角川e文庫
おやすみ、テディ・ベア(上)
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
第一章 |熊《ベア》を探せ
第二章 我が子よ|眠《ねむ》れ
第三章 真夜中の旅
第四章 旅路の果て
第五章 会社の|宴《えん》|会《かい》|屋《や》
第六章 |披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の|悪《あく》|夢《む》
第七章 二つのテディ・ベア
第一章 |熊《ベア》を探せ
1
そのドアのたてつけが悪かったという、ささいなことが、すべての事件の|発《ほっ》|端《たん》になった。
そこは、全体がもう多少|傾《かたむ》いているとさえ言われるような安アパートで、実際、窓は閉まらない、レコードプレーヤーが傾く、共同トイレの戸が閉まらないので、女性が入っていられない、といった苦情が絶えなかったのである。
しかし、家主のほうは鋼鉄の神経の持ち主らしく、いくら苦情が来ても一向に改善しようとはしなかった。そのせいもあって、アパートの住人は減っていき、今では部屋がやっと半分、|埋《う》まっているという程度であった。
二階の一室に、大学生が間借りしている。|表札《ひょうさつ》は〈|中《なか》|原《はら》〉と出ていた。そのドアは、まともに閉じたためしがない。今も、二センチばかり開いたままになっていた。
四|歳《さい》か、せいぜい五歳ぐらいの女の子が、|廊《ろう》|下《か》でボールを転がして遊んでいる。
鼻水をたらして、あまりきれいな格好はしていないが、このアパートには、むしろピッタリ来る|服《ふく》|装《そう》だった。
女の子が、その二センチの|隙《すき》|間《ま》に注意をひかれたとしても、当然のことだったかもしれない。中からは、やかましい音楽が聞こえて来ていた。
そっと部屋の中を|覗《のぞ》き込むと、少女は|熊《くま》と対面していた。茶色の、モコモコと太った、テディ・ベアである。
女の子は、|微笑《びしょう》した。熊が笑い返してくれるのを待っているように、じっと、その隙間から、熊を|眺《なが》めている。
表の通りで、|豆《とう》|腐《ふ》|屋《や》のラッパが鳴った。部屋の中で、立ち上がる気配がした。女の子は急いでドアの前からどいて、廊下の|奥《おく》へと走って行った。
ドアが開いて、|髪《かみ》を長くしたジーパンスタイルの男が、|鍋《なべ》を持って出て来ると、サンダルの音をたてながら、階段を降りて行った。女の子は、またドアのほうへ近付くと、今度はたっぷり十センチ以上の隙間があって、そこから頭を入れてテディ・ベアを見つめた。
乱雑な部屋で、変な|匂《にお》いがしたが、女の子には気にならなかった。テディ・ベアは、奥の|壁《かべ》にもたれて、|退《たい》|屈《くつ》そうだ。
外へ出たいよ、と言っているように、女の子には見えた。女の子は、そっとドアを開けて、中へ入った……。
豆腐を入れた鍋を手に、中原は、階段を上がって来た。女の子が、廊下に向こうを向いて、しゃがみ|込《こ》んでいる。
「――どうかしたの?」
と、中原は女の子へ声をかけた。
女の子が|振《ふ》り向いて、
「何でもないよ」
「そう」
中原は部屋へ入って、ドアを閉めた。なかなかきっちりと閉まってくれない。
「ボロだな、まったく!」
中原は豆腐の入った鍋を、申し訳程度に付いている流しに置いて、部屋を横切り、窓を開けた。
通りを見下ろすと、今、廊下にいた女の子が走って行くのが見える。中原の目は、女の子がかかえた物に|釘《くぎ》|付《づ》けになった。
ぬいぐるみのテディ・ベアだ!
中原は部屋の中を見回した。あの熊だ。失くなっている。
「おい、待て!」
窓から頭を|突《つ》き出して、中原は|叫《さけ》んだ。
中原の声に、女の子はびっくりして足を止めたが、ちらりと窓のほうを見上げると、今度は一目散に|駆《か》け出して行った。
「待て! その熊は――」
中原は必死で叫んでいた。だめだ、追いかけなくては。
中原は|玄《げん》|関《かん》へ向かって走った。走るほどの|距《きょ》|離《り》でもないのだが、その間に、いつもは|隅《すみ》に置いてある|座《ざ》|卓《たく》が引っ張り出してあるのを忘れていた。
|激《はげ》しい勢いで、中原は|転《てん》|倒《とう》した。中原の体が、座卓の上の、組立て中のラジオのような物をはね飛ばした。
しまった! 声にならない叫びが、中原の|脳《のう》|裏《り》に走った……。
|野《の》|木《ぎ》|由《よし》|子《こ》は、ちょうど、中原が窓から女の子へ向かって、
「おい、待て!」
と叫んだとき、道の角を曲がって来たところだった。グレーのブレザーに、スカート、ショルダーバッグというスタイルだった。
あの声、中原君だわ。見上げると、やはり中原が、何かあわてた様子で、窓から身を乗り出した。中原がもう一度叫ぶと、窓から姿を消した。
同時に、野木由子は、走って来た女の子にぶつかりそうになって、
「あ、ごめんなさい」
と足を止めた。
女の子は、ギョロッとした目で由子を見上げると、そのまま今、由子が曲がって来た角を折れて、走って行ってしまった。
今の子、熊のぬいぐるみを|抱《だ》いていたわ、と由子は思った。中原君、今、熊がどうとか|怒《ど》|鳴《な》ってたみたいだけど……。
由子が、また中原のアパートへ向けて足を|踏《ふ》み出した|瞬間《しゅんかん》、ズシン、と腹に|響《ひび》くような|衝撃音《しょうげきおん》が空気を|震《ふる》わせ、同時に耳がキーンと|鋭《するど》く鳴った。
中原の部屋が、|黒《こく》|煙《えん》と共に、|吹《ふ》っ飛んでいた。
――|爆《ばく》|発《はつ》。その瞬間の気圧の変化で、由子の耳が、一瞬おかしくなったのだ。
由子は、その場に、|呆《ぼう》|然《ぜん》と突っ立っていた。目の前で、|突拍子《とっぴょうし》もないことが起こっても、そうすぐに対処することはできないものである。
黒い煙が、ゆっくりと、風に吹かれて、散らされて行くと、後にはポッカリと、無残な傷口が残っていた。|巨《きょ》|人《じん》にかみ切られたとでもいうような、大きな空間があった。
「――中原君」
由子は、やっと我に返って、走り出していた。
野木由子は、二十一歳の、都下の女子大に通う三年生だった。中原|朝《とも》|夫《お》とは、高校時代からの付き合いで、しかし、ここ一年ほどは数えるほどしか会っていない。
それも中原のほうから会いたいと言ってくることは|滅《めっ》|多《た》になく、こうして、由子が勝手に中原のアパートを訪ねて来ることが多かった。今日は、三か月ぶりの訪問になる――はずだったのである。
由子は、アパートへ飛び込むと、階段を駆け上がって行った。
アパートの二階の廊下は、まだ爆発の煙と、おそらくは|埃《ほこり》だろう、白い煙が混ざり合って、|渦《うず》を巻いていた。
「|逃《に》げて! 早く外へ!」
他の部屋の人らしい叫び声が、煙を通して飛び出して来る。
由子は、ハンカチを出して口を|押《おさ》えながら頭を下げて、煙の中へと進んで行った。逃げ出す人の足音が、ガタガタと階段や廊下に鳴っている。
「中原君!」
と、由子は叫んだ。
明るいほうへ手探りで進んで行くと、急に煙の外へ出ていた。
そこは、中原の部屋の入口だった。
ドアは飛んで失くなっていたし、中はまるで焼け|跡《あと》のような|惨状《さんじょう》だったが、ともかく、中原の部屋には|違《ちが》いなかった。
由子は|匂《にお》いをかいだ。反射的にガス爆発かと思ったのだ。しかし、ガスの匂いはしていないようだった。
正面の、窓はもちろん、|壁《かべ》もえぐり取られて、外へ吹っ飛んでいる。ポッカリと、空が|覗《のぞ》いているのが、どうにも非現実的な印象を|与《あた》えるのだった。
「中原君。――中原君」
由子は、|恐《おそ》る恐る中へ足を踏み入れて、呼んでみた。
「中原君、由子よ。――どこ?」
足下で、何か低い|唸《うな》り声がした。視線を向けて、由子は思わず後ずさった。
黒ずんだ、焼けこげた手が、覗いていた。
「中原君……」
上にかぶさっている|棚《たな》を、必死に持ち上げる。――血まみれになった顔が現われると、由子は短く悲鳴を上げた。
「どうしたのよ? 一体どうして……」
中原の|唇《くちびる》が動いた。
「聞いて……くれ」
思いのほか、言葉は|明瞭《めいりょう》だった。
「なあに? 聞いてるわよ」
由子はかがみ込んだ。
「|爆《ばく》|弾《だん》だ……」
「爆弾?」
「僕が……作った……」
由子は、あまりのことに声も出なかった。中原が、かつてはさまざまな政治活動に加わっていたことは、由子も知っている。だが、このところ、あらゆる組織から|離《はな》れて、一人、何かに熱中している様子であった。
それが、爆弾作りだったのか。
「女の子……」
と、中原は言った。
「女の子?」
「熊の……人形を……」
「熊の? ぬいぐるみをかかえた? さっきすれ違った子だわ」
「大変だ……」
「何が大変なの?」
「あの熊に……爆弾が……」
由子は、次第に低くなって行く中原の声を聞き取ろうと、耳を近づけなければ、ならなかった。
「中に……仕込んである……危ない……ショックで……爆発する」
もうほとんど、|囁《ささや》きに近い、かすれ声になっている。「探してくれ……あの子を……熊の……」
言葉が|途《と》|切《ぎ》れた。
しばらくして、由子は、やっと、中原が死んでいるのに気付いた。
由子は、立ち上がると、よろけながら、廊下へ出た。
もう、煙はだいぶ|薄《うす》らいでいる。階段を降りて行くと、近くの交番から駆けつけて来たのだろう、制服の警官が、やって来た。
「二階は?」
「え?」
「|誰《だれ》かいるんですか?」
どうやら由子を、ここの住人だと思っているらしい。
「いえ……あの……人が死んでいます。一人だけ」
「そりゃ参ったな。ガスは|洩《も》れてますか」
「別に匂いませんけど」
警官なら、行って確かめてみればいいのに、と、由子は少し腹が立った。そのおかげで、由子はやっと落ち着いて来たような気がした。
表に出ると、アパートの住人らしい人たちが、少し離れた所に、寄り集まって立っている。
由子は歩き出した。もう中原は死んでしまったのだ。ここにいる意味はない。少し歩いて振り向くと、中原の部屋だった空間が、|寂《さび》しげな風景に見えた。
角を曲がって、由子は足を止めた。
「あの女の子……」
中原が|頼《たの》んだのだ。あの女の子の持っていたテディ・ベアを取り返してくれ、と。あのぬいぐるみは、爆弾なのだ。
やっと、由子は、中原の言葉の意味を、理解した。中原の死で、やはりどうかしてしまっているのだ。
「どうしたらいいのかしら……」
由子は迷って、|呟《つぶや》いた。
警察へ届けるのが第一だろう。しかし、それは、同時に中原に、爆弾犯の|汚《お》|名《めい》を着せることでもある。
もし、自分の手で発見することができたら、それが一番だろう。由子は、あの女の子の様子を思い出そうとしてみた。――|大丈夫《だいじょうぶ》。もう一度見れば分かるだろう。
だが、名前も何も分からないのでは、探しようがない。どこに住んでいる子なのか?
中原の部屋から、あのテディ・ベアを持ち出したとすれば、あのアパートに住んでいるか、それとも友だちがいるか、どちらかだろう。外からふらりと入って来たとすれば、中原の部屋は二階だから、不自然だ。
由子は、アパートのほうへ|戻《もど》ろうとして、ふと手を見た。埃と灰で真っ黒である。気が付いてみると、ブレザーも、白っぽく灰をかぶってしまっていた。
この分では、|髪《かみ》や顔も|汚《よご》れているに違いない。由子は、さっき通って来た道に、ちょっとしたスーパーマーケットがあったのを思い出して、いったん、そこへ向かった。
あまり汚れたままで物を|訊《たず》ねても、|怪《あや》しまれてしまうだろう。
スーパーは、まだ夕食どきの買い物には時間が早いのか、|閑《かん》|散《さん》としていた。
洗面所を探して、やっと見付けると、中へ入って、鏡を見た。思ったとおりの汚れようである。手を洗い、顔は洗えても、髪や服は完全にきれいにはならない。
まずまずのところで満足しなくてはならなかった。
洗面所を出て、由子は、店の出入口のほうへ歩きかけ、足を止めた。少し先の棚の前に、所在なげに立っているのは、あの女の子だった。テディ・ベアをしっかりと抱きしめている。
由子は、ちょっとの間、その女の子の姿が|幻《まぼろし》で、頭を振ったら、消えてしまうのではないか、と思いながら、立ちすくんでいた。ほんの七、八メートル先に、問題のテディ・ベアをかかえた女の子が立っている。
やっと、足を踏み出したとたん、女の子の姿は、棚の|陰《かげ》に、ふっと消えてしまった。由子は足を早めて、女の子のいたあたりへ行った。棚の列の間に、もうあの子の姿はなかった。
どこへ行ったんだろう? 由子は、途方にくれて、周囲を見回した。ほんの一瞬の間だったのに。
由子はスーパーの中を、右へ左へと、歩き回った。そのうちにはきっと、見付かる。見付からないはずがない。そんなに広い売場ではないのだから。
だが、女の子はどこにもいなかった。由子は歩き|疲《つか》れて、息を|弾《はず》ませた。
どこへ行ってしまったのだろう? それとも、あの女の子を見たような気がしただけなのか?
由子は、立ち止まって、レジのわきを抜け、出入口のほうへ歩いて行った。――と、ガラスの壁|越《ご》しに、あの女の子が、中年の男に手を引かれて行くのが目に入った。
由子は出口へと急いだ。
知らないおじさんについて行っちゃいけませんよ。
いつも、女の子はママからそう言われている。その意味も、それなりに理解しているつもりだった。
そういうおじさんは、|怖《こわ》い人さらいだったりするんだ。
でも、このおじさんは、少しも怖そうじゃない。笑うととても優しい感じで、ちょっとパパにも似てるんだ。
「おじちゃん、パパのこと知ってる?」
「うん、お友だちなんだよ」
「ふーん。同じ会社に行ってるの」
「そうじゃないけどね、ずっと前から仲がいいんだ」
「私のこと知ってる?」
「よくパパが言ってるよ。とってもいい子なんだってね」
と、そのおじさんは優しく笑いかけた。
あんまりパパは賞めてくれないけど、お友だちには、いい子だと言ってるのかな。
「さあ、アメを買おうね。どれでも好きなのを取っていいよ」
おじさんはポケットをジャラジャラいわせて、お金を出した。女の子は一番大きなキャンディを買ってもらった。
しかし、片手で熊を抱き、もう一方の手はおじさんが|握《にぎ》っているのだから、アメを持つのが大変だった。
「そのクマさん、持ってあげよう」
おじさんは空いているほうの手に、熊のぬいぐるみをぶら下げて、「向こうに座る所があるからね。そこで座ってゆっくりなめたらいいよ」
「うん」
女の子は、もうアメに夢中だった。公園の裏手の、細い|露《ろ》|地《じ》へ入って行っても、少しも気にならなかった。
おじさんは、女の子を|道《みち》|端《ばた》の草地に座らせると、|並《なら》んでそばに|腰《こし》をおろし、デニムのスカートからのびた、すべすべした白い足をじっと見つめていた。
2
由子が、その女の子と、中年の男をやっと見付けたのは、女の子が買ってもらったアメをなめ始め、また|一《いっ》|緒《しょ》に歩き出したときだった。
だが、それはずっと離れていて、ほんの一瞬、チラリと由子の視界をかすめたに過ぎなかった。それが本当に探している二人かどうか、由子にも自信はなかったが、服の色や二人の歩き方には見覚えがある。
ともかく、他にそれらしい二人連れがいないのだから迷っている余地はない。由子は、その|菓《か》|子《し》|屋《や》へと急いだ。
運悪く、道はそこから三方にわかれている。菓子屋の店先に、十七、八の太った|娘《むすめ》がぼんやりと立っていた。エプロンをしているのを見ると、留守番をさせられている、この店の娘なのだろう。
「ねえ、今、ここに親子連れが来たでしょう?」
と、急いで来たので、少し息を弾ませながら由子は|訊《き》いた。
「え?」
と、その娘は口をしまりなく開いて訊き返した。
由子が同じ質問をくり返すと、
「ええ、来ましたけど」
と、無愛想に返事をした。
「どっちの道へ行った?」
由子の言葉がまるで耳に入らなかったとでも言わんばかりに、
「え?」
と、娘はまた訊き返した。由子は|苛《いら》|立《だ》って口を開きかけたが、その前に、
「今の二人なら、あっちへ行きましたよ」
と娘は、右へ曲がって行く道のほうを|顎《あご》でしゃくった。
「ありがとう」
由子が小走りに行ってしまうと、店番の娘はちょっと小首をかしげて、
「――違ったっけ」
と|呟《つぶや》いてから、ヒョイと肩をすくめた。
由子がその公園の前を通ったのは三十分以上たってからのことだった。
右へ左へとただ目につく通り、出くわした道を歩き回った|挙《あげ》|句《く》、疲れ切って、息を切らしていた。
ともかく、あの女の子を今見付けるのは絶望的だ。由子は公園――といっても、ただ四角い空地を|柵《さく》で囲った程度のものだが――へ入って、すっかり|塗《ぬ》りのはげ落ちたベンチに腰をおろした。
考えてみると、中原のいたアパートに戻って、あの女の子のことを訊いてみれば、苦もなくどこの子か分かるかもしれないのだ。何もこんな思いをして追いかけなくても……。
だが、一刻も早く、あの爆弾を仕込んだテディ・ベアを取り戻さなければ、死者が出るかもしれない。家へ帰った女の子が、母親に手を洗いなさいと言われて、ぬいぐるみを投げ出す。――そのショックで爆発が起こるかもしれない。
ともかく、早く中原のアパートに戻らなくては。といっても、ここからどう歩いて行けばいいのやら、由子には見当もつかない。
バッグを開けて、ガーゼのハンカチで|汗《あせ》を|拭《ぬぐ》った。コンパクトを開いて、顔を映して見た。そのとき、鏡の中を、何かが素早く通り|抜《ぬ》けて行った。
由子は、コンパクトの鏡を駆け抜けた|影《かげ》に気付くと、反射的に振り向いた。小走りに去って行く足音が聞こえただけで、もう姿は見えない。由子は、コンパクトを閉じてバッグに戻すと、ベンチから立ち上がった。
誰かが走って行った。そんなことは別に|珍《めずら》しいことでも何でもない。しかし、由子は、何となく気になっていた。
鏡に映ったその誰かは公園の柵と、その向こう側の高い|塀《へい》の間から出て来たことになる。そこは、|狭《せま》い|隙《すき》|間《ま》で、道というほどの|幅《はば》もないように見えた。
公園を出ると、由子は、グルリと柵を回って、その裏手へと出た。思っていたより、多少幅の広い露地で、近道に通り抜けるぐらいのことはできそうだった。
何か白いものが目に入った。一瞬、不安が由子の胸をよぎった。由子は、その露地へ進んで行った。
女の子は、大きく頭をのけぞらせて、口を開いて死んでいた。白く見えたのは、めくり上げられたスカートの下の、むき出しにされた下半身だった。
由子はよろけて後ずさった。自分では、そんなにショックを受けたという意識はなかったが露地を出ると、道のわきにしゃがみ込んでしまった。
寒気がして、身震いする。顔を上げると、セールスマンか何からしい、背広姿の男が、|鞄《かばん》を手に歩いて来るのが見えた。
「どうかしましたか」
その男が声をかけて来た。
「警察を……」
と、由子は言った。
「何です?」
はっきり言ったつもりだったのだが、声が震えているようだ。由子は一つ深呼吸をして、
「警察を呼んでください」
と言った。
「――何があったんです?」
「そこに……女の子が殺されて……」
そこまで言って、由子は急に|吐《は》き気に|襲《おそ》われた。
その後は、ひどい車|酔《よ》いにも似て、由子はしばらく何も考えられなかった。
警官が駆けつけて来る。パトカー、報道陣の車、オートバイ、そして近所の人たち。
混乱の中で、やっと我に返ったとき、手に熱いコーヒーを入れた紙コップがあった。
「――どうも」
由子は、目の前の主婦に礼を言った。
「いいえ。少しお飲みになったほうが、落ち着くんじゃないかと思って」
由子は、自分が、どこかの家の勝手口らしい所に立っているのに気付いた。コーヒーを一口飲むと、実際に、やっと頭がすっきりして来た。
「大丈夫ですか」
警官が言った。どうやら由子をここへ連れて来たらしい。
「ええ。何とか」
「あの女の子の|身《み》|許《もと》をご存知ありませんか」
「いいえ」
と由子は、首を振った。「死んでたんでしょう?」
分かり切ったことを、訊かずにはいられなかった。
「首を|絞《し》めて殺したようです」
と、警官は言った。「変質者ですね、きっと」
あの男だ、と由子は思った。女の子にアメを買ってやっていた中年男。
「発見したときの様子をうかがいたいんですが」
「はい。――どうもありがとうございました」
礼のほうは、コーヒーをくれた主婦に言ったのである。
「いいえ」
顔色の良くない、どこか弱々しい感じの女性だった。声もか細くて、今にも消えてしまいそうだ。
|哀《かな》しそうな人だわ、と由子は思った。たぶん、まだ三十をそう越していないのだろうが、|化粧《けしょう》っ気のまるでない顔は、ひどく|老《ふ》け込んで見える。
家はかなり立派で、新しくはないが、木造の堂々とした構えだった。その家に不つりあいに、その女性の服装は見すぼらしいもので、髪も無造作に|束《たば》ねて、およそ手入れなどしていないのが一見して分かった。
「――|静《しず》|枝《え》」
家の中から、太い男の声がすると、その女性は、まるで|怯《おび》えたようにギクリとして、
「はい」
と、高い声で返事をした。「主人が呼んでいますので――」
「どうもお|邪《じゃ》|魔《ま》しました」
と警官が会釈した。
由子はもう一度礼を言って、警官について外へ出た。
それを見送って、静枝と呼ばれた女性は勝手口のドアを閉じた。音を立てるとドアが|壊《こわ》れでもするかのような、用心深い手つきだった。
台所の上がり口に、買い物|袋《ぶくろ》が置いてあって、まだ、スーパーの紙袋がふくらんだまま入れてある。静枝は、奥へ行きかけて、ふと足を止めると、買い物袋から紙袋を引っ張り出して、その下から、熊のぬいぐるみを取り出した。
「静枝」
さっきの声が、少し|苛《いら》|立《だ》ちを混じえて響いた。
「はい、今――」
静枝は、素早く台所の中を見回すと、高い戸棚の一つを開けて、その中へぬいぐるみを押し込んだ。それから、足早に奥へと入って行った。
由子が解放されたのは、二時間近くも警官の質問に答えてからだった。
もう外は暗くなっていて、由子は、教えられた道を駅へと|辿《たど》っていた。
由子は難しい立場に立っていた。あの女の子を殺した男について、由子はたいした|記《き》|憶《おく》はない。警官はしつこく服の色や、|大《おお》|柄《がら》か小柄かなどを訊いたが、由子ははっきりした返事ができなかった。
あの男について、多少なりとも手がかりになりそうなことを話せる人間がいるとすればあの菓子屋の店番をしていた娘だろう。しかし、それを警官に言えば、由子があの女の子を追っていた理由も言わねばならない。
そうだ。――由子は足を止めた。殺人の|騒《さわ》ぎとショックで、あのテディ・ベアのことを忘れるところだった。あの現場には見当たらなかったのだが……。
疲れ切った由子が家に帰り着いたのは、九時過ぎだった。
「|遅《おそ》かったのね」
母の|豊《とよ》|子《こ》が|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうに顔を出した。
「友達に会っちゃったの」
玄関を上がって、「お腹|空《す》いちゃった」
と、由子は投げ出すように言った。
「みんなご飯の時間がまちまちなんだから。ちっとも片付かないじゃないの」
母の|愚《ぐ》|痴《ち》はいつものことで、由子は慣れっこである。
「先に、お|風《ふ》|呂《ろ》に入るから、ゆっくりどうぞ」
と声をかけておいて、二階へ上がった。
自分の部屋へ入ると、由子は、急に体中の力が抜けてしまったようで、鏡台の前にペタンと座り込んだ。
何という一日だったろう。
中原の死。――爆弾。――少女殺し。
由子の頭は混乱して、もう何も考えられなかった。
ついに見付けられなかったあのぬいぐるみ。爆弾を抱いたテディ・ベアは、どこに行ったのだろうか?
しばらくぼんやりしていた由子は、下からの母の声で我に返った。
「電話よ、由子」
「はい」
大声で返事をすると、二階の廊下にある|切《きり》|換《か》え式の電話へと急いだ。
「もしもし、由子?」
せき込むような声が聞こえて来た。「私、|麻《あさ》|美《み》よ」
高校時代のクラスメイトだった。
「何だ珍しいわね」
と由子は少しホッとしながら言った。
「ねえ、ニュース、見た?」
「え?」
「中原君、死んだって」
由子は言葉に|詰《つ》まった。
そうだった。当然考えていなくてはならなかったのだ。|彼《かれ》が死んだこと――それも爆弾で死んだことが、ニュースにならないわけがない。
「ね、由子、聞いてる?」
どう答えたものだろう? まさか、もう知っている、と言うわけにはいかないし……。
「あの……本当なの? どうして?」
我ながらまずい演技だったが、それが|却《かえ》って、|茫《ぼう》|然《ぜん》自失しているという印象を与えたらしい。
「さっきニュースで見たの、テレビで」
麻美は同情の響きを|含《ふく》ませながら、言った。「気の毒ね、若いのに……、由子、まだお付き合いしてたの?」
「ええ……たまには会ってたけど……」
「あんな安アパートに住むからいけないのよ。ガス|洩《も》れ起こすなんて、管理が悪いのよ」
「ガス洩れ?」
「ガス爆発ですって。見なくてよかったわ、ひどかったもの、部屋が消えてなくなっちゃって」
ガス爆発? 由子は耳を疑った。あの部屋には、まったくガスの匂いなどしなかった。中原自身が、爆弾だと言ったのに、なぜガス爆発だという報道になったのだろうか?
由子は、麻美の話に、ただ機械的に返事をするだけだった。
第二章 我が子よ|眠《ねむ》れ
1
|浜《はま》|本《もと》静枝は午前十時に家を出た。
少し風はあったが、よく晴れた日で、静枝にはその青空が、幸先のよい|象徴《 しるし》のように思えた。
静枝は、ほとんど彼女の|唯《ゆい》|一《いつ》といってもいい外出着を着ていた。といっても、ごく地味な、ありふれた茶色のスーツだが、新品でないまでも、よく手入れされていた。
そして、わずかながら、口紅が|唇《くちびる》に|艶《つや》を|与《あた》えて光っている。
静枝は駅への道を急いだ。本当はバスで行くと早いのだが、静枝は|却《かえ》って不安になるので、歩くほうを選んだ。
バスは往々にして、道の|渋滞《じゅうたい》で|遅《おく》れることがある。歩きならば、どう|狂《くる》っても五分と前後することはない。
十時三十七分の電車に、必ず乗らなくてはならない。――駅まではせいぜい二十分で着くのだから、十五分以上もホームで待つことになるが、そんなことは少しも苦にならなかった。
静枝は足を早めた。もう駅は間近に見えている。|腕《うで》時計を見て、家からたった十二分で歩いて来たのを知ると、思わず笑顔になった。しかし、静枝の|頬《ほお》は、笑うことを忘れているのか、こわばったような、ぎごちない笑いしか|浮《う》かばなかった。
静枝は二十分以上もホームで待つことを考えて、足を止めた。もちろん、一時間でも待つことは平気だが、こうして一人で出かけて来る、月に一、二度の機会に、わずかばかりの解放感に|浸《ひた》ってみたいと思った。
静枝は、駅の真正面の|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》に入った。ここなら、ホームまででも三分もすれば行ける。コーヒーの|一《いっ》|杯《ぱい》ぐらい飲むには|充分《じゅうぶん》だろう。
それでも、駅の|改《かい》|札《さつ》|口《ぐち》と時計がはっきり見える席に座って、静枝はやっと少し落ち着いた。
熱いおしぼりが来る。コーヒーを|頼《たの》んで、|乾《かわ》いた手を、おしぼりで|拭《ふ》いた。その熱さは生きていることを確かめさせてくれる快さを感じさせた。
コーヒーは、お世辞にもおいしいとはいえなかった。しかし、それでも静枝はゆっくりとその苦味をかみしめた。味などはどうでもいい。自分一人で飲んでいること、ここには夫も、|誰《だれ》もいないことが重要だったのだ。
静枝は、|傍《そば》に置いた|紙袋《かみぶくろ》をそっと|覗《のぞ》いた。中から、|熊《くま》のぬいぐるみが|彼《かの》|女《じょ》を見上げている。静枝は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
|可《か》|愛《わい》い熊ちゃん。本当に可愛い。
静枝は、不意に|瞼《まぶた》を|濡《ぬ》らした|涙《なみだ》を急いで|拭《ぬぐ》うと、コーヒーを飲んだ。まだ店に入って五分しかたっていない。
でも、もうホームに行っていようか。早すぎるのはいつものことだ。
しかし、あまり早々と店を出るのも、なんだかためらわれて、静枝は、飲みたくもない水を一口飲んだ。
いつでも出られるようにしておこう。静枝は財布をバッグから出すと、小銭でコーヒー代をテーブルに置いた。
「電車賃はあるし……」
確かめて安心すると、静枝は財布をバッグに|戻《もど》した。
誰かが、すぐ|傍《そば》に立ったのに気付いて顔を上げると、静枝の顔から血の気がひいた。
「あなた……」
低い|呟《つぶや》きが|洩《も》れた。
「やあ」
と、その男は言った。
四十|歳《さい》ぐらいの、|穏《おだ》やかな感じの男である。背広姿が身について、見るからに中堅のビジネスマンという印象を与える。
静枝は、急いで男から目をそらした。
「座っていいか」
と、男は|訊《き》いた。
静枝は目をそらしたまま|肯《うなず》いた。――ウエイトレスのいらっしゃいませ、という言葉を、遠いこだまのように静枝は聞いていた。
「元気かい」
と、男は言った。
「ええ」
なぜ、そんなことを訊くのだろう、と静枝は思った。一目見れば、元気でないことぐらい分かりそうなものだ。
「出かけるのか、どこかに」
「ちょっと用が……」
静枝の声は細くなって消えた。
「|洋《よう》|子《こ》に会うんだろう」
静枝は答えなかった。その必要もない。|前《まえ》|田《だ》が現われたことで、すべては分かっていた。
前田|俊《とし》|也《や》は、静枝のかつての夫である。
「洋子は……元気ですか」
静枝は、そろそろと顔を上げながら言った。
「ああ、元気だ。――君がいなくても充分に元気だよ」
前田の言葉に、少し厳しさが加わった。「ときどき洋子が買ってやった覚えのない物を持って帰ると母が気付いてね、今日は会社を休んで来たんだ。大体見当はついていたからな」
「すみません」
静枝は低い声で言った。
「洋子は僕に任せると決まったんだ。いつまでも未練がましくつきまとわれては困る」
前田の言葉は、ウエイトレスが来たので、いったん|途《と》|切《ぎ》れた。相変わらずホットミルクを飲んでいる、と静枝はぼんやり考えた。
「ご主人は知ってるのか」
「いいえ」
「面白くあるまい、分かったら」
そんなことを気にする人ではない、と静枝は心の中で呟いた。浜本は、静枝を愛してもいなければ、おそらくは妻だとも思っていない。
浜本が静枝と結婚したのは、ただ、家事をする人間――それも家政婦のように料金を取らない女を求めていたからだ。それは静枝にもよく分かっていた。
「ともかく洋子には二度と近付かないでくれ」
と、前田がミルクのカップを置いた。
「でも……洋子は私の|娘《むすめ》です」
「捨てて男と出て行ったくせに、よくそんなことが言えるな」
と、前田は苦々しげに言った。「君の不始末のおかげで、僕が会社で、どんな|迷《めい》|惑《わく》を|蒙《こうむ》ったか、分かってるのか?」
そのことはもう何度も謝ったじゃありませんか、と静枝は心の中で|叫《さけ》んだ。その叫びを、決して現実に声にすることができない。静枝はそういう女なのだ。
「家へ帰ったらどうだ」
と、前田が言った。
時間は過ぎて行った。
静枝は、顔を|伏《ふ》せたまま、そっと腕を動かして|袖《そで》|口《ぐち》をずらし、時計を見た。十時三十二分。もう五分しかない。
「時間を気にしてもむだだよ」
前田が冷ややかに言った。「今日は、洋子は違う電車に乗っている。母と|一《いっ》|緒《しょ》にね」
静枝の中の張りつめたものが、一気に|崩《くず》れて行った。
あなたは頭がいいわ。何にでもよく気が付く。国立大出の、一流|企業《きぎょう》のエリートだもの。そう、何事にもよく気の付く人。妻のこと以外なら……。
「幸せじゃないようだね」
少しきつく言い過ぎたと思ったのか、前田は、ちょっといたわるような口調になった。しかし、取ってつけたように聞こえる。
「そんなことは……」
どうでもいいんです、と口の中で静枝は呟いた。
前田はポケットからシガレットケースを出し、ダンヒルを一本出して、くわえた。
「また始めたの」
と、静枝は訊いた。
「君が出て行ってすぐだ。母は別に止めやしない」
「洋子に悪くないの?」
洋子は少し呼吸器が弱い。それが分かったとき、前田はタバコをやめたのである。
「一緒にいるときは|喫《す》わないよ」
「毎晩、|遅《おそ》いの?」
「ああ、早くて十二時。たいていは一時過ぎだな」
「相変わらずなのね」
また、|沈《ちん》|黙《もく》が戻った。
電車の音がして、静枝は駅のほうを見た。三十七分の電車だ。あれには洋子は乗っていないのだと分かっても、胸が|刺《さ》されるように、痛んだ。
「――お願い」
静枝は頭を下げた。「洋子に会わせて。三か月に一度でもいい。それを待って、毎日を|我《が》|慢《まん》するから」
「だめだ」
前田は|即《そく》|座《ざ》に言った。
「なぜ? あの子も私を|嫌《きら》っちゃいないわ」
「|再《さい》|婚《こん》するんだ」
と前田は言って、青い|煙《けむり》を吐き出した。
静枝は、力なくうなだれた。前田は続けて、
「そのことも言っておきたくてね。再婚した後で、また君がこっそり洋子に会いに来るようじゃ困る。ともかく、もう君は|僕《ぼく》とも洋子とも赤の他人なんだからね」
前田は、ホットミルクを飲みほしてから、タバコを|灰《はい》|皿《ざら》へ|押《お》しつけて立ち上がった。「もうこれきりだ。――じゃ、行くよ。君はまだいる気か?」
静枝は、前田の言葉が耳に入らない様子で、身じろぎもせずに座っている。前田は、二人分、一緒に書かれた伝票を手に取って歩き出した。
「あなた」
と、静枝が声をかけた。
「何だ?」
「これを……洋子に|渡《わた》してくださらない」
静枝は、紙袋を探って、あのぬいぐるみの熊を取り出すと、前田のほうへと差し出した。
「お願い! あなた」
静枝は前田にすがるように言った。
前田はしばらくためらっていた。
静枝は、前田が冷たくはねつけるだろう、と|覚《かく》|悟《ご》していた。立派なプレゼントではない。拾った、安物のぬいぐるみである。鼻先であしらわれても仕方ない、と思っていた。だが、「分かったよ」
前田は、思いがけず、それを受け取ったのである。
「ありがとう」
静枝は、胸に熱いものが、広がって来るのを感じた。「本当に洋子に渡してね」
「分かってるよ」
前田は、そのぬいぐるみをちょっと|眺《なが》めて、|眉《まゆ》を上げると、片手にさげて、レジのほうへ歩いて行った。
前田にあのぬいぐるみを受け取らせたのは何だったのか、静枝にも分からなかった。
再婚することを告げたことで、静枝にはもう充分なショックだったと思って、多少同情したのか。それとも、別れたとはいえ、かつて夫婦だった頃の、ごくわずかの楽しい日々を、ふと思い出したせいだろうか。
ともかく、静枝にはどうでもよかった。あのぬいぐるみが洋子の手に渡ると思うだけで、幸福だった。
前田が店を出て行ってしまうと、また静枝は一人になって、ポツンと座っている。
もう、ここまで来た意味は失われたのだから、後は買い物を済ませて帰ればいいのだが、席を立つ気になれなかった……。
前田が再婚する。それはごく自然なことだった。洋子にとっても、望ましいことに|違《ちが》いない。頭で分かっていても、心は、素直に祝福することを|拒《きょ》|否《ひ》していた。
静枝は、若い、年下の男との一時の恋に身を誤って、前田の家を飛び出した。そして、三か月足らずで、男に捨てられた。
男は、静枝が、家を出るときに持ち出してきた現金や宝石類が残っている間だけ、彼女のそばにいたのだった。
静枝は、許しを|乞《こ》うたが、もとより|気位《きぐらい》の高い前田が許すはずもなく、静枝は、持ち出した現金と宝石類相当の金額――それは何百万かに上った――を返済するように迫られた。
返せなければ、|告《こく》|訴《そ》すると言われて、静枝は金策に|駆《か》け回った。誰一人として相手にしてくれなかったが、
「結婚を条件に、貸してもいい」
と言ったのが、今の夫、浜本だったのである。
一も二もなく、静枝はそれにすがった。結婚は、静枝を|監《かん》|獄《ごく》から救ったが、もう一つの監獄へと閉じ込めたのだった……。
「行かなくちゃ……」
自分を|励《はげ》ますように呟いて、静枝は、まるで、足下の|覚《おぼ》|束《つか》なくなった|老《ろう》|婆《ば》のように、のろのろと立ち上がった。
店を出ようとすると、
「あの、伝票は?」
と店の女の子が呼び止めた。
「前の人が払って行きましたよ」
と静枝は言った。
「そうですか」
疑わしげな目に、静枝は腹が立ったが、同時に、ひどく|惨《みじ》めな気分になっていた。
2
野木由子は、|焼香《しょうこう》を済ませると、中原朝夫の母へ頭を下げた。
「本当に……なんて申し上げたらいいのか……」
「どうもご|丁《てい》|寧《ねい》に」
中原|百《ゆ》|合《り》|子《こ》は、しっかりした声で答えた。
朝夫の父は、まだ朝夫が中学生の|頃《ころ》に死んで、母一人、子一人の生活であった。
それだけに、百合子の受けたショックは、由子には測り難いほどであったに違いないが、今は、まだ息子を亡くしたという実感がないのか、それとももともとが気丈な婦人なので、じっと悲しみを押し殺しているのか、由子にはどっちなのか分からなかった。
それにしても|寂《さび》しい|葬《そう》|式《しき》だった。
中原は、このところ、生来の|孤《こ》|独《どく》|癖《へき》をますます強めていたようで、友人の多くを失っていたらしい。やってきたのは、由子も知っている、高校の同窓生、三、四人だけで、大学での知人、友人はまったく姿を見せなかった。
由子は、表に出た。――|手《て》|狭《ぜま》な借家の六|畳《じょう》間では、息がつまりそうな気がした。
よく晴れて、暖かい日である。黒いワンピースは、ちょっと暑苦しい感じですらあった。
「由子」
と、呼びかけて来たのは、やはり黒いワンピースの、|加《か》|納《のう》麻美だった。中原の死んだ日に、電話して来た高校のクラスメイトだ。
「麻美! 来てたの」
「今来たの。もうお焼香済んだの? じゃ、私、ちょっとやって来る」
麻美の言い方は、まるでくじでも引きに行くように聞こえた。
由子は、何人か、|物珍《ものめずら》しそうに集まっている近所の人たちを見回した。――中原が、|爆《ばく》|弾《だん》で死んだと知ったら、この人たちの目はどう変わるかしら、と由子は思った。
それにしても分からない。あの後の報道にも、〈爆弾〉という言葉は出ていなかったのである。
中原が言ったのは、あのテディ・ベアが爆弾だということで、やはり部屋が吹っ飛んだのはガス爆発のせいだったのか。それとも、ぬいぐるみの爆弾の話も、死に際の、中原の|妄《もう》|想《そう》だったのか。
そうであってくれたら、どんなにか気が楽だろう。
少女を殺した男は、まだ|捕《つか》まらない。そして、あの後も、由子は現場の近くを歩いてみたのだが、ぬいぐるみは見当たらなかった。
由子としては、警察へ話すべきなのは分かっていたが、中原の母のことを考えると、ためらわれた。それに、もしかすると、あの熊は本当に、ただのぬいぐるみに過ぎないのかもしれないのだし……。
「ああ、陰気ねえ」
麻美がさっさと出て来て深呼吸した。
「お葬式だもの」
「それにしたって、気が|滅《め》|入《い》っちゃう。由子、あのお母さん、知ってるの?」
「ええ。だってここにも遊びに来たことあるし」
「そうなの?」
麻美は興味が|湧《わ》いたらしく、「じゃ、中原君と|寝《ね》たことあった?」
「やめてよ」
由子は苦笑した。――車の音がした。振り向いて、由子は目を見張った。手に手に角材や鉄パイプを持ったジャンパー姿の男たちが、四、五人、飛び出して来た。
|一瞬《いっしゅん》、誰もが|呆《あっ》|気《け》に取られた。
車は、古ぼけたライトバンで、座席と、後ろの荷台にも乗り|込《こ》んでいたらしい。角材や鉄パイプを手にした男たちは、由子や麻美には目もくれず、中原の家の中へと入り込んで行く。
「あれ、何なの?」
麻美が、やっと口を開いた。
「さあ……」
由子は首を振った。もし中原が実際に爆弾を作っていたとしたら、あの男たちは、その仲間かもしれない。しかし、何をしに来たのだろう?
中の焼香客が、あわてて、|裸足《 はだし》のまま、飛び出して来た。
由子は、中原の母親のことが気になった。もし、あの連中が逆に中原と対立しているグループだったとしたら……。
「――由子! 危ないわよ!」
歩き出した由子を、麻美がびっくりして止めた。
「大丈夫よ」
由子は、麻美を|抑《おさ》えて、中原家の|玄《げん》|関《かん》を入って行った。
上がり込んで、由子は、|唖《あ》|然《ぜん》とした。中原の|遺《い》|影《えい》の前に、角材や鉄パイプが積み上げられて、男たちは、|神妙《しんみょう》に、一人一人、焼香していたのである。
母親の百合子は、少しも動じる様子もなく|端《たん》|然《ぜん》と座って、それを見ていた。――よく見ると、男たちは、誰もが中原とほぼ同じぐらいの年齢か、中にはもっと若いに違いないと思える顔もあった。
五人の男たちは、一わたり焼香を済ませると、百合子のほうへ向かって、正座した。
「中原君が死んだのは、われわれの責任です」
リーダー格らしい、革ジャンパーの男が言った。「何とお|詫《わ》びしていいか、分かりません……」
百合子は、|戸《と》|惑《まど》い顔であった。
「どういうことでしょうか? あなた方は――」
「中原君はわれわれの同志でした」
と、その男は言った。「ですが、|彼《かれ》は力に|訴《うった》える|闘《たたか》いは向かない人間でした。彼に、僕は、その化学的な知識を活用してほしいと言いました」
「化学的な知識?」
「彼はその途中で、ちょっとした手違いから、爆死したんです」
「待ってください」
百合子は、少し厳しい口調で言った。「つまり……朝夫が、爆弾でも作っていたとおっしゃるんですか?」
「そのとおりです」
「でも、朝夫は、ガス爆発で死んだのですよ。警察の調べでも――」
「警察は|隠《かく》しています。ガス爆発などではありません」
「では、もしあなたのおっしゃるとおりだとして、一体どういうつもりで、ここへいらしたのですか?」
「お詫びしたかったのです。今後は、暴力的な手段に訴えることはやめようと決めて、それをせめて――」
百合子が|頬《ほお》を紅潮させて、すっくと立ち上がった。
「帰ってください!」
その声は空気を|震《ふる》わせた。
中原百合子は、じっと怒りを抑えながら、正座している男たちを見回した。
「あなた方がどういうつもりでそんなでたらめを言うのか分からないけれど、朝夫は、爆弾作りなんて|恐《おそ》ろしいことをする子ではありません! |妙《みょう》な言いがかりはよしてちょうだい!」
リーダーらしい男は、頭を下げた。
「分かりました」
と、静かな口調で、「では、友人として焼香させていただいただけだ、とお考えになってください」
と立ち上がって、他の四人を|促《うなが》した。
由子は、そのリーダーの、しっかりした言葉に、じっと聞き入っていた。同時に、中原がやはり爆弾で死んだのに違いない、という確信を持った。
「失礼します」
他の四人が先に出て行き、一人残ったリーダーがもう一度頭を下げた。由子は、その男が玄関のほうへ出て来ると、
「あの、ちょっと」
と声をかけた。
「何か」
「お話ししたいことがあるんですけど」
「あなたは?」
「野木由子といいます。中原君とは高校時代からのお付き合いでした」
その男は、ちょっとためらってから、
「分かりました」
と|肯《うなず》いた。「表に出たほうがいいでしょう」
外へ出ると、焼香客たちは、恐れをなしたのか、あらかたいなくなってしまっている。
「おい、先に行ってくれ」
と、男は、車に乗り込んで待っている四人のほうへ声をかけた。「|俺《おれ》は電車で帰る」
ライトバンは、かなり効率の悪そうなエンジン音をたてて、走り去った。
「歩きながら話しましょう」
と男は言った。「ああ、言い忘れました。僕は|本条《ほんじょう》といいます」
「本条さん。――中原さんとは同じ大学?」
「元は、です。退学になりましたから」
「中原さんと同じ学年ですか」
「二つ、僕が上でした。|浪《ろう》|人《にん》していたせいですが」
つまり、まだ二十三歳というわけだが、由子の目には、ずいぶん老けて見えた。二十七、八には見える。
そう|大《おお》|柄《がら》ではないが、落ち着きと、一種の風格のようなものを感じさせ、いかにも、リーダーに立つタイプと見えた。|髪《かみ》はボサボサ、シャツもくたびれているが、不潔な感じはしなかった。
「中原君が爆弾で死んだというのは、本当ですか」
と由子は訊いた。
「絶対です」
本条は、即座に答えた。「警察にも、それは分かっている。でも、なぜか発表しません」
「なぜでしょう」
本条は|黙《だま》って|肩《かた》をすくめた。少し間を置いて、由子は言った。
「私、中原君が死んだとき、そばにいたんです」
本条がびっくりしたように由子を見た。
「それで?」
「中原君、私に言い遺したことがあるんです」
そのとき、本条が、突然由子の|腕《うで》をつかんだ。
「どうかしまして?」
由子は、びっくりして本条に訊いた。
「またいつか会いましょう」
本条はそう言うなり、いきなり走り出した。由子は|呆《あっ》|気《け》に取られて、|突《つ》っ立っていた。すると、どこにいたのか、二、三人の男たちが、|靴《くつ》|音《おと》も高く、本条の後を追って駆けて行く。あれは……。
由子は肩に手を置かれて、びっくりした。
「警察の者ですがね」
五十がらみの、目つきの|鋭《するど》い男が手帳をちょっと|覗《のぞ》かせて、「お話をうかがいたい。そこまでご一緒に」
と、由子を促した。
追いかけて行ったのは、|刑《けい》|事《じ》たちらしい。本条は、ちゃんとそれに気付いていたのだろう。――|逃《に》げ切っただろうか?
「――すると、まったく知らない男なんですね」
と、その刑事は、由子に念を押した。
「はい、今日初めて会ったんです」
「中原とはどういう関係?」
由子は、「中原」と呼び捨てにするのを聞いて、ちょっとムッとしたが、それを抑えて、
「高校時代からのお友だちでした」
と答えた。
「お友だちね。――肉体関係はあった?」
いきなり、由子はその刑事の頬を平手でひっぱたいた。自分でびっくりした。
「すみません……」
「いや、訊き方が悪かったので……」
刑事のほうも、面食らったのか、|怒《おこ》りもしない。その後は、名前と住所を訊かれただけで、由子は解放された。
駅のほうへ向かって歩きながら、由子は何度か後ろを|振《ふ》り返った。本条が捕まったのかどうか気になったのである。しかし、あまりぐずぐずしていても、またあれこれと疑われるかもしれない。
駅で電車の|切《きっ》|符《ぷ》を買って、ホームへ上がると、すぐに電車が来た。
昼間なのに、結構混雑している。やっと|扉《とびら》のわきに身を寄せて落ち着くと、ぼんやりと、|吊《つ》り広告へ目を向けていた。
「やあ」
声に振り向いて、由子はびっくりした。本条が立っていたのだ。
「よく逃げて……」
「慣れてますからね」
本条は、微笑んだ。思いがけないほど、明るい笑顔だった。
「――テディ・ベアか」
駅前の喫茶店で、由子と本条は向かい合っていた。店は空いていて、話を聞かれる心配はなかった。
「どう思います?」
「死に際にそう言ったのなら、事実でしょうね」
「私もそう思うんです。現にこの目でぬいぐるみを見てるんですもの」
「なんとか探し出さなくてはいけませんね」
本条は、タバコに火を点けた。「――中原はタバコをやめてました。火薬に引火すると危ない、と言ってね」
「探すのを手伝っていただけません?」
と由子は言った。
3
静枝が買い物から帰ったのは、もう夕方になってからだった。
いつものように回ってきたつもりだが、前田の再婚の話、そして洋子と二度と会えなくなってしまったことを考えると、足取りは重くなり、いつもよりずっと、時間がかかってしまったのだ。
唯一の救いは、あの熊のぬいぐるみを、前田が洋子へ渡してやると約束してくれたことだった。もしかしたら、途中で捨てられてしまったかもしれない。それは分かっていたが、あえて考えないことにした。
台所に入って、冷蔵庫へ食料品をしまっていると、浜本が顔を出した。
「|遅《おそ》かったな」
「すみません。スーパーが混んでいて……」
と、静枝は言いわけした。
「ふん」
浜本は、ちょっと鼻を鳴らして、「片付けたら部屋へ来い」
静枝は、手早く片付けを終えると、夕食の仕度にかかろうとして、ためらった。――浜本は待たされるのが|嫌《きら》いだ。静枝は、|奥《おく》の部屋へ入った。
浜本は、カーテンを引いた|薄《うす》|暗《ぐら》い和室に、座り机を置いて、座っていた。
浜本はもう六十に近い。前は学校の教師だったが、たまたま親|譲《ゆず》りの家と土地が高く売れて、今は決まった仕事もなく、ときどき、昔からの知人に会いに出たりする以外は、こうして家の中にこもっている。
陰気くさい、およそ笑いというものを忘れたような男である。
「持って来たか」
と、静枝が入って行くと、浜本は訊いた。
「はい」
静枝は、財布と、スーパーのレシートを出した。
「見せろ」
浜本は、レシートを見て、それから、財布の中を調べた。「金額は合ってるな……。この七百二十円というのは何だ?」
「お肉です。少しいいところ、と思って」
「もったいない! 特売はもっと安いだろう。そのときに買え」
「はい」
「六百十円というのは?」
「石けんです。切らしていたもので……」
「早目に気が付けば、もっと安いときに買えるんだ」
「すみません」
静枝は、こうして、買い物のたびに夫に|叱《しか》られるのにも、慣れてきていた。
この家では、静枝の自由になる金は一円もない。すべて、浜本が管理しているのだ。
「――まあいいだろう」
浜本は肯いた。「それから、この前、|長距離《ちょうきょり》電話をかけたな。向こうからかけさせろ」
「はい。――あの、夕食の仕度をします」
と、立ち上がりかけた静枝の手を、浜本はぐいとつかんだ。「あなた……」
「こっちへ来い」
「夕食が遅くなります」
「手際よくやればいいんだ」
浜本の目が、六十近いと思えないほどの、|脂《あぶら》ぎった光を浮かべている。静枝は|畳《たたみ》の上に押し|倒《たお》されて、胸を開かれて行った。
「お前は、俺が買った女だからな……」
と、浜本は笑いながら言った。
静枝は目を覚ました。
いや、正確に言えば、|眠《ねむ》っていなかったのである。眠り込もうとする目を、無理に開けて、待っていた。
夫が眠り込むのを、待っていたのである。浜本は眠りが浅い。軽いいびきをたて始めるまでは、本当に眠っているわけではないのだ。
前にも、静枝がそっと布団を|脱《ぬ》け出そうとすると、
「どこへ行くんだ」
と声をかけられて、ギョッとしたことが何度もある。
しかし、今はもう大丈夫だろう。軽くいびきをかいて、少し口を開き加減にしている。|熟睡《じゅくすい》しているのだ。
そっと|枕《まくら》もとの時計へ手をのばす。顔の間近まで持って来ると、はげ落ちかけた夜光|塗料《とりょう》の文字|盤《ばん》が、|辛《かろ》うじて読み取れた。十二時を少し回っている。
浜本は、電気代がもったいないと言って、明かりを全部消してしまうのだ。部屋の中は真っ暗だった。
静枝は、そろそろと布団から|這《は》い出した。ときどき動きを止めて、夫のほうをうかがう。なんとか目を覚まさずに、布団から出ることができた。
寝室にしている八畳間から|廊《ろう》|下《か》へ出ると、静枝は、裸足のまま|風《ふ》|呂《ろ》|場《ば》へ向かった。
風呂場の明かりを点け、それからガスの口火を点火する。シャワーの|栓《せん》をひねると、冷たい水が|噴《ふ》き出して来て、それがやがて湯に変わって行った。
静枝は、ちょっと廊下のほうの様子をうかがってから、|裸《はだか》になって風呂場へ入り、戸を閉めた。シャワーの温度を上げて、熱くすると、体に浴び始める。
浜本に抱かれた日は、必ずこうして、夜中にシャワーを浴びる。もちろん、浜本が知ったらカンカンになって怒るだろう。
「ガス代と水道代を考えろ!」
と|怒《ど》|鳴《な》られるに違いない。
熱いシャワーに身を任せて、じっと目を閉じる。――ささやかな、生きているという実感があった。
毎日毎日が、長く、重苦しい、いっそのこと、早く|年《と》|齢《し》を取って、死んでしまいたいとさえ思った。浜本はずっと年上だが、生命力は|驚《おどろ》くほどのものがある。
静枝は、日々に無気力になって行く自分が、恐ろしかった。前田と暮らしているときは、こんな|退《たい》|屈《くつ》な、|空《くう》|虚《きょ》な日々は|堪《た》えられないと思ったものだが、今となっては、不可能とは知りつつも、あの頃に戻れたらと考えるのだった。
洋子はもう眠っているだろうか。――静枝はふと微笑んだ。洋子が、あの熊のぬいぐるみを|抱《だ》いて眠っているさまを、思い浮かべたのである。胸が熱くなった。
シャワーを止めて、静枝は風呂場を出た。体を丁寧に拭い、後を片付けて、廊下を歩き出したとき、玄関のほうで、トントンと音がした。
静枝は足を止めた。――空耳だろうか? 今頃誰が来るだろう?
また玄関の戸を|叩《たた》く音がした。確かに誰かが来ているのだ。静枝は、ちょっと寝室のほうを見てから、玄関に出て行った。
「どなたですか?」
と、静枝は|囁《ささや》くような声で言った。
こんな夜中に訪ねて来るような客を、静枝は思い当たらなかった。トントン、とまた叩く音がした。静枝は玄関の明かりを点けた。
「どなた?」
ともう一度訊く。
「ママ……」
か細い声がした。静枝は息を|呑《の》んだ。まさか! そんなことが……。
サンダルをつっかけ、玄関の|鍵《かぎ》を開ける。ガラッと戸が開くと、洋子が立っていた。
「洋子……」
静枝はその場にしゃがみ込んでしまった。「――どうしたの、一体?」
洋子は、赤いワンピースを着て、白い靴をはいていた。そして、あの熊のぬいぐるみを抱えている。
「一人で来たの?」
「うん」
と洋子が|肯《うなず》く。
「お入りなさい。寒くない?」
「大丈夫」
五歳にしては、洋子は背も高く、しっかりしていて、小学生ぐらいには見える。それにしても、よく一人でここまで来たものだ。
「電車に乗って来たの?」
「そうよ」
「|車掌《しゃしょう》さんが何か言わなかった?」
「駅でママが待ってる、って言ったの」
静枝は、寝室のほうの様子をうかがいながら、茶の間へと洋子を入れた。
「お腹空いてない? 温かいミルクでも飲む?」
「うん」
洋子は、前見たときより、少し太っていた。
「パパが心配してるわよ」
「パパなんて口きかないもん、いつも」
「お話ししないの?」
「お帰り遅いし、お休みの日は寝てばっかりいるし」
「おばあちゃんは?」
「ママの悪口ばっかり言うから嫌いだ」
洋子は、ちょっと大人びた感じで顔をしかめた。
「どうして出て来ちゃったの?」
台所で、ミルクを|鍋《なべ》に入れて温めながら、静枝は訊いた。
「今夜、女の人が来たの」
「女の人?」
「変な人なの。ただニコニコしてて、お|菓《か》|子《し》いっぱいくれて。洋子、嫌いだ」
前田が、再婚相手を夕食にでもつれて来たのだろう。
「新しいママなんでしょ、あれ?」
と洋子は言った。
「パパがそう言った?」
「ううん。でも分かる」
静枝は、コーヒーカップに、ミルクを注いだ。
「さあ飲んで。――でも、黙って出て来ちゃいけないわ」
「ママの所にいていいでしょう?」
静枝は、熱いミルクを、|頬《ほ》っぺたをふくらませて、息を吹きかけてさましながら飲んでいる洋子を見ているうちに、|愛《いと》おしさに胸苦しくなった。
いいわよ、ずっとここにいていいのよ、と言ってやりたかった。しかし、現実が、そんな|夢《ゆめ》を許さないことも、静枝にはよく分かっていた……。
第三章 真夜中の旅
1
「でも……ねえ……」
静枝は言葉を|押《お》し出すようにして、言った。「ここにはママ、一人でいるわけじゃないのよ。――洋子はまだ分からないだろうけど、あなたはパパと|暮《く》らさなきゃいけないって、|偉《えら》い人が決めたの」
「|誰《だれ》が決めたの?」
洋子は不服そうである。しかし、静枝にはうまく説明する自信はない。
「ミルク、飲みなさい。お|菓《か》|子《し》がないけど……」
「別にいらない」
と洋子は首を振った。「お菓子は、いつも食べてるもん」
前田の母親が、どんどん買い|与《あた》えているのだろう。
「虫歯はない?」
「あるよ」
「歯医者さんに行ったの?」
「おばあちゃん、連れてってくれないもの」
母親なら、放っておくことはないのだが、その点、祖母というのは、無責任なところがある。ただ|可《か》|愛《わい》がるばかりで、しつけるということがない。
「パパに言って、連れてってもらわなきゃ」
「うん」
洋子はミルクをすすった。「――|熊《くま》ちゃん、可愛いね」
と、ぬいぐるみを見て|微《ほほ》|笑《え》んだ。
不意に|涙《なみだ》がこみ上げて来て、静枝は横を向いた。――早く、前田の所へ電話をして、洋子がここにいると知らせてやらなくては警察へ|捜《そう》|索《さく》願いでも出しているかもしれない。
だが、そうなれば、すぐに前田はやって来る。そして、洋子を連れ去ってしまうだろう。
「ねえ、ママ」
と洋子が言った。「ここにいてもいいんでしょう?」
静枝が答えられずにいると、急に電話が鳴り出した。静枝は飛び上がりそうになって、あわてて|駆《か》けつけた。夫が起きて来るのが|怖《こわ》かったのである。
「――はい」
「君か。洋子はそっちへ行ってないか?」
前田だった。当然ここへ来ていると察したのに|違《ちが》いない。
「ええ、います」
向こうで、ホッと息をつくのが分かった。
「――今から迎えに行くよ」
「あなた、明日の朝まで待って」
「だめだ」
「洋子のためよ。|疲《つか》れ切って――|眠《ねむ》っちゃってるの。お願い。明日、私が連れて行ってもいいから」
前田はためらっている様子だった。何やら話している声が|洩《も》れ聞こえて来る。母親と、どうしたものか、相談しているのだろう。
「そんなこと信用できないよ」
と、母親が言っている。
「|大丈夫《だいじょうぶ》だよ、母さん」
前田が受話器に向かって、「よし、それじゃ明日、朝車でそっちへ行く」
と言った。
「ありがとう。――本当にありがとう」
「洋子を頼むよ」
静枝は、そっと受話器をおろした。|振《ふ》り向いて、立ちすくんだ。浜本が立っていたのだ。
「何だ、この夜中に」
浜本は、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》そうに|唸《うな》った。
「すみません。あなた、ちょっと――」
「分かってる」
浜本は茶の間のほうを|顎《あご》でしゃくって、「お前の|娘《むすめ》だろう」
「はい。家を出て来てしまったらしくて」
「|冗談《じょうだん》じゃないぞ。早く|迎《むか》えに来てもらえ」
「今夜一晩だけ、置いてやってください。疲れていますし……」
「だめだ!」
浜本は|頑《がん》として聞かない。「あんな子供に居つかれちゃかなわん」
「明日、朝、父親が迎えに来ます。今夜一晩だけです。お願いします」
静枝は頭を下げた。浜本は受話器を上げると、
「おい、何番だ?」
「あなた……」
「別れた|亭《てい》|主《しゅ》の家だ。何番なんだ?」
「お願いですから、今夜だけ。決して|邪《じゃ》|魔《ま》は――」
「早く番号を言わんと、一一〇番するぞ。いいのか?」
静枝はそっと|肩《かた》を落とした。浜本なら、それくらいのことをやりかねないのだ。
「どうするんだ?」
静枝は番号を告げた。
茶の間へ入って行くと、本当に洋子は眠っていた。熊のぬいぐるみを|枕《まくら》のように頭にあてて、|畳《たたみ》に横になって|寝《ね》ている。
その寝顔が、静枝の胸をしめつけた。|離《はな》したくない、という思いが、静枝を|圧《あっ》|倒《とう》した。
「――|畜生《ちくしょう》、間違えた」
浜本の|呟《つぶや》きが聞こえた。静枝は立ち上がった。
「ややこしいな。おい、何番だった?」
と、大声で|訊《き》きながら振り向く。「何だ、そこにいたのか。――何番だった? もう一度言え」
静枝は、背中に|隠《かく》し持っていた、大きな花びんを振り上げて、浜本の頭に|叩《たた》きつけた。|鈍《にぶ》い音を立てて、花びんは二つに割れた。浜本はその場に|崩《くず》れた。
静枝は受話器を|戻《もど》すと、茶の間に入って行き、洋子の|傍《そば》に座った。静枝の顔に、しばらく忘れていた、平和な笑みが、よみがえっていた。
洋子が目を覚まして、モゾモゾと起き上がる。
「あら、起きたの? ちょうどよかったわ」
静枝が言った。「そろそろ起こそうかな、と思ってたの」
洋子は、しばらく周囲の様子に|戸《と》|惑《まど》っているようだったが、
「――今何時?」
と、|欠伸《 あくび》しながら訊いた。
「もうすぐ七時よ。眠い?」
「お腹空いた」
「そうね」
と静枝は笑った。
「どこか行くの?」
洋子は、静枝が外出着を着て、ボストンバッグに服を|詰《つ》めているのを見て、訊いた。
「ママと二人で旅行しない?」
「うん、する!」
と、目を|輝《かがや》かせる。
「じゃ、ご飯も外で食べましょうよ。駅の前のお店で」
洋子はすっかり目が覚めたように飛び起きた。
静枝は、ボストンバッグを手に、もう一方の手で洋子の手をひいて、歩いていた。
朝の空気が|爽《さわ》やかで、いい天気になりそうだった。七時半になったばかりで、出勤して行くサラリーマンやOLとすれ違った。
|誰《だれ》もがせかせかと、時計を見ながら歩いて行く。静枝たちに目を止める人間はいないようだった。
「どうしてこっちに行くの?」
洋子が、左手に抱いたテディ・ベアを、よっこらしょと持ち直しながら言った。二人は駅と反対の方向へ歩いていたからだ。
「あの駅の前はおいしいお店がないの。だから……。疲れた?」
「ううん、大丈夫」
洋子は微笑みながら首を振った。それからちょっと心配そうな顔になって、
「パパが|怒《おこ》らないかなあ」
「大丈夫。パパにはちゃんとお電話しておいたわ」
「じゃ、いいんだね!」
洋子はやっと安心したようすで、テレビのアニメ番組の主題歌を歌い出した。
静枝は、広い通りに出ると、横断歩道のほうへと歩きかけてためらった。ここは、別の私鉄の駅なのだが、続々と勤め人や学生が吸い|込《こ》まれて行く。ラッシュアワーにもろにぶつかりそうだ。
「――ねえ、旅行、どこに行くの?」
と洋子が訊いた。
「そうね。どこにしましょうか」
タクシーが来た。静枝は、タクシーに乗るという方法があるのだ、と思い当たって、つい笑いたくなった。浜本と結婚してから、タクシーに乗るなどというぜいたくは、一度もしたことがない。
手を上げて、タクシーを停めた。もう自由なのだ。私は、好きな所に、好きなように行くことができるのだ。
洋子を先に乗せ、座席に落ち着くと、
「新宿駅の西口にやってください」
と言った。
「道路が混むからね、ちょっと時間がかかるよ」
「構いません」
と静枝は言った。時間はある。急ぐことはないのだ。
「ママ」
と洋子が言った。
「なあに? お腹空いた? ちょっと待っててね。新宿へ着いてから食べましょう」
「うん、いいよ。ママ、|凄《すご》く|嬉《うれ》しそう」
「そう?」
静枝は笑顔で言った。「洋子、ママが好き?」
「うん」
「ママとずっと|一《いっ》|緒《しょ》に旅行しようね」
「|幼《よう》|稚《ち》|園《えん》は?」
「少しお休みしてもいいでしょ? ちゃんとママがお電話しとくから」
「いいよ」
静枝は洋子の頭をそっと|抱《だ》き寄せた。
この幸福が長く続かないことを、静枝はよく分かっている。しかし、静枝には、この充実した時間が、一日でも二日でも続けば、それで|充分《じゅうぶん》だった。灰色の日々の後で、このささやかな幸福はあまりにもまぶしかった。
静枝は、窓の外の、流れ去る風景を見つめた。
――|押《おし》|入《い》れの中の死体は、いつ見付かるだろうか?
「まだ行かないの?」
母親の|苛《いら》|々《いら》した声に、前田俊也は上衣を取って|腕《うで》を通した。
「今、行こうと思ってたところだよ」
「早くしないと、洋子を連れてどこかへ行っちまうかもしれないよ」
「母さん、静枝の|奴《やつ》だって分かってるさ。そんな|妙《みょう》なことはやらないよ」
「分かるもんですか。根性のひねくれた女なんだから」
「|可《か》|哀《わい》そうな奴だよ」
|玄《げん》|関《かん》のほうへ歩いて行くと、母親もついて来た。
「そんなふうに優しい顔をしちゃだめよ。すぐにつけ上がって、また洋子に会わせろとか言って来るよ」
「そこはピシッと言うさ。母さんは心配しなくていいよ」
前田は|靴《くつ》をはいた。
「よく言っといてよ。今度こんなことがあったら、|誘《ゆう》|拐《かい》で|訴《うった》えてやるからって」
「母さん。――何も静枝が洋子を連れてったわけじゃない。洋子が勝手に出て行ったんだよ」
「あんな子供が……。電話か何かで入れ|知《ぢ》|恵《え》されたに決まってるよ」
「ともかく行って来る」
前田は、|逃《に》げるように玄関を出た。腕時計を見ると九時を少し回ったところだった。
洋子が、自分から家を出て、静枝の所まで一人で行き着いたことは、前田にとって少なからぬショックだった。母の言うような|誘《さそ》いがあったとは、静枝の性格を知っている前田には信じられない。
洋子はしっかりしているし、電車にも乗り慣れている。一人で決心して出て行ったことは疑いない。
その引き金になったのは、おそらく、前田が|再《さい》|婚《こん》するつもりの相手を連れて来たせいだろう。洋子は、人見知りの強い性格でおよそなじむことができなかったらしい。
だが、そのときに、洋子が父親に訴えるのではなく、静枝の所へ行ったことが、前田を考え込ませているのだ。
洋子にとって、やはり静枝は母親なのである。前田にとって妻でないとしても……。
再婚は、考え直さなくてはならないかな、と前田は思った。洋子がなついてくれない相手では、どうにもならない。今のままで、もう少し洋子が大きくなるまで待つか。そして、月に一度ぐらいは、静枝に会わせてやってもいい。きっと母は|猛《もう》|反《はん》|対《たい》するだろうが。
静枝は、確かに家族を捨て、男のもとへ走った。それ自体は責められて当然である。しかし、静枝にそうさせた責任は、自分にもある、と前田は思った。|多《た》|忙《ぼう》に|紛《まぎ》れて、静枝の話など、聞いてやったこともなかった。加えて、母は静枝にとって口やかましい存在であったろう。
静枝には、心を打ち明ける相手も、なかった。夫は、いつも背を向けて寝てしまう。
満たされない日々が、静枝を追いつめて、つまらない男へと走らせたのだ。静枝一人を責めて、済む問題ではない……。
途中、モーニング・コーヒーを飲んで、浜本家にやって来たのは、十時半頃である。
前田は玄関のブザーを鳴らした。
2
由子は、|欠伸《 あくび》をしながら、朝のダイニングルームへ入って行った。
「あら、早いのね」
母の豊子が、皮肉のつもりかどうか、びっくりしたような声を出す。由子はまともに聞いておくことにして、
「そうよ、早寝早起きの健康優良児だもの」
と言い返してやった。「コーヒーとゆで卵、トースト」
「まったく……」
豊子は、|呆《あき》れ顔で、「お前ぐらいの|年《ねん》|齢《れい》でちゃんと結婚して、子供のいる人だっているのに」
と、いつもの|愚《ぐ》|痴《ち》をこぼした。
「じゃ、私も母親になろうかな」
由子は、新聞を開きながら言った。「誰が父親か分かんなくてもいい?」
「勝手になさい」
と、豊子は|諦《あきら》めたように肩をすくめる。電話が鳴って、由子が立って行った。
「野木です」
「由子さんはいらっしゃいますか?」
「私ですけど」
「あ、本条です」
ガラリと声が変わった。
「何だ、びっくりした。全然違う声が出るんですね」
「昔、アナウンサー志望でね、朗読なんかをやっていたものですから」
アナウンサー志望の|過《か》|激《げき》|派《は》リーダーとは、どうもうまくピントが合わない感じで、由子は微笑んだ。
「今日から始めますか?」
本条の言葉で、由子は、二人であのテディ・ベアを探そうと|約《やく》|束《そく》していたことをやっと思い出した。まだ半分眠っているようなものなのである。
「ええ、よろしければ、すぐにでも。――じゃどこかで待ち合わせて……」
場所と時間を決めると、由子は受話器を置いた。朝食の席へ戻ると、
「大学のお|友《とも》|達《だち》?」
と豊子がコーヒーをモーニングカップに注ぎながら訊く。
「そう、今日は社会学実習なの」
「要するにさぼるんだね」
お母さんも結構分かってるじゃない、と由子は思った。
手早く仕度をして――大学へ行くのでない場合は仕度も早いのである――家を出る。
待ち合わせたのは、新宿の|三《みつ》|越《こし》デパートの裏手にある、大きな|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》である。由子はちょっと意外な気がした。どっちかというと、女の子同士が待ち合わせに使う店だからだ。
約束の時間に十分ほど早く着いた。店の中は割合に混んでいる。同じような、大学生ぐらいの女性がほとんどである。
「みんな、大学さぼってんのかな、けしからん!」
勝手なことを|呟《つぶや》きながら、空いたテーブルを見付けて座った。紅茶を|頼《たの》んで、ついでにケーキを注文した。だからいやなのよね、この店は。太っちゃう。
だが、時間を過ぎても、本条は現われない。十五分ほどたったとき、小柄でよく太ったウエイトレスがやって来て、伝票を置いた。それを見て、由子は目を見張った。
〈あなたは|尾《び》|行《こう》されています。店を出て、真向かいのデパートへ入ってください〉とあった。
由子は、可愛い感じのウエイトレスが、ちょっと微笑んで、行ってしまうのを、|呆《あっ》|気《け》に取られて見送っていたが、やがて急いで席を立った。
尾行されている? 刑事だろうか? 死んだ中原との関係、それに本条と話をしていたせいで、目を付けられたのかもしれない。由子は、そんなことで|尻《しり》|込《ご》みしたりする性格ではない。|却《かえ》って、面白がって、ファイトが|湧《わ》くほうである。
喫茶店を出ると、さり気なくデパートへ入って行く。
「由子さん、こっちへ」
低い声だが、はっきりと呼びかけて来た。エレベーターの前で、本条が手招きしている。
由子は、|扉《とびら》が閉まる寸前のエレベーターに、一緒に飛び乗った。
「――大丈夫だ。少し中をうろつきましょう」
と、本条は言った。「|迷《めい》|惑《わく》ですね、あなたには」
本条はジーパン姿から一転して、ちょっと|洒《しゃ》|落《れ》たツイードの上衣、真新しいスラックスというスタイルだった。
「いいえ、いいんです。あのウエイトレスの人は、お知り合い?」
「妹です」
「まあ、それであの店を……」
「あなたが|尾《つ》けられていないかどうか、確かめたかったので。案の定、|刑《けい》|事《じ》がついて来ている」
「失礼だわ、人に無断で」
由子は無茶なことを言って、自分で笑ってしまった。「――で、どこから調べましょうか?」
「やっぱり、見失った地点から出発するほかはありませんよ。その女の子の殺された場所へ連れて行ってください。そのテディ・ベアはその近くにあったはずだ。でなければ、犯人が持ち去ったのか……」
「そうですね。でも、その近くにはなかったわ」
「誰かが見ているかもしれない。近くの子供に訊いてみましょう」
本条の話し方は、きびきびとして、ためらいや不安を少しも感じさせない。この人の言うとおりにしていれば、きっと何か手がかりに出会うと思わせるものがあった。
デパートの中を少し歩き回って、尾行を完全にまいたと確信できてから、二人は、あの少女の殺人現場に向かった。
「――本当にここですか?」
と、本条が言った。
「間違いない、と思うけど……」
由子は、いささか自信なげである。あの公園には、子供たちが平和に遊んでいる。母親たちも|呑《のん》|気《き》にベンチへ腰をおろして、おしゃべりに余念がない。
およそ、|残《ざん》|酷《こく》な殺人事件の現場という印象とは程遠いのである。もちろん、実際に、少女が殺されていたのは裏手の露地だが、それにしても、もし自分に子供がいたら、当分はこの公園で遊ばせる気にはならないだろう、と由子は思った。
「あの家でコーヒーをもらったんだわ、気分が悪くなって」
と由子は、その家の勝手口を指さした。
その勝手口の所に、上等な身なりの男が立っていた。そして、何を思ったのか、由子たちのほうへと歩いて来たのである。
「失礼ですが」
と、その男は、由子と本条に軽く会釈をした。「ちょっとお願いがあるんです」
由子と本条は顔を見合わせた。本条が、
「何ですか?」
と訊いた。
「私は前田といいます。|怪《あや》しい者ではありません」
男は|名《めい》|刺《し》を取り出した。「実は、用があってこの家へ来たのですが、返事がないんです。いないはずがないのですが」
「それで?」
「心配なんです。何かあったんじゃないかと思って」
「何か、というと……」
「ともかく、中へ入ってみようと思うのですが、下手をすると家宅|侵入《しんにゅう》になりそうなので、あなた方に証人になっていただきたいのです」
由子は、本条と目を見交わした。もし、警察と関わり合うようなことになると本条は困るだろう。由子は、断わって、立ち去ろうかと思った。だが、由子が口を開く前に、本条が言った。
「分かりました。お力になりましょう」
「助かります。では、勝手口から入ろうと思いますので、見ていてもらえますか」
「承知しました」
勝手口の所まで来ると、前田と名乗った男は、力任せに勝手口のドアを|揺《ゆ》さぶった。本条も手を貸して、何度か叩いたり|蹴《け》ったりすると、やっとドアが開いた。
「やあ、どうも申し訳ありません」
「由子さん」
本条は軽く息を|弾《はず》ませて、「あなたも一緒に中へ入るといい。|僕《ぼく》はここにいます」
そこまでしなくても、と思ったが、由子は、肩をすくめて、「じゃ、そうするわ」と言った。
|恐縮《きょうしゅく》する前田と二人で、台所から上がる。
「静枝!――静枝、いるのか?」
と前田が呼ぶ。由子は、あのか弱い感じの主婦が、確か〈静枝〉と呼ばれていたのを思い出した。
「いない、――妙だな」
前田は首を振った。
「中を探してみます?」
「そうしましょう。何かあったのかもしれない。心配です」
由子は、前田というこの男が、|真《しん》|剣《けん》そのものなのを見て、自分も不安になった。
「静枝さんというのは……」
「ここの夫人――というか、僕の前の妻だった女です。別れるとき、一人娘を僕が引き取って育てていたのですが、昨晩、娘が一人で家を出て、ここへ来てしまったのですよ」
「まあ」
「で、今朝、ここへ迎えに来る、と言っておいたのです。ところが誰もいないらしい。――心配になりましてね」
「じゃ、部屋を見て回りましょう」
二人は、一緒に一つずつ部屋を|覗《のぞ》いて行った。外見は立派だが、中は至って簡素というか、かなりつましい暮らしをしているようだった。由子は、ふと、ある部屋の|隅《すみ》に目を止めた。
「あれは何かしら?」
近寄って見ると、重い花びんが、二つに割れているのだった。
前田は、二つに割れた花びんを取り上げて|眺《なが》めた。
「ずいぶん丈夫な花びんですね。分厚いし、簡単には割れそうもない」
「どこかに叩きつけたんですね、きっと」
と、由子は言った。
「浜本さん!」
と、前田は大きな声を出して呼んだ。「――どうも気になるなあ」
「浜本っていう人を、よくご存知なんですか?」
「いや、あまり知りませんね。静枝が再婚したと聞いても、なんとも思わなかったんです。――娘は違っていたようですが」
「どうしましょう?」
「行方が分からないのでは……。家へ洋子を送って行ったのかな。いや、今日僕が迎えに来るのは分かってたはずだが……」
由子は、ふと、花びんの割れ口に目を止めた。
「ちょっと、貸してください」
由子はその割れた片方を手に取った。「――見てください、これ!」
割れ目のところに赤黒くこびりついているものがある。
前田がそれを見て、
「血らしいですね」
と言った。「こっちには|髪《かみ》の毛がこびりついてるぞ。――大変なことになった」
「でも一体どうして……」
「分かりませんね。しかし、誰かが|殴《なぐ》られたんだ。これが割れるほど殴られるとしたら、少々のけがじゃ済まないでしょう」
その部屋を見回した由子は、押入れに目を止めた。
|襖《ふすま》が外れかけている。|歪《ゆが》んでいるのだ。中から押されてでもいるように見える。
由子は近付いて行って、その襖に手をかけた。ガタッと襖が外れ、|倒《たお》れて来た。そして中から男がゆっくりと倒れて来た。
しばらく、由子と前田は、|呆《ぼう》|然《ぜん》として、立ちすくんでいた。
「この人は……」
「たぶん、浜本というんでしょうね。つまり――静枝が殴ったのか……」
前田は、信じられないという様子だった。由子は、実感が湧いて来なかった。ついこの間、女の子の死体を見付けたばかりである。そんなに続けて……。
「死んでるんですか?」
「さあ……。ともかく、急いで一一〇番を――」
と、前田が言いかけたとき、急に、倒れていた男が、ウーンと|呻《うめ》いて、身動きした。二人は飛び上がりそうになった。
「生きてるんだ! 救急車を――」
「私、電話します」
由子はその部屋を飛び出した。
ロマンスカーは、ゆっくりと動き出した。
「動いたよ、ねえ! 動いたよ!」
洋子が、ぬいぐるみをかかえたまま、|小《こ》|躍《おど》りした。
「動かなきゃ、どこも行けないじゃないの」
静枝は笑いながら言った。
「一番前なんて|凄《すご》い! みんなに言ってやろ!」
ロマンスカーは、|両端《りょうはし》の車両が展望車で、運転席が二階なので、先頭の座席は、正に前面が一八〇度|見《み》|渡《わた》せるわけである。
「この席はなかなか取れないんですよ」
窓口の人がそう言っていた。運が良かったのだ。
静枝は、洋子との二人の旅の出だしを、祝福されたような気がした。天気も、これ以上望めないほど、晴れ上がっている。
洋子は、食い入るように、眼前の光景に見とれていた。
以前に、前田と家族三人で行ったことのある、箱根に行くことにしたのだった。
新宿から、このロマンスカー一本で行けるし、静枝としても、勝手が分かっていて便利だった。ホテルも、電話で予約しておいた。もちろん|偽《ぎ》|名《めい》である。
金は|充分《じゅうぶん》にあった。銀行が開くのを待って、浜本の預金からおろして来たのである。近くの銀行では顔を知られているが、新宿の支店なら、まず大丈夫だ。
静枝は、|逃《に》げおおせるとは思っていなかった。いずれ|捕《つか》まる。人を殺して来たのだから当たり前である。
ただ、洋子との――おそらくは最後の――旅を、誰にも|邪《じゃ》|魔《ま》されたくなかったのだ。
長く、洋子を連れ歩く気はなかった。三日間、箱根で過ごして、そのまま帰るつもりだった。
いや、前田へ|連《れん》|絡《らく》して、箱根まで来てもらってもいい。洋子を渡して、静枝は死ぬつもりであった。
裁判と、|刑《けい》|務《む》|所《しょ》での長い年月。そして、今度こそ、洋子に生きて再び会うことは許されまい。生きている意味がどこにあるだろう?
人を殺したのだから、死ぬべきなのだ、と静枝は思っていた。死ぬことは、少しも怖くない。
「――失礼します」
食堂車のウエイトレスが、紙のおしぼりとメニューを配りに来た。
「何か食べる?」
「うん!」
「そう。じゃ、好きなもの、頼んでいいわよ」
と、静枝は言った。
「――とんでもないことになった」
前田は、呟いた。
病院は、混み合って、雑然としている。収容された浜本の容態も、一向に伝えられなかった。
「やっぱり、静枝さんという方がやったんでしょうか」
と、由子は言った。
来なければいけないこともないのだが、成り行きで、なんとなくここまで来てしまった。
「おそらく……。しかし、あの浜本というのも、ひどい男だったようです」
前田の言葉に、苦い|悔《かい》|恨《こん》が混じった。「静枝は、やつれ切って、まるで老人のようだった……」
この人、まだ静枝さんを愛してるんだわ、と由子は思った。
「あなたにはご迷惑をかけてしまって」
と、前田は言った。
「いいえ。――それよりお|嬢《じょう》さんが心配ですね」
由子は、前田が、行方の知れない娘のことをあまり心配していない様子なのが不思議だった。
「すぐに警察が手配してくれていますから、見付かるでしょう」
「ええ、そうですね」
少し間を置いて、前田は言った。
「静枝は決して子供を道連れに心中するような女ではありません。その点は安心しているんです。静枝は洋子を愛しています」
確信に満ちた口調だった。「心配なのは、静枝自身のことです。死ぬ気でいるかもしれない……」
「余計なことかもしれませんけど……なぜ|離《り》|婚《こん》なさったんですか」
由子の問いに、前田が何も答えないうちに、看護婦が呼びに来た。浜本が意識を取り戻したらしい。
「――あの女、殺してやる!」
頭にグルグルと包帯を巻いた浜本は、声を|震《ふる》わせていた。刑事が事情を聞いている。
「奥さんがあなたを殴ったんですね」
「さっきからそう言ってるだろう!」
浜本は、ふと前田に気付いた。「――あんたは?」
「前田といいます。静枝の――」
「ああ、別れた亭主か。元はといえば、お前のところの娘が原因だぞ」
「申し訳ありません」
「|治療費《ちりょうひ》は持ってくれるだろうな」
「それはもちろんです」
「静枝の奴め、あの娘を一晩だけ置いておきたいと言いおった。とんでもない話だ! あんたがすぐに迎えに来ていれば、こんなことにならなかったんだぞ!」
「はあ。――しかし、一晩だけ、|泊《と》めてやってくださってもよかったのではありませんか」
「余分な布団などない。それに、そんな勝手をさせれば、静枝の奴がつけあがるばかりだ」
由子は、胸がむかついて、出て行きたくなった。親と子の情愛すら理解できない男なのだ。私だったら、二、三回はぶん殴ってやったわ、と思った。刑事がもう一人、やって来た。
「調べてみましたよ。やはり預金を引き出しています。百万ですね、ちょうど」
「百万だと! あの|泥《どろ》|棒《ぼう》め!」
浜本の怒りようは、とてもケガ人のものとは思えなかった。前田も、さすがに、浜本への|嫌《けん》|悪《お》の色を|隠《かく》し切れないようだった。
「静枝が、損をかけた分はすべてこちらでお返しします」
「当たり前だ。倍にして返してもらわにゃ合わん」
刑事は手帳を開き直して、
「で、奥さんの|服《ふく》|装《そう》とか何か、分かりませんか」
「知るもんか。娘っ子のほうは見たが……。赤い服だったな。それに……そう、人形を抱いとった。熊のぬいぐるみだ」
由子は息を|呑《の》んだ。
浜本の病室を出て来ると、前田は、
「あんなにひどい男だとは……」
と、呟いた。つい口から出た、という感じだった。
「前田さん」
と由子は言った。「お嬢さんの持っていた熊のぬいぐるみのことなんですけど――」
「あれが何か?」
「あなたが買ってあげたものなんですか?」
前田は|戸《と》|惑《まど》い顔で、
「あれは、静枝が私に預けたんです。昨日でした。洋子に渡してくれと言って」
「静枝さんが買ったんですね」
「買ったにしては、ちょっと古ぼけていましたがね。あのぬいぐるみがどうかしましたか?」
「いえ、別に。――私、ちょっと用を思い出したので、これで失礼します」
前田が礼を言うのを、終わりまで聞かず、由子は病院の玄関へと急いだ。赤電話が目に止まって、|駆《か》け寄った。
本条から聞いていた番号を回す。すぐに本条自身が出た。由子がぬいぐるみのことを説明すると、
「それは凄い。|偶《ぐう》|然《ぜん》にしては出来すぎですよ」
と、声が弾んだ。
「静枝さんが拾って、それを娘さんにあげたんだと思います。今は、それを抱いて、どこかへ出かけているんだわ」
「どこへ行ったのか、見当はつかないんですか」
「預金をおろして、持っているらしいから、たぶん遠くへ行ってるんじゃないかと思うんだけど……」
「警察が探してるわけですね」
「ええ。――どうしたらいいかしら?」
と由子は言った。本条は考え込んでいるのか、なかなか返事をしない。由子は続けて言った。
「あのぬいぐるみは|爆《ばく》|弾《だん》かもしれない、と公表したほうが、早く見付かるんじゃないかしら」
「いや、それは……やめたほうがいい」
と、本条がためらいがちな調子で言った。
「どうして?」
「いや、本来ならそうすべきです。僕にもそれは分かっています。ただ……中原のことを爆弾魔のように言われるのが|辛《つら》いんです。それは彼のお母さんの気持ちを考えると」
それは由子も同感だった。
「それに、今警察へ行って話したとしたら、なぜ今まで|黙《だま》っていたのかと責められますよ」
「それは別に私――」
「あなたは警察で調べられたことがないからです。あなたがそんな話をすれば、警察はきっとあなたも僕らの仲間だと思うでしょう。|容《よう》|赦《しゃ》しませんよ」
「それじゃ……」
「ともかく、中原の言葉が本当だったかどうかも、はっきりしないんですからね。むしろ、その前田という人から|離《はな》れないようにしたほうがいいと思います。その前の奥さんが、連絡を取って来るかもしれない。そうしたら、真っ先に行って、ぬいぐるみを取り戻せるかもしれませんよ」
本条の言葉には説得力があった。
「分かりました。前田さんについているようにします。なんとか口実をつけて」
由子は電話を切ると、さて、どう言えば前田にうまく説明できるだろうか、と思った。
なにしろ前田とは赤の他人である。たまたまあの場に居合わせたというだけで、いつまでもくっついているのも妙なものだ。
病院の入口に立って、考えあぐねていると、タクシーが目の前に停まって、一人の老婦人が降りて来た。いや、飛び出して来た、といったほうが正確かもしれない。かなり年齢は行っている――おそらく六十代も半ば――と思えるのに、思わず由子が目を見張ったほどの勢いで、病院の中へ入って来た。
あまり好感の持てる婦人ではなかった。厳格そのものという感じで、年齢相応の|穏《おだ》やかさはまったく感じられず、冷ややかな目が、じっと前方を|凝視《ぎょうし》している。
その老婦人は、ピタッと足を止めると、周囲に視線を走らせた。出迎えのないのが不満だ、とでもいうような顔つきである。そのとき、前田が|廊《ろう》|下《か》をやって来て、
「母さん!」
と|驚《おどろ》きの声を上げた。
隅のほうへ引っ込んで、由子は様子を見守った。あれが前田の母親か。つまり静枝にとっては|姑《しゅうとめ》に当たるわけだ。かつての、ということだが。
「何しに来たんだ。ここへ?」
前田は急ぎ足でやって来た。
「洋子はどこに行ったの?」
と、前田の母親は|鋭《するど》く問い詰めるように言った。
「分からない。静枝が連れてどこかへ行ったんだ。でも――」
「だから言わんこっちゃない!」
と、前田の母は目を|吊《つ》り上げた。「お前が昨晩迎えに行っていれば、こんなことにならずに済んだんだよ」
「今、そんなこと言ったって仕方ないだろう、母さん」
前田は苛々した口調で、「警察のほうでちゃんと探してくれる。静枝は洋子に何もしやしないよ、大丈夫だ」
「現にご主人を殺したっていうじゃないか」
「どこでそんな話を――」
「お前の帰りがあんまり|遅《おそ》いから、あの家を探しに行ってみたの。そしたら近所の人が集まってる。話を聞いて、警察へ問い合わせ、ここが分かったんだよ」
「静枝はご主人を殺しちゃいないよ。けがしてるけど、たいしたことはない」
「そうなの。でも、同じことだよ、どうせ刑務所行きじゃないか」
「あの男もひどい奴だよ、静枝ばかりを責められない」
「何言ってるの、あの女は勝手に家を飛び出して――」
「母さん、ここでそんな話をしなくても……」
前田の母は、なんとか口をつぐんで息をつくと、少し低い声になって言った。
「お前は分かってるの? この事件が、会社でのお前の立場にも|影響《えいきょう》するかもしれないのよ」
不思議な母親だ、と由子は思った。いちおうは孫の身も心配しているようだが、それ以上に|息《むす》|子《こ》の立場を気にしているらしい。
「そんなことどうだっていいじゃないか」
前田もさすがにたまりかねた様子で言った。
「分かったよ」
急に、前田の母は顔をこわばらせた。「お前は……やっぱりそうだったんだね」
「何のことさ?」
前田が当惑顔で言った。
「まだあの女に未練があるんだね。――お前は人が良すぎるんだよ。だからあの女がつけ込むのさ」
「母さん――」
「お前は|騙《だま》されてるのが分からないんだね。あの女が少し|哀《あわ》れっぽい様子をすると、すぐに情に負けて……。私の目はごまかされないよ。お前は私の言うとおりにしていればいいの」
「いい加減にしてくれ!」
前田が激しく|遮《さえぎ》った。「僕は母さんの人形じゃない! 静枝のことも、洋子のことも、僕が決める! もう放っといてくれ!」
前田の母の顔から血の気がひいた。二人の|激《はげ》しいやりとりを、病院の入口近くにいた|患《かん》|者《じゃ》や看護婦たちは興味|津《しん》|々《しん》に見守っていた。
「俊也、お前は――」
「静枝があんなことになったのも、母さんが追い詰めたからじゃないか。いや、僕もそれを黙って見ていた。静枝が悪いんじゃない。僕の責任だ!」
|抑《おさ》えに抑えていたものが爆発した、という感じだった。しかし、さすがに前田もすぐに自制心を取り戻した。
「あのひどい亭主は殴られても|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》だ。いや、僕だって、殴られて文句は言えない。静枝が見付かったら、僕はできるだけのことをしてやるつもりだ。あの男と別れて静枝が僕のところへ戻りたいと言えば、喜んで迎えてやるよ」
「そんなことは――」
「それで会社にいられなくなれば辞めるだけさ。なんとか食べて行くぐらいの仕事はある。――僕は行くよ。あの亭主に、金を返してやらなきゃならない。母さんは家へ帰っておとなしくしててくれ」
前田はクルリと母親へ背を向けると、病院を足早に出て行く。――一人、残された母親は、周囲の注視を浴びていることにも一向気付かぬ様子で、身を|震《ふる》わせながら立っている。
由子は、前田の後を追って病院を出た。どうするという目算はなかったが、ともかく、前田について行きたいという思いが、由子の足を動かしたのである。
が、前田の姿はもう見えない。タクシーでも拾って行ってしまったのか、とがっかりしていると、
「やあ」
と、後ろから声をかけられてびっくりした。前田が立っていたのだ。
「あ、あの……車を待ってるんです」
由子があわてて言い訳すると、前田が、ちょっと照れくさそうに苦笑した。
「いいですよ。今の話を聞いていたんでしょう?」
「え、ええ……。すみません」
「みっともないところをお見せしてしまいましたね」
前田は、どことなく|爽《さわ》やかな口調で、「お時間はありますか? もしよかったら、いろいろお世話にもなりましたし、昼食でもご一緒しませんか」
断わる理由もない。由子は素直に受けることにした。前田は嬉しそうだった。娘が行方不明になっている父親とは、|到《とう》|底《てい》思えなかった。
第四章 旅路の果て
1
近くのレストランで食事をしながら、前田は、まるで由子が古い知り合いででもあるかのように、気軽に話をした。
由子は|戸《と》|惑《まど》いながらも、前田の話に耳を|傾《かたむ》けていたが、やがて、前田が今度の事件をきっかけにして、母親の手の内から|脱出《だっしゅっ》できたのだということ、それゆえの解放感に|浸《ひた》っているのだということに気付いた。
前田は|誰《だれ》かと話したくてたまらないのだ。たまたま、目の前に由子がいた、というわけなのである。
「――きっと今度はうまく行きますよ」
前田は笑顔で言った。「もう同じ|間《ま》|違《ちが》いはくり返しません。静枝も承知してくれるでしょう」
前田は、もう一度静枝と|一《いっ》|緒《しょ》になるつもりでいるのだった。
「別れた|女房《にょうぼう》とまた結婚するなんて、あまりみっともいいもんじゃありませんがね」
と前田は、ちょっと照れたような顔で言った。
「あら、そんなことありませんわ。今度はきっと何もかもうまく行きます」
「そう思いますか? そう言っていただけると|嬉《うれ》しいですね。もちろん、あの浜本という男のことは清算しなくてはなりません」
「|殴《なぐ》った罪はやっぱり――」
「ええ。でも幸い石頭でたいしたけがでもないようだ。――一つ考えているんですよ、金で話をつけられないかとね」
「お金で?」
「浜本はいかにも強欲な男でしょう。たっぷり|慰謝料《いしゃりょう》を|払《はら》えば、あの暴行は、夫婦|喧《げん》|嘩《か》がちょっと行きすぎただけだ、ということにして、話がつくんじゃないかと思うんですよ」
由子は|肯《うなず》いた。あの浜本なら、目の前に現金を出せば|即《そく》|座《ざ》に承知するかもしれない。
「でも大分高くとられるかもしれませんよ」
「覚悟の上です。なんなら貯金がゼロになってもいい。それで妻と|娘《むすめ》を取り|戻《もど》せるなら安いものだ」
前田の言い方は、いかにも爽やかで、耳にも快かった。前田は、腕時計を見ると、
「もうこんな時間か!――いや、これは申し訳ありませんでした。すっかりお引き止めしてしまった」
「いえ、いいんです。どうせ大学なんて遊びに行くようなもんですから」
教授に聞かれたら大変だな、と思いながら由子は言った。
二人は病院へと戻って行った。由子はもう病院へ戻る理由などないのだが、前田が帰れと言うまではくっついていようと思った。静枝と洋子の行方、そしてあのぬいぐるみの行方を知らねばならない。
病院の入口を入って行くと、看護婦の一人が二人のほうへ|駆《か》けて来た。
「前田さんですね。警察の方が探しておいででしたよ」
由子と前田は顔を見合わせた。浜本の病室の前で、|刑《けい》|事《じ》が難しい顔で立っていた。
「どうかしたんですか」
「やあ、どうも。――いや、事情が変わって来ましてね」
「というと?」
「浜本がついさっき死んだのです。これで殺人事件になりました」
と刑事は言った。
「よくあったまったわね」
静枝は|浴衣《 ゆかた》姿で、洋子の手を引いてホテルのロビーを歩いていた。
部屋にも小さな|風《ふ》|呂《ろ》はあるのだが、洋子が、
「大きなお風呂がいい」
と言うので、地下の大浴場に入って来たのである。
「あらあら、二人とも真っ赤なお顔ね」
大きな鏡の前に並んで、静枝は笑いながら言った。洋子もキャッキャと飛び上がって喜んでいる。
「さ、夕ご飯にしましょ」
「何食べるの?」
「何がいいかな? ここは食堂に食べに行くのよ。お服をちゃんと着て来ましょうね」
「さっき買ったのにしていい?」
「ええ、いいわよ」
ホテルへ来る|途中《とちゅう》、洋品店で、洋子に水色のワンピースを買ってやったのだ。おそらく、もう手配されているだろうから、違う服にしておいたほうがいい、と思ったのである。
ロビーのソファが|並《なら》んでいる場所に大きなカラーテレビが置いてあって、ちょうどニュースの時間らしかった。静枝はちょっとためらったが、ニュースを聞いておいたほうがいいと判断した。
「ママ、暑いからここにちょっと座ってるわ。洋子はそこの売店を見て来たら?」
「うん。何か買っていい?」
「いいのがあったらね」
「わーい!」
洋子は飛びはねるようにして走って行った。静枝は、テレビの間近へ行って、画面に見入った。
ソファでは二、三人の客が新聞を広げていたが、テレビのほうには|誰《だれ》も目を向けていない。ニュースはまだ経済問題だった。静枝は落ち着かない気分でソファに浅く腰をおろしていた。――いざ、そのニュースが画面に出ると、静枝は、それが現実のこととは思えなかった。
「――殴られて重体を続けていた浜本さんは一時は意識を回復しましたが、午後二時頃、亡くなりました。警察では――」
アナウンサーの言葉に、静枝は|愕《がく》|然《ぜん》とした。浜本は死んでいなかったのか!
もちろん、死んでしまった今となっては、殺人犯であることに変わりはないが、家を出てくるときにでも、一一九番しておけば、あるいは命を取り止めたかもしれない……。しかし、もう|手《て》|遅《おく》れだ。
「静枝は五|歳《さい》になる娘の洋子ちゃんを連れており、洋子ちゃんは赤い服、|熊《くま》のぬいぐるみを持っているらしい、ということです」
テレビの画面に自分の顔が出ていた。あれは何の写真だろう? そう……たぶん、四、五年前の、まだ前田と一緒だった頃の写真だ。
ずいぶん若い写真を使ったものだが、考えてみれば、浜本と結婚してから、写真など一枚もとっていない。
「ママ」
洋子の声にびっくりして、静枝は|振《ふ》り向いた。そばに来ているのに気付かなかったのである。
「ママが出てたね、今」
「ママじゃないわよ、似た人なの」
静枝はあわてて言った。「ママがテレビに出るはずがないでしょ」
「ふーん」
洋子は不思議そうに首をかしげている。
「何か欲しい物があった? 買ってあげるわよ」
「うん! 来て! ね、来て!」
洋子が静枝の手をつかんで引っ張る。
「そんなにあわてないで――転ぶわよ、ほら」
静枝は笑いながら言った。
母娘が売店のほうへ行ってしまうと、ソファに座っていた男が、ゆっくりと新聞をたたんだ。
三十歳ぐらいの、いかにも運動不足で太り気味という現代人の典型のような男である。おまけに度の強いメガネが、いっそうその感を深めていた。
大きく息を|吐《は》き出すと、
「参ったなあ」
と|呟《つぶや》いた。
「あら、何が参ったの?」
女性の声に顔を上げる。
「あ、|宮《みや》|平《ひら》さんか」
|内《うち》|村《むら》は少しホッとした様子で言った。
「何してるの? もうすぐ|宴《えん》|会《かい》、始まるわよ。遅れて行ったら、また何かやらされるから」
「う、うん分かってるよ」
内村は無理に笑って見せた。
「内村さんって変わってるのね」
宮平|広《ひろ》|美《み》は内村の|隣《とな》りのソファに腰をおろした。「女嫌いなの?」
内村はどぎまぎして、
「ただ、もてないっていうだけだよ」
と、|卑《ひ》|屈《くつ》な笑いでごまかした。
「|寺《てら》|山《やま》さんが、この前言ってたわ。内村さんは女より男のほうに|趣《しゅ》|味《み》があるんだって」
寺山の|奴《やつ》が! |畜生《ちくしょう》!――内村は内心、歯ぎしりしていた。しかし、それを表面には出せない男なのだ。
「ひどいなあ。三十過ぎて独身だとそんなことを言われるのか」
「今夜あたり誰か|狙《ねら》ってみたら?」
宮平広美は、ちょっと男心をそそる笑顔を見せて、「先に行ってるわよ」
立ち上がった|拍子《ひょうし》に、宮平広美のスカートがひるがえって、白い|太《ふと》|腿《もも》が|一瞬《いっしゅん》目に入った。内村はドキッとして、目を見張った。
宮平広美は、行ってしまった。内村はがっかりしたようで、それでいてホッとしている、|妙《みょう》な気分だった。
内村は会社の慰安旅行で、ここへ来ている。わずか|一《いっ》|泊《ぱく》二日の旅行で、大した場所へ行くでもない。要するに今夜の宴会が目的なのだった。
これが内村には|悩《なや》みの種である。内村はまったくの|下《げ》|戸《こ》で、かつ何の芸もない。上役から無理に飲まされて気分が悪くなり、下手な歌を歌わされて、|爆笑《ばくしょう》を買い、|惨《みじ》めになって、終わるのである。この旅行は、内村にはまったく慰安にはならないのだった。
もちろん、|同僚《どうりょう》の中にも飲めない者はあり、内村以上の|音《おん》|痴《ち》もいる。しかし、そんな連中でも、宴席に|溶《と》け|込《こ》むすべは心得ていた。しかし、内村はまったくだめなのだ。笑われ、|馬《ば》|鹿《か》にされても、いつも謝っている。そんな男が、女性に好かれるはずもない。
だが、内村は、今のところ、宴会よりも、あの母娘連れが気になっていた。今、このソファに座っていた女は、確かにテレビで手配されていた女だ。
新聞から、何気なく、テレビに目を移して、内村は、画面の顔と、目の前に実在している顔を一度に視界におさめたのだった。
そうだ。間違いない。子供に、ママがテレビに映っている、と言われて、あの女はビクリとしていた。あわててごまかしてはいたが、確かにあの女だ。
殺人犯。子供の手を引いている姿からは、まったくそんな印象を受けないが、まあ人間は――特に女性は見かけによらないものだ。
ふと時計を見ると、もう宴会の始まる時間だった。気は重いが、行かなくてはならない。しかし、あの女のことはどうすればいいだろう?
フロントへ教えてやるか、そうすれば、向こうで一一〇番して、うまくやってくれるだろう。だが……万一、他人の|空《そら》|似《に》だったら?
殺人犯と間違えたとなれば、ただ謝ったぐらいでは済むまい。会社の連中からも何と言われるか……。
そんなことを考え出すと、フロントに行くのもためらわれた。放っておこうか。何も|俺《おれ》が警察に手を貸す必要もないだろう。
気にはなったが、内村は結局フロントに寄らずに、宴会場へ真っ直ぐ行くことに決めた。
今日も課長は酒を飲ませに来るかしら、と内村は気が重かった。なにしろ、全社員――といっても六十人くらいのものだったが――に|一《いっ》|杯《ぱい》ずつ飲まさなくては気の済まない性質なのである。
当人はもうホテルへ着くまでのロマンスカーとバスの中で「出来上がって」いて、宴会となっても、ほとんど飲み食いしない。片手にトックリ、片手にビールびんを持ち、一人一人の社員についで回る。相手が飲み干すのを確認するまでは、目の前に座り込んで動かないのだ。
いやでも飲まないわけにはいかない。やりすごそうと席を立っても、しばらくして戻ってみると、ちゃんとやって来て、
「お前はまだだったな」
と座り込む。その|記憶力《きおくりょく》はたいしたものだった。酒の飲めない内村にとっては、|拷《ごう》|問《もん》にも等しい受難の時が始まる……。
「ええと……宴会場は……」
広い上に、増築を重ねたらしく、|廊《ろう》|下《か》が右へ左へと曲がりくねっている。あちこち迷って、やっと|辿《たど》り着いてみると、社長の|挨《あい》|拶《さつ》がもう始まっている。
「内村さん」
そっと入ろうとすると、宮平広美の声がした。廊下をスタスタやって来る。
「やあ。遅かったね」
「部屋へ戻ってたら、電話がかかって来て。いやね、私たち最後かしら」
「たぶんね。にらまれそうだな」
「よかったわ、仲間がいて」
宮平広美が出しぬけに内村の|腕《うで》に自分の腕をからめた。内村は顔に血が|昇《のぼ》って、|頬《ほお》が熱くなるのが分かった。宮平広美は、社内の独身男性たちが一とおりはデイトを申し込んだと言われるほどの美人である。
ただ一人の例外が、内村なのだった。
2
「――どこかでお歌、歌ってるよ」
と、洋子が言った。
「そうね」
静枝は洋子の手を取って、「早く行きましょう」
「うん。――何やってるの、あれ? お歌の練習かなあ」
「宴会よ」
「エンカイって?」
「みんなでごちそうを食べたり、お酒を飲んだりして楽しむの」
「お歌も歌うの?」
「楽しくなると歌いたくなるでしょ、洋子だって」
「うん……」
洋子はなんとなく納得した様子だった。
静枝と洋子は、ホテルの一階のレストランで食事をして戻るところだった。部屋が建物の|端《はし》のほうなので、宴会場の近くを通らなくてはならない。
静枝は、少し洋子をせかした。レストランで、ウエイターがいやに二人のほうをジロジロと見ているように思えたのである。
気のせいかもしれなかった。しかし、ともかく、あまり目につかないように、部屋へ戻ったほうがいい。
「テレビ見ていい?」
と洋子が歩きながら言った。
「いいわよ」
「わーい」
洋子がスキップした。そして足を止めると、
「あの人、どうしたの?」
と|訊《き》いた。
ホテルの浴衣を着た男が、廊下にうずくまって、苦しそうに|喘《あえ》いでいる。
「病気みたい」
「|酔《よ》っ払ったのよ」
「酔っ払った、って?」
「お酒をたくさん飲んで気持ち悪くなったのよ」
「大丈夫なの?」
「大丈夫よ。さあ、お部屋に行きましょう」
と、静枝は足を早めた。
その男が、静枝たちの足音を聞いたのか、顔を上げた。そして静枝の顔を見ると、なぜかギョッとした様子で目をそらした。男はよろけながら立ち上がると、|壁《かべ》に手をついて体を支えつつ、歩き出した。また宴会場のほうから歌が聞こえて来た。
「気持ち悪くても、歌うの?」
と洋子が訊いた。
内村は、やっとの思いで、宴会場の前まで辿り着いた。無理に飲まされて、トイレで吐いて来た帰り、歩けなくなってうずくまっていたのである。
死んでしまいたいと思うほど、胸がむかつき、いやな気分だった。顔はほてるどころか血の気がひいて青ざめている。頭痛がして、目を開けているのも|辛《つら》いくらいだった。
中からは、すっかり酔いが回った連中の馬鹿笑いが聞こえて来る。内村は中へ入ろうとして、逆に廊下へ出た。
「もうたくさんだ……」
フラフラと、廊下を歩いて行くと、|椅《い》|子《す》を並べた、ちょっとした|休憩所《きゅうけいじょ》のような所がある。内村はその椅子にぐったりと身を任せて、そのまま動けなかった。
――今通りかかったのは、あの手配中の母娘だ。
だが、今の内村には、そんなことはどうでもよかった。
しばらく椅子に座っていると、だいぶ気分も良くなって来て、内村は、そろそろ宴会の席へ戻ろうかと思った。
もういい加減、宴会も終わる頃だ。どうせ男たちはこの後、二次会へと夜の町へ出て行くのだろう。内村にはとてもそんな元気はなかった。
さっさと部屋へ戻って|寝《ね》てしまおう。それが一番だ。
「あら内村さん、何してるの?」
と、声をかけて来たのは宮平広美である。
「ちょっと気分が悪くなってね。もう終わった?」
「ええ、みんな部屋に戻ってるわ。男の人たちはどこかへ出かけるんでしょ」
「そうだろうね」
「内村さんも行くんでしょ?」
「いや、僕は行かない」
「あら、どうして?」
「気分最低だよ。もうすぐに寝ちまうつもりさ」
「まあ。せっかく旅行に出て来たんだもの、少し羽をのばせばいいのに」
「上役や同僚と一緒じゃね」
「一人で行けば?」
内村はちょっと笑って、
「どこへ行くんだい? 喫茶店に入ってコーヒーを一杯飲んで帰って来るのか? 馬鹿みたいだ。寝たほうがいいよ」
広美は内村の|傍《そば》に座った。
「――内村さん、|寂《さび》しいのね」
内村はびっくりした。広美が、そんな言葉をかけてくれるとは思ってもいなかったからだ。
「もう慣れっこだよ」
と内村は言った。
「ねえ……。私も別に約束がないの。どこかで二人でお話でもしない?」
広美の言葉に、内村は耳を疑った。
「本気かい?」
「いやね、どうしてそんなこと訊くの?」
「いや、ごめん。しかし……」
「誤解しないでね。別にホテルとか、変な所へ行こうって言ってるんじゃないのよ」
「分かってるよ! そんな――そんなこと考えてもいないよ」
「内村さんとなら、安心して話してられるのよ、私」
広美が内村の手を軽く|握《にぎ》った。内村はカッと頬が燃えるのを覚えた。
「そ、それじゃ……どうしようか?」
「一緒に出ちゃまずいわ。後でみんなに何か言われるのはいやだし。――ねえ、このホテルの前の通りを駅のほうへ行くと、左手に〈R〉って|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》があるの。私、前に来たことあるから知ってるのよ」
「〈R〉だね」
「そこへ先に行っててくれる? 私も仕度して後から行く」
「分かった。待ってるよ」
と内村は肯いた。
「じゃ、後で、またね」
と広美は微笑んだ。
内村は、もう悪酔いなどどこかへ吹っ飛んで、立ち上がると、
「それじゃ……」
と、急いで部屋へ戻って行く。
その後ろ姿が見えなくなると、広美は、肩をすくめて、いたずらっぽい笑いを浮かべ、|口《くち》|笛《ぶえ》を吹きながら、廊下を歩き出した。
宮平広美と二人きりで話ができる!
内村はまるで十代の少年のように胸をときめかせて、部屋へ戻った。八人分の布団が|敷《し》かれている。|脱《ぬ》ぎ捨てた浴衣が布団の上に投げ出されていて、みんなもう夜の町へくり出したらしい。
内村も洋服に|着《き》|替《か》えると、部屋を出ようとしたが、思い直して、|奥《おく》の板の間へ出る障子を開けた。
小さな洗面台と鏡がある。内村はクシを取り出して、|髪《かみ》をとかした。少しヒゲものびているが、仕方ない。
早く行って、広美を待っていなくては。
そのとき、誰かが部屋へ入って来る音がして、内村は急いで洗面台の明かりを消した。一緒に行こうと|誘《さそ》われたら困る。障子は幸い閉めてあった。
「――なんだ、いないぞ」
課長の声だった。
「内村も出かけたのかな」
「そうらしいな、上衣がない。あいつのことだ。アイスクリームでも食ってるんだろう」
笑い声が起こった。――同じ課の連中だ。
「仕方ない。行こう」
部屋の明かりが消えて、戸が閉まった。内村は障子の陰でホッと息をついた。
「危ないところだ」
内村を一緒に連れ出す気だったらしい。|冗談《じょうだん》じゃない、と内村は思った。少し待ったほうがいいかな。すぐに出ると、課長たちに会う危険がある。
内村は、板の間に置かれた椅子に腰をおろした。――五分待てばいいだろう。あまり遅れて、広美を待たせるといけない。
五分が、|苛《いら》|々《いら》するほど長かった。
「行くか」
と腰を上げたとき、また誰かが部屋に入って来る音がした。――畜生!
明かりが点いた。
「みんな出かけたみたいだな」
声は、経理の若手で、|足《あ》|立《だち》という男だった。確か、足立もこの部屋だった。
「大丈夫よ。今、課長さんたち出て行ったし」
内村は、|当《とう》|惑《わく》した。――女の声。宮平広美の声だ。
「内村さんは?」
「もう出てるわよ。ほら上衣がないもの」
「気の毒みたいだなあ」
「仕方ないわよ。内村さんに寝てられちゃ、ここを使えないじゃないの」
「内村さん、どこかで待ってるんだろ?」
「喫茶店でね」
「来ないと分かったら、戻って来るんじゃないか?」
「大丈夫。一時間くらいは待ってるわよ、あの人なら」
「後でまずくないかな」
「何とでも言えるわ。女の子が気持ち悪くなって、|介《かい》|抱《ほう》してたから、出られなかったとか」
「なるほど」
足立が笑った。
「早くしましょうよ。あんまりのんびりしてると誰か戻って来るわ」
「危ないな」
「スリルがあって、興奮するわ」
明かりが消えた。――内村は、|呆《ぼう》|然《ぜん》と立ちすくんでいた。
服のすれる音がして、どこかの布団へ二人は入り込んだらしい。やがて、広美の、|押《お》し殺した|喘《あえ》ぎが、障子|越《ご》しに聞こえて来た……。
内村は、障子の向こうから手に取るように聞こえて来る、足立と宮平広美の愛し合う声や布団の動く音に、じっと聞き入っていた。
二人は、たっぷり三十分近く、時間を費やして愛を交わしていた。内村は、暗い板の間の椅子に座っている。体中を、焼けつくような熱いものが駆け|巡《めぐ》っていた。
それは裏切られた|怒《いか》りであり、道化にされた者の惨めな|嘆《なげ》きであり、二人の情交を、障子一枚|隔《へだ》てて聞いている、その興奮でもあった。
しかし……|俺《おれ》はなんて馬鹿なんだ、と内村は|自嘲《じちょう》を込めて思った。宮平広美が、俺なんかと話をしたがるわけがないじゃないか。
彼女の話を信じて、喫茶店へ行っていれば、おそらく彼女の言葉どおり一時間はたっぷり待っていたに違いない。その間に、彼女は足立とここで楽しんでいる……。
内村は、ここから不意に出て行って、二人をびっくりさせてやりたいという|誘《ゆう》|惑《わく》を、なんとか|抑《おさ》えていた。
そんな馬鹿げた仕返しをすれば、自分が惨めになるだけだ。やめておけ、やめておけ。内村はそう自分へ言い聞かせた。
広美が、高い声を|迸《ほとばし》らせて、その後は静かになった。
しばらくして、布団から|這《は》い出した二人は服を着ている様子だった。
「どうするんだい?」
と足立が訊く。
「何を?」
「内村さんさ。放っといていいのか?」
「大丈夫よ。あんな陰気な人の相手するのなんてごめんだわ。どこか、バーで飲むことにするわ」
「一人で行くの?」
「近くのバーへ行きゃ、誰かいるわよ、女の子が。あなたとは行けないもの」
「分かってるさ。僕もどこかで仲間と合流するかな」
「何ならあなた、内村さんの相手して来たら?」
「ええ?――そうだなあ、あの人も、悪い人じゃないんだけど、|疲《つか》れるからな、一緒にいると……」
足立は、多少内村に申し訳ないと思っているらしかった。内村は、よほど出て行って、足立に礼を言おうかと思った。
足立と宮平広美が出て行って、少し間を置いてから、内村は障子を開けて、部屋の明かりをつける。二人が一戦交えた布団が、乱れたままにしてあるのを見て、内村はそれを|丁《てい》|寧《ねい》に直してやった。
部屋を出ると、|玄《げん》|関《かん》前のロビーに行って、ソファに座った。それも、奥の目立たない席を選んだのである。
寝て、すべて忘れてしまえばいい、と思ったが、とても眠れるものではない。
|鼓《こ》|動《どう》はまだこめかみに|響《ひび》くほど脈打っていたし、熱くほてった頬は、一向に冷めて来なかった。――もう二度と、と内村は考えていた。もう二度と、女なんか……。
新聞を取りに来た女を、内村はヒョイと見上げた。――あの、手配中の女だ。
「この新聞、よろしいですか?」
と女は訊いた。
「どうぞ」
内村の目が、暗い光を|湛《たた》えて、女の後ろ姿を追っていた。
3
静枝は、部屋へ戻ると、静かにドアを閉めた。洋子が|眠《ねむ》っているのだ。
小さな明かりが点いていたが、薄暗くて新聞を読むことはできなかった。静枝は、床の間にあった電気スタンドを手近な所まで持って来ると、スイッチを押した。
洋子のほうをちょっとうかがう。起きる心配はないようだ。
新聞の社会面を広げると、すぐに自分の写真が目に飛び込んで来る。まだ浜本が死んでいないので、記事の|扱《あつか》いは、さほど大きくなかった。
この小さな写真を見て、自分のことに気付く人はほとんどあるまい、と静枝は思った。もっと落ち着いて、こそこそせずに|振《ふる》|舞《ま》っていれば、|却《かえ》って|大丈夫《だいじょうぶ》かもしれない。毎日、顔写真が出るわけではないのだ。明日になれば、もう誰もあんな記事を目に止めないだろう。
静枝は、洋子の寝顔に、じっと見入っていた。――|充《み》ち足りた気分だった。もう、これ以上、何も望むものはない。せめて後二日――いや一日でもいい、この|一瞬《いっしゅん》を引きのばしたかった。どうせ、自分は死ぬ身なのだ。最後の幸福の果実ぐらいは、心ゆくまで味わっておきたい。
静枝は、持って来た新聞から、自分の写真が出ているページを破り取って、丸めてくずかごへ入れた。
新聞を返して来ようと立ち上がり、スリッパを引っかけてドアを開けると、静枝は目の前に立っている男とぶつかりそうになって、短く声を上げた。
「何かご用ですか?」
と静枝は言った。どこかで見た顔だ。
「話があるんだ」
とその男は言った。
そうか。――さっき、廊下でのびていた男だ。
「何でしょう?」
「知ってるんだぞ」
「え?」
「|亭《てい》|主《しゅ》を殺して逃げてるんだろう」
静枝は青ざめた。
「何のお話か……」
「とぼけるなよ」
男は、そのまま部屋に入って来た。
「あの――子供が寝てるんです」
「熊のぬいぐるみもちゃんとある。これでも違うって言うのかい?」
「おっしゃる意味が分かりません」
「そうか。じゃフロントへ電話したらいいじゃないか、知らない男が入って来ています、と」
「出て行ってください」
「電話できないのか? なぜだ? こっちは平気だ」
静枝は、この男はごまかせない、と思った。ちゃんと、すべて承知しているのだ。
「どうしろとおっしゃるんですか」
金をやれば|黙《だま》っていてくれるかもしれない。
「ちょっと付き合ってくれよ」
と男は言った。
「子供がいるんです。置いては行けませんわ」
「分かってる」
男は苛立ちながら、言った。「一緒に寝てくれ。それでいいんだ」
静枝は身を固くした。
「何も乱暴したりしないよ」
と、その男は言った。「一緒に寝てくれりゃいい。そうしたら黙っててやるよ、あんたたちのことは」
静枝はやっと少し落ち着いて来た。その男からは、不思議に恐怖感を覚えない。どこにでもいるサラリーマンとしか思えない男なのだ。
男は確かに静枝を|脅迫《きょうはく》している。警察へ通報しない代わりに、体をよこせと|迫《せま》っているのだ。
しかし、それが、見るからにヤクザ風の|怖《こわ》い男から言われたのならともかく、メガネをかけた丸顔の、どことなく気の弱そうな男がそう言っても、一向に怖くないのだった。
ただ、男は必死になっていた。額には|汗《あせ》が|浮《う》かび、声も上ずっている。何があったのかは分からないが、よほどの決心をしてやって来たようだ。
「どうなんだ!」
「声を低く。――洋子が起きます」
静枝は心を決めて、「入ってください」
と|傍《かたわ》らへ退いた。
男は中へ入って来ると、どうしたらいいのか分からない様子で、突っ立っていた。
「お座りになったらどうですか」
と静枝が言うと、男は、布団の上にあぐらをかいた。
静枝は|畳《たたみ》の上に正座して、男と向かい合った。
「私は人殺しです」
と静枝は言った。
「そんな女と寝て、どうするんです? 外へ行けば、そういう所だってあるでしょう」
男は目を|伏《ふ》せた。
「誰も俺なんか相手にしちゃくれない。笑いものになるだけなんだ……」
男は、酔っている様子でもなかった。本気でそう言っているのだ、と静枝は思った。たぶん、女性に振られたか、何か――傷つけられる出来事があったのだろう。
「私があなたの言うとおりにしたとして……黙っていてくれるという保証はありますか」
静枝は静かに訊いた。
すると――男は急に泣き出した。声を押し殺し、|肩《かた》を小刻みに|震《ふる》わせて、泣き出したのである。
静枝は面食らった。男が泣くなんて、そんなこと、ドラマ以外で、実際に出くわすなんて、思ってもいなかったのだ。前田も浜本も、およそ泣き出すなんて考えられなかった。しかし、この男は、本当に泣いている。
「大丈夫ですか」
と、静枝は言った。
男は手の|甲《こう》で|涙《なみだ》を|拭《ぬぐ》うと、
「いや……|恥《は》ずかしい」
と、うつむいたまま言った。
「そんなことありません。よほど辛いことがあったんですね」
静枝は、浜本にいじめられ続けて来た自分のことを考えた。世の中は不公平なのだ。泣く立場の人間は、何もしていなくても、泣かなくてはならない。
そう生まれついた人間がいるのだ。
「どうも……すみません」
男は少し気を取り直した様子だった。「どうかしていたんだ。――許してください」
男は立ち上がった。そのまま部屋から出て行きかける。
静枝が声をかけた。
「待って」
男は振り向くと、言った。
「心配しなくていいですよ。あなた方のことは誰にも言わないから」
静枝は立ち上がって、男の手を取った。
「あなたのお名前を教えてください」
「内村といいます。会社の慰安旅行でね。だらしのない話ですが、女の子にからかわれてカッとなりまして。――で、あんた方のことをさっきロビーで見て気付いたもんで、つい妙な気を起こしたんです」
内村は、ちょっと|歪《ゆが》んだ笑いを浮かべた。傷つきやすい人なんだわ、と静枝は思った。
「もう少しここにいらしたら」
と静枝は言った。
「え?」
内村が当惑顔で静枝を見た。
暗がりの中で、静枝は二つの息づかいにじっと聞き入っている。内村の、荒い息づかいと、自分自身の、静かに抑えた息づかいと……。
そして、時折り洋子の健康的な息づかいがそれに|絡《から》んで来た。
「すみません」
と内村が言った。
「すぐ謝る人なのね」
静枝はちょっと笑った。「自分が悪いわけでもないのに」
「でも……」
内村はそれきり口をつぐんだ。
静枝は、男に|抱《だ》かれる歓びを味わったのは何年ぶりかしら、と思った。――ともかく、浜本に抱かれて、快感を覚えたことは一度もない。若い愛人との情事も、|愉《たの》しみ、歓びというには、あまりに|真《しん》|剣《けん》で、|突《つ》きつめていた。
こうして、初めて知った相手をこだわりなく抱ける自分に、静枝は驚いた。
何かが、自分の中でふっ切れたのだった。決して、やけになったとか、捨て|鉢《ばち》になったのではない。死を覚悟したせいでもあるのかもしれないが、一切から自由になって、自分自身で、自分のことを決める勇気が出て来たのである。
「もう部屋へ|戻《もど》ったほうが――」
と静枝は言った。
「あなた方のためにできることがあったら……」
「ありがとう。でも、いいんです。それより、あなたに迷惑がかかるわ」
「優しい人だな、あなたは」
内村はため息とともに言った。
「――もう二時だわ」
静枝は枕もとの時計を見て言った。「こんな所にいていいの?」
「大丈夫。みんな、誰が何時に戻って来たかなんて、|憶《おぼ》えちゃいないもの」
「でも、あんまり遅くなると……」
静枝は、もう一度|覆《おお》いかぶさって来る内村を、押し|除《の》けようとはしなかった。
――結局、内村が服を着て、静枝の部屋を出たのは、朝の四時だった。
「待って」
廊下へ出ようとした内村を、静枝は小声で呼び止めた。
「――この熊のぬいぐるみ、持って行ってくださらない?」
「|僕《ぼく》が?」
「ニュースでも言ってるし、目印になってしまうから」
内村は、洋子のテディ・ベアを受け取った。
「みんな寝てるわ。もう行って」
と、低い声で言って、静枝は手を振った。
「じゃあ……」
内村は、ちょっと笑って見せると、廊下を歩いて行った。|途中《とちゅう》で振り返ると、静枝はまだ|彼《かれ》を見送っていて、手を上げてくれた。
内村は、幸福な気分で、廊下を歩いて行った。宮平広美にからかわれたこと――実際にはもっとひどい仕打ちだが――も、少しも気にならなかった。むしろ|哀《あわ》れみすら感じる。
それにしても、あの母と子は、これからどこへ行くのだろう?
ゆっくりと歩いて来て、ロビーの見える所まで来た内村は、足を止めた。玄関とロビーに、警官たちが立っている。ホテルの従業員らしい男が、警官と熱心に話し込んでいる。
「ええ、この女です。間違いありません」
という声が聞こえた。内村は廊下を駆け戻ると、静枝の部屋のドアを叩いた。すぐに静枝が出て来る。
「どうなさったの?」
「警察が来てる」
静枝は動じるふうもなく、
「そう」
と肯いた。
「どうする?」
「大丈夫。あなたは早く部屋へ。巻き込まれるわ」
内村は、ぬいぐるみを手に、反対側の廊下へ回って、部屋に戻って行った。
静枝のほうは、いったん部屋の中に戻ると、ぐっすり眠っている洋子のそばに|膝《ひざ》をついて、そっとかがみ込んだ。洋子の顔に頬ずりしてやると、洋子が身動きして、寝返りを打った。
「さよなら、洋子」
と静枝は|囁《ささや》いた。「ママのことを憶えていてね」
着替える時間はあるまい。
静枝はそっと廊下へ出ると、階段へと急いだ。このホテルは六階建てである。
静枝が階段を上がり始めるのと、廊下を警官たちがやって来るのと、ほとんど同時だった。
「あの部屋です」
と、ホテルの支配人が言った。
「ありがとう」
刑事が肯くと、そばの前田のほうを向いた。「お子さんの安全が重要ですから、不必要に女を|刺《し》|激《げき》したくない。あなたが話してみてくださいませんか」
「もちろんです」
前田が進み出た。
――静枝と洋子らしい二人連れがいるという通報を受けて、夜を|徹《てっ》して車を飛ばして来たのである。
たとえ殺人事件になっても、前田は、静枝のために、できるだけのことはしてやるつもりであった。
「失礼します」
警官が一人、追いかけて来た。「東京から急報がありました」
「何だ?」
「浜本は病院で殺されたのだそうです。犯人が自供しました。犯人は前田という婦人です」
「母が!」
前田は思わず|叫《さけ》んだ。――そのとき、何かが|壊《こわ》れるような音が、遠くから響いて来た。
「あの音は何だ?」
と刑事が言った。
だが、前田は、呆然と突っ立っているばかりで、何も耳に入らない。浜本を母が殺した……。
信じ難い思いではあったが、同時に、それが真実に違いないと思った。浜本が死ねば静枝は殺人犯になる。
いくら前田でも、静枝が殺人犯となれば考え直すに違いない、と母は考えたのだろう。そんな犯行が、知れないはずはなかったのに。母の心も哀れだった……。
誰かが、階段を駆け降りて来た。でっぷり太った客で、あわてふためいている。
「おい! 誰か――誰か来てくれ!」
「どうしました?」
ホテルの男が声をかけた。
「女が急に部屋へ入って来て、ベランダから飛び降りたんだ」
「女が?」
前田はハッと我に返った。
「びっくりしちゃって、もう……止める間もなくて……」
静枝。静枝かもしれない。前田は、目の前の静枝たちの部屋へ飛び込んだ。明かりを|点《つ》けると、|騒《さわ》ぎで目を覚ましたらしい洋子が、まぶしそうに目をパチパチやりながら起き上がった。
「洋子!」
「パパ。――パパも来たの?」
洋子が嬉しそうに手を打った。
「ママは?」
「知らない。トイレじゃない?」
前田は思わず目をつぶった。後から入ってきた刑事が、
「今、見に行かせています」
と言った。
静枝……。もう少し待っていてくれれば良かったのに。
「もう朝なの?」
と、洋子が言った。
「いや……まだ早いよ。パパ、夜中に着いちゃったんだ。洋子はもう少し寝なさい」
「早く寝たから眠くない」
洋子はすっかり目が覚めた様子で布団に起き上がった。
「ねえ! |凄《すご》かったんだよ、ロマンスカーでね、一番前に乗ったんだ!」
「そうか、良かったね」
前田は洋子の、こんなにも晴れやかで|機《き》|嫌《げん》のいい顔は見たことがない、と思った。静枝だけが、洋子にとっては母親なのだ。前田も、前田の母も、それに取って替わることはできなかった……。
「ねえ、ママは?」
と洋子が言った。「トイレにいない?」
「うん、ちょっと出かけたみたいだね」
「今夜は三人で|泊《と》まれるね!」
と、洋子が布団の上で飛びはねた。「ワーイ! ワーイ!」
前田は涙に|曇《くも》った目で、それを見ていた。
廊下をドタバタと駆けて来る足音が聞こえて、警官が飛び込んで来た。
「前田さん! 生きてますよ! 奥さんは生きてます!」
前田は本当ですか、と問い返すことさえ忘れていた。
「ママがどうかしたの?」
洋子が訊いた。前田は力一杯洋子を抱きしめた。
第五章 会社の|宴《えん》|会《かい》|屋《や》
1
救急車が来て、ひとしきり、ホテルの前は|大《おお》|騒《さわ》ぎになった。
「|奇《き》|跡《せき》だよ」
と救急隊員の一人が首を|振《ふ》って言った。「二階下のテラスが工事中で、キャンバスが出っ張ってたんだ。そこにバウンドして、下の物置に落ちた。屋根を|突《つ》き破ったけど、足からだったんで、足の骨折で済んだのさ」
もちろん、全身にすり傷はあったが、命には別状ないと聞いて、前田は|泣《な》いた。今度こそ、本当に泣いてしまった。
|担《たん》|架《か》にのせられて、静枝が運ばれて来ると、洋子が|駆《か》け寄った。
「ママ、どうしたの?」
「ごめんね……」
静枝は弱々しい声で言った。「ママ、うっかり屋さんだから……」
「静枝」
前田の姿を認めて、静枝は目を閉じた。
「ごめんなさい、あなた」
「もう心配するな。君は殺人犯じゃないんだ」
「え?」
前田の説明を聞いて、しかし、静枝の顔は|曇《くも》った。「私のせいで、あなたのお母さんが……」
「母のせいでも、君のせいでもない。――なあ、|僕《ぼく》が全部引き受けるよ。早く良くなってくれ。洋子のママは君しかいない」
静枝の目から涙が|溢《あふ》れ出た。
「救急車へ移します」
と救急隊員がやって来た。
「ついて行くからな、洋子と二人で」
前田は、そう言って|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「救急車に乗れるの? |凄《すご》い!」
と、洋子は喜んでいる。
前田と静枝は、つい笑い出してしまった……。
良かった。――内村は、救急車が走り出すのを見送って、そっと|呟《つぶや》いた。
もう朝になっていて、騒ぎで目を覚ました客たちが、ロビーへ出て来て見物していた。内村は、ふと|目頭《めがしら》が熱くなるのを覚えて、あわててメガネを|外《はず》して指で目を|拭《ぬぐ》った。根はロマンチストなのである。
「どうしたの?」
やって来たのは、宮平広美だった。「救急車ね。何かあったの?」
ゆうべのことなどケロリと忘れているらしい。内村は、彼女を見ても、もう胸のときめきも、血の騒ぎも感じなかった。
「|誰《だれ》かがテラスから落ちたんだってさ」
と内村は言った。
「そう」
広美は、たいして関心なさそうだった。昨夜すっぽかした|詫《わ》びぐらいは言うかと思ったのだが、そのまま行ってしまう。内村は、部屋へ|戻《もど》った。
「おい、何だこれ?」
同室の|同僚《どうりょう》が、あのぬいぐるみを手にしている。
「それは|僕《ぼく》のだ」
と、内村は言った。
「ぬいぐるみをどうしようってんだ?」
「女性からもらったのさ」
内村は、ボストンバッグの中に、|熊《くま》のぬいぐるみを、ていねいにしまい込んだ。みんながポカンとしながら、内村を|眺《なが》めていた。
野木由子は、そっと病室のドアを開けた。ベッドで、静枝が目を開いて、由子を見た。
「あの……」
由子は、おそるおそる声をかけた。「私のこと、|憶《おぼ》えてらっしゃらないでしょうけど――」
「野木さん、ですね」
静枝は微笑んだ。「前田から話を聞きました。いろいろご|厄《やっ》|介《かい》をおかけしてすみませんでした」
「いいえ、とんでもない」
由子はホッとしながら言った。――静枝がまるで別人のように見える。
あの女の子が殺されたとき、コーヒーを飲ませてくれた、あの生気のない、おどおどといつも|怯《おび》えていた女性とは思えないほど、今の静枝は、|寝《ね》たきりなのに、|生命《 いのち》に溢れている感じで、ずっと若返って見えた。いや、本来の姿に戻った、と言うべきだろうか。
「具合、いかがですか?」
「ええ、おかげさまで、ずっと予定より早く退院できそうです。罪を|償《つぐな》わなきゃなりませんけれど、前田がいろいろ駆け回ってくれています」
「きっと軽く済みますよ」
由子は少し間を置いて、「実は、ちょっとうかがいたいことがあって」
と言った。
「何でしょう?」
「お|嬢《じょう》ちゃん――洋子ちゃんでしたね、洋子ちゃんが持っていた熊のぬいぐるみ、どこにあるか、ご存知ありませんでしょうか?」
静枝はびっくりしたように由子を見つめた。
「実は……」
由子は、静枝があのぬいぐるみを拾ったことを確かめた上で、あれは親しかった友人の、形見なのだと説明した。
「ですから、もし行方が分かれば、ぜひ取り戻したいのですけど」
「そうでしたか」
静枝は|肯《うなず》いた。「申し訳ありませんでした。なにしろ浜本は、余分なお金というものを認めてくれない人でしたので……。あれはホテルで会った人にあげてしまったんです」
「あのホテルでですか?」
「ええ。何か、会社の慰安旅行で来ていた人です。男の人で、少し太って、メガネをかけて……」
「あの、名前は分かりません? 会社の名、その人の名……」
「ええと」
静枝は考え込んだ。「会社の名は聞きませんでした。男の人は……内……何だったかしら」
と頭を振って、
「あの騒ぎで忘れてしまいましたわ。確か『内』という字があって、内山、内田……。何だったかしら……」
なおしばらく、由子は|粘《ねば》ってみたが、結局、静枝からはっきりした答えは聞けなかった。
病院を出ると、由子は近くの|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》へ入った。|奥《おく》のテーブルに、本条が座っている。
「どうでした?」
由子は静枝の話をくり返して、
「ホテルのほうでも、団体客の一人一人の名前は分からないかもしれませんね」
と言った。「でも|諦《あきら》めません!」
内村がコピー室へ入って行くと、宮平広美が、|退《たい》|屈《くつ》そうに|欠伸《 あくび》をしているところだった。
「あら」
と広美は笑って、「見られちゃった。コピー?」
「うん。君は、もう済んだの?」
「ええ、今戻ろうと思ってたとこ」
内村はそっと笑った。とっくに終わって、のんびりとさぼっていたくせに。
「たくさんあるの? 手伝いましょうか?」
と広美が言い出した。
「いや、大丈夫。そう枚数はないんだ」
内村はコピーの機械をセットすると、ボタンを|押《お》した。広美のほうは、取り終えたコピーを手に立っている。
「――ねえ、内村さん」
「ん?」
「旅行のときのこと、ごめんなさいね」
内村は、ちょっと|戸《と》|惑《まど》った顔で広美を見てから、肯いた。
「ああ。――いいんだよ、別に」
「行くつもりだったんだけど、バーに|誘《さそ》われちゃって。女の子同士の付き合いって、断わると後がうるさいでしょ、だから……」
「別に気にしてないよ」
内村は、おかしくて仕方なかった。広美にしてみると、内村が、すっぽかされたことを何とも感じていないらしいのが、気に入らないのだ。内村が|怒《おこ》って文句でも言えば、広美のプライドは満足するのだろうが、内村がまるで憶えてもいない様子なのが、彼女には|屈辱《くつじょく》のように感じられるのに|違《ちが》いない。勝手なものだ。
広美は、なおもぐずぐずしながら、内村がコピーを取るのを眺めている。内村は、必要な枚数を取り終えると、手早く|揃《そろ》えた。
「内村さん。お詫びに今日、お昼をごちそうさせて」
と、広美は、|魅力《みりょく》たっぷりな笑顔で言った。
だが、内村には、指名手配されていたあの女のほうが、見せかけの美しさに|彩《いろど》られた広美などより、百倍も|輝《かがや》いて見えた。
あの女と、寝たのだ。宮平広美の魅力など、まがいものでしかなかった。
「気持ちはありがたいけど|遠《えん》|慮《りょ》するよ」
と、内村は言った。「今日は昼にゆっくり読みたい本があるんだ」
内村はコピー室を出た。さぞ、広美はプライドを傷つけられて怒り|狂《くる》っているだろう、と思った。
私が、おごってやると言ったのに!――自分が誘って断わられるという屈辱を、広美は初めて味わっているだろう……。
内村は席に戻って、書類の整理を始めた。時計を見ると、あと十分で昼休みだ。
一息入れて、|冷《さ》めた茶をすする。
「内村さん」
呼びかけられて振り向くと、調査課の|木《き》|田《だ》が立っている。
二十七、八歳の独身青年で、もう五年のキャリアはあるのに、どこか腰の落ち着かない男だった。いつまでたっても新人に見られる、というのは、フレッシュだからでなく、何をやっても自信なげだからである。
「何か用かい?」
「ご相談があるんですけど」
木田は、ちょっとなれなれしい笑顔を見せながら言った。
どの会社にも、|普《ふ》|段《だん》は目立たなくて、特に有能でもないが、宴会の席になると、急に|大《だい》|活《かつ》|躍《やく》する、「宴会係」とでも言うべき人材がある。
内村へ声をかけて来た調査課の木田も、そういう「宴会係」の一人だった。
いつもは至って小心で、あまり責任のある仕事を任されることがないのを、当人も喜んでいるところがある。
忘れっぽいのか、それとも判断や行動に|機《き》|敏《びん》さを欠くのか、よく失敗もするが、上役も|彼《かれ》のことはあまり怒らない。気に入られているから、というより、怒っても仕方ないと諦められているからといったほうが正確だろう。
その木田が、いざ宴会の席となると一変して、みごとに座をもたせるのだ。どんなに意気の上がらない宴席も、木田にアルコールが入ると、たちまちにぎやかに活気を帯びて来る。
だから、それなりに木田という男は、重宝がられているのである。
「僕に用って、何だい?」
昼休み、内村は、木田と|一《いっ》|緒《しょ》にソバ屋へ入って、注文を済ませてから言った。
「ええ、実は……」
木田はなんとも言い|辛《づら》そうに、もじもじしている。「あの……食べてからにしましょう」
「そりゃ構わないけど」
はっきりしない男だ。内村とて、あまりずけずけものを言う|性《た》|質《ち》ではないが、木田はそれに輪をかけている。
まあ、こっちが無理に|訊《き》く筋合いのものでもあるまい。内村は、運ばれて来たソバを流し込んだ。
「また量が減ったなあ、このソバ屋」
と、内村は呟いた。
ソバはアッという間に食べ終えて、木田は、
「お茶を飲みませんか」
と言い出した。
確かに、個人的な話をするのに、この混雑したソバ屋は向いていない。二人は、少し会社のビルから|離《はな》れた喫茶店に足を運んだ。
「――さて」
熱いが、あまり衛生的とは言いかねるようなおしぼりで手を|拭《ふ》いて、内村は言った。「相談って?」
「はあ、実は……お願いがあるんです」
「僕に?」
人から何かを|頼《たの》まれるということの|滅《めっ》|多《た》にない内村である。|戸《と》|惑《まど》いは当然のことだった。
「宮平さんのことなんです」
「宮平君?」
「僕は……宮平さんが好きなんです」
木田が、思いつめた口調で言った。
「そう」
内村は肯いた。他に言いようがない。物好きな。やめとけよ、と言ってやりたかったが、そこまで|干渉《かんしょう》するべきではないだろう。
「実は――」
実は、の多い男である。「さっき、コピー室の中で、内村さんと彼女の話してるのを聞いちゃったんです」
「君が?」
「ええ。ドアの前を通りかかって。――彼女、後で凄い怒りようでしたよ」
宮平広美が腹を立てているのは、内村も察している。
「びっくりしました。内村さんが宮平さんを振っちゃうなんて」
木田はため息をついて、
「僕はただもう彼女に|憧《あこが》れて、ポーッとしてるのに」
と首を振る。
「おい、誤解するなよ」
と内村は苦笑した。「僕は別に振ったわけじゃない。宮平君だって、ただ、昼をおごると言っただけじゃないか。実は、旅行のとき、彼女は僕に待ちぼうけを食わせたんだ。だから、ああ言っただけさ」
「それにしても、です。やっぱり内村さんは|偉《えら》いと思いました」
「よしてくれよ。――それで、僕に頼みって何だい?」
「あ、そうか」
|頼《たよ》りない男だ。「宮平さんに、僕の気持ちを伝えていただきたいんです」
「何だって?」
内村は思わず訊き返した。
「僕が彼女のことを想っていると話していただけませんか」
内村は、木田が|冗談《じょうだん》を言っているのかと思った。しかし、木田の目は|真《しん》|剣《けん》そのものだった。
「そんなこと……いやだよ。君、自分で言えばいいじゃないか」
「言えれば、こんなことお願いしません」
「そりゃそうだろうけど……」
「僕は出世の|見《み》|込《こ》みもたいしてない男です。会社じゃ、〈宴会屋〉と呼ばれているのも、知っています。だから――彼女は僕のことなんか相手にしてくれるはずがありません。それは良く分かってるんです。でも、それでも万に一つ、と思うと……。直接、彼女に訊いて、笑い飛ばされたら、僕はショックに|堪《た》えられないかもしれません」
まさに思い|詰《つ》めた口調である。
「それにしたって……やってみれば……」
「僕は、アルコールで自分を|奮《ふる》いたたせて、宴会の席では、あんな|馬《ば》|鹿《か》な|真《ま》|似《ね》をしていますが、本当はいつも|逃《に》げ出したい気持ちなんです。分かりますか?」
内村も、木田が本心を語っていることは分かった。しかし、自分にそんな|恋《こい》の橋|渡《わた》し役がつとまるものかどうか……。
「内村さんから、僕の気持ちを伝えて、彼女の返事を訊いていただきたいんです。断わられれば諦めます。こんなことを頼める人は内村さんしかいません。――お願いします!」
木田は頭を下げた。下げすぎて、テーブルにぶつかりそうになる。
内村は弱ってしまった。同じ弱い者同士、木田の気持ちはよく分かる。それに、他に頼む者がない、というのも、本当だ。他の男性社員にそんな役を頼めば、話がたちまち会社中に広まってしまうだろう。
確かに、内村はもう広美には何の魅力も感じていないから、|却《かえ》って気楽に話はできるだろう。
「しかし……宮平君は僕に腹を立ててるんだぜ。話を聞いてくれるかな」
木田は目を輝かせて、
「大丈夫ですよ! 僕が保証します」
内村は、木田の言葉に、思わず笑い出していた。
2
木田から宮平広美への「恋の使い」を引き受けたものの、内村としては、そうそう気軽に広美に声をかけられる立場でもない。
「ちゃんと機会を見てから言うから」
と、木田をなだめつつ、たちまち、一週間が過ぎてしまった。
そろそろ言わなきゃな、と思いながら、コピーを取りに内村はコピー室へ入って行った。
木田の申し込みを広美が受けるとは、まず考えられなかった。よほど、木田にそう言ってやろうかとも思ったのだが、やはりそれでは木田を諦めさせることはできまい。ここは一応、広美へ話をしてやるほかはなさそうだ。
コピー室のドアが開いて、広美が入って来た。
「内村さん」
「やあ」
これはいいタイミングだ。――内村は、彼女が手ぶらなのに気付いた。
「コピーじゃないのかい?」
「あなたに話があって」
広美は、ちょっと|謎《なぞ》めいた|微笑《びしょう》を浮かべて、内村のそばへやって来た。
「そうか。ちょうど良かった。実は僕もね、君に話したいことがあったんだ」
「あら、じゃ、ちょうどいいわね」
「昼休みにでも――」
「それじゃ、ゆっくりお話しできないわ。今夜は|忙《いそが》しい?」
「別に」
「じゃ、会社が終わったら、この先の〈N〉って店で待ってるわ」
「〈N〉だね」
「今度はちゃんといるから」
と、広美は言うと、急につま先立って、内村の|頬《ほお》に軽くキスした。「来てね」
さっさと彼女が出て行く。――内村は|呆《あっ》|気《け》に取られていた。
「どういうつもりなんだ……」
広美は、旅行のとき、足立と愛し合っていたのを、内村に知られているとは思っていない。ただ内村に待ちぼうけを食わせただけのつもりなのだ。
あんな仕打ちを受けて、内村とて、キスの一つでごまかされるほどのお人好しではなかった。
「まあ、ちょうど良かった」
コピーのスイッチを切って、内村はそう呟いた。
「まあ、木田さんが?」
宮平広美は、ナイフとフォークを持った手を休めて、言った。
「そうなんだ。で、僕に話してくれと言うんだよ」
「そうだったの」
「――どうだろう? 彼に返事を伝えなきゃならない」
あまり内村などには|縁《えん》のない、高級なレストランだった。いささか財布の中身に自信のない内村は、落ち着かない気分である。
「木田さんね。悪い人じゃないけど……」
と広美は食事を続けて、「私、好きな人が他にいるの」
「そうかい。じゃ、そう伝えるよ」
「私、内村さんが好きなの」
と広美は言った。
内村はびっくりしてナイフを落っことしそうになった。
「冗談は言いっこなしだよ」
「私、本気よ」
と、広美は言った。「内村さんが好きなんだもの」
内村は、腹が立って来た。滅多に、怒るということのない男だが、今度ばかりは、いくらなんでも人を馬鹿にしている。
「足立君とはどうなってるんだ?」
と内村は言った。
広美は、ギクリとした。
「足立さん?――ええ、ちょっとお付き合いしてたわ。でも、どうっていう仲じゃないの。私と足立さんのことなんて、誰から聞いたの?」
「君たち本人からさ。僕を追い出して、部屋でお楽しみだったじゃないか」
広美が青ざめた。――もういい。やめておけ、と内村は思った。しかし、言葉は止まらなかった。
「僕は部屋から出そびれてね、奥の障子の向こうにいたんだ。君と足立君の仲の良いところを、じっくり聞かせてもらったよ。僕のような|陰《いん》|気《き》くさい男を君が好きになるはずがないことも、身にしみて分かった。もうたくさんだ!」
内村は|荒《あら》く息をついた。――言いすぎた、と思った。
いったい|俺《おれ》はどうしてしまったんだろう。こんなことを言ってどうなるというのか。
「――悪かったね」
と、内村は言った。「言うつもりじゃなかったんだが……」
「いいえ」
広美は、ナイフとフォークを|皿《さら》に置いて、うつむいた。「当然だわ、何と言われても」
「別に……怒ってるわけじゃないんだよ。あのこと自体はね。しかし、あれっきりにしてほしいんだ。分かるだろう。僕は女性に好かれるような男じゃない。それをはっきり教えてくれて、ありがたいくらいだよ」
「どうしたら、許してくれる?」
と広美は言った。
「もういいんだ。――さあ、食べないと冷めるよ」
実のところ、広美の反応は意外だった。広美のような性格の女なら、開き直って|怒《ど》|鳴《な》り出すかと思ったのだ。
いとも|神妙《しんみょう》に、うつむき加減で食事を続けている広美は、いつも会社で見るのとは、別人のようだった。
その後は、ほとんど話も|弾《はず》まなかった。そのレストランを出て、二人は、夜風の少し強い表へと階段を上がって行った。|支《し》|払《はら》いは、なんとか内村が済ませた。あとは帰るだけだ。そう金もいらない。
「木田君には、付き合う気がないと伝えておくよ」
と内村が言うと、広美はこっくり肯いた。
「どこから帰る? 僕は地下鉄で行くよ」
「私……タクシーを拾うわ」
「じゃ停めてあげよう」
内村は、ちょうどやって来た空車を停めると、「さあ、乗って――」
と広美を|促《うなが》した。
突然、広美が内村をぐいとタクシーの中へ押し込んだ。内村がバランスを失って転がるように座席へ。広美も続いて乗り込むと、
「近くのホテルにやって!」
と|叫《さけ》んだ。
「ホテルだって?」
内村はタクシーの座席で、やっと起き上がると、「冗談じゃない! おい、近くの駅までやってくれ!」
と、運転手に声をかけた。
「だめ」
と、宮平広美が負けずに「ホテルよ、分かった?」
「駅だ!」
「ホテル!」
運転手は頭に来た様子で、
「相談して決めてからにしてくださいよ!」
とブレーキを|踏《ふ》んだ。
「ねえ内村さん」
「だめだ」
|頑《がん》として内村は|拒《きょ》|否《ひ》した。
「分かったわ」
広美はため息をついて、「じゃ駅に行くのね。――運転手さん、その信号を左へ曲がって行ってちょうだい」
「はい」
タクシーがまた走り出す。
「内村さんって意志が強いのね」
広美はたいして腹を立てているふうではなかった。
「弱いんだよ。だから行かないんだ。僕はもう笑いものにされるのはごめんだよ」
「私のこと、信じてくれないのね」
広美が、すねたように座席にもたれた。
「もし君が――本当にその気だとしても、僕はだめだ。君を満足させることなんてできないと……」
内村は言葉を切った。
「内村さん……誰か恋人がいるの?」
「僕に?」
いるもんか、と言おうとして、内村の脳裏に、あの旅行の夜、彼と寝てくれた、指名手配の女の顔が|浮《う》かんだ。――そうだ。彼女は分かってくれていた。
いつも損な役回りの人生を送っている人間の|惨《みじ》めさを、分かってくれていた。
「そう……いたんだ、以前はね」
「その人を今でも愛してるの」
「いや、彼女はもう幸福な人妻だよ。立派なご主人がいる」
「分かったわ」
と広美は笑顔になった。「あ、運転手さん、その先の地下鉄の入口のところでいいわ」
タクシーが停まると、広美と内村は一緒に外へ出た。
タクシー代は広美が払った。内村も|敢《あ》えて払おうとしなかった。そんなに余分な金がなかったのである。
「正直に言うわ」
広美が言い出した。「本当はあなたのこと怒ってたの。私を無視した人なんて今までいなかったんですもの。だから、|誘《ゆう》|惑《わく》して、仕返ししてやろうと思ってたのよ」
「|怖《こわ》いなあ」
「でも、あなたがレストランで怒ったでしょ。あのときに、急に目が覚めたの。仕返しされたのは私のほうで、しかもあなたは自分からそうしようとはしなかった。――私が逆の立場だったら、きっと相手を殺してたでしょうね」
「もう怒ってないの?」
「あなたには|敵《かな》わないわ」
と、広美は微笑んで、「でも今度は本当にあなたが好きになっちゃった!」
内村が青くなった。
3
どうも、みんなの見る目がおかしい。
内村がそう感じ始めたのは、広美に愛を打ち明けられて逃げ出してから、一週間ほどたった頃である。
大体が、内村は、社内の|噂《うわさ》とかゴシップにうとい人間だから、その手の話が耳に入るのは最後の最後と決まっている。
その日の昼休み、安いソバ屋で昼食をとって、さて、どこかでコーヒーでも飲もうか、と道を歩いていると、
「内村さん」
と声をかけられた。あの〈宴会屋〉の木田である。
広美のことはすでに諦めるように話をしてあった。木田も、予期していたらしく、そうショックでもない様子だったので、内村はホッとしたものだ。
「やあ、何だい?」
と内村は気軽に言った。
「いや、おめでとうございます」
と木田は言った。「僕もとんだ馬鹿をやったもんです」
内村は面食らった。
「何の話だい?」
「まあ、気にしないでください。僕は何とも思っちゃいません。結果としては同じことなんですから」
「木田君――」
「しかし、内村さんにも多少負い目を感じていただかなきゃね」
冗談めかしているが、かなり無理をしているのが分かる。
「|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の司会は僕にやらせてください。いいですね? |約《やく》|束《そく》ですよ。それじゃ」
木田はさっさと行ってしまった。内村は、|呆《あっ》|気《け》に取られて立っていた。
披露宴だって? |結《けっ》|婚《こん》|式《しき》のかな? 他にあまり披露宴をやることはないはずだが。
「あいつ、振られておかしくなったんじゃないのかな」
と内村は首をひねった。
手近な喫茶店に入って、新聞を開いていると、会社の女の子たちがゾロゾロと入って来た。内村はたいして気にもとめなかった。なにしろ向こうが内村の存在などには、いつもてんで気付かないのである。
ところが、今日は様子が違っていた。女の子たちは、いったん席についたものの、何やらヒソヒソと話をしてから、|一《いっ》|斉《せい》に立ち上がって、内村のほうへやって来たのだ。
「内村さん」
「やあ。何だい、大勢で」
「白状させてやろうってことになったの」
「白伏? 何を?」
「とぼけちゃって、もう!」
突然ワッと女の子に囲まれて、普通なら喜ぶのかもしれないが、内村は|恐怖《きょうふ》を感じた。
「どうやってものにしたの?」
「ものにした……。何の話だよ?」
「決まってるでしょ。宮平さんのことよ」
「独身男性の憧れの的を、内村さんがかっさらうなんてねえ」
内村はただ目をパチクリさせているばかり。
「私たちは喜んでるのよ」
「そう。だって面白くないわ、宮平さんばっかり男たちにもててさ」
「おい、待ってくれよ――」
「新婚旅行はグアムですって?」
「誰がそんなことを……」
「宮平さん、言ってたわよ」
内村は|椅《い》|子《す》から落っこちそうになった。
なんとか女性たちの包囲を破った内村は、急いで喫茶店を出ると、会社に戻った。
どうやら、広美が、勝手に内村と結婚すると言いふらしているらしいのだ。それを知らなかったのは、当人だけだったらしい。
まだ休み時間は残っているので、事務所はガランとしている。その一角に、女子社員たちが集まって、にぎやかに笑っていた。広美の顔も見える。
内村が歩いて行くと、一人が気付いて、
「あ、|彼《かれ》|氏《し》が来た! 二人きりにしてあげようよ」
と立ち上がる。
みんなキャッキャと笑いながら、席を外して、内村と広美、二人だけが残った。
「宮平君――」
と、内村が言いかけると、広美は編んでいたマフラーらしきものを見せて、
「これ、あなたに編んでるのよ」
内村は椅子を引いて腰をかけると、
「ねえ、いったいどういうことになってるんだい?」
「あなたと結婚することにした、ってみんなに言ったの。それだけよ」
「僕は聞いてないぞ」
「だから、私も、あなたが承知したとは言ってないのよ。でもみんなはその辺、勝手に解釈してるみたい」
それはそうだろう。当然、内村が申し込んだと思われるに決まっている。それは広美も分かっているのだ。
「だけどねえ……困るよ。木田君なんか、僕が裏切ったと思って、怒ってるかもしれないぞ」
「あら、大丈夫よ。だって、『おめでとう』って、ニコニコしてたわ」
「しかし……」
内村は言葉が出て来なかった。どう言えばいいのか、見当がつかない。
「ともかく、ゆっくり話をしよう。いいね?」
「ええ、もちろん。新婚旅行も、グアムならもう申し込まなきゃいけないし」
内村は何を言う元気も失せて、立ち上がった。
「今夜は用があるの。明日、帰りにね」
「いいよ。でも、これ以上話を広めないでくれ。頼むよ」
席へ戻りながら、むだなことを頼んだかなと内村は思っていた。どうせ会社中、知らない者はないのだろうから……。
その夜は、少し早く、八時頃にアパートへと戻った。
内村は、アパートの一人住まいである。そうまめなほうではないが、とびきり無精というわけでもないので、そこそこに|掃《そう》|除《じ》をしている。
欠伸をしながら、自分の部屋の|鍵《かぎ》を開け、中へ入ってびっくりした。明かりが点いていて、何やら料理が|食卓《しょくたく》に|並《なら》んでいる。
急にお|袋《ふくろ》でも出て来たのかしら?
「――あら、お帰りなさい」
と、出て来たのは……広美だった!
「早いのね、今夜は」
「君……どうしてここに?」
内村は目を丸くして言った。
「管理人のおじさんに頼んで開けてもらったの。婚約者ですって言って。食べて来たんでしょ? でも、私の作った料理も食べてよ。ね?」
もう作ってしまってあるというのでは、仕方ない。内村は、外で夕食を済ませて来たものの、外食では満腹とまで行かないので、一応、宮平広美の作った食事を食べることにした。
「さあどうぞ」
と広美は大張り切りで、「じゃんじゃんお代わりしてね」
「そんなに食べられないよ」
と内村は苦笑した。
「味はどう? |甘《あま》すぎたかしら? それとも|辛《から》すぎる? お茶は? ご飯、少し|柔《やわ》らかかった?」
これじゃ落ち着いて食べてもいられない。それにしても、内村はちょっとびっくりした。
作り手が美人であるという点を割引いても、広美の料理はなかなかの|腕《うで》|前《まえ》だったのである。派手な外見に|似《に》|合《あ》わず、家庭的なところがあるのかもしれない。
「とても|旨《うま》いね」
と、賞めると広美は大喜びで、もっと食べて、さあどうぞ、とすすめる。
内村もかなり努力はしたが、ついに満腹でダウンしてしまった。
「お茶、|淹《い》れ直すわ」
と、広美が|狭《せま》|苦《くる》しい台所に立って行く。
「ねえ、宮平君……」
内村は、引っくり返ったまま声をかけた。
「なあに?」
「君が、もしあの旅行のことで僕にすまなかったと思って、こんなに親切にしてくれるのなら、もう|充分《じゅうぶん》だよ。あのことはもう何とも思ってない」
「あら、そんなこと誰が言った? 私は内村さんが好きだから、こうして押しかけて来たんじゃないの」
広美は葉を|替《か》えて、お茶を注いだ。
「僕みたいな|冴《さ》えない中年男を、君みたいな美人がどうして――」
「三十年もたったら、美人も不美人も変わりなくなるわ。結婚ってそれぐらいは一緒に過ごすんでしょ?」
「ねえ、君と僕じゃ、とてもうまく行きっこないよ」
「私のこと|嫌《きら》い?」
「いや……好きとか嫌いとか、考えたこともない」
「じゃ、考えてよ」
広美がぐいと前へ|膝《ひざ》を進めて来る。内村はあわてて後ずさった。
「そ、それに、君にはもっとふさわしい相手がいくらでもいる」
「私が、男なら誰でもいいぐらいに思ってるという意味?」
「いや、そうじゃなくて――」
「確かに、私はこれまで恋人が何人かいたわ」
と、広美はきっちりと座り直して、「足立さんは知ってるわね。他に|太《おお》|田《た》さんと|桐《きり》|山《やま》さんと……」
「桐山部長?」
「そう。しばらくお|小《こ》|遣《づか》いもらってたの。でもとっくに切れたわ。その三人だけよ」
三人いりゃ充分だろう。
「ともかく僕は君を幸福にする自信なんかないよ」
「いいのよ、あなたはそんなことしなくたって」
広美はそう言って立ち上がった。――内村は目を丸くした。広美が目の前で服を|脱《ぬ》ぎ始めたのである。
「待った! ちょっと待った!」
内村はあわてて言った。「ストップ、ストップ!」
「あら、何かまずいことでも?」
広美は服を脱ぐ手を休めて言った。
「そ、そりゃまずいよ。だって僕らは別に――」
「別にこだわらなくていいのよ。|抱《だ》いてもらって、|否《いや》|応《おう》なしに結婚させようとか、そんな|陰《いん》|謀《ぼう》じゃないんだから」
「そ、それにしたって……ねえ、こういうことはよく考えなきゃ」
「大丈夫よ。ちゃんと|妊《にん》|娠《しん》しないように、気を付けてるし」
どっちが男かよく分からないやりとりが続いている。
「分かった、分かったよ。ちょっと待ってくれ。ともかく座ってくれ」
「いいわよ。どうせ寝るんだから」
と、ストンと座って、「布団を|敷《し》いてからにする?」
「ねえ、宮平君、君の気持ちはよく分かったよ。本当に僕のことを好きだと言ってくれるのも信用する。だから時間をくれ。――結婚ってのは、やはりいろいろと考えなきゃいけないと思うんだ」
「そりゃそうね」
と広美は肯いた。
「そうだろ? だから少し考える時間をくれないか」
「いいわよ、もちろん。三十分くらいでいい?」
内村は引っくり返りそうになった。
明日まで、ともかく明日まで待ってくれ、と広美を説き伏せた内村は、彼女を駅まで送って行った。
「――じゃ、明日よ」
「うん。一日休みを取ってゆっくり考えてみるよ」
「そんなこと言って、夜逃げしないでね」
「まさか」
改札口で、広美は、
「じゃ、明日、帰りに真っ直ぐアパートへ行くわ」
と言うと、いきなり内村にキスした。ちょうど電車がきて、乗客がゾロゾロと降りて来るところだった。
内村は、広美がホームへ入って行くのを見届けると、あわててその場から逃げ出した……。
病室のドアのわきに、〈前田静枝〉の|名《な》|札《ふだ》があった。
「ここだな……」
内村は、ネクタイを|絞《し》め直したが、少々きつく絞めすぎて目を白黒させて、あわててまた|緩《ゆる》めてから、ドアをノックした。
「どうぞ」
と返事があった。
ドアを開けて、おそるおそる中へ入ると、静枝は松葉|杖《づえ》をついて、窓のほうからベッドへ戻りかけたところだった。
|花《はな》|束《たば》を手にした内村を見て、
「あの……どなたでしょう?」
と訊いたが、「まあ、あのときの!」
気付いて頬を赤く染めた。もっとも、内村のほうがよほど真っ赤になっていたのである。
「その節はお世話になりまして」
と内村は言って頭を下げた。
第六章 |披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》の|悪《あく》|夢《む》
1
「――まあ、それじゃ|結《けっ》|婚《こん》なさるんですか、その方と?」
ベッドに入った静枝が言った。
「いや、まあ……まだ考えあぐねてるんですが……」
内村は|曖《あい》|昧《まい》に言って、「でも、思ったよりずっと良くなられていて、安心しました」
「ありがとうございます。――多少は|刑《けい》|務《む》|所《しょ》|暮《ぐ》らしになるかもしれませんけど、弁護士さんはたぶん|大丈夫《だいじょうぶ》だろうと……。でも、やはり人を傷つけたのは事実ですから、刑にも服するつもりです。今は前田がついていてくれますから」
「それにお|嬢《じょう》ちゃんと、ですね」
「ええ」
内村も、|名《な》|札《ふだ》が〈前田静枝〉となっていたのに気付いていた。
「いいもんですねえ、家族って」
と内村は言った。「いや……|僕《ぼく》も、どうなるのか分からないけど、|彼《かの》|女《じょ》と結婚しようかと思ってるんです」
「素敵じゃありませんか」
「何かこう……|踏《ふ》ん切りがつかなくて。あなたに会いたくなったんです」
「どうして私なんかに……」
「分かりません」
内村はゆっくり首を|振《ふ》った。「でも、あなたは僕を救ってくれたんです。あのとき、僕はもうすべてを投げ出してしまいそうだった。何もかも|諦《あきら》めてしまいそうでした。それをあなたは――いわば地上につなぎ止めてくれたんです」
静枝は、|穏《おだ》やかな眼差しで内村を見た。
「私も同じでしたわ。あなたにお礼を申し上げなくちゃ……」
二人はしばらく|黙《だま》っていた。暖かい陽射しが内村の顔を照らして、メガネに反射していた。
「お会いできて良かった……」
内村は立ち上がった。「どうかお幸せに」
「ありがとう。――あ、そうだわ」
静枝は起き上がると、そばのテーブルを探った。
「あなたに会いたいという方がいるんです」
「僕に?」
「この方だわ。女子大生の方で、あのぬいぐるみを探してらっしゃるんですって。まだお手もとに?」
「ええ、もちろん。部屋に置いてあります」
静枝は、野木由子の話を伝えて、住所と電話のメモを内村へ|手《て》|渡《わた》した。内村はメモを上衣の内ポケットへしまい込むと、病室を辞した。
病院を出ると、なんだか急に|駆《か》け出したくなったが、町の真ん中である。本当に走るわけにはいかない。ともかく、それぐらい、活力が|漲《みなぎ》って来るのを感じたのだ。
手近な赤電話で、会社へかけた。
「ああ、内村だけど。――宮平君につないでくれないか」
|交《こう》|換《かん》|手《しゅ》が冷やかすように、はいはい、と言いながら電話をつないだ。
「内村さん? どうしたの?」
「ねえ、早退して出て来ないか」
「今すぐ? いいけど……」
広美は|戸《と》|惑《まど》っている様子で、「何かあったの?」
「二人で式場の下見に行こう」
少し間があって、
「すぐ行くわ!」
と、広美は声を|弾《はず》ませた。内村の胸も弾んでいた……。
「――もう|離《はな》れないからね」
宮平広美が内村の|肩《かた》へ、頭をのせながら言った。
結婚式場を見に行く予定だったのだが、なぜかホテルへ立ち寄ることになったのである。
「じゃ、早いとこ式を挙げようか」
と内村は言った。
「そうね。子供も欲しいわ。私、こう見えても子供好きなのよ」
「君に|似《に》た子が生まれりゃいいんだけど……」
と、内村は|微《ほほ》|笑《え》みながら言った。
二人は、ゆっくりとベッドの中で将来について語り合った――のかどうかは分からないが、ともかく時間を過ごして、ホテルを出たのは、もう夕方だった。
「――ああ、最高だわ、この気分!」
と、広美は大きく|伸《の》びをした。
内村のほうは大|欠伸《 あくび》をした。男と女の差である。
「ねえ、もう式場に行くのは|遅《おそ》いわ。食事しない?」
「いいね」
内村も腹ペコなのだった。タクシーを拾って、今日は広美が|払《はら》うから、というわけで、また高級な店へと向かう。
「あ、そうだ」
タクシーの中で、内村は前田静枝からもらったメモのことを思い出して、内ポケットを探った。
「――あれ?」
ないのだ。どこへ行ったのだろう? あちこちのポケットを探ってみたが、どこにも入っていない。
「どうしたの」
と、広美が|訊《き》く。
「いや、別に……」
また後で探してみよう、と内村は思った。そうか、もしかしたら、今のホテルで、服を|脱《ぬ》いだり着たりしたとき、落っことしたのかもしれないぞ。仕方ない。また明日にでも、前田静枝に訊いてみよう……。
内村にとっては、今は空腹を|充《み》たすことのほうが重要問題であった。
「そうなんですよ!」
静枝は|肯《うなず》きながら言った。
「じゃ――その人が、今日、ここへ?」
野木由子は、病院を久しぶりに訪れたのだった。そして静枝から、当のぬいぐるみを持って行った男が、今日の昼にやって来たことを耳にしたのである。
「その人は内村という名前でした」
「内村、ですね……」
由子は急いで手帳にメモをした。「で、話していただけました?」
「ええ、あなたの住所と電話番号のメモを渡して、事情を説明しておきました。きっと電話してくれると思います」
「そうですか」
由子は、急に何十キロもの重りが取り去られたような気がした。「その内村さんの勤め先とかは、分からないでしょうか」
「何もうかがいませんでしたわ」
「そうですか。――でも、これできっと、ぬいぐるみも|戻《もど》ると思います」
由子は早々に静枝の病室を出ると、公衆電話で、本条のアパートへかけようとしたが、思い|止《とど》まった。まだ警察の目が光っているかもしれないのだ。
2
本条が由子の家へ電話をかけて来たのは、その三日後のことだった。
「すみませんでした、もっと早くお電話しようと思ってたんですが……」
「こちらからかけようかとも思ったんですけど、やめておきました」
と由子は言った。「何か、あったんですの?」
「このところ|締《し》めつけが厳しくて」
と本条は言った。「由子さんに|迷《めい》|惑《わく》をかけてはいけないと思ったもんですから」
「そんなこと、構わないんですよ。それでね、お話ししたいことがあって――」
「待ってください」
と本条は|遮《さえぎ》って、「会って話しませんか?」
「ええ、いいです。場所は?」
「新宿の歌舞伎町の〈A〉という店に来てください」
「分かりました。――ええ、探して行きますわ」
「じゃ、夕方の四時に」
四時?――電話を切って、由子は時計を見た。まだ十時である。もちろん朝の十時だ。
夕方まで、差し当たって用もない。
「じゃ大学にでも行くか」
と、由子は|呟《つぶや》いた。かなり|怠《たい》|慢《まん》な学生なのである。
大学で、昼の時間に、親しくしている|美《み》|保《ほ》という子と学生食堂で|一《いっ》|緒《しょ》になり、ラーメンを食べた後、表の|芝《しば》|生《ふ》に座り|込《こ》んだ。
いい天気で、学生たちはそこここで|昼《ひる》|寝《ね》などしている。
「あ、そうだ」
話が|途《と》|切《ぎ》れたとき、由子は言った。「美保、新宿には|詳《くわ》しかったわね」
「たいていの店なら分かるわよ」
と、美保は自慢げに肯く。
「|喫《きっ》|茶《さ》|店《てん》も詳しい?」
「飲むとこほどじゃないけどね。訊いてみてよ」
「歌舞伎町の〈A〉って店、知ってる?」
美保はかなりの近視で、コンタクトが合わないので度の強いメガネをかけているのだが、それをかけ直して、まじまじと由子を見つめた。
「――由子、そこに行くの?」
「うん。ちょっと待ち合わせてるの。場所、分かる?」
「分かるけど……」
「良かった。私、方向|音《おん》|痴《ち》でしょ。じゃ教えてよ」
「うん……」
と、なぜか、美保はためらっている。
「どうしたの?」
「ねえ、由子、そこがどういう店か知ってんの?」
「知らないわよ。行ったことないんだもの。だから訊いてんじゃない」
「あ、そう。――じゃ、教えてあげるけどね、そこはいわゆる個室のアベック喫茶なのよ」
由子はちょっと間を置いて、
「つまり……」
「つまり、ラブホテル代わりに、ちょっと手軽に利用する場所ってわけ」
「本当に?」
「そうよ。行ったことあるから、知ってるもの」
美保はかなり「|翔《と》んでる」大学生なのだ。由子のほうは、半信半疑の気分で、本条の顔を思い|浮《う》かべていた。
美保は、
「そんなアベック喫茶に|誘《さそ》うなんて、下心があるに決まってるわよ」
と忠告してくれたが、由子としてはすっぽかすわけにもいかず、約束の四時、〈A〉という店の前に立った。
まさか本条が|狼《おおかみ》になって|襲《おそ》いかかるとも思えないが……。いざとなりゃかみつき、引っかいて|逃《に》げよう、と心を決め、店の自動|扉《とびら》の前に立った。ガラガラと扉が開く。
もっとも美保の忠告[#「忠告」に傍点]には、続きがあって、
「やっぱりああいうところは|雰《ふん》|囲《い》|気《き》ないから、どうせやるなら、ラブホテルのほうがいいよ」
という話であった。
「いらっしゃいませ」
受付らしきものがあって、|退《たい》|屈《くつ》そうな顔の女の子が座っている。「お待ち合わせですか?」
「ええ。あの……」
「由子さんですか?」
「そうです」
「じゃ、その|奥《おく》の右の五番目の部屋です」
とカーテンの下がった入口を指す。
「どうも……」
何かちょっと|怪《あや》しげなムードの、|薄《うす》|暗《ぐら》い|廊《ろう》|下《か》を歩いて行く。ドアが両側に|並《なら》んでいて、低く流れている音楽に混じって、ときどき|悩《なや》ましげな女性の声が聞こえて来たりして……。
由子は|頬《ほお》が燃えるように赤くなるのを感じた。本条さんたら、ひどい!
五番目のドアをノックすると、すぐに中から開いて、本条が顔を出した。
「すみませんね、変な店で」
|狭《せま》|苦《くる》しい小部屋に長いソファが一つ。由子は、なんだか座る気がしなくて、|突《つ》っ立っていた。
「見損ないましたわ、本条さん」
と由子は言った。「こんな店をご存知だなんて」
「いや、謝りますよ」
本条は頭をかきながら、「友だちが悪いんです。女性とゆっくり話ができて、|誰《だれ》にも聞かれない店を知らないか、と訊いたら、そいつ、何か誤解したらしくて……」
「じゃ、本条さんもここは初めて?」
「そうですよ、大体このひどいコーヒー! まるで絵の具を|溶《と》かしたみたいな水だ。これで三千円も取るんだから」
と腹立たしげに、「あいつに会ったら払わせてやる!」
由子は笑い出して、ソファに座った。
「あのぬいぐるみを持ってる人が、静枝さんを訪ねて来たんです」
「それは|凄《すご》い!」
「静枝さんの話だと、内村というサラリーマンで、その人から私のほうへ|連《れん》|絡《らく》があるはずなんですけど。――今のところまだなんです。でも、とても|真《ま》|面《じ》|目《め》そうな人だとかで……」
――受付の女の子は、席を離れて、裏側の部屋に入って行った。
「どう? 今の女、好きそうな顔してたけど」
「|馬《ば》|鹿《か》!」
革ジャンパーの不良っぽい若者が、毒づいた。頭にヘッドホンをかけ、テーブルにカセットのテープデッキが回っている。
「こいつら、てんでやる気がないぞ。話ばっかりしてやがる!」
と、若者はぐちった。
「私のせいじゃないわよう」
と、受付の女の子は口をへの字にした。「ここへ来て、何もしないで帰るってことないわ。そのうちやり出すわよ」
「この分じゃ怪しいもんだ」
若者は、かなり気の|抜《ぬ》けた|缶《かん》のコーラをぐいとあおった。
若者の名は「テツ」といった。「哲学」の「哲」なのだそうだが、彼を見て哲学を連想する者はいないようで、カタカナの「テツ」がいいところかもしれなかった。
このアベック喫茶の受付をやっているミチにしてもそうで、本当は「美知代」なのだが、「美」とも「知」ともあまり|縁《えん》がないので、ミチで通っている。二人はここ半年ばかり、アパートで|同《どう》|棲《せい》していて、ミチのほうはここのバイト、テツのほうは、ミチと組んで個室の一つに|盗聴《とうちょう》マイクを|隠《かく》し、|恋《こい》|人《びと》たちの熱い|囁《ささや》きを録音しては、ポルノショップなどに売っていた。
一度、マイクをセットしてしまえば、あとは「投資」の必要もなく、楽な商売ではあったが、そうそう|儲《もう》かるわけでもなかった。
「――何でえ、ぬいぐるみがどうしたとか、そんな話ばっかりだ」
「そんなチビさんにも見えなかったけどな。オモチャ屋の店員でもやってんじゃない?――仕方ないわよ。次の客もあの部屋に入れるからさ」
ミチは|爪《つめ》のマニキュアを気にしながら言った。
「おい、待て!」
急にテツが真顔になって、耳にあてたヘッドホンを手で|押《おさ》えた。
「どうしたの?」
「|黙《だま》ってろ!」
テツは、じっと話に聞き入っていた。
ミチはつまらなそうに肩をすくめて、受付のほうへ戻りかけた。
「待てよ」
とテツが言った。「|奴《やつ》ら、出て来るぞ」
「もう? じゃ、全然?」
「もっと凄いやつを聞かせてくれたよ」
テツはテープを止めると、カセットを取り出し、ポケットに入れた。
「出て来るんなら、受付にいなきゃ」
「俺は裏から出る」
「どこかに行くの?」
「奴らの後を|尾《つ》けるのさ」
「どうして?」
「後でゆっくり話してやるよ!」
テツは興奮していた。廊下へ|滑《すべ》り出ると、裏口のほうへと急ぎ足で消えて行く。
「何やってんだろ」
とミチは呟いた。――あんまり熱烈なのを聞かされると、この部屋でミチを抱くこともあるのだが、今日のは、その手の話ではなかったようだ。
「誰かいない?」
受付で男の声がした。ミチは|欠伸《 あくび》しながら出て行った。――テツは、その二人が出て来て、話しながら歩いて行くのを、背中でやりすごした。|間《ま》|違《ちが》いなく今の二人の声だ。テツは顔を見ていないのだから、声で確かめるほかないのである。
テツは少し間を置いて、二人の後を尾け始めた。ジャンパーのポケットにはカセットテープが入っている。あいつら、〈|爆《ばく》|弾《だん》〉の話をしてやがった。テツは少し足を早めた。
「じゃ、何か分かったら知らせてください」
と、本条は言った。
「ええ、でもどこへ電話すればいいんですか?」
と由子が訊く。
本条は、ちょっと考え込んでから、
「妹のいる喫茶店を|憶《おぼ》えてますか?」
「ええ。じゃ、妹さんにことづければ――」
「そうしてください。僕もまめに連絡を取るようにしますが」
本条は、ちょっと間を置いて、「|僕《ぼく》のような男が電話してご迷惑じゃないんですか」
と、由子の顔を見た。
「いいえ、そんなことは――」
由子はなんとなく目をそらして言った。
「それならよかった」
本条は微笑んだ。二人は、新宿駅の|雑《ざっ》|踏《とう》の中で足を止めた。
「本条さんなら安心だわ。あんな店に行っても何もしないんですもの」
「だめな男なんですよ」
本条は笑って言った。――なんとなく、それじゃまた、という一言が出て来ない、|妙《みょう》な雰囲気だった。
「夕食には早いなあ。それに……何か予定があるでしょう?」
「いえ、私は何も。でも本条さんは?」
「僕も何も」
由子はなんとなく笑い出した。
「じゃ、公園でも歩きません? それから食事しましょうよ」
「いいですね」
本条が、ごく自然に由子の|腕《うで》を取った。
アベック喫茶から、ずっと二人の後を尾けて来たテツは、二人がUターンして戻って来るのを見て、あわてて近くの売店の前に立った。
「危ねえ、危ねえ……」
あの二人、何者だろう? 〈爆弾〉と言っていたのは、本物の爆弾のことだろうか。もしかすると、たわいもない|冗談《じょうだん》なのかもしれないが、万が一ということもある。後を尾けるぐらいの価値はあるだろう。
二人は駅の構内から表に出て行った。テツも少し離れて後を追った。ああしている様子は、ごく|普《ふ》|通《つう》のアベックだが、見かけで|騙《だま》されちゃいけない。結構、|過《か》|激《げき》|派《は》の女|闘《とう》|士《し》なのかもしれないぞ。
人通りが多いので、見失いそうになる。少し間をつめよう。足を早めたテツは、わきから出て来た男にぶつかってよろけた。
「気を付けろ、この|野《や》|郎《ろう》!」
と|怒《ど》|鳴《な》ってから、青くなった。
「何だ、気を付けろだと?」
相手が悪い。この辺では顔役の男だ。ピシッと上下の背広を着込んでいる。
「す、すんません、分からなかったもんで」
と頭を下げて行こうとすると、
「待てよ!」
ぐい、と|襟《えり》|首《くび》をつかまれた。
「あの――ちょっと急いでるんです」
「だからって、人につき当たっといて知らん顔か?」
「ど、どうもすんません」
テツは気が気でなかった。あの二人を見失ってしまう。
「ちょっと顔を貸せよ」
テツはゴクンと|唾《つば》を|呑《の》みこんで、
「|勘《かん》|弁《べん》してくださいよ」
と、拝むように両手を合わせた。
「何をそう急いでるんだ?」
一見、エリートサラリーマンのような身なりで、頭の切れそうな顔つきである。〈社長〉という呼び名で知られたこの男は、敵に回すと|怖《こわ》い、とテツはさんざん聞かされていた。
「あ、あの――ちょっと商売のことで――」
「ケチな商売やってるそうじゃないか」
「まあ……細々と」
「誰かの後を尾けてたのか」
テツはギョッとした。
「いえ――別に」
「|嘘《うそ》つくなよ。それぐらい分かるぜ」
と、〈社長〉は冷ややかに笑った。「何かいい話なのか?」
「そういうわけじゃないです」
社長の手が、軽くテツの|頬《ほお》を|叩《たた》いた。
「|隠《かく》すなよ」
テツはゾッとした。ナイフの刃でも当てられたような感じだ。
「分かりました。アベックの後を尾けてるんです」
「いい話か」
「分かりませんけど――」
「よし。行きな。その代わり今夜話しに来るんだ。――いいな」
男がトンと軽く肩をつくと、テツはよろけた。
テツは額の|汗《あせ》をそっと|拭《ぬぐ》うと、あの二人の後を追って、あわてて、駆け出して行った。
内村は、そろそろ五時になるので、もう机の上を片付けるかな、などと考えていた。
「あ、そうだ」
書類を一つ、調査課へ持って行かなくちゃならない。内村は座を立った。ちょうど木田が通りかかった。
「おい、木田君」
と、内村は呼びかけた。木田が振り向いたが、|一瞬《いっしゅん》、内村はギクリとした。何かがぶつかって来るような、凄い力を――いや、敵意のようなものを感じたのである。
だが、すぐに木田はいつもの温厚な表情に戻っていた。
「何ですか?」
「それ、おたくの課長へ回しといてくれないか」
「分かりました」
木田は快く受け取ると、「式はもう半月後ですって?」
と訊いて来た。
「うん、それぐらいにしようかと思ってるんだ」
「|約《やく》|束《そく》は忘れないでくださいね」
「約束?」
「僕に披露宴の司会をやらせてくださいとお願いしたでしょう」
「ああ、そうだったね」
「いいですね?」
「う、うん、まあ……」
「じゃ、明日にでも打ち合わせに行きますからね」
木田は歩いて行った。
内村はどうにも複雑な気持ちである。木田に司会を|頼《たの》むというのは、何か|残《ざん》|酷《こく》な仕打ちのような気もするのだ……。
3
その夜、内村は、宮平広美に木田のことを話してみた。
ベッドの中、このところすっかり|恒《こう》|例《れい》となった「交際」の後である。半月後に挙式というのも、広美に子供でもできると困るからであった。
「いいじゃない、頼めば」
と、広美は|呑《のん》|気《き》に言った。
「しかし、|彼《かれ》の身になってみれば……」
「自分でやると言ってるんですもの。構わないじゃないの」
「うん、そりゃあそうなんだが……」
内村はためらっていた。もちろん木田が善意で言ってくれているのだとは思う。しかし、こっちがそれに乗るかどうかは、また別の問題である。
「新婚旅行のほうは任せてね」
「今から飛行機なんか取れるのかい」
「|大丈夫《だいじょうぶ》。旅行社の人に、なんとかしてって頼んだから」
「知ってる人?」
「昔の恋人なの」
美人は得だ。内村はつくづくそう思った。
「結婚するって言ったら、何かお祝いにあげようかって聞かれたわ」
「どう返事したんだ?」
「フランス人形でももらおうかと思って。|飾《かざ》っとくのにいいでしょ。今さらぬいぐるみでもないしね」
ぬいぐるみ、か。内村は、はて、と思った。何かあったぞ。
しまった! 前田静枝だ。連絡してくれと渡されたメモを|失《な》くしてしまった。それきり忘れていたのだ。
まあ、結婚しようというのだから、|忙《いそが》しさに取り|紛《まぎ》れるのも仕方あるまいが。前田静枝に電話して訊いてみよう、と思った。もう今夜は無理だろうから、明日にでも……。
「何を考えてるの?」
「いや、別に。――もう行こうか」
「いやよ! ホテル代がもったいないわ」
広美が内村に|抱《だ》きついて来た。内村としても、少々の|疲《ひ》|労《ろう》は|克《こく》|服《ふく》するべく|頑《がん》|張《ば》っているのである。
実際、我ながらよくやっている、と内村は思った。まさかこの|年《ねん》|齢《れい》で我を忘れて女性にのめり込むなんて、考えもしなかった。
内村は我を忘れて……そして、あのぬいぐるみのことも忘れてしまった。
「社長さんはおいでですか?」
テツは、顔を|覗《のぞ》かせた女におそるおそる声をかけた。
「あんたは?」
「テツっていいます」
「何か用?」
「昼間のことで――。来いと言われたんです」
女はうさんくさそうにテツを見て、
「ちょっと待って」
と中へ姿を消した。
やれやれ。さんざん探し回ったのだ。
どこにいるのか分からないので、あちこち歩き回って、やっとこの女のマンションへ|辿《たど》り着いたのである。ドアが開いて、女が肯いた。まだ二十代のみごとなプロポーションの女だった。薄いネグリジェをテツはじっと|眺《なが》めた。
「テツか。入れよ」
奥から、〈社長〉が顔を出して呼んだ。
テツは、薄いネグリジェをすかして見える、女の曲線からやっと、目を引き離すと奥へ入って行った。
ナイトガウン姿の社長は、ブランデーのグラスを手に、革張りのソファに|寛《くつろ》いでいる。
決まってる! テツは感激した。
これこそ顔役だ。大物はこうでなくっちゃ!
「話を聞こうか」
と、社長が言った。
テツが、恋人のミチの勤めるアベック喫茶で盗聴テープを取っていて、〈爆弾〉の話を聞き込んだことを説明すると、社長は興味を持ったようだった。
「すると、ぬいぐるみに仕込んだ爆弾があるってんだな?」
「ええ、二人の話だと、だいぶ強力らしいんです」
「面白いな」
社長は肯いて、天井を|仰《あお》いだ。「で、そいつがどこにあるのか、その二人も知らない、と……」
「何か手がかりはつかんでいるらしいんですが、まだはっきりしねえようです。でも『もうすぐ取り戻せる』と言ってました」
「二人の|尾《び》|行《こう》を続けたのか?」
「ええ、なんとか見失わずにすみました」
「ずっと|尾《つ》けたのか」
「あの二人、妙ですよ」
と、テツは肩をすくめた。「散歩して、飯を食って、次はホテルだな、と思ってると、別れて帰っちまったんです」
「そういう奴もいるさ」
と社長は低く笑った。いかにも凄味のある笑いだった。テツはゾクゾクした。
「で、どっちを尾けたんだ?」
「迷ったんですけど、結局女のほうにしたんです」
「何かわけがあるのか」
「女のほうが尾けてて楽しいですから」
テツはいたって単純な男なのである。
「家を突き止めたのか」
「そりゃもう」
社長は、しばらく考え込んでいたが、やがてブランデーを一気に飲みほすと、立ち上がって、両手を後ろに組み、居間の中を歩き回った。何ごとか考え込んでいる様子だったが……。
「おい、テツ」
「はあ?」
「この話、他の誰にもしてねえな」
「ええ、もちろん」
「よし。その爆弾を使いたいところがあるんだ。何としても手に入れたい」
テツはゆっくり肯いた。
「口をつぐんでいられるか」
「もちろんでさ」
「よし。その女の家を張ってくれ。ぬいぐるみの手がかりをつかんだとみたら連絡をよこせ。いいな」
「分かりました」
「いい子だ」
社長は、引出しから一万円札を二枚出して来て、「これを使え」
とテツに渡した。テツは感激した。大物だ。
「それから――おい、ナオミ」
と若い女を呼んで、「このテツと寝てやれよ」
テツは|仰天《ぎょうてん》した。
「とんでもねえです、そんな――」
社長は笑って、
「気にするな。その金は必要経費、ナオミは口止め料だ」
ナオミという若い女のほうは、別に動じるふうもなく、
「こっちへ来なさいよ」
と、テツの手を引っ張る。
「で、でも……」
「ゆっくり楽しめ、いい女だぞ」
社長はそう言って、「おい、|俺《おれ》は帰るからな。|小《こ》|遣《づか》いはいつものところに置いとく」
ナオミは、
「|鍵《かぎ》をかけ忘れないでね!」
と怒鳴って、テツを、馬鹿でかいベッドのある|寝《しん》|室《しつ》へ引っ張り込んだ。
「シャワー浴びたら? 私はもうさっき浴びたわ」
ナオミはベッドに腰をおろし、ナイトテーブルのタバコを取って火を点けた。
テツはまだためらっていたが、なにしろ社長は大物なんだ。女をくれてやるぐらい、どうってことはないんだ、と自分へ言い聞かせた。
「|遠《えん》|慮《りょ》することないのよ」
ナオミは足を組んだ。スルリとネグリジェが割れて、形のよい足が白く光る。テツはギクリとした。
「あの人は、ときどき自分の代わりに若いのを連れて来るの」
「自分の代わり?」
「病気でね、だめなのよ、女のほうは」
とナオミは言った。「だからこっちがイライラしてると、何か買ってやんなきゃならないでしょ。だから、こうして若いのをときどき当てがっときゃ、安上がりってわけ」
「はあ……」
テツは服を脱ぎながら、「でも、本当にいいのかなあ」
「人に怖がられてるほどの悪党じゃないのよ」
とナオミはベッドに横になった。「酒だって一滴も飲めないし、さ」
「ええ? だって、さっきブランデーを――」
「あれは格好つけてるの。ブランデーじゃなくて、気の抜けたコーラよ」
「へえ」
「まずくって飲めやしないわ、あんなもん」
テツの中の〈大物〉のイメージは多少|崩《くず》れた。それじゃまあ、遠慮なくいただくか。
手早くシャワーを浴びて来ると、ナオミはベッドに入って待っていた。
あのプロポーションは、同棲中のミチとはだいぶ違う。テツは舌なめずりしながら、ベッドへ入り込んで行った……。
「もう退院した? そうですか……」
内村は電話を切ると、さて、どうしたものかと考え込んだ。
何日かたって、またあのぬいぐるみのことを思い出し、会社から前田静枝の病院へ電話をしてみたのである。
ところが、もう静枝は退院してしまったという。もちろん結構なことだが、どこへ連絡すればいいだろう?
まあいいや、また後で考えよう。内村は仕事に戻った。
「内村さん、社長がお呼びです」
受付の女の子に言われて、内村は、危うくペン先を折るところだった。不安な面持ちで、社長室へと向かう。
なにしろ、めったに社長と口をきいたこともないのだ。呼ばれて|嬉《うれ》しいような用件は、何一つ思い付かない。
「失礼します」
とドアを開ける。「何かご用とか……」
「やあ、内村君か! さ、ずっと入れ」
赤ら顔で丸々とよく太った、いかにも、「中小|企業《きぎょう》の社長」というタイプである。名を、|徳《とく》|山《やま》といって、山と川の違いだけのせいか徳川家康の精神的子孫(?)をもって任じている。
ずっと入れ、っていっても、そう広い社長室ではないのである。内村は、ともかく、クビになるというムードではないので、ホッとしていた。
「おめでとう!」
と、徳山が言って、内村の手をギュッと|握《にぎ》った。
「ど、どうも……」
内村は手の痛さに顔を引きつらせた。
「結婚するそうだな!」
「は、はあ……」
「宮平君とだって? いや、うまくやったな、おい!」
|拳《こぶし》でドンと内村の腹をつついて高笑い。内村はお腹を|押《おさ》えて|呻《うめ》いた。社長室を死体で出たくない、と思った。
「そこで、だ」
と徳山は一息ついて、「わしが君と宮平君の式の仲人をやってやる!」
内村は面食らった。
「そ、それは、しかし――」
「何だ、わしでは不服か?」
「いえ、とんでもない! ただ……まさか社長にお願いできるなどとは考えてもおりませんでしたので、課長にお願いしてございまして……」
「そんなのは無視してよろしい。わしがやるのだ。そう言っとけ」
「はあ。――光栄でございます」
「うむ」
徳山は満足気に肯いてそっくり返った。「社員は我が子も同然だ。それぐらいのことは社長として当然の務めである」
「|恐《おそ》れ入ります」
「ところで、わしは忙しい。ともかくこのところパーティや接待が続くし、来週には出張もある」
徳山は手帳をめくると、「うーん……なかなか|空《あ》きがない。――今度の日曜はどうだ?」
「は?」
内村は目をパチクリさせた。「今度の……日曜といいますと……四日後のことですか?」
「そうだ。その日の午後なら|暇《ひま》がある。その日に式を挙げろ」
内村は|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「しかし、そんなにすぐにとおっしゃられましても……」
「何を言っとる!」
徳山は立ち上がると、机を回って来て、
「どうせもう彼女とできとるん[#「できとるん」に傍点]だろう、こいつめ!」
ポン、と背中を叩かれて、内村は前につんのめった。「ともかく、それで決定だ! これは業務命令だぞ!」
徳山は大口を開けて笑った。内村は、そんな馬鹿な、と呟いた。
急いで、広美を呼んで、内村は社長の話を伝えた。が、広美はたいして|驚《おどろ》いた様子もなく、
「いいじゃない。私、早いほうがいいわ」
「し、しかし、式場を取ってあるのに……」
「また探せば?」
「通知は?」
「電話でいいわよ」
こうなっては仕方ない。社長命令なのだ。
内村は早退して式場を探し直すことになった。ところが幸運というべきかどうか、もともと予約しておいた式場が、ちょうど日曜の午後なら空いているというのだ。
「いや助かった」
と、相談の窓口で、内村は額を拭った。「でも、よく日曜の午後なんて空いてたね」
「はあ。実は予約のキャンセルがございまして、ついさっきでございます」
と、係の男は言った。
「キャンセル?」
「はい、何でも花嫁のほうにもう|亭《てい》|主《しゅ》がいたとか。それで取り消しになりましたので、いや、まったく幸運でございましたね」
内村は、喜んでいいのかどうか、複雑な気持ちであった。
翌日まで、ほうぼう駆け回って、内村は、やっと準備|万《ばん》|端《たん》、整えることができた。
「やあ、参ったよ、まったく!」
夜、アパートへ帰って、内村は引っくり返った。
「お|疲《つか》れ様」
広美が、お茶を出す。この辺のタイミングは、だいぶ堂に入って来たようだ。
「やれやれ、無茶苦茶をやったけど、まあ、なんとか全部済んだ」
「その気になりゃ、なんとかなるわよ」
まったくだな、と内村は思った。その気になれば、か。そもそも、広美と結婚しようなんてこと自体が、無茶な話なのだ。
「そうだ、司会をどうしよう?」
「あら、木田さんでいいじゃないの」
「そうだなあ……。ちょっと考えてるんだ」
「だって、頼んじゃったわ、私」
「君が?」
「そう。今日、会社で声をかけられたから、『日曜日の司会はよろしくね』って言ったの。まずかったかしら?」
「いや、別にまずくはないけど……」
と、内村は言った。もう頼んでしまったのなら仕方あるまい。
「他に何かやっておくことはあったかしら」
と、広美が指を折り始めた。
内村はお茶を飲みながら、何の気なしに部屋を見回して、目を見張った。――カーテンがまるで別の派手なものに変わっている。
「ああ、私の|従妹《 いとこ》が学生で暇だっていうから、手伝ってもらって、今日ここ大|掃《そう》|除《じ》したの」
「そうか。びっくりしたよ」
「でもきれいになったでしょ? ほら、|蛍《けい》|光《こう》|灯《とう》のかさも|替《か》えたし」
「本当だね。――あれ?」
と、内村は、|棚《たな》の上へ目をやって、「あそこに|熊《くま》のぬいぐるみがなかったかい?」
「ああ、あれ。従妹にお礼にあげちゃった」
と広美は言った。「お金いらないから、あれをくれって言われたから。いいんでしょ?」
「そ、それはまずいよ……」
内村は困ってしまった。
「あらどうして?」
と広美が不思議そうな顔で訊いた。
内村が、あのぬいぐるみのことを話してやると、広美は熱心に聞き入っていた。
「へえ! ずいぶんドラマチックな熊なのねえ」
「だから、あれはその学生に返してやらないといけないんだ」
「だって、あげちゃったもの」
「返してもらえないかな?」
「そんなこといやよ! 私の顔が|潰《つぶ》れちゃう!」
と広美はふくれっつらになった。「――じゃ、こうしましょ。新しく買って、返してあげるのよ」
「新品を? しかし、それじゃだめなんだろう」
「分かりゃしないわよ。あんなのとそっくりのぬいぐるみなんて、いくらだってあるわ。買って来て少し|汚《よご》しときゃ、分かりゃしないわよ。それで解決!」
内村としては、多少異論もあったが、結婚式直前に、広美とこじれるのも困る。やむを得ず|妥協《だきょう》することにした。
「さ、これで問題はなくなったわね」
広美はポンと手を叩くと、立ち上がって、とっとと布団を|敷《し》き始めた。内村は照れてそっちへ背中を向けながら、そっとお茶を飲んでいた……。
次の日、内村は会社の帰りにデパートへ寄って、あのぬいぐるみとよく似ているテディ・ベアを買って来た。アパートへ帰ってから、前田静枝が入院していた病院へ電話をかけて、なんとか、静枝の家の電話を聞き出した。
早速電話すると静枝が出て、内村は、しどろもどろになりつつ、事情を説明した。
静枝はしばらく探してから、野木由子の電話番号を調べて来て教えてくれた。
「じゃ、早速これから電話をします」
内村はホッとしながら言った。
「ところで、ご結婚のほうはどうなりまして?」
と静枝が訊いて来た。
「ええ……。実は明後日……」
「まあ、それはおめでとうございます。せめて祝電でも打たせてくださいませんか」
「そんなお気づかいは――」
「でも、ぜひ。よろしいでしょ?」
「は、はあ……」
内村は式場と時間を告げ、汗をかきながら電話を切った。よく汗をかく男なのである。
「ええと……野木由子か」
電話番号のメモを見ながら、内村はもう一度受話器を取り上げた。ダイヤルを回し始めると、|玄《げん》|関《かん》のブザーが鳴る。
「どなた?」
と声をかけると、
「わしだよ!」
と、内村とよく|似《に》た声が返って来た。
「父さん!」
内村は受話器を置いて、あわてて玄関へと走った。両親が顔を並べて立っている。
「明日出て来るんじゃなかったの?」
「今日のほうが天気がいいと聞いてな。――どうじゃ仕度は?」
「うん、まあね……。まあ、上がってよ」
内村は両親を上がらせて、急いでお茶を|沸《わ》かしに立った。
「お前が嫁さんをもらって、これで安心だよ」
と、母親が言った。内村は電話のことを思い出したが、式の後でもいいだろう、と思い直した。
4
「変だな……」
日曜日、いつもより早目に――といったって、朝よりは昼のほうへずっと近い時間だったが――起き出した由子は、新聞を開きながら呟いた。
まだ内村という男から連絡はない。どうなってるんだろう?
新聞を開くたびに、由子は、〈爆発で死傷者多数!〉なんて記事が目に飛び込んで来るのじゃないかと気が気ではない。しかし、今のところ何も出ていないのを見ると、まだ爆発しないで済んでいるのだろう。
もう一度、前田静枝に電話してみようか? しかし、もう彼女の手を離れた問題なのだし、彼女に訊いたところで、内村という男のことが分かるはずもない。
「困ったな」
と、由子は首を振った。
「由子」
母の豊子が顔を出した。「前田って女の方から電話よ」
「え? 前田?」
静枝だろうか? そううまく行くはずが――。しかし、本当に静枝からの電話だった。
「まあ、やっぱりまだでしたの」
と静枝は言った。「もしかしたら、と気になりましてね」
「どうも恐れ入ります。その人、もう一度私の電話を……」
「ええ、でも、なんだか今日は結婚式だっておっしゃってましたから、忙しくて電話できなかったんじゃないでしょうか」
「今日、結婚式?」
「ええ。時間と式場を聞いてあります。もしお会いになりたければ」
まさか式場に押しかけるのも、と思ったが、しかし考えてみると、結婚は引っ|越《こ》しや大掃除を|伴《ともな》うものである。そのときに、あのぬいぐるみも|手《て》|荒《あら》く|扱《あつか》われる可能性があるわけだ。つまり、爆発の危険があるということでもある。
「教えてください。行ってみますわ」
と由子は言った。
式場と時間をメモすると、由子は、本条の妹が働いている喫茶店へ電話したが、
「本条は本日休んでおります」
という返事。
結局、一人で式場へ行ってみることにした。まあ、大体女性は結婚式を|覗《のぞ》くのが|嫌《きら》いではない。
「今から行けばちょうど披露宴の最中かな」
と、手早く仕度をして玄関へ。
「出かけるの?」
と豊子が声をかけて来た。
「うん。ちょっと結婚式に」
豊子はちょっと|娘《むすめ》を見つめて、
「お前のじゃないだろうね」
ユニークな母親だと、由子は思った。
タクシーを拾って、式場へ向かう。道路が意外に混んで|苛《いら》|々《いら》することしばし、ようやく式場へ|辿《たど》り着いたのは、いい加減、披露宴も終わろうかという頃であった。
一階のロビーへ入り、案内板で、〈内村家・宮平家〉というのを見付けて、その部屋へ行ってみる。
なんとか間に合ったらしく、開いた戸口の中から、〈ふるさと〉の曲が流れている。あれはたいてい、|花《はな》|束《たば》を|贈《おく》るときに流すのだ。由子はそっと中を覗き込んだ。
由子が察したとおり、式場の中では、両家の親たちが、互いの子供の結婚相手から、花束を受け取っているところだった。
花嫁はピンクのカクテルドレスで、|一瞬《いっしゅん》、へえ、と思うほどの美人だ。男性のほうは――へえ、と思うほど|野《や》|暮《ぼ》ったいタイプである。
もっとも、美男が美女にくっつくと決まっていては、世の中、面白くない。こういう、他人には想像のつかない組み合わせがあるからこそ楽しいのである。
さて、これで披露宴は終わりのはずだ。あとは新郎新婦が仲人と共に出口に立って、客を送り出す。
ともかく、|着《き》|替《か》えて出て来るのを待つことにしよう、と由子は思った。
少し離れたところに立って、白いタキシードで、顔を真っ赤にしている内村という男が、しきりに汗を|拭《ふ》きながら客に|挨《あい》|拶《さつ》しているのを|眺《なが》める。女性のほうはてんで落ち着き払っていた。
由子は、もっぱら客の女性たちの|服《ふく》|装《そう》を熱心に点検している。――あ、あれは高そうだ。これは特価品かな? あのバッグ、|偽《にせ》|物《もの》だ!
内村は、まるで一か月、ぶっ続けで働いたぐらい|疲《つか》れていた。
「ねえ」
と、広美がつつく。
「何だい?」
「あそこに立ってる女の人、ずっとこっちを見てるわよ。あなたの隠し妻じゃないの?」
「|冗談《じょうだん》じゃないよ!」
内村は苦笑した。「あ、どうも本日は――。やれやれ、終わったか」
「これからが始まりよ」
と、広美はニッコリ笑った。
俺は絶対に|離《り》|婚《こん》しないぞ! 内村はそう思った。
もし再婚なんてことになったら、このくたびれる披露宴をまたやらなきゃならない! これじゃ「疲労宴」だよ、まったく!
「社長、どうもありがとうございました」
内村は頭を下げた。
「いや、まあ|頑《がん》|張《ば》れ!」
社長の徳山は、ワッハッハと高笑いして、凄い力で内村の肩を叩いた。内村は、痛さに顔をしかめた。
「――じゃ、内村さん」
声をかけて来たのは、司会をやってくれた木田である。
「どうもありがとう」
「木田さん、本当に楽しい披露宴にしてくださって、ありがとう」
と、広美が言った。
実際、木田の司会は|巧《たく》みなもので、まさに「宴会屋」の名に|恥《は》じないものだった。
座を白けさせることもなく、といって出しゃばるでもなく、絶えず流れに乗せて、スムーズに運んで行った。
「僕も今日はなかなか良くやったと思ってるんです」
と木田が微笑みながら言った。「我ながら|生涯《しょうがい》最高の出来です。最後を飾るにふさわしい……」
「まあ、最後だなんて」
と、広美が笑った。
木田がポケットからナイフを取り出すと一気に内村の腹へ突き立てた。ナイフは根元まで深々とのみ込まれた。
由子は、しばらくの間、何が起こったのか分からなかった。
きちんと黒のスーツにシルバータイのスタイルをした若い男が、|花《はな》|婿《むこ》と何やら楽しげに話していたと見ると、いきなりナイフを出したのだ。
あれはナイフかしら? そう考えているうちに、その男は、花婿を突き|刺《さ》した。――誰もが、|金《かな》|縛《しば》りに合ったように動けなかった。
若い男は、その場から駆け出した。刺された花婿が、ガクッと|膝《ひざ》をついた。腹に突き立ったナイフがグロテスクな飾りのように、由子の目に映った。
「内村さん! あなた!」
|花《はな》|嫁《よめ》が我に返って、花婿の腕をつかんだが、そのまま花婿のほうは床へ転がった。「しっかりして!」
由子が|比《ひ》|較《かく》|的《てき》早く行動に移れたのは、多少事件というものに慣れていたせいかもしれない。
確かあそこにここの係の人が……。廊下を全速力で突っ走って、案内所らしいカウンターへと駆けつける。
「救急車を!」
と怒鳴ったが、マニキュアの具合を見ていた、女性職員はキョトンとして、
「は? 何ですか?」
「けが人よ! すぐ救急車を!」
「あの――どうなさったんで――」
「いいから早く一一九番へかけなさい!」
かみつきそうな顔でわめくと、ようやく相手も恐れをなして電話へ手をのばした。一一九番へ連絡すると、
「あの――お嫁さんが流産でもなさったんですか?」
「けがだって言ったでしょ! それから一一〇番!」
「一一〇番もですか」
「花婿を刺して逃げたのよ」
「お嫁さんがですか?」
由子は本当にかみついてやりたくなった。
「それより、ここの中に医者は?――医務室があるの? じゃすぐに人をよこして!」
由子が戻ってみると、あまり事態は変わっていなかった。
「誰か! 医者を! 救急車を呼んで!」
花嫁が|叫《さけ》んでいるのだが、仲人の夫婦など、ポカンとしているばかりだった。
「今、手配しました」
と、由子は言ってからかがみ込んだ。
「ありがとう……。こんなことになるなんて……内村さん!」
由子は、もう救急車は間に合うまい、と思った。白いタキシードは流れ出る血で、真っ赤に染め上げられている。顔は青ざめ、もう意識もないようだった。
この会館の医務室の人間が、救急箱を手に駆けつけて来たが、マーキュロやオキシフルでは手に負えないと分かって、急いで脈を取った。
「――もう亡くなっていますよ」
花嫁は、夫の顔をそっと持ち上げると、胸に抱きしめた。由子は、涙ぐみながら、少しその場から離れた。人が集まって来ていた。
「あーあ」
と、若いボーイらしいのが言った。「カーペットがしみになっちゃう」
由子は手にしていたハンドバッグで、そのボーイの顔を思い切り|殴《なぐ》りつけた。
第七章 二つのテディ・ベア
1
由子は、あまり|縁《えん》があるとも言えなかったが、一応内村の|葬《そう》|式《しき》に出ることにした。
あのぬいぐるみのことがあるし、それに、ちょうど内村が|刺《さ》される現場に居合わせたからでもある。
事件はテレビでも報道されて、新聞の社会面を|飾《かざ》った。そのせいか、葬式にも、報道関係者らしい姿が見えた。
犯人の木田という男は、その日のうちに|捕《つか》まった。|錯《さく》|乱《らん》気味で、何を|訊《き》かれてもまるで関係ないことをしゃべりまくっているということだ。どこか、|哀《かな》しい話である。
|葬《そう》|儀《ぎ》はアパートの内村の部屋で行なわれていた。|同僚《どうりょう》らしい男性が、表に立って客の案内をしている。
一応、由子も、黒っぽい――といっても|濃《のう》|紺《こん》だが――ワンピース姿でやって来ていた。
部屋へ入ると、正面に、あのメガネをかけた、人の好さそうな少し間の抜けた感じの顔が、黒いリボンに飾られている。
由子は、前田静枝から預かった分と、自分の分の|香典袋《こうでんぶくろ》を出し、名を記した。焼香に進んで行くと、そばに座っている、未亡人の姿に目が止まる。
広美という、この女性のことも、事件のせいで、あれこれと書き立てられていた。確かに美人であり、男との|噂《うわさ》が多かったというのも|肯《うなず》ける。
こうして、黒服に身を包んで、青白い顔で座っている姿は、女の由子にしても|一瞬《いっしゅん》目をひかれる美しさだった。――内心、やりきれまい。いわば自分のせいで、夫が|恨《うら》まれて殺されたようなものである。
焼香を済ませて、退くとき、由子の目は、|棚《たな》の上のぬいぐるみに止まった。
あれだ!――あった!
胸がときめいた。しかし、こんなところで、あのぬいぐるみを返してくださいとも言えない。
仕方なく、外へ出て、何もかも終わるまで待つことにした。――広美に話ができるのは、火葬場から|戻《もど》ってからになるだろう。
今、あれが爆発したら大変なことになるけれど、まあ今まで爆発しなかったのだから……。
アパートが見えるところに、小さなスナックがあり、昼は|喫《きっ》|茶《さ》、軽食になっていた。由子はそこへ入って、軽く昼を食べながら、時間を|潰《つぶ》すことにした。
何気なく店の中を見回すと、|奥《おく》の席にいた若い男とちょっと目が合って、向こうがあわてて目をそらした。
こっちを見ていたのかしら? ちょっと気になったが、どう見ても|尾《び》|行《こう》して来た|刑《けい》|事《じ》とは見えない。町のチンピラというところだわ、と由子は思った。
由子のカンのとおりで、それは彼女をつけ回しているテツなのだが、むろん、由子のほうはそんなことを知るはずもない。スパゲッティを食べていると、アパートから|棺《ひつぎ》が出て、|霊柩車《れいきゅうしゃ》へ納められる。あとしばらくは待たねばなるまい。
たっぷり二時間近く待って、コーヒーも|三《さん》|杯《ばい》|目《め》。うんざりして来た|頃《ころ》、やっと広美たちが戻って来た。
白木の箱をかかえて、広美が車から降りて来る。由子は、何と話を切り出そうかと、考え|込《こ》んだ。
結局、由子が思い切って内村の部屋を訪れたのは、さらに一時間以上たってからだった。まだ部屋には、家族や親類の人が残っている。
由子は応対に出て来た人へ、
「広美さんをちょっと……」
と、小さくなりながら言った。
広美は|廊《ろう》|下《か》へ出て来ると、すぐに由子に気付いた。
「あのときは、いろいろどうも……。今日もわざわざおいでいただいて」
「いえ、とんでもない」
と、由子は急いで言った。
「あの――失礼ですけど、主人とはどういうお知り合いでいらしたんでしょう?」
「あの、実は……こんなときに申し訳ありませんが……」
由子がぬいぐるみのことを|訊《ただ》すと、広美はしばらく訳が分からない様子だったが、
「あ、そうでしたね。思い出しましたわ」
と肯いた。「じゃ、あなたが……。ここでお待ちになって」
広美は、中へ入ると、すぐにあのぬいぐるみを持って戻って来た。
「これですね。じゃ、お返しします」
「どうも」
由子は、そのテディ・ベアを、しっかりと受け止めた。――ついに手に入れた!
「私、あなたが主人の前の|恋《こい》|人《びと》かと思ってましたわ」
と、広美が言った。
「とんでもない!」
「少しあの人にも、|浮《うわ》|気《き》の楽しさぐらい味わわせてあげたかったわ……」
広美は|寂《さび》しそうに|呟《つぶや》くと、頭を下げて、中へ入って行った。
いざ、持ってみると、思ったより軽い。
|爆《ばく》|弾《だん》が仕込んであるというのだから、もう少し重いかと思っていたのだ。もっとも、あんまり重くては爆弾とすぐに気付かれてしまうだろうが。
しかし、いざ手に入れてみると、今度は大変だ。下手に|扱《あつか》えば爆発するかもしれないと思うと、歩くのまでのろくなる。
本条に|連《れん》|絡《らく》しよう!
電話ボックスを見付けた由子は、中へ入って、電話帳の上に、テディ・ベアをそっと置いた。
本条の妹とまず連絡を取ると、ある番号を教えてくれた。そこへかけると、女が出た。
「本条さんはいらっしゃいますか」
と由子は訊いた。
「あんた、|誰《だれ》?」
「野木由子といいます」
相手の女はずいぶん|突《つ》っけんどんである。少し間があって、本条が出た。由子が話をすると、
「それは|凄《すご》い!」
と、本条も興奮しているようだ。「しかし、持って歩くのは危険だな。いつ爆発するかもしれない」
「じゃ、どうすれば?」
「どこか場所を決めて、そこに置いてください。|僕《ぼく》が取りに行きます。その近くで、あまり人の来ないようなところ……」
「そう言われても――」
由子は困ってしまった。ぬいぐるみの|熊《くま》はおとなしく座り込んでいる。
「じゃ、ともかくここで待っています」
「そうしてください。場所は?」
「ここは、ええと――」
言いかけて、由子は、電話ボックスの|扉《とびら》が開くのを見た。「ちょっと待ってください。今話してる――」
由子の言葉は|途《と》|切《ぎ》れた。
目の前に銀色に光るナイフが突きつけられていたのだ。
「電話を切れ」
と、その男は言った。
あの男だ、と由子は思った。さっき、広美の戻るのを待っていたスナックで彼女のほうを見ていたチンピラふうの若者である。
「な、何よ……」
「電話を切れ!」
受話器からは、本条の、
「もしもし、由子さん?」
という声が聞こえていた。しかし、ナイフが|喉《のど》へ突きつけられているのでは仕方ない。
そっと受話器をフックへかけた。余った十円玉が二、三枚落ちた。
「お、お金ならバッグに少し……」
さすがに由子の声は|震《ふる》えた。
「金か。もらっとくよ」
若者はそう言って、バッグを開けて由子が取り出した財布を引ったくった。ポケットへそれを|押《お》し込むと、ついでに戻った十円玉も取った。ずいぶんケチな|強《ごう》|盗《とう》である。
「|俺《おれ》が欲しいのはこいつさ」
由子は|驚《おどろ》いた。若者が手を、ぬいぐるみへとのばしたからだ。
「それは――」
「動くな!」
ナイフがぐっと|迫《せま》る。
「でも、それは……」
「分かってらあ、爆弾なんだってな」
由子は|愕《がく》|然《ぜん》とした。若者はそれを|抱《だ》きかかえると、
「じゃあな。|達《たっ》|者《しゃ》でいろよ」
若者は、小走りに去って行った。
由子は、急に|膝《ひざ》の力が抜けて、その場に座り込んでしまった。せっかく取り戻したのに!
しかし、あの男はなぜ爆弾のことを知っているのだろう? |盗《ぬす》んでどうしようというんだろう?
由子は、恐ろしい予感に、身震いした……。
「まだあいつから連絡はないのか」
〈社長〉の名で知られる顔役は、ナオミへ声をかけた。
「誰?」
「テツって若いのだ」
「ああ。何も言って来ないわ」
「だめか」
ナオミは鏡の前で|化粧《けしょう》をしながら、
「爆弾なんて、何に使うの?」
「お前の知ったことか」
社長は|苛《いら》|々《いら》した声で言った。電話が鳴って、ナオミが出た。
「あら、あんたなの。――いるわよ。ほら、テツって子よ」
社長は受話器を引ったくった。
「テツか? どうした?」
「手に入れましたよ、爆弾のぬいぐるみを!」
テツの興奮した声が飛び出して来た。
「手に入れた?」
社長の顔がパッと明るくなった。「|間《ま》|違《ちが》いないのか?――よし、良くやったぞ!」
「どうしましょう? そっちへ、持って行きましょうか?」
「よせ!」
社長はあわてて言った。「ここで爆発したらどうなるんだ」
「じゃどうします?」
とテツが訊いて来る。
社長は、ちょっと考えた。
「――よし。いいか、そいつは三日後に使う。それまでお前が預かってろ」
「俺がですか?」
テツが|仰天《ぎょうてん》した。
「そうだ。お前は俺の部下だぞ。下っ|端《ぱ》が死んでも仕方ないが、ボスが死んだらどうなる」
「分かりました。それじゃ……」
「その代わり、三日後には、お前を幹部の一人にしてやる」
「ほ、本当ですか!」
テツの声が上ずった。
「本当だとも。――じゃ、任せたぞ。明後日の夜、ここへ電話しろ」
「はい」
「それからな、背広を用意しとけ」
「背広ですか? 持ってねえすが……」
「仕方ないな。誰かから借りろ」
社長は電話を切ると、|口《くち》|笛《ぶえ》を吹きながら、ネクタイを|締《し》めた。
「ひどいじゃない、あんな若いのに押し付けて」
とナオミが言った。
「構うもんか。あんなのはどうせ、その辺の|喧《けん》|嘩《か》で命を落とすんだ。こっちで有効に利用してやらなきゃ」
「うまくやったって、どうせ幹部なんかにする気はないんでしょ」
「当たり前だ。あんなのは使い走り以上のことをやる頭なんかねえ」
社長は、上衣をはおった。
「今度はいつ?」
「明後日だな。俺のいない間にテツから何か言って来たら、聞いといてくれ」
「分かったわ」
ナオミは、社長を送り出して、息をついた。ぼんやりとテレビを見ながら、ソファでウツラウツラしている。
チャイムの音に目を覚ますと、もう二時間近くたっているのだった。
「――社長は?」
ドアを開けると、そっと|覗《のぞ》いたのは、テツの顔だった。
「|大丈夫《だいじょうぶ》。明後日まで来ないわ。それ何?」
と、ナオミはテツのかかえている紙袋を見て訊いた。
「例のぬいぐるみでさ」
ナオミは青くなった。
「ねえ、そっと置いといて。――そうね、暗くて冷たいところのほうがいい? |腐《くさ》らない?」
魚か肉と間違えている。
ともかく、玄関の|隅《すみ》に「安置」すると、ナオミはテツを|寝《しん》|室《しつ》へ引っ張って行った。そして一気に服を|脱《ぬ》ぎ捨てると、
「待ってたのよ!」
と言うなり、テツをベッドの上へと押し|倒《たお》して、|唇《くちびる》を押しつけて行った。
あわただしく一戦交えた後、ナオミはシャワーを浴びて、バスローブ一つ身にまとうと、
「何か飲む?」
と、まだベッドで息を|弾《はず》ませているテツへ声をかけた。
「うん。ウイスキーでいい」
居間へ行って、ナオミがグラスに氷を入れて、ウイスキーを注ぐ。テツがバスタオルを腰に巻いて出てきた。
「悪いな、いつも……」
「構やしないわ。別に私のお金で買ったウイスキーじゃないから」
ナオミは笑いながら言った。
「ああ、最高だ!」
テツはソファにドサッと腰をおろし声をあげた。「こんな所に住んで、あんたみたいないい女を抱いて、こんないい酒飲めりゃもう天国だな!」
「そう思う?」
「そうさ! 金と女と酒と……。他に何がいるってんだ?」
ナオミは自分でもグラスにウイスキーを注ぎながら、
「テツは若いからまだ分かんないのよ」
「でも、あんただって、こんな立派なところに住んでよ、|小《こ》|遣《づか》いもらって、いいじゃねえか」
ナオミはテツとは|離《はな》れてソファに座ると、
「好きで、こんな|暮《く》らししてんじゃないわ」
と投げ出すように言った。
テツはキョトンとしてナオミを見ている。
「私だって、ちゃんとしたOLだったのよ、以前は」
ナオミがグラスを|弄《もてあそ》びながら、「たまたま、勤めていたところが|倒《とう》|産《さん》してね、仕方なく会社を変わったの。そこが、|彼《かれ》の持ってる会社の一つだったのよ」
「会社持ってんのか? それじゃ、社長ってのは、ただのあだ名じゃないんだな」
「私は、そんな暴力団が経営してる会社だなんて知らなかったわ。ある日、会社へフラリと彼がやって来て、私に目をつけたの。食事に|誘《さそ》われて……そのままホテルへ無理矢理連れ込まれて……。いやとは言えなかったわ」
ナオミはゆっくりとマンションの中を見回した。「ここを買って、私を住まわせておくことにしたのよ。もう私は、どうにでもなれって気持ちだったわ」
「でも、仕事なんかしてるより、よっぽどいいじゃねえか」
とテツは言った。
ナオミはテツを見て、言った。
「あんた、働いたことあるの?」
「そりゃ……今だって働いてらあ」
「まともによ。|真《ま》|面《じ》|目《め》に働いたことある?」
「店員とか、会社員とか? ヘッ、|馬《ば》|鹿《か》らしくって、やってらんないよ」
テツはグラスを空にした。
「あんたはまだこの世界から|抜《ぬ》けられるわよ」
「俺が?――|冗談《じょうだん》じゃない! せっかく、目をかけてもらって、大切な役を任されてんのに。俺も大物になって、こんなマンションに住むんだ」
テツにとっては、いい住まいや、女、そして金がある、という以上の人生は、考えられないのだった。
2
テツがナオミのマンションを出たのは、もう真夜中近くだった。
「そのぬいぐるみは――」
とテツが言うと、
「いいわよ。ここに置いとけば。何もしなきゃ爆発しないでしょ」
「でも……」
「どうせここへ持って来ることになるんだから」
ナオミは、テツをキスで送り出した。
「まあ、ナオミがああ言ってくれるんだからな」
テツも、もちろん、爆弾なんて|物《ぶっ》|騒《そう》なものと同居したくはない。いや、同居といえば……テツは、歩きながら、ちょっと顔をしかめた。
「――ただいま」
アパートのドアを開けると、テツは言った。
ミチがぼんやりとテレビを見ている。
「おい、帰ったぜ」
「分かってるわよ」
ミチはテレビから目を離さずに言った。
「何か言やいいだろう」
「ナオミって女とはうまく行ってるの?」
テツがギクッとした。
「な、何の話だよ?」
「とぼけたってむだよ。ちゃんと分かってんだからね」
テツは肩をすくめて、
「分かってるなら訊くなよ」
と、ふてくされてゴロ|寝《ね》する。
ミチはテレビを消すと、テツのほうへ寄って来た。
「ね、テツ。あんた気は確かなの? あんなヤクザの女と。――見付かったら半殺しの目にあうわよ」
「馬鹿言え! ちゃんと公認なんだ。俺は、あの〈社長〉に気に入られてんだぜ」
ミチはふくれっつらになって、
「おかげでこっちは放ったらかしね。結構な身分だわ。さんざん私からせびって来たくせに!」
「うるせえな!」
テツは起き上がった。「今は大仕事を|控《ひか》えてんだ。ガタガタ言うない!」
「大仕事?」
ミチが顔をこわばらせた。大体があんまりしまりのないふくれ顔だが、多少は水準に近い顔になった。
「テツ……。あんた何やらかす気なの?」
「そんなこと、女なんかに言えるかい」
「危ないことはやめてよ。ね、大けがしたら損よ」
「けがが|怖《こわ》くって、出世できるか。俺もそのうち、あんなマンションを買って、好きな酒を飲んで、いい女を……」
テツは言葉を切った。
「ナオミみたいな?」
と、ミチが言った。「私みたいなのじゃなくってね」
「お前、うるせえな。文句が多いぞ」
「テツのこと心配してんじゃないの」
「|嘘《うそ》つけ。ナオミのことを|嫉《や》いてるくせに」
とテツは笑った。
「だったらどうだっていうの? 私はあんたと――」
「やめろ! たくさんだ!」
テツは立ち上がると、「勝手にわめいてろ!」
と|怒《ど》|鳴《な》って出て行った。
ミチは後を追おうとはしなかった。やけになって、そばにあった|灰《はい》|皿《ざら》を|叩《たた》き割った。
テツが腹を立てて出て行ってしまってから、ミチはしばらくはムシャクシャして、何も手につかなかった。
いや、何かを手にすると|壁《かべ》に投げつけて叩き|壊《こわ》しそうで、もったいないから何も手が|触《ふ》れないようにしていたのだった。
「まったくもう……勝手にすりゃいいんだわ!」
と、口走ってみたものの、テツのことは気になる。
テツのことを、ミチは、自分なりのやり方で愛していた。
でなければ、アルバイトの金で彼を養ってやったりはしない。
ミチだって、そう|稼《かせ》いでいるわけじゃないが少なくとも|怠《なま》け者のテツの倍は稼いで来ていた。――テツのように、「いつか大仕事をやって大もうけしてやるんだ」と言い続けている男は、たいてい一生そのままに終わってしまうものだ。
ミチにはそれが分かっていた。なにしろ父親がそういうタイプの男だったからだ。
テツにはそうなってほしくない、と思った。真面目に働ける男ではないにせよ、世の中には、ああいうタイプの人間に向いた仕事だってあるはずである。
テツが|盗聴《とうちょう》テープを売っているのは、だから、ミチとしても悪くないと思っていた。あまり感心した仕事ともいえないが、大体、盗聴されてるほうだって、感心されることをやっちゃいないのだから。
しかし、暴力団とのつながりができると、テツのような、|無《む》|鉄《てっ》|砲《ぽう》で野心ばかり大きい男はまず一番利用されやすい。
単純で、おだてに乗りやすいタイプなのだ。
たぶん、そのナオミという女も、ボスの男から言われて、テツをいいように|弄《もてあそ》んでいるのだろう。――テツが、「大仕事」をやると言っていたのが、ミチには、気にかかって仕方ない。
何か危ないことをやろうとしている。ミチには直感的に分かった。
「ああ……やんなっちゃう!」
ミチはドタッと|仰《あお》|向《む》けになって、体を思い切り|伸《の》ばした。――ふと、テープが目に止まった。
小型のラジカセに、セットしたままだ。
そういえば何やら大変な話を聞いたとか言って、それきりミチには何も話してくれていなかったが……。
これがあのテープだろうか?
ミチは、起き上がって、そのラジカセを持って来ると、スイッチを押してみた。
「すみませんね、変な店で」
と男の声がした。
「見損ないましたわ、本条さん」
と女の声。
そして、話を聞き進むうち、ミチの目は大きく見開かれて来た。爆弾!――爆弾ですって?
では、テツの言っていた「大仕事」というのは……。
ミチは愕然とした。いくら「大仕事」といっても、こんな大変なことだとは思わなかったのだ。
テツは、あのとき、この二人の後を|尾《つ》けたはずだ。それから毎日、出歩いている。
すると……テツは爆弾を手に入れたのかもしれない! ミチは青くなった。
ミチは、そのマンションの前まで来て、ためらった。
テツは前の夜、アパートを出て行ったきり帰らなかったのだ。ミチは、こうして、次の日の昼間、ナオミという女のマンションへやって来たのである。
しかし、こうして、のしかかるようなマンションを見上げると、ミチは、よほどこのまま引き返そうかという気持ちになってしまった。
しかし、テツはおそらくここへ来ているのに違いない。そして、止めなければ、テツは何か取り返しのつかないことをやるかもしれないのだ……。
ミチは一つ深呼吸をして、マンションの中へと入って行った。
ナオミの部屋の前へ来て、またミチはためらった。そこにテツがいたとしてもミチの言うことなど耳を貸さないだろう。それなら、そんなことをしてもむだではないのか……。
どうしようか? チャイムへのびた手が、また引っ込んで、またのびる。
不意にドアが開いた。
「何だ? 用か?」
|柄《がら》の悪い男が、顔を出した。たぶん、ナオミのパトロンの子分に違いあるまい。
「あの……ナオミさん、いますか?」
「え? ああ、ボスの女か。今、いねえよ」
「そうですか。……じゃ、また来ます」
と|会釈《えしゃく》して歩きかける。
「待ちなよ」
と男が声をかける。「すぐ戻るぜ。中で待ってりゃいい」
「でも……」
「いいさ、すぐそこまで出かけただけだ」
ミチは、あまり気は進まなかったが、部屋へ上がることにした。一度帰ったら、もう来る勇気がなくなりそうな気がしたのである。
「まあ入んな」
広々とした居間へ、足を|踏《ふ》み入れて、ミチはギョッとした。男が他に三人、|退《たい》|屈《くつ》そうにソファでタバコをふかしていた。
「何だ、お前、テツの女じゃねえか」
と一人が言った。ミチの顔を知っていたらしい。
ミチは、逃げ出したくなる気持ちをなんとか|押《おさ》えて、
「テツ……ここにいませんか?」
「テツの|奴《やつ》か? 知らねえな」
「おい、一杯やれよ」
と、酒を飲んで、だいぶ顔を赤くしている一人がミチにグラスを|渡《わた》そうとした。
「いりません――じゃ、失礼します」
ミチは居間を出ようとした。
「何だおい、ゆっくりしてけよ」
玄関に出て来た男が、ミチを押し戻した。
「どいて!」
ミチは男の手を|振《ふ》り払おうとして、その手が|弾《はず》みで男の|頬《ほお》を打った。
「――やってくれたな」
「ごめんなさい……。手が……」
ミチは青ざめた。ソファの上に突き倒されて、ミチは床に転がった。
「面白いや。いっちょういただくか」
起き上がろうとしたミチは、のしかかって来た男に、そのまま組み|敷《し》かれた。
ナオミは、近くのスーパーの袋をかかえて戻って来た。
社長が来るまで、あの子分たちに何か食べさせておかなくてはならない。面白くもない仕事だったが、小遣いをもらっている以上仕方ない。
「あの人もケチだから……」
重い袋をヨイショ、と持ち直す。安いウイスキーが入っているのだ。子分たちに、居間の高いウイスキーを飲ませたくないのである。
ドアを開けようとして、ナオミはちょっと|眉《まゆ》を寄せた。中から|洩《も》れて来るのは……男たちの笑い声と……女の|泣《な》き声のようだ。
ドアを開けて中へ入る。――誰も気付かないようだ。
「おい、次は俺だ」
「早く済ませろよ、そら」
「せかせるな、この野郎!」
居間へ入って行って、ナオミは愕然とした。手から買い物の袋が|滑《すべ》り落ちる。その物音で男たちはナオミに気付いた。
「あ――お、お帰りなせえ」
あわててズボンを上げる男。――|床《ゆか》には、|全《ぜん》|裸《ら》にされた|娘《むすめ》が、うつ|伏《ぶ》せになって、泣きじゃくっている。
「何をしてたの?」
とナオミは言った。声が震えている。
「いえ……ちょっとこの女が生意気な|真《ま》|似《ね》しやがったんで……」
「誰なの?」
「なあに、気にするこたあねえですよ。これはミチっていってテツの女でさ」
「テツの?」
ナオミは、その娘に|駆《か》け寄ると、「さあ、立って……服は?」
と訊いてから、引き|裂《さ》かれた服がその辺に散らばっているのに気付いた。
「あんたたちは……なんて人たちなの!」
ナオミは青ざめて、|怒《いか》りに体中が震えて来そうだった。
ナオミは台所へ飛び込んで行った。男たちが顔を見合わせていると、ナオミが大きな包丁を手に戻って来た。
「出て行って! 行かないと刺し殺してやるからね!」
と|叫《さけ》ぶと、包丁をめちゃくちゃに振り回しながら、男たちのほうへ、突っ込んで行く。
「|逃《に》げろ!」
男たちは|泡《あわ》を食って|玄《げん》|関《かん》へと駆け出し、アッという間にいなくなってしまった。
ナオミはしばらく息を弾ませながら立っていた。それから、包丁を放り出すと、床にうずくまって震えているミチのほうへ、手をのばした。
「――大丈夫?」
ナオミは、ミチに自分の服を着せてやろうとしたが、さわろうとするだけで悲鳴を上げるので、しばらくそっとしておくことにした。
「ひどい目にあったわね……」
とナオミは言った。「私がいれば……こんなことにならなかったのに。――テツに用だったの? でも、ここにはいないわ」
ナオミの話は、全然ミチの耳に入っていないようだった。ただ、ガタガタ震えながら、ぼんやりと|空《くう》を見つめて、口が少し開いたままである。
「ああ、もういやだわ!」
と、ナオミが両手に顔を|埋《う》める。
ミチの目が、床をさまよって、投げ捨てられた包丁へ止まった。
「ねえ、分かってよ」
ナオミは、口に出して言ったが、それはミチへ話しかけているというより、自分に向かって言っているようだった。「私だって、いやんなっちゃうのよ、こんな生活。でも――簡単には脱けられないわ。でもテツはまだ若いし、今ならまだ大丈夫。それに、あのボスはテツをとんでもないことに使う気よ。早くテツをどこかへやってしまわないと|手《て》|遅《おく》れになるわ……」
ミチは、相変わらず押し|黙《だま》っていた。――やや、体の震えもおさまったようだ。
ナオミは立ち上がって、|奥《おく》の部屋へ入って行った。ミチの手が包丁へのびた。
「――これ、気に入らないかもしれないけど着てってちょうだい」
とナオミが下着や服を一|揃《そろ》い持って出て来た。「下着は全部新品で、一度も使ってないわ。服はちょっと合わないかしら。でも、帰るまでだから、|我《が》|慢《まん》してね」
と、ソファに服を置く。
ミチが、まだ|涙《なみだ》の|乾《かわ》かない目でナオミを見た。
「本当にごめんなさい」
とナオミは言った。
ミチは下着をかき寄せると、言った。
「あっち向いてて」
「はいはい」
ナオミは、それでもミチが口をきいてくれたのでホッとしながら、背中を向けた。
「――テツとは長いの?」
と後ろ向きのままで、「人は悪くないのね、ただ、ちょっとばかりカッコをつけたがるだけで……。あなたが、テツを連れてどこかへ行くといいわ。東京を離れたら? 大阪あたりなら安全だわ。二人でやり直せばいいのよ。私もテツにそう言ってやろうと――」
突然、|鈍《にぶ》い痛みがナオミのわき腹を走った。ハッと振り向くと、ミチが、両手で包丁をしっかりと|握《にぎ》りしめている。刃の先に血がついていた。
ナオミは痛むわき腹を手で押えた。ヌルッと血が触れた。
「やめて……」
ナオミは弱々しい声で言った。膝の力が抜けて、床にペタンと座り込む。ミチの手から包丁が落ちて、床にストンと突き立った。
ミチは、ナオミのワンピースを、ボタンを外したままで着ていた。
「私を……どうして?」
ナオミはソファへもたれかかった。
「テツを盗んだわ! この|泥《どろ》|棒《ぼう》!」
ミチはそう叫ぶと、玄関へと駆け出して行った。
ナオミは、かなり出血しているのに気付いた。このままでは……。
でも、その前に。――そうだ、やらなくてはならないことがある……。
ナオミは、床に落ちていた、ミチの引き裂かれた下着を拾い上げると、床に突き立っている包丁の|把《は》を|拭《ぬぐ》った。
これでいい。次は助けを呼ばなくては……。ナオミは立ち上がろうとして、よろけた。電話のほうへ、二、三歩、よろけながら歩くと、そのまま床へ突っ伏してしまった。
「ああ……|眠《ねむ》い……」
と、ナオミは呟いて、目を閉じた。
3
「あれ?」
テツは、足を止めた。
今マンションから飛び出して行ったのは……。見なれない|服《ふく》|装《そう》だが、ミチの奴じゃないかな?
まさか、とは思ったが、ミチのことだ、探し当ててやって来たのかもしれない。ナオミと出くわしたのだろうか? まずいな、こいつは。
テツは急いでマンションへ入って行った。
ナオミの部屋のドアを開けると、
「おい、ナオミ」
と声をかける。「――いないのか?」
留守なら、ちょうどいいが、しかし、|玄《げん》|関《かん》の|鍵《かぎ》もかけてないというのは……。
「おい……いないのかい?」
と居間へ入って、テツは愕然とした。
床にナオミが突っ伏している。わき腹から流れ出た血が、カーペットに広くしみ込んでいる。
テツは、その場にペタン、と座り込んでしまった。なにしろ血の色を見るとだめなのである。
青ざめて、貧血状態になり、ぼんやりと座っていると、どれぐらいたってからか、社長がやって来た。
「何だ、おい、テツか。――何を座り込んでるんだ?」
と声をかけながら入って来て、ナオミを見た。
そして――社長も青くなって、その場にへたり込んでしまったのである。どうもテツ同様、血には弱いようであった。
野木由子は、スナックへ昼間から入りびたって、カクテルを飲んでいた。
「大丈夫ですか?」
と、本条が心配そうに訊く。
「平気です! これぐらい!」
と由子が言い返す。
「やけにならないでください」
「誰もやけになんてなってません!」
と由子は|苛《いら》|々《いら》とカウンターを叩いた。
「あなたのせいじゃありませんよ」
本条が|慰《なぐさ》める。
「でも、この手に持ったのに!――ああ、ついてないわ!」
由子はやっぱりやけになって、グラスを一気に|空《から》にした。
「しかし変ですね、どこでぬいぐるみのことを聞いたのかな」
「知らないわ、私は誰にもしゃべってないわよ」
「僕もですよ」
「でも、相手ははっきり『爆弾』って言ったわ」
「しっ! 声を低くして」
と本条があわてて言った。「――つまり、きっとそいつは僕らの話を聞いてたんですよ」
「でもどこで?」
「さあ……。あの妙な喫茶店かな」
「でも、あそこは個室よ」
「だから……盗聴されてたのかもしれない」
「なぜ私たちの話を?」
「話を聞くつもりじゃなかったのかもしれませんよ」
由子は意味が分かると真っ赤になった。
「失礼だわ、そんな!」
と由子は文句を言った。
「まあ、そうとは限りませんけどね」
と、本条はちょっと笑いながら、「しかし、他に考えられないからな。――やっぱりあの個室喫茶で盗聴されたんだと思いますね」
「盗聴なんかして面白いのかしら?」
「カセットテープを売ってますからね、その手の。きっと商売になるのかもしれない」
「男っていやらしいのね」
と、由子も八ツ当たり気味である。「ともかく、その可能性があるとしたら、取るべき道は一つね」
「どうします?」
「行ってみるほかないわ、あの店に」
と由子は断固として言った。「多少、|酔《よ》いをさましてからね……」
アベック喫茶〈A〉に、再び足を踏み入れた由子は、受付に、前と違って中年のおばさん風の女性が座っているのに気付いた。前は確か若い女の子だったようだが。
本条が、右側の五番目の部屋がいいと注文している。
「同じ部屋のほうが思い出があっていいって彼女が言うもんだから」
本条さんったら、いい加減なこと言って!
由子は赤くなったが、まあ仕方ない。同じ部屋へ入って、マイクがあるかどうか調べてみるのだ。
「はいはい、|空《あ》いてますからどうぞ」
と、受付の女が気がなさそうに肯いて、案内に立つ。
欲しくもないコーヒーを取って、二人きりになると、本条は、部屋の中を探し回り始めた。由子も|一《いっ》|緒《しょ》になって、テーブルの裏側、ソファの下などを覗き込む。
「ないですね。外しちゃったのかな」
「これだけの部屋なのに――」
と、言って由子は天井を見上げた。「ねえ、本条さん」
「何です?」
「あの穴は?」
「|換《かん》|気《き》|孔《こう》でしょう」
「何か見えるわ。|金《かな》|網《あみ》の向こう。――ほら」
「なるほど……。ちょっとそのテーブルを」
本条は、テーブルをその穴の真下へ持って来ると、上に上がって、換気孔を覗いてみた。
「――確かにそうだ! マイクですよ」
「やっぱり聞かれてたのね」
「よし、行きましょう」
本条は部屋を出ると、受付へ|大《おお》|股《また》に歩いて行って、いきなり、「どういうつもりなんだ!」
と怒鳴った。
受付の女もびっくりしたが、由子もびっくりした。本条は、いかにもその最中に、マイクに気付いて腹を立てている恋人らしく見えた。――たいした役者だわ、と由子は感心していた。
「そりゃ知りませんで……」
「知らないで済むかよ! どこで録音してるんだ?」
「いえ、いつも受付にいる子が今日は急に休んじまったんですよ。――そうだ。きっと、テツだわ」
「テツ?」
「受付の子の恋人なんですよ。きっとあいつだわ。そんなことしてたのは」
「|冗談《じょうだん》じゃないよ!」
と、本条は言った。「じゃ、前の僕たちのもテープに入ってんのか?」
「さあ、そこまではね……」
と受付の女は|肩《かた》をすくめた。「ま、いいじゃないの。人に聞かれたって、減るもんでなし」
「そうはいかないよ。そのテツってのはどこにいるんだ?」
「受付の子と|同《どう》|棲《せい》してるらしいけど。ミチっていって、ちょっとばかりトロイけど、まあそう悪い子でもないですよ」
「そのミチって子の住まいは?」
「ねえ、お客さん、そこまで――」
「ここで|騒《さわ》がれるより、その子の住まいで騒がれたほうがいいんじゃないかい?」
本条の押しかぶせるような言い方に、受付の女は|渋《しぶ》|々《しぶ》、ミチのアパートの住所を調べて、本条に教えた。
「OK。サンキュー。おい、由子! 行こうぜ。テープを取り戻してやる」
由子は、あわてて、
「は、はい!」
と駆け寄って来た。
「さ、こんなところ、早く出よう!」
本条は由子の手を引っ張って、アベック喫茶を出た。
「――ああ、びっくりした」
と由子は笑いながら、「本条さん、いかにも堂に入ってたわ」
「これで、タダで出て来れたでしょ」
本条は|澄《す》ましてそう言った。
「そのミチって女の子のところへ行ってみる?」
「|唯《ゆい》|一《いつ》の|手《て》|掛《がか》りですからね」
「住所は……大久保か。割りと近くね」
「これだけで探すのは楽じゃないけど、交番で訊くのもちょっとね……」
「いいわ。時間はあるもの。探しましょうよ」
「ええ……。でも、あの辺も凄いですよ」
「凄いって!」
「旅館や何かがズラッと|並《なら》んでて……」
「ああ……。でも……入るわけじゃないんだし」
由子はそう言って、なんとなく下を向いてしまった。――そろそろキスの一つもしていいかな、などと考えていたのだ。
そのぬいぐるみは、|薄《うす》|暗《ぐら》い部屋の、棚の上に座っていた。
トントン、と階段を上がる音がして、ガラリと戸が開く。廊下の光が部屋の中へ射して、ぬいぐるみを照らし出した。
「ただいま、クマちゃん」
セーラー服の少女が、明かりをつけると真っ直ぐにぬいぐるみのほうへ歩いて行って、その鼻を指でちょっとつついた。
「いい子にしてた? 私は|頑《がん》|張《ば》ったのよ。なにしろ三科目もテストがあったんだから!」
少女は十六|歳《さい》。外見は十四、五にも見える。小柄で、か細い少女だった。
目がクリッと大きくて、顔色が少々青白いのがちょっと病的な印象を与えるが、美人の顔立ちは、従姉の宮平広美と多少|似《に》|通《かよ》っていた。
もちろん、このぬいぐるみは、この少女――|安《あん》|藤《どう》|恒《つね》|代《よ》が、広美のアパートの|掃《そう》|除《じ》を手伝って、もらって来た、そのテディ・ベアである。
この十六歳の女学生は、自分が今、「爆弾」と一人きりの対話を交わしているのだとは、知る|由《よし》もない……。
由子と本条は、足が棒どころか柱になるぐらいまで歩き回って、やっと、ミチという娘がテツというチンピラと同棲しているアパートへ|辿《たど》り着いた。まさに辿り着いたという感じで、二人ともいい加減へとへとである。
「まあ、ここまで来たんだ。ちょっと――一休みしますか」
と、本条が言ったが、そう言われると逆に頑張ってしまうのが由子の性格で、
「いいえ。ともかく話をしなきゃ!」
と、断固として主張した。
「――この部屋かな」
本条はドアを|叩《たた》いたが、一向に返事はない。
「留守かしら?」
「さあ。ドアは……開いてますよ」
鍵はかかっていないのだ。スッとドアが開いて来た。
「本条さん! ガスの|匂《にお》い!」
と由子が叫んだ。
「いけない! ここにいて!」
本条が大きく息を吸い込むと、部屋の中へ飛び込んで行った。
脳裏を、爆発で吹っ飛んだ、あの中原の部屋の|惨状《さんじょう》がよぎって、由子は身震いした。本条が、例のミチらしい娘を背中におぶって、廊下へ出て来た。
「まだ息がある! 由子さん、|隣《とな》りの部屋へ行って、電話を! 一一九番へかけてください」
「わ、わかったわ」
「それからこの近所ではしばらく火を使わないように、ガスは今止めましたが、窓をこれから開けて来ます」
「大丈夫?」
「ええ。その後、僕は――」
「分かったわ」
本条が警察と関わり合うのはまずいのだ。由子が一人でやったことにしなくてはならない。そう思うと、少し|恐怖感《きょうふかん》が薄れた。
本条が窓を開けて戻って来ると、すぐに由子は隣りの部屋のドアを叩いた。その後は一騒動であった。救急車、パトカーがやって来て、近所の人も集まって来る。
由子は、暗い気持ちで、|担《たん》|架《か》に乗せて運ばれるミチという女の子を見送った。ミチは、まだそうガスを吸い込んでいなかったようで、命は助かるということだったが、それもあまり由子の心を明るくしてはくれない。
自分のせいではない。それは分かっているのだが、やはり気持ちは重苦しくならざるを得ないのである。――由子は迷信を信じない。しかし、あのテディ・ベアを手にした者たちが、どうしてこうも不幸に|見《み》|舞《ま》われるのだろう?
中原の部屋からあれを盗み出した少女は殺された。そして浜本静枝は――今は救われたとはいえ――夫を傷つけて、裁きを受ける身である。そして彼女からテディ・ベアをもらった内村は、結婚|披《ひ》|露《ろう》|宴《えん》で刺されて死んだ……。
そして今、またあのミチという娘が自殺|未《み》|遂《すい》。
あのぬいぐるみの爆弾は、本来の力を発揮しないうちに、もう何人もの人間の血を吸っているのだ。それだけに不安であった。あれを爆弾と知って盗んで行った男――それがおそらくテツという名なのだろう――が、それを何に使うつもりなのか?
「もうたくさん」
と、由子は|呟《つぶや》いた。
おやすみ、テディ・ベア(上)
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年7月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
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(C) Jiro AKAGAWA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『おやすみ、テディ・ベア』昭和60年12月25日初版発行
平成10年 2月10日22版発行