角川文庫
くちづけ(上)
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
予 感
相 談
出会い
番号札
兄、帰る
愛想笑い
訪問客
辞職願
突発事件
不良中年
体育祭の朝
意外な客
お祭すんで
約 束
少年の夢
泥 沼
呼出し
秘 密
写 真
ぬれぎぬ
真昼の愛
見舞客
予 感
状況としては悪くなかった。
九月も下旬、やっと夏の|名《な》|残《ご》りの暑さは遠ざかって、夕方ともなると吹く風も涼しく、今、空は「秋!」と、大きく一筆で書いたような細いちぎれ雲が赤く染ってみごとな眺め。
「たまにはいいね」
と、|金《かね》|倉《くら》|亜《あ》|紀《き》は|学生鞄《がくせいかばん》を振り回しながら言った。
「こういう所をのんびり歩くのも、さ」
「うん……」
あんまり気のない様子で答えたのは「モンちゃん」こと|門《かど》|井《い》|勇《ゆう》|一《いち》|郎《ろう》。――亜紀と同じ十七歳の高校二年生である。
こういう所、というのはT川沿いの土手の道で、周囲より一段高くなっている分、視界は三六〇度グルリと開けて広々としている。
土手の道はどこまでも|真《まっ》|直《す》ぐに続き、時々ジョギングのトレーナー姿の人が追い越して行ったり、すれ違ったりする他は人通りも少なかった。
「どうしたの? 風邪ひいた?」
と、亜紀は門井勇一郎の伏せ気味の顔を|覗《のぞ》き込んで、「分った。体育の授業の後、汗かいたまま、放っといたんでしょ。だめだよ、モンちゃん、風邪ひきやすいんだから」
「そんなんじゃないよ」
と、勇一郎は言い返し、「二年生になって、まだ一日も休んでないんだぞ」
「そういうこと言ってると、とたんに風邪ひくんだから。だめだめ」
亜紀は白ブラウスの胸もとを指でつまんでパタパタ引張りながら、「汗が乾いて、涼しい」
と、息をついた。
「おい」
「うん?」
亜紀が勇一郎の方へ顔を向けると、何やら勇一郎の顔がぐーっと迫って来て、「え? ――え?」顔に蚊でもとまってる? モンちゃんって吸血鬼だったっけ? 蚊も吸血鬼も「血を吸う」という点、なぜか共通しているのだが、亜紀の連想がどうしてそこへ行ったか、不明である。
だが、いずれにしても亜紀は血を吸われたわけじゃなかった。
ともかくあんまり相手の顔が近付きすぎて寄り目になってしまうという、見映えのしない状態のまま、亜紀は唇にフニャッとした柔らかいものが押し付けられるのを感じたのだった。
で――勇一郎の顔が再び離れてピントを結ぶと、ようやく亜紀も今、何が起ったかを知った。
「――モンちゃん」
「うん……。ありがと」
何で礼を言っているのやら。ともかく亜紀は、感激するより何より、|唖《あ》|然《ぜん》とし、それからカッとなって、思い切り勇一郎の足を踏んづけたのだった。
突然のキスに対して反射的に行動していたので、加減ということをしなかった。
亜紀に足を踏まれた勇一郎は、鞄を放り投げ、声も出ない様子で、ペタッと座り込んでしまった。
一瞬、亜紀は、強く踏みすぎたか、と思ったが、今さら「やり直し」ってわけにもいかず、
「何すんのよ!」
と、右手を腰に当ててにらみつける。
「お前こそ……。痛いだろ!」
勇一郎の声はかすれていた。どうやら相当に痛かったらしい。
「突然あんなことするからでしょ!」
今になって、亜紀は真赤になった。それを見られたくなくて、
「歩けなかったら、逆立ちして帰んなさい!」
と言い捨てて、ほとんど走るような勢いで土手の道をひたすら突進して行った……。
「全く、もう!」
と、誰に言うでもなく言葉が飛び出してくる。「モンちゃんの馬鹿!」
ついでながら、「モンちゃん」とは門井勇一郎の「門」を「モン」と読んだあだ名である。――小学校からの幼なじみのせいで、ずっと「モンちゃん」で高校二年の今まで来た。
土手の道を軽やかに下りると、車が猛スピードで駆け抜けていく側道。
車の流れが途切れるのを待ちながら、亜紀は汗がふき出してくるのを感じた。自分でもよく分らない腹立たしさに追い立てられるように、大急ぎで歩いたせいである。
息をつき、頭を振ると髪が肩の上でフワリと風を含んで広がる。額が白く輝いて、若さを冠のように光らせている。
道を素早く渡ると、すぐ住宅地に入る。
側道を車のエンジン音が絶え間なく埋めているのが|嘘《うそ》のように、ほんの数十メートル入っただけで、辺りは静かだった。
金倉亜紀。――十七歳での初めてのキス体験。
わが家が近付くころ、やっと気持が落ちついて来て、大丈夫だったかな、足、などと考えている。
そう……。もう「モンちゃん」なんて呼んじゃいけないのかもしれない。二人して平気でパンツ一つで水遊びした小学生のころとは違う。
でも、まさか、あんなことをするなんて!
他に人もいなくて、夕焼け雲の美しい土手の道。――フッと勇一郎がそんな気持になったとしても……。
「やだ、やだ!」
と、大きな声を出す。
勇一郎が自分を「女」と見ていたことに、亜紀は少々ショックを受けていたのかもしれない。
ともかく、いつもの通りにうちへ入って行こうと、亜紀が鞄を振り回しながら、足どりを進めると、後ろに車の音。
振り返ると、タクシーがスピードを落として、亜紀を追い越し、少し先で停る。
ドアが開いて――。
「あれ?」
タクシーから降りて、中の誰かに頭を下げているのは、どうみても……。
「じゃ、さよなら!」
おじいちゃん、手なんか振って!
亜紀は笑い出しそうになるのを何とかこらえた。
ツイードの上着が暑苦しい。祖父の金倉|茂《しげ》|也《や》である。
タクシーが走り去っても、金倉茂也はその場で手を振って見送っていた。亜紀の目にも、タクシーのリアウィンドウからこっちを振り返りつつ手を振っている人がチラッと見えた。
あれって……女の人?
タクシーはとっくに角を曲って見えなくなったというのに、金倉茂也はぼんやりと立ち尽くしている。
亜紀は、祖父の肩をポンと|叩《たた》いて、
「おじいちゃん!」
「ワッ!」
と、仰天して飛び上り、「――亜紀か! びっくりさせんでくれよ」
「こっちこそびっくりするじゃない。そんなにびっくりされちゃ」
と、ややこしいことを言って、「暑くない、そんな上着?」
「うん? ああ、そうだな」
茂也はツイードの上着を脱ぐと、「お前、今帰りか」
分り切ったことを|訊《き》くところも、妙である。
「まあね」
二人は、ほんの二、三十メートル先のわが家へと歩き出した。
どうせタクシーで帰って来たのなら、どうしてうちの前で降りないんだろう? こんな手前で降りて……。
「暑いな」
と、茂也はハンカチを出して首筋を|拭《ぬぐ》った。
祖父、金倉茂也はついこの間、七十五歳になったところである。妻――亜紀の祖母を亡くして、七、八年たつが、至って元気で、都心へもよく出かけている。
「――亜紀」
「うん」
「|俺《おれ》がタクシーで帰って来たこと、父さんには言うな」
「どうして?」
「歩かんと体に悪いとか、すぐ言い出すからさ。いいな?」
「うん……」
ともかく二人はわが家へ|辿《たど》り着いたのである。
「ただいま!」
亜紀は、いつもの通り元気よく声をかけた。
当然、母の|陽《よう》|子《こ》が、
「お帰り」
と、奥から出てくるところだが――。
「お母さん? ――ただいま」
返事がないので、亜紀は二階へ上りかけた足を止めた。そういえば、玄関の|鍵《かぎ》がかかっていなかった。
陽子は用心深い性格だ。ほんの少し家を空けるときでも、必ず鍵をかけて行くし、家にいても開け放しておくことは絶対にない。
亜紀は心配になった。祖父の茂也はそんなこと気にもしていない様子で、さっさと一階の奥の自分の部屋へ行ってしまったのだ。
金倉家は、ごくありふれた建売住宅である。父、金倉|正《まさ》|巳《み》は普通のサラリーマンで、むろん大邸宅を構えるほどの財力はない。
それでも、この家は亜紀と両親、それに祖父の四人暮しにしては広い造りで、ここが買えたのは、祖父の茂也が大分お金を出したからだということを、亜紀も承知していた。
「お母さん……」
居間を|覗《のぞ》いて、それからダイニングキッチンへ……。
「――何だ」
亜紀は、ホッと息をついた。母、陽子が、ダイニングのテーブルに向っている。背中を向けているので、よく分らないが、居眠りでもしているのか……。
「お母さん」
と、亜紀がもう一度呼ぶと、
「ああ、びっくりした! ――亜紀なの」
他に誰がいるっていうの?
「お帰り。お腹空いてる? これから支度するのよ」
「ゆっくりでいいよ」
本当は、すぐにも|丼物《どんぶりもの》の一つぐらい平らげてしまいそうだったのだが、そうは言えなかった。
「そう……。今日はおじいちゃんも出かけてるのよ」
と、陽子は、よいしょという感じで立ち上った。
四十二歳の陽子は、それなりに腰の辺りに肉が付いて来ている。
「帰って来たよ」
「え?」
「今、表で一緒になった」
「そう」
タクシーで帰って来たことは言わなかった。ともかく今は早く部屋へ上ろう。
「着替えてくる!」
――亜紀は、階段を一気に上って、チラッと振り向いた。
お母さん、どうして泣いてたんだろう。
亜紀は自分の部屋へ入って、Tシャツとジーパンといういつもの格好に着替えると、ベッドに引っくり返って、力一杯手足を伸ばした。
ギューッと伸びるだけ伸ばすと、血のめぐりが良くなって頭がスッキリする。朝、目覚ましにもやるが、帰って来たときにも習慣になっている。
「あ〜あ……」
意味もなく|呟《つぶや》いて、天井を眺める。――この家を買って越して来たときは、ロックバンドのヴォーカルの特大ポスターを天井に|貼《は》っていたものだ。
〈ヒトシ命!〉なんて、ノートにもあちこち書き散らして、
「私は追っかけなんかやってる、その辺の子とは違うの! 一生、『彼のファン』でいつづけるのよ」
と、友人たちに宣言しまくっていたが、それから二年とたたないのに、すでにポスターは影も形もない。
何かに熱狂する時期はもう通過してしまったのだろうか? そう考えると少し寂しい気もした。
十七歳。亜紀の周囲の子を見ても様々である。今でもアイドルに夢中という子もいれば、もっと身近で現実的なボーイフレンドと、「ホテルに行っちゃった」という子もいる。
中には、既に人生を達観したように、
「男なんて、どれも同じよ」
と、肩をすくめて見せる子もいた。
亜紀はそのどっちにも属さない。平均的といえばそうだが、好奇心は|溢《あふ》れんばかりでも、何かにのめり込むほどのものは見付けていない。
男にしても……。何しろ今日、突然幼なじみの門井勇一郎にキスされてすっかり気が動転してしまったくらいで、容易に察しがつくというもの。
決して男の子の友だちがないわけじゃないのだ。亜紀は誰にも「自分のペース」というものがある、と思っているだけだ。一人っ子ゆえの|呑《のん》|気《き》さ、と友だちに言われることもあるが……。
それにしても――お母さん、大丈夫なんだろうか?
母、陽子は名前の通り明るい、おっとりした人である。亜紀は多分に母の性格を受け継いでいた。
その母が、泣いていた。見間違いじゃないし、TVドラマか何か見て泣いたわけでもない。それなら亜紀にだって分る。
亜紀があれだけ呼びかけても、なかなか気付かず、やっと振り向いたときのあわてた様子、涙を見せまいとしたごまかし方……。
何か、亜紀には知られたくないことがあったのだ。でも、何が?
ピピピ……。亜紀の|鞄《かばん》から電子音が聞こえて、あわててベッドから起きる。ポケットベルが鳴ったのだ。
ポケベルの呼び出しは、クラスメイトの|松《まつ》|井《い》ミカからだった。
亜紀は、二階の両親の寝室にあるコードレスの電話を持って来て、ミカの家へかけた。
「――もしもし、亜紀? 今、どこなの?」
と、ミカの明るい声が聞こえてくる。
「うちだよ。もちろん」
亜紀はベッドに腰をかけて言った。
「え? あ、何だ。まだ帰ってないと思ってたから」
ミカがそう思うのも無理はない。いつもなら金曜日はクラブで遅くなるのだ。
「今日、先輩の都合で練習がなくて」
「そうか。ね、明日の帰り、買物、付合ってくれない?」
「明日?」
「何か用事ある?」
亜紀は少し迷った。――母が泣いていたからというわけでもないが、何か起りそうな予感みたいなものがあったのだ。
でも、そんなことミカには言えない。
「――ミカは何の買物なの?」
「誕生日のプレゼント」
「へえ。彼にあげるの? この間、あげたんじゃなかったっけ」
「別口なの」
亜紀は笑ってしまった。――ミカの家は亜紀の所と違って、父親は社長、母親は華道の先生で、その分暮しも派手である。ミカも悪い子じゃないが、多少わがままなところはあった。
友だちが少ない分、亜紀を頼りにしている。いやとも言えず、「夕ご飯までには帰る」という条件でOKした。
むろん、高校生同士、話はそれだけでは終らず、十五分ほど話し込んでから切った。気分転換にはなって、亜紀は階下へ下りて行った。
陽子が忙しく台所で動き回っていて、
「何か手伝う?」
と、亜紀が声をかけると、
「|却《かえ》って手間よ。ね、コンビニで小麦粉、買って来てくれる?」
「いいよ。他には?」
「何もないわ。急いでね」
「うん」
ともかく母がいつもの調子なので、亜紀はホッとした。深刻に考えるほどのことはなかったのかもしれない。玄関へ行きかけると、電話が鳴った。
「私、出る!」
と、居間へ入って、「――金倉です。――あ、お父さん。――うん、今お母さん、支度してる。――分った七時半ごろね」
亜紀は、ふと居間を覗いている祖父と目が合った。電話が誰からか見に来たという様子だったが、茂也はパッと目をそらして行ってしまった。
相 談
「じゃ、できるだけ早く帰るよ」
そう言って、金倉正巳は受話器を置いた。
帰りが七時半ごろになる、と言っておいて、「できるだけ早く帰る」というのは少し妙だったろうか? つい、そう言ってしまうところが、正巳の気の弱さである。
もちろん亜紀は、そんなこと、気にもしないだろう。妻の陽子にしたってそうだ。
正巳はチラッと腕時計に目をやって、もう一度受話器を取り上げ、内線の番号を押した。うまく彼女が出てくれるといいが。
「――はい、|円谷《つぶらや》です」
いつもながら、はっきりと聞き取れる、歯切れのいい口調。正巳は、つい笑みを浮かべてしまうのだった。
「金倉だけどね」
「あ、課長さん。さっきはどうも……」
「今夜だけど、食事まではして帰れないが、お茶でも飲みながら話を聞くってのはどうだい?」
正巳は、しゃべりながらそっと左右へ目をやった。別に、何も悪いことをしているわけではないのだが、社内で妙な|噂《うわさ》になることは避けたい。
「でも……ご無理なさらないで下さい」
と、円谷|沙《さ》|恵《え》|子《こ》は言った。「お忙しいんですし、私の個人的な用件でお時間を――」
「構わないよ。ただ、どれくらい役に立つものか分らないけれどもね」
「ありがとうございます! 話を聞いていただけるだけでも、|嬉《うれ》しいですわ」
「いやいや……」
と、正巳は照れて、「じゃ、どうする? 待ち合せるにしても、僕はよく知らないんだよ」
「このビルの裏手に、〈シュヴァル〉ってお店があるの、ご存知ですか?」
「〈シュヴァル〉?」
「ええ、表に馬の|鞍《くら》が出ている――」
「ああ、分ったよ。名前は知らなかった。じゃ、そこで……」
「五時半には行きます」
「分った。じゃ、そうしよう」
正巳は電話を切って、軽く息をついた。
「課長」
ポンと肩を|叩《たた》かれて、「ワッ!」と飛び上りそうになる。
「何をそう仰天してんの?」
と、たっぷりとした胴回りを揺らして笑いながら、|伊《い》|東《とう》|真《ま》|子《こ》が言った。「さては浮気の打ち合せ?」
「よせよ」
と、正巳は苦笑いした。「僕が、そんなにもてると思うかい?」
「それもそうね」
伊東真子は至って正直である。
「この伝票、記入|洩《も》れよ」
と、伊東真子は正巳の机にポンと数枚の伝票を投げ出した。「書き直して出して」
「全部? やれやれ」
「新人の子をうまく使いこなすのも、課長の仕事でしょ」
「そう言われたってね……。僕にも仕事があるんだぜ」
金倉正巳は四十八歳。課長になったのはつい最近で、そのおかげで、同期入社の伊東真子にからかわれている。
真子は経理のベテランで、新入社員は必ず一度や二度は怒鳴り飛ばされていた。しかし、当人がカラッとした性格で、面倒見もいいので、若い子たちに頼りにされてもいたのである。
「お宅は皆さん、元気?」
と、真子に|訊《き》かれて、正巳は、そういえば以前はよく真子を自宅へ|招《よ》んだものだ、と思った。
「うん。|親《おや》|父《じ》も元気なもんさ」
「亜紀ちゃんはいくつ?」
「十七。高二だよ」
「もう十七か……。ボーイフレンドはいる?」
「どうかね。ちっとも色気がないから」
「知らぬは親ばかりかもよ」
と、真子はニヤリと笑った。
「また、遊びに来いよ」
「そうね。でも、今、日曜日は母の見舞に行かないと」
「お母さん? 具合が悪いのか」
「|脳《のう》|溢《いっ》|血《けつ》で倒れて。このまま寝たきりになるかも」
「知らなかった。いつ?」
「半年前。――一人でいると寂しいわ」
と、真子は少しおどけて、「慰めに来てよ」
ポン、と思い切り肩を叩かれ、
「いてて……」
正巳は顔をしかめた。
真子は笑って行ってしまう。――正巳は、ちょっとその後ろ姿を見送って……。
昔からふっくらした体型ではあった。今、四十六のはずだが、あまり変っていない。独身を通したのは、母親との二人暮しで、相手を捜す暇もなかったせいだろう。
自分のことは何も言わないのである。母親のことも、正巳は今初めて聞いた。
一人暮しか……。
入社二十五年というベテランだが、大した給料ではあるまい。母親を入院させておくのは容易なことではないだろう。
苦労は一人で負って、会社ではそんな気配をおくびにも出さない。それが「伊東真子流の美学」なのだろうが……。
ハッと時計をまた見て、
「仕事、仕事」
と、|呟《つぶや》いて座り直す。
しかし、つい円谷沙恵子のことを考えてしまうのだった。
正巳は、別に円谷沙恵子と「怪しい」わけでも何でもない。
伊東真子が言った通り、四十八にしてすっかり額の生えぎわが後退し、娘の亜紀に、
「中年太り!」
と、からかわれる腹の出具合――。
どう考えても、もてるタイプではないと自分でも知っている。エリートでもなく、課長のポストは、前の課長が五十そこそこでガンで亡くなったという事情があって、回って来たのである。全く予期しないことだった。
そうさ。――僕のことを誘惑したって、何の得にもなりゃしない。
金倉正巳の勤める〈Kリース〉は、ビデオカメラやキャンプ用品から、布団、シーツまで、何でも貸し出す会社である。
直接、客に接する部署は大変だが、正巳は庶務課長で、いわば雑用係だ。
不景気の影響もないではないが、あまり使う機会のない物は、買わずに借りようという人もふえ、またカメラなどはメーカーが新型の開発ペースを遅らせているので、|却《かえ》って助かってもいた。
何でも、
「最新型はないのか!」
と言う客がいるからである。
「――課長さん」
いつの間にか、円谷沙恵子がそばに立っていて、
「ああ。何だい?」
「カタログのファイル、新しいのはどこでしょうか」
「ファイル? ファイルなら、倉庫の棚だよ」
と言いながら、彼女がそっと小さくたたんだ紙を机に置くのに気付いていた。
「じゃ、捜してみます。すみません」
沙恵子は|微《ほほ》|笑《え》んで、足早に立ち去る。
正巳はそっとその紙を手もとで広げた。
〈お忙しいのに、ありがとうございます! なかなか、相談相手になって下さる方がいなくて……。手短かにすませます。どうかよろしく。
[#地から2字上げ]沙恵子〉
――円谷沙恵子は、二十七歳。去年この〈Kリース〉へ入社したばかりだ。
前はキャッシングローンの会社にいたということだが、どうしてこの会社へ来たのか、その辺は正巳も知らない。
見た感じは二十四、五というところで、少しかぼそい、頼りなげな印象があった。
しかし、仕事はよくやっているようで、上司の評判は悪くない。電話の応対が滑らかで声がいいので、苦情の電話がやたら彼女へ回るらしかった。
課も違うし、話をする機会はほとんどないが、その沙恵子が、
「ちょっと聞いていただきたいことがあって……」
と、正巳に言って来たのである。
「実は、困ってるんです」
と、円谷沙恵子は言った。「こんなこと、金倉さんにご相談するべきじゃないのかもしれないんですけど……」
金倉正巳は、沙恵子がそう切り出すのを聞いて、一瞬、「お金を貸して下さい」と言われるのかと思った。
――〈シュヴァル〉という喫茶店には、二人の他に、ぼんやりと週刊誌を眺めている男が一人いるだけだった。オフィス街の一画である。昼間の方が客も入るのだろう。
円谷沙恵子は約束の五時半ちょうどにやって来た。事務服以外の彼女をほとんど見たことのなかった正巳は、やや老けて見えるくらい地味なスーツの沙恵子に好感を持った。
ブランド物で固めるという趣味もないらしく、そこがまたいかにも似合っている。
「困ってることって、何だい?」
と、正巳はともかく訊いてみた。
――こんな風に二人きりで会いたいと言われたら、別に正巳に浮気するつもりはなくても、
「私、金倉さんのことが好きなんです」
と告白される場面を想像してしまうのは、男として仕方のないところ。
一方で、「|俺《おれ》がそんなにもてるわけもない」と思っているから、借金の申し込みか、などとも考えてしまう。
しかし、沙恵子の頼みというのはどちらでもなかった。
「私、この三年ほど付合っていた男性がいたんです」
「――そう」
まず、「愛の告白」という可能性はあえなく消えた。
「いい人ですし、私も彼のことを愛していました。でも……」
と、少しためらって、「私が……以前キャッシングローンの会社にいたこと、ご存知ですよね。彼はそこのお客だったんです」
「なるほど」
「二年前、彼の会社が危なくなり、ローンの返済が滞りました。私、自分のお給料から足りない分を埋めて、ともかく金利分だけでも払うようにしていたんです」
沙恵子はため息をついて、「それがいけなかったんです。彼はすっかり私のお金をあてにするようになり……。しかも、私に黙ってよその、もっと危ないお金を借りていたんです。それが分って、私は彼と別れようと思いました。でも、そのときにはもう彼は会社に借金がばれてクビになり、姿をくらましてしまいました」
「それで君、前の会社を辞めて?」
「はい。――彼との付合いを知られてしまって、|居《い》|辛《づら》くなって……」
「苦労したんだね」
と、正巳は|肯《うなず》いて言った。
「やさしい方ですね、金倉さんって」
と、沙恵子は言った。「安心してこんな話のできる方なんて……。みんな面白がって言いふらすでしょう」
「そんなことないさ。――ま、ともかく話を」
「はい、すみません」
沙恵子は一口コーヒーを飲むと、「それきり彼からは全く連絡が途絶え、私も今の会社で落ちついて来ました。もう彼との恋も過去のこと、と割り切れるようになっていたんです。ところが……」
沙恵子の額に、小さくしわが寄った。
「何があったの?」
と、正巳は訊いた。
「先週、彼から突然電話が」
沙恵子は緊張した声で、「思いもよらなかったので、びっくりしました。――私、一人暮しをしていて、彼はもちろん来たことがあるんです。私、彼に会いたいと言われて、いやとも言えず……。それに、やはりどうしているか気にかかったんです」
それは当然のことだろう。
「彼と会ったんだね」
「はい。――別人のようでした。やせて、やつれて……。何より、お金のことしか言わない人になってしまっていました」
「つまり……君にお金をせびったわけか」
「お金もですが、今でも私のことが好きだ、一緒に来てくれと……。どこか小さな町へ逃げて、二人で暮そうと言うんです。でも、そんなことできっこありません」
「なるほど」
「私、できないとはっきり言いました。すると――彼は私が前のローン会社で会社のお金をごまかしたと密告してやると言うんです」
正巳は|呆《あき》れて言葉もなかった。――何て|奴《やつ》だ!
「放っとけばいいじゃないか。何もなかったのなら、調べりゃ分ることだ」
沙恵子は、チラッと目を伏せて、
「私……確かに、彼の借金を少しでも減らそうとして、数字をわざと間違って入力したことがあるんです。彼のためにやったことですし、自分でお金をとったわけでもありませんが、不正には違いありません」
「なるほど。――いくらぐらい?」
「二十万ほどです。返すことはできますが、それですむとは思えませんし」
「うむ……。会社としては、そういう事実があれば、見逃すというわけにはいかないだろうね」
「はい、よく分っています。何とか、彼に思いとどまらせたいんですけど……」
沙恵子は、正巳を思い切ったように見つめて、「金倉さん。私と一緒に、彼に会って下さいませんか」
正巳は、しかし返事ができなかった。
まさか、沙恵子にそんなことを頼まれようとは思わなかったのだ。
「――しかしね、僕が彼に会って、何を言えばいいんだ?」
「お困りなのは分りますわ」
と、沙恵子は言った。「ともかく、私一人では怖いんです。何だか……彼に引きずられてしまいそうで」
それを聞いて、正巳はハッとした。
円谷沙恵子は、まだその「彼」を愛しているのだ。だからこそ、正巳にいてほしいのだろう。
「だらしのない話ですね」
と、沙恵子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「あんな風になったら、もう立ち直ることなんか期待できっこないのに、どうしても――。いえ、だからこそ、見捨てられないって気持になってしまうんです。だからって、私にも仕事があり、友だちもいます。何もかも捨てて彼について行くなんてこと、できるわけがありません」
「そりゃそうだ。そんなこと、いけないよ」
と、正巳は強い口調で言った。「君は自分を大切にしなくちゃ!」
「ええ、私もそう思うんです。金倉さんがそうおっしゃって下さると、|嬉《うれ》しいわ」
そう言われると、少し照れるが、悪い気はしない。
しかし、そんなことを言ってしまった以上、正巳としても沙恵子の頼みを聞かないわけにはいかなくなる。
「――お願いします」
沙恵子は深々と頭を下げ、「私が馬鹿な真似をしないように、ついていて下さい」
と、くり返した……。
「ただいま」
正巳は、玄関を入ると、声をかけた。「おい、陽子!」
顔を出したのは、亜紀だった。
「お帰り」
「ああ。母さんは?」
「いるよ。今、夕ご飯、食べ始めたとこ」
「そうか。じゃ、いいタイミングだったな」
と、正巳がネクタイを外しながら言うと、亜紀は微妙な表情を見せて、
「いいタイミングかどうか、難しいとこだよ」
どういうことだ?
正巳は首をかしげたが、ともかく急いで二階で着替えをして、ダイニングへ下りて来た。
――食卓は、どこか重苦しい雰囲気に包まれていた。
何ごとだ? あれこれ想像してみたところで、思い当らない。一つ確かなのは、父の金倉茂也がこの気まずさの原因を作っているということだ。
父、茂也は渋い顔で腕組みをしたまま、食欲もない様子だった。
出会い
「腹が減った!」
正巳はわざと大きな声で言って、|椅《い》|子《す》を引いて座ると、「昼はソバだったから、もう四時ごろからお腹がグウグウ鳴って。みっともないっちゃないよ」
陽子は黙ってご飯をよそうと、夫へ渡した。
「――何だ、みんな食べないのか?」
正巳は、その場の気まずい空気に気付かないふりをした。頼むから、このままおさまってくれ。お願いだ。
「あなた」
と、陽子が言った。「お|義《と》|父《う》さんが……」
「もういいんだ」
と、父、茂也は投げやりな口調で、「|俺《おれ》は世話になってる身だ。財産もないし。わがままを言うなんて、とんでもないことだ。身の程知らずだ」
陽子が困った様子で夫を見る。
「父さん……」
と、正巳は言った。「何をむくれてるのさ? 僕は仕事でくたびれてるんだ。頼むからそんな顔しないでよ」
「俺の顔が気にいらなきゃ、消えてやる」
茂也は立ち上ると、さっさと行ってしまった。
「父さん! ――全く!」
正巳は肩をすくめて、「放っとけ、放っとけ。さ、食べよう」
正巳一人がガツガツ食べ出して、陽子と亜紀もはしを取ったが、玄関の方で音がしたと思うと、聞こえよがしにドアが大きな音をたてた。
「出かけたな。――その辺で何か食ってくるのさ」
正巳はお茶をガブ飲みして、「もう一杯くれ。――何だって言うんだ?」
「それが……。アパートを一部屋借りたいっておっしゃるの」
「何だって?」
正巳も、そんなこととは思いもしなかった。「しかし……何のために?」
「それをおっしゃらないんだもの。『俺にだって、プライバシーはある』とか言って、黙ってしまって」
「どうしてまた……。妙な話だな。大体、|親《おや》|父《じ》だってこの家に金を出してるし、一階の奥の部屋がいいと自分で言ったんじゃないか」
「私に言わないでよ」
と、陽子はふくれっつらで、「今、アパート一部屋借りたら、家賃と光熱費で十万円はかかるわ。とてもそんな余裕、ないわよ」
「うん……。親父だって、そんなこと分ってるだろうけどな」
正巳は首をかしげた。
父、茂也も七十五歳。多少、頭も固くなって頑固なところはあるが、それでも家族を困らせたりしたことは、ついぞなかった。
「亜紀、お前何か聞いてないか?」
正巳は娘の方へ言った。
「何も」
亜紀はそれきり黙って夕ご飯を食べている。
「そうか……」
「あなた、ゆっくりお義父さんと話してみてね」
「分った」
やれやれ……。
正巳は、とかく「もめごと」というものが嫌いである。むろん自分が直接|係《かかわ》るのはいやだが、それだけでなく他の人間同士、こじれているのを見るのもたまらない気がしてしまう。
といって、仲裁に入るなんて柄でもなく、ひたすら何も気付かないふりをしているのである。それですめばいいが、しかし今度の場合は、自分の父親のことだ。他人任せにして知らん顔を決め込むわけにいかない。
円谷沙恵子の頼みを断れなかっただけでも気が重いのに、帰ってみればこの状態。正巳はまたため息をついてしまった。
「――ごちそうさま」
と、亜紀ははしを置いて、「ちょっと買物してくる。そこのコンビニで」
「そう。じゃ、ドレッシング、買って来てくれる? いつもの和風の」
「うん、分った」
亜紀は、|一《いっ》|旦《たん》自分の部屋へ上って、財布を取って来ると、足早に外へ出た。
二十四時間オープンのコンビニができて、ずいぶん便利になった。特に試験の時期など、眠気覚ましにスナック菓子を買いに出ることもある。
コンビニまで歩いて五、六分。
バスが何台もすれ違い、バス停では勤め帰りの人たちがゾロゾロと降りてくる。通り過ぎる家々から、今夜のおかずの|匂《にお》いが道へ漂って来ていた。
コンビニの辺りだけがポカッと明るい。亜紀は足を速めた。
「――あ」
と、思わず足をピタリと止めてしまったのは、コンビニの表の公衆電話を使っているのが、祖父の茂也だったからである。
向うは亜紀の方へ半ば背を向けているので気が付いていない。亜紀は、さりげなく茂也の後ろへ回った。
「――ああ。もちろん、そう思ってるよ。――うん。何とかなるさ。――そう、大丈夫だよ」
茂也の言い方のやさしいこと。亜紀は、祖父がこんな口調でしゃべるのを聞くのは初めてだった。
そうか。あのタクシーに乗ってた女の人だ。
亜紀は直感的にそう思った。同時に、祖父がどうして突然「アパートを借りたい」と言い出したのか、分ったのである。
茂也は、まさか自分のすぐ後ろで孫が聞いているとは思いもよらないのだろう。機嫌が良くなったのか、電話が遠いわけでもないだろうに、段々声が大きくなって来る。
「私を信用してくれよ、な? ――うん、そうだとも。あんたを泣かせるようなことをするわけがないじゃないか」
――おじいちゃんに「恋人」?
茂也の話し方からいって、そうとしか思えないと分っていながら、亜紀は、信じたくない気持だった。
何といっても、もう七十五歳なのだ。――いや、「女友だち」がいたとしても、それは構わない。
でも、茂也の口調は「ただの友だち」に対するものにしては、明らかに|馴《な》れ馴れしかった。亜紀だって十七である。それくらいのことは分った。
「――ああ、また電話するよ。――今度はどこかへ泊りがけで、どうだね?」
と、茂也は言った。「温泉? いいね! ――うん、どこか捜しておこう。――ああ、心配しなくてもいい。昔の仕事仲間とよく小さな旅行をする。それだと言っとくよ」
聞いていて、亜紀は困ってしまった。
立ち聞きしたなんて知られたら、怒られてしまうだろう。
亜紀はそっと茂也から離れて、ちょうど駐車してあった車のかげに隠れたが、間一髪、茂也が、
「じゃあ……。早く会いたいね。――またかけるよ」
と、電話を切ったのである。
口笛なんか吹いて、茂也は楽しげに行ってしまった。――亜紀はホッと息をついて祖父を見送ったが……。
こと、恋愛となったら亜紀もベテランとは言い難い。しかも、あの年齢になってからの恋……。
むろん、そういうことがあり得るというのは、頭では分る。でも、自分自身のおじいちゃんとなると、やはり平気で放っとくというわけにもいかない。
「――あ、そうだ」
亜紀はコンビニに買物に来たのだということを思い出し、急いで店の中へ入って行った。
「ドレッシング……。和風だよね」
と、棚を捜す。
やはり日本人向きなのだろうか、和風のドレッシングは一本残っているだけ。
亜紀がそれを取ろうと手を伸ばしかけると、ヒョイと他の手が先に取ってしまった。
「あ――」
と、亜紀は思わず口に出した。
「え?」
と、目をパチクリさせて、「君、これ買うんだったの?」
と、その男は|訊《き》いたのだった。
「そう……。そうなんですけど」
と、亜紀は言った。
「じゃあ、君が持ってくといい」
大学生だろうか、背も高くて、肩幅の広い、がっしりした体つきだ。
「でも……。それじゃ申しわけないから」
「いいさ、ドレッシング一本ぐらい。別に僕はこれでなきゃってわけじゃないんだ」
「そうですか。じゃ、すみません」
と、渡してもらって、「ありがとう」
「別に、買ってあげたわけじゃないんだから」
と、相手の方が照れている。
大きいけど、何だか「|可《か》|愛《わい》い」って感じ。亜紀は何となくその色白な顔をじっと見つめてしまった。
「もう、それで買物は終り? ――僕はカップラーメンを買ってくんだ。どれがおいしいんだろ」
と、何十種類と積まれているのを眺める。
「あ、これ――。この新しく出たの、ちょっと辛くておいしいです」
「これ?」
「ええ。ピリッとくるけど、後に残らなくて。――宣伝してどうするんだろ、私って」
と、赤くなると、相手は笑って、
「君のこと、時々見かけるよ」
「え?」
「土手の道をよく歩いてるだろ。僕は夕方、あそこを走るんだ」
「私のことを……」
「今日もね」
と、その若者は|微《ほほ》|笑《え》んで、「一緒の男の子は気の毒だったね、けとばされて」
亜紀は目を丸くして、
「見てたんですか?」
「後ろから走ってた。大分離れてたけど、見えたよ。男の子が君に――」
「やめて下さい!」
思わず大きな声を出し、店の中の客たちがびっくりして振り向く。亜紀はあわてて小声になって、
「言わないで! あんなこと……。私、それにけっとばしてません。足を踏んづけただけ!」
大して違わないかもしれない。
「それは失礼」
と、面白そうに、「僕はこの近くにアパート借りてるんだ。君原っていうんだよ。|君《きみ》|原《はら》|勇《ゆう》|紀《き》。君は?」
「金倉……亜紀です」
「君が『亜紀』? 僕が『勇紀』だ。似てるね」
と、字で書いて見せて、「この近所?」
「ええ、すぐ……。五分くらいの所です」
どうしてこの人、こんなに私のことを訊いてくるんだろ。スラスラ答えてしまう自分自身も、ふしぎだった。
亜紀がすすめたカップラーメンを五、六個抱えた君原という若者は、亜紀と一緒にレジの方へと歩いて行った。
「大学生ですか」
と、亜紀は訊いた。
「うん。N大の二年。一浪してるから二十一歳だけどね。君は高校だろ?」
「二年生です」
「じゃ、十七? 若くていいなぁ」
亜紀はふき出してしまった。
「四つしか違わないのに」
「いや、二十歳の前と後じゃ大違いさ。走ってると良く分る。後でこたえるよ」
と、|大《おお》|真《ま》|面《じ》|目《め》に言って、君原はレジのカウンターにラーメンを置いた。
大学生か……。一人っ子の亜紀は、小さいころ「お兄さん」が欲しいとよく思っていた。それはちょうどこんなタイプの男性じゃなかったろうか。
亜紀は我ながら、妙なことを考えてると思って頭を振った。
先に君原が支払いをすませ、亜紀がドレッシングを置いて財布を出す。
「あ、ごめんなさい!」
肝心の自分の買物を忘れていた! 「あの――他に買うものがあるんで、これ、置いといて下さい」
と頼んで、あわてて棚の方へ駆けて行く。
ウォークマン用の電池とか、クリップだとか……。細かい物ばかりだから、手に持っていると落ちそうになる。
「僕が持っててあげる」
君原の大きな手が、亜紀の手にちょっと触れた。亜紀はドキッとして、
「すみません」
――何だか変だ。どうしちゃったんだろ? こんなにどぎまぎして。しっかりしなさいよ、亜紀ったら!
ともかく、買物をすませてしまおう。君原に持っていてもらうのが申しわけなくて、急いだ。すると――。
「そっち行け!」
突然、いやに上ずった甲高い声が店の中に響いた。びっくりした亜紀が|覗《のぞ》くと、レジに男が一人――手にあんまり切れそうにない包丁をつかんでいた。
「金を出せ! ここへ置け!」
若い男で、真青になってガタガタ震えている。レジの女の子は大学生のアルバイトらしかったが、よっぽど落ちついている。
「いくらいるんですか?」
なんて訊いている。
「全部出せ! 早くしろ、けがするぞ!」
女の子が千円札の束をつかんで出すと、男はそれを引ったくるようにしてポケットへねじ込んだ。汗が額に光っている。
すると、君原が一瞬の動作で何かを投げた。男は頭を押さえると、|呻《うめ》き声を上げてよろけ、包丁が床へ落ちて音をたてた。
アッという間の出来事だった。
君原は、包丁を取り落とした男へと駆け寄って、|拳《こぶし》を固めて一発お見舞いした。相手は|呆《あっ》|気《け》なくのびてしまう。
「警察へ連絡して」
と、君原が言うと、レジの女の子は思いもかけない展開にポカンとしているようだったが、
「――はい!」
と、あわてて緊急時の通報用ボタンを押した。
もちろん、亜紀も呆気に取られて見ているだけだったが、君原が戻って来て、
「ごめんね。君の買物、みんな放り出しちゃったよ」
と言ったので、初めてクリップだのカセットテープだのが床に散らばっていることに気付いた。
「いいんです! だって……」
「電池をぶつけてやったんだ。命中して良かったよ」
と、君原はニヤリと笑った。
店内の客たちが拍手をした。ごく自然に拍手が起ったのだ。君原はちょっと照れた様子で、
「さ、買物をすませたら出ようよ」
と、亜紀を促した。
「――ここです」
と、亜紀は家の前で足を止めた。
「じゃあ……」
と、君原は言って、二人とも何となく黙って立っていた。
「――|凄《すご》いとこ見ちゃった」
「いや……。今、思うとゾッとするよ」
「どうして?」
「もし、あれがそれてたら? レジの女の子が刺されてたかもしれない。あいつ一人だったからいいけど、もし他に仲間がいたら? ずいぶん無謀だったよ」
「でも……」
「僕は、あんまり先のことを考えないで行動しちゃうところがあるんだ」
と、君原は反省して、「ま、今夜はうまく行ったけど」
「あんなこと、誰にもできないわ。すてきでしたよ」
と、亜紀は強調した。
遠くにサイレンが聞こえて、
「やっと来たみたい」
と、コンビニの方角を見た亜紀が顔を戻すと――。
君原がいきなり亜紀の肩をつかんで引き寄せ、亜紀はキスされていた。
「――思い立つと、すぐ行動しちゃうんだ」
いたずらっぽく言って、君原は|大《おお》|股《また》に歩いて行く。亜紀は、一日に二人もの男性にキスされ、天地が引っくり返ったような状態で立ちつくしていたのである……。
番号札
「男なんて、嫌いだ!」
と、亜紀は言った。
それを聞いて、松井ミカはふき出してしまい、
「亜紀ったら! ミルクセーキで酔っ払ったの?」
と言った。
亜紀はジロリとクラスメイトをにらんで、
「買物に付合えって言うから来てやったのに、そんなこと言うのか! 分った。もう二度と付合ってやんない」
「ごめん、ごめん! 謝るからさ、そうふくれっつらしないで」
「どうせふくれてるわよ、私の顔は」
――亜紀は、ちょっとまぶしげにデパートの表へ目をやった。ガラス越しに夏の|名《な》|残《ご》りを思わせる日射しが入って、店の中は暑い。
ミカに言わせると、
「早くお客に出て行かせようという、お店の陰謀」
ということになる。
店の方でそうしたくなったとしても無理はないと思えるくらい、店の入口には空きを待つ人たちが行列を作っていた。
土曜日の午後。松井ミカに頼まれて買物に付合った亜紀は、一息入れたこのお店で、「我が人生の最悪の一日」となった昨日の出来事を、親友へ話して聞かせたのである。
「でも、嘆くことないじゃない。一日で二人もの男とキスしたなんて!」
「おっきな声出さないでよ」
と、亜紀は口を|尖《とが》らし、「そりゃあ、ミカはもうベテランでしょうけど」
「まあね。――それにしても、亜紀、本当にキスって初めてだったの?」
「悪かった?」
「そうじゃないけど……。門井君と、とっくにしてると思ってた」
「男だなんて思ってなかったもん」
「|可《か》|哀《わい》そうに」
と、ミカは笑った。「それでけとばされて? 同情しちゃうな」
「けってないって! 足、踏んづけただけ」
「大して違わないよ。でも、その〈夜の部〉の方に興味あるな」
「二部興行やってんじゃないよ」
と、亜紀は冷たいミルクセーキを飲み干して息をついた。
「門井君は知ってるけど、その……何てったっけ?」
「君原さん。君原勇紀」
「出会いもドラマチックじゃない。ねえ、いきなりコンビニ強盗なんてさ」
「だけどね、モンちゃんにしても、あの君原って人にしても……。どうして男っていきなりキスするわけ?」
と、亜紀は文句を言った。
「仕方ないでしょ。『今からキスします』って言われたら、|却《かえ》って困らない?」
「そりゃまあね……」
ウェイトレスが、空になったグラスをさっさと下げて行く。飲み終ったら早く出て下さい、と言わんばかり。
「もっと粘ってやろう」
と、ミカが言った。
――金倉亜紀と松井ミカは女子校に通っている。昨日突然亜紀にキスした「モンちゃん」こと門井勇一郎は、中学まで亜紀と一緒だったが、今はむろん別。ただ、家も近いし、何かと一緒に出歩くことも多かったので、ミカも知っているのである。
ミカはいかにも「お嬢様」で、見た目も華やかな印象の女の子である。母親が華道の先生で、ミカも小さいころからお|稽《けい》|古《こ》ごとを色々やらされていた。
亜紀は、お正月や、ちょっとした正式な集まりなどに|振《ふり》|袖《そで》をみごとに着こなしてくるミカのことが、いつも|羨《うらや》ましい。
着なれない子がたまに着て窮屈そうにしているのと違って、身のこなしも仕込まれているから、亜紀が見ても、うっとりするほど素敵である。
当然、高校一年のときからもてて大変。亜紀は、ずいぶんミカのデートのお付合いをしたものだ。
「お付合い」というのは、ミカの母親から、
「男の子と二人きりで、何かまちがいでもあると困りますからね。亜紀ちゃん、そばについててね」
と頼まれてのこと。
要するに、いつもミカと「彼氏」に邪魔にされつつ、一人でそばにいるという、つまらない役目だった。
亜紀がそんなことまでしていたのも、やはりミカに|憧《あこが》れる気持があったからだろう。
でも、いくら亜紀が「お目付役」といったって、ミカは適当に男の子と二人で出歩いている。――それにひきかえ、私の方は、と亜紀はため息をつく。
モンちゃんと、まるで見知らぬ初対面の大学生の二人にいきなりキスされる……。どうしてこうロマンチックじゃないんだ?
「嘆いていても始まらない、か」
と、亜紀は腕時計を見て、「そろそろ行こうか」
「うん。今日はおごるわ。私が頼んで来てもらったんだから」
「いいよ! おごるなら、もっと高い店にして」
二人は笑って、きちんと自分の分を財布から取り出した。
――駅の改札口の前まで来て、
「お母さんに電話するから。それじゃ」
と、亜紀はミカと別れて、ズラッと並んだ公衆電話の方へと人の間を縫って行った。
亜紀は、家へ電話をかけた。
すぐに出たので、
「お母さん?」
「何だ、亜紀か」
「おじいちゃん。お母さん、いる?」
「いや、出かけたようだ」
と、金倉茂也は言った。
「そう……。夕ご飯のこと――」
と言いかけて、亜紀は電話を切られてしまったので、|呆《あっ》|気《け》に取られた。「――おじいちゃんたら!」
どうかしてるよ、全く!
そうか。こんなにすぐ電話に出たのは、きっと「彼女」からかかって来るのを待ってたんだ。そこへ亜紀がかけたものだから、ろくに聞きもしないで切ってしまった。
「ま、いいか」
本当は、帰りにミカとデパートに寄ると聞いて、母、陽子が、
「できたら帰るときに電話して。何か頼むかもしれないから」
と言っていたのである。
でも出かけちゃったのか。大人って、いい加減だな!
何か自分の好きなおかずだけでも買って行こうか。ふと、亜紀は昨日、母が泣いていたらしい様子だったことを思い出した。
おじいちゃんがあんな風で、お母さんも何か|辛《つら》いことでも抱えてるんだろうか。――亜紀も、少し心配になって来た。
「そうだ。帆立のグラタン、買って行こう」
お母さんの好物である。デパートの地階へ行けば、たぶんあのお店が入っていたはずだ。
そう思い付くと、亜紀は足どりも軽くなって、食料品売場へ直接下りるエスカレーターへと急いで歩いて行った。
そのころ、実は当の母親、陽子は亜紀から数百メートルしか離れていない所にいた。
そしておずおずと、
「すみません……」
と、声をかけていたのである。
「はい」
|蝶《ちょう》ネクタイの男性が聞きつけて出てくると、「恐れ入ります。ディナーは五時半からでございますが」
「あ、ええ……。分ってるんです。あの……金倉と申しますけど。バッグのことで、お電話を――」
しゃべっている内、段々声が小さくなってしまう。しかし、相手はそれだけで分ってくれて、
「失礼いたしました! お待ち申しておりました。どうぞお入り下さい」
「はあ……」
「さ、どうぞどうぞ」
陽子は、レストランに足を踏み入れた。
ランチタイムとディナータイムの間、空っぽのレストランは何だか全然見たことのない場所のように思えた。
――ここが、つい三日前、お昼を食べた所かしら?
陽子は、落ちつかない気分で隅のテーブルについていた。空っぽといっても、ディナータイムまで、あと一時間ほど。数人のウェイターがテーブルにナイフとフォークをセットし、ナプキンをきれいな扇の形に立てる。見とれるような手ぎわだった。
「――お待たせしまして」
と、やはり蝶ネクタイの、しかしどこか|貫《かん》|禄《ろく》を感じさせる男がやって来た。「金倉様でいらっしゃいますね。当店のマネージャー、|布《ぬの》|引《びき》と申します」
「はあ……」
「私どもの手落ちで大変なご迷惑をおかけしました。申しわけありません」
「あ、いえ……。私ももっと注意していれば良かったんです」
「いえ、何と申しましても私どもの失態で。もう|一《ひと》|方《かた》の――確か|円城寺《えんじょうじ》様とおっしゃいましたか、まだおみえでございませんので、少しお待ちいただけますか」
「ええ、もちろん」
「その間、デザートを召し上って下さい」
布引という男がちょっと指を立てると、ウェイターが素早くやって来て、陽子の前にデザートナイフとフォークをセットする。
「あ……。今お休みのお時間でしょう? どうぞお気づかいなく」
「いえ、これくらいのことは……。では、後程参りますので」
「はあ……」
大きな皿に、フルーツやケーキを盛り合せたデザートが出て来る。
「コーヒー、お紅茶、どちらになさいますか?」
「あの……じゃ、コーヒーを」
仕方ない。せっかく出してくれたものだ。
陽子は、デザートを食べ始めたが、お店の中に客が自分一人というのは、何とも心細い限りだった……。
そもそもは、三日前、ここで親しい奥さんたち数人とランチを食べたこと。夜は高くて、とても足を踏み入れられはしないが、ランチなら――とはいえ、やっぱり安くはない。夫に言ったら、目を回すかもしれない。
でも、陽子は一応カルチャーセンターでフランス語を習っていて、そこの同じ教室にいる奥さん同士、「付合い」というものが少しは必要だったのである。
ランチを付合い、二時間近くおしゃべりに花が咲いた。
店は驚くほどの混みようで、予約していなかった陽子たちは、小さなテーブルに詰めて座っていた。それが間違いのもと。
食事するのにテーブルが狭いというので、みんながバッグをレストランの入口に預けた。
カルチャーセンターに通うときは、教科書を入れるので、バッグが大きくなってしまうのである。陽子も自分のバッグを預け、番号札をもらった。
レストランの中は、自分たちと同じような奥さんたちのグループが八割方を占め、何ともにぎやかだった。
陽子は、正直なところ、そういうお付合いがあまり得手でない。よほど仲のいい何人かを除いて、そうよく知っているわけでもないので、
「こんなこと言っちゃ、失礼かしら」
とか、「ああ|訊《き》いたら気を悪くされるかしら」
とか、やたら気をつかって疲れてしまうのである。
ともかく二時間かけてゆっくりランチとコーヒーをすませ、レストランを出ることになった。レジの所で、陽子は自分の番号札を渡した。陽子の札は〈6〉だった。
「どうぞ」
と渡されたのは確かに自分のバッグ――と思った。
レストランを出て、みんなと別れ、陽子は|真《まっ》|直《す》ぐに帰宅した。
バッグを開けたのは、帰りついて着替えもすみ、さて、家用のお財布にお金を入れ替えておこうと思ったとき。
そのとき、初めて陽子はそれが自分のバッグでないことに気が付いたのである。
大きさも色も、形もそっくり。――しかも偶然重さも同じくらいだったので、全く疑ってみなかったのだ。
あわててレストランへ電話すると、たぶんあの布引というマネージャーだったのだろうが、
「申しわけございません!」
と、すぐに出て来て、「実は、お渡しするバッグを取り違えまして」
話を聞くと、番号札の〈9〉と〈6〉を係が見間違えたのだという。確かに逆さにすればお互いそっくりだ。しかも、よく似たバッグだったのが不運というべきか。
陽子が〈9〉の札の人のバッグを渡されて、先にレストランを出た。少し後に〈9〉の札を持った人が、〈6〉の陽子のバッグを渡されて、こちらも気付かずに持って帰ったらしい。
ただ、気付いたのはその人が先で、レストランへ電話が入っていたという。陽子もそう聞いて安心したのだったが……。
そして――三日後の今日、ここへ相手の人も陽子のバッグを持ってやってくることになっている。
後は簡単だ。二人で互いのバッグを交換するだけ。しかし、陽子には別の心配があったのだ。
「大変に申しわけございません」
というマネージャーの声で、陽子は我に返った。
レストランの方で「お|詫《わ》びのしるし」というわけなのだろう、出してくれたデザートをいただき、コーヒーを飲んでいるところ。
「――はい、おみえでございます。こちらにおいでで」
案内されて、その人がやって来た。陽子はコーヒーカップを置いて、立ち上った。|椅《い》|子《す》がガタついて音をたてる。
「どうも」
と、その男性は言った。
「は……。どうも」
他にどう言いようがあるだろう? 「初めまして」というのも妙だし、「失礼しました」というのも――間違えたのはレストランの方である。
「家内が所用で来られませんので」
と、その男性は言った。「こちらで間違いないでしょうか」
テーブルに、バッグが置かれる。見覚えのあるバッグ。
「はい! 確かに」
と、陽子は息をついて、「あの――こちらが奥様のだと思います」
テーブルに並ぶと、確かに良く似ている。
「なるほど。これじゃ気が付かないか」
と、その男性は笑顔になった。「――ああ、じゃ、コーヒーだけいただこう」
二人は椅子にかけた。
「円城寺と申します。お手数をかけて」
「いえ……。金倉です」
とあわてて頭を下げる。
「さ、一応中を|検《あらた》めましょう。家内の持ち物なら、大体分ります」
陽子は自分のバッグを開け、中を見た。たいした物は入っていない。しかし、カルチャーセンターの教科書とノートは、失くなると困ってしまうところだ。
「――私が気が付けばよかったんです」
と、陽子は言った。「いつもぼんやりしているものですから。奥様のは本物のシャネル。私のは、お友だちの|香《ホン》|港《コン》みやげの偽物なんです。気が付かないなんて、どうかしてますわね」
無理に笑っている。――円城寺という男、たぶん四十そこそこだろう。三つ|揃《ぞろ》いのスーツは一目でオーダーメイドと分る。
ほっそりと背が高く、|面《おも》|長《なが》だが、よく日焼けして端正な顔立ちである。一見冷たいビジネスエリートだが、笑顔にはどこかおっとりとした風情があった。
コーヒーが来て、陽子の方のカップにも熱いのが足された。円城寺はバッグを閉じると、
「家内をご存知ですか」
と訊いた。
陽子は、円城寺の問いに、ちょっと戸惑った。
「奥様を、ですか? いいえ。存じ上げません」
「そうですか」
円城寺は|肯《うなず》くと、「しかし――ご覧になったでしょう?」
陽子は、返事をためらった。見ていない、と答えるのは不自然だろう。
「中を見ました。――自分のものでないと分ったので、何かご住所でも分るものがあるかと」
「当然です。いや、むろんそうされるでしょう」
「でも――その中までは……。封筒から出してはおりません。信じて下さい」
陽子は身をのり出していた。
「分りました。いや、あなたのお気持は――」
円城寺は、ウェイターが近くを通ったので、言葉を切った。
「あの……。奥様は大丈夫ですか?」
陽子は、ついそう訊いていた。
「ご心配をかけて。家内は――|小《さ》|百《ゆ》|合《り》は大丈夫です。さぞびっくりなさったでしょう、バッグの中に〈遺書〉が入っていては」
円城寺は|微《ほほ》|笑《え》んだが、少し寂しげな、疲れた感じの笑みだった。
「――ええ。どうしようかと思いました。でもこのレストランへ電話したら、ご連絡があったということだったので……」
「軽いノイローゼでしてね」
と、ため息と共に、「いつも、〈遺書〉を持って歩いているんです。時々書き直して、前のを|屑《くず》カゴの中へヒョイと放り込んであるので、それを拾って読んだりしていますが」
「まあ……。そうですか」
確かに、本気で死のうとして書いた遺書なら、それを入れたバッグをレストランで預けたりしないだろう。とりあえず陽子はホッとした。
「いや、余計なことを申しあげて」
円城寺はコーヒーを飲みほし、「では、私はこれで」
と立ち上った。
「あ……。私も――」
何だかあわててしまっていた。危うく|椅《い》|子《す》を引っくり返しそうになって、ヒヤリとする。
レストランのマネージャーがていねいに見送ってくれ、二人は外へ出た。
ここは高層ビルの四〇階。エレベーターを待っている間、陽子は妙に円城寺のことを意識して、じっと目を伏せていた。
やっとエレベーターが来る。ホッとして乗ると、今度は中で二人きり。早く下へ着いてくれないかと思った。すると――。
「奥さん……。奥さん、ですよね?」
「はあ」
「一度、お食事を付合って下さいませんか」
と、円城寺は言った。
兄、帰る
もの思いに|耽《ふけ》っていた松井ミカは、突然すぐ後ろでクラクションを鳴らされて仰天した。
道の真中を歩いていたわけではない。ちゃんと歩道を歩いていたのだ。
ムッとして振り向くと、いたずらっぽい笑顔が真赤なスポーツカーから|覗《のぞ》いていた。
「お兄ちゃん!」
ミカはパッと笑顔になって、「何よ! いつ帰って来たの?」
「三日前。乗れよ」
「|呆《あき》れた。家に電話もして来ないで」
ミカは、車の前を回って助手席に乗り込んだ。
「元気そうだな」
と、車を走らせながら、「どこかドライブにでも行くか?」
「いい加減なんだから」
と、ミカは笑った。「うちへ帰るから。やることあるんだ」
「そうか。残念、せっかく久しぶりにこの車を思い切り走らせてやろうと思ったのに」
ミカは、何か月――いや、何年ぶりかで見る兄の横顔へチラッと懐しげな視線を投げて、
「じゃ、二時間くらいなら付合うわ。どこに行く?」
「海に出よう。ともかく広い所が見たくってさ」
車が強引に狭い道をUターンし、そこの家の生垣を削り取った。
「――ずっとあんなに広い所にいたのに?」
「国がでかくたって、町は小さな田舎町だ。何もないんだから、ともかく! ドラッグでもやんなきゃ、退屈で死んじまうよ」
「相変らずね」
と、ミカは言った。「お母さんが嘆くよ」
松井|健《たけ》|郎《お》は、少し間を空けて、
「――お袋、どうしてる?」
と|訊《き》いた。
「忙しい」
簡潔な一言で答えると、
「今日、いるのか」
ミカは黙って肩をすくめた。母の予定などミカにはとても|憶《おぼ》え切れない。それきり、二人の会話は車が高速へ入るまで途切れた。
――松井健郎は二十一歳。S大の二年生のとき、アメリカへ留学した。それきり二年近く帰っていなかったのである。
忙し過ぎる両親と暮して来た兄と妹は、「肉親」と感じるのは、お互い相手だけという具合で、小さいころからミカは、このいささか不良じみた兄と仲が良かった。
ミカが父親似だったのと逆に、健郎は母親に似て端正なプロフィルを持ち、スマートでもあった。もっとも、ミカ自身は「父に似ている」ことを、死んでも認めたくなかったのだが。
車は流れに乗ってスピードを上げた。
「日本でハンドル握るのは久しぶりだ」
と、健郎は気持良さそうである。「左側通行ってのに慣れるのに手間かかりそうだ」
「そうか。アメリカは右側だもんね」
と、ミカは言った。
「今日も何回か反対の車線へ入りそうになったよ」
「怖い! いやよ、正面衝突なんて!」
と、大げさに言ってみる。
このスポーツカーは、もともと兄の車である。S大へ入ったとき、父親が買い与えたものだ。
「この車、二年間どこにあったの?」
「友だちに貸してた。帰って来て、返せって電話したら『デートするのにどうしてもいるから、三日待ってくれ』だって」
と、健郎は笑って言った。
「それで、うちへ帰らなかったの? 三日間どこにいたのよ?」
と、ミカは訊いて、「訊くだけ野暮か。『どこの女性の所?』って訊くべきだった」
健郎はニヤリとしただけで、何も答えなかった。
――道が空いていることもあって、車は一時間余りで海の見える辺りまでやって来た。
港ではなく、波が道の真下で岩をかむ、人気のない海沿いの道の途中。車を端へ寄せて停ると、健郎は息をついた。
「――いい気分だ」
シートのリクライニングを倒し、健郎は目を閉じた。
ミカは、じっと前方を見つめていたが、
「どうして、電話一つかけて来ないのよ」
と言った。「手紙の一通も……。手紙は期待してないけど」
「面倒だろ。それに、電話じゃお前の顔も見えないし」
健郎は目を閉じたまま言った。
「――もうずっとこっちにいるの? またアメリカに戻るの?」
ミカの問いに、健郎は目をうっすらと開けて、
「どうなるかな。|俺《おれ》にも分らない」
と言った。
「だって、向うの大学は――」
「大学なんて、行っちゃいないさ。英語で授業されて、分るか? 日本語だって、聞いちゃいなかったのに」
「じゃあ……。もう、やめたの?」
「自然退学だろ。こんな言葉、あるかどうか知らないけど」
それを聞くと、ミカは、
「|嬉《うれ》しい!」
と、兄の上に身を投げ出した。
「おい、危ない……。クラッチレバー、押しちまうだろ!」
と、健郎があわてて起き上った。
結局、日が落ちかけるまで海を眺めていた。
「帰るか」
と、健郎が言って、ミカは黙って|肯《うなず》いた。
車が走り出すと、ミカは車の電話へ手をのばし、
「使える?」
「はずだ。どこへかけるんだ? 彼氏の所か」
「うちへよ。遅くなるとやかましいから」
「ポケベルが鳴るか」
「今は携帯。お兄ちゃん、知らないんだね、この一、二年、高校生も携帯電話、持ってる子がふえたんだよ」
「へえ。みんな、そんなに忙しいのか?」
と、健郎は|呆《あき》れ顔で、「お前にゃ似合わないな」
「悪かったね」
と、ミカが|微《ほほ》|笑《え》みながら、車の電話を取って、家へかける。「――もしもし。――お母さん、珍しくいたね」
「何なのよ」
と、向うで母、|照《てる》|代《よ》が笑っている。「どこからかけてるの?」
「待って。――ほら、何か言って」
と、ミカは受話器を兄の耳へ当てがった。
「ミカ、何してるの?」
「ただいま」
と、健郎が言った。
しばらく沈黙があって、
「――健郎。どこなの?」
「車の中さ」
「いつ……。帰ったの」
「二、三日前。今からそっちへ帰るよ」
「まあ……。お父さん、遅いわよ、今日。――何も言って来ないで。呆れた子!」
「母さんの息子だからね」
と、健郎は言って笑った。
「もしもし、びっくりした?」
と、ミカが代って、「一時間ぐらいで帰るから。お腹空いた!」
「はいはい」
と、照代は苦笑いしている様子だった。
電話を切ると、ミカは、
「金倉亜紀、知ってたっけ?」
と、兄へ訊いた。
「お前の友だちだろ? 男の子みたいな、威勢のいい……」
「ひどいなあ。でも、いい子なんだよね。私――何だかムシャクシャしてたの。亜紀が昨日、男の子と初めてキスしたって聞いて。変かな」
「十七歳の女の子の考えることなんか、俺にゃ分らないよ」
と、健郎は肩をすくめて、「お前はどうなんだ?」
「私? 私も……。分んないよ」
と、ミカはひとり言のように|呟《つぶや》いた。
「あれ、モンちゃん、何してんの?」
と、亜紀は自宅前で何だかウロウロしている門井勇一郎を見て、声をかけた。
「あ、帰って来たのか」
勇一郎が、一瞬逃げ腰になるのを見て、亜紀はふき出してしまった。
「大丈夫! もう足踏んだりしないから」
勇一郎はホッとしながら照れくさそうに、
「痛かったぜ」
と笑った。
「突然、あんなことするからよ。――入る?」
「誰もいないみたいだ」
「へえ。じゃ、おじいちゃんも出かけたのか。お母さん、どこへ行ったんだろ。――ともかく上んなよ」
亜紀は玄関の|鍵《かぎ》をあけて、「でも、もうあんなこと、だめよ!」
と、念を押した。
まあ、これ以上言っても|可《か》|哀《わい》そうか。
亜紀は、勇一郎を居間に待たせて二階へ駆け上ると、手早く着替えて下りて来た。
「紅茶、いれようか。私も飲みたいから」
「うん……」
亜紀が台所で紅茶をいれていると、勇一郎はブラッと立ってやって来た。
「何か用だったの?」
と、亜紀はティーカップにポットのお湯を注ぎながら言った。
「いや……。昨日のこと、謝ろうと思ってさ」
と、勇一郎が目をそらしたまま言うので、
「何だ! わざわざ来たの、そんなことで」
「怒ってないのか」
「怒ったけど……。もう平気。モンちゃんに女だと思われてたのかと、しみじみ考えちゃったよ」
はい、とティーカップを渡し、二人で居間へ戻る。
「良かった。絶交、とか言われたらどうしようかと思ってた」
「何だ、気が弱いの。そんなことで女が口説けるかって」
勇一郎は、熱い紅茶を少し冷ましつつ飲んでから、「お前……。初めてじゃなかったのか?」
|訊《き》かれてドキッとした。「もちろん初めてよ!」と言えば良かったのだが、あの後、君原勇紀にキスされたことがパッと頭に浮かんだので、ついためらってしまい、
「どうしてよ?」
と、問い返してしまった。
これは、「初めてじゃなかった」と認めているに等しい印象を、相手に与えたのである。
「いや……。いいんだけどさ」
明らかに、勇一郎はショックを受けていた。笑いが引きつっている。
「ね、ゆうべ、近くのコンビニに強盗が入ったんだよ!」
と、亜紀は急いで話を変えた。
「危なかったんだなあ」
亜紀の話を聞いて、勇一郎はそう言ったのだが、どうも気のりしている風ではなかった。
亜紀だって、もちろんコンビニ強盗を誰がやっつけたか、その後何があったか、勇一郎には話さなかったのだが、いずれにしても今の勇一郎にはどうでもいいことだったのだろう。
亜紀は困ってしまった。――勇一郎と二人きりでいて、こんな風に黙りこくってしまうなんて、初めてのことだった。
「ごちそうさま」
と、勇一郎はいやにていねいに言って、「もう帰るよ。じゃあ……」
「そう?」
亜紀はつられて立ち上ったが、「――モンちゃん」
と、居間の戸口で呼び止めて、
「私……。初めてだったんだよ。だからびっくりして、足、踏んづけちゃったんだから。本当だよ」
「うん。分ってる」
だめだ。信じてない。
亜紀は、君原ともキスしてしまったせいで、何だか勇一郎に悪いことをしたような気がしていた。キスしたことが、でなく、勇一郎の足を踏んづけておきながら、君原には何もしなかった(当然ではあるが)からだ。
「またな」
と、勇一郎が玄関へ下り、靴をはく。
「――待って!」
亜紀はピョンと飛び下りると、勇一郎の肩に手をかけた。「モンちゃん」
「何だよ」
「今度は、足、踏まないから」
亜紀がじっと見つめると、勇一郎がサッと赤くなった。
「お前……」
「目、つぶろうか?」
「うん……」
亜紀が少し顔を上向き加減に、目を閉じると、勇一郎の手が亜紀の腕をつかむ。手が震えてる!
生あったかい息づかいが感じられて、勇一郎の唇が触れた。すると――。
カチャッと音がして、
「ただいま!」
と、玄関のドアが開いた。「――あら」
パッと離れはしたものの、見られてしまえば同じことだ。
「失礼します!」
勇一郎は、あわてて駆け出して行ってしまった。
「あの……。お帰りなさい」
亜紀は、母の|呆《あっ》|気《け》に取られた顔を笑顔で見て、「お母さんの好きな、帆立のグラタン、買って来たよ」
と、言った。
「ね、怒らないから、正直におっしゃい」
実のところ、こう言われるのが一番困るのである。亜紀はため息をついて、
「だから、さっきから本当のことを言ってるじゃない! 昨日と、さっきの玄関と、二回だけだって」
「本当なのね? |嘘《うそ》じゃないのね」
母の陽子はソファに腰をおろしているものの、ピッと背筋は|真《まっ》|直《す》ぐに伸ばして、まるで入試の面接でもしている感じ。
「お母さんだって、モンちゃんのことは知ってるでしょ。そんな乱暴なことするわけないじゃない」
亜紀としても、母の心配はよく分る。何しろ、玄関に入ったらいきなり娘が男の子とキスしてたというのだから。
「もしかしたら、もっと『抜き差しならない仲』になってるのじゃ?」
と考えて当然だろう。
「――それならいいわ」
と、陽子は息をついて、それからあわてて、「いいって言っても――だめよ、もう!」
「もうしないわよ。モンちゃんとは」
と、亜紀が言うと、
「じゃ、他の人とはするの?」
またドキッとすることを言われたが、
「そんな……。冗談じゃないわよ!」
と、何とかごまかした。
「本当にもう……。おじいちゃんはあんな風だし、お父さんもどこへ出かけたのか、帰ってこないし――。男なんて、みんな一緒。女を引っかけることしか頭にないんだわ!」
亜紀はびっくりしてしまった。おとなしい母が、こんな風に八つ当りするのを初めて見たような気がする。
「あら……。いやね、一人でカッカして」
と、陽子も自分で少し赤くなっている。「ショックから立ち直れないのかしら」
「お母さんも何かショックなことがあったの?」
「まあ、どうでもいいわ。――二人でご飯食べちゃいましょうか。待ってたって、男どもはいつ帰ってくるか分んないわ」
やっと母の「疑惑」は解消したようで、亜紀もひと安心。
「何か手伝うよ」
「いいわ。せっかく買って来てくれたグラタン、いただきましょ。よく|憶《おぼ》えてたわね」
母にそう言われると|嬉《うれ》しい。――電話が鳴って、亜紀は急いで出た。父か、それとも祖父の茂也か。
「あ、亜紀?」
「何だ、ミカ。どうしたの?」
「今日、付合ってくれてありがとう」
「珍しいこと言わないでよ」
と、亜紀は笑った。「――え? お兄さんが帰って来た?」
松井ミカの声は弾んでいた。
亜紀の方は正直なところ、ミカの話を聞いている内に、そういえばアメリカに留学しているお兄さんがいたっけ、と思い出した程度だったのである。
しかし、もちろんミカが喜んでいるのを冷やかすこともない。
「――良かったね」
と、たて続けにしゃべりまくっていたミカの話が一区切りついたところで、亜紀は言った。
「うん。ともかく誰かに知らせたくて」
要するに相手は亜紀でなくても良かったのだ。
「じゃ、お母さんも喜んでらっしゃるでしょ」
と言うと、向うは少し間を置いて、
「そうでもないの。お兄ちゃん、両親とは仲が悪かったから」
「へえ。――でも、男の人はそうかな。親子ゲンカとか当り前でしょ」
「そうね。でも……。うちは変ってて、ケンカもしない。他人みたいで、冷たいの」
ミカは、明るい声に戻って、「今度、紹介するね。会ってると思うけど、ずいぶん前だから分んないかもね。特に、亜紀も『体験済』の身になったんだし」
「やめてよ」
と、亜紀はまた少し赤くなったりしていた……。
「――それは安心ね」
と、母の陽子は亜紀の話を聞いて言った。「うちの男たちはちっとも帰って来ないけど」
「お父さん、どこに行ったの?」
「何でも仕事の打ち合せとか言ってたわよ」
「土曜日に?」
父の会社は、土日は休みのはずだ。
「いいの。そう心配ばっかりしてられないわ」
と、陽子は、またため息をついて、「自分のことだって、手が回らないのに」
「お母さんもそんなにもてるんだ」
もちろん、亜紀は冗談で言ったのである。
ところが、陽子は妙にどきまぎして、
「馬鹿言ってないで、サラダボウルを出して!」
と、せかせかと亜紀に背中を向けてしまった。
亜紀は、それこそ|愕《がく》|然《ぜん》とした。――お母さんも、何か隠してる!
亜紀は、さっきの母の言葉を思い出した。男なんて、女を引っかけることしか頭にない……。
そう、きっとお母さんも誰か男の人に誘われたのだ。
頭で分っていても、「母親も女である」と認めることは容易ではない。亜紀はサラダボウルを出しながら、母の後ろ姿を改めて眺めたのだった。
愛想笑い
至って人当りのいい男だった。
「こちら……。課長さんで、金倉さん」
と、円谷沙恵子が紹介すると、
「どうも、いつも沙恵子がお世話になりまして」
と、きちんと背広にネクタイのスタイルでやって来た男は深々と頭を下げた。
「いや、こっちこそ」
正巳の方がどきまぎしてしまう。
「|手《て》|塚《づか》と申します」
意外なことに名刺を出して金倉へ手渡す。〈手塚|良一《りょういち》〉と、名刺にはあった。会社名はなく、肩書としては〈経営コンサルタント〉となっていた。
三人は、土曜の午後の静かな喫茶店で、一つのテーブルを囲んだ。
「コンサルタントというと……。何をしてるんですか」
と、正巳はとりあえず|訊《き》いてみた。
「色々です。企業も今は不況で、何かと問題をかかえていますからね。経験のある人間は重宝されます」
と、手塚という男は言った。
「ほう。しかし、見たところずいぶんお若いですが」
「三十になります。しかし、ここ数年の経験は、普通のときの何十年分でしょう」
手塚はコーヒーを頼んでおいて、「実は、ゆうべ彼女と電話で話したとき、『課長さんに立ち会ってもらう』と言ったので、どんな方かと思っていました。なるほど、沙恵子が頼りにするのも分ります」
「いや、僕は何とも……。ただ、円谷君は大変悩んでおられてね。それで僕が何か力になれることがあるなら、と思っただけですよ」
「確かに、二人きりでは何を話しても大丈夫ですが、ついなれ合って具体的な話にならないことがあります」
正巳は|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「あなたは現在、かなりの借金をしておられるとか」
――正巳は正直いささか戸惑っている。
沙恵子の話を聞いたときには、やせて不精ひげをのばした、見るからにノイローゼという感じの男を想像していたのだが、今目の前にいるのは、確かにやせてはいるが、きちんとした身なりの、営業マンタイプの男。
しかし、沙恵子が|嘘《うそ》をつくわけもなし、この男のことで困っているのは事実なのだろう。
「借金はあります」
と、手塚という男はアッサリと|肯《うなず》いて、「しかし、今どき何の借金もない人がいますか? 住宅ローンだって、カードで買物したクレジットの払いだって、借金といえば借金ですからね」
それはそうだ。しかし、手塚の場合は事情が違うはずだった。
正巳は、自分の方がずっと年上なのだと自分へ言い聞かせて、
「いいですか。僕の言っているのは、そんなことじゃない。円谷君から事情は聞いています。もっと正直なところを話して下さい」
と、少し強く出た。
手塚は腕組みをして、
「僕の方から、沙恵子にああしてくれ、こうしてくれと頼んだことはありませんよ」
と言ってのけた。「沙恵子が僕のためにしてくれたことは、これはいわばプレゼント。そうでしょ? プレゼントには感謝の気持さえ持っていれば充分だと思いますがね」
愛想はいいが、口八丁で言い逃れるすべをよく知っているという感じだった。
「あなた、どこかに勤めて、コツコツとお金を返して行こうとは思わないんですか?」
手塚はちょっと笑って、
「僕はね、勤めにゃ向いてないんです。今度のことで良く分りましたよ」
「円谷君に、一緒に来てくれとも言っているそうですね。しかし、彼女には仕事があり、家族も友人もいるんですよ」
「何も誘拐しようっていうんじゃありません。大人ですよ、彼女は。いやなら自分で断りゃいい。ついて来るも来ないも、彼女が決めることでしょう」
スラスラと理屈は並べる。しかし、いかにもその話は薄っぺらだ。
「僕は、円谷君の言いにくいことを代って言っているんです。君も男なら、一人で何か始めて、その上で彼女を迎えに来るのが筋じゃないかな」
手塚は、少し黙って正巳を見つめていた。それから、足を組むと、声を上げて笑ったのだ。
「――何がおかしいの?」
円谷沙恵子は、気が気でない様子で、「せっかく金倉課長さんが足を運んで下さったのに」
「いや、知らなかったよ」
と、手塚は少し崩した口調で、「君が勤めを移ったのは、そういうせいもあったのか!」
「――何のこと?」
「こちらの金倉……正巳さんやらと君が、できてるってことさ」
正巳は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「それはとんでもない言いがかりだ!」
と、つい大きな声を出し、あわてて店の中を見回す。
「言いがかり、ね。そういうことにしておいてもいいですよ。しかし、わざわざ休みの土曜日にこうして出て来て、僕と会ったりする。何でもない男が、普通はそこまでしませんよ。違いますか?」
正巳は何とも言いようがなかった。きっとこの男は何を言っても信じないだろう。
正巳も、話している内にこの手塚という男が決して見かけ通りの愛想のいい人間でないことに気付いていた。
むしろ、外見だけは礼儀正しい分だけ、頭がいいのだろう。こういう相手には用心しなければならない。「問題を元へ戻しましょう」
と、正巳が言うと、
「戻すって、そりゃ都合のいい話だな」
「何が?」
「ご自分も沙恵子とのことをつつかれるとうまくない。違いますか? 当然、不倫の仲だろうからね。僕の借金のことに話を戻せば忘れられるってもんじゃありませんよ」
落ちつき払っているだけに、その言い方は正巳の神経を逆なでした。
正巳はそうささいなことで腹を立てる人間ではないが、こういう男を見ているとムッとしてくる。
「じゃあ、君としては円谷君に迷惑をかけているという気持は全くないわけだね」
「沙恵子は|俺《おれ》のもんだよ」
突然、手塚は|凄《すご》みのある口調になった。「俺の女に手を出すのなら、それなりの覚悟をしてもらわないとね」
人当りのいいセールスマンが居直り強盗になったようなものだ。――正巳は、こんなタイプの男を見るのは初めてだったので、さっきからすっかり面食らってしまっていた。
「金で決着をつけようじゃねえか」
と、手塚が言った。
「金?」
「まあ、まけて二千万だな。沙恵子を抱いた分、それくらいのことはしてもらわねえと」
もはや完全なヤクザである。
「何を言うの!」
沙恵子は手塚をにらみつけて、「金倉さんは善意で来て下さったのよ。あなたに、少しでも立ち直る気があるかと思って……。私が馬鹿だったわ」
沙恵子は立ち上ると、
「金倉さん、出ましょう」
と言った。
「しかし……」
ためらって見せたものの、正直ホッとして正巳は席を立った。
「伝票、持ってけよ」
と、手塚は言って笑うと、「けりはつけてもらうからな、課長さん」
もう話をする気もしなかった。
沙恵子が手早く支払いをすませ、金倉を促して、喫茶店を出た。
何かに追われているかのように、急ぎ足で歩いて行く沙恵子。正巳は少し後ろからついて行きながら、彼女にどう声をかけたものか、見当がつかなかった。
正巳は、こういう深刻な場面に出くわしたことがないのである。
沙恵子が足を止めたのは、電車が足下をくぐり抜けて行く陸橋の上だった。
手すりにもたれて、じっと下の線路を見下ろしている沙恵子に、正巳はどう声をかけたものか分らず、ただぼんやりと突っ立っていた。
電車が眼下ですれ違って行く。
沙恵子は振り返った。その拍子に、|頬《ほお》を涙が伝い落ちる。
「円谷君……」
「すみません」
沙恵子は急いで涙を|拭《ぬぐ》うと、「申しわけなくて、金倉さんに……。あの人があんなことを言い出すなんて……。信じられない!」
「まあ、悪い夢を見たと思って。――ね、ああいう男はもうだめだよ。得体の知れない、危ない男だ。君ももう近付かない方がいい」
正巳としては、そうでも言うしかなかった。
「ええ……。私もそう思います。――本当にすみません。わざわざ来ていただいたのに」
「いや、そんなことはいいんだよ」
正巳は、沙恵子が落ちついたようなので少しホッとした。
「あの――どこかでお茶でも? それとも私の部屋へ来ていただいても」
そう言われて、正巳はドキッとしたが、特別な意味はないのだと思い直した。
「いや、もう帰るよ。今から帰ったら、ちょうど夕食どきだろう」
と、腕時計を見る。
「あ、そうですね。皆さん、お待ちでしょうから」
「いや、別に僕を待ってるなんてことはないだろうけど」
「バス停までお送りします」
と、沙恵子は左右へ目をやって、「私、大分歩いて来ちゃった。道、お分りにならないでしょ?」
正巳は、方向に関しては至って弱い。
「うん……。じゃ、案内してくれるかい」
「ええ!」
沙恵子は笑顔になって、「金倉さんと一緒に歩けるなんて、|嬉《うれ》しいわ」
「照れるよ」
と、正巳は苦笑した。
二人は、ぶらぶらと歩き出した。
「しかし――君、大丈夫かい?」
と、正巳は言った。「もしまた何か言って来たら……」
「ご心配なく。私、一人で何とかできます」
「そう?」
――正直なところ、「大丈夫でない」と言われたら困ってしまうところだ。
俺にはこんなこと、柄じゃないんだ、とつくづく思う。
沙恵子が足を止めた。
「ここ、私のアパートなんです」
結局、沙恵子のアパートに立ち寄ることになってしまった。
「せめてお茶だけでも……」
と、訴えるような目で見られると、正巳としても帰れなくなってしまったのである。
むろん、客として上ったところで、どうということはない。
こざっぱりと片付いた部屋だった。もっと|可《か》|愛《わい》い感じかと想像していたのだが、その意外さは決してマイナスのイメージではなかった。
「――どうぞ」
アップルティーの華やかな香りが部屋を満たすようだった。ていねいにいれられたアップルティーは、香ばしく、おいしかった。
「|旨《うま》いね。疲れが取れる」
「そうおっしゃって下さると……」
沙恵子は喜んでいる。
「あの――手塚という男も、ここを知っているの?」
「ええ」
「引越した方がいいかもしれないね」
「でも……。あんな人のために逃げ回るのなんて、いやです」
と、沙恵子はきっぱりと言った。
「その気持だ。どんなに誘って来ても、はねつけるんだよ」
正巳は、沙恵子のような若い女性に頼られ、しかも尊敬されたという経験がない。加えて、沙恵子の控えめな性格は、正巳をくつろがせた。
「金倉さんは伊東さんと仲がいいんですよね」
「伊東君? ああ、そうだね。気持のいい人だよ」
「金倉さんって、大勢の女の子に頼られてるんですね」
「まさか」
正巳の言葉に、沙恵子はおかしげに笑い声を上げた。「そういうところが、金倉さんの人気の秘密なんですね」
「僕の人気?」
と、正巳は心からびっくりした……。
アップルティーを飲み干して、正巳は早々に失礼することにした。
――今度は、沙恵子がバス停まで送ってくれる。
「お気を付けて」
ちょうどバスが来て、正巳はちょっと残念な気がしたが、ともかく乗ることにした。
「じゃ、また何かあったら、いつでも相談にのるよ」
本当は「何もありませんように」と願っていた。
バスが走り出し、正巳が空いた席に腰をおろして、バス停の方を振り返ると、沙恵子が手を振っているのが目に入った。
「晩飯は?」
家へ帰った正巳がそう|訊《き》くと、陽子は、
「あら、食べて来たんじゃないの?」
と、意外そうに言った。
別に皮肉めいても聞こえなかったので、正巳は内心ホッとした。正直、「仕事の打ち合せ」と称して土曜日に出かけるのはかなり|辛《つら》かったのだ。
しかし、まさか円谷沙恵子に頼まれて、とも話せない。確かに、沙恵子の「彼」だった手塚という男の言ったように、休みの日にまでわざわざ出かけて行くとなれば、陽子だって不審に思って当然だったろう。
「おかず、残ってるから。――じゃ、すぐ温めるわ」
陽子は台所へ立って行った。
ホッとした正巳が着替えをしてダイニングへやって来ると、
「あなた」
と、陽子がため息をついて、「今、お|義《と》|父《う》さんからお電話で」
「|親《おや》|父《じ》から? 何だって?」
「今夜は友だちの所へ泊まるから、って。――前もっておっしゃって出かけられることはあったけど、突然になんて初めてよ」
「そうか……。しかし、まあ親父だって子供じゃない。仕方ないさ、放っとくしか」
「ええ……。そうは思うけど。何だか心配なのよ」
陽子が心配しているのは、今日のことだけでなく、アパートを借りたいと急に言い出したりしたからだ。その点は正巳も同様だったが、といって、子供の寄り道を|叱《しか》るようなわけにはいかない。
「――ね、お母さん」
と、亜紀がTVから目を離して、「おじいちゃん、女の人のお友だちがいるんだよ」
正巳と陽子は目を見交わした。
「亜紀……。どうしてあんた、そんなことを知ってるの?」
母の問いに、亜紀は、祖父の茂也が女性と一緒にタクシーで帰って来るのと出会ったこと、そしてコンビニの前の公衆電話での話を立ち聞きしてしまったことを話した。
「本当は黙っててくれって言われたんだけど……。タクシーのときにね。でも、やっぱり話しといた方がいいと思って」
「そう。それでいいのよ。大丈夫、あんたから聞いたとは言わないし、いくら何でも、正面切って問い詰めたりしないから」
陽子は、亜紀がTVを消して自分の部屋へ行ってしまうと、夫に温めたおかずを出しながら、
「何とかしなきゃ」
と言った。「お義父さん、もともと|真《ま》|面《じ》|目《め》な方だから……」
正巳だって心配だ。しかし、今は腹が空いて、それどころじゃなかったのである。
訪問客
あ、あの人だ……。
足音だけで誰と聞き分けられるなんてこと――。そんなの、歌の中ぐらいのもんだと思っていた。
でも、本当にこのとき、亜紀は、
「あの足音、君原さんじゃないのかな」
と思っていたのである。
いつもの土手の道を歩く亜紀、そこへ後ろから近付いて来る足音……。
「亜紀君!」
呼ばれて、びっくりする。
「君原さん!」
|嘘《うそ》みたい。本当に? 振り返ると、確かに君原勇紀がトレーナー姿で走って来る。
「――やあ!」
と、追いついて足を止め、息を弾ませると、首にかけたタオルで額の汗を|拭《ぬぐ》った。
「毎日、走ってるんですか?」
「もちろん。でも、君に会えないんで、つまらなかった。前はよく出会ってたのにな。知り合いになると、|却《かえ》って会えないもんだね」
亜紀だって、もちろんこの君原にキスされたことを忘れてはいない。でも、あれから半月近くたっていたから、そう照れずにすんだ。
「あのコンビニ、行ってるかい?」
と、君原が|訊《き》く。
「ときどき。あのときの強盗、どうなったのかなあ」
と、亜紀は思い出して、「何か表彰とか、されなかったんですか?」
学校帰りの亜紀は制服姿ではあったが、もう十月に入り、|長《なが》|袖《そで》に変っている。
「レジの子に名前とか訊かれたけどね。知らないことにしといてくれって頼んだ」
と、肩をすくめて、「あの男の子は?」
「モンちゃん? 今、クラブが忙しくて、遅いみたい」
門井勇一郎とはキスしたところを亜紀の母親の陽子に見られ、それ以来顔を合せていない。だから、「クラブが忙しい」というのも亜紀の想像だった。
でも、間違いでもあるまい。じき、十月十日、体育祭が近付いている。亜紀の所は女子校だから大したことをやるわけじゃないが、勇一郎の方はそうもいくまい。
並んで歩きながら、
「秋って、みんな元気になるんだ」
と、亜紀はため息をついた。
「元気になっちゃいけないみたいだね」
「夏バテしてるときなんて、余計なことする元気ないでしょ。でも、涼しくなるとみんなうちにじっとしていられなくなって……」
亜紀は|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうな顔をしていた。
「何か心配ごと?」
「おじいちゃんが……。同居してるんですけど、ここんとこ、よく外泊してくるの」
亜紀の心配が、君原にはよく分らないようだった。
亜紀の説明を聞いて、君原は|肯《うなず》くと、
「でも、大人同士のことだからな、干渉するわけにはいかないから」
「ええ、分ってるんです、それは。ただ、お母さんもお父さんも|苛《いら》|々《いら》してて。おじいちゃんのことで、こっちがもめるんだもの。それがいやで」
「なるほど。――その相手の女性って、会ったことあるの?」
「いいえ。おじいちゃん。絶対そんなこと、認めないもの」
亜紀は、土手の道を下りると、自宅への道を|辿《たど》りつつ、「――君原さんに関係ないのに。ごめんなさい」
と言った。
君原のことを、よく知っているわけでもないのに、どうしてこんな話をしてるんだろう? つい何でもしゃべっていいような気がしてまうのだ。
「いいさ。君だって、誰か聞いてくれた方が気が楽になるだろ」
「ええ。でも……」
「ね、十日は体育祭?」
「そうです」
「じゃ、次の日は代休だろ? 何か予定はある?」
「いえ……。今のところ、別に」
「じゃあ、僕と付合ってくれないか。できれば夕ご飯まで。それがまずかったら、夕方までには送ってくるよ」
亜紀は、自宅の近くまで来ていた。
「それって……」
「デートの誘い。といって、危険はないよ。保証付さ」
亜紀はちょっと笑って、
「分りました」
「じゃ、いいんだね?」
「はい」
「電話してもいいかい?」
「ええ」
「やった!」
と、君原は飛び上ると、そのまま駆け出して行く。
亜紀が|呆《あっ》|気《け》に取られて見送っていると、君原はクルリと振り向き、駆け戻って来て、
「電話番号、聞いてなかった」
と、息を弾ませた。
亜紀がメモ用紙に番号を書いて渡すと、今度は振り向きもせず、一気に駆けて行く。
「――いいのかね、本当に」
と|呟《つぶや》いたのは、OKした自分自身へだった。
さて、今日はお母さんもフランス語の教室だと言ってたな。
|鍵《かぎ》を出して、玄関のドアを開けると、
「あの、ちょっと」
と、呼ばれて振り返る。
色白の、ふっくらとした女の人が、スーツ姿で立っていた。
誰だろう?
亜紀の|見《み》|憶《おぼ》えのない顔である。
「――何でしょうか?」
「あなた……ここの娘さん?」
年齢は三十くらいか。童顔なのでよく分らないが、ともかく身につけている物がスーツもバッグも、いかにも一流ブランドで、またそれがさりげなく身についている。亜紀にだって、そういう雰囲気ぐらいは感じとれるのである。
「そうですけど」
と、亜紀が答えると、
「そう! こんなに大きなお子さんがおありなのね」
と、しみじみとした口調。
「どなたですか?」
と、少し用心して訊く。
「お母様はお出かけね」
「ええ……」
「少しお話ししてもいいかしら」
「あの……」
「私、円城寺小百合といいます。お母様と、ちょっとふしぎなご縁があって」
何だかわけが分らないことに変りはなかったが、玄関前で立ち話というわけにもいかず、
「どうぞ」
と、亜紀は玄関のドアを開けた。
――制服を着替える間もなく、亜紀はそのお客にお茶を出す。
「ありがとう」
と、円城寺小百合はおっとりと|微《ほほ》|笑《え》んで、「偉いわね。おいくつ?」
「十七です」
「高校――二年生? いいわねえ、若いって! 私にもあなたぐらいのころがあったんだわ」
と、そっとお茶を飲んで、「突然伺ってごめんなさい。どんなおうちか見てみたくて」
「はあ……」
「あなたを見て安心したわ。とてもいいお母様なのね」
|誉《ほ》めてもらうのはいいが、さっぱり状況が|呑《の》み込めず、
「あの、母とはどういう……」
「何と言ったらいいのかしら」
と、少し首をかしげて、「私の夫が――円城寺|裕《ひろし》といって、私より一回りも年上なんだけど、今、あなたのお母様とお付合いしているはずなのよ」
「お付合い……」
亜紀は、その女性の言うことが、すぐには呑み込めなかった。
「そう。――もちろん、あなたの所もお父様がいらっしゃるんでしょうけど、こういうことは常識が通用しない問題ですものね」
「あの……待って下さい!」
さすがに亜紀も焦った。お母さんが他の男性と?
――まさか!
「もちろん、あなたにはショックでしょうね。でも、大人になればきっと分るようになるわ」
円城寺小百合と名のったその女性、夫が浮気しているという話なのに、少しも怒りらしきものを見せない。
亜紀は、本来なら怒るか笑うかして、
「間違いです! そんなこと、あるわけないですよ」
と言ってやれば良かったのだ。
でも、そうできなかったのは、いつか母が妙なことを口走って――男なんて、みんな女を引っ掛けることばかり考えてる、とか何とか――動揺している様子だった日のことを思い出していたからだ。
でも、まさか……。本当にお母さんが?
「今日、お母様は?」
「あの――出かけてます。フランス語の教室に」
「主人は急にアメリカからお客様がみえて、そのお相手と言って出かけたわ」
亜紀は、何とか落ちつきを取り戻そうと努力した。
「あの……何かの間違いじゃないんでしょうか」
「だといいと思ってるのよ、私だって。主人に裏切られて|嬉《うれ》しいなんて人、いないでしょうからね」
「ええ、それは……」
「でも、|一《いっ》|旦《たん》心が離れてしまったら、もう取り戻すのは無理。しがみつけばつくほど、相手は逃げて行くわ」
十七歳の、まだファーストキスから半月しかたっていない女の子には、やや理解の困難な話である。
「でも、心配しないで」
と、小百合は微笑んで、「私、あなたのお母様を相手につかみ合いをやったり、泣き|喚《わめ》いたりはしないから」
そう聞いて喜べるものじゃない。
「私ね、どういうご家庭かと思って、それを見に来たの。あなたもとてもしっかりしてるし、これなら大丈夫だわ。安心よ」
「――何が大丈夫なんですか?」
「ご両親の離婚とか再婚とかがあっても、それであなたが家出したりぐれたりってことはなさそうですもの」
ずいぶん発想の古典的な人だ、と、こんなときなのに亜紀は感心したりしていたが――。
「ちょっと待って下さい! はっきりした証拠もないのに。今日だって、本当に母はフランス語へ、ご主人は仕事に出られてるのかもしれないでしょう?」
おじいさんは山へ|柴《しば》かりに、おばあさんは川へ洗濯に――。何考えてるんだ、全く!
ともかく、亜紀はすっかり混乱してしまっていた。
「信じたくない気持はよく分るわ」
と、小百合は|肯《うなず》いて、「信じるも信じないもあなたの自由。そう考えてね」
「でも――聞いちゃったのに、知らないことになんかできません」
と、亜紀は言い返して、「あの……ともかくもう少し事実を確かめた方がいいんじゃないですか? もし間違いだったら……」
「どうでもいいのよ。私、どうせもうじき死ぬんだもの」
「だからって、物事は――。今、何て言ったんですか?」
亜紀は耳を疑って、「『死ぬ』って……。そう言ったんですか?」
「ええ」
と、小百合はあっさりと言った。
「どこか、具合でも悪いんですか」
「私、自分がいない方がみんな幸せになると分ってるのに、図々しく生きてることなんてできないの。自殺しようと思って、ほら、こうやって遺書を持って歩いてるのよ」
と、バッグから手紙らしきものを取り出す。
亜紀は段々くたびれて来た。――何考えてるの、この人?
「私にも……あなたみたいな娘があったらね……。死のうとは思わないでしょうに」
小百合の顔に寂しげなかげが射す。
それを見て、亜紀は胸をつかれたような気がした。
――この人は、決して「おかしな人」じゃない。ただ、生きる目的を失っているのだ。
大人を相手に、十七歳の女の子がこんなことを考えるのは変だろうか?
でも、たとえ本物の(というのも変だが)恋に苦しんだことがなくても、愛する人を失う|辛《つら》さは理解できる。
「円城寺さん――でしたっけ」
と、亜紀は言った。「私も、母が本当はどうなのか、知りたいと思います。知らずに、疑って苦しんでるなんて、つまらないと思うんです。だから――調べてみません?」
「調べる?」
「ええ、母とあなたのご主人が会ってるのかどうか。私、やってみたいんです」
小百合はポカンとしていたが、
「でも、どうやって?」
「もちろん、後を|尾《つ》けたり、見張ったりするんです。TVで探偵がやってるみたいに。どうですか?」
「そんなこと……できるかしら?」
「できますよ! ――私は学校があって、普通の日は休めないけど、土曜日の午後とか日曜日とかなら……」
「私は、たぶん……毎日暇なの」
と言って、小百合は思いがけず笑った。「あなたって、面白い子!」
亜紀も、何だか楽しくなった。
まるでTVドラマの中に飛び込んだみたいだった。
亜紀は、小百合から夫、円城寺裕のことを色々教えてもらい、メモを取った。
「――四十三歳。社長。車はBMW。容姿も抜群か。もてて当り前だなあ」
と言ってから、「あ、ごめんなさい」
「いいえ。――もともと、女性関係の絶えない人だったの」
と、小百合は大して気にとめない様子で、「でもね、私みたいな女は珍しかったんでしょうね。もちろん、あの人に恋してたけど、積極的に近付こうとしたわけでもないし、大体、こんなでしょ。目立たないの、どこにいても」
「そんなことないですよ」
と、亜紀は言った。「とっても|可《か》|愛《わい》いと思うな、奥さんって」
「まあ、ありがとう」
と、小百合は嬉しそうに言った。
「じゃ、今度、ご主人の写真を見せて下さい。顔、知ってた方がいいでしょ。うちの母の写真、見ます?」
どうしてこうも張り切っているのか、自分でもよく分らなかった。
ともかく、この奥さんが自殺しようというのを、やめさせたいと――そう思っていたことは確かである。
亜紀と母が二人で並んだ写真を一枚持って来て見せると、
「まあ、チャーミングな方!」
「今ごろクシャミしてますね」
小百合が笑って、
「あなた、お母様に似てるわね」
「そうですか?」
「私からあなたへ連絡するときはどうしましょうか?」
亜紀は少し考え込んで、
「ポケベルにかけてもらっても……。これ番号です」
「そういうの、よく分らないの」
「じゃあ……。電話して下さってもいいですよ」
「でも、おかしいでしょ」
「顔、見えないんですもの! 友だちみたいなふりしてれば」
「友だち?」
「『亜紀、います?』って感じで。『小百合ですけど』ってやれば、どこかの〈小百合ちゃん〉だと思いますよ」
「そんなこと……。できるかしら?」
「やってみます? 少し甲高い声で、ハイ!」
「あ……あの……恐れ入りますが……」
「だめですよ、そんなんじゃ。ポンポンと|弾《はじ》ける感じで」
――結局、円城寺小百合と亜紀は、一時間近くも電話のやりとりの訓練をくり返したのだった……。
辞職願
「金倉さん」
呼びかけられて、金倉正巳は、出かけた|欠伸《あくび》を|呑《の》み込んでしまった。
「――何だ、伊東君か」
ホッと息をつき、「別に見られてまずいことしてたわけじゃないんだが」
いちいち言いわけなどしたら、|却《かえ》って怪しいと宣伝しているようなものである。
正巳は、人事課のファイルを調べていたのだった。むろん、正巳とて課長。ファイルを見るのに気がねする必要もないのだが、つい……。
「何か調べもの?」
と、伊東真子は|訊《き》いた。
いつになく真剣な表情だ。
「まあ……。ちょっとね」
とっさに、まことしやかな理屈を思い付くほど器用な正巳ではない。特に、同期のベテランが相手では、すぐ見抜かれてしまうだろう。
――午後の三時を少し回ったところ。みんな一息入れて、お茶など飲んだりしているので、二人が話しているのを聞かれる心配はなかった。
「金倉さん」
と、伊東真子は声を低くして、「もしかして、円谷さんのことを調べてるの?」
「え? どうして――」
と、反射的に言いかけて、「どうして……知ってるんだ?」
隠せないのだと悟って仕方なく訊く。
「でも、何もやましいことはないんだよ。本当だ」
「分ってるわ」
と、真子は|肯《うなず》いた。「そういうことを上手にやれるあなたじゃない。だからこそ心配なの」
正巳は、ファイルを閉じると、
「この三日間、彼女、無断欠勤だろう。どうしたのかと思って」
「円谷さんを、どうして?」
と、真子は素直に訊いて来た。
「彼女が困ってると言うんで、相談に乗った。それだけのことさ」
正巳は、円谷沙恵子が以前の勤め先のときの恋人につきまとわれて困っているのだ、と事情を少し省略して説明した。真子も、しつこく訊こうとはせず、
「そういうことなの。まあ、あなたらしい話ね」
「いや、本当はそんなの一番向いてない人間なんだけどね」
「それも同感」
と、真子ははっきりしている。「円谷さんのアパートに連絡したの?」
「うん。電話しても出ないしね。家族とか、親類とか、何か分る人がいないかと思って、捜してたんだ」
伊東真子は、少しの間黙っていた。
正巳はその沈黙の意味を感じ取っていた。やはり真子とは長い付合いだから分るのだろう。
「何か知ってるんだな? 教えてくれよ」
「本当は言っちゃいけないんだろうけど……」
と、少しためらいながら、「円谷さんから、郵便で〈辞職願〉が届いたの」
「何だって?」
正巳は|唖《あ》|然《ぜん》とした。「彼女が辞める?」
「上の方でも困ってるわよ。突然言われてもね。しかも理由ったって、『一身上の都合』だけ。事務の引き継ぎもあるし、一度は出勤して来てもらわないとね」
正巳は考え込んでいたが、
「何かあったんだ。きっとそうだ。――な、伊東君、円谷君と話したことないのか?」
「私はさっぱり。――ただ、あなたと彼女が親しいって、社内の女の子の間では|噂《うわさ》だから」
正巳はびっくりした。親しいなんて言われても、個人的に話をしたのはこの間が初めてである。
あの手塚良一という男と会ってから、もう半月。その間、沙恵子は少しの変りもなく働いていたし、正巳とたまにすれ違うことでもあると、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んで見せたりしたが、特に話したことはない。
正直なところ、あの手塚のことでこれ以上|係《かかわ》り合いたくないと思っていた正巳はホッとして、あえて沙恵子に「その後どうなったのか」訊こうとも思わなかった。
「じゃあ、円谷さんが辞めるって言って来たの、金倉さんのせいじゃないのね。良かった!」
真子が息をつく。
「おい……。まさか本気で僕と円谷君が――」
「あなたはどうでも、彼女の方は『気があった』かもよ」
「――まさか」
「目つきで分る。女は女同士、敏感なのよ」
正巳は、しかし、沙恵子と手塚の間の詳しい話は、いくら真子にでもしゃべる気になれなかった。そこまではできない。
「――伊東さん、お電話です」
と、呼ばれて真子は、
「今行く。――じゃ、気を付けて。|一《いち》|途《ず》に思い詰めるタイプの女は怖いわよ」
冗談半分、本気半分の口調でそう言って、真子は行ってしまう。
正巳は、ゆっくりとファイルを棚へ戻した。
――沙恵子が辞める。
しかも、辞め方が普通でない。おそらく手塚が絡んでいるのだ。
しばらく迷っていたが、正巳は沙恵子のアパートへ行ってみようと決めた。
正巳が円谷沙恵子のアパートへやって来たのは、八時を少し回ったころだった。
もっと早く着くつもりだったのだが、あいにく五時の終業間際に仕事が入って一時間ほど出られなかったのである。
家には、
「友だちと飲んで帰る」
と、電話しておいた。
――そう、ここだ。
沙恵子の部屋の前に来て、正巳はチャイムを鳴らそうとしたが、表札がなくなっているのに気付いて手を止めてしまった。
いなくなってしまったのだろうか? 引越したのか?
当然、真先に思い浮かべたのは手塚のことである。
あの男もこのアパートを知っている。沙恵子にしつこくつきまとったり、いやがらせをしていたとしてもふしぎではない。
結局、沙恵子はそれに堪えかねて引越すことにしたのではないだろうか。
だが、それならそうとなぜ一言も言わなかったのか。正巳が心配することは分っているはずだ。
念のためチャイムを鳴らし、ドアを|叩《たた》いてみたが、返事はなく、正巳は|諦《あきら》めて帰ろうとした。こんな風に姿を消したのでは、引越先も言い残していないだろう。
だが――ドアの前を離れようとして、正巳は廊下をやって来た沙恵子と顔を合せていたのである。
「――金倉さん!」
「円谷君、君……」
「あの……。わざわざ来て下さったんですか」
「君が辞職願を郵送して来たと聞いてね。何があったんだ?」
沙恵子は目を伏せて、
「すみません」
と言った。「金倉さんに黙って行ってしまうの、心残りだったんですけど、どう言っていいのか分らず……」
並びの部屋のドアの開く気配に、沙恵子は急いでドアの|鍵《かぎ》をあけ、
「中へどうぞ」
と、正巳を入れた。
正巳は、部屋の中を見回し、前に上ったときと少しも変っていないのを見てホッとした。
「――あの、手塚って男と何かあったんだろ?」
と、正巳は畳にあぐらをかくと、「しかし逃げても追いかけて来るんじゃないか? 警察にでも相談したらいいよ。どこへ越しても、びくびくして過さなきゃならないなんて、馬鹿らしいじゃないか」
沙恵子は身を縮めるように正座して、しばらくじっと畳の面を見つめていたが、やがて肩を小刻みに震わせて、泣き出してしまった。
正巳は面食らってしまった。
むろん沙恵子がどうして泣き出してしまったのか、心配でもあったが、およそ女性を泣かせたなどということのない正巳としては、何よりもまずびっくりしたのである。
「ね、君……。円谷君、落ちついて。大丈夫。大丈夫だから落ちついて」
よっぽど当人の方があわてている。
しかし、沙恵子は涙を押さえて、
「ごめんなさい」
と、座り直した。「金倉さんがそうして心配して下さっているのに……。でも、お話ししたらきっとお怒りになるから」
「僕が? どうして僕が怒るんだい」
「あの……」
と、ためらってから、「私、やっぱり手塚について行くことにしたんです」
正巳は言葉を失った。まさか沙恵子から、そんな言葉を聞こうとは思わなかったのである。
「そうか……。いや、もちろん――君がそう決めたと言うのなら、僕がそれにとやかく言う筋合はないよ」
とは言ったものの、当然気分はすっきりしない。「しかし――あの男がちゃんと働いてくれるのかね。何か当てはあるのかい?」
「まあ……」
沙恵子はチラッと目をそらして、「ともかく、なるようにしかならないんです」
「そんな……。投げやりな言い方は君らしくないじゃないか」
「金倉さん」
沙恵子が|真《まっ》|直《す》ぐに正巳を見て言った。「私、金倉さんのことが好きなんです」
「――何だって?」
耳が遠いわけではない。あまりに聞き慣れない言葉を耳にしたからである。
「私、金倉さんのことを好きになってしまったんです」
と、沙恵子はくり返して、「どうして、って|訊《き》かないで下さい。理由なんて分らないんですから」
「ああ……。でも……」
「だからこそ、手塚と行くことにしたんです。許して下さい」
正巳にはやはり、さっぱり分らない。
「そんなことが……。いや、誠に|嬉《うれ》しい話だけどね。だけど、それと手塚のこととどういう関係が?」
沙恵子は|微《ほほ》|笑《え》んで、
「そういうところが好き。本当に素直なんですもの、金倉さんって」
何となく、「単純だ」というのを別の言い方で聞かされたような気もしたが、
「僕は、自分が無器用だと思っているだけさ。だから、本当のことを言ってしまわないとね。どうせ|嘘《うそ》なんかついたって、すぐばれちまう」
と、肩をすくめた。
「私が会社を辞める決心したのも、手塚について行くことにしたのも、金倉さんが好きだから」
沙恵子の言葉に、正巳はますますわけが分らなくなって、
「ということは……」
「金倉さんの身に何かあったら、私、自分のことが許せませんもの」
正巳は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「君の言う意味は――」
「ええ、手塚が言ったんです。『お前の彼氏を生かしちゃおかないぞ』って。あの人、やけになっていますから、きっと本当にやります」
「僕を――殺すって言ったのか。じゃ、警察へでも訴えればいいじゃないか」
「無理です。男と女がケンカしてるだけ、なんてことに警察はのり出してくれませんわ」
と、沙恵子は首を振って、「もし、本当に手塚が金倉さんを殺しでもしたら、もちろん捕まえてくれるでしょう。そんなことにはしたくありません」
正巳はしばし言葉を失っていた。
だが、自分のために沙恵子がそんな男について行くというのは間違っている。それぐらいのことは正巳も分っていた。
「いけないよ! 手塚についてって、君の一生が台なしになったら……。それこそ、僕は後悔することになる。ともかくだめだ。絶対に行っちゃいけない」
我ながら、説得力がないとは思っていた。何といっても、沙恵子は単なる「同僚の一人」にすぎない。正巳は恋人でも何でもないし、そうなることもできなかった。
沙恵子が「好き」と言ってくれていても、正巳には家庭があるのだ。
「何か方法を考えよう。ね、円谷君」
と、自分で|肯《うなず》き、「うん、そうだよ。何かいい方法があるはずだよ」
――しばらく沈黙があって、沙恵子はハッと顔を上げると、
「いけない! 金倉さん、もう行って下さい。もしかしたら……」
「手塚が来るのか?」
沙恵子が黙って肯く。――正巳は深呼吸して、
「よし! 僕が話をつけようじゃないか」
と言った。「一対一だ。君をこのまま行かせるなんてこと、できゃしない」
「とんでもないわ!」
沙恵子の方が青くなって、「やめて下さい。手塚はまともじゃないんです。金倉さんが大けがして――いいえ、きっと殺されるわ! お願いです、帰って下さい」
と、腰を浮かす。
しかし、正巳は聞かなかった。そして、そのとき、廊下を近付いてくる靴音が聞こえてきたのである。
「金倉さん――」
沙恵子が言葉を切った。
靴音はドアの前で停って、軽くノックの音がすると、「沙恵子、|俺《おれ》だよ」
手塚の声だ。
正巳は、「一対一で話をつける」なんて言っていたものの、いざとなると青くなっている。それが当然ではあろう、何しろ、沙恵子の話では「正巳を殺してやる」と言っているのだから。
「こっちへ!」
沙恵子は押し殺した声で言って、正巳の腕をつかんで立たせると、「押入れに隠れて下さい!」
「しかし――」
「お願いです。言う通りにして」
正巳は、言われるままに押入れの中へ身をかがめて入ると、
「円谷君――」
「しっ。動かないで下さい。ね?」
|襖《ふすま》を閉められ、正巳は真暗な押入れに一人、立て|膝《ひざ》を抱えて座っていることになった。
「――何してんだ」
手塚が入って来た。
「トイレに入ってたのよ」
沙恵子はそう言って、「ね、今夜は発てないわ」
正巳は、じっと耳を澄ました。しかし、音をたててはいけないと思うと、ますます緊張してしまうものだ。
「どういうことだ?」
「銀行が閉まっちゃったの。キャッシュカードを忘れて三時過ぎちゃって。現金なしじゃ、どこへも行けないでしょ。明日、朝おろしてくるから、それから出かけましょ」
沙恵子は、さりげない口調である。
手塚は信じるだろうか?
「一日でも遅れりゃ、やばくなる。分ってるだろ?」
と、不服そうだが、「ま、金なしじゃすぐにも困るしな」
「ええ。大丈夫よ、私が会社辞めたってことが分るのはずっと先」
「ま、いい。――じゃ、今夜は泊ってっていいな?」
正巳はドキリとした。
「だめよ。一晩かかって荷物の整理をしなくちゃ。女には、色々必要な物があるのよ」
「何だ、冷てえな」
と、手塚はすねたように、「じゃ、一回抱かせろよ」
「ちょっと……。だめよ、服が……。しわになるでしょ。――痛いわ」
正巳は、手塚が沙恵子を押し倒したらしい様子に、カッと顔が熱くなった。
「待って。――ね、待ってよ」
沙恵子が、何とか逃れようとしている。
「いいだろ? 布団敷けよ、早く」
手塚の言葉に、押入れの中の正巳は息をつめた。押入れを開けられる!
「じゃ、何か食べてから。ね?」
と、沙恵子が言った。「お腹が空いて、そんな気分になれないの。近くで何か食べましょうよ。戻って来てからゆっくり……。ね?」
「フン」
と、手塚は鼻を鳴らして、「ま、それならそれでもいいぜ。その代り、たっぷり|可《か》|愛《わい》がってやる」
「もちろんよ。そのスタミナのもとを補給しないとね。――さ、出かけましょ。お財布、持ったから」
沙恵子が促して、玄関のドアの開く音がした。
「何を食べる? 五分くらい歩くけど、中華のおいしいお店があるわ」
沙恵子の声が少し遠く聞こえ、|鍵《かぎ》のカチャリと回る音。
足音が遠ざかって、正巳は押入れの中で汗を|拭《ふ》いた。
そっと押入れから出てみると、明りはついたまま。
正巳は、少しの間突っ立っていた。どうしたらいいのだろう?
沙恵子が正巳を逃がそうとして、手塚を食事に連れ出したことは確かである。正巳に、その間に出て行ってくれ、というわけだ。
しかし、それは沙恵子を見捨てることになる。しかも、そのために沙恵子は手塚に抱かれなければならない。正巳のことを好きだと言いながら、あんな男のなすがままに……。
正巳は怒りを覚えた。何とかして沙恵子を救いたい。いや、救わねば男とは言えまい。
だが――冷静に考えて、正巳には手塚を相手に命をかけた決闘なんかする力はない。
刃物を振り回し、人を傷つけるなんてことができる自分でないと分っている。
そうだ。何か他の手段を考えよう。今はとりあえず引き上げて……。
正巳は重苦しい気分で、玄関へ出た。正巳の靴は、靴箱の中へしまってあった。
沙恵子のアパートを出た正巳は、風に吹かれて、熱かった|頬《ほお》が冷えていくのを感じた。
俺に人助けなどできるか?
とても、そんな柄じゃない。沙恵子のことだって、しょせんは他人である。
後ろめたい思いを抱えつつ、正巳は夜道を歩き出した。
そして、少し歩いたところで、街灯の下に立っている男に気付く。
「――やあ、金倉さん」
手塚だった。「押入れの中は窮屈だったでしょう」
手塚が楽しげに笑う。正巳はもう逃げられないのだと悟った。
突発事件
「俺だってね、あんたが思ってるほど馬鹿じゃないよ」
と、手塚はニヤつきながら言った。「沙恵子が何か隠してりゃピンと来るぜ」
「君……円谷君をどうしたんだ」
と、正巳は|訊《き》いた。
「彼女の身を心配してくれるのかい? あいつは俺が電話してると思って待ってるさ。あんたを痛い目に遭わせて戻っても、疑いもしないだろ」
では、沙恵子は無事なのだ。ともかく正巳はホッとした。
「あんたに恨みはないんだぜ」
手塚がフラッと近付いて来る。「だがね、男の意地ってもんがある。自分の女を寝取られたら、それなりのお返しはしなきゃな」
手塚の右手がスッとポケットから出ると、キラリと銀色に刃物が光って、正巳は青ざめた。
「――どうするね? 俺たちは金がいる。一千万にまけとこう。明日までに一千万、耳を|揃《そろ》えて持って来りゃ、勘弁してやる。でなきゃ、ここで腕の片方は使えなくなると思いな」
金か。金ですむことなら――。
正巳は反射的に考えた。今、貯金はいくらあったかしら?
いや、明日までに一千万円なんて、どう頑張ったって作れやしない。といって、刃物を持った男と闘うなんてことができるか?
今、一番賢明な方法、それは「逃げること」だ。
分ってはいたが、正巳は足に根が生えてしまったかの如く、一歩も動けなかったのである。
「どうした? 汗をかいてらっしゃるようだね、課長さん。課長か……。どいつも、その肩書だけで自分がよっぽど偉くなったように、人を見下しやがる。――さあもっと青くなって、ガタガタ震えな。笑ってやるぜ」
手塚のネチネチと絡みつくような目つきに、正巳はゾッとした。こいつはまともじゃない!
「馬鹿はよせ!」
と、言ってみたものの、我ながら迫力に欠けた。
「さあ、どうする?」
ナイフの先が正巳の目の前へ突きつけられた。――これが刺さったら、あるいは切られたら、さぞ痛いだろう。
恐怖で体がすくんで動けないのに、頭の方はまだ|呑《のん》|気《き》で、これは夢じゃないのかしら、などと考えていた。
「ちゃんと傷をつけてやらないと、返事ができねえようだな」
と、手塚が笑った。
そのとき、沙恵子が駆けつけてくるのが、正巳の目に入った。
「待って!」
沙恵子が叫んだ。「やめて! お願いだから、やめて!」
正巳は、沙恵子が手塚に後ろから飛びかかるのを見た。
「放せ!」
と、手塚が両手を振り回したが、沙恵子はしっかりとしがみついて、
「金倉さん! 早く逃げて!」
と叫んだ。「早く!」
正巳はどうしたらいいのか分らず、立ちすくんでいた。沙恵子が、手塚の持った刃物で傷つくのも恐れず、捨て身で助けてくれているのだ。
逃げるべきだろうか。しかし、ここで沙恵子を見捨てて逃げるなんて、男のすることか。正巳が迷っている間に、手塚は沙恵子を振り離すと、平手で彼女の|頬《ほお》を打った。
バシッと派手な音が響き、沙恵子が倒れる。
「邪魔しやがると、お前もただじゃおかねえぞ!」
と、手塚は怒鳴った。
沙恵子は地面に両手をつき、立ち上ろうとして|呻《うめ》いた。
それを見て、正巳の中で何かが爆発した。
「貴様! 何てことするんだ!」
と言うなり、生れて初めて、正巳は人を殴ったのである。
|狙《ねら》いをつけるなんて余裕はない。ただ、握り固めた|拳《こぶし》を、手塚の方へくり出した。
が――それが手塚の|顎《あご》に当ったのだ。ガツンという|手《て》|応《ごた》え。
手塚は、両腕を大きく振り回しながら後ろへよろけ、ズルッと足を滑らして、仰向けにひっくり返った。
正巳は、びっくりしていた。――人を殴った! 本当に殴ったのだ!
「野郎……」
手塚は、顎を押さえながら立ち上った。ナイフが落ちているのを拾おうと、身をかがめる。
「だめよ!」
と、やっと起き上った沙恵子が叫んだ。「金倉さん、逃げて!」
だが、思いがけないことが起った。ナイフを拾おうとした手塚がそのままバタッと前のめりに倒れたのである。
転んだのかと思った。正巳は、いつでも逃げ出せるように身構えて――というのも妙だが――じっと待っていた。
だが、手塚は起き上らなかった。いや、ピクリとも動かなかったのだ。
「――円谷君」
正巳は、沙恵子が立ち上るのを見て、「君……。大丈夫か?」
と、声をかけた。
「ええ……。すみません、私の気付くのが遅くて」
沙恵子は頭を振って、
「この人……。どうしたのかしら?」
と、倒れて動かない手塚を見ながら、正巳の方へやって来る。
「さあ……。殴ったっていっても、僕の力じゃね」
正巳は、自分の方へもたれかかって来る沙恵子を、あわてて受け止めると、「――円谷君!」
「良かった……。金倉さんが無事で良かった!」
沙恵子がしっかりと抱きついて来る。
正巳は、まるでTVドラマの世界に紛れ込んでしまったようで、困惑しながらも彼女を抱きしめ、その暖かみと柔らかな体の感触に頬が熱くなるのを覚えた。
「いや……まあ……。君が止めてくれたおかげだよ」
と、正巳は言った。「さあ、ともかく|奴《やつ》は気絶したらしい。今の内に逃げよう」
「待って」
沙恵子は正巳から離れると、手塚の方へ近寄った。
「危ないよ!」
「大丈夫です。この人――でも、本当に動かない。どうしたのかしら?」
「いいから、放っといて逃げよう」
「ナイフを……。追いかけて来たりしたら危ないわ」
そっと身をかがめて、沙恵子は手塚のそばに落ちたナイフを拾い上げ、|片《かた》|膝《ひざ》をついて、手塚の様子をじっとうかがっていたが――。
「――どうした?」
「何だか……。変だわ」
と、沙恵子は手を伸ばして手塚の手首を取った。
そして、両手で手塚の体を仰向けにした。ぐったりとして、気が付く様子はない。
「――円谷君」
正巳は、沙恵子が手塚の胸に耳を押し当てているのを見て、「まさか」と思った。
まさか。――|俺《おれ》はほんの一発殴っただけだ。まさか。
沙恵子がゆっくり頭を上げると、正巳の方を見て、半ば放心したように言った。
「この人……。死んでる」
なんだって? 冗談だろ? ――こんなとき、冗談なんか言うわけがないと分っていても、正巳はついそう言いそうになった。
「この人、さっき倒れた拍子に頭を打ってたわ。ゴツンって音がした……。本当に――死んじゃった」
沙恵子がフラフラと立ち上る。
「じゃ、僕が殺したのか」
「ええ……。でも、あなたのせいじゃないわ。私が……。私がやったことにしましょう」
と、沙恵子は震える声で言った。
「そんなことはできないよ! そんな……」
と、正巳は反射的に言った。
しかし――人を殺したのだ。いくらケンカの上とはいえ、相手を死なせてしまった!
正巳は、「家族はどうなる? 仕事は? 会社はクビだろうか」と、考えていた。
「どこかへ……どこかへ隠しましょう」
と、沙恵子は言った。「そうだわ……。そこの駐車場の奥へ。――めったに人なんか来ないから、大丈夫。金倉さん、この人の足を持って」
「ああ……」
正巳は、倒れている手塚のそばへこわごわ寄って、両足を抱え上げた。
本当なら、自分が頭の方を抱えなきゃいけないのだろうが……。
「さ、こっちです」
沙恵子は、キッと表情を固くして、手塚の|両脇《りょうわき》に後ろから手を入れ、力をこめて持ち上げた。
「こっちへ!」
「うん」
二人は、小刻みな足どりで、手塚の死体を運んで行った。
駐車場は明りがなく、奥の方はほとんど車の出し入れもない様子で、トラックのかげに死体を取りあえず下ろして正巳は息をついた。汗がふき出してくる。
「――アパートへ戻りましょう」
と、沙恵子は言った。
「このままで?」
「ええ。ともかく|一《いっ》|旦《たん》アパートへ」
「分った」
と、正巳は|肯《うなず》いた。
自分も早く手塚の死体から離れたいのはやまやまだ。沙恵子と二人、ただ黙ってアパートへ戻った。
――沙恵子は畳に座り込むと、しばらく身じろぎもしなかった。正巳は、ドカッとあぐらをかいて、何を言っていいものか分らず、ただ座っていた。
そのまま、どれくらいの時間が流れたのだろう。電話の鳴る音に、正巳は飛び上るほどびっくりした。
沙恵子はあわてる風でもなく電話に出た。
「――はい。――そうです。――ああ、久しぶり。――まあ、何とかね。――同窓会? いいわね。先生、まだお元気なのかしら……」
学生時代の友人からの電話らしい。
正巳は、沙恵子がいつもと少しも変らない調子でおしゃべりし、きちんとメモまで取って、
「じゃ、改めて連絡するわ」
と、電話を切るのを見ながら、舌を巻いていた。
俺は、とてもあんなに落ちついていられやしない。正巳はそっと汗を|拭《ぬぐ》った。
「金倉さん」
沙恵子は、正巳の方へ向き直ると、「ご迷惑をかけてしまって、申しわけありません」
と、頭を下げた。
「いや……」
「金倉さんにはご家族もおありです。たとえ正当防衛が認められたとしても、私とのことで、奥様は|辛《つら》い思いをされることになります。警察で取り調べられたりしたら、会社の方でもどう思うか……」
沙恵子は、ちょっと息をついて、「金倉さんは何も知らなかったことにして下さい。私が手塚ともみ合う内に、はずみで死なせてしまったということにすれば……。それが一番いい方法です」
正巳も、沙恵子の言う通りにしたかった。本心はそうだ。しかし、正巳にもそれが正しい方法でないということは分っていた。自分がやったことの責任を沙恵子に押し付ける。――それは卑劣なことではないか。
「しかし……。あれをどうするんだ?」
「どこかへ運んで、川へでも落としてしまえば……。でも、私一人の力ではとても無理です」
「円谷君。それなら僕も手伝う」
と、正巳は言っていた。
「でも、金倉さん……」
「君のためとはいえ、自分が決めてやったことだ。しかし、あんな男のために君が捕まったりするのは我慢できない。死体をどこかへ運ぼう。そうすりゃ、ああいう男だ。恨みを色々かっているだろうし、犯人不明ですんじまうかもしれない。いや、事故で死んだと思われるかもしれないよ。そうだろ?」
「でも……。いいんですか?」
「うん、僕のやったことだ。君に罪を着せるなんて、できない」
沙恵子は、顔を伏せて涙を拭ったが――。
急にパッと立ち上ると、部屋の明りを消した。
「どうしたんだ?」
と、正巳は|訊《き》いて、「君……」
「いいんです」
沙恵子は、手早く服を脱いで行った。「抱いて。二人だけの秘密よ」
「秘密……」
「そう。――もう離れない!」
沙恵子は正巳に抱きついた。正巳はあおりを食らって倒れ、自然、腕の中に沙恵子の若々しい体を抱きかかえることになった。
「待った!――ね、待ってくれ!」
正巳は必死で沙恵子を押し戻して、「今はそれどころじゃないだろ。早くあれを片付けよう!」
沙恵子は起き上ると、
「分りました、金倉さん……」
と、言って笑った。
明るい声だ。正巳はホッと息をついた。
不良中年
「ただいま!」
と、陽子が息を切らして玄関へ入って来た。
「お帰り。お母さん、どうしたの?」
と、居間から出て来た亜紀は|呆《あき》れて、「変な|奴《やつ》にでも追いかけられた?」
「誰が? 別にお母さん、追いかけられるような悪いことしてやしないわ」
「だってハアハア息切らしてさ」
「こんなに遅くなるとは思わなかったのよ! お父さんは?」
と、陽子は上りながら言った。
「まだ。電話もないよ」
「そう。良かった!」
陽子は、窮屈そうにスカートのファスナーを下ろして、お腹をなでた。「ああきつい! もうこれ、小さくなっちゃって」
亜紀は笑ってしまった。こういうときのお母さんって、本当に……|可《か》|愛《わい》い。
「お母さん、フランス語じゃなかったの?」
「え? ああ、もちろんそうよ。ただ――先生を囲んでお茶の会があってね。忘れてたわけじゃないんだけど、もっと早く終ると思ったから……。亜紀、あんた夕ご飯は?」
「適当に食べた」
「そう? ごめんなさいね。途中電話しようと思ったんだけど、なかなか席立てなくて」
「大丈夫だよ。私だって、一人でお腹空かしちゃいないから」
亜紀は、あの円城寺小百合の話を聞いているので、つい母をじっくりと見てしまう。
フランス語の教科書はちゃんと持っている。でも、このスーツ姿はいつもとは大分違う。いつも、もっと身軽にして行くはずだ。
まあ、母のことを疑うわけではなかったが、まずは客観的な証拠を集めることである。
「おじいちゃんも、何も言って来ない」
「あら、そう。――困ったわね。連絡してくれないと心配だわ。お母さん、ちょっと着替えるわね」
「うん」
立ったところへ電話が鳴り、陽子がヒョイと取った。「はい。――亜紀ですか? ――ええ、お待ち下さい」
と、ふしぎそうに、「亜紀、電話。〈さゆり〉ちゃんとか」
「あ、はいはい」
亜紀が急いで受話器を受け取る。
「何だか元気のいい子ね」
「うん、ファイトの塊みたいな子なの」
亜紀は、陽子が出て行くのを見ながら、「――もしもし」
「亜紀さん? 円城寺小百合です。お母様でしょ、今の? 怪しまれなかったかしら」
亜紀は笑いをこらえて、
「大丈夫。上出来みたいですよ」
と言った。「母、今帰って来たんです」
「やっぱりね」
と、円城寺小百合は言った。「主人から、たった今電話が。やっと接待がすんだから、これから帰るって」
「そうですか」
「あなたのお母様をお宅の近くまで送って、それから車の電話でかけて来たんだわ、きっと」
タイミングとしては合う。しかし、亜紀はあまりそう信じたくなかった。
「ちゃんと確かめましょうよ。想像ばかりで心配しても仕方ないし」
「そうね。今度の土日の予定をさりげなく|訊《き》いておくわ」
「私の方も訊いときます」
「探偵仲間」は、しっかり打ち合せて電話を切った。
――お母さんが浮気、ねえ。
どうも亜紀にはピンと来ない。いや、母だって女であると承知してはいる。でも、母は面倒くさがりなのだ。そんなくたびれるようなことをするだろうか?
「やだよ、家庭崩壊なんて」
と亜紀は|呟《つぶや》いた。
居間を出ようとすると、また電話がかかって来た。「――はい、金倉です。あ、お父さん」
「亜紀。母さんは?」
「さっきフランス語から帰って来た」
「こんなに遅くか?」
「そっちだって遅いでしょ」
と言ってやる。「これから帰るの?」
「うん。ちょっと飲んじゃったんで、少し酔いを覚ます。あと――一時間もしたら帰れるかな」
「分った。夕ご飯、いいのね? お母さんに言っとく」
電話を切ろうとして、亜紀はちょっと|眉《まゆ》をひそめた。――父の声の向うに聞こえているゴーッていう音、何だろう?
ゴーッ、ガタンガタン。
電話は切れた。――あれ、電車が鉄橋か何か渡ってる音じゃないだろうか?
少なくとも電車の音には違いない。飲んでたというけど、どこで?
怪しいな。亜紀は首をかしげた。
「――私、お茶漬け一杯食べるわ」
と、陽子が下りて来た。「亜紀、どう?」
「うん、じゃ私も食べよう」
と言って、「今、お父さんから――」
また電話。全くもう!
「はい、金倉です」
いい加減うんざりした気分が口調に出ていただろう。
「――もしもし?」
向うは何も言わない。いたずらかしら?
切ろうとすると、
「あの……」
と、女性の声がためらいがちに言った。「金倉さんのお宅……でしょうか」
誰だろう?
亜紀は、その電話の声に聞き|憶《おぼ》えがなかった。
「金倉ですが」
「お嬢さんですね。お母様いらっしゃいます?」
「はい、ちょっとお待ち下さい」
亜紀は、もう台所へ行ってしまった母を呼んだ。「――お母さん! 電話、出て」
「はいはい」
陽子が小走りにやって来て、「どなた?」
亜紀は黙って首を振った。陽子がちょっと不安そうに受話器を受け取る。
「――もしもし、お電話代りました」
「あの――金倉陽子さんでいらっしゃいますね」
「そうですが……」
陽子は少々|怯《おび》えていた。――はたで見ていた亜紀も、母の様子に気付いて、ピンと来た。
お母さん、やっぱり円城寺という男と付合ってるんだ。だから、その男の奥さんがかけて来たんじゃないかと思ってドキドキしている。
お母さんたら……。
「――はあ。――え?」
陽子は目を見開いて、「あの――それで、|義《ち》|父《ち》は……。大丈夫なんでしょうか?」
突然、事態は急変してしまった。
「すぐ参ります。どちらの病院――」
陽子の手がメモを捜すと、亜紀が素早く渡す。
おじいちゃんが――倒れた?
では、電話して来たのはあのときのタクシーに乗っていた女なのだ。
「――はい、確かに。ただ、主人がまだ帰っておりませんので、連絡がとれません。帰り次第すぐ――。いえ、私、先に伺いますから。あの――お名前は?」
少し間があって、向うが答えたようだ。
「|藤《ふじ》|川《かわ》さんですね。――分りました。わざわざどうも」
陽子も大分落ちついていた。受話器を置くと、
「亜紀――」
「おじいちゃん、倒れたの?」
「うん。|脳《のう》|梗《こう》|塞《そく》らしいって。命には別状ないっていうけど。ともかく、お母さん、行ってくるから」
「分った。私、お父さんが帰ってくるの、待ってる。病院、どこ?」
「あ、そうそう。これ。――読める? ひどい字ね」
こんなときに自分で|呆《あき》れている。
亜紀はメモし直すと、
「仕度しといでよ。タクシー、呼んどくから、私」
「ありがとう! 頼むわね」
バタバタと二階へ駆け上る母のスリッパの音を聞きながら、亜紀の心中は複雑だった。
〈藤川ゆかり〉
祖父、茂也が倒れたのは、この女のアパートだったらしい。
救急車で病院へ運ばれ、大騒ぎだったと……。それはそうだろう。
「あーあ」
亜紀は、居間のソファでひっくり返った。「何してんだろ、お父さん!」
母、陽子が病院へ向ってから一時間半ほどたっていた。少し前に電話して来て、
「おじいちゃん、意識はあるし、すぐどうってことはないみたい」
と、少しホッとした様子だった。
むろん、亜紀も|安《あん》|堵《ど》した。けれども、問題はむしろこれからだということも、よく分っている。
茂也は当分入院ということになるだろう。――クラスの友だちの父親が、最近やはり脳梗塞で倒れたので、その辺のことは聞きかじっていた。
後遺症が残ることは覚悟しなくてはならない。どの程度か、そこが問題なのだが。
それに、茂也だけではない。
母の陽子も、円城寺という男と――どういう付合いかはともかく――出歩いているようだ。
父、正巳にしたところで、こんなに遅くなって、まだ帰って来ない。
「本当にもう! 不良中年ばっかり!」
と、つい声に出して言っている。
おじいちゃんは「不良老年」かな?
ま、人のことばかりは言えない。亜紀とて、モンちゃんと、君原勇紀の二人の男とキスした仲だ……。でも、「不良」ってとこまで行ってない! 絶対に!
私は若いんだもん。恋だってこれからなんだもん。何人の男の子と付合おうといいじゃないの。そうよ!
誰も文句を言ってるわけじゃないのに、一人でカッカしている。
そこへ、玄関の開く音。
「ただいま」
と、父の声がした。
「お父さん!」
亜紀は飛び起きると、玄関へと駆け出して行った。
「はい、こちらでお待ち下さい」
夜勤の看護婦さんは事務的に言って、さっさと行ってしまう。
残されたのは、|長《なが》|椅《い》|子《す》の両端に腰をおろしている、陽子ともう一人の女……。そして、今やって来た正巳と亜紀だった。
「亜紀。あんたも来たの」
「うん。心配だから。――お母さんだけじゃね」
「まあ」
陽子は苦笑して、でもホッとしている。
「で、どうだって、|親《おや》|父《じ》?」
と、正巳が|訊《き》くと、
「じき、先生がみえて説明して下さるって」
と、陽子は言った。「今は眠ってらっしゃるわ。あなた、遅かったのね」
「うん……。飲んでたら色々ごたごたしてな」
「でも、良かったわ。私だけじゃ心細くって」
陽子の方も、遅く帰ったというひけめがあって、それ以上訊こうとしなかった。
「お母さん――」
と、亜紀が言いかけると、
「あの……」
と、その女性が立って、「申し遅れまして。藤川ゆかりと申します」
と、頭を下げた。
「は、どうも」
正巳が|曖《あい》|昧《まい》に会釈する。「父がご厄介かけて」
「いえ……。突然倒れられたもので、びっくりしてしまって。すぐお宅へご連絡するべきだったと思いますが、救急車を先に呼んでしまいました。申しわけありません」
「それはでも、その方が良かったんですよね、あなた」
と、陽子が言った。「私たちがお宅へうかがうまで待っていたら、またどうなったか」
「そうおっしゃっていただけると……」
三人とも、こんな所で立ち入った話もできず、腰の引けた言葉のやりとりをしている。
亜紀は口を出すわけにもいかず、少し離れて立っていた。
パタパタとスリッパの音をたてて、白衣をはおった眠そうな顔の医師がやって来る。
「ええと――|金《かね》|田《だ》さん?」
「金倉ですが」
「ああ、そうか。失礼。金倉さんね」
と、医師は|欠伸《あくび》をかみ殺して、「あんまり眠ってないもんでね、この二、三日。ま、中へ入られていいですよ」
「はあ……」
病室の中へ医師が入って行くと、正巳がついて行った。陽子は、どうしたものかためらっている藤川ゆかりへ、
「あなたも、どうぞ」
と、声をかけた。
「ありがとうございます」
藤川ゆかりはホッとした様子で言った。
――亜紀は、母の振舞いに何となく安堵した。
医師が、眠っている茂也のそばに立ってあれこれ話している間、亜紀は少し離れて立って、その藤川ゆかりという女を眺めていた。
まだずいぶん若い。といっても、むろん祖父と比べての話だが、四十そこそこ、たぶん母とそう違うまい。
祖父、茂也からすれば、藤川ゆかりは娘といってもまだ、若いかというくらいだ。
しかし亜紀が何となく持っていたイメージからみると、やや意外な印象ではあった。
ほっそりとして、いかにも「はかなげ」な風である。――もっとも、亜紀に「はかなげ」なんてことが正確に分っているわけではなかったが。
今、病室のベッドで眠っている茂也を、一歩|退《さ》がって、正巳や陽子の後ろから見守っているところは、どこか心細げですらあった。
「――ともかく、明日、専門医が細かく検査をしませんと詳しいことは申し上げられないんで」
当直らしい医師は、そう結んで、「それでは……とりあえず、明日、事務が開きましたら入院の手続きをして下さい。おいでになれますか?」
「それは何とか……」
と、正巳が言いかけると、
「私、参ります」
と、陽子が言った。「何か必要な物とかございますか」
「それは看護婦に訊いて下さい。いつもいい加減なことを言って|叱《しか》られるんで」
と、医師がちょっと笑って、空気がほぐれた。
病室を出ると、陽子は、
「私、今夜ついてましょうか? あなたはお仕事があるし、亜紀も学校でしょ」
と言った。
「今夜ずっとか?」
「誰かいないと――。もし目を覚まされたら、気を悪くされるわ」
「あの……」
と、藤川ゆかりがおずおずと、「私でよろしければ……」
「まあ、そうして下さる? 助かります」
「はい、喜んで」
「では、明日午前中に必ず参りますから」
と、陽子は言って、「藤川さん――でしたね。今夜はゆっくりお話もできませんから、改めて。それでよろしいかしら」
「はい」
「じゃ、今夜はよろしく」
藤川ゆかりは、亜紀たち三人を、ずっと廊下で見送っていた……。
「――若い人だね」
帰りのタクシーの中で、亜紀は言った。
「ともかくお|義《と》|父《う》さんのお話を聞かないと。ね、あなた」
「うん。――そうだな」
正巳は混乱している。
それはそうだ。とんでもない一日だったのだから。――父の身も心配ではあったが、今は自分の方が大変だ。円谷沙恵子と二人で、手塚の死体を川へ投げ捨てて来たのである。
悪夢でも見たのか、|俺《おれ》は?
体育祭の朝
何も、こんなにお天気の方で気をつかってくれなくたって……。
本当に、そう言いたくなるような快晴の一日。――十月十日。体育祭の日である。
亜紀の高校は女子校だから、体育祭といっても、至っておとなしいものだが、それでも朝は、いつになくスッキリと目が覚めて、
「おはよう!」
と、母の陽子へ声をかけた。
「おはよう。いいお天気になったわね」
陽子はお弁当を作っている。
「|凄《すご》いなあ。そんなに色々作んなくてもいいよ」
「おじいちゃんの所へ持って行くのと一緒よ」
と、陽子は笑って言った。「早く仕度しなさい」
「うん」
手早く顔を洗って、朝食をしっかりとる。
「いつもそれくらい寝起きがいいといいのにね」
と、陽子に言われてしまった。
「お母さん、無理しないでね。おじいちゃんの所にも行くんでしょ?」
「体育祭がすんでからで充分。帰りに寄ってくるから、あんたは先に帰ってて」
「分った。――お父さんも来るの?」
「そのはずよ。起してくれって何度も念を押してたから」
もちろん、亜紀だって両親が見に来てくれたら、それはそれで|嬉《うれ》しい。
特に、祖父、茂也が倒れて入院してからは、母も毎日病院へ通っていて大変だ。こういうことで気分を変えるのもいいのかもしれない。
茂也の病状は幸いたいしたことがなく、言葉もちゃんとしていたが、左半身にしびれがあるということで、脳の精密検査を受けることになっていた。
病院には藤川ゆかりが毎日ほぼずっと付き添っていて、陽子も助かっているようだった。
茂也と彼女のこともはっきりさせなくてはならないのだろうが、差し当っては、入院という突発事で「休戦状態」というわけである。
「――あら、電話。出てくれる?」
と、おにぎりを結んでいた陽子が言った。
「うん」
亜紀が急いで出てみると、
「やあ。今日の体育祭、頑張って」
君原勇紀である。亜紀はポッと|頬《ほお》を赤くして、
「ありがとう」
と、言った。「大したこと、しないのよ」
「でも、一生懸命やれよ。そうすれば思い出になる。手を抜いて、いい加減にやったら、すぐ忘れちまう」
君原の言葉は素直に亜紀を感動させた。
「うん。頑張るわ」
「おじいさんの具合、どうだい?」
と、君原が|訊《き》く。
入院したことを電話で話してあったのである。土手で会ってからは、まだ顔を見ていない。
「気長にしないと無理みたい」
「明日、出かけられる? まずいようなら――」
「大丈夫よ」
と、亜紀は急いで言って、チラッと台所の母の方へ目をやる。「今夜、電話くれる?」
「うん。それじゃ、遅れないように」
「ありがとう」
そっと受話器を置く。いつもの友だちのときはもっと乱暴に切っているが、相手が君原となると大違いだ。
「誰から?」
と、陽子が言った。
「うん、クラブの子」
と、いい加減な返事をして、「もう充分食べた。コーヒー一杯飲んだら出かけるね」
「そうして。今、お弁当くるむわ」
陽子はバタバタと忙しくしているのが結構楽しそうだった。
「――起きてたのか」
と、父の正巳がパジャマ姿で|欠伸《あくび》しながらやって来る。
「無理しちゃって」
と、亜紀は笑った。「そんなに急がなくても、私が出るの、お昼少し前くらいだから」
「入場行進から見る! なあ、母さん」
「そうね。もうあと何回そんなもの見られるか……」
亜紀は、ちょっとドキッとした。自分ではそんなこと、考えてもみなかった。
幼稚園のころから「運動会」があって、毎年毎年、いい加減飽きるくらいやって来た。
友だちでも、
「こんなもん、早く無くなってほしいよね」
と言う子が多いし、亜紀だってそう思わないわけでもない。
しかし、親の立場になってみれば、もう子供の「運動会」がないというのは、何か寂しいものなのかもしれない。自分が親になったら、我が子がヨタヨタと駆ける姿に必死で声援を送るのだろうか……。
「――早く行かないと、いい場所が取れないしな」
と、正巳は言った。「おい、顔を洗ってくる。|俺《おれ》は向うへ行ってから食べる」
「そうする?」
亜紀は、何となく申しわけないような気分になっていた。祖父の入院で、みんな――といっても、母が一番だが――時間を取られているのに、こうして朝早く起き出して……。
親って大変だな、と亜紀は思った。
正巳と陽子が、お弁当だのポットだのを抱えて家を出たのは、亜紀を送り出して三十分後だった。
車で行くわけにはいかない。|却《かえ》って時間もかかるし、駐車する場所もない。
「忘れもの、ないわね。――ちゃんと|鍵《かぎ》もかけて来たし、大丈夫」
と、陽子は確かめるように言った。「あなた、眠いでしょ」
「いや……。まあ会社へ行くことを思えばな」
と、正巳は言って、カメラを見ると、「電池、大丈夫かな? ――よしよし」
「フィルム、入ってる?」
と、陽子がからかうように言った。
二人は、少し足どりを速めて駅へと向った。
「今日は運動会、多いわよね」
と、陽子はすれ違う家族が、やはりお弁当らしい包みをさげているのを見て言った。
近くの小学校でも運動会なのだろう。
まだ低学年の子が、すっかり運動会のいでたちに、オレンジ色のはちまきまでしめて母親に手を引かれてスキップして行く。
同じような家族同士、あちこちで、
「おはようございます」
「ご苦労さまです」
と、|挨《あい》|拶《さつ》を交わしている。
「――思い出すわね、亜紀もあんなだった」
と、陽子が言った。
「ああ」
正巳が笑って、「小さいころは、こっちも張り切ってたな。お父さんたちのかけっこがあったりして」
「そうだったわね。一人、心臓の発作起して、救急車呼んで大変だったじゃない。私、役員だったから、どうしようかと思ったわ」
「そんなこともあったな」
正巳は空をまぶしげに見上げた。
亜紀も元気に育って、もう十七。立派に女らしくなった。
だが――正巳は、あの出来事を思い出すと胸が重苦しい鉛のようになって、足どりさえ重くなるのだった。
手塚の死体を川へ投げ捨ててから何日かたった。――円谷沙恵子は、その後一度だけ会社へ顔を出して、辞めて行ったので、連絡は正巳の方から電話するしかない。
何度か電話してみたが、今のところ、何も変ったことはないという話だった。
毎日、新聞を見ているが、死体が上ったという記事は目に付かない。川の底へ沈んだのか、それとも流されて遠くへ行ってしまったのだろうか?
いずれにしても、このまま忘れられてしまえばいい、と……。正巳は祈るような思いでいたのである。
正巳と陽子は電車で亜紀の学校へと向った。
祭日なので電車は空いているが、それでも運動会や行楽の家族連れで結構席は埋っていた。
「あなた、そこ一つ空いてるわ」
と、陽子が言った。
「お前が座れよ」
「でも、あなた、疲れてるでしょ」
「おい、毎日この何十倍も人の詰った電車で通ってるんだ。立ってるのなんて、どうってことない。座れよ」
「でも――眠ってけば? 三十分くらいは眠れるわよ」
「お前もここんとこ病院通いでくたびれてるだろう」
と、二人でやり合っている内に、大きな荷物を抱えたおばさんが来て、さっさと座ってしまった。
正巳と陽子は顔を見合せ、笑い出した。
「――立ってると、外もよく見える。気持いいじゃないか」
「そうね。今日は本当に運動会日和だわ」
と、陽子が|微《ほほ》|笑《え》んで、車外を流れ去る緑の多い郊外の風景を見やった。
ゴトゴトと音がして、鉄橋を渡る。河川敷では野球をしている子供たちのユニフォームの白さがまぶしいようだった。
川……。正巳は、川を見るとまたあのことを思い出す。
手塚を殺したことに、そう罪の意識はない。殺す気など全然なかったのだ。
むしろ、手塚の方で勝手に「死んでしまった」ようなものだった。
だが――万一、死体が上って他殺ということになり、正巳が殴ったことが分れば、そんな言い分は通らない。それくらいのことは正巳にも分っていた。
あのとき、警察へ届けていれば、とも思う。しかし、もう手遅れだ。
今となっては……。
正巳はそっと陽子の横顔を見た。
もし俺が「殺人容疑」で逮捕されたりしたら……。陽子や亜紀はどうなるだろう?
当然会社はクビだ。殺意はなかったとしても、死体を川へ捨てたりしているのだから、無罪放免というわけにはいくまい。
沙恵子が証言してくれて、正当防衛が認められたら……。いや、日本では「正当防衛」の主張はめったに通らないのだということぐらいは知っていた。
――そうだ。何としても隠し通すのだ。
自分がやったという証拠など、今から出るわけがない。もし調べられたとしても、あくまで、
「知らない」
と言い通そう……。
「――あなた、どうしたの?」
と、陽子が心配そうに言った。
「何が?」
と、正巳は|訊《き》き返した。
「今、|凄《すご》く怖い顔してたわよ」
と、陽子は心配そうに、「何か仕事のことで問題でも?」
「いや、そうじゃない。これが普通の顔さ」
と、笑ってごまかす。
「それならいいけど……」
陽子は、再び車窓の外の風景へ目をやった。
――この人は気付いてるんだろうか?
私が円城寺裕と付合っていることを。
付合っているといったところで、陽子は円城寺と、いわゆる「深い仲」になったわけではない。
陽子の方で、
「そういうことを求めるなら、すぐお付合いをやめます」
と言ってあるのだ。
じゃ、なぜ付合っているのか? ――陽子としては「浮気」でない男の人との付合いがあってもいいじゃないか、と思っている。
そう。それは確かにそうだ。向うも、単に浮気相手を求めているのなら、いくらでも若い女の子とデートできるだろう。
――正直なところ、陽子は円城寺の「グチの聞き役」をしているようなものだ。妻の小百合が神経を病んで、いつも気をつかっていなければならないので、円城寺は疲れている。
陽子のような同年代の女でなければ、そんな苦労話を長々と聞いてはくれないだろう。円城寺が、
「若い子たちと出歩くと、正直、気分は活き活きして来ますがね、でも向うは気をつかってくれて当然と思ってる。結局、こっちはくたびれるんですよ」
と、苦笑いするのも分る。
でも、その代り陽子は、今まで足を踏み入れたこともないような有名なレストランや料亭に連れて行ってもらっている。
正巳に対して申しわけないという気持もないではない。ただ――何というか、陽子は「人助け」をしているような気持でいるのである。
円城寺は、色々胸にわだかまっていることを、すっかり打ち明けると、いつもさっぱりした表情になって別れて行く。
そして陽子も、ああ良かった、と満足する。
――人に話しても信じてくれないかもしれないが、本当に手を握られたことさえない。
そんな付合いがいつまで続くものやら、陽子自身も見当がつかないでいるのだが……。
「――じきだな」
と、正巳が言って、陽子はハッと我に返った。
「この次の駅だわ」
陽子はそう言って、とりあえずは体育祭のことだけ考えよう、と思ったのだった。
意外な客
「勝った、勝った!」
と、ジャンプしながら亜紀が駆けてくる。
「何でしょ、小さい子供みたいに」
と、陽子は笑って言った。「手、これで|拭《ふ》いて」
「|嬉《うれ》しいことは素直に喜ぶことにしてるの!」
と、息をついて亜紀は父と母の間に窮屈そうに割り込んだ。「――サンキュー」
ウェットティッシュで手を拭くと、早くも亜紀はお弁当へ手をのばす。
「よかったわ、いいお天気になって」
と、陽子が青空を見上げてまぶしげに目を細める。
――体育祭は、珍しくほぼ予定通りの時間で進行し、お昼休みに入っていた。
亜紀のクラスは、午前中の最後のプログラム、〈大玉送り〉で勝ったのだった。
「一度玉が落ちそうになったでしょ。ドキッとしたわ」
と、陽子が言うと、
「そう! 私が防いだのよ、あれ。落ちてたら負けてた」
「お前は反射神経がいいからな」
正巳も上機嫌で、「ちゃんと写真を撮っといた。ま、ここからじゃ小さくて分らんだろうがな。うちもビデオカメラでも買うか」
「買うなら、もっと早く買わなきゃ」
と、陽子が笑って、「もう高二よ、亜紀は」
「そうか……。しかし、何もないよりゃいいだろ。最近はずいぶん安いんだぞ」
正巳は「一家の主」にしては、電気、機械系統に至って弱い。その正巳がビデオカメラを買おうと言い出すなど、全く珍しい話であった。
「じゃ、来年の体育祭のときでいいじゃないの。今買っても、撮るものがないわ」
陽子の言い分は誠にもっともだった。
「お母さん、お茶……」
おにぎりを|頬《ほお》|張《ば》りながら、亜紀が言った。
そして、紙コップにもらったお茶を一気に飲み干すと、
「私、クリスマス会のソロになるの、たぶん」
と言った。
「クリスマス?」
と、正巳が面食らっている。
「ほら、いつも講堂であるじゃないの」
と、陽子が言って、「でも、そうね、お父さんは行ったことないわよ」
「あ、そうか」
「でも、亜紀、ソロって――歌うの?」
「まさか踊るわけないでしょ」
と、亜紀が少し照れながら言って、「でも、まだ本決りじゃないの。先生に言われてるから、たぶん確かだけど」
「お前、歌が上手いのか?」
カラオケで、いつも恥をかいている正巳がびっくりして言った。
「お父さんよりはね」
と、亜紀は、もう二つめのおにぎりを食べ終えて、「でも、まだみんなには発表してないの。言わないでね、誰にも」
「はいはい」
と、陽子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「じゃ、お父さん、やっぱりビデオカメラがいるかしらね」
「そうだな」
と、正巳は笑った。
その「クリスマス会」なるものがどんなことをやるものなのか、正巳は知らない。しかし、亜紀がそこで一人で歌うというのは、何だかえらく立派なことらしい、と思った。
「ま、ともかく頑張れ」
と、正巳が言うと、亜紀は少し日焼けした顔で、
「今は、午後の出番を頑張らないとね」
当人の方がよほど落ちついている。
体育祭の昼休みはたちまち過ぎて行って、アナウンスが、
「午後の部の初めの競技に出る人は、入場門の所に集合して下さい」
と告げた。
「私、行かなきゃ」
と、亜紀は立ち上った。
「あら、出るの?」
「ううん、これは一年生の競技。私、先頭で連れて歩く役なの」
「あら、ご苦労様」
「じゃ……。終ったら、先に帰っててね」
「けがしないでよ」
と、陽子が声をかけたときは、もう亜紀はグラウンドを|真《まっ》|直《す》ぐに横切って駆けて行っていた。
「――やけに元気だな」
と、正巳は言った。
「いいじゃない。今の子は運動不足だもの」
陽子は別の包みを開けると、「サンドイッチもあるわよ。食べる?」
「いや、今はいい。また後でな」
正巳はよいしょと立ち上って、「手を洗ってくる」
「迷子にならないでね」
陽子の言葉に、正巳は自分でふき出してしまった。
去年、やはり体育祭でここへ来たとき、正巳はトイレに行って、戻れなくなってしまったのだ。どこへ出ても同じように見え、結局、グルッとグラウンドの外側を一周して、やっと陽子の所へ戻ったのは一時間以上たってからだった。
今日は大丈夫! 正巳は振り返って、陽子が座っている場所をしっかり頭に入れたのだった。
――トイレで手を洗い、ハンカチで拭きながら出て来た正巳は、生徒たちが競技に使うさおを運んでいたので、足を止めて通り過ぎるのを待っていた。
正巳と同じように、生徒たちが通り過ぎるのを待っている女性がすぐそばにいて……。
正巳はふとそっちへ顔を向けて|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「円谷君!」
円谷沙恵子だったのである。
「――びっくりしたでしょう。ごめんなさい」
と、沙恵子は言った。
「いや……。まあ、びっくりしたがね」
と、正巳は正直に言った。「それにしてもよくここが……」
「娘さんがここへ通ってるって、聞いたことがあるし、私、もう何年も前だけど、仕事でよくこの近くへ来ていたんです」
と、沙恵子は言った。「お休みの日って何だか……落ちつかなくて」
「分るよ」
二人は、学校の校舎の裏手に来ていた。ともかく人のいない所を捜したのである。
空っぽの校舎は、静まり返っていて、中庭風になったその場所は、風で木の枝がざわついているだけだった。
「――いいえ、来ちゃいけなかったんだわ」
と、沙恵子が首を振って、「ごめんなさい」
「何かあったのか」
沙恵子の様子がどこかおかしい。――正巳は気になって|訊《き》いた。
「あなたに迷惑はかけない。そう自分に誓ったんですもの」
「しかし……」
「私、やっぱり出て行きます。あのマンションから。捜さないで下さい」
沙恵子は目を伏せて、「でも――その前にどうしてもあなたを一目見たくて。本当です。見るだけで良かったの。話をするつもりはなかったんですけど……。考えてみりゃ、あんな所であなたを見付けるのは無理ね」
「しかし、ちゃんと会えたじゃないか」
「ええ……」
「話してくれ。何があった?」
沙恵子は、少しためらっていたが、やがて肩をすくめて言った。
「手紙が――」
「手紙?」
「五千万、払えって」
正巳は唖然として、
「誰から?」
「名前はないの。いたずらかと思ってたら、ゆうべ電話が」
「何て言った?」
「私たちが――手塚を片付けたのを、たまたま見ていたって。黙っててほしければ、五千万用意しろって……」
「見てたって?」
「ええ……。やっぱり、私が自首すれば良かったんだわ!」
と、沙恵子は両手で顔を覆った。
そのとき、グラウンドの方からにぎやかな行進曲が聞こえてきた。
「体育祭、午後の部です」
と、アナウンスも聞こえる。
「――行って下さい。奥様、捜してらっしゃるわ」
と、沙恵子は急いで言うと、「お邪魔してしまって……」
「いや、そんなことは――」
と、正巳は言いかけて、しかしやはり陽子の所へ戻らなければならない。「ね、円谷君、早まっちゃいけない。僕に相談しないで出て行っちまったりしちゃだめだ。分ったかい?」
と、沙恵子の肩をつかんで言った。
「でも……」
「僕がやったことなんだ。手塚を殺したのは僕なんだ。君一人に結果を押し付けとくわけにはいかないよ。そうだろ?」
「金倉さん――」
「僕に任せて。今日は無理かもしれないが、明日は必ず行くから」
「でも、お父様が入院なさってるのに」
「一日ぐらい大丈夫さ。――もう行かなきゃ」
「ええ。それじゃ……私、待ってます」
と言うと、沙恵子は正巳の胸にしっかりすがりつくように身を寄せた。
正巳は、誰かに見られたら、と思うと気が気ではなかったが、それでもそっと沙恵子を抱いてやった。
「――じゃ、明日、待ってます」
と、沙恵子は離れて、「遅くなってもいいですから。待ってますから、私!」
歩き出しながら、そうくり返し、すぐに小走りに姿を消した。
正巳は、大きく息をついた。
誰かが見ていた? 手塚の死体を川へ放り込むところを……。
あり得ないことではないにしても、正巳と沙恵子にとっては最悪の展開だ。――何かの間違いか、いたずらだと信じたい。
しかし……。
ともかく――今は頭を悩ませてもしょうがない。
正巳は、校舎の中を抜けて、グラウンドの方へ戻ろうと急いだ。
「――おっと!」
廊下の角で危うく誰かとぶつかりそうになる。
「ごめんなさい!」
と、その女の子は言って、「――あ、亜紀のお父さん」
「え?」
行きかけて、びっくりして振り向くと、
「松井ミカです、私」
「ああ、どうも……」
正巳も、前に会ったことはあるが、格好も違うのでピンと来なかった。「ちょっと、家内の所へ戻るんでね」
正巳は、松井ミカに軽く会釈すると、急いでグラウンドへと戻って行った。
――ミカは、体操着姿のまま、校舎の中を小走りに、
「お兄ちゃん。――お兄ちゃん、どこ?」
と呼んで歩く。
すると、
「ここだ」
と、後ろで声がして、びっくりした。
「こんな所にいたの!」
と、ミカは息をついて、「ね、もう午後の部、始まるよ」
「聞こえてたさ」
と、兄の健郎は|喫《す》っていたタバコを廊下の窓から投げ捨てて、「行こう」
と、歩き出す。
「――お母さん、気にしてたわよ。午後は帰んなきゃいけないみたいだから」
健郎は妹の言っていることを聞いていない様子で、何やら考え込んでいたが、
「――お前、今会ったおっさん、知ってるのか」
と、訊いた。
「おっさん、だなんて!」
と、ミカは笑って、「亜紀のお父さんじゃない。金倉さんだよ」
「ふーん。――何やってる人なんだ?」
「何って……。サラリーマンでしょ、普通の。でも、どうして?」
「いや、何でもない」
と、健郎が首を振る。
「変なお兄ちゃん」
と、ミカは言った……。
二人がグラウンドの方へ出ると、もう初めの一年生の競技はスタートしている。
「――さ、私もそろそろ準備だ」
と、ミカが伸びをすると、
「張り切りすぎて、けがすんなよ」
と、健郎がからかう。
「――あ、ミカ!」
と、旗を持った亜紀が駆けて来た。
「亜紀、どうしたの?」
「お父さんがトイレに行ったきり戻らない、ってお母さん、心配してて……」
「ああ、亜紀のお父さん? 今すれ違いに戻ってったよ」
「え? 本当? 何だ、じゃ入れ違ったんだ。人騒がせだな。こんな旗、持ったまま来ちゃった」
と、亜紀は笑った。
「亜紀。|憶《おぼ》えてる? うちの兄よ」
と、ミカが健郎を紹介する。
「あ、今日は。金倉亜紀です」
「ああ。ずいぶん前に会ったことあるんだよね」
健郎が|微《ほほ》|笑《え》む。「妹がいつもありがとう」
「いえ、そんな……」
と、亜紀は少々照れている。
「じゃ、私たち定位置に戻るから」
と、ミカが兄へ言った。「亜紀、行こう」
「うん」
亜紀は|肯《うなず》いて、健郎の方へ、「それじゃ」
と頭を下げた。
二人は行きかけて、ふとミカが振り返り、
「お兄ちゃん、最後まで見てる?」
「ああ、どうせ暇だしな」
「最後のリレー、亜紀も出るんだよ。見てて」
「やだ、ちっとも足なんか速くないのに」
と、亜紀は笑って言った。
「頑張って」
と、健郎は言って、駆け出して行く二人の少女を見送った。
そして、健郎はふと真顔になって、
「どうなってるんだろうな」
と、|呟《つぶや》いた。
「――また迷子になったかと思ったじゃないの」
と、陽子が文句を言っている。
「ちょっと校舎の方をぶらついてただけさ」
正巳は、腰を落ちつけると、「亜紀は今度はどれに出るんだ?」
と、もうクシャクシャになってしまったプログラムを開いた。
――自分でも、よくこうして平然としていられるもんだ、と思っていた。
人を殺して――殺す気はなかったにしても――死体を川へ投げ捨て、挙句がゆすられるはめになって……。
こんな|呑《のん》|気《き》なこと、しちゃいられないのだ。――五千万。五千万も出せと言って来ている!
どうしたらいいんだ?
正巳は正直なところ、自分がどういう状況になっているのか、一向に実感できていないのである。
頭で分ることと、肌で実感することは別だ。
いや――円谷沙恵子を助けようとしたばかりに、とんでもないことになってしまったが、正巳としては「何も悪いことをしたわけじゃない」と思っている。だから、万一警察に捕まるようなことになったとしても、事情を説明すりゃ分ってくれて、
「そりゃ大変でしたね」
と、労をねぎらって――まではしてくれないにしても、罪になるようなことはない、と……。
楽天的というか呑気というか。ま、正巳自身、そういう性格なのだから、仕方ない。
「――あ、次、亜紀が出るわよ」
と、陽子が言った。
「そうか?」
正巳はあわててカメラをつかむと、レンズをシャツの|袖《そで》で|拭《ぬぐ》ったのだった。
お祭すんで
二、三歩駆け出した亜紀の手に、走者のバトンが渡る。
「頑張れ!」
誰が誰を応援したのか。ともかく、自分が言われたような気になって、亜紀は両手を大きく振りながら全力で走り出した。
亜紀のチームは今、三位。前に二人いるわけだが、そう離れていない。
チームの二年生では亜紀が最後のランナーで、三年生へバトンタッチすることになる。
ここで一人でも抜いておかないと最後はきつくなる。――行け!
トラックの直線から半円のカーブに入るところ。みんなスピードが落ちる。亜紀は思い切って内側ぎりぎりの所へ突っ込んで行った。
前の子が恐れをなしたのかコースを譲って、亜紀は一人抜いた。
前を行くトップの子が、チラッと後ろに迫る亜紀の方を振り向いて、その拍子にバランスを崩し、転びそうになった。
アーッという声が生徒の間から上る。
トップの子は転ばずにすんだが、その間に亜紀はぐんと差をつめていた。
後は直線で五十メートル。亜紀は、君原の言ったことをふと思い出した。
一生懸命やれば思い出になる。
そう。二年生の体育祭は今日、この一日しかないんだ。
亜紀はスパートをかけた。生徒たちがどよめく。抜きそうだ。――やれる!
亜紀はついに前の一人を抜いて、トップに立った。
ワーッと歓声が上った。――あと十メートル! 三年生が手を振って待ち受けている。
バトンを持った手を精一杯伸ばし、三年生の手にスパッと|叩《たた》き込むように渡した。
「やった、やった!」
ミカが駆けて来ると、「亜紀! |凄《すご》い!」
と、抱きついた。
急にめまいがして、亜紀はその場に座り込んでしまった。
リレーがその後どうなったか、そんなこと見てる余裕もなかった。汗がふき出し、心臓は破裂しそうで……。
「――勝った! 一等だよ! 亜紀、やったね!」
ミカの興奮した声が、何だか遠くに聞こえていて……。
「――もう大丈夫」
亜紀は、母からもらったお茶を一気に飲み干して言った。
「貧血起すまで頑張らなくたって」
と、陽子は笑って、「でも、よくやったわね」
校庭にはもう後片付けをする、数えるほどの人しか残っていなかった。
亜紀の頑張りで、リレーに勝ったものの、チームそのものは二位に終った。
けれども、もしリレーで負けていたらもっと下位になるところだったので、その点では亜紀の活躍が大いに貢献したことになる。
少々の貧血ぐらいはやむを得ないというものだったろう。
「――お父さん、病院へ先に行ったわよ」
と、陽子は言った。
「うん。お母さんも行けば? 私、一人で帰れるから」
「だめだめ。電車の中ででも、また貧血起したらどうするの? お母さんは明日でもまた行くからいいのよ」
「でも――」
と言いかけたが、こうして自分のことを心配してくれるのも母の楽しみなのだろう、と思い直して、「じゃ、今夜はお|寿《す》|司《し》でも取って食べよ」
「よく入るわね」
「あれだけ走ったんだから!」
と、亜紀は笑って言った。「――じゃ、校門の辺りで待っててくれる? 私、着替えてくるから」
「ええ、いいわよ。急がなくても大丈夫よ」
と、陽子が言ったときには、もう亜紀は校舎へと駆け出していた。
陽子は苦笑して、のんびりと校門の方へ歩いて行く。一日、日なたにいて少し焼けたのか、顔が熱い。
でも――あの子、あんなに走れるなんてね。陽子はいささかびっくりしていた。何でも分っているつもりの我が子でも、知らないことがいくらもあるのだ。
そう。――亜紀が幼なじみの門井勇一郎とキスしているのを見たときはギョッとしたものだが……。
みんないつまでも子供のままではいない。頭ではそう分っていても、現実にあんな場面に出くわすとショックである。
でも、その意味では、陽子自身も夫以外の男性と出歩くという、以前なら想像もしなかったことをしている。そして、実際にやってみると、それはごく当り前で何でもないことのように思えるのだった……。
「――あ、今日は」
と言われて、陽子は足を止め、
「ああ、ミカちゃん」
松井ミカが校門の所に立っていたのである。
「亜紀、大丈夫ですか?」
「ええ。今、着替えに行ったわ。じき、来るでしょ」
「そうか。じゃ、教室にいれば良かった」
「亜紀を待っててくれたの?」
「いえ、兄を」
「お兄さん? そういえば、アメリカから帰られたのね」
と、思い出して陽子は言った。
「車で来たんですけど、中に駐車できないからって、少し離れた所に置いて来たんです。取りに行ったんだけど……。何してんのかなあ」
ミカは、伸び上るように眺めた。
一方、着替えに校舎へ駆け込んだ亜紀の方は、もうすっかり汗も乾いてしまっていたので、ロッカールームへ入って、手早く着替えをすませた。
何を、今から興奮してんのよ。――落ちつけ、落ちつけ。
つい、歌なんか歌ってしまう自分に少々照れていた。思いは明日の代休、そして君原勇紀とのデートに飛んでいるのである。
「――さて、行くか!」
パッとドアを開けてロッカールームを出る。すると、すぐそばの柱にもたれて、
「やあ」
「あ……。何してるんですか?」
と、亜紀は|訊《き》いた。「ミカ、もう先に行ってると思いますけど」
ミカの兄、松井健郎だったのである。
「うん、知ってる」
「え?」
「君を待ってたんだ。リレーは凄かったね。今日のハイライトだった」
「そんな……」
と、|微《ほほ》|笑《え》んで、「すぐうぬぼれるから、ほめないで下さい」
健郎は笑って、
「――僕は大学中退でブラブラしてるんだ。君、恋人いるのか」
そんなことを訊かれると思わなかった亜紀が、当惑して突っ立っていると、
「――そうだった。もうキス体験済なんだったね。ミカから聞いたよ」
「ミカったら! ――人の秘密を!」
と、真赤になる。
「今度、二人きりで会わないか」
「は?」
「デートの申し込み。明日の予定は?」
「あ……。明日は――約束が」
「そうか。キスの相手だね?」
「――まあ、そうです」
正直である。
「じゃ、近々、ぜひ僕の予約を入れてくれ」
と言うと、「ミカが待ってる。じゃ、またね」
「どうも――」
と言い終らない内に、健郎が素早く寄って来て、亜紀の唇をサッと奪って行った。
さすがアメリカにいただけのことはあって(?)、キスもスマートである。
でも……早くも三人目の男!
「|凄《すご》い!」
どうして突然こんなことになっちゃったんだろう? ハッと我に返ると、もう松井健郎の姿は消えてしまっていた……。
「そう。凄かったんだよ、亜紀の|奴《やつ》」
と、正巳は言った。「アッという間に三人も抜いてね。たちまちトップさ」
「そうか……」
話を聞く茂也も、孫の活躍に|嬉《うれ》しそうに|肯《うなず》いている。正巳が、亜紀の抜いた人数を一人ぐらい多くしても、まあ別にバチは当るまい。
「――今日はくたびれて来られないけど、明日は必ず来るからって。陽子もね」
「うん」
と、茂也は肯いて、「無理……するな」
しゃべるのが多少大儀な感じで、それは倒れる前の茂也にはなかったことだ。
「じゃ、これが今日の弁当。体育祭に持ってったのと同じものだよ」
と、正巳は包みをわきへ置いた。「――あの人は?」
むろん、入院以来、ずっと茂也のそばについている藤川ゆかりのことである。
「アパートへ……帰ってる」
「そう」
「後で来るだろう。正巳――。あの女のことを、誤解せんでくれ」
「父さん。分ってるよ。父さんの面倒をよくみてくれてありがたいと思ってるんだ」
「そう……。何が目当てってことじゃない。|俺《おれ》には、何もないんだからな」
茂也はじっと天井を見上げて、「おまけに、こんな風になって……。普通の女なら逃げて行くさ」
正巳はちょっと時計を見て、
「父さん、僕行く所があるんだ。藤川さんが戻ってからの方がいい?」
「大丈夫。それに、あれもじき戻る」
「じゃあ……。明日は夜、仕事の付合いがあるんで、僕は来られない」
「分ってる。――陽子さんにも、無理するなと言ってくれ……」
「分った。じゃ、またね」
正巳は、父親の方を|覗《のぞ》き込むようにして笑顔を作ると、そっと病室を出た。
二人部屋だが、もう一人の患者は寝たきりで意識もない。点滴だけで生きているという状態で、家族もほとんどやって来ないそうだ。
しかし、ともかくそっと廊下へ出ると、正巳はホッとした。
そう言っては親に冷たいと言われそうだが、正巳は入院しているのを見舞ったりするのが苦手だ。親に限らず、友人知人でも同じことである。
幸い、父の症状は大したことはなかったので、ああして話もできるし、頭はしっかりしていた。だが、ときどき急にもの分りが良くなったりするのを見ていると、寂しい気持にもなるのである。
「そうだ」
思い付いて、正巳は廊下の公衆電話へと急いだ。
病院の入口近く、もう外来の受付は終っているので待つ人の数は少なくなったが、それでもベンチの半分ほどは患者が占めている。
正巳は隅の公衆電話で、円谷沙恵子の所へかけた。
何しろ昼間あわただしく別れたままで、気になっていたのである。
「――はい」
しばらく鳴らすと、やっと沙恵子が出た。
「僕だよ」
と、ホッとして正巳が言った。「良かった。どこかへ行っちまったのかと思った」
「すみません、ご心配かけて……。いえ、昼間、学校にまで押しかけたりして」
と、沙恵子の声は力がない。
「そんなことはいいんだ。それより、その手紙のことだけど、実際に見てたのかな、その男?」
少し間があって、
「本当です。――私、全然気付かなかったけど、写真をとられてるの」
「写真?」
「私と金倉さんがトラックのかげに手塚の死体を運んでるところと、死体を捨てに行くとき、車のトランクへ入れるところ」
正巳もさすがに青ざめた。
「じゃ……どうしようもないね」
「用心すれば良かったんです。でも――写真も一枚ずつ送って来たんですけど、私の顔ははっきり分りますが、金倉さんは斜め後ろからと、もう一つは顔が切れてるんです。大丈夫。否定すれば、何とか通りますよ」
「そうか……」
いくらか気が軽くなる。しかし、だからといって、沙恵子一人にすべてをかぶせてしまうわけにもいかない。
「その写真を買えってことか」
「ええ。――五千万だなんて、ふっかけてるんですわ。ともかく一度会ってみます」
沙恵子の口調はきっぱりしていた。
「でも……どんな奴か分らないよ。僕が会おう」
「だめですよ! 写真にうつってるのが別人だと言っても通りませんよ、そんなことしたら」
「そうか……。いや、どうも僕はそういうことにさっぱり頭が回らなくてね」
「気にかけて下さるだけで充分です。――明日、おいでになれる?」
「うん、必ず行く」
正巳も、自分で無理せずにやれる範囲では至ってやさしい男なのである。
とりあえず、少し|安《あん》|堵《ど》して(本当はそれどころじゃないのだが)、正巳は病院を出た。
明日は陽子が来る。会社の帰りに沙恵子の所へ寄ろうと正巳は決めていたのだった。
約 束
いわゆる「今はやりのデートコース」という雑誌の特集にうつつを抜かすほど、亜紀もヒマではない。
好きな相手と一緒なら、どこにいたって充分に楽しいだろう。――君原勇紀が、初めてのデートでどこへ連れていってくれるのやら見当もつかなかったが、基本的に信用できる人と思っているから、特に心配はしていなかった。
家を少し早めに出たときも、格別緊張していたわけではない。
待ち合せたティールームは、三十分前に着いたときは満員で並ばなくては入れなかったが、十分ほどで席につくことができ、ホッとした。
昨日の十日が体育祭で、今日代休という学校は少なくないのだろう、通りは同じような年代の子たちでにぎわっている。
昨日ほどでもないが、今日も晴れて|爽《さわ》やかな一日だ。――昼少し前という、休日にしては珍しい早い時間の待ち合せ。
昨日思い切り走って、足のふくらはぎや|腿《もも》が痛かったが、それは快い痛みである。ゆうべはさすがに疲れて早々と眠ってしまった。
今日は、おじいちゃんの所へ見舞に行かなくちゃ。――そう思ってはいるが、君原とどういうデートになるか……。
明るい日射しの当る通りを、まぶしげに目を細めて通って行く若者たち。恋人同士、というカップルが大半だが、女の子たち五、六人のグループも目につく。
私と君原さんじゃ、「恋人同士」には見えないかしら?
そんなことを考えていると、
「――早かったね」
と、君原の声がした。
そばに来るまで気付かなかった、というのも――。
「ワオ」
と、つい妙な声を上げてしまった。
君原だということが、すぐには分らなかったのだ。他に、亜紀に声をかけてくる男なんかいないだろうが。
「――そんなにびっくりするなよ」
ツイードの上着、ネクタイ。いつも土手の道を走っている君原とはどうにもつながらなかった。
「ごめんなさい。でも――すてきですよ」
正直、そう言った。
堅苦しいデートにしてほしいわけじゃなかった。けれども、相手の意外なところを見付けるのも、付合いの楽しみの一つである。
「――今日は来てくれてありがとう」
と、君原は言った。
二人でジュースを飲みながら、たちまち三十分くらいは過ぎてしまった。昨日の体育祭のことを説明するのに、たっぷりかかったのである。
「ごめんなさい」
ふと話を止めて、亜紀は言った。
「何が?」
と、君原はふしぎそうに|訊《き》く。「どうして謝るんだ?」
「だって――私一人でベラベラしゃべってて……。何だかみっともない」
と、少し赤くなっている。
「ちっとも構わないよ。君の話が聞きたくて誘ったんだからさ」
「そう言われると|嬉《うれ》しいけど。でも……」
と、亜紀はちょっとためらって、「君原さん、私なんかとデートして、楽しい?」
遠慮するわけではないが、大体、同世代の子ともデートなどしたことのない亜紀である。
デートなるものの何たるかも、よく分っていない。いや、色んなデートがあるのは分っていても、君原がどう思っているのか、見当がつかない。
「いや、ごめん」
と、君原が言った。「もっとはっきりしとくべきだったね。君の方は不安だろう」
「不安ってほどでも……」
「でもね、僕だって二十一だ。君と四つしか違わないんだよ。そうそう別世界の人間扱いしなくても大丈夫」
そう言われて、何だか亜紀も少しホッとした。
「でも、大学生と高校生じゃ、やっぱり大分違うわ」
「そうかな。今は高校生の方が大人びてたりするよ」
君原は、ちょっと息をついて、「――ともかく外へ出よう。いいお天気だ」
「はい!」
とりあえず、やるべきことが見付かって、亜紀は元気な声を出した。
君原が伝票を取ってさっさとレジへ行ってしまうので、亜紀はちょっと迷ったが、
「ま、ここはごちそうになっとこ」
と、決めた。
ジュースだけだ。食事のときは、ちゃんと自分の分は払おう。
先に店の外へ出る。
通りは若い子たちで一杯。――といって、自分たちもそうだが。
「じゃ、少し歩こう」
と、君原が出て来て促す。
「ごちそうさま」
と、頭を下げると、君原はちょっと笑った。
「律儀だね、君は」
「だって礼儀でしょ。――どこへ行くんですか?」
「君に見せたい物があってね」
と、君原は言った。
「何かしら? 言わないで!」
亜紀は、無性にワクワクして来ていた。
「いやだわ……」
陽子は、鏡を|覗《のぞ》き込んで|呟《つぶや》いた。
昨日、一日中日なたに座っていたのだから、当然ではあるが、すっかり日焼けしてしまっている。
何かつけていけば良かった、と思ったがもう遅い。
ともかく、差し当りはローションで肌を冷やす。今日は病院へ行かなくては。
台所へ行こうとすると、電話が鳴り出し、ギクリとして足を止めた。
「――はい」
と、出てみると、
「今日は」
円城寺裕である。――陽子には、分っていた。
電話が鳴ったとき、きっと円城寺からだと思ったのだ。
「どうも……」
「ご主人は会社ですね」
「はあ」
「お嬢さんは?」
「代休で――。あの、昨日、体育祭だったものですから」
と言ってから、そのことを円城寺にも話してあったと思い出した。
「そうでしたね。お宅においでですか」
「いいえ! 出かけてますわ」
「それが当然だ。疲れを知らないからな、若い人は」
「私は疲れました」
と言っておいて、陽子は笑ってしまった。
「ところで、今日は――」
「あの……|義《ち》|父《ち》の見舞に行かなくてはなりませんの」
と、急いで言った。「昨日、行けなかったものですから」
「ずっと一日おられるわけではないんでしょう?」
分っていた。そう言われることは。
正直に返事しようとすれば、
「ええ、ずっといるわけでは……」
「じゃ、夕方にでも、ぜひ」
「でも、お仕事がおありでしょ?」
「大丈夫。片付けます」
「片付かなければ?」
「放っときます」
円城寺の言い方に、つい笑ってしまう。
「――分りました」
「じゃ、よろしいんですね。夕食は?」
「主人は遅くなるようです。娘も友だちと食べてくると……」
結局、私は待ってたのかしら? この人の誘いを。
「好都合だ。あなたも、外で食事した方が手間が省けますよ」
「それだからって、わざわざ出かけやしませんわ」
と、陽子は苦笑して言った。
結局、陽子は夕方、円城寺と会う約束をしてしまった。
台所に立って、義父・茂也の所へ持って行くものを作り、それから家の中の用事を片付ける。家にいたらいたで、何かと用事はあるものだ。
でも……何を着て行こうか?
考えてみれば、それが難しい。病院へ見舞に行くのに、あまり「よそ行き」の格好もどうかと思うが、といって、円城寺と会うときは一応きちんとしておきたい。
少し早めに病院へ行って、と思っていたのだが、鏡の前で、あれでも派手、これでは地味、とやっていたら一時間近くも仕度にかかってしまった。
結局、少し地味だが、亜紀の父母会のときに作ったスーツで行くことにする。その代りバッグへネックレスなど入れておいて、後でつけようと思った。
髪を整えたり、軽くお化粧などしながら、ふと気付くと陽子は、少し調子外れの鼻歌など歌っている。我ながら少し恥ずかしくなって、やめた。
「何を浮かれてるのかしらね……」
そう。――陽子は決して夫を裏切っていないと考えているが、こうして円城寺と会うために、胸ときめかせながら身仕度しているのは、やはり裏切ることの内に入るのではないだろうか。
特に陽子があえて見まいとしているのは、自分のことより円城寺の妻のことだった。
いつも〈遺書〉を持ち歩いているという妻である。もし円城寺と陽子が二人で楽しげに食事しながら談笑している所を目にしたら、どう思うだろう?
円城寺は、
「気付かれていない。大丈夫ですよ」
と言っているが、それをそのまま信じていいものかどうか……。
そんなことを考え始めると、陽子も気が重くなってくるのだが、それでも必ず自分が約束の場所へ行くだろうということを、分っていた。
陽子は、既に円城寺のことを失いたくないと思い始めていた……。
「――ともかく出かけよう」
自分を元気付けるように口に出して言いながら、手早く仕度をすませる。
それにしても、人の出会いというのはふしぎなものだ。あのレストランでバッグを渡し違えなければ、こんなこともなかったのである。
陽子は急いで家を出た。
亜紀は、今日誰と出かけてるのかしら?
早足で歩きながら、陽子はふと思った。別に確かめようともしなかったが――。
まさか亜紀に門井勇一郎以外のボーイフレンドがいるとは、思ってもいないのである。
〈人形展〉?
意外な場所で足を止めた亜紀は、ちょっと戸惑いつつ、そのポスターを眺めた。
「――これ、見るんですか」
と、亜紀が|訊《き》くと、君原はやや照れ気味で、
「何だかおかしいだろ? 僕が人形を好きだなんて」
と、目をそらしている。
正直、意外である。でも、それならそれで興味はあった。
「まさか、毎晩ぬいぐるみ抱いて寝てるんじゃないですよね」
亜紀の言葉に、君原は楽しそうに笑った。
「ぬいぐるみと人形は違うよ。今、人形って|凄《すご》い人気なんだ。――入っていいかい?」
「ええ、もちろん。見たいわ」
君原はホッとした様子で、入場券を買った。もし、亜紀に笑われでもしたらどうしよう、と心配していたらしい。
「人形劇って見たことある? これはそういう人形を集めてあるんだよ」
「ああ、TVでやった『三国志』とか『平家物語』とか……」
「そうそう。ああいう、大人のドラマを役者でなくて人形がやるってところが好きでね」
君原は|嬉《うれ》しそうだった。
実際、会場内は若い人たちで暑いほどの混雑だった。
TVで見た人形も展示されている。――他に伝統芸能ということで文楽や操り人形の展示もある。
人の間をかき分けるようにして、人形に近付いてじっくりと見る。――どれも意外に小さいので、近くに寄らないとよく見えないのだ。
「人形って表情がないだろ。それなのに、同じ顔のまま、泣いたり笑ったりする。小さいとき学校で見た人形劇が忘れられなくてね」
と、君原は言った。
そこへ、
「おい、君原君」
と、声がして、誰かがポンと君原の肩を|叩《たた》いた。
「――あ、|佐《さ》|伯《えき》さん、みえてたんですか」
と、君原は言った。
「当り前だ。うちの人形を貸し出してる」
「あ、そうか。――あの、連れです」
と、君原は亜紀を見て言った。
|顎《あご》ひげを生やした、四十がらみの男性で、いかにも「芸術家風」である。しかし、目がやさしくて亜紀は象の目を連想した。
「おい、君原君、『連れ』は失礼だろ。そんな名前じゃあるまい」
「金倉亜紀といいます」
「佐伯です。――君は人形のような顔だなあ」
と、まじまじと亜紀を眺める。
亜紀はびっくりしてしまった。
「人形のような顔だなんて――。言われたことない」
と、少し照れて、「でも、それってほめてるんですか?」
佐伯という男は楽しそうに笑って、
「おい、君原君、ぜひこの子をモデルに人形を作れよ。やたら元気のいい人形ができるぞ」
と、言った。
人形を作る? 君原がそんな趣味を持ってるなんて、亜紀には想像もつかなかった。
「見ていたまえ」
と、佐伯は展示してある人形の一つに歩み寄ると、わきの小さなスイッチに手を伸ばした。その人形は、時代劇に出てくる武将らしかった。全身で高さ一メートルほど。刀を差して、|真《まっ》|直《す》ぐ正面を見つめている。
口も目も、動くようにはできていない。
当然のことながら、人形は無表情に前を見ているだけだ。
「――さあ、よく見て」
カチッとスイッチを切り換えると、平面的に人形を照らしていた照明のいくつかが消えて、斜めからの光が、人形の顔にくっきりと影をつけた。
とたんに、人形は何かもの思いに沈んでいる智将の顔になって、すぐれた軍師という印象を与えた。
カチッとまたスイッチを切り換えると、今度は顔を正面の斜め下から照らし出す。よく、小さいころわざと暗がりで懐中電灯の光を下から当てて、「お化けだぞ!」と怖がらせるときと同じだ。
人形はとたんに怪しげな、何か良からぬことを|企《たくら》んでいる悪役の顔になって、まるで薄笑いすら浮かべているように見える。
また明りが切り換わると、今度は人形の背後から光が当る。――人形の顔は暗く沈み、何かに悩んでいる者のそれに変った。
「――凄い」
と、亜紀は正直な感想を述べた。「生きてるみたい」
「そうとも。人形は生きてる」
と、佐伯は言った。「ただ、それを分る人間が見ないと、生きて見えないだけだ」
亜紀がすっかり感動しているのを見て、君原は|嬉《うれ》しそうだった。
「君原さん、こういう人形を作るんですか?」
と、亜紀が訊くと、君原の代りに佐伯が答えた。
「ああ、それが約束だからね」
「約束?」
「何だ、何も話してないのか。おい、君原君、その辺でお茶でも飲もう。この人形みたいな顔の娘さんは、君の話を分ってくれるさ」
佐伯は、亜紀と君原を促してその人形展の会場を出ると、近くの喫茶店に入ったのだった。
少年の夢
「君原君が小学生のとき。――二年生だったかな?」
と、佐伯はコーヒーを飲みながら言った。
「そうです」
「学校に人形劇がやって来た。魔法つかいが、お姫様に魔法をかけて眠らせてしまうと、純情な君原少年は気が気でなくなったんだ。何人もの男が、お姫様を救おうとして魔法つかいに戦いを挑むが、次々に負かされてしまう。――ま、お話としては、当然王子様が現われて魔法つかいを倒し、お姫様を助けて、二人はめでたく結ばれましたとさ、ってわけだ。ところが――」
と、佐伯はニヤニヤしながら、「君原少年は王子様が出てくるのを待っていられなかった」
亜紀は、ミルクティーを飲みながら、少し照れくさそうに黙っている君原の方をチラッと見やった。
「それで、どうしたんですか?」
「君原少年は、断然自分がお姫様を救う決心をしたんだ。魔法つかいが不敵な高笑いをしていると、突然少年は立ち上って、『やっつけちゃう!』と叫んで、先生や他の生徒たちが|呆《あっ》|気《け》にとられている中、猛然と舞台に向って突進し、魔法つかいに飛びかかったんだ」
君原が苦笑いして、
「何だか夢中だったんだよ。もう、今はよく|憶《おぼ》えてないんだけど」
「そう照れるな。――その結果、小学校を巡回して人形劇を見せていたその小さな人形劇団は、お城の舞台装置と魔法つかいの人形を壊されるはめになってしまった」
「ちゃんと弁償すると言ったんだよ、うちのお袋が」
と、君原は言った。「ところが、劇団の人たちはちっとも怒らないで、『そんなに魔法つかいが憎らしく見えたなんて嬉しいよ』と言ってくれた。そして、またぜひ見てくれよ、ってね。ただし、今度は壊さないように、と付け加えて」
「すてきね」
と、亜紀は言った。
「うん。そのとき、僕は約束したんだ。大きくなったら、必ず人形を作って返しますってね」
「で、そのときの約束を果すために、ずっと人形を見たり研究したりしているわけさ。――今どき珍しい|奴《やつ》だよ。そうだろ?」
「ええ」
亜紀は、何だか君原が全然別人のように見えた。ずっとずっと身近な人のような気がしたのである。
「だけど、僕は手先が器用じゃないからな」
君原は自分の両手を見てため息をついた。「もし、人形を作るのが無理なら、何か自分にできることで、役に立ちたいと思ってるんだ」
亜紀は、そんな君原の言葉に胸を打たれた。
人って、色んな夢を持ってるんだ。
亜紀は、そのことを学んだだけでも嬉しかったのである。
けれども、君原のように、子供のころの「約束」を自分の夢に変えて持ち続けていられる人は、やはり少ないのではないだろうか。
「――佐伯さんは何をしてらっしゃるんですか?」
「僕かい? 僕は〈P〉って人形劇団にいる」
「へぇ! 面白そう」
佐伯は笑って、
「面白いことは確かだ。しかし、現実って奴は厳しくてね。赤字をみんなでバイトして埋めてる。おかげで団員はほとんど独身だ」
「そうか……。そうでしょうね。大変だなあ」
しかし、そういうことを明るくカラッと言ってのけるところが、佐伯という男の人柄なのだろう。
「――ま、いつか時間があったら見に来てくれ」
と、佐伯はポケットからしわになった名刺を取り出した。
「佐伯|忠《ただ》|士《し》。人形劇団〈P〉代表か。――君原さんも何か手伝ってるの?」
「いや、学生の身じゃ、大したことはできないよ。公演の日に受付をやったりするくらいだ」
「私も、何かお手伝いできることがあればやります」
と、亜紀は言った。
「おいおい。君原君、この子によく言っとけ。不用意にそんなことを言うと、こき使われて後悔するはめになるって」
「そんな……」
「君らは、まずデートして愛を育てることの方が先決だ。そうだろ?」
「あの――」
亜紀はポッと赤くなった。
「佐伯さん。彼女とはそんなんじゃないんですよ。何しろ今日が初めてのデートなんですから」
と、君原は少しむきになって言った。
「分った、分った」
と、佐伯は笑って、「じゃ、今日のところは、別れるときに初キスってところか」
「あ、それはもう……」
馬鹿正直にそう言ってしまって、亜紀はあわてて、口をつぐんだ。
「何だ、もうすんだのか? せっかちな奴だなあ」
「いや、佐伯さん、あれは弾みで――」
といいかけて、君原はあわてて、「別に本気でなかったって意味じゃないんだよ」
と、亜紀の方へ念を押した。
そのあわてぶりがおかしくて、亜紀もつい笑い出していた。
「――佐伯さんとは、どうして知り合ったの?」
再び人形展に戻って、佐伯は他にも色々顔見知りがいたらしく、立ち話が途切れることがなかった。
亜紀と君原は、もう一度ゆっくりと人形を見ていた。
「僕が高校のとき、学校の演劇部で上演した劇の中に人形を使うことになってね」
「あなたも演劇部にいたの?」
「いや、違うよ。ただ、日ごろから、人形が好きだってことを知ってる奴がね、僕に何かいい人形を見付けてくれないかって頼んで来た」
「それで、あの〈P〉って劇団へ?」
「まあね。人形劇の情報交換とかやってるところがあって、〈P〉はその中では地道に着実にやってて、ファンもついてるんだ。それで、連絡を取ってみたら、佐伯さんが『一度会おう』って、気さくに言って来てくれてね」
「そうか」
「演劇部の講演に人形を貸してくれただけじゃなくて、わざわざ学校へ出向いて来てくれて、|稽《けい》|古《こ》をつけてくれた。みんな感激してたよ」
「へえ。――佐伯さんは、人形劇の仕事だけやってるの?」
「まさか。それじゃ生活していけない。あの人は予備校の講師をしてるんだ」
亜紀は、大学を出て、どこかの会社に勤める、というのが当り前の生き方と思っていたが、世の中にはそうじゃない道を行く人もいるんだと知った。
むろん、雑誌だのTVだので、そういう人たちがいることは知っていても、実際、身近に見て、話をしたりするのは刺激的な体験だった。
「――出ようか」
と、君原が言った。
もう充分に見た、と亜紀も思った。
「ええ」
二人は、来客と話をしている佐伯に手短かに|挨《あい》|拶《さつ》して、会場を出た。
「――面白かった」
と、歩きながら亜紀が言うと、
「そう言ってくれると|嬉《うれ》しいよ」
君原がニコニコしている。「変な趣味、って笑われるかと思った」
「そんな……。私のこと、そんな子だと思ってたんですか?」
「さあ……。まだよく分ってないからね」
正直な人だ。――亜紀は、こんな大学生もいるんだ、と思った。
「君原さんも、大学出たら好きな道に行くんですか?」
そう|訊《き》かれて、君原は少し|憂《ゆう》|鬱《うつ》そうな顔になった。
「そうもいかないんだ」
「そうもいかないって……。どうして?」
と、亜紀は訊いた。
君原はまぶしげに青空を見上げて、
「僕はどっちかというと、部屋にとじこもって本を読んでたりするのが好きなタイプなんだ」
と言った。「でも、|親《おや》|父《じ》は僕に陸上競技の選手になってほしいと思ってる」
「陸上の選手?」
君原が毎日あの土手の道を走っていることは知っていたし、何か運動のクラブに入ってるのかな、とは思っていた。しかし、選手となると、そう簡単じゃあるまい。
「親父はね、長距離のランナーで、駅伝とかマラソンとか、ずいぶん出てるんだよ。今の勤め先も、その関係で入ったんだ」
「|凄《すご》かったんですね」
君原は、そう言われてもあまり嬉しくなさそうだった。
「僕にも、スポーツで実績を上げて就職しろと言ってる。――陸上部とかが強くて有名な企業があるだろ。大学のときに、いい記録を出せば、必ずどこかが入れてくれる」
「でも……。就職して、走るの?」
「ああ。一種の宣伝になるしね。入社しても選手としてやっていける間は、練習、練習だよ」
「へえ……。そうなんだ」
「だけどね――」
と言いかけて、「よそう。せっかくこうして二人で歩いてるんだ。もっと楽しいことを話そう。君の方から話すこともあるだろ?」
「私? ――私、大してないなあ」
と、亜紀は考え込んでしまった。
確かに、自分は学生生活を結構楽しんでいる方だと思う。けれども――その中で「何か」しているか、と言われたら……。
「私って、凄く怠け者かもしれない」
「どうして?」
「自分が何をしたいのか、分らない。好奇心はあっても、面倒だから近付かないし」
そう言いつつ、我ながら情なくなる。
「君、まだ十七じゃないか」
「でも――その気になれば、もっと色んなことができたんだわ。ただ、真剣に取り組もうって気がなかった」
「無理に何かをやっても仕方ないよ。本当にこれこそ自分がやりたいことだ、っていうものが、きっとその内見付かるよ」
「甘やかさないで」
と、亜紀は笑顔で言った。「すぐ甘えちゃうんだから、私」
君原が楽しそうに笑った。
亜紀は、ごく自然に手を伸ばして、君原の手を握った。
手をつないで歩く。――男の人と。
自分でも、よく恥ずかしくないな、とふしぎだった。
「CDだ」
と、亜紀は足を止めて言った。
「え?」
「CD、買うんだった。――そこ、大きいお店よね。入ってもいい?」
「もちろん」
と、君原が|肯《うなず》く。
五階まで全部のフロアがCD売場という大きな店で、中は若い子たちで混雑していた。
「――何を買うんだい?」
「ええと……。一番上だ」
「クラシック?」
エレベーターで五階へ上ると、下の方のポップスだのロック系のCD売場に比べて格段に静かで、そこにヴィヴァルディだかの音楽が流れているのが、いかにもよく似合っていた。
亜紀が、棚の表示を見て行って、
「こっちだ」
君原は、目をパチクリさせた。
「宗教音楽?」
「私、学校のクリスマス会でソロを取ることになったの」
「へえ。――大したもんじゃないか」
「特別うまいわけじゃないんだけど」
と、少し照れている。「でも、やるからには、ちゃんと歌いたいじゃない?」
「それでCD捜してるのか」
「ええ。――ソプラノソロのがあるといいな」
亜紀は、CDの棚を眺めて行った。
「――捜すの、手伝おうか?」
「いいえ、大丈夫。ね、君原さん、何か見たいのがあったら行ってて」
「じゃ、その辺の棚を見てる。――僕はせいぜい〈ラデツキー行進曲〉ぐらいしか分んないからね」
君原がブラブラと棚の間を歩いて行った。
「――これかな」
と、一枚を手に取って、曲目を見ていると、
「金倉君?」
と、声がした。
振り向くと、つい昨日見たばかりの顔――。
「あ、ミカのお兄さん!」
松井健郎が立っていたのである。
「偶然だね。――捜しもの?」
「え、ちょっと学校の用で」
と、まだミカの耳に入っても困ると思って、「――一人でお買物ですか」
「うん。クラシックは日本の方が|揃《そろ》ってる。アメリカじゃ、きちんと音楽の授業をしない所が多いからね。クラシックなんか、その内誰も聞かなくなっちゃうかもしれない」
「そうなんですか……」
健郎は、少し間を置いて言った。
「――一人かい?」
「あ、ちょっと連れが……」
と、亜紀は言った。「ミカは一緒じゃないんですか?」
「後で晩飯を食べることになってて、待ち合せてるんだよ」
松井健郎は少し改って、「いつも妹と仲良くしてくれてありがとう。あいつも気まぐれなところがあってね。結構友だちがいないんだ」
「そんな……。お礼なんか言われると困っちゃいます」
「ね、亜紀ちゃん――だっけ。実は君にちょっと話したいことがあるんだ」
「何ですか?」
「ここじゃ、ちょっと……。少し時間がとれるかい?」
「急ぐんですか」
「早い方がいいね」
健郎の言い方は真剣だった。
「分りました。――あ、君原さん」
君原が戻って来て、二人のことを眺めていた。
亜紀が二人を引き合せて、
「――ちょっと、時間|潰《つぶ》してもらってもいいですか?」
と、君原へ訊いた。
「もちろん。じゃ、どこで待ってようか」
「すみませんね」
と、健郎は言った。
二人とも二十一歳。そしてこうして二人が並んでいると、亜紀の目にも、君原が明るく、松井健郎にはどこかかげのあるところが感じられた。
――亜紀は健郎とすぐ近くの喫茶店に入った。君原はこの先の書店で本を捜しているということだった。
「突然で、すまないね」
と、健郎はテーブルについて、コーヒーを頼むと、言った。「君のお父さんのことでね」
「父のこと?」
亜紀には意外な話だった。
「昨日、体育祭の昼休みにね、僕は校舎の方をブラついてたんだ」
と、健郎は言った。「校舎の方は人気がなくて静かで、何となくホッとしたよ。日なたは結構暑いくらいだったからね。そこで……」
亜紀は、健郎が父と誰か若い女性が話しているのを聞いてしまったというので、びっくりした。
母が円城寺という男と付合っているらしいとは分っていたが……。
亜紀が顔をしかめるのを見て、健郎は、
「いや、浮気相手という風でもなかったんだよ」
と、急いで言った。「ただ、君のお父さんは、もっともっと厄介なことに巻き込まれてるらしいんだ」
亜紀は思わず座り直していた。
泥 沼
正巳は、そのドアの前で、ためらった。
いや、とにかくやって来たのだから、今さら帰るというわけにはいかない。それは分っていたが……。
気配に気付いたのか、ドアが中から開いて、
「金倉さん!」
と、円谷沙恵子が言った。「中へ。――さあ、どうぞ」
初めてというわけでもないのに、気後れしてしまう。
「――こんなに早くいらして下さるなんて。大丈夫なんですか?」
「それどころじゃないだろう」
と、正巳は上って、座り込んだ。
「ええ……。ともかく、何か冷たいものでも? 昼間、暑いくらいでしたものね」
沙恵子は、冷えたジュースをグラスで出すと、きちんと正座した。
「――昨日はすみませんでした」
「ああ。もういいんだよ」
「でも、あんな危ないことをして――。許して下さい」
沙恵子は少し上目づかいに、「奥様、何も気付いておられませんでした?」
「心配ないよ。それより――」
「手紙、今お見せします」
と、沙恵子は立って行って、手紙と写真を持って来た。
手紙はワープロで打たれている。そして写真の方は……。
「――確かに君だな」
沙恵子の顔がはっきり分る。正巳の方は、後ろ姿と、トラックのかげに大部分隠れたりして、誰だか分るまい。
しかし、沙恵子と、死んでいる手塚の顔がはっきり分れば、同じことだ。
「五千万か……。とてもじゃないが……。作れるとしても、せいぜい十分の一だろう」
と、正巳はため息をついた。
「たぶん向うも五千万って、ふっかけてるんだと思います。でも、ともかく一度会って話してみないと」
「向うから連絡が?」
「明日の昼間、会って来ます」
正巳としては、代ってやりたいが、それでは|却《かえ》って向うの思う|壺《つぼ》だ。
「すまんね……。ともかく金の工面の方法を考えないとな」
「間違っても、怪しいサラリーローンなんかに手を出さないで下さいね。私、怖さをよく知っていますから」
「そうか。そうだったね」
「正規のローンならともかく。暴力団絡みの所だって、表面はとてもていねいで、感じがいいんですもの」
沙恵子は、淡々と言った。
「たぶん……貯金や保険をかき集めれば、五百万くらいは作れると思うよ」
と、正巳は言った。
「奥様に知られずに?」
そう訊かれると、正巳は詰る。
「どうかな……。ま、僕は隠しごとが苦手でね」
沙恵子は立ち上ると、
「夕ご飯、召し上って下さいね」
と言った。
「いや、そういうつもりで――」
「用意してあるんです。お願い。食べて行って下さい」
ちょっとせつない目つきで、訴えるように言われると、断り切れない。
結局、正巳は沙恵子と二人で夕食をとることになった。
「――すてきだわ」
「何が?」
「こうして、金倉さんと二人でご飯を食べてるなんて」
「そうかね……」
正巳は何となく照れくさい。
こんな風に、妻以外の女性の手料理を食べることなんか、もちろん初めてのことである。
「――味つけ、いかが?」
「うん。薄味でいいね。あまり濃いのは苦手で」
「良かったわ」
沙恵子の落ちつきが、正巳にはふしぎだった。
明日は脅迫状をよこした男と会うというのに、こんな風にのんびりと……。ま、食事しないわけにはいかないとしても、だ。
――ゆっくり夕食をとって、正巳は満腹になった。
「ごちそうさま」
「食べて下さって|嬉《うれ》しいわ」
沙恵子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「待って下さいね。すぐ片付けるから」
|茶《ちゃ》|碗《わん》を運んでしまうと、沙恵子は、明りを消した。
正巳は戸惑って、
「円谷君……」
「分ってます」
沙恵子の姿が、ぼんやりと白く浮かんで見える。――小さな明りが|灯《とも》って、
「でも、金倉さん。私に勇気を与えて下さらないと」
「勇気?」
「ええ。――明日、私がその男と会うための勇気」
そう言われると、正巳も何とも言えない。
沙恵子は、布団を敷いた。
正巳は、帰るに帰れず、座っているだけである。
「さあ、金倉さん」
沙恵子はピタリと正巳の前に座った。
正巳は、どうしていいか分らないまま、じっと座っていた。
「ご心配なく」
と、沙恵子は言った。「これは浮気なんかじゃないんですもの。これはお医者さんが患者を治療するようなものなんです。そうして下さらないと、私、明日その男に会うだけの力が出て来ないんです。ですから、後で私があれこれ言って、あなたを煩わせるようなことはありませんわ」
「いや、そんなことは……」
「いいえ、心配なさってるでしょ? 心の底では、きっと。それが当然ですわ。私も、今こうしてお約束する以上のことはできませんけど、どうか信じて下さい」
沙恵子が両手を伸ばし、正巳を抱き寄せた。
振り離すことだって、できた。突き放し、
「そんなことはできない!」
と拒むこともできた。
けれども――正巳はそうするにはやさし過ぎたのである。
抱き寄せられるまま、唇が重なり、そのまま布団の上に倒れ込んで行くと、後はもう流れに巻き込まれた|笹《ささ》の舟みたいなもので、小さな渦にクルクルと振り回されながら流れて行く。
そして、それは快い。心地よい流れだった。正巳が今まで知らなかった、軽やかに澄んだ流れ、遠い日の、とっくに忘れてしまっていた感覚だった。
――ゴツン。
「いてて……」
正巳は頭を押さえて|呻《うめ》いた。
「あ! どこかにぶつけたの?」
「タンスの角に……」
「狭いから。ごめんなさい」
と、沙恵子は言って笑った。
正巳も笑っていた。ロマンチックなラブシーンとは無縁の人間なのである。
「――円谷君、僕は……」
「沙恵子って呼んで。せめて、今だけでも」
正巳は、呼ばなかった。どうせ二人きりなのだ。名を呼ぶこともない。
正巳は、何もかも忘れて沙恵子のかぼそい体を抱きしめたのだった……。
「あ!」
ワイングラスがテーブルの上で倒れた。
ちょっと手が触れただけで、強く押したわけではないのに、ワイングラスはコトンと倒れ、同時に細くくびれた足の付け根がパキッと折れてしまった。
「ごめんなさい!」
と、陽子はあわてて腰を浮かした。
こぼれたワインが、テーブルの上をサッと広がって、へりから滴り落ちた。
「おっと!」
円城寺が素早くよけたが、間に合わなかった。
ウェイターが小走りにやって来ると、
「お任せ下さい」
と、ナプキンですぐにこぼれたワインを|拭《ふ》き取った。
「すみません」
と、陽子は、顔を赤らめている。「飲み慣れない、いいワインを飲むからだわ」
グラスの足が折れてしまったのを見て、
「申しわけないわ。高いグラスなんでしょ」
と、陽子は言った。
「いえ、倒れたくらいでは普通は折れません」
と、ウェイターが言った。「もともと小さなひびが入っていたのでしょう。どうぞご心配なく。――円城寺様、スーツが……」
「大したことないよ」
と、円城寺はスーツのポケットの辺りに飛んだワインのしみを見て、「大丈夫。すぐに落ちる」
「でも……」
陽子は口ごもった。
それで帰ったら、円城寺の妻がどう思うか。それが気にかかった。
「さあ、食事を続けましょう」
と、円城寺は渡された新しいナプキンを|膝《ひざ》に広げた。
「――びっくりしたわ」
と、陽子が胸を手に当てていると、
「|可《か》|愛《わい》い」
と、円城寺が言った。
「え?」
「そういう仕草が少女のようで、可愛い」
「まあ。からかっちゃいけません」
陽子は赤くなってうつむいた。
「しかし、ふしぎだなあ。もう二十年近くも主婦をされてるのに、少しもそんな風に見えない」
「精神的に成長しないってことですか」
と、陽子は言い返した。「それなら、あなたも同じ。わがままな坊やのままですわ」
「坊やで結構。わがまま一杯で生きてやりますよ」
と、円城寺は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
そこへ、
「円城寺様、お電話が」
と、ウェイターがコードレスの受話器を手にやってくる。
「――食事中にかけるなと言ったのに」
と、顔をしかめて、「ちょっと失礼」
「どうぞ、ここで」
「いや、それは……」
円城寺は席を立つと、受話器を手にして急いでレストランを出て行った。
ホテルの中のレストランなので、出れば、ロビーになっている。そこで話しているのだろう。食卓で仕事の話をしたくないという気のつかい方が、陽子には|嬉《うれ》しかった。
仕事の電話? ――そうだろうか。もしかして、彼の妻からでは?
電話が円城寺の妻からだという根拠はなかったが、考え出すとそうに違いないと思えて来て、陽子はふと立ち上り、ナプキンを|椅《い》|子《す》の上に置いて、化粧室へでも行くという様子で、レストランから出た。
ロビーを見回したが、円城寺の姿は見えなかった。どこへ行ったんだろう?
取り越し苦労というものだろうか。――どうしたものかと迷っていると、
「そんな馬鹿な話があるか!」
と、突然怒鳴り声が耳に飛び込んで来て、陽子はびっくりした。
あれは、円城寺の声だ。何ごとだろう?
「――分ってる。そんな言いわけは聞きたくない!」
やっと、その声がどこから聞こえているのか分った。
ロビーの太い柱の向う側にソファがあって、そこから聞こえているのだった。
そっと近付いてみると、
「――ああ、おたくとは長い付合いだ。しかしね、ビジネスはそんな人情話とは違うよ。――そうとも。生き残ろうと思ったら、情なんかかけちゃいられない」
仕事の話には違いない。けれども、陽子は耳を疑わずにはいられなかった。
「――そうか。じゃ、仕方ないだろう。倒産するさ。――こっちはそこまで面倒はみられない」
円城寺は、いつも陽子としゃべっているときの「弱い所を持った普通の男」ではなかった。非情とも見える経営者だ。
「――やめてくれ。会って土下座なんかされても、考えは変えないよ。――そんな惨めな別れ方はしたくないだろ。きっぱり|諦《あきら》めて、店をたたむしか……」
円城寺が、陽子に気付いた。
陽子は、じっと立ったまま、円城寺を見つめていた。
円城寺は、しばらく黙っていた。手にした受話器からは、何か必死で訴える声が聞こえている。切れていない限りは、諦められないでいるのだろう。
円城寺の表情が、ふと和んだ。
そして、受話器を取り直すと、
「もしもし」
と、穏やかな声で、「――こっちもついカッとして悪かった。いつなら確かだね?」
しばらく向うの話に耳を傾けてから、
「分った。待とう」
と、円城寺は言った。「――いや、ちょっと気が変っただけさ」
電話を切ると、
「わざわざ僕を捜して?」
「すみません。何だか……。お仕事に余計な口出しを――」
「あなたは何も言ってませんよ。しかし、その目が雄弁でね」
円城寺は立ち上ると、
「さあ、戻りましょう。食事を中断させてしまってすみません」
と、陽子の腕に手をかけた。「――どうかしましたか」
「いえ……」
陽子が少しうつむいて、「何だか――いつも、とても気軽にお話ししているのに、今のお話を聞いていて、そうだった、あなたは大勢の社員を預かる経営者なんだということ――。今まで、そんなこと、忘れていたんですわ、私」
「それは、僕の方だってあなたにそうしてほしいと思っていたからですよ」
「でも、私なんかのために時間を使って――。今みたいに、私が経営者として判断されるのを邪魔するようなことがあって、いいのかしらって……」
うまく言えないのがもどかしい。けれども陽子は、自分がおそらく、どこか円城寺の取引き相手の倒産するのを救ったのだと思うと、それが単なるセンチメンタルな反応だとしても、嬉しかったのである。
「あなたがいてくれて良かったんです」
「え?」
「僕は|苛《いら》|立《だ》っていた。それは事実なんです。本当にあんな風に相手を追い詰める必要があったわけじゃない。つい、苛々を弱い者にぶつけていたんです」
円城寺は微笑んで、「あなたの目――悲しそうな目が、僕を冷静にさせた。取引きはビジネスでも、それをするのは人間だ、一人一人に家族もおり、恋人もいるってことを、思い出したんです」
「そう言って下さると嬉しいわ」
と、陽子はホッとして、「あなたは私の前にいる通りの人なんだと分って……」
「あなたはやさしい人だ」
円城寺の手が陽子の手をつかんだ。
――陽子は、何の抵抗も感じなかった。
ロビーは静かで、遠くに何人かもの子供が駆け回っているだけだった。
陽子は円城寺の方へ引き寄せられ、ごく自然に唇を重ねていた。――不意に胸が熱くなり、鼓動が速くなった。
――円城寺は、少し陽子から離れると、ふと目を伏せて手を離し、
「レストランへ戻りましょう」
と言った。
「ええ」
陽子は初めて感じた。――円城寺の中の、抑えつけられたもののかすかな波動を。
当然のことだ。男と女なのだもの。
話をしながら、一緒に笑いながら、円城寺は陽子を抱きしめたいと思い続けていた。そして、陽子は?
自分の心の中はよく見えなかった。二人は黙ってレストランへと戻って行った。
呼出し
「あ、ポケベル――」
と、亜紀は言って、「ごめん」
あわててバッグからポケベルを出して、止める。
「忙しいね」
と、君原がワインを飲みながら言った。
二人して、ドイツ料理のお店に入って夕食をとっている。といっても、高い店ではない。ソーセージやハムが自家製で、安くておいしいのだ。
亜紀は、ポケベルに表示された番号を見て、首をかしげた。――誰だろう?
「ちょっと電話かけて来ていい?」
「ああ、いいよ。君のソーセージには手をつけない」
「食べたら、倍にして返してもらうから」
と、笑って亜紀は席を立った。
この番号は、携帯電話だが、友だちでは持っている子はまだそういない。
店の中は混雑して騒がしいので、外へ出て、電話ボックスに入る。
「――もしもし」
「ああ、良かった!」
と、どこかで聞いた声。
「あの――」
「小百合よ。円城寺小百合」
「ああ!」
亜紀はびっくりして、「携帯電話、持ってるんですか?」
「買ったの」
と、小百合は得意げに、「探偵をやるのなら、これくらいの投資はしなきゃね」
亜紀は、小百合の言い方が、まるで同年代の女の子みたいなので、つい笑ってしまった。
「今、外なのね?」
「ええ、友だちと一緒で――」
「出て来れる?」
「どこですか、今?」
「ホテルN。――たぶん、主人とあなたのお母さんが食事の最中だと思うわ」
亜紀は迷った。
松井健郎から、父のことで、「怪しげな情報」を聞かされたばかりだ。そのショックを忘れて、せめて君原と二人で楽しく食事を、と思っていたのだが――。
「――出にくいようなら、私一人で見張ってるからいいのよ」
小百合は、さすがに年上で、無理は言わない。しかし、|却《かえ》って亜紀の方は「そうですか」とは言いにくくなってしまった。
「――行きます」
と、心を決めて言った。
どうせ今日は色んなことの起る日だったのだ。あと一つぐらい――。
待っている場所を聞いて、電話を切ると、亜紀は席へ戻った。
「どうしたんだい?」
と、君原は顔を上げて|訊《き》いた。
「ちょっと、急な用で。――ごめんなさい」
と、亜紀は言った。
「そう。じゃ、送ろうか」
「いえ。大丈夫! 一人で行くから」
亜紀は、君原に父のことも母のことも打ち明けていない。だって――一人ぐらいならともかく、祖父、父、母と三人|揃《そろ》って「恋人」がいるなんて……。
むろん、祖父は独り身だが、相手の女性は娘のように若い。父にも年下の「彼女」、母には同年代の「彼氏」……。
いくら何でも、そんなこと君原には言えない!
とりあえず、君原に今日のお礼を言って、
「あの――半分払います、私」
「いいんだよ。今日は僕が付合ってもらったからね、あの人形展にも。これぐらいは持たせてくれ」
「でも――」
「一応大学生だぜ、これでも」
「分りました。ごちそうさま」
亜紀は、素直に君原の好意を受けることにして、レストランを出た。
ホテルN。地下鉄で行くのが一番早いだろう。
切符を買いながら、あの奥さんって、面白い人だわ、と思っていた。
まあ、母がよそのご主人とデートしているのを確かめに行くのだから、あまり心弾むというわけにはいかないが、それでもあの円城寺小百合の明るさが、亜紀にとっては救いだった。
いつも〈遺書〉を持って歩くという話と、どうも一致しなかったが、それだけ大人というのはややこしくできているのだろう。
亜紀が割合に楽しく(?)ホテルNへ向っていたのは、君原との今日一日が充実して楽しいものだったせいもある。
「付合い」というのは、互いに相手の「知らなかった顔」を見付けることだ。そうでなかったら、いつも同じことをくり返して、じきに飽きてしまうだろう。
今日の人形、すばらしかった。――そんなことを考えている内、地下鉄は目指す駅へと着いていたのだ。
「――ここよ」
と、頭の上から声がして、亜紀はびっくりした。
見上げると、エスカレーターで上った中二階風のロビーがあり、そこから小百合が呼んでいたのである。
亜紀はエスカレーターを駆け上って、
「ちょっと地下鉄からの通路で迷っちゃった」
「大丈夫。間に合ったわ」
「母たち、どこにいるんですか?」
と、亜紀は訊いた。
「この下のフロアの奥のレストラン」
と、小百合は下のロビーを見下ろしながら言った。
「でも――本当にいるんですか?」
「たぶんね」
亜紀は、小百合と向い合ったソファに腰を下ろした。そこからはロビーがずっと見渡せる。
「別にレストランに訊いたわけじゃないのよ」
と、小百合は言った。「でもね、ここのレストランって、内装が紫色なの。で、うちの主人、いつも無意識だと思うけど、ここへ来るときって、決って紫色のネクタイをしめるの」
「じゃ、今日も?」
「ええ。朝、出かけるときに迷っててね。結局、紫のを選んだわ。きっと、まだあなたのお母さんと約束してなくて、でも、もし会えたらここにしようと思ったんだわ」
小百合の観察力の鋭いことに、亜紀はびっくりした。
同時に、|凄《すご》いな、とも思った。夫を奪われるかもしれないって気持、どんなものなんだろう?
「でも……」
と、亜紀は少しためらいながら、「もし本当に母がご主人と出て来たら、どうするんですか」
小百合はロビーへ視線を向けながら、
「どうしようかしらね」
と言った。
小百合にも、たぶん分っていないのだ。亜紀は、こんな所で小百合と母が言い争ったりするところを見たくなかった。
「――ふしぎね」
と、小百合はロビーを眺めながら言った。「大勢、人が行き交うけど、誰もこっちを見上げないのよ。人って、上を見るなんてこと、しないのね」
そう。――確かに、亜紀もそれは意外に感じていた。ほんの少し目を上げれば、こっちと目が合いそうなのに、誰も気付かない。
「だれでもそうなのね」
と、小百合は言った。「自分一人で歩いてると思っていても、誰かが全然気付かない所から見ているんだわ、きっと」
そうかもしれない。――そう思うのは、怖いようでもあった。
「大丈夫。心配しないで」
と、小百合は亜紀を見て言った。「あなたのお母さんと主人が仲良く腕を組んで歩いて行ったとしても、私はそれを確かめるためだけに来たんですもの。ただ、黙って見送るから」
「でも……どうしたらいいんでしょうね」
亜紀が途方にくれたように|呟《つぶや》くと、
「ごめんなさい。あなたはまだ知らなくて良かったのにね」
そうだろうか?
亜紀は確かにまだ十七で、大人の恋を知っているわけではない。でも、母の恋は、亜紀と決して無縁ではないのだ。いや、それどころか、亜紀の生活を大きく変えてしまうかもしれない。
「――主人だわ」
と、小百合が言って、ハッとした亜紀はロビーを見下ろした。
母、陽子が歩いて来た。――男と一緒に。
予期していたとはいえ、亜紀は心臓が止るかと思うほどショックを受け、血の気のひくのを感じた。
といっても、陽子と円城寺は手をつないでもいなかったのだ。
何となく黙りがちで、二人して少し目を伏せて歩いてくる。そして、亜紀たちの見下ろしている真下で足を止めると、何か言葉を交わしていた。
亜紀には、母の表情が見えた。――いつも見ている母とは、どこか違う。
でも、楽しそうとも見えなかった。といって、悲しげでもない。淡々として、相手の話に|肯《うなず》いている。
何を話しているんだろう?
すると――円城寺が、陽子をそこに残して亜紀たちのいる中二階へ上るエスカレーターの方へ、|大《おお》|股《また》に歩いて来たのである。
「ここへ来るわ」
と、小百合が言った。
「え?」
「タバコを買いに来るんだわ! どうしよう」
小百合が腰を浮かす。
しかし、もう円城寺はエスカレーターで上りながら、ポケットから小銭を出そうとしていた。亜紀はとっさに、パッと立ち上って、エスカレーターと小百合の間を遮るように歩き出した。
そして、上って来た円城寺とぶつかって、
「あ! ごめなんさい!」
わざとバッグを落とし、「すみません!」
と、あわてて見せる。
「ああ、いや、ごめんよ。僕の方も前を見てなくて」
円城寺がバッグを拾ってくれる。
その間に、小百合は足早にロビーの奥の売店に入って行った。
「どうも」
と、亜紀は礼を言って、下りのエスカレーターで下りて行った。
ロビーでは、陽子が円城寺の戻ってくるのを待って、ぼんやりと立っている。そして、エスカレーターから歩いて来た亜紀へふと目を向けて、
「――亜紀!」
「お母さん、どうしたの、こんな所で?」
亜紀としては、精一杯の名演技であった。
「どうしたの、亜紀?」
母が亜紀と同じ言葉を口にする。
人は取り乱すと、よく相手の言うことをそのままくり返してしまうものだ。
「私、友だちと今、別れたとこ。偶然だね、こんなとこで」
亜紀としては、母をいじめるつもりではなかったが、|一《いっ》|旦《たん》こう話が進んだ以上、やり通すしかない。
母がどう答えるか、亜紀にも予測できなかった。
「――お母さんも、ちょうどこれから帰ろうと思ってたとこよ」
と、陽子が言った。「本当に偶然ね」
「それじゃ、一緒に帰ろう!」
亜紀は、明るく言った。そして――亜紀は母の視線が、あの中二階の方へ引き寄せられるように上っていくのを見た。
円城寺がすぐに戻ってくるだろう。――母はどうするつもりだろうか? 彼のことを、
「私のお友だちよ」
とでも紹介するのか?
そう思うと突然激しく抵抗するものが、自分の中にあった。自分のことだって、
「これが娘の亜紀です」
と、相手に紹介するつもりだろう。
私は、そんな人と知り合いになんかなりたくない!
「お母さん、帰ろうよ」
と、亜紀は言った。「誰か待ってるの?」
「え? あ、いえ――そうじゃないわ」
「じゃ、帰ろう」
「ええ……。亜紀、あんた、ご飯は食べたの?」
と、一緒に歩き出しながら|訊《き》く。
「うん、友だちと。お母さん、まだ?」
「私もすませたわ」
二人は、ロビーを歩いて行った。亜紀には、母がチラチラと背後を気にして振り返っているのが分っていたが、気付かないふりをしていた。
公衆電話の並んだコーナーがある。本当なら、私、ちょっと電話をかけてくる、とでも言って――。母は、その間に円城寺へ事情を説明できる。
そうしてあげるべきだろうか? ――でも、どうして私が母とよその男との付合いの手助けをしなきゃいけないんだろう? そんな必要あるもんか。
「地下鉄で帰るでしょ? あっちだよ」
と、亜紀が矢印の出ている方を見る。
「ああ……。そうね」
と言いながら、母は|真《まっ》|直《す》ぐ別の方角へ行ってしまいそうになった。
「どこ行くの? こっちだって」
「――あ、ごめんなさい」
と、母が笑った。
母は|諦《あきら》めたのだ。亜紀には分った。
「だめね、ぼんやりして」
「本当! 迷子になるよ、そんなんじゃ」
と、亜紀は言った。
母の足どりが急に遅くなった。――亜紀は、反対側のフローリストの花を眺めるふりをした。
そのガラスケースに、あのエスカレーターを下りて来た円城寺の姿が映っている。陽子の姿が見えなくなったので、戸惑ってロビーを見回していた。
亜紀は、並んだ花かごを見て、
「これ、きれいだね」
と、言った。
「え? ――ああ、そうね」
母の笑顔はうわべだけ――と言うほどにも、さまになっていなかった。
円城寺は、一人ポツンと取り残されて立っている。亜紀たちは、地下鉄への連絡口に向う通路へと入りかけていた。
母は、何とか円城寺がこっちを向いてくれないか、気付いてくれないだろうかと、じっと視線を送っている。しかし、大方化粧室にでも行ったかと思っているのだろう。円城寺は、ロビーの隅の灰皿の方へ行って、上で買って来たタバコの封を切っていた。
「――お母さん、行かないの?」
立ち止ってしまった母の方へ、亜紀は言った。
「行くわよ。――ただ、こんな所に来たの、久しぶりだな、と思ってね」
「いつだって来られるじゃない」
と、笑ってから、「――おじいちゃん、どんな具合?」
一緒に歩き出して、
「そう毎日、様子は変らないわよ」
と、陽子は言った。
「お父さんも寄ったの?」
「今日は仕事が忙しいって言ってたから……。昨日、ずっと日なたにいて、疲れたわ」
陽子は少し唐突に言った。
――どうしよう。あの人はどう思うだろう。さっき、くちづけまでかわした相手が、不意に、何も言わずにいなくなってしまったら……。
もちろん、後で事情を説明すれば分ってくれる。でも陽子は、今、円城寺がどう思うか、それを思うとたまらなかったのだ。彼に、「礼儀知らずな女だ」と思われたら……。
しかし、亜紀に何と言えばいいだろう?
ほんの一分でいい。円城寺の所へ戻って、わけを話してくるためのうまい口実はないだろうか。考え悩んでいる内に、どんどんロビーから離れてしまう。――どうしよう。どうしよう。
陽子は、心を決めた。
亜紀がいぶかるかもしれないが、ともかく戻って話して来よう。それが礼儀というものだ。
陽子は足を止めた。
すると――陽子とほとんど同時に、亜紀も足を止めたのである。
そして、
「私、ちょっとトイレに寄ってく!」
と言うと、亜紀は小走りに〈化粧室〉の矢印の方へと駆けて行った。
陽子は、ちょっとの間ポカッとして娘の姿が見えなくなるまで見送っていたが、すぐに通路を駆け戻った。
円城寺がタバコの煙を吐き出しながら、ロビーを見回している。
「――すみません!」
と、陽子が息を弾ませる。
「ああ、どこへ行っちゃったのかと思いましたよ」
と、円城寺は笑って言った。
「娘と会ってしまったんです、ここで」
と、陽子が言うと、円城寺は面食らって、
「お嬢さんと?」
「ええ、一緒に帰ることにしたので――。すみません。黙って行ってしまうのは申しわけなくて」
「それはいいけど……。大丈夫なんですか」
「ええ。――今日はありがとうございました」
陽子は、そう言って頭を下げた。
他に何か言いようはないのか、と思う。楽しかった、とか、今日のことは忘れませんわ、とか。
しかし、結局、これが一番陽子の気持を表していることになっただろう。
ありがとうございました、という言い方が。
――一方、亜紀は化粧室の鏡の中に、自分の顔をじっと見つめていた。
どうしたら良かったんだろう? これで正しかったのかしら?
母は気持を隠すことのできない人だ。あの母の横顔に浮かんだせつない後悔の気持。それは子供の亜紀にも見間違えようのないものだった。
母の中に何かがこみ上げて来て、もう何秒かしたら、泣き出してしまいそうに見え、亜紀は何だか自分が母をいじめているかのような気がしたのである。
とっさのことで、ここへ駆け込んだ。きっと、母は戻って、円城寺にわけを説明しているだろう。
でも――。亜紀はハッとした。小百合が円城寺と一緒にいたら?
心配になって、化粧室を出ると、
「――あら、そんなに急がなくってもいいのに」
母が、いつものおっとりした笑顔を見せて立っている。亜紀はホッとして、
「じゃ、帰ろう!」
と、元気良く言った。
秘 密
「どうするつもりなの?」
――母の声が居間から聞こえて、ミカは足を止めた。
夜中の二時を回っている。父はニューヨークへ行っていて、来週にならなければ帰って来ないから、母と話しているのは、兄の健郎に違いない。
しかし、それにしては母、照代の言い方はいつになくきついものだった。
松井家では、何となく夜ふかしすることが当り前になっていて、ミカもよくこんな時間まで起きていることがあるのだが、こうして下へ下りてくるのは珍しい。
ちょっとお腹が空いて、寝る前に軽く食べようと思ったのだが――。
|洩《も》れ聞こえた母の言葉は、何となくミカの足をためらわせた。
「健郎――」
「急ぐことないさ。そうだろ」
と、健郎の言っているのが聞こえる。
大方、いつもの通りTVを|点《つ》けて、ソファに寝そべっているのだろう。時々そのままソファで朝まで眠っていることもある。
「あんたは大学生なのよ。そうやって、うちでゴロゴロして。――ミカにも良くないわ」
「ミカが何か文句言った?」
「ミカがどう言おうと関係ないの。あんたのためを思って言ってるのよ」
健郎は返事をしない。
ミカは、立ち聞きをしているのが分ってしまわないかと、息を殺して身動きをしないでいた。
「――アメリカへ戻りなさい」
と、母が言ったので、ミカはハッとした。
せっかくお兄さんが戻って来たのに! やめて! 行かないでよね。
「向うで何するのさ」
と、健郎は気のない口調で言った。「それとも、僕がいちゃまずいから、アメリカへ行けって言ってるだけ?」
「健郎……。そうひねくれて受け取らなくてもいいでしょう」
「分ってるさ」
兄の皮肉な言い方。――少し間があって。
「何を分ってるっていうの」
――ミカは、母と兄が冷淡な口をきくのを、しばしば耳にしている。しかし、今の二人の話には、ミカが聞いたことのない、とげが感じられた。
「僕がミカのそばにいるのが心配なんだろ?」
自分の名が出て、ミカはドキッとした。
「――ええ、そうよ。兄のあんたが、そんな風に大学にも行かないでいるのを見て、ミカがどう思うかしらね? いい影響があるとは思えないわ」
母の言葉に、ミカは思わず居間へ入って行きそうになった。
お兄ちゃんがまたアメリカへ行ってしまうのなんて、いやだ!
ミカは、兄が大学をさぼっているからといって、自分も学校をさぼろうなんて思ったことはない。それほど子供ではないつもりである。だが、
「それだけじゃないだろ」
と、健郎は、言った。
「どういう意味よ」
「言わなくたって分ってるじゃないか」
ミカは、じっと凍りついたように廊下に立って、母と兄の会話を聞いていた。何か恐ろしいようなものを――予感に近いものを覚えた。
「健郎。あんた、まさかミカにしゃべってないでしょうね」
と、母が言った。
「言いっこないさ」
「本当ね?」
「言ったら、ミカはどう思う? あいつ、十七歳だ。一番敏感な年ごろだよ」
「分ってればいいのよ」
母、照代がため息をつく。「――いつかはミカにも分る日が来るでしょ。でも、今は何も言わないで」
――何のことだろう? 私に、何を隠しているんだろう。
「だから言ってるのよ。あんたにミカから離れてほしいの」
健郎が笑って、
「僕がミカに恋でもすると思ってるのかい?」
「逆よ。ミカがあんたに恋してるんだわ」
ミカは胸をつかれる思いがして、我知らず手を胸に当てていた。
「恋じゃないよ。兄貴は安心して一緒にいられる男だからね。ミカじゃなくても、そんな兄妹はいくらもある」
「それはそうよ。でも、あんたがしゃべらなくても、誰かから聞くかもしれないの、そうしたら――」
「やめてくれよ!」
と、健郎は|苛《いら》|々《いら》と遮って、「僕だって、ずっとミカを妹のつもりで|可《か》|愛《わい》がって来たんだ。血がつながってないと分ったからって、急に妹じゃないなんて思えやしないよ」
ミカは――|呆《ぼう》|然《ぜん》としていた。
今の兄の言葉がこだまのように頭の中を飛び交って、その後の二人の話が耳に入らない。
母と兄に気付かれないように自分の部屋へ戻るのは、かなり慎重さを必要としたはずだが、実際は気が付いたら部屋のベッドに腰をおろしていたのである。
「お兄ちゃん……」
と、|呟《つぶや》く。
血がつながってない? ――それって、どういうことなのだろう。
ミカには、わけが分らなかった。
少なくとも、記憶している限りでは、ミカは兄、健郎と一緒に暮して来た。
むろん、父と母とも。
それでいて、兄と「血がつながっていない」とは、どういうことなのだろう?
ミカは、自分の部屋のベッドに腰をおろしたまま、動かなかった。いや、動けなかった。
けれど、今立ち聞きした兄と母の話は、誤解しようのないものだ。二人が勘違いするわけもないし、ミカの聞き間違いでもない。
どういう事情だったにせよ。自分と健郎とは「血がつながっていない」のである。
つまり――健郎は兄ではない。「兄のような他人」なのだ。
ドアをノックされて、ミカは飛び上るほどギクリとした。
「ミカ。――入っていいか」
兄だ。ミカはあわててベッドから立ち上ると、勉強机に向って座り、
「どうぞ」
と言いながら、置いてあった問題集をめくった。
「お兄ちゃん、何か用?」
「珍しいな。勉強か」
と、健郎は入って来て、「明日、雪かな」
「失礼ね。お兄ちゃんじゃないよ」
と、振り向いてちょっと舌を出して見せる。
健郎は笑って、
「いつまで子供なんだ、お前」
と、ベッドに腰をおろした。
つい今までミカが座っていた|凹《へこ》みの上に。ミカはふっと胸苦しいような気分になった。
「――ミカ。お前に話があるんだ」
「うん、なに?」
と、|椅《い》|子《す》をクルッと回して兄の方へ向くと、「また留学するんじゃないよね」
「行っても、いれてくれやしないって」
「良かった」
と、ミカは正直にいった。
「お前の友だちの金倉亜紀ちゃんのことだ」
「亜紀がどうかした?」
思いがけない話だった。
「この間、代休の日にばったり会った。話したろ」
「うん。CD屋さんでね。聞いたよ。それが?」
「あの子もまだ十七だけど、|俺《おれ》は付合ってみたいと思ってるんだ」
兄の言葉がミカの頭に入るまで少し手間取った。何のこと? 付合ってみたい?
「――お前の友だちだし、一応、ちゃんと話しとかないとな。お前は構わないか?」
「うん」
「それならいいけど」
「どうして私が……。お兄ちゃんが誰と付合ったって、自由じゃない」
そうよ。お兄ちゃんは私のお兄ちゃんじゃないんだから。
「そう聞いて安心した」
と、健郎は立ち上った。
「でも――亜紀も承知してるの?」
と、ミカは|訊《き》いた。
「承知っていっても……。今度、デートしようって誘っただけだ。あの子は今、ボーイフレンドがいるんだろ」
「初めてキスしたっていう人?」
「たぶん、そうだ。でも、何も付合うったって、『恋人』だの何だのってわけじゃないんだ。ただ、一緒に出歩いてみようってだけだよ」
「じゃ、亜紀はお似合いよ。しっかり者だし、お兄ちゃんにお説教してくれるかもしれないわ」
健郎は笑って、
「俺も少し心を入れかえるかな」
と言った。「――特別なことじゃないんだ。ただ、お前に黙って亜紀ちゃんと出かけるのも、何だか隠してるみたいでいやだったからな。ちゃんと言っとこうと思って」
「ふーん。気をつかってくれるのね」
「そうさ。お前はまだ子供だからな」
「悪かったわね」
と、口を|尖《とが》らし、「亜紀に振られちゃえ」
健郎は、ミカの部屋を出ようとして、
「早く寝ろよ」
とひと言、やさしい口調で言って、出て行った。
ドアが閉まると、ミカは机に向った。
ただ、やっているように見せかけただけの問題集を、本当に一題解いてしまう。別に宿題でも何でもないのに。
お兄ちゃん……。お兄ちゃん。
血のつながっていない私は、お兄ちゃんの妹でなくなった。でも、それなら「友だち」でいてくれてもいいじゃないの。せめて。
でも――お兄ちゃんには亜紀の方がいいのね。私のことなんか忘れて、亜紀と仲良くなればいい。そうよ、好きなようにしなさいよ。
パタッ。――問題集のページに、涙が落ちた。
ミカは、そのとき初めて自分が泣いていることに気付いたのだ。
兄が亜紀と恋人同士になろうとしているわけでないことは分っていた。亜紀だって、まだ「大人の恋」をするには早過ぎる。
ミカにはそれもよく分っていた。しかし、母と兄の会話を聞いてしまったショックに、兄の話が追い討ちをかける形になったのである。
ミカは、「兄に捨てられた」と感じた。
――理屈には合わないかもしれないが、そう思うことでしか、自分を支え切れなかったのである。
ふと気付くと、もう三時を回っていた。
陽子が深々とため息をついた。
金倉正巳は一瞬ギクリとして、妻の様子をうかがったが、目を覚ましているわけではないようだ。
そっとベッドから抜け出すと、正巳は寝室を出た。
もう夜中の三時。いくら今の高校生が夜ふかしだといっても、亜紀も眠っているだろう。明日は学校がいつもの通りあるのだから。
しかし、それを言うなら正巳だって会社がある。本当はとっくに眠っていなくてはならないのだ。
暗い居間へ入ると、正巳は部屋の明りは|点《つ》けず、手探りでテーブルの上の小さなスタンドを点けた。居間の中がぼんやりと浮かび上る。
電話を取って、もうすっかり|憶《おぼ》えてしまった番号を押す。――円谷沙恵子のアパートである。
呼出し音が続く。三度、四度……。
こんな時間だ。普通なら、電話が鳴ったらびっくりして飛び起きるだろう。
だが、呼出し音が十回以上続いても、誰も電話には出なかった。正巳は|諦《あきら》めて切った。
沙恵子……。一体どうしたんだろう?
正巳は台所へ行って明りを点けると、冷蔵庫からウーロン茶を取り出し、グラスへ注いだ。|喉《のど》が渇いていた。
――正巳が沙恵子の部屋で、あの夢のような時間を過してから、一週間たっている。あの翌日、彼女は脅迫状を寄こした男と会っているはずであった。
ところが、その日、入院していた父、茂也がまた発作を起して、一時はどうなるか見当がつかず、家族三人、夜中に病院へ駆けつける騒ぎになってしまったのだ。
結局、騒いだほどでもなく、父の病状はそう悪化せずにすんだのだが、それでも毎日病院へ顔を出さないわけにいかず、沙恵子のことは気にしながら、アパートへ寄ることはできなかった。
むろん、仕事の合間や夜にも電話しているのだが、誰も出ない。正巳の中には、不安がふくれ上るばかりだった。
沙恵子……。向うから連絡しにくいことは分っている。会社にかければ声で分ってしまうかもしれず、家にはかけてきにくいだろう。
それにしても、正巳が心配していることを承知のはずだ。何とかして連絡をつけようとしてくれているだろうが……。
「――あなた」
と、突然呼ばれて、正巳は本当に飛び上らんばかりにびっくりした。
「陽子!」
「何を飲んでるの?」
陽子が思い詰めた声で|訊《き》いた。
「何って……。ウーロン茶だよ」
と、正巳は三分の一ほど残ったグラスを持ち上げて見せた。
陽子は歩み寄ると、
「飲ませて」
と、正巳の手からグラスを取って、一口飲んだ。
正巳は|呆《あっ》|気《け》に取られて眺めていたが、陽子は|肯《うなず》いて、
「本当だ。ウーロン茶だわ」
「何だと思ってたんだ?」
「ウイスキーでも飲んでるのかと思ったの。コソコソ起きて来たりして」
「コソコソって……。まさか夜中にドタバタ起き出すわけにいかないだろ」
正巳はわざと少し大げさに笑って、「お前の方こそ、キッチンドリンカーになるなよ」
「私がこんなにウイスキー飲んだら、倒れちゃうわ」
残りのウーロン茶を飲み干して、「――おいしい」
と、息をつく。
正巳は、どうやら電話をかけたことに陽子が気付いていないらしいので、ホッとした。
「お前もどうして起き出したんだ」
「何だか……。怖い夢を見たみたい。どんな夢だったか、憶えていないけど」
と、陽子は言って、「ちょっと涼しいわね、こんな時間だと」
「風邪ひくぞ」
二人は居間へ戻ると、何となくソファに腰をおろした。
「明り、点けるとまぶしいからこのままで」
と、陽子は言った。
「うん……」
「何か心配ごとがあるんじゃない?」
陽子に|訊《き》かれて一瞬、正巳は迷ったが、
「そうさ……。|親《おや》|父《じ》のこともあるし。入院がいつまでになるか分らないから、金のことも気になるしな」
と、ごまかした。
いや、父親のことももちろん心配ではあるのだ。
「お前は? 何か気がかりなことでもあるのか」
陽子は腕を組んだ。
「私? 私は……。どうってことないわ。あの藤川ゆかりさんのことをどうしようかと思ってるけど。――はっきりさせなきゃね」
「ああ、そうだな」
「あれだけお|義《と》|父《う》さんの面倒をみてもらってると、後で言いにくいわよね。別れてくれとか……」
「そうだなあ」
――二人とも、茂也のことを持ち出して、それぞれの胸の中に重く沈む不安のことはひた隠しにしていた。
亜紀は、階段にパジャマ姿で腰かけて、居間から聞こえてくる父と母の声に耳を澄まして聞き入っていた。
お父さんもお母さんも、秘密を抱えている。そして、お互いにそれを気付かれていないと思ってる。
亜紀はしかし、少なくとも二人が秘密を持っていることは知っていた。母は円城寺と付合っていて、父の方はもっとややこしいことになっているらしい。
一体どうなるんだろう? もし、それが互いに知れたら。――亜紀は、今まで自分の家族にこんな問題が起ることなど、考えてもみなかった。
いつまでも、父と母は今のままで、ただ少し太ったり、髪が白くなったりするくらいだろうと思っていた。
そんなわけはないということ――。祖父を見ても分るように、人は老いても誰かに恋をすることがあり、病気で倒れることもある。
亜紀はそういうことを初めて考えるようになったのだ。
父のことは、ミカの兄、松井健郎が教えてくれたわけだが、彼もただ父と若い女の話を耳にしただけ。それ以上のことは分らない。
だから、今の亜紀にとっては、母の方が心配である。少なくとも、円城寺への母の気持には、恋と言っていいものがある、と知っていたからだ。
だからといって、亜紀に何ができるだろう? まだ高校生なのだ。父や母へ説教するというわけにもいかない。
円城寺小百合からは、あの後一度電話があったが、やはり祖父のことで落ちつかず、ゆっくり話していられなかった。
――居間では、父と母の会話が途切れがちになりながら続いていた。
もう寝よう。亜紀は立ち上ると、そっと階段を上って行った。
一度眠って、目を覚ましたのである。亜紀にしては珍しいことだった。
でも――何とかしなくては。
このまま放っておいていいわけはない。といって、学生の自分に何ができるか。
部屋へ戻ってベッドに潜り込んだ亜紀は、松井健郎が何か考えてくれるかもしれないと思った。
君原のこともむろん考えるが、何だか彼とはそんな話をしたくない気がした。――あの代休の日。君原と過した時間の楽しかったこと。
その後、父のこと、母のこととたて続けにショックを受け、結局、あれから一度も会っていないが……。でも、君原とはまた会えると信じていた。
「おやすみ……」
亜紀は君原へとそう|呟《つぶや》いた。
写 真
「お仕事中、お邪魔して、どうも」
愛想よく笑顔で|挨《あい》|拶《さつ》して、「私、こういう者で」
出された名刺には、〈C生命保険 |浅《あさ》|香《か》|八《や》|重《え》|子《こ》〉とあって、正巳は拍子抜けしてしまった。
要するに「保険のおばさん」ではないか。仕事中、会社へ訪ねて来て、
「大切なお話が」
と言うから何ごとかと思った。
「あのね――」
正巳は、注文を取りに来たウェイトレスへ、「僕はすぐ行くからいいよ」
と、手を振って見せた。
「お忙しくていらっしゃるんですね」
浅香八重子というその女、五十は少し越えているだろう。派手めの化粧、どっしりした体にスーツは高級品らしい。しかし、はいた靴が運動靴みたいなもので、アンバランスなのがおかしい。
「当り前でしょ」
と、正巳は不機嫌を隠す気にもなれず、「誰だって、自分の仕事で手一杯だ。保険の勧誘なんかに、『大切な話』なんて言わないで下さいよ」
「あらあら」
と、女の方は一向に|応《こた》えた様子もなく笑って、「気の短い。人間、のんびりやらないと長生きできませんよ、ねえ? 長生きするって、大切なことですもの」
「そんなこと、心配してもらわなくたっていいですよ」
正巳は立ち上りかけた。「じゃ、忙しいんで、これで――」
すると、浅香八重子という女が言ったのである。
「円谷さんにも長生きしてもらいたいでしょう」
正巳は、浮かせた腰を|椅《い》|子《す》に戻して、
「今……円谷君と言ったんですか?」
「ええ。円谷沙恵子さん。ご存知でしょ?」
相変らず明るい口調である。
「――彼女がどうしたんですか」
「ご心配ですよね。何しろベッドを共にした仲ですもの。ベッドでなく、布団でしたか?」
正巳は、女の笑顔を改めて見つめた。目は鋭く、笑っていない。
「あんたは誰なんだ」
と、正巳は言った。
「名刺の通りですよ。C生命保険のセールスレディ。でも、ただの『保険のおばさん』と違うところは、他の人の『生命』にお金を払っていただくことかしら」
「どういう意味だ」
この女はただ者じゃない。――正巳は初めてそのことに気付いた。ウェイトレスが置いて行った水をガブガブと飲み干す。
「まあ、落ちついて下さい」
と、浅香八重子はおっとりと言った。「コーヒーでもお飲みになったら? ――ね、こちらにコーヒーを一つ」
勝手に注文するのを、正巳は放っておいた。
「もったいをつけずに言ってくれ」
と、正巳は言った。「円谷君はどうしてるんだ」
「ご心配なく。元気にしてます」
と、浅香八重子は大きなバッグを開けると、中からポラロイド写真を一枚取り出して、「――まあ、『元気』って意味にもよりますけどもね」
と、テーブルに置いた。
手に取って、正巳は一気に顔から血の気がひくのを覚えた。
「おい――」
「大きな声を出したりすると、彼女にもいいことはありませんよ」
正巳は、相変らずニコニコ笑っている女を|呆《ぼう》|然《ぜん》として見た。
ウェイトレスがコーヒーを持って来たので、正巳はハッとしてその写真をパタッとテーブルに伏せた。
見せたくなかった。沙恵子が服を裂かれ、半裸の姿で縛り上げられているところなど。
「――見たとこ、ひどい目に遭ってるみたいですけどね。ま、大したことはないんですよ。まだね」
「彼女はどこに?」
「そんなこと、教えるわけがないでしょ。少し頭を使って下さいな」
と、女は笑った。「――あなた次第ですよ、要は」
「何だというんだ」
「保険の契約をね……。円谷さんの命を、買っていただくってことですね」
今にも保険のパンフレットを広げて説明し始めるかという口調。
「どうして、彼女にこんなことを……」
「あなたの名前を聞き出さなきゃいけませんでしたのでね」
正巳は胸をつかれた。――沙恵子。
「なかなか頑固な子で。とりあえず、若い男二人がかりでしゃべらせたんですよ」
正巳の体が震えた。写真が手の下で燃えるようだ。
「でも、大丈夫。あなたがちゃんとお金さえ出して下さりゃ、あの子はこのままお返しします」
「このまま……。もし、出さなかったら?」
「そのときは、色々面白いクスリがありますからね。やめるにやめられない中毒にしてから放してやるんです。そうすりゃ、首に縄をつけてるのも同じで、いつでも戻って来ますよ」
正巳は、また悪夢を見ているように思えた。今度はそう簡単に終らない悪夢だ。
正巳はコーヒーを飲もうとカップを取り上げたが、手が震えてこぼしてしまいそうなので、そのまま受け皿に戻してしまった。
「――いくらほしいんだ?」
「そうそう。そういう具体的なビジネスの話をしましょうね。怒ってみたって、一文にもなりゃしないんですから」
と、浅香八重子は言った。「無理は言いません。一億円。きりのいいところで」
正巳は|唖《あ》|然《ぜん》として、
「馬鹿言わないでくれ! どこにそんな金が――」
と、つい大きな声を出しかけて、口をつぐんだ。
「貯金がそんなにあるとは思っちゃいませんよ」
と、女は笑って、「でもね、土地も家もおありでしょ。担保にして、それくらい貸してくれる所はありますよ」
土地と家? ――正巳は、汗がこめかみを伝い落ちていくのを感じた。
「そんな……。とても一億なんて価値はないよ」
「ですから、私がうかがったんです」
と、浅香八重子は穏やかに、「借りられるお店は紹介してさしあげます。手数料はいただきますけど、それは一億とは別ですよ。それと、お父様が入院なさってますね」
正巳は、
「どうしてそんなこと……」
と、|呟《つぶや》くように言った。
「お父様に保険をかけていただくんです。受取人は当然あなた。そうすれば、一億円の内、借りて足りない分は出せますわ」
「待ってくれ。|親《おや》|父《じ》に保険をかけるって――。しかし、死ななきゃお金は入らないんだぞ。そうだろ?」
「もちろん、亡くなっていただくんです」
「――何だって?」
「毎日、病院へ行かれてるんでしょ? 大してむずかしいことじゃありません」
あまりに当り前の口調で、正巳は耳を疑ってしまった。
「親父を……」
「沙恵子さんを見捨てますか? それとも……。考えて下さいな」
浅香八重子は、自分のアイスティーを飲み干すと、「――じゃ、また近々ご連絡します。それまで、円谷さんは大切にお預かりしてますからね」
と、行きかける。
「待ってくれ!」
と、正巳は立ち上った。
だが――何を言おう。何が言えるだろう。
「何か?」
「いや……何でもない」
正巳は力なく腰をおろした。浅香八重子は静かにティールームを出て行った。
「――金倉さん」
と、誰かが呼んでいる。「金倉さん。大丈夫?」
正巳はふっと我に返って、
「ああ。――伊東君か」
「伊東君か、じゃないわよ。どうしたの、いつまでも一人で座ってて」
「え?」
ハッとした。――あの、浅香八重子という女と話をしていたティールームに、まだ座っている自分に気付いたのである。
「ごめん、ごめん。つい、ボーッとしてね。――そんなにたってるかい?」
「一時間たつわよ、あなたが席を立ってから。それで心配になって来てみたんじゃない」
一時間! ――あの女との話はせいぜい十五分くらいのものだったろう。それからずっと、ぼんやりしていたのか。
「何かあったの?」
と、伊東真子が椅子にかけて、「顔、青白いし、普通じゃないわよ」
「何でもないよ。親父のことや何やで、くたびれてるんだ」
親父のこと。――そう、あの女は言った。
「もちろん、亡くなっていただくんです」
と……。
とんでもない話だ! 狂ってる!
いくら沙恵子を救うためだって――。ふと、テーブルにのせた手の下に、あのポラロイド写真が伏せたままになっていることに気付いた。
「疲れてるだけならいいけど……」
と、真子は正巳の表情をうかがうようにして、「何か心配ごとがあったら、私に話してね」
正巳は胸が熱くなった。真子は何の損得もなく、正巳のことを気にかけてくれている。ありがたかった。
けれども――こればかりは真子に相談したところで、どうすることもできない。
むしろ、あの女――浅香八重子というC生命保険の女に知れたら、真子も危険な目に遭いかねない。だめだ。話すわけにいかない。
「すまないな、心配かけて」
正巳は写真を手早くポケットへ入れて、「さ、戻ろう。仕事が山ほどある」
と、立ち上った。
真子は座ったままで、
「心配して損しちゃった」
と、笑って、「私、何か飲んでから戻るわ」
「そうか。じゃ、先に行ってるよ」
正巳は足早にティールームを出て行った。
――伊東真子は、そっと足を動かした。
落ちていた名刺を、見えないように踏んでいたのである。
たぶん、正巳が会っていた相手だろう。当人が何と言っても、あれはただごとじゃない。正巳は、テーブルの伝票にも気付かず、払わないで出て行ってしまったのだ。
真子は長いこと正巳と仕事をして来ている。
正巳が隠しごとのできない性格であることも分っていた。
拾った名刺を見て、真子は|眉《まゆ》をひそめた。
〈C生命保険 浅香八重子〉
保険の外交員? しかし、なぜこの女と会って、正巳があれほどのショックを受けたのだろう。
真子は、ティールームのウェイトレスを呼んで、
「レモンスカッシュ。うんとすっぱくしてね。目が覚めるように」
と、注文した。
「はい」
と、ウェイトレスが笑う。
正巳は顔ぐらいしか知らないが、ここのウェイトレスと真子は仲がいい。
「ね、ここで金倉さんの会ってた人、見た?」
と、真子は|訊《き》いた。
「ええ、もちろん」
「どこか――おかしくなかった?」
「うーん……。見たとこ、普通の保険のおばさんだけど。初め、金倉さんがむくれて、『保険の勧誘なんか』って言ってるのが聞こえたの」
「それで?」
「ただ……。後の二人の話の様子はおかしかったけど。そばで聞くわけにもいかないし」
「そりゃそうよね」
「でも、コーヒー持って来たとき、ポラロイド写真を見てて、金倉さん。私がそばへ来たのに気が付くと、あわてて伏せてたわ」
「ポラロイド……。さっき、ポケットへしまい込んでたの、それか」
と、真子は|肯《うなず》いた。「写真、見た?」
「一瞬ね……。でも、よく分らなかったわ」
と、首を振って、「女の人の……。チラッと見ただけだけど、裸の写真みたいだった」
と、少し声を低くする。
「――あ、待ってね」
店を出る客がいて、ウェイトレスはレジへと駆けて行った。
真子は、その名刺を眺めた。
C生命保険。――裸の女の写真。ポラロイドだったというのだから、誰か、正巳の知っている女性のものではないか。正巳の様子を見ても、よほどのショックだったろうと察しがつく。
C生命保険。――真子の知らない名である。当ってみよう、と思った。
ウェイトレスがレモンスカッシュを持って来て、言った。
「それに、ちゃんとした外交の人なら、お茶代、払って行くわ」
「なるほどね。――ありがとう」
真子は、レモンスカッシュをぐっと一口飲んで、すっぱさに目を丸くしたのだった。
真子の手前、何とか平静を装って席へ戻ったものの、正巳はしばらく自分が何の仕事をしていたのか、思い出せなかった。
自分を|叱《しか》りつけ、励まして、やっと仕事を始めたが、ポケットに入れた、あのポラロイド写真を思い出すと、息苦しい思いに|捉《とら》えられる。
沙恵子……。|可《か》|哀《わい》そうに。
|俺《おれ》の名をしゃべるまでに、どれだけ痛めつけられたのだろう。何とかして――何としてでも、助けてやる。きっとだ。
だが、また仕事の手が止っている。
電話が鳴って、正巳は|却《かえ》ってホッとした。少し気持が切り換えられるだろう。
「――もしもし」
「あ、どうも」
誰だろう? 正巳は当惑した。
「あの――どちらさまで?」
低い笑い声が聞こえて、正巳は青ざめた。
「近々、連絡すると言ったでしょ」
と、浅香八重子は言った。
「何の用だ」
「まず、家と土地を担保に、お金を借りてもらうわ。いいですね」
正巳は、相手への怒りを抑え切れなかった。
「そう簡単にいくか」
「急ぎませんよ、こっちはね。ただ、円谷沙恵子さんをお預かりするのが長びくだけ」
正巳は何とも言えなかった。
「明日の帰りにこれから言う所へ来て下さい」
と、浅香八重子は言った。「メモの用意は?」
言われた通りにするしかない。沙恵子のためだ。
「――分った。言ってくれ」
と、正巳はボールペンを手に取った……。
――電話が切れると、正巳は仕事に戻った。
沙恵子が向うの手にある内は、どうすることもできない。
手塚良一を死なせたのは、沙恵子ではないのだ。それなのに、今、沙恵子はこんなひどい目に遭っている。
――どうしよう?
正巳は、途方にくれながら、それでも仕事をしていた。
ともかく、向うの言う通り、明日出向いて行くしかないのである。
そこで何があるか。予想もつかない。
正巳は、周囲をそっと見回してから、あのポラロイド写真をポケットから取り出した。
涙の跡が痛々しい沙恵子の顔。じっとカメラの方を見つめる哀しげな目……。
長く見てはいられなかった。――正巳は写真をどうしたらいいのかと迷ったが、結局自分の|鞄《かばん》の中へしまった。捨てるわけにはいかない。そうとも。
沙恵子を捨てることはできない……。
ぬれぎぬ
「じゃ、待ってるね」
と、亜紀は松井ミカに声をかけて、先に教室を出た。
「うん。できるだけ早く行くから!」
ミカの声が追いかけてくる。
――亜紀は、一足先に学校を出ると、帰り道の途中、駅前の商店街にある大きな書店に寄ることにしていた。
亜紀は本が好きだ。書店で(どっちかというと、「本屋さん」という呼び名の方が暖かくていいと思っていた)書棚にズラリと並ぶ本の背表紙を眺めているだけで、一時間ぐらいはすぐに|潰《つぶ》せる。
「安上りな趣味だよね」
と、友だちにからかわれることもあった。
今日はミカと帰ることにしていたのだが、帰り間際にミカがクラブの用事で先生に呼ばれ、亜紀は「いつもの本屋さん」で待っていることにしたのである。
十月も後半の|爽《さわ》やかな季節。
とはいえ、学生にとっては「中間テスト」という、あまり爽やかではないものが迫っている。そのせいで今週はクラブ活動もない。
――亜紀は早々とその書店に着いた。
中は昼間でもまぶしいほどの照明で、床はツルツルにしてある。広さからいえばこの辺りでは第一で、やはり参考書、専門書の|類《たぐい》を捜すときはここへ来ることが多かった。
しかし、亜紀の目当ては小説や文芸の棚。このところ、〈人形〉のことにも関心がある。むろん、君原にあの人形展に連れて行ってもらってからだ。
ミカも、テスト前のことではあるし、そう遅れては来ないだろう。
亜紀は学生の身。こづかいを考えれば文庫本しか買えないが、今は文庫本も結構高い。以前なら二冊買えた値段で一冊しか買えないこともよくあった。
このところ、亜紀はまた本をよく読んでいる。テストの前になると本が読みたくなるというのは珍しいことではないらしいが、亜紀の場合はそればかりでもなかった。
「――あ、新刊だ」
お気に入りの作家の新刊が出ている。亜紀は手に取ってパラパラとめくった。文庫じゃないので、千円以上もする。
でも、あまり人気があるとは言えない人なので、いつ文庫になるか。それに、この新刊だって、じき絶版になってしまうだろう。
「千円か……」
と|呟《つぶや》いて、少し迷ったが、とりあえず棚に戻す。
三冊あるから、売れてなくなってしまうことはないだろう。少し文庫の棚を眺めてからにしよう。
亜紀は、ぶらぶらと棚の間を歩いて行った。この時間、客の姿は多くない。
亜紀は、人形の写真集があったので、何冊か手に取って中を見た。
カメラマンの人形への愛着がはっきり出ているものと、単に仕事だというので撮っているものと、一目で分る。怖いようだった。
――あ、ミカだ。
ミカが、店に入って来てキョロキョロしている。亜紀は写真集を戻すと(高くてとても手が出ない)、下に置いてあった|鞄《かばん》を持って棚の間を抜けて行った。
「――あ、いたのか」
ミカが|微《ほほ》|笑《え》んで、「ごめん、待たせて」
「いいけど……。早かったね」
「どうってことないの。部員への連絡網の順番、変えようって話。先生、勝手にやってくれりゃいいのに」
と、口を|尖《とが》らして、「亜紀、まだ本見てる?」
「どっちでも」
あの本は、また買いに来よう。二、三週間は置いてあるだろう。
最近、読んでいない本がどんどんたまっている。少しあれをきちんと読もう。
亜紀自身、分っていた。家の中が何となく落ちつかず、そのせいで亜紀は本に逃げ込んでいるのである。
父も母も、別に|喧《けん》|嘩《か》しているわけじゃない。二人とも穏やかで、やさしい。亜紀に暴力を振るうなんてこともない。
それでいて、どこか普段と違うのである。
父はいつも、心ここにあらずという感じで、TVを見ても笑いひとつこぼすではない。
母も同様だ。いつものように振舞ってはいるが、時々、ふっと遠くを見てもの思いに|耽《ふけ》っている。
亜紀は正直、疲れてしまった。「大人の悩み」に、亜紀は口が出せない。
今の暮しを、そのまま続けて行けたら、それでいい。――とりあえず亜紀は、そのことを忘れたくて本に熱中している。いや、しようとしているのである。
「じゃ、何か食べてこ」
と、ミカが言った。
ミカは亜紀と違って、何かストレスがあると、食べることで忘れようとするタイプ。
亜紀も、今日はミカに付合うことにした。
店を出ようとして、後ろから急ぎ足で来た若い男が亜紀に突き当った。
アッと思ったときには、鞄が落ちて、中の教科書が飛び出していた。
「ごめん!」
と、ひと言、男は行ってしまう。
「何、あれ? 失礼ね!」
と、ミカが怒って言った。
「放っとけばいいわよ」
亜紀はかがみ込んで鞄をつかんだ。
床がよく滑るので、鞄から飛び出した教科書はあちこちに散らばってしまっていた。
亜紀はそれを急いで拾い集めたが、
「――え?」
と、目を丸くして、その本を拾い上げた。
さっき、書棚で見ていた新刊本である。でも、この本がどうしてこんな所にあるの?
「亜紀、どうしたの?」
と、ミカがやって来る。
「うん……」
わけが分らずにその本を見ていると、
「おい!」
突然、|凄《すご》い声で怒鳴られた。「万引きだな! 待て!」
亜紀は自分が言われているのだと知って焦った。
「違います! 私、そんなこと――」
レジから駆けて来た男の店員は、亜紀の腕をつかんだ。
「痛い! そんなことしなくたって――」
「逃げるつもりだろ。そうはいかないぞ!」
「万引きなんかしてません!」
「じゃ、この本は何だ?」
そう言われると、亜紀にも分らないのである。この本が鞄に入っていた? そんな馬鹿なこと!
「私、知りません」
「知らないって、どういうことだ!」
「怒鳴らないで。ちゃんと聞こえます」
「何だ、開き直ったな。いい度胸してるよ、全く」
と、店員は苦々しい調子で言って、「学生証を出せ。学校にも家にも連絡してやる」
亜紀はギュッと唇をかみしめた。――他の客がみんな寄って来て見ている。
しかし、何もしていないのに、謝ったりする亜紀ではない。
「――亜紀」
と、ミカが言った。「どうする!」
「いいの。大丈夫」
と、亜紀は息をついて、「逃げも隠れもしません。知らせるならどうぞ。でも、私は本を盗んだりしていません」
「じゃ、奥へ来てもらおうじゃないか」
「行きますから、手を離して」
亜紀の強い口調に、店員は渋々手を離した。
「ミカ。悪いけど、手間どりそうだから、先に帰って」
「だけど……」
「うちへ電話しといてくれる?」
「――うん」
亜紀は店員に促されて店の奥へと歩いて行った。
ミカは|呆《ぼう》|然《ぜん》として見送ると、
「大変だ……」
と、|呟《つぶや》いた。
亜紀は、固い|椅《い》|子《す》にじっと背筋を伸ばして座っていた。
亜紀を引張って来た店員が苦い顔で腕組みをして立っている。――もう三十分近く、ひと言も言葉を交わしていない。
亜紀は、ともかく身に|憶《おぼ》えのないことを認める気にはなれなかった。確かにあの本は鞄の中から飛び出したようだった。けれども、自分は入れていない。
それを貫き通すしかない、と心に決めていた。
「――どうした」
と、ドアが開いて、小太りな、頭の|禿《は》げ上った男が入って来た。
あ、と亜紀は思った。――よくレジで本にカバーをかけている「おじさん」である。
「あ、店長」
店員がホッとした様子で、「こいつが、万引きの現行犯のくせに、どうしてもやってないと言い張るんですよ」
店長! この人が。――意外、と言っては気の毒か。
店長の方も、亜紀の顔を見てすぐに分ったようで、
「ああ、君……」
と言って、「本はどれだ?」
「この新刊です」
「私、万引きなんかしてません」
「お前に|訊《き》いてない!」
と、店員が怒鳴ると、
「大声を出すな」
と、店長がたしなめた。「ドアは薄いんだ。店へ筒抜けだぞ」
「だけど、頭に来ますよ! 警察へ引き渡しましょう」
「まあ待て」
と、店長は椅子を引いて腰をおろすと、「状況は?」
と訊いた。
店員が説明するのを、店長はじっと聞いていたが、
「――しかし、憶えがないと言うんだね?」
「そうです」
と、亜紀は言った。「私にも、その本がどうして|鞄《かばん》の中に入っていたのか分りません。でも、絶対に盗んでなんかいないんです。本当です」
「図々しい!」
「まあ、待て」
と、店長はなだめて、「いつも、文庫本を買ってってくれる人だね」
「はい。よく寄ります」
「憶えているよ。今どき、こんなに本の好きな子は珍しい、と思って|嬉《うれ》しかった」
と、店長は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「私、本が大好きです。でも、だからこそ盗むなんてこと、絶対にできません」
と、亜紀は力をこめて言った。
亜紀だって、内心はヒヤヒヤしている。
自分がいくら万引きした覚えはないと言っても、相手が信じてくれず、警察へ突き出されでもしたら、家や学校へ当然知れることになる。
その店長の穏やかな目が、今の亜紀の頼みの綱だった。
「妙な話だね」
と、店長が|肯《うなず》くと、
「今の子は|嘘《うそ》が上手いですよ」
と、店員の方は渋い顔をしている。「見逃したりすると、また調子にのってやりますよ」
「おい。お前は確かにこの本がこの子の鞄から飛び出すところを見たのか?」
「もちろんです!」
と、言ってから、「いえ――。飛び出すところは……たぶん……」
と、口ごもる。
「どっちだ。はっきりしろ」
「いや、見てなくても、こいつが自分でこの本を持って突っ立ってたんですよ」
「万引きした本を持って、ぼんやり立ってたのか! おかしいじゃないか。本当に万引きしたものなら、あわてて鞄へ戻すだろう」
店員はぐっと詰った。
「ですが……」
「君も、本が落ちているのを見ただけで、鞄から飛び出すところは見ていないんだね」
そう訊かれて、亜紀も改めて気付いた。
「ええ。見ていません」
「後ろから誰かに突き当られたと言ったね? 知っている人間じゃなかったかね」
「いいえ……。ゆっくり見たわけじゃありませんけど、たぶん……」
「その男が、突き当って鞄が落ちたところに、本を投げ出して行ったとは考えられないか」
亜紀は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
「もう十何年も昔のことだが、私が特に万引きを捕まえる係になって、店内を見張っていたことがある」
と店長は言った。「若い男が、あまり似つかわしくない本――たぶん、料理の本だったと思うが、それを一冊持って、女性客の後をついて回っているようだった。妙だとは思ったが、店内で本を持って歩いているだけじゃ、万引きとは言えない。私はずっとその若い男から目を離さなかった」
亜紀は、身じろぎもせずに、その話に聞き入っていた。
「――その女性客がレジに並んだ。すると、男は後ろから近付いて、持っていた料理の本をスッと女性のバッグへ滑り込ませたんだ。――びっくりしたよ。会計のとき、バッグから|覗《のぞ》いている本を店員が見付けて、それは何だ、ってことになった」
店長は首を振って「その女性はもちろん憶えがないと主張したがね」
「それで、どうなったんですか?」
と、亜紀は訊いた。
「ああ、むろん私が見ていたからね。その女性のしたことじゃないってのは分った。やった男の方はいつの間にか姿を消してしまっていたよ」
と、店長は言った。「その女性に若い男のことを話すと、どうやらしつこく付合ってくれとつきまとっていた|奴《やつ》らしくてね、断られた仕返しのつもりだったんだろう」
「怖いですね」
「しかし、私がそのときハッとしたのは、もし私がこの目で男のしたことを見ていなかったとしたら、きっとその女性は万引きしたという疑いを晴らせずに終っただろうということなんだ」
亜紀はゆっくりと肯いた。
「どうかね。君も誰かに恨まれる憶えがあるかい」
「さあ……」
亜紀は戸惑った。しかし、このところの父や母をめぐる出来事は、亜紀の知らないところで何が起ってもおかしくない気配である。
「――ともかく、今回は君の言うことを信じるよ」
と、店長が言った。
「ありがとうございます」
と、亜紀は礼を言ったが、捕まえた店員の方は不服な様子で、
「店長、本気ですか? 今の高校生なんて、嘘ぐらい平気でつきますよ」
「おい」
と、店長は穏やかだが厳しい目を向けて、「|一《いっ》|旦《たん》疑いをかけたら、その客を永久に失うんだぞ。それを|憶《おぼ》えとけ」
店員がムッとして黙ってしまう。
「――もう帰っていいよ。ご苦労さま」
「はい」
亜紀は立ち上って、「私、また来ます。いつも学校の帰りに寄ってるんですもの」
「そうしてくれると嬉しいよ」
「じゃあ……」
亜紀は店長へ頭をさげて、部屋を出た。
書店の明るさが、まぶしい。
店の中を抜けて行きながら、亜紀の胸は|爽《さわ》やかだった。あの店長が自分を信じてくれたことが、心から嬉しかった。
書店を出ると、
「亜紀!」
と、ミカが駆け寄って来た。
「あ、いたの?」
「当り前じゃない! 心配で帰れないよ。それで?」
「疑い、晴れた」
「良かった!」
と、ミカが胸に手を当てる。「どうしようかと思ったわよ」
「日ごろの心がけの良さがものを言う」
と、亜紀が事情を話して自慢すると、
「いい気なもんだ」
と、ミカは笑った。
「それにしても……。わざと誰かがやったとしたら怖いわ」
と、一緒に駅へと歩きながら、亜紀は言った。「人に恨まれる覚えなんてないけどな」
「美しすぎるのかもよ」
「そうか! 気が付かなかった」
二人は大笑いした。
――正直なところ、ミカは亜紀が「恨まれる覚えはない」と言ったとき、ドキッとしたのである。
自分自身、兄の健郎をめぐって、亜紀に対して複雑な感情を持っていたからだ。
むろん、それは「恨み」というほどのものじゃない。しかし、人は自分で全く気付かない内に、誰かに恨まれていることだってあり得るのだということ。――その考えはミカにとってショッキングなものだった。
お兄ちゃんは? 「血のつながっていない妹」のことを、どう思っているだろうか。
亜紀が足を止める。
「――どうしたの?」
少し先へ行って、ミカが振り向いた。「亜紀。何か――」
「どうして気が付かなかったんだろ!」
と、亜紀が自分の頭を|叩《たた》いた。
「何よ、突然?」
「ね、考えてみて。もし私に突き当った男が、わざとやったんだとしたら、その結果を確かめたいと思うでしょ?」
「ああ、そうね……。きっと」
「ということは、私が店の奥へ連れていかれたのを、どこかから見てたはずだわ。そして警察へ突き出されるとか、親が呼ばれるとか、何が起るか見届けようとするでしょう」
「つまり……」
「私があの書店を出て来たとき、その男はきっとまだ店の近くにいて、様子をうかがっていたはずだわ」
二人は顔を見合せ、急いであの書店の前まで駆け戻った。
「――もう遅いか!」
と、亜紀が息を弾ませて、「残念! もう少し早く気が付いてれば……」
「仕方ないよ。|嬉《うれ》しくてボーッとしてたんだもの」
「見付けたら、絶対許さない! 白状するまで、とっちめてやるのに……」
と、亜紀はため息をついて、「ともかく今日は帰ろうか」
「うん」
二人は駅の方へとまた歩き出す。
――亜紀の直感は当っていた。
人ごみの中へ紛れて、男が一人、二人の少女を見送りながら立っていたのである。
真昼の愛
「金倉さん、お電話」
呼ばれて、返事をするのに少し間があった。
「――ありがとう」
正巳は、電話を取った。「もしもし、金倉です」
――正巳は、周囲の目がチラチラと自分の方を向いていることに気付いていなかった。
「もしもし?」
「――どうも。いつもお世話様」
人を小馬鹿にしたような口調。正巳は、しかし怒りを覚える気力もなかった。
「何かご用ですか」
「お忙しいでしょうね。ちょっと出られます?」
「今、ですか」
「ええ、ほんの十分くらいでよろしいの」
C生命の浅香八重子――いや、ほとんど職業的な恐喝者と言ってもいいだろう。
正巳など、この女の前では蛇ににらまれたカエルみたいなものである。
「分りました。手短かに――」
「もちろんよ」
「どこへ行けばいいんです?」
「ビルの正面玄関へ出て下されば分るわ」
と、浅香八重子は言った。「じゃ、待ってますよ」
正巳は電話を切ると、
「ちょっと下へ行くよ。十分くらいで戻るから」
と言って席を立った。
――正巳がいなくなると、
「変よね、やっぱり」
「ノイローゼかなあ」
「でも、そんなに神経細い?」
と、遠慮のない意見が飛び交うのである。
正巳の方は、そんなことにはまるで気付かないまま、ビルの一階へとエレベーターで下りて行く。
一階で扉が開くと、危うく目の前に立っていた伊東真子にぶつかりそうになった。
「あら、お出かけ?」
「いや、ちょっと人に会うだけだ。すぐ戻るよ」
「そう」
真子が、チラッと正巳の後ろ姿を気にしていたが、急ぐ用を抱えて、エレベーターへ飛び込んだ。
正巳は、ビルの正面玄関を出た。
午後の日射しは、もうビルの谷間を影で充たしている。
どこにいるんだ、あの女?
正巳は左右へ目をやった。そして――ふと道の向い側に立っている女性に、目を止めた。
あれは? 誰だろう。
手を振ってる。――しかし――まさか!
コートをはおって、こっちへ合図しているその女は、どう見ても円谷沙恵子だった。
間違いない! 正巳は目を疑った。
沙恵子! 沙恵子!
正巳は、そのまま広い通りを渡ってしまいそうになった。
道の向うで、沙恵子があわてて止れ、と合図をする。それを見て、正巳はハッと足を止めた。
そのまま、|真《まっ》|直《す》ぐ沙恵子に向って駆け出していたら、まず間違いなく車にはねられていただろう。正巳はそう思い付いてゾッとした。
横断歩道。――そうだ、横断歩道。
「落ちつけ。落ちつけ」
自分にそう言い聞かせつつ、正巳は何とか横断歩道を渡って――信号が青になるまでが一年もかかったような気がしたが――沙恵子の所へ駆けつけた。
が――向い合ったものの、何をどう言っていいやら……。
「沙恵子――」
と、言ったきり、後が続かない。
「心配かけて、ごめんなさい」
沙恵子はしっかりした声で言った。
「大丈夫……か」
「ええ。自由にしてくれたの。あなたのおかげで」
「そうか。ともかく……良かった!」
抱きしめてやりたかった。しかし、いくら正巳でも、人目というものを気にしてしまう。
「立ち話じゃ……。どこかへ行こう」
「でも、お仕事中でしょ」
「いいんだ。ちゃんと、出かけると言って来た」
沙恵子が、正巳の足へ目を落とした。サンダルばきのままである。
正巳は頭をかいて、
「これじゃ出かけられないな」
と、苦笑した。「まさか君がここにいるなんて思わなかったから……」
「無理しないで。でも――もうずいぶん無理して下さったのよね」
沙恵子は涙ぐんだ。「私のせいで、とんでもない負担があなたに……」
「おい、泣くなよ。――待っててくれ。な? 今、ちゃんと着替えてくるから」
「だって――仕事中なのに」
「早退する。なに、一日ぐらい僕がいなくたって、どうってことないさ」
正巳は、沙恵子の肩をギュッとつかんで、「待っててくれ! いいね」
と、駆け出した。
社へ戻り、早退届を出して、急いで着替えをする。――届を出すといっても、自分が課長だ。
上着を着て、鏡を見ながら、ネクタイを締め直していると、
「課長さん」
と、課の女の子が呼んだ。「あの、ちょっと……」
「何だい? 急いでるんでね」
と、正巳は更衣室を出て、「明日にしてくれないか」
「でも……」
と、女子社員は当惑顔で、「今夜の会議、どうします?」
言われて、正巳はハッとした。
しまった! すっかり忘れていた。
今夜は得意先を交えての会議である。先方の都合を考えて夜に開くことになっていて、これにはどうしても出席しなくてはならないのだ。
しかし――沙恵子が待っている。
|俺《おれ》のために、あんなひどい目に遭った沙恵子が……。
正巳が心を決めるのに、数秒しかかからなかった。
「急病だと言っといてくれ」
そうだ。本当に急病や、けがをすることだって、ないことではない。――正巳はエレベーターへと|大《おお》|股《また》に歩いて行った。
正巳が行ってしまうと、女子社員は困ったようにため息をついた。
「――金倉さん、どうしたの?」
と、伊東真子がやってくる。
「あ、伊東さん! 課長、今夜会議なのに、早退届出して、帰っちゃったんです」
「今、行ったの?」
「ええ」
「私に任せて」
真子は、エレベーターのボタンを押したが、あいにく正巳の乗った以外は、上りである。真子は少し迷ってから、階段へと駆けて行った。
カタカタとサンダルの音が響く。
しかし、やはりサンダルで急ぐのは危なかった。転びそうになって、どうしても足どりは慎重になる。
やっと一階へ着いたときには、真子もさすがに息が切れていた。
玄関から出て、正巳の姿が見えないかと見回す。
ちょうど、道の向い側に正巳はいた。しかし、一人ではなかった。
円谷沙恵子だ。二人はタクシーを停めて乗り込むところだった。
止めるすべはない。――真子は、タクシーが走り去るのを、肩で息をつきながら、見送った。
――どうしちゃったんだろう?
円谷沙恵子と、何かあるのだ。あの様子は普通ではない。
「――伊東さん?」
そばで声がして、真子はゆっくりと振り向いた。
まさか……。でも、やっぱり!
「奥さん……。どうも」
と、真子は金倉陽子に頭を下げた。
「お久しぶり」
と、金倉陽子は|微《ほほ》|笑《え》んで、「変らないわね、少しも」
「そんなこと……。胴回りが大分変ってますわ」
と、真子は何とか笑顔を作った。
「どうしたの、息を切らして?」
「いえ、ちょっと……。急ぎの用があったものですから」
「あら、それじゃ、呼び止めて悪かったわね」
「いいえ、もうすんだんです」
陽子は、チラッとビルの方を見て、
「主人、いるかしら?」
「え、あの……」
真子は迷ったが、「今……今しがた外出されたばかりです」
「あら、そうだったの」
「何かご用が――」
「そういうわけじゃないんですけどね。|義《ち》|父《ち》の見舞の帰りなので、寄ってみたんです」
「ああ、大変ですね。ご病気とか」
「大したことがなくて、ホッとしてるんですけどね。――じゃ、これで」
「お帰りですか?」
「少し買物をしてから。病院って、疲れてしまうから、少し息抜きがしたいの」
「分ります」
と、真子は|肯《うなず》いた。
「あ、そうね。伊東さんもお母様が寝こまれてるんでしょ? 看護疲れで、あなたが倒れないように」
「ありがとうございます」
「じゃあ、ここで……」
陽子が会釈して立ち去るのを、真子はホッと息をついて見送った。
正巳が、円谷沙恵子と二人でタクシーに乗って行くのは、陽子の目に止まらなかったようだ。とりあえず、真子としては言いわけができて良かった。
しかし――こういうことは、いずれ陽子に知れるだろう。
真子は、そういえば奥さんもどことなく沈んだ様子に見えるわ、と思った。何か気が付いているのだろうか。
――仕事がある。
真子は、足早にビルの中へ戻った。
今夜の会議に出ないと、正巳は少々まずいことになるかもしれない。真子はそれを思うと気が重かった……。
陽子は振り向いて、伊東真子がビルの中へ入って行くのを見た。
あの人を困らせたくない。その思いが、陽子にああいう振舞いをさせたのだ。つまり何も気付かなかったというふりをさせたのである。
陽子は見ていた。ちゃんと、夫が若い女とタクシーに乗って行くところを。
陽子は、公衆電話で夫の会社へかけてみた。
「――金倉は早退いたしましたが」
という返事は、予期していたとはいえ、ショックだった。
夫が本当に「仕事で」外出したのなら、と思ったのだが、やはりそうではなかった。
タクシーに乗る二人の様子に、陽子はピンと来るものがあったのだ。それを確認しただけのことだった。
陽子はタクシーを停め、義父の入院している病院へ向った。――伊東真子には帰りだと言ったが、本当はまだこれから出向くところだったのである。
夫は忙しくて、そう毎日寄っていられないというので、今日、もし五時で帰れるようなら、待っていて一緒に行こうか、と思いついたのだった。
それが、たまたま今日でなかったら。あと二、三分遅かったら……。
ふしぎなものだ、と陽子は思った。そして、むしょうに円城寺に会いたくなった。
タクシーに電話がある。陽子は、ほとんど無意識の内にそれをつかんでいた。
円城寺は会議中だったが、
「金倉様ですね。お待ち下さい」
と、秘書らしい女性は言った。
「でも、お忙しいでしょうから……」
「お呼びしないと|叱《しか》られます」
と、笑って、「このままお待ち下さい」
本当に、十秒と待たずに円城寺が出た。
「――私です」
「どうも。どうなさってるかと思って――」
「会いたいんです」
と、陽子は言った。
少し間があって、
「いいですとも」
円城寺は簡潔に、「六時過ぎても?」
「構いません」
「じゃ、この前のロビーで」
二人の間では、「この前のロビー」で通じる。初めて陽子が円城寺と唇を重ねた場所である。
「はい。――必ず」
手短かな、でも必要充分な会話。
電話を切って、陽子はゆっくりと座席に落ちついた。
心も騒がなかった。ごく当り前のことに思えた。
自分の行動だけではない。夫がああして若い女と会っていること。それさえも、大したことではないような気がした。
義父の所に、それでも一時間くらいはいられるだろう。
亜紀は今日早く帰るのだったかしら?
でも、大丈夫。子供じゃないのだ。病院から電話を入れてみよう。
陽子の気持は、台風の翌日の空気のように澄んで、軽やかだった。
何か重苦しいものが、正巳の中に|淀《よど》んでいた。
暗く、どこかじめじめとした空気が二人を包んでいる。
夜じゃない。真昼なのだ。不自然な暗さだった。
「――何を考えてるの?」
正巳の腕の中で、沙恵子の暖かい体が動いた。
「いや、別に……」
「隠さないで」
沙恵子は正巳の胸に顔を当てて、「私を他の男がもてあそんだから……。もう触りたくないんでしょ?」
「馬鹿言うな! 僕を見損なわないでくれ」
正巳は本気で怒った。
「ごめんなさい……。そうね。あなたは本当にいい人だわ」
沙恵子は正巳の|頬《ほお》を指先でなぞると、「でも……」
「もうやめよう。戻れない所まで来てるんだから」
「あなたは戻れるわ。戻らなきゃ。ご家族があるのに」
「君を見捨てられるか」
「|嬉《うれ》しいわ……。でも、一体あの人たちにいくら払ったの?」
正巳は、仰向けになって天井を見上げた。
――ホテルの天井には、小さな明りが灯って、ホタルでも飛んでいるようだ。
「君は気にするな」
「そうはいかないわ」
沙恵子は体を起して、「借金したんでしょう?」
「僕の意志でしたことさ」
正巳は、沙恵子を抱きしめた。
――もう、戻れない。
正巳は今初めてそう感じていた。やがて、陽子にも知れるだろう。
正巳が家と土地を担保にして、金を借りたことが。
あの連中は、もともと正巳が金を返すことなど期待していない。奴らの|狙《ねら》いは、土地と家を手に入れることなのだ。
しばらくは大丈夫だろう。しかし――いつまで?
正巳は、沙恵子を抱く手に力をこめて、
「な……。二人で、どこかで暮そう」
と言った。
沙恵子がそろそろと顔を向け、
「今、何を言ったか、分ってるの?」
「うん」
「とんでもないこと言って!」
と、息をつく。「不可能だわ」
「なぜ?」
「だって――あなたには、家族も家もあるのよ。それを捨てるの?」
と、沙恵子は非難するように言った。
正巳はしばらく答えなかった。
沙恵子は、正巳が「答えられない」と受け取ったのか、
「そうでしょ? 馬鹿なことを考えちゃだめよ」
と、念を押した。「これ以上、あなたに迷惑はかけられない。でも、もうできてしまった借金は仕方ないから、私、ともかく少しずつでも、働いてお宅へ送金するわ。とても足りないでしょうけど、足しにして」
「沙恵子……」
「私なんかと|係《かかわ》り合ったばっかりに。――ごめんなさいね」
沙恵子は正巳にキスして、「今日限りで、私は姿を消すわ」
と言った。
正巳は頭を上げて、
「どこへ行くんだ?」
「分らないけど、あの連中の手の届かない所へ逃げるわ。どこか小さな町で名前を変えて、ひっそり暮していれば、大丈夫。それとも、都会の方が見付けにくいのかしら」
正巳は、沙恵子の裸の肩を|撫《な》でながら、
「――僕も行く」
と言った。
「もうやめて。嬉しいわ、気持だけで」
「そうじゃない」
と、正巳は首を振った。「そうじゃない」
「どういう意味?」
「もう、僕は家を捨てたんだ。――家も土地も、担保にとられた。とても返せない借金だ。どうせ、長くはいられない」
沙恵子は息をのんで、
「――ご家族はそのことを?」
「知らないよ、もちろん」
「大変なことを……」
「君を捨てておけなかったんだ。そうだろう? 君を助けるためだ。後悔はしてないよ」
沙恵子はギュッと正巳に抱きついた。息が苦しくなるほど、二人は唇を押し付けあった。
「――私、何をしてもあなたを食べさせてあげる。本当よ」
「僕だって働けるさ」
と、正巳は笑って言った。
「ああ! 愛してるわ」
「僕もだ」
二人は、それきり言葉をおさめて、ただひたすら肌を触れ合せていた。
いつしか、外も夜になり、部屋の暗さには追いついて来たが、二人とも、まだ外は明るいと思い込んでいた。
夜になったのにも気付かないほどだったのである。
正巳は、沙恵子の重みを受け止めながら、しばらく眠りに落ちた。少なくとも、夢は楽しいものだった……。
見舞客
「お|義《と》|父《う》さん」
陽子が声をかけると、金倉茂也はうっすらと目を開けた。
「――陽子さんか」
「いかがですか?」
と、陽子は|椅《い》|子《す》を少しベッドに近付けて、|訊《き》いた。「お弁当です。――塩分は控えめにしたので、薄味ですわ」
「|旨《うま》くないな、薄味なのは」
と、茂也は言って、「ぜいたく言っちゃいかんな。わざわざ作って来てくれたのに」
「そんな……」
陽子は、茂也がずいぶん穏やかな人柄になってしまったようで、少し寂しい気がしていた。
いつも頑固で、手を焼くこともあったのだが、いざもの分りがよくなると、心配してしまう。
「藤川さんは……」
「ああ、あいつはちょっと家へ帰ってるよ」
「そうですか。ずっとあの方に任せきりで、申しわけないみたい」
陽子は、弁当を小さなテーブルに置くと、「リンゴでもむきましょうか」
「ああ……。頼もうか」
「はい」
陽子は立ち上って、「ちょっと、手を洗って来ます」
と、ベッドから離れた。
すぐに戻ってリンゴの皮をむき始める。
茂也は、じっとその陽子の手を見ていたが、
「――正巳の|奴《やつ》、さっぱり来んな」
と言った。
「忙しいようで。それに、男の人には結構、病院って怖いらしいですよ」
と、陽子は笑った。
「陽子さん。――あの藤川ゆかりのことをどう思う」
「どうって……。お義父さんの方がご存知でしょ」
「うん……。しかし、こう寝込んじまっちゃな。よくそばにいてくれるよ」
「――どのくらいのお付合いなんですか?」
と、陽子は訊いた。
考えてみれば、藤川ゆかりについて詳しいことを訊くのは初めてである。
「一年ほどかな」
と、茂也は言った。「初めはどうってことじゃなかったんだ。本当だよ。それがある時から。――あいつなしじゃいられなくなり、大切な女だと思えるようになった」
「そうですか」
「分るかね」
分る。――そう答えかけて、ためらう。
円城寺のことが心にあった。それを知られそうな気がして怖かった。病人の直感は鋭い、と聞いていたからである。
陽子が返事をためらっているのを見て、金倉茂也は、
「みんなが私のことを心配してくれているのは、よく分ってるよ」
と、小さく|肯《うなず》いた。「や、ありがとう」
陽子のむいたリンゴをかじりながら、茂也はホッと息をついた。
「旨い。――冷えたリンゴか。こんなものを旨いと思うなんてな。人間ってのは変るもんだ」
「そうですね」
「私には、みんなの心配する気持も分るつもりだよ。しかし、私を|騙《だま》したところでゆかりには何の意味もない。一文の得にもならん。そうだろ?」
茂也は|微《ほほ》|笑《え》んで、「大した貯金があるわけでもないし、家や土地だって私のものじゃない。――確かにいくらかは私も金を出したが、土地にしたって、|狙《ねら》われるほどのもんじゃない」
「そんなこと考えていませんわ」
と、陽子は言った。「本当です。――少なくとも、私は藤川さんが損得でお義父さんのことをお世話されているとは思っていません」
「本当にそう言ってくれるのかね」
茂也は、じっと陽子を見つめた。
「ええ。――アパートを借りたいとおっしゃったときは、ふくれっつらをしたと思いますけど、許してください。まさかこんなこととは思わなかったんですもの」
「いや、そう言ってくれると……。|却《かえ》ってこっちが照れるよ」
と笑いつつ、茂也は|嬉《うれ》しそうだった。
「お義父さんも、初めからそうおっしゃれば良かったんです。好きな女性ができた、って」
「七十五にもなって? そう無理を言わんでくれ」
「再婚――なさるんですか」
「さあ……。生きて退院できりゃの話だが」
「何をおっしゃってるんですか!」
陽子は、ちょっと|叱《しか》るように言って、それから笑った。「ぜひ若返って下さいな。あの方、おいくつ?」
「今……確か四十だ」
「まあ! 私より二つも若い『お|義《か》|母《あ》さん』ですね」
「いや、まあ……。まだ、プロポーズといっても……。何となく二人でそう思ってるだけなんだ。いや、もしかしたら、あっちはそんなこと、思ってもいないかもしれん」
「まさか! こんなに親身になって面倒みませんわ。そのつもりがなければ」
「うん……。ま、たぶんね」
照れている茂也は、初めて見る顔だった。
陽子は、頑固な茂也を嫌いじゃなかったが、この「新しい茂也」もすてきだと思った。
茂也は、すっかり気が楽になったのか、陽子に藤川ゆかりのことをあれこれ話し始めた。
陽子は、義父の話に耳を傾けながら、自分の沈んだ心が少しずつ明るく、おもしを取り除かれるように軽くなってくるのを感じていた。
病室のドアが開いて、
「――あら」
当の藤川ゆかりが、大きな紙袋を抱えて入って来る。
「お|義《と》|父《う》さん、お待ちかねの方がみえましたから、私、失礼しますわ」
と、陽子は立ち上った。「お弁当を置いて行きます。よろしく」
「わざわざどうも」
と、ゆかりは深々と頭を下げ、「正巳さんはおみえになりませんか」
「主人ですか? 今、忙しいようで。――何か主人に伝えることでもありますか?」
「いえ、そういうわけでは――」
「入院費のことでしたら、私がやっておきますわ」
「ありがとうございます。まだ今月の分は来ていません。来ましたら、すぐご連絡します」
「よろしく。――じゃ、お義父さん」
陽子は会釈して、病室を出て行った。
――ゆかりは、
「リンゴをむいてもらったんですか? 手のかかること」
と、微笑んで言った。「――パジャマの新しいのを買ってきましたよ」
「何だ。どうせすぐしわくちゃになる。もったいない」
と、茂也は顔をしかめた。
「そういうものじゃありません。人は、身なりをきちんとしておくと、気持まで変ってしまうものなんです。人に見せて恥ずかしくない格好をするっていうのは、病気のときだからこそ、大切なんですよ」
「そうかな……。ま、お前に言われると、どうせいやとは言えんのだから」
「そうですよ」
と、ゆかりはパジャマの包みを開けて、「ちょっと体を|拭《ふ》きましょうね。熱いタオルで。――待ってて下さい」
ゆかりは立って、大きめのタオルをつかむと病室を出た。
給湯室へ行き、洗面器に熱いお湯を入れると、少し水でうめて、タオルを浸した。
「熱すぎるかしら……」
と、指で具合をみていると、
「ちょっと……」
と、背後で声がした。
「足音が大きいわよ」
と、ゆかりは言った。「病院の中だからね、静かにお歩き」
別人のように、厳しい口調だった。
「すんません」
大柄なその男は、ゆかりに叱られると、首をすぼめた。
いくら小さくなっても、大きい体そのものまでは変らないので、見ているとどこかユーモラスである。
藤川ゆかりは、タオルをキュッと絞って、
「ちょっと待っといで。じき戻るから」
と、その男に言った。
「はい」
男が廊下の隅へ|退《さ》がって行く。
ゆかりは|濡《ぬ》れタオルを手に、急いで病室へと入った。
「――さ、脱いで下さい。体を拭きますから」
と、茂也に言って、「早く早く、タオルが熱い内に」
と、せかせた。
「うむ……」
茂也は、渋々という様子で起き上った。
ゆかりも手伝うが、できるだけ一人で脱げるようにする。それが茂也のためでもあるのだ。
ゆかりは手ぎわよく茂也の体を拭いて、新しい下着をつけさせる。――ほとんどプロの手つきで、茂也はされる通りにするだけだった。
「さ、パジャマ」
と、ゆかりが包みから出したパジャマを着せる。
「うん、さらさらして気持がいい」
「でしょ? 少し面倒でも、こういうことはまめにした方がいいんです」
ゆかりは、茂也を寝かせると、「じゃ、今脱いだもの、洗濯して来ちゃいますからね。すぐ、戻ります」
「ああ。――ゆかり。お茶をひと口くれ」
「はいはい」
少し冷したウーロン茶を飲ませ、ゆかりは病室を出た。
チラッと廊下を見渡す。
看護婦の姿も近くにはなかった。
ゆかりが近付いて行くと、大柄な背広姿の男は|真《まっ》|直《す》ぐに背筋を伸ばして、
「ごぶさたしております」
と、頭を下げた。「奥様もお変りなく――」
「|挨《あい》|拶《さつ》はいいよ。それに今は誰の『奥様』でもないしね」
ゆかりは男を促して、廊下の一隅のベンチに連れて行った。
「達者かい?」
「はい、おかげさんで」
「私のおかげってことはないけどね」
と、ゆかりは笑った。「――タバコはやめな。病院の中じゃ禁煙だ」
「は、すんません」
男は、取り出しかけたタバコをあわててポケットへ戻した。
「それで、何か分ったかい」
ゆかりは、男のような口をきいた。
「どうも、あまりいい話は入って来ません」
男は手帳を取り出して開いた。「金倉さんのお宅ですが、土地も家も担保に入っています」
「何だって?」
「浅香八重子、ご存知ですか」
ゆかりは顔をしかめた。
「当り前だよ。あの、人の血を吸って生きてる、ヤブ蚊みたいな女、忘れたくても忘れられないさ」
「その浅香八重子が絡んでるんですよ」
男はニヤリと笑って、「今の身分は〈C生命〉の外交。つまり〈保険のおばさん〉ですな」
「何の保険だか」
と、ゆかりは苦笑した。「じゃ――あの正巳さんが借りてるの?」
「そのようです。もう少し調べると、もっと詳しいことが……」
「調べておくれ」
「はい」
「悪いね、あんたをこき使って」
「とんでもない! 奥様のためなら、何だってやります。おっしゃって下さい」
「――あの女がかんでるとなると、もっと荒っぽい手が必要かもしれないね」
「いつでも人手は集めます」
「出入りじゃないよ。でも、それくらいの覚悟は必要かもしれないね」
「しかし――」
と、男は初めてためらい、「あの金倉って年寄りと暮すおつもりですか」
ゆかりはチラッと男を見て、
「不服かい?」
「いえ、とんでもねえ! ただ――あの方は奥様のことを――」
「普通の未亡人だと思ってるわよ」
ゆかりは立ち上って、「あんまり遅くなると気にするからね」
「じゃ、また参りますんで」
「――|江《え》|田《だ》、あんたは頼りになるね」
「そうおっしゃられると照れます」
ゆかりは笑ってポンと男の肩を|叩《たた》き、足早に歩き出した。
――コインランドリーで、茂也の下着やパジャマを洗う。
三十分やそこいらはかかるので、|一《いっ》|旦《たん》病室へと戻って行くと、
「腹が減ったな」
と、茂也が言った。
「じゃあ、陽子さんの持って来て下さったお弁当を食べますか?」
ゆかりは打って変って、やさしい声になった。「いいお嫁さんがいて、幸せですね」
そばの|椅《い》|子《す》にかけると、ゆかりは、茂也に楽しげに食べさせてやるのだった。
本書は、平成九年十一月に小社より刊行されたカドカワ・エンタテインメント『くちづけ(上)』を文庫化したものです。
くちづけ(上)
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年8月10日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川文庫『くちづけ(上)』平成13年7月25日初版発行