角川文庫
くちづけ(下)
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
抱 擁
暗 雲
朝 食
解 放
動 揺
通夜の席
教 室
空 虚
圧 迫
冷たい床
家 具
協 力
夜の客
決 心
つながり
一人の夜
眠 り
犠 牲
崩 壊
帰 宅
土手の道
抱 擁
家に入ると、電話が鳴っているのが聞こえて、|亜《あ》|紀《き》は急いで居間へ駆け込んだ。
お母さんかな、と思いつつ出てみる。
「――もしもし」
「あ、亜紀君? |君《きみ》|原《はら》だよ」
亜紀は思ってもみない声を聞いて、ペタッとソファに座り込んでしまった。
「――もしもし? 亜紀君、聞いてる?」
「ええ」
と、ため息と共に、「あんまりびっくりして……」
「ごめんごめん。ずっと連絡しなかったからな」
「いえ、そういう意味で言ったんじゃないの!」
と、亜紀はあわてて言った。「|嬉《うれ》しかったの。それだけ。本当よ」
「ありがとう。――実は、この前の人形展で会った|佐《さ》|伯《えき》さん、|憶《おぼ》えてる?」
「ええ。人形劇団の方ね」
「そうそう。あの人がね、急に団員の一人が入院しちゃったって連絡して来てさ。僕に手伝ってくれないかって」
「あら、すてきじゃない」
「僕も、三日間だけだって言われて、気軽に引き受けたんだ。そして待ち合せの場所に行ってみたら、|凄《すご》いオンボロトラックが来てさ、ガタガタ揺られて、何と七時間!」
「どこに行ったの?」
「山梨の山の中でね、小学校にトラックで乗り入れて、荷台をそのまま舞台にして人形劇を見せるんだ。夜はその小学校の校庭でテント張って寝る。――てっきり昼間だけだと思ってたから、面食らっちゃって」
と言いつつ、君原も笑っている。
「じゃ、三日間ずっとそんなことしてたの」
「一週間! ――団員は三日で治って出て来るはずだ、って言われたけど、そんな無茶して具合悪くなっても大変だろ。だから、僕がやるって言ったんだ。きっと佐伯さんもそのつもりだったんだよ」
「見たかったな、その様子。子供たち、喜んでた?」
「うん。いくら山の中っていっても、今の子はTVで何でも見てるから、どうかなと思ったんだけど、人間が目の前で人形を操っているってのは全然違うらしいんだ。凄く喜んでくれた。――もちろん、下手なんだけどね」
「そんなこと……。熱意が伝わるんだわ」
君原の笑顔が目の前に見えるようだ。そして、|一《いっ》|旦《たん》そのまぶしい笑顔を思い出すと、会いたくてたまらなくなって来た。
「君原さん、今、どこ?」
と、亜紀が|訊《き》くと、
「うん……」
と、君原はなぜかためらって、「実はね……」
亜紀は不安になって、
「はっきり言って。――もう帰って来ないの?」
と言った。
「まさか! 大学生だぜ、こっちは」
と、君原は言った。
「じゃあ……」
「実は……今、君の家のすぐ近くにいるんだ」
「え?」
「あの、いつかのコンビニ。あそこからかけてる」
「何だ!」
と、亜紀は笑って、「心配しちゃった!」
「ちょっと、その……」
「早く来て! 待ってるわ」
と、亜紀は言って、「玄関に出てるからね!」
と、電話を切ると、玄関へと駆け出して行った。
外へ出て、まだ制服のままだったことに気が付いた。
――ま、いいや。
「早く来ないかな」
と、|呟《つぶや》いていると……。
ガタガタ、ドン、と凄い音がして、目を丸くしている亜紀の方へ、スクラップ同然のトラックがやって来たのである。
トラックが、亜紀の家の前で停ると、
「やあ!」
運転席から顔を出したのは、佐伯である。
「どうも……」
「すまんね! ちょっと邪魔するよ」
「はあ」
荷台から、ドスンと降りて来たのは、ひげののびた男で――。
「――話をする前に切っちまうから」
「君原さん!」
「僕、そんなにひどいかい?」
「――うん」
と、素直に|肯《うなず》く。「じゃ、今、帰り?」
「そうなんだ。みんな一週間、|風《ふ》|呂《ろ》に入ってなくて……。このままじゃ帰れないって言うから……」
亜紀は、ふき出してしまった。
「どうぞ! お風呂ぐらいいくらでも」
「ありがとう!」
と、君原が手を合せた。
荷台から、三人、四人と降りて来る。
中には若い女性もいて、亜紀はびっくりした。
「じゃ、女性優先だ。お湯、今入れます」
「悪いね。シャワーだけでいいよ」
「お湯に浸った方がいいですよ。疲れも取れるわ」
とはいえ、何と総勢七人! お風呂に全員入ったら、何時間かかるか。
しかし、今さら断れっこない。亜紀は手早く着替えると、湯舟にお湯を入れた。――みんな、見分けがつかないくらい汚れている。
亜紀は、居間へ入って、
「今、お湯入れてますから――」
と言いかけて、「どうしたんですか?」
佐伯を始め、もちろん君原も、全員が居間の床に座っているのである。
「あの……。ソファに座った方が楽ですよ」
と、分り切ったことを言うと、
「いいんだよ」
と、佐伯が肯いて、「何しろみんな汚れているからね。床は後で|拭《ふ》けばきれいになるが、ソファを汚しちゃそうはいかない。だから床に座ってるのさ」
お|尻《しり》が痛いだろうに。大体、今までトラックに揺られて来たのだ。
亜紀は、佐伯たちの「礼儀」に感動した。決して佐伯の命令にみんなが従っている、というのではない。いつもこうなのだろう。
|羨《うらや》ましい、と思った。
「じゃあ……。今、お茶でもいれますね」
亜紀は台所へ行った。
|茶《ちゃ》|碗《わん》を出していると、君原がやって来て、
「悪いね、突然押しかけて」
と言った。
「いやなら断ってるわ。私、喜んでやってるの。気にしないで」
亜紀はそう言って、「コーヒーか紅茶の方がいい? 疲れてるでしょ。甘いものの方がいいかな」
「ああ、それじゃ――。インスタントでいいから、コーヒーを」
「はい。カップ、同じものが|揃《そろ》ってないけど我慢してね」
亜紀は、コーヒーカップを出して並べた。
「手伝おうか」
「いいの。これぐらいやらせて。君原さん、沢山手伝って来たんでしょ」
亜紀は|微《ほほ》|笑《え》んで、「向うで待ってて。床に座ってね」
「――うん」
君原のいつに変らぬ笑顔が、不精ひげの下から|覗《のぞ》いた。
亜紀は手早く(母の手伝いをするときには、こんなにできないのに!)仕度して、盆にコーヒーカップをのせて運んだ。
みんな、カップに思い切り砂糖を沢山入れて、大喜びで飲んだ。
亜紀は|嬉《うれ》しかった。人形劇のお手伝いはどうせできないのだ。せめて、こんなことで喜んでもらえれば……。
亜紀は、あの本屋での出来事など、忘れそうになっていた。
電話が鳴って、急いで出ると、
「亜紀?」
「お母さん。今ね――」
「もしもし? 外からなの。聞こえる?」
「うん」
「今夜、|藤《ふじ》|川《かわ》ゆかりさんとお話ししてから帰るから、少し遅くなるわ」
「分った」
と、亜紀が言った。「何か食べるから」
「そうしてくれる? ――誰かみえてるの?」
|陽《よう》|子《こ》は、亜紀の声の他に何かおしゃべりの声が聞こえてくるのに気付いた。
「あ、お友だちが二、三人来てるの」
「そう。じゃ、良かったら一緒に何か食べなさいね。じゃあ……。そんなに遅くはならないから」
「はい」
陽子は電話を切った。
運転席で、円城寺は黙ってハンドルを握っている。陽子は、
「お電話、お借りして」
と言った。
|円城寺《えんじょうじ》の車の電話を借りていたのである。
「そんなことでお礼を言われても……」
「いえ……。自分のためなんですわ」
「自分のため?」
「娘に|嘘《うそ》をつきました。ですから、せめて礼儀正しく、と……」
「なるほど。しかし――」
円城寺は車をマンションの駐車場へと入れながら、「お嬢さんに気付かせないのも、愛情というものですよ」
「言わないで下さい。――|辛《つら》いわ」
車を停めてエンジンを切ると、円城寺は、急に二人を包み込む静けさの中で、
「どうします?」
と言った。「食事だけで帰ってもいいんですよ」
陽子は、ゆっくりと顔を上げて、
「いえ……。もう心を決めたんですから」
と言った。「参りましょ」
二人は車を降りて、エレベーターで上って行った。
「お宅ですの?」
「いえ、違います。仕事が深夜にかかったりしたとき泊るように借りてるんです」
「奥様は、ご存知?」
「ここに部屋があることは知っていますが、来たことはありません」
「そうですか……」
エレベーターが停った。
マンションの中は静かで、人が住んでいるとも思えなかった。
廊下を歩く二人の足音が響いて、寂しげだった。
「入って下さい」
円城寺の案内した部屋は、そう広いわけではなかったが、あまり物がなくてすっきりしている。
「――奥に寝室が」
と、円城寺は言った。「奥さん……」
「そう呼ばないで下さい」
陽子は、バッグを足元へ落とすと、円城寺の胸に顔を伏せた。
円城寺の力強い腕が自分の体を締めつけるのを感じると、陽子は|烈《はげ》しく心臓が高鳴って来て、こめかみにまで響くようだった。
何も言わずに、二人は唇を重ねた。
もう何も言う必要はない。いや、何か言えば|却《かえ》って二人をためらわせるばかりだろう。
陽子は、円城寺に肩を抱かれて、せかせかとした足どりで奥のドアから中へ入った。
明りが消えていて、暗い。円城寺が手探りでスイッチを押した。
「さあ――」
と、円城寺は言いかけて、言葉を切った。
ベッドがある。――が、シーツも|枕《まくら》もなく、マットレスがむき出しのままだ。
「いつも使ってるわけじゃないから……」
と、円城寺は言いわけするように、「その辺の戸棚に入ってるはずだ。待ってて下さい」
「カーテンを閉めないと……」
「そうですね」
「私、シーツを捜しますわ。カーテンを」
「分りました」
円城寺が、手早く窓のカーテンをきちっと引いた。
陽子は、作りつけの戸棚を開けてみたが、どこにもシーツや枕は見当らない。
「――ないわ。変ですね、クリーニングにでも出てるのかしら」
「いや、それにしても、替えのシーツぐらいありそうなもんだ。他を捜してみます」
円城寺は、バスルームへ入って行くと、片端から戸棚や引出しをあけてみた。
陽子も、居間へ戻ったり、納戸らしい扉を開けてみたりしたが、どこにも見当らない。
寝室へもう一度入って行くと、円城寺がふくれっつらでベッドのマットレスに腰かけている。
「ない! 何してるんだ、畜生!」
「怒っても……。どなたが管理してらっしゃるんですか?」
「さあ……。たぶん、総務の人間でしょう。秘書任せなので、よく知らないんです」
陽子も並んで腰をかけた。
もう心臓も普通のペースに戻って、穏やかに打っている。
「奥さん――」
「この上で、ってわけにいきませんわ。そうでしょ?」陽子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「今日はやめとけってことなんだわ、きっと」
「そんなことはありません! 今からだってどこかホテルを取って――」
「それじゃ、帰りが遅くなりすぎます」
と、陽子は言った。「いや、というわけじゃないんです。もう――たぶん、私たち、浮気してるんですもの。心の中では、立派に。立派に、っておかしいかしら」
陽子は笑った。円城寺もつられたように笑い、陽子の額に唇をつけた。
「|可《か》|愛《わい》い人だ」
と、円城寺は言った。
「そんなこと、何十年ぶりかしら、言われたの」
陽子が照れて赤くなる。「――今日、主人が若い女とタクシーに乗るところを見てしまったんです」
「会社の帰りですか?」
「いえ、会社を早退して。――あの様子、普通じゃありませんでした」
陽子は目を伏せて、「ショックでなかったとは言いません。何となく感じてはいましたけど」
「当然です。――僕がこんなことを言うのはおかしいが、当然ですよ。お宅のご主人の性格を考えると、心配だな」
「ありがとう。そう言って下さると救われます」
円城寺が陽子の肩へ手を回し、軽く抱き寄せる。陽子は相手の肩に頭をのせた。
「でも、誤解しないで下さいね」
と、陽子は言った。「そのショックであなたに抱かれてもいいと思ったわけじゃないんです。顔を見たくなったの。それだけでも良かったけど、もういつでも抱かれる気持になっていたから……」
「|嬉《うれ》しいな、そう聞いて」
円城寺は、もう一度陽子の額にキスした。
「抱き締めて」
陽子は自分から腕を伸ばして相手を抱いた。唇は少し乾いていたが、触れ合うと陽子の胸に目に見えない熱いものが流れ込むようだ。
「――口紅が」
と、息を弾ませて、「香水はつけていませんけど、気を付けて。奥様が気付かれますわ」
「少し、ゆっくりしてから帰りますよ」
――二人は、食事をとっていなかった。お腹どころじゃなかったのだ。
しかし、こうしていると陽子もお腹がグーッと鳴って、
「何か簡単に食べません?」
と、円城寺から離れて立ち上る。
「そうしましょう。――できれば、今度いつ会えるか、うかがいたいな」
「ちゃんとシーツも――」
「むろんです!」
即座に答えて、円城寺は笑った。
「――あ、カーテンを」
「そうだ、開けとこう」
円城寺はカーテンを開けた。
――明るい窓に夫の姿が見えるのを、|小《さ》|百《ゆ》|合《り》は表の通りに立って見上げていた。
どうしたのだろう?
ずいぶん早い。ほんの十分足らず?
明りが消えた。――結局、夫と|金《かね》|倉《くら》陽子の間には、何もなかったのだろうか?
小百合は、暗がりの中に立っていた。
暗 雲
「はい、お茶」
と、亜紀はウーロン茶をグラスに|注《つ》いだ。「無精でごめんなさいね。ちゃんと熱いのをいれりゃいいんだけど」
「そんなこと気にしないでくれ」
と、佐伯がガブガブとお茶を飲んで、たちまちグラスを空にしてしまう。「|旨《うま》い!」
「じゃ、注いどきますね」
もう、三本めのペットボトルが空になりそうだ。
全員、お|風《ふ》|呂《ろ》に入ってさっぱりしたせいもあるのだろうが、お腹が空いているというので、亜紀は君原と二人でコンビニへ行き、お弁当を買い込んで来たのである。
時ならぬ「お弁当パーティ」(?)になってしまった。
缶ビールも空けて、にぎやかではあったが、それでも決して汚したりこぼしたりせず、ゴミはきちんとビニール袋へ集めている。
亜紀は感心してしまった。
「――亜紀君、君、食べてないんだろ」
「あっちに置いてある」
「食べてくれ。僕らはちゃんと自分でやるから」
「ううん、いいの。楽しいもん、こうしてると」
と、亜紀は笑って言った。
「しかし、お父さんかお母さんが帰って来てこの様子を見たら、気絶するかもしれないなあ」
佐伯がのんびりと言う。
「でも、いいなあ、そうやって自分の好きなものに打ち込めて」
「自分の好きなもの、か……。しかしな、亜紀君」
と、佐伯は一息ついて、「そのためには、好きなことをやる時間の何十倍もの時間を、いやなこと、|辛《つら》いことに費やさなきゃならないんだよ」
「ええ、分ります。――でも、目標があって辛いことを我慢してるのと、何もないのにいやなことを毎日してるんじゃ、全然違うんじゃないですか」
と、亜紀は言った。「ごめんなさい、分りもしないのに偉そうなこと言って」
「その通りだよ。しかし、人は一人で生きてるわけじゃない。面倒をみなきゃいけない家族もあり、恋人もいる。なかなか『好きな通り』に生きるなんてことはできない」
「そうでしょうね」
亜紀も、君原の事情をよく知っている。
佐伯が、一人一人の事情に気を配っていること――自分の夢を押し付けないことに、亜紀は|爽《さわ》やかなものを感じる。本当に苦労した人なのだろう。
「――あ、電話だ」
電話が鳴り、亜紀は急いで立って行って出た。
「もしもし、金倉です」
「亜紀さん? |伊《い》|東《とう》|真《ま》|子《こ》です」
「あ、どうも」
と、亜紀は言った。
「お父さん、帰られてます?」
「父ですか。いいえ、まだ」
「そうですか。――お母さんは?」
「母も、少し遅くなるってさっき電話がありました」
「そう……」
伊東真子の言い方には、どこか深刻な響きがあった。亜紀は気になって、
「何かあったんですか」
と|訊《き》いた。
「実はね……。お父さん、今日会社を早退したの」
「早退? 具合でも悪かったんでしょうか」
「それならまだ……。良くはないけどね。でも、どうしても出なきゃいけない会議があったのに、欠席しちゃったのよ。しかも、早退したといっても――」
と、ためらう。
「話して下さい。私なら大丈夫」
「そうね、亜紀さんも、もう子供じゃないし。――お父さん、女の人と出かけちゃったの」
「女の人……」
「それを見ていた子がいてね。上司に話したもんだから、問題になって。明日出社したら、ちゃんと説明できるように考えておかないと大変だと思うわ」
「分りました。――それを知らせて下さったんですか」
「まあ……長いお付合いですものね」
「ありがとうございます」
と、亜紀は言った。「父が帰ったら、どう言います?」
「私の所へ電話をくれと言って下さる? 何時でもいいわ」
「分りました。必ず言います」
「よろしくね」
伊東真子の声はやっと少し明るくなって、「あなたも大人になったわね」
と言った。
「そうでもないです」
亜紀は少し照れた。
――電話を切ると、佐伯たちはもう食べ終って片付けをしていた。
「あ、置いといて下さい。私、やりますから」
「ゴミくらい持って帰るさ。君原、少し話があるんだろ? 残ってけよ」
「いや、僕は――」
「君原さん。少しそばにいて」
亜紀は君原の腕をつかんだ。
「ほら見ろ」
と、佐伯は笑った。「じゃ、みんな行こう。すっかり世話になったね」
一行は口々に礼を言って帰って行った。
君原と二人になると、亜紀は、
「ごめんなさい」
と言った。「無理に引き止めちゃった」
「いや、そんなことないけど……」
君原は、ひげでザラついた|顎《あご》へ手を当てて、「きちんと|剃《そ》っとけば良かった」
「どうして?」
何気なく訊いてから――亜紀はポッと赤くなった。
「いや……。そういうつもりで言ったんじゃ……」
と、君原も赤くなっている。
「私、何も言ってない!」
と、亜紀はますます赤くなって、「それじゃ、意地でも!」
「だけど――」
「ひげの痛いのくらい、我慢する」
亜紀は、少し伸び上って君原にキスした。ひげがチクリと当ってかすかに痛い。
「――ソースの味がした」
妙なもので、キスしたら落ちついてしまった。
「君、弁当食べろよ。付合うから」
「うん!」
正直、亜紀もお腹が鳴っている。
買って来たお弁当を食べながら、
「ありがとう」
と、亜紀は言った。
「お礼を言うのは、こっちだよ」
「ううん。来てくれなかったら、一人で泣いてたかもしれない。ひどいことばっかりだったんだもの」
「何があったんだ?」
君原はテーブルにつくと、真剣な目で亜紀を見つめた。
亜紀は、書店で万引きしたと疑われたことを話した。君原は途中まで聞いて、
「僕が怒鳴り込んでやる!」
と立ち上りかけたが、亜紀があわてて続きを話して、やっとおさまった。
「しかし、妙だね。わざと君が万引きしたように見せかけた?」
「たぶん」
と、亜紀は|肯《うなず》いた。
「誰がそんなことを……」
「分んないから、気味が悪い」
と、亜紀は首を振って、「それと今の電話――」
「何だった?」
「会社の人。伊東さんって、昔から親しくしてる人で。――お父さんのこと、心配してかけて来てくれたの」
伊東真子の話を聞かせると、君原は|眉《まゆ》をひそめて、「それは普通じゃないな」
「でしょ? お父さん、何があっても、会社第一の人なの。そんな大事な会議をすっぽかすなんて」
君原は少し考えていたが、
「人間、いくつになっても迷うってことはあるんだ」
と言った。「分るかい? 君のお父さんだって、君やお母さんのことを大事に思ってる。ただ、きっと道に迷ってしまっているだけなんだよ」
亜紀は、ゆっくり肯いた。
「――分ってる。お父さん、悪いことなんかできる人じゃないの。ただ……気のやさしい人だから、誰かに引きずられていっちゃうかもしれない」
なかなか父親のことをよく分っているのである。
「君が心配しても、どうなるものでもないよ。しかし、僕には君を陥れようとした|奴《やつ》のことが気にかかるな」
「充分用心する。ごめんね、心配かけて」
亜紀は、君原に話をしただけで大分気持が落ちついた。「もう、帰った方がいいわ。大学、あるんでしょ、明日?」
「そうなんだ!」
君原はため息をついた。「一週間も休んじまって、どうしよう! 先生のところへ行って頼み込まなきゃ!」
その君原の情ない表情に、亜紀は思わず笑ってしまった。
亜紀もきれいにお弁当を食べてしまい、二人は、しばらく人形劇の話で時を忘れた。
亜紀も、しばし父や母の気がかりな行動のことを傍へ置いて、君原の話と、目の輝きにうっとりとしていた。
「――やあ、もう行かないと」
君原が時計を見て立ち上る。「レポートでもあったら徹夜だ」
「体、こわさないでね」
玄関まで君原を送りに出て、亜紀は、「――もう一度」
と、君原の肩に手をかけ、そっと唇を重ねた。
今度はひげが当らないように、うまくできた。
「――何かあったら、いつでも僕を呼んでくれ。いいね。遠慮なんかしなくていいんだから」
「うん。私、図々しいからね。本当に遠慮しないよ」
「僕も図々しいからな。もう一回」
亜紀が笑って、ちょっと伸び上った。軽く触れ合う音がして、
「ちょっとひげが当った」
「この次は、剃ってくる」
君原が笑って、「じゃあ!」
亜紀は表まで出て、見送った。
ホッと息をつく。――人ってふしぎなものだ。その人と会っただけで、気持がすっかり明るくなってしまう。こんなことがあるんだ。亜紀はしばらくその場に立っていた。
君原の姿が見えなくなって、亜紀は家の中へ入った。
玄関から上ろうとすると、外で車の停る音がしたので、振り返り、
「お父さんかな」
まだ母は帰らないだろうと思ったのだ。
そっとドアを開けて|覗《のぞ》くと、母の陽子が車を見送っていた。――車は、チラッと見えただけだが、タクシーではない。
あの形はたぶん外車――BMW?
陽子が足早にやって来て、亜紀が中からドアを開けるとびっくりしたように、
「亜紀!」
「お帰り」
と、亜紀は言った。「今の車、誰の?」
陽子は詰った。
「――別に誰でもいいけど」
と、亜紀は言った。「|嘘《うそ》つかないで。私、お父さんにしゃべったりしないから」
陽子は言葉を失って立ちつくす。
亜紀は、
「お弁当食べたから、私。――部屋に行ってるわ」
と言い捨てて自分の部屋へ。
母を追い詰めるつもりではなかった。ただ、母が嘘をついていたことがショックだったのである。
ドサッとベッドに横になる。
むろん、母にしてみれば、
「男の人と会ってくるわね」
とは言えないだろう。
ああ言わざるを得なかったのだということは分っている。けれども、父のことに胸を痛めていた亜紀にとって、母が円城寺と会っていたに違いないと知るのは、やはり不愉快であった。
「――亜紀」
と、ドアの外から母の声がした。「入るわよ」
亜紀が起き上ると、陽子は入って来て、
「誰が来てたの」
と|訊《き》いた。
「友だち。そう言ったでしょ」
説明するのも面倒だった。
「友だちって、誰? どうしてお|風《ふ》|呂《ろ》を使ったの?」
亜紀はすっかり忘れていた。あまりに自然なことで、別に隠そうとも思わなかったのだ。
「汗かいてたから。それがどうかした?」
「どうかした、って……。男の子だったんじゃないの?」
亜紀は、母の考えていることがやっと分った。つい、笑ってしまう。
「何がおかしいの!」
陽子の口調が鋭くなって、亜紀の耳を刺した。亜紀はムッとした。お母さんこそ、何して来たのよ!
しかし、そう言ってしまっては、引っ込みがつかなくなる。――亜紀は、何とか自分の気持を抑えた。
君原の穏やかな表情が頭に浮んだ。――人間、いくつになっても、迷うことはあるんだ。そうなんだ。
「男の子っていうより……男の人。大学生なの」
と、亜紀は言った。「でも、今日お風呂を使わせてあげたのは、人形劇をやって回ってる人たちなの。ずっとトラックで田舎の小さな学校を回って来たんで、みんな疲れてて……。だから、お風呂を使ってもらったの。本当よ」
何といっても、詳しく説明するには時間がかかる。母にそれだけで状況を理解してもらうのは、無理かもしれなかった。
「大学生……。人形劇? 何のことなの、一体?」
「だから……。そんな、お母さんの心配するようなことじゃないの。信用してよ!」
「ただ信用しろって言われても、分んないでしょ。どういうことなんだか、はっきり言ってみて」
亜紀も、つい険しい口調になって、
「はっきり言ってるでしょ。何もないんだ、って。それ以上どうするの? 病院に行って証明書でも書いてもらう? この子はまだ男を知りませんって」
「亜紀――。何をそんなに|苛《いら》|々《いら》してるの?」
「苛々なんてしてない! 何もないって言ってるだけでしょ。キスだけはしたけど、それ以上はしたことない」
つい、言ってしまった。
「当り前でしょう。そんなことでいばらないの」
母の言葉が、亜紀にはカチンと来た。
「いばってなんかいないでしょ。お母さんこそ――」
言っちゃだめ! それを言ったら――。
「お母さんこそ、いばらないでよ。円城寺さんと年中出歩いてるくせに」
言葉が、抑えようもなく飛び出してしまった。
母の顔がこわばる。――まさか亜紀が相手の名前まで知っているとは思わなかったのだろう。
まるで時間の流れが止ってしまったかのように、二人は息さえ殺して動かなかった。
亜紀は後悔していた。言ってはいけないことを言ってしまった。
しかし、|一《いっ》|旦《たん》口にした以上、もう引っ込めるわけにはいかない。ビデオテープのように、巻き戻してやり直すというわけにはいかないのである。
長い沈黙が続いた。
陽子のこめかみを汗が一滴、伝い落ちていった。
いつもなら、亜紀の説明で納得してしまうところだ。それをついしつこく追及してしまったのは、陽子自身、内に「やましさ」を抱えていたからである。
しかし、それが娘の口から思いもかけない言葉を引き出すことになった。――どうして亜紀が円城寺のことを知っているのだろう?
送ってもらった車のことで、男と会ってきたと察していたのは分る。だが、なぜ円城寺という名を?
陽子には見当もつかなかったのだ。
「――亜紀」
と、陽子が言ったとき、下の玄関で物音がした。
「ただいま」
夫の声だ。陽子は少しためらったが、
「はい!」
と答えて、亜紀の部屋を出ると、急いで階段を下りて行った。
「上にいたのか」
|正《まさ》|巳《み》が、ネクタイを外しながら、「やれやれ、疲れた。会議が長くてな」
「ご苦労様」
陽子は、上着を受け取った。「ご飯は?」
「うん、軽く食べたけどな。何かあれば食うよ。食欲があるんだ」
正巳は、いやに明るい。
「じゃあ、すぐ温めて食べられるものを」
「わざわざ作るのならいいぞ。お茶漬でも何でも」
と、正巳が行きかけた陽子へ声をかける。
「手間じゃないわ、少しも」
「そうか? ――ああ、急に出張になったんだ。着替えだけ、詰めといてくれるか」
「そう。何日くらい?」
「三日分ありゃ充分だ。行った様子で、多少長引くかもしれないけどな」
「分りました」
「頼む」
正巳が着替えに行こうとして、「何だ、いたのか」
亜紀が下りて来ていた。
「お父さん、電話があったよ」
「誰から?」
「伊東さん。会社の」
「ああ。――何だって?」
「電話ください、って。いくら遅くてもいいって」
「そうか。――分った」
正巳は|肯《うなず》くと、「お前、晩飯、食べたのか?」
答えを期待する風でもなく、二階へ上って行く。
亜紀は、父の後ろ姿を複雑な気持で見ていた。そこにはどこか暗いかげが、まとわりついているように見えたのだった。
朝 食
「おはよう! いい天気だな」
と、正巳がやけに明るい声を上げた。
「あなた……。早いのね」
と、陽子が少しびっくりした様子。
「出張だ。そう言ったろ?」
「ええ、でも……。ずいぶん早いわ」
「朝飯を、たまにゃのんびり食べたいと思ったのさ」
「そんな大したもの、作ってないわ」
「いいんだ。いつもの通りに、ミソ汁とご飯があれば。――亜紀は?」
「もう起きて来るでしょ」
と、陽子は立ち上って、「待って。何か作るわ」
台所に立つ陽子の背中に、やや疲れた気配がにじむ。
正巳は朝刊を取って来ると、大きく広げて、
「旅行にいい季節だな。――陽子、お前もどこか温泉にでも行って来たらどうだ?」
「あなた……。お|義《と》|父《う》さんは病院なのよ」
「そうか。しかし、あの女性がちゃんとみてくれるさ」
そこへ、もう仕度をした亜紀がやって来る。
「おはよう」
「起きたか。――何だ眠そうだぞ。夜ふかししてたな?」
正巳はそう言って笑った。
何だか、みんな妙だった。
正巳はいつになく元気で、はしゃいでいると言ってもいいくらいだ。しかし、本当の上機嫌とは違う。妻と娘がお互い目を合さないようにしていることにさえ、気付かない。
亜紀は、チラッと母の方を見た。
母も、円城寺のことを亜紀が知っていると分って、ショックだったことは確かだ。しかし、その話はゆうべもついにしなかった。
たぶん、口に出すのが怖いのだろう。
一旦言い出せばやめるわけにいかない。中途半端ではすまない。
結局は、円城寺と別れるしかない、ということになるだろう。それが、母には怖いのだと亜紀は思っていた。
そして、亜紀は母のことに気をとられて、父の様子がいつもと違うことに、気付かなかった……。
朝食の間も、三人はほとんど目を合せることなく、黙々と食べていた。正巳一人、ときどき何か言い出すが、返事もないし、それを気にしている風でもない。
「――行ってくる」
先に言ったのは、亜紀だった。
「もう行くのか」
「今朝、学校でちょっと用があるの。じゃあね」
「亜紀」
と、正巳が言った。「気を付けて行けよ」
「――うん」
亜紀はふしぎそうに|肯《うなず》いた。
亜紀が出て行った後、陽子は夫と二人で残り、何を話そうか、と思った。
いや、何を言えばいいのかは分り切っていた。
昨日はあの女とどこへ行ったの? そして何をしていたの? 会社を早退しておいて、
「会議が」
なんて|嘘《うそ》をつく。
あなた。あなた。――あの女を愛してるの? もう私を愛してないの?
「何だ、黙り込んで?」
と、正巳が言った。「|俺《おれ》の顔に何かついてるか?」
「いいえ」
言えない。そう言ってしまったら……。きっと自分も円城寺とのことをしゃべってしまうだろう。
円城寺と別れるのでなかったら、夫にあの女と別れろとは言えない。それはできなかった。そうしたくなかった。
あの人は私のことを大事にしてくれる。私を認めてくれ、愛してくれている。
あなたは? あなたはどこへ行ってしまったの?
陽子の心の叫びは、言葉にはならなかった。
「もう少し食べる?」
と、陽子は|訊《き》いていた。
「いや、もうやめとこう。太るばっかりだ。少しはダイエットしなきゃな」
正巳は立ち上った。
仕度をして玄関へ出てくるまでに数分しかかからなかった。いつもの正巳に比べればずっと早い。
「――気を付けてね」
出張という夫へ、陽子はいつもの言葉をかけた。
「うん……。お前もな」
正巳が靴をはいて言った。「ちゃんと戸締りしろよ」
「何なの、急に?」
「いや、このところ物騒じゃないか」
と、正巳は息をついて、「行ってくる」
「行ってらっしゃい」
陽子は玄関からサンダルを引っかけて外へ出た。
朝の空気はもう、少し冷たい。目が覚めるようだった。
夫の後ろ姿を見送って、中へ入ろうとすると、夫がふっと足を止め、振り返るのが見えた。
忘れ物かしら? ――そう陽子が思ったほど、正巳は何か言いたげにしていた。
しかし、結局正巳は何も言わずに、手を振って見せると、そのまま急ぎ足で行ってしまった。
何だったんだろう? あの人、何を言おうとしたのかしら。
陽子はいつまでも気になっていた。
伊東真子は、まだほとんど誰も来ていない会社の中を眺めながら、自分の席で朝食をとっていた。
朝食といっても、駅の近くで買って来たサンドイッチと紙パックの牛乳。――栄養はこれで充分にとっているはずだった。
「――やあ」
と、やって来る金倉正巳を見て、真子はびっくりした。
牛乳を飲んで口の中にパンを流し込み、
「――金倉さん! 早いのね」
「いや、たまにゃ早く来てみるか、と思ってさ」
と、正巳は笑って、「ああ、それからゆうべは電話もらって悪かったね。かけるつもりだったんだけど、ちょっとバタバタしてて……」
「いえ、それはいいんだけど」
真子は、正巳の、いやに明るい様子に戸惑っていた。
「心配してくれてたんだろ? すまない。僕のせいで」
「金倉さん……。昨日、|円谷《つぶらや》さんとタクシーに乗って行くのを見ちゃったの。何と言っていいのか……。他人のことですからね、口を出す権利はないと思う。でも、奥様もお嬢さんもいらっしゃるんですから」
真子が、少しためらいながら言うと、
「うん。――分ってる」
正巳は真子の机の前に来て、「隠すつもりはない。確かに円谷君と深みにはまってしまった。――いや、彼女も悪い子じゃないんだ。本当だよ」
「仕事を見ていれば分るわ。きちんとした子よ」
「そう思うだろ? |嬉《うれ》しいよ、そう言ってくれると」
正巳は、手近な空いた|椅《い》|子《す》に腰をおろして、「僕の方がずっと年上だ。悪いのは僕の方だよ。しかしね、もう大丈夫。昨日じっくり話し合ったんだ。あの子も分ってくれた。もう二人の仲は終ったんだ」
真子は、ちょっと|呆《あっ》|気《け》ないくらいの気持で、
「本当なのね」
と言った。「疑うわけじゃないけど……」
「僕は意志の強い男じゃない。――いや、そうなんだよ。だから君が心配してくれるのはよく分る」
と、正巳は肯いて見せ、「円谷君が色々問題を抱え込んでいたことは君も知ってるね。その話し相手になったのがきっかけだが、結局僕は相談相手としては頼りにならないことが分ったんだろう。もう|諦《あきら》めて故郷へ帰る、と言っていたよ」
「まあ、そうなの」
「すまん。気の迷いだ。許してくれ」
と、正巳は頭を下げた。
「そんな……。私に謝られても困るわ」
と、真子は笑って、「奥様にお|詫《わ》びして下さいな」
「うん、それは改めてきちんとする」
「良かったわ。ずっと引っかかってて。これで安心して仕事ができる」
二人の話は、若い女の子たちが何人か出社して来たので、そこで途切れた。
真子は、正巳がその子たちにも、
「やあ! 早く出てくると気持がいいね」
と声をかけているのを見て、|微《ほほ》|笑《え》んだ。
――正巳も男だ。|可《か》|愛《わい》い女の子とにぎやかにおしゃべりするのは楽しいだろう。
それがたまたま「行き過ぎて」しまったのが、円谷|沙《さ》|恵《え》|子《こ》だったということか。
仕事が始まると、正巳は呼ばれる前に自分から部長の所へ行き、
「昨日は申しわけありませんでした!」
と、謝ってしまった。
文句を言ってやろうと思っていた部長の方は、調子が狂って、
「うん……。ま、今後注意しろよ」
で終ってしまった。
真子も、しばらくは楽しく仕事に打ち込むことができた。
電話がかかって来たのは十一時ごろだった。
「――はい、伊東です」
「あの、金倉の家内です」
「あ――」
真子は、チラッと正巳の方へ目をやった。「昨日は……」
「伊東さん。主人、ちゃんと仕事してますか?」
と、陽子は言った。
「ええ、もちろんです」
「そう……。それならいいんですけど」
と、陽子は息をついている。「あのね――何だか今朝、家を出るときのあの人の様子がおかしかったものですから」
「様子が? どんな風に――」
「どうって言うのはむずかしいんですけど……。でも、ちゃんと仕事してるんですね」
「ええ。――奥さん、ご存知なんですね」
「女の人のこと? 昨日タクシーに乗って行った」
真子は目を見開いて、
「見てらしたんですか」
「私にだって、目はあるわよ」
と、陽子は笑った。
「今朝、ご主人が私に言ったんです。もうあの子とは別れたって。奥さんにもお詫びすると」
「まあ、そうですか」
「大丈夫だと思いますよ。とても張り切ってらっしゃるし、今日は」
「じゃ、思い過しなのね。――良かったわ。出張するっていうのに、何だか気掛りでしたの」
と、陽子はホッとした口調で言った。
「伊東さん、お電話」
と、呼ばれた。
その声が聞こえたのだろう、陽子は、
「お忙しいのにごめんなさい。どうもありがとう」
と、電話を切った。
真子は、仕事の電話に出て、数分で話を終えたが――。
「出張……」
と、|呟《つぶや》いた。
正巳が出張する、と陽子は言っていた。――そんなこと、正巳は何も言っていなかったが。
真子は、正巳の席へ電話をかけた。
「――あ、伊東ですけど、課長さん、いる?」
と、出た女の子に|訊《き》く。
「いえ、今はいません」
「そう。外出かしら。それとも社内?」
と真子が訊くと、
「さあ……。ちょっと分んないんですけど」
新人の子で、はっきりしない。
「じゃ、いいわ。ああ、課長さん、今日から出張って予定、入ってる?」
と訊いても、
「よく分んないですけど……」
「また連絡するわ」
諦めて、真子は電話を切った。――全く、今の若い子は!
言いたくはないし、みんながみんなこうではないのだろうが、それにしても……。
真子は、陽子の言葉――正巳の様子がおかしかった、というのが気になっていた。毎日一緒にいる妻の直感だ。はっきりした根拠はなくても、何か理由はあるのだろう。
そう考えると、正巳がいやに元気で張り切っているのも、|却《かえ》って不安の種になる。
真子は、時計を見た。――どうしても出席しなくてはならない打ち合せがじきに始まる。
急いで手帳をめくると、電話へ手を伸ばした。――いてくれるといいが。
「――もしもし、伊東といいますが、所長さんは?」
「あ、どうも。今ちょっと出かけていて……」
「連絡取れます?」
「やってみます。あの――この間、ご依頼のあった件ですよね」
と、秘書の女性が言った。
「そうです。何か分りました?」
「たぶん。所長があちこち電話してましたけど、私は聞いてないんです。すみません」
「いいえ。じゃ、連絡とれ次第、電話下さい」
「お仕事中でもよろしいですか?」
「構いません」
と、真子はためらうことなく言った。「いつでも呼び出して下さい」
電話を切ったところへ、
「伊東君、打ち合せだ」
と、声がかかった。
「はい」
仕方ない。真子は心残りだったが、隣の子へ、
「電話があったら、いつでも呼んで。いいわね」
と、念を押しておいた。
――真子は打ち合せが始まっても、いつものように頭を切り換えて仕事に没頭することができなかった。
正巳が喫茶室で会っていた、〈C生命〉の|浅《あさ》|香《か》|八《や》|重《え》|子《こ》という女のことを、調べてもらっていたのである。
真子が仕事でつながりのある興信所で、堅実な、間違いのないところだった。個人的にもよく知っているそこの所長へ、依頼してあったのだ。
その返事を、真子は早く聞きたかった。
しかし、結局、昼休みまでに連絡は入って来なかった。打ち合せは終らず、十二時十五分ごろ、やっと|一《いっ》|旦《たん》休もうということになった。
席へ戻るとき、正巳の席へ寄ってみたが、むろん食事に出たのだろう、正巳の姿はなく、真子は出張の伝票を調べてみたが、正巳のものは見当らない。
すると、陽子の話していた「出張」というのは、何かの勘違いなのだろうか?
真子はため息をつくと、自分の席へ戻った。昼を食べておかなくては。
財布を手にエレベーターへと歩いて行く。
「――伊東さん」
と、呼ばれた。
「私?」
「お電話です」
やっと! 真子は急いで席へと戻って行った。
「――はい、伊東です」
と、息を弾ませて言うと、
「伊東真子さんですね」
と、女性の声。
「はあ」
「N大病院ですが、|清《きよ》|子《こ》さんのご容態が思わしくありませんので、すぐおいでいただけますか」
母の入院先だ! 予想もしていないことだった。
「はい、すぐに」
声が震えていた。
真子は、大急ぎで帰り仕度をした。仕事の打ち合せは他の者へ頼む旨、メモを残し、会社を飛び出す。
興信所から電話が入って来たのは、その五、六分後のことだった。
「伊東は早退しました」
新人の女の子がのんびりと答えた。
解 放
銀行のATM(現金自動支払機)の前には、制服のOLやワイシャツ姿のサラリーマンが列をなしていて、正巳は一瞬、もっと早く来れば良かったと後悔した。
こんなに並んでるんじゃ、とても昼休みの間にはおろせそうもない。――どうしよう。
しかし、正巳が迷っている間に、たちまち列は長くなってしまう。せき立てられるように、正巳はともかく列の一つについた。
しかし、少し落ちついて考えてみれば、ここに並んでいる人間のほとんどはお昼休みを利用して、お金をおろしに来ているのだ。つまり、一時にはオフィスへ戻らなくてはならないわけで、それでいて何人連れかで来ているOLたちが少しも焦る風でもなく、のんびりおしゃべりをしているのを見ると、そんなに時間はかからないのかもしれない。
少し並んでいると、正巳にも分った。昼休みにここへ並ぶのは、慣れている者が多いので、操作も手早いのだということが。
十分も待つと、もう正巳は列の中ほどまで来ていた。この分なら、一時には充分間に合うだろう。
涼しい時期なのに、いつしか汗をかいていた。――落ちつけ。落ちつけ。
あと三人。腕時計を見ると、まだ昼休みは十五分ある。
ポンと肩を|叩《たた》かれ、びっくりして振り向くと、三人ほど後ろに、何と正巳の課の女の子が並んでいた。
「課長さん! 珍しいですね!」
「ああ……。君もか」
と、何とか笑顔を作ったが、当り前のことを|訊《き》いたりして、どう見てもあわてていただろう。
しっかりしろ! 全く、何てざまだ。
何とか立ち直って、
「旅行にでも行くの?」
と、訊く。
「冬のボーナスまでは、とっても余裕ないですよ!」
と、大げさにため息をついて、「生活費、うんと切りつめてるのに、なぜかお財布が空になるの」
と、明るく笑う。
正巳はホッとした。――そうだ。何も怪しげなことをしているわけじゃない。堂々としてりゃいいんだ。
いや、さりげなく。当り前のことをしてるだけなんだから……。
「課長さんはおこづかい?」
「僕は、ちょっと旅行の費用をね」
と、正巳は言った。
「わあ、いいなあ。ご家族で?」
「まあね」
まさか、駆け落ちだとも言えないしな、と正巳は思った。
やっと正巳の順番がやって来た。
ホッとして、カードを取り出す。課の女の子ともそう話すことがない。これ以上待っていたら、困るところだった。
カードを入れ、暗証番号。
落ちつけ。――落ちつけ。
正巳は、自分の預金をおろすだけなのに、何だか銀行強盗でもやろうとしているかのように、緊張していた。
一回は暗証番号を押し間違え、あわてて〈エラー〉のボタンを押す。次に並んでいる男が、聞こえよがしに、
「何してんだ……」
と舌打ちするのが耳に入って、カッと|頬《ほお》が熱くなる。
こんなことで動揺してどうするんだ。あわてるな!
二度目は間違いなくいった。――どうってことないじゃないか。こんなもの、簡単さ。
現金が出て来て、正巳は手に取ろうとした。
そのとたん、目の前に陽子と亜紀の顔が浮んだ。
すまん。――許してくれ。
胸が痛んだ。|俺《おれ》は何をしようとしているんだ? お前たちを裏切り、お前たちを捨てて行こうとしている。その後、お前たちを何が待っているか……。
陽子……。亜紀……。
「――早くしてくれよ!」
後ろから言われて、ハッと我に返る。
札をつかんで、正巳はその場から逃げるように立ち去った。そこから遠ざかれば、そこで考えたことが忘れられる、とでもいうように。
――オフィスへ戻った正巳は、しばらくロッカーの前で気持を落ちつかせなくてはならなかった。
何もかも考えて、決心してのことではなかったのか。今さら沙恵子を捨てることはできない。そう意を決したのではないか。
席へ戻り、あと五分ほどで昼休みが終ると知って、|却《かえ》って正巳はホッとした。仕事が始まれば、とりあえずその後のことは忘れてしまえる。
忘れて? ――いや、忘れられるもんか。
妻と子のことを、どうして忘れられるだろう。
正巳は、ぼんやりと窓の方へ目をやった。
沙恵子……。円谷沙恵子と、正巳は今日旅に出るのである。
これまでの、五十年近い人生のすべてを捨てて。家も、家族も。仕事も。
自分で決めたことなのに、現実とは思えない。五時になったら、目が覚めて、すべて夢だったということになるのではないか、という気がした。
「――課長さん」
と、呼ばれて振り向くと、目の前に小さなキーが一つ、揺れていた。
さっき、銀行で同じ列に並んでいた女の子である。
正巳は、そのキーが、コインロッカーのものと知って、息をのんだ。
「これ、落として行きましたよ。はい!」
てのひらに受け取って、正巳は改めて青くなる。ボストンバッグを駅のコインロッカーに入れておいたのだ。これを失くしたら、取り出せないところだった。
「ありがとう! いや、助かった」
「課長さん、あわててるんだもの。呼んだけど、気が付かなかったでしょ」
からかわれても仕方ない。自分ではいつものように振舞っているつもりでも、やはり緊張しているのだ。
「そうか。悪かったね。いや、ついあわてちゃって……。ありがとう」
と、もう一度礼を言った。
「いいえ。今度、お昼おごって」
「いいとも。――ま、機会があれば、ね」
つい付け加えてしまうのは、おごる機会などないだろうと気が付いたからで、いちいちそんなことを気にしてしまうのが正巳らしいところ。
「待ってますよ」
と、女の子は笑って席へ戻った。
正巳はしっかりと、コインロッカーのキーを手の中に握りしめていた。
沙恵子……。こんな頼りない男に、君はついて来てくれるのか?
正巳は心細い思いで、このキーをどこへしまっておけばいいのだろう、と考えていた。
まさか、五時になるまで手で持っているわけにはいかないし……。
一時から五時までが途方もなく長く感じられた。
もちろん、キーをずっと握りしめていたわけではないが、それでもポケットにちゃんと入っているかどうか、何度も確かめずにはいられなかったのである……。
五時の終業チャイムが鳴った。
正巳は息をついて、机の上を片付けはじめた。――後は明日にしよう、とつい考えている自分に気付く。
明日か。明日、俺はもうここへは来ていないのだ。
正巳は、ふと周囲を見回した。――二十何年も勤めたオフィスが、まるで初めて見る場所のようだ。
「お先に失礼します」
と、課の女の子たちがさっさと帰って行く。
そうだ。
俺ものんびりしてはいられない。沙恵子が待っているのだ。
正巳は、沙恵子と会うことだけを考えていようと努力しながら、立ち上ると、きっちりと|椅《い》|子《す》を机に付けた。
正巳は、急がずに帰り仕度をした。
本当は急いだ方がいいのだが、何か邪魔が入りそうな気がして――。逆に、ゆっくりと仕度をしたのである。
邪魔が入るのを待っているのか。
正巳自身、そう思った。俺は、本当は行きたくないのだろうか?
一方で沙恵子を見捨てるわけにはいかないと思い、一方で、この年齢になって新しい人生へ踏み出すことを恐れている。
当然のことだ。そう自分へ言い聞かせた。
部長にでも呼び止められて、
「今夜の会合に、どうしても出てほしいんだ」
と言われるか。
それとも、ビルを出たら陽子か亜紀が待っていて、
「お父さん、一緒に帰ろう」
と、腕を取られるか。
色々な想像が頭の中を駆け巡った。
しかし――結局、何の邪魔も入らずに、正巳は帰り仕度を終えて、会社を出た。エレベーターでは、誰とも一緒にならなかった。
これも珍しいことである。
ビルを出て、ふと振り返る。――誰も止めはしない。そうなのだ。俺一人、どこへ行こうと、人は大して気にもしない。
正巳は思い切って歩き出した。
――駅のコインロッカーからボストンバッグを取り出し、
「さあ、行くぞ」
と、|呟《つぶや》く。
沙恵子との待ち合せは、東京駅。
正巳は、上りのホームへと歩き出した。
「――ただいま」
亜紀は、少し重い気分で玄関を上った。「お母さん?」
台所から、
「早いのね」
と、母の声がして、亜紀はホッとした。
いつもの声だ。母がいつもの通りだということは、本当にすばらしい。
「夕ご飯、まだよ」
陽子は流しに向っていた。
「うん、いいよ」
亜紀は行きかけて、「――お母さん、ごめんね、昨日は」
陽子の手が止った。
「――今度、君原さんのこと、連れて来るから。会ってみて。いい人なんだ」
「そう。あんたがそう言うのなら、そうでしょうね」
と、陽子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「私……お母さんが誰と付合ってても、何も言わない。お母さんは大人だし、私はまだ子供だし。一緒にはできないものね。忘れてね!」
亜紀は、自分の部屋へと駆けて行った。
陽子は、亜紀が行ってしまっても、しばらく料理の手を止めたままだった。
亜紀……。
本当のところ、亜紀に男の友だちができて、それが大学生だからといって、それほど心配していたわけではない。
むしろ、陽子は今日一日、なぜ亜紀が円城寺のことを知っているのだろう、と考え続けていたのである。
もちろん、陽子は円城寺の妻が亜紀と会ったことなど知る由もない。そして、今日亜紀が帰って来たら、どう言えばいいのだろうと思い悩んでいたのである。
でも――。
陽子は、シチューの|鍋《なべ》をかき回しながら、思った。亜紀の方からああして言われてしまうと、母親の立場がない気もする。
正直、亜紀の「彼氏」のことなど忘れかけていた。そのことも、陽子にはショックだった。
自分のことだけ考えて……。ひどい母親だわ。ねえ?
――亜紀の言葉は、|応《こた》えた。
母が誰と付合っていても、何も言わない。それは、決して自分にも弱味があるから、お互いさまで黙っていようというのではない。亜紀の方は、その男の子――君原といったか――を堂々と紹介できるのだ。しかし、陽子の方は?
亜紀は、あえてそれを陽子に求めなかった。母を責めないと決めたのである。むしろ、陽子には|辛《つら》いことだった。
――陽子は、食卓の用意を始めた。
「まだ急がなくてもいいよ」
着替えた亜紀がやって来る。「お父さん、早いの?」
「今日は出張ですって。食べましょ。お母さん、お腹空いちゃったの」
陽子の言葉に、亜紀は笑って、
「分った。私だって、食べりゃ、ちゃんと入るよ。じゃ、|茶《ちゃ》|碗《わん》出すね」
戸棚を開けて、必要な物を出していく。「小皿は?」
「二枚ね。あと、サラダを取るガラスの……。そう、それ」
「おじいちゃんのとこ、行ったの?」
「今日は行ってないわよ。毎日じゃ、あちらも|煩《わずらわ》しいでしょ。藤川さんもいてくれるし」
「あの人……。おじいちゃんと結婚するのかなあ」
「そのつもりらしいわよ」
「|凄《すご》い! いくつ! 二十――どころじゃないか。三十くらい離れてる」
「三十五、年下ですって」
「大したもんだなあ!」
亜紀は、何だかよく分らないけど、ともかく驚いて見せた。――自分と君原なんて、四つしか違わない。
陽子と亜紀は、できたてのシチューで早々に夕食をとった。
話はいつもの通り弾んだ。たいていの場合、父がいない方が話はよく出る。本当のことなのだから仕方あるまい。
「――おじいちゃん、再婚したら、ここに住むの?」
早くも二杯目を食べながら、亜紀は|訊《き》いた。
「そこまで知らないわ」
と、陽子は笑って、「でも、しばらくは入院でしょうし、結婚っていっても、少し先よ」
「でも――そうだね。いくら年寄でも、新婚生活ぐらい、二人きりで過したいだろうね」
「おじいちゃんに訊きなさい」
と、陽子は言いつつ、「あんたも、たまにはお見舞に行ってね」
「うん。今度の試験がすんだら行く」
と、亜紀は言った。「――でも、お母さん、お父さんと六つ違いでしょ? 初め付合うとき、違和感なかった?」
陽子は詰って、
「さあね。忘れちゃったわ!」
「逃げた」
と、亜紀は笑った。「でもね、おじいちゃんの生き方があるとしても、三十……五歳? そんなに年齢の離れてる人って、はっきり言って親子って感じでしょ? よく付合ってられるよね」
「そうね……」
陽子は少しのんびり食べながら、「ある年齢を越えると、たいていの人はあんまり年齢の違いを感じなくなるんじゃないかしら」
「へえ」
「相手が年下で、たとえば色んな生活感覚が全然違っていたとしても、自分がそれを受け|容《い》れるだけ大人になっていればいいわけでしょ」
「なるほどね」
「もちろん、人によるわよ。六十になっても七十になっても、子供のころと変らない人だっているし」
亜紀は感心した様子で、
「そうか……。本当は年齢の差とかっていうより、どれだけちゃんと大人になってるか、だね」
「そうね。――何だか今の私たちの話、大人同士って感じじゃない?」
「うん!」
と、亜紀がしっかり|肯《うなず》いて笑った。
陽子も一緒に笑う。――食卓は至って和やかだった。
もちろん、二人は正巳がちょうど今、円谷沙恵子と落ち合って、行く先も知れぬ旅に出ようとしていることなど、知るわけもなかった……。
ホームにベルの音が鳴り渡った。
その瞬間、正巳は沙恵子の手が座席の手すりの自分の手に重なるのを感じた。
「出るわ」
と、沙恵子が言った。
「うん」
正巳は肯いた。
列車は遅れもせず、定刻通りに発車した。
ゆっくりとホームが後ろへ流れて行く。
正巳の中で、何か張りつめていたものが崩れて行った。とうとう、|俺《おれ》はやってしまったのだ。
ホームはすぐに見えなくなり、ビルの灯が遠くに望めた。
「あなた……」
と、沙恵子が言って、握る手に力をこめた。
「大丈夫だ。もう安心だ」
自分に言い聞かせているセリフだった。
「ええ……。そうね、もう心配ないのね」
沙恵子がそっと目を|拭《ぬぐ》った。
心配ない、どころではない。これからどうやって暮していくのか。それさえ分らないのだ。
「――とりあえず、大阪に知り合いがいるの。そこへ行ってみようと思うんだけど」
と、沙恵子は言った。
「君の言う通りでいいよ。しかし、先方に迷惑にならないかい?」
「大丈夫。昔の友だちだから、連中も知ってるわけないわ」
沙恵子は、座席の背を倒して、大きく息をついた。
――列車は空いていた。話をするにも気楽だ。
「夢みたいだわ……。あなたと二人でこうして……」
「僕もだよ」
二人は素早く顔を寄せて、唇を重ねた。
正巳は、こんな大胆なことができる自分にびっくりした。
俺は変ったのだ。新しい人間になったのだ。
沙恵子のお腹がグーッと鳴った。
「いやだわ」
と、照れて笑う。
「安心したら、僕も腹が空いて来た。弁当を買って来よう」
「私が行くわ」
「でも――」
「食事の仕度をさせて。妻の仕事よ」
「分ったよ」
と、正巳は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
沙恵子が通路を座席の背につかまりながら歩いて行くのを見送って、正巳はふしぎな気持がした。
とんでもないことをした、という緊張感は消え、家族旅行でもしているような解放感が、正巳を|寛《くつろ》がせていたのである。
動 揺
|爽《さわ》やかな朝だった。
陽子は亜紀を学校へ出した後、少し張り切って家の掃除をすることにした。――もちろん、いつも手を抜いているわけではないが、進んでやりたくなるというのは、やはり珍しい。
洗濯機のスイッチを入れておいて、さて、始めようかと思ったところへ電話。誰だろう?
「――はい、金倉でございます」
「おはよう」
円城寺の声が聞こえると、とたんに陽子の胸が鼓動を速める。
「あ……。どうも」
と、頭など下げている自分がおかしい。
「一昨日は……どうも」
「いえ、こちらこそ」
「元気……ですか」
「ええ、何とか」
変な対話になってしまって、陽子は笑った。
「会社からですの?」
「ええ。会議がひとつすんだところです」
「もう? まあ、早い」
時計へ目をやると、まだ九時半。
「時間のむだは避けた方がいいです」
と、円城寺は言った。「実は奥さんの声が聞きたくなって。――いや、そう呼んじゃいけなかった。陽子さん、でいいですか?」
「私は構いませんけど……。でも、実はちょっと……」
娘の亜紀が円城寺の名を知っていたことが陽子の心に引っかかっている。
「何かあったんですか?」
「はあ……。お会いしてお話しした方がいいかもしれないんですけど」
しかし、会えばまたあのマンションへ行ってしまうかもしれない。陽子は思い切って亜紀のことを話した。
「――そうですか。何か事情が……。いや、もしかすると――」
円城寺は言いかけて、止めた。
「もしもし?」
「あ、失礼。来客なので。また今夜でも電話してよろしいですか?」
「ええ、でも……。私が出られればいいんですけど」
「なるほど。じゃ、あのマンションに電話して下さい。番号を言います」
陽子はメモを取って、
「じゃ、機会を見てかけます」
と答え、電話を切った。
円城寺が今夜はあそこに泊る。――彼は、むしろ来てほしくてそう言ったのかもしれない。
でも、亜紀のことが気になった。やはり、決定的な仲になるのは危険すぎるだろうか。でもあのとき、もしベッドがちゃんとメークされていたら、あのまま彼に抱かれていただろう。
陽子は、円城寺のことを考え出すと、掃除を始めようという気持が、いわば〈静止状態〉になってしまった。
考えてみればふしぎだ。
別に夫に対して強い不満があるわけではない。夫があの若い女とどういう付合いなのかはともかく、円城寺にひかれ始めたのはその前である。
これは恋なのだろうか? この年齢になって?
恋愛なんて、もう自分には何の関係もないと思っていた。それなのに……。
ときめき。
そう。円城寺との交際にはときめきがあった。
それを夫に求めても酷だということはよく分っている。円城寺とだって、長く付合えば「ときめき」など薄れていくだろう。
分ってはいても、円城寺が陽子の中に「かつてあった何か」を燃え立たせてくれたことは確かである。
映画スターへの|憧《あこが》れとも似たものだったかもしれない。ただその「スター」が目の前に実在していた、という違いだけで……。
自分は円城寺を愛しているのだろうか、と陽子は問いかけた。「円城寺を愛する私」を愛しているのではないか……。
でも、その違いが亜紀に分るだろうか。
亜紀は許してくれるだろうか?
――電話が鳴って、また円城寺かと出てみると、
「あ、奥さんですか。伊東です」
「あら、どうも……」
伊東真子の声は沈んでいた。
「突然すみません。お忙しいのでは……」
「いいえ、大丈夫」
「実は、母が今朝ほど亡くなりました」
「まあ」
思わず立ち上っていた。
「ゆうべ一晩、ずっとついていたんですが、結局、意識が戻らず」
「それはお気の毒だったわね」
陽子は、何と言っていいか、よく分らなかった。「あの――主人は出張してるので、会社から連絡してもらうわ。何か力になれることがあったら、言って」
「ありがとうございます。差し当りは、|親《しん》|戚《せき》が何人か来てくれると――。あ、お医者さまが捜してらっしゃるようなので」
「あなたが参らないようにね。また、連絡してちょうだい」
心からそう言った。
――何だか掃除するという気分ではなくなってしまった。
「そうだわ」
夫に連絡してもらおう。――陽子は、会社へと電話を入れた。
穏やかな朝の日射しが居間へ入っている。
「今日の亜紀は元気だね」
と、ミカに言われて、亜紀は戸惑った。
「え? じゃ、昨日は元気じゃなかった?」
「ひどかったよ、昨日は」
と、ミカが笑って言った。「何があったのかと思っちゃった」
そうか。――亜紀にはちょっとショックだった。少なくとも学校では何ごともないように振舞っているつもりだったのに……。
昼休み。――そろそろ試験も近いので、あまり校庭に出ている子もいない。
といって、休み時間に勉強するという物好き(?)も少なく、ま、たいていはおしゃべりで過すのが普通である。
「何かあったの?」
と、ミカに|訊《き》かれたが、亜紀としても母のことまでは話せない。
「まあ、ちょっとね……」
と、ごまかしておいた。
「兄貴が、早く試験終んないかなって言ってたよ」
「お兄さんが? じゃ、大学へ通い始めたの?」
ミカは笑って、
「違う違う! ――私たちの試験が、ってこと。亜紀を早くデートに誘いたいんでしょ」
「ああ……。でも、私、ピンと来ないなあ」
と、亜紀は正直に言った。
「例のキスした人は?」
キスした、というだけなら、|門《かど》|井《い》|勇《ゆう》|一《いち》|郎《ろう》だって、ミカの兄、|松《まつ》|井《い》|健《たけ》|郎《お》だってそうだ。でも、今、亜紀の胸を占めているのは君原のこと……。
「忙しいの。大学生っていっても、色んなこと手伝ったりしてるから」
と、亜紀はごまかした。
それに、ミカは兄、健郎が亜紀の父親のことを心配しているのだとは知らない。
亜紀も、それをミカに説明しようとは思わなかった。まさかミカが兄のことを「好きだ」とは思っていなかった。――ミカと兄が「血のつながっていない兄妹」だというのも、知る由はなかったのだから。
亜紀は自分のこと、父と母のことに手一杯で、ミカの言葉に潜む、かすかな|刺《とげ》に気付いていなかった。
「ミカのお兄さん、すてきだし、もてそうじゃない。私のことなんか、すぐ忘れちゃうよ」
亜紀は、ミカを安心させようとして言ったのだが、むしろミカには逆効果だった。
「お兄ちゃんは、そんなにいい加減にデートなんか申し込まないよ」
と、少し強い口調になって、「アメリカに行ってたなんていうと、すぐ軽いって思われるけど、そんなんじゃないんだから」
「ごめん。そういう意味じゃないの」
亜紀はハッとして言った。
ミカはすぐいつもの様子に戻って、
「いいのよ。亜紀は|真《ま》|面《じ》|目《め》だね」
と、からかうように言った。
しかし、亜紀は笑えなかった。
今のミカの言い方は、本気だった。気軽なおしゃべりというのとは違っていた。
兄への|憧《あこが》れ。――少女時代には珍しいことじゃないと亜紀も知っていた。自分が一人っ子だから、そういうことにはつい気が回らないのだ。
「何か飲もうか!」
と、ミカが言った。
「うん」
ホッとして、亜紀は一緒に廊下へ出た。
ミカの方が、さっきの口調に本音をにじませてしまったことを後悔して、気をつかっているのだ。亜紀も、うまくそれをつかまえたかった。
廊下へ二人が出ると、
「あ、金倉さんね」
と、事務室の女の人が足早にやって来た。
「はい」
「お宅からお電話で、すぐ連絡してくれって」
「はい、すみません」
亜紀は、「何だろう?」
と、首をかしげたが、ミカに飲物を頼んでおいて、急いで教室の中へ戻った。
テレホンカードを手に、事務室の前の公衆電話へと小走りに。
電話を使っていたのが同じクラスの子だったので、
「ごめん、急ぐの」
と、切ってもらった。
家へかけると、すぐ母が出た。
「何なの?」
「亜紀。――お父さんから何か連絡ない?」
母の言葉の意味がよく分らない。
「お父さんって……。出張してるんでしょ」
「それが、出張なんかじゃなかったの。昨日、いつも通りに会社を出て、うちに帰ったっていうんだけど」
「え? じゃ……どこに行ったの?」
「分らないから困ってるのよ」
と、母、陽子の言い方は|苛《いら》|立《だ》っていたが、少し間を空けて、「今日も、会社を無断で休んでるの。休暇届も何も出てないんですって」
亜紀は混乱していた。
「じゃあ……ゆうべ事故にでも遭ったのかしら? でも――出張って言ってたじゃない。ボストンバッグさげて」
「そうなのよ」
陽子の声は震えていた。「お父さん、自分の意志で出て行ったんだわ」
「――家出ってこと?」
親が家出? ――そのときになって、やっと亜紀にも分った。
「お父さん、女の人と行ったんだわ」
自分の言葉に、ショックを受けていた。
亜紀は、担任の先生の所へ行って、
「父が倒れたので」
と言って早退させてもらうことにした。
まさか、「父が家出したので」とも言えない。
教室へ戻ると、すぐ帰り仕度をして、ロッカーへと小走りに急いだ。
お父さん。――お父さん。馬鹿なことしないでね!
「亜紀!」
と、ミカが追いかけて来る。「どうしたのよ?」
「ごめん。ちょっと――」
と、亜紀はためらって、「内緒ね」
「うん」
「お父さんが、家を出てった」
「ええ?」
ミカが目を丸くする。
「詳しいことは分んないの。また電話する」
「分った。――亜紀!」
と、ミカは呼びかけて、「落ちついてね。急いで車にはねられたりしないで」
亜紀は、ミカの言葉をありがたいと思った。
「――うん。大丈夫」
と、|微《ほほ》|笑《え》んで見せる。
もちろん、本当は「大丈夫」なんかじゃなかったのだけれど……。
学校を、こんな時間に一人で出るのは妙な気分だった。母はとりあえず父の会社へ行ってみると言っていた。
亜紀は家へ帰って、父から電話でも入らないか、待つことにしていた。
血の気がひいているのが分る。――父が出て行ってしまった。
こんなことが、自分の家に起るなんて!
何かの間違いでありますように。そう祈りながら、駅に向って急いで歩いていると、
「そう急ぐことないぜ」
と、誰かが言った。
びっくりして振り向くと、若い男が並んで歩いている。
「何ですか?」
「本屋で会ったよな」
亜紀は息をのんだ。――あの万引きの疑いをかけられたとき、ぶつかって行った男だ!
「そう怖い顔するなよ」
と、その男はニヤニヤしている。
「何か、私にご用ですか」
と、亜紀はにらみつけながら言った。
相手は、せいぜい二十二、三だろう。派手なシャツに白い上着。どう見ても、どこかのチンピラという印象。
「|親《おや》|父《じ》さんは帰っちゃ来ないよ」
男の言葉に、亜紀は立ちすくんだ。
「――どうして父のことを」
「知ってるとも。親しい付合いさ」
と、男は楽しげに笑った。
亜紀は、むろん目の前の男を信じてはいなかった。
しかし、父のことを知っている――父が姿を消してしまったことを知っているというのは……。
「お前はなかなかいい度胸だぜ」
と、その若い男は言った。「あの本屋の親父を丸めこんだなんて、やるじゃねえか」
亜紀は言い返さなかった。今は父のことが先だ。
「父のことで、何を知ってるんですか」
「さあね」
と、気をもたせるように、「知ってるかい。今は情報が商売になる時代なんだぜ。何か教えてほしきゃ、タダってわけにいかないんだ。ちゃんと支払いをしないとな」
「値打ちがあるかどうか分らないでしょ」
男は笑って、
「鼻っ柱の強い娘だな。でも、|俺《おれ》の好みだ」
と、亜紀の周りをグルッと一回りする。
「――父はどこへ行ったんですか」
と、亜紀は|訊《き》いた。
「さあね。俺は親父さんのお守りじゃないからな」
男はタバコを一本くわえて火を|点《つ》けると、煙を亜紀の顔に吹きかけた。亜紀は|瞬《まばた》き一つせずに男を見つめた。
「――一つ教えてやろう」
と、男は言った。「お前の親父さんは借金を抱えてるのさ」
「借金?」
「そう。それが返せなくて逃げ出した。分るか? 珍しい話じゃねえよ」
「|嘘《うそ》だわ」
と、反射的に言っていた。
男がタバコを指先に挟むと、不意に火の点いた方を亜紀の髪に当てた。
「やめて!」
亜紀は飛びすさった。髪のこげる|匂《にお》いがして、手で髪をさする。
「――俺の言うことを、嘘だなんて言うな。次は白い首にタバコの火を押し当てるぞ」
静かに言うので、余計に怖い。――亜紀は冷汗が背中を伝い落ちるのを感じた。
「分ったか」
亜紀は|肯《うなず》いた。
「――よし。金を返す相談でも、お袋さんとするんだな。返せなきゃ、お前たちは家を出てくことになる」
亜紀も、この男の言うことは本当かもしれないと思った。――借金。何てことだろう!
「行っていいぜ」
と、男は言って、「もし、俺と話がしたくなったら、ここへ来い」
ポケットから出したマッチを亜紀の方へポイと投げた。亜紀がパッと手を出して受け取ると、男は軽く拍手をし、そして笑いながら立ち去ったのだった。
通夜の席
陽子が帰宅したのは、夕方、六時ごろだった。
亜紀は重苦しい気分で待っていた。母が帰ったらしい物音に玄関へ飛んで行くと、陽子は、
「何か電話とかは?」
と、亜紀に訊く。
「ないよ」
「そう。――お通夜に行くわ。あなたも仕度しなさい」
亜紀は一瞬、父が死んだのかと思ってギョッとしたが、むろんそんなわけはない。
「誰のお通夜?」
「あ、ごめん。言わなかったわね。伊東さんのお母さんが亡くなったの」
「ああ……。そうか。私も行った方がいい?」
「そうして」
「分った」
亜紀にも、母の気持がいくらか分った。何かすることがあった方が、気が楽なのである。
亜紀は、自分の部屋へ上った。
もう十七だ。学校の制服でもいいだろうが、黒のワンピースも持っているので、そっちにする。
身仕度をしながら、あの男のことを母にどう話そうかと迷っていた。――黙っているわけにはいかない。
でも……。
亜紀は、鏡に自分を映してみて、それから自分の部屋の中を見回した。
もしかしたら、ここから出て行かなきゃならないかもしれない。この家も土地も、取り上げられてしまうかも。
そう考えると、胃がキュッと痛んだ。
「――亜紀」
と、母が呼んだ。「お電話よ」
「はい!」
急いで下りて行くと、
「ミカさんからよ」
そう。きっと心配しているだろう。
「もしもし。ごめん、連絡しなくて」
と言うと、
「――僕、健郎だよ」
「あ……」
「ミカから聞いた。何か分ったかい?」
「いえ、今のところ何も」
亜紀は、母が二階へ上って行ったのを見て、「何だか、お父さん、借金があったみたい」
と言った。
「どうして分った?」
亜紀が、学校の帰りに会った男のことを話すと、健郎は少し考えているようだったが、
「分った。その男の連絡先、分る?」
「マッチが――今、手もとにないんです」
「ともかく、君とお母さんがしっかりしてなきゃ。いいね。やけになるなよ」
健郎は強い調子で言った。
やけになるな。
その健郎の言葉は、亜紀の気持を引き締めてくれた。
そうだ。あんな男におどされてびくびくしててどうする。何も悪いことなんかしちゃいないんだ。堂々と、胸を張ってりゃいいんだ!
「――もしもし? 大丈夫かい?」
と、健郎が心配そうに言った。
「ごめんなさい、黙っちゃって。|嬉《うれ》しかったの。ありがとう。元気出ました。今だけかもしれないけど」
亜紀の言葉に、健郎は笑って、
「ともかく、それでこそ亜紀ちゃんだ。いいかい、何かあったら、僕に教えてくれ。一人で悩んでたりしちゃいけない。分った?」
「ええ」
「君がいくら頑張ってみても、君はまだ十七なんだからね」
「偉そうだな。健郎さんだって二十一じゃないですか」
自分でもびっくりするくらい気軽な口をきいてしまった。
「本当だな」
と、健郎も愉快そうに、「君のことが、ミカよりずっと年下みたいに思えてね。心配させてくれ。いいね」
「はい」
母が二階から下りてくる。「――あ、もう出かけなきゃ。知り合いのうちで、お通夜なんです。縁起でもないけど」
「そんなの偶然さ。じゃ、夜でもまた電話するよ」
「ありがとう」
母はミカからの電話だと思っている。ミカとも話したかったが、ゆっくり話ができる状況でもないし、後でかけ直すことにした。
「――もういいの?」
陽子も黒のスーツになっている。
「うん。行こうか。――どうやって行くの?」
と、亜紀は言った。
「駅前のスーパーで、お香典の袋を買って行きましょ。コンビニでも売ってたかしら?」
「うん、あるよ」
二人は玄関へ出た。
父の話をしないですむのが、ありがたい気分だったのである。
「――ご苦労様です」
受付に立っている女性を、陽子は|憶《おぼ》えていた。今日、昼間夫の会社で会ったばかりである。
ふとためらってしまったのは、きっと正巳の勤め先の人が他にも来ているに違いないと思ったからだった。
しかし、今さら引き返すわけにもいかない。
大分古い都営アパートの一画。集会所がお通夜の場所になっていた。
受付の女性はすぐに陽子を見分けて、
「あ、昼間は……」
と言ってから、その先をどう言ったものやら分らない様子で、黙って頭を下げた。
「お世話になりまして」
陽子の方も、それくらいしか言うことがない。とりあえず、記帳して、香典を置くと、集会所へと入って行った。
狭い洋間だったが、|却《かえ》って、少し混み合った感じで良かった。伊東真子は、近所の人らしい、見るからにおしゃべり好きという女性と話していたが、すぐに陽子たちに気付いて小さく会釈した。
普通の注意力を持った人なら、すぐに遠慮するところだろうが、その女は動こうとしなかった。
陽子は、亜紀を促して、お焼香させてもらうと、やはり真子とひと言も話さずに帰るわけにもいかず、隅の方の空いた|椅《い》|子《す》に二人で腰をおろした。
会社の人は、陽子の知っている限りでは一人もいない。本当なら、今の内に失礼してしまいたいところだが……。
真子と話している女は、ともかくどんな細かいことでも全部自分が知っていないと気がすまないというタイプらしく、
「じゃ、お母様は亡くなる前、意識が戻ったの?」
などと|訊《き》いているのが耳に入ってくる。
当の娘に、何て無神経なことを訊くんだ、と陽子は腹が立ったが、口を出すわけにもいかず、真子の疲れた表情を見やっていた。
すると、亜紀がスッと立って真子の方へ歩み寄ると、真子に話しかけている女の肩をちょっと|叩《たた》いた。
「――え?」
と、びっくりして振り返ったその女へ、そっと何やら耳打ちする。
陽子は、|呆《あき》れて眺めていた。何をしてるのかしら、あの子?
「――あら、ありがとう! じゃ、伊東さん、これで」
と、その女はあわてて帰って行く。
陽子は面食らって、急いで立って行くと、
「亜紀、何を言ったの?」
と、小声で訊いた。
「大したことじゃないの」
と、亜紀は言った。「スカートのお|尻《しり》のところがほころびてますよ、って」
「――まあ」
陽子が絶句していると、真子は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「助かりました。ありがとう」
と、礼を言った。「お話ししたかったんです。心配で……」
「いえ、そんなこと――」
「会社の子に聞きました。その後、何も?」
陽子は少し迷って、言った。
「今のところはね。でも、あなたは自分の方を心配しなきゃ」
伊東真子は首を振って、
「私の方は、一人ですもの。そりゃあ寂しくはなりますけど、何とでもします。でも、ご主人は……」
|親《しん》|戚《せき》の耳もある。真子はチラッと後ろへ目をやって、小声で、
「二、三日の内にご連絡します」
と言った。
「ありがとう」
陽子は小さく|肯《うなず》いて、「じゃ、お邪魔になるといけないからこれで」
と、亜紀を促して帰りかけた。
そのとき――外から七、八人の客が一緒になって入って来たのである。
陽子はハッとした。夫の勤め先の人たちである。
待ち合せて一緒に来たのだろう。男性社員が一人真子の方へやって来て、
「遅くなって」
と、言ってから、「――あ、金倉さんの奥さん」
陽子に気付いたのである。
それを聞いて、一緒に来た人たちの間に素早く視線が飛び交った。――口に出しては言わないが、
「これが金倉さんの奥さんと娘さん?」
「|可《か》|哀《わい》そうにね」
という言葉が聞こえるようだった。
「お先に失礼します」
と、陽子が会釈する。
真子が立ち上って、
「ありがとうございました」
と、頭を下げてくれた……。
陽子と亜紀が集会所から出ると、受付の所に、やはり同僚らしい女性が二人来ていて、記帳していた。その一人が、
「ね、この金倉って、会社の?」
「うん」
「逃げちゃったんでしょ、円谷さんと」
「奥さんよ」
「へえ。他人のことどころじゃないだろうにね」
受付の女性が、陽子たちに気付いて、
「シッ」
と、目配せした。
記帳していた二人はあわてて口をつぐむと、
「さ、お焼香しよう」
と、少しわざとらしい声で言って、中へ入って行った。
陽子は、受付の女性に黙って頭を下げる。
「ご苦労様でした」
と、向うは返した。
亜紀は何も言わずに、その微妙なやりとりを見ていた。
表に出て歩き出す。――二人とも言葉がなく、足下を見ながら歩いていた。
すると、追いかけて来る足音が聞こえた。
「金倉さん!」
と、呼ばれて陽子と亜紀が振り向くと、若い女の子で、さっき集会所へ来た社員たちの一人である。
「何でしょう?」
と、陽子は訊いた。
「あの……」
と、その女の子は息を弾ませて、「すみません、突然。私……ご主人の課にいるんです。今日昼間奥様がおみえになったとき、外出していて」
「そうですか。主人が迷惑をおかけして」
「いいえ」
と、急いで首を振った。「実は昨日……。お昼休みに課長さんと一緒になったんです。銀行で」
「主人と?」
「はい。現金の自動支払機に並ばれてて。私が『おこづかいですか』って訊くと、『ちょっと旅行するんだ』とおっしゃったんです」
「旅行……」
「ええ。それで、お金をおろした後、ひどくあわてて行ってしまわれて。――そのときコインロッカーの|鍵《かぎ》を落として行かれました。私、拾って、後でお返ししたら、ホッとした顔をされて」
陽子は、無言で肯いた。
「あの……課長さんがどこへ行かれたか、私にも見当つきませんけど……。でも、とてもすまないと思われてたと思うんです。あんな風に、悪いことしてるところ見られたように、あわてて行ってしまわれたり……きっと、|凄《すご》く申しわけないと思われてただろうと……」
「どうもありがとう」
と、陽子は言った。「ご親切に」
「いいえ……。何の役にも立ちませんね。でも、きっと……。きっと課長さん、帰って来られますよ」
その女の子の口調は、自分へ言い聞かせているようだった。
「――ありがとう。でも、主人も子供じゃありませんから、自分で決めて出て行ったのなら……」
「ええ、分ってます。でも、とってもいい方ですもの、課長さん。円谷さんが悪いんです、きっとそうだわ」
と、強い口調で言って、「私、円谷さんがどこへ行ったか、捜してみます。円谷さんの入社のときの資料があると思うんです。親類とか、実家とか、どこか保証人になってくれてる人がいるはずですし。何か分ったら、ご連絡します」
その女の子は頭を下げ、駆け足で集会所へと戻って行った。
亜紀と陽子は少しして、何となく顔を見合せ、
「お父さんって、信用されてたんだ」
と、亜紀が言った。「外づらが良かったんだね、きっと」
陽子は、亜紀の言葉にちょっと笑った。
「そうね、きっと。男なんて、みんな若い女の子にはやさしいわ」
二人は、夜道をバス停の方へ歩き出した。
「――寒くない?」
夜風がえりもとに入りこんで来て、陽子は思わず首をすぼめた。
亜紀は黙って首を振った。陽子はため息をついて、
「魔がさした、って言うのかしら、こういうのを」
と言った。「お父さんがね。――思ってもみなかった」
亜紀は、チラッと母の横顔を見た。思ってもみなかった? それって私のセリフだよ!
「明日、銀行へ行って、残高を調べるわ。お父さん、どれくらい引き出して行ったのか」
「でも……」
「もちろん、お給料もなくなる。当然クビだものね。――大丈夫よ。貯金もあるし、お母さんだって働くわ」
陽子の言い方は、とりあえず明るく振舞って、娘を安心させようと無理したものだった。しかし、亜紀にも事態がそう簡単でないことは分っている。
祖父の入院費用だけでも、うちにとってはかなりの負担だ。それに……。
母に、あの男の話を伝えるべきだ。――借金があるということを。
そして、姿をくらましてしまったのは、よほど多額の借金があったからに違いないということも。
しかし、今の母には、父が円谷沙恵子と逃げてしまったということだけでも、大きなショックである。この上、暴力団絡みらしい借金のことなど持ち出したら――。
亜紀は、あの男のよこしたマッチの連絡先を松井健郎に知らせて、どうしたらいいか相談しようと思った。
そうだ。それからでも遅くない。
気が付くと――母が立ち止っている。
「どうしたの?」
と、亜紀が戻って行くと、母は右手を顔に当てて、泣いていた。
「お母さん……。泣かないで」
亜紀は、他にどう言っていいか、分らなかった。泣くなと言っても、何の慰めにもなるまい。
でも、そう言うしかなかった。
「ごめんね……。大丈夫よ」
ハンカチを出して涙を|拭《ふ》くと、「どうしてこんなことになるまで気が付かなかったのかしら、って思うとね……」
「お母さんは何も悪くないんだから。――バスだよ、急ごう」
「ええ」
二人は一緒に駆け出した。
教 室
「金倉さん。――金倉さん」
呼ばれていることは分っていた。先生の声はちゃんと聞こえていた。
けれども、亜紀はなかなか返事をしなかったのである。――みんなが亜紀の方を見る。
「亜紀。どうしたの? 亜紀」
松井ミカが声をかける。
「静かに」
と、先生は厳しい声で言った。「金倉さん、聞こえてるんでしょ?」
「――はい」
と、亜紀はやっと口を開いた。
「どうして返事をしないの」
「すみません」
ミカが立ち上って、
「先生。金倉さんはお父さんが倒れて――」
と言いかける。
「座りなさい!」
|笹《ささ》|谷《や》|布《たえ》|子《こ》は、亜紀たちの担任教師でもある。三十四歳、熱心で、手を抜くことをしない先生だった。
ミカがゆっくりと腰をおろす。亜紀は、大きく息をついて立ち上った。
「金倉さん」
と、笹谷布子は言った。「お宅が大変なことはよく分るわ。でも、あなたはもう十七ですよ。学校へ来た以上、他の子と同じように授業を受けられるということ。そうでしょう?」
「はい」
「しっかりしなさい。そんなことで、お宅で役に立つと思ってるの?」
亜紀は、担任教師の言葉に暖かいものを感じて|嬉《うれ》しかった。
「大丈夫です」
「そう。――じゃ、六十三ページの頭から訳して」
と、笹谷布子は言って、教壇の方へ戻って行く。
そうだ、しっかりしなきゃ。お母さんの方が参ってしまいそうなのだから。
「――春がやって来た。川の水は暖かく――より暖かくなり、日射しにも、もう冬の感じはなかった……」
亜紀は、訳して行った。
――父が家を出て五日たった。
父からは何の連絡もない。週末の休みがあったので、母と二人、手分けして父の立ち寄りそうな知人、友人の所へ連絡してみたが、誰も父の行方を知らなかった。
それに、学校には「父が病気で倒れた」ことになっているので、あまり大騒ぎするわけにもいかなかったのだ。もし、誰かの口から、父の|失《しっ》|踪《そう》が学校へ知れたら……。
母、陽子の心労は相当なものだった。
――亜紀は、何とかいつものように明るく振舞おうと努力していた。今の母にはそれが何より必要だと思ったからだ。
「はい、よくできました」
と、笹谷布子が|肯《うなず》いて、微笑した。
亜紀はホッと息をついて腰をおろすと、チラッとミカの方を見た。ミカがウインクして見せたので、亜紀もウインクを返した。
「それでは今の所で一番大切なポイントを押さえておきましょう」
と、笹谷布子は黒板に向った。
亜紀は、ふと窓の方へ目をやる。
自分と母の生活はどうなってしまうのだろう? ――父は、それほど多額の預金を引き出して行ってはいなかった。やはり、残る家族のことを考えれば、後ろめたい思いがあったのだろう。
しかし、亜紀はまだ母に言っていない。父の借金のことを。
借金があるというのが事実かどうかも確かめていないが、本当なら早く母に話して、誰かに相談するべきだろう。分ってはいた。分ってはいたが……。
松井健郎と、今日、学校の帰りに会うことになっている。――ともかく、それを待とうと亜紀は思った。
昨日、伊東真子が母を訪ねて来ていた。亜紀が帰宅したときは、もう入れかわりに帰って行くところで、母は何も言わなかった。
亜紀は、母がすっかり無口になってしまったのが心配だった。
むろん、いつもの通りにしていてくれと要求する方が無理だと分っている。だが、母は今の状況を受け入れるだけで精一杯の様子だった……。
「――じゃ、この構文を使って、何か例文を作ってみて下さい」
と、笹谷布子が言った。「三分以内。――はい、始めて」
少しザワザワして、それからノートを見つめてみんなが首をかしげる。
例文か……。どうしよう? 「父がもし家出しなかったら、私たちは幸せだったろう」とでも?
考えて、亜紀はおかしくなってしまった。
「あと二分よ」
と、机の列の間を歩きながら笹谷布子が言った。
亜紀は気を取り直して、そうか、と思った。
「もし、おじいちゃんが入院しなければ」とでもすれば? これならいい。
亜紀は黒板を見ながら、思いついた例文をノートに書きつけた。
「はい、あと一分」
ええ……。ため息とも苦情ともとれる声が|洩《も》れるが、先生の方は慣れっこである。
「あと四十五秒。――三十秒」
と、腕時計を見て、笹谷布子が言った。「充分間に合うわよ、今からでも」
そのときだった。教室の戸が、突然ガラッと開いたのだ。
「どなたですか?」
と、笹谷布子はとがめるように言った。「今、授業中ですよ」
「こっちも仕事でね」
と、その男は言った。
どうにも教室には場違いな人間である。真赤なシャツに白いスーツ。サングラス。
「何のお仕事か存じませんけど、授業の邪魔はしないで下さい」
笹谷布子は強い口調で言った。
「そうとんがるなよ」
と、男は教室の中を眺め回して、「|俺《おれ》の用があるのは一人だけさ」
――亜紀は真青になっていた。
あの男だ! 父に借金があると言った男である。
「当人はちゃんと分ってるぜ。な? でなきゃ、そう青くなってないだろうからな」
男の視線を追って、みんなが亜紀を見る。
――亜紀は身動きせずに、じっと座って男と目を合せていた。
「ともかく、お引き取り下さい」
と、笹谷布子が男と亜紀の間を遮るように立った。
「あんたの学校は、授業料払えない|奴《やつ》も置いとくのかい? ご親切だな」
と、男はニヤリと笑って、「あいつの|親《おや》|父《じ》は借金こしらえて、女と二人で逃げちまったんだぜ」
「出て行かないと警察を呼びますよ」
「分った、分った」
と、男は肩をすくめて、「そうでかいつらしてると後悔するぜ」
と、|凄《すご》んだ。
笹谷布子は、タタッと|大《おお》|股《また》に歩いて行くと、火災報知器のボタンカバーを外し、ボタンを押した。ウォン、ウォンと甲高い警報が校舎の中に鳴り響いた。
「すぐ人が大勢駆けつけて来ますよ」
笹谷布子の言葉に、相手はひるんだ。
「なめるなよ! ――いいか、容赦しねえからな!」
と、亜紀に向って|叩《たた》きつけるように言うと、男は、教室を出て行った。
誰も口をきかなかった。――亜紀は、細かく震える両手を固く握り合せている。汗が|頬《ほお》を伝い落ちた。
「笹谷先生!」
と、男の教師が二、三人駆けつけてくる。
「何でもありません。火事ではありませんから、ご心配なく。警報を止めて下さい」
と、笹谷布子は冷静に対応しておいて、「授業を続けましょう」
と、みんなの方へ言った。
駆けつけて来た教師たちはわけが分らない様子だ。
亜紀は、まるで教室の中に自分がたった一人でいるような気がしていた。
授業が終ると、亜紀は笹谷布子に呼ばれて一緒に職員室へ行った。
「――かけて」
と、笹谷布子は空いた|椅《い》|子《す》を一つ引いて来て、亜紀を座らせた。
「先生、すみません」
「あなたが謝ることないわ」
「でも……」
「そうね。お父様がご病気というのが|嘘《うそ》だとすると、そのことだけは謝るべきでしょうけどね」
自分も腰をおろすと、「――話してちょうだい」
亜紀は、父が円谷沙恵子という女と姿を消したこと、借金があって、家や土地も抵当に入っているらしいことを説明した。
「でも、まだ母にそのことを言えずにいるんです」
亜紀の言葉に、笹谷布子は|肯《うなず》いて、
「言いにくいという気持は分るわ。でも、あなた一人の手には負えないことなんですからね。早くお話しすべきね。その上で、弁護士さんにでも相談した方がいいわ。もし適当な人がいなかったら、私の知っている人を紹介してあげる」
「はい。ありがとうございます」
亜紀は息をついて、「先生に話して良かった」
と言った。
「あら、そう?」
「何だか急に胸が軽くなって」
「あなたのような女の子一人には重荷なのよ。そんな秘密を抱えているのは」
笹谷布子の落ちついた言葉は、亜紀を力づけた。
「でも……学校、続けられないかもしれません」
「何を言ってるの。いくらうちの学校がケチだっていっても、生徒一人分の授業料を免除するぐらいのこと、できるわよ」
と、笹谷布子は笑って言った。
亜紀は胸が熱くなった。
同時に、自分一人が悩みを抱え込んでいたことが、ずいぶん馬鹿げたことのように思われて来た。
「それにしても、さっきの男は、どう見てもまともじゃないわね」
と、笹谷布子は真顔に戻って、「用心してね。遅くまで残ったりしないで、必ず誰かと一緒に帰るようにしてね」
「はい」
と、亜紀は肯いた。
「行っていいわ。お休み時間が終っちゃう」
と言われて、亜紀は席を立った。
職員室を出るとホッとする。
ともかく、学校をやめる必要はなくなったようだ。しかし、いずれにしても、お金のことは亜紀の力ではどうすることもできないのだから……。
陽子は、外へ出ると玄関の|鍵《かぎ》をかけた。
カチャリと音をたてて鍵が回る。鍵を抜いてバッグへ入れる間も、陽子は家の中で電話が鳴っていないかと耳を澄ましている自分に気付いていた。
もしかして――外出したとたんに、正巳から電話があるかもしれない。玄関の前を離れたすぐ後に、かかって来るかもしれない……。
そう思うと、なかなかドアの前から動けない。
陽子は、たっぷり五分近くもその場に立っていたが、結局、のろのろと歩き出した。それでも、二、三歩行っては足を止め、二回目には、電話の鳴る音が聞こえたような気がして、駆け戻ってみた。
でも、耳を澄ましてみると、もう鳴っていない。――馬鹿げてる。
いつまでも家から出ないつもり? 冷蔵庫は空っぽになって、買物して来なければ、もう食べるものがないのだ。
それに――正巳が姿を消してから、陽子は一度も|茂《しげ》|也《や》の病院へ行っていなかった。電話して藤川ゆかりに、「風邪気味で、お|義《と》|父《う》さんにうつすといけないので」と言っておいたが、そろそろ行かねば。
思い切って、陽子は左右へ目をやった。
タクシーが来た。うまい具合に、ここを空車が通りかかるのは珍しい。
停めて行先を告げると、陽子は座席にもたれて目を閉じた。
タクシーが走り出す。――もう、たとえ電話が鳴っても聞こえないのだ。電話が……。
「あの、ごめんなさい!」
と、陽子は運転手に言った。「忘れものをしたんです。今の家に戻って下さい」
タクシーが停った。ほんの数十メートルしか来ていなかったので、バックして戻る。
「すみません、どうも」
「すぐ出るのなら、待ってますが」
と、運転手は言った。
「あ……。じゃ、お願いします」
陽子はわざわざ戻ってもらった手前、家の中へ入らないわけにいかなかった。
玄関を入って、どうしよう、と迷っていると電話が鳴り出した。
あなた! やっぱりかかって来た!
陽子は駆けつけて受話器を取った。
「もしもし!」
「あの……〈××不動産〉ですか?」
「――違います」
「失礼しました」
ツーツーと連続音の聞こえている受話器をしばらく持って立っていた陽子は、それを戻すと同時に床にペタッと座り込んでしまった。
「あなた……」
陽子は|呟《つぶや》くように言って、声を殺して泣いていた。
陽子は、ふと人の気配を感じて涙を|拭《ふ》くと、顔を上げた。
「――まあ」
幻かと思った。どうして今、ここに円城寺がいるのだろう?
「勝手に入って来てすみません」
と、円城寺は言って、陽子が座り込んでいるそばに|膝《ひざ》をついた。「外でタクシーが待っていて、入ったきりもう十五分も出て来ないと言って心配してたので」
陽子は、タクシーのことなどすっかり忘れてしまっていた。
「どうかしてるわ。――ごめんなさい。タクシー、断って来ます」
「もう、僕が行かせました。待ち料金を払って」
と、円城寺が陽子を止める。「どうしたんです? 連絡がないので、気が気じゃなかった」
陽子は、肩を落として、
「ごめんなさい。――主人が出て行ってしまって」
円城寺は、この場所で聞くような話ではないと察したようで、
「どこかへ行きましょう」
と、陽子の腕を取って立たせた。「車がある。お出かけなら、送って行きますよ」
「私……」
と、言いかけて陽子は円城寺に抱きついた。
円城寺も、何も言わずに、ただ陽子を強く抱いていた。陽子にとっては、今、慰めの言葉より暖かい抱擁が必要だと分っている様子だった。
――陽子が自分を取り戻すのに、十分近くもかかっただろうか。
円城寺から離れると、
「ありがとう」
と、言った。「――ありがとう」
来てくれたこと、何も言わずに抱いていてくれたこと、そして今、ここにいてくれること……。すべてに向けられた、「ありがとう」である。
「買物しないと、もう冷蔵庫が空っぽ。送って下さる?」
「もちろん」
「でも、お仕事がおありでしょ」
「一日ぐらい社長が休んだって、会社は|潰《つぶ》れませんよ」
と、円城寺は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「今日は僕が運転手だ。自由に使って下さい」
陽子は、わがままを言わずに、陽子の気持を優先してくれる円城寺の思いやりに感謝した。
「じゃあ……。|義《ち》|父《ち》のいる病院へも行きたいんですけど」
「かしこまりました」
円城寺は、運転手よろしく頭を下げて言った。「では参りましょう!」
空 虚
スーパーで買物をした陽子は、|一《いっ》|旦《たん》家へ帰って、冷蔵庫へ入れなければならない物を入れ、整理した。
その間、円城寺は「運転手」になって、家の前で待っていてくれたのである。
陽子は、茂也の所へ持って行く果物やお菓子を袋へ入れ、急いで外へ出た。
「お待たせして――」
と言いかけて、口をつぐむ。
「ああ、その倍の値でも買う所がある、と言ってやれ」
円城寺は車の電話を使っていた。「――ああ、任せるから頼むぞ。――いや、|俺《おれ》の方からまたかける」
円城寺は電話を切ると、車から出て来て、
「失礼しました。さあ、病院へ行きましょう」
と、ドアを開ける。
陽子はためらった。
「でも……。やっぱりとんでもないことだわ」
「どうしたんです?」
「いけないわ。あなたにはお仕事があるのに」
陽子は、円城寺を見て、「もう、会社へ行かれて下さい。私なら大丈夫」
「だめですよ。今日はもうあなたのものなんだ。さあ、乗って」
「でも――」
「人は誰かを必要とするときは、素直にそう言うべきです」
陽子は、フッと肩の力を抜いて、
「分りました。それじゃ……」
と、|肯《うなず》いた。
車が病院へ向う間に、やっと陽子は夫が消えた事情を説明した。
「それで、どうしてもご連絡できなかったんです。すみません」
「そんなことはいい。しかし、ご主人も思い切ったことをされたものだ」
と、円城寺は言った。
「それに、主人が会っていたという、C生命の浅香八重子という女のことも心配です。伊東さんが調べてもらったところでは、その女はゆすりたかりの常習犯だそうです」
陽子は、ため息をついて、「主人はその女に借金でもしていたんじゃないかと……。一体何に使ったお金か分りませんけど」
「そういう手合が出てくると、素人の手には負えない。いいですか。決して無茶をしないで下さい。僕もできるだけのことはします」
と、円城寺は言った。
「それと――」
「何です?」
陽子はためらった。そして、結局、
「いえ、別に……」
と言ってしまった。
円城寺のことを、娘が知っている。そのことが、どうしても話せなかった。
そのことを口にしたら、円城寺との間は終ってしまうだろう。
そう思うと、陽子には言えなかった。正巳が自分を捨てて行ってしまった今、円城寺を失うことはいっそう怖かった……。
「――ありがとう」
車で茂也の病院まで送ってもらった陽子は、「まだ……お時間はあるんですか?」
と|訊《き》いた。
「ゆっくりしてらして、大丈夫ですよ」
円城寺の言葉に、陽子は黙って肯いた。
もちろん、何時間も待たせるつもりはない。陽子は病院の中へ入りかけて、足早に車へ駆け戻ると、
「すぐ戻ります」
と言った。「――じきに。待ってて下さい!」
病室へと急ぐ。いや、普通に歩いているつもりだが、つい足どりは速くなっているのだった。
「――あ、奥さん」
廊下で、藤川ゆかりと出会った。「心配してらしたんですよ。大丈夫ですか?」
「ええ……」
陽子は|曖《あい》|昧《まい》に肯いて、「あの――|義《ち》|父《ち》はどうです?」
「ええ、少しずつですけど、具合は良くなってます。食べる物の管理は私がやりますから」
「ありがとうございます」
陽子は頭を下げ、「この後、出かけないといけないので……。置いていくものがあるので、それを置いて失礼します」
「分りました。私、ちょっと買物に行って来ます。一人でいらしても、もう大丈夫ですわ」
と、ゆかりは言った。
「どうかよろしく」
陽子としては、まだ正巳のことを茂也に話す気にはなれなかった。もちろん、茂也にもショックだろうし、せっかく快方に向っている病状がそのせいで悪化するようなことがあっては、と思う。
――病室へ入って行くと、茂也はTVを見ていた。
「お|義《と》|父《う》さん、お元気そうですね」
と、明るく声をかけ、「伺えなくてすみませんでした」
「やあ、もういいのかね」
茂也はリモコンでTVを消した。
「ご覧になってていいんですよ」
「面白いわけじゃない。時間|潰《つぶ》しさ」
と、茂也は|欠伸《あくび》をした。「――ま、人間ってのは、こうも他人の不幸を面白がるもんなのかね」
陽子は、冷蔵庫へ入れるものをしまって、
「ワイドショーですか?」
と、言った。
「美しい話、感動するような話はさっぱり出て来ん。誰が離婚しただの、浮気しただの……。こんなものが面白いかね」
茂也は首を振って言った。「――ああ、すまんね。忙しいんじゃないのかい」
陽子は、ベッドのそばの|椅《い》|子《す》にかけた。
本当はすぐにも円城寺の車へ戻りたい。でも、そうもいかなかった。
いなくなってしまった夫の代りに、少しは茂也の相手をしなければ、という気持がある。
「お義父さん、ずいぶんやさしくなられて。――好きな方ができたからですか?」
「前は、意地悪だったかね」
「多少は」
と言って笑う。
茂也も一緒に笑った。――笑顔が明るい。入院中の病人とは思えないほどだ。
「頑固ってのもいいもんだと思っていた」
と、茂也は言った。「人間、|年《と》|齢《し》をとりゃ自然頑固になる、と。――しかし、そうなるかならないかは、人間次第だな。入院してみてよく分った。――なあ、陽子さん」
「はい」
「人間たまにゃ病気してみるもんだ。人にやさしくされることがどんなに|嬉《うれ》しいか、身にしみるからね」
「そうですね」
「今度はこっちもやさしくしようと……。その内忘れちまうかもしれんが、少なくとも一度そう思っただけでも、人生が変るよ。そう思わんかね」
「ええ、本当に」
「正巳の|奴《やつ》、大病したということがないからな」
夫の名が出て、陽子はドキッとした。
「寝込まれても困りますし」
「確かにね。しかし、正巳はあんたにやさしいかね」
陽子は、どう答えたものか、ためらった。――むろん、ここは|嘘《うそ》をついておくしかないのだが。すぐには言葉が出て来ない。
「いや、無理に答えんでくれ」
と、茂也は言った。「正巳も、少し人のやさしさのありがたみを知った方がいい」
「やさしい人ですわ、あの人は」
と、陽子は言った。「やさし過ぎるくらいに」
だから、円谷沙恵子と手に手を取って逃げてしまったのだろう。放っておけなかったのだ。
陽子には、やさしさのあまり身動きが取れなくなって、その結果とんでもないことをしでかしてしまう正巳の気持が良く分った。
誰にでもやさしくする。――そんなことは不可能なのに、正巳にはそこがよく分っていないのである。
結局、陽子は茂也の病室に三十分近くもいることになった。
外に円城寺を待たせていることを、忘れたわけではない。早く戻らねば、とも思った。
しかし、しみじみと語りかけてくる茂也の話を、どうしても遮ってしまうことができなかったのである。
「――やあ、ずいぶん引き止めてしまった」
と、茂也の方で気が付いて、「さ、もう行ってくれ」
「はい」
陽子は立ち上った。「また来ます」
「うん。正巳の奴にも、たまにゃ来いと言ってくれ。|尻《しり》を|叩《たた》かんと動かない奴だからな」
と、茂也は笑って言った。
――病室を出て、玄関の方へ急ぎながら、陽子は胸の痛むのを覚えた。
正巳が家を出てしまったことを、どう話したらいいだろう? 茂也にとって、どんなに大きなショックかと思うと、迷わないわけにいかなかった。
正面玄関を出ると、ちょうど藤川ゆかりが買物から戻って来た。
「あら、今までいて下さったんですか」
と、ゆかりは言った。
「ちょうど失礼するところで。――また来ますので、よろしく」
と、陽子は頭を下げた。
「はい、ご心配なく」
と、ゆかりは言って、「あの――奥さん」
「は?」
「こんなこと、差し出がましいようですけど……。何か心配ごとでも?」
「――どうしてです」
「お顔に、疲れが見えて。間違いでしたら許して下さいな」
陽子は、ゆかりの言い方に、心から気づかってくれるやさしさを感じた。
陽子は、一瞬自分の方が年上なのに、ゆかりがずっと年輩のように感じて、
「ありがとう。――いろいろあるんです、私の所も」
「どこでもですよ。何かお力になれることがあったら、いつでもおっしゃって下さいね」
ゆかりは、押し付けがましく言わずに、軽く会釈していく。
陽子は少し明るい気分になって、待っている円城寺の車へと急いだ。
「――すみません、遅くなって」
と、|詫《わ》びながら車へ乗り込むと、
「気をつかわなくても大丈夫ですよ」
と、円城寺は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「――これからどうします?」
陽子はためらった。
急いで出て来ようとしていたのは、円城寺と二人で過すためではなかったか。
しかし、ふしぎに今の陽子は落ちついていた。夫を失ったショックから、立ち直っていた。
「お時間は、あるんですの?」
と、陽子は|訊《き》いた。
「もちろん」
と、円城寺が|肯《うなず》く。
陽子は、切羽詰った状態からは立ち直っていたが、それは|却《かえ》ってこだわりを捨てさせることにもなった。
これ以上待つことはない。これ以上、この人を待たせるべきでもない。――そう思った。
「――シーツもあります?」
と、陽子は訊いて、円城寺と一緒に笑った。
車が走り出すと、陽子は少しゆったりと助手席のリクライニングを倒した。
そして、何も言わずにいた。何も言うことがなかったのかもしれない。
カチャリと|鍵《かぎ》が回って、
「――どうぞ」
と、円城寺は陽子を先に入れた。
「お邪魔します……」
と、少し冗談めかして言うほどの余裕さえあった。
「少し……休みますか」
円城寺の声がややこわばった感じだ。
「いいえ。どうせ、そう長くいられるわけでもないんですもの」
と、陽子は言った。「時間をむだにしないようにしましょう」
「それじゃ……」
円城寺が陽子の肩を抱く。
「抱き上げなくていいわ。ぎっくり腰になったら大変」
二人は寝室へ入って行った。
ちゃんとベッドはメークしてあり、カーテンも引かれていた。たぶん、今日陽子の所へ来る前にここへ寄ったのだろう。
「――誰も邪魔はしませんよ」
円城寺は上着を脱いだ。「携帯電話も切ってある」
陽子は、円城寺の腕に抱かれて|一《いっ》|旦《たん》息をつくと、
「――服がしわになるわ。明り、暗くして下さる?」
円城寺が調光機をいじって薄暗くする。
とたんに、そこは二人だけの世界になった。
陽子は、鏡台の|椅《い》|子《す》のそばへ行って、服を脱ぎ始めた。もうためらうことはない。大人同士なのだ。
陽子は、夫のことも、夫がいなくなったことさえ忘れられたような気がしていた。ただ円城寺が好きだから寝るのだ。それに何の理屈がいるだろう。
肩に円城寺の唇が触れる。その感触は懐しいようだった。
「待って。今――」
と、言いかけたときだ。
部屋のチャイムが鳴った。二人は、一瞬凍りついたように動かなかった。
円城寺が、
「間違いだ。きっと他の部屋と間違えてるんだ」
と言って、|大《おお》|股《また》に寝室から出て行くと、陽子はほとんど無意識の内に服を着ていた。
何か、予感のようなものがあったのだ。
「――はい」
と、円城寺がインタホンに出て、「――お前、どうしたんだ? どうしてこんな所へ……」
|愕《がく》|然《ぜん》としている。振り向いた円城寺と目が合って、陽子には分った。
奥様? ――声を出さずに、口の動きだけで、そう言った。円城寺が黙って肯く。
もう、陽子は服をほとんど着終えていた。
「――いや、構わないさ。――ああ、上って来い。部屋、分るな」
陽子はバッグをつかんで、玄関へ出た。
「陽子さん――」
と、円城寺が追いかけるように出て来る。
「行きます。上って来られるんでしょ」
「どうしてここを知ってたのか……」
「階段で下ります」
陽子は急いで部屋を出た。
「階段は左です」
と、円城寺も廊下へ出て、「電話します! また――」
陽子は階段へと急いだ。今、円城寺の妻がエレベーターで上って来ているのだ。
階段を下りかけたとき、エレベーターの停る、チーンという音が廊下に響いた。陽子は足を止めた。
「――ここだ」
と、円城寺が言った。「びっくりしたぞ。少し眠ろうとしてるとこだった」
「ごめんなさい。一度、ここを見たかったの」
と、その人の声が聞こえてくる。
「さ、入って。急にやって来て――」
ドアが閉る。
陽子は息をつくと、そっと階段を下りて行った。
一階まで下りて、何だかやっと夢からさめたような気がする。――偶然であるはずがない。
円城寺の妻は、知っていたのだ。知っていて、今、やって来たのだ。
知られていない、と信じる方が愚かだった。円城寺の楽天的な言葉に、つい安心してしまっていた。
――マンションから外へ出ると、夕暮が近付いていた。
家へ……。家へ帰ろう。
タクシーを停めて、乗る。ぜいたくかもしれないが、今は疲れていた。
行く先を告げると、陽子は目を閉じた。
今になって、心臓が鼓動を速める。――円城寺と妻が、今どんな話をしているのだろう、と考えると、胸はしめつけられるように痛んだ。
圧 迫
「あんまり力落とすなよ」
と、松井健郎に言われて、亜紀は何とか笑顔を作った。
「うん。大丈夫。――お母さんが、もっと|辛《つら》い思いしてるんだものね」
学校の帰り、約束通り健郎と会ったものの、亜紀は早く家へ帰らなくては、と気がせいて、話は要点だけですましてしまった。
教室にまで金を貸した男が押しかけてくるというのは、とんでもない事態である。
「もし、うちへも押しかけてたら心配だから、帰ります」
と、亜紀は言った。
「送って行くよ」
と、健郎は言った。「君がいいと言っても、僕は勝手に送って行くぞ」
「――ありがとう」
亜紀も、一人で帰らないようにという先生の言葉を思い出して、送ってもらうことにした。
電車の中では、健郎は努めて他の話題でおしゃべりをしてくれて、ずいぶん亜紀の気持を軽くしてくれた。
亜紀の心の中に、今ここにいてくれるのが君原さんだったら、という思いがあったことは事実だが、その後君原は大学の方が忙しいのか、連絡して来ていなかった。
話がミカのことになったとき、
「――ミカって、健郎さんのことが好きなんですね、本当に」
と、亜紀は言った。
「どうして?」
「分りますよ。健郎さんのことになると、すぐにミカ、むきになるし」
少し冷やかすように言った。
すると、健郎はちょっと|眉《まゆ》をくもらせて、
「いくら思ってくれても、兄妹だからね」
と言った。
亜紀は、妙な気がした。あのミカの怒りようといい、健郎の重苦しい口調といい、それこそ「兄妹とは思えない」緊張した|係《かかわ》り合い方を感じさせたのだ。
でも、もちろん――そんなの、気のせいかもしれないのだし。考え過ぎなのだ。きっとそうだ。
健郎はアメリカの大学の話をしてくれて、亜紀は面白く聞き入ったのだった……。
「――どうもありがとう」
亜紀は玄関の前で足を止めた。「上って行きますか」
「いや、今日は遠慮しておくよ」
と、健郎は言った。「お母さんに何もかもちゃんと話をしてね」
「はい」
と、|肯《うなず》いて――何となく、ごく自然に健郎と唇を触れ合っていた。
健郎とのキスは、君原のときのように亜紀の胸をときめかせるというわけではなかった。
むしろ、安心させ、落ちつかせる、それこそ「兄と妹」のような気分にさせるものだった。
「じゃ、これで」
「ありがとう、送ってくれて」
と、亜紀は礼を言った。
「さ、入って。見届けてから帰るよ」
気のつかい方が|嬉《うれ》しかった。亜紀は素直に玄関の|鍵《かぎ》を自分であけて、中へ入って行った。
――健郎は、中からロックされる音を聞いて、安心して歩き出した。
もう暗くなりかけている。
健郎はものかげから二人の様子を|覗《のぞ》いていた男のことに、全く気付いていなかった。
白いスーツ、サングラス。――あの、教室に現われた男である。
「いい気なもんだ」
と、男は唇を|歪《ゆが》めて笑った。
キスどころじゃねえだろう。今にこの家から|叩《たた》き出されるってのによ。
男は、健郎の後ろ姿を見送っていたが、
「――そうだ」
と|呟《つぶや》くと、距離を空けて健郎の後を|尾《つ》けて行った。
居間の明りを|点《つ》けた亜紀は、カーテンを閉めて、さて着替えるか、と振り向いて、
「キャッ!」
と、飛び上りそうになった。「――お母さん! ああ、びっくりした」
「お帰りなさい」
と、陽子は言った。「今、帰ったの?」
「うん……。どうして明りも点けないで――」
「お母さんもつい二十分くらい前なのよ、帰ったの。くたびれたんで、この格好のままベッドで横になったら、ウトウトしちゃった……。お腹、空いてる?」
「うん……。普通」
「じゃ、何か食べに行きましょうか。お母さん、作る元気がないの」
「いいよ」
それでも、母がいくらか元気そうで、少なくとも外食に出ようという元気があるので、亜紀はホッとした。
「じゃ、この格好のままでいいね。駅前に出ようよ」
亜紀は、ことさらに楽しげに言った。
もちろん話さなければならないことはあって、それは到底食欲をそそるものじゃなかったが、それでも外で食事をしているときなら冷静に話せるかもしれない。
「あんたに話さなきゃいけないこともあるしね」
母の言葉に亜紀はドキッとしたが、
「まさか、もう再婚じゃないよね」
と言ってやった。
「じゃ、知ってたんだ、お母さん」
と、亜紀は言った。
ナイフとフォークが皿に当って音をたてる。
「逆でしょ、それじゃ」
と、陽子が苦笑した。「あんたが知ってて、お母さんが知らないなんて。どうしてすぐ言わなかったの」
「だって……。信じたくなかったのかもしれない。黙ってりゃ、その内忘れちゃって、そのこと自体、なくなっちゃうような気がしたのかもしれない」
とっさの言いわけだったが、たぶん本当にそうだったのだ。理屈じゃない。ともかく、正面から見据える勇気を出すには、時間がかかったのだ……。
――陽子と亜紀は、駅前のレストランに入っていった。割合気楽で、それでいて味も悪くないので、よく一家で食べに来た店だ。そこで、今二人だけで食事をとる。
「学校にまで押しかけるなんて……」
陽子もさすがにそこまでは予想していなかった。思わず食事の手が止る。
「でも、大丈夫。負けやしないって!」
亜紀は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「いっそ、みんなに知れちゃったから、気が楽だよ」
気が楽……。そんなことがあるものか。
陽子は、ことさら明るく振舞う娘に胸をつかれ、同時に自分自身を励まさなければならないと思うのだった。
「その女――浅香っていったっけ?」
「浅香八重子っていうのよ」
「ひどい女だね。でも――どうしてお父さんがそんな女からお金借りたんだろ?」
「分らないけど……」
と、陽子はちょっと肩をすくめて、「女ってお金がかかるものよ」
「あの……円谷沙恵子?」
「たぶんね」
と、陽子は食事を続けながら言った。
胸がつかえて、食べられないようだったが、無理に口へ運んだ。今は、ともかく頑張れる体力と元気を持つことだ。
「何のお金だったにしろ、お父さんがうちの土地も担保に入れてお金を借りたことは確かだと思わないと」
と、陽子はやっと食べ終えてから言った。「遠からず、お金を返せと言ってくるでしょうね」
「どうするの、そのときは?」
と、亜紀は言った。
「さあ……。どこにもお金を借りるあてなんかないしね」
「家も土地も……取り上げられる?」
さすがに亜紀の言葉はかすれがちだった。
「最悪のときはね。でも、何か手があるかもしれない。相談してみましょう」
「先生が、弁護士さんを紹介してくれるって」
と、亜紀が力強く言った。
「ありがとう」
と、陽子は微笑んだ。
「――どうして?」
と、亜紀が戸惑い顔になる。
「あんたがそうして元気にしててくれるからよ」
陽子は食後のコーヒーが来ると、たっぷり砂糖を入れた。亜紀はそれを見て、
「お母さん、珍しいね。あんまり入れないじゃない、いつも」
と、自分はブラックで飲む。
「太るかと思って、控えてたけど、今はエネルギーをためとかないとね」
と言って、陽子は笑った。
「――お母さん」
「うん?」
「お父さん……どこに行ったのかなあ」
陽子は、チラッと目を表へ向けて、
「――雨になりそうね」
と言いながら、ふと思っている。
あの人、傘を持って行ったかしら。いつも入れておくようにしているのだが……。どうだったろう。
陽子の目に、冷たい雨の中、傘もなく二人であてもなく|濡《ぬ》れて歩いている正巳と円谷沙恵子の姿が浮かんだ。
何も、夫のことなど心配してやることはないのだ。妻子を放り出して逃げてしまった男など、どうなっても構うものか。
しかし、陽子は娘の方へ視線を戻して、思い直す。
いや、そうじゃない。亜紀にとっては、やはり「お父さん」は「お父さん」なのだ。生れたときから、十七歳の今まで、一緒に暮して来た人なのだ。
「どこに行ったのかしらね」
と、陽子は言った。「亜紀……。お父さんを恨んでる?」
「――分んないな」
と、正直な答えが返ってくる。「怒ってはいるけど……。まだ、信じられないような気がする」
「そうね」
と、陽子は|肯《うなず》いた。「――ともかく、今は現実的に考えましょう。お父さんの収入がなくなるってことは、うちの収入がすっかり途絶えるわけだものね。――お母さん、働くわ」
「私もバイトする」
「そうするしかなくなったらね。――そのときは、ちゃんとそう言うわ。気休め言っても仕方ないし」
「うん」
と、亜紀は肯いた。
――二人は、ともかく現状をしっかり見つめることで、大分落ちついて家路についた。
家に入ると、電話が鳴っていた。
電話。――もしかしたら、父から?
反射的にそう思ってしまうのは当然のことだったろう。亜紀の方が先に玄関に上って電話へ駆けつけた。
「――はい。もしもし」
「亜紀? ミカよ」
「あ、何だ。今、帰って来たところ」
「出かけてた? うちの――お兄ちゃんと一緒だった?」
「ううん。お母さんと二人。健郎さん、私のこと帰りに送って来てくれたけど、上らないで別れたんだよ」
「いつごろ?」
「そうね……。一時間半くらい前かな」
「それならいいけど。――お友だちから電話があってね。お兄ちゃん、うちにいるからって言ってたらしいんだ。そういうこと結構ちゃんと守る人だから」
と、ミカは言った。「じゃ、もう帰ってくるね。ありがとう」
「いいわよ。お兄さんには心配してもらっちゃって、申しわけなかったわ。お礼言っといてね」
「うん。その後、お父さんからは何も?」
「一向に」
と、亜紀は肩をすくめ、「お母さんと二人で強く生きてくわ!」
「TVドラマのナレーションだね」
と、ミカは笑って言った。
――電話を切って、亜紀は着替えると、お|風《ふ》|呂《ろ》のお湯を入れた。熱さを手で確かめてから、コックを一杯にひねり、タオルで手を|拭《ぬぐ》っていると、
「――亜紀」
と、母が妙な顔で立っている。
「どうしたの?」
「今……電話が……」
「お父さん?」
「そうじゃないの」
と、急いで首を振って、「男の人で……変な人だった。私のこと、たぶんあんたと間違えたのね。『今日は学校を見学できて楽しかったぜ』って」
「――あいつだわ!」
亜紀は|頬《ほお》を紅潮させて、「そんなの、放っといて」
「でもね――。その後に言ったの。『バス停の先の公園へ行ってみな』って。『仲のいい友だちに会えるぜ』って、笑って切ったわ」
「何のことかしら?」
「見当もつかないけど……。でも、あの言い方が気になって」
亜紀は居間へ戻ると、
「バス停の先の公園って……。この近くのことかしら?」
「そうじゃない? あるでしょ、この先に」
「うん……。でも……」
亜紀は不安に|捉《とら》えられていた。
「仲のいい友だち」って、誰のことだろう?
亜紀は、考え込んでいたが、
「お母さん。私、心配だから行ってくるわ」
と顔を上げた。
「そうね。じゃ、お母さんも行くわ」
用心に越したことはない。大丈夫とは思うが、二人は一緒に出ることにした。
バスが二人のそばを通って行く。
勤め帰りの人たちとすれ違うと、
「――救急車、来てたね。何なのかしら?」
「浮浪者でも倒れてたんじゃないの?」
という言葉が耳に入ってくる。
亜紀と陽子は顔を見合せた。
バス停が見えて、その少し先に救急車がいた。
警官の姿も見える。
亜紀は不安になって足を速めた。
「――入らないで」
と、警官に止められて、
「あの――何かあったんでしょうか」
と、亜紀は|訊《き》いた。
陽子が急いで、
「この子の友だちが家へ帰ってないというので、心配なんです」
と、付け加えた。
「どんな子ですか?」
と、警官が訊く。
「男の人です。大学生の」
「大学生。――ちょっと待って」
警官が|一《いっ》|旦《たん》公園の中へ入って行くと、すぐ戻ってきた。「――ついて来て下さい」
亜紀と陽子は、その小さな公園へと入って行った。
まさか……。いくら何でも……。
亜紀は、正直なところ馬鹿らしいくらいの気持だった。きっと偶然だ。
「――恋人同士でここへ入った若いのが、植込みの奥に人が倒れてるのを見付けて、通報したんです」
と、警官が言った。「今、病院へ運ぶところですがね、あちこちひどく殴られていて、内出血もあるし、内臓がやられてないといいんだが」
担架を抱えた救急隊員が、
「ちょっと失礼」
と、公園の奥へ入って行く。
「ここで待って。運ばれるとき、顔を見て下さい」
亜紀は黙って|肯《うなず》いた。
「亜紀……」
「まさか健郎さん……。そんなひどいことって、ないよね」
「そうと決ったわけじゃないんだから」
陽子が、亜紀の肩に手をかけて言った。
ほんの二、三分だったろうが、その間が何時間にも感じられた。
ガサガサと音がして、植込みの奥から、担架に乗せられたけが人が運び出されてくる。
亜紀は震える手を握り合せた。
良かった!
――担架で運ばれて来た男を見たとき、亜紀は一瞬ホッとした。健郎さんじゃないわ。
しかし――すぐに気付いた。着ているものに|見《み》|憶《おぼ》えがある。
そして、他人と見えたその顔は、殴られ、はれ上って、目の周りが赤黒くあざになっているのだと知った。
亜紀は、突然力が抜けて、その場にうずくまってしまった。陽子はびっくりして、
「亜紀! 大丈夫? ――亜紀」
と、支えて立たせる。「今の人……」
「ミカのお兄さんだ! ――どうしよう! どうしよう……」
亜紀は母に抱きついて泣き出した。
救急車に健郎が運び込まれて、サイレンの音を響かせながら走り去る。
亜紀は、肩を震わせて泣き続けていた。
いつの間にか、雨が降り出している。
「亜紀……。家へ帰りましょう。ね?」
陽子に促されて、亜紀はふらつく足を踏みしめて歩き出す。たちまち全身、びしょ|濡《ぬ》れになった。
「――待って下さい」
と、警官が呼び止める。「知り合いの人でしたか」
「ええ……」
「では、お話を伺いたいんですが。これは傷害事件ですから。被害者のお宅へも連絡しなくちゃなりません」
陽子も、納得して肯いた。
「分りました。ただ――娘は今、気が動転していて……」
「当然でしょうね。パトカーでお宅へ送ります。濡れて帰るには寒いですよ」
その言葉に、陽子は甘えることにした。
――|一《いっ》|旦《たん》、家へ戻った後、陽子と亜紀は熱いシャワーを浴びて、着替えをした。
「――病院が分りました」
と、警官がメモをくれた。
「すぐ行きたいんですけど」
と、亜紀は言った。「話はその途中でも?」
「でも、亜紀……。もう、松井さんのお宅へも連絡が行ってるのよ」
「私のせいよ! 行かなくちゃ」
思い詰めた表情だ。陽子にも、亜紀の気持は分った。
警官も了解してくれて、パトカーで病院へ連れて行ってもらえることになった。
そのパトカーの中で、陽子は事情を説明した。
「――ひどいことをする|奴《やつ》だ」
と、その中年の警官は言った。「あまり自分を責めちゃいけませんよ。そんな暴力を振るう奴が悪いんだ」
「はい」
亜紀は肯いたが、そう割り切ることはできなかった。
冷たい床
病院へ着いても、すぐには健郎の様子は分らなかった。
大きな病院で、事故の負傷者や、酔って転んでけがをしたとかいう人など、次々に救急車で運び込まれてくる。
ストレッチャーをガラガラと引きながら、看護婦が駆け回っている。――陽子と亜紀は、邪魔にならないように、隅の方に立っているだけだった。
「――やっと分った」
と、警官が戻って来て言った。「ついて来て下さい」
「あの――」
と、亜紀は健郎の容態を|訊《き》こうとしたが、やめておいた。
何かあれば言ってくれるだろう。
しかし、今は健郎の家族――特に、ミカに会うのが|辛《つら》かった。
薄暗い廊下を歩いていく。病院の夜は早いのだ。もうどの病室も消灯しているようだった。
廊下の一隅に休憩所のように引っ込んだ場所があり、そこで話し声がした。
「――明日、検査をしませんと」
と言っているのは白衣の若い医師で、カルテを見ながら、「何か薬のアレルギーとか、ありませんか?」
と訊いている。
ミカがいた。青ざめて、じっと唇をかみしめている。
「――今、意識は?」
と、訊いているのは父親だ。
「痛み止めで、ボーッとしているでしょうが、一応お話はできますよ。短時間にして下されば」
「じゃあ……」
病室の方へ行きかけて、ミカが亜紀に気付いた。
亜紀は、近付いて行けなかった。足がすくんで、動けない。――陽子が進み出ると、
「あの――金倉です」
と、頭を下げて、「とんでもないことになって……。ご迷惑をおかけして、本当に申しわけありません」
健郎の父親は、詳しい事情をよく知らないのだろう、やや戸惑い顔で、
「いや、どうも……」
と、会釈しただけ。
ミカが、亜紀の方へ|真《まっ》|直《す》ぐ歩いて来た。
「ミカ、ごめんね、私――」
と言いかけるのを、
「亜紀がお兄ちゃんを殴ったわけじゃないからね」
と、ミカは遮った。「でも、二度とお兄ちゃんに近付かないで!」
ミカの目は、燃えるような怒りを|叩《たた》きつけて来た。亜紀は何も言えなかった。何が言えただろう。
見ていた陽子は、思わず口を挟もうとしたが、亜紀がすぐに気付いて止めた。
「もう帰って」
と、ミカは言った。「亜紀がいたら、また|狙《ねら》われるかもしれない」
ミカが足早に病室へと歩み去ると、両親は追いかけるようについて行った。
陽子は、亜紀の肩にそっと手を触れて、
「ミカさんも、今は興奮してるのよ」
と慰めた。
「ううん。――ミカの言う通りだわ。私のせいなんだもの、こんなことになったの」
「亜紀――」
「帰ろう、お母さん」
と、亜紀は言った。
警官は、少し離れて立っていたが、
「まあ、待ちなさい」
と、声をかけて来た。「人間、カッとなると、心にもないことを言うものだ。君も、そんなに気にすることはないよ」
理屈では、そうかもしれない。
しかし、健郎のことをミカが好きだということ――たぶん、兄妹という仲以上に――も含めて、亜紀とミカにしか分らないことがいくつもあった。
それはどう説明したところで、他の人には理解してもらえないものだ。
「ともかく、今はあんなことをした犯人を見付けることさ。そうだろう?」
そうだった。どんなに辛くても、帰ってしまうわけにいかないのだ。
亜紀は犯人を知っている。この罪を償わせなくては。
警官が医師と話をして、病室の中へ入って行った。
重苦しい時間が過ぎ、亜紀と陽子はじっと廊下に立ったまま動かなかった。
――やがて、ドアが開き、ミカたちと警官が出てくる。
警官が手招きした。亜紀は、急いで進み出た。
「――今、話を聞いたがね」
と、警官はむずかしい顔で言った。「誰に殴られたか、当人は見ていないんだ」
「じゃあ――」
「後ろからいきなり頭を殴られ、気が遠くなったところを、公園の中へ引きずり込まれて殴られたりけられたりした。しかし、犯人の顔は見ていないんだよ」
「でも……あの男ですよ」
と、亜紀が母を振り返って、「お母さんが電話で聞いたんですから」
「しかし、声だけだ。君のお母さんも、そうはっきり誰の声と聞き分けられるほど、その男を知らないだろう?」
「初めてです、そのときが」
「それでは、立証するのはむずかしいね」
と、警官はしかめっつらになって言った。
思いもよらない話に、亜紀は|呆《ぼう》|然《ぜん》としてしまった。
誰が健郎をひどい目にあわせたか分っているというのに、捕まえることができないなんて……。
「しかし、その男のことは当ってみるから。気を落とさないで」
と、警官は言ってくれたが、亜紀は無言で|肯《うなず》くことしかできなかった。
――亜紀と陽子は、家に戻ることにした。
亜紀は、ミカに何か言って行きたかったが、向うは全く亜紀を無視している。|諦《あきら》めるしかなかった。
「お母さん、行こう」
と、促したとき、
「金倉さん。――亜紀さん、ですか?」
夜勤の看護婦が呼びかけた。
「はい、私です」
「患者さんが、お会いしたいとおっしゃってますよ」
亜紀は思わずミカを見た。ミカも亜紀の方をにらむように見たが、兄が自分でそう言っているのなら仕方ないと思ったのか、聞こえなかったふりをした。
「じゃ、ちょっとだけ!」
と、亜紀は言った。
病室の中へ入ると、薄暗い中、ベッドの健郎が小さく手を上げて手招きした。
亜紀は、そろそろとベッドに近付いて、
「健郎さん――」
と言ったきり、言葉が出なくなってしまった。
頭といい顔といい、手も足も、包帯でグルグル巻きにされている。
「――|凄《すご》いだろ」
と、かすれた声で、「口、あんまり開かないんで、聞こえないかな?」
首を振って、亜紀は傍の|椅《い》|子《す》に腰を落とすと、泣き出してしまった。
「ごめんなさい……」
と、ベッドの上に顔を伏せ、泣き声が|洩《も》れないようにした。
頭に何かが触れて、やっと顔を上げると、包帯をした右手が、そっと亜紀の頭をなでていた。
「健郎さん……」
「君が悪いんじゃない。――いいね?」
「でも……」
「しっかりしなきゃ。向うの狙いは、君らを追い詰めることなんだ。分るか? 君が元気をなくしたら、|奴《やつ》らの思う|壺《つぼ》だ」
そう言われてハッとした。
「――分ったわ」
と、涙を|拭《ふ》く。「もう泣かない」
「そうだ。――頑張れよ。僕は力になれないかもしれないけど」
包帯の中で、健郎の目は笑っていた。
亜紀は、健郎の包帯した手を握りしめるわけにもいかず、ただ心をこめてさすっていた。
「――薬のせいか、眠いよ」
と、健郎は目を閉じながら言った。
「お見舞に来ていいですか?」
と、亜紀は|訊《き》いた。
「うん。でも……無理するなよ。ともかく今は君の家のことが……」
「はい」
「もう帰って……。君の、彼氏に相談してごらん。僕の代りに、力になってくれるよ」
亜紀は胸をつかれた。
しかし、同時に、君原がこんな風に大けがをして横たわっているところが目に浮かんで、ゾッとした。
「じゃあ……」
と、亜紀は立ち上ると、「もう行きます」
「うん……」
亜紀はそっと健郎の方へかがみ込むと、包帯の合間に|覗《のぞ》く唇に自分の唇を触れさせた……。
「もう寝なさいよ」
と、陽子は家に入ると、亜紀に言った。「明日も学校よ」
「うん」
ミカのことを考えると気が重い。しかし、健郎の言うように、学校をやめたりしたら、結局この家からも逃げ出してしまうことになるだろう。
今は、これまで通りの暮しを守っていくこと。それが何よりの力になる。
「お|風《ふ》|呂《ろ》、入る?」
「もう、冷めちゃってるわ」
と、亜紀は言った。「シャワーだけ浴びて寝る」
「そうしなさい。お母さん、少し横になってるわ。出たら声をかけて」
「うん」
大丈夫? そう訊こうとして、亜紀はためらった。
大丈夫、と答えるに決っているが、その実、大丈夫なはずはない。階段を上って行く母の後ろ姿には、疲れがにじんでいた。
亜紀は、君原の所へ電話したかった。詳しい話はできなくても、君原の声が聞きたかったのだ。
居間の電話に手を伸ばして、少し迷っていると、電話が鳴った。急いで取ると、
「――もしもし」
と言った。「――もしもし。どなたですか?」
あの男だろうか? 亜紀がじっと耳を澄ましていると、思いがけない声が聞こえた。
「亜紀か……」
「――お父さん!」
亜紀は息を|呑《の》んだ。
まさか――。
父が電話してくるとは、亜紀は思ってもいなかった。健郎のこと、君原のこと、母のことで頭が一杯だった。父のことを、忘れていた。
「元気か」
と、父が言った。「――もしもし、聞こえるか?」
「うん」
向うはずいぶんやかましい所のようだった。音楽がかかっている。人の笑い声も聞こえている。
「心配かけて、すまん」
と、正巳は早口に言った。「気になってな。お前――」
何か怒るような声がした。正巳があわてて、
「もう切る。母さんを頼む」
「お父さん! もしもし!」
亜紀は、ツーツーと連続音の聞こえている受話器を見つめていた。
どうして言ってやらなかったんだろう。もう、お父さんなんかじゃない! ――そう怒鳴ってやれば良かった。
お父さんのせいで、ミカのお兄さんがどんな目に遭ったか、ミカとの友情までめちゃめちゃになってしまったのだと……。
しかし――亜紀は思い付かなかったのだ。父が電話の向うにいるということ、そのことに圧倒されてしまっていたのだ。
「――亜紀」
母の声に、ハッと受話器を置く。
「お母さん……」
「電話?」
「間違いよ。こんな夜中だもん。間違いに決ってるじゃない」
と、早口に言う。
「亜紀」
陽子は居間へ入って来た。「お父さんね? そうなのね」
亜紀は、チラッと目を伏せて、
「いいじゃない、誰だって」
「亜紀。どうだった? お父さん、元気そうだった?」
亜紀は、母の言葉をすぐには素直に受け止められなかった。私たちを捨てて行ったお父さんが元気かどうかなんて、どうでもいいじゃない!
しかし……亜紀は肩をすくめて、
「心配かけて、すまない、って。謝るくらいなら、出てかなきゃいいんだよね」
「どこにいるとか、言った?」
「何も。――凄くやかましいところだったよ」
「やかましい?」
「よく分んなかったけど。すぐ切っちゃった。たぶん……働いてる所からかけたんじゃないかな」
亜紀は、話しながら、初めて自分でもそう思ったのだった。
亜紀の言葉に、陽子はしばし沈黙した。
安っぽい音楽、人の笑い声、怒鳴り声。――こんな時間に。
もし、そこで働いているのだとしたら……。お父さん、何をしているのだろう。
「――お母さん」
「もう寝なさい」
「うん……。でも、シャワー浴びるよ。お父さんが出てっても、シャワーくらい浴びるよ」
陽子は亜紀を見て、ちょっと笑った。
「好きなだけ浴びてちょうだい」
「うん」
亜紀は浴室へと姿を消した。
陽子は、ソファに座り込んだ。――横になっていたとき、下で電話の鳴るのを聞いて、急いで起き出して来た。そのせいで、少しめまいがする。
座っていれば良くなる。きっと、大丈夫。
そんな気弱なことを言っている場合じゃない。これから何が起るか。――まだ序の口なのだ。
はっきりしているのは、誰だか知らないが――その「浅香八重子」とかいう女なのか――この家と土地を、陽子たちから取り上げようとしている、ということだ。
それにどうやって対抗すればいいのか、陽子と亜紀には手に余る問題だ。
できるだけ早く、誰かこういうことに慣れた人に相談して力になってもらうしかない。
陽子は、両手で顔を覆って、ため息をついた。そして――電話の音に飛び上りそうになった。
正巳からだろうか? またかけて来たのか?
「――はい」
と、出ると、
「良かった。一人ですか」
円城寺がホッと息をつく。
「お宅からですか?」
「そうです。家内は薬をのんで寝ました。大丈夫です」
「円城寺さん……。『大丈夫』なんて言葉、奥様に対して失礼ですわ」
「申しわけない……。家内は何も言いませんでしたが」
「もう、お目にかかるわけにいきません」
「分っています。ただ――心配だったんです。その後、どうしたかと思って」
「ありがとう。でも――」
「力になれることがあれば、言って下さい」
と、円城寺は言った。「何かあなたの役に立ちたい」
「ありがとう……。もし助けが必要になったら、遠慮なく押しかけますわ」
「きっとですよ」
「ええ、きっと」
陽子は、円城寺の気持を疑いはしない。正直、|嬉《うれ》しいと思ったのだった。
家 具
お昼休みのOLたちが、そのレストランのほとんどのテーブルを占領していた。
陽子には、そのにぎやかさ、明るさがまぶしいほどである。伊東真子が|予《あらかじ》めテーブルを予約しておいてくれなかったら、三十分は待つことになっただろう。
疲れもたまっていて、あまり食欲はなかったが、こんなランチタイムの混む時間に、お茶の一杯ですませるわけにはいかなかった。軽めの方のランチを頼み、実際食べてみると自分でもびっくりするような勢いで平らげてしまった。
一種、気晴しにもなったのだろう。――食事をすませたところへ、伊東真子がやって来た。
「――お待たせしてすみません」
と、真子は息を弾ませて、「仕事が長引いちゃって。あ、ちゃんとお食べになったんですね。良かったわ」
「お先に一人で食べちゃった」
と、陽子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「ご心配なく。――私も同じランチね」
と注文すると、「早食いは有名ですから」
と笑った。
「少し落ちついた?」
「まあ、色々ありましたけど……。私の方は独り身ですから簡単で。――それより、奥さんの方、どんな風ですか?」
「実は――ゆうべのことなんだけど」
と、陽子は、松井健郎が重傷を負わされた出来事について話をした。
「まあ……。大変でしたね」
「私より、亜紀の方が|辛《つら》いでしょう。一番の仲良しの子のお兄さんなのに……。その子と、ぎくしゃくしてしまうでしょうからね」
真子は、少し沈んだ面持ちで|肯《うなず》いたが、
「――そうそう。これ」
と、メモを事務服のポケットから取り出して、「円谷沙恵子さんが会社に入るときの保証人って人に当ってみたんですけど、もう亡くなってしまってるんです。でも――半年ほど前に、同じ課の女の子たちと海外旅行をしたことがあって」
真子は、そのメモをテーブルに置いた。
陽子はそれを手に取って、
「大阪の人ね」
「〈緊急時の連絡先〉というのを、ツアーの申込書にどうしてもかかなきゃいけないと言って、幹事役だった子が円谷さんから聞いたそうです。そのときの申込書の控をその子が取っていてくれたので」
「ありがとう。――もしかすると、ここへ頼って行っているかも……」
「電話はしていません。もしそこにおられるのなら、電話なんかしたら、またよそへ行ってしまうかもしれないし」
真子の気のつかい方に、陽子は胸が熱くなった。
真子はランチが来ると、確かに陽子が目を丸くするほどの勢いで食べ始めた。
「――でも、忙しいのにこんなこと調べてくれてありがとう」
と、陽子は言った。
「いえいえ」
真子は水をガブガブ飲みながら、「――そこに気が付いたのは私じゃないんです。ほら、母のお通夜に来た子で――」
「ああ、何だか主人と銀行で会ったとか言ってた方?」
「ええ。今朝ね、仕事してたら突然、『そうだ!』って大声出して。みんなびっくりしちゃったんです。そしたら、円谷さんが海外旅行に行ったことを思い出して、一緒に行った人の所へ行って、『申込書の控、ありませんか』って」
「ずっと考えててくれたのね。ありがたいわ、本当に」
「それが手がかりになるといいですけどね。私、興信所の人を知ってるんです。当ってもらいましょうか。お|訊《き》きしてからと思って」
「そうね……」
「奥さんが直接訪ねて行かれても、もしむだ足だったら……。交通費だけ損ですし」
「そうね、確かに。――あなたにそこまで甘えるのは申しわけないけど」
「とんでもない!」
真子は微笑んで、「あ、そのメモは持ってて下さい。私、コピーとりましたから」
と言って、食事を続けた。
――二人で一緒にコーヒーになって、
「こんなこと言うと、奥さんに|叱《しか》られるかもしれませんけど」
と、真子は言った。
「まさか! どうして私があなたを叱るの?」
「円谷沙恵子のことなんです」
と、真子は言い辛そうに、「ご主人をたぶらかしたひどい女、と思われてるでしょうけど。――私、一緒に仕事してて、そんなに悪い人には見えなかったんです。確か家族をほとんど亡くしていて、それで連絡先もよく分らないんですけど、どことなく寂しそうな感じの、でもきちんと仕事はする人でした」
陽子は肯いて、
「話して」
と、促した。「気を悪くしたりしないから」
「いえ……。それだけのことなんです」
「私、主人が悪い女に|騙《だま》された、って単純に思ったりしないわよ」
と、陽子は言った。「あなたがそう言ってくれると少しはホッとするの。あの人のこと、大事にしてくれてるだろうと思って」
真子は微笑んだ。
「いい方ですね、奥さんって」
そろそろ、昼休みが終る時間だった。
どうしてなのか、みんなが何が起ったか知っていた。
亜紀に同情してくれる子もいたが、それでもミカの兄と「付合いがあった」ということの方に興味があるようで、
「結構、亜紀って隅に置けないんだ」
なんてからかわれた。
亜紀は腹が立って、よっぽど言い返してやろうと思ったが、現実に包帯で|包《くる》まれた健郎の姿を目にしなければ、分ってくれなくても仕方ないと自分に言い聞かせた。
――ミカは、一切亜紀を無視していた。
昼休みにも、ミカは亜紀と目を合せようともしなかった。覚悟していたこととはいえ、亜紀にとっては辛いことである。
しかし、自分の方からミカに親しげな口をきくわけにいかない。何といっても、ミカが許してくれるかどうか、それはミカ次第だ。
昼休みが終りかけたところに、
「――金倉さん」
と、事務室の女性が顔を出した。
「はい」
また何か……。一瞬、ヒヤリとする。
教室の中も、何となく静かになって耳をそばだてているのが分った。
「――今、お宅のご近所の方から電話があったの」
「近所の人?」
「お宅、引越すの?」
亜紀は当惑して、
「引越すって……。いつかはそうなるかもしれませんけど――」
「今ね、トラックが来て、お宅の家具をどんどん運び出してるんだって」
亜紀は|愕《がく》|然《ぜん》とした。事務室の女性は続けて、
「でも、お宅の方が一人もおられなくて、ヤクザみたいな男が指図してるので、おかしいと思って知らせて下さったのよ」
「帰ってみます!」
亜紀は、よろけるように席へ戻った。急いで帰り仕度をする。
「お母様は?」
「母、出かけてるんです。連絡つかないし」
「じゃあ……」
「私、大丈夫です。一人で帰ります!」
亜紀は教室を飛び出した。
――家までが、とんでもなく長い。
一体何ごとだろう? きっと――あの男だ。あいつが、いやがらせをしているんだ。
一一〇番しようかと思ったが、自分の目で確かめない内に届けるのもためらわれた。
家が見える所まで来たときには、亜紀は、ぐっしょりと汗をかいていた。走ったからばかりでもない。緊張と動揺が、亜紀の体のバランスを崩したのである。
そして、亜紀は足を止めると、信じられない光景を目にして立ちすくんだ。
これって――何なの?
悪い夢を見ているようだった。冷汗が背中を伝い落ちていくのが分る。
亜紀は、近所の人たちが何人か集って何やら話している方へ歩いて行った。
「――あ」
と、一人が気付いて、パッとわきへどいた。
それをきっかけに、みんなゾロゾロと道の端へ寄る。――道の真中はふさがれていたのだ。亜紀の家から運び出された家具で。
ダイニングのテーブルが逆さに引っくり返っている。居間のソファが横に倒れて|埃《ほこり》にまみれていた。|椅《い》|子《す》は面白半分に積み上げたようになっていて、その下に亜紀の使っている勉強机の赤い椅子が|覗《のぞ》いてる。
全部、ではない。ともかく二、三人で運べる物はどんどん積み上げたのだろう。
「――亜紀ちゃん」
と、近所のおばさんが声をかけて来た。「ハラハラしながら見てたんだけどね……。止めるわけにもいかなくて……」
亜紀は、|膝《ひざ》が震えて立っているのもやっとだった。
「何か……運んでったんですか」
と、訊く声が震えていた。
「ううん。誰だかね、若い男の人が通りかかって、その連中に文句をつけたの。度胸あるわよ。一一〇番するぞ、って言って。道路をふさいでるだけでも違法だぞって怒鳴ったのよ。見ててドキドキしちゃった」
「男の人……」
「その連中は、渋々引き上げてったわ。トラックも空のままで」
一体誰が? ――しかし、ともかく今はこの運び出された家具をどうしたらいいのか、亜紀は途方にくれていた。
「じゃあ……私、用があって」
と、そのおばさんがいそいそと行ってしまうと、他の人たちも何となく立ち去って行く。
――亜紀は、近所の人たちの表情がはっきり「面白がっている」ことに気付いていた。父がいなくなったことも、当然|噂《うわさ》になっている。
人の不幸がそんなに面白いの!
亜紀は、積み重ねられた家具の山をゆっくりと回って見て行き、足を止めて青ざめた。
亜紀の勉強机。散らばった本。そして、亜紀の使っているタンスが、投げ出されていた。――それだけではない。引出しが全部外されて、中のものが道路にぶちまけられていた。
亜紀の下着が散らばっている。わざとやったのだ。それを近所の人たちは面白がって眺めていた……。
亜紀はカッと顔を赤く染めて、夢中で下着をかき集めると、引出しへ詰め込んだ。涙が|溢《あふ》れ出て止らなかった。
負けちゃいけない。
向うの目的は、うちの家具を持って行くことなんかじゃないのだ。ショックを与え、追い詰めて、亜紀たちが逃げ出すのを待っているのだ。
しかし――そう分っていても、現実に目の前に家具の山をみると、亜紀は何もかも忘れて逃げ出したくなる。近所の人たちの目も、|辛《つら》い。
でも……どうしよう?
亜紀一人では、机一つ中へ運び込めない。途方にくれて立っていると、後ろから変なクラクションの音がした。
振り向くと、トラックがやって来る。一瞬、あの連中が戻って来たのかとギクリとしたが、すぐに分った。
あのオンボロトラック、君原たちが使っていたやつだ!
トラックが停ると、君原が運転席からポンと降りて来た。
「君原さん!」
亜紀は駆け寄った。
「大丈夫か」
と言う君原の胸に、亜紀は飛び込んだ。
泣きはしなかった。ただ、君原の鼓動を聞き、やさしく抱いてくれる腕のあたたかさを感じていると、再び立ち上る勇気が出て来そうだ。
「もう大丈夫だ。心配しないで」
と、君原は亜紀の背中を静かに|叩《たた》いた。
「じゃ、君原さんだったの? あの連中を止めてくれたのは」
「そうさ。大学が休講になったんでね、どうしたかなと思って来てみたら、このありさまだろ。びっくりして」
「でも、危なかった!」
と、ゾッとして、「殺されちゃうわ」
「昼日中だよ。しかも、人目がある。あんな|奴《やつ》ら、ものかげでなきゃ何もできないんだ」
「でも、危ないことはやめて。ミカのお兄さんが大けがしたの」
「何だって?」
「これを指図してたのが、きっとその男よ。用心してね。君原さんまで私のせいでけがしたら、私……」
亜紀は、どうにもたまらなくなって、君原に思い切りキスした。道の真中だろうと、昼間だろうと構うものか。
パチパチと拍手が起って、亜紀はびっくりした。
いつの間にか、トラックから降りて来たのは、亜紀の所でお|風《ふ》|呂《ろ》を貸してあげた、人形劇の人々。
「佐伯さん!」
亜紀は真赤になって言った。
「邪魔して悪いね。しかし、こりゃひどいなあ」
佐伯は憤然として言った。
君原は、亜紀の肩をつかんで、
「急いでこの間のみんなに連絡を取ってね。お風呂を貸してもらったお礼をしようというんで、喜んで駆けつけてくれた」
と言った。
亜紀はびっくりした。
「でも……」
「元気出せよ。あんな卑劣な奴らに負けちゃいけない。いいね」
君原はポンと手を打つと、「さ、みんなでこの家具を元通り中へ運び込もう」
「うん。今日はしっかり腹ごしらえしてあるからな」
と、佐伯が力強く|肯《うなず》いて、「亜紀君、君は何をどこへ置けばいいか、指示してくれ。いいね」
「――はい!」
亜紀は胸が一杯になって、お礼の言葉さえ出て来なかった。何か言えば泣いてしまうに違いないと分っていた。
「よし、かかれ!」
佐伯の声に、他の面々が一斉に動き出す。
「――これは一緒にやりましょ」
と、女性のメンバーが亜紀に声をかけ、二人で下着をタンスへ戻し、後で洗わなくてはならないにしろ、ともかく引出しをきちんと入れて、運べるようにした。
亜紀はその気のつかいようが|嬉《うれ》しくて、つい涙ぐんでしまった。
「――亜紀君」
と、君原が呼んだ。「|雑《ぞう》|巾《きん》を。ちゃんと|拭《ふ》いてから中へ運ばないとね」
「はい!」
亜紀は家の中へ駆け込んで行った。
一体何から手をつけていいのか、考えることさえできなかったのに……。
わずか一時間ほどで、君原たちは道に積み上げられていた家具を元通りに戻してしまった。
亜紀は、一休みしているみんなに冷たいお茶を配った。
「汗かきましたね」
と、亜紀は言った。「また、お風呂に入ります?」
何人かがシャワーだけ借りると言ったので、早速タオルを出した。
「――気をつかわないで」
と、佐伯がやさしく言った。「君にはまだ重荷だよ」
「でも……こうなっちゃったんだから、仕方ないんです」
亜紀は、詳しい事情を君原たちに話した。
「――じゃ、お父さんが電話して来たんだね?」
「そうなんです。でも、|凄《すご》くやかましい所で……。きっと、どこかのカラオケか何かじゃないかしら」
「カラオケ?」
「そんな感じの音でした。酔って怒鳴ってる声とか……」
亜紀は口ごもった。「お父さんが好き勝手をしたんだから、どこで何してたっていいけど……。でも、何だかとっても辛い」
「当然だ」
と、佐伯が肯いた。「|身《み》|許《もと》を調べないで雇ってくれるとなれば、やっぱりそういう仕事しかないからね。――きっと、お父さんだって辛いと思うよ」
「自業自得です」
「うん、確かにね。でも、君も辛いと感じてるってことは、やはりお父さんに早く戻ってほしいと思ってるからだろ」
「さあ……。よく分りません」
と、正直に答える。「松井さんがあんなひどい目に遭わされたり、今日みたいなことがあったり……。これからだって、何があるか分らないんですもの。みんなお父さんのせいだと思ったら……。|赦《ゆる》す気持になんかなれないかもしれない」
亜紀の言葉に、君原は黙って肯くと、自分の手を亜紀の手に重ねた。
すると、玄関で物音がした。
「亜紀! ――亜紀、いるの?」
「お母さんだ」
と、立ち上ると、陽子が駆け込んで来た。
「亜紀! 大丈夫なの?」
「お母さん――」
「今、ご近所の人に聞いて……。家具が道に放り出されてたって……。こちらはどなた?」
陽子がハアハア肩で息をしている。
亜紀が君原たちを紹介し、事情を説明すると、陽子は、
「そうでしたか……。本当にありがとうございました」
と、深く頭を下げた。
「今、お風呂に入ってる方もいるわ」
「そう。――この間の方々ね」
陽子は、亜紀のことを疑っていたのを恥じた様子で、改めて君原に|挨《あい》|拶《さつ》した。
「――ご主人の居所について、何か手がかりはないんですか」
と、佐伯が言った。
陽子が、伊東真子からもらったメモを取り出して、「ここをまず当ってみようと思うんですけど」
「大阪ですね。この辺なら知ってる。前に少しいたことがあるんです」
「大阪か……」
と、亜紀は思い付いて、「お父さんの電話で、聞こえて来た声、関西の人みたいだった」
「奥さん、この近所に知り合いがいます。僕の方から|訊《き》いてみてもいいでしょうか」
佐伯の言葉に、陽子は、
「お願いします!」
と頭を下げていた。
協 力
体育の時間だった。
バレーボールで、亜紀は精一杯駆け回っている。
よく晴れた午後だった。ボールを打つポーンという音、その度に上る女の子たちの甲高い声。
亜紀は、汗が流れ落ちるのを手の甲で|拭《ぬぐ》った。
意地でも、頑張って学校へ来てやる! ――亜紀はそう決心していた。
ミカは相変らず口をきいてくれないが、亜紀は仕方のないことと割り切ることにした。自分がミカの立場だったら、と思えば、無理もない。
「――はい、ゲームセット」
と、体育の先生が手を上げる。「次のチーム、コートに入って!」
亜紀はコートの外へ出て、
「ああ、やれやれ」
と、|呟《つぶや》いた。
「亜紀、おばさんみたいよ」
と、友だちが笑う。
「つい出ちゃうのよ」
と、亜紀も笑った。
――そう。もしかすると、お金の問題で、学校へ来られなくなるかもしれないと思うと、今まで適当にやっていたことも必死でやりたくなってくる。
亜紀には、学校での一日一日が、いっそう大切なものに思えて来るのだった。
「――あれ、何だろ?」
と、一人の子が言った。
振り向くと、校庭を囲む|柵《さく》の向うでキラッと光るものがあった。
「ヤクザだ」
と、誰かが言った。
亜紀はギクリとした。
男たちが四、五人、柵のそばに立って、コートの方を眺めているのである。
しかも、光ったのはレンズで、双眼鏡を持っているらしい。
「――何かしら?」
「こっち見てるの?」
「いやらしい!」
みんながザワついた。
亜紀には分っていた。――あいつらだ。
考えるより早く、亜紀は柵の方へと駆け出して行った。
やっぱり! あの白いスーツの男が真中に立ってニヤニヤしている。
「――何してるんですか」
と、亜紀は男をにらみつけながら言った。
「立ってるだけさ」
と、男は肩をすくめて、「道に立ってるのは法律に触れないぜ」
「|可《か》|愛《わい》い足を眺めるのもな」
と、もう一人が双眼鏡を手にして、「なでてやりたいぜ、全く」
「やめて下さい」
と、亜紀は男たちに言った。「警察を呼びますよ」
「呼んでみな」
と、白いスーツの男はじっと亜紀を見つめて、「後がどうなっても知らないぜ」
「クラスの子たちに迷惑かけないで」
「そりゃお前の気持一つだ」
「どういう意味ですか」
と、亜紀は言った。
「|俺《おれ》はお前のことが気に入ってるんだ」
と、男は言った。「どうだ。――俺の言うなりになりゃ、借金だって、帳消しにできるかもしれないぜ」
亜紀はカッとなって、
「松井さんのお兄さんに、あんなひどいことして! あんたなんか人間じゃないわ!」
と、叫ぶように言った。
「まあ、その気の強いところが可愛いのさ」
と、男は笑った。
「ともかく、帰って下さい」
「俺はいいけど、他の連中がまだ見ていたいって言うんでな」
「へへ……。こんないい眺めはめったに……」
と言いかけて、「――何だ?」
足音がして、振り向いた亜紀はクラスの子たちがゾロゾロやってくるのを見て、びっくりした。
先頭に立っているのは、ミカだ。
「亜紀。――そこをどいていただきましょうよ」
「ミカ……」
「恐れ入りますが、そこをどいて下さいませんか」
と、ミカがていねいな口調で言った。「邪魔なんですけど」
「おあいにくだなあ」
と、白いスーツの男が言い返す。「断ったらどうする?」
「そうですか。じゃあ……」
と、ミカが振り向いて、「ほら、みんな!」
ワーッと女の子たちが駆け寄って、コートに線を引いたりする白い粉の一杯に入った箱を一斉に柵に向って投げつけた。
白い粉はたっぷりと男たちの上に降りかかって、たちまち一人残らず真白になってしまった。
白い煙が上って、男たちがむせて|咳《せ》き込むとブワッと粉が舞った。
「――この野郎!」
「何しやがる……ゴホッ!」
粉が目にも口にも入って、文句も言えない。
「どいて下さいとお願いしたんですからね」
と、ミカが言った。
「畜生! ――ふざけやがって!」
白いスーツの男は、服はもともと白だが、頭まで真白になっていた。
「浦島太郎だね」
と、誰かが言って、みんな、ドッと笑った。
「何だと! 俺は――ゴホッ、〈太郎〉なんかじゃねえぞ。|落《おち》|合《あい》マサルってんだ!」
亜紀は、男の名を初めて知った。
「浦島太郎も知らないの」
「いやね、教養ない人って」
みんな、すっかり馬鹿にし切っている。
「どういうことになるか、|憶《おぼ》えてろよ!」
と、白いスーツの落合という若い男はかみつきそうな顔で言ったが、サングラスも粉だらけで、何も見えないらしい。
サングラスを外すと、今度は目の周りだけ白い粉がついていないので、|却《かえ》っておかしい。
「パンダだ!」
と、女の子たちが大笑いした。
「こいつら……」
と、他の男たちが柵へ近寄ると、パッとフラッシュが光った。
「ちゃんと撮ってよ。せっかくお化粧したとこなんだから」
と、ミカは、使い捨てカメラを持った子の方へ言った。
そして、男たちの方へ向くと、
「もし、私たちの誰かに何かしようものなら、今撮った写真で誰が犯人か分りますからね。今、一一〇番してます。今の写真、警察へ渡しておきますから」
ミカの堂々とした態度に、相手もすっかり|呑《の》まれてしまっている。ミカは、軽く会釈して、
「どうぞお引き取りを」
と言った。「それとも、白い粉を洗い流してからお帰りになりたいようでしたら、お水も用意してございますが」
クラスの女の子、三、四人が重そうなバケツを手にやって来た。
「水、たっぷり入ってるよ、ミカ!」
「どういたしましょう?」
男たちは、今にも沸騰しそうな様子だったが、そこへパトカーのサイレンが聞こえて来てギクリとする。
「――この仕返しはするからな!」
と、落合という男は亜紀をにらんで、「いいか、憶えてろ!」
と促して、足早に立ち去る。
いくら格好をつけても、真白で、しかも歩きながら粉が落ちていくから、ふき出したくなるような光景だった。
亜紀は、ほとんど|呆《ぼう》|然《ぜん》として成り行きを見守っていた。
「――亜紀」
と、ミカが亜紀の肩に手をかけて、「あんな|奴《やつ》らに負けちゃだめよ! 応援してるから、みんな」
亜紀はこみ上げてくる涙を抑え切れず、ミカを抱きしめて、ポロポロと涙が|溢《あふ》れ出るのに任せたのだった。
亜紀とミカの「和解」を、クラスのみんなが拍手で祝った。
「――ありがとう、ミカ!」
「頑張って!」
ミカは、他の子たちへ、「あの連中、一人じゃ何もできないんだから、みんなも、何人かでまとまって帰るのよ」
「やっつけてやる!」
「私、目つぶしのスプレー持ってるもん」
「だめだめ。うちのお兄ちゃんが大けがさせられたのよ。甘く見ないの。用心すれば大丈夫だから」
ミカは、いつもとは見違えるように大人に見えた。
「無茶なことして」
と、声がして、担任の笹谷布子がやって来た。
「あ、先生。でも、間違ってないですよね、私たち」
と、ミカが言った。
「そうね」
と、笹谷布子は言って、「私なら、問答無用でバケツの水をぶっかけたわね」
ワッと笑いが起った。
「――学校としても、生徒へのいやがらせには断固として立ち向います。心配しないで。金倉さん」
「はい」
「あなたは、自分がみんなに迷惑をかけているとか、そんな風に思わないこと。いいわね。それが向うの|狙《ねら》いなんだから」
その言葉、みんなの励ましの拍手。それが一度に亜紀の胸の暗い雲を吹き払ってくれた。
「ありがとう!」
と、亜紀は、上気した顔で言ったのだった……。
金倉茂也は眠っていた。
病室は静かで、午後の日射しが入り、ポカポカと暖い。――充分寝足りているはずの病人でも眠気を誘われて当り前のようであった。
ドアが開いた。
そっと顔を|覗《のぞ》かせたのは――サングラスを外しているが、落合である。
目立たないようにしようというのか、普通の背広を着ていたが、借りもののせいで似合わないこと。
茂也のベッドへそっと近付くと、|枕《まくら》もとの名前を確かめる。
「よし……」
こいつだ。――見てやがれ。
落合は、ポケットへ手を入れた。
すると、いつの間に入って来たのか、
「何かご用でしょうか?」
と藤川ゆかりが、落合の後ろにピタリとくっついて立っていたのである。
落合はギクリとした。
いつの間にその女が病室に入って来たのか、まるで気付かなかったのだ。
「付き添いか」
と、落合は言った。「しばらくどこかへ行ってな。何も見なかったことにしてな」
藤川ゆかりは、穏やかに、
「あなたが出て行った方が、きっと何ごともなくすみます」
と言った。
「おい、|俺《おれ》はな、親切で言ってやってるんだぞ……。お前だって、こんなじいさんと心中する気はないだろ」
落合は格好をつけて、そう|凄《すご》んだが、その瞬間、右側に鋭い痛みを覚えて飛び上りそうになった。
「いてえ! お前、何かしやがったのか?」
「しっ。ここは病室です」
と、ゆかりは全く平静な声で、「妙な真似はしない方が身のためですよ」
「何だと?」
落合は耳を疑った。何だ、こいつは? しかし、右腕を何かがツツと伝って、血が手の甲へ筋を描くのを見ると青くなった。
「血だぞ! 血が出てるぞ」
「お静かに」
と、ゆかりは言った。「廊下へ出るんですよ。いくら果物ナイフでも、先が|尖《とが》ってれば、充分役に立つんですからね」
「お前……何だ?」
「私はこの患者さんのお友だちです。だからこの人の命を守るためなら、相手を刺し殺すことだってためらいません」
「俺が何をしたって――」
「静かに、と言ったでしょ。同じことを三回言わせましたね。今度はナイフがあんたの腹に食い込みますよ」
淡々とした調子なので、|却《かえ》って凄みがある。
落合も、やっと女がただ者でないことに気付いた。
「分った。出るよ。出るから、そう怒んなよ」
「怒っちゃいませんよ。いや、怒っても、それを表に出さないくらいの度胸は持ってますよ。あんたは何も隠しておけない性格のようね」
落合は、|脇《わき》|腹《ばら》をチクリと刺す感覚に、今はすっかり青ざめ、冷汗をタラタラと流している。
廊下へ出ると、ドアを閉めたゆかりは、
「病人の邪魔にならないように、ね。でも情ないもんね。昔は、病人になって寝込んでる相手には手を出さなかったもんですよ」
「お前、一体――」
「動かないで。あんたのためよ。いくら病院の中でも、刺されたら痛いと思うけどね」
「冗談はよしにしようぜ」
と、落合は精一杯強がって見せる。
「このナイフが冗談? それならあと五ミリか一センチ、刺してあげようか?」
ゆかりがそう言うと、落合の脇腹に、さらに痛みが走った。
通りがかった看護婦が、落合の上げた声を聞いて、
「どうかなさいました?」
と|訊《き》く。
「いえ、何でもないんですよ」
と、ゆかりはニッコリ笑って、「二日酔なんです、この人」
「あら、それで青い顔してるのね。いけませんよ、飲み過ぎは」
と、看護婦が笑って、行ってしまう。
「やめてくれ……」
落合は、ガタガタ震えていた。
「動くと痛いわよ。――ポケットのものを出しなさい」
「ポケットって……」
「あと一センチ、刺されたい?」
「やめてくれ!」
上ずった声で言って、「分った。――分ったよ。これだ」
ポケットから取り出したのは、ハンカチにくるんだ注射器だった。
「――中身は?」
「シャブだよ」
「何てことを……」
と、ゆかりは初めて感情を声ににじませた。「浅香八重子の指図?」
落合がその名を聞いて、目を見開いた。
「お前……どうしてその名前を――」
「代りにあんたに射ってやろうか」
「やめてくれ……。やりたかったわけじゃない。俺は……俺は……あの子に|惚《ほ》れてるんだ……」
「あの子?」
「金倉……亜紀だ」
「お孫さんに? ふざけんじゃないよ」
と、ゆかりは言った。
そこへ、廊下をやって来たのは|江《え》|田《だ》だった。
「どうしました?」
「いいところに来てくれたね」
と、ゆかりは言った。「こいつからじっくり話を聞こうと思ってたんだよ」
「こいつ……浅香八重子のとこのチンピラですね。何て格好してやがるんだ」
「屋上へ連れてって、じっくり話そう」
と、ゆかりは言った。「先に連れてっておくれ。私はあの人の様子を見てから行く」
「分りました」
「あの人に万一のことがあったら、こいつを屋上から突き落としてやるわ」
落合は、ゆかりの、本気としか思えない言葉に|膝《ひざ》が震えて立っていられなくなった。
夜の客
「ありがとうございました!」
と、円谷沙恵子は言った。
もうじき勤務時間が終ると思うと、声に元気がこもる。
「沙恵子さんは、まるで真昼間の声ですね」
と、一緒の夜間にバイトをしている大学生の男の子が笑って言った。
「あら、それって私のことを単純だって言ってるの?」
「違いますよ」
と、大学生は言った。「沙恵子さんにはぴったりだと思って」
「お世辞はむだよ」
「分ってます。人の奥さんには手を出さない主義ですから」
「子供のくせに!」
と、にらんで、沙恵子は笑った。
「――お疲れさま」
と、交替の女の子が、エプロンをつけて奥から出てくる。
「あ、おはよう」
と、沙恵子は言った。「これ、在庫の表ね」
「はい。――いいですよ、もう後はやりますから」
「じゃ、お願い」
と、沙恵子はエプロンを外して言った。
二十四時間営業、年中無休のコンビニエンスストアは、暗くなることがない。
沙恵子は 夜の十時から翌朝七時までの勤務だった。終ると、もちろん外はもう明るい。
ふしぎなもので、一応制服になっているエプロンを外すと、決って|欠伸《あくび》が出るのだった。
「あ、そうだ。パンがなかったわ」
いくつか、ちょっとしたおかずになるものも買って、沙恵子は店の裏から出た。
「――沙恵子さん、ご主人も夜中のお仕事なんですか?」
と、続いて出てきた大学生が訊いた。
「ええ、ガードマンなの」
と、沙恵子は言った。「だから私も、主人の勤めに合せて働いてるのよ」
「ガードマンか。じゃ、きっと|逞《たくま》しい、すてきな人なんでしょうね」
「当然でしょ。私が惚れた人よ」
「言われた!」
と、大学生は笑って、「じゃ、また明日!」
と、元気に駆け出して行って、ちょうどやって来たバスに乗る。
沙恵子は、バスに乗るほどの距離でもないので、少しのんびりと歩いて行った。秋も大分深まって、こんな朝の時間は少し冷える。――寝不足のせいもあるかもしれない。
少し足を早める沙恵子の後ろ姿を、路上に駐車した車の中からじっと見送っている人影があった……。
沙恵子はアパートのドアをそっと開けた。
「ああ、お帰り」
金倉正巳が、あぐらをかいてカップラーメンを食べているところだった。スープの|匂《にお》いがする。
「おかず、買って来たのよ。そんなものだけじゃ……」
「うん、そうだろうと思ったけど、ちょっと腹へ入れとこうと思ったのさ」
と、正巳は新聞を見ながら、「忙しかったかい?」
「まあまあね。あなたの方は?」
「今は谷間の時期なんだってさ。忘年会のシーズンになると、目が回るほど忙しいよ、って言われた」
沙恵子は台所に立つと、
「待ってね。ご飯もあたためればあるのよ」
「いや、後でいい。今は軽く食べて寝るから」
正巳はカップラーメンを食べてしまうと、
「お茶、くれるかい」
「はい!」
沙恵子は急いでお茶をいれた。「――ね、忘年会のころまでには、もう少し普通の仕事に就けるわ、きっと」
「うん……。しかし、今の仕事だって、そうきつくもないし、何とかやれるよ。ただ、給料は安いけど」
「そんなこと……。私だって働いてるんだし、あなたにいつまでもカラオケのお店の仕事なんかさせておきたくないのよ」
と、沙恵子は言った。
「しかし……何しろ|身《み》|許《もと》がね。――もちろん、求人広告も見てるけど」
沙恵子は、自分もお茶を一杯飲みながら、
「何だか……あなたに申しわけなくて。こんなことさせるつもりじゃなかったのに」
「おいおい」
と、正巳は|微《ほほ》|笑《え》んで、「僕だって子供じゃない。君に食べさせてもらうつもりなんかなかったさ」
「ええ、分ってる。――だから|辛《つら》いの」
沙恵子は、少し迷って、「思い切って、ホステスにとも思うけど……。今はあんまり景気も良くないし、あの仕事をしてると連中に見付かるかもしれないわ」
「うん。いいんだよ。それより、君も体をこわさないようにしてくれよ」
「ええ……」
「何か食べたら? 僕は寝るよ」
「布団、敷くわ」
沙恵子は立ち上った。「――私、働きながらちょくちょく食べてたから。お腹空いてないの。あなた、お|風《ふ》|呂《ろ》は?」
「シャワーだけ浴びるよ」
と、正巳は立って、思い切り伸びをした……。
沙恵子は、二人の布団をくっつけて敷いた。
正巳の後、沙恵子もシャワーを浴びて出て来ると、もう正巳は軽いいびきをかきながら眠り込んでいた。
もちろん、外は明るいのでカーテンを閉めていても、室内は充分に見分けられるほどである。
ここに住んだ初めの内は、明るくてなかなか寝つかれず、眠い目をこすりながら仕事に行っていた正巳だが、今はすぐに眠ってしまう。それだけ疲れてもいるのかもしれないが。
沙恵子は布団へ入って、それから少しためらって、正巳の布団の方へ体を滑り込ませた。
正巳は少し身動きしたが、目を覚ますことはなく眠り続けている。
沙恵子は正巳を起さないように、そっと寄り添って、自分も目を閉じた。
立ちっ放しの仕事なので足がだるく、しびれたようになっている。――自分では張り切っているつもりだし、実際、店長に気に入られてもいるのだが、やはり深夜から朝までの勤務は疲れるのだろう。
いつしか沙恵子も眠りに入っていた。
ふと目を開けると、沙恵子は布団で一人、寝ていた。
「――あなた?」
起き上ってびっくりした。もう午後の三時である。
ぐっすり眠ってしまったものだ。正巳はもう起きたのだろう。
テーブルに、メモがあった。
〈ちょっと良さそうな求人があったので、早めに出て寄ってみる。よく寝てたから、起さなかったよ。
[#地から2字上げ]正巳〉
沙恵子は、正巳のやさしさが胸にしみて、そのメモ用紙をそっと胸に押し当てた。
――起き出すと、さすがにお腹が空いていて、軽く食事をし、それから掃除、洗濯。これは音がするので、夜中にはやれないのだ。
コンビニの勤めは夜からなので、|一《いっ》|旦《たん》近くのスーパーへ買物に出た。日用品を買って帰り、正巳が帰ったときの食事を用意して冷蔵庫へしまう。
正巳あてのメモに、そのことを書いて、さて、そろそろ仕度だ。
コンビニに慣れて来たら、何かもう一つ仕事を捜そうかと思っていた。何といっても、二人とも「日当いくら」の仕事で、いかにも不安定だ。
こういう暮しは覚悟の上だが、そう分っていても、あまり続くと何かのときに不満が爆発するかもしれない。
貧しさが人間を変える、ということ。沙恵子はよくそれを知っていた。
夜中の十二時前後、コンビニは一つのピークになる。
実際、沙恵子も決して「早寝早起き」の生活をしていたわけではないが、こうして働いていると、夜昼逆の暮しをしている人の多いことに驚く。
「ありがとうございました」
いつも同じ時間に現われる男の子。――たぶん、大学を受験しようとしているのだと思うが、いつも半分トロンと眠ったような目をしていて、とても勉強している風には見えない。
その様子と、決った時間に、一分と狂わず現われるというところが、何とも奇妙なのだった。
「――少し落ちつきましたね」
と、バイトの大学生が言った。「すみません、沙恵子さん――」
「タバコ一本、でしょ。どうぞどうぞ」
いつもの習慣みたいなものである。
「すみません、それじゃ」
と、奥へ入って行く。
大丈夫。今は店の中もほんの二、三人の客。
沙恵子は、ちょっと体を伸ばして、|拳《こぶし》で腰を|叩《たた》いてみたりした。――ずっと立っているというのは、腰や背骨に無理がかかるものなのだろう。
「あら、忘れ物?」
傘が一本、カウンターの端に置かれていた。
――降りそうな天気というわけでもないが、夜は空模様がよく分らないので、傘を持っている客が多い。
誰か、忘れた人が取りにきたときのために、沙恵子はその傘をカウンターの中へ置いた。
「お願いします」
と、声がして、
「はい! いらっしゃいませ」
反射的に答えて、手はクッキーの袋をつかんでいた。バーコードを機械が読み取る、ピッという音。
しかし、そこで沙恵子の手は止ってしまった。
レジの前に立っていたのは、浅香八重子だった。
「――他にもあるわよ」
と、八重子は言った。「早く会計を」
沙恵子は震える手で他の物をつかんだが、何を手にしているのか分らなかった。
「千八百二十三円です」
機械的に言って、手さげの袋に入れようとする。
「袋はいいわ。自分で持って来てるから」
と、浅香八重子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「少しでも、資源のむだづかいを避けたいわよね」
沙恵子は、品物を八重子の方へ押しやった。
「ありがとうございました」
八重子の支払いは、きちんと一円玉まで額面通りだった。
浅香八重子は、チラッと他の客を振り向いて見た。
「――買いたい物もないのに来ているお客さんもいるのね」
と、面白そうに言って、「大分捜したわよ。でも、分ってたでしょう。どうせいつかは見付かるのよ」
「放っといて下さい。――お願いですから」
沙恵子は、抑えた声で言った。「もう私に用なんかないでしょう」
八重子は鋭い目で沙恵子を見つめて、
「間違っちゃいけないわ。あんたはもう『汚れてる』のよ。普通の汚れじゃない。洗っても、決して落ちない汚れなの」
「私は――」
「自分だって分ってるでしょう」
と、八重子は遮って、「本気であの男に|惚《ほ》れたって、本当のことが分りゃ、どうなるか……」
沙恵子は、一瞬よろけた。カウンターにつかまって、何とか立っていられた。
「――どうしろって言うんです」
「後がなかなか手こずっててね」
と、八重子は言った。「あの奥さんと娘が、結構しぶとく頑張ってるの。落合なんか、あの鼻っ柱の強い娘に惚れてるんだけど、手ひどい目に遭ってるわ」
沙恵子は、初めて少しゆとりを持って八重子を眺めた。
「それはお気の毒ですこと」
「|他《ひ》|人《と》|事《ごと》みたいなことを言うわね」
「他人事ですもの」
「そうはいかないよ」
と、|凄《すご》|味《み》のある声で、「あんたも同罪だよ。いざってときはね」
沙恵子は唇をかみしめた。そうしないと、叫び出してしまいそうだ。
「――父親をエサにして、あの娘を誘い出して」
と、八重子が言った。
「私にそんな――」
「力を貸してくれりゃ、あんたたちの邪魔はしないよ」
と、八重子は言った。「何があっても、知らなきゃ気にならないだろ? あの男にゃ黙ってればいいんだから」
沙恵子は、少しの間黙っていた。
「――信じられません」
「そうだろうね」
と、八重子は笑って、「明日、また来るよ。考えときなさい」
そして、バッグから封筒を出すと、ポンとカウンターに投げ出して、
「ラブレターだよ」
と言って、店を出て行った。
沙恵子は、|膝《ひざ》が震えて立っているのがやっとだった。そこへ、タバコを|喫《す》いに出ていた大学生が戻って来る。
「やあ、すみませんでした」
と、大学生は戻って来て、「沙恵子さん、どうしたんですか? 真青ですよ」
と、びっくりする。
「ちょっと……貧血気味なの」
とっさに、沙恵子は言った。「少し休んでていいかしら」
「ええ、もちろん。帰った方がいいんじゃないですか?」
「いえ、少し休めば良くなるわ」
沙恵子は店の奥へと入って行った。
コンビニは、狭いから、休憩する場所などあるわけではない。沙恵子は、積まれた段ボールに腰をおろして、何度も息をついた。
手が、浅香八重子の置いて行った封筒を握りしめている。
何だろう? ――恐る恐る、沙恵子は封筒を開けてみた。
フワリと一枚、紙が落ちた。足下に落ちたのを拾い上げてみる。
――小切手だった。額面は、百万円。
沙恵子は|呆《ぼう》|然《ぜん》としてそれを眺めていた。
「そんな……」
と、|呟《つぶや》く。「そんなこと、できないわ」
引き裂いてしまおう。こんな小切手なんか!
百万円。たかが百万円で、どうしようというのだろう?
お金さえ出せば言うなりになると思っているのだ。あの女は……。
沙恵子は、じっと小切手を見つめていた。
明日。――明日、また来る、と八重子は言っていた。
そのとき破ればいい。破って、|叩《たた》きつけてやればいい。何も、今破らなくたって……。
沙恵子は、小切手を二つに折ると、エプロンのポケットへ押し込んだ。
それから店へ戻ろうとしたが、思い直して、ロッカーの扉を開け、小切手を自分のバッグへしまう。
使うつもりじゃないのよ。――そうよ。
明日まで、失くさないようにしなくちゃいけないから。エプロンのポケットに入れたまま忘れちゃったら大変だから……。
「――もう大丈夫」
レジに戻って、沙恵子は言った。
男が一人、サンドイッチの包みをレジに置いた。
「いらっしゃいませ」
沙恵子は、いつもの通りに応対し、男はサンドイッチを手に出て行った。
――何となく、気になる男だった。
見かけたことがない。少なくとも、記憶に残るほど来てはないはずだ。
それなのに……。沙恵子は、どうして今の男のことが気になったか、気付いた。
男は、沙恵子のことを、一回も見ようとしなかったのである。
わざと目をそらしていたのだろうか?
沙恵子は、その男の客のことが、どうしてか気になってならなかった……。
――その日は、朝までがひどく長く感じられた。
コンビニを出てアパートへと帰る足どりも、いつになく重い。その理由が浅香八重子にあるのは確かだったが、それだけではない。
どうしてもそれを正巳に話すことができないということ。そのことを、浅香八重子も承知している。それがいっそう沙恵子の足どりを重くしていた。
アパートへやっと|辿《たど》り着いた(本当にそんな気分だった)沙恵子は、玄関のドアを開けてびっくりした。
|鍵《かぎ》をかけてない! ――正巳が帰っているのは分っていたが、鍵をかけ忘れるなんて、あの人らしくない……。
「あなた……。ただいま」
と、沙恵子は言った。「寝てるの?」
薄暗い部屋の中から、
「うん……」
と、低い声がした。
「ごめんなさい。眠ってたのね」
沙恵子は上ると、「――何も食べてないの? 体に悪いわ」
と言った。
正巳は何も言わず、布団をひっかぶるようにして寝ている。
よほど疲れたのだろうか。
沙恵子は、ともかくそっと寝かせておこうと思った。
しかし――沙恵子は戸惑った。正巳の脱いだ服が見当らない。
ズボンも、ワイシャツも。
「あなた……。ズボンとか……。どこにあるの?」
正巳は答えなかった。沙恵子は初めて不安を覚えた。様子が変だ。
「どうかしたの? ――ね」
そっと膝をついて、正巳の方を|覗《のぞ》き込む。
「ちょっと……転んで」
かすれた声を出し、正巳は|咳《せ》き込んだ。
「まあ! けがしたの? 見せて」
「いや……大丈夫……」
苦しげにむせる。
普通じゃない。沙恵子は明りを|点《つ》けると、布団をめくった。
沙恵子は青ざめた。――正巳はズボンもワイシャツも泥だらけで、すり切れている。
「何があったの!」
と、仰向けにして、さらに息をのむことになった。
正巳の顔が、唇が切れ、青くはれ上っていたのである。
「客の……ケンカを止めようとしたら、こっちが殴られてね……」
正巳は笑おうとして、咳き込んだ。
決 心
沙恵子は腕時計を見て、
「もう行くわ」
と言った。「仕事の時間だから」
正巳が小さく|肯《うなず》く。
「ゆっくりやすんでね。帰りに何か食べる物を買って来るわ。体力つけて治さなくちゃって、お医者さんもおっしゃってるから」
「すまんな……」
と、正巳は言って、咳き込んだ。
「しゃべらないで。――ね。じっと目をつぶって、眠るのよ。心配しないで」
沙恵子は、そっと立ち上った。
――病院は古くて、暗かった。
正巳は、その八人部屋の病室に入院している。転んで打ったという胸の痛みがひどいので、沙恵子は午後、この病院へ正巳を連れて来た。
検査の結果、|肋《ろっ》|骨《こつ》にひびが入っていた。しかし、それは大したことではなかった。
「|気胸《ききょう》です」
と、医師が言った。「片方の肺が破れている。風船が割れてしぼんだようにね」
レントゲン写真は、右の肺が三分の一ほどに縮んでしまっているのを映し出していた……。
絶対安静で、即入院。――沙恵子は、何とか手続きをすませ、正巳を入院させた。
肺の穴がふさがり、自然に機能を回復するまで、一か月以上かかると言われた。
沙恵子は、病院を出ると、コンビニへと向った。少し遅刻しそうだが、連絡は入れてある。
バスに乗っていると、涙がこぼれて来て困った。
「過労も原因だね」
と、医師は言ったのだ。「無理してたんじゃないですか?」
無理……。あの人に、カラオケビルで働かせた。
そもそも、そんな仕事などしたこともない人だ。沙恵子には何も言わなかったが、ストレスがたまっていたのは当然だろう。
ごめんなさい……。ごめんなさい。
沙恵子は、バスの周囲の客の視線も構わず、すすり泣いた。
浅香八重子は、正確に夜十二時に現われた。
「――ちょっと頼んでいい?」
と、沙恵子は大学生の子に言ってレジから出た。
浅香八重子と二人で表に出る。
パラパラと雨が降り始めていた。
「寒いわね、もう」
と、八重子が首をすぼめ、「――考えてみた?」
沙恵子は、エプロンのポケットに手を突っ込んで言った。
「やります」
八重子はちょっと意外そうに、
「やるって……。私の頼んだ通りにしてくれるってこと?」
「ええ」
沙恵子は八重子を見て、「その代り、約束して下さい。これで、もう私たちを追い回すのはやめると」
「いいわよ」
と、八重子は肯いた。
「それと……あと百万円。私たちが新しい暮しを始める費用に」
八重子は薄笑いを浮かべて、
「何があったのか知らないけど、あんたもまともになったわね」
と言った。「いいわ。ただし、その分は後払い」
「分りました」
沙恵子は、暗がりの方へ目をやって、「何をすれば?」
「金倉のものを何か使って、娘をおびき出したいの。何か持って来てちょうだい」
「分りました」
「まあ、当人に電話させるのは無理だろうけど、あんたのことはもう知ってるから、あんたが電話したら信用するわよ」
「おびき出して、どうするんですか?」
「落合が好きにするわよ。四、五人であの子一人、|可《か》|愛《わい》がってやれば、あの親子もこりるでしょ」
沙恵子は目を伏せて、
「――命をとったりしないでしょうね」
「それはないわ。傷一つつけないで帰してやるわよ。大丈夫」
「分りました」
「その後で、百万払うわ。現金の方が?」
「できれば」
「じゃ、後は二人で好きなようにしなさい。一切干渉しないわ」
「本当ですね」
と、念を押す。
「信用しなさい、たまには」
と、八重子は笑った。「じゃ、明日またね。何か持って来るのよ」
「ええ」
沙恵子は、八重子を呼び止めて、「ちょっと。店に来たんだから何か買ってって下さい」
八重子は苦笑して、
「商売上手になったわね」
と、コンビニの中へ入って行った。
沙恵子はレジに戻って、大学生の男の子へ、
「タバコ、|喫《す》って来ていいわよ」
と、声をかけた。
八重子は、雑誌を持って来てレジに置いた。
「四百八十円です」
沙恵子は、五百円玉をもらって二十円のおつりを渡した。
「じゃ、頑張って」
八重子はブラリと出て行った。
「――心配しないでね」
と、沙恵子は言った。
「そう言われても……」
正巳の声はかすれている。
「だめ。口をきかないこと」
沙恵子は正巳の方へかがみ込んで素早くキスした。
ベッドの周りはカーテンが引いてあって、見られる心配はない。
正巳が気にしているのはもっともで、沙恵子は初め入院させていた病院から、この新しくてきれいな大病院へ、正巳を転院させたのである。
病室はさすがに個室というわけにいかないけれど、二人部屋で、スペースもゆったりしている。明るい日射しが病室一杯に|溢《あふ》れて、それだけで何となく元気になって来そうな気がするのだった。
「だけど……」
「いいの」
沙恵子は人さし指を正巳の唇に当てて、「例のお友だちの紹介でね、いいお仕事が回してもらえたのよ」
確かに、今日の沙恵子は真新しいスーツ姿で、どう見ても一流企業の秘書とでもいう感じだ。
「ただ、お給料がいい代りに忙しくなっちゃうけど。仕方ないわね」
沙恵子は腕時計を見て、「そろそろ行かないと。――東京で一晩だけ泊って、帰って来るわね」
正巳は、小さく|肯《うなず》いた。
「すまんな」
と、|呟《つぶや》くように言う。
正巳がいかに|呑《のん》|気《き》でも、二十何年もサラリーマンをやって来たのだ。働きもしないで給料をくれる所はない、と分っている。いい給料の所は、それだけの仕事をしなくてはならないのである。
「私に謝ったりしないでね」
と、沙恵子は手を正巳の額に当てて、「あなたに無理をさせて、申しわけないのは私の方だわ」
沙恵子は何となく目をそらしてしまった。
「新幹線の時間だわ。ここからは近いから、十分もあれば行くわね。――ちゃんと、食事もしてね。前の病院よりはずっとましでしょ?」
正巳がちょっと笑顔になって、肯く。
確かに、初め入院した病院の食事たるや、見ただけでげんなりするしろものだった。
「明日の夜には、来るわ」
沙恵子が正巳の手に自分の手を重ねた。
「僕は……大丈夫」
肺に穴が開いている正巳は、あまりしゃべれない。沙恵子の手を、力をこめて握るくらいしか、|応《こた》えるすべがなかった。そして――正巳の目に、ふと|辛《つら》そうな色が浮かんだ。
沙恵子は、正巳の表情を敏感に見てとった。
「なあに?」
と、ベッドの方へかがんで、小声でも聞き取れるようにする。
「いや……」
正巳はかすかに首を振った。
目をそらしている、その様子が、沙恵子に言葉以上に雄弁に語りかけていた。――口にするのは辛かったが、沙恵子は、その辛さを隠して言った。
「お宅のことね」
正巳が沙恵子を見る。沙恵子は続けた。
「奥さんと、お嬢さんがどうなさってるか、見て来てほしいんでしょ? そうでしょう?」
正巳は、沙恵子から目をそらした。
彼の胸中は痛いほど分る。――東京へ行くという沙恵子に、自分が出てしまった後の家の様子を見て来てほしい。しかし、沙恵子にそれを頼むのは、ひどいことだ。家も家族も、すべてを捨ててやり直すと決めたのに、今さら……。
「――やさしい人ね」
沙恵子は、正巳に|微《ほほ》|笑《え》みかけた。「いいわ、ちゃんと見て来るわよ」
正巳が、沙恵子を見つめた。
「その代り、あなたも早く元気になるのよ。お医者さんの言うことをよく聞いて。分った?」
正巳は肯いて、
「ありがとう……」
と言った。「すまん……」
「もう、しゃべらないで」
沙恵子は、もう一度正巳にキスして、立ち上ると、カーテンを開けた。
「じゃあ……行ってくるわね」
と、ボストンバッグを手にとる。
正巳が手を上げて、小さく振った。
沙恵子は笑顔で手を振り返すと、病室を出た。
廊下を行く内、沙恵子はふとよろけた。
ソファのある所まで何とか歩いて行くと、バッグを床に落とし、ソファにぐったりと座り込んで、両手に顔を伏せた。
声を上げて泣きたかった。泣き叫びたかった。
しかし、涙は出て来なかった。――そんなにも、自分の心は乾いてしまったのだろうか?
ガラガラと音がして、顔を上げると、点滴のスタンドを引張って|覚《おぼ》|束《つか》ない足どりの老婦人が、|寝《ね》|衣《まき》姿でやって来た。
見ていると、その老婦人はソファのわきに二台並んでいる公衆電話へと|辿《たど》り着いて、一息ついている。
大方、家へ電話でもかけるのだろう。
沙恵子は髪をちょっと直すと、気を取り直して、バッグを手に立ち上ろうとした。
そして、妙なことに気付いたのである。
「もしもし。――はいはい、おばあちゃんよ。――うん、とっても元気よ。お母さんは? お買物? そう。じゃあ、昨日持って来てくれたお弁当はとってもおいしかったって、お母さんに言ってちょうだい。おばあちゃんがそう言ってたよ、って。分った? ――はい、そうね」
はた目には、入院しているおばあさんがうちへ電話をかけているだけで、特に珍しい光景でもない。
しかし、沙恵子は、その点滴の袋を連れた老婦人がやって来て公衆電話に向うのを、ずっと見ていた。――間違いない。
彼女は、公衆電話に、テレホンカードも、十円玉も入れなかった。ただ受話器を取ってしゃべり出したのである。
「――今日もお友だちが何人もお見舞に来てくれてね。楽しかったのよ。――ええ、忙しいでしょうから、無理をしないでね。――はい、待ってるわ。じゃあ、みんなによろしく。――はい、さようなら」
老婦人は受話器を戻した。十円玉も、テレホンカードも戻らない。
「おばあちゃん、またおうちにお電話してたの?」
と、通りかかった看護婦が声をかけた。
「はい。一日一度はかけないと、うちで心配するんでね……」
「そうね、みんな元気だった?」
「はい、おかげさまで」
「良かったわね」
老婦人は、また点滴のスタンドをガラガラと引張りながら、頼りない足どりで戻って行く。
若い看護婦は、それを見送っていた。
「あの……」
と、沙恵子は声をかけていた。
「何でしょう?」
「あの……。今のおばあさん、電話かけてたんですか。本当に?」
「ああ、見てらしたんですね」
と、看護婦は微笑んで、「お分りでしょ? 本当はかけちゃいないんです」
「やっぱり……」
「本人はどうなのか……。かけてるって信じているのかもしれません。それとも、見栄をはっているのか。――入院して一年以上たつんですけど、お宅の方がお見舞に来たことなんか、一度もないんです」
看護婦が肩をすくめた。「気の毒ですけど、私たちじゃどうしようもありませんしね」
――看護婦が行ってしまうと、沙恵子は自分がひどく寒々とした空地の真中にでも置き去りにされたような気がして、ゾッとした。
あの老婦人はいくつだろう? 七十か八十か……。
あと四十年もしたら、自分もああなるのだろうか。
いけない。
ぐずぐずしてはいられないのだ。
沙恵子は、気を取り直してボストンバッグを手に病院の玄関へと向った。
――新幹線のホームへ上ったときには、もう発車のベルが鳴っていた。
あわてて目の前の乗降口へ飛び込んで、息をつくと、スルスルと扉が閉った。
指定席券を手に、車両から車両へと歩いて行く。――車内は、ほぼ満席だった。
自分の席を見付け、バッグを棚へ上げておいて、腰をおろす。
「心配したわよ」
と、隣の席で浅香八重子が言った。
「病院へ寄っていたんです」
沙恵子は、座席のリクライニングを倒した。
「――大変ね、病人に|惚《ほ》れると。一生、その調子で、あんたが面倒みることになるかもしれないわよ」
「構いません。私のことは放っといて下さい」
「もちろん」
と、八重子は|眉《まゆ》を上げて、「あんたが、ちゃんと約束さえ果たしてくれたら、何も言わないわよ」
「そのために来たんですから」
沙恵子はそう言って、目を閉じた。「――ずっと、夜昼逆の生活だったんです。眠らせて」
「東京に着いたら起こしてあげるわよ」
八重子はそう言って、週刊誌を眺めた。
――むろん、沙恵子は眠っていたわけではない。八重子とは口をききたくなかったのだ。
正巳の体が元に戻るのにひと月かかるとして、入院の費用だけでどれくらいになるか。
その後も、正巳はそう無理がきくまい。
沙恵子の稼ぎで暮していくことになる。しかし、何をして?
沙恵子は、たとえ正巳が寝たきりの身になっても、自分一人で働いてやっていこうと思っている。でも、その気持と、現実にそれだけの金が稼げるかは別である。
少なくとも、普通の事務だの工員だので、生活を支えていくことはとても不可能だ。正巳が働いてくれたとしても、体に負担にならない仕事では、お金にもなるまい。
どうしたらいいのだろう。――どうしたら。
眠る気はなかったが、体は眠りを求めていたようで、ついウトウトした。
正巳と二人で川べりの道を散歩している姿が、夢に現われた。
二人で? ――いや、二人の間に、両方から手をひかれた、小さな「もう一人」がいる。
そう。私たちの子、正巳さんと私の子だ。
その光景は、ごく自然で、当り前のものだった。夢ではない、現実の風景のようで、沙恵子は胸が熱くなるのを感じたのだった。
つながり
「じゃあ……。また来ます」
と、亜紀は立ち上った。
「いつもありがとう」
と、松井健郎はベッドで小さく|肯《うなず》いた。
「もう、ずいぶん良くなった。無理して毎日来なくてもいいよ」
と、健郎は言ってから、「――来てもいいけど」
と、付け加えた。
二人は一緒に笑った。
亜紀は|嬉《うれ》しかった。健郎が一緒に笑ってくれること。それだけ元気になったことが、嬉しかった。
「あら、楽しそうね」
病室のドアが開いて、ミカが入って来る。「お邪魔だったかしら?」
「今、失礼しようと思ってたとこよ」
「ゆっくりしていけばいいのに。お団子、買って来たのよ」
と、ミカは紙包みを見せた。
「誘惑されるなあ、それには。でも、お母さんが待ってるから、じゃ、ミカ、またね!」
亜紀は|鞄《かばん》を手に、病室を出て行った。
「――どう?」
ミカがベッドに近付いて、「お団子、食べるでしょ」
「|俺《おれ》を太らそうって陰謀だな」
と、健郎は手を伸ばした。
「だめだめ。ちゃんとおててをきれいにしないとね」
ミカが熱く|濡《ぬ》らしたタオルで、兄の手を|拭《ふ》く。「――はい、これでよし」
「いやに親切だな。後が怖い」
と、健郎は|串《くし》に刺した団子を食べながら、「――|旨《うま》い」
「お兄ちゃん」
ミカは|椅《い》|子《す》にかけて、「亜紀を縛っちゃだめだよ」
「何の話だ?」
「亜紀には、君原さんって人がいるんだから。でも、お兄ちゃんにけがさせた責任が自分にあると思ってるから、亜紀はこうやって毎日お見舞に来てる」
健郎は、ミカの顔を見て、
「何だ、急に。――何も、今すぐ結婚しようってわけじゃない。お前が心配することないだろ」
「心配よ」
ミカは、明るい日射しの入って来る窓辺に行った。
土曜日なので、学校も午前中。亜紀は、いつもは夜八時ごろまでここにいて、帰るのである。
「退院すりゃ、見舞も毎日ってことなくなるさ。そうだろ? 入院している間はいいじゃないか。ちっとは病人にもいい思いさせてくれなきゃな」
と、健郎は言って、最後の団子を口へ入れた。
ミカは、窓辺に立ったまま、兄の方を振り向いた。
「私が看病しても、『いい思い』できないのね」
「おい……。お前は妹だぞ。他人とは違うだろ」
「他人でしょ。――血のつながってない妹なんだから」
つい、言ってしまった。
健郎はじっとミカを見つめて、
「どうして知ってる」
「いつか、お兄ちゃんとお母さんがしゃべってるの、聞いたの」
「そうか……」
健郎は、団子の串をわきのテーブルに置くと、「しかし、ずっと一緒に育って来たんだ。そうだろ?」
「私、誰の子?」
と、ミカが|訊《き》く。
「そんなこと聞いて、どうするんだ」
「知る権利があるわ。そうでしょ?」
健郎は、天井へ目をやって、
「俺だって、よく知らないよ」
「|嘘《うそ》! 隠さないで、教えてよ。――中途半端に秘密を知ってるなんて、いやだ」
ミカは、後へは引かないという目で、じっと兄を見つめている。
健郎はため息をついて、
「俺に言わせるのか。|親《おや》|父《じ》かお袋に訊けよ」
「正直に言うわけないじゃない」
確かに、ミカの言う通りだ、と健郎も思ったのだろう。
「――俺は、今の親父の子じゃない」
「え?」
「お袋は二度目の結婚なんだ。俺は前の亭主の子。分るか?」
「うん」
ミカは、|椅《い》|子《す》にかけて肯いた。
「お前は……。そう言えば分るだろ」
ミカは、少し青ざめていた。
「私は……お母さんの子じゃないのね」
「そういうことだ。親父が、恋人を作って、その女性がお前の母親だ」
ミカは、息することさえ忘れて、健郎を見つめていた。
「だけど、その人は病気で死んだんだ」
と、健郎は言った。「少なくとも、俺はそう聞いてる」
「私のお母さん……死んだの」
「それで、お前は赤ん坊のとき、うちへ引き取られて来た。――確かに、俺とお前は血がつながってない。だけどな、人間、自分が生れて来たときのことなんか、誰も|憶《おぼ》えちゃいない。そうだろ? 育って、育てられて、親子、兄妹なんだ。だから俺とお前は兄と妹だ。――分るだろ」
ミカは、健郎の手を両手で包んだ。何も言わず、ただじっと包んでいた。
「ミカ――」
「黙ってて」
と、ミカは健郎の言葉を遮った。「すぐに納得しろって言われても無理よ。そうでしょ?」
「ああ……。そうだな」
健郎は、血のつながらない妹を、じっとベッドから見上げていた。
「――でも、私はずっとお兄ちゃんが好きだった。これからもよ」
「俺だってそうだ。――な、ミカ。恨むなよ、親父やお袋を。お袋は、俺を産むとき難産で、その後、子供のできにくい体になったんだ。だけど、親父はどうしても自分の子供がほしかった」
ミカは、じっと窓の方を見つめて、兄の話を聞いていた。
「お前を引き取って、お袋は自分の子供のように育てたんだ。それは大変なことだぞ」
「うん……。分る」
「いいな。何も知らないことにしててくれ。それが一番いいんだ」
ミカは|微《ほほ》|笑《え》んで、
「私だって、そんなことでグレたりするほど単純じゃないもん」
と言った。
健郎は、ホッとしたように笑った。
――亜紀は、気配を感じられないように、ソロソロと後ろへ|退《さ》がった。
病室の中では、健郎の明るい声が聞こえている。亜紀は廊下を緊張した足どりで歩き出し、病室から遠ざかると、やっと普通の足どりになった。
玄関から外へ出て、足を止める。
振り向くと、病院の建物が午後の日射しの中で光っていた。
――聞いてしまった。
ミカに、学校のことで念を押しておきたいことがあったのを思い出し、亜紀は病室へ戻ろうとした。そして、ミカと健郎の話を聞いてしまったのである。
ミカ……。
大好きな「お兄ちゃん」が他人だったなんて。どんなに|辛《つら》いだろう。
健郎と亜紀が付合うことに対して、ミカが見せる複雑な反応も、これで納得がいった。
とはいえ、亜紀にはどうすることもできないのだ。それは、ミカと健郎の問題なのだから……。
亜紀は、ゆっくり歩き出した。
家へ帰って、やっておくことがある。母、陽子が出歩いているので、亜紀が家事を大分やるようになっていた。
ふと、誰かが斜め後ろを歩いてくるのに気付いて振り向き、ハッとした。
あの男。――落合である。
しかし、今日の落合はサングラスをしていなかった。
「何の用?」
警戒して、亜紀はサッと落合から離れた。
しかし、昼間で、人通りも多い。ここでどうするということはあるまい。
「そう毛嫌いすんなよ」
と、落合は口を|尖《とが》らした。「|俺《おれ》だって、そう嫌ったもんじゃねえぞ。いいとこあるんだぞ」
「自分で言う人、ある?」
「そりゃそうだけど」
サングラスがないせいで、落合はひどく子供っぽく見えた。せいぜい二十一、二なのだろう。
強がって見せるためにサングラスをしているのだ。
「――サングラス、どうしたのよ」
と、亜紀が訊くと、
「この間、お前の仲間がめちゃめちゃにしやがったじゃねえか」
と、恨みがましい口調で言う。
「新しいの、買えばいいでしょ」
「こづかいがないんだ」
と、落合は言った。
何だか貧乏くさいヤクザである。
「今、あんたがひどい目に遭わせた健郎さんの所から帰る途中よ。いいとこがあるって言うんだったら、謝りにでも行ったらどう?」
一対一だと、何だかあまり怖く感じないせいもあってか、亜紀は言いたいことを言っていた。危険かもしれない。でも、黙っているのはいやだ。
だが、意外なことに、落合は怒りも|凄《すご》みもしなかった。亜紀の視線を受け止めるのが辛いという様子で、目を伏せてしまう。
「悪かったとは思ってるよ」
と、口の中でボソボソと言う。「だけど俺だって……」
「え?」
「いや……。ま、謝っといてくれよ。代りに」
「どうして私があなたの代りに謝るの?」
「そう怒るなって」
落合は、ちょっとため息をついた。「だけど、お前もよく粘るよな。どうせ、すぐ|尻尾《しっぽ》巻いて逃げ出すと思ってたのに」
「借金のかたに、って言うんだったら、さっさと手続きすりゃいいじゃない」
と、亜紀は言った。
そう。なぜ浅香八重子が、借用証書を見せつけて正面からやって来ないのか、亜紀にはふしぎだったのだ。
「色々あるのさ」
と、落合は肩をすくめた。「だけど、あの人にゃ用心しな。俺とは違うぜ」
「あの人って……。浅香とかって人?」
「ああ。俺だって、あの人は怖いからな」
落合の言い方は本気だった。
亜紀は、この落合という男が、浅香八重子の言うなりになっていることを恥じている、と感じた。
でも、怖いので離れられないでいるのだ。
亜紀は、チラッと通りを見渡して、バス停を見付けると、
「あのベンチに座らない?」
と言った。
「何だ、疲れたのか。もうトシだな」
と言い返しながら、落合は|嬉《うれ》しそうだ。
二人でベンチに腰をおろす。――むろん、少し間を置いて座った。
「あの人は、金を取り立てるのが商売だ」
と、落合は言った。「だけどな、金は第一の目的じゃない。その家族をいじめて追い詰めて、|怯《おび》えるのを見て楽しんでるんだ。それがあの人の一番の目的なのさ」
浅香八重子。――お父さんも、とんでもない女に|狙《ねら》われたもんだわ、と亜紀は思った。
「だから、あの人にとっちゃ、お前のとこは頭に来るのさ。力になってくれる|奴《やつ》が一杯いるし、お前とお袋も頑張ってるし」
「恐れ入ります」
と、亜紀は言ってやった。「あんた、いやなのね。その女の言うなりになってるのが。それならやめりゃいいじゃないの」
落合は苦笑して、
「すぐ消されちまうよ、そんなことすりゃ」
「殺されるってこと?」
「ああ」
落合は亜紀を見て、「用心しろ。お前らだって、いつまでもそうしちゃいられないぜ。あの人が本気で怒ったら……」
バスが来るのが見えた。落合は立ち上って、
「ちょうど来たか。俺は乗ってくぜ」
と言った。「――また会いたいな」
「こっちは会いたくない」
「そうだろうな」
落合は、停ったバスの方へ行きかけて、ふと戻って来ると、ポケットからメモを出し、
「お前の|親《おや》|父《じ》さん、入院してる」
「え?」
「これが病院だ。――じゃあな」
メモを亜紀の手に押し込んで、タタッとバスへ駆けて行く。扉がシュッと音をたてて閉まる寸前に、落合は飛び乗った。
亜紀は、バスが走り去るのを、|唖《あ》|然《ぜん》として見送っていたが……。
「お父さんが……」
入院? 急いでメモを見る。
大阪の病院だ。――本当だろうか?
亜紀は、今の落合の様子から見て、きっと事実だと思った。
メモには、病室の番号まで入っている。
入院してる……。お父さん!
亜紀は、そのメモを大切に|鞄《かばん》の中へしまい込むと、早く母にこのことを話そうと、足早に歩き出した。
家の前まで来て、亜紀は足を止めた。
玄関の所に立っている女の後ろ姿――。
「あら、良かった」
振り向いたのは、円城寺小百合だった。「呼んでたんだけど、お留守のようだったから」
「母、出かけてて……」
と、亜紀は言ったが、実際はもう帰るころだ。
少しためらってから、
「あの……どこか他で話してもいいですか?」
と言った。
「ええ。その方が話しやすいわね」
小百合は、大分元気そうに見えた。
亜紀は、近くに喫茶店などないので、仕方なくおそば屋さんに入って、そう食べたくもなかったが、ざるそばを一緒に食べることになった。
「――色々、大変だったのね」
小百合は、亜紀の話を聞いて|肯《うなず》いた。
「何だか、もう毎日が大騒ぎで……。母はお友だちのご主人のつてで、仕事を捜してるんです。今日もそれで出かけて」
「じゃあ……お父様はそれっきり?」
「ええ」
亜紀も、父が入院しているという話までは、口にできなかった。この人には関係ないことなのだし。
「あなたも学費とか、色々かかるでしょう」
「当面は何とか食べていくぐらいのこと……。でも、何か月となると、どうなるか。――学校、やめて働いても、とも思ってるんですけど」
小百合は何だか少しふしぎな目をして亜紀を見ていた。
「いけないわ」
「え?」
「学校をやめるなんて。お友だちがいて、先生がいて、青春とか、若いころの思い出って、あなたの年ごろが一番豊かなのに……。ね、何としても、ちゃんと学校へ行くのよ」
小百合が熱っぽいほどの口調で語りかけてくるのを、亜紀は圧倒されるような思いで聞いていた。
もっとおっとりした、浮世離れした感じのある小百合だったが、今日はどことなく違っていた。
「――分りました。もちろん、学校やめたいわけじゃないんです。先生も、学費を免除できるように努力してくれてて」
「そうよ! そういう気持に|応《こた》えなくちゃね」
「はい」
亜紀は明るく肯いた。
「――良かったわ、あなたと話せて」
小百合は立ち上った。
亜紀は、戸惑った。何か別の用件で来たんじゃないのだろうか。
小百合がおそばの代金を払ってくれて、
「ごちそうになってすみません」
と、亜紀は表に出て言った。
「いいのよ。――お母様のことを助けて、しっかりね」
「はい」
円城寺小百合は、
「じゃあ」
と、ひと言言って、足早に帰って行ってしまった。
亜紀は首をかしげた。
あの人、自分の夫とお母さんのことでやって来たんじゃないのかしら?
亜紀とも、前からそのことは話し合っている。どうして何も言わずに帰って行ったんだろう?
亜紀が家へ帰ってみると、母ももう戻っていた。
「――いつも、お弁当でごめんね」
と、陽子は言った。「今から作ってたんじゃ遅くなるし」
「いいよ、私は」
と、亜紀は鞄を開けながら、「仕事の方は?」
「うん……。今はそうでなくても人手が余ってるから。お母さん、何の特技もないものね。口はきいてくれたんだけど、向うも申しわけなさそうに、『辞める人がいたら、必ず連絡します』って」
「そうか……。甘くないね」
「そりゃそうよ」
と、陽子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「さ、食べましょ。お腹空いたでしょ?」
たった今、おそばを食べたとも言いにくかった。
「お母さん……」
母にショックを与えるのが心配で、さりげなくメモを渡す。「これ……」
陽子はメモを見て、
「この病院がどうしたの?」
「お父さん、そこに入院してるんだって」
陽子は、言葉を失っていた。
亜紀が、健郎の見舞の帰り、あの落合という男に会ったことを話すと、陽子はそのメモを手にしたまま、ダイニングの|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
「お母さん……」
「入院……。どこが悪いの?」
「それは言ってなかった。電話してみる?」
陽子は、少しの間メモを見つめていたが、
「――行ってみるわ」
と言った。「電話して、もし私だと知れたら、いなくなっちゃうかもしれない」
「うん……。そうだね」
陽子は、時計を見て、
「今出れば、新幹線がまだあるわ。亜紀、今夜一人で大丈夫?」
母一人に行かせるべきだ。亜紀はそう思って、しっかり肯いた。
一人の夜
陽子が手早く支度をして、
「じゃ、出かけるわ」
と、亜紀に声をかけるまで、三十分もかからなかった。「新幹線だから、行って適当に乗ってから、切符を買うわ」
「そうだね」
「じゃ――ごめんね、亜紀」
「私は大丈夫」
陽子は、玄関のドアを開けようとして、
「――亜紀。やっぱりあんた一人じゃ心配。あの方――君原さんって方に来てもらったら?」
「え? だって……」
「何かあれば言ってくれ、とおっしゃってたじゃないの」
「そりゃそうだけど――」
「泊っていただけばいいわよ。あの人なら大丈夫」
「信用あるんだ。聞いたら照れるよ、きっと」
と、亜紀は笑った。「分った。連絡してそう頼むから」
「そうして。お母さんも、その方が安心して出かけられるから」
陽子は、ホッとした様子で出かけて行った。
「お母さん、変ったな……」
と、きちんと|鍵《かぎ》をかけて、亜紀は|呟《つぶや》いた。
適当に列車に乗ってから、切符を買う、だなんて。以前の母なら絶対に考えられない。
ちゃんとどの列車に乗るか決めて、前もって切符を買っておかなければ気がすまなかったろう。でも、今は違う。
何とかなる。――そう考えるだけの|逞《たくま》しさが身についたようだった。
「君原さん……」
どうしよう? もちろん、一人でいるのは心細くもあるけれど。
一応電話してみよう。君原の声を聞くだけでもいい。
「――もしもし」
かけると、眠そうな声が返って来た。
「君原さん? 亜紀です。寝てたの? ごめんなさい」
「やあ! 君の声で目が覚めたよ」
と、君原は急に元気になって、「こっちからも連絡しようと思ってたんだ」
「あの、君原さん――。今夜、私一人なの」
「何だって? どうして! 危ないじゃないか。よし、僕が行く!」
「いいの?」
「もちろん! でも――君はいいの?」
と、君原が急に心配そうな声になる。
「うん! お母さんが、君原さんに来てもらいなさいって」
「そうか。――|嬉《うれ》しいな、それは」
と君原は言った。
「君原さん、私に連絡することって何だったの?」
と、亜紀は|訊《き》いた。
「お父さんのことだ」
と、君原は言った。「大阪での居場所の見当がついたよ」
「え?」
「女の働いてるコンビニが分ったんだ。後は女がどこに住んでるか、突き止めれば――」
「もしもし、君原さん」
と、亜紀は言った。「お父さん、入院してるらしいの」
「何だって?」
亜紀が、落合からメモをもらったこと、そして母がその病院へと出かけたことを説明すると、
「分った。ともかくすぐ出て君の所へ行くよ。いいね? 用心するんだよ」
「はい。ありがとう」
亜紀は、電話を切った。
君原の方で調べてくれた結果でも、父は間違いなく大阪にいるらしい。すると、やはり入院しているのは事実なのだろう。
母は会えるだろうか? もし会ったとして、どうなるのだろう。
――亜紀は、初めてそのことを考えた。
母は、父を連れ戻しに行ったのだろうか。でも、今さら帰って来たとして、父に何ができるだろう?
仕方ない。――今は、母の気持が第一である。
君原がいつ来るかと待っていると――玄関のチャイムが鳴った。
いくら何でも、君原にしては早すぎる。
亜紀は用心して、そっと玄関の方へ出て行った。足音をたてないようにする。
チャイムがくり返し鳴った。
亜紀は、しばらく様子をうかがっていたが、サンダルをはいてドアの方へ近付いた。
「奥さん」
と、男の声がした。「円城寺です。奥さん、おいでですか」
円城寺! 亜紀はびっくりした。
一応チェーンをしたまま|覗《のぞ》いて、
「あの……」
「娘さんだね」
と、背広姿の円城寺が立っていた。
「はい、亜紀です」
「僕は円城寺といって――」
「知ってます」
と亜紀は|肯《うなず》いた。「待って下さい」
チェーンを外して、円城寺を中へ入れる。
「こんな時間にすまない」
「いえ、まだそんなに遅くも……。母、出かけてしまったんです」
「お出かけ?」
「大阪へ。父を捜しに」
円城寺は驚いた様子を見せたが、亜紀の話を聞くと、納得したようだった。
「そうか。――お父さんの病気が大したことないといいがね」
と、円城寺は言った。「ところで、君、家内と会ったことがあるね」
亜紀は、肯いた。
「はい。ここへやって来られました」
「そうか。――もしかして、今日も来なかった?」
円城寺の表情は真剣そのものだ。
「ええ、みえました」
「やっぱりそうか。それで、どんな話をした?」
「私が、父の出て行った事情とか、お話ししたんです。学校をやめるかもしれないと言ったら、『絶対にやめないで』とおっしゃって……」
と、亜紀は言った。「で、ご自分の方のお話は何もされずに、帰ってしまわれたんです」
円城寺は、居間のソファに浅く腰をかけて亜紀の話を聞いていたが、
「――それで分った」
と、厳しい表情で肯いた。
「何かあったんですか」
「いなくなってしまった」
「――家出?」
「小百合はいつも〈遺書〉を持って歩いている。もともと少しノイローゼ気味でもあったが、気分の変化が大きいんだ。落ち込むと、すぐ死にたいという気分になる」
それは何となく亜紀にも分った。
「子供のようなところのある方ですよね」
「うん。――それで僕が|苛《いら》|々《いら》することもあった。ヒステリーでも起してくれればいいんだが、小百合はすぐ『悪いのは私』という風になってしまうんだ」
亜紀は、少しためらってから、
「奥さんがそういう方だって分っていて、あなたは、うちのお母さんと……」
「そう言われると一言もない。しかし、僕も疲れて、安らぎたいときがあるんだ。君のおかあさんは、僕にとって『母親』のような人なんだ。――言いわけにはならないがね」
「いいえ。私はまだ十七で、大人の世界を知ってるわけじゃありませんから、責めるつもりはありません。でも今は奥さんのことを第一に考えないと」
「そうなんだ」
円城寺はため息をついて、「――さっき、小百合から電話があって、『私がいなくなれば、あなたは幸せになれるわ』と言って切った」
「それって――」
「君から、お父さんが出て行ったと聞いて、きっとそう思ったんだ」
「じゃ、本当に死ぬつもりですか?」
亜紀はびっくりして腰を浮かした。
円城寺は|眉《まゆ》を寄せて、
「どこを捜せばいいか、見当もつかない。――だが、ともかく何とか見付けないと。手遅れにならない内に」
「何かお手伝いできることは?」
と、亜紀は言った。
そのとき、玄関のチャイムが鳴った。亜紀が急いで出てみると、君原がコンビニの袋をさげて立っている。
「二人で食べようと思って買って来た」
と、明るく君原は言って、「――お客さん?」
「ともかく上って」
君原を居間へ連れて入ると、亜紀は手短かに事情を説明した。
「――すると、君が最後にその小百合さんと別れたのは、このすぐ近くだね」
と、君原は言った。
「ええ。それからどこへ行ったかは分らないけど」
「何か心当りはないんですか」
と、君原は親身になって心配している。
「どうも……。そう知らない場所へ出かける|奴《やつ》じゃないんですが」
と、円城寺は恐縮して、「申しわけない、余計な心配を」
「とんでもない! 人の命に|係《かかわ》ることで、『余計な』心配なんてありませんよ」
と、君原は強い口調で言った。「――どうでしょう。ここは川が近い。あの土手の道は、ずっと夜景が広がって、一人になりたいときには最適です」
「なるほど。――行ってみます。亜紀君、もし家内から電話でも入ることがあったら、この番号に」
と、円城寺はメモを渡し、「僕の携帯電話だから」
亜紀は、思わず、
「忘れてた!」
と叫んだ。「奥さん、携帯電話を持ってるんですよ!」
「小百合が?」
「私と連絡をとり合うのに便利だから、って買われたんです。番号、控えてあります!」
亜紀は飛んで行って手帳を取って来た。
「――これか。よし、かけてみよう」
「つながるといいけど」
と、亜紀は円城寺が自分の携帯電話のボタンを押すのを見ていた。
「――つながった!」
と、円城寺は言った。「――出ないな」
「呼んでるんですか?」
「うん。しかし――」
と言いかけて、「もしもし! ――小百合。小百合か?」
亜紀も思わずそばへ行って耳を寄せた。
「どこにいるんだ? 小百合、聞いてくれ」
円城寺が強い口調で言った。
「あなた?」
と、当惑した声が言った。
「小百合! 今、亜紀君の所だ。亜紀君が君のこの携帯電話の番号を教えてくれたんだよ」
と、円城寺は言った。「今、どこにいるんだ?」
「あなた……。一人にしておいて、お願い」
と、小百合が言った。
「待ってくれ。切らないでくれ」
円城寺は必死で言った。「――小百合、聞いてるか?」
「ええ……」
「僕に文句を言いたいことがあれば、いくらでも言ってくれ。君の思ってること、怒ってることを、何でも言ってほしいんだ」
「怒るなんて……。私は、あなたの妻として、何も役に立ってないわ」
「何を言ってるんだ。君は君としていてくれるだけでいいんだよ」
「そう言ってくれるのは|嬉《うれ》しいけど……。でも、やっぱり私はあなたを不幸にしてるわ」
そばで耳を傾けていた亜紀は、小百合の声の向うに、ゴーッという音を聞いた。
君原の方を見ると、ちゃんと気付いているようで、メモ用紙に、〈電車が鉄橋を渡ってる音だ〉と書いた。
そうか。やっぱり、あの人、川べりの土手の辺りにいる。
亜紀は、君原と二人で玄関へと出た。
「行ってみよう。君、顔、分るだろ?」
「ええ、もちろん」
「よし!」
円城寺は話を続けている。
亜紀と君原は、家を出ると土手へと駆け出した。
夜の|川《かわ》|面《も》を渡った風がひんやりと冷たく、二人が車道を渡って土手へ石段を上って行くと、遠い夜景が広がった。
「――だけど、どの辺だろう?」
「広すぎるわね」
「暗いしな。よし、ともかくこの道を線路の方へ|辿《たど》ってみよう。その内、目も慣れてくる」
君原は、いつもながらの行動力で、亜紀を感心させた。
亜紀なら、しばらく途方にくれてしまうだろう。君原は「まずやってみる」のだ。
「――風が寒い」
と、亜紀が首をすぼめる。
「大丈夫か?」
「うん。早く見付けないと」
二人は、土手を見下ろしながら、歩いて行った。
「君のお母さん、本当にあの男と……」
「たぶんね。でも、本当のところは知らない」
と、亜紀は首を振った。
亜紀と君原は土手の道を歩いて行った。
円城寺小百合の姿がどこかに見えないかと土手から川へ向って下る斜面をしっかり見ている。
「私……何だか、もうどっちでもいいって気がして来たの」
と、亜紀は言った。
「どっちでも、って?」
「お母さんがあの円城寺って人と浮気したかどうか。――気になるけど、それが私の人生を変えちゃうわけじゃないんだし」
「なるほど」
「お父さんのことだって、そりゃあ腹が立つわよ。無責任だ、って怒ってやりたい。でも、やっぱりそれって、お父さんの人生の中の出来事なんだよね」
と、亜紀は言った。「お父さんもお母さんも、きっと寂しいときがあったと思うんだ。私も――今、お父さんがいない家で寝ててフッと目が覚めることがあるの。お母さんはいてくれても、赤ん坊じゃないんだから、いちいち起すわけにいかないし……」
「うん。――分るよ」
「ね? そんなとき、誰か一緒にいてくれる人がいたらいいな、って思うの。お父さんやお母さんにも、きっとそんな夜があったんだと思う。二人そろってても、一人が眠ってたら、もう一人は一人ぼっちと同じだものね……」
亜紀は、そう言って、「しゃべってばかりじゃ、見付けられないね」
「いや、ちゃんと見てるよ。僕は目がいいんだ」
と、君原が言った。「他にあんまりいいところがないんだけどね」
亜紀は、それを聞いて笑った。
「――あそこ」
「え?」
「何か白いものが見えないか?」
そう。確かに白いものが動いてる。ほとんど斜面を下り切った、川の少し手前。
「人だね」
と、亜紀は言った。「小百合さんかなあ」
「行ってみよう」
君原は、土手の道から斜面へと下りた。「君はそこにいた方がいいよ」
「私も行く!」
亜紀も斜面を下り始めたが、思いがけず苦労する。「気を付けろよ。――弾みがついて落ちたら、川の中だぞ」
「うん……」
正直、道で待ってりゃ良かったと思ったが、もう遅い。
近付くと、その白いものが、人に違いないと分って来た。
目が慣れて来たせいもあるのだろう、亜紀は、それが確かに円城寺小百合だと見分けた。
「あの人だ」
と、亜紀は言った。「――奥さん! 円城寺さん!」
思い切り声を張り上げると、小百合がハッとして振り向く。
「私、亜紀です! 待って! じっとしてて下さいね!」
亜紀は、大声を出しながら、斜面を下りて行った。そのせいで、つい足もとを見ていなかったのか、それとも焦って急いだのかもしれない。
バランスを失った。
アッ、と思ったときには転んでいた。
「君原さん!」
と一声出すのが精一杯。
弾みがついて、亜紀の体はボールみたいにコロコロと転って、止めようとする間もなく、立っている小百合のわきを通り過ぎて、川の中へ――。
体が宙に浮いた。
もうだめだ! |溺《おぼ》れ死ぬんだわ!
そう一瞬、思った。そのとたん――ドスン、と亜紀の体は砂利の上に|叩《たた》きつけられていた。
「痛い……。痛いじゃないよ!」
と、怒ってみたが……。
「亜紀君!」
君原の声が頭上から聞こえた。「今助けに行くぞ!」
亜紀はあわてて、
「ここ、川じゃないよ!」
と叫んだ。「ここは砂利!」
だが、もし聞こえていたとしても、遅すぎただろう。 君原は溺れようとする恋人を助けようと、夢中で飛び込んだのである。――砂利の上に。
「――亜紀さん?」
と、小百合が上から呼んだ。
「はい! 大丈夫です。ここまで水は来てないんです」
と、答える。
「まあ……。それじゃ――」
「君原さん、気絶しちゃったんで……。ご主人、呼んで下さい。私じゃ、かついで上れない」
「え、ええ……。待っててね」
と、小百合もあわてている。
そこへ、
「小百合! 小百合か?」
土手の道からだ、円城寺が呼びかけているのだ。
「あなた! 亜紀さんたちが落ちたの!」
小百合の言い方も悪かった。
円城寺も、亜紀が「川へ落ちた」と思って、駆け下りようとした。で――バランスを失い、結局、小百合以外の三人はみんな下の砂利の河原に落っこちたのだった……。
眠 り
「そこを何とか……」
と、陽子は言った。「東京から来て、|真《まっ》|直《す》ぐこちらへ参ったんです。何とか会わせていただけないでしょうか」
若い看護婦は、ちょっと困っている様子だったが、
「少しお待ち下さい」
と言って、行きかけ、振り向くと、「どうぞ、おかけになってお待ち下さい」
「はい」
陽子は、薄暗く照明を落とした廊下の|長《なが》|椅《い》|子《す》に腰をおろした。
新幹線で新大阪駅へ着くと、タクシーでこの病院へやって来たのである。
〈金倉正巳〉の名は、確かに入院患者の中にあった。しかし、面会時間を大分過ぎていて、
「明日にして下さい」
と言われたのだ。
入院しているのだから、明日にしたところで逃げはしないだろうが、ともかく夫の姿を、この目で確かめたかった。
陽子は、列車の中、タクシーの中で考えていた。
夫に会ったら何と言うのか。そしてどうすればいいのか。
強引にでも連れて帰るか。しかし、相手は子供ではない。夫が拒んだら、どうするのか……。
円谷沙恵子のこともある。今、病人に付き添っているのかどうか分らないが、いずれにしても一度正面切って話をしなくてはならない。
――陽子は、自分がこんな局面に出会ったことなど、人生で一度もなかった、と思った。
いつも何となく頼る人がいて、肝心のことは誰かが決めてくれて、やって来られた。でも、今度ばかりは、そうはいかない。
しっかりしなくては。自分のことだけじゃない。亜紀だって、ここで父親を失ったら、これからの人生が大きく変ってしまう。
しっかりしなくては……。
「――お待たせしました」
と、声がして、年配の、穏やかな感じの看護婦がやって来た。
「どうも――」
「婦長です。少しお話を」
「はい……」
「こちらへ」
と、廊下を一緒に歩きながら、「金倉さんの奥様?」
「はい。主人はどんな具合でしょう?」
「|気胸《ききょう》です」
「気胸……」
「肺の片方に穴があいています」
「まあ……」
「でも、じっと安静にしていれば大丈夫。命にかかわるほどひどくありません」
婦長の言葉に、陽子はいくらか|安《あん》|堵《ど》した。
「奥さんとおっしゃる方が、入院の手続きをされたんです」
と、婦長が言った。「とても若い方で、娘さんかと思った、と看護婦が言っていました」
「その人と主人が……二人で東京から大阪へやって来たんです」
「そうですか。保険証も後で、ということらしかったので、事務の方はおかしいと思っていたようですが」
「お恥ずかしい話で」
「いえいえ」
と、婦長は首を振った。「誰でも、みんな過去を持っています。私どもは患者さんの私生活にはかかわりません」
「はあ……」
「ただ――お分りいただきたいんですが、ご主人は目下絶対安静の状態です。自然に肺の穴がふさがるのを待つしかないので」
「そうですか」
「一か月はかかるでしょう。その間、無理に動かすことは避けたいのです」
「分りました」
「奥様としては、今すぐにもご主人を連れてお帰りになりたいでしょう。でも、差し当りは無理とご承知下さい」
「――はい」
と、陽子は|肯《うなず》いた。「今、会えますか」
「薬をのんで眠っておられるんです。起したくないので、お話は明日にしていただけませんか」
「分りました」
「お顔を見ていただくことはできますよ」
と、病室のドアの前で足を止め、「ここです」
「あの――その女の人は付き添っているんですか」
「いえ、仕事があるとかで、今夜はおられません。明日来られるということだったそうです」
婦長が静かにドアを開けた。「――こちらのベッドです」
手で示してくれて、それから中へは婦長は入らなかった。
陽子は、そっとベッドに近付いた。
夫の顔が、廊下の明りを受けて、はっきり浮かび上って見える。
陽子は、傍の椅子に腰をおろした。
間違いなく、そこにいるのが夫、正巳だと分っても、何だか拍子抜けのような、脱力感があるばかりだ。
それほど日がたったわけでもないのに、夫はずいぶん変ったように見える。ひげを|剃《そ》っていないためもあるのか、やせて、やつれて見えた。
いや、それは当然のことだ。
病気なのだから。絶対安静にしていなければならない病人なのだ。
眠っている正巳が、何かブツブツと|呟《つぶや》くように声を出して身動きした。
陽子はつい反射的に、
「なに?」
と、そばへ顔を寄せて|訊《き》いてしまった。
しかし、正巳はそれきりまた寝息をたてているばかり。
陽子は、涙が|頬《ほお》を流れ落ちるのを感じて、あわてて手の甲で|拭《ぬぐ》った。
悲しいという気持の方が、涙の後からやって来た。
「――もうよろしい?」
婦長が待っていてくれたのだ。陽子は急いで立つと、正巳のベッドから離れた。
廊下へ出ると、
「明日、またおいで下さい」
と、婦長は言った。「午前十時から面会できますから」
「はい」
陽子は頭を下げた。「よろしくお願いいたします」
「色々、おっしゃりたいことはおありだと思いますけど、今は患者さんのストレスになるようなことは避けたいんです。冷静に話をされて下さい」
「分りました」
「追い詰めることのないように、――元気な人でも、たった一晩のストレスで、胃に穴があいたりするんです」
「気を付けます。それに、本当に話をしなきゃいけないのは、彼女の方だと思います」
「そうですね。――今夜はどうなさる?」
「どこか、近くにホテルでもあれば……」
また一緒に歩き出しながら、陽子は訊く。
「それなら、この並びを十分くらい行くと、ビジネスホテルがあります。狭いけど、新しくてきれいですから」
「ありがとうございます」
と、陽子はていねいに礼を言った。
そして病院の〈夜間用出入口〉まで送ってもらって、もう一度、
「主人をよろしく」
と、頼んでおいて、外へ出た。
そのビジネスホテルはすぐに分った。
事務的ではあるが、割り切っていて気が楽だ。どうせ寝るだけなのだから。
シングルの部屋をとってもらって、キーをもらう。
むろん、ベルボーイなどいないので、自分で部屋を見付ける。
陽子は、早速家へ電話を入れてみた。
亜紀が心配しているだろうと思ったからである。
しかし、呼出し音は聞こえているのに、誰も出ない。
少し心配だったが、後でかけ直すことにする。――お|風《ふ》|呂《ろ》へ入りたかった。
小さなユニットバスではあるが、お湯を満たして体を沈めると、何か体のあちこちにこわばっていたものがゆっくり溶けていくような気がする。
陽子は、いつも自宅で入るより、ずっと長い間、お湯につかっていた。
ともかく、正巳を見付けたのだという安心感。そして、夫の身を心配している自分の「けなげさ」(?)に対する愛着とでも言うようなもの……。
本当なら、一か月も入院しなくてはいけないというのだから、大変なことだが、ともかく今は安心感の方が大きかった。
――たっぷり時間をかけて上ると、家へ電話する。
「はい」
「亜紀、お母さんよ」
「ああ。――どう?」
「お父さん、いたわ」
「話した?」
「ううん。薬で眠ってた。明日、ゆっくり話してくる」
「病気って……」
亜紀は不安げに言ったが、陽子の説明を聞いて、少し安心した様子だった。
「じゃ、時間がたてば治るんだね」
「そういうお話だったわ」
「ともかく――良かったね」
「まあね。そっち、大丈夫?」
「え? うん……。大体大丈夫」
「何よ、それ?」
「君原さんと替る?」
「来て下さったのね。もう遅いわ。寝てるんでしょ? よろしく伝えて」
「分った」
「じゃ、明日、また電話するわ」
「今、どこ?」
「あ、そうそう」
陽子はこのホテルの電話番号を教えて、「――気を付けるのよ」
と言って、電話を切った。
「ああ痛い……」
亜紀は、お|尻《しり》をさすりながら、「お母さんには何も言わなかった」
「うん」
君原は、ソファに横になっていた。
「大丈夫? 骨でも折れたかな」
「いや、何とも……。いてて……」
「あわて者が|揃《そろ》ってるね」
と、亜紀は笑って言った。
そう。何とか円城寺が土手を|這《は》い上り、亜紀と君原を引張り上げてくれたのである。
とんでもない展開で、小百合も自殺する気を失くしてしまったらしく、おとなしく夫と一緒に帰って行った。
妙な夜だった、と亜紀は思った。
母の電話で、一応父の様子も分ったし、亜紀はひと安心して、寝ることにした。
「君原さん。そこじゃ、体、痛くない?」
と、声をかけてみると、もう君原はスヤスヤ眠っている。
「お疲れさま」
と、そっと呟いて、亜紀は君原にキスした。
さて、寝るか。
君原の寝顔を見ていたら、急に眠気がさして来た。
パジャマに着替えるのも、あちこち痛くて大変だったが、何とかやれた。ベッドへ潜り込むより早く、亜紀はぐっすりと眠り込んでしまった……。
ルルル。――ルルル。
電話の音。電話だよ。
亜紀は、目を覚ました。――母がいないことを思い出した。
私、出なきゃ。
分っていても、動けない。ベッドから這い出すようにして、電話へ|辿《たど》り着く。
「――はい」
と、声というより「音」を出す。
「もしもし」
女の人の声。誰だろ?
「はい……」
「金倉さんのお宅ですね」
そうだっけ? ああ、そうだ。
「はい、そうです」
「娘さん? 亜紀さんですね」
「ええ……」
「私――円谷といいます」
「つぶら……」
「円谷沙恵子です」
ゆっくりと頭のもやが晴れていく。
「――あなたが」
「ご存知ね、私のこと」
亜紀は座り直した。
「何のご用ですか」
「お宅には、本当に申しわけないことをして……。私、よく分ったんです」
と、円谷沙恵子は言った。「あなたのお父さん、入院してます。私と逃げて、ストレスがたまってたんでしょう。やっぱり無理だったんです」
「今さら何ですか」
と、亜紀は言った。「もう、父なんかいなくても充分やってます」
つい、言いたくなってしまうのだ。
「亜紀さん。罪滅ぼしに、お宅の家と土地を担保にした、お父さんの借金の証書を、お返ししたいんです」
「え?」
「私、取り上げて来たんです。これ、お渡ししたいんです。取りに来て下さる?」
亜紀は、君原の方へ目をやった。ぐっすり眠り込んでいる。
時計を見ると、もう朝が近い。
たぶん、外は白みかけているだろう。
「今、どこにいるんですか?」
と、亜紀は訊いた。
「お宅のすぐ近くです」
と、円谷沙恵子は言った。「コンビニの前、お分りでしょ?」
コンビニか。あそこは二十四時間開いているから、店員がいる。危険なことはないだろう。
「こんな時間に、と妙に思われるでしょうけど、私、一番早い列車で発ちたいんです。連中が追って来るといけないので」
「分りました。これから行きます。待ってて下さい」
「ありがとう。店の前に立っています」
亜紀は電話を切ると、急いで服を着た。ジーパンをはいて、玄関を出る。
チラッと居間を|覗《のぞ》いたが、君原は眠り込んでいて、起すのは|可《か》|哀《わい》そうに思えた。今はコンビニの所まで行くだけなのだし……。
亜紀は、一応用心しながら、そっと玄関のドアを開け、外の様子をうかがった。――まだ暗いが、それでも真暗というわけではなく、辺りの様子もうっすらと見える程度。
亜紀は、外へ出て|鍵《かぎ》をかけると、急いでコンビニへと向った。朝の空気は冷たくて、亜紀の眠気を吹っ飛ばしてしまった。
――コンビニの明りが見えるとホッとする。その表には誰もいなかった。
おかしいな……。
亜紀がコンビニの前で足を止め、周囲を見回していると、店の自動扉が開いた。
「――亜紀さんね」
と、その女はコンビニの袋を手にさげて言った。「ごめんなさい。待ってる間に、必要なものを買っとこうと思って」
「円谷さんですね」
「ええ。――これ、お返しするわ」
と、大判の封筒を取り出す。
「これが……」
「借用証です」
と、沙恵子は言った。「でも、|憶《おぼ》えておいて下さいね。お父さんを責めないで。すべて私のためだったんです」
「あなたの?」
「私を助けるための借金だったんです」
と、沙恵子は言った。「そのためにお宅にも、ご迷惑をかけてしまって……」
「そんなことより――」
と、亜紀は封筒を受け取り、「お父さんと別れてくれるんですか?」
沙恵子はやや目を伏せがちにして、
「どうなるか、私にも分りませんわ」
と言った。
もちろん、円谷沙恵子は大阪の父の所へ陽子が会いに行っていることなど知らないはずだ。
しかし、父は一か月は入院したまま動かせないという。そうなれば、この女と母とが話をして、どうするかを決めるしかないだろう。
「分りました」
と、亜紀は言った。「でも、父に伝えて下さい。私たちがどんな思いをしているか。どんなひどい目に――」
亜紀は言葉を切った。
言ったところでむだだろう。母が充分に話してくれるはずだ。
「じゃ、これで」
と亜紀は言った。
沙恵子はやや戸惑った様子で、
「何も|訊《き》かないんですか? お父様がどこにいるか……」
「隣の家にいたって、帰る気がなければ同じです」
と、亜紀は言った。「ともかく、私からは帰って来て、なんて言いません。父の方から『帰らせてくれ』と頼んでくるのならともかく」
本音だったか、と言われれば、百パーセントその通りではない。けれども、これくらいの気持でいなくては、捨てられた自分たちがあんまり可哀そうだ。
「――分りました」
と、沙恵子は言った。「でも――あの人も心配しています。それは本当です」
「『あの人』なんて言わないで」
と、亜紀は今になって腹が立って来て、「早く行ったら?」
「ええ。――じゃ、お元気で」
沙恵子は、半ば走るような足どりで行ってしまった。
亜紀はホッと息をついた。――本当は、もっと話してみたいという気もあったのである。でも、いざ面と向ってみると、「この女のせいで……」という怒りがこみ上げて来て止められなかったのだ。
家へ帰ろう。――亜紀は、封筒の中を覗いたが、何か書類が入っているのが分るだけで、道の真中で広げるわけにもいかなかった。
家へと急いで戻る。
母のホテルへ連絡しておこう、と思った。円谷沙恵子は、当然病院の父の所へ行くはずだ。
玄関のドアの所で、亜紀は戸惑った。
鍵がかかってない? ――かけ忘れたかしら、私?
確かにかけたという記憶があるが……。
「君原さん――」
居間を覗いて、亜紀は立ちすくんだ。
落合と、男たちが二人、そして一人の女がソファにゆったりと腰をおろしていた。
犠 牲
「お帰りなさい」
と、その女は言った。「お留守の間に、ちょっとお邪魔してるわよ」
この女が浅香八重子か。――一見、ごく普通の「おばさん」という印象だが、じっと亜紀を見据える目が鋭い。
しかし、亜紀は君原の姿が見えないことの方が心配だった。
「どこにいるんですか」
青ざめながらも、亜紀はしっかりした声で言った。「君原さんをどこへやったの!」
「気丈な子ね」
と、浅香八重子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「あんたのような『いい子』が大嫌いなの、私。でも、いじめがいもあるってものだけど」
亜紀は、落合が何となくばつが悪そうにしているのに気付いていた。――|俺《おれ》はやりたくないんだぜ。だけど、この人が怖いから……。落合はそう言いたげだった。
「君原さんはどこですか」
体が震えた。もしや――もしや、どこかで殺されているのでは……。
「さあ、そんな人、見たかしら」
八重子は、傍らの男に言った。
「知りませんね」
肩をすくめたその男は、冷ややかな笑いを浮かべていた。
「ああ、そういえば、お|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》の水が出しっ放しだったようよ。水をむだにしちゃいけないわ」
と、八重子が言った。
お風呂場の水……。
亜紀は、浴室へと駆けて行った。
バスタブから水が|溢《あふ》れている。その中で、両手両足を縛られてもがいているのは君原だった。
「君原さん!」
亜紀は夢中でバスタブへ飛び込むと、君原を抱き上げた。「しっかりして!」
君原が激しくむせた。亜紀は水を止めると、栓を抜いて、君原の体をバスタブの外へ押し出した。
「――|喉《のど》が渇いてたらしいから、たっぷり水を飲ましてやったぜ」
あの男が、浴室の入口に立って笑っていた。
――落合が後ろに立っている。その細身の男は、落合よりずっと危険だ、と亜紀は感じた。
君原が|咳《せ》き込んで水を吐いた。
「君原さん……。ごめんなさい! 私が油断して――」
「早く……逃げろ」
と、君原がかすれた声で言った。
「そうはいかないぜ」
と、男がナイフを取り出した。
長い刃が銀色にキラリと光る。
亜紀は君原を後ろへかばうようにして、男を見上げた。
どうすることもできない。
君原は手足を縛られたままだ。亜紀は、あの円谷沙恵子のことを信じてしまった自分の甘さに歯ぎしりする思いだった。
あの女が亜紀をおびき出し、その間にこの連中が――。玄関のドアを|叩《たた》かれたら、君原は亜紀に何かあったのかと思って開けただろう。
しかし、今はともかく誰もいないのだ。自分と、君原の二人きりなのだ。
その男はナイフを持った手をわざとブラブラ振りながら亜紀の方へ近付いて来た。ナイフの刃が揺れて、亜紀の目の前をかすめる。
怖い。当然のことだ。
でも、負けん気をふるい起して、亜紀は男をじっと見返していた。
「早いとこ片付けなさい」
と、浅香八重子が浴室へ入って来て言った。
「――ねえ、お嬢さん。その男の子はあんたの大事な人らしいわね」
亜紀は、じっと唇をかみしめていた。何とか逃げ出す方法はないだろうか?
「あんたの気持一つにかかってるのよ、その『大事な人』の体はね」
「――どういうことですか」
「簡単なことよ。私はね、自分の子分たちに優しくすることにしてるの」
八重子は、落合の肩にそっと手をかけた。「この子が、あんたに夢中になってるのを見てると|可《か》|哀《わい》そうでね。思いをとげさせてあげたいと思うのが、親心でしょ?」
落合は、亜紀から目をそらしている。
「――私もね、女だからあんたにひどいことはしたくない。ほんの二、三時間でいいのよ。あんたがこの落合のものになってくれりゃいい。何も結婚しなさいってわけじゃないわ。一度だけ。――それで、あんたは、この家も土地も失くさずにすむ。悪い取引きじゃないでしょ」
亜紀は血の気がひいていくのを感じた。
落合だけで終るはずがない。このナイフを持った男、他にも、学校の|柵《さく》|越《ご》しに粉だらけにされた男たちがいる。
そんな……そんな目に遭うなら、死んだ方がましだ。
「あんたには、選ぶことなんかできないんだよ」
八重子が|凄《すご》みのある声で言った。「力ずくで、どうにでもできる。だけど、それじゃ落合も後味が悪いだろうからね」
「ちょっと痛い目に遭わせてやりゃ、言うことを聞くさ」
と、男が言って、ナイフを持った手が伸びて来た。
亜紀が反射的に身を縮めると、ナイフは|頬《ほお》をかすめるようにして、倒れている君原の腕に切りつけた。
君原が|呻《うめ》いて身をよじった。
「君原さん!」
亜紀が悲鳴を上げた。君原の右腕から血が流れ出している。
「やめて! ひどいことして……」
「お前がはっきりしないからさ」
と、その男はナイフをティッシュペーパーで|拭《ぬぐ》って、「分ってるだろうな。次はお前の顔に一生消えない傷が残るぜ」
「よしなさい」
と、浅香八重子が言った。「頭のいい子なんだから、ちゃんと分ってるわよ。ねえ、そうでしょ?」
亜紀は、君原のそばに座り込んで、しばし動かなかった。この連中は楽しんでいるのだ。亜紀と君原が苦しんでいるのを。
亜紀がこの連中の言う通りにすれば君原が苦しむ。といって、亜紀が拒み続ければ、この男のナイフが、もっと君原を傷つけるだろう。
すると、君原がかすれた声で言った。
「こんな|奴《やつ》の言うことを聞いちゃだめだ! 僕はいいから!」
「君原さん……」
「泣かせるぜ」
と、男は笑って言った。「|俺《おれ》は弱いんだ、こういう場面に」
――亜紀は、覚悟を決めた。
逃げるチャンスは、万に一つもあるまい。逃げられたとしても、君原がその後でどんな目に遭わされるか。
それに比べたら……。何時間か、じっと堪えていればいいのだ。いや――堪えられなくて、どうかなってしまうかもしれない。でも、今は他に方法がない。
亜紀は、君原の額に唇をつけると、立ち上って言った。
「この人にもう手を出さないで」
八重子が微笑んで、
「覚悟ができた? いい子だわ」
と、|肯《うなず》く。「落合。あんたの恋しい彼女を連れて行きなさい」
「自分で行きます」
亜紀は、震える足で、何とか|真《まっ》|直《す》ぐに立って歩き出した。
「亜紀君――」
君原が呻くように、「やめるんだ!」
「黙ってねえと――」
男がナイフを振りかざす。
「やめて!」
亜紀は叫んだ。「約束よ。手を出さないで」
「分ったよ」
男は苦笑した。「いつまで、そうやって強がってられるかな」
亜紀は、落合のそばへ行って、
「どこで?」
と言った。
「お前の部屋がいいな」
「分ったわ」
亜紀は、自分の部屋のドアを開けて、中へ入った。
さっき、円谷沙恵子からの電話で起きたときのまま、ベッドはシーツがしわになっていた。
落合が後ろ手にドアを閉めて、
「――俺のこと、恨むなよ」
と言った。
「いいじゃないの、恨んだって」
と、亜紀は言った。「恨むことぐらいしかできないんだから」
「俺は……気が進まないんだけどさ」
と、落合は|曖《あい》|昧《まい》に、「でも、お前のこと逃がしたりしたら、あの人に何をされるか……」
「言いわけしないで」
亜紀はベッドに座った。「逃げないわよ。君原さんが殺されちゃうかもしれないのに」
落合は、やっと亜紀を見た。
「お前、いい度胸だなあ」
「やめて、そんなに強くないわ。泣き出したいのを我慢してるのよ」
亜紀は、チラッとドアの方へ目をやって、「ぐずぐずしてると、|叱《しか》られるんじゃない?」
と言って、ベッドに身を横たえた。
落合はゴクリとツバをのみ込むと、上着を脱いで|椅《い》|子《す》の背にかけた。
「――一つ、教えて」
亜紀は落合がベッドに腰をおろすと言った。「あなただけじゃすまないんでしょ? あの怖い男も――他の男の人たちも……」
落合は目をそらした。答えを聞いたのと同じだ。
「私……殺される?」
「そんな……。そんなこと、しねえよ」
「死ぬより|辛《つら》いわよ。君原さんとだって、キスしかしたことない」
「あの兄貴は……怖い人なんだ」
と、落合が言うと、こんなときなのに亜紀は笑ってしまって、自分でもびっくりした。
「怖い人ばっかりなのね」
「まあ……そうだな」
「いつも怖がってて、面白いの?」
「怖いから、いばりたくなるんだろうな」
落合は亜紀を見て、「お前――」
「お父さんの病院、教えてくれてありがとう」
と、亜紀は言った。「お母さん、会いに行ったわ」
「そうか……」
「今の内にお礼言っとかないと、後じゃ言えないと思うから」
亜紀は、横になったまま、深く息をついた。
これからの時間は、たぶんこれまでのどの時間よりも長いだろう。
落合が緊張した面持ちで亜紀の方へ身をかがめると、そっと手を亜紀の頬に当てる。
亜紀は目を閉じると、何も感じまいとした。不可能だと分ってはいながらも。
その音は、初め、雑音のようだった。
気のせいかしら? ――亜紀は思った。
誰か助けに来てくれないかと願っているので、聞こえるような気がするだけなのだろうと思った。でも――。
落合が顔を上げた。
「あれ……パトカーだな」
「やっぱり、そう?」
そうだ。パトカーのサイレンに違いなかった。音が少しずつ大きくなってくる。
でも、ここへ来るんじゃないだろう。だって、誰も通報なんかしていないのに、どうしてパトカーが来るだろう?
「違うわよね。どこか別の所へ行くのよね」
亜紀のセリフとしては妙だった。でも、もし本当にここへ来るのだったら……。神様! どうかそうであってくれますように!
ドアが開いて、あのナイフを持った男が顔を出した。
「兄貴――」
「パトカーだ。まさかここじゃねえだろうけど、そいつに声を出させるなよ」
と、男が言った。
そのとき――サイレンが停った。
「兄貴、この家だぜ」
と、落合がベッドから飛び起きると、「逃げよう!」
「待て!」
玄関のドアを激しく|叩《たた》く音がした。
「開けろ! 警察だ!」
と怒鳴る声。
「畜生! どうしてだ?」
男がナイフを取り出して、「おい、お前、こっちへ来い!」
と、亜紀に言った。
亜紀は黙ってベッドから出た。
「兄貴――」
「いざとなったら、こいつを人質にして逃げるんだ」
男が亜紀の腕をつかんだ。すると――。
「やめてくれ!」
と、落合が突然、亜紀を押しやって、「俺はいやだ!」
と叫んだのだ。
玄関のドアが大きな音をたてた。|鍵《かぎ》を壊して入って来たのだろう。
「落合! 貴様――」
亜紀が息を|呑《の》んだ。ナイフの刃が落合の腹へ切りつけて、血がふき出していた。
亜紀はとっさに部屋を飛び出した。
「誰か! 助けて!」
と叫ぶと、警官が駆けて来た。
「ナイフを持ってます! 人が刺されて――」
亜紀はそれだけ言って、よろけると壁にもたれかかり、そのまま|膝《ひざ》の力が抜けて、しゃがみ込んでしまった。
警官がさらに二人、三人と家の中へ入って来た。
気を失っていたわけでもないのに、亜紀が我に返ったとき、何分間かが過ぎていた。
「大丈夫か?」
|覗《のぞ》き込んでいたのは君原だった。
亜紀は|肯《うなず》いた。黙って肯いた。――そして君原に抱きついた。
「いてて!」
と、君原が飛び上る。
やっと思い出した。君原が腕を切られてけがしていたことを。
「ごめんなさい! ――ごめんなさい!」
「いや……。大丈夫。大した傷じゃ……。いてて」
と、情ない声を上げる君原を見て、亜紀は笑ってしまった。
その拍子に涙が|頬《ほお》へとこぼれ落ちる。助かった。助かったのだ。
「――今、救急車が来る」
と、警官が言った。「あの刺された男の出血がひどいんで、先に運ぶが、いいかね?」
「ええ、もちろんです」
と、君原は言った。「僕なら、タクシーででも行きます」
「だめよ! もう一台救急車を呼んでもらって」
と、亜紀は言った。「私、一度乗ってみたかったの」
「おい……」
と、君原が苦笑して、「しかし、あと少し遅かったら、そういうはめになっただろうな」
「そうね、でも……」
「何だい?」
「誰が通報したんだろ?」
と、亜紀は言った。
「――もしもし」
「奥さん。お呼び立てして。江田です」
「ああ。待ってたよ。――それで?」
と、藤川ゆかりは言った。「片付いたかい?」
「今、話しても大丈夫ですか?」
「ああ。ナースセンターは忙しそうだから、こっちの話なんか聞いちゃいないよ」
「危ないところでしたが、うまく現行犯逮捕ってことになりました」
「浅香八重子も?」
「はい。言い逃れできませんよ、今度は。娘さんの証言と、それにあの落合ってのも」
「脅していたのが効いたね」
「実は、あいつ一人が刺されて重傷です。しかし、命に別状ない様子ですから」
「少し痛い思いをしないと、ああいう手合いは出直せないよ。刺したのは?」
「浅香八重子の|可《か》|愛《わい》がってる|奴《やつ》です。むろん捕まりましたが」
と、江田は言った。
救急車がやって来た。
「――どこだ?」
と、担架を抱えて、救急隊員たちが上ってくる。
「その奥だ」
亜紀は、君原の腕を取って(けがしていない方の腕だ)、
「あの落合って人、私をかばおうとして刺されたのよ」
「君がそうさせたんだ。君の力だよ」
「良くなってほしいわ」
担架で、落合が運ばれてくると、亜紀はそばへ行った。
「ちょっと止めてくれ」
と、落合がかすれた声を出す。
「急がないと――」
「そうよ」
亜紀が落合へ|微《ほほ》|笑《え》みかけた。「入院したら、お見舞に行ってあげるから」
「本当かい?」
落合は泣き出しそうな顔をして、「痛いんだ……。情ねえよな」
「刺されりゃ痛いわよ。痛いときは泣けばいい。ね? 強がってる必要ないもの」
「そうか……。そうだな」
落合は、小さく肯いた。「良かったよ、間に合って」
「ありがとう。助けてくれて」
亜紀は、かがみ込むと落合の唇にキスした。
落合はポカンとしていたが、
「――やった!」
と声を上げ、「いてて……」
「馬鹿ね」
と、亜紀は笑った。
「|俺《おれ》――元気になるぜ!」
「ええ」
亜紀は、落合を乗せた救急車がサイレンもけたたましく走り去るのを見送った。
君原は、パトカーで病院へ送ってもらうことになった。
「君は学校があるだろ」
と、君原が言った。
もうすっかり朝になって、近所の人たちが何事かと|覗《のぞ》いている。
「さぼるつもりだったのに」
と、亜紀は表に出て言った。
「ちゃんと行けよ。友だちが心配するぞ、休むと」
「うん」
と、亜紀は肯いた。「じゃ、見送るわ」
「それだけかい? あの落合にはキスしたのに?」
「だって、けがの程度が――」
と言いかけて、「こっちは、したいからするの!」
亜紀は君原に抱きついて、しっかりキスした。
近所の人たちの目が、むしろ快感だ。
「出血するぞ、興奮すると」
パトカーの中の警官が、|呆《あき》れ顔に言ったのだった。
崩 壊
夢だったのかな……。
正巳は、明るい日の射し込む窓へと顔を向けて考えていた。
ゆうべ……。眠っている間のことだが、何だか妻の陽子がそばに来たような気がしたのだ。
きっと夢を見たのだろう。陽子がここを知っているわけもないのだし。
それにしても――沙恵子と二人で新しい生活を始めようというのに、こんなざまでは困ったものだ。
といって、じっと寝ているより他にすることがない。こうしているのが「治療」だというのだから……。
しかし、ぼんやりと寝ていると、自然正巳の頭に浮かぶのは、やはり陽子、亜紀との日々の思い出だった。それは仕方のないこと、と割り切るべきだろう。そうでなければ、沙恵子に対してすまない。
頭でそう考えても、正巳の心はいつしか「わが家」へ帰っている。
――正巳は、どうして家族を捨てるなどということができたのか、自分でもふしぎだった。いくら沙恵子を愛したとしても、こんな風に逃げてくる以外に、道はなかったのだろうか……。
胸が痛んだ。病いとしての痛みは、むしろ正巳の苦しみをやわらげてくれる。
俺は――俺はもう家に戻ることなどできない。しかし、沙恵子一人に働かせて、こうしてのんびり入院しているのも……。
そうだ。いっそ死んでしまえば、どっちにとっても、いいことかもしれない……。
「――あなた」
「うん」
反射的に答えていたが……。正巳は、ゆっくりと顔をその声の方へ向けた。
陽子が立っていたのである。
「夢じゃなかったのか」
と、思わず正巳は言った。
「――気分はどう?」
と、陽子は|椅《い》|子《す》に腰をかけた。
「まあ……良くはない」
「そうね、病人なんですものね」
「ああ……」
正巳は、じっと陽子を見つめた。――どこか、別人のように見える陽子だった。
「断っておくけど」
と、陽子は言った。「あなたを連れ戻しに来たわけじゃないの。これからどうするか、話したかったのよ」
「うん……」
「だから、ここから逃げ出したりしないでね。絶対安静だって、お医者様もおっしゃってるんだから」
「分ってる」
と、正巳は言って|咳《せ》き込んだ。
陽子は少し|辛《つら》そうにそんな夫を見ていた。
「ゆうべここへ来たけど、起さなかったのよ」
と、陽子は言った。「今日、担当のお医者様から、病状はうかがったわ」
「|俺《おれ》のことはいいが……。後はどうしてる?」
と、正巳はかすれた声で言った。
「後? ――後のことなんか、心配してくれてるのね」
陽子は、窓の方へ目をやって、「大変よ。当然でしょ。亜紀が明るくしてるから救われてるけど」
正巳は、何とも言葉がない。
「いけないわね。ちゃんと注意されてたのに、ついグチが出ちゃう」
「それは……仕方ない」
「ええ。でもね、あなたも苦労したのね。|気胸《ききょう》って、過労のせいだって聞いたわ」
陽子は大きく息をついて、「円谷沙恵子さんは?」
「東京へ行った」
「まあ。そうなの」
「仕事で……。俺がこんな風じゃ、無理な仕事でも引き受けなきゃな」
「それだけの値打ちのある人だと思われてるのね」
「誤解だよ」
「そう。誤解ね」
そう言って、陽子は笑った。「――おかしいわね、笑いごとじゃないのに」
「そうだな」
と、正巳は言った。
「円谷さんはいつ戻るの?」
「今日は帰ってくると言ってた。何時になるか知らないけど……」
「そう。――私は、ずっとここについてるわけにいかないの。亜紀もいるし。だから、円谷さんとこれから先のことを話し合うわ」
「陽子……」
「どうしても戻って来て、とは言わないわ。ただ――お|義《と》|父《う》さんには何もお話ししてない。その内、お話ししないわけにいかないでしょうけどね」
正巳は、じっと陽子を見て、
「俺を……恨んでないのか」
と言った。
「恨んでる暇はないの。生きて、食べていかなきゃならないんですもの」
陽子の口調はきびきびとして、明るかった。
むろん、あえてそうしていたのだが、今の正巳を責めたところでどうにもならないということは、よく理解していた。
「――何か食べたいものでも、ある?」
と、陽子は|訊《き》いた。
そのとき、ドアが開いて、
「帰ったわよ」
と、円谷沙恵子が入って来ると、陽子を見て足を止めた。
陽子は立ち上って、
「円谷さんですね。金倉陽子です」
陽子は自分でも気付かないで、「金倉陽子」と名のっていた。これまでなら、「金倉の家内です」と言っていただろう。
「奥様……。いつ、こちらへ?」
沙恵子の顔は紙のように真白だった。
「ゆうべ。もうこの人が寝ていたので、出直して来ました」
と、陽子は言った。「二人でお話ししたいわ。あなたもでしょう?」
陽子自身が驚くほど、少しも興奮していなかった。冷静に、「夫の愛人」と対している自分が、ふしぎだった。
「あの……ご主人に食べるものを買って来たんです」
と、沙恵子は言った。
「まあ、それじゃ話は後にしましょう。ともかく病気を治してもらわないと」
陽子は、バッグを取って、「廊下の休憩所にいます。食べさせてやって下さい」
「はい」
沙恵子は、かすかに頭を下げた。
陽子は病室を出て、ソファのある一画へと歩いて行った。
何も、あの女と夫を二人にしてやることはない。けれども、今の陽子は、「夫を奪い合おう」という気持になれないのだった。
たとえ、夫を取り戻しても、心が戻らなければ同じことだ。
陽子はソファにかけて息をついた。この、自分の落ちつきは何だろう?
それは――少し大胆な言い方かもしれないが――夫を失っても、それで自分がだめになってしまうわけではない、という自信のようなものだった。
円城寺との恋――恋と呼んでいいものかどうか分らないが――が、陽子を「妻」から「女」に戻したのかもしれない。
少なくとも、円城寺とのことは、「夫が愛人をこしらえたんだから私も」という単純なものではなかった。それは陽子の人生を豊かなものにしてくれたのだ。
「――失礼します」
と、男が声をかけて来た。「金倉陽子さんでは?」
「そうですが」
男が二人、立っている。
「良かった! ホテルの方へ伺ったんですが、もう出られた後だったので」
「はあ……」
「東京から来ました。N署の者で」
と、警察手帳を出して見せる。
「刑事さんですか」
「ご主人が、ここに入院中ですね」
「ええ……」
「円谷沙恵子という女は来ていますか」
と、刑事は訊いた。
「今、病室に」
と、陽子は言った。「あの……何かあったんでしょうか?」
「ゆうべ――というか、今朝早くですが、お宅に押し入ったのが何人かいましてね」
陽子は青ざめた。
「娘が――亜紀は、大丈夫でしょうか!」
「ええ、ご心配なく。通報があって、パトカーが駆けつけたんです。何とかいう……そう、君原という男性がけがをしましたが、大したことはありません」
それを聞いて陽子はよろけた。
「大丈夫ですか!」
「ええ……。すみません、安心して、つい……」
「分ります。ま、かなり危なかったようですよ。お嬢さんも乱暴されかかって、あわや、というところだったようです」
「でも――良かった!」
と、胸に手を当てる。
「それで、逮捕した連中の自供から、円谷沙恵子の名が浮かびまして」
「あの人が――」
「その女も、逮捕された浅香八重子という女に使われていた一人なんです」
と、刑事は言った。
「――おいしいな」
と、正巳は沙恵子の買って来てくれた和菓子をたちまち二つ、ペロリと食べてしまった。
「良かったわ、喜んでくれて」
と、沙恵子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「甘いものは疲れてるときにとるといいのよ」
「ああ……」
沙恵子は、ティッシュペーパーで正巳の口を|拭《ぬぐ》ってやると――そのまま覆いかぶさるようにして唇で正巳の唇をふさいだ。
「あなた……」
「沙恵子、僕はずっと君と一緒だ」
正巳の言葉に、沙恵子は泣き出してしまった。声を押し殺しても、涙は止らない。
「沙恵子――。そう泣くなよ。二人で何とかやっていけるさ」
「あなた……」
沙恵子は正巳の手に顔を伏せ、ひとしきり泣くと、やがて息をついて、
「――あなたがそんな風に言ってくれるなんて。幸せだわ。どうなってもいい、私」
「僕が良くなれば、元の通りにやっていけるじゃないか」
「いいえ」
と、沙恵子は首を振った。「――いいえ。そうはいかないわ」
「どうして?」
沙恵子が答える前に、病室のドアが開いて、陽子と一緒に、二人の男が静かに入って来た。
沙恵子は立ち上った。
「円谷沙恵子さん?」
と、男の一人が言った。
「はい、そうです」
「ちょっと――」
と、男が言いかけると、陽子が、
「こちらの方がご用ですって。廊下でお話ししてらっしゃい。ここには私がいるから」
と、遮って言った。
沙恵子は少しの間、陽子を見つめていた。そして、首を振ると、
「いいえ。ここで話して下さい」
と言った。「何もかも、正巳さんに聞いていただいた方がいいんです」
男の一人が警察手帳を|覗《のぞ》かせて、
「今朝早く、浅香八重子とその身内たちが逮捕されたよ」
と言った。「傷害、脅迫、暴行未遂……。こっちも目はつけてたんだが、なかなか挙げるだけの証拠がなかった」
「浅香八重子が……」
と、正巳が|呟《つぶや》いた。「そうか! 良かったな。もう心配しなくてすむ」
陽子が、正巳のベッドのわきに立つと、
「亜紀が危なかったのよ。でも君原さんって方が、けがしながら守って下さったの」
「亜紀が? けがしたのか?」
「少々のかすり傷ぐらいです」
と、刑事が言った。「しかし、現行犯逮捕ですからね。言い逃れのしようがない。こっちとしては助かりました」
沙恵子は大きく息をつくと、|椅《い》|子《す》にペタッと座り込んで、
「――無事だったんですね! 良かった!」
「良かった? 妙な言い方だね。あんたのボスが捕まったっていうのに」
刑事の言葉に、正巳は|眉《まゆ》を寄せて、
「刑事さん……。どういう意味です、それは?」
と訊いた。
「この円谷沙恵子も、浅香八重子の身内の一人でしてね」
「――まさか」
「本当です。|手塚良一《てづかりょういち》という男、ご存知ですか?」
「手塚……。ええ、もちろん。僕が殺したんです。殴ったはずみでしたが」
「あなた……」
と、陽子がびっくりして夫の手をつかんだ。
「殺した? 手塚をですか」
「ええ。それを届けずに、死体を川へ捨ててしまったんです」
「それはおかしい」
刑事は愉快そうに、「手塚良一は今朝、傷害罪で一緒に逮捕したんですがね」
と言った。
しばらく、重苦しい沈黙が続いた。
沙恵子は青ざめた顔で、じっと椅子に座って動かない。正巳が狐につままれたような顔をしていた。
「――なるほど」
と、刑事が|肯《うなず》いて言った。「それで、この女と深みにはまったんですな。なに、手塚は死んじゃいない。あなたを引っかけるための|罠《わな》だったんですよ」
「そんな……」
正巳が|呆《ぼう》|然《ぜん》として、「沙恵子……。どういうことなんだ」
沙恵子がフッと肩を落とすと、笑った。
声を上げて笑った。
「――あのとき、手塚は死んだふりをしてたの。私が手首の脈をみたりしたけど、あなたは触りもしなかったでしょ? 死んだってことにして、川へ放り込んだ。全部、予定の行動だったのよ」
と、沙恵子は言った。「私が連中に捕まって裸にむかれてる写真もね。あなたは私を自由にするために、家も土地も抵当に入れて一億円の借用証に印を押した」
「どういう性根をしてるんだ。こんな人を|騙《だま》して。――さあ、罪は償ってもらうぞ」
刑事が促す。
沙恵子は肩をすくめて、
「行くわよ。みんな捕まっちまったんじゃ、仕方ないもんね」
と、立ち上った。「手錠、かけるの?」
「逃げないと約束すりゃ、病院を出てからにしてやる」
「ありがたくって涙が出るわね」
と、沙恵子は言った。「かみついて逃げてやる」
「よし、それじゃ……」
沙恵子が|揃《そろ》えて出した両手首に、カシャッと手錠が鳴った。
「さ、行こう」
と、刑事が腕を取った。
ドアの方へ行きかけたとき、
「沙恵子!」
と、正巳がベッドに起き上った。
そして、激しく|咳《せ》き込む。
「あなた――」
と、陽子は言いかけて、沙恵子がハッと振り向いた、その表情を見た。
陽子は、夫を元通りに寝かせると、
「さ、静かにしてるのよ……」
「沙恵子……。君は本当に僕が好きだったはずだ。そうだろ?」
と、正巳がかすれた声を出した。
沙恵子は、ドアの方へ向いて、身じろぎもしなかった。
「なあ……。わずかの間でも、一緒に暮したんだ。本当か|嘘《うそ》か、分らないわけがない」
正巳は苦しげに息をついた。
陽子は、夫が円谷沙恵子に話しかけるのを、止めなかった。
本当なら、夫を騙し、家も土地も取り上げようとしていた一味の一人なのだ。沙恵子がどうなろうと知ったことではないはずだ。しかし、夫が咳き込んだとき、ハッとした沙恵子の表情は、嘘ではなかった。
「沙恵子……。僕には分ってる。――君はいやいや言われる通りにしていたんだろ? 君は根っから悪いことのできる人じゃない。やり直してくれ。――な、沙恵子」
沙恵子の背中が震えた。
「あなた」
と、陽子が言った。「もう行かせた方がいいわ」
それ以上言えば、沙恵子にとって、|辛《つら》いばかりだろう。
「うん……。沙恵子、ほんのわずかの間だったけど、僕は楽しかったよ」
と、正巳が言った。
刑事がドアを開け、
「さ、行こう」
と促した。
すると――突然沙恵子が刑事を突き飛ばして、駆け出した。
不意をくらって、二人の刑事はよろけ、
「畜生! ――待て!」
と、怒鳴りつつ追いかけていく。
廊下に悲鳴が上り、何かがぶつかったり、倒れたりする音がした。
陽子は急いで廊下へ出てみたが、もう沙恵子も刑事も見えなくなっていた。
「――どうしたんだ」
と、正巳がベッドから訊く。
「逃げ出したのよ、あの人」
と、陽子はベッドのわきへ戻って、「動かないで。またひどくなると大変」
「うん……」
正巳は、陽子が布団をかけ直してくれると、「陽子……」
「なに?」
「お前には……ずいぶんひどいことをしたな、|俺《おれ》は」
陽子は、|椅《い》|子《す》にかけて、
「何よ、今ごろ」
と言った。
「ただ……俺はどうしても沙恵子を今、見捨てるわけにはいかないんだ」
「分るわ」
と、陽子は|肯《うなず》いた。「あなたはやさし過ぎる人なの」
「やさし過ぎる、か……」
「やさしさも、過ぎると残酷になるのよ」
「うん……」
正巳は小さく肯いた。「そうだな」
廊下を、バタバタと駆ける足音。
何か騒がしい。――どうしたのかしら? 陽子はまた立って行って、廊下を|覗《のぞ》いた。
何かあったらしい、ということは陽子にも分った。
しかし、具体的に何が起ったのかは分らない。看護婦が何人か、急いで駆けて行った。
「――何だ?」
と、ベッドから正巳が言った。
「分らない。見てくるわ」
陽子は、病室を出ると病院の玄関の方へと歩いて行った。
途中、刑事の一人が電話をかけていた。
「――そうなんです。つい、油断して。――申しわけありません」
と謝っている。「――いえ、まだ息はありますが、長くないと思います」
陽子は|愕《がく》|然《ぜん》とした。あれは円谷沙恵子のことだろうか?
「分りました。――はあ、浅香八重子とつながっていたことは、当人が認めました。――そうです。――ええ、また連絡します」
陽子は玄関へと急いだ。
病院の外、ちょうど正面の通りに、人だかりがしている。
陽子は、その人垣へと近付きながら鼓動の速まるのを覚えた。
――正巳の病室へ陽子が戻ったのは、十分ほどしてからだった。
「あなた……。何かほしいものは?」
と、声をかけると、
「陽子。――沙恵子が死んだんだな」
と、正巳が言った。
「あなた――」
「そうだろう?」
陽子は間を置いて、肯いて見せる。
「そう……。亡くなったわ」
正巳が深いため息をついた。悲しみと後悔の思いの入り混じったため息……。
「沙恵子は……」
「表へ飛び出して、走って来たトラックにひかれたの」
と、陽子は言った。「いえ……きっと自分からトラックの前へ身を投げたのよ」
「そうか……。|可《か》|哀《わい》そうに」
正巳は、じっと天井を見上げていた。
「ええ……。あなたのことが好きだったのよ。だから、自分のしたことを恥じて死んだんだわ」
正巳が陽子の方へ手を伸ばした。
陽子が急いでその手をつかむと、
「ありがとう」
と、正巳は言った。「ありがとう……」
「あなた……」
陽子は、正巳が泣いているのを見て、何も言えなくなった。
家も家族も捨てて行こうとした夫……。
しかし、円谷沙恵子のことを、正巳が本当に愛していたと知って、陽子はそれを責める気になれなかった。
陽子はただ、夫の手をじっと握りしめていた。
帰 宅
穏やかな日だった。
もう季節の上ではすっかり冬で、日によっては北風に首をすぼめる寒さもやってくるのだが、今日は春先の暖い日を思わせる天気だった。
「――まだ?」
と、松井ミカが亜紀に声をかける。
「うん……。まだみたい。遅いわね」
亜紀は多少|苛《いら》|々《いら》している。苛々したって早くなるものでもないのだが。
日曜日。表に出ると、珍しく元気に駆け回っている子供たちがいる。――いつもTVにかじりついていることの多い子供たちも、思わず外の空気が吸いたくなる、そんな午後だったのだ。
サンダルを引っかけた亜紀が通りに出て、車が見えないかと眺めていると、遠くからトラックがやって来た。
何だか、あのトラック、君原さんの仲間の、人形劇の人たちが乗っていたオンボロトラックと良く似てるわ、と亜紀は思った。もちろん、今日ここに来るわけないけど……。
ガタガタ、ドカン。――今にも分解してしまいそうな音……。やっぱりあのトラックだ!
びっくりした亜紀は、思わずトラックへ向って駆け出していた。
君原が手を振っている。運転しているのは佐伯だ。
「――どうしたの?」
と、トラックが停って、その窓の下へ駆け寄ると、亜紀は大きな声で言った。
「今日、お父さんが帰ってくるんだろ?」
と、君原が窓から顔を出して言った。「もう着いたの?」
「いいえ。今、タクシーで来るのを待ってるところよ」
「じゃ、間に合った。いや、みんなでお父さんの退院祝いをやろうと思ってね」
「ええ? だって――」
「分ってるよ。お父さんだって、敷居が高い思いをしてるだろう。だからこそ、にぎやかに迎えてあげた方がいい」
君原の言葉に、亜紀は感動した。
君原は、あの浅香八重子たちに、あんなひどい目に遭わされたのだ。もとはと言えばそれも父が|騙《だま》されたから。
君原が父のことを恨んでいたとしても当然だ。しかし、それをわざわざ仲間と一緒に祝おうというのだから……。
「ありがとう」
と、亜紀は素直に言った。「じゃ、お願いね」
「任しとけ!」
君原はしっかり|肯《うなず》いた。
亜紀は、小走りに家へ戻り、家の中へ駆け込んだ。ミカがびっくりしている。
「どうしたの?」
亜紀の話を聞いて、ミカは玄関から表に出てみた。
トラックが停って、ワイワイと人が降りて来る。そして何が入っているのか、大きな箱を次々に運び下ろし始めた。
「君原さん!」
亜紀が出て来て、ミカのわきをすり抜けていく。
ミカは、
「いいなあ……」
と、思わず|呟《つぶや》いていた。
亜紀には、君原がいる。――ミカにもすてきな「お兄ちゃん」はいるけれど、「兄」ではあっても「男」ではない。
つい、亜紀のことを|羨《うらや》ましく思ってしまうのも、仕方のないことだったろうか。
「あ! ――亜紀! 車だよ」
と、ミカは大声で言った。
亜紀が急いで通りへ駆けていく。
でも――タクシーではなかった。
「大きなハイヤーだよ」
と、ミカも一緒に出て行って、「お父さんじゃないみたいね」
「うん……。でも、誰だろう?」
車が停って、助手席のドアが開く。
「あ……。藤川さん」
祖父のそばについていてくれる、藤川ゆかりである。
「亜紀さん、こんにちは」
もう、亜紀も何回も祖父の見舞に行って、ゆかりとは親しくなってしまった。
「どうして?」
「お客様ですよ」
と、ゆかりがニコニコしている。
ハイヤーの後部座席のドアが開くと、
「家の前までつけますか」
と、男が顔を出した。
「江田、おぶっといで」
と、ゆかりが言うと、
「自分で歩ける!」
と、声がした。
「おじいちゃん!」
亜紀が目を丸くした。――祖父、金倉茂也が、支えられて車から降りて来たのである。
「先生の許可を取りましてね」
と、ゆかりが言った。「今夜は外泊できるんです」
亜紀は、祖父が見違えるほどしっかりした足どりで歩いてくるのを見て、目がうるんだ。ここまでリハビリをするのは、どんなに辛かっただろう。
「おじいちゃん!」
と、駆け寄って手を振ると、
「ぐうたら息子に、文句の一つも言ってやらんとな」
と、茂也は笑って言った。「――何の騒ぎだ?」
トラックや大勢の人を見てびっくりしているのだった。
亜紀が、人形劇団の人たちだと説明していると、佐伯がやって来た。
「何かお手伝いしましょうか?」
と、佐伯が茂也に言った。「人手はいくらでもありますが」
「いやいや、大丈夫」
と、茂也は首を振って、「孫がお世話になって」
そこへ、藤川ゆかりが大きなバッグを車のトランクから出して来た。
「これ、あなたの荷物。さ、ともかく中へ入りましょ」
と言って、佐伯を見ると、「あら!」
「やあ、こりゃ……」
と、佐伯が目を丸くして、「その節はお世話になりました!」
と、頭を下げる。
「いいえ。まさかこんな所でね」
聞いていた亜紀もびっくりして、
「お知り合いですか?」
「いや……。以前にね、我々の公演場所が見付からず、困ってたとき、助けて下さったんだ」
と、佐伯は言った。
「まあ! 偶然ね」
「さ、あなた。足元に用心して」
ゆかりが茂也を支えて行く。江田と呼ばれた男がバッグを抱えてついて行った。
「――あの人、おじいちゃんの奥さんになるの」
と、亜紀は言った。
「そうか……。いや、きっとおじいさんには話してないんだろうな」
と、佐伯は言った。
「何を?」
「君も黙っててくれよ。――あの女の人は、元、ヤクザの親分の奥さんだった」
亜紀は目を丸くした。
「ゆかりさんが?」
「あの江田ってのも、そのときの子分だ。――亭主を殺されてね、あの人は跡を継いで流血ざたをまとめてしまうと、組を解散したんだ。大した顔役だったんだよ」
「へえ……」
「僕らが道端で人形劇を見せてたとき、ヤクザに絡まれてね、大変なことになるところだったんだ。そこへ車で通りかかったのが、あの人で、『弱い者いじめをするんじゃないよ』って、ひと言。|凄《すご》い迫力だった」
亜紀は言葉もなかった。
「それで、すっかり僕らのことを気に入ってくれてね。会場を捜してくれたり、切符を買ってくれたりしたこともある。――頼りがいのある人だったよ」
と、佐伯は言った。
――もしかしたら、浅香八重子たちから救ってくれたのは、ゆかりさんなのかもしれない、と亜紀は思った。
「あなた。――大丈夫?」
と、陽子が言った。
「うん……」
正巳は|肯《うなず》いた。
大丈夫なわけがない。しかし、大丈夫と言うしかないではないか。
「あと三十分くらいかかるわ。眠っててもいいわよ」
陽子だって、分っている。夫が眠れるはずのないことぐらい。
しかし、他にどう言いようがあるだろうか……。
「陽子」
と、正巳は言った。「亜紀は、家にいるのか」
「いるでしょ、きっと」
と、陽子は夫の方を見ずに、「父親の退院の日なんだもの」
普通なら。――そうだ、普通なら家族総出で、迎えてくれる。
しかし、|俺《おれ》はそうはいかない。家も家族も、|一《いっ》|旦《たん》捨てて出てしまった人間なのだ。
――体の方は順調に回復し、肺の穴もふさがって、正巳はいくらかふっくらと太っていた。病人らしくない、と言われれば確かである。
「陽子、やっぱり――」
「あなた」
と、陽子が遮って、「先のことは、ゆっくり考えればいいわ。今はともかく家で静養すること。先生にも、そう言われて来たでしょ?」
すぐに無理をすれば、また|気胸《ききょう》になる可能性もある、と注意されている。
「家も土地も大丈夫なんだから、焦らなくても、当面食べてはいけるわ。心配しないで」
妻にそう言われるのも、正巳にとっては|辛《つら》いのである。己れの馬鹿さ加減を、あの出来事で思い知らされた。
浅香八重子と手塚、そして円谷沙恵子は、これまでも一緒になって、正巳のようなお人好しをカモにして来たのだ。
沙恵子はキャッシングローンの会社に勤めていたことで浅香八重子に目をつけられ、手塚の誘惑にコロリと|騙《だま》されて、顧客のデータを流した。
それが次のターゲットを|狙《ねら》うための資料だったのである。
浅香八重子の逮捕で胸をなで下ろした者はすくなくなかったのだろう。何十枚もの借用証が見付かったが、どれも現実に金を貸したのでなく、脅されて印を押しただけのものだった。
――一家離散してしまった家族も、父親だけが蒸発してしまった家族もあった。
いや、正巳だってそうだったのだ。ただ――円谷沙恵子が、この仕事にいやけがさしていたことも事実で、そのとき彼女は正巳に出会ったのだった。
正巳にとって、沙恵子が自ら命を絶ったことは、辛く、悲しい。
結局、正巳は沙恵子を浅香八重子たちからは救うことができなかったのだ。
それと同時に、沙恵子が本当に正巳を好きだったと知ることで、いくらか正巳が救われた思いなのは確かである。初めの内はともかく、深い仲になっていく内に、沙恵子は正巳と二人で、浅香八重子たちから逃れて、新しい暮しを始めようとした。
でも、正巳は体をこわして入院……。
「――円谷沙恵子さんのお骨が、|親《しん》|戚《せき》の方に引き取られて行ったそうよ」
と、陽子は、明るい外の風景へ目をやりながら言った。
「それは良かった」
と、正巳は言った。「死ななくても、やり直せただろうにな」
「そうね」
陽子は、夫の横顔へそっと目をやった。
正巳は、自分では気付いていなかったかもしれないが、陽子の目には、ずいぶん老けて見えた。当然のことと言えばそうだろう。
髪の生えぎわの白髪がめっきりふえたこと、額のしわが深くなったこと……。
苦労したのだ。悩んだのだ。
陽子たちも、もちろん辛かった。だが正巳は――。これまで、ほとんどそういう悩みを経験していなかった人だ。
そういう正巳だからこそ、沙恵子が罪の意識に負けて、死を選んだのだろう……。
陽子は、夫への腹立ちとか、そういう部分とは別に、真剣に円谷沙恵子を愛していたことを、いかにも夫らしいと思うことができた。
夫が入院していた一か月余りが、陽子の心に余裕を作ったのかもしれない。
「――土手の道だわ」
陽子が言った。
そう。タクシーは土手に沿った道を|辿《たど》っていた。
正巳は胸が熱くなった。――帰って来た。俺は帰って来たのだ。
タクシーは、家の前に寄せて停った。
「――あなたは降りて待ってて」
と、陽子が料金を払っていると、
「お父さん!」
と、亜紀が駆けて来た。
「やあ」
「お帰り!」
と、亜紀は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「荷物は?」
「トランクよ」
と、陽子が言った。
「私、持つ」
と、亜紀はふくれ上ったボストンバッグをトランクから出して、「さ、行こうよ、お父さん」
と、促した。
亜紀は、むろん父に対して複雑な思いがないわけではなかった。
その点、母以上に、父のしたことを怒っていたと言ってもいい。親友の兄にひどいけがまでさせることになってしまったのだから、充分すぎるほど、怒る理由はあった。
しかし――今、タクシーを降りて来る父を見て、亜紀はつい、
「お帰り!」
と、明るく呼びかけてしまったのである。
長く入院していたせいでもあるだろうが、足もとがやや危なっかしくて、一歩一歩、確かめるように歩き出す父を見て、亜紀は激しく胸を突かれる思いがした。
白くなった髪、ふっくらとはしたが、つやのない顔の表面。――時々病院へ行っていた母と違って、ずっと父を見ていなかった亜紀に、父の変りようは、ひときわ大きなものに見えたのかもしれない。
「――足もと、気を付けてね」
と、亜紀はつい口に出していた。
「大丈夫だ……」
正巳は、亜紀について玄関まで行くと、「母さんが来る。待ってよう」
と、振り向いた。
「何してるの? 早く入って」
と、陽子がタクシーの支払いをすませてやって来た。
「うん……」
正巳は、その場で二、三歩|退《さ》がると、ふらついた。亜紀はびっくりして、
「お父さん! 危ないよ」
と、手を伸ばした。
「いや……。大丈夫。大丈夫だ」
正巳はそう言うと、「――亜紀。お前と母さんに、俺は謝らなくちゃならん」
と、言葉を苦しげに押し出すように言った。
「あなた、こんな所で――」
「いや、ここだからこそだ。――うちの玄関を、俺は入る資格なんかない。お前たちに|詫《わ》びない内は」
正巳は、そう言うと、頭を深々と下げた。
「――すまなかった」
「お父さん……」
亜紀は、胸が詰った。「いいよ。――お父さんはお父さんで、そのときに一番いいと思うことをしたんでしょ。それなら……仕方ないじゃない」
「亜紀……」
と、|呟《つぶや》くように言ったのは陽子の方だった。
「後で考えたら間違ってたと分ることを、しちゃうことって、誰だって、あるものね」
と、亜紀は言った。「だけど――私が、駆け落ちしても、お父さん、怒んないでよね!」
正巳は笑った。涙が一筋、|頬《ほお》を落ちて行った。
正巳は、やっと玄関を入り、家の中に上った。
「あなた、疲れてたら横になる?」
と、陽子が言った。
「その前に、居間を|覗《のぞ》いて」
と、亜紀が言った。
「どうしたの?」
「うん、お父さんを待ってる人がいる」
正巳と陽子が戸惑い顔で居間へと入ってみると――。「やあ、お父さんが帰って来た」
と、人形が言った。
正巳と陽子が|呆《あっ》|気《け》にとられている。
居間のテーブルの上に、小さな「茶の間」が作られていて、コタツに入っているのは、どうやらおじいさんとお父さん、お母さん、それに娘の四人。
「やあ、ずいぶん長いこと留守にしてたじゃないか、お前」
と、おじいさんが言った。
「いや、道に迷っちゃって。いつも通ってる道なのに、妙なことでね」
と、お父さんが頭をかく。
「本当に、心配してたのよ!」
と、お母さんが甲高い声で怒ると、
「いや、長い人生には、そんなこともあるものだ」
と、おじいさんが言った。「見慣れたものが急に違って見えたり、よく知っているつもりだった人間のことが、まるで分らなくなったり。――だが、そういうことがあるから人生は面白いのだ。お前もその内には分る」
おじいさんの言葉は娘へと向けられたもののようだった。
「私はまだ子供だから、よく分らないけど、自分もいつかお父さんぐらいの年齢になって、迷子になるかもしれないね」
「お前たちには心配かけて悪かった」
と、お父さんが頭を下げる。「だが、迷子になったおかげで、見たことのない所を、ずいぶん見て来たよ」
「大切なのは、迷った後だ。そこから何を手に入れるかだ」
と、おじいさんが言った――。
四人の人形が一斉に正巳の方へ向くと、
「お帰りなさい!」
と、声を合せて言った。
「――君原さんたちだよ」
と、亜紀が言った。「私のボーイフレンド!」
正巳が、目をパチクリさせて、
「この人と……駆け落ちするのか?」
と|訊《き》いた。
「――まあ!」
と、陽子が目を丸くする。「お|義《と》|父《う》さん!」
茂也が、ゆかりに腕を取られて、しかし一歩ずつ自分の足で歩いて、やって来たのである。
「父さん……。大丈夫なの?」
と、正巳が進み出ると、
「息子がいい年齢をして、馬鹿なことをしてるからな。まだまだぼけるわけにいかん」
と、茂也は渋い顔で言った。「――ま、お前も回復して良かった」
「今日は、ここへ泊れるんだって」
と、亜紀が言った。
「ありがとう……。藤川さん、ありがとう」
と、正巳が涙ぐんで言った。
「あなた。ゆかりさん、ってお呼びしなきゃ。近々、『お母さん』って呼ぶことになるわよ」
ゆかりが初々しく頬を染めた。
正巳は、人形劇団の一人一人に|挨《あい》|拶《さつ》し、礼を言った。
「いやいや、我々には、これしかさし上げるものがありませんので」
と、佐伯が笑顔で言った。
正巳は、何とか涙をのみ込んだが、胸の内には熱い涙が滝のように流れ落ちていた。
「――あなた」
陽子が言った。
「うん……」
「これに着替えて。――少し太ったから、苦しいかしら」
寝室に入ると、正巳はベッドに腰をおろして息をついた。
「疲れた?」
「少しな……。大丈夫だ」
「無理をしないのよ」
陽子がベッドに並んで腰をおろす。
二人きりになると、何だか妙だった。
お互い、相手の胸に何が去来しているのかを知らない。ただ、二人の間を、二十年近い暮しと年月がつないでいることは事実だった。
「――元のようにはいかないかもしれないが、仕事を捜して、またやっていけるようにする」
と、正巳は言った。
「それは、あなたが考えて決めて。――ただ、亜紀のことを思うと……。あの子が一番|辛《つら》い思いをしたわ」
亜紀……。
父の|失《しっ》|踪《そう》だけでなく、母もまた他の男の前で揺らいでいることを知っていた亜紀。
陽子は、結局亜紀がこの家を救ったのだ、と思った。
「――さ、着替えたら下りて来てね」
と、陽子は立ち上って、「皆さんに、軽く何か召し上っていただくわ」
「ああ、そうしよう」
と、正巳は|肯《うなず》いた。
行きかけた陽子の手を、正巳がつかんだ。
陽子は正巳の方へかがみ込み、そっと唇同士を触れ合せると、そのまま足早に寝室を出て行ったのだった……。
土手の道
この寒いのに……。
亜紀は、一瞬そう思って――でも、考えてみりゃ自分もそうなんだ、と気が付いて笑ってしまった。
北風が|川《かわ》|面《も》を渡って、土手の道に吹きつけてくる。
学校帰りの亜紀は、マフラーを巻き直して、それでも土手の道を歩いていた。その少し前を、やはりトコトコと行く男の子。
あれ、もしかして……。
「モンちゃん!」
と呼ぶと、びっくりして振り返る。「やっぱり!」
「お前か」
門井勇一郎は、急にシャンと背筋を伸ばした。
「寒いね」
「冬だからな」
変な会話で、しかし、ともかく二人は並んで歩き出した。
「――元気?」
と、亜紀は訊いた。
「ああ……。お前んとこ、大変だったんだな」
と、勇一郎は言った。
「そうか……。モンちゃんにここでキスされたのが九月……。まだ何か月もたってないのにね。何年も昔のことみたいだ」
と、亜紀は言った。
「でも、ちっとも変んないな。安心したよ」
勇一郎の口調は、いかにも|嬉《うれ》しそうで、亜紀はちょっと胸が熱くなった。会うことはなくても、きっと話は聞いていて、心配してくれていたのだろう。
「大分大人になったのよ」
と、亜紀は秘密めかして言った。
「お前――」
「そんな、不機嫌な顔しないでよ!」
と、亜紀は笑った。「ね、うちへ寄る?」
「でも……。いいのか?」
勇一郎も、つい笑顔になる。「|俺《おれ》はどうせ暇だけど」
そこへ、
「亜紀君!」
と、後ろから声がした。
「君原さん!」
亜紀が振り返って手を振る。
君原が土手の道を走って来る。毎日のランニングの途中だ。
「――きっと、君だと思ったよ」
と、君原は並んで歩きながら、首にかけたタオルで汗を|拭《ぬぐ》った。「お父さん、どうだい?」
「ええ、ずいぶん元気になったわ。友だちに電話したりして、仕事を捜してる。今はなかなか見付からないらしいけど」
「そうか。でも良かったな」
と、君原は|肯《うなず》いた。
勇一郎も、一緒に歩いてはいたが、口をへの字に曲げてそっぽをむいている。
「今度、クリスマスに人形劇をやるんだ」
と、君原が言った。「もし良かったら、君も見に来てくれよ」
「行く行く!」
と、亜紀は飛び上らんばかり。「佐伯さんたちがやるんでしょ?」
「うん。僕は背景作りさ。初めは『クリスマス・キャロル』をやろうか、って言ってたんだけどね。外国人の人形って、少ないんだ。日本に移すと、話がおかしくなるから、|諦《あきら》めてね。別の話にした」
「そう。――ね、モンちゃんも見に行こうよ! 面白いから」
と、亜紀がつっつくと,
「人形なんて、興味ねえや」
と、勇一郎はすっかりすねている。
「そんなこと言わないで。一緒に行こう。ね?」
亜紀が念を押すと、
「俺、これで!」
と言うなり、勇一郎は斜面を駆け下りて、下の道へと行ってしまった。
「危ないよ! ――もう!」
亜紀は呼んだが、勇一郎は一目散に駆けて行く。
「悪かったかな」
と、君原が言った。
「そんなことないわ。モンちゃん、久しぶりだから」
「幼なじみって、難しいよな。いつの間にか大人になってて、でも、お互い、なかなか気付かなくて」
「そんなこと、考えたことないけど……」
考えたことない。――考えなくても、でも自分の知らないことが、世の中には一杯あるんだ。
亜紀は、すっかり日の沈むのが早くなった西の方角へ目をやった。
祖父、茂也はまだ当分入院してリハビリが続きそうだが、藤川ゆかりがついているので張り切っている。ゆかりとは、退院したら結婚することになっていた。
母、陽子は昼間、働きに出ている。事務の仕事で、そう大した収入にはならないまでも、正巳の仕事が見付かるまでは、貴重なお金である。
亜紀も、アルバイトしようかと思ったが、今はまだ学校の勉強をきちんとしておく方が先、と思い直した。
服や小物などは、新しく買わずに前のものを利用するようにしていた。
心がければ、ずいぶんむだづかいしていたところが見えてくるものだ。
「――亜紀君」
「うん?」
「クリスマスに……一緒にいられるかな」
君原が、少しおずおずと言った。
クリスマス、か……。
亜紀は、少しの間迷っていた。
普通の恋人同士なら、二人で過したいと思って当然だろう。母だって、君原となら「出かけちゃだめ」とは言うまい。
でも……。
「今年は、ごめんね」
と、亜紀は言った。「今年は我が家にとって、激動の年だったからね。家族でゆっくり過したい」
「そうか」
と君原は肯いた。
「ごめんね」
「いや、よく分るよ」
「クリスマスの後、一日ゆっくりしたいな」
「よし! じゃ、僕も張り切って――あ、レポート、まだ出してないのが一杯ある!」
と、君原が頭を|叩《たた》いて言った。
亜紀は笑ってしまった。
――君原と別れて、家の玄関の|鍵《かぎ》をあけて中へ入ると、ちょうど電話が鳴り出していた。
急いで駆けつけて、
「――はい、金倉です」
「亜紀か?」
「お父さん。どこから?」
「母さん、まだ帰ってないか」
「うん。何か用事?」
「仕事が決った」
亜紀は、胸が一杯になって、言葉が出なかった。
父の声の響き。――喜びだけではない。家族への罪の意識から、ずっと逃げられずにいたに違いない父にとって、それは「解放」の瞬間でもあったろう。
「――亜紀? 聞こえたか?」
「うん。おめでとう」
「これで、少しは母さんを安心させてやれる」
「帰ったら、言っとく」
「うん。もう少し細かいことを打ち合せてから帰る」
「分った。それじゃ」
亜紀も、いやに足どりが軽くなって、電話を切った後、家の中を飛んで歩いたりした……。
着替えをして、亜紀が下へ下りていくと、ちょうど玄関の鍵があいて、
「――お母さん! 早いのね」
「ただいま」
陽子が息をついて、「いつも遅くて買物しそこなうから、きょうは早く帰してもらったのよ」
両手一杯に紙袋を下げている。
「持つよ!」
亜紀は笑って、その袋を受け取った。
その日の夕食が、ちょっとした「就職祝い」となったのは、まあ当然のことだろう。
「月給は前の半分くらいだ。しかし、頑張るからな」
と、正巳は言った。
「体が大切よ。無理をしないで」
と、陽子が|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「亜紀、おかわりは?」
「うん……」
と、少し迷って、「やっぱり食べよう! ご飯半分に減らしても、食費が半分になるわけじゃないしね」
「あのね……。栄養失調なんかで倒れたりしないでよ、みっともない」
と、陽子は笑って、ご飯を大盛りによそった。
「はい!」
「ちょっと……。私のこと、ブタにする気?」
正巳は、妻と娘のやりとりを、楽しそうに眺めていた。
「――あ、電話だ。私、出る」
と、亜紀は立ち上った。「向うからかかってきたときは、できるだけ長くしゃべろう」
「亜紀ったら……」
と、陽子が苦笑い。
亜紀が出てみると、
「やあ、松井健郎だよ」
と、懐かしい声。
「あ、もうすっかりいいんですか?」
「ピンピンしてるよ。――今、出られるかい?」
「今ですか?」
「うん、そこの近くの土手の道にいるんだけど」
あの寒い所に! 風邪をひかせちゃいけないというので、亜紀はあわてて、「すぐ行きます!」と答えた。
急いでハーフコートをはおり、家を飛び出すと、風は一段と強くなって、首筋を冷たい指みたいになでていく。
首をすぼめた亜紀が、土手へと駆けて行って、見上げると――。
三人もいる?
一瞬、亜紀は浅香八重子の子分か何かが仕返しにでもやって来たのかと思った。しかし、向うですぐ亜紀を見分け、
「おい、ここだよ!」
と手を振ったのは、確かに松井健郎。
土手の道に上った亜紀は、男三人――健郎と君原、そしてモンちゃんまでいる! その三人が、並んで亜紀を待っていたのだ。
「どうしたの?」
と、亜紀が目を丸くしていると、
「君と付合って行く上で、君がキスしたことのある三人が|揃《そろ》って話し合うことにしたんだよ」
と、健郎は言った。
「キス……」
間違いはないけど……。亜紀はすっかり面食らっていた。
「亜紀がこんなにもてるなんて、思わなかったよ」
と、門井勇一郎が言った。
「ちょっと、それどういう意味?」
亜紀は腕組みして勇一郎をにらんだ。「私だって、好きでキスしたわけじゃない……ってことはないわ」
と、ややこしいことを言い出す。
「もちろん、好きだから、いや、とは言わなかったのよ。でもね……」
「僕らとしては、君がまだ高校生だってことを考えれば、焦るべきじゃないってことで同意したんだ」
と、健郎が言った。
「ありがとう」
「だから、決して三人の間で、こっそり抜けがけしない。デートするときは三人一緒」
「え? ちょっと待ってよ!」
「ま、それは冗談」
「良かった!」
と、胸をなで下ろし、「ともかく、ここじゃ寒いから、下へ下りない?」
「一度ずつキスしてから」
「――いやよ!」
と、真赤になって、「こんな……他の二人が見てる前で?」
「公平を第一にすることで合意したんだ」
健郎の言葉に、君原も笑っている。
亜紀は、この三人の「彼氏」たちを眺め渡した。
みんな、私を支えてくれた。もちろん、これから将来、どうなっていくのか、亜紀にも見当はつかない。
君原か、松井健郎か、「モンちゃん」か――。三人の内の誰かと「恋人」同士になるのだろうか?
他の出会いもあるかもしれない。むろん、この三人にとっても同じだ。まだみんな若いのだ。
亜紀よりずっとすてきな女の子に巡り合うかもしれない。
でも、ともかく今はみんな私の「恋人」なのだ。何てすてきなことだろう!
「分ったわ」
と、亜紀は、「一人ずつね」
と|肯《うなず》く。
今度は、三人の間で「誰が先か」でもめて、結局、ジャンケンで決めることになった。
「あ、もう一人いた」
と、亜紀が言った。「あの、けがした落合って人」
「あれはボランティア活動とみなすことにしたんだ」
と、君原が言った。「さ、ジャンケンだ!」
三人の男が|大《おお》|真《ま》|面《じ》|目《め》に、土手の道で北風に吹かれながらジャンケンをしている。――亜紀は笑いをこらえながら、胸が熱くなった。
ジャンケンの結果、健郎、モンちゃん、君原、という順番になった。
「――じゃ、後の二人は向うに行って!」
健郎が二人を追いやって、「いくら抱きしめても、もう傷は痛くないよ」
「はい、はい」
と、亜紀は笑いをこらえて、健郎を抱くと、キスを受けた。
「ね」
と、健郎が|囁《ささや》いた。「君のために大けがしたんだからね。僕に多少余分にやさしくしてくれるよね?」
「え、ええ……」
健郎がちょっとウインクして、
「はい、次の人!」
何だかレントゲン写真でもとってるみたいだ。
「モンちゃん、おませね。十七じゃまだ早いわよ」
と、亜紀も多少気が楽だ。
「負けてられるか! 何しろお前と一番長い付合いなんだぞ。それに――」
「それに?」
「お前の両親だって、|俺《おれ》ならよく分ってて安心だ。そうだろ?」
「――まあね」
二人は唇を重ねた。
なまじ小さいころから知っていると、キスしていても、つい昔のことを思い出しちゃったりして……。あんまりときめかないのは仕方ない。
「はい、ご苦労さん」
と、健郎が仕切っているのがおかしい。
「じゃあ……。よろしく」
と、君原は余裕の態度で、「|可《か》|愛《わい》いよ、亜紀君」
「ありがとう」
と、照れている。
それ以上何も言わずに唇を寄せて……。今のところ、一番「恋人らしい」のは、やはり君原かもしれない。
「――|凄《すご》いことやっちゃった」
と、亜紀は|呟《つぶや》いた。
わずか五分ほどの間に、違う三人の男とキスしたことのある子なんて、まずいないだろう!
でも、|嬉《うれ》しかったのは、三人がすっかり仲良くなった様子で、一緒に笑ったりしながら亜紀を家まで送ってくれたことである。
「――じゃ、おやすみ」
と、亜紀は手を振った。
三人がめいめい手を振って帰って行く。
亜紀は見送って、軽く息をついた。そっと唇に指先を触れる。――|二《ふた》|股《また》かけて、どころか三人と同時にキス! 友だちが知ったら目を回すだろうな。
亜紀は家の中に入って行った。
「お母さん――」
亜紀がダイニングへ入っていくと、父も母も姿が見えない。
「お父さん……」
居間にもいない。――どこに行ったんだろう?
首をかしげつつ、夕ご飯が食べかけのままなので、一人でまた食べ始めた。
しかし、|一《いっ》|旦《たん》席を立ってしまったので、何だかお腹が一杯になってしまい、ともかく、残ったご飯にお茶をかけて、かっ込んだ。お茶を飲んでいると、
「――あら、戻ってたの」
と、陽子がやって来る。
「戻ってたの、じゃないでしょ。どこに行ってたの?」
「二階よ」
当り前の調子で、「もう、ごちそうさま?」
「うん。――お父さんは?」
「二階で横になってるわ。少し疲れたんでしょ」
「ふーん。食べすぎじゃないの」
などと勝手なことを言っていると、当の正巳が、
「また腹が空いたな!」
と、やけに元気よく入って来たのである。
「あなた……」
と、陽子がにらむ。
「あ、いや、体調が戻ってるのかな。食欲が出て、困るくらいだ」
と、正巳がわざとらしく笑う。
――そういうこと? 夕食の途中に、しかも亜紀が出かけたほんのわずかの間に、「夫婦の対話」ですか。人が心配してりゃ、馬鹿らしい!
亜紀が口をへの字にしていると、
「ね、亜紀。クリスマスはどうするの?」
と、陽子が言い出した。
「クリスマス? ――どうして?」
「君原さんと出かけるんでしょ?」
陽子の口調には、「そうしてほしい」という響きがある。
「もしかしたら、ね……。まだ分んないんだけど」
「ね、お母さんとお父さん、二晩泊りくらいで、ちょっと温泉にでも行って来ようかと思ってるの。あなた一人でも大丈夫よね」
亜紀は頭に来た。
一家でクリスマスを過そうと、君原の誘いを断ったのに……。それが「邪魔だから、誰かと出かけろ」って? けれども、
「――一人でも平気よ!」
と、亜紀は言っていた。
「じゃ、頼むわね。あなた、明日、チケットが取れるか|訊《き》いてね」
亜紀は、ちっとも感傷的になっていない母を見て、|呆《あき》れながらも、「あれが私の将来か」と考えていたのだった。
本書は、平成九年十一月に小社より刊行されたカドカワ・エンタテインメント『くちづけ(下)』を文庫化したものです。
くちづけ(下)
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年8月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001>
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『くちづけ(下)』平成13年7月25日初版発行