伯爵と妖精
月なき夜は鏡の国でつかまえて
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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《》:ルビ
(例)小鬼妖精《ボギービースト》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|ミミズク《アウル》
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目次
アシェンバート伯爵邸の日常
月が消えた沼地
幽霊屋敷の幻影
ふたつの絵画と夜の主人
鏡の内と外の迷宮
水の畔でめぐり逢えたら
月とミミズクと青騎士伯爵
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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アシェンバート伯爵邸の日常
ひとつ屋根の下で暮らしているのに、三日もまともに顔を合わせていないというのはどういうことだろう。
はたと気づいて、エドガーは、屋敷の中を歩きまわりながらリディアの姿をさがしていた。
新婚旅行から帰ってきて、あらためて新生活をはじめたところなのに、こんなことではいけない。
そもそも、こういう大きな屋敷がすれ違いの原因だ。
夜中に帰宅したエドガーが、リディアを起こすまいとして別室で眠れば、起きだした頃には彼女は出かけていたりする。食事をとる部屋も時間や気分で変わるものだから、生活のサイクルが少しばかりずれるだけで、同居人がいることに気づかず暮らすことだって不可能ではないだろう。
もちろんエドガーは、リディアとすれ違いの生活などしたくはないのだ。
「トムキンス、リディアは仕事部屋かい?」
通りかかった執事《しつじ》に問うと、立ち止まった彼は、ずんぐりした体でぴしりと背筋《せすじ》を伸ばし、慇懃《いんぎん》に答えた。
「旦那《だんな》さま、奥さまは妖精博士《フェアリードクター》としての仕事中でございます」
じゃまをしない方がいいと、執事は忠告しているようだ。
「それはつまり、ご機嫌《きげん》が悪いってこと?」
「夫の朝帰りに腹を立てない奥方はいらっしゃいません」
エドガーはあせりをおぼえながら、明るい金色の髪に指をうずめた。
「朝じゃないよ、夜中の三時だった。それにねトムキンス、僕は遊びほうけてたわけじゃない。紳士のつきあいだって重要な仕事だ。わかるだろ?」
「私に言い訳なさっている場合では。リディアさまはお帰りを待ってらっしゃいました」
そうだろう。昨日は遅くなるとは伝えていなかったのだから。
じつのところ、ゴシップペーパーの記者と飲んでいた。
知り合いの女優を紹介してやったら、記者は上機嫌で彼女を口説《くど》きながら、エドガーにいろいろと暴露《ばくろ》してくれた。
迷惑な連中だが、親しくなっておくと役に立つことも少なくない。社交界でうまく立ち回るために、弱みを握っておきたい人物はいくらでもいるからだ。
もちろんそんなことよりも、大事なのはリディアだ。夜遊びも有意義な社交だが、早めに帰るつもりだったのに、時計の音に気づいたらもう真夜中だった。
落ちつきなく、彼は髪の毛をかきあげる。
「どうすればいいと思う?」
「紳士のおつきあいも仕事だと、胸を張ればよろしいでしょう。それでもう奥さまは、旦那さまを待つこともなく寝室を別になさることでしょうから、朝帰りの言い訳を考える必要もなくなります」
トムキンスは真顔《まがお》で皮肉を言った。
「……わかった、それだけは言わないことにする」
とにかくリディアに会わないと。
仕事部屋の前で立ち止まり、ノックをしようとすると、いきなり中からドアが開いた。
「あら、エドガー」
目の前の彼を、驚いたようにリディアは見あげた。
「おはよう、僕の妖精。今朝も……いやもう午後だけど、今日もきれいだね。毎日きみに一目《ひとめ》惚《ぼ》れせずにはいられないよ」
エドガーは、可能な限り完璧な笑顔をつくる。それでたいていの女の子をうっとりさせる自信はあるが、リディアはどうだろうか。
彼女はいつも、戸惑いながら少し目を伏せる。
「またもう、何言ってるの?」
彼のストレートな愛情表現には、いつも恥《は》ずかしそうな態度の彼女だが、今もそうなのか、それとも怒っているのかどちらだろう。
「仕事中? 顔が見えないと落ち着かなくてさ」
「いろいろ調べてるんだけど、なかなか手がかりがなくて。エドガー、あなたの方はどう?」
「えっ?」
「ほら、妖精国《イブラゼル》の地図よ。昨日もそのことで、|朱い月《スカーレットムーン》≠フみんなと遅くまで話し合ってたんでしょう?」
「……あ、ああ、そうなんだ。だけどまだ、これといった情報はないな。うん、別のアプローチを考えてるところなんだ」
新婚旅行先で手に入れた、妖精国の地図だというものは白紙だった。エドガーはリディアと、その地図を見る方法とともに、地図を遺《のこ》したダイアナという女性の足取りを調べている。
朱い月≠フみんなも協力してくれているが、地図についての話し合いは、いくつかの情報の報告のみで早々に終わった。
ポールや朱い月≠フ連中には口裏を合わせてもらわなければならない、とエドガーは頭を働かせるが、リディアはそんな彼のごまかしに気づいた様子はなかった。
「あたしも行き詰《づ》まってて。これから図書館へ行ってみるわ」
「出かけるのかい?」
「あなたも午後から約束があるんでしょう?」
だからこそ、それまで少しでもリディアと過ごしたいと思っていた。けれど彼女が出かけてしまうとなると、すれ違いの生活がまた一日続くことになる。
「ねえリディア、午後の約束はべつに断ったっていいんだ」
「どうして?」
心底意外そうに、彼女は首を傾《かし》げる。
「ほら、昨日もおとといも、いっしょに食事さえしてないだろう?」
するとリディアは、困ったように眉《まゆ》をひそめた。
ああそうだ。こうなったのはエドガーのせいで、リディアは怒っているかもしれないのに、こんな言い方はまずいかもしれない。
あわててエドガーは言い直そうとする。
「ああ、ごめん、僕の帰りが遅くなったせいだよね。だから埋め合わせしたいんだ。調べものだってべつに急ぐ必要はないし、たまには外へ出かけて、レストランでっていうのもいいと思わない?」
しかしリディアは、もうしわけなさそうにうつむいた。
「だけど、今日はあたしひとりだと思ってたから、父さまと夕食の約束を」
父親との約束なら、断れなくはないのではないか。こちらを優先してくれないのだろうか。
などと身勝手なことを考えるが、そもそも身勝手なことをしているのはエドガーだ。
「そう」
「旅行から帰ってきて、まだゆっくり話もしてなかったもの。父さまにお土産《みやげ》も渡したいし」
「うん、そうだね」
やっぱりリディアは腹を立てているのだろうか。だから彼のことを優先する気にはなれないのかもしれない。
だとしたら、見送りのキスも許してくれないだろう。
困ったな。
考えはじめたら、キスをしたくてたまらなくなる。けれどリディアはうつむいたままだ。エドガーが道をあけるのを待っている。
「ごめんなさい」
予定を変えられないことを詫《わ》びたのか、けれどそれは、道をあけることを促しているようにも聞こえた。
「いいんだ。教授によろしく伝えてくれ」
引き留めることもキスもあきらめて、エドガーは後ろに下がる。そばを通り抜けながら、リディアは少し顔をあげた。
そして気になったように立ち止まる。
神秘的な金緑の瞳《ひとみ》が彼を見あげる。リディアは知らないだろうけれど、彼女が意味ありげに見あげるだけで、エドガーはいろいろとこらえなければならなくなる。
間違ってもこんなふうに、ほかの男を見あげてほしくない。
「エドガー、髪の毛が乱れてるわ」
そのうえ、こんなかわいいことを言うから、ついあまえたくなる。
「直してくれる?」
素直に彼女は、エドガーの髪に手をのばした。目が合うと困ったように眉《まゆ》をひそめるが、それでも一生懸命前髪の分け目を整えようとしてくれる。
こらえきれずに、体を屈《かが》めて軽く唇《くちびる》を合わせると、リディアは驚いたようにまばたきをしたが、急いで顔を背《そむ》けようとはしなかった。
怒っていないようだ。そう思えば迷わずまたキスをする。重なるやわらかさを堪能《たんのう》し、やわらかくついばみ、そっと離す。
「久しぶりに、父上とゆっくり過ごしておいで。時間を気にせずにね。遅くなっても、今夜は僕が待ってるから」
顔を赤らめたまま、リディアはこくりと頷《うなず》く。
「じゃ、いってきます」
恥ずかしそうな、ひかえめな微笑《ほほえ》みが愛らしい。引き留めたい気持ちを抑《おさ》え込み、エドガーも微笑む。
リディアが動くと、風のような光のような何かもつられたように動く。仕事部屋に飾られた花が不自然にゆれ、リディアの髪もゆれる。花びらが舞って、肩に落ちる。
彼女の友人たちがそばにいるのだろう。そんな妖精が好むままに、ふだんは髪を下ろしっぱなしにした少女のような後ろ姿を、エドガーは目を細めて見送った。
「……よかった、怒ってなくて」
ほっとして息をつく。
「そうでしょうか」
後から出てきたケリーが、ぼそりとつぶやいた。
リディアの帽子とショールを手にした侍女《じじょ》は、軽くお辞儀《じぎ》をすると、エドガーに問う間を与えてくれないまま、足早に走り去った。
リディアの手の中には、銀のロケットペンダントがある。ブルターニュで手に入れた、地図だというものだった。
ロケットの中には、象牙《ぞうげ》の薄い板が入っているだけだ。
妖精国《イブラゼル》から来たという、ダイアナという女性の形見の品で、妖精国の場所が記された地図ではないかというのだが、地図らしき描線《びょうせん》も文字も見あたらない。表面を磨《みが》いただけの、平らな象牙だ。
しかし妖精国のものなのだから、妖精の魔法によって地図を表すことができるに違いない。
おそらく、青騎士《あおきし》伯爵《はくしゃく》家の者にとっては、造作もない魔法なのだろう。
古くは青騎士伯爵と呼ばれたイブラゼル伯爵の位は、今はエドガー・アシェンバートのものだ。本来の伯爵家の血筋《ちすじ》はとっくに途絶えている。
エドガーは妖精のことも知らず、その魔力を扱う力もないままに、妖精国《イブラゼル》伯爵の名だけを得たが、伯爵家と対立していた組織と戦わねばならなくなった。
組織の長は、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力とひとつになった、災いの王子《プリンス》と呼ばれる人物だ。エドガーの両親を殺し、由緒《ゆいしょ》ある公爵《こうしゃく》家の嫡子《ちゃくし》だったエドガーをアメリカへ連れ去った。
それから十年近くが経《た》ち、妖精国伯爵の地位を得たエドガーは、ある意味プリンスへの復讐《ふくしゅう》を遂《と》げたが、さらに深く、両者の因縁《いんねん》に巻き込まれることにもなってしまった。
プリンスは死んだが、その忌まわしい能力を秘めた記憶だけが、血筋の近いエドガーの中に入り込んだのだ。
エドガーは、プリンスの記憶を封じこめたまま墓場まで持っていくつもりだ。
それができるとしたら、伯爵家がもともと持っていた、アンシーリーコートに対抗する能力や知識を得るしかないだろう。だからリディアは、彼の力になり、ともに戦っていこうと心に決めた。
そして今のところ、妖精国《イブラゼル》と伯爵家を知る手がかりは、ダイアナが遺《のこ》した地図のみだ。
フェアリードクターとして、リディアは地図を見るための謎を解き明かそうと努めているが、いろいろと試してみるものの、今のところ成功していないのだった。
図書館で魔術関連の書物をあさってみたけれど、ヒントになりそうなものはなかった。
結局リディアは、早い目暮れに備えて読書を切りあげると、ユニバーシティカレッジにあるカールトン教授の研究室に寄って父と一緒に帰宅し、久しぶりに実家のテーブルについていた。
「象牙ねえ、私の専門は鉱物学だよ」
ロケットを見せたリディアの質問に、父は考え込んだ。
「張り合わせた様子もないし、象牙の一枚板だろう。何の細工もないように思うね」
ロケットペンダントは、分解もしてみたが、象牙の裏側も平らだったし、ロケットに謎めいた細工がなされている様子もなかった。
「そんなに必死にならなくても、そのうち伯爵が何か手がかりを見つけてくるだろ」
悠長《ゆうちょう》に口をはさむのはニコだ。ふさふさしたしっぽをゆらし、上機嫌にニジマスのソテーを口に運ぶ。
もちろんニコも家族の一員だから、里帰りの晩餐《ばんさん》に加わっている。リディアの結婚を機にアシェンバート邸に寝泊まりするようになったとはいえ、カールトン家へもしばしばやってきては、親しい|家付き妖精《ホブゴブリン》や父とともに酒を酌《く》み交わしているようだった。
「でも、彼も行き詰まってるようだったわ」
エドガーは、アシェンバート家の先祖と親交のあった貴族を調べているはずだった。
ブルターニュからイギリスに渡ったというダイアナが、どんな役目を担《にな》っていたのかはわからないが、青騎士伯爵家のために働いていたなら、ってのある貴族を頼っただろう。
しかし伯爵家の者は、記録では三百年前からイギリスへ来ていないことになっているし、最後の当主が死んだのが百年前だ。かつてアシェンバート家と親しかった家系が、今も存続しているかどうかさえあやしい。
エドガーの出自《しゅつじ》であるシルヴァンフォード公爵家も、アシェンバート家と親交があったようだが、もうないのだ。
妖精国《イブラゼル》から来たという女性を信用し、受け入れるような貴族が、今もまだあるのだろうか。
難航する調査を続けながら、エドガーは夜遅くまで情報収集に努《つと》めている。
リディアはため息をつく。早くこのことが解決すればいいのにと思う。
「帰りが遅くなる言い訳かもよ。リディア、ああいうのは日頃から、口うるさくして手綱《たづな》を握っておかないと、好き放題しはじめるぞ」
「伯爵はそんなに帰りが遅いのかい?」
ニコがよけいなことを言うから、父が心配そうに眉をひそめた。
「そ、そんなことないわ。遅くなるときはちゃんと連絡をくれるし」
ちらりとこちらを見るニコは、昨日は連絡もなかったと言いたいのだろうが、リディアは黙ってという意味を込めてにらみ返す。
わざわざ父さまに告げ口することじゃない。
それにエドガーは、昨日だって朱い月≠フみんなと話し合いをしていたのだ。
「リディア、夫婦なんだから、わがままくらい言ってもいいんだ。不満をため込むのはよくない」
「やだ、父さま、不満なんてないわ」
リディアは明るく笑ってかわす。
一方で、このままではいけないとも思う。
エドガーが一生懸命だから、リディアもがんばって調べているが、そういえばこのところ、食事の時間もいっしょに過ごしていなかった。エドガーも、そういうのはよくないと言っていた。
エドガーには日常的な貴族のつきあいもあるし、リディアが彼のあいている時間に合わせるべきだったのに、早く解決したい気持ちが先に立って、図書館を優先してしまった。
彼は約束を断ってもいいと夕食に誘ってくれたのに、リディアは父と過ごしている。
もちろん、エドガーとはいっしょに暮らしているのだし、夕食をともにする機会はいくらでもあるだろう。父との食事は先約なのだ、エドガーに悪いことをしたわけじゃないと思う。
でも、ちょっと突っぱねた態度になっていなかったかしら。
ゆうべ彼が、連絡もなく遅くまで帰ってこなかったことが引っかかっていただろうか。
今夜は遅くならないうちに帰ろう。彼をあまり待たせないように。
(ごめんくださいまし)
考え込んでいたリディアの耳に、そのときどこからともなく声が聞こえた。
「あら、誰か来たみたいよ」
しかし父も、給仕をしている家政婦にも聞こえなかったようだ。
「そうかね? ミセス・クーパー、ちょっと見てきてくれないか」
家政婦がダイニングルームを出ていくと、また声がした。
(落とし物を届けに来ました)
落とし物?
「違うよ、人間の来客じゃねえ」
ニコがひくひくと鼻を動かす。椅子《いす》から降りた彼が窓を開けると、大きな黒いものが窓をふさぐようにして突っ立っていた。
「何だ? おまえ」
(すみません夜分に)
闇夜の壁みたいなものがうごめく。お辞儀《じぎ》をしたのだろうか。
外見は不気味だが、意外と礼儀正しい妖精だった。
「落とし物って何なの?」
立ち上がり、リディアも窓辺の妖精に問う。
(これです。私のねぐらのそばにあったのですが、これは明るすぎて眠れません。あるべきところにお返しします)
真っ黒な手がのびて、リディアに差し出す。手のひらに落とされたのは、黄金色の透明な石だった。宝石の原石なのか、結晶を粗《あら》く割ったような形をしている。
「あの、どうしてこれがあたしの落とし物だっていうの?」
リディアは困惑する。見覚えもない宝石だったからだ。
(同じ光がこの窓から見えました。これのかけらがこちらにあるのでしょう?)
「えっ、かけら?」
(ああそれ、それですよ)
不気味な長い指が、テーブルの上を指さす。銀のロケットペンダントが置いてある。その上蓋《うわぶた》がきらりと光る。
「……ああ、銀の細工に小さな石が埋め込んであったな」
ロケットを手に取った父がそう言った。
そういえば、蓋の中央には小さな石が埋め込まれていた。模様を彫り込んだ細工と一体化して、目立たないくらい無色に近い石だったけれど、蓋の表面にくっついているのではなく、裏側からも見えるようになってる宝石だった。
それと同じものを、この妖精は拾ったという。
(お返ししましたよ。では私はこれで)
真っ黒な妖精がきびすを返したのだろうか。ゆらりとゆれて、リディアはあわてた。
「ちょっと待って、あなたこれ、どこで見つけたの?」
急いで問うが、妖精はもう姿を消していた。
「あれ、墓守妖精だな」
ニコがつぶやいた。
「墓守? じゃあこれ、墓地に落ちていたってことなのかしら」
けれどどこの墓地だろう。それに、この宝石は本当にロケットを飾っている結晶と同じものなのだろうか。
「何だろうこれ、水晶かな」
リディアの手の中の、親指の先ほどの大きさをした宝石を、ニコは覗《のぞ》き込む。黄金色で、透明度が高い。ロケットに埋め込まれた石は無色だと思っていたが、小さな欠けらだから色が薄まって見えるのかもしれない。
「どれ、見せてごらん」
父はポケットからルーペを取り出し、眼鏡《めがね》を外してテーブルに置いた。
黄金色の宝石と、ロケットに埋め込まれた石とを交互に確かめる。
「どうなの、父さま」
「おそらくジルコンだろう。復屈折《ふくくっせつ》が見られるね」
「復屈折って?」
「光を二重に反射する。だからジルコンは、カットすれば複雑で美しい明暗を生み出す。光はあくまでまぶしく、影はあくまでも濃く……。そういう石なんだ」
「ふうん、さっきの、まぶしすぎるって言ってたな」
「そもそもジルコンという名が黄金色を意味する言葉だからね。輝きはダイヤモンドにも劣らない」
「これとロケットの飾りは、本当に同じ石なのかしら」
「同じ条件で形成された結晶かどうか、調べられないことはないが。リディア、妖精の宝石なら、そうすることに意味はないだろうね」
父は科学者だが、妖精に理解がありすぎるだけにそう言った。
「そうね、父さま。あとはあたしが調べるわ」
妖精が、わざわざあるべき場所へ戻そうとしたのだ。ただの鉱物ではないのだろう。彼がまぶしいと感じた何らかの魔力があるのかもしれない。
そしてリディアは、必死になって考えていた。
墓守妖精の言うように、ロケットの石とこれが同じものだとしたら、それはどういうことなのだろうか。ダイアナの地図を見るための手がかりになるだろうか。
「ねえニコ、さっきの妖精がどこから来たのか、調べられない? あの大きさじゃ目立つでしょうし、あなたロンドンに知り合いの妖精はたくさんいるでしょう?」
「えー、いちいち聞いてまわるのか? めんどくせえな」
相変わらずふてぶてしい態度の妖精猫だ。そして彼は、右手をリディアの方に突き出す。
どうしてほしいのかよくわからなかったから、リディアはその小さな手をやさしく握ってみた。
「ね、お願い」
「だーっ! 違うよ! 菓子でもよこせよ。小妖精どもに協力してもらうには手みやげくらいいるだろ!」
「あ……、そ、そうね。用意しておくわ」
「ったく、おれは伯爵じゃねえんだ」
「ほう、伯爵にはいつもそうしてるのかい」
父がなぜか哀《かな》しそうにため息をつく。
「な、何言ってるの父さま! ニコ、いいかげんなこと言わないで!」
エドガーには、恥ずかしくてそんなことはできないのがリディアだ。しかし、そうすればエドガーはたいていのお願いをきいてくれるとも知っていた。
「結婚したのに隠すことないだろ。あんたに触れてりゃ満足な伯爵が、四六時中くっついてるんだ。だんだん毒されてきたって不思議じゃない」
エドガーの日頃のベタベタした態度を、父には知られたくない気がするリディアはうろたえるが、ニコはお構いなしに暴露《ばくろ》してくれる。
「ああ、リディア、仲がいいのは結構なことじゃないか。むしろのろけてくれた方が、私もうれしいよ」
父がなだめなければならないくらい、リディアは真っ赤になっていたようだった。
エドガーはポールとともに、ホーボンにあるパブを訪れていた。そこで待っていた青年は、エドガーの友人のひとりだ。
こちらに気づくと、彼は手をあげてふたりを招いた。
「やあ、スティーブン」
「エドガー、久しぶりだな。新婚旅行は楽しかったかな?」
「もちろん。のろけ話を聞きたいかい?」
「遠慮しておこう。僕は他人の不幸な話が好きなんだ」
握手を交わし、エドガーはポールの肩に手を置く。
「友人のポール・ファーマンだ」
はじめまして、とポールは愛想《あいそ》よく応じ、スティーブンはものめずらしそうに彼を見た。
「新進画家のファーマン君、名前は聞いているよ。噂《うわさ》の変人姫、クレモーナ大公女の愛人なんだって?」
「は?」
とポールは目をまるくして硬直する。
「ポール、気にするな。ただの噂だよ」
「なんだ、ガセネタなのか。じゃ、本物は残りの五人のうち誰かだな。それとも、五人ともか?」
「そんなことよりスティーブン、早速《さっそく》だけどクラブへ行こう」
クレモーナ大公女、つまりロタの噂などどうでもいいエドガーは、さっさと話を変える。
そうだな、とスティーブンは立ち上がり、パブの奥にある階段の方へ歩き出す。この建物の上階で、今夜、とあるクラブの集会があると聞きつけて、エドガーはやって来たのだった。
紹介がないと入れないクラブだが、ロンドンの妙なクラブにはたいてい籍《せき》を置いているスティーブンに頼んでみたら、やはりというか、入会できるよう計らってくれた。
「あのっ、そ、その五人って誰なんです?」
ポールは、ロタの話題をまだ引きずっている。
「知らない方がいいよ」
男女のことはかきまわしてやるほどおもしろい。他人に関してはそう思うエドガーは、適当なことを言っておいた。
「で、でも」
「ところでスティーブン、きみも旅行に行っていたそうだけど?」
「ああ、ネタを仕入れに。ファーマン君、きみもこのクラブに入会するからには、ネタを披露《ひろう》してもらうからね」
「え……ネタって何ですか?」
ポールは頭を切り換えようと必死らしい。
「じきわかるさ」
三階のドアの前で、振り返ったスティーブンはにやりと笑った。
新婚旅行から帰って間もなく、エドガーは、昔の青騎士伯爵家と親しかった貴族を、同志の結社である|朱い月《スカーレットムーン》≠ノ調べさせていた。
ポールは、プリンスの組織と戦っているその結社、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員だ。
もともと三百年前の青騎士伯爵、ジュリアス・アシェンバートが後見し育てた芸術家の組合であるだけに、彼らは伯爵家と無縁ではない。
それゆえに、昔の伯爵家の交友関係を調べる資料を持っていた。
朱い月≠ノ属していた画家が描いた過去の絵や彫刻が、どこの貴族に依頼されたものだったのかを調べていくうち、アシェンバート家との親交も浮かび上がってくる。
地道に調べた結果、ダイアナの地図と有力な結びつきを持つものが出てきたのは幸運だった。
ある貴族の家に、ジュリアス・アシェンバートの庶子《しょし》だという画家の絵があるという。その絵と引き替えに、伯爵が魔法の地図を手に入れたという逸話《いつわ》があるらしいのだ。
それこそ、ダイアナが遺《のこ》した妖精国の地図かもしれない。
しかしその家系にはもう、直系の子孫がいなかった。
ダイアナが訪れたとしても、頼るべき人物がいなかったということになるが、当時の屋敷はかろうじて残っている。
二年前までは、遠縁の者が住んでいた。その人が死んで、さらに遠縁の、もはや最初の貴族とは縁もゆかりもないような人物しか相続人はいなかった。
屋敷はかろうじて、離れに暮らしていた使用人の老夫婦が管理をしていたようだ。
直系の当主がいなくても、ダイアナが訪ねた可能性はある。それに、地図と引き替えにしたという絵をぜひとも確かめなくてはならないとエドガーは思った。
そのことで今夜、エドガーはポールを連れてここへやってきたのだ。
屋敷の新しい所有者は、維持費がかさむだけの古い屋敷を、早々に処分したいと思っている。
しかし建物は古く、場所は不便なだけの田舎《いなか》。簡単に買い手がつきそうにない。相続を放棄したいくらいだったらしいが、家財や装飾品を売りさばけば金になると思いついたようだ。
エドガーは、屋敷が荒らされる前に、問題の絵を見つけだし、ダイアナが訪れた手がかりがないかを確かめたかった。
持ち主はこのクラブのメンバーで、同じクラブに属する希望者だけを屋敷に集め、オークションを開くつもりだという。
いろいろと調べたいエドガーにとっては、クラブに入会するのが手っ取り早い方法だった。
「なぜ買い手をクラブのメンバーだけに限るのかって? 特殊な屋敷だからね。そういう趣味を持つ人間を集めた方が、効率よく売れる場合があるからだよ」
ポールのもっともな問いに、スティーブンが答えた。
「趣味、ですか?」
「そう。幽霊屋敷の家財を、買う気になる人は少ないだろう。けれどこのクラブの連中にとっちゃ垂涎《すいぜん》ものだ」
「ゆ、幽霊屋敷?」
パブの奥にある一室は、わざとらしいくらいに暗く、小さな蝋燭《ろうそく》明かりだけが灯《とも》っていた。
とりとめもなく雑談している紳士たちの間に分け入っていくと、ひとりの男がこちらへ近づいてきた。
幽霊屋敷のオークションを取り仕切るという彼は、ベックと名乗り、エドガーとポールに招待状をくれた。
「いやあ、伯爵に参加していただけるとは光栄です。売り主のミスター・チェバーズもよろこんでおりますよ。彼はもう屋敷の方へ行っておりましてね、オークションの準備を進めているところです。昔は男爵《だんしゃく》家の城でしたから、家具や調度品はなかなかのものですよ」
ひとしきり彼は愛嬌《あいきょう》を振りまく。
「それに、幽霊屋敷の逸品《いっぴん》となれば、なかなか手に入るものではありませんからね」
かつて青騎士伯爵と親しかった貴族の屋敷は、今は幽霊屋敷として、ある種の人々の興味を引いているのだった。
「本当に出るのかい?」
エドガーはベックに問う。
「それもぜひお確かめに」
「このクラブに籍を置いて長いスティーブンでさえ、幽霊を見たことがないと言うんだが、きみは見たことが?」
「見ても見なくても、不可解な恐怖を楽しもうというクラブですから」
「えっ、そんなクラブなんですか?」
不安そうにポールが問う。
「怪奇クラブですよ」
「怪奇……」
「そう、怪奇現象をこよなく愛する同好の士。幽霊の出る場所があると聞けば、突撃するのが楽しみな連中だ」
スティーブンの言葉に、あきれたのかポールは口をあんぐり開けてエドガーを見た。
「伯爵、妙なクラブにいくつも入っていることを、リディアさんはご存じなんですか?」
男ばかりが集まるクラブとなれば、かなり悪趣味なものもある。ここなどはまだかわいいくらいだ。
「ちょっとした遊びだよ」
声をひそめてエドガーは言った。
「ところでその幽霊屋敷なんだけど、ミスター・ベック、ダーンリイ家については詳しいのかい?」
二年前までそこに住んでいたというのが、ダーンリイという人物だった。
朱い月≠フ調査では、昔の男爵家の遠縁だという彼のことはよくわからなかったが、このクラブには、氏の相続人になったチェバーズという男がいる。オークションを仕切るというベックも、ダーンリイ家のことをいくらかは知っているのではないだろうか。
「じつを言うと、ダーンリイ氏が長らく老人の一人暮らしだったというくらいしか、私もよく知らないのです。チェバーズ氏も会ったこともないらしくて。ダーンリイ氏の死後、二年もかかって管財人が家系を調べ、彼のもとへ現れるまで、遠い親戚《しんせき》にそんな人がいたとは知らなかったそうです」
二年もかかったのか。それならまだ、近くの村の住人の方がダーンリイ家を知っていそうだとエドガーは思う。
「そこが幽霊屋敷だってことは、チェバーズ氏が相続をしてはじめて知ったのかい?」
「ええそうです。しかし伯爵、あの屋敷は氏の生前から幽霊の噂があったようですよ。近くの村で噂になっていたとか。ああそうだ、当クラブのコーエン氏は、ダーンリイ氏とは知人だったようです。彼はその噂を聞いたことがあると言っていました」
「そのコーエン氏は?」
「今日は来ていないね。でもオークションには参加すると聞いたよ。当日は会えるんじゃないか?」
スティーブンが答えた。
「噂では、少女の幽霊らしいよ。ダーンリイ氏の孫娘だという話もある」
「孫がいたのかい?」
「さあ、それが。孫がいたのか、いたのならいつどうして死んだのか、誰も知らないんだ。おもしろいだろう?」
「おもしろいな」
「何か事件があって、屋敷の壁にでも塗り込められたのかもしれない」
スティーブンが悪趣味なことを言うと、ポールがぞっとした顔をした。
「そういうことだからエドガー、僕のぶんも楽しんできてくれよ」
「スティーブン卿は参加されないのですか?」
「この男は美術品に興味がないんだ」
「おいおい、その通りだが画家の前で失礼だろう?」
「いえ、そんなことは」
「とりあえず、きみたちの入会と幽霊に乾杯しよう」
ちょうどグラスが運ばれてきたため、そんな流れになっていた。
大した意味もなく乾杯し、ノリで杯《さかずき》を重ねる。くだらないことを真剣に議論する。紳士の社交場はたいていそんなものだ。
男ばかりのクラブにいたはずが、気がつけば隣に女がいることもある。
クラブを出たところで、知り合いの女優につかまったのだったと思い出す。
先日紹介したゴシップ記者のことを、しつこい男だと愚痴《ぐち》を言うからなだめていた。
でも彼の記事は人気《にんき》があるよ。きみを気に入ったようだし、舞台を宣伝してくれる。
エドガーにとって、女性の機嫌を取るのはそう難しくはない。
リディアの場合だけは難しい。
目の前の女優には口先だけの言葉も言えるけれど、リディアにはそれができないからだ。
なのに、気がつけばエドガーの耳に、午前零時を告げるビッグベンの鐘《かね》の音《ね》が聞こえてきていた。
エドガーは、ふたりでいるときは過剰《かじょう》なくらいベタベタする。でもひとりになって、独身時代と同じように友人知人と楽しんでいると、リディアのことは忘れてしまうのかもしれない。
リディアが小さくため息をつくと、ケリーが心配そうにちらりとこちらを眺めた。
「奥さま、そろそろお休みになってはいかがです? この様子じゃ旦那さまはいつお帰りかわかりませんし、先に休まれたからって責める理由もありませんわ」
早く帰って待っていると言ったくせに、リディアが帰宅してもエドガーはいなかったばかりか、零時を過ぎても帰ってこない。
調子がいいのは口先だけなんだから。
それでもリディアが待っているのは、地図の手がかりになるかもしれない宝石のことを、早く話したいという気持ちがあったからだった。
「ええ、でももう少しだけ待ってみるわ」
「何かお飲みになりますか?」
「そうね、じゃあブランデー入りの紅茶を」
ケリーが部屋を出ていくと、リディアはまたため息をついた。
それでもまだ、彼女は腹を立ててはいなかった。エドガーだって一生懸命に、ダイアナの地図のことを調べているのだ。予定外に遅くなるのはしかたがないだろう。
ソファの肘掛《ひじか》けに寄りかかると、急にまぶたが重くなる。
わずかな間、うたた寝したのだろうか。頬《ほお》を撫《な》でられる感覚に、はっとして目を開けると、|灰紫の瞳《アッシュモーヴ》がすぐそばでリディアを覗き込んでいた。
「こんなところで寝てたら風邪《かぜ》をひくよ」
金色の髪がゆれ、微笑みの形をした唇が近づいてきたかと思うと、額《ひたい》にキスを感じる。
まだ頭が回っていなかったリディアは、ぼんやりしたまま、おかえりなさい、とつぶやいた。
「リディア、幽霊屋敷へ行くことになったよ」
あんまり上機嫌な笑顔で言うものだから、ついていけない。
「え……何のこと?」
眠い目をこすりながら、リディアは訊《き》いた。
「怪奇クラブのオークションがあるんだ」
エドガーがいくつもの妙なクラブに出入りしているというのは、従者のレイヴンが口走ったことがあるような気がする。トムキンスが言うには、くだらない遊びを本気でするのが紳士というもの、単なる社交で深い目的はないのだそうだ。
だから、妙なクラブに出入りしていること自体はかまわなかった。
でも、こんな時間まで遊んでたってこと?
そう思えば、さすがにむっとした。
眉をひそめながら体を起こす。
「あたし、待ってたのよ」
「うん、ごめんね。でも昨日よりは早いだろう?」
早く帰るって約束はそういう意味?
悪びれもせずそう言ったエドガーは、手袋をはずした手でリディアの両手を握った。
あきれかえりながらもリディアは必死で気持ちを静めた。
「あなたをあんまり待たせちゃいけないと思って、早めに帰ってきたの」
「うれしいよ。夫婦の時間が少ないのはよくないからね」
そうじゃなくて。
「あのね、聞いてほしいことがあって……」
「わかってる。今夜はもう淋《さび》しがらせないから、思う存分愛しあおう」
わかってないじゃない!
せまろうとする彼に、リディアは思わずクッションを押しつけていた。
「あ、あなたってそれしか頭にないのーっ?」
少なくともエドガーは、帰宅したときリディアが怒っているようには見えなかった。
おかえりなさいと微笑んでくれたし、口をきいてくれないわけでもなかった。二晩続けて、連絡もなく遅くなったのは悪かったと思っているが、昨目もとくに怒ってはいなかったし、抱きしめてキスすれば許される程度のことだと思っていた。
なのにそうしようとしたら、リディアはプライベートルームを飛び出し、仕事部屋にこもってしまった。何度呼びかけても開けてくれないし、ドアは椅子でふさがれている。
「レイヴン、リディアの部屋へ行ってドアを開けてくれるよう説得してくれないか」
エドガーの忠実な従者は、直立したまま困惑を浮かべた。
もともとレイヴンは、表情がほとんど変わらないのだが、「はい」と答えたきりすぐに動こうとしない。悩んでいる証拠だ。
「いやなのか?」
「いえ、そんなことは。でも私よりケリーさんの方が適任かと」
もちろんリディアの侍女は、こういうときいちばん頼りになる存在だ。それなりにエドガーを立てつつリディアがかたくなにならないよううまく説得してくれる。
「そうなんだけどね、ケリーにはさっき、『知りませんっ!』って言われたよ」
「では、完全にエドガーさまに非があると……」
「もういいよ、レイヴン。ハリエットを呼んできてくれ」
どうやらエドガーは、ケリーまでも怒らせてしまったらしかった。
あとはメイド頭《がしら》が侍女を動かしてくれるかどうかだ。
「旦那さま、はしごを用意いたしましょう」
が、ケリーを連れてきたハリエットはそう言った。硬い表情でうつむいているケリーは、やはりリディアを説得してくれる気はないらしい。
「悪くない案だが、誰が敵地へ乗り込むんだ?」
ハリエットとケリーは、無言のままエドガーを見る。レイヴンまでもこちらを見ていたが、視線が合うと微妙にそらした。
「そうだな、ここはいちばん身軽な……」
「エドガーさまは、人妻のバルコニーに忍び込むのは得意でした」
急いでレイヴンは主張する。
ハリエットとケリーの視線が、ますます冷たくなるのを感じ、エドガーは観念した。
「わかったよ」
自分の奥さまに会うために、バルコニーによじ登ることになるとは思わなかったが、しかたがない。
「きみたちはリディアの味方かもしれないが、せめて僕の健闘を祈ってくれ」
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月が消えた沼地
カーテンの隙間《すきま》から、きらきらとまぶしい朝日が細く射し込んでいた。
ベッドの上に落ちた一筋《ひとすじ》の光が、そこにある金色の髪を明るく輝かせている。
光に刺激を受けて、眠りから抜け出したリディアは、ぼんやりとしながら目の前にある金髪を眺めている。
光が透きとおるような、きれいな髪。
リディアは昔、まだ母のひざの上が自分の場所だったころ、いつも目の前がそんな金色の光で満たされていたことを思い出していた。
やさしく守られていた場所へ帰ってきたかのような、安堵《あんど》に包まれながら、まだ半分寝ぼけながらリディアは、なんとなく体を動かそうとする。
が、うまくいかない。じわじわと重さを感じながら、意識がはっきりしてくると、母ではあり得ない、引き締まった腕が自分にからみついていることに気がついた。
エドガー……。
ゆうべケンカをして、それからエドガーがバルコニーから入ってきて、あやまって、立て板に水といった言い訳と理屈で言葉も巧《たく》みにリディアをなだめて言い聞かせて、結局ケンカを続けるのもばかばかしくなったのだった。
そうしてリディアは、自分はわりと、彼の金色の髪が好きなのかもしれないと思う。
ここが新しい自分の場所だと、疑問もなく実感できる。
なのに、どうして不安の種は尽きないのだろう。
結婚した直後は、新しい生活に慣れるのに必死で、何も考える余裕はなかった。
新婚旅行のあいだは、多少のすれ違いがあっても、お互いのことだけに向き合っていればよかった。
でも帰国して、こうして日常生活が始まると、当然のことながら、エドガーの日々の生活はリディアの知らないことだらけだった。
知らないことがあるのは当然だ。ただ、ふたりで過ごす時間を大切にしてくれているのかと思えば、案外そうでもなかったり、リディアとはどうにもタイミングがずれているのだろう。
待ちくたびれる前に、おかえりなさいと彼を迎えて、ちょっとしたできごとを語り合えれば幸せだと思うのに、リディアにとって重要なことは、エドガーにとってそうでもないかのようで。
ごめん、と彼は言ったし、妙なクラブに行っていたことも、幽霊屋敷のことも、ダイアナの足取りを調べるためだとわかった。
ケンカをするほどのことじゃない、そう思えばリディアも態度をやわらげ、宝石のことを彼に話した。
でも、リディアはまだ、なんとなくすっきりしない。どうしてこんな些細《ささい》なことで、心が乱れるのだろうと、自己嫌悪《じこけんお》に陥《おちい》る。
結婚前は、会っていないときに彼がどこで何をしているかなんて気にしないようにできたのに、帰りを待っていると考えてしまう。
どうしてこんなに、贅沢《ぜいたく》になってしまったのかしら。
それほど好きになっているのだと気づけないまま、リディアは自分がわがままになってしまったかのように感じるのだ。
エドガーは、いいかげんなところは多々あるし、リディアが怒っても本当に反省しているのかどうかあやしい。けれど、結局はやさしいから彼女をあまやかす。
だからリディアは、彼が言葉どおりに帰宅するのを当然だと思っていたかもしれない。
彼の日常生活を独占したいわけじゃない。
そう思うリディアはまだ、結婚をしたことで恋愛の感情はおだやかに落ち着いて、恋に悩む必要はなくなるものだと思っていた。
そろそろ起きなくちゃ。
[#挿絵(img/zircon_043.jpg)入る]
できるだけそっと、腕の中から抜け出そうとしてリディアは身動きした。母と違って男の腕は重いし硬いし窮屈《きゅうくつ》だ。
どうにか自由になった、かと思うと、急に動いた彼にまたかかえ込まれる。
起きたのかしら、と思うが、しっかり眠っている。
もういちど抜け出そうと試みたが、リディアが起きあがろうとするほど、エドガーの腕には力が入る。リディアにますますからみつく。
「……だめだよ」
「えっ、起きてるの」
「きみは僕の……戦利品なんだから」
そんなふうに言う彼は、やっぱりまだ眠っていた。
戦利品ってどういうことかしら。
疑問に思いながらもリディアは、彼の寝顔を眺《なが》めながら微笑んでいた。
困らせて、ごめんなさい。
つぶやき、もう少し眠っていてもいいかと思いながら、腕の中で力を抜いた。
今日、エドガーはポールと、幽霊屋敷を訪れるために出発するという。
リディアは、例の墓守妖精の足取りを追ってみるつもりだった。
二、三日、離れることになるのだから、もう少しだけ。
二年ほど前に亡くなったというダーンリイ氏の屋敷は、ハンプシャーにある湿地帯の、沼に囲まれた場所に建っていた。
ぬかるみを避けた道を、馬車で進むこと数時間、まばらな木立のあいだに薄い霧《きり》が立ちこめる中、茶色っぽい建物が見え始める。荒れ地にぽつんと建っていて、なんとなく不気味な印象だ。
日没にはまだ早いというのに、曇《くも》り空のせいか、辺《あた》りはやけに薄暗かった。
昔、このあたりの領主だったのがロチェスター男爵《だんしゃく》だ。三百年前の青騎士《あおきし》伯爵と親交があったという。人里離れた辺鄙《へんぴ》な場所だけに、妖精が多く棲《す》んでいても不思議ではないと思えば、その交友関係も頷けた。
ダイアナの地図は、伯爵がここで得たものなのだろうか。ダイアナはここへ来たことがあるのだろうか。
ともかくその屋敷で、今夜からオークションのためのパーティが開かれる。屋敷に招待された客たちは、家具や調度品を自由に見て回り、購入を検討し、翌々日のオークションに参加するという段取りだった。
「伯爵、リディアさんを連れてこなくてよかったんですか?」
馬車にゆられながら、ポールが言った。
女人禁制のクラブだが、オークションのパーティには家族を同伴してもいいとのことだった。
もちろんエドガーはそうすることも考えたが、男爵家はすでになく、ダーンリイ氏も亡くなっている。
昔の青騎士伯爵とつながる手がかりは絵だけで、それを見つけるのが今回の目的だ。
伯爵家の者が描いた絵は、買い取ってロンドンへ持ち帰る。ダイアナの地図とのかかわりを調べるのは、それからになるだろう。
一方リディアは、この幽霊屋敷よりずっと確実な妖精がらみの手がかりを見つけたようだった。早く調べたい様子だったから、無理に連れ出すのはためらわれた。
何しろエドガーは、このところリディアの機嫌を損《そこ》ね続けている。とりあえず仲直りしたところだったのに、また言い争いの種を持ち出したくなかったのも本音だ。
「幽霊が現れて、何か話したそうにしているのでなければ、僕らで手は足りるだろう」
屋敷を調べたり、周辺の人間から情報を集めるのはリディアの能力を借りる必要はないのだから。
「それよりポール、このオークションなんだけど、何だか不自然な気がしないかい?」
「えっ、どうしてですか?」
「気になることはいろいろあるけれど、そこが幽霊屋敷だって噂《うわさ》はロンドンではべつに有名でもない。手っ取り早くお金が必要なら、売れそうな家財をさっさと運び出して、イタリアあたりから運んできたことにでもして、ロンドンでオークションを開けばいい。怪奇クラブの会員なんかより、高値で買いそうな金持ちはたくさんいる」
「そう……ですね。家財を運ぶのにお金がかかるから……とか」
「招待客を屋敷に泊めて、パーティを開くのだってお金がかかるよ」
「では個人的な趣味、というか、どうしても幽霊屋敷に価値を見出《みいだ》す人に売りたい、のかも……」
「本気でそんなこだわりを持ってるんだろうか。利口とは思えないが」
とにかく不自然な印象がぬぐえないのだが、考えてもしかたがないことかもしれない。
「エドガーさま、もうすぐ到着します」
じっと外を眺《なが》めていたレイヴンが言って、話はそこで途切れた。
馬車は石の橋を渡りきったところで、建物が間近に迫って見えていた。
それは、地面を覆《おお》うように広がる沼地に囲まれた場所に、淋《さび》しげに建っている。
日没|間際《まぎわ》の空は濃い灰色をしていて、いびつな建物の陰影をなくしてしまうせいか、のっぺりした影になった建物は、何かがうずくまっているようにも見える。まるで沼地に封じ込められた、かわいそうな巨人のようだ。
わずかにも風のない水面《みなも》はしんとして、空と建物をくっきりと映していた。
「沼が、大きな鏡のようだね」
「本当ですね。泥混じりの水が黒っぽいから、鏡面のようになるのでしょうか」
「鏡の館、とでも呼ばれそうだ」
御者台に身を乗り出し、エドガーが言うと。
「お屋敷はミミズク館と呼ばれております」
スピードをゆるめながら、この土地の人間だろう御者《ぎょしゃ》が答えた。
「ミミズク? どうしてだい?」
「よくわかりませんが、あの紋章から来てるのでは」
馬車が止まると、御者はポーチの石畳《いしだたみ》に彫られた紋章を指さした。ロチェスター男爵家のものだ。たしかに、ミミズクの姿があった。
馬車を降りながら、エドガーはもうひとつめずらしいものに気がついた。車輪に結わえつけられた宿《やど》り木の枝だ。
たしか、妖精の惑《まど》わしを避けるものではなかったか。
「ああ、これですか。ふた月ほど前にこの屋敷まで乗せたお客さんが、こうするといいと教えてくれましてね。それまではよく道に迷ってたんですよ。知ってるはずの道なのに、どういうわけなんでしょうね」
「妖精が道に迷わせるというけど?」
「ええ、その人もそんなふうに。迷信だと思ってますが、とりあえず、つけておいてもじゃまにはならんので」
妖精のことを知る人物が、この屋敷を訪れた。それは重要なことではないだろうか。
「どんな人が? 名前を聞いたかい?」
「若い紳士ですよ。これといって特徴は……。そうだ、マッキールと言ったかな」
マッキール。エドガーは無意識に緊張した。
「ここへ何をしに?」
「さあ、そこまでは。もっとも、ダーンリイ氏は亡くなってましたので、すぐに帰ったみたいですよ」
ポールが心配そうに眉をひそめ、小声で問う。
「マッキールって、リディアさんの親族でしょうか」
「……そうだろうね」
答えながらエドガーは、リディアを連れてこなくてよかったと考えていた。
妖精がらみの何かが、この土地にあるのかもしれない。マッキールがそのために現れたなら、おそらくエドガーにも関係がある。リディアの知識が必要になりそうだ。
それでもエドガーは、リディアがいなくてよかったと思う。マッキールの名は、彼にとってリディアを奪うかもしれないものだからだ。
あの氏族《クラン》から、必死でリディアを取り戻した。今は無事結婚をし、彼女は名実ともにエドガーの妻になった。それでも不安を感じずにはいられなかった。
マッキールは、ロチェスター男爵と青騎士伯爵の関係を知っているのか。それはよほど重要なものなのか。
「ようこそいらっしゃいました、アシェンバート伯爵」
出迎えに駆け寄ってくるのは、ベックともうひとり、派手な服装をした小太りの男だ。
屋敷の所有者のチェバーズだろうが、それも上の空で、エドガーは石畳《いしだたみ》の紋章を眺めていた。
「ここはどこかしら」
野原の真ん中に立って、リディアは辺《あた》りを見まわした。
「あいつもここへ出てきたはずだけど、墓地らしいものは見あたらないな」
額に手を当て、ニコも野原の先に目を凝《こ》らす。
あの墓守妖精が、ロンドンの郊外から妖精の道に入ったことを、ニコが調べてきたのは間もなくだった。そこでニコとともに妖精の道へ入ることにしたリディアが、たどり着いたのがここだ。
「ニコ、ロンドンからどのくらい離れてるのかしら」
「さあなあ、妖精の道じゃすぐだったけど」
「おーい、あっちに村があるぞ」
丘を駆け下りながら、ロタが手を振る。彼女もいっしょに来たのだが、抜群の行動力で、さっさと周囲を確かめてくれたようだった。
「村があるなら墓地もありそうだな」
ふたりと一匹は、さっそく村へ向かうことにした。
村の入り口だろう、橋の手前には看板があった。まったく知らない地名だった。
「意外と遠くへ来ちまったのかも。ケリーは心配そうだったな。ついてきたかったみたいだけど」
ロタの言うように、ケリーは侍女《じじょ》として同行するのが当然だと考えていた。リディアはもう、伯爵《はくしゃく》夫人だ。ふつうに考えれば、侍女を連れずに出歩くべきではない。
しかし、ケリーをいきなり妖精の道へ連れていくのはためらわれた。ロタのように、何があっても平然としていられるような特殊な神経の持ち主ではない。
今回はフェアリードクターとして出かけるのだからと説得し、どうにかケリーには納得してもらったのだ。
「妖精の道では何があるかわからないもの」
「ま、無事出られてよかったけど、もう陽が暮れそうだよ。リディア、帰りが遅くなるとエドガーに嫌味《いやみ》を言われないか?」
「彼は朝から出かけてるの。ポールさんといっしょよ。三日間帰ってこないし、妖精のあとを追うことは伝えてあるから」
リディアがそう言うと、ロタは意外そうな顔をした。
「あんたを置いていくなんてめずらしい」
「あたし、妖精のことを調べたかったし」
昨夜そのことを話せば、エドガーはいっしょに行くかとは言わなかった。男性ばかりのクラブが主催のパーティだというし、もともとリディアを連れていくつもりはなかったのだろう。
「エドガーだって、たまには独身気分になりたいんじゃない? 結婚前からの交友関係は、結婚したって大事にしたいでしょうから」
「いいのか? それで。このところ、夜に出歩いてるだろ」
「ええ、でもそれは、朱い月≠フみんなやポールさんと伯爵家の先祖のことを調べてるからよ」
ロタはちょっと目をまるくした。
「あいつ、そう言ってるのか?」
「違うの?」
うーん、と彼女は腕を組む。
「たしかに朱い月≠フ連中、何か調べてるみたいだけど、昨日もおとといも、ポールや朱い月≠フジャックとルイスは、九時頃には下宿にいたよ」
今度はリディアが目を見開いた。
少なくともそれ以後、エドガーはポールといっしょではなかったということになる。
昨日も、おとといも、帰ってきたのは夜中だった。
どうしてうそをつくのかしら。リディアは腹が立つよりもただ疑問に思った。
いや、うそをついたというより、わざわざこと細かくは説明しなかっただけなのだろう。
だけど、待っていたのに。
伯爵家の謎を解くために、エドガーも必死なのだからしかたがないと思っていた。けれど夜遅くまで帰ってこないのが、リディアの思う理由ではないなんて考えもしなかった。
心が通じ合っていると思うときもある。けれど少しずれてしまうと、急に彼のことが何もかもわからなくなったような気がしてしまう。
どうしてなのだろう。
心乱れることなく、ずっと安心していたいのに。
「いや、だからってべつに悪いことはしてないと思うぞ」
ロタはよけいなことを言ったと思ったのか、急いで取り繕《つくろ》う。
「ええ、信用してるもの」
もう、信用するなんて言葉を使う必要もないと思っているのに、言ってみればそれすらゆらいだ。
「おい、人が来るぞ。墓地のこと聞いてみよう」
ニコが言うように、道の向こうから農夫らしい男が、荷物を載《の》せた馬を引きながら近づいてきた。
「いきなり墓地のこと聞くのは妙だろ」
「そうね、それにあたしたち、場違いな感じだし、旅行者にも見えないわ」
リディアもロタも、ハイドパークを散歩するようなレディの服装だったし、手荷物も何もないのだ。
しかし思いがけず、向こうがわから足を止めて声をかけてきた。
「お嬢さん方、もしかしてあんたらも道に迷ったんですかい?」
リディアはロタと顔を見合わせた。
「そうなんです」
「あんたらもって、おじさんも迷ったのか?」
その人は、困惑しきった様子でつばの広い帽子を上げた。
「ええ、村はその橋の向こうだというのに、渡ろうとするとこの場所に戻ってくるんですよ」
「それ、妖精に惑《まど》わされてるんだわ」
リディアは言うと、農夫の荷物や手綱《たづな》を調べはじめた。そうして、馬のしっぽに結ばれた麦藁《むぎわら》を見つけ、ほどいてやる。
「これで大丈夫だと思います」
驚いた顔で、農夫はリディアを見たが、まだ半信半疑《はんしんはんぎ》といった様子だった。
「お嬢さん、あんた妖精のことがわかるんで?」
「おじさんは、妖精を信じてる?」
「さあ。だがあの連中のせいだと思うしかないことが、いろいろとありますからな」
橋を渡りきると、当然のように村が見えてきていた。安堵《あんど》した様子の農夫は、リディアにたいそう感謝し、馬車を借りるなら副牧師の家へ行くといいと教えてくれた。
もうすぐ日が暮れそうだったし、いちばん近い駅へはかなり距離があるという。もう少し西へ歩いたところに古い城だった屋敷があって、近くに副牧師が住んでいるらしかった。
彼の話によると、ここはロンドンから何十マイルも離れているようだ。
好意にすがることにしたリディアは、案内をしてくれる農夫について歩きながら訊《き》いた。
「妖精のいたずらが、ここではよく起こるんですか?」
「そうですな、道に迷ったって話はいくらでもあります。突然消えた旅人もいますが、そっちは沼へ入っただけかもねえ。お嬢さんたちも気をつけなすってくださいよ。このあたりは沼が多いが、泥に足を取られてどこまでも沈んじまえば、誰にも見つけてもらえませんからね」
「底なし沼かよ、怖いな」
道のわきに迫る湿地の沼に、ロタは石を蹴《け》り込んだ。
「それよりも悪いことは、月が出ないってことでさ。この土地は呪《のろ》われてるんですかねえ」
「月が出ないって? 天気が悪ければ月の見えない夜もあるだろ?」
「もう六年、出てないんですよ」
「えっ、そんなに?」
偶然にしても、そんなことがあるのだろうか。この湿地が夜霧を濃くし、雲を厚くするのだとしても、晴れる日が一日もないとは思えない。
ちゃっかり馬の背に乗っかっているニコも、怪訝《けげん》そうに片目を開いた。
「月が死んだからだって、母は言ってましたな。そういう伝説があるんだそうで」
彼は沼の向こうを指さした。大きな建物が、ぽつんと見えてきていた。
「昔、あの屋敷に領主が住んでいた頃にも、月が出なくなったことがあるそうです。そんなとき、領主のところへどこかの貴族が訪れて、ある魔法の宝石と引き替えに月を取り戻してくれた、てな話でした」
「ふうん、リディア、妖精のせいで月が出なくなるってこと、あるのか?」
「どうかしら、奇妙だけど、本当に月がなくなったわけじゃないわ」
「そうだな。ロンドンでもどこでも、月は夜ごと姿を変えながら空にのぼっている。月夜がないのは、ここの天候のせいってことだよな」
天候をあやつる妖精もいるが、六年もの間、一度も月が出ていないなんて不思議だ。
毎夜魔法を使うなんて、そんな几帳面《きちょうめん》な妖精をリディアは知らない。だいたい彼らは飽《あ》きっぽいし気まぐれだ。
「月が出なくなって、妖精のいたずらが増えたんですか?」
「そんな気がしますな」
夜に明かりがないということは、|悪しき妖精《アンシーリーコート》が力を増しやすい。悪意のあるいたずらも増えるかもしれない。
「そういや、そのころからあの屋敷に幽霊が出るって噂になりはじめたんですよ」
「へえ、あれは幽霊屋敷なのか?」
そういうのってわりとあるのね、とリディアはぼんやり思う。
「出るってのは、主人の孫娘の幽霊だそうで。しかし主人も二年前に死んで、今は無人。古くからの使用人夫婦が建物だけ管理してるんです」
「主人のお孫さんは、六年前に亡くなったってことですか?」
彼はリディアの問いに、首を傾《かし》げて考え込んだ。
「孫娘なんていなかったって、役所の人が言ってたんですよ」
しかし彼は、沼地の張りつめた水面を眺めながらまた言った。
「でも俺は……、何度か見たことがあるんです。ほら、あの石の橋の上を、屋敷の主人と少女が歩いていくのを。橋の上は木の枝に覆《おお》われて見えないんですが、水にふたりの姿が映ってたような……」
言葉を切った彼は、自分でもバカバカしいと思っているのだろうか、苦笑いを浮かべて帽子を目深《まぶか》にかぶり直した。
「……少女の方は幽霊だったんですかね」
道の先に、小さな建物が見えてきていた。
そこが副牧師の住む家だという。
リディアたちを待たせ、彼が家へ入っていったとき、ニコがぴょんと馬から飛び降りた。あわてた様子でリディアのスカートを引っぱる。
「おいリディア、あいつだ!」
「あいつって?」
「さっき向こうの道を歩いてた。あのときの墓守妖精だよ!」
「本当なの?」
「間違えるもんか。あのでっかくて真っ黒な図体《ずうたい》だぞ」
「確かめてこいよ。ここの人にはあたしから事情を話しておくから」
ロタに促《うなが》され、リディアは頷く。
「ありがと、お願いねロタ」
もう駆け出しているニコのあとを追いつつ、リディアは手を振った。
石段をあがると、古い建物を取り巻く石壁がせまって見えた。
妖精を追っていくと、城だった屋敷に近づいていた。
かつては庭園だったのだろうか。ところどころに動物をかたどった石像が建っている。草や木の枝がのび放題で、噴水はすっかり枯《か》れている。
まだかろうじて辺りの様子がわかる状況だったが、そろそろランプが必要だろう。
「ニコ、このまま追いかけていったら、真っ暗になって帰れなくなるわ」
「ああ、明かりがいるな。そうだ、あの宝石を持ってるだろう?」
言われてリディアは、ポケットからそれを取り出した。
明るい場所では気づかなかったが、こうして薄暗い屋外で眺めると、それは不思議と明るさを増しているように見える。
それ自体が光を放っているふうではないが、周囲がずっと明るく見える。暗い木陰《こかげ》に入れば、よりはっきりと辺りのものを照らし出す。
「本当、不思議と明るいのね」
「ふつうの人間には見えない明かりだけどな」
あの妖精がまぶしすぎると言っていたのは、こういうことだったのだろう。
やはりこれは、魔力を持つ石であるらしい。
石を手のひらに載せたまま、リディアはさらに足を速めた。
ニコは妖精の足跡を追っているようだ。さすがにリディアにはよく見えないから、ニコについていくだけだ。
しばらく歩くと、道は森の中へと入っていった。森とはいっても屋敷の敷地だろうそこを通り抜けると、視線の先にこぢんまりとした墓地が見えてきていた。
「ニコ、墓地だわ。妖精はあそこに棲《す》んでいるのかしら」
「そうかもな。それにしても暗くなっちまった。夜の墓地なんて来るもんじゃないな」
ニコは背中の毛を震わせる。
「近くまで行ってみましょう」
「ええっ、リディア、平気なのか?」
妖精のくせに、死人が怖いのだろうか。
墓地を囲む木の柵へ、リディアはまっすぐに近づいていく。すると、どこからともなく声がした。
(それを持って近づかないでくだされ)
そばにあった巨木の上に、黒い大きな影のようなものが乗っかっていた。
「うわっ、あいつだ」
ニコは反射的に、リディアのスカートの後ろに隠れた。
悪い妖精ではないのだろうけれど、姿形が不気味だし、どうしても忌まわしい印象はぬぐえない。暗い墓地で目にすればさらにおそろしいが、礼儀正しい口調に、リディアはまだ冷静さを保っていた。
「ご、ごめんなさいね。あなたに訊《き》きたいことがあってさがしてたの」
(ほう、どんなことでしょう?)
ゆるりと黒い巨体がゆれた。相手が人型でないと、興味があるのか怒っているのか、さっぱり感情がわからない。
「この宝石、どこにあったの? これがどういう石なのか、あなた何か知らない?」
(さあ、わしはこの領域、墓地の外のことは何もわかりませんな。それは誰かが埋めていったのです。……そうそう、あの墓のそばに)
リディアは柵の間にあった木戸をくぐり、墓地の中へ進み入った。
死者には明るすぎるという宝石を、手の中に握り込んで光を隠し、墓守妖精が指す墓標へ近づいていく。ニコはまだ、リディアのスカートにくっついている。
「このお墓?」
(そう……、いや、その隣だったかもしれません)
「おぼえてないの?」
(はあ、まあそのあたりでしょう)
屈み込み、少しだけ指を開いて、宝石の光で文字を読もうと目を凝《こ》らす。
そこに眠る人の名は、K・ダーンリイ。
ダーンリイ? たしかリディアは、その名前を聞いたことがあった。
昨日エドガーが言っていた。青騎士伯爵家と縁のあった貴族の屋敷へ行くという話だった。そこに二年前まで住んでいたというのが、ダーンリイという名の老人だった。
没年も二年前だ。
「まさか、ここの屋敷って、……幽霊屋敷?」
つい声をあげると、ニコが肩をすくめた。
「さっきの農夫がそう言ってたじゃないか」
「あ……ええ、そうなんだけど」
「リディア、こっちもダーンリイって名だ」
もうひとつの墓を、リディアも覗き込む。
女性の名だった。死んだのは六年前、そしてそのときの年齢から察するに、ダーンリイ氏の娘なのではないかと思われた。
孫がいたのかいなかったのか、曖昧《あいまい》なダーンリイ氏だが、娘はいたのだ。
(その墓は妙でしたな。葬儀もなく遺体もなく、人目を避けるように夜中、遺品だけが埋葬されました。老人と女の子が見守っていましたな)
女の子。
「その女の子は、幽霊?」
(人間でしたな、そのときは。人はすぐ死体になりますから、今はどうか知りません)
やはり孫娘はいたのだろうか。
そしてダーンリイ氏は孫娘とともに、娘の埋葬をした。
娘も孫も、何らかの事情で長年離れていたのかもしれない。そうして、遠方で亡くなった娘の、遺品だけをひっそり埋葬したということか。
けれどなぜ、人目を避けたのだろう。
それは墓標の名前についたミス≠ニいう表記から、ぼんやりとだが察することができた。
結婚をしていない女性。そして彼女が、ダーンリイ氏の孫娘の母親なら、未婚の母だということになる。
世間的には許されない、とても不名誉なこと。もしかするとこの女性は勘当《かんどう》されていたかもしれないし、そうなると孫娘の存在も、世間から隠されていても不思議ではなかった。
だから彼女は、存在が曖昧なままだ。
六年前、少女がひとり、死んだ母とともに帰郷した。彼女はたぶん、隠れるように暮らしていた。
けれどダーンリイ氏は亡くなった。なのに孫の存在は公《おおやけ》にならなかった。この六年のあいだに、人知れず亡くなって、人知れず葬《ほうむ》られたのだろうか。
けれどここには、彼女のための墓地はないようだ。
そして六年前……。その年月にはもうひとつ意味があった。
月が死んだ、と農夫は言った。月が出なくなった頃だ。
ふつうなら関係があるとは思えないが、この土地にはかつて青騎士伯爵が訪れたことがある。
エドガーは、青騎士伯爵が絵を当時の領主に贈り、魔法の地図を得たと言った。
さっきの農夫は、昔貴族が現れ、魔法の宝石と引き替えに死んだ月を生き返らせたと言った。
「地図と宝石は、同じもの?」
そうだ、とリディアは自問自答する。ダイアナの地図には、不思議なジルコンが埋め込まれているのだ。
ポケットに入ったロケットペンダントを、衣服の上から確かめる。
これが、青騎士伯爵がこの土地で手に入れたものだとすると、死んだ月と、伯爵家の者が描いたという絵にも、何か共通するものがあることになる。
「妖精さん、この宝石は六年前からここにあったの?」
(そんなにがまんはできませんので。最近ですな。まったく困ったもので、持ち主をさがしたわけです)
持ち主はリディアではないが、いったい誰がなぜここに埋めたのだろう。
その誰かは、この宝石の秘密を知っているのだろうか。
「もうひとつ訊いていい?」
(答えたらそれを持って帰ってくれますかね)
明るい石はよほど迷惑らしい。たぶん、リディアが来たのも迷惑なのだ。
そもそも墓守妖精は、生きた人間と接することが好きな性質ではないだろう。だからこそ墓場に棲んでいるのだろうから。
「ええ、帰るわ。このあたりで幽霊が出るって聞いたんだけど、あなた何か知ってるかしら」
「幽霊? そんなはずはありません。みんな静かに眠っております。月が消えてから、|悪しき妖精《アンシーリーコート》どもが力を増しているとはいえ、連中が死者を起こしたりしないよう、わしが見張っておりますから」
幽霊の噂は、だったらどうして出てきたものなのだろう。まったく根拠なんてないのだろうか。
「わかったわ。ありがとう妖精さん。さようなら」
考えながら、リディアは墓地を後にした。
来た道を帰らずに、屋敷の方へ足を向ける。
エドガーに会わなければ。そう思った。
「リディア、どこへ行くんだよ」
「あの古い屋敷にエドガーが来てるはずなの。今日彼が向かった、青騎士伯爵の贈った絵があるっていう屋敷があれなのよ」
「本当か? 魔法の地図と引き替えにしたって絵だろ? その地図がロケットペンダントのことなら、地図も宝石もこの土地と関係あることになるぞ」
「そうよ、地図を見る方法も、答えはきっとここにあるのよ」
急ぎ足になりながら、リディアは建物を目指した。
たくさんの窓に明かりが灯《とも》っていた。オークションのためのパーティが開かれているのは間違いない。近づくほどに、人影が動くのもわかる。
「入り口はどこかしら」
「あの窓からなら入れるぞ」
「ニコ、そんなはしたないこと……」
しかしよく見れば、窓の下にはちょうど踏み台になりそうな木箱が置いてある。開けっ放しだし、明かりのついていない部屋なので、人がいる心配もなさそうだ。
レディのすべきことではないが、男しか入会資格のないクラブの集まりでは、正面から行っても門前払いをくらうのではないだろうか。
そういうクラブは、紳士が家族の束縛《そくばく》を逃れてのびのびと遊べるよう気を配っているもので、妻が訪ねてこようと取り次いでくれないのだと聞いたことがある。
「……行きましょう」
決意したリディアは窓に近づいていき、スカートのすそを持ちあげつつ、木箱にのぼって部屋の中を覗き込んだ。
誰もいない。奥のドアが開いていて、廊下の明かりがかすかにそのあたりを照らしている。
今のうちに、と窓に足をかける。
そのとき、開けっ放しのドアの前を誰かが通りかかった。
窓によじ登ったリディアと目が合ったとたん。
「……う……わあぁあーっ!」
男はいきなり悲鳴をあげ、逃げ出していった。
晩餐《ばんさん》までにはまだ時間があった。案内された客間《ゲストルーム》から、エドガーは窓の外を眺めやった。
暗くなった外の風景はよく見えないが、広い範囲で沼地に囲まれているのはわかる。
明かりのついた建物の影が映り込んでいる。雲がたれ込めた灰色の空は、それでも地上の闇《やみ》よりは明るい色で、それが水のある場所を地面から浮かび上がらせている。
幽霊でも妖精でも、何がいても不思議ではないと、ぼんやり思う。
リディアなら、この風景が彼とは違って見えるのだろうか。
彼女のフェアリードクターとしての能力は、マッキール家の、伝説の予言者のために保たれた血筋だった。
予言者の許婚《いいなずけ》としての立場を持つ彼女を、あの氏族《クラン》はまだあきらめていないのだろう。
何よりリディアが大切だから、そのことはエドガーをたまらなく不安にする。
リディアはどうしているだろう。
ジルコンを持ってきた妖精を見つけられたのだろうか。
ジルコンという手がかりの見つかったことを、昨夜リディアは、少々興奮気味に話していた。地図の謎を解き明かそうと、彼女は一生懸命になっている。
それはもちろん、エドガーのためだ。
でも、愛をささやいても上の空になるのはどうだろう。
昨夜もそうだった。
バルコニーから仕事部屋に忍び込んで、閉じこもっていたリディアと和解できたのはよかったが、そのあとリディアの、妖精が宝石を持ってきたという報告を聞いていたら、色っぽい雰囲気《ふんいき》になるどころではなかった。
ダイアナのロケットペンダントに埋め込まれた小さな宝石について、必死で考える彼女を押し倒してみたら、『エドガー、聞いてるの?』とかわいらしいふくれっ面《つら》をするものだから、ますます襲いかかりたくなるのをこらえた。
ベッドの中で話を聞いているうち、リディアは眠ってしまった。エドガーは、戦利品≠抱き寄せるだけでがまんするしかなかった。
夜遅くまで待っていてくれたけれど、リディアはべつに、彼と愛しあいたかったわけではないようだ。妖精の報告をしたかっただけなのか。
伯爵邸での日常は、リディアにとって家へ帰る必要がなくなっただけで、フェアリードクターとして通っていた頃とそう変わらないのかもしれない。
エドガーはまだ、夫というよりは雇い主なのだろうか。
そんなふうに思う彼は、リディアというとくべつな女性を相手に失念していた。
これまで、恋人らしくなるのでさえ時間がかかったということを。
少しずつ、けれど確実に愛情を育ててくれているリディアが、わがままになるのを恐れていることも、交際を始めたばかりの男女のように、おだやかに語らい見つめ合うことに何より幸せを感じていることも知らないまま、エドガーは少々困惑しているのだった。
「エドガーさま、ポールさんがいらっしゃいました」
レイヴンの声に我に返る。
「ああ、目当ての絵を確かめに行くんだったね」
窓辺を離れ、頭を切り換えつつ、エドガーは部屋を出た。
ポールとレイヴンと連れ立って、屋敷の中を歩く。まずは美術品の多いロングギャラリーへ足を向けると、この屋敷をかつて所有していたロチェスター男爵家の、代々の肖像画が並んでいた。
「例の絵は肖像画なんだよね」
「ええ、記録にはそうありました」
たくさんあるそれを、ひとつ確かめるが。
「サインや年代も、アシェンバート家の者が描いた絵はなさそうですね」
ポールの言葉に頷《うなず》き、今度は大階段へ向かうことにした。
踊り場には、大きな鏡が掛かっていた。
「妙な屋敷だな。ふつうこの場所には、見栄《みば》えのする大きな絵を飾るものなのに」
その先の壁にも、豪華な額に入れられた絵画の合間に、同じように豪華な縁取りのついた鏡が等間隔に並んでいた。
「廊下にも鏡が。何か意味があるのでしょうか」
レイヴンがそう言うのは、左右に分かれた通路の一方向にだけ、鏡が並んでいるからだ。
「レイヴン、気になるのかい?」
「……いえ、今、白いものが映ったような気がしたもので」
この大階段にはエドガーたちしかいないことを考えれば妙だった。
「幽霊か?」
「わかりませんが、ちょっと奥を見てきます」
素早くレイヴンがきびすを返すと、ポールが驚いた。
「ええっ、ひとりで怖くないのかい?」
「何がですか?」
「って、幽霊が」
「レイヴンに怖いものはないよ」
はい、とレイヴンは頷く。
「怖ろしいのは、エドガーさまが|奥さま《レディ》を怒らせることだけです」
主人が無事結婚しても、レイヴンは気が休まらないらしい。
「待ってくれレイヴン、そんなにリディアが怒ったことがあるのか?」
「リディアさんが怒らないよう努力しているときがいちばん危険なのだそうです。ケリーさんが教えてくれました。いつ爆発するかわからないから、エドガーさまの一挙一動《いっきょいちどう》に寿命が縮《ちぢ》む、と」
「そう……なんだ。気をつけるよ、レイヴン」
困惑するエドガーに一礼して、レイヴンは通路の奥を調べに向かった。
「僕は危機を脱したのだろうか。それともリディアはまだ、何かがまんしてる? ポール、どう思う?」
話をふられても、いいかげんなことを言えるわけがないポールは、そこにあった絵に気を取られていたふりをした。
「えっ、ああ、伯爵、……これはいい絵ですねえ」
エドガーは肩をすくめ、その絵の前に並んで立った。
たしかにいい絵だった。この屋敷が描かれた風景画だ。
月に照らし出された館が、堂々と建っている。庭園には花が咲きみだれ、今の荒廃《こうはい》した建物とは違う、昔日の姿だった。
月光が、やわらかな黄金色の光を画面いっぱいに注いでいる。
草木は木の葉ひとつさえ静止して、おだやかな眠りの中にある。目覚めているのは月と、その光を全身に浴びて、まぶしさに起きだしたような城と。
両者が無言で語り合う中、眠りについている人々にはけっして見ることのできない、美しい夜が過ぎていく。
沼に囲まれた陰鬱《いんうつ》な土地かと思っていたが、月が出ればここは、こんなにも幻想的な風景になるのだろうか。
「めずらしいね」
「ええ、めずらしいですね」
「ここは人物画ばかりが並んでるのに、どうして一枚だけ風景画なんだろう」
「あ、そのことですか。そういえばそうですね」
とポールは言う。
「じゃあきみは、何がめずらしいと思ったんだ?」
「あ、ええ、風景だけを描くことは、昔はまずなかったと思うので。最近は画壇でも風景画家が人気ですが、これはニスが変色しています」
「古い絵だということか」
「サインは見あたりませんね。裏側にあるかもしれませんが」
絵としてはおもしろいが、目的の肖像画ではない。しかしエドガーには、引っかかるような違和感があった。
それが何かはわからないまま、けれどすぐに忘れた。レイヴンが戻ってきたからだった。
「突き当たりに妙な部屋がありました」
レイヴンはそう言った。
「鏡だらけの部屋です」
「へえ、それは変わってるね。見に行ってみようか、ポール」
「えっ、あの、幽霊は……?」
少々腰の引けたポールだが、ひとりで階段に取り残されるのはいやだったのか、エドガーについてきた。
レイヴンが言うように、廊下には突き当たりまで鏡が並んでいた。
そして、部屋へ足を踏み入れる。
花模様の壁紙に、淡い水色のカーテン。小さめのベッドには白いレースの天蓋《てんがい》がついていて、子供部屋といった様子だった。
奇妙なのは、四方の壁に、大小さまざまな鏡が隙間《すきま》を埋めるようにしてかけられていることだった。
姿見から洗面鏡、手鏡まで張りつけてある。
「いったい、どうしてこんなに……」
ポールが絶句した。
「女の子の部屋だな。やっぱり孫娘がいたのだろうか」
「これが孫娘の部屋ですか?」
「鏡の好きな女性は少なくない」
「好きってレベルじゃないでしょう!」
「わぁああーっ……!」
そのとき、どこからか悲鳴が聞こえてきて、ポールが飛びあがった。
幽霊だ、と叫びながら誰かが走っていく。
「へえ、確かめてやろう」
「は、伯爵!」
鏡の部屋を飛び出したエドガーは、階段を駆け下りていった。
どっちだろうと思いながら、狭い通路へ入っていくと、奥の部屋から逃げ出していく人影が見えた。
女だ。が、驚いて目を凝《こ》らす。
薄暗い中での後ろ姿だったが、見間違えるはずもなかった。おまけに、灰色の猫まで二本足で走っていく。
「リディア!」
呼び止めると、立ち止まった彼女は、おそるおそる振り返った。
「エドガー……?」
「リディア、どうしてここに」
訊《たず》ねながらもエドガーは、自分のような野次馬が駆けつけてくる足音を聞きつけ、急いでリディアをその場から遠ざける。
人のいない部屋へ入り込み、あらためて彼女に向き直る。
「会えてよかったわ。報《しら》せたいことがあったの。妖精のジルコンが……」
リディアは興奮した様子で、一気に話そうとしていた。エドガーは苛立《いらだ》ちもあらわにそれをさえぎった。
「ひとりでこんなところまで来たのか?」
何かあったらどうするんだと思った。軽率《けいそつ》な行動はしてほしくない。マッキール家も訪れた土地に、リディアを連れてこなくてよかったと思っていたところなのに。
とにかく心配でたまらなくて、彼女の思いがけない行動に動転していたのだ。
リディアは出鼻《でばな》をくじかれてか、口をつぐんだ。
「リディア、きみはもう、ひとりでふらふら遠出するような立場じゃないんだよ」
質問の答えを促すつもりが、ついきつい口調になってしまう。
恥じ入ったようにうつむきながら、リディアは答えた。
「ロタとよ。遠出をするつもりはなかったの。だけど妖精を追ってきたら、近くの村に出てきたんだもの。あなたが訪れてる屋敷だってわかったから、早く話したくて……」
「ロタはどこに?」
「近くの……副牧師の家で待ってて……」
「だったら彼女とすぐに帰るんだ。急いで馬車を手配すれば、今ならロンドンへの汽車に間に合う」
断定的に言えば、リディアは反発を感じたのだろうか。キッと眉をつり上げる。
「手がかりを見つけたのよ。妖精に会えたの。この土地にきっと、地図の魔法を解く鍵があるわ」
妖精を追ってきたリディアが、ここへたどり着いたことは重要な意味がある。理解できるからこそエドガーは、ますます慎重《しんちょう》になっていた。
伯爵家とプリンスの組織の対立には、いろんな立場の人間の利害がからまっている。だからこそもう、他人の思惑に利用されたくはないのだ。もちろんリディアのことも、争いの道具にされたくはない。
手がかりがあるというだけで突き進めば、罠《わな》にはまることだってあるのではないか。新婚旅行のときがそうだった。結果は悪くはなかったが、いつもうまくいくとは限らない。
「リディア、よく聞いてくれ。まずは絵を見つけたい。ロンドンへ持ち帰るから、慎重に調べて知るべきことを整理して、もう一度ここに来よう。ジルコンのことも合わせて考えればいい」
闇雲《やみくも》にここで動き回るのはどうだろうか。何よりも、マッキール家が目をつけた土地に、リディアを留めたくなかった。
「来ちゃいけなかった?」
気丈に反論していたリディアが、急に悲しそうな顔をした。
「そうじゃないけど、きみが妖精の棲みかを調べるって話、僕はロンドンの妖精を追うだけだと思ってたんだよ?」
「それは、あたしもそう思ってたもの。だけど、妖精の抜けた道をたどったら、ここへ出てきちゃったのよ。とにかく話を聞いてちょうだい」
エドガーは迷った。
最終の汽車までに時間がない。彼女をここにとどめて、後悔するようなことにならないだろうか。
「アシェンバート伯爵、絵をごらんになるなら明かりをつけさせましょうか?」
そのとき声をかけてきたのは、主催者のベックだった。暗がりで話しているなんて、奇妙に思ったのだろう。
「いや、結構です。ここには目当ての絵はなさそうだ」
リディアを連れて出ようとしたが、ベックは彼女に目をとめた。
「おや、こちらは? 伯爵、女性をお連れだとはうかがっておりませんが、ご家族ですか?」
「……いいえ、違いますよ。道に迷ってここへ来てしまったようです」
とっさにエドガーがそう言うと、リディアは呆気《あっけ》にとられた顔をこちらに向けた。
妻だと紹介すれば、ベックは引きとめようとするだろう。奥方の衝動的な買い物を期待して、このオークションはクラブの会員だけでなく家族の同伴を歓迎している。
幽霊屋敷に興味を持っていることを、身内に知られたくない紳士が多いせいか、女性の姿は数えるほどだが、ベックにとっては大歓迎のはずだ。
しかしそれは困る。リディアがここにとどまる気になってしまう。
戸口に来ていたポールとレイヴンも驚いていたが、エドガーはかまわず続けた。
「彼女のために馬車を用意してやってくれませんか」
「いいえ、あたし、ここに用があって来たんです!」
リディアは声をあげた。エドガーのそばをすり抜け、ポールに駆け寄る。
「兄さま!」
といきなりポールに呼びかける。
「あたしも幽霊が見たいんです。いいでしょう? あたしもここに泊めてください!」
リディアはやけになったというよりも、頭にきたのかもしれなかった。
「ええっ、あの、でも……」
あせったポールが、リディアとエドガーとを交互に見る。
「部屋は空《あ》いていますが、どうします、ファーマンさん」
自分の考えを変える気はないと、リディアの強い視線がエドガーをにらんでいる。こうなったら、彼女を動かすのはあきらめるしかない。
「ポール、せっかくだからそうしてもらえばいい」
エドガーは折れたつもりだった。けれどリディアは、表情をやわらげてはくれなかった。
ポールの妹として、この屋敷に宿泊することになったリディアは、いきさつをニコからロタに伝えてもらうことにして、ポールとダイニングルームへ向かった。
すでに客たちが集まってきていたダイニングルームへ入っていくと、エドガーの姿はすぐに目についた。
こんなに人がいても目立つ。何事もなく座っているだけなのに、どうしてあんなに目を引くのだろう。
そんなエドガーが、リディアの方を見る。とっさに視線をそらしてしまった彼女は、さっきのエドガーの態度がどうしても理解できなかった。
帰れとか、他人のふりをするとか、どうしてなのだろう。
男性ばかりかと思っていたら、家族を連れてきてもいいということではないか。
一方でリディアは、自分の態度を後悔しはじめてもいた。
ついムキになって、ポールを巻き込んで泊まることにしてしまったけれど、エドガーは怒っているだろうか。
またわがままなことをしてしまったのかもしれない。
考えるほどリディアには、エドガーのことがわからなくなってきている。夜遅くまで、|朱い月《スカーレットムーン》≠フみんなといたわけではないことも、今回のことも、彼は地図の謎を調べるよりも、単に社交を優先しているだけなのだろうか。
そういうことも、もっと話し合える時間があれば誤解しなくてすむのかもしれない。何もわからないまま、いきなり他人扱いされたことが悲しかった。
「リディアさん、伯爵がこっちを見てますよ」
テーブルにつくと、ポールがそう言った。エドガーの席は離れているが、ポールが会釈《えしゃく》をしたのは知っていた。けれどリディアは顔をあげられなかった。
「あの、僕が言うのも何ですが、伯爵はあなたをじゃまに思ったわけではありませんよ」
自分はエドガーの立場を考えていなかったかもしれない。だからたぶん、彼が帰れと言わざるを得ないことをしてしまったのだ。
窓から入ったのもまずかったかしら、とため息をつく。
幽霊が出たんだって、と周囲の話し声が聞こえる。窓辺に女が浮かんでいたそうだ。
さっき、悲鳴をあげて逃げていった男性が言いふらしたのだろうと思うと、リディアは顔が赤くなる。
「ええ、……考えてみればあたし、男の人の社交場に乗り込んできたようなものですよね。身内だなんて言えば、彼が恥《はじ》をかくところだったのかも」
はっとして、ポールを見る。
「やだ、これじゃポールさんに恥をかかせてしまったんだわ!」
「いや、ぼくは恥なんてかいてませんよ。ここには家族を連れてきてもいいんですから、あなたは堂々と名乗ったってかまわなかったんです」
だったら窓から入らなくてよかったのにと思うけれど、いまさらだ。
「でも、エドガーはそう思ってないもの」
ここに来ている女性はもちろん、夫が連れてきたのだ。勝手に追いかけてくるような女は淑女《しゅくじょ》とはいえない。
「伯爵は、あなたのことが心配なだけなんです。ここの様子を、まずは自分でよく調べてからと思ったのでは。魔法のことは、伯爵にはわからないからなおさら慎重なんですよ」
ちらりとエドガーを盗み見る。周囲と談笑している彼は、もうこちらの視線に気づきそうにもなかった。
どんな話題に話がはずんでいるのかしら。
リディアには想像もできないかった。
想像してはいけないのだ。女は何も知らなくていい。家を守ってさえいれば。
けれどそういう夫婦の常識と、自分たちの関係は違うと思いたいから、わがままなことを望んでしまうのかもしれない。
エドガーはリディアの能力を必要としてくれている。伯爵家のために、対等に働けると思う。でも、だからといって、伯爵夫人らしくないことは謹《つつし》んでほしいというのがエドガーの本音だろう。
「……そうですね、ポールさん。あたし、妖精のことになるとつい他のことが見えなくなっちゃうから、エドガーはそれも心配なんだわ、きっと」
あとで、ちゃんとあやまろう。素直な態度で話せば、エドガーだって不機嫌な態度をやわらげてくれるだろう。
気を取り直し、今は食事を楽しもうと思った。
しかしそれも大変だった。ポールの妹になっているリディアは、周囲の人の質問にポールと話を合わさねばならず、ふたりしてしどろもどろになることもしばしばだった。
食事の間、結局はほとんどポールと話していた。
農夫に聞いた、月が出なくなった話。昔、そんなことがあったときには、青騎士伯爵が現れて解決したという伝説。墓守妖精が持ってきたジルコンは、この屋敷の主人だったダーンリイ家の墓にあったこと。ダーンリイ氏には世間から隠されていても不思議ではない孫がいたかもしれないこと。
ポールに話しながら、そして周囲にも気を遣《つか》っているうち、リディアはふだんよりもお酒を口に運んでいたようだった。
「リディアさん、飲み過ぎてませんか?」
「そんなこと、ありませんわ」
ちょっと舌《した》っ足らずな口調になったのは、呂律《ろれつ》が回っていなかったのかもしれない。
「部屋へ戻られた方が。送っていきますよ」
「……すみません」
素直に従うことにすると、ポールは立ちあがってリディアの手を取った。
ふらついて、腕にしがみついてしまう。
「あっ、ごめんなさい」
「大丈夫ですよ。兄ってことになってるんですから」
そうだった、身内でもない男の人にすがるのははしたないけれど、今はポールを相手に人目を気にする必要はない。
そう思って歩き出したとき、目の前に誰かが立った。
「僕が連れていくよ」
エドガーだった。
リディアは断ろうとした。ポールの妹が、兄ではなくその友人に連れられて退席するなんておかしいじゃない、と回らない頭で考えていたが、動いたためかますますくらくらしていて、声にも態度にもできなかった。
強引にエドガーは、リディアの腰を引き寄せてささえ、ダイニングルームをあとにする。
彼の手つきも力の入れ方も、リディアには違和感なく馴染《なじ》んだもので、もうあれこれ考えられなくなると、無意識に身をゆだねてしまっていた。
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幽霊屋敷の幻影
それは、妖精が運んできた宝石だった。
エドガーは、手のひらに載せた黄金色の結晶を転がしながら眺めていた。ランプの近くで見るよりも、暗い場所に置いた方が、不思議と輝きが増すような気がする。
ジルコンだというが、ただのジルコンではない。
なぜこれの欠けらが地図のロケットに埋め込まれているのかが明かされれば、妖精国《イブラゼル》の場所がわかるかもしれない。
イブラゼル伯爵《はくしゃく》、その名を持ちながら、青騎士《あおきし》伯爵家の血筋《ちすじ》ではないエドガーが、本来の領地であるそこへ行き着くことはできるのだろうか。
ロンドンへジルコンを届けに来た妖精が、近くの墓地にいて、最近ダーンリイ氏の墓のそばに埋められたものだと話したという。
リディアが得た、宝石やダーンリイ家のことや、青騎士伯爵に関する情報を、エドガーは一通りポールから聞いたところだ。そしてひとりになって、考え込んでいた。
リディアとは、お互い別の手がかりを発端にして、同じところにたどり着いたのだ。ふたりで協力すべきだし、彼女を帰らせようとしたのは間違いだった。
冷静になればそう思えるエドガーだが、リディアを奪われそうな不安は消えたわけではない。
久しぶりに聞いたマッキールの名が、自分をこれほど動揺させるとは思わなかった。それも名前だけ、その人物はもうここにはいないというのに、あのマッキール家の痕跡《こんせき》があるところにリディアがいるというだけで動揺している。
エドガーにとってもっとも危険な敵はプリンスだが、あの組織よりもマッキールをリディアに近づけたくないと思ってしまう。
それほど彼にとって、リディアと離ればなれの日々はつらかった。もうあんな思いはしたくない。
だからといって他人のふりをしたのは、まずかったかもしれない。
ベッドに横たわったリディアは、うとうとと眠っている。苦しくならないよう衣服をゆるめ、髪をほどいたのはエドガーだが、そんな彼女がやけに悩ましくて、気をそらすのに苦心しなければならなかった。
「そばにいれば、リディアが酔うほど飲んでいることに気づかないなんてあり得ないんだ。最初から、妻だと言っていればよかった」
ダイニングルームでも、リディアの気分が悪そうなのに気づいたのは、彼女がポールと席を立ったときだった。
周囲の人との会話に集中していた。そこには、生前のダーンリイ氏を知る人物がいたからだった。
クラブのメンバーで、ベックから名前を聞いていたコーエンだ。
彼は、ダーンリイが晩年までつきあったごくまれな友人のひとりで、品のある紳士だった。
故人《こじん》を悼《いた》みつつ、この屋敷の主人との思い出を語っていた。その話からすると、孫娘はいなかったようだった。
娘はいたが、未婚のまま死んだという。
これはリディアの話と一致していた。
数年前からダーンリイは人嫌いが増し、コーエンもいくらか足が遠のいたらしい。
それでも彼が危篤《きとく》だと聞き、見舞いに訪れた。そのときダーンリイが、誰かを待っているようなことを口走ったという。
伯爵は、まだか≠ニ。
青騎士伯爵のことだろうかと、エドガーは考えている。リディアの話によると、このあたりの土地は月が出なくなって六年になるという。昔、月が出なくなったときには、青騎士伯爵だと思われる貴族が現れて助けてくれたらしいから、ダーンリイはそのことを言ったのかもしれない。
しかし彼にとって、月が出ないことは不都合だったのだろうか。
|悪しき妖精《アンシーリーコート》が力を増すというが、そういったものが見えない人間はなかなか危機感をいだかないものだ。
ダーンリイは何を待っていたのか。それは何のためだったのか。
孫娘の幽霊の噂と、不思議なジルコン、消えた月、そして青騎士伯爵は、すべてつながっているのか、そうではないのか。
「レイヴン、ここの召使《めしつか》いはどうだった? 何か話は聞けたかい?」
部屋へ戻ってきたレイヴンに問う。
「ダーンリイ氏に仕《つか》えていて、まだここに残っていたのは、いちばん古株のウッド夫妻だけでした。他は今日のために雇われた者ばかりです。老夫妻は孫娘も幽霊も否定して、何も知らないというばかりで」
「隠していそうか?」
「はい」
はっきりとレイヴンは断言した。
「なるほど。故人への忠義かな」
ともかくここには、秘密があるのだろう。
そしてもう、リディアを遠ざけておくのは無意味だとわかっている。そうしたい気持ちはまだあるけれど、リディアは帰らないだろう。
協力して、謎を解くべきだ。
さっきのエドガーの態度を、リディアはまだ怒っているだろうか。
けれどちょっとしたことだ。仲直りは難しいことではない。そう思っていた。
夫婦だから、自分の一部のようなものだから、リディアが感じている齟齬《そご》にいつのまにか鈍感になっていることには気づかなかった。
時計の針が十二時を指していた。エドガーはまだ帰ってこないのかしらと思いながら、リディアはベッドの端に腰をおろし、薄暗がりの中で待っていた。
やがてドアが開く。エドガーは姿を見せる。
『おかえりなさい』
微笑《ほほえ》んで、リディアは彼を迎えようとする。エドガーは戸口で立ち止まり、不思議そうな顔をした。
『どうしてここにいるの』
どうしてって。
『あの……、あたしたちは夫婦でしょう?』
『おもしろいことを言うね』
くすくす笑いながら彼は、リディアの方へと近づいてきた。
『きみと結婚したおぼえはないけど』
胸の痛みを感じた。
まただった。
さっきエドガーが、リディアが身内だということを否定したときも、びっくりして、それから胸が苦しくなった。
どうしてそんな意地悪を言うの?
彼のことがわからなくなると、それだけで怖くなる。
リディアは立ちあがろうとした。
悪い夢を見ている。早く目をさまさなきゃ。
『あたし、帰りま……』
『帰らなくていいじゃないか』
肩を押され、ベッドの上に倒れる。広がった髪の毛を押さえつけるようにして、エドガーが真上から見おろす。
『で、でも、……結婚もしてないのに』
『結婚より、恋人になろうよ』
どういう意味? 遊び相手ってこと?
『知ってたよ。きみの気持ち。悪くないと思ってた』
悪くないって、何?
悲しくてたまらなくなる。
いやだ、いつものエドガーじゃない。
『そうだよ、僕はエドガーじゃない』
え。
冷淡に、彼は笑う。
『その名の男は死んだ。もういない』
まさか……、そんな。
「いやよ、返して! ……あたしの、大切な……」
自分の叫び声に驚いて、リディアははっと目を開けた。
ランプの明かりが目にしみる。いや、金色の髪が、明かりよりもっと明るく輝いている。
「リディア、どうしたの? 夢を見たのか?」
エドガーだ。そして、すべて夢だったと悟りつつも、リディアはまだ放心状態でぼんやりしていた。
レイヴンがいて、水の入ったグラスを差し出す。エドガーに助け起こされながら、それを両手でしっかりと握る。
冷たい水がのどに流れ込めば、ようやく意識がはっきりとしてきて、リディアは目の前のエドガーを眺めた。
少し心配そうにまばたきをして、彼はやさしく微笑む。
「もう大丈夫、怖くないよ」
本当に、エドガーよね?
「あたし、どうして……。ここは?」
「僕の部屋。飲み過ぎて気分が悪くなったんだよ。だからここへ連れてきた」
思い出す。ポールが部屋まで送ってくれると言ったのに、エドガーが現れたのだった。
「大切な、何を返してほしかったの?」
夢の記憶はまだリディアにまとわりついている。だからつい赤くなってしまうリディアは、うつむきながらグラスを押しつけるようにして彼に手渡す。
酔いは醒《さ》めきってはいなかったが、頭はいくらかはっきりしてきていた。
エドガーには帰るように言われたのに、わがままで居残って、失態《しったい》をさらしてしまった。
いろいろと思い出せば、強い自己嫌悪に襲われる。
「……ごめんなさい、迷惑かけて」
「何も迷惑なんかじゃない」
彼は少し淋《さび》しそうな顔で、首を横に振った。
「あたし、自分の部屋に戻らなきゃ」
「今夜はここで休めばいいじゃないか」
何を言うんだろうと思い、リディアは彼を見あげた。
「そういうわけには……いかないでしょう? あたしはポールさんの妹ってことに」
「もうそんな芝居をする必要はないよ」
「でも、ここではそういうことになっちゃったのよ。いまさら、うそでしたってあなたの部屋で休むの? 変じゃない」
世間知らずのリディアでも疑問に思う。本当はエドガーと夫婦でした、なんて誰が信じるだろうか。変な勘《かん》ぐりをされるに決まっている。
「まあね、でもよくあることだってみんな見て見ぬふりをするよ」
よくあることって? 混乱しそうな頭で、リディアは必死に考えた。
「……あなた、友人の妹を部屋に泊めることがよくあるっていうの!」
思わず声をあげてしまうリディアは、夢の中でのエドガーを思い出して混乱した。
「いや、僕じゃなくて世間一般の話」
「世間? あなたがあたしをここに泊めようとしてるんでしょう? 結婚もしてないのに!」
「ええっ? ちょっと待ってよ。僕たち結婚してるじゃないか」
そうだ。……でも。
「そんなのみんな信じないわ。あたし、ふしだらな娘って思われるのよ?」
「事実じゃないし、気にするほどのことかな。それにもう、勘ぐられてるんじゃないかと思う。酔ったきみをポールから奪って連れ出してるわけだし。あれからダイニングルームへ戻っていないからね」
「そんな……」
くらくらするのは、まだお酒が残っているせいだろうか。それともエドガーの、いいかげんな態度のせいだろうか。
「明日から、白い目で見られるわ。……もうお嫁にいけないのね」
「リディア、まだ酔ってる?」
両手で顔を覆うリディアを、エドガーは覗き込んだ。リディアの手をそっとはずし、あごに指をかけて上を向かせる。
「いいかい? ポールの妹は存在しない。きみはアシェンバート伯爵夫人で、僕たちは本物の夫婦なんだから、誰が誤解しようと関係ないじゃないか。ロンドンではみんな周知の事実なんだから、変な噂にもなりようがない」
でも、そんなけじめのないことはいやだ。
帰れと言ったり他人のふりをしたり、いきなり部屋に泊まれと言ったり。
エドガーの考えていることがわからない。
「ううん、あたし、戻る」
立ちあがろうとすれば、エドガーに腕をつかまれた。
「リディア、わがままを言わないでくれ」
これ、わがままなの? リディアは驚く。
「気に入らないことがあるからって、いつまでも不機嫌に拒《こば》まなくていいじゃないか」
拒んでる? あたしが、何を?
「あなたが、他人のふりをしたのよ。なのに今度は、まともな女性なら耐《た》え難《がた》い役割を押しつけるの?」
「で、きみは僕に耐え難い思いをさせる?」
話がかみ合わなくなっていたけれど、エドガーが苛立《いらだ》っているのはわかった。
リディアが拒むから、腹を立てている。
いくらか乱暴に腕を引いたかと思うと、リディアの体をベッドに転がす。押さえつけるようにのしかかる。
動けなくて、そしていつもの雰囲気《ふんいき》じゃなくて、レイヴンが出ていく気配を感じながら、リディアは一気に緊張した。
「しばらく、こうしてない」
それを言うならリディアはしばらく、ひとりで待たされる夜が続いた。
でもリディアが気にしているのはそんなことじゃない。気に入らないから拒んでいるつもりもないのに。
「あの、エドガー……、今は、やめて」
「どうして」
「……そんな気分じゃ……」
「すぐにそんな気分になるよ」
抵抗しようとするほど彼は力を入れる。その態度に苛立ちしか感じられなくて、リディアは怖くなった。
「ねえ、……意地悪でこんなことするのなら、やめて」
「お仕置きっていうのもそそられるけどね」
お仕置きなの?
それは、リディアが反抗してばかりの、いけない奥さんだから?
いつもは、愛されていると感じていた。でもこれからエドガーは違うことをするの?
「や……、放して!」
振り上げた平手が命中し、ぴしゃりと音がした。
まだ酔いの醒めない自分が、彼の手を払うことができたのは、エドガーが本気で無理|強《じ》いしようとしていたわけではないと気づく余裕はなかった。
リディアは必死で逃れると、戸口へ向かって走る。
「そんな格好《かっこう》で廊下へ出るつもり?」
言われて、はっとした。
ドレスのボタンはゆるめられたままだ。
「おいで、お互い、冷静になろう」
けれどリディアの震えは止まらなかった。さっきの夢の続きを見ているかのような気持ちになって、息が苦しくて、全身がこわばっている。
エドガーが近づいてこようとしただけで、鼓動《こどう》が跳《は》ねる。
逃げ出したい。混乱したままそう思うと、格好のことを気にするよりもドアノブに手をかけていた。
リディアの様子に、エドガーは驚いたように足を止めた。待ってくれ、とうろたえて言う。
「僕が、出ていく。……もう何もしないから、ちゃんと服を着て、それで……」
言葉に詰まった彼は、自分の髪をくしゃくしゃとかきまわして、リディアから目をそらすとドレッシングルームのドアへと消えた。
眠れなくて、リディアは何度も寝返りを打った。
月のない夜は闇《やみ》に包まれていて、目を開けていてもほとんど見えない。かすかに窓の辺りが、ぼんやり四角く浮かび上がっているのがわかるくらいだ。
もうひとつ、部屋の中ほどに、黄金色の小さな何かがあるのもわかる。
テーブルに置いたあの結晶が、布袋の奥で輝いているのだろう。
ベッドを抜け出し、リディアは障害物に気をつけながらテーブルまでたどりつくと、巾着袋に入ったそれを手に取った。
袋から取り出すと、宝石は急に明るくなる。
それ自身が輝いているようには見えないのに、辺りが明るくなって周囲のものがはっきりと見えるのは、魔力の光だからだろうか。
明かりにほっとしたとき、どこからか、かすかな声が聞こえた。
ニコの寝言かと思い、首を動かす。
光をかざすと、窓際の椅子《いす》の上でニコはいびきをかいている。ご機嫌な寝顔はうらやましいほどだ。
リディアがこちらの屋敷に泊まることを、ニコがロタに話したとき、ロタは副牧師の一家でにぎやかに盛り上がっていて、自分はこちらに泊まると言っていたそうだ。
夜が明けたらロタのところへ行って、いっしょに帰ろうかとリディアは考えている。
でも、そうしたらジルコンのことが調べられない。どうすべきか、決められないままリディアはため息をつく。
と、またかすかな声が聞こえた。
少女がすすり泣いているかのような、か細い声だ。
幽霊? まさか。
ダーンリイ氏の孫娘だという幽霊の噂を、リディアは思い浮かべた。六年前、月が消えた頃に噂が立ちはじめたという。
確かめなければ。
ガウンを羽織《はお》り、そっと部屋のドアを開ける。声はたしかに聞こえている。
廊下は真っ暗だが、黄金色のジルコンがあれば、ランプがなくても歩けそうだった。
そのまま廊下へ出ると、声のする方へそろりと歩き出す。
だんだんと声が近づいてくる。相変わらず、しくしくと泣いている。泣きやむ様子はない。
やがて廊下は行き止まり、そしてどうやら、声はドアの向こうから聞こえてくるようだった。
ドアに耳を押しつけてみるが、間違いなさそうだ。
リディアは少し悩み、ノックしてみた。
何の反応もない。泣き声も、ノックの音など聞こえなかったかのように続いている。
そっとドアを押し開け、中に目を凝《こ》らす。
人影のようなものが動き、リディアは声をあげそうになったが、すぐに気づいて息をついた。
鏡に自分の姿が映っているだけだった。
そして呆気《あっけ》にとられる。この部屋は鏡だらけだ。
ぐるりと見まわせば、四方の壁に隙間なく並んだ鏡は、それぞれにリディアの姿を映しだしている。
女の子の部屋らしいが、鏡の多さはあまりにも異様だ。
「……誰もいない、わよね」
部屋の中を確かめる。気がつくと、泣き声はやんでいる。
「この部屋じゃなかったのかしら」
リディアがきびすを返そうとしたときだった。
「誰?」
声がしたので振り返る。
「あたしの声が聞こえるの?」
リディアは驚き、もういちど部屋の中を見まわすが、やはり誰もいない。
「ゆ……幽霊……?」
「違うわ、でも、ここから出られないの」
声ははっきりと、この部屋の中から聞こえた。
「どこにいるの?」
「ここよ」
声を頼りに、リディアはゆっくりと移動する。
「こっち」
すぐそばで声を感じ、立ち止まるが、リディアの目の前には姿見しかない。
鏡に手を触れると、同じようにする自分の姿が目に映る。くすんだ赤茶の髪を垂らし、シュミーズの上にガウンを羽織っただけのリディアだ。
少し視線をずらしたとき、鏡に映る自分ではない人影に気づき、彼女は息をのんだ。
オレンジ色の髪を胸元に垂らし、灰色のドレスを着た少女がそこに映っている。
あわてて自分の後ろを確認するが、誰もいない。けれど鏡の中には姿がある。
「……あなた、鏡の中にいるの?」
少女はこくりと頷《うなず》いた。
「……ダーンリイさんの、孫娘?」
少女は十四、五くらいに見える。六年前に、老人とともに墓地にいたという子供なら、そのくらいになっているだろう。
「ええ、……フィリスよ」
やっぱり、孫娘は存在したのだ。
幽霊ではなさそうだけれど、鏡の中にいるなんて、予想していなかった。
「あの、どうしてそっちに? 出てこられないの?」
また彼女は頷く。急に瞳《ひとみ》に涙があふれ、頬《ほお》を伝った。
「おじいさまが亡くなったのに、あたしは出られないまま……。あたしがここにいることも、誰にも気づかれないままだと思うと悲しくて」
「泣かないで、あたしが気づいたわ」
その言葉に希望を見出したのか、彼女は顔をあげて涙をぬぐった。
「……でも、これまで誰も、あたしを出してくれることはできなかったもの。霊媒師《れいばいし》も魔法使いも、種明かしをしようと必死になっただけ。おじいさまは鏡の前で、毎日話しかけてくれたけれど、あたしの声は届かなかった」
どうやら、鏡があれば彼女の姿は誰でも見ることができるようだ。そのせいで、幽霊だと思われてきたのだろう。
「あたし、フェアリードクターなの。あなたがそこにいるのが妖精の魔法なら、できることがあるかもしれないわ」
「フェアリードクター?」
「リディアよ。妖精の専門家なの。そちらがわで妖精を見かけたことはある?」
フィリスはおびえながらも周囲を見まわす。
「今は見えないけど……、こちらがわには醜《みにく》い妖精がたくさんいて、悪さをするわ。あたしの声を聞こえなくしてるのも、彼らだと思うの」
月の出ない夜が続いているのだ、|悪しき妖精《アンシーリーコート》が好き放題にしていても不思議ではなかった。
「ねえフィリス、あなたが忘れられたままになることはもうないわ。だから安心して……」
「リディア、危ないわ! 妖精が」
フィリスがそう言ったとたん、リディアは背中に強い衝撃を感じた。目の前は鏡だ。頭から突っ込めば、割れたガラスで傷だらけになるに違いない。
一瞬のうちにそんなことを考えたが、衝撃を感じるよりも急に目の前が真っ暗になった。
あれは、意地悪な小鬼妖精《ボギービースト》だ。
[#挿絵(img/zircon_105.jpg)入る]
毛むくじゃらの背中ととがった赤い耳を、気を失う間際、リディアはちらりと見たような気がした。
フィリスと話していたリディアを、フェアリードクターだと知って攻撃してきたのだろうか。
あいつはフィリスを鏡の中から出したくないのだろう。彼女の声を聞こえなくしていたというし、そんな気がする。
けれどどうしてだろう。フィリスがもとの世界に戻れないことで、ボギービーストにどんな利益があるというのだろう。
それともただの嫌がらせ?
まだ頭痛がする。
朝の光を感じながら、リディアは目をさます。
そういえば自分は、鏡の部屋で気を失った。そのまま朝になったのだろうか。
あわてて体を起こすと、ちゃんとベッドの中にいる。そこはリディアの客室で、何も変わったところがないのがかえって奇妙なくらいだった。
「誰かがここへ運んでくれたの? ねえニコ、何か知らない?」
ニコがいるはずの椅子に首を向けるが、灰色猫の姿はない。朝食の時間にはまだ早いのに、どこへ行ったのだろうか。
そうだ、フィリスのことをエドガーに報せなきゃ。そう思ったリディアは、急いで身支度を整えた。
けれどはたと不安になる。
彼とは気まずいことになったのに、どんな顔をして会えばいいのだろう。
何事もなかったような顔で? それとも、ごめんなさいとあやまって?
エドガーはまだ怒っているだろうか。
ちょっとした気持ちの行き違いだ。ちゃんと話せばわかってくれるだろうし仲直りできると信じている。
でも、元通りになれるのかと考えると、リディアは急に不安になる。
ゆうべ、怖くなったこと、彼の愛情を感じられないまま無理|強《じ》いされるかのように感じたことが、火種のようにくすぶっている。
リディアは強く頭を振る。
ううん。あのとき自分は、酔っていてふつうの状態じゃなかった。怖くなったのも、神経が高ぶっていただけだ。
だって、エドガーは力をゆるめてくれた。
顔を見れば、こんな気分は消えるはず。自然に見つめ合って、やさしく抱きしめてほしいと素直に思えるに違いない。
平手打ちにしたことをあやまらなきゃ。
リディアは決意して立ちあがった。
エドガーの部屋へ向かうが、屋敷の中はひっそりと静まりかえっていた。
まだみんな眠っているのだろうか。いくら何でも、もう外はすっかり明るいのに。
客人たちはともかく、召使いはとっくに働いているはずで、姿は見えなくても人の気配がしそうなものなのに、今はそれすら感じられない。
結局人影はひとりも見かけないまま、リディアはエドガーの部屋の前までやってきた。
ノックをするが、レイヴンが出てくる様子もなければ返事もない。
そっと押し開け、中の様子をうかがう。控《ひか》えの間には誰もいない。
「レイヴン、エドガーは? まだ休んでるの?」
声をかけるが、ドレッシングルームにつながるドアも、寝室につながるドアも、物音ひとつしなかった。
寝室のドアを開けようとし、リディアは少し迷った。男の人の私室を覗くのははしたない、などと思ってしまい、自分でもあきれた。
いつまで結婚前のつもりでいるのだろう。
新婚とはいえ、そろそろ夫婦として落ち着いてもいい頃なのに、リディアはいまだに娘気分の抜けないところがあるかもしれない。だから、昨日はかたくなな態度になってしまった。
エドガーが求めること、体を重ねることはまだ、リディアにとって日常ではない特別なことで、心構えが必要なのだ。それでもエドガーが大切に扱ってくれれば、安心してゆだねられたけれど、彼の態度がいつもと違うというだけで、どうしていいかわからなくなった。
けれど、そんなふうにいちいち身構えてしまうのは、既婚婦人としての自覚が足りないからかもしれない。
「エドガー? 入るわよ」
声をかけて、ドアを開く。しかしそこに彼の姿はなく、リディアは立ちつくした。
寝室に、使われた形跡がまるでなかったからだった。
ベッドにはシーツも掛かっていなかったし、テーブルや椅子はほこり除《よ》けの布で覆《おお》われていた。どう見ても、長く使われていない客間だ。
部屋を間違えたのか。あわててリディアは廊下へ出て、隣室を確かめるが、そこも使われていなかった。
冷静に考えてみるが、部屋は間違えていないと思う。
「どういうこと? エドガーはゆうべのうちに帰っちゃったの? それで部屋はさっさと片づけられて……」
無理がある。ほかの客室も空《から》っぽなのだ。昨日の、あの大勢の客人たちまでいっせいに帰ってしまったなんてあり得ない。
最後の頼みにポールの部屋も確かめたが、同じだった。
誰もいない。ニコも。
この広い屋敷の中、たぶんリディアはひとりきりだ。
どうしよう。
パニックになりそうな気持ちを落ち着かせようと深呼吸する。
どうしてこんなことになったのか、冷静に考えなければ。
「そうだわ、フィリスは?」
あの鏡の部屋へ行こうときびすを返したときだった。
「リディア、ここにいたのね……」
目の前にフィリスが現れた。ふわふわしたオレンジ色の髪、細くて繊細《せんさい》な輪郭《りんかく》、灰色のドレスも昨日と同じだ。彼女はほっとした顔でリディアを見る。人の姿に、リディアも驚くよりまず安心して微笑んでいた。
「部屋にいないから、さがしたわ。おなか空《す》いたでしょう? 朝食にしない?」
ずっと人恋しかったのかもしれない彼女は、恥ずかしそうに少し戸惑い、思い切った様子でリディアの手を取った。
「あなた、鏡の中から出て……」
言いながらリディアは、違うのだと理解しつつあった。フィリスが出てきたのではない。リディアが鏡の中へ入り込んでしまったのだ。
「ごめんなさい、あたしのせいね。あたしと話をしていたから、あのひどい赤耳の妖精があなたをこんな目に合わせたんだわ」
赤耳の小鬼妖精《ボギービースト》を見た。あのときリディアは、ボギービーストに鏡の中へ押し込まれたということか。
とにかく、フィリスと同じ状況になってしまったのだ。
大変なことになった。
そう思いながらも、リディアは冷静になろうと努《つと》めた。
取り乱せば、フィリスを動揺させてしまうだろう。
「ううん、あなたのせいじゃないわ。そうね、まず朝食にしましょう」
伏し目がちに頷くフィリスと並んで歩き出す。彼女はリディアを、あの鏡の部屋へ連れていった。そこが彼女の部屋だからだろう。
テーブルにはどういうわけか食事が用意されていた。
明らかに複数の人数分で、ふたりでは食べきれないほどだった。
「毎日、向こうがわにいるウッド夫人が用意してくれるの。鏡に映るように、テーブルの上に食事を置いてくれるのよ」
なるほど、現実の世界で鏡に映ったものは、こちらがわにも存在することになるようだ。
けれど人のような生き物や、動き回るものはそういうわけにはいかないのだろう。
「でも、ずいぶん量が多いのね」
「こっちに、どのくらい人がいるかわからないからだわ」
「食べてしまうと、向こうの料理も減るのかしら」
「そうはならないみたい。鏡に映ってる料理は減ってないもの」
おそらく、リディアたちは食べ物の魂《たましい》のようなもの、養分《フォイゾン》だけを口にしているのだろう。
ときに妖精は、食べ物から養分だけを盗むことがある。妖精に養分を盗まれたパンやチーズは、食べてみると味も栄養もないひどいものだという。
そしてこちらにいるリディア自身も、実体のない意識だけのようなものに違いない。
それを裏づけるように、周囲の鏡にリディアは映っていなかった。
「こちらからは、鏡の向こうに見えるのが現実の世界よ」
フィリスが教えてくれた。
リディアは考え込んだ。
今のリディアはおそらく、鏡像に意識を放り込まれたようなものだ。だったら現実の世界で、自分の体はどうなっているのだろう。
壁を埋め尽くす鏡の向こうには、少なくとも、リディアの体は見あたらない。
それ以前に、どうして自分の部屋のベッドで眠っていたのだろう。
「ねえフィリス、あたしゅうべ、ここで倒れたのよね」
「ええ、アウルがあなたを部屋まで運んでくれたの」
「アウル?」
「こちらの世界にいる人。でも彼は夜にしか現れないわ。悪い妖精は彼を恐れるから、いつも屋敷を見張ってるけど、隅々《すみずみ》まで目が届くわけじゃなくて。妖精は彼の目を盗んで悪さをしてる。アウルはあたしのこと、あんまり好きじゃないみたいだけど、それでもたまには、あたしが意地悪されないように助けてくれるわ」
「その人、人間じゃないわよね。妖精なの?」
わからないと、フィリスは首を横に振った。
話を聞くかぎり悪いものではなさそうだが、いったい何者だろうか。
「どうしてあなたを助けてくれるの?」
リディアがフィリスの目をじっと見れば、彼女は恥ずかしそうにそらしてしまう。それでもリディアの問いには、一生懸命答えようとする。
「いなくなったルナのためよ。彼の恋人なの。あたしはルナの友達だったから……」
「ルナはどこに?」
「わからない……。もしルナが戻ってくれば、あたしたちここから出られるはずなの。アウルがそう言ってた。でも、彼女が消えたのはあたしのせいだって、アウルは思ってるわ」
消えた、月《ルナ》だ。
アウルの恋人はもしかすると、このあたりでささやかれている、月が死んだという伝説の存在なのだろうか。
「ルナが消えたのって、六年前?」
「そう。あたしがここへ来て、ルナが消えたわ」
そして月が出なくなったのなら、ルナは月と関係がある妖精だ。
幽霊の噂がこのフィリスなら、時期が一致するのも頷ける。
「じゃ、フィリス……、六年もここにいるのね」
ひとりきりで食事をし、祖父と鏡ごしにしか会えないまま、ボギービーストが闊歩《かっぽ》する真っ暗な夜を、何度も過ごしてきたのだ。
それもまだ子供のうちから。
視線をあげて、リディアと目を合わせたフィリスの瞳《ひとみ》が、急に涙でいっぱいになった。
「……あたしのこと、わかってくれる人なんて、もう永遠に現れないと思ってた……」
祖父が死んで、屋敷が人手に渡り、家財は売り払われようとしている。そんな状況で、どんなに心細かっただろう。
フィリスを抱き寄せながら、リディアは、必ず助け出そうと自分に言い聞かせていた。
「大丈夫よ。ひとりではできないことも、ふたりならできるかもしれないもの」
そう、ふたりなら。だからエドガーと自分は、お互いにかけがいのない存在であるはずだった。
こんなふうにはなれてしまったことはつらいけれど、彼と結婚し、たしかなつながりを得たことは、リディアの心をずいぶんと強くしている。
離れていてもリディアはひとりきりじゃないはずだ。ケンカはしたけれど……、きっと大丈夫。
戻れるまで、待っていてくれるはず。
「ふたりで? あたしたちが力を合わせて、ここを出る方法を考えるの?」
フィリスはこれまで、自力でどうにかするなんてことを考えたことがなかったのだろう。リディアを不思議そうに見あげた。
「そうよ。ルナが戻ってくるにはどうすればいいか考えるの。何かここを脱出する手がかりを知らない? 何でもいいから話してほしいの」
それでもすぐにリディアに信頼の目を向け、頷いた彼女は、必死になって考えはじめた。
「鏡の向こう側で、おじいさまやウッド夫妻が話しかけてくれたわ。おじいさまは、伯爵が来れば助けてもらえるっていつも言ってたけど……」
「伯爵?」
「昔、本で読んだことがあるわ。青騎士伯爵っていう、妖精国の領主が活躍する物語よ」
「その、青騎士伯爵のことなのね?」
「このあたりの昔話にあるの。昔、夜空に月が出なくなったとき、この屋敷に住んでいたロチェスター男爵のもとに青い剣を持つ貴族が現れて、助けてくれたって。おじいさまは、それが青騎士伯爵だっていうの」
農夫が話してくれた昔話と同じだった。
「ロチェスター男爵と青騎士伯爵はそれから親交を深めていたから、この土地に何かあれば来てくれるはずだって、あたしを励ましてくれてた。でも、あれはおとぎ話の伯爵よね」
「おとぎ話じゃないわ。青騎士伯爵の名を持つ貴族はちゃんといるのよ」
けれどリディアは、自分がその伯爵夫人だとは言えなかった。自分たちはまだ、昔の青騎士伯爵と同じではない。イングランド伯爵位は本物でも、妖精国の主人とは言い切れない。
伯爵家の者なら、死んだ月と鏡の謎を解くことができるはずだからだ。
「本当? 妖精国の伯爵が、本当にいるの?」
「ええ」
それでもリディアはそう言う。必ず、エドガーを本物にするつもりだから。
「でも、来てくれなかったわ。おじいさまは待ってたのに」
ダーンリイ氏が亡くなったのは二年前、エドガーが爵位を名乗る少し前だということになる。もしもう少し長く彼が生きていたなら、ロンドンに現れた妖精国《イブラゼル》伯爵を知り、相談に来たのではないだろうか。
だったらもう少し早く、リディアはここへたどり着いていただろう。
だからといって、早くフィリスを助けられたわけではないが、彼女の存在を知る者が増えれば、不安も淋《さび》しさもやわらいだだろう。
「きっと事情があるのよ」
「そうかしら……。ロチェスター家はもうないし、おじいさまは遠縁といったってあの男爵家と血縁はないみたいだし、伯爵は、もうあたしたちとは無関係な人だもの」
だから結局、ダイアナもここには来なかったのだろうか。フィリスの口からは、それらしい話はうかがえなかった。
でも、ジルコンがある。ダイアナが訪れなかったとしても、伯爵家の地図が入ったロケットを飾るジルコンは、この土地と、そしてダーンリイ家と何か関係があるはずなのだ。
それにリディアは、妖精にかかわることなら、自分にできるかぎりのことをしたいといつも思っている。
「ねえフィリス、それでも青騎士伯爵は、人と妖精が隣人として暮らせるように、どちらかがどちらかのせいで悲しいことにならないようにって、いつも考えているはずよ」
リディアの願いは、エドガーの青騎士伯爵としての役割と、同じものであるはずだった。
夜中、リディアがベッドにいないことに気づいたのはニコだった。巨大な魚に食べられそうになる夢を見て、椅子から落ちて目をさましたらしい。
そのとき彼は、小鬼妖精《ボギービースト》が廊下を走り去っていくやかましい足音を聞きつけ、不審《ふしん》に思って足跡をたどったところ、鏡だらけの部屋でリディアが倒れていたのを見つけたのだった。
ニコに呼ばれたレイヴンが、すぐにエドガーに報《しら》せに来た。
駆けつけたエドガーが、リディアを彼女の部屋に運び、ベッドに寝かせた。
怪我も何もなく、眠っているように見えたが、まったく目覚める気配《けはい》はなかった。
ボギービーストが悪さをしたんだろうとニコは言った。妖精のちょっとしたいたずらなら、朝になれば魔力は消えるだろう。
だからエドガーは、心配しながらもリディアをニコにまかせ、夜明けを待った。
ようやく陽がのぼると、まずはポールの部屋を訪ねたエドガーは、彼を寝床から引っぱり出した。
「伯爵……どうしたんですか」
目をこすりながらもポールは、レイヴンに強制的に寝間着をはぎ取られ、シャツを着せられる。
「リディアの部屋を訪ねたいんだ」
「……でしたら、べつにぼくが行かなくても……」
「何を言う。きみはリディアの兄だ。兄のいない間に僕が押しかけたら問題だろう」
寝ぐせのついたぼさぼさ頭をかきまわし、ポールは首を傾《かし》げる。
「はあ、でもゆうべは酔った彼女を部屋へ連れ込んで……」
それでリディアに怒られたのだ。だからエドガーは、今朝の訪問は紳士的にぬかりなくというつもりだった。
「とにかく来てくれ、頼むから」
エドガーがせっぱつまった様子なら、ポールはわけがわからなくとも
「わかりました」と神妙に頷く。
急いで着替えた彼を連れ、リディアの部屋を訪問すると、すでに身支度を整えていた彼女は、椅子に腰掛けたままこちらに顔を向けた。
「おはよう、リディア」
歩み寄り、エドガーは彼女のそばでひざを折る。手を取って指先に口づける。
「昨日はごめん。ここにいるあいだは、礼節をわきまえて行動するよ。約束するから、昨日のことは許してくれないか?」
「わきまえるのは今だけかよ」
ニコが口をはさむが、かまわずエドガーは続けた。
「ぜんぶ僕が悪かった。なんていうか、ただ、余裕がなかった。きみを目の前にするとね、なかなかがまんできなくて。わかるだろう? わからないか……。そう、ニコが目の前の魚のフライをがまんできないくらいかな」
「おれといっしょにするな!」
「だけどそれも、きみを愛してるからだよ。どうでもいい女性に拒絶されたって、つらくはないからね。だからほら、ちゃんとポールの許しを得てきみに会いに来たんだ」
「どうも……、おはようございます、リディアさん」
ポールは困惑しながらも、愛想よく微笑んだ。
リディアはゆるりとエドガーを見あげる。神秘的な金緑の瞳は、ふだんのためらいや恥じらいもなく、彼をまっすぐに映す。
そしてリディアはにっこりと微笑む。
その笑顔に安堵《あんど》し、エドガーは唇《くちびる》を近づける。
軽く触れて、逃げないことを確かめつつ、やわらかな唇を味わう。
いまだに不慣れな様子でじっとしているのはいつものリディアだ。それでも顔を背《そむ》けようとはしないし、求めれば閉じた唇を薄く開く。
そんなふうに従順なところが、かえって不自然に思えた。
ポールもレイヴンもいるのに、恥ずかしがらないのも不思議だ。むろんポールはとっくに窓の外を無意味に眺めているし、レイヴンはうつむいている。
でも、いやがっていないのは悪いことじゃない。エドガーはそう思うことにする。
「よかった。もう怒ってないね?」
両手で頬を挟み込んでささやけば、リディアは小さく頷く。
かわいくて、しっかりと抱きしめる。
「ねえ、声を聞かせてくれ。黙っていると、まだ怒ってるんじゃないかと不安になるよ」
「無理だよ。今朝からひとこともしゃべらないんだ」
ニコのため息混じりの言葉は、エドガーを乱暴に夢見《ゆめみ》心地《ごこち》から引きずり出した。
そろりと彼はリディアを離す。リディアはまだ微笑んでいる。エドガーはニコの方に首を動かす。
「どういうこと?」
「機嫌よく笑ってるし、声をかけるとこっちを見るし、身の回りのことはちゃんとできてる。でもしゃべらないし、何を言っても怒らない」
「何を言っても?」
「ああ、寝ぐせがひどいとか顔がむくんでるとか言ってやっても笑ってるよ。試してみろよ」
それはつまり、リディアが怒り出しそうなことを言えと。
そんなことをして、もしへそを曲げられたらどうするのか。
「レイヴン、試してみろ」
「…………何をでしょう」
「だから、リディアを怒らせてみてくれ」
エドガーの顔を穴が開くほど見つめるのは、理不尽《りふじん》な要求だと思っているのだろうか。それでもレイヴンは、首を横には振らない。
「……わかりました」
少し考え、リディアの前に進み出ると彼は口を開いた。
「マイ・レディ、恐れながら、先日私は事実とは違うことを申しあげました。エドガーさまの帰りが遅くなったのは、朱い月≠フ皆さんとの会議のためではなく、とある女性と……」
「レイヴン! もういい」
あわててエドガーが制すると、ニコが冷たい目を向ける。
「べつにやましいことじゃないよ。ポール、きみも事情は知ってるだろう? 説明してくれ」
「でも伯爵、その必要はないような気がします」
めずらしく冷静にそう言ったポールは、今のやりとりを気にした様子もなく微笑むリディアを眺めていた。
エドガーも気づき、またリディアの顔を覗き込む。
「どうしてしまったんだい、リディア。……僕は浮気なんかしてない。知人が目当ての女性と話すきっかけがほしいっていうから、間を取り持っただけなんだ」
リディアは何も言わず、機嫌よく微笑んでエドガーを見つめている。その笑顔とまっすぐな視線には、親愛の情がこもっている。
リディアがリディアでなくなったわけではない。
「それでも遅くなった理由を偽《いつわ》ったんだから、きみは怒っていいんだ」
ただ、エドガーが眉をひそめていても微笑んでいる。
「ニコ、小鬼妖精《ボギービースト》がリディアの魂を奪ってしまったのか?」
ふう、とため息をついて、ニコは胸の前で腕を組んだ。
「いや、魂はあるよ。いちおう目覚めて動いてるからな」
「じゃあどうなってるんだ」
「病気かも」
「病気だって!」
「だって、魔法でなけりゃ、病気か、それともリディアがわざとこうしてるのか、どちらかだろ」
「魔法でないと言い切れるのか?」
「言い切れないけど、おれはこんなのはじめて見るよ」
病気だとしたら、昨日のことでリディアの心が壊れてしまったとでもいうのだろうか。彼女にとってもっとも信頼できるはずの男に辱《はずかし》められそうになって。
彼にとっては、悪ふざけの延長だった。思い通りにならなくて、ちょっと腹が立っていたけれど、いつもと同じように抱き合いたかっただけだった。
けれどリディアはああいうとき、まだまだ余裕も何もない。エドガーの意地悪な冗談なんて通じる状況ではなかったのだから、いまだ混乱していても無理はないかもしれない。
それとも、彼女は自分の意志でこうしているのだろうか。
それはまるで、エドガーへの抗議のようだ。
微笑んで、彼を拒まないリディアの、それでいてすべてをエドガーには与えてくれないという、あまりにも痛々しい抗議だ。
やりきれなくて苦しくても、彼はどうしていいかわからなかった。
詫《わ》びるにも抱きしめるにも、どちらをリディアが望んでいるのかすらわからなかった。
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ふたつの絵画と夜の主人
鏡の中の世界は、当然のことながら、鏡に映る範囲しか存在しないという。しかしこの屋敷の中でいえば、リディアが歩きまわったところ、通路が途中で途切れていたりドアの向こうに部屋がなかったりということはなく、建物がまるごと、向こう側の世界と同じように存在しているのだった。
「沼に映るからだ。月さえ出るならば、この屋敷は隅々までくっきりと沼に映る」
窓枠に腰掛けた少年がそう言った。
焦げ茶の髪と瞳《ひとみ》の、十七、八といった年齢に見えるが、むろん見た目通りの歳《とし》ではないだろう。
妙に硬い口調と、大きな襞襟《ひだえり》の付いた衣服が、リディアを芝居《しばい》でも見ているような気分にさせる。
そんな少年は、日が沈み、辺《あた》りが薄暗くなりはじめた頃空を飛んできて、背中に生えた茶色の翼を無造作にたたみ、そこに腰をおろしたのだった。
「月光が差し込まないような、壁の内側まで映るっていうの?」
「そうだ。月の光は何もかも、その本質さえ映し出す。けどもう長いこと月が出ていない。この世界は時が止まったまま。現実の世界の変化を映すものがないからだ」
鏡に映るところだけは、向こう側と同じ状態になるらしく、だからフィリスは食事を得ることができている。一方で、多くの客間が使われた形跡もなかったのは、部屋に鏡がなかったからだった。
「おまえがここで暮らすなら、屋敷の中のものを勝手に使ってもかまわない。衣服も何もかも鏡像だが、おまえ自身もそうだな」
彼、アウルと呼ばれている鏡の中の住人は、リディアを見てくっきりした眉《まゆ》をひそめた。
「それにしても、困ったものだな。フェアリードクターだと言うが、注意が足りぬぞ。あの赤耳にしてやられるとは」
まったくもってその通りだ。と情けなくなる。
赤い耳のボギービーストは、このあたりでいちばんやっかいな、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の親分的なものらしかったが、すっかりやられてしまった。
「鏡は動かさぬがよい。向こう側と同じ位置にないと、現実の世界を見ることができなくなる」
エドガーたちのいる現実の世界を見ることができるのは鏡を通してだけだ。
リディアはそばの壁にあった鏡を覗き込むが、もちろんそこには誰もいなかった。フィリスの部屋だから、エドガーたちが通り過ぎる可能性は少ないだろう。
「ねえアウル、あたし、もとの世界へ戻りたいんだけど」
念のためにリディアは訊《き》いた。この世界のことをよく知っている唯一《ゆいいつ》の住人だ。
「無理だ。フィリスが何年ここにいると思ってる」
しかし冷たい返事が返ってきて、リディアは肩を落とした。
「フェアリードクターなら、ルナをこちらへ戻してくれ。そうしたら夜空に月が出る。月光によって、鏡の中の世界にたまった|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力が浄化されれば、おまえたちを閉じこめておく力も消える。元の世界に戻れるだろう」
簡単に言うが、それができれば苦労はない。
「ふん、青騎士《あおきし》伯爵《はくしゃく》ならともかく、一介のフェアリードクターでは無理か」
とアウルはリディアを嘲笑《ちょうしょう》し、窓枠の上でくるりと向きを変えた。
「あなた、青騎士伯爵を知ってるの?」
少年は翼を広げる。
「昔の話だ」
「待って」
もっと話を聞こうと思ったのに、彼はリディアの声も聞かず、もう姿を消していた。
「見回りに行ったんだと思うわ。鏡の中の世界を悪い妖精から守るために。彼の日課だから……」
フィリスが申し訳なさそうな目をリディアに向けた。
「またここへ来てくれるかしら」
「わからないわ。……気まぐれだから」
この世界のことをもっと詳しく知りたかった。今のリディアにはわからないことが多すぎる。
これでは対策も立てられないが、アウルは協力的でなさそうだ。
「ルナを見つけだしたいなら協力してくれてもよさそうなのに」
するとフィリスは、急に両手で顔を覆《おお》い、わっと泣き出した。
「どうしたの? フィリス?」
駆け寄り、手を握ってなだめると、すすり泣きながらも言葉をこぼす。
「ごめんなさいリディア、本当はあたしたち、どうがんばっても帰れないかもしれないの。ルナを見つけることはできないわ……。だって、彼女は殺されたのよ」
「……殺された……?」
外見よりもいくらか幼い感じのするフィリスは、すがるようにリディアにしがみつく。
「アウルにも言えなくて……でも、彼は薄々《うすうす》気づいてるかも……。あきらめてるみたいだから」
「どうして、殺されたってわかるの?」
子供をあやすように抱きしめながら問う。少しずつ、フィリスは話し始めた。
「あのとき、六年前の嵐の夜に……、眠っているあたしの部屋へ誰かが入ってきたわ。いきなり口をふさがれて、首を絞《し》められて、必死になって暴れたの。一瞬だけ手が離れて、逃げようとして、そのとき鏡の中からルナの声がしたの」
フィリス、こっちよ!
「ルナとは何度も、鏡ごしに話をして、友達になってた。あたし、必死で這《は》って鏡の方へ……」
つらいことを思い出してか、フィリスは震える。
「ルナがこっちに手をのばして、触れ合ったとたん、あたしは鏡の向こうへ引き込まれたの。同時にはげしい音がして、鏡が割れて、……振り返ると、くだけて残った鏡のカケラから、向こう側に倒れてるルナが見えた。……あたしの姿をしたルナだったわ」
ルナは、フィリスを助けようとして入れ替わったのだろうか。
「あなたの代わりに、ルナが侵入者に殺されたの?」
弱々しく、フィリスは頷く。
「……動かなくなったルナを、男が運び出すのが見えたけど、すぐに視界から消えて」
鏡の中の住人と入れ替わったフィリスは、リディアとは違い、実体としてここにいるのだ。その意味を、リディアは必死で考えていた。
「青騎士伯爵がいても、どうにもできないんだわ……。昔とは事情が違うの。彼女は死んじゃったんだもの」
「フィリス、もしもルナが死んだのだとしても、ほかの方法をさがすの。何もできないってことはないはずよ」
そう言いながらもリディアは、ますます難しくなったと感じていた。
自分がこんなふうになったのは、ボギービーストのいたずらがきっかけだった。元に戻れないのは、鏡の中の世界によくない魔力がたまっていて、それにとらわれているせいだと思われる。最悪ルナが見つからなくても、この世界を浄化する方法さえあれば、影の魔力が弱まり、元の世界へ戻れるだろう。
けれどフィリスの事情は違う。元に戻るには、もういちどルナと入れ替わるしかないではないか。
それでもまだ、希望はある。リディアは自分に言い聞かせた。
妖精が人の手で簡単に殺せるだろうか。
妖精としての力を失っているのだとしても、完全に消滅していないなら、よみがえらせることはできるのではないか。
ルナは何者なのだろう。
月の名を持つ妖精は少なくないが、月そのものではない。彼らはたいてい、月と関係がある何か別のものの妖精なのだ。
それでもルナは、消えたことで本物の月が出なくなってしまうほどの存在だということだ。
「フィリス、立って」
「リディア、どこへ行くの?」
リディアは彼女の手を引きながら、励《はげ》まそうと微笑む。
「まずはルナの正体を突き止めるの。彼女はこの土地の妖精なのよ。どこかにヒントがあるはずだわ」
明かりをともした蝋燭《ろうそく》を手に、リディアはフィリスとともに廊下を歩きだした。
不安でいっぱいだったけれど、フィリスに頼られていると思えば、しっかりしなきゃと自分を奮《ふる》い立たせていた。
ニコもエドガーもいない。ひとりきりで妖精の謎に立ち向かうのは、はじめてかもしれない。
頼りなくてもニコは妖精で、リディアのいちばんの相棒だった。
エドガーは、妖精の知識なんてなくても大胆に運命を切り開いていける人だった。妖精さえも口先だけで煙に巻く、それはある意味、人間が妖精とうまくつきあうための狡猾《こうかつ》な知恵だが、そういうものを持っていた。
未熟なフェアリードクターでも、リディアがうまくやってこられたのは、助けてくれる仲間がいたからだ。
なのに、ひとりきりでやれるのだろうか。
そんな不安を追い払うように、フィリスの手をしっかりと握っている。
蝋燭の明かりが、暗闇《くらやみ》を照らしてくれる。
廊下の先、大階段の方が何だか明るい。そうだ、あそこには鏡がたくさんあるからだ。
現実の世界の、明るく灯《とも》されたシャンデリアやランプが、並ぶ鏡に映っているに違いない。
今夜もこの屋敷では、オークションのために美術品を品定めする客たちが右往左往《うおうさおう》しているだろう。
リディアもフィリスも、明かりに引き寄せられるように早足になっていた。
大階段へ出ると、こちら側でもシャンデリアに灯がともっていた。並ぶ鏡には、そんなシャンデリアと、いくつもの絵が映っている。
「ここ……、あたしがよく通る場所には、おじいさまが鏡を並べてくれてたの」
鏡があれば老人は、孫の姿を確認できるからだろう。
「ダイニングルームや、見晴らしのいいサロンや、おじいさまの書斎にも、あたしがどこにいるかわかるように、鏡をつけてくれたわ」
「あなたのこと、とても愛していたのね」
フィリスは微笑んで、そして淋《さび》しそうに頷いた。
なのに、愛する孫娘を抱きしめることなく他界したダーンリイ氏の悲しみに胸が痛む。フィリスだって、もういちど祖父の手を握りしめたかっただろう。
そしてリディアは、エドガーに会いたくなった。もしかしたら自分も、二度と彼と触れ合うことはできないのかもしれない。
このまま鏡の中にいるしかないリディアでも、彼は愛し、ともに暮らしてくれるだろうか。でも、それを望んではいけないような気がする。
彼には、生身の女性が必要だろうから。
考えながら、リディアは大きな鏡の前で足を止めた。
この場所と同じ風景が映っている。大きな肖像画がある。けれどこの場所にはないものも映っている。
「エドガー……」
並ぶ絵の前に、エドガーとポールが立っていた。何か話しているが、リディアには聞こえなかった。
シャンデリアよりもまぶしい金髪と、端正な横顔がそこにある。もう少し近づけば腕に触れられる距離なのに、リディアがのばした手は冷たいガラスに阻《はば》まれる。
こっちを見て、あたしに気づいて。
声を出せば届くかもしれない。フィリスとは違い、リディアは声を封じ込められてはいないだろう。
けれど、こんな自分を見てエドガーはどう思うだろう。昨日ひっぱたいてしまったことは、どう言えばいいのだろう。
迷っていると、彼は別の方向に首を動かす。階段からレイヴンが現れたようだった。
レイヴンは女性を連れている。彼女がそろりと歩み寄ると、エドガーは腕を広げて抱きとめた。
「リディア、あれ……あなた?」
フィリスが言うように、エドガーに寄り添っているのはリディアだった。たぶん、リディアの実体だ。
動作が緩慢《かんまん》でうつろな瞳をしているのは、意識だけが体から離れ、鏡像の中へ入ってしまったからだろうか。
「ええ、そうよ」
恥ずかしがり屋で素直じゃなくて、何かと頑固《がんこ》ないつものリディアがいないからか、鏡の向こうのリディアは、人前でもためらいなくエドガーに身をゆだねていた。
「金髪の男の人は? あなたの家族?」
「……夫なの」
「リディア、結婚してたの?」
「ええ」
別人のようだとエドガーは不思議に思っているのだろうか。それとも、面倒《めんどう》なリディアではなくなって、よろこんでいるのだろうか。
リディアの抵抗がなければ、エドガーは遠慮もなくべたべたしている。
ポールの目の前で、と自分では考えられないけれど、されるがままのその姿も、紛《まぎ》れもなく自分だと思った。
知っている。エドガーのすることみんな、けっしてきらいなわけじゃない。
髪を梳《す》く手つきが好き。頬に触れる指も、片手で腰をかかえる手も、しっかりと抱きしめてくれる腕も好き。
微笑みの形をした唇が、いたずらっ子のように触れていくのも。
けれどふだんのリディアは、人の目ばかり気にしてしまう。それは当然のマナーだと思うものの、もう少しリディアが譲歩《じょうほ》して、素直に愛情を受け止めれば、ケンカなんかしなくてすんだのだろうか。
眺めていると、エドガーはどんどん調子に乗る。
はっとして、リディアは鏡の前に立ちはだかる。
「ね、フィリス。……あっちへ行きましょうか」
「隠さなくても、あたしそんなに子供じゃないわ」
そう言いながらもフィリスは、見ないようにしてくれたのか、鏡に背を向けた。
「でも、八歳の時からここにいる。異性のことは何も知らない。ねえ、恋をするってどんな感じ?」
年頃になろうとしているのに、このままではフィリスは、本当に恋もできないのだ。
「そう……ね、あたしも何も知らなかったわ。だけど、彼が教えてくれたの」
やさしくて切なくて、ふんわりとやさしい気持ちに包まれる。苦しいことも悲しいことも、恋する人のためなら乗り越えられる。
この少女が、知らないままでいていいわけはない。
「キスって、本当にあまいの?」
リディアはフィリスの肩を抱く。
「いつかわかるわ」
そうは思えないのかもしれないフィリスは、不安そうにリディアを見るが、微笑もうとしていた。
「大丈夫よ」
リディアは励ます。
「うん、リディアが来てくれたもの」
今だって、ひとりきりじゃない。リディアはそう思った。
フィリスがいる。
エドガーもニコもいないけれど、がんばってみよう。
鏡の向こうの、自分たちの後ろ姿をちらりと見て、リディアがその場を離れようとしたそのとき、手元の蝋燭の明かりが大きくゆれ、そして消えた。
「きゃあっ」
フィリスが悲鳴をあげると、ボギービーストが彼女の髪を引っぱっている。
「何してるの、やめなさい!」
つかんで引き離すと、別のボギービーストがリディアの足元を蹴った。
転んだリディアは、階段の手すりに肩をぶつける。
赤ん坊ほどの大きさの、毛むくじゃらの|悪しき妖精《アンシーリーコート》たちは、フィリスとリディアに襲いかかり、つねったりたたいたりといたずらを繰り返す。
「何なの。どうしてこんなにしつこいのよ!」
しくしく泣き出したフィリスから、妖精をひっぺがそうとそれば、それは鋭い牙《きば》をむく。
「何だあ、リディア、苦戦してんな」
突然の声は、ホールの天窓の方から聞こえてきた。
どうして彼がここに。
考える間もなく、はめ殺しのガラスを割って飛び込んでくる。
漆黒《しっこく》の馬が、ボギービーストを踏みつけ、蹴散らす。
獰猛《どうもう》な魔性の水棲馬《すいせいば》にかなうはずもなく、小さな妖精たちがかき消えると、漆黒《しっこく》のケルピーはあやしいほどに美しい青年の姿になってリディアの前に立った。
「おまえの強力な魔よけはどうした?」
彼はリディアの左手を見ていた。結婚指輪のムーンストーンのことだ。
「妖精の宝石だもの、鏡に映らないからこちら側にはないのよ」
「ああそうか、ここは鏡の中だったな。で、どうしておまえは鏡の中にいるんだ?」
そんなふうに言うケルピーを、リディアは不思議に思いながら見あげた。
「ケルピー、どうやって入ってきたの?」
「どうやってって、沼地を通ってきたらこっち側におまえの姿が見えたから」
水のある沼地はケルピーの通り道だ。そうしてそこは、風景を映す鏡でもあったから、ケルピーにリディアの姿が見えたのだろう。
それにここは今、|悪しき妖精《アンシーリーコート》たちの魔力が強まっている。ケルピーが容易に入ってこられたのも頷けた。
「ねえケルピー、あたしたちここから出たいの。あなたの力で……」
問おうとしながらも、難しいだろうとリディアは思った。ここにたまっている魔力より、強い力を持っているケルピーだからこそ出入りできるのだ。
問題は、リディアに魔力の影響を防ぐ力がないことだった。ケルピーにいくら力があるとはいえ、同じ|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力がたまったこちらへ人間を引き込むことができるだけだ。連れ出すことはできないだろう。
「何者だ!」
そのとき、大きな羽音とともに風が舞った。
「ここは私の城、魔性《ましょう》の者め、何をしに来た!」
階段の手すりに舞い降りたアウルが、鋭い目を光らせる。
「なんだ、こいつ……」
「待って、ケルピー。アウル! 彼はあたしの知り合いなの」
「フェアリードクター、水棲馬を使役《しえき》するなどまともな輩《やから》ではない。まさか、私をだまそうとしたのか? フィリスを手なずけて、ここを乗っ取るつもりか?」
「ち、違うわ!」
けれどアウルは憤《いきどお》り、髪の毛を逆立てながら飛ぶ。鋭い爪《つめ》が目の前にせまる。
「リディア!」
フィリスが叫んだ瞬間、リディアはケルピーにかかえ込まれる。
茶色い羽と黒いたてがみが、風のような渦《うず》に舞う中、フィリスが懇願《こんがん》した。
「アウル、やめて! リディアはそんな人じゃないわ!」
しかしアウルは空中で向きを変え、再びリディアたちに向かってくる。
「リディア、つかまってろ」
短く言ってケルピーは、馬の姿に転じるといきなり駆け出す。
「だめよ、ケルピー! フィリスをひとりにしちゃ……」
しかしケルピーは、ドアを突き破って外へ飛び出す。リディアの言うこともきかずそのまま疾走《しっそう》すると、アウルはもう追いかけてはこなかった。
大階段の踊り場に立つエドガーの目の前には、額《がく》に入った男女の肖像画があった。
踊り場の壁に、大小さまざまな絵とともに掛かっているそれは、十六世紀ごろの服装をしていて、もしかするとエドガーがさがしていた、アシェンバート家の者が描いたものかもしれなかった。
しかし奇妙なことに、この絵は昨夜はここになかったのだ。エドガーはもちろん、ポールもよくおぼえていた。
昨夜ここにあったのは、風景画だった。屋敷と周囲の風景が、月光に照らし出された絵だった。
「いいえ、絵を入れ換えたりはしておりません」
チェバーズを呼んで問いただしてみたが、彼はとぼけた様子もなくそう言った。
「記憶違いでは? 絵の数も多いですし、階段のある通路もここだけではありませんから」
そう言われると、エドガーも自信がなくなる。風景画は目的のものではなかったため、正確に記憶しているわけでもない。
「この屋敷ときたら、ガスランプもありませんし、窓も少なくて昼間でも薄暗い。おまけに通路は入り組んでいて、錯覚《さっかく》を起こしやすいのだと思いますね。幽霊なんてのも、所詮《しょせん》そんなものですよ」
チェバーズは幽霊も信じていないらしい。
それはともかく、めずらしくポールが記憶違いのはずはないと主張した。
「伯爵、額が同じなんですよ。この時代、額は絵に合わせてつくられる注文品です。同じ額を別の絵のためにつくるなんて考えられません」
「そうですか? 額なんて、どれも似たようなものじゃないですか」
チェバーズは太った腹をゆすって笑う。
「はずして見てもいいかな」
「どうぞご自由に」
そう言いながら彼は、エドガーの腕に手をかけて寄り添っているリディアをちらりと見た。
「仲むつまじい男女の肖像は、ご婦人方に人気がありますな」
意味深ににやりと笑い、立ち去る。
リディアがねだったとでも思っているのだろうか。
「なあポール、リディアはきみがエスコートしたほうがいいかもしれない」
エドガーは悩みつつもそう言った。
「これでは彼女が僕の愛人に見えてしまう」
昨日のリディアは、ふしだらな女と見られるのをいやがっていた。今はそういった感覚がなくなっているのだとしても、リディアのプライドのためにとエドガーは考えていた。
ポールも、さっきから近くを通っていく客人たちが意味深にリディアを一瞥《いちべつ》するのに気づいてたのだろう。悩みながらも頷く。
「そうですね。リディアさんが承知してくだされば」
リディアは、自分の話だとわかっているのかいないのか、ポールと話しているエドガーを、子供のように無垢《むく》な瞳で見あげていた。
今朝からこんな調子なので、リディアは風邪《かぜ》気味ということにして部屋に留めてあった。
こうなった原因はいまだにわからないが、安静にしていた方がいいかもしれないと思えた。
けれど夜になって、ふらりと歩き出した彼女を、さっきレイヴンがエドガーのところへ連れてきたのだ。
そして彼女は、親鳥にまとわりつく雛《ひな》のようにエドガーにくっついている。
エドガーはむしろこうしていたいと思ったけれど、リディアがこんなふうになったのが自分の無神経さのせいなら、配慮に欠けた行動は慎《つつし》まねばならないだろう。
「リディア、よく聞いて」
向き直り、やさしく髪を撫《な》でる。
「ポールがいるときは、彼にエスコートしてもらうんだよ。僕じゃなくて、彼の腕を取って」
リディアはゆっくりとまばたきをし、やがて満面の笑みを浮かべると、そっとエドガーから手を離し、ポールに寄り添った。
聞き分けのいいことをよろこぶべきだろうか。
しかしリディアは、エドガーの言いなりになる娘ではなかった。彼女の意志でエドガーのそばにいて、その意志で彼のもろいところもささえてくれた。
リディアの芯《しん》のようなそれだけが、今ここにはない。
こんなふうになったのも、彼女の意志なのだろうか。胸が苦しくて、リディアを見つめていても眉をひそめてしまうエドガーに、彼女はただ微笑む。
「伯爵、この絵は、五代目ロチェスター男爵とあります。女性は夫人でしょうか」
レイヴンがはずした絵を裏返し、額に刻まれた文字を確認しながらポールが言った。
我に返り、エドガーも絵を覗き込む。
「五代目? たしか、未婚のままで弟に爵位を譲《ゆず》ったのじゃなかったかな」
ロチェスター家の家系図は、昼間にライブラリーで調べたところだから間違いないだろう。
「とすると、恋人ですかね」
「ずいぶん美しい女性だ」
黄金色の髪、黄金色の瞳、ドレスの金糸の刺繍《ししゅう》も鮮やかで、全身で輝いているかのようだ。
しかし絵に、エドガーは微妙な違和感をおぼえる。何だろうと思いながら、よくよく眺める。
「サインは……額をはずしてみないとわかりませんね。伯爵、どう思います? 肖像画だということと、年代は一致します」
「ああ、僕はこの絵だと思う」
「えっ、確信があるんですか?」
髭を蓄《たくわ》えた壮年の男爵は、小さな書物を手にしている。表紙はがっしりした太い指に隠れてしまいそうなほどだが、一部だけ見えている題字のアルファベットが、左右逆さまになっているのだった。
「ポール、これは鏡像の絵だ。ふたりを鏡に映した姿なんだよ」
「鏡像……、本当だ。どうしてまたそんな絵を」
「昨日の風景画もそうだった。何だか違和感があると思ってたんだけど、今日外からこの建物を見たときに気がついたんだ。あの絵も鏡像だった。たぶん、屋敷を囲む沼に映った風景だったんだよ」
「本当ですか? それにしてもあの絵はどこに消えたんでしょう」
「うん、僕はこれがゆうべの風景画なんじゃないかと思ってる」
「ええっ、そんなことがあるんですか?」
ふつうはないだろう。けれど今は、そう考えるのが自然な気がする。
一日で変わる絵だ。そして共通点は鏡だ。こんな謎めいた絵が描けるのは、青騎士伯爵家の血を引く人間に違いなかった。
「なあレイヴン、オークションが終わったら、伯爵はどうするんだろう。帰るつもりか?」
屋根の上に座って、ニコは真っ暗な沼地を見おろしていた。隣にはレイヴンがひざをかかえて座っている。
「わかりませんが、おそらくそうなるでしょう」
淡々とした口調で彼は答えた。
「あのままのリディアを連れて? この場所に原因があるなら、ここを離れてしまうのはよくないんじゃないか?」
「魔法のせいでないなら、ロンドンで名医に診《み》ていただいた方が」
それはおそらく、伯爵がもらした言葉なのだろうと思い、ニコはため息をついた。
もしかしたらそうするべきかもしれない。けれどまだ、病気と決まったわけでもない。
「きっかけはボギービーストなんだ。今のリディアは、やつらの魔法の匂いも消えてるけど、もしかしたら、リディアの心の一部が別の魔法にとらわれてるのかも」
「そういうこともあるのですか?」
「わかんないよ。もしそうなら、リディアの気配のするものが近くにあるはずなのに、何もないんだ。だけどここはいろいろ問題のある場所だし、おれたちの知らないことが起こってるのかもしれない。もっとよく調べるべきだよ」
そしてニコは頭をかかえ込んでうめいた。
「あんなの、リディアじゃない……」
頭の毛が乱れるのもかまわずかきむしり、ぱっと顔をあげたニコは、訴えるようにレイヴンの方に身を乗り出す。
「おれに頬《ほお》擦《ず》りしようとするんだぞ!」
「それは、誰でもしてみたいと思っています」
[#挿絵(img/zircon_147.jpg)入る]
レイヴンはじっとニコを見る。特徴的な大きな瞳は、獲物を狙い定めた猛禽《もうきん》のようで、ニコはちょっとばかり背中の毛を逆立てていた。
「し、してみたいのか?」
しばらくニコと目を合わせていたレイヴンは、はっとしたようにまばたきをして目をそらした。
「……失礼しました。紳士にそんなことはできません」
冷《ひ》や汗《あせ》をかきつつ、ニコは乱れた毛並みを整える。
「そ、そっか。うん、いつものリディアもさ、おれがいやがることはしないから」
「では今は、自制心が少なくなって感情に忠実でいらっしゃるのかもしれません」
「じゃ、伯爵にくっついてるのは、感情に忠実なのか」
頬杖をついて、ニコはまた沼地を見おろした。
リディアは、あんな自分をどう思っているのだろうか。見るからに幸せそうに笑っているのだから、リディアにとって悪い状態ではないのだろうか。
いや、立派なフェアリードクターになって、伯爵を助けたいと思っていたリディアだ。人形のようにかわいがられているだけの自分に納得するはずはない。
「で、伯爵はあれでいいのか?」
天使のように、従順ににこやかにしているリディアに、伯爵は鼻の下を伸ばしているようにニコには思える。このままでいいからさっさと連れ帰ろうなんて考えていないだろうか。
「エドガーさまはかなり落ち込んでいらっしゃいます」
「そうか? さっきもずっとリディアの部屋で、ポールの目の前でもかまわず楽しそうにいちゃついてたじゃないか」
ふだんなら五分もせずに怒り出すだろうリディアが黙っているのだから、伯爵が調子に乗らないわけがない。
それでもリディアを自分の部屋に泊めると言い出さなかったことは、少し意外だ。
「エドガーさまは、どんなにつらい状況でも前向きに楽しみを見出《みいだ》す方なのです」
一見|格好《かっこう》のいい言い方だが、伯爵の場合、天然のタラシだというだけではないか。
「とにかく、このままじゃだめだって。伯爵家のためにもならない。あんただってそう思うだろ?」
「はい。エドガーさまに手をあげることができるのはリディアさんだけです」
またリディアはやったのか。と思うニコは、エドガーが従順な妻を歓迎するのも無理はないかもしれないと少しだけ同情した。
「リディアさんの平手だけが、エドガーさまをプリンスから守ってくれそうな気がするのです」
なるほど。と笑いながらニコは、そうだったらいいと願う。
「だったら伯爵は、リディアの思い通りにならないところを、ちゃんと取り戻そうとしてくれるかな」
「ニコさん、エドガーさまを信じてください」
主人を神のように思っているレイヴンだ。根拠もなく信じているに違いない。
それでもレイヴンの、わずかにも迷いのない目を向けられると、ニコはエドガーへの不信感が少しはやわらぐのだった。
リディアの身を誰よりも案じているのはエドガーであるはずだ。そろそろ信用してやらないと、リディアにも申し訳ないだろう。
「ああ、そうするよ。だからもうしばらくここに滞在したほうがいいって、伝えといてくれ」
下方に見えるリディアの部屋の明かりが動き、人影が外へ出ていくのに気づきながら、ニコは、「明日でいいよ」と付け加えた。
リディアは伯爵のところへ行くつもりだろうか。大胆というよりは、夫婦としての意識しか今はないのだろう。
けど、ふだんのリディアが知ったら卒倒《そっとう》しそうだな。
ノックの音はしなかった。ドアを開けて、エドガーの寝室へ入ってきたリディアは、ここが自分の部屋だと思っているかのようだった。
そうして、いつもよりずっと無邪気な足取りでエドガーのそばへやって来た。
夜も遅くなりつつあったが、彼はまだ、テーブルに積み上げた書類や手記を読みあさっているところだった。
例の絵を青騎士伯爵が贈ったいきさつや、当時のこと、どういう意図で描かれた絵なのか、とにかく知りたいことはたくさんあった。
滞在は明日までだ。
それにエドガーは、彼女のためにも滞在を延ばさない方がいいのではないかと考えていた。
原因がわからないからには、いったんロンドンへ連れ帰ってもとの環境に置き、様子を見た方がいいかもしれない。
一日過ごしてみて、彼女がわざとふだんとは違う態度をとっているとは思えなかった。この場所が悪い影響を与えているなら、離れるべきではないか。
リディアは昨夜のことなど忘れたかのように、エドガーを見てうれしそうに微笑む。じっさいに忘れているのだろうけれど、それだけで彼は、許されたかのように感じてしまう。
「どうしたの? 僕が恋しくなったのかい?」
隣に腰をおろしたリディアは、恥ずかしがるふうもなく頷いた。
それだけで欲望の火をかき立てられ、口づける。存分にキスをして、少し離すと、苦しそうに息をした彼女は、いつものリディアと同じように真っ赤に頬《ほお》を染めていた。
いつもと違うのは、それでもエドガーから目をそらさないことだ。
「ここで寝る?」
また頷く。
昨日はいやだと言った。でも今夜はここに泊まるという。もちろんエドガーは大歓迎だ。
「リディア、昨日はごめん。もう乱暴にしないから、いやがらないでくれるね?」
理解しているのかどうかもわからないが、リディアは微笑んでいる。
「ちょっと待っててくれ。すぐにこれだけ読み終えてしまうから」
エドガーが手元の書類に目を落とすと、リディアは立ちあがってベッドまで歩いていった。
そうしてそこで突っ立っている。何をしているのだろうと彼が振り返ると、ドレスの前ボタンをひとつずつはずしている。
エドガーの視線に気づくと、はたと手を止める。悩んだのか、しばらくそのまま静止していたリディアは、急にくるりと背を向ける。
襟元《えりもと》がゆるむと、キャラメル色の髪が動作にやわらかくゆれ、肩の白い素肌があらわになる。
彼女が自分から肌《はだ》をあらわにするなんてことはこれまでになかったから、エドガーはつい見入ってしまう。と、またリディアは動かなくなった。
脱ぎ捨ててしまうのは抵抗を感じているのか、かすかに震えている。
もしかしたら今のリディアは、自分の意志よりも、ただエドガーがよろこぶようにしようとしているのだろうか。
そんなのはリディアじゃない。
なのにそれを求めたのは昨夜のエドガーだった。
はっとして彼は、急いでリディアのそばに歩み寄った。
「いいんだ、……そんなことしなくていい」
ドレスの前を握ったまま硬直している両手に、背後から腕を回して手を重ねた。
「脱がなくていいんだ」
なかなかゆるまない指をほどき、胸元のボタンをひとつずつ留める。
ほっとしたように急に力を抜いたリディアは、子供みたいに服を着せられながら、ゆるゆるとエドガーを見あげた。
瞳が少しうるんでいた。
同じように目をうるませて、昨日のリディアはいやだと言った。
意地悪なことを言って彼女を不安がらせたのはエドガーだが、本気でいやがっていた。
彼のもとから必死で逃れようとした。
なのに今リディアは。
自分から、そんなふうにしたことなどないのに、必死で。
いつものリディアじゃない。けれど紛れもなくリディアだ。一生懸命に愛情を示そうとしてくれるのも、まだまだ羞恥心《しゅうちしん》が強いのも。
昨日だってリディアは、エドガーのいいかげんな態度に戸惑っただけで、けっして彼を拒《こば》みたかったわけではないのだろう。
抱きしめると、彼女の方もごく自然に腕を回してくる。このごろはそうしてくれるようになった。
安心しきった微笑みには、もう緊張感も不安の色もない。
「きみを失いたくないから、冷静でいられなくなる。でもそのせいで、ひどいことをしてしまったよね」
少しずつ距離を縮《ちぢ》めて、やっと結ばれたのに、昨日の彼は、積み重ねてきたものを壊してしまいかねなかった。
気にしないでというように、リディアは微笑んでいる。ここには、エドガーが傷つけたリディアだけがいないのだ。
「昨日のきみを取り戻したい。そうしてきみが笑って許して、僕を求めてくれるまで、抱くわけにはいかなんだ。……そうだよね、リディア」
腕に力を込めれば、リディアも同じようにしてしがみつき、彼の胸に頬を寄せた。
リディアを背に乗せたまま屋敷を飛び出したケルピーは、沼地の水面を対岸まで駆け抜けると、丘を一気に駆けあがり、そこで足を止めた。
その先は完全な闇に覆われていて、何も見えない。いや、おそらく何もないのだろう。
「ずいぶんせまい世界だな」
「沼地に映る範囲しかないのよ。アウルがそんなことを言ってたもの」
「|ミミズク《アウル》、か。大した魔力はなさそうだが、ここの主人なら、本気でやりあうのは得策じゃないな」
「そうよ、なのにあなたったら。あたしまで誤解されちゃったわ。屋敷に戻れないじゃない」
「頭の固いミミズクだ」
ケルピーは背中からリディアをおろし、青年の姿になると、館の方を眺めやった。
「とりあえず、追ってくる様子はないが、どうする?」
できれば館へ戻りたいが、アウルのいない夜明けを待った方がよさそうだ。
「ひどくつねられたな。ほっぺたに痕《あと》が残ってる」
黒|真珠《しんじゅ》の瞳を細め、ケルピーはリディアを覗き込んだ。
月のない夜は暗くて、リディアにはケルピーだけが暗がりから浮かび上がって見えている。妖精だから、闇と同じ色をした黒髪さえ、動作にゆれるのがはっきりとわかる。
手をのばしたケルピーが、ボギービーストにつねられたリディアの頬を撫《な》でると、ひんやりとした水の感触に、ひりひりした痛みがひく。
親しい妖精である彼を目の前にして、リディアは張りつめていた気持ちが溶けていくように感じていた。
急に力が抜けて、思わず座り込む。
「おいっ、どうした?」
あわててしゃがんだケルピーが、リディアの頭に手を置いた。
かかえたひざに顔を押しつけたまま、リディアは言った。
「ありがとう、ケルピー……。来てくれて」
「なんだ、さっきは迷惑そうだったぞ」
「あたし、フェアリードクターのくせにどうしていいかわからなくて、ボギービーストも追い払えないなんて、ほんと情けなくって」
「泣くなよ」
「泣いてないわ」
「じゃ、顔をあげろよ」
「……もう少し、あとで」
ふん、と笑ったケルピーは、リディアの頭をくしゃくしゃにした。
「で、伯爵はどうした。ロンドンにいるコブラナイに行き先を聞いてきたんだが、いっしょじゃないのか?」
リディアは頷く。
「戻りたいのよ、エドガーのところへ。でも、月が空にかからないと……、それでルナが戻ってこないとここから出られないの」
「何でおまえだけ鏡像になってるんだ?」
「……赤耳って呼ばれてるボギービーストに、鏡の中に押し込まれたの」
ふうん、と他人事のように言いながら、ケルピーはリディアに鼻を近づける。
「やつらの魔法はもう消えてる。単なるきっかけだな。沼地の鏡像は闇の魔力がたまってるから、それがおまえを取り込んでしまったんだろう」
「やっぱりそうなのね……」
妖精が見えて、妖精の魔力を知っているからこそ、彼らの魔法の影響を受けやすい。気をつけなければいけないのに、油断していた。
鏡の中に、これほど魔力のたまった場所があるとは思ってもみなかった。
「伯爵の様子、見に行くか?」
リディアは思わず顔をあげた。
「見えるの?」
「屋敷の窓が沼に映ってる。ほら、あそこに伯爵がいる」
遠すぎてリディアには見えなかったが、ケルピーはリディアの腕を引く。次の瞬間には、馬の姿になった彼の背中に乗せられて、すべるように水面を駆けている。
空は暗く、屋敷の輪郭《りんかく》ははっきりとしないまま、明かりのついた窓だけが沼に映っている。その像は、こちらにある無人の館ではなく、エドガーたち大勢の客人が泊まっている現実の館だ。
ケルピーは、いくつかある窓のうちのひとつに、速度を落として近づいていく。
カーテンが半分開いた窓辺に、エドガーがいる。シャツの上にベストを着ただけのくつろいだ服装をしている。リディアは胸の鼓動を意識しながら、彼のやさしげな横顔に見入る。
ふわりとカーテンがゆれると、彼の目の前にはリディアの姿がある。
エドガーが彼女を抱きしめる。
「やだ、見ないで、ケルピー!」
恥ずかしくなってリディアは、思わずケルピーの目を覆った。
「うわっ、危ないじゃないか」
「ごめんなさい……。あっ! 待って、そっちへ行ったら見えないわ」
「見たいのかよ」
ケルピーは戻ろうとするが。
「だめ、あなたは向こうむいてて!」
「ええっ、どうしろっての」
「ごめんなさい、ケルピー。でも……」
あきれながらもケルピーは、首を横に向けたまま適当なところで足を止めた。
「ここで見えるか?」
「ええ、ありがと」
さっき、フィリスとホールの鏡を覗いたときもそうだったが、自分の姿を眺めるというのは奇妙な感覚だった。
それでも目が離せない。いつもの自分は、あんなふうに安心しきって、エドガーの腕の中にいるのだろうか。
多分そうなんだと思う。けれど昨日は、あんなふうにはできなかった。
どうして、ひっぱたくなんてことをしてしまったのだろう。
エドガーの言うように、本当は不名誉な関係じゃないのだから、気にしなくてよかったのかもしれない。
けれどほんの少し、彼がいつもと違っていたから怖くなった。
少し機嫌が悪かっただけだと、今なら思える。リディアの方も、彼に振りまわされていると感じて苛立《いらだ》っていた。それにリディアは、彼の不機嫌が単なる欲求不満にあるなんて気づくはずもなく、お仕置きだなんて言うから混乱した。
本気でいやがることを、エドガーがするはずがない。あれは単なる悪ふざけで、リディアが素直に受け入れていれば、いつものようにやさしく愛してくれたのだろう。
沼地に映るエドガーは、長いことリディア≠抱きしめていた。
やがてカーテンが閉められ、ふたつの人影が窓辺から離れる。
きっとリディア≠ヘ、当然のように彼の部屋で眠ろうとしている。
昨日のリディアにはできなかったことだった。
エドガーがこのまま、わがままな意識のないリディアを愛するなら、ここにいる自分はいらない存在になってしまうのだろうか。
明かりが落ちて、暗い水面に何も映らなくなっても、リディアはまだそこをじっと眺めていた。
「元に戻れるさ」
ケルピーがぽつりと言った。見ないふりをしつつ、じつは見ていたのだろう。
「戻ったら、またかわいげのないリディアになっちゃうわね」
「じゃ、鏡像のまま俺と妖精界へ来るか?」
エドガーはその方がいいと思うだろうか。
「なんて言っても来るわけないか。おまえは伯爵から離れられないみたいだ」
「あたしが? ……よけいなことばかり考えちゃって、あんなふうに寄り添っていられないのよ」
「あれもおまえだ。無意識に動いてるんだろうけど、おまえの本質だよ」
そうかもしれないと、意外と素直にリディアは思った。
時と場所もわきまえず、子供みたいに好きな人に甘えたいと思うこともある。
一方で、ふだんの自分はそんなふうにできないことも、じゅうぶんにわかっていた。
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鏡の内と外の迷宮
しゃべらないことと、やけに上機嫌なことを除いては、リディアはふだんと変わりなかった。
朝になれば自分で身支度を整え、朝食を並べたテーブルにつく。紅茶に入れるミルクの量も、パンに薄くジャムを塗るのも、動作に迷いがない。
食事はレイヴンが、エドガーの部屋まで運んだ。リディアはこのまま、帰るまで人前に出さずにおこうと思うエドガーは、食事がすんだらポールに彼女の部屋へ連れていってもらおうかと考えていた。
ここに泊めておいて、いまさらという気もするけれど、昼間は人目につきやすい。リディアが人目を気にしていたのだから、そうするべきだろう。
「おいしいかい? リディア」
ティーカップを置いて、リディアはにっこり微笑《ほほえ》む。
「そう、よかった」
朝日の射し込むドレッシングルームは、少々|手狭《てぜま》だが、ふたりで食事をするにはじゅうぶんだ。むしろ小さめのテーブルは、食事中もリディアを近くに眺《なが》められて悪くなかった。
「今夜のオークションがすめばロンドンに帰れる。もう、他人のふりなんてしなくてよくなるから……」
言葉を切って、エドガーはフォークとナイフを置いた。
あらたまった気配を感じたのか、リディアも食事の手を止める。
「ねえリディア、……どうすればいい? 何でもするよ。きみの言うとおりにする。だから、声を聞かせてくれ」
けれど彼女は、不思議そうにエドガーを見つめているだけだ。
彼が眉《まゆ》をひそめれば、ソーセージの皿を押し出す。食事が物足りなさそうにでも見えたのか、くれるというつもりらしい。
そうじゃないと首を横に振って、エドガーは、テーブルの上でリディアの手を取った。
「不満でも何でもちゃんと聞くから。きみの気持ちを話してほしいんだ」
一瞬驚いたように見えたが、すぐにリディアは笑顔をこちらに向ける。
「本当は、僕に幻滅《げんめつ》してる? そうだと言われてもかまわない。返事をしてくれないと、弁解もできないじゃないか」
両手で握りしめれば、彼女の方も両手でエドガーの手を握る。
「愛しているんだ」
彼の苦しい胸の内は通じず、リディアは純粋に、うれしそうに笑う。
「感情的になったり、つい意地悪を言ってしまうことはあるけど、きみへの気持ちが変わったわけじゃない。わかるよね? きみもそうだろう? 話をしてくれないけれど、まだ僕を愛してる。その笑顔はうそじゃないってわかってる」
祈るように、リディアの指を握り込んだまま両手を組み合わせる。
「きみのすべてを愛している。……あのときの、真剣に怒ったきみも、失いたくないんだ」
苦しい言葉を吐いたエドガーの耳には、ノックの音は聞こえなかった。レイヴンが歩み寄り、肩に手を置かれてようやく顔をあげた。
「ポールさんがいらっしゃいました」
我に返ったエドガーは、そっとリディアの手を放すと、振り向きながらどうにかふだんの笑顔をポールに向けた。
「おはようございます、伯爵」
少々寝ぼけた顔でドア際に立ったポールも、ゆうべは遅くまで調べものをしていたのだろう。
「やあ、早いね。まだ寝てるだろうと思ったから、もう少し後で呼びにいこうと考えてたところだった」
「ええ、それが……」
頭をかいたポールの後ろから、コーヒー色の髪をひとつに束ねた女が顔を出した。
「あたしが起こしてやったんだよ」
「ロタ! 何しに来た」
つい顔をしかめるエドガーに、ロタはずいと歩み寄る。
「は、昨日レイヴンからの伝言で、リディアが先に帰っててくれって言ってるって聞いたけど、ホントかなと思ってた。やっぱりあんたの差し金か」
「どうしてまだここにいる」
「世話になってた家で屋根を直すの手伝ったら、また歓待されてさ。って、それよりあんたな、どうしてあたしをリディアに近づけまいとするんだよ!」
「きみが来るとリディアが僕にかまってくれなくなる」
「正直すぎてつっこめないぞ」
あきれたように腰に手を当て、それからロタはリディアを覗き込んだ。
「リディア、あたしがわかるか?」
リディアはロタを見てにっこり笑うが、それだけで何も言わない。
しばらくリディアと微笑み合っていたが、ロタはあきらめたように顔をあげてため息をついた。
「ふうん、さっきポールに聞いたとおりだ。エドガー、リディアに何をした。正直に言ってもらおうか」
「僕のせいだって決めつけないでくれ」
「じゃ、何もしてないって言いきれるのか?」
「夫婦の問題だ。きみには関係ない」
「ああ、結婚してからはもう、あんたがそばについてるからって安心してたよ。なのにどういうことさ。あんたがちゃんとリディアを気にかけてないから、何が起こったかわからないんだろ!」
「気にかけてないだって? いつでも僕はリディアのことを考えてる」
「あんたのは一方的な自己満足。必要以上にベタベタするくせに、リディアが望むようにはしてやってない」
たぶん図星だったから、エドガーは頭にきた。
「きみに何がわかるんだ!」
立ちあがってケンカ腰にロタをにらむ。
「わかるさ! あたしはリディアの親友だよ!」
ロタもケンカ腰になれば、ポールがあわてた様子で間に入ってきた。
「まあまあ、落ち着いて。ケンカをすればリディアさんが困るだけですから」
リディアはただ微笑んでいたけれど、エドガーはふてくされたままロタから離れて窓辺に立った。
「リディアはな、このところちょっと、元気がなかったんだ」
ロタは気持ちを落ち着けようとするように、静かに言った。
元気がなかったなんて、エドガーの知らないことだった。ゆっくり会話もできていなかったのだから無理もなかったが、くやしい気がして不機嫌に返した。
「で、きみに何か相談を?」
「何も。だけどあんたが|朱い月《スカーレットムーン》≠フみんなと夜中まで話し合いをしてたって日、あたしはポールとルイス兄弟といっしょにいたけどな」
やっかいなことに、ロタはしばしばポールの下宿に出入りしている。こういうほころびが出てくるのは、よく考えれば当然だった。
いやな予感がして、エドガーは髪に指をうずめる。ロタに向き直る。
「ロタ、……まさかそれ、リディアに言ったのか?」
「もちろん」
なんてことだ。
「それじゃあ、リディアは僕がうそをついたと思ってるじゃないか!」
「だってあんた、うその言い訳したんだろ!」
「それは違う。朱い月≠フみんなと話し合ってたとリディアが思ってるみたいだったから、とくに訂正しなかっただけだ」
と、ロタはあんぐりと口をあけた。
「ば、バカじゃないか? 思ってるみたいって、そんなふりをして夫が正直に事実を言うかどうかさぐりを入れるのが世の奥方の手段だろ! そこでうそをつくから浮気がばれるんだよ!」
浮気、とロタが言った瞬間、リディアがこちらに首を動かしたものだから、エドガーはあわてた。
「浮気はしてない。リディア、信じてくれ。いつものつきあいだ。単なる世間話や賭《か》けに盛り上がって時間を忘れたりもしたけど、浮気じゃないんだ」
訴えれば、リディアはにっこり笑った。一瞬ほっとし、安堵するのは早すぎると気づく。
エドガーのうそに不信感を持ったかもしれないリディアは、おとといの夜逃げ出したリディアだからだ。
帰りは遅いし約束は破るし、うそのいいわけでごまかすし、ジルコンのことで大事な話をしようと来れば赤の他人扱いするし。
ずっと不安な気持ちでいたのだろう。だからリディアは、あのときいやだと言ったのだ。
「へえ、寛大《かんだい》なリディアになってよかった、ってわけだ」
ますます落ち込むエドガーに、ロタが冷たく嫌味を言う。
「よかったわけないだろ!」
ムキになると、ロタは少しだけ同情の混じった視線をよこした。
「ならいいよ。このままでいいと思ってないなら。で、どうするつもり?」
エドガーは頭を振る。
「原因がわからないんだ。どうしていいのか……」
「エドガーさま、滞在を延ばすべきです。ゆうベニコさんが、やはりこの場所に問題があるのではとおっしゃっていました」
レイヴンがそう言った。
「ニコが? 何かわかったのか?」
「いえ、それはまだ」
そうか、と脱力して椅子に座り込むエドガーの前に、リディアが立った。
そっと手をのばし、金色の髪を指で梳《す》く。
以前、エドガーが弱みを見せたとき、リディアはそうしてくれた。彼が自分の深い傷をさらけ出したのはリディアだけだ。
そのときのようにリディアは、両手で彼の頭をかかえ込むようにし、頬を擦り寄せる。
何があっても愛してると約束してくれた、あのときの彼女のままに、苦しげなエドガーを慰《なぐさ》めようとしてくれている。
ただ愛おしくて、リディアを抱きしめる。
「おい、エドガー」
せっかくリディアの愛情にひたっているのに、ロタは無遠慮に呼ぶ。無視していると、ぐいと肩をつかむ。
「見ろよ」
「あとにしてくれ」
「リディアが、鏡に映ってない」
思わずエドガーは顔をあげた。
視線の先には、大理石を張った洗面台がある。そこに置かれた鏡に、エドガーとロタが映っている。
けれどリディアの姿がない。
今、たしかにエドガーが抱き寄せているリディアが、映っていない。
駆け寄ってきたポールも、鏡を見やって息をのんだ。
「いったい、これは……」
驚きながらも、そのときエドガーはひらめいた。
鏡像の絵だ。
変化する不思議な絵は、この土地の領主だったかつての男爵と、青騎士伯爵が取り引きをしたというものだ。
そしてこの屋敷には鏡だらけの部屋がある。リディアが倒れていたのもそこだった。
鏡に、何か重要な意味があるのだ。
リディアがこうなったことと、関係があるに違いなかった。
鏡だらけの部屋へ足を踏み入れたロタは、口をあんぐり開けたまま辺りを見まわした。
一見子供の部屋なのに、壁が大小さまざまな鏡で覆《おお》い尽くされている。屋敷中から集めてきた鏡だろうか。
「リディアはここで倒れてたのか」
「はい」
レイヴンが答えた。鏡の部屋を見たいと言ったロタを案内してくれたのだ。
「調べても何もないぜ。おれだってここはあやしいと思って見回ったからな」
窓辺から聞こえた声の方を見れば、ニコが腕を組んで立っていた。
「そういやニコ、あんたが最初に倒れてたリディアを見つけたんだよな。そのときはどうだった?」
窓からおりたニコは、ロタの方にとことこと歩いてくる。
「どうだったって?」
腰に手を当ててロタを見あげる。ロタはニコと話しやすいようにしゃがみ込んだ。
「リディアがまだ鏡に映ってたかどうかだよ」
「リディアは人間だぞ。おれたちと違って、ちゃんと鏡に映るよ。ま、おれみたいに高等な妖精は、そうしようと思えば鏡にくらい映れるけどな」
壁の鏡の前に立って、ニコは毛並みとネクタイを整える。ちゃんとその姿が映っている。と思うと鏡の中のニコは急に消え、ロタの方に振り返った彼は得意げに胸を張った。
「すごいですね、ニコさん」
レイヴンが覗き込む。ロタもつい見入るが、感心している場合じゃなかった。
「なあニコ、だったら鏡に映らないリディアは妖精になっちまったのか?」
「リディアが妖精に? バカなこと言うなよ」
「でも、鏡に映ってなかったんだ。なあレイヴン」
はい、とレイヴンも同意すると、ニコは驚いたらしく、目がまんまるになった。
「なんだって、それを早く言えよ!」
「言ったよ」
ロタは反論するが、ニコはもう考え込んでいた。
「ってことは、リディアは自分の鏡像をなくしたんだ。いや待てよ、リディアの心がなくなったみたいだったけど、入れ物らしいものもないと思ってた。まさか、鏡像が……」
「おい猫、さがしたぞ」
また別の声が聞こえたが、窓辺には誰もいなかった。
「猫じゃねえぞ!……ケ、ケルピー!」
ニコが声をあげながら指さしたのは、壁に掛かっているいちばん大きな鏡だ。
黒い巻き毛の青年が映っている。ロタもしばしば目にする、いまだにリディアにつきまとっている妖精だ。しかしこの部屋に彼の姿はない。
ロタが呆気《あっけ》にとられていると、ケルピーはまるで水面から抜け出すように鏡から出てきて、ニコの目の前に立った。
「おい、ちょっと顔を貸せ。リディアが待ってる」
「リディアが? ケルピー、そのリディアはいつものリディアか?」
リディアと聞けば、ロタは黙ってはいられない。ニコの前に割り込むと、ケルピーは面倒《めんどう》くさそうにこちらを見た。
「なんだ、海賊娘か。ああ、リディアのやつ意識だけが鏡像に入っちまって、出られないんだ。とりあえず、この猫を連れてきてくれって言うもんだからさ」
「ええっ、おれが、この中に?」
ニコは後込《しりご》みしている。
「まったくリディアときたら、俺がついてるってのに。この猫のどこが頼りになる? ミミズク野郎に誤解されるから、俺には姿を隠してろとか言いやがる」
「なあ、あたしも行くよ。リディアがいるんだろ? あんた、人間を連れていけないか?」
勇敢《ゆうかん》だな、とケルピーは笑う。
「連れていくのは簡単だが、やめとけよ。向こう側は異常な魔力がたまってて、魔力を持たない人間はとらわれちまう。俺が連れていったとしても、もとに戻してやるのは難しい」
それを聞いてニコはますます怖《お》じ気《け》づいた。
「や、やだよ! おれはそんな得体《えたい》の知れないところへ入っていきたくねえ!」
「は? おまえ妖精だろうが。妖精なら魔力の影響から自分を守れるだろう」
「だ、だけどさ、リディアのことはもう、伯爵が守ってくれるはずだろ? うん、伯爵を呼んできてやるよ」
くるりと背を向けるニコを、ケルピーはむんずとつかんだ。
「戻れないかもしれないんだから、あいつだけは連れてくるなってさ。リディアがそう言うんだからな」
「おれだって、二度と出られなくなるのはいやだ」
「うるさいぞ。出られなくてもリディアのそばで働け!」
じたばたあばれるニコをつかんだまま、ケルピーは鏡の中へ入っていこうとした。
「た、助けてくれー」
レイヴンがさっと動いた。
ケルピーを止めようとするが、瞬間黒い馬の姿に変わる。薙《な》ぎ払われそうになったレイヴンは、それでもケルピーのたてがみをつかみ、ニコを離させようとする。
が、ケルピーはそのまま、鏡に向かってジャンプした。
「おいっ、待って……」
とっさにレイヴンの上着を、ロタはつかんだ。
勢いがついたまま、鏡に向かっていく。ぶつかるかと思った。が、何の衝撃もなく、宙を飛んだかのように感じると、間もなくロタは投げ出されるように床の上に倒れた。
痛みをこらえて顔をあげ、レイヴンとケルピーがさっと起きあがるのを眺めながら、部屋の中の何もかもが、さっきと左右対称になっていることにロタは気がついた。
今は背後にある大きな鏡の向こうで、ニコが取り乱したように頭の毛をかきむしっていると、その足元に自分とレイヴンが倒れているのが見えていた。
「……ちょっと、どういうことなの、ケルピー!」
ケルピーが連れてきた、ロタとレイヴンを目の前に、リディアは声をあげた。
「ちょっとした手違いだ」
憮然《ぶぜん》としてケルピーはつぶやく。
「リディア!」
ロタは待ちきれなくなったように、リディアに駆け寄り抱きついた。
「ああ、会えてよかったよ。どうしてるのか気になってたんだ」
ふだんとは反対側にえくぼのできるロタを、リディアも抱きしめる。
「ロタ、連絡できなくてごめんなさい。心配してくれてうれしいけど、こんなことになるとは思わなくて」
それから、突っ立っているレイヴンにも同じようにすると、彼は驚いたのか硬直していた。
「レイヴン、あなたにも迷惑をかけたわ。こうなったのはニコのせいでしょう?」
レイヴンは少し悩み、首を横に振った。
「……エドガーさまは、私がリディアさんをケルピーからお守りできる場所に来たことをほめてくださるでしょう」
「おい、いちいち俺を目の敵《かたき》にすんな」
「それにしてもリディア、ここで一晩過ごしたのか?」
ロタは、自分たちがいる小屋の中を興味|津々《しんしん》で見まわす。
屋敷から少し離れた、庭園の一画にある小屋は、小さいわりに民家としての体裁を整えていた。おそらく庭師か、番人の小屋だったのだろう。
結局リディアは、昨日はひとりここで夜を明かしたのだ。
「ええ、そうなの。屋敷をアウルに追い出されちゃって」
「ケルピーとですか? マイ・レディ」
レイヴンは、警戒心もあらわにケルピーをにらんだ。
「ケルピーは外にいたわ。それにレイヴン、彼は人間じゃないんだから、余計な心配しないで。エドガーにも言わなくていいのよ」
無表情のままレイヴンは頷いたが、誰よりもエドガーに忠実な彼に口止めが有効かどうかはわからない。ただ、ここにいるあいだなら、告げ口したくてもできないだろう。
「あーあ、やっかいなのを連れて来ちまった。役立たずの猫の方が何倍もましだっての」
ケルピーは戸口から外へ出ていく。リディアも、ロタとレイヴンを促して外へ出ると、晴れた青空が沼地にくっきりと映っていた。
「早朝は霧が出てたけど、もうすっかり晴れたわね」
昼間は晴れていても、夜は必ず雲に覆《おお》われる。六年間月が出ていないというのはそういうことだ。
リディアは、ロタとレイヴンとともに沼の畔《ほとり》を歩いた。そこには誰の影も映らない。辺りの風景だけが映り込んでいる。
やがて屋敷が見えてきた辺りで、リディアは立ち止まる。
「フィリスに会わなきゃ。アウルはもう眠っているかしら」
「フィリスって?」
「この鏡の中に取り込まれた女の子なの。屋敷に住んでいたダーンリイ氏の孫なんだけど、いまだに出られないのよ」
「ミミズクは現れないだろうけど、あの小娘は鏡の部屋にいなかったぞ。そのへんほっつき歩いてるんじゃないか?」
ケルピーが言う。
「声が聞こえます。誰か泣いているような」
レイヴンの言葉に、それだわ、とリディアは耳を澄ました。
しかし、聞こえてくるのは枯《か》れかけた雑草をゆらす風の音ばかりだ。
「こちらです。たぶん」
レイヴンに案内され、リディアは枯葉が積もった庭園へと入っていく。
やがてリディアの耳にも聞こえてくる。たしかに、誰かがすすり泣いている。
「リディア、あそこに人がいる」
ロタが指さした石垣に、オレンジ色の髪の少女が座り込んでいた。
「フィリスだわ」
小走りで駆け寄ると、フィリスは驚いたように顔をあげた。
「リディア……」
「どうしたの? なぜ泣いてるの?」
「……いなくなっちゃったと思ってた。また、ひとりきりだって……」
「まあ、心配しないで。ここからは簡単に出られないんだもの」
「でも、昨日の黒い妖精が、リディアを食べてしまったかもってアウルが……」
言いながらケルピーがいるのに気づいたフィリスは、息をのんだ。
「俺のことか? とんだ言いがかりだな」
「ケルピー、にらまないの」
ケルピーを背後に押し、リディアはフィリスに微笑む。
「大丈夫よ。彼は人間を食べたりしないわ。それよりフィリス、紹介するわ。このふたりはあたしの友達よ。ちょっとトラブルがあって鏡の中に入っちゃったの」
ロタはにっこり笑いかけるが、フィリスはまた瞳に涙をため、わっと両手で顔を覆った。
「またこっちに人が来ちゃったのね。二度と出られないのに……。あたしのせいだわ。ルナじゃなくてあたしが死ねばよかったの……」
「な、何を言うの、フィリス。あきらめちゃだめって言ったでしょう?」
「ううん、もう無理よ……。リディア、あなたに会えて、何か変わるかもって思ったけど、また一人きりになってわかったの。何も変わるわけないんだわ」
さすがにリディアの胸は痛んだ。
フィリスを励ましたリディアだけれど、結局自分にはこの鏡の中を変えるような力がなかったからだ。リディアが助け出してくれるわけではないとわかり、フィリスは失望したのだろう。
むろんリディアは、最初から彼女を救う力などないのはわかっていた。けれど力を合わせて、方法を探れば、希望はあると信じていた。
「めそめそするな、男のくせに!」
突然、怒鳴り声が飛んできたのは、石垣の上からだった。
古めかしいきらびやかな衣装の少年が、そこに立っていた。
「アウル……」
昼間は動けないというわけではなかったのか。夜に会ったときと違うのは、背中に茶色の翼がないことだ。
アウルはリディアたちとケルピーをにらみつけ、フィリスに屋敷へ戻れと促す。
「男のくせに……って言ったよな」
ロタがつぶやき、リディアも混乱した頭で必死に考えていた。アウルが現れたことに気を取られたが、たしかに彼はそう言った。
「男の子……、なの?」
色白でおとなしそうな顔立ち、華奢《きゃしゃ》な輪郭《りんかく》も、ふわふわの長い髪も、何もかも女の子らしい印象だった。今もリディアには、目の前のフィリスは女の子にしか見えない。
フィリスはうろたえ、またわっと泣き出した。
「だから泣くなと言ってるだろう。さあ、屋敷へ戻れ。こいつらは信用できない。言うことをきかないと、何かあっても助けてやらんぞ」
アウルはそう言って、さっさときびすを返す。
フィリスはのろのろと立ちあがる。
しかし彼女は、いや、彼だろうか、そのまま歩き出そうとしなかった。
「アウル、本当はあたしのこときらいでしょう?」
立ち止まったアウルは、億劫《おっくう》そうに振り返った。
「ルナが二度と帰ってこないってわかったら、あたしを恨《うら》むでしょう?」
「二度と、帰ってこないだと?」
くっきりとした眉を、彼はつり上げる。
「だって死んだんだもの、あたしの目の前で」
「いいえフィリス、死んではないはずよ。妖精は、姿形を失ってもそれで死んだとは限らないもの」
不穏《ふおん》な空気をかき消したかったリディアは、急いで口をはさんだ。
アウルはフィリスの予想したとおり、ルナに何が起こったのか気づいていたのだろう。驚きもせずしっかりとした口調で続けた。
「だから私はここを守っている。ルナが帰る日のために。私の命があるかぎり、|悪しき妖精《アンシーリーコート》どもからここを守る覚悟だ」
アウルはこぶしを握りしめる。
「なのにおまえは簡単に、帰ってこないなどと言う。この六年間、うじうじ泣いているばかりで何もしようとしない。殺されそうになったからって、女の格好《かっこう》に逃げ込んで、無事でいたところで何の意味がある?」
そして彼はまた背を向ける。
「意気地《いくじ》なしめ」
吐き捨てて、立ち去ってしまうと、フィリスはその場に座り込んだ。
フィリスを殺そうとした誰かは、彼女の、いや彼の母親を殺した人物だった。フィリスはその人物の顔を見てしまったために、命をねらわれている。
フィリスがおぼえているのは顔だけで、どこの誰かもわからない。しかし以前から母親は、男につきまとわれているらしいことを周囲にもらしていた。
フィリスの父親は、母親の婚約者だったが、フィリスが生まれる前に突然|失踪《しっそう》してしまったという。母親は知人の雑貨店で働きながらフィリスを育てた。そのころ彼は、祖父の存在を知らなかった。
母親が殺された夜、フィリスは見知らぬ男に追われながらどこまでも逃げた。民家の物干しから女の子の服を拝借《はいしゃく》し、あぜ道を歩いた。追い越していった馬車に、犯人の横顔を見たような気がし、男の子の服装のままだったらと思うとぞっとした。
それから無人の教会に隠れ、翌朝掃除人に発見され、役人に保護された。
母を殺した犯人はわからないまま、フィリスが顔を見たとはいえ、まだ子供でうまく容姿を説明もできず、当の犯人が目の前にいるのでもなければ役に立たなかった。
保護者を失った彼は、施設にあずけられたが、しばらくして祖父だというダーンリイ氏が現れ、連れ帰ったのがこの屋敷だ。
母を殺したあの男は、きっとまた自分を殺しに来る。そう思ったフィリスは、ずっと女の服装をやめることができなかった。
もしも犯人がここまで来ても、あのときの少年だと気づかないように。
けれどその男はやって来た。ダーンリイ氏が引き取って隠しておいた子供の存在に気づき、男の子だと気がついたのだ。
あれから六年経っても、フィリスは女の子のままだ。鏡の中にいて、犯人を怖がる意味もなく、そもそもその男はすでに、フィリスが女装していたことを知っている。
フィリスの姿をしたルナを殺し、フィリスを殺したと安心しているなら、もうここへ来ることもないはずだ。
しかしフィリスはおびえ続けたまま、鏡から出る方法を考えることもなく、祖父が病の床についても、亡くなっても、泣くことしかできなかった。
髪を伸ばし、ドレスを着て、女の姿でいるのは、母親を殺した犯人から逃げるだけでなく、あらゆる現実から逃げようとしているのだろう。
ルナを見つけたいアウルの願いも、フィリスがいつか鏡から出られると信じた祖父の願いも、彼は他人事のように、どうにもならないと嘆き続けただけだった。
「……アウルの言うとおりよ。あたしは、ただの意気地なしなの」
女の子っぽい言葉|遣《づか》いも抜けないまま、フィリスはつぶやく。
「フィリス、自分は変えられるわ。これからいくらでも、あなたがなりたい自分になれるのよ。あたしだって、以前は自分にできないことをあきらめてたけど、できないことはないんだってわかったの」
エドガーに会えたから、リディアは変われた。
「恋をしてみたいんでしょう?」
「だけど……」
悲観的な言葉を口にしかけて、あわてて口をつぐむ。夢や希望があるなら、彼は変われるはずだとリディアは思う。
「あたし、ずっとこんな格好《かっこう》だったのよ。おかしいと思わない?」
「大丈夫よフィリス、男の子の服も似合うと思うわ」
「あんた、男として恋したいのか」
ロタが意外そうに口をはさんだ。
「そりゃそうでしょ、ロタ」
だって男の子なのだから、とリディアは疑う気持ちもない。リディアが握っている手を、フィリスが頬を赤らめつつじっと見ているのを、ロタが気づいてにやりと笑ったが、それもリディアは気づかなかった。
「なるほどね、気持ちも男なんだ。じゃあ面倒な問題はないや。自信持てよ、フィリス!」
思いきり肩をたたかれ、フィリスはあわててリディアの手を離した。
昨夜は肖像画だった例の絵は、今日になってまた風景画になっていた。
エドガーはポールと、大階段の壁からはずした絵をよく調べようと、サロンに運んでもらったところだった。
「それにしてもポール、よく懐いてるね」
ポールは絵を額《がく》からはずそうと作業に取りかかるが、ロタがくっついているので動きにくそうだ。
ロタはまるで子供のように、ポールにまとわりつき、ぎゅっと抱きついたかと思うと服や髪を引っぱっている。そしてとんでもなく上機嫌だ。
「えっ、そ、そうでしょうか。ロタはもともと人なつっこい女性ですし」
「本当のところさ、きみたちはどうなんだ?」
問うと、ポールはうろたえ気味に目をそらした。
「ど、どうって……何がですか?」
「どうせ貰《もら》い手がないに決まってるから、興味があるならいただいてしまえばいい。正直、あの野生児を友人には勧《すす》めたくないが、世の中にはキワモノ好きもいる」
「何を言うんですか、伯爵! ロタはキワモノじゃありません」
そっちか、とエドガーはおかしくて笑う。
「こんなのの愛人だなんて噂が広まったら、まともな女性に相手にされなくなるよ、と忠告したかったけど、必要なさそうだ」
顔を近づけるロタと目が合い、赤くなって顔を背《そむ》けるポールは、世間のまともな女性のことなどどうでもよさそうだった。
それよりも彼は、あせりの色を浮かべてエドガーに問う。
「あの、ロタは本当に愛人が五人もいるんですか?」
あの噂をまだ気にしているらしかった。
「そんなわけないじゃないか」
「……ですよね」
ほっとした顔をする。こんなにわかりやすいのに、ロタとはとくに進展もないというのが不思議なほどだ。
「五十人はいるよ」
「えっ!」
「下町の腕っ節の強い連中ばかりだ。ライバルが多くて大変だな」
愛人ではなく友人だろうけれど、ロタを崇拝《すうはい》する男は少なくない。昔から彼女は、女としてではないが人を惹《ひ》きつけるものがあった。
ポールは複雑な顔をしていたが、ロタは無邪気《むじゃき》に、そんなポールの背中に顔を押しつける。
「そうですか……。ロタは分け隔てない人ですし、酔っぱらうと誰にでもこんな感じですよね」
たしかに、抱きつき魔だ。エドガーは、そういうロタが目障《めざわ》りだ。男に抱きつかれるような違和感がある。
だからエドガーは、さっきからロタに近づかないようにしつつ、ポールを手伝っている。
一方でレイヴンは、無表情のまま静かに部屋の片隅でひかえている。
「レイヴン、こっちをささえておいてくれないか」
エドガーが言うと、レイヴンはきちんと動く。ふだんから無駄な口をきかないので、しゃべらなくなってもそれほど違和感はない。
が、問題がないかというとそうでもない。
「わっ、ロタ、やめろ!」
ロタに抱きつかれそうになり、エドガーが声をあげたとたん、レイヴンはロタの首根っこをつかんでねじ伏せた。
「待て、レイヴン! ロタは敵じゃない!」
自制心がきかないレイヴンは、かつてそうだったように、手当たり次第に人を殺しかねない危険な存在だ。エドガーに危害を加えようとした者には容赦《ようしゃ》なく襲いかかる。
エドガーは、レイヴンを背後からかかえ込んで、どうにかロタから引きはがす。
あわててポールがロタを助け起こすと、何が起こったかわかっていない彼女は、また楽しそうにポールに抱きついた。
「ロタに怪我《けが》は?」
「大丈夫なようです」
エドガーはほっとしつつ、レイヴンを放す。彼は平然としたまま、またエドガーに言われたとおりに絵をささえる位置に戻った。
「ポール、ロタに離れてるよう言い聞かせられないか? きみの言うことならきくかもしれない」
「え、どうでしょうか」
困惑しながらもポールは、子供にするようにロタの頭を撫《な》でる。
「あのね、ロタ、危ないからしばらく離れててくれないかな」
まばたきをして考え込んだように見えたロタは、にっこり笑うと絵から離れた。
やはりポールは、ロタからかなり信頼されているようだ。
それにしても、リディアだけでなくロタもレイヴンも同じ病気になるとは、いったい何が起こったのだろう。
ふたりが鏡の部屋で倒れていたのが一時間ほど前だ。すぐにふたりとも目が覚めたが、こんな状態になっていた。
そしてふたりとも、鏡に映らなくなった。
こうなるともう、リディアの様子も含め、この場所と鏡のせいだとしか思えない。
ともかく、まずはこの絵だ。エドガーは調査を再開する。
絵を額に固定している横木がはずれると、絵の裏側があらわになる。
「サインがありました。アシェンバートと読めますね。朱い月≠フ創設者の子供でしょうか」
年代的に、ジュリアス・アシェンバートの恋人の子だろうと思われた。その恋人も画家で、芸術家の結社朱い月≠、青騎士伯爵の庇護《ひご》のもと組織したといわれている。
「この絵と引き替えに、ジュリアス・アシェンバートが妖精国の地図を得たんだろう? ほかに情報はないだろうか」
裏側をよく確認すれば、薄い板の隙間に何か白っぽいものが見えた。
「紙切れが入っているみたいだな」
破れないように、ポールが注意深く取り出す。手紙のようだった。
「これは……伯爵宛です」
驚いて受け取ると、たしかにイブラゼル伯爵へ≠ニなっている。
さほど古い紙ではなかったから、三百年前の伯爵に宛てたものではないだろう。せいぜい数年前、というくらいに見える。
しかし、ここの当主は二年前に亡くなっているのだ。とすると、エドガーに宛てたわけではなく、どこかにいるだろう青騎士伯爵家の者がこれを見つけてくれることを願ったのだ。
伯爵家の血を引く者が描いた不思議な絵だから、自分の死後、伯爵家に渡る可能性もあると考えたのだろうか。
ダーンリイは、『伯爵はまだか』と言いながら息を引き取ったという。昔、この土地に現れ、月をよみがえらせたという青騎士伯爵の後継者を待っていた。
それを自分が読んでもいいものかどうか、少しのあいだエドガーは迷った。
自分は、ダーンリイが待っていた者ではない。けれど、自分のほかにこれを受け取るべき、青騎士伯爵の後継者はもういない。
リディアの方を見ると、サロンの椅子に腰掛けておだやかにこちらを見守っている。そして、やわらかく微笑む。
自分たちは本物の青騎士伯爵になれるはずだと、彼女は何度もエドガーを励ましてくれた。彼には妖精と関わる能力がないけれど、リディアがいるなら、きっとそうなれる。
エドガーは封を破って手紙を開いた。
署名はやはりダーンリイで、日付も二年前、亡くなる直前だろうと思われる。そしてそれは、孫のフィリスことフィース・ダーンリイを助けてほしいという文面から始まっていた。
「何が書いてあるんです?」
さっと目を走らせ、エドガーは眉《まゆ》をひそめた。青騎士伯爵に宛てたのでなければ、いたずらとして捨てられても不思議ではない内容だった。
「ダーンリイ氏の孫が、鏡の内側へ入ってしまったらしい」
ポールは声もなく、あんぐりと口をあけた。
手紙によると、それは今から六年ほど前のことで、以後ダーンリイは鏡のある場所でだけ孫の姿を見ることができたという。
そんな奇妙なことを、ダーンリイが事実と受け止めることができたのは、以前にもそういうことがあったと知っていたからだった。
昔、第五代ロチェスター男爵が、青騎士伯爵の力で、鏡の向こうがわの世界へ旅立ったと話に聞いた。しかしフィリスは違う。こちらがわに戻れるようにしてほしい。彼が唯一《ゆいいつ》の相続人だ。証拠の書類を同封する。私の死後、いっさいがフィリスの手に渡るように取りなしてほしい
第五代ロチェスター男爵、この肖像画の人物だ。
鏡像の肖像画、そして彼は、当時の青騎士伯爵によって、鏡の向こうがわへ旅立ったのだという。
今、ダーンリイの孫がそこにいる。
「彼=H 孫は男の子なんでしょうか」
ポールは首を傾《かし》げた。
たしかに、幽霊の噂も含め孫娘という話だった。
「これを読むかぎり、男子だね」
なぜ少女ではないのだろう。鏡の部屋は女の子向けの装飾だった。何があって、鏡の内へ入ってしまうことになったのだろう。
そしてリディアやレイヴンは?
みんなあの部屋で倒れていた。
「もしかして、リディアたちも鏡の内側へ……?」
エドガーはリディアの方に振り返った。隣に座ったロタと、リディアは微笑みあっている。
と思うと、ロタはリディアの頬にキスをする。
「おい、僕のリディアに何をするんだ」
むっとして駆け寄ったエドガーは、ロタの顔をリディアから引きはがして愛しい妻を抱き寄せる。
それでもまだロタはリディアの手を握って離さないし、リディアも親友に微笑みを向けている。
リディアは無意識の状態でも、自分よりロタの方が好きなのだろうか。ますます頭にきたエドガーは、ロタの手を離させようとするが、そんなエドガーをにらみつけ、ロタもムキになって離さない。
「おい、何を子供みたいにリディアを取り合ってるんだよ」
窓辺から現れたニコが、エドガーの前に立った。
「ニコ、どこへ行っていたんだ? レイヴンとロタが」
「知ってるよ。ケルピーが来てふたりを鏡の中へ連れてった」
「なんだって! ケルピー?」
「やつはリディアに会ったみたいだ。どうやら鏡の向こうがわの世界に異常な魔力がたまってて、人間がとらわれると簡単には出られないらしい。リディアはボギービーストのせいで入ってしまったんだろうけど、向こうの魔力につかまって、ボギービーストの魔力が消えても戻ってこられなくなったんだよ」
ようやくロタの手からリディアを奪い取ったエドガーは、ケルピーと聞いてますますリディアを守るようにかかえ込んだ。
「つまり……、リディアもレイヴンも鏡の中にいるんだね? ダーンリイ氏の孫と同じように」
「孫だって?」
また別の声が窓から聞こえた。
「ああ、あの小娘……いや、ぼうやのことか。リディアたちといっしょにいるぜ」
ケルピーが現れ、エドガーはさらにリディアをかかえ込む。今の彼女は、誰にでも素直な感情を見せる。エドガーにとって宝物の微笑みを、ケルピーにだって惜《お》しげなく見せるに違いない。
もったいない、とリディアを振り向かせまいとしながら、エドガーはケルピーをにらんだ。
「リディアに会ったのか? 妙なまねをしなかっただろうね」
「ふん、あんたはそっちのリディアと楽しくやってるんだろ。従順な女房に満足そうなあんたを見て、リディアは落ち込んでたな。慰めてやって何が悪い」
リディアを慰めたと、ケルピーは言う。おそらく向こうがわで、リディアは何よりこの妖精を頼りにしているのだ。
無理もないけれど、エドガーは冷静ではいられなかった。それに、聞き捨てならないのはそれだけではない。
「リディアには僕たちが見えるのか?」
「ああ、こっちの人間が鏡に映ってる状態ならな」
向こうのリディアは、エドガーが今の状況を歓迎していると思っているのだろうか。
本気でリディアがわがままだなんて思ったわけじゃない。求めれば得られるはずなのに拒まれて、少し腹が立っただけだった。
そんなエドガーのことを、リディアは鏡の向こうで何を思いながら眺めていたのだろう。
「……会うことは、できないのか? リディアに」
「そこにリディアの体があるのに、会う必要があるのか?」
冷淡にケルピーは言う。
「彼女の心の肝心《かんじん》なところがないなんて、僕は満足なんかしていない」
腕の中にいるリディアが、強い声をあげたエドガーに驚いたのか身じろぎした。
子供にするように、大丈夫だよと微笑みかける。そうする自分に矛盾《むじゅん》を感じるけれど、こちらのリディアをないがしろにする気にはなれなかった。
従順でかわいいからではない。
「ケルピー、こうしている僕を見たら、リディアが落胆するのはしかたがないと思う。でも、こちらも僕にとっては大切なリディアだ。彼女のすべてを守るのが僕の役目なんだ」
エドガーの気持ちを認めたのかどうか、ケルピーはそっと舌打ちした。
「考えてやってもいい。だがあんたには、こちらがわで調べてほしいことがある」
「何をだ?」
「鏡の中のリディアたちが戻るためには、ルナを見つけなきゃならない。そのルナってのは月と関係のある妖精らしいが、どういうやつなのかよくわからん。フィリスは母親を殺した男に命をねらわれていて、殺されそうになったとき、ルナが身代わりになって鏡の中から出たらしい。つまりルナの行方を知っている可能性があるのは、今のところそいつだ」
「……人殺しの犯人を見つけろというのか?」
[#挿絵(img/zircon_197.jpg)入る]
「そうだ」
「手がかりは?」
「中年の男だ」
とだけ言って、ケルピーはきびすを返そうとするから、エドガーは引き留めなければならなかった。
「待て、それだけか?」
「ああ」
「どうやって見つけろっていうんだ」
「リディアのためだろ。考えてくれ」
[#改ページ]
水の畔でめぐり逢えたら
「ダーンリイ氏の孫を殺そうとした男は、おそらく今回のオークションに紛《まぎ》れ込んでいる」
エドガーは、ポールとニコを目の前にそう断言した。
「証拠はあるのかよ」
えらそうに腕を組んでニコが問う。こいつが鏡の中へ行くのを怖がって、おかげでレイヴンが向こうがわにとらわれてしまったというのに、謙虚《けんきょ》になる様子は少しもない。
「この屋敷には以前から、幽霊が出るという噂《うわさ》があった。それも孫娘の幽霊だという噂だ。そんなところへやって来て、オークションに参加しようなんて変わり者は、物好きか犯人しかいないだろ」
ケルピーの話では、ルナ≠ニいう妖精がフィリスの身代わりになった。だとしたら犯人は、確実にフィリスが死んだという確信がないままなのではないだろうか。
妖精には亡骸《なきがら》はない。遺体が目の前で消えれば混乱するだろうし、幻覚を見たと思うかもしれない。確認する前にその場を去ったのだとしても、孫娘の幽霊が出ると聞けば、信じるよりもフィリスがまだ生きているという可能性を考えるだろう。
「だからここにいるのは、単なる物好き連中なんじゃないのか?」
「ああ、怪奇クラブの会員だからね。だけど、純粋に金がほしいだけならこんなことをする必要はないから奇妙に思っていた。逆に、この屋敷と幽霊の噂が気になっているなら、クラブを利用しない手はないね。ここを相続したチェバーズは、最近クラブに入会したようだ。だが彼は幽霊話をバカにしている。つまりはこのオークションを開くためにだけ入会したと考えられる」
「じゃあ彼が犯人ですか?」
「可能性はあるね。相続もからんでいるし……。しかしダーンリイ氏が死んで、管財人が来るまで何も知らなかったのが本当なら、以前からフィリスをねらっていたとは思えない」
「では他に……」
「幽霊屋敷に興味を持つ連中を相手に金|儲《もう》けができると、チェバーズに吹き込んだ人物がいるはずだろう。ここに堂々と滞在して、オークションという名目で屋敷を隅々《すみずみ》まで調べられる機会だ、フィリスが本当に死んでいるかどうか確かめたいだろう犯人が、利用しないはずはない」
「犯人を特定するにはどうすれば」
首をひねるポールに、エドガーは微笑《ほほえ》む。
「そろそろ引っかかるんじゃないかな。餌《えさ》は投げ込んでおいた」
ちょうどそのとき、ノックの音がした。レイヴンは正確に反応してドアを開ける。現れたのは三人の男だった。
屋敷の所有者のチェバーズ、今夜のオークションを運営しているベック、そしてダーンリイの知人だったというコーエンだ。
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》、オークションでの購入をひかえた方がいいと皆さんに話していらっしゃったそうですが、いったいどういうことでしょうか」
チェバーズは困惑《こんわく》しきった様子だ。無理もないだろう。このパーティのためにそれなりにお金をかけているはずで、資金回収がままならないのは問題だ。
「その話を聞いたのなら、事情は理解しただろう? チェバーズさん、あなたはダーンリイ氏の相続人ではなくなった。いや、いずれ正式にそういうことになるだろう」
椅子《いす》から腰をあげようともせずに、エドガーは鷹揚《おうよう》に彼らを眺《なが》めた。
「何かの間違いでは? アシェンバート卿《きょう》、誰からそんなことを聞いたのか知りませんが、ダーンリイ氏には孫などいませんでした。私は何度も彼と会っているし、ここを訪ねてもいます」
コーエンが、おだやかな口調でエドガーを諭《さと》そうとする。
「そうだ。孫がいたなら、管財人がわざわざチェバーズ氏をさがし出す必要もなかったわけだ。彼だって、こんな売り物にならない家屋敷をどうするか、頭を悩ます必要もなかったのに……。このオークションを提案した者として、悪意のある言いがかりには黙ってはいられない」
ベックは憤《いきどお》りに顔を赤くした。
「ほう、あなたがオークションの提案を? チェバーズさんを怪奇クラブに誘ったのもあなたで?」
「誘ったのは私ですよ」
コーエンが答える。
さて、誰が本命だろう。中年の男、という大まかすぎる範囲には当てはまる。この三人ではないかもしれないが、いずれ出てこなければならなくなる。
考えながらもエドガーは、次の餌を撒《ま》くべく口を開いた。
「言いがかりではありません。証拠もあります。ダーンリイ氏が注意深く隠していて、僕に託《たく》した。ミスター・フィース・ダーンリイのことを」
「ミスター? 孫娘では?」
「男子です」
犯人はフィリスが男子だと知っているはずだ。ベックの疑問は本音だろうか? エドガーは注意深く彼を観察する。
「なぜあなたに託す。お若いあなたがダーンリイ氏と旧知とも思えないし、少なくとも生前の彼からあなたの名を聞いたこともありませんな」
今度はコーエンの方にエドガーは顔を向け、悠々《ゆうゆう》と微笑んだ。
「あるはずですよ。氏が最期《さいご》まで待っていた伯爵、それが僕です」
エドガーはゆるりと椅子から立ちあがる。背筋を伸ばして立つ、その動作ひとつで、貴族的な印象とともに威圧感も相手に与えることができる。端正な顔に気品のある笑みを浮かべれば、目の前の連中はしばし言葉を失う。
「イブラゼル伯爵、が僕の正式な名前です。あるいは青騎士伯爵、とダーンリイ氏は話したことはありませんでしたか?」
それも意味深に言ってみせれば、相手はエドガーのことを複雑な事情のある人間だと勝手に想像する。謎めいて、太刀打《たちう》ちできない相手だと思わせるのは、エドガーにとって難しいことではなく、勝負に勝つために必要な最初の一手《いって》に過ぎなかった。
「……しかし、なぜ今ごろになってあなたはここへ? ダーンリイ氏の死後も、なぜ孫は隠れ続けているわけです?」
コーエンはなかなか冷静だ。
「ご存じですか? 昔この屋敷に住んでいた、ロチェスター男爵家と、僕の先祖は親しかった。この土地には数々の不思議があって、アシェンバート家が持つ能力を必要としていたからです」
エドガーも冷静に答える。
「孫のフィリスは、鏡の中にいます。この土地が持つ魔力のせいです。そこから出すには、特殊な能力が必要だとダーンリイ氏は知っていたから、アシェンバート家の者が現れるのを待っていたのです」
「か、鏡の中?」
当然の反応は、あきれるのを通り越した驚きだったが、エドガーは堂々と続けた。
「僕は三百年ぶりにこの英国に帰国した、妖精国《イブラゼル》伯爵です。我らが大英帝国に属する妖精の領地を治めることを、女王|陛下《へいか》に認められた者。その僕に、ダーンリイ氏は孫を託した。ならば応《こた》えねばならないでしょう。フィリスがダーンリイ氏の相続人として、名乗りをあげることができるように」
「バカバカしい」
とベックが吐き捨てたが、エドガーの言葉に巻き込まれまいとしたあせりが見えた。
「鏡の中からダーンリイ氏の孫が出てくるから、オークションを取りやめろと?」
「まあまあ、ミスター・ベック、落ち着いて。アシェンバート卿、相続についてはそのフィリスくんが現れてから考えても問題ないのでは? 今夜は予定どおりに。現れない可能性もあるのですからね」
三人の反応に、エドガーはほくそ笑む。
「ではオークションまでに、正統な相続人を連れてきましょう」
これ以上話す必要はなかった。
ポールを促し、エドガーはサロンを後にする。レイヴンは黙ってついてきていたし、ニコはいつのまにか消えていた。
「伯爵、フィリスくんを鏡から出せるんですか?」
やりとりを聞いていたポールが、不思議そうに訊《き》く。
「無理だよ。犯人を見つけて、ルナのことがわからないとね。だけどこれで、オークションまでに犯人が動くだろう」
その人物は、エドガーの言葉が悪ふざけではないと知っている。なら、本当にフィリスを連れてくるかもしれないと恐れるはずだ。
「ポール、リディアとロタをしばらく僕に近づけないようにしてくれ」
はっとした様子で、ポールは表情を引き締めた。
「……しかし伯爵、今は、危険なのでは」
レイヴンの方を振り返ったポールは、エドガーの身を案じている。
犯人の疑いのある連中を挑発し、自分を襲《おそ》わせるようおとりになったエドガーだが、今のレイヴンがふだんのように完璧にエドガーを守れるのかというとよくわからない。むしろ、犯人を殺してしまっては元も子もないから、レイヴンも遠ざけておくべきだろう。
「そうかもしれないね」
リディアに、会いたい。
切実にそう思う。彼女の声を、言葉を聞ければ、少しの危険くらい何でもない。
大階段を通りかかると、壁には鏡が並んでいる。その向こうがわの世界で、彼女は今どうしているのだろう。鏡に映る風景に目を凝らすが、リディアの姿は見あたらなかった。
エドガーとポールは映っているが、レイヴンは映らない。
エドガーは近くの窓から外を眺めやる。
屋敷の周囲に広がる沼は、辺りの風景をすべて映し込む。ならばそのどこかに、リディアの気配を感じることができるだろうか。
「外の空気を吸ってくるよ」
エドガーはそう言って、階段を下りていった。
「ねえケルピー、どこへ行くの?」
リディアは目の前を歩くケルピーに問いかけた。ついさっき、リディアひとりを呼びつけた彼は、黙々と沼の畔《ほとり》を歩き続けている。
「俺と散歩するのはいやか?」
「そんなことないけど、散歩ならそう言ってくれれば、三人で楽しめるんじゃない?」
「三人ね……、って、何でおまえがついてくるんだよ!」
振り返り、ケルピーは一喝《いっかつ》するが、動じる様子もないままレイヴンはリディアの後方にいる。
「主人の奥さまを馬とふたりきりにするわけにはいきません」
ケルピーは舌打《したう》ちする。
「結婚したならもう少し余裕持ったらどうだ?」
「リディアさんに関して、エドガーさまは常に余裕なしですから」
そうかしら、とリディアは首を傾《かし》げる。リディアから見れば、エドガーはいつも自分のペースで余裕たっぷりで、何もかも自分中心だからリディアは戸惑うばかりだ。
もっともリディアも、人妻としてもう少し余裕を持たねばならないところだろう。
彼の言い訳もちょっとしたうそも、夫婦のいとなみも、いちいち大げさにとらえすぎていると感じながらも、子供っぽさが抜けないのだ。
「リディア、そろそろ結婚を後悔してないか?」
また前を見て歩きながら、ケルピーは言う。
三人ぶんの草を踏む音がする。鏡像の世界なのに、と不思議な気がする。
「バカなこと言わないでちょうだい」
「相変わらず面倒《めんどう》に巻き込まれて、そのくせ名ばかりの青騎士伯爵にはどうにもできやしない」
「こういうことはあたしの役目なの。あたしが伯爵家のために、どうにかすべき問題なのよ」
伯爵家のフェアリードクターになることは、少なくともその決意に沿って行動することは、リディアには難しくはないと思う。けれどエドガーにとってよき妻になろうということは、決意しても思い通りにできていない。
だからリディアは、そのことを考えると気が重くなる。帰れないかもしれない、ということよりももっと深刻に思える。
「ねえレイヴン、あたしのこと、エドガーは何か言ってた?」
「はい。愛していると」
ケルピーはまた舌打ちし、リディアは赤くなる。
「それは、おとなしくなったあたしに言ってるんでしょう?」
「同じことです」
同じではないと思う。あちらのリディア≠ヘ、エドガーをひっぱたいたりはしないだろう。
彼は今、ここにいるリディアのことをどう思っているのだろうか。わからないから不安は増した。
エドガーには、フィリスを殺そうとした男がルナの手がかりを握っていることを、ケルピーに頼んで伝えてもらった。
エドガーはその男をさがしてくれるだろう。当分リディアはそれを待つしかないが、どこにいるのやらわからない男をさがすとなると、人手が必要になるだろうし、母親の事件について調べるためにも、エドガーはここを離れるだろう。
そう思えば、淋《さび》しい気持ちを隠せなかった。
彼がこの屋敷を発《た》ってしまえば、姿を見ることもできなくなるのだ。
「そんなのは、本人に確かめりゃいいだろう」
急にそう言ったケルピーが立ち止まった。
道の先にある小さな橋を指さす。
陽光が注ぐ。大きな木の枝が、橋を覆《おお》うように垂れかかっている。木漏《こも》れ日を散らしながら水面《みなも》に映り込む橋には、人影がある。
目の前の橋には誰もいない。けれど水面に映る影には人がいる。鏡の向こうの世界で、橋の上にたたずんでいるのはエドガーだ。
「めずらしくあいつが俺をさがしてたから何かと思ったら、どうしても会いたいってさ。鏡越しでいいからって」
ケルピーだけが、鏡の内と外を行き来できるのだ。けれどエドガーがケルピーに頼み事をするとは意外だった。
「黙って連れてきてくれって頼まれたが、言うことを聞いてやる義理はないからな。けどおまえが会いたいなら、俺がこの機会を握りつぶすわけにはいかないだろ」
エドガーはまだ、会おうとすればあの夜のように、リディアが逃げ出すと思っているのだろうか。
立ち止まったリディアの足は震えていたけれど、エドガーが怖いのではなかった。どんな言葉で詫《わ》びればもとの関係に戻れるのかわからなかったから、怖かった。
触れ合って、キスすることもままならないここで、ぎこちない態度になれば、ますます溝が深まってしまわないだろうか。
それでもリディアは、橋の方へと足を踏み出そうとした。
きっと彼は、ここを去る前にリディアに会おうとして来たのだろう。ロンドンへ帰ってやるべきことがあるのだから。
今度はいつ会えるのかわからない。会って、このあいだのことをあやまって、待っていると伝えたい。
わがままを言ったけれど、嫌わないでと。
エドガーはじっと水面を見つめていたのだろう。橋の上に映るリディアの影に気づいたのか、ゆるりとこちらに首を向けた。
どきりとしたリディアは、足を止める。
「リディア?……リディアだよね。そこでいいからいてくれ。僕の見えるところに」
急いでそう言い、心配そうにつけ足す。
「聞こえてる?」
リディアは頷く。
「……あのね、エドガー、あたし……」
言いたかったこともすっかり頭から消えて、つい言葉に詰まるリディアだが、彼はやさしく微笑みかけた。
「よかった、ちゃんと声が聞こえる。ねえ、もう少し近づいてもいい? 顔をよく見せてほしい」
顔をあげようとしながらも、リディアはなかなかエドガーをまともに見られない。
「おい伯爵、しっかりリディアの気持ちをつかんでおけ。でないと俺がかっさらうからな」
ケルピーはきびすを返す。わざと沼地の水面を蹴って駆け出すと姿を消した。
波に乱れた水面のせいで、一瞬エドガーの姿が見えなくなる。
しかし波紋が消えたときには、エドガーの影がすぐ目の前にあって、リディアはあわてた。
「ど、どうして急に近づくのよ!」
「よかった、いつものリディアだ」
水面から覗き込むようにこちらを見ている。会いたかった人だと意識すれば、気まずくてももうリディアは離れたくはなかった。
「やだ……、あたしいつも怒ってるみたいじゃない」
いつも怒っているかもしれない。
せめて今は、笑顔を見せなければ。
「リディア、きみに話したいことがある」
けれどエドガーがまじめな顔でそう言えば、リディアは笑顔になれなかった。
ここを離れる話に違いない。あの従順なリディア≠連れて帰るのだから、彼にとっては別れの感覚は薄いのだろう。
それを実感したくなくて、リディアは自分から口を開く。
「わかってるわ、エドガー。オークションが終わったらロンドンへ帰るのね? あたしのことは気にしないで。ロタもレイヴンもいるし、淋しくないわ」
エドガーは困ったような顔をした。
「僕がいなくても平気、なのか」
ああまたやっちゃった。
どうして素直に、かわいげのあることを言えないのだろう。
「そ、そうじゃないの。心配しないでってことよ。ボギービーストがいたずらをするけど、ケルピーがいるから……」
「そう、ケルピーがいれば安心だろうね」
これもまずかった。
「あっ、でも彼は妖精だし。……だから、えと、エドガーはルナの手がかりを見つけてくれるんでしょう? それまで、待ってる」
エドガーの表情はゆるまない。
「本当に待っててくれるの? 何度も待たせたのに、僕は鈍感《どんかん》になってた」
小さなことが積み重なって、大きなケンカになってしまった。でもそのことは、リディアは考えたくなかった。
「……あたしだって、あなたをたくさん困らせたわ。でももう、わがままは言わないから、安心して」
苦心して、リディアは微笑みを浮かべることができたのに、彼はさらに眉《まゆ》をひそめた。
いけないことを言っただろうか。どう言えば、エドガーは気に入るのだろう。わからなくてリディアはあせる。
「そっちにいるあたし、迷惑かけてない? たぶんあたしみたいに逃げ出さないと思うけど、いちおう、その、やさしくしてあげて……」
やだ、何を言ってるのかしら。
「しないよ」
「え」
「だってきみの心がないのに、無視して抱くことはできない。それじゃあこのあいだの僕と同じだ」
苦しそうなエドガーに、リディアはまたあせった。
「そ、そうよね。あたしを見ればいやなこと思い出すのに、そんな気分になるわけないわよね」
エドガーはため息をつく、話せば話すほど、溝が深くなっているのではないだろうか。
「リディア、そんな話をしに来たんじゃないんだ。本当の言葉を聞かせてくれ。きみの今の気持ちを」
本当の気持ち? そんなことを考えたら、またわがままなことをしてしまいそうだ。
「少しくらいすれ違いがあっても、僕たちの関係にひびが入ることはないと思ってた」
ああ、そうなんだわ。
自分たちは、あのとき壊れたままなのだ。
そのことを、リディアは認めたくなかったのだろう。
あのときのことに向き合うのは怖かった。鏡の内と外にいては、なんとなく許し合っていつのまにか元通りになることができないままだった。だから彼の気持ちがわからなくなっている。
自分がどういう態度を取ればいいのかもわからない。
エドガーの方も、きっと同じなのだろう。
「……あたしのわがままは、あなたの気持ちにひびを入れてしまったの?」
震えを抑《おさ》えて、リディアは言った。
「違うよ、きみはわがままなんかじゃない。あのときは僕がどうかしていた。でもきみはまだ、僕を怖いと思ってるだろう?」
エドガーへの気持ちは変わらない。以前と同じように触れあいたいと思う。意識のないリディアがそうしているように、素直になれればどんなに幸せだろう。
その一方で、今度彼に求められたとき、以前と同じ気持ちになれるのかどうか自信がなかった。
「わからないわ。今は、触れあえないもの。だから、あなたの本当の心がわからない」
もう、自分の正直な言葉しか出なかった。エドガーがよろこびそうにもない言葉だ。
それでも彼は、やっと表情をやわらげた。
「だったら、触れ合えばわかるよね。なら約束する。二度ときみを怖がらせたりしない。抱きしめて、僕のもとへ戻ってきたってよろこびと安心で満たしたい。そのときのために、必ずそこからきみを連れ戻す」
力強い口調に、リディアはどきりとする。
胸が熱くなって泣きそうな気持ちになると、戸惑いや不安や彼がわからなくなっていたことがぜんぶ、些細《ささい》なことに思えた。
何よりも、今すぐ腕の中へ飛び込んでいきたかった。
不可能なことだった。リディアは顔を両手で覆《おお》った。
「リディア、きみのそばを離れたりしない。ロンドンへ帰るときはいっしょだ」
そんな言葉が聞こえたと思うと、また彼の口調は硬くなった。
「レイヴン、リディアを頼む」
いつのまにか彼女のそばに、レイヴンの気配があった。
ケルピーが去っても、まだそこにいたらしい彼は、エドガーに会いたかったのだろう。顔をあげたリディアの視界、水面に映る世界の内と外で、主従の視線が交わる。
岸辺の草が動いたのか、そのかすかな揺れは沼に生える草にも伝わり、水がにわかに波立った。
エドガーの姿がゆらぐ。かろうじて、その背後に人影が近づくのがわかる。
男がひとり、手に斧《おの》を持っている。
それが振り上げられ、リディアが悲鳴をあげると同時に、エドガーが身をひるがえした。
もう来たか。
そう思いながら体を反《そ》らすエドガーの耳元で風が鳴った。斧が空を切る音だった。
空振りをして、一瞬よろけたものの、男はまたエドガーに向き直る。それよりも先に動いたエドガーは、振り上げられた腕をつかんで止めるが、勢いに押されて後ずさった。
もみあいながらも、エドガーは帽子を払いのける。男の顔があらわになる。
目をつけた三人の中で、いちばんおだやかな紳士の顔をしていた男だった。
「コーエン……」
「……きさまの、ねらいは何だ? 本物の青騎士伯爵だと? あんなのはおとぎ話だ!」
そう言いながらも彼は、エドガーのことを殺さねばならないと思うほど危機感を持っている。
水面に映るレイヴンが、こちらに駆け寄ってこようとするのがわかったが、鏡の中にいる彼にはどうにもできない。
それでもレイヴンが何か訴えようとしている。水面が乱れたせいか声はよく聞こえないが、彼の注意がコーエンに注がれていないことにエドガーは気がついた。
とっさにコーエンを放し、振り返ろうとしたが。
背後から誰かがエドガーにつかみかかる。今度はその男ともみあいながら、草の上に倒れる。
チェバーズだった。
「放すな、押さえつけろ!」
コーエンが命じる。必死のチェバーズは、フィリスが現れればせっかく舞い込んだ遺産を手放さねばならないと恐れ、協力をするようそそのかされたのか。
リディアの悲鳴が聞こえたような気がした。彼女に無様な姿は見せたくない。
エドガーは力任せにチェバーズの腹を蹴り上げるが、コーエンの斧が目の前にせまった。
と、斧を振り上げたその体が不自然に飛んだ。
斧がくるくると空中を舞い、コーエンは沼に転がり落ちる。エドガーの前に立った褐色《かっしょく》の肌の少年は、うずくまるチェバーズに目をつけるとさらに蹴りを入れた。もはや動けない彼の首に、さらに手をかける。
「レイヴン、もういい」
エドガーの声に反応して、チェバーズから手を放すが、小柄な男はとっくに失神していた。
「ふう、レイヴンを連れてきてよかったよ。伯爵、あんたがひとりで出ていくのが見えたからさ」
ニコが声とともに姿を見せる。灰色の優雅なしっぽをゆらしながら、二本足で立つ紳士に、エドガーはめずらしく素直に感謝していた。
「ああ、おかげで助かったよ、ニコ」
「礼ならスコッチでいいぞ」
働いたのはレイヴンだが、と苦笑しながらもエドガーは頷く。
それよりも、コーエンをどうにかしなければならなかった。沼に落ちた彼は、泥に足を取られてもがいていた。
もがくほど彼の体は、水の下に深く積もった泥にとらわれて沈む。
「ふうん、意外と深い沼なんだね」
岸辺でコーエンを見おろし、エドガーは冷たく言う。コーエンの太い眉《まゆ》が複雑にゆがんだ。
「……た……助けてくれ……」
もはやせっぱ詰まっていたのだろう、彼は殺そうとした相手に向かってそう言った。
水面が濁って乱れ、リディアの姿が見えない。そのことが、エドガーをさらに不機嫌にする。
「は? 何だって? 僕を殺そうとしたんだ、当然|地獄《じごく》へ行ってもらうよ」
「待ってくれ……金が目当てか? い、いくらほしいんだ……」
エドガーは少し考える振りをした。
「聞きたいことがある」
そう言うと、コーエンの表情に小ずるさが戻った。駆け引きでなら、エドガーのような若造より優位に立てると思ったのだろう。
しかしエドガーにしてみれば、そう思わせてやっただけだ。かすかにいだいた希望をうち砕く、そうすれば簡単に意のままにできると知っている。
「あなたがフィリスの母を殺し、彼のことも殺そうとしたんだね?」
「……知らない、私は何も……」
いまさらとぼけようとするのも予想の範囲だった。エドガーはコーエンの斧を拾いあげ、にやりと笑って岸辺に立つ。
「なら選ばせてやろう。そのままじわじわと、泥水をたっぷり飲み込みながら死にたいか、これで今すぐ頭を割られた方がいいか。よく考えた方がいいよ。きみの凶器は投げるには不向きだ。当たり所によって息絶えるのに時間がかかるだろうね。頭が割れる苦痛と泥水が肺《はい》や胃《い》を満たす苦痛と、両方味わうことになるかもしれないな」
コーエンは青ざめた。口ごもった声は、返事にもなっていない。
「は? 聞こえないよ。なら僕が決めてもいいかな?」
エドガーは斧を手に腕を振り上げた。
「は、話す、何でも言うから助けてくれ!」
あっさりと手中に落ちる。腕をおろしながらも、まだ斧をもてあそびながらエドガーは問うた。
「それでいい。そう、フィリスのときだよ。部屋に侵入し、逃げようとした彼を追い詰め、首を絞《し》めただろう?」
「そ……そうだ」
「殺したフィリスをどうした?」
「それは……、消えた。信じてくれ、本当なんだ! 部屋から運び出したとたん、消えて、石ころになった……」
「石?」
「うそじゃない!」
必死になる。フィリスが鏡の中にいるという話を笑いながら、死体が石になったと力説しなければならなくなったコーエンはあわれに見えた。
「黄色っぽい、奇妙な石だった。気味が悪くてそのままにして逃げた……」
黄色の、石。エドガーは無意識に上着のポケットに触れ、妖精が運んできたという黄金色のジルコンの感触を確かめていた。
これはただのジルコンの結晶ではなさそうだった。ルナと関係があるとしても頷ける。
「早く……助けてくれ……」
コーエンがうめく。
胸まで泥に埋まっている男を引きあげるのは簡単ではないだろうと思いながら、エドガーは薄く笑った。
「ま、まさか……見殺しにする気か……?」
「そんなに怖がらなくていいじゃないか。あなたを殺すのに、何も僕が手を汚すことはない、助けてあげるよ」
助かったところで、身の破滅はまぬがれないのにとあわれに思いながら、レイヴンの方に首を向ける。
ロープと人手を調達してくるように言ったときだった。
ぎゃあっ、とコーエンが悲鳴をあげた。
唐突に暴れ出し、はげしくもがく。恐怖に見開かれた目は血走って、尋常《じんじょう》ではないことが起こっているとだけわかる。
「や、やめろ!」
悲鳴の合間に、コーエンが叫んだ。
「誰かが私の足を、は、放せ……!」
ずぶずぶと、見る間に彼は沼に沈んでいく。
「う……うわあっ!」
背後から聞こえた別の叫びは、気がついたらしいチェバーズのものだった。彼はコーエンの状況に混乱し、おびえきった顔をすると、もつれる足を動かし、這うように逃げ出す。
エドガーが沼地に視線を戻したときには、泥の中からもがく手が突き出ていたが、それもあっという間に沈んで消えると、辺りは唐突に静まりかえった。
「ボギービーストだよ! あの男、向こうがわに連れ去られたんだ!」
ニコが叫んで手足をばたばたさせた。
「向こうがわって、鏡の中の世界か?」
「ああ、でももっと問題だ。あの男の悪意に、ボギービーストが魔の手をのばしたんだ。こっちで肉体が死んでしまったら、魂《たましい》ごととらわれる。ボギービーストがあやつる怪物になるかもしれない」
言いながら、背中の毛を逆立てる。
「何だって? 向こうにはリディアたちがいるんだぞ」
エドガーもあせるが、ニコもあせっていた。
「リディア……ああ、姿が見えないよ。まだこのあたりにいるなら危険だし……。おい伯爵、どこへ行くんだよ」
「浮き草の茂みの向こうなら、水が澄んでいる。リディアの様子がわかるかもしれない」
けれどエドガーが歩き出したとたん、空からぽつりと水滴が落ちてきた。さっきまで晴れていたはずなのに、いつのまにか雲に覆われている。降り出した雨はじきに激しくなり、沼地の水面はすっかり雨に乱されてしまう。
これでは鏡の役目を果たさない。
エドガーは、意図してリディアと引き裂かれたかのように感じていた。
「ニコ、これもボギービーストのせいか?」
「ああ、あのコーエンの悪意を得て、力をつけてるに違いないよ」
レイヴンがリディアのことを守ってくれるだろうか。しかし、そばにいられないのは心配でどうにかなりそうだ。
「……僕も向こうがわへ行く」
エドガーはつぶやいていた。
「な、何言ってんだよ。戻れるかどうかわからないんだぞ」
ニコはまた、あたふたと手足を動かした。
「リディアといっしょにいられるなら、どこだろうとかまわない」
「だいたい、どうやって行くつもりだよ。おれには無理だぞ。相当魔力の強い妖精じゃないと」
ケルピーしかないか。
(水面と鏡面がひとつになっていない今は、あの水棲馬《すいせいば》も向こうがわに足止めをくらっているでしょう)
声だけが空中で聞こえた。
「アローか?」
呼びかけると、エドガーの足元にスターサファイアが飾られた仰々《ぎょうぎょう》しい剣の姿で現れた。
(マイ・ロード、たまには私を思いだしてください)
そうは言ってもこの妖精は、ふだんのエドガーには姿を見ることができないのだ。おまけにその本体の剣は、長くて重くてドラゴンを相手に戦うような時代の剣だ。使える状況が限られている。
「おまえは? 僕を向こうがわへ連れていけるか?」
(残念ながら)
「何をしに出てきた」
(まあそうあわてないでください。剣に映る鏡像に、しばしあなた自身の意識を移すことはできます)
「ならそうしてくれ」
(ただし、あなたの鏡像は、この地の鏡の世界には存在しない異質なもの。向こう側にとらわれた人に触れないようにしてください。彼らは魔法にかかっているので、触れてしまうと私の魔力が消え、こちら側に戻ってしまいます)
「……リディアに触れられないのか」
しかし、選択の余地はなかった。
エドガーを襲った男が、フィリスを殺そうとした犯人だった。沼の水は乱れ、リディアには何が起こっているのかよくわからなかったが、エドガーが男に尋問《じんもん》していた声は聞こえていた。
異変が起こったのは、突然だった。
赤耳のボギービーストが現れ、沼に落ちた男を引きずり込んだのだ。
ここは危険です。
そう言ったレイヴンとともに、リディアは橋の上を離れようとした。
しかし見る間に、影のように黒い泥が沼から噴き出してきた。
さあ来い、と木の上にのぼった赤耳がはやし立てて笑っている。
黒い泥は、怖ろしい形相《ぎょうそう》をした男の姿で沼の中に立ちあがる。
赤耳に引きずり込まれた、フィリスを殺そうとした男の悪意は、もはや人の意識を持ってはいなかった。
リディアはレイヴンと駆け出していたが、赤耳が足元に投げつけた枯れ枝につまずき、転倒した。
(じゃまなフェアリードクターめ)
声を耳にしながら、立ちあがろうともがいたが、黒い影がリディアに襲いかかる。
泥にまみれた手が首にかかる。
それよりも、血走った目が間近にせまり、悪意のかたまりに覗き込まれたようで全身が震えた。
すぐにレイヴンが男に飛びかかり、リディアを助け出してくれたのはおぼえている。けれど毒気に当てられたのか、そのままリディアは倒れ、動けなくなった。
「エドガー……」
無意識に、心を占めている人の名が声になってこぼれた。
「リディア、ここにいるよ」
声が聞こえた。夢を見ているのだとリディアは思った。目を開けたら、夢は消えてしまうだろう。
だから目を閉じたままつぶやく。
「お願い、そばにいて……」
夢の中だから、わがままを言ってもいいような気がしていた。
「ロンドンへ帰ったら、あたしのこと、忘れてしまうでしょう?」
「忘れるわけないじゃないか」
「……待つのは、怖いの」
戸惑うような間があった。返事がなくて不安になり、目を開けてしまいそうになったころ、ごめん、と彼の声が聞こえた。
「もう待たせたりしない。そばにいる」
「……うそよ」
「うそじゃない」
「だってあたし、ひどいことしたわ」
「僕のせいだった」
だんだんリディアは、目覚めてきていた。自分は横たわっている感覚がある。たぶん、昨日の寝床、藁《わら》を重ねたベッドの上だ。
これは夢じゃない。でも、エドガーの声は間近に聞こえる。
あたしは、どうかしてしまったのかしら。
「リディア、僕の心がわからないと言ったね。今はまだ触れあえないけれど、近づくことはできるよ」
彼がそばにいるという気配さえない。けれどなだめるような口調は、リディアの髪を撫《な》でる仕草を思い出させた。
「近づく……の?」
「キス、してもいい?」
いつもはそんなこと聞かないじゃない。
「心の中でね」
そしてわかる。心の中で触れ合うための言葉だ。
慎重に重なる唇を思い出す。やさしくてやわらかくて、自分が溶けてしまいそうになる感覚を思い出す。
早く、この腕の中に帰りたい。泣きそうになるのを、リディアはこらえる。
「怖くなかった?」
頷くと、よかった、と心からほっとしたようなつぶやきが聞こえた。
「目を開けてごらん」
消えてしまわないだろうか。それでももう、確かめずにはいられなかった。
まぶたを開くと、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が目の前にある。彼が微笑むと、金色の髪がさらさらとゆれる。
「エドガー……、どうしてここに」
ぼんやりとしながらも、リディアは考えをめぐらす。周囲を見まわせば、たしかにここは庭園の片隅にあった小屋だ。リディアはまだ、鏡の中の世界にいる。
「まさか、ケルピーがあなたを……」
藁のベッドからあわてて起きあがろうとすると、
「俺じゃねえよ」
戸口に現れたケルピーがふてくされた顔をした。
「ったく、ひどい雨だ。沼の水面が乱れてる間は、この俺さまでさえ行き来できなくなっちまった」
言われてみれば、さっきから雨音が続いていた。
「僕はアローの魔力で来たんだ。コーエンが|悪しき妖精《アンシーリーコート》に引き込まれて、きみのことが心配でたまらなかった。でも、宝剣に映した僕の像はここではもろいものらしくて、こっちで人に触れてしまうともとの世界に引き戻される」
「じゃ、あなたは帰れなくなっちゃったわけじゃないのね」
リディアが心底ほっとすると、エドガーは複雑な顔をした。
「僕と触れあえないのは不満じゃないのか」
そういえば、そういうことだ。
けれどエドガーの顔を見れば、苦しかった毒気のようなものは退いてきていた。
彼がそばにいるというだけで、不安も恐怖も薄らぐ。
心は、些細《ささい》なことでくじけそうにもなるけれど、たしかな拠《よ》り所《どころ》があれば強くもなる。
「そうだわ、エドガー、あのジルコンの結晶よ!」
再会を喜び合うにはまだ早い。ついフェアリードクターの意識に戻ってしまうリディアに、エドガーは苦笑した。
「起きたとたん、いつものきみになるね。さっきはすごくあまえてくれてたのに」
寝ぼけ半分で言ったことは、もちろんおぼえていたから、リディアは彼から顔を背《そむ》けた。
今のエドガーが、こちらに触れられない状況でよかったかもしれないと思う。でなければ彼は、無理やり抱き寄せて顔を覗き込むだろう。
「そ、それより、ルナをよみがえらせれば帰れるのよ。あのジルコンがルナだったとわかったんだもの。あとは……」
どうすれば、ジルコンをルナという妖精に復活させることができるのかだ。
「でも、ジルコンは鏡の中へは持ってこられなかったよ」
あれがルナの化身《けしん》なら、鏡には映らない。つまり、こちらがわに存在しない。
「向こうにいるあなたが持ってるのね」
しかし、エドガーまでこちらに来てしまったとなると、あちらにはポールとニコしかいない。
「後のことはニコに頼んだ。ポールも協力してくれると思うけど、どうなってることだか」
エドガーも、リディアやロタと同じように、向こうがわでは無意識に動いていることになる。
「エドガーさま、リディアさんのほかに妙齢《みょうれい》の女性はいませんでした。欲望に歯止めがかからなくなっても、浮気の心配はありません」
そう言ったのはレイヴンだ。彼が部屋の隅《すみ》にいたらしいことに気づき、そのうえとんでもないことを言うからリディアは赤くなった。
エドガーは咳払《せきばら》いをする。
「レイヴン、そんなに僕は節操《せっそう》のない男じゃないよ。無意識だったって、根っからの紳士なんだからね」
これほど信用できない言葉はない。
「しかし海賊娘だって若い女……」
「問題外です」
ケルピーの口出しを、レイヴンはばっさり切った。
大丈夫かしら、あっちのあたし。少々不安になりながらエドガーをちらりと見る。
彼はにっこりと微笑む。
「リディア、僕たちは夫婦だ。少々のことは大目に見てくれるよね」
「そ、それよりルナのことよ」
考えないことにして、リディアは話を戻した。
「ダイアナのロケットペンダントを飾るジルコンも、ルナの一部だってことになるわ」
「昔、青騎士伯爵は、この地の領主に絵を贈り、それと引き替えに魔法の地図を得た。そういうことだったね。妖精国の地図を特殊なものにしているのはあの宝石で、ルナの魔法だということになる」
エドガーの言葉に、リディアは頷く。
「だからルナが戻れば……、地図も変化するんじゃないかしら。白紙ではない状態を取り戻すかも」
「謎を解く鍵はすべてルナか。リディア、ジルコンをどうすればルナがよみがえるのか、わかるかい?」
リディアは悩み、一生懸命に考えた。
「……ルナの生命の源になってる場所へ返すしかないんじゃないかしら。妖精はもともと、土地や自然環境とつながりが深いものよ。彼女が生まれた場所なら、きっとあのジルコンに生命の力が吹き込まれると思うの」
「生命の源って、空かい? 月ほども高くジルコンを運ぶなんて無理じゃないか?」
「だな」
とケルピーが相づちを打つ。
「月は空にちゃんとあるわ。だから、たとえば月夜に咲く花とか、月を愛した何かの魂《たましい》かもしれない」
「彼女が何の妖精かわかればいいのか」
アウルなら知っているだろうか。
でも彼に、自分たちが味方だとどうやって信用してもらえばいいのだろう。
「リディア、ここだったのか! よかった」
考え込んでいると、ロタの声がした。扉が壊れたままの戸口から駆け込んできた彼女は、フィリスを連れていた。
「小さな黒い妖精たちがやたら騒ぎ出してる。何かあったのか?」
「ええ、じつは、強い悪意がこちらの世界に流れ込んできたの。それで、|悪しき妖精《アンシーリーコート》たちが活気づいてるんだわ」
「コーエンのせいか」
エドガーは眉《まゆ》をひそめた。
ロタはエドガーをあきれたように見たが、やっぱり来たかとつぶやいただけだった。
「リディア、悪い妖精にひどいことをされなかった? フェアリードクターをぶってやったってあたしに言うの」
心配そうに駆け寄ってきたフィリスは、リディアのひざにすがりつく。オレンジの髪がふわりとゆれる。
「あたしのことも、ぶとうとしたのよ」
「追い払ってやったけどな」
ロタがげんこつを突き出してみせる。
華奢《きゃしゃ》な肩といい、色白な頬といい、ドレスに包まれた細い腰も、少女にしか見えないフィリスを、リディアはどうしても妹のように感じながら髪を撫《な》でる。
しかしエドガーは違っていた。おい、とフィリスを見おろした。
「長年鏡の中にいて社会の常識を知らないのかもしれないが、人妻に手を出した男はいきなりピストルで撃たれても文句は言えないんだよ」
驚くフィリスをにらみつけながら、人差し指でレイヴンを呼ぶ。エドガーと視線をかわしただけでレイヴンは頷き、フィリスの両頬をひねった。
「エドガー! な、何をするのよ!」
フィリスをつねっているのはレイヴンだが、そうさせているのはエドガーだ。
「だがとても一人前の男ではなさそうだから、これで許してやろう」
レイヴンは手を放す。
フィリスはあまりのことに呆然《ぼうぜん》としたのか、目に涙をためながらも泣き出さなかった。リディアは立ちあがって、抗議の声をあげた。
「どうしてそう焼き餅《もち》を妬《や》くの?」
エドガーはあきれたように肩をすくめる。
「まったく、きみは男をわかっていない。妙に潔癖《けっぺき》かと思うと、こういうことには無防備すぎる」
「リディアさんが無防備でないのは、エドガーさまに対してだけです」
レイヴンが何気なく口をはさんだ。
「そういえばそうだよな」
とロタまで同意すると、エドガーは憤慨《ふんがい》した。
「何だって? 間違ってるだろう。僕にはいくら無防備になってもいいけど、他の男に気を許しちゃだめじゃないか」
「で、でも……それは」
困惑し、リディアは返事に詰《つ》まる。
「あんたがいちばん危険だからだろ。気を抜いたら何をされるかわからない」
ロタの言葉に思わず頷きかけたリディアだが、急いで姿勢を正した。
エドガーの前で気を抜けないのは、もう、身についた習性のようなものだった。恋人になっても、夫婦になっても身構えてしまうのは、想いを自覚するまでにせまられ続けたせいかもしれない。
[#挿絵(img/zircon_237.jpg)入る]
「えと、エドガー、フィリスはそんなのじゃないのよ。彼はフェアリードクターとしてのあたしを頼ってくれて」
「リディア、その考えが無防備なんだ。こんなチビでも、数年でヒゲだらけになるんだよ。そんなのがきみのひざに頬擦《ほおず》りするなんて許せない」
フィリスはあわてて頬をさすり、あきれ果てた様子のロタが間に割り込んだ。
「それより、みんなで屋敷に移動しよう。ポールとニコが鏡の部屋で待ってる。集まって話し合おうって言うから、みんなをさがしに来たんだ」
「屋敷の中には入れそうなの?」
「アウルは日没まで眠ってるみたいだから、こっそり入れば大丈夫だろ」
「それがいい。コーエンに見つからないように、急いで行こう」
さっきまでのふざけた態度を一変させ、エドガーが神妙にそう言ったのは、雨音に紛れて誰かが叫んでいるような声が聞こえたからだった。
あの男の悪意が、沼の周囲をさまよっているのだ。
きっと、フィリスをねらうだろう。アウルの領域である屋敷の中の方が、いくらか安全に違いない。
「怪物の様子を見てくる」
ケルピーがそう言って姿を消すと、みんなして急ぎ足で小道を進んだ。
緊張感に包まれた中でも、エドガーはフィリスの方を見て軽口をたたく。
「きみはなかなか、女を見る目があるようだ」
フィリスはちらりとリディアを見て、顔を赤らめて目をそらした。
「女の格好に逃げ込んでるうちは、僕のライバルにもならないけどね」
[#改ページ]
月とミミズクと青騎士伯爵
壁を埋め尽くす鏡の向こうには、この部屋とまったく同じ家具や調度品が映っていた。そんな中、白い椅子《いす》にニコとポールが座っている。
リディアたちが鏡の前に姿を見せたとき、ポールはさすがに驚いた様子だったが、すぐに安堵《あんど》したように頬《ほお》をゆるめた。
「本当に、皆さんそっちにいらっしゃったんですね」
「ポール、すまないね。きみには迷惑をかけるけれど、僕たちが元に戻れるまでよろしく頼むよ」
ポールは神妙に頷《うなず》いた。
「はい、今のところ皆さん仲よく過ごしているようです」
「仲よく? みんないっしょにいるのかい? いやだなあ、リディアとふたりきりにしておいてくれないか」
エドガーときたら、いつでもどこでも混ぜっ返すようなことを言う。困惑しながらポールは頭をかく。
「はあ、ですがロタが、リディアさんを守るようにくっついていて」
「さすがはあたしだ」
ロタは満足げに頷くが、エドガーは舌《した》打ちした。
「ポール、ロタはきみにやる。好きにしていいから」
「は? エドガー、勝手なこと言うな!」
「そ、そうですよ伯爵、やるなんて簡単に」
ポールはあせりを隠せない。
「なんだよポール、あたしのこと、いらないのか?」
ロタがあまりにも意外そうに問えば、ポールはますますあせって両手を振った。
「……まさか、そんなことは」
「じゃ、あたしとリディアはポールの部屋に避難させておいてくれ」
むろんエドガーが納得するわけはない。
「リディアは僕のものだ」
「歯止めのきかないあんたとふたりっきりにさせたら、リディアがえらい目に合うよ」
「歯止めがなくても限界はある」
「限界まで何をする気だ!」
どこまでもエスカレートするから、リディアはあわてた。
「ちょっともう……! フィリスもいるのよ、やめてちょうだい!」
「あのう、私は」
ようやくエドガーとロタが口をつぐんだとき、ぽつりと言ったのがレイヴンだ。彼だって、自分自身がどうしているのかは気になるのだろう。
「ああ、もちろん伯爵のそばにいるよ。ちゃんと仕事をしてるから大丈夫だよ」
「ちゃんと見て見ぬふりもしてるしな」
そう言ってニコが笑った。
「ニコさん、そちらがわの私がご迷惑をかけてはいませんか?」
これもレイヴンには気がかりらしい。
「まいったよ。こっちのあんたは、不用意に近づくと俺を撫《な》でまわそうとする」
「うらや……、いえ、すみません」
うなだれるレイヴンに、気にするなとニコは紳士ぶる。こんなにえらそうなくせして、協力してほしいときには怖《お》じ気《け》づくのだ。
「ニコ、言っておきますけど、あなたが逃げ出したから、ロタやレイヴンは鏡の中に入ることになったのよ。安全なところでふんぞり返ってないで、やるべきことはやってもらいますからね」
リディアが強く言うと、いちおうは反省しているのか彼は耳とヒゲをぴょこりと下げた。
「わかってるよ」
「で、ポール、そっちの状況は?」
エドガーが本題に入る。
「オークションは中止になりました。チェバーズ氏は、姿も荷物も見あたりません。ただ、呪《のろ》いがどうとか叫びながら彼が走っていくのを見た人がいまして、怪奇クラブのみんなも騒然としていて、早々に帰る支度をはじめた人も少なくありません」
「そう。中止になったのならそれでいいよ。フィリスのものを勝手に売られるのは避けられた」
「ねえ、ポールさん、地図と引き替えにしたっていう絵を見てみたいの。そこにルナのヒントがあるかもしれないもの」
リディアの意見に、ポールは頷き立ちあがった。
「目の届くところにあった方がいいと思って、ここへ持ってきています」
移動したポールの姿が別の鏡に映し出される、彼はテーブルに伏せてあった絵を起こし、鏡の前にかかげた。
リディアの目には、古い衣装に身を包んだ男女の肖像画に見えた。
「ルナだわ!」
フィリスが突然声をあげた。
「えっ、この女性が?」
「そうよ、ルナよ。ルナの絵がこの屋敷にあったなんて」
「不思議な絵でね、風景画に変わるんだ。きみはきっと、そちらしか見たことがなかったんだろう」
どうして風景画に変わるのだろう。考えながらリディアはエドガーの言葉に耳を傾《かたむ》ける。
「月夜の風景画だ。この屋敷と周囲の森が月光に照らし出されていた。だけど、妙なことに鏡像なんだ。屋敷の形が、ちょうど左右対称になっている」
「鏡像? どうしてなの?」
「わからないけど、この肖像も鏡像だよ」
エドガーは書物の表紙を指さした。
「本当だわ。ルナが鏡の中の住人だからかしら」
ルナが鏡の中の……。何か重要なことが思い浮かびそうな気がしながらも、つかめないまま、もどかしいあせりがリディアを覆《おお》う。
ともかく、これがルナを描いたものなら、彼女の妖精としての本質も描かれているはずだ。リディアは思い直して気持ちを静める。
「ねえ、ルナの隣にいる男性は誰?」
「当時のロチェスター男爵《だんしゃく》、このあたりの領主だった人だよ」
くっきりとした眉に大きな目鼻、精悍《せいかん》な顔立ちをした壮年の男性だ。
誰かに似てるような……。
考え込んだとき、みしりとかすかな音がした。きしむような不快な音に、緊張した次の瞬間、エドガーが叫んだ。
「みんな、伏せろ!」
突然鏡にひびが入ったかと思うと、音を立てて砕け散る。
「きゃあっ!」
次々に部屋中の鏡が割れ、飛び散る破片が降りそそぐ。レイヴンに引っぱられたリディアは、エドガーとソファの後ろへ避難しながら、ロタを目で追う。彼女がフィリスとテーブルの下へもぐり込むのがちらりと見えて安堵する。
間もなく音はやんだけれど、そのときには、部屋中の鏡が粉々になっていた。
顔をあげたリディアが見まわせば、黒くて小さな影のような|悪しき妖精《アンシーリーコート》が、物陰《ものかげ》でくすくす笑っている。
「おまえたち、何をするのよ!」
リディアは立ち上がり、庭園で集めておいた魔よけの木の実を投げつける。
あっけなく彼らは姿を消したが、あんな小さなものまで、魔力を強くしているのだ。
もともと、月の光がなくなってから悪い魔力がたまっていた。それが急に増幅している。
赤耳がコーエンを利用し、この場所をアンシーリーコートのものにしようとしている。
「リディア、廊下の鏡も割られてる。もしかしたら、屋敷中の……」
ロタの声に、エドガーとともに廊下へ駆け出す。ホールへ向かえば、大階段にあった大きな鏡も割れていて、おそらく屋敷の中の、鏡という鏡が壊されているだろうと思われた。
外は暗くなりつつあり、雨はさらに激しさを増している。夜になれば、ますますアンシーリーコートが力を持つだろう。
「沼の水面《みなも》も、今は鏡の役目を果たしていないわ……。現実の世界と完全に切り離されたようなものね」
割られた採光窓に近づき、リディアは沼地の方を見おろしながらため息をついた。
「コーエンを引き込んだボギービーストが鏡を割らせたのか? 向こうがわとの接触を断つために?」
「エドガー、向こうがわのあなたが、ルナのジルコンを持っているからだわ。とにかくルナによみがえってほしくないのよ。月が出るようになれば、彼らの魔力は弱まるもの」
「とすると、ボギービーストのいやがることをすればルナがよみがえるってわけだ。ジルコンをこちらがわに持ち込まれたくないのかな」
「でも、鏡に映らないジルコンを持ち込む方法があるのかしら……。それに、ルナの本質にかかわる場所がわからないわ」
唯一境界を行き来できるケルピーは、アンシーリーコートだ。あの輝きに触れられないだろう。
その前に、雨が降っていては彼も身動きできない。
「おいっ、あの男がこっちへ向かってるぞ!」
そのとき、ケルピーが窓から飛び込んできた。リディアが目を凝《こ》らすと、巨大な影のようなものが、ずるずると体を引きずるようにして近づいてくるのが見えた。
「な、何よあれ」
コーエンだったものだろうか。もはや人だった面影すらない。辺りの悪いものを引き寄せて増幅した化《ば》け物《もの》だった。
赤い耳のボギービーストに操られているのか、それが頭の上に悠々《ゆうゆう》と乗っかっている。
エドガーはレイヴンと、ホールの正面にある玄関の扉にかんぬきをかけ、近くの家具で入り口をふさぎにかかっていた。壁に飾られていた槍《やり》をはずし、斜交《はすか》いにして扉を押さえるが、あの化け物を防げるだろうか。
「逃げなきゃ」
リディアはおびえるフィリスの肩を引き寄せた。
しかしケルピーが、リディアの前に立ちふさがる。
「そいつを置いて逃げれば追ってこない」
「ケルピー、バカ言わないで!」
「もともと、そのぼうやを殺そうとした犯人だろ。だから無意識にそいつを追ってるんだ」
フィリスが驚きに目を見開いた。
「あれが、お母さんを殺した男……?」
「伯爵、あんただってそう思うだろ。リディアのためなら犠牲《ぎせい》のひとつやふたつ平気だろうが!」
振り返りながら、エドガーは壁にかけてあった飾りの剣を手に取った。
「平気だよ。だけど、自分の命をかける覚悟がなくて、他人を犠牲にする気はないな」
リディアたちのところへ戻ってくると、意外にもフィリスに微笑みかける。
「きみのことは、ダーンリイ氏に頼まれたからね」
「おじいさまに……?」
「手紙を受け取ったんだ。僕宛のね」
不思議そうに、フィリスはエドガーを見あげた。
「……あなたは……」
「心配ないわ、フィリス。あたしたち、あなたを守るから」
建物がゆれるような振動とともに、コーエンの化け物が近づいてきていた。小窓の向こうに見える巨体は、植え込みを踏み荒らし、ミミズクの文様が入った柱をなぎ倒す。
扉の前まで迫ったときだった。それは急に動きを止めた。赤耳のボギービーストが屋根の方を見あげてにらんだ。
上方から、茶色の翼が舞い降りる、と思うと赤耳に襲いかかる。
ぎゃっと悲鳴をあげた赤耳は、怪物の頭から転げ落ちる。
「アウルだわ!」
翼の生えた少年は、地面に舞い降りると、大きく腕を振り上げる。少年の華奢《きゃしゃ》な手が、鋭い鉤爪《かぎづめ》のある猛禽《もうきん》類のものに変わると、それで赤耳ののどをねらう。
が、そのとき。
「危ない、アウル!」
フィリスが叫んだ。
化け物が動いたかと思うと、腕ともつかない何かでアウルの体を薙《な》ぎ払った。
はね飛ばされたアウルは、勢いよく地面にたたきつけられた。
そのまま動かない彼にリディアは冷や汗を感じるが、気を取られている場合ではなかった。駆け出そうとしたフィリスを急いで引きとめる。
「出ていっちゃだめ、危険だわ」
「でも、アウルが死んじゃう」
「いや、こっちに気が移ったようだ」
エドガーがそう言ったとき、化け物の赤く光る目が、建物の方に向けられていた。
それはまた、こちらへと近づいてくる。小窓から見ていたリディアたちの死角に入ったかと思うと、激しい音がした。
玄関ホールの扉がきしむ。扉を押さえた家具もゆれ、天井のシャンデリアまで振動する。
「リディア、フィリスとロタと先に逃げろ」
エドガーが言うと、ナイフを取り出したレイヴンが扉の前に立った。
「エドガー……、あれはもう人じゃないわ。人間の武器は気休めにしかならない」
「ああ、それでも妖精は鉄を嫌う。少しは時間が稼《かせ》げるだろう」
そうして飾りの剣を手に、エドガーもそこに立つ。
「心配いらない。必ず、いっしょに帰ろう」
優雅な微笑みを向けられ、リディアが頷くと、ケルピーがのろのろとエドガーの隣に並んだ。
「ちっ、しかたねえな。おまえらじゃ時間稼ぎにもならない。陸地で、おまけに他人の縄張りでも俺の方がましだ」
扉にかかる力は、斜交いにした槍をしならせる。今にも折れそうだ。
「リディア、フィリス、行こう」
ロタが促し、リディアはフィリスの手を引いた。
階段を駆けあがろうとしたとたん、轟音《ごうおん》とともに扉が破られ、雨交じりの強い風がホールを吹き抜けた。
足がすくんだのか、フィリスが立ち止まる。
「フィリス、彼らが何とかしてくれるわ。アウルもきっと助かる」
「……でも、リディア、あなたの大切な人に何かあったら」
「彼は大丈夫よ、約束してくれたもの」
しかしフィリスは、きびしい表情で破れた扉に目を向けた。
黒い化け物が侵入してくる。エドガーたち三人が身構える。
威嚇《いかく》するような化け物の咆哮《ほうこう》がホールに響いたとき、フィリスはリディアから手を離し、化け物の方へと駆け出した。
コーエンの悪意がフィリスを認識したのか、黒い巨体が反応する。
「フィリス、だめよ!」
リディアは止めるために追おうとしたが、フィリスは化け物の前に進み出ると、青い顔で震えながらも両足を踏ん張った。
「……こ、ここはぼくの屋敷だ、出て行け!」
必死に声を絞《しぼ》り出す。
「ぼくは、おまえを許さない。母を殺したおまえを。……実の息子を、殺せるものなら殺してみろ!」
化け物の動きが急に止まった。
「息子? ……コーエンの?」
エドガーが驚きとともにつぶやく。
びっくりして何も言えなくなったリディアの目の前で、黒いかたまりは激しい衝撃を受けたかのように、よろよろと後ずさっていく。
まとわりついていた|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力が薄れ、黒いもやのようなものの中に、コーエンの人としての姿がかすかに見えたかと思うと、赤耳がその足に飛びつく。
赤耳に連れ去られるように、コーエンの姿がかき消えると、フィリスはその場に座り込んだ。
「あの男は昔から、一方的に母に好意を持って追い回していたらしいの。でも、地位のある人らしくて、誰もそんなこと信じなかった。母の思いこみだって……」
ようやく落ち着きを取り戻したフィリスは、ぽつりぽつりと話し始めた。
屋敷の奥まった場所に、広い部屋があった。書庫なのかどうか、背の高い壁は書物に埋め尽くされていたが、片隅には天蓋《てんがい》つきのベッドがあった。
怪我《けが》を負ったアウルが、ここまでみんなを案内し、そしてベッドに倒れ込んだ。
どうやらここはアウルの部屋らしい。
ケルピーだけは、他の妖精のねぐらに入る気にはなれなかったらしく、見回ってくると言ってどこかに消えた。
手当ては必要ないというアウルは、体力を温存する野生の生き物のように、うずくまったきり動かない。
彼は、リディアたちを信用したというよりは、敵を等しくすると受け止めただけなのだろう。
「母には将来を誓った人がいたけれど、むりやり奪おうとしたあの男が……。母の婚約者は、すべて知っても婚約を解消しようとはしなかったそうで、だからあたしはずっと、その人の子だと思ってた。母の友達も、祖父でさえそう思っていたわ」
身ごもった女と結婚するなら、その子の父親でなければあり得ないと思うのがふつうだろう。
けれど、フィリスの母親の名は、ミス・ダーンリイのままだった。
婚約者が失踪《しっそう》したと言っていたけれど、本当に失踪だったのだろうか。
「きみが本当のことを知ったのはどうしてだ?」
エドガーがおだやかに訊ねた。
フィリスはベッドの方をちらりと見た。
「アウルが……」
「知るべきだった」
身動きしないまま、アウルは唐突《とうとつ》に口をはさんだ。
「立ち向かう相手を、フィリスは知るべきだった。行方不明の父親が、生きていれば助けてくれる、などと嘆いていることがどれほど無意味か、悟ってこそ自力で立てる。……そう思ったのだがな」
それでもフィリスは、長いこと事実から目をそらしていた。おびえるばかりで、女の子の格好をやめることもできず、あきらめきっていた。
けれどさっきの彼は違っていた。真実に立ち向かった。
自分が何者か納得した上で、コーエンと戦うという決意が見えた。
「フィリスは、勇敢《ゆうかん》だったわ。あたしたちを助けてくれたもの」
「……沼地はすべてを映す。水辺でのできごとを、ルナは何百年も眺めてきた。フィリスの母に起こったことも、その婚約者に起こったことも、知っていた。彼は沼の底に沈んでいる。フィリスを襲った男に沈められた」
アウルはまた、独《ひと》り言《ごと》のようにつぶやく。
「しかし鏡の向こうがわは、眺めることはできても干渉《かんしょう》はできない世界のこと。それでもルナは、フィリスだけは助けたいと思ったのだ。だから私は、ルナが守ったフィリスにすべてを教えた。彼が再びもとの世界へ戻れるなら、あの男と決着をつけねばならないだろうから」
フィリスのことを、アウルとルナは親代わりの気持ちで見守っていたのだろう。
そうしてフィリスの真実は、コーエンがしたことの意味も揺るがした。どんな手を使ってもフィリスの母は手に入らなかったばかりか、知らずと我が子さえ殺そうとした。そしてそのために、我が子に復讐《ふくしゅう》される運命を悟ったのだ。
怪物の中にもまだ残っていた人としてのコーエンは、絶望し、破滅《はめつ》におびえたのだろう。
「ねえフィリス、アウルはあなたを嫌ってなんかないじゃない」
リディアはフィリスにささやきかける。
リディアのそばから立ち上がり、ゆっくりと、アウルのそばへ近づいていったフィリスは、だらりと伸ばされたままの翼にそっと手を触れた。
「ごめんなさい……アウル……」
ゆるりと翼を動かし、彼は腕をのばすと、フィリスの頭をそっと撫でた。
「私は、子供の扱い方がよくわからないのだ。いや、……もうおまえは子供ではないか」
「よかった、と言いたいところだけど、問題はまだ何も解決していない」
エドガーは、小さな窓から外を覗き見た。
「雨がやまない。アンシーリーコートの魔力は相変わらず活性化しているってことだろう?」
リディアは頷く。
「コーエンの悪意は、赤耳のボギービーストが手中にしてる。力を蓄えて、きっとまた現れるわ」
「ルナをよみがえらせる方法だ。それさえわかれば一気に片づく」
そう言ってエドガーは、アウルの方に体を向けた。
「そのためには、あなたの協力が必要だ。ロチェスター男爵《だんしゃく》」
えっ、とリディアは驚き、エドガーとアウルとを交互に見る。
「ルナと並んで肖像画に描かれていたのはあなたでしょう? 昔のように、僕たちを信じてもらえないだろうか」
体を起こしたアウルは、エドガーに鋭《するど》い目を向けた。
「昔の……とはどういうことだ」
「昔、僕の先祖があなたと友人として取り引きをしたはず。僕は妖精国《イブラゼル》伯爵、エドガー・アシェンバート。そして彼女は妻のリディアだ」
すぐには状況が飲み込めなかったリディアは、紹介された場合にするべきお辞儀《じぎ》も忘れ、不躾《ぶしつけ》にも穴が開くほどアウルを見てしまっていた。
あの絵の壮年の男性が、目の前の翼の生えた少年?
しかしよく見れば、目鼻立ちや輪郭《りんかく》が似ている。あの絵を見たとき、誰かに似ていると思ったのはこのアウルだったのだ。
「青騎士伯爵の血筋は絶えたはずだ。あれから三百年、友としてこの地を訪れた者はいなかった。子孫がいるとは思えない」
アウルはそう言ったが、エドガーに敵意を向けはしなかった。ただ、慎重に見極めようとしているようだ。
「誰も、ここへ来てないの? 伯爵ではなくても、妖精国《イブラゼル》から来た人は?」
ダイアナが訪れたことを期待していたリディアは、重ねて問うが、アウルは知らないと答えた。
ダイアナが英国で何をしようとしていたのか、ここには手がかりがないということになる。
それでも地図の手がかりはある。エドガーとともに運命を切り開くために、リディアも力を尽くしたかった。
「あたしたちは、新しい青騎士伯爵家の者なの。血はつながってないけど、名前も役目も継いでるわ」
リディアに加勢するように、エドガーが、ダイアナのロケットをかかげて見せた。ジルコンがあった部分は空洞だが、ロケットそのものは鏡に映る素材だったようで、エドガーがポケットから取り出したのだ。
「あなたから贈られたものだ」
アウルはそれを食い入るように眺めた。
「たしかにそれは……、青騎士伯爵の要望で、私とルナが贈ったものだ。ルナが蓋《ふた》に髪の毛を埋め込み、魔力を与えた」
あの肖像画と引き替えに、伯爵家に魔法の地図を贈った。アウルは、いやロチェスター男爵は、なぜあの絵を描かせたのだろうか。
考えるまでもなく、それは今の、男爵の状況がはっきりと物語っていた。
「あの絵は、あなたを鏡の中の住人にするためのものだったの?」
アウルはゆっくりと頷《うなず》いた。
「月夜の、ああ、いつになく美しい月夜の水辺で、彼女に出会った。私は……一目で恋をした。黄金の髪の美女が人ではないことはわかっていたが、それでもかまわなかった。ひと月という約束で、彼女は屋敷にとどまった」
遠くを見るように、彼は目を細める。
「けれど、三月経ち、半年経ち、一年が過ぎても、私は彼女を手放すことができなかった。そしてこの土地に、一年も月が出ていないことを知ったのだ」
領主として、それは由々《ゆゆ》しき事態だったのだろう。
「夜は闇《やみ》に包まれる村で、夜盗の被害が増えた。魔物や化け物がでるとの噂《うわさ》も広がった。おおかた野犬の仕業だろうが、家畜が無惨《むざん》に殺され、人々の不安をあおった。そんなおりに、青騎士伯爵がやって来た」
エドガーは、ひとことも聞き漏《も》らすまいとするように、じっとアウルの目を見ている。
伯爵家のことは、先祖の行動も人となりも、可能な限り知りたいと思っているのだろう。
「ルナは鏡の向こうがわの存在だと伯爵は言った。彼女が戻らないと、夜空の月が永遠に消えたままで、やがて悪しき魔力を持つ精たちがはびこり、私の領地が穢《けが》されてしまうという。ルナとは別れるしかなかった。けれど彼女も、私を愛してくれていた」
「だから、あなたが鏡の中へ行くことにしたわけか」
「そうだ。伯爵の提案で、私はこの屋敷とひとつになって、鏡像の世界で生きることにした。人の像は老いる、寿命も短い。しかしこの城は、私の生まれ育った場所、先祖代々の遺産、ルナとともに歩む新しい生にふさわしい像だと思えた」
「それで、アウルなんだね。この建物は以前は、ミミズク城と呼ばれていたらしい」
だから肖像画は、人間としての彼と、ミミズク城としてのアウルとが描かれたのだ。
「おい、化け物がまた復活してる」
声をあげたロタは、窓の下方を眺めていた。同時に、建物をゆさぶるような振動が、堅牢《けんろう》な石壁に囲まれたこの部屋にも伝わってきた。
「まるでここを壊そうとする気だな」
急がなければならない。
「ねえアウル、この地図を見るためには、ルナの力が必要なの。私たち、必ずルナを取り戻すと約束するから、教えて。彼女は何の妖精なの?」
リディアは懇願するが、アウルは難しそうに眉根を寄せた。
「何の妖精だと? ルナは月《ルナ》だろう。この土地の月……」
「ええ、でも空の月は厚い雲の上にある。ルナがいなくなっても消えたわけじゃないのよ。月そのものじゃなくて、月とつながりの深い何かだと思うんだけど」
アウルは考え込んだが、首を横に振った。
「わからぬ。私は屋敷とひとつになったが、|ミミズク《アウル》という名を得てこの姿で過ごしている。ルナにも本当の姿があるということは理解できるが、知ろうとしたこともなかった」
頼みの綱《つな》もだめだった。それでもリディアは必死で考える。
「エドガー、肖像画よ。あなたが見た風景画の方に、ルナの本当の姿が描かれているんだと思うの。月の名を持つ草はなかった? それとも、月に似た形の何かよ」
「印象的なのは建物と満月だった。細かなところはよくおぼえてない。月そのものはルナじゃないんだろう?」
そうだ。でも、とリディアは考え込む。風景画のようでも肖像画なのだ。なら、アウルと並んで目立つのがルナであるはずだ。
「……もしかしたら……そうなのかしら。でも……、試してみるしかないわ!」
「リディア?」
「エドガー、向こうがわのあなたに動いてもらわなきゃ。ルナのジルコンを持ってるでしょう? ああでも、どうやって伝えればいいの?」
あせるリディアを落ち着かせるように、エドガーが言う。
「割れていない鏡か、鏡になりそうなものをさがそう」
冷静なエドガーが、何よりリディアには心強い。ひとりでは難しくても、彼とならきっとうまくやれる。
「エドガーさま」
必要がなければずっと黙っているレイヴンが、唐突に口をはさんだ。そうして彼が、ポケットから取り出したのは手鏡だった。
ナイフ以外のものを、レイヴンが常備しているのを不思議に思ったのは、リディアだけでなくエドガーも同じらしかった。
「レイヴン、どうしてこれを?」
「ケリーさんがくれました」
「まあ、ケリーと少しはうち解けたのね」
「彼女がニコさんに鏡を貸すところを見ていたら、にらまないでくださいと言ってこれをくれたのです」
いや、うち解けていないようだが、レイヴンは満足そうにも見える。
「これがあると、ニコさんがよろこんでくれます」
あの気取った妖精猫は、いつも毛並みの乱れを気にしている。そんな親友のために、レイヴンは手鏡を持ち歩くことをおぼえたようだった。
「すばらしいよ、レイヴン。おまえとニコのずれた友情も役に立つじゃないか」
ずれた、と言われたことには気づかなかったらしいレイヴンは、エドガーにほめられて、たぶんこの上なくうれしそうだった。
「ロタ、フィリスを頼む、ロチェスター卿はまだ回復していないだろう」
手鏡を受け取り、エドガーはそう言った。
「青騎士伯爵」
エドガーをそう呼んだアウルは、自分たちを信用してくれたのだろうか。ただ、彼は思いがけないことを口にした。
「イブラゼルの者は来なかったが、その地図を求めて来た者はいた」
しかしエドガーには、思いがけないことではなかったようだった。
「マッキール家の者だろう?」
驚いて、リディアはエドガーを見あげた。
「エドガー、マッキール家が動いてるの? 知ってたの?」
彼はただ、ごめん、と小さくつぶやいた。
「その人物は、青騎士伯爵家の者はもういないと言い切った。だから、望ましくない者の手に渡るのを危惧《きぐ》していると。私は地図の行方を知らなかったから、力にはなれなかったが」
「僕が、その人物の言う望ましくない者だと思ってる?」
そう言うエドガーはつらそうに見えたから、リディアの胸も痛んだ。
マッキール家は敵ではないはずだ。けれど今は、味方ともいえない。リディアの母の家系ではあるけれど、彼女はもうアシェンバート家の人間のつもりだ。
いや、アシェンバート家というよりは、エドガーの、唯一《ゆいいつ》の家族だと思っている。
それでもエドガーにとっては、マッキールはもっともリディアに近づけたくない一族だろう。
マッキールの訪問を知っていたから、彼はリディアを帰そうとしたのだろうか。
わからなくなっていたエドガーの気持ちが、少しだけ見えたような気がする。
触れられないけれど、リディアは寄り添う。
「さあ、そうかもしれないとは思う。だがこちらのフェアリードクターは、あなたの妻は、フィリスのために必死になってくれた。彼を変えてくれた。ただ、このことを伝えておこうと思っただけだ」
アウルはそう言って、部屋の隅《すみ》の方を指さした。
「奥の隠し階段を使えば、サロンのある棟へは近道だ」
「感謝する、ロチェスター男爵」
エドガーとリディアがその場を後にすれば、レイヴンが黙ってついてきていた。
突然鏡が割れて、エドガーたちとの連絡手段を絶たれたポールやニコの側は、焦燥感《しょうそうかん》が漂っていた。
日も暮れて、辺りはすっかり暗くなってしまった。オークションが取りやめになったため、彼らを除いてみんな帰った様子だ。
屋敷の中は、この日のために雇われた召使いがまだ働いている。とはいえ、サロンで過ごす彼らの周囲に人影はなく、広い屋敷には雨音が響くばかりだった。
「ニコさん、どうすればいいんでしょう。伯爵たちはご無事でしょうか」
「ああ、無事だと思うけどね。向こうに何かあったら、こっちの体にだってダメージはあるんじゃないか?」
エドガーは相変わらずリディアを放そうとしない。リディアの手を握っていれば上機嫌で、いちおう節度は保っているようだ。
が、それもロタがいるからかもしれない。エドガーのスキンシップを、おおむね受け入れているリディアだが、少しでも困った様子があればロタが割り込んでいく。
リディアはもちろん、ロタとも楽しそうにしているが、不機嫌になったエドガーはポールのところへやって来ると、無言で彼をロタのそばへ突き飛ばす。
「わっ、は、伯爵……!」
しりもちをついたポールの首に、新しいおもちゃを見つけたかの様子でロタは飛びつく。それでもまだリディアの手を放さない、と思ったら、ニコの体がふわりと浮いた。
エドガーにつかみあげられ、放り投げられると、ポールの頭の上に落ちる。嬉々《きき》として、ロタに撫でまわされる。その隙にエドガーは、リディアを独り占めしようとするのだ。
必死の思いでそこから這《は》い出したニコは、辟易《へきえき》して声をあげた。
「あーもう! 早く元に戻ってくれよ! こんなやつらのおもりはごめんだよ!」
毛並みをかきむしると、レイヴンがさっと手鏡を出した。
無口で無表情なのは、意識が鏡の中へ入ってしまっていても変わらない。背中を見せると撫でられそうになる危険はあるが、ニコにとってはほかの連中よりよっぽどまともだと思うのだった。
「お、ありがとうよ。気がきくな」
乱れた毛とネクタイを直しながら、ニコははたと気づく。
「ん? か、鏡だ。ポール、割れてない鏡があったぞ!」
「本当ですか?」
ロタから逃れたポールが、手鏡を覗き込んだときだった。
「ニコ! よかったわ、レイヴンの鏡に気づいてくれたのね」
リディアの声がそこから聞こえた。
ニコの顔が、リディアが手にした鏡いっぱいに映ると、ずいぶん乱れた毛並みのまま、彼はまくし立てた。
「リディアー! どうしてたんだよお。鏡がぜんぶ割れて、もうどうしていいかわかんなくて、心細かったんだよお」
サロンに着いたリディアたちが、レイヴンの手鏡を覗き込むと、ニコの姿が見えた。ともかくリディアはほっと息をついた。
「アンシーリーコートのせいなの。でも、ルナの正体がわかりそうだわ」
「ホントか? だったら早くそんな所から帰ってきてくれよー」
相棒だって意識が本当にあるのかしら。
こんなニコの態度はいつものことだ。リディアは気を取り直す。
「そうしたいわよ。だから協力してちょうだい」
「えーっ、何をすりゃいいんだよ」
「僕を連れていっしょに来てくれ」
エドガーがそう言うと、ニコはあからさまに首を横に振った。
「無理だよ、伯爵は下心満々でリディアから離れないんだよ!」
「えっ、そうなの? あたしもそこにいるの?」
「リディア、見なくていいから」
ニコがリディアの様子を映し出そうとしたが、エドガーは鏡を奪ってしまう。
「それならリディアも連れてきてくれ」
「えーっ、どうやってリディアの注意をこっちに向けるんだ?」
自分が何につられるのか、リディアは考え込んだがよくわからなかった。
「そ、そうね。ロタを……」
なんとなく、ロタにならついていくのではないかと思ったのだが。
「リディア、きみがいちばん好きなのはロタか?」
エドガーに責められるし、ニコはさらに抗議の声をあげる。
「やめてくれー、その三人でもう収拾がつかなくなってるんだよ!」
「ニコさん、リディアさんだってニコさんの毛並みに頬擦《ほおず》りしたいと思います」
唐突に、レイヴンがそう言った。
「レイヴン、それはおまえのしてみたいことだろう?」
でもちょっと、リディアは興味を感じる。
「どう……かしら、試してみる?」
「ええっ、僕には頬擦りしてくれないのに、ニコの毛はいいのか?」
またエドガーは不満の声をあげる。
「やだよ! 猫扱いすんな!」
「ニコ、このままじゃあたしたち帰れないのよ」
ニコは不服そうだったが、リディアが強く言えばあきらめたのか、しぶしぶその体の方に向かった。
鏡が小さくて、こちらからはよく見えないのだが、ニコはリディアのひざに乗っかったようだった。
間もなく、うぎゃ、という声がした。鏡の向こうに見えるニコの毛は心なしか逆立っている。
ふさふさしたしっぽが、リディアの頬を撫でるのが一瞬わかる。
「……いいか、リディア、こっちだぞ」
そう言ってニコは歩き出したようだ。鏡にまた、ニコの顔が映し出された。
さっきよりかなり不機嫌そうだ。
「とりあえず、リディアも伯爵もついてきてる」
「よかった、うまくいったわね」
「あんなしっぽが、女性をたらし込む武器になるとはね」
エドガーが物欲しそうにつぶやくと、ニコは牙《きば》をむき出しにした。
「欲しがるな! やらないぞ!」
「ニコ、このまま沼の畔《ほとり》へ向かって。ブナの木の下で会いましょう」
リディアたち三人も、サロンを出て歩き出した。
「沼へ行くのか? それからどうするんだ?」
エドガーが問う。
まったくの思いつきの、ルナをよみがえらせる方法に、間違いがないかどうかリディアはずっと頭の中で検証していた。ようやくまとまりつつある考えを話しておこうと口を開く。
「ケルピーを呼ばなきゃ。それからジルコンを……」
しかし彼女はそこで言葉を止めた。
大階段のあるホールまで来たとき、扉の前で誰かがうずくまっていたからだ。背中に垂れたオレンジの髪に気づき、リディアはあわてて駆け寄る。
「フィリス、どうしたの? ロタやアウルは?」
「大変なの……、助けて」
フィリスの震える肩に、リディアが手を置こうとしたときだった。毛むくじゃらの腕が伸びてきて、リディアをつかんだ。
フィリスだと思っていたのに、髪の毛の隙間に尖《とが》った赤い耳が覗《のぞ》く。
赤耳のボギービースト。
「リディア!」
エドガーが駆け寄ってこようとしたが、リディアをつかんだままボギービーストは床に真っ黒い穴をあけると、そこへ引っぱり込もうとする。
反射的にエドガーが、リディアの腕をつかんだ。
あっ、と思った。エドガーもはっとした顔をしたが、もう遅かった。
姿がかき消えそうになるエドガーに、リディアは必死で声を絞《しぼ》り出した。
「エドガー、ルナは鏡像なの、沼に映った月の妖精なのよ! あのジルコンを……」
リディアの視界が暗闇に覆われる直前、レイヴンが伸ばした手が届く。が、次の瞬間にはふたりして真っ暗な場所に落下していた。
「痛……っ」
腰をさすりながら、リディアは必死に体を起こす。
(ふん、じゃまなんだよ、おまえらは)
暗闇の中で声が聞こえた。
「……赤耳ね? あたしたちをどうするつもりなの」
(つねってやろうか、それとも引《ひ》っ掻《か》いてやろうか? どうせおまえたちは、ずっとここから出られな……わっ、うぎゃ!)
最後に聞こえた悲鳴は、レイヴンが飛びかかったせいではないだろうか。
人が動いた気配があったが、唐突に静かになる。
「レイヴン? 大丈夫なの?」
音のした方へ這うように動きながら、リディアは問う。
「はい」
「赤耳は?」
「角をつかんだと思ったら、気配が消えました」
急所を攻撃されて逃げたのだろう。
声のした場所に、小さな火がともった。レイヴンがマッチを擦ったようだった。
ポケットから出した小さな蝋燭《ろうそく》に、彼は火をつける。ようやく辺りの様子がわかるようになる。
「レイヴン、あなたって何でも持ってるのね」
「ほかに必要なものはありますか」
言えば本当に何でも出てきそうで、リディアは笑った。
頼もしくて、ついてきてくれたことに感謝しながら彼の手を握る。
「ありがと。今はいいわ。それより、ここは石壁に囲まれてるのね。地下室みたいだけど、出入り口がないなんて」
少し戸惑った顔をしたように見えたけれど、レイヴンは以前ほど、リディアに触れられるのが悪いことだと感じなくなっているようだった。
たぶん、エドガーと結婚したリディアが、簡単なことで去っていったりはしないと理解したのだろう。身内のようになりつつあるのだと、リディアは好ましく受け止める。
「おそらく、使われなくなってふさがれた場所でしょう」
が、レイヴンがいてくれたことに安堵してはいられない。
「困ったわね。これじゃ、赤耳の魔力でしか出られないわ」
考え込んだリディアの耳に、ケルピーの声がした。
「おい、なんて所に閉じこめられてんだ?」
「ケルピー! どこにいるの?」
「外だよ。赤耳が地面の下から飛び出してきたから、おかしいと思って来てみた。そしたらおまえの声がするじゃないか」
「ねえケルピー、怪物はどんな様子?」
「闇雲《やみくも》に暴れてるぞ。理性が壊れたのか、赤耳にもコントロールできないんだろう。早く何とかしないと、屋敷が壊されかねないな」
フィリスの与えた衝撃が、人としてのコーエンを完全に壊してしまったのかもしれない。
「ねえ、ここからあたしたちを出せる?」
「無理だ。土の中は俺の領域じゃない」
そうよね、とリディアはため息をつく。
「しかたない、赤耳をとっつかまえてきてやる」
「つかまえたって、いうことを聞くかしら」
「脅《おど》せばいいだろ」
それよりも、急ぐべきことがあった。せっかくケルピーと接触できたのだ。そちらを優先しなければならない。
心を決めて、リディアは頭を上げた。
「それよりケルピー、沼へ行って」
「は? 何でだ?」
「エドガーが向こうがわへ戻ったわ。ルナをよみがえらせてくれるはずよ。そしたらこの世界の黒い魔力が浄化されて、あたしたちもとの体に戻れる。赤耳と取り引きする必要はないわ」
「伯爵のやつ、おまえに触れたのか。こらえ性《しょう》のない男だな」
そういうわけじゃないのだけれど。
「で、ルナをよみがえらせる方法がわかったのかよ」
「ええ、……エドガーにうまく伝えられなかったけど」
「おい、それじゃあいつがちゃんとやれるかどうかわからないだろ!」
「とにかくケルピー、エドガーに協力して。たぶん、沼を鏡面にする必要があるわ。あなたの魔力で雨を少しの間だけ止めて。水をコントロールするのは得意よね?」
「一度にふたつのことに魔力は使えない。雨を止めながら、伯爵と話すのも向こうがわへ戻るのも無理だぞ?」
「止めるだけでいいの。エドガーは、どうすべきかきっとわかるわ」
リディアがきっぱりと言うと、ケルピーのため息をつくような間があった。
「ちっ、いつのまにか伯爵家の人間らしくなってやがる」
不満そうにつぶやいたようだったが、すぐに気配が消えた。
冷たい雨の中、エドガーはリディアの体を引き寄せながら植え込みの間を歩いた。
ランプを手にしたレイヴンと、ニコもいっしょに沼の畔《ほとり》へと向かっている。自分がこちらがわへ戻ってきてしまった以上、リディアは安全な屋敷の中へ置いてくるべきかと思ったが、彼女はもう、ニコが誘っても戻ろうとしなかった。
エドガーにぴったりと寄り添っている。たぶん、何か重要な目的があることを感じているのだ。
エドガーだけでうまくやれるかどうか、向こうがわでリディアが心配しているせいかもしれない。
だったらリディアは無事だろう。フェアリードクターの彼女は妖精の知識があるし、レイヴンもついている。今も、冷静に行動しているはずだ。
リディアが赤耳に連れ去られたのは、あまりにもとっさのことだった。彼女はこれからすべきことを、エドガーに告げることはできなかった。
それでも、重要なことは伝わった。
その先は、おそらくリディアも考えている途中だったのだろうことを、エドガーは懸命に考えている。
ルナは沼に映った月だと、リディアは言った。肖像画は鏡像だった。アウルもルナも、沼に映った姿だったということだ。
つまりアウルは、あの屋敷の化身なのではなく、沼に映った像の化身《けしん》だ。
そしてルナは、そんなアウルに寄り添う、沼地の月、鏡像の月だったのだ。
沼に映る月がなければ、空に月が姿を見せることがないのも頷ける。
ジルコンを握りしめ、考えながらエドガーは先を急いだ。
やがて雨音が変わる。草木を濡らす音ではなく、水面をたたく音に。
ブナの木の下に身を寄せ、雨を避けながらレイヴンがランプをかかげれば、黒っぽい水が光を反射した。
「伯爵、どうする? リディアが来るのを待つのか?」
ニコは手鏡を覗き込むが、リディアの姿はないようだ。
あの妖精から簡単に逃げ出せるものかどうか、エドガーにはよくわからない。むしろそうではなく、リディアの身に危険がせまっているなら、一刻も早くルナをよみがえらせるべきだ。
「雨は……やみそうにないか」
空を仰ぎながら、エドガーはつぶやいた。
ジルコンをルナのあるべき場所に戻せばいいはずだった。沼に映った月の妖精なら、沼に戻せばいい。
けれどここには今、鏡面がない。ジルコンを沼へ投げ落としても、泥の中に埋まってしまうだけではないのだろうか。
それとも、一《いち》か八《ばち》かやってみるのか。
だが、宝石が沼に沈んだらもう取り返しがつかない。リディアも、レイヴンやロタもフィリスも帰ってこられなくなる。
エドガーは悩んでいたが、気持ちはほぼ決まっていた。やるしかないだろう。
せめて雨が、わずかでも小降りにならないだろうか。祈るような気持ちで水面を見つめていた。
「なあ、沼が変だぞ」
ふとニコが声をあげた。
レイヴンがかかげるランプの光を反射し、自分たちの影が水面に映っている。どういうわけか、雨がつくり出す無数の波紋が消えているのだ。
しかし雨は降り続けている。
「どう……なってるんだ?」
わけがわからなかったが、迷っている場合ではなかった。これはボギービーストの罠《わな》ではないのか。そんな考えも頭をよぎったが、リディアの合図かもしれないとも思った。
「リディア、僕の考えは正しいんだね?」
鏡の中の世界で再会し、触れあえないままだったけれど、本音の言葉で歩み寄れた。
このあいだの夜のことは、ふたりの間にできた溝ではなく、些細《ささい》な夫婦ゲンカになりつつあると思える。
だから今、リディアが望んでいることもわかるはずだ。
「いつでも、気持ちはきみとひとつだ」
力を込めて、ジルコンを放り投げる。黄金色にきらりと輝いたのは、ランプの光のせいだろうか。
弧を描き、それは鏡のようになった水面に落ちていった。
エドガーはだだ、じっと見守った。
長い時間が経ったような、ほんの瞬《まばた》きの間だったような、奇妙な時を過ごすと、気がつけば雨がやんでいた。
周囲が妙に明るい、と思うと、空にまるい月が浮かんでいる。
風もなく、わずかな波立ちさえない沼地の水面に、くっきりとその、黄金色の月が映り込んでいる。
「エドガー……?」
背後でリディアが、小さくつぶやいた。
はっとして、エドガーは彼女に向き直る。こちらを見あげる瞳《ひとみ》を覗き込み、慎重に手を伸ばす。
「リディア、……きみ、なんだね?」
触れてもよかったのだっけ。そうだ、もう大丈夫だ。リディアが戻ってきたんだ。
両手で頬を包み込むと、見る間に金緑の瞳がうるむ。
そんな彼女と額《ひたい》をくっつけ、髪に頬擦りし、やわらかく抱く。全身の感覚を確かめたくて、背中に腕を回す。ついぎゅっと力を入れる。
華奢《きゃしゃ》な手応《てごた》えも、心地のいいあたたかさも、やわらかな髪の毛も、何もかもが愛《いと》おしくて胸が詰まった。
そして何よりも取り戻したかったものは、彼女の心だ。
「リディア、もういちど、声を聞かせて」
「ありがとう、エドガー……。きっとうまくいくって信じてた」
カモミールの香りを確かめ、自分の背中に感じる細い指を意識する。
「もう僕のこと、怖くない?」
「あれは……、あたし、混乱していたの」
胸に頭を押しつけたまま、リディアは鼻声で言った。
「僕がそうさせたんだ。でもあのときも、きみを愛してるって気持ちはいつもと同じだった」
「あたしも、そうよ。……こうしてれば、すぐにわかることなのに、時間がかかっちゃった」
リディアが腕の中で力を抜く。全身をあずけてくれることがうれしくて、このまま押し倒したいくらいに、エドガーは安堵していた。
「……だけど、エドガー、お願いだから」
言いながら、耳まで赤くなっている。
「何?」
「……ああいうときは……意地悪しないで……」
「うん、ごめん」
ただでさえ、夜ごと緊張するリディアだ。思いやれずにベッドに引きずり込んだのだから、彼女にとっていつものように愛しあうのだと思えなかったのは当然だろう。
「じゃあね、キスをして」
少し悩んで、やがて彼女は涙で濡れた睫毛《まつげ》をあげる。
「仲直りの、キス?」
「そうだよ」
少し背伸びしたリディアが、頬にキスですませようとするのは知っていたから、エドガーの方から唇を重ねた。
あ、という顔をするリディアがかわいい。
でも今は、がまんしよう。ふたりきりでないと、なかなかリディアは無防備になってくれないから。
それから、リディアを放したエドガーは、こちらを見ないように顔を背《そむ》けていたレイヴンに歩み寄り、無言で抱きしめた。
[#挿絵(img/zircon_281.jpg)入る]
「ご心配を、おかけしました」
レイヴンはぽつりとそう言った。
視界の片隅で、ニコとリディアが意外にも抱き合っていた。
月の光に浄化され、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力は散じた。コーエンの怪物は消え、赤耳のボギービーストは、地下にあるの自分の棲《す》みかに逃げ帰ったことだろう。
鏡の中の世界にルナが戻り、沼を囲むこの土地に、六年ぶりに月夜が戻った。
そんな月光のもと、リディアがロケットペンダントを開けば、象牙《ぞうげ》には文字が浮き出ていた。
地図だと聞いていたのに文字だったのには驚いたが、ともかくそれの使い方が判明した。
月の光に向けてロケットを開けば、蓋《ふた》に埋め込まれたジルコンを通った月光が、象牙の文字を浮かび上がらせるのだ。
太陽の光やランプでは見ることのできない、月光と鏡像の月が交錯《こうさく》し、その光が見せる魔法の地図だった。
文字は、リディアやエドガーの知らない言語ではあったが、きちんと調べれば何が書かれているかわかるだろう。
翌朝フィリスは、長年ダーンリイ家に仕えてきたウッド夫妻とともに、リディアたちの出発を見送ってくれた。
ルナのジルコンは、ウッド夫妻が最近ダーンリイ氏の墓のそばに埋めたと話してくれた。
フィリスが鏡の中へ消えた日、ダーンリイ氏がドアのそばで拾ったもので。フィリスの身に起こったことと関係があるかもしれないと、大事に持っていたらしい。
氏の死後は、唯一《ゆいいつ》フィリスの事情を知っていたウッド夫妻が保管していたが、チェバーズが屋敷の中のものを売り払うつもりだと知り、急いで隠したのだという。
「結果よければすべてよし、だね」
エドガーがからりと笑う。
はにかんだ笑顔を見せるフィリスは、そのとき男性の服装だった。
長い髪は後ろで束ねていた。オレンジ色のネクタイがよく似合っていて、ちゃんと男の子らしく見えた。
「へえ、本当に男子なんだ。うん、かっこいいぞ、フィリス」
ロタが言うと、彼は恥ずかしそうにうつむく。
「みなさん、ありがとうございました。おかげであたし……、あっ、ぼくは、戻ってくることができました」
「ううん、フィリス、あなたもがんばったからよ。あたしたち、みんなの力でできたことなの」
「勇気をくれたのは、リディアだわ。……あっ」
つい女っぽい言葉になってしまうフィリスは、あわてて口を両手で押さえた。
「言葉|遣《づか》いはそのうち直るさ。きみは六年も鏡の中にいたんだ。これからおぼえることはたっぷりある」
エドガーはフィリスの肩に手を置いた。
「信頼できる後見人を見つけよう。ダーンリイ氏の遺言《ゆいごん》と相続について、管財人との交渉も、こちらで進めてもいいかな?」
「はい、伯爵、よろしくお願いします」
フィリスはしっかりと頭を下げた。
「コーエンは死んだ。きみはもう自由だ。そしてきみは、誰よりもきみの身を案じたダーンリイ氏の孫だ」
エドガーの言葉に、フィリスの表情はきりりと引き締まる。
こういうときリディアは、エドガーがただの女たらしではないことを思い知る。性別に関係なく、彼は人を惹《ひ》きつける。
エドガーが、いろんなことを乗り越えてきた人だということを知らなくても、言葉にうわべだけではないものを感じるからだろう。
「アウルとルナへの恩返しのためにも、この屋敷と土地を守っていきます」
フィリスは力強くそう言った。
「じゃ、帰ろうか、ポール」
とロタはポールの腕を引く。
「え、ぼくたちふたりで?」
「伯爵夫妻の馬車に乗る勇気があるのか?」
来たときと同じ組み合わせで帰るわけではないことに、ポールはあっと気づいてあわてる。エドガーがそこに口をはさんだ。
「ポール、ロタとふたりきりに身の危険を感じるならこっちに乗っていけばいい」
「身の危険? あたしが何をするっていうんだよ!」
「きみね、意識がないとき何をしたか、教えてやろうか? ポールにのしかかって……」
「は、伯爵、何を言うんですか! 違うんだロタ、たまたま、偶然転んだだけだよ!」
うろたえるポールを、ロタはじっと見る。
「そっか、そんなことしたのか。ごめん」
「あやまらなくても……」
「ん、でもあたし、またやるかもしれないし」
「いや、気にしないよ、ぼくは」
「よかった。ならいっしょに帰ろう」
何だかよくわからない会話を交わして、彼らは馬車に乗り込んでいく。
エドガーも首を傾《かし》げる。
「ポールは襲われてもいいのか。あれは前進したってことなのかな」
「どうなのかしら。ロタの抱擁《ほうよう》はじゃれついてるようなものだから」
「まあいいや、僕たちも帰ろう」
さりげなくリディアの腰に腕を回すエドガーを、フィリスはじっと見ていた。
「ああそうだ、フィリス。きみが一人前の男だってことは認めよう。けど、僕のライバルになるには、テムズ河で泳げるようにならないとだめだよ」
河に投げ込むぞという脅《おど》しを遠回しな表現にくるんで、にっこりと極上の微笑みを向けるエドガーに、フィリスは首を傾《かし》げた。
そんな彼も、いずれは紳士のユーモアとやらを理解するようになるのだろう。
* * *
ロンドンの月は、ハンプシャーの湿地帯で六年ぶりに姿を見せた月と同じだった。
当然だけれど、エドガーには不思議にも思える。
自然に存在する様々なものが魂《たましい》を持っている。リディアといると、ますますそのことを実感させられる。そうしてエドガーは、青騎士伯爵とは何なのかと、考えずにはいられなかった。
目には見えない世界の動向を知り、人の世のために、ある意味英国のために動かしてきた特殊な家系。自分は本当の意味で、その名を継げるのだろうか。
月光は、彼のいる窓辺を明るく照らしている。部屋を暖めている暖炉の火よりも、透明感のある月光は明るく感じる。
肘掛け椅子《いす》に座り、月明かりだけを頼りに、読みかけの手紙に目を通す。
ロンドンにしては静かな夜だ。そう思っていると、勢いよくドアが開いた。
「旦那さま!」
あわただしく、ケリーが駆け込んでくる。
「やあケリー、リディアの入浴はもう終わったのかい?」
ケリーは落ち着こうとするように、ひとつ深呼吸した。
「ええ済みましたわ。でも奥さま……、ひどくショックを受けられて、仕事部屋にこもってしまわれました!」
「ショックって、どういうこと?」
わけがわからないエドガーをにらむように、ケリーは眉《まゆ》をひそめ、それから一気に言った。
「キスのあとがあちこちにあるんです! そりゃあドレスで隠れますけど、淑女《しゅくじょ》としてみっともないと感じるのは当然です。あれでは近日の外出はキャンセルしていただかなくてはなりませんわ!」
「わかった……、キャンセルするから」
あわてて言いながら、エドガーは身に覚えがないことを考えていた。
もちろん、自分以外がリディアの肌に触れるなんてあり得ないのはわかっている。間違いなく、鏡の中へ意識が入っているときのことだろう。
それにしても、やった記憶のないことでリディアに逃げ出されるのも、そんな楽しいできごとの記憶がないのも理不尽だと思う。
「だけどねケリー、そんなにショックを受けることもないじゃないか。まあそう、これまでだってよくあったことだろ?」
もちろんこれまでも、リディアは多少気分を害したりもした。予定どおりのドレスが着られなくなったりするからだ。けれど、ショックを受けるというほどではなかったはずだ。
「これまでとは違います! ふくらはぎにもひとつ、見つけたんですから!」
見えないところじゃないか。と思ったが、口にするのはやめて正解だっただろう。
淑女にとって足は、肩や胸よりも秘すべきものだから、リディアはショックを受け、ケリーは憤慨《ふんがい》しているのだ。
なおさらエドガーは、その記憶がないことを悔しく思った。
意識のないリディアは許してくれたのだろうか。ふだんならぜったいに無理だろう。
「わかったよ、仕事部屋のバルコニーによじ登るよ」
それしかないというようにケリーは頷《うなず》く。
「旦那さま、リディアさまは伯爵家の奥さまです。公《おおやけ》の場では気品を保たねばならないのですから、とにかくああいうものはつけないようにしてくださいまし」
きっぱりと忠告して、彼女は出ていった。
「面倒《めんどう》だ……。貴族ってのは」
ケリーが去ってしまうと、にわかに湿った風が吹きつけて、窓が開かれると薄いカーテンをまきあげた。
気がつくと、バルコニーに黒髪の男が立っていた。青年の姿をしたケルピーだ。
「リディアが面倒になったのかと」
不機嫌そうにケルピーはこちらを見ている。
「期待しないでくれ」
突然現れたケルピーに苛立《いらだ》ちをおぼえるエドガーは、当分彼を目にしたくなかったのだった。
鏡の中へ入ってしまったリディアのそばにいて、ささえていたのはケルピーだった。
エドガーにはどうすることもできなかったのだからしかたがないが、相棒のニコもいないところで、ひとりきりで不安だっただろうリディアを守ったのは、じっさいのところ彼なのだ。
「期待はしてない。だがもしそんなことを口走ったら、肝臓《かんぞう》だけにしてやるぞ」
くすりと、エドガーは自嘲気味に笑う。
「きみが人間だったら、リディアの心を手に入れるチャンスだって気づいただろうにね。あのとき彼女は、きみを頼るしかなかった」
ああ、とケルピーはにやりと口の端をあげた。
「俺を見て、心底ほっとしてたな。妖精界っていっても、あんな鏡の中なんて特殊な場所だ。リディアの知識が通用するかどうかも微妙で、おまけにアンシーリーコートの魔力ばかりがたまってた。心細かっただろうな」
くやしい。けれどそれは自分の限界だから、エドガーは冷静に聞いていた。
「とすると、口説《くど》こうって気にならなかったわけじゃない、か」
風がケルピーの髪をゆらす。静かに憤《いきどお》る魔性《ましょう》の気配を感じる。どうしてだろう。優位に立っているのはケルピーのはずだ。
「まったく、腹が立つ。リディアは俺を頼ろうとはしなかった。俺の能力を、フェアリードクターとして活用しただけだ」
「それは、頼ったってことじゃないのか?」
ふと、ケルピーは魔性の気配をゆるめる。そしておかしそうに笑う。
「そうだと思ってた。けど違う。月が出て、あんたのそばに戻ったリディアを見てわかった。鏡の中にいて、リディアが頼っていたのも支えていたのもおれじゃない。あいつ、俺の顔を見て安心しても泣かなかった。涙を見せるのはひとりだけなんだ」
はっとした。いつからだっただろう。リディアが素直に涙を見せてくれるようになったのは。
「かまいやしない。俺はリディアに、水棲馬《すいせいば》としての能力をあずけている。リディアは思うように使えばいい」
ケルピーはそう言って姿を消した。
夫婦の間でさえ、キスのあとにショックを受けるリディアだが、心はとっくにゆだねてくれている。
エドガーは、人としての限界だらけだ。昔の青騎士伯爵のような力はない。けれど、完璧でなくてもリディアが愛してくれるなら、ただの自分でいられるだろう。
「レイヴン、リディアを連れてくるから、寝室をあたためておいてくれ」
姿を見せたレイヴンは、心配そうにまばたきをした。
「エドガーさま、無理やりはどうかと」
「もうしないよ。バルコニーによじ登るのは、これで最後にしたいからね」
バルコニーのガラスが割れる音に、リディアはびっくりして顔をあげた。
強盗かという手際で、内側の掛け金を外し、エドガーがガラス戸を開ける。有無を言わせず彼女の方に歩み寄る。
「リディア、何度閉じこもったって無駄だよ」
「な、何やってるのよ! 修理が大変じゃないの!」
驚きあきれながら、リディアは声をあげた。
「僕の屋敷だ。必要ならドアだろうと壁だろうと壊すからね」
「って、ふつうにドアから入ってくればいいでしょう?」
エドガーは不思議そうな顔をし、リディアが指さすドアの方を見た。そこがふさがっていないことに驚いた様子で彼は、リディアを覗き込んだ。
「キスの跡にショックを受けて、ここにこもったんじゃなかったの?」
リディアは顔を赤らめる。
たしかに、驚いて恥ずかしくなって混乱した。昨日の夜も今朝も、鏡のない屋敷で着替えたから気づかなかったのだ。けれど、エドガーを拒絶するとか困らせるつもりはなく、以前のようにここに立てこもったわけでもない。
「もしかして、ケリーが?」
「ああ、叱られたよ」
無理もないかもしれない。ひとしきり動揺したあと、リディアは無言でドレッシングルームを飛び出し、仕事部屋に駆け込んだのだから。
「あの……あたしそういうつもりじゃ……。その、薬がここにあったって思い出して、さがしてただけなの」
「薬? 気分でも悪いの?」
エドガーが心配そうな顔をするから、急いで首を横に振る。
「えっと、その、ほらこれっ、妖精につねられた跡に効くのよ」
リディアが軟膏《なんこう》の入った小瓶をかかげて見せると、エドガーは困惑した。
「きみのは、妖精がつねったわけじゃないと思うよ」
諭《さと》すように言われて、リディアはまた赤くなる。
「わかってるわっ、だけど効くかもしれないじゃない!」
小瓶に鼻を近づけたエドガーは、眉をひそめてそれを取り上げた。
「あんまりいい匂いじゃない。やめておこうよ」
ふわりとリディアを引き寄せ、ダンスに誘うような軽やかさでソファに座らせる。
ゆったりとした部屋着の襟元に、無遠慮に手を入れる。
首を撫でられたかと思うと、すぐに離し、今度は腕を確かめた。
「ひどいね。キス以上のことはできなかったからって、節操なしだ」
「他人事じゃないのよ」
「そうだね、意識がなくても、自分が望まないことはできないんだ。だからきみも、不愉快だったわけじゃないよね」
楽しそうに、彼は微笑む。リディアをからかおうとする彼はいつも楽しそうだ。わかっていてもリディアは、つい困惑して赤くなる。
「そ、そんなこと……、知らないわ! あたしは鏡の中にいたんだもの」
エドガーだってそうなのだけれど。
「だけどリディア、きみは自分から僕の部屋へ来てくれたし、ドレスを脱ごうとしてたんだよ」
「うそっ!」
思わず身を乗り出すリディアに、顔を近づける。
「だから、もういちどキスしたい。足に」
「な、何言ってるのよ!」
あわててエドガーを押し戻す。
真っ赤になったまま部屋着のすそを整え、姿勢を正したリディアだが、それでもエドガーの手の届くところに、ソファに座ったままなのは、彼の悪ふざけくらいで逃げ出してはいけないと思うからだ。
そんなリディアのためか、エドガーはふざけるのをやめて話を変えた。
「フランシスが来るそうだよ。手紙が来てた。まったく、こっちが苦労して地図の秘密を解いたとたんだ。要領がいいというか」
「ロンドンへは旅行のつもりなの?」
気を取り直し、リディアは彼の方に顔を向ける。
「いや、こっちで開業医をしたいとか手紙に書いてあったけど」
「じゃ、借りられそうな家をさがしてあげなきゃ」
「そんなに気を遣《つか》ってやらなくても、彼はなんとなく行動するとどうにかなるタイプだよ」
そうかもしれないと思い、リディアは笑った。
「楽しみだわ。それに、地図の解明にも知恵を借りられるかしら」
こんなふうに、エドガーとふだんのとりとめもない会話をするのは、緊張しなくていいし素直に楽しいとリディアは思う。それにフランシスは、エドガーのほかの貴族の友人たちとは違い、夫婦共通の友人というふうで、リディアにとっても親しみを感じる人だ。
ロンドンの社交界に、そういう人が増えるのはうれしい。
「あまり期待はしないでおこう」
と微笑み、それからエドガーは、まじめな顔でつぶやいた。
「妖精国《イブラゼル》へ向かうのは、マッキールじゃない。僕たちだ」
マッキールの誰かは、青騎士伯爵家の地図があの土地でつくられたことを知って、アウルのもとへ現れたのだ。
彼らが妖精国の地図を求めていたとは意外だったが、ハイランドの島々は、今でも|悪しき妖精《アンシーリーコート》がはびこり生活に苦労している。エドガーがクナート家のために興《おこ》した毛織りの産業は、まだ始まったばかりで、島のすべてを豊かにできるわけではない。
プリンスさえいなければ、と思う彼らは、今でもエドガーを敵視しているのだろう。
「アウルが会ったのは、パトリックさんかしら」
あるいは、マッキールを名乗る予言者その人である可能性を考えながらも、リディアはそれは口にしなかった。
「さあ、誰にしろマッキールは、僕が青騎士伯爵の本質に触れることを危惧《きぐ》してるんだろう」
それは、プリンスが妖精国を手に入れることになりかねないからだ。
でもエドガーは、プリンスじゃない。
「大丈夫よ、エドガー」
きっぱりと言うリディアを、エドガーはふと切《せつ》なげに見つめた。
「今夜は、やさしくするから。いい?」
「えっ」
あらためて訊《き》かれると、心臓は跳《は》ねるしまた緊張した。
でも、めずらしくそんなことを訊《たず》ねる彼は、めずらしくすぐさま行動に移さずに返事を待っている。
考えてみれば、昨日はリディアに疲れたかと訊き、素直に頷いた彼女をひとりで休ませてくれた。
自分勝手で強引なところは多々あっても、エドガーはちゃんと、リディアの気持ちを大切にしてくれている。
リディアが彼の態度ひとつに心を乱されるように、彼だって、このあいだの怖がってしまったリディアの態度には傷つきもしただろう。
好きな人の言葉に一喜一憂《いっきいちゆう》して、不安になることは、恋をし続けるかぎり続くことだった。結婚をしても、想いは立ち止まることはなく、日々揺れ動いていく。
それでも、取り合った手を離しさえしなければ、変わらずふたりで歩いていけるだろう。
とりとめもなく語り合える時間がいちばん好き。そう思うリディアも、彼とひとつになれる夜ごと、心から幸せを感じている。
「あなたは、いつだってやさしいわ」
必死の思いで言うと、エドガーは安心したように微笑んで、やさしい口づけを頬に落とした。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは。
突然ですが、ジルコンって宝石の中ではなんとなく冷遇されていませんか?
というか、あんまり宝石としての市民権を得ていないような、そんな気がします。
どうやら現代ではキュービックジルコニア≠ェ有名になりすぎたため、ジルコンはそちらと混同されてしまっているようなのです。
キュービックジルコニアは、人工的につくられる鉱物で、ダイヤモンドの模造品というイメージが大きいですよね。そのせいか、ジルコンの方もなんとなく偽物《にせもの》くさく思われてしまったのでしょうか。
もちろん、ジルコンはキュービックジルコニア≠ナはありません。正真正銘の天然石です。
いろんな色がありますが、純度が高いものほど、ダイヤモンドのような無色透明になるようです。
昔、ギリシャではヒヤシンスの意味を持つ言葉で呼ばれていて、日本語でも風信子石《ふうしんしせき》と書きます。と聞くと、繊細《せんさい》で美しいイメージではありませんか。
本当はとっても魅力的な宝石です。
本編を読んでくださった方の記憶の中で、ジルコンが少しでもイメージアップ! すればいいなあと秘かに願っております。
さて、毎度トラブルの絶えない伯爵《はくしゃく》夫妻でしたが、いつも高星《たかぼし》さまにはすてきなエドガー&リディアを描いていただき、感謝しております。
次からはもっと話を進めたいと目論《もくろ》んでおりますが、どうなりますか。
ともあれ、今回も楽しんでいただけましたなら幸いです。
ではまたいつか、ご縁がありましたなら、この場でお目にかかれますように。
二〇〇九年六月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 月なき夜は鏡の国でつかまえて」コバルト文庫、集英社
2009(平成21)年8月10日第1刷発行
入力:
校正:
2009年8月12日作成