角川e文庫
おやすみ、テディ・ベア(下)
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
第八章 王座の|誘《ゆう》|惑《わく》
第九章 禁じられた|初《はつ》|恋《こい》
第十章 苦い真実
第十一章 絶望への|跳躍《ちょうやく》
第十二章 |英《えい》|雄《ゆう》の|夢《ゆめ》
第十三章 |誘《ゆう》|拐《かい》計画
第十四章 小さな誤算
第十五章 さよなら、テディ・ベア
エピローグ
第八章 王座の|誘《ゆう》|惑《わく》
「おはようございます、社長」
店の|掃《そう》|除《じ》をしていた従業員が、|彼《かれ》に気付いて頭を下げた。
「きれいにしといてくれよ」
「はい。今日は店のほうは……」
「いつもどおりやる」
と社長は言った。「でなきゃ、|却《かえ》ってサツに目をつけられるからな」
「分かりました」
「その代わり、裏口は使うな。いいか、裏口のほうには|誰《だれ》も近付けるなよ」
「かしこまりました」
社長は、店の|奥《おく》の部屋へと入って行った。事務所があって、その奥に、会議室がある。いや、いつもはこのキャバレーの荷物置場になっているのだが、ここ三日の間に、すっかり片付けられ、今は、まるで大会社の重役会でも開けそうな、立派な長テーブルと|椅《い》|子《す》が|並《なら》べられていた。
彼は、入口に立って、部屋の中を見回した。それから、ゆっくりと奥へ歩いて行き、正面の席に座ってみる。
首をねじ曲げなくても、全部の席が|見《み》|渡《わた》せるのは、なんといい気持ちだろう。ここに座っていると、まるで、世の中が自分を中心に回っているかのような気になって来るのだ。
それは権力の実感、力を持つ者の|酔《よ》い心地であった。
長い間、彼が|憧《あこが》れて来た椅子である。しかし、序列は、彼がたとえその座につくことがあっても、それは何十年か先――彼が百|歳《さい》近くになってからのことであろうと告げていた。
待ちたくない。もう待つのはたくさんだ、と彼は思った。順番を待つのはごめんだ、力で、この椅子を|奪《うば》い取ってやる。ドアがノックされた。
「誰だ?」
「テツです」
「入れ」
テツが、なんとも似合わない背広姿で入って来る。
「準備は?」
「へい。持って来ております」
「よし。まだいいぞ。夕方になってからで|充分《じゅうぶん》だ。なにしろ会合は十時からだからな」
と社長は笑った。
あまり|余《よ》|裕《ゆう》のある笑いとは言えなかった。本質的に小心者なのである。
「――お前の女はどうした」
と社長が|訊《き》いた。
「はあ……。ずっとアパートへ|戻《もど》ってねえんで」
「そうか。何か気付いてるんじゃあるまいな」
「そんなこたあないです」
「それならいいが……。なにしろナオミを殺してるんだ。やけになって何をしでかすか分からねえぞ」
「どうも……ご|迷《めい》|惑《わく》をかけちまって」
「ナオミの死体は始末したし、まず知られる心配はねえ。万一、お前の女に自首でもされちゃ却って|面《めん》|倒《どう》だからな」
「それは……」
「ちょっと様子を見て来い。大事を取るに|越《こ》したことはねえ」
「はい!」
テツは急いで店を出た。
実のところ、テツは、ミチがガス自殺を図ったことをちゃんと知っていたのだ。
言い争ってミチのアパートを飛び出したものの、テツにとって、帰る所はない。後になってみれば、あんなに腹を立てたのは、自分のほうに後ろめたい気持ちがあったからだと分かるのだ。
アパートへ、こっそり戻ってみると、部屋には誰もいない。同じアパートの、あまり親しくしていなかった住人に訊いて、ミチがガス自殺を図ったと知った。さすがにテツも胸をつかれた。
しかし、テツとしては、今さら後に引くわけにはいかない。社長から、大事な仕事を|頼《たの》まれているのだ。
だが、ミチを捨てる気はなかった。|偉《えら》くなって、子分の二、三人も引きつれて、ミチをもっとましな部屋へよんで来るのだ。
ナオミを殺したことは、社長もそう|怒《おこ》っていないようだから、許してもらえるに|違《ちが》いない。
社長に言われて、ミチの様子を見に出たテツは、アパートへは向かわず、病院へと急いだ。――アパートの人から、入院した病院の名を聞いていたのだ。大仕事の日だ。すっきりした気分でぶつかりたい、と思った。
「――どうです」
と医師が声をかけて来た。
「あ、先生、どうも」
ミチのベッドのそばに座っていた由子は立ち上がって、「今日は割りといいみたいです」
と言った。
「そうですか。まあ、回復には時間がかかりますからね」
ミチは、ベッドに少し起き上がって、ぼんやりと自分の手を見つめている。
ガス中毒で、命は取り止めたが、脳に障害が出たらしく、ほとんど言葉を話せず、また言われたことにも反応しないのである。
「――元どおりになるんでしょうか?」
「さあ、|約《やく》|束《そく》できませんね――ショックによるものなら、何かの|拍子《ひょうし》で治ることがありますが……」
医師も、はっきりしたことは言えない様子だった。
医師が行ってしまうと、由子は、また椅子にかけて、ため息をついた。
別に、由子としては、ミチについていなくてはならない義務はない。しかし、生来のお人好しと、あのテディ・ベアを取り戻すのだという決意が、こうして、毎日、病院に通わせているのである。
それにしても、大学をさぼって、いつまでこんなことをやっていられるかしら、と由子は思った。
「――由子さん」
|振《ふ》り向くと、本条が立っていた。
「まあ! |嬉《うれ》しいわ。気がすっかり|滅《め》|入《い》ってたところよ」
と、由子が目を|輝《かがや》かせた。
「――相変わらずみたいですね」
「ええ。一向に何も分からないの」
「気の毒に」
と本条は、ミチの顔を|覗《のぞ》き込んだ。
ミチは、まるで本条を見ようとしない。
「私のほうにも、ちっとは同情してよ」
と、由子は言った。
「外で食事しましょうか」
と、本条が|微《ほほ》|笑《え》んだ。
由子は、本条と|一《いっ》|緒《しょ》にミチのいる病室を出た。
「――大学のほうはいいんですか」
「いいわ。社会勉強してるから」
と、由子は、ちょっと苦しい言い訳をして、「親は|歎《なげ》くかもね」
二人で外のハンバーガーショップへ入り、一時間ほど過ごして、病院へ戻って行った。
「テツって人のこと、何か分かって?」
と、由子は訊いてみた。
「まあ、要するに使い走りのチンピラのようですね」
「じゃ、たいしたことはやりそうにない?」
「分かりません」
と、本条は首を振った。「今、全然姿を見せてないんです。却って不安だな」
「ミチって子が入院してるのを知ってるのかしら?」
「さあ、どうでしょうね……」
|廊《ろう》|下《か》を行って、ミチのいる二人部屋のドアを開けた由子は、パタッと足を止めた。
ミチのベッドのわきに、背中を向けて座っている男……。由子は本条をあわてて|押《お》し戻すと、廊下へ出た。
「来てるわ!」
「え?」
「あの男よ! ぬいぐるみを|盗《ぬす》んだ……」
「本当ですか?」
「まず間違いないと思うわ」
「よし……。ともかくその辺から見張っていましょう」
「――どうする? ここで取っ|捕《つか》まえるのは、まずいでしょ」
「そうですね。ともかく今はぬいぐるみを持ってないでしょうから、まず、今どこに住んでいるかとか、何をしているのかとか、その辺を調べるほうがいいでしょう」
「じゃ、後を|尾《つ》ける?」
「できますか?」
「馬鹿にしないで!」
由子は本条をにらんだ。
「――あれかな?」
「そう! 間違いないわ!」
と、由子は言った。
テツという男は、沈んだ様子で出て来ると、廊下を力ない足取りで歩き出した。
「だいぶショックのようね」
「いくらかは人間らしいところがあるんですねえ」
「――背広姿ね。何かあるのかしら?」
「|似《に》|合《あ》いませんね」
実際、まるで背広はテツに合っていないのである。それがまた、どことなく、|物《もの》|哀《がな》しいのだった。
「あのぼんやりしている様子なら、|尾《び》|行《こう》も楽だ。行きましょう」
と、本条が|促《うなが》す。
二人は、テツの後を尾けて歩き出した。
テツは病院を出ると、何を思ったのか、通りがかりの店へ飛び込んで、酒を冷やでグイグイと飲んだ。
そして、また歩き出した。
あの男が、ぬいぐるみへと案内してくれる。由子は尾行しながら、胸が高鳴るのを覚えていた。
「テツか。|遅《おそ》かったな」
社長は、テツが入って来るのを見て、言った。「――どうだった、あの女は?」
「それが……」
テツは言いかけて、ためらった。
「どうした? まずいことでもあったのか」
と社長は、ちょっと|苛《いら》|立《だ》った様子で言った。
自分の野望が|叶《かな》えられるかどうかというときに、余計な|邪《じゃ》|魔《ま》が入るのはごめんだ、と思っていた。
「いえ……そういうわけじゃ……」
「なら、どうしたんだ? 元気がないぜ」
「実は……あいつ、ガスで自殺しようとしたんです」
とテツは言った。
「ふーん。死んだのか」
「いいえ。でも――全然分からないんです。|俺《おれ》のことも。口もきかねえし、話しかけても、まるで分かんねえみたいで……」
「そうか。それなら死んだも同じじゃねえか」
社長はホッとして、「何も言わねえってのはいいことさ。おい、そろそろ仕度にかかれよ」
テツは、ゴクリと|唾《つば》を|呑《の》み|込《こ》んだ。せめて「気の毒だな」の一言ぐらい、言ってくれたっていいじゃないか、と思ったのである。
初めて、テツは社長に反感を覚えた。
「何してる? ぐずぐずするんじゃねえ!」
「へい」
テツはあわてて、会議室を出た。店のほうへ行こうとすると、笑い声が|響《ひび》いていた。
社長の子分たちだ。テツは、あまり顔を合わせたくなかった。あれこれからかわれるからだ。
今に見てろ。あの|爆《ばく》|弾《だん》で男を上げてみせらあ!
しかし、男を上げて、そして誰にそれをいばって見せるのか。――ミチが、もう何も分からない、生きた死人のようになってしまった今となっては、もうテツの出世を喜んでくれる者はいない。
テツは、あんなに|喧《けん》|嘩《か》をし、派手にやり合って、「うすのろ」だの、「|間《ま》|抜《ぬ》け」だのとののしったミチが、自分にとって、いかに大切な女だったかを、胸を|締《し》めつけるような痛みとともに|悟《さと》っていた。
あの病室で、|虚《うつ》ろな目でじっと自分の手を|眺《なが》めて、いくらテツが呼びかけても、|瞼《まぶた》すら動かさないミチを見たとき、テツはワーッと叫び出したいような思いに|捉《とら》えられたのである。
俺のせいだ。俺が、ミチをこんなふうにしたんだ。そう思うと、テツは思い切り自分を|殴《なぐ》りつけてやりたくなった。
「――テツの女、死んだって?」
と、子分たちの話が耳に入って、テツは首をすくめた。
社長に言われた、例の爆弾の準備をしなくてはならないのだが、出て行きにくくなってしまった。
「死んじゃいねえようだぜ。ガスで死のうとして助かったって話だ」
と他の一人が言った。
「死んで惜しいほどの女でもねえや、あのときは結構良かったけどな」
「無理矢理やっちまうときは、どんな女だっていいもんだぜ」
笑い声が上がった。――聞いていたテツは、混乱して来た。いったい何の話だ? どうしてこいつらがミチの話を……。
「そういや、ナオミの姿が見えねえな」
社長の子分たちの話は続いている。
「どこかへ行ってるって話だけどな」
「えらく突然じゃねえか」
「親分に見限られたかな」
「気の強え女だったな。――例のテツの女をやったときに、包丁持って飛び出して来やがって、|仰天《ぎょうてん》したぜ」
「ああ、俺も|驚《おどろ》いた。どうしてあんなに、むきになったんだ?」
「知るかい、そんなこと。きっと気が|狂《くる》ったんだろうぜ」
――テツがいくら|鈍《にぶ》くても、話の中身は、少しずつ頭の中へ入って来た。
この連中が、ミチをやったのだ。それも、どうやらあのナオミのマンションでのことらしい。
そうか!――ミチは俺を探しにあのマンションへやって来た。そこでこいつらに捕まったんだ。
ナオミは、止めようとして止められなかったか、でなきゃ出かけていたのかもしれない。怒ってこいつらに包丁を振り回した……。その後でミチはナオミを刺したのだ。あのとき、ミチが見慣れない服を着ていたのは、こいつらに引き|裂《さ》かれたから……。
テツは体中が|震《ふる》え出して、止められなかった。この連中へ飛びかかって行っても、勝てるはずがない。
テツはよろけるような足取りで、裏口へと歩いて行った。外へ出ると、その石段に座り込んでしまった。
「|畜生《ちくしょう》……畜生……」
|呟《つぶや》きが|洩《も》れた。
|涙《なみだ》がとめどなく|頬《ほお》を流れた。ミチにそんなひどいまねをしやがるなんて!
きっとあの社長だって、すべてを知っているんだ。だからこそミチがどうしているのかを気にしてやがったんだ。
「あの野郎!」
と、テツは|拳《こぶし》を振り回した。
ふと、目の前に立った|人《ひと》|影《かげ》に、顔を上げる。
「――あなた、私から|盗《と》ったぬいぐるみをどこにやった?」
あの女だ。テツは肩をすくめた。
「知らねえや」
「ねえ、聞いて、あれを何に使う気か知らないけど、それでミチって子が良くなると思うの」
テツはギクリとした。
「どうしてミチのこと、知ってるんだ!」
「私があの人を助けたのよ。例のアベック|喫《きっ》|茶《さ》でアパートを訊いて、訪ねて行ったの。そしたら、ちょうどガスで……」
テツはじっと由子の顔を見つめた。
「じゃ……あんたか、ミチを入院させてくれたのは」
「ええ、ずっとそばについてて、今日、あなたを見かけて尾けて来たの」
テツは目を|伏《ふ》せた。由子が続けた。
「ミチさんについてるのはあなたの役目よ。あなたがついてて、話しかけていてあげれば、彼女、良くなるかもしれない」
「でも……みんな俺のせいなんだ」
「今からだって遅くないわよ!」
テツは、ゆっくりと顔を上げると、|肯《うなず》いた。
「分かった。――ぬいぐるみを返してやるよ……」
「本当に返してくれるの?」
由子はホッと息をついた。
「うん。その代わり、|頼《たの》みがあるんだ」
「なに?」
テツはちょっと迷ってから、言った。
「あれとよく似た他のぬいぐるみを探して来てくれねえか」
「他の?」
「ああ、|失《な》くしたなんて言えねえからな」
由子はテツの顔を見つめた。――どうやら|嘘《うそ》をついてごまかそうというつもりではないらしい。
「いいわ。でも時間をくれないと」
「俺だって、取ってくるのにちっとはかかる。――じゃ、三十分したら、ここへ来てくれ。待ってるからよ」
「三十分ね……」
その間に、代わりのぬいぐるみを見付けられるだろうか? しかし、他に手はない。
「分かったわ。なんとかする」
と由子は肯いた。
「三十分か。厳しいですね」
少し|離《はな》れて待っていた本条は頭をかいて、
「しかし、こうしちゃいられない。手分けしてオモチャ屋を探して買って来ましょう」
「でも……本条さんは見たことないんでしょ、あのぬいぐるみ」
「|熊《くま》のぬいぐるみなんて似たようなもんでしょう。じゃ、由子さんはあっちに――」
「分かったわ。じゃ二十五分したら、ここで」
由子は手当たり次第の商店へ飛び込んで、
「この辺にオモチャ屋さんはありませんか?」
と訊いて回った。
意外にオモチャ屋というのは少ないものだと分かったのが、まあ成果といえば成果だった。
やっと見付けた|一《いっ》|軒《けん》で一つ、それからスーパーの大型店の中のオモチャ売場で一つ、二つかかえて、二十五分後に戻ってみると、まだ本条は戻って来ていない。
「どうしたのかしら……」
とじりじりしながら待っていると、
「どうも、遅くなって――」
と本条の声。
由子は|唖《あ》|然《ぜん》とした。本条が両手一杯に馬鹿でかい紙包みをかかえてやって来るのだ。
「本条さん、それは?」
「いや、どれくらいの大きさのぬいぐるみか訊くのを忘れてたんで、あらゆる大きさのを一とおり買って来たんです」
「|呆《あき》れた! 高かったでしょう?」
こんな場合ながら、由子は笑い出してしまった。「ともかく、近いのを二つ持って行きましょう。比べてみて、似てるほうを選ぶわ」
あの裏口へ行ってみると、テツが、ぬいぐるみを手に座り込んでいる。
「ごめんなさい!――このどっちが似てるかしら」
由子は、一方を選んでテツに渡すと、
「じゃ、確かに」
と、ぬいぐるみを受け取った。
「いろいろありがとう、ミチのこと」
とテツが言った。
「いいのよ。病院に行ってあげてね」
「うん。――あとは俺が面倒みるよ」
テツが、いとも|殊勝《しゅしょう》な顔で肯いた。由子はぬいぐるみをかかえて、本条の待つ場所へと戻った。
「何をぐずぐずしてやがる!」
社長が|怒《ど》|鳴《な》った。
「すみません」
テツはペコンと頭を下げて、「持ってきました」
とぬいぐるみをテーブルに置こうとして、「アッ」と手を|滑《すべ》らした。ぬいぐるみが床へ落ちる。
「危ない!」
社長があわてて机の下へ|這《は》いずり込んだ。
「だ、大丈夫か……」
「大丈夫のようです」
テツはヒョイと拾い上げた。
「気を付けろ!」
社長は立ち上がって、汗を|拭《ぬぐ》った。
「すみません」
テツは笑いをこらえて謝った。
これがただのぬいぐるみと知らずに、あわてふためく社長の様子は、なんともこっけいであった。
「どこに置きます?」
「その|棚《たな》の上だ」
テツは椅子の上に上がって、洋酒を並べた棚の上にぬいぐるみを座らせた。
「そこに×印があるだろう。そこにちゃんと置くんだ」
「はい」
「よし。――それでいい」
「いったいどうするんです?」
「その反対側の|壁《かべ》に覗き穴がある。そこからその人形を|狙《ねら》い|撃《う》つんだ」
「社長も死んじまいますよ」
「俺はちょっと用があって、外へ出ているって寸法だ」
社長はニヤリと笑って、「おい、テツ。お前はどこかへ消えてろ」
「消える……というと?」
「お前がぬいぐるみをかかえているのを、誰かに見られてるかもしれねえ。少し身を|隠《かく》してろってことさ」
テツは、社長の言葉の裏を、簡単に読み取ることができた。つまり、すべてテツ一人の罪にしてしまうつもりなのだ。そして社長はたまたま爆弾の|被《ひ》|害《がい》を|逃《のが》れて、テツはたぶん消される運命なのだろう。
「分かりました」
「ご苦労だったな。戻って来たときは、幹部だぜ」
社長はテツの|肩《かた》をポンと叩いた。これで、ありがたく思えというわけだ。
テツは裏口から表へ出た。そろそろ暗くなりかかっている。行く先はもう決まっていた。ミチのところだ。あいつのそばについていてやるんだ。
テツが歩き出した|頃《ころ》、店の表玄関に、車が一台横づけになった。運転手が後ろのドアを開けると、|小《こ》|柄《がら》な老人が降り立った。
「どうも――」
社長が、急いで|駆《か》け寄った。「お早いお着きで……」
「時間に遅れないのが人間として第一の|約《やく》|束《そく》事だよ」
この小柄な老人が、社長のはるか上に君臨する大ボスなのである。
「さ、どうぞ」
社長の先に立って店へ入って行く。
社長は、大ボスの老人を、会議室へと案内した。
「どうぞ、あちら正面のお席へ」
「うむ……」
「何かお飲み物をお持ちしましょう」
「頼む。ジュースにしてくれ。アルコールはもういかん」
「かしこまりました」
社長は急いで部屋を出た。――始まったのだ! もう後戻りはできないぞ。
店の人間にジュースを出せと言いつけて、社長は調理場へ入って行った。
「――準備はいいな?」
|散弾銃《さんだんじゅう》を手にした男が肯く。
「これでやりゃ、間違いありません」
「よし。ここで待ってろ」
社長は会議室へと戻った。
「ただいますぐに――」
ドアを閉めて、そう言いかけた社長が、言葉を呑み込んでしまった。
ボスの老人が、あのぬいぐるみを目の前に置いて眺めているのだ!
「あ、あの――」
「やあ。|可《か》|愛《わい》いな。――ぬいぐるみが好きでな、私は。あの|棚《たな》にあったんで、ちょいとおろして来たんだ」
「そ、それは――ほんの安ものでして――」
「ぬいぐるみってのは、高いのは高いなりに、安いのは安いなりにいいもんさ。作った人間が分かる。――そこがいいところだ」
と、ぬいぐるみを手に取って、「こいつはなかなかいい顔をしてるぞ」
と言った。社長は冷や|汗《あせ》をそっと拭った。
「さ、さようで……」
「こいつはもらって行って構わんかな?」
「どうぞ、もちろんでございます」
「ありがとう」
と、老人は微笑んだ。「私には孫というものがなくてな。|寂《さび》しいから、ぬいぐるみを集めておる」
「何でしたら、後でお送りしますが。そいつは|埃《ほこり》で|汚《よご》れてますから」
「汚れてるところがいいんだ。いかにも可愛がられたって感じがしてな。――こいつはいい、気に入った」
「はあ……」
どうしたらいいだろう? 思いもかけぬ事態で、社長は|途《と》|方《ほう》にくれてしまった……。
「ええ? まさか!」
「いや、本当ですよ。ほら」
本条は、ぬいぐるみの腹を開いて見せた。
「それじゃ……これはただのぬいぐるみ?」
「そうです」
「|騙《だま》されたんだわ! あのテツって人に!」
由子はガックリ来た。テツの様子は、とても人を騙すように見えなかったが。
「その男にもう一度会う必要がありそうですね」
「でも、どこにいるかしら? まさかあの店にのこのこ入ってはいけないし……」
「あの店で使うんでしょうね。――仕方ない。僕が行きますよ」
「でも――」
由子は目を丸くした。「何されるか分からないわよ!」
「仕方ありません。|犠《ぎ》|牲《せい》|者《しゃ》を出したくないですからね」
本条は事もなげに笑った。
「これであらかた議題も片付いたようだな」
と老人が言った。
小柄で、一見したところ、どこといって変わったところはないのだが、その|穏《おだ》やかな声は、部屋によく通って、テーブルを囲んだ顔役たちの耳に届いている。
ただ一人、ろくに話が聞こえていなかったのは、社長だった。
あの老人が、まだぬいぐるみを|抱《だ》いているのだ。――畜生! これじゃどうにもならねえ!
「他に何か話はあるか」
と、老人が言って、ゆっくりと居並ぶ顔を見回した。「なきゃこれまで、ってことにしよう」
畜生! 絶好のチャンスだったのに!
社長は立ち上がると、言った。
「皆さんお|疲《つか》れでいらっしゃいますでしょう。今、飲み物をお出しいたしますので」
「そいつはありがたい」
と老人が言った。「ちょうど|喉《のど》が|乾《かわ》いたところだ」
「すぐに用意いたしますので」
社長は、会議室を出ると、店の人間を呼んで、「みんなの飲み物を訊いて来い」
と言いつけ、|隣《とな》りの部屋に入って行った。
「――どうなってんです?」
散弾銃を手にした部下が、待ちくたびれた顔で立っていた。
「低い声でしゃべれ!――まさかあんな|薄《うす》|汚《ぎた》ないぬいぐるみを欲しがるとは思わなかったんだ」
「どうします?」
社長は、覗き穴から、そっと会議室を見た。
「――いいか、帰るときを狙うんだ」
「というと……」
「あの年寄りがぬいぐるみをかかえて、出口のほうへ歩いて来る。必ず、この穴の正面を通るに決まっているんだ。その一瞬を狙ってぬいぐるみを撃て!」
「そいつは難しいですぜ」
「仕方ない。それしか方法はないんだ」
「もし……しくじったら」
「もう一発で、ともかくあの年寄りだけでも仕止めるんだ」
「他の連中が|黙《だま》ってますかね」
「自分の命が大切だろうからな」
「しかし、やばい仕事ですぜ」
「なんとかやるんだ。一千万出すから、どうだ」
「分かりました」
散弾銃を|握《にぎ》り直して、「なんとかやりましょう」
「任せたぞ」
社長は肯いて見せ、部屋を出ようとして振り向くと、「後でテツを消すのも忘れるんじゃないぞ」
と言った。
その頃、キャバレーの入口を、少し離れて見ていたのは、本条と由子だった。
「だめよ、あんなところに入っちゃ」
と、由子が言った。
「しかし、あそこで、爆弾が爆発したら、それこそ大変だ」
「だって……ああいうところは風紀が悪いわ」
そう言って、由子は赤くなった。そして、いきなり本条にキスした。
本条は、由子にキスされて、ちょっとびっくりした様子だったが、すぐに由子の体に|腕《うで》を回して、抱きしめながらキスを返した。
「――のんびりラブシーンなんかやってる場合じゃないんだけど」
と言って、本条は笑った。
「ごめんなさい……」
「何も謝らなくたっていいです」
「私が行くわ、あの店」
「あなたが?」
「ホステスに|雇《やと》ってくれって入って行けばいいわ」
「だめですよ! とんでもない」
「だって、中に入れば、あなただってホステスのお|尻《しり》にさわったり――」
話が爆弾からそれて来ている。
その頃、奥の会議室では、飲み物が出ての歓談が少し続いた後、
「そろそろ私は失礼するよ」
と老人が立ち上がっていた。
「ああ、みんなまだいい。残って話をしていてくれ。――私は少々疲れた」
うまいぞ! 社長は、立ち上がると、
「今、お車のほうを」
と、ドアを開けて先に出る。
チャンスだ! 一人で帰るというのだからあのぬいぐるみを抱いて、覗き穴の正面を通るはずだ。頼むぞ。
廊下を進んで、角を曲がると、社長は足を止めて、様子をうかがった。
隣りの部屋では、散弾銃の安全装置が、そっと外されていた。覗き穴の小さな窓を少し開く。そこへ銃口をのせて、銃を構えた。
会議室の側からは、棚の奥になっているので、まず気付かれる心配はない。
「じゃ、また会おうな」
と、老人は言って、ゆっくりと机の外側を回って歩いて行く。
ぬいぐるみは、後生大事に、老人の胸にかかえ込まれていた。
「来いよ……さあ来い……」
銃を構えた男が呟いた。老人の姿が視界に入った。息をつめて、引き金に指をかける。
「――おっと」
老人は足を止めた。|靴《くつ》の|紐《ひも》がほどけたのだった。「仕方ねえな。ああ、いいよ、自分で結ぶ」
老人は、ぬいぐるみをテーブルに置くと、靴のほうへかがみ込んだ。
ぬいぐるみだけが銃口の真正面に座っていた。――あれだ。要するにあれをぶっ飛ばせばいいのだ。
これで当たらなきゃ不思議だぜ。男は引き金を軽く|絞《しぼ》った。
キャバレーの表では、もめた挙句、由子と本条が一緒に入ろうと決めたところだった。
「アベックでキャバレーに入るんですか?」
「入っちゃいけないって法律でもあるの?」
「いや、そりゃあありませんけど――」
「じゃ、いいわよ。喫茶店と間違えたって言えば」
「ここを喫茶店と?」
と本条が言ったとき、バン、と何かが|弾《はじ》けるような音がした。
散弾銃が発射されると、ぬいぐるみは一瞬のうちにボロきれとなって飛んだ。そしてその瞬間に、社長の野望も、ボロきれとなって吹っ飛んだのである。
「――今の音、爆発かしら?」
と由子が青くなった。
「いや、あんな音じゃ済みませんよ。あれはせいぜい|鉄《てっ》|砲《ぽう》の音だ」
と、本条が言った。「しかし何かあったのは間違いないな」
悲鳴が聞こえて、キャバレーから、客やホステスたちが次々に飛び出して来た。その悲鳴に混じって銃声が二発、三発と聞こえて来た。
「危ない、由子さん、|逃《に》げてください! 僕は中へ入ってみる」
「いやよ、そんなこと。私も行く!」
押し問答している|暇《ひま》はない。二人は開け放された入口から中へ入って行った。テーブルや椅子が引っくり返って、|床《ゆか》は、ビールやウイスキーの海になっていた。
「あれ――」
と、由子が上ずった声で、指さしたのは、そのビールの海の中に倒れている男だった。散弾銃を手にしている。背中には、銃で撃たれたものらしい|痕《あと》が、二つ、はっきりと見てとれた。
「死んでる……」
さすがに由子も青くなっている。
「戻りましょう」
本条は由子を促して、キャバレーを出た。
「いったい何があったのかしら?」
「さあ、きっと、暴力団同士の喧嘩みたいなもんでしょう」
「あのテツって人は……」
「さあ、あそこにいたのかどうか」
と本条は首を振った。
「ねえ、ちょっと病院へ行ってきましょうよ」
「病院?」
「そう。あの、ミチって子のところ、もしかするとあそこにいるかもしれないわ」
由子は、本条の腕を取って歩き出した。
一方、テツは、アパートへ戻って来ていた。
ミチの|着《き》|替《が》えや、それに金もいる。――ガス自殺|騒《さわ》ぎがあったので、戻りにくかったが、そんなことも言っていられない。
部屋は散らかしたままで、ひどいものだった。
テツは、必要なものを|風《ふ》|呂《ろ》|敷《しき》にくるむと、部屋の中を片付け始めた。ミチと|同《どう》|棲《せい》していた間、一度だってこんなことをしたことはなかったのに……。
ドアの開く音がした。
「はい」
と振り向いたテツの顔が|凍《こお》りついた。
「社長……」
「おい、テツ、やってくれたな」
社長は、|髪《かみ》を振り乱して、いつものダンディの面影はなかった。手に、|拳銃《けんじゅう》を構えている。
「貴様……でたらめ言いやがって」
社長は部屋へ上がって来た。「あれは、ただのぬいぐるみじゃねえか!」
「当たり前さ。|交《こう》|換《かん》したんだからな」
テツは言い返した。
「なんだと……」
「ミチの奴を、あんなふうにしたのは、あんたの手下どもだぞ! あんたも知ってたんだろう!」
「あんな頭の空っぽな女の一人や二人がどうしたってんだ!」
「ミチの|奴《やつ》はな、頭は空でも心があるんだ!」
テツは|叫《さけ》んだ。社長なんか、もう|怖《こわ》くもなかった。
「テツ……貴様、よくも俺の恩を忘れて……」
と社長は|怒《いか》りで青ざめながら言った。
「何が恩だ、笑わせんじゃねえや!」
一度言ってみると、ポンポン言葉が飛び出して来る。「ちょっと|小《こ》|遣《づか》いよこして、女を抱かせたぐらいで恩着せがましく言いやがって! どうせ今度の件が済みゃ、俺を消す気だったんじゃねえか!」
社長がたじろいだ。
「貴様、どうしてそれを……」
「やっぱりそうか。それぐらい|馬《ば》|鹿《か》でも分からあ。俺は馬鹿だけどな、お前と違って、ちっとは度胸があるんだぞ」
「な、なんだと? この野郎、撃つぞ!」
社長が拳銃を握り返した。もちろん、テツだって撃たれるのは好きではない。だから内心は怖かったのだが、いったん|虚《きょ》|勢《せい》を張った以上押し通すほかはない。
「ああ、撃てるもんなら撃ってみやがれ」
「言ったな、こいつ……」
撃たれる、とテツは思った。撃たれたら痛いかな。しかし、ミチは入院してあんな様子になっちまったんだ。
その|罰《ばつ》に、少しは痛い思いぐらいしなきゃならない。――少しでいいんだけど。
テツは、ふと、社長が震えているのに気付いた。拳銃を構えてイキがっているけれど、その実、ガタガタ震えている。拳銃も細かく動くので、一向に銃口が定まらないのである。
テツは笑い出したくなった。この|臆病《おくびょう》者め! 怖くて撃てないのだ!
「なんだ、どうしたい? 撃たねえのか?」
テツはフンと鼻で笑って、台所のほうへ歩いて行くと、包丁を持って来た。
「おい……何する気だ!」
「社長さん、あんたの手下にミチはひどい目にあわされたんだぜ。その責任を取ってもらおうじゃねえか」
「なんだと?」
「さあ、ここで指をつめろ!」
テツは包丁を|畳《たたみ》にドンと突き立てた。社長は飛び上がる。拳銃を持っていることを忘れてしまったかのようで、
「おい……テツ、そんな無茶を……」
と、なだめにかかった。「俺は知らなかったんだ。なあ、ともかく悪かった。謝るよ、だから……」
「だったら、その銃を捨てな」
「あ、ああ――これか」
社長は拳銃を放り出した。「俺は……だめなんだ。自分じゃ、人を殺したり傷つけたりできない。血を見るのが怖いんだ。――なあ、テツ、|勘《かん》|弁《べん》してくれ」
「だめだ!」
テツは拳銃を拾うと窓のほうへ立って行って、表に放り投げた。「さあ、俺の前で指をつめろ!」
「お、俺は……逃げてるんだ。急ぐんだよ。やりそこなっちまったんで、追われてる。じゃ、もう帰るよ」
勝手に押し込んで来て、帰るもないものだが、社長はこそこそと出て行こうとした。テツは包丁をぐいとつかむと、
「この野郎!」
と社長の腕に切りつけた。刃は、ほんのわずか、手をかすったが、大体がろくに|研《と》いでもいない包丁である、ちょっと傷つけただけだった。
「ワーッ!」
社長が悲鳴を上げた。
「かすり傷だよ」
とテツは言ったが、社長のほうは、傷のついた手をかかえ込んで、
「痛い!――助けてくれ!――痛い!」
とわめきながら、廊下へよろめき出て行った。
テツは|呆《あき》れて、
「付き合いきれないよ」
と呟くと、荷物をかかえて、アパートを出た。
社長がアパートの表でうずくまって|呻《うめ》いている。テツは通りすがりに、
「早く逃げないと殺されんじゃないの?」
と声をかけた。
「そ、そうだ……」
社長は、バネ仕掛けの人形よろしくピョコンと立ち上がると、一目散に駆けて行った。テツは思わず吹き出していた。
病院へ着いたときは、もう面会時間を過ぎていて、テツは裏の夜間受付へ回った。
「――ちょっと」
と暗がりから声がかかる。
「え? ああ、あんたか」
由子が待っていたのだった。
「――あれが|偽《にせ》|物《もの》?」
由子の話を聞いて、テツはびっくりした。「それじゃ……最初っから、あれは爆弾じゃなかったのか!」
「あなたがどこかへ隠したんじゃないの?」
「冗談きついぜ。あんなもん、頼まれたっていやだよ。あのぬいぐるみは、俺があんたから取り上げたやつなんだ。間違いないよ」
由子は半信半疑の様子で、
「その包み、何なの?」
と訊いた。
「これか? ミチの奴の着替えさ。なんなら中を調べてくれよ」
テツは夜間受付へ声をかけて、中へ入ると、廊下に置かれた長椅子の上で、風呂敷包みを開いた。
「さあ、見てくれよ、これがパジャマにこれがパンツ、これが――」
「分かったわよ、しまってよ!」
赤くなりながら、由子は言った。「あなたを信用するわ」
「ああ、ミチの奴にちっとは恩返ししなきゃなんねえものな」
と、テツは、いきいきとした表情で言った。
「私もちょっと彼女の様子、見ていっていい?」
「うん、もちろんだよ。――明日からは仕事探すんだ。なんでも構わなきゃ、働き口なんてあるもんだよな」
由子は、微笑みながら、肯いた。もう大丈夫だ。この男は、二度とあんな世界へ戻ることはないだろう。
――病室へそっと入って、ミチのベッドのわきへ行く。テツは、ミチの上にかがみ込んだ。そのとき――ミチが目を開いた。そして、テツを見ると、ごくわずかだが、笑ったのである。目の光は、はっきり、意識が戻りつつあることを示していた。
「ミチ! 俺が分かるのか? 分かるんだ! 分かるんだな! ミチ! この野郎! 心配させやがって!」
テツが、ワンワン大声を上げて|泣《な》きながらミチを抱きしめた。由子は涙ぐみながら病室を出た。|眠《ねむ》っていたのを起こされた他の患者たちが、いったい何事かと目を丸くしていた。
第九章 禁じられた|初《はつ》|恋《こい》
「あなた……。ちょっとお話があるの」
妻に|真《しん》|剣《けん》な顔でこう言われると、たいていの|亭《てい》|主《しゅ》はギクッとするに|違《ちが》いない。
時間は夜の十二時。子供はすでに|寝《ね》|入《い》って、夫婦だけの時間である。こんなときに、
「お話が……」
などと言い出すのは、たいていろくなことではない。
大手の電機メーカーの販売部に勤める安藤|恭《やす》|夫《お》も、妻の|雅《まさ》|代《よ》にそう言われて、ちょっと|逃《に》げ腰になったのであった。
|疲《つか》れて|眠《ねむ》いんだから、また聞くよ、といつでも言えるように、わざと|欠伸《 あくび》をしてから、
「何だ?」
と|訊《き》いた。
「|恒《つね》|代《よ》のことなんだけど」
「恒代がどうした」
安藤も少し話に関心を示した。恒代は十六|歳《さい》の高校一年生、下に、中学一年の弟、|恭治《きょうじ》がいる。しかし、どうしても親の関心は、病弱な恒代のほうに向けられがちなのである。
「様子がおかしいのよ」
と、雅代が言った。でっぷりと太って、やせてのっぽの夫と好対照である。しかし、いかにも「母親」を感じさせる、豊かな胸をしていた。
恭治が、小学校のとき、社会見学で牧場へ行き、帰って来てから、
「ママより大きなオッパイ初めて見たよ」
と報告したことがある。
「恒代が?――どこか悪いのか」
「そうじゃないらしいの。ただ……変なのよ」
「それじゃ、さっぱり分からん」
「なんだかぼんやり考え|込《こ》んでいることが多いの。以前はそんなことなかったのに、ちょっと前に言ったことをすぐ忘れたり、ろくに聞いてなかったり……。それに学校へもよく忘れ物をするのよ。以前はそんなことなかったわ」
「ふーん」
父親としても、心中|穏《おだ》やかでない。「やっぱり体のほうから来ているんじゃないのか? 疲れやすくて、ついぼんやりしてしまうとか――」
「でも、この間の検査では、何でもなかったのよ」
恒代は心臓が弱い。先天的なもので、小学校を出るまでもつかどうか、と言われたのである。しかし、自然の回復力のおかげで、|辛《かろ》うじてここまでは、ごく|普《ふ》|通《つう》に近い生活をして来ていた。
|激《はげ》しい運動は禁じられているし、月に一度は心電図をとりに通わなくてはならないのだが、それ以外はどこといって変わりのない高校生だ。
それでも、親としては、ちょっとでも様子がおかしいと、気が気でなくなるのだ。
「もう一度病院に――」
と、安藤が言いかけたとき、急に居間のドアが開いて、恒代が入って来た。
「――まあ、どうしたの、まだ寝てなかったの?」
と、雅代が言った。
パジャマ姿の恒代は、目をこすって、ニッコリ笑うと、言った。
「今、初恋の最中だから、なかなか寝つけないの」
「初恋……」
安藤と雅代が、異口同音に|呟《つぶや》いて、|愕《がく》|然《ぜん》とした。
恒代は、クスッと笑って、
「やあだ。私だって十六よ。初恋なんて今じゃ小学生ぐらいでみんな済ませてるんだから」
「だけど恒代――」
「ご心配なく。初体験はまだだから」
恒代はそう言って欠伸をした。「少し眠くなったわ。――トイレに降りて来たら、パパとママの話が聞こえたの。だから、病院に引っ張ってかれちゃかなわないから、話しとこうと思ったのよ」
恒代はドアのところで軽く頭を下げて、
「おやすみなさい」
と、ややオーバーに|挨《あい》|拶《さつ》をして出て行ってしまった。
残った安藤夫婦は、顔を見合わせた。
「お前、どうして気が付かなかったんだ?」
と安藤が言った。
「あら、私が悪いっていうんですか?」
「母親だろう。|娘《むすめ》が初恋中ぐらい分からんでどうする!」
「そんなことまで分かるはずないでしょ!」
やや声が|荒《あら》くなって来たが、そこはぐっと|押《おさ》えて、
「しかし、恒代も初恋をするとしになったか……」
と、安藤が|感《かん》|慨《がい》深げに言った。
「本当ねえ……」
「相手は|誰《だれ》だ?」
「知らないわよ」
「調べてみようか。もしいい男なら、早速|婚《こん》|約《やく》させて――」
「|馬《ば》|鹿《か》ね。放っておくのが一番いいのよ」
と、雅代は言った。「心臓じゃない、〈心〉のほうのハートには、親だって立ち入れないわ」
「しかし……恒代は純情だからな。悪い男にひっかかるかもしれん」
両親は、あれこれと心配しているが、その実、もっと直接の危険に娘がさらされているとは、思ってもみなかったに違いない。
――二階の自分の部屋に戻った恒代は、|棚《たな》の上のテディ・ベアに、
「おやすみ、クマちゃん」
と声をかけた。
その|熊《くま》に|爆《ばく》|弾《だん》が仕込まれていることなど、恒代も、両親も知るわけはない。
明かりを消そうとして、恒代はふと手を止めた。机の引出しをそっと開けると、中から、オルゴールを取り出した。|蓋《ふた》を開くと、|鈴《すず》をはじくような音で、〈禁じられた遊び〉が流れる。恒代は中から、五、六通の手紙の|束《たば》を取り出した。
〈安藤恒代様〉という|宛《あて》|名《な》の|封《ふう》|筒《とう》。恒代は、一番上の一通を中から|抜《ぬ》いて、手紙を出し、広げた。
〈恒代様。
君の清純そのものの|魅力《みりょく》に参っている男の子です。こう書いてもびっくりしないでください〉
手紙は、ていねいな、上手な字で書かれてあった。
恒代はもう暗記している。初めてもらったラブレターである。これを受け取ったときは、|驚《おどろ》き、ある|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》で読んでいたのだが、早々に逃げ出してしまった。それくらいの|新《しん》|鮮《せん》な|響《ひび》きだったのだ。
ただ問題は、差出人が分からない、ということだった。
翌日の朝、恒代はいつになく早起きして来た。あまり寝起きはいいほうではないのだが。
早々に朝食を済ませると、
「まだ早いんじゃないの?」
と、雅代が言うのにも構わず、さっさと家を出た。
恒代は割合近くの私立女子高に入っていた。一応電車に乗るが、ほんの一駅であり、そこから学校は目の前だ。
「――恒代!」
駅を出たところで、呼びとめたのは、同級生の|山《やま》|崎《ざき》|法《のり》|子《こ》だった。
「あ、おはよう」
「早いのね、今朝は!」
「今朝だけみたいじゃないの、それじゃ」
と恒代は笑いながら言った。
二人は学校へ通う|並《なみ》|木《き》|道《みち》をぶらぶらと歩いて行った。時間は|充分《じゅうぶん》あるので、気が楽だった。まだ通学する学生も少ない。並木道は、あまり|人《ひと》|影《かげ》がなかった。
「そういえば、最近、ときどき恒代、えらくご|機《き》|嫌《げん》になるわね」
「そう?」
「そうよ。何か秘密があるんでしょ」
「教えたら秘密でなくなるわ。だから|黙《だま》ってるの」
「またあ!」
と、法子がふざけて、「もったいぶっちゃって、こいつ」
とからかった。
恒代は明るく笑い声を立てた。実際、こんなふうに笑うのは幸福の|証拠《しょうこ》である。
二人が、並木道を歩いて行くと、|突《とつ》|然《ぜん》、目の前に、少年たちが五、六人、行く手を|塞《ふさ》いだ。少年といっても、十八歳ぐらいにはなっているかもしれない。
「おい、金置いてけよ」
と一人がチェーンを|振《ふ》り回しながら、言った。
「早くしな」
と他の二人。
恒代と法子は顔を見合わせて、
「お金……そんなにないわ」
と法子が言った。
「あるだけでいい!」
少年のほうも|苛《いら》|立《だ》っている。いつ誰が来るか分からないのだから、当然だろう。
「法子!」
恒代は一歩前に出た。「お金なんか、やることないわよ」
「恒代……」
「おい、ずいぶんでかい口たたく|奴《やつ》だな」
と、一人が近付いて来た。「命は惜しいんだろ」
「命? どうせもう長くないのよ。そんな人間殺して殺人犯になるの、馬鹿らしくない?」
「長くないだって?」
「そう。心臓悪くて、せいぜい一年の命よ。顔色悪いでしょ」
「ああ……」
「こんな病人のものをかっぱらうなんて、ひどいことじゃないの」
相手の少年たちは、すっかり恒代に|押《お》され気味。
「よし、じゃ行っていいぞ」
と、その不良学生のリーダーらしい男が、言った。
むしろ|年《ねん》|齢《れい》的には十七歳ぐらいに見える。やや童顔のせいもあるのだろう。
「さあ、行けよ」
と、恒代と法子を|促《うなが》す。
「じゃ、失礼」
と恒代は法子の手をつかんで、「行こうよ、法子」
と、歩き出す。
「――ああ生きた心地しなかった!」
校門を入ると、法子が息を|吐《は》き出した。「でも恒代……どうしちゃったの?」
「何が?」
「あんなに|凄《すご》い度胸あるなんて、知らなかったわ」
「人間、やけになると強いわ」
と、恒代は明るく笑った。
「でもさ……そんなに悪いの、心臓?」
「今までどおりよ。ということは、良くないってことなの」
「すぐにどうこうってわけじゃないんでしょ?」
「さあ……。よほどのことがない限りね。でも、|急激《きゅうげき》なショックなんかが来たら分かんないわよ」
「ショック、って……精神的なこと?」
「両方ね。急激な運動とか、失恋とか、さ」
恒代は楽しげに言った。
教室には、まだ数人しか来ていない。法子が他の子のところへ行っておしゃべりを始めたのを見て、席についた恒代は、そっと机の中を探った。
これも心臓に悪いことの一つだ。たちまち|鼓《こ》|動《どう》が早まる。――あった! 今日もあった!
恒代は、手紙をそっと取り出した。いつもの封筒、そして、〈安藤恒代様〉という宛名の字。どれもまったく同じだ。
昼まで待つつもりだったが、待ちきれない。急いで封を切る。――少し長い手紙だった。
〈恒代さん、体の具合はどうですか〉
と、手紙は書き出して、いつものとおり、恒代への愛の想いを書きつづっている。
そして、またいつものとおり、差出人の名はなかった。
いったい誰の字だろう? 恒代には|見《み》|憶《おぼ》えがない。いくら考えても、分からないのである。
もう一つ、分からないのは、ここが女子校なのに、なぜ、教室の中に手紙を入れることができるのかということだ。――差出人は女の子かもしれない。
これまでに来た手紙の中で、〈|僕《ぼく》〉とか、〈男として〉といった文があるし、文字も男っぽいが、わざとそう書いていることも考えられる。
ともかく、恒代にとっては、この週一回の定期便が、いかに心を軽く、一日を明るくしてくれていることだろう。そのうちにきっと、この手紙を書いた男性が現われる、と恒代は信じていた。
「恒代」
と、十五分ほど|遅《おく》れてやって来たクラスメイトが、声をかけて来た。「これ預かったよ」
と、小さな包みを|手《て》|渡《わた》す。
「誰から?」
恒代は、包みを受け取って|戸《と》|惑《まど》った。
「知らない男の子」
「男の子?」
「そう」
「どんな子?」
「なんだか、ちょっと不良っぽい子よ。で、『これ、心臓の悪い女の子に渡してくれ』って。恒代のことでしょ」
「ああ……」
どうやら、さっき恒代と法子にからんで来た不良たちのリーダーらしい。「分かったわ。ありがとう」
「ぐれてるけど、ちょっといいわね、あの子」
とクラスメイトの女の子は、軽くウインクして見せた。
恒代は、あの不良学生の顔を思い出そうとした。――が、良く憶えていないのだ。|漠《ばく》|然《ぜん》とした印象は、悪くなかったのだが。
何をくれたのだろう?――びっくり箱か何かでドキッとするのもあまり心臓に良くないのだが。
恒代は包み紙を破って、目を見張った。そして、吹き出してしまった。
それはビタミン|剤《ざい》だった。
「やあ」
下校途中に、恒代は声をかけられた。
「あら、あなた――」
「今朝会った。憶えてるか?」
例の不良学生のリーダーである。
「ええ。お薬くれたの、あなた?」
「うん。ともかく、元気になる薬をよこせって薬局の奴をおどかしてやったんだ。どうだい? もうちょっと顔色を良くしなきゃな」
「気をつかっていただいて、どうも」
と恒代は言った。
「なあ、ちょっとお茶飲むの、付き合わないか」
「禁じられてるの」
「いいじゃないか。見付かったら、|俺《おれ》が無理に引っ張ってったと言やあ済む。――いいだろ?」
思いがけず、その男の子は、顔を赤くしている。照れてるんだ、と思うと、恒代はおかしくてたまらなかった。
どうやら、そうワルでもないらしい。
「じゃ、いいわ」
と恒代は|肯《うなず》く。「その代わり、条件があるの」
「言ってみろよ」
「もし先生に見付かったら、変にごまかさないで、私が謝るから、あなたは口を出さないで」
「しかし――」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。私のこと、先生方は知ってるから、|叱《しか》られてもたかが知れてるの」
「変わってんな、お前」
と、その男の子は笑って、「俺の名前は|忠哉《ちゅうや》だ。本当の名前だぜ」
「忠哉か」
「そう。がっかりしたような声を出してるじゃないか」
「割りと|平《へい》|凡《ぼん》だなって思ったの。本当はもっと凄い名前かと思ってたわ」
と、恒代は言って、「さ、行きましょう」
と促した。
不良学生のリーダーにしては、忠哉というその男の子は、一風変わっていた。
いや、リーダーになるだけのことはある、と言うべきかもしれない。
人目につきにくい、小さな喫茶店に入ると恒代はしばらく忠哉とのおしゃべりに我を忘れた。こんなことは|滅《めっ》|多《た》にない。自分ながら、驚きであった。
「――病気、そんなに悪いのか」
少し話が途切れたとき、忠哉が言った。
「あら、心配してくれるの?」
と、恒代は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「気になるんだ」
「――まあ、いつバタンといってもおかしくないんじゃない? でも、無理しなきゃ大丈夫」
「人間無理しないで生きてられりゃいいけどな」
「本当ね」
と恒代は笑った。「でも、今はね、割りと元気なんだ、これでも」
「何かわけでもあるのか」
「恋してるから」
「へえ」
忠哉はちょっと目を|伏《ふ》せて、「俺のことじゃない……よな?」
恒代はびっくりした。
「ええ?――だって、あなたとは今朝会ったばかりよ」
「俺は今朝会って、お前のこと、好きになっちまってんだ」
恒代は、忠哉の目をじっと受け止めた。
「ありがとう……。|嬉《うれ》しいわ、とっても。でも……」
「いいんだ」
と、忠哉は|遮《さえぎ》って、「俺はこんなふうな不良だから」
「違うの。そうじゃないわよ。ただ……もう好きな人がいるから……。いる、っていっても、相手が分かんないんだけど」
忠哉は|当《とう》|惑《わく》顔で、
「何だい、それは?」
と訊いた。
恒代は、机の中に入れられている手紙のことを話した。――自分でも、不思議だった。どうして、そんなことまで、今日会ったばかりのこの人に話すのかしら?
誰かに話したい、という気持ちがあって、そこに忠哉が現われた、というのが正確なところだったのかもしれない。
「――ふーん」
と忠哉は肯いた。
「ね、ちょっと面白いでしょ」
「面白くねえや。こっちは|失《しつ》|恋《れん》だぞ」
「あ、そうか」
二人は|一《いっ》|緒《しょ》に笑った。
「なあ、その相手、俺が調べてやろうか」
「え?」
「知りたけりゃ、だけど」
「そうね……」
恒代は考え込んだ。
なんだか知るのが|怖《こわ》いような気もする。しかし、知らずにいるのは、寂しい。
「じゃ、お願いするわ。手紙の主を探して」
「よし、任せとけ」
と、忠哉は言った。
「もう帰らなくちゃ」
と、恒代は言って、立ち上がった。
「そうか。じゃ、何か分かったら、朝校門の前で待ってる」
「よろしくね。でも――無理しないで。学校へ行くんなら、そんな手紙の差出人探しなんて、放っといていいから」
「俺なら学校を放っとくよ」
と忠哉は言った。「先に出てな。一緒でないほうが、先生にでも見られたとき、いいだろう」
「そうね。じゃ、お茶代」
恒代はちゃんと自分の分の代金を|払《はら》って、先にレジのほうへ歩いて行ったが、何を思ったのか、クルリと回れ右して|戻《もど》って来た。
「ね、一緒に出ましょ」
「見付かったらやばいだろう」
「友だちと一緒に歩くのが、どうしてやばいの?」
忠哉は笑い出した。
「OK。じゃ一緒に出よう」
二人は、手をつないで、表へ出た。
「少し、歩く?」
と、恒代が訊いた。
「俺は夜中に帰ったって構わないけど、お前、困るんじゃないのか」
「オーバーね。そんなに歩いてどこまで行く気?」
二人は軽い笑い声を上げた。
恒代は、不思議だった。こんなに気楽にしていられる相手は、女の子の中にだっていやしない……。
二人はぶらつきながら、小さな公園のほうに歩いて来たが、忠哉がふと足を止めると、
「ちょっと――悪いけど」
急に恒代から|離《はな》れて、|口《くち》|笛《ぶえ》を|吹《ふ》きながら、歩き出した。恒代が|呆《あっ》|気《け》に取られて見ていると、向こうから、同じくらいの年齢の、やはり不良グループらしい三人連れがやって来た。そして忠哉に気付くと、
「あ、兄貴!」
と一斉に頭を下げる。
「おい、どうなった、ケンの奴?」
と、忠哉が、恒代と話しているときとは別人のような、ドスの利いた声を出す。
「なんとか視力は戻りそうだって……」
「そうか。あんまり馬鹿な|喧《けん》|嘩《か》するなって言っとけよ」
「はい。失礼します」
「ああ」
三人組が行ってしまうと、忠哉はホッと息をついた。
「――忠哉君」
と、恒代は歩み寄りながら、「かなり|偉《えら》いのね」
「ごめんな。女の子と歩いてたりしているの見られるとまずいんだ」
「私が先生に見られてもいいと思ってるのに」
恒代はちょっと忠哉をにらんで、「傷ついたわ、少々」と言って微笑んだ。
二人はまた歩き出した。
「――喧嘩は年中なの?」
「この辺、大きなグループが二つあってな、そのうち、結着をつけなきゃならない」
忠哉の真剣な言い方に、恒代はハッとした。
忠哉と知り合って、二日後のことである。恒代は家へ帰って来ると、いつものとおり、二階の部屋へ上がろうとした。
「恒代」
母親の声が、呼び止めた。「ちょっといらっしゃい」
「――何か用?」
恒代は居間へ入って行った。母の雅代が、いつになく深刻そうな顔をしている。
「今日、先生がみえたのよ」
「先生って、どこの?」
「担任の先生よ」
「え? |河《かわ》|原《はら》先生?――何の用で?」
「恒代、あなた不良と付き合ってるんですって?」
恒代は言葉もなく、テーブルの上に置かれた写真を見つめていた。忠哉と二人で、手をつないで歩いている写真。
「この男の子、|札《ふだ》つきの不良で、乱暴者だってことよ。どうして知り合ったの?」
と雅代が訊く。
「私……一度会ったきりよ。二度かな。でも話をしたのは一度きり」
「この写真のとき」
「そうよ。――誰がこんな写真……」
「分からないらしいわ。河原先生のところへ送って来たんですって」
どこの誰がそんなお節介を、と恒代は|猛《もう》|烈《れつ》に腹が立ったが、じっとそれを|抑《おさ》えて、
「別に特別親しいわけじゃないわ」
と言った。
「それならいいけど……」
雅代はちょっと安心した様子だった。
「ともかく、こういう子と付き合ってると、ろくなことはないからね――」
話の途中で、|玄《げん》|関《かん》から、
「ただいま!」
と恭治の声がしたので、雅代は話を切り上げた。
「お腹空いた! 何か食べるもんない?」
中学一年の恭治だが、発育がいいので、もう姉を追い|越《こ》しそうな勢いである。
「食いしん坊」
と、居間を出ながら、恒代はからかった。
「へーんだ。自分だって」
と恭治がやり返す。
自分の部屋へ入ると、恒代は腹が立って、|鞄《かばん》を放り投げた。本当に、世の中にはお節介な人間がいるものだ。
写真まで|撮《と》られているということに、恒代は|薄《うす》気味悪いものを感じた。たまたま通りかかった人間が、カメラを持っていたなどということがあるだろうか。誰かが自分の後をつけ回しているのか。恒代は、机の前に座ったものの、一向に勉強する気にもなれない。
自分の|小《こ》|遣《づか》いを持って、本屋さんへ行って来る、と声をかけ、表に出る。何か、面白い本でも買って来て、気晴らししなきゃ、と恒代は足を早めた。
ふと、追いかけて来る足音に、恒代は振り返った。
十六、七の、ちょっとぐれた感じの少年である。
「何か用ですか?」
「恒代さんってんでしょ?」
「ええ」
「忠哉の兄貴が会いたいって……」
恒代は戸惑った。
「急に会いたいって言われても……」
と恒代はためらった。
たった今、忠哉とのことで母親に注意されたばかりではないか。
「何の用かしら?」
と恒代は、使いに来たらしい、その少年に言った。
「さあ。ともかく伝えてくれって。すぐが無理なら、明日の帰りに、この間の公園に来てくれないかって」
「この間の公園ね。――分かりました」
「良かった!」
少年がホッとしたように笑って、走り去った。
そういえば、忠哉には、あの不思議なラブレターの差出人を探してくれと|頼《たの》んであるのだった。こっちから頼んでおいて、会いにも行かないなんて、失礼すぎるだろう。
明日の帰り。――恒代は、なんとなく心楽しくなって、本屋の代わりに、なんかアクセサリーの店にでも行こうかな、と思った。
恒代に、「忠哉からの伝言」を伝えた少年は、道の角をヒョイと曲がって、
「行って来ましたよ」
と言った。
「本当に忠哉の奴の彼女なのか?」
と訊いたのは、学生服姿の、頭を丸く|刈《か》り上げて、ゲタばきの高校生だった。
ボタンは外したままだし、どう見ても|秀才《しゅうさい》には見えない顔だった。タバコを出してくわえると、
「ちゃんと明日の帰りだって言ったな?」
「言いましたよ。来るって言ってました、大丈夫ですよ」
「よし。忠哉の奴、思い知らせてやる」
と、いまいましげに呟いて、よっぽど|恨《うら》みがあるのか、ギュッとタバコをかみ切ってしまった。
「おやすみ、テディ・ベア」
と、恒代は言った。
爆弾を|抱《だ》いた、このぬいぐるみは、今、もうひとつの悲劇を見つめようとしていた。
恒代はパジャマ姿で本を手にベッドへ入った。
眠るとき、ときどき怖くなることがある。心臓が、急に弱り切って、二度と目を覚まさないのじゃないか、と考えると、怖くて|眠《ねむ》れなくなるのである。
だから、本でも持ち込んでそれを読んでいるうちに、自然に眠くなって、いつしか眠り込むというふうにもって行くのだ。
それでも時には、夜中に目が覚めて、急に胸苦しくなってハッとすることがある。このまま死ぬのか、と思う。
でも……幸い、今までは順調にやってきた。せめて、本当の恋をして、それから死にたい。――恒代は、そんなことを考えていた。
本を開いて、間もなく、眠気がさして来た。本をそばへ置いて、スタンドを消す。ウトウトとまどろんで、そのまま眠りに落ちようとしたとき、突然、体が|揺《ゆ》さぶられるような、異様な感覚に|襲《おそ》われた。いや――本当に揺れている。|地《じ》|震《しん》だった。
かなり長く続いた。本棚がミシミシ音を立て、|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》がカチャカチャと鳴った。
やっと静かになった。――ホッとしたとき発作が恒代の心臓へと襲いかかって来た。
赤いランプ。サイレン。白衣の人々。
かつぎ上げられ、何かに乗せられて、天井が流れるように|滑《すべ》って行く……。
「恒代! しっかりして!」
お母さんの声だ。
「大丈夫だ。もう大丈夫だぞ」
父親の声もする。
すべては断片の|記《き》|憶《おく》だった。そして、恒代の意識が戻ったとき、目の前は真っ白な|天井《てんじょう》だけだった。
病院の|匂《にお》いだ。もう慣れっこなのだが、いつまでたっても、好きにはなれない。
ゆっくりと頭をめぐらすと、母親の顔が見えた。疲れているのか、|椅《い》|子《す》に座って居眠りをしている。
起こすこともないだろう、と恒代は思った。
六人用の病室で、窓から光が一杯に射し込んでいる。他のベッドも大体|埋《う》まっているようで、おしゃべりの声や、誰かがかけるラジオの音が聞こえていた。
雅代が、ガクッと頭を垂れた|拍子《ひょうし》に目を覚ました。そして、恒代が目を開いているのに気付いて、
「まあ、起こせば良かったのに!」
と微笑んだ。「どう?」
「うん。大丈夫。――発作、ひどかったのかな」
「そう……かなりね。でも、もう落ち着いてるのよ」
「もう長くないんじゃない?」
「馬鹿なこと言わないで!」
叱りつけるように言って、「食べて元気を出さなきゃ。お腹空いたんじゃない?」
「そうね……」
と、恒代は言った。「何か果物でも……」
「買って来てあげるわ」
と、立ち上がる。
「待って。――今、何時頃なの?」
「二時過ぎよ」
「私が発作を起こしたのは――ゆうべでしょう?」
「そうよ。何かあるの?」
「ちょっと……今日、帰りに友だちと|約《やく》|束《そく》してて」
「それなら大丈夫よ。学校のほうにも|連《れん》|絡《らく》はついてるから」
「そう」
「じゃ、すぐ戻るからね」
母親が行ってしまうと、恒代は、目を閉じた。まさか、母に代わりに忠哉と会ってもらうわけにはいかないし……。
仕方ない。元気になってから、説明すれば分かってもらえるだろう。もし、元気になればの話だけれど……。
所在なく天井を|眺《なが》めていると、
「恒代!」
と声がして、山崎法子が入って来る。
「法子!」
「どう?」
「ありがとう」
こんなときの友だちほどありがたいものはない。恒代は法子の手を|握《にぎ》った。
「授業一時間早く終わったのよ。何か欲しいものない?」
「別に……」
と言いかけて、「ね、法子。ちょっと頼まれてくれない?」
と、恒代は法子のほうへ身を乗り出した。
「――じゃ、恒代、あの男の子と会ってるの?」
山崎法子は、恒代の話に驚いて訊き返した。
「会ってるったって、そんなに付き合ってるわけじゃないわ」
と恒代は言った。「でも、そんなに悪い人じゃないのよ。私の病気のこと、心配してくれて……」
「ふーん。ドラマチックじゃない。不良学生のリーダーと病気の少女なんて」
「何よ、人のことだと思って」
恒代は笑いながら言った。
他人が言えば腹の立つことでも、笑い飛ばしてしまえるのが、友だち同士の、良いところである。
「――ねえ、いいかしら」
と、恒代は、法子に、自分の代わりに、あの公園へ行ってくれと頼んだ。
「いいわよ。あのときの男の子ね。顔見りゃ思い出すと思うわ」
法子は快く肯いた。
そうしている間に、恒代の母親が戻って来る。法子は、
「それじゃ、もう行かなきゃ」
と立ち上がった。
「じゃ、お願いね」
と、恒代は言った。
「任せといて」
法子は病室を出て行くと、母親が、
「何をお願いしたの」
と訊く。恒代は軽く、
「ちょっと勉強のこと」
とごまかしておいた。
「そう……」
母の雅代は、|曖《あい》|昧《まい》に肯いて、買って来た果物を取り出し始める。
恒代の心臓はかなり悪くて、おそらく手術しなければならないこと、手術しても、助かる率はおそらく半分以下、といって、手術しなければ、次の発作のときに危ない、と言われているのだ。
まさに、今の恒代は、|断《だん》|崖《がい》の上に立っているようなものなのだった。当人は何も知らずに飛びはねている……。
つい涙ぐんで、雅代はあわてて顔をそむけた。だが恒代のほうは、法子が|巧《うま》く忠哉に会えるかどうか、そればかりが気になって、一向に母の様子には気付かないのだった。
山崎法子は、足を早めて、恒代に言われた公園へと急いだ。
本当はピアノのレッスンがあって、早く帰らなくてはならないのだが、しかし、ピアノと友人と、どっちを取るかと言われたら、やはり病気の友だちの頼みを優先させるのが筋というものである。
「ええと……確かこの公園よね」
少し時間がかかってしまったので、いくらか|夕《ゆう》|暮《ぐ》れの気配である。小さな公園だから、探すほどのこともないのだが、ここは学生アベックのたまり場である。
数少ないベンチは、どこを見ても男女の高校生が|肩《かた》寄せ合って座っている。いささか法子のように、決まったボーイフレンドもいない者には目の毒である。
「どこにいるのかしら」
と、見回す。――遅れたので、帰っちゃったのかしら?
ポンと肩を叩かれて、振り向くと、男子学生が三人、目の前に立っていた。
「忠哉に用かい」
と、一人が言った。
「ええ、あなた方……仲間?」
法子は、ちょっと逃げ出したい気分だった。三人とも、見るからに乱暴そうな顔つきをしている。
「じゃ、ついて来な」
と、一人が|腕《うで》をつかんだ。
「何をするのよ!」
法子は、その手を振り離して、「そっちが用があるっていうから来たのに、どうしてそんな――」
言いかけた言葉を、法子は、|呑《の》み込んだ。
銀色に光るナイフが、法子の|喉《のど》へ|突《つ》きつけられた。
「おとなしくついて来いよ」
三人が、法子を囲んだ。
法子の顔から血の気がひいた。|震《ふる》える|膝《ひざ》で、立っているのがやっとだった。
「病院の食事って早いわねえ」
と、恒代は言った。「外はまだ明るいじゃないの」
「でも、そろそろ六時よ。さあ、少し食べなさい」
と母の雅代が言って|盆《ぼん》を置く。
「食欲ないな」
と、恒代はため息をついて、「おいしくないんだもの」
「良くなったらどこへでも連れて行ってあげるわよ。だからちゃんと食べて良くならなくちゃ」
「――どう?」
と、声がして、弟の恭治がやって来る。
「遅いじゃないの」
「テレビ見てたんだ」
「|呆《あき》れた。私がいなくても、ちゃんと宿題やるのよ」
「分かってらあ。――あ、そうだ、山崎さんから電話があったよ。法子、そっちへ行きませんでしたかって」
「法子さん? だいぶ前に来て帰ったわね」
と雅代が言った。
「そうね」
と、恒代は肯いた。忠哉に会ったにしても、もう帰ってもいい|頃《ころ》だ。
「その電話、何時頃?」
「出るときかかって来たよ。だから――二十分前くらいかな」
「そう……」
遅いな、少し。でも法子はしっかりしてるから心配ない。
夕食を半分ほど食べて、恒代は横になって目を閉じた。弟が帰って行き、母親も、近くに食事をしに出て行った。
少し眠ろうと思った。――目を閉じて、忠哉の顔を、なんとなく思い浮かべる。
ちょっと、ぐれてはいるけれど、悪い人じゃないんだ。あの、照れたような笑い顔を見れば分かる。本当におかしな人。ビタミンの|錠剤《じょうざい》をくれたりして……。
ふっと笑った。目を開くと、恒代は病室の入口を見た。
法子が立っている。――恒代はベッドから起き上がった。
法子はまるで|幽《ゆう》|霊《れい》のようだった。真っ青で|髪《かみ》が顔にかかっている。|凍《こお》りついたように無表情で、じっと鞄をかかえて立っていた……。
「法子! どうしたの?」
恒代はベッドから飛び出して、法子のほうへ|駆《か》け寄った。法子は激しく身震いしながら|泣《な》き出した。
「法子!――法子! 何があったの? どうしたのよ!」
法子は答えずに、そのまま|床《ゆか》へしゃがみ込んで、泣き続けた……。
恒代は、じっと天井を見つめていた。
|涙《なみだ》が|溢《あふ》れてこぼれ落ちそうだ。――法子、ごめん。
母が、法子の両親に必死に|詫《わ》びているのが、|廊《ろう》|下《か》から|洩《も》れ聞こえて来る。
「あの子は今心臓が悪くて……」
母の言葉で、恒代は、自分の心臓がかなり弱っていることを知った。
いっそ死んでしまいたい。法子が、一番の親友が、三人の不良に乱暴された。そして、恒代がそこへ法子を追いやったのだった。
その中に忠哉の姿がなかったことを、恒代は知らなかったし、法子も、とても|詳《くわ》しい話のできる状態ではなかったのである。
「申し訳ありません。私どもでできる限りのことは――」
母が詫びている。
「いくら謝られたって、法子の体はもう元に戻らないんですよ」
法子の母親の声が|響《ひび》く。恒代はギュッと目をつぶった。たまっていた涙が溢れ出て、流れ落ちて行く。
母親たちの声が遠ざかって行った。送って行ったのだろうか。それとも、恒代の耳に入るのを恐れて、病室の前を離れたのだろうか。
恒代は起き上がった。同じ病室の他の|患《かん》|者《じゃ》たちも、無関心を|装《よそお》いながら、恒代のほうに注意を向けている。
恒代は病室を出ると、廊下を見回した。まだ見舞い客がやって来る時間なので、人の姿は多い。母たちは見えなかった。たぶん一階まで送って行ったのだろう。
恒代は階段のほうへと歩いて行った。この病院は四階建てで、恒代のいる病室は三階にある。恒代は階段を上がった。
屋上への出口は、明かりが消えて、薄暗かった。ドアを開けると、風が吹きつけて来る。入院患者や付き|添《そ》いの人が|洗《せん》|濯《たく》|物《もの》を干すので|紐《ひも》がずっと屋上一杯に渡してある。
紐が風に揺れて、交互に波打っていた。
手すりは少し高くて、さらに頭の高さぐらいまで、|金《かな》|網《あみ》が張ってあるのだが、登れないこともあるまい。|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》の力を出せば。四階の高さなら、よほどのことがない限り、死ぬには充分だ。
ごめんなさい、法子……。
たいして未練もない。どうせ、この心臓では長く生きられないのだ。手術だの、薬だのと手間をかけて生き|伸《の》びるくらいなら、死んで法子に詫びたほうがいい……。
ただ一つの心残りは、あの、差出人不明のラブレターだが、今さら誰からのものか分かっても、どうにもならない。どこかの素敵な男性が、ひそかに想いを寄せてくれていて、と空想しているほうが、|夢《ゆめ》があっていいじゃないの。
夢を見ながら死ねるのなら、こんなすばらしい死に方はない。――恒代は、金網に手をかけた。
第十章 苦い真実
「もう一つ可能性がある」
と本条が言った。
「え?」
野木由子はコーヒーカップから目を上げた。
「いや、例のテディ・ベアのことですよ」
「どういうこと?」
今日は久しぶりに(?)大学へやって来た。そして、昼休み、近くへ来ていた本条と、小さな|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》へ入ったのだった。
ランチの、ゆですぎのスパゲッティを食べ終えたところだった。
「あのテツが持っていたのが、|爆《ばく》|弾《だん》でなかったとすると――」
「|嘘《うそ》じゃないと思うわ」
「すると、テツがあなたから|奪《うば》ったぬいぐるみが、そもそも|違《ちが》うものだったわけだ」
「そういうことになるわね」
「つまり、宮平広美があなたに|渡《わた》したのは、別のぬいぐるみだったのかもしれない。なにしろ、|結《けっ》|婚《こん》|式《しき》で|花《はな》|婿《むこ》を殺されてしまったんですからね。てんやわんやの|騒《さわ》ぎでしょう。わざと別のぬいぐるみをよこさなくても、つい取り違えたかもしれない。女性はいくつもぬいぐるみを持ってるもんでしょう」
「それはそうね。――じゃ、本物はまだ彼女が?」
「分かりませんが、可能性はあると思います」
「どうやって当たるのがいいかしら? 殺された男の人と確か同じ職場だったわね。まだ会社にいるかしら?」
「いや、たぶんいないでしょう。しかし、|連《れん》|絡《らく》先は分かるはずですよ」
「調べてみるわ。――でも、会社の名前は分かる?」
「犯人も同じ社内の人間でしたね。それなら新聞に出ているはずだ」
「図書館に新聞のつづりがあるわね!」
と由子が立ち上がった。
「――待ちな」
声をかけられて、一人で歩いていた学生は|振《ふ》り向いた。
「お前……」
と真っ青になる。
学校の裏手の道で、ほとんど人通りというものがない。|並《なみ》|木《き》|道《みち》が真っ直ぐにのびて、午後の陽射しが|斜《なな》めに木々の|影《かげ》を落としている。
「なんて|真《ま》|似《ね》しやがったんだ。この野郎!」
忠哉の右手が走った。相手がのけぞって|倒《たお》れる。
「この野郎――」
起き上がりながら、ナイフを取り出していた。
|穏《おだ》やかな午後の、静かな道に、二つの影がもつれ合った。
学校の反対側は少し高い|石《いし》|垣《がき》で、その上に、真新しい建売り住宅が|並《なら》んでいる。その家の一つの窓から、ヴィヴァルディの協奏曲が流れ出した。――短い|呻《うめ》き声が上がった。
ゆっくりと、息を|弾《はず》ませながら立ち上がったのは、忠哉のほうだった。右手が血で|汚《よご》れている。
相手はぐったりと地に|伏《ふ》せて動かない。その体の下から、じわじわと血が広がり始めていた。
忠哉はかがみ|込《こ》むと、血のついたナイフをポケットへ入れ、よろけるように、歩き出した。
「本当に危ないところだったわ」
と、その入院|患《かん》|者《じゃ》はくり返して言った。
中年の婦人で、|大《おお》|柄《がら》な、がっしりした体つきである。
「どうもありがとうございました」
雅代はくり返し頭を下げて、
「まあ、私が止めなかったら、おたくの|娘《むすめ》さん、今|頃《ごろ》はあの世行きなんだからね」
「今はたいしたお礼もできませんが、できるだけ早い機会に、改めてお礼に|伺《うかが》いますので」
「まあいいわよ。別に、お礼が目当てで助けたわけじゃないしさ」
と、その女はベッドに寝て、「ああ、悪いけど、何か週刊誌でもあったらね、持って来てくれない?」
「はい、すぐに」
「ついでのときでいいのよ」
女の声を後に、雅代が|廊《ろう》|下《か》へ出ると、恭治がふくれっつらで立っている。
「あら、いつ来たの?」
「今さ。母さんなんであんな|奴《やつ》にペコペコするんだよ」
「しっ!――だって、恒代が飛び降りようとするのを助けてくださったんだよ」
「それにしたって、|威《い》|張《ば》りくさりやがって! つけ上がるよ、あんまりへいこらしてると」
「仕方ないのよ。さあ、お姉さんの様子を見てらっしゃい」
「母さんは?」
「私は週刊誌を買って来るわ」
恭治は、ちょっと目を伏せて、
「|僕《ぼく》が行くよ」
と言った。「姉さんのそばにいてやって」
「じゃ|頼《たの》むわ」
雅代は千円札を二枚|握《にぎ》らせて、「これで、買えるだけ買って来て、おつりあげるから」
「あの女に渡すのはいやだよ」
「ちゃんと母さんがやるわよ」
小走りに売店のある一階へと急ぐ恭治を見送って、雅代は、恒代の病室へと入って行った。飛び降りかけてからは、個室に入っている。
「恒代……。|眠《ねむ》ってるの?」
と、そっと|覗《のぞ》き込んだ。
「お母さん」
恒代が目を開いた。「――様子は? どう?」
「大丈夫よ、たいしたことはなかったって」
「本当? 気休めを言わないで」
「本当よ!――いい、恒代。お前のせいじゃないのよ。気持ちは分かるけど、自分を責めちゃいけないわ」
「お母さんなら? 自分のせいじゃない、って言って、平気でいられる」
雅代は何も言えなかった。そして、
「何か食べない?」
と、目をそらした。
「いらないわ。――|餓《が》|死《し》しようかな、私」
「恒代!」
雅代は娘の手を握りしめた。「死のうなんて、二度と考えないで!」
「|冗談《じょうだん》よ。冗談だってば」
恒代は声を上げて笑った。――その笑いが、いつの間にか|泣《な》き声に変わっていた。
「どうして……放っといてくれないの! 死んでやる! 必ず死んで見せるから!」
と、恒代は|叫《さけ》ぶように言った。
恒代と雅代の母娘が重苦しい|沈《ちん》|黙《もく》に|沈《しず》んでいると、ドアが開いて、恭治が週刊誌をかかえて入って来た。
「買って来たよ!」
「ご苦労さま。じゃ、母さんが持って行くからね」
雅代が、ちょっと目を|拭《ぬぐ》って、週刊誌の|束《たば》を恭治から受け取ると、病室を出て行った。
「――あんまり母さん泣かせるなよ」
と恭治が言った。
「あんたなんかに分かるもんですか」
恒代はそう言って、じっと|天井《てんじょう》を見つめる。
「母さんを泣かせるのがいいことじゃないことぐらい、分からあ」
「そうね。――それはそうね」
恒代は恭治のほうを見て、「ね、私がいなくなったら、あと、あんたがしっかりしなきゃだめよ」
と言った。静かな口調だった。
「すぐ変なこと言って……」
「そうじゃないわ。私の心臓がかなり悪いの知ってるでしょ。手術に|堪《た》えられるかどうか、分からないのよ」
「でも……|大丈夫《だいじょうぶ》だよ、きっと」
「かもね」
恒代は軽く|微《ほほ》|笑《え》んで見せた。「――ねえ、私の部屋にテディ・ベアがあるでしょ。あれ持って来ておいてくれない?」
「え? ああ、|熊《くま》のぬいぐるみか」
「そう。そばに置いときたいの」
「じゃ、母さんが|戻《もど》って来たら、取りに行って来るよ」
ドアが軽くノックされた。
「どうぞ」
と恒代が言うと、ドアが細く開いて、山崎法子が顔を出した。そして、
「どう?」
とにっこり笑う。
「法子……」
恒代が言葉を|詰《つ》まらせる。
「じゃ、ちょっと一っ走り、家に行って来るよ」
恭治が出て行くと、法子は入れ違いに入って来た。
「法子、私のせいで――」
「|黙《だま》って!」
法子は、恒代の手をしっかりつかんで、「あなたが自殺しかけたって聞いて、飛び起きちゃったわ。本当ならもっとさぼりたかったのに」
「ごめんなさい、私……」
「もういいってば!――あの連中、忠哉って子と|喧《けん》|嘩《か》してる相手なのよ」
「え? それじゃ――」
「最初から、でたらめの|誘《さそ》いだったんだわ。あの忠哉って子は何も知らなかったのよ」
恒代は、思わず目を閉じた。――死なないうちにそれを知って良かった、と思った。
「恒代、お母さんは?」
「今、ちょっと他の部屋。どうして?」
「実はね、昨日、高校生の不良が一人、|刺《さ》し殺されたの。どうも、顔写真見ると、あのときの一人だったみたいなのよ」
「じゃ、死んだの?――|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》じゃない!」
「気になるのは犯人のほうよ。まだ分かんないみたいだけど……。もしかしたら、その忠哉って子かも」
恒代は目を見開いて、法子を見つめた。
その神社の境内で、石けりをして遊んでいた子供たちは、突然飛び出して来た男に遊びを中断された。
その男は高校生で、学生服を着ていたが、いきなり走って来ると、何かにつまずいたのか、すっ転んだ。
もう一人が追いついて来る。
「やめてくれ! 助けて!」
転んだほうは、もう|逃《に》げるにも足がすくんでしまったらしく、地べたに|這《は》っているばかりだった。
「頼む……やめてくれよ。悪かった、謝るからよ」
「もう|遅《おそ》いや!」
追って来るほうは、もちろん忠哉である。手には、すでに一人の血を吸ったナイフが握られている。
「おい、あっちへ行ってな」
と、忠哉は、遊んでいる子供たちに向かって言った。
子供たちが、興味ありげな目で振り向きながら行ってしまうと、忠哉は、ナイフを握り直した。
地べたに座り込んでいた奴が、|隙《すき》を見て起き上がり、逃げ出した。しかし、いかにも身のこなしは|鈍《にぶ》かった。
「野郎!」
忠哉はたちまち追いついた。構えたナイフが、相手の|腕《うで》を切った。
「いてえ!――いてえよ!」
相手が傷を|押《おさ》えて、泣きわめきながら、地面をのたうち回るのを、忠哉は|眺《なが》めていたが、
「もういいや。殺す気もしないぜ」
と、|呟《つぶや》くと、|肩《かた》をそびやかして歩いて行った。
どこに|隠《かく》れていたのか、子供たちがまたおずおずと出て来た。
「おい!――|誰《だれ》か呼んでくれ! けがしてんだ! いてえんだよ!」
泣き声で言っても、子供たちは一向に動こうとしない。「――なあ、頼むよ! 救急車だ! お母さんに知らせてくれ! なあ、お願いだ!」
しかし、子供たちは、そのけが人を遠巻きにして眺め、一向に動こうとしなかった。
「――|刑《けい》|事《じ》さんですか」
恒代は、ベッドから、パッとしない感じの中年男を見上げた。
「あの……娘は心臓が弱くて」
と、雅代がそばから口を|添《そ》える。
「大丈夫よ、お母さん。外に出てて」
「でも、恒代――」
「大丈夫だから」
と、恒代は|肯《うなず》いた。
雅代がためらいながら出て行くと、刑事が頭をかきながら、
「|疲《つか》れたら言ってくれよ。話は分かってると思うけど」
「そちらから言ってください」
「|阿《あ》|部《べ》忠哉のことだよ」
「阿部……」
忠哉の姓を、今、初めて恒代は知ったのだった。
「|彼《かれ》とは友だち?」
「ええ」
「今、彼を探してるんだ。喧嘩で相手を殺したらしい」
喧嘩じゃないわ。――しかし、恒代は黙っていた。
「――すると、阿部忠哉がどこにいるか、全然分からないんだね?」
刑事は念を|押《お》した。
「ええ、だって、付き合いなんていっても、ほんのこの頃のことですから」
刑事は|諦《あきら》めた様子で帰って行った。雅代が入れ違いに、心配そうに入って来ると、
「大丈夫?」
と、急いで脈を取った。
「そんなに心配しないで。それに、今さら少々良くても悪くても、変わりないじゃない」
「また、そんなことを言って……」
恒代は、天井へ目を向けて、
「シュークリームが食べたいな」
と言った。
「じゃ、今、買って来るからね」
悪いとは思うが、そう言えば、母がすぐに買いに行ってくれることを、恒代は承知しているのだ。――一人になりたい。それだけが恒代の望みだった。
雅代が出て行くと、恒代は、テディ・ベアを|抱《だ》き寄せて、
「こうやって……苦しみもしないで、眠ったまま死んで行けたら……。お前はついて来てくれる?」
と|囁《ささや》いた。
手術は、明日、と決まっていた。|麻《ま》|酔《すい》をかけられたら、もう二度と目覚めることがないかもしれないのだ。それを考えると、|却《かえ》って|恐《おそ》ろしい気がした。
それよりは、むしろ、自然の眠りのままに死んでいきたい……。
ドアが開いた。
「お母さん、早かったのね」
と顔を向けて、恒代は息を|呑《の》んだ――忠哉が立っていたのだ。
「危ないわ! 入って。閉めて、ドアを」
「一目顔を見りゃいいんだ」
と忠哉は言った。「それと……|詫《わ》びを言いたくって」
「いいのよ。あなた……その学生たちを殺したの?」
「一人だけだ。もつれ合ってるうちに刺していた。他の二人はけがさせただけさ」
「どうしてそんな……。あなたのせいじゃないのに!」
「そっちだって、飛び降りようとしたっていうじゃないか」
恒代は、ちょっと笑って、
「それもそうね」
と言った。「でも早く行かないと、お母さんが帰って来るわ。それに、ついさっき刑事が来たし」
「知ってる。帰るのを待ってたんだ」
「でも良かったわ。今日来てくれて。もう会えなくなるかもしれないから」
「どうしてだ?」
「明日、心臓の手術なの」
「それが済みゃ元気になるんだろ?」
「助かる確率は、半々だって。――たぶん実際は、三分の一がせいぜいね、きっと」
「そうか、取り|換《か》えられたら、俺の心臓、やるのにな」
「きっと度胸がつくわね」
と、恒代は笑った。そして、ふと廊下のサンダルの音に気付いた。
「お母さんだわ!――早く、ベッドの下へ入って!」
恒代は忠哉の手を握った。「早くして!」
ためらっていた忠哉は素早く身をかがめると、ベッドの下に|滑《すべ》り込んだ。ドアが開いて、母の雅代が入って来る。危機|一《いっ》|髪《ぱつ》だった。
「どうしたの? 何を取るの」
雅代は、ベッドから身を乗り出すようにしている恒代を見て、何か取ろうとしたのかと思ったらしい。
「別に……あの……これをそこのテーブルに置いて。よく見えるように」
恒代は母へテディ・ベアを手渡した。
「――ここへ忠哉の奴が入ってったのは、確かなんだな?」
と高校生の一人が言った。
「間違いねえよ。見たんだ」
その中学生は、興奮した様子でしゃべっていた。
「本当に忠哉だったのか?」
「絶対だよ。前にも何度も見たことあるんだから」
「分かった。お前はもう帰ってな」
中学生のほうは、ちょっとつまらなそうな顔をしたが、すぐにヒョイと肩をすくめて、両手をポケットへ|突《つ》っ込んで歩いて行った。残ったのは、三人の高校生だった。
見たところ、どこも不良っぽい印象はない。学生服もきちんとしているし、|髪《かみ》も長くせずに、ちゃんとクシを入れてあった。だが、学生|鞄《かばん》の隠しポケットには、チェーンやナイフが|忍《しの》ばせてある。
「忠哉の野郎、けがでもしてここへ来たのかな?」
と一人が言った。
三人は、病院を見上げて、立っていた。
「思い出したよ」
と、小柄な一人が、頭をピシャリと|叩《たた》いた。「どこかでこの病院の名前、聞いてたんだ。ここは、例の忠哉の女が入院してるんだぜ、確か」
「本当か?」
「名前は安藤恒代っていうんだ。間違いないよ」
「それで分かった」
と肯いて、「女のところへ行ったんだ。――おい! 出入口全部見張れ。絶対に忠哉の奴を|逃《のが》すなよ」
「|了解《りょうかい》」
「仲間を殺されて黙っちゃいられねえからな」
「みんなを集めるかい?」
「多すぎても目立っていけねえや。十人集めろ。ナイフを用意させろよ」
「OK。――だけど病院でやるのはやばくないか?」
「そんなこと言ってられるかよ」
一人が突っ走って行く。
「よし、お前、裏口だ。二人でみんなが来るまで張ってるんだ」
「分かった」
「かたをつけてやらなきゃな」
「出て来たら?」
「後を|尾《つ》けろ。絶対見失うなよ。見逃したりしたら、こいつがあるからな」
鞄の下に、手がすっと入ると、冷たく光るナイフがストンと手の中へ落ちた。
病院の夜は早い。
五時に夕食。その後は、退屈な時間が過ぎて、すぐに消灯になる。
「――お母さん」
と、恒代は言った。
「何か欲しいの?」
「そうじゃなくて……。今夜、一人で|寝《ね》かせてくれない?」
「そんなこと、だめよ」
「お願い。――いろいろ考えたいことがあるんだもの」
「だって具合が悪くなりでもしたら――」
「手もとにボタンがあるわ。悪くなったら、お母さんがそばにいてもいなくても同じことよ」
「冷たいんだねえ」
雅代は苦笑した。
「ごめんなさい。――でも、これが最後のお願いかもしれないんだもの。お願い。聞いてちょうだい」
「分かったわ」
雅代は肯いて、「どうせお母さん今夜は眠れないからね。下にいるよ」
「ごめんね、勝手なこと言って」
「いいのよ。じゃ、何かあったら呼ぶんだよ。いいわね」
「うん」
母が出て行くと、恒代はベッドに起き上がり、サンダルの音が遠ざかって行くのに、耳を|澄《す》ました。そしてベッドから|抜《ぬ》け出るとドアをそっと開けた。
母が階段を降りて行くのが、チラッと見えた。
「――もう大丈夫よ」
と恒代は言った。「忠哉さん。――出て来ていいわよ」
ウーン、と声がして、忠哉がベッドの下から這い出して来た。
「ごめんね。|窮屈《きゅうくつ》だったでしょ」
「仕方ねえさ。――ああ、|床《ゆか》はクッションが悪い」
「当たり前よ」
と、恒代は笑った。
「いい顔だよ」
「え? 何が?」
「お前が笑うとさ」
恒代は、ちょっと|恥《は》ずかしそうな顔でうつむいて、それから言った。
「よく見ておいて。これで二度と笑う日が来なくなるかもしれないわ」
「|馬《ば》|鹿《か》言うなよ!」
「しっ! 小さな声で」
と、恒代はあわてて言った。
「元気を出せよ。絶対助かる、って思うんだ。いいか、死なないぞって自分で信じるんだ。それで、きっと勝てる」
「そうね。――そうする、私」
「さあ、寝て。疲れちまうぜ」
「うん……」
恒代はベッドへ入った。
「|俺《おれ》、もう行くよ」
「待って。もう少し夜中になってからにしたほうがいいわ」
「でも……」
「それに、せっかく二人になったのよ」
恒代の青白かった|頬《ほお》が赤く染まった。
「だけど……」
「キスぐらい……して行って」
恒代は囁いた。――そして忠哉を抱き寄せて、|唇《くちびる》を重ね合わせた。
キスの後、恒代は胸の上に、忠哉の重みを受け止めて、じっと動かなかった。
「おい」
忠哉がハッと体を起こした。「心臓に悪いんじゃないのか?」
「大丈夫よ。ガラスでできてるわけじゃないし」
と、恒代は微笑みながら言った。「本当なら……何もかもあなたにあげたいけど……こんな病人のままで抱かれたくないわ。治ったらきっと、あなたのところに行く」
忠哉の目から、思いがけず、|大《おお》|粒《つぶ》の|涙《なみだ》がこぼれた。
「馬鹿野郎……。そんなセンチなこと言うない!」
と、|拳《こぶし》で涙を拭った。
「ずっとここにいてくれる?」
「でも、明日、手術なんだろ?」
「そう。――病院の中のどこかにいて。それなら私も元気づけられるわ」
「OK。|約《やく》|束《そく》する。この病院のどこかで、お前の手術、終わるのを待ってるからな」
「よかった!」
「――もう眠れよ。体力つけとかないと」
「そうね。もう一度キスして」
二人の唇が|触《ふ》れた。
雅代は、一階の外来の待合室に座っていた。――もちろん、今は閉めていて、常夜灯のかすかな明かりしか、|点《つ》いていないが、その暗さが、却って雅代には救いだった。
手術して助かる確率は一割と言われていたのだ。
「しかし、それでも、しなければ確実に数か月の命ですからね」
と医者は言った。
子供の死をみとることほど、|残《ざん》|酷《こく》なことがこの世にあるだろうか? 子供は親より長く生きると決まっているのに……。
恒代には、自分よりずっとずっと長く生きてもらいたかった。いや、諦めることはない!
十分の一でも、成功の可能性はある。そして成功すれば、少なくとも、ほぼ平均の寿命は保証されるのだ。
恒代、|頑《がん》|張《ば》って!――雅代は|祈《いの》りたい気持ちだった。
おそらく、暗い待合室でじっとしていたせいだろう、雅代のいることに気付かない様子で、数人の学生の姿が、廊下を進んで行った。
誰だろう? 雅代がそれを見ていると、もう一人が追いついて来た。
「玄関のほうは固めた。もう逃げられないぜ」
「よし。いいか、部屋を探すのは大変だぞ」
「何号室か分かんないのかよ」
「受付で|訊《き》けるか?」
「そりゃまあ……」
「目立つといけねえ、一人が行って、病室の|名《な》|札《ふだ》を見て歩け。名前は〈安藤恒代〉となってる」
「了解、俺行くよ」
「待ってるぞ」
――雅代は耳を疑った。しかし、今、あの高校生らしい男の子は、「安藤恒代」と言った。この学生たちはいったい何者だろう?
雅代が身動きすると、|椅《い》|子《す》がガタッと音を立てた……。
恒代は幸せなまどろみの中にいた。
忠哉とのひとときは、恒代の心の中にあった死への恐れを、拭い去ってしまった。このまま眠って、死んでしまえれば、それでもいいという気がした。
だが、同時に、死にたくないという強い意志が恒代のうちに|湧《わ》き起こって来た。それは死へ顔を向けるのを怖がることではなく、死を打ち倒してやりたいと思う|闘《とう》|志《し》にも似たものである。
そして、なぜか、きっと自分は生きられるという確信にも|似《に》たものが、恒代を幸福にさせていたのだった。
廊下を走り回る足音で、恒代は目を覚ました。――何ごとだろう?
何やら|緊急《きんきゅう》の事態のようだ。誰か、患者の容態でも急変したのだろうか。
ドアが開いて、恒代の担当の医師が入って来た。まだ若いが、それだけに恒代としても親しみの持てる医師だった。そういえば今夜は当直で|泊《と》まるのだと言っていたっけ。
「起きてたの」
と、医師は言った。
「うとうとしてたんです。何があったんですか?」
「実は……お母さんが……」
あまりに思いがけない言葉だった。恒代は全身の血が流れ出して行くような気がした。
「母が……何か……」
自分の声が、どこか遠くで|響《ひび》いた。
「けがをしてね。いや、大丈夫。命は助かるが、ちょっとひどいけがなんだ」
「けがを……」
恒代はくり返して呟いた。「あの……どうして、けがを?」
「刺されたんだ。下の、外来のところでね。高校生らしい男の子だったということだが、まだやった|奴《やつ》は|捕《つか》まっていない」
恒代は、全身が|震《ふる》え出しそうになるのを、必死でこらえた。高校生? まさか、まさか忠哉が――。
「しっかりして!」
医師のほうがびっくりした様子で、「大丈夫だよ。お母さんのけがはたいしたことはない。ただ、しばらくは安静にしておかなきゃならないからね。今、お宅へ電話した。お父さんが|駆《か》けつけてみえるだろう」
母のけがのショックよりも、その犯人が忠哉かもしれないというショックのほうが、ずっと大きかったのだが、医師のほうは、そんなことまで知るはずもなく、
「|鎮《ちん》|静《せい》|剤《ざい》がほしいかね?」
と訊いた。
「いいえ! 大丈夫。大丈夫です。私、もう……」
恒代は、必死に平静を|装《よそお》った。「犯人が高校生だって、どうして分かったんですか?」
「お母さんがね、はっきりはしないらしいが、ケガをしているところを看護婦が見付けたときに、そう言ったそうだ」
「母が……」
「しかし、傷のほうは心配しなくていい。ともかく君に黙っておくわけにはいかないと思ってね」
「ええ。――ありがとうございました」
「君の手術のことは、あまり延ばすわけにもいかないし。――お父さんが見えたら相談するよ」
医師はそう言って、恒代の手を握った。
忠哉が母を刺したのだろうか?
恐ろしい疑問が、恒代を苦しめていた。一人になって、しばらくすると父と弟が駆けつけて来て、医師と廊下で何やら話を始めた。恒代の耳には入れたくないのか、やがて話し声は遠ざかった。
恒代は、祈るような思いで、じっと天井を見つめていた。犯人が早く捕まって、忠哉とは何の関係もない事件だと分かればいいのに、と思った。実際、忠哉に、恒代の母を刺す理由はない。きっと、他の誰かなのだ。それに決まっている。
ドアをノックする音がして、恒代は飛び上がりそうなほどびっくりした。入って来たのは、昼間、忠哉のことを訊きに来た刑事である。
「お母さんが刺されたって聞いてね」
刑事は、夜遅いせいか、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な顔をしていた。愛想の一つも言わずに、「阿部忠哉がここへ来たね」
と、ぶっきらぼうに訊いた。
「いいえ」
と、恒代は即座に否定した。
「本当かな。まあいい。――君のことも考え直さなきゃならんようだな」
「どういう意味ですか」
「自分の母親が刺されたというのに、奴をかばうのかね」
「彼がやったという|証拠《しょうこ》でもあるんですか!」
恒代は|挑《いど》むように言った。
「あいつがここへ来たことは分かってる。看護婦の一人が、ちゃんと見かけていたからね。それで、お母さんが高校生に刺されたと言ってるんだ。それで|充分《じゅうぶん》じゃないか」
恒代は黙って天井に目を向けた。刑事は肩をすくめると、
「お父さんとゆっくりと話してみよう。ともかく阿部忠哉は、傷害、殺人の|逃《とう》|亡《ぼう》犯なんだよ。そこを良く考えるんだね」
と言って、出て行った。
恒代は、ベッドから出ると、ぬいぐるみの熊を持って来た。そして、ベッドに腰をおろして熊をじっと抱きしめていた。まるでそれが忠哉の身代わりであるかのように……。
手術は一週間、延期された。
母の傷は、命にかかわるものではないにしても、かなりの重傷であり、それぐらいは様子を見なくてはならない、と言われたのだった。
恒代は、病室で一人ぼっちだった。父も、弟の恭治も、あまり顔を出さない。忠哉が母を刺したのかどうかをめぐって、|激《はげ》しく言い合って、それがしこりとなって残っているのである。
母は忠哉の顔を知っているわけではないし、刺された場所は暗かったから、相手の顔もはっきり分かっていなかった。
だから、それが忠哉だったとは言い切れないわけだが、逆に、忠哉でなかったとも言えないわけで、そうなると、恒代に味方してくれる者は、一人もなかった……。
「――やあ、恒代!」
顔を出したのは、山崎法子だった。あんな目にあったのに、こうして|見《み》|舞《ま》いに来てくれるのだ。恒代は涙が出るほど|嬉《うれ》しかった。
「ちょっと大事な話があるの」
法子は声をひそめた。「あの忠哉って子に|連《れん》|絡《らく》取りたくない?」
恒代は親友の顔をまじまじと見つめた。
「彼に? そりゃもちろん連絡したいわよ。でも――」
「できるのよ」
法子は肯いて、「忠哉の弟分というのかしら、いつもくっついてる子がね、今日、私が帰ろうとしたら、校門の前で待ってたの」
「で、どこにいるか、教えてくれたの?」
「いいえ。あなたの容態を気にしてるみたいなのよ。わざわざ私のところに訊きに来させるなんてね」
「それで?」
「だから、今日、見舞いに行って来るから、明日もう一度来てくれって言ったの。だから、もし、メッセージでもあれば伝えるわ」
「ありがとう!」
恒代はちょっと考えて、「手紙、渡すように頼んでくれる?」
と言った。
「そう来ると思って、レターペーパー買って来た。|封《ふう》|筒《とう》も。――はい、これよ」
恒代は、法子の取り出した封筒と|便《びん》|箋《せん》を受け取って、思わず目頭が熱くなった。
「私、ちょっと出てるわね。何か買って来ようか? 週刊誌でも?――じゃ、手紙書いてて」
法子が出て行く。恒代は早速、ボールペンを取って、手紙を書き始めた。
法子は十分ほどして戻って来た。どっさりと、週刊誌やマンガの|類《たぐ》いをかかえている。
「さあ、これでしばらく退屈しないと思うわよ。手紙は?――これ?」
「渡してね。それから、|糊《のり》がなくて封ができないの」
「あ、そうか。糊のいらないタイプの封筒を買って来りゃ良かったわね。私、封をしておくわ。読まないって|誓《ちか》うから」
「信じるわよ。――じゃ、お願いね」
封筒は、法子の鞄の中に納まった。
「返事は必要?」
「できれば。でも無理しなくていいって書いてあるわ」
「あなたも苦労性ね。お母さん、具合どう?」
「少しずつ良くなってはいるみたい。でも、何か障害が残るだろうって」
「早く犯人が分かるといいわね」
「忠哉さんを犯人と決めつけているから、探そうとしないのよ。本当に、歯がゆくなっちゃう」
「きっとそのうちに分かるわよ」
法子の|慰《なぐさ》めが、どんな見舞い品の数々よりも、恒代を喜ばせた。
しばらくは、学校での|噂《うわさ》、ゴシップの類いが|専《もっぱ》ら二人の話題となった。
「――あ、もう行かないと」
と、腕時計を見て、法子は立ち上がった。「あれ以来、ちょっと遅いとうるさくって」
「早く帰ってあげて。じゃ、悪いけど、手紙……」
「必ず渡すから」
法子は軽く手を振って出て行った。
恒代の心は、すっかり軽くなっていた。もし、忠哉が捕まることがあっても、恒代はやはり忠哉を信じていた。
あの手紙が彼の手に渡れば、忠哉も喜んでくれるだろう……。
一方、法子は病院の出口から外へ出ると、足を止めた。車のそばに立っていた刑事が、法子のほうへとやって来た。
忠哉への手紙を法子に|託《たく》した次の日、その次の日、と恒代は、法子を待ち続けた。
しかし、法子は病院へやって来なかった。恒代としては、自分のほうから電話するのもなんとなくはばかられて、じりじりしながら、同じ週刊誌や新聞に何度も何度も目を通していた。
手紙を預けて三日目。夕方になり、夜になっても、法子は顔を見せなかった。
父も弟も、ここ二日は顔を見せない。母の病室へは行っているらしいのだが、恒代のことは許せないのか、少し反省させようというのか、立ち寄っても来ないのだった。
恒代は、テレビのスイッチを入れて、ぼんやりと眺めていた。チャンネルをかえに立つのも面倒で、そのまま放ってある。見ているわけではないのだが、声がして、何かが見えているだけでも、少し|惨《みじ》めではなくなる。
テディ・ベアが、このところいつも恒代のそばにあった。
ニュースの時間だった。しばらく、ニュースとも遠ざかっているので、話がよく分からないのだ。
「――不良グループ同士の争いから、相手グループの三人を殺傷し、また女友だちの母親を刺して重傷を負わせ、逃走していた少年が、今日、殺人などの疑いで|逮《たい》|捕《ほ》されました……」
恒代の手から、テディ・ベアがスルリと落ちた。
もう、アナウンサーの声は耳に入らなかった。実際、たいしたニュースではなかったのか、すぐにニュースは変わっていた。だが、疑いようもない。あれは忠哉のことだ。――恒代は、ベッドに伏せて、枕に顔を埋めた。
涙は出て来なかった。むしろ、心というものが、何もかも一度に抜け落ちてしまったかのようで、ただただ、空しく、何もかもが|煩《わずら》わしかった。
ドアのきしむ音に、顔を上げると、母の雅代が立っていた。
「お母さん……」
雅代は、見違えるように|老《ふ》け込んで見えた。
「けがは大丈夫なの?」
「もうたいしたことはないわよ」
と、雅代は言った。
「でも……動いちゃいけないんでしょう」
「テレビを見た?」
恒代は肯いた。
「捕まったのね」
「そうらしいわね」
と、雅代は言って、「お前……あの忠哉って子が好きだったの?」
恒代は答えなかった。
「私を刺したのが、あの子かどうか、警察が見てくれっていうのよ。でも、私にはとっても判断がつかないわ。一瞬のことだったしね。でも……あの子でなかったとも言えない。それが分かってほしくてね」
「お母さん……」
やっと涙が出て来た。
「心配かけて悪かったね。今度は恒代が元気になる番よ」
恒代は、涙を|拭《ふ》きながら、微笑んだ。
「じゃ、病室へ戻らなきゃ。見付かるとうるさいからね」
雅代は、ちょっと笑顔を見せた。その笑いは、けがをする前、そのままだった……。
第十一章 絶望への|跳躍《ちょうやく》
「――恒代ちゃん、どう?」
病室のドアが開いて、思いがけない顔が|覗《のぞ》いた。
「広美さん!」
恒代は思わず声を|弾《はず》ませた。
宮平広美――このテディ・ベアを恒代にくれた当人である。従妹の恒代が明日は手術と聞いて、|見《み》|舞《ま》いにやって来たのだった。
「ずいぶん顔色いいじゃない。安心したわ」
広美はベッドのわきに座って、手にした紙|袋《ぶくろ》から、「ドーナツ買って来たの。食べる?」
と、見るからに|甘《あま》そうなドーナツを取り出した。
「|嬉《うれ》しい。もう二度と甘い物なんて食べられなくなるかもしれないものね」
と、恒代は言った。
「何言ってんの、私より若いくせに生意気言わないの」
広美は|微《ほほ》|笑《え》みながらそう言った。「さあ一つ食べて……。お母さん、もういいの?」
「あんまり動けないの。左の足が、結局不自由なままかもしれないって……」
「災難だったわねえ」
恒代は、ふっとため息をつくと、
「友だちも、|誰《だれ》も来てくれないわ。不良学生と付き合って、しかもその相手が母親を|刺《さ》したっていうんで……」
「人の言うことなんか気にしないのよ」
「そうしたいけど……すっかり弱っちゃったお母さんを見るとね……。だから、いいの。いっそ明日の手術で死んでしまえば――」
「死ぬことなんていつだってできるわ」
と、広美は恒代の手を|握《にぎ》った。
「いやだ、手がベトベトよ、広美さん」
「あ、ドーナツ握ったままだった!」
深刻そうにしゃべっていた二人だが、|一《いっ》|緒《しょ》に笑い出してしまった。恒代は、急に心が軽くなったようだった。
「待ってね。タオル|濡《ぬ》らして来る」
広美が立ち上がる。「あら、それ、私があげた|熊《くま》ちゃんね」
と、恒代の枕のそばにチョコンと座り|込《こ》んでいるぬいぐるみの熊に気付いて言った。
「私の|唯《ゆい》|一《いつ》の友だちよ」
恒代は、|汚《よご》れていないほうの手で、テディ・ベアをそっと|抱《だ》いた。
広美が出て行くと、少し間を置いて、ドアのノブが回り、そろそろとドアが開きかけて来るのに、恒代は気付いた。
「誰? お母さん?」
と声をかける。
ヒョイと顔を出したのは、なんとなく見たことのある男の子――高校生だった。
「あ! あなた――」
恒代は思い出した。忠哉にくっついていた〈子分〉の一人だ。
「一人か?」
と、おそるおそる言って入って来る。
「|大丈夫《だいじょうぶ》よ。――あの人は?」
「さあ、分かんねえよ。なにしろどこに連れてかれてるかも教えてくれねえしな」
と肩を|揺《ゆ》すった。
「ね、教えて。あの人がやったわけじゃないんでしょう?」
「当たり前さ。兄貴は女なんか刺さねえよ!」
と、その高校生は|憤《ふん》|然《ぜん》として言った。
「じゃ、犯人を知ってる?」
と恒代は|訊《き》いた。
「知らねえ。兄貴も何も言わなかったしな」
忠哉の子分だった男の子は、落ち着かない様子でドアのほうを気にしながら、
「なあ、お前、兄貴に手紙書いたのか?」
と恒代に訊いた。
「ええ。――心配だったから」
「それで、兄貴を呼び出したのかい?」
「忠哉さんを! いいえ!」
恒代はびっくりして言った。「まさか、呼び出すなんて。私は入院していて動けなかったのに!」
「そうか。じゃ、やっぱりあの女だな」
「あの女?」
「お前が手紙預けた女がいるだろう」
「法子のこと!」
「手紙に書き加えやがったんだぜ、きっと。兄貴はのこのこ出かけてって|捕《つか》まっちまったんだ」
「そんなこと……」
山崎法子は恒代にとって無二の親友だ。そんなことがあるはずがない。
「だって、他にできる|奴《やつ》はいないぜ。それだけ教えてやりたくてな」
「法子が――警察へ密告したって言うの?」
「決まってるさ。お前もいい友だち持って幸せだな」
「|嘘《うそ》よ!」
と、恒代は|叫《さけ》ぶように言った。
ドアが開いて、広美が濡らしたタオルを手に入って来る。
「お待たせ――あら、お友だち?」
忠哉の子分だった男の子は、素早く病室を飛び出して行ってしまった。
「どうかしたの?」
「いいえ、何でもないわ」
「顔色、悪いわよ」
「ちょっと|疲《つか》れただけ……」
恒代は目を閉じた。
「そう。少し|眠《ねむ》ったらいいわ。私もあんまり長くいると、|却《かえ》って疲れさせちゃいそうね。手術が終わったらまた来るわ」
広美は恒代の手をタオルで|拭《ぬぐ》ってやってから、固く握った。「元気出すのよ。|頑《がん》|張《ば》って」
恒代は微笑んで|肯《うなず》いたが、広美の手を握り返しはしなかった……。
広美が帰って行くと、恒代は少し待ってから、ベッドを出て、小銭の|一《いっ》|杯《ぱい》入った財布を手に、パジャマの上に室内着をはおって、|廊《ろう》|下《か》へ出た。
廊下の|奥《おく》に公衆電話がある。ちょうど近くには誰もいなかった。恒代は、十円玉を入るだけ放りこんで、法子の家の番号を回した。――真っ直ぐ帰っていれば、もう家にいるはずだ。
母親が出たりすると、呼んでくれないかもしれない。|緊張《きんちょう》して待っていると、受話器が上がった。
「山崎です」
法子の声だ。
「法子? 私よ、恒代」
少し|沈《ちん》|黙《もく》があった。
「――具合どう?」
と訊いて来る声は多少ぎごちなかった。
「あなたに訊きたいことがあるの」
恒代は受話器を握りしめながら言った。
「訊きたいことって何よ?」
法子の声は、電話を通してだが、いつもの優しい声とは打って変わった、冷たく突き放したもののように|響《ひび》いて来た。
「あなた……忠哉さんに|渡《わた》してくれたわね、手紙」
「ええ。もちろんよ」
「あの人を呼び出すようなことを書き加えたの? 警察へそれを知らせたって本当? そんなこと――しないわね?」
しばらく返事がなかった。そして、やがて、短く|途《と》|切《ぎ》れ途切れの声が伝わって来た。
泣いているのか、と思ったが、そうではなかった。
――笑っている。笑い声なのだ。
「そんなこと今|頃《ごろ》分かったの」
法子が冷ややかに言った。
「法子……」
「あなたのおかげで、私がどんな目にあったと思ってるの? 考えりゃ分かりそうなもんじゃない」
「でも……あなたを|襲《おそ》ったのは忠哉さんたちじゃないんでしょう」
「あんな連中、誰だって同じよ。そもそもあなたがあいつと付き合ったりしなけりゃ、こんなことにはならなかったんだからね。あなたのせいよ!」
「法子……」
「二度と電話なんかしないで!」
法子のほうも、最後はヒステリックな叫びになっていた。電話は叩きつけるように切られた……。
恒代は受話器を置いた。余った十円玉が、|戻《もど》し口に落ちて音を立てたのにも、気付かなかった。
恒代は、ふらつき、よろけるような足取りで、病室のほうへと戻って行った。
恒代の見舞いからの帰り道、宮平広美は、なんだか従妹とはもう二度と会えないような、いやな予感に|捉《とら》えられていた。
結婚したてで夫を殺されたときは、世の中に自分ほど不幸な人間はいないと思ったものだが、もし、恒代があの若さで死んでしまうようなことがあれば、もっともっと|哀《あわ》れに思えた。恒代と、今捕まっている阿部忠哉という少年とのことも、少しは耳に入っている。恒代のように、か細い、|繊《せん》|細《さい》な少女には、どんなに|辛《つら》いことだろう、と広美は思った。
広美は、夫に死なれた後、実家へ戻るのも周囲がやかましいので、また一人でアパートを借りて住んでいた。
もちろん、また働かなくてはならないが、今はまだそこまでの元気もないのである。
しかし、恒代の顔を見て、あの子が明日は大手術に|堪《た》えなければならないのだと思うと、元気でいるくせに、ぼんやりと毎日を送っている自分が、少々|恥《は》ずかしかった。
「仕事探しでも始めるかな」
アパートへ帰り着いた広美は、ドアの前でバッグから|鍵《かぎ》を出しながら|呟《つぶや》いた。
「――失礼ですけど」
と声がして、広美はキャッと飛び上がりそうになった。
「ああびっくりした」
「すみません。私、野木由子と申します。ご|記《き》|憶《おく》ですか?」
広美は首をかしげて、その若い女を見た。
「思い出しましたわ。さあ、どうぞ」
宮平広美は、部屋へ入ると、野木由子を上げて、早速紅茶を|淹《い》れて来た。
由子は、やっと探し当てて、ホッとしていたが、しかしそうのんびりしてもいられないので、
「実はぬいぐるみのことなんですけど――」
と切り出した。
「ああ、あのこと? お返ししたじゃありませんか」
「はあ。それが……あれは別のものだったんじゃないかと思いまして」
広美はちょっと|苛《いら》|々《いら》した様子で、
「ぬいぐるみなんて、どれも|似《に》たようなもんじゃありませんか。どうしてそれにこだわるんですの?」
と訊き返して来た。
「実は……」
何か説明しないと、広美は|怒《おこ》り出しそうだった。といって、あれは|爆《ばく》|弾《だん》かもしれませんなどとは……。
「あれには、その――とても貴重なものが|隠《かく》されているんです」
「隠されて!」
「ええ。中に|縫《ぬ》い込まれていて。いえ――その――確かではないんですけど、ほぼ確実でして――」
「そんな|馬《ば》|鹿《か》げた話! 安手な活劇じゃあるまいし、いい加減なことを言わないでください!」
広美のほうも頭は悪くなさそうだ、と由子は思った。ここはでたらめを言ってごまかすわけにはいかない。
「分かりました」
由子は|諦《あきら》めて、「本当のことを申し上げますと……」
と、これまでの事情をかいつまんで説明した。
「――|冗談《じょうだん》でしょう? あれが爆弾?」
広美は目を丸くして言った。
「確かではないんですが、その可能性があるんです」
「大変だわ!」
と、広美は立ち上がった。
「あれはどこに?」
「従妹にやったんです。今入院していて、その|枕《まくら》もとに、あのぬいぐるみが……」
「病院ですか? 場所を――」
「一緒に行きます」
広美と由子は、急いで広美の部屋を飛び出して行った。
タクシーを飛ばして、病院へ|駆《か》けつけると、入口の辺りに、何やら人が集まっている。広美は、雅代の姿を見かけて、
「待っていてください」
と、由子を待たせて、駆け寄った。「|叔《お》|母《ば》さん! どうしたの?」
「広美さん。――大変なことになったのよ!」
雅代は|泣《な》き出しそうな声を出した。「恒代がどこかへ行っちゃったの」
「恒代ちゃんが、どこかへ?」
「明日手術だっていうのに……。どうしてなのか分からないのよ。ただ、服を着て出て行ってしまったの」
広美は、雅代をなだめておいて、由子を連れて恒代の病室へと急いだ。恒代のベッドは空っぽで、あのテディ・ベアの姿も消えていた。
「元気出して、叔母さん」
宮平広美は、安藤雅代の|肩《かた》を抱いて、元気づけた。
「ありがとう。でもね……」
雅代は、声をつまらせた。――心臓の悪い我が子が行方不明では、どう元気付けてもらっても、元気は出て来ない。
「どこか心当たりは?」
「見当もつかないわ」
と雅代は首を振った。「家に帰っていれば恭治から電話が入るだろうし……」
病院の中は、やはり大変な|騒《さわ》ぎになっていた。重症の|患《かん》|者《じゃ》が病院を|抜《ぬ》け出してしまったのだから、当然であるが。
雅代を、病室へ送り込むと、広美は、ホッと息をついた。
「――一足|違《ちが》いでしたね」
廊下で待っていた由子も、がっくり来ている。
「本当ね。でも、叔母さんには、あのぬいぐるみのことは内緒よ」
「もちろんです」
と由子は肯いた。
ただでさえ参っているのだ。このうえ、娘が爆弾をかかえて歩いていることを知ったら、それこそ、母親の心臓のほうが心配になる。
しかし、それにしても恒代という少女はなぜ病院から|逃《に》げ出したりしたのだろうか? 何をするつもりなのか。
「まさか死ぬ気では――」
と、広美が呟くのが、由子の耳に入った。
「死ぬって……なぜですか」
と、由子は訊いた。
広美は由子を|促《うなが》して、廊下を歩いた。
「――私も|詳《くわ》しいことは知らないんですけどね。恒代ちゃんと、ある不良学生が|恋《こい》仲になったって|噂《うわさ》が流れて……」
広美は、知っているだけのことを、おおまかにしゃべった。
「じゃ、手術前に、彼に一目会いたくなったのかも」
と由子は言った。
「だめよ。彼は今、警察にいるんだもの」
「警察?」
「殺人、傷害の容疑でね。恒代ちゃんも、それはよく分かってたと思うけど」
そうなると、やはり恒代の|失《しっ》|踪《そう》の原因は分からなくなる。
「もう夜の十時」
広美が時計へ目をやった。「恒代ちゃん、薬も|服《の》まないで、大丈夫なのかしら……」
ドタドタと廊下を駆けて来る足音。
「いましたよ!」
と若い医師が叫んだ。「恒代君の居場所が――」
広美と由子が顔を見合わせるより早く、母親が病室から飛び出して来た。
「先生! あの子はどこに?」
「いや……実は、ちょっと大変なところなんですよ」
と医師が言いにくそうに言った。
「――もしもし」
と恒代は言った。「法子? やっと出てくれたわね」
路上の公衆電話である。
「何の用?」
法子はうるさそうに言った。
「あなたに見てほしくて」
と、恒代は言った。「私の死に方を」
「何ですって?」
法子が訊き返した。「今、『死に方』って言ったの?」
「そう。死ぬところをね、よく見ていてほしいの」
「私を|脅《おど》す気?」
「|違《ちが》うわ。あなたには――申し訳なかったと思ってる。でも、密告するなんて、ひどいじゃないの」
恒代は、左手に抱いたテディ・ベアを見ながら、受話器を握り直した。
「どうせ捕まったのよ、あんな奴」
「私のせいでね。だから死んでその|償《つぐな》いをするわ」
「馬鹿らしい! あんな奴のために死ぬの?」
「あなたの部屋の窓を開けて、外を見ていてね」
「どういうこと?――恒代!」
恒代は電話を切った。そして、背後のマンションを見上げる。七階建て。――死ぬには|充分《じゅうぶん》な高さだ。
今度は|邪《じゃ》|魔《ま》が入らないように気を付けなくちゃ。
恒代はマンションの中へ入ると、エレベーターのほうへ歩いて行った。受付の窓口に、ちょっとひからびた感じの年寄りが座っている。
「今晩は」
と、恒代は微笑みながら、声をかけた。
「今晩は」
とその年寄りも笑顔で応じた。
後で、どこの子だったかな、と首をひねっているかもしれない。恒代はエレベーターで〈R〉まで上がった。
屋上に出た。出られるようになっているのは、法子の部屋の窓から、何度も見て知っている。
もちろん、今は人っ子一人いない。干したままで、取り入れるのを忘れたらしいシーツが、白くはためいていた。
病院の屋上と違って、そんなに高く、何重にも|柵《さく》がしてあるわけではなかった。肩ほどの高さの柵を乗り|越《こ》えると、それで終わりだ。
わざと、恒代は、法子の部屋から見えない側の柵を乗り越えた。そこから、無の空間までは、ほんの十センチほどのコンクリートの出っ張りでしかない。
恒代は、下を見て、|一瞬《いっしゅん》、体が揺らいだ。いや、実際は揺れていないのかもしれなかったが、揺れているような気がして、柵にしがみついた。
ぬいぐるみが邪魔になる。――恒代はためらった。
「そうね……お前だけは生き残ってちょうだい」
と|囁《ささや》いて、「無理心中なんて、|可《か》|哀《わい》そうだものね」
そっと、テディ・ベアを、柵の|隙《すき》|間《ま》から、内側へ入れ、下に置いた。そして、柵を両手でつかみながら、一歩一歩、横|這《ば》いに進んで行った。
角を曲がって、法子の部屋の窓が見えた。意外なほど、はっきりと窓辺に立つ法子の姿が判別できた。
室内の明かりを受けて、シルエットが|浮《う》かんでいる。向こうも、恒代に気付いたらしい。姿が消えたと思うと、誰か――たぶん母親と共にまた姿を見せた。
あわただしく、動き回っている。それを|遥《はる》か遠くに|眺《なが》めながら、恒代は妙に浮き浮きした気分だった。
由子が宮平広美とタクシーを降りてみると、もうそのマンションの前には、夜|遅《おそ》いのに、|呆《あき》れるほどの人が集まっていた。
「|退《さ》がって! 退がって!」
警官が声を|嗄《か》らしている。
「あそこに――」
と由子は思わず言った。
マンションの屋上、手すりの外側に、少女の姿が小さく見えた。
「恒代ちゃん……」
広美が青ざめた。「馬鹿なことして……」
「なんとか説得して戻らせなきゃ」
「そうですね。――私、やってみるわ」
由子は、近くにいた中学生ぐらいの男の子が、|双眼鏡《そうがんきょう》を持っているのに気付いて、
「ちょっとそれ貸して」
と言った。
「いいよ。一回百円」
由子はその男の子をにらみつけた。由子のひとにらみには定評がある。
「い、いいよ、|只《ただ》で……」
「当たり前よ!」
双眼鏡をひったくるようにして、目に当てた。ピントを送ると、恒代という女の子の姿が、はっきりと見てとれる。――テディ・ベアは持っていない!
持ったまま飛び降りたら、まず爆発することは間違いなしだ。しかし、どこにあるのだろう? 持って出たことは、ほぼ確かなのだが。
「――私は従姉なの! 母親から任されて来たのよ」
と、広美が警官にかけ合っている。
「分かりました。どうぞ」
警官が、人の|壁《かべ》をかき分けて、広美を通した。由子も、
「一緒なんです」
と、広美の後から続いた。
「七階の階段のところへ行ってください!」
と警官が後ろから|怒《ど》|鳴《な》った。
エレベーターで七階へ上がると、そこは、消防署の救急班や、警官たちで一杯だった。
「何です? 住んでいる方?」
と警官がやって来る。
広美が説明すると、
「分かりました。ともかく今は、屋上へ出るのが先決で……。もしなんなら、女の子の立っているすぐ下の、窓から、話をしてもらえますか」
「真下じゃなくて、少し|離《はな》れてるほうがいいんじゃありませんか」
と、由子は言った。
「そうですな。じゃ、ちょっと待っててください」
上司と相談でもするのか、警官は行ってしまった。なかなか戻って来なかった。
「――まったくのんびりしてるんだから」
広美が苛々と|唇《くちびる》をかむ。
「ねえ、今思ったんだけど――」
「何か、いい方法?」
「恋人がいるってことでしょ? たしか警察に捕まってるとか」
「そうだわ。その子を連れて来れば……」
さっきの警官が戻って来ると、広美が、そのアイデアを説明したが、警官のほうは、
「ウーン、そいつはこっちの|管《かん》|轄《かつ》じゃないんでねえ」
と首を|振《ふ》った。
その警官相手では、一向らちがあかず、広美は上司に会わせろと食い下がった。向こうも根負けしたとみえて、私服の、ちょっと|年《ねん》|輩《ぱい》の|刑《けい》|事《じ》を連れて来た。
「――なるほど、そういうことですか」
広美の話に肯くと、「その少年のことなら|憶《おぼ》えていますよ。じゃあの女の子がね……」
「ここへ連れて来られませんか」
「やってみましょう。時間はかかるかもしれないが」
「それまで、なんとか私が引き止めますから」
「分かりました。では早速手配してみます」
由子としては、局外者なので、口出しもできず、少し退がって立っていた。階段のほうを何気なく見ると、少女の顔がチラッと覗いて、由子と目が合うとあわてて引っ込んでしまう。
由子は、階段のほうへ歩いて行って覗いてみた。下へ降りる踊り場のところに、あの恒代と同じくらいの女の子が、うずくまるように座っていた。
「――どうしたの?」
由子は階段を降りて行きながら声をかけた。女の子は顔を上げた。サンダルばきのところを見ると、この近所の子らしい。
「――もう飛び降りちゃった?」
と、その女の子は訊いた。
「いいえ、まだよ」
と答えて、由子は、その女の子が泣いているのに気付いた。「恒代さんを知ってるの?」
「同級生です」
「この近所に?」
「はい……」
「じゃ、止めてあげなさいよ」
と由子は言った。女の子は首を振って、
「こんなつもりじゃなかったのに……」
と呟いた。
「どういうこと?」
「私のせいです。――私が悪いの」
女の子は泣き出した。由子は、なだめて、やっと山崎法子という名前を訊き出した。
「私のせいって……どういう意味?」
「私が密告したんです」
「密告?」
「あの男の子のこと……。警察へ知らせたんです」
「そう。でも、それは仕方ない――」
「そうじゃないんです!」
法子は|遮《さえぎ》って、「私、恒代が好きだったの……」
と涙声で言った。
それはまるで恋人の囁きだった。学生時代にはありがちな、同性への、恋心にも似た想いなのだろう。
「じゃ、その男の子に彼女を取られたような気がして、仕返ししたかったのね」
「ええ……」
「でも、恒代さんだって、分かってくれるわよ。あなたとは長いお友だちなんでしょ?」
「もう……だめ。だって、わざわざ、私の部屋から見えるこのマンションを、彼女、選んだんだもの。――きっと飛び降りるわ。そして死んじゃうんだわ」
そのとき、ワッとどよめきが起こった。
「何かしら?」
由子は階段を駆け上がった。
思いがけず、強い風が吹き上げて来た。
突風である。恒代は、やはり、ずっと|寝《ね》たきりでいたせいか、足が弱っているらしい。一瞬、ふらついた。下で恒代の様子を見ている野次馬たちが、|一《いっ》|斉《せい》に、ワーッと声を上げる。
だが、恒代は、バランスを取り直して、手すりを握りしめた。手に|汗《あせ》がにじんでいる。しばらく立っていて、|怖《こわ》さを感じなくなっていたらしい。
怖さ?――おかしいわ、と恒代は思った。どうせ落ちて死ぬのだ。怖いも何もないじゃないの。
いったい、私は何をしているのかしら、と恒代は自問した。何を待っているのだろう?
あの窓に、法子の姿はなかった。たぶん、恒代が落ちて死のうが、法子には何の関心もないのだろう。
だが、ここに立っているのは、法子への|復讐《ふくしゅう》のためではない。――忠哉への、罪ほろぼしの、身の|証《あか》しを立てたいからだ。
いや、もっとはっきりいえば、忠哉に悲しんでもらいたいからだった。法子に裏切られた恒代にとって、もう心のよりどころは、忠哉しかなかったのである。
恒代は思い切り風を吸い込んだ。――鳥になって、空を飛んで行けそうな気がした。
今なら飛べる。――さあ! 飛んで!
一気に地上へ向かってジャンプして!
「恒代ちゃん」
誰かの声がした。ななめ下のほうへ目を向けると、宮平広美が、顔を覗かせている。
「広美さん……」
「恒代ちゃん。戻ってらっしゃい。ね?」
恒代は首を振った。広美は窓のふちに腰をかけるような|恰《かっ》|好《こう》で、微笑みながら、恒代を見上げた。
「――よくそんなところに立てるわね。私、|凄《すご》い高所|恐怖症《きょうふしょう》だから、とてもだめだわ」
「広美さん……。お母さんは?」
「病院よ。来ちゃいけないと私が止めたの。――話したい?」
「いいえ」
「ねえ、死ぬつもりなのね。どうして? 手術は明日よ。せっかく、生きる希望があるっていうのに――」
「もう生きてたって仕方ないんですもの」
「そんなことないわ!」
広美は、少し間を置いて、「――今、|彼《かれ》を呼んでるの」
「え?」
恒代がじっと広美を見た。「彼って?」
「阿部忠哉とかいったわね。あなたのボーイフレンドよ」
「忠哉さんを?――ここへ?」
「そう。でも、ちょっと時間がかかるわ。ここへ来ない?」
恒代は目を|伏《ふ》せた。
「――会わせる顔がないわ、私」
「なぜ? 何があったの?」
恒代は黙っていた。
誰かが、広美へ話しかけているらしかった。
「恒代ちゃん、ちょっと待っていてね、すぐに戻るから」
広美の姿が消えた。
彼が――忠哉が来る! 本当だろうか?
遥か下に、屋根が並んでいる。それを、恒代は見下ろして、深呼吸した。会えるものなら、もう一度忠哉に会いたいと思った。
広美を部屋の中へ呼んだのは、由子だった。
「恒代さんが飛び降りようとしている理由が分かりましたよ」
と由子が言った。
由子が、法子という恒代の友だちの告白を伝えると、広美は窓のほうを振り向いて、
「そういう事情だったの……」
と呟いた。
「親友に裏切られ、恋人は殺人罪で|逮《たい》|捕《ほ》。それももとはといえば自分のせいともいえるわけでしょう。それに、自分自身、明日の手術で助かる見込みがあまりない、となれば……」
「死にたくなるのも当然ね」
と広美は肯いた。
「説得はできそう?」
「さあ。――でも、忠哉って子が来ると言ったら、かなり心を動かされたみたい」
「どれくらいかかるのかしら?」
由子は、「ちょっと待ってて」
と、廊下へ飛び出して行った。
さっき、忠哉をここへ呼んでくれると言っていた年輩の刑事が、警官たちに何やら話しているのが目に入った。急いで駆け寄って、
「あの、すみません。阿部忠哉っていう子はいつこっちへ?」
と由子は声をかけた。
刑事は難しい顔で由子を見た。広美も出て来る。
「それがね、どうしてもだめだというんですよ」
刑事は言いにくそうに言った。
「だめ、って……」
「許可を得る上司がいないということでね。勝手には連れ出せないというんです」
「そんなこと! じゃ、あの子が死んでもいいっていうんですか!」
広美が食ってかかったが、刑事のほうは両手を広げて見せ、「こっちも|粘《ねば》ってみたんだが、向こうは、だめだと言うばかりで」
と肩をすくめた。
「なんとか、こっそり屋上へ出て捕まえるようにしようかと思ってね」
「どうしても……だめなんですか」
と由子が訊いた。
「だめですね。あれでは見込みがない」
由子と広美は顔を見合わせた。
――恒代は、忠哉に何と言い遺していこうか、と考えていた。せめて、自分が裏切ったのではないということだけ、知ってほしかった。それ以上のことは望まない。
ふと、胸苦しさを覚えて、恒代は手すりにしがみついた。発作が来る! 緊張した。
ここで発作に襲われたら、とても立っていられない。アッという間に|墜《つい》|落《らく》していくに違いない。
待って! せめて彼の顔を見るまで、待って!
恒代は必死に祈りながら、手すりを握りしめていた……。
「なんとか方法はないかしら」
と、広美が唇をかみしめた。
「まったく、お役所仕事ってねえ」
と、由子も|愚《ぐ》|痴《ち》ったが、いくら愚痴を言っていても、忠哉をここへ呼べるわけではない。
「その男の子が来て話をすれば、恒代ちゃんはきっと思い|止《とど》まると思うわ」
「――待って! 考えがあります」
由子の声が高くなった。
「電話! 電話!」
と廊下を突っ走って行く。
広美は|呆《あっ》|気《け》に取られて見送っていた。由子が途中で振り向くと、
「あの女の子に、『今、彼を連れて来るから』って言っといてください!」
と叫んだ。
どうするつもりだろう? 広美は首をかしげたが、ともかく恒代のことが気になった。
窓のところへ戻って見上げると、
「恒代ちゃん、もうすぐ――」
と言いかけて、「どうしたの?」
と声を上げた。
恒代が、胸をじっと|押《おさ》えて、|喘《あえ》いでいる。苦しそうだ。
「恒代ちゃん! しっかりして!」
と広美は叫んだ。
「大丈夫……」
恒代は、そっと肯いて、「発作が起こりそうだったの。――でももう大丈夫」
「ねえ、恒代ちゃん。入ってらっしゃい。あなたの恋人も、来るのに時間がかかるわ。そこで待っていたら、またいつ発作が起きるかも――」
「広美さん」
と恒代が言った。「私、死ぬ決心をしたんですもの。それは変わらないわ。お願いだから無理に捕まえようとしないで。そうしたら、私、すぐに飛び降りる」
「分かったわ。でも彼が来るまでは、待っててね」
「間に合えば、ね」
恒代は弱々しく肯いた。
広美は、もう一度さっきの刑事のところへ行って、なんとかならないのかと訴えた。
「――彼女、本気です。狂言とか、そんなものじゃないんです。それに心臓が弱くて、いつ発作を起こすか分からないし、なんとか彼女の恋人を呼んでやってください」
「できるものならねえ……」
と刑事は頭をかいた。
十分、十五分、と時間が流れた。
恒代は、こうしていると、いつまでも朝が来ないような気がする、と思った。時間が流れを止めたようで、まるで、もう死んで、雲の上から、地上を見下ろしているような|錯《さっ》|覚《かく》さえ起こしそうだった。
私が天国なんかに行けるのかしら? 恒代は、ちょっと微笑んだ。
忠哉さんは、まだ来ないのかしら。――恒代は、下が騒がしくなったのに気付いた。
何か大きなトラックのようなものが、何台かやって来て、マンションの下に停まった。
何だろう? 見ていると、その車の屋根の上に人が上がって、何やらやり始めた。大きな道具をかかえ上げている。――その大きな車の車体は、いやにきれいな色に|塗《ぬ》られていた。
やっと分かった。恒代は呆気に取られていた。――あれはテレビ局の|中継《ちゅうけい》車だ。
「何だ、あれは?」
刑事たちも窓から呆気に取られて地上の騒ぎを眺めていた。
「――おい、何ごとなんだ!」
と、責任者の刑事が、駆け上がって来た警官に向かって怒鳴った。
「はあ……。テレビ局の中継車なんです」
「そんなことぐらい分かっとる!」
「で、責任者の方にインタビューしたいと……」
「いったい誰が通報したんだ!」
と、刑事は|拳《こぶし》を振り回しかけたが、「――何だと?」
「はあ。テレビ局のレポーターが、ここの責任者の方にお話をうかがいたいと申しまして……。あの――断わっておきましょうか?」
「待て!」
刑事は、エヘンと|咳《せき》|払《ばら》いをして、「PRも、警察の重要な任務の一つだ」
と言い出した。
「はあ……」
「ほんの二、三分なら、インタビューに応じてもいい」
「そうですか。良かった!」
警官はホッとした様子で、「実はもうそこへ来てるんですが」
「何だと? 早く言え!――待て、待たせておけ」
と部屋の中へ飛び込んで、刑事はあわてて|髪《かみ》の毛を整え始めた。
広美は、それを見て、こんな場合ながら、つい吹き出しそうになってしまった。
「どうしたの?」
恒代が、それに気付いて、声をかけて来た。
「あのね……刑事さんが、テレビに映るっていうんで、髪を直してるの」
「まあ」
「それがとっても|薄《うす》いのよね」
恒代は笑い出した。広美も一緒に声を上げて笑った。――死が足下に口を開けて待っているのに……いや、だからこそ、その笑いは透明で、楽しげである。
「私のこと、写してるの?」
「そうらしいわね。でも、ずいぶん早く駆けつけて来たわ」
「恥ずかしい……」
恒代は、ちょっと照れたように呟いて、「でも死ねば誰も私のことを笑わないわよね」
と独り言のように付け加えた。
「誰も笑うもんですか!」
広美は真顔で言った。「でもね、生きていれば、笑わないどころか、きっとみんな|拍《はく》|手《しゅ》してくれるわよ」
恒代は、じっと、足下に集まった人々を見下ろしていた。
一方、テレビカメラを前に、コチコチに固くなった刑事へ、レポーターが質問していた。
「――あの女の子の恋人が、今逮捕されているとか」
「そ、そ、そうです」
「なぜ連れて来ないんですか?」
「それは――その――私としては――その――一存でどうする――は――」
「では、警視|総《そう》|監《かん》の許可がなくてはだめなんですか? 女の子の命より、手続きのほうが大事だと?」
「いや、そんなことは――」
刑事は汗だくになっていた。
それを少し離れて眺めているのは、由子であった。
広美が廊下へ出て来て、由子を見付けると駆け寄って来た。
「どうなってるの?」
「今、刑事さんが責め立てられてるところ」
「でも、テレビ局の人が、どうしてそんなことまで知ってるのかしら」
「私が話したんです」
と由子は言った。
「あなたが?」
「テレビ局へ電話したの、私ですもの」
「まあ! それじゃ――」
「世論に|訴《うった》える。これが一番だと思ったんです」
「すばらしいわ!」
広美が手を打った。「でも、早くしないと間に合わないかも……」
そこへ、警官がまた一人上がって来て、
「――総監からお電話が」
と告げた。
一方、恒代は、だいぶ心臓が落ち着いて来て、少し息をついていた。
しかし、こういうときが怖いのだ――よく、死にかけた人間は、死の直前にいったん回復すると言われる。恒代も、今までに経験があった。
こうも急に調子が戻るのは、危険信号である。
「忠哉さん……。早く来て。間に合わないわ……」
恒代は|祈《いの》るように呟いた。
「――恒代ちゃん!」
広美が顔を出して大声で呼んだ。「あと十五分で着くって! 今、パトカーがサイレン鳴らしてふっ飛んで来るからね!」
「ありがとう」
恒代はわずかに肯いた。
「ね、恒代ちゃん。彼が来たら、よく話し合ってね。顔を見ただけで飛び降りたりしないって|約《やく》|束《そく》して!」
「ええ……。分かりました」
恒代はもう一度肯いた。
十五分が、これほど長いと感じたことはなかっただろう。しかし、いったんサイレンが、聞こえて来ると、それはたちまち近付いて来た。
「恒代ちゃん、きっとあれだわ! ほら、停まったわよ」
広美が言った。声が弾んでいる。
由子は廊下で待っていた。エレベーターが停まって、刑事に|挟《はさ》まれた少年が降りて来る。
「阿部忠哉だな」
と、警官の一人が声をかける。
「恒代は?」
と少年が訊いた。
「まだ外だ。話をしてみてくれ。その部屋の窓から話ができる」
忠哉という少年が入って行くと、広美が出て来た。
「どうですか?」
「今、話をしてるわ」
広美は祈りでも|捧《ささ》げるように目を閉じて、胸に手を当てた。
恒代は、窓から忠哉が顔を出したのを、自分の目で見ながら、それが信じられない思いだった。
「やあ」
と、忠哉が言った。「何してるんだ」
「忠哉さん……」
恒代は、胸が一杯になった。
「分かってるよ」
忠哉は肯いた。「今、下で、法子ってのに会った」
「法子に?」
「俺を警察に売ったのは自分だって泣いてたぜ」
「法子が……泣いてたの」
「あの娘だぜ。お前の机にラブレター放り込んだのは」
「法子が?」
「お前のこと、好きだったんだよ。――|悟《さと》られないように、男が出してるような文章にして、|筆《ひっ》|跡《せき》も変えて。――なあ、分かってやれよ。あいつは、|俺《おれ》とお前のことに、やきもちを焼いてたんだ」
「だからあなたを……」
「それに、あんなひどい目にあわされてるんだ。俺たちみたいな仲間そのものが憎らしくなっても当たり前さ」
「良かった!――あなたに誤解されたまま死にたくなかったの」
「なぜ死ぬんだよ? 俺は何年かすりゃ戻って来るんだぞ。待っててくれないのか」
「あなたを……」
「そうさ。お前がいてくれないと、俺はまた不良になるぞ」
恒代は目が|涙《なみだ》で|曇《くも》るのを感じた。
「私を……|脅迫《きょうはく》するの?」
「ああ。だからおとなしく戻って来いよ」
「ひどい恋人ね」
恒代は泣き笑いの顔になった。
「おとなしくそこにしがみついてろよ。今、|迎《むか》えに行くからな」
と、忠哉が言った。恒代は肯いた。
忠哉の姿が窓から消える。恒代は、手すりにしっかりとしがみついていた。
みっともない、という気持ちがチラッと胸をかすめた。いや――死んでしまったほうが、もっとみっともないのだ。彼が、私に待っていてくれと言った……。その一言が、恒代を死から引き戻した。
明日の手術が、もっともっと危険なものであっても、せめて忠哉が自由になる日まで生きていたい……。
屋上に|靴《くつ》|音《おと》がした。
忠哉だ! そう思うと、体が|震《ふる》えるようだった。
「今行くぞ」
駆けて来る足音。――そして、突然、恒代の心臓を再び発作が襲ったのである。
「忠哉――」
「おい!」
忠哉が駆け寄る。恒代が両手で心臓を|押《おさ》えた。手すりから体が離れてのけぞった。忠哉が手すりの格子の間から、手をのばした。
忠哉の手が、奇跡的に、恒代の左手をつかんだ。
「頑張れ!」
恒代の体は、忠哉がつかんだ左手だけで、宙にぶら下がった。ビルの下で、悲鳴とどよめきが|湧《わ》き上がった。
テレビの中継車の上で、マイクをつかんだアナウンサーが、負けじと声を張り上げる。
忠哉は歯を食いしばって、恒代の体重を、ただ一つの手でつなぎ止めていた。腕が抜けそうだったが、死んでも離すもんかと頑張っていた。
「誰か来い! 早く来いよ!」
いくら男だといっても、まだ少年である。少女一人の体重を、なんとかもちこたえることはできても、引っ張り上げるのはとても不可能だと分かった。
手がしびれて来た。力をいれているつもりなのだが、指先が感覚を失いつつあった。
「|頼《たの》む……早く来てくれよ……」
実際は、ほんの何秒かのことだったらしいが、忠哉には何十分もの時間に感じられた。
足音がいくつも駆け寄って来て、何本もの腕が忠哉を抱きかかえた。
「馬鹿野郎! 俺なんかいいんだ! あいつを引っ張り上げろ! あいつを助けるんだ」
――後になって、忠哉は、自分がそうわめいていたと知らされた。実際には、そのまま忠哉は気を失ってしまっていたのである。
人間、年を取って疲れて来ると、無性に、自分の不幸ばかりが大きく見えて来るものである。
|山科良作《やましなりょうさく》も、その例に洩れなかった。
みんな楽をしているのに、どうして俺一人が、こんな苦労をしなきゃいけねえんだ。――その思いが、いつも、胸の奥で|渦《うず》|巻《ま》いていた。
「まったく、ゆうべの馬鹿騒ぎと来たら……」
朝の七時、山科良作は、マンションの管理人室を出て、神経痛に病むひざをなだめなだめ、エレベーターへと向かった。
山科良作にとっては、あの娘が飛び降りて死のうと、助かろうと、どうということはなかった。それよりも、屋上が大勢の人間たちの足で汚されたことのほうが、ずっとずっと大問題なのである。
娘が引っ張り上げられ、そのまま救急車で運ばれて緊急手術を受けたことが、今朝のテレビニュースで放送されていた。その結果はまだ分からない。
しかし、良作にとって、他人の不幸や幸福は、我が身と引き比べてみるための材料でしかなかった。そして良作は、世界で自分ほど不幸な人間はないと思っていたから、どの他人も、ただねたましい存在としか、目には映らなかった。
良作は、もうすぐ六十七歳になる。
かつては、女たちの前に|誇《ほこ》らしげにさらして見せた|逞《たくま》しい肉体も、今は|面《おも》|影《かげ》すらなかった。少し|猫《ねこ》|背《ぜ》で、頭は|禿《は》げ上がり、目の下にたるみのできた、しまりのない顔は、昔を知る者に、それが良作だとは気付かせないに違いなかった。
よれよれの作業服に身を包んだ良作は、もうだいぶすり切れた(良作のように)モップとバケツを手に、屋上へ出た。きれいにしておかないと、このマンションの口やかましい婦人連中から、苦情が来るのである。
良作が、水道の|蛇《じゃ》|口《ぐち》のほうへ歩いて行くのを屋上の|片《かた》|隅《すみ》から、テディ・ベアが眺めていた。
第十二章 |英《えい》|雄《ゆう》の|夢《ゆめ》
「まったく今の女どもは、楽することしか考えてねえんだからな」
山科良作は、屋上を、|濡《ぬ》れたモップで|掃《そう》|除《じ》しながら、|呟《つぶや》いていた。
良作にとって、この手の|愚《ぐ》|痴《ち》は、別に意味のあるものではなく、いわばいつも流れているBGMの|如《ごと》きものなのである。
良作は、このマンションの正式な管理人ではない。いわば、本物が見付かるまでのつなぎなのだが、臨時|雇《やと》いであるがゆえに給料も安くて済むので、もう一年以上も、ここで働いている。
|泥《どろ》の|靴《くつ》|跡《あと》は、あらかたきれいにした。ここは|洗《せん》|濯《たく》物を干しに、このマンションの主婦たちがやって来るので、下が|汚《よご》れているとたちまち苦情が出るのだ。
七時から、のろのろとやっていたので、終わったときには八時になっていた。
「何か……あったなあ」
と、良作は呟いた。
やらなくてはならないことがあったのだ。それが何だったのか、良作には思い出せないのである。
最近はしばしばこうだった。一度言われただけでは、忘れてしまう。認めるのは|辛《つら》かったが、やはり|年《と》|齢《し》を取ったのだ。
|普《ふ》|通《つう》なら、|俺《おれ》ぐらいの年齢になりゃ、もう楽|隠《いん》|居《きょ》で、子供たちから|小《こ》|遣《づか》いをもらい、ときどき孫の相手をして|暮《く》らしているもんだ。それなのに、この俺は……。
一日に何十回とくり返す愚痴だった。
良作の周囲に、もっともっと辛い日々を送っている老人たちはいくらもいるが、良作の目には、いっさい入らない。ただ自分より恵まれた|境遇《きょうぐう》の老人を見ては、どうして俺だけが……と、ため息をつくのだった。
しかし、良作の今の状態は、良作自身の責任なのである。
良作は、かつて、かなり|腕《うで》|利《き》きの|刑《けい》|事《じ》であった。五十|歳《さい》になる前に、警部補にまで出世して、まだ上へ進める|見《み》|込《こ》みも、かなりあったのである。
良作の将来を|狂《くる》わせたのは、ある殺人事件に関連して|接触《せっしょく》した一人の女で、いわば中年男を狂わせる|魔性《ましょう》のようなものを持っていた。
良作は女のところへ入りびたって、妻子を捨てた。|更《さら》に、金遣いの|荒《あら》い女のために、ゆすりたかりに近いことまでやるようになった。
それが上司に知れて、半ば強制的に辞職を|迫《せま》られるのに、そう時間はかからなかった。それでも、まともに辞職していれば、まだ再就職の口もあったのだが、辞表を出す前に、自分のことを上司へ告げ口したに|違《ちが》いない(単なる良作の思い込みに過ぎなかったのだ)|同僚《どうりょう》を|酔《よ》って|殴《なぐ》り、負傷させてしまった。
――|免職《めんしょく》となっては、もう良作の行き場はなかった。
女はあっさりと良作を見捨て、|穏《おだ》やかな|人《ひと》|柄《がら》の妻が、|戻《もど》ってもいいと言うのを、良作は意地で|蹴《け》った。
|離《り》|婚《こん》し、一人になった良作に、世間の風は冷たかった。
そしてもう十五年以上の歳月が流れた。
良作の中では、しかし、自分の犯した過ちは|片《かた》|隅《すみ》へ|押《お》しやられ、自分の不運と、不幸を|嘆《なげ》く思いだけが残されていた……。
「おじさん、おはよう」
いつも早く屋上へやって来る若い主婦が、声をかけて来た。「ずいぶん早いのね」
まだ二十七、八のその若い主婦は、|明《あか》|石《し》|加《か》|奈《な》|江《え》といった。
山科良作は、ちょっと笑顔を見せて、
「昨日の|騒《さわ》ぎで、すっかり汚れちまってるからね」
と|肩《かた》をすくめた。
「ああ、そうね。大変だったわね。でも、このマンション、すっかり有名になっちゃったじゃない」
「あんまりありがたい話じゃないよ」
と良作は、首を振って、「写真を|撮《と》らせろとか、何だとか、うるさく電話がかかって来てね。断わるのに一苦労さ」
「ご苦労様。あの女の子、助かりそうですって? さっきニュースで言ってたわ」
「そうかい」
いずれにしても、良作には関係のない話であった。
「良かったわね。あの若さで死んじゃ|可《か》|哀《わい》そうだわ。それに、あの子を助けた不良学生も、何か特別のはからいをしてもらえるらしいわ。不良学生が清純な|娘《むすめ》に|恋《こい》して、心を入れかえる、なんて、映画みたいじゃない?」
楽しげに話をしながら、明石加奈江は、洗濯物を手早く干し始める。良作は|黙《だま》っていた。相手が加奈江でなければ、何か一言、言っているところだ。
不良ややくざのような連中が心を入れかえるなどというのは、ドラマの中だけの話だ、と良作は思っていた。あんな連中は人間のクズだ。一生|監《かん》|獄《ごく》へ放り込んどきゃいいんだ……。
世間からは、自分もその連中と同類と見られていることなど、良作はケロリと忘れているのだった。
「――割りといい男だったわよ、あの男の子」
と、加奈江は言った。「うちの|亭《てい》|主《しゅ》も、結婚する頃はいい男だったんだけどな。今はすっかりお腹が出ちゃって……。あの男の子、すっかりヒーローになって、テレビのインタビューに出てたわ」
ヒーローか。良作は苦々しい思いで、顔をそむけた。
そんなことなら、警察官たちは、みんなヒーローだ。俺だって……そうだとも、俺だって命を|賭《か》けて人を助けるぐらいのことはした。しかし、それは単なる職務で、|賞《ほ》め言葉一つもらえるわけではない。
そうだとも。――長い刑事としての生活の報いが、この神経痛と、何の夢もない明日だ。人生は不公平にできているんだ。
「テル坊はどうしたね」
と、良作は声をかけた。
「まだよく|寝《ね》てるの。だから置いて来たわ。すぐに干し終わるから」
明石加奈江は、その年齢の主婦にしては、よく働く。それに、他の若い女たちと違って、良作へ、親しげな言葉をかけ、そして、年齢なりの、思いやりを示してくれるのだ。だから、良作も、加奈江には打ち|解《と》けて話ができるのだった。
「――今日もいい天気になりそうだな」
と良作は、腰に手を当てて伸ばしながら、ゆっくり屋上を回った。
「もう一度洗濯しなきゃ。|輝《てる》|夫《お》が汚すんだもの」
輝夫とは、加奈江の、三歳になる|息《むす》|子《こ》だ。
――良作は足を止めた。熊のぬいぐるみが、手すりの内側に転がっていた。
良作は、そのテディ・ベアを拾い上げた。少々薄汚れて、デパートの|棚《たな》に|並《なら》べたらひけ目を感じそうだが、こうして一つだけ見ていると、そう捨てたものでもない。
|誰《だれ》かが忘れて行ったのだろう。
良作は、ふと、明石加奈江が、一人息子、輝夫のことを、男の子のくせにぬいぐるみが好きで、と話していたことを思い出した。そうだ、ちょうどこれを――。
良作が振り向くと、もう加奈江は、洗濯物を干し終えて、空になったかごを手に、エレベーター室へ歩いていくところだった。
「なあ、ちょっと――」
と呼んでみたが、聞こえなかったらしい。
加奈江はエレベーターに乗って、四階へと降りて行ってしまった。
まあいいや、と良作は思った。たいてい毎日、顔を合わせているのだ。急ぐこともあるまい。
そうだ、それに、これを落としたという子が出て来るかもしれない。それを輝夫にやってしまったとなれば、また苦情が来るに違いない。少し間を置いたほうが良さそうだな。
良作は、ぬいぐるみをわきにかかえてモップとバケツを手に、エレベーターのほうへ歩き出した。
エレベーターが屋上まで上がって来ると、いつも、テレビに出て来る|漫《まん》|才《ざい》コンビみたいにくっついている二人の主婦が、子供を連れて出て来た。
良作は内心舌打ちする。苦手な相手なのである。ろくに働きもせず、おしゃべりばかりしている。しかも、その中身と来たら、人の悪口ばかりなのだ。
一応、わずかばかりの洗濯物を干しに来るのだが、そんなものは放ったらかしで、一時間ぐらいは平気でしゃべっている。お互い、子供が二つぐらいで、母親たちがおしゃべりに|夢中《むちゅう》になっている間、子供たちは勝手に遊び回っているのだった。
今朝もいつものとおり、二人の母親たちの|噂《うわさ》話は、エレベーターの中からすでに始まっていたようだ。
二人の子供たちが、元気よく飛び出して来て、走り出す。――と、その一人が、良作がかかえているぬいぐるみに目を止め、トットッと|駆《か》け寄って来ると、手をのばしてさわろうとした。
「ミチ!」
と母親が気付いて、「汚ないから、さわっちゃだめよ!」
と|叫《さけ》んだ。
良作はムッとした。朝早く起き出して、屋上を掃除してやったのに、「汚ない」とは何だ。慣れてはいるが、やはり頭に来る。足早にエレベーターへ向かう。
だが、そのミチという子は|諦《あきら》め切れなかったらしい。良作を追って来て、ぬいぐるみに手をのばした。
「だめだよ」
良作は、体をよじって、子供の手をよけた――だけのつもりだった。モップの|柄《え》が|振《ふ》り回されて、子供の頭にもろに当たった。
子供はストン、と|尻《しり》もちをつき、|一瞬《いっしゅん》、間を置いて、|泣《な》き出した。
「何するのよ!」
母親がヒステリックな声を上げて駆け寄って来た。
良作は、なんだか、悪い夢を見ているような気がしていた。
泣き叫ぶ子供、ヒステリックにわめく母親、それはもう良作にはただの|騒《そう》|音《おん》としか聞こえなかった。
我に返ったときは、マンションの管理を|請《う》け負っている会社の社長――つまり彼の雇い主の前に立っていた。
「困るじゃないか」
と、その社長は言った。
社長といっても、大体が四、五人しか社員はいない。できるだけ、良作のような臨時雇いをふやして、経費を切りつめていた。
臨時雇いなら、クビにするのも簡単なのである。
「マンションの住人の子供にけがをさせるとはね。――まったく、困った|奴《やつ》だ」
|蝶《ちょう》ネクタイなどしているのが、|却《かえ》ってこっけいに見える。良作は、いつも、この社長の顔を見ると笑い出したくなるのだった。
「わざとやったんじゃないですよ」
良作は、やっと言葉を押し出した。
「おや、やっと口をきいたか! |眠《ねむ》ってるんでないと分かって|嬉《うれ》しいぞ」
社長はそう言って皮肉っぽく笑った。
「本当です。うるさくつきまとって来るんでよけようとしたら、モップの柄がぶつかったんですよ」
「母親の話では、モップを振り上げて子供を殴りつけたということだが」
「|冗談《じょうだん》じゃない!」
さすがに良作も腹が立った。「あの母親はおしゃべりに夢中で、子供のことなんか見ちゃいません」
「かもしれん」
社長は|肯《うなず》いた。「しかし、実際はどうだったかなんてことはどうでもいいんだ」
「――というと?」
「要は、向こうが客だってところさ。頭を下げるほか、仕方ない」
良作にしても、この仕事を失ったら、食って行けなくなる。それに、給料は安いし、この社長もいやな奴だったが、ともかく住むところがあって、家賃がいらないというのが、他の仕事にはない利点である。
「じゃ、どうすりゃいいんですか」
と良作は|訊《き》いた。
「どうすりゃいい、だと? できることなら辞めてほしいね。仕事を欲しがってる人間はたくさんいるんだ」
良作の顔から血の気がひいた。社長はそれを見て、|愉《ゆ》|快《かい》そうな目をした。
「しかし、私は情にもろい男だからな」
社長は、いやな|匂《にお》いのする葉巻をくわえて火を点けた。「――お前さんのような身寄りのない年寄りを、おっぽり出して、のたれ死にさせたくない」
良作は、顔に|汗《あせ》が|浮《う》かぶのを感じた。
「まあ、今回はいい。私が菓子折を持って謝りに行けば済むさ。しかし、こんなことは二度と困るぞ」
良作は、どうやらクビはつながったと分かってホッとした。――同時に、|無性《むしょう》に腹が立った。
どうして俺がこんな目にあうんだ? 腕利きの刑事だったこの俺が、こんな奴に頭を下げるのか。
「どうもすみません」
良作は頭を下げた。|屈辱《くつじょく》感がその顔を燃えさせた。
「分かってるだろうが」
と、社長は葉巻の煙を良作へ|吹《ふ》きかけながら、言った。「謝りに行くとき持って行く菓子折の代金は、君の給料から引かせてもらうよ」
菓子折が二千円か三千円か知らないが、かつかつで食べている良作にとって、それだけのマイナスは痛い。しかし、ここは引き退がるしかなかった。
「よろしくお願いします」
良作はまた頭を下げた。屈辱が、一種|自虐《じぎゃく》的な快感に変わりつつあった。
「じゃ、マンションのほうへ|戻《もど》ってくれ。――いいか、今度こんな事件があったら、|即《そく》|座《ざ》にクビだぞ」
「はあ……」
俺が昔のように刑事だったら、この社長にへいこらと頭を下げさせてやるのに、と良作は思った。――もう、遠い昔のことになってしまった。
|畜生《ちくしょう》め、畜生め……。
良作は、まるでおまじないのように口の中でそう呟きながら、マンションに戻って行った。
夜になると、テレビをつけっ放しにしている。古いカラーテレビで、色も悪いが、他に楽しみもなかった。
何を見る、ということもないのだが、ともかく、映っているものを見ていた。そして、安酒を飲んで寝る。――これが良作の夜のスケジュールなのだ。
それでも、ニュースの時間になって、殺人事件だと聞くと、ふっと目が向く。習性というやつなのだろう。
その夜は、少しアルコールの量も多めであった。ニュースの時間になった|頃《ころ》は、もう眠くてたまらなかった。
寝ちまうか。――テレビを消そうと立ち上がりかけて、良作はまた座り込んだ。
|誘《ゆう》|拐《かい》事件の報道だった。トップ|扱《あつか》いである。
誘拐は、報道を規制するので、こうしてニュースが流れるのは、人質が救出されたときか殺されたときということになる。幸い、人質の女の子は、無事に救出され犯人は|逮《たい》|捕《ほ》されたらしい。
犯人の若い男が、上衣を頭からすっぽりかぶって、|逃《に》げるようにカメラの列の中を歩いて行く。そんなに|恥《は》ずかしいことなら、最初から、やらなきゃいいのだ。
アナウンサーは、ベテラン刑事のとっさの判断が、人質の命を救った、と語っていた。良作はせせら笑った。
とっさの判断ができなくて、刑事などやっていられない。それでいちいち|賞《ほ》められるのだから、時代も変わったもんだ。俺の頃には――。
テレビの画面に、良作は見入っていた。その人質の娘を救い出した、命の恩人の刑事に、両親が泣いて礼を言っている。子供の、罪のない笑顔が、大きく映し出された。しかし、良作は、そんな子供の顔など見たくもなかった。
今の刑事、あれは……。
もう一度、刑事の顔が映った。めったにないことだ。たぶん、|庶《しょ》|民《みん》の味方、警察をPRする意味もあるのだろう。
その刑事の顔は、良作には忘れられなかった。良作を辞職に追い込んだ、かつての同僚、|深《ふか》|谷《や》だったのである。
「深谷の野郎……」
良作は、手にしていた酒のコップが、細かく|震《ふる》えているのに気付いて、下へ置いた。
あいつが俺のことを上司へ告げ口しやがった。だから俺はクビになったんだぞ!
実際には良作の思い込みであり、クビになったのも、深谷を殴ったからである。しかし、今の良作は、自分が|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》であると思い込むことで、|辛《かろ》うじてプライドを保っていた。だから、自分の都合の悪い|記《き》|憶《おく》は、日記帳を破るように、捨ててしまっていたのである。
あいつが英雄で、俺はこの|惨《みじ》めな有様だ。世の中はまったく不公平なもんだ。畜生!
良作は、残った酒を一気に飲み干すと、ゴロリと|畳《たたみ》の上に横になった。
あのまま行ってりゃ、俺だって警部ぐらいにはなれたんだ。そして、深谷の奴をこき使っていたかもしれねえ。
良作は目を閉じた。カメラのフラッシュを浴び、テレビカメラに|微《ほほ》|笑《え》んで見せる、自分の姿が、|瞼《まぶた》に浮かんだ。――なぜこうならないんだ?
今でも、良作はときどきそんなことを夢に見る。つまり、マンションに入った|強《ごう》|盗《とう》を取り|押《おさ》えて、新聞に大きく写真が|載《の》り、〈元刑事が強盗を退治!〉などという見出しが出る。
そんなことが、どうして起こらないんだ、と良作は不運を|恨《うら》んだ。もちろん、実際に強盗が入ったとしても、今の良作で取り押えられるわけはないが、そんなことは良作の頭の中にはいっさい入っていないのである。
「そうだ、俺だって、機会さえありゃ……」
と|呟《つぶや》きながら、良作は、いつしか眠り込んでしまった。
テレビでは、アナウンサーが、自殺しようとして危うく救出された心臓病の少女の手術が成功し、少女は命を取り止める模様である、と放送していた。
そして――どれくらい眠ったのか、良作は急にハッと起き上がった。
室内は明かりが点いていて、テレビはもうとっくに放送を終え、ただ白い画面と、雑音だけがそこにあった。
「夢か……」
と、良作は呟いた。
汗をかいていた。――少し呼吸を整えて、それから、よろけるように立ち上がると、台所へ行って、水で顔を洗った。
「無茶な夢だ」
タオルで顔を|拭《ぬぐ》いながら、良作は言った。しかし、こんな夢を見たのは、初めてだった。
誘拐の報道をテレビで見たせいだろう。
夢の中で、良作は、自ら[#「自ら」に傍点]子供を誘拐していた。そして、それを助け出すのだ。犯人には、適当なチンピラを仕立て上げる。そして、自分は子供を助け出した英雄となって、テレビに出ているのだ……。
「|馬《ば》|鹿《か》らしい!」
と、良作は頭を振った。
本当にあんなことができるわけがない。いくら子供だからって、犯人の顔は|憶《おぼ》えていよう。
顔が分からないようにして誘拐したら? 可能だろうか?――いつの間にか、|真《しん》|剣《けん》に考え込んでいる自分に気付いて、良作はギクリとした。
これは夢だ。ただの夢なんだ、と自分に言い聞かせた……。
突然、管理人室のドアをドンドン|叩《たた》く音がして、良作はギョッとした。
「こんな時間に……」
夜中の二時である。時計を見た|拍子《ひょうし》に、良作は屋上で拾って来たぬいぐるみの|熊《くま》に気付いた。
ああ、そうだった。あれも、子供を誘拐するときに使えるな。――つい、反射的にそう考えて、良作は苦笑した。またドアを叩く音。
「はいはい」
良作は返事をしながら、|玄《げん》|関《かん》に出て行った。
「――開けてよ、ちょっと!」
その声には聞き憶えがあった。一番上の階の住人で、六十近い独り|暮《ぐ》らしの婦人だ。名前は――ええと、なんていったかな。忘れっぽくなっちまった。
ドアを開けると、鳥のガラみたいな、やせこけた老婦人が、ゾッとするような薄いネグリジェ姿で立っていた。
「どうしたんです?」
「どうもこうもないわよ!」
と、その婦人はヒステリックな声を上げた。
「屋上に誰かいて暴れてるの。ドシンドシンやって、やかましくて仕方ない。なんとかしてよ!」
「屋上に?」
「そうよ。大方、不良のグループか何かでしょ。ラジオかけて、騒いでるみたいよ」
またか、と良作はうんざりした。今までにも、何度か勝手に屋上へ上がって、酒を飲んだりタバコを|喫《す》ったりしていたことがある。まだ十五、六の少年たちだ。
「じゃ、今行きます」
「すぐにね!」
と、その老婦人は言った。「――ああいう連中が入って来ないように見張るのがあんたの仕事でしょ!」
「二十四時間、起きてるわけにゃいかないんでね」
「早くしてよ」
と、言い捨てて、さっさと行ってしまう。
「うるせえ|婆《ばば》あだ」
と、呟いて、良作は|懐中《かいちゅう》電灯を手にサンダルをつっかけた。
屋上へ出てみると、風が吹きつけて来た。
――なるほど、ラジカセでも持って来ているのか、良作の耳には雑音としか思えない音が鳴っている。屋上の一角に、うごめいている人影があった。
七、八人はいるかな。――良作はそっちのほうへ歩いて行った。
「おい! 何をやっとる!」
と声をかけて、良作のほうがギョッとした。
寝転がっているように見えた人影が、二つに別れた。――懐中電灯の明かりの中に、|肌《はだ》を|露《あら》わにした、十四、五の少女が起き上がった。
「|覗《のぞ》きに来たのかい、おじさん?」
と、|誰《だれ》かが言った。笑い声が上がる。
光の輪が動くと、四組の少年少女が、からみ合っている姿が、|暗《くら》|闇《やみ》の中に浮かび上がった。タバコの匂いが|漂《ただよ》い、ビールの|空《あき》|缶《かん》も転がっている。
そして、見付かっても、平気で笑っているのだ。
「あっちへ行ってよ! いやらしいんだからもう」
女の子の一人が叫んだ。良作は、なぜか無性に腹が立った。
「出て行け!」
と良作は|怒《ど》|鳴《な》った。「ここを何だと思ってるんだ!」
「うるせえなあ。いいじゃねえかよ」
少年の一人が起き上がった。
「|嫉《や》いてんのよ。もう自分がダメなもんだから」
女の子がクスクス笑いながら言った。
良作は、懐中電灯の光の中に浮かぶ少女の白い肌に、ついつい目をひかれている自分に気づいてハッとした。
「そんな|真《ま》|似《ね》はよそでやってくれ」
良作は、少し自分を落ち着かせようとして穏やかに言った。「こんなところでやられちゃ|迷《めい》|惑《わく》だ」
「あら、見物してたっていいのよ」
と女の子の一人が、タバコをくわえながら、「見られてるとスリルがあるわ」
「――お前たちがどうしようと構わんが、見過ごしてたら、こっちがクビになるんだ。行ってくれ」
「あら、|可《か》|哀《わい》そうね。同情しちゃう」
「さあ、早く片付けて、出てってくれ!」
「だって、|途中《とちゅう》でやめるなんて体に悪いわ。一ラウンド終わってからにしてよ。ね、おじさん」
人を馬鹿にしやがって……。良作は、自分でも気付かないうちに、空いた左手で、その少女の|頬《ほお》を打っていた。
「何しやがんだ!」
少年たちが飛びかかってきた。
「よせ! こいつ――俺は警察官だったんだぞ!」
いくら|衰《おとろ》えていても、|軟弱《なんじゃく》な少年たちを相手にやられてはいない。二人を投げ飛ばしてもう一人、|足《あし》|払《ばら》いで引っくり返した。
|一瞬《いっしゅん》、快感が良作を|捉《とら》えた。俺は強いんだ! 負けてたまるか!
次の瞬間、女の子が一人、ラジカセをつかむと、力一杯振り回した。それが、良作の頭を|直撃《ちょくげき》した。
――ほんの少しの間、気を失っていたらしい。起き上がると、もう少年たちの姿は消えていた。投げ捨てられたタバコが、まだ|煙《けむり》を立ち|昇《のぼ》らせている。
頭が|激《はげ》しく痛んだ。そっと手を|触《ふ》れると血らしいものが、指先にまとわりついた。
良作は、しばらくそのまま、屋上に座り込んでいた。
惨めな気分だった。あんなガキどもに殴られて気を失うとは……。
だが、良作の目に焼きついて|離《はな》れないのは、懐中電灯の光の中に動いていた、少女の白い肌だった。――女など、考えなくなって久しい。だが、今の良作に、|抱《だ》く女はなかった。その想いが、いっそう良作を惨めにした。
「いつまでも、こうしちゃいられねえや……」
と、良作は呟いて、よろけながら立ち上がった。
また頭が痛む。傷を洗って、手当てしなくては……。
良作は、ふと明石加奈江のことを思い出した。いつか、彼が手をけがしたとき、手当てしてくれたことがあるのだ。あれはいい女だ。あんな女を一度でも抱けたら、と良作は思った。
良作は、自分の部屋へと|戻《もど》って行った。|出《で》|迎《むか》えてくれるのは、あのぬいぐるみだけだった。――誘拐の夢、女、そして明石加奈江……。不意に、その三つが、良作の頭の中で一つに結びついた。
「見当たらないわね」
と、その女が言った。
「きっと誰かが見付けて持ってんじゃないかな」
|一《いっ》|緒《しょ》にいる若い男が言う。「ここは毎日、洗濯物を干しに来るところらしいから」
――良作は、その若いカップルが、屋上をあちこち歩き回っているのを、エレベーターの前で、しばらく|眺《なが》めていた。
誰だろう? 何をしているんだ?
ゆうべ、あんな手ひどい目にあったばかりなので、良作も多少神経質になっていた。
しかし、あの二人は、別に|怪《あや》しげなことをやらかすわけではなさそうだ。もっとも、真っ昼間だから当たり前だろうが。
良作は屋上へ出て行った。良作が声をかける前に、若い女のほうが気付いてやって来た。
「――あの、ちょっとうかがいたいんですけど」
「何だね。ここへ黙って入ってもらっちゃ困るじゃないか」
と良作は文句を言った。
「あ、ごめんなさい。一応、下の受付に声をかけたんですけど、どなたもいらっしゃらなくて」
|可《か》|愛《わい》い娘だ、と良作は思った。ものおじしない、活発さ。これが若さというものだろう。
「ちょっと修理をしていてね」
と良作は言った。
「何だね、用事は?」
「実は、ぬいぐるみを探してるんです。熊のぬいぐるみ」
良作の顔は、幸い、内心の|動《どう》|揺《よう》を|敏《びん》|感《かん》に表わさなくなっていた。ドキッとはしたが、顔には出ない。
「ぬいぐるみ、ね……。あんたが落としたのかね」
「いいえ。この間、この屋上で自殺|未《み》|遂《すい》があったでしょ」
「ああ、大騒ぎだったな」
「あの女の子が持っていたんですけど、実はとても大切なもので、私たち、ずっと探していたんです。あのとき、このベランダの隅っこのほうに置いた、と聞いたものですから……」
「ここへ? ふーん。知らんなあ。見なかったよ」
「いつもここには来るんですか?」
「ああ、毎日ね。それに、あのときは、すぐ次の日に、掃除しに来たよ」
ここまで言うことはなかった、と良作はチラッと|後《こう》|悔《かい》した。
「でも、ありませんでしたか」
「あれば目につくと思うね」
「そうですか……」
と、その若い女は、がっかりした様子だった。
「落っこちたんじゃないのかね、下へ」
「いいえ、そんなことはないと思います」
なぜか、その女は、きっぱりと言って、「あの――このマンションに住んでる方で、熊のぬいぐるみを持っている方は……」
「そこまでは分からんね」
と良作は笑って、「いちいち部屋を覗いて回ってるわけじゃないからな」
「ええ、それは分かってます。でも――もし見かけたら――子供が抱いているのとかを。そうしたら、|連《れん》|絡《らく》していただけません?」
良作はびっくりした。その若い女が、バッグから一万円|札《さつ》を取り出して、差し出したからだ。
「うん……。まあ、それじゃ……」
良作は、その女の差し出した一万円札をポケットへねじ込んだ。「どこへ連絡すればいいんだね?」
若い女は、手帳に電話番号をメモし、
「私、野木由子といいます」
と名前を書いて、良作へ手渡し、「よろしくお願いします。知らせていただくだけでいいんです。あとは、私たちが、その方に|訊《たず》ねますから。――そのときはまたお礼をさせてもらいます」
「ずいぶん大切なもんらしいね」
あのぬいぐるみ、どう考えても、買って一万円もするとは思えない。
「ええ、知っていた人の形見なんです」
と女は言って、「じゃ、よろしくお願いします」
もう一度念を押し、少し離れて立っていた若い男のほうへ戻って行った。
二人の姿が、エレベーターに消えると、良作はポケットの一万円札を出して眺めた。
「金か……」
金はいいもんだ。――永年、刑事生活をしていて、なぜ犯罪者は、ほとんど間違いなく捕まると分かっているのに、罪を犯すのだろうと、それが不思議だった。
しかし、今、こうなってみると、金のありがたみが骨身にしみて分かる。このためなら、命を賭けてもいいという気になる。
もちろん、金を手に入れても、指名手配されたりして、追われる身になっては、何にもならない。刑事として、逃亡犯人の生活が、どんなに惨めなものか、よく承知しているのである。安全に、金と名声と女を手に入れる。――今、良作の頭の中には、そのプランができつつあった。
良作は、手すりに寄って、街路を見下ろした。今の若い男女が、マンションを出て歩いて行く。なんとなく、いわくありげだな、と思った。
ふと、良作は|眉《まゆ》を寄せた。あの二人連れから少し|遅《おく》れて、コート姿の男が、歩いている。
刑事だ、と直感的に分かる。あの二人を|尾《び》|行《こう》している。――なぜだ? 何があるのだろう?
かなりのベテランに違いない、と良作は上から見ていて、思った。間合いの取り方、歩調を適当に変える歩き方。
どうやら、あの二人、当局にマークされる身なのだ。それとあのテディ・ベアと、どう関係があるのだろう?
「――おじさん」
声をかけられて振り向くと、明石加奈江が立っていた。
「何だ、また洗濯かね」
良作は笑顔になった。加奈江の、三つになる息子、輝夫が、屋上を駆け回っている。
「ほら、お洗濯物を汚しちゃだめよ!」
と加奈江は大声で言った。
「元気だね」
「ええ、元気すぎて。――あら、頭、どうしたの?」
「ん? ああこれか。ちょっと転んで打ったのさ」
「まあ、気を付けなきゃ」
加奈江はそう言って、シーツを干し始めた。良作は、この女を自分のものにしてみせる、と心の中で呟いた。
マンションを出て、由子と本条は、どこへというあてもなく歩き出した。
「――もう一歩のところだったのに」
由子がやけ気味にハンドバッグを振り回す。
「まあ、捨てたもんでもないでしょう」
と、本条はなだめるように、「あのマンションの子供が出て来るような時間に、何度か足を運んでみるといい」
「そうね。目につくかも。――でも、家の中に置かれていたら、おしまいよ」
「そうだ」
本条は指を鳴らした。「あの管理人の|爺《じい》さんに|頼《たの》んで、一階のところに、|貼《は》り紙をしましょう。熊のぬいぐるみを見付けて届けてくれた人に謝礼を出す、と書いて。どうです?」
「そうだわ!」
由子は目を|輝《かがや》かせて、「どうして気付かなかったのかしら!」
「じゃ、戻りましょうか」
「でも――貼るポスターを作らなきゃ」
「よし。じゃ、早速どこかで……」
「私、文房具屋さんで、紙とマジックインキ買って来るわ。ね、そこの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》がいい。待っててくれる? 私、買って来るから」
「いいんですか?」
「大丈夫よ。あのマンションの近くにあったわ、確か。それじゃ、すぐ戻って来るから」
由子はクルリと振り向いて、小走りに来た道を戻って行った。コートの男とすれ違ったが、まるで気にも止めなかった。
――文房具屋で、白い紙、赤と黒と茶のマジックインキを買い込んで、由子が喫茶店に入ったのは、五分とたたないうちである。
「早かったですね」
と、本条がテーブルの上を少し片付けながら、「|僕《ぼく》がやりましょう。結構これでも絵はうまいんですよ」
「お願いするわ」
と、由子は息を|弾《はず》ませて、「私、前に馬をかいたら、友だちに可愛い猫ねって言われたことあるの」
本条は笑って、紙を真っ直ぐに置いた。
「――へえ! |凄《すご》い!」
由子は、まるで本物そっくりの、テディ・ベアの絵を眺めて声を上げた。「画家になればよかったのに」
「これだけじゃ画家は無理ですよ」
と、本条は笑って、「じゃ、ここで昼飯にしませんか。それからマンションに戻りましょう」
「そうね。私、お腹空いたわ」
由子は、手を上げて、ウエイトレスを呼んだ。
店の入口のわきの席に、コートの男が座って新聞を眺めていた。
昼食を手早く済ませると、二人は喫茶店を出た。
「さっきの管理人の人、あんまり愛想がいいとは言えなかったわね」
と由子は言った。
「でも、あんなもんですよ、管理人なんて」
「お金取られるかしら、また」
「すみませんね。僕が金欠病で」
「私だって、自分で|稼《かせ》いでるわけじゃないわ」
と由子は笑った。
本条が突然由子の腕をつかんだ。
「振り向かないで」
と、本条は、由子のほうを見ないで言った。「|尾《つ》けられてる!」
「本当に? 尾けられてるの?」
「確かです。――畜生」
と本条は舌打ちした。「気が付かなかった。どうもあんまり美人といるのも考えものだな」
本条の、少し|余《よ》|裕《ゆう》を見せた言葉で、由子はホッとした。
「どうするの?」
「あなたはあのマンションへ入ってください」
「本条さんは?」
「逃げますよ、|大丈夫《だいじょうぶ》」
「でも……」
「言うとおりにしてください。一緒じゃ逃げられない」
「分かったわ」
と由子は肯いた。
「向こうはこっちが気付いたとは思っていないでしょう。さりげなく、マンションの前で別れるんです。中へ入ったらエレベーターのボタンを適当に押して、そのまま乗らずにどこかへ|隠《かく》れてください。あなたのほうをつけて行くことはないと思うけど、念のためです」
「ええ、そうするわ」
由子は、テディ・ベア探しのために作ったポスターを丸めて手に持っていた。「これ、どうする?」
「僕が持ってましょう。あなたがこれを持ったまま捕まったら同罪になる」
「私は構わないわ」
「しかし……」
「このポスター、気に入っているの」
と由子は言った。
本条は黙って、ちょっと笑った。――二人は、ちょうどマンションの前に来ていた。
「じゃ、また電話するよ」
と、本条が声を大きくして言った。
「さよなら、またね」
由子が軽く手を振って、マンションの中へ入って行く。本条は少し足を早めて歩いて行った。
由子は、言われたとおり、ちょうど一階に降りていたエレベーターに飛び込んだ。適当に上のほうの階のボタンを押し、エレベーターを出て、わきの階段を、|踊《おど》り場まで駆け上がった。
少し息を弾ませながら、様子をうかがったが、刑事がやって来る気配はなかった。おそらく、本条のほうを追って行ったのだろう。
うまく逃げてくれればいいけど、と由子は思った。もちろん本条のことだ、大丈夫とは思うが。いつまでも、ここにはいられない。本条にまかれたとなれば、あの刑事がここへ戻って来るに違いないからである。
いつも、もう一歩というところで……。
由子は、ため息をついた。あのテディ・ベアが、自分の手に戻ることがあるんだろうか、と疑いたくなっていた……。
由子が|慎重《しんちょう》に左右を見ながら、マンションを出て行くのを、受付から、山科良作は見ていた。
あの女、明らかに、警察から逃げているのだ。何者だろう? しかし、あの素振りは、手配中の|逃《とう》|亡《ぼう》犯とも違っている。たぶん、一緒にいた男のほうが逃げていて、あの女はその恋人というところだろう。
さすがに、良作の目はまだ鋭いところがあった。
第十三章 |誘《ゆう》|拐《かい》計画
山科良作は、|珍《めずら》しく手の|空《あ》いた午後、屋上に上がってみた。
午前中は、|洗《せん》|濯《たく》物を干しに来る主婦とその子供たちで、まるで|幼《よう》|稚《ち》|園《えん》の庭のような観のある屋上も、みんなが買い物に行ったりする午後になると、|閑《かん》|散《さん》として来る。
|朝《あさ》|寝《ね》|坊《ぼう》の、独り|暮《ぐ》らしの女性がやって来るぐらいだが、今はそれもいない。良作は、屋上の|一《いち》|隅《ぐう》に腰をおろして、タバコに火を点けた。
風が|渡《わた》って、|爽《さわ》やかだった。もう頭の傷も、ほとんど痛まない。
良作は、体に、活力が、張り[#「張り」に傍点]が|戻《もど》って来ているのを、感じていた。|愚《ぐ》|痴《ち》ばかりこぼしているときと|違《ちが》って、「ある目標」を持っている今の良作は、確実に何|歳《さい》か若返っていたのである。
明石加奈江の生活パターンは大体つかんでいた。
夫は、サラリーマンで、帰りが|遅《おそ》いのが|普《ふ》|通《つう》だ。いつか、加奈江が、
「うちの主人は外回りだから、|緊急《きんきゅう》の用があっても|連《れん》|絡《らく》が取れないの。本当に、困っちゃうわ」
とこぼしていたのを、良作は|憶《おぼ》えていた。
つまり、夫が帰るまでの、かなりの時間、加奈江は|息《むす》|子《こ》の輝夫と二人きりでいるわけだ。もちろん、他の主婦と、適当に行き来していたが、そう毎日行動を共にするような、親しい友人はいないようだった。
今の若い母親は大体|両極端《りょうきょくたん》に分かれるな、と良作は思った。
一つは子供を放ったらかしにして、どこで|誰《だれ》と遊んでいようがまるで気にせず、専ら自分の|趣《しゅ》|味《み》に熱中するタイプ。
もう一つは、いつも子供にぴったりくっついていて、手が|汚《よご》れれば飛んで行って洗ってやる、といったタイプである。
どっちの子供が誘拐しやすいかといえば、もちろん前者のほうだが、明石加奈江は、どちらかといえば後者に近かった。しかし、決して|眉《まゆ》をしかめさせるほど極端ではない。
とはいえ、やはり息子と離れている時間は、あまりなかった。一人で置いておくことはなく、必ず誰か他の|奥《おく》さんに|頼《たの》んで行く。
良作としては、やりにくい|状況《じょうきょう》である。
特に、子供に顔を見られないように、とか、後で誰か罪をかぶせる者を探さなくてはならない、という|面《めん》|倒《どう》な条件がついているので、余計に|厄《やっ》|介《かい》である。
だが、難しいだけに、計画のしがいもあるというものだし、緊張感も違って来る。――良作は、この計画を、楽しんで立てていた。
誰かが、屋上へ出て来た。このマンションの住人ではない。男で、背広姿。――良作のほうへ歩いて来る。
|刑《けい》|事《じ》だ。いったい何の用だろう?
「失礼」
と、その刑事は言った。「ここの管理人かね?」
「そうだよ」
「ちょっと|訊《き》きたいことがあってね」
と刑事は、手帳を|覗《のぞ》かせた。
そろそろ五十になろうかという男で、頭はだいぶ|禿《は》げ上がっている。
「何だね。手っ取り早く頼むぜ」
良作の言葉に、その刑事はちょっと|驚《おどろ》いたように目を開いた。
「山科さんじゃありませんか!」
と|嬉《うれ》しそうに言った。
良作のほうが、名前を呼ばれてびっくりした。その刑事は、かがみ|込《こ》んで言った。
「私ですよ。相川です!」
禿げ上がった頭に、豊かな|髪《かみ》をのせ、顔のしわをのばしてみると、見知った顔がよみがえって来る。
「相川!――そうか、お前か!」
良作は、かつての部下の手を|握《にぎ》った。
こんな自分を見られる|恥《は》ずかしさよりも、今は|懐《なつ》かしさが先に立った。
相川という刑事と、しばし、かつての|同僚《どうりょう》や部下の消息を語り合って、良作は、久しぶりに心楽しい時間を過ごした。
「ふーん、あいつが死んだのか。それは知らなかった」
良作はそう言ってから、|肩《かた》をすくめて、「もっとも、生きながらえて、こんなざまでいるよりもましかもしれんがね」
「山科さんはツイてなかっただけですよ」
と相川は言った。
昔から、こいつは|先《せん》|輩《ぱい》を立てることを心得ていた、と良作は思った。
「ところで、ここへ何の用だね」
と、良作は訊いた。
「あ、そうか。|肝《かん》|心《じん》のことを忘れるところだった」
と、相川は笑った。「この女、見たことありませんか」
写真には、この前、ぬいぐるみのことを訊きに来た若い女が写っている。|隠《かく》し|撮《ど》りの写真だった。
「さあ……。何をやったんだ?」
「この女の|恋《こい》|人《びと》が、|過《か》|激《げき》|派《は》でしてね」
「ほう」
「実は、その二人を|尾《つ》けていたら、女のほうがこのマンションへ入ったんです」
「ここにはおらん」
と良作は首を|振《ふ》った。「住んでいる人間なら、顔は全部知っとるよ」
「やっぱりね」
相川は舌打ちした。「たぶんそうだろうと思ったんですが」
「何かやりそうなのか?」
「どうも|爆《ばく》|弾《だん》|闘《とう》|争《そう》とか、手段を選ばずの口らしいんですよ」
「|徹《てっ》|底《てい》的に|叩《たた》くんだな」
「そのつもりです。以前なら、引っ張ってって|吐《は》かせたんですがね。最近はうるさくなって……」
「男のほうは?」
「これが神出|鬼《き》|没《ぼつ》で。まさに|泥《どろ》|棒《ぼう》にしたら成功疑いなしという|奴《やつ》ですよ」
「女のほうの|身《み》|許《もと》は?」
「分かっています。ごく|平《へい》|凡《ぼん》な女子大生です」
「一度引っ張りゃ、|震《ふる》え上がるさ」
「なかなか思いどおりにできなくてね」
「まあ、|俺《おれ》の知ったことじゃない」
と良作は言った。「ともかく、気を付けているよ。住んでいなくても、知り合いぐらいいるのかもしれない」
「そうですね。お願いしますよ」
相川は調子よく、拝んで見せたりした。
「よせよ。――今度、|一《いっ》|杯《ぱい》やらんか」
「ええ、ぜひ! じゃ、どうもお|邪《じゃ》|魔《ま》して」
と相川が帰って行く。
過激派グループか。――良作はニヤリと笑った。これで代わりの犯人[#「代わりの犯人」に傍点]が、見付かったのだ。
誘拐犯にデッチ上げるには格好の相手である。しかも女と来れば……。恋人の|逃《とう》|走《そう》資金を作るために、誘拐を計画しても少しも不思議はない。あとはいかにしてうまく、あの女を事件に巻き込むか、である。
良作は、相川刑事が帰ってからも、しばらく屋上で休んでいたが、二、三人の主婦が上がって来るのを見て腰を上げた。
一階の管理人室へ戻ると、|戸《と》|棚《だな》の引出しを開けて、中をかき回す。
「どこへやったかな……。ええと……おかしいな、ここに入れたはずだが……」
あの女子大生が、ぬいぐるみを見付けたら知らせてくれと、電話番号のメモを置いて行ったのだ。よっぽど捨ててしまおうかと思ったが、礼にもらった一万円|札《さつ》のことがあるので、捨てるのも悪いと思い、一応ここへ――
「あったぞ」
くしゃくしゃになったメモが出て来て、良作はホッとした。「野木由子、か。何でも取っとくもんだな」
この女を誘拐犯に仕立て上げるためには、まず、このマンションの住人に顔を見られるようにすることである。何か|記《き》|憶《おく》に残るようなことがあれば、なおいい。
それから、この女が、明石加奈江の息子、輝夫を目にしているところを、第三者の目に|触《ふ》れさせる。そして、実際の計画となったら、その実行中は、女のほうもアリバイをなくしておかなくてはならない。
この最後の点が厄介である。つまり、何人か共犯者がいれば、良作が明石輝夫を誘拐している間、野木由子をどこかに|監《かん》|禁《きん》させておくこともできる。
しかし、良作としては、共犯者は作りたくない。こんなことに手を貸そうというのは、大体ろくな奴ではないし、それに良作の目的は金ではない。子供を救い出したと見せかけて、英雄になりたいのである。そして――明石加奈江を、できることなら、たった一度、わがものにしてみたい、と思っているのだ。
しかし、もし共犯者を作るとなれば、そいつは金が第一と考えるに違いない。それに、良作自身、かつてのように、悪い奴を震え上がらすような力を失っていることに気付いていた。
これはやはり、自分一人でやるほかはないのである。
「まずこの女にここへ来てもらうことだな……」
良作はメモを見ながら、|呟《つぶや》いた。
「――すいません」
受付のほうで、女の声がした。――何だ、いったい。
「はい」
面倒くさそうに出て行って、良作は、|仰天《ぎょうてん》した。当の女子大生が、目の前に立っているではないか!
「あの――」
と野木由子は言った。「私のこと、憶えてらっしゃいますか?」
「だ、誰だったかね……」
良作は、驚きの表情を必死で押し隠した。
「あの――熊のぬいぐるみを探しに――」
「ああ、思い出したよ」
良作は、やっと笑顔を作った。
なんてタイミングだ! 良作はメモをあわててポケットに押し込んだ。
「でも、まだ見てないんだ」
「ええ、それはいいんです」
野木由子は、手にしていた、丸めた紙を広げた。「――このポスターを、どこかマンションの方の目につくところに|貼《は》ってもらえませんか?」
なかなかうまく描かれたテディ・ベアである。良作は、頭をかいて、
「ウーン、困ったね。無断でこういうものを貼ると、こっちが|怒《おこ》られるんだ」
「そこをなんとか。二、三日でいいんです。エレベーターのところにでも貼っていただけば、ほとんどの人が見てくださると思うんですけど……」
「そうだねえ。――まあ、いいだろう」
と良作は|肯《うなず》いた。
「助かりますわ! すみません」
「ちょっと待ちなさい」
良作は、奥からテープを取って来ると、エレベーターのほうへ歩いて行った。由子が出したポスターを、エレベーターの乗り口のすぐわきに貼る。
「これなら、必ずみんな見るよ」
「すみません」
由子が、五千円札を良作の手に置いた。
「いや、困るよ。この前の分で|充分《じゅうぶん》だ」
「いいんです。取っといてください」
「しかし……」
良作は、口とは裏腹に、五千円札をポケットに入れていた。「二、三日したら、また来てごらん」
「はい。じゃ、よろしく」
野木由子の後ろ姿を見送って、なかなかいい子だな、と良作は思った。――彼女を誘拐犯に仕立てるのが、|可《か》|哀《わい》そうな気になって来る。
「しっかりしろ!」
良作は口に出して言った。
まだ計画はスタートしていないというのに、今からふらついていたのでは、先が思いやられる。あの女は、|一《いっ》|緒《しょ》にいた男の愛人なのだ。ああして、純情そうに見えるのは、うわべだけのことなんだ。同情する必要はない。こっちは計画を進めればいいのだ。
さて、これで野木由子をおびき出す手は決まった。――このぬいぐるみが見付かったと言ってやれば、いつでも飛んで来るだろう。あとは場所である。
まさか、このマンションの中に閉じこめるわけにもいかない。といって、あまりここと離れているのでは、目も届かなくなる。どこかいいところはないか……。
こんな街中では、雑木林などというものはないし、といって人のいるところには監禁しておけない。
良作が考え込んでいると、目の前でエレベーターの|扉《とびら》が開いてびっくりした。
「あら、おじさん」
明石加奈江だった。輝夫の手を引いている。
「買い物かね?」
「ええ、そこのスーパーまで」
と、歩きかけると、輝夫が母親の手を引っ張った。
「どうしたの?」
「クマさん」
と、輝夫が、野木由子の貼ったテディ・ベアのポスターを目ざとく見付けて指した。
「まあ、|可《か》|愛《わい》いのね。――これ、どうしたの?」
と、加奈江が良作に訊いて来た。
「どこかの女の子が貼らせてくれといってね。だめだと言ったんだが……」
「いいじゃないの。きっと大事にしてたんだわ」
加奈江はそのぬいぐるみの絵をじっと見ていた。「ここのマンションの人?」
「いいや、そうじゃないんだ。知らん子だよ」
「そう。それじゃなかなか出て来ないでしょうね」
「まあ、どこかで見かけたら教えてくれよ」
「ええ。――ほらテル君、行くわよ」
と、加奈江は、輝夫の手を引いて、マンションを出て行った。
申し分ないタイミングだ、と良作は|微《ほほ》|笑《え》んだ。これで、あのぬいぐるみのことを、加奈江にも、輝夫にも、はっきりと憶えさせることができたろう。
「幸先がいい……」
と、良作は呟きながら、自分の部屋へと戻って行った。
あの管理人、私の顔を見て、どうしてあんなにあわてたのかしら?
由子は、マンションを出て歩きながら、考えていた。ちゃんとこっちのことを憶えているくせに、誰だか分からないようなふりをしたり、妙な老人だ。
由子も、なかなか観察力があり、|探《たん》|偵《てい》業も開けるかというところだが、つきつめて考えるという努力が不足しており、この場合も、変だと思いつつ、
「でも、年寄りは、みんなたいていちょっと変わってるもんだわ」
で済ませてしまった。
本条さんは逃げたのかしら、と思った。あれきり、連絡がないが……。
今でも、由子によく分からないことがある。中原の死を、なぜ警察は、ガス事故によるものと発表したのか。
そして、今も、警察は当然、由子の名前も家も承知しているはずなのに、なぜ、刑事一人来ないのか、ということである。もちろん、来ないに|越《こ》したことはないが、|却《かえ》って、いつも見張られているような|圧《あっ》|迫《ぱく》感があった。
向こうも、ただの推測以上のものは持っていないのだ。きっと、だからこそ、本条の行方を探している刑事も、別に由子には訊いて来ないのだろう。
家へ帰ると、母が出て来て、
「由子、お客様だよ」
「お客様? どなた?」
「刑事さんだって」
由子は、とうとう来たか、と思った。まあいい。知らないことはしゃべれないのだから。
「お待たせしました」
と、由子はソファに座りながら、「野木由子です」
と言って――そして目を見張った。
由子がびっくりしたのも当たり前で、
「警視庁の者です」
と、しゃっちょこばって頭を下げたのは、
「――本条さん!」
本条は、ニヤリと笑った。背広上下にネクタイ。ちょっと地味で、形式ばっているところなど、まるで本物の刑事に見える。
「どうです、|似《に》|合《あ》いますか」
「びっくりさせないで……」
「しっ! お母さんは?」
「ええ……。今、台所のほうに……」
「じゃ、外へ出ましょう」
「いいわ。――母になんて言おうかしら? |逮《たい》|捕《ほ》されたとでも?」
そう言って由子は、軽くウインクした。
表には車があった。
「あなたの?」
「レンタカーです。乗って」
本条は車をスタートさせると、角を曲がってすぐにブレーキを|踏《ふ》んだ。それを何度かくり返し、
「よし、今日は尾けられてないようだな」
と言うと、車を高速の入口へと向けた。
「どこへ行くの?」
「話のできるところへ。――ともかく、あなたには、いつも監視がついていると言ってもいいくらいですからね」
「私に?」
「僕がなかなかつかまらないんで、あなたからたぐり寄せようというわけです。すみませんね、|迷《めい》|惑《わく》をかけて」
「そんなこと……私だって、承知でやってるんですもの。子供じゃないわ、自分のしていることぐらい分かっています」
いつになく、むきになって、由子は言った。
本条は車を高速の都心方面へとのせると、少し走って、非常|駐車帯《ちゅうしゃたい》に入れて停めた。
「――どうしたの?」
と、由子は訊いた。
「誰にも見張られずに話をするにはここが一番なんですよ。もし尾行されていても、確実に分かる」
「あ、なるほどね。尾けているほうもここへ停まるか、でなきゃ、行ってしまうほか、ないんですものね」
「そのとおり」
と言って、本条は息をつくと、ネクタイを外した。「ああ、たまにこんなものをすると苦しくって仕方ない」
「でも、あなたって、かなりの大物なんじゃない?」
由子は、本条を見ながら言った。「あれだけ警察に目をつけられていて、平気で私を訪ねて来たり……」
「常に意表をつくことです。でなけりゃ警察の目はごまかせない。――ところで、例のマンションで別れてから、気になってたんだ。大丈夫でしたか?」
「ええ。今日、行って来たのよ。あのテディ・ベアのポスターを貼って来たわ」
「それは良かった」
「二、三日で、きっと結果が出ると思うわ。エレベーターのすぐわきだから、誰でも目につくし」
「これで出て来なかったら、また振り出しに逆戻りだ。いつまでも幸運は続かない……」
「幸運?」
「今まで爆発せずにいることですよ」
と、本条は言った。
「車が――」
と由子は言った。
本条と由子が車を停めている非常駐車帯へもう一台、赤いスポーツ車が入って来たのである。
「警察かしら?」
「違うと思いますがね」
本条はバックミラーを見て、微笑んだ。「振り向いてごらんなさい」
由子が後ろの車を見ると、
「誰もいないわ」
と言った。
「座席を|倒《たお》してるんです。恋人同士で、ホテル代の節約ですよ」
「へえ! こんなところで?」
由子も週刊誌などで、そんな記事を見たことはあったが、いざ目の前にすると、どぎまぎして、「――行きましょうよ」
と、本条をせっついた。
「夕食を付き合いませんか」
「ラーメンか何か?」
本条は笑って、
「たまには、いい店にも行きますよ」
と言いながら、車をスタートさせた。
高速の流れにのると、あとは一気にスピードを上げる。
その夜、十時過ぎに帰ると、母親が心配そうな顔で、
「警察で何のご用だったの?」
と訊く。
「ああ、別にたいしたことじゃないの。ちょっと、高速道路のことでね」
キョトンとしている母親を|尻《しり》|目《め》に、由子は部屋へ上がった。
明日、もう一度あのマンションに行ってみよう、と考えながら、|風《ふ》|呂《ろ》に入り、バスタオル一つで|涼《すず》んでいると、電話が鳴った。女友だちの電話なら、服を着てからでないと、どうも長くなるんだから、などと考えながら受話器を上げた。
「はい、野木です」
「あの……由子さんはいらっしゃいますか」
若い男の声だ。聞き憶えがない。
「私ですけど、どなたですか?」
「あ、あの……実はお話ししたいことがあるんです」
「あなたは?」
「僕は、中原君の友人でした」
「あの――事故で死んだ中原君の?」
「ええ、でも、あれはガス爆発なんかじゃない、爆弾が何かの|弾《はず》みで爆発したんだと思います」
由子は受話器を握り直した。
「あなたの名前は?」
「名前は|勘《かん》|弁《べん》してください。警察に追われていて、いつ|捕《つか》まるか分からないんです」
由子はためらった。名前も言わないような男を信用していいものだろうか?
しかし、その口調には切羽|詰《つ》まった真実味があった。
「私に、何のご用?」
「僕はもう捕まるのも時間の問題なんです。だから、その前にあなたに渡しておきたいものがあって――」
「私に?」
「中原君に頼まれていたんです。自分の身に何かあったらって……。一度会ってください」
由子は考え込んだ。何とも返事をしないでいると、
「明日、昼の十二時に、N公園の|噴《ふん》|水《すい》前に」
と、その男は早口に言って、電話を切ってしまった。
「もしもし!――もしもし」
由子は、ゆっくりと受話器を戻した。
部屋へ戻り、パジャマを着て、ベッドに|潜《もぐ》り込んだが、まだ決心がつかなかった。
中原の友人だという男。しかし、今頃、由子に何の用があるのだろうか? もう、今でさえ警察に目をつけられている。これ以上、そんな男と会ったりしたら、それこそ警察へ引っ張られるのではないか。
といって――まるきり無視することも、由子にはできなかった。
迷っているうちに、いつの間にか由子は|眠《ねむ》りに落ちていた。
朝になると、由子は気が大きくなる。
捕まりゃ捕まったで、どうだってのよ、などと開き直れるのである。朝食を済ませる前に、もう、指定されたN公園へ行ってみようと決めていた。
十二時より十五分くらい前に、由子は公園に着いた。
よく晴れて気持ちのいい日だ。オフィスビルの谷間にあるので、きっと昼休みになると、OLやサラリーマンたちでにぎわうのだろう。
その人ごみで、|却《かえ》って目立たずに済むのかもしれない。
由子も一応用心して、少し別の場所で十二時になるのを待って、五分くらい過ぎてから、噴水の前に行った。
ぼつぼつと、OLたちが連れ|添《そ》ってやって来る。――どこにその男はいるのだろうか?
見回しても、どうもそれらしい男の姿はない。十分、十五分とたつにつれ、公園は混み合って来た。
由子は噴水のへりに腰をおろして、公園へ入って来る人々を|眺《なが》めていた。
白ワイシャツにネクタイ、サンダルばきの、典型的な若いサラリーマンが、文庫本を手に、由子の横に、少し間をあけて座った。本をめくって、読み始める。本を読むなら、会社にいればいいのに、と由子は思った。
「――野木さんですね」
その男が言った。
「え?」
「こっちを見ないで!」
男が|鋭《するど》い声で言った。――確かに昨日の電話の男だ。
「何ですか、話って?」
「テディ・ベアです」
と男は言った。
「何ですって?」
「あなたが持ってるんですか?」
「何のお話か――」
「あなたが探していると聞きましたよ」
「それは……」
「どうなんです?」
男の口調は、|逃《に》げることを許さない、鋭いものだった。
いきなりテディ・ベアのことを訊かれるとは思わなかったので、由子はためらった。
大体どこまでこの男を信用していいものやら分からないではないか。そうだ。ここは得意の(?)開き直りで行くほかはない。
「あなたのことを信用していいってどうして分かります?」
と、由子は言い返した。「大体、あなたは、中原君から渡してくれと頼まれたものがあるって言ったじゃありませんか」
ちょっと間を置いて、男が低く笑った。
「――さすがに中原君の彼女だけのことはあるなあ。いや、失礼しました。つい、あせってるもので」
「何か預かってるんですか、本当に?」
「足もとにあります」
由子はびっくりして下を見た。いつの間にか、小さなボール箱が、置かれている。
「後で拾って行ってください」
とその男は言った。
「あなたは……中原君とずっと一緒に行動してたんですか」
「大体はね。しかし、彼が死ぬ少し前から、やばくなって連絡が取れずにいたんです。でも心配でね」
「中原君にあんな危ないことをやらせるなんてひどいじゃありませんか」
と、由子は少し腹が立って来て言った。
「あれをやらせたのは僕らじゃありませんよ」
「だって――」
「中原君が、あの手の技術に|詳《くわ》しいことを知って、別のグループが彼に接近したんです。中原君はあくまで、逃げるときに使う|催《さい》|涙《るい》|弾《だん》とか、そんなものしか作らないと言い張ってたんですが、彼らにかなり|脅《おど》されて、仕方なく爆弾を作り始めたんです」
由子は肯いた。――中原は元来気の優しい男だ。何かよほどのことがない限りそんなことをするはずがないと、由子も思っていたのである。
「そのグループって、かなり過激なんですか?」
と由子も、まるきりそっぽを向いたまま訊いた。
「僕らとはまるで|縁《えん》のない連中です。爆弾で|企業《きぎょう》を脅して金をゆすり取ろうとか、それが目的になっちまってる。――中原君もいやがってましたが、どうしようもなかったようです」
由子は|唇《くちびる》をかんだ。その|挙《あげ》|句《く》に中原が死んだのかと思うと、|悔《く》やしくて腹が立った。
「テディ・ベアは――」
と由子が言いかけると、
「|黙《だま》って!」
と、相手が鋭く|遮《さえぎ》った。
「どうしたんですか?」
「何も言わないでください。もう聞いても仕方ない」
「どうして?」
「たとえ、どこにあるにしても、あれを使わせないでください。――特に、あいつらに渡しちゃいけない」
男は本を閉じて、|欠伸《 あくび》をした。由子は、何だか理由は分からなかったが、息苦しいような緊迫感が押し寄せて来るのを感じた。
「あの……本条さんもあなたの仲間なんですか」
由子が言うと、相手が目に見えて身を固くした。
「本条? 本条ですって?」
男の声は、|震《ふる》えていた。押し殺した|叫《さけ》びに近かった。
「ええ……」
「どうしてあの男を?」
「あなたと一緒じゃないんですか?」
「とんでもない! いいですか、本条は、中原君を脅して爆弾を作らせていたグループのリーダーですよ」
由子は、その言葉を理解するのに、しばらく時間がかかった。――まさか。まさか、そんなことが!
「――行きます」
男が立ち上がって|伸《の》びをした。「いいですか、あなたはその箱を拾って反対側へ歩いて行ってください。少し間を置いてからですよ」
「ええ」
「何があっても、平気な顔をしててください。いいですね」
「ええ」
男はぶらぶらと歩いて行く。
由子も、待ちくたびれた、という様子で|腕《うで》時計を眺め、|靴《くつ》をはき直すふりをして、箱を拾い上げると、立ち上がって、反対側へと歩き出した。
|激《はげ》しく胸が高鳴っていた。すれ違う人に、|鼓《こ》|動《どう》が聞こえるのではないかと心配になるほどだった。
よく晴れていた空が、急に|曇《くも》って、何か寒々とした|雰《ふん》|囲《い》|気《き》になる。
相変わらずの人混みで、OLたちの笑い声、話し声がたちこめているのに、どこか人里離れた場所へ放り出されたような気がした。
「キャーッ!」
と背後で悲鳴が聞こえた。
由子は振り向いた。
あの男が、人をかき分けながら突っ走っていた。そして、一見、何の|変《へん》|哲《てつ》もないサラリーマンふうの男、制服姿のOLまでが、何人か、一斉にあの男に向かって|駆《か》け寄って行く。張り込んでいた刑事と婦人警官なのだ。
あの男はとても逃げ切れないと分かっていたのだ。だから、あえてテディ・ベアの行方を訊かなかった。
知っていれば、警察でしゃべってしまうかもしれないと|恐《おそ》れたからだろう。
男は、追いつめられて、噴水の中へ身を|躍《おど》らせた。水しぶきが上がる。
「もう|諦《あきら》めろ!」
と|怒《ど》|号《ごう》が飛ぶ。
水の中で、十人近い人間たちが入り乱れて争っている。
由子はもう見ていられなかった。背を向けて歩き出す。
この|騒《さわ》ぎに、散歩していたサラリーマン、OLたちが集まって来ていた。
「派手にやってるぜ」
「何だ、もう捕まったじゃねえか」
「つまらねえ、もっと逃げ回りゃ面白いのにな」
由子はむやみに腹が立って、その男の足をグイと踏みつけた。
「いてっ!」
その男が悲鳴を上げる。
「あら、ぼんやり突っ立ってるからいけないのよ」
由子はそう言って、足早に歩み去った。
公園を出て、タクシーを拾うと、どこへ行くというあてもなく乗り込んだ。――由子の心は、|嵐《あらし》の海のように|揺《ゆ》れていた。
山科良作は、階段の|掃《そう》|除《じ》の|途中《とちゅう》で、|踊《おど》り場に腰をおろして一息いれていた。
タバコに火を点けて、|煙《けむり》を|吐《は》き出しながら、|苛《いら》|立《だ》ちをぶつけて、
「いい加減にしやがれ」
と|吐《は》き捨てるように言った。
計画は立ったものの、なかなかチャンスがやって来ない。待つことは、長い刑事|稼業《かぎょう》で慣れているつもりだったが、それは元気で体力のあるうちのことだ。
この年齢で、待ち続けるのは、やはり苦痛だった。
やっぱり無理だったのかな、と良作は気弱になって考えた。しょせん、紙の上の計画に過ぎなかったのだろうか。
しかし、まだ|止《や》めたくはなかった。あわてることはない。まだ一週間とたっていないではないか。
良作は吸いがらを下へ投げ捨てた。どうせこれから自分が掃除をするのだ。よっこらしょと立ち上がって、階段を降りて行く。
「――じゃあ、お願いしていいかしら?」
下から、声が|響《ひび》いて来た。良作は足を止めた。――あれは、明石加奈江の声だ。
「いいわよ。どうせこっちはそばで見てるんだから、同じことだし」
と、他の主婦の声。「じゃ、明日、お昼から夕方まででいいのね?」
「そうなの。お願いできる?」
「いいわよ、もちろん。任せてちょうだい」
「それじゃ、出がけに、そちらへ連れて行きますから」
「はいはい。十二時頃ね」
「じゃ、よろしく」
足音が分かれて行く。
良作はその場に座り込んでしまった。|膝《ひざ》が震えて、立っていられないのである。
我ながらだらしないと思ったが、どうにもならない。
ついに機会がやって来た!――明日、明石加奈江は、子供を置いて出かけるのだ。
相手の主婦は、人はいいが、ちょっとぼんやりした感じの、|呑《のん》|気《き》な女だった。あれなら引っかけるにも楽でいい。これこそチャンスだ。
良作は急に張り切って掃除を始めた。
いつもなら、たっぷり午後一杯かけて、のろのろとやる階段の掃除を三十分で終わらせ部屋へ戻って、計画メモを取り出した。もちろん、今の自分には、暴力的なことをやる力は欠けているし、仲間もない。だから多少の危険は|覚《かく》|悟《ご》しなくてはならなかった。
しかし、今の自分には、たいして失うものはない。成功から得られるものに比べれば……。
良作は、思わずニヤニヤと笑っている自分に気付いた。
明日だ。――明日になれば……。
「そうだ」
良作は、メモを見て、あの女子大生の家の番号を回した。
「野木でございます」
と母親らしい声が出た。
「由子さんは……」
「ちょっと具合が悪くて|寝《ね》ておりますが」
と、向こうは言った。
良作は舌打ちした。肝心なときに病気とは!
しかし、こんな好機はめったにあるものではない。もう一押ししてみることにした。
「実はちょっと大切な用件で……。ぬいぐるみの熊のことだと伝えていただけませんかね」
電話の向こうで、母親はちょっとためらっているようだったが、
「お待ちください」
と、受話器をわきへ置く音がした。
良作は、由子が出るのを、じりじりしながら待った。受話器を握る手に汗がにじむ。
「もしもし」
あの女子大生の声が飛び出して来た。良作はホッとした。
「ああ、マンションの管理人ですよ」
「あれが見付かりまして?」
と、せき込むように訊いて来る。
どうやら、よほど大切なものとみえる。
「いや、まだなんですがね」
と、良作はとぼけて、「どうもうちに置いてるらしいのがいるんです。確かじゃないんだが」
「教えてください。すぐに行って、直接訊いてみます」
「いや、そりゃだめだ。なにしろ母親は変わり者でね。下手に話を持って行けば、何の|証拠《しょうこ》があるんだとか言い出すに決まってる」
「じゃ、どうすれば……」
「子供に訊くんですよ。子供なら、ちょっとアメ玉でもやりゃ素直にしゃべるから」
「分かりました」
「でも、母親が一緒にいるときじゃ、同じことになっちまう。――それでね、明日、その母親が何か用で出かけるらしいんだが、子供は近所の母親に見ててもらうということにしてね。さっき、ちょっと小耳に|挟《はさ》んだんですよ」
「それじゃ、そのときに――」
「そう。うまく子供に話しかけりゃ、きっと本当のことをしゃべりますよ」
「でも、後で母親が|叱《しか》ったら、また知らないと言い出すかも――」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。私が一緒に聞いてて、後で口添えしてあげます」
「すみません。じゃ、ぜひお願いします」
こっちこそ、ぜひお願いしますだ、と良作はペロリと舌を出した。
「じゃ、明日、うかがいます」
「十二時頃にしてくれますかね」
「はい、結構です。じゃ、十二時に……」
「待ってますよ」
良作は電話を切ると、思わず、「やったぞ!」
と低い声で叫んだ。
あの女子大生は、何も知らずにこっちの手の内に入って来る。
もう、良作の心にためらいはなかった。ここまで条件は|揃《そろ》ったのだ。あとは、実行あるのみ!
受付の窓口へ戻ると、明石加奈江が、郵便を取りに来て、帰って行くところだった。
「おじさん、なんだか楽しそうね」
「ああ、ちょっぴりいいことがあったのさ」
と、良作は言って、加奈江の後ろ姿を見送った。
あの体を、俺のものにしてみせる。――良作は、燃え立つような欲望に身を熱くしていた。
第十四章 小さな誤算
「じゃあ、行って来ます」
由子は、パンを|頬《ほお》ばりながら立ち上がった。
「ねえ、もう|風《か》|邪《ぜ》は治ったの?」
と母親が|訊《き》く。
「うん、ケロッとね」
「当分動けないとか言ったくせに」
「その〈当分〉が昨日で過ぎたのよ。じゃあね」
と、|玄《げん》|関《かん》のほうへ行きかけると電話が鳴った。
ついでにヒョイと取ってみると、
「野木さんのお宅ですか」
と、例の|澄《す》まし声の本条だ。
由子は、どうしようかとためらったが、
「はい、そうです」
と、固い声で言った。
「あ、由子さん。僕です」
「どなたですか」
「本条ですよ。忘れちゃったんですか?」
「おかけ|違《ちが》いじゃありません?」
と言って、由子は電話を切ってしまった。
急ぎ足で家を出る。やはり心は|穏《おだ》やかではなかった。
あの、公園で|捕《つか》まった男が言ったとおり、本条が中原を|脅《おど》して|爆《ばく》|弾《だん》を作らせていたのかどうか、確証はなかった。しかし、あの、名も告げなかった男、ずぶ|濡《ぬ》れになって、|手錠《てじょう》をかけられ、引かれて行った男の言葉には、説得力があった。
それに、中原から預かったといって、由子に渡してくれた箱の中身――木彫りの|熊《くま》は、確かに、手先の器用だった中原が、高校生の頃、よく|彫《ほ》り上げていたものだ。あれは|偽《にせ》|物《もの》ではない。
そうなると、今まで由子は本条の|巧《たく》みな言葉にコロリと|騙《だま》されていたことになる。そう思うと、由子は腹が立って仕方なかった。
しかも、本条に、|淡《あわ》い|恋心《こいごころ》すら|抱《いだ》いて、キスまでした。
それを思うと、頬が|恥《は》ずかしさと|怒《いか》りで、燃えるように赤くなるのだった……。
もう考えまい、と由子は首を|振《ふ》った。あんな男のこと、もう頭からハエか何かのように|追《お》っ|払《ぱら》ってやる!
由子は、あのマンションへと向かった。
あの管理人のおじいさん、一見気むずかしそうだったけど、そうでもなかったんだわ、と思った。――これで、本当にあのテディ・ベアが|戻《もど》って来るといいのだけれど……。
マンションに着いたのは、ちょうど十二時だった。
受付の窓口の前で、あの管理人の老人が、若い女性と話している。どうやら、ここの住人らしい。
「じゃ、おじさん、またね」
と、その女性は老人に|微《ほほ》|笑《え》んでみせてから、マンションを出て行った。
すれ違うとき、チラッと由子のほうを見て行ったが、なかなかの美人である。
「あ、どうもいろいろすみません」
と由子は老人に頭を下げた。
「やあ、時間どおりだったね――何か、子供にやるアメのようなものを買って来たかね」
「ええ、棒のついたチョコレートにしたんですけど」
「結構。じゃ、ついておいで。たぶん屋上で遊んでるよ」
と老人はエレベーターのほうへ歩き出した。
由子は、老人の後についてエレベーターに乗った。
「――屋上が遊び場なんですか」
と由子は|訊《き》いた。
「そんなところだね」
「今の子は|可《か》|哀《わい》そう」
老人は、由子がかかえた紙の|袋《ふくろ》を見て、
「それ全部チョコレートなのかい?」
と言った。
「ええ。念のためと思って五本買ったもんですから」
「それじゃ|充分《じゅうぶん》だな」
と老人は笑った。
エレベーターが屋上に着いた。老人は降りたところで、
「ここに待ってなさい。今、探して連れて来てあげる」
と、由子を残して、ガラス戸を開け、屋上に出て行った。
由子はぼんやりと待っていた。――ふと気が付くと、ガラス戸の向こうに、小さな男の子が立って、由子のほうを見ている。
|可《か》|愛《わい》い子だった。――この子ではないだろう。そうならあの老人がついて来るはずだ。
しかし、由子はつい笑顔を見せずにはいられなかった。どうせチョコレートも余っているのだし。
由子が袋から、棒のついたチョコレートを一つ出して、見せると、その男の子は、力一杯ガラス戸を押して入って来ると、それを受け取って、ヒョイとまた出て行った。
ほとんど入れ違いに、老人が戻って来た。
「すまんね。ちょっと|見《み》|込《こ》み違いで、ここにいなかった。たぶん、親しい奥さんのところで、そこの子と|一《いっ》|緒《しょ》に遊んでるんだろう」
「じゃ、どうすれば……」
「ともかくいったん、下へ降りよう。あんたは私の部屋で待っててくれ。なんとかして連れて行く」
ここは言われるとおりにするしか仕方ない。エレベーターで一階に戻って、由子は老人に|促《うなが》されるままに、管理人室の中へと入って行った。
「そう|汚《よご》れちゃおらんから、座っていてくれ。あ、お茶でも|淹《い》れよう」
「どうぞ構わないでください。自分でやります」
「そうかい? じゃ、この|茶《ちゃ》|碗《わん》はきれいだから。――すぐに戻るよ」
「よろしくお願いします」
一人になって由子はホッとした。親切はいいが、あの管理人、なんとなく神経にさわるのである。
お茶を勝手に淹れて飲みながら、待った。――本当にもう見つかってほしい。あのテディ・ベアは、今まで、さんざん人の不幸を演出し、|眺《なが》めて来た。もういい加減に、その旅も終わりにすべきときだ。
あーあ。由子は|欠伸《 あくび》をした。どうしたんだろう。ゆうべはちゃんと|眠《ねむ》ったのに。
どうしてこんなに眠いの?――眠っちゃいけない。ちゃんと待ってなくっちゃ。ちゃんと……。
体が|揺《ゆ》らいで、やがて、ゆっくりと|畳《たたみ》の上に|倒《たお》れると、もう由子は深い眠りに落ちていた。
様子をうかがっていた良作が、顔を|覗《のぞ》かせニヤリと笑った。
「うまく薬が効いたようだな」
良作は、眠りこけている由子を見下ろして|呟《つぶや》いた。
この女をどこへ閉じ込めておくか、さんざん考えたのだが、なにしろ、住宅街である。近くに都合の良い空家など一つもないし、そこまでこの女を人目につかないように運んで行くのも一苦労である。いや、まず|誰《だれ》かに見られると覚悟しておいたほうがいいだろう。
それなら、いっそここに置いておいたほうがいい。差し当たりはこの部屋の中である。
良作は、|押《おし》|入《い》れから、用意しておいたロープを出して来ると、由子の手足を|縛《しば》りあげた。そして、|奥《おく》の浴室へと引きずって行く。ホーローの|空《から》の|浴《よく》|槽《そう》の中へ、ちょうど座って|膝《ひざ》を立てる形で由子を入れるのは、ちょっと苦労したが、なんとかやりとげた。
「おっと、そうだった」
布を丸めて口の中に押し込み、固く|猿《さる》ぐつわをする。その上で、足首と首とをロープでつないだ。これで、立ち上がることができなくなる。
上から|蓋《ふた》をして、念のために、近所から持って来たブロックを重しにしてのせておく。
これで女のほうはしばらく|大丈夫《だいじょうぶ》だろう。
次はいよいよ子供だ。
時計を見て、良作は|焦《あせ》った。女の始末に一時間も取られていた。やはり力がなくなっているのだ。早くしないと、明石加奈江が帰ってくる。
――輝夫はまだ屋上にいるだろう。
難しいのは、輝夫を、誰にも気付かれないように、輝夫自身にも相手が誰か分からないようにして連れて来ることだ。
クロロホルムを使うしか手はない。だが、正直なところ良作も、これがどの程度効き目のあるものなのか、子供に使って大丈夫なのか、といったことを知っているわけではない。だが、まあ命にかかわるようなこともあるまい、と良作は自分を納得させた。
ガーゼに、クロロホルムをしみ込ませ、ビニールの袋へ入れて、ポケットにねじ込む。
「――さあ、やるぞ」
と、自分を|励《はげ》ますように言った。
ともかく、あの女を縛り上げてしまったのだ。|後《あと》|戻《もど》りはできない……。
良作は、しまい込んでいた熊のぬいぐるみを手に管理人室を出ると、エレベーターで屋上へ向かった。誰も、|途中《とちゅう》から乗って来る者はない。これは幸先がいい、と思った。
屋上に着いて、様子をうかがうと、母親たちは、遠い|隅《すみ》のほうで、おしゃべりに夢中である。子供たちは勝手気ままに遊んで、|駆《か》け回っていた。
輝夫の姿は、すぐに目に入った。――どうやら同じくらいの|年《ねん》|齢《れい》の子がいなくて、一人ぼっちらしい。良作には、おあつらえ向きだ。
エレベーター|塔《とう》の建物の裏手に、このぬいぐるみを使って、あの子をおびき寄せる。そして、眠らせて、母親たちの目を|盗《ぬす》んで下へ運ぶのだ。
この計画の中で、一番危険な段階に来ている。良作は、額を|拭《ぬぐ》った。いつの間にやら、|汗《あせ》がふき出している。
「来い……こっちへ来い」
ガラス戸|越《ご》しに、良作は暗示をかけようとでもするように、呟いた。
いったい何があったんだろう?
由子は、意識を取り戻しても、しばらくは何も分からなかった。
やたらに頭が重く、|吐《は》き気がして、たとえようもなく気分が悪かった。ひどい二日|酔《よ》いと乗り物酔いを足して十倍にもしたような気分である。
しかも、真っ暗で、何も見えなかった。
自分がどういう状態になっているのか、分かるまでに、たっぷり三十分はかかった。
手足は固く縛られ、おまけに首と足首をピンと張ったロープでつながれている。口に何かが押し込まれ、吐き気がするのはそのせいもあるらしかった。
真っ暗なのは、目かくしでもされているのかと思ったが、少しずつ足の先、手の指先で探ってみて、どうやら浴槽らしいと分かった。蓋がしてあるので真っ暗なのだ。
どうしてこんなことに……。頭を小刻みに振ってみた。
そう……。少しずつ思い出して来る。
テディ・ベアを探しに来て、あの管理人の部屋へ上がった。お茶を飲んで……。あのお茶だ! 薬が入っていたのに違いない。そのあげく、このざまだ。
しかし、あの老人がやったとして、何のために、こんなことをするのだろう? |誘《ゆう》|拐《かい》? あの年寄りが?
目的がもう一つ納得できないだけに、由子は不安だった。|一瞬《いっしゅん》、老人が、あの爆弾のことを知っていて、本条の命令で彼女を|監《かん》|禁《きん》したのではないかという考えが、頭をかすめたが、あの老人が|過《か》|激《げき》|派《は》の一味とは考えにくい。
ともかく、なんとかこの|縄《なわ》を……と思ったが、手も足も、とうてい、ほどけそうもなかった。
起き上がろうにも、足をのばそうとすると首をしめることになる。――しばらくいろいろやってみて、由子は|諦《あきら》めた。
相手の出方を見よう。それしかない。
由子は|覚《かく》|悟《ご》を決めた。――それにしても、どれくらい時間がたったのかしら。
明石加奈江は、足早にマンションへ入って来た。
「すっかり|遅《おそ》くなっちゃった……」
思いのほか、用事に手間取った。早く輝夫の顔を見たかった。輝夫は一人でいても平気な子だが、やはりけがでもしたり、他の子と|喧《けん》|嘩《か》などすると母親がいないと困ってしまう。
まだ屋上にいるだろう、と思って、直接行ってみることにした。
屋上へ上がって、加奈江は|戸《と》|惑《まど》った。――ただごとではない、という直感があった。
母親たちが駆け回っている。
「いないわよ!」
「こっちも――」
という|叫《さけ》び。
誰か、子供がいなくなったのだ。階段をドタドタと駆け上がって来る足音がして、振り向くと、よく一緒に子供を遊ばせている母親の一人だった。
「明石さん!」
その主婦が、加奈江の顔を見てハッとした。
加奈江の顔から血の気が引いた。
「どうしたんですか? 何か……」
「輝夫ちゃんがいないのよ。いつの間にかいなくなって――」
加奈江はよろけて、危うく倒れそうになった。
「ごめんなさい! 私がもっと注意していれば……」
輝夫のことを、明石加奈江に|頼《たの》まれていた主婦は目を真っ赤にして頭を下げた。
「そんなことより、早く探して見付け出さないと……」
加奈江は、青ざめてはいたが、もうシャンとしている。泣いてはいられない。
「屋上にはいないわ」
「これだけ探したんですものね」
「ともかく――」
と、加奈江は言った。「手すりの|隙《すき》|間《ま》から落ちたのでなければ、一人でそう遠くまで行くはずがありませんから、皆さんが手伝ってくださるなら、このマンションの階段と一つ一つの階の|廊《ろう》|下《か》を調べていただきたいんですけど」
「もちろんよ。――じゃ、ここから二人ずつに分かれて。ね、すぐ始めましょう」
「すみません」
と加奈江は頭を下げた。「私、一階の管理人のおじさんのところへ行ってみます。何か分かるかもしれませんから」
「任せといて。――さ、早く早く!」
一番年長の主婦が、他の主婦たちをせっついた。
加奈江は、いったん自分の部屋へ行ってみた。万一、|鍵《かぎ》をかけ忘れていて、中に入っているとか……そんなことも考えたのだ。しかし、それはまったく可能性がなかった。
一階へ降りてみると、良作が、|床《ゆか》にモップをかけている。
「おじさん!」
「やあ、どうしたね?――何かあったのか?」
「輝夫がいないの!」
加奈江の説明を聞くと、良作は顔を|曇《くも》らせた。
「そいつはいけねえ」
と良作は言った。
「何か心当たりは?」
「いや……。この辺じゃ見かけなかったね。しかし、ともかく探してみよう。――そうだ、地下に入り込んでるかもしれねえ」
「地下に?」
「機械室さ。子供がよく|鬼《おに》ごっこなんかしてて入るんで、危ないぞと|怒《おこ》ってやるんだが。――おいで」
階段を降りて、配電盤などの並んだ通路を通り、奥の機械室へ入ってみる。ポンプやモーターが低い|唸《うな》り声を上げていた。
「いないようだが、ともかく探してみよう。向こうから回っておいで」
「はい!――テルちゃん!――テル君!」
加奈江の声はかん高く、|震《ふる》えていた。
しかし、広い部屋ではない。すぐに探し終えてしまった。
「――警察に|捜《そう》|索《さく》願いを出すかね」
と一階へ戻って来ると、良作が言った。
「ああ、どうしよう……。分からないわ」
良作は難しい顔で|腕《うで》組みしていたが、
「なあ。こんなことは言いたくないが……」
「え?」
「もしかして……誘拐されたってことはないかい?」
「まさか……」
加奈江はポカンとしていた。
「万が一ってことがある。手紙のようなものは?」
「手紙……って?」
明石加奈江は、わけが分からないという様子で訊き返した。
「手紙さ。|脅迫状《きょうはくじょう》みたいなものは来てないかってことさ。それとも電話は?」
「さあ……。だって、部屋には、ちょっと戻っただけだから」
と、加奈江は呟くように言って、「まさか……でも、まさか誘拐なんて!」
「万が一ってことだよ。もちろん、そのうち、ヒョッコリ、『ママ』と言って現われるさ」
「ああ、輝夫ったら……」
加奈江は、ふと不安になったのか、一階の入口のわきに並んだ集合郵便受けへと走って行った。良作もついて行って、加奈江の手もとを覗き込む。
「どうだね?」
「いやだわ、広告のチラシばっかり……。これもダイレクト・メールね。――これ、何かしら?」
と、加奈江は、一通の|茶《ちゃ》|封《ぶう》|筒《とう》を取り上げて言った。
|宛《あて》|名《な》は、〈明石様〉とだけあって、定規で引いたような文字である。住所はない。
「直接入れて行ったんだね。いつ来たのかな、見かけなかったが」
と良作が首をひねった。
「何かしら?――|怖《こわ》いわ」
「貸してごらん。開けてやる」
良作は、封を切って、中から、いやにゴワゴワした紙を取り出した。「見てごらん、これを!」
「え?」
新聞や雑誌の文字を切り|抜《ぬ》いて|貼《は》りつけた手紙だった。
〈お前の子供は預かった。五百万円用意しろ。また|連《れん》|絡《らく》する〉
という文面になっている。
「輝夫! ああ――どうしよう!」
加奈江は真っ青になってよろけた。良作があわてて加奈江の体を支えた。
「しっかりするんだ! こいつは困ったことになった」
「おじさん、どうしたらいいの?」
加奈江が良作の腕にすがりついた。
「そうだな……。まず警察へ知らせるかどうか、決めなきゃならん」
「警察へ?」
「知らせるのが義務だよ」
「いいえ! いやよ! だって――それが分かったら、犯人は輝夫を――」
殺す、という言葉を、加奈江は口にできなかった。
「それは、あんたの決めることさ。――そうそう、|旦《だん》|那《な》は? 旦那さんへ知らせて、すぐ帰って来てもらうんだ」
「あ、そうね。そうだわ。会社へ電話を――」
「そこの電話を使いな。それから部屋へ戻っていたほうがいい。犯人から電話があるかもしれんからね」
「ええ……。じゃ、電話を借ります」
受付のところにある電話を取り上げたものの、加奈江は手が震えてダイヤルが回せないのだった。良作が、
「回してやるよ。何番だね?」
と優しく言った。
加奈江が、急に|泣《な》き出して、その場にしゃがみ込んでしまった……。
これはゲームなんだ。
良作は、そう自分へ言い聞かせた。
加奈江の部屋に上がって、|亭《てい》|主《しゅ》の帰りを待ちながら、放心したような加奈江の顔を見ていると、良作とて、多少気がとがめないでもなかった。しかし、自分が、加奈江を悲しませることも、喜ばせることもできるのだと思う、その快感は何物にも|換《か》えがたかった。
人生は|俺《おれ》の思うとおりにはならなかった。だが今は、俺がこの女の心臓をつかんでいるのも同じなんだ。
「旦那は、すぐ帰ると言ったんだろう?」
と良作は訊いた。
「ええ。でも、会社は遠いから……」
と言ってから、加奈江はふと気付いた様子で、「ごめんなさい、お茶でも|淹《い》れますから――」
と、台所のほうへ立って行った。
良作は、軽く息をついた。――やっぱり、顔をつき合わせているのは、ちょっと気の重いものである。
さて、この後も難しい。一応犯人が身代金の支払い方法などを指定して来なくては|妙《みょう》なものだ。それをどういう形でやればいいのか……。
手紙、手紙、というのも不自然である。手がかりをそれだけ残すことになるからだ。
しかし、電話といっても……。良作の声では、加奈江などには知れてしまう心配もある。
「どうしたもんかな……」
そのとき、電話が鳴った。良作は手をのばして、受話器を上げた。
「もしもし」
と、男の声がした。「こちらは××証券ですが、投資のおすすめをと思いまして――」
電話セールスか。|馬《ば》|鹿《か》らしい、と良作は切りかけたが……。
台所のほうから、加奈江が不安げに覗いている。――そうだ! 良作の頭にアイデアがひらめいた。
「もしもし、あんたは誰だ?」
と、良作は問い|詰《つ》めるように言った。
「は? あの――こちら××証券の――」
「子供は無事なんだろうな?」
「子供?」
「要求を言え」
「あ、あの――失礼します」
向こうはあわてて電話を切ってしまった。良作は構わず、
「よし、分かった。子供には指一本|触《ふ》れるんじゃないぞ!」
と、一人芝居を続けた。
加奈江が近づいて来ると、良作は|肩《かた》をすくめて、
「切れたよ」
と言った。
「あの――何ですって?」
「坊やは元気でいると言ってた。五百万は明日までに用意して、駅前の公園に持って来い、と」
これは出まかせだった。駅前の公園は、よく良作が散歩に出て休むところなのである。
「ああ……。これが悪い|夢《ゆめ》なら……」
加奈江はその場にペタンと座り込んでしまった。
玄関でチャイムが鳴って、仕方なく良作が立って行った。玄関のドアを開けると、加奈江の亭主が立っていた。
「やあ明石さん」
と良作は言った。
明石は、およそ加奈江とはバランスの取れない、太り気味のずんぐりタイプの男で、ただでさえ赤ら顔なのが、急いで来たのだろう、火を吹きそうな、真っ赤な顔をしていた。
「この野郎! テル坊を返せ!」
いきなり明石は良作につかみかかって来た。一瞬、良作はパニック状態に|陥《おちい》った。どうして分かったんだ? どうして俺がやったと――。
「あなた!」
加奈江が飛んできて、夫をつかまえた。「管理人のおじさんよ! 何をするの!」
明石がハッとして体を起こす。
「そうか……。いや、すいません……。つい……カーッとなってて」
明石は頭をかいた。良作は|喘《あえ》ぎ喘ぎ立ち上がった。
「ああ、びっくりしたよ」
「あなた、おじさんは力になってくださってるのよ」
「すみません、どうも。本当に申し訳ない」
と明石は何度も頭を下げる。
「いや、無理もないよ。こんなときだ」
良作はホッとしながら言った。
「あなた、今、犯人から電話が――」
加奈江が事情を話すと、明石は|肯《うなず》いた。
「五百万か。――預金全部をおろしてやっと半分だな。あとは、親父にでも言って、出してもらおう」
「急いで、お願いして! 明日までなんだから」
「うん、分かってる。警察には?」
「知らせるのは後でいいわ。あの子が戻ってから」
「そうだな。無事に戻るのが第一だ。よし、まず銀行へ行って来る」
「ええ、私、お父さんに電話してみる」
「君の実家?」
「出してくれるわ。大丈夫よ」
「よし、じゃ、すぐ銀行へ――」
――事態は動き出した。
良作は、そっとアゴを|撫《な》でた。五百万という金額、悪くはなかったようだ。うまく行けば金と、加奈江の体と、両方が手に入るかもしれない。
「じゃ、ちょっと管理人室へ戻ってるからね」
と、良作は、明石が出て行くと、加奈江に言った。
「ええ。すいません。いろいろお世話をかけてしまって」
「なあに、あんたのためならね」
良作は、ちょっと力を入れて、加奈江の肩をつかんだ。その柔らかい|感触《かんしょく》が、良作の胸をときめかせた……。
「――順調だぞ」
部屋に戻った良作は軽く|口《くち》|笛《ぶえ》を吹いた。
こうもうまく行くとは……。
あとは、あの女を犯人に仕立てることだ。そして――その後は?
あの女をどうするか。それは、良作も決めかねていた。
もちろん、誘拐犯として、|逮《たい》|捕《ほ》されるように持って行くことはできるだろうが、当人の主張も、警察の耳に入るわけだ。そうなると、良作のほうへ疑いが向くことも考えられる……。
あの女は殺すしかない。
良作は、何度も、そう自分に言い聞かせた。しかし、さすがに、すぐに納得することはできなかった。
元|刑《けい》|事《じ》として、人を殺せば、逮捕の確率もぐんと高くなることを、承知しているのである。しかし、誘拐も罪は重い。この|年《と》|齢《し》だ。二十年も三十年も同じことだった。
今さら|監《かん》|獄《ごく》に入る気はない。中で病気になって死んで行くなんてごめんだ。それくらいなら、逮捕される前に死ぬほうがいい。
そう心を決めると、良作はもうためらわなかった。
――気の毒だが、あの女には、死んでもらおう。
夜になって、明石加奈江がやって来た。
「おじさん」
「やあ、どうしたね。何か連絡でも?」
「いいえ。あの――お金ができたから、どうしようかと思って……」
「おお、そうかい。しかし、良かったね。これできっと坊やも戻って来る」
「そうでなくちゃ……。輝夫に万一のことがあったら、私だって生きていられないわ」
「何を言ってるんだ! しっかりしなきゃだめだよ」
良作は、ちょっと|叱《しか》りつけるように言った。――|奇妙《きみょう》なもので、良作はともすれば、それが自分の仕組んだ計画であることも忘れて、本気で加奈江を励ましているのだった。
「今、父が来てるの。――おじさんにお話があるって」
「そうか。分かった、行くよ。ちょっと片付けないといかん仕事があるから」
「ごめんなさい、|面《めん》|倒《どう》を言って」
「とんでもない。人間なら当たり前のことさ」
と、良作は言った。
由子は、このまま|窒《ちっ》|息《そく》して死ぬんじゃないかと思った。
汗が、絶えず流れて、じっとりと|肌《はだ》が濡れている。暑さのせいか、|恐怖《きょうふ》のせいか、よく分からなかった。
いったいどうなるんだろう、と思った。あの年寄りが、何のつもりで、こんなことをするのか。
ふと、物音に気付いた。近付いて来る。
浴槽の蓋が外された。まぶしさに目をつぶる。外気が流れ込んで、何度も息をついた。
「|窮屈《きゅうくつ》ですまんね」
と、声がした。
目を開けると、やがて視界がはっきりして来て、あの管理人の顔が見えた。
「おい、そうにらむなよ」
と老人が笑った。「仕方ないんだ。なあに、もう少しの|辛《しん》|抱《ぼう》さ」
老人はコップを手にしていた。
「さあ水でも飲みな。猿ぐつわのままじゃ飲みにくいだろうが、外してやるわけにゃいかないんだよ」
由子は、口に当てがわれたコップの水を、必死に飲んだ。|喉《のど》が|乾《かわ》き切っていたのだ。
だいぶ水がこぼれて、胸やスカートを濡らしたが、気にならなかった。
「――さて、また閉めさせてもらうよ」
と老人は言った。「もう少し辛抱すりゃ楽になるよ」
その言い方に、由子は身震いした。
「やれやれ……」
明石加奈江の部屋から戻って来ると、良作は、声を殺して笑い出した。
こんなにうまく事が運ぶとは……。
加奈江の父親が、身代金を持って行く役を、良作へ頼んで来たのである。犯人が身代金を運ぶのだ!
こんな楽な誘拐もない。誘拐で一番難しいのは、身代金を受け取る方法である。犯人たちは、あれこれと頭をひねる。しかし、良作にはそんな必要がないのだ。
明日、朝の十時|頃《ごろ》に、公園へ持って行くことにした。まあ一応は行かなくてはなるまい。
しかし、金を公園まで持って行く必要はないのだ。途中ですり換えるのは簡単である。
「万事順調だ」
と、良作は手を打った。
あの女をどこでどうやって殺すか。それは悩みの種だが、しかし、過激派の男の恋人ということだから、たとえば角材などで|殴《なぐ》り殺されたら、対立する組織の犯行と思われるだろう。|却《かえ》って、あまり考えすぎた犯行は、足がつく。単純が一番なのだ。
「さて、食事だ」
と良作は呟いた。
おにぎりを小さくして、いくつか手に持つと、良作は管理人室を出て、地下の機械室へと降りて行った。
輝夫を、ここに置いているのだ。
もちろん、一度、加奈江を連れてここへ来たのは、後で、ここを探されないためだった。
「さて……おとなしくしてるかな」
|懐中《かいちゅう》電灯の光で、隅を照らすと、輝夫が、手足を縛られて転がされている。可哀そうだが、ほんの少しのことだ。
良作は、近付いて行って、輝夫を起き上がらせた。目かくししてあるのは、もちろん良作の顔を知っているからだ。口をふさいだハンカチを外してやると、輝夫の体が小刻みに震えているのに気付いた。やはり、子供なりに怖いのだろう。
小さくちぎったおにぎりを口へ入れてやると、それでも食べ始めた。良作はホッとした。死なれでもしたら、後味が悪い。
いくつか食べさせ、水を飲ませると、良作は立ち上がった。――口をふさがないと、やはり危ない。明日までのことだ。
もう一度かがみ込んで、良作はハンカチを輝夫の口へあてがおうとした。――もともとゆるんでいたのだろう、目かくしの布が、不意にパラリと落ちた。
あまりに急なことで、どうすることもできなかった。子供の目が、真っ直ぐに良作を見ていた。
良作は決断を|迫《せま》られた。子供は、彼の顔を知っている。三|歳《さい》の子とはいえ、良作を指さすことはできるのだ。
そうなれば――道は二つしかない。
一つは、子供を殺すこと。もう一つは、今ここで見つけたようなふりをして、輝夫を助けてやることだ。
殺すのはいやだった。それだけはやりたくない。そうなれば、道は一つだ。
五百万はフイになってしまうが、やむを得ない。
「大丈夫かい、テル坊!」
良作は、輝夫をかかえ上げると、機械室を出て、階段を一気に駆け上がった。
明石加奈江は、どうにも部屋の中にいられなくて通路へ出ていた。中にいて、輝夫のオモチャ、輝夫が破った|襖《ふすま》の穴などを見ていると、たまらなくなるのだ。
――こうして外にいれば、まだ少しは気が|紛《まぎ》れる。
近所の主婦たちも、ともかく、何か起こったらしいということは察しているようだった。通路に出て走る主婦がいても、加奈江の顔を見ると、目を|伏《ふ》せて行ってしまう。
奇妙なものだが、なんとなく加奈江は自分が何か悪いことでもしたような気になって、すみませんと謝りそうになるのだった。
五百万は用意した。ともかく、輝夫さえ無事に帰って来るのなら、無一文になったって、それが何だろう。
「ああ……」
加奈江は両手に顔を|埋《う》めた。
足音がバタバタと近付いて来る。
「ママ」
と、輝夫の声が――。
「テル君! 輝夫ちゃん!」
加奈江の声は、ほとんど絶叫《ぜっきょう》に近かった。良作が、輝夫を抱きかかえてやって来る。――加奈江は駆け寄ると、輝夫を我が手に引ったくるようにして|抱《だ》きしめた。
声を聞きつけて、部屋の中から、明石と加奈江の父親が飛び出して来る。
加奈江は、通路にペタンと座り込んで、輝夫を抱きしめながら、泣き出していた……。
「いや、本当に|偶《ぐう》|然《ぜん》だったんですよ」
と、良作は、上気した顔で肯いた。
「めったにあそこにゃ入らなかったんですがね」
ライトが当たっているせいもあって、良作の顔は真っ赤だった。汗が吹き出して来る。
あんなに|憧《あこが》れていた、テレビカメラと新聞社のカメラのフラッシュだが、いざ、こうして浴びせられていると、早く終わってくれないかという気持ちだった。
「ええ、入って行くと、誰かがワッと逃げて行ってね。こっちはびっくりして|尻《しり》もちついちまったんですよ。女のようだったな、あれは」
と良作は言った。「で、中へ入って行くと、あの子がね――」
「本当に|手《て》|柄《がら》でしたね」
「いや、どうってことは……」
「失礼ですが、ここへおいでになる前は、何のお仕事を?」
良作は、ちょっと渋って見せてから、言った。
「刑事だったんですよ」
こいつは記事になる! 記者たちの目の色が変わった。
――|騒《さわ》ぎがおさまって、警察の事情聴取も終わったのは、もう真夜中過ぎ――正確には明け方近くだった。
「――いや、そりゃ困る」
と、良作は言った。
目の前に、百万円の入った封筒が置かれている。
「どうかおさめてください」
と明石が言った。「本来なら、こんなものではとてもお礼にはなりませんが」
良作は、五百万円取り損なったのだ、これぐらいはいいかな、と思った。
由子は、縛られ、閉じこめられているという状態の中で、うつらうつらしていた。
とてもこんなところでは眠れないような気がしていたが、体力も|消耗《しょうもう》しているのだろう。
コトッと音がして、由子は目を開いた。明るくなる。蓋が外されたのだ。あの老人だろう。由子は目を上げた。
――光がまぶしくて、よく見えない。
「大丈夫ですか?」
それは本条の声だった……。
「――死ぬかと思った」
由子は、縄を解かれたものの、とても立っていることもできず、浴室を出たところで座り込んでしまった。
「なんだか様子がおかしいんでね、気になったんですよ。来てみると、警察の車は一杯来ているし――」
「警察が?」
「ええ、なんでも誘拐事件があったようです」
「私以外に?」
「子供がさらわれて、それをここの管理人が見つけたというんで、大騒ぎなんですよ」
「|冗談《じょうだん》じゃないわ! 人をこんな目にあわせておいて」
「どうも裏がありそうですね。ともかく、あのじいさんが戻って来ないうちに、出ましょう。立てますか?」
「待って……|痺《しび》れちゃって……」
由子は、本条の肩につかまって、やっと立ち上がった。
「どうしてここへ来たの?」
「例のテディ・ベアをあなたが見付けたのかと思ってね。実は、警官の姿を見たので、中へ|隠《かく》れていたんですよ。そしたら、浴室のほうで、音がして、覗いてみると、蓋の上に何か重しがのせてある。変だな、と思ったんです」
由子は、本条に、中原のことを訊いてみたかった。しかし、今はとてもそんな元気はない。諦めて、本条に体を支えられながら、管理人室を出た。
良作は目を覚ますと、畳の上に起き上がった。――いつの間にか、自分の部屋へ戻って来ている。
そうか。ゆうべ、明石加奈江のところで、さんざんウイスキーを飲んで来たのだ。二日酔いもたまにはいいもんだな、と思った。
時計を見て、もう十二時を回っているのにびっくりした。電話が鳴って、出てみると、管理会社の社長だった。
えらくご|機《き》|嫌《げん》で、来月から給料を二割上げようと言い出した。良作は礼を言いながら、苦笑していた。
そうだ。あの女のことが残っている。
――どこでどうやって始末するか。
警察は、良作の「女らしかった」という話をもとに、このマンションの住人に聞き込みを始めている。あの女を見かけた主婦もいるはずだ。容疑が固まってきたところで、女の死体が見付かるのが一番だろう。
「おじさん」
と声がした。明石加奈江が、窓口に立っている。
「やあ、昨日はすまなかったね」
「とんでもない。あの――これを届けに来たの」
忘れて置いて来たらしい、百万円の封筒である。――良作は、加奈江を見た。
「旦那さんは会社かね」
「いいえ。父を送って行きました」
良作の目が光った。良作は言った。
「ちょっと上がって行かないかね」
「ええ……」
明石加奈江は良作に上がれと言われてためらった。「ちょっと輝夫を部屋へ置いて来たので」
「一人で?」
「いいえ。他の子たちと遊んでます。もちろん奥さんたちが見ててくれるので」
「じゃあいいじゃないか。ちょっと上がんなさいよ」
加奈江としても、子供を助けてくれた恩人の言葉に|逆《さか》らい切れなかった。
「じゃ、ちょっと……」
良作は、封筒を受け取ると、中の|札《さつ》|束《たば》を取り出した。百万円か。今の良作には夢のような金だ。
しかし、もともと、良作にはもう一つの夢があった。それを果たすのは、早いほうがいい。子供を助けてくれた、という感謝の念が、まだ加奈江の胸を熱くしているときのほうがいいのだ。今が、その機会かもしれない。
「別にこっちは、こんな礼をしてもらうつもりじゃなかったんだよ」
と、良作は言った。
「ええ、そりゃ分かってます。でも、私たちの気が済まないから、ぜひ受け取って」
「そうかい、それじゃ……」
札束を封筒へおさめると、良作は加奈江の顔を真っ直ぐに見た。「ねえ、奥さん。こんな金なんかじゃなくて、他に欲しいものが――あんたにしてほしいことがあるんだよ」
「何かしら? 言ってちょうだい。できることなら何だって――」
良作は、ちょっと加奈江から目をそらして、
「俺は、昨日も記者に言ったとおり、刑事だった。でも、不始末をやらかしてクビになり、女房にも見捨てられた。――それからは、もう、すっかりつきに見放されて、いいことなんか一つもなかった。もちろん、もう若かねえが、それにしたって、たまにゃ女の一人とも遊んでみたいと思う。恥ずかしい話だがね」
「そんなことないわ。それが当たり前でしょ」
「そうかい」
良作は、加奈江の目を真っ直ぐ見つめた。「あんたはいい人だ。ここのかみさん連中は、そんな俺のことを鼻にも引っかけねえが、あんただけは、俺にも声をかけてくれた……」
「これからは、みんなも見直すわ」
「他の|奴《やつ》はどうだっていいんだよ」
加奈江は、戸惑ったように良作を見た。
「――あんた、一度だけでいい、俺と|寝《ね》てくれないかね」
良作の言葉を理解するのに、加奈江はしばらくかかった。引きつったような笑いで、
「私なんか――そんな――」
「恩着せがましく言うんじゃないよ。何もテル坊を助けたから、その代わり、って言うつもりはねえ。頼むんだ。このとおり。お願いだ。今、ここで、ほんの一時、目をつぶって、俺のするままになってくれないか」
「おじさん……」
良作が本気だと分かって、加奈江の顔から血の気がひいていた。「そりゃ……輝夫のことは、ありがたいと思ってるけど……」
良作の手が、思いがけない力で加奈江の腕を|捉《とら》えた。|逃《のが》れようとして身をそらした加奈江は、畳の上に倒れた。その上に、良作は重なるように飛びついた。
「おじさん……おじさん……」
加奈江の声は、消え入るように小さかった。
第十五章 さよなら、テディ・ベア
明石加奈江が帰って行った後、良作はしばらくぼんやりと座り|込《こ》んでいた。
望みは果たした。加奈江を犯そうにも、自分のほうがだめじゃないかという不安があったが、久しぶりに|触《ふ》れる若々しい|肌《はだ》に、良作の肉体は若さを取り|戻《もど》した。
|充分《じゅうぶん》に、加奈江の体を味わった――はずであった。しかし、どこか空しかった。
終わってしまうと、急速に「老い」が戻って来た。そして、もうこれからは加奈江も声をかけてはくれまいと思うと、身勝手と承知の上で、やけに|寂《さび》しくなった。
まだ終わっていない。やるべきことは残っているのだ、と分かっていても、もう何もかもが、どうでもいいように思えて来るのである。――加奈江を犯すことで、自分の中の最後の光を消してしまったような、そんな気がした。
「あの女だ……」
あの女の始末をつけなくては。良作はやっとの思いで立ち上がると、|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》へ行った。そして立ちすくんだ。――|浴《よく》|槽《そう》は、|蓋《ふた》が外され中は|空《から》になっていたのだ。
良作は、急に|膝《ひざ》の力が|抜《ぬ》けて、その場にペタンと座り込んでしまった。
そして、どれくらい座っていたのだろう。背後の物音で、我に返ると、|這《は》って、部屋のほうへ戻った。
見知らぬ男が、座っていた。いや――あの|熊《くま》のぬいぐるみを探しに来た女と|一《いっ》|緒《しょ》にいた男だ。
「何をしてる?」
「話があってね」
本条が言った。「この封筒、いただいていくよ」
「おい、それは――」
手を出そうとした良作を、本条は突き飛ばした。良作は|呆《あっ》|気《け》なく引っくり返った。
「事情を聞こうじゃないか。彼女を|監《かん》|禁《きん》してその間に、子供の|誘《ゆう》|拐《かい》事件があった。どうつながってるんだ?」
「こいつ! 人を呼ぶぞ!」
良作は声を|震《ふる》わせた。
「呼びなよ」
本条は冷ややかに笑った。「若い女を手ごめにしたことが知れてもいいならね」
良作は青くなった。本条はゆっくりと良作へと近付いた。
「何もかもしゃべりな。その|年《と》|齢《し》でけがすると、治りが|遅《おそ》いぜ」
本条の手にいつの間にかナイフが光っていた。その刃が、良作の|喉《のど》へピタリと当たる。
「やめてくれ……」
良作の声は、|恐怖《きょうふ》に|途《と》|切《ぎ》れがちだった。
「明石さん、大丈夫?」
と、加奈江の顔色を見て、親しい主婦が声をかけた。「――|疲《つか》れてるのよ。休んだら?」
「いいえ、大丈夫」
加奈江は言った。――屋上で、|洗《せん》|濯《たく》物を干しながら、子供を遊ばせていたのだ。
何かしていたかった。良作の部屋でのことを、早く忘れたかった。あの、長い長い時間を……。
「明石さん、テル君が何か言ってるわよ」
と、|誰《だれ》かの声で我に返る。
「どうしたの、テル君?」
と、加奈江は、エレベーターのわきへと歩いて行って訊いた。
「熊さん」
と、輝夫は言った。「熊さんがいたんだ」
「え?――何のこと?」
加奈江は訊いた。熊さんというのは、もしかして、あの熊のぬいぐるみのことだろうか?
「ここにあったの」
と、輝夫はくり返した。
「ここに? 本当に? じゃ、どこかへお散歩にでも行ったのね、きっと」
と加奈江は言った。
いや……そうじゃない。加奈江は、あの熊を、ついさっき見たような気がした。――どこで? どこで見たのだろう?
あ、あの熊は――と思った。|一瞬《いっしゅん》のことだったが。どこで見たのか……。エレベーターのわきの、あのポスターとそっくりだった……。
「そうだわ」
あの良作の部屋だ。組み|敷《し》かれ、|抵《てい》|抗《こう》を|諦《あきら》めた加奈江を、良作は、座布団を出して、その上に導いた。腰の辺りだけを座布団にのせて、良作は、加奈江の服をはいで行った……。
座布団を出した|押《おし》|入《い》れの戸が、少し開いたままになっていて、その|隙《すき》|間《ま》から、何かの目が|覗《のぞ》いていたのだ。最初、加奈江はゾッとしたが、よく見ると、それは、あの熊のぬいぐるみらしかった。しかし、良作が彼女の体を|愛《あい》|撫《ぶ》し始めると、もう、そんなことは、加奈江の頭から消し飛んでしまったのだ……。
輝夫は、ここにあの熊があったと言うが、しかしそれなら、良作がすぐに見付けたはずではないだろうか? なにしろ良作は毎日、ここへ上がって、見て回っているのだから。見付けて、なぜ押入れなどへしまい込んでいるのだろう?
加奈江はためらったが、すぐに輝夫を|抱《だ》き上げると、エレベーターのボタンを押した。
一階に着くと、加奈江は、良作の部屋のドアをいきなり開けた。
まず、血に染まった良作の死体が目に入った。そして、立っている若い男。――手に、あのぬいぐるみが。
加奈江は全身が震え出した。必死で輝夫を抱きしめる。男は、落ち着き|払《はら》っていた。
「殺したくなかったが、元刑事じゃ、こっちの顔をよく|憶《おぼ》えてるだろうからな。――あんたは、何も見なかったことにしときな」
「あなたは……」
「お前の子供をさらったのはこの|爺《じい》さんなんだぜ。しかもあんたの体まで手に入れた。あんたも知らん顔をしているのが一番だ。そうじゃないか?」
加奈江は|呆《ぼう》|然《ぜん》として、
「おじさんが……輝夫を?」
「そうさ。昔の|夢《ゆめ》が忘れられなかったんだろう。そして金と――あんたの体が、目当てだったのさ」
男は加奈江のそばをすり|抜《ぬ》けて、部屋を出て行く。ふと|振《ふ》り向いて、
「爺さんとのことは、|旦《だん》|那《な》には言うなよ」
と言った。
男が行ってしまって、しばらくしてから、加奈江は、よろけるように部屋を出た。
本条を追って来た由子が、マンションへ入って来たのは、そのときだった。
「どうしたんですか?」
と由子は|訊《き》いた。
「殺されて……人が……」
加奈江は震える声で言った。由子は急いで部屋のドアを開け、中を覗き込んだ。
由子は、あの管理人の老人が血まみれになって倒れているのを見て、立ちすくんだ。
「何があったんですか?」
由子は、表に出て、輝夫を抱きかかえたまま震えている加奈江に訊いた。
「若い……男が……」
「その人はどこに?」
「出て行ったわ、つい今しがた」
「外ですね?」
「ええ……」
と|肯《うなず》いて、加奈江は言った。「熊のぬいぐるみを――」
歩き出していた由子はその言葉に振り向いた。
「何ですって? ぬいぐるみがどうかしたんですか?」
「持って行ったんです。その男の人が」
由子はマンションを飛び出した。まだ体はあちこち痛かったが、そんなことは言っていられない。
本条があの老人を問い|詰《つ》めて来ると言って、一人でマンションへ出かけて行ったのだが、その様子がどうにも気になって、追って来たのだ。だが、まさかこんなことになっているとは。
本条はどっちへ行ったのだろう。姿はもちろん見えない。本条の目的が、あのテディ・ベアを手に入れて、自分で[#「自分で」に傍点]使うことだったとしたら、もう戻っては来ないに|違《ちが》いない。
ともかく、由子が歩き出そうとしたとき、
「ちょっと」
と声をかけた男がいる。「警察の者だ。野木由子さんだね」
このマンションを訪れて来た、良作の後輩だった相川刑事である。
「ええ……」
「あんたの恋人のことでちょっと訊きたいことがある。来てもらおうか」
由子は腕をつかまれて青ざめた。そのとき、
「人殺しよ! 誰か来て!」
マンションの中で、加奈江が|叫《さけ》んだ。相川は一瞬迷ったが、由子から手を|離《はな》すと、マンションの中へ飛び込んで行く。
その間に由子は、急いでマンションから離れようと|駆《か》け出した。本条を見付けなければ!
道を百メートルほど駆けて行くと、何か人が集まってざわついているのが目に入った。
「危ないぞ! |退《さ》がれ!」
と誰かが叫んでいる。
近付いて行って、由子は息を|呑《の》んだ。乗用車が一台、コンクリートの電柱に|激《げき》|突《とつ》して、頭部は完全に|潰《つぶ》れ、ガラスが一面に散っていた。ガソリンが|滴《したた》り落ちている。
「危ないよ! 近寄らないで」
と若い男が由子を止めた。
「中の人は?」
「今、救急車を呼んだよ。体を|挟《はさ》まれて動けないんだ」
とその男は言った。「人の車を|盗《ぬす》んだりするからさ」
「盗んだの?」
「俺の車だよ。走り出したら、とたんに急カーブを切ってね。|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》さ。おい、退がってろってば!」
その男が、他の野次馬たちのほうへ向いている間に、由子は、大破した車へと走り寄った。
盗んだ車――もしかしたら。
粉々に|砕《くだ》けたフロントガラスの中に、額から血を流した本条の顔が見えた。
「本条さん!」
と由子は叫んだ。
由子の声に、本条は目を開いた。
「しっかりして! 今救急車が来るわ」
「由子さん……。危ないですよ。僕はテディ・ベアを持ってる」
「どこに? でも――|爆《ばく》|発《はつ》しないでしょ?」
「|衝突《しょうとつ》のショックで爆発しなかったのは|奇《き》|跡《せき》だが……。まったく、みっともない話だ」
本条は笑おうとして、苦痛に顔を|歪《ゆが》めた。
「じっとして! もうすぐ救急車が――」
「由子さん……。あなたに謝らなきゃならない」
本条は、途切れがちな声で言った。「僕は……あなたを|騙《だま》してた」
「知ってるわ、中原さんの、本当の仲間だった人に会って、あなたのことを聞いたの」
「そうですか。――この熊は、僕が使うつもりだった……」
本条は、ちょっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。「由子さん」
「なあに?」
「あなたを騙してはいたけど……好意は持ってたんですよ」
由子は、ちょっと目を|伏《ふ》せて、
「それは、後でゆっくり話しましょう」
「いや、後はありません」
「――どういうこと?」
「警察に捕まって、|訊《じん》|問《もん》だの裁判だの、ごめんですよ。ここでかたをつけたい」
本条は、左手で、上衣のポケットを探ると、ライターを取り出した。「右手はやられてて使えないんです。でも、このライターを点けるぐらい、左手でできる」
「危ないわ! 爆発するわよ」
「あっちへ行ってください。あなたまで吹っ飛ぶ」
「いやよ! そんな|馬《ば》|鹿《か》な|真《ま》|似《ね》を――」
「自分で始末させてください。もともと、このテディ・ベアは僕が中原に言って作らせたものなんです。自分の罪の|塊《かたま》りだ。自分で処分しますよ」
「本条さん――」
由子は声を詰まらせた。
「さあ行って! 他の人にも退がるように言ってください!」
本条は逆らいがたい厳しい口調で言った。
由子はじりじり車から後ろへ退がった。本条が、ちょっと肯いて見せる。
「退がって! ガソリンがまだ|洩《も》れてるんだ!」
と、さっきの若い男が、まだせっせと野次馬を遠ざけていた。
ずっと離れた由子は、振り向いて、顔を伏せた。
次の瞬間、爆発が起こった。由子は、反射的に地面に伏せた。|衝撃《しょうげき》が耳を打ち、やがてパラパラと、砂とも小石ともつかぬものが落ちて来た。
エピローグ
「最近はまた、ずいぶん|真《ま》|面《じ》|目《め》になったのね」
と母親が、朝食の仕度をしながら言った。
「何よ、以前は不真面目だったみたいじゃないの」
「だって、そんなに熱心に大学へ行かなかったよ」
「素敵なボーイフレンドができたのよ」
と、由子はコーヒーをすすりながら言った。
「なんだ、そうなの。じゃ安心だわ」
由子は目をパチクリさせて、
「どうして安心なの?」
「急にお前が真面目に勉強し始めたから、|怖《こわ》いじゃないか。突然親を|刺《さ》し殺したり、とかさ」
「|突拍子《とっぴょうし》もないことを考えるんだから、お母さんは」
と、由子は笑って言った。
家を出ると、よく晴れ上がった空を見上げ、それから周囲を素早く見回す。
もういなくなったようだ。――本条が死んで、しばらくの間、由子はいつも|尾《び》|行《こう》され、監視されていた。
だが、ここ一週間ほどは、尾行されていない。あれこれ調べて、結局由子には本条以外のメンバーとの|接触《せっしょく》はなかったと分かったのかもしれない。
ともかく、いつの間にか、事件は終わっていたのである。そんなものなのかもしれない。
本条の爆死についても、ガソリンに引火しての爆発と発表された。ガソリンだけで、あんな爆発が起こるはずもないが、中原の死のときと同様、警察は|爆《ばく》|弾《だん》については伏せておきたいらしい。
どんな事情があるのかは、測り知れない。ともかく、もう事件は由子の手の届かないところへ行ってしまったのである。
「やあ、由子」
大学への道の途中で、友人の美保に声をかけられた。
「早いのね、美保」
「単位、落としそうなんだもの。仕方なく、早起きしてんだ。――ねえ、由子、例の彼氏とはうまく行ってんの?」
「例の彼氏?」
「ほら、いつか、新宿の個室|喫《きっ》|茶《さ》に行くって言ってたじゃないの」
「ああ、あの人のこと」
「どうしたの?」
「彼、死んじゃったの」
「ええ? 本当?」
と、美保は目を丸くした。「事故か何か?」
「そんなところ」
「そう……。悪いこと聞いちゃったわね」
「いいのよ」
と、由子は微笑みながら言った。
もう大丈夫。――本条のことは、もちろん思い出すが、それはすでに過去として|眺《なが》める、アルバムの一ページになっていた。あの、事件の|溢《あふ》れた日々から、平凡な毎日への変化があまり大きかったので、|却《かえ》って心の切り換えができたのかもしれない。
子供たちの声がしたと思うと、由子のほうに何かが飛んで来た。受け止めてみると、テディ・ベアだった。
「キャッ!」
と叫んで、反射的に投げ出すと、駆けて来た女の子が拾い上げて、
「お人形だから怖くないよ」
と笑いながら言った。
由子は息をついて苦笑すると、言った。
「お姉ちゃんね、前にお人形の熊にかみつかれたことがあるのよ。あなたも気をつけてね」
女の子はキョトンとして、由子と美保が歩いて行くのを見送っていた。
おやすみ、テディ・ベア(下)
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年7月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『おやすみ、テディ・ベア』昭和60年12月25日初版発行
平成10年11月20日22版発行