角川mini文庫
あなた
[#地から2字上げ]赤川次郎
目 次
1 橋
2 ヒーロー
3 横顔
4 交渉
5 秘密
6 訪問
1 橋
つい時計を何度も見ていたのだろう。
「小栗君はデートかね、今夜は」
と、課長の橋山がからかうように言った。
「いえ、別に……」
どぎまぎしてあわてて目を机の上に戻す。
――おかしい。いつもなら、午後三時には出かけるのに。
もう、四時になるところだった。今日はどうしたのかしら?
汗が背中を伝い落ちる。暑くもない――いや、むしろ少し肌寒いくらいなのだ。それなのに……。
小栗貞子は、ともかく机の上の仕事に集中しようと努力した。
「もうこんな時間か」
と、橋山がやっと腰を上げた。「今日は夕食会で遅くなるんだ。出かけてくるから、小栗君、後を頼むよ」
「はい」
ホッとした気持が顔に出ないように苦労した。伝票には、でたらめな数字が並んでいる。
四時とはいえ、都会のオフィス街の郵便局とは違って、こんな小さな田舎町の郵便局には、ドッと郵便物を抱えてくるOLはいない。
それでも、閉める時間が近付いてくると、お客がふえるのはここも同じ。
橋山が席を立ってロッカールームの方へ行きかけると、
「もう来てる? ねえ!」
と、声の方から先に飛び込んでくる。
「ああ、今日は」
と、橋山はその髪を振り乱した女に、穏やかに笑いかけた。
「ねえ、今日なのよ! 間違いないわ。そうお告げがあったの……」
「小栗君」
と、橋山が促す。
「今日は来ていません」
と、小栗貞子は言った。
「――お聞きの通りでね」
「変だわ。そんなわけないのよ」
女は貞子のいるカウンターの窓口へと走り寄ると、「確かに、聞いたの。今日は間違いなく着くって。ね、今日の郵便、もう一度捜してちょうだい!」
「でも、書留なら――」
「小栗君」
と、橋山が言った。「ああおっしゃってるんだ。調べてごらん」
貞子はチラッと時計を見た。――これで二十分近くもかかってしまうのだ。
でも――そうだ。いつもの通りに。
いつもなら、この少し頭のネジのゆるんだ女と一時間でも付合ってやっている。それを今日に限って追い帰したら、変に思われる。
いつもの通り。いつもの通りに見せなければ……。
「じゃ、出かけてくる」
橋山が上着を着て出てくると、表の扉を開けて出て行った。――これで、郵便局の中は貞子とその女の二人きり。
「あの課長さんとはねえ、小学校で机を並べたことがあるのよ。あのころは鼻水ばっかりたらして、課長さんなんかになるなんて、誰も思わなかったのよねえ……」
独特の、声を立てない笑い方。これも神経にさわるのだが、何より同じ話を少なくとも三十回は聞かされているのが、正に地獄の責苦である。
一通一通、ていねいに書留を見ていく。
「あの子はねえ、いつもケーキを二つ食べたいところを一つで我慢して、私の所にお金を送ってくるのよ」
「ご立派ですねえ」
このやりとりも毎回くり返される。男の子なのに、どうして「ケーキ」なのか、それがおかしい。
「――ありませんね」
と、貞子は全部見終って言った。
お願い。これで帰ってよ。帰って!
「変ねえ……。今日に限って、書留にするのを忘れたってこともあるわね。普通の郵便の中にない?」
いい加減にして!
貞子は叫びたかった。わめき散らしてやりたかった。
そうだ。どうせ、もうこの町にはいなくなるのだから、どう思われたって構うもんか。
それでも、ついていねいな口調で、
「普通便まで調べると、|凄《すご》く時間がかかるんです。今夜、よく見ておきますので、明日またいらして下さいませんか」
「あら、そう……」
明日。――そうだ。明日、と言っておけばいい。明日なんて、私にはないんだから。
「どうもすみません」
話し足りない様子で出て行く女へ、貞子はそう声をかけてやる余裕さえあった。
一人になる。――一人だ。
四時を十五分ほど過ぎた。大丈夫。充分間に合う。
|却《かえ》って、邪魔が入らないことが不安の種だったりする。
小栗貞子、二十四歳。
高校を出て、この郵便局に六年。もう「ベテラン」の域である。
だが、鏡を見ると、そこにはもう「中年」の女の顔がある。疲れて、退屈して、夢を失った顔。
それも今日限りだ。明日からは新しい生活が始まるのだ。
そのためには、「冒険」も必要だ。高い|吊《つり》|橋《ばし》から飛び下りるほどの決心が必要なのだ。
一人になって、五分待った。
それからロッカーへ行き、持って来た、小さくたためる布の手さげ袋を出して、金庫のある〈局長室〉へ。
局長は、隣町の郵便局と兼任しているので、ここにはほとんど来ない。どっちも小さい町だが、向うには少なくとも飲み屋の並んだ一画がある。
それに局長は隣町に「愛人」を置いているという|噂《うわさ》もあり、ここへほとんど顔を出さないのはそのせいか……。
金庫が開くと、貞子は一万円の札束をバッグの中へていねいに納めて行った。
橋には、もう彼の姿があった。
貞子は息を切らすほどの勢いで走って来たのだが、橋の上に増田邦治の姿を見付けると、また足どりを速めてさえいたのだった。
「走らないで! 走らなくていいよ!」
と、増田邦治は大きく手を振って、貞子に呼びかけた。
貞子は思い出した。彼が高所恐怖症で、この山間の深い谷川にかかる吊橋を怖がっていたことを。
決して危険というわけではない。しっかりと作られた真新しい吊橋なのである。しかし、人が上を走ったりすると、その揺れが大きくなって、怖いほど揺れることもある。
だから、貞子に向って、
「走らないで!」
と、あわてて叫んだのだった。
「待った? ごめんなさい。なかなか出られなくて」
と、少し息を弾ませながら貞子は言って、増田邦治の胸に、少し汗ばんだ|頬《ほお》を押し当てた。
「大丈夫?」
と、増田は|訊《き》いた。
「ちゃんと持って来たわ」
と、貞子が手さげ袋を見せた。
「お金のことじゃない。君の体のことを心配してるんだ。そんなに息を切らして!」
「大丈夫よ。こんなことでへばってたら、東京へ出てやって行けないわ」
「そうだな。でも――無理をするなよ」
「やさしいのね」
貞子は少し伸びをして素早く増田にキスすると、「――間に合う? 五時十五分の列車でしょ?」
と、心配になって言った。
「バイクがある。あれなら十分で駅まで行くさ」
「良かった! 気が気じゃなかったのよ」
「さあ、汗を拭いて」
と、ハンカチを出して貞子の額を|拭《ぬぐ》うと、「その袋?」
「ええ。――変ね。そんなに重いわけじゃないのに、ずっしりと|手《て》|応《ごた》えがあるの」
「僕が持つよ」
と、増田はその布の袋を受け取って、「悪いな。決して後悔させないからね」
「そんなこと、言わないで。私も承知でやったのよ」
と、増田の唇に指を当て、「急ぎましょう。大丈夫だとは思うけど」
「うん。バイクを、あっちの木のかげに置いてある。君、ここで待っててくれ。これを積んで、すぐ来る」
「ええ」
増田が足早に行ってしまうと、急に周囲の静寂や寂しさが迫って来て、貞子はふと寒気さえ感じた。
秋に入って、山はもう高い辺りで色づき始めていた。
吊橋の手すりに両手をついて、下の谷川を見下ろすと、目がくらむようだ。
ふと、心臓がひどく早く打っているのに気付いて目を閉じる。――大丈夫。大丈夫。
落ちついて。何ともないのよ。
わざわざ、深い谷間を|覗《のぞ》きたくなる。その心理は今の貞子の気持に似たところがあった。
――一千万。
いつもなら、あんな小さな町の郵便局にそんな現金はない。ただ、毎月、十五日の月給日の前日だけ、あの金庫に一千万円の現金が眠っているのだ。
明日になれば、この近くにある唯一の大きな工場(といっても大したことはないが)の給料として支払われる。
盗むこと。――そんなことを、自分がやってのけるとは、思ってみたこともない。
増田からその話を聞いたときも、笑ってしまって、まともに話ができなかったくらいである。
しかし、増田との関係が深くなり、この小さな町では、誰と誰が付合っているか、隠しておくことはとてもできないことで……。
貞子は両親から増田と付合うことを厳しく禁じられた。――両親は、娘が反抗することなど、考えてもいなかった。
確かに、貞子は今までほとんど親の言うなりになって来た。今度も、素直に言うことを聞くだろうと親が思っても無理はない。
しかし、貞子はもう二十四で、小さな子供ではなかったのだ。これまで、何度も抑えつけられて来た「自分の人生」が、一気に爆発したのである。
犯行が発覚するときは、明日を待たずにやって来る。それまでに列車に乗って、この町を離れている必要があった。
両親が、この小さな町でどんな立場に置かれるか、それを思うと胸が痛まないわけではなかった。
でも――でも、もう選んでしまったのだ。
私は増田邦治を選んでしまったのだ。
――増田のことを、貞子の両親が信用しなくても、責めることはできない。東京の大学へ行った増田は、覚醒剤を持っていて捕まり、退学処分を受けてこの町へ戻って来たのだった。
そんな増田にとって、この町が居心地のいい場所であるわけもなく、「もう一度東京へ出る」ことだけを考え続けていたのも当然だろう。
彼について行く。――貞子がその決心をしたのは、もう何か月も前だ。
その障害になったのは、東京へ行っても、数百万の借金のけりをつけなければ、また「悪い道」へ引張り込まれてしまうのが目に見えているということだった。
そこから、郵便局のお金を盗んで逃げるという考えまでは無限の距離があったが、それを飛び越えさせたのは、貞子の中に増田の子が宿っていると分ったことだ。
検査のために、列車で二時間の町まで行ったが、いつまでも親の目をごまかしてはおけないし、|一《いっ》|旦《たん》知れれば、貞子は家から出ることさえできなくなるだろう……。
善悪の判断がつかないわけではない。ただ――他に選ぶ余地がなかった。それだけのことなのだ。
これきりだ。これで、もう二度と「道に外れたこと」はしない。貞子はそう自分へ言い聞かせていた。
――風が、谷間を抜けて、かすれた口笛のような音をたてた。
薄暗くなりかけている。
バイクの音がして、増田が橋の方へとやって来た。
貞子は肩からさげたバッグを軽く揺ってかけ直すと、手すりから離れて、バイクがやって来るのを待った。
そのとき――信じられないものが聞こえた。
「小栗君!」
課長の橋山の声が、山間に響いたのだ。
まさか……。どうして課長が?
振り返った貞子の目に、町からの道を|喘《あえ》ぎ喘ぎ駆けてくる橋山の姿が映った。――お願い! やめて! 幻なら早く消えて!
だが、それは消えようとはしなかった。
どうしてだか、橋山は局へ戻って、金庫の現金が消えているのを発見した。そして、この道を来た貞子を誰かが見ていて、橋山に教えたのだろう。
「――待て! 小栗君! 馬鹿なことはよせ!」
橋山も、もう走る余力は失っていて、ヨタヨタと橋の方へやってくる。
増田のバイクが停った。
「見付かったんだわ! 逃げましょう」
貞子はバイクへ駆け寄ると、後ろにまたがろうとした。
「――貞子」
ヘルメットをかぶった増田が振り向く。
「え?」
増田の手が、貞子の胸をいきなり押した。貞子がバイクから落ちて尻もちをつく。
「あなた!」
と、貞子は起き上ろうとして叫んだ。
バイクの音が高くなり、増田は貞子の方をチラッと見ただけで――。
バイクはたちまち走り去って行く。町とは逆の方向だった。
「待って!」
貞子は立ち上ると、バイクを追って走り出した。「――待って! お願い、置いてかないで!――あなた!」
バイクの速度は大したことはない。貞子は、夢中で駆ければ追いつけそうな気がした。
しかし、息が切れ、胸が苦しくなって、足がもつれると、もう増田のバイクは山道をどんどん遠ざかって、見えなくなる。
貞子は、道にガクッと|膝《ひざ》をつき、そのまま座り込んでしまった。
増田は、貞子を突き落とした。そして金の入った袋だけを持って、逃げて行った。
貞子は、自分が単に利用され、捨てられたのだということ――しかも、その男の子を宿していることを思って、打ちのめされた。
あなた……。あなたは……私を愛してなんかいなかったのね……。
涙は出なかった。ただ、心臓の辺りにポッカリと穴が空いたようで、自分の生きていることが信じられなかった。
「――小栗君」
と、声がした。
振り仰ぐと、橋山が肩で息をしながら、彼女を見下ろしていた。
「課長さん……」
と、貞子は言った。「私を橋まで連れてって下さい」
「小栗君……」
「私が飛び下りるのを、手伝って」
「馬鹿なこと言うもんじゃない」
と、橋山はかがみ込んで、貞子の肩に手を置くと、「さ、町へ戻ろう。――立てるか?」
「ええ……」
貞子はそろそろと立ち上った。そして、突然橋へと駆け出したのである。
「――小栗君! やめなさい!――待ってくれ!」
橋山があわてて後を追ったが、とても追いつけない。
貞子は走った。あの吊橋。――あそこで私はおしまいになったんだ。何もかも、おしまいだ。
「小栗君!」
橋山の声が背後に遠い。貞子は橋の真中まで一気に駆けて立ち止った。
吊橋はゆっくりと揺れている。
「あなた……」
貞子は、手すりをつかんだ。
そして――甲高い叫び声が山間に響いた。
2 ヒーロー
「あなた」
と、恵美が軽く肩を押した。「――あなた。起きて」
「うん……」
と、返事をしたものの、まだ目は覚めていなかった。
今、自分はどこにいるのか。この快い揺れは何なのか。
「いやね。ちゃんと起きて下さいよ」
と、恵美が笑った。
そうか。――列車だ。この単調なリズムは、遠い昔と少しも変っていない。
そのリズムが眠気を誘ったのでもあったが、同時にそのリズムの「記憶」が目覚めを促したのだ。――この白髪の実業家の目覚めを。
「鉄橋を過ぎたか?」
町田国男は、ほとんど無意識にそう訊いていた。
「鉄橋ですか?」
と、恵美は面食らった様子で、「気が付かなかったけど――」
と言っているとき、列車が鉄橋へさしかかり、ゴーッという響きが二人の会話を中断させた。
そうか。――俺は|憶《おぼ》えていたのだ。
何も考えずに、「そろそろ鉄橋を通る」と分っていたのだ。
「あなた、この列車に乗ったことがあるのね」
鉄橋が後方へ去ると、列車は山間をクネクネと縫って進んで行く。
「――ずっと前にな」
と、町田は外へ目をやった。
「よく憶えてるわね、鉄橋のことなんか」
妻の言葉にはあえて答えず、
「お前は明日帰るんだな」
「だって、約束があるのよ。前から分ってれば、断ったのに――」
「いや、いいんだ。俺は二、三日のんびりしていくからな」
「ええ。何も電話もファックスも通じない山奥ってわけじゃないんですものね」
「そうだな」
と、腕時計を見る。「もうじき着く。二、三分だな」
「まあ詳しいのね」
恵美は冷やかすように、「それであんなに熱心だったのね」
「何のことだ」
「ホテルよ。あんな小さな田舎町にホテル作って、どうするのかと思ってたの。やっと分ったわ」
「おい、勝手に分るな。――俺は商売人だ。損をするなら、予め取り止めるさ」
「そう? でもお客さんが来る?」
「それは努力次第だ」
と、町田は言った。
「あんなのんびりした田舎町の人たちが、熱心にホテルで働いてくれるかしら」
町田は妻を見て、
「おい、やりたくないのなら、建てる前に言ってくれ。今さら何だ」
「分ってるわ。あなたの勘は信じてるわよ」
恵美は首を振って、「でも、今回の件に関しては、あなたがすべての指揮を取ってよ」
町田は何か言いかけたが、やめた。そのとき、列車がはっきりとスピードを落とし、駅の近いことを告げていたからだ。
――町田国男、六十歳。
ホテルチェーンとレストランの経営で指折りの実業家である。
常識的に考えたら、とても客を呼べない土地にホテルを建て、巧みなPRとマスコミとの連携で黒字にしてしまう手腕は、「魔術師」という呼び名にふさわしいものだった。
妻の恵美は五つ年下だが、「内助の功」というタイプではない。今も、夫のホテルチェーンのレストラン部門で〈取締役〉の肩書を持ち、忙しく飛び回っている。
それにふさわしく、明るい色のスーツに包んだ体は細く、身のこなしも若々しい。五十五歳という年齢は、薄く紫色に染めた髪の、もとの白さをみなければ、想像もつくまい。
「降りるぞ」
立ち上って、町田は棚から自分のボストンバッグを下ろした。
「物好きね、車で来れば良かったのに。こんなオンボロ列車、お尻が痛くなるだけだわ」
「旅ってのは、こういうものなんだ。腹が空いたら、まずい駅弁を買って食べる。それが楽しいんじゃないか」
「はいはい」
恵美も、夫の頑固には慣れっこである。
「ホテルの人が出迎えに来てるんでしょうね」
返事を聞く必要はなかった。
列車がホームへ入って行くと、突然、ワーッと声が上り、拍手の音が響き渡ったのである。
恵美は窓から外を|覗《のぞ》いて、目を丸くした。
「ホテルの人――どころじゃないわ。町中の人が来てるんじゃないの?」
町田も窓の外を見てびっくりした。
プラットホームに人が並んで、手に手に小旗を持って振ったりしている。
「戦争中の出征風景だな、まるで」
「何なの、あの黄色い旗?」
「――ホテルのマークが入ってる! むだな金を使って!」
「渋い顔しないのよ」
と、恵美は笑って、「あちらは歓迎して下さってるんですからね」
列車が停って、町田たちが出口へ行きかけると、
「社長!」
と、通路を駆けて来たのは、転った方が早そうな、町田の秘書であった。
「何だ、河野。お前来てたのか」
「お持ちします」
今年二十八歳になる河野悟は、町田の秘書として既に四年、勤めている。細身の町田に比べ、太目の河野は、年齢はともかく、「貫禄なら、お前の方が社長だ」と町田にからかわれていた。
「僕に何も言わずに、ご出張なんて」
と、不服そうだ。「どこにおいでか、訊かれても返事ができないんじゃ、秘書として立場がありません」
そうか。恵美が知らせたのだな、と町田は思った。
「怒るな。お前も忙しいだろうから、少し休ませてやりたかっただけさ」
町田は、河野について出口へと歩きながら、
「この騒ぎは、お前の仕掛けか?」
「いえ、町の人たちが自分から。――本当ですよ!」
「|嘘《うそ》だとは言っとらん」
ホームへ出ると、一斉に拍手が起り、カメラのフラッシュが光る。
「地方紙の記者とカメラマンです」
と、河野が小声で素早く耳打ちする。「地元では力があります。あんまり無愛想にしないで下さい」
「分った」
町田は、それこそ老人から子供まで、びっしりとホームを埋めた人々に笑顔で手を振って見せた。
「――お待ちしておりました」
老人が一人、ダブルのスーツで進み出て来た。「感激です! 言葉にならない喜びです!」
もう八十近いだろうか。足下がやや危い感じである。
「町長です」
と、河野が小声で言った。
「町長さん、わざわざ恐れ入ります」
と、町田は手を差し出した。
町長はその手を両手でしっかり挟んで握りしめると、深々と頭まで下げて、
「これでこの町も生き返ります!」
と、声を震わせている。
「いやいや、そう大げさに言わんでください。――あ、家内です」
と、恵美を紹介する。
「初めまして」
と、恵美はにこやかに言った。
大げさな歓迎は、むしろ恵美の方が喜ぶ。
「これは奥様でいらっしゃいますか!」
と、声を上ずらせ、「町長の橋山と申します」
一気に――四十年近い時間が逆戻りした。
町田は、|愕《がく》|然《ぜん》としてその町長を見つめた。
橋山……。「山の中の橋」と、あまりに合った名前で忘れられなかった。もちろん、顔も知っている。
これが……。
あのとき、あの吊橋へと走って来た、郵便局の課長。それが今は町長なのだ。
「――どうぞこちらへ」
と、誰かが言って、町田はハッと我に返った。
同時に、一瞬心配した。自分のことを、かつてこの町に住んでいた「増田邦治」という男だと気付いた者はいないか。
だが、それは取り越し苦労だった。
四十年近くも前のことを、一体誰が|憶《おぼ》えているものか。
「いや、全く感激で胸が一杯で……」
と、町長――橋山はくり返しつつ、先に立って駅を出た。
人々もそれにつられるようにして、駅のホームから通りへと出る。
町田は、図面の上でしか知らなかった幻の町の中へと足を踏み入れたのだった。
「おい! 間が空いてるぞ!」
と、支配人の赤ら顔がキッチンを|覗《のぞ》く。「手早くやらんとだめだ。そんなんでオープンできると思ってるのか?」
「人手がまだ|揃《そろ》ってないんですから」
と、料理長の宮田が言い返した。「精一杯やってますよ、みんな」
支配人の畑も、言い過ぎたと思ったのか、
「いや、分ってるよ。――ま、ご苦労さん」
と、わけの分らないことを言って出て行く。
少し間があって、キッチンに居合わせた人間が一緒に笑い出した。
「――宮田さんはいいわねえ」
と、手伝いにかり出されて料理を運んでいる「おばさん」が言った。「手に技術があるって、強いじゃないの。何言われたって、ガツンと言い返してやれるしね」
宮田は東京のホテルにいたのを、引き抜かれてこの田舎町へやって来たのだ。
「おい、鍋! 火を弱くして!」
宮田の鋭い声が飛んで、「――どこだって、オープンのときはギクシャクするもんさ。半年もすりゃ、ふしぎなくらいスラスラ流れるようになるものなんだ」
料理長といっても、まだ宮田は三十代の半ば。それでも、怒らせて辞められては困るので、支配人の畑も気をつかっているのである。
「――ね、お皿が足りないの。洗ったの、もう一回使って」
と、伝言が来て、宮田は露骨にいやな顔をした。
「しょうがないな! ちゃんと数えとけよ」
と、文句を言いながら、「谷口さん、大丈夫?」
宮田が声をかけたのは、一人せっせと皿を洗っている女性だった。
「はい、もう洗うのは追いつきました。――どのお皿を使います?」
「さっきのと同じ、と思われたくないから、できるだけ目立たない皿がいいね」
「じゃ、二番めのね。――すぐ拭きます。乾かしていたら間に合わない」
「頼むよ」
宮田が気軽に声をかけているのは、谷口良子が、ほぼ同じくらいの年代ということ――谷口良子の方が、二、三歳年上だろうか――もあったろうが、この場に居合せる大勢の人たちの中で、彼女が一番プロらしいものを持ち合せていたからだろう。
谷口良子が皿を並べると、それを追いかけるように、宮田が料理を盛りつけていく。
「OK。――運んでくれ」
宮田は軽く息をついて、「少し間を置こう。ここで何か挨拶が入るんだと言ってた」
「食事の途中で?」
と、谷口良子がびっくりしている。
「なあ、ひどい話だ。でも、色々都合もあるのさ」
宮田は|椅《い》|子《す》に軽く腰をおろして、「――谷口さん、今日、娘さんは手伝いに来ないの?」
「今、学校が試験中なんです」
と、谷口良子は言った。
「試験か……。そんなものがあったね」
と、|呟《つぶや》いて、伸びをした。
そこへ、
「すまんが、水を一杯くれるかね」
と、白髪の紳士が顔を出した。
「はい。冷たい方がよろしいんですか?」
と、谷口良子がすぐにグラスを出して、「お薬でもおのみでしたら、少しぬるくしますけど」
「そうしてくれるかな。ありがとう」
宮田は次の料理にかかっていた。
「――どうぞ」
「や、どうも」
と、グラスを受け取り、粉薬をのんでから、息をつく。
「もう、社長の話とかってのは終ったんですか?」
と、宮田が訊いた。
「いや――まだこれからだよ。どうして?」
「料理が冷めちまうからね。大体、コース料理の途中でスピーチなんて、ふざけた話ですよ」
「――そうかね」
「食事の前に短くすませときゃいいんだ。何十分もしゃべるつもりでいるんだろうな、きっと」
「そう長くはならんだろうがね」
と、老紳士は言った。
そこへ、河野が顔を出して、
「社長、お話を」
と言った。
「うん、今行く」
居合せた全員の手が止る。
「手短にするよ」
と、老紳士は言った。「大丈夫。料理が冷めるようなことにはさせないから」
「頼みますよ」
宮田も落ちついたものだ。
「お話の中で、ちょっと県知事の名前を出していただきたいんですが――」
一緒に戻って行く河野が、町田に説明する、その声が遠ざかって、
「ああ、びっくりしたわ!」
と、声が上った。「心臓が止るかと思った」
「本当ね」
と、谷口良子も胸に手を当てて、「あれが社長さん? 駅に迎えに行かなかったから、顔、分らないしね」
「でも、なかなかできた人じゃないの。ね、宮田さん?」
料理長は柔らかいヒレ肉を薄く切り分けながら、
「そうだな」
と、大して関心のない様子。「おい、炭火、ちゃんと見とけよ」
みんな、またあわただしく動き回り始めた……。
3 横顔
いつまでも若いつもりではいられない。
――町田も、そのことはよく分っている。
六十という年齢から考えれば、ゆうべの料理を、デザートの一皿まできれいに平らげて、今朝胸やけもせず、もたれてもいないというのは自慢してもいいことだろう。
しかし、かなり遅くまで町の有力者(といっても、大したことはない)に付合って飲んでいたのに、まだやっと夜が明けたかどうかという時間には眼が覚めてしまう。これは年齢をとった証拠と言うしかあるまい。
町田は、そっとベッドを抜け出した。――隣のベッドでは、妻の恵美がまだ深い眠りに浸っていた。
ゆうべ、「男たちの酒盛り」には付合い切れないと早々に眠っていて、今も眼を覚ましていないのだから、まだまだ若い。
五十五とはいえ、見た目は四十代。そして活動的なことでは若い世代もついて来られないほどである。
しかし――町田にとっては、「忙しく働く」こと、そのものに価値を見出す時期は過ぎていた。これだけのホテルやレストランをオープンさせ、ごくわずかの例外を除いて成功させていながら、それを、あと十年か二十年か後に訪れる自分自身の「死」の後、どうすればいいのか。
恵美との間に子供はなかった。たった一人、五十歳近くになってから産まれた子は数週間の命だった。恵美も四十を過ぎての出産で、かなり参っていたものだ。
しかし、回復してから恵美は自ら猛烈な忙しさの中に身を置いて、そのこと自体を目的にしているかのようだった。
――町田は、ガウンをはおって、冷たい廊下へ出た。
寒さは老いの身に良くあるまいが、むしろ体も頭もすっきりと澄んで快い。
ゆっくりと人気のない廊下を歩きながら、本当に、どうして俺はこんな所にホテルを建てたのだろう、と思った。
もう両親も亡く、身寄りと呼べる人間はここにはいない。それに、「増田邦治」だったころ、彼はこの町が嫌いで、住む人間も町並みもすべてがいやでいやで、逃げ出したかったのだ。
だからあれほどのことをして……。
しかし、今は帰って来ている。誰も、この「ホテル王」が、かつてこの町から逃げ出した――しかも、工場の給料を盗んで――不良青年だとは、思いもしないだろう。
懐しいわけではない。年齢をとって、故郷を見たくなったのでもない。
それでも、町田はこの土地を買い、ホテルを建ててしまったのだ。
さびれ、若い人々が流出していく一方だったこの町にとっては、確かにこのホテルのオープンは「一大事」だろう。
町田は、計画から設計、施工の一切、東京から指示を出して、一度も現地へ足を運ばなかった……。
「――おはようございます」
と、声が冷たい空気を通り抜けて届いて来た。
「ああ、ずいぶん早いんだな」
と、男の声は聞き覚えがある、あの若い料理長である。
「せめて、『おはよう』ぐらいは返してくれるものよ」
――町田は、廊下の突き当りの窓を少し開けた。
見下ろす中庭に、料理長の宮田と、谷口良子の姿があった。
「おはよう」
と、馬鹿正直に宮田が言ったので、谷口良子は笑ってしまっている。
「昨日は疲れたでしょうに」
と、良子は吐く息の白さを眺めながら、「あなた、緊張していたわね、ゆうべ」
「まあ、第一日は誰でもね」
宮田は深呼吸して、「朝の支度にかからんとね」
「そうか。大変ね。何もかも一人でやるって」
「いっそ、他人に口出しされるよりはやりやすい」
と、伸びをして、「しかし、あの社長も妙な人だな」
「どうして?」
「こんな、何もない田舎町に、ホテルを建てて……。どういうつもりなんだろう?」
と言ってから、あわてて、「いや、別に文句を言ってるんじゃないよ」
「それなら……。あなたが、どうしてそんな腕を持ってるのに、こんな所に来たのかの方がふしぎだわ」
「それは――」
宮田が少しためらって、「分ってるじゃないか」
と言った。
町田は、窓辺に立って、中庭の二人を見下ろしていた。二人とも、誰かが見ているとは思いもしないのだろう。
宮田が後ろから良子を抱く。
「――やめて」
「良子……」
「私は子供がいて――あなたより年上よ」
「そんなことが何だ。君がこの町へ帰ったから、僕はここへ来たんだ。君だって分ってる。そうだろ?」
良子は、少し力をこめて宮田の手をほどくと、二、三歩前へ出て、
「ひとみは難しい年ごろだわ」
と言った。「逃げてるんじゃないの。でも、あの子が私とあなたのことを許さなかったら、私たち、うまくいくはずがないわ」
「しかし、ひとみちゃんも子供じゃなし」
「子供よ」
「もう十八だ。君が思ってる以上に、大人のことを分ってるよ」
「でも……」
良子が振り向いて、何か言いかけたとき、
「宮田さん! ここにいたの!」
と、他の女の声がした。「キッチンが困ってるわ」
「今行く」
と、宮田は振り向いて言った。
「――あなた、行って」
と、良子は肩にかけたショールを固く前で合せた。
「あらあら、『あなた』ですって! |妬《や》けるわね」
「そんなんじゃないのよ」
と、良子が赤くなる。
「お邪魔様。――宮田さん、早くね」
宮田はちょっと笑って良子の方へ、
「君が『あなた』って呼ぶからだ」
「だって……」
と、少し不服顔で、「おかしい? 夫婦でもないのに『あなた』って変かしら」
「そうじゃないけど……。ま、普通名前で呼ぶかな」
「そうね……。考えたことなかった」
と、良子は小さく首を振って、「母が――亡くなった母が、私のことを『あなた』って呼んでたの。決して『良子』とか『あんた』とか呼ばなかった。私もそれでつい、『あなた』になっちゃうんだわ」
「僕は別に構わないがね」
宮田は笑って、「じゃ、行くよ」
と、足早に視界から消える。
谷口良子は、底冷えのする朝というのに、ゆっくりと中庭を散歩でもしている様子。
寒さを気にさせないほど、今の良子には気になることがあったのだろう……。
「――あなた」
あなた。――あなた、か。
「あなた、何してるの?」
恵美が後ろに立っていた。
「起きたのか」
「この寒いのに、窓を開けて! 風邪をひきますよ」
と、顔をしかめる。
「『あなた』か」
「え?」
「いや、何でもない」
と、町田は首を振った。「お前、いつホテルを出るんだ?」
「昼ごろにしようかと思ってるけど、どうして?」
「いや、訊いただけさ」
――嘘ではなかったが、一人になったら、町をゆっくり歩こう、という気もあった。
可能かどうかは別として、誰にも見られず、誰にもついて歩かれずに、自分の生れ育った町を、歩いてみたかったのである。
「お出かけでございますか」
支配人の声が飛んで来て、町田は思わず首をすぼめた。
「いや……。ちょっとその辺をね」
と、ホテルの玄関を出ようとしていた町田はごまかそうとした。
「外はお寒うございますから」
と、支配人の畑は急いでやってくると、「私、お供いたしましょう。町の中、どこへでもご案内いたします」
「いや、いいんだ。別に――」
と、町田が多少|苛《いら》|々《いら》して言いかけると、
「社長さん、お電話でございます。秘書の方から」
と、フロントの係が飛んでくる。
「分った。ありがとう」
このときばかりは、河野の電話を歓迎したかった。
ロビーの電話へつないでもらって、出てみると、
「社長、何とか間に合いました」
と、河野のホッとした声が伝わってくる。
恵美の支度に手間どって、乗るつもりだった列車に遅れてしまい、河野が車で先の駅まで送って行ったのだ。
「そうか。ご苦労さん。あわてて帰って来なくてもいいぞ。俺は一人でのんびり|風《ふ》|呂《ろ》にでもつかってる」
「いえ、急いで戻れば三十分で着きます」
町田はため息をついたが、少なくとも三十分は戻って来ないのだ、と思い直す。
仕事熱心な秘書を持つのも考えものである。
電話を切って見回すと、支配人の畑は、何か用ができたのか、姿が見えない。
今の内だ。――町田はまるで無銭飲食でもして逃げ出す客のように、ホテルを出たのだった。
夕方になって出かけたのは、一つには薄暗い中なら、町の人も彼のことを誰だか見分けられないだろうと思ったから。
しかし、本当の理由は、暗くなった方が町並みに昔の面影を見出せると期待したからでもあった。
――ああ、あの看板。まだそのままだ。
とっくに会社が|潰《つぶ》れてしまっている胃腸薬の広告。少し傾いていて、
「今度地震が来たら潰れる」
と、みんなが言っていたボロ家。
まだ、ちゃんと建っている。人の悪口を見返してでもいるかのようだ。
八百屋、酒屋……。酒屋は今風のコンビニである。こんな町で夜ふかししてどうするのだろう? 〈24時間営業〉とは笑ってしまう。
――だが、町の唯一の大通りを歩いていくと、閉めてしまった店、廃屋となった人家も目につく。
あそこは何だったろう?――なくなってしまうと、その空地に以前は何があったか、思い出せないものだ。
暗さが増して来た。並んだ家々の窓に明りが灯る。
その灯は、都会の家の明りがどこか冷え冷えとしているのと違って、暖かく、家庭のぬくもりを感じさせた……。
町田は足を速めた。
町はすぐに尽きて、山間の道を|辿《たど》っていく。――こんなに遠かっただろうか?
こんなに歩いたかしら。
町田は、一瞬、道か方向を間違えたかと思った。しかし、そう思ったとき、その|吊《つり》|橋《ばし》が|黄《たそ》|昏《がれ》の中に現われたのだ。
町田は、感動した。
たかが橋でも、昔の通りにそこで頑張っている。四十年近い歳月を、生き抜いている。
それはもう、今では大して必要でないかもしれない。しかし、確かにそれはそこにあった。
――町田は、いつからそれを見ていたのだろう?
夢か? それとも黄昏どきの|薄《うす》|闇《やみ》に、影がいたずらしているだけなのか。
いや――確かだ!
吊橋の手すりに両腕をのせて、小栗貞子が立っていたのである。
――その娘が、もちろん小栗貞子であるわけはない。しかし、全身から流れるもの、空気の中へ溶け込んでいくようなその姿は、記憶の中の貞子と重なった。
横顔が見えた。
どこか愁いを含んだその横顔が、あの小栗貞子を思い出させたのである。
町田が橋へ足を運ぶのは、自分の出発点をもう一度見たかったからである。
そして、その娘は、こんな時刻に吊橋を渡る人間がいることに当惑しつつ振り返った……。
「あなた、どなた?」
と、彼女は訊いた。
「君は?」
と、町田は、足を止めて訊いた。
娘はそれには答えず、
「どこへ行くんですか? この先、もう山の中よ」
「ああ、知ってる」
「町の|方《かた》じゃ……ないわね?」
ふしぎに思っても当然だろう。
「この吊橋を見に来たんだ」
と、町田は言った。
すると娘は笑った。――その笑いは町田の奥深いところまで届いた。
「何かおかしいかな」
「だって――よその人がわざわざ見に来るなんて。この吊橋がそんなに有名だったなんて知らなかったんですもの」
「なるほど」
町田も笑顔になって、「しかし、いい橋じゃないか。僕は好きだね」
「橋に『いい』とか『悪い』とか、あるんですか?」
「――あるとも。これはいい橋だよ」
急に強い風が吹いて来て、吊橋はゆっくりと揺れた。
「寒いね。――帰るかい? じゃ、町まで一緒に歩こう」
娘が足下から|鞄《かばん》を取り上げた。
「学校の帰り?」
「高校生です」
一緒に歩き出しながら、「帰りのバス、一つ手前で降りて、歩いてくるの。この橋で足を止めて一人でいたいから」
「変ってるね」
「でも、あなたほどじゃないわ。『いい橋』、『悪い橋』だなんて、初めて聞いた」
「そうか」
屈託のない娘の口調は、町田にとって驚きだった。
こういう町の人間は、見知らぬ「よそ者」を警戒するものだ。しかし、この娘は町田をからかって平気でいる。
「町に泊ってるの?」
と、娘は訊いた。
「ああ」
「あの新しいホテル? 趣味の悪い」
町田は意外な気がして、
「趣味が悪いかね。こういう環境に気をつかって、和風に造られていると思うが」
「それがいやなの。この町に|媚《こ》びてるわ。それでいて、稼ぎは全部東京へ吸い上げられて、町には何も残らない。町の人たちは、ボーイかウエイトレスか、窓拭きがせいぜい。それを、町長さんなんか『町の救い主』なんて感激して。何も分ってない」
娘は一気にまくし立てるように言った。
町田は返す言葉がなかった。確かに、自分が「商売」として当然のようにやっていたことが、見方を変えるとこうなってしまうのか、とびっくりした。
町へ向う道を、足早にやってくる人影があった。
「――お母さんだ」
と、娘が言った。
「ひとみ! どこにいたの?」
と、怒気を含んだ声が、その人影から飛んで来る。
聞き|憶《おぼ》えのある声だった。
「帰って来たでしょ?」
と、娘は言った。「吊橋の所で少し時間を|潰《つぶ》してただけよ」
「そんなこと……。学校を早退したって、心配して先生からお電話があったわよ!」
そうか。今朝、あの料理長の宮田と話していた女だ。
「――まあ」
と、女の方が近付いて町田の顔を見分けた。「社長さん……」
娘がゆっくりと町田を見た。
「散歩していて、この娘さんと一緒になってね」
と、町田は言った。「あんたの娘さんか」
「はい。ひとみ! こちら、あのホテルを建てられた、町田さんよ」
娘が何と言うだろう、と町田は興味を持った。
ひとみは、気後れするでもなく町田を見て、
「これで誤解されることはないですね、少なくとも」
と言って、事情を知らない良子はただ面食らっているばかりだった。
4 交渉
「一体どうなってるの?」
恵美は、|叩《たた》きつけるように言った。
「申しわけありません」
河野は、ただひたすら頭を下げるばかり。
「謝ってもすむことじゃないでしょ、――主人は何をしてるの? あんな田舎町で!」
重役室で、背もたれの高い大きな|椅《い》|子《す》に腰をおろした恵美は、険しい表情になっていた。
|苛《いら》|立《だ》ちで、机を叩きながら、
「電話しても、『やることがある』って言うだけ! 本社の会議をすっぽかして、あんな町で何をしてるの?」
「ホテルのオープンで、色々と――」
「分ってるわよ、それくらい!」
と、恵美は遮って、「でも、河野君、あなたまで帰って来てるってのは、どういうこと? 主人を一人で残して来るなんて」
「社長のご命令で」
「いくら『ご命令』でも、いつもなら言うこと聞かないでしょう。それが今回はどうして?」
「それは……」
河野の額に汗がにじんでいるのを見て、恵美もびっくりした。
「いいわ。分った。――言いたくなければいいわよ」
「奥様――」
「ごめんなさい。あなたに当っても仕方ないのにね。もう行って。会議の日程だけでも、何とか出すように主人に言ってちょうだいね」
河野は黙って頭を下げると、重役室を出て行く。
――恵美は少し冷めたお茶を飲んで、息をついた。
何かがおかしい。恵美は敏感に感じ取っていた。地震を予知して動物が騒ぐように、恵美も近付いてくる「異変」を感じていた。
ドアが開いた。
「何か忘れたの?」
恵美の問いには答えず、河野は真直ぐ机までやって来ると、
「社長は、あの町の女性に恋をされたんです。それで帰りたくないとおっしゃっているんです」
と、早口に言った。「――それだけです」
パッと一礼して出て行く河野を、恵美は止めることもできずに、|呆《ぼう》|然《ぜん》として見送っていた……。
生徒たちの声が聞こえてくる。
応接室といっても、半ば物置と化して、いつのものやら分らない優勝カップとか|楯《たて》が並んで、|埃《ほこり》をかぶっていた。
谷口良子は、もう三十分もここで待たされていた。――言われた通りの時間に来たのに、ここへ通されて、
「少し待ってて下さい」
と言われたきり。
何があったんだろう?
良子は、このところ忙しくて、ほとんど連日帰宅は夜中だった。ホテルの中がまだうまく動かないせいでもあるが、予想以上の客が来ているのも原因だった。
料理長の宮田も、毎日、睡眠三、四時間で頑張っている。しかし、忙し過ぎるというのは、ぜいたくな悲鳴だろう。
良子は本来「皿洗い」が仕事だが、結局臨時雇いの子の面倒までみなくてはならなかった。「教育係」というわけだ。
良子としては、娘のひとみを大学へやりたい。そのためには、ホテルでの仕事が正規の「社員」として続けられたら理想的だった。
そこまではまだまだかかりそうだったが……。
ひとみは、「大学へ行きたい」と言っているわけではない。しかし、この高校の友だちの、ほとんど全部が大学へ進むのである。当人も行きたいだろうが、そう口には出せずにいる。
もう高三だ。ひとみの進路も決めなくてはならない。
――応接室のドアが開いた。
「あ、どうも……」
立ち上って、担任の先生に頭を下げたが、その後から校長、そして何と町長の橋山まで入って来て、良子は言葉もなかったのである……。
「――お待たせして」
と、何だか汗をかいている担任の明石が口を開いた。「こちらの打ち合せに手間どりまして、申しわけありません」
明石は、三十代半ばの、一見、どこかのサラリーマンかと思える男である。いつもきちんと背広にネクタイで、真夏でも上着こそ着ていないが、ネクタイはしめて、涼しげに歩いている。
その明石が今日は汗をかいているのだ。――何ごとだろう? 良子は不安がつのって、思わずソファに座り直してしまった。
「こちらは……ご存知と思いますが、町長の橋山さん、それに校長先生――」
「もちろん存じています。あの……ひとみが何かしたんでしょうか?」
「いやいや」
と、校長の小田が首を振って、「別に何かしたというわけじゃないのです。ただ、まあ――困ったことがありまして」
校長の小田は、いつも持って回った言い方で評判が悪い。教師としては影の薄い存在だったのだが、県の教育委員会には忠誠をアピールして、校長の地位を手に入れた。
校長になって、まだ二年という点を考えに入れても、貫禄のない「校長先生」だった。
「何でしょうか。このところ、私もホテルの仕事が忙しくて帰宅が遅いものですから。娘ともあまり話しておりません。何か問題を起したのだとしたら、はっきりおっしゃって下さい」
「当人が問題をあれしたわけではないのでしてね。要するに、私どもとしても大変困ったことになったと思っておるわけで……」
「校長先生」
と、橋山町長が言った。「それじゃ、谷口さんには何のことか分らんよ」
「はあ……」
「谷口さん。――あんたも一度は東京へ出たが、結局、この町へ帰って来た。この町のことを大切に思ってくれとるだろう」
「はあ」
「今、ホテルにオーナーの町田国男さんが泊っておられるのは、知っての通りだ」
橋山は穏やかに言った。「娘さんが、町田さんと会ったことがあるのは知っていたかね?」
「ひとみがですか。――ええ、一度、あの|吊《つり》|橋《ばし》の所でお目にかかって、お話ししながら帰って来たことがあります。迎えに行って、出会ったんですけれども」
「その後も、町田さんとひとみ君は吊橋で会っているのだよ」
「――そうですか。あの子、何も言わないで……」
と、良子は言いかけて、「――何か、町田さんに失礼でもしたんですか?」
「いや、むしろその逆だ」
「逆、というと……」
「町田さんが、すっかりひとみ君を気に入ってしまわれた。ひとみ君を東京へ連れて行きたいとおっしゃってるんだよ」
良子は|愕《がく》|然《ぜん》とした。
町田は、部屋に備えたファックスが、ジーッと音をたてて、受信された文書がプリントアウトされて出てくるのを見ていた。
読む気にもなれなかった。内容は分っている。本社からのファックスが、もう何十枚もたまっていて、部屋の隅に投げ出してある。
町田は一切見ないことにしていた。――結論が出るまでは一切見ない、と決めていた。
ホテルの一番広いスイートルームのドアをノックする音がした。
――橋山町長が、ややおずおずと入って来る。
「かけて下さい」
と、町田はソファをすすめて、「話はしてくれましたか」
「はあ……」
橋山は目を伏せて、「一応、母親と話をしまして……」
「一応、では困る! はっきり返事をもらいたい。いいですか、私も東京に仕事を山と待たせておる。一日ごとに何千万の損を出している。長くは待てんのです」
町田は厳しい口調で言った。
「よく分っております。しかし、母親にも寝耳に水だったようで、びっくりしているばかりなんです。せめて、帰って娘と話したいと……。ひとみ君は今日、学校を早退しています」
「それで?」
「よく説明しました。町田さんが決して遊びのつもりでひとみ君をそばに置きたいとおっしゃっておられるんじゃない、と。ひとみ君の気持ももちろん尊重する。ただ、何といっても、まだ十八で、母親としては手放したくないだろうが――」
「結論を」
と、町田は遮った。「ひとみが承知なら、母親も了解してくれるのですか?」
「それは……。そこまでは言い切れませんでした。やはり、娘とよく話し合った上でなければ……」
「町長さん、私はこの町が好きだ」
と、町田は言った。「だからこそこのホテルも建てた。このホテルが町の人を優先的に従業員として雇っているのは、大変にコスト的にはむだをしているのです」
「それは分っております」
「三人ですむところに、四人、五人と人がいる。しかし、長い目で見て、この町のためになるのでなければ、ホテル経営の意味はない、と私は思っているのです」
「そのお気持は――」
「それなら、お分りいただきたいものですな。私がひとみを連れ帰ることができれば、このホテルを必ず成功させてみせます。しかし、それができないとなれば……。私はこの町に失望するでしょう。そして、二度とこの町へ足を踏み入れることはない。――そうなれば、このホテルはどうなります? 私にとっては、いくつもあるホテルの一つだ。ここを閉めたところで、どうということはない。よく考えて下さい」
橋山は、やや青ざめた顔で、
「よく分りました」
と言った。「谷口良子によく言って聞かせましょう」
「ご返事をお待ちしています」
町田は、さっさと立って行ってドアを開け、「今夜中に。――よろしいですね。明日は帰京します」
問答無用だ。――橋山は、重苦しい足どりでスイートルームを出て行った……。
――ドアを閉め、町田は苦い思いをかみしめながら、窓辺へと歩み寄った。
「ろくでなしめ……」
と、|呟《つぶや》く。
俺はいつからヤクザの真似をして、人を脅すようになったんだ?
町のため?――我ながら笑ってしまう。
俺はただ、あの子が欲しいのだ。それだけなのだ。
「――ひとみ」
と、呟く。
その名は、もう彼の中で特別なひびきを持っていた。
「学校を早退した」
と、町長は言った。
町田は、コートをつかんで、駆け出すように部屋を出た。
吊橋が見えてくるころには、もう辺りは薄暗くなり始めていた。
町田はかなり息を切らして、それでも足どりを緩めようとはしなかった。確信があった。――あの子はあの吊橋にいる。
そして――本当に、ひとみの姿は吊橋の上にあった。
鞄を足下に置いて、手すりに両手をのせて、じっと遥か下の谷川を見下ろしている。
町田が近付いて行っても、ひとみは顔を向けなかった。
「――ひとみ。やっぱりここにいたんだな」
「来ると思った」
と、ひとみは言った。「待ってたのよ」
「そうか。しかし――」
「私の心の中ぐらい分るでしょ。そんなに愛してくれているのなら」
ひとみの言い方には、どこか自分を責めているようなところがあった。
「分るもんか」
町田は、手すりに背中をもたせかけて、「人が何を考えているか、誰だって分りゃしない。自分が考えてることだって、ろくに分らないのに」
「六十年も生きてても?」
「生きれば生きるほど分らなくなる」
と、町田は言った。「分らないから、信じるんだ。分らないのに信じるから、価値があるんだ。そうだろ?」
ひとみは、ゆっくりと町田を見て、
「私を――本当に東京へ連れて行きたいの?」
「ああ。君の中に、私は初めて自分の未来を見たんだ」
と、町田は言った。「もう、未来なんかないと思っていた。老いて、死んでいくだけだと。――作り上げた、ホテルもレストランも、その内見も知らぬ奴の手を転々として、滅びていくんだと……」
「今は違うの?」
「違う。――私にははっきり見えた。君が私の子供を抱いて乳を含ませているのが。その子が私の築いたものを受け継いで、もっともっと大きくしていくのが。ひとみ。君は可愛い。だが、私はそれだけで君にこだわっているわけじゃない。君の中にしか、私の未来がないからなんだ」
町田の言葉を聞いて、ひとみはまた谷川の底へと目をやった。
「私が――あなたの子を産むの?」
「そうだ。いやか?」
「さあ……。想像もつかない」
ひとみの目は、暮れかかる空を見上げた。
「ひとみ――」
「私、ここへ帰って来たくなかった」
と、ひとみは言った。「東京にいたのよ、ずっと。それが……。お母さんがどうしても帰ると言い出して。私、いやだった。でも、まだ十五だった私が、一人で東京に残るわけにいかなかったの」
「どうして東京へ出たんだ?」
「さあ……。私が三つのときだもの。何も|憶《おぼ》えていないわ」
「父親は?」
「顔も知らない。私が赤ん坊のとき死んだって……。そして、お母さんは働かなきゃいけなかったの。それには、この町じゃ無理だった……」
「そうか。――お母さんと一緒に東京へ来ればいい。暮しは私が見る」
「お母さんはここにいるわ」
「あの宮田という料理人がいるからか」
ひとみは町田を見て、
「知ってるの」
「それらしいと思っただけだ」
町田は、ひとみの肩を抱いた。ひとみも逆らわなかった。
「――私を捨てない?」
「ああ」
「誓う?」
「誓うとも。――誓いを破るほど長くは生きていない」
ひとみはちょっと笑った。そして――伸び上って町田の唇に自分の唇を押し付けた。
吊橋の辺りは、ゆっくりと「夜」に包まれていった。
5 秘密
「何をおっしゃってるか、分ってるんですか?」
と、谷口良子は言った。
「何と言われても仕方ない。君が怒るのは当然だ」
橋山は畳にあぐらをかいていた。良子も今夜は家へ早く帰っていたのだ。
「私がどう思うかより、橋山さん、あなたはそれで納得できるんですか」
橋山は、良子から目をそらした。
「できるはずがないじゃないか。――もちろん、あの町田という男にお茶でもぶっかけてやりたいよ」
と、橋山は言って、良子がやや意外そうに、
「それなら……」
「しかし、町のことを考えるとね。――私はもういい。たとえ、町田さんとトラブルを起こして、町長を辞任することになっても、構やしない。どうせ長くないんだから」
「町長さん……。良くないんですか、具合?」
と、良子は訊いた。
「このところ、時々我慢できないほど痛む。――もう何をやっても手遅れだ」
「何もおっしゃらなかったわ」
「言ってどうなる? 君が戻って来てくれて、|嬉《うれ》しかったよ。しかし、それ以上、どうすることもできない。――君が戻って来てくれなかったら、もう何年も前に私は死んでいただろう」
「町長さんがそんな弱音を吐くなんて――」
「その『町長さん』はやめてくれないか」
と、橋山は少し|苛《いら》|々《いら》と、「二人しかいないんだ。よそよそしい言い方は――」
「それはあなたのせいでしょう。町のためとはいっても、六十の年寄が、十八の娘を本気で愛していると信じてるんですか?」
「良子。――私も、もう七十七だ。六十のときを思うと、まだまだ、やり直すだけのエネルギーがあった。あの町田さんって人は、嘘をついてはいないと思うよ」
良子は表情を固くして、
「ひとみを、町のためにいけにえにして差し出せとおっしゃるの?」
「そう大げさなことでも……」
「大げさ!――町長さん。橋山さん、ずいぶん変ったものですね。昔のあなたは、女の身の辛さ、苦しさをよく知ってらしたわ」
良子の声は少し震えていた。
「良子――」
「やめて下さい! 呼び捨てにしないで」
と、はね返すように言って、「私はあの子の母親なんです。あの子を守ります。そのせいで町が滅びたって、それが何でしょう? そんな町なんか、どうせ遠からず滅びるんです」
橋山は、深く息をつくと、立ち上ろうとして、少しよろけた。
「危い!」
良子が反射的に抱き止めた。
橋山は、一瞬間を置いて、良子を抱きしめた。良子はされるままになっていた……。
「――もうお帰り下さい、町長さん」
「良子……」
「ひとみのことは心配しないで。あのとき、あなたと約束したように。私一人で守ります」
「この情ない父親を笑ってくれ」
と、橋山は震える手で良子の顔を挟むと、そっと額に唇をつけた。
「|白《しら》|髪《が》をいたわって下さるの?」
「まだまばらだ。――君はあのころと同じようにきれいだ」
「町長さん……。目が悪くなられたのね」
二人は顔を見合せ、一緒に笑った。
「――宮田はいい奴だな」
と、橋山は靴をはきながら言った。
「何ですか、だしぬけに」
「いや、ひとみ君も、父親を求めているのかもしれんと思ってね」
と、立ち上って息をつく。
「父親をね。祖父ではありませんわ」
「そう……。だが、あの男……」
「誰のこと?」
「町田さんさ。――以前、どこかで会ったことがあるような気がする」
橋山は首を振って、「どこで、どんなときに会ったか思い出せないが、確かにどこかで……。ま、他人の空似かもしれんがね」
橋山は軽く肯いて見せ、「ひとみ君とよく話し合ってくれ」
と言うと、もうすっかり暗くなった夜道を歩いて行った。
――良子は、台所に立って、夕食の支度を始めた。
こんな時間にちゃんと食事の用意をするのは、久しぶりだった。――ひとみはどうしたのだろう。早退したと言っていたが、どこへ行ってしまったのだろう。
料理に専念して、何分過ぎたか。
良子は人の気配を覚えて振り返った。
「――ひとみ! ああ、びっくりした。声ぐらいかけてよ」
ひとみは、|鞄《かばん》を畳へ置くと、
「お母さん――」
「待って。夕ご飯にしましょ。話はその後でもできるわ」
「私、聞いてたの。表で。――町長さんとお母さんの話」
良子が青ざめた。ひとみは、母親から目をそらして、
「お母さんが私を産んだのが十九。そのとき町長さんはいくつ?」
「ひとみ――」
「五十……八か九か? 町田さんのことを悪く言う資格なんかあるの?」
「ひとみ。お母さんは、高校を出て町長さんの下で働いてたの。お母さんはあの方を愛してた。あなたを身ごもっても、後悔しなかったわ。でも――今度の話とは違うでしょう。あなたは町田さんを愛してなんかいない」
「そうかしら」
「――どういう意味?」
「私、東京へ行きたい。あの人が連れて行ってくれるのなら、子供くらい産んだっていいわ」
「ひとみ!」
「止めないで。止めても行くわ。あの人は私を大事にするって約束してくれたもの」
「あの方は奥さんのある身なのよ」
「でも、私が子供を産めば?――私の方が強いわ。若いし、気力もある。勝ってみせる」
「やめなさい!」
良子は踏み込んで、平手で娘の|頬《ほお》を打った。
ひとみは痛みなど感じもしない様子で、
「――私、明日、あの人と一緒に東京へ行くわ」
と言った。「荷造りする」
ひとみが奥の部屋へ入って行くと、良子は畳に座り込んだ。座ったことにも気付かないように。
ガステーブルで、鍋がゴトゴト音をたてていた……。
ここは……どこだ?
橋山は、夜道がいつまでも暗く続くのに戸惑っていた。
谷口良子の家から自分の家へ戻るのに、こんなにかかるわけがない。――どうしたというんだ?
七十何年もこの町で暮して来て、目をつぶったって、好きな所へ行ける。それなのに、果てしなく続く暗い道を、いつしか橋山は|辿《たど》っていたのである。
「――妙だな」
と、|呟《つぶや》いて、足を止める。
何か、奇妙な感じ、自分を何かが待っているという予感のようなものがあった。不安がふくれ上ってくる。
まさか……。おい、やめてくれ。まさか俺は今、|三《さん》|途《ず》の川へ向ってるんじゃあるまいな。
橋山は自分の考えに恐ろしくなって、声を上げて笑った。それでも、ちっとも怖さはおさまらない。
振り返ると、灯一つない|闇《やみ》である。
こんなはずはない。歩きながら、夢でも見ているのか? 少しぼけて来たかな?
ともかく歩いて行けば……。
「――何だ」
と、思わず口に出して言った。
目の前には、あの|吊《つり》|橋《ばし》があった。
どうして……。こんな所へ出てくるわけがない!
しかし、現に目の前に吊橋がかすかに揺れ、遠く谷川の流れの響きが立ち上ってくる。
橋山は、今自分が吊橋のそばにいることを、認めないわけにはいかなかった。
月明りが、吊橋を白く照らしていて、気が付くと、その中央に、手すりから身をのり出すようにして、じっと深い谷を|覗《のぞ》き込んでいる女がいた。
そっと近付きながら、橋山は、
「この場面は、いつか見たことがある」
と思った。
そうだ。いつか、ここで見た光景だ。
その女がゆっくりと振り向く。
橋山は、|膝《ひざ》が震えた。――嘘だ。嘘だ。
こんなこと、あるわけがない。彼女が、昔のあのままの姿でここに立っているなんて……。
彼女は橋山を見ていた。
「あなた……。私を捜しに来たの?」
と、彼女は言った。
橋山は答えられなかった。――自分でも知らなかったのだから。
「私に、何か言いたいことがあるんでしょ?」
と、彼女は月の光の方へ顔を上げた。
白く光る|頬《ほお》。そこには涙の跡がキラキラと輝いて見えた。――きれいだ、と橋山は思った。
そうだ。あのときも、そう思ったのだ。
「私……ここであなたに救われたわね」
と、女は言った。「飛び下りようとした私を、あなたは止めてくれた。――ねえ」
「ああ……」
橋山は、目をそらした。「そんなことがあったな」
「びっくりしたわ、あのとき。あなたは、私を止めるのに間に合わないと見ると、自分がこの吊橋から飛び下りようとした」
「とっさのことだ。他に思い付かなかった」
「私、あわててあなたを止めた。それで救われたのよね」
「僕が止めたんだとしても、君が自分でやめる勇気を持っていたからさ」
夢の中だ。――きっと、俺は夢を見ているのだ。
「貞子」
と、橋山は言った。「どうしてこんな所へ来たんだ」
「私がいない方がいいと思ったからよ」
「馬鹿なことを! 良子ちゃんはどうなるんだ」
「良子にはあなたがついてるわ」
貞子の声はゾッとするほど、|哀《かな》しく、恨みをこめて響いた。
「しかし――」
「あなたには奥さんもお子さんもあるわ。私は、ひかげの身でも良かった。でも、こういう立場の女は、他にとって代る女が現われたら、身をひくしかないの」
「貞子、それは――」
「分ってるのよ。あなたは今、あの子を――良子を愛してる」
橋山は何か言いたくても、言えなかった。俺は、あのときの俺なのか? それとも、年老いた俺なのか。
貞子、貞子。
許してくれ。俺は――俺は――。
「今度は止めないでね。増田さんに捨てられたときとは違うわ。良子のために死ぬんだから……」
「いけない! 貞子。――すまない。良子ちゃんとあんなことになるとは思わなかったんだ。僕が悪かった!」
――増田さんに捨てられたときとは……。
増田さんに……。
増田……。
橋山は、全身の血が引いていくように感じた。――増田。増田。
そうだ。あの男だ。
橋山は、思い当った。どこかで会ったことがある、あの町田という男。あれは――三十七年前、この吊橋で、貞子を突き飛ばして、郵便局から盗んだ金を持って逃げた、増田だ。
「――どうしたの? 橋山さん。――あなた、大丈夫?」
貞子の声が遠ざかっていく。
橋山は、胸苦しさによろけつつ、吊橋の手すりにつかまった。吊橋が揺れる。
心臓が――。心臓が――。
橋山はその場に崩れるように倒れた。
「あなた。――あなた、しっかりして」
遠くで声がする。
貞子。――君か? 俺を連れに来たのか。あの世から。
橋山は、自分の体がずいぶん軽くなっているように感じた。
「町長さん。――橋山さん」
町長?
目を開けると、ぼんやりとした人の輪郭が見えて、やがてそれは谷口良子になっていた。
「――良子」
「気が付いた! 良かったわ」
良子が、橋山の手を握った。「冷たい手をして……。こんなに……」
良子がすすり泣く。
「俺は……君の母さんに会った……」
と、橋山は言った。
「――え?」
良子にはよく聞こえなかったらしい。「どうしたんですか。苦しい?」
「良子……」
「何も話さないで。危なかったんですよ! たまたまあの吊橋を車で通りかかった人が見付けて、この病院へ運んで下さったの」
良子は、自分の涙で|濡《ぬ》れた手で、橋山の額をさすった。「私、ホテルのことが気になって。――若い子に任せていたので、大丈夫かと思って電話したんです。そしたら、あなたが病院に運び込まれたと……。飛んで来ました」
胸が、焼けるように痛い。声を出したくても、声にならなかった。
橋山は肯いた。小さく肯いて見せた。――「大丈夫」と、「ありがとう」と、二つの気持をこめていた。
「もう、休んで下さいね。私、そばにいますから……」
橋山は、言わなければ、と思った。――町田は、あの男は、君の母さんを捨てた男だ。
それはつまり――あの男は、君の父親なのだ。
それを考えたとき、橋山は一瞬青ざめ、心臓が激しく打つのを覚えた。
ひとみ……。とんでもない!
ひとみを、町田は連れて行こうとしている。――ひとみが、自分の孫だということも知らずに。
6 訪問
ドアにノックの音がして、町田はゆっくりと歩いていくと、
「どなた?」
と訊いた。
返事はなかった。代りにもう一度ノックの音。
夜中、十二時を回っていたが、町田は寝る気になれずにいた。橋山が何か返事を持ってくるかもしれないと思っていたせいもある。
しかし、今のノックは……。
ドアを開けて、町田は一瞬時間が止ったような気がした。
谷口ひとみが立っていた。手にボストンバッグをさげ、真直ぐに町田を見る目は厳しく輝いていた。
「明日、あなたと東京へ行きます」
と、ひとみは宣言するように言った。「今夜、泊めて」
「ああ」
町田は傍へ退いて、ひとみを中へ入れた。
「――広いなあ」
と、ひとみはスイートルームの中を物珍しそうに見回して、「泊ってもいいのね?」
「君はいいのか」
「ええ」
ひとみは真直ぐに入って来ると、クルリと振り向いて町田を見た。
「今夜からだって同じことだわ」
「――確かにそうだ。しかし、君のお母さんは?」
「知らないわ。でも、いいの」
ひとみの言い方にはとげがあった。
「何かあったのか。母親と言い争ったのか?」
「当然でしょ。喜んで行かせる母親がいる?」
「それもそうだ。しかし、それを承知で私は君を連れて行くんだ」
「それなら、泊ってもいいわね」
ひとみは、バッグを放り投げた。そして、大きく伸びをすると、
「――お風呂に入ってくる」
と言った。
「その奥だ。ゆっくり入りなさい」
平気を装い、強がってはいるが、|怯《おび》え、緊張している。|膝《ひざ》は震えているかもしれない。
そんな十八歳の娘を抱くことなど、少し前の町田なら考えもしなかったろう。だが、今は分っている。自分があのきゃしゃな体をこの腕に抱きしめるに違いないということが……。
シャワーを浴びる音がバスルームから聞こえてくると、町田はあわててベッドルームへ入り、ベッドカバーをめくって、ピンと張った|爽《さわ》やかなシーツの反射にまぶしい思いをした。
震えているのは俺の方かな? そう思うと笑ってしまう。
電話が鳴って、町田は舌打ちした。――何だ、こんな時間に!
電話をつなぐな、と言っておくんだった。
仕方なく出てみると、
「町田さんでいらっしゃいますか! あの――校長の小田でございます」
「ああ、どうも。こんな時間に何ごとです?」
「申しわけございません。あの……おやすみとは思ったのですが――」
「用件を早く言って下さい」
「はあ。申しわけも……。実は町長が――橋山町長が、ついさっき亡くなりまして」
町田もさすがに言葉を失った。
「町外れの吊橋の所で倒れていたのを見付けられて、病院へかつぎ込まれましてね。それで急いで手当てをして、一旦持ち直したんですが、また急に……。あの――一応お知らせしておいた方が、と……」
「もちろんです」
と、町田は言った。「お知らせいただいてありがとう」
「いえ、どうも……」
「今、ご遺体は病院ですか」
「は、さようです」
「これから参ります。明朝早く発たねばなりませんので」
と、町田は言った。「病院はどこです?」
町に、大きな病院は一つしかない。歩いても大した距離ではなかった。
「では」
と、電話を切り、町田は仕度しようとした。
「どうしたの?」
ひとみが立っていた。バスタオルを体に巻いただけの姿で。
「もう出たのか」
「お風呂、早いの。いつもお母さんに|呆《あき》れられる」
と、ひとみは言って、「今の――お母さんから?」
「いや、そうじゃない。ちょっと出て来なきゃならない。待っててくれ」
「ええ……。でも、こんな時間に、どこへ?」
「すぐ近くだ」
町田は、ひとみから目を離せなかった。
そこには、ずっと昔に失った「青春」が息づいている。――そうだ。橋山は死んでしまったのだ。今さら急いでどうなる。
後でもいい。病院に行くのは、明日の朝でも……。
「――出かけるんじゃないの?」
と、ひとみが言った。
「そうだが……。急ぐこともないんだ」
町田は、ひとみを抱き寄せた。スッポリと腕の中へおさまってしまう、きゃしゃな少女の体は、かすかに固く引き締った。
「心配するな」
「してないわ」
強がりを言って、ひとみは自分から町田へしがみついた。
町田はひとみを抱え上げると、ベッドへ運んで行った。
「腰、痛くない?」
「平気さ」
ベッドへひとみを横たえると、町田は傍へ横になって、静かに唇を小さな唇の上に落とした。
ひとみが、かすかにため息をつくと、
「あなた……」
と言った。
その声が、町田の遠い記憶に共鳴した。
あなた……。あなた、か。
「――君のお母さんも、『あなた』と呼びかけるんだね」
宮田と谷口良子が話していた光景を思い出して、町田は言った。
「ああ、そうなの」
ひとみがちょっと笑って、「お母さんのお母さんが、いつも人に『あなた』って呼びかけて、よく誤解されてたって笑ってたわ、お母さんが」
「そうか……」
「それがどうかした?」
――この声。「あなた」と呼ぶ声。
この|瞳《ひとみ》。この笑顔。
どこかで見たことがある。いつか、ずっと昔に知っていたような気がする……。
「どうしたの?」
と、ひとみが|訊《き》く。
「いや、何でもない。――大したことじゃない」
町田はそう言って、明りのスイッチへ手をのばした。
病室の前に人が集まっているのが見えた。
町田は、静かな廊下を、その方へ進んで行こうとして――。
「失礼ですが」
と、呼びかける声で足を止めた。
「あんたか」
谷口良子は、黙って頭を下げた。
「町長が亡くなったと聞いてね」
「はい。あなたがおみえになると伺いましたので、お待ちしていました」
「娘さんのことだね」
「はい。町長さんからお話は……。でも、とてもそんなこと、親として承知するわけに参りません」
「娘さんはどう思うかな」
「あの子は、ただこの町を出て行きたいのです。高校を出れば、一人で出してもやります。でも、今は――あなたと一緒にやることなんか……」
「分るよ」
「私にはあの子しかありません。どうか――お一人で明日――いえ、この夜が明けたら、東京へ帰って下さい!」
良子は深々と頭を下げた。
病室の辺りがザワついた。
「――町長さんの奥様です」
「あんたはどうしてここへ来ていたんだ」
良子は少しの間黙っていたが、
「町長さんは――橋山さんは私にとって、特別な方だったんです」
と言った。「あの方のためにも、私はひとみをあなたへ渡すことができないんです」
町田は、ゆっくりと病室へ目をやって、それからもう一度、良子を見た。
「――誰かに似ていると思った」
と、町田は言った。「それで、あんたは一時この町を出ていたのか」
「橋山さんの具合が良くないと知って、戻りました。周囲にどう思われても、あの方のそばにいてあげたかったんです」
「そうか……」
と、町田は肯いた。
「どうかあの子のことは忘れて下さい! この通りです」
良子は、バタッと冷たい床に|膝《ひざ》をつくと、両手をついて、頭を下げた。
「――立ってくれ。もう……あんたの娘は私の部屋にいる」
良子は|呆《ぼう》|然《ぜん》として顔を上げ、
「――まさか」
「本当だ、さっき、バッグを手にやって来た」
「それじゃ……」
「私のベッドで眠っている」
良子は、よろけるように立ち上ると、
「あの方に……橋山さんに申しわけない! 私と母の恩人なのに……」
「あんたの母親? だが――そんなころなら、橋山はまだ郵便局の課長だったろう」
良子はびっくりして、
「どうしてそんなことをご存知なんですか?」
「なぜ、君の母親の恩人なんだ」
「母を助けてくれたからです。――あの吊橋から飛び下りようとする母を、救ってくれたんです」
「吊橋から?」
「母は町の若い男に|騙《だま》されて、郵便局のお金を盗んだんです。でも、その男は、お金だけ持って、母をオートバイから突き落として逃げました。母は絶望して、吊橋から飛び下りようとして――。それを橋山さんが助けてくれたんです。でもそのとき、母のお腹には私がいました……」
しばらく間があった。
そこへ、小田校長がやって来た。
「社長さん! おいででしたか! 気付きませんで」
「いや……」
「わざわざ恐れ入ります。あちらの病室で――。大丈夫ですか? お顔の色が――」
「いや、何ともない」
と、町田は言った。「ご|挨《あい》|拶《さつ》をさせていただきましょう」
「ご案内いたします」
町田は、小田の後について行った。
良子は、その場でじっと町田の後ろ姿を見つめて立ち尽くしていた……。
吊橋がかすかに揺れて、音をたてていた。
風があるとも見えないが、たぶん時々吹きつけていたのだろう。
町田は、吊橋の手すりから下を|覗《のぞ》き込んだ。――谷川は、かすかな|囁《ささや》きが耳に届くばかりで、まだ|闇《やみ》の中に溶けている。
夜明けには時間があった。
ひとみは眠っているだろうか?――ひとみ。
町田は、ふと人の気配を感じて、
「ひとみか?」
と、振り返った。
ほの白い人影は、少し離れて立っていたが、やがてゆっくりと近付いて来た。
「――ひとみさんとおっしゃるの」
「恵美!」
妻の姿を見分けて、町田はびっくりした。「こんな所で、どうしたんだ?」
「あなたこそ! 一体自分がいくつだと思ってるの? あと何年、寿命が残ってると思うの? 今さら若い女にのぼせるなんて!」
「河野から聞いたな」
「話をつけに来たのよ。あのホテルも、この町も、|潰《つぶ》してやるから!」
恵美の声が震えた。
「もう、そんな必要はない」
と、町田は言った。
「何ですって?」
「|俺《おれ》は、夜が明けたら一人で発つつもりだった。しかし、もう仕事にも戻りたくない。もう……」
「あなた……。私をごまかそうとしたって――」
「言ったろう。もう帰るんだ。――お前も忘れてくれ。すんだことだ」
恵美が当惑しているのが気配で分る。
「――さあ、行こう」
と、町田が促したとき、タタッと駆けてくる足音が聞こえた。
誰かが、町田にぶつかる。
「あなた!」
と、恵美が叫んだ。
「どうしても……どうしても……あの子をあなたへあげるわけにいかないんです!」
上ずった声で、谷口良子が言った。「許して下さい!」
良子はよろけて手すりにつかまった。
「あなた……。どうしたの!」
「何でもない!――何でもないんだ!」
「でも血が……」
「いいんだ」
町田は、脇腹に突き刺さったナイフを抜いた。
「早く病院へ――」
「いいんだ。俺は……ここでおしまいでいいんだ」
「そんなこと――」
良子が泣いている。
「さあ……」
と、町田は良子の肩に手を触れ、「このナイフを――持って行って処分したまえ……」
「町田さん……」
良子は顔を上げて言った。
「取るんだ。ひとみ君のために。あんたがいなくなったら、どうなる?」
「でも……町田さん……」
「『あなた』と呼んでくれ」
良子は戸惑いながら、そのナイフを受け取った。
「恵美……。お前も|憶《おぼ》えていてくれ。私は……この吊橋から、誤って落ちて死んだんだ」
「あなた――」
「あのホテルを、ちゃんと見てやってくれ……。これで、何もかもけりがつく……」
「待ってたわ。あなた」
背後で声がした。
手すりにつかまったまま振り返ると、貞子が|微《ほほ》|笑《え》みながら立っていた。
「君か……。懐しい!」
「そうね。でも、分らなかった? あの子を見たときに」
そうだ。――そうだった。
ひとみを見て、思い出したのは、この顔、この声だった。
「分らなかったよ……。|年《と》|齢《し》取ったんだ、もう」
と、町田は笑って言った。「それにしても……三十何年も待ってたのか」
「あなたにバイクから突き落とされたときも、きっとあなたは戻って来てくれると思ってた」
と、貞子は言った。「時間はかかったけど……やっぱり戻って来たでしょう」
「ああ……。やり直せたら良かった。あのときに戻れて、君を迎えに戻れたら……」
「でも、今からでも遅くないわ」
「そうか?」
「あなたの大事な人たちのために、あなたにはできることがあるわ」
「うん……。そうだな……」
「落ちるのは一瞬よ」
「手をつないで、一緒に飛ぼう」
「ええ」
「頼むよ。――高い所は苦手なんだ」
「そうだったわね」
と、貞子は笑った。
「さあ……」
伸した手を、白い、柔らかい手がつかんだ。
「落ちるんじゃない。舞い上るんだ、と思えば怖くないわ」
「舞い上る、か。――そんな気がするよ」
うっすらと空が白みがかって来た。
町田は大きく息をついて、手すりを乗り越え、飛んだ。
本当に、空へ向って舞い上るような気がした。
「――お母さん!」
ひとみの声で、良子はハッと我に返った。
「ひとみ!」
「今……あの人、死んだの?」
――吊橋の辺りは、明るくなり始めていた。
どれだけの間、立ちすくんでいたのだろう。
良子と、町田恵美の二人で。
「どうしてそんな……」
「何だか、そんな気がしたの。――あの人、私に向って手を振って、落ちていったわ、夢の中で」
「ひとみ――」
不意に、恵美が良子へ歩み寄ると、その手から血のついたナイフを素早く取って自分のバッグへ入れた。
「ひとみさんね。私、町田の家内です」
「あ……」
「主人は……あなたのことを気にしていました。私があなたとのことを責めたので――飛び下りてしまったんです」
「――そうですか」
ひとみは、手すりへ駆け寄って下を|覗《のぞ》いた。
良子が思わず娘へ飛びつき、
「だめよ! あなたはだめよ!」
と、抱きしめた。
「お母さん……」
「あの人が死んだのを、むだにしないで。あなたは行きたい所へ行けばいいわ。でも、生きていて!」
「お母さん。私、大丈夫……。大丈夫よ」
ひとみは、良子の手を握って、「冷たいわ。――家へ帰ろう。ね?」
「ひとみ……」
「心配かけて、ごめん。でも――何もなかったんだよ」
「何も……」
「先に病院へ行くって、出て行ったんだもの、あの人」
「そう……。そうだったの」
良子は、娘の肩を抱いて、「帰りましょう。――奥様」
「後は私が」
と、恵美が言って、頭を下げた。
良子とひとみは、底冷えのする朝の中を、身を寄せ合って歩いて行った。
恵美はホテルへ戻って行った。
この町に、夫は何か秘密を抱いていたのだ。
しかし、あの母娘と何の係りがあるのかを知ろうとすれば、それは夫の秘密を公にすることになるだろう。
いや、それは避けなくては。夫はこの町の「恩人」でなければならないのだ。
そうだ。あのホテルに夫の名前をつけて、夫の胸像を飾ろう。
こんな何もない町でも、必ずあのホテルを成功させてみせる。
恵美は、力強い足どりでホテルへと急いだ……。
つかまえた。
ひとみが戻って来てくれた。もう離すものか。
ひとみが吊橋の手すりに駆け寄ったとき、良子はゾッとしたのだった。
良子が母を死なせたように、娘までもあの吊橋で失うかと思った。
良子と橋山の仲に気付いて、母、貞子は橋山の目の前であの吊橋から身を投げた。その後、良子が死なずにいたのは、もう体の中にひとみを宿していたからだった。
ひとみ。――ひとみ。
もう二度と、離れていかないで……。
母は急に老け込んだように感じられた。
ひとみは、この母を見捨てるわけにいかない、と歩きながら思った。
町田とは何もなかった、と言って、母を安心させたことを後悔してはいなかった。
黙ってさえいれば、分らないことだ。きちんとベッドも直して来た。
お母さん……。私より先に、お母さんが幸せにならなくては。
――ふと、ひとみは思った。
もし……もし、町田の子がこの体の中に……。
まさか! そんなことになるわけがない。
たった一度だけなんだもの。
そう……。万に一つ、そうなったら……。
ひとみは母の肩を抱く手に力を入れた。
「どうしたの?」
と、良子が|訊《き》く。
「別に。――寒いね」
と、ひとみは言った。
二人はいっそう身を寄せ合って、家への道を急いだ。
――忘れられそうな、この小さな山間の町にも、朝が静かにやって来ようとしている。
あなた
|赤《あか》|川《がわ》|次《じ》|郎《ろう》
平成13年10月12日 発行
発行者 角川歴彦
発行所 株式会社角川書店
〒102-8177 東京都千代田区富士見2-13-3
shoseki@kadokawa.co.jp
(C) Jiro AKAGAWA 2001
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角川mini文庫『あなた』平成 9 年 4 月10日初版発行
平成11年 6 月15日 6 版発行