角川e文庫
いつか誰かが殺される
[#地から2字上げ]赤川次郎
いつか誰かが殺される
プロローグ
その|財《さい》|布《ふ》は、|彼《かれ》に拾われるのを待っていた。
学校の|裏《うら》という場所からいって、たぶん生徒の一人が落として行ったのだろう。|札《さつ》|入《い》れではない。いわゆる|小《こ》|銭《ぜに》|入《い》れである。
しかし、|空《から》っぽということもないらしい。かなりふくらんで、重そうに見えた。
いつから落ちていたのか、道の|真《まん》|中《なか》で、今まで|誰《だれ》にも拾われなかったのが不思議なくらいだ。
しかし、ここは一方が学校の|塀《へい》、もう一方がマンションの|裏《うら》|手《て》に当っていて、太陽がよほど真上に来なければ、丸一日、|日《ひ》|陰《かげ》のままになりかねない。いつも|薄《うす》|暗《ぐら》いこの道に、黒い小銭入れが落ちていても、通る人の目に付かないのは、当然のことかもしれなかった。
彼がそれに目を止めたのは、ゆっくりとした足取りと、いつも、ほとんど自分の古びた|靴《くつ》の先から前へ出ることのない|視《し》|線《せん》のせいだった。
|一瞬《いっしゅん》彼は足を止めて、それが木の葉にでも変るのではないかというような目つきで、しばらく|眺《なが》めていた。
四十|歳《さい》くらいだろうか、|疲《つか》れて、だらけ切った|風《ふう》|体《てい》と、|背《せ》|中《なか》を丸めた歩き方のせいで、六十歳といってもいいような、|老《お》い|込《こ》んだ感じの男だった。
目の前に落ちているものが、|確《たし》かに本物の小銭入れで、ふくらんでいる――つまり金が入っているということを|悟《さと》ると、男の、|淀《よど》んだような目に、ぎらぎらした光が|浮《う》き上った。
|素《す》|早《ばや》く道の前後を見回して、小銭入れを拾い上げる。中を|覗《のぞ》くと、|硬《こう》|貨《か》が|詰《つ》まっていて、手の上にザクザクと音を立てた。男は|嬉《うれ》しそうに|笑《わら》いをこぼして、その小銭入れをポケットへねじ込み、少し足を早めて歩き出した。
どこにいたのか、急に――まるでトリック|撮《さつ》|影《えい》でも見ているように、目の前に、三人の学生が|現《あらわ》れて、彼の行く手を|塞《ふさ》ぐように立った。
足を止める。――高校生。それも一年生ぐらいだろう。しかし、体つきの大きいことは、彼以上だ。おまけに、一見して不良と分る、学生服の着方。
「おじさん」
と一人が言った。「そういう|真《ま》|似《ね》をしていいと思ってんのかよ」
「何の話だ」
「ふざけちゃいけねえよ。今、拾った財布をどうした? そういうことすりゃ|泥《どろ》|棒《ぼう》だぜ、分ってんのかい?」
こんなチンピラたちが何だ! |俺《おれ》は――俺は――。
「何とか言いなよ、おい」
「これから……|届《とど》けに行くところだ」
三人の学生たちがゲラゲラと笑い出した。
「どけ!」
彼は三人の間を通り|抜《ぬ》けようとして、|押《お》し返された。よろけた|拍子《ひょうし》にバランスを失って|尻《しり》もちをつく。
「こいつ、|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》だぜ」
と学生の一人が言った。「きっと金なんか持ってねえよ」
「そうらしいな。おい、おじさんよ。俺たちの商売道具を返してもらおうか」
「商売道具……」
「今、あんたがくすねようとした財布だよ。こっちへよこしな」
男はよろけながら立ち上った。
「早く出しなよ」
男がじりじりと後ずさった。
「|逃《に》げる気か、おい」
学生の一人がナイフを取り出した。「そうはいかねえぜ」
三人の学生たちは、ゆっくりと、|威《い》|嚇《かく》するように男へ近付いて行った。
「何やってるの!」
|突《とつ》|然《ぜん》、|鋭《するど》い女の声が飛んだ。
学生たちが|一《いっ》|斉《せい》に|振《ふ》り向く。――学生|鞄《かばん》を手にした少女が、立っていた。
「お前か……」
学生の一人が鼻を鳴らした。「向うへ行ってろよ」
「何をしてるの?」
「うるせえな。あっちへ行け!」
少女は|一《いっ》|向《こう》にひるむ|気《け》|配《はい》もなく、
「まだこりないのね。今度つかまったら|退《たい》|学《がく》よ。分ってるの?」
「お前にとやかく言われる|筋《すじ》はねえや」
「あるわ。同級生としてはね」
と少女は三人の顔を眺め回して、「どうする気? 私を|刺《さ》し殺すのならどうぞ」
と言い放った。
男は、目を見開いて、その様子をじっと見つめていた。――むしろ|小《こ》|柄《がら》な、あまり目立たない|娘《むすめ》だが、それでいて三人の不良学生もたじたじとするような|気《き》|迫《はく》が、全身から感じられた。
三人の学生は顔を見合わせ、それから|肩《かた》をすくめた。
「分ったよ。――でも、今の財布は返してもらうぜ」
男はポケットから、小銭入れを出した。学生の一人が、それを引ったくるように取って、
「行こうぜ」
と他の二人を|促《うなが》す。
三人が行ってしまうと、男は肩の力を抜いて息をついた。
「すみません」
と少女が言った。「あの三人、いつもこんなことばかりしているんです」
「いや……。礼を言わなきゃ」
「礼だなんて」
少女は、ちょっとはにかむように笑った。
「――じゃ、|私《わたし》、これで」
と、頭を下げて、気持よいほどの足取りで歩いて行く。
それを見送っていた男は、ふとため息をついた。そして、少女とは反対の方角へと歩き始める。
少女が振り返って、男の力ない足取りを、ちょっと心配そうに見やったが、やがて気を取り直して、歩き出した。
少女の|姿《すがた》が見えなくなって、少し間を置いてから、道の真中へと、あの小銭入れが、また投げ出された。
第一章
「あら」
|永《なが》|山《やま》|千《ち》|津《ず》|子《こ》は|新《しん》|幹《かん》|線《せん》のグリーン車で、新聞を広げて声を上げた。「あなた、見てよ、ほら」
「何だ?」
永山|法《のり》|夫《お》は読んでいた|週刊誌《しゅうかんし》から目を上げずに|訊《き》いた。
「今日|判《はん》|決《けつ》ですってよ」
「ふーん。何の?」
「ほら、例の連続殺人の――。|石《いし》|尾《お》っていう……」
法夫はギクリとしたように|妻《つま》を見た。
「お前が|証言《しょうげん》した|奴《やつ》か?」
「そう。|死《し》|刑《けい》判決はまず|間《ま》|違《ちが》いないんですって」
「でなきゃ|困《こま》る」
法夫はしかめっつらになった。「|懲役刑《ちょうえきけい》になって出所してから、仕返しでもされちゃ大変だからな」
「|心配性《しんぱいしょう》ねえ」
と千津子は|笑《わら》った。「もし死刑にならなくたって、三十年もたって出て来た時はもう、よぼよぼのお|爺《じい》さんじゃないの。仕返しする元気なんてありっこないわよ」
「お前は知らないんだ。ああいう奴らが、どんなに|執念《しゅうねん》深いか」
法夫は|真《しん》|剣《けん》な顔で言った。「それに|無《む》|期《き》懲役になったって、|模範囚《もはんしゅう》なら早く出て来られるものなんだ」
「あら、あなた、ずいぶん|詳《くわ》しいのね」
千津子は|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。「入れられたことでもあるの?」
「|馬《ば》|鹿《か》言え。そんなこと、あるはずがないじゃないか!」
「分ったわ。そうむきにならないでよ」
と千津子はきっぱりした口調で言って、新聞に目を|戻《もど》した。――もうこれ以上、この話はしたくないという|意思表示《いしひょうじ》である。法夫はため息をついて|窓《まど》の外を流れ去る風景へ目を向けた。
これだから、世間知らずのお|嬢《じょう》さん育ちは困るのだ。世の中に、自分を|憎《にく》んでいる人間が|存《そん》|在《ざい》するなどとは、考えてもみないのだから……。
「ねえ、あなた」
と千津子が新聞から目を|離《はな》さずに言った。
「何だい?」
「うちでそんな話を持ち出さないでよ」
「分ってるよ」
「それならいいわ」
――それならいいわ、か。気楽なもんだ、全く。
永山法夫は三十七|歳《さい》である。まだ三十代の初めとしか見えない|若《わか》|々《わか》しいビジネスマンというスタイルだった。体つきもスリムで、|腹《はら》も出ていない。スポーツマンタイプの体だが、その実、運動|神《しん》|経《けい》は人一倍|鈍《にぶ》かった。
|苦《にが》|味《み》走って、なかなかいい男だが、見る目のある者が見れば、あまり信用のおけない人間だと思ったことだろう。うわべの愛想の良さの|陰《かげ》で、何を考えているか分らないというところがある。
この夫に|比《くら》べ、妻の方は天真|爛《らん》|漫《まん》、育ちの良さが、一挙手、一投足に出ている。
永山千津子は三十二歳になる。それ|相《そう》|応《おう》の落ち着きもある。|服《ふく》|装《そう》も、それにふさわしい、上品なものだったが、それでもどことなく|無《む》|邪《じゃ》|気《き》さの|漂《ただよ》うのは、生来、永山家の末子として、万事おっとりと育てられたせいであろう。
よく、|私《し》|立《りつ》の女子大などに行くと、一見して、|幼《よう》|稚《ち》|園《えん》から私立育ちと分る、「お嬢さん」を見かけることがあるが、それをそのまま人妻にしたようなものである。
千津子が法夫と|結《けっ》|婚《こん》したのは、大学時代の友人にデートの代役を|頼《たの》まれたせいだった。何も分らずにその場所へ行ってみると、待っていたのが法夫だったというわけである。その時、法夫は|竹《たけ》|森《もり》という名だった。
法夫はある小さな|出版社《しゅっぱんしゃ》の営業部員で、それが大学卒業後六年の間に転々とした|勤《つと》め先の、十五番目の会社であった。
およそ何不自由のない|暮《くら》しをしている人間の中で育って来た千津子は、法夫が食べるためにせっせと働いている――たいていの人間はそうだ――|姿《すがた》に、|新《しん》|鮮《せん》な印象を受けた。
法夫の方でも、OLの|恋《こい》|人《びと》とはまるで別世界の女のような千津子に|興味《きょうみ》をかき立てられ、さらに|彼《かの》|女《じょ》が大金持の|娘《むすめ》と知るや、|熱《ねつ》|烈《れつ》な恋心を|燃《も》やし始めた。
そしてわずか三か月後に二人は結婚した。法夫は永山の|姓《せい》を名乗り、千津子の父、永山|勇《たけ》|志《し》の持つ会社の一つに、いきなり係長として|就職《しゅうしょく》した。
意外だったのは――法夫にとってだが――二人の結婚にまるで反対がなかったことで、それは千津子の両親が|理《り》|解《かい》があるとか、法夫を気に入ったからではなく、初めて法夫が会った時の永山勇志の言葉を借りれば、
「どうせ三、四度は結婚するんだからな、最初の|亭《てい》|主《しゅ》など|誰《だれ》でも|構《かま》わん」
という理由なのであった。
しかし、それから八年たった今、まだ[#「まだ」に傍点]二人は|夫《ふう》|婦《ふ》のままだった。
「お母さんの具合はどうなんだい?」
週刊誌をゆっくりと|閉《と》じながら、法夫は訊いた。
「うん、元気みたいよ。|昨日《きのう》電話した時にはプールから上ったばかりだって言ってたわ」
「君のお母さんには全くびっくりさせられるよ」
と法夫は笑った。「明日で七十歳になるとはとても思えない」
「相変らず訊いてたわ。『お前たち、まだ別れないのかい』って」
「何て答えたんだ?」
「いつもと同じよ。『今のところね』って」
「また百万円くれる気かな?」
「そうよ。これで八百万になるわ」
少し間を置いて、法夫は言った。
「あの金の運用も少し考えた方がいいんじゃないか?」
「どういうこと?」
「銀行の|口《こう》|座《ざ》に|眠《ねむ》らせといても、もったいないじゃないか。わずかばかりの利息がつくだけだ。|巧《うま》くやれば倍にもふやせるのに」
「相変らずね、あなたは」
千津子は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「そんなにお金のことを考えなくたっていいじゃないの。今だって|充分《じゅうぶん》にいい暮しをしてるわ」
「そりゃそうだがね……。それとこれとは別だ。女は生活が安定してりゃ、それで満足だろうが、男はそれ以上のものが必要なんだ」
法夫の口調は|徐《じょ》|々《じょ》に熱っぽさを帯びて来る。
「あの金を|僕《ぼく》に|任《まか》せてくれないか? |絶《ぜっ》|対《たい》に有利な|投《とう》|資《し》があるんだ。少なく見つもっても二倍――いや三倍にはできる。頼むよ。君のお母さんに僕の商才を見てもらいたいんだ」
千津子は、はぐらかすように、
「お|腹《なか》が|空《す》いたわ、|私《わたし》」
と言った。「ビュッフェに行って、サンドイッチでも食べて来る」
「千津子――」
「あなた。――前にも言ったわ。あのお金には手を付けずに、|美《み》|津《つ》|子《こ》のために貯金しておくって」
美津子とは、今年六歳になる娘のことだ。
「もう|諦《あきら》めてよ。お母さんはあなたが会社の今の地位をちゃんと守っていてくれれば、それで充分満足してるわ」
千津子はグリーン車から、食堂車へと歩いて行った。――法夫は失望と|苛《いら》|立《だ》ちを、必死で|無表情《むひょうじょう》な|仮《か》|面《めん》の下へ押し込めようと努力したが、つい、言葉が口をついて出て来る。
「|畜生《ちくしょう》め!」
「何かおっしゃって?」
急に女の声がした。法夫はびっくりして見上げると、目を|見《み》|張《は》った。
「君……。ここで何をしてるんだ?」
「私だって新幹線ぐらい乗るわよ。いけない?」
二十四、五歳というところか。細身で長身の、ちょっとモデルか何かを思わせる体つきをしている。美人というのではないが、コケティッシュな顔立ちだった。
「こんな所へ来ちゃまずいじゃないか」
法夫は気が気でない様子で、声を固くして言った。「いつ千津子の|奴《やつ》が|戻《もど》って来るかもしれないっていうのに」
「あら、いいじゃないの。|紹介《しょうかい》してよ」
法夫が一瞬表情をこわばらせるのを見て、女はクスッと笑った。
「|冗談《じょうだん》よ。すぐに席へ戻るわ。|普《ふ》|通《つう》|車《しゃ》にね」
「びっくりさせるなよ」
法夫の笑いは少し引きつっていた。
「私、東京ではPホテルに|泊《とま》ることにしてるの。会える?」
「無理だよ。こっちは|屋《や》|敷《しき》の中だ」
「そう。でも、そこを何とかして出て来てよ。私を愛してるんでしょ?」
法夫は|素《す》|早《ばや》く周囲へ目をやって、
「こんな所でする話じゃないだろう」
「いいわ、分ったわよ」
女は|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》に|唇《くちびる》の|端《はし》を曲げた。「そんなに|邪《じゃ》|魔《ま》なら、あっちへ行きますわ。|奥《おく》さんはビュッフェ?」
「そうだよ」
「じゃお顔を|拝《はい》|見《けん》して来るわ」
「何だって? おい!――レナ!」
法夫は|腰《こし》を|浮《う》かしたが、女はさっさと通路をビュッフェの方へ歩いて行ってしまう。法夫はそろそろと|座《ざ》|席《せき》へ|座《すわ》り直して、女の消えた自動|扉《とびら》をじっと見つめていた。
女は外見通りのモデルで、それも、かなりの売れっ子。|雑《ざっ》|誌《し》のグラビアにも年中顔を出しているので、かなり知られていた。
レナ、というのがモデルとしての名前だったが、本名は|本庄純江《ほんじょうすみえ》という、|純《じゅん》和風の名であった。しかし法夫も彼女のことをレナと|呼《よ》んでいたし、彼女自身も、純江という名を|嫌《きら》って、レナと呼ばれるのを|好《この》んでいる。
それにしても、まずい女を恋人に選んでしまったな、と法夫は、ビュッフェの方に気を取られながら考えていた。
むろん千津子はレナのことなど全く知らない。――その点、千津子は永山家の兄妹の中でも|異色《いしょく》の存在だ。長男の|悟《さとる》。次男の|克《かつ》|次《じ》。どちらも女遊びでは年中|浮《うき》|名《な》を流しているし、妻の方も夫の|影響《えいきょう》か公然と若い恋人を作って平然としている。
その辺の|道《どう》|徳《とく》観念が|薄《うす》いのは血統と言うべきものらしく、すでに世を去った父親、永山勇志も、明日で七十歳になる|未《み》|亡《ぼう》|人《じん》の|志《し》|津《ず》も、愛多き男、恋多き女であった。
法夫と千津子の結婚に両親が反対しなかったのは、どうせ千津子もその内男遊びを始めるに決っていると思われたせいだったのだが、千津子だけはどうやら例外らしかった。
それどころか千津子は男女関係にはかなり|潔《けっ》|癖《ぺき》なところがあって、母親があの|年《と》|齢《し》になっても若い男と連れ立って有名なレストランやクラブへ|現《あらわ》れたりするのを、いかにも不愉快げに眺めていた。
そんな千津子が、夫に恋人のいることを知ったらどう思うか、法夫は考えたくもなかった。
レナの奴、一体何をしているんだろう? まさか|騒《さわ》ぎを起こしたりはしないと思うが。
心配し始めると、いても立ってもいられなくなって、法夫はしばらくためらっていたが、やがて思い切って立ち上った。通路をビュッフェの方へ歩いて行く。
――ビュッフェへ入った法夫は、ギョッとして立ち止まった。
「あら、あなたも来たの?」
千津子が気付いて、顔を向けた。「ちょうどよかったわ。ここへいらっしゃいよ」
「ああ……」
法夫は必死に平静を|装《よそお》って歩いて行った。レナが、千津子と親しげにしゃべっていたのだ。
「紹介するわ」
と千津子がレナに言った。「主人なの。――ね、あなた。この方に見覚えない?」
と法夫の方を向く。法夫は、レナの、取り|澄《す》ました顔に|当《とう》|惑《わく》した。一体どういうつもりなんだ?
「いや……残念ながら」
「あら、そう。よく|雑《ざっ》|誌《し》やTVなんかにも出ている、モデルのレナさんよ」
「そ、そうですか。これはどうも」
法夫は引きつったような笑いを浮かべた。
「そういう方面には|至《いた》ってうといものですから」
「レナさんはね、私の服のセンスがいいって|賞《ほ》めて下さったのよ」
「もちろん中味も問題よ」
とレナが言った。「こんなに|素《す》|敵《てき》な奥様だから、ファッションが生きるのよ」
「まあ、どうしましょう」
と千津子は笑って、「主人は私のセンスなんか|賞《ほ》めてくれたことないのよ」
「もったいない! やっぱり男性が気付いてくれなきゃ、いくらお|洒《しゃ》|落《れ》しても、張り合いがありませんものね」
「本当にそうね」
法夫は、コーヒーを注文した。――レナの奴、何のつもりで千津子に声などかけたのか。ただ|俺《おれ》へのいやがらせか?
いや、レナという女は、うわべの|軽《けい》|薄《はく》さからは|想《そう》|像《ぞう》のつかない、計算高いところがある。|衝動的《しょうどうてき》に見えて、ちゃんと目的のある行動しかしない女なのだ。
一体何が|狙《ねら》いなのだろう?――法夫は苦すぎるコーヒーに顔をしかめた。
女同士は、最近の流行についてのおしゃべりに|余《よ》|念《ねん》がない。法夫は、何となく、カウンターの奥でポータブルラジオから流れて来る音楽に耳を|傾《かたむ》けていた。
「ここでニュースをお伝えします」
|唐《とう》|突《とつ》に、音楽が|中断《ちゅうだん》された。何事だろう?
「今日、東京地方|裁《さい》|判《ばん》|所《しょ》で死刑判決を受けた|凶悪犯《きょうあくはん》が|脱《だっ》|走《そう》し、今なお逃走中です。今日午後一時、東京地方裁判所で判決を受けていた、連続殺人|事《じ》|件《けん》の|被《ひ》|告《こく》、|石尾重吉《いしおじゅうきち》、三十五歳は――」
「おい!」
法夫は千津子の|腕《うで》をつかんだ。
「どうしたの?」
「聞けよ!」
「――石尾は、裁判官を|人《ひと》|質《じち》に取り、待機していた|仲《なか》|間《ま》とみられる男と共に|逃《とう》|走《そう》しました」
「まあ!」
千津子が声を上げた。「あの犯人の――」
「しっ!」
「――|警《けい》|察《さつ》では必死の|捜《そう》|索《さく》を続けていますが、今のところ足取りはつかめていません。この事件につき、何か新しいニュースが入りましたら、その|都《つ》|度《ど》お知らせします」
音楽が始まった。
「――大変だぞ」
法夫は言った。「おい、|名《な》|古《ご》|屋《や》へ戻ろう」
「どうして?」
「どうして、って……。石尾の奴が|逃《に》げ回ってるんだぞ。その東京へ、のこのこ出向いて行くのか?」
「大丈夫よ。すぐ|捕《つか》まるわ」
「分るもんか」
「それに逃げるのに|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》で、私のことなんか|構《かま》っていられないでしょ」
「万一ってことがあるぞ」
「心配性ねえ。――お母さんの|誕生《たんじょう》パーティは、欠かせないわ。それにあの屋敷にいれば安全よ」
法夫はちょっと|黙《だま》っていたが、その内、|肩《かた》をすくめて、
「そうだな。名古屋にいても安全とは|限《かぎ》らない。同じことだな」
「そうよ。あまり心配すると頭が|禿《は》げるわよ」
「言ったな!」
法夫は笑った。――また音楽が中断された。
「ただ今入りましたニュース。逃走した石尾が乗り|捨《す》てたとみられる車が発見され、人質となっていた|近《こん》|藤《どう》裁判官が車の中で|射《しゃ》|殺《さつ》死体となって発見されました」
|羽《はね》|田《だ》空港のロビーは、相変らずの人ごみだった。
大きな|紙袋《かみぶくろ》にみやげ物を|詰《つ》め|込《こ》んで歩いている旅行客、|添乗員《てんじょういん》の|旗《はた》にゾロゾロとついて歩く団体、アタッシュケースのビジネスマン……。|雑《ざっ》|多《た》な客が、入り|乱《みだ》れ、すれ|違《ちが》い、ぶつかり合っている様は、まるでデパートの中のようだ。
その男は、ごくありふれたトレンチコートを着ていた。下はビジネススーツ。|特《とく》|別《べつ》上等な品とも思えない。
|到着《とうちゃく》ロビーは、次から次へと到着する便の客でごった返している。トレンチコートの男が一人、小さなボストンバッグを手にしてうろついていても、目に|留《と》める客などない――はずだった。
その二人は、到着ロビーを見下ろす、|喫《きっ》|茶《さ》|室《しつ》の|窓《まど》|際《ぎわ》の席にいた。
「見えるか?」
と言ったのは、五十に手の|届《とど》こうという、|髪《かみ》のやや白くなりかけた男だ。
「ええ、ボス」
と部下らしい若い男が、答えた。
「ボスはよせ。他の客に聞かれるとまずい」
「すみません」
「|奴《やつ》は何をしてる?」
「ただぶらぶら歩いてます」
「相手が|現《あらわ》れないらしいな」
年長の方の男は、ゆっくりとコーヒーをすすって、顔をしかめた。「まずい味だな。これでもコーヒーか」
「すみません」
「お前が|謝《あやま》ることはない」
と笑って、「しかし、よくこの席が取れたな。|混《こ》んでいるから、大変だったんじゃないか?」
若い方の男は|賞《ほ》められて|嬉《うれ》しそうに、
「二時間待ったんですよ。ウェイトレスが|妙《みょう》な顔してました」
「そりゃそうだろう」
と年長の男が|苦笑《くしょう》した。「しかし、あんまり変ったことはするなよ。目につくと|困《こま》る」
「すみません」
「そう謝るな。――奴から目を離すなよ」
「大丈夫です」
「俺は奴を見るわけにはいかないんだ。顔を知られているからな」
「|椅《い》|子《す》が|空《あ》いたので、|座《すわ》り込みました」
年長の男はため息をついた。
「やれやれ。こっちも持久戦か」
「――|守《もり》|屋《や》さんは、この道が長いんでしょう?」
「そうだな。――十五年くらいのものだ」
「有名ですね」
「そうか?」
「ええ。みんな|尊《そん》|敬《けい》していますよ」
「おだてるなよ」
守屋と|呼《よ》ばれた男は、そう悪い気もしないという顔で、「君の名前は?」
「|大《おお》|崎《さき》です」
「大崎君か。よくこんな仕事をやる気になったもんだな」
「友人に|誘《さそ》われたんです。元は|警《けい》|官《かん》でした」
「おや、警察か。百八十度|転《てん》|換《かん》ってわけだな」
「ええ。つまらないことで|格《かく》|下《さ》げになりましてね」
「|銃《じゅう》の|扱《あつか》いは|慣《な》れているわけだな」
「|射《しゃ》|撃《げき》は|優秀《ゆうしゅう》だったんです」
と大崎は|得《とく》|意《い》げに言った。
守屋は、自分の若い|頃《ころ》を見るような目で、大崎を|眺《なが》めた。張り切っていられるのも今の内だけだ……。
「奴が立ち上りました」
大崎が、|腰《こし》を浮かした。守屋が低い声で、
「落ち着け。――歩き出したか?」
「いえ。……新しい便が着いたんで、客の顔を見るために立ち上っただけのようですね……」
「それならいい。落ち着いて。奴の目に留まるとまずい」
「はい」
大崎はまた腰をおろした。守屋は|緊張《きんちょう》をほぐそうとして、
「それにしても、よくこれだけ大勢が飛行機を使うもんだな」
と言った。
「飛行機は|嫌《きら》いですか?」
「|絶《ぜっ》|対《たい》に乗らない。足が地に着いてないってのはたまらんよ。足の|裏《うら》がムズムズして来る」
「なるほど」
と大崎は|笑《わら》った。
トレンチコートの男は、|降《お》りて来る客たちの顔を見ていたのではなかった。手にしているバッグを見ていたのである。
男は、自分が見張られているのに気付いていた。あの若い男はたぶん新米だろう。あんな風にしていては、見張っていますよと大声で|叫《さけ》んでいるのと同じだ。
しかし、こっちへ|背《せ》を向けて座っているのは……。守屋かもしれない。もしそうなら、|危《き》|険《けん》だった。これを持っているわけにはいかない。
男は|苛《いら》|立《だ》ち始めた。こういう場合のために、ありふれたボストンバッグにしているのだが、この便の客に限って、同じバッグを持っている客が一向に見当らないのだ。
このロビーへ来るまでにも、三人は同じバッグに出会ったのだが……。
「他で|捜《さが》すか」
と|呟《つぶや》いた時、同じバッグが目の前を横切って行った。ふくらみ具合もほぼ同じだった。うまいぞ! いかにも高級ビジネスマンらしい、その中年男の後について歩き出す。
大崎が、立ち上った。
「歩き出しました!」
「よし。行こう」
|振《ふ》り向きもせずに、守屋は言った。つり|銭《せん》のないよう、|予《あらかじ》め用意しておいた代金を、投げ出すようにレジへ|払《はら》って、喫茶室を出る。|素《す》|早《ばや》く|階《かい》|段《だん》を降りると、大崎が、
「あっちです」
と指さした。トレンチコートが人の間に見え|隠《かく》れしている。
「よし。別れよう。見失うなよ」
「はい!」
守屋は、大崎の張り切った声に、|一瞬《いっしゅん》不安を覚えた。若さはいいものだが、自信|過剰《かじょう》とあせりに|容《よう》|易《い》につながるところが、この仕事には危険だ。
まあいい。そんなことにかまけてはいられない。あのコートを見失ったら大変だ。
守屋は大崎と左右に別れて、|人《ひと》|混《ご》みの中を、|巧《たく》みにすり|抜《ぬ》けながら歩き出した。
トレンチコートの男は、前を行くバッグから目を離さなかった。
どこかで一息つく気はないのだろうか、この男は?
見たところ、会社の部長クラスと思えた。着ている背広は英国物だし、|靴《くつ》はイタリア|製《せい》だ。それが少しも無理なく身についているところは、相当いい暮しをしているのだろう。
「しめた」
と思わず|呟《つぶや》いたのは、同じバッグを持った男が、向きを変えて、電話の|並《なら》んだ一角へと足を向けたからだった。
電話をかける時には、バッグを下へ置くはずだ。――トレンチコートの男は、少し間を空けて、自分もポケットを|探《さぐ》った。電話をかける必要があった。
自らこの|事情《じじょう》を説明しに出向くことができればいいが、|不《ふ》|可《か》|能《のう》な|事《じ》|態《たい》にもなりかねない。最悪の場合も予想しなければならなかった。
その男はバッグを下へ置いて、黄色い|公衆《こうしゅう》電話の受話器を取ると、百円玉を投入した。トレンチコートの男は、足早に|隣《となり》の電話の前に立った。受話器を外し、耳にあてながら、目は、ダイヤルを回す男の指を見ていた。その電話番号を頭へ|叩《たた》き込む。
「――ああ、|克《かつ》|次《じ》か? |俺《おれ》だ。――うん、今羽田にいる。今からそっちへ行く。会社の方がいいだろう? 色々と話もあるしな」
トレンチコートの男もダイヤルを回していた。呼出し音が聞こえている間に、内ポケットから、鏡を取り出し、そっと|背《はい》|後《ご》を|映《うつ》し出す。
|大丈夫《だいじょうぶ》。誰もいない。――いや、あれは……。鏡に、いくらか髪の白くなった男が、通り|過《す》ぎるのがチラリと|映《うつ》った。
「はい」
と女の声が出た。
「急用だ」
とコートの男は言った。「荷物を|預《あず》ける必要ができた」
「どこへですか?」
「電話番号を言う。メモしてくれ」
「はい。どうぞ」
コートの男は、隣の男が回した番号を低い声で告げた。「――聞こえたか?」
「はい」
|事《じ》|務《む》的だった女の声が、心配げな|表情《ひょうじょう》を帯びた。「大丈夫? 危険なの?」
「心配ない。何とかなる」
と急いで受話器を置く。隣の電話が終りそうだったからだ。
「母さんには何か買って行くよ。――ああ、分ってる。三十分ぐらいでそっちへ着くと思うが……」
コートの男は、下へ置いた自分のバッグを隣の男の足下へ|蹴《け》|込《こ》むと同時に、相手のバッグを手にして歩き出した。
まず誰も気付く者はなかっただろう。正に一瞬の|早《はや》|業《わざ》だった。
歩き出すと同時に、守屋が動き出したのを、コートの男は|認《みと》めた。やはり守屋だ。逃げ切れるだろうか?
相手の意表に出る他はない、と心を決めて、コートの男はクルリと向き直って、守屋へ向って真直ぐに歩き出した。
守屋は足を止めて、こっちへ向って来るコート姿を見ていた。気付かれていたのか。頭がいい。|下《へ》|手《た》に駆け出したりすれば、|却《かえ》って|混《こん》|乱《らん》を|巻《ま》き起こし、混乱の中では人を殺すのが|容《よう》|易《い》になることを知っているのだ。
ここは|見《み》|逃《のが》す他はないかもしれない、と守屋は思った。相手の方に|分《ぶ》がある。
三メートルほど手前で、コートの男は立ち止まった。
「これが|欲《ほ》しいんだろう」
と男がバッグを持ち上げる。その時、大崎が背後に近寄っていた。
|永山悟《ながやまさとる》は、電話を終えると、バッグを手にして、タクシー乗り場の方へと歩き出した。
全く、仕事で北海道、九州でもトンボ返りだというのに、母親の誕生日だからといって三日間も屋敷に|閉《と》じ込められるとは……。
|渋《しぶ》い顔で首を振ったが、|満《まん》|更《ざら》他に楽しみがないわけでもなかった。それに、三日間の|休暇《きゅうか》と|割《わ》り切ってしまえば、それなりに|骨《ほね》|休《やす》めにはなるだろう。
目の前を、若い男がえらくせっかちな足取りで横切った。悟は、ついその男を目で追っていた。その急ぎ方が、どこか違う――ただ急いでいるというのとは|違《ちが》うように感じられたからだ。
|突《とつ》|然《ぜん》の出来事だった。
トレンチコートの男の後ろへと、その若い男は近付いて行くと、その肩をぐいとつかんだ。トレンチコートの向うに、向い合って立っている男がいて、
「やめろ!」
と|叫《さけ》んだ。コートの男の手が目にも留まらぬほどの速さで走った――全く一本の銀色の[#「銀色の」に傍点]|筋《すじ》を|描《えが》くように見えた。
若い男がクルッとこっちを振り向いた。目がびっくりしたように見開かれている。そして両手が|喉《のど》|元《もと》へと持ち上げられ……喉から血が|迸《ほとばし》った。
コートの男が、手にしていたバッグを――悟は、それが自分のと同じバッグだと気付いた――放り投げ、|猛《もう》|然《ぜん》と走り出した。
若い男が|床《ゆか》へ|突《つ》っ|伏《ぷ》すように|倒《たお》れる。|悲《ひ》|鳴《めい》が、そこここで起こった。
悟は|呆《あっ》|気《け》に取られてその光景を眺めていたが、|奇妙《きみょう》なのは、コートの男の向うに立っていた、五十がらみの、白髪|混《ま》じりの男の行動だった。若い男へ向って、「やめろ」と叫んだのだから、無関係な人間であるはずはないのだが、若い男が倒れたのにはもう見向きもせず、といって、コートの男を追いかけようともしなかった。
そして、コートの男が投げ出して行ったバッグの方へ歩み|寄《よ》ると、それをヒョイと持ち上げて、さっさと足早に歩いて行ってしまう。
もう一か所で|騒《さわ》ぎが起きていた。悟は|好《こう》|奇《き》|心《しん》にかられて、歩いて行った。コートの男が逃げた方角だったから、きっと|捕《つか》まったのだろう。
だが、|人《ひと》|垣《がき》の中を|覗《のぞ》き込んでみると、違っていた。あのコートの男が、床に倒れているのだった。
コートの背中に、血が広がっている。明らかに|銃《じゅう》で打たれたようだ。コートには焼けこげたような|穴《あな》が開いている。しかし、いつ、誰に|撃《う》たれたのか?
悟は思わず、さっきバッグを持って立ち去った男の方を見返った。そうか。コートの男は、走り出した時は、もう撃たれていたのに違いない。
そしてここまで走って来て、倒れた……。すると撃ったのは、あのバッグを持って行った男だろう。きっと消音器をつけた|拳銃《けんじゅう》か何かで……。
「こいつは大騒ぎだな」
と悟は呟いた。空港のガードマンが、やっと駆けつけて来る。
いかん。こんな所にいては、何かと|面《めん》|倒《どう》なことになる。|確《たし》かにさっきの男の顔は見覚えていたが、|目《もく》|撃《げき》|者《しゃ》として警察へでも呼ばれた日には、仕事に差し|支《つか》えることになる。
悟はタクシー乗り場へ向って歩き出した。――ここは知らん顔をしているに|限《かぎ》る。
|一《いっ》|旦《たん》集まったやじ馬たちも、二、三分の後には、姿を消してしまっていた。
現代人は|多《た》|忙《ぼう》で、他人の死に関心を払っている|暇《ひま》はないのかもしれない。
兄、悟からの電話が切れると、永山克次は、息をついて、|椅《い》|子《す》にもたれた。
悟が一メートル七十以上ある、がっしりとした体つきなのに比べると、克次は四十前だというのに、ずいぶん|老《ふ》け|込《こ》んで見えた。背が高いので、少し|猫《ねこ》|背《ぜ》の気味があり、それがいっそうそんな印象を|与《あた》えているのだろう。
およそ、この部長の椅子には|似《に》|合《あ》わない男だった。
インタホンが鳴った。
「――お客様です。|橘《たちばな》さんとおっしゃる方ですが」
「|応《おう》|接《せつ》へ通しておいてくれ」
克次は|上《うわ》|衣《ぎ》のポケットから、古ぼけた写真を取り出して眺め、また戻した。そして立ち上ると、部長室を出た。
応接室へ入ると、ちょっとくたびれた感じのする四十前後の男が、受付の女子社員が|淹《い》れたお茶を音をたててすすっていた。
「やあ」
何と呼んでいいか、一瞬、克次は|迷《まよ》った。「橘さんだね」
「そうです」
アル中かな、と克次は思った。赤ら顔で、目も少し|充血《じゅうけつ》して、トロンとしている。これでは遠からず|地《ち》|下《か》|街《がい》の|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》だ。
「仕事を|頼《たの》みたい」
「ええ。そう聞いて来ました」
と橘は気がなさそうに|肯《うなず》いた。
「人を|捜《さが》してほしいんだが、引き受けてくれるかね?」
橘は肩をすくめた。
「やれと言われりゃやりますよ」
「では頼む。――この女性だ」
と克次はさっきの写真を|渡《わた》した。
「――大分古いですね」
「写真の|保《ほ》|管《かん》が悪かったからだ。|実《じっ》|際《さい》は三年ほど前のものだよ」
「名前は?」
「|岡《おか》|田《だ》|智《とも》|美《み》。――今年で二十八歳になるはずだ」
「で、今どこにいるか分らないんですね?」
「だから捜してくれと言っているんだ」
「分りました」
「一年前から|行《ゆく》|方《え》が分らない」
「最後の住所は?」
「ここだ」
克次は、メモを手渡した。相手がそれをポケットへしまおうとするのを、
「写して行ってくれ。それは返してほしい」
「はあ?――そうですか」
橘はテーブルを見回して、「何か書くものは……」
|探《たん》|偵《てい》のくせに手帳も持っていないのか。克次は苦笑して、ボールペンとメモ用紙を取って来てやった。
「すみません、どうも。――|恐《おそ》れ入ります」
「すぐにかかってくれるかね?」
「ええ、そりゃもう……」
と橘は言った。「ところで、その……」
「費用は必要|経《けい》|費《ひ》別で一日一万というとこでどうかね」
「|結《けっ》|構《こう》です。できれば――」
「前金かね。――ここに二十万ある」
克次は、社名の入っていない|茶《ちゃ》|封《ぶう》|筒《とう》を取り出した。「これで差し当りは間に合うだろう?」
「はい。充分です」
橘が、あわてて封筒を内ポケットへしまい込む。「この|女《じょ》|性《せい》が行方不明になったのは……何か理由でも?」
「そりゃ理由がなきゃ行方不明になったりしないさ」
「ああ、いえ……つまりですね……」
と橘は言いにくそうに、「何かお心当りがおありかと思いましてね」
「そんなことは君に関係ないはずだ」
と克次はピシリと言った。「|余《よ》|計《けい》なせんさくをするのなら、君には頼まないよ」
「いえ、とんでもない!」
橘は飛び上って、「すぐに捜し始めますよ」
「じゃ、頼む。|途中《とちゅう》の|経《けい》|過《か》を|報《ほう》|告《こく》してくれ。少なくとも二日に一度は」
「分りました」
「|自《じ》|宅《たく》は困る。この会社へかけて来てくれないか」
「はい」
「じゃ、それだけだ」
「どうも……」
橘は応接室を出ようとして、振り向いた。「一つ|伺《うかが》ってよろしいですか?」
「まだあるのかね?」
「いえ、つまり……どうして私にこの仕事を?」
克次はふっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「君は|不祥事《ふしょうじ》を引き起こして|探《たん》|偵《てい》社をクビになった。それはよく|承知《しょうち》してる。しかし、君はかつて優秀な刑事だった。そうだろう?」
「ええ、|昔《むかし》は……」
「だから頼む気になったのさ。この|捜《そう》|査《さ》は|極《ごく》|秘《ひ》にしてほしい。そのためには、探偵社へ|依《い》|頼《らい》するよりは、|個《こ》|人《じん》にやらせた方が、安全だ」
「分りました」
「頼むよ」
「ご期待を裏切らないようにします」
と橘は言って、出て行った。
克次はニヤリと笑って、ソファにもたれ、タバコに火を|点《つ》けた。
|卓上《たくじょう》ライター。置いたまま、かがみ込んで使うようになっている。
大理石の、岩山のような形をした|彫刻《ちょうこく》に、ライターが|埋《う》め込まれているのである。
克次はふと何かを思いついた様子で、|吸《す》い始めたばかりのタバコを|灰《はい》|皿《ざら》へ押しつぶすと、その大理石の卓上ライターを手に取った。――ずしりと重い。
岩山を形どっているだけに、かなり|鋭《するど》い突起もあった。
「悪くないな」
克次は|呟《つぶや》いた。そして、両手でその大理石の|塊《かたまり》をしっかりと持つと、頭の上へ、高々とかかげて、隣のソファへと|真《まっ》|直《す》ぐに振り降ろした。
「どうかなさいましたか?」
ドアが開いて、受付の女の子が、目を丸くしていた。
橘は、表へ出てから、振り返って、そびえ立ち、今にものしかかって来そうなオフィスビルの銀色の|絶《ぜっ》|壁《ぺき》を見上げた。
昼下がりの光は、アルコールに毒された目には、まぶし|過《す》ぎるようだ。橘は、一瞬めまいがした。
ぼんやりと立っていると、誰かに突き当った。ハッと相手を見ると、若いサラリーマンが、何してるんだ、と言いたげな顔で、橘の方をにらんで歩いて行く。
橘はポケットの封筒を探った。――大丈夫。すられてはいない。
二十万か! ともかく|一《いっ》|杯《ぱい》やろう。
「いや、だめだ」
口に出して、呟く。――一杯で|済《す》んだためしはないのだから。
そうだ、腹ごしらえをしよう。そうすればあまり飲めなくなる。その前に、顔を当らせるか。このヒゲづらでは、ろくな店へ入れまい。
橘は、近くのデパートへ足を運んで、中の床屋でヒゲを|剃《そ》らせ、ついでに髪を洗わせた。
鏡の中に、何年か前の自分がいた。第一線の刑事だった頃の自分が。
いや、やはり違っているのは、目の|輝《かがや》きが|失《う》せ、表情に、ひきしまったところのないことだろう。生活に張りのないことが、こうもはっきりと顔に出るものだろうか。
理髪店を出て、一つ上の階の食堂へ入った。――食事らしい食事をするのは、一体何日ぶりのことだろう。
息をついて、食堂の中を見回す。平日なので、|主《しゅ》|婦《ふ》や、|幼《おさな》い|子《こ》|供《ども》が目につく。大きなパフェを相手に、|悪《あく》|戦《せん》|苦《く》|闘《とう》している子供を見て、橘はふっと|微《ほほ》|笑《え》んだ。
何もかも失ってしまった。持っていた|総《すべ》てのものを。妻も娘も、去って行った。|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》だったが、それが分っているだけに、|一《いっ》|層《そう》酒に|溺《おぼ》れることにもなった。
仁美はどうしているだろう? 十四歳といえば、中学生だ。
橘の|脳《のう》|裏《り》に、あの|制服姿《せいふくすがた》の少女が、浮び上って来た。今思っても、|頬《ほお》が|燃《も》えるように熱くなる。せいぜい十六歳ぐらいだろう。
あの女の子に、いい年をした大の|大人《おとな》が、それも、元刑事が、助けられたのだ。少女の目の、真直ぐに相手を|見《み》|据《す》える、|視《し》|線《せん》の強さと、輝き。それは橘を|恥《は》じ入らせるに充分だった……。
橘は、ポケットから、永山克次に|預《あずか》った写真を取り出して見た。
「分らんな……」
と呟く。
なぜ、こんな仕事を俺に依頼したのか。相手は大|企業《きぎょう》の重役である。人に知られたくない調査なら、なおさら、こんな|素性《すじょう》の知れない人間に依頼するだろうか?
まあ……前金まで、こうしてもらっているのだ。インチキということもあるまい。
一も二もなく、引き受けてしまったが、|果《はた》してやれるのだろうか。今の俺に。
やるんだ。何としても、やらなくては。――橘は、|微《かす》かに、かつての張りつめた|闘《とう》|志《し》が戻りかけているのを感じた。
永山志津は、サンルームに入ると、長椅子に寝そべった。
|暖《あたた》かい光が、この小部屋には|溢《あふ》れている。
志津はこの部屋が|好《す》きだった。――ともかく、この屋敷は全部気に入らなかったが、ここだけは例外だった。
七十歳とは見えない、|肌《はだ》のつや、肉付きのよい体。髪を少し茶に|染《そ》めているので、却ってはた目には|老《ふ》けて見えるが、自分では若返ったつもりでいる。
いずれにせよ、せいぜい六十。|大《おお》|方《かた》の人は五十代と見る。また、それだけの活力もあって、今でも年中海外に出かけていた。
夫の勇志が死んでからは、永山家の|要《かなめ》として、あまりここを|留《る》|守《す》にはできなくなったが、それでも年に二度は必ずヨーロッパへ行き、夏の|避《ひ》|暑《しょ》、冬のハワイ行きは欠かさない。
|充《み》ち足りた生活だった。
こうして誕生日には子供たちが一人残らず集まってくれる……。
長椅子の下で、電話が鳴り出した。
「――奥様へお電話でございます」
「誰だね?」
「名前をおっしゃいません。男の方で」
「いいわ。つないで」
志津は体を起こした。「――永山志津ですが」
「そこに千津子さんはいるかね」
男の、押し殺したような声。
「どなた? 娘はここには住んでいませんよ」
「そうか。じゃ、あんたでもいい」
「何の用?」
「俺は石尾だ。千津子って女のおかげで死刑判決を受けた男さ。しかし|巧《うま》く逃げられたんでね」
「それが何か?」
「お礼に行くからな。必ず。そう娘に言っときな」
電話は切れた。――志津はしばらく受話器を見ていたが、やがてゆっくりとそれを戻して、微笑んだ。
「面白い|余興《よきょう》だわね」
そう呟くと、長椅子に横たわり、また目をつぶった。
|新《しん》|幹《かん》|線《せん》は|定《てい》|刻《こく》通りに東京駅へ着いた。
|網《あみ》|棚《だな》の荷物をぎりぎりまで|降《お》ろさず、ホームへ入ってからあわてて降ろす|手《て》|合《あい》はともかく、多少とも|余《よ》|裕《ゆう》を持って、ホームに知人でも|迎《むか》えに来ていないかと|窓《まど》の外へ目を向けていた客は、ホームに、いやに|警《けい》|官《かん》の|姿《すがた》が多いのに気付いたに|違《ちが》いない。
そして家族連れは、
「きっと、|誰《だれ》か有名人が乗ってるんだよ」
と|噂《うわさ》し合っていただろう。
|千《ち》|津《ず》|子《こ》は、しかし、全く気付かない口の一人であった。といって荷物を降ろしていたわけではない。それはもちろん夫の役目だ。
いくら世間の出来事に対し、関心の|薄《うす》い千津子といえども、自分の|証言《しょうげん》によって|死《し》|刑《けい》|判《はん》|決《けつ》を受けた男が、|逃《とう》|亡《ぼう》して、自分にお|中元《ちゅうげん》を持って来るとは思わない。
「さあ、着いたよ」
と、|法《のり》|夫《お》に言われて、ふと|物《もの》|想《おも》いからさめ、
「ああ……、東京なのね」
と|呟《つぶや》いた。
こんな場合にも|一《いっ》|向《こう》に|慌《あわ》てずに、ゆっくりと降りる|仕《し》|度《たく》にかかるのが、金持という人種である。
もう他の客がほとんど降りてしまうと、
「さあいきましょうか」
と千津子は席を立った。そこへ、ドタバタと乗り込んで来た男たちがいた。
先頭に立っているのは、|小《こ》|柄《がら》な、ちょっとアンバランスな男で――|妙《みょう》な|表現《ひょうげん》だが、これが実感だった――えらく気取った様子で歩いて来た。頭はみごとに|禿《は》げ上り、鼻の下には口ひげをたくわえている。
ちょっと|呆《あっ》|気《け》に取られてそれを見ていた千津子が、そっと夫へ言った。
「不思議だと思わない?」
「何が?」
「頭に生えなくなっても、どうしてひげはのびるの?」
「永山千津子さんですな」
とその男が言った。
「はあ、そうですけど……」
「|警視庁《けいしちょう》の者です。私、|目《め》|白《じろ》警部と申します」
「はあ。――何かご用でしょうか?」
とのんびり千津子が言った。法夫がかわって、
「|石《いし》|尾《お》のことなら、さっきニュースで聞きました」
「そうでしたか。ならば話が早い。|我《われ》|々《われ》はあなたを|護《ご》|衛《えい》せよと命令を受けて、やって来たのです」
「それはどうも」
「まだ|捕《つか》まらないのですか?」
と法夫が分り切ったことを|訊《き》く。
「非常線も間に合いませんでした。何しろ頭のいい男でしてね」
「|警《けい》|察《さつ》の人がそんなことをおっしゃっていては|困《こま》るじゃありませんか」
「ごもっともです」
目白という警部は一向にすまなそうな様子も見せず、「しかし全力で|捜《そう》|査《さ》に当っております。遠からず|逮《たい》|捕《ほ》できることはお|約《やく》|束《そく》できます」
「早くして下さい。こっちは気が気じゃない」
「よく分ります。しかし、万が一ということもありますので、石尾が逮捕されるまで、奥様の身辺を警護させていただきたいのです」
「それはまあ……」
と法夫が|渋々肯《しぶしぶうなず》く。
「でも、|困《こま》ったわ」
と千津子が言った。「私ども、母の|誕生日《たんじょうび》で母の家へ集まるんですの。――そこにいれば安全だと思いますが」
「いやいや、あの男はなかなかの|奴《やつ》です。やはり我々がついていた方がよろしい。なに、決してお|邪《じゃ》|魔《ま》にならないようにいたします」
「はあ……」
「ともかく参りましょうか」
「母の家をご|存《ぞん》|知《じ》?」
「はい、ちゃんと調べておきました。それで、この新幹線にお乗りだということも分ったわけでして」
「そうですか。それでは……」
「おい、荷物を運んでさしあげろ!」
と目白が部下の方へ声をかけた。
「いや、これはどうも……」
楽ができるので、法夫はご|機《き》|嫌《げん》である。
ホームへ降りると、何やらものものしい様子。千津子がびっくりして、
「何がありましたの?」
「これは奥さんをお|護《まも》りするためにいるのですよ」
と目白は言った。「さあどうぞ」
目白がぴったりと千津子のわきに|寄《よ》り|添《そ》って、前と後ろを、|私《し》|服《ふく》の刑事が二、三人ずつ固める。
「自分がこんなに重要人物だとは思わなかったわ」
と千津子が呟いた。
石尾は、この時、ホームに立って、千津子を見ていた。――一つ|隣《となり》のホームである。
|逃《とう》|亡《ぼう》|犯《はん》といっても、それらしき|風《ふう》|体《てい》では人目につく。その点、石尾のいでたちは|完《かん》|璧《ぺき》なビジネスマンであった。
新調のスーツ、アタッシュケース、黒ブチのメガネ、くっきりと分けた髪。いくら手配写真が新聞に|載《の》っても、この顔を判別できる者はほとんどあるまい。
おまけに、石尾には、びくついたり、おどおどしている様子が全くなかった。他人がおやと目を|留《と》めるような所がないのだ。
それはやはり、一度は死を|賭《か》けて、思い切った|脱《だっ》|走《そう》を|敢《かん》|行《こう》したことから来る、開き直った落ち着きのようなものだったろう。
石尾は、一見して|刑《デ》|事《カ》と分る一団に囲まれた千津子が|階《かい》|段《だん》へと向って行くのを|眺《なが》めながら、ふっと|笑《え》みを|浮《う》かべた。
「急ぐことはない。……まともに死なせやしないぜ」
後からついて歩いているのが、夫の|永《なが》|山《やま》法夫であるのは、石尾も知っていた。|法《ほう》|廷《てい》で千津子が証言した時、|傍聴席《ぼうちょうせき》に|座《すわ》っていたのだ。――金持の|女房《にょうぼう》を持った男。一歩間違えばヒモのようなものだ。
そうか。あいつを|利《り》|用《よう》してやるのも|面《おも》|白《しろ》いかもしれないな、と石尾は思った。|警《けい》|備《び》は|専《もっぱ》ら|妻《つま》の方へ集中している。夫のことなど、誰も気にしていないに違いない。
見ていると、永山法夫がホームをキョロキョロと見回している。誰かを|捜《さが》しているのだろうか?
スラッとした、いい女が、永山法夫の方へちょっと手を|振《ふ》ってみせるのを、石尾は目に留めた。永山法夫も、ちょっと|笑《え》|顔《がお》になって、軽く手を上げ、それから急いで妻と刑事たちに追いついて行く。
「こいつは面白い」
石尾は、その女が階段を降り始めるのを見て、自分もホームから通路へと降りて行った。
通路を、その女がやって来る。――どこかで見たことのあるような顔だ。パッと目立つ|雰《ふん》|囲《い》|気《き》があって、|俳《はい》|優《ゆう》かモデルか、そういう人種の一人に違いないと思えた。
そばにいた若い女の子たちが、
「ねえ、見て、ほら――」
「あ、レナだわ」
「スタイルいいわねえ!」
と小声で言い合うのが耳に入った。
レナ。――そうか。|週刊誌《しゅうかんし》か何かで見たな。モデルで、CMにも出ていたはずだ。
「金持女のヒモ|亭《てい》|主《しゅ》と売れっ子モデルか。いい取り合せだ」
石尾は、他人の|視《し》|線《せん》を|意《い》|識《しき》しながら、さっそうと目の前を通り過ぎて行くレナを見送って、ニヤリと笑った。
世の中にはこういう|偶《ぐう》|然《ぜん》もあるものだ。
こんな実話がある。FBIの捜査官が、ある女を|探《さが》して一向に手がかりがつかめず、うんざりしていた。FBIの隣の食堂へ入っても、その女のことばかり考えている。やって来たウェイトレスの顔をヒョイと見上げると、それがその女だった、というのである。
これは偶然とはいえ、女の方が|追《つい》|跡《せき》の|裏《うら》をかいて、すぐ近くで働いていたという点で面白い話だ。
しかし、|目《め》|白《じろ》|菊《きく》|代《よ》の場合の偶然は、面白いなどと言っていられぬものであった。
今日、|岡《おか》|山《やま》へ帰るという妹を送りに来た菊代は、発車|時《じ》|刻《こく》が|迫《せま》って妹が|苛《いら》|々《いら》していることなど一向にお|構《かま》いなしで、夫の|愚《ぐ》|痴《ち》を|延《えん》|々《えん》とこぼしつづけていた。
「|私《わたし》だって、そりゃね、男に|聖《せい》|人《じん》|君《くん》|子《し》でいろとは言わないわよ。でも、トルコやキャバレーで遊ぶというならともかく、若い、入りたての|婦《ふ》|警《けい》さんに手をつけるなんて、あんまりだと思わない? 私、もうクヤシくって……」
菊代の言い方は、〈|悔《くや》しい〉よりも〈クヤシイ〉とカタカナで書く方が|適《てき》|当《とう》であった。
「それはよく分るわ」
|上《うわ》の|空《そら》で言いながら、妹の方はこれ見よがしに|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見たりするのだが、一向に菊代は気にしない。妹は姉に|比《くら》べてはるかに美人で、名前は――いや、名前はどうでもいい。この後もう登場する予定はないのだから。
「ね、そろそろ、私――」
「その婦警ってのが、また|図《ずう》|々《ずう》しくってね、まあ聞いてよ」
妹の方はゲンナリした顔で|黙《だま》ってしまった。ラジオに向って何を言っても向うに通じないのと同様、姉の話は一方通行なのである。警官の妻だから交通|規《き》|制《せい》は|得《とく》|意《い》なのかもしれない。
「フンフン」
と機械的に|肯《うなず》きつつ、列車を一本|遅《おく》らせるかな、と|覚《かく》|悟《ご》した。気が|弱《よわ》くて、強引に席を立つということができない|性《せい》|格《かく》なのである。
二人がいるのは、中二階になった、古ぼけたティールームで、|窓《まど》|際《ぎわ》の席からは、ちょうど|改《かい》|札《さつ》|口《ぐち》を出て来た乗客を眺め|渡《わた》すことができた。
ぼんやりと聞き流しつつ、下へ目を向けた妹は目を二、三度しばたたいて、
「あら!――あれ、お|義《に》|兄《い》さんじゃないの?」
と言った。
「え?」
「ほら、下を通って行くわ」
見れば、|確《たし》かに目白が、三十|歳《さい》ぐらいの、落ち着いた人妻風の女性にぴったり寄り添うようにして歩いて行く。
「まあ! あの人だわ!」
菊代は目をむいた。前後に固まって歩いているのが刑事たちであるなどと、頭へ血が|昇《のぼ》っているので、まるで思ってもみない。
「な、何てことでしょ! 私の目の前を、図々しい!」
ちょっと|的《まと》|外《はず》れな|怒《おこ》り方をしている間に、妹の方はこれぞチャンスというわけで、
「じゃ、私、もう行くわね」
と立ち上った。しかし、菊代がいきなり立ち上ったと思うと、|猛《もう》|然《ぜん》と店から飛び出して行ってしまったので、しばし|唖《あ》|然《ぜん》として突っ立っていたが……。
「姉さんったら、お金も|払《はら》わずに――」
怒って飛び出したにしては、ハンドバッグも、デパートで買った|特《とく》|売《ばい》|品《ひん》のスカートの包みも、ちゃんと持って行っていたのである。
菊代は下へ降りると、夫が今まさに、表で車へ乗り込もうとしているのを見付けた。
急いで――といっても、何しろハイヒールである。百メートル全力|疾《しっ》|走《そう》というわけにもいかない。やっと外へ出た時には、夫の車は五十メートルほど先へ走り去っていた。菊代は、タクシーを止めると、飛び込むように乗って、
「あの車を追って!」
と言った。
「あの車? どの車です?」
と運転手が振り向く。「何しろ|沢《たく》|山《さん》、車ってものがあるんでね」
「あれよ! ほら、今|角《かど》を曲るやつ」
「分りました」
運転手は車をスタートさせながら、「ご亭主が女とでも乗ってるんですかい?」
と|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。あんまりピッタリ当てられるのも面白くない。
「私は婦人警官よ! 早くやりなさい!」
と菊代が|厳《きび》しい調子で言うと、運転手は|慌《あわ》ててアクセルを|踏《ふ》み込んだ。
|守《もり》|屋《や》は、ボストンバッグをベッドの上へ置いた。ボーイが、
「何かご用はございませんでしょうか?」
と|訊《き》いた。守屋は、
「ああ、別にない」
と答えて、手をポケットに入れ、ためらった。ボーイは、
「失礼いたします」
と頭を下げて、さっさとドアの方へ行ってしまう。
「あ――ちょっと」
「はい」
守屋は慌ててポケットからクシャクシャになった千円札を取り出し、
「これ……」
とチップとして渡した。
「|恐《おそ》れ入ります」
ボーイは|無表情《むひょうじょう》のまま受け取ると、部屋を出て行った。
守屋は、いつもながら、落ち着かない気分だった。――人を殺して来たからではない。ホテルに|泊《とま》る時、ボーイにチップをやるべきかどうかが、一向に分らないのである。
|一《いち》|応《おう》、そういうものはいただきませんという建前にはなっているようだが、渡せばためらいもせずに受け取る。他の客はどうしているのだろうか?
「何かご用は?」
と訊かれると、守屋は相手がチップを待っているのではないかと思って、ついやってしまう。渡さなければ、あのケチめと思われるかもしれないと思うし、渡せば渡したで、あの|田舎《 いなか》|者《もの》め、ホテルに泊ったことがないのかな、と思われるのではないか。――そんなことが気になるのである。
全く気弱なことだ、と守屋は|苦笑《くしょう》した。
守屋は、仕事を|離《はな》れると、|至《いた》って気の小さな、何事も|迷《まよ》ってばかりいるタイプの人間だった。|却《かえ》ってそれだけに、仕事となると、|非情《ひじょう》に|徹《てっ》することができた。
守屋とて、今の仕事が|好《す》きというわけではないが、ともかく、仕事をしていると、安心することができる。
|危《き》|険《けん》な仕事をしていて安心というのも妙だが、そこでは目的も、取るべき手段もはっきりしているから、迷うことがない。それが守屋を落ち着かせる。
あの若いのは|可《か》|哀《わい》そうなことをした。しかし、今さらどうにもならない。自信がありすぎたのだ。誰しも若い内は自信のとりこになっている。それが用意されている落し|穴《あな》に落ちるかどうかは、全く運次第なのだ……。
腕時計を見ると、もうそろそろ六時になるところだった。
夕食には少し早い。――守屋はベッドに|腰《こし》をおろした。
今度の仕事は、|割《わり》|合《あい》早く|片《かた》|付《づ》いた。結局、相手を殺さなくてはならなかったのは残念だが、仕方ない。
守屋はふと思いついて、ボストンバッグを引き寄せて、開いてみた。
一分後には、守屋は頭をかかえていた。自分ともあろう者が、こんなトリックに手もなく|騙《だま》されてしまうとは……。あの時、すぐに中を確かめるべきだったのだ。
もっとも、そうしたところで、このバッグの本当の持主をあの場で|捜《さが》すわけにはいかなかったのだから、同じことかもしれない。――しかし、ここまでの時間をロスしてしまった。これは命取りにもなりかねないのだ。
まだ|期《き》|限《げん》までには時間がある。しかし、|果《はた》して取り|戻《もど》せるだろうか?
バッグの中に、ビジネスノートがあった。〈|永山悟《ながやまさとる》〉か。しかし、住所は大阪になっている。東京へ出て来て、どこに泊っているのだろうか? 見当もつかない。
守屋はふと思いついて、電話へ手をのばした。〈|勤《きん》|務《む》|先《さき》〉とある番号を回す。もう六時では|遅《おそ》すぎたかもしれないが……。
しばらく|呼《よび》|出《だ》し音が聞こえていたが、やっと男の声が、
「はい」
と答えた。
「永山悟さんはいらっしゃいますか?」
「今、|専《せん》|務《む》は東京へいらしてますがね」
「どちらのホテルへお泊りか――」
「いや|休暇《きゅうか》で、ご実家の方です」
「ちょっと急用でして。電話は分りませんか?」
「お待ち下さい」
相手は別にうるさいことも訊かずに、番号を調べてくれた。――守屋は幸運に|感《かん》|謝《しゃ》しなくてはならない、と思った。
しかし、問題はまだある。この永山という男は、自分のバッグが、すり|換《か》えられた物だと当然気付くはずだ。その時、バッグをどうするか。おそらく、ただどこかで間違えられただけだと思うだろうから、警察に|届《とど》けるような|真《ま》|似《ね》はすまい。
守屋は、バッグの中味をじっと見つめた。今聞いた番号へ電話をかけ、実は私がバッグを間違えてしまったようで、と言ったら、どうなるだろう? 別に|疑《うたが》いもせず、すんなりと渡してくれるかもしれない。
「そう|旨《うま》く行けば楽なんだが……」
と守屋は呟いた。まずいことは、自分が、そのバッグに何が入っていたか、正確には知らないことである。本当の持主であると|証拠《しょうこ》立てることができない。
まあ、そんなことをいちいち確かめようとする相手でないかもしれないのだが……。
守屋は何気なく、ビジネスノートをパラパラとめくった。――ヒラリと一枚の紙片が落ちた。拾い上げてみると、走り書きのメモで、〈計画|遂《すい》|行《こう》のために〉とあり、〈アリバイを確実なものにすること〉と書かれてあった。
アリバイ?――守屋は|眉《まゆ》をひそめた。どうもきなくさい話になって来た。
むろんアリバイといっても、必ず|犯《はん》|罪《ざい》が|絡《から》むとは|限《かぎ》らないが、しかし、やはりその|可《か》|能《のう》|性《せい》はあるわけだ。
会社の専務ともあろうものが、アリバイを必要とするとは、どういう事情なのか、守屋は|興味《きょうみ》が|湧《わ》いて来た。
「|奥《おく》|様《さま》――」
と声をかけられて、|志《し》|津《ず》は顔を上げた。
「ああ、何なの?」
「千津子様がお着きになりましたが」
「ああそう。今行くわ」
「何を熱心になさっておいででしたの?」
「これかい?」
志津は目の前の、グラフのようなものを見て、「なに、パーティの|余興《よきょう》さ」
と言った。「何もないんじゃつまらないからね」
「面白そうですわね。どんな|趣《しゅ》|向《こう》ですの?」
「|単純《たんじゅん》だよ。誰かが殺される。――それだけのゲームさ」
と、志津は言った。
「兄さん」
|克《かつ》|次《じ》は、|悟《さとる》の手を|握《にぎ》った。
「よせ。|芝《しば》|居《い》がかった|真《ま》|似《ね》は」
悟が|苦笑《くしょう》する。「お|袋似《ふくろに》だな、お前は」
「兄さんは|親《おや》|父《じ》似で……つりあいがとれてるじゃないか」
克次は|応《おう》|接《せつ》室へ兄を連れて行った。
「いいのか、会社の中で?」
「家へ帰ったら、こんな話はできないよ」
と克次は笑って言った。
「それもそうだ」
「コーヒーを取ろうか」
「いや、|俺《おれ》はもう|沢《たく》|山《さん》だ」
「どこかで飲んで来たのかい?」
「ん?」
悟がちょっと|詰《つ》まったが、すぐに、「機内でまずいのを|一《いっ》|杯《ぱい》な」
と笑ってみせた。
「そういえば空港からずいぶんかかったじゃないか。――道路が|混《こ》んでたのかい?」
「うん。ちょっと|渋滞《じゅうたい》していた」
「そうか。心配してたんだ。残業手当をつけなくちゃならんかと思ってね」
克次は大理石の|卓上《たくじょう》ライターを見ながら、そう言った。
「どうだ、手はずの方は?」
少し間を置いて、悟が|訊《き》いた。
「うん。予定通り進んでいるよ」
「例の|探《たん》|偵《てい》役は見付かったのか?」
「ああ、ぴったりのがいた」
「どんな|奴《やつ》だ?」
「|橘《たちばな》という男だ。元|刑《けい》|事《じ》で探偵社に|勤《つと》め、そこをクビになって、|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》|寸《すん》|前《ぜん》、てところさ」
「なるほど。そいつはうってつけらしい」
克次はちょっと|黙《だま》り|込《こ》んでいたが、やがて大きく息をつくと、|天井《てんじょう》を見上げながら言った。
「全く|疲《つか》れるよな、毎年の事ながら」
「仕方ないじゃないか。これがお袋の楽しみなんだ」
「しかし、|馬《ば》|鹿《か》げてるよ! いい|年《と》|齢《し》をした|大人《おとな》の俺たちが、こんな三文芝居のためにかけ回らなきゃならんとは」
「お袋が|財《ざい》|産《さん》をがっちり握ってるんだ。長いものには|巻《ま》かれるしかあるまい」
「それにしても、だ……」
「お前も変な奴だな」
と悟は|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。「お前はお袋のお気に入りじゃないか」
「似た者同士だから付き合っていられないってこともあるさ」
「おい、お前はお袋のいい子[#「いい子」に傍点]なんだ。|忘《わす》れるなよ」
「自分の|役《やく》|割《わり》は|心得《こころえ》てるさ」
克次は話題を変えて、「あの|石《いし》|尾《お》って|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》が|逃《に》げ出したのは知ってるか?」
「石尾?――千津子が|証言《しょうげん》した奴か?」
「そうだよ」
克次がニュースをかいつまんで話してやると、悟の顔に、不思議な|表情《ひょうじょう》が広がった。不安でも|恐怖《きょうふ》でもない、むしろ今にも|笑《わら》い出そうというような表情だった。しかし、それは|一瞬《いっしゅん》のことで、
「そいつは大変だ」
と|普《ふ》|通《つう》の顔に|戻《もど》った。「仕返しに来るんじゃないか?」
「どうかな。逃げるだけで|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》だろう」
「もし、|屋《や》|敷《しき》へやって来たら……」
「よせよ、兄さん。そんな奴があの屋敷へ一人で来てどうなるもんか」
「それはそうだが……。相手は|気《き》|狂《ちが》いだぞ。何をしでかすか、分ったもんじゃない」
「それにしたってさ。――じゃ、どうしようっていうんだ? 軍隊でも出動させるかね」
悟は|面《おも》|白《しろ》くもなさそうに、
「俺は|真《ま》|面《じ》|目《め》に言ってるんだ」
「僕だってそうさ」
「まあ、|警《けい》|察《さつ》が何か手を打つとは思うが」
克次は一息ついてから、
「仕事の方の話を|片《かた》|付《づ》けておこうよ、兄さん」
と言った。「家へ行ってからじゃ、落ち着いて話す|暇《ひま》はないだろう」
「そうだな」
悟は手をのばしてボストンバッグを取ると、「ともかくお前の所の帳面は何だ? あれはひどいもんだぞ」
と言いながら、バッグの口を開いた。
「――何だ、これは?」
「どうした?」
と克次が身を乗り出す。
「しまった!」
悟が|舌《した》|打《う》ちした。「すり|換《か》えられたんだ、|畜生《ちくしょう》!」
「ええ? 本当かい?」
「見ろ」
悟は中の物をテーブルへ出していった。洗いざらしのシャツ、セーター、|洗《せん》|面《めん》道具……。
「どうしてこんなことに?――|金《かね》|目《め》の物でも入ってたのかい?」
「いや――」
と言いかけて、悟は気がついた。あの、羽田での殺人|騒《さわ》ぎ。あの男が、これと同じバッグを持っていた。
だがどこですり換えられたのか? あるいは単に|間《ま》|違《ちが》えたのか? しかし、ずっと手元に置いてあったのだ。間違えることなど考えられない。やはりすり換えられたと見なくてはなるまい。
「あの時だ。ここへ電話をかけている時、俺はバッグを下へ置いた。――|隣《となり》の電話に|誰《だれ》かがいた。そいつが――」
「間違えたのか。やれやれ……」
間違い? いや、そうではない、と悟は思った。殺された男はバッグを投げた。そして殺した男はバッグを手にして立ち去った。このバッグが目当てだったのに違いない。
そうなると、このバッグに何か[#「何か」に傍点]それだけの|値《ね》|打《うち》があることになる。――しかし、もう中は|空《から》っぽだが……。
持ち上げてみて、おや、と思った。空にしては重いのだ。
「どうしたんだ、兄さん?」
「うん……」
手を入れて、バッグの底を手で押してみる。「二重底になってる。何か入ってるぞ」
「へえ。何だか面白そうだね」
力を込めて、底のボール紙の板をはがしてみる。――メリメリッと音がして、はがれた下から、出て来たのは……。
「何だい?」
と克次が|訊《き》いた。
「フィルムだ。八ミリの」
悟が、小さなリールに巻かれたフィルムを三本、取り出してテーブルに置いた。
「それだけかい?」
「ん?――ああ、それだけだ」
悟はそっとバッグの口を|閉《し》め、下へ置いた。|心《しん》|臓《ぞう》が高鳴っていた。――本物の|拳銃《けんじゅう》に違いない。今にも|暴《ぼう》|発《はつ》するのではないかと、気が気ではなかった。
「へえ、何だろう?」
克次が愉快そうに言った。「ブルーフィルムかな? そんな所に|隠《かく》しているところを見ると」
「かもしれんな」
克次がリールの一つを取り上げて、フィルムを引き出した。じっと光にかざして見ていたが、
「よく分らないな、八ミリは小さすぎる」
「しまっとこう」
「ともかく、家へ帰ったら|映《うつ》してみよう」
「お前も|物《もの》|好《ず》きだな」
「|掘《ほり》|出《だ》し物なら料金を取って|映《えい》|写《しゃ》|会《かい》でも開くか」
と克次は笑いながら、「お袋の|誕生日《たんじょうび》の|趣《しゅ》|向《こう》の一つには悪くないぜ。お袋もまだまだ色気たっぷりだからな」
悟の目は、つい、足下のバッグへ向いていた。――ブルーフィルム? |果《はた》してそんなものを|奪《うば》うために、人殺しまでするだろうか? いやいや、これはもっと大きな話に違いない。拳銃までこうして隠してあるというのは、ただごとではない。
そのフィルムはきっと何か重要な物なのだろう……。
「きっと|捕《つか》まりそうになって、兄さんのとすり換えたんじゃないか」
と克次が言った。
「|呑《のん》|気《き》なことを言ってる場合じゃない」
と悟が|渋《しぶ》い顔になった。「あのバッグに入ってた帳面や書類はどうなるんだ」
「きっと向うだって後で取り返す気さ。その内連絡して来るよ。兄さんの名前は入ってるんだろ?」
言われてギクリとした。そうだ! あのノートには氏名、|勤《きん》|務《む》|先《さき》が入っている。もしあのバッグを持ち去った男が中を見て、目当ての物でないと気付いたら――いや、とっくに気付いているに違いないが――何とかして取り戻そうとするだろう。
それにはまず……あのノートの勤務先へ電話をかけるに違いない。
「外線をかけたい」
と悟は言った。
「ああ。そこのを使ってくれ。――いや、もう五時を過ぎたから、直通だったな。じゃ、受付の所の電話ならかけられる」
「分った」
と立ち上る。応接室を出ようとした悟へ、
「兄さん、|彼《かの》|女《じょ》に電話かい?」
と克次が冷やかした。
悟が受付へ行ってみると、もちろん受付の女子社員はとっくに帰っていたが、|見《み》|渡《わた》すオフィスの中にも、残業している社員は数えるほどしかいなかった。
「変ったもんだな、全く」
悟はため息をついた。――俺が新入りの|頃《ころ》は仕事が第一で、家族のことなど目もくれなかったものだ。
|永《なが》|山《やま》家は、むろん父の代から大きな勢力を持っていて、悟とて苦労もなく育ってはいたのだが、やはり父の、長男に対する|態《たい》|度《ど》は|厳《きび》しかった。特に、仕事の面では、悟を全くの平社員――いや、それ以上に厳しく|扱《あつか》って、どんな仕事も一つずつ体で覚えるように|仕《し》|込《こ》まれたものである。
今、悟が永山家の事業の切り|盛《も》りを一手に引き受けていられるのは、その父のやり方が|功《こう》を|奏《そう》しているのだった。
悟に|比《くら》べ、次男の克次は、母親の|秘《ひ》|蔵《ぞう》っ子だっただけに、|至《いた》ってのんびりと|甘《あま》やかされて育って来た。
本来なら、兄の|片《かた》|腕《うで》となって働いていい|年《ねん》|齢《れい》なのだが、女遊びだけは|派《は》|手《で》で、この永山家の握っている|企業《きぎょう》の中でも最も小さな会社の〈お|飾《かざ》り〉の|取締役《とりしまりやく》をして、気楽にやっていた。
悟は|苛《いら》|立《だ》ちを覚えることもしばしばだったが、それでも父は|亡《な》く、母が永山家そのものの|頂点《ちょうてん》にどっしりと|居《い》|座《すわ》って、克次がそのお気に入りである以上、悟としても克次をそう|粗《そ》|末《まつ》には扱えないのである。
亡き父のお気に入りだった|千《ち》|津《ず》|子《こ》は、何やら|得《え》|体《たい》の知れない男と|結《けっ》|婚《こん》してしまった。悟の目には、ただ小ざかしいだけの男に|映《うつ》るのだが、千津子は|結《けっ》|構《こう》幸せそうにやっている。まあ、人の|好《よ》い、お|嬢《じょう》さん|気質《 かたぎ》が|抜《ぬ》けないせいもあるのだろうが。
「――はい」
ダイヤルを回すと、男の社員が出た。
「ちゃんと、会社の名を言えと言ってるだろう!」
悟は|一《いっ》|喝《かつ》した。
「あ、|専《せん》|務《む》! し、失礼しました!」
悟の一喝は有名なのである。
「俺あてに電話がなかったか?」
「ちょっとお待ちを」
電話口の向うで低く話し声がして、「|一《いっ》|件《けん》あったそうです。|至急《しきゅう》ご|連《れん》|絡《らく》したいというので――」
「誰からだ?」
「それは聞かなかったそうです」
「全く!――何と答えた?」
「はあ。至急というので、東京のご本家の電話を――」
「教えたのか。何て奴だ! 誰だか分らん相手に、自宅の電話まで教える奴があるか!」
「す、すみません」
「――仕方ない。もういい」
|怒《ど》|鳴《な》ってはみたものの、予期していたことではあった。電話が分れば、住所を調べ出すのは|簡《かん》|単《たん》だ。そうなると、あの人殺しが、俺の居場所を知っていることになる……。
「全く、大変な誕生日になりそうだ……」
と悟は|呟《つぶや》いた。
警察へ届けようか? そうすべきなのは分っていた。
「やあ、連絡はついた?」
応接室へ戻ると、克次がのんびりとタバコをふかしている。
「ああ。それじゃ仕方ない。家へ行くか」
「そうだね」
悟がフィルムをバッグへしまう。ちゃんと底板の下へ入れたのは言うまでもない。
「シャツや洗面道具はどうするの?」
「どうもこうもない。向うがバッグを|交《こう》|換《かん》してくれと言って来たら、こっちもちゃんと全部|揃《そろ》えて返してやらにゃならん」
「それもそうだね」
他の物をめちゃくちゃに詰め込んで、
「重さもそう変らん。全く、これじゃすり換えられても分らんよ」
「どこにでもあるようなのを持ってるからいけないんだよ」
と克次が言った。「モラピトかグッチでも使えば、そんなことないのに」
「馬鹿らしい。これで|充分《じゅうぶん》だ」
二人は応接室を出た。
「兄さんは親父そっくりだなあ。――金があるのに、安物が好きで」
「安物が好きなんじゃない。いい物が好きなんだ。しかし、|余《よ》|分《ぶん》なところに金を使っているものは気にくわん」
「お固いね」
「お前、そのタバコは?」
「ダンヒルだよ」
「マイルドセブンの方がよほどいいぞ」
と悟は言った。
スタジオの中は戦場のような|騒《さわ》ぎだった。
「レナ! |仕《し》|度《たく》は?」
カメラマンの助手が、絶叫《ぜっきょう》する。
「あと五分!」
「|頼《たの》むよ! 時間がないんだ!」
「はいはい」
レナは|肩《かた》でふうっと息をついた。「全くうるさいっちゃありゃしない」
「はい、じっとして下さい」
とメイクの係が、レナの|瞼《まぶた》にアイシャドーを入れて行く。
「モデルは不自然にやせてるなんて、よく医者が言うけど、本当は重労働だからやせてるのよね」
「これでどうでしょう?」
「そうね。――写真じゃどうかな。少し目がくぼまない? いいわ、カメラマンに訊いてみる」
レナは水着|姿《すがた》だった。水着で|化粧《けしょう》を|濃《こ》くするのも|妙《みょう》なものだが、今や水着もファッションという時代である。
「その内、|普《ふ》|段《だん》|着《ぎ》用の水着、パーティ用の水着、卒業式用の水着なんてのができるかもしれないわね」
とレナは笑った。
「レナ」
とモデル仲間の一人が声をかけて来た。
「なあに?」
「お客さんよ」
「あら、そう」
レナはスタジオの入口の方へと歩いて行った。――ビジネススーツをピッタリと着込んだ男が立っていた。
「何か用?」
と声をかけると、男は、
「あ、レナさんですね。私は――」
と言いかけて、レナの|格《かっ》|好《こう》に気付いて、|慌《あわ》てて目を伏せた。
「あら、|遠《えん》|慮《りょ》なさらないで。別に|裸《はだか》ってわけじゃないんだし」
それにしても、レナのスタイルが、〈|限《かぎ》りなく裸に近い〉という感じの水着だったことは確かである。
「はあ……その……」
と男は|咳《せき》|払《ばら》いをして、「私、永山様の東京での|秘《ひ》|書《しょ》を|務《つと》めている者でございまして」
「へえ、あの人、そんなに|偉《えら》いの? 知らなかったわ」
「ご伝言をお|預《あずか》りして参りました」
と男はメモを取り出すと、うやうやしく差し出した。オーバーな人ね、とついレナは笑ってしまいそうになった。
「へえ……。〈今夜十一時半に……〉あの人、東京にいる時は、|奥《おく》さんの目が|怖《こわ》くて出られないのかと思ったわ」
「ご返事をいただけますでしょうか?」
「OK、と言って」
「はい。ではそのメモを」
「あら、返すの?」
「お|邪《じゃ》|魔《ま》かと思いまして……」
レナは自分の格好を見下ろして、
「本当ね。ちょっとしまう所はないみたいだわ」
と笑った。
「ではそのようにお伝えいたします」
「はい、ご苦労さま」
男が行きかけると、「ねえ、ちょっと」とレナは声をかけた。
「は?」
「あんた、名前は?」
「私でございますか?」
「そうよ」
ちょっと|好《この》みのタイプだわ、とレナは思った。何しろファッション界で、|奇《き》|抜《ばつ》なスタイルに|慣《な》れている。こういうスーツ姿がよく決る男が、|却《かえ》って|新《しん》|鮮《せん》に映るのである。
「私は――」
と男がちょっとためらってから、言った。「石尾と申します」
「石尾さんね。どうも。また遊びに来てちょうだい」
「|恐《おそ》れ入ります」
そこへ、カメラマンの助手が、
「レナ! レナ!」
と大声で|喚《わめ》いているのが耳に入った。
「また始まったわ。レナの大安売りね、まるで」
とため息をついて、レナは、「はーい!」
と叫びながら、戻って行った。
石尾は、スタジオを出て、ホッと息を|吐《は》き出した。
どうして、|適《てき》|当《とう》な|偽《ぎ》|名《めい》でも使わなかったのだろう? 石尾、などと、今や新聞で大騒ぎされている名前を。
「まあ、いい……」
石尾はニヤリと笑った。――自分でも、そうそう長く|逃《に》げのびることはできまいと分っていた。それなら何も偽名だ何だと小細工することはない。
いつになく、石尾は|大《だい》|胆《たん》になっていた。これが命取りになるか、命を救うか、それは石尾自身にも分らなかった。
石尾はすっかり暗くなった表通りを歩いて行くと、電話ボックスへ入った。
「――|永《なが》|山《やま》でございます」
さっきと同じメイドらしい。声で分るかな、と|一瞬危《いっしゅんあや》ぶんだが、
「おそれ入りますが、永山|法《のり》|夫《お》係長をお願いしたいのですが」
と取り|澄《す》ました声で言った。
「どちら様でしょう?」
「社の者でございます」
「少々お待ちを」
気付かれなかったようだ。少し待つと、
「はい永山だが」
と相手が変った。
「私、レナさんのマネージャーですが」
と石尾は言った。
「あ、ああ、そうか」
向うがギクリとしているのが声で分る。
「レナさんが、今夜お会いしたいとおっしゃって――」
と場所を告げると、「よろしいでしょうか?」
「うん、それはまあ――君に|任《まか》せる。|了解《りょうかい》したから、|善《ぜん》|処《しょ》してくれたまえ」
きっと|女房《にょうぼう》がそばにいるのだな、と石尾は笑い出したくなるのをこらえた。
「あなた、お仕事?」
と千津子が言った。
「うん。大した用じゃないのさ。今の若い奴は自分で|判《はん》|断《だん》がつかないんだから、全く|困《こま》ったもんだよ」
とわざとらしく笑って見せた。
「あなたもお|忙《いそが》しそうで|結《けっ》|構《こう》ね」
と|志《し》|津《ず》が言った。
「ええ、おかげさまで」
「|美《み》|津《つ》|子《こ》は元気?」
「ええ、お母さん。本当は連れて来たかったんだけど、学校を休ませたくないから」
と千津子は、ゆっくりと|紅《こう》|茶《ちゃ》をすすりながら言った。
「ところで、目黒[#「目黒」に傍点]さん」
と志津が言った。
「|目《め》|白《じろ》と申します」
「あ、そうでしたわ。ごめんなさい。|年《と》|齢《し》を取ると|忘《わす》れっぽくていけませんわね」
「いやいや、びっくりするほどお|若《わか》いですなあ」
目白が、|露《ろ》|骨《こつ》に|世《せ》|辞《じ》を言った。千津子が|不《ふ》|愉《ゆ》|快《かい》そうに顔をしかめる。この手の男が千津子は|最《もっと》も|嫌《きら》いなのである。
「――何か具体的に危険なことでも|迫《せま》っているんですの?」
千津子が、話を事務的に進めようとして、言った。
「それは何とも申し上げられませんが……」
「では|屋《や》|敷《しき》の外だけの|警《けい》|備《び》にして下さい。中にまでは必要ないでしょう?」
「そ、それは――」
「まさか|爆《ばく》|撃《げき》|機《き》が飛んで来るわけもないし、屋敷の中へ入れなければ危険はないわけですもの」
「まあ、千津子、お待ちなさい」
と志津が|抑《おさ》える。「せっかく警部さんが、私たちの身近で守って下さるとおっしゃってるのだから、お|断《ことわ》りすることはないじゃありませんか」
「でも、お母さん。これは家族だけの集まりなのよ」
「それはよく分っていますとも。警部さんだって、ちゃんとその辺は分っていらっしゃいますよ。――そうでしょう?」
「はい、それはもう。決してお邪魔にならぬよう、心いたしますので」
と目白は胸をそらした。
「いいじゃないの。危い目にあうよりは」
志津はそう言って|微《ほほ》|笑《え》んだ。
永山志津。――七十|歳《さい》とはとても見えないが、外見の若さとは|逆《ぎゃく》に、こうして客間の、|背《せ》もたれが倍もあるような、年代物の大きな|椅《い》|子《す》に座っていると、あたかも、八十、いや百歳の長老のような|貫《かん》|禄《ろく》を|漂《ただよ》わせる。
夫の|亡《な》き後は、志津は|正《まさ》に女王として|君《くん》|臨《りん》して来た。|小《こ》|柄《がら》な、初老の婦人という、どこといって|特徴《とくちょう》のない|容《よう》|姿《し》だが、ガウンのような部屋着が、いかにも身にしっくりと合っている。
千津子とは、あまり似ていなかった。千津子はむしろ父親似である。――|性《せい》|格《かく》的には、千津子は両親のどちらにも似ていない。
千津子とて母を愛してはいたが、時々、特にこの数年、母の気持が全くつかめなくなることがあった。
それは、ただ離れて|暮《くら》しているから、というだけでもないように思えた。
千津子は、母の|態《たい》|度《ど》が気になった。警察の人間が、家の中にいるという|状態《じょうたい》を、むしろ喜んでいるように見えたからだ。
何を考えているのかしら?
千津子は、じっと母の顔を見つめていた……。
第二章
TVだけが友達だった。
|六畳一間《ろくじょうひとま》と、台所、それに小さなお|風《ふ》|呂《ろ》……。それだけが|敦《あつ》|子《こ》の〈|家《うち》〉の全部だ。
敦子は十六|歳《さい》だった。高校一年生。――書類の上では、両親の家から通っていることになっている。|表札《ひょうさつ》にも名前はちゃんと出ているのだ。
〈|重《しげ》|森《もり》|哲《てつ》|男《お》・布子・敦子〉となっている。
ところが、ここに、敦子は一人で住んでいるのである。
敦子は今夜も、八時までTVを見た。それでTVは消し、夕食の仕度にかかる。――今夜は何かありあわせで食べてしまおう。
これで食事を終え、|洗《あら》い物を|済《す》ますと九時になる。九時から勉強を始めて十時。お風呂に入って、後はパジャマ|姿《すがた》で、|雑《ざっ》|誌《し》を見たり、お|菓《か》|子《し》をつまみながら一人でゲームをしたりする。
三日に一度ぐらいは、友達へ電話をかける。|誰《だれ》かと何か話したいという気持にかられた時、|黙《だま》っていることに|耐《た》え切れなくなった時である……。
十二時|頃《ごろ》には、小さなベッドに入る。朝は六時に起きる。お|弁《べん》|当《とう》を自分で作らなくてはならないからだ。だから、いつも少し|寝《ね》|不《ぶ》|足《そく》。
しかし、敦子はこのスケジュールを|正《せい》|確《かく》に守っていた。――大体は。
時間ででも区切りをつけておかないと、コップが|割《わ》れてしまって水が流れ出すように生活がめちゃくちゃになってしまうからだ。
やかんをガスにかける。――敦子は、|欠伸《 あくび》をした。
母の布子は、もう一年以上帰って来ない。|都《つ》|合《ごう》で実家へ帰っている、ということに、表向きはなっているが、要するに、男と|一《いっ》|緒《しょ》に出て行ってしまったのである。もちろん、今では、このアパートの住人も、同級生も、みんなそのことを知っていた。
知らないのは先生だけ。――いや、知ってはいるのだが、口に出さないだけなのだろう。
敦子も、もう子供ではない。だから母が出て行った時も、そうひどく母を|恨《うら》みはしなかった。その前ぶれらしきものもあったし、それに、同じ|女《じょ》|性《せい》としての|理《り》|解《かい》もあった。
何しろ敦子の父、重森哲男は、月に一日か二日しか家にいない。それに、何か月も|留《る》|守《す》のままということも|珍《めずら》しくないのだ。
そんなに放っておかれたら、他の男に心が動くのは当然かもしれない。――ませた考えでなく、敦子はそう思って、母を恨もうとはしなかったのだ。
父は、布子が娘を放って置いて|逃《に》げてしまったと|怒《おこ》ったが、
「|私《わたし》、もう|子《こ》|供《ども》じゃないんだから」
と|逆《ぎゃく》にいさめたりもした。
敦子は、今、母の味わった|孤《こ》|独《どく》を味わっているわけだった。――母と|違《ちが》うのは、それでも敦子は父が大好きだったことだろう。
――湯が|沸《わ》いた。お茶を|淹《い》れようとして、
「ああ、やんなっちゃう!」
とため息をついた。お茶の葉が切れていたのである。もうどの店も|閉《し》まっている。
紅茶でも飲もうか。――ご飯に紅茶というのは何とも|冴《さ》えない取り合せだったが、仕方ない。|諦《あきら》めて、おかずを|温《あたた》めようとした時、電話が鳴った。
「誰かしら?」
誰でも、話し相手なら|嬉《うれ》しい。電話はいつも飛びつくように取った。
「はい、重森です」
「敦子。元気か?」
「お父さん! 今、どこ?」
声が近い。
「東京へ出て来ているんだ。お前、食事は済んだのか?」
「まだよ」
たとえ|丼《どんぶり》に|十《じっ》|杯《ぱい》食べた後でも、まだ、と答えただろう。
「じゃ|渋《しぶ》|谷《や》へ出て来ないか」
「もちろん行く!」
――場所を聞いて|憶《おぼ》え|込《こ》むと、敦子は部屋の中をはね回った。そして五分と|経《た》たない内に、仕度を済ませて、アパートを飛び出していく。
部屋の明りは|点《つ》けっ放しだった。消し|忘《わす》れたのでなく、光で一杯にしておきたかったのだ。
「大人っぽくなったな、お前も」
重森は、|優《やさ》しい目を|娘《むすめ》に向けて言った。
「あら、失礼ね。『大人っぽく』なったんじゃなくて、『大人』になったのよ」
「そうか。こいつは失礼」
と重森は笑って、「口も一人前になった」
「|食欲《しょくよく》もね」
肉の一切れを口に入れて、敦子は言った。
「学校の方はどうだ?」
「ちゃんと行ってるわ」
「そりゃ分ってる」
「そう? てっきり、|退《たい》|学《がく》してるかと心配なんだと思ったわ」
「お前がそんなことをするもんか」
と重森は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「今夜はどうするの、お父さん?」
と敦子は|訊《き》いた。
「ホテル|泊《どま》りだ」
「家に泊ればいいのに。――自分の家に泊るっていうのも変ね、何だか」
「そうしたいが――」
「いいのよ。分ってる」
敦子は|寂《さび》しさを顔に出さないようにするのは|慣《な》れていた。
「もうすぐ、ずっと一緒にいられるようになるよ」
「いつもそう言ってるわ、お父さん」
「今度は本当だ」
と重森は|真《ま》|面《じ》|目《め》な口調で言った。「今の仕事で最後にする。仕事を変って、家にいるようにするよ」
敦子は|半《はん》|信《しん》|半《はん》|疑《ぎ》の|表情《ひょうじょう》で、
「本当なの?」
と父の顔を見つめた。
「ああ。もう|辞《や》める|届《とど》けは出してある。これが最後の仕事だ。二日か三日あれば終る」
「そうしたら……家に帰って来るの?」
「ああ。|普《ふ》|通《つう》の会社員のように、毎朝出かけて、夕方帰って来るようになる」
敦子は、しばしポカンとしていた。
「――何だ、どうした?」
「急にそんなこと言うんだもの」
と敦子は父をにらんだ。「|嬉《うれ》し|泣《な》きしようにも、急で|涙《なみだ》が出て来ないじゃないの」
重森は、娘の|肩《かた》へ手をのばして、
「苦労させたな」
と言った。敦子は照れたように、
「別に」
と肩をすくめて、食事を続けた。手が|震《ふる》えていた。
「――ああ、そうだ」
重森は、食事の後、敦子がケーキを食べているのを見ながら、ふと思い出したように言った。「お前に|頼《たの》みたいことがある」
「何かしら?」
「これを、ちょっとアパートの部屋へ|預《あずか》っておいてくれないか」
「何なの?――ボストンバッグ?」
「うん」
「なくても|大丈夫《だいじょうぶ》なの?」
「これは|私《わたし》のじゃないんだ」
「どういうこと?」
「羽田でね、他の人のと|間《ま》|違《ちが》えちまったのさ。これと全く同じやつでね」
「いやだ。|慌《あわ》てんぼねえ」
と敦子は|笑《わら》い出した。
「このバッグはよくあるからな」
「それにしたって……。ただ部屋に置いておけばいいの?」
「そうだ。私が行くまで置いといてくれ。私のを持っている人がいるはずだ。|連《れん》|絡《らく》があったら交換する」
「|了解《りょうかい》。|任《まか》せといて」
敦子はボストンバッグを自分の足下へ引き|寄《よ》せて言った。
夕食の席は、|至《いた》って静かだった。――一人を|除《のぞ》けば。
つまり、|簡《かん》|単《たん》に言うと、|目《め》|白《じろ》|警《けい》|部《ぶ》が、一人でしゃべりまくっていたのである。
|捜《そう》|査《さ》の|裏話《うらばなし》というのも、つまらなくはないが、それが|個《こ》|人《じん》の――それも話し手本人の|殊《しゅ》|勲《くん》|談《だん》ということになると、どうにも聞きよいものとは言えない。
最初の内は、お義理にあいづちを打っていた家族たちも、しまいには|一《いっ》|切《さい》|無《む》|視《し》してしまっていた。それでも、目白は|黙《もく》|殺《さつ》と|静聴《せいちょう》との|微妙《びみょう》な違いを|判《はん》|別《べつ》できない様子で、ますます調子に乗ってしゃべりまくった。
夕食の長テーブルについていたのは、もちろん、|永《なが》|山《やま》|志《し》|津《ず》を始め、長男、|悟《さとる》とその|妻《つま》の|恭子《きょうこ》。次男|克《かつ》|次《じ》と妻の|利《とし》|江《え》。|千《ち》|津《ず》|子《こ》と|法《のり》|夫《お》の|夫《ふう》|婦《ふ》。それに目白が一人、|異《い》|端《たん》|分《ぶん》|子《し》といった|格《かっ》|好《こう》で|存《そん》|在《ざい》している。
全く自分が異端であることなど気付かぬ目白は、実に良く食べ、ワインを飲んだ。
「目白様……」
と若いメイドが入って来ると、「お電話が入っております」
と言った。
「いや……どうも」
と席を立った目白は、|酔《よ》いがかなり回っていると見えて、足がもつれていた。
「――あれで|警《けい》|備《び》になるの?」
と千津子が言った。悟も、
「ひどいもんだな、|只《ただ》の酒だと思って」
と顔をしかめた。
「追い返しましょうよ」
と千津子は強い口調で言った。
「いいのよ」
と志津が言った。
「でも、お母さん――」
「うちにはその程度の貯えはあるわよ」
と志津は|涼《すず》しい顔である。
「それにしたって――不作法だわ!」
千津子はぐいとワインをあけた。法夫がびっくりして、
「おい、大丈夫か、そんな勢いで飲んじまって」
「大丈夫よ。|石《いし》|尾《お》だろうが、岩尾だろうが、粉々にしちゃうから!」
と少々やけ気味である。
「ところで」
志津が全員の顔を|見《み》|渡《わた》して、言った。「今年の賭け[#「賭け」に傍点]は?」
悟と克次が目を見交わした。お互い、ちょっと|譲《ゆず》り合った後、克次が言った。
「|人《ひと》|探《さが》しだ。――ハードボイルド小説はたいてい|行《ゆく》|方《え》|不《ふ》|明《めい》の人間を|捜《さが》してくれと私立|探《たん》|偵《てい》が|依《い》|頼《らい》されるところから始まるだろう。あれだよ」
「あんまりスリリングじゃないね」
と志津が顔をしかめる。
「いやいや、ちゃんと|趣《しゅ》|向《こう》はこらしてある」
と克次が慌てて言った。「充分に楽しめる[#「楽しめる」に傍点]はずだよ」
「探偵は誰なの?」
と|訊《き》いたのは悟の妻恭子である。悟がこの家族の中では(ということは世間|一《いっ》|般《ぱん》の|常識《じょうしき》とは多少ずれているが、という意味である)|比《ひ》|較《かく》的、|堅《けん》|実《じつ》な考え方の持主なのとは対照的に、まるで|奇《き》|抜《ばつ》な格好を売物にしているファッション|誌《し》から|抜《ぬ》け出して来たような、|派《は》|手《で》な服、派手な|化粧《けしょう》の女である。おまけに半アル中で、いつも|酔《よ》っ|払《ぱら》っているような、|舌《した》|足《た》らずな言い方をするのだった。「誰なの」が「なれなの」と聞こえる。
「|橘《たちばな》という男でね」
と克次は言った。「元|刑《けい》|事《じ》だ。今は落ちぶれてアル中|寸《すん》|前《ぜん》ってところかな」
「刑事ですって?」
と克次の妻、利江が訊いた。「大丈夫なの? |面《めん》|倒《どう》なことにはならないでしょうね」
のんびり屋で、遊び半分に人生を生きている克次とは対照的に、|神《しん》|経《けい》|質《しつ》で、いつも何かを心配しているという|性《せい》|質《しつ》の女である。
「問題ないよ。何しろ警察をクビ同然で|退職《たいしょく》させられ、探偵社に入ったが、そこもクビになったという|奴《やつ》だからな」
「ずいぶん頼りないね」
と志津が|苦笑《くしょう》した。「酒|浸《びた》りで、人捜しどころじゃないのと違うかい?」
「いや、|僕《ぼく》はそこに|賭《か》けたいと思うんだがね」
と克次は|応《おう》じた。「――つまりあいつは自分でも、このままじゃだめになるってことは分ってるんだ。これがたぶん最後のチャンスだってこともね」
「自分との戦いってわけね」
恭子がちょっと気取って言った。
「手がかりはちゃんと残してある。頭のある奴なら、ちゃんとそれを|辿《たど》って|結《けつ》|論《ろん》に行きつくはずだ」
「まあいいでしょ」
志津は|肯《うなず》いた。「もう少し命がけのスリルがあった方が|面《おも》|白《しろ》いけどね」
「多少はありますよ。|痛《いた》い目にあわなきゃ、探偵とは言えない」
「でも、ハンフリー・ボガードとは違うのよ。大丈夫?」
「心配ない。その辺は|手《て》|加《か》|減《げん》するさ。大けがをさせるようなことはしない」
「明日までにここへ|辿《たど》り着くの、本当に?」
と利江が言った。「でないと、お|義《か》|母《あ》さまの|誕生日《たんじょうび》が台なしだわ」
「そこが賭けさ」
と克次はニヤリと笑った。「さあ、いくらにするね。一口、十万? 二十万?」
「今年は私の七十|歳《さい》だよ」
と志津が言った。「一口七十万にしよう」
「七十万!」
悟が目を丸くして、「一口七十万だって?」
「そう。まず、成功、失敗に、みんなそれぞれ一口ずつかける。それからはワンステップごとに、|好《す》きな方へとかけるのさ。どう?」
それまでの話を苦々しい表情で聞いていた千津子が、たまりかねたように立ち上って言った。
「みんな、いい加減にしてよ!」
その語気の強さに、|一瞬《いっしゅん》、静まり返る。千津子は一つ肩で息をすると、
「みんなどういうつもりなの? 人の人生までオモチャにするつもり? いくらゲームといったって、これじゃ度が|過《す》ぎてるわ!」
「そう目くじら立てることもないさ」
と克次が言った。「その橘って奴には、ちゃんと金を払うんだし、それもたっぷりとね」
「お金だけで済むことじゃないわ」
と千津子は言い返した。「一人の人間のプライドをお金で買うつもり?」
「逆に考えたらどうだ?」
と悟が言った。「つまり、このまま放っておいたら、その男はまず間違いなく、アル中になり、遠からず地下道にたむろする|浮《ふ》|浪《ろう》|者《しゃ》の一人だ。しかし、ここで|頑《がん》|張《ば》って、我々の|与《あた》えた|任《にん》|務《む》を|果《はた》せば、また自信をつけて出直せるかもしれん。分るか? |我《われ》|々《われ》は奴に立ち直る機会を与えてやるんだ」
「言うなれば人助けね」
と恭子が楽しげに言ってワイングラスをあけた。
「勝手な言い草だわ」
と千津子は言った。「一人の人間の生き方を賭けの対象にするっていうのが|許《ゆる》せないのよ」
「おい、千津子」
と法夫がたしなめるように、「よせよ、こんな席で」
「あなたは黙ってて!」
千津子にピシッと言われて、法夫は渋い顔で口をつぐんだ。悟が笑って、
「相変らず強いな、千津子は」
「|冗談《じょうだん》じゃないわ、兄さん」
千津子は少し|穏《おだ》やかな口調になって、しかし、|真《しん》|剣《けん》に言った。「でも、こんなことは間違ってるわ。いつか、とんでもないことになるに決ってる。やめなきゃいけないわ」
「もういいよ」
志津がきっぱりと|遮《さえぎ》って、「じゃ、お前たちは手をお引き。ただし、最初の賭け金だけは払うんだよ」
「千津子!」
法夫が急いで言った。「そう固苦しく考えるなよ。これは|余興《よきょう》だぜ。な、いいじゃないか」
「私はいやよ!」
克次が|愉《ゆ》|快《かい》そうに、
「おいおい、見せつけるなよ。夫婦|喧《げん》|嘩《か》なんて、何とも|仲《なか》のいいこったな」
と笑った。
「法夫さん」
と志津が言った。「あなたは千津子の夫でしょ。あなたが決めるべきだわ。賭けに加わるかどうか。――さあ、どうなさる?」
法夫がぐっと詰まった。千津子が、
「あなた、やめて」
と|腕《うで》をつかむ。一同の目が法夫へ集まった。志津は、むしろその様子を楽しんでいるように、
「さあ、決めなさい。あなたがね。――賭けはきっと最終的には十口以上、一千万にはなるでしょう。どうなさる?」
法夫は|唇《くちびる》をなめた。――一千万! 今、|喉《のど》から手が出るほどに、|欲《ほ》しい金だった。
賭け|狂《ぐる》いの母親は、毎年、法夫たちが別れずにいるというだけで百万円出すという変人だ。しかしその金は、千津子が娘のために、とがっちりと|押《おさ》えて|離《はな》さない。
法夫は、金が欲しかった。――千津子はむろん何も知らないが、法夫は投機に手を出して、一千万も|損《そん》をしていた。その|程《てい》|度《ど》で|困《こま》る|暮《くら》しではないが、そのことが分れば、千津子は決して許すまい。
何といっても、法夫は「永山千津子の夫」なのである。
今、ここで千津子と争うのも、うまくはない。しかし、夫婦の仲は少々こじれても何とかなる。この家長である母親を|怒《おこ》らせたらどうなるか? 法夫は、この|大《たい》|樹《じゅ》から|見《み》|捨《す》てられるのが|怖《こわ》かった。
法夫はゆっくりと息をついて、言った。
「賭けに加わりましょう」
千津子が、ガタッと音を立てて|椅《い》|子《す》から立ち上ると、足早に食堂を出て行ってしまった。
「――あいつは変ってるな」
と克次が言った。そこへメイドが入って来た。
「克次様、お電話が入っております」
「ああ、ありがとう」
と席を立つ。志津が、メイドへ訊いた。
「警部さんは?」
「はい、今、あちらの長椅子でお|寝《やす》みになっています」
悟が笑い出した。
「頼りない話だなあ」
克次はすぐに戻って来て、言った。
「始まりましたよ」
「さあ、それじゃ――」
志津は|浮《う》き浮きした調子で言った。「賭けを始めましょうか。まず七十万。どう? 最初は二口ずつにしましょうか?」
「いいですね」
克次が笑顔になって言った。「賭けは、|金《きん》|額《がく》が大きいほどいい」
「ゲームの始まりね」
志津は楽しげに、みんなの顔を見回して、「今度は楽しいわ。色々と|不《ふ》|確《かく》|定《てい》|要《よう》|素《そ》があるからね」
「で、あなた、今その橘って男はどこにいるの?」
と利江が訊いた。克次は、
「バーにいる」
と言った。
「景気がいいのね」
バーのマダムが、|橘《たちばな》に|笑《わら》いかけた。
「そうさ。分るか?」
ウィスキーのグラスを手に、橘は|訊《き》いた。
「分るわよ。グラスの持ち方が|違《ちが》うわ。|一《いっ》|杯《ぱい》分しかお金のない時は、|惜《お》しそうに、一口やるごとに残りを見てるもの」
「そうかな……」
「そうよ」
橘は、ちょっとショックを受けた。――自分では、そんなことを|意《い》|識《しき》してはいなかったのに。|俺《おれ》はそんなに|惨《みじ》めなことをやっていたのか? まるでアル中の|酔《よ》いどれのような……。
「なあ、俺を見てくれ」
とマダムに言った。
「見てるわよ」
「俺はアル中に見えるかい? はっきり言ってくれ」
「まだね。アル中なら、金がなくたって飲みに来るわ。後のことなんか考えてる|暇《ひま》はないのよ」
「そうか……」
「でも、そうなるのは|簡《かん》|単《たん》よ」
マダムは|彼《かれ》の手のグラスをヒョイと取って、「今夜はもうおやめなさい」
「|大丈夫《だいじょうぶ》さ。それだけだ」
「本当に?」
「ああ」
橘はグラスを取り|戻《もど》すと、グイと一気に飲みほした。「――仕事が来たんだ」
「よかったじゃないの」
「その|前渡金《まえわたしきん》があるんでね」
「仕事をしてから飲みなさいよ。――それに仕事をする気なら、もう少しきちんとしなくちゃ」
「そんなにだらしないか?」
「鏡を見たことないの?」
とマダムは笑って、「ネクタイが曲ってるわよ」
橘は、手鏡を借りて、ネクタイの|歪《ゆが》みを直した。
「待って」
とマダムが店の|奥《おく》へ消え、すぐに、ネクタイを一本持って出て来た。「これ、酔ったお客が外して帰っちゃったの。|似《に》|合《あ》うかどうか分らないけど……」
「いいのかい?」
橘はためらいながら受け取った。
「気にしないで。|払《はら》いが|滞《とどこお》ったら困るからよ」
とマダムは|微《ほほ》|笑《え》んだ。
新しいネクタイを|締《し》めて、表へ出る。一杯でやめるつもりで入って、|実《じっ》|際《さい》に一杯でやめて出て来たのは、本当に何年ぶりかという気がした。
ポケットから、書き写したメモを取り出す。
「|岡《おか》|田《だ》|智《とも》|美《み》か。――どこにいやがるんだ」
と|呟《つぶや》く。まずは、最後にいたという住所である。夜になっていたが、まだ|訪《たず》ねて行って|迷《めい》|惑《わく》という時間でもあるまい。
金はあるのだ。――橘はタクシーを|停《と》めた。
最低料金が、三百八十円になっているのを見て、|驚《おどろ》いた。もうここしばらくタクシーなど乗ったこともなかったのである。
橘は、元々が、|格別優秀《かくべつゆうしゅう》な|刑《けい》|事《じ》というわけでもなかった。大体、優秀な刑事というのは何なのか? |能力《のうりょく》において、誰しもそう差があるわけではないのだ。
刑事に求められるのは、名探偵の|素《そ》|質《しつ》ではない。ただ|粘《ねば》りと、体力だ。橘にしても、その点、決して人後に落ちないという自信はあった。
しかし、彼はツイてなかった。橘自身はそう思っていた。――|一《いっ》|緒《しょ》に歩き回っていた|同僚《どうりょう》が、たまに橘と別行動を取った時に、重要な手がかりを見つけた。また、|犯《はん》|人《にん》の|隠《かく》れ|家《が》を張っていた時も、犯人は橘のいる方でなく、反対の方へと逃げ出して、他の刑事の手で取り押えられた。
俺だって、その場にいれば簡単に|捕《つか》まえてやったのに……。
橘は内心歯ぎしりした。なぜ、俺の方へ逃げて来なかった、と犯人を|殴《なぐ》りつけてやりたいとさえ思った。
その犯人|逮《たい》|捕《ほ》で、友人は|昇進《しょうしん》した。橘はやけ酒をあおった。もともと酒には|溺《おぼ》れやすい性質である。その場で酔い|潰《つぶ》れ、目をさました時、|拳銃《けんじゅう》を|盗《ぬす》まれていた。――拳銃を持ったまま酒を飲んだだけでも失点である。それに加えて、盗まれたとあっては……。
橘は自ら退職という形で、クビになった。|現《げん》|役《えき》時代、顔見知りだった|探《たん》|偵《てい》|社《しゃ》に|勤《つと》めることはできたが、|挫《ざ》|折《せつ》の|記《き》|憶《おく》はいつまでも付きまとって、深酒は|一《いっ》|向《こう》に改まらなかった。その内に、仕事を酒ですっぽかし、クビになったのである。
橘は、タクシーの|座《ざ》|席《せき》で、じっと外を流れる町の風景に目をやっていた。――今から、やり直せるだろうか?
この仕事を、|立《りっ》|派《ぱ》にやりとげるのだ。
「そうだとも」
橘は呟いた。「できないはずはない」
メモの住所は、何となく|薄《うす》|汚《よご》れた感じの、|貸《かし》ビルだった。――ちょっと意外であった。きっと、どこかのアパートか何かだと思っていたのだ。
「ここの……一〇三か」
アパート式の、細かい部屋|割《わ》りがしてあり、そこに、小さな|事《じ》|務《む》|所《しょ》が入っているらしい。これでは、今夜はもう無理かな、と思った。事務所が|閉《しま》っていてはどうにもならない。
だが、一〇三号室には、まだ明りが|点《つ》いていて、ガラスをはめ|込《こ》んだ木のドアに、かすれて消えかかった文字が、書き込んである。
ドアをノックして、
「ちょっと失礼!」
と声をかける。――部屋の中の明りが消えた。橘は|一瞬戸惑《いっしゅんとまど》った。ノックして明りが点くというのなら分るが、消えるというのはどういうことか?
刑事時代の記憶がよみがえって、橘は|緊張《きんちょう》した。|泥《どろ》|棒《ぼう》でも入っているのかもしれない。
そっとノブを回してみる。冷たい|金《きん》|属《ぞく》の|感触《かんしょく》に|身《み》|震《ぶる》いした。|押《お》すと、キーッときしみながらドアが内側に開いた。
|廊《ろう》|下《か》も薄暗いので、部屋の中へ光が|射《さ》し込まない。しばらくは何も見えなかった。その内に、やっと目が|慣《な》れて来て、正面の|机《つくえ》に、誰かが座っているらしいのが分った。
「誰だね?」
中から、|疑《うたぐ》り深そうな声がした。
「ちょっと|訊《き》きたいことがあってね」
と橘は言った。「どうして明りを消しちまうんだ」
「いや、それならいい……」
相手はほっと息をついた。「借金取りかと思ったのでね」
机の上のスタンドが点いた。|空《から》っぽ同然の部屋の中が浮かび上る。
「大した景気らしいね」
と橘はからかうように言った。
「何の用だね?」
「岡田智美って女のことを訊きたいんだが」
不景気な|八《や》|百《お》|屋《や》の|親《おや》|父《じ》といった顔の相手がちょっとびっくりした様子で、
「岡田智美?――あんたは何だ?」
「知ってるのか? 今どこにいる?」
「こっちが知りたい」
と男は苦笑した。「この不景気もあの女のせいだ」
「というと?」
「ここの金をありったけ持ってドロンさ」
「ほう」
「ありったけ、たって、そう大してあったわけじゃないが、それにしても、こっちには|大《おお》|痛《いた》|手《で》だよ」
男はふうっと息を|吐《は》き出し、「どうしてあの女を|捜《さが》してるんだ?」
「|頼《たの》まれてね」
「探偵さんか」
「そうだ」
「こっちは探偵を頼む金もないよ」
と男は笑った。
「じゃ、行先は分らないのか」
「分ってりゃ、自分で追いかけてるさ」
男は、短くなったタバコをくわえて、また火を点け直した。「――見付けたら、ついでにここの金のことも訊いてくれよ」
これでは手の打ちようがない。しかし、そう簡単に|諦《あきら》めるわけにはいかなかった。
「岡田智美に、男はいなかったのか?」
「いたさ」
男はあっさり言った。
「誰か分るか?」
「俺だよ」
橘は思わず男の顔を見た。男は|肩《かた》をすくめて、「――今は違うがね」
「すると他の男と逃げたんだな?」
「そういうこと。しかし、あんたも、あの女を追いかけるのはやめておけよ」
「どうして?」
「相手が悪いぜ」
「知ってるのか?」
「ああ。|清《きよ》|原《はら》って男だよ」
「清原? もしかして、清原|圭《けい》|吾《ご》のことじゃないのか」
思わず声が高くなる。
「何だ、知ってるのか?」
「ああ……。いささかね」
と橘は言った。――清原圭吾は、前科をすでに|三《さん》|犯《ぱん》は重ねている。|強《ごう》|盗《とう》、|傷害《しょうがい》、|暴《ぼう》|行《こう》|未《み》|遂《すい》……。他に|不《ふ》|起《き》|訴《そ》に終った|事《じ》|件《けん》、|証拠《しょうこ》不十分で|無《む》|罪《ざい》になったものを|含《ふく》めると、十件は下るまい。
しかし、橘が清原を知っているのは、そのせいだけではなかった。
「じゃ分るだろ」
と男は肩をすくめた。「あんな|奴《やつ》に関り合ったら、ろくなことにならない。あんたもやめとくんだな」
橘はちょっと間を置いて言った。
「そういうわけにはいかない。仕事なんだ」
「命がいくつあっても足りないぜ」
「それはやってみなきゃ分らんさ」
橘は言って、かすかに|笑《え》みを|浮《う》かべた。
「奴はどこにいる?」
「さあ、ね……」
男は手を広げて見せ、「たぶん、〈パープル〉って店じゃないかな」
「まだあそこにいるのか」
「少なくとも三か月前にはいるって話だった。行くのかね?」
「そのつもりだ」
「じゃ、まあ気を付けて」
男はニヤつきながら、手を|振《ふ》った。「命を大切にね」
「そっちもな」
橘は、その事務所――というより、空間を出た。建物から表に出た時には、|額《ひたい》に深いしわが|刻《きざ》まれていた。
「清原圭吾か。――よりによって!」
と呟くと、重い足取りで歩き出す。
少し離れた電話ボックスで、|永《なが》|山《やま》家のダイヤルが回されていた。
「――そうか。分った。|尾《び》|行《こう》を続けろ」
|克《かつ》|次《じ》は受話器を置くと、居間に、思い思いに|寛《くつろ》いでいる家族を見回して、
「さて、第一回目ですよ」
と言った。
「橘は、教えた住所へ行きました。|倒《とう》|産《さん》|寸《すん》|前《ぜん》の事務所でね、そこの|経《けい》|営《えい》|者《しゃ》から、橘は、目指す女が清原という男のところにいると聞いて来たはずです」
「清原って誰なの?」
克次が清原圭吾のことを説明すると、志津が、
「やっと、探偵らしくなって来たね」
と|嬉《うれ》しそうに言った。
「で、今度はそこへ行くのね?」
と|恭子《きょうこ》が訊いた。
「さて、そこが|賭《か》けです。|果《はた》して橘が行くか、|怖《おじ》|気《け》をふるって|逃《に》げ出すか」
「行くんじゃないの。別にその清原って男を|逮《たい》|捕《ほ》しに行くわけじゃないんでしょ」
「それが、そう|簡《かん》|単《たん》じゃないんだ」
と克次はニヤリとして、「橘は、刑事だった|頃《ころ》に、清原の弟を|射《しゃ》|殺《さつ》している」
「まあ!」
「清原の弟はやっぱりチンピラでね、強盗殺人で追われて、|抵《てい》|抗《こう》したので射殺されたんだ。それが橘さ」
「じゃ、清原は橘を|恨《うら》んでるわけね」
「そう。その後、清原自身も|監《かん》|獄《ごく》に入っていたので、お礼参りもできなかったわけだが、今は、橘も刑事でも何でもない。行けば無事に|済《す》むかどうか」
「そりゃ怖いわね」
恭子が言った。「で、賭けね?」
「そう。――橘が清原の所へ行くかどうか。どうする、お母さん?」
|志《し》|津《ず》はちょっと考えて、
「私はその刑事上りに賭けるよ。まだ続きを見たいからね。――五口にしよう」
「いい|度胸《どきょう》だな。|僕《ぼく》はとてもそうはできない」
克次は笑って、「兄さんは?」
「うん。……|俺《おれ》ならやめるな。命の方が大切だ。やめる方へ五口賭けよう」
|悟《さとる》はそう言った。――志津の|傍《そば》で、メイドがメモを取る。克次が、
「僕も|兄《あに》|貴《き》と同じだ。――さて、|法《のり》|夫《お》君はどうするね?」
「僕は――」
法夫はちょっと考えてから、「お|義《か》|母《あ》さんと同じにします」
と言った。――五口。三百五十万だ。これはまだ中間だから、少ないが、最後には一体いくらにふくれ上るだろうか? 平静を|装《よそお》ってはいたが、内心はびくびくものだった。
「じゃ、|連《れん》|絡《らく》を待っている間に――」
と克次が言った。「兄さん、あのフィルムはどうした?」
「ん? ああ。向うに置いてある」
「|面《おも》|白《しろ》そうだ。|映《うつ》してみようよ」
「何なの、そのフィルムって?」
と恭子が訊いた。克次が説明しかけた時、
「失礼します」
と入って来たのは、若い刑事だった。「あの……|目《め》|白《じろ》警部はどこにおりますでしょうか?」
「警部さんなら、お|疲《つか》れのようで、あちらで休んでおいでですよ」
と志津は|澄《す》まして言った。「ちょっと案内しておあげ」
「い、いえ、それが――」
と刑事が急いで言った。「実は警部の|奥《おく》さんがおいでになっていて」
「奥様が?」
「はあ。警部が、美しいご|婦《ふ》|人《じん》と|一《いっ》|緒《しょ》にここへ入るのを見た、とカンカンで。いくら護衛の仕事だと説明してもだめなんです」
若い刑事は|困《こま》り切っている様子だった。
「まあまあ。じゃ、|千《ち》|津《ず》|子《こ》のことね、きっと」
志津は|愉《ゆ》|快《かい》そうに言った。
「大した警部だな、全く」
と悟が|苦笑《くしょう》する。
「あの奥さんは|凄《すご》いやきもちやきで有名でして」
と刑事が頭をかいて、「じゃ、警部を起こしていただけますか?」
「はい」
とメイドが行きかけるのを、志津は止めて、
「待って。――せっかくお|寝《やす》みなんですから気の毒ですよ」
「ですが――」
「その奥様をこちらへお通しして下さい」
「は?」
と刑事が目をパチクリさせた。
「警部さんがお目覚めになるのを待っていただきますわ。どうぞこちらへご案内して」
「しかし、それではご|迷《めい》|惑《わく》を――」
「いいえ、|一《いっ》|向《こう》に|構《かま》いません」
と志津は言った。――刑事が|狐《きつね》につままれたような顔で行ってしまうと、
「奥様」
メイドが言った。「あの警部さん、きっと明日まで目を覚ましませんわ」
「いいじゃないの。|泊《とま》っていただけば」
「でもその奥さんの方は?」
「部屋はあるわ。泊っていただけばいいでしょう」
「分りました」
「お母さんも|物《もの》|好《ず》きだな」
と悟が言った。
「登場人物は多い方が楽しくていいよ」
と志津は言った。
「すっかり固めてやがる」
|石《いし》|尾《お》は、タクシーで、|永《なが》|山《やま》|邸《てい》の前を通り|抜《ぬ》けながら|呟《つぶや》いた。――さすが|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》というに|相応《ふさわ》しい、|塀《へい》と、|門《もん》|構《がま》え。ずっと|奥《おく》に、チラリと|屋《や》|敷《しき》らしい|片《へん》|鱗《りん》が|覗《のぞ》いたが、それもすぐに高い石の塀に|隠《かく》れてしまった。門の周辺は、|制《せい》|服《ふく》の|警《けい》|官《かん》たちが固めていた。
塀を乗り|越《こ》えるのはまず|不《ふ》|可《か》|能《のう》だ。それに石尾は|軽《かる》|業《わざ》まがいの|真《ま》|似《ね》のできる|怪《かい》|盗《とう》とは|違《ちが》う。ただの[#「ただの」に傍点]人殺しだ。
何とかして、|永《なが》|山《やま》|千《ち》|津《ず》|子《こ》をおびき出す他はなさそうだ。そうなると、やはりあの|亭《てい》|主《しゅ》をエサにするのが手っ取り早い。
いざとなれば両方殺してやったっていい。今さら一人二人、|余《よ》|計《けい》に殺したって同じことだ。
「このままでよろしいんで?」
タクシーの運転手が|振《ふ》り向いて言った。
「ん?――ああ、どこでもいいや、|適《てき》|当《とう》にやってくれ」
「は?」
〈パープル〉というネオンが、|壊《こわ》れて、〈パプル〉になっていた。〈パール〉の方がまだいいのに、と|橘《たちばな》は思った。
店の前――いや、二、三十メートル|離《はな》れた|喫《きっ》|茶《さ》店から、橘はそのバーを|眺《なが》めていた。喫茶店からバーを見るというのは、|妙《みょう》な気分であった。バーは、いつも眺めるものでなく、入るものだったからだ。
あの〈パープル〉は、今でこそ小ぎれいに|改《かい》|装《そう》しているが、以前は開業しているのかどうか分らないほどの、|薄《うす》|汚《よご》れた店だった。――あの店の中で、橘は|清《きよ》|原《はら》の弟を|射《しゃ》|殺《さつ》したのだ。
射殺してしまったことで、橘は多少|批《ひ》|判《はん》を受けた。しかし何しろ相手が相手でもあり、そのまま立ち消えになったのである。
しかし、今、公平に考えてみると、あれは殺さなくて|済《す》んだのだといわざるを|得《え》なかった。清原の弟は、刃物を持って向って来た。大した|罪《つみ》でもなかったのだが、刑事を目の前にしただけで、頭に血が上ってしまったのだろう。
|距《きょ》|離《り》は三メートルしかなく、相手が刃物を振りかざしたので、射殺したのはやむを得なかった、と橘は上司に|弁《べん》|明《めい》し、|了解《りょうかい》された。
しかし、そのとき二人の間にテーブルがあったのを、橘は|黙《だま》っていた。清原の弟は真直ぐにかかっては来られなかったのである。
橘は|拳銃《けんじゅう》をもう手にしていた。足、|腕《うで》を|狙《ねら》う|余《よ》|裕《ゆう》はあったのだ。
しかし、|弾《た》|丸《ま》は相手の|胸《むね》を|撃《う》ち|抜《ぬ》いたのだった。|恐怖《きょうふ》に|駆《か》られてやったのではない。|彼《かれ》は|充分《じゅうぶん》に落ち着いていた。――ただ、つもりつもった不満や、|苛《いら》|立《だ》ちを、その弾丸に|込《こ》めた。そんな気がする。
その時には、そんなことは考えなかったが、今、思うとよく分るのだ。
あの時、清原の弟を射殺したのは間違いだった。
しかし、今そんなことを考えても、何にもならない。――橘は〈パープル〉の壊れたネオンを見やった。
このまま行って、|無《ぶ》|事《じ》に帰れるとは思えない。殺されないまでも、腕の一本を折られるぐらいのことはあり得る。
「とんでもないや、|畜生《ちくしょう》!」
橘は呟いた。いくらいい金をもらっても、命を落としては何にもならない。このまま帰ってしまおう。あの、永山という|依《い》|頼《らい》|主《ぬし》には、金を返せば、それで|済《す》む。
しかし、橘は席を立たなかった。
あのバーのマダムは言った。アル中になるまではほんの一歩だ、|簡《かん》|単《たん》なことだ、と。
今、ここで|逃《に》げたら、また|酒《さけ》|浸《びた》りの毎日になる。それは、何も千里眼の持主でなくても|容《よう》|易《い》に分ることだった。――だめだ。ここで逃げてはだめだ。
頭を使え! お前は元|刑《けい》|事《じ》なんだぞ。|馬《ば》|鹿《か》正直に、正面切って乗り込んで行くばかりが能ではあるまい。
橘は、ふと思い立って、店の赤電話へ向った。――かつての|同僚《どうりょう》の中で、|比《ひ》|較《かく》|的《てき》親しかった男へ、電話を入れてみた。
「中田さんをお願いしたいんですが」
と言うと、
「警部はもう帰られましたが」
と返事があった。警部か、あいつが。出世したものだ。|自《じ》|宅《たく》の番号をきいて、かけ直すと、本人が出た。
「橘か! なつかしいな! 今、どうしてるんだ?」
気のせいか、話し方も少しそっくり返っているような印象だ。橘は、|探《たん》|偵《てい》をしていると説明して、
「――実は今、清原のバーの近くなんだ。清原|圭《けい》|吾《ご》。|憶《おぼ》えてるか?」
「ああ、もちろんだ。清原に何の用なんだ?」
「ちょっと女を|捜《さが》しててね。|奴《やつ》の所にいるらしいんだ。で、奴と話したいんだが」
「そいつはやばいんじゃないか? お前、あいつの弟を――」
「分ってる。それでお願いなんだが」
「どういうことだ?」
「ちょっと奴に電話を一本入れてくれないか。|俺《おれ》に手を出すな、と。それだけでいいんだ。君に|迷《めい》|惑《わく》はかけない。警部から電話をされれば、あいつだって手出しはしないと思うんだ。|頼《たの》むよ」
しばらく返事がなかった。橘は待っていた。無理押しして|反《はん》|撥《ぱつ》を食いたくなかったのだ。何しろ向うは警部殿である。
「お前の気持は良く分るよ」
と中田はやっと言った。「しかしな、俺にも|現職《げんしょく》の警部としての立場があるんだ。分ってくれ。清原も今は|一《いち》|応《おう》|堅《かた》|気《ぎ》のはずだ。それを|脅《おど》したとでも|訴《うった》えられたら、こっちも|反《はん》|論《ろん》のしようがない。分るだろう?」
「それは分るよ。しかし、これは俺にとっても大切な仕事なんだ。何とか頼む。ただ、俺が行くとだけ、電話してくれてもいい。それなら脅したことにはなるまい?」
向うはまた|黙《だま》ってしまった。橘は|唇《くちびる》をなめた。何の|援《えん》|護《ご》もなしでは、どんな目にあうかは分り切っている。中田の一言が頼りだった。
しばらくして、
「――分ったよ。いいだろう」
と中田の返事があった。橘は息をついた。
「|済《す》まん! 助かるよ」
「これっきりだぞ」
「もう迷惑はかけない。二度とだ。|約《やく》|束《そく》する。――じゃ、すぐにかけてくれるか?」
「ああ」
「番号は――」
橘は、メモを読み上げた。「十分待ってから店に行く。それまでに頼むよ」
「よし。それじゃ」
「どうもありがとう――」
言い終らぬ内に、電話が切れてしまった。橘は席に|戻《もど》った。中田にしてみれば、クビ同然に|辞《や》めた古い同僚の頼みなど迷惑な話だろう。
後でウィスキーの一本でも送っておこう、と思った。
コップの水をガブ飲みすると、大分落ち着いた。そう|怖《こわ》がることはないのだ。――いくら清原が|無《む》|鉄《てっ》|砲《ぽう》な男でも、警察ににらまれるのは怖いはずだ。特に前科のある場合、何かあれば刑は重い。
「心配ないさ。すぐ終る」
自分に言い聞かせるように、口に出して言ってみた。
十分。――念のために十五分待って、橘は喫茶店を出た。〈パープル〉の前で、少しためらったが、思い切って、ドアを押す。
カウンターと、テーブルが三つ。中は、少しも変っていなかった。
「いらっしゃいませ」
バーテンが、ごく普通に声をかけて来る。橘は、店の中を見回した。中田の電話を聞いて、清原が出て来ているかと思ったのだ。
してみると、|留《る》|守《す》なのだろうか?
「――清原さんはいないかね?」
|水《みず》|割《わ》りを注文してから、橘は|訊《き》いた。
「はい、|二《に》|階《かい》に。――ご用ですか?」
「うん、ちょっと会いたい。橘というんだが……」
「お待ち下さい」
――橘は|戸《と》|惑《まど》っていた。あまりに当り前の|応《おう》|対《たい》である。しばらく待たされた。
店の|裏《うら》|手《て》の|階《かい》|段《だん》だろう。ガタガタと音がして、カウンターの奥のくぐり戸から、清原が入って来た。
少しも変っていないな、と橘は思った。|大《おお》|柄《がら》で、|胸《むな》|板《いた》も|厚《あつ》く、人を|威《い》|圧《あつ》するようなところがある。橘を見て、ちょっと|眉《まゆ》を|吊《つ》り上げたが、すぐに、唇をねじ曲げたような|笑《え》みを|浮《う》かべて、近付いて来る。
「これはどうも……。橘さん」
「やあ」
|心《しん》|臓《ぞう》が高鳴った。しかし、|怯《おび》えたような様子を見せてはいけないのだ。
「どうしてまたこんな所へ?」
「ちょっと訊きたいことがあってね」
「俺はもう堅気ですぜ」
「分ってるよ」
「そうか。そう言えばあんたももう警官じゃなかったんですな」
「探偵をやってる」
「なるほど。――どうですテーブルへ。|一《いっ》|杯《ぱい》おごりましょう」
答えも待たずに、清原は、カウンターから出て来ると、橘を|促《うなが》して、テーブルについた。
「おい、オンザロック。――この方の分はサービスだ」
とバーテンに声をかけてから、「さて、何の用ですね?」
と橘の方を向く。――橘は、正直、|面《めん》|食《く》らっていた。この愛想の良さはどうだろう? 中田の電話のせいか? それにしても、予期していたのと全く違う|状況《じょうきょう》に、少々戸惑わずにはいられなかった。むろん、ほっとしたのも事実であるが。
「実はね」
一つ|咳《せき》|払《ばら》いをして、言った。「女を捜してくれと頼まれた。君の知っている女だと思うんだが」
「女。――女なら色々知ってますがね」
「岡田智美というんだが」
清原の顔に、|奇妙《きみょう》な|表情《ひょうじょう》が浮かんだ。
「|智《とも》|美《み》ですか。知ってますよ。――あいつに何のご用です?」
「私が用があるわけじゃないんだ」
と橘は言った。「ただ頼まれて捜しているだけでね」
「なるほど」
「君の所にいるのか?」
「いましたよ。しかし今はもういません」
「――どこに行ったか分るか?」
「さあね。何しろ女なんて気まぐれなもんですからな」
「それはそうかもしれんが……」
橘はそっと水割りを飲んだ。|怯《おび》えている。それがよく分っていた。ここ何年も、|暴力《ぼうりょく》などとは|無《む》|縁《えん》だった。こうして、清原の大きな手、太い腕を見ているだけで、|恐怖《きょうふ》がじわりと|背《せ》|中《なか》を|這《は》い上って来る。
「|誰《だれ》ですね、智美を捜してるってのは?」
「そいつは言えないね。|依《い》|頼《らい》|人《にん》の|秘《ひ》|密《みつ》ってやつがあるから」
「なるほど。依頼人の秘密ね。――俺は秘密ってやつが|大《だい》|好《す》きでね。|子《こ》|供《ども》みたいなもんですな。秘密と言われると、よけいに知りたくなる。そう思いませんか?」
「そうかもしれない」
「それが秘密なら、俺の方も秘密ですよ。お|互《たが》い様だ」
清原の顔に浮んだ笑みは、昔の、見憶えのあるそれだった。どこか|残《ざん》|忍《にん》で、|獣《けもの》を思わせる。橘はぞっとした。
|馬《ば》|鹿《か》め! 奴には何もできはしないんだ。もっと落ち着け。落ち着いて、相手を怖がっていないと見せなくてはだめだ!
「そう言わずに教えてくれよ」
と橘は言った。「その女、どこかで会社の金をかっぱらってる。君にそそのかされたとなると、君も|面《めん》|倒《どう》なことになるぜ」
「ほう。――それは|脅《おど》しですかい?」
「そうじゃない。しかし君だって、ごたごたは|困《こま》るだろう」
「言わなきゃどうするってんですね?」
|挑《いど》むように清原は言った。
「どうしようってつもりはないよ。君がきっと教えてくれると思ってるからね」
「ふん、俺もなめられたもんだ」
清原が、グラスを手にして言った。「あんたはただの探偵だ。ケチな、|小《こ》|汚《ぎた》ねえ探偵だ。俺はね、ここの|経《けい》|営《えい》|者《しゃ》だぜ。ちゃんと|税《ぜい》|金《きん》も|納《おさ》めて、|立《りっ》|派《ぱ》に|暮《くら》してる。あんたになめられる覚えはねえ」
橘はじっと清原の目を見ていた。|凶悪《きょうあく》な光が、目に|戻《もど》って来ていた。|昔《むかし》の、奴の目だ……。
「あんた、何も知らねえようだな」
と清原は言った。「教えてやろう。智美はね、弟の|建《けん》|二《じ》の女だったんだぜ」
「何だって?」
橘は目を|見《み》|張《は》った。
「知らないらしいな。智美がここへ来たのは当然さ。俺を頼って来たから、置いてやったんだ。それぐらいはしてやらねえとな。死んだ弟のためにも」
橘は黙っていた。言葉が出て来ない。
「智美は三か月ほど前に出て行った。俺も別に止めなかった。どこへ行くかも訊かなかったさ。そんな必要はねえからな。何も、探偵に協力する義理はねえ」
「――分った」
橘は|肯《うなず》いた。「|邪《じゃ》|魔《ま》したな」
と立ち上ろうとすると、いきなり、清原が両手で橘の肩をつかんで|椅《い》|子《す》へ|押《お》し戻した。|凄《すご》い力だ。
「そう|慌《あわ》てるなって。元刑事さん」
清原は店の中を手で示して、「どうだい? 変ってないだろう」
と、店中に|響《ひび》き|渡《わた》る大声で言った。
「あんたが弟を殺した|頃《ころ》と、ちっとも変ってねえだろう? どうだ?」
「清原――」
「弟が|倒《たお》れたのは――そうだな、その|辺《あた》りだ」
と清原は|床《ゆか》を指さした。「弟はちっぽけなナイフを一つ持ってただけだ。しかも、テーブルのこっち側にいて、あんたに飛びかかることもできなかった。――なあ、あいつは|怖《こわ》かったんだ。ハジキを持った|刑《デ》|事《カ》が、目の前にいるんで怖かった。だからナイフを出したんだ。それを|貴《き》|様《さま》は|射《う》ち殺しやがった!」
「あれは……」
「正当|防《ぼう》|衛《えい》か? 笑わせるな? 身内で|裁《さば》きゃ|無《む》|罪《ざい》|放《ほう》|免《めん》に決ってらあ。貴様は人殺しなんだ!」
橘は立ち上った。身体が|震《ふる》え出すのを、必死にこらえる。
「ただじゃ帰さねえぞ。いい|度胸《どきょう》だぜ、ここへ一人で来るとはな」
清原が一歩近付く。橘は後ずさった。
「手を出すな!」
と橘は言った。「中田の電話を|忘《わす》れたのか。ただじゃすまないぞ」
「電話? 何のことだ?」
清原は|眉《まゆ》を寄せた。
「中田警部から電話があったろう。分ってるんだ。ちゃんと、俺がここへ来てることを|承知《しょうち》してる。俺に手を出せば、中田が放っちゃおかないぞ!」
「電話なんかかかっちゃ来ないぜ」
と清原は愉快そうに言った。「そうか。貴様、一人で来るのが怖くて、|応《おう》|援《えん》を頼んだんだな?」
「|嘘《うそ》だ! かかったはずだ」
「誰が貴様のことなんか気にするもんか」
清原はまた一歩進み出た。「警察をクビになったような奴をよ。――貴様がどうなろうと、昔の|仲《なか》|間《ま》は知っちゃいねえさ」
橘は、清原の言葉が|嘘《うそ》でない、と知った。そうなのだ。中田にとって、橘は、関りたくない相手だ。橘がどうなろうと、中田は気にしてはいないのだ……。
「青くなって、震えていやがるぜ、こいつ」
清原は冷笑した。「|情《なさけ》ねえもんだ。|刑《デ》|事《カ》の時にはあんなに|威《い》|張《ば》りくさっていやがったくせに」
「よせ。……また|刑《けい》|務《む》|所《しょ》へ入りたいのか」
「入れてみろよ」
いきなり、清原の岩のような|拳《こぶし》が、橘の|腹《はら》へ食い込んだ。橘は目のくらむような|苦《く》|痛《つう》に体を折った。
「最初の|賭《か》けは、お母さんと|法《のり》|夫《お》君の勝だな」
|克《かつ》|次《じ》が受話器を置いて、言った。「橘は、例の男の店へ入ったよ」
「|乾《かん》|杯《ぱい》」
|志《し》|津《ず》が楽しげにワインのグラスを上げた。
「乾杯」
法夫は、震える手でグラスを取った。
「次はどうなるの?」
と|利《とし》|江《え》が訊く。
「あの男、まず無事にゃ出て来れまい。そこで、まだ次のステップへ進むかどうか、だね」
「殺されたら?」
「殺しゃしないさ。二、三発かませるぐらいだろうな。しかし、明日まではともかく動けまい」
「じゃ続きは明日ってわけね」
「そう。しかし、明日も橘が仕事[#「仕事」に傍点]を続けるかどうか、今、賭けておこうよ」
「俺は続行に賭けるな」
と|悟《さとる》が言った。「こいつ、なかなか|骨《ほね》があるよ」
「僕はやめる方だ」
と克次が言った。「お母さんは?」
「そうだね」
志津が、考え込んで、「……今度はやめる方に賭けとこう」
「よし。じゃ法夫君は?」
「僕は……続行です」
「また二対二になったか。五口でいいのかな、みんな」
「十口にしよう」
と志津が言った。「同じじゃつまらないからね」
十口。七百万だ。法夫はそっと息を|吐《は》いた。――橘がどんな男かは知らなかったが、そばへ行って声援してやりたかった。
橘は、路上に投げ出された。
起き上れなかった。|内《ない》|臓《ぞう》が粉々になったかと思うほどの腹の痛み、唇から流れた血が|顎《あご》にねばついた。顔がはれ上って、左の目はかすんでいる。
|惨《みじ》めだった。――中田に|裏《うら》|切《ぎ》られたことに腹は立たなかった。むしろ、それを知った時に震えが止まらなくなった自分のふがいなさに、腹が立ったのである。
このまま死ねばいい、と思った。どうせ起き上れないのだから……。
じっと、うずくまっていると、時々、人の足音が、そばを通り抜けて行った。みんな、誰一人として、助けようとはしない。|酔《よ》っ|払《ぱら》いか、行き倒れか。いずれにしても、関り合っては面倒なことになる、と思って、|避《さ》けて通るのだろう。
それが当然だ。俺なんかと関り合いになって、何の|得《とく》があるのか。|見《み》|捨《す》てられて、当り前の人間なのだ。
もしかすると、もう、誰の目にも見えないのかもしれない。|段《だん》|々《だん》と|縮《ちぢ》んで、|砂《すな》|粒《つぶ》のようになって、消えてしまえばいい……。
誰かの手が|触《ふ》れた。
「|大丈夫《だいじょうぶ》? 起きなさいよ」
女の声だった。
|法《のり》|夫《お》は、ドアを開けた。
|千《ち》|津《ず》|子《こ》は、窓辺に立って、暗い戸外を見ていた。
「千津子」
法夫は部屋へ入ると、静かにドアを|閉《し》めた。
「何してるんだ?」
「何もしてないわ」
千津子は|振《ふ》り向いた。「|賭《か》けはどうなったの?」
「なあ、そう|怒《おこ》るなよ。ただの遊びじゃないか」
「どうなったの?」
と千津子はもう一度|訊《き》いた。
「勝ったよ」
「おめでとう」
千津子は|無表情《むひょうじょう》に言って、「もう|寝《ね》るわ、私」
とまた|窓《まど》の外へ向いた。
「|僕《ぼく》はもう少し下にいるよ。君も少し|一《いっ》|緒《しょ》に楽しんだらどうだい?」
「|充分《じゅうぶん》楽しんでるわ」
「すぐ寝るのか?」
「ええ。どうぞお|構《かま》いなく」
「そんなにすねるなよ」
法夫は、後ろから千津子の|肩《かた》を|抱《だ》こうとした。千津子はその手を振り|払《はら》って、
「やめて。――下へ行ってらっしゃいよ」
と、|尖《とが》った声で言った。
「冷たいなあ。久しぶりにベッドで――」
「あなたはどうせ今夜は別のベッドに入りに行くんでしょう」
法夫の顔から|笑《え》みがかき消すようになくなった。
「何のことだ?」
「レナさんのことを言ってるのよ」
法夫は思わず、
「何か言ったのか、あいつが?」
と訊いて、ハッと口をつぐんだ。千津子が、ゆっくりと法夫の方を向く。
「やっぱりね。――あなたに女がいるのは、とっくに知ってたのよ。これでも私も女ですからね。それくらい分るわ」
「調べさせたのか?」
「やめてよ! 私はそんなさもしい|真《ま》|似《ね》はしないわ。レナさんって言ったのは、|勘《かん》よ。今日、|新《しん》|幹《かん》|線《せん》で声をかけて来たのが、いかにも|唐《とう》|突《とつ》だったし、あの人の話し方にも、どことなく|挑《いど》みかかるような調子があったので、変だな、と思ってたの。そこへあなたが来た。それで分ったのよ」
法夫は、|否《ひ》|定《てい》しても仕方ないことを|悟《さと》った。
「|確《たし》かに、あの女とは関係があった。それは|認《みと》めるよ。しかし、今はもう何でもない。本当だ。むしろ、つきまとわれて|閉《へい》|口《こう》してるんだ」
「あら、もったいない」
と千津子は|笑《わら》った。「あんなに|素《す》|敵《てき》な人を、閉口してるなんて」
「信じないかもしれないが、本当なんだ」
「ええ、信じないわ!」
千津子はきっぱりと言った。「どうせ今夜、どこかで待ち合わせるために、一緒に東京へ出て来たんでしょう。何も私が|眠《ねむ》るまで待つことはないわ。行ってらっしゃいよ」
「おい、千津子……」
「あなた」
千津子は、そう言って、ゆっくりと部屋のソファへと足を運び、|腰《こし》を|降《お》ろした。「あなた。そんなにお金が|欲《ほ》しいの?」
法夫は|詰《つ》まった。千津子は続けて、
「女の人のことは、私にも|責《せき》|任《にん》はあるのかもしれない。でも……お金になぜそう|執着《しゅうちゃく》するの?」
「君には分らないんだ。つまり――」
「あなたが、|投《とう》|資《し》で一千万近くすっているのは、私、知ってるのよ」
法夫は言葉がなかった。
「そのお金はもう|埋《う》めたわ。私名義の貯金からとお母さんからもらう、賭け金でね」
「なぜ|黙《だま》ってたんだ?」
「あれでこりて、あなたがもう二度とあんなことに手を出さないようになってくれれば、と思ったの。でも、むだだったようね」
千津子は|寂《さび》しげに言った。「今日の新幹線の中でのあなたの様子を見て、それからあの女を見て……。もうどうにもならないようね」
「だったらどうだっていうんだ?」
法夫は、開き直って言った。「|俺《おれ》は|飼《か》い殺しにされるのがいやなんだ! 少しでも君の家の世話になりたくないと思ったんだ。それが悪いのか?」
「その気持は|結《けっ》|構《こう》よ」
千津子は言い返した。「でも、それなら、なぜあんな賭けに加わったの?」
「それは……」
「母の気まぐれを満足させるために、一人の人間のプライドを|踏《ふ》みにじるような|真《ま》|似《ね》をして……。あなたに、そんな高い|志《こころざし》があるのなら、あんなことでお金を手に入れようとは思わないはずよ」
法夫は、とても千津子の敵ではなかった。
「――分ったよ」
と声を低くして、「君は|立《りっ》|派《ぱ》だ。|心優《こころやさ》しいお|姫《ひめ》|様《さま》ってところか。しかし、|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》にとっちゃ、どんな金だって金なんだ。きれいごとを言って、食っちゃ行けないんだ。……俺は貧乏|根性《こんじょう》が抜けないのさ。たぶん、一生ね……」
千津子は法夫から目をそらして、|椅《い》|子《す》にゆっくりと腰をおろした。法夫はドアの方へ行くと、ノブに手をかけて、立ち止まり、
「レナと会うことになってるんだ。出かけて来る」
と言った。
「どうぞ」
千津子はドアの閉まる音を聞いて、思わず目をつぶった。――自分たちの|結《けっ》|婚《こん》生活に|閉《へい》|廷《てい》を|宣《せん》する|木《き》|槌《づち》の音に聞こえた。
|涙《なみだ》は出て来なかった。いつの日か、こうなることは分っていたような気がする。そもそもの最初から、|無《む》|理《り》だったのかもしれない。二人の生きて来た世界は|違《ちが》い|過《す》ぎたのだ。
これからどうしよう?――|離《り》|婚《こん》? それは|簡《かん》|単《たん》だ。まとまった手切金をやれば、きっと法夫は離婚を|承知《しょうち》するだろう。
「でも、|美《み》|津《つ》|子《こ》は……」
|娘《むすめ》のことを思うと、ややためらわれたが、今の子供は、昔とは違う。ドライで、|深《しん》|刻《こく》に考えるということを知らない。それにまだ六|歳《さい》なのだ。別れるなら早い内の方がいいかもしれない。
母に言っておこうか。――せっかくの|誕生日《たんじょうび》に? しかし、母は|却《かえ》ってそれを|面《おも》|白《しろ》がるだろう。そういう人なのだ。
きっと話を聞いたら、こう言うだろう。
「それでこそ、|永《なが》|山《やま》|家《け》の娘だよ!」
「それでこそ、永山家の娘だよ、お前は!」
と|志《し》|津《ず》が言った。千津子がクスッと笑ったのを見て、
「どうして笑うんだい?」
「ううん。何でもないの」
千津子は首を|振《ふ》った。「誕生パーティに水を差してごめんなさい」
「そんなことあるもんかね。ますます楽しくなるよ」
もう、ベッドに入っていた志津は、大きな|枕《まくら》を|背《せ》に、本を読んでいるところだった。千津子はため息をついた。
「私は楽しくないわ」
「|亭《てい》|主《しゅ》と別れると思うから楽しくないのさ。また他の男と結婚できると思えばいいじゃないか」
千津子は苦笑した。
「お母さんほど達観できるといいんだけどね」
「おや皮肉かい?――まあ、あの男、とてもお前の亭主にゃなれないと思ってたよ。スケールが小さすぎる」
「私も悪かったのかもしれないわ」
「よしな、よしな。|後《こう》|悔《かい》なんて一文にもなりゃしない。これから先の楽しいことを考えるんだね」
志津はそう言って|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「あの人は……」
「お金をやって別れさせるさ。|任《まか》しておきなさい。|弁《べん》|護《ご》|士《し》を|呼《よ》んで全部やらせるから。お前はヨーロッパにでも行っといで」
「結構よ。美津子もいるし、センチメンタル・ジャーニーと|洒《しゃ》|落《れ》てる|暇《ひま》はないわ。――あの馬鹿げた賭けはどうなったの?」
「ん? ああ、|克《かつ》|次《じ》の考えたやつかい? まあ大して|面《おも》|白《しろ》くもないが、一応続行中さ」
「まだ|捜《さが》してるの?」
「|殴《なぐ》られ、|蹴《け》られてもね」
志津が手短かに話をすると、
「まあ! ひどいじゃないの!」
千津子は思わず顔をしかめた。
「それは克次がやらせたわけじゃないよ。たまたまそうなっちゃったのさ。今は女に助けられてそのアパートで休養中」
「その人が、後でこれがゲームだって知ったらどう思うでしょうね?」
千津子は、窓の方へ歩み|寄《よ》りながら言った。
「ゲームさ、人生は」
志津が言った。「戦争だってゲームだよ。動かしてる人間はかすり|傷《きず》一つ負わない。兵隊たちを生かすも殺すもお|好《この》みしだい。最高のゲームさ」
「ゲームか……」
千津子はしばらく黙って立っていたが、やがて母の方を振り向くと、言った。「法夫さんの賭けは、私が引き|継《つ》いでやるわ」
「すまん、どうも……」
まだ満足に口もきけない。
「大丈夫? お医者さんに行った方がよくない?」
女が、|濡《ぬ》れたタオルを、|橘《たちばな》の目に当てがいながら言った。
「大丈夫。あ、いてて……」
と顔をしかめて、「ともかく、|迷《めい》|惑《わく》かけてすまない」
「いいのよ」
路上で助け起こしてくれたのは、二十七、八の、どこかのホステスらしい女だった。アパートがすぐ近くだから、と|抱《だ》きかかえるようにして、連れて来てくれたのだ。
「ひどくやられたもんね。|清《きよ》|原《はら》を|怒《おこ》らせたの? あの男は|怖《こわ》いわよ」
「分ってる」
一人|暮《ぐら》しらしい、小さなアパートだが、よく|整《せい》|理《り》されて、広々とした感じのする部屋である。|痛《いた》みもやっと少しおさまって、女の|淹《い》れてくれた|紅《こう》|茶《ちゃ》を飲んだ。
「アルコールはやめといた方がいいでしょ」
「うん。飲みあきたよ」
「相当飲んだ口ね。見れば分るわ」
「そうかい」
「この辺はあまり来ないの?」
「仕事なんだ」
「仕事?」
橘は、人を|捜《さが》して、清原に会いに来たことを話した。
「君は知ってるか、清原の所にいた女で、|岡《おか》|田《だ》|智《とも》|美《み》って女なんだが」
「あら! 智美さんのこと捜してるの?」
「知ってるのか?」
「ええ。そう親しいってほどでもなかったけどね。時々話ぐらいはしたわよ」
「今どこにいるか知ってるかい?」
「さあね……。何だか聞いたような気もするけど……」
としばらく考え込んでいたが、「あ、そうだわ。私ったら――」
「どうした?」
「智美さんから、メモをもらってたの。何か|郵《ゆう》|便《びん》でも来たら転送してくれって」
「そいつを見せてくれるかい?」
橘は思わず身を乗り出した。不運の後には幸運がやって来るものかもしれない。
「どこにしまったかしら。ええと、|捨《す》ててはいないと思うわ、大丈夫。――ね、あなた、何か食べた?」
「い、いや、何も」
「それじゃ|殴《なぐ》られても戦えないわよ。どう、私の作ったうどんでよけりゃ、食べる?」
橘はちょっと|迷《まよ》って、
「そこまでやってもらっちゃ申し|訳《わけ》ないよ」
「あら、|好《す》きでやってるんだもの」
女は立ち上って、台所へ行った。「今夜は|泊《とま》って行ったら? ね?」
橘は顔を上げた。女の目がぎらつくように光っている。
「何だこりゃ?」
|克《かつ》|次《じ》が言った。「数字ばっかりじゃないか!」
暗くした室内に、|映《えい》|写《しゃ》機の音が、カタカタと低く流れている。スクリーンに、白っぽい|映《えい》|像《ぞう》が出ていたが――それはブルーフィルムでも、何でもなかった。
ただ、|単調《たんちょう》に、数字の列が続いているだけだったのだ。一緒に見ていた|恭子《きょうこ》と|利《とし》|江《え》が、
「何だ、つまらない」
「ちっとも出て来ないじゃないの、ポルノ風の所なんて」
と文句を言い出す。
「そうかも[#「かも」に傍点]しれんと言っただけだ」
と|悟《さとる》が|笑《わら》って、「誰もポルノだなんて言ってやしないぞ」
「何なの、これ?」
「知るもんか」
克次はふてくされたように、言った。
「もう|巻《ま》き|戻《もど》せよ」
悟が、明りをつけながら言った。克次が、
「やれやれ、つまらねえ」
とスイッチを切って、フィルムを|逆転《ぎゃくてん》させ始めた。「一体何だって、こんなフィルムをボストンバッグの底に|忍《しの》ばせてたんだろう?」
「知るもんか。持主には大切だったのさ、きっと」
「それにしても……。何かの|資料《しりょう》だな、きっと」
「それじゃ、スパイか何かの写した|機《き》|密《みつ》書類じゃないの?」
と恭子が言った。「だったら|面《おも》|白《しろ》いわね。高く売れるわ」
「よせやい、|馬《ば》|鹿《か》らしい」
と克次は笑った。――しかし、その通りかもしれない、と悟は考えていた。そうでもなければ、人を殺してまで|奪《うば》おうとするだろうか?
これは大変なものを手に入れてしまったのかもしれない……。
メイドがドアを開けて、
「悟さま。お電話でございます」
「分った。こんな時間に誰だろう?」
「名前はおっしゃいません」
手近な電話機を取って、|切《きり》|換《かえ》ボタンを|押《お》す。
「|永《なが》|山《やま》悟さんですね」
と男の声。
「はあ。そちらは?」
「あなたとバッグを|間《ま》|違《ちが》えた者なんですが」
来たか。悟はチラリと、克次たちの方を見た。みんな話に|夢中《むちゅう》の様子である。聞かれる心配はない。
「もしもし?」
「はい。――確かにバッグはお|預《あずか》りしています」
と悟は言った。
「よかった。いや本当に失礼しました。大事なバッグというわけでもないのですがね」
「ちゃんとありますから、ご心配なく」
と悟が言って、「で、私のバッグもそちらに?」
「はい。いつ参上すれば――」
「今夜、いかがですか?」
相手はびっくりしたように、
「もう大分|遅《おそ》いですが……」
「|私《わたし》、明日から|出張《しゅっちょう》でいなくなるものですからね」
「ああ、そうですか。では|伺《うかが》いましょう」
「いや、できれば外の方が。Nホテルのロビーはいかがでしょう?」
「それは|構《かま》いませんが……」
「ここからも近いので。では、今十一時半ですね。――十二時においでになれますか?」
「いいでしょう。そこへ参ります」
「では」
悟はゆっくりと受話器を戻した。――|脳《のう》|裏《り》に、あの空港での殺人の|一瞬《いっしゅん》が|閃《ひらめ》いた。あの|早《はや》|業《わざ》。相当に|熟練《じゅくれん》した殺し屋なのだろう、と思った。
そんな男を向うに回して、話をつけられるだろうか? しかし、ともかく、品物[#「品物」に傍点]はこっちが|握《にぎ》っているのだ。
悟は、克次の方へ歩いて行って、
「悪いが、急な用で、ちょっと出て来る」
と声をかけた。「恭子、お前は先に|寝《ね》ていてくれ」
「いいわ。行ってらっしゃい」
もう大分ろれつ[#「ろれつ」に傍点]が回らなくなっている。「今夜はどの女の所?」
「女じゃない、商談だ」
「あら、冗談[#「冗談」に傍点]の間違いじゃないの?」
|下《へ》|手《た》な|洒《しゃ》|落《れ》を言って、ゲラゲラと笑った。
「おい克次、お前のベンツを|貸《か》してくれ」
「いいとも」
克次からキーを借りて、悟が外へ出ると、門の前を手持ちぶさたに歩いている|警《けい》|官《かん》の|姿《すがた》が、門の|格《こう》|子《し》を通して見えた。
ガレージから克次の使っているベンツを出して、門へ向って走らせる。
「失礼」
と、警官がライトで悟の顔を確かめ、門を開いた。悟は、
「ご苦労様。一時間ほどで|戻《もど》るつもりです」
と言って、アクセルを|踏《ふ》んだ。――Nホテルまで、車なら十分ほどの|距《きょ》|離《り》である。
都内のホテルのロビーは、二十四時間、客の|絶《た》えるということがないようだ。ベンツを表のスペースに|停《と》めて悟が入って行くと、ロビーには、人待ち顔に、数人の男が|座《すわ》っていた。
すぐに見分けがついた。――間違いない。
「――失礼。永山です」
「ああ、これは……」
と相手は立ち上って、「私は|重《しげ》|森《もり》と言います」
と|会釈《えしゃく》した。
「どうもわざわざおいで願って申し訳ない」
「いや、こちらこそ、とんだ間違いで」
二人は|並《なら》んでソファに腰をおろした。しばらくは、お|互《たが》い相手が口を切るのを待っているというところだったが、
「ボストンバッグはお持ちいただけましたか?」
と重森が言った。
「ここにはありません。どうやらそちらも……」
「そうですな。何かそちらがお話がおありのような口ぶりでしたのでね」
「なるほど」
「で、どういう――」
「あのバッグをお|渡《わた》しする代りに、お願いしたいことがあるのです」
「ほう」
重森は少し目を見開いて、「これは|妙《みょう》なことを伺いますね。自分のバッグを返してもらうのに、|交換条件《こうかんじょうけん》がつくとは」
「あなたのものならば無条件にお返ししますよ」
と悟が言った。「ではバッグの中味を言って下さい」
重森は|詰《つ》まった。悟は重ねて、
「あなたのものなら、お分りのはずです。――どうです?」
と問いかけた。しばらく|沈《ちん》|黙《もく》が続いて、重森がホッと息をついた。
「分りました。あなたは中をご|覧《らん》になったんですね」
「ええ。その他にも色々とね」
「というと?」
「羽田での|騒《さわ》ぎもです」
重森の顔から表情が消えた。悟が急いで言った。
「いや、別に、だからどうこう言うわけではありませんよ。あのバッグの中のフィルムに何が映っているのか、知ったことではないし、知りたいとも思いません」
「フィルムですか」
「八ミリフィルムでしたね。二重底の下に|隠《かく》してあった」
「なるほど。ではそれは私にとっても大変に重要な物です」
「そうだと思いました」
「何がお望みです? 金ですか?」
「いやいや。金には|困《こま》っていません」
「そうらしいですな。では何です?」
少し間を置いて、悟は言った。
「人を殺してほしいのです」
「お|嬢様《じょうさま》にお電話です」
とメイドの声がした。
「誰から?」
「男の方です。名前はおっしゃいません」
「分ったわ。つないで」
もうネグリジェに|着《き》|替《が》えていた千津子は、時計が十二時近くになっているのを見て、一体誰かしら、と顔をしかめた。もし法夫なら話すことはないが。
「もしもし、千津子です」
「やあ、やっと声が聞けたな」
ちょっと皮肉めいた言い方だ。
「どなた?」
「|石《いし》|尾《お》だよ。|忘《わす》れたのかね?」
千津子は急に目を覚まされた。
「何の用なの?」
「いや、|裁《さい》|判《ばん》の時の礼を言おうと思ってな」
「それには|及《およ》びません。早く自首なさい」
「ご忠告、|感《かん》|謝《しゃ》しますぜ。しかしね、どうせ|死《し》|刑《けい》だったところへもって来て、裁判官も|殺《や》っちまっちゃ、自首したって同じことでね」
「私を殺すつもり?」
「いや、お宅は|十《と》|重《え》|二《は》|十《た》|重《え》に|警《けい》|備《び》されて、手が出ないや」
「それで? 電話じゃ殺せないわよ」
「まあ、色々とこちらも考えてるのさ。楽しみにしてほしいね」
電話は切れた。――千津子は腹立たしげに受話器を見つめた。手が出せないので、|嫌《いや》がらせの電話をかけて来たのだろう。あの|目《め》|白《じろ》という警部を|叩《たた》き起こそうかと思ったが、相手が電話ではどうにもなるまい。
「電話は取り次がないように言っておこうかしら」
と|呟《つぶや》いて受話器を戻すと、とたんにまた電話が鳴り出した。「全く!」
「ご主人様からです」
出ないわけにも行くまい。
「――はい、千津子です」
「千津子か? |僕《ぼく》だ。――大変なんだ」
法夫の声は震えていた。
「どうしたの?」
「困ったよ……。助けてくれ。どうしていいのか……」
ひどく|慌《あわ》てているのは確かなようだ。
「どうしたの? しっかりして! はっきりおっしゃい!」
「う、うん……。今、ホテルの部屋なんだが……」
「レナさんと一緒なんでしょ? 彼女が失神でもしたの?」
「違うんだ。――レナが殺されてる」
「何ですって?」
千津子は思わず|訊《き》き返した。
「レナが殺されてるんだ。僕の手に……血が……ナイフが……」
|敦《あつ》|子《こ》は、|興《こう》|奮《ふん》のあまり、|寝《ね》つかれなかった。
父が帰って来る。一緒に住んでくれる。|夢《ゆめ》のようだった。
寂しい、一人ぼっちの|暮《くら》しももう終りなのだ。|表札《ひょうさつ》も、もう書き変えよう。〈|重《しげ》|森《もり》|哲《てつ》|男《お》・敦子〉と。
ここは父と彼女と、二人の|城《しろ》になるのだ。
時計を見ると、十二時半だった。――とても|眠《ねむ》れそうもない。
敦子はパジャマ姿で起き出すと、インスタントコーヒーを作った。一人だけのお|祝《いわ》いだ。それにお父さんの買ってくれたお|菓《か》|子《し》がある。
ささやかな|宴《えん》|席《せき》を|整《ととの》えると、敦子は、ステレオに、|好《す》きなポップスのレコードをかけた。もちろん夜中だから、ヘッドホンで聞く。
ヘッドホンをつけて、コーヒーをすすりながら、クッキーをつまむ。――お父さんと一緒に住むようになったら、こんなことはできなくなるかもしれない、と思った。
でも、お父さんがいた方がいい。
料理ももう少し|上手《じょうず》にならなくては。自分一人で食べるわけではないのだ。そんなことを考えていると、ますます心が|弾《はず》んで、眠るどころではなくなって来る。
目を|閉《と》じて、頭の中に鳴るリズムに合わせて体を|揺《ゆ》する……。
|突《とつ》|然《ぜん》、誰かの手が、ヘッドホンのジャックを引き抜いた。ハッと顔を上げる。見知らぬ男が、見下ろしていた。
声を上げようとした時、他の手が敦子の口を|背《はい》|後《ご》からふさいだ。
「静かにしろ。|騒《さわ》ぐな」
見下ろしていた男が言った。「声を上げると首をへし折るぞ。――分ったか?」
敦子はゆっくりと|肯《うなず》いた。手が|離《はな》れた。
「お金ならそこに……」
声がどうしても|震《ふる》える。
「俺たちは|泥《どろ》|棒《ぼう》じゃない」
その男は黒い背広を着ていた。ちゃんとネクタイも|締《し》めている。しかし、敦子は冷水を|浴《あ》びせられたように、身震いした。男の、冷たい目が、氷の|針《はり》のように、敦子を|射《い》|抜《ぬ》いた。
「じゃ、何ですか?」
それには答えず、男は、敦子の前にしゃがみ込むと、
「お前が|守《もり》|屋《や》の|娘《むすめ》か」
と言った。
「うちは重森です」
「ああ、そうだった」
と男は軽く笑った。「お前の|親《おや》|父《じ》さんは、仕事の時には守屋って名を使ってるんだ」
敦子には何のことかさっぱり分らなかった。
「|兄《あに》|貴《き》、あそこに――」
もう一人、太って、おそろしく力のありそうな男が、部屋の|隅《すみ》のボストンバッグを指さした。
「あれか! こいつは助かった。訊き出す手間が省けたぜ」
「中を調べましょう」
太った男が、バッグを開け、中をぶちまけた。「――ありませんよ」
「底を調べろ」
「二重になっちゃいません。ほら」
背広姿の男は、バッグを引ったくるようにすると、ポケットからナイフを取り出し、ずたずたにバッグを切り|裂《さ》いた。――敦子は、まるで自分が切り裂かれているような気がして、思わず身を|縮《ちぢ》めた。
「これは違う!」
「やっぱり他の|奴《やつ》に|預《あず》けたんでは?」
「しかし、こいつは全く同じバッグだぞ。……|偶《ぐう》|然《ぜん》ここにあるわけはない」
背広の男は、敦子の方へ向き直った。敦子が思わず後ずさる。
「おい、|親《おや》|父《じ》さんはここへ来たのか?」
「い、いいえ……。」
「このバッグは?」
「ただ……ここに置いとけ、と……」
「この他には?」
「これだけです」
「ふん」
男は部屋の中をぐるりと見回した。「お前一人か?」
敦子は黙って肯いた。
「親父は?」
「帰って来ません」
「そうか。――じゃ、どこにいる?」
敦子は、父が|容《よう》|易《い》ならない|事《じ》|態《たい》になっていることを|理《り》|解《かい》していた。父の仕事について、敦子は今まで何も聞かされてはいなかった。この男たちの言動からみると、あまりまとも[#「まとも」に傍点]な|職業《しょくぎょう》ではないのかもしれない。
だが、父を|危《き》|険《けん》にさらすことはできなかった。――何としても守らねば。せっかく一緒に|暮《くら》そうという時なのだ。
「なあ、いいかい。親父さんとちょっと話があるんだ。どこに|泊《とま》っているのか、教えてくれるとありがたいんだがね」
「私、知りません」
「そんなはずない。顔に知っていますと書いてあるぜ」
「本当に知りません」
男の平手が敦子の|頬《ほお》に飛んだ。その勢いで敦子はどっと|倒《たお》れた。左の頬が、焼けるように熱い。目がくらんで、起き上れなかった。
「さあ、思い出したかな?」
「知りません……」
と敦子は言った。
「そうか」
男は息をつくと、「こっちも急ぐんだ。そうのんびりしちゃいられない。――おい」
と太った男の方を見る。
やっと起き上りかけた敦子は、背後から大きな手でぐいとつかまれると、うつ伏せにねじ伏せられてしまった。
「どうする?」
「何としても訊き出す。ゆっくりと話のできるようにしてやれ」
「OK」
敦子は口に|布《ぬの》を|押《お》し|込《こ》まれた。つづいて、|両腕《りょううで》を背中で固く|縛《しば》り合わされ、ぐいと引き起こされた。
「さあ、正座してもらうぞ。――もう一度訊く。親父さんはどこだ?」
敦子は、腕に食い込む、|縄《なわ》の|痛《いた》みに、涙が出そうになった。しかし、この|乱《らん》|暴《ぼう》なやり方を見ても、この二人が父を見付けたら――|恐《おそ》らく殺す気だろうとしか思えなかった。
しゃべったら、お父さんが殺される!
敦子は首を横に振った。
「レコードを聞いてたのか。|邪《じゃ》|魔《ま》して悪かったな」
男は、プレイヤーに手をのばすと、スタートボタンを押した。「聞かせてやろう」
ヘッドホンのジャックを差し込むと、敦子の頭に、ヘッドホンを|装着《そうちゃく》させる。
「これでよさそうだな」
|針《はり》がレコードに|降《お》りて、音楽が始まる。
敦子は男の冷たい目を見た。男はニヤリと笑うと、ステレオのボリュームを最大にまで一気に回した。
第三章
「落ち着いて! しっかりして!」
と、|千《ち》|津《ず》|子《こ》はくり返した。「今、どこにいるの? どこのホテル?」
「|頼《たの》む。来てくれ。助けてくれ……」
千津子は|苛《いら》|々《いら》して、
「あなた! よく聞くのよ!」
と|怒《ど》|鳴《な》った。
「あ、ああ……。聞こえるよ」
「当り前よ。しっかりして! どこなの、今? ホテルの名前と場所は?」
千津子は、しどろもどろな|法《のり》|夫《お》を|叱《しか》りつけながら、やっとメモを取った。
「ど、どうしよう、千津子」
千津子は少し間を置いて、|訊《き》いた。
「一体何があったの? 話して」
「何って……。|約《やく》|束《そく》してあったのさ、ここで会おうって。それでこの部屋へ入ったら、とたんにガンと一発やられて……。気が付いてみたら、レナがベッドで血だらけに……」
「それで、ナイフっていうのは?」
「分らないんだ。……気が付いた時には|握《にぎ》ってたのさ。たぶん――|気《き》|絶《ぜつ》してる間に握らされたんだと思うけど」
頼りない話である。千津子は思わず手で頭をかかえた。
「ねえ、よく聞いて。あなた、本当にレナさんを殺しちゃいないのね?」
「あ、当り前だよ! 君までそんなことを言うのか? ぼ、|僕《ぼく》を|見《み》|捨《す》てる気なんだな?」
まあ、あの人に、人を殺す|度胸《どきょう》があるはずはない。――千津子はハッとした。ついさっきの、|石《いし》|尾《お》の電話。あれは、このことを言っていたのだ!
当の千津子を|狙《ねら》うかわりに、法夫に殺人の|罪《つみ》を着せる。しかも、これがニュースで流れれば、千津子が夫に|裏《うら》|切《ぎ》られていたことが知れ|渡《わた》るわけだ。
石尾という男、なかなかどうして、|馬《ば》|鹿《か》ではないらしい。
「……千津子。どうしよう?」
法夫は|子《こ》|供《ども》のような声を出した。
本当に|情《なさけ》ない人だ。千津子は|腹《はら》も立たなかった。――しかし、あんな夫でも、|美《み》|津《つ》|子《こ》の父親である。美津子に、「|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》の子」という負い目を負わせるわけにはいかない。
「分ったわ。何とかしましょう」
「ああ、やっぱり君だ! 頼むよ。君だけなんだ、頼れるのは」
「|誤《ご》|解《かい》しないで。あなたを助けるのは、|無《ぶ》|事《じ》に|離《り》|婚《こん》したいからよ」
「千津子――」
「まだ、|誰《だれ》も気付いてないわね? じゃ、そこにいて。いいわね。待ってるのよ。今からすぐそっちへ行くから」
「で、でも……この部屋で?」
「外へ出てどうするの? 血の手の|跡《あと》をあちこちべたべたつけて回るつもり? 分った? そこにいるのよ」
「分ったよ」
と情なさそうな声で言った。
千津子は電話を切ると、考え込んだ。何とかする、と言っても、どんな手が打てるだろうか? たとえ法夫をこっそり連れ出して来たとしても、レナと法夫の|仲《なか》を、|警《けい》|察《さつ》は、まず|間《ま》|違《ちが》いなく|探《さぐ》り出してしまうだろう。
それだけではだめだ! 誰か他の人間の犯行だという|証拠《しょうこ》があればともかく、千津子が証言しても|妻《つま》の証言ではアリバイにはなるまい。
仕方ない。千津子は、母の部屋へ行った。
「――何だね、人が|眠《ねむ》ってるのに」
|志《し》|津《ず》が起こされて、|愚《ぐ》|痴《ち》った。
「ごめんなさい。|緊急事態《きんきゅうじたい》なの」
「緊急だって? |地《じ》|震《しん》かい、火事かい?」
「人殺し[#「人殺し」に傍点]」
志津が急に目を|輝《かがや》かせて起き上った。眠気や|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》も、吹っ飛んだようだ。全く|妙《みょう》な|趣《しゅ》|味《み》の持主なのである。
「人殺し? 人殺しって言ったのかい?」
「ええ」
「どうしてもっと早く知らせないの!」
とベッドから出ようとする。
「ちょっと待ってよ! 何も、ここで人殺しがあったってわけじゃないのよ」
「何だ、がっかりさせるわね」
志津はつまらなそうに、「話してごらん」
と言った。
千津子が手早く法夫からの電話の|内《ない》|容《よう》を説明すると、志津は|笑《わら》って、
「馬鹿な男だね! 私も父さんも年中|浮《うわ》|気《き》はしていたけど、死体と浮気したことはなかったよ」
千津子は母をにらんで、
「お母さん、|冗談《じょうだん》言ってる場合じゃないわ。何とかしないと、あの人はともかく、美津子が|可《か》|哀《わい》そうよ。離婚したっていうのならともかく、殺人罪で|刑《けい》|務《む》|所《しょ》に行ってるっていうんじゃ」
「それもそうだね」
「何かいい方法はない?」
「それなら|簡《かん》|単《たん》じゃないか」
千津子は母の顔をまじまじと見て、
「簡単?」
と|訊《き》き返した。
「そうさ。あの男を|逃《に》がしただけじゃ、|解《かい》|決《けつ》にはならないんだろ?」
「そうよ」
「それなら、他に犯人をこしらえりゃいいのさ」
千津子は|唖《あ》|然《ぜん》として、
「お母さん! そんな無茶を――」
「無茶じゃないよ。他にいい方法があるかい? 言ってごらんよ」
「だって……そんなことしたら、無実の人が――」
「そんなこと心配してたら、お前のダメ|亭《てい》|主《しゅ》は救えないよ」
言い方は|乱《らん》|暴《ぼう》だが、志津の言葉が間違っていないのは、千津子にも理解できた。そもそも法夫を助けようとすること自体が無茶なのである。
「でもお母さん、そんな犯人に仕立て上げられる人なんている?」
「本人が自分でも何をやったか分らないような人がいいね」
「つまり……|酔《よ》っ|払《ぱら》ってる人とか?」
「そう。酔って|寝《ね》|込《こ》んじまった人。もともと|女癖《おんなぐせ》が悪くて、|女房《にょうぼう》に追い回されるような男……」
千津子は母の言わんとすることを理解して目を|見《み》|張《は》った。
「お母さん! だって……あの人は警部さんよ!」
「警官の犯罪なんて、ちっとも|珍《めずら》しかあないよ」
「それにしても……。大体、この家の中で寝てるのよ。どうやって犯人に仕立てるの?」
「死体をここへ運んで来たら?」
「簡単に言うのね、ずいぶん」
「でも血で|絨毯《じゅうたん》を|汚《よご》されちゃたまらないね」
と志津は思い直して、「じゃ、あの警部を現場へ持って行けばいいわ」
「まるで手荷物ね」
と千津子は|苦笑《くしょう》した。「そう簡単にはいかないわ」
「やってみりゃ、案外|易《やさ》しいかもしれないよ」
志津はベッドから降り立った。
「どうしたの?」
「私が|直接指揮《ちょくせつしき》するわ」
「本気なの? 本当にあの人を――」
「もちろんさ。ついておいで」
志津はガウンをはおると、先に立って寝室を出た。千津子は、これが夢ならいいのに、と|祈《いの》るような気持で母の後からついて行った。
|目《め》|白《じろ》|菊《きく》|代《よ》は、もぞもぞとベッドから|這《は》い出した。半分寝ぼけて、
「あら……どこのホテルだったかしら……」
とブツブツ言いながら、大|欠伸《あくび》をすると、スリッパをはいて、歩き出す。
|廊《ろう》|下《か》へ出て少し歩いて……ふと|我《われ》に返った。
「そうだわ、ここは――」
ホテルじゃないのだ。あの――何とかいう大金持の家だっけ。
菊代は、いぎたなく眠りこけている亭主を見て、浮気しているのでないことは分ったが、|恥《は》ずかしいやら|腹《はら》が立つやら……。
あのいかにも大家の|奥《おく》|様《さま》|然《ぜん》とした夫人から、ぜひ|泊《とま》って行くようにとすすめられて、結局それに|甘《あま》えることにしたのだが、それは夫のことが心配というよりは、こんな|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》に一度泊ってみたかったからなのである。
「残りものしかございませんが……」
とメイドさんが夕食を出してくれたが、その「残りもの」の|豪《ごう》|華《か》なこと。夫がたらふく飲み食いした|挙《あげ》|句《く》、ダウンしてしまったのもよく分った。
かくて、来客用のベッドでスヤスヤと……。亭主の方は下の|長《なが》|椅《い》|子《す》で寝たままであった。
「ええと……」
菊代は|二《に》|階《かい》の廊下を歩いて行った。「トイレはどこかしら」
これだけの|屋《や》|敷《しき》なら、トイレぐらい二階にもありそうなもんだわ。――でも、|一《いっ》|向《こう》に見当らない。仕方ない。一階へ降りて行ってみよう。
広くてゆったりとした|階《かい》|段《だん》を降りて行くと、メイドが通りかかった。
「あら、何かお入り用の物でもございましたか?」
「え、ええ……あの……トイレはどちらかしら?」
「あ、お客様のお|寝《やす》みになっている部屋にございます」
「は?」
「浴室とトイレは各部屋についておりますので……」
そうだった! 半分寝ぼけていた菊代は説明してもらったのをすっかり|忘《わす》れていたのである。
「ご、ごめんなさい。そうでしたわね。寝ぼけちゃって――」
「いいえ」
メイドが|微《ほほ》|笑《え》んでさっさと行ってしまう。顔から火が出るよう、とはこのことで、菊代は|慌《あわ》てて階段を|駆《か》け上った。
階段を上り切った所から、廊下が左右にのびている。
「ええと……どっちだったかな」
菊代は|並《なみ》|外《はず》れた方向|音《おん》|痴《ち》だった。|記《き》|憶《おく》がかなり確かな場合でも、相当|曖《あい》|昧《まい》な場合でも、まず間違いなく|逆《ぎゃく》の方へ行ってしまうのである。だから、と思って、|一《いっ》|旦《たん》進みかけた方とは逆の方へ行くと、それが間違っているという念の入れようだ。
「確か……左だったわね」
というわけで、右へ[#「右へ」に傍点]向った。ホテルと違ってルームナンバーがないのが不便なところである。
「確か……この部屋だったわね」
言ってみたところで、誰も、そうだと言ってくれるわけではないのだが……。
そっとドアを開けてみる。――違う部屋のような気もするし、自分の部屋だという気もする。
ベッドを見ると、今まで寝ていた、というように毛布がまくれて、手を入れてみるとまだ|暖《あたた》かい。
「大丈夫、ここだわ」
ほっと安心して、菊代は一つ欠伸をすると、ベッドへ入った。それから、
「あ、トイレへ行くの、忘れてた」
と、慌てて起き出した。
「何だ、|今《いま》|頃《ごろ》起き出して来て?」
居間のソファに|座《すわ》っていた|克《かつ》|次《じ》が、トロンとした目で志津を見上げた。他のソファでは、|恭子《きょうこ》と|利《とし》|江《え》が|酔《よ》い|潰《つぶ》れてグウグウいびきをかいている。
「何てこったろうね、全く!」
志津は|呆《あき》れ顔で、「酔っ払いばっかりなんだから」
「人のことは言えないぜ、母さんだって――」
「いいから。水で顔を|洗《あら》っといで」
「ええ? 何だよ一体?」
「ちょっと車を運転してほしいんだよ」
「車? どこへ行くの」
「うるさいね! 言われた通りにすりゃいいんだよ!」
母親の|権《けん》|威《い》は|絶《ぜっ》|対《たい》で、克次も|渋《しぶ》|々《しぶ》ではあったが、
「分ったよ」
と|腰《こし》を上げた。そこへ千津子が入って来る。
「お母さん。あの人、ぐっすり眠ってるわ。きっとあのまま海へ放り込まれても気が付かないわよ」
「そりゃ|結《けっ》|構《こう》」
克次が目をしばたたいて、
「誰を海へ放り込むんだい?」
と訊いた。
「あの警部さんだよ」
「警部を――海へ?」
と克次が|唖《あ》|然《ぜん》とする。志津が声をひそめて、
「ただの海じゃないよ。血の海へ、さ」
「お母さん、|悪《わる》|乗《の》りしないでよ」
と千津子がたしなめた。――克次の方は何が何だかさっぱり分らない様子。
ともかく顔を洗って、多少しゃんとして|戻《もど》って来ると、志津と千津子の説明を聞いて、今度は|面《おも》|白《しろ》そうに|笑《わら》い出した。母親の血が流れているのだろう。
「そいつはいいや!」
千津子はムッとしたように、
「冗談じゃないわ」
「そう怒るなよ。亭主にもいいクスリになったろうぜ」
「ともかく早くやっつけようよ」
と志津が言った。「克次、あの警部さんを車までおぶって行きなさい」
「肉体労働は苦手なんだけどな」
「女が相手なら別のくせに。つべこべ言わないで。千津子、お前、ガレージへ行って車を出しといで」
「はい」
「ああ、ベンツは|兄《あに》|貴《き》が乗って出かけたからな。じゃ、ボルボか何かにしよう」
「小さくてだめだよ。トランクに警部さんを入れて行くんだからね」
「トランクに?」
と千津子が目を丸くした。
「そりゃそうさ。門の所で警官が中を|覗《のぞ》くに決ってるからね」
「|俺《おれ》はいいけど、千津子はどうする? 外出すると言ったら、警官がついて来るんじゃないのか?」
「だから、千津子と私は後ろの|座《ざ》|席《せき》の|床《ゆか》に|伏《ふ》せてるのさ。毛布か何かをかぶせてね」
千津子がびっくりして、
「お母さんも行くつもりなの?」
「当り前だよ!」
志津が|得《え》たりと|微《ほほ》|笑《え》んで、「女が血まみれで死んでるなんて、|見《み》|逃《のが》せるもんかね!」
――言うは|易《やす》く、行うは|難《かた》しという言葉があるが、これは物事によりけりである。
目白警部をかつぎ出すのは、克次がかなり|苦情《くじょう》を言ったことを除けば、まず順調に運んだ。目白が半ば口を開けて眠りこけているので、全く起きる|気《き》|遣《づか》いはなかったし、克次も運動不足の|割《わり》には体力のある方だったからである。
車のトランクへ目白を入れるのも、まあそう|難《むずか》しくはなかった。
問題は、千津子と志津を座席の下へ|隠《かく》すことだった。
「とっても、二人は無理よ」
さんざん苦労してから、千津子が言った。「本みたいに積み重ねるってわけにはいかないんだから」
「そうだね」
志津も|肯《うなず》いて、「じゃ、私は助手席に|座《すわ》って行くよ」
「警官に何て言うのさ?」
「ちょっと散歩とでも言っときゃいいよ」
「ガウン着て?」
「悪いかい? ガウン|姿《すがた》で車で散歩しちゃいけないって|法《ほう》|律《りつ》はないんだからね」
志津は強引にそう決めつけると、「さあ、早いとこ出発しよう」
と、さっさと助手席へ乗り込んだ。車はフォードのセダンである。中はかなり広いが、それでも、毛布を下に|敷《し》き、上からかぶって毛布のサンドイッチになった千津子には、あまり|快《かい》|適《てき》とは言えなかった。
もっとも、この|状態《じょうたい》で快適な車というものが|存《そん》|在《ざい》するとは思えない。
車が門を通り抜ける時、警官が中を|覗《のぞ》いた。
「お出かけですか?」
「ちょっと買物に」
と克次は言った
「こんな時間にですか?」
「そうよ」
と志津が|替《かわ》って、「ちょっとマッチを切らしたんでね、日本橋の|三《みつ》|越《こし》へ」
「夜中にデパートへマッチを買いに?」
警官が目を丸くした。
「支配人に言えば開けてくれるのよ。じゃ、ご苦労様」
フォードが走り去るのを、警官たちは|唖《あ》|然《ぜん》として見送っていた。やがて、一人が、
「金持ってのは|気《き》|狂《ちが》いじみてるな!」
とため息をつく。「マッチを買いに、外車で出かけるなんて!」
「きっと|純金製《じゅんきんせい》のマッチなんだよ」
「それなら|俺《おれ》が|燃《も》えさしを拾って帰るよ」
――車の中で、千津子はやっとこ起き上った。
「全く、大変ね。|逃《とう》|亡《ぼう》|犯《はん》の苦労が分るわ」
と席について、|髪《かみ》を直す。「急いでね、兄さん」
「急いでるさ」
とカーブを切りながら、「あれ?」
「どうしたの?」
「いや……。今、家の方へ行ったの、きっと兄貴のベンツだ」
「帰って来たのね。どこへ行ってたのかしら、|今《いま》|頃《ごろ》?」
「|妙《みょう》だな。女の所なら、こんなにすぐ帰るわけもないし。仕事の話なら、こんな時間にするわけもない」
「そんなこといいわよ。ともかく急いで!」
と千津子はハッパをかけた。
フォードは、三十分ほどで、目指すホテルへ着いた。克次は車を|停《と》めて、
「へへ……。|懐《なつか》しいな。しばらく来てない」
「変な所に|詳《くわ》しいんだから」
「車を入れていいのかい?」
「待って。――何しろ法夫さんを、目につかないように連れ出さなくちゃ」
「あの警部さんも運び込まなくちゃならないんだぜ」
「|困《こま》ったわ。そこまで考えなかったわ」
「大丈夫だよ」
志津はおっとりと、「フロントにしばらくどこかへ行っててもらえばいいよ」
「少し|握《にぎ》らせて?」
「そう。お前、お金を持ってるかい?」
「うーん……。三十万ぐらいかな」
「全部やりなさい」
「全部?」
「後で返してやるよ」
克次はため息をついて、
「分ったよ」
とフォードをホテルの正面の、少し外れた場所へ動かしてから、一人でホテルへ入って行った。
「こんなことして大丈夫かしら?」
と千津子が気がかりな様子で言った。
「今さら何を言ってるの。ためらいは失敗のもとよ」
とあまり聞いたことのないことわざらしきものを言っている内に、克次が戻って来た。
「OKだ。かつぎ出そう」
克次が警部を背負って、無人のフロントを通り抜け、法夫がいるはずの、七一一号室へと上った。
ドアをノックすると、中から、
「だ、|誰《だれ》だ?」
とおどおどした声。
「私よ、あなた。開けて」
チェーンを外す音。そっとドアが開く。
「千津子? もう来てくれないかと思って、気が気じゃ――」
「さあ、早く入って!」
志津がぐいと千津子を押した。――法夫はゾロゾロと入って来るのに目を丸くして、
「ど、どうなってんです、一体?」
と|訊《き》いた。
千津子は思わず|叫《さけ》びそうになるのを|慌《あわ》ててこらえた。――|新《しん》|幹《かん》|線《せん》で見かけた、あのレナが、ベッドに大の字になって死んでいた。|胸《むね》がはだけて、大きく切り|裂《さ》かれたような傷口が口を開け、血が|溢《あふ》れ出たのだろう、ベッドのシーツまで|一《いっ》|杯《ぱい》に広がっている。
「まあ、ひどい……」
「分るだろ。ここに一人でいると怖くって……」
「何を言ってるのよ! あなたは|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》でしょ!」
「千津子、そんな……」
「おいおい」
と克次が、目白を床へ降ろしながら、言った。「|夫《ふう》|婦《ふ》|喧《げん》|嘩《か》してる場合じゃねえぞ。早くやっつけよう」
「いいわ」
と千津子は|肯《うなず》いて、「あなた、ナイフは?」
「そ、そこの床の上だよ」
「|柄《え》をちゃんと|拭《ぬぐ》った?」
「うん。手も洗ったよ。他に触った所は全部|拭《ふ》いといた」
「じゃ、そのナイフを……」
千津子がハンカチを出して、血のりのついたナイフを取り上げると、目白の右手に握らせ、ぐい、と押しつけた。「これでいいわ」
「この人は……警察の」
と法夫が|戸《と》|惑《まど》った顔で言った。
「そう。あなたの替りよ。――さ、早くこんな所、出て行きましょ。お母さん!」
志津は、ベッドのわきに立って、しみじみと、レナの死体を見下ろしていた。
「もう行くの?」
「ぐずぐずしてたら、人に見られるわ」
「そう。でも|惜《お》しいわねえ。こんなのには|滅《めっ》|多《た》にお目にかかれないよ」
「全く、変な|趣《しゅ》|味《み》なんだから、お母さんは」
千津子が渋い顔で言った。
「克次、お前、カメラない? 記念写真を|撮《と》りたいね」
「お母さん!」
「分ったよ」
と志津がため息をついた。「じゃ、行こうかね」
その時、ベッドの近くに集まっていた三人の背後で、声がした。
「ここはどこだ?」
びっくりして振り向くと、目白が、床に起き上って、キョトンとしていた。
「今の車は――」
|悟《さとる》が、チラッと目を走らせる。――しかし、すぐに車はカーブを切って、見えなくなってしまった。
悟はベンツを屋敷へ向って走らせながら、今の車がどうも|見《み》|慣《な》れたフォードのような気がしてならなかった。
「こんな夜中に……」
きっと克次の|奴《やつ》だろう。女の所へでも行ったかな。
ベンツを門の所で|一《いっ》|旦《たん》|停《と》める。警官がちょっと|覗《のぞ》いて、
「どうぞ」
と|肯《うなず》いた。
ベンツをガレージに入れると、悟は周囲を見回し、それから後部のトランクを開けた。
「着きましたよ」
「――やれやれ」
|重《しげ》|森《もり》は外へ出ると、腰をのばして、「こういうことには慣れていますが、もう|年《と》|齢《し》ですな。後まで残る」
「|一《いっ》|緒《しょ》に来て下さい」
悟が先に立って歩き出した。
裏の通用口から、調理場へ入り、それを抜けて、|狭《せま》い廊下へ出た。
「メイドたちの部屋です、静かに」
と声をひそめる。
二人は廊下の奥の、急な階段を上った。
「二階の廊下の端に出ます」
「主階段は他にあるわけですね」
「そうです」
「誰か上って来る|可《か》|能《のう》|性《せい》は?」
「この時間では、ほとんどないと言っていいでしょう」
廊下へ出ると、悟がちょっと様子をうかがって、「こちらへ」
と歩き出した。
「ここが私の部屋です」
とドアを開ける。
「奥さんは?」
「他の部屋ですよ。いや、たぶん下で|酔《よ》い|潰《つぶ》れてるんじゃないかな」
重森は部屋の中を見回して、
「そのお母さんの部屋というのも、これと同じ造りですか?」
「大体はね。家具などは多少|違《ちが》いますが」
「分りました」
重森は息をついて、「あまり気は進みませんな。しかし、お引き受けした以上はやりましょう」
「よろしく」
「バッグはどこです?」
悟が、洋服かけの下から、例のボストンバッグを出して来た。重森がバッグの中を|探《さぐ》って、二重底の下から、|拳銃《けんじゅう》を取り出した。
「フィルムは別にしてありますよ」
と悟が言った。
「|承知《しょうち》しています。|約《やく》|束《そく》は破りませんがね」
重森は|微《ほほ》|笑《え》んだ。「しかし私があなたでも、同じようにしたでしょう」
「その銃、使えそうですか?」
重森は弾倉を調べ、遊底を動かしてみて、
「大丈夫。よく手入れしてあります」
「では、お願いしますよ」
「お母さんの部屋は?」
「この側の、四つ先のドアです。ノブがそこだけ少し違っています。少しですがね。|模《も》|様《よう》が|浮《うき》|彫《ぼり》になっている」
「分りました」
「音は大丈夫でしょうかね?」
「消音器があれば申し分ないのですが、あいにくと持ち合せがなくて。クッションか|枕《まくら》を使います。これだけの家なら、まずそうは聞こえませんよ」
悟が立ち上って、ドアの方へ行った。
「終ったら、こちらで待っていて下さい。送りますから」
「そう願いましょう。しかし、そう度々出かけては妙に思われませんか?」
「金持という人種はそうしたものでね」
と悟は笑って言うと、部屋を出た。
重森は手にした拳銃を見下ろして、
「|畜生《ちくしょう》!」
と|呟《つぶや》いた。――|任《にん》|務《む》以外に、人殺しをしようとは思わなかった。しかし、|至急《しきゅう》、そのフィルムが必要なのだ。
フィルムの中味の見当はついていた。それを|奪《うば》い返して、|渡《わた》せば、この仕事から、もう手を引けるだろう。
それからは、|敦《あつ》|子《こ》と二人で、|平《へい》|凡《ぼん》な|暮《くら》しができる……。
あの|永《なが》|山《やま》悟という男。どうせ|遺《い》|産《さん》目当てなのに違いないが、それにしても母親を殺そうとは、ずいぶんひどいことを考えるものだ。
「まあ、他人のことだ。気にしても仕方ない」
と|呟《つぶや》くと、重森は|腕《うで》|時《ど》|計《けい》を見た。今頃はきっと、敦子の|奴《やつ》、ぐっすりと眠り込んでいることだろう……。
「さて、行くか」
手早く|済《す》ませてしまおう。
重森は、拳銃を上着の下へ|隠《かく》して持つと、廊下へ出た。人の来る気配はない。
全く気の遠くなるような大邸宅だ。一体何をやってこんなに|儲《もう》けたのかは知らないが、どうせろくなことではあるまい。
それを思うと、そう良心のとがめも感じない。重森は静かに四つ目のドアへと進んで行った。ノブが違うと言っていたな。
四番目のドアのノブは|確《たし》かに、少し他の物と違っていた。知らずに握れば分るまいが、よく見ると、|精《せい》|巧《こう》な彫物がしてある。全く|凝《こ》ったしろものだ。
そっとノブを回す。ドアが内側へ、音もなく開いた。手入れがいいのだろう。
室内は、完全な暗がりではなかった。ベッドから|離《はな》れたスタンドが|灯《とも》って、うっすらとだが、部屋の中を照らしている。ベッドがこんもりと盛り上っていた。
じっと耳を|澄《す》ますと、|微《かす》かに寝息が聞こえる。重森は中へ入って、後ろ手にドアを|閉《し》めた。|傍《そば》のソファから、クッションを一つ取って、拳銃の銃口をふさぐように当てがう。
ベッドへ近付いて、寝ている女の顔を|覗《のぞ》き込んだ。スタンドと反対の方へ顔を向けて|寝《ね》ているので、顔立ちはよく分らなかったが、ともかく間違いない。
あの男の母親にしては若いような気もしたが、きっと|髪《かみ》を黒く|染《そ》めているのだろう。
|恨《うら》みはないが、やむを|得《え》ない。重森は、やらなければならないことは、ためらわずにやってのける男である。
クッションをぐいと強く押し当て、銃口を女の後頭部に向けると、引金を引いた。
居間に|座《すわ》って、ウィスキーを飲んでいた悟は、ふとグラスを持つ手を止めた。――今、聞こえたのがそれだろうか? いや、聞こえたような気がしただけなのか……。
「ウーン」
と|唸《うな》って、|恭子《きょうこ》が目を開いた。「あら、あなた」
「何をやってる。よく飲んだもんだな」
「私より|利《とし》|江《え》さんの方が……。ねえ?」
と見たが、利江はまだぐっすりと眠りこけている。
「克次の奴はどうした?」
「あら、いないの?」
と見回して、「一緒に飲んでたんだけどね」
「出かけたのか。フォードがなかった」
「じゃ、きっとそうよ。まめ[#「まめ」に傍点]な人ね。全く」
と言って大|欠伸《あくび》をすると、「あなたは?」
「うん。また少ししたら出かける」
「どこへ?」
「ホテルだ」
「どこの女?」
「女だと思うか?」
「違うわね。顔で分るわ。女の所へ行く時は、もっと気取った、こわばった顔をしてるもの。|意《い》|識《しき》してるのね。女の所へ行くと見えないように、って」
「そんなものかな」
「そうよ」
「お前はいつでも同じだ。女の方が、ごまかすのは|巧《うま》いらしい」
「そうかもね。――ともかく、私、もう寝るわよ」
「今まで寝ていたくせに」
「あ、そうか」
すぐに上へ行かれては、あの男に出くわす恐れがある。
「もう一杯付き合うか? どうだ?」
「もう結構。いくら何でもね」
「|珍《めずら》しいことを言うじゃないか」
悟はグラスをゆっくりとあけた。「――先に東京へ来て何をしてたんだ?」
「色々とよ。買物、画廊……」
「絵を見てたのか?」
「私だってね、そうそう男の所ばかり行ってないわ。――男なんて|飽《あ》きたわ」
「お前が言うと実感がある」
と悟が笑った。しかし、恭子の方は別にニコリともしなかった。
「ねえ、あなた」
「何だ?」
「いい|加《か》|減《げん》に東京に住みたいわね」
「仕事がある。仕方あるまい」
「|退《たい》|屈《くつ》で死にそうよ、東京にいないと」
「この家が|嫌《きら》いじゃなかったのか?」
「ここはいやよ。どこかにマンションか家を買うの。で、家族だけで住みましょうよ。ここじゃお|義《か》|母《あ》さんが女|看《かん》|守《しゅ》で、私たちは|囚人《しゅうじん》みたいよ」
「お|袋《ふくろ》が|許《ゆる》さんよ」
「何でもお義母さんの言うなりね」
「仕方ないさ。今の所、お袋がこの家の支配者だ」
今の所。いや、もうそうではなくなっているだろうが……。
「|俺《おれ》がここを|継《つ》いだら、この大邸宅を売り払って、どこかへ越そう」
「いつの話? お義母さん、まだまだ当分は元気そうよ」
と恭子はため息をついた。
「まあ待つんだな」
悟はソファへ並んで|腰《こし》をかけると、恭子の|肩《かた》へ手を回した。「――人生、何が起るか分らんさ」
ふと、久々に、恭子を抱いてみようかという気になった。もうここ何か月、恭子とは寝ていない。
目が合うと、恭子の方も同じ気持でいるらしかった。悟は恭子を|抱《だ》き|寄《よ》せた。
「――ここで?」
と恭子が|訊《き》く。
「その方が|面《おも》|白《しろ》いだろう」
「そうね。でも――利江さんが起きるかも」
「|構《かま》うもんか」
少しここで時間を|稼《かせ》ぐ必要もあった。母が殺されたことは、朝まではまず発見されることはあるまい。あの男に少し時間をやらなくては……。
恭子がソファに横たわった。
「――すまない」
|橘《たちばな》は、起き上って、言った。
部屋は暗かった。女がモゾモゾと|布《ふ》|団《とん》から出て、明りがついた。橘はちょっと目をまぶしげに細めると、女の|裸《ら》|身《しん》を見上げた。
女は、|怒《おこ》った様子もなく、|微《ほほ》|笑《え》んでいた。
「いいのよ」
「俺はだめさ」
橘はゆっくりとまた横になった。
「そんなことないわ」
女がネグリジェをすっぽりと頭からかぶって、「あんなにひどく|殴《なぐ》られたんですもの。その気[#「その気」に傍点]にならなくても当然よ」
女はウーンと|伸《の》びをして、
「どう? ウィスキーでも飲む?」
「飲みたい気分だから[#「だから」に傍点]、やめとくよ」
女は橘を見て、
「何となく分るわ」
と言った。
「君は親切だな」
「そう?――親切かどうかなんて考えたことないわ」
「今日の仕事はもう済んだのかい?」
「ええ。明日は昼まで寝るのよ。――あなたは?」
「さあね……。せっかくこうして殴られまでしたんだ。もう少し追ってみるよ」
「見付かるといいわね」
「ありがとう」
橘は服を着ると、「君、岡田智美のいる所を知ってると言ったね」
「うん。いるかどうか分らないけど、|郵《ゆう》|便《びん》の転送先ね」
「それで|充分《じゅうぶん》だよ」
「待って」
女は引出しの中から、折りたたんだメモ用紙を出して来た。「はい、これ」
橘が、おや、と思ったのは、住所そのものではなかった。――メモの紙が、いやに新しかったのである。
三か月にしろ、引出しの中へしまい込まれていたのなら、もう少ししわくちゃになり、折り目もこすれているのが|普《ふ》|通《つう》だ。それが、まるでたった今書かれて、折り|畳《たた》まれたように、きれいなのである。
「どうかして?」
女に訊かれて、
「いや、別に」
と首を振った。「――これはもらっておいていいのかな」
「ええ、いいわよ」
橘はそれをポケットに入れると、
「どういうことだ?」
と静かに訊いた。
「何が?」
「とぼけないでくれ。このメモは書いたばかりのように新しい。それに君はこれを持って行っていいと言った。それじゃ郵便物を転送する時にどうするんだ?」
女は目に見えて|慌《あわ》てた。
「そ、それは……それは、あなたにあげようと思って写したのよ」
「|嘘《うそ》だ。さっき、岡田智美の話が出てから、そんな時間はなかった。それに、もしそれが本当なら、もとのメモがあるはずだ。見せてみたまえ」
女はしばらく困った顔で考えていたが、やがて、|諦《あきら》めたように、
「分ったわ」
と|肯《うなず》いた。「あなたの言う通りよ」
「――誰かに頼まれたのか?」
「ええ」
女は肩をすくめて、「いい金になることなら何だってやるわよ」
「何を頼まれた?」
「たぶんあなたが清原の店から|叩《たた》き出されて来るから、それを助けて、手当をしてやること。それから、岡田智美の話が出たら、あなたにそれを渡すことよ」
「誰に頼まれた?」
「知らないわ」
「清原じゃないんだね?」
「違うわよ。だったら、あなたを助けるはずがないじゃないの」
「いや、それは分らない」
と橘は首を|振《ふ》った。「まさか店では僕を殺すところまではできないからな。殺そうと思えば、どこか都合のいい場所へ連れて行くだろう」
「やめてよ。人殺しの手伝いなんて、とんでもないわ。ともかく、清原とは関係ないわよ」
「じゃ誰だ?」
「知らない人よ」
「どんな男?」
「そうね……。|割《わり》|合《あい》とちゃんとした身なりの男だったわ」
「頼まれたのはそれだけ?」
「ええ」
橘は考え込んだ。――一体何者だろう? 清原に|叩《たた》き出されることまで予想していたということは、清原の所へ彼が行くことを知っていたわけだ。――あの、オンボロ|貸《か》しビルにいた男か?
しかし、あの男とて、誰かに|雇《やと》われていたとも考えられる。一体誰が、こんな細工をしているのか?
ふと思い付いて、橘は立ち上ると部屋の明りを消した。
「どうしたの?」
「ちょっと確かめたいことがあるんだ」
橘は|窓《まど》|辺《べ》に寄って、カーテンをそっとからげて外を見た。――男が一人、|街《がい》|灯《とう》の|陰《かげ》にたたずんでいる。
橘もかつては刑事である。張り込んでいる男かどうかは見れば分る。あれはおそらく、どこかの|探《たん》|偵《てい》|社《しゃ》の男だろう。
俺が追っているのではなかった。俺が追われている[#「追われている」に傍点]のだ……。
「もう行くよ」
橘はもう一度明りを|点《つ》けると、言った。「ともかく手当をしてくれてありがとう」
「大丈夫? 今夜はともかくここで寝て行ったら? 私は構わないのよ」
「いや、いいんだ」
「信じてないのね」
女をじっと見て、橘は言った。
「そんなことはないよ」
そして玄関へ出て、|靴《くつ》をはいていると、女が言った。
「あなたと寝るのは頼まれてなかったのよ」
橘は、それは|嘘《うそ》ではないだろう、と思った。だからといって、どうなるものか。
アパートを出る。もうすっかり寝静まった|裏《うら》通りは、ひどく暗かった。あたりを見回すふりをして、さり気なく|街《がい》|灯《とう》の方を見ると、男の姿が少しはみ出して見えている。――あまり|上《う》|手《ま》くはないな。|刑《けい》|事《じ》の|頃《ころ》の俺だったら……。
橘は、夜の道をゆっくりと歩き出した。耳に|神《しん》|経《けい》を集中すると、|尾《つ》けて来る足音が、かすかだが、聞こえる。
静かな所では相手の歩調に合わせて尾けるのが|原《げん》|則《そく》だが、どうもそういう基本が、今の若い連中には行き|届《とど》いていないらしい。
橘は、もう殴られた|痛《いた》みも、女を抱けなかった|惨《みじ》めさも、いつの間にか|忘《わす》れていた。久しぶりに、|四《し》|肢《し》に|緊張《きんちょう》が|漲《みなぎ》って来るのを感じた。
橘は、目についた角をすっと曲った。そのまま、|塀《へい》に身を寄せる。
足音が、いくぶん|駆《か》け出し気味に近付いて来た。ぐるりと、男が角を曲って出て来る。すかさず足を出して引っかけた。男が|突《つ》っ|伏《ぷ》した。
あっという間に橘は男の腕をねじ上げ、同時にポケットから手帳を抜き取っていた。
「いてて……。何をするんだ!」
「ふん、やっぱり探偵社の|奴《やつ》か」
橘は手帳を投げ出すと、「おい、一体誰に頼まれて、俺をつけてる?」
「知らんよ……ただ俺はここを通りかかって……」
「とぼけるな! さっきから街灯の陰にいたのをちゃんと見てるんだぞ!」
男は何も言わなかった。
「おい、|白状《はくじょう》しろよ。誰の|依《い》|頼《らい》だ?」
「言えんよ……依頼人の……」
「依頼人の|秘《ひ》|密《みつ》か? それはまとも[#「まとも」に傍点]な依頼の場合だ。俺はな、殴られ、|蹴《け》られ、|散《さん》|々《ざん》な目にあったんだぞ。こいつはどう考えたってフェアじゃねえ!」
橘はぐっとさらに腕をねじった。
「あっ!」
と男が|悲《ひ》|鳴《めい》を上げる。「――やめてくれ! 折れる!」
「折るつもりでやってるんだ。当り前さ」
「やめてくれ!」
男は|泣《な》き声を上げた。「言うよ! 言うから!」
「よし言え。言ったら放してやる」
「永山さんだ」
「何だと?」
「永山克次って人だよ」
「永山克次。――俺を雇った当人じゃないか!」
橘は|唖《あ》|然《ぜん》とした。その一瞬、力がゆるんだのだろう。下になっていた男がはね起きた。橘は一度は地面に転がったが、すぐに立ち上って|身《み》|構《がま》えた。しかし男の方は、やり合う元気はないらしく、走って|逃《に》げて行ってしまった。
息を|弾《はず》ませながら、橘は、しばらく突っ立っていた。――永山克次。なるほど、最初のあのボロビルを彼に教えたのは永山克次だ。
すると、あのビルにいた男と、清原もおそらく永山から金をもらって……。しかし、なぜ? 何のためだ?
橘は、女がくれたメモを見た。この住所に一体何が待っているのか?
しばらく橘は考え込んでいたが、やがて首を振って、歩き出し、ふと今の探偵社の男が残して行った手帳を拾い上げ、ポケットに入れた。
――あの永山という男に、全く覚えはなかった。|恨《うら》まれる覚えも、|狙《ねら》われる覚えももちろんのことだ。相手が何を考えているのか、それを知らなくては。
橘は、広い通りまで出ると、タクシーを停めた。
「どちらまで?」
「この住所へやってくれ」
橘は、女のよこしたメモを運転手へ渡した。
|誰《だれ》もが、しばらくは身動きできなかった。今の今まで眠りこけていた|目《め》|白《じろ》が、急に目を覚まそうとは、予想もできなかったのだ。
「おや、どうも……」
|床《ゆか》に|座《すわ》り|込《こ》んだままで、目白は|志《し》|津《ず》、|千《ち》|津《ず》|子《こ》、|克《かつ》|次《じ》、|法《のり》|夫《お》の四人の顔を|見《み》|渡《わた》した。「いや、すっかり飲み|過《す》ぎましたな」
と大|欠伸《 あくび》をしてから、手にした物を見つめた。
「ん? これは……|物《ぶっ》|騒《そう》ですな、どうも!」
と、血のりのついたナイフを投げ出し、手をズボンで|拭《ぬぐ》った。
千津子がやっと|我《われ》に返って母の方を見た。志津はさすがに少しも動ずる気配がなかった。目白が、まだ床に座り込んでいるので、ベッドの上の死体に気付かないでいるのを見てとると、
「死体に|毛《もう》|布《ふ》をかけて!」
と小声で千津子へ言ってから、目白の方へと歩み|寄《よ》った。
「|警《けい》|部《ぶ》さん! 大丈夫ですの?」
「ええ……。しかし、これはどうなってるんですかな?」
「|悲《ひ》|鳴《めい》が聞こえたんですよ、この部屋で」
「悲鳴?」
「そうですわ。それでみんな急いで|駆《か》けつけて来ましたの。すると警部さんがそこに|倒《たお》れていらして……」
「そ、そうでしたか」
目白はブルブルッと頭を|振《ふ》った。「いや、どうしてここに来たのか、さっぱり|憶《おぼ》えがないのですよ」
「まあ、よほど|酔《よ》っていらしたんですわね」
このやりとりの間に、千津子は、ベッドの足もとにめくったままになっていた毛布を|引《ひっ》|張《ぱ》って、そっと死体を|覆《おお》った。
「でも、そのナイフは?」
と志津が|訊《き》いた。
「いや、全く見覚えがありませんな」
「おかしいですわね。手に持っていらしたのに。――それについてるのは血じゃありませんこと?」
「いや、まさか」
と目白は笑った。「私はどこもけがしちゃおりませんぞ」
相当におめでたい男である。
「そうですか、それならいいんですけど……。あら」
と志津はベッドの方を見て、「誰かベッドにいるようですわ」
「はあ、そのようですな。――ここはどなたのお部屋です?」
「ここはお客様用の部屋ですわ」
と志津は澄まして言った。まあ、それも|嘘《うそ》ではないが。
「ここに警部さんをお連れしましたのよ」
「私がここに?」
「まあ、お忘れですの? ずいぶん酔っていらしたから」
「そりゃどうも。警部としては|失《しっ》|態《たい》ですなあ、全く」
と頭をかく。「じゃベッドにいるのは?」
「さあ、誰かしら?」
「見てみましょう」
目白がベッドへ近付いて行く。志津が|素《す》|早《ばや》くテーブルの方へ歩いて行って、重い花びんを取り上げた。目白が、
「ちょっと。毛布をめくりますぞ」
と声をかけ、さっと毛布をめくる。目白が目を白黒させた。
「あ――」
と千津子が言った。志津が|背《はい》|後《ご》から、目白の後頭部めがけて、花びんを振り|降《お》ろしたのである。
ガン、と音がして花びんが|砕《くだ》け、目白はその場に|昏《こん》|倒《とう》した。
「お母さん!」
千津子が|唖《あ》|然《ぜん》として、「警察の人を……|殴《なぐ》るなんて!」
「じゃ、お前、|捕《つか》まりたいとでもいうの?」
志津は平然としたもので、「ともかくこれで時間ができたよ」
「首を|吊《つ》る時間がね」
と|克《かつ》|次《じ》が言った。
「|馬《ば》|鹿《か》なこと言うんじゃないよ」
と志津がたしなめた。「いいかい、この警部さん、ここが|屋《や》|敷《しき》の中の部屋だと思ってるんだよ」
「そりゃ|無《む》|理《り》もないや」
と克次が言った。「|眠《ねむ》って、目が覚めるまでに他の所へ移ってるとは誰も思わないよ」
「そこが|狙《ねら》いさ」
と志津が肯いた。
「何を考えてるの、お母さん?」
と千津子が言った。「早くここから|逃《に》げ出しましょう。またこの人が|意《い》|識《しき》を取り|戻《もど》すかもしれないわ」
「大丈夫よ。大分強く殴ったからね」
「そんなこと言って!」
「いい? ここへ警部さんを置いて逃げ出すわけにはいかないんだよ。私たちを見てるんだからね、この人は」
「うん……」
「でも何とか、これに|罪《つみ》をきせちまわないと」
と克次が言った。「何かいい考えがあるのかい、母さん?」
「仕方ないじゃないか」
と志津は言った。「その警部さんと死体を両方、屋敷へ運ぶのさ」
「気でも|狂《くる》ったの、お母さん?」
と千津子が言った。
「狂っちゃいないよ、ちっとも。他に方法があるかい?」
「でも、屋敷の中で殺人なんて……」
「仕方ないだろ」
と言いながら、志津は|結《けっ》|構《こう》楽しげである。「屋敷へ運んで帰って、死体をベッドに、警部さんをそのそばに転がしとくのさ」
「部屋が全然違うわ」
「そこは何とかなるさ。それこそ、まさか違う場所だとは思わないよ」
「でも、お母さんが殴ったのよ!」
「見ちゃいないんだ。私たちで|証言《しょうげん》すりゃいいんだよ。警部さんは、死体を見るなり|卒《そっ》|倒《とう》して、その時、|椅《い》|子《す》の角で頭を打ったってね」
「ひどいわ……」
|逆《さか》らう気力も|失《う》せたという様子で、千津子が|呟《つぶや》いた。
「じゃ、ほら、手っ取り早くやるんだよ。克次、死体を毛布でくるんで!」
「俺が?」
克次が|情《なさけ》ない顔で言った。「母さん、知ってるだろ、俺は物をくるむの苦手なんだよ」
「いいこと、これはお|中元《ちゅうげん》やお|歳《せい》|暮《ぼ》とは違うのよ。大まかにくるめばいいんだから」
「死体だぜ……」
ぶつぶつ言いながら、克次はベッドの方へ歩いて行った。
「いい? 下の血のしみてるシーツも一緒にだよ。でないと、他の所で殺されたって分っちまうからね」
「まるでマフィアのボスだなあ」
と克次が苦笑した。
「それから、|法《のり》|夫《お》さん!」
「は、はい!」
「ぼんやり突っ立ってないで。もとはと言えば、あんたが|原《げん》|因《いん》なのよ」
「どうも申し|訳《わけ》ありません」
「その倒れてる警部さんを背負って行きなさい。分った?」
車に乗り切れるのかしら? 千津子は変なことを心配していた……。
「――久しぶりね、あなたとは」
と恭子が服を着ながら言った。
「そうだな。悪くないだろう、俺も」
悟が、ニヤリと笑った。
「いいわ。若い男なんて、すぐに|飽《あ》きちゃって……。まだ寝ないの?」
「出かけて来る」
「ああ、そうだったわね」
「お前ももう寝ろよ」
「ええ」
悟は服を着終えると、二階へ上って行った。もう終っているだろう。
母の部屋の前を通る時は、さすがに胸が|騒《さわ》いだ。――自分の部屋のドアを開ける。
「どこにいるんです?」
「――ここですよ」
ドアの陰から、重森が出て来た。
「お待たせしました」
悟がドアを|閉《し》めて、「|首《しゅ》|尾《び》は?」
「ええ、上々ですな」
「それはどうも」
ちょっと、二人は|黙《だま》り込んだ。
「|確《たし》かめに行きますか?」
と重森が言った。
「いや、結構です」
急いで悟が首を振った。頭を|撃《う》ち抜かれた母の姿を、さすがに見る気にはなれない。
重森は皮肉に|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「人にやらせるというのは気が楽ですね。私などは、結果を|総《すべ》て|見《み》|届《とど》けるのも仕事の内です」
「じゃ、送りますよ」
と悟はポケットに手を入れて車のキーを確かめながら言った。
「フィルムは?」
「今お渡しするとその銃でやられる心配がありますからね」
「用心のいいことで。まあ、あなたのバッグもお返ししなくてはなりませんしね」
「では明日、いかがです?」
「あなたが出て来られますか? 母親が死んだというのに」
「ああ、それはそうだ。では……」
「あなたのバッグを明日お返しに上りますよ。フィルムはその時に、|交《こう》|換《かん》しましょう。バッグを間違えたからといって交換するだけです。誰も|怪《あや》しむはずはありません」
「それもそうですね」
と悟が|肯《うなず》いて言った。「――その拳銃はどうします?」
「こういう物の|処《しょ》|分《ぶん》は|任《まか》せて下さい。分解して、少しずつ、方々のゴミ箱や川へ|捨《す》てるんです」
「なるほどね。さすがプロですな」
「では送っていただきましょう」
と重森は言った。
ベンツが|邸《やしき》を出ると、少し走らせてから|停《と》め、悟はトランクを開けた。
「――もう大丈夫です。|座《ざ》|席《せき》へどうぞ」
車を再びスタートさせて、悟が訊いた。
「どちらへ?」
「Nホテルへ」
「そこに泊っているんですか?」
「いいえ。まさか|泊《とま》っているホテルを教えはしませんよ」
と重森は微笑んだ。
「ああ、なるほど。――しかし、大変な仕事ですね」
「仕事は何でも同じです。食うか食われるか。どちらかですよ」
「そうかもしれませんな」
それきり、二人は車がNホテルへ着くまで口をきかなかった。
目もくらむような|頭《ず》|痛《つう》に、|敦《あつ》|子《こ》は|畳《たたみ》の上を転げ回った。――もうヘッドホンは外されていたが、頭の中を、|凄《すさ》まじい音が、駆け|巡《めぐ》っている。いや、音というより、|衝撃《しょうげき》といった方がいいかもしれない。
何も聞こえなかった。ヘッドホンの音量を最大にした男の|呟《つぶや》きも、もう一人の太った男の|笑《わら》い声も。
|総《すべ》てがパントマイムのように見えるばかりだった。
男が、敦子のパジャマのえり首をつかんで、引き起こすと、顔を正面へ向けさせ、ゆっくりとしゃべった。――何も聞き取れなかったが、男が言っていることは分った。
「お父さんは、どこだ?」
敦子は首を振った。――教えられない。この男たちは、きっとお父さんを殺してしまうだろう……。
敦子は畳の上へ投げ出された。両手は後ろに縛られたままなので、ねじれたような|格《かっ》|好《こう》になって、うめき声を上げる。
太った男が、|素《す》|早《ばや》く敦子の口へ|布《ぬの》をつめ込んだ。
男は、敦子の机の引出しをかき回して、ハサミを出して来た。――敦子は身を|縮《ちぢ》めた。一体何をされるのだろう?
男は太った方に何か言った。太った男が、後ろから敦子の体をぐいと|押《おさ》えた。
男は敦子の正面に座ると、ハサミの銀色の刃をそっと敦子の|頬《ほお》に当てた。その冷たさが、まるで切られたような痛みに思えて、敦子は逃げようとした。
男が髪をつかんだ。痛さに|涙《なみだ》が出て来る。男のハサミが、敦子の髪を切り落とした。
フォードがガレージに入ると、後ろの座席から、千津子がまず|這《は》い出し、続いて、法夫が転がり出て来る。
「ああ、参った!」
法夫がハアハアと息をついた。
「しっかりしてよ! あなたのために、みんな苦労してるんだから!」
「そ、そんなこと言ってもさ……死体と相乗りしたのなんて初めてだよ」
法夫は|真《まっ》|青《さお》になっている。
「やれやれ」
克次が|額《ひたい》の|汗《あせ》を拭って、「よく気付かれなかったよ。何しろ後ろに二人も重なってたんだからな」
「プラス、トランクに一人よ」
と志津が言った。「さ、早いとこかつぎ出して」
また|一《ひと》|騒《そう》|動《どう》だった。トランクでは、目白が相変らず眠って――いや、今度の場合は眠らされて、と言うべきだが――いた。
克次と法夫が、まず毛布にくるんだ死体を、続いて目白を、|裏《うら》の通用口から運び込む。
「じゃ二階の、客用の部屋へ」
と志津が|指《し》|揮《き》を取る。「この警部の奥さんがいる部屋以外にしてよ」
「一緒に寝かしたら? 面白いぜ」
「やめてよ」
と千津子が顔をしかめる。「|冗談《じょうだん》言ってる場合じゃないのよ」
「警部さんと殺された女を一緒に寝かして、奥さんがナイフを持ってるとピッタリだけどね」
と志津は残念がっている。
ともかくも、法夫と克次が、まず死体を、それから目白を二階へと運び上げた。
「うーん、そうねえ」
志津が|舞《ぶ》|台《たい》|装《そう》|置《ち》の仕上りを見渡して、「もうちょっと気味の悪いところがあるといいけど……」
「これで充分よ!」
千津子が言った。「あなた、自分のしたことが分ってるんでしょうね!」
と法夫をにらみつける。
「ぼ、僕は何もしないじゃないか!」
「何を言ってるのよ! この……」
|結《けっ》|婚《こん》以来、千津子がこんなに|怒《おこ》ったことはない。|恐《おそ》れをなして、法夫が廊下へ逃げ出した。
「待ちなさい!」
と千津子が追いかける。
「|仲《なか》のいいこった」
と克次が|眺《なが》めて笑い出した。
法夫は急いで階段を駆け降りて、途中で足を|踏《ふ》み外した。|派《は》|手《で》に下まで転げ落ちた法夫は、
「あ……いたた……」
と|呻《うめ》いて、起きられない様子。千津子がゆっくりと降りて来て、
「|天《てん》|罰《ばつ》よ。分った?」
そこへ、悟が玄関から入って来た。
「何だ、千津子。どうした?」
「どうもこうも……」
千津子は手を振り回した。|到《とう》|底《てい》一口で説明できる|状況《じょうきょう》ではない。
「法夫君をやっつけたのか?」
「やっつけそこなったのよ」
悟が|笑《わら》って、
「お前にしては|珍《めずら》しいな」
「これが最初で最後よ」
と千津子が言った。
「何だ、すると――」
と悟が言いかけた時、
「あら、どこに行ってたの?」
と声がして、志津が階段を降りて来た。
悟が言葉もなく、|棒《ぼう》|立《だ》ちになる。
「何よ、そんなびっくりした顔して?」
「い、いや、別に……」
必死に|自《じ》|制《せい》して、平静を|装《よそお》ったが、自分でも、|巧《うま》く行ったとは思えなかった。「まだ起きてたの?」
「大変だったんだよ。お前がいないものだから」
「兄さんがいりゃ、楽だったんだがね」
と後から降りて来た克次は言った。
「そ、そうかい……」
一体何があったのか、|訊《き》くべきなのだろうが、分ってはいても、言葉が出て来なかった。――畜生、あのペテン師め!
「まあ、ちょっと居間で一休みしようよ」
と志津が言った。「重労働だったからね、みんな」
悟も、|半《なか》ば|呆《ぼう》|然《ぜん》とした|状態《じょうたい》のまま、ついて行く。居間へ入ると、電話が鳴った。
「何だ、こんな時間に」
と克次が取った。「永山ですが」
「永山克次さんを」
「僕ですが――」
「橘ですよ」
克次はぎょっとして、他の家族たちの方へ|視《し》|線《せん》を走らせてから、
「おい、ここへはかけるなと言ったぞ!」
と声をひそめて言った。
「理由はあなたの方が、よくご|存《ぞん》|知《じ》だと思いますがね」
「どういう意味だ?」
「そちらの電話番号がよく分ったと思いませんか。あなたからは聞いていない」
「というと……」
「あなたが私を|尾《び》|行《こう》するように依頼した探偵社ですよ。取っ捕まえて手帳を取り上げたんです。そこに書いてありましたよ」
克次は|唇《くちびる》をかんだ。橘のことを少し|甘《あま》く見ていたらしい。相手は続けて、
「今、あなたが次に指定した場所へ来ているんですよ。――えらく|寂《さび》しい所ですね。この住所は|空《あき》|家《や》になってます。明日あたり、誰かが住んでるように細工するつもりだったんですか?」
「いいか、電話じゃまずい」
「そうですね。来て下さい」
「そこへ?」
「そうです。お待ちしていますよ」
電話は切れた。――克次は|舌《した》|打《う》ちした。
「どうかしたのかい?」
と志津が訊いた。
「いや。――ちょっと知ってる|奴《やつ》なんだ。金をなくして立ち|往生《おうじょう》してるらしい。仕方ない。ちょっと出かけて来るよ」
「こんな時間に?」
「すぐ帰るよ」
克次が急いで出て行くのを見て、志津は首を振りながら言った。
「今夜はどうかしてるよ、みんな」
|克《かつ》|次《じ》は車を|停《と》めた。――|確《たし》かに|橘《たちばな》の言った通り、|寂《さび》しい場所の、|空《あき》|家《や》の前である。
車を|降《お》りると、克次は周囲を見回した。
「ここですよ」
急に|背《はい》|後《ご》で声がして、克次は飛び上るほどびっくりした。暗がりから、橘が|現《あらわ》れる。
「何だ、おどかすなよ」
「おどかしてるのはそっちでしょう」
橘が言った。「あなた一人かどうか、様子を見ていたんです」
「一人だよ」
「そのようですね」
と橘は|肯《うなず》いた。
いきなり、固めた|拳《こぶし》が克次の|顎《あご》にぶち当った。克次がみごとにひっくり返る。橘は手を|痛《いた》そうに振った。
「な、何するんだ!」
やっと克次が起き上る。
「この顔を見なさい。|清《きよ》|原《はら》に|殴《なぐ》られ、|蹴《け》られ、半殺しの目にあったんですよ」
「手を出すなと――軽く[#「軽く」に傍点]にしておけと言ったんだが……」
「そんな言いわけは通りませんよ」
と一歩つめ寄り、「さあ、しゃべるか、もっと殴られるか、どっちにしますか!」
「分ったよ! 待ってくれ」
克次はふうっと息をついて、「まあ、怒るのも|無《む》|理《り》はないと思ったんだがね……。これもお|袋《ふくろ》の楽しみのためなんだよ」
「楽しみ?」
「そう。|賭《か》けをやってるのさ。君が、|岡《おか》|田《だ》|智《とも》|美《み》を見付け出すかどうかね。色々と|途中《とちゅう》に|障害《しょうがい》を置いて、さ」
「何だって!」
「ま、そう怒るなよ。お袋はともかく毎年|誕生日《たんじょうび》の|度《たび》に、何か一つ、こういうゲームをやらないと気が|済《す》まないんだ。何しろお袋は|絶《ぜっ》|対《たい》君主でね。誰も|逆《さか》らえない」
「そんな……。じゃ私は要するに|競《けい》|馬《ば》|馬《うま》みたいなものなんですね?」
「ま、まあね。――しかし、馬の方は|血《けっ》|統《とう》がいいよ」
「大きなお世話ですよ」
橘は|腕《うで》|組《ぐ》みをして、「|呆《あき》れたもんだ。金持の道楽にしても、度が|過《す》ぎてやしませんか、ええ?」
「それは分ってる」
「じゃあどうして――」
「お袋の|握《にぎ》ってる|財《ざい》|産《さん》のせいなんだ。――それがあるから|逆《さか》らえない。死ぬまでね」
そう言って、克次は意味ありげに橘を見つめた。
「何です? 何が言いたいんです?」
「君にね、手を|貸《か》してほしいんだ」
「手を?」
「そう。――お袋のしてることは無茶苦茶だ。それはよく分ってる。しかし、|我《われ》|々《われ》では手が出せない。分るだろう。|反《はん》|抗《こう》でもすれば、たちまち相続に|響《ひび》いて来る。ゼロにはならないまでも、生きている内に、重要なポストはどんどん他の兄妹へ回しちまうだろう」
「金やら|名《めい》|誉《よ》やらのどこがそんなにいいんですか?」
「君は持ったことがないからそう言うんだ。――|実《じっ》|際《さい》、君だって思い切りぜいたくな|暮《くら》しをしてみたいと思うだろう」
橘は|肩《かた》をすくめた。
「そりゃ人間ですからね」
「もし|一《いっ》|旦《たん》そういう暮しを味わってしまったらどうなるか。――二度と|手《て》|離《ばな》せなくなるんだ。それをつかんでいるためなら、どんなことだってしよう、とね……」
橘は|当《とう》|惑《わく》気味に、
「分ったような分らないような話ですね。ともかく、私はもうそんな賭けのために痛い目にあうのはごめんですからね!」
「仕方ないね」
克次が、あっさりと言ったので、橘は|却《かえ》って|驚《おどろ》いた。
「じゃ、前金の二十万はいただいておきますからね」
「もっと|欲《ほ》しくないか?」
克次は|探《さぐ》るように橘を見た。
「どういうことです? 実費|請求《せいきゅう》なら――」
「一千万、どうだい?」
橘は|呆《あき》れて、
「まだからかうつもりですか?」
「そうじゃないよ。本気だ」
「一千万。――何をしろと言うんです?」
「お袋を殺してくれないか」
橘が|唖《あ》|然《ぜん》とする。克次はすかさず言った。
「いいかね、|僕《ぼく》らがやれば必ず|疑《うたが》われる。だが君なら大丈夫だ。君にはお袋を殺す動機などないんだからな」
「だからお|断《ことわ》りですね。私が元|刑《けい》|事《じ》だっていうのを|忘《わす》れたんですか?」
「いや。しかし、今は[#「今は」に傍点]刑事じゃなかろう?」
「|馬《ば》|鹿《か》げてる!」
と橘は|吐《は》き|捨《す》てるように言った。「そんなことをしたってね、必ず|捕《つか》まりますよ。目に見えてる。いくら金をくれると言われたって、ごめんですね」
「そうか。――じゃ、|捕《つか》まらなきゃ、やるか?」
「そんな|保証《ほしょう》は|誰《だれ》にもできませんよ」
「だが、他に|犯《はん》|人《にん》がいたら?」
「何です?」
「つまり、犯人に|巧《うま》く仕立て上げられる人間がいたら、ということさ」
「それこそとんでもない! 無実の人間に殺人の|罪《つみ》を着せるなんて、二重の殺人ですよ!」
「ところが、そいつはもともと死ぬことになっている」
「というと?」
「死刑になる。――今|騒《さわ》がれてる|石《いし》|尾《お》という男さ」
「知ってますよ」
「あいつは妹の証言が有罪の決め手になったその上、|裁《さい》|判《ばん》|官《かん》まで殺した。それでもう死刑だ。その上、もう一人女を殺した。今夜ね」
「そいつはまた……」
「時期が時期だ。今、殺人が起きたら、犯人は石尾だと思われるに決ってるよ」
克次は熱心に説いた。「どうだ? やる気はないか?」
しばらくして橘はニヤリと笑った。
「断ったらどうします?」
「どうするんだ、一体?」
|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》な|悟《さとる》が、八つ当り気味に言った。「|酔狂《すいきょう》にもほどがあるよ。死体をうちへかつぎ込んで来るなんて!」
「他にどうしようもなかったのよ」
と|志《し》|津《ず》は|座《すわ》ってさっぱりした顔で言うと、時計を見て、「おやおや、夜が明けちまうよ、こんなことをしてちゃ」
とみんなの顔を見回し、
「早く寝ないと、明日はきっと大騒ぎだよ」
「眠くなんかないわ」
と|千《ち》|津《ず》|子《こ》が|疲《つか》れ|果《は》てた様子で言った。「疲れてるのに、目は|冴《さ》えてるの」
「|俺《おれ》もそうだ」
と悟が言った。――あの野郎、いい|加《か》|減《げん》なことを言って……。誰がフィルムなんか渡すものか!
「じゃ勝手におし。私は|寝《ね》るよ」
と志津は大きな|欠伸《 あくび》をして、居間から出て行った。
残ったのは、悟と、千津子、|法《のり》|夫《お》、それにまだぐっすり眠っている|利《とし》|江《え》の四人だった。
しばらく、誰も口をきかなかった。
「――信じられないわ」
と千津子が言った。「この|屋《や》|敷《しき》の中に死体があるっていうのに……。平気で寝に行けるなんて」
「お袋の|神《しん》|経《けい》はピアノ線でできてるのさ」
悟は苦々しく言った。「今年の誕生日はめちゃくちゃだぜ」
「そうね。でも、いつもそうなんじゃなくって?」
と千津子は言った。「いつも、それを分っていながら、みんな目をつぶってた……。こうやって|事《じ》|件《けん》が起きた方が、いいのかもしれないわ。お母さんも、いやが|応《おう》でも、自分の感覚が、世間|一《いっ》|般《ぱん》とずれてるんだってことが分るわよ」
その時、急に法夫が笑い出した。千津子が|呆《あっ》|気《け》に取られる。法夫は声を上げて、大笑いした。
「――何がおかしいのよ?」
「ええ? だっておかしいさ。君が『世間一般の感覚』なんて言い出すからね。それがおかしくって」
「私が言って、なぜおかしいのよ」
「君だけじゃない。この一家の人間はみんなおかしいよ。金持って|奴《やつ》はそうなんだ。|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》には手が出ない食い物をたらふく食って、こう言うんだ。『世間の人は、どうしてこんなにおいしい物を食べないのかしら』ってな。大体が、『世間一般とは|違《ちが》う』と思ってるくせに、自分は変り者じゃないとも思ってる。全くいい気なもんだよ」
「もういいわよ」
と千津子は固い|表情《ひょうじょう》で言った。「どうせ、あなたはもうすぐこの家族とは|縁《えん》がなくなるんだから」
「なくなって幸いさ」
法夫は開き直ったように言った。「まともな人間に|戻《もど》れるよ、これで」
「行ってよ!」
千津子が|叫《さけ》んだ。「出て行って! この屋敷から出てってよ!」
「出て行くとも!」
法夫は|椅《い》|子《す》を|蹴《け》って――といってもソファだったので、あまり|手《て》|応《ごた》えはなかったが――立ち上ると、居間を出て行った。
「――いいのか?」
と悟が言った。
「いいの。もう|済《す》んだことよ」
千津子は、ほっと息をついた。またドアの開く音がして、振り向きながら、
「何か|忘《わす》れ物?――あら、お母さんなの。どうしたの」
「ベッドに先客があってね」
「ええ?」
悟がふっと|眉《まゆ》を寄せた。
「犬でも寝てたのかい?」
「いいや、違うのよ。目白警部の奥さん」
「まあ、部屋を間違えたんじゃないの?」
「それはいいんだけどね、死んでるのよ、頭を|撃《う》たれて……」
「申し|訳《わけ》ありません」
と|重《しげ》|森《もり》は電話口へ|謝《あやま》った。「明日には必ずフィルムを手に入れますから」
「ああ、分った。|頑《がん》|張《ば》ってくれ」
「はい。すみません、こんな時間に」
「|構《かま》わんさ。――ああ、ところで|守《もり》|屋《や》君」
「はい」
今は仕事用の守屋という名を使っているのだ。
「本当にこれで|辞《や》める気かね?」
「そうさせていただければ……。|娘《むすめ》も|可《か》|哀《わい》そうですし」
「そうか。よく分る。――じゃともかく、これをきれいに片付けて行ってくれ」
「分っています」
「あ、それからな」
「はい?」
「君が重森という名だと、向う側[#「向う側」に傍点]に知れたらしいぞ。充分気を付けてくれ」
「分りました。どうも……」
電話を終えて、重森はホテルの部屋で考え込んだ。――本当の名が知れた。いい時に辞めることにした、とも言えるが、逆に言えば、|狙《ねら》われても味方の助けは借りられないということでもある。
しかし、差し当って危険はないはずだ。向うは彼の動きをつかんでいない。
「さて、寝るか……」
重森は大きく|伸《の》びをして、|敦《あつ》|子《こ》はきっと今|頃《ごろ》よく眠っているだろう、と思った。
「――敦子」
ふっと不安がきざした。――敵は〈重森〉の名を知った。もしかして、あのアパートへ……。
まさか、とは思ったが、つい|無《む》|意《い》|識《しき》に手が電話へのびていた。
水を浴びたように、敦子は全身、|汗《あせ》で|濡《ぬ》れていた。パジャマが、|肌《はだ》にはりついている。|縄《なわ》で|縛《しば》られたままの両手は、とっくに感覚を失っていた。
目の前に|銃口《じゅうこう》があった。|撃《げき》|鉄《てつ》が起きる。男の指が引金にかかる。敦子は目を|閉《と》じた。額に冷たい銃口が押しつけられる。
カチッと、音は聞こえないが、|震《しん》|動《どう》を感じた。全身から、また冷汗が吹き出す。――助かったのだ!
TVなどで見たことのある、やり方だった。回転弾倉に一発だけ弾丸を入れ、弾倉を手でクルクルと回しておいて、それから引金を引く。
死ぬ|確《かく》|率《りつ》は六分の一……。
男が笑っている。太った方の男も。――声は聞こえなかった。もう二度と聞こえないのかもしれない……。
男が、またゆっくりと口を開いた。
「言うか?」
敦子は首を横に振る。もう、このやりとりが何回も続いていた。
また銃口が、敦子の目の前に|迫《せま》って来た。今度こそ、死ぬかもしれない。――目を閉じた。
しかし、|一《いっ》|向《こう》に引金を引く衝撃がない。目を開いた敦子は、二人が電話の方を見ているのに気付いた。
電話がかかっている! お父さんだろうか?――男が手をのばして受話器を取った。
その|瞬間《しゅんかん》、敦子は身を投げ出すようにして、受話器へ顔を近付けた。口につめてあった|布《ぬの》は、もう声を出す力もなくなったと思ったのだろう、取ってあった。
「お父さん、|危《あぶな》い! 来ないで!」
と|精《せい》|一《いっ》|杯《ぱい》|叫《さけ》ぶ。男が敦子を突き飛ばした。
――どれくらいの声が出たのか分らないが、少なくとも通じたのだ。男がいまいましげに受話器を|戻《もど》してしまった。
男の目に怒りがあった。敦子の方へ近付いて来る。敦子は動かなかった。逃げてもむだだ。手を縛られていては、自由には動けない……。
男は自分のネクタイを外した。そして、敦子の首にネクタイをかけると、ちゃんと、|普《ふ》|通《つう》のやり方で、|締《し》めた。ネクタイの|生《き》|地《じ》が|肌《はだ》にじかに|触《ふ》れて、チクチクと|刺《さ》すように|痛《いた》い。
太った男が、笑って見ている。
男は、下になったネクタイの短い方をつかんで、ぐいと|引《ひっ》|張《ぱ》った。息が|詰《つ》まって、敦子は|咳《せき》|込《こ》んだ。男が締め続ける。
殺される、と思った。このまま|絞《し》め殺されるに違いない。
目の前が暗くなった時、締めつける力が|緩《ゆる》んだ。――敦子はそのまま|倒《たお》れて、気を失った。
「娘に手を出すな」
と重森は言った。
「それなら、今度は電話を切るなよ」
「分った」
と重森は言った。「望みは何だ?」
「例のフィルムだ」
「よし。しかし今は持っていない」
「かつごうったって――」
「本当だ。娘の命がかかっているのに、ごまかしたりはしない」
「ふん。信じておこう」
「今日中に手に入る」
「昼までだ。一時に持って来い」
「どこへだ?」
「このアパートでいいさ。娘もおとなしく待ってるからな」
重森は、男が忍び笑いを|洩《も》らすのを聞いて、怒りに体が震えた。
「いいか! 娘には手を出すな! 分ったか!」
と怒鳴った。しかし、もう電話は|沈《ちん》|黙《もく》していた。
第四章
「おはよう」と|志《し》|津《ず》が言った。
「朝なのね」
|千《ち》|津《ず》|子《こ》は、明るくなり始めた|窓《まど》の方をぼんやりと|眺《なが》めながら言った。「本当に朝なの? 気分は真夜中って感じだわ」
それから、ふと気付いて、
「ああ、お|誕生日《たんじょうび》おめでとう、お母さん」
と言った。
「ありがとう。そう言ってくれたのは、千津子が最初よ」
「とんでもない誕生日になったわね」
「どういたしまして。|結《けっ》|構《こう》|賑《にぎ》やかでいいじゃないの」
千津子は思わず|笑《わら》ってしまった。全くユニークさもここまで来ると、|立《りっ》|派《ぱ》なものである。
賑やかといえば、この朝の|永《なが》|山《やま》|邸《てい》は、さながら、戦場と|特売場《とくばいじょう》――|妙《みょう》な取り合せだが、――を一しょくたにしてしまったような|騒《さわ》ぎであった。
何しろ|現職《げんしょく》の|警《けい》|部《ぶ》が人気モデルを|刺《し》|殺《さつ》したのではないか、というニュースに加えて、その警部の|妻《つま》も|射《しゃ》|殺《さつ》されたとあって、どのマスコミも取材に殺到した。
さしもの|大《だい》|邸《てい》|宅《たく》が、今日ばかりは|手《て》|狭《ぜま》に感じられるほどであった。
「でも、何だか後味が悪いわ」
と千津子が言った。
「どうして?」
「だって、あのモデルは、いわば私の|替《かわ》りに殺されたんだし、警部の奥さんは、お母さんの替りに殺されたんでしょう」
「そうと決ったわけでもないよ」
と志津は|至《いた》って|呑《のん》|気《き》である。「それに、まだ『後味』なんて言わない方がいいよ。これから何が起るか分らないんだからね」
「いやなこと言わないでよ」
と千津子は|情《なさけ》ない顔をした。
「ところで、あんたのご|亭《てい》|主《しゅ》は?」
「え? ああ……」
と考えて、「いないわね、そう言えば」
「呑気だねえ」
「あ、そうか。|昨夜《 ゆうべ》、|喧《けん》|嘩《か》して『出て行け!』ってやっちゃったから、出て行ったのよ、きっと」
「あの人、どこか行く所あるのかい?」
「さあ。子供じゃないんだから、どこかあるでしょ」
とあっさり|片《かた》|付《づ》けて、「気になってるのはそれだけじゃないのよ」
「何なの?」
「あの男よ。|石《いし》|尾《お》」
「ああ、人殺しね、例の」
「|昨日《きのう》も気になってたんだけど、あのモデルを石尾が殺したとするでしょ。そうするとおかしくない?」
「どういう風に?」
「つまり、モデルを殺して、|法《のり》|夫《お》さんに|罪《つみ》を着せる気なら、あんなにいつまでも放っておくかしら? 私たちが|駆《か》けつける前に、警察を呼ぶなり何なりしたと思うのよね」
「ふん。それもそうだね」
「ね? 石尾の|復讐《ふくしゅう》の|的《まと》は私のはずでしょ? それなのに、一向に私を|狙《ねら》って来ないじゃないの」
「何か別の手を考えてるのかもしれないよ。気を付けないと」
「それもそうね……。でも、モデル殺しで、本当にあの警部さん|逮《たい》|捕《ほ》されるかしら?」
「どうせ|証拠《しょうこ》不十分になるよ、|大丈夫《だいじょうぶ》」
「そうかしら。あーあ、何が何だか分らなくなって来ちゃった」
とため息をつく。そこへメイドが、
「あの、お|嬢様《じょうさま》、お電話でございます」
と声をかけて来た。
|噂《うわさ》をすれば、というわけでもあるまいが、
「やあ、石尾だよ」
「あら、何の用なの?」
「|亭《てい》|主《しゅ》は|預《あず》かったぜ」
「何ですって?」
思わず千津子は|訊《き》き返した。
「お|宅《たく》の|旦《だん》|那《な》をよ、お預り申し上げたのさ。預り証でもなきゃ信用しねえか?」
「一体何のつもりなの?」
「決ってらあ。|誘《ゆう》|拐《かい》と来りゃ|身《みの》|代《しろ》|金《きん》|請《せい》|求《きゅう》と来なくちゃ」
「身代金?」
「そう。どうだ? 一億出せよ」
「い、一億? 気は|確《たし》かなの?」
「お前のうちにしてみりゃ大したことはあるまい。ええ?」
「そんな……」
「いいな。|詳《くわ》しいことはまた追って|連《れん》|絡《らく》する」
「待ってよ、ちょっと――」
電話は切れてしまった。千津子は|唖《あ》|然《ぜん》として、母の方を見た。
「――分った?」
「大体はね」
と志津が|肯《うなず》く。「〈身代金〉〈一億〉と聞きゃ見当はつくよ」
「全くもう、あの人ったら!」
と千津子は頭をかかえた。
「どうするの?」
「もう知らない! 勝手に殺されちまえばいいのよ」
「そんなこと言って、お前……」
「だって、一億円なんて、とても――」
と言いかけ、|慌《あわ》てて声を低くする。何しろ|地《じ》|獄《ごく》|耳《みみ》の記者たちが大勢来ているのだ。|下《へ》|手《た》なことはしゃべれない。
「そんなに|払《はら》えっこないじゃないの」
「でも、もし殺されたら、|寝《ね》ざめが悪くない?」
「別に」
と千津子は冷たく言い放った。「|殺《さつ》|人《じん》|犯《はん》として|捕《つか》まるんじゃ|困《こま》るけど、誘拐|事《じ》|件《けん》の|被《ひ》|害《がい》|者《しゃ》なら、みんなに同情されるから、ましよ」
「そんなもんかね」
と志津も大して関心のない様子で、「じゃまあ|好《す》きにしなさい」
と言った。
「やれやれ、参ったよ、|畜生《ちくしょう》!」
|悟《さとる》がブツブツ言いながらやって来た。「どうして記者の連中にトイレの場所まで教えてやらなきゃいけないんだ?」
「今日だけよ。|我《が》|慢《まん》なさい」
「そう願いたいね」
悟としては|腹《はら》の立つことばかりである。やっとの思いで母親を始末したと思えば、全くの別人。加えてあのモデルの死体。この騒ぎ。――|苛《いら》|々《いら》は|頂点《ちょうてん》に達していた。
「お客様です」
というメイドの言葉にも、かみつかんばかりの勢いで、
「今、|忙《いそが》しいんだ!」
と|怒《ど》|鳴《な》った。メイドは飛んで行ったが、またすぐに|戻《もど》って来て、|恐《おそ》る恐る、
「どうしても|至急《しきゅう》お目にかかりたい、と……」
「|誰《だれ》なんだ、一体?」
「ボストンバッグのことで、とおっしゃってますが」
あいつだ!
「よし、すぐ行く。待たせとけ」
「あの、どちらのお部屋で……」
「どこでもいい。――いや、あんまり人目につかない所がいいな」
「今日はお客様が多くて……」
「お前の部屋を|貸《か》してくれ」
「え?」
とメイドが目を丸くした。
「こんな所で悪いですな」
と、メイドの部屋へ入って、悟が言うと、|重《しげ》|森《もり》は|即《そく》|座《ざ》に、
「フィルムをいただきたい」
と言った。
「ちょ、ちょっと待って下さいよ」
悟は|苦笑《くしょう》して、「あなたは私のバッグを持って来てくれると――」
「そんなことを言っている|余《よ》|裕《ゆう》はないんです!」
と重森が|遮《さえぎ》った。「すぐにフィルムを持って来て下さい!」
「それはね、あなたは確かに殺してくれた。ところがあれは別人だったんですよ」
「何ですって?」
「ひょんなことで|泊《とま》っていた、警官の|女房《にょうぼう》でね。|間《ま》|違《ちが》えて母の部屋へ入り|込《こ》んでいたわけです。全く不幸な|偶《ぐう》|然《ぜん》でした」
「それは私の|責《せき》|任《にん》ではありません。あなたに言われた通りの部屋へ行き、寝ていた女性を|射《しゃ》|殺《さつ》した。それが別人だろうと私の知ったことではありません。フィルムをいただきたい」
悟は一つ|咳《せき》|払《ばら》いをして、
「どうでしょうね、もう一度改めて――」
「そんな|暇《ひま》はない!」
重森が|鋭《するど》く|遮《さえぎ》った。そして何とか|感情《かんじょう》を|押《おさ》えつけると、
「私の|娘《むすめ》が|人《ひと》|質《じち》に取られているんです。早くあのフィルムを持って行かないと娘が|危《あぶな》い。お願いします。フィルムを持って来て下さい」
「そうでしたか、それはお気の毒な……」
悟はそう言って、|素《す》|早《ばや》く考えをめぐらした。相手が急いでいる時は高く売りつけることができる。これが商売というものだ。
「分りました。今、持って来ましょう。ただし……」
「ただし?――そんな|条件《じょうけん》はなかったはずですよ」
「今、|提《てい》|案《あん》しているんです。機会を改めて、もう一度やってもらえませんかね」
「お|断《ことわ》りします」
重森はきっぱりと言った。「こんな商売をしていたばかりに、娘は|危《き》|険《けん》な目にあっている。もうやりません。そんなにお母さんを殺したければ、ご自分でおやりなさい」
「なるほど」
悟が表情を固くした。「それでは考え直さなくてはいけませんな」
「考え直せる内に、フィルムを取って来なさい!」
まるで|奇術《きじゅつ》のように、重森の手がチラと動いたと思うと、|拳銃《けんじゅう》が|握《にぎ》られていた。
悟とて拳銃を突きつけられたのは初めてだ。|一瞬《いっしゅん》青ざめたが、すぐに気を取り直して、
「|撃《う》ったら……フィルムのありかは分りませんよ」
と|震《ふる》え気味の声で言った。
「一発で死ぬとは限りませんよ。死に切れずにもがいているのは苦しいそうですな」
重森の声が、同じ声なのに、まるで別人のそれのように、|凄《すご》|味《み》を帯びている。
「そ、それに、今、ここには警官が大勢いるんですぞ。撃てばたちまち駆けつけて来るんだから……」
「強がりはおやめなさい。警官が何百人来ようが、それは|弾《た》|丸《ま》があなたの|胸《むね》に|届《とど》くまでには間に合わない」
重森とて内心は|焦《あせ》っている。敦子のことも心配だし、ここが警官だらけなのも|承知《しょうち》だ。しかし、永年の|経《けい》|験《けん》が、どんな|窮地《きゅうち》に立っても、落ち着き|払《はら》った外見を|装《よそお》うすべを身につけさせていたのだ。
悟の方は、|額《ひたい》に玉のような|汗《あせ》を|浮《う》かべていた。――じっと|射《い》すくめるような重森の|視《し》|線《せん》に、悟は|降《こう》|参《さん》した。
「分りました。持って来ますよ」
「手早く願いましょう。|途中《とちゅう》で警官にでも話したら……いいですね、たとえ射殺されても、あなたに必ず一発ぶち込みますからな」
悟がぞっと身震いした。プロには|到《とう》|底《てい》|敵《かな》わないのだ、と|諦《あきら》めた。
突然、ドアが開いてメイドが顔を出した。
「失礼します。警察の方が――」
と言いかけて、重森の手の拳銃に気付いた。
「キャーッ」
と|悲《ひ》|鳴《めい》を上げる。重森は|舌《した》|打《う》ちした。|反《はん》|応《のう》は|敏《びん》|速《そく》だった。とっさに悟を突き飛ばし、ドアから飛び出す。
「キャーッ! 誰か! 誰か来て!」
メイドは叫び続けている。
重森は廊下を通用口へ向って走った。そして、通用口のドアを思い切り開け放つと、そのまま|逆《ぎゃく》に取って返し、二階に上る|狭《せま》い|階《かい》|段《だん》を駆け上り、その途中で身を|伏《ふ》せた。
|危《き》|機《き》|一《いっ》|髪《ぱつ》。警官たちが目の下を駆け抜け、通用口から外へと飛び出して行く。
重森は大きく息をついた。まだ出て行くわけにはいかないのだ。あのフィルムを手に入れるまでは……。
「はっきりお答えいただきたいですな」
と刑事が言った。
「答えてるじゃありませんか、さっきから」
悟がうんざりした声を出す。
「それでは、その拳銃を持った男を、あなたは全くご|存《ぞん》|知《じ》ないとおっしゃるんですね?」
「もちろんです。その手の人間とは付き合いがありませんのでね」
「じゃ、あなたはどうしてメイドの部屋に入ったんです?」
悟がぐっと詰まったが、すぐに、
「あ、あれは廊下でホールドアップされたんです」
「するとそれからメイドの部屋へ?」
「そうです」
「それで男は金を出せ、としか言わなかったんですか?」
「ええ」
「ははあ……。しかしですね、こんなにパトカーやら新聞社の車が|停《とま》っている家へ|強《ごう》|盗《とう》が入るというのは妙ですな。しかも白昼に」
「きっと前後の予定が|詰《つ》まってたんじゃないですか。私もよくそういうことがありますよ。会議の|日《にっ》|程《てい》や何かで」
会議と強盗を一緒にしている。
「昨夜、|目《め》|白《じろ》警部の|奥《おく》さんが、拳銃で撃ち殺された。今日は拳銃を持った強盗……。妙な|偶《ぐう》|然《ぜん》ですね」
「そうですね。|現《げん》|実《じつ》には結構偶然と言う他ない事が起るでしょう。そんなものですよ、人生というのは」
|我《われ》ながら、勝手なことを言っていると感心した。しかし、このいい|加《か》|減《げん》な説明に、刑事が|渋《しぶ》|々《しぶ》ながら|納《なっ》|得《とく》してしまったのには|却《かえ》ってびっくりした。
やはり、こんな大邸宅の住人は|嘘《うそ》をつかないという、先入観があったのだろうか。
「犯人は中年男で、|中肉中背《ちゅうにくちゅうぜい》、|特徴《とくちょう》はなし……」
刑事も首をひねって、「まあ、〈男〉だってことだけでもはっきりしてて幸いでした」
と言って、居間を出て行った。
「――今のは皮肉かね」
と悟が言うと、千津子は、
「そうなら|効《こう》|果《か》的ね、お兄さんの言い方は、およそ|曖《あい》|昧《まい》にすぎるわよ」
「しかしな、千津子、目の前に銃口がある時のんびり相手を観察してる暇なんかないぞ」
「それにしたって……」
「ま、いいじゃないか。ともかく、|奴《やつ》は何も|盗《と》らずに|逃《に》げたんだし……」
と悟は立ち上って、「さて、|俺《おれ》はちょっと出て来るよ。仕事の話で人に会わなきゃならない」
「行ってらっしゃい」
悟が出て行くと、千津子はため息をついた。
「どうなっちゃってんの、この家は? 一度に二つも死体が転がり込んで来たり、誘拐で身代金一億円かと思うと、今度はピストル強盗……。まだ続くのかしら?」
|志《し》|津《ず》がゆっくりと千津子の|傍《そば》へ行って|座《すわ》った。
「お前はいい子だよ。|素《す》|直《なお》で、|善良《ぜんりょう》で。――でも、ちょっと人を信じすぎるきらいはあるけどね」
「|裏《うら》|切《ぎ》るより、裏切られる方がましよ」
「まあまあ、まるで教会のお説教だね」
と志津は笑って、「私なんか裏切られすぎて、もう|慣《な》れっこだよ」
「オーバーねえ」
「本当さ。早い話が、今の悟の話だって、みんなでたらめよ」
千津子は|面《めん》食らって母の顔を見た。
「どうして分るの?」
「そのピストル強盗は、昨日私と|間《ま》|違《ちが》えて、あの警部の奥さんを殺した男だよ」
「そりゃ私だって見当ついてるけど……」
「悟が|雇《やと》ったんだよ、私を殺させるためにね」
「まさか!」
千津子が|唖《あ》|然《ぜん》とした。
「本当よ。お前、|昨夜《 ゆうべ》、私の|姿《すがた》を見た時の、悟の顔を見なかったかい? てっきり私が死んでると思ってたから、|仰天《ぎょうてん》しちゃったのよ」
「そんなこと……」
「雇われた男は、言われた通り、私の|寝《しん》|室《しつ》へ入って、|寝《ね》ていた女を殺した。でも、それは私じゃなかった」
「それじゃ、今日その男が来たのは?」
「金を受け取りに来たんだろうね。それが人違いだったというんで、悟が|払《はら》いを渋ったんじゃないかしら。で、こじれてその男がピストルを取り出した所へメイドが……という|筋《すじ》|書《が》きよ」
「信じられないわ! 悟兄さんが……」
「あの子は大分借金があるのを私に|隠《かく》してるのよ」
「悟兄さんはそんなことしないと思ってたわ。――|克《かつ》|次《じ》兄さんなら分るけど」
「どっちもどっちさ」
志津は|愉《ゆ》|快《かい》そうに、「みんな私が死ぬのを待ってるんだよ」
「お母さん――」
「みんながうんざりするくらい長生きしてやろうと思ってるんだ、私は」
千津子は、母の言葉の中に、|寂《さび》しげな|響《ひび》きを聞き取った。――こんなことは、初めてだ……。
「ところで、千津子」
「何?」
「お前、|旦《だん》|那《な》の方はどうするの?」
「あ、忘れてた」
と千津子は頭を|叩《たた》いた。
一人になりたい、と千津子は|二《に》|階《かい》へ上って行った。
人殺しだの誘拐だの、そんな話はもう|沢《たく》|山《さん》だ! この家には、まともな|神《しん》|経《けい》の持主はいないのだろうか?
「もっとも、私だって分らないわ……」
と千津子は一人ごちた。
|狂人《きょうじん》は、自分ではそうとは分らないものなのだ。自分だって……|法《のり》|夫《お》の|捨《す》てゼリフではないけれど、「金持」という|枠《わく》の中を駆け回っているのかもしれない。
兄たちと自分も、結局同じ|檻《おり》の、別の|隅《すみ》にいるだけではないかしら。
自分の部屋に入ると、千津子はベッドに横になった。――|至《いた》って|単純《たんじゅん》ながら、ベッドにいると、つい法夫のことを考える。
もうすっかり愛想はつかしたつもりだが、それでも、こうして一人になって冷静に考えてみると、|可《か》|哀《わい》そうな気がして来る。
もし、これが、誘拐されたのが赤の他人で、その人と引き|換《か》えに一億円よこせと請求されたら、どうだろう?――もちろん払う|義《ぎ》|務《む》も義理もないわけだが、きっと、人の命が救えるのなら、と一億円でも払うのではないかしら?
それでは、夫たる法夫の命が、赤の他人より軽いということになる……。
「そうだわ」
やっぱり、放っておいてはいけない。|到《とう》|底《てい》作れないという|金《きん》|額《がく》ではないのだもの。払ってあげなくては……。
別に法夫に未練があるというわけではないのだ。ただ、それだけのことをやっておけば心おきなく――というのも変だが――別れられる。お母さんに相談して……。
ふと気が付くと、目の前に銃口があった。
「お静かに」
とその男は言った。「殺したくないのです。いいですね?」
そう|訊《き》かれたって「いやです」と答えるわけにもいかず、千津子は、
「ええ……」
とこっくり|肯《うなず》いた。
「警察は?」
「帰りましたわ。あの――二、三人、門の|辺《あた》りにいますけど、あれは|護《ご》|衛《えい》のためなんですの」
「分りました」
とその男は肯いた。「悟という人は?」
「兄なら、出かけましたけど……」
男の顔に、はっきりと失望の|表情《ひょうじょう》が|現《あらわ》れた。
「どこへ行ったか分らないでしょうね」
「ええ。仕事の話と言っていましたけど、たぶん口実だと思います」
「|困《こま》ったな!」
男の顔には、思いつめた、|容《よう》|易《い》ならぬ表情が現れた。
千津子は不思議な気持でその男を見ていた。最初のショックが|過《す》ぎると、|恐怖感《きょうふかん》というものを、不思議なほど感じていなかったのだ。
男は、どう見ても|穏《おだ》やかな中年のサラリーマン――いや、もっと知的な|職業《しょくぎょう》に|携《たずさ》わる人間という印象である。だからといって拳銃が|似《に》つかわしくないかというと、そんなこともなくて、いかにも手になじんだ感じで、|熟練《じゅくれん》を|窺《うかが》わせる。
男は千津子を見て、
「フィルムがどこにあるか、知っていますか?」
と訊いた。
「フィルム?」
「あなたのお兄さんと間違えたボストンバッグに|隠《かく》してあった八ミリフィルムです」
「ああ、そういえば、克次兄さんが|映《えい》|写《しゃ》してみようと言ってたわ。私は見てないけど」
「じゃ、それがどこにあるかも分らないんですね」
「ええ、|一《いっ》|向《こう》に。私、実物を見てもいませんもの」
「そうですか……」
男はゆっくりと銃口を下へ向けた。「この広さでは|捜《さが》しようもない……」
「そんなに大切なものなんですか?」
「中味はともかく、娘の命がかかっているんですよ」
「ええ?」
千津子はびっくりして、「娘さんが?」
「昼までにあれを|届《とど》けなくては……」
「あなたはどういう人なんですか?」
と千津子は訊いた。
「ある|組《そ》|織《しき》があって、私はその一員です。それ以上は私も言いませんし、あなたも知らない方がいいでしょう」
「じゃあのフィルムは――」
「もう一つ、|我《われ》|々《われ》と敵対している組織があります。例のフィルムは、その組織の一人が|秘《ひそ》かに|撮《さつ》|影《えい》したものでしょう。中味は正確には分りませんが、相手が命をかけて守るほどの物です。かなり重要な物に違いないでしょう」
「で、それが兄の所へ……」
「敵の一人が、私に気付いて、バッグを|素《す》|早《ばや》く、お兄さんの物と取り換えたんですね。それを知らず、私はその男を殺して、バッグを|奪《うば》いました。しかし、中味は全く似ても似つかぬ書類やら|洗《せん》|面《めん》道具でした……」
千津子は、男の口から、「殺した」という言葉が、いかにもビジネスライクに出て来るのを聞いて、一瞬ヒヤリとした。
しかし、別に、この男は殺人狂というわけではないのだ。彼にとって殺人とは、要するにビジネスそのものなのだ……。
「昨日、母と間違えて、女の人を|射《う》ったのはあなたですね?」
拳銃を手にした相手には、至って不用心な|質《しつ》|問《もん》である。しかし、男は|素《す》|直《なお》に|認《みと》め、悟との|約《やく》|束《そく》の内容もしゃべって、
「――それで困ってしまっているのです」
と付け加えた。
殺人を仕事にしている人にしては、こんな初対面の相手にペラペラとよくしゃべるものだ、と思ったが、どうやら話すことで不安を|紛《まぎ》らわそうとしているようだと分って来た。
「お手伝いしたいけど――。私もいつもはここに住んでいないんで、どこをどう捜していいのか分らないわ」
「お気持だけで充分です」
と男は|微《ほほ》|笑《え》んで言った。「おどかして申し|訳《わけ》ありませんでした」
「いいえ。どこへいらっしゃるの?」
「娘を助け出しに行きます」
「でもフィルムがなくて――」
「一戦|混《ま》じえることになるでしょうが、やむを得ません」
「向うは何人?」
「さあ。少なくとも二人でしょう」
「娘さんが人質なのに……」
「放ってはおけませんよ」
「そうだわ!」
と千津子が手を打った。「いい手があるわ!」
「え?」
「だって、娘さんを人質に取ってるその連中だって、その八ミリはまだ見ていないわけでしょう」
千津子は熱心に言った。「だったら、何でも八ミリフィルムなら|構《かま》わないんだわ。八ミリは小さくて、目で見たって何が写ってるか分りませんもの」
「なるほど。しかし、|適《てき》|当《とう》なフィルムがありますか?」
「何でもいいんですわ。ここにはないけど、それこそカメラ屋さんで売ってる〈バンビ〉とか〈|白《しら》|雪《ゆき》|姫《ひめ》〉とか」
男も思わず|笑《え》|顔《がお》になった。
「なるほど! そこまでは頭が回らなかった。お礼を言いますよ」
「いいえ。私、お手伝いしましょうか」
「あなたが? どうしてまた?」
「お嬢さんを人質に取るなんて|卑《ひ》|劣《れつ》だわ。私でもいないより、まし[#「まし」に傍点]かもしれません。それに――」
「何です?」
「もし、お嬢さんを|無《ぶ》|事《じ》に助けられたら、お願いがあるんですが」
「どういうことですか?」
「主人も人質になってまして……。助け出すのを手伝っていただきたいんですが」
何とも話がこんがらがって来た。
玄関のチャイムが鳴った。
「おい」
と背広姿の男が|顎《あご》でしゃくって見せた。
「|奴《やつ》かな?」
「そうだろう。ちょうど時間だ」
――敦子は、|微《かす》かだが、男たちの話し声が聞こえるようになっていた。父なら何か叫びたかったが、口に布を押し込まれ、|縛《しば》られていて、どうすることもできない。
もう一度チャイムが鳴る。――太った男がドアを開けようとして、
「誰だ?」
と声をかけた。
「デパートからお届け物です」
と女の声。
「畜生! どうする、|兄《あに》|貴《き》?」
「開けて下さいよ」
と女の声がせっつく。
「仕方ねえ、受け取っとけ」
男は拳銃を出して、敦子の|脇《わき》|腹《ばら》へ押し当てた。「静かにしてろ。ここなら玄関から見えねえ」
ドアが開くと、三十ぐらいの主婦らしい様子の女が、大きな箱に、伝票を持って入って来た。
「何だ、店員じゃねえのか」
「今は|地《ち》|域《いき》ごとの配達員は大体パートの|主《しゅ》|婦《ふ》なんですよ」
と女は言って、「|印《いん》|鑑《かん》をお願いします」
「印鑑? そんなものいらねえよ」
「いえ、押していただかないと困るんです」
「困るったって……。|俺《おれ》は|留《る》|守《す》|番《ばん》なんだ、どこに印鑑があるか知らねえよ」
「まあ、困った。受け取ったって証明がないと私も困るんですよね」
「なきゃ仕方あるめえ」
「じゃ、あなたの|拇《ぼ》|印《いん》でいいです」
「指で押すのか?」
「ええ。|朱《しゅ》|肉《にく》は持ってますから」
と女がポケットから朱肉を取り出す。
「やれやれ、仕方ねえな」
太った男がかがみ込んで、親指を朱肉へ押し当て、「じゃ、どこだ?」
「ええと、ここの所……」
とやっていると、開け放したドアから、重森が入って来た。
「あら、お帰りになったんですか」
と女が言った。太った男がギョッとして動けなくなった。
「フィルムは持って来た」
重森がリールを三本、取り出して言った。「お前一人じゃあるまい」
背広姿の男が出て来た。重森がじっと鋭い目で|見《み》|据《す》えると、
「娘は? 無事だろうな」
と言った。相手が、背広の下に拳銃を持った手を入れていることは分っていた。
「あの、すみません」
デパートの配達員の女が、重森に向って言った。「お届け物で、印鑑いただきたいんですけど」
背広姿の男はゆっくりと一つ息をつくと、
「運のいい|奴《やつ》だな、|貴《き》|様《さま》は」
と言った。素早くフィルムをポケットへねじ込むと、太った男を|促《うなが》して、部屋を出て行く。
太った男の方は、朱肉をつけた親指のやり場に困りながら、|慌《あわ》てて、後を追った。
「敦子!」
重森は部屋へ飛び込んだ。
千津子は、二人の男が車で走り去るのを確かめて、部屋へ戻って来た。|冷《ひや》|汗《あせ》ものだが、|巧《うま》く行った!
「お嬢さんは大丈夫――」
と部屋へ上って、「まあ」と思わず声を上げた。
切り取られた髪の毛が、|散《さん》|乱《らん》している。
「ひどいことを……」
重森は、青ざめた顔で、敦子を|抱《だ》きしめていた。
「あいつらめ!……殺してやる!」
怒りで声が|震《ふる》える。
「やめて、お父さん」
敦子が顔を上げた。「髪ぐらい、またのびるわ」
「しかし、お前、手がこんなに|紫色《むらさきいろ》になって……ひどいことを……」
「お父さんがどこにいるかって訊かれたのよ」
と敦子は言って、「でも、言わなかったわ! 私、言わなかった!」
と誇らしげに|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「お前は――」
重森は|絶《ぜっ》|句《く》した。そして娘を抱きしめると、目に|涙《なみだ》が|溢《あふ》れ出た。
「あの――ここにいない方がいいですよ」
と千津子が言った。「今の二人が、フィルムの中味に気が付いて|戻《もど》って来ると大変ですわ」
「――ええ。あなたのおかげで無事に助け出せましたよ。何とお礼を申し上げていいか……」
「そんなことより、早く!」
パジャマ姿のままの敦子を、重森が背負って、千津子が運転して来たボルボの後部座席へ乗り込む。
「お父さん、どこへ行くの?」
と敦子が訊いた。
「さあ、どこへ行くかな。ともかく、ここへはもう二度と帰って来ない」
「ええ? どうして?」
「|危《き》|険《けん》だ。もうお前をこんな目にはあわせないからね」
「そうね」
敦子は父の|肩《かた》にもたれて、「このことは人にしゃべっちゃいけないんでしょう?」
と訊いた。
「そうだよ。なぜ?」
「友達に自慢できなくてつまらないわ」
重森は笑って娘を抱き寄せた。――緊張がほぐれたのか、やがて敦子は眠ってしまった……。
「いいお嬢さんですね」
車を運転しながら、千津子が言った。「お嬢さんのためにも、今のお仕事は|辞《や》めた方が……」
「その決心がつきました」
重森は|肯《うなず》いて言った。「たとえ一生逃げ回ることになろうと、二度とあの商売には戻りませんよ」
「よかったわ」
千津子が|微《ほほ》|笑《え》んだ。「――ところで、|伺《うかが》うのを|忘《わす》れてましたわ」
「何でしょう?」
「どこへ行けばいいのかしら?」
「Pホテルへお願いします」
と言って、「すみませんね、こんなことまでお願いして」
「いいえ」
その時、運転席のわきの電話が鳴り出した。
「あら、|珍《めずら》しい。こんな物使ったことないのに。――はい、――あ、お母さん?」
千津子はボルボを道の端へ寄せて、|停《とま》った。
「え?――何ですって!?」
「だからさ、向うが金額を|値《ね》|下《さ》げして来たんだよ」
と志津が言った。「三千万でいいとさ」
「それで?」
「至急必要だから、今日の三時までに|揃《そろ》えろって」
「三時? もう時間がないじゃないの。どうしよう?」
「お前は払うつもりかい?」
「ええ。そうしようと思うの。人一人の命には換えられないわ」
「それなら、そのままM銀行のいつもの支店へお寄り」
「銀行へ? だって、通帳も何も――」
「支店長へ電話してあるからね、三千万用意して待ってるはずだよ」
千津子はちょっと間を置いて、
「ありがとう」
と言った。
「じゃ、お金を持って行く場所を言うからね」
「待って、メモするわ」
電話を切ると、千津子は、重森に事情を説明して、
「――すみません、時間がないので、先に銀行へ回らないと」
「むろんです」
重森が肯いた。「あなたとのお約束も|果《はた》さなくてはなりません。ちょうどいい機会です」
「でも、もう危険なことは――」
「これで最後ですよ」
と言って、重森は|微《ほほ》|笑《え》んだ。
「どうもすみません、急に」
「いやいや」
支店長は|温《おん》|厚《こう》な|笑《え》|顔《がお》で|応《おう》じた。「お|宅《たく》のお母様なら、これぐらいのこと|珍《めずら》しくもありません」
「そうですわね」
|千《ち》|津《ず》|子《こ》も|微《ほほ》|笑《え》んだ。「それじゃ、急ぎますので――」
「はい。このアタッシュケースです」
支店長が開くと、中に一万円|札《さつ》、五千円札、千円札がびっしりと|詰《つ》まっていた。「新札でない方が、ということでしたので、そのようにしてあります」
「分りました」
「お|確《たし》かめになりますか?」
「いえ、|結《けっ》|構《こう》ですわ。私の方が数え|違《ちが》えたらみっともないわ」
と笑顔で言って、ケースを|閉《と》じ、立ち上った。
支店長は、千津子が帰った後、|難《むずか》しい顔で考え込んだ。
あれだけの|資《し》|産《さん》|家《か》である。三千万くらいの金を、|即《そく》|日《じつ》|現《げん》|金《きん》で、ということも、今までなかったわけではない。
しかし、〈新札でない、続き番号でない札〉というのが気になる。むろん|身《みの》|代《しろ》|金《きん》という|可《か》|能《のう》|性《せい》が強いからだ。
|警《けい》|察《さつ》がすでに|介入《かいにゅう》しているのなら、警察からこっちへ|連《れん》|絡《らく》があるはずだ。――|通《つう》|報《ほう》すべきだろうか? しかし、|下《へ》|手《た》なことをして、あの|永《なが》|山《やま》|志《し》|津《ず》を|怒《おこ》らせてしまったら……。
|預《よ》|金《きん》を全部他行へでも移されたら大変だ。といって、これを通報しなかったことが、後で問題になったら? きっと全|責《せき》|任《にん》を取らされるのは自分だろう。
もう一つ、支店長をためらわせているのは、今の千津子の|態《たい》|度《ど》であった。
もし家族が|誘《ゆう》|拐《かい》されたのなら、ああもにこやかにしてはいられまい。しかし、明らかに急いでいる様子ではあったが……。
支店長は考え込んだまま、じっと電話機をにらみつけていた。
「場所はどこです?」
と|重《しげ》|森《もり》が|訊《き》いた。
「S公園ですの」
「ああ、知っています。大きな池のある公園ですね確か」
「その中のベンチで、赤いハートの落書のあるのがあるんですって。その後ろへ置いて行けって」
「ご主人は?」
「中を確かめたら、公園の近くで放り出すそうですわ。きっと|逃《とう》|走《そう》|資《し》|金《きん》でしょう。だから急いでるんだわ」
「私が金を持って行きましょう」
「あなたが?」
「そうです。あなたは相手から|恨《うら》まれているんでしょう。金だけでなく、命まで取られかねない」
「でも、あなたは――」
「私の方がそういうことには|慣《な》れていますよ。それに私を殺したって仕方ない。持って行く人間までは指示していないのでしょう?」
「そうです」
「では|任《まか》せて下さい。さっきのお礼をしなくては」
「じゃ、お願いしますわ」
と千津子は折れた。
S公園は、まばらに|人《ひと》|影《かげ》があった。|子《こ》|供《ども》を遊ばせに連れて来ている母親。学校帰りの子供、アベック……。
少し|郊《こう》|外《がい》なので、|日《ひ》|比《び》|谷《や》公園などの|如《ごと》く、|恋《こい》|人《びと》たちの大集会とはならない。
「ご心配なく」
重森が車を|降《お》りて、|肯《うなず》いて見せた。「車はここに|停《と》めておいて下さい」
「はい。気を付けて」
「|大丈夫《だいじょうぶ》ですよ」
アタッシュケースを手に、重森は、公園の|砂《じゃ》|利《り》|道《みち》へと入って行った。
かなりの広さである。遊歩道を|辿《たど》って歩きながら、重森の目は、じっとベンチに注がれていた。
こういうことに対する|勘《かん》といったものが、重森には|備《そな》わっている。自分が|犯《はん》|人《にん》なら、この辺を指定するだろう、という場所が目に付いた。遊歩道が少し池から|離《はな》れて、木立ちの|奥《おく》という|格《かっ》|好《こう》になっている。
その辺のベンチなら、遠くから見通すことができないから、たとえ警官が張り込んでいても、犯人を|迅《じん》|速《そく》に追うことができない。
――案の|定《じょう》、その道のほぼ半ばに、問題のベンチがあった。
重森はためらわずにアタッシュケースをベンチの後ろへ置くと、そのまま足早に進んで、少し道が池の方へとゆるく|戻《もど》るカーブを|描《えが》いたあたりで|振《ふ》り返った。――もうアタッシュケースは消えていた。
重森は|駆《か》け戻った。ベンチの後ろ側の|茂《しげ》みがザザッと|揺《ゆ》れて、そのまま、外へ出たらしい。
急いで重森も茂みをつっ切ると、通りへ出て、待っている千津子の車へと走った。
「どうでした?」
車の|窓《まど》から千津子が顔を出した。
「金を持って行きました。顔は見えなかったが――」
「どうします?」
重森は車へ乗り込むと、
「公園の周囲を回りましょう」
公園をぐるりと囲む道路を走らせて行く。
「公園の近くで放すって……。本当に放してくれるのかしら?」
「ああいう|捨《す》て|鉢《ばち》になっているのは|危《き》|険《けん》ですね。何をするか分らない」
と重森が言った。「ただ、|奴《やつ》の場合、顔も名前もよく知られているわけですから、そのために殺すという心配は、まずないと思いますね」
「生きていてほしいわ」
と千津子は言った。「|未《み》|亡《ぼう》|人《じん》になると|派《は》|手《で》な服を着られなくなるし……」
「あの車――」
「え?」
「ほら、あれです」
道のわきに|停《とま》っていた、白いレンタカーらしい車のドアが急に開いて、中から人が転がり出た。――と思うと、車は一気に走り出した。千津子はブレーキをかけた。
「――あなた! 大丈夫?」
「あ、ああ……|済《す》まない」
やっとの思いで、|法《のり》|夫《お》が起き上る。両手を後ろ手に|縛《しば》られている。
「大丈夫? けがは?」
「いや……すりむいたくらいだろう。来てくれるかどうかと思ってたよ」
「仕方なく来たのよ。|誤《ご》|解《かい》しないでね」
と千津子が言って、|縄《なわ》を|解《と》こうとした。
「私がやりましょう」
と重森が駆けつけて来て、手早く縄を解いた。「――|痛《いた》むでしょう?」
「ええ。何しろずっと縛られっ放しでしてね……」
ホッとした|表情《ひょうじょう》で、法夫が言った。
「それはおかしい」
と重森が言った。
「おかしい?――何が?」
「丸一日も縛られていたら、手はこんなものじゃない。もっと|紫色《むらさきいろ》になって、感覚などなくなりますよ」
「な、何を言ってるんだ! 君は一体――」
「これはせいぜい二、三分前に縛られた|跡《あと》ですよ」
千津子は法夫を見た。
「あなた――本当?」
「う、うん、まあ……ね。しかし、見張られてたから、とても逃げるなんて……。本当だよ」
法夫が必死に言い張ると、|却《かえ》って千津子は信じられなくなる。
「あなた、まさか|狂言《きょうげん》で……」
「よ、よせよ! いくら何でも――」
その時、重森がエンジン音を聞きつけた。
「車が戻って来る!」
さっきの|白《しろ》|塗《ぬ》りの車が、|猛《もう》スピードで戻って来たと思うと、歩道へ乗り上げ、|生《いけ》|垣《がき》に突っ込んで停った。
「パトカーだわ!」
パトカーが二台、サイレンを鳴らして近付いて来る。
レンタカーから、|石《いし》|尾《お》が飛び出して来た。ナイフを手にしている。
「|貴《き》|様《さま》!」
と、三人の方へ駆けて来る。「|裏《うら》|切《ぎ》りやがったな!」
「よせ!」
と法夫が悲鳴を上げる。石尾の目が千津子に止った。
「礼をするぜ!」
ナイフが千津子の方へと突き出される。
重森が千津子を体当りではね飛ばした。ナイフが重森の|脇《わき》|腹《ばら》へ突き立った。同時に|銃声《じゅうせい》がして、石尾は両手を上げて|仰《あお》|向《む》けに|倒《たお》れた。重森の|拳銃《けんじゅう》が、石尾の|心《しん》|臓《ぞう》を正確に|狙《ねら》い|射《う》ったのだった。
重森は、脇腹を|押《おさ》えて、うずくまった。
「しっかりして!」
と千津子が|抱《だ》き起こす。
パトカーの警官たちが走って来た。
「永山千津子さんですね」
と一人が言った。「銀行からの通報で、あなたの車をチェックしていたんです」
「そいつは石尾だ!」
と他の警官が、死体を見下ろして、「大変な|奴《やつ》をやっつけたなあ」
「そんなことより、早く救急車を!」
と千津子が|叫《さけ》んだ。
「入れ」
通用口を開いて、|克《かつ》|次《じ》は|橘《たちばな》を|促《うなが》した。
「|凄《すご》い|屋《や》|敷《しき》だな」
「早く入れよ」
「|誰《だれ》もいないのか?」
「メイドたちは台所で食事中だ。今がチャンスさ」
「分った。案内してくれ」
「ついて来い」
克次は、あたりをうかがいながら、|廊《ろう》|下《か》を進んで行った。そして居間のドアが見える所に来ると、
「いいか、あそこが居間だ」
「あそこにいるんだな?」
「そうだ。たぶん本でも見てるだろう。いいか、手っ取り早く、楽に死ねるように|頼《たの》むぜ」
「分ったよ」
橘は|肯《うなず》いた。
「一つ教えてやろう」
「何だ?」
「あの|岡《おか》|田《だ》|智《とも》|美《み》って女の写真、当のお|袋《ふくろ》の若い|頃《ころ》の写真さ」
「古いと思ったよ」
橘は苦笑した。「じゃ、あんたはあっちへ行っててくれ」
「OK。よろしく頼む」
克次がいなくなると、橘は居間のドアへと近付いて行った。
足が|震《ふる》えて、|額《ひたい》に|汗《あせ》が|浮《う》くのが分った。
人を殺す。――元|刑《けい》|事《じ》の身でありながら、だ。しかし、元刑事だからというためらいはなかった。
問題は金だ。克次に三千万、約束させていたが、この大邸宅から見ると、もう少しふっかけてみればよかったかな、と|後《こう》|悔《かい》していた。
ともかく|片《かた》|付《づ》けてしまおう。後はいくらでもふっかけ方次第だ。
三千万あれば――やり直せる。たとえ血でまみれた金だって、金は同じだ。それに相手は大金持の老女だ。そう生きていたって、大して|価《か》|値《ち》はない。
そうだとも、金持は|貧《びん》|乏《ぼう》|人《にん》を|泣《な》かせて、太るのだ。その|償《つぐな》いをさせるだけだ……。
静かにドアを開いた。
「――どなた?」
ソファに|座《すわ》っていた女は、とても七十|歳《さい》とは思えなかった。まだシャンとして、十分に元気だった。
「永山志津さんですね」
「そうですよ。あなたは?」
「橘といいます」
「まあ」
志津は顔を|輝《かがや》かせた。「もう終点到着?」
「何の話です?」
「|賭《か》けよ。それでここへ来たんでしょ?」
「ああ、あれですか」
「私はあなたに賭けてたのよ。きっと、とことんやる人だと思ってたわ」
「それはどうも」
橘はポケットの中で、ナイフを|握《にぎ》りしめた。やらなくては、と思うのに、手が動こうとしないのだった。
「どうしたの? ずいぶん青い顔をして」
志津は立ち上って、「お酒でもいかが?」
と、高級ウィスキーの|並《なら》んだサイドボードの方へ歩いて行った。
「どれがお|好《す》きかしら」
橘が飲んだこともない、いや名前すら知らないようなボトルが、ずらりと並んでいる。――|俺《おれ》だって、あれぐらいのぜいたくはできる。三千万あれば……。
橘はナイフを|構《かま》えた。
「あらあら」
志津は大してびっくりした様子もなく、
「どうも昨日今日と|物《ぶっ》|騒《そう》ね、このうちは」
「あんたを殺すんだ」
「そう。――でも、できるかしら?」
「やるとも」
「手がそんなに震えてるわ」
橘は、|喉《のど》がカラカラに|乾《かわ》いていた。
「|一《いっ》|杯《ぱい》……よこせ」
とかすれ声で言った。
「はいはい」
志津は平気で|背《せ》|中《なか》を向けると、グラスを取って、ウィスキーを|注《つ》いだ。
今だ! 向うを向いてる時の方が、やりやすい!
橘は両手でナイフを握って身構える。
ガンと|鈍《にぶ》い音がして、橘は|床《ゆか》に|崩《くず》れた。
「まあ、克次」
振り向いて、志津が言った。「どうしたの一体?」
「危なかったね、母さん」
克次は、大理石のブックエンドを手にして立っていた。「もうちょっとの所だった」
「そうかい?」
「こんな奴だとは思わなかったよ。例の人探しが賭けのためにやるんだと知ったら、ひどく怒ってね。――少し狂ってるんだな、きっと」
「そう悪い人にも見えなかったがねえ」
「|呑《のん》|気《き》だな、母さんは」
と克次は笑って、「|僕《ぼく》がやっつけなきゃ、今|頃《ごろ》は|刺《さ》し殺されてたんだぜ」
志津は、橘の上へかがみ込んだ。
「――死んだよ」
「そう? |夢中《むちゅう》でね、|手《て》|加《か》|減《げん》してる|暇《ひま》がなかったんだよ。母さんが危い、と思ったら――」
「殺すことはなかったのに」
志津はそう言って居間を出て行った。
克次は、|拍子抜《ひょうしぬ》けの様子で、しばらくその場に突っ立っていた……。
「今年の誕生日はまるでお|通《つ》|夜《や》だね」
と志津が言った。
「さ、|乾《かん》|杯《ぱい》しよう」
|悟《さとる》がシャンパンのグラスを取った。「お母さんの健康と|長寿《ちょうじゅ》を祈って……」
「乾杯!」
グラスが上った。
|実《じっ》|際《さい》のところ、悟にとってはそう悪い気分でもなかった。
まあ、相変らずのままではあるが、悪くならなかっただけ、ましというものだ。|下《へ》|手《た》をすれば、|殺《さつ》|人《じん》|罪《ざい》に問われるところだったが、幸い、あの|重《しげ》|森《もり》という男は、|石《いし》|尾《お》を殺し、自分も|刺《さ》されて死んでしまった。
これで、悟が母を殺そうとしたという|証拠《しょうこ》はどこにもないわけだ。
母の支配下にあっても、|監《かん》|獄《ごく》よりはましというものさ……。
「おい」
と悟が言った。「お前たち別れるのか?」
千津子が、ゆっくりとワインを飲みながら、
「ええ。そうなると思うわ。ね、あなた」
「さあ……」
法夫が弱々しく答えた。
「やっぱり|性《せい》|格《かく》の|不《ふ》|一《いっ》|致《ち》ってやつ?」
と|恭子《きょうこ》が|訊《き》くと、|利《とし》|江《え》が、
「〈格〉抜きじゃないの」
とゲラゲラ|笑《わら》った。
千津子は、笑う気にもなれない。
結局、重森は助からなかった。――|組《そ》|織《しき》の人間として、もう何人も殺して来たのだろうから、たとえ回復しても、長い|刑《けい》|務《む》|所《しょ》|暮《ぐら》しだったろうが……。
それにしても、|娘《むすめ》のことは心残りだったに|違《ちが》いない。千津子は|敦《あつ》|子《こ》を引き取って育てようと決めていた。
重森は私をかばって死んだのだもの。せめてそれくらいの|恩《おん》|返《がえ》しはしなくては。
「お|嬢様《じょうさま》」
メイドの一人が、電話を持って来た。「お電話でございます」
「ありがとう」
千津子は、電話の話に耳を|傾《かたむ》け、礼を言ってから切ると、
「M銀行の支店長さんよ」
と言った。
「あら、そう。何ですって?」
「三千万入れて|渡《わた》したアタッシュケースがね、取り|戻《もど》してみると千五百万しか入ってないんですって」
千津子はじっと|法《のり》|夫《お》の方を見た。「きっとあの石尾が逃げる|途中《とちゅう》で落したのね」
「千五百万も?」
と利江が目を|見《み》|張《は》った。
「そう。別に取り戻したいとも思わないけど、そんなものを拾って|届《とど》けもしないような人には、会いたくないわね」
むろん法夫だ。重森が見抜いたように、あれは法夫と石尾が|共謀《きょうぼう》した|偽《ぎ》|装《そう》|誘《ゆう》|拐《かい》に|違《ちが》いない。
きっと法夫の方から、山分けにするからと持ちかけたのだろう。石尾も、|逃《とう》|亡《ぼう》|資《し》|金《きん》ほしさにそれに乗った。
金はすぐに分けて、たぶん法夫の分の千五百万円は、公園の植込みにでも|隠《かく》してあるのに違いない。――それがいわば手切れ金になる。
ふと気が付くと、法夫がいなくなっていた。
|克《かつ》|次《じ》は、|不《ふ》|機《き》|嫌《げん》だった。――あれだけ手間をかけたお|膳《ぜん》|立《だ》てが、結局何の役にも立たなかったのだ。
しかも彼自身、手を下して人を殺しさえしたのだ。最初から|橘《たちばな》に母を殺させる気はなかった。橘が|捕《つかま》って、しゃべられたらおしまいである。母を危いところで救って、今の借金の|穴《あな》|埋《う》めをしてもらうつもりだった。印象を良くしておけば|遺言状《ゆいごんじょう》でも|扱《あつか》いが違うかもしれない。だが、|現《げん》|実《じつ》には、母に|感《かん》|謝《しゃ》されるどころか、|警《けい》|察《さつ》に|事情《じじょう》を聞かれる始末。――全く、最低だったな、今年は。
しかし、お|袋《ふくろ》も何を考えているか分らない女だ。|結《けっ》|構《こう》内心では、|喜《よろこ》んでいるのかもしれないぞ。
そう思って、克次は自分を|慰《なぐさ》めた。
「でも、今度|貧《びん》|乏《ぼう》くじを引いたのは、あの警部と奥さんね」
と恭子が言った。
「|自《じ》|業《ごう》|自《じ》|得《とく》よ」
と利江が言った。「あの警部なんて、仕事に来て|寝《ね》ちゃうんだもの。ひどいじゃない。ま、奥さんは気の毒だったけど」
「あの警部、|釈放《しゃくほう》されたんだろ?」
と悟が訊いた。
「ええ」
千津子が|肯《うなず》く。「モデル殺しは石尾の|犯《はん》|行《こう》らしいって分ったのよ。モデルに伝言に来た男が石尾そっくりだったって」
「でもあの警部さん、|巡査《じゅんさ》部長に格下げだそうよ」
と|志《し》|津《ず》が言った。
「|無《む》|理《り》もないわね、|勤《きん》|務《む》中にあんなことがあっちゃ」
「そうよ。大体、今度のことは警察がしっかりしていないから起きたんだもの」
「そうだそうだ」
といい|加《か》|減《げん》に|賛《さん》|成《せい》の声が上った。
千津子が立ち上った。
「あら、どうしたの? スープがさめるわよ」
「すぐ来るわ」
千津子は二階へ上った。――何となく、法夫のことが気にかかったのだ。
部屋のドアを開ける。
「あなた、食事を――」
と言いかけて目を|見《み》|張《は》る。法夫が|天井《てんじょう》から|縄《なわ》を下げて、|椅《い》|子《す》に乗り、今しも椅子を|蹴《け》ろうとしている。
「やめて!」
と|叫《さけ》んだ時、法夫は椅子を蹴った――次の|瞬間《しゅんかん》、ロープが外れて|床《ゆか》へ落下した。
「――結び方がなってないのよ」
「不器用だからな……」
法夫は床に|座《すわ》り込んで、「死ぬのも失敗じゃ、話にならないよ」
「その気持があったら、|頑《がん》|張《ば》ればいいのよ」
「言うのは|簡《かん》|単《たん》だがね」
「元手はあるじゃないの」
法夫はきまり悪そうに、
「あれは――返すよ」
「いいのよ。私にだって色々いけない点はあったのかもしれないわ」
「違いすぎるんだな、世界が」
「そんなこともないと思うけど」
「じゃ、何だ?」
千津子はちょっと考えて、
「何かしらね?」
と言った。二人は|一《いっ》|緒《しょ》に笑い出した。
「ねえ、あなた」
「ん? 何だい?」
「もう一度、やり直してみる?」
法夫が、まじまじと千津子の顔を見た。
「本気かい?」
「ただし、敦子さんを引き取って|面《めん》|倒《どう》を見ることが|条件《じょうけん》よ。それから、もう私もここの家、いやになったわ。私たちで、小さな店でも始めない? 何とか暮して行けるわ、きっと」
「その楽天的なところが――」
「金持の娘、でしょ」
千津子は笑って、「ともかく、ゆっくり相談しましょうよ、帰ってから」
「そうしよう」
ふと千津子は思った。今の|首《くび》|吊《つ》り|未《み》|遂《すい》。あれも、もしかすると狂言[#「狂言」に傍点]だったのかもしれない。――しかし、もう言わないことにしよう。
せっかく、やり直す気持になったんだもの……。
「あらカーテンが|閉《し》めてなかったわ」
千津子がカーテンを引こうとして、「あら」と言った。
「どうした?」
「|誰《だれ》か庭を走ってったみたい……」
「本当かい?」
「ええ。何だか、よく|禿《は》げた頭だけ光ってて……。ちょうど、ほら、あの警部さんみたい」
「まさか!」
「格下げされたのが私たちのせいだと|恨《うら》んで仕返しに来たのかしら?」
「そうしたくなるだろうなあ、僕だって。みんなのスープに毒でもぶち込んで、さ」
二人は笑いながら、部屋を出た。出る前に久しぶりでキスをして、多少、それが長引いた。
戻ってみると、志津が何か話している所だった。
「何の話だったの?」
「こう言ったのよ」
志津はくり返した。「今度は家でずいぶん人が死んだけど、幸い家族は一人も死んでない、ってね」
「運が強いのかしら」
「でもね、その内に――」
と志津は、半ば|冗談《じょうだん》、半ば本気のような口調で言った。「この家族の中の誰かが、殺されるような気がするね」
「いやだわ、|縁《えん》|起《ぎ》でもない」
と千津子は言った。「――もうアントレなのね」
「そうよ、でもよかったわ、千津子さん」
と恭子が言った。
「何が?」
「今日のスープ、いやに苦かったの」
いつか|誰《だれ》かが|殺《ころ》される
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成14年9月13日 発行
発行者 福田峰夫
発行所 株式会社 角川書店
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(C) Jiro AKAGAWA 2002
本電子書籍は下記にもとづいて制作しました
角川文庫『いつか誰かが殺される』昭和59年 3 月25日初版発行
平成 8 年 6 月30日38版発行