?」
「もちろん。救急車も|頼《たの》んどいたわ」
「|上出来《じょうでき》よ」
並子は|肯《うなず》いて、「さ、行ってみましょ」
「ええ? 上るの?」
「美紀さんは今、|駆《か》け出して行っちゃったわよ。さあ、早く!」
二人は|階《かい》|段《だん》を上って行った。
ドアを開けると、並子は声をかけた。
「柏田さん」
「返事ないわね」
「ちょっと、竜介を|抱《だ》いてて」
「|大丈夫《だいじょうぶ》?」
「平気、平気」
並子は上り込んだ。――政子はいささかおっかなかったけど、やはり、「助手」としては、ついて行くべきだろう、と考えた。
竜介も、政子にはすっかり|馴《な》れている。ヨイショとだっこして、上り込んだ。
「――並子」
「こっちよ」
ベランダへ面した日本間の|畳《たたみ》の上に、柏田が|仰《あお》|向《む》けに|倒《たお》れていた。
並子がその|傍《そば》から立ち上って、言った。
「死んでるわ」
政子は青くなって、
「竜介君……返すわ。失神して、落っことすといけないから」
「|情《なさけ》ないわねえ、探偵の助手が」
並子は|苦笑《くしょう》しながら、竜介を受け取った。「ベランダの方、気をつけて。ガラスが|一《いっ》|杯《ぱい》飛び散ってるから」
「どうしてガラスが割れたのかしら?」
「|植《うえ》|木《き》|鉢《ばち》を投げたようね」
と並子は言った。「ベランダに|転《ころが》ってるわ」
「やっぱり|発《ほっ》|作《さ》かしら」
「それなら、|奥《おく》さんが|逃《に》げるかしら?」
「それじゃ……」
「テーブルに|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》が置いてあるわ。中のお茶を|分《ぶん》|析《せき》した方がいいかもね」
と並子は言った。
外へ出ると、|制《せい》|服《ふく》の|警《けい》|官《かん》がかけつけて来た。見た顔だと思ったら、近くの交番にいる|若《わか》い|巡査《じゅんさ》である。
「やあ、あなたですか」
と、巡査は、並子を見て|微《ほほ》|笑《え》んだ。「また何か|事《じ》|件《けん》で?」
「中で人が死んでます」
「そりゃ大変だ」
巡査はあわてて中へ飛び込んで行った。
「並子、知ってるの、あのお|巡《まわ》りさん?」
「前にもちょっと事件を|解《かい》|決《けつ》してあげたことがあるもんだから。――あの人はね、|片《かた》|平《ひら》さんっていって、気のいい人よ。まだ二十四だもの、若いでしょ」
「|結《けっ》|構《こう》顔が広いのね」
「まあね」
と並子は|肯《うなず》いた。「あ、やっとパトカーと救急車が来た」
サイレンの音が、近づいて来た。
「やっぱり毒が?」
並子は、片平|巡査《じゅんさ》にお茶を出しながら言った。
「や、どうも|恐《おそ》れ入ります。――そうなんです。お茶に入ってたそうです。毒というよりも、|心《しん》|臓《ぞう》に悪い薬といいますかね。しかし、あの人の心臓には|致《ち》|命《めい》的だそうです」
「へえ。それで、美紀さんは?」
「|捜《そう》|索《さく》中ですが、見付かりません」
と、片平巡査は言って、「――これはまだ|秘《ひ》|密《みつ》なんですが……」
と声を低くした。
ここは並子の|部《へ》|屋《や》。そしてもちろん、政子も|一《いっ》|緒《しょ》である。
「調べたところ、やはり美紀には|一《いち》|卵《らん》|性《せい》|双《そう》|生《せい》|児《じ》の姉がいたんです」
「じゃ、やっぱり入れ|替《かわ》ってたのね!」
と政子が言った。
「そのようですね」
と片平が|肯《うなず》く。「姉の方の名は|美《み》|鈴《すず》といって、|大《だい》|分《ぶ》前から|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》になってるんです。というより、|逃《とう》|亡《ぼう》したというべきですかね。|勤《つと》め先の金を持ち|逃《に》げしたらしいですよ。妹の美紀さんや、家族が何とかして|返《へん》|済《さい》すると頭を下げて、|表沙汰《おもてざた》にならなかったらしいんです」
「その姉が、妹の|結《けっ》|婚《こん》を知った。相手は六十の大金持……」
「そこで、妹になりすまして、老人が死んだら、|遺《い》|産《さん》を手に入れようとした。老人は|発《ほっ》|作《さ》を起こした。ところが、|一《いち》|命《めい》を取り止めて、まだ|無《む》|理《り》しなければ大丈夫、と言われた」
「それで殺す決心をしたわけね」
と政子は|肯《うなず》いた。
「ところが、苦しんだ柏田さんが|植《うえ》|木《き》|鉢《ばち》をガラスへぶつけて|割《わ》ってしまったために、こちらの木村さんに見られたと思い、逃げ出してしまったんですね」
「結局、何もかもむだな|骨《ほね》|折《お》りだったってわけですね」
「柏田さんが|亡《な》くなったのは残念でした。もう一つ心配なのは、美紀さんのことです」
「そうか。――ねえ、並子、|彼《かの》|女《じょ》、殺されてるのかしら?」
並子はあまり口をきかなかった。何やら考え込んでいる様子だ。そして、顔を上げると、
「ちょっとあの家へ行ってみましょうよ」
と言った。「うちのチビが|昼《ひる》|寝《ね》から、ちょうど起きたようだしね」
――柏田の|部《へ》|屋《や》の中は、そのままになっていた。
並子は、柏田が|倒《たお》れていた部屋に入ると、割れたガラス|窓《まど》を|眺《なが》めていた。
「何か気になることでも?」
と、片平巡査が|訊《き》いた。
「あの植木鉢ね、外側が土で|汚《よご》れてない?」
「そう言えば……」
片平は、ガラスの|破《は》|片《へん》に気を付けながら、|覗《のぞ》き|込《こ》んだ、「汚れてますね、大分」
「いつも外に置いてあったんじゃないかしら。それを持って投げれば、当然手が汚れるでしょう。でも、柏田さんの手はきれいだったわ」
「本当ですか? しかし――」
政子が、|突《とつ》|然《ぜん》、
「まあ!」
と声を上げた。
|玄《げん》|関《かん》のドアが開いて、美紀が立っていたのだ。――|頬《ほお》が落ちて、今にも|倒《たお》れそうだった。
「美紀さん!」
「木村さん……」
と言ったきり、本当に美紀はその場に|崩《くず》れるように倒れてしまった。
片平があわててダイニングの|椅《い》|子《す》へ運び、水を飲ませると、美紀は気が付いて、息をついた。
「――ありがとう。――|突《とつ》|然《ぜん》、姉から電話があって、会いたいと言ったんです。それで出向いて行くと、いきなり|殴《なぐ》られて気を失い……。今まで、どこか|倉《そう》|庫《こ》のような所に|閉《と》じ|込《こ》められてたんです」
と一気にしゃべる。
「よく|逃《に》げて来たわね」
「三日前ぐらいに姉が来て主人が死んだ、と……。でも、しくじったから逃げなきゃならないと言いました、そして私を置き去りにしたんです。やっと今日になって|窓《まど》がこじ開けられたので……」
「大変だったわね。――さあ、このビスケットでも食べて」
「ありがとう」
水とビスケットで、少し美紀の気分も落ち着いたようだった。ビスケットの一枚を、竜介にやって|微《ほほ》|笑《え》んだ。
片平が、姉の美鈴のことをあれこれと|訊《き》き始める。美紀はしっかりと返事をしていた。
「――まあ、良かったわね、美紀さんだけでも助かって」
と政子が言うと、
「そうね」
と並子は肯いた。「――なあに?」
竜介が、|退《たい》|屈《くつ》したのか、並子のスカートを|引《ひ》っ|張《ぱ》っている。
「もうちょっと待って!――|仕《し》|方《かた》ないわね、そっちの|部《へ》|屋《や》で一人で遊んでなさい」
並子が、竜介を、日本間の方へ|押《お》しやった。
片平と話をしていた美紀が、
「あ、そっちは|危《あぶ》ないわ、ガラスが――」
並子が竜介を|抱《かか》え上げて、
「なぜ知ってるの?」
と、美紀を見た。「ガラスが|割《わ》れてることをなぜ知ってたの?」
「それは――」
「あなたはその部屋には一度も入ってないわ。それなのに、なぜガラスが割れてるのを知ってたの?」
美紀の顔から、血の気がひいていた。並子は続けた。
「美鈴なんて姉さんは、いなかったのよ。|戸《こ》|籍《せき》の上ではいるけれど、どこにいるのか。――あなたは、この政子を|目《もく》|撃《げき》|者《しゃ》に仕立てて、わざとけがをしたふりをして見せたり、|髪《かみ》|型《がた》などで感じを変えて、別人になったように思い込ませた。――柏田さんが、案に|相《そう》|違《い》して長生きしそうなので、早く|遺《い》|産《さん》を手に入れるために、|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》の姉を|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》にしてやろうと思ったのね」
並子は首を|振《ふ》って、「でも、やりすぎだったわよ。本当にすり|替《かわ》ったのなら、少しでも本物に|似《に》せようとするはずだわ。それを、あなたは|疑《ぎ》|惑《わく》を持たれるようなことばかりやっていたもの。|却《かえ》って変だと思ったのよ」
「でも並子、柏田さんも『美紀じゃない』って……」
「『以前の[#「以前の」に傍点]美紀じゃない』っていう意味なのよ、あれは。私もちょっとあれで|迷《まよ》ったけどね」
美紀は、力なくうなだれた。
「|一件落着《いっけんらくちゃく》か」
|暖《あたた》かい|陽《ひ》|射《ざ》しの|砂《すな》|場《ば》で、竜介は砂の山をせっせとこしらえている。政子は、
「ねえ、|警《けい》|察《さつ》からは|感謝状《かんしゃじょう》、来ないの?」
と|訊《き》いた。
「|冗談《じょうだん》じゃない。私は|謎《なぞ》を|解《と》くのが楽しみだからやってるだけよ」
と、並子は言って、|伸《の》びをした。「ああ、|退《たい》|屈《くつ》だ。また何かないかしら。――あ、そうだ。はいこれ」
と紙きれを政子へ|渡《わた》した。
「何なの?」
「|請求書《せいきゅうしょ》。三千円プラス実費のね――。こら、竜介! わざと砂をはね上げないの!」
「ねえ、ちょっと、並子!」
政子はメモを見て、「このビスケット代って何よ? ほとんど竜介君が食べたんじゃないの!――ちょっと、並子ったら!」
|探《たん》|偵《てい》は、|我《わ》が子を追いかけ回すのに必死の様子だった。
第二話 救急車|愛《あい》|好《こう》|家《か》の|事《じ》|件《けん》
1
「さあ、お昼、お昼」
|西《にし》|沢《ざわ》|並《なみ》|子《こ》は、二|歳《さい》になる|子《こ》|供《ども》の|竜介《りゅうすけ》を|抱《だ》いて上って来ると、「|政《まさ》|子《こ》! スパゲッティ、ゆで上った?」
と声をかけた。
「もう二、三分よ」
と|木《き》|村《むら》政子は答えてから、「でも、ミートソースを作らなきゃ」
「|缶《かん》|詰《づめ》が入ってるわ、その|棚《たな》に」
「|無精《ぶしょう》ねえ」
「|能《のう》|率《りつ》的と言ってほしいわ。こら、竜介! 新聞|破《やぶ》っちゃだめ!」
――ここは、|郊《こう》|外《がい》の大|団《だん》|地《ち》。
西沢並子と木村政子は、共に二十八歳で、高校、大学時代からの親友同士である。夫を持つ身となって、二人はこの団地のすぐ近くに住んでいて、|偶《ぐう》|然《ぜん》に|再《さい》|会《かい》。こうして、|互《たが》いに入りびたりの付き合いを続けている。
もっとも、子持ちの並子の方は、|副業《ふくぎょう》として|私《し》|立《りつ》|探《たん》|偵《てい》を非公式に開業しており、まだ子供のいない政子が、いわばワトスン役を引き受けているのだった。
「ワトスン博士がホームズに昼食を作ってやったとは、どこにも書いてなかったけどね」
と、スパゲッティに、|缶《かん》|詰《づめ》のミートソースを|鍋《なべ》で温めたのをかけながら、政子がグチった。
「その代り、政子には医学の|知《ち》|識《しき》なんてないじゃないの。だからこれでいいのよ」
|厳《げん》|密《みつ》なるべき|名《めい》|探《たん》|偵《てい》にしては、いささか|非《ひ》|論《ろん》|理《り》的なセリフを|吐《は》いて、並子は、竜介を|膝《ひざ》の中へ|押《お》し|込《こ》むと、スパゲッティをフーフー|吹《ふ》いてさましながら食べさせ始めた。
「――あ、そうそう。さっき電話があったわよ」と、政子が言った。
「|誰《だれ》から?」
「ええと……|守《もり》|屋《や》さんって人」
「知らないわ」
「何か相談があるんですって」
「じゃ、|依《い》|頼《らい》|人《にん》?」
と、並子はチラッと政子の方を見て、「だけど、いやよ、いつかみたいに、来るなり|泣《な》き出して|亭《てい》|主《しゅ》のグチを二時間も聞かされるのは」
「あれは……だって、私のせいじゃないわ」
「助手は客の選別ぐらいしなきゃ」
|探《たん》|偵《てい》はなかなか|厳《きび》しいのである。
「手当をいただいてませんからね」
と、政子は言い返してやった。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
「きっと|依《い》|頼《らい》|人《にん》よ」
と、政子が立って、玄関へ出る。
「あの……西沢|探《たん》|偵《てい》|事《じ》|務《む》|所《しょ》というのは……」
立っているのは、四十五、六|歳《さい》の、パリッとしたビジネスマンだった。かなり高そうな|背《せ》|広《びろ》、一見して、サン=ローランと分るネクタイ。
見るからに、一流|企業《きぎょう》の社員というイメージである。中身[#「中身」に傍点]の方も、|中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》、メガネがちょっと|年《とし》|寄《よ》りくさいが、まあ「|並《なみ》」の外見というところだった。
「さあどうぞ。――守屋さんですね?」
「そうです。では、ちょっとお|邪《じゃ》|魔《ま》を……」
政子は守屋というその男を|居《い》|間《ま》へ通して、
「ちょっとお待ち下さい」
と、ダイニングキッチンへ|戻《もど》る。
「――今行くわ。ね、竜介をそっちの|部《へ》|屋《や》へやっといて」
「はいはい」
このワトスンは、|子《こ》|守《も》りまでしなくてはならないのだ。
「――お待たせしました」
と、並子が入って行くと、守屋という男はちょっと|呆《あっ》|気《け》に取られていたが、
「お|若《わか》いですね!」
と声を上げた。「いや、|主《しゅ》|婦《ふ》|探《たん》|偵《てい》というお|噂《うわさ》はうかがっていたんですが、もっと中年のおばさんが出て来るのかと思っていましたよ。|驚《おどろ》きました」
「どうも」
と、並子は軽く|肯《うなず》いて見せ、「では、お話をうかがいます」
とソファに|腰《こし》をおろした。
「はあ……。実は、どうにも|困《こま》ったいたずらに|悩《なや》まされていましてね」
「いたずら?」
「ええ。私はこの少し先の七丁目にいるんです。会社は|外《がい》|資《し》|系《けい》のA社で、まあ給料は悪くない。いや、はっきり言って、同年代の|仲《なか》|間《ま》たちより、かなり|収入《しゅうにゅう》は多い方でしょう」
「ご家族は?」
「|妻《つま》と|娘《むすめ》が一人。今、高校一年生です。ところが、いたずらというのは、一週間前のことですが――」
話は|途《と》|切《ぎ》れた。竜介が、オモチャの救急車を手にドタバタと|駆《か》け|込《こ》んで来たのである。
「こら! あっちへ行ってなさい!」
と、並子が|叱《しか》る。
当の竜介は、てんで気にしていない感じで、追って来た政子の手を|逃《のが》れて、ソファの周囲をぐるりと一回りした後、また居間を飛び出して行った。
「どうもお|騒《さわ》がせして」
と、並子は平然と言った。「お話のつづきをどうぞ」
「|可愛《かわい》いお子さんですな。男の子で? いや、可愛い」
と、守屋は子供|好《ず》きらしく、目を細めている。「――ああ、失礼。いや、実は、今お子さんが持って入って来た、オモチャ。実はあれが|頭《ず》|痛《つう》のタネなんですよ」
「オモチャがですか?」
「いや、救急車がです」
と、守屋は言った。
「お父さん」
娘の|和《かず》|美《み》の声で、守屋は目を覚ました。
「何だ、どうした?」
と、まだぼやけた目をこすって起き上る。
「救急車がこの下に|停《とま》ったわ」
「この|棟《むね》に?」
守屋は、|時《と》|計《けい》へ目をやった。一時を少し|過《す》ぎている。ご|多《た》|分《ぶん》に|洩《も》れず深夜族の和美は、まだ起きていたのだ。
母親の|智《とも》|子《こ》は、ぐっすり|寝《ね》|込《こ》むと、まず目が覚めない。今も、平然と|寝《ね》|息《いき》をたてていた。これが、朝になると、目覚まし時計の鳴らない内にパッと目を覚ますのだから、全く|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》という他はない。
「どこかな」
と、守屋は起き上りながら言った。
「さあ、分んないけど。――ほら」
守屋は|窓《まど》のカーテンを開けて、下を|覗《のぞ》いてみた。なるほど、救急車が、この八階建の棟の前に停っている。赤いランプが周囲に照り|映《は》えていた。
|担《たん》|架《か》を持った救急隊員が二人、中へ|駆《か》け込んで来る。
「本当に病人かなあ」
と、和美は何だか、楽しんでいるような口ぶりである。
「おいおい」
と、守屋はたしなめて、「――ともかく、うちじゃないことだけは|確《たし》かだよ。さあ、|寝《ね》るぞ。和美、お前ももう、寝た方がいいんじゃないのか?」
「|結《けっ》|果《か》を|見《み》|届《とど》けなきゃ」
と和美は|張《は》り切っている。「だって、親しくしている家だったら、やっぱり放っとけないじゃない?」
それも|理《り》|屈《くつ》だ。
「和美、お前が見ててくれ。|俺《おれ》はもう寝るぞ。明日寝不足じゃ――」
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが、あわただしく鳴った。守屋と和美は顔を見合わせた。チャイムがもう一度鳴る。守屋は玄関へ出て行った。ドアを開けると、白衣の救急隊員が立っていて、
「けが人は?」
と、中へ入って来る。
「あの――何のご用ですか?」
守屋は|呆《あっ》|気《け》に取られて、言った。
「足を|骨《こっ》|折《せつ》したのはどなたです?」
「骨折?」
守屋は目を|丸《まる》くした。「うちじゃありません! どこか他のお|宅《たく》でしょう」
「変だな。ここは守屋さんでしょう?」
「そうですが……」
隊員が表に出て、|表札《ひょうさつ》を|確《たし》かめる。
「ちゃんと合ってるよ。変だなあ」
「あの――どういう|通《つう》|報《ほう》が?」
「いや、家族が足を|骨《こっ》|折《せつ》したので、すぐ来てくれと……」
「うちの者は|誰《だれ》も骨折なんかしていません」
「そうですか。――この|棟《むね》に、他に守屋って家はありますか」
「いいえ、うちだけのはずですが」
「じゃ、やっぱりここですね。変だな。――ま、きっと誰かのいたずらでしょう」
「|性質《たち》の悪いいたずらですね」
「全くです。しかし、中には|妙《みょう》な人もいますからね。どうも、お|騒《さわ》がせしました」
「いや、ご|苦《く》|労《ろう》|様《さま》です」
と、守屋は、救急隊員を送り出して、ドアを|閉《し》めた。
「お父さん」
と、和美が顔を|覗《のぞ》かせている。
「聞いたか」
「うん。気持悪いね」
「全くだ。――別に人に|恨《うら》まれたり、|憎《にく》まれたりした覚えはないのにな」
「お父さん、どこかの|奥《おく》さんに手出したんじゃないの?」
「|馬《ば》|鹿《か》!」
守屋がにらみつけると、和美はキャッキャと|笑《わら》って|逃《に》げて行った。
「あなた、どうしたの?」
|妻《つま》の智子が起き出して来た。
守屋が話をすると、智子はちょっと|眉《まゆ》をひそめて、
「いやねえ。変な人がいるから、用心しなきゃ……」
と|呟《つぶや》いて、|寝《しん》|室《しつ》の方へ|戻《もど》って行った。
守屋は、手洗いへ|寄《よ》ってから、寝室へ入って、|布《ふ》|団《とん》に|潜《もぐ》り|込《こ》んだが、
「――あなた」
と、|眠《ねむ》っていると思っていた智子が、声をかけて来た。
「何だ?」
「|昨日《きのう》ね、やっぱり救急車が来たのよ」
「何だって?」
守屋はびっくりして起き上った。
「ただのいたずらだと思って|黙《だま》っていたけど。――昨日の昼間」
「うちへ? 何だっていうんだ?」
「通報があったんですって、あなたが|発《ほっ》|作《さ》を起こして|倒《たお》れたって」
「そんな……。そうか、それでお前、昨日会社へ電話して来たんだな? |大《たい》した用でもないのに、|妙《みょう》だなと思ったよ」
「ごめんなさい。でも、何だか不安で……」
「そりゃそうだ。しかし、ふざけた|奴《やつ》だ、全く!」
「心当りはない?」
「ないよ。別に|喧《けん》|嘩《か》もしないし……。放っとく他はないだろうな」
「そうね」
と、智子は言った。「もう寝るわ」
「ああ」
少し間を置いて、守屋は、「和美には気をつけるように言っといた方がいいな」
と言った。
「それは|確《たし》かに|悪《あく》|質《しつ》ですね」
と、並子は言った。
「いや、それだけじゃないのです」
「するとまだ続いたんですか?」
「それ以来、|毎《まい》|晩《ばん》です」
「それはひどいですね」
と、並子は|座《すわ》り直した。
「|熱《ねっ》|湯《とう》をひっくり返してやけどをしたとか、ガラスの|破《は》|片《へん》で手を切ったとか、色々言っているらしいのです」
「一一九番の方でも――」
「ええ、|訊《き》いてみたのですが、女の声で、ひどく取り|乱《みだ》した様子でかかって来るらしいのです」
「女の声……」
「通報があれば、|一《いち》|応《おう》救急車を出さないわけにもいかないらしく、あちらも困っているようです」
「時間的には何時|頃《ごろ》ですか」
「大体夜中の一時か二時ですね」
「それは大変ですね」
と、並子は|同情《どうじょう》するように言った。
ただでさえ、静かな|団《だん》|地《ち》の庭には、救急車のサイレンは|響《ひび》くのだ。同じ|棟《むね》に住む人々には、さぞ|迷《めい》|惑《わく》だろう。
「近所の人にも気がねでしてね」
と、守屋はため息をついた。
「分りますわ。うちの子の|夜《よ》|泣《な》きでも、ずいぶん気をつかったものです。ましてや、サイレンとなると……」
「うちが、わざと|呼《よ》んでるんじゃないかと言う人までいましてね。全く|腹《はら》が立ちますよ」
並子は少し考え込んでから、
「女の声とおっしゃいましたね」
「ええ」
「心当りはありませんか。おたくへ、いやがらせをしそうな人……」
「あれば問い|詰《つ》めてやるのですがね」
と守屋は言って、「どうも、|漠《ばく》|然《ぜん》とした話を持ち込んで申し|訳《わけ》ありませんね」
「いいえ、そのための|探《たん》|偵《てい》ですもの。はっきり相手が分れば、|警《けい》|察《さつ》へ|訴《うった》えることもできますものね」
「しかし、調べようがないでしょう」
並子は、ちょっと|天井《てんじょう》へ目を向けて、
「ないこともありません」
と言った。
「本当ですか? どうやって?」
と、守屋が身を乗り出す。
「それは残念ですが、お教えできません。|企業上《きぎょうじょう》の|秘《ひ》|密《みつ》です」
「ああ、これは失礼。――では、調べていただけるんですね?」
「お引き受けします。すぐに|結《けっ》|果《か》が出るとは思えませんが」
「いや、時間はかかっても、ぜひ見つけて、とっちめてやりたいんです。ぜひお願いしますよ」
と、守屋は言って、帰って行った。
――やっと|昼《ひる》|寝《ね》した竜介が起きないように、並子は低い声で、政子に守屋の話をくり返してやった。
「へえ、それはずいぶんしつこいわね。でも、どうやって調べるの?」
と、政子が|訊《き》く。
「調べようがないわよ」
と並子はあっさり言った。
「だって……引き受けたんでしょ?」
「そうよ」
「じゃ、どうするの?」
「|情報収集《じょうほうしゅうしゅう》」
「どこで?」
「守屋さんのことを調べるのよ」
「その当人を|疑《うたが》ってるの? |狂言《きょうげん》じゃないか、とか?」
「分らないわ。でもね、あの人は、きっと何か他の目的[#「他の目的」に傍点]があってここへ来たのよ。そう思うわ」
並子は立ち上って、「政子、|得《とく》|意《い》のおしゃべりで、守屋さんの|評判《ひょうばん》を聞いて来てちょうだい。|頼《たの》むわよ」
「OK。|任《まか》しといて」
色々と|文《もん》|句《く》は言いながら、政子も、|探偵稼業《たんていかぎょう》が|好《す》きなのである。早速|玄《げん》|関《かん》の方へと出て行くと、並子が追いかけて来た。
「ねえ、ちょっと待って」
「なあに?」
「ついでにゴミ|捨《す》ててって」
探偵は人づかいが荒いのである。
2
「ともかく、評判はいいわね」
と政子は言った。
「ご主人も|奥《おく》さんも?」
並子は、|逃《に》げ回る竜介をつかまえては、口にご飯を入れながら言った。
「うん。――奥さんの方は、|地《じ》|味《み》な人みたいね。あんまり外へ出ないというか。でも、みんなに変人とか言われるほどじゃないらしいわ」
「例の救急車の|件《けん》はどう? 知れ|渡《わた》ってる?」
「みんな知ってたわよ。でも、それで|迷《めい》|惑《わく》だとか、そんな|文《もん》|句《く》言う人はいなかったなあ」
「ありがとう。ご苦労さん」
と並子はニッコリ|笑《わら》った。「あなたも|大《だい》|分《ぶ》社交|上手《じょうず》になったわね」
「この商売のおかげよ」
と、政子は笑った。「本当に、毎日が|充実《じゅうじつ》してるの。うちの|亭《てい》|主《しゅ》も、私がすごく|浮《う》き|浮《う》きして来たって言ってたわ」
「それなら当分|無給《むきゅう》でいいわね」
と、並子は言った。
|政《まさ》|子《こ》は|言《こと》|葉《ば》がなかった。それから|苦笑《くしょう》すると、
「あ、そうだ。一人だけ、ちょっと|違《ちが》うこと言った人がいるわ」
「|誰《だれ》?」
「名前は……ええと……」
政子はメモを取り出し、「|寺《てら》|野《の》|英《えい》|子《こ》、という|奥《おく》さん」
「その人はどう言ったの?」
「|中華《ちゅうか》料理の店でラーメン食べながら、二、三人の奥さんたちの話を聞いてたんだけど、そのときに|隣《となり》のテーブルから声をかけて来てね――」
「守屋さんは|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》よ」
と、その|主《しゅ》|婦《ふ》は急に言った。
話をしていた主婦たちは顔を見合わせた。
「それは――どういう意味ですか?」
と政子は|訊《き》いた。
「どうって、その通りの意味よ」
三十代の|半《なか》ばか、|割《わり》|合《あい》に見すぼらしい|恰《かっ》|好《こう》をした、ちょっと|陰《いん》|気《き》くさい印象の|女《じょ》|性《せい》であった。
「じゃ、何か|恨《うら》まれるようなことが?」
「あるのよ、きっと。大体、女ぐせの悪いタイプよ、あれは」
「ご|存《ぞん》|知《じ》なんですか?」
「ちょっとね。――私の親しかった奥さんが守屋さんにつきまとわれて|困《こま》ってたことがあるもの。本当よ」
「そうですか。じゃ今度のも?」
「火遊びのつもりが、女の方が|夢中《むちゅう》になる。|怖《こわ》くなって別れると、女の方は|可愛《かわい》さ|余《あま》って|憎《にく》さ百倍の口よ。決ってるわ」
「その、知り合いの奥さんがもしかして――」
「あの人はとっくに|越《こ》しちゃったわよ。今さらそんな|真《ま》|似《ね》もしないでしょ」
「だけど、|毎《まい》|晩《ばん》救急車を|呼《よ》ぶなんて、怖いですね」
と他の|主《しゅ》|婦《ふ》の一人が言った。
「そうね、何か|異常《いじょう》なものを感じるわ」
と他の面々が|肯《うなず》く。
「女の恨みって怖いものよ」
|隣《となり》のテーブルの主婦は、そう言って、席を立った。――そして店を出て行く。
「あの方は?」
と、政子は言った。
「寺野さんっていうの。すぐそこの|棟《むね》に住んでるのよ。ちょっと変ってて、今度の救急車の件でも、年中|文《もん》|句《く》言ってるわ」
「そうですか」
と、政子は|肯《うなず》く。
――あの女性は調べてみよう、と思った。
「で、調べたのね?」
と|探《たん》|偵《てい》が|訊《き》く。
「うん。名前は寺野英子。家も見付けて来たわ」
「|上出来《じょうでき》」
と、並子は|肯《うなず》いて、「他に聞き込みは?」
「寺野英子は|子《こ》|供《ども》がなくて、|旦《だん》|那《な》はひどく|遅《おそ》いらしいの、帰りが」
「それは有望ね」
と並子は肯く。「ねえ、考えてごらんなさいよ、いつも一時か二時|頃《ごろ》、救急車が来るってことは、かけてる人間も[#「かけてる人間も」に傍点]、いつも起きてるってことでしょう?」
「そうか」
「|一人《ひとり》|暮《ぐら》しか、それとも|亭《てい》|主《しゅ》の帰りが遅いか、どっちかしか考えられないものね」
「じゃ、やっぱり寺野英子が――」
「そう決めつけるのは早いわ」
「どうするの、次の|手《しゅ》|段《だん》は?」
「|強制捜査《きょうせいそうさ》に持ち込む力はないからね、こちらには。ただその女と、あの守屋さんの間に何か関係があったかどうか、探る他はないと思うわ」
「|監《かん》|視《し》する?」
「|誰《だれ》を?――寺野英子を? 夜中まで|双眼鏡《そうがんきょう》で|覗《のぞ》く気? こっちが取っ|捕《つか》まるわよ。まあ見てなさいよ」
「ただ見てるの?」
政子はつまらなそうに言った。
「|主《しゅ》|婦《ふ》|探《たん》|偵《てい》の力には|限《げん》|界《かい》があるもの。その代り、|辛《しん》|抱《ぼう》強く待つことはできるわ」
と、並子は、一口食べてはどこかへ行ってしまう竜介を追い回しながら、「――少なくとも母親探偵の方はね」
と言った。
並子が、|乳母車《うばぐるま》に竜介を乗せて、買物へ出ると、政子は一人|留《る》|守《す》|番《ばん》。
時間を持て|余《あま》している身である。――横になっている間に、ついウトウトとし始めた。
チャイムが鳴って、目を覚ます。
「はい……」
と|玄《げん》|関《かん》へ出てみると、落ち着いた感じの主婦が立っていた。
「あの……|探《たん》|偵《てい》さんの|事《じ》|務《む》|所《しょ》というのはこちらでしょうか?」
「はあ。――今、当人出かけてますけど、どうぞ、お上り下さい」
まあ|眠《ねむ》|気《け》ざましにちょうどいいや、政子は、その主婦を|居《い》|間《ま》へ上げて、お茶を|濃《こ》い目にいれて出した。どっちかというと、自分のためである。
「ええと……私は助手なんですけど」
と、政子は言って、「――|無給《むきゅう》ですが」
と付け加えた。
「私、守屋と申します」
守屋? どこかで聞いた名ね、と政子は首をひねった。
「あ!」
と声を上げた。「じゃ、|毎《まい》|晩《ばん》救急車が|駆《か》けつけて来るという――」
「どうしてそれをご|存《ぞん》|知《じ》ですの?」
と、その主婦は|面《めん》|食《く》らっている。
「|智《とも》|子《こ》さんですね」
「はい」
「ご主人が相談にみえたんです」
「主人が?――そうでしたか」
と智子は|肯《うなず》いて、「こちらのことを話題にしておりましたので」
「そうですか。もう|調査《ちょうさ》にかかっていますので、ご安心下さい」
と少々大きく出た。ま、PRも大事だからね。
「それで何か分りましたでしょうか?」
政子は、ちょっとためらったが、|一《いち》|応《おう》|探《たん》|偵《てい》の助手なんだからと、自分を|励《はげ》まして、
「ええと……ご主人に|恨《うら》みを|抱《いだ》いているような人の心当りは?」
と|訊《き》いてみた。
「それが何とも――」
「|奥《おく》さんもですか」
「はあ」
「これは――たとえばの話ですが、ご主人が親しくしていた女性などは、いませんか」
智子は別に|怒《おこ》った風でもなく、
「あの人、そんなにもてませんわ」
と|笑《わら》った。
「ええと……寺野英子という人をご|存《ぞん》|知《じ》ですか?」
「寺野……。ええ、寺野さんなら。寺野さんがやっているとおっしゃるんですか?」
「いえ、そうじゃありませんが、あまりおたくのことを快く思われていないようでしたので」
「あの人が……」
智子は顔をこわばらせ、「それなら――でも、分らないこともないわ」
と、|独《ひと》り|言《ごと》のように|呟《つぶや》く。
「あの、別にこれは具体的な|証拠《しょうこ》があって言っているのではありませんから」
と、政子は、ちょっとあわてて言った。
「分っております。――あの、これで失礼しますわ」
と、智子は急に席を立った。「じゃ、よろしくお願いします」
あわただしく帰って行ってしまう。
「あの――|奥《おく》さん――」
政子は|呼《よ》び止めようとしたが、もう守屋智子の|姿《すがた》はなかった。「参ったな……」
と、呟いた。せめて、並子が|戻《もど》るまでいてくれりゃいいのに……。
三十分ほどして、並子がフウフウ息を切らしながら戻って来たが、政子は、何となく守屋智子のことを言い|辛《づら》くなってしまった。
「さあ、夕ご飯の|仕《し》|度《たく》!」
と、並子が|威《い》|勢《せい》良く言って、政子も、つい言わずじまいになってしまったのだ。
次の日は|上天気《じょうてんき》で、竜介を|砂《すな》|場《ば》で遊ばせながら、|傍《そば》のベンチで二人が|座《すわ》っていると、顔見知りの|奥《おく》さんがやって来た。二人とも|同《どう》|年《ねん》|輩《ぱい》の|若《わか》い母親である。
「ゆうべ大変だったのよ」
と開口一番、気をそそるようにしゃべり出す。
「何かあったの?」
と、並子が|訊《き》いた。
「あのね、ほら救急車|騒《さわ》ぎ、知ってる? |毎《まい》|晩《ばん》、守屋さんってとこへ救急車が来るの」
「ええ。それが――」
「ゆうべも来たの。そしたらね、守屋さんのご主人が頭へ来たらしくて、寺野さんのところへ|怒《ど》|鳴《な》り|込《こ》んだのよ」
政子は青くなった。自分がしゃべってしまったせいではないか!
「それで?」
と並子が|促《うなが》す。
「相手のご主人もちょうど帰って来たところでね、言いがかりはやめろ、って|怒《おこ》って……。結局、|大《おお》|喧《げん》|嘩《か》。周囲の人も止めようにも|怖《こわ》くて手が出なかったって」
「で、どうなったの?」
「二人とも打ち身、|捻《ねん》|挫《ざ》なんかで病院行きよ。ちょうど来てた救急車で運んだんですって」
と、その奥さんは|笑《わら》い出した。
政子としては、笑い事ではない。
「それだけじゃないの」
「まだあるの?」
「ついさっきね、スーパーの前で、守屋さんと寺野さんの|奥《おく》さん同士がバッタリ!」
「まさかまた|大《だい》|乱《らん》|闘《とう》?」
「|似《に》たようなもんね。どっちかがどっちかにわざとぶつかったのよ。買物の|袋《ふくろ》が落ちて、|卵《たまご》が全部|割《わ》れる、トマトは|踏《ふ》みつける、それがズルッと|滑《すべ》って引っくり返る……。もう|黒《くろ》|山《やま》の人だかり」
政子はため息をついた。――|絶《ぜつ》|望《ぼう》的な気分である。
「で結着はついたの?」
「何となく、ののしり合いながら別れたようよ。見物人はがっかりしてたけどね」
と、クスクス笑った。「見りゃ良かったのに」
「そうね」
と、並子は|肩《かた》をすくめた。「残念だわ」
二人になると、並子は、
「変ね。どうして守屋さんが、寺野英子のことを知ったんだろ?」
と言った。
「あの……」
「やっぱり心当りがあったのよ」
と、並子は|肯《うなず》く。「守屋さんに会って、もう一度話を聞く他はないわね」
政子は、知らないよ、と言うように、天を|仰《あお》いだ。
3
|名《めい》|探《たん》|偵《てい》も人間である。
ましてや、二|歳《さい》の子供までいるとあっては時には不本意ながら探偵活動を|中断《ちゅうだん》せざるを|得《え》なくなることだって起こるのだ。
|毎《まい》|晩《ばん》、|連《れん》|絡《らく》もしないのに救急車がやって来るという|事《じ》|件《けん》も、西沢並子の二歳になる|息子《むすこ》、竜介が|風《か》|邪《ぜ》をひいて熱を出してしまったので、|調査《ちょうさ》は中断しなければならなくなったのである。
「こんにちは!」
木村政子は並子の家の|玄《げん》|関《かん》から上りながら、声をかけた。
「オネーチャン!」
と、かん高い声がして、竜介がドタドタと|駆《か》け出して来る。
「竜介君! もう良くなったの? よかったねえ」
政子は竜介をヒョイとかかえ上げて、|居《い》|間《ま》へ入って行った。「――すっかり元気になってよかったじゃない、並子」
と見ると、名探偵はソファにぐったりと横になっていた。
「どうしたの?」
「どうもこうも……。竜介が治ったら、こっちが|看病疲《かんびょうづか》れでダウンよ」
「しっかりしなさいよ、探偵さんが」
と政子が|笑《わら》った。
「コーヒー|淹《い》れてよ。それから竜介のグラタン、|冷《れい》|凍《とう》食品でいいから。それから|晩《ばん》ご飯の|仕《し》|度《たく》と、お|風《ふ》|呂《ろ》の|掃《そう》|除《じ》と――」
「ちょっとちょっと。私にも|一《いち》|応《おう》|亭《てい》|主《しゅ》はいるのよ。|忘《わす》れないで」
「いいじゃない。助手でしょ。それぐらいやんなさい」
人づかいの荒い探偵だ。――政子は、グラタンをオーブントースターへ放り|込《こ》み、コーヒーメーカーでコーヒーを淹れながら、
「例の守屋さんとこの|事《じ》|件《けん》だけどさ、やっぱり|犯《はん》|人《にん》は寺野英子だったようよ」
「救急車の一件? どうして分ったの?」
「この間、守屋さんの|奥《おく》さんと寺野英子がスーパーの前で|喧《けん》|嘩《か》したでしょ。あれから、救急車が来なくなったんですって。二、三日前に守屋さんが私にお礼言ってたわ」
「どうしてあなたに?」
「商店|街《がい》の所で会ったのよ。たまたま」
「でも、こっちは何もしてないじゃないの。今回の事件に|限《かぎ》っては、まるで役に立たなかったわね」
並子が、マガジンラックから|雑《ざっ》|誌《し》を引っ|張《ぱ》り出している竜介を止めに飛んで行った。
政子の方は、ちょっと|咳《せき》|払《ばら》い。守屋の|妻《つま》、智子に、寺野英子が|怪《あや》しいと|匂《にお》わせたのは他ならぬ政子である。並子には知られちゃならないんだ、|絶《ぜっ》|対《たい》に!
コーヒーを飲み終えると、探偵も|大《だい》|分《ぶ》元気を取り|戻《もど》して、久しぶりに買物に行こうかと言い出した。出かける|仕《し》|度《たく》をしていると、|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
セールスマンか何かかもしれない、とインタホンで|訊《き》くと、
「寺野と申します。ご相談したいことがありまして――」
と男の声。
政子と並子は顔を見合わせる。
「――あの[#「あの」に傍点]寺野かしら?」
「さあね。ともかく入っていただきましょ」
と、並子は言った。
「じゃ、いたずら電話は、|奥《おく》さんではないとおっしゃるんですね」
と、並子は|訊《き》いた。
「|絶《ぜっ》|対《たい》です。それなのに――|噂《うわさ》というやつは|一《いっ》|旦《たん》広がると止めることができません。おかげで、|家《か》|内《ない》はノイローゼ|気《ぎ》|味《み》だし、ご近所から|妙《みょう》な目で見られて、その内、この|団《だん》|地《ち》に住んでいられなくなるかもしれません」
寺野は、エリートビジネスマン風の守屋とは対照的に、少々くたびれた|万《まん》|年《ねん》|平《ひら》|社《しゃ》|員《いん》|風《ふう》のサラリーマンだった。くたびれているのは、今度の事件のせいでもあるのかもしれない。
「奥さんは守屋さんのお|宅《たく》と|仲《なか》が悪いんですか?」
「英子は、|確《たし》かに少々変り者です。人付き合いが悪いというのか……|下《へ》|手《た》なんですね。ともかく人と話をしていると|笑《わら》われるんじゃないかとか、そんな|恐怖《きょうふ》感に|捉《とら》われるらしくて、結局人を|避《さ》けるようになるんです。でも本当は気の弱い、おとなしい女なんですよ。だから――」
「そんないたずらをするはずはない、と……」
「決して、ひいき[#「ひいき」に傍点]して言ってるんじゃありません」
「すると何かはっきりした事実[#「事実」に傍点]があるんですね?」
「私は仕事で、いつも帰りは|遅《おそ》いんですが、その代り、日曜でなく、木曜日が休みなんです。だから、この前、やっぱり救急車|騒《さわ》ぎがあった木曜日の|晩《ばん》は、ずっと起きていたんです。英子は|眠《ねむ》っていて、電話などかけませんでしたよ」
竜介が|珍《めずら》しくおとなしく、|奥《おく》の|部《へ》|屋《や》で遊んでいる。――政子は並子の顔を見た。
何といっても、第三者の|証言《しょうげん》ではない。夫の証言では、あまり信用するわけにはいかないだろう。
「寺野さん」
少し考えてから、並子は言った。「あなたがそうやって、わざわざ起きていたのは、やはり奥さんを|疑《うたが》っておいでだったからですね?」
寺野はちょっと|詰《つ》まった。
「それは――」
と言ったきり|黙《だま》り|込《こ》んでしまった。
並子の方も、じっと|押《お》し黙っている。両方で、|根《こん》|競《くら》べをやっているようなものだった。
「――分りました」
寺野はため息をついて、言った。「|確《たし》かに私も、もしかしたら英子がやっているのかもしれないと思ったのです」
「理由を聞かせていただけませんか」
「実は……人のことを、あれこれ悪く言うのはいやなのですが、あの守屋さんという人はよく近くの奥さんたちにちょっかいを出すんです。まあ見かけはパリッとしたインテリ風ですし、名の知れた一流|企業《きぎょう》に|勤《つと》めているし、ちょっと|渋《しぶ》い、いい男ですからね。奥さんたちの気をひくんでしょう」
「するとお|宅《たく》の奥さんも?」
「いや、親しい奥さんに相談されて、もうつきまとわないでくれと守屋さんへ話しに行ったことがあるのです」
「それで?」
「守屋さんは|大《おお》|笑《わら》いして、向うがこっちを追い回してるんですよ、と答えたそうなんです。――|女房《にょうぼう》はカッとして、そうさせるのは、あなたにも|責《せき》|任《にん》があると言ってやったらしいんですが、そうしたら、守屋さんは、ガラッと人が変ったように|怖《こわ》い顔になって、そんな話を他人へしたら、ただじゃおかない、とおどしつけたそうです」
「それで、守屋さんの所とは|険《けん》|悪《あく》に――」
「というより、まるで付き合わないようにしていましたね」
「しかし、それならむしろいやがらせをするのは守屋さんの方でしょうね。お宅の奥様はそんなことをする理由がありません」
「そうですとも!」
寺野は|嬉《うれ》しそうに|肯《うなず》いて、「――どうか、ぜひともいたずら電話の|真《しん》|犯《はん》|人《にん》を見付けて下さい! そうでないと、英子は本当にノイローゼになってしまいます」
並子は少し考えていたが、
「分りました」
と肯いた。「やってみましょう」
「ありがたい! 何とかお願いします」
寺野は何度も頭を下げて、帰って行った。
「――どう思う?」
と並子は政子へ言った。
「ご主人としては、自分の|妻《つま》がやったことだとは信じたくないでしょうね」
「それはもちろんね。でも……」
「何か考えがあるの?」
「気になってるのは、守屋さんが、なぜいたずら電話の主を、寺野さんの奥さんだと思ったか、なのよ」
政子はあわてて並子から目をそらした。
「そ、それがそんなに重要なことなの?」
「そうよ。そこが分れば、この事件も先が見えて来るんだけど……」
そう言われると、政子は、ますます、それを守屋智子に|洩《も》らしたのが自分だとは、言いにくくなってしまった。
「こらっ!」
並子が|叫《さけ》んだので、政子はギョッとして飛び上った。――が、並子は奥の|部《へ》|屋《や》へと飛び込んで行ったのだった。
「おとなしくしてると思ったら、もう……」
竜介が、並子の本に、サインペンで|前《ぜん》|衛《えい》|絵《かい》|画《が》を|描《か》いているところだったのである。
「あて[#「あて」に傍点]にならないんだから、もう……」
ブツブツ言いながら、政子は、夜中の二時|過《す》ぎに、スーパーの前の|郵《ゆう》|便《びん》ポストへと急いでいた。
|団《だん》|地《ち》の中は夜中でも明るいから、そう心配はないのだが、それにしても、もちろん人っ子一人いない。あまり気持のいいものではなかった。
急ぎの手紙を、|今朝《けさ》夫に|頼《たの》んでおいたのだが、気軽に引き受けてくれた代りに気軽に|忘《わす》れられてしまい、ともかく|明日《あす》の朝一番の集配に間に合うように、こうして夜中に家を出て来たのである。
ポストへ手紙を放り込み、さて急いで帰ろう、と歩き出して、急に|人《ひと》|影《かげ》に気付いて、悲鳴を上げそうになった。
が、それは、やはりどこかの|主《しゅ》|婦《ふ》で、トコトコとサンダルの音をひびかせて、歩いて行く。――こんな時間にどこへ行くのかしら、と政子は思ったが、自分だってこうして出て来ているのだ。ヒョイと|肩《かた》をすくめて歩き出し、
「あれは、もしかして……」
と|振《ふ》り向く。
もう、その主婦の|姿《すがた》は見えなかった。――遠くからだから、はっきりしないが、あれはひょっとして、寺野英子ではなかっただろうか?
気にはなったが、政子の方ももう夜中に散歩するという|趣《しゅ》|味《み》はない。また家の方へと歩き出した。だが、十歩と行かない内に、後ろから走って来る足音に気付いて、足を止めた。
「おい! 英子! 待てよ!」
あの声は――やっぱりそうだ。
「寺野さん。どうなさったんですか?」
「あ――こりゃ、あの|探《たん》|偵《てい》さんの所でお会いした方ですね」
寺野は息を切らして、「すみません。後ろ|姿《すがた》で、つい|女房《にょうぼう》と|勘《かん》|違《ちが》いして」
「奥さんがどうなさったんですか?」
「いや……家をフラッと出て行ったんです。このところまたぼんやりすることが多くて、気になってたんですが。――今、|風《ふ》|呂《ろ》から上ってみると、どこにも姿が見えないものですから」
「もしかして、ついそこで見かけたのが奥さんかもしれません。あっちへ歩いて行きましたけど」
「そうですか! いや、すみませんでした」
と、寺野は|駆《か》け出して行く。
政子はちょっとためらったが、探偵助手という立場、そして、少々寺野への後ろめたい気持も手伝って、急いで寺野を追って走り出した。
「――いませんね」
寺野は、道が分れた所まで来て足を止めた。
「寺野さんはそっちを。私、この道を行ってみます」
「すみません、本当に」
いいえ、と政子は|肯《うなず》くより早く、走り出していた。
それにしても……。まだ、そう遠くは行っていないはずである。
これだけ追いかけて姿も見えないなんて……。政子は足を止め、
「そうだ! もしかしたら――」
と|呟《つぶや》いた。
その道から、|階《かい》|段《だん》で下がると、車の通れない遊歩道があり、小さな公園に通じている。あそこかもしれない。
政子は、少し道を|戻《もど》って、階段を|駆《か》け降りた。いつもなら、暗くなってからは通らない道だが、探偵助手となると|度胸《どきょう》も|大《だい》|分《ぶ》|違《ちが》うらしい。
公園の入口まで来て、政子は|肩《かた》で息をしながら立ち止った。――公園の中も、もちろん照明はあって、|物《ぶっ》|騒《そう》な印象はないのだが、人がいないだけに、|却《かえ》って明るいと気味が悪いようだ。
「――寺野さん」
と、政子は|呼《よ》んでみた。「寺野さんの|奥《おく》さん! いませんか!」
公園の中へ入って、ぐるりと見回し、どうやら考え違いだったらしい、と息をついて……。
「キャッ!」
と声を上げた。
公園を囲む木の中の、一番大きな木の枝から、寺野英子がぶら下がって|揺《ゆ》れていた。
「寺野さん!」
メリメリッと音がして、|枝《えだ》が折れた。寺野英子の体がドサッと音を立てて落ちた。
いつもの|砂《すな》|場《ば》へ、並子が、竜介と、砂遊び用の道具を入れたバケツを手にやって来た。ベンチに|座《すわ》っていた政子は、いつもと|違《ちが》ってニコリともしない。
「おはよう」
並子の方はいつもの通り声をかけ、「ゆうべは|大《おお》|手《て》|柄《がら》だったって? 聞いたわよ。寺野さんの|奥《おく》さん、|大《たい》したことなくて|済《す》みそうじゃないの。助手のくせに|探《たん》|偵《てい》を出しぬくとはけしからんぞ」
と|笑《え》|顔《がお》で言った。
「うるさいわね!」
政子がヒステリックに|怒《ど》|鳴《な》ったので、並子は目を|丸《まる》くした。
「どうしたのよ、政子?」
政子は|深《ふか》|々《ぶか》と息をついて、
「ごめん」
と言った。「|正直《しょうじき》に言うわ」
「何を?」
「私のせいなのよ。私が、寺野さんの奥さんが|怪《あや》しい、って守屋さんの奥さんにしゃべっちゃったの」
「――どういうこと?」
政子が、並子の|留守中《るすちゅう》に守屋智子が|訪《たず》ねて来たことから話をすると、
「なるほどね」
と並子は|肯《うなず》いた。
「だから、寺野英子さんがあんなことになったのは、私のせいなの」
「そう自分を|責《せ》めちゃいけないわ」
と、並子は言った。「まあ、|探《たん》|偵《てい》助手として、少々|軽《けい》|率《そつ》ではあったけど、寺野英子をあそこまで追いつめたのは、本当に[#「本当に」に傍点]いたずら電話をかけた人間なのよ。そこを|間《ま》|違《ちが》えちゃいけないわ」
政子は、ちょっと間を置いて、
「それを聞いて救われたわ」
と|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「でしょ? だから、今夜のおかず、少し回してよ、ね?」
名探偵も|主《しゅ》|婦《ふ》を|兼《か》ねると、少々せこい[#「せこい」に傍点]ことを言い出すのはやむを|得《え》ないのである。
4
「今日は|卵《たまご》が安かったのね」
と、守屋智子はスーパーの中を歩きながら|呟《つぶや》いた。
全く正直なもので、その日の安売りの品は、大体午前中になくなってしまう。安いといったって、せいぜいいつもと三十円、四十円くらいしか|違《ちが》わないのだが、それでも今夜は卵料理の|並《なら》ぶ家が多いことだろう。
それで、ちょっと親しい|奥《おく》さんとでも出会うと、コーヒー、一|杯《ぱい》三百円|也《なり》の出費は平気である。
それが|主《しゅ》|婦《ふ》の心理というものなのだ。
智子も、まだ卵はあったけれど、やはり買っておこうという|誘《ゆう》|惑《わく》に|逆《さか》らえなかった。
「Mでいいわ」
と手に取る。「――あ、ごめんなさい」
|振《ふ》り向こうとして、|誰《だれ》かにぶつかりそうになった。
「いや、こっちこそ」
男の声だった。顔を見合わせて、二人は、
「あ――」
と短く声を上げた。
寺野だった。――智子も、もちろん寺野英子のことは知っている。入院していて、夫が会社を長期|欠《けっ》|勤《きん》して、|看病《かんびょう》に当っているとも聞いていた。
|奥《おく》|様《さま》の|具《ぐ》|合《あい》はいかがですか? 早く良くなられるといいですね。
そう言いたかった。しかし、|実《じっ》|際《さい》には、何も言わずに、|逃《に》げるように歩き出してしまっていた。
スーパーを出て、智子は、ここで寺野英子とやり合ったことを思い出した。
「もう終ったんだわ」
智子は歩き出した。――|途中《とちゅう》、小さな広場で、足を止め、ベンチに|腰《こし》をおろした。
|一《いっ》|緒《しょ》に|座《すわ》っているのは、ベビーカーに、二つぐらいの男の子を乗せた、若い|主《しゅ》|婦《ふ》だった。
男の子がぐっすり|眠《ねむ》ってしまっているので、一休み、というところらしい。
智子は、その子の|寝《ね》|顔《がお》を見て|微《ほほ》|笑《え》んだ。子供は|無《む》|邪《じゃ》|気《き》でいい。本当に……。
「守屋さんですね」
その若い母親が急に言い出したので、智子はびっくりした。
「はい」
「西沢並子といいます」
「西沢……。ああ、あの|探《たん》|偵《てい》をやっていらっしゃる――」
「いつかは|留《る》|守《す》をしていて失礼しました」
「いいえ。もう一人の方には、色々とお世話になって」
「私も一度ぜひお目にかかりたかったんですの」
「まあ、何かご用でしょうか?――あ、そうだわ。|伺《うかが》っただけで、お礼もお|払《はら》いしておりませんでしたわね。ついうっかりしていて――」
「いいえ、そんなことではありません」
と並子は|遮《さえぎ》って、「本当のことを話し合いたかったんです」
「本当のこと?」
「いつも救急車を|呼《よ》んでいたのが、|奥《おく》さん、あなただった、ということです」
「――何をおっしゃるんです」
しばらくして、やっと智子は言った。
「大体、最初からおかしいと思っていたんです」
並子は、竜介の乗ったベビーカーをゆっくりと前後へ動かしながら言った。「――ご主人は、エリートで、一流|企業《きぎょう》に|勤《つと》めるビジネスマンです。たとえ何か問題が起こったからといって、そう|簡《かん》|単《たん》に他人に|頼《たよ》るはずがありません。よほど、手に負えなくなれば、|警《けい》|察《さつ》へでも行かれるかもしれない。でも、|間《ま》|違《ちが》っても私みたいな|素人《しろうと》の|主《しゅ》|婦《ふ》|探《たん》|偵《てい》の所へおいでにはなりません。だから、初めから、ご主人が相談にみえたのは、他に何か理由があるのだ、と思っていました」
「他の理由?」
「ご主人が求めておられたのは、|誰《だれ》か、その|罪《つみ》を着せるのに|適《てき》|当《とう》な人間を、自分以外の[#「自分以外の」に傍点]人間の手で見付けさせることだったんです」
「――分りませんわ」
「いいですか。ご主人がもし本気で、いたずら電話の|犯《はん》|人《にん》を探させる気なら、警察へ行ったでしょう。そうしなかったのは、自分で見付けるつもりだったからか、でなければ、犯人を知っていたからです」
智子は何も言わなかった。並子は続けた。
「ところがご主人は私の所へみえた。つまり自分で見付けるつもりではなかったのです。ということは、すでに|犯《はん》|人《にん》を知っていたということになります。では、なぜその犯人をすぐにとっちめてやらなかったか? そうしなかったのは、つまりできなかったからです。自分の|身《み》|近《ぢか》の人間だったからと考えていいと思います」
「ではなぜ――」
「いいですか。ご主人としては、誰かのいたずらで|迷《めい》|惑《わく》しているということにせざるを|得《え》なかった。近所へ迷惑をかけているのが、|他《ほか》ならぬ自分の家族ということになれば、ここにいられなくなるかもしれないし、会社にも知れるかもしれない。それはエリートであるご主人としては|絶《ぜっ》|対《たい》に|堪《た》えられないことでしょう」
「でも、だからってなぜあなたの所へ?」
「いいですか。ご主人が犯人を|捜《さが》そうともしないのでは、周囲から、|疑《ぎ》|惑《わく》を|招《まね》くばかりです。現に、お|宅《たく》がわざと呼んでいるのじゃないかと言っている人もあったそうじゃありませんか。――ご主人としては、急いで〈犯人〉を見付ける必要があったのです」
並子は、竜介の頭を少し動かして直してやった。「――しかし、自分が|勝《かっ》|手《て》に|誰《だれ》かを名指ししても、|却《かえ》ってやぶへびになる心配もある。一番いいのは、他の人間に犯人を捜させることです。たとえ|間《ま》|違《ちが》っていたと分っても、それでご主人が|責《せ》められることはない。――そこでご主人は私の所へみえたんです。たまたま私の助手が、寺野英子さんがお宅のことを悪く言っているのを聞いて来て、それをあなたへお話ししました。あなたはご主人に話し、ご主人は、|正《まさ》に|絶《ぜっ》|好《こう》の身代りを見付けたわけです」
「じゃ、あの人は何もしていないとおっしゃるんですか」
「もちろんですよ」
と並子は|肯《うなず》いた。「しつこくいやがらせの電話をかけるような人が、近所から白い目で見られるくらいで、自殺しようなどと考えるはずがありません。――そう思いませんか?」
智子は答えなかった。
「寺野さんは気の毒でした」
並子は立ち上った。「あの人の名を出したのは、私の|責《せき》|任《にん》です。本当なら、このまま|総《すべ》て|忘《わす》れてしまいたいのですけど、やはり寺野さんの|汚《お》|名《めい》はそそがなくてはなりません」
「待って下さい――」
「奥さんにはお分りのはずですわ。本当のことを、勇気を持って見つめて下さい」
並子は一礼して、「失礼します」
と、歩き出した。
ベビーカーの上では、竜介がやっと目を覚ましていた。
守屋は、目を開いた。――|時《と》|計《けい》を見る。そろそろ一時になろうとしていた。
このところ、一時になると目を覚ますくせがついていた。そっと|隣《となり》の智子の方をうかがう。
いつもの通り、智子は、深い|眠《ねむ》りに入っているようだった。――|羨《うらやま》しい、と守屋は思った。
|布《ふ》|団《とん》から、そっと|抜《ぬ》け出すと、|廊《ろう》|下《か》へ出る|襖《ふすま》をごく細く開け、その前に|座《すわ》り込んだ。
二時まで何もなければ|大丈夫《だいじょうぶ》なのだが……。守屋は|欠伸《あくび》をした。|段《だん》|々《だん》、この|張《は》り番も|辛《つら》くなって来ていた。しかし、まだ|危《あぶ》ない。安心し切ることはできなかった。
早く時間がたたないか、と守屋は時計を何度も見ていた。
――つい、ウトウトしたらしい。
守屋はハッと目を開いた。ジーッ、ジーッとダイヤルの回る音がする。
「もしもし、急病人なんです。すぐ救急車を――」
守屋は廊下へ飛び出して行くと、電話へ飛びつくようにして切った。
「|馬《ば》|鹿《か》! 今かけたらどうなるか分らんのか! 寺野の|女房《にょうぼう》はまだ入院中なんだぞ!」
と、守屋は言った。
それから、|娘《むすめ》の和美の手から受話器を取った。
「――もう|寝《ね》るんだ」
「お父さん……」
「分らないのか。|俺《おれ》の立場がどうなるか。会社だってクビになるかもしれんのだぞ!」
和美は|黙《だま》って、自分の|部《へ》|屋《や》へ|戻《もど》って行った。――また、ロックだか何かを、ヘッドホンで聞くのだろう。
「あなた」
と声がした。
智子が、立っていた。
「起きてたのか……」
「和美だったんですね、あの電話は」
守屋は|深《ふか》|々《ぶか》と息をついて、
「|部《へ》|屋《や》へ入って話そう」
と言った。
「あの子はなぜ……」
「分らん。――医者にも相談してみたが、たぶん、友達が少なすぎるんじゃないかと言われた。それに、何かコンプレックスがあって、人の注意をひきたい、何かやってみたいと……」
「知っていて、なぜ私に教えてくれなかったの!」
守屋は|唇《くちびる》をなめた。
「|黙《だま》っているんだ。このまま、あの寺野の|女房《にょうぼう》がやったことにしておけば――」
「それで問題が|解《かい》|決《けつ》するんですか!」
智子は、夫を|押《お》しのけるようにして、娘の部屋へと歩いて行った。ドアを開けると、|机《つくえ》の前に|座《すわ》って、両耳をヘッドホンで|覆《おお》った娘の後ろ|姿《すがた》が見えた。
「和美」
と、智子は呼んだ。「お話があるのよ。――和美」
その声は、まるで娘に|届《とど》かないようだった……。
「――|守《もり》|屋《や》さんの娘さん、|神《しん》|経《けい》科に通ってるんですってよ」
と、政子が言った。
「そう。それが一番よ。――こら、早く食べろ!」
|並《なみ》|子《こ》は、|逃《に》げ回る竜介に、|汗《あせ》だくで昼食の肉まんを食べさせていた。
「入院しなくて|済《す》んだんだから、|大《たい》したことないんでしょ」
政子は、パクリと肉まんにかみついた。「ムグ……アチチ。――でも、並子、母親の方が|犯《はん》|人《にん》だと思ってたんでしょ?」
「|違《ちが》うわよ。娘だろうって|見《けん》|当《とう》ついてたわ」
「どうして?」
「守屋さん自身が話してたじゃない。|奥《おく》さんは一度|寝《ね》ると朝まで起きないって。でも娘の方は夜中まで起きてる。――|身《み》|近《ぢか》に犯人がいるとなれば、娘の他いないわ」
「じゃ、なぜ母親にそう言わなかったの?」
「言えばどう出て来る? 娘をかばおうとするわ。だから、わざとああ言ったのよ。それであの人には通じるはずだと思ったの」
「なるほどね。――寺野さんの|奥《おく》さん、どうなのかしら?」
「|昨日《きのう》、ご主人がみえたわ。もうすぐ|退《たい》|院《いん》できるって」
「良かったわね!」
「お礼を言って帰ってったわ。ほら、そこのクッキーの|缶《かん》、そのときの手みやげ」
「あ、これ? 私も助手として半分もらう|権《けん》|利《り》あるわね」
「今回はしくじったから、だめ」
「ケチ! 三分の一ぐらいいいじゃない。今日、お客が来るのよ」
「安くしとくわよ」
「あ、並子ったら、それでも友達なの? 大体私に給料一銭も|払《はら》わないで――」
二人の話は、探偵と助手という立場から、すでに二人の|主《しゅ》|婦《ふ》へと|移《うつ》りつつあった。
第三話 |素人《しろうと》天文学者の|事《じ》|件《けん》
1
「星がきれいね」
と、|木《き》|村《むら》|政《まさ》|子《こ》は言った。「秋の夜らしくなって……。空気が|澄《す》んでて、こんなに星が良く見えるってのは、こういう|郊《こう》|外《がい》の|団《だん》|地《ち》に住むメリットだものね」
「うちの|亭《てい》|主《しゅ》は、星の顔なんか見たくもないんじゃない? 近い方がいいって言ってるわ、いつも」
政子とは高校、大学時代からの親友同士である|西《にし》|沢《ざわ》|並《なみ》|子《こ》はそう言って|笑《わら》った。「――あ、こら! |竜介《りゅうすけ》! |触《さわ》っちゃだめ!」
政子と同じ二十八|歳《さい》の|主《しゅ》|婦《ふ》とはいえ、並子の方は二歳の竜介がいるので、星を|眺《なが》めてロマンチックに|感傷《かんしょう》に|浸《ひた》っているわけにもいかない。
二人とも、その郊外の大団地に住み、近所同士、年中入りびたりで、亭主と|一《いっ》|緒《しょ》の時間よりもよほど長いという|有《あり》|様《さま》である。
一つには、並子が|私《し》|立《りつ》|探《たん》|偵《てい》|事《じ》|務《む》|所《しょ》を|自《じ》|宅《たく》で開いていて――もちろん|無《む》|認《にん》|可《か》であるが、あくまで金のためでなく、ともすれば|錆《さ》びつきそうな頭に油をさすのが目的なのである――そのワトスン役を政子がつとめているというせいもあった。
「秋になると、|事《じ》|件《けん》も|減《へ》るんじゃない?」と政子が言った。
「どうして?」
「だって、夏は暑さでイライラして、まともな人でもちっとはおかしくなるじゃない? でも、こんなにいい季節になれば、さ――」
並子は頭を|振《ふ》って、
「それは|違《ちが》うよワトスン君」
と言った。「そりゃ|変《へん》|質《しつ》|者《しゃ》とか、その手の人間はそうかもしれないけど、|私《わたし》の所へやって来るのは、ごく|普《ふ》|通《つう》の人たちよ。そういう人たちが追いつめられて、ささやかな|罪《つみ》を|犯《おか》すのは秋なのよ」
「どうして?」
「夏は|行《こう》|楽《らく》、旅行。|子《こ》|供《ども》は夏休みで、毎日家にいる。――|普《ふ》|段《だん》なら、前の日の残りもので昼をすませる母親も、子供が家にいると、ちゃんと作らなきゃならない」
「つまり、お金がかかる」
「その通り。――夏はお金が出て行く一方なのよ」
「そりゃそうね」
「そのツケは秋に回って来るわ。サラリーマンにとって、十二月のボーナスまでの間は、一番苦しい時期なのよ」
「なるほどね」
「それでいて、秋は行事が多いわ。運動会、遠足、ピアノの発表会……」
「それにも金が出ていくってわけね」
「そういう|精《せい》|神《しん》的なストレスが一番たまるのは秋なのよ」
と、並子は言った。
「|服《ふく》|装《そう》だって、夏みたいに|簡《かん》|単《たん》にはいかないものね。それこそピアノの発表会なんかだと、どれを着ていくか。他の|奥《おく》さんたちとの|衣装比《いしょうくら》べになっちゃう……」
「だから大変なのよ。――秋は気持いいけど、|懐《ふところ》の方は北風が|吹《ふ》き|抜《ぬ》けるってわけね」
「うちなんか|呑《のん》|気《き》な方ね。でも、それならそれで、この|探《たん》|偵《てい》|事《じ》|務《む》|所《しょ》は|繁盛《はんじょう》するんじゃない?」
「さあね。そればっかりは、|千客万来《せんきゃくばんらい》って喜ぶわけにはいかないし……」
と、並子が言ったとき、|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。「――あら、主人かしら。こんなに早いなんて」
インタホンのボタンを|押《お》すと、
「あの――ちょっとご相談が」
と、|女《じょ》|性《せい》の声がした。
「お客らしいじゃない?」
と、政子は言った。「精神的ストレスの口かしら」
入って来たのは、二十四、五の若い|女《じょ》|性《せい》だった。おずおずと、|小林《こばやし》|真《ま》|佐《さ》|子《こ》と名乗った。
「――で、ご相談というのは?」
並子が|主《しゅ》|婦《ふ》から|探《たん》|偵《てい》に頭を切り|換《か》えて、言った。もっとも、母親の方は切り換えるわけにはいかず、時々竜介がドタドタと|駆《か》け|込《こ》んで来るのである。
「あの――実は主人のことなんです」
と、小林真佐子は言った。
「|予《あらかじ》めお|断《ことわ》りしておきますけど、|浮《うわ》|気《き》の|調査《ちょうさ》とか、そういう仕事はやってませんから――」
「ええ、それは承知しております。そうじゃないんですの。いえ、そうじゃないと思うんですけど」
「どうぞ、はっきりおっしゃってみて下さい。|秘《ひ》|密《みつ》は守りますから」
「はあ……」
「あなた、まだ|寝《ね》ないの?」
小林真佐子は、ベランダに出ている夫へ声をかけた。
「うん。|今日《きょう》は空気がきれいなんだ。|昨日《きのう》は雨だったからな。もう少し起きてるよ」
「そう。――でも、あんまり|遅《おそ》くなると体に毒よ」
「分ってる。先に寝ててくれ」
夫の小林|裕《ゆう》|一《いち》は、ちょっと|苛《いら》|々《いら》した|口調《くちょう》で言った。
真佐子は、|寝《しん》|室《しつ》へ入って、ベッドに|潜《もぐ》り|込《こ》んだ。――もう十二時近くになるが、目が|冴《さ》えて|眠《ねむ》れなかった。
小林と|結《けっ》|婚《こん》して一年になる。――|年《ねん》|齢《れい》が五|歳《さい》|違《ちが》いで、三十を|過《す》ぎた小林は、もう、多少|髪《かみ》が|薄《うす》くなりかけていた。
仕事はそう|忙《いそが》しいわけでもない。毎日、大体七時半|頃《ごろ》には帰って来るし、朝も七時半に家を出て、|出張《しゅっちょう》もない。単調な日々ではあったが、それなりに真佐子は満足していた。
|子《こ》|供《ども》が|欲《ほ》しいとも思ったが、まだ一、二年のんびりと二人きりの生活を楽しみたいという気もした。それからでも|遅《おそ》くはない。
だから、|新《しん》|婚《こん》ホヤホヤにしては、夫があまり夜の生活に積極的でないのも、ある意味ではありがたかったのだ。|妊《にん》|娠《しん》の|可《か》|能《のう》|性《せい》が少なくなるからである。しかし、それも|程《てい》|度《ど》問題であった。
このところ、二か月近く小林は真佐子の体に手を|触《ふ》れない。真佐子は、|淡《たん》|泊《ぱく》な方だが、それでもちょっと|苛《いら》|立《だ》って来ている。
もう、あの|憎《にく》らしい望遠鏡! ベッドの中で、真佐子は|呟《つぶや》いた。
そろそろ四か月になろうか。――小林が、ある|晩《ばん》、細長い、大きな箱を|抱《かか》えて、フウフウいいながら帰って来た。
「何なの、それ?」
「天体望遠鏡だ」
と小林は言った。「|金《かね》は|俺《おれ》の|口《こう》|座《ざ》からおろしたんだ」
「それはいいけど……」
と、真佐子は|当《とう》|惑《わく》して、「でも、何をするの?」
「星を見るのさ、当り前じゃないか」と、小林は|笑《わら》いながら言った。
真佐子は、夫にそんな|趣《しゅ》|味《み》があったと知ってびっくりした。大体、小林は、趣味というもののない男なのである。
だから、いつも休みの日など、買物について来たりする他は、家でゴロゴロしている。
少し、何か趣味でも持てばいいのに、と真佐子は思っていた。その意味では、夫が天体望遠鏡――安くはない――を買い込んで来たのを、|責《せ》める気はなかった。
しかし、本当ならテニスとか、水泳とか、少し体にいい趣味であってほしかったのだ。でも、そこまでは|干渉《かんしょう》すべきでない、と考え直したのである。
その夜から、小林は、ベランダに望遠鏡を出して、星を|眺《なが》めるようになった。――毎晩それを続ける夫に、真佐子はちょっと|呆《あき》れたものだ。
まあ|珍《めずら》しい間のことだろう、と思っていたのである。
ところが、その熱は|一《いっ》|向《こう》にさめる気配を見せなかった。雨の日や、|曇《くも》っている夜は別にして、星さえ出ていれば、少々風があっても、平気でベランダに何時間も出ている。
そして、先にベッドに入った真佐子が夜中に目を覚ますと、まだ夫がベランダにいて、びっくりしたこともあった。二時、三時という時間なのだ。
「ねえ、|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》で体をこわすわよ」
と、何度も言ったのだが、小林は、|笑《わら》って答えなかった。
そして――この二か月は、それがますますひどくなっていた。
真佐子はベッドの中で、|眠《ねむ》れぬままに|悶《もん》|々《もん》としていた。――|時《と》|計《けい》を見ると、一時を|過《す》ぎている。真佐子は起き上った。もういやだ。はっきりしてもらわなくては。
「望遠鏡とでも|結《けっ》|婚《こん》すりゃいいんだわ」
と|呟《つぶや》きながら、真佐子は|寝《しん》|室《しつ》を出た。
|居《い》|間《ま》は真っ暗で、ベランダへ出るガラス戸が少し開いているのだろう、風がカーテンをゆっくりと動かしている。
真佐子は居間の明りを|点《つ》けようとして、ふと気が変った。――一体どんな顔で夫が望遠鏡を|覗《のぞ》いているのか、|確《たし》かめてやろう、と思ったのだ。
大体、小林は、望遠鏡を|覗《のぞ》いているときに真佐子がベランダへ出て来るのを、ひどくいやがる。真佐子も少しは夫の|趣《しゅ》|味《み》を|理《り》|解《かい》して対話できるようにしようと思ったのだが、小林は、|彼《かの》|女《じょ》が何か話しかけても、うるさそうに気のない返事をするだけで、早く行ってくれと言わんばかりの顔をするのだ。一度、こっそり覗いてやれ……。
真佐子は、カーテンをそっとからげて、ベランダを見た。
「――それで?」
と、並子は|促《うなが》した。
小林真佐子の話は、そこで止ってしまったのである。たぶん、一番言いにくい所へ来たのだろう。
「それで……私、覗いてみたんです。そしたら、主人は熱心に望遠鏡を覗いていて……」
「それは予想してた通りなんでしょう?」
「ええ。でも……」
と、小林真佐子は、ためらいながら続けた。「望遠鏡は空を向いていなかった[#「いなかった」に傍点]んです」
並子は、ちょっと間を置いて、
「――じゃ、どこを向いていたんですか?」
「分りません、|正《せい》|確《かく》には。でも、ほぼ水平になっていたんです。――私のいる|棟《むね》は、前が広場になっているので、ずいぶん遠くの棟まで良く見えます。だから、どこを見ていたのかは分りません。でも、空でないことだけは|確《たし》かなんです」
「ちょうど目を|離《はな》すところだったとか?」
「いいえ、そのまま、私、一分くらいはじっと見ていたんですもの」
「その間、ずっとご主人は望遠鏡を?」
「はい、それは熱心に|覗《のぞ》いていました」
「それで、どうしたんです?」
「その内に――どうしてか分らないんですけど、主人が私に気付いたんです。ハッとするのが分りました。そして|振《ふ》り向くと、『何の用だ!』って|怒《ど》|鳴《な》りました」
「|怒《おこ》ったんですか?」
「ええ」
「よくそうやって怒鳴るんですか」
「いいえ。あんな風に怒鳴るのを見たのは初めてです」
と、真佐子は言った。「――いつも、めったに怒らない人です。怒っても、|黙《だま》ってふくれてしまうだけで、怒鳴ったりしたことはありません」
「その後はどうなりました?」
「すぐに|普《ふ》|段《だん》の顔に|戻《もど》って、『今、|寝《ね》ようと思ってたんだ』と言いました。そして、さっさと望遠鏡を|片《かた》|付《づ》けて中へ入ってしまいました」
「そのままベッドに?」
「ええ。|寝《しん》|室《しつ》に入って行くと、もう|眠《ねむ》っているようでしたが、そのふり[#「ふり」に傍点]をしていただけです」
「どうして分ります?」
「私もずっと起きていたんです。もちろん眠ったふりをしてですけど」
「それで何かあったんですね」
「二時間ぐらいたったかしら。主人がむっくり起き上って、私の方をうかがっています。私、眠り込んだふりをしていました。――そうしたら主人が、そっとベッドから出て行って……」
「どうしたんです?」
「ベランダにある戸を開けて、また望遠鏡を持ち出す音がしました」
小林真佐子の声は、暗く|沈《しず》み|込《こ》んだ。
「で、|奥《おく》さんは?」
「私はもう、起き出して行く元気もなくて、ベッドの中で|泣《な》いてしまいました。――もう|我《が》|慢《まん》できない、何とかしなくちゃ、と思って……。近所の奥さんが、いつかこちらのことを話しておられたのを|憶《おぼ》えていたので、こうしてやって来たんです」
「分りました」
と、並子は|肯《うなず》いた。「ご主人はそのことについて、後で何かおっしゃいましたか?」
「いいえ。次の日も、何事もなかったように、ただ眠そうにして、|出勤《しゅっきん》して行きましたわ」
「それはいつのことです?」
「三日前です」
「その後も、|毎《まい》|晩《ばん》ベランダに?」
「あの後は天気が悪かったものですから」
「今夜はきれいな星空ですよ」
「ええ。それでこうしてやって来たんです」
「ご主人はもうお帰りですか」
「今夜は|珍《めずら》しく、外で食事して来るとか……。でも九時|頃《ごろ》には帰ると電話して来ました」
「雨や|曇《くも》った日は、ご主人もあなたと同じ時間に|寝《ね》るんでしょ?」
「それが……以前はそうだったんですけど」
「今は?」
「最近は、一人で何やら星の本を広げて見たりしているんです。こっちが寝つくのを待っているみたいですわ」
少し|沈《ちん》|黙《もく》があった。――小林真佐子が、身を乗り出して、言った。
「お願いです。主人が望遠鏡で一体何を見てるのか、調べて下さい」
並子は、しばらく考え込んでいた……。
小林真佐子が帰ってから、政子が言った。
「いいの、引き受けて?――ご主人、きっと他の家を|覗《のぞ》いてるのよ」
「それは分ってるわ。たぶんあの|奥《おく》さんだってね」
「それじゃ、まるでご|亭《てい》|主《しゅ》が|変《へん》|質《しつ》|者《しゃ》だ、って|宣《せん》|言《げん》してあげるようなもんだわ」
「そうとも|限《かぎ》らないわよ」
並子は、竜介が|眠《ねむ》そうにしているのを見て、「あ、早くお|風《ふ》|呂《ろ》に入れちゃおう。政子、手伝って!」
「はいはい」
政子は、ため息をついた。|探《たん》|偵《てい》の助手は、こんなことまでしなくてはならないのか……。
2
「――ここにいつも望遠鏡を置くんですね」
と並子は|訊《き》いた。
「ええ」
と、小林真佐子は|肯《うなず》いて、「そこに|三脚《さんきゃく》の|跡《あと》がついてますでしょう」
と指さした。
「ああ、これね。――かなり遠くまではっきり見える望遠鏡なんでしょうね」
「ええ。出してお見せできるといいんですけど、主人が|触《さわ》られるのをいやがって、|戸《と》|棚《だな》にしまい|込《こ》んで|鍵《かぎ》をかけてしまうんです」
「|大丈夫《だいじょうぶ》です。大体のところは分りますからね」
並子はベランダの手すりの方へ進んで、ずっと|眺《なが》め回した。
もちろん、今は昼間なので、ずっと眺め|渡《わた》せる。いい天気で、ちょっと暑いくらいだった。
並子は、手にしていた図面を広げた。
「この|団《だん》|地《ち》の地図なんですよ。――この|棟《むね》はここ。ベランダの位置はこの辺ね」
と、ボールペンで印をつけた。
「何か分りそうですか」と、ちょっと不安げに、小林真佐子が言った。
「少し時間はかかると思いますけどね」
と並子は言った。「|主《しゅ》|婦《ふ》|探《たん》|偵《てい》の悲しさで、夜中に|冒《ぼう》|険《けん》に出るってわけにいかないんですよ。じりじりなさるでしょうけど、|我《が》|慢《まん》して下さい」
「それはもちろん……」
と、小林真佐子は、目を|伏《ふ》せがちにして、「あの――お茶でもいかがですか」
「いえ、|結《けっ》|構《こう》です。何しろうちのチビを助手に|任《まか》せて来ちゃったから、きっと助手がのびてるでしょう。もう失礼します」
と|玄《げん》|関《かん》の方へ行くと、小林真佐子がついて来て、
「あの……一つ、申し上げておきたいことが……」
と、ためらいがちに切り出した。
「何かしら?」
「主人が……|他人《ひと》様の|夫《ふう》|婦《ふ》生活を|覗《のぞ》き見ていると思われるかもしれませんけど……」
「そうは思っていません」
と、並子はきっぱり言った。
「そうですか」
「そりゃね、覗けるもんなら|面《おも》|白《しろ》いでしょうね。でも、|寝《ね》るときにカーテンもしないで、明りも|点《つ》けっ放しにする人なんていますか? 夏の暑い|熱《ねっ》|帯《たい》|夜《や》ならともかく、秋の|涼《すず》しい夜に、そんなこと考えられませんよ」
「よかったわ」
と、小林真佐子はホッとした様子で、「私、主人が何をしてるのか、|見《けん》|当《とう》もつきませんけど、でも、あの人がそんな覗きをやるような人じゃないってことは信じてるんです」
「信じてらして大丈夫だと思いますよ」
と、並子は|微《ほほ》|笑《え》んで見せた。「それじゃ、またご|連《れん》|絡《らく》します」
――小林真佐子のいる|棟《むね》を後にして、並子は、いつも竜介を遊ばせている公園へと急いだ。
「――ごめん、ごめん、|遅《おそ》くなって」
と、並子が声をかけると、ベンチに|座《すわ》った政子が、手を上げた。「竜介は?」
「そこの|砂《すな》|場《ば》。――いつものメンバーで遊んでるわ」
「じゃ、良かった。楽だったでしょ」
「何言ってんの」
と政子は並子をにらんで、「|仲《なか》|間《ま》が来たのは十分前。それまでは私が相手してたんだからね」
「いいじゃない。|予行演習《よこうえんしゅう》だと思えば」
「勝手言ってる。――で、どうだった?」
「うん。あのベランダから見える|範《はん》|囲《い》をざっと当るにしても大変ね」
「どこか|特《とく》|定《てい》の|部《へ》|屋《や》を覗いてると思うの?」
「でなきゃ、そんなに毎日、熱心にベランダへ出るとは思えないわよ」
「そうね。でも、並子の言うように、|変《へん》|質《しつ》的|興味《きょうみ》じゃないとしたら、一体何のために望遠鏡なんか――」
「そこよ。考えはあるんだけどね。――ともかく|片《かた》|平《ひら》さんに会ってみよう」
|団《だん》|地《ち》内の交番にいる|若《わか》い|巡査《じゅんさ》である。並子とは顔なじみだ。
「ちょうどお昼だし。政子、|一《いっ》|緒《しょ》にうどん屋さんにでも入って、お昼食べる?」
「おごり?」
「必要|経《けい》|費《ひ》」
と、並子は言った。
竜介にうどんを食べさせるのに|悪《あく》|戦《せん》|苦《く》|闘《とう》して、やっと何とか昼食を|済《す》ませると、二人は交番へと歩いて行った。
「何だか|忙《いそが》しそうよ」
と政子が言った。
なるほど、交番には、五、六人の|主《しゅ》|婦《ふ》が入り|込《こ》んで何やらワイワイやっている。片平巡査が|汗《あせ》をかきながら|応《おう》|対《たい》している様子が見えて、並子と政子は|笑《わら》い出してしまった。
「あの|奥《おく》さん連にやられたんじゃ、片平さんもたまんないわね」
と並子は言った。
「じゃ、いいわね! 必ず何とかしてちょうだいよ!」
主婦の|代表格《だいひょうかく》らしい一人が、ピシリと言って、「さ、みなさん、参りましょ」
と、他の主婦たちを引き連れて、交番を出て行く。
「――ご苦労様」
と、並子が顔を出すと、|額《ひたい》の|汗《あせ》をハンカチで|拭《ぬぐ》っていた片平巡査は、
「やあ、西沢さん」
と、ホッとしたように言った。
「大変ね。何の|騒《さわ》ぎ?」
「色々と|苦情《くじょう》が多くてね」
と、片平は|苦《にが》|笑《わら》いした。
「あら、そのメモの名前――」
「え?」
並子は、片平が|机《つくえ》の上に置いたノートに書かれた名前に目を止めた。――小林裕一、とある。
「片平さん、この人がどうかしたの?」
と、並子は|訊《き》いた。
「は?――いや、それはちょっと、教えられません」
「私の|依《い》|頼《らい》|人《にん》のご主人なの。私のこと、信用してよ」
「そうですねえ……。ま、|奥《おく》さんならいいや」
と、片平は|肯《うなず》いて、「実は、その人がね、|毎《まい》|晩《ばん》望遠鏡をベランダへ出して、人の家を|覗《のぞ》いてるというんですよ」
並子と政子は顔を見合わせた。――竜介が何やら|喚《わめ》き始めたので、並子は急いでアメを一つしゃぶらせてやった。
「それで、何とかしろってわけ?」
「ええ、しかし|困《こま》りますね。|証拠《しょうこ》があるわけじゃなし。――そちらはこの人をどうして知ってるんです?」
「だから、依頼人のご主人だって言ったでしょ」
「何の|調査《ちょうさ》です?」
「依頼人の|秘《ひ》|密《みつ》」
片平は|笑《わら》って、
「参ったなあ、西沢さんには」
「でもね、その人は覗きをやってんじゃないと思うわ。だって、その気なら、人目につかないように、家の中からやるわよ。堂々とベランダに出て、望遠鏡を覗いたりしないわ」
「なるほどね」
と片平は肯いて、「しかし、あの婦人たちにそれを言っても|納《なっ》|得《とく》しませんよ、きっと」
「でしょうね、あの勢いじゃ」
「ただ星を見てるだけだと言われたら、こっちとしても何とも言えませんものね。しかし、こうなると、話ぐらいしないわけにもいかないし……」
「ねえ、他にもそんな風に|訴《うった》えられた人、いなかった?」
「他にも?」
「そう。同じような|苦情《くじょう》を持ち|込《こ》んで来た人よ」
「さあ、今のところは別に」
「そう」
並子はちょっとがっかりした様子で、「じゃ、もし同じような苦情が|舞《ま》い込んで来たら、教えてくれる?」
「それはちょっと――」
「お願い。私がその|事《じ》|件《けん》、|解《かい》|決《けつ》してあげるから」
片平巡査が、目を|丸《まる》くして、並子を|眺《なが》めた。
「――あの、何か?」
ドアを開けた真佐子は、目の前にズラリと見知らぬ|主《しゅ》|婦《ふ》たちが|並《なら》んでいるのを見て、|戸《と》|惑《まど》った。
「ご主人は?」
と、一番年長らしい、人に意見するのを生きがいとしているような婦人が言った。
「主人は会社ですが……」
「|奥《おく》さんね」
「はい」
「私たちは、ご主人のおかげで大いに|迷《めい》|惑《わく》してるの」
「主人の?」
「お|宅《たく》のご主人、|毎《まい》|晩《ばん》、望遠鏡をベランダに持ち出してるでしょ」
「はあ……。天文学が|好《す》きなものですから」
「何が天文学よ!」
と他の主婦が声を上げた。「人の家を|覗《のぞ》いてるくせに!」
「あの――そんなことは決して――」
「あなたはご主人が星を|眺《なが》めてると信じてるのかもしれないけどね、本当は、方々の家を覗いて楽しんでいるのよ」
「そうよ。|変《へん》|態《たい》だわ」
「|危《あぶ》ないったらありゃしない。この辺に出る|痴《ち》|漢《かん》って、ご主人じゃないの?」
さすがに真佐子はカッとした。
「そんな言いがかりはやめて下さい!」
と|叫《さけ》んだ。
「まあまあ」
と、年長の婦人が|抑《おさ》えて、「そう|疑《うたが》われたくなかったら、望遠鏡は引っ込めるのね」
と言うと、他の主婦たちを|促《うなが》して、引き上げて行く。
近所の主婦たちが、|好《こう》|奇《き》の目をドアから|覗《のぞ》かせていた。真佐子は、急いでドアを|閉《し》め、|鍵《かぎ》をかけると、目をつぶった。
「――あなた」
と、夕食が終ると、真佐子は言った。「あなた、聞いてるの?」
「――うん? 何だ?」
小林は、|夕《ゆう》|刊《かん》から顔を上げずに|訊《き》き返した。
「望遠鏡を|覗《のぞ》くのは、もうやめて」
しばらく小林は何も言わなかった。それから夕刊を下へ置くと、
「何だって?」
と妻の顔を見つめた。
「望遠鏡を――」
「聞いたよ。どうしてだ?」
「|今日《きょう》ね、どこかの奥さんたちが五、六人でやって来たの」
真佐子が、説明すると、小林はムッとした様子で、
「|無《ぶ》|礼《れい》な連中だ! 人を何だと思ってる」
と、テーブルを|叩《たた》いた。
「私に|怒《ど》|鳴《な》っても仕方ないでしょう。ともかく、そんな|噂《うわさ》が広まったら大変よ。もうやめてちょうだい」
「|冗談《じょうだん》じゃない。そんな|馬《ば》|鹿《か》な連中のためにどうして僕が星を見る楽しみを|諦《あきら》めなきゃいけないんだ?」
小林は|夕《ゆう》|刊《かん》をまた取り上げた。
「あなた……続ける気なの?」
「当り前だ」
真佐子はしばらく|言《こと》|葉《ば》もなく、夫を見つめていた。
「――どうしたんだ?」
と、小林が|妻《つま》を見て、「そんな連中の言うことなんか、|誰《だれ》も気にしないよ」
「もし、本気にしたら?――私たち、ここにいられなくなるわ」
「聞き流しとけよ」
「あなたは会社へ行ってるからいいけど、私は家にいるのよ! みんなに変な目で見られながら、買物にだって行けなくなるわ」
「気にしなきゃいいんだ」
「そんな|呑《のん》|気《き》なことを――」
「何もやましいことはしてない。堂々と|胸《むね》を|張《は》ってりゃいい」
真佐子は手の|震《ふる》えをじっと|押《おさ》えつけた。
「ねえ……。しばらくやめるだけでもいいじゃないの。その内、みんなが|忘《わす》れた|頃《ころ》に、また始めれば」
「そんなにこそこそすると、|却《かえ》って|怪《あや》しまれるよ」
「お願い、今夜はやめてよ」
「今夜は|絶《ぜっ》|好《こう》の|観《かん》|測《そく》|日《び》|和《より》だぜ」
「せめて今夜だけでも――」
「もうその話はよせ」
と、小林は|遮《さえぎ》った。
真佐子は、じっと|唇《くちびる》をかんで、うつむいていた。――しばらく、そのまま、|静寂《せいじゃく》が続いた。
「あなた」
と、真佐子が言った。
「何だ?」
「望遠鏡で、何を見てるの?」
小林が、じっと真佐子の、|涙《なみだ》をためた目を見返した。そして、席を立つと、|奥《おく》へと歩いて行く。
|戸《と》|棚《だな》を開ける音がした。真佐子は、テーブルに顔を|伏《ふ》せて|泣《な》き出した。
3
「――ねえ、あの天文学者さんの|事《じ》|件《けん》、どうなったの?」
スーパーを出て、よく晴れた秋空の下、木村政子と西沢並子は連れ立ってぶらぶらと家の方へ|戻《もど》るところだった。
二人の少し前をちょこちょこと|覚《おぼ》|束《つか》ない足取りながら、元気|一《いっ》|杯《ぱい》走っているのは、並子の二|歳《さい》になる|息子《むすこ》、竜介である。
|質《しつ》|問《もん》したのは政子の方だったが、並子はちょっと|呆《あき》れたように政子を見て、
「知らないの?」
「知らない……って、何を?」
「あの奥さんが来て、もう|調査《ちょうさ》していただくには|及《およ》びませんって言ったじゃないの」
「そんな――」
政子の方が今度は|唖《あ》|然《ぜん》とした。「知らないわよ、私!」
「あなたいなかった、あのとき?」
「いれば|憶《おぼ》えてるわ!」
「あ、そうか。あのときは竜介と二人だったんだ」
「私と竜介君をどうして|間《ま》|違《ちが》えるのよ!」
と政子はむくれた。
「|探《たん》|偵《てい》の助手が、そんなことで|怒《おこ》ってどうするの」
「関係ないでしょ!――だけど、どうしてあの|奥《おく》さん気が変ったのかしら?」
「私も気にはなってんだけどね」
と、並子は言って、「竜介! そこ|段《だん》になってるのよ、気を付けて!――ほら、転んだ!――こら、|泣《な》くな! 自分で立って! ほら、ちゃんと立つのよ!」
竜介がすぐに泣きやんで立ってまた歩き出すと、並子は母から探偵に|戻《もど》った。なかなか|忙《いそが》しいのだ。
「ご主人が例の望遠鏡いじりをやめたわけじゃないらしいのよ。あの後、|片平巡査《かたひらじゅんさ》に|訊《き》いてみたけど、まだ近所から|苦情《くじょう》が来るって言ってたもの」
「じゃ、どういうことなのかしらね?」
「さあ……。でもこっちとしては、|依《い》|頼《らい》|人《にん》がもう|解《かい》|決《けつ》したと言ってるんだから、口を出すこともないしね」
「手数料はもらったの?」
と、政子が|訊《き》いた。
しかし、並子は全然返事をしない。
「どうしたの? ねえ、並子、聞いてるの? |私《わたし》――」
「政子」
並子は政子の|腕《うで》を|押《おさ》えて、「あれ見て、ほら……」
「え?」
えらくにぎやかな|主《しゅ》|婦《ふ》四、五人が、立ち話をしている。その声が|湧《わ》いて、話は|弾《はず》んでいるようだが、中でも、|甲《かん》|高《だか》い|笑《わら》い声の一人が目についた。
ずいぶん|派《は》|手《で》な|格《かっ》|好《こう》の主婦で、|化粧《けしょう》もちょっとどぎつく、|髪《かみ》の毛は赤く|染《そ》めてあった。
「にぎやかね。あの髪を|真《ま》っ|赤《か》にしてる人、|酔《よ》ってるんじゃない? 顔が赤いわ」
「そりゃ分ってるわよ」
と、並子は言った。「顔をよく見てご|覧《らん》なさい」
言われて、まじまじ見つめていた政子だったが、やがて目を大きく見開いて、
「まさか! あの人――」
「そうよ。小林さんの|奥《おく》さんよ」
今、話に出ていた当人ではないか。
「でも、――どうなっちゃったの? 別人みたいじゃないの!」
政子は首を|振《ふ》った。
小林真佐子は、大体が|地《じ》|味《み》な、おとなしいタイプ、と思っていただけに、この変身ぶりには政子も|仰天《ぎょうてん》したのだ。
「昼間からお酒、あの|濃《こ》い|化粧《けしょう》、……服もひどいじゃないの、けばけばしくて」
と政子は顔をしかめた。「あれじゃ何だか|同情《どうじょう》したくなくなっちゃうわ」
「竜介! |戻《もど》っといで!」
先へ行きすぎた|我《わ》が子を追って、|名《めい》|探《たん》|偵《てい》は走り出していた。
「――何か理由があるのよ」
|部《へ》|屋《や》で、おやつを食べながら、並子は言った。竜介は、|散《さん》|々《ざん》ぐずって、やっと|昼《ひる》|寝《ね》をしているところである。
「理由って?」
「あの奥さんよ。アルコールに|溺《おぼ》れて、|段《だん》|々《だん》|派《は》|手《で》になって」
「|危《き》|険《けん》信号ね」
「ご主人が相変らず天体望遠鏡を|覗《のぞ》いてるから、当てつけなのかしら。でも、結局|傷《きず》つくのは自分だけどね」
「やっぱり男が悪いのよ、|総《すべ》て」
と政子は|結《けつ》|論《ろん》を出した。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
「|誰《だれ》かしら? 政子出て」
「私、お手伝いさんじゃないのよ」
ブツブツ言いながら、つい言われる通りになってしまうのが政子の人の|好《よ》さである。
玄関のドアを開けると、三十そこそこの|男《だん》|性《せい》が立っている。ジーンズにサンダルばきで、セールスマンとは思えなかった。
「あの――ちょっと調べていただきたいことがあって」
と、男はおずおずと言った……。
「――どうぞ、お楽に」
|居《い》|間《ま》に通して、並子が男と向い合って|座《すわ》った。「――ご相談というのは?」
「実は……|家《か》|内《ない》の様子がこのところおかしいんです」
「どういう|風《ふう》にですか?」
「昼間から酒を飲んでるらしいんです。――いや、僕は今日は|特《とく》に|休暇《きゅうか》なんですが、いつもは会社へ行ってますから、現場を見たことはないんです。でも帰ると、ウイスキーの量がずっと|減《へ》っていたり、ビールの空びんが出ていたり……」
「それで害があるんですか?」
「いや、そこなんです。いくら|訊《き》いても、飲んでないと言い|張《は》るんですよ。でも、近所の人に訊いて、家内が小林さんのところへ行って|一《いっ》|緒《しょ》に飲んでると分ったんです」
「小林さん?」
と、並子は訊き返した。
政子がちょっと目をパチクリさせて、
「小林さんってあの……」
「失礼ですけど、お住いは?」
その男――名は|井《い》|口《ぐち》といった――は住所を言った。小林真佐子と同じ|棟《むね》だ。
「――つまり、|奥《おく》さんがお酒を飲んでいるかどうか|確《たし》かめたいということですね」
「そうなんです」
と井口という男は、|哀《あわ》れっぽい顔で言った。
並子はちょっと考えて、
「私のところでは、|素《そ》|行《こう》|調査《ちょうさ》の類の仕事はできないんです。何しろ|素人《しろうと》ですし、私は子持ちなので、|尾《び》|行《こう》や|監《かん》|視《し》といった仕事は|無《む》|理《り》でして。――でも、奥さんの|件《けん》はたぶん近々|解《かい》|決《けつ》すると思いますよ」
と言った。
井口はちょっと|面《めん》|食《く》らった様子だったが、
「じゃ――ただ待っていればいいんですか?」
「奥さんを大事にしてあげるんですね」
と、並子は言った。「いつもお帰りは|遅《おそ》いのでしょ?」
「付き合い酒が週に四日は――」
「半分にして、早く帰ってあげることですよ。時にはケーキでも買って帰るとか、外へ食事に出るとか。――後は成り行きに|任《まか》せておけば|大丈夫《だいじょうぶ》だと思います」
「はあ……」
井口は、ポカンとして聞いていたが、やがて|狐《きつね》につままれたような顔で帰って行った。
「――いいの、あんなこと言って?」
と政子が言った。「放っといてひどくなったら、どうするのよ」
「まあ任せなさい」
並子はそう言って、竜介の様子をうかがうと、「まだ当分は大丈夫そうね。ちょっと出て来るから、後、|頼《たの》むわ」
「――ちょっと! 並子!――いつも私は置いてきぼりなの!」
しかし、もう並子はエレベーターへと消えてしまっていた。
「ただいま」
小林は|玄《げん》|関《かん》を上って、言った。「――真佐子。いないのか?」
|居《い》|間《ま》へ入って、小林は顔をしかめた。アルコールの|匂《にお》いがプンと鼻に来た。
「客でも来たのか……」
それにしても、主人の|留《る》|守《す》中に上り|込《こ》んで酒を飲んで行くとは|図《ずう》|々《ずう》しい|奴《やつ》だ、と小林は思った。
「おい、真佐子――」
ダイニングキッチンへ入って、小林は目を|見《み》|張《は》った。真佐子がテーブルに|突《つ》っ|伏《ぷ》して、目を|閉《と》じている。グラスが転がって、ウイスキーがこぼれてもう|乾《かわ》きかけていた。三分の二も|空《から》になったボトルが一本、置かれている。
「ウーン」
と|呻《うめ》いて、真佐子が目を開いた。
トロンとした目で小林を見て、
「あら……帰ってたの」
と、もつれた|舌《した》で言った。
「おい! 酒を飲んでるのか?」
「そうよ……。知らなかったの?」
真佐子はニヤッと|笑《わら》って、「すっかり強くなっちゃった。はは……」
小林は、ボトルを取り上げ、
「これ、一人で飲んだのか?」
「|違《ちが》うわ。近所の奥さんと……。でも、一人になってからまた少し飲んだの」
小林は、|椅《い》|子《す》にペタンと|腰《こし》をおろした。
「――いつからだ?」
「ええ? 何のこと?」
「酒を飲み出したことさ」
「ああ……。お酒なら十九の|頃《ころ》から……」
と、真佐子は言って、「あーあ、グラス、こぼしちゃって……」
と、頭をかいた。
「ねえ、お|腹《なか》|空《す》いた?――何もしてないんだ。何か|出《で》|前《まえ》取ってよ。|私《わたし》、何でもいいからさあ」
小林は、じっと目を見開いて、|妻《つま》を見ていた。
「――何見てんの?」
「知らなかった」
と小林は|独《ひと》り|言《ごと》のように|呟《つぶや》いた。「お前が酒を一人で……」
「いけない?」
真佐子は食ってかかるように、言った。
「いや、悪いとは言わないけど……」
「じゃいいじゃないの。別に人に|迷《めい》|惑《わく》かけてるわけじゃなし」
と、真佐子は立ち上ってフラついた。
「おい、大丈夫か?」
「平気、平気。――すぐさめるから」
と、真佐子は|大《おお》|欠伸《あくび》した。
「体を|壊《こわ》すぞ」
「へえ、|珍《めずら》しい!」
と、真佐子は大声で言った。「私のこと心配してくれるの。びっくりだわ。もうとっくに|忘《わす》れられたと思ってた」
「おい、何を言ってるんだ」
「だって、そうでしょ」
と、真佐子はクスクス|笑《わら》って、「もう何か月になると思う?」
「何が?」
「この前、私を|抱《だ》いてからよ。――いいの。別にもう何とも思っちゃいないわ。あなたの|恋《こい》|人《びと》に|比《くら》べりゃ、私なんて|魅力《みりょく》ないものね。分ってんの」
「僕の恋人?」
「あなたの命より大事な、『望遠鏡子[#「望遠鏡子」に傍点]さん』よ!」
真佐子は声を上げて笑った。「どう? 最近はうまく行ってるの?」
「真佐子……」
「そろそろ|子《こ》|供《ども》でも生れるんじゃない? 目がレンズでできてて、|三脚《さんきゃく》のついた――」
「|酔《よ》ってるんだな」
「そうよ!」
いきなり、真佐子は|叫《さけ》んだ。
「大声を出しちゃ、近所に――」
「近所? やめてよ! あなたのおかげで、私がご近所からどんな目で見られてるか、分ってるの?」
真佐子は|燃《も》えるような目で夫をじっと見つめた。
「そんなに……?」
「あなたも一度スーパーへ買物に行ってみるのね。でも、あなたは気が付かないかもしれないわ。何しろ周囲のことは気にしない人ですからね」
「気が付くって?」
「みんながどんな目で見てるか。――ヒソヒソ|噂《うわさ》し合ってるか。一度、じっくり味わってらっしゃいよ」
小林は|妻《つま》の目から目をそらした。
「――知らなかったよ」
「へえ、そうなの? |女房《にょうぼう》が酒を飲んだり、|髪《かみ》を|染《そ》めたり、|派《は》|手《で》な|格《かっ》|好《こう》をしてるのも、何も気付かない人だものね」
「それは――」
小林はちょっと|詰《つま》った。「お前が|好《す》きでやってるんだと思ってた……」
「もちろんよ!」
真佐子は、|叫《さけ》ぶように言った。「あなたが好きなことやってるのに、どうして私が好きなことやっちゃいけないの! お酒飲もうが、遊び歩こうが、私の勝手でしょう!」
真佐子はウイスキーのボトルをつかむと、グラスへ|一《いっ》|杯《ぱい》に注いだ。
「もうやめろよ、おい!」
と小林が止める。
「放っといてよ!」
夫の手を|振《ふ》り|払《はら》って、真佐子は一気にグラスをあけた。そして、|奥《おく》の|部《へ》|屋《や》へよろけるように入って行くと、|畳《たたみ》の上に大の字になって|倒《たお》れた。
小林は、|椅《い》|子《す》にかけたまま、じっと動かなかった。
そのまま、三十分近くたったろうか、小林は立ち上って、
「おい……。真佐子」と声をかけた。
|覗《のぞ》いて見ると、真佐子は口を少し開いて、軽くいびきをかいていた。
小林は、|押《おし》|入《い》れを開けると、|毛《もう》|布《ふ》を出して、|妻《つま》の上にかけてやった。
それから小林は服を|着《き》|替《か》えて、ガス|台《だい》にやかんをのせて火を|点《つ》けた。――真佐子の様子をうかがって、|眠《ねむ》っているのを|確《たし》かめると、小林は|戸《と》|棚《だな》の所へ行って、|鍵《かぎ》をあけ、中から天体望遠鏡を取り出した。
――真佐子は、ずっと起きていた。|眠《ねむ》ったふりをしていただけなのだ。
夫がベランダの戸を開け、いつものように望遠鏡を出す音を耳にしながら、真佐子は声を殺して|泣《な》いていた。
そして――十五分もたったろうか。真佐子は、やおら起き上った。|台所《だいどころ》へ行くと、やかんが|沸《わ》きっ放しになっている。
望遠鏡に|夢中《むちゅう》で、すっかり|忘《わす》れているのだ。
真佐子はガスを止めると、ベランダの方へ、|視《し》|線《せん》を向けた。
|包丁差《ほうちょうさ》しから、肉切り用の光った包丁を一本|抜《ぬ》いて、固く|握《にぎ》りしめる。
真佐子の顔は、もう|平《へい》|静《せい》に|戻《もど》っていた。|涙《なみだ》も出なかった。
これでいいんだ。こうなる運命だったんだ……。
真佐子は、包丁をしっかりと|構《かま》えながら、ベランダへと歩いて行った。――|安《やす》|物《もの》の包丁だけど、二人ぐらい|刺《さ》せるだろう。
もちろん、夫と自分の二人だ。
真佐子はガラス戸|越《ご》しに、望遠鏡を|覗《のぞ》いている夫の|背《せ》|中《なか》を、じっと見つめた。左手を、ガラス戸にかけて、ゆっくりと戸を開けていく……。
4
「――|誰《だれ》かしら」
並子は、|玄《げん》|関《かん》のチャイムの音に、|呟《つぶや》きながら|布《ふ》|団《とん》から|這《は》い出した。
|時《と》|計《けい》を見ると、七時半だ。夫を送り出して、九時|頃《ごろ》まではもう一度|寝《ね》ることにしているので、この時間には、政子も来ないはずであった。
パジャマ|姿《すがた》で、|欠伸《あくび》しながら玄関へ。
「どなたですか?」
と声をかける。――返事がない。
並子は、|覗《のぞ》き|窓《まど》から表を見た。――小林真佐子が放心したように立っているのが見えた。
ドアを開けて、
「|奥《おく》さん。どうしたんですか?」
と言って、並子は、真佐子が手に肉切り|包丁《ぼうちょう》を|握《にぎ》りしめているのを見てギョッとした。
まだ死ねない! せめて竜介が成人するまでは――。
「すみません」
と、真佐子は言った。
起きぬけの、というか、たぶん|一《いっ》|睡《すい》もしていない顔である。
「どうしたんです?」
「この――包丁、|預《あず》かっておいて下さい」
と、真佐子は、肉切り包丁を、差し出した。
並子は|恐《おそ》る恐る受け取った。
「それがあると……私……主人を|刺《さ》してしまいそうで……」
そこまで言って、真佐子はワッと|泣《な》き|崩《くず》れた。
「――|大丈夫《だいじょうぶ》?」
と、並子は|訊《き》いた。
「はい。すみませんでした」
真佐子は、|濃《こ》いお茶で、|大《だい》|分《ぶ》落ち着いたようだった。
「じゃ、ゆうべご主人を刺そうとして……」
「|寸《すん》|前《ぜん》で、お|隣《となり》の人が|回《かい》|覧《らん》|板《ばん》を持ってみえたんです。それで|我《われ》に返って、|恐《おそ》ろしくなって――」
真佐子は顔を|伏《ふ》せた。
「そこまで、ね……」
と並子は|肯《うなず》いた。
「ご心配かけてすみません」
「いいえ、そんなこといいんですけど」
「もう大丈夫です」
と真佐子はちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで、「今夜、主人が帰ったら、|離《り》|婚《こん》の相談をしようと思います。その方があの人のためにもいいと――」
「ちょっと待って」
と、並子は|遮《さえぎ》った。「それは|早《はや》|過《す》ぎると思うけど」
「でも、ここまで来たら……」
「あと一日、まったら?」
「一日、ですか?」
並子はちょっと考えて、
「今夜は|旦《だん》|那《な》が早いから、子供は|頼《たの》めるし……。いいわ、|特《とく》に、夜間|出勤《しゅっきん》することにしましょ」
と言った。
「でも、どうやって」
「ちょっとした打ち合わせが必要ね」
と、並子は言った。「待って、|相《あい》|棒《ぼう》を電話で|叩《たた》き起こすから」
政子も、いつもなら十時|頃《ごろ》まで|眠《ねむ》っている。並子はそれを承知で、ダイヤルを回した。
小林は望遠鏡から目を|離《はな》した。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが、せわしく鳴っている。――真佐子はどうしたのかな、と思った。
そうか。そう言えば、さっきどこかへ行くとか言って――。
チャイムは鳴り続け、続いて、ドアをドンドンと|叩《たた》く音になった。
何事だ、一体?
小林はベランダから中へ入ると、玄関へ出て行った。ドアを開けると、エプロン|姿《すがた》の若い|女《じょ》|性《せい》が息を切らしながら立っている。
「何ですか?」
「あの――小林さん――ですね」
「ええ」
「|奥《おく》さんが――その――車にはねられて――」
と声は|途《と》|切《ぎ》れ途切れ。
「真佐子が!」
小林は青ざめた。「どこです? けがはどんな――?」
「ともかく、いらして下さい。その――スーパーの|角《かど》の所です。行けばすぐに分りますから」
「どうも!」
小林は、サンダルばきで、|突《つ》っ走って行ってしまった。
「ああ、やれやれ」
と、政子は息をついた。
「ご苦労さん」
並子が現れる。
「|疲《つか》れた。息切らすために走って来たのよ。それに、|嘘《うそ》つくのって疲れるのね。やっぱり根が正直にできてるんだわ」
「|冗談《じょうだん》が|上《う》|手《ま》くなったわね。――さ、じゃ中へ入ろう」
「|家宅侵入《かたくしんにゅう》よ」
「|奥《おく》さんに|許《きょ》|可《か》|得《え》てるんだもの、成立しないわよ」
並子は|澄《す》まして入って行く。政子もあわてて続いた。
ベランダへ出ると、望遠鏡が、なるほど水平のまま固定してある。
並子は目を当てて、じっと見ていたが、
「なるほどね……」
と|肯《うなず》いて、体を起こした。
「見せてよ」
と、政子もいざとなると|興味津々《きょうみしんしん》、|接《せつ》|眼《がん》レンズに目を当てた。
見えるのは、人のいないテラスだった。ただ――テラスには、これと同じような望遠鏡があって、真っ直ぐにこっちを向いている。
「なあに、あれ?――望遠鏡でお見合やってたのかしら?」
「|遠《えん》|距《きょ》|離《り》|浮《うわ》|気《き》とでも言うのかしらね」
と並子は|肯《うなず》いた。「さ、それじゃ行きましょ」
「もう行くの? 見てれば向うも|誰《だれ》か出て来るかも――」
「あの|部《へ》|屋《や》へ行きゃ会えるでしょ」
と、並子が言った。
「――ここよ」
並子は、|表札《ひょうさつ》を見上げた。|女《じょ》|性《せい》の名前になっている。〈|矢《や》|代《しろ》|冴《さえ》|子《こ》〉とあった。
チャイムのボタンを|押《お》したが、中で鳴っている音が|普《ふ》|通《つう》は聞こえるのに、ここはまるで聞こえなかった。
「鳴ってるのかしら?」
「さあね。でも、きっと出て来るわよ」
ドアが静かに開いて、女性が出て来た。――三十代半ばというところか。
美人でもあるが、それだけではなく、一種ハッとするほど物静かな、落ち着いた|魅力《みりょく》を|湛《たた》えている。
「失礼します」
と、並子はいやにはっきりした|口調《くちょう》で言った。「実は、あなたがベランダでお話になっているお友だちのことでうかがいました」
相手の女性は目をちょっと見開いてから、|肯《うなず》いて見せた。
政子は中へ上りながら、
「ねえ、並子、もしかして――」と言いかけた。
「そうよ。分った?――さ、|座《すわ》って」
|居《い》|間《ま》は、こざっぱりとして、|快《かい》|適《てき》だった。
矢代冴子は白いメモ用紙と、|鉛《えん》|筆《ぴつ》を手に、ソファにかけると、手早くメモを書いた。
〈私はしゃべれません。お話は口の動きで、分ります〉
と、走り書きでも、政子よりよほどきれいな字で書かれていた。
「お一人でお住いですか?」
と、並子は|訊《き》いた。
矢代冴子が|肯《うなず》く。
「|寂《さび》しいでしょう。星を見るのが|大《だい》|好《す》きなんですね?――そして、ふと、あのベランダを見ると、同じように、こっちを見ている人がいた……」
矢代冴子が肯く。そして鉛筆を走らせた。
〈あの方は、|手《しゅ》|話《わ》を分って下さるのです。私はそれが分ったとき、|嬉《うれ》しくて……。ここでも|皆《みな》さん親切ですが、やはり心から語り合うのはとても|難《むずか》しいのです〉
「分ります。そして|毎《まい》|晩《ばん》、あの人と会うのを楽しみにするようになった……」
〈私はあの人の口の動きを望遠鏡で読んで、あの人は私の手話を望遠鏡で見てくれます。あれこれと話すことは|尽《つ》きなくて……〉
「相手の人に|奥《おく》さんがいるのはご|存《ぞん》|知《じ》でしたか」
〈はい。つい最近知りました。それ以来、気になっています。奥さんはこのことをご存知なのかと思って〉
「実は――」
並子は、小林|夫《ふ》|妻《さい》の間が、|危《あぶ》なくなっている|事情《じじょう》を説明した。
矢代冴子は青ざめ、|動《どう》|揺《よう》していた。
〈知りませんでした! どうしたらいいのでしょう?〉
「小林さんは、決して|悪《わる》|気《ぎ》があったわけではないんです」
と並子は言った。「ただ、あなたが毎日毎日の出会い[#「出会い」に傍点]を、あまり楽しみにしておられるので、やめることができなかった。いい人なのです。――ただ、奥さんにも何となく話しにくかったのだと思います。奥さんが、どう考えるか。分ってくれるかどうか、自信がなかったんでしょう」
〈ともかく、奥様にお|詫《わ》びしたいと思います。それに、もう二度とベランダには出ないことをお|約《やく》|束《そく》します〉矢代冴子は顔を|伏《ふ》せた。
政子は、|玄《げん》|関《かん》のドアの方から、何か音がしたような気がした。
「きっと|誤《ご》|解《かい》が|解《と》ければ、またご|夫《ふう》|婦《ふ》はうまく行くと思いますよ」
と並子は言った。
矢代冴子は|微《ほほ》|笑《え》んで|肯《うなず》いた。
しばらく話をしてから、並子は、これからよければ|一《いっ》|緒《しょ》に小林に会いに行こう、とすすめた。
相手も|異《い》|存《ぞん》はないようだった。
「小林さんも、話せば良かったのにね」
と政子は歩きながら言った。
「|呑《のん》|気《き》な人なのよ。奥さんが、そのことで苦しんでいるとは気が付かなかったのね」
「奥さんがアル中にまでなりかけたのに?」
「あれはお|芝《しば》|居《い》よ。|髪《かみ》を|染《そ》めたり、|酔《よ》ったふりをして、ご主人の注意をひこうとしたのよ」
「お芝居?」
「あの奥さん、大学のとき|演《えん》|劇《げき》部にいたんですって」
「へえ! それじゃ、うちに相談に来た井口って人の方も――」
「そう。二人で相談してやってみることにしたんじゃない?」
「ご夫婦ともども、苦しんでたわけね、それぞれに」
「気の毒ね。でも、その立場になってみれば言い出し|辛《づら》いでしょうね。分るわ」
と並子が|珍《めずら》しくしみじみと|呟《つぶや》く。
「並子、|浮《うわ》|気《き》したことあるの?」
「|想《そう》|像《ぞう》力の問題よ」
――政子と並子、それに矢代冴子の三人は、小林家の玄関へやって来て、チャイムを鳴らした。
すぐにドアが開いて、真佐子が顔を出す。
「|今《こん》|晩《ばん》は」
「どうも……」
と真佐子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「色々ありがとうございました」
「外でお聞きになった?」
「はい。――あの人が|一《ひと》|言《こと》言ってくれていれば……。ともかくお入り下さい」
真佐子は、出て来ると、|廊《ろう》|下《か》に立っていた矢代冴子の手を取った。
「初めまして。小林の|家《か》|内《ない》です。主人がいつも遠くから失礼して――」
と|笑《え》|顔《がお》で言った。「今度はいつでもお|訪《たず》ね下さい。私も|手《しゅ》|話《わ》を覚えますわ」
矢代冴子の顔に|朱《しゅ》がさした。本当に|嬉《うれ》しそうだった。
「ご主人はまだ?」
と並子が|訊《き》く。
「ええ。きっと|迷《まい》|子《ご》になってるんだわ。方向|音《おん》|痴《ち》だから」
そう言って真佐子は|笑《わら》った。――何か月ぶりかの、明るい笑いだった。
第四話 |寂《さび》しいクリスマスの|事《じ》|件《けん》
1
「――クリスマスも変ったわね」
冬の夕方、やっと四時半だというのに、ビルの谷間には|黄昏《たそがれ》の色が|漂《ただよ》い始めている。
「静かなもんね」
と、|西《にし》|沢《ざわ》|並《なみ》|子《こ》は|肯《うなず》いた。
同じ|団《だん》|地《ち》に住む親友同士、今日は二人して、たまには家事の手を|抜《ぬ》いて――いつも抜いているという声もある――都心へと遊びに出て来た。
「|新宿《しんじゅく》の町も|久《ひさ》しぶりだわ」
と、並子は言った。「|竜介《りゅうすけ》、連れちゃ歩けないものね」
竜介というのは、並子の二|歳《さい》になる長男である。今日は並子の実家の方へ|預《あず》けて来ていた。
「そうね。私はたまに|亭《てい》|主《しゅ》と食事に出て来るけど」
と、まだ|子《こ》|供《ども》のいない|木《き》|村《むら》|政《まさ》|子《こ》が、のんびりと言った。
「今の内に遊んどくのね」
「あ、ジングル・ベル」
どこかの店先から、『ジングル・ベル』の曲が流れて来る。――|昔《むかし》はクリスマス近くになると、町中がこの曲で|溢《あふ》れ返ったものだが、最近はこのメロディで景気をつける、というのが、はやらないらしく、あまり耳にすることもなくなりつつあった。
「もはや〈なつメロ〉ってとこね。――デパートのオモチャ売場にでもいかないと、クリスマスって|雰《ふん》|囲《い》|気《き》、味わえないものね」
「――並子、もう帰る?」
「どうしようかな。どうせ|旦《だん》|那《な》の帰りは|遅《おそ》いし」
「二人で何か食べてっちゃう?」
「でも竜介がいるからね。――待って。電話してみるから」
二人は、近くのショッピングアーケードへ入ると、赤電話を|捜《さが》した。――一角に、黄色い電話がズラリと|並《なら》んでいる。
並子が実家へ電話をかけている間、政子は少し|離《はな》れた|靴《くつ》屋のショーウィンドを|覗《のぞ》いていた。
「いいなあ、あれ。――でも、合うドレスがないもんね……。あ、あのおばさん、あんな高い靴はいて――。|似《に》|合《あ》いっこないわよ。よした方がいいと思うな……」
と、ブツブツ|独《ひと》り|言《ごと》。
そこへ、
「ひまかい?」
と男の声がした。
政子は、自分が声をかけられたのだとは思わず、高そうなブーツにため息をついていたが、
「あのブーツ、買ってあげようか」
と言われて、びっくりして|振《ふ》り向いた。
|一《いっ》|見《けん》、何の|変《へん》|哲《てつ》もないサラリーマン。四十そこそこというところか。|背《せ》|広《びろ》にネクタイ、グレーのコート、というパッとしないいでたちだった。
「何かご用ですか?」
と政子は言った。
「どうだい? 時間を持て|余《あま》してるんなら、いいお金になるアルバイトがあるんだけど」
「アルバイト?」
「君は女子大生?」
「まさか」
「いや、ちょっと|髪《かみ》|型《がた》をいじれば、女子大生で通用するよ。|若《わか》|々《わか》しいし、|肌《はだ》もつやがある」
「どうもありがとう。でも――」
「どうかね、一日に二、三時間、|金《かね》|払《ばら》いのいいお客とホテルへ行くだけで、最低一万円は|保証《ほしょう》するよ」
「あの――」
「できる日、だけでいいんだ。一日に一万、向うが気に入れば、二、三万はチップを|弾《はず》んでくれる。月に四、五十万の|稼《かせ》ぎにはなるんだ」
どうやら、|売春《ばいしゅん》――というと|言《こと》|葉《ば》が古いが、要するに男に|抱《だ》かれる女の子を探しているらしい。政子は、|怒《おこ》る前に|呆《あき》れて、|笑《わら》いたくなってしまった。
「あのね、私は|結《けっ》|婚《こん》してるんですけど」
と、政子が言うと、男はちょっとポカンとして、
「――あ、そう。いや、そりゃ失礼」
と頭をかいた。「しかし若いな。|充分《じゅうぶん》に学生で通るし、もしその気があるんだったら……」
「いいえ、|遠《えん》|慮《りょ》しますわ」
と政子が言っていると、電話を終えた並子が|戻《もど》って来た。
「電話して来たわ。――あら、お知り合いの方?」
男の方は、相手が二人になったのを見て、
「どうも失礼しました」
と、あわてて頭を下げて、行ってしまった。
「何なの? セールスマンにも見えないけど……」
「逆よ。私にセールスをやらないかっていうの」
「政子がやったんじゃ、売れる物も売れなくなるわ」
「失礼ね!――ともかくどうするの、夕ご飯?」
「今、竜介、遊び|疲《つか》れて|眠《ねむ》っちゃったんですって。二時間は起きないわ。どこかで食べて行こうか」
「|賛《さん》|成《せい》! じゃ、ちょっと|豪《ごう》|華《か》に行きましょうよ」
「そうね。じゃ、ホテルにでも行く?」
「――結局ホテルか」
並子が|不《ふ》|思《し》|議《ぎ》そうに政子の顔を見た。
二人は近くのホテルへ行って、|華《はな》やかなロビーを|見《み》|渡《わた》せるレストランで食事をした。
「――そういう話か」
政子が、さっきの男のことを説明すると、並子は|肯《うなず》いて、「|団《だん》|地《ち》の中にだって、ホストクラブの広告がばらまかれる時代だものね。でも良かったわね、政子、|若《わか》く見られて」
「|冗談《じょうだん》じゃないわよ」
と、政子は|渋《しぶ》い顔をした。「それにしても|結《けっ》|婚《こん》してるんだって言ってやっても、後に引かないんだもの、たいしたもんね」
「今は|主《しゅ》|婦《ふ》も平気になって来てるし……。男がソープランドへ行くんだから、女がホストを相手にして何が悪い、ってわけね」
「まあ|理《り》|屈《くつ》ね」
「それにしたって、結局――」
と言いかけて、並子はふとロビーの方へ目を向けたまま、「ねえ、あの男じゃなかった?」
「え?」
政子は|振《ふ》り向いた。――なるほど、さっき政子に声をかけて来た男が、|誰《だれ》かと待ち合わせているのか、ロビーのソファに|腰《こし》をかけて、しきりに|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見ている。
「あの男だわ。まさか……ここを使うつもりなのかしら?」
「どうせなら、その手のホテルの方がいいでしょうにね」
見ていると、アメリカ人らしい、|大《おお》|柄《がら》な|金《きん》|髪《ぱつ》の外人がやって来て、その男はピョンと飛び上るように立ち上って固く|握《あく》|手《しゅ》した。そして、何やら英語でしゃべりながら、|喫《きっ》|茶《さ》室の方へ入って行く。
「――どうなってんの?」
と、政子は首をひねった。「外国人に女性を世話してるのかしら?」
「今のはビジネスの話よ。ちょっと聞こえて来た|限《かぎ》りではね」
「へえ。じゃ、ビジネスマンなの?」
「分らないけど……。見た感じも、ごく|普《ふ》|通《つう》の、というより、少しいい身分のサラリーマンじゃない。きっと、その通りの人なのよ」
「それがどうして女の子に声をかけてるわけ?」
並子は|肩《かた》をすくめて、
「私に分るわけないでしょ」
「へえ。|名《めい》|探《たん》|偵《てい》にも分らないことがあるの」
政子は|皮《ひ》|肉《にく》った。――何しろ並子は|団《だん》|地《ち》で|私《し》|立《りつ》|探《たん》|偵《てい》のアルバイトをやっていて、政子を助手としてこき使っているのである。
「|勝《かっ》|手《て》な|推《すい》|測《そく》はしないのが名探偵ってものなのよ」
と、並子はやり返した。
二人が食事を終えてホテルを出るまで、あの男は喫茶室から出て来なかった。
その三日後。――土曜日の午後だった。
並子はベビーカーに竜介をのせて、政子と|一《いっ》|緒《しょ》に|団《だん》|地《ち》の中のスーパーマーケットへ買物に行った。風のない静かな日で、|陽《ひ》ざしも|暖《あたた》かかった。久しぶりに、二人はぶらぶらと|歩《ほ》|道《どう》を歩いて行った。
「――休みの人が多いわね」
と政子は言った。
「週休二日がふえてるからよ」
「我々は例外ってわけか。静かでいいけどもさ」
どちらも夫は|出勤《しゅっきん》で、また帰りは|遅《おそ》いに決っているのである。
竜介が|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうに|騒《さわ》ぎ始めたので、並子はビスケットをやって|黙《だま》らせた。
「虫歯になるぞ」
と、おどしても竜介には通じない。「まあいいや。ゴシゴシ歯をみがいてやるから」
「もう一人、生まないの?」
「それより政子の所の一人目の方が先じゃないの」
「そりゃそうだけど……。ワトスン役がつわりで|寝《ね》|込《こ》んじゃ話にならないでしょ」
「別に|構《かま》わないわよ。代りを見付けるから」
「へえ。――|無給《むきゅう》、重労働の助手役なんかやる|物《もの》|好《ず》きがいるもんですか」
「いるんだな、それが」
「|誰《だれ》?」
「|生協《せいきょう》の関係で知ってる人でね、ちょっと年上なんだけど、いい人なのよ」
「年上の助手?」
「ご主人と二人きりなんで、当人も働きに出たいんですって。私の|噂《うわさ》聞いて、手伝わせてくれないかって言ってたわ」
「あ、そう」
政子はフン、と鼻を鳴らして、「そりゃ私には色々ご不満もおありでしょうから、どうぞその方をお|雇《やと》いになって下さいな」
「|馬《ば》|鹿《か》ね」
と、並子は|笑《わら》って、「政子が|妊《にん》|娠《しん》しても、代りはいるから|大丈夫《だいじょうぶ》、って言っただけじゃないの。あなたをクビにする気なんてないわよ」
「本当?」
と、ニコニコしているのだから、政子も人がいい。
スーパーの近くへ来ると、|夫《ふう》|婦《ふ》で買物というカップルが目につく。重い物の買いだめは、|亭《てい》|主《しゅ》のいるとき、というわけだろう、帰って来る夫婦の夫の方はほとんど例外なく、両手|一《いっ》|杯《ぱい》の荷物をかかえていた。
「――ほら、竜介! じっとしてないと落っこちるわよ」
「あら、西沢さん」
と、並子へ声をかけて来たのは、ふっくらして、いかにも|呑《のん》|気《き》そうな感じの|主《しゅ》|婦《ふ》だった。
「まあ、|小《お》|倉《ぐら》さん。お買物?」
「ええ、|珍《めずら》しく主人がうちにいるもんだから、こんなときにでも、使ってやらなきゃ、と思って」
「今、あなたの|噂《うわさ》をしてたの。――政子、今話した|小《お》|倉《ぐら》|弥生《やよい》さんよ」
これが|私《わたし》の|椅《い》|子《す》を|狙《ねら》ってる女か――とはオーバーだが、政子はややぎこちない|笑《え》|顔《がお》で名乗った。
「ご主人、|一《いっ》|緒《しょ》じゃないの?」
と並子が|訊《き》くと、
「一緒よ。あら、どこに行ったのかしら?」
と、小倉弥生は|振《ふ》り向いた。「ああ、やっと来たわ。――主人に会うの、初めてだったっけ」
なるほど、あれでは|遅《おく》れるわけだ。政子は|笑《わら》い出しそうになった。
両手にドッカと買物|袋《ぶくろ》をかかえて、顔が|隠《かく》れてしまっているのだ。前が見えないんじゃ、なかなか進まないのも仕方ない。
「あなた。――あなた、|大丈夫《だいじょうぶ》?」
「ん? 何だ?」
「ちょっと荷物をおろしてよ」
「もう着いたのか?」
「まさか。――ほら、落とさないでよ」
「やれやれ……」
ドサッと袋をおろして、ジャンパー|姿《すがた》のその|亭《てい》|主《しゅ》が息をつく。
「あの――こちら西沢さんと……木村さん。うちの主人ですの」
「こりゃどうも」
と、小倉弥生の夫――当然、小倉という名である――は、頭を下げ、政子と並子も、そうしたのだが……。
あれ?――政子は、ちょっと考え|込《こ》んだ。
どこかで見たことがある。この人……。
|誰《だれ》だったろう?――|確《たし》かに|見《み》|憶《おぼ》えがあるのだが。
後は|簡《かん》|単《たん》だった。並子が小倉弥生と、ちょっと|言《こと》|葉《ば》を交わして、そのまま別れる。
スーパーの方へ歩きながら、政子が言った。
「ねえ、今のご主人、どこかで会ったことがあるような気がするんだけど」
「何だ、気が付かなかったの?」
「え?――じゃ、並子、知ってる人?」
「この間の|新宿《しんじゅく》で……」
「そうだ!」
政子は思わず|振《ふ》り向いた。
あの男だ! 政子に、男とホテルへ行って一万円|稼《かせ》がないかと持ちかけて来た……。
「|呆《あき》れた!――並子、知ってたの?」
「知ってるわけないでしょ。今初めて小倉さんのご主人として会ったんだもの」
「すぐに分った?」
「観察力の差よ」
「びっくりしなかったの?」
「|表情《ひょうじょう》を殺す|訓《くん》|練《れん》ぐらいできてなきゃ、|探《たん》|偵《てい》はつとまらないわ」
「差つけちゃって……。でもびっくりしたわねえ、本当に」
「あそこのご主人は、|確《たし》か相当のエリートのはずよ。一流|企業《きぎょう》の課長さんで」
「見たとこ、いかにもそんな風だけど……。どうして、あんなことしてるのかしら?」
「さあ……」
「|奥《おく》さんは――もちろん何も知らないんでしょうね」
「そりゃそうでしょ。そんなことで|悩《なや》んでるって感じじゃないわよ」
「分ったらショックでしょうね」
「私たちは|黙《だま》ってるにしても、こんな|団《だん》|地《ち》だもの、|誰《だれ》に出くわすかもしれないわね」
並子はスーパーの前で、竜介をベビーカーからおろした。たちまち、解放[#「解放」に傍点]された竜介がスーパーの中へ|駆《か》けて行った。
「待ちなさい! 竜介!」
並子はあわてて走り出していた。
2
「何を見てるの?」
と、政子は言った。
「ちょっと、ね」
例によって、並子は返事にならない返事をして、|窓《まど》|辺《べ》から|離《はな》れた。
「竜介君は?」
「まだ一時間は|寝《ね》てるわよ。――ねえ、向いの|棟《むね》の八階を見てごらんなさい」
「八階?」
政子は立って行って、|窓《まど》から、外を見た。「――八階か。カーテンの|閉《し》まってる|部《へ》|屋《や》?」
「そう。十分前までは開いてたのよ」
「出かけたんじゃないの」
「|逆《ぎゃく》よ」
「逆、って?」
「お客が来たの」
「お客なら、別にカーテン閉めなくたって……」
「見られたくないこともあるんでしょ」
「――まさか」
政子は、もう一度その窓を|眺《なが》めて、「何か知ってるの?」
と|訊《き》いた。
「この間会った、小倉さん、|憶《おぼ》えてるでしょ?」
「例のご主人ね」
「そう。あの近所の人に少し当ってみたのよ、私」
「何か分ったの?」
「|大《おお》|方《かた》は、いい人だって|評判《ひょうばん》だったわ。|確《たし》かにご主人の方、人当りもいいし、|特《とく》に|女《じょ》|性《せい》には|愛《あい》|想《そ》がいい感じでしょう」
「それは分るわね」
「ところが、ちょっと耳にしたんだけど、|特《とく》|定《てい》の奥さんと、小倉さんのご主人が特に親しくしてるって|噂《うわさ》があるの」
「へえ。|割《わり》とやるじゃない。でも、同じ団地の中で?」
「三人ぐらいはいるらしいのよ」
「お|盛《さか》んね」
「その一人が――」
と、並子は|言《こと》|葉《ば》を切って、|窓《まど》を指さした。
「あの|部《へ》|屋《や》の?――それじゃ、今入って行ったのは、小倉さん?」
「|違《ちが》うわ。この辺の人じゃないのよ」
「どういうこと?」
政子が顔をしかめた。そこへ|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴って、政子が出て行った。
「――並子」と|戻《もど》って来て、「小倉さんの|奥《おく》さんが、お話があるって……」
「――ご主人が?」
と、並子は|訊《き》き返した。
「ええ、もうびっくりして……」
と、小倉弥生は、|半《なか》ば|呆《ぼう》|然《ぜん》とした様子で言った。
「|詳《くわ》しく話してもらえる?」
「ええ」
と、|肯《うなず》くと、「主人、このところずいぶん|疲《つか》れてるみたいだったの。以前に|比《くら》べると、疲れ方もひどいようで、何度か|訊《き》いてみたんだけど……」
「ご主人は何と?」
「ただ、|忙《いそが》しいんだ、って言うだけ。――こっちも、疲れているところへしつこく訊いても|可《か》|哀《わい》そうでしょ。だから、|黙《だま》っていたの」
「ところが――」
「|昨日《きのう》よ。同じ会社で、主人と同期の入社だった人の|奥《おく》さんが遊びにみえたの。この近所に、知り合いがいるとかで、そこへ行った帰りだったのよ」
小倉|弥生《やよい》は、ちょっと間を置いて続けた。「――少し話をしてから、私がお茶を|淹《い》れ直して来ると、|彼《かの》|女《じょ》が言ったの……」
「ご主人も大変ねえ」
その|口調《くちょう》が、何だかいやに|同情《どうじょう》するような|響《ひび》きを帯びているのが、弥生には気になった。
「ええ、まあ……忙しいみたい」
「もうお|若《わか》くないものね、大変だと思うわ」
「仕方ないわ。課長なんだもの、多少は忙しいのも」
と、弥生は|曖《あい》|昧《まい》に笑った。
「あなた……知らないの?」
と相手は、|面《めん》|食《く》らった様子で言った。
「何を?」
と弥生は|訊《き》き返した。
「いえ――別に、何でもないわ」
相手が急に目をそらした。|却《かえ》って気になる。
「ねえ、言って。主人のことで、何かあるの?」
「うん……」
と|渋々肯《しぶしぶうなず》いて、「あなたのご主人、|左《さ》|遷《せん》されたのよ」
と言った。
「――左遷?」
「そう。何でも、ちょっとしたミスがあって、それの|責《せき》|任《にん》を取らされたとかで……。うちの人は|怒《おこ》ってたわ。あんなことぐらいで、|平《ひら》にするなんてひどい、って……」
弥生は顔から血の気がひくのを感じた。
「――平社員に! 主人が?――何も聞いてないわ、私」
「悪かったわね、こんなこと言って。きっとご主人、言いにくかったのよ」
弥生は、気が遠くなりそうになるのを、必死にこらえていた。――しっかりしなくては!
「それで――主人は今、何の仕事をしているの?」
「営業よ。外を回ってるって聞いたわ。この|寒《さむ》|空《ぞら》で、|慣《な》れない仕事でしょう。|辛《つら》いだろうな、と思って」
「営業……」
弥生にも、思い当ることがあった。以前はよく会社へ電話をして、帰りに外で待ち合わせて食事をしたものだ。子供がいないので、その点は|比《ひ》|較《かく》的自由だった。
しかし、このところ、夫は何度も、
「会社には電話するな」
と念を|押《お》していた。
理由を|訊《き》くと、
「|私《し》|用《よう》電話にうるさいんだ。やっぱり課長が|率《そっ》|先《せん》して実行しないとな」
と言っていた。
弥生も、それで、かけないようにしていたのだが……。しかし、いつまでも|隠《かく》しておけるものでもあるまいに。
「ご主人のことだもの、営業でも|立《りっ》|派《ぱ》な|成《せい》|績《せき》を上げるわよ。すぐまたうちの主人なんか、追い|抜《ぬ》かれちゃうわ」
と相手は|慰《なぐさ》めてくれたが、弥生のショックが多少とも|柔《やわ》らいだわけではなかった。
「でも……それなら、お給料も下がっているでしょうね」
と、弥生は言った。
「そうねえ。――でも、営業の方は、|歩《ぶ》|合《あい》とかがあるから、多少はいいんじゃない?」
しかし、弥生にはそうも思えなかった。
|確《たし》かに夫は人当りのいい|性《せい》|格《かく》だが、|強《ごう》|引《いん》に何かを売り|込《こ》むというタイプではないのである。
おそらく、それは最も|苦《にが》|手《て》とするところだろう。それに、|降《こう》|格《かく》されての仕事とあっては、|張《は》り切ってやるというわけにもいくまい。
それでも、|手《て》|渡《わた》してくれる給料の額は、|一《いっ》|向《こう》に変っていなかった。――小倉の会社は、|珍《めずら》しく現金で月給を渡しているから、弥生も夫から|小《こ》|遣《づか》いを差し引いた額を渡してもらって、それでやりくりしていたのだ。
二人きりの生活だから、かなり|余《よ》|裕《ゆう》はあった。それなりのぜいたくもしている。
夫の|収入《しゅうにゅう》は、本当にそれほど|減《へ》っていないのだろうか?
「――ねえ、こんなことお願いするの、変かもしれないけど」
と弥生は言った。「うちの主人がどの|程《てい》|度《ど》、仕事しているか、それとなくご主人に|訊《き》いてみてくれない?」
「でも……」
と相手は|渋《しぶ》っていたが、弥生が重ねて|頼《たの》むと、承知してくれた。
そして――。
「さっき、その人から電話があったのよ」
と、小倉弥生は言った。
「何だって言って来たの?」
「その人のご主人の話では、ともかく主人の|成《せい》|績《せき》はひどいもんだそうよ。――やる気がないんだろうって。|無《む》|理《り》もない、って|同情《どうじょう》はしてくれてたけど」
「それじゃ、収入もかなり|減《へ》っているっていうわけね」
「そのはずよ。ともかく、会社じゃ、もう主人がいつやめるか、って|噂《うわさ》してるそうだから」
「そこまで来てるの」
と、並子は|肯《うなず》いた。
「ねえ、こんなこと――お願いしにくいんだけど」
「ご主人がどこから|余《よ》|分《ぶん》な|収入《しゅうにゅう》を|得《え》ているのかを調べてほしいってわけね?」
「そうなの」
並子が言ってくれてホッとしたという様子で、弥生は肯いた。
「|簡《かん》|単《たん》には行かないわね」
と、並子は言った。「私はそうそうこの|団《だん》|地《ち》から出られないし、ご主人が何か本業以外に仕事をしているとすれば、たぶん都心の方でやってるでしょうからね」
「そうね。――|無《む》|理《り》かしら?」
「|大丈夫《だいじょうぶ》」
と、並子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「そのために助手がいるんだもの!」
政子が目を見開いた。
――小倉弥生が帰って行ってから、政子は言った。
「本当にいいの? 売春のあっせんやってるなんて分ったら……」
「でも、引き受けないわけに行かないじゃないの」
と、並子は|肩《かた》をすくめた。「|断《ことわ》れば、|彼《かの》|女《じょ》が|直接《ちょくせつ》ご主人を問い|詰《つ》めることになるわ」
「そうか……。すると|破局《はきょく》ってわけね」
「|避《さ》けられないかもしれないけど、できるだけはやってみなきゃ。――ともかく、真相を探って、それから、その事実をあの奥さんにどう伝えるかが問題よ」
「私はどうすればいいの?」
「明日からでも早速、小倉さんの後を|尾《つ》けてちょうだい」
「やっと|探《たん》|偵《てい》らしくなったわね!」
と、政子は|嬉《うれ》しそうに言った。
「見付からないようにね」
「大丈夫よ。|変《へん》|装《そう》して行こうかしら。メガネか何かかけてさ」
「|髪《かみ》を少しいじれば|充分《じゅうぶん》。変に変えれば、|却《かえ》って目につくわ。女は髪型でがらっと変るからね」
「ねえ、交通費は?」
「後で|払《はら》うから、立てかえといてよ」
「ちゃんとメモしとかなきゃ」
「|水《みず》|増《ま》ししないでよ」
「あ! ひどい! いつ私が――」
「しっ! ほら、見て」
と、並子は|窓《まど》の所に立って言った。
例の、八階の|部《へ》|屋《や》から、サラリーマン風の男が一人、出て行くところだった。そして、|窓《まど》のカーテンが開くと、別にどこといって変りのない、|平《へい》|凡《ぼん》な|主《しゅ》|婦《ふ》の顔が|覗《のぞ》いた。
「あの男は……」
「どこかで|紹介《しょうかい》されてやって来たんでしょうね。|団《だん》|地《ち》の名と、何号|棟《とう》、何号室。――それだけを聞いてやって来る……」
「アルバイトもここまで来たのか」
と、政子はため息をついた。「じゃ、小倉さんが、紹介してるのかしら?」
「さあ……。そう思いたくはないけど、団地の中で、そういう副業[#「副業」に傍点]に|興味《きょうみ》のありそうな|奥《おく》さんを|捜《さが》して話をつけているのかもしれないわ」
「けしからん|奴《やつ》ね」
「何とか奥さんに、|左《さ》|遷《せん》されたことを|隠《かく》そうとしてるんじゃないかな」
「それにしたって……他に何かありそうなもんじゃないの」
「|副業《ふくぎょう》なんて、|手《て》|間《ま》ばかりかかって、さっぱりお金にはならないわ。手っ取り早く、と思えば、ああいう方法に走っちゃうんじゃない?」
「ともかく、後を|尾《つ》けてみるわ」
政子は|大《おお》|張《は》り切りである。
「でも、|充分《じゅうぶん》に用心してね」
と並子は言った。「まさか、とは思うけど、|万一暴力団《まんいちぼうりょくだん》なんかが|絡《から》んでるとしたら大変なことになるから」
政子の|表情《ひょうじょう》がこわばった。
「――本当に?」
「あり|得《う》るわよ。あんまり|物《ぶっ》|騒《そう》な場所には行かないことね。見失っても仕方ないわ」
政子はしばし考え|込《こ》んでいたが、
「――|探《たん》|偵《てい》って|保《ほ》|険《けん》ないのかな」
と言った。
「名探偵は|孤《こ》|独《どく》なもんなのよ」
並子は、もっともらしい顔で言った。
3
――さて、どうしよう。
政子は、考え|込《こ》んだ。
小倉が、売春のあっせんをしているという|確証《かくしょう》をつかむべく、|尾《び》|行《こう》を始めて三日になる。少々、|飽《あ》きて来たところであった。
政子としては、TVの一時間物ドラマか何かのように、五、六分も後を|尾《つ》けると、相手がちゃんと|怪《あや》しげな男と|秘《ひ》|密《みつ》の話をしているところへ出くわすのではないか、と期待していたのである。
ところが、これで三日、小倉は、若い女に声をかけるでもなく、ひっそりと金を受け取るでもなく、|至《いた》って|真《ま》|面《じ》|目《め》に、会社へ行き、外回りに出て、何|軒《げん》かの家を当り、四時|過《す》ぎに会社へ帰るという、まともな生活をくり返しているのだ。
「|馬《ば》|鹿《か》らしくなっちゃったわ」
と、グチを言うと、
「いい|探《たん》|偵《てい》の第一|条件《じょうけん》は|忍耐力《にんたいりょく》なのよ」
と、並子は、たしなめるのだった。「たった二日ぐらいでへばってどうするの?」
そのくせ、自分は二|歳《さい》になる|息子《むすこ》の竜介に、すぐかんしゃくを起こして、|怒《ど》|鳴《な》っているのだが。
そして――今日は三日目で、それも会社へ|戻《もど》る|途中《とちゅう》だった。
小倉は、いつも、会社の近くにある、小さな、ごくありふれた|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入って、コーヒーを飲む。ささやかな、|解《かい》|放《ほう》の時間、というところらしい。
当然、|尾《び》|行《こう》している立場の政子としては、同じ店に入って、小倉の方を、さり|気《げ》なく|見《み》|張《は》っているのだが、もちろん、毎日、着る物も変え、昨日などは近所の|奥《おく》さんからメガネまで借りてかけたりして、気付かれないように注意している。
しかし、こうして、小倉を|眺《なが》めていると、とても|彼《かの》|女《じょ》のことに気付くはずがないように見えた。いや――周囲のことなど、およそ目に入っていないようなのである。
朝出るとき、小倉は、まあ元気そうである。もちろん|年《ねん》|齢《れい》的にも、そう|若《わか》くはないから、ファイト満々というわけにもいかないが、ごく|普《ふ》|通《つう》の様子で外回りに出る。
しかし、帰りのときの小倉は、十歳もとしを取ったように見えた。――|疲《つか》れ切って、ぐったりとしている。
今、喫茶店の|奥《おく》まった席に|座《すわ》っている小倉の|姿《すがた》は、まるで、病人のようにしか見えなかった。
結局、こんな尾行はむだなんじゃないかしら、と政子は思った。
小倉はせっせと働いている。|成《せい》|績《せき》が悪いというのは、何かの|間《ま》|違《ちが》いで、|頑《がん》|張《ば》って、給料を|減《へ》らさずに|済《す》んでいるのではないだろうか?
政子は、少々後ろめたい思いすら、味わっていた。――これが|探《たん》|偵《てい》の|辛《つら》いところかしら、などと考えながら。
ちょっと|妙《みょう》だな、と思ったのは、いつもなら、二十分もすれば、やれやれとため息をついて席を立って会社へ|戻《もど》る小倉が、今日は三十分|過《す》ぎても|一《いっ》|向《こう》に動こうとしなかったからである。
それに、十五分を過ぎたころから、ちょくちょく店の入口の方へ目をやるようになっていた。
|誰《だれ》かを待っているのだろうか?
政子も出るに出られず、もう|一《いっ》|杯《ぱい》何か注文しないとまずいかな。でも並子から、必要|経《けい》|費《ひ》が多すぎると|文《もん》|句《く》言われないかしら、などと考えていた……。
そのとき、女が一人、店に入って来た。何となくその|女《じょ》|性《せい》に目をひかれたのは、いやにそわそわして、落ち着かない様子だったからだ。
|年《ねん》|齢《れい》はまあ――三十七、八というところか。ごくありふれた|人《ひと》|妻《づま》という感じである。
その女性は店の中を見回した。そして――小倉と目が合うと、キッと|唇《くちびる》を結んだ。
一大決心をしたという顔つきで、その女は小倉の方へ歩いて行った。
どうも、知り合いにしてはおかしい、と政子は思った。
知り合いなら、顔を見て、すぐにそれと分るだろう。しかし、彼女は、小倉の顔を、何だか探るように、まじまじと|眺《なが》めてから、声をかけたのである。
声は低くて、政子には聞き取れなかった。だが、女の方は、小倉に心を|許《ゆる》していないらしい。ピンと|背《せ》|筋《すじ》をのばしたまま、固い|姿《し》|勢《せい》を|崩《くず》さないのだ。
二、三、|言《こと》|葉《ば》を交わした後、女の方が、ハンドバッグを開けて、何やら|封《ふう》|筒《とう》らしきものを取り出して、小倉の前に置いた。小倉はそれをすぐに|上《うわ》|衣《ぎ》の内ポケットに入れると、自分の方も封筒を出した。
女は、小倉の出した封筒を、引ったくるようにすると、中を|覗《のぞ》き|込《こ》んでいたが、すぐにハンドバッグへ|押《お》し|込《こ》んだ。そして、水を運んで行ったウエイトレスにもまるで気付かない様子で、立ち上ると、|逃《に》げるように店を出て行ってしまった。
ウエイトレスが|仏頂面《ぶっちょうづら》で|肩《かた》をすくめる。小倉はゆっくりと水を飲んだ。
政子は、|一瞬《いっしゅん》、|迷《まよ》った。
「――それ、|恐喝《きょうかつ》じゃないの」
と、並子が言った。
「並子もそう思う?」
政子は、トンカツにかじりつきながら、言った。
「そのものズバリ、恐喝よ。|間《ま》|違《ちが》いないわ」
と並子は言って、「――ほら、これ食べなさい!」
と、竜介の口へ、|柔《やわ》らかい肉を|押《お》し|込《こ》んでやる。
並子の家で夕食の|最中《さいちゅう》であった。
「そこまで行ってたのか……」
と、並子はため息をついた。
「ねえ。――私もショックだったわよ。とても救い|難《がた》いわ。あれはもう私たちの手に負えないわ」
並子は|肯《うなず》いた。
「そうねえ……。|奥《おく》さんには気の毒だけど……」
電話が鳴った。並子が出て、二、三分話をして切ると、
「|噂《うわさ》をすれば。――|小《お》|倉《ぐら》|弥生《やよい》さんからよ」
と|戻《もど》って来る。
「何ですって?」
「恐喝の理由が分ったわ」
「というと?」
「今日、ご主人、ボーナスが出たんですって」
「ボーナス?」
「去年の|額《がく》より一|割《わり》多いっていうの。でも、そんなことありえないじゃない。――恐喝して|払《はら》わせたお金を足して、|辻《つじ》つまを合わせたのよ」
「そうか……」
政子は|肯《うなず》いた。「でも、何をタネにして|脅迫《きょうはく》したのかしら?」
「そりゃ、|主《しゅ》|婦《ふ》に売春のあっせんしてるんだもの。機会はあったでしょ」
「でもさ、三日間|尾《び》|行《こう》したけど、|怪《あや》しげなところへは、足を|踏《ふ》み入れてないわよ」
「政子も|単純《たんじゅん》ねえ」
「何がよ!」
と、キッとなって並子をにらむ。
「その三日間、小倉さんは何をしてたわけ?」
「そりゃもちろんセールスよ」
と言って、「――あ、そうか」
と、|肯《うなず》いた。
「セールスに|寄《よ》った先の家で、これは、と思う主婦に話を持ちかける。――とんだセールスマンだわ」
「どうするの、一体?」
と政子は首を|振《ふ》った。
「|密《みつ》|告《こく》はいやだしね……」
と、並子は考え込んだ。「私だったら、その相手の|主《しゅ》|婦《ふ》を尾行して、|自《じ》|宅《たく》をつきとめていたんだけどな。|惜《お》しかったわね。そんなチャンス、めったにないだろうし……」
政子は、メモ用紙を取り出して、
「はい、これ」
と、並子へ|渡《わた》した。
「なあに? |請求書《せいきゅうしょ》?」
「失礼ね!――そのゆすられてた女性の家の住所よ」
並子は目をパチクリとさせ、
「政子! 尾行したの? やるじゃない!」
と、声を高くした。
「まあね」
と、政子がいい気持でニヤリとする。
「やっぱり私の教育が良かったんだわ」
と並子は言った。
並子は、|玄《げん》|関《かん》の前に立って、チャイムを鳴らした。
少しして、インタホンから、
「はい」
と、女性の声がする。
「|奥《おく》さんですね? ちょっとお話がありまして」
と並子は言った。
「あの――何でしょう?」
「|探《たん》|偵《てい》社の者ですけど」
まあ、少々|不《ふ》|正《せい》|確《かく》ではあったが、まるきりの|嘘《うそ》でもない。――ドアが開いて、不安そうな顔が|覗《のぞ》いた。
「ちょっとお|邪《じゃ》|魔《ま》してよろしいですか?」
並子の|若《わか》さと、|押《お》しつけがましくない言い方のせいか、相手はすんなりと中へ入れてくれた。
「――何のご用でしょう?」
|居《い》|間《ま》へ通された並子に、その|主《しゅ》|婦《ふ》は不安げな目を向けた。
「お名前は、|工《く》|藤《どう》|明《あき》|子《こ》さんですね」
「はあ……」
「この男の人に、最近、お金を|払《はら》いましたね?」
と、|団《だん》|地《ち》で|隠《かく》し|撮《ど》りした小倉の写真を見せる。
工藤明子の顔から血の気がひいた。
「何の――お話か分りませんが――」
「心配なさらないで下さい。私は別に、お|宅《たく》のご主人に|頼《たの》まれて調べているんじゃないんです。ただ、あなたがこの男にいくらお|払《はら》いになったのかと――」
「どうして私が、その人にお金を払わなきゃならないんです?」
と、相手は|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》の|抵《てい》|抗《こう》を試みた。
「この男が、あなたの|浮《うわ》|気《き》の|証拠《しょうこ》を|握《にぎ》っているからでしょう」
工藤明子は、|弾《はじ》かれたように立ち上った。
「何てことを……。そんな……身に覚えのないことです!」
声は、|震《ふる》えて、|跡《と》|切《ぎ》れがちだった。
「じゃ、どうして|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》〈A〉で、この男とお会いになったんですか?」
工藤明子が目を|見《み》|張《は》った。
「あのとき、この男の人へ|渡《わた》した|封《ふう》|筒《とう》の中味は、何だったんですか?」
と、並子がたたみかけると、相手は参ってしまった。
ソファに|倒《たお》れるように|座《すわ》り|込《こ》むと、
「お願い、主人に言わないで……」
と、頭をかかえて|呟《つぶや》くように言った。「お金なら何とかして……」
「|誤《ご》|解《かい》しないで下さい」
と、並子は言った。「私は、あのお金を取り|戻《もど》してあげたいと思ってるんです」
工藤明子は、そろそろと顔を上げた。
「本当……ですか?」
と、声は弱々しい。
「ええ。信じて下さい。――|浮《うわ》|気《き》したのは事実なんですね」
工藤明子は、|深《ふか》|々《ぶか》とため息をつくと、
「はい……」
と|肯《うなず》いた。「|寂《さび》しかったんです、私……。主人はいつも|遅《おそ》くて、少しも|構《かま》ってもらえず――」
浮気した女性は、いつもこう言うものなのである。
「浮気の相手はこの男ですか?」
「いいえ!――その人に|誘《さそ》われたんです。気晴しに、|若《わか》い男とデートしてみませんか、って」
「デートだけ?」
「ええ。でも――私だって、それがどういう意味か、知らなかったとは言えませんわ。ともかく、誘われるままに、見知らぬ若い男性とホテルへ行ったんですから」
なかなか小倉の方も頭がいい、と並子は思った。ただ「デートしてみないか」と言っただけなら、売春をすすめているのではない、とも言い|抜《ぬ》けられる。
「で、その時、写真でも|撮《と》られたんですね」
「はい。ネガを買い|戻《もど》したんです」
「いくら|払《はら》いました?」
「――三十万円です」
それほど|多《た》|額《がく》ではない。|平《へい》|凡《ぼん》な|主《しゅ》|婦《ふ》でも、何とか|都《つ》|合《ごう》のつけられそうな金額である。
小倉も、ボーナスの|穴《あな》|埋《う》め分だけしかゆすり取る気はなかったのだろう。まだ何とか救う道はあるかもしれない……。
「その男の人をご|存《ぞん》|知《じ》なんですか?」
と工藤明子が|訊《き》く。
「多少は」
「じゃ――本当にお金を――」
「全部は|無《む》|理《り》かもしれませんけど、何とかしてみましょう」
と、並子は立ち上って言った。
「|遅《おそ》いなあ、並子……」
政子は、並子と待ち合わせた|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》で、イライラと|呟《つぶや》いていた。
|一《いっ》|緒《しょ》に行くと言ったのだが、並子は、
「一人の方が、向うもしゃべりやすくなるのよ」
と、|主張《しゅちょう》して、さっさと行ってしまった。
「ずるいんだから、もう!」
と、政子はむくれている。「私があの家を調べてやったのに!」
すると――店の前を、小倉が通って行った。
|一瞬《いっしゅん》、目を|疑《うたが》ったが、|間《ま》|違《ちが》いなかった。
そういえば、この前、小倉に声をかけられたのも、この近くだった。小倉が歩いていても不思議はないわけだが、
「よし……」
どうせ並子もこっちを待たせてるんだ。
政子は、店を出ると、小倉が少し先をゆっくりと歩いて行くのを目にとめ、急いで後を追った……。
4
何しろ人出の多い道である。
小倉を見失わないようにと思って、必死に人をかき分けて行く内に、政子は、自分がどの辺を歩いているのか、分らなくなってしまった。
「――どこへ行ったのかしら」
いやにごみごみした角を曲ってみると、小倉の|姿《すがた》は消えていた。「変ね、|確《たし》かに……」
と、歩いて行く。
古びた旅館が|軒《のき》を連ねている、あまり健全とは言いにくい一帯らしい。もっとも昼間だから、まだいいが、これが夜中なら、ちょっと通り|抜《ぬ》けるのにためらうだろう。
「このどれかに入ったのかしら?」
しかし、小倉が、自分で女と遊ぶわけではないと思っていたのだが。
ゆっくりと歩いている内に、旅館の一つの前で、足を止めた。――たった今、人が入って行ったとでもいうように、|玄《げん》|関《かん》の|格《こう》|子《し》|戸《ど》が、半ば開いたままになっていたからであった。
政子は、小倉の声でもしないか、と、|近《ちか》|寄《よ》って、そっと耳を|傾《かたむ》けた……。
|突《とつ》|然《ぜん》、わきから|腕《うで》が出て来て、政子の体をぐいと|抱《だ》きしめた。ギョッとして身をよじったが、
「静かにするんだ!」
と、小倉の声が耳元でして、身がすくんだ。
小倉は、政子を引きずるようにして、旅館の中へと連れ|込《こ》むと、
「さあ上って」
と言った。
「いやよ! 何のつもりで――」
政子は、小倉を|突《つ》き放そうとした。
小倉が|平《ひら》|手《て》で政子の|頬《ほお》を打った。それほどの|痛《いた》さではないが、頭が|一瞬《いっしゅん》クラッとして、よろける。小倉が政子を|押《お》し|倒《たお》すようにして、|靴《くつ》をぬがせると、上に引っ|張《ぱ》り上げ、|廊《ろう》|下《か》を|奥《おく》へと連れて行った。
政子は、|畳《たたみ》の上に投げ出された。六|畳間《じょうま》で、|布《ふ》|団《とん》が|敷《し》いてある。――政子はゾッとした。
初めて、|恐怖《きょうふ》が足下から、|這《は》い上って来る……。
「木村さんだったね」
と、小倉が言った。
「私のことを――」
「気が付かないと思ってたのか」
小倉は、フンと|笑《わら》った。
「知ってたの?」
「このところ後を|尾《つ》けて来てたろう。――あれで気が付かないほど、こっちもボケちゃいないよ」
政子はガックリ来た。
「あんたは友だちと|探《たん》|偵《てい》の|真《ま》|似《ね》|事《ごと》をしてるそうだね。――|馬《ば》|鹿《か》なことはやめとくんだ」
「大きなお世話よ」
少し気の強くなった政子は言い返した。
それというのも、小倉の方も、青くなって、|表情《ひょうじょう》をこわばらせているのに、気付いたからだった。小倉も、|怖《こわ》がっているのだ。
「こんなことすれば、|犯《はん》|罪《ざい》よ!」
「分ってるとも」
小倉は、その場に、|座《すわ》って、「さあ、一体どうして|俺《おれ》をつけ回すんだ?」
と言った。
「それは――」
と言いかけて、政子は口をつぐんだ。
「どうした?」
「|依《い》|頼《らい》|人《にん》の|秘《ひ》|密《みつ》は明かせないわ」
小倉は|苦笑《くしょう》した。
「言うことは|一《いち》|人《にん》|前《まえ》じゃないか」
「悪かったわね」
「何を調べてたんだ?」
「もう分ってるのよ」
「何が?」
「あなたが、売春のあっせんをして、|稼《かせ》いでることよ」
小倉の顔が固くなった。
「――そうか」
「|恐喝《きょうかつ》までやったこともね」
と、つい政子は言ってしまった。
「何だと?」
小倉の目が|険《けわ》しくなった。
「――工藤明子って人をゆすったんでしょう!」
小倉は、ちょっと目をそらした。
「そうか……」
と、|独《ひと》り|言《ごと》のように、|呟《つぶや》く。「そこまで……」
「いくら会社で|左《さ》|遷《せん》されたからって、そんなことまでやるんじゃ、とても|同情《どうじょう》できないわね」
小倉はジロリと政子を見た。
「――|俺《おれ》の気持が分るもんか!――あんたのような、三食|昼《ひる》|寝《ね》つきの|気《き》|楽《らく》の身で、何が分るって言うんだ!」
「そんなの、|甘《あま》えってもんよ」
「何だと?――あんなに身を粉にして働いて、その|挙《あげ》|句《く》、社長の|息子《むすこ》がやらかした失敗の|責《せき》|任《にん》をひっかぶって、|降《こう》|格《かく》だぞ。それでもおとなしくしてろってのか?」
「だからって、人をゆすっていいって言うの?」
「自分だって承知の上での|浮《うわ》|気《き》なんだ。何もこっちは|強制《きょうせい》したわけじゃない。――女の方だって、喜んでやってたんだぞ」
「勝手な|理《り》|屈《くつ》だわ」
「そうか?――じゃ、会社のやったことは勝手じゃないのか?」
「話が|違《ちが》うでしょう!」
小倉は、息をついて、
「どうでもいい。――ともかく、あんたを|黙《だま》らせてやる」
と、政子をにらんだ。
目が、血走っている。
「何するのよ……」
政子はじりじりと後ずさった。
「|騒《さわ》いだってだめだ。――|逃《に》がしやしないぞ!」
小倉が近づいて来た。政子は、さらに後ずさる。
「そっちへ行って! 来ないで!」
「力ずくでも、言うことを聞かせてみせるからな」
政子は、さすがに体が|震《ふる》えて来るのが分った。
小倉は、ここで政子を|犯《おか》して、口をふさぐつもりなのだ。――|黙《だま》っていないと、ここでのことを|亭《てい》|主《しゅ》にばらすぞ、というわけなのだろう。
今さら、そんなことをしてもむだなのに、それが分らないのだ。
「やめて……。|訴《うった》えてやるからね。|泣《な》き|寝《ね》|入《い》りするとでも思ってるの?」
「やってみろ! できやしないさ」
小倉が、飛びかかって来た。政子は|危《あや》うく|逃《のが》れて、立ち上ると、|逃《に》げ出そうとした。
小倉が政子の足をつかんだ。政子が前のめりに|倒《たお》れる。
政子の上に小倉が|覆《おお》いかぶさって来た。
「おとなしくしろ……」
二人は必死でもみ合った。政子も|若《わか》いだけに力がある。
「こいつ!」
「この――|獣《けだもの》!」
そのとき、ゴン、という|鈍《にぶ》い音がして、小倉が一声|呻《うめ》いて、ぐったりとした。
「――並子!」
と政子は|叫《さけ》んだ。
「|大丈夫《だいじょうぶ》? 良かったわ、間に合って!」
並子は大きな花びんを放り出した。
「ありがとう……。生きた|心《ここ》|地《ち》もしなかったわ!」
「スリルがあったでしょ」
「本当ね。でも――」
政子は息を|弾《はず》ませながら、「もうスリルはいらないわ!」
と言った。
「――|弥生《やよい》が。そうですか」
小倉が並子の話に|肯《うなず》いた。
「だから、もう、事実を|隠《かく》すことはないんですよ」
と並子は言った。
小倉は、|殴《なぐ》られたあたりを、そっとなでながら、
「そうでしたか……」
と|呟《つぶや》いた。
「工藤明子さんとも話して来ました」
と、並子は続けて、「あちらも、|浮《うわ》|気《き》に走ったのは、自分の|責《せき》|任《にん》もあるんだから、ということであなたを|訴《うった》えたりするつもりはないそうです」
「私が訴えたいわ」
と政子が口を|挟《はさ》んだ。
「政子は|黙《だま》って。――小倉さん。その代り、あのお金は返してあげて下さい。いいですね?」
「分りました。|妻《つま》が知っていたんじゃ、何のために、こんなことをしているか分りません」
「だから、|奥《おく》さんに、正直にお話しになることですわ」
「しかし、アルバイトのことは、どう言えば――」
「それはいいじゃありませんか、何とでも変えて言えば。奥さんは、きっと信じてくれますわ」
「そうですね……」
「他に、|恐喝《きょうかつ》した人はいないんですね?」
「いません」
と、小倉は言った。「いやでたまらなかったんです。しかし――弥生に、苦しい思いをさせたくなくて……」
「あなたが|捕《つか》まったら、もっと|辛《つら》い思いをしますよ」
「そうですね」
小倉は、何度も|肯《うなず》いた。それから、政子の方へ頭を下げ、
「申し|訳《わけ》ありませんでした」
政子は、|渋《しぶ》い顔で、
「どういたしまして」
「どうでしょう、小倉さん」
と並子が言った。「今日は|早《そう》|退《たい》して、|一《いっ》|緒《しょ》に|奥《おく》さんの所へ行って話しませんか? 一対一じゃ話しにくいこともあるでしょう」
小倉は、照れたように、頭を|叩《たた》いた。そして、顔をしかめた。
「ちょっと強く|殴《なぐ》りすぎまして?」
と、並子は言った。
|団《だん》|地《ち》の|棟《むね》の間を歩きながら、政子が言った。
「ねえ、並子」
「なあに?」
「さっき助けてくれたのは|嬉《うれ》しいけどさ」
「お礼なら、いいわよ」
「そうじゃないわ。――どうしてあそこにいると分ったの?」
「あなたの後を|尾《つ》けてたからよ」
「私の?」
「そう。ちょうど政子が|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》から出て来るのが見えたから――」
「ちょっと――ちょっと待ってよ。それじゃ――もっと早く助けに来られたんじゃないの……」
「でも、まあ……色々あってね」
と並子は|涼《すず》しい顔で言って、「少しはスリルを味わわせてあげようと、気をつかったのよ」
小倉が、先に立って、|階《かい》|段《だん》を上って行くと、|部《へ》|屋《や》のチャイムを鳴らした。
「――いないのかな」
小倉は|鍵《かぎ》を開けて、中へ入った。「ちょっとお待ちになって下さい。――|弥生《やよい》」
と|奥《おく》へ入って行く。
何か、|妙《みょう》な声がして、ドタン、という音が聞こえた。
並子と政子は、上り込んで、奥へ入って行った。そして、|唖《あ》|然《ぜん》として、立ちすくんだ。
弥生が、|裸《はだか》の|胸《むね》を|毛《もう》|布《ふ》で|隠《かく》して、ベッドに起き上っている。そのわきで、若い男が、あわててズボンをはいていた。
小倉は、よろけてタンスにでもぶつかったのか、また頭をさすりながら、|呻《うめ》いていた。いや――|笑《わら》っていた。
|泣《な》き声かと思うような笑い声が、小倉の|喉《のど》から|絞《しぼ》り出されて来た……。
スーパーマーケットの中に、『ジングル・ベル』のメロディがにぎやかに流れている。
「やり切れないわね」
と、政子が言った。
「物価のこと? それとも、小倉さんのこと?」
「両方よ」
と、政子は言って、タマネギの|袋《ふくろ》をカゴへ入れた。「今夜はカレーだ」
「あんまり|辛《から》くしないでね」
「いや。うんと辛くして、泣いてやるわ」
「政子も意外とナイーブなのね」
「意外と、はないでしょ!」
「考えてごらんなさいよ」
「何を?」
「あれで両方に|弱《よわ》|味《み》ができたわけよ。つまり、お|互《たが》い、あんまり引け目を感じないで|済《す》むじゃないの」
「まさか――」
政子は並子を見て、「あの奥さん、わざと[#「わざと」に傍点]あれをご主人に見せて――」
「さあね」
と、並子は|肩《かた》をすくめた。「いい方に|解釈《かいしゃく》しましょうよ。クリスマスですもの!」
竜介が、「|賛《さん》|成《せい》!」とでも言うように両手を上げた。――並子と政子は|一《いっ》|緒《しょ》になって|笑《わら》い出した。
第五話 |優《やさ》しいセールスマンの|事《じ》|件《けん》
1
|鍵《かぎ》をかけておかなかったのが、|間《ま》|違《ちが》いだった。
|玄《げん》|関《かん》に何か物音がして、|宮《みや》|本《もと》|朋《とも》|子《こ》が出て行ってみると、見たことのない男が、立っている。
「あの――何かご用でしょうか」
内心、鍵をかけるのを|面《めん》|倒《どう》がって――すぐ買物に出る予定だったのだ――放っておいたことを|後《こう》|悔《かい》していた。
「|奥《おく》|様《さま》でいらっしゃいますね」
二十七、八というところか。|背《せ》|広《びろ》にネクタイ、アタッシェケースという、典型的セールスマンスタイル。いかにも当りの|柔《やわ》らかい、ソフトな顔立ちの男である。
「はあ」
「|投《とう》|資《し》のご案内に参ったのですが」
「投資……ですか?」
宮本朋子は、ちょっと|笑《わら》って、「とても、|我《わ》が家にそんな|余《よ》|裕《ゆう》はありませんわ」
「いえ、そんなに|沢《たく》|山《さん》の|資《し》|金《きん》は必要ございません。いちかばちかの勝負は、十中八、九、|損《そん》をするようにできておりますから、|一《いっ》|般《ぱん》の|方《かた》へはおすすめしません。少しずつの資金で、|確《かく》|実《じつ》にふやす、というのが|私《わたくし》どもの|方《ほう》|針《しん》でございまして、奥様のお|小《こ》|遣《づか》いで|充分《じゅうぶん》でございますが」
|朋《とも》|子《こ》とて、お金の|儲《もう》かる話に|興味《きょうみ》がないわけではない。しかし、|無《む》|謀《ぼう》なことをやるような|性《せい》|格《かく》ではなかった。
「あの、すみませんけど、ちょっと出かけますので――」
相手が食い下がって来るかと思ったのだが、
「そうですか。では|今日《きょう》はこれで――」
と、案外あっさりと|諦《あきら》めて、「また明日、この時間にでもお|伺《うかが》いしてよろしいでしょうか?」
と|訊《き》いた。
朋子は、どう返事したものか|迷《まよ》ったが、
「いかがでしょう?」
と重ねて訊かれ、
「ええ……まあ……」
と、ためらいがちに言った。
「ありがとうございます。では明日……」
そのセールスマンが、すんなりと帰って行ったので、朋子はホッとした。|実《じっ》|際《さい》、|普《ふ》|通《つう》は何のかのと言って、なかなか帰ろうとしないものだ。
朋子は急いで|仕《し》|度《たく》をして、|玄《げん》|関《かん》を出た。
「――あ、いけない」
歩き出して、思い出した。明日は、|子《こ》|供《ども》の通っている小学校に行かなくてはならないのだ。
あの男が来る|頃《ころ》は家にいないだろう。しかし、あんな話はあて[#「あて」に傍点]にならない。たぶん、もう当分はやって来ないだろう、と朋子は思った。
「さあ、買物、買物」
朋子は、もうあのセールスマンのことなど、すっかり頭から消えて|失《な》くなっていた。
その|翌《よく》|日《じつ》、朋子は小学校へ出かけた。母親たちの会合で、テーマは何やら「教育」のことらしかったが――当り前といえば当り前であるが――話の八|割《わり》は|雑《ざつ》|談《だん》で、終った後も、|忘《ぼう》|年《ねん》会の二次会、三次会よろしく、気の合った同士が|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》へ流れて話し|込《こ》んだので、帰りはもう五時近く。
「|晩《ばん》ご飯の仕度する時間なくなっちゃったから、何か|出《で》|前《まえ》を取って|済《す》まそうかしら……」
と|呟《つぶや》きながら、|階《かい》|段《だん》を上った。
朋子の家は、五階建の三階である。階段を上り、|財《さい》|布《ふ》に入れた|鍵《かぎ》を出しかけて、
「あら」
と足を止めた。
「どうも|昨日《きのう》は」
その男は頭を下げた。朋子は、今日、同じ時間に来ると言っていたことを思い出し、
「お待たせしたんですね、すみません」
|実《じっ》|際《さい》、もし昨日の時間に来ていたとすると、もう一時間以上も|過《す》ぎているのだ。
「いえ、こちらはそれが仕事でございますから」
と、そのセールスマンは言った。「お話だけでも……」
「はあ」
こうなると|断《ことわ》り|辛《づら》い。「じゃ、どうぞ」
と、鍵を開け、男を中に入れた。
「――お上りになりません?」
朋子は男が玄関の上り口にアタッシェケースを置いて、そこに|座《すわ》り込むのを見て、言った。「お茶ぐらい、さし上げますわ」
「いいえ、ここで|結《けっ》|構《こう》です」
と、男はにこやかな顔で言った。「|奥《おく》|様《さま》ご夕食の仕度はよろしいんですか?」
「え――ええ、これからしようと――」
「それじゃ、お|手《て》|間《ま》を取らせるわけにいきませんね」
男は、アタッシェケースを開けると、「では、パンフレットだけを置いて参りますので、お時間のあるときに、ご|覧《らん》になって下さい」
「そうですか……」
「一週間しましたら、またお|伺《うかが》いします。――ここに置きます」
男は立ち上ると、出て行きかけたが、ふと|振《ふ》り向いて、「あ、それから、こういう|件《けん》については、必ずご主人とご相談なさって下さい。こっそりへそくりで、などとおっしゃる方もありますが、後で|夫《ふう》|婦《ふ》|喧《げん》|嘩《か》の種になるようでは、心苦しいですから」
「分りました」
「では失礼いたします」
男は|丁《てい》|寧《ねい》に頭を下げて、出て行った。
ホッとしながらも、朋子は感心していた。あんなに良くできたセールスマンなんて、見たことないわ……。
|愛《あい》|想《そ》のいいのは当り前だが、しつこくなく、|押《お》しつけがましくもない。しかも、すすめても上ろうともしない。――本当に|珍《めずら》しいわ。
朋子はパンフレットを取り上げた。
いつもなら、中も見ないで|捨《す》ててしまうのだが、今日ばかりは、そんな気にもなれなかった。朋子は|居《い》|間《ま》へ入ると、ソファに|座《すわ》って、パンフレットをめくり始めた……。
ワンパターンね、本当に。
|木《き》|村《むら》|政《まさ》|子《こ》は、|団《だん》|地《ち》の中の公園をぶらぶらと歩いていた。――午前十一時。朝ともいえない時間だが、|掃《そう》|除《じ》や|洗《せん》|濯《たく》を|片《かた》|付《づ》けた|主《しゅ》|婦《ふ》たちが外へ出て来る|時《じ》|刻《こく》である。
政子は子供がないので、少し早い。まだ公園の|砂《すな》|場《ば》にも子供の|姿《すがた》はなかった。
木のベンチに、主婦が一人、|座《すわ》っている。顔は知っていたが、名前までは思い出せない。
「おはようございます」
と声をかけると、その主婦は、なぜかギクリとした様子で政子を見た。
何だか、ひどく|深《しん》|刻《こく》そうな顔で、立ち上ると、そのまま行ってしまった。
「――どうしたのかしら」
政子は、|腰《こし》をおろしながら、|呟《つぶや》いた。
「おはよう!」
と声がして、|西《にし》|沢《ざわ》|並《なみ》|子《こ》がやって来る。
学校時代からの親友同士だが、今は、並子が|探《たん》|偵《てい》、政子が助手、という「差別」がある。もっともこの探偵は二|歳《さい》になる|竜介《りゅうすけ》というハンディを持っていた。
その「ハンディ」が勢いよく砂場へ飛び|込《こ》んで行く。
「竜介! 砂をはね飛ばさないで!」
と、並子は|怒《ど》|鳴《な》ってから、「今の人、知ってる?」
と|訊《き》いた。
「え?」
「今、すれ|違《ちが》った人よ」
「ああ、あの奥さん? 顔ぐらいはね」
「何だか、ずいぶん思い|詰《つ》めたような顔してたわね」
「人には色々|悩《なや》みがあるわよ」
と政子は、分ったようなことを言った。
「あ、しまった!」
「どうしたの?」
「写真が出来てるのに、|引《ひき》|換《かえ》|券《けん》を|忘《わす》れて来ちゃった。ねえ政子、持って来てくれない」
「|私《わたし》が?」
「助手でしょ」
「|私《し》|用《よう》に使わないでよ。――まあいいわ。竜介君置いてかれても|困《こま》っちゃうものね。じゃ|鍵《かぎ》、ちょうだい」
「悪いわね」
「高いぞ!」
と|笑《わら》いながら、政子は、並子のいる|高《こう》|層《そう》の|棟《むね》の方へと歩き出した。
並子の所は七階である。エレベーターで上り、廊下へ出ると――目を|疑《うたが》うような光景が待っていた。
|廊《ろう》|下《か》の高い手すりに、女が一人、よじ登ろうとしていた。手すりを乗り|越《こ》えると、そこは高さ七階の空間で――つまりは、落下するしかないのである。
政子も、|探《たん》|偵《てい》助手として、多少は|緊急事態《きんきゅうじたい》に|対《たい》|応《おう》する|心構《こころがま》えができていたのだろう。
「待って!」
と|叫《さけ》ぶと、その女の足へと飛びかかって、|抱《だ》きしめ、そのまま廊下へ|倒《たお》れ|込《こ》んだ。
「死なせて……死なせて……」
と言いながら、その女は|泣《な》き|伏《ふ》した。
政子は、それが、さっき公園にいた|奥《おく》さんだと気付いたが、同時に、まるで自分が飛び降りようとでもしていたように、目が回って、足がガタガタ|震《ふる》え始めていた。
――その|主《しゅ》|婦《ふ》は、並子の所の|居《い》|間《ま》に入って、やっと落ち着いた様子だった。
並子も、政子が|戻《もど》って来ないので、どうしたのかと上って来ていた。政子がお茶を出すと、
「どうもすみません」
と、その主婦は顔を伏せた。
「一体何があったんですの? もしよろしければ、ご相談に乗りますよ」
と並子は言った。「私ども、探偵の|真《ま》|似《ね》|事《ごと》のようなことをやっているんです。お手伝いできるかどうか分りませんけど、話してみていただけません?」
「ええ……」
とその主婦は|肯《うなず》いて、「お話するといっても……私がいけないんですから、どうにもなりませんけど、でも聞いていただけますか」
「ええ、もちろん」
と、並子は言って、「――竜介! あっちでテレビ見てなさい!」
と|怒《ど》|鳴《な》った。
「――私、宮本|朋《とも》|子《こ》といいます。実は――主人に何もかも分ってしまって」
「何もかも? つまり――|浮《うわ》|気《き》したとか、そういうことですか?」
「それもあります」
「というと、他にも?」
「うちの|貯《ちょ》|金《きん》を……」
並子は肯いて、
「どれくらい?」
「五百万くらい……。家を買う|頭金《あたまきん》に、と|貯《た》めていたんです」
「何に使ったんですか?」
「――|投《とう》|資《し》です」
と、宮本朋子は言った。「ところが……。初めから、お話しましょうね」
「お願いします」
きっかり一週間後に、そのセールスマンはやって来た。
今度も、|玄《げん》|関《かん》で、というのを、朋子は上らせて、|紅《こう》|茶《ちゃ》を出した。――|正直《しょうじき》なところ、少々気がとがめていたのだ。
夫に話をしたのだが、
「金を|捨《す》てるようなもんだ」
と|一蹴《いっしゅう》されてしまったのである。
何もあんな風に言わなくたって、と|腹《はら》が立ったが、朋子としても、投資には|危《き》|険《けん》がつきものであることは分っていたから、そう強くも言えなかった。ゆとりがあるわけではないのだから。
「――せっかく来ていただいて、すみませんね」
と、朋子は|事情《じじょう》を説明してから言った。
「そうですか。いや、仕方ありません。必ず承知して下さるのでしたら、この商売も楽なものですよ」
朋子は|名《めい》|刺《し》を見た。――〈|北《きた》|山《やま》|達《たつ》|郎《ろう》〉とある。
「北山さん、とおっしゃるんですね。この辺をずっと回ってらっしゃるの?」
「ええ、大体は。――しかし、ご用ならどこへでも出かけて行きますよ」
と、北山という男は言った。「さて、あまり|長《なが》|居《い》をしても……。どうもお|邪《じゃ》|魔《ま》しました」
「まあ、もう?」
「これから駅の方へ出ますので。――お買物にでも出られるのでしたら、車ですからお送りしましょうか?」
「でも、そんな――」
|実《じっ》|際《さい》、今日はこれから駅前まで出るつもりだった。
「|構《かま》いませんよ、どうぞ」
「それじゃ……」
朋子は、結局、北山の車で、駅まで送ってもらうことになった。
|断《ことわ》られた相手にここまでサービスするという、その気持が、朋子を動かした。車を降りるとき、
「明日、またいらして。主人にもう一度、話してみます」
と、朋子は言ったのだ。
だが、夫の答えは、変らなかった。それどころか、
「そんな風に親切にされて、喜んでるとは何だ。そんな|奴《やつ》は、内心じゃ|扱《あつか》いやすい女だと|舌《した》を出してるんだぞ」
とまで言った。
朋子はムッとした。
次の日、北山が来る前に朋子は銀行へ行き、自分の|口《こう》|座《ざ》から、五万円おろして来た。
時間通りやって来た北山へ、朋子はその五万円を|委《ゆだ》ねた。
「決してご|損《そん》のないようにいたします」
ちっとも多い額でもないのに、北山は|嬉《うれ》しそうだった。――二人はしばらく話し|込《こ》んだ。
朋子は、まるで|懐《なつか》しい友人にでも出会ったように、心がなごむのを感じた。
「おや、すっかり時間がたって……。では、またお|伺《うかが》いします」
と北山が立ち上る。
その|瞬間《しゅんかん》、朋子は、|胸《むな》|苦《ぐる》しいほど、気持が|昂《たかぶ》るのを覚えた。玄関へ送りに出る。
「――今度はいつ|頃《ごろ》?」
と朋子は、|靴《くつ》をはいている北山へ言った。
「そう何度もお時間は取らせません。電話ででも、ご|連《れん》|絡《らく》を入れます」
「そうですか……」
また来てくれとは、言えなかった。
「では、どうも――」
と北山は出て行った。
朋子は|居《い》|間《ま》へ|戻《もど》って、ぼんやりと立っていた。何だか、急に|張《は》りがなくなったようだ。――玄関のチャイムが鳴っているのに気付いて、出て行く。
ドアを開けると、北山が立っていた。
「申し|訳《わけ》ありません。つい、うっかりして、一|箇《か》|所《しょ》、印をいただくのを|忘《わす》れてしまいまして……」
朋子は|胸《むね》が|一《いっ》|杯《ぱい》になった。北山が上ると、いきなり朋子は|抱《だ》きついた。
「|奥《おく》さん……」
「抱いて……」
朋子は、自分が同じ|言《こと》|葉《ば》を何度もくり返すのを、聞いていた。
2
政子は宮本朋子を送って、その|棟《むね》の前まで来た。
「もう|大丈夫《だいじょうぶ》です」
と、朋子は棟の入口で言った。「どうもすみませんでした」
「そうですか? 何なら|部《へ》|屋《や》まで――」
「いいえ。もう死んだりしません。|子《こ》|供《ども》のことがありますもの」
「そうですよ。元気を出して」
「ええ」
と朋子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「何か力になれることがあったら、また来て下さい」
「ありがとうございます」
と、朋子は頭を下げた。
政子が|戻《もど》ってみると、並子は|昼《ひる》|寝《ね》している竜介に|毛《もう》|布《ふ》をかけているところで、口に指をあてて、シッとやってから、キッチンの方へ行った。
「――もう大丈夫ね、あの奥さん」
と政子が言った。
「そうね……。でも、どことなくスッキリしないわ」
「そりゃ、そのセールスマンを|捕《つか》まえてしめ上げてやりたいわよ、私だって。女を|騙《だま》して、金を|巻《ま》き上げて、ドロンじゃ、|悪《あく》|質《しつ》じゃないの」
「しかも、その会社に北山という男はいなかった……。つまり、初めから北山は、あの奥さんを騙すつもりだったのね」
「そりゃそうでしょうね」
並子は、何やら考え|込《こ》んでいたが、
「どうも、これで|済《す》むとは思えないわ」
と言い出した。
「どうして?」
並子は答えず、
「ねえ、あの宮本ってお|宅《たく》のこと、あなた少し聞き回ってくれない? ご主人のこと、近所の|評判《ひょうばん》、その他、例によって、|噂話《うわさばなし》とか……」
「何かありそうなの?」
「どうもね……。|納《なっ》|得《とく》できないのよ」
と、|名《めい》|探《たん》|偵《てい》は、例の|如《ごと》く、わけの分らないことを言い出すのだった。
「――ねえ、聞いた、ゆうべのあの|凄《すご》い|喧《けん》|嘩《か》」
と、会うなり、話が始まる。
「聞きたくなくても聞こえるわよ。どこのお|宅《たく》?」
「宮本さんのところよ。|凄《すご》かったじゃない、ご主人が|怒《ど》|鳴《な》りつけて――」
「一体どうしたっていうの?」
「|奥《おく》さんの|浮《うわ》|気《き》がばれたみたい」
「あの奥さんが? へえ! 人は見かけによらないわねえ」
――政子は、|訊《き》き回るまでもなく、スーパーで耳に飛び込んで来た会話に耳を|傾《かたむ》けていた。
「しかも、|貯《ちょ》|金《きん》を全部、男に|注《つ》ぎ込んだらしいのよ」
「それじゃ大変ね。――別れるのかしら」
「ご主人、|黙《だま》ってないんじゃない?」
「浮気の相手って|誰《だれ》なのかしら」
「何でも、セールスマンとかいう話だったけど」
「セールスマンなんて、またよりによって……」
「ねえ。まるきり|婦《ふ》|人《じん》|雑《ざっ》|誌《し》の告白記事じゃない?」
「本当ね」
二人の|主《しゅ》|婦《ふ》が|一《いっ》|緒《しょ》に|笑《わら》った。――政子は、他人の家の|喧《けん》|嘩《か》を笑う気には、|到《とう》|底《てい》なれず、その場を|離《はな》れた。
スーパーを出て歩き出すと、
「あの……」
と声をかけられる。
振り向くと、宮本朋子だった。
「まあ、この間は……」
と、言いかけて、政子は|言《こと》|葉《ば》を切った。
朋子の顔は、左の|頬《ほお》がはれ上って、ひどい様子だった。|殴《なぐ》られたのだろう。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
「ええ……」
朋子は、|人《ひと》|目《め》を|避《さ》けるように、木の|陰《かげ》へと|退《しりぞ》くようにして、「すみませんけど……買物をお願いできないでしょうか」
「ええ、いいですよ」
「ここにメモしてあります。申し|訳《わけ》ありませんが……」
「それぐらい、お安いご用ですわ」
と政子はメモを受け取った。
「お金を――」
「後でいいですよ。じゃ、ここで待ってて下さいね。――あ、私の買った物、見てていただけます? じゃ、すぐ|戻《もど》りますから」
政子が、|頼《たの》まれた買物を|済《す》ませて|戻《もど》って来ると、朋子の|姿《すがた》がない。キョロキョロと見回したが、どこにも見えないのだ。
政子の買物|袋《ぶくろ》が、木にもたせかけて、置いてあった。
「――何だか心配だわ」
並子の|部《へ》|屋《や》へ来て、政子は言った。「|黙《だま》ってどこかへ行っちゃうなんて」
並子は竜介にうどんを食べさせながら、
「ご主人の気が知れないわね」
「カッとなったんでしょ」
「|殴《なぐ》ったことを言ってんじゃないのよ」
「じゃ、何なの?」
「そんな夜中に、大声で|怒《ど》|鳴《な》り|散《ち》らせば、まるで近所にふれ歩くのと変らないじゃないの」
「そうね。でも――」
「考えてごらんなさいよ。|奥《おく》さんがセールスマンと|浮《うわ》|気《き》したなんて、ご主人にとっちゃ、|名《めい》|誉《よ》なことじゃないわ。まあ、中には|同情《どうじょう》してくれる人もいるかもしれないけど、大体は|馬《ば》|鹿《か》にされると思っていいわ」
「そりゃそうね」
「|怒《おこ》るにしたって、近所に知れないように怒るんじゃない?」
「だって|現《げん》|実《じつ》に――」
と政子が言いかけると、
「|推《すい》|理《り》と現実が食い|違《ちが》うときは、現実の方を|疑《うたが》ってかかるべきよ」
と、並子が|信条《しんじょう》を|述《の》べた。「そら! ちゃんと食べなさい!」
もちろん、これは竜介に言ったのである。
「この買った物、どうしよう? それにお金ももらってないのよ」
「後で、行ってみましょうよ、あの人の所に」
「そうね、じゃ、竜介君のお昼が終ったら」
「――あの奥さん、|警《けい》|察《さつ》へは|届《とど》けたのかしら?」
「そうか。|詐《さ》|欺《ぎ》だものね」
「|立《りっ》|派《ぱ》な詐欺よ。ともかく|偽《ぎ》|名《めい》を使って、|名《めい》|刺《し》まで持ってたっていうんだから」
「|逮《たい》|捕《ほ》できるかしら」
「そんな|奴《やつ》はこらしめてやらなきゃね。でも……もう一つ、すっきりしないわねえ」
「何が?」
「うん……」
と、並子ははっきりしない。
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴って、政子が出て行った。
「――あら、|奥《おく》さん」
宮本朋子だった。
「すみません、さっきは」
と、朋子は頭を下げた。
何だか、息を|弾《はず》ませている。
竜介にやっと食べさせ終って、並子が|居《い》|間《ま》へ行くと、朋子は、政子が|渡《わた》した、冷たい|濡《ぬ》れタオルで、はれた|頬《ほお》を冷やしていた。
「大変でしたね」
と並子は言った。
「何をされても、私がいけないんですから……」
と言ってから、朋子は、続けて、「実は、さっき、|妙《みょう》なものを見たんです」
「妙なもの?」
「ええ。それで、買物をお願いしておいて、勝手に――。すみませんでした」
「それより、妙なものって何ですか」
「実は、木の|陰《かげ》で待っていると、車が通って行くのが見えて……。あそこから、広い通りが見下ろせるんです」
「ええ、分ります」
「何だか見たことのある車のようで……。まさか、とは思ったんですけど、あの北山と名乗ってた男の車と、よく|似《に》てたんです」
「それで?」
「乗ってる人の顔が見たくなって、急いで|階《かい》|段《だん》を降りて行きました。ちょうど車は信号で|停《とま》ってたんです」
「で、中に乗っていたのは?」
「ちょうど下へ着くと、信号が変って、車が走り出したんですけど、|間《ま》|違《ちが》いなく北山の顔が見えました」
「車のナンバーは?」
「そこまでは……」
「残念ですねえ。ナンバーがあれば、その男も|捕《つか》まえられますよ」
「ええ。でも、それよりびっくりしたのは……」
と言いかけて、朋子はためらった。
「どうしました?」
「もう一人[#「もう一人」に傍点]、車の中に人がいたんです」
「もう一人。――それは? 知っている人ですか?」
と並子は|訊《き》いた。
「ええ……。ほんのチラッとしか見えなかったので、|断《だん》|言《げん》はできないんですけど……」
と、朋子は言い|淀《よど》む。
「ご主人だったんじゃありません?」
と並子が言うと、朋子は目を|丸《まる》くして、
「どうしてそれを――」
「まさか!」
と政子は言った。「じゃ、ご主人は、何も知らずに?」
「それはどうかしら」
と並子は首を|振《ふ》って、「最初から、ご主人が承知の上でのことだったとしたら?」
「どういうこと? つまり……わざと|奥《おく》さんを……」
「ご主人に|女《じょ》|性《せい》がいると思われたことはありません?」
と並子が|訊《き》くと、朋子は、ちょっと|迷《まよ》ってから、
「ええ……。よく女っ気というか、|香《こう》|水《すい》や、|口《くち》|紅《べに》なんかがハンカチについてることがあります。でも、お客の|接《せっ》|待《たい》で、飲み歩くことが多いんです」
「それで、バーなんかに行くわけですね。|外《がい》|泊《はく》することは?」
「月に二、三回は。残業で、会社に|泊《とま》るんだと言っています」
「それが口実だとすると――」
「女がいるんでしょうか?」
「分りません。|可《か》|能《のう》|性《せい》としては考えられますけど」
「調べていただけませんか」
並子は、ちょっと|黙《だま》っていた。――この|探《たん》|偵《てい》社は、|浮《うわ》|気《き》や、|素《そ》|行《こう》|調査《ちょうさ》の類はやらないのが|建《たて》|前《まえ》である。
が、並子は|肯《うなず》いて、
「やりますわ」
と言った。
「並子ったら、人のことを当てにして!」
朋子が帰った後、政子はプーッとふくれてしまった。「こき使われるのは、こっちなんだから」
「何を|怒《おこ》ってんのよ?」
「怒りたくもなるわよ。あそこのご主人の|素《そ》|行《こう》|調査《ちょうさ》なんて、そう|簡《かん》|単《たん》にはできないじゃないの!」
「かみつきそうな顔しないでよ」
「生れつきよ」
「落ち着きなさい。|誰《だれ》も、ご主人の後をつけ回せなんて言ってないわ」
と並子は|涼《すず》しい顔。
「じゃ……どうすればいいの?」
「何も[#「何も」に傍点]しなくていいのよ」
「どういう意味?」
と政子は|訊《き》いた。「だって、今、引き受けたじゃない」
「そうよ。でも、何もしなくていいの」
と並子は言った。
「また、わけの分んないこと言って……」
とにらむ。
「調べてることにするのよ、あの奥さんにはね。そして……」
並子は一つ息をついて言った。「|大丈夫《だいじょうぶ》。ちゃんと|事《じ》|件《けん》は|解《かい》|決《けつ》してみせるから」
3
「ねえ、いいの?」
と、政子は言った。
「何が?」
並子は、テレビを見ながら、ミカンを食べ、かつ新聞をめくりつつ、|訊《き》き返した。
「宮本さんのことよ。放っといていいの? もう一週間以上たつわ」
「ああ、あの|奥《おく》さんとセールスマンの|事《じ》|件《けん》のこと?」
「のんびりテレビなんか見ちゃって」
と、政子はため息をついた。
「あなたも|一《いっ》|緒《しょ》になって見てるじゃないの」
「私は|探《たん》|偵《てい》助手ですからね」
と、政子は言った。「名探偵も、最近は昼メロに|夢中《むちゅう》で、少々|低《てい》|俗《ぞく》|化《か》して来たんじゃないの?」
「|皮《ひ》|肉《にく》のつもり?」
「つもり、じゃなくて、皮肉よ」
「こういうドラマを見るのも、探偵の仕事の内なのよ」
「どうして?」
「最大|公《こう》|約《やく》|数《すう》ともいうべき、考え方がここに典型的に|示《しめ》されてるからよ。つまり、|妻《つま》が|浮《うわ》|気《き》したとき、夫はどういう|態《たい》|度《ど》に出るかとかね。|実《じっ》|際《さい》は、まるで|違《ちが》うに決ってるのに」
「何だか、分ったような分んないような話ねえ」
と、政子は|笑《わら》って、「竜介君は、まだ大丈夫?」
「|寝《ね》て三十分しかたってないもの。二時間ぐらいは平気よ。――そんなこと、おっしゃるもんじゃありませんわ」
「え?」
政子は耳を|疑《うたが》った。
「テレビよ」
「ああ……」
政子は|肯《うなず》いた。TVでは、|正《まさ》に、登場人物の一人が、「そんなこと、おっしゃるもんじゃありませんわ」と言っていた。
「並子、どうして分るの、先のセリフが?」
「パターンよ。いつも決ったセリフしか出て来ないから、大体|見《けん》|当《とう》がつくわ」
「へえ、そんなもんなの?」
「名探偵の頭は、ちょっと|違《ちが》うの」
あんまり関係ないんじゃないかな、と思ったのだが、政子は|黙《だま》っていた。
「――でも、宮本さんのところ、あれからは|平《へい》|穏《おん》|無《ぶ》|事《じ》らしいじゃない」
少し間を置いて、政子は言った。「どうするの? このまま何もなきゃ、放っとくの?」
「これだけは、|断《だん》|言《げん》してもいいわ」
と並子は言った。「必ず、あちらからやって来るわよ」
|玄《げん》|関《かん》のチャイムが鳴った。
政子が立って行く。並子の家なのに、なぜか、政子が助手として、こういう場合も動くようになっているのである。政子が|戻《もど》って来て、言った。
「宮本さんの奥さんよ」
並子が、ほらね、というように、ウインクして見せた。
宮本朋子が、頭を下げた。
「――もう、すっかり元通りになったようですね」
と並子が言った。
「え?」
「お顔の|傷《きず》ですよ、ご主人に|殴《なぐ》られたときの」
「ああ。――ええ、おかげさまで。その後は殴られていませんから」
「ご主人はどうです?」
「相変らず、時々帰りが|遅《おそ》くなりますけど、それは以前もそうでしたから……」
宮本朋子は、少しためらってから、「あの――どうでしたかしら?」
「ご主人に、女がいるかどうか、っていうことですね」
「はい」
政子は、|傍《そば》に立っていて、少々気まりの悪い思いをしていた。宮本朋子に、夫のことを調べると言っておいて、|実《じっ》|際《さい》は何もやっていないのだから。
並子は、
「今週、ご主人が遅かったのは?」
と|訊《き》いた。
「ええ、一番遅かったのは、|一昨日《おととい》でした」
「やっぱりね」
と|肯《うなず》く。
「というと……」
「ご主人は女の所へ行ったんですよ」
これには政子の方が|仰天《ぎょうてん》した。
「そうですか……」
朋子は、顔を|伏《ふ》せた。
「つまり、こうだったと思うんです」
と、並子は平然と続けた。「ご主人は、その女と|結《けっ》|婚《こん》しようと思っているんです」
「そのためには私と|離《り》|婚《こん》しなくちゃならないわけですね」
「そこで、あの北山という男――本当の名前は分りませんけどね――を|雇《やと》って、あなたに近づかせたんです。たぶん、女にかけては、プロなんでしょうね」
「私にわざと|浮《うわ》|気《き》をさせて、離婚しようというんですね」
「だから、あんなに|華《はな》|々《ばな》しく|怒《ど》|鳴《な》ったりしたんですよ。近所の人たちに、あなたの浮気を知らせておくつもりだったんです」
「ひどいわ」
と、朋子は|呟《つぶや》くように言った。「――どうすればいいでしょう?」
「そうですねえ。私たちも、|本職《ほんしょく》の|探《たん》|偵《てい》じゃありませんから、ご主人の浮気現場を写真におさめるというわけにはいきません。ですから、もしご主人と別れるおつもりなら、本職の探偵社とかに、|素《そ》|行《こう》|調査《ちょうさ》を|依《い》|頼《らい》なさったらいかがですか。それとも、|誰《だれ》か、信用できる方を立てて、同席してもらい、ご主人に、|総《すべ》てを知っているとぶつけるんです」
「でも――」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。ご主人だって、役者じゃないし、北山とのことを、あなたが知っているとは思ってもいないでしょう。いきなり問い|詰《つ》めれば、しどろもどろになりますよ。それを第三者の人に見てもらっておけば……」
朋子は、ゆっくりと|肯《うなず》いた。
「分りました。よく考えてみますわ」
「そうして下さい。もし、|誰《だれ》かに同席してもらうときは、あなたの身内とかでなくて、公平な立場の方がいいと思いますわ」
「どうもありがとうございました」
宮本朋子は、|丁《てい》|寧《ねい》に礼を言って、「あの……調査費用はいかほどになりましょうか?」
と|訊《き》いた。
「一|件《けん》について三千円と、調査のための交通費などで――そうですね、五千円もいただいておけばいいと思いますわ」
「そんなもので――」
「|結《けっ》|構《こう》ですわ、別に、それで生活しているわけではないんですから」
「じゃ……。また、ご|連《れん》|絡《らく》します」
と、宮本朋子が帰って行く。
「――ねえ並子」
政子が|呆《あき》れ顔で、「何もやらないでお金取るなんて、|詐《さ》|欺《ぎ》じゃないの」
「全然取らなきゃ、おかしなもんでしょ。|却《かえ》って変だと思われるわ」
「そんなこと――」
「いいのよ。私を信用してなさい」
並子は、宮本朋子から受け取った五千円を、|封《ふう》|筒《とう》に入れ、引出しにしまい|込《こ》んだ。
「どうしたの?」
「このお金は、使わずに置いとくのよ」
と、並子は言った。
「気がとがめるの?」
「|違《ちが》うわよ。|近《ちか》|々《ぢか》返すことになると思ってるからよ」
「だったら、受け取らなきゃいいじゃないの!」
「それじゃ、まずいの」
もはや、政子にはついて行けない。――竜介が|早《はや》|目《め》に目を覚まして、二人の会話は|中断《ちゅうだん》されてしまった。
その二日後、政子はスーパーへ買物に来ていた。
今日は並子が竜介を連れて、保健所へ行っているので、昼は一人で食べなくてはならない。いつもは昼食を作らされて|文《もん》|句《く》ばかり言っているのだが、いざ一人になるとつまらなくて、結局、スーパーの近くにある|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入って、軽く食べることにした。
少し昼を|過《す》ぎているので、店も|暇《ひま》そうだった。――政子は、サンドイッチをつまみながら、店の|女《じょ》|性《せい》|週《しゅう》|刊《かん》|誌《し》をパラパラとめくっていた。
「――失礼します」
と、男の声がして、顔を上げる。
二十七、八というところか。きっちりと|背《せ》|広《びろ》にネクタイ|姿《すがた》の、なかなかの|好《こう》|男《だん》|子《し》である。
「何でしょうか?」
と、政子は|訊《き》いた。
「もしよろしかったら、ちょっとお時間をいただけませんか。|投《とう》|資《し》のご相談をさせていただきたいのですが」
何だか宮本朋子の話に出て来た男みたいだ、と政子は思った。
「――かけてよろしいですか?」
男は、あまり|抵《てい》|抗《こう》を感じさせない、ソフトな|物《もの》|腰《ごし》で、政子の向いの席に|座《すわ》った。「私、こういう者でございます」
男の出した|名《めい》|刺《し》を一目見て、政子は、ギョッとした。おかげで、パンが|喉《のど》につかえて、目を|白《しろ》|黒《くろ》させた。名刺には〈北山達郎〉とあったのである……。
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」
と北山は|訊《き》いた。「水をぐいと飲まれるとよろしいですよ」
「だ、大丈夫です」
政子は、やっとの思いで言った。
それにしても、この男、どういうつもりなんだろう?――ともかく、|探《たん》|偵《てい》助手に声をかけて来たのが運の|尽《つ》きだ。
|逃《に》がしてなるものか! 政子は、その男の|淀《よど》みない説明など、完全に聞き流しながら、必死で考えていた。
「――え? 何ですって?」
「いえ、もしよろしければ、お|宅《たく》へご|一《いっ》|緒《しょ》してお話をしようかと思ったのですが。――お|忙《いそが》しいようでしたら、|結《けっ》|構《こう》です」
「ああ。そうですね。ええ、別に|構《かま》いませんよ」
「じゃ、参りましょうか。――ここは、|払《はら》わせていただきます」
「あら、でも悪いわ」
「この|程《てい》|度《ど》のこと、当り前ですよ。お気になさらずに」
なるほど、なかなかソツがない。
しかし、家に連れていくといっても……。そうか。並子の所へ連れて行けばいいんだわ。あれこれしゃべっている間に、並子も帰って来るだろうし。
政子は、北山と名乗る男を連れて、並子の|部《へ》|屋《や》へ行った。もちろん、|鍵《かぎ》は政子も持っているのである。
政子は時間|稼《かせ》ぎに、北山へ、お茶だのお|菓《か》|子《し》だのを出して、|世間話《せけんばなし》をしていた。お菓子だって、並子のものなのだから、別に|遠《えん》|慮《りょ》もしない。北山は、しきりに|恐縮《きょうしゅく》していたが、そのうち仕事の話を始め、十五分ほどで話を終えると帰りかけた。
「あの――もうちょっと、いいじゃありませんか」
並子ったら、早く帰って来ないかしら。
「いえ、あまりお|邪《じゃ》|魔《ま》しては――」
「だって、何も返事してないのに、私」
「すぐというわけにも参りませんでしょうから」
「もう少し待っていれば、夫も帰るわ。そうなれば返事もできるし――」
「でも、よそも回らなくてはなりませんので」
北山も、政子が少々しつこいので|閉《へい》|口《こう》したのか玄関へ出て、あわてて|靴《くつ》をはいた。
ここで、北山を|逃《に》がすのは、何ともくやしい。――どうしたら引き止められるかしら。一発、ぶん|殴《なぐ》ってのしちまおうか、などと考えていると、ドアの所に足音がして、チャイムが鳴る。――はて?
「では」
と、北山は、ホッとした様子で、「お客様のようですので、失礼します」
ドアをヒョイと開ける。――宮本|朋《とも》|子《こ》が立っていたのだ。
「あ――」
と北山は、|言《こと》|葉《ば》もない。
「――まあ! あなたは――」
朋子は北山につかみかかった。
「待って! 待って下さい!――これにはわけが――」
「この女たらし! |詐《さ》|欺《ぎ》|師《し》! もう逃がさないわよ!」
朋子の|剣《けん》|幕《まく》は|凄《すご》かった。北山は|圧《あっ》|倒《とう》されて玄関の上り口にペタンと|座《すわ》り|込《こ》んでしまう。
「あの五百万円はどうしたの! あんたは夫とグルなのね! |白状《はくじょう》しなさい!」
朋子は、大|迫力《はくりょく》で問い|詰《つ》める。北山がしどろもどろになっていると、ドアが開いた。
「――あら、政子、来てたの?――何の|騒《さわ》ぎ?」
並子が不思議そうに|訊《き》く。
竜介がスタスタ入って来ると、北山の|靴《くつ》の上にペタンと座り込んだ。
4
「じゃ、やっぱり、主人に|頼《たの》まれてやったのね?」
と、朋子が、|居《い》|間《ま》で、北山にかみつかんばかりの|形相《ぎょうそう》。
「ええ、まあ……」
「じゃ、あの五百万円は?」
「ええ、ご主人が自分の|口《こう》|座《ざ》に。――私も五十万円もらいましたが……」
「|図《ずう》|々《ずう》しい!」
「すみません」
北山は、ついさっきまでの元気もどこへ行ったのか、シュンとしている。
「あなた|本名《ほんみょう》は?」
と並子が|訊《き》く。
「え?――ああ、私ですか。北山は本名です」
「でも……」
と、政子が言った。「どうして、ノコノコまたやって来たの?」
「いや、一度やると、つい|病《や》みつきになって。――何しろああも|簡《かん》|単《たん》にいくもんかとびっくりしたんですよ」
「何が簡単よ!」
と、朋子がつかみかかる。「私は死のうとまで思いつめたっていうのに!」
「お、落ちついて下さい!」
「殺してやるから!」
並子と政子で、やっとこ朋子を北山から引きはなした。北山は目を|白《しろ》|黒《くろ》させながら、ネクタイを直して、
「ああ苦しかった……。あの……やはり|警《けい》|察《さつ》へ?」
「当然よ」
と朋子が言った。
「それはちょっと考えた方がいいわ」
と、並子が言った。
「え?」
「ともかく、もともとはご主人の考えた計画なんですよ。だから、|詐《さ》|欺《ぎ》といっても、|微妙《びみょう》なことになるわ。それより、もしご主人と別れるつもりなら――」
「決心がつきました」
と、|朋《とも》|子《こ》はきっぱりと言った。「そんな主人と|一《いっ》|緒《しょ》にはいられません」
「じゃ、ここは北山を告発するのはやめて、|離《り》|婚《こん》の|裁《さい》|判《ばん》のときに、この人を|証人《しょうにん》に|呼《よ》んだ方がずっといいんじゃありません?」
朋子は、しばらく考えていたが、やがて息をつくと、
「――そうですね。そう言われてみると、その方がいいかもしれません」
「ねえ、|済《す》んだことを今さら|暴《あば》いてみても仕方ありませんよ」
「そうです、その通り」
と北山が言って、
「あんたは|黙《だま》っていなさい!」
と並子にやっつけられた。
「すみません」
「今日、ご主人は?」
「帰り、|遅《おそ》いはずですけど――」
「じゃ、|戻《もど》らない内に、実家にでもお帰りになっていれば? この北山って人は、もう|逃《に》げやしませんよ」
「お|約《やく》|束《そく》します」
と北山は|平《へい》|身《しん》|低《てい》|頭《とう》。
「分りました」
と朋子も|肯《うなず》いて、北山の住所を聞いて、帰してやった。
「気の小さい男だもの、|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
と、並子は言った。「何かお手伝いできることがあります?」
「そうですね……。何かのときはぜひ、よろしくお願いします」
朋子が帰って行く。――政子は、何だかスッキリしない顔で、
「いいの? 北山の住所なんて、でたらめかもしれないわよ」
「大丈夫よ」
「自信あるのね」
「|名《めい》|探《たん》|偵《てい》は、常に自信にあふれてるものよ」
|台所《だいどころ》の方でドシン、ガチャン、と|派《は》|手《で》な音がした。「――こら! 竜介!」
と、並子が飛んで行く。
どうも子育てに関しては、名探偵も自信満々とはいかないようである。
「――|後《あと》|片《かた》|付《づ》けしようか」
いつもの|如《ごと》く、帰りの|遅《おそ》い夫は|抜《ぬ》きで、並子、竜介と三人で食事を|済《す》ませ、政子は立ち上った。
「その前に、出かけましょ」
と、並子が言った。
「どこへ?」
「宮本さんの所よ」
「ええ? だって、|奥《おく》さん、もう出て行ったんじゃないの?」
「だからこそ、行くんじゃないの」
政子は、並子をにらんだ。
「またわけの分らないこと言って!」
「さ、|仕《し》|度《たく》して。竜介を|抱《だ》っこしてってくれる?」
「やだよ!」
べえ、と政子が|舌《した》を出すと、竜介がキャッキャと喜んで手を|叩《たた》いた。
結局、竜介は政子に抱かれてご|機《き》|嫌《げん》。三人は、宮本朋子のいる|棟《むね》へやって来た。
「おかしいわね」
と、ドアの前で、並子は言った。
「何が?」
「|窓《まど》が暗いわ」
「きっと帰ってないのよ」
「帰ってるはずよ。|約《やく》|束《そく》してあったんだから……」
「また、もう! たまには助手にも、やってることを知らせてよ」
「|文《もん》|句《く》言ってないで。――出ないわね」
|玄《げん》|関《かん》のチャイムを|押《お》すのだが、|一《いっ》|向《こう》に|誰《だれ》も出て来ない。
「どうしてご主人と会うの?」
「用があるからよ」
と、並子は当り前の返事をした。
「だけど……」
「気になる」
と言ったきり、並子は、ちょっと考え|込《こ》んでいたが、「――ここにいて!」
と言うなり、|隣《となり》の|部《へ》|屋《や》のドアを|叩《たた》いていた。
政子が|呆《あっ》|気《け》に取られている内に、並子は、出て来た|隣《りん》|家《か》の人に早口にまくし立て、中へ入って行った。
「何やってんのかしら?」
と、政子は首をかしげた。「――ねえ、竜介君、あんたのママは変ってるわね」
二、三分も待ったろうか。宮本の部屋のドアが中から開いた。
「並子!――あなた――」
「ベランダから入ったのよ。中へ入って」
「|危《あぶ》ないわねえ!」
「人の命がかかわってるときは、身の|危《き》|険《けん》を|省《かえり》みずに行動するのが|探《たん》|偵《てい》ってものよ」
「お説教はいいけどさ。どうしたの?」
「今、救急車が来るわ」
「どこが悪いの?」
「私じゃないのよ」
部屋へ上ると、政子はびっくりした。ソファに、男が一人、横たわっている。
「ご主人よ」と、並子が言った。
「ガスくさいわね」
「ガス自殺を|図《はか》ったの」
「危ないじゃないの!」
と、政子は飛び上りそうになった。
「大丈夫よ。ガスが出てたのは|台所《だいどころ》だけだったから」
「だけど――」
「ガス管を口にくわえてたの。――でも、今のガスは、|吸《す》っても死なないのよね。ガス中毒で死ぬのは、不完全|燃焼《ねんしょう》のときとか、|酸《さん》|欠《けつ》になったときでね。ガスそのものは毒性ないんだから」
「そうなの? じゃ、死にそこなったってわけか」
「そういうこと……」
並子は、ちょっと|曖《あい》|昧《まい》に言った。
「奥さんに|総《すべ》てがばれたと分って、ガックリ来たのかしら?」
「それはどうかな。――ま、ともかく|意《い》|識《しき》を取り|戻《もど》せば、はっきりするんじゃない?」
並子は|割《わり》|合《あい》に|呑《のん》|気《き》である。
救急車のサイレンが近づいて来た。
「――やあ、どうも」
病院のベッドで、宮本は、並子に頭を下げた。「おかげさまで助かりました」
「いいえ。でも良かったですわ、|大《たい》したことなくて」
政子は、竜介を|抱《だ》いて、病室の入口あたりに立っていた。来る|途中《とちゅう》で、竜介が|寝《ね》|込《こ》んでしまったのである。
「一体何があったのか、話していただけませんか」
と並子が言うと、宮本は、少し|丸《まる》|顔《がお》の|頬《ほお》をポンポンと軽く|叩《たた》いて、
「こっちもよく分らんのです。ともかく帰って来てみると、|部《へ》|屋《や》は真っ暗で、|家《か》|内《ない》が出かけたのかな、と思って中へ入りました。すると後頭部をゴツン、とやられて……」
「|殴《なぐ》られたんですね?」
「そのようです。気がつくと、このベッドで……。その間のことは、てんで|憶《おぼ》えていないんですよ」
「そうですか。――|奥《おく》さんに男がいる、とご|存《ぞん》|知《じ》でしたか」
宮本は、ちょっとためらって、
「ええ、気づいていました。しかし、どうしようもありません。言えば|却《かえ》って|意《い》|地《じ》になるんじゃないかと思って」
「放っておいたんですか。前にもそんなことが?」
「二度、ありました。その|度《たび》に、もう決してしない、と|泣《な》いて|詫《わ》びたもんです。――私も|忙《いそが》しくて、あまり|構《かま》ってやれないから、|責《せ》める気になれんのです」
「でも、殺されかかったんですよ」
と並子は言った。
政子は|唖《あ》|然《ぜん》として、話を聞いていた。
「ええ……。どうやら、|朋《とも》|子《こ》も今度は本気のようだ。男が、よほど悪い|奴《やつ》だったんでしょう」
「どこへ行ったか、心当りはありますか」
「さっぱりです」
と、首を|振《ふ》る。
「でも――」
と、政子は、たまりかねて口を出した。「あの|夫《ふう》|婦《ふ》|喧《げん》|嘩《か》は?」
「喧嘩ですって?」
と宮本がいぶかしげに言った。
「ええ、あなたが奥さんを|怒《ど》|鳴《な》って、|殴《なぐ》って――奥さん、ひどいあざ[#「あざ」に傍点]を作ってましたけど」
「私は|女房《にょうぼう》を殴ったりしたことはありませんよ」
「でも……」
「いつのことです? 大体、このところ|出張《しゅっちょう》で、あまり家にいなかったんですが」
「|団《だん》|地《ち》の中じゃ、声は|響《ひび》いて、|誰《だれ》の声か分らなくなるものだわ」
と、並子が言った。「あれは、北山と、朋子さんのお|芝《しば》|居《い》なのよ」
「芝居?」
「殴られたようにあざを作るのは、少し|演《えん》|劇《げき》の|経《けい》|験《けん》のある人には、むずかしくないわ」
「朋子は、学生時代には演劇部にいたんですよ」
「それじゃ一体……」
と政子は、|混《こん》|乱《らん》して来て、わけが分らないという様子。
「朋子さんが北山と関係が出来たところまでは、朋子さんの話通りだと思うの。でもその先は、朋子さんと北山の|共謀《きょうぼう》。私たちを|証人《しょうにん》に仕立てて、全体がご主人の計画だと見せかけようとしたのよ」
「何ですって? じゃあ……」
「考えてごらんなさい。|喧《けん》|嘩《か》のことだって、そのあと車に北山とご主人が乗っていたことだって、それが本当のことだったという|証拠《しょうこ》はないのよ。朋子さんの|言《こと》|葉《ば》だけだわ」
「それじゃ、ご主人の|調査《ちょうさ》を|頼《たの》んで来たのは……」
「もちろん、それらしい事実を私たちの目につく所へ出して見せたんでしょうね。――そんなこと分り切ってるから、私は何も調べなくていい、と言ったのよ」
「それで、北山は――」
「もちろん、あなたに近づいたのも、わざとよ。ああして、朋子さんが|訪《たず》ねて来るのも|筋《すじ》|書《がき》通り。そして北山は私たちの前で、ご主人の|陰《いん》|謀《ぼう》を告白[#「告白」に傍点]するわけ」
「そして、何もかも、ご主人のせいにしちゃったのね!」
「でも、私もまさか、ご主人を殺そうとするとは思わなかったのよ、あの二人が。――きっとあの北山が、ひどい男なのね。見かけは|優《やさ》しいけれど」
「自殺に見せかけておいて……」
「奥さんは、他の地へ移って、北山と|一《いっ》|緒《しょ》になるって寸法でしょうね」
宮本は二人の話を聞いていたが、やがてため息をついた。
「どうやら、知らない内にとんでもないことになっていたようですな」
「ええ、そうなんですよ」
並子が|同情《どうじょう》するように、「――でも、奥さんも、あんな男について行って、ろくなことにはなりませんよ」
と言った。
「――寒いわねえ!」
と、政子は、並子の|部《へ》|屋《や》へ上り|込《こ》んで、|身《み》|震《ぶる》いした。「雪よ、雪!」
「静かにしてよ。竜介、|寝《ね》てるんだから」
と、こたつで、並子が言った。
「ごめん。――入らせて。ああ、|暖《あたた》かい!」
「――宮本さん、引っ|越《こ》すのやめたんですって。聞いた?」
「へえ! それ|初《はつ》|耳《みみ》。じゃ、一人で|暮《くら》すの?」
「そういうことになるわね」
と並子は|肯《うなず》いて、「奥さんが、北山に|捨《す》てられたとき、帰って来る所がなくちゃ|可《か》|哀《わい》そうだ、って」
「へえ。――いい人なのね」
「|馬《ば》|鹿《か》なことをしたわね、あの奥さんも。たしかに、『いい人』って、あんまりパッとした|魅力《みりょく》はないけど、でも結局一番|幸《しあわ》せなのにねえ」
「でも。見付かれば奥さんも|逮《たい》|捕《ほ》されるでしょ?」
「あのご主人なら、奥さんを待つんじゃない?」
「感動的ね!」
「どうかしら」
並子は言った。「奥さんにとっちゃ、どっちがいいのかしら」
「ところで、あの五千円、どうしたの?」
「え? ああ、ご主人が、そのままどうぞって言ってね。――どう、雪の中だけど、近くのレストランにでも出かけるか」
「|賛《さん》|成《せい》!」
|珍《めずら》しく、|探《たん》|偵《てい》と助手は意見の|一《いっ》|致《ち》をみたのである。
第六話 |身《み》|近《ぢか》なスターの|事《じ》|件《けん》
1
「あ、|今日《きょう》はいいわ、|私《わたし》、|払《はら》うから」
|団《だん》|地《ち》の中の|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》で、少々ゆで|過《す》ぎのスパゲティの昼食を取った後、さて、いつもの通り|割《わ》り|勘《かん》で、|財《さい》|布《ふ》を取り出した|西《にし》|沢《ざわ》|並《なみ》|子《こ》へ、|木《き》|村《むら》|政《まさ》|子《こ》が言った。
並子の方はちょっと目をパチクリさせながら、
「どうしたの、一体」
と|訊《き》いた。
「ちょっとね、|臨時収入《りんじしゅうにゅう》があったの」
政子がニヤリとして、「たまには、おごってあげるわよ」
「そりゃいいけど――」
と、並子が心配そうに、「別にアルバイト始めた|気《け》|配《はい》もないのに、おかしいわね。一体何の収入?」
「それを当てるのが|名《めい》|探《たん》|偵《てい》でしょ」
と政子が気持良さそうに言った。
西沢並子は、二|歳《さい》になる|一人《ひとり》|息子《むすこ》の|竜介《りゅうすけ》をかかえて、この団地で、モグリの(?)|私《し》|立《りつ》探偵を開業している。ただし、別に|未《み》|亡《ぼう》|人《じん》というわけではなく、れっきとした|亭《てい》|主《しゅ》がある。
政子の方は学校時代から並子とは親友同士。この団地で|偶《ぐう》|然《ぜん》近所同士となって、並子探偵の助手をつとめているのだ。こちらは夫はあるが、|子《こ》|供《ども》はまだない。
「ねえ」
と、並子が少し声をひそめて、言った。「何か告白することがあるんだったら、聞いてあげるわよ。自首するならついて行くし」
「|冗談《じょうだん》じゃないわよ!」
政子は|憤《ふん》|然《ぜん》として、「これはまとも[#「まとも」に傍点]なお金ですよ。ねえ、竜介君、おばちゃんと二人でケーキ食べようね、ママはのけといて」
竜介は手を|叩《たた》き、|椅《い》|子《す》から、飛び上って、
「ケーキ、ケーキ!」
と|大《おお》|騒《さわ》ぎである。
「――もったいぶってないで|白状《はくじょう》しなさいよ」
と、並子が|苦《にが》|笑《わら》いしながら言った。
「実はね、|昨日《きのう》――あ、ちょっと! ショートケーキ三つね!」
と、オーダーしておいて、「昨日、うちで|撮《さつ》|影《えい》があったのよ」
「撮影?」
「そう。テレビ|映《えい》|画《が》のね」
「どうして政子の家で?」
「子供のいる家だと、やっぱりちらかってるし、撮影にも不自由でしょ。だから、うちが選ばれたらしいの」
「何のテレビ番組?」
「最近よくやってる、『長時間ドラマ』ってやつよ。団地の|人《ひと》|妻《づま》が、|過《か》|去《こ》の|恋《こい》|人《びと》と|再《さい》|会《かい》して、そこで殺人が起こって――」
「また、えらく|陳《ちん》|腐《ぷ》な話ね」
「仕方ないでしょ。毎週『|芸術祭《げいじゅつさい》参加』ドラマを作るわけにもいかないんだから」
「そりゃそうね。で、政子の所がその人妻の家ってことなの?」
「残念ながら、そうじゃないの。主役の家はね――ほら、主役は|長《なが》|内《うち》ヤス子なのよ」
「ああ、あの人」
と、並子が|肯《うなず》く。「最近はあんまりお目にかからないわね」
「そうね。大体が|映《えい》|画《が》のスターだしね。でも近くで見たの。きれいだったわ。こう――何ていうか|華《はな》やかな|雰《ふん》|囲《い》|気《き》があって」
「政子の家に来たの?」
「そう。ワンシーンだけでね。その人妻の親しい|奥《おく》さんの家って|設《せっ》|定《てい》なの。だから、ほんの短い場面。――でも、|結《けっ》|構《こう》大がかりなのね、撮影って」
「それで、|謝《しゃ》|礼《れい》が少々出たわけか」
「そういうこと」
と、政子はニッコリして、「|純然《じゅんぜん》たる|臨時収入《りんじしゅうにゅう》よ。主人にも言わずに使っちゃおう」
「楽しいわね。――そのテレビ、いつ|放《ほう》|映《えい》なの?」
「まだ分んないみたい。決ったら|連《れん》|絡《らく》してくれるそうよ」
「政子も出りゃ良かったのに、エキストラで」
「主役が目立たなくなると|困《こま》るんでしょ」
政子は|澄《す》まして言った。
そのとき、|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》へ入って来たのが、政子と同じ|棟《むね》の住人で、四十前後の、極めておしゃべり|好《ず》きな|主《しゅ》|婦《ふ》だった。おしゃべりの|嫌《きら》いな主婦というのはあまりいないが、中でも、この|林絹江《はやしきぬえ》は|抜《ぬ》きんでておしゃべりであった。
何しろ、いつか並子たちが買物に出ようとバス|停《てい》に歩いて行く|途中《とちゅう》、|誰《だれ》やらと立ち話している林絹江を見かけたのだが、二時間して帰って来ると、林絹江は、まだ|違《ちが》う相手と、同じ場所で話をしていたことがある。
「あら、木村さん!」
と、林絹江が|嬉《うれ》しそうに|寄《よ》って来たときには、並子も政子も、|一瞬《いっしゅん》、急用がなかったかと考えたのだった。
「|昨日《きのう》、お|宅《たく》で|撮《さつ》|影《えい》があったんですって?」
「ええ、そうなんです。ほんのちょっとでしたけど」
くどくどと説明させられちゃかなわない、と政子は思ったが、それは|杞《き》|憂《ゆう》に終った。
「今日からね、私のところなの!」
と、林絹江が|誇《ほこ》らしげに言った。
「え?」
と政子は|戸《と》|惑《まど》って、「林さんのところで……?」
「撮影よ! 三日間も続くんですって!」
「まあ、それじゃ――」
「私のうちが主役の長内ヤス子の家って設定になったのよ」
「|凄《すご》いですね」
「でも、|困《こま》っちゃうわ、三日間も人が出たり入ったりするのよ。今もね、本番前で、何だかピリピリしてるから、出て来ちゃった。早く終ってほしいわ」
林絹江の顔は、終ってほしくないわ、と言っていた。「――さあ、コーヒーでものんびり飲んでようかな。それじゃ、ね」
林絹江が|離《はな》れた席へ行って|座《すわ》ったので、政子も並子もホッとした。
そこへショートケーキが来て、しばらくはケーキを早く食べようとする竜介と、それを落ち着かせようとする並子の|凄《せい》|絶《ぜつ》な戦いが続いた。
やっと|一《いち》|段《だん》|落《らく》すると、並子が言った。
「その主人公の|人《ひと》|妻《づま》って、よっぽどだらしのない役なのね」
政子が|吹《ふ》き出しそうになる。|実《じっ》|際《さい》、林絹江の家は、かなり|乱《らん》|雑《ざつ》になっているのが常であった。
「でも、これで当分はあの人も話題に|困《こま》らないわね」
と政子が言った。「もっとも、困ってるとこなんて、見たことないけどさ」
「同感」
と、並子が|肯《うなず》く。
「ドカン[#「ドカン」に傍点]」
と、竜介が|真《ま》|似《ね》をした。
TV|映《えい》|画《が》のロケの話題は、その三日間、|団《だん》|地《ち》を|独《どく》|占《せん》した観があった。
もちろん、これまでにもこの団地で、ロケなどがなかったわけではない。毎月のように、と言うのは少々オーバーとしても、三か月に一度くらいは、カメラを持ち|込《こ》んで、公園や団地の風景をおさめて行く|姿《すがた》が目についたものである。
しかし、今度のように、|本《ほん》|格《かく》的な撮影は初めてだった。団地がドラマの主な|舞《ぶ》|台《たい》になるというので、公園だの、集会所だの、スーパーマーケットでも、撮影が行なわれた。
その|度《たび》に、|主《しゅ》|婦《ふ》たちがぐるりと周囲で見物するというわけで、撮影スタッフの方も大変だった。
並子や政子は、三日間の撮影が終った|翌《よく》|日《じつ》、スーパーへと出かけて行った。
もちろん、今日は行事もなく、いつもの通りの|賑《にぎ》わいである。
「ねえ、並子、ほら」と、売場の|棚《たな》の間を歩いていた政子がつついて、「あのレジの上の写真、見てごらんなさいよ」
「待ってよ。|牛乳《ぎゅうにゅう》の日付見てんだから。――これが一番新しいのかな。――あ、もっと新しいのがあった! 何て言ったの?」
「あの写真よ。ほら、レジの上」
見れば、レジの上に、|天井《てんじょう》から大きなパネルが下がっている。ここの店長が、|長《なが》|内《うち》ヤス子と|並《なら》んで、写真におさまっているのである。
「――|呆《あき》れた。見てよ、あのこわばった顔」
と、政子が|笑《わら》いながら言った。「あがってるのね。きっとファンだったのよ」
長内ヤス子の方は、いかにも営業用[#「営業用」に傍点]の|微笑《びしょう》を浮かべて立っている。並子は、それを|眺《なが》めて、
「やっぱりトシ取ったわねえ、あの|女《じょ》|優《ゆう》も」
「人間、トシにゃ勝てないのね。いかな美女といえども」
政子は歩き出そうとして、「あら、店長さんよ」
なるほど、あの写真に|映《うつ》っている店長が、せかせかと店の中を歩き回って、店の|奥《おく》へと、カーテンをからげて入って行く。いつも|忙《いそが》しそうにしている男である。
「さ、これでいいわ」
と、並子は|肯《うなず》いて、「レジ、何番が空いてる?」
「どこも同じね。――あ、三番が一人になったわ。早く|並《なら》ぼう。――並子、どうしたのよ?」
「ううん、別に……」
|振《ふ》り向いていた並子は、ちょっとためらってから、「どこかの奥さんらしい人が、店の奥へ入ってったから」
「トイレにでも行ったんじゃない?」
そう言いながら、政子はトイレがまるで別の方向にあることを思い出していた。
「いいわ。さ、並ぼう」
と、並子が、竜介をのせたショッピングカーを|押《お》しながら言った。
が、|一瞬《いっしゅん》の差で二人(二・五人?)の前に三人も並んでしまい、結局、|大《だい》|分《ぶ》待たされることとなってしまった。
スーパーを出ると、並子たちは、ぶらぶらと遊歩道を歩いて行った。|途中《とちゅう》、ちょっとしたベンチがある。竜介がそこの近くで遊び始めたので、並子と政子はベンチに|腰《こし》をおろした。
|穏《おだ》やかな春の日である。つい|眠《ねむ》|気《け》を|誘《さそ》われる。
「政子!」
並子につつかれて、政子はハッと目を覚ました。
「あ……いけない。ついウトウトしちゃって……。だってポカポカしてて――」
「何かあったのよ」と並子が|真《ま》|顔《がお》で言った。
スーパーから、女店員の一人が飛び出して来た。大変なあわてようだ。口を開けっ放しにして、|駆《か》け|抜《ぬ》けて行く。
「交番へ行くんだわ」
と、並子は立ち上った。「政子、竜介をお願いね」
全くもう! 助手が|子《こ》|守《も》りまでしなくちゃならないんだから!
政子は、頭へ来て、スーパーへと駆けて行く並子の後ろ|姿《すがた》をにらんだ。
竜介が、政子のスカートを引っ|張《ぱ》った。
「なあに?」
「オシッコ」
政子は、ため息をついた。
先に並子の|部《へ》|屋《や》へ|戻《もど》り、待っている間に竜介は|眠《ねむ》ってしまい、政子もまたウトウトし始めた。
――ドアの開く音で目を開く。
「あら、|戻《もど》ったの」
「竜介は?」
と、並子は|訊《き》いた。
「|寝《ね》ちゃったわよ」
「そう」
並子は何だか|難《むずか》しい顔をしている。
「何があったの?」
「私の|守《しゅ》|備《び》|範《はん》|囲《い》を少々|越《こ》えてる|事《じ》|件《けん》」
並子は、竜介の|傍《そば》に、ゴロリと横になって言った。
「というと?」
「殺人事件」
「まさか」
反射的に、政子はそう言っていた。「ずいぶんパトカーが来るな、とは思ってたけど……。|誰《だれ》が殺されたの? 知ってる人?」
「そう。――あのスーパーの店長さんよ」
「店長が?」
政子は|仰天《ぎょうてん》して、目も覚めてしまった。「ど、どうして一体――」
「分んないのよ。|犯《はん》|人《にん》も不明。あの店の|奥《おく》で|刺《さ》されてるのが発見されたの」
「さっき見たばかりじゃない!」
「そこよ。あのとき、あの店長、いやに急いで奥へ入って行ったわ。後から続いて入って行った|女《じょ》|性《せい》がいた……」
「並子、言ってたわね。じゃ、その女が犯人?」
「分らないけど、|可《か》|能《のう》|性《せい》はあるわね」
と、並子は言った。「あの後、あの女、出て来なかったもの」
「というと?」
「私、何となく気になって、あの後、ベンチから、スーパーを出て来る人を見てたの。でも、あの女はいなかったわ」
「顔、見たの?」
「いいえ」
「それじゃ分んないでしょ」
「|服《ふく》|装《そう》よ。茶のカーディガンをよく|憶《おぼ》えてるわ」
「で、その女はどこかへ消えちゃったってわけ?」
「|裏《うら》から出たか、それとも、カーディガンを|脱《ぬ》いで出て来たか、ね。どっちにしても、まとも[#「まとも」に傍点]とは言えないわ」
「|警《けい》|察《さつ》に話した?」
「もちろんよ。でも、あちらは、動機の面から調べりゃ|簡《かん》|単《たん》に分ると思ってるらしいわ」
「ふーん。でも、こんな|身《み》|近《ぢか》に、殺人事件なんて……」
「いやね、何だか……」
「すぐ|捕《つか》まるでしょ」
「そうだといいんだけど……」
と、並子は言った。「|凶器《きょうき》が残ってたの。肉切り|包丁《ぼうちょう》でね。あまり高級品ではなかったようだけど。そこからきっと何かが分るわ」
並子の言い方は、いつになく|重《おも》|々《おも》しかった。政子は何となく|戸《と》|惑《まど》いながら、並子を|眺《なが》めていた。
2
|事《じ》|件《けん》から、一週間が|過《す》ぎたが、|団《だん》|地《ち》内の|興《こう》|奮《ふん》は、|未《いま》ださめやらぬ、というところであった。
もちろん、殺人|現《げん》|場《ば》が団地のスーパー内という点もあったが、もう一つ、|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》自身がこの団地の住人だったという理由もあったのである。
一週間たっても、|一《いっ》|向《こう》に|犯《はん》|人《にん》らしい人物は|浮《う》かんで来ない様子だった。それとも、|警《けい》|察《さつ》|側《がわ》はすでに|目《め》|星《ぼし》をつけているのか。――|誰《だれ》も知らなかった。
――その日は雨で、朝から、出る気もしない|日和《ひより》であった。
当然、この場合は、|子《こ》|供《ども》のいない政子の方が並子の所へやって来ることになる。
竜介も|退《たい》|屈《くつ》そうで、ブロックを放りなげたり、積んでは|崩《くず》したりしながら、|欲求不満《よっきゅうふまん》を|解消《かいしょう》している様子だった。
「あら、お客よ」
|玄《げん》|関《かん》のチャイムを聞いて、並子と政子は顔を見合わせた。午前中のこんな時間にやって来るのは、たいていがセールスマンと決っているのである。
「はい、助手が出て」
と、並子は言った。
「何でこんなときまで、出なきゃいけないの?」
ブツクサ言いながらも、政子が出て行く。だが、やって来たのは、セールスマンではない。――およそ政子が予想もしていなかった人、林絹江であった……。
「――この間の人殺しのことなんですけどね」
絹江は、|散《さん》|々《ざん》|渋《しぶ》ってから、言った。「何か手がかりはありそうかしら」
「さあ、私じゃ、そんなこと分りませんわ」
と並子が言った。
「だって、|探《たん》|偵《てい》をやってるんでしょ? それに、|警《けい》|察《さつ》の人とも親しいって――」
「いくら何でも|主《しゅ》|婦《ふ》の|副業《ふくぎょう》ですもの」
と、並子は首を|振《ふ》って、「|大《たい》したことは分りませんわ。|特《とく》に今度の|事《じ》|件《けん》は、この団地で起きてますからね。かなり警察も気をつかってるみたいですよ」
「そう……」
絹江はちょっとがっかりした様子で、「ここへ来れば何か分るかと思って」
「残念ですけど」
と言って、並子は、「でも、何かお|困《こま》りのことがあったら、ご相談に乗りますよ」
と続けた。
絹江は、いえ、別に、とかモゴモゴと言って、早々に帰ってしまった。
「――何だか変ね」
と、政子が言った。「あんなに落ち着かないなんて……」
「|怯《おび》えてたのよ」
「怯えて? なぜ?」
「分らないけど、|確《たし》かよ。あの人は怯えてたわ」
その|言《こと》|葉《ば》が終らない内に、またチャイムが鳴って、林絹江が、おずおずと入って来た。
「ちょっと……ご相談したいことがあって……」
「どうぞ上って下さい」
並子は、|穏《おだ》やかな|笑《え》|顔《がお》を見せながら、言った……。
しかし、絹江の話には、さすがに並子もびっくりしたようだった。
「――じゃ、|凶器《きょうき》の|包丁《ほうちょう》が、お|宅《たく》のものらしいっておっしゃるんですね」
「ええ。まず|間《ま》|違《ちが》いないと思いますわ」
と、絹江は|肯《うなず》いた。「あの写真が出てたでしょう」
凶器となった|包丁《ほうちょう》の写真が、|印《いん》|刷《さつ》されて、団地のあちこちの|掲《けい》|示《じ》|板《ばん》に|貼《は》り出されていたのである。
「あれ、私の|田舎《いなか》で、小さなメーカーが作ってるやつなんです。だから、この|団《だん》|地《ち》でも、あまり持ってる人はいないでしょう」
「じゃ、写真を見て、それと分ったんですね?」
「ええ」
「その包丁は、お|宅《たく》にいつまであったんですか?」
「それが――よく分らないんですよ」
と、絹江は|当《とう》|惑《わく》した様子だった。「だってほら、例のロケ|騒《さわ》ぎがあったでしょう。だからあの前後は、家で食事の|仕《し》|度《たく》なんかしてなかったんです。ずっと外食ばかりで」
「それはそうでしょうね」
「|失《な》くなってるのに気付いたのは、あの殺人のあった次の日です。久しぶりで、焼肉をしようと思って、買って来た肉を切ろうと思ったら、包丁がなくて……」
「|捜《さが》されたでしょうね」
「もちろんです!」
と、絹江は|心《しん》|外《がい》、といいたげであった。
「いつ|失《な》くなったか心当りは?」
「それが|一《いっ》|向《こう》に……。だって、一週間前に何を食べたか、なんて、|憶《おぼ》えてないでしょう?」
それはその通りだろう。
「すると――|誰《だれ》かに|貸《か》したということもないんですね」
「私、ああいう物を人に貸したりはしませんよ」
「じゃ、|盗《ぬす》まれたということですね」
「そう思うんですけどね、ただ……別に|鍵《かぎ》をこじ開けられたこともないし、いつそんなことになったのか……」
絹江は、不安そうに口をつぐんだ。――並子は|肯《うなず》いて、
「分りました。でも、その|件《けん》は、やはり|警《けい》|察《さつ》へ|届《とど》けた方がいいと思います。同じメーカーの包丁だって、世界に一つということもないんですもの。ここに一つや二つ、あってもおかしくはありませんわ」
「そうね。そうですね」
絹江は、並子の|言《こと》|葉《ば》にホッとした様子で、「じゃ、交番へ行って話をしてみましょう」
「その前に、もう一度家の中や|台所《だいどころ》をお|捜《さが》しになった方がいいかもしれませんよ。ヒョッコリ出て来ることもありますわ。私、交番のお|巡《まわ》りさんに|今日中《きょうじゅう》に話をしておきますから」
「まあ、助かるわ! よろしくお願いします」
林絹江は、|大《だい》|分《ぶ》気が楽になった様子で帰って行った。
「――本当にあの人の所の包丁なのかしら?」
と、政子が言った。
「そうでないという|証拠《しょうこ》はないものね」
「あの|奥《おく》さんが|犯《はん》|人《にん》ってこともないでしょうしね」
「そうね。あの店長と三角関係のもつれで、って感じじゃないわよ、あの奥さん」
「本当だ」
政子はヒョイと|肩《かた》をすくめて言った。
――また玄関のチャイムが鳴ったのは、それから一時間くらいしてからだった。
「|誰《だれ》かしら?――はい、どなた?」
「ちょっとご相談したいことがあって」
と、|女《じょ》|性《せい》の声がした。
政子は、首をひねった。どこかで聞いたことのある声だ。――誰だろう?
ともかくドアを開けてみた。
「失礼。こちらは|探《たん》|偵《てい》さんなんですって?」
「はい」
どこかで見たような、と、政子は、いかにも高級なスーツ|姿《すがた》の女性を見ていたが思わず、「アッ!」
と声を上げた。
「|長《なが》|内《うち》ヤス子さん……ですね」
「はい、そうです」
スターはニッコリと|笑《わら》った。
「テレビのニュースで、あの|事《じ》|件《けん》を知って、びっくりしましてね」
長内ヤス子は、政子があわてて|淹《い》れたコーヒーをゆっくりとすすりながら言った。
「|包丁《ほうちょう》のことで何かお心当りが?」
と並子の方は平然としている。
「ええ、私、|大《たい》して料理しないんですけど、道具の方は|割《わり》と|詳《くわ》しいんですの。ですから、あのお|宅《たく》での|撮《さつ》|影《えい》のとき、小道具の包丁が気に入らなくて、あそこのを勝手にお借りしてしまったんです」
「それで、撮影の後は?」
「それなんです」
と、長内ヤス子は、少し|芝《しば》|居《い》がかった身ぶりで言った。「私、あの包丁を流しへ落としてしまいましたの。|刃《は》をよく見ると、少し欠けているようでしたので、|演出《えんしゅっ》助手の一人に、それを|研《と》いで返してくれと|渡《わた》しておいたんです」
「その助手というのは、何という方なんですか?」
「さあ、名前は私……」
と、長内ヤス子は首をひねった。
そんな|仕《し》|草《ぐさ》も、どことなく|無《む》|意《い》|識《しき》の計算が働いているのか、|至《いた》って色っぽいのである。
「じゃ、その後、包丁がどこへ行ったのか、ということになりますね」
と、並子はさすがに事件のことだけに気を取られている様子。
「私、あの店長さんが殺されたと聞いて、本当にびっくりしてしまって……。とても親切な方でしたのにね」
「でも、どうしてここへおいでになったんですの?」
と、並子が|訊《き》く。
「あの|部《へ》|屋《や》の方――林さんとおっしゃったかしら? あの方が、とてもお話し|好《ず》きな方でしてね」
話し好き、とは、またずいぶん|控《ひか》え目な言い方だ、と政子は思った。
「こちらが|探《たん》|偵《てい》さんでいらっしゃるって|伺《うかが》ったんですよ」
「ただのアドバイザーみたいなものです」
|珍《めずら》しく、名探偵が|謙《けん》|遜《そん》した。
「さあ、そろそろスタジオへ|戻《もど》りませんと。|休憩《きゅうけい》時間を|抜《ぬ》け出して来てしまいましたの」
と、長内ヤス子が立ち上る。
「じゃ、今のお話は、私から交番へ伝えておきますわ」
「よろしく。――あ、そうそう。スーパーは今日も開いています?」
玄関へ来て、長内ヤス子が言い出した。
「ええ、もちろん。どうしてですか?」
「じゃ、ちょっと買物をして帰ろうかしら。案内して下さいません?」
「いいですわ、もちろん。何か必要な物でも?」
「いえ、何でもいいんですの」
「といいますと?」
「いえね、私ってスーパーで買物なんてしたことないんですの。だから、この間の|撮《さつ》|影《えい》で初めてやってみて、|面《おも》|白《しろ》いなあ、って……。カゴを手にさげて、ポンポン放り|込《こ》んで行くでしょう。何だかいい気分でね。ぜひもう一度やってみたくなったんです」
そんなものか、と、政子は感心した。
結局、並子と政子に竜介付きで、|大《だい》|女《じょ》|優《ゆう》のおともをするということになったのだが、ごく当り前の買物をするわけには、まるで行かなかった。
何しろ、歩いていると、ふっと目を引くだけの|雰《ふん》|囲《い》|気《き》を身につけている。スーパーまで行きつかない内に、サインしてもらおうという|主《しゅ》|婦《ふ》たちが、長内ヤス子を取り囲んでしまった。
並子たちは少し|離《はな》れて、その様子を|眺《なが》めていた。
「これじゃスーパーは|無《む》|理《り》ね」
と政子は言った。
「そうね」
「でも、さすがじゃない? 大スターのムード、あるわ」
「そうね」
並子は、竜介を|抱《だ》っこしながら、何やら考え込んでいる。
「どうしたの?」
「ううん、ちょっとね……」
並子は、また例によって、わけの分らない|独《どく》|白《はく》を|呟《つぶや》くのだった。
「――助手が重要参考人として調べられてるんですって」
新聞を見ながら、政子が言った。「やっぱり、これが|犯《はん》|人《にん》なのかしら?」
「どうかしら」
竜介に|添《そ》い|寝《ね》しながら、並子が言った。「動機は?」
「そこね、分んないのは」
「まだ何一つ|解《かい》|決《けつ》しちゃいないわ」
並子は、|大《たい》して関心のなさそうな調子で言った。
「今度はあんまり出る|幕《まく》がなさそうね」
「だといいけど……」
「あら、|珍《めずら》しい。いつも出たがるくせに」
「何よ、その言い方」
と、並子は|苦笑《くしょう》した。「私だって、やりたくない|事《じ》|件《けん》もあるわ」
「へえ。ということは、この事件も、どんな[#「どんな」に傍点]事件か分ってるってこと?」
「その通り」
「それじゃ――」
と政子が言いかけたとき、玄関のチャイムが、あわただしく鳴らされた。
3
「じゃ、また|撮《さつ》|影《えい》を?」
と、並子が|訊《き》き返した。
林絹江は、|絶《ぜつ》|望《ぼう》的な|表情《ひょうじょう》で|肯《うなず》いた。
「いやだって|断《ことわ》ったんですけどね……」
「他の|部《へ》|屋《や》を使えばいいのにね」
と政子が言うと、絹江は、
「そうなんですよ! 私もそう言ったのに……」
「プロデューサーは何と言いました?」
「前の話の|続《ぞく》|編《へん》になるから。どうしても同じ|部《へ》|屋《や》でないと、って……。長内ヤス子も、そう希望してるんですって、|謝《しゃ》|礼《れい》をこの前の倍出すと言われて、主人がコロッと参っちゃって」
林絹江は|渋《しぶ》い顔で、「全く、私の気持も知らないで!」
とグチった。
前はあんなに喜んでいたのに、と政子は内心おかしくてたまらなかった。
「それにしても、事件が解決してからにすればいいのに」
並子の|言《こと》|葉《ば》に、絹江は|肯《うなず》いて、
「そうなんですよ! 私もね――|迷《めい》|信《しん》かもしれないけど、何だかまた何か起こりそうな気がして……。いやじゃありません? いくらこっちのせいじゃないと言っても、|後《あと》|味《あじ》は良くありませんものね」
「それで、私にどうしてほしいとおっしゃるんですの?」
「ええ……。あなたはお|巡《まわ》りさんをご|存《ぞん》|知《じ》なんでしょう? |頼《たの》んでいただけないかしら? 撮影を中止するようにとか、せめて|延《えん》|期《き》してほしいって……」
「それは|難《むずか》しいと思いますが。|警《けい》|察《さつ》だって、よほどの理由がないと、そこまで|指《し》|示《じ》できないでしょう」
「そうでしょうね」
と林絹江は、がっかりした様子で言った。
並子は少し考えてから、
「――向うは、いつから撮影に入ると言ってるんですか?」
「来週早々にも、って……」
「ずいぶん早いんですね」
政子がびっくりして言った。「だって、|脚本《きゃくほん》を書くとか、色々|準備《じゅんび》がいるんでしょう?」
「何だか、アッという間にやっちゃったらしいですよ。それに、|台《だい》|本《ほん》は|撮《さつ》|影《えい》を進めながらでも書ける、とか言って」
「ずいぶんめちゃくちゃな話ですね」
「――分りました」
並子が|肯《うなず》いて、「|一《いち》|応《おう》、話をしてみましょう。どうなるか、お|約《やく》|束《そく》はできませんけれども」
「まあ、ありがたいわ!」
と、いささかオーバーに絹江が息をついた。
「――何だかおかしいわ」
林絹江が帰った後、並子が言った。
「何が?」
「林さんよ。ずいぶん気にしてるじゃないの、あの|奥《おく》さんにしては」
「|包丁《ほうちょう》のことがあるから、気が気じゃないんでしょ」
「それにしても、|警《けい》|察《さつ》に話してまで、撮影をやめさせてくれというのは、少し大げさじゃない? |普《ふ》|通《つう》は、警察に|関《かかわ》り合うのを|避《さ》けたがるものよ」
「そう言われてみれば、そうね」
と政子は肯いた。「じゃ、どうだっていうの?」
「あの人、何か知ってるのよ」
「何を?」
「たとえば、|犯《はん》|人《にん》を、とかさ」
並子は、あっさりと言った。「ちょっと出かけて来るわ。竜介を|頼《たの》むわね」
「どこに行くの?」
「交番よ。|片《かた》|平《ひら》さんと話して来るわ」
「待ってよ、私も――」
「じゃ、政子、竜介を一人で置いて行けっていうの?」
「母親はどっちなのよ?」
と政子がむくれた。
「助手でしょ、|我《が》|慢《まん》、我慢」
と、並子が玄関の方へ行きかけると、
「ママ……」
と、竜介が|欠伸《あくび》しながら、ヨタヨタと出て来た。
政子がニヤリと|笑《わら》って、
「さ、竜介君、ママはお散歩だって。|一《いっ》|緒《しょ》に行こうね」
と|抱《かか》え上げた。
「いや、あの助手はまだ|吐《は》かないようですよ」
と片平|巡査《じゅんさ》が言った。
いくつかの|事《じ》|件《けん》で、並子が手を|貸《か》しているので、片平はすっかり並子のファン[#「ファン」に傍点]になっているのだ。
「|確《たし》かに、あの|女《じょ》|優《ゆう》――何といいましたっけ?」
「|長《なが》|内《うち》ヤス子」
「そうそう、長内ヤス子から、|包丁《ほうちょう》を|研《と》いでおいてくれと言われたのは|認《みと》めてるんですが、それがいつの間にか、どこかへ消えちゃったと言ってるんですよ」
「消えた?――それは、どこで消えたの? |撮《さつ》|影《えい》所で、とかスタジオとか――」
「いや、それがはっきりしないんです。撮影を終って、引き上げるとき、色々な物をワッと|片《かた》|付《づ》けたんですね。|果《はた》してその中にあったかどうか、分らないというわけです。まあ、助手ってのは、ともかく|忙《いそが》しいらしくって、そんなことすっかり|忘《わす》れてしまったんですね。後になって、思い出し、|捜《さが》してみたけど、どこにも見当らなかったらしいんですよ」
「で、それっきり――」
「ええ、次の仕事の|準備《じゅんび》に追われていて、事件のことも知らなかった、と言っているようです」
「見通しはどうなんですか?」
「さて、どうかなあ」
と、片平は首をかしげた。「色々当っているようですが、その助手に、あのスーパーの店長を殺す動機があったかどうか、|怪《あや》しいもんですよ」
「同感ね」
と、並子は|肯《うなず》いた。「|犯《はん》|人《にん》は別にいるわ」
「というと――|見《けん》|当《とう》がついてるんですか?」
と片平が目を|輝《かがや》かせる。「だったら、ぜひ教えて下さい」
「見当がついてるってわけじゃないのよ」
と、並子は|微《ほほ》|笑《え》んで首を|振《ふ》った。
それから並子は、林絹江の話を片平へ伝えて、|一《いち》|応《おう》報告しておくという|約《やく》|束《そく》を取り付けると、やっと目が覚めて、|駆《か》け回りたくてうずうずしている竜介の手を引いて歩き出した。
|途中《とちゅう》、|滑《すべ》り|台《だい》やブランコのある公園で竜介を遊ばせることにする。
「――並子、さっきは事件のこと分ってるって言ったじゃないの」
「うん」
「でも、片平さんには、見当がつかない、って――」
「見当が付いてるわけじゃないの。分ってる[#「分ってる」に傍点]のよ」
と、並子は言った。
政子は|絶《ぜつ》|望《ぼう》的な気分で、空を|仰《あお》いだ。|名《めい》|探《たん》|偵《てい》というのは、どうしてこうも|格《かっ》|好《こう》をつけたがるのだろう?
「――あら、竜介君」
と声がして、やって来たのは、やはり近所で顔なじみの|主《しゅ》|婦《ふ》、|川《かわ》|名《な》|令《れい》|子《こ》だった。
竜介と同じくらいの女の子がいて、時々|互《たが》いに行き来することもある。母親は太っていて、おっとりと|呑《のん》|気《き》だった。
「川名さん、今日はお休み?」
と並子が|訊《き》く。
川名令子は、あのスーパーにパートで働いている。
「ええ、今日は主人が休みだから」
「あ、そうか。ご主人、サービス業だっておっしゃってたものね」
「そう。こんな日ぐらい、子供の相手をしてくれなきゃ」
川名令子は、竜介が遊んでいるのを、しばらく|眺《なが》めていた。――並子が、ふと思い付いたように、
「そういえば、あの事件のあったとき、奥さんはあのお店にいたの?」
と|訊《き》いた。
「え? ああ、あの日? いなかったわ。休みだったもの」
「そう」
「でも、ちょうどあのとき、店の中にいたのよ」
「あら、本当に?」
「ええ。――おかしいのよね、ああいうときって」
と、令子はクスッと|笑《わら》った。「いえ、事件のときのことじゃなくて、|普《ふ》|段《だん》でも、たまにあそこで買物するでしょ、|普《ふ》|通《つう》の服で」
「ええ」
「そうすると、何となくこっちの顔を見る人が|沢《たく》|山《さん》いるの。――あれ、|誰《だれ》だったかな、という顔してね、どこかで見た人だけど、って考え|込《こ》んじゃう人もいるわ」
「いつも|制《せい》|服《ふく》だから分らないのよ」
「そうなのね。でも、何となく|見《み》|憶《おぼ》えがある……。ああいうときって、気になっていやなもんね。こっちも、わざと|会釈《えしゃく》して見せたりするの、向うはあわてちゃって、急いで頭をさげてから、必死で考えるわよ」
「買物を|忘《わす》れちゃったりしてね」
「そうなりかねないんじゃない?」
と令子は|笑《わら》った。
「――もう、新しい店長さんはみえてるの?」
「来たわよ。しばらくは代理だったから、何となくたるんでたけど、三日前かな、バリバリやろうって感じの人が来て、ハッパかけてたわ」
「またロケに使うのかしら?」
と政子が言うと、令子はキョトンとして、
「ロケって?」
と|訊《き》く。
政子が、林絹江の話をしてやると、令子は顔をしかめた。
「いやね、|縁《えん》|起《ぎ》でもない!」
「ねえ、川名さん」
と、並子が言った。「ちょっとお願いがあるんだけど」
「なあに? |探《たん》|偵《てい》さんに|依《い》|頼《らい》されるなんて、光栄だわ」
並子が探偵業に手を|染《そ》めていることは、もちろん令子も知っているのである。
「からかわないでよ」
と並子は|苦笑《くしょう》した。「あのね、もしあのスーパーでまたロケをすることになったら、そのときだけ、店員にしてほしいの」
「店員に?」
「そう。レジはちょっと|無《む》|理《り》だろうけど、ともかく|制《せい》|服《ふく》さえ着させてくれたら、|適《てき》|当《とう》にうろうろしてるから」
「それはいいけど……給料はどうするの?」
「|無給《むきゅう》で|結《けっ》|構《こう》よ」
「それなら、私がこっそり|制《せい》|服《ふく》の|余《あま》ってるのを|貸《か》してあげるわよ」
「助かるわ。よろしく」
「もう一つ問題があるわよ」
と政子が口を|挟《はさ》んだ。「竜介君はどうするの?」
回答は、政子にもよく分っていた。要するに、言ってみただけのことなのである。
林絹江の|部《へ》|屋《や》のドアは、開けっ放しになっていて、色々と人が出入りしていた。
「おーい、まだか?」
と、中から、|苛《いら》|立《だ》った声が飛び出して来る。
「すぐやります! すみません!」
と|忙《いそが》しく|駆《か》け回っているのは、助手だか|助《じょ》|監《かん》|督《とく》だかであろう。
|廊《ろう》|下《か》に出て、タバコを|喫《す》っているのは、ごくありふれた|主《しゅ》|婦《ふ》の|格《かっ》|好《こう》だが、|間《ま》|違《ちが》いなく、|長《なが》|内《うち》ヤス子である。
「――大変なのね、|撮《さつ》|影《えい》って」
少し|離《はな》れた所で、その様子を、十人ほどの主婦が|眺《なが》めている。その中に、並子も|混《まざ》っていた。政子は下の|砂《すな》|場《ば》で竜介の相手をしている。
「あら、西沢さん」
という声に|振《ふ》り向くと、林絹江である。
「まあ、追い出されてるんですか?」
「こっちから出て来たのよ。あんなもの、二度目にゃうんざりして来ちゃうわね」
絹江は本当にいや気がさしている様子だった。
「ずっと使うんですか」
「それが、ありがたいことに、長内ヤス子のスケジュールが|詰《つま》っていて、今日一日しか|撮《と》れないんですって。|亭《てい》|主《しゅ》はがっかりしてたけど、こっちは大助かりですよ」
「それであんなに忙しそうなんですね」
「早く終ってほしいわ、どうでもいいから」
と、絹江はため息をついて|腕《うで》|組《ぐ》みをした。
「じゃ、スーパーのロケはないのかしら、今回は」
「それが、やっぱりあるんですよ」
「まあ」
「さすがに、テレビ局の人なんかは、あのスーパーを使うのはやめようと思ってたらしいけど、長内ヤス子が、同じスーパーでないとおかしい、と言い|張《は》ったんですって」
「どうしてでしょう」
「リアリズムとかいうやつ[#「やつ」に傍点]らしいですよ、それが。――どんなスーパーだったか、なんて、|誰《だれ》も|憶《おぼ》えちゃいないでしょうにね」
「そうですね……」
並子は考え込みながら、「で、いつスーパーでロケをやるんですか?」
と|訊《き》いた。
「明日、とか言ってたわね」
「ほら竜介! 口開けて!――ちゃんと食べてよ、もう!」
|名《めい》|探《たん》|偵《てい》でも、思い通りにならない相手というのはいるものなのである。並子は、|冷《さ》ましたうどんを息子の口へ何とか|押《お》し|込《こ》むと、フウッと息を|吐《は》いた。
「――じゃ、明日はスーパーの|臨時雇《りんじやとい》になるわけ?」
と、政子が|訊《き》いた。
例によって二人の夫たちは帰りが|遅《おそ》いので、並子の所で夕食を共にしているのである。
「そういうことになるわね」
「手っ取り早く|済《す》ませてよ」
「やってみなきゃ、分んないわよ」
並子は言い返した。
「だけど、あの店長さん、殺されるような人じゃなかったらしいじゃないの。動機の面からは、まるで手がかりなしの|状態《じょうたい》らしい、って聞いたわ」
「そうでしょうね。三角関係だの、借金のもつれだの、って動機だけじゃないのよ。世の中には、他の人から見て、とても人を殺すほどのことじゃないと思えるような、ささいな理由で、やってしまう人だっているんだわ」
「まあ、|十人十色《じゅうにんといろ》ですものね」
「でも、いわゆる|一《いっ》|般《ぱん》的に|理《り》|解《かい》できる理由ってのがあるわけよ。そこから外れた動機は、ちょっと|誰《だれ》も思い付かないような……」
「いつもそんなことばっかし言ってる! はっきり言いなさいよ、|犯《はん》|人《にん》知ってるんなら」
と政子は、熱いうどんをすすって、目を|白《しろ》|黒《くろ》させた。
「|証拠《しょうこ》がなくちゃね。何の証拠もなしに人を殺人犯にできる?」
並子は|時《と》|計《けい》を見た。「――早く食べちゃおう」
「どうして? |誰《だれ》か来るの?」
と政子が|訊《き》くと、タイミング良く、チャイムが鳴った。
並子が|珍《めずら》しく立って行くと、川名令子を案内して来た。|娘《むすめ》も|一《いっ》|緒《しょ》である。
|仲《なか》|間《ま》ができたので、たちまち竜介は遊びに熱中し始めた。
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「ええ、|万《まん》|引《びき》はよくあるわよ」
と、令子は、うどんをすすりながら|肯《うなず》いた。
「どんな人がやるの?」
と並子が|訊《き》く。
「そうねえ。――|子《こ》|供《ども》が多いんじゃないかな、最近は」
「子供が?」
「小学生がお|菓《か》|子《し》をチョイとくすねたりね。――あんまり、悪いことしてる、って|意《い》|識《しき》がないから、|却《かえ》って|始《し》|末《まつ》が悪いの」
「|大人《おとな》はどう?」
「めったにないわ。だって、こういう|団《だん》|地《ち》のスーパーって、いつも同じ顔ぶれでしょ。そんなことして|捕《つか》まったら、もう来られなくなるものね」
「たまにはあるわけ?」
「そりゃね――たいていは生理のときで少しおかしかったとか、そんなことだけど」
「最近、あった?」
「このところ、ないんじゃない?」
と令子は答えた。「――このおつゆ、どうやって作るの? おいしいわね」
「ね、よく考えて」
「え?――おつゆのこと?」
「|違《ちが》うわよ。|万《まん》|引《びき》のこと」
「あ、そうか、そうね、そう言えば……少し前よ」
「いつ|頃《ごろ》?」
「ええと……」
令子は、|視《し》|線《せん》を|宙《ちゅう》に|浮《う》かして、考えていた。「あ、例の殺人事件の少し前じゃなかったかな」
「やったのは、|誰《だれ》?」
「私の知らない人よ。――そうね、あんまり見かけない顔だったわ」
「どんな人だった?」
「どんな、って言われても、ねえ……」
令子は|困《こま》った顔で言った。「もう|忘《わす》れちゃったわ。それに、そんなによく見たわけじゃないのよ。ただチラッと――」
「初めての客だったの?」
「そうじゃない……と思うわ」
と、令子は考え考え、言った。「見たことのある顔だな、って思ったのは、|憶《おぼ》えてるの。でも、そうしばしば来る人じゃないっていうのは|確《たし》かね。何度か見てれば、顔、憶えてるもの」
「万引を見付けたのは?」
「店長さんよ。――ああいうときは、他のお客の注意をひかないように、さり|気《げ》なく、店の|奥《おく》に連れて行くの。だから、店員以外の人は、ほとんど気が付かないんじゃない?」
「じゃ。そのときも店長さんがさり気なく――」
「ええ。だから、いつ出て行ったのか、私は気が付かなかったわ」
「その人のことで、他に何か聞かなかった?」
「そうね……。店長が何とか言ってたわ、そう言えば」
「何て言ってた? 思い出せない?」
並子は身を乗り出すようにして言った。
「ずいぶん熱心ね」
と、令子が|呆《あき》れるように言った。「|確《たし》か、|妙《みょう》な物ばっかり買物|袋《ぶくろ》へ放り|込《こ》んでたって言ってたわ」
「妙な物?」
「つまり、|普《ふ》|通《つう》なら、一番|万《まん》|引《びき》しない[#「しない」に傍点]物ね。安い|割《わり》にかさばる、ティシュペーパーとか、紙コップ一個とか……。それに、|冷《れい》|凍《とう》食品もビニール袋に入れないで、そのまま放り込んであったとか。――そんな話だったわよ」
「やっぱりノイローゼくさいわね」
と、政子が言った。「|妊《にん》|娠《しん》中とか、気分の不安定な時期に良くあるって聞いたことあるわ」
「そんなわけでもなかったみたい。だから、変ってる、って言ったんだと思うわ、あの店長」
「その客をどこかで見たら、思い出せる?」
と、並子が|訊《き》いた。
「うーん、ちょっと|無《む》|理《り》ね。『この人よ』って会わされれば、多少思い出すかもしれないけど、どこかでその人に会っても、それこそ、見たことのある人だな、と思って一日思い|悩《なや》むんじゃないかしら」
「その|程《てい》|度《ど》ってわけね」
「どうして、そんなに万引に関心があるの?」
と、令子が不思議そうに|訊《き》いた。
「やめといた方がいいわよ」
と政子が横から口を出す。「訊いたって、気が向かないと返事してくれないんだから、この方は」
「明日になれば分るわよ」
と、並子が言った。
しかし、いつもの名探偵とは|違《ちが》って、ちょっと|得《とく》|意《い》げな、いたずらっぽい目の|輝《かがや》きは、見えなかった……。
「もう少し|待《たい》|機《き》してて下さい」
と、スーパーに近い|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に、助手の一人が|駆《か》け込んで来た。
「早くしろよ、時間がないんだぜ」
と|監《かん》|督《とく》がブツブツと|文《もん》|句《く》を言う。
「いいじゃないの、ロケのときは仕方ないわよ」
と|長《なが》|内《うち》ヤス子がのんびりと言った。
ここでコーヒーを飲みながら、|準備《じゅんび》の整うのを待っているのである。長内ヤス子は、|化粧《けしょう》っ|気《け》もなく、|一《いっ》|見《けん》、|平《へい》|凡《ぼん》な|主《しゅ》|婦《ふ》というスタイルだった。
「悪いね、手ぎわが悪くて」
と、監督の方が気をつかっている。
「|構《かま》わないわ。このロケは私が言い出したんだし」
長内ヤス子はそう言って、「ちょっと買物して来るわ」
と立ち上った。
「買物なら行かせるよ」
「いいの。自分で買って来たいのよ」
長内ヤス子は、買物カゴを手に、店から出て行った。
――スーパーは、何となくざわついていた。いや、いつもざわついてはいるのだが、今日のざわつき方は、ちょっと|違《ちが》っていた。
カメラが置いてあったり、ライトがセットされていたり、何となくスタジオの中、というムードなのである。買物客も、|物珍《ものめずら》しそうに、機材を|眺《なが》めている内、買物の方を|忘《わす》れてしまいそうになったりしていた。
――長内ヤス子は、店内用の黄色いカゴを手にさげて、ブラブラと|棚《たな》の間を歩いていた。
|誰《だれ》も気付かない。みんな、品物と|値《ね》|段《だん》の方に気を取られているので、すれ|違《ちが》う平凡な主婦になど目を向けないのだ。
長内ヤス子は、目についたお|菓《か》|子《し》や、|缶《かん》ジュースなどを、いくつか店内用のカゴの中へ入れた。別にほしいわけではないが、何も買わないというのもおかしなものだろう。
自分で買物することがないので、物の値段というのが、見当もつかない、見ても、安いのか高いのか分らない。
それだけに、ただぶらついていても、|飽《あ》きるということがなかった。
「――お客様」
と声がした。「お客様」
長内ヤス子は|振《ふ》り向いた。|制《せい》|服《ふく》を着た、若い店員が立っている。
「私を|呼《よ》んだの?」
「そうです」
「何か用?」
「失礼ですけど、買物カゴの中を改めさせていただきます」
「どういうこと?」
「さっき、調味料のびんを、そちらの買物カゴに入れましたね」
長内ヤス子の顔がこわばった。
「何ですって? そんなことしませんよ!」
「見ていましたよ。ともかく、中を見せて下さい」
「失礼ね! 私が|盗《ぬす》んだとでも言うの?」
「中を見せて下さい」
「さあ、|好《す》きなだけ|捜《さが》して」
長内ヤス子は買物カゴをその女店員に|押《お》しつけた。店員はそのカゴの中を探って、小さなびんを取り出した。
「|隣《となり》の|棚《たな》の品ですね」
長内ヤス子は|頬《ほお》を|紅潮《こうちょう》させた。
「知らないわ! そんなものとったりするもんですか!」
「でも|実《じっ》|際《さい》に――」
「入っていたらどうなのよ! きっと知らない内に|転《ころが》り|込《こ》んだんだわ」
「ともかく店長の所へおいで下さい」
と、店員が|腕《うで》をつかもうとすると、長内ヤス子はそれを|激《はげ》しく|振《ふ》り|払《はら》った。
「|触《さわ》らないで!」
と大声を出す。
「お客様、声が――」
「私は知らないわよ!」
あまりの大声に、他の客たちが何となく集まって来た。長内ヤス子は、|怒《いか》りに身を|震《ふる》わせていた。
「ともかく、奥へいらして下さい」
と、店員は|断《だん》|固《こ》として言い|張《は》る。
「私を|誰《だれ》だと思ってるの! 長内ヤス子よ! 分った?」
|一瞬《いっしゅん》、周囲にどよめきが走った。しかし、店員の方は|表情《ひょうじょう》一つ変えない。
「どなたでも同じです。|万《まん》|引《びき》していいってことはありませんわ」
と、長内ヤス子の|腕《うで》をつかんで、奥へ連れて行こうとする。
「何するのよ! 放しなさい!」
と長内ヤス子は|激《はげ》しく|叫《さけ》んだ。「私に――この私にそんな|真《ま》|似《ね》して――ただじゃおかないわよ!」
「静かにして下さい!」
店員が、|平《ひら》|手《て》で長内ヤス子の|頬《ほお》を打った。長内ヤス子の顔が、さっと青ざめたと思うと、
「やったわね!――殺してやる!」
と叫ぶなり店員に飛びかかった。不意を食らって、|仰《あお》|向《む》けに|倒《たお》れた店員の上にかぶさるようにして、両手を首にかける。
「殺してやるから! あいつ[#「あいつ」に傍点]みたいに、殺してやる! あいつみたいに……」
――|誰《だれ》もが|唖《あ》|然《ぜん》として、その光景を|眺《なが》めていた。TVのロケの一場面か何かだとでも思っていたのかもしれない。
長内ヤス子は、店員の首を|絞《し》めつけた。店員は必死でもがいていたが、どうにもならない様子だった。
|凄《すご》い勢いで飛び込んで来たのは、政子だった。全力で長内ヤス子へ体当りを食らわすと長内ヤス子は|床《ゆか》へ|転《ころが》って、|棚《たな》にぶつかった。積み上げてあった|缶《かん》|詰《づめ》の山がドッと|崩《くず》れて、長内ヤス子の上に落ちた。
「並子!――しっかりして!」
政子に|抱《だ》きかかえられるようにして起き上ると、並子は苦しげに|喉《のど》をさすった。
「ああ……サンキュー。助かったわ」
「良かった! 心配で来てみたのよ」
「――竜介は?」
「川名さんに|抱《だ》っこしてもらっているから|大丈夫《だいじょうぶ》」
「そう……」
並子は、よろけながら立ち上ると、床に|座《すわ》り|込《こ》んでいる長内ヤス子の方を見た。――|虚《うつ》ろな目で、周囲の|野《や》|次《じ》|馬《うま》を|眺《なが》め回している。
「――|彼《かの》|女《じょ》が店長を殺したの?」
政子が、信じられない、という顔で|訊《き》く。
「そう。――今よりも、ずっと|厳《きび》しく調べられたんでしょうね。彼女にとっては、|堪《た》え|難《がた》い|屈辱《くつじょく》だったのよ」
――長内ヤス子が|微《ほほ》|笑《え》んだ。それはスクリーンやブラウン管で、多くのファンを|魅了《みりょう》した、あの|笑《え》|顔《がお》だった。
「へえ、林さんが手数料を一万円も|払《はら》ってくれたの?」
と、政子が|訊《き》いた。
「そうよ、私も今度は殺されかけたくらいだから、少し|余《よ》|分《ぶん》にいただいてもいいだろうと思ってね」
竜介を連れて、三人での買物帰りだった。
「長内ヤス子は|予《あらかじ》め、リハーサルのつもりであのスーパーへ行ったわけね」
「そうよ、でも、初めてで買い方が分らないから、品物を自分の買物|袋《ぶくろ》へ放り込んでた。それを見とがめられたわけね」
「気の毒ね、考えてみると」
「スターっていうのも大変だと思うわ。いつも人の目にさらされている。でも、人が見てくれなくなったら、それこそおしまいだしね」
「スターでなくて良かった」
と政子がしみじみと言った。
二人は少しして、何となく|笑《わら》い出してしまった。
「でも本当よ」
と、並子が竜介の手を引きながら言った。「スターなんかより、|探偵稼業《たんていかぎょう》の方が、どんなにいいか、分りゃしないわよ!」
こちら、|団《だん》|地《ち》|探《たん》|偵《てい》|局《きょく》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成12年12月8日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2000
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『こちら、団地探偵局』昭和61年10月25日初版刊行
平成10年3月10日43版刊行