角川文庫
おとなりも名探偵
[#地から2字上げ]赤川次郎
目次
天使の寄り道
晴れ姿三姉妹
幽霊親睦会
マザコン刑事の大晦日
三毛猫ホームズの殺人協奏曲
天使の寄り道
1
「クリスマス!」
と、マリは言った。「身も心も洗い清められる気分よね。――そう思わない? ね、ポチ。――ポチ?」
振り向いたマリは、ポチがついてきていないのに気付いて面食らった。
どこに行っちゃったんだろう? 確かさっきまで後からついて来てたのに……。
マリは道を戻って行った。
風が冷たい。――十一月も終りに近く、今マリの歩いているにぎやかな繁華街はもうクリスマスの飾りつけ。
夜の八時という時間のせいもあるし、週末の金曜日ということもあるだろう。イルミネーションは大いにマリを喜ばせた。
まあ、クリスマスといっても、大部分の人にとっては「信仰」よりは「商売」の問題であることはマリも承知している。それでもクリスマスが「聖なるもの」であることが、人をほんの一瞬でもやさしくするかもしれない、と……。
そう思うと、一応天使の「仮の姿」であるマリは悪い気がしない。
とはいえ……。
「キャン!」
と、派手に|吠《ほ》える声がして、
「ポチだ」
マリは駆け出した。
真黒な、大きな犬が忙しく行き来する人々の間を抜けて走ってくる。
「ポチ! こっちよ!」
マリは、エプロンをつけた男が、バットを手にして、ポチを追って来るのを見て、あわてて大声で呼んだ。そして、わきの細い道へと走って行く。
ポチもマリの後を追って来て、二人は裏通りのややこしい道を右へ左へと駆けて、
「――もう大丈夫」
と、息を切らしてマリが足を止めた。
「何したのよ、あんた!」
「何って……ちょいとソーセージを二、三本いただいただけさ」
ポチの方もハアハアと|喘《あえ》いで、「生きてかなきゃならねえんだぞ。腹が減って目が回りそうだ」
「そうか……。でも、やめなさいよ、そんなみみっちいこと」
と、マリは言った。「何か私が働くわよ。仕方ないでしょ。一週間も|風《か》|邪《ぜ》ひいて寝てたんだから」
天上界から下界へやって来た天使、マリも、今はごく当り前の人間の少女。風邪もひけばお|腹《なか》も|空《す》く。
「あんたがそんなこと言うから、私までお腹空いてきちゃった」
と、文句を言った。
黒犬のポチは、成績不良で地獄から|叩《たた》き出されて来た悪魔の変身した姿である。
ひょんなことでマリと一緒に人間界の研修中――と言えば聞こえはいいが……。
マリとポチは自由に話ができる。しかし、人間の耳には、ポチの言葉は聞き取れないのである。
「何かいいバイト、ないかしら」
と、マリたちが歩いて行ったのは、ズラッとバーの並んだ細い路地。
店によっては〈ホステス募集〉という|貼《は》り紙の出ている所もあるが、何しろマリはどう背伸びしてみたところで、十七、八にしか見えない。バイトするには不便なのである。
「――あ、皿洗い」
と、マリは足を止めて、「大してお金になんないけど、しょうがないかな」
「一番手っとり早いのは、お前がその辺のおっさんを捕まえて、『遊ばない?』ってやることさ。すぐ二、三万になる」
「やめてよ。そんなことしたら、二度と天国へ戻れないわ」
「へへ、だめか」
と、ポチが笑う[#「笑う」に傍点]。
すると、
「君」
ギュッと肩をつかまれて、マリは振り返った。
「はい」
大柄な、がっしりした体格の男である。三十歳くらいか、少し寒そうな体を薄っぺらなコートで包んでいる。
何だか学校の先生みたい。
「何をしてる」
と、|叱《しか》るような口調で言う。
「あの……歩いてます」
男はムッとした様子で、
「ふーん。そういう態度に出るのか。学校はどこだ」
「え?」
「学校だ! 高校生だろ。中学か、それとも?」
「いえ、あの……。天使の通う学校ですから」
「何だと?」
「あ、何でもありません。学校……じゃないんです」
「いい加減な!」
と、男はマリの腕をつかんだ。「来たまえ」
「あの――困るんですけど、私。ちょっと――。ポチ! 助けてよ!」
と呼ぶと……。
ポチは先の方の店先で、客からおつまみの残りをもらって食べている。
ポチ!――全く、もう!
マリは、何とか逃げようとしたが、男の力が強くて、とても振り放せない。
こうなったら、仕方ない!
大天使様、お許しを。――心の中で祈って、マリはエイッと男の向うずねをけとばした。
「いてっ!」
男がさすがに手を離してよろける。
マリはパッと駆け出したが――、何と目の前にパトロール中の警官が二人、立っていた。
「捕まえてくれ!」
と、男が怒鳴った。
かくて――天使が補導されてしまうというはめになったのである。
ドアが開いて、マリはドンと背中を突かれ、部屋の中へ転がり込んだ。
ドアがバタンと閉り、|鍵《かぎ》のかかる音がした。
「ああ痛い……」
マリは、腰を押えながら起き上ったが……。
気が付くと、一人じゃなかった。
薄暗い部屋に、たぶん十代の女の子ばかりが五、六人も入れられていた。
窓はあるが、鉄格子がはまって、その外の街灯らしい光が少し|射《さ》し込んでいる。
「何だ、ガキだよ」
と、|誰《だれ》かが言った。
似たようなもんだろう、と思ったが、マリは黙っていた。
「おい」
と言ったのは、正面にあぐらをかいていたジーパン姿の娘。「何したんだい?」
「私?」
マリは、頭を振って、「歩いてただけ」
「でたらめ言うなよ」
と、|凄《すご》んで来たのは、革ジャンパーの、スラリと長身の娘。「素直に返事しな」
「だって――本当なんですもん」
と言うと、やおら胸ぐらをつかまれて、マリは目を白黒させた。
「やめろ」
と、正面の娘が言った。「ま、そんなこともあるかもしれないよ」
マリは、離してもらって、やっと息をついた。
「名前は?」
「マリ……です」
「マリ、か。私はね、ユミっていうんだ。その、ちょっとおっかないのは『さち』。幸せ、って字を書くんだよ。ちっとも幸せじゃないけどね」
ユミと名のった娘は笑って、「ま、歓迎するよ。ゆっくりしな。そう言っても、座布団一つないけどね」
確かに、机も|椅《い》|子《す》もないので、みんな冷たい床に腰をおろし、壁にもたれかかっている。何しろ冬の夜だ。しばらくすると、お|尻《しり》がすっかり冷えて来てしまった。
「ユミさん……ですか」
と、マリは小声で、「ここにいる人たち、みんな知り合いなんですか」
「そういうわけじゃないよ」
と、ユミは首を振って、「幸は、私の子分だけどね。ま、連中にとっちゃ、同じなんだろうね」
「連中?」
「補導ってやつに熱心な先生たちとかさ。あんたもそいつに捕まったんだろ?」
「ええ……。本当に何もしてないのに」
「そんなもんだよ。格好とか、親の仕事とかで、こいつは不良だ、って決めてかかる。いくら本当のことを言っても、信じちゃもらえないのさ」
暗がりに目が慣れてくると、マリはユミがたぶんまだ十七、八だろうと分った。
小柄だが、しっかりした顔立ちは大人で、目にも力があった。マリも、人間界の研修を重ねて、少しは人を見る眼ができていた。
ドアがガチャッと音をたてて開いた。
「おとなしくしてるか」
と、顔を出したのは、マリを引張って来た男で、「おい、幸。――出ろ」
と、あの長身の娘に声をかける。
「何の用よ」
と、幸が座ったまま言い返す。
「出してやると言ってるんだ。さっさと出ろ」
「一人じゃ出ないよ。ユミも一緒でなきゃ」
「おい――」
「待って」
と、ユミが遮って、「幸。いいから出な。あんたは|風《か》|邪《ぜ》ひきやすいんだから」
幸という少女は、ちょっと不服げに口を|尖《とが》らしたが、やがて渋々立ち上った。
「じゃ、出てやるよ」
と、肩を揺する。
「いばる|奴《やつ》があるか」
と、男が苦笑した。
「|植《うえ》|田《だ》先生」
と、ユミが言った。「ちょっとトイレに行かしてくれよ。こう冷えちゃね」
「よし。一人ずつだ。待ってろ。頼んでやるから」
幸を出して、植田と呼ばれた男はドアを閉めた。
「――先生って、あの人、本当に学校の先生なんですか?」
と、マリは|訊《き》いた。
「そう。植田っていって。何しろ私たちみたいな不良の補導と更生を助けるのが趣味って奴でね」
「へえ……」
マリは、でも、植田という男に、どこかうさんくさいものを感じていた。
少しして、警官が来ると、
「一人ずつだ」
と、付き添ってトイレに連れて行ってくれることになった。
「――あんたは?」
と、ユミがマリに訊く。
「あ、後でいいです」
実際、何人かは我慢していて具合さえ悪くなりかけている様子だった。マリは、ユミがそういう点にも気をつかっているのを、偉いと思った。
ユミは、他の子たちが行ってから自分も立ち上ったが、ふとマリの耳もとへ口を寄せて、
「もしかしたら、ここへ戻らないかもしれないよ」
と、小声で言った。
「はあ……」
|呆《あっ》|気《け》に取られて、マリはユミが前の子と入れ替りに出て行くのを見送っていた。
戻って来ない、ってどういうことだろう?
マリが待っていると、なかなかユミは戻らなかった。
その内に、廊下をドタドタと駆ける音がして、
「おい! 早く捜せ!」
「まだ近くにいるぞ!」
と、怒鳴る声が聞こえた。
部屋の中の女の子たちは顔を見合せ、
「ユミ、逃げたんだ!」
「やった!」
と、声を弾ませた。
逃げた? でも、どうやって?
マリがびっくりしていると、ドアが開いて、あの植田という教師が顔を出した。
「おい! ユミの奴が逃げた。――どこへ行くか聞いた奴がいたら、素直にしゃべれよ。出してやってもいいぞ」
女の子たちが目を見交わす。誰も口をきく様子はなかった。
「あの……」
と、マリは言った。
「何か知ってるのか」
植田が勢い込んで訊く。
「私……まだトイレに行ってないんですけど」
他の女の子たちが一斉に笑った。
「来い!」
植田はムッとした様子で、マリを廊下へ出すとドアを閉め、「おい、こいつを連れてってやってくれ」
と、警官に言った。
「はあ。――こっちだ」
マリは、警官に付き添われてトイレに行った。こんなところを大天使に見られたら、マイナス点がつくだろうな、と思いつつ……。
――トイレで、用を足して手を洗い、廊下へ出てみると、ついて来た警官がいない。
「あれ?」
天使にしては――というのも変だが――方向音痴のマリは、一人じゃ元の部屋へ戻れそうになかった。
キョロキョロしていると、
「馬鹿! こっちだ!」
と呼ぶ声。
マリはびっくりして振り向いた。
「ポチ! どうしてこんな所にいるの? あんたも補導されたの」
「悪魔を補導してどうすんだよ」
「ま、それもそうか」
「早く来い。こっちからなら出られるぞ」
「うん。――ワッ!」
マリは、危うくつまずきかけて、そこに警官が倒れているのを見てびっくりした。「ポチ! あんた、何したのよ!」
「何もしねえよ。いきなりすぐそばで|吠《ほ》えてやったら、びっくりして飛び上ってさ。その拍子に足滑らして頭打ってのびちまったんだ」
「本当? 大丈夫かな。打ちどころ悪くてとか……」
マリはかがみ込んで、警官の脈をとった。
「――うん、大丈夫だ」
と、|肯《うなず》いて、
「じゃ、行こう」
マリはポチの後について、廊下を小走りに急いだ……。
2
「ありがとうございました!」
マリは元気のいい声を出した。
こういう声が出せるというのは、お腹に充分食べものが入っている、ということである。
「ご苦労さん」
と、先に昼食をすませた同僚が戻って来た。「マリちゃん、お昼、行っといで」
「はあい」
マリは、制服になっているエプロンを外し、「じゃ、行って来ます」
「ああ。どうせ暇な時間だ。ゆっくりしといで」
その男の人は、このケーキ売場の主任で、|寺《てら》|尾《お》さんといった。三十くらいで、やさしい人である。
マリがこのお菓子屋さんで雇ってもらって十日たつ。
お店の寮があって――といっても、相当にひどいボロアパートだが――ともかく寝る所はある。そして日々のバイト料で、何とか食べていけた。
加えて、お赤飯とかおにぎりとかを売っているので、余ると寺尾がマリにくれる。おかげで大分胃の方も助かっていたのだ。
もちろんポチの方のお腹もだ。
マリは、近くのコンビニでお弁当を二つ買うと、急いで寮へと戻った。
「遅いぞ」
ポチが、部屋の中でむくれている。
「こっちは働いてるのよ。そうそう勝手に出ちゃ来らんないんだから」
マリは、息を弾ませて、「さ、食べよう」
「ケーキの|匂《にお》いをプンプンさせやがって」
「しょうがないでしょ。商売だもん」
二人[#「二人」に傍点]は早速お弁当を食べ始めた。――マリは午前中に前の日のおにぎりの残りも食べていたが、それでも昼はしっかり食べる。
「ケーキ屋ってのは正解だったな」
と、ポチが早々と食べてしまって、言った。
「|呆《あき》れた。もう食べたの?」
「TVでも見るか」
ポチがTVのスイッチを押した。――もと[#「もと」に傍点]カラーTVだったが、今は色がほとんどついていないという古いTV。
「犬がTVなんか見ないわよ」
「退屈なんだ」
「変なの」
マリは、缶のウーロン茶を飲んで、「クリスマスが近付くと、ケーキ売場は忙しいんだって。少しはお金が|貯《た》められるかもしれないわね」
「――おい、見ろ」
「何よ」
「TVだよ」
「え?」
マリはTVの画面を見て、「あれ? どこかで……」
画面に出ているのは、若い女の子の写真だった。
「――|向《むか》|井《い》|幸《さち》、十九歳と分りました」
幸! そうだ、あの子だ。
「ポチ、どうしてこの子を知ってるの?」
「それより、よく見ろよ」
TVを見たマリは、向井幸が自殺[#「自殺」に傍点]したことを知った。電車に飛び込んだのだ。
「――|可《か》|哀《わい》そうに」
と、マリは|呟《つぶや》いたが、もっと驚くことが待っていた。
「――向井幸は、十一月三十日、K署内で警官が殺されたとき、現場から逃走しており、当局が重要参考人として行方を追っていました」
と、アナウンサーが言った。
「三十日? K署って……。あの、私が連れてかれた所でしょ」
「ああ」
「そこで……警官が殺された?」
マリの顔からさっと血の気がひいた。「もしかして、ポチ――」
「あいつ、生きてたぜ」
「でも……後で突然死んだのかも……。どうしよう!」
マリは、立ちすくんだ。「私のせいで……。警官が死んで、幸って子も?――私、天国へ戻れない!」
「遅くなって、すみません」
と、売場へ戻ったマリは言った。
「いや。――何だか青い顔してるよ。大丈夫かい?」
と、寺尾が心配してくれる。
「ええ、何ともありません」
とは言ったものの、「何ともない」とはとても思えないだろうと分っていた。
あの警官が死んだ? もし、それが自分のせいだったら、マリとしてはずっと人間界にいて、その罪を償わなくてはならないだろう。
隠しておこうとしてもむだである。ともかく、「天上」からは何でもお見通しなのだし、マリが大天使に向って|嘘《うそ》をつけば、それだけで罪になる。
もちろん、マリ自身が手を下して殺したわけでもないし、警官に吠えついてびっくりさせたのはポチの方だが、それはマリを助け出すためにやってくれたこと。天国の考え方では、それもマリの罪になる。
「いらっしゃいませ」
客が入って来るのを見て、マリはともかく今は仕事に集中しよう、と思った。そして、店が終ったら、死んだ警官というのがあの倒れていた警官かどうか、確かめに行こう。
「――マリちゃん、お客さん」
と、寺尾が言った。
「ああ! はい」
寺尾を手伝おうとしていると、別の客が店に入って来たのである。マリは、その客が、棚の商品を眺めているので、後ろに立って、邪魔しないように待っていた。
するとその客が、マリに背中を向けたまま、
「元気そうだね」
と言った。
「え?」
マリは面食らった。「あの……」
「しっ。私よ」
チラッと振り向いたのは、ユミだった。
「あ……」
「今、表を通りかかったら、あんたの顔が見えてね。ちょっと声をかけていきたくなったのよ」
ユミは、寺尾がレジを打っているのに目をやって、「頑張ってね」
と言った。
「ユミさん……。あのときの幸って……」
「知ってる」
ユミは目を伏せて、「可哀そうに。|敵《かたき》は取ってやるよ」
「敵?」
「まあいいよ。あんたは何も知らなくていい。――もう行くよ。お店の人が変に思うから」
マリが寺尾の方を振り向くと、
「マリちゃん。ちょっと、奥へ入ってるから、頼むよ」
と、寺尾が言った。
「はい」
マリは、寺尾の姿が消えると、「ユミさん、待って」
と、急いで、ショーケースの内側に入り、余っていたおにぎりとお赤飯を紙袋へ入れて、
「こんなものしかないけど。――食べて下さい。昨日のだけど、少し冷たいだけで、充分食べられますよ」
ユミはちらっとマリを見て、
「いいの?」
と|訊《き》いた。「――じゃ、いただいとくよ。あんた、分ってたんだね、私がお|腹《なか》|空《す》かしてるの」
「人の顔を見るのは、慣れてるんです。天使だから」
「――天使か」
ユミはちょっと笑って、「確かにぴったりかもしれないね」
紙袋をギュッとコートのポケットへねじ込むと、
「じゃ。――もう巻き込まれちゃいけないよ。私のこと、どこで会っても知らんぷりするのよ」
「ユミさん。――何かあったんですね」
マリは、ユミから何かただごとでない気配のようなものを感じた。
「気にしないの」
ユミは、マリの肩をポンと|叩《たた》いて、「じゃ、達者で」
と、店を出て行った。
が、ユミはパッと身を翻して店の中へ戻って来ると、
「ごめん! 裏口、ある?」
と、切迫した口調で言った。
「そっち。――トイレがあって、その先に裏に出るドアが」
「ありがとう」
ユミが素早く姿を消すとほとんど同時に、店の自動扉がガラガラと開いて、男が一人、入って来た。
マリは息をのんだ。――高校教師の植田だったのである。
「プリンを四つくれ」
と、植田はぶっきらぼうに言った。
「はい。ありがとうございます」
マリは、できるだけ目が合わないようにして、急いでプリンを紙箱に入れた。
寺尾が戻って来たので、
「レジ、お願いします」
と、植田から目をそらしていることができた。
植田の方を、それでも気になってチラリと見ると、何となく|苛《いら》|々《いら》している様子である。
「――ありがとうございました」
マリは、植田が店を出て行ったので、ホッとして息をついた。
この寒いのに、汗かいちゃうよ!
でも、植田がこんな店に……。何かこの近くに用があったのだろうか?
「あ! マリちゃん、今のお客さん!」
と、寺尾が言った。
「え?」
「百円、残ってるよ、おつりが。追いかけてって、渡して!」
「あ――はい!」
マリは、おつりをのせた皿に百円玉が一つ残っていたのをつかむと、急いで店を飛び出した。
本当なら、植田を追って行ってこんなものを渡したりすれば、マリのことに気付くかもしれないのだから、行きたくはない。けれども、お客におつりを渡しそこねるというのは大変なことなので、「ともかく絶対に追いかけて、見付けて返すこと」と言われていた。
マリとしては、やはり雇われている以上、言いつけは守らなくてはならない。
しかし――どこへ行ったんだろう?
店を出て、どこかに植田の姿が見えないかとキョロキョロ見回して――。
「あれだ!」
植田の後ろ姿が人の流れの中に見え隠れしている。マリは、急いで人の間を縫って駆けて行った。
3
どこだろう?
マリは息を弾ませて、そのマンションのロビーを見回した。
確かに、植田はこのマンションに入った。けれども、どの部屋に行ったかまでは知りようもない。
マリは、百円玉を握りしめ、ロビーで困って突っ立っていた。何もこうまでして百円を返さなくてもいいようなものだが、そこは天使で、やはり|生《き》|真《ま》|面《じ》|目《め》なのである。
どうしよう?――出て来るのを待っているといっても、いつ出て来るものやら、見当もつかないのだ。
寺尾だって、あんまりいつまでもマリが帰らなかったら、どうしたのかと心配するだろう。
仕方ない。|一《いっ》|旦《たん》店に戻ろうか、とマリが考えていると、外からコートのえりを立てた男が一人、ロビーへ入って来た。
何となくマリと目が合うと、ニヤリと笑って、
「寒いね」
と言った。
「ええ……」
「君……何してるんだ?」
四十五、六か、よくいるサラリーマンの典型みたいなおじさんである。
「別に……」
と、マリは言った。
説明のしようもないし、別の人に百円のおつりのことを話しても、何の意味もない。
「君、もしかして――」
「はあ?」
「制服[#「制服」に傍点]か。そのエプロン姿、|可《か》|愛《わい》いね」
「そうですか?」
「うん。確かにいい。それに本当に若そうだね」
「本当に?」
「よくいるんだ。セーラー服とか着てても、どう見たって三十近い、なんてのが。君は本当に若そうだ」
マリには何のことやら分らない。
「さ、おいで」
と、いきなり手をつかんで引張るので、マリはびっくりした。
「あの――どこへ行くんですか?」
「決ってるじゃないか。〈501〉号室だよ!」
男はマリをどんどん引張ってエレベーターに乗せた。
「〈501〉って何があるんですか?」
「とぼけるなよ。|誰《だれ》かを待ってたのかい? でも、だめだよ。早い者勝ちだからね」
「でも――」
エレベーターが五階に着く。男はマリを引張って、〈501〉という部屋のドアまで行くと、チャイムを鳴らした。
ドアの向うに人の気配がして、すぐドアが開く。
「いらっしゃい」
と、女が言った。「あら、その子は?」
見たところ三十歳前後か。ごく普通のOLという外見だが、それなら昼間からこんな所にいるわけもないだろう。
「何だ、君のとこの子じゃないの? 下のロビーにウロウロしてたから」
「そう。じゃ、ともかく上って」
マリは、わけの分らないままにその部屋へと上った。
ふと、目がコートかけに止る。――あのコート、植田のと似ている。
「あんた、ここで働きたいの?」
と、女がマリに|訊《き》いた。
「いえ、別に……」
「でも、可愛いわ。その格好、いいわね! もてるわよ、おじさまたちには」
「はあ……」
「そのままがいいわ。こっちへ来て」
マリは、六畳間ほどの広さの部屋へ入れられた。ソファが並んでいて、女の子が四人、思い思いの格好で座っていた。
「さ、座って」
と、女がマリをソファへ座らせ、「ね、|山《やま》|口《ぐち》さん。この子にするの?」
「ああ、いいね」
マリを連れて来た男はニヤニヤしている。――いくら世間知らずのマリといえども、ここまで来れば、どういうことなのか分る。
四人の女の子は、二人がセーラー服、一人はブレザーの制服姿。もう一人が少し大胆なミニスカートだった。
ここは、そういう女の子たちを男に世話する所なのだ。
「君、いいだろ?」
山口と呼ばれた男は、なれなれしげにマリの肩に手を回してくる。
しかし、マリの注意は別のことに引きつけられていた。ソファの前のテーブルに置かれた、空になったプラスチックの容器。あれは……。
マリは手を伸ばして一つを取ると、|貼《は》ってあるラベルを見た。
やっぱり!――うちのプリンの容器だ。
プリン、四つ……。それじゃ……。
「プリン、食べたかったの?」
と、女の子の一人が笑って、「山口さん、気をきかして何か買ってくるもんよ」
「おいおい、こっちは忙しいんだ」
と、山口が苦笑いする。「そのプリンは誰が?」
「やさしいおじさまがね」
と、女の子の一人が立って笑った。
ふと、マリは思った。――この女の子、見たことがあるような……。
「ね、あなた、どう?」
と、女がマリの肩を|叩《たた》いて、「ほんの一時間のお相手で二万円になるのよ」
|凄《すご》い。たった一時間で二万円! あのお菓子屋さんで一日働いても、三千円くらいのものだ。
「私、ご遠慮します」
と、マリは立ち上って、「一時間で二万円なんて、楽して稼ぐとろくなことありませんから」
みんな、何となく|呆《あっ》|気《け》に取られている。
マリは百円玉をテーブルに置くと、
「これ、おつりを忘れた分です、って、プリンを買って来た『やさしいおじさま』におっしゃって下さい。失礼します」
マリが玄関の方へ行くと、山口があわてて追いかけて来て、
「君! そりゃないだろ、ここまで来てさ。なあ――」
と、マリの肩へ手をかける。
マリはパッと、その手を払って、
「天使に手を出さないで!」
と、厳しく言い放った。
「何だって?」
「天使に対してそういうことをすると、大天使様の罰が下りますよ」
「天使?――おい、いかれてるぜ、この娘!」
と、山口が笑って、「|面《おも》|白《しろ》い! 天使を裸にむいてやろうじゃないか」
と、玄関へ降り、ドアを手で押える。
「どいて下さい」
「帰しゃしないぞ」
「危いですよ、本当に」
と、マリが言った。「大天使様が――」
そう言ったとたん、バリバリと凄い音がして、ズドーンと、腹の底に響く音と共にマンションが揺れた。
「キャッ!」
と、あの部屋から女の子たちが飛び出して来た。
そして――パアンと叩きつけるような音がして、
「ワーッ!」
と、山口が飛び上った。
そして、ドアのノブをつかんでいた右手をかかえ込むようにして、
「手が……手が……」
と、|呻《うめ》きながら転がった。
「手が――こげてる!」
と、女の子の一人が叫ぶように言った。
「言ったでしょ」
と、マリは首を振って、「ドアに雷が落ちたんですよ」
「マンションの中[#「中」に傍点]なのに?」
と、ただ|唖《あ》|然《ぜん》としている。
「何ごとだ!」
と、奥から植田が飛び出して来たので、
「じゃ、これで」
と、マリは一礼した。
ドアの方へ向くと、ギーッとドアが自然に開いた。マリは静かに廊下へと出た……。
エレベーターに乗ってホッと息をつくと、
「大天使様、助かりました」
と両手を合せた。
「大天使を勝手にこき使うな」
と、文句を言うのが聞こえてくる。
「でも、いいタイミングでしたね。カッコイイ!」
「馬鹿め」
「でも……。どうして男ってあんな若い女の子をお金で買うようなことをするんでしょう? 悲しくなっちゃう」
「人間は、生きる目的を見失うと、ああいう一瞬の楽しみに身を任せるようになるのだ」
「そうですね……。でも、植田って先生まで! 学校の先生ですよ」
「教師とて人間だ。色んなのがおる」
マリはマンションを出て、風の冷たさに首をすぼめた。
「寒い! カシミヤのコートでも下さいよ」
「ぜいたくを言うな」
「必要経費で計上できません?」
と、歩き出してから、マリは思い出した。
あの部屋にいた女の子。その一人は、間違いなくK署でマリと同じ部屋にいた子である。
「大天使様……。私、どうしたらいいんでしょうか?」
と、急いで店へと戻りながら言う。
「自分で考えろ。それが研修だ」
「ケチなんだから。教えてくれたっていいじゃないですか」
ブツクサ言いつつ店に駆け込み、「――すみません!」
「マリちゃん……どこまで追いかけてったんだい?」
と、寺尾が目を丸くしている。
「すみません。ちょっと雷が落ちたりしてたもんで」
「何だって?」
「何でもないです。いらっしゃいませ!」
マリは、客が入って来たので、やたら大きな声を出した。客がびっくりして、一瞬逃げ出しそうになったほどだった……。
「人間なんて、そんなもんさ」
と、ポチが言った。「分り切ってるじゃねえか」
「あんたは勝手にそう思ってなさい」
マリは言い返して、「人間は、もっと美しいものを持っているのよ」
「ハハ、甘い甘い」
ポチは笑って、それから|大《おお》|欠伸《あくび》をした。「――おい、誰か来たぜ」
「え?」
本当だ。悪魔というのは、どうやら耳だけ[#「だけ」に傍点]はいいらしい。
トントンとドアをノックする音。
「はい、どなたですか?」
と、マリは立って行った。
「私。――ユミよ」
「あ……」
マリはドアを開いて、「どうぞ」
と、ユミを中へ入れた。
「ごめんなさい」
ユミは大分くたびれているように思えた。
「――あら、あんた、犬を飼ってるの?」
「ええ。飼ってる、っていうか、仲間みたいなもんです」
ポチが少しふてくされて、
「せめて相棒とか言えよ。でも、なかなかいい女だな」
「あんたは黙ってな」
と、マリはにらんだ。「――ユミさん、私、TVのニュースで見たんですけど、警官が一人……」
「ええ。K署で死んだのね」
と、ユミは|肯《うなず》いた。
「私のせいじゃないかと思って……」
マリの言葉に、ユミは目をパチクリさせて、
「どうして? あんた、警官を殴り殺して逃げたの?」
「殴り殺して?」
「そうよ。あの警官はK署に保管してあった、他の事件に使われた凶器の鉄パイプで殴られて死んだの」
マリはともかくホッとした。
「良かった! 私のせいじゃなかったんだわ」
「あんたって面白い子だね」
ユミは笑った。
「ね、ユミさん、今日、私――」
と、マリが座り直して、植田の行ったマンションのことを話してやると、ユミは息をつめて聞いていた。
「じゃ……植田が、その女の子たちの客に?」
「しかも、その中にこの間K署にいた子が」
「そう……。そうなのか」
ユミは何か思い当るように肯いた。「いいことを聞かせてくれたわ。ありがとう」
「ユミさん、どこにいるんですか、今?」
「逃げてるの」
「逃げてる?」
「私、幸と一緒にあの警官を殺したと思われてるのよ」
マリは|唖《あ》|然《ぜん》とした。ユミはちょっと息をついて、
「ごめんね。あんたを危いことに巻き込みたくなかったんだけど、今日の――おにぎりと赤飯が|凄《すご》くおいしくて……。ひと言、お礼を言いたかったの」
「いいんです、そんな――」
「じゃ、もう行くわ。もし、警官がこんな所へ来て、あんたも共犯なんてことになったら大変」
「じゃ……。待って下さい」
マリは手を伸すと紙袋を取って、「これ今日余ったサンドイッチです」
「おい、夜食にしようと言ってたんだろ」
と、ポチが文句を言ったが、マリは無視した。
「ありがとう。あんたはいい子ね。忘れないわ。たとえどうなっても」
「どうなっても、って?」
「幸のことをね、あのまま殺人犯にしていちゃ|可《か》|哀《わい》そうだろ。汚名をそそいでやるんだ」
「でも……危くないですか」
「いつ死んでも同じさ」
ユミは立って、「じゃ、達者でね」
止める間もなく、出て行く。――マリは、ポチの方を向いて、
「何か決心してる、って顔だったね」
と言った。「覚悟してるっていうか」
「人のことは放っとけよ」
と、ポチは言って、ふと頭を上げ、「おい、何か騒いでる」
「え?――本当だ。出てみよう」
二人は、アパートの部屋を出た。一階なので、もう目の前が道路。
「待て!」
タタッと警官が二人、駆けて行く。
「ユミさんだ」
マリは、夜の暗がりの中を駆けて行くユミの後ろ姿をチラッと認めた。
「逃げると撃つぞ!」
という声。
そして、銃声が夜の中に響いた。
「大丈夫さ。すばしっこい|奴《やつ》だ。逃げただろうぜ」
と、ポチが言った。
「でも……心配だ」
――警官が、なぜK署の中で[#「中で」に傍点]殺されたのだろう? そしてユミに疑いがかけられているのはどうして?
マリは、何か[#「何か」に傍点]が見えて来そうな気がして、必死に考え込んだ。
遠くにパトカーのサイレンが鳴っていた。
4
電話の鳴る音で、マリは目が覚めた。
「何だろ……」
寮なので、一応部屋に電話があるのだ。けれども、誰がかけて来るだろうか。
時計を見ると、夜中の二時だ。
「――はい」
と、電話に出ると、
「マリちゃん? 寺尾だ。悪いね、こんな時間に」
「寺尾さん! どうしたんですか?」
マリはびっくりして起き上った。
「実はね、明日の仕入れのことで急な問題が起って。君、すまないが、店に行ってくれないか。僕もすぐ出る」
「はい、分りました」
寺尾が言うのだ。よほどのことだろう。
マリは仕度をして、「アーア」と大欠伸をしながら、ポチの方を見た。グーグー眠っている。
まあ、起すこともないだろう。お店まではすぐである。
マリは、そっとアパートの部屋を出た。
十二月の夜道。――それも深夜二時。
風が凍りつくほど冷たく、マリの眠気もふっとんでしまった。
急ぐ気はなくても、つい足どりは速くなる。そして、じきにお菓子屋に着いた。
寺尾が来ていない。マリは、首をすぼめた。
マリなどは、もちろん|鍵《かぎ》を持っていないので、寺尾が来てくれないと入れないのである。
「――早く来ないかな」
と、|呟《つぶや》いて、マリはつい店の自動扉を手で引いてみた。
開く!――マリはびっくりした。
もちろん、電源が切ってあるので、力を入れないと開かないが、少なくともロックしていないのだ。寺尾が忘れたのだろうか?
中へ入って、マリはホッと息をついた。
暖房は入っていないものの、風がよけられるだけでも全く違う。
暗いケーキ売場をゆっくりと歩いて行くと、どこかでガサッと音がして、マリは飛び上りそうになった。
「――やだ、あんたか」
「ユミさん!」
マリは目を丸くした。「大丈夫だったんですか、昨夜は」
「やられやしないよ」
ユミは表の街灯の明りが|洩《も》れてきている所へ出て来ると、「昨日はごちそうさま」
「いえ……。でも、何してるんですか、こんな所で?」
「捜しもの」
「捜しもの? おにぎりとか……」
「違うわよ」
と、ユミは笑った。「――見付けた。ちゃんとね。これで、幸の|敵《かたき》を討ってやれる」
「何のことですか?」
「あんた、それより――どうしてここへ?」
「ええ。ここの主任さんが電話して来て、すぐ来てくれって。もう来ると思いますけど。いい人なんです」
ユミが緊張した表情になって、
「出よう!」
と言った。「早く!」
「でも――」
ユミはマリの腕をつかんで、自動扉の方へ引張って行った。
「命にかかわる。急ぐのよ!」
と、扉を開けてユミが外へ踏み出すと、バアンと銃声がして、ユミが右肩を押えてよろけた。
「ユミさん!」
マリはあわててユミを支えると店の中へ戻って、暗がりの中へ逃げ込む。
「ユミさん……傷は?」
「大丈夫。……逃げな」
「え?」
「殺されるよ。あんた、逃げて。私は動けば出血する」
「放っとけませんよ!」
表に人影が動いた。
「早く裏口から――」
と、ユミが言いかけたとき、足音がした。
「――マリちゃんか!」
「寺尾さん!」
店内の明りが|点《つ》いた。寺尾はコートを脱いで、
「裏から入って来たんだ。――その子は?」
「けがしてるんです! |誰《だれ》かが|拳銃《けんじゅう》を持って外に――」
ブーンと音がして、自動扉が少し小刻みに動いた。
「だめ! ロックして下さい。犯人が中へ入って来ちゃう」
と、マリは言ったが……。
表に、植田が現われ、拳銃を手に、扉の前に立った。自動扉がガラガラと開き、
「やあ」
と、植田はマリを見て、「百円を届けてくれてありがとう」
寺尾が、少し離れて、
「ここではやめてくれ」
と、植田に言った。「店の中は困る」
マリは|愕《がく》|然《ぜん》として、
「寺尾さん!」
ユミは、右肩の傷を左手で押えながら、
「植田の後を|尾《つ》けて、ちゃんと見届けたんだ。この売場で、植田がケーキやプリンを買うとき、ついでに[#「ついでに」に傍点]、そのケースの中に麻薬が隠してあるのをね」
「麻薬?」
マリは、寺尾を見て、「本当ですか?」
「どうでもいいだろう。もう今さら」
と、植田は言った。「おい、ユミ、教えてやろうか。幸の奴はな――」
「分ってる」
と、ユミは言った。「あんたは幸を手なずけた。ああして補導[#「補導」に傍点]して集めた女の子の中で|可《か》|愛《わい》いのを選んで、あの組織に売る。情報を仕入れるのに幸は重宝だったろ」
「確かにな。しかし、生意気に、逆らいやがった」
と、植田は首を振って、「お前に悪いと思ってたらしいぞ」
「幸は自殺じゃない。あんたが電車の前へ突き落として殺したんだ」
「もちろんさ。あんなのが死んでも、誰も本気で調べやしない。しかも、警官殺しの犯人なんてな」
「警官だって、あんたがやったんだ」
と、ユミは言った。「大方、あんたが幸一人を出して逃がそうとして、麻薬の話でもしているのを、警官の一人が聞いてしまった。それで――口をふさぐしかなかったんだ」
「分ってるらしいな」
と、植田は笑って、「しかし、お前もそこの子も、まさか逃げ出すとは思わなかった」
「植田さん」
と、寺尾が言った。「殺すのはよそう。いくら何でも――」
「何を言ってるんだ。こんな|奴《やつ》ら、生きてたって値打ちなんぞありゃしない」
「そっちよりあるわ」
と、マリは腹が立って言ってやった。「先生のくせして! 恥ずかしいと思わないの?」
「うるさい!」
植田は怒鳴った。「お前なんかに何が分る!」
「植田さん」
「寺尾。今さら抜けるなんて言うなよ。お前だってどっぷり首までつかってるんだ」
「分ってる」
寺尾はマリの方へ、「マリちゃん……。すまん」
「どうして麻薬なんかに?」
「僕は……女に金が必要だったんだ。金のかかる女だ。――月給だけじゃ、とても足りなかった」
「寺尾さん。――人は迷うものですよ。でも、やり直せるのも人なんです」
「おい、お前は天使だそうだな」
植田が笑って、「面白い。天使を抱くと、どんな味がするんだ? おい、脱げ」
「いやだ」
「そうか。じゃ、ユミを殺すぞ」
マリは息をのんだ。こいつはきっと平気でやる。
「だめよ」
と、ユミが首を振った。「どうせ殺すつもりなんだから! 言うこと聞いちゃだめ!」
右肩の出血は止っていないので、ユミは気が遠くなりかけているようだった。
「どうする?」
植田がニヤリと笑って、「どっちでも好きにしな」
「分った」
マリはユミから少し離れると、「ユミさんを病院へ。――寺尾さん。連れてって」
「しかし……」
「そうしてくれたら……、私のこと、どうにでもしていい」
マリは、青白い顔でじっと植田を見つめた。
「――よし。寺尾。ユミを連れてけ」
「植田さん……」
「早くしろ。|俺《おれ》はこいつと楽しんでるからな。ゆっくり戻って来い」
寺尾は、のろのろとユミの方へ近付くと、|一《いっ》|旦《たん》かがみ込んで――。そして、突然植田に向って飛びかかった。
銃声が響いた。
寺尾は腹を押えて|呻《うめ》いた。
「馬鹿め!」
植田が後ずさる。
「こいつ!」
寺尾が再び植田へとつかみかかった。
そのとき、扉が開いて、
「何だよ、一体?」
と、ポチが入って来たのである。
「ポチ、危い!」
植田が反射的に銃口をポチの方へ向けていた。ポチが頭を下げて飛び出す。
拳銃が火を噴いたが、弾丸はガラスの扉に穴をあけた。ポチが体当りすると、植田は引っくり返って拳銃が落ちた。
マリはそれを拾い上げると――撃ち殺すわけにはいかない。でも、これぐらいはいいだろう。
ガツンと銃把で一撃すると、植田は頭を抱えてのびてしまった……。
「――せっかく見付けたバイトなのに」
マリはため息をついた。
「しょうがねえな。麻薬を扱ってたとなったら、店も閉めるしかないさ」
結局、マリとポチは再び寝る所もなくなってしまった。
二人は、シャッターの下りた店の前から離れた。
晴れてはいるが、寒い。
「ポチ。――あんた、まずいんじゃないの? 悪い奴をやっつけたりして、地獄からにらまれない?」
「俺は身を守ったのさ。やっつけたのはお前だろ。暴力天使」
「しょうがないでしょ!」
と、マリはむきになって言った。「私は――少なくとも、寺尾さんは救えると思うもの。多少のことは目をつぶってくれるわ」
「怪しいもんだ。人間、一度道をそれると、くせになるぜ」
「それを努力して克服するのよ」
「お前も、自分で道草食ってみねえと、人間の気持が分らないぜ」
「その手にのるもんですか」
と、マリは舌を出して言った。
そこへ――大きな外車が|停《とま》って、ドアが開いた。
「マリさんかね?」
と、上品な紳士が出て来た。
「はい」
「私は、ユミの父親です」
マリは|唖《あ》|然《ぜん》とした。紳士は、
「病院で、ユミから聞きました。――あれは家出して、どうにも手がつけられなかった。しかし、今度のことで、家に戻ると言っています」
「良かったですね」
「それで――ユミに頼まれたのです。あなたに何度もごちそう[#「ごちそう」に傍点]してもらったので、お返しをしてくれと」
ポチが早くも舌なめずりしている。
「あの……。ありがたいんですけど、私一人じゃなくて、この犬も――」
と見ると、ポチはもうさっさと車へ入って行く。「ポチ!――本当にもう!」
マリは赤面した。
「どうぞ。犬の一匹ぐらい。ライオンや象でもよろしいですぞ」
紳士にすすめられて、マリは甘えることにした。
車に乗って、マリはつくづく、ポチが犬で良かったと思った。ライオンや象なら動物園で引き取ってくれても、もし牛か豚だったら……。
とっても連れて歩けないもんね、とマリは思った。
とりあえず、今夜の食事と寝床ぐらいは大丈夫そうだ。
安心すると、マリは、柔らかい座席でいつしか眠り込んでしまっていた……。
晴れ姿三姉妹
1
「お|腹《なか》が|空《す》いた!」
と言ったのは、|佐《さ》|々《さ》|本《もと》家の三人姉妹の末っ子、|珠《たま》|美《み》である。
「我慢しなさいよ」
と、次女の|夕《ゆ》|里《り》|子《こ》が苦笑いする。「家に帰ったら、着替えて何か食べに出よう」
「外食ばかりだと、栄養が偏って良くないわ」
と、|綾《あや》|子《こ》が長女らしさを示すべく言ったが、とたんに当人のお腹がグーッと鳴って、
「お姉ちゃんだってお腹空いてんじゃない」
と、珠美に言われてしまった。
「|誰《だれ》も空いてないなんて言ってないじゃないの」
綾子は少し赤くなりながら反論した。
――佐々本家の三姉妹がこうして一緒に出歩くことは珍しい。綾子は大学生、夕里子は高校生、珠美は中学生と、あまり共通の用というものがないせいだ。
しかし今日は――。
「それにしても寒くなったね」
と、夕里子は言った。「お葬式で誰か倒れるかと思っちゃった」
「お葬式って疲れるものね。具合の良くない人とか、お年寄には|辛《つら》いわ」
「若くたって辛い」
と、珠美が主張する。
三人は今、電車に乗っている。何の用で出かけていたか、誰が見てもすぐ分るだろう。三人とも黒のスーツやワンピース姿だったからだ。
三人は、海外出張中の父の代りに、まるで会ったこともない遠縁の|親《しん》|戚《せき》のお葬式に出た帰り道だった。
ニューヨークの父から、突然電話があって、急いで出かけたので、この日曜日、お昼ご飯抜き。そして今はすっかり外も真暗になっているのだから、育ち盛りの珠美でなくてもお腹が空いて当然だろう。
それなら、このままどこか駅の近くで食事をすませてしまえばいいようなものだが――。
「それにしたって、あんなに香をたくことないのにね、目が痛い」
と、珠美は文句を言って目をこする。
「すっかり|匂《にお》いがしみついちゃってる。このままじゃ、レストランに入りにくいよ。ちゃんと着替えてからね、やっぱり」
夕里子だって、お腹は空いている。でも、ほんの二十分くらい我慢すればすむことだと……。このときは、そう思っていたのである。
――電車を降りた三人は、駅を出ると、
「少しでも早く!」
という珠美の主張で、細い裏道を抜けて行くことになった。
「こんな所、あったの」
いつも同じ道しか通らない綾子が、感心している。――人とすれ違うにも肩がぶつかってしまうような狭い道の両側に、小さなバーや飲み屋が軒を連ねている。
「お姉さんは、夜遊びなんてしたことのない人だからね」
と、夕里子は笑って言った。
「いつもと違うことをすると、何か悪いことが起るのよ」
と、綾子が言った。
「さ、急ごうよ」
珠美がせかせる。――三人はそのごみごみした通りを早々に通り抜けて、人気のない公園に出た。
「ここ抜けると近いんだよ」
と、珠美の声にもやっと希望の明りが|射《さ》して来ていた(!)。
すると、
「ね、あんたたち、姉妹?」
と、呼びかける声。
「――え?」
夕里子が振り向いた。
「三人姉妹、もしかして?」
公園の植込みのかげからフラッと現われたのは、何だか大分すり切れた感じのセーターにジーパン姿の女の子。ヒョロッとやせているが、年齢はたぶん十六、七と思えた。髪を短く切って、ボーイッシュな印象の子である。
「そうだけど……。何か?」
と、夕里子は言った。
「お姉ちゃん、早く行こうよ」
と、珠美が促す。
「三人姉妹か! 今どき珍しいのかな」
と、その少女が言った。「一日中捜しちゃった」
「捜した?」
「うん。でも、捜したかい[#「かい」に傍点]があった。とうとう見付けたんだもの!」
「だからどうだっていうの?」
夕里子は、いつの間にか数人の男の子たちが自分たちを取り囲んでいるのに気付いた。――まずい雰囲気だ。
「抵抗しないでね」
と、その少女は言った。「一人[#「一人」に傍点]減っても、三人姉妹にならないからね」
夕里子は、少女が|拳銃《けんじゅう》を構えているのを見て、目をみはった。
「オモチャじゃないし、弾丸も入ってるよ」
と、少女は言った。「おとなしくしてりゃ、けがしないですむからね」
夕里子にも、それが本物だろうと分っていた。――恋人の|国《くに》|友《とも》は刑事で、夕里子はよく拳銃を目にしていたからだ。
「時間がないんだよ。出かけよう」
と、少女は言った。「――私、〈ジュン〉っていうの。よろしく」
当分、夕ご飯にはありつけそうもない、と夕里子は思ったのだった。
|錆《さ》びて|歪《ゆが》んだそのスチールのドアを、|小《こ》|谷《たに》はそっと|叩《たた》いた。
難しいところだ。あまり小さな音では聞こえないだろうし、強く叩くと病人に良くない。しかし、幸い聞きつけてくれたようだ。
「――|誰《だれ》?」
と、用心深い声が聞こえた。
「小谷です」
|鍵《かぎ》の回る音がして、ドアが開いた。
「――ご苦労様。人に見られなかった?」
ドアを開けたのは|白《しら》|井《い》|久《く》|美《み》。用心深いことを言っている割には、自分は白のニットウェアで、暗い中でもよく目立つ。
もちろん小谷はそんなことを口に出したりしない。
「親分は?」
「眠ってるわ。――良くも悪くもないってところかしら」
五十過ぎだが、髪がほとんど白くなった小柄な小谷は、手にさげた紙袋を、ひとまずテーブルの上にのせた。
「色々買って来ました。メモにあったものはもちろん」
「ありがとう」
と、白井久美は紙袋をガサゴソと開けた。
「――あの人に、ヨーグルトでも食べさせてみよう。食欲が出てくれるといいんだけど」
白井久美が少々派手ななりをしていても、それは仕方のないことかもしれない。やっと三十を越したばかりで、美人である。
「――久美さん」
と、小谷は、薄暗くて湿っぽい地下室の中を見回して言った。「しつこいようですが、こんな所にいたら、親分の体も良くなりません。病院へ入るように、おっしゃって下さい」
「ええ、私も何度も言ってるのよ」
と、久美は首を振って、「でも、ああいう頑固な人だから……。たとえ元気になってもまた刑務所。それなら、ここで死んだ方がいいなんてね……。もう一度言ってはみるけど、あまり期待はしないでね」
「ええ、分ってます」
小谷は、奥へ続く廊下に出入りするドアが開くのを見て、ハッと身構えた。
「――何だ、小谷さんでしたか」
髪をカチッと固めた、キザな男が入って来る。
「|倉《くら》|田《た》さんが泊ってくれてたの」
と、久美は言った。「私も――徹夜が続いて、少し休みたかったから」
「そりゃそうです。何でも言いつけて下さい」
「小谷さん。あのジュンってのが何か言って来なかったですか?」
と、倉田が|訊《き》く。
「ジュンって、あの女の子か。――何をやらせてるんだ?」
「なに、ちょっとね」
と、倉田は肩をすくめた。
「――親分の寝顔でも、ちょいと|覗《のぞ》かせていただけますか。いや、もちろんすぐに引き上げます」
と、小谷は言った。
白井久美は、ちょっと迷った様子だったが、
「いいわ。でも、無理に起したりしないように、気を付けてね」
「ええ、もちろん」
久美がドアを開けて廊下へ出る。
ひんやりした空気。――奥は更に冷えている。
この今は使われていない工場の一画は、もともと倉田たちが密輸入した拳銃などを隠していた場所なのだ。
「――静かにね」
と、久美はくり返して、そのドアを開けた。
中はムッとするほど暑い。石油ストーブが黄色い炎を上げている。
ベッドに横たわって目を閉じているのは小谷たちのボス、|和《わ》|田《だ》である。
もう七十近い和田は、本来なら「親分」として相当な地位にある人物だが、銃の密輸を巡って他の組織と対立、結局、争いに負けてこうして身を隠している。いや、二度とここから生きては出られないかもしれないのだ。
もともと心臓の悪かった和田は、敗北のショックで倒れてしまったのである。
小谷はそっとベッドへ近付いて、少し口を開いて眠っている和田の方をそっと覗き込んだ。
「お薬をもらって来ないといけないわ」
と、久美は言った。「でも、病院には当然見張りがいるから、私や倉田さんが行っちゃまずいのよ」
「何とかします」
と、小谷は|肯《うなず》いて、「――久美さん。親分、息をしてますか?」
「え?」
久美が近付いて、そっと和田の上に身をかがめる。
「いや、何だかいやに静かなんで……」
「そんなことって――。ああ、どうしよう! 起きて! ね、あなた、起きて!」
久美が和田の肩をつかんで揺さぶる。「死なないで! まだ死んじゃだめよ! あなた――」
すると、和田の顔の表情がピクピクと震えて、目が開き、
「――何だ」
と、かすれた声がした。「人が眠ってるのに」
久美は、大きく息をついて、
「良かった!」
と、胸に手を当てた。「びっくりしたわ」
「こっちもだ」
と、和田は顔を歪めて笑った。「何だ、小谷か」
「親分もお変りなく」
と、小谷が頭を下げる。
「おい、どこが『お変りなく』だ」
と、和田は笑って、「後はどんな具合だ?」
「はあ……。ま、多少はガタガタしていますが、その内にゃ落ちつくでしょう」
和田はじっと小谷を見ていた。体は弱っているが、目の力はまだ衰えていない。
「お前がそういうくらいだ。相当ひどい状況だな」
と、小さく肯くと、「まあいい。どうせ|俺《おれ》は長生きできるわけじゃねえ」
「親分……。病院に入られちゃいかがですか。まだやっと七十ですよ。今ならまだまだ長生きできます」
と、小谷は言った。
「病院にいても、|金《かな》|沢《ざわ》の|奴《やつ》に消されるのがオチさ。それなら、ここで死んだ方がいい」
「しかし――お嬢さん方とも、お会いにならずに」
和田の表情に、初めて小さな動揺が見えた。
「――もう|諦《あきら》めてる」
「親分」
「十年もたつんだ。今さら向うだって会いたくなかろう」
「今、倉田さんが一生懸命捜してくれてるわ」
と、久美が言った。「うまく見付けてくれたら……」
「ああ」
和田は肯いて、「三人の娘たちに会えたら、いつ死んでもいい。――いつ死んでもな」
と、くり返し、そっと目を閉じた……。
2
「誘拐されて良かったと思ったの、初めてだ」
と、珠美が言った。
「ちっとも良くない」
夕里子はむくれている。――綾子はもちろん(?)ボーッとしている。
あのジュンという少女に連れて来られたのは、えらく狭苦しいラーメン屋の二階。
閉じこめられ、|鍵《かぎ》をかけられて、逃げるわけにはいかないが、珠美にとっては、どこからともなくラーメンの|匂《にお》いが漂ってくるのが、まさに「拷問」のようなもので、
「私たちを殺す気よ!」
と、騒いでいた。
するとそこへドアが開いて、
「これでも食べてて」
と、あのジュンがラーメン三つ、お盆にのせて運んで来たのである。
アッという間に食べ終えた珠美、すっかりご機嫌なのであった。
「私たちを誘拐してどうしようっていうのかしら?」
と、綾子が言った。「うちへ身代金要求の電話とかかけても留守電よ。どこそこへ金を持って来い、なんて吹き込む人、いないだろうしね」
「お金目当てなら、わざわざ三人姉妹を捜したりしないでしょ」
と、夕里子は言った。
むろん、綾子と夕里子も、ブツブツ言いながら、ラーメンは食べてしまっていたのである。
「三人まとめていくら、なんて失礼よね」
と、珠美が肯く。「きちんと一人ずつ値をつけろって」
「何言ってんの」
あのジュンという少女が本物の|拳銃《けんじゅう》を持っていたのが気にかかる。バックには、きっとヤクザでも絡んでいるのだ。
ドシ、ドシ、と足音が階段を上って来ると、鍵が外れてドアが開いた。
「――食べてくれたね」
と、ジュンが|嬉《うれ》しそうに言った。「でも――妙なことしないでね」
手にはしっかり拳銃が握られている。
「――何が望みなの?」
と、夕里子が言った。
「今、説明してあげる。――あ、来た」
もっと重そうな足音が、上って来て、
「ここか」
と、髪をいやにコテコテと固めてある男が|覗《のぞ》いた。
「倉田さん。どうですか、この三人」
と、ジュンが|訊《き》く。
「姉妹なのか、本物の?」
と、倉田と呼ばれた男は三人を眺め回して、
「――よく見付けたな」
「真心が通じたんです」
どう見ても、本気で言っている。
「一番上が――そいつだな。うん……。もう少し太ってた方がいいと思うが」
「でも、この|年《と》|齢《し》ならこんなもんですよ」
「十年前は|凄《すご》いデブだったらしいぜ」
綾子が憤然として、
「私の十年前のことを、勝手に想像しないで下さい!」
と言った。
「お前のことじゃねえよ」
と、倉田は笑って、「|面《おも》|白《しろ》い奴だ。――よし、ともかくこの三人を連れて行こう」
「はい!」
ジュンはホッとした様子で、「親分、まだ大丈夫ですか?」
「何とかな。三人に会うまでは死に切れないだろうぜ」
「じゃ、急いで!」
「ああ。下に車がいる。おい、立て。出かけるぞ」
「妙な真似したら、撃つからね」
ジュンは、真剣である。夕里子も、ここは|下《へ》|手《た》に逆らえない、と思った。
何しろ三人一緒に逃げることは難しい。一人でも遅れたら、撃たれるかもしれないのだ。
――仕方なく、おとなしくそのラーメン屋の裏手へ下りて行くと、確かに「車」はあったが……。
「トラック?」
と、珠美が目を丸くした。「ヤクザってみんな外車かと思った」
「しっ!」
と、夕里子がつつく。
「我慢して」
と、ジュンが言った。「中へ入って」
宅配便に使っていたらしい、小型のトラックで、箱の中へ入れられた三人は、仕方なく床に腰をおろした。扉を閉められると、真暗である。
やがてトラックは走り出したが、乗り心地がいいとはとても言えなかった。
「――何だろうね、お姉ちゃん?」
「分らないわよ。〈ヤクザ〉〈三人姉妹〉〈親分〉〈十年前はデブ〉……。どうつなげたって、話なんかできないわ」
夕里子は肩をすくめた。
「十年前には太ってた三人姉妹が、こんなにスマートになりました、って、ビューティサロンの宣伝?」
「お姉さん、本気で言ってる?」
「ううん」
と、綾子は首を振って、「言ってみただけよ」
やっとトラックは滑らかな道を走り出していた。
それでも、時折はガタン、と飛び上るような揺れも来て、その度に、
「もうちょっとていねいに運転しなさいよ!」
と、珠美は文句を言った(目の前に銃がないので言えたのかもしれない)。
そして、三十分近くも乗っただろうか。三人には何時間にも感じられたが、ともかくトラックは|停《とま》って、ガタゴト音がすると、
「――降りて」
と、扉を開けて、ジュンという少女が言ったのである。
「お|尻《しり》が痛い……」
と、ブツクサ言いつつ、珠美がトラックを降りる。
夕里子は、トラックから出て、そこが元は何かの工場だったのだろうと察した。
天井の高い、ガランとした建物である。どこか寂しい場所にあるらしく、高い窓はガラスが割れて月明りが|射《さ》し込んでいたりするのだが、車の音などはまるで聞こえて来なかった。底冷えする寒さ。
「こっちだ」
倉田という男が促す。
足音が、ガランとした空間に響いた。
隅のドアから出ると、他の建物とつながっているらしい通路。そしてその先は地下へ下りる階段だった。
「――ここ、何?」
と、夕里子はさりげなく訊いてみた。
「古い工場の跡よ」
と、ジュンが答える。「大声出したってむだよ。|誰《だれ》も聞く人なんかいないから」
倉田が前に、ジュンは後ろについて拳銃を構えている。――これから何が起るのか、まるで想像がつかない。
地下の部屋へ入ると、そこはストーブが燃えて暖かく、ホッとした。
広い部屋に古ぼけた|椅《い》|子《す》やテーブル。そして、オフィスで使うようなスチールの間仕切りが隅の方に置いてあった。
「――来たの」
と、女の声がした。
「久美さん! 見付けて来ましたけど」
と、ジュンが言った。
久美と呼ばれた女は、夕里子にはあまりいい印象を与えなかった。――美人というのだろうが、どこか人を信用しない目である。
「――ふーん」
と、三人をジロジロ眺め回して、「なかなかいいじゃない」
「そうですか? 一日中捜し回って、やっと見付けたんです」
「そんなの当り前でしょ。得意になるんじゃないわよ」
久美に冷ややかに言われて、ジュンは、
「すみません!」
と、うなだれた。
「まあ、良くやったさ」
と、倉田が取りなすように言った。「ともかく、時間がない。着せてみようぜ」
「そうね」
と、久美が|肯《うなず》く。「ジュン、服を持っといで」
「はい!」
「|拳銃《けんじゅう》は私が持ってるわ」
久美が見張り役ということになって、ジュンは急いで部屋を出て行った。
「――これって、どういうことなんですか?」
と、綾子が訊く。
「その内分るわ。おとなしくしといで」
久美は倉田に、「タバコちょうだい」
と言った。
倉田が火を|点《つ》けて、久美に渡す。久美はおいしそうに煙を吐き出して、
「ああ、おいしい! あの人、タバコの|匂《にお》いが嫌いだからね」
「もう少しさ」
と、倉田は肩をすくめた。
「ちょっと」
と、珠美が言った。
「何よ?」
「トイレに行かせて。冷えちゃったよ」
久美はチラッと倉田を見たが、
「ま、いいわ。その奥だから。――逃げようなんてしたら、残りの二人を殺すわよ」
「はいはい」
珠美だけでなく、三人がいやに落ちついているので、久美はいささか気味が悪い様子だ。
いくら何でも、この三人が何度も殺人事件に巻き込まれたりしているなどと、思ってもみないだろう。
――珠美は、それこそ冷蔵庫みたいなトイレで、
「おお寒い」
と震えながら手を洗っていると――。
「用がすむまでは仕方ない」
と、あの倉田の声がした。
どこか、換気孔か何かがトイレとつながっていて、その下で話をしているらしい。
「――あんた、あの子に気があるんじゃないの?」
と、ひそめた声で言っているのは、久美という女である。
「よせ。あんなガキ」
「そう? でも、あの子はあんたに|憧《あこが》れてるのよ。知ってるんだから」
「いいじゃないか。今、もう親分のために働く|奴《やつ》なんて、いやしないぜ。|一《いっ》|旦《たん》、落ち目になると、人間なんて冷たいもんだ」
「そりゃそうよ。誰だって、自分の身は|可《か》|愛《わい》いものね」
と、久美が言って、ため息をつく。「私だって、正直な気持を言ったら――」
「おいおい。それを言っちまっちゃ、おしまいだ」
「そうね。私はあの人の女なんだから」
「もう少しの辛抱だ。分ってるだろ?」
「ええ……。あれ[#「あれ」に傍点]さえ手に入ったら、どこか遠くへ逃げてやるわ。誰も知らない遠くへ」
「|俺《おれ》はそんな遠くへ行きたくないな」
と、倉田が笑った。「山分けにするか」
「やめてよ」
と、久美が恨めしそうに、「そばにいてくれるって約束よ」
「ああ……分ってる」
――二人が黙った。
ふーん。何か意味ありげだね。――珠美はトイレを出て、素知らぬ顔で戻って行った。
もう、あのジュンが戻って来ていて、夕里子が一人で椅子にかけている。
「綾子姉ちゃんは?」
「そこ」
と、夕里子が間仕切りの方を見て、「今、着替えの最中」
「着替え? ファッションショーでもやるの?」
「そんなもんかもね」
と、夕里子が肯いた。
「どうだ」
倉田と久美が戻って来た。倉田が、ハンカチで口を|拭《ぬぐ》っている。
「――キスしてたんだよ」
と、珠美が夕里子に耳打ちする。
夕里子は黙って肯いた。確かに、あの二人の間には、「ただの仲じゃない」という雰囲気が漂っていた。
「今、着替えてるんですけど。――早くしなよ!」
と、ジュンが声をかける。
「待ってよ……。夕里子、ちょっと背中、とめて」
「全く、もう」
夕里子が間仕切りの向うへ行って、「――これでいいよ」
「何だか、ひどくない?」
「我慢しな」
綾子がおずおずと現われるのを見て、珠美はひっくり返るかと思った。
綾子は、フランス人形みたいな――あるいは、十四、五歳のアイドル歌手になりたい女の子みたいな、フワッと|裾《すそ》の広がった、やたらレースの飾りの付いたドレスを着ていたのである。
「――上出来だ」
と、倉田が言った。
「じゃ、後の二人」
と、ジュンが促す。
珠美は、あんな格好するのなら死んだ方がいい、と思ったが、やはり本当に[#「本当に」に傍点]死ぬよりは少々格好悪くても仕方ない、と思い直した。
「覚悟を決めた」
と、夕里子が珠美の肩を|叩《たた》いて言った……。
3
ドアが細く開いた。
「――|誰《だれ》だ?」
と、和田は言った。
殺し屋でもやってきたのか。それならそれでもいい。いっそ一発でけり[#「けり」に傍点]をつけてくれりゃ楽ってものだ。
「親分……。失礼します」
と、恐る恐る近付いてくるのは――。
「お前か」
と、和田は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「まだそんな格好してるのか」
「はい……」
「何てったっけな、お前?」
「――ジュンです」
和田は、ジュンの格好をザッと眺めて、
「そうじゃない。本当の名前だ」
ジュンが少し迷ってから、
「|水《みず》|野《の》です」
「水野――何ていうんだ」
「水野純子[#「純子」に傍点]です」
「どういう字を書くんだ」
「〈純情〉の〈純〉です」
「そうか、そういう名前がちゃんとあるのなら、そう名のってろ。純子。――いいか」
「はい……」
「そんな格好をして、チンピラヤクザの真似したって、何の得にもならんぞ。その内つまらんことで命を落とす」
「あの――親分」
「何だ。用件は?」
「あの……娘さんを……」
「娘?」
「親分のお嬢さんです。見付けました」
和田は、しばらくジュンを見ていたが、やがて、ガバッと起き上った。
「娘たちを? 本当か!」
「あの――寝てらして下さい! 今、ここへお連れしますから」
「本当に娘たちなのか! 間違いないのか?」
「今、倉田さんが――」
と、ジュンが振り向くと、ドアが開いて、三人の娘[#「三人の娘」に傍点]が――むろん、佐々本家の三人である――ゾロゾロと入って来た。
三人とも、少女マンガから抜け出して来たようなドレス姿。何とも居心地の悪い感じでベッドの手前に並ぶ。
「――お前たちか!」
和田は、三人の顔をジロジロ眺めて、「うん、確かに|見《み》|憶《おぼ》えがある。――秋子、お前は母さんとそっくりだ。冬子……。お前の額は俺のそのままだな。夏子、小さいころと少しも変らん!」
珠美が、小声で夕里子の方へ、
「安直なネーミング」
と|囁《ささや》いた。
「しっ!」
と、夕里子がにらむ。
そして、夕里子が進み出ると、
「お父さん」
と、和田へ呼びかけた。「心配かけてごめんなさい。もう離れないわ」
そばで聞いていたジュンが|嬉《うれ》しそうに|肯《うなず》く。
和田は、涙を流していた。
「冬子……。手を握らせてくれ。――もう二度と会えんと思ってたぞ……。ありがとう……」
久美と倉田が入って来る。倉田は上着の下に、|拳銃《けんじゅう》を握った手を隠していた。
「あなた! 良かったわね」
久美がベッドの方へやって来た。「夢が|叶《かな》ったのよ」
「ああ……。もう、俺はこれで死んでもいい!」
「あなた! 娘さんたちに話しておくことがあるでしょ? ほら、隠しておいたもののこと」
「ああ……。そうだ。お前たちのために、取っておいた……」
「その隠し場所を教えてあげなさい。ね!」
「そうだ……。よく聞いてくれ。よく……聞いて……」
と言いかけて、和田は突然息が詰ったように顔を真赤にしたと思うと、ドサッと倒れ込んだ。
「――あなた! しっかりして!」
久美が叫んだ。「死んじゃだめよ!」
「親分!」
と、ジュンが駆け寄る。「――どうしましょう?」
「発作だわ! 何てことでしょ!――仕方ないわ。病院へ――。救急車を呼んで!」
「はい!」
ジュンがあわてて飛び出して行く。
「――おい、どうするんだ?」
と、倉田が言った。
「ともかく、もう少し生きてもらわなくちゃ! その三人、あの部屋へ閉じこめとくのよ」
「分った。――おい、来な」
と、倉田が促す。
「効き目がありすぎた?」
と、珠美が言った。
「待って」
と、久美が言った。「あんたたちの一人を連れてくわ。他の二人を置いとけば妙なことはしないでしょ」
久美は夕里子を指して、
「あんたが一番しっかりしてそうね。――ジュンはおいてくわ、目立ちすぎる」
「こいつも目立つぜ、この格好じゃ」
「着替えて。――急ぐのよ」
「でも……」
と、夕里子は言いかけたが、
「早くして!」
と、久美がヒステリックな声を上げたので逆らわないことにした。
病院へ行くのに、黒のワンピース? まずいと思うけど、と夕里子は首を振ったのだったが……。
「――救急車の人たちが変だと思いませんか?」
と、ジュンが言った。
「仕方ないさ」
倉田は、ちょっと肩をすくめて見せた。「今親分に死なれちゃ困る」
「そうですよ! せっかく別れた娘さんたちに巡り会えたって喜んでらっしゃるのに……。やさしい人ですよね、親分って」
ジュンは目を潤ませている。
倉田は笑いをかみ殺した。――やれやれ、おめでたい|奴《やつ》だ!
綾子と珠美は、元の部屋に戻されていた。
「――あの方はどういう『親分』なんですか?」
と、することもないので(?)綾子が倉田たちに|訊《き》いた。
「立派な[#「立派な」に傍点]親分なんだよ!」
と、ジュンが説明にならない説明をする。
「ま、お前たちも役には立ったからな」
と、倉田が言った。「和田さんは相当の顔役だった。その筋の人間なら、誰でも知ってる。しかし、寄る年波ってやつにゃ勝てない。若いのがのし上って来て、和田さんの縄張りを荒し始め、争いになった」
「|卑怯《ひきょう》な連中!」
と、ジュンは怒っている。
「先制攻撃で、一気にやっつけちまったろう、昔の和田さんなら。しかし、もう争いを嫌って話し合いでいこうとした。それが向うの思う|壺《つぼ》だ。アッサリ勝負はついた。――こっちがたて続けに四、五人やられて、命を張ることなんか知らない若いもんたちはびびって全部向うへ寝返った。結局、和田さんは逃げ出してあの有様さ」
「|空《むな》しいことですね」
と、綾子は言った。
「まあな。しかし、向うも追っ払っただけじゃ安心できねえ。で、追手がかかってるんで、こうして隠れてたわけだ」
「でも、私や倉田さんはちゃんとついて来てます」
「お前はいい奴だ」
と、倉田はジュンの方へニヤリと笑って見せた。
ジュンが戸惑ったように赤くなる。
「――ちょっと、その辺を見て来ます」
と、ジュンが出て行った。
「――三人の娘たちって、どういうこと?」
と、珠美が言った。
「ああ。和田さんにはかみさんと三人の娘がいた」
「秋子、冬子、夏子ね」
「そうだ。和田さんが名前を付けたんだ。あの人らしいぜ。単純明快だ」
「その三人がどうしたの?」
「かみさんと娘さんたちが命を|狙《ねら》われたんだ。もう十年も前か。やはりよそとのいざこざがあってな。かみさんはノイローゼみたいになって、娘三人を連れて逃げちまったのさ」
「気持は分りますね」
と、綾子は|肯《うなず》いた。
「もちろん、和田さんは必死で行方を調べた。やっとかみさんを見付けたときは、もうかみさんは病気で死にかけてた。娘三人は|誰《だれ》かに預けていたんだが、『今戻れば殺される』と言って、ついに誰に預けたか、言わずじまいだった」
「で、亡くなったんですね」
「うん。――ただ、娘たちに、『十年たったら、もうお父さんも引退しているだろうから、会いに行きなさい』と言ってやったそうだ。――和田さんは娘たちに、それこそ人形のようなドレスを着せるのが好きで、家の中じゃ、いつもそういう格好をさせていた」
「死ぬな、私なら」
と、珠美が|呟《つぶや》く。
「だから、十年たって会いに行くとき、娘たちと分るように、|可《か》|愛《わい》いドレスを着て行きなさい、と言ってあったそうだ」
「それで、私たちに?」
と、綾子は言った。「和田さんに娘さんたちと一目会わせてあげようとしたんですね」
「まあな」
と、倉田は肯いた。
「あの久美さんって方は?」
「和田さんの女さ。ここ三年くらいかな。もちろん、女房ってわけじゃねえよ」
「でも――よくついて来られましたね」
倉田は、意味ありげに笑って、
「ま、人は好き好きさ」
と言った。「――おとなしくしてろよ」
倉田が立ち上って出て行く。
「――私、思い出した」
と、珠美が言った。
「何を?」
「あの和田って男、手配写真か何かで見た。でもさ、それよりあの久美って女、何か目当てがあってくっついて来てるのよ」
「うん……。悲しいけど、そうよね、きっと」
と、綾子は肯いた。
珠美は立ち上って、そっとドアの方へ。
「ちょっと、珠美……」
と言いながら、綾子もついて行ったのだった。
細くドアを開けると、倉田とジュンが――抱き合ってキスの最中。
いや、倉田の方が抱きしめたらしい。ジュンは押し戻して、うろたえた様子で、
「こんなこと! 親分が危いのに!」
と、目をそらした。
「ジュン……。|俺《おれ》は前からお前のことが気になってたんだ。――しかも、こんなことになっても、お前はちゃんとついて来てくれる。本当にいい奴だ」
「そんな……。当り前じゃないですか」
「そこがお前のいい所だ」
と、倉田は言って、「心配するな。もう二度と会うこともないさ」
「――どうしてですか?」
「ここにも、じきに金沢の手の奴らがやって来る」
「そんな……。私、しゃべってませんよ」
「分ってる。久美さんさ」
「久美さんが――」
「あの女がどうしてこんな所までついて来たか分るか? 親分が娘たちのために|遺《のこ》そうとして隠した三億円のためさ」
珠美が、それを聞いていて、
「一人一億円……」
と、呟いた。
「じゃあ――」
「病院で、もし親分からその金のありかを訊き出したら、さっさとおさらばさ。たぶん、金沢の所へたれ込んでからな」
「ひどいことを……。倉田さんはそれを知ってたんですか?」
「ああ。しかし、親分は死にかけてるんだ。好きだった女が裏切ってるなんて、わざわざ教えることもないだろう」
と、倉田は言って、|拳銃《けんじゅう》を取り出すと、
「当然、久美はここのことも金沢の手の奴らに教える」
「じゃ、逃げた方が――」
「いや、俺はもう逃げ回ったりしねえよ。親分が死んだら、俺もここでせいぜい派手に死んで行くさ」
「倉田さん!」
ジュンが、今度は自分から抱きついていく。
「お前は逃げろ。まだ若いんだ。な、分ったか?」
「いやです!」
「頑固だな、お前も」
と、倉田は笑ってジュンにキスした。
「――病院へ行きます」
「何だって?」
「あの女が親分のこと、そんな風にしか思ってなかったなんて! 許せない。――私、あの女を殺してやります」
「よせ、刑務所へ行きたいのか!」
「構いません!」
ジュンは駆け出そうとして、振り向くと、「もし――生きて会えたら、抱いて下さい!」
と、ひと言、足音が遠ざかって行く。
倉田は、しばらく突っ立っていたが、やがて笑い出した。
そっとドアを閉め、綾子は、
「珠美」
と言った。「やる[#「やる」に傍点]よ」
「うん」
二人して、ドアの両側に分れると、壁にピタリと身を寄せて立つ。
ドアが開いて、倉田がのんびり入って来ると――。
珠美が後ろから倉田の足をパッと払う。
「ワッ!」
前のめりに突っ伏した倉田の背中へ、綾子は|両膝揃《りょうひざそろ》えて、ドサッと飛びのった。続いて珠美は力一杯、倉田の|股《こ》|間《かん》をけとばした。
――倉田は完全にのびてしまったのである。
4
「大分落ちつきましたね」
と、当直の医師が、和田の手首の脈をとって言った。
「そうですか」
と、久美はホッと胸をなでおろして、「良かった! ありがとうございました」
「じゃ、まあ今夜一晩、ともかく休ませて、明日の様子で検査してみましょう」
「はい」
「じゃ、何かあれば呼んで下さい」
と、医師が出て行く。
「どうも……」
と、久美は頭を下げていたが、ドアが閉ると、「――さあ、起して話を聞かなきゃ」
夕里子は|呆《あき》れて、
「薬で眠ってるのに?」
「そんなこと知らないわよ。ともかくこっちは|訊《き》きたいことがあるの」
久美は、ちょっと考えて、「あんた、冷たい水を洗面器に入れて持っといで」
「どうするの?」
「あんたの知ったことじゃないわよ」
と、久美はにらんで、「|下《へ》|手《た》なことすると、あんたの姉妹が痛い目を見るわよ」
「分ったわ」
夕里子は、その個室を出て、夜中の廊下を見回した。
洗面所か――。あっちか。
夕里子も、もちろん久美があの和田という男のことを心配しているわけじゃないことくらい知っている。和田から何か訊き出したいことがあって――大方お金のことだろうが――夕里子たちを和田の娘に仕立てたということも。
今、ここから逃げ出すのは易しい。綾子と珠美も、そうやすやすとやられることはないだろう。
しかし、万が一、ということもあるし、それに夕里子自身もこの結末がどうなるか、知りたかったのである。
洗面所で、伏せて重ねてあった洗面器に水を入れる。
まさか、これをぶっかけるわけじゃないよね。いくら何でも、心臓の悪い人に?
でも、あの女ならやりかねない。
夕里子は、洗面器を両手に持って廊下へ出ようとして――足を止めた。
気配を感じた。|誰《だれ》かいる。
廊下の壁に、掲示板があり、ガラスのカバーがついている。そのガラスに、男の姿が映っていた。
一人ではない。二人か三人か……。
「間違いないか」
と、低く押し殺した男の声。「人違いでやっちまうと、厄介だぜ」
「確かめてからの方がいい」
「しかし、どうせ偽名だぜ。〈和田〉じゃ入ってねえだろう」
――どうやら、和田を消しに[#「消しに」に傍点]来た連中らしい。
「誰に訊きゃ分るんだ?」
「看護婦じゃねえか?」
「忍び込んどいて、そんなこと訊けるか」
――結構おめでたい連中らしい。
夕里子も、あの和田という男が目の前で殺されたらいい気持はしない。
仕方ない。――少し危い真似をしてみるしかなさそうだ。
夕里子は、洗面器を、まるで|捧《ささ》げものか何かのように両手で持つと、静かに廊下へ出て行った。
三人の男たちがギクリとして夕里子を見る。
夕里子は、神妙に会釈して病室へと歩いて行く。
「――待ちな」
と、男たちの一人が言った。
「何か?」
「ここの階に――今夜運び込まれた年寄はいねえか? 七十くらいの」
「さあ……。祖父が亡くなったもんですから、他の部屋までは、気が付きませんでしたけど」
「亡くなった? そりゃどうも……。ご愁傷様で」
「恐れ入ります。これから、体を|浄《きよ》めてやろうと思いまして」
「そりゃいいことだ。俺もじいちゃんが死んだときに泣いたもんだよ」
「そうですか」
夕里子は頭を下げて、「失礼いたします」
「どうも……」
男たち三人で手など合せてくれている。夕里子は静かに病室へと戻って行った。
「――開けて下さい」
と、声をかけると、
「遅いじゃないの!」
と、久美がドアを開けるなり、文句を言った。
「しっ!」
夕里子は素早く中へ入って、「せっかくごまかして来たのに。あんた、馬鹿?」
「何ですって?」
「殺し屋が三人、廊下にいるわ。あんたの声を聞いて、気が付いたかもね」
久美がサッと青ざめる。
「あんた……。しゃべらなかったろうね」
「しゃべってたら、今ごろあんたは死んでるわ」
と、夕里子は平然と、「どうするの?」
「早く訊き出してずらかるわよ! あいつらが|狙《ねら》ってるのは、この人なんだから」
久美は、タオルを一枚取って、洗面器の水に浸すと、それをほとんど絞らずに、和田の顔の上に持って行き、ベチャッと落とした。
和田がビクッと動く。――ひどいことして! 夕里子は黙っていられなかった。
「死んじゃうわよ、本当に」
「黙ってなさい」
久美が|拳銃《けんじゅう》を取り出して夕里子へ向ける。
「|退《さ》がって。――さあ」
和田が|呻《うめ》いた。
久美はタオルを投げ捨てて、
「あなた? 気が付いた?――私よ。分る?」
和田は、目を|瞬《まばた》いて、
「――久美か」
と言った。「どうしたんだ、|俺《おれ》は」
「発作を起して倒れたのよ」
と、久美は顔を寄せて、「ね、金沢んとこの連中がそばまで来てるの。――例のお金の隠し場所を教えて。娘さんたちに伝えてあげるわ」
「ああ……。そうか」
和田は|肯《うなず》いた。「娘たちが……来てくれたんだな。それとも、あれは夢だったのかな?」
「夢じゃないわ。――ね、どこに隠したの?」
和田は目を開いて、何度か息をついた。そして、また目を開くと、
「――あそこ[#「あそこ」に傍点]だ」
と言った。「あの工場だ」
久美は面食らって、
「工場って……。あなたが隠れてた?」
「ああ。あの部屋の……俺の寝ていたベッドの下にある」
久美はアングリと口を開けた。
「――小切手だからな。小さな|鞄《かばん》に入ってるんだ」
「ベッドの……下」
久美はゆっくり立ち上ると、「人を馬鹿にして!」
と、顔を真赤にして、体を震わせた。
「何のために、こんな所まであんたを連れて来たの?――私が一円残らずいただくからね!」
久美は、拳銃を握った手をコートでくるむと、病室のドアをそっと開けた。
そして、チラッとベッドの方を振り向くと、
「――成仏してよね」
とひと言、スルリと脱け出して行った。
夕里子は、息をついた。
乾いたタオルを取って、ベッドの和田の顔や首筋を|拭《ふ》いてやる。
「――ありがとう」
と、和田は言った。
「お医者さん、呼びますか?」
「いや、どうせ助からん」
と、和田は息をつき、「いっそ、殺し屋に一発で仕止めてもらえると楽でいいが」
「だめですよ」
と、夕里子は首を振って、「その犯人は人殺しをするんです。まだ人を殺したことがないかもしれないのに」
和田は夕里子を眺めて、
「――そうだな。自然に死んで行けるのが一番かもしれん」
と言った。「あんたは――何というんだね?」
「佐々本夕里子です。分ってたんでしょ。娘じゃないって」
「ああ……。あのジュンってのがいじらしくてな。喜んでやらにゃ|可《か》|哀《わい》そうだ」
「殺し屋が来てるのは本当です。今、警察の手配を頼みますから」
夕里子は、ドアをそっと開けた。
あの三人はどこへ行ったのだろう?
ナースコールで看護婦を呼ぶことも考えたが、もしあの連中がいたら、と思ってやめたのである。
和田の病室を|訊《き》こうとすれば、まず看護婦に訊くだろう。
夕里子は廊下へ出た。ナースセンターの明りが廊下の奥に見える。
廊下の端に体を寄せて近付いてみると、
「――ほら、本物の銃だぜ。重そうだろ? モデルガンとは違うぜ」
あの男たちの一人が、拳銃を手に、看護婦たちをおどしている。
夕里子は、階段の下り口へと体を低くして素早く駆けて行った。
人を馬鹿にして!
久美は、病院の一階へ下りると、夜間出入口へと向った。
早くあそこへ戻り、三億円を手に入れて逃げなきゃ!
救急車があそこへ行ったことで、金沢たちの耳にも、あそこのことが知れるだろう。そんなに時間はない。
「――分らねえのか?」
男の声がして、ハッと久美は足を止めた。
そっと|覗《のぞ》いてみると、金沢の子分の男が、夜間窓口の所に立っている。拳銃をチラつかせて、
「調べりゃ分るだろうが」
と、少し|苛《いら》|立《だ》っている。
「救急の方は明日でないとここへ回って来ないんです」
と、窓口の看護婦が答えていた。
「そこを調べてくれと言ってるんだ。――こっちもそうのんびりしちゃいられねえんだよ」
男が|凄《すご》む。
久美は、階段の方へと戻って行った。――|下《へ》|手《た》に出ようとすれば撃ち合いになる。久美は拳銃なんて撃ったことがなかった。
「――そうだわ」
久美は、階段をそっと上って行った。
そして、タタッと上から下りて来る足音。
――久美と夕里子は、階段の上と下でハタと顔を合せた。
5
久美は、息を弾ませて廊下を見回した。
「――運動不足ね」
と、息を切らして|呟《つぶや》く。
もう若くない、とは思いたくない。あの若い子とじゃ、かないっこないのだ。
――夕里子が階段を駆け上って、久美は追って来たのだが、すぐに足がだるくなって見失ってしまった。
結局、和田のいるフロアまで上って来たのだが、夕里子の姿はどこにも見えない。
久美は放っておくことにした。今は自分が病院から出ることだ。
笑い声がした。――男だ。
もしかして……。久美は、ナースセンターを覗いて、殺し屋の一人がいるのを見ると、ふと思い付いた。
そう。要するに、あいつらの目当ては和田なのである。つまり、和田さえ見付ければ、あいつらは満足する。
久美は、足音を忍ばせて、和田の病室へ戻った。
中へ入ると、和田がいぶかしげに、
「忘れ物か」
と言った。
「まあね」
久美は、拳銃を取り出した。「私は人殺しなんてしないわよ」
ドアを開け放つと、久美は銃口を天井へ向けて引金を引いた。
ナースセンターにいた男が、びっくりして廊下をやって来る。反対の方からもう一人の男。
「――今のは?」
「銃声だったな。その開いてるドアか?」
「分らねえけど……」
「気を付けろ! 向うも銃を持ってるのかもしれねえ」
二人して、廊下でどうしたものかと迷っていると、
「――どうした!」
と、下の受付にいた男が駆け上って来た。
「今、銃声が」
「分ってる。誰が撃った?」
「分らねえんだ」
三人は、ドアを開け放った病室を見て、黙り込んだ。
「――行こう」
「中で待ち構えてるかも」
「仕方ねえだろ! これが仕事だ」
三人は|拳銃《けんじゅう》を構えて、そっとその病室へと近付いて行く。
「何だ、今のは?」
と、当直の医師が駆けて来たが、
「引っ込んでろ!」
と、一人が一発壁に向って撃つと、あわてて逃げてしまった。
「警察へ通報が行くぞ。急ぐんだ」
一人がパッと病室へ入る。
「――何だ」
と、ベッドで和田が言った。「三人も来たのか?」
「和田か?」
「そうだ」
三人は、用心しながらベッドの方へ近付いた。
「早くすませて出てけ」
と、和田が言った。「捕まっちまうぞ。ドジな連中だ」
「野郎……」
銃口が和田へ向く。
そのとき、
「やめて!」
と、叫び声が上った。
ドアの所に立って拳銃を両手で握りしめて立っているのは、ジュンだった。
「ジュン、やめろ」
と、和田が上体を起して、「早く逃げろ!」
「いやです!」
ジュンが引金を引いた。男たちの一人が、肩を押えて倒れる。
他の二人がジュンの方へ銃を向けた。同時に二発の弾丸がジュンの腹を撃ち抜いた。
夕里子がジュンの体を抱いて廊下へ伏せたのは、一瞬遅かった。
「――銃を捨てて!」
殺し屋たちに向って銃を構えているのは、国友刑事だった。
「お姉ちゃん!」
珠美が駆けて来る。
「珠美! 急いで看護婦さんを!」
と、夕里子は叫んだ。
ジュンの腹部がたちまち血に染って、苦しげに夕里子にしがみついた。
警官が数人、駆けつけて来る。――殺し屋たちは降参してしまった。
「早く! 手当てを!」
と、夕里子はやって来た医師に言った。
「輸血だ。ともかく手術室へ」
と、医師が命じて、看護婦が駆け出して行く。
病院内は大騒ぎになってしまったのである。
――久美は、そっと|長《なが》|椅《い》|子《す》の後ろから顔を出した。
廊下を忙しく人が行き来している。
久美の顔を知っている人間はいない。――今なら大丈夫。
足早に階段を下りて、夜間出入口へと向った。
警官が出入りして大騒ぎになっている中、久美はやすやすと外へ出られた。
「やった!」
と、息をついて、客待ちの空車の窓を|叩《たた》くと、乗り込んだ。
これで、三億円は私のもの!
久美は、つい笑みがこぼれるのを止められなかった。
病室のドアが開いて、
「起きてますか?」
と、夕里子が顔を出した。
「ああ」
和田は、少し体を起した格好で休んでいたが、|微《ほほ》|笑《え》んで、「よく来てくれた。このところ、刑事の顔ばっかり見てるんで、うんざりしてたところさ」
すると、国友が入って来て、
「うんざりで悪かったな」
「や、あんたは別だ」
と、和田は笑って言った。
和田の警察への協力で、銃の密輸ルートの一つが閉ざされることになりそうだった。
「例の工場跡で、倉田と白井久美の死体が見つかったよ」
と、国友が言った。「金沢の手の人間と出くわしたらしい」
「そうかね。――|可《か》|哀《わい》そうなことをした」
「でも、自業自得よ」
と、夕里子は言った。
「三億円なんて、ありゃせんのだ」
と、和田は言った。「あいつはあると信じてたからな。でなきゃ、|俺《おれ》のことなど放り出して行ったろう」
「じゃ、全然でたらめ?」
「|貯《た》めてはいた。しかし――娘たちは、もう死んでしまった」
「え?」
「そう思うことにしたのさ。その金は寄付してしまった。匿名でな」
と、和田は言った。「久美も、充分、しばらく遊んでいられるくらいの金は持っていたのに」
「でも、結局、倉田が久美も殺して金を持ち逃げするつもりだったんですよ。同じことになりましたよ」
と、夕里子は言った。
「あんたたちにゃ、迷惑をかけたね」
「いいえ。――今日は和田さんにプレゼントがあるの」
「へえ。この死にそこないに、何をくれるっていうのかな?」
「お姉さん! 珠美!」
夕里子が叫ぶと、ドアが大きく開いて、珠美と綾子が車椅子を押して入って来た。
車椅子の少女は、|頬《ほお》を赤らめて、照れくさそうだった。
和田は|呆《あっ》|気《け》にとられて、
「――お前か!」
ジュンは、|可《か》|愛《わい》いパジャマ姿で、
「ご心配かけて」
と、頭を下げた。
「弾丸が急所をそれたんです」
と、夕里子が言った。
「良かった! 怖くて|訊《き》けなかったんだ。死んだと言われたら、どうしようと思ってな……。良かった!――良かった!」
和田は目を潤ませていた。
「じゃ、僕は行くよ」
と、国友が夕里子に言った。「小谷が、色々案内してくれることになっている」
「あいつは、たった一人、俺について来た。刑事さん、よろしく頼むよ」
と、和田が手を合せた。
「できるだけのことはするよ」
国友は、夕里子の頬に素早くキスすると、出て行く。
「――全くもう」
と、珠美が口を|尖《とが》らす。
「少しはじらい[#「はじらい」に傍点]というものを持ってほしいわね」
と、綾子が言った。
夕里子は聞こえないふり[#「ふり」に傍点]をして、
「和田さん。この子が、あなたの娘さんってところじゃない?」
と車椅子をベッドのそばへ寄せた。
「ああ……。俺には過ぎた娘だ」
和田が手を伸ばすと、ジュンもおずおずと手を差しのべる。
「娘というより孫だな」
と、和田が笑った。
二人の手がつながると、夕里子たちは、病室から出て行った。
「――もう少し長生きがしたくなったよ、ジュン」
と、和田が言うと、
「私――純子です」
幽霊親睦会
1
「おはよう、|信《のぶ》|子《こ》」
朝の給湯室へ、事務服に着替えて入って行った|倉《くら》|田《た》信子は、先に声をかけられて面食らった。
「|今日子《きょうこ》!――どうしたの」
と、倉田信子は腕まくりしながら、「あなた、当番でもないのに」
「うん。でも、今朝はいやに早く目が覚めちゃったんだ」
と、|三《み》|谷《たに》今日子は言った。「手伝うよ、お茶いれ。いいでしょ?」
「そりゃ、ありがたいけど。後で何かおごれとか言わない?」
と言って、信子は笑った。
もちろん本気で言ったのではない。この〈K工機〉の社員の中では、信子は同期入社の三谷今日子と一番仲がいいのである。
二人はともに二十四歳。OLとしては、やっと三年目に入ったところだった。
「――でも、お茶当番ってのも、前の晩が遅かったりするときついよね」
と、信子は言った。「今どき、こんなことやってるのなんて、うちぐらいのもんじゃない?」
社員数、五十人そこそこの企業だけに、家族的というと聞こえがいいが、やることなすこと古くさい。上下関係も結構厄介なことであった。
毎朝、女子社員が交替で早出して全員のお茶をいれる。「お茶当番」も、この社の「伝統」の一つ。もちろん若い世代には評判が悪いが、女子社員の中の一番古株の|河《かわ》|野《の》さつきが、「文句があるなら言いなさい」と、ジロッとにらむと、|誰《だれ》も何も言えなくなる。
「――これ、庶務の分、配って来て。やっとくから」
と、今日子は言った。
「うん。悪いね」
と、信子は沢山の|湯《ゆ》|呑《の》み|茶《ぢゃ》|碗《わん》をのせた盆を、よいしょと持って、「――今日子」
「うん?」
「今日は――元気そうだね」
「ありがとう」
今日子はニッコリ笑った。「転ばないでよ」
「大丈夫よ」
信子は、ちょっと笑って言った。
入社して初めての当番のとき、信子は二十個も湯呑み茶碗ののった盆を手に、廊下でみごとに引っくり返ってしまった。壊れた茶碗、十二個、全部自分で買って弁償したものである。
でも、もう大丈夫。すっかり慣れた。
信子は、まだチラホラとしか人のいないオフィスへ入って行った。
「おはようございます」
「おはよう」
と、声が飛び交う。
早めに来ているのは、課長とか、係長クラスの人が多い。|真《ま》|面《じ》|目《め》なのではなくて、家庭があるので家は遠くになる。従って、電車の関係でどうしても早く着いてしまうのである。
「課長、おはようございます」
と、自分の属する庶務の|大《おお》|浜《はま》課長の所へお茶を持って行く。
「やあ、おはよう」
大浜|孝《こう》|司《じ》は三十七歳。ご多分に|洩《も》れず二時間近くかけての通勤で、いつも朝の内は|欠伸《あくび》ばかりしている。
営業にいたが、「やり手」というのとはほど遠く、結局庶務へ回って来て本人も気楽そうだ。
「課長、目が赤いですよ」
「そうかい? ちょっと寝不足なんだ、ここんとこ」
と、大浜は伸びをした。
「課長、おはようございます」
カッカッと歯切れよく靴音を響かせてやってくるのは、見ずとも知れた、河野さつきである。
「やあ、河野君」
「営業の|田《た》|上《がみ》課長が、十時からの打合せに出席してほしいと」
「ああ、分った。そのつもりだよ」
と、大浜は|肯《うなず》いた。
河野さつきはチラッと信子の方を見て、
「早いじゃないの、今朝は」
と言った。
いつも、九時のチャイムが鳴ってから、せっせとお茶を配っている信子への皮肉である。
「今朝は、三谷さんが手伝ってくれてるんです」
と、信子は言った。
「三谷君が?」
と、大浜がお茶を飲む手を止めて、「もう来てるのかい」
「ええ。早く目が覚めちゃったとか……。あ、おはよう」
五分前ごろから、急にオフィスはにぎやかになる。次々に社員がやってくる。
そして、若い男の社員が、たいていはラスト、ギリギリに駆け込んでくる……。
「――今日子」
と、給湯室に戻って、信子は、「――あれ?」
三谷今日子の姿はなかった。その代り、今日子のいる経理の分のお茶が、ちゃんと盆にのせて用意されていた。
「持ってくか……。あれ?」
数えてみると、一つ足りない。――おかしいな、と首をかしげて、
「なんだ」
抜けているのは、今日子自身の茶碗である。
「自分のを忘れるなんて」
と|呟《つぶや》いて、戸棚から今日子の茶碗を出し、お茶を注いだ。
そして、いつもの通り、お茶を配って――。
「――倉田さん」
と、庶務の新人の子が声をかけてくる。「三谷さん、お休みですか、今日?」
「来てるわよ。一緒にお茶出しの仕度したんだもの」
「でも、チェックしてないんです。席にもいないし」
「|嘘《うそ》。――本当に? おかしいね」
信子は、立って経理へ行ってみた。――確かに、今日子の席は空いていて、机の上には信子の置いた茶碗一つ。
「――変ね、どうしちゃったんだろ」
少し心配していたのは、このところ、今日子が落ち込んでいる風だったからである。でも、今朝は以前の通り元気そうでホッとしたものだ。
「帰っちゃったのかな……」
と呟いて、自分の席へ戻ろうとしたとき、
「大変!」
と、経理の女の子が一人、青くなって駆け込んで来た。
「どうしたの?」
「今――外で……。人が倒れてる」
「人が?」
「それが……。屋上から飛び下りたって……」
エーッという声があちこちから上る。
まさか。――まさか[#「まさか」に傍点]!
「それが……三谷さんなの」
信子は、今日子の机を見た。まだ|茶《ちゃ》|碗《わん》からは、うっすらと湯気が立ち上っていた……。
2
私が約束のレストランに着いたのは、二十分遅れだった。
「|宇《う》|野《の》ですが」
と、少し息を弾ませながら言うと、
「お待ちしておりました」
と、穏やかな感じのスーツ姿の男が案内してくれる。「お二人ともおみえでございます」
二人?――私は面食らった。
今夜は|永《なが》|井《い》|夕《ゆう》|子《こ》と久々のデートなのだ。当然、私と夕子で「二人」のはずである。他の客と間違えているのだろうか。
「あの――」
「こちらでございます」
個室まで頼んだ覚えはないのだが、やはり間違いなのか? しかし、
「――来たわね」
と、夕子がニッコリ笑ってこっちを見上げる。
「やあ……」
「こちら、大学の先輩で、OLをしてる、倉田信子さん」
その女性は、黙って頭を下げた。
「は。宇野です」
――夕子の|奴《やつ》! また何か|企《たくら》んでるな。
|椅《い》|子《す》にかけながら、チラッと夕子をにらんでみたが、そんなもの気にする夕子ではない。
「さ、お|腹《なか》|空《す》いたわね。早速メニューを見ましょうか」
と、夕子はポンと手を打ったのだった。
「――すみません。お邪魔するつもりはなかったんですけど」
と、食事を始めてから、倉田信子はやっと口を開いた。「永井さんに相談したら、ぜひ宇野さんに聞かせたい、と言われて……。でも、お二人が恋人同士とは知らなかったんです、本当に」
「いやいや。夕子との付合いじゃ、よくあることなんです。気にしないで下さい」
と、私は言った。「僕が警視庁の警部だということもご存知ですね」
「はい」
「すると、何か犯罪絡みで心配ごとですか」
「いえ、犯罪、というんじゃないんですけど……」
と、倉田信子はためらって、「実は、三か月ほど前です。私と同期で入社した三谷今日子という子が、会社の入っているビルで飛び下り自殺したんです」
「ほう」
倉田信子は、その朝の状況を説明して、
「本当にびっくりしました。あの朝はとても元気で、自殺なんて、気配もなかったのに」
「そういう例が多いですよ」
と、私は言った。「いやに明るくなったりしたら、|却《かえ》って危い、ということもあります。特にその三谷今日子さんの場合は、自分の分だけお茶をいれなかったり、自殺である可能性は高いでしょう」
「ええ、それはよく分っています。きっと、自殺だったんでしょう……。|可《か》|哀《わい》そうに」
と、信子は首を振って、「たぶん――|誰《だれ》かとの間がこじれたんです」
「男ですか」
と、夕子が言った。
「ええ。――前からね、うすうす気付いてたんだけど、妻子持ちの男と、今日子……。そのあげくだと思う」
と、信子は言って、「でも、そのこと自体は、今日子も大人でしたし、相手の男だけ責めても始まらないことですものね」
「確かに。――すると、ご相談というのは?」
「これです」
と、信子は、ハンドバッグから折りたたんだ紙を取り出し、広げて私の方へよこした。
「これは……。社内の回覧用紙ですか」
〈××温泉に行く! 秋の|親《しん》|睦《ぼく》会のご案内〉というタイトルがあって、今度の週末の旅行のプランが書かれていた。そして、下に社員の名前がズラッと並んで、〈出欠〉の欄に〇印を入れるようになっている。
「これが、どうかしましたか」
「右下の欄を見て下さい」
見れば、空欄になったところに、手書き文字で〈三谷今日子〉と入れてあり、〈出欠〉の欄には、〈出席〉に〇印がつけてあったのだ。
「もちろん、今日子が死んで、その回覧から今日子の名は消してありました。今度の旅行は私が幹事で、全員の所を回って戻って来たんですが、見るとそんなことが……」
「ふーん」
と、私は|肯《うなず》いて、「まあ、確かに悪質ですね。亡くなった人の名前を使って、こんないたずらを」
「そんな人が社内にいるとは思えないんです」
と、信子は言った。「それで、永井さんに相談して――」
「待って下さい。まさかこれが本当にお化けのやったことだとでも?」
料理が運ばれて来て、少し間があった。
「――問題は、誰が、何のためにそんなことをしたか、だわ」
と、夕子が言った。
「おい。――何か、相当の理由があってやったというのかい?」
「万が一、ってことがあるわ」
と、夕子は言った。「ついでに二人で温泉に入るってのはどう?」
私は面食らってしまった。何しろ夕子の話はどんどん飛躍する。ま、そこが若さというものなのかもしれないが。
「もしおいでいただけたら、安心なんですけど」
と、倉田信子が言った。「私が幹事ですし、何かあったら、と思うと心配で」
「はあ……」
もちろん、私だって夕子と二人で温泉に、なんて|洒《しゃ》|落《れ》てみたいとは思う。しかし、何分にも私には仕事があり、ついでに言えば、夕子と一緒にいると、たいてい何か[#「何か」に傍点]起るのだと、これまでの経験で分っていたのである。
「決った」
と、夕子は勝手に結論を出して、「じゃ、今夜はゆっくり料理を味わいましょ」
私は――支払いのことはともかくとして――料理の味も一向に楽しめなかったのである……。
「ごめんね、押し付けがましく」
と、夕子が身を寄せてくる。
「いつものことさ」
と、私は言ってやった。
倉田信子は帰って行って、私と夕子は小さなバーに寄っていた。
「しかし、何とか休みを取るとして、温泉に行って何かあると思ってるのかい?」
「なければいいんだけどね」
夕子は真顔である。「倉田さんって、いつもはそう心配性じゃないのよ」
「幹事だと言ってたじゃないか」
「でも、あの出欠のリスト、――あそこに自殺したOLの名があった。もちろん普通じゃないことだけど、わざわざ刑事さんに話すほどのことじゃないわよね」
私はグラスをあけて、
「――倉田信子自身に、何か理由があるってことか」
「たぶんね。あの不安には何か根拠があるのよ。もちろん人には言いたくないんでしょうけど」
「そうか。で、君も行く気になったんだな」
「そう。でも、あなたと二人で温泉につかるっていうのも悪くないな、とも思ったのよ。本当に」
「そりゃもちろん悪くない。殺人さえ起きなきゃね」
「しっ。起きない内から心配するのはやめましょ。とりあえず今夜はゆっくりできるんでしょ?」
「ああ、一晩まるまるね」
「私もよ」
夕子が素早く私にキスして、「――出ようか」
「ああ」
せめて、今夜ぐらいは事件抜きに願いたいね、と私は思った。
そして、何とかその願いは|叶《かな》ったのである……。
3
「ちょっと、すみません」
と言うなり、女が一人、私と夕子の座席の向いに座った。
列車はゴトゴト揺れながら、トンネルを抜けているところである。
「あの――申しわけないんですけど、知り合いのふりをしていただけませんか」
と、その女は言った。
見るからに何とも……。コートのえりを立て、ネッカチーフをかぶって、サングラス。
「私は人を尾行しています」
と、宣伝して歩いてるみたいである。
これほど|下《へ》|手《た》な変装も珍しいけれども。
「おい、こっちの車両にビール、頼むよ」
と、男が一人、隣の車両へのドアを開けて顔を出し、車内販売の売り子に声をかける。
「――行っちゃいましたよ」
と、夕子が女に言った。「今の男の人ですか、見られちゃまずかったの」
「ええ……」
女はフーッと息をついて、「私って向いてないんだわ、きっと、こういうことって」
「ま、プロにゃ見えませんね」
と、私は言った。「今のは?」
女はちょっとためらって、
「主人ですの」
と、言った。
隣の車両で宴会をやっているのは〈K工機〉――つまり、倉田信子が幹事をつとめているグループだけである。
「ご主人は〈K工機〉の方?」
「ええ」
と、女は目を丸くして、「どうしてご存知なんですか」
「いや、まあ……、ちょっとした知り合いで」
と、私は言った。「しかし、あなたのことは言いません。本当ですよ」
「はあ……」
女はくたびれたように肩を落として、「主人は――大浜といって課長なんです。私は|由《ゆ》|美《み》。大浜由美といいます」
「どうしてご主人の尾行を?」
と、夕子が|訊《き》く。
「お察しでしょうけど……。女がいるんです、主人。――あんなパッとしない男の、どこがいいんだろうって思いますけど」
と、大浜由美はちょっと笑って、「でも、結構もてるんです、若い子に。でも今回は何だか深入りしてそうで……。直感なんですけど」
「結構当るもんですわ、直感って」
「そうでしょう? この|親《しん》|睦《ぼく》会だか何だかも、いつもなら主人は面倒がって行きたがらないんですけど、いやに楽しそうにしていて。――だから、きっと彼女[#「彼女」に傍点]と二人になれるように|企《たくら》んでるんだと思います」
「それでついて来た、というわけですか」
「そうです」
「それなら、ネッカチーフやサングラスはおやめなさい」
と、私は言った。「目立つばっかりですよ、それじゃ」
「そうですね」
少し|頬《ほお》を赤らめて、言われた通りにネッカチーフとサングラスを外した大浜由美は、三十四、五というところか。なかなか|可《か》|愛《わい》い女性である。
「あの――ここにいてもいいですか」
「どうぞ」
と、夕子が言った。
「あの……あなた方、失礼ですけど――」
と、交互に私たちを眺めている。
「|叔《お》|父《じ》と|姪《めい》ですの」
と、夕子は私の腕を取って言った。
その説明で、大浜由美が納得したかどうか、私には自信がなかった。
あと三十分ほどで目指す温泉の駅、という辺りで、私は手洗いに立った。
〈K工機〉の社員たちが乗っている車両との間にトイレがあって、そこで手を洗っていると、
「――そんなこと」
という声が聞こえた。
「仕方ないだろう」
と、男の声。「な、|俺《おれ》だって|辛《つら》いんだ」
「どうだか」
と、相手の女がすねている。「私のこと、もう飽きたんでしょ」
「よせよ。そんなわけないだろ」
「課長。――私、近々お見合することにしてるの」
「見合? 結婚するのか」
「だって――いつまでもはっきりしてくれないし」
「もう少し待ってくれ。ちゃんと女房との間はけじめをつけるから」
やれやれ。――こんなセリフを信じる女がいるのだろうか。
「――もう席へ戻るわ」
と、女が言った。「みんなが変に思う。一緒に来ないで」
「ああ……。な、あや子。もう少し辛抱してくれよ」
「いいわよ」
と、女が言って、チュッと音がした。「じゃ、先に戻ってる」
女が戻って行く後ろ姿が見えた。「課長」の方は少し待っているらしい。
すると、女が一人、その車両から出て来た。
四十ぐらいか、ちょっと怖い感じの女性。仕事に関しては妥協がない、という印象だ。
「田上課長、何してるんですか?」
「やあ、河野君か」
と、「課長」が言った。「ちょっと酔ってね、さましてたんだ」
少し間があって、
「口紅がついてます。|拭《ふ》いた方がよろしいですわ」
「え?――あ、そう」
「課長。気を付けて下さい。社内恋愛は、何かと仕事に差し支えます」
と、厳しい。「特に|川合《 かわい》さんは、うわついていて、仕事もそうできないのに。課長とのことが知れると、みんながやりにくくなります」
「分ったよ」
と、田上という男はムッとした様子で、「そうズバズバ言うことはないだろう」
「本当のことですから」
と、河野という女性は動じない。
「しかしね……。君には分らんだろうが、人間、人を好きになるってのは理屈じゃないんだ。そう口やかましく言われてもね」
田上は、客席へと戻って行く。
――君には分らんだろうが、か。
ひどい言い方だ。たぶん河野という女性は独身なのだろう。しかし、それと人を愛することとは別だ。
あのひと言で、田上という男が思いやりの心などかけらも持ち合せていないことが分る。
妙な声がして……。私はそっと足音を立てないようにして、自分の席へと戻って行った。それは河野という女性が声を押し殺して泣いているのに違いなかったからだ……。
「お邪魔します」
と、入口が開いて、「お|寛《くつろ》ぎのところ」
「何だ、倉田さん」
と、夕子が言った。「|一《ひと》|風《ふ》|呂《ろ》、浴びて来ちゃった」
私も夕子も旅館の|浴衣《 ゆかた》姿。しかし、倉田信子はまだスーツのままである。
「いいわね。こっちはもう、部屋割りで大騒ぎ。決めてあっても、いざとなると、こっちの部屋がいいとか、あっちの方がいいじゃないか、とか……。人間ってわがままね!」
「大変ですね」
と、夕子は笑って、「仕事、すんだら、一杯やりに来ません?」
「お邪魔でしょ」
と、信子も笑って、「ま、宴会がすめば、こっちも用ずみ。そのときは電話入れるわ」
「ええ、いつでもどうぞ。――何か、心配ごとは?」
「そうね……。今は何も」
と言う倉田信子の表情には、やや不安が浮んでいた。「じゃ、後でまた」
「ええ」
夕子は、湯上りで、少しほてった顔をしていたが、「――宴会の席を|覗《のぞ》く?」
「向うがびっくりするぜ」
「でも、宴会のときって、結構|脱《ぬ》け出しても分らないものよ」
「そんなあわただしいことするかな。終れば町へ出るのもいるだろうし、みんなばらばらだ」
「その後は――温泉の夜はふけて、ってわけね」
夕子は、ちょっとおどけて言ったが――。「心配だな。倉田さん、何か問題を抱えてる」
「そういえば、あの奥さんは?」
「大浜由美? 当然、どこかこの旅館の部屋、取ってるでしょ」
「彼女と、倉田信子の心配[#「心配」に傍点]ごとと、関係があるかもしれないぞ」
「倉田さんと、大浜って人?――私も考えた」
と、夕子は|肯《うなず》く。「でも……。ともかく成り行きを見守るしかないわよ。ほら、夕ご飯じゃない?」
ドアを|叩《たた》く音に、夕子は、
「はーい」
と答えながら、スリッパを引っかけた。
「――ごめん、永井さん」
倉田信子がやって来たのは、もう夜の十一時だった。
「今まで?」
「うん。ここのカラオケで盛り上って、やっと解散。あとは勝手にしろ!」
と、笑った。「ね、やっとお風呂に入れるの。どう、一緒に?」
「いいですよ」
と、夕子はタオルをつかんで、「ちょっと行ってくる」
「ああ、ゆっくり入っといで」
と、私は言った。
二人が行ってしまうと、することもなくTVなどつけて、|面《おも》|白《しろ》くもないバラエティ番組を見て……。
もう布団は敷いてあるので、横になっている内、ついウトウトしている……。
ふと――人の気配で目を開けた。
|誰《だれ》かが立って、こっちを見下ろしている。びっくりして起き上った。
「――奥さん」
大浜由美である。しかし、普通ではない。ボーッとして、何を見ているかも分らない。
「奥さん! しっかりして! どうしたんですか!」
と、大浜由美の浴衣をつかんで――ハッとした。
手についたのは――血だ[#「血だ」に傍点]。
「奥さん、何があったんです?」
「え?」
と、我に返ったように、「あ……。列車の……」
「僕は刑事です。奥さん、その手の血は?」
「血……。そうなんです。主人が……」
「ご主人が?」
「私……。主人がこんなことになるなんて!」
力が抜けたように座り込んだなり、大浜由美がグスグス泣き出す。
「――ただいま」
夕子たちが戻ってくる。「どうしたの?」
「この人を見ててくれ。倉田さん、大浜さんの部屋は?」
「大浜課長ですか? この一階上ですけど」
「案内して下さい」
「はい。――こっちです」
私は、倉田信子をせかして、大浜の部屋へと急いだ。
「ここです。でも、誰かいるのかしら」
と、信子は言って中へ入ったが――。「まあ!」
と、声を上げた。
四人分の布団が敷いてある。その一つに女がうつ伏せに倒れていた。浴衣姿だ。
その背中には血が広がって、刺し傷が覗いている。そして、奥にぼんやりと立っているのは――。
「大浜課長」
と、信子が言った。「どうしたんですか、これ!」
「僕だ」
と、大浜は言った。「僕がやった」
大浜の足下に、血のついたナイフが落ちている。
「そんな……」
「何も触らないで」
と、私は言って、倒れている女の方へと歩み寄った。
手首の脈を取ったが、もう何も感じられない。私は、女の体を少し起して顔を見た。
「――河野さん!」
と、信子が息をのんだ。「どうしてこんな……」
「この人は?」
「河野さつきさんといって……、会社でもベテランの人です。何だってこんなことに」
「倉田さん、旅館の人に言って、警察へ連絡を」
「はい……。分りました」
「ここの電話は使わずに。いいですね」
「はい」
倉田信子が飛び出して行く。
とうとう、か。――何もなしで終るはずがなかったんだ。
私は、死人には申しわけなかったが、ついため息をつかずにはいられなかったのである……。
「とんでもないことになっちゃった」
と、倉田信子がくたびれ切った様子で、ため息をつく。
「倉田さんのせいじゃありませんよ」
と、夕子が慰めた。「少し寝た方が。――良かったら、私たちの部屋で寝てもいいですよ」
確かに、もう夜明け近い。相当参っているだろう。
「眠った方がいい。警察の人には、僕が言っといてあげる」
と、私は言った。
「すみません。――じゃ、自分の部屋で寝ますから」
と、会釈して、廊下を歩いて行く。
「――さて、と」
私は腕組みをして、「どういうことになるんだ?」
「妙な取り合せよね」
と、夕子も考え込んでいる。「大浜と河野さつき? でも、河野さつきがそういうことするかしら?」
「まあ、色恋は年齢と関係ないからな」
「それはそう。でも、あんなことになる前に何とかするんじゃない?」
と、夕子は言った。「ともかく――大浜が自分でやったと言ってるんですものね」
「そうだ。自白している以上、こっちの出る幕はない」
と、私は言った。「どうする?」
夕子は、ウーンと伸びをして、
「もう|一《ひと》|風《ふ》|呂《ろ》浴びたいわ。それから、東京へ帰る!」
と、言った。
4
「宇野さん」
と、|原《はら》|田《だ》刑事の巨体が机の前に立って、手もとがいっぺんに暗くなってしまった。
「何だ?」
「お客様です。若い女性ですよ」
と、原田はニヤニヤして、「いいんですか、夕子さんに知られても?」
「何言ってる」
と、にらんでやって、出て行くと、
「――どうも、先日は」
倉田信子が立っていたのである。
「やあ。どうも。――何かあったのかな」
「はい、それが……」
と、ためらって、「ちょっと、社へ来ていただけませんでしょうか」
「会社へ?」
「はい」
倉田信子の表情は深刻だった。
「夕子には何か――」
「連絡してあります。今ごろたぶん会社の方に」
やれやれ。こうなると、行かないわけにもいかないのだ。
私は、原田に言っておいて、倉田信子と二人で〈K工機〉のあるビルへと向った。
もう夜で、時刻は八時を少し回っている。オフィス街も、半分ほどの窓が明りを|点《つ》けているだけだった。
「――こっちです」
タクシーを降り、ビルの裏側へ出ると、〈夜間出入口〉という明りの下に、夕子が立っていた。
「あら、よく出て来られたわね、暇なの?」
とはご|挨《あい》|拶《さつ》である。
「何があったんだ?」
「ともかく中へ」
と、倉田信子が言った。
ビルの中、一基だけ動いているエレベーターで、〈K工機〉のフロアまで上った。
「どうぞ」
と、信子がドアを開けてくれる。
オフィスには、一人だけ、男が残って仕事をしていた。
「田上課長。まだ残業ですか」
と、信子が言った。
そうか。列車の中で、川合あや子とかいうOLと話し込んでいた課長さんである。
「うん。――倉田君、どうかしたのか」
「ええ、ちょっと……。会議室を借ります」
「ああ、構わないよ」
と、田上は|肯《うなず》いた。
私と夕子は、空いた会議室へと入って行った。
――河野さつきの殺された事件は、大浜の自白もあって、一応片付いたことになっている。しかし、私も夕子も、すっきりしないものを残していたことは事実である。
あの旅行の〈出欠〉欄にあった「三谷今日子」の名前は何だったのか。
「これなんです」
と、信子が言って、ファックスの用紙を机の上に広げた。「今日、私あてにファックスが……。他の人が見ていなかったから、騒ぎにはなりませんでしたけど」
そこには、〈信子。私、とても寂しいの。会いに来て。今日子〉とあった。
「書き文字ですね。――今日子さんの字?」
「まさか!」
と、信子は青くなって、「でも、確かに似ています」
「ふむ……。どこから送ったのか。いずれにしても、あの世とファックスはつながらないしね」
と、私は言った。「|誰《だれ》かが、いたずらでやっているとしても……」
「ずいぶんたち[#「たち」に傍点]が悪いわよね」
と、夕子が言った。「目的があるはずよ。それが何なのか……」
すると――オフィスの方で何やら人の声がした。
「何かしら」
と、信子が立ち上る。
「待って」
夕子が、信子を抑えて、ドアをそっと細く開けた。
「――知らないぜ、|俺《おれ》は」
と言っているのは、田上である。
「あら。留守電に入ってたわよ、会社にいるから、すぐ来てくれって」
「――まあ」
と、声を聞いて信子が言った。「川合さんだわ。川合あや子。でも……」
「ともかくまずい。な、帰ってくれ」
と、田上は何とか川合あや子を帰そうとしている。
「いやよ。せっかくこんな所まで来て。黙って帰るなんて」
「無理言うなって。今度、ちゃんと埋め合せするから」
「だって――」
と、二人はやり合っていたが――。
突然静かになった。もう少しドアを開けて外を|覗《のぞ》くと、
「――お前、どうしてここへ来たんだ」
と、田上がうろたえている。
「ご親切な方が教えてくれたのよ」
と、別の女性の声。
倉田信子が、小声で、
「田上課長の奥さん」
と言った。
「な、お前――」
「いいじゃないの、堂々としてりゃ」
と、川合あや子が割って入る。「どうせ奥さんとは別れるんでしょ。だったら、ここではっきり言ってよ」
「あなた! この子は何なの?」
と、妻の声は|尖《とが》っている。
「いや、その――」
「初めまして。川合あや子といいます。田上さんとは、結婚の約束をしています」
「あや子!」
「へえ。でもね、田上はもう結婚してるんですよ。そして私は別れるなんてつもり、これっぽっちもありません」
間に立って右往左往している田上の姿が目に浮ぶ。
「じゃ、主人にはっきりしてもらいましょ。あなた、どうするの? この子と結婚したいの?」
と、妻に言われて、
「いや――。まさか! 遊びなんだ、お互いに。そうだろ?」
と、田上が本音を出した。
「言ったわね……」
と、今度は川合あや子が声を尖らせて、「私とのこと、どう責任取ってくれるのよ!」
「な、大人同士じゃないか。そう言ってただろ、君も」
――とても聞いちゃいられない。
「どうする?」
と、私は夕子へ言った。
「そうね。続きはどこかよそでやってほしいわ」
と、夕子は言った。「でもね、どうやらこれもお節介な人がしたからこそ、らしいわよ」
「お節介な人?」
「そう。あの河野さつきが殺された事件にしても、この騒ぎにしても、誰かがそうなるように仕組んでるとしか思えないでしょ」
「永井さん、それはつまり――」
「三谷今日子の名で、誰かがやっている。たぶん、この騒ぎも――」
と、夕子が言いかけたとき、
「キャーッ!」
という叫び声がガランとしたオフィスに響いた。
「川合さんだわ!」
ただごとではない。私は飛び出した。
「やめろ! 助けてくれ!」
と、田上が机の間を逃げ回っている。
追いかけているのは夫人である。手に包丁を握っている。そして、川合あや子は、青ざめて棒立ちになっているだけ……。
「殺してやる!」
と、夫人が追いすがる。
「やめなさい!」
と、私は怒鳴った。
夫人や、川合あや子にしてみれば、突然見たこともない男が出て来たので、キョトンとして、カッカしていたことも忘れている。
「警察の者です。奥さん、おやめなさい。そんな亭主のために十年以上も刑務所へ入るつもりですか」
私の言葉に、夫人の怒りは急に冷めてしまったらしい。
「それもそうですね」
と言うと、手にしていた包丁をバッグへしまい込んだ。「ありがとう、止めて下さって」
「どういたしまして」
と、私は言った。「あなたにこのことを知らせたのは誰ですか?」
「さあ」
と夫人は首をかしげて、「聞いたことのない声でしたけど。誰でもよかったんです。もともと、主人のことは分っていますもの」
「なるほど」
と、私は言った。
「じゃ、あなた」
と、夫人は、夫の方を向くと、「もううちへ帰って来なくてもいいわよ」
「おい……」
「帰ってくるなら、離婚届をもらって来て」
と言うと、夫人はオフィスを出て行ってしまう。
「やれやれ……」
と、田上は汗を|拭《ぬぐ》って、「女は怖い!」
「自分のせいですよ」
「いや、分ってます。助かりました。――おい、あや子」
川合あや子の方も、すっかり冷ややかな目で田上を眺めている。
「何ですか」
「な、悪かった。あいつの気持を鎮めるためには、ああ言うしかなかったんだ。分るだろ?」
「いいえ」
「あや子――」
「気軽に呼ばないで」
と、はねつけて、「告訴するかどうか、よく考えますから」
「告訴?――おい、待ってくれ! あや子!」
さっさと出て行く川合あや子を、田上は追いかけて行った。
「みっともない」
と、夕子はため息をついて、「さて……。あれは何とか犯罪というところまで行かずにおさまったわね」
「どうなってるの、本当に?」
と、倉田信子が|呆《あき》れたように言った。
「ともかく、もう一度、ゆっくり話をする必要があるわ」
と、夕子は言った。
「誰と?」
と、私が|訊《き》く。
「大浜由美よ」
5
ドアが開くまでに、しばらくかかった。
「――あ、どうも」
と、大浜由美の顔が覗く。「マスコミの人かと思って……。失礼しました」
「いや、大変だったでしょう」
と、私は言いながら、そっと夕子と目を見交わしていた。
大浜由美のやつれ方は、普通ではなかった。――もちろん、夫が殺人犯として逮捕されているのだから、いつものようにしていられる人間の方が珍しいだろうが。
「――どうぞ」
と、由美は夕子と私にお茶を出して、「今……夜ですわね」
と言った。
「ええ。――夜の十時ですわ」
「そうですか。ずっとうちの中にいて、昼間もカーテンを閉めっ放しなものですから、時間だけだと昼か夜か分らなくて」
と、由美は力なく笑った。
「ご主人のことで、何かと大変でしょうけど力を落とさないで」
と、夕子は言った。
「ありがとうございます。でも――主人はもう別れようと言っていますわ」
「離婚、ということですか」
「ええ。でも、そうなったら、あの人のことを|誰《だれ》が心配するのか……」
「分ります」
と、夕子が身をのり出すようにして、「奥さん。ご主人に誰か女性がいるということに、いつごろからお気付きでした?」
由美は、少しの間ぼんやりと夕子を見つめて、
「そう……。一年くらい前かしら」
「その相手が誰か、見当もつかなかったんですか?」
「ええ。ただ――あの河野さんという方は、私も会ったことがあるんです。まさかあの人だとは――。もっと若い子だろうと思っていました」
「もっと若い人? 理由があってのことですか?」
「そう……。女と付合い出してから、たまに見慣れない物を持っていたりしました。ハンカチとか、時にはネクタイとか。でも、もちろん主人は自分で買ったと言ってましたが、面倒くさがりで、そんなもの自分で買うはずのない人です」
「それで……」
「そのネクタイの選び方とか見ていて、きっと若い女だろうな、と――。当てずっぽうですけどね」
と、由美はちょっと肩をすぼめて見せる。
「奥さん」
と、夕子は言った。「ご主人の自白で、事件のことは説明されてしまっています。でも、もう一度奥さんの口から聞きたいんです。あのとき、奥さんの手にも血がついてましたね」
「ええ……。私が主人のいる部屋をやっと捜し当てて、中へ入ってみると、あの女の人がもう倒れていたんです。私、びっくりして、駆け寄りました。そのとき、ついナイフを手に取って……。それで血がついてしまったんです」
私は、当惑した。
「待って下さい。――奥さん、今、ナイフを手に取った、とおっしゃいましたか」
「ええ」
「それはおかしい。ナイフにはご主人の指紋しかついていなかったんですよ」
「でも……確かに私、手に取りましたわ」
と、由美は言った。
「で、下へ下りて来たんですね。ご主人はそのとき、どこにいました?」
夕子の問いに、由美は首を振って、
「さあ……。見ませんでした。ともかく、あの部屋の中には、いませんでした」
「じゃ、ご主人は、あなたがいなくなった後で[#「後で」に傍点]、部屋へ戻って来たということですか」
「ね、おかしいわ」
と、夕子が言った。「もし大浜さんが本当に河野さつきを刺したのなら、|一《いっ》|旦《たん》部屋を出て、また戻ってくるなんて。何のために? 凶器のナイフさえそのままにして」
「確かにそうだ」
「ナイフの指紋も。奥さんの指紋がなくて、大浜さんのものだけある、というのは、|拭《ふ》き取った後にわざわざ自分の指紋をつけたとしか思えない」
「つまり、どういうことになるんだ?」
「大浜さんが見たのは、奥さんが、手に血をつけて、動転した様子で自分の泊る部屋から出てくるところだったのよ。で、部屋へ入ってみると、河野さつきが死んでいる。当然、大浜さんは、奥さんがやったんだと思ってしまった」
「なるほど、それでナイフの指紋を拭き取って、自分がやったことにしようとしたのか」
「まさか!」
と、由美が|唖《あ》|然《ぜん》として、「私、そんなことしません!」
「しかし、ご主人はあなたがやったと思っている。それで自白してしまったんですね」
「どうしましょう!」
と、由美が青ざめた。
「落ちついて。まだ時間は充分にありますわ」
と、夕子がなだめた。「ともかく、ここは任せて下さい」
「主人ったら! どうして、一言私に訊いてくれなかったんでしょう?」
「それは、自分でも後ろめたい思いがあったからですよ」
と、夕子が言った。「若い恋人がいたというのは事実のわけですから」
「でも、何も人殺しの罪まで引き受けなくても……」
と、由美は疲れ切った調子で、言ったのだった……。
「――何をするんだ?」
と、私は言った。
「しっ」
夕子が言った。「暗い所で、私と二人きりでいるんだから、文句ないでしょ」
「状況によるだろ」
と、私は言った。
ここは――〈K工機〉のオフィスである。
といっても、夜中の二時を回っている。もちろん誰も残っている者はなくて、明りも消えて真暗。
私と夕子は、その暗がりの中に身を潜めていたのである。あの会議室の中で、ドアのかげになる場所にしゃがみ込んでいた。
「――分るでしょ、大浜がなぜあんなことをしたか」
と、夕子は言った。「やってもいない殺人の罪を引き受けたのよ。何かよほどのことがあったはずだわ」
「うん、分る」
と、私は|肯《うなず》いた。「飛び下り自殺した、三谷今日子だな」
「まず間違いないと思うわ」
と、夕子が肯く。「大浜は、自分が彼女を殺したようなものだと思って苦しんでいたんでしょう」
「大浜の愛人は三谷今日子だった、ってわけだな」
「そして、妻が勘違いから河野さつきを殺したと思い込んで、結局、それは自分の罪だと考えた」
「それで、罪を自分で引き受けたのか。――じゃ、犯人は別にいるってわけだな」
「そういうことになるわね。あの、旅行の回覧に〈三谷今日子〉の名前を入れた人。あれは、どう考えても、誰かへのメッセージだったわ」
そのとき、オフィスの|鍵《かぎ》がガチャッと音をたてて開いた。
明りが|点《つ》く。誰かが、中へ入って来た。
「誰だ?」
「しっ。もう少し」
と、夕子が息を殺す。
すると、もう一つ足音が聞こえた。
「――まあ、川合さん」
「倉田さん」
と、後から来た女が言った。「何してるの、ここで?」
「呼ばれたの、今日子に」
「何ですって?」
「今日子から、私の部屋の留守電に入ってた。――ここへ来て、って」
「三谷さんは死んだのよ」
「でも――死にきれてないんだわ、きっと。私を恨んでるから」
と、倉田信子が涙声になる。
「あなたを? どうして? あなたは三谷さんの友だちだったでしょう」
「ええ……。でも、|恋敵《こいがたき》でもあった」
「恋敵?」
「私――大浜課長が好きだったんですもの」
「あなたが!」
と、川合あや子が|愕《がく》|然《ぜん》とする。「でも……」
「あの旅行のとき、大浜課長の所へ行こうかと思った。――何度か、食事したり、話をしたりはしてたの。きっと、抱いてくれると思ってた」
「あなたが……。じゃ、河野さんは何しに行ったの!」
「知らないわ」
と、倉田信子は言って、「どうしてそんなこと――」
しばし、間があった。
「川合さん! あなたが今日子の名前を出欠表に入れたの?」
と、信子が叫ぶように言った。
夕子が立ち上って、会議室を出て行くと、
「そうじゃないでしょう」
「永井さん……」
「あれを入れたのは、たぶん河野さつきさん」
と、夕子は言った。
「河野さんが?」
「警告のつもりだったんでしょう。倉田さんや川合さんへの。ああいう恋が、どれだけ周囲を傷つけるか、たぶん河野さんも身をもって知っていたんですよ」
「じゃ、河野さんが大浜課長の所へ行ったのは――」
「みんなのいない所で、大浜さんを説得しようとしたんでしょう。倉田さんと別れるように。――列車の中で、田上さんと川合さんのやりとりを聞いて、ますます何とかしなくては、という気持になったんでしょうね」
川合あや子は力なく、空いた|椅《い》|子《す》に腰をかけた。そして、
「私……何も知らなかった!」
と、うつむいてしまった。
「川合さん、あなたが河野さんを刺したんですね」
と、夕子が|訊《き》くと、あや子が肯いた。
「てっきり……彼女と大浜さんが、と思って……。三谷今日子さんを死へ追いやったのも、あの人だと思って」
「不運な誤解が重なったんですよ」
と、夕子は言った。「あなたは本気で田上さんを愛してたわけじゃない。すぐに浮気する男に仕返ししてやろうとしてたんでしょ?」
「うちの父は、何度も部下の女の子に手を出して……。母はその心労が原因でノイローゼになったんです。田上みたいな|奴《やつ》、うんと振り回してやりたかった!」
「でも――河野さんが、もし人違いでなかったとしても、殺してはいけなかったわ」
「ええ……。私も、大浜さんが好きでした」
と、川合あや子は言った。「だからこそ、大浜さんを苦しめて、家庭を壊そうとしている女が、許せなかった」
私は、静かに川合あや子に歩み寄って、肩に手をかけた。
「申しわけありません」
と、川合あや子は穏やかに、しかし、しっかりした声で言った。「あの人に罪をかぶせる気はありませんでした。ちゃんと自首して出るつもりでした」
「分った。――じゃ、行こうか」
「はい」
と、川合あや子は立ち上った。
「倉田さん、大丈夫?」
と、夕子が声をかける。
「ええ……。|辛《つら》いわ、私も」
と、ため息をつく。「――私の所へファックス入れて来たり、留守電に入れたのは、誰なの?」
「それは私」
「あなたが?」
「確かめるためには、そうするしかなかったんです。ごめんなさい」
夕子の言葉に、倉田信子は首を振って、
「いいえ」
と、言った。「私も、自分の生き方を見直さなくちゃ」
「人にはね、やり直す権利があるんですよ」
と、夕子が言って、信子の肩を|叩《たた》いた。
「そうね」
と、信子は肯いて、「あなた方も、あの温泉旅行をやり直してね、良かったら」
私は、「やり直しても、どうせ何か起るんですよ」と言いかけて、やめておいた。
つまるところ、何か[#「何か」に傍点]起ったとしても、私は夕子といられれば楽しいのだから。
マザコン刑事の大晦日
1
凍りつくような北風が吹きつけてくると、道行く人は|誰《だれ》もがコートのえりを立て、首を|亀《かめ》の子みたいにすぼめて足を速めた。
一刻も早く――一分でも一秒でも早く、暖かい我が家へ駆け込みたいのだろう。
でも――寒さは同様にまといついて来たけれども、|早《さ》|紀《き》には首をすぼめるぐらいのことしかできなかった。今から行こうとする場所へは、一分一秒でも早く着きたくなかった[#「なかった」に傍点]からであり、急いで帰りたくなるうちもなかったからである。
夜道は、それでも人通りがあってまだ気も紛れた。こんな日にも、仕事で出たり、用で出かけたりする人がいるんだ。
まだ十七の高校生には、勤めている人のことはよく分らない。それでも、せめてお正月は家にいようと、たいていの人は思うのだろう。
|大《おお》|晦《みそ》|日《か》のこの日、十二月三十一日は、|永《なが》|峰《みね》早紀にとってはたぶん、一番|辛《つら》い一日だったろう……。
腕時計を見た。十一時十五分。
あと四十五分で年が明ける。
駅から歩いて十五分と聞かされてきた。道は一本、間違えようはないと。
そう、たぶん確かにこの道だろう。もう十分ほどは歩いて来た気がする。じきに着いてしまいそうだ。
でも……。そうだわ。何も三十分以上も早く向うに行くことはない。
早紀は、ちょうどすぐ先に小さな喫茶店が開いているのを見付けた。その明りはひどく暖かそうで、早紀は吸い寄せられるように、その店の戸を押していたのだ。
「いらっしゃいませ」
退屈そうなウエイトレスが、|欠伸《あくび》をかみ殺しながら言った。
「いいんですか?」
つい|訊《き》いてしまうが、手はもうコートのボタンを外していた。
「どこでもどうぞ」
店はガラ空きで、一人、男の客がいるだけだった。
早紀は、入口に近くない席に落ちつくと、
「ココア下さい」
と、注文した。
ともかく熱いものを飲んで、体を内側から暖めたかったのである。
「はい」
ウエイトレスの子が、カウンターの中へ入って、ガチャガチャやり始めた。そういえば他に店の人もいない。
「――大晦日はどこも休みだから、開けとけば客が来る、ってね。そう言われて開けてるんだよ」
と言ったのは、もう一人の客だった。
「本人はハワイ!」
と、ウエイトレスがひと言。
早紀は笑ってしまった。
その男は――たぶん二十七、八だろう、感じのいい笑顔の男だった。
自分のコーヒーカップを受け皿ごと持って早紀のテーブルへ移ってくると、
「いいかい?」
「――ええ」
「いや、君のような若い子が、どうして大晦日にこんな所にいるのかと思ってね。大きなお世話だろうが」
「そうですね」
と、早紀は|微《ほほ》|笑《え》んで、「どうしてここにいるんだと思います?」
「彼氏と二人で年越しするんで、待ち合せ? 違う? |初詣《はつもうで》の待ち合せ。――違うか!」
男は本気で考え込んでいる。
「無理です。当りっこないわ」
「そうかな? じゃ、話してくれる?」
「話しても……|面《おも》|白《しろ》くありませんよ。他の人には面白いかな」
「他の人には?」
「人の不幸って面白いって言うじゃないですか」
「不幸か……君、元気そうに見えるよ」
「あと……四十分もしたら、幸福じゃいられなくなります」
「年が変ると、ってこと?」
「変る前に、行かなきゃならないんです、この先のある人の家に」
「それが不幸? 分ってて行くの」
「ええ」
早紀はホッと息をついた。「私――|可《か》|愛《わい》い?」
「そうだね」
男は首をかしげてまじまじと眺め、「ま、可愛い方じゃないか?」
正直なんだ。早紀は笑って、
「ありがとう。――私、三千万円の代りなの」
「三千万……」
「父が借金こしらえて、暴力団に取り立てを食って……。その人の所へ泣きついたんです。その人は貸してくれたけど、大晦日までに返さなかったら、私をもらうって……」
「無茶だ」
「ええ。でも、きちんと借用証があって、返さないとまた同じこと――いえ、もっとひどいことになるかもしれないんです。父も頑張ったけど……。半年で三千万円なんて、返せるわけないでしょ。しかも失業中で、食べてくだけだって大変な状態で」
「それで……」
「今日、父が手をついて、私の前に……。何も言わずにその人の所へ行って一晩過せって。それで借金は帳消しにしてくれるって」
男は|呆《あっ》|気《け》に取られている。
「そんな……。いつの時代の話かと思うじゃないか!」
ココアが来た。――早紀はゆっくり冷ましながら熱いミルクの泡をすすって、
「でも、他に方法がないの。――それより、父がそんな風に子供の前で手をついてる姿なんて、見たくなかった。『いいわよ! 一晩でいいんでしょ!』って言って出かけて来たの……」
男は、しばらく早紀を見ていたが、
「君は本当にそれでいいのか」
「いいも悪いも、考えたって同じでしょ。だから考えないことにしたの」
強がりを言っていることは自分でもよく分っている。たぶんその場になれば震えているばかりだろう。
「――じゃ、考える余地はないんだね」
「ええ」
「いつ、ここを出れば間に合う?」
「さあ……。十二時十分前かな」
「あと三十分ある。――君、ここにいるんだよ」
と、突然男は立ち上った。
「え?」
「待ってるんだ。十分前まで。いいね?」
早紀は黙って|肯《うなず》いた。
男は自分のジャケットをつかむと腕を通すのももどかしいように、喫茶店を出て行った……。
「――一分前か」
と、その男――|高《たか》|畑《はた》|悠《ゆう》|介《すけ》は、目の前に立った早紀を眺めて、息をついた。「もう来ないかと思ったぞ」
広々とした居間。大理石の暖炉には本物の火が上っている。
もう六十代の後半の高畑は、髪が減って、かつ白くなっており、妙に色つやの良い顔と対照的だった。
「君のことなら大歓迎だよ。明日の朝食は何がいい? それともその前に夜食にするかね」
話している内に、十二時のチャイムが鳴り始めた。
「私、帰るんです」
と、早紀は言って、「お金をお返しに上りました」
早紀は手にしていた紙袋の中身を取り出した。
百万円の札束である。高畑の前に、それをどんどん積み上げている早紀は幸せそうだった。
高畑は口を半ば開き、夢でも見ているかという様子で、テーブルに積まれる三千万円を見ていたのだ……。
2
「ご苦労様」
と、警視庁捜査一課の警部、|大谷努《おおたにつとむ》は言って、グラスを持ち上げた。
「警部こそ」
と言ったのは、|香《か》|月《づき》|弓《ゆみ》|江《え》。
大谷の良き部下である。
弓江と大谷の他に、今日は|川原涼子《かわはらりょうこ》もいた。
「警部、お母様は……」
「うん、川原君、心配してくれるのは分るけどね」
と、大谷はシャンパンのグラスに浮ぶ細かい泡を見ながら、「お袋は友だちと温泉で年を越すんだと言って出かけてるんだよ」
「まあ、そうですか」
涼子の顔に、ホッとした表情が|覗《のぞ》く。弓江がからかって、
「涼子さんのお父様は?」
と|訊《き》く。
「父は出張先ですの。どうして|大《おお》|晦《みそ》|日《か》まで、とブツブツ言っていましたけど、どうしても仕事が片付かないので」
「それは残念ね。可愛い娘と水入らずで過したかったでしょうに」
涼子が|頬《ほお》を染める。――弓江だって、いやみなんか言いたくないのである。
しかし、せっかく大谷と二人で新年を迎えようというのに、いつもは「ファザコン」で父親がべったりくっついてくる川原涼子が一緒というのは、何といっても面白くないのだった。
「ま、ともかく今夜は一年間の労をねぎらうために集まったんだ。仲良くやろうじゃないか!」
大谷が明るく言って、「とりあえず、乾杯しよう」
シャンパンのグラスがチリンチリンと触れ合って、ともかくも夕食が始まる。――大谷にはなじみのレストランで、この十二月三十一日も休まず深夜まで開けていた。
「でも、今夜だって出番で働いている方もあるんですものね」
と、川原涼子が言った。
「仕方ないさ。我々の仕事には、休みなんかないよ」
しかし、今はともかく食事を楽しもうということになって……。
男一人に女二人という少々不安定な取り合せのテーブルだったが、お互いそう子供じゃない。当らずさわらずの会話を楽しみながら食事は続いていた。
ふと会話が途切れたとき、
「――涼子さん」
と、弓江が小声で、「あなたの席から斜め右のテーブル、見てる?」
「はい」
と、涼子も即座に肯き、「何だか妙ですね」
「何の話だ?」
「しっ。――警部からは後ろになりますから。若い女性が一人で、もう三十分以上待ってるんです」
「ふーん。気の毒に」
「でも、妙なのは」
と、涼子が言った。「お客が入って来る度にドキッとしてて、待ってる人と違うと分るとホッとしてるんですよね」
「さすが! あなたも気が付いた?」
「ええ。どういう取り合せなんでしょう? ともかく約束はして、待たずに食事を始めるというわけにもいかないけど、会いたくない相手ってことですよね」
「そう。それに、えらく時間を気にしているでしょ。早く来ないかとじりじりしてるときなら、時計を見ては入口の方へ目をやる。でもあの人は時計を見るだけ」
大谷は、弓江と涼子の観察の細かいことにびっくりした。
「どうやら、かなり複雑な事情がありそうだね」
と言って、パンをちぎる。
「電話を頼んでますわ。――どこへかけるのかしら」
大谷も、店の中を見回す格好で、ついでに目をそのテーブルへやった。
明るいスーツ姿の、たぶん二十四、五と思える女性が、店の人が持って来てくれたコードレスホンのボタンを押している。
二度、かけ直したが、相手は出ない様子である。今度は違う番号へかけて、
「――あ、永峰早紀と申しますが、――高畑さんは?――え? 確かですか。――いえ、まだ」
その口調に多少の不安が混って、「――分りました。――ええ」
電話を店の人へ返すと、少しあって、何を思ったか、その女性は立ち上ると、大谷たちのテーブルへとやって来た。
「失礼ですが」
と、ていねいに、「お話が耳に入りまして、警察の方でいらっしゃいますか」
「はあ、そうですが」
と、大谷が答えると、
「お手数ですけど、私に同行していただけませんでしょうか」
大谷と弓江はちょっと顔を見合せた。
「――何か事情がおありなの?」
と、弓江が訊くと、
「人が殺されているかもしれないんです。いえ、きっと殺されているんだと思います」
と、その女性は言ったのだった。
「――三千万円ね」
と、車を運転しながら弓江が言った。
「でも、無事で良かったわ」
と、助手席の涼子が言った。
後部座席には大谷と永峰早紀が座っている。
「で、それが七年前?」
「はい」
と、早紀は|肯《うなず》いた。「お金を出してくれた人は、|山《やま》|崎《ざき》|唯《ただ》|志《し》というイラストレーターで……。お父様がとても有名な画家なんです。そのとき、突然三千万円も用意して下さったのは、父親の絵の一枚を勝手に家から持ち出して、本当なら五、六千万はするものを、三千万でいいからといって、なじみの画商に買い取らせたんです」
「そういう親があると便利ね」
と、弓江が言った。「後でばれなかったの?」
「文句は言われたようですけど。芸術家だから、ちょっと変ってるらしいです」
と、早紀は言った。「山崎唯志さんはそのとき二十七で、十歳年上だったんですけど……。それがきっかけでお付合いするようになりました。もちろん、父も母も感謝していましたけど、唯志さんは少しも恩着せがましいことも言わず……」
と、早紀は言いかけて、「――私は幸せでした」
と、ため息をついた。
しかし、幸せなことばかりではなさそうだ、と大谷は思った。それなら人殺しなど起るまい。
「――何があったんだね?」
大谷が穏やかに促す。
「はい。――もちろん、そのとき唯志さんが助けてくれなかったら、今ごろ私はどうなっていたか分りません。でも、私以外の人にとっては、決していいことだけではなかったんです」
と、早紀は言った。
「お父さん!」
早紀が叫ぶように呼ぶと、父、永峰|靖《やす》|夫《お》はギクリとしてホステスの肩に回していた手を外した。
「何だ……。早紀か」
永峰はニヤリと笑って、「びっくりするじゃないか、そんなでかい声を出して。他のお客もいるんだ」
そんなことを気にしていられる場合ではなかった。早紀は父の前に立つと、
「父と話があるんです。外して下さい」
と、言った。
「何か飲みものくらい頼め。ここはバーだぞ」
「いいんですよ」
と、マダムがやって来て、女の子を外させると、「お嬢さんですね。何か内密のお話なら、奥の部屋をお使いになります?」
早紀は、その気のつかい方が|嬉《うれ》しかった。
「それじゃ……」
と、父と二人、奥の小部屋へ入り、
「――お父さん。どういうことなの?」
「何だ、だしぬけに」
と、永峰はとぼけたが、目をそらしている。
「分ってるのよ。会社を始めたとかいって、全部山崎さんの所で出してもらってるんじゃないの。それを、ろくに仕事もしないで、こんな風に遊んでばっかり!」
「遊びも仕事の内さ、人付合いってもんも大切なんだ」
「ユリってホステスとの付合いが?」
永峰の表情が少しこわばった。
「父さんのプライバシーだ。口を出さんでくれ」
「その子にも毛皮だの宝石だの買ってやって、その払いまで唯志さんの方へ回してるっていうじゃないの!」
「早紀、お前、|俺《おれ》のことをかぎ回ってるのか」
「お父さん……。唯志さんから一体いくら借りてるか、分ってるの? もう億のお金なのよ」
「それが何だ? あっちは、チョイと一枚絵を描きゃ何千万の世界だぞ。少々のこと、構うもんか」
早紀はカッとなった。思わず、平手で父親の顔を打っていた。
「何するんだ!」
「当り前でしょう! 自分が何したか、分ってるの?」
「ちゃんとした支払いさ。そうだろう。|奴《やつ》がお前みたいな若い女を抱くのにタダってのは|図《ずう》|々《ずう》しい。だからきちんと請求してやってるんだ」
早紀は耳を疑った。
十七のとき、三千万円の借金を山崎唯志に払ってもらった。それで救われたのは確かだったが、もともと意志の弱いところのある父は、いざとなれば唯志が助けてくれる、とあてにするようになってしまったのだ。
「――お父さん」
早紀は立ち上って言った。「もう二度と唯志さんに近付かないで」
「早紀。それでもお前は俺の娘か!」
強がるほど、永峰の怒鳴り声は空々しく響いた。
早紀は追われるようにしてその部屋を飛び出して行った……。
「――なるほど。難しいもんだ」
と、大谷は言った。
「唯志さんは、私が気にすると分っていたので、父が借金を頼んで来ても、黙っていたんです。でも、それも良くなかったんです。もっと早く分っていればまだ……」
と、早紀は言いかけて、「――あ、そこを左折して下さい」
「これから行く高畑って――」
と、弓江がハンドルを操りながら、「七年前と同じ人なの?」
「そうなんです」
早紀は|肯《うなず》いた。「高畑は実業家で、確かにかなり悪どいこともしています。でも、七年前、私をものにするつもりでいたのを、鼻先ではねつけられ、それで今度は意地になって私を手に入れようと執着するようになったんです。そうなる前は、有能な経営者という評判だったそうですけど」
「じゃ、今は……」
「この何年かの間、高畑は唯志さんの父親に、色んなルートで近付き、あれこれ投資の話をもちかけたり、土地を紹介したりで、結局、知らない内に山崎さんは大変な負債を抱えることになってしまったんです」
「じゃ、それを目的にわざと?」
「ええ。――そして、今、山崎さんは破産同然の状態で、絵の方にもさっぱり熱が入らず、すっかり老け込んでしまいました」
「ひどい話だな」
「それもこれも、私のせいなんです。今夜、高畑は私を誘って来ました。むろん、七年前のことを思い出させるために、この|大《おお》|晦《みそ》|日《か》を選んだはずです」
「じゃ、また同じ[#「同じ」に傍点]要求を?」
「はい。――私が高畑のものになれば、山崎さんの所は救われるでしょう」
と、早紀は言った。
「やれやれ……」
大谷は首を振って、「人間ってのはこりない[#「こりない」に傍点]生きものだね」
「あ、そこの屋敷です」
と、早紀が指さす。
大きな門構え。その門が大きく開け放してある。
「車を中へ入れます」
弓江は遠慮なく車を乗り入れた。
砂利道をさらに走って、やっと玄関前に着く。
大谷たちが車から出ると、玄関から女が一人飛び出して来た。
「あ……」
と、足を止めて、「救急車かとてっきり――」
「|尾《お》|田《だ》さん」
と、早紀が言った。「高畑さんが?」
「あなたね!」
と、その女は腹立たしげに、「とうとうこんなことになって!」
「警察の者です」
と、大谷は言った。「何があったんですか?」
「中へ入って、ご覧になって下さい」
と、女は言った。「私、高畑さんの秘書で尾田|加《か》|奈《な》|子《こ》と申します」
大谷を先頭に、その大きな屋敷の中へ入って行く。
「応急手当はしました」
と、尾田加奈子は言った。「もともと、私は看護婦でしたから」
居間――広々とした居間へ入ると、革ばりのソファに、腹部に包帯を巻いた老人が横たわっていた。
「気を付けて」
と、大谷は言った。「カーペットに血がついてる。触らないように」
弓江が素早く老人のそばへ寄って手首の脈をとる。
「どうだ?」
「ええ、しっかりしています」
と、弓江は肯いて、「気を失ってるだけですわ」
「割合に傷が浅かったんです」
と、尾田加奈子が言った。「でも、これは殺人未遂ですわ」
「確かにね。――どういう事情だったか、話して下さい」
大谷の問いに、尾田加奈子は、
「私でなく、その人たちに|訊《き》いて下さい。私が来たとき、もう高畑さんは血を流して倒れていて、その二人がぼんやり立ってたんですから」
居間があんまり広くて、それまで気が付かなかったのだが――むろん、高畑に気を取られていたせいもあったが――二人の男が隅の方に立って、成り行きを眺めていたのだ。
「唯志さん!――お父さん!」
早紀は、二人の男を見て、どっちへも駆け寄ることができなかったのだろう、二人と同様に立ち尽くしていたのである。
3
「私は、この永峰早紀さんから、高畑さんがまだレストランに現われないと連絡を受けて、心配して来てみたんです」
と、尾田加奈子は言ってから、「どうして救急車が遅いの?」
と、|苛《いら》|立《だ》って口を|尖《とが》らした。
「そうだな。この辺で迷ってるのかもしれない。川原君、君、ちょっと表に行って見て来てくれ」
「はい!」
涼子は急いで居間を出て行った。
「――それで、二人はただ立ってたんですか」
と、大谷は訊いた。
「そうです」
大谷は、永峰靖夫の方へ、
「あなたがやったんですか?」
と言った。
「違う」
と、永峰は首を振った。「そのつもり[#「そのつもり」に傍点]で来たのは確かだ。しかし、ここへ来てみると、もうやられてた」
「すると、山崎唯志さん、あなたですか?」
「残念ですが、違います」
と、唯志が言った。
唯志の|傍《そば》には早紀が座って、しっかりと手を握り合っている。
「というと?」
「僕がここへ来たとき、もう高畑は倒れていたんです」
「ふーん。それではお二人のうち、どっちが先にここへ来たんですか?」
男二人は顔を見合せて、
「さあ……」
と、首をかしげた。
「いい加減なこと言って、ごまかそうとしてるんだわ!」
と、尾田加奈子が怒っている。
「いや、僕はここへ|一《いっ》|旦《たん》入って、高畑がけがしているのを見たんで、手当するものはないかと思って、他の部屋を捜していたんです。そのとき、何か物音がしたんで戻ってみると、永峰さんが……」
「私も、似たようなもんです。玄関は|鍵《かぎ》がかかっていませんでしたから、上ってみたんです。そして、他の部屋を回って、それからここへ……。びっくりしていると、その男――山崎が入って来たんです」
と、永峰が言うと、
「だったら、どうして高畑さんを放っておいたんですか!」
と、尾田加奈子がかみついた。
「いや、そこへすぐあんたが来たんだ。――なあ」
「ええ」
と、唯志が|肯《うなず》いて、「ほんの数分のことだったと思います」
大谷は首をかしげた。
三人の話を合せると、三人とも[#「三人とも」に傍点]ほとんど同時にここへ来たことになる。しかし、そんなことがあるだろうか?
「――警部」
と、弓江が呼んだ。
大谷が、弓江の捜索していたソファの裏側を|覗《のぞ》くと、小ぶりのナイフらしいものが落ちている。
「血がついているようです」
「指紋をとることになるな。手を触れずにおこう」
「はい」
と、弓江が肯く。
そこへ、
「あの、警部!」
と、涼子が駆け戻って来た。
「救急車が来たか」
「いえ……。それはまだなんですけど」
「じゃ、何だ?」
大谷の問いに涼子が答えるよりも早く、|颯《さっ》|爽《そう》と居間へ入って来たのは――。
「ママ!」
と、大谷は|唖《あ》|然《ぜん》として、「温泉に行ったんじゃなかったの?」
「行ったわよ、もちろん」
と、大谷の母は平然と、「お|風《ふ》|呂《ろ》にも入ったわ。でも、上ると何もすることなくてね。やっぱり努ちゃんとでないと、年を越した気がしないと思ったの。それで帰ってみると、事件で急行してるっていうじゃない。私、言ってやったわよ。うちの努ちゃんは、普段人の何倍も働いてるんですよ、って。それなのに、大晦日も満足に休めないなんて、非人道的ですってね」
「ママ、そう言ったの」
「言ったわよ。人間、思った通りのことを素直に言うのが一番」
大谷の母は、ソファに寝ている高畑を見て、
「どうかなさったの?」
と、大谷へ訊いた。
尾田加奈子は、
「どうして、変なのばっかり来て、肝心の救急車が来ないのよ!」
と、ついにヒステリーを起した。
大谷も多少、尾田加奈子に同情したい気分だった……。
「死体はどこだ!」
ドカドカと検死官が入って来たときは、大谷もびっくりした。
「どうしたんですか?」
「どうしたもこうしたも、|大《おお》|晦《みそ》|日《か》に呼び出しといて、何だ? 早いとこ片付けよう。死体は?」
大谷は川原涼子の方を見て、
「君……」
「すみません!」
と、涼子が口に手を当てて、「つい、いつものくせで、『殺人です』と言ってしまったんです」
「そうか……。すみませんね。まだ[#「まだ」に傍点]死んでないんです」
「何だと?――そうか。ま、それじゃよく言っとけ、死ぬなら、休み明けにしてくれとな」
検死官が帰っていくと、入れ代りに、地元署の刑事たちがやって来た。
「救急車……」
尾田加奈子はすでに怒る気力すらなくしているようだった。
「――問合せてみました」
と、弓江がやって来た。「忘れてるわけじゃないんだけど、何しろ大晦日で忙しくて、フル出動なんだそうです。もう少し順番を待っててくれと……」
「番号札でも持って?」
と、加奈子はやけ[#「やけ」に傍点]で、「銀行の振り込みみたいだわ」
大谷の母は、どこにいても平然としている。この混乱した状況でも一向に変らない。
「でも、聞けば聞くほど教訓のあるお話ね」
と肯いて、「人を助けること、必ずしも当人のためにはならないの」
「もう放っといて下さい」
と、永峰がむくれている。
「いいえ。あなた一人のために、どれだけ多くの人が迷惑しているか、分ってますか」
と、お説教を始める。
「それなら、そこでおねんねしてる|奴《やつ》に言ってくれ」
と、永峰は高畑を見て、「三千万でうちの娘を買おうとしてた。とんでもない奴だ」
「待って下さい!」
と、秘書の加奈子がたまりかねたように、
「確かに、私が勤め始めたころ、高畑さんはそういう方でした。私も何度辞めようかと思ったかしれません」
と、口を挟んで、
「でも――今はそうじゃないんです。もう――あの方は必死なんです。ご自分も七十を越えて、早紀さんを自分のものにするにも、先は長くないと分っておられるんです。ですから、こんな風に強引に……。でも、本当に早紀さんに|惚《ほ》れておられるんです」
「やめてくれ」
と、唯志が憤然として、「早紀は二十四だよ。七十いくつにもなって! まともじゃない」
「そうですか」
と、加奈子が小馬鹿にするような口調で、
「では、七十歳[#「七十歳」に傍点]ならよろしいの?」
唯志は戸惑って、
「何のことだ?」
「どなたか、今年七十歳の方がいらっしゃいませんでしたか」
しばらく|誰《だれ》も口をきかなかった。
――妙な光景で、落ちたナイフの写真をとったり、捜査は進んでいるのだが、何しろ広いのであまり気にならない。
一画に集まった関係者たちが、話をしている間、被害者の方は気を失ったままソファで寝ているのだ。
「君の言うのは――」
と、唯志が言いかけると、
「唯志さん!」
「ハクション!」
――同時に聞こえた。
「早紀君、|風《か》|邪《ぜ》引いてるのか?」
と、唯志が|訊《き》く。
「今のクシャミ、私じゃないわ」
「しかし……。まるで今のは――」
と、唯志が言いかけたとき、
「これ、何だ?」
と、捜査員の一人が大きな戸棚を開けたのである。
「勝手に開けないで下さい!」
と、加奈子は怒ったが、「――まあ」
戸棚から、和服姿の風格のある老人が現われたのである。
唯志が|呆《あっ》|気《け》にとられて、
「お父さん!」
と言った。
「じゃ、山崎|岳《がく》|人《と》さんで?」
と、大谷は目を丸くして、「何してたんです?」
「ここに入っていた」
と、画伯は分り切ったことを言って、「中が|埃《ほこり》っぽい。私は埃っぽいとアレルギーでクシャミが出るんだ」
「しかし……。驚いたな!」
「もっと驚くわよ」
と、加奈子が言った。「この方が誰にベタ|惚《ぼ》れか知ったらね」
「君じゃないことは確かだね」
唯志に言われて、また加奈子はかみつきそうな顔をした。
「待て」
と、永峰が言った。「それはもしかして……」
「当然だ」
と、山崎岳人は胸を張って、「芸術家は美しいものに常にひかれる」
早紀が唯志の腕を取って、
「怒らないで。黙ってたのは悪かったわ」
と、急いで言った。
「君、|親《おや》|父《じ》と深い仲なのか」
「まさか! そんなこと、あるわけないでしょう」
と、早紀が否定したが、
「いや、そうとも言えんぞ」
と、山崎岳人は、「ここのボタンを押せば分る」
「やめて!」
ブーンとモーターの音がして、壁がゆっくりと動くと……。
隠されていたもう一つの壁が現われた。
同じ板で|貼《は》ったものだが、違うのは絵が飾られていることだった。
少女から若い女へ。――一見して、早紀がモデルと分る裸体画[#「裸体画」に傍点]だった。
誰もがしばし|唖《あ》|然《ぜん》として五枚もの裸体画を眺めていたが……、
「早紀君、君は――」
「信じて! お父様とは何もなかったのよ。ただ……あの三千万円のことがあったし、こっそり描かせてくれと言われると、断り切れなかったの」
「どうかしら」
と、加奈子は肩をすくめて、
「唯志さんなら分るでしょ。この絵の奥に、早紀さんへの欲望があることが」
「欲望だなんて――」
「当然あるとも!」
と、山崎岳人の発言で、また事態はややこしくなってきていた。
4
「あなたは幸せな子ね」
と、大谷の母が言った。
「私が、ですか」
と、早紀は暗い面持ちで、「自分じゃ|疫病神《やくびょうがみ》だと思ってますけど」
――二人は、居間から別の小部屋に移って来ていた。
大谷たちが、何とか事件の再現をと、居間で頑張っているので、ここで待っているのだ。
「どうして?」
「だって――。私がいなきゃ、みんな何ごともなくて……」
「でも恋が[#「恋が」に傍点]できたわ」
と、大谷の母は言った。
「恋が……」
「あなたと唯志さんだけでなく、高畑さんも、山崎岳人さんも。それってすばらしいことじゃない?」
「そう……。そうでしょうか」
「自分が一度も恋をしなかったとしたら? つまらない人生でしょ? あの二人のお年寄にとっては、青春が戻って来たようなものなのよ」
と、大谷の母は|微《ほほ》|笑《え》んで、「私だって、機会さえあればね」
「すてきですね!」
と、早紀も笑顔になった。
「ね? だから、あなたがひけめを感じたりすることは全然ないのよ」
「はい」
と、息をついて、「何だか、急に体が軽くなったみたい」
と笑った。
すると、ドアが開いて、白衣を着た人が二人、息を切らしながら走ってきた。
「お待たせして!――あれ? ここじゃないの?」
「救急車の方? それならお隣の居間の方ですよ」
と、大谷の母が言った。
「居間? お芝居の|稽《けい》|古《こ》でもしてるのかと思った」
「じゃ、ご一緒に」
と、大谷の母がトコトコと先に立ち、「――救急車の方よ!」
と声をかけた。
「やっと!」
と、加奈子がやってくる。
「これでも急いだんですよ。何せ出前が多くて」
「ソバ屋さんじゃあるまいし」
と、加奈子はふくれっつらで、「こっちです。あのソファの方を……」
と、手で示した先では、高畑が起き上って新聞を広げていたのだった。
「社長さん!」
と、加奈子がとんでもない声を上げたので、議論の最中だった全員が一斉に振り向いた。
「――びっくりさせるな」
と、高畑が顔をしかめた。「傷が痛む」
「高畑さん」
と、大谷がやって来る。「警察の者です」
「ご苦労さん。年末のパトロールかね」
「あなたの刺された事件の捜査をしてるんです」
大谷は珍しい説明をしなければならなかった。
「何だ、そうか。それならそうと早く言ってくれ」
「社長さん、ともかく病院へ。救急車も来てますから」
「病院だと? 必要ない」
と、高畑は首を振った。「こんなけが、放っとけば治る」
「でも――でも、せっかく[#「せっかく」に傍点]救急車が来てるんですよ」
「料金払って、帰せ」
「タクシーじゃないんですから」
「|俺《おれ》は行かん。大体忙しい」
救急隊員がむくれて、
「何ですか。こんなに無理して来たのに」
「あの……申しわけも……」
加奈子は床へぶつけそうなほど頭を下げて謝っている。
大谷は改めて加奈子に同情した。
加奈子が救急車の見送り(?)に玄関の方へ出て行くと、
「高畑さん」
と、大谷は言った。「あなたにナイフで切りつけたのは|誰《だれ》ですか?」
当然、被害者当人[#「当人」に傍点]が一番よく知っているわけだ。何もあれこれもめることもなかったのである。
「何だ、知らんのか」
「それを今検討してたんですよ」
「なるほど。――やったのはあれ[#「あれ」に傍点]さ」
と、|顎《あご》でしゃくったのは――。
「社長さん。でもおけがしてらっしゃるんですから病院には行かれた方が――」
と、加奈子が戻って来て言った。
「これだ。俺に切りかかって来たのは、尾田加奈子だ」
と、高畑が言った。
しばし、誰も口をきかず、
「――社長さん!」
と、加奈子がやっと口を開いた。「そんなこと! 本気にしちゃうじゃありませんか、みんな」
「本当だ」
「社長さん……」
「この加奈子は、ずっと俺を慕っていた。そこへあの永峰早紀が現われた。――女の|嫉《しっ》|妬《と》は怖い」
「そんな……」
加奈子はヘナヘナと崩れるように座り込んでしまった。
「これで解決か」
と、大谷は言った。
「でも……。何だかスッキリしませんね」
弓江が首を振って、「あの尾田加奈子の驚き方、演技じゃないと思いました」
「うん。しかし、何しろ被害者がそう言ってるんだ」
そこへ、
「努ちゃん!」
「ママ。もううちへ帰ったら? 送るよ」
「あら、努ちゃんは?」
「僕は一応この報告書を出さなくちゃ」
「馬鹿らしい。|大《おお》|晦《みそ》|日《か》に書いた報告書を誰が読むっていうの? 早く帰ること。いいわね?」
「はい!」
大谷は手を振って、ホッと息をついた。
しかし……やはり、ものごと何でもはっきりしないと気のすまない気性である。
そう……。このまま引き上げていいとは思えない。
「警部」
と、涼子がやって来た。
「どうだ、尾田加奈子は?」
「|呆《ぼう》|然《ぜん》としてます」
と、涼子は言った。「何だか手錠をかけるのが|可《か》|哀《わい》そうで」
「うん……。他の連中は?」
「さあ……。この屋敷の中でしょうけど、広いですから」
と、弓江が言った。
「捜そう」
大谷はきっぱりと、「真相を見付けなくちゃ。無実の人間を留置所へ入れて一年が終るんじゃ、いやだからね」
「はい」
と、弓江と涼子は同時に|肯《うなず》いた。
「で、警部。尾田加奈子はどうしましょう?」
「うん?」
大谷は振り向くと、「――そうか」
と、何やら思い付いた風であった。
早紀は、二階へ上って行った。
むろん、この高畑の屋敷の二階へ上っていくのは初めてだ。
七年前、そして今夜。――どちらも、もしかしたらこの階段を高畑に抱かれて上っていたかもしれないのだ。
でも今は大丈夫。結局、誰かが助けてくれる。
とはいえ、このてんやわんやの騒ぎの挙句、状況は何一つ良くなっていない。
高畑はけがをしているだけで、大方元気になればまた早紀のことを招くつもりだろう。
そして父は――借金をこしらえて、返せない。山崎さんは破産同然……。
どうしたらいいのだろう。
唯志さんと二人でどう頑張ったって、できることは知れている。
二階へ上ると、早紀は静かな廊下を見回した。
高畑が一人で住んでいるのかしら、ここに?
びっくりするより|呆《あき》れてしまう。
歩いていくと、話し声が……。
唯志さん? たぶんそうだ。でも相手は誰だろう。
「――何とかなりますよ」
唯志の声だ。ドアが細く開いていて、そこから聞こえてくる。
「しかしね……。気が進まん」
という声は――父だ!
早紀はびっくりした。じっと息を殺して耳を傾ける。
「今さら何です。仕方ないですよ。他に手はない」
と、唯志は言った。
「うん……。分ってはいるがね」
父は、何だかためらっている様子だ。
「今夜がチャンスです。高畑はけがしてるし、あのうるさい秘書は逮捕されてる。忍び込むとしたら、今夜しかありませんよ」
忍び込む? 何の話だろう?
「なあ、唯志君」
と、永峰は言った。「君には助けてもらった。色々とね。しかし、同時に申しわけなくてね。君のお父さんに対してだ」
「|親《おや》|父《じ》のことは大丈夫。七年前のことはともかく、僕を疑やしませんよ」
「まあ、こっちが悪者にされるのは、初めからの約束だ。文句は言わん。それに君には早紀のことを頼んどかなきゃいかんからね」
「ご心配なく。そのためにも、必要なんですよ」
「しかし、当人が何と言うか……」
「僕が売るんじゃない。高畑が売ったと思わせればいいんです。別人に売却を任せることなんて珍しくないんですから」
「僕のように、か」
と、永峰は笑って、「君が持ち出し、僕が売って、山分け。――宝の山もいつかは底をつく」
「高畑さえいなきゃ、大丈夫だったんですよ」
と、唯志がいまいましげに、「本当に殺されてれば良かった!」
――早紀は、|膝《ひざ》が震えてきた。
これは現実だろうか? 悪い夢であってほしい、と思った。
「君がやったんじゃないのか、本当に」
「違いますよ。てっきりあなただと……」
「僕じゃない。暴力は苦手さ」
と、永峰は言った。「ともかく、あの秘書がやったとは思えないけどね」
「じゃ、今夜のこと。手はずを決めましょう」
早紀はジリジリと後ずさった。叫び声を上げてしまいそうだった。
背中が何かにぶつかる。同時に早紀の口を大きな手がふさいでいた。
5
広い居間も|闇《やみ》の中に沈んでいた。
二つの光がチラチラと動き、
「どの辺だ?」
と、永峰の声がした。
「もっと奥ですよ」
唯志が答える。「行きましょう。用心して下さい」
「防犯装置は?」
「ケチですからね。大したことはしてないと――。いてっ!」
何かにつまずいたらしい。
「おい、自分で言っといて……」
「色んな物があるな、畜生!」
二人は足下を照らしながら、ゆっくりと進んで行った。
暗がりの中では、距離の感覚も狂う。すっかり居間を渡り切ったという気がしても、やっと半分。
「――この壁だ」
と、やっと|辿《たど》り着いた唯志が息をつく。
「どうやって動かした?」
「よく見てなかったんですよ。どこかその辺をいじったような気がするんだけど」
二人して、ああでもない、こうでもないと捜し回り、いい加減くたびれてソファの背に唯志がもたれたとき――。手が滑ってスタンドにぶつかる。
「おっと! 落としたら大変だ」
と、あわててスタンドを押えた。
その拍子にボタンを押していたらしい。
ブーンというモーターの音と共に、壁が動き始めたのだ。
「やった!」
「しっ」
と、永峰が押える。「このモーターの音だってやばいぞ」
「手早くやりましょう」
もう一つの壁が現われて、明りを当てると、早紀の裸体画が浮び上った。
「これは|凄《すご》いですよ」
と、唯志は言った。「|一《ひと》|揃《そろ》いで売れば、とんでもない値段になる」
「ああ……」
そのとき、居間の明りが|点《つ》いた。
「もっととんでもないのは、君たちだな」
と、大谷が言った。
大谷の|傍《そば》に、早紀が立っていた。
「――早紀」
と、永峰が言った。「父さんはいやだったんだ。本当だ。信じてくれ」
「むだだよ。ちゃんとお二人の話を聞いてる」
大谷は、弓江と涼子の方へ|肯《うなず》いて見せた。
「早紀! これは君の絵だ。どうしようと構やしないんだ」
と、唯志が言った。「僕らが幸せになるために、お金がいる。分るだろ?」
「そのために私の裸の絵を売るの? 分らないわ」
と、早紀は言った。
「早紀――」
弓江と涼子が二人の方へ近付いて、
「住居不法侵入で逮捕します」
と告げると、永峰はその場にへたり込んでしまったが、唯志は、素早く逃げ出した。
居間を飛び出したところで、
「ワッ!」
と、声を上げて転び、したたかに額を打ちつけてのびてしまった。
「この人、勝手に転んだわよ」
と、大谷の母が言った。
「いいんだよ、ママ。後は香月君がやる」
と、大谷は言った。
「――片付きましたか」
高畑が下りて来ていた。
「ええ。――大丈夫ですか、傷の方は?」
と、大谷が|訊《き》くと、
「ええ、まあ……。大したことはありません」
「そうでしょう。自分でつけた傷ですからね」
高畑は真赤になった。
「――早紀さんに本気になるのもいいですが、切腹[#「切腹」に傍点]しそこなってああも軽いけがというのはみっともないです」
高畑は|咳《せき》|払《ばら》いして、
「ま、しかし色々と……。そう、男心は複雑です」
と、汗を|拭《ふ》いている。
「それより、忠実な秘書を犯人だと言うのはひどくありませんか」
「いや、それは……。自分でやったとは言えませんしな。|誰《だれ》か他の人間に押し付けても、違うとなれば|却《かえ》って困ります。で、あの尾田加奈子に。それも秘書の仕事の内です」
と、高畑が言うと、
「冗談じゃない!」
と、ひと言。
後ろに立っていた加奈子が、|拳《こぶし》を固めて、振り向いた高畑の|顎《あご》へぶちかました。
高畑はみごとにのびてしまった。
「――ここで寝ると|風《か》|邪《ぜ》ひきそうね」
と、大谷の母が言った……。
大谷が居間へ戻ってみると、早紀が山崎岳人と二人で、あの裸体画を見上げていた。
大谷は入口で足を止めた。
「――息子のことは申しわけない」
と、山崎が言った。
「いえ……。いい人なんだと思います。でも、楽をしたいって誘惑に勝てなかったんでしょうね」
「私の育て方が間違っていた」
「そんな……。もう子供じゃないんですから」
「ああ。しかしね――。唯志の|奴《やつ》には、いい薬になっただろう」
「そうですね」
「私も、またせっせと絵を描く。この絵は、高畑から取り戻して、誰にも見せずにしまっておくよ」
「私には、ときどき見せて下さい」
「いいとも」
「本当?」
と、早紀は|微《ほほ》|笑《え》んで、「自分の子供が少し大きくなったら、『ママはこんなにきれいだったのよ』って言ってやろう」
大谷は何も言わずに居間を出た。弓江たちが外で待っている。
「――警部」
と、弓江がやって来た。「二人は涼子さんが連れて行きました」
「そうか」
体の|芯《しん》まで冷えるような寒さだった。
――空が白んでくる。
「そうか、今日は正月だ」
「あけましておめでとうございます」
と、弓江が言って――。
二人は唇を重ねた。
「やれやれ。とんだ|大《おお》|晦《みそ》|日《か》だったね」
「でも、私たちらしい大晦日ですわ」
二人は腕を絡めて車へと向う。
「――お母様がお待ちでは?」
「もう寝てるさ」
大谷が運転席につき、「君も疲れたら眠るといい」
「もったいなくて!」
と、弓江は笑った。
「さて、行くか」
と、エンジンをかけたとたん、
「努ちゃん!」
と、無線から声が飛び出して来た。
「ママ! まだ起きてるの?」
「当り前よ。一緒にお正月を祝わなくちゃ。ね、弓江さん?」
弓江は笑いをかみ殺して、
「もちろんですわ、お母様」
「お客様があるのよ。今みえたの」
「え?」
「川原です。娘がどうもお世話に」
と、涼子の父親の声。
「あの――ご出張では?」
「帰国しました! 涼子はおりますか?」
「あの……。今、ちょっと手が離せないので! 一緒に帰りますから」
と、大谷は言った。
「よろしく。大体、我が家では大晦日と正月は必ず父と娘、水入らずで過すことになっており……」
大谷はあわてて、
「川原君を連れて帰らなきゃ! パトカーを追いかけよう!」
車が急発進して、パトカーを追跡[#「追跡」に傍点]して行く。
――今年も、偉大な母と律義な父に振り回されそうだ、と大谷は思った。
三毛猫ホームズの殺人協奏曲
1
その日のショパンが、客席にいた評論家によって、
「明る過ぎる」
という批評をこうむったとしても、それは仕方のないことだったろう。
|安《あ》|立《だち》みすずは、そのリサイタルの数時間前にプロポーズされたばかりだったのである。
「そろそろお願いしま――」
最後の「す」を、マネージャーの|八《はっ》|田《た》|弥《や》|江《え》は飲み込んでしまった。
楽屋のドアを開けると、もういつでもステージへ出て行ける、ドレス姿のみすずが、男としっかり抱き合って、熱烈なキスの最中だったのである。
「失礼しました」
三十五になるとはいえ独身の八田弥江は、少々顔を赤らめてドアをそのまま閉めようとした。
あわてていたのは男性の方で、みすずから離れようとしたが、みすずの方がしっかり唇を|捉《とら》えて離さなかった。そして、ドアを押えているマネージャーの方へ手招きして見せた。
「――入っていいんですか?」
と、弥江はおずおずと中へ入り、ドアを閉めた。「あと五分で……開演です」
みすずは、キスしたまま|肯《うなず》くという、器用な真似を見せた。
そして、やっと二人が離れたのは、たっぷり三分はたってからのことだった。
「――口紅、大丈夫ですか?」
と、弥江は恐る恐る|訊《き》いた。
「落としといたの」
と、ピアニストがちゃっかり答える。
「じゃ、僕はもう――」
「待って」
と、みすずがもう一度キスする。「リサイタル終ったら、ここへ来てね」
「うん」
「あの……」
と、弥江は言った。「席はおありですか?」
「ちゃんと渡してあるわ、チケット。――そうそう。紹介しとくわね。私のマネージャーの八田さん」
「八田弥江です」
と、頭を下げる。
「|山《やま》|崎《ざき》と申します」
と、その男性は、かなりあがっている様子で一礼した。
「山崎|登《のぼる》さん。――私ね、ついさっき、この人と婚約したの」
弥江はみすずの言葉に、大きな目をさらに広げて、
「あらま! おめでとうございます」
と、笑顔になった。「でも、スケジュール、当分詰ってますよ」
「いいの、ツアーをハネムーンの代りにするから。いいアイデアでしょ? あ、もう行って! 眠ってもいいからね」
「ちゃんと聞くよ」
と、山崎は苦笑して、「それじゃ、後で」
「休憩時間も顔出してね」
と、みすずが自分でドアまで送って行った。
――安立みすずは二十五歳のクラシックのピアニスト。
十八歳でヨーロッパのコンクールに入賞し、プロの道に入って七年。――小柄で童顔という「少女」の面影を残しながらも、さすがにこのところ成熟した女性の香りを漂わせていた。
「本当に結婚するんですか」
「当り前よ。――さ、口紅つけて、と」
みすずは鏡の前に座った。「一曲目、何を弾くんだっけ」
「|呆《あき》れた。ショパンのエチュードです」
「そうか。いきなり結婚行進曲でも弾いて、『この度、婚約いたしました!』ってステージで報告しちゃおうかな」
「アイドル歌手じゃないんですから」
と、 弥江はみすずの髪を少し直した。「大丈夫。ドレス、引っかかる所、ありませんか?」
「うん。靴も、やっと慣れたわ」
みすずは立ち上って、「行きましょう」
と、肯いて見せた。
そして、弥江がドアを開けようとすると、
「――ね、今日、お花は?」
と、みすずが言った。
「あ……。まだ来てませんね、そういえば」
「珍しいわね」
みすずの顔から笑みが消えた。「でも、きっと来るわね」
「そうですね」
「客席のどこかに……。ま、いいや。気にしてたら、きり[#「きり」に傍点]がない」
「ええ。ステージではショパンのことだけ考えて下さい」
「八割はね。どう減らしても、二割は山崎さんのこと、考えちゃうわ」
みすずはドレスをちょっとつまんで|裾《すそ》を上げると、弥江の開けたドアを抜けて、ステージの|袖《そで》へと進んで行った。
客席のざわめきが聞こえてくる。
「満席ですよ」
と、みすずの所属するM音楽事務所の社長、|望《もち》|月《づき》が笑顔で言った。
「一番いい席以外はね」
みすずの言葉に、弥江はふき出しそうになってしまった。
正面中央の一番いい席は、確かに評論家などにとってあるので、結構空席になってしまうことがあるのだ。
望月も苦笑いしている。――クラシックのコンサートで、二千人近いホールを一杯にできる演奏家は多くない。
「|佐《さ》|伯《えき》さんは?」
と、みすずが弥江に訊く。
「確かこの辺にいらしたと思いますけど……」
みすずの表情が、開演に向って緊張し、徐々に気持もテンションを高めていくのが分る。
もう、開演の七時は過ぎているが、遅れて入って来る客もあるので、五分ほどは待つ。
「――失礼しました」
と、髪を長くした、ツイード姿の男性が袖へやって来た。
「佐伯さん」
と、みすずが言った。「どう、調子?」
「悪くないと思います」
と、佐伯は言った。「ただ、いくぶんタッチが重いかもしれません。できるだけ、いつもの調子に近付けましたが」
「佐伯さんの腕を信じてるわ」
と、みすずは言った。
佐伯|進《しん》|吾《ご》は、ピアノの調律師である。
ピアノの調律とは微妙なもので、一人一人のピアニストの好む音、タッチをよく知っていなくてはならない。そして、現実にはそのホールにあるピアノを、可能な限り、そのピアニストの好む状態に仕上げるのである。
「ピアノそのものの状態は悪くないですよ、ここは」
と、佐伯は言った。「ただ、あと丸一日あれば……。お望み通りのタッチにできるんですがね」
「仕方ないわ。ぜいたく言えばきりがない」
と、みすずは言って、深呼吸した。「休憩時間にも見てね」
「もちろんです」
と、佐伯が|肯《うなず》く。
プロのピアニストは、たいてい特定の調律師がいて、リサイタルのときは必ず同じ人に頼む。みすずも、デビュー以来、ほぼ一貫して佐伯だった。
「――さ、今だ」
と、望月がみすずを促した。
客席の照明が少し落ちて、場内が静かになる。ステージに登場するタイミングも難しい!
みすずは、ピンと背筋を伸ばし、ステージへ出て行った。拍手が沸き上り、みすずを暖い毛布のように包み込んだ。
グーッ。
――拍手の中でも、その音が|片《かた》|山《やま》にははっきりと聞こえた。
「|石《いし》|津《づ》さん」
と、|晴《はる》|美《み》が言った。「席、代りましょ」
「え?」
「いいから! 早く代って!」
「よく見えませんか?」
石津が大きな体で、晴美と席を入れ代るのはなかなか簡単ではなかった。
ピアニストは、客席に向って一礼し、拍手が更に盛り上る。おかげで、石津と晴美が席を交替したのも、あまり迷惑がられずにすんだ。
「片山さん、居眠りしてこっちへもたれて来ないで下さいね」
と、石津が|呑《のん》|気《き》なことを言っている。
「自分のことを心配しろ」
と、片山|義《よし》|太《た》|郎《ろう》は低い声で言った。「どうして何か食っとかなかったんだ!」
そう。晴美が石津と席を入れ代って、兄と自分の間に石津を入れるようにしたのは、少しでも石津のお|腹《なか》の鳴る音を周囲に聞かせないための、|空《むな》しい(?)努力なのだった。
「後で食事するから、ということだったんで、できるだけ|空《す》かしとこうと……、大丈夫。我慢できます」
「お前のことを心配してんじゃない」
と、片山は言ってやった。
片山の|膝《ひざ》では、一匹の三毛猫が丸くなって音楽を聞いていた。
――片山は、休憩になったら、石津を引張って行って、サンドイッチでも食べさせてやろうと決心していた。
前半は何分ぐらいかかるのだろう?その間、石津の腹はおとなしくしているだろうか?
――演奏が始まる。
元気だなあ。
晴美は、|弾《はじ》けるようなピアノの音に、思わずそう|呟《つぶや》きかけた。
安立みすずは、晴美の「友だちの友だち」という関係で、直接知っているというわけではない。ただ、その友だちから片山が刑事だと聞いた安立みすずが、
「ご相談したいことがあります」
と言って、片山たちを招待してくれたのである。
刑事に相談、というのだから、あまりいい話ではないかもしれないが、ともかく演奏そのものを楽しむには差し支えなかった。
ショパンは、いかにも手の内に入った演奏で、弾いている当人も楽しそうだ。
エチュードからの何曲かを続けて弾いて、|一《いっ》|旦《たん》、みすずは立ち上り、拍手に|応《こた》えて頭を下げると、ステージの袖にさがった。
拍手がやまず、みすずがもう一度ステージに出て来た。
「――次はシューマンね」
と、晴美はプログラムを広げて言った。
「ピアニストもお腹が空いてるんでしょうかね」
と、石津が言った。
「どうして?」
「だって――『食パン』に『シューマイ』に『弁当』でしょ」
ショパン、シューマン、ベートーヴェンがそう読める(?)というのは、石津の素直さの現われかもしれなかった……。
「でも、何だかえらく楽しそうに弾いてるじゃないか。なあ、ホームズ」
片山の膝に丸くなっていた三毛猫のホームズは、|大《おお》|欠伸《あくび》をした。
むろん、音楽が分らないというわけじゃないのである。――当人に|訊《き》いてはいないが、まず間違いないだろう。
あのピアニストが、警視庁捜査一課の刑事に何の相談があるんだ?
片山は、いやな予感がしないでもなかった……。
みすずは視線[#「視線」に傍点]を感じていた。
演奏に集中しながらも、背中に突き刺さるような視線を感じ、時にはパッと振り向きたいような誘惑すら覚えていた。
ただし、そんなことはできない。そして、気のせいだ、と自分へ言い聞かせる。本当は何もないんだ。何でもないんだ……。
しかし、それはむだな努力だった。
みすず自身がよく知っている。――その「客」が今夜もこのホールのどこかにいるということを。
「熱心なファン」のことを嫌うというのは、筋が通っていない。
だが、みすずのすべての[#「すべての」に傍点]コンサートに花を贈り、後で必ず演奏への感想を送ってくるというのは、「普通の人間」のできることではない。
みすずのコンサートは、オーケストラと共演しての協奏曲や室内楽も含め、かなりの回数である。それも、東京以外の地方をあちこち回って演奏するのも珍しいことではない。
その「客」は、そういう地方公演にも必ず花をくれる。そして、本当に聞いていないと書けないような感想を送ってくるのだ。
それが二年も続いていた。――|嬉《うれ》しいという段階はとっくに通り越して、今は気味が悪い。
そして、熱心なファンというのは、客席の最前列などに座りたがるから、ある程度顔が分ってくる。しかし、いくら最前列に陣取るファンの顔を|憶《おぼ》えても、その|誰《だれ》かが地方公演にも来ている、ということはない。
名前も、顔も分らない。そして、男か女かすら、知らないのである。
――シューマンが終った。
みすずは、満場の拍手に包まれて、安心することができた。
矛盾しているようだが、その拍手の中に、問題の「客」のものが混っているとしても、ごく当り前にみすずの音楽に感動し、支持してくれる大多数のファンたちを実感するということはすばらしかった。
――みすずは、無意識に恋人のいる席へ目をやった。
山崎登は力一杯拍手してくれている。演奏中はどうだったのか、客席を眺めるわけにいかないから知らないが、眠っていたわけではないのだろう。
みすずは一旦|袖《そで》に入った。
「お疲れさま!」
と、声がした。
「すてきですよ」
と、マネージャーの八田弥江がタオルを渡してくれた。
みすずは、タオルで軽く汗を|叩《たた》いて取ると、
「ね、弥江さん。――まだ?」
「ええ、今日はまだ……」
「そう。せめて今日ぐらいは――」
「あ、もう出て下さい」
客席の拍手の波が一向におさまらない。
みすずは水を一杯飲んで、ステージへと出て行った。
これで休憩だ。
左右へにこやかに|挨《あい》|拶《さつ》するみすずは、招待席の中に、膝に三毛猫をのせた男性を見付けた。
そうそう……。あの人ね。
そして、あれが三毛猫ホームズだということもみすずには分っていたのである……。
2
「さあ、行きましょ」
と、晴美が腰を上げる。
「いや、実にすばらしい!」
と、石津が感激した様子で、「ベートーヴェンは天才ですね!」
「そう?」
「|空《す》きっ|腹《ぱら》にこんなに響くなんて! |凄《すご》い!」
どういう感動の仕方だ? 片山は、それでも休憩時間に石津にサンドイッチを食べさせておいて良かった、と思った。
安立みすずのリサイタルはアンコール二曲で終り、客席はもうほとんど、引き上げていた。
晴美が先に立って、出口へ向う他の客とは逆に、楽屋へと足を向ける。
楽屋の前には、みすずに挨拶して行こうという知人や友人、熱心なファンが二十人ほども列を作っている。
「待ってましょ」
と、晴美は|傍《かたわ》らで足を止めた。
「大した人気ですね」
と、石津が感心して、「でも、レストランの予約に遅れませんかね」
結局、食べることが心配なのである。
「――片山さんでいらっしゃいますね」
と、声をかけて来たのは、化粧っけのない、|逞《たくま》しい感じの女性。
「そうです」
と、晴美が答えて、「マネージャーの、八田さんですね」
「はい。今夜はお忙しいのに申しわけありません」
「いいえ。大勢でやって来て……。これがホームズです」
「ニャー」
と、ホームズが挨拶した。
「今夜は珍しくお花が来てないんです」
と、八田弥江が言った。
「そうですか」
「でも、来ないと、また何か別のことを考えてるかと心配で……。あら、こちら?」
「はい。――安立みすずさんですね。良かった、間に合って!」
フローリストの制服の若者はホッと息をついて、「急にカードを差し替えてくれと言われて、もう出ちゃった後だったんで、大変でした」
立派な花束である。晴美は、八田弥江が受け取りにサインしている間、その花束を持っていた。
「ニャー」
と、ホームズが床へ下りて、落ちていたものをくわえる。
「あら、カード? 落っこちたのかしら」
晴美が拾い上げて、「この花のこと、みすずさんには……」
「さあ……。どうせ分ることですし」
話していると、客を待たせて、安立みすず当人がやって来た。
「片山さんですね! おいでいただけて嬉しいわ」
小柄ながら、辺りをパッと照らし出すような明るさがある。
「弥江さん、片山さんたちと先にレストランへ行ってて。私、山崎さんと後から行く」
と言って、みすずは花束に気付いて、「――もしかして、それ?」
「たぶん」
「来ないわけがないと思ったのよね」
と、ため息をついて、「カード、ある?」
カードを開いて中を読んだみすずは、サッと青ざめ、一瞬よろけた。
「みすずさん!」
「大丈夫……。何ともないわ。大丈夫よ」
みすずは、何とか立ち直ると、「待っている人がいるから――」
と行きかける。
「待って下さい」
と、片山が言った。「そのカードに何かあるようなら、調べてみます」
片山がハンカチを出して、その上にカードをのせてもらい、そっと開いた。
〈ご婚約おめでとうございます
――ファンより〉
「ワープロか」
と、片山は首を振って、「婚約なさってるんですね」
「それがふしぎですの」
と、みすずが行ってしまったので、マネージャーの弥江が代って答えた。
「どういうことです?」
「婚約[#「婚約」に傍点]と、はっきり書いてあるからです。相手は今、ドアのわきに立っている人で、山崎さんとおっしゃるんです」
「婚約者の方がどうかしたんですか?」
「お二人が婚約したのは、今日の夕方なんです」
と、弥江は言った。「どうしてこの人が、みすずさんと山崎さんの婚約を知ってるんでしょう?」
なるほど。――安立みすずが青ざめたのも分る。
「まあ、そう深く考えなくても」
と、晴美は言った。「婚約は今日でも、お二人はずっと付合っておられたんでしょ? それなら、仲のいいのを知って、たまたま『婚約』と書いたのかもしれませんわ」
「そうですね」
弥江は少しホッとした様子で、「みすずさんにもそうおっしゃってあげて下さい」
「石津」
と、片山が言った。「今の花を持って来たフローリストの男、まだいたら、呼んで来い」
「分りました」
石津が駆け出していく。
「――待ちましょう」
と、片山は、ファンの列を眺めて、「こんな手紙が来てるんです。万一ということも考えないと」
「あ、でも……。他の方もいらっしゃるんで、そうお伝えして来ます」
「他の方?」
「はい。うちの事務所の社長、望月と、ピアノの調律をいつも頼んでいる佐伯さんです」
「――少し冷えすぎだな」
と、佐伯が白ワインを一口飲んで言った。「あと二、三度高めの温度でないと」
「細かいのね」
と、みすずが笑って、「――この音は?」
テーブルに置いたワイングラスのふちを軽く指で|弾《はじ》く。
「Fのシャープ」
と、佐伯が言った。「あなたには少し高めです」
フランス料理のレストランは、もう真夜中近かったが、にぎわっていた。
「ま、ともかくおめでとう」
と、望月がグラスを上げる。
「社長さん、もうさっきから三回めですよ」
と、八田弥江が文句を言った。「アルコールが過ぎると、明日に響きます」
「婚約は影響ない?」
と、山崎が|訊《き》いたので、みんなが笑った。
「――好影響よ」
と、みすずが|微《ほほ》|笑《え》んで、「精神安定剤だわ」
「いつも安定してるようだがね」
望月の言葉に、みすずはため息をついた。
「いつも、そう見られる。――損ね、私って!」
「とても神経質なところもあるんですよ」
と、弥江が言った。「きちんとしておかないと落ちつかない。部屋の時計が狂ってるとか、迎えの車が五分遅れたりとか……。そういうことがあると、|凄《すご》く|苛《いら》|々《いら》なさるんです」
「分ります。僕の空腹のときと同じですね」
石津が言ったが、小声なので、隣の晴美にしか聞こえなかった。
「――しかし、刑事さんにわざわざおいでいただくとは」
と、望月は困り顔で、「用心してくれよ、八田君。これはこれで、マスコミがかぎつけたら、記事になりかねん」
「はい。でも、みすずさんの心の安定が第一ですから」
「それは分るが……」
「今までに何か具体的な災難にあいましたか」
と、晴美は訊いた。
「いいえ。一つ一つは、危険なことじゃないんです」
と、みすずが言った。
「たとえば?」
と、片山が促す。
「三か月ほど前ですけど、私、一日おきぐらいに、住んでいるマンションの周囲をジョギングするんです。といっても、ほんの二、三十分ですけど」
「ニャー」
ホームズが合の手を入れる(?)。
ホームズは晴美の|膝《ひざ》の上にスッポリとおさまって話を聞いていた。
「普通の方は朝早くとかにやられるんでしょうけど、私は夜型なので、夜中に走っています。――あの晩、車道を渡ろうとしたとき、信号を無視して走って来た車が目の前をかすめて、私、びっくりして|尻《しり》もちついちゃったんです」
「危ないんですよ」
と、弥江が|眉《まゆ》をひそめて、「やるときは私がついて行くから、って言うんですけど」
「子供じゃあるまいし」
「子供じゃないから危ないんですよ」
とは、弥江の言い分がもっともだろう。
「ともかく、びっくりしましたけど、別にけがもせずに帰りました。――その翌日、コンサートがあって、また例によってお花が来ていたんですけど、そのカードに、〈ゆうべは危なかったですね。どうか充分に気を付けて下さい〉とあったんです」
片山は|肯《うなず》いた。
みすず自身が話さなければ、誰にも知れることのない出来事である。
「確かに私のことを心配してくれてはいるんでしょうけど、でも気味が悪いんです。一体どこで私のことを見てるのかと思って」
みすずの不安も、理由のないことではない。
今、「ファン」というものも、一歩間違えると危険な存在になる。
「いいさ」
と、山崎が言った。「今度から僕が一緒に走る」
「あなただって仕事があるじゃないの」
と、みすずが笑って、「大丈夫。この名刑事さんが何とかして下さるわ」
何とかして下さる、か……。
片山としては、いささか気が重い。
安立みすずが何か具体的に被害を受ければともかく、何も起きない間に動くことは難しい。
「ともかく、やれることはやります。花屋の方からたぐってみましょう。――しかし、今は花の注文も色々な方法があるのでね」
「お願いします。ご厄介かけて、申しわけないとは思っているんですけど」
「いやいや、そんなことは――」
と、片山があわてて言いかけると、
「あら、電話。――失礼します」
みすずが、バッグから携帯電話を取り出して、席を立った。
「――お母様かしら」
と、弥江が言った。「山崎さん以外に、あの番号を知っている人はいないと思います」
山崎が、少し意外そうに、
「母親のことだけど……、電話できるくらい元気なんですか?」
と訊く。
「さあ……」
「さあ、って?」
「みすずの母親もピアニストでしてね」
と、望月が言った。「私がマネージメントを手がけていたので、よく|憶《おぼ》えている。ともかくピリピリと神経質な人だった」
晴美がふと、
「過去形でおっしゃいましたね」
「あれの母親は筋肉の病気で、ピアノが弾けなくなった。気の強い人だっただけに、人一倍|辛《つら》かったろう」
と、望月が首を振って、「佐伯さん、調律をやったことがありますね、あの母親の?」
「いや、私はやっていません。――幸い[#「幸い」に傍点]ね」
「というと?」
と、山崎が言った。
「いや、大変だということでは有名な人でした。キーのタッチやペダリングも、なかなか納得しない。調律師の方も、一流ならプライドがありますからね。よく|喧《けん》|嘩《か》して引き上げてしまったりしたそうです」
「何でも、プロというのは大変なものですね」
と、晴美が言って、少しその場の空気が和んだ。
みすずがいない間に、彼女の母親のことをとやかく言うのはためらわれたのだ。
少しして、みすずが戻って来た。表情が少しふさいでいる。
「何かあったの?」
と、山崎が訊く。
「いえ、いつものグチ……。でも――ごめんなさい。おさまらないから、これからすぐ行くって言っちゃったの。みなさん、ゆっくり食事してらして」
「送るよ」
と、山崎が立ち上った。
「いえ、いいの。本当に大丈夫。一人で帰れるわ」
と、みすずは強い口調で言った。
それは、片山の耳には、「来るな」と命じているように聞こえた。
「夜、電話して」
みすずは山崎の方へ歩み寄ると、|頬《ほお》にキスして、「弥江さん、お願いね、後は」
「はい」
「それじゃ、片山さん、失礼します」
みすずは会釈して行ってしまった。
何となくテーブルは静かになっていたが、やがて、フーッと大きな息をついて、
「|旨《うま》い」
と、石津が言って、軽く笑いが起きた。
「――みすずさんのお母さんは、|誰《だれ》とも会いたがらないんです」
と、弥江が言った。「でも、みすずさんにとって、唯一の肉親ですし。色々、小さいころから大ゲンカをくり返していたようですけど、やっぱり母親を放っておけないんですわ」
「気持は分るが、僕は婚約者ですよ」
と、山崎は言った。「いくら向うが会いたくないと言っても、強引に会うぞ」
と、宣言する。
そこへ、レストランのマネージャーがやって来た。
「山崎様……」
「僕です」
「お電話が入っております」
「僕に?」
「はい。お母様からでございます」
山崎は、なぜかあわてた様子で、
「ちょっと――失礼します。すぐ戻ります!」
と、席を立って行った。
片山は、山崎の後ろ姿を見送っていたが、
「山崎さんのお仕事は?」
と訊いた。
「食品会社の社長です」
と、望月が言った。「父親が創業した会社の二代目社長で。でなきゃ、彼女のコンサートにそう年中来られませんよ」
「なるほど」
片山は、晴美の|膝《ひざ》からホームズがスルリと下りて、山崎が行った方へと小走りについて行くのを見た。
晴美が、ナプキンをたたんで、
「ちょっと失礼します」
と、席を立った。
石津は一人で感心し、
「食品会社ですか! それなら食べるのに困りませんね」
と、言っていた……。
3
「そこで|停《と》めて」
と、みすずは言った。
車は、そのまま走り続けていた。
「お願い。停めて」
と、くり返し、助手席の側のドアをいきなり開けた。
キッとブレーキが鳴って、車が急停止する。
「――無茶するなよ!」
「あなたが停めてくれないからでしょ」
少しの間、沈黙があった。
「分ったよ」
と、男は言った。「スポンサーと結婚するか。いいじゃないか。リサイタルの度にチケットの売れ行きを気にすることもない」
「何のこと?」
「社員が何人いるんだ? 全員に行かせりゃ、いつも満席だな」
みすずは、シートベルトを外して、車から出た。
「待てよ。――悪かった。謝る。戻れよ。こんな所で降りてどうするんだ」
男は、クラシック音楽のファンなら、たいていは顔を知っているヴァイオリニストである。――|柳井修介《やないしゅうすけ》、二十八歳。
「放っといて」
と、みすずは言った。
「そうむくれるなよ」
と、柳井はため息をついて、「本当なら、むくれるのは僕の方だ。それを君は、自分が被害者のように思わせる。そういう点、天才だからな、君は」
「行ってよ。私、タクシーでも拾うわ」
「夜中だぜ。しかもこんな海岸通りで。――恋人たちの車は通るだろうがね」
「私のことは気にしないで。行って」
と、みすずはくり返した。
「そうか。じゃ、そうするよ」
と、柳井は肩をすくめて、「何なら泳いで帰るかい?」
と笑うと、車をスタートさせた。
たちまち車の尾灯が夜の中へ消えると、みすずはフッと息を吐いた。
確かに、海岸沿いのこの道は潮風が吹きつけて来て、寒い。――もっと厚手のコートでもはおって来るんだった。
でも、まさかこんな所で車を降りるはめになろうとは……。
車は通る。しかし、ヒッチハイカーではなし、みすずは「お願いして乗せてもらう」というのは気が進まなかった。
歩こう。歩いてどこまで行けるものやら分らないが、歩けるだけは歩こう。
これまでだって、一人でやって来たのだ。
――柳井との間は、この一年ほどのことである。もともとプレイボーイとして知られる男であり、妻子もいる。結婚など初めから問題にならなかったはずだ。
それでいて、山崎と結婚しようとするみすずに腹を立てる。自分が捨てるのなら構わなくても、女の方が自分を捨てるのはプライドが許さないのだろう。
「勝手な|奴《やつ》」
と、みすずは|呟《つぶや》いて、それから派手にクシャミをした。
このままじゃ|風《か》|邪《ぜ》をひいてしまう。といって――。
車がみすずを追い越していく。|停《とま》ってもらおうにも、合図を送っている余裕もない。
ポツ。ポツ。――細かい雨が頬に当った。
雨! びしょ|濡《ぬ》れになってしまう。
何しろみすずはロングドレスである。ハイヒールも、長く歩くのに向いているとは言えない。
パーティの帰り道で、柳井に打ち明けたのが間違いだった。せめて、もっと家に近付いてからなら……。
本降りになったら、何とも悲惨なことになってしまう。どうしよう?
ゴーッと地響きのような|唸《うな》り声が近付いて来て、振り向くと、大型トラックが揺がすような重みを引きずって、みすずの傍を駆け抜ける。
|下《へ》|手《た》すると、風に巻き込まれそうだ。
見上げるようなトラックは、いささかすれすれの所で、みすずを追い抜いていく。その圧倒的な重量感に、みすずは|呆《あっ》|気《け》にとられていた。
すると――その大きなトラックが、数十メートル行った所で停った。シューッという音と共にブレーキがかかり、停止したのである。
そして、なぜかバックして来た。みすずはあわててよけようとしたのだが、その必要はなくて、
「おい」
窓から顔を出した男が、みすずに向って声をかけた。
「――何ですか」
と、みすずは|訊《き》いた。
「歩きかい? ちっと寒そうだぜ」
「そうですね」
「もし、乗って行くんならと思ってさ。余計なお世話というのなら忘れてくれ」
停めてくれと頼みもしないのに。珍しいと言えば確かにそうだ。
正直、運転手と二人になるということにためらいがあった。この寒さの中を、あと何時間も歩くのも|辛《つら》い。
「じゃ、お世話になります」
と、みすずは素直に言った。
助手席に腰をおろすと、意外なほどゆったりしている。――考えてみれば、この状態で十何時間も走り続けたりするのだ。ゆったりしていなくては堪えられまい。
「――どこまで行くんだ?」
「どこでも、電車の駅の近くでしたら」
「もう電車がなくなる時間だよ。ルートからそうひどく離れていなけりゃ、送ってってやるよ」
三十代の半ばくらいだろうか。大きなハンドルにふさわしく|逞《たくま》しい腕と大きな手。
だが、みすずは正直なところ、この男が何か下心があって自分を誘ったのではないかという疑念を捨て切れずにいる。
自分の家まで送ってくれたとしても、家を知られて面倒なことになっても困る。
「――ま、急いで決めることもないさ」
と、男は言って、「音楽でも聞くか」
「いえ、本当に――」
演歌でも聞かされるのかと思った。
ところが、カセットが回り始めると、聞こえて来たのは、何とベートーヴェンのピアノ協奏曲!
びっくりしたのが顔に出てしまったようで、
「演歌でも聞かされるかと思ったんだろ?」
ズバリと言い当てられ、みすずはいささかきまりが悪かった。
「あんた、安立みすずさんだろ、ピアニストの」
「ええ。――ご存知?」
「もちろん、だからって停ったわけじゃないよ。――どうしたんだい、一体?」
気さくな、|爽《さわ》やかな言い方である。みすずは、この男に下心があるのでは、と疑ったことを恥じた。
「ちょっと、男とケンカして。車から降りちゃったんです。先のことも考えないで。単純だから困るわ、本当に」
と、照れ笑い。
「いや、そういうところが芸術家らしくていいね」
雨は本降りになり、大きなワイパーがせっせとフロントガラスを|拭《ふ》いている。
もしあのまま雨の中を歩いていたらどうなったか、考えただけでゾッとする。
「――若い内はいいね。ケンカも若い内は楽しみみたいなもんだ」
「私、もうそんなに若くありません」
と、みすずは言った。「二十五ですよ、もう」
「ふーん」
と、男はハンドルをまるで自分の体につながってでもいるように握りながら、
「じゃ、|俺《おれ》と同じか」
これにはみすずもびっくりした。
「え?――二十五なんですか?」
「いや。三十四だ」
「何だ……。びっくりした! 九つも違うじゃないですか」
「なあに、四捨五入すれば同じだ」
「四捨五入?」
「あんたは三十。俺も三十。な? 同じだろ?」
「そんな……。そんな四捨五入なんて、聞いたことないわ」
みすずは、何だか楽しくなって笑ってしまった。
「いいじゃないか。年齢なんていい加減なもんさ。誕生日は忘れなくても、|年《と》|齢《し》は忘れるってのがエチケットだそうだぜ」
私だって――気にしてるわけじゃない。でも、いつもプログラムのプロフィール欄に、生年は書いていない。
習慣のようになっているが、どうして書かないのだろう? 男性の場合はたいてい書いてあるのに。
そんなこと、考えたこともなかった。
「――どうするね?」
「あ……。じゃ、家まで送って下さいます?」
「OK。大体どの辺か教えてくれ。後は眠ってても構わないよ」
と、男は言って、「後ろにベッドもついてる」
「いいえ、眠くないわ。この演奏を聞いていたい」
男は笑った。――みすずが聞いたことのない笑いだった。
「ありがとう」
と、みすずは歩道橋に立って手を振った。
男が小さく|肯《うなず》くと、そのまま巨大なトラックは走り去った。
あの運転手の名前さえ聞かなかった。そして、それが自然に思える出会いだった。
トラックが見えなくなるまで見送って、みすずは、家の中へと入った。
どこかほのぼのと暖かいものが、胸の中に燃えている。それは、妙なことだが、あのトラックの助手席に座っていたせいでもあった。
普通の車より、運転席がずっと高いあのトラックに乗っていると、外の世界はまるで違って見えた。
自分が鳥になったか、あるいは天使のように羽根でも生えて地上すれすれを飛んでいるような、とでも言おうか。ともかく、それはふしぎな感覚だった。
「高い座席」から世間を見る、という体験。そして、二十五歳のみすずと三十四歳の自分を「四捨五入して一緒にしてしまう」あの発想は、みすずにとっても新鮮だったのだ。
正確でなくてもいい。大まか[#「大まか」に傍点]でいい。
人生には、そんなこともあるのだ。
「どこかいい加減でなきゃ、生きちゃいけないよ」
と、あの男は笑って言った。
正確に! 正確に!
テンポが違うでしょ! 何てペダルの使い方なの!
「正しいやり方は一つしかないのよ!」
もっときちんと!――みすず、ちゃんと間違えずに弾いて!
正しく! 正しく! 正しく!
階段の下に立って、二階の暗がりを見上げていると、みすずの中の軽やかな気分はたちまちどこかへ吹き散らされてしまった。
みすず! こんな時間まで、何をしてたの!
母の|叱《しっ》|声《せい》が聞こえてくるようだ。
みすずは、階下で寝てしまおうかと思った。もう母は眠っているだろう。わざわざ起して怒られる必要もあるまい。
そうだ。居間のソファで寝よう。そうすれば、せめて明日までは|叱《しか》られずにすむ……。
みすずは、そのまま居間へ入ろうとした。そのとき、
「みすず!」
という母の鋭い声が――。
足が止る。――本当に聞こえたのかしら?
聞きたくない、と思っているので、|却《かえ》って聞こえたような気がしたのかもしれない。
「みすず! 上っておいで!」
みすずには分らなかった。それが現実の声なのかどうか。
しかし、一つだけ分っていたこと。それは、自分が二階へ行かなくてはならないということだった。
みすずは、重い足どりで、ゆっくりと二階の暗がりへと階段を上って行った……。
ジーッ。カタカタ……。
機械的な音というものは、さほどうるさくなくても、耳につく。
片山も、|枕《まくら》から頭を上げて、
「何だ……」
と、|呟《つぶや》いていた。
何の音かは分っている。最近、片山のアパートにはファックスというものが入ったのである。
もっとも、電話と兼用の機種ではあるが、やはりあって便利なこともあった。
セットして一番初めに入って来たファックスは、捜査一課長、栗原の、
〈どうだ? ちゃんと読めるか?〉
という、全く意味のないものだったが。
片山は、時計を見た。――朝の六時?
こんな時間に、どこからだ?
片山は、|欠伸《あくび》しながら起き出して行って、明りを|点《つ》けた。ロール紙がピッと切れる音がして、通信のプリントが出て来た。
〈片山義太郎様
[#ここから2字下げ]
あなたには刑事として、安立みすずさんを守る義務があります。それなのに、みすずさんは昨夜、デートした相手から道に置き去りにされたのです。
ひどい仕打ちではありませんか。
相手はヴァイオリニストの柳井修介です。
あんな男には、生きている値打がありません。
きっと、あなたも同意して下さることと信じています。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から2字上げ]安立みすずのファン〉
ワープロで打った文字。
これは、例の「ファン」からだろうか?
それにしても――もし、本当にここに書かれたことが起ってしまったのだったら……。
しかし、手紙では「昨夜」のことだとしている。それが事実としても、ゆうべのことを朝六時に知らせてくるだろうか……。
「どうかしたの?」
晴美がやはり起き出して来て、
「今、これが」
と、片山がそのファックスを見せると、
「ヴァイオリニストの柳井……。ね、お兄さん。これって、結構危いかも」
「そう思うか?」
片山はがっかりして、「|俺《おれ》もそう思う」
「じゃ、何か手を打たないと!」
「分った。こんな時間にファックスしてくるなんて、大体、まともじゃない!」
起されてむかついているのである。
「それだけじゃないわよ」
「何だい?」
「お兄さんあてでしょ、このファックス。どうしてお兄さんのことを知ってるの? うちにファックスがあることまで知ってるの?」
片山も、やっと眠気がふっとんでしまった。急いで電話へ手を伸ばしたが、
「――どこへかけりゃいいんだ?」
「みすずさんにかけて|訊《き》くしかないんじゃない?」
「あ、そうか」
やはり、始動には多少時間がかかる様子である。
「ニャー」
ホームズも、何の騒ぎかと、眠い目をこすりながら(本当にこすっているわけじゃないが)やって来て鳴いた。
しかし、片山が聞いていた安立みすずの電話番号へかけても、留守電になってしまっている。
「あのマネージャーさんだわ! 何ていったっけ、八田……弥江さん。あの人なら連絡つくわ、きっと」
「そうか!」
晴美の|狙《ねら》いは当って、少し呼び出しに長くかかったが、ともかく八田弥江が、「たった今起された」という声で電話に出たのである。
「もいもい[#「もいもい」に傍点]……」
「もし」が「もい」になってしまっている。
それでも片山がファックスのことを話し、柳井という男が無事かどうか心配だと告げると、すっかり目を覚まし、
「自宅へ連絡してみます!」
と答えたときは、完全にいつもの調子に戻っていた。
「もし必要ならパトカーを行かせますよ」
「ええ。でも――自宅で連絡とれればいいんですけど」
「いないんですか、いつも?」
「たいてい毎晩違う女の子と外に泊って、家には週に一度しか帰らない、という評判の人です」
片山は絶句した……。
4
「|凄《すご》く|爽《さわ》やか!」
安立みすずは、居間へ入ってくるなり、大きな声でそう言って、片山を飛び上らせた。
一緒にいた八田弥江は、もう慣れているので、それくらいのことではびっくりしなかった。
「早く起してすみません」
と、弥江が言った。「片山さんも申しわけないとおっしゃってるんですが、やはりお仕事ですので……」
「いいのよ! とても爽やかな気分なの。そう言ったでしょ?」
実際、みすずは今にも踊り出しそうに見えた。
早いといっても、午前十一時。ただ、みすずにとって、画期的早起きだということは確かなのだろう。
「――ああ、こんなに気持のいい朝って、久しぶり!」
と、伸びをして、「それで……。何のご用?」
「ゆうべ……柳井修介さんとお会いになりましたか」
「まあ」
と、みすずは目を丸くして、「よくご存知ね! どこの週刊誌に出てました?」
「ゆうべのことは週刊誌に間に合いません、新聞でも、たぶん無理でしょう」
「ええ、それほど有名じゃありませんからね」
「いや、そういう意味じゃないのです。つまり――」
「じゃ、TVで? クラシックの演奏家が何してたって、TVじゃ騒ぎませんけどね」
「一人だけは知っていたんです。あなたが、柳井さんの車から降りてしまって、置いていかれたことも」
みすずの顔から、笑みが消えた。
「――そう。また[#「また」に傍点]あのファンね」
「ええ。しかも僕の所へファックスを」
片山がファックスを見せると、みすずは小さく首を振って、
「分りません。――|誰《だれ》にも話していないのに!」
「どんな様子だったんですか?」
「ええ……」
ソファに腰をおろすと、みすずは、柳井の車から降りてしまったこと、長距離トラックに乗せてもらい、ここへ帰ったことを説明した。
「そのトラックがどこの会社のだったか、思い出せません。運転手さんも、名前も聞かなかったし……」
「それは、捜せば見付かるでしょう。会えば分りますか」
「ええ、もちろん! とてもすてきな人でしたわ」
と、みすずは言った。「でも、これを読むと柳井君が狙われそうですね。気を付けるように言わないと――」
「実は、今朝、マンションの駐車場で殺されているのが見付かったんです」
と、片山は言った。
「まあ」
みすずはポカンとしていたが、「私……私が殺したようなものね」
「違いますよ! しっかりして下さい」
と、弥江が大きな声で言って、みすずの肩を、痛いと思えるほどの強さで|叩《たた》いた。
一種のショック療法である。
「今日、コンサートがあるんですよ! 分ってますね!」
「ええ……。でも、もし私が逮捕されたら、誰か代りのピアニストを――」
「逮捕しにみえたんじゃありませんよ、片山さんは」
と、弥江は強調した。
「分ってるわ。分ってるけど……」
みすずは、ショックが遅れてやって来た様子で、「あの――母に話して来ます。母と相談して――」
「一緒に行きましょうか」
と、弥江が|訊《き》くと、
「いいえ!」
と、強く拒んで、「知ってるでしょ。母は誰にも会いたがらないの。私――私、ちゃんとやれるから大丈夫。コンサートはキャンセルしません。母にそう言われてるんだから」
「ええ、分ってますよ」
「佐伯さんに言っといてね。この間のピアノは少し疲れてたって。今夜はコンチェルトでしょ? バリバリ弾いても大丈夫なように、調律しておいて下さいって」
「分りました。必ず伝えます」
と、弥江は居間の戸口までみすずを送って、
「三時にはリハーサルですよ!」
と、念を押してから、「――片山さん。私、ずっとここにいますから」
「そうですか」
片山は立ち上った。「やれやれ。――フローリストの方でも手がかりがつかめないんでね」
「直接注文してるわけじゃないんですか」
「ファックスやワープロで打った手紙での注文でね。お金さえ入れば店の方は構わないわけですから」
「でも――人殺しとなると……」
「もちろんです。しかし、柳井がそんなに女性にもてる男だったら、色々恨みを買っていたでしょう。このファックスと関係ない犯人ということも考えられる。両面で捜査していきます」
片山は、玄関へ出ると、階段の方へ目をやって、「――みすずさんの母親は、ずっと寝たきりなんですか?」
「そのようです」
と、|弥《や》|江《え》は|肯《うなず》いて、「でも、私も実際にお目にかかったことはないんですの。みすずさんの担当になったころは、もうこういう状態でしたから」
片山は、ちょっと首をかしげた。
――もちろん、人嫌いになった、ということはあるだろう。けれども、寝たきりというのなら、その世話をする人間が必要になるはずだ。
みすずのように、年中コンサートで出歩いている人間に、世話はできないだろうし。
一体どうしているのだろう?
駐車場は、いやに騒がしかった。
何といっても殺人現場である。もう柳井の死体は運び出されていたが、鑑識班が忙しくあちこちを調べて回っていた。
「あ、片山さん」
と、石津が見付けてやって来た。
「何か分ったか?」
「いえ、何しろ早朝のことだったようで、目撃者はなかなか出そうにありません」
「そうか……。発見者は?」
「ここの管理人です」
「話してみよう。――今、いるか?」
と、片山が言うと、
「ニャー」
と、ホームズの声が響いた。
「何だ、来てたのか」
晴美とホームズがやって来た。
「今来たのよ。安立みすずさんに会った?」
「ああ。あのファックスの通りだったらしい。かなりショックを受けてたよ」
「それじゃ、柳井って人も結構ひどいもんね」
「ニャー」
と、ホームズも同感[#「同感」に傍点]の様子。
「片山さん。管理人の|野《の》|田《だ》さんです」
と、石津が連れて来たのは、大分髪の白くなった、六十くらいの男で、いささかくたびれた感じを与えるのは、ヨレヨレの作業服のせいかもしれない。
「――死体を見つけたのは、あなたですね」
「まあね」
と、野田はあまり興奮している風でもない。
「朝七時半にゃここへ来てるんだ。朝刊をきちんと各部屋のポストへ入れとかないと、うるさい人もいるんでね」
「七時半に来て、すぐ見付けた?」
「そう。第一の仕事が、夜中に勝手に|停《と》めてった|奴《やつ》がいないか見ることだから、ここへ下りて来てね」
「地階の駐車場に、勝手に駐車する人がいるんですか」
「いるんだ、それが。夜遅く帰って、朝早く出勤していく人はね、時々マンションの駐車場へ入れてっちまう」
と、野田は肩をすくめ、「図々しい奴がいるんだ、本当に」
「それで、見回ってるときに柳井さんが車の|傍《そば》で倒れてるのを見付けたんですね」
「うん。血が飛び散って……。いやな光景だったね」
と、野田は顔をしかめた。
「ゆうべは何時ごろ出たんですか?」
「いつも通り、夜の七時さ。それ以上は残ってないよ。手当も出ないのにね」
「最近、柳井さんと争ってるような相手を知りませんか」
「あの人は年中争って[#「争って」に傍点]たね」
「そんなに、ですか」
「うん。特に女とはね」
と、野田は笑って、「もちろん、争ってるだけじゃない。遊んでるときもあったがね。――ここで」
「遊んでた?」
「ああ。びっくりしたよ。朝出て来たら、車の中で、シートの背を倒して寝てたよ。女と二人。――ま、ほとんど裸でね」
自宅のあるマンションの駐車場で? 片山はびっくりした。
「しかし、最近は一人で寝てることの方が多かったね」
と、野田が言ったので、片山は思わず、
「一人で?」
と訊き返した。「一人で車の中で寝てたんですか?」
「うん」
「でも、自分の部屋へ帰って寝ればいいじゃないですか」
「そこが、芸術家って奴の変ったところだね」
と、野田は言った。「夜、帰宅するなんて恥だって言うんだ。朝帰りが当り前、夜、まともな時間に帰るのは、自分がもてないって宣伝してるようなもんだと言ってね」
「じゃあ……女と泊ったように見せるために、わざわざ車の中で寝てたんですか?」
「そういうことだね」
確かに、変っていると言わざるを得ない。
「|見《み》|栄《え》っ張りだったのね」
と、晴美が言った。「男って、仕方ないわね」
「僕はそんなことはありません」
と、石津が力強く言った。
「でも……本当にあの『ファン』がやったのかしら?」
と、晴美が言う。
「さあ……。いくらファンでも、そこまでやるかな。もちろん、可能性としてはあり得るけど」
「ニャー」
と、ホームズが鳴いた。
「――何だ?」
ホームズが左の|前《まえ》|肢《あし》を持ち上げて見下ろした。ちょうど、腕時計を見ている感じである。
「時計?――時間ってことか」
と、片山は考え込んで、「死亡推定時刻が午前五時ごろ……。柳井が安立みすずを車から降ろして帰っちまったのが、午前一時過ぎ……。ということは、柳井が殺されるまで、大分時間があったってことになる」
「その間、何してたのか、ってことね」
「ここで、あの野田って人の話のように一人で寝てたのか、それとも、どこか他の所へ寄っていたのか」
「寝てたわけじゃないと思うわ」
と、晴美が言った。
「どうして?」
「車の中で寝るって、どうしても窮屈でしょ? 柳井さんのズボンや上着、あまりしわ[#「しわ」に傍点]がなかったわ」
「本当か?」
「少なくとも、目立つほどのしわはなかったと思うの。しわになってれば思い出すだろうし……」
「すると、 柳井はどこかに[#「どこかに」に傍点]寄ってたのかもしれないってことか。 どこかの――女の所に?」
「大いにあり得るわね。みすずさんに振られて、なじみの女の所へ。――よくあるパターンだわ」
と、晴美は言った。
「じゃ、柳井がどんな女と付合っていたか、当ってみよう」
片山は手帳を出して、「柳井のポケットの物は?」
「あそこにまとめてあります」
と、石津が言った。
「手帳のような物が入っていたら、見せてくれ」
片山は、石津が戻るまでの間、車の中を捜した。
「――手帳はありません」
と、石津が戻って来た。
「こっちもだ」
片山は、車から出ると、「――柳井のマネージャーに当って、最近、柳井が|誰《だれ》と親しくしていたか|訊《き》くんだ」
「分りました」
「――でも、『ファン』がやったとして、次に何をするかしら」
「さあ……。ともかく、安立みすずの安全を第一に――」
「ニャー」
と、ホームズが鳴いた。
「何だよ?」
「ホームズが言いたいのは……。そうよね、きっと?」
「何を考えてるんだ?」
「ね、この『ファン』は、安立みすずを置き去りにしたっていうだけで、柳井さんを殺したわ。ということは……。今夜のコンサートで、誰かがみすずさんの演奏の邪魔をしたら?」
「何だって?」
「ニャー」
片山は|呆《あき》れて、
「無茶だよ!」
「でも、そうすれば、みすずさんの身に危険が及ぶこともないでしょ」
「しかし……」
片山も、それが一つのアイデアであることは認めざるを得ない。しかし、だからといって……。
「――一体何をすればいいんだ?」
と、片山はしばらくして言った。
5
「大丈夫ですか?」
と、八田弥江が訊いても、
「心配しないで」
と、みすずは言うばかり。「――一人にしてちょうだい」
「はい……」
とは言ったものの、楽屋から出て行く決心がつかない。
誰かがドアをノックして、みすずは飛び上りそうになり、
「誰も来ないで!」
と叫んだ。「一人になりたいのよ!」
弥江がドアを開けると、山崎が立っている。
「山崎さんですよ」
「今は会いたくないの。――終った後で来て」
みすずは振り返りもしない。
「分りました」
「どうしたんだい?」
山崎はわけが分らない様子。弥江は、
「お話しします。――ともかく今は」
と、山崎を押し出すようにして、自分も楽屋を出て行った。
その足下をスルリと抜けて――。
みすずは、一人になると鏡の前で、ぼんやりと|頬《ほお》|杖《づえ》をついている。
「あんたは……何の役に立ってるの?」
と、|呟《つぶや》く。「あんたがピアノを弾いて、一体何になるの?」
「ニャー」
猫が鳴いた。ホームズが。
でも、みすずはびっくりしなかった。入って来たことに気付いていたわけではない。でも、必要なとき、そこにいてくれるのが、当り前のように感じていた。
「慰めに来てくれたの?」
と、みすずはかがみ込んでホームズの頭を|撫《な》でた。
ドアが開いて、
「失礼します」
と、片山が入って来た。
「ホームズさんの付添いの方?」
と、みすずは言って笑った。
「大丈夫ですか?」
「ええ……。ピリピリしてるんです。弥江さんには悪いこと言ったわ」
みすずは、片山やホームズの前では正直な表情を見せられる気がした。
「あなたにお願いがあって来たんです」
と、片山は言った。
「まあ、何でしょう?」
「今夜のコンサートを、邪魔したいんです」
みすずは|呆《あっ》|気《け》に取られている。
「――そういうことですか」
と、みすずは|肯《うなず》いて、「でも、犯人を捕まえるために必要なら……」
「そう思っています」
と、片山は肯いた。「でも、妹と話し合って、もし、あなたがピアニストとして堪えられないということなら、やめようということになったんです」
みすずは、何も言わなかった。
片山とホームズが、しばらく黙っていると、みすずはゆっくり息をついて、
「確かに、演奏家にとっても、今日のお客さんたちにとっても、今夜の演奏は唯一のものですから。それを邪魔されるのは、複雑なものがあります」
「やめてほしければそう言って下さい。もちろん、犯人も見付けたいけど、演奏家にとって、プライドを傷つけることになりますからね」
片山の言葉に、みすずはしばらく考え込んでいたが、やがて、
「――構いません」
と言った。「やって下さい」
「分りました」
「いつもいつも、完全な状況でコンサートが開けるわけではありませんし、それで弾けなくなったら、プロとは言えません」
「そう聞いて安心しました」
「四捨五入です」
「何です?」
「大まかなことも必要だってことです」
と、みすずは言った。「――ある人[#「ある人」に傍点]が言ったんです」
「四捨五入ですか」
「ええ。――それで、どうやりますの?」
と、みすずは訊いた。
オーケストラが力強い和音を延ばす。
その音が切れると同時に、みすずの指はピアノの|鍵《けん》|盤《ばん》の上を滑走した。
協奏曲の中でも、オーケストラが沈黙し、独奏者がその腕前を披露する。そこをカデンツァと呼ぶ。
今、みすずは第三楽章のカデンツァに入った。――これが終ると、オーケストラとの激しいかけ合いの後、堂々と曲全体をしめくくる。
オーケストラの面々はホッと息をついて、みすずのピアノに聞き入っている。曲ももう少し。
特に、今日のみすずはのって[#「のって」に傍点]いた。|凄《すご》い気迫で、オーケストラの方も|煽《あお》られてしまい、いつにない熱演である。
ピアノが揺らぐかと思うフォルテから、一気にかすかな呟きのようなピアニシモへと続く。
ホールを埋めた、ほとんど満席の聴衆も、今夜のコンサートは大成功だということを感じていた。
デリケートな指先が、小さな宝石のような音を作り出していく……。
客席は|咳《せき》一つしない、静寂の中にあった。
実際、ピアノを弾くみすずの息づかいさえ、ピアノの音が鳴っていないときには聞き取ることができた。
カデンツァは順調に進み、みすずが指の妙技を披露した。
そして――さあ! 堂々たるコーダで曲をしめくくる。
オーケストラの方も、さて、出番だ、というので楽器を取り上げている。
すると――ゴーッ。
静かなホールの中、その異様な響きは隅々まで通っていった。
何だ?
ゴーッ。――ガーッ、ゴーッ。
いびき[#「いびき」に傍点]だ。
そうと知れると、客席は一斉に「犯人捜し」を始めた。
そして、二階の最前列、目につく所にいて、いやでもみんなの視線を集めることになったのである。
グオーッ。ガオーッ。
そのいびきは、恐竜の|咆《ほう》|哮《こう》かというほどになった。
曲は、カデンツァが終り、一気にオーケストラが盛り上ってフィナーレへとなだれ込んで行く。
グオーッといういびきも、フルオーケストラの響きにかき消された。
そして曲は終った。
拍手が起り、みすずはゆっくりと立ち上った。
指揮者と、そしてコンサートマスターと握手して、みすずは客席に向って一礼すると、|袖《そで》へと入って行く。
「良かったわ!」
と、弥江が拍手で迎えた。
「ありがとう。――いつになく疲れたわ」
「でも、あのひどいいびき! ふざけてるわね」
弥江がそっと客席を|覗《のぞ》く。
「仕方ないわ。色々いるわよ」
指揮者に促されて、みすずは再びステージへと出て行った。
「――いいね」
いつの間にか、佐伯が弥江のそばに来ていた。
「ねえ、良かったわ」
「肩の力が抜けた。力でピアノをねじ伏せようとするところがなくなったよ、今日は」
佐伯はそう言って、ステージのみすずに向って拍手をした。
大柄な、でっぷりと太ったその男は、口ひげをいじりながらホールから出た。
「あの人よ」
という声がした。
「ああ、凄いいびきかいてた人」
「最低ね!」
が、そんな声など耳にも入らない様子で、その男は悠然と夜の道を歩いて行く。
ほとんどの客が駅に向うのと反対に、その男は人気のない通りを歩いて行った。
しばらく行って、横断歩道を渡ろうと立ち止まった。
信号が青になり、男は通りを渡り始めた。
車が――一瞬の内に突進して来た。
男は、立ちすくんだ。が――パッと道のわきへ身を投げ出すと、車は猛然と風を巻き起して、走り去って行った。
男がペタッと座り込んだまま|呆《ぼう》|然《ぜん》としていると、
「――おい!」
と、片山が駆けて来た。「大丈夫か!」
「片山さん……」
石津は口ひげを取ると、「もう少しで……ひかれるところでした」
「ああ。みんながゾロゾロ出て行くんで、お前のことを見失っちまったんだ。――しかし、良かった」
「ちっとも良くありませんよ」
と、石津は渋い顔をして、「あんな恥ずかしい思いをして……」
「分ってる。これも仕事だ。さあ行こう」
と、促す。
「待って下さい。――動きにくいと思ったら、座布団を丸めてお|腹《なか》に入れていたんだ」
「忘れてたのか? |呑《のん》|気《き》な|奴《やつ》だ」
片山は、石津の肩をポンと|叩《たた》いた。
車が駐車場へ入って来て|停《とま》った。
エンジンが切れ、静かになると、車から降りて来たのは――。
「八田さん」
と、晴美が声をかけると、
「あ……。晴美さん。何してらっしゃるんですか?」
と、弥江はギクリとしたのを、必死でとりつくろった。
「今、兄がビデオカメラでとっていたのよ」
と、晴美は言った。「あなたが、あのいびきをかいた男を車でひこうとしたところをね」
弥江はじっと晴美を見ていて、
「――|罠《わな》だったんですね」
「ええ。あれは石津さんだったの」
「そうですか……」
弥江は、固い表情で、「でも――殺そうとしたわけじゃありません」
「そう?」
「おどかしてやっただけです。私、車の運転は|上《う》|手《ま》いんですよ」
「そうかもしれないわね」
「私――みすずさんの所へ行かないと」
と、弥江は言った。「送って帰りますから」
と行きかけた弥江へ、
「バッグを持って行くべきだったわね」
と、晴美が言った。
足を止めた弥江が、ゆっくり振り向いて、
「どういう意味です?」
「あなた、バッグを楽屋へ置いて行ったでしょ。中から手紙が出て来たわ。柳井修介の手紙が」
弥江が青ざめた。
「早く捨てれば良かったのに」
と、晴美は言った。「あなたの名前が、住所録にあるわ。それと、会ったメモにも、『ヤ』の字が使ってある」
弥江は、しばらくじっと立っていたが、
「――分りました」
と言った。「知っていたんですね」
「あなたは『ファン』じゃない。そうでしょ?」
「ええ。私じゃありません」
「ただ、今夜のいびきのうるさい男が殺されかけたとなれば、柳井も同じ『ファン』に殺されたと思われる。それが|狙《ねら》いね」
弥江は、フッと肩を落として、
「七つも年下で……プレイボーイで……。あんな男がどうして私と付合っていたのか……。でも、私は好きだったんです。向うは、ただ物珍しかっただけなんでしょう。――冷たくなって、しかも、みすずさんとも続けていた。許せなかったんです」
「気持は分るわ」
と、晴美は言った。「でも、そんな男を殺して、もったいないわ。あなたの人生をむだにするなんて!」
車が入って来て、停った。片山と石津が降りて来て、
「危い所だった」
と、片山は言った。
「ご苦労さま。――八田さん、兄がついて行くわ」
「分りました」
弥江は背筋を伸ばして、「逃げ隠れしません。ただ、みすずさんを、家まで送って下さい」
と言った。
「――どうぞ」
と、みすずは言って、晴美とホームズを中へ入れた。
「お邪魔して」
「いえ。――二階へ上って下さい」
「二階?」
「母と会って下さい」
「いいんですか?」
「ええ。いいんです」
階段を上っていく。
晴美とホームズは、それについて上った。
「――母の部屋です」
みすずは、ドアを叩いて、「みすずよ。遅くなって」
と言いつつ、ドアを開ける。
明りが|点《つ》くと、ごく当り前の洋室。ただ、広いベッドには寝ている母親の姿は見えなかった。
「お母様は……亡くなったんですね」
と、晴美は|訊《き》いた。
「――ええ」
しばらくしてから、みすずは|肯《うなず》いた。「でも、この部屋に来ると、感じるんです! 母がどこかから見ていると」
母親の――かなり若いころだろう――写真が大きな額に入れられ、ベッドの|枕《まくら》に立てかけてあった。
「これが母です」
と、みすずは言った。
「ここで、私は母と話していました。――気が付くと、自分が母の役までやっていて、自分自身を手ひどくやっつけていました」
晴美は、部屋の隅の机に置かれたパソコンへ目をやった。
「あの『ファン』の手紙は、あなた自身が打ったんですね」
「そのようです[#「そのようです」に傍点]」
と、みすずは言った。「自分でも|憶《おぼ》えていないんです。でも、きっとそうだったんでしょう」
おそらく、一方で母親として自分を厳しく裁いていたのとバランスを取るように、もう一方であの『ファン』を作り出していたのだろう。
それが、あまりに身近なことを書いて、|却《かえ》って自分を脅かすことになるとは、おそらく思っていなかったに違いない。
「――お騒がせしてすみません」
と、みすずは言った。「でも、もう、ここへは来ませんわ。母に会いたければ、ピアノに向います。学ぶべき母は、ピアノの中にいるんです」
みすずの笑顔は明るかった。
「ニャー」
と、ホームズが祝福するように鳴いた。
「山崎さんと結婚します。ここはもう売ってしまいます」
と、みすずが言うと、
「そのことだけど、みすずさん……」
「はい?」
晴美は、ちょっと言いにくそうに、|咳《せき》|払《ばら》いをした。
エピローグ
「ブラボー!」
拍手で迎えてくれたのは、山崎だった。
「いつ来たの?」
と、みすずは、汗を出されたタオルで|拭《ぬぐ》った。
「ついさっき。――遅れてすまない」
「いいのよ」
みすずは息をついて、「じゃ、待っててね!」
ステージへ戻るみすず。拍手はひときわ大きくなる。
みすずは、ピアノに向って、アンコールの小品を三曲弾いた。
そして、リサイタルは終った。
「――まとめて弾く|奴《やつ》があるか」
望月が、苦笑いした。
「だって、早く終らせたかったの」
|袖《そで》へ入って来て、みすずが言う。「山崎さんは?」
「ああ、楽屋の所で待ってると言ってたぞ」
「分ったわ」
みすずが急ぎ足で駆けて行く。
「転んでけがするなよ!」
と、望月が後ろから怒鳴った。
みすずは、楽屋の前に立っている山崎にいきなり抱きつき、キスした。
「ちょっと……。ちょっと……」
と、山崎はあわてていた。「あの……母だよ」
みすずは、不機嫌そうな女の視線に出くわした。
「初めまして、安立みすずです」
「登の母です」
と、その女は言って、「ずいぶん大胆ね。芸術家はやはり感覚が違うんですね」
「あの……別に人目があるわけでもありませんし……」
「そう? 私が[#「私が」に傍点]『人じゃない』と言うのね?」
「違います!」
「ま、いいわ。――登ちゃん[#「ちゃん」に傍点]から聞いてるでしょうけど、結婚するのなら、ピアノはやめてもらいます」
みすずが|唖《あ》|然《ぜん》としていると、
「あのね、ママ、その話はこれからゆっくり――」
「早い方がいいの。一番肝心のことなんですから」
と、みすずを見下すようにして、「どうですか? 登ちゃんと結婚するのなら、それくらいの犠牲は払っていただかないと」
「私……ピアノはやめません」
と、みすずは言った。「山崎さんのためでも、ピアノはやめられません」
「あら、そう。じゃ、この話はなかったことに」
と、肯いて、「登ちゃん。帰るわよ!」
と、さっさと行ってしまう。
「待って! ママ!――あのね、また……電話するから!」
山崎が母親を追いかけて行ってしまうと、
「――馬鹿みたい」
と、|誰《だれ》のことやら|呟《つぶや》いて、楽屋へ入って行こうとした。
「ニャー」
足下にホームズが座っていた。
「来てくれたの?――あんたの言った通りだったわ」
むろん、本当に言ったのは晴美である。
「やあ、どうも」
片山たちがやって来る。
「いらっしゃい」
と、みすずは言った。「おいでいただいて……。あの――八田さんは? どうしてますか」
「今、弁護士を頼んでいます。柳井がかなりひどい男だったようですから、事情を考えて、そう重い刑にはならないと思いますがね」
「そうなってほしいわ」
と、みすずは言った。「――お|腹《なか》ペコペコ! 何か食べに行きましょうか?」
「賛成!」
と、数メートル離れた石津が言ったので、みんな大笑いになった。
みすずの笑いは、いくらか暗いものだったが、それを知っているのは、みすず当人とホームズだけだった……。
本書は'96年11月、カドカワノベルズとして刊行されました。
おとなりも|名《めい》|探《たん》|偵《てい》
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年7月13日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社 角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『おとなりも名探偵』平成12年7月25日初版発行
3543行
[#地から2字上げ]安立みすずのファン〉
HTMLでは字上げになっていませんが、「安立みすずのファン〉 」となって
いるし、手紙文全体が字下げになっていて最後の署名部分であることから、
地上げであると判断して修正しました。