伯爵と妖精
魔都に誘われた新婚旅行
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)花崗岩《かこうがん》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|人魚の女《マーメイド》
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目次
新婚旅行は|海の国《アルモリカ》へ
姿を消した女たち
近づく嵐の予感
イブのための楽園
海の底から幻は浮かぶ
都の王女が望むもの
新しい伝説のために
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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***
あれはいつのことだっただろう。
エドガーの手は、母につながれていた。陽射《ひざ》しがやけにまぶしくて、草の上にはくっきりと、母と小さな自分の影が落ちていた。
母は痛いほどに、エドガーの手をぐいぐいと引っぱっていく。小走りになりながら、エドガーは怖いものを確かめるように、ちらりと後ろを振り返る。
湖のそばに、黒い髪の女が立っている。黒いパラソルをさした女だ。
追いかけてはこない。なのに母は、逃げるように足を速める。
黒髪の女は、エドガーに呪《のろ》いの言葉を吐いた。その呪いを振り切ろうとしているのか、母は急ぎ、顔をこわばらせている。
ついさっき、彼女はひとりで遊んでいたエドガーに近づいてきて言ったのだ。
おまえ、シルヴァンフォードの息子。生まれてくるべきではなかったわね
エドガーの肩を強くつかみ、傾《かたむ》けたパラソルから切れ長の黒い目でこちらをにらみ、呪うようにつぶやいた。
おまえはいつか、両親を殺すわ。そして一族を破滅させる
女の手が、いつのまにか首に掛かっている。ひんやりとした手だ。彼女が力を入れているようには感じられなかったけれど、ゆるがない殺意だけは感じていた。
怖《こわ》いと思わなかったのは、彼女が哀《あわ》れみをこちらに向けていたからだろうか。
わたしに、おまえを殺すことができればよかったのに。おまえのためにも……
気がつけば母がいて、女の手からエドガーをもぎ取るようにしてきびすを返した。
もう、手遅れね。ジャンヌマリー
母の名は、ジーンメアリー。フランス風《ふう》に呼ぶ女のことを不思議に思いながら、エドガーは必死になって母の足取りについていった。
母上、どうしたの?
林を抜ければ、もう女の姿は見えなくなっていた。
どうして僕が、母上を殺すの?
はっとしたように立ち止まった母は、エドガーにおびえたような目を向けた。けれどそれは一瞬で、いつものやさしい表情になると、幼《おさな》い彼を抱きしめた。
大丈夫よ、あなたはわたしの宝物なの。悪いことなんて起きないわ。
なのに母は、つと涙をこぼす。
ごめんなさい、とエドガーを抱きしめる。
何のことかわからない。けれどつられて、幼い彼も泣いている。
あの女は何者だったのだろう。
母は、いつから、どの程度、息子の運命について気づいていたのだろう。
女の呪いの言葉は、やがて現実になった。
エドガー自身が両親に手を下したわけではなくても、彼の存在が両親を殺した。
生まれてくるべきでは……
ああ、そうだったのかな。
いや、そんなはずはない。
今ごろ、こんな夢を見ているなんてバカげている。どうして古い記憶は、忘れたころに夢の中に浮かび上がり、自分を苦しめようとするのだろう。
ようやく、幸せをつかんだのに。
もがくように夢から抜け出し、まぶたをひらく。エドガーは、夢のせいで高ぶった感情を静めようと、深く息をした。
背の高い窓を覆《おお》うカーテンが、朝の光を透かして白っぽく輝いている。アシェンバート邸の寝室に間違いないと、無意識に自分の居場所を確認している。
過去の夢を見てはうなされるように目をさますことさえ、もう慣れた。夢の中でどんなに泣いていても、現実には涙がにじんでさえいない。
けれど、あのときの女の言葉は、すべて乗り越えてきたはずのエドガーを不安にする。
生まれてくるべきではなかった。今も自分はそういう存在なのだろうか。
だったらまた、大切なものを失うのだろうか。
急いで隣を確かめる。おだやかな寝息を立てているリディアが目に入る。安堵《あんど》しつつ、起こさないように体を添わせる。彼女のぬくもりが、渇いた心にしみこんでくる。
何よりも大切な、彼の宝物だ。
顔をよく見ようと、キャラメル色の髪をすく。眠ったままリディアは、少しくすぐったそうに口元で微笑《ほほえ》み、暖かいものを求めるように頭を彼の胸にすり寄せた。
結婚して、ますます彼女の愛情を実感できるようになった。うれしく思いながらも、もっとと望んでしまう。
たとえば今、起こしてしまうくらい強く抱きしめたら。高ぶる感情のままに求めたら。
リディアが許してくれるかどうか、よくわからない。けれどそんなことをして、彼女を戸惑《とまど》わせたくない。おだやかな、幸せそうな眠りを破ってまで、自分を満たそうとするのは違う気がする。
夢に心を乱された自分の弱さを、リディアにぶつけてどうするというのだろう。
もうひとりじゃない。そう思えば、もっと強くなれるはずだ。
力を入れてしまわないように、ゆるゆると抱けば、見知らぬ女の呪いの言葉など消し去ってしまえるくらい、リディアの香りが胸を満たす。
リディアのために、エドガーは生まれ変わるしかないのだ。過去やプリンスのしがらみを脱ぎ捨てて。
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新婚旅行は|海の国《アルモリカ》へ
結婚式を挙げた二週間後、リディアはエドガーとともにパリにいた。
ベルサイユ宮殿にノートルダム寺院、オペラ座も満喫《まんきつ》した。ロンドンよりずっと華やかで洒落《しゃれ》たファッションも目を楽しませてくれた。
もちろん買い物も楽しんだ。
とはいえ、高級店に入ればどれも、リディアには目を見張るような金額で、いくらエドガーに勧《すす》められてもつい眺《なが》めるだけになってしまったが、思い切って買った帽子《ぼうし》はとても気に入っている。
かわいらしい造花のついた飾り帽を、結った髪にピソで留めれば、|縁なし帽《ボンネット》で頭を覆《おお》うよりもずっと、すっきりとして華やかに見える。
エドガーがそう言って背中を押してくれれば、リディアもますますそう思えた。
ロンドンの社交界ではまだ、ちょっと目立ちすぎるかもしれない。けれど流行の先端に手をのばすのは、いつでも女の子にとって冒険であって、年輩の貴婦人に多少|眉《まゆ》をひそめられたとしても、誇らしい感じのするものなのだ。
しかし何よりリディアにとって、この結婚こそが、見知らぬ世界に飛び込む冒険に他ならなかった。
相手のエドガーが貴族だからだ。
新婚旅行にはじめて外国を訪れたことはもちろん、生活のすべてが結婚前とは違っていた。
「この部屋に泊まってるレディ、伯爵《はくしゃく》夫人なのに、あの名店でバッグのひとつも買わなかったんですって」
ホテルの客室へ、ランプの油を入れに来たらしいメイドの声が耳に届いた。リディアは隣のドレッシングルームにいて、ひとり荷物の整理をしているところだった。
「従兄《いとこ》があの店で働いてるの。どれも高いって言ってたらしいわ」
「こんな高い部屋に泊まってるのに」
「見栄《みえ》をはったのかしら?」
くすくすと笑いながら、メイドたちは部屋から出ていく。
フランス語は得意ではないが、伯爵家に嫁《とつ》ぐためにと、必死に勉強していくらか聞き取れるようにはなった。それをかえってうらめしく思いながら、リディアはため息をついた。
ここはパリの中心部にある、庶民でも聞いたことのあるくらい有名な高級ホテルだ。エドガーがお膳立《ぜんだ》てした旅行なので、リディアは旅費を気にしたこともなかったが、たぶん、見栄をはったわけでも何でもなく、伯爵家に見合った選択なのだろう。
パリを離れたあとは、ブルターニュを訪れる予定だ。そこも、フランス有数の高級リゾート地だと聞いている。
やはり、メイドが笑うくらい、リディアの金銭感覚が庶民的すぎるのだ。
けれどリディアにしてみれば、買い物ひとつでさえ伯爵家の評判につながるかもしれないなんて予想外だった。
ああ、人前ではよけいなことを言わないようにしなきゃ。
自戒《じかい》しながら、手袋とハンカチを使い込んだハンドバッグに詰《つ》め込む。
そのときふと、テーブルクロスの下にはみ出す紙切れを見つけ、リディアは何気なく手をのばした。
ブロマイドだろうか。派手に化粧をした女の写真だ。取り上げて、よくよく眺めたリディアは、あまりのことに赤面したまま硬直した。
「な、何なのよこれ!」
挑発的な視線をカメラに向けている女は、ソファに足を投げ出し、スカートのすそをわざとらしく引きあげている。すねがあらわになった写真は、あきらかに人目をしのんで売られているポルノグラフィーのたぐいだった。
「リディア、出発の用意はできたかい?」
エドガーが部屋へ入ってきたとき、すっかり頭に血がのぼっていたリディアは、くらくらするのをこらえて詰め寄った。
「エドガー! こ、こんなものが落ちてたわよっ!」
女性の足が見えているなんて、この上なく破廉恥《はれんち》なものからリディアは目をそらしつつエドガーに突きつけた。
受け取ったエドガーは、動揺するでもなくさわやかに微笑《ほほえ》んだ。
「ああ、きみの足の方がずっと魅力的だよ」
「な、何を言うのよ!」
「フランス人って、こういうの好きだよね。パリじゃあちこちで売ってたし、ロンドンでもこの種の写真はまずフランス製だ」
「じゃなくて、こんなの買うなんてどうかしてます!」
「えっ、僕のじゃないよ」
意外そうに首を傾《かし》げるが、だまされるものですかとリディアは思う。どんなにさわやかな好青年に見せかけることができても、本性は女たらし。自分の夫ながら、こういうものをコレクションしていたって不思議はない男なのだ。
「あなたしかいないじゃない」
しかしエドガーは、心外だと言いたげに肩をすくめた。
「レイヴンのかもしれないじゃないか。見なかったことにしておこうよ」
「ちょっと、レイヴンに罪をなすりつけるつもりなの?」
「罪って、男なら誰だって興味があるし、レイヴンも一人前の男だよ」
エドガーの従者のレイヴンは、十五歳くらいにしか見えないが、十九歳になるはずだ。一人前の男といわれればそうかもしれないけれど、この手の写真を好みそうには思えない。
「エドガーさま、馬車の手配はすませました」
ちょうど現れたレイヴンに、エドガーは堂々と問う。
「これはおまえの落とし物?」
見なかったことにしてあげるのではなかったのか。
いいえ、と言いかけたレイヴンは、写真を見て、それからリディアの顔をうかがい、口ごもった。
「………………はい、私のです」
レイヴンは、特殊な出生のために感情の起伏が少なく、うそがつけない。一方で、エドガーには命を投げ出すのも当然と思っているくらい忠実だ。それだけに、エドガーのためになるならがんばってうそをつく。
しかしまだ、本当らしくうそをつくことはできない。
「エドガー、やっぱりレイヴンのじゃないじゃない!」
「僕のでもないよ。そうだ、ニコかも」
そんなわけないでしょ!
新婚旅行になぜかくっついてきているニコは、妖精博士《フェアリードクター》であるリディアの相棒だ。とはいえ彼は、猫の姿をした妖精だ。写真の女の足なんかより、魚のフライとスコッチに飛びつくだろう。
リディアは深くため息をつく。
「怒らないから正直に言って」
「もう怒ってるじゃないか」
「あなたがごまかそうとするからよ」
「本当に知らないんだよ」
「あの……、それはあたしのです……」
そのとき、亜麻《あま》色のおさげをたらした小柄な少女が、言い合う夫妻の前におずおずと進み出た。
「えっ、ケリー……?」
ケリーはリディアの侍女《じじょ》だ。結婚式の後、ハイランドから呼び寄せたのだが、ロンドンへ着いたと思うと間もなく、この旅行に付き添うことになった。
「その、通りで物売りの少年につきまとわれて、しかたなく銅貨を渡したら、売り物はそれだったみたいなんです」
言葉がわからないのだから無理もない。
「捨てようと思ってたんですけど、いつのまにかポケットにはなくて」
リディア以上に赤くなりながら、ケリーは説明した。
ケリーは、妖精となじみの深い島で生まれ育った。妖精の存在を疑っていないし、フェアリードクターという特殊な能力を尊敬している。リディアをよく理解して、仕事にもまじめな彼女は、持ち前の熱意で一生懸命に仕《つか》えようとしてくれている。
「まあ……、そうだったの」
リディアにしても、以前に世話になったケリーには、とても親しみを感じていた。この旅行も、半分くらいはケリーと楽しみたい気持ちでもあるくらいだ。
「すみません、あたしのせいでおふたりがケンカになってしまうなんて」
「ケリー、気にしないで」
「そうだよ。僕の濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》は晴れたんだから問題はないよ。ねえリディア、わかってくれただろう? 世界一かわいい妻がいるのに、写真の女になんて興味ないよ」
にこやかに、間近でリディアを見つめる。結婚しても、エドガーのこの、口説《くど》きの入った日常会話は相変わらずだった。
「……ごめんなさい、エドガー」
頭から疑ったことは、さすがにもうしわけなく思い、リディアはうつむく。エドガーは、さらに顔を覗《のぞ》き込む。
「愛してるって言ってくれれば忘れようかな」
戸惑い赤くなって、口を開くことができないリディアの周囲で、レイヴンとケリーが急いで背を向けるが、ますます恥《は》ずかしい。
「じゃ、今夜ふたりきりのときに聞かせてもらうよ」
いっそうリディアを困惑させたエドガーは、上機嫌に腕を回して引き寄せる。
「さあ、そろそろ行かないと、汽車の時間に間に合わない」
蜜月《ハネムーン》、という言葉は違わず、この旅行はすっかりエドガーのペースだ。
人前だろうと、リディアに触れるのを遠慮しなくなった。フランスだから大丈夫、街角での口づけも許されるなんて彼は言うけれど、ホテルや観光地には大勢英国人がいるのだ。
部屋を出たリディアは、角が立たないようさりげなくエドガーの腕から逃れる。
そういう彼女の潔癖《けっぺき》さと、愛情表現をはねつけるのはためらうやさしさを、彼が楽しんでいるとは知らないままに。
ともかく、アシェンバート伯爵夫妻はまだ、妖精国から来たという伝説的な青騎士《あおきし》伯爵の名を背負って、ふたりで歩き出したばかりだった。
* * *
ブルターニュ地方は、フランスの北西部に位置している。三方を海に囲まれた半島で、海峡を隔《へだ》てたその向こうにあるイギリスとは、昔からつながりの深い土地だ。
その名も|小ブリテン《ブルターニュ》。遠い昔ブリテン島、つまりはイングランドに住んでいた人々が、アングル族に追われ、海を渡ってたどりついたその土地に、故郷をしのんで名づけたのだという。
新婚旅行の行き先に、リディアたちがブルターニュを選んだのにはわけがあった。
たまたまロンドンで、フランスの画商が開いた絵画展に出かけたとき、思いがけない絵を見つけたのがきっかけだった。
ある貴婦人の肖像画に、指輪が描かれていた。どうやらそれは、赤いムーンストーンのようだったが、リディアの白いムーンストーンの結婚指輪とそっくりだったのだ。
石の大きさやカットも、指輪の台座の装飾も同じ。そうなると、絵の中の赤いムーンストーンが、伯爵《はくしゃく》家ゆかりのものである可能性が考えられた。
リディアの結婚指輪は、初代の妖精国《イブラゼル》伯爵となった青騎士卿の妻のものだったという。
妖精族だった彼女の名、|白い弓《グウェンドレン》、としての魔力を持ち、伯爵家を守ってきた。
一方で、青騎士卿には|赤い弓《フランドレン》という名の子がいたともいう。だったら、グウェンドレンの白いムーンストーンに並ぶ、赤いムーンストーンが存在しても不思議はないと思われた。
問題の絵は古いものではなかったが、作者は不詳らしい。絵の中の、指輪をした貴婦人は仮面をつけていて、その背後には窓があった。開け放たれた窓の外にはエメラルド色の海が広がり、小島がぽつんと浮かんでいた。ムーンストーンの色にも似た、オレンジがかったピンク色の断崖に囲《かこ》まれた島だ。そこには、同じピンク色の岩でできた城が建っていて、ところどころに緑の木々が茂っていた。
画商はそれを、ブルターニュの風景だと言った。まったくブルターニュを知らないが、ブルターニュの故人の屋敷からまとめて売りに出されたものだからそうだろうと言うのだった。
エドガーはその絵を買おうとした。快《こころよ》く承諾《しょうだく》した画商だったが、翌日、売れなくなったと言ってきた。
もとの持ち主の関係者が、その絵は売る予定ではなかったと言い出したとのことだった。
持ち主のことを訊《たず》ねたが、仲買人が何人もいてよくわからないらしい。
ブルターニュに行ってみれば、何かわかるだろうか。うまくすれば、青騎士伯爵家に関する情報が得られるかもしれない。そう考えたリディアに、エドガーも同意してくれた。
そうして、新婚旅行の行き先は決定した。
じつのところ、伯爵家のことはわからないことだらけだ。
エドガーは、後継者の絶えた青騎士伯爵の名を継ぎはしたけれど、本当の伯爵家については何も知らない。
初代の伯爵は妖精国《イブラゼル》から来たというが、人の世ではないその場所がどこにあるのかも、どんな力を持っていたのかもわからない。
ただ、リディアは思う。伯爵家の故郷、妖精国を訪れることはできないだろうか。それがかなえばエドガーは、青騎士伯爵の後継者として確実な力を得ることにならないだろうか。
そのとき彼は、自分の中に取り込んでしまった災いの王子《プリンス》≠フすべてを消し去ることもできるかもしれない。
そもそもプリンスは、青騎士伯爵が自分を脅《おびや》かす存在として警戒し、その血筋《ちすじ》を絶やすことに力を注いでいたのだから。
「はあ、やっとパリを出たのか。都会ってのは、どこでもごみごみしてるだけだな」
汽車の座席で、窓の外を眺めながらニコがつぶやいた。もう石造りの建物群は見あたらない。畑が広がるのどかな風景が続いている。
「だったら無理についてこなくてもよかったのに」
クッションに寄りかかっているリディアは、乗り物酔いかどうか、軽い頭痛をこらえて眉根《まゆね》を寄せた。
そんなリディアをちらりと見あげ、ニコは気取った態度で頭を振る。
「あんたひとりじゃ、どうにもできないこともあるだろ。妖精博士《フェアリードクター》たって、相棒のおれがいないと半人前だからな」
そうはいってもニコは、危険なときは自分だけで逃げ出す薄情《はくじょう》な相棒だ。とくべつ便利な魔法を使うわけでもなく、得意なのは道案内くらいのもの。
それでもリディアは、ニコと力を合わせて、これまでもいろんな事態を切り抜けてきた。
「そうね、ブルターニュは、スコットランドやウェールズと同じくらい妖精族の多いところだって聞くものね」
フェアリードクターは、自分で魔法を使えるわけではない。妖精を理解して、親しくつきあえば、彼らの力を借りることができるというだけ。
そしてニコは、リディアにとってもっとも信頼する妖精族の友人なのだ。
今回の旅行で、妖精国の手がかりが得られる可能性があるなら、ニコがついていてくれるのは、本当のところ心強かった。
「ああ、フランスは食事がうまいっていうけど、魚のフライもスコッチもない。朝食にベーコンもソーセージもフライドエッグもないなんてさ、がっかりだ」
「結局食べ物が目当てなんじゃない」
「おまけにこれから何時間も列車の旅か。鉄の上を走り続けるなんて、どうにも落ちつかねえよ」
そう言って、座席の上でのびをする。
「着くまで寝るしかないな」
そのまま横になると、気取った態度で足を組み、帽子《トップハット》を顔に載せた。
「あの、ニコさんに膝《ひざ》掛けを」
その様子を眺《なが》めていたケリーが言った。
「大丈夫よ、ケリー、ニコには立派《りっぱ》な毛があるから寒くないわ」
「あ……、ですよね」
ケリーはまだ、ニコが言葉を話す妖精で、紳士であって猫ではないということを、理解しようとしているところだ。ニコが視界に入るたび、不思議そうにじっと見入る。
「リディア、薬をもらってきたよ」
個室のドアを開け、エドガーが微笑《ほほえ》んだ。景色を眺めようとデッキへ行っていたはずだが、唐突《とうとつ》に薬と聞かされ、リディアは首を傾《かし》げた。
「頭痛がするんだろう?」
「ええ、でも、薬を飲むほどじゃないわ。パリを出て、空気がよくなってきたからかしら、少し気分がいいみたい」
「そう? ならいいけど、念のために飲んでおいたら? 長いこと列車に乗ってないといけないし、無理をしちゃだめだよ」
言いながらエドガーは、確かめるようにリディアの頬《ほお》に手をのばし、覗き込んで額《ひたい》をくっつける。華やかな金髪が、リディアのまつげにかかる。
「うん、熱はないね」
かえって熱が出そうだ。
「休養がいちばんですよ。旅行ってのは疲れがたまりやすいんだ」
ドアが開いたままだった。そこにいた誰かがそう言ったのだ。
「あの、エドガー、そちらは?」
人を連れてきたなら早く言ってほしい。リディアはあわててエドガーを押し戻す。
しかし、振り返ったエドガーは、不思議そうに首を傾げた。
「やあエドガー、デッキできみの姿を見かけたから、声をかけようと思ってね。奥さんの気分がすぐれないなら力になれるよ。これでも医者だからね」
「……誰?」
「やだなあ、忘れたのか? フランシス・ド・フィニステールだよ。去年、ロンドンのポストナー卿のパーティで会っただろ?」
エドガーは考え込んだようだった。
その青年は、流ちょうな英語を話していた。
片目を黒い眼帯《がんたい》で覆《おお》っている。しかしそれよりも、肩までのばした波打つ銀髪が人目を引く。
一度会えば忘れない容貌《ようぼう》だとも思うけれど、パーティのような、人の多い社交場ではどうだろうか。
「それにしても、結婚したんだ? いやあ、かわいい奥さんだね。いつから目をつけてたの? あのとききみが口説いていたのは、たしかポストナー家のお嬢……」
「ああ思い出したよ、フランシス! こんなところで会うなんて奇遇《きぐう》だね。きみはどこまで行くの? ひとりなのかい?」
唐突にエドガーは声をあげた。彼の言葉をさえぎったように思えたのは気のせいだろうか。
「なあエドガー、座ってもいいかな」
「もちろん」
にっこり微笑《ほほえ》みながら、エドガーはリディアの隣に腰をおろすと、フランシスに向かい側の座席を勧めた。
レイヴンが入ってきて、水の入ったグラスと薬をテーブルに置いていく。それからちらりとエドガーと視線を合わせ、それだけで次にすべきことを理解したかのように頷《うなず》き、ドア際の椅子に腰をおろすと、フランシスの方にじっと注意を向けていた。
「奥さんを紹介してくれよ」
「リディアだ。ああ、それ以上近づかないでくれ」
「はは、溺愛《できあい》してるね。きみのことは典型的な遊び人かと思ってたから意外だよ」
「僕は根っから一途《いちず》な男だよ」
「知らなかったわ」
リディアがつぶやくと、フランシスは笑った。
おおらかそうな人だった。品があって、それでいて気取っていなくて、リディアは好感をおぼえていたし、エドガーも親しげに接している。
ケリーもくすくす笑う。
「リディア、きみに出会うまで一途になれるような女性を知らなかっただけさ」
「調子いいんだから」
「なるほど、エドガー、奥さんを疲れさせている原因はきみだね。睡眠不足なんだろう?」
「え? そうなのか、リディア?」
そんなこと聞かれても。
「ほら、困ってるってことはそうなんだよ」
「わかった。少し考えよう」
「旦那さま、レディの前ですべき紳士的な会話じゃありませんわ」
ケリーがいさめてくれて、リディアは安堵する。赤くなって戸惑うしかないリディアとは違い、子供のころから働いているせいか、ケリーはずっと精神的に大人だった。
結婚したからって、急に大人になれるわけじゃない。伯爵夫人になったのに、リディアにはまだ自覚も足りない。
もっとしっかりしなきゃ。そう思いながら窓の外に視線を動かす。
汽車は葡萄《ぶどう》畑を割って進んでいく。
フランシスが何か言って、個室の中がなごやかな笑い声で満たされる。
薬の包みをほどきながら、リディアは列車のリズミカルな音と、交わされる会話をぼんやりと聞いている。
レイヴンだけが、息をひそめているかのようにじっとしている。
「ぼくは気ままなひとり旅さ。思い出の場所を、訪れたくなってね」
フランシスは、ふとしんみりとした口調になった。話題が変わったのを感じ、リディアはなんとなく意識を向けていた。
「恋の思い出かい?」
「……そう。だけど、苦《にが》い恋だよ。彼女と過ごした場所を、いまさらめぐるなんて情けないけどね」
「もう、会えないんですか?」
恋の話に気をひかれ、つい訊《き》いてしまう。
「行方《ゆくえ》がわからないんだ。彼女は、ぼくのもとから急にいなくなって、それきり。ああでも、新婚さんをしんみりさせるつもりじゃないんだ。そろそろ気持ちを切りかえる時期だと思って、旅を思いついた。彼女の足取りをもういちど確かめてみて、そしたら吹っ切れるんじゃないかと思ってね」
フランシスは、あくまで明るく語っていた。
「ブルターニュの女だったのか?」
「出身は違うけれど、彼女はブルターニュに恋をしていた。そう、まるで恋だ。……彼女の故郷に似ていたんだそうだ。帰れるかどうかわからない故郷への想《おも》いを重ねていたのかな。カルナックの列石、サン・マロのエメラルド海岸、フランスの中にあってフランスとは違う、異国の気配を感じる土地。ブルトン語の不思議な響《ひび》き。彼女が語るブルターニュの魅力に、ぼくも惹《ひ》かれた」
かなわない恋は、遠い郷愁《きょうしゅう》に似ている。
リディアは、薬のせいでぼんやりしはじめた頭の中でそんなふうに感じていた。
「妖精って、本当にいるのかな……」
フランシスはため息のようにもらす。エドガーが問う。
「その女性が妖精の話を?」
「ブルターニュではよく見かけるって言っていたんだ。おもしろいだろう?」
「……いるわ、本当に」
眠気に誘われながらも、リディアはつぶやいていた。
エドガーに体を引き寄せられるまま、彼の肩に頭を寄せる。
「ありがとう、レディ。そう言ってくれたのはあなたがはじめてだ」
フランシスは真摯《しんし》な目をリディアに向けた。
いつからかリディアは、妖精の存在を話すことにためらいを感じなくなった。エドガーがそばにいると思えるようになってからだ。
妖精のことを笑ったりしない人がそばにいる、それだけでリディアは救われている。
妖精を信じている人も、信じたい人も、世の中からいなくなったわけじゃない。だったら自分の言葉が、誰かを救えることも、まだあるのかもしれない。
リディアは微笑んで、ゆるりと眠りに落ちた。
目が覚めると、エドガーの膝に頭を載せていた。あわてて体を起こしたリディアを見て、エドガーはにっこり笑う。
「よく眠ってたね。気分はどう?」
見まわせば、フランシスの姿はなかった。
レイヴンとケリーも席をはずしているようだ。ニコはまだ、座席でいびきをかいている。
「すっかりいいわ。……でも、あの、あたしいつから……」
「僕の膝を占領してたこと? その方が楽だろうと思って」
「あ、あなたがそうさせたの!」
「気にしなくても、僕の膝枕はきみだけのものだよ」
「じゃなくて、人前でそんなこと……はしたないじゃない」
「人? ああ、フランシスがいたから? 大丈夫だよ、フランス人だから」
「あなたっ、フランスなら何でも許されると思ってるの?」
「うん、それに僕たちは新婚だ。たいていのことは許される」
何なのその理屈。
リディアが呆気《あっけ》にとられるのもかまわず、エドガーは顔を近づけてキスをした。
「仲がよくてすてきな夫婦だって、彼も感心してた」
あきれていたの間違いじゃないのか。
「あたし、眠り込んだままごあいさつもしなかったわ。あなたの友人なのに……。もう降りてしまったの?」
「さっきの駅で降りた。でもまた会うんじゃないかな。ブルターニュをまわる旅をしてるんだから」
だったらいいけれど、と思うリディアは、また彼に会いたいような気がしていた。けっして変な意味ではなく、妖精の話をもっとしたかったと思うのだ。
「それにリディア、不義理を気にする必要はないよ。彼は僕の友人じゃない」
「えっ、でも、親しそうだったじゃない」
しかしエドガーは、あごに手を当てて考え込む。
「どう考えても、会ったことがないんだよね。ポストナー家のパーティは、ああいうめずらしい外国人が招かれることはなかった。でも向こうは僕のことを知ってる。何を考えているんだろう」
「……って、あなたこそ何考えてるの! 知ってるふりしたじゃないの!」
「彼がどういうつもりかわかるかなと思って」
あきれかえるリディアは、しばしばエドガーの考えていることがわからなくなる。
「そういえばエドガー、さっき何かごまかそうとしてなかった? ポストナー家で誰かを口説いて……」
「え、何のこと?」
さっと立ちあがった彼は、壁に掛けてあったリディアの帽子を手に取ると、さわやかな笑顔で話を打ち切った。
「次の駅で降りるよ。そろそろ準備をしないとね」
*
ノルマンディの西端、モン・サン・ミシェルに立ち寄り、ゆっくりと観光を楽しみながら、リディアたちがブルターニュのリゾート地に到着したのはそれから三日後だった。
薔薇《ばら》色海岸と呼ばれているその一帯は、その名の通り、ピンク色がかった岸壁がどこまでも連なる美しい海岸だ。近年、アメリカ人富豪の別荘が増え、イギリスやヨーロッパの貴族も集まるようになったという。
この海岸を目的地にしたのはもちろん、あの絵に描かれていた島や城が、ピンクがかった色をしていたからだ。
リディアが鉱物学者の父に確かめると、ブルターニュにはそういった色合いの花崗岩《かこうがん》の産地があると教えてくれた。
そのあたりでは、建物にもその岩が使われているため、どこもかしこも薔薇色なのだという。
そして父は、赤いムーンストーンにまつわる言い伝えがブルターニュにあるかもしれないということも聞かせてくれた。
リディアの父は、鉱物にまつわる伝説や物語も収集する趣味があって、それも博物学という意味では立派な学問であるらしい。
しかし肝心《かんじん》の、言い伝えの内容はわからなかった。父もまだそこまでは調査できていないらしい。
ただ、ムーンストーンは長石《ちょうせき》の一種で、長石は花崗岩に含まれる成分でもあるということを教えてくれた。
薔薇色の花崗岩の赤みをさらに凝縮《ぎょうしゅく》したような、赤いムーンストーンの指輪だった。薔薇色海岸へ行ってみるべきだとの思いは、ますます強くなった。
そうして彼らは、薔薇色海岸にやって来た。
一瞬で、リディアはそのめずらしい景観に目を奪われた。
どこまでも続く海岸を染めるのは、まさに薔薇色だ。夕暮れ時に到着したため、海さえも薔薇色を溶かしたように見えたのだった。
沖合には、ぽつぽつと島が目につく。薔薇色の断崖が海から突き出したような島々だ。
港の辺《あた》りには海鳥が黒っぽい影となって舞い、雲も薔薇色に輝いている。
小ブリテンと呼ばれるとおり、水平線の向こうはイギリスだ。
遠い昔、この海峡を越えてきたブリテン人にとっては、命がけの長い距離だっただろうけれど、今では手近なリゾート地として、イギリスからの旅行者は少なくない。
リディアたちが到着したホテルでも、あちこちから上流階級独特の英語が聞こえていた。
岸壁の上に建つホテルは、古城を改装した立派なもので、やはりオレンジがかったピンク色の外観だった。
内装も優雅で、貴族好みになっている。
主寝室に応接間、ドレッシングルームがふたつ付いた客室に案内されたリディアが、何よりもまずバルコニーに出てみれば、薔薇色の海岸線と海とが一望できた。
「来てよかった?」
そばへ来て、エドガーが微笑んだ。
「ええ、すばらしい風景ね」
リディアは手を持ちあげ、ムーンストーンの指輪を夕日にかざした。
「ねえボウ、あなたならわかる? 近くに赤いムーンストーンはあるの?」
けれど、ムーンストーンは何も答えない。そもそもこれは、人の言葉を語らない。
「どこから調べればいいのかしら。海岸を歩いてみれば、絵の中にあったような島と古城が見つかるかしら」
リディアが言うと、エドガーは肩をすくめた。
「薔薇色海岸は、延々三十マイルはあるよ」
「えっ、本当? 困ったわね。あの絵が手元にあれば、人に見せることもできたのに……」
作者も所有者もわからない絵だ。現実にあんな島があるのかどうかもわからない。
[#挿絵(img/granite_037.jpg)入る]
「着いたばかりなのに、熱心だね」
「だって、あたしたちにとっては大事なことだわ」
「あたしたち、か。いいね。僕たち一心同体だってことだよね」
「それは……、まあ」
結婚したのだから。
リディアが赤くなれば、エドガーは楽しそうになる。背中から抱きかかえるようにして、胸の下で腕を交差させる。そうしてうなじに唇《くちびる》を押しつけるから、リディアはうろたえる。
「……ちょっと、エドガー、あなたも考えてちょうだい。ここには、妖精国《イブラゼル》につながる手がかりがあるかもしれないのよ」
リディアは彼の腕をほどこうと試みたが無駄だった。
「手がかりがあるにこしたことはないけれど、なくてもいいじゃないか。旅行を楽しんで、愛を深めるのがいちばんの目的だろう?」
「え、そうなの?」
思わずそう言ってしまうと、腕をゆるめたエドガーはリディアと向かい合うようにしながらかすかに眉《まゆ》をあげた。
「だって、新婚旅行《ハネムーン》なんだよ」
「あ……えっと、まあ、そうよね」
あきれたように、彼はまばたきをする。
「リディア、フェアリードクターの仕事をしに来たつもりじゃないだろうね」
ちょっとそんなつもりだった。伯爵家の一員としての、大事な仕事。
「どうすればきみは、僕のことで頭がいっぱいになるのかな」
意地悪な顔をするものだから、リディアはあせった。つい、エドガーから距離を取る。
「そ、そろそろディナーのための支度をしないと」
言いながら部屋の中まで後ずさり、急いでケリーを呼ぶ。侍女が姿を見せると、エドガーはあきらめてくれたようだった。
「まあいいか、ハネムーンの期間はまだたっぷりとあるからね」
ほっと息をつくリディアは、エドガーがときにかいま見せる、攻撃的な気配が苦手だ。やさしい口説き文句も、リディアが赤くなるような悪ふざけも、まあいいかと思えるけれど、それ以上に強く求められているような気配を感じると、なんとなく動揺させられる。
たぶん彼は、今のリディアに満足していない。どこかがまんしているような気がする。色気がなくて子供っぽいから? でも色気ってどういうもの? よくわからない。
彼が欲しがるものを、リディアは持っていないかもしれない。それに気づかれたくない。そんな気がしてしまうのだ。
一方で、彼が隣室へ姿を消すと、今度は自分のそっけない態度が気になってくる。
「新婚旅行って、あんがい大変ね」
思わずつぶやきをもらすリディアに、ドレスを運んできたケリーが笑った。
「でもリディアさま、楽しんでいらっしゃいますでしょう?」
「ええ……、旅行は楽しいわよ。ただ、日常生活から離れると、お互いの知らなかったところが見えてくるみたい」
「そうやって、愛情を深めるための蜜月《ハネムーン》なんですよ」
「いやなところに気づいてしまったらどうするの?」
「気づいたんですか?」
「そ、そんなことないわ」
エドガーは、結婚前からあんなふうだ。攻撃的なところもあった。以前は、リディアはそれを突っぱねて、知らないふりをしていてもよかっただけ。
でももう、そういうわけにはいかない。
夫婦なんだから、逃げ出してはいけないと思う。
でもつい、ちょっと退いてしまう。
あたしは……、違っていたんじゃないかしら。エドガーの期待とは……。
支度を終え、ディナーのためにホテルのダイニングルームへ足を踏み入れたリディアは、宮殿のような華やかさに目を見張った。
そもそもここは、どこもかしこも豪華な造りだったが、ディナーとなるとさらにグレードがあがるようだ。そこに集まる人々が、何よりもきらびやかで目を奪われる。
ロンドンの社交界よりもずっと、女性たちの装いが派手で、これ見よがしに目立つ宝石を身につけている。
リディアが着ていた、光沢のあるペパーミントグリーンのドレスは、品がよすぎてむしろ地味に見えたかもしれない。
大粒のダイヤモンドやエメラルドがきらめく中、リディアが身につけているのは、レース編みのように繊細《せんさい》なシードパールのチョーカーと髪飾りだ。エドガーが勧めたとケリーが言っていたそれは、目を引くほど輝きはしなかったが、当のエドガーは満足そうに微笑んでいた。
「さすがに、お金持ちが集まるリゾートなのね」
案内された席について、リディアは緊張しながらそっとあたりを見まわした。
「そうだね。だけどきみがいちばん注目を浴びているよ」
意味がわからないままだったが、食事が終わるころ、給仕がカードを置いていった。
「ニューマン子爵《ししゃく》夫妻のサロンに招待されたけど、行くかい?」
それを開いて、エドガーが問う。
「えっ、行った方がいいの?」
「あいさつをするだけだよ。しばらくここに滞在するし、すでに英国人貴族の集まりができあがっているのだろうから、知り合っておいて損はない」
どうやら外国のホテルでも、長期滞在する人たちの社交界のようなものがあるらしかった。
「ニューマン夫妻って、エドガーは知ってる人なの?」
「いいや。おそらく新しい貴族だろう。向こうは僕の名前を知っているみたいだし、ロンドンの社交界みたいに堅苦しいところはないはずだよ。きみと話の合う若い女性もいるんじゃないかな」
友達をつくる機会だということだろうか。リディアは頷《うなず》きながら、気が進まない気持ちを押し隠していた。
アシェンバート伯爵夫人になった以上、エドガーに恥《はじ》をかかせるわけにはいかない。
気合いを入れて出向いたサロンは、思ったよりもなごやかな雰囲気《ふんいき》だった。
イギリス人だけでなく、外国の貴族も何人かいたが、みんなよほどのお金持ちばかりらしいのは、競うように身につけている宝石が物語っている。
エドガーは慣れたもので、ニューマン卿夫妻ともすぐにうち解け、輪の中心的な存在になっていた。
ニューマン夫人は夫とはいくらか歳《とし》が離れているらしく、リディアにはお姉さんというくらいの年齢に見える。フランスに駐在しているため、このところロンドンの社交界から離れているという夫人は、ロンドンの様子や宮廷のことを聞きたがった。
リディアが宮廷に招かれたのは一度だけだが、それだけの話でもニューマン夫人は感激し、リディアにやさしく接してくれた。
サロンにいたほかの女性たちも、同じようにリディアに好意的だった。
ドレスや装飾品をほめられ、不思議なほど持ちあげられて、リディアはむしろ戸惑うくらいだ。
そんなだから、少し席を立ってにぎやかなサロンから離れると、やけにほっとした。
「無理をしてるわね」
吹き抜けのホールを見おろす通路で、手すりに寄りかかって軽い酔いをさましていたリディアは、声をかけられて振り返った。
黒い髪の、背の高い女が強いまなざしをこちらに向けていた。
「男はいつも、自分のために妻が苦労もがまんもするのは当然だと思ってる。あなたが疲れた様子でも、気づかないの」
突然|不躾《ぶしつけ》なことを言われ、リディアはたじろぐが、あまりに彼女が堂々としているからか、純粋に興味も感じていた。
「誰……なんですか?」
「アーエス」
ファーストネームしか言わない。
二十代後半くらいに見えるけれど、落ち着き払った雰囲気が、もっと年上にも思える不思議な女性だった。
「あたしは、リディア・アシェ……」
「夫の名前はけっこうよ、リディア」
右手を差し出され、なんとなく握手してしまう。
「ずいぶんお若い花嫁ね。新婚旅行は楽しい?」
「……ええ」
「でもあなた、ご主人とは合わないように見えるわ。貴族のつきあいなんて苦手でしょう? 彼は、華やかな場所が好きね。それに女性に不自由したことのないタイプ。恋の熱が冷めれば、あなたは家に閉じこめられる。女の方からはなかなか離婚できないけれど、男は好き勝手に遊んでもとがめられない」
「やめてください」
さすがにリディアは声をあげた。
「そんなこと、あなたに言われる筋合《すじあ》いはないわ。彼はやさしくて、いつもあたしを思いやってくれるもの」
たしかにエドガーはもてるし、根っからの貴族だし、華やかな場所がこの上なく似合う人で、リディアに釣り合わないのは当然だ。
けれど、生涯《しょうがい》変わらない愛情を誓ってくれた。
アーエスは、無知な少女を見守るようなやわらかい目をし、くすりと笑った。そうして、シャンデリアの下方に見える階段を指さした。
女がひとり、階段を下りていこうとしているところだった。
華やかなドレスを着ていたが、やせ細った彼女には似合っていなくて、むりやり着せられているみたいな印象だ。足が悪い様子で、小さな歩幅でよろよろと歩いている。
「足に鎖《くさり》をつけられているのよ。夫が、逃げ出せないようにそうしたの。まるで奴隷《どれい》ね。彼女、いつか殺されるかもしれないって言っていたわ」
「ま、まさか」
「お気をつけなさい。結婚は牢獄《ろうごく》よ。一生、男の顔色におびえて過ごすの」
信じられずに硬直するリディアの耳元でそっとささやき、アーエスは立ち去った。
「アシェンバート夫人、こんなところにいらっしゃったの」
ほとんど入れ替わりに、ニューマン夫人が声をかけてきた。
「殿方はみんな、スモーキングルームへ行ったところですわ。女だけでお菓子をいただきましょう」
頷くリディアの手を、夫人は親しげに取る。そうしながら、内緒《ないしょ》話のように顔を寄せて問う。
「ねえ、さっき黒髪の女性と話をしてらっしゃったでしょう? 妙なことを言われなかった?」
驚いて、リディアは顔をあげていた。
「あの女性をご存じなの?」
「長くここに滞在してるから、顔見知りってくらい。でも、彼女とはあまりお近づきにならない方がよろしいわ。よくない噂《うわさ》を聞きましたもの」
「噂……」
神妙な顔で、ニューマン夫人は頷いた。
「高貴な身分だそうだけど、ご主人は老齢で、世継ぎに恵まれなくて困っているのですって。それでご夫人をひとり、このリゾートに滞在させているとか」
はあ、と言ったリディアは、意味がよくわからなかった。ニューマン夫人は、そんなリディアのためか、それとも下世話な噂話をしたかっただけか、さらに小声でささやく。
「夫人が身ごもれば、世継ぎとして育てるってことなの。彼女の部屋には、夫が選んだ複数の男性が出入りしてるって聞くわ」
リディアが目をまるくするのを、ニューマン夫人は楽しそうに眺めた。
「そ、そんな……」
「娼婦みたいでしょう? まともな女ならがまんできるはずありませんわ」
眉をひそめた彼女は、まるでアーエスを穢《けが》れているとでも言いたげだった。けれどそれが本当なら、アーエスが悪いのではない。
さっき彼女があんな話をしたのは、望まない結婚に傷ついていたからなのだろうか。
考え込んだリディアの耳に、そのとき女の悲鳴が聞こえた。
はっとして、階段の方に振り返る。
さっきの足の悪い女性が、大柄な男にむりやり引きずられていこうとしている。彼女の夫だろうか。
何か言い争っている、と思うと、男がステッキを振り上げて女を打つ。
思わずリディアは駆けだしていた。
「やめて! 女性に暴力をふるうなんて最低だわ!」
それでも男はやめようとしない。とっさにつかみかかるが、振り下ろされたステッキがリディアの肩を打ちつけた。
そのまま勢いよく振り払われ、リディアは階段から足をすべらせる。
幸い転げ落ちはしなかったけれど、背中や足をしたたかに打って息が詰まる。
「女のくせに、でしゃばるな」
言い捨てた男は、妻を引きずって行ってしまった。
痛みになかなか立ち上がれなかったリディアに、ゆっくりと近づいてきたニューマン夫人が手を貸してくれた。
「すみません……」
「驚きましたわ」
いくらかあきれたように、彼女はそう言う。
「このことは、誰にも言わないでおきましょう。男性につかみかかったなんて、あなたのご主人も恥ずかしいでしょうし」
ああ、そうなんだわ。
つい今までの調子で飛び出していったリディアだが、いつまでもカールトン家の変わり者娘のつもりでいてはいけなかったのだ。
「……お気|遣《づか》いありがとうございます。あたし、自室へ戻ります」
「その方がいいわね」
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姿を消した女たち
「まあリディア奥さま、背中にもぶつけたあとがありますわよ」
翌朝、着替えを手伝ってくれていたケリーがそう言った。
朝になって、明るいところで確かめれば、肩や腕や足や、とにかくあちこちに、打ちつけたあとができていた。
「当分、背中の開いたイブニングドレスは着られないわね」
「腕も、そでのあるドレスか長めの手袋が必要ですね。足は痛みます?」
「少し、歩くのは問題なさそうだけど」
「湿布《しっぷ》がありますから」
「ありがとう、ケリー」
情けなくなりながら、椅子《いす》に腰をおろすリディアに、ケリーはからりと笑いかけた。
「それにしても、ゆうべは驚きましたわ。取っ組み合いのケンカでもなさったのかと」
部屋へ戻ってきたとき、リディアの髪はほどけかかっていた。そんなふうにも見えたことだろう。
「まあそのようなものだわ」
堅苦しくない侍女《じじょ》でよかったとリディアは思う。彼女は素のままのリディアをよく知ってくれている。
「女性に手をあげるなんて、ひどい男性もいるんですね」
「昨日のこと、エドガーには言わないでね」
「ええ、旦那さまには、奥さまはお疲れだから先に休んだとだけお伝えしましたから」
ケリーなら秘密を守ってくれる。これがレイヴンだと、ついエドガーに本当のことを言ってしまうだろう。
とにかくリディアは、貴婦人らしくない出しゃばったまねも、ぶざまに転んであざをつくったことも、エドガーに知られないよう、朝早くからベッドを抜け出し身支度を整えた。
昼間のドレスなら、ぶつけた痕《あと》をすべて隠してくれるのがありがたかった。
「リディアさま、窓辺のミルクを新しいものに取り替えておきましょうか」
「そうね。そうしてくれる? ミルクは減っていたかしら」
ブルターニュには妖精が多い。ここへ来てすぐ、小さな妖精たちに気がついたリディアは、彼らに友好を示すために、ミルクを窓辺に置くことにした。
「はい。それに、妖精からのおみやげも」
ドングリをひとつ、ケリーはドレッサーの上に置いた。
はじめての土地でも、こうして妖精と接することができると、リディアは土地そのものに歓迎《かんげい》されたように感じられる。
妖精は、その土地が持つ地形や気候、水や空や土や生き物、すべてを含めた自然の魂《たましい》のような存在だからだろう。
ほっと一息ついたところへ、レイヴンが紅茶を運んでくる。エドガーが起きたのだろうと思っていると、寝室のドアが開いた。
「早起きなんだね、リディア」
「おはよう、エドガー。昨日は先に帰っちゃってごめんなさい」
「それはかまわないけど、気分はよくなったの?」
やさしく微笑《ほほえ》んで、リディアの髪をさらりと撫《な》でる。それからゆるく抱き寄せる。
ガウンを羽織《はお》っただけの彼を、朝日がたっぷり射し込む部屋で眺めるのは、いつでも気恥ずかしい。抱き寄せられると、胸元の素肌がすぐ目の前にあるからだ。
「少し酔っただけよ。あ、レイヴンがお茶を淹《い》れてくれたわ」
せいいっぱいにさりげなく彼から離れると、リディアはテーブルのそばに腰をおろした。
「声をかけてくれれば、僕も早く引きあげたのに。きみはまだご婦人方とおしゃべりを続けてると思っていたんだ」
エドガーが心底心配そうな目をするから、リディアはもうしわけなくなる。
「でも、あなたも楽しそうだったから」
「きみと過ごす方がずっと楽しいんだよ」
相変わらずの熱い視線からどうにか目をそらし、紅茶を口へ運ぶ。
「とにかく、今日はまだ予定を決めていないし、ここでゆっくりくつろぐのも悪くないか」
ゆっくり、ふたりきりで、となると、当然エドガーの口説《くど》きとスキンシップにさらされるだろう。
「え、そ、そんなのもったいないわ。せっかくブルターニュへ来たのよ」
「でも、移動が続いて疲れてただろう? しばらく滞在するんだから、一日くらい出かけなくたって……」
「あたしはすっごく元気よ!」
力説してしまってから、ちょっとばかり後悔する。これはこれで、いろいろとエドガーの思い通りかもしれない。
頬杖《ほおづえ》をついてリディアを見つめていたエドガーは、うれしそうににっこり笑った。
「そう。ならよかった。せっかくの新婚旅行だからね」
そんな上機嫌なエドガーの表情を曇《くも》らせたのは、おだやかな朝の時間に割り込んできたドアをたたく音だった。それもずいぶんはげしく、何事かというくらいにたたかれる。
立ちあがろうとしたケリーより早く、レイヴンがさっとドア際に向かう。
ドアごしに誰何《すいか》すると、怒鳴り声で向こうが名乗ったスロープという名は、リディアにはおぼえがなかったし、エドガーも首を傾《かし》げた。
「どういたしますか、エドガーさま」
「開けてやれ」
レイヴンがドアを開けたとたん、大柄な男が踏み込んでくる。リディアに目をとめると、大またで近づいてこようとするが、エドガーが男の前に立ちはだかった。
「何のご用です。いきなり失礼でしょう」
「その女だ! 妻をどこへやった!」
リディアを指さして男は怒鳴る。
見覚えがある。昨日の、リディアを突き飛ばした男だと思い出すが、何の話をしているのかさっぱりわけがわからなかった。
「妻を隠しているだろう、さがさせてもらう!」
「断る。出ていってくれ」
肩を押さえたエドガーの手を、男が振り払おうとしたが、次の瞬間には、レイヴンに壁際まではね飛ばされていた。
ホテルの従業員が駆け込んでくる。
「ミスター・スロープ、落ち着いてください!」
数人でうめく男を起こし、外へと連れ出す。残った支配人らしいひとりが、エドガーに頭を下げた。
「お騒がせしてもうしわけありません、アシェンバート伯爵《はくしゃく》。じつは、スロープ夫人が朝から行方《ゆくえ》がわからなくなっておりまして」
「えっ、ホテルの中にいないってことなの?」
思わずリディアは口をはさんだ。
「はい。妙なことに、誰も姿を見ていないのです」
「でも夫人は……その、足がご不自由でしょ? ひとりで遠くへ行けないんじゃないかしら」
「リディア、夫人を知っているのかい?」
はっとして、リディアは口ごもる。昨日のことはエドガーには秘密なのだ。
「ええと、お見かけしただけなの。さっきの男性といっしょだったから、彼女が奥さまだろうと……」
どうにかごまかす。
「そう。それにしても、スロープ氏はきみが夫人を隠したと言ったけど、どういう言いがかりなんだろう」
もちろん、昨日リディアが夫人をかばおうとしゃしゃり出ていったからだ。今度はどうごまかそうかと冷《ひ》や汗《あせ》をかいていると、支配人が言った。
「あれのせいではないでしょうか」
彼が指さした窓辺には、ミルクの入ったグラスが置いてあった。
「スロープ夫人も、毎日窓辺にミルクを置いていたそうで。何かのおまじないだとか。流行《はや》っているのですか?」
「ええ……まあ」
「スロープ氏に言われて私も気づいたのですが、ときどきそうしているお部屋を見かけますな。あなたがそのおまじないを、スロープ夫人から聞いたと、つまり言葉を交わすくらいには親しいと思われたのではないでしょうか」
エドガーは納得してくれたようだった。それよりも、支配人が立ち去るのも上の空で、リディアは考えていた。
妖精と仲良くするおまじないを、スロープ夫人は知っていたのか。それに、他にも見かける?
もっともこれは、昔からの言い伝えだ。今も知っている人がいても不思議ではない。
彼女は妖精を信じていたのだろうか。
「エドガー、ちょっと詳しい話を聞いてくるわ」
思い立ったらリディアは部屋を飛び出していた。
急ぎ足でサロンへ駆け込み、そこの広いバルコニーから見える客室の窓を確かめると、窓辺にグラスの置かれた部屋がひとつ目につく。他にもあるかもしれないが、海に面した部屋のことは確かめられない。ともかくリディアは、今度はその、グラスの見えた部屋へと急いだ。
「リディア奥さまー」
ケリーが階段を駆け下りてくる。
「おひとりではいけませんわ」
「大丈夫よ、ケリー。ホテルからは出ないから」
「ごいっしょさせてください。でないと、レイヴンさんとお遣《つか》いに行かされそうなんです」
ケリーが本気で困惑しているので、リディアはくすりと笑った。
「そんなにレイヴンが苦手?」
「ひとつの馬車で過ごすなんて、十分が限界です。話がかみ合わないし、そもそも話しかけても反応が少ないし、それでも黙ってるのは気まずくてひとりでしゃべってたら、『その話の要点は何ですか』って! 怖《こわ》い顔でにらむんですもの」
ケリーはため息をつくが、レイヴンはケリーの何倍も困惑しているのではないかと思う。
何しろケリーは、反応がなくてもにらまれても、一生懸命場を明るくしようと話しかけてしまう女の子だ。
「それは、レイヴンには悪気はないのよ」
「なんていうか、気の休まらないかたです」
「じゃ、いっしょに来てくれる? そうだわケリー、このホテルには貴婦人方の侍女《じじょ》もたくさん泊まってるもの。レイヴンより話の合う人もいるんじゃない?」
しかしケリーは肩をすくめた。
「ニューマン夫人、でしたっけ? その取り巻きの方々も、侍女さえお高くとまってて、あたしがヘブリディーズから来たって言うと、田舎《いなか》者扱いで……。そういえばリディアさま、このホテルから女性が失踪《しっそう》する事件、以前にも何度かあったって耳にしましたわ。ホテルのメイドが話してたのを、取り巻きの侍女のひとりが聞いたとか、そんな噂話で盛り上がってました」
「本当なの?」
「支配人はけっしてその話はしないでしょうけど、なんだか不気味ですね」
たしかに妙な話だ。けれど噂話だし、ただの偶然かもしれない。
ケリーと話しながら、目当ての部屋の前までやってくる。ノックをしようとしたときだった。
「何をしてるの、リディア」
呼び止めたのは、昨日の黒髪の女だった。
「アーエス……、ねえ、さっき聞いたんだけど、スロープ夫人が」
静かに、と言うように、彼女は人差し指を立てる。彼女の背後に、もうひとり若い女性が立っている。アーエスはリディアと連れの女性とを促し、目の前のドアを開けて中へ入った。
リディアは気がついた。どうやらここは、アーエスの部屋だ。
勧められた椅子《いす》に腰をおろすと、連れの女性が、興味を持ったようにリディアを覗き込んだ。
「あなたも、望まない結婚をしたのね」
「えっ?」
「知っているわ。昨日ここへ着いたばかりで、窓辺にミルクの入ったグラスを置いてる、東向きの部屋でしょう?」
「あの、それなんだけど、この部屋も窓辺にミルクが……」
「あたしの部屋もよ。よかった、同志がもうひとりいて」
「同志?」
リディアはわけがわからなかったが、その女性が一方的に話したことによると、彼女は恋人と別れさせられて別の男性との結婚を強《し》いられたらしかった。
「スロープ夫人も同志だったのに。どこへ消えたのかしら」
つまり同志とは、夫とうまくいっていない女ということだろうか。お互いそれを知るしるしが、ミルクのグラスだとすると。
アーエスも同じだということになる。
昨日ニューマン夫人がしたアーエスの噂話が、ちらりと頭をよぎる。
「かわいそうに、彼女は間に合わなかったわ」
アーエスは、淡々とそう言った。
「いつか夫に殺されるって、そのとおりになってしまったのよ」
「こ、殺されたっていうの?」
リディアは驚いて声をあげるが、アーエスは神妙に頷いた。
「でも、ご主人は必死で奥さまをさがしてらっしゃいましたわ」
ケリーはなかなか冷静だ。
「そのくらいの芝居《しばい》はするでしょう。自分が疑われないように」
「アーエス、あなたは男の人を憎んでるの?」
つい、リディアは訊いていた。昨日も彼女は、そんな態度だった。
アーエスはリディアをじっと見つめ、やわらかく笑った。
「いろいろな噂があるみたいね。わたしのこと、穢《けが》らわしい女だと思ってる?」
「……ごめんなさい、不躾《ぶしつけ》なことを訊《き》いて」
「ただの噂よ」
きっぱりとした否定に、リディアは胸をなでおろす。
「そ、そう。……よかった」
「けれど、それがわたしのことじゃなくても、そういう哀《あわ》れな女はたしかにいるのよ」
リディアの単純さを笑っているのだろうか。アーエスは冷たく唇《くちびる》をゆがめる。
「あなたならどうする? 目の前にそういう女がいたら」
考えたこともなかった。それにリディアは、いまだによく理解できないのだ。リディアにとって結婚は、愛情と信頼で結ばれたものだ。
両親がそうだったから、自分の中での理想もそうだった。エドガーはリディアが思い描いた理想の男性像とは大きくかけ離れていたけれど、今では彼しかいないと思っている。
なのに、夫に殺されただとか、耐え難いことを強要されるとか、あり得ない話ではないとはわかるけれど、事実というより物語のように思える。
「わたしなら、彼女を解放してあげるわ」
アーエスは切れ長の目を細め、恍惚《こうこつ》と宙を見つめた。
「夫を殺してでも」
「……」
驚いて息をのむリディアに視線を移し、アーエスは急にくすくす笑い出す。
「冗談よ」
「そうね、解放される方法はほかにもあるもの。……それにしても彼女、かわいそうだわ。せっかくここまで来たのに」
もうひとりが意味深につぶやく。
リディアにはやはり話が見えない。
けれど問おうとする前に、アーエスは立ちあがった。
「さあ、ふたりとも、そろそろお帰りなさい。こんなことがあると、男たちは警戒するわ。夫に不審《ふしん》に思われないよう、私たちは親しい素振りを見せない方がいいのよ」
その言葉の意味もよくわからないまま、リディアは部屋を出された。
もうひとりの女性も、アーエスの言いつけに従うためかそそくさと離れていったため、詳しい話を聞くことはできなかった。
なぜ、望まない結婚をした女どうしがお互いを確認しあう必要があるのか。その合図が窓辺のミルクだなんて、誰が決めたのだろうか。
スロープ夫人は本当に殺されたのだろうか。
「不思議な感じの人ですね、あの黒髪の貴婦人」
ケリーがぽつりと言った。
「そうね。でも、悪い人じゃないって気がするの」
一階のホールまで戻ってきたリディアは、何気なく窓の外に視線を移す。木々のあいだを人影が通る。黒い上着の……女?
一瞬、その白い横顔を目にしたリディアは、はっとして目を凝《こ》らす。
しかしまばたきの間に、その姿は消え失せていた。
「リディアさま、どうかしました?」
「ケリー、今そこに人がいなかった?」
「いいえ、あたしは誰も見かけませんでしたけど」
気のせいだったのだろうか。
アーミンの姿を見たような気がしたのに。
|アザラシ妖精《セルキー》になってしまった、エドガーのかつての仲間、そしてレイヴンの姉だ。エドガーを裏切って、プリンスの手先であるユリシスに従っているはずだった。
そのアーミンがブルターニュにいるなんてことがあるのだろうか。
「知っている方なんですか?」
「……ううん、いいのよ。見間違いだと思うわ」
そしてリディアは、すぐにこのことは忘れた。そのくらい確信のないことだったし、その後、とんでもない問題が持ち込まれたからだった。
「おーいリディア、ちょっと来てくれよ」
ニコの呼ぶ声がする。二本足でとことこ歩きながら駆け寄ってきた彼は、外へ出るようにとリディアを手招きした。
「ちょっとニコ、ホテルの中を立って歩いちゃだめよ」
「どうせ誰も気づかねえよ」
ニコの後について、中庭にある四阿《あずまや》までやって来ると、植え込みの根元から声がした。
(猫のだんな、そっちがフェアリードクターか?)
「チビ妖精、おれは猫じゃないって言ってるだろ」
リディアが枝葉の隙間《すきま》を覗き込むと、尖《とが》った耳と小鬼のような角がうごめく。リディアには見慣れない小妖精が三人ばかりこちらを見あげる。
好奇心|旺盛《おうせい》なケリーもリディアと同じようにして茂みを覗き込むが、彼女には目の前にいる妖精が見えないようだった。キョロキョロと視線を動かしている。
「ニコの知り合いなの?」
「初対面だよ。コリガンって呼ばれてる連中だそうだ」
(本当にフェアリードクターか?)
(このあたりじゃ、もういなくなったと思っておったが)
「あたしはスコットランドのフェアリードクターよ。でも、あなたたちの力になれると思うわ」
(本物だろう。おれたちの声が聞こえるようだ)
(王女の仲間じゃなきゃいい。海の連中はお高くとまってるからな)
「王女って?」
(都の王女だよ。海底のな)
(とにかく、助けてくれよ)
「ええ、そうね。それで何があったの?」
(崖《がけ》の上からこいつが落ちてきて、おれの頭に直撃した)
折れたステッキの柄を、小妖精は持ちあげた。
(いっしょに鉄のかたまりも落ちてきて、家の入口を塞《ふさ》いじまった)
(それだけじゃねえ、わしの女房が下敷きに)
「ちょっと、大変じゃない。それを先に言ってちょうだい。家はどこなの?」
(この建物がある崖の下だよ)
(早くどけてやらないと、女房が怒り出す。空飛ぶガレットがもうすぐ来るのに!)
(おお、空飛ぶガレットは最高じゃな)
(今年も来るかな)
(もちろん来るさ!)
(そうだ、フェアリードクター、あんたはもうあれを試したか?)
ガレットって何かしら。
「それは……試してみたいわね。でもそれより、奥さんのことが大事でしょう?」
見知らぬものの話題に興味は感じるが、妖精たちにとって関心が深そうな話になれば収拾がつかなくなるのはわかっていたから、リディアは逸《そ》れかけた話をもとに戻した。
(そうだよ、そんなことより女房だよ!)
ともかく、妖精の家がホテルの断崖の下にあるとなると、リディアには容易に降りてはいけないだろう。
「ねえ、鉄のかたまりって何なの? フライパンとか?」
(さあ、鎖《くさり》がついた枷《かせ》みたいなものだった)
そんなものがどうして、崖の上から降ってくるのだろう。
首を傾《かし》げながら、何気なくリディアは、妖精が持ちあげたステッキに見入る。折れて柄だけになったそれに、見覚えがあるような気がする。
え……? まさか……。
昨日、ホールの階段で、スロープ氏が妻に向かって振り上げていたものに似ている。
そしてよく見れば、それには、血に濡れたような長い髪の毛がからみついていた。
「ケリー……、エドガーを呼んできて……」
ふらりと立ちあがったリディアは、吐き気をこらえながらどうにかそう言った。
フランシスだ。
回廊の端、海を見おろすテラスにたたずんでいる青年を、エドガーは立ち止まって眺めた。
リディアがなかなか戻ってこないので、様子を見に行こうと部屋を出たところだった。ゆるく波打つ銀髪に眼帯《がんたい》をした男が目に入り、確かめようと後をつければ、フランシスは回廊を抜け、テラスにいた女に声をかけた。
黒髪をゆるく結った女だった。
宿泊客だと思われたが、少し振り返った女の横顔に、エドガーは息をのんだ。
一気に記憶がよみがえる。シルヴァンフォードでの、眩《まぶ》しい陽射《ひざ》しの下。黒いパラソルからこちらに向けられた、鋭い切れ長の瞳。
おまえはいつか、両親を殺すわ。そして一族を破滅させる
めまいがするような感覚に耐え、エドガーは息を整える。
あのときの女に、たしかに似ている。しかし十数年も前のことだ。同一人物だとしたら、歳を取っていないように見える。
もっとも子供の記憶だから曖昧《あいまい》だ。二十歳でも三十すぎでも、大人の女は同じように見えたかもしれない。
フランシスは知り合いなのか、たまたま声をかけただけなのか、どちらともとれるくらいにさりげなく言葉を交わして、すぐに女は立ち去った。
ひとり残ったフランシスは、そのままそこに突っ立って、遠く海の方を見つめていた。
「レイヴン、あの女のことを調べてくれ」
頷《うなず》くレイヴンから離れ、エドガーはフランシスの方へ近づいていった。
彫像にでもなったかのように、フランシスは身動きもしない。その頬《ほお》に光る雫《しずく》が流れるのに気づき、エドガーははっとして足を止める。しかし、深い悲しみと憤《いきどお》りを秘めた横顔は、一瞬でかき消える。
エドガーの気配を感じたからだろう、フランシスが振り返った。
そのときの彼はもう、抑えようのない感情を胸にかかえた者ではなく、感傷的な思い出にひたるだけのおだやかな顔つきになっていた。
「……やあ、エドガー、きみもここに泊まっていたのか。奇遇だな。ぼくはさっき着いたところなんだ」
気恥ずかしそうに、頬をぬぐう。
「ここも、思い出の土地なのかい?」
「ああ、最後に彼女と過ごしたのが、この海岸だった」
「そう」
「情けないところを見られてしまったな。ひとりの女性にいつまでも未練《みれん》たっぷりだなんておかしいだろう?」
肩をすくめてみせる。
やわらかな物腰におだやかな口調。後ろでひとつに束ねた目立つ銀髪も、やはり記憶にはない。以前に会ったというとき、たとえ彼が隻眼《せきがん》でなかったのだとしても、エドガーは、人に関する記憶力はいい方だと思っている。
「そんなことはないよ。僕だって、もしもリディアが姿を消したら、面影《おもかげ》を求めてどこまでも放浪するだろう」
フランシスはやはり少し意外そうだった。
よほどエドガーのことを、女に節操《せっそう》がないと思い込んでいるのだろうか。
「本当に、彼女に惚《ほ》れ込んでるんだね」
頷いて、エドガーは微笑んだ。
「ポストナー家でかわいい令嬢を口説いても、リディアのことが頭から離れなかった。きみは知らないようだから忠告しておくけど、またいつかポストナー卿に会うことがあっても、僕の名前は口にしない方がいい」
「何かやらかしたのか?」
「べつに。結婚相手は心に決めた人がいると話したら、ポストナー卿が立腹した。令嬢にはキスもしてないのに」
はは、と笑うフランシスに近づき、低くささやく。
「だからフランシス、きみがもし、リディアが目当てなら、僕は何をするかわからないよ」
彼の青い目が、エドガーの灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》を映す。そこにあせりの色が混じる。
「何のために、僕に近づいたの?」
エドガーは、単刀直入に問うた。
「本当は、会ったことなんてないだろう?」
気迫に押されたかのように、一歩後ずさったフランシスは、叱られた子供みたいにうなだれた。
「すまない……。でも、きみとは友人になりたかったんだ」
まるで、寄宿学校に入りたての少年のせりふだ。
「は? きみはこれまでも、いきなり知り合いのふりをして友人をつくってきたのか」
「これまで友人をつくったことがない」
きっぱりと言う彼に、エドガーはあきれつつもおかしくなった。
「じゃあ、僕のことを調べて、友人になる作戦を実行したのは何のためかな」
「本物かどうか確かめたかったんだ」
「本物だって?」
「……そうだよ。ロード・イブラゼル、エドガー・アシェンバート。きみの名はそれに間違いなさそうだ。けど、本物の妖精国伯爵? 妖精国《イブラゼル》なんてのは爵位に付く名前にすぎないと世間じゃ思われてるだろう? だったらきみ自身はどう思っているのか知りたかった。妖精国を治めてきた、本物の妖精たちの主人、青騎士《あおきし》伯爵の子孫なのか?」
エドガーは意外に思いつつも、深く息をついた。
自分でも自分に問い続けている。もちろんエドガーは、青騎士伯爵の子孫ではないが、すべてにかけて本物の伯爵になろうとしている。
|悪しき妖精《アンシーリーコート》たちを率い、英国に復讐《ふくしゅう》を企《くわだ》てている災いのプリンス≠葬《ほうむ》るために、リディアと伯爵家を守るために、本物であり続けなければならない。
フランシスは妖精に興味を持っている様子だったが、好奇心で近づいてこられても迷惑なだけだ。
「それがきみに関係あるのか?」
わざと不機嫌に問い返すが。
「僕の愛した女性は、妖精国《イブラゼル》から来たと言っていた」
驚いて、エドガーは、問うべき言葉を見失う。
フランシスをにらむように凝視すれば、彼も真剣な目をこちらに向けた。
そのとき、ケリーの声が聞こえた。
「旦那さま! 大変です、リディアさまが……」
*
ホテルはじきに騒然となった。
建物の崖下で、スロープ夫人の足枷と靴が見つかったのだ。それもちょうど、スロープ夫妻が泊まっている部屋の真下だった。
リディアの話を聞いて、エドガーが支配人に報《しら》せた。
間もなくやってきた警察官とホテルの従業員とが、切り立った断崖へおりていって、岩場に残るドレスの切れ端や血の痕も確認した。
夫人が窓から転落した際、岩場にぶつかって足枷がはずれたようだったが、そもそもなぜ富豪の妻が鉄の枷をはめていたのか、ステッキの血痕はどういうことなのか、誰でも疑問に思っただろう。
夫に事情を聞こうとしたが、スロープ氏は騒ぎの直後に姿を消したようだった。
夫人の体の方は、海まで落ちて流されたらしく、見つからなかった。リディアの部屋へやってきて、そのように説明した支配人はまぶたを伏せた。
「美しい海底の都へ、女性が誘われていったなどという奇妙な噂もありましたが、現実は残酷《ざんこく》なものです」
リディアはケリーと顔を見合わせる。
「このホテルから女性が消えたことが、過去にもあったという噂ですか?」
「このホテルから? いいえ、宿泊客の女性が失踪したという話は聞いたことがありますが、チェックアウトをすませ、ご出発なさってからのことです。こんなことは初めてです」
「海底の都……というのは」
リディアに助けを求めた小妖精も、そんなことを口にしていた。思い出せば、なんとなく引っかかる。
「このあたりの伝説ですよ。昔、ブルターニュを支配する王都が、沖合のどこかにあったとか。しかしそこの王女が奔放《ほんぽう》な悪女で、恋人の裏切りにあい都は海の底に沈んだ。男を憎んだ王女は、海底に女だけの楽園をつくり、不幸な女を誘う一方、近づく男は殺されるのだとか。このあたりの海では、漁師や船乗りが死ぬのもその王女のせいだといわれています」
「都が沈んでも、王女は死ななかったんですか?」
ケリーが純粋な疑問を口にする。
「もともと、母親が妖精だったという伝説です。だから、都が消えてしまってもどこかで生きていると信じられているのでしょう」
その王女は、自分のように男に裏切られた女を誘うのだろうか。夫に殺されたのかもしれないスロープ夫人は、王女なら救えただろうか。
考えながらリディアは、支配人が立ち去ったのも上の空で、アーエスをぼんやりと思い浮かべていた。
間に合わなかった、とアーエスは言った。間に合うとはどういうことを示すのだろう。
「このあたりの海は、干満《かんまん》の差が大きい。満ち潮になれば、靴も血痕も、ステッキも見つからなかっただろうし、夫人が殺されたのかもしれないっていう証拠は消えていただろうってさ」
警官に事情の説明を終えて、部屋へ戻ってきたエドガーが言った。
「妖精のおかげね」
あの足枷だけでは、スロープ夫人のものだなんて誰も信じてくれなかっただろう。
「フェアリードクターがいたからだよ」
けれど、命は救えなかった。
だからといって、赤の他人のリディアに、何ができたわけでもない。昨日のように、スロープ氏に突き飛ばされるくらいしかできることはなかっただろう。
「あのステッキは、猫が拾ってきたことにしておいたから、もし訊《き》かれたらきみも口を合わせて置いてくれ」
警察官の前でエドガーにつかみあげられ、この猫が、と猫扱いされた愚痴《ぐち》を、先ほどひとしきりリディアにぶつけたニコは、暖炉の前のアームチェアでふんぞり返っている。相変わらず不服に思っているらしく、ふくれっ面《つら》でしっぽをゆらす。
ステッキを思い出せば、リディアはこびりついた血を思い出す。昨日も、夫人はあのステッキで打たれていた。止めようとしたリディアにも振り上げられた。そしてリディアは階段から落ちたが、スロープ夫人はあの切り立った断崖から……。
ヒヤリとしたあのときの感覚がよみがえり、リディアは震える。
心配そうにエドガーは、リディアが腰掛ける椅子の前に膝をつき、顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いね。無理もないか、ひどい事件だ」
「あたしは大丈夫よ。小妖精《コリガン》の奥さんも助かったでしょうし、フェアリードクターとして役に立てたわ」
エドガーは少し笑った。
「それにしてもリディア、ケリーが駆けつけてきたときは、きみが大変なことになったのだとあせったよ」
「やだ、そうなの? それで血相《けっそう》を変えて来てくれたのね」
ひどい事件を目《ま》の当たりにしても、エドガーがいればリディアは落ち着きを取り戻せる。
一方でエドガーは、もの思うように目を伏せ、苦しげに眉《まゆ》をひそめる。そうして、リディアの膝《ひざ》に額《ひたい》を押しつける。
抱きしめられるよりも親密な、そしてあまえるような彼の動作に戸惑うが、どうにかリディアはじっとしていた。
「ここへ来てよかったのかな」
ため息のように、言葉がもれた。
戸惑いながらも、リディアは手を動かし、金色の髪に指をうずめた。
「本当言うと、伯爵家のすべてを知るのは少し不安だ」
青騎士伯爵家や妖精国《イブラゼル》について、リディアは調べようとしている。けれど、新婚旅行だからとふざけ半分に言いながら、エドガーはどこか乗り気ではなさそうだった。
無理もないことだった。
彼が胸にかかえているものに気づき、リディアははっとさせられた。
「メロウやバンシーや、僕を認めてくれる妖精たちがいた。けれど伯爵家の謎に近づこうとすれば、核心的な何かが、僕には伯爵の資格がないと示すかもしれない」
そうなったらエドガーは、自分の中にあるプリンスの記憶を葬ることができないかもしれないと感じているのだろう。
人の世での、英国でのエドガーの地位はたしかなものだ。妖精国伯爵として、女王陛下の臣下として、貴族として、立派に家を盛り立てていけるはず。
けれどそれだけでは、プリンスに対抗する力にはならない。
「エドガー、大丈夫よ。たとえあたしたちが、伯爵家のすべてを手にすることができなくても、きっと道は開けるわ。これまでだって、あなたはそうやって、未来を切り開いてきたんだもの」
顔をあげたエドガーは、リディアを見て小さく笑った。
「そうだね、きみがいてくれれば、僕は強くなれる」
リディアの手を引き寄せ、彼は指先に口づけた。
さらに手首に、そでに隠れた素肌にと唇をすべらせる。腕にも打ちつけた痕があったことを思い出したリディアは、思わず手を引っ込めてしまう。
エドガーが不審《ふしん》に思う前に、ノックの音がしたのは幸いだった。
「エドガーさま、フィニステール氏がいらっしゃいました」
レイヴンがそう告げた。
気持ちを切り換えるように、エドガーはさっと立ちあがった。
「ああそうだった。彼に妖精国《イブラゼル》から来た女性の話を聞かないと」
「えっ、妖精国?」
手を差しのべたエドガーは、完璧なエスコートの動作で、リディアを隣の応接間へ誘った。
フランシスの想い人は、妖精国《イブラゼル》から来たという。妖精国にかかわる使命を負っていたらしいが、その後の消息は不明だ。
ちょっとばかり空想|癖《へき》のある、神秘的な女性だと思った、とフランシスは言った。
どこまでも続く巨石群、薔薇《ばら》色の断崖が連なる海岸、泉や遺跡を囲む深い森、ブルターニュの風景はどこか神秘的で、日常のすぐそばに不思議な魔法の世界がそっとたたずんでいるような気配がある。
だから彼女の話は、本当のことのように思えた。現実よりも、彼女の言葉を信じ、妖精国を信じ、ただいっしょにいたかったのだという。
彼女がいなくなってから、フランシスは知った。妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》、そういう名の人物が英国貴族に実在するというのだ。
エドガー・アシェンバート。彼女に使命を与えた本人なのか、本当に彼女の言うような、妖精の国が存在し、そこからやってきた人物なのか、疑問に思いながらもフランシスは、探偵を雇って調べていた。
ロンドンへ行くことを考えていた矢先、当人がパリに来ていると聞き、知り合う機会をさぐっていたらしい。
「その女性の名を、うかがってもかまいません?」
一通りフランシスの説明を聞いた後、黙り込んでいたエドガーの代わりに、リディアが質問した。
「ダイアナ、と。そう呼んでくれと言っていたので、本当の名前かどうかもわからないんだ」
「フランシス、残念ながら、僕はその女性のことは知らない。誰かに使命を与えたこともないよ」
フランシスはため息をつく。それでももうひとつ、確かめるように言った。
「妖精国《イブラゼル》は、本当にあるのかい?」
眉をひそめたエドガーは、悩んだように見えた。
「あるわ」
リディアは断言する。
エドガーは、自分の名前であるはずのその場所が、自分と無関係に存在しているかのように思えているのかもしれない。
ダイアナという、エドガーの知らない女性が、妖精国のために動いていたとなればなおさらだ。
それでもリディアは、エドガーと妖精国をつなぐ存在になりたいし、なれると思う。
伯爵家のフェアリードクターなのだから、できるはずだ。
「あたしたちの領地ですもの。ねえ、エドガー」
妖精国のことは、他人には語れない。
そう言ってエドガーが、これ以上の質問をさえぎったのは無理もないことだった。
青騎士伯爵家の血を引いていない青騎士伯爵であることを、フランシスに話すわけにはいかないからだ。
けれど話を打ち切れば、フランシスの知る妖精国から来た女性について、込み入ったことを訊《たず》ねることもできなくなり、結局はお互いに、知りたいことを知ることができないままになった。
その女性は、妖精国のために何をしようとしていたのか。妖精国にはまだ、伯爵家の親族や家臣や、いくらかの人間が暮らしているということだろうか。
そういう人たちが、人間界へ来ている可能性は他にもあるのだろうか。
彼らはエドガーの存在を知ったらどう思うのだろう。
伯爵家が葬るべきプリンスのことは、どう考えているのだろう。
「フランシスはあれ以上のことは何も知らないよ。伯爵家の本当のことを話しても、得るものはなかった」
「そう……ね」
リディアは頷《うなず》く。
エドガーがベッドの端に腰掛けると、ふわりと空気が動く。そんなかすかな気配にも、リディアの鼓動は跳ねる。
落ち着こうと深呼吸するけれど、あんまり役に立っていない。
「でもこのブルターニュに、妖精国を知る手がかりはあるかもしれない。赤いムーンストーンの指輪もきっとどこかに……。その可能性は大きくなったと思うんだ」
薄いカーテンを透かして、月明かりが部屋の中に青白く漂っている。
リディアは視線をあげる。薄闇の中でも、間近にある彼の瞳の紫は、不思議と鮮やかに映る。
「調べるの?」
「そのために来たんだろう?」
「……新婚旅行よ」
リディアがそう言うと、小さく笑って、そっとキスをする。
夜着《よぎ》のボタンをとめていない彼の姿が目に入ってしまい、急いで目をそらせる。
「妖精国を知ることに不安はあるけど、迷ってるわけじゃないんだ。すべてを知って、本物の伯爵にならなきゃいけない。きみを幸せにするためにも」
横たえたリディアの髪を撫《な》でていく。生《は》え際《ぎわ》をなぞる手は、頬から首筋《くびすじ》をたどる。
こうするときエドガーは、いつも、どうかしているくらいにやさしい。初めてのときからリディアを不安にさせることも困惑させることもなかった。
強引だったりふざけたりする、ふだんのエドガーとは違っていた。リディアは、大切にされているのだと実感できた。
唇が触れるごとに、少しずつ緊張が解けていく。そんな口づけも好きだと思える。
けれどその日は、いつもと違っていた。
「……や……、な、何するの……?」
思わず体を硬くして、リディアは言った。
「何って」
両手で押しのけようとする彼女を、困惑気味にエドガーは見おろす。
「ねえリディア、そろそろこれ、脱がない?」
華やかにレースやフリルのついた、フランス風のナイトウェアは、リボンがほどかれてしまったために、かろうじてリディアの肩に引っかかっている。エドガーはそれに手をかける。
リディアはあわてて胸元を押さえつつ、逃れるように半身を起こした。
「……そんな必要ないでしょ?」
「ふつうはそうするものだよ」
「うそ!」
ぜんぶ脱ぐ、なんて教わっていない。肌着一枚になるだけでもそうとう勇気のいることだし、なるべく肌を見られたくないと思うのは淑女《しゅくじょ》として当然で、男性も配慮をするものだと思っていた。
いや、勝手にそう思い込んでいたのだろうか?
「だって、これまでは、……そんなこと言わなかったわ」
「きみがあんまり恥ずかしがるから、最初のうちはまあいいかと思ったけど」
「は、裸《はだか》なんて見苦しいじゃない!」
「そう? 僕のことも見苦しい?」
頬を両手でつかまれる。必死でにらみつけたのは、とっくに夜着さえ着ていない彼の目を見ているしかなかったからだ。
「……あたしのことを言ってるの」
「どうしてそう思うの?」
「だって、あなたはたぶん、いくらか美化して想像してると思うの」
リディアにしてみれば、リネンのギャザーやレースがふんわりとして、自分の肉付きの悪さを多少は補ってくれていると思っていた。何も着ていなかったら、抱き心地だって悪いに違いない。
「大丈夫だよ、全然知らないわけじゃないし」
はっとしてますます赤くなるリディアは、以前にエドガーが、背中に入った異物を取り除く処置をしたことを思い出していた。
「で、でも……、あのときは、ケリーが……」
「ああ、うん、そうだね。脱がせたのはケリーだし、あのときはそれどころじゃなかったから、あんまりおぼえてないかな」
リディアが涙ぐんだからか、あわてて彼はそう言う。
「だけど、抱き合っていればわかるよ。だいたい想像通りだと思うよ」
にっこり微笑むけれど、それはそれで何だかいやだ。
それに今は、背中や腕に打ちつけた痕がある。ナイトウエアを脱いだら気づかれてしまう。
「お互いを隔てるものなんて、ないほうがいいだろう?」
でも、ひどいくらい紫になった肌は、見苦しいに決まっている。がっかりされたらどうしよう。
痕がなくたって、がっかりするかも。
だってエドガーは、もっと色っぽい女性をたくさん知って……。
ああ、やっぱり……だめ!
パニックになったリディアは、必死なくらいに体をよじって、エドガーから逃れる。
「無理よ、そんなの! ……そんな人だと思わなかったわ!」
自分でもわけがわからないままそんなことを叫んで、寝室から駆け出していた。
「リディアさま、どう考えても旦那さまがいけないと思いますわ」
ケリーはそう言って、ソファに顔を伏せるリディアの肩に手を置いた。
自分のドレッシングルームに閉じこもったリディアのもとへ、間もなくケリーがやってきたのは、エドガーがなだめるように頼んだからに違いなかった。
「たとえ自分の妻でも、無理強いをするのは間違っています」
「そ、そうよね」
意外にもケリーが憤慨《ふんがい》するので、リディアはつい顔をあげていた。
「ふつうはどうするかなんて、レディにわかるわけないじゃありませんか。結婚してまだひと月も経たないのに、旦那さまは性急すぎますわ」
「ねえケリー、それはふつうのことなの?」
むしろ驚いて、リディアは訊ねる。
ケリーは、リディアを混乱させまいとするように、手を握った。
「ありふれたことかどうかは、このさい関係ありません。リディアさま、愛する奥さまが多少の無理難題を言ったからって聞き入れられないなんて、立派な紳士の態度でしょうか? 旦那さまは、お若くても立派に貴族として誇りを持っていらっしゃると思っていましたのに」
あたしが、無理難題を言ったのかしら。
だんだんリディアは不安になってきていた。
「でも、……あたしが恥ずかしがってるのをわかってて、彼は無理強いなんてしたことないのよ」
「だからって、言うとおりにしなきゃならないことはありません。それでなくても奥さまは、旦那さまのために苦労やがまんをしているんですから」
それとこれとは違うような気がするが。
「……ただ、いきなりで驚いただけなのよ。どうしても……いやってわけじゃ……」
言ってしまった自分にうろたえる。
「でもケリー、今は無理よ! わかるでしょう? ほら、腕も背中も、まだこんなに痕が残ってるもの。だからあたし……怖くなったの。誤解しないで、エドガーが悪いんじゃないのよ」
真剣に、彼女の手を握り返して訴えると、ケリーはにっこり微笑んだ。
「よくわかりました。旦那さまに腹を立てているのでないなら、寝室に戻りませんか?」
ようやくリディアは気がついた。
ひとつ年下の侍女の方が、ずっと上手《うわて》なのだ。ケリーはリディアの味方でいてくれて、そのうえうまく諭《さと》してくれた。
冷静になれば、寝室を飛び出してくるようなことではなかったとわかる。
「エドガーは、怒ってない?」
「うろたえてらっしゃいました。リディアさま、アシェンバート家の夫婦ゲンカについて申しあげるなら、旦那さまに勝ち目はありませんわ」
おかしそうに言いながら、ナイトウエアのリボンを、ケリーが結び直してくれる。
おずおずと寝室へ戻ると、エドガーはドアのそばの壁に寄りかかって突っ立っていた。
「リディア、今夜はもう休もう。せめていっしょに眠ってくれるね?」
頷くリディアに歩み寄る。
めずらしくガウンの胸元をきちんと重ねているのは、リディアを困惑させないためだろうか。ケリーに注意されたのかもしれない。
「あたし、この土地の妖精たちと知り合えたでしょう? 彼らを通じて、妖精国《イブラゼル》とブルターニュのつながりに少しは近づけるかもしれないと思うの」
唐突だっただろうか。エドガーは不思議そうな顔をする。
「リディア?」
「あなたの役に立てるわ」
顔をあげることはできないまま、リディアはどうにかして思うことを伝えようとしていた。
「エドガー、あたし、まだまだいたらないけど、あなたが望むようなフェアリードクターになりたいの」
「うん、わかってる」
そろりと抱きしめられる。
あふれるほどのやさしさと愛情を感じ、リディアはそれだけで満ち足りる。
けれど、受け止めた口づけは、しだいに熱がこもり、気づけばベッドに倒れ込んでいる。
「……ね、もう休むんじゃなかったの?」
「ん……、その方がいい?」
「あなたが、そう言ったのよ」
「……やっぱり欲しい」
布ごしに触れる手さえ熱くてたまらないのに、素肌なんてどうなってしまうのだろう。
それでも今は、いつも以上に気遣《きづか》う愛撫《あいぶ》を感じながら、ゆるりと目を閉じる。
彼が与えてくれるものを、リディアは最初から戸惑いもなく受け入れていた。知っているような気さえした。結ばれることを幸せだと感じた。
だったらもっとお互いをよく知るためにも、彼の望むようにするのは、きっと自然なことなのだ。
そう思うのに、少し、怖い。
こうしていても、彼は慎重に自分を抑《おさ》えている。
ナイトウェア一枚のことでさえだだをこねるリディアに、彼が欲するものすべて、与えるなんて無理かもしれない。エドガー自身がそう感じているのではないのだろうか。
彼女を抱く腕に力を入れようとし、そんな自分を止めるように、エドガーは息をつく。
リディアは、与《あた》えきれていない。
[#改ページ]
近づく嵐の予感
「ゆうべはひやひやしたよ」
そう言いながらティーカップとソーサーを優雅に持ちあげる猫を、ケリーはちらりと盗み見た。
彼は紳士だから、あまりじろじろと見てはいけない。わかっていても、じっと観察したくなる。
ケリーは朝食のパンを口に運び、さりげなく周囲を見まわした。ここは宿泊客の召使《めしつか》いが利用する食堂だ。客たちはすでに、国や階級や豊かさに応じてつきあうグループができているが、召使いたちも同じような集団でつるんでいる。
どこにも加わらずにいるケリーは、不思議な猫と同席している方がずっと楽しく思える。
ニコのことを誰も注目しないのは、目の前の不思議に気づかないくらい、余裕のない人が多いからだろうか。
子供のころから、ケリーは妖精についてよく聞かされていた。彼らも妖精の世界もいつもすぐそばにあるけれど、見ようとしない者にはけっして見えないのだと。
もっとも、見てみたいと思っても、妖精がその気にならなければふつうの人間には見えないらしい。リディアはとくべつなのだ。
「おふたりとも、仲直りしてくださって一安心ですわ」
この食堂で、イギリス風《ふう》の魚のフライが出されると教えたところ、ニコはケリーの食事にくっついてきた。そうして、満足そうにそれをほおばる。フランス料理は気取っていると愚痴《ぐち》を言いつつ、召使いの食堂に居座っているのだ。
「あんたのおかげだよ。おれもレイヴンも、リディアをなだめるどころか、ますますかたくなにさせるのがおちだからなあ」
「この雨も、おふたりにとってはちょうどいいのかもしれませんね。出かけるのを見合わせて、ゆっくりくつろいでいらっしゃいますから」
窓の外を眺め、ケリーは微笑《ほほえ》む。朝からひどい雨だが、ふたりきりで語らうにはいい機会だろう。
「失礼します」
そう言って、ケリーの前の席に誰かが座った。レイヴンだ。とわかるとケリーは緊張した。
同じアシェンバート家で働く同僚とはいえ、レイヴンは必要がなければケリーに話しかけることもなく、食事も離れたテーブルにいるのが常《つね》だった。
なのに今日はどうしたのかしら、と困惑する。目の前にいれば無視するわけにもいかないけれど、共通の話題がない。
「ようレイヴン、あのふたり、結婚すればもっと落ち着くかと思ったのに、ますますあぶなっかしくて、あんたも苦労するよな」
「はい」
隣のニコに顔を向けたレイヴンは、ケリーが知るよりもやわらかい表情をしているように見えた。
「でもこの苦労は、悪くありません」
「ま、そうだな。ちょっと前まで、あのふたりもケンカなんかしてる場合じゃなかったわけだし」
顔を見合わせ、深く頷《うなず》きあう。
「あのう、レイヴンさんはニコさんと仲がいいんですね」
ケリーがそう言うと、レイヴンは意外そうに彼女の方に顔を向けた。
「ケリーさん、いつからそこに?」
見えてなかった?
レイヴンはニコと同じテーブルについたのであって、同僚と親睦《しんぼく》を深めるためにそばへ来たわけではないのだ。気づいたケリーは、ひどい脱力感に見舞われた。
[#挿絵(img/granite_091.jpg)入る]
やっぱり変な人だわ。
「レイヴン、ケリーはよくできた侍女《じじょ》だよ。それにしてもケリー、あんたも勤めはじめて驚いただろ? もっと仲がいいと思ってたんじゃないか?」
驚いたこともある。聡明《そうめい》で責任感と正義感にあふれる夫を一途にささえるやさしい妻、というイメージを漠然《ばくぜん》といだいていた。ハイランドの島にいたとき、ふたりのあいだにある信頼関係はそういう理想の夫婦を想像させた。
けれどじっさいには、ふだんの伯爵《はくしゃく》は陽気ないたずらっ子みたいな態度でリディアを困らせているし、リディアは見境のないスキンシップや悪ふざけにはきっちり抗議する。けれど。
「大変仲のいいご夫妻だと思いますわ」
「なのにどうして、ゆうべのようなことになるのでしょう」
レイヴンは、真剣な瞳《ひとみ》をケリーに向けた。変な人だけれど、従者としての仕事は完璧で、結婚して環境の変わった主人にいかに仕えるか、自分も学ぼうとしている。その点ケリーは一目置いている。
「リディアさまはお若いですから。でも心配はいらないと思います。うぶなご令嬢の場合、結婚したとたん夜ごと泣き出したり逃げ出したり、奥方の務めと覚悟していただくのに何日も説得するなんてことは茶飯事《さはんじ》なんですよ。でも奥さまは、苦痛に感じてはいらっしゃいませんもの」
「それだけはエドガーさまの取り柄です」
まじめな顔でそう言う。ニコがぷっと吹きだすが、ケリーは笑いそうになるのをこらえた。
「つまり、とってもうまくいってるってことです」
胸を張ってケリーは断言する。侍女として、主人夫妻の仲に気を配るのは当然の仕事だと思っている。名家の奥方にとって重要な役割が跡継ぎをもうけることなら、侍女にとっても重要なことだからだ。
ちまたによくある望まない結婚の場合でも、奥方をその気にさせなければならないが、そうする必要がないなら、侍女としても誇らしい。
「ケリーさんは、童顔なのですか?」
唐突なレイヴンの言葉に、我に返ったケリーは目をまるくした。
「え、どうしてです?」
「本当は三十歳くらいなのかと」
「それは……年増《としま》くさいってことですか?」
「はい」
ひざの上で握りしめた手を、わなわなと震わせながら、ケリーは絶句した。
年齢のわりにしっかりしているとよく言われる。ずっと年上の主人に仕えていたからか、嗜好《しこう》や話題も同年代の少女とは合わない。恋もしたことがないのに、男女について知りすぎていないかと、自分でも思うこともある。
でも。面と向かって女性にそんなこと言うなんて。
この人ぜったい変!
ピリピリした空気を感じたのか、気づいたらニコはいなくなっていた。
*
遠い昔、ブルターニュがまだ|海の国《アルモリカ》と呼ばれていたころ、そこを治める王の都が、海の上にあった。そこは、満潮になれば海面に覆《おお》われてしまうような低い土地だったが、町を取り巻く頑丈《がんじょう》な壁と水門に守られていた。
王には、娘がひとりいた。母親は妖精だったといわれている。そうして、魔術に通じていた王女は、魔女として恐れられていた。
王女はキリストの教えを受け入れず、聖者によって定められた婚約者を嫌い、自由|奔放《ほんぽう》に何人もの恋人をはべらせていた。
そのために、神から見放された都は、悪魔の手に落ちたのだ。
悪魔は、王女のいちばんの気に入りだった見目麗《みめうるわ》しい若者をそそのかし、眠る彼女の枕元から鍵を盗ませた。王都の守りの要《かなめ》である、水門の鍵だった。
その日、悪魔の手によって水門の鍵が開けられると、町には一気に海水が流れ込んだ。
悪魔のたくらみを察した聖者が、王や民を救おうと駆けつけた。警鐘《けいしょう》を鳴らし、都が沈む前に陸地へ皆を誘導した。
城の者も船や馬を用意し、脱出を急いでいたそのとき、王女が助けを乞《こ》うた。しかし彼女の恋人たちは誰も、神の怒りを恐れて王女を助けようとはしなかったのだ。
ただひとり、彼女を自分の馬に乗せようとしたのは、聖者が選んだ婚約者だった。
ところが、王女のあまりの罪の重さに、馬は一歩も動けなくなってしまう。王女をおろすようにと聖者は言い、しかたなく婚約者が従ったとたん、彼女は波に呑《の》まれて消えた。
妖精の血を引く王女は、しかしまだ、海底の都で生きているという。
あらゆる男を憎みながら、海の底で人魚《マーメイド》を従え、女だけの楽園を築いて暮らしている。
もしも都に近づく男がいれば、殺されるだろう。船乗りたちを妖術《ようじゅつ》で誘い、海に沈めてしまうとも言い伝えられている。
王女の都から生きて出られるのは、彼女の望むものを与えたときだけだとか。
それをかなえた者なら、妖精族の血を引く王女は、憎い男の命とて救ってくれるだろう。
「王女はかわいそうな人ね」
「たくさん恋人がいたのに?」
「結局みんなに裏切られたわ。本当は誰も、彼女を愛してはいなかったのよ」
「そうだろうね」
エドガーは、本を閉じてテーブルの上に置いた。
ブルターニュの民話が載った本を、ホテルのライブラリーから借りてきて、エドガーが読み聞かせてくれたところだ。
雨音に閉ざされた部屋の中、並んでソファに座り、エドガーの声に耳を傾《かたむ》けているのは心地よかった。雨に足止めされるのも悪くはないと、ふたりきりでのんびりした時間を過ごした。
「彼女の魔法の力も、妖精の血も恐れない人がいればよかったのに。本物の恋人なら悪魔に耳を貸さなかったはずだし、都は繁栄を続けたかも……」
くすりと笑って、エドガーは顔を近づける。
「じゃ、きみは幸運だ。僕がいる」
「王女の話をしてるのよ」
「だってきみが、やけに彼女に感情移入してるから。大丈夫、僕なら何があっても手を放したりしない。馬がだめならきみを背負って走るさ」
まるでリディアがあまえたがったみたいに言うから、恥ずかしくて、頬《ほお》をふくらませながらエドガーを押し戻す。
「もう、あたしはこの伝説が気になってただけ。ホテルから何度か女の人が姿を消していて、海の底の都に誘われたって噂《うわさ》があるんですって。女性からの離婚は難しいから、そうしたい人が伝説の女の楽園に救いを求めることは、あるような気がするの」
すると彼は、心配そうに眉《まゆ》をひそめた。
「リディア、離婚に興味を持たないでくれ」
「何を言うのよ。もしも本当に都があるなら、半分妖精の王女は今も生きているのよね。妖精国や赤いムーンストーンのこと、知ってるかもしれないでしょう?」
「男嫌いで離婚を推奨《すいしょう》する王女と、きみが親しくなるのは何だかいやだな」
「それじゃあ何も調べられないわ」
「まずは赤いムーンストーンの伝説がどういうものか調べるべきだろう?」
たしかに、それを手がかりにしようとブルターニュへ来たようなものだった。
「ええ、でもこの民話集にはなかったわね。父も、伝説の内容を記した文献は見つけられなかったみたいだし、あまり知られた伝説じゃないのかしら」
「そうなると、ブルトン語しかしゃべれない人しか知らなかったりするのかな」
それでは簡単には手がかりがつかめそうにない。旅行者に過ぎないリディアは、言葉も通じない土地の人と知り合いになるすべはなかった。
考えながらふと時計を見あげると、ずいぶん時間が経っていた。
「もうこんな時間。エドガー、あたしお茶会に行かなきゃ!」
午後から、女性ばかりのお茶会に招かれていたのだ。急いでリディアは立ちあがった。
いつのまにか雨は上がっていた。
ニューマン夫人を中心に、上流階級の貴婦人たちが庭園の四阿《あずまや》に集まっていた。その輪に加わり、とりとめもないおしゃべりをしているうち、誰かが昨日のスロープ夫人の事件を口にした。
「怖ろしいわね。足に鎖《くさり》をつけられていたなんて」
「ふつうじゃ考えられないですわね」
「本当にご主人が殺したのかしら」
「ねえアシェンバート夫人、新婚のあなたには、想像もできないんじゃない? ご主人と夫婦ゲンカをしたこともないでしょうから」
曖昧《あいまい》に、リディアは微笑むしかない。
「でも、スロープ夫人の場合は夫婦ゲンカとは違うと思うんです。あたし、夫人がご主人に殴《なぐ》られてるところを見かけたし……」
何人かが頷きながら眉をひそめた。そういうところを見かけたことがあるのは、リディアだけではないようだった。
「見かけたからって、わたしたちには関係ありませんわ」
ニューマン夫人が、やけにきっぱりと言った。
「彼女は労働者階級《ワーキングクラス》の女性ですもの」
意味がわからないリディアを諭《さと》すように、隣に腰をおろしたニューマン夫人は体を寄せた。
「スロープ氏は、アメリカに渡って成功した資産家だそうね。でもあの夫人は彼の家の召使いだったとか。身分をわきまえなかったゆえの不幸なのですわ」
「でも、身分が違っていても、うまくいってる人だっていると思うんです……」
「そんなの幻想です。そもそも卑《いや》しい女と好きこのんで結婚するなんて、妻に愛情を持つ気がないのよ。何をしても逃げられない奴隷《どれい》がほしい男のすること。それでも彼女は、あんな男と結婚したんですもの。不相応な身分とお金を得た代償だったんだと思わなくて?」
何とも答えられないまま、リディアは居心地の悪さだけを感じる。
幸い、スロープ夫人の話題も、ニューマン夫人の主張もそこで途切れた。
が、ティータイムにふさわしくない空気が去ったわけではない。この四阿に、思いがけない人物が現れたせいだった。
アーエスだ。
その場にいるみんながざわめき、眉をひそめる中、彼女は堂々と胸を張り、ニューマン夫人の前でお辞儀《じぎ》をした。
「子爵《ししゃく》夫人、突然でもうしわけないのですが、わたしの知り合いが急病で、お医者さまをさがしております。町の医者は遠方へ往診に出かけたそうで、困っておりましたところ、ご主人が医学の知識をお持ちだと耳にしました」
「急病? 大変だわ」
リディアは腰を浮かせるが、落ち着き払ったニューマン夫人は動こうとしない。
「主人はもう、仕事はしていませんの。爵位を継ぐことになってからは」
「そこをなんとか。ご主人には直接お話しできませんでしたので、奥さまにおすがりするしかないと思ってまいりました」
「私が伝えても無駄でしょう。それに主人は、もともと貴族の侍医を務めていたものですから」
「庶民を診《み》ることはできないとおっしゃるのです?」
アーエスは、苛立《いらだ》っているのか挑発的だ。
「そういうものでしょう?」
しかしニューマン夫人はさらりと言ってのけた。
「あの、ニューマン夫人、せめてご主人に話を聞いてもらうだけでも」
見かねたリディアが口を出せば、彼女は信じられないという顔をした。
「アシェンバート夫人、あなたまでそんなことを? 伯爵夫人でいらっしゃるのに、この女の味方をするというの?」
ニューマン夫人に賛同してか、周囲の視線が冷たくリディアに向けられる。
けれど、伯爵夫人? そんな肩書きひとつで、自分は変えられない。
エドガーはあきれるかしら。そう思いながらもリディアは、ニューマン夫人よりもアーエスに共感し、彼女のそばに歩み寄った。
「アーエス、お医者さまならひとり知っているわ。彼に話してみましょう」
だから、彼女のほっとした顔を見ればうれしく思う。
「おやめなさい。あなたまで、この女と同類だと思われるわ」
「ニューマン夫人、たぶん、あたしだってあなたがたの仲間にはふさわしくないんです。あたしは上流階級の出身じゃありませんから」
みんなが驚いたようにざわめいたけれど、リディアは気にするまいとした。本当のことなんだから、隠したまま仲よくしてもらっても意味がない。
「すみません、お先に失礼します」
リディアは小さくお辞儀をして、四阿をあとにした。
リディアの知る医者というのは、もちろんフランシスのことだった。
自室にいた彼に事情を話し、アーエスの部屋を訪ねれば、ベッドに横たわった女性がいた。
見覚えがある。昨日、アーエスの部屋に来ていた女性だ。
か弱いうめき声をあげていた彼女に近づいていったフランシスは、「ひどいな」とだけつぶやいた。
病気ではなく、どうやら背中が赤くただれている。火傷《やけど》のようだが、熱湯でもあびたとしか思えなかった。
膏薬《こうやく》を塗り、あて布をするのにも、しみるのか彼女は暴れようとする。おさえつけるのをリディアも手伝う。
思いがけない力で身をよじる彼女に、こちらもなりふり構わず力を入れねばならない。ベッドに体を乗り上げ、ドレスの裾《すそ》もそでも気にしていられなかったリディアは、体に残る打ち身の痕《あと》をアーエスが見たことには気づかなかった。
怪我人はやがて抵抗する力も尽きたのか、うわごとのように何かをつぶやくだけになる。
どうやらしきりと、かくまってくれと言っている。アーエスは力強く頷いていた。
「どうしてこんな目にあってまで、望まない結婚をしなければならないのかしら」
そんなふうにアーエスがもらすのは、彼女も結婚相手にこんな仕打ちを受けたからだろうか。
「たぶん熱が出るでしょう。ひどいようならこれを飲ませてください」
フランシスから薬を受け取り、それからアーエスは、リディアと彼を交互に見て言った。
「このこと、黙っておいてくださいますわね?」
部屋に出入りしているメイドたちは、おそらくアーエスの召使いなのだろう。黙々と清潔なシーツに取り替え、手当を終えた女性をうつぶせに寝かせている。
「ここに怪我人を隠し続けるのは、ふつうに考えて無理ですよ。あなたの屋敷ではなく、公共のホテルなんですから」
フランシスはそう言う。
「大丈夫、もうすぐですもの」
もうすぐって、何のことだろう。
リディアの視界のすみに窓辺が映る。ミルクの入ったグラスが置いてある。火傷をしたこの女性も、スロープ夫人も、アーエスも同じ、望まない結婚をした女=H そのことに何の意味があるのだろう。
それにリディアには、アーエスがほかのふたりと同じだとは思えなかった。ひとりでここに滞在していて、興味本位な噂はきっぱり否定したし、むしろ困っている女性たちの味方になろうとしているような、そんな意志が感じられる。
わたしなら、彼女を解放してあげるわ
たしか、そう言っていた。
リディアの頭の中で、何かがつながりそうになる。
「ではぼくはこれで。リディアさん、部屋まで送るよ」
けれど、フランシスに声をかけられて我に返ると、つかみかけた感覚は消え去ってしまった。促されて、リディアは立ちあがった。
「あなたがお医者さまになったなんて、知らなかったわ」
ドア際で、アーエスがフランシスにそんな言葉を投げかけるのを、リディアは意外に思いながら聞いていた。
フランシスはそのまま歩き出すが、問わずにはいられなかった。
「知り合いだったんですか?」
フランシスは小さくため息をつき、自嘲《じちょう》気味《ぎみ》に笑った。
「昔、少しだけ。だけど彼女は、ぼくをきらっていた。……アーエスはダイアナの知人で、ぼくはダイアナにふさわしい男ではないと思っていたんだ。あからさまにそう言われたこともあるよ」
「ごめんなさい……そんなこと知らなくて。あたし、いやな思いをさせてしまったのね」
「いいや、怪我をした女性には関係ないことだし、これはぼくの仕事だ。アーエスもいまさら気にしていないだろう。それにぼくは、ダイアナにふられたわけだしね」
「でも、ふさわしくないかどうか、他人にわかることじゃないと思うわ」
「うん、だけど今なら、アーエスの言いたかったこともわかるよ。そう……、ぼくはダイアナにとって何より重要な使命を奪おうとしていたんだ。あのころはひたすらに、ぼくだけのものになってほしいと望んだ。だから彼女は離れていった」
「それほど重要な使命って、何だったのかしら」
「ああ、何だったんだろう」
フランシスは哀《かな》しそうに宙を見つめる。
やはりエドガーは、この人と手を組むべきではないのだろうか。リディアはそう思った。
妖精国のことを、お互いにほとんど手がかりがないとはいえ、わずかな情報でも分かち合えば何かつかめるかもしれないのに。
考えながら、庭園の方をちらりと眺める。
ちょうど、四阿からホテルの建物へ戻ろうとしている貴婦人たちの集まりが目についた。
さっきのお茶会がお開きになったのだろうと思い、それからバッグを忘れたことに気づき、リディアは立ち止まる。
「フランシスさん、あたし、四阿に忘れ物をしたみたい。取りに行ってきます」
ついてこようとしてくれたフランシスを断ったのは、ニューマン夫人や取り巻きとはち合わせて、いやな顔をされるところを見られたくないからだ。
彼女たちはもう、リディアを受け入れはしないだろう。
ひとりで庭園へ出て、四阿へ向かう。
まだそこに何人かが残っているのに気づき、後込《しりご》みしたリディアは、植木の陰《かげ》に身を隠した。
「それにしても、驚きましたわね。アシェンバート伯爵夫人が……」
「少し庶民的な感じだとは思っていましたわ」
そう言ったのはニューマン夫人だった。
「わたしたちみたいに、異国で暮らす英国人は本国での情報にうといからって、何だかだまされたような感じがしません?」
だますだなんて、とリディアは胸を痛める。
「それは言いすぎですわ。出自《しゅつじ》はともかく、彼女は伯爵夫人なんですから」
ニューマン夫人のかばうような言葉は、かすかな救いだった。
「あら、そのバッグ、どなたの?」
ひとりが、椅子《いす》の上に置いたままだった、リディアのハンドバッグに気がついたようだった。
「アシェンバート夫人の忘れ物だわ」
「ずいぶん安っぽいのね、伯爵夫人の持ち物とは思えないわ」
リディアの感覚ではけっして安いものではないが、使い込んだハンドバッグだ。やっぱり新しいものを買うべきだったかしら。くすくす笑い声が聞こえてくれば、さすがに落ち込む。
「わたしが届けておきましょう」
ニューマン夫人が手に取った。彼女に嫌われてしまったわけではないのだろうか。リディアはかすかに期待する。
「それにしても、アシェンバート伯爵って、ずいぶん若くて目立つ容貌でしょう? 由緒《ゆいしょ》ある貴族だし、身分の高い結婚相手くらい、いくらでも望めたでしょうに」
「そうね。よほど変わり者なのかも」
「貴族の令嬢とは違って、言いなりにしやすい庶民の娘を好む男性は少なくないですわ」
「娼婦に入れ込むようなものでしょう。お金があれば思い通りになるのですもの」
四阿を離れながら、貴婦人たちはリディアが落ち込みそうな噂話を続ける。少し離れ、最後にニューマン夫人が立ち去ろうとしている。
彼女は噂話に加わる様子はなかったが、ふと手にしていたリディアのバッグを池に投げ捨て、そのまま素知らぬ態度で立ち去った。
え……? なんで?
リディアは呆気《あっけ》にとられ、しばらくその場から動けなかった。
ああ、彼女もあたしをかばってくれたわけじゃないんだわ。
ニューマン夫人は、自《みずか》らがちやほやして迎え入れたリディアが嘲笑の的になって、恥《はじ》をかいたと思っている。だからかばうような発言もしたし、笑ってはいられなかった。
リディアは強い脱力感をおぼえ、そばの木に寄りかかった。
考えてみれば、ロンドンの社交界では、エドガーの根回しのおかげか、リディアは守られていた。
メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人の後ろ盾《だて》や、女王|陛下《へいか》のお墨《すみ》付きまで得て、エドガーの婚約者として受け入れられた。けれど、そういうところから離れれば、少しがんばったくらいでは貴族にはなれないのだ。
それでも自分はフェアリードクターだ。エドガーのために、他の誰にもできないことができる。彼にとってかけがえのない存在になれるはず。
泣いてしまわないよう強く目をこすり、誰もいなくなった四阿に背を向け、やっとの思いでリディアは歩き出した。
*
「新婚旅行に来てまで、女性だけのお茶会に出かけることはないと思わないか? レイヴン」
頬杖《ほおづえ》をつきつつエドガーがぼやくと、ティーカップをテーブルに置いたレイヴンは淡々と応じた。
「ではそうおっしゃればよろしいのでは」
「あれこれ口出しすると、うるさい夫だと思われるじゃないか。それでなくてもリディアは、虐《しいた》げられたご夫人を目《ま》の当たりにして、結婚についてよけいなことを考えてる様子なんだから」
レイヴンはため息をついたように見えた。夜中にケンカをしたり、仲直りしたと思ったら愚痴《ぐち》を聞かされたり、気の休まらない旅行だと思っていることだろう。
「だけどレイヴン、リディアはニューマン夫人たちと気が合って楽しんでいるのかな。そうだったらいいのだけど、むしろ貴族のつきあいに慣れようと、一生懸命になりすぎていないか心配だ」
このホテルでの滞在が、少しでもリディアにとって楽しいものになればいいと思った。英国人貴族との親睦も、外国人ばかりと接する中では息抜きになる、くらいの気持ちでリディアをサロンに連れていったエドガーだったが、リディアには、伯爵夫人としての義務になってしまったかもしれない。
「リディアさんは、いつでも何にでも一生懸命です」
「それなんだよ」
エドガーのために、青騎士《あおきし》伯爵家のためにも一生懸命だが、一方で新婚旅行がおざなりになっているような気もする。
「どうして愛を深めることに熱心になってくれないんだろう」
「その方面でエドガーさま以上に熱心になるのは難しいかと思います」
なるほどな、とエドガーは思う。
求婚に応じてくれれば他には何もいらないと思った。結婚してくれれば満足すると思った。ひとこと愛してると言ってくれれば。キスを求めてくれれば。
リディアがどれだけこちらに気持ちを向けてくれても、自分はそれ以上を望むだろう。
「なあレイヴン、幸せなのに物足りなく思うのはなぜなんだろう」
日照りの砂漠を歩き続けた旅人が、ようやく水を得たとたん、際限ないのどの渇きに気づいてしまったかのようで。
「僕は本当に、リディアを幸せにできる?」
自分はあまりにも、いろいろなものを背負いすぎている。平穏な日々を、ともに年老いていく暖かい年月を、彼女に与えてやれるのだろうか。
そうしたいと思うのに、ときおり刹那《せつな》的に、リディアを抱きしめたまま消えてしまいたいと思う自分がいる。
リディアのすべてを手に入れられるなら、伯爵家のこともプリンスのこともどうだっていい。考えることも戦うことも放棄《ほうき》して、死というよりは無の底へ彼女を道連れにしてしまいたいような衝動だ。
リディアと出会って希望を見いだしたはずなのに、まだそんな、かつての絶望に似た衝動がうずいていたことに戸惑わされる。
「リディアさんは、何があろうとエドガーさまのそばにいます」
レイヴンはきっぱりそう言う。
だからこそ不安なのだと思いながら、エドガーは苦笑する。
リディアがそうなら、エドガーの方が何倍も切実《せつじつ》な気持ちで、彼女を手放せないと思っている。もしも彼女が離れたくなったとしても、そばに留めるあらゆる手を考えるに違いない。
だからひとつだけ、エドガーは決意していた。自分の中でプリンスの記憶が動き出したら、その気配を自覚したら、手遅れになる前に手を打とう。
それ以外に、自分がリディアを遠ざけることはあり得ないと心に決めた。
これでもう悩むことはない。自分が変わらないでいられるなら、迷わずリディアと幸せな家庭をつくることに専念すればいい。
なのになぜ、ときどき苦しいのだろう。これでいいのかと思うのだろう。
リディアが愛してくれるほど、こんな自分でいいのだろうかと怖くなる。
生まれてくるべきではなかった
あの、呪《のろ》いのような言葉を思い出したからだろうか。
「……それよりレイヴン、調査の結果を聞こうか」
怪訝《けげん》そうにレイヴンがこちらを見ていた。彼を不安にさせてもしかたがない。エドガーは気持ちを切り換えてそう言った。
「はい」
レイヴンは、まだ何か言いたげだったが、エドガーの求めに応じて姿勢を正した。
「例の女性は、アーエス・ダルモール、このホテルにはひとりで滞在しています。年に何度か訪れるそうです」
「なかなか優雅な身分だけど、身元は?」
「年老いた夫がいるとか、独身だとか、噂ばかりで身元についてははっきりしません」
「ふうん、けどホテルの常連なら、他の客と顔見知りになることはある、か」
フランシスも、ここははじめてではないようだった。顔見知りではあるのかもしれない。
それよりも、あの女が以前シルヴァンフォードへ来た者かどうかが、エドガーにとっては気がかりだ。しかし身元不明では、母と結びつくかどうかわからない。
直接本人に会ってみるべきか。
考えていたところへ、ケリーが姿を見せる。
「旦那さま、アーエス・ダルモール夫人とおっしゃる方がいらっしゃいました」
驚いて、レイヴンと顔を見合わせる。それからエドガーは、ケリーに首を向けた。
「何の用だって?」
「リディア奥さまにご用だそうですが、待たせてもらってもいいかとおっしゃっております」
「とりあえず、ここへご案内してくれ」
現れたのは、間違いなく昨日フランシスと話していた女だった。そして、エドガーの記憶の奥深くにある、不吉な感じのする黒い切れ長の瞳《ひとみ》が、こちらを見ている。
記憶の中の女と少しも変わっていないように見えることに、違和感が増す。
「はじめまして、アシェンバート伯爵」
女は張りついたような笑みを浮かべた。
「どうも。妻とはここでお知り合いに?」
「ええ、思いやりのある、すばらしい奥さまですわね」
「どんなご用件でしょう」
「奥さまの見聞きすることすべて、知っていないと気がすまないご主人ですか?」
棘《とげ》のあるいい方は、あきらかにこちらを挑発しているのだろう。
彼女はエドガーが何者か知っているのだろうか。いや、そんなはずはない。昔シルヴァンフォードに現れたのがこの女だとしても、あのときの少年がアシェンバート伯爵を名乗っていると知るはずがない。
けれど、何もかも見透かしているような目を、エドガーは不快に感じて眉をひそめた。
「差し支えがなければと思っただけです。あなたの秘密に関することなら、妻は僕にも打ち明けたりしないでしょうからご安心を」
「いいえ、わたしのことじゃありませんわ。奥さまのお怪我《けが》が心配で」
「怪我?」
エドガーには寝耳に水だった。
「ご存じありませんの? 手足に、打ちつけたか殴られたかしたような痕《あと》が……」
「まさか」
「おかしいですわね。誰かにあんな仕打ちをされたのなら、どうしてリディアさん、黙っているのかしら」
ダルモール夫人は薄く笑った。
「でたらめを言わないでいただきたい。リディアは隠し事をするような妻じゃない」
「ええそうでしょうとも。ではあなたが知らないふりをしているのかしら」
いったい彼女はどういうつもりなのか。
反論を受け付けないという態度もあらわに、彼女は礼儀正しく膝を折ってお辞儀をする。
「差し出がましいことを言いましたわね。失礼して出直しますわ」
そして、よどみのない動作で部屋を出ていった。
立ちつくしたままエドガーは、髪に指をうずめた。
「ケリー!」
そして侍女を呼ぶ。
「はい、旦那さま」
「リディアの体に、殴られたような痕があるのか?」
現れたケリーに、噛《か》みつくように問う。ケリーは緊張した面《おも》もちでエドガーを見あげたが、きっぱりと言った。
「何のことでしょう。そんなものございませんわ」
本当だろうか。できた侍女は絶対的に奥方の味方だ。そしてそういう侍女を、エドガーはリディアのために選んだ。ほんの少し、自分の首を絞《し》めたような気持ちになる。
「わかった。もういい」
彼女を追い払うと、レイヴンが深刻そうな面もちで近づいてきた。
「レイヴン、さっきの女、僕がリディアに暴力をふるったと言いたいんだ。どう思う?」
憤《いきどお》りとあきれるのとで脱力感をおぼえながら、エドガーは椅子に身を投げ出す。
「エドガーさま、もうひとつ重要なご報告が」
レイヴンは感想は述べずにそう言った。ということは、あの女に関することだ。
「ああ、教えてくれ」
「じつは、マダム・ダルモールという名が別のところからも出てきています。今朝ロンドンのスレイド氏から、赤いムーンストーンの絵についての報告書が届いたのですが、売るつもりはなかったと例の絵を引き取った人物がそういう名前でした」
赤いムーンストーンの指輪をした女の絵だった。仮面で顔を隠していた。背景には薔薇《ばら》色の古城が浮かぶ海が描かれていた。
あれに導かれるように、エドガーたちはブルターニュへやってきたのだ。
そもそも手違いで、フランスの画商がロンドンへ持ってきたものだった。
その絵の所有者が同じホテルにいるとしたら? それはどういうことなのだろう。まるで彼女に招かれたかのようだ。
「それから、あの絵のモデルがマダム・ダルモール本人で、背景に描かれていた小島の持ち主だという情報もあります。古城のある島は、このあたりには少なくないのですが、しらみつぶしに調べているところです」
その人物が、伯爵家のものかもしれない赤いムーンストーンを所有しているのだろうか。
「マダム・ダルモールと、このホテルにいるアーエス・ダルモールは同一人物だと思うか?」
身を乗り出しながら、エドガーは訊いた。
「その可能性はあるでしょう。マダム・ダルモールも、不思議と経歴ははっきりしないのに、自由にできる資金を持っています」
「なるほど、どちらも身元を隠した謎めいた女、ね」
エドガーの記憶にある女。
赤いムーンストーンの指輪をした絵のモデルで持ち主。
待ちかまえていたかのようにこのホテルにいて、いつのまにかリディアに接近していた。
どう考えても何かある。
「旦那さま、奥さまが戻られました」
ケリーの声がして、エドガーは考えを中断した。
部屋へ入ってきたリディアは、少し元気がなさそうに見えた。
アーエスのことも、リディアに打ち傷の痕があるかどうかも、しばらく棚に上げておこう。
リディアの様子が気になったエドガーは、さっさと決めると、立ちあがって彼女を迎えた。
「おかえり、リディア。お茶会はどうだった?」
腕を広げても、リディアはめったに飛び込んできてはくれないので、こちらから抱擁《ほうよう》する。うつむいたままだから、とりあえず額にキスするだけでがまんする。
「ええ、……じつはエドガー、あなたにあやまらなきゃいけないことが」
「何かあったの?」
何だろうと心配でたまらないが、深刻にならないようエドガーは軽く問う。
「あたし、貴族の出じゃないってみんなの前で言っちゃったわ」
ほっと胸をなでおろす。たいていリディアは、どうでもいいようなことを気にするのだ。
「なんだ、そんなこと」
「そんなことって、庶民と結婚するなんて、あなたがまともな貴族じゃないみたいに思われるかもしれないのよ」
「勝手に思わせておけばいいよ。貴族の本当の価値は爵位《しゃくい》でも血筋《ちすじ》でもなく矜持《きょうじ》だ。誇りがないから、そういうことにこだわるんだよ」
悲しそうなリディアの顔を見れば、エドガーは後悔する。やっぱり、旅先での交流が楽しい思い出にはならなかったようだ。
「元気を出して。きみに贈り物があるんだ」
何でもないことだと微笑んで、リディアの髪を撫《な》でる。それから彼は、テーブルの上の箱を手に取って差し出した。
「パリの店からさっき届いた。開けてみて」
不思議そうな顔をしながらも頷き、リディアはリボンをほどく。中身は、白蝶貝《しろちょうがい》のビーズをつないだハンドバッグだ。
パリで買い物に出かけたとき、リディアはこれを気に入っていた。悩んだけれど、結局買わなかった。
エドガーがこっそり買っておいたことは気づいていなかっただろう。
「これ……、どうして? 高かったじゃない」
驚いて、リディアはこちらを見あげる。
「やっぱりきみに似合うと思って。贅沢《ぜいたく》は好みじゃないのはわかってる。だからこの旅行のあいだだけだ。僕が買えるものなら何でも贈りたいんだ」
「そう、あなたが……。あの……ありがとう。うれしいわ」
そう言って彼女は微笑んだけれど、心からうれしそうには見えなかった。
値段を気にして、戸惑っているだけだろうか。
しかしリディアは、彼にとって思いがけないことを口にした。
「あのとき、買えばよかったと思ってたところだったの。あんな高級店で何も買わないなんて、恥ずかしいことしてしまったから」
「リディア、何の話だい?」
「パリのホテルで、メイドさんたちがそう言ってあきれてた。ごめんなさい、気づかなくて」
そんなつもりではなかったが、この贈り物はリディアのプライドを傷つけたのだろうか。
少なくとも、身分のことで貴婦人たちとトラブルになったらしいこのタイミングはまずかったのかもしれない。
「あのね、そういうことじゃないんだ。僕はただきみをよろこばせたくて」
「とってもよろこんでるのよ」
無理に笑おうとしているから、とてもそうは見えない。
「このバッグなら、もっと伯爵夫人らしく見えるようになるわ」
「いつも使ってる刺繍《ししゅう》のバッグだって、きみによく似合ってる。ドレスに合わせて使えばいいんだ」
リディアの亡き祖母が、年頃になったら使えるようにと買ってくれたものだと聞いた。貴族の女性が持つにはいくらか質素なものではあったが、孫娘が同じ階級の、じゅうぶんに成功した男に嫁ぐことを理想としていたなら、婚家に持参しても遜色《そんしょく》はない品だった。
だからリディアにとっては、どんな高級品にも負けないくらい貴重なものだ。エドガーは、そうやって大切なものを大切に使うリディアを好ましく思っているし、そもそもアシェンバート家は、外見を取り繕《つくろ》わないと貴族らしく見られないような貴族ではない。
リディアの持ち物も行動も、エドガーが恥ずかしいなんて思ったことは一度もない。
そのことを、どう説明すればわかってもらえるのだろう。
「いいの、あれはもう、使わないわ」
リディアはきっぱりと言うが、金緑《きんみどり》の瞳《ひとみ》がうるんでいた。
「どうして?」
訊《たず》ねながらエドガーは、リディアがそのバッグを持っていないのに気がついた。
出かけるときは持っていたはずだった。
「そういえば、あのバッグは?」
「落としてしまったの、池に……。だから」
消え入りそうな声で、リディアは言った。
何が起こったのか察しはついた。
ああやっぱり、よけいなことに気を回さずに、リディアとふたりで過ごすことだけを考えていればよかった。
何をしているんだろう。
結婚したばかりなのだ。ロンドンを離れれば、人付き合いも勝手が違う。いきなり伯爵夫人になれるわけもないリディアを、そばで守ってやらなければならなかったのに。
彼女が隠しているかもしれない、打ち傷のことも、エドガーは知らない。
思いあまってリディアの手を取る。きびすを返すと、急ぎ足で部屋を出た。
「……エドガー、どこへ行くの?」
リディアはわけもわからず、彼に連れ出されるようにして階段を下りる。ホールから庭園に出ると、まっすぐ彼は四阿《あずまや》に向かう。
「バッグを落としたのはどのへん?」
「あのあたりだけど、草が多くてよくわからないわ」
リディアの手を放し、手袋を取って腕まくりをしたかと思うと、いきなりエドガーは池の中へ足を踏み入れた。
「えっ、エドガー!」
浅い人工の池だとはいえ、靴やズボンが濡れるのもかまわず進んでいく。水草や葭《あし》をかきわけ、濁《にご》った水底を両手でさぐる。
「ねえエドガー、戻ってきて。もういいの」
「大丈夫、きっと見つかる」
岸辺でおろおろしながら、リディアは彼の姿を目で追うしかできない。
「お願い、そんなことしないで! 贈り物、本当にうれしかったのよ。なのに、気分が滅入《めい》っていたから……。気に入らなかったみたいな態度になってた? そんなつもりはなかったの」
思いあまって、リディアは池に足を踏み入れていた。
「ごめんなさい、……本当はほしかったから、うれしいって実感するよりもびっくりして、あたしに似合うのかしらって心配で。素直じゃなくて、ごめんなさい」
水底の泥に足を取られそうになりながらも、必死で彼のそばへ近づこうとする。
「だからあたし、あれが似合うようになるわ! もっと、あなたが望むように……!」
「あった!」
草の根元にひっかかっていたバッグを見つけたエドガーは声をあげる。
「ほら、見つかっただろ?」
そう言いながら振り返った彼は、心底びっくりしたように言葉を詰《つ》まらせた。
「リディア……、なんてことを。ああ、ドレスが泥だらけだ」
「あなただってそうよ」
おかしそうに、顔をほころばせるエドガーを見て、リディアも安堵《あんど》しながら微笑む。
「どちらもきみのバッグ、それではいけない? きみはカールトン家の素朴《そぼく》な娘で、アシェンバート家の伯爵夫人。どちらもきみ自身で、僕は片方だけを望んでるわけじゃない」
頷きながら、リディアは刺繍のバッグを受け取る。彼が見つけてくれたそれは、濁った水がしみこんでしまったけれど、リディアにとっては以前よりもっと大切な宝物になった。
「ありがとう……、エドガー」
彼の目を見あげれば、きゅっと抱きしめられる。
「今なら怒られないかな」
「何?」
「じつはさ、帽子も襟巻《えりま》きも手袋も買った。きみが迷った末にあきらめたのはみんな、ロンドンへ帰ったら届いてるはずなんだけど」
ついあきれた顔をしてしまうリディアを、エドガーは不安そうに覗き込む。
「わかっているのにな。きみをよろこぼせるには、こういう贈り物じゃない。温室育ちのバラよりも道ばたのプリムローズ。クリスマスには心のこもったカード。だけど、何でもかんでも贈りたくなってしまう。毎日、きみのよろこぶ顔が見たいから」
冷え切った彼の手を、リディアは両手で包み込んだ。
「冷たくなっちゃったわ」
微笑み、エドガーは彼女の手を握りしめる。
引き寄せて唇を重ねる。軽く触れ合うだけのキス。けれど彼は、物足りなさそうに何度も口づける。だんだん、熱く深く。
「エドガー……、ねえ」
髪を乱され、あまく噛まれ、リディアはあえぐように息をする。
「足が、冷たくない?」
「……うん」
そう言ってリディアを離したけれど、彼はいくらか不満そうに見えた。
「ごめん、戻ろうか」
いつまでも池の中にいるわけにいかないのだから、しかたがない。でも物足りなさそうなエドガーを目の前にすると、リディアは心細くなる。
エドガーは、幸せじゃないのかしら。
いろいろな問題を抱えていて、結婚したからといって手放しで幸せだといえる状況ではない。それでも彼は、いつでもリディアを大きく包んで、安心させてくれる。リディアの戸惑いも困惑も、些細《ささい》なことだと気づかせてくれる。
けれど、贈り物を素直によろこべない自分では、エドガーだって満足できないのは当然だ。
どうすればいいのだろう。後込《しりご》みしないで、求められるままにキスを受ければよかったかもしれない。
今度からは。そう思っても、そのときになるとリディアはいつも、素直になれない。
でも、あたしはフェアリードクターだから。
エドガーにとって必要なささえになれるはずだ。
それをかすかな自信にしようとしても、心細くなるばかりだった。
泥だらけのドレスを脱ぎ、暖炉のそばで足をあたためていると、エドガーがドレッシングルームへ入ってきた。
ついうろたえて、化粧着の前をかき合わせてしまうリディアは、夫婦の間でそうする方が不自然なのだとわかっていても全身を緊張させた。
化粧着の下には、シュミーズとコルセットしか身につけていない。肩や背中には醜《みにく》い痕が残っている。日は暮れかけているけれど、部屋の中が闇《やみ》に包まれるにはまだ間がある。
さっきのキスはまだ、くすぶるような感覚を残していて、エドガーの顔を見れば熱を持つ。リディアがそう思うのだから、彼もそうかもしれない。続きを求められたら、どうしよう。
望まれているなら、何でも応《こた》えたい。そう決意しても、また後込みしてしまう自分がいる。
リディアの内心を察したのか、ケリーはやんわりと追い出そうとしたけれど、外していてくれ、とエドガーはきっぱり言った。
主人にそう言われれば、従うしかなかっただろう。
ふたりきりになると、彼はリディアに近づいてきて、化粧着の肩に掛かる髪を指にからめた。
エドガー自身はすっかり着替えていたけれど、ネクタイと手袋はしていなくて、少しくだけた印象だった。
「話してもいいかな」
「……ええ」
話、なのだろうか。
「リディア、僕に話したいことはない?」
「え、ど、どうして?」
「たとえば……、困っているけれど言いにくいこととか」
「べつに、ないわ」
結婚生活が物足りないのか、なんて訊けない。
リディアは椅子から立ちあがり、落ち着くためにもエドガーから距離を取ろうと試みた。
「いきなりどうしたの? そりゃ、身分のことで嘲笑されたけど、困ってはないわ。あなたがこのままのあたしでいいって言ってくれたから、もう大丈夫よ」
が、急に背後から抱きしめられる。
「そう。……ならいいけど」
少しも納得していない様子でつぶやく。吐息が首筋にかかるのを意識して、リディアは頬を染める。
鎖骨をなぞる指を気にしていたから、彼が化粧着の紐《ひも》をほどいたことには気づかなかった。
はだけられて、はっとした。
化粧着が足元に落ちれば、下着姿のリディアは背中も腕もむき出しで、白い肌に醜く残る皮下出血の痕を彼の目にさらしてしまっている。
エドガーが息をのむのが気配でわかった。
「あの、……これは……ね」
急いで振り向けば、言い訳もはばかられるほど彼は苦しそうな顔をしていた。
ふっと憤りの色を見せ、リディアを離す。そうして、黙ったまま部屋を出ていった。
そんなに、見苦しかったかしら。
リディアは呆然《ぼうぜん》として立ちつくしていた。
……そりゃそうよね。
自分でも、目を背《そむ》けたくなるくらいだ。
でも、そんなに怒らなくったって。
時間が経てば消えるもの。でももしかしたら男の人は、いちどがっかりさせられてしまうと、女としての魅力も感じなくなってしまうものなのだろうか。
もともと色気はない方だ。だからよけいに、見られたくなかったのに。
落ち込むリディアの耳に、遠い雷鳴が聞こえてきた。
ああ、また一雨来るのかしら。
急に空が暗くなってきている。ときおり雲間に稲光が瞬《またた》く。
窓を閉めようとしたリディアは、遠くの海が虹《にじ》色に輝くのを見つけ、バルコニーへ進み出た。
苦手な雷鳴がくぐもったように響《ひび》いているというのに、海面の不思議な美しさに目を奪われ、手すりへと歩み寄る。
どこからともなく、やわらかい歌声が聞こえてくる。心をとろかすような至福の響きが、彼女を招く。
気づけば手すりから身を乗り出している。このまま飛べそうな気さえする。
一方でリディアは、おかしいとも感じていた。
歌に魔力がこもっている。
これは、人魚《マーメイド》の歌声だ。人を惑わせ、海に引き込んで溺《おぼ》れさせる。
聞いちゃいけない。そう思っても、体はいうことをきかず、なかばうつろな感覚で、バルコニーの手すりを乗り越えようとしている。
「リディア! 何やってんだよ!」
ニコの声がして、ガウンのそでを引っぱられた。けれども彼の力は弱く、バルコニーから飛び降りようとする自分を止められない。
「ニコ……助けて、マーメイドの歌声が」
「えっ、何も聞こえないぞ!」
リディアだけに向けられた魔法なのか。なぜ、人魚に命をねらわれているの?
リディアのそでに爪《つめ》をくい込ませながら、ニコは助けを呼んでいたが、魔力が働いているとすると、隣の部屋にいるはずのエドガーたちにも聞こえないだろう。
「ニコ、ここから落ちたら、あたし確実に死ぬわ」
「だったら部屋へ戻れよ!」
「無理なの、魔法につかまってる……。だからニコ、妖精界への入り口を開いて」
「ええっ、それはおれもいっしょに落ちろってことか?」
「おねがい、妖精界へ飛び込むしか」
もう、自分の体を支えきれなかった。ぐらりと傾いたかと思うと、そのまま落下する。
ニコが引っぱっていたそでに抵抗を感じなくなったのは、彼が手を放したのか、いっしょに落ちているのかどちらだろう。
確かめる間もなく、冷たい海面にたたきつけられるように感じたかと思うと、塩|辛《から》い水がのどの奥まで押し寄せてきた。
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イブのための楽園
「もうしわけありません、旦那《だんな》さま」
うなだれたケリーのおさげ髪は、床につきそうになっていた。
「もういいよ、よくわかった」
リディアの体にあった打ち傷に驚き、エドガーが詰問《きつもん》したところ、ようやくケリーは白状《はくじょう》した。何しろエドガーがこの目で確認したのだから、隠す意味はもうなかっただろう。
「リディアさまは、旦那さまにご心配をかけたくなかっただけなんです」
そうだろう。けれどエドガーは、リディアが受けた仕打ちを知らなかった自分が許せなくて腹が立っている。
「ですから、どうか奥さまをお叱《しか》りにならないでください」
「まさか」
リディアをとがめるつもりなんて更々《さらさら》ない。問題の男をぼこぼこにしてやりたいところだが、あいにく逃亡している。
むしろリディアが、さっきのエドガーの態度にあきれてはいないだろうか。
考えはじめたとたん、気になってきた。
リディアが話してくれる気になるのを待つべきだったのに、むりやり傷を暴《あば》いた。そのうえ、いたわりの言葉もかけずに放置してきた。
さっきは気が動転していた。
誰かがリディアに暴力をふるったかもしれないことも、それを自分が知らずにいたことも、エドガーから冷静さを奪うにはじゅうぶんだった。
「……ケリー、リディアの様子を見てきてくれないか。ええと、もし機嫌《きげん》が悪かったら、うまくなだめてくれ。そうだ、今夜は町の劇場《シアター》に出かけてみるのもいいな。そのあと、とにかくリディアのよろこびそうなところへ行こう」
「リディアさんは、ガレットに興味をお持ちだとニコさんから聞きました」
レイヴンの助け船に、エドガーは乗りかかる。
「それだ。気取らないカフェでブルターニュの名物料理、悪くないだろう? ケリー」
「承知しました。そのように」
お辞儀《じぎ》をして、ケリーはリディアのドレッシングルームへ向かう。
外出に同意してくれれば、あとはどうにかして機嫌を取ることができるだろう。とりあえずエドガーは胸をなでおろす。
「エドガーさま、ガレットは料理なのですか?」
ふとレイヴンは首を傾《かし》げた。
「えっ、そうじゃなかったっけ?」
「リディアさんは、ガレットが空を飛ぶのを見てみたいのだとか」
……きっとリディアの勘違いだ。そう思いたい。
でも、料理のガレットを見たら、これじゃないと困惑するだろうか。
悩むエドガーのもとへ、出ていったはずのケリーがまた駆け込んでくる。
「旦那さま、……リディア奥さまの姿が、見あたりません!」
*
気がつくと、リディアは見慣れない部屋の中にいた。
雨と風の音が絶え間なく続いている。小さな窓がきしんだような音を立てる。
こぢんまりとした部屋の中は、ベッドとチェストしかない。ランプには明かりが灯《とも》っているが、暖炉《だんろ》はなく、下着に化粧着を羽織《はお》った姿のままのリディアは、肌《はだ》寒さを感じて毛布を肩に掛けたまま立ちあがった。
「あたし……、助かったんだわ」
着ていたものは濡れていない。だとすると、現実の海に落ちるのはまぬがれ、ニコのおかげで妖精界へ落ちたのだろうか。
けれどここは、おそらく人間界だ。建物には何の違和感もない。
ドアを少し開けてみる。通路はやけにせまいが、明かりが灯っている。閉じこめられたわけでもなさそうだ。
それにしても、ニコはどこに行ったのかしら。
「おい、リディア」
声がして、小さな手が窓をたたいた。はっとして、リディアは窓辺に駆け寄った。
「ニコ! ニコなの?」
「早く開けてくれよ」
掛け金をはずすと、灰色の妖精猫が部屋の中へ飛び込んできて、安堵《あんど》したリディアは小さく微笑《ほほえ》んだ。
「まあ、びしょ濡れじゃない」
「ったく、ひどい雨だよ」
そう言って毛を震わせるさまはまるで猫だが、そのあとニコは二本足で立ちあがり、両手で毛並みと髭《ひげ》を整え、ネクタイを直す。
「ねえニコ、あたし、どうしてここへ? ここがどこだかわかる?」
「おれさ、つい手を放してしまって、あんたが落っこちたからもうだめだと思ったよ」
「ええっ、ニコ! あなたが助けてくれたんじゃないの? 手を放すなんて薄情ね!」
もうしわけなさそうでもなく、ニコは能天気に肩をすくめる。
「まあいいじゃないか。助かったんだから」
あきれてニコを見おろしつつも、リディアもまあそうねと思うことにした。
「じゃあ、どうして助かったのかしら」
「マーメイドが妖精界への入り口を開いたんだよ。そんで、あんたをこの島まで運んだんだ」
「マーメイド? あたしを殺そうとしたんじゃないってこと?」
「そうみたいだな。結局おれも、あんたが落ちた道に飲み込まれて、この島まで流されてきたんだ」
「島なの?」
「小さな島さ。岩の上に城が一軒だけ建ってて、やっとあんたを見つけたんだぜ」
薔薇《ばら》色海岸からどのくらい離れているのだろう。エドガーのところから。
すっかり日が暮れているところを見ると、かなり時間が経っているようだ。そう思うと、あせりと苛立《いらだ》ちを感じる。
島だとなると、ニコももう帰れない。妖精界の道だって島は海に囲まれているし、海の妖精の力を借りるか、空を飛べるものでないと自由に行き来はできない。
すぐには帰れないなら、ここでできることをすべきだと、リディアは気持ちを切り換える。
城のある島だというここは、絵の中の小島を思い出させた。マーメイドに連れてこられたとなると、ますます何かありそうだ。
とにかくリディアは、人魚の意図を知りたいと思った。それにブルターニュのマーメイドなら、妖精国や赤いムーンストーンのことを知っているかもしれない。
青騎士《あおきし》伯爵家は、もともと人魚《メロウ》と親しいのだ。アイルランドのメロウとブルターニュのマーメイドはまったく同じではないが、人魚という意味では近い種族だろう。
「そうだわニコ、コリガンたちの中で、妖精国のことを知っていそうな妖精はいた?」
ニコはベッドの端に腰掛け、首を横に振った。
「あいつら忘れっぽいんだ。昔のこと、っていうか、ひと月前のことだってよくおぼえちゃいない。海の底の王女なら、何でも知ってるだろうって言うだけだ」
昔、このブルターニュを治める王の都が、王女のせいで海に沈んだと。その王女が、今も海の底の都にいるという伝説だった。
「その王女には、どうすれば会えるのかしら」
「誰も会ったことないんだって。てか、誰もおぼえてないのかもな」
人魚《マーメイド》は王女の都を知っているだろうか。
悩むリディアの耳に、部屋へ近づいてくる足音が聞こえた。
「誰か来るわ、ニコ」
さっとニコがベッドの下に隠れたとき、ドアが開かれた。
「気がついたのね」
黒い髪の女がそう言った。
「……アーエス」
驚きながら、リディアは彼女の名をつぶやいた。
「あなた、この島の海岸に倒れていたのよ」
部屋へ入ってきたアーエスは、着替えらしい衣服をリディアに手渡す。
「どうしてここにいるの? ホテルにいたんじゃないの?」
「夕刻にチェックアウトしたの。そのとき、あなたがバルコニーから落ちたらしいって耳にしたわ」
「えっ、そんなことになってるの!」
突然姿を消したのだから、騒ぎになっていても不思議はなかった。もしかしたら、バルコニーから身を乗り出すリディアを見た人がいたかもしれない。
どうしよう、とリディアはあわてた。
「あの、エドガーは、……アシェンバート伯爵《はくしゃく》は、あたしが落ちたと思ってるの? どんな様子だったかわかる?」
「自分を苦しめた男のことが気になるの?」
「苦しめた?」
「助けを求めたくて、女の楽園に入ることを望んだのでしょう?」
アーエスは淡々とした口調のまま続けた。
「窓辺にミルクの入ったグラス、あれは助けを求めるしるしよ。あなたもそうしていたわね」
望まない結婚をした女がお互いを知るための合図、ではなく、助けを求めるしるしだという。リディアは必死で考えをめぐらす。
「……ちょっと待って、グラスを置いておくと、夫と別れて女の楽園へ入れるってこと?」
「そうよ」
「ここが、楽園?」
「わたしの城へようこそ、リディア」
「あなたの? じゃ、助けを求めた女を、あなたが助けるの?」
「この島もわたしのもの。ひとりでも多くの、悲しい女を救うのがわたしの願い」
「あの、女の楽園ってことは……」
「ここではもう、男に従うこともおびえることもないわ。火傷《やけど》を負った彼女も、ここでならゆっくり療養《りょうよう》できる。本当は、スロープ夫人も連れてくるつもりだったのに……」
悼《いた》むように彼女は目を伏せた。
海底の都ではなく、小島の城に楽園があったなんて。信じられない思いで、リディアは小部屋の中を見まわした。
こんな部屋がいくつあって、どのくらいの女が暮らしているのだろう。それなりに広そうな城ではある。
そしてぼんやりとだが、リディアにもことの全貌《ぜんぼう》が見えてきていた。ホテルから宿泊客の女性が失踪《しっそう》するという噂は、アーエスが家族に見つからないように連れ出していたからではないだろうか。
たぶん、彼女たちはどこからか情報を得て、あのホテルで合図を送れば助けてもらえると知っていた。
男たちの知らない、女だけの秘密のやりとり、そこにリディアも巻き込まれた。
妖精のためにミルクを置いていただけなのに。
「心配しなくても、ここは安全よ。この島は一年にいちどだけ陸続きになるの。海面がもっとも低くなる引き潮のときに。ふだんは海に覆われている道を通って、今夜やっとここまで来られたわ。朝になれば道は消えているし、船を使った形跡がなければ、女たちがこの島へ逃げ込んだなんて誰も気づかない。自分のプライドのためだけに、逃げた女を躍起《やっき》になってさがす夫は少なくないけど、ここへたどりついた男はいないわ」
道が現れる、そのときを待っていたからこそ、スロープ夫人は間に合わなかった≠フだろうか。
「食事をするなら、着替えてから一階のダイニングルームへどうぞ」
アーエスは出ていこうとする。
リディアはあわてて引き留めた。
「待って、誤解なの。あたし、彼に苦しめられてなんかいないわ。窓辺のミルクは違う目的で……、すぐに帰らなきゃ」
ちらりと振り返ったアーエスは、しかし憐《あわ》れむようにリディアを見た。
「あなたは自由なの。男の犠牲《ぎせい》になることはないのよ」
「犠牲じゃないわ、エドガーは、あたしを愛してくれてる……」
「愛? 信じているの? そんなに体中、青くなったあざがあるのに」
はっとして、リディアは自分を守るように両肩を抱いた。これは誰が見ても、愛情が冷めるくらい醜《みにく》い傷なのだろうか。
アーエスが、エドガーの仕打ちだと誤解していることなど知らずに、リディアはそう思う。
だったら彼は、いなくなったリディアをさがしてもいないかもしれない。
ううん、そんなはずはない。
エドガーを信じている。
でも……。
「そんな顔をしないで。あなたは来るべくしてここへ来たのだから」
来るべくして?
「アーエス……、奇妙だと思ってないの? あたし、服も濡れていなくて、船もないのにどうやってここにたどりついたのか……」
「ブルターニュでは、不思議なことも起こるもの。けれどここへ来たからには、あなたは王女の庇護下《ひごか》にいるの。帰ることはできないわ」
断言すると、呆然《ぼうぜん》とするリディアを残して、アーエスは出ていった。
王女って?
リディアは必死になって考え込んだ。
それはあの伝説の? 海の底に沈んだ都に、女のための楽園を築いたという王女だろうか。
「リディア、大丈夫か」
ふらりと座り込んだリディアに、心配そうなニコの声が届いた。
「ニコ……、何だか大変なことになったわ」
ベッドの下で、まだニコは縮《ちぢ》こまっている。
「こっちの方が大変だよ。まさかここって、男嫌いの半妖精王女の領域なのか? じゃあおれ、見つかったら殺されるじゃないか!」
「それは……きっと大丈夫よ、古いお城だもの、ネズミよけに猫くらい飼ってるでしょうし、雄猫だっているはずよ」
「おれは猫じゃねえ!」
「ええと、だからニコ、王女が嫌いなのは人間の男だってこと。妖精の紳士は殺されたりしないわよ」
急いで訂正すると、ニコはそっとベッドの下から顔を出した。
「そっか。ま、そうだよな。おれみたいな上品で優雅な妖精にうっとりしないわけないよな」
猫好きなら、と思ったが口をつぐんでおく。
「それにここは、人間界だわ。あたしはまだ、妖精にとらわれたわけじゃない」
異界の王女の領域でも、まだ人間の理屈が通用する。王女の許可がなくても、船さえあれば脱出できるはずだ。
けれど、急にリディアは、帰ることが怖くなってきていた。
無事脱出できたとしても、エドガーはどんな顔をするのだろう。
*
「アシェンバート伯爵、日が暮れましたので、崖下の捜索は打ち切らせていただきます」
支配人がやってきて、そう告げた。
「夜明けにはまた捜索をはじめますが、潮が満ちてしまいますのでおそらくもう……」
今崖下にあるものは、海の底に沈んでしまうのだ。
「なぜ……、崖下ばかりさがすんだ? リディアはそんなところにはいない!」
つい詰め寄って、エドガーは声を荒らげる。
崖下で見つかれば絶望的ではないか。それにエドガーは、ホテルの者が言うように、リディアがバルコニーから転落したとは信じられなかった。
彼女の化粧着の切れ端が、手すりに引っかかっていたのが事実でも、隣の部屋にいて物音ひとつ聞こえなかったなんて考えられない。
自分で飛び降りたか、それとも物音などしなかったと言い張る人物が突き落としたのか、と言った探偵気取りの従業員は、一発殴ってやったらあっさり逃げ出した。
用件だけ告げて去る支配人を呼び止める気力もなく、エドガーは椅子に座り込む。
そうしてリディアの顔を思い浮かべる。
リディアの、痛々しい痕や、羞恥心《しゅうちしん》と困惑の入り交じった表情を。いつでも笑顔が見たいのに、どうして裏目に出てしまうのだろう。
このまま失うなんて、ぜったいにいやだ。
リディアを幸せにすると誓い、希望はたしかなものになった。だから、この幸福が壊れるとしたら、エドガーがプリンスの記憶にとらわれてしまうときだけだと思っていた。
けっして今ではない。今、リディアを失うなんてあり得ない。
「エドガーさま、ニコさんも見つかりません。夕食の時間はとうにすぎました」
レイヴンが戻ってきて告げた。
ケリーは神に祈り続けている。
ニコが消えたのは、リディアのことと関係があるのだろうか。それがエドガーにとって希望なのかどうかすらよくわからない。
ニコもいっしょに落ちた、という可能性は? たとえばリディアを助けようとして……。
「アローは?」
「私には、宝剣の妖精のことは何もわかりません」
エドガーにも、ふだんはなかなか見ることができない妖精だ。月夜や夢の中や、妖精の領域に近い場所でなら言葉を交わせることもある。
人間界では、アローは呼べば宝剣となって現れる。エドガーにはそれでじゅうぶんだったが、今はその剣さえ、いくら呼んでも姿を見せなかった。
アローなら、リディアの結婚指輪の行方《ゆくえ》がわかるはずなのに。
「役立たず」
「……お許しください」
「いや、おまえじゃないよ。アローのことだ」
それでもレイヴンがうなだれたままだったのは、リディアやニコに何かあったかもしれないのに気づけなかったことが、エドガーと同様に悔しいのだろう。
もうひとつ、エドガーが気になっているのは、アーエス・ダルモールのことだ。騒ぎのさなか、といっていい時刻に宿を発っている。
はたしてそれも、リディアがいなくなったことと関係があるのだろうか。
エドガーは、のろのろと椅子から立ちあがった。
「リディアをさがしてくる」
ついてこようとしたレイヴンを押しとどめる。
「ひとりにしてくれ」
ホテルを離れ、港町までおりていく。雨はいくらか弱まっていたが、通りにはまるで人影がなかった。
駅を訪ねるものの、英国人淑女らしい姿は見かけなかったと、駅員が訛《なま》りの強いフランス語で言った。リゾート地とはいえ、夏のシーズンは終わっているし、ホテルや別荘地へやって来る裕福な外国人は、チップをはずんでくれるから見かければ声をかけるはずだという。
船も同じだ。今日は天候が悪く、乗客もわずかだったとか。定期船は日暮れ前に最終が出てしまっているし、リディアが乗った可能性はない。
誰かが、脅したりだましたりしてリディアを連れ去ったかもしれない。だったら彼女は生きている。
けれどそれも、そう思いたいだけかもしれない。連れ去られたという根拠は何もない。
せめてニコが見つからないかと、路地裏の猫溜まりを覗いてみたが無駄だった。
当然か。あれは妖精なのだ。
「妖精でも、崖から落ちたら死ぬのかな」
エドガーはつぶやく。なみなみとシードル酒が注がれたカップはやけに重い。
船着き場に近いカフェは、いくらかの人混みでざわめいていたが、耳に届くのは聞き慣れないブルトン語ばかりだった。
「さあ、どうだろうね」
そう言ったのは英語だ。目の前で頬杖《ほおづえ》をついているのは、銀髪をひとつに束ねた隻眼《せきがん》の男だった。
フランシスは、港町を歩き回っていたエドガーに声をかけてきた。そうして、憔悴《しょうすい》しきったエドガーを見かねたのか、何か食べた方がいいとカフェへと誘ったのだった。
「こいつがガレットか。見てくれは雑巾《ぞうきん》みたいだな」
「そば粉を薄く焼いてあるんだ。まあ食べてみなよ、シードル酒とよく合う」
「リディアと食べるはずだったのに」
「口を開けばリディア≠セね」
「他に何を言う必要がある?」
「うん、いいんだけどね」
「リディア……、今ごろひとりきりで、泣いていないだろうか。彼女は僕がいないと生きていけないんだ」
「逆じゃないのか?」
「僕がそうなんだからリディアもそうだ。でなかったら彼女は、僕と結婚なんてしなかったさ」
「へえ、きみがベタ惚《ぼ》れしてるだけかと思った」
「リディアは恥ずかしがり屋なんだよ」
「なるほど、きみの奥さんになると、恥ずかしいことがいろいろありそうだ」
「それにしても、何で知り合ったばかりのきみと、こんな話をしているんだろう」
小さく笑って、フランシスはシードル酒をのどに流し込む。
「似ているからじゃないか? ひとりの女が消えただけで、情けないくらいうだうだになる」
エドガーも笑う。カップを口に運べば、リンゴの酒はやけにあまい。
「……いやだなあ。きみみたいにはなりたくない」
「言うね。でもこのまま飲んだくれてたらそうなるよ」
「まったく、そのとおりだ」
ふらふらと町をさまよっている場合じゃない。何が起こっているのか、冷静に考えなければならない。
頭の中のもやを振り払うように首を振ると、エドガーは気持ちを入れ換え、力のこもった灰紫《アッシュモーヴ》の瞳をフランシスに向けた。
「リディアを、思い出になんかするものか」
すると、フランシスも真剣な表情になる。
「よかった。これできみに相談ができる」
「相談?」
頷いて、彼は身を乗り出した。
「エドガー、これはあのときと同じなんだ。ダイアナのときと。アーエスが連れていったに違いない」
「何だって?」
アーエス・ダルモールが。
「なぜだ? 何のために、いったいどこへ?」
エドガーはこぶしを握りしめる。
昔、シルヴァンフォードに現れたのが彼女なら、もしもエドガーの出自《しゅつじ》を知っているのだとしても、目的はエドガーであるはずだ。
恨《うら》みでも何でも、こちらに向けてくれればいい。なのにどうしてリディアなのか。
「ぼくもよくわからない」
「じゃあ、どうしてそう言いきれる」
「宿を発ったアーエスの足取りも消えているだろう? ぼくが調べたところ、ホテルで馬車を用意してもいない。この町の駅や港で見かけられてもいない。アーエスの部屋でぼくが診《み》た怪我人も、書き置きを残して失踪《しっそう》した。こちらは騒ぎにはなってないけど、結局アーエスとあのホテルで知り合った女性が同時に姿を消していることになる」
そうだ。駅や港でリディアらしい女は見かけられなかった。そもそもホテルに滞在しているような貴婦人を見かけなかったというのだから、アーエスももうひとり失踪したという女も、汽車や船を使っていないことになる。
ともに姿を消したと考えるのは自然かもしれない。
「フランシス、きみの恋人もアーエスと親しかったわけか?」
眉をひそめながら、彼は頷いた。
「ぼくの身の上話を聞く気はあるかい?」
「ちょうど気が紛《まぎ》れそうだ」
「とにかくぼくは、ダイアナと出会った。運命の女だった」
いきなりはじまった身の上話は、フランシスが、医学を修める以前のことらしかった。
裕福なブルターニュ貴族の屋敷に滞在していたダイアナは、一見花嫁修業中の良家の令嬢だったが、親しくなったフランシスに、じつは妖精国《イブラゼル》から来たと言い、青騎士伯爵家のために使命を負っていると話した。
ダイアナが身を寄せていた貴族というのが、アーエスの夫だという。つまりダイアナは、アーエスの屋敷にいたのだ。
「ちょっと待て、アーエス・ダルモールはブルターニュ貴族で、屋敷がこの近くにあるってことか?」
「そのときはダルモールという名前じゃなかった。老齢だった彼女の夫は、ダイアナが消えて間もなく亡くなったと聞いている。屋敷はそのとき人手に渡った。アメリカ人に買い取られ、改装され、今はあのホテルになっている」
なんだって、とエドガーは髪に指をうずめた。
「アーエスがあそこで暮らしていたなら、建物も敷地もこのあたりの地理も熟知《じゅくち》していることになる」
「そうだよ。だから彼女が、人知れず女たちを連れ去ったというぼくの推理も信憑性《しんぴょうせい》があるだろう?」
それからフランシスは、またダイアナのことに話を戻した。
アーエスは、ダイアナの出自も目的も知っていたようだ。だからフランシスのことをよく思わなかった。ダイアナのためにならない男だと感じていた。
「ダイアナはぼくを愛していると言ってくれた。けれどやるべきことがあるから、どうしても結婚はできないと言ったんだ」
彼女がブルターニュを発つ直前、フランシスは彼女を行かせまいとして、薬で眠らせて連れ去った。その機会に出発しないと、一年は動けないと聞いていた。だからほんの二、三日彼女の自由を奪えば、説得の機会もあると思ったのだという。
「それで、彼女はきみに腹を立てなかった?」
「立てたよ。見損《みそこ》なったと憤慨《ふんがい》した。一方で、ぼくを憐《あわ》れむように見ていた。それでも彼女を監禁《かんきん》したまま、行かせてくれという懇願《こんがん》の言葉に耳を塞《ふさ》いだ」
「ひどいな」
「きみならそんなことはしないと言いきれるかい? 愛する人を手放せる?」
手放せないだろう。
その一方でエドガーは、手放す覚悟をしてもいる。
リディアを、否応なく自分の運命に引き込んでいいとは思わない。彼女が彼女らしく、変わらずに笑っていられるのが望みだ。自分がそうできないなら、退くべきときも来るかもしれないと、ハイランドの島で知った。そういう覚悟を持てるなら、まっとうに彼女を愛していけると思えた。
「そうしてしまったら、確実に彼女を失うとは思わなかったのか?」
「そのときは気づかなかった」
眉をひそめたフランシスの、テーブルの上で組み合わせた指に力が入る。祈るように、詫《わ》びるように彼は言葉を吐きだした。
「最後に、ダイアナは言った。ぼくを許すと」
「……それで彼女は」
「いなくなった。ぼくが少し目を離した隙《すき》に。ドアから出た形跡はなくて、開かれた窓の下は断崖絶壁……。自《みずか》ら命を絶ったとしか思えない状況で、ぼくの心も死んでしまった」
リディアの消えた状況は、ダイアナのときとたしかによく似ていた。
「だけどきみは、ダイアナは身を投げたのではなくアーエスが連れていったと思っているんだろう?」
もちろんリディアも、自ら命を絶つはずがない。
「どちらにしろぼくにとっては、彼女を失った事実がすべてだった。ぼくがダイアナを追いつめたせいだった。自堕落《じだらく》な生活をしながら何もかも忘れようとしていた。戦争に志願して、片目をなくした。でも年月が経って、ようやく彼女が許してくれたことの意味を考えられるようになったんだ。彼女の行方を追うことも、許されているのじゃないだろうかって」
飲み干した陶器のカップに、カフェの給仕が勝手にシードル酒を注いでいく。けっして空にならない、妖精たちの杯《さかずき》のよう。
「それでエドガー、きみのことを調べたし、ブルターニュへやってきた。アーエスは、以前と同じようにぼくには冷たい態度だったけれど、彼女がダイアナや他の女性たちを連れていったとしたら、その行き先は、女たちの楽園に違いないんだ」
話が核心に迫《せま》り、エドガーは身を乗り出す。
「楽園? それはどこだ?」
「海底の都」
この世から急に、異界へと足元がゆらぐ。
海に囲まれたブルターニュに、古くから伝わる伝説だ。リディアが興味を持っていた。
たしか、男を憎んだ王女が、海底に沈んだ都に女だけの楽園をつくったということだった。
「きみは妖精国《イブラゼル》伯爵だ。信じてくれるだろう?」
そう言って、フランシスはすがるような目を向ける。
「本当なのか? それともからかっているのか?」
「リディアが、妖精国は本当にあると言っただろう? あの言葉を聞いて、ぼくはきみたちが本当に妖精国伯爵夫妻なんだと信じられた」
フランシスは、ますますまじめな口調で続けた。
「海底の都も、きみの妖精国と似ているね。だったら、本当にあるんじゃないのかな。ダイアナは、イギリスへ渡る前に王女の都へ行かねばならないと言っていたんだ」
そしてエドガーの手を懇願するようにぎゅっと握る。男は勘弁《かんべん》してほしいと思うエドガーは、あからさまに引っこ抜くが、フランシスは気にした様子もない。
「エドガー、ぼくを海底の都へ連れていってくれないか。ダイアナの行方を、確実に知っているのは王女だと思うんだ。リディアもきっとそこにいる」
「そこへ近づく男は殺されるんじゃなかったっけ?」
「これがある」
そう言って、フランシスは胸元から革《かわ》の紐《ひも》を引っぱりだした。その先にぶら下がっていたのは、黄金の鍵だ。見慣れない形なのは、かなり古いものだと思われた。
「それは?」
「ダイアナが大事にしていたものだ。海底の都へ持っていくつもりだったはず。これがなければ、ダイアナは勝手に僕のもとから姿を消したりしないと思ったんだ」
「つまり、取り上げていた? ……きみは最低な男だな」
「まったくね」
フランシスは哀《かな》しそうに目を伏せる。今は何もかも、反省しているのだろう。
[#挿絵(img/granite_155.jpg)入る]
「それがあれば、男でも殺されないっていうのか?」
「わからないけど、伝説では、王女の望みのものを与えられれば生きて帰れるんだろう? この鍵は、都の水門の鍵だと思う。これを盗まれたせいで彼女は都を失ったんだ、取り戻したいと思ってるはずだよ。望みのものだと思わないか?」
「きみの推理がはずれていたら?」
驚いたような顔をするフランシスは、その可能性を考えていなかったようだ。
「それは……、きみは妖精国伯爵だ。ダイアナの主人だ。……王女だって敬意を払うかも」
にわかにトーンダウンする。
どうかな、とエドガーは思う。ダイアナがエドガーのことを知っていたかどうかも疑問だし、知ったとして主人と認めるかどうかも疑問だ。半分妖精の王女だって同じだろう。
それに何より、エドガーは妖精の領域へ入っていく方法を知らない。
リディアもニコもいなければ、海底の都は彼にとっておとぎ話の世界だった。
だからこそ疑問に思う。
王女の都へ女たちを連れていけるような人間はそうそういない。
「ところで、アーエスは人間なのか?」
それとも彼女は異界の者なのだろうか? エドガーには区別はつかない。
「違うのか?」
「人間なら、どうやって海底の都へ女を連れていけるんだ?」
フランシスは考え込んだ。
リディアもダイアナも、謎めいた方法で異界へ連れ去られた。だとしたらエドガーには手も足も出ない。
しかし一方で疑問にも思う。アーエスが魔法で人間を異界へ引き込んでいるにしては、彼女は人間的な行動をしている。
リゾートホテルで女たちの相談相手となり、救いを求める者を探し出す。置き手紙を書かせて連れ去る。追っ手が来ないよう細心の注意を払っている。
魔法で海底へ連れ去るなら、追っ手が来るはずもない。
彼女が人間ではないとしても、人間の女たちのために、楽園を人間界に築いた可能性はないだろうか。
「フランシス、アーエスの所有する島を知らないか?」
エドガーは、ロンドンで見た絵を思い浮かべていた。
マダム・ダルモールの仮面の肖像、そして海に浮かぶ島。あの島には、城らしい建物が描かれていた。
アーエスと、絵の持ち主のダルモールが同一人物なら、あの島はヒントになるはずだ。
「島? ……そういえば以前、古城のある島を買ったとか聞いたことがあるような」
「どの島だ?」
「さあ、そこまでは」
エドガーは立ちあがる。絵の中の島については調査中と言っていたレイヴンだが、大きなヒントが見つかった。アーエスがかつて暮らしていたというあのホテルから、そう遠くはないに違いない。
「エドガー、どこへ行く?」
「リディアを取り返しに」
「えっ、もう行くのか? ……殺されたらどうしよう」
殺されたらどうしようもなかろうに。
「その鍵に運命を託すしかないな」
*
夜が明けると、空はきれいに晴れ上がっていた。
リディアが城の一番高いところへのぼってみると、ニコの言ったように、そこは岩山の小島に建つ城だった。四方を海に囲まれている。
塔を囲む石造りの物見に出れば、ゆるい風が吹いて、リディアの髪をやわらかく流す。それは、会いたい人の手つきを思い出させる。
そして、淋《さび》しくなった。
もしかしたらもう、あんなふうに愛されることはないかもしれない。
隠し事をしていたリディアに、彼はあきれたようだった。醜《みにく》い傷を目《ま》の当たりにし、何も言わずに出ていった。リディアには失望したのだろうか。
そもそもこの結婚が物足りないと感じていたなら、それは確実なものとなっただろう。
でも、会いたい。このまま別れたくない。
リディアは手すりに沿って、ゆっくりと歩く。
借りたドレスはゆったりとした中世|風《ふう》で、胸の下に切り替えがある。ここではコルセットは必要ないと言われ、そうしてみたら、風がドレスの中を吹き抜けていくようで、ますます頼りない気持ちになった。
それでもリディアは、なかなか城の中へ戻る気にはなれなかった。
遠くに薔薇色の海岸線がうっすらと見えている。それがわずかでも、リディアの気持ちを落ち着かせてくれる。あのホテルやエドガーからそう離れてはいないと思えるからだ。
問題は、ここには船がないということ。
海岸にはボートのひとつも置いてなかった。
食堂で顔を合わせた女性たちに訊《き》いてみても、なぜ帰りたがるのか不思議そうな顔をされただけだ。
そして彼女たちはみんな、ブルターニュでは有名な伝説の王女の庇護《ひご》下に自分たちがいることを認識していたが、王女のことは象徴めいたもの、聖母が守護する尼僧院《にそういん》のようなものとしてとらえているようだった。
しかしたぶん、アーエスは違う。リディアが妖精に連れてこられたとしても疑問に思っていないようだった。
そのアーエスと話をしたくとも、朝から姿が見あたらず、リディアはひとり、城の中を歩きまわることしかできない。
「こんにちは」
女の声がして、リディアは振り返った。
微笑むその顔が誰だったが、すぐには思いつかなかった。痩《や》せすぎていて、三十過ぎにも見えるけれど、もう少し若いのかもしれない。
見覚えがあるから、今朝顔を合わせたばかりの誰かだろうとだけ思う。
「淋しそうな顔ですね。ご主人のことを思っているんですか?」
「え、まあ……」
帰ることを考えているリディアを、彼女も理解できないと感じているのだろうか。
「でもあなたはここにいる。王女が認めなければ来られない場所なんですから、意味はあるんだと思います」
そう言って彼女は、バルコニーを囲む石垣に歩み寄った。
「だったら、王女に会ってみたいわ。どうすれば会えるのかしら」
答えを期待しないままに、リディアは問う。
「あたしにはわかりませんけど、都へ行けば会えるんじゃないでしょうか」
「都……? 海の底でしょう? どうやって?」
彼女は海の方を指さした。
海面の色が、周囲と少し違う部分がある。浅瀬《あさせ》だろうと思われるその部分は、この島から細い道でつながり、沖合に広がっていた。
「引き潮になると、教会の尖塔《せんとう》が海中に見えることもあるとか。もっとも、都があったのは千年以上も昔、あの場所にかつての町並みを見ることがあるとしたら、異界が重なって見えているということでしょう」
「かつて都は、あそこにあったの? この島と地続きで?」
彼女はゆっくりと頷く。
「この島だけが、沈まずに残った王女の領域なんです」
だからアーエスは、ここを女たちを守る場所として選んだのだろうか。
「伝説のことに詳しいんですね」
「あたし、ブルターニュの生まれなんです。一家でアメリカに渡って、アメリカで成功したイギリス人と結婚しました」
でも、と暗い目をする彼女は、その結婚に失望してここにいるのだろう。
それでもここで幸せを感じているのか、彼女は穏やかに微笑む。
「リディアさん、あなたは、ご主人にとっても大事にされているんですね。男の人を、怖いと思ったことがない。でなくて、女の細腕で大きな男を止めようなんてこと、思いつかないでしょう?」
はっとして、リディアは目を見開いた。
目の前の女性には見覚えがある。でも今朝会ったのではない。
もっと前に、ホテルの階段で……。
「……スロープ……夫人?」
いや、ここでは夫の名前で呼んじゃいけないのだった。彼女のファーストネームは?
じゃなくて。
「……生きてたの?」
そんなはずはなかった。
秋の陽射《ひざ》しがいつになく明るくて、彼女の解放されたような微笑みが、リディアの驚きと動揺をいくらか救ってくれていた。
「お礼を言いたかったんです。はじめてでした。あんなふうに飛び込んできて、かばってくれた人は」
でも、結局リディアは役に立てなかった。
「驚かせてしまって、ごめんなさい」
あわててリディアは首を横に振る。彼女の姿が、陽光に紛《まぎ》れてしまいそうに薄らぐ。
「お役に立てるかどうかわかりませんが、王女の肖像画がこの城にあります。赤いムーンストーンの指輪をしているのがそうです」
ムーンストーンの指輪をした、肖像画。
さがしていたものがここにあるかもしれない?
「待って! そのムーンストーンの言い伝えを知らない?」
リディアは呼び止めようとするが、彼女の姿はゆるりと薄れ。声だけが耳に届く。
「……唯一《ゆいいつ》王女を助けようとした、婚約者がしていた指輪だと聞いたことが……。その人は、指輪を王女にあずけ、その魔力で救い出そうとしたけれど……」
だったらその人は、青騎士伯爵家の者だったの?
スロープ夫人が消えてしまった石垣を見つめながら、リディアは考え込む。
婚約者は結局、王女の手を放したのだ。そうしなければ、自分も波に呑まれてしまうから。
けれど王女は、彼の指輪をして肖像画におさまっている? だとしたら、婚約者を恨《うら》んではいないのだろうか。
ただひとり、助けようとしてくれたから?
王女の気持ちはわからないが、目的に一歩近づいたのはたしかだ。
そしてリディアはそれを、希望に感じていた。
妖精国の手がかりをつかもう。そしてエドガーのもとへ帰ろう。
彼がどんな反応をしようと、リディアは帰りたいのだ。
傷ついてもいいから会いたい。女としてのリディアに彼が失望したのだとしても、フェアリードクターとしてのリディアなら、まだ受け入れてくれるかもしれない。
それだけでもいい、そばにいたいから。
*
薔薇色の岩の島に、薔薇色の石を積み上げた城が建っていた。そこは島というよりは、城が海の上にぽつんと建っているような印象だった。
「あの絵の島だ。間違いない」
船から見あげ、エドガーはつぶやく。
肖像画の背景に、小さく描かれていた島が、少しずつ近づいてくる。
あれからフランシスとホテルへ戻り、アーエスが所有する島について調べ上げたエドガーは、レイヴンとケリーを連れて、リディアがいると思われるその場所へと向かっていた。
もちろん、フランシスもついてきている。以前には、恋人の生死を確かめることさえあきらめたフランシスだが、今度は真剣らしい。
ケリーには、ホテルで待っているように告げたエドガーだが、彼女はいっしょに行くと言ってきかなかった。
問題の城が、アーエスが築いた女の楽園なら、女がいた方が侵入しやすいかもしれない。そう思ったエドガーは、結局ケリーもつれてきた。
「あの城には昔から、未亡人が住んでるって噂《うわさ》だが、島から一歩も出たことがないんだってよ」
船を操っている船乗りはそう言った。エドガーが借りたこの遊覧船は、本来、薔薇色海岸の絶景を海側から楽しむために運行している船だが、このあたりに多数ある島々をめぐりたがる観光客もめずらしくはないらしい。エドガーたちのことも、そういった外国人だと思っているようだった。
「へえ、どうやって生活してるんだろう」
「必要なものは毎月届けている者がいるはずさ。でも、島には船がねえ。城の住人は、召使《めしつか》いだろうと島から出られないってんで、港の連中には不思議がられてる」
「必要なときに、送迎する船があるんじゃないの?」
フランシスが問う。
「田舎《いなか》じゃあ、そういう船があればすぐわかるって。そもそも、隠す必要もないこったろ?」
たしかに、未亡人や召使いがたまに自分の城から出ることを、隠す意味はないだろう。けれど、家出した女たちが隠れ住んでいるなら、自由に城へ出入りする手段はない方がいい。街へ出ていって知り合いに見つかりたくないだろうし、誰も出入りしていなければ、この城にかくれているとも疑われにくい。
「このあたりの海は、干満《かんまん》の差が大きいだろう? 干潮のときは陸続きになる小島は結構あるって聞いたけど、あの島は?」
「完全に干上がることはないな。足が濡れてもかまわんなら、浅瀬をたどることはできるかもな。ま、よっぽど浅瀬を熟知《じゅくち》していないと、海原で道に迷っているうちに潮が満ちて流されちまうだろうよ」
熟知していれば可能なのだ。
エドガーは、アーエスは馬車を使ったのだろうと考えていた。干潮の時間に、自分の馬車を迎えにこさせた。浅い海水に覆われた道には、轍《わだち》が残ることもない。夜でも彼女は、浅瀬を渡ることができるに違いなく、それなら誰にも見られない。
「伝説の都にあったっていう、防波壁に囲まれた道でも見つかりゃ、歩いて行き来できるのかもしれんがね」
「伝説の? 海の底に沈んだ都?」
「ああ、それだ」
「それはあの島の近くにあったのか?」
「あの島は都の一部だったと、子供のころに聞いたような……。しっかしそんな場所は、ブルターニュを囲む海岸のあちこちにあるみたいだがね」
船乗りはそう言って笑った。
伝説の場所は、諸説|紛糾《ふんきゅう》しているというところだろう。
「エドガーさま、見張りや警備がいる様子はありません。船着き場はひとつだけ、いちばん近い出入り口は、下働きらしい女が出入りしている様子ですので、勝手口でしょう」
望遠鏡で様子をうかがっていたレイヴンが、そっと告げた。
エドガーは、船着き場へ着けてくれと船乗りに頼んだ。
「たぶん城内の見物は無理だぞ」
英語の会話はわからない船乗りは、単なる観光客相手にそう言ったが、エドガーは笑顔でかわした。
「主人は未亡人なんだろう? 女性に頼み事を断られたことはない」
妙に納得したような顔で、船乗りは船の向きを変える作業に取りかかった。
先に船を降りたのはケリーだ。船着き場から石段をあがったところに勝手口がある。前掛けをした女が出てきて応対するのを、エドガーたちは物陰《ものかげ》からそっと見守った。
ケリーは女を戸口から引き離し、袖《そで》の下を渡して城の見学ができないかと頼み込む、とエドガーに言われたとおりに実行する。
その隙にエドガーたちは、岩場をのぼって、勝手口から侵入することに成功していた。
アーエスの城なら、部外者を城内に入れるはずもない。案の定、ケリーは断られたらしく船着き場へ戻っていくのが見えたが、島の海岸を散策することくらいは許されたはずだ。
しばらくは船をここに留めておける。その間にリディアを見つけ、連れ帰らねばならない。
三人が入り込んだ厨房《ちゅうぼう》には人影もなかった。
静かなのは、召使いの数が少ないのだろう。
本当に、未亡人がひとりひっそり暮らしているといった風情《ふぜい》だ。
しかしそうでないことは、大鍋《おおなべ》に入ったジャガイモの数が物語っていた。
「それにしても、まったく警戒していない様子なのはどういうことだろう」
不幸な女をかくまっているとしたら、もう少し慎重になってもいいくらいだ。
ドアを三つばかり抜けると、ダイニングルームに出る。やはり誰もいない。
「なあエドガー、ここは都の一部かもしれないって、さっき船乗りが言ってたよね? だったら、王女はもうぼくらのことに気づいてるよ」
フランシスが不安そうな目をこちらに向けた。
「いきなり魔法でカエルにされたりしないかな」
「怖いなら、ケリーと船で待ってればどうだい?」
そう言いながらエドガーは、フランシスをかわしてレイヴンに歩み寄る。ダイニングルームの片隅で、レイヴンが身を屈《かが》めて何かを拾いあげたからだった。
「どうした、レイヴン」
「見つけました」
「リディアの手がかりか?」
レイヴンが駆け出した後を、エドガーも急いで追う。古びた螺旋《らせん》階段を駆けあがり、突き当たりのドアを開けたレイヴンは、丸いテーブルの前で立ち止まった。
誰もいない部屋の中を見まわし、エドガーが落胆《らくたん》しかけたとき、レイヴンはテーブルクロスをめくりあげた。
「わっ」
と、テーブルの下で何かが驚いたような声をあげた。
「こ、これは盗み食いなんかじゃないぞ。食べてもいいかって、厨房の女に訊《き》いたんだ。おれの言葉がわからなかったかもしれないけど、ちゃんと声はかけたんだからな!」
灰色の猫が、大きなパンを守るようにかかえ込んでいた。
「ニコさん、無事だったんですね」
レイヴンが声をかけると、ニコはおそるおそる振り返った。
「なんだ、レイヴンか。……リディアに見つかったかと思った。朝食を半分わけてくれたけど、ここは粗食だよ。かといって猫のふりして残飯なんか食えないからさ。ていうかレイヴンに伯爵、どうしてここにいるんだ?」
まったく悠長《ゆうちょう》な猫だ。
「どうしてじゃないよ、ニコ。リディアをさがしに来たっていうのに」
レイヴンの手に、ニコの抜け毛がふわふわゆれているのを眺め、エドガーは脱力した。
「そうかレイヴン、おまえはニコをさがしてたのか」
レイヴンは、そのことにはじめて気づいたかのようにまばたきをした。
「……いえ、ニコさんのそばにはリディアさんもいらっしゃるはず……」
必死な言い訳もできるようになったならほほえましい。
「いいんだレイヴン、たまには僕より自分の心配事を優先してもね。それよりニコ、リディアはどこに?」
ニコは戸口を指さした。
「さっきそこの廊下を奥へ走っていったから、おれ、あわててクロスの下へ隠れたんだよ」
それを聞いたエドガーは、すぐさまきびすを返す。
「エドガー、置いていかないでくれよ……」
ようやく階段をのぼってきたフランシスが、息を切らしながら言う。どうやら走るのは苦手らしい彼をまた置き去りにして、エドガーは走る。
廊下の奥はまた階段だ。さらに上へ駆けあがる。たどりついたドアを、勢いよく開け放つ。
窓から射し込む光が、人影を浮かび上がらせる。驚いたようにこちらを見るその影は、キャラメル色の髪の。
「リディア!」
駆け寄ったエドガーは、そのままの勢いで彼女を腕の中にかかえ込んだ。
「エドガー……?」
リディアの声を感じれば、ますます力を入れてしまう。腕をゆるめれば消えてしまわないかと、不安に感じている。
それにリディアはいつになく緊張した様子で、彼の腕の中で硬くなっていた。
ああそうだ、まだ怒っているのかもしれない。エドガーが無理に傷を暴いたことを。
どうやってなだめよう、と考えていると、リディアの手が彼の上着をつかんだ。震えながら、ぎゅっと握りしめる。
「来てくれると、思わなかった……」
強くしがみついてくる。驚きながらも、こみあげてくるいとおしさに彼はさらに深くリディアをかき抱く。
「無事でよかった。心配したんだよ」
「妖精が、魔法であたしを。だからどうにもできなくて」
「いいんだ。ちゃんと見つけられたから」
「……怒ってる?」
「何を?」
「ごめんなさい、隠し事なんかして……」
「うん、隠してほしくはなかったな」
責めるつもりなんかないから、やさしく頭に口づける。
「ごめんなさい」
「ひとつ言うことをきいてくれたら、忘れるよ」
「……うん」
あれ? とエドガーは思う。ちょっとまずいかもしれない。調子に乗ってもリディアが怒り出さない。エドガーにだって非はあるのに、非難もしない。それくらいリディアは動揺している。
無理もないだろう。いきなりこんなところへ連れてこられて、ショックで心細かったに違いない。
「もう大丈夫だからね、いっしょに帰ろう」
すると、驚いたように顔をあげる。
「いっしょに……?」
なぜそんな顔をするのか、エドガーには解せなかった。
「片時だって僕たちは離れていられないんだ。そうだろう?」
「それで、いいの?」
「いけないことがあるわけないじゃないか」
うるんだ金緑《きんみどり》の瞳を、そっと伏せる。
「よかった……」
それでも彼女は、心から安堵《あんど》した様子ではなかった。
「もう、体に傷をつくったりしないわ」
そういうことじゃないのに。
かみ合わないものを感じながら、エドガーは気がついた。
リディアは怒ってはいないけれど、体の痕《あと》を見たエドガーの態度に傷ついたのだ。
肌を見られることすらまだ許してくれないリディアは、自分が男の目にどう映るのか、まるでわからずに不安に思っている。
もともと恋さえも不慣れで、結婚してはじめて知ったことばかりで、エドガーがどんなに溺《おぼ》れているかを知るはずもなく、自信を持てないでいるのだろうか。
痛々しい痕に目を背《そむ》けたエドガーの態度が、彼女の体から目を背《そむ》けたかのように思えたとしても不思議はなかった。
怒っているだけならまだよかった。傷つけてしまったなら、自分の腕の中でさえこんなふうに緊張しているリディアを、抱きしめてもキスしても安心させることはできない。
「あのね、リディア……」
とにかく言い聞かせようと思ったけれど、彼女は急に顔を赤らめ、エドガーから離れた。
「エドガー、フランシスもいっしょだったの?」
やあ、と戸口に立った彼が片手をあげる。
まったく気がきかない。エドガーは眉をひそめるが、フランシスは気づいていない。
それにもう、レイヴンもニコも続いて部屋へ入ってくると、リディアはこれ以上エドガーに身をゆだねてくれそうにはなかった。
「フランシスがきみの居場所のヒントをくれたんだ。とにかく、ここを出よう。話はそれからだ」
早く、この島からリディアを連れ出したかった。そうしてきちんと話し合わなければ。
しかし彼女は、「待って」とあわててエドガーのそでをつかむ。そうして壁際へと歩み寄る。
「あのときの絵よ、エドガー」
リディアが見あげる方に顔を向ければ、肖像画が目に入った。
はっとして、エドガーは絵に歩み寄った。
ロンドンで見たあの絵だった。
仮面をつけた貴婦人の肖像画。その指には、リディアの白いムーンストーンと同じ台座を持つ、赤いムーンストーンがおさまっている。
貴婦人の背後には、海に浮かぶ小島がある。その島には、さっきエドガーが船の上から見たものとそっくり同じ、オレンジがかったピンク色の城が建っている。
「赤いムーンストーンの伝説がわかったの。この肖像、海に沈んだ都の王女なんですって」
手がかりをつかんだリディアは、エドガーの腕の中で自信を失っていた彼女とは違い、しっかりとした目をこちらに向けていた。
かすかに、エドガーは嫉妬《しっと》する。リディアにとっていちばん大切なことは、フェアリードクターとしての役割だ。たぶん、エドガーの妻であることよりも。
だからといって、リディアの愛情が少ないとは思わない。フェアリードクターであることが彼女の本質なのだから、くらべられることじゃない。
わかっているのに、すべてを望んでしまいそうになる自分を、エドガーは押さえ込んでいる。
他人を思い通りにしたいと願うのは間違いだ。それではプリンスと同じになってしまう。
人の意志も命も支配した、プリンスのように。
そうはなりたくないからエドガーは、リディアとともに、プリンスを葬《ほうむ》る方法を求めていく。
新しい青騎士伯爵として。
ならばリディアの言うように、手がかりを前にして退くわけにはいかなかった。
「ねえエドガー、伝説の都がすぐ近くにあるのよ。王女に会うことができれば、きっと妖精国《イブラゼル》の手がかりも……」
「ああ、そうなんだろうね。そしてこの肖像画の女が、アーエス・ダルモールだ」
「えっ」
驚きの声をあげ、リディアは彼を見あげた。
「アーエスが……、この肖像の……?」
「よくわかったわね、アシェンバート伯爵」
戸口に、アーエスが立っていた。
リディアを隠すように、エドガーは一歩前に出た。
「それとも、災いの王子《プリンス》」
アーエスは、赤い唇《くちびる》をつり上げて微笑んだ。
「僕のことをご存じのようだ」
「ええ、よく知っています。あなたがこの世に生まれたのは大きな過《あやま》ちだということを」
リディアが息をのむ気配《けはい》が、背後から伝わってきた。エドガーは体を硬くしてアーエスを見据《みす》えた。
「かつてシルヴァンフォードで、僕に呪《のろ》いの言葉を吐いたのは、やはりあなただったんだね」
「そうよ。あなたの母方の一族とは旧知の間柄でした。由緒《ゆいしょ》あるフランス貴族だったわ。あるとき当主の奥方が、英国から亡命してきたスチュアート家の王族と密通《みっつう》し、不義《ふぎ》の子を産むまでは」
それが自分と母の先祖のことかと、エドガーはさほど驚きもなく受け止めていた。
それくらいは予想していた。プリンスは、自分と同じくスチュアート家の血筋《ちすじ》を求め、エドガーを手に入れようとした。公爵家として父方には、古くから英国王家と血縁があった。その一方で、プリンスがこだわったのは母方で、そちらはどうやら、チャールズ・エドワード王子の御落胤《ごらくいん》かといわれているプリンスと、より近い血縁だということを後に知った。
家系図には存在しない血縁がある、だとしたら、一部の者しか知らない不義密通があったということだ。
それ自体はおそらく、めずらしいことでも何でもない。単純な色恋《いろこい》沙汰《ざた》にしろ、政治的な思惑にしろ、昔からよくあることだ。
そして母方はフランス貴族の流れを汲《く》む。当然のようにエドガーは、フランスへ亡命したジェイムズ二世の子孫と、どこかで母がつながっていると考えていた。
「プリンスにとって必要な体は、もともとの自分に近い血筋でなければならない。でないと、持って生まれた災いの魔力が薄れてしまうから。そういう意味であなたの母は、彼らに目をつけられていたわ」
「つまりあなたは、母の先祖がフランス革命でイギリスへ亡命する前から知っているわけか。ずいぶん長生きだ」
「たかが半世紀前など、昨日のことのようです」
くすり、とアーエスは笑う。ゆっくりと、エドガーたちの方へ近づいてくる。
「不義の子は女。そしてその女の子供も女、やがてジャンヌマリーが生まれた。それまで男子は生まれていなかったけれど、それも偶然。あのジャンヌマリーは男の子を産むかもしれない。時期的にプリンスは年老いて、新しい体を欲している。だからこそプリンスは、まだ幼《おさな》かったジャンヌマリーを、配下の、スチュアート家の血を引く貴族の許婚《いいなずけ》にしたわ」
それはバークストン侯爵《こうしゃく》のことだろう。プリンスの手先で、母親のかつての許婚。エドガーが死に追いやった人物だ。
「彼女をフランスの尼僧院《にそういん》にある女学校に入れたのが、その許婚の男の意向よ。良家の子女が集まる男子禁制の場所で、カトリックの教育を受けさせ、理想的な妻にするために」
エドガーは黙って聞いているしかなかった。アーエスの語ることから意識をそらすことはできなかった。
「わたしにとっては好都合だったわ。尼僧院で彼女の教師になって、生涯《しょうがい》男を遠ざけるように教えた。彼女の血が、その子孫がどこまでも利用され続ける危険も……。だけどジャンヌには理解できなかったようね。自分の価値も宿命も、誤った行動がどれだけの不幸を引き起こすかも。彼女はただ、幸せな花嫁を夢みる、ありふれた、そしてとくべつに美しい少女だった。世の中は誘惑に満ちていた」
エドガーの中の、母の記憶も同じだ。華やかな場所に身を置けば、その美貌で誰も彼もとりこにした。苦言も中傷《ちゅうしょう》も、彼女の耳には入らなかった。エドガーの小ずるいウソもいたずらも気づかなかった母にとって、彼は完璧《かんぺき》な息子だった。
「十七になったとき、女王|陛下《へいか》に謁見《えっけん》するために英国へ戻り、そのまま彼女は二度とわたしのもとへは戻らなかった。公爵家の子息に見初《みそ》められ、あっさり許婚を捨てて嫁《とつ》いだの。そのことが、公爵家に最悪の不幸を招くとも考えずに」
肖像画の前で立ち止まったアーエスは、遠い日の記憶と同じ、不穏《ふおん》な黒い瞳をエドガーに向ける。
「あなたも同じよ、ロード。ジャンヌマリーのように、自分の幸福を求めて周囲を不幸のどん底に突き落とす。彼女は、いいえあなたは、公爵家を破滅《はめつ》させた」
「違うわ! エドガーのせいじゃない」
リディアが声をあげた。
「意図しなくても、存在することが忌まわしい宿命へ周囲を引き込む。彼が生まれたから、公爵もジャンヌマリーも死んだの。親族も家臣もみんな、彼のために殺された」
そのとおりだから、エドガーは何も言えず、強い後悔だけを感じている。
生まれてこなければよかった。父にさえそう言われた自分の、あのときの絶望を思い出す。
「リディア、彼はあなたのことも道連れにするわ」
「あたしは……、エドガーを信じてる」
本当に? きみは傷ついていたじゃないか。
エドガーが傷つけたのだ。
戸惑うエドガーの腕を、リディアがつかむ。
「人魚の歌が……、アーエス、あなたの魔法なのね……!」
古《いにしえ》の都の王女は、やわらかく目を細めた。
「そう。ここは魔法の都の一部。私の力が及ぶ場所。伝説の通り、男は生きて帰れない……」
はげしい水音がした、と思うと、窓の外には壁のような高波がせまっていた。
リディア。
抱きかかえようとし、一瞬迷う。
自分の選択は、いつかリディアを、両親のような結末に引き込んでしまうのだろうか。
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海の底から幻は浮かぶ
「リディア、彼とは結婚してはいけなかったのよ」
暗闇《くらやみ》の中、どこからかアーエスの声がした。
「あなたは、ハイランドのマッキール家の一員。妖精族と人間とをつなぐ、古い能力を受け継ぐひとり」
|善き妖精《シーリーコート》も|悪しき妖精《アンシーリーコート》も含め、すべての妖精族の魔力に通じる力を持っていたのは、古い三つの家系だと、マッキール家にいたときリディアは教えられた。
妖精国の青騎士《あおきし》伯爵《はくしゃく》家、アイルランドのコノート王家、そしてハイランドのマッキール家。
コノート王家は遠い昔に滅《ほろ》び、青騎士伯爵家も百年前に最後のひとりが死んだ。マッキール家だけが生き残ってはいるが、|悪しき妖精《アンシーリーコート》に通じる力は失われた。
危険な能力であるために、悪用されないよう、どの家系も慎重に扱ってきた。青騎士伯爵家は、封印する道を選んだほどだ。
しかしそれを独断で利用したのがマッキール家から出た裏切り者だった。悪しき妖精の魔力によって、災いの王子《プリンス》≠生み出し、英国王家への復讐《ふくしゅう》を企《くわだ》てたのだ。
今は、そのとき生まれた最初のプリンス≠フ記憶がエドガーの中にある。
エドガーだけが、古《いにしえ》の三つの家系がおそるおそる保持し、そして失った、悪しき妖精に通じる能力を持っていることになる。
もしも万が一、プリンスの記憶に支配されたら、人が手を出してはいけないはずの、隠されてきた怖ろしい魔力が、人の世も妖精の世界も変えてしまうかもしれない。
「あたしのことまで、知ってたのね」
リディアがそう言うと。
「海が教えてくれるわ」
アーエスが答えた。
「海に隔《へだ》てられていると人は言うけれど、すべては海でつながっているのよ」
「エドガーがプリンスの後継者になったことも、海が?」
海のものが。彼女はそう言った。
「妖精界の変化を知らなければ、わたしのこの国は守れない。海のものとのつながりは、大事な報《しら》せを運んできてくれる」
リディアの脳裏《のうり》に浮かんだのは、|アザラシ妖精《セルキー》になったアーミンのことだ。エドガーがプリンスの記憶を取り込んだことまで知っている者は少ないし、ホテルで彼女を見かけたような気がしたのも偶然ではないのかもしれない。
「それであたしを、エドガーから引き離そうとしたの?」
「そうよ。青騎士伯爵家につながる、赤いムーンストーンの絵で誘った。あなたたちをブルターニュへ引き寄せるために」
「マーメイドの唄《うた》で、あたしを海へ引き込もうとしたのもあなた?」
「どうしても、ここへ連れてきたかったのよ」
「ずいぶん乱暴だわ」
批判を込めたリディアに、アーエスは強い口調で答えた。
「プリンスが目覚めたら、あなたは殺されるのよ」
「エドガーは、プリンスの記憶にとらわれたりしないわ。約束してくれたもの」
約束? とつぶやいて彼女は笑う。
「男の約束なんて信じられるの?」
「恋人に裏切られて、男の人を信じられないのかもしれないけど、みんながみんな不誠実じゃないわ。あなただって、助けようとしてくれた婚約者がいたでしょう?」
「リディア、彼はわたしを助けたかったのではなくて、正しいことをしたかっただけよ。哀《あわ》れな女を救うという善行を。だから、わたしの方から手を放した。待っていたように、彼も力を抜いた。それで彼は、良心の呵責《かしゃく》を感じなくてすんだのよ」
「本当にそう思ってるの? だったらどうして、赤いムーンストーンの指輪をして肖像画を描かせたの? あの指輪、婚約者のものだったんでしょう?」
もの思うような、間があった。
「あれはなんて、不思議な宝石なのかしら。私とともに海へ沈みながら、周囲のすべての色を変えた。海を、空を、このブルターニュの海岸を、あのムーンストーンを溶かして薄めた色に染めた。そのときわたしは、わずかに救われた。この薔薇《ばら》色の海ならば、沈むのも悪くはないと……」
思いをこらえるように言葉を切る。けれどそのあとにはもう、ふだんの彼女の、冷静な口調に戻っていた。
「宝石は人を裏切らないわ。だけどあの絵は、ただあなたの注意を引いて、誘うためのものよ」
そうだろうか。そのためだけに、絵の中とはいえ自分の手に、自分を見捨てた男の指輪をするのだろうか。
「リディア、よく考えて。裏切られるときになって後悔しても遅いの。あなたはプリンスの敵なのよ。マッキール家には予言者の存在があって、あなたはその許婚《いいなずけ》。もっとも予言者に近いのだから、危険きわまりない。そうでしょう?」
そしてまた、おだやかに、諭《さと》すように言う。
「だからこそ、あなたはプリンスに対抗する手がかりでもある。わたしも、妖精と人間をつなぐ者、その生き残りだから、この都のためにもあなたは失えない」
「勝手だわ! あたしはマッキール家の者じゃない。エドガーのフェアリードクターよ!」
暗闇の中、リディアは駆け出していた。
アーエスの声が追いかけてくる。
「あなたも本当は気づいているんでしょう? この結婚は間違いだったって」
そんなふうに思ったことなんてない。少なくともリディアにはない。
エドガーは? わからないから怖くて。
「やめて……!」
闇雲《やみくも》に走りながら耳をふさぐ。
そのとき、ムーンストーンの指輪が輝いた。
とたん、リディアは闇から抜け出す。
大理石の広間に、ひとり彼女は突っ立っていた。
アーエスの声も気配《けはい》も消えていた。
結婚指輪の白いムーンストーンをそっと撫《な》でる。リディアをなだめるように、それはきらりと瞬《またた》く。
「迷ってちゃ、いけないのね」
エドガーには不満なことがあるんじゃないかと気づいて、どうすればいいかわからないリディアは、フェアリードクターとして欠かせない存在になるしか思いつかなかった。
でも、リディアに足りないところがあろうと、自分たちは夫婦だ。そしてこの宝石は、エドガーとのたしかな絆《きずな》。
エドガーを見つけなきゃ。
アーエスは彼をプリンス≠ニして葬ろうとしているのだ。
男は生きて帰れないと言っていた。
まさか、もう……。
あせりをおぼえると、無我夢中《むがむちゅう》でリディアは駆け出していた。
*
おまえは生まれてくるべきではなかった°L憶の中の、父の最後の言葉がそれだ。
そしてそのとき、シルヴァンフォード公爵の嫡男《ちゃくなん》としてのエドガーは死んだ。
死亡したことにされ、プリンスの組織に連れ去られたから、そういう理由だけではない。父に銃口を向けられ、否定されて、自分はシルヴァンフォード公爵の息子だと主張できるだろうか。
どこの誰でもない者になって、エドガーは生きてきた。
それでも、心の奥底では、自分は公爵家の跡継ぎだと思い続けてきた。たとえ父が認めなくても、父亡き今は、シルヴァンフォードのすべてを引き受ける立場だからだ。
誰に知られることがなくても、公爵家の当主だという紛《まぎ》れもない真実と貴族の誇りが彼をささえてきた。
けれど、自分さえいなければと考えたことは数えきれない。
シルヴァンフォードの美しい土地で、公爵家の人々は今でものどかに暮らしていただろう。両親のもとに世継ぎの男子がいなくても、かわいらしい女の子がいればよかったのではないか。プリンスに親族まで殺されることがなければ、分家筋に男子の後継者はいた。
生まれてくるべきではなかったわね
おまえはいつか、両親を殺すわ
アーエスの言葉が胸を締めつける。
リディア、彼はあなたのことも道連れにする
そうなのだろうか。
自分は宿命的に、周囲のものを不幸にするだけの存在なのだろうか。
「かわいそうに、傷ついていらっしゃるのね、伯爵」
間近で声を感じ、エドガーは目を開けた。
ここは、どこだ?
神殿のように、白い柱が並ぶ空間だった。薄絹《うすぎぬ》だけをまとった女たちがいて、彼を取り巻いている。エドガーは、古風な寝椅子《ねいす》に横たわっている。
「アーエスの手下か?」
体を起こす彼に、女たちは妖艶《ようえん》にまとわりついた。
「そういうことは忘れましょう」
「わたしたちが、何もかも忘れさせてさし上げますわ」
やわらかな腕がからみつく。布の下に透ける肌《はだ》は白くなまめかしく、唇《くちびる》は官能的に微笑《ほほえ》む。
なめらかな指が頬《ほお》に触れ、首に触れ、ネクタイをほどこうとする。
手近な女の腰に腕を回せば、あっけなくしなだれかかってくる。
少々手荒に押し倒してのしかかっても、妖艶《ようえん》な美女は微笑んでいる。笑みを返したエドガーは、彼女の細い首をつかむと力を入れた。
「リディアはどこだ?」
古城の中で、波に呑《の》まれる直前、一瞬の迷いを振り払い、リディアの手をつかんだはずだった。離すまいと必死だった。ここがアーエスの魔法の領域なら、リディアも近くにいる。
苦しむ女は手足をばたつかせ、周囲の者は後ずさる。その中の誰かが言う。
「伯爵……おやめください。わたしたちはただ、あなたをお慰《なぐさ》めしようと」
「色仕掛けに落ちるほど、欲求不満じゃないんだよ」
ざわっと湿った風が吹いた。と思うと、押さえつけた女が姿を変える。鱗《うろこ》に包まれた体に尾びれがしなる。
はっとして手を放すが、|人魚の女《マーメイド》たちが、波しぶきとともに襲いかかってくる。
そのとき、銀色の閃光《せんこう》が宙を舞った。
悲鳴をあげる人魚の頭上を、幼児の姿をした妖精が跳ね、エドガーの前に降り立つ。
「アロー」
全身銀色の妖精は、にやりとエドガーを見あげた。
(マイ・ロード、お呼びでしょうか?)
何度呼びかけても姿を見せなかった。エドガーはあきれながら腰をあげた。
「さっさと剣をよこせ」
かしこまったふうに、銀色の妖精は胸に手を当てる。一瞬輝いたかと思うと、大理石の床には剣が突き刺さっている。
大粒のスターサファイアが飾られた、青騎士伯爵家の宝剣だ。
それをつかんだエドガーは、じりじりと後ずさる人魚たちに問う。
「リディアの居場所は?」
[#挿絵(img/granite_191.jpg)入る]
「わたしたちは……、存じません!」
剣を振るまでもなく、人魚たちはいっせいに消え失せた。
ため息をつき、エドガーは剣をおろす。
「アロー、どこで遊んでいた」
そうして、サファイアの星である妖精に詰問《きつもん》する。
(すみません。でも怒らないでください。つかまっていたんですよ)
「は? いつ、誰に」
(ホテルでのんびり過ごしてたら、人魚の魔法に引っかかってしまいまして、ここへ引きずり込まれたわけです。それからこの都に監禁されていました)
「つまりここは、伝説にあった海底の都なのか?」
(そうです。妖精界と人間界の狭間《はざま》にあります)
なかば妖精界、だからアローの姿がはっきり見えるのだろう。
「アーエスはおまえの存在まで知っていたのか」
リディアを連れ去るために、エドガーに追跡させないために、用心してアローを監禁していたとは。
(|海の国《アルモリカ》の王女は、妖精国《イブラゼル》の者にも詳しいようですね)
「|マダム・ダルモール《アルモリカの女主人》……、なるほど、堂々と、古の都の王女を名乗っているわけだ」
白い柱の向こうに、空が見えていた。
建物の外へ出ると、海の匂いのする風が全身に吹きつけた。
海の底ではないようだ。
岩の上にあるこの建物は、まさに神殿なのだろうか。下方に街並みが見える。
千数百年も前に海に沈んだとは思えない、そのまま時を止めたかのような、薔薇色の石でつくられた、薔薇色の町。人影だけが見あたらない。
(今は干潮です。それもこの時期、一日だけこの都は海底から開放されるようで。昔のように、海に囲まれた要塞都市として、もっとも人間界に近い状態にあるのです)
この都に閉じこめられながらも、アローは情報収集はしたらしい。
「それにしてもあの女、僕さえいなければいいと思うなら、ホテルででもロンドンへ乗り込んできてでもさっさと殺せばよかったのに」
(彼女が人間ならそうしたでしょう。しかしもはや人の世を捨てた彼女に、人の命を奪うことはできません。この、彼女の領域でなら別ですが)
「なるほど。リディアを追ってきた僕は、罠《わな》にかかったようなものか」
エドガーは、家並みが途切れたところにある、高い壁に目をとめた。その向こうに水平線が見えている。
「防波壁か? 都を取り囲んでいる?」
(そうです。かつての都は、干潮でも海水面より低い位置にありましたが、あの壁によって守られていました)
「けれど悪魔にそそのかされた王女の恋人が水門の鍵を奪い、都を海に沈めてしまった、と」
(水門は今も開かれたままですが、妖精界の水位が年にいちど、水門より下がるために都は水の上に出ることができます。人間界からは見ることはできませんが)
「けどあの小島は、人間界のものだろう?」
防波壁が、沖へまっすぐに延びている。その先に、石の城が建つあの島がある。
都とあの島は、両側を防波壁で護られた道でつながっている。
都が海の底に沈んでも、もともと海面に突き出ていたあの島だけは沈まなかったということだろう。
(あの小島が、今となってはこの都から人間界へつながる唯一《ゆいいつ》の道です。いずれここはまた海底に沈みます。早く逃げ出さないと帰れなくなります)
「沈んだら、人間界に戻るすべはないのか?」
(それ以前に、マイ・ロード、海の底では生きていられないでしょう?)
まったくだ。あの半妖精の王女ならともかく。
「どのくらい時間がある?」
(日が沈むまでです)
それまでにリディアを見つけないと。
(ボウの気配を感じます。マーメイドの魔力が騒がしいのですが、かすかに。こちらです)
髪も肌も銀色の、幼《おさな》い子供の姿になったアローについていく。一見ローマ風の建物は、柱の並ぶ回廊がどこまでも続く。入り組んでいてやけに広い。
大きな扉をいくつくぐっただろう。
ある部屋で、エドガーは足を止めた。銀髪の青年がそこにいた。
フランシスは、なまめかしい女たちに囲まれて上機嫌な様子だった。ひっきりなしに注がれる葡萄《ぶどう》酒を口にし、次々にキスを受けてはゆるみきった顔をしている。
「あれえ? エドガー? きみもこっちへ来いよ」
どうしようもないな、とあきれかえるエドガーに、アローがつぶやいた。
(そうとう欲求不満なようですね)
「ずいぶんご機嫌だね、フランシス。マーメイドと海の底へ沈みたいのかい?」
近づいていったエドガーは、フランシスの胸ぐらをつかんで引き起こす。
「やだなあ、そんな怖い顔をしないでくれよ。きみにもこの幸せをわけてあげるからさあ。好きなのを連れていっていいよ」
あまりの能天気さに腹が立つほどだ。
「きみはダイアナを想ってここまで来たんじゃなかったのか?」
「ダイアナ? ……ああ、だけど彼女はぼくを捨てていったんだよ。ぼくはきっとどうかしてたんだ。ダイアナでなくたって、すばらしい女性はたくさんいるじゃないか!」
エドガーの手を振り払うと、再び女たちの中へ飛び込んでいく。嬌声《きょうせい》をあげる彼女たちを両腕に抱く。
完全に、人魚の魔法にとらわれている。
こいつにかかわっている暇はない。きびすを返そうとするエドガーの腕に、別の女がからみついてきた。
突き放そうとすれば、首に腕を回してしがみつく。なかなか離れようとしない。
「エドガー、そんなに冷たくするなよ。ああ、あの娘《こ》なんかきみ好みじゃないかな。リディアによく似てる」
フランシスが指さす方向につい首を向ければ、驚いた顔をしてリディアが突っ立っていた。
「リディア……」
半裸の女にしがみつかれたまま、エドガーはあわてた。
「……違うんだ、リディア、これは」
くるりと背を向けたリディアが駆け出す。どうにか女を突き放したエドガーは後を追う。
(ロード、ここは片づけてもいいんですか?)
そう言うアローまで、豊満な女に抱きつかれている。
「ああ、フランシスの目を覚まさせてやれ!」
返事をしながらも必死になってリディアを追いかけたエドガーは、柱の並ぶ回廊もなかばまで来て、ようやく彼女をつかまえた。
息を切らせながら振り返ったリディアは、眉をひそめてエドガーを見あげた。
怒った顔のリディア。けれど瞳《ひとみ》がうるんでいて、彼はいたたまれない気持ちになる。
「誤解しないでくれ、リディア。あの女たちは、アーエスが魔法でしかけてきた罠《わな》なんだ。でも僕は誘惑をはねつけた。本当だよ。アローに訊《き》けばいい。妖精はうそをつかないだろう?」
いやがられないか確かめながら、慎重に抱き寄せてみる。心配したほど抵抗がなくてほっとする。
「僕にはきみだけだ」
「……本当?」
彼女が頭を寄せてくれば、いとおしくてたまらない。
「ああ、魔法なんかで、僕たちを引き裂くことなんてできやしない。早くこんなところから脱出しよう」
「本当に、あたしだけを想ってくれてるの?」
不安そうに見あげてくる金緑《きんみどり》の瞳に、エドガーはやわらかく微笑む。リディアを怖がらせたり悲しませたりは絶対にしない。そう心に決めて結婚したのだから、彼女をまるごと包み込める存在になりたかった。
「もちろんだよ」
「だったら約束をして。あたしから離れたりしないって」
返事をしかけたとき、誰かが叫んだ。
「エドガー、惑わされちゃだめ!」
リディアの声だった。
柱の向こうから駆け寄ってくるのも、紛れもなくリディアだ。
「約束をしたら、永遠に海の底にとらわれるわ!」
あわてた様子のリディアは、エドガーといっしょにいるリディアを見て息をのむ。まばたきを繰り返し、それから落ち着こうとしてか懸命に深呼吸する。
「あ、あなた、マーメイドね? あたしの姿を映すのはやめてちょうだい!」
「あ……あなたこそ、魔法で惑わすのはやめて!」
エドガーの腕の中のリディアも言い返した。
「エドガー、あたしが本当のリディアよ」
もうひとりのリディアも、金緑の瞳を必死にこちらに向け、説得しようとする。
「危険だわ、彼女から離れて」
「待ってくれ、どっちが本物?」
間抜《まぬ》けな質問をしてしまう。
「あたしよ!」
「あたしよ!」
やはり、ふたりともそう言った。
「早く、逃げましょう」
最初のリディアがエドガーの腕を引く。
「行っちゃだめ、あたしが本当のリディアなのよ」
もうひとりが上着のすそをつかむ。
(マイ・ロード、水が来ます!)
アローの声が聞こえた。回廊の奥から、轟音《ごうおん》とともに水しぶきが押し寄せてくるのがわかる。
リディアを守らねば。
どちらを?
わずかな間、悩み、とっさにエドガーは判断した。
上着をつかんでいる方のリディアを引き寄せる。そばの階段を駆け上る。
足元を激流が駆け抜けていくのを感じながら、リディアを抱きかかえるようにして、もう一段高い場所へ押しあげる。
柱に身を寄せて、ふたりともお互いにしがみつくようにして水音が去るのを待った。
あたりに静寂《せいじゃく》が戻って、おそるおそる顔をあげたリディアは、エドガーを見て、複雑な泣きそうな顔をした。
「あたしだって、わかってくれたの?」
「ムーンストーンの指輪をしていたから」
結婚指輪をしたリディアの手を握る。初代青騎士伯爵の妃《きさき》でもあった、守護妖精の魔力を秘めた宝石だ。こればかりは、人魚の魔法でも再現できなかったのだろう。
耳元の髪に指をうずめる。リディアはくすぐったそうにして、ようやく口元をゆるめる。
「よかった……」
が、そう言ったリディアの背後に、リディアの姿をした人魚《マーメイド》が立った。
手に、銛《もり》のような尖《とが》ったものが握られているのに気づき、エドガーは腕の中の妻を背後に押しやる。
(守ろうとしても、いずれはあなたが殺すのよ)
人魚の、それともアーエスの声が頭に響《ひび》く。そのままこちらへ向かってくる。
(ロード、剣を!)
アローの声が聞こえ、手に宝剣の重みを感じたが、エドガーはそれを振り上げることはできなかった。
目の前にせまるのはリディアだ。剣を使えば、エドガーがリディアを害するというアーエスの言葉どおりになってしまう。本物のリディアでなくても、その光景は目に焼き付き、自分を、ここにいるリディアをも、呪《のろ》いのようにさいなむことだろう。
「エドガー!」
背後のリディアが悲鳴をあげたけれど、エドガーは人魚を体で受け止める。脇腹に鋭い痛みを感じ、息が詰まる。
その場に崩《くず》れそうになるのを、ささえたのは、フランシスの腕だった。
アローが自《みずか》ら剣を振ると、人魚は逃げるように消え去る。そばでリディアの声が聞こえる。
「マーメイドの、銛だわ。早く抜かないと、体が石になってしまう……」
そうなのか、とぼんやりしながらエドガーは、銛を抜こうとしてつかむ。フランシスの手がそれを止める。
軟弱な印象の彼にしては、意外なほど強い力でエドガーの手首を押さえた。
「だめだよ、銛の先に返しがついてる。貫通させないと……」
リディアの方が痛みを感じているように、眉をひそめて泣きそうになる。
(こんな魔法にひっかかるとは……、あなたときたら、奥方《レディ》にだけは欲求不満ですか)
アローの軽口は、当たっていて笑えなかった。
*
小さな遊覧船のそばで、ケリーはしばらく待っていたが、主人はなかなか戻ってこなかった。
大丈夫なのかしら。リディア奥さまは見つかったのかしら。
心配になりながら、気休めとは思いつつも、城の周囲を少しばかり歩いてみる。浜辺といえる場所はせまく、すぐに高い岩場に阻《はば》まれて、徒歩で島をまわることは難しい。城はそんな岩場の上に建っているため、中のことは少しもわからない。
結局すぐに、桟橋《さんばし》のある場所へと戻ってきたケリーだったが、悲鳴が聞こえ、思わず足を止めていた。
茂みの隙間《すきま》から覗き見れば、勝手口のところで召使《めしつか》いの女が男に羽交《はが》い絞《じ》めにされている。人質にでもするつもりなのか、そのまま彼女は連れていかれる。
桟橋にはボートがいくつも泊まっていて、そこからおりてきた複数の男が、物騒《ぶっそう》な刃物を手に城の中へ入っていく。
まさか、強盗?
ケリーたちを乗せてきた小船は沖合に見えた。逃げ出したということだろうか。
「そんな……、これじゃ帰れないわ」
男たちの姿が消えたのを確認して、茂みから出たケリーは、そっと勝手口を覗き込んだ。
みんな奥へ入っていったのだろう。誰もいない。
どうしよう、旦那さまも中にいる。強盗のことも船が逃げ出したことも、何とかして報せなければならない。
厨房《ちゅうぼう》へ入り込み、そろりと通路へ足を踏み出す。突き当たりの階段をあがると、広い部屋に出る。階段はさらに上へも続いている。
どちらへ行けばいいのだろう。迷っていると、物音がした。
「ぎゃーっっ!」
怖ろしい悲鳴が聞こえたかと思うと、奥の扉が勢いよく開く。
灰色の猫が飛び出してくる。
「ニコさん!」
声をあげるケリーに、ニコは飛びつく。
「助けてくれっ!」
そう言って、ケリーのスカートの後ろへまわり込む。
続いて、何やら憤《いきどお》った様子で、頬に傷のある大男が飛び出してくる。手に斧《おの》を握《にぎ》っている。
「あ、あたしが助けるんですか?」
冷《ひ》や汗《あせ》を感じながら硬直したケリーは、男と目が合ってしまう。
にやりと笑った男が何か言ったが、ケリーにはわからなかった。
わからなくても、いやらしい目つきに身の危険を感じる。腕をつかまれ、ケリーは青くなって悲鳴をあげた。
がむしゃらに抵抗すると、急に男は手を放した。勢いあまってケリーは転ぶ。あわてて顔をあげれば、目の前に大男が倒れ込む。
そしてそこには、褐色《かっしょく》の肌《はだ》の少年が、涼しい顔をして突っ立っていた。
彼が手にしたナイフからは血が滴《したた》っている。
「レイヴンさん……」
助かった、と思うものの、ケリーはまだ震えていた。
近づいてきたレイヴンが、手をさしのべる。どきりとし、手を取っていいものか悩んだのもわずかな間、彼はケリーの下からニコを引っぱり出したのだった。
「大丈夫ですか、ニコさん」
「あ……ああ、レイヴンか……。助かったよ」
床におろされたニコは、ぶるっと体を震わせ、乱れた毛並みを整えた。
「ケリー、あんたも助かってよかったな」
ニコがそう言って、ようやくレイヴンはケリーを見た。
「ケリーさん、どうしてここに?」
あきれとあきらめの気持ちで、ケリーは自力で立ちあがった。
「強盗が入っていったので、旦那さまにお知らせしなければと……。それに、あたしたちの船は、船乗りが乗ったまま逃げ出してしまいました」
レイヴンは神妙に頷《うなず》く。
「わかりました。しかしエドガーさまもリディアさんも、魔法で連れ去られたようです。私はおふたりをさがしに行きます」
「行くって、どこへですか?」
ケリーが問いかけたときには、レイヴンはもう歩き出していたので、答えてくれたのはニコだった。
「たぶんふたりとも、それにフランシスも、王女の都だと思う」
「都って?」
ニコの後について、ケリーもあわてて歩き出す。部屋を出ると、レイヴンは階段をあがっていく。
「アーエスが魔法を使ったらしくて、伯爵《はくしゃく》もリディアも波にさらわれたんだ。アーエスは、伝説の都とともに沈んだという王女だったんだよ」
おとぎ話と現実がまぜこぜになって、ケリーはどう受け止めていいのかすぐにはわからなかった。
ただ、自分は猫の姿をしたものと言葉を交わしているし、リディアがフェアリードクターだとも知っている。故郷のハイランドでも、数々の伝説や魔法は作り話ではないと、漠然《ばくぜん》と信じていた。
ただ、そういったものを目《ま》の当たりにする機会がなかったから、現実として理解するには時間がかかってしまうようだった。
「レイヴン、見えるか?」
階段のいちばん上にある窓から、レイヴンは下方を覗き込んでいた。
「はい」
窓辺に駆け寄ったケリーも、あっと声をあげる。
海の上に、町並みが出現しているのだった。
島からまっすぐにのびた道が海を割って、その先には高い壁に囲まれた、石造りの町並みが広がっている。
「ブルターニュの伝説の、海底都市だよ。干潮で浮かび上がってるんだ」
ニコがいつのまにか、レイヴンの肩に乗っかっていた。
「みんなあそこへ連れ去られたんですか?」
パリにも匹敵《ひってき》するような、美しい都だった。縦横に走る水路、高台にあるのは白い宮殿か。陽光を受けてまぶしく輝いている。
「船を奪って行きましょう」
レイヴンがそう言うと、ニコは窓辺に飛び移って仁王立《におうだ》ちになった。
「いや待て、レイヴン、あれはたぶん、海からは見えないぞ。ここも都の一部だから見えてるんだ。都が海面から浮かび上がってる今は、人間界と最も近いところでつながってはいるんだろうけど、あれは異界の都市なんだ」
「では、どうすれば」
「あの通路を使うしかないな」
ニコが指さしたのは、都から一筋《ひとすじ》にこの島へ向かって延びている道だ。しかしそれは、両側に高い壁があるものの、道そのものは海水に沈んでいる。
「泳ぐしかなさそうですね」
まさか、とケリーは思う。この人どうかしてるわ。
「レイヴン、それだと伯爵やリディアたちをどうやって連れて帰るんだ?」
「……そうですね」
考え直してくれるようで、ケリーはほっとする。そして通路を眺めやる。
「ねえ、このお城も都の一部だって言いましたよね。だったら、通路の水を抜くような仕組みはないんでしょうか。でなくて、あの通路の先にこの島がある意味がわからないわ。ここが都の出入り口のような役目を果たしていたならなおさらそう思うんですけど」
なるほど、とニコは腕を組む。
「この城から、あの通路へ通じる出口があるはずですね。調べてみましょう」
「でもレイヴン、そうなると連中に見つかるぞ。城の女たちを片《かた》っ端《ぱし》から広間に集めてた」
「ではまず連中を片づけましょう」
「無理だよ。何人いるかわからないのに」
まったくだ。片づけるって、ひとりでどうするつもりなのだろう。
「十三人です」
無謀だと思うのに、ケリーは答えていた。
「船着き場で見ていましたから間違いありません」
やけくそ気味に言いながらケリーは、レイヴンが困惑《こんわく》するところを見てみたかったのかもしれない。が。
「わかりました。三人はすでに動けないはずですので、あと十人ですね」
わ、わかりましたって、何?
きびすを返して、レイヴンは階段を下りていく。ニコが後を追えば、ケリーもついていくしかない。
「ちょっとあなた、ひとりで強盗を十人も相手にするつもりなんですか?」
「さっきの連中は強盗ではありません」
「……って、そういう問題じゃ……」
「紳士|風《ふう》の男がひとりいました。あれは同じホテルに泊まっていた男で、妻を窓から突き落としたとして手配されているスロープ氏です」
さすがにケリーは驚き、口をあけたままニコと目を合わせた。
「突き落としておいて、じつは生きていて逃げたに違いないって思い込んでるみたいだぜ。遺体が見つからなかったからだろうけど、すごい支配欲っていうか、ありゃまともじゃないな」
「リディアさんがスロープ夫人をかくまっていると考えていましたから、エドガーさまがこの島へ船を出したのを知り、ひそかに跡をつけてきたのでしょう」
それから急に立ち止まり、レイヴンはケリーの方に振り返った。
「ここから召使い用の通路が広間まで続いています。ケリーさん、ひとりずつ誘い出してください」
平然とした顔でそう言う。
「ええっ、あたしがですか?」
「侍女《じじょ》の仕事では?」
そんなの初耳よ。
「奥さまのためなら体を張るのが侍女のはずです」
「あなた、旦那さまのためなら命も投げ出すっていうんですか?」
「当然です」
この人と対等に働いていたら、身が持たないかもしれないとケリーは思った。
けれど、他にどうしようもなさそうなのだからしかたがない。
意を決し、ケリーは召使い専用の通路へ入っていく。人ひとりが通れるくらいの狭い通路を奥へ進めば、ドアに突き当たる。
この向こうが広間なのだろうか。
ドアに手をかけるが、古びたドアは簡単には開かなかった。
力を入れる、と、はげしい音を立てていきなり開く。ドアごとケリーは広間へと倒れ込む。
「痛った……」
顔をあげれば、広間にいた男たちの視線が集中していた。
あわてて立ちあがる。きびすを返してケリーは駆け出す。
「おい、まだ女がいたぞ!」
「つかまえろ!」
そんな英語も聞こえたかと思うと、何人も通路へ駆け込んで追ってくる。必死で走るが、追いつかれてしまいそうだ。
そのとき。
「ケリー、臥《ふ》せろ!」
ニコの声が聞こえた。
臥せるというより転ぶようにして、床に倒れ込んだケリーの頭上を何かが飛んだ。
せまい通路の奥で、次々にうめき声が響いたかと思うと、不意に静かになる。
こわごわ顔をあげると、レイヴンが目の前でケリーを見おろしていた。
「ひとりずつと言いませんでしたか」
そんなに怖い顔しなくたって……。
泣きたくなるが、まるでケリーには無関心に、レイヴンはつぶやく。
「あと四人ですね」
そして広間へ向かって駆け出していく。
呆然《ぼうぜん》とするケリーに手を貸してくれたのはニコだった。さすがに紳士だ。けれど小さな猫の手はあまり役に立たなかったので、結局ケリーは自力で立ちあがった。
「ありがとうございます、ニコさん」
満足げに、ニコはヒゲを撫でる。
「さて、男どもはレイヴンが始末してくれるだろうけど、城の女たちをうまくなだめるのはあんたの役目だ。おれたちだって侵入者だからな」
ニコの言うとおりだった。
ケリーが広間へ入っていったときには、レイヴンはすでに片を付けていた。しかし、わけもわからずおびえる女たちに言葉をかけるでもなく突っ立っていた。
有能なんだか無能なんだかわからない人。
ケリーは急いで女たちの前に進み出た。
「みなさん、安心してください。強盗はもう悪さをできませんわ。あたしたちはみなさんの味方です」
はたして英語は通じているのだろうか。貴婦人も召使いもいっしょに、片隅に集められていた女たちの中には、安堵《あんど》の表情を見せた者もいるから、いくらかは通じているのだろう。
「あたしは、リディア・アシェンバート伯爵夫人の侍女です。伯爵夫人はアーエスさんのお招きでこちらを訪ねたはずなんですが、お迎えにあがったところ、この騒ぎに遭遇《そうぐう》して……。あ、彼は伯爵の従者ですのでご安心を」
「リディアさんの? そういえば彼女、どうやって帰ればいいのかとか訊《き》いてまわっていましたけど、本当にたまたま訪ねてきただけだったのね」
貴婦人ふうのひとりがそう言う。
「あのう、でもリディアさんが見あたりませんし、アーエスさんもいっしょにこの城の北にある街へ行ったのだと思うんです。海の通路をどうやって渡ればいいか、ご存じの方はいらっしゃいませんでしょうか」
女たちは顔を見合わせた。
伝説の都のことは禁句だとか、そうだったらどうしよう。追い出されるかもしれない。とケリーは緊張するが、後ろの方にいた老婆がのろのろと立ちあがった。
「アーエスさまが街へ連れていったなら、そなたの主人に危険はない。戻ってくるまで待つがよかろう」
「……旦那さまも、奥さまを追っていかれたのです」
みんなひどくざわついた。
「男はあの街から生きては帰れぬ」
「私は、泳いででもあの街へ渡ります」
レイヴンがきっぱりと言う。
「そなたも男じゃろう。命を無駄にするのか?」
「主人を守るのが私の役目」
そろりと老婆は進み出る。白い髪は床に届くほど長い。
「よかろう、ならばこちらへ」
杖《つえ》を使い、足を引きずるように歩く。長いスカートのすそから、ちらりと見えた足は尾びれのようだったが、ケリーは深く考えないことにした。
なにしろここは、伝説の王女の都だ。
「水門を閉じて、水を抜けば地続きになる。馬車をお貸ししよう。じゃが、日が沈めば、街も通路も海に沈む。それまでに戻らないと、そなたたちも海の底じゃ」
得体の知れない場所へ向かう、怖ろしいと思う気持ちを押し殺し、ケリーは頷く。
「ひとり、男を取り逃がしました。スロープという名の、妻を殺した男です。念のためにご注意ください」
レイヴンは、そう言い、老婆はなぜかおかしそうに笑った。
「そなたの主人とやらが、王女の望みのものを与えられればよいがの」
それだけが、男があの都から生きて帰れる方法。言い伝えを思い出しながら、ケリーは唇《くちびる》をかみしめた。
*
神殿ふうのその建物は、人魚の棲《す》みかでもあったようだ。そこから出れば魔力の影響が薄まるのをリディアは感じていた。
フランシスがエドガーに肩を貸し、どうにか下町までやってきた三人と銀色の妖精は、戸口が開いたままになっていた建物に身を寄せた。
民家の並ぶ下町も、かつて繁栄していた当時のまま、洗濯物がはためき、いろりには鍋《なべ》がかかっている。
時が止まったかのようだが、人影は全《まった》くない。
宝剣のアローと、リディアのムーンストーンのボウとが、建物に魔よけを施したということで、しばらくのところ人魚たちに見つかる心配はなさそうだ。
リディアは暖炉に薪《まき》をくべ、エドガーが持っていたマッチで火をつける。そうすると、ますますありふれた民家に身を寄せているようで、ここが異界だなんて忘れそうになるほどだった。
海の底にあった街だというのが不思議なくらい、薪も家具も乾いている。水瓶《みずがめ》には澄んだ水もたっぷりと入っている。
「深く刺さってるのに、ほとんど血が出ていない……」
木製の寝椅子にエドガーを座らせ、傷を確かめたフランシスが言った。
「魔法の銛だからだと思うわ。取り去ってしまえば傷もなくなるはずよ」
「それはよかった……。出血を心配しなくていいなら、酔っぱらった医者でも役に立ちそうだよ、フランシス」
今は、そうとう痛みを感じているはずのエドガーが、軽口をたたく。
「そんなに飲んでないよ」
「人魚の誘惑に乗せられてただろう」
「だからさ、せっかくの据え膳《ぜん》だと思って、酔いつぶれないよう気をつけてたんだよ。だけどきみの剣ときたら、本気で斬りつけようとしてくるんだよ。ほろ酔い気分もすっかり冷めたよ」
ばかばかしい会話をしながらも、フランシスは深刻そうに眉根を寄せていた。
銛は刺さったときに折れたらしく、短く脇腹から突き出している。貫通させて抜くことができるのかどうか、フランシスは慎重に見極めようとしている。
エドガーは自分で上着を脱ごうとした。少しでも動けば、痛みに息を詰まらせる。手伝おうとするリディアに顔を向ける。
「リディア、魔力で石化が進むまでの時間は?」
「大丈夫よ、エドガー。まだ変化はないわ。強い魔よけの中にいるから、人魚の銛も今は魔力が弱まってるはずだもの、あせらなくていいの」
頷きつつも、さっさとやろう、とフランシスを促す。
「これを、痛みがやわらぐ」
フランシスが煙草入れから出したものを、エドガーは押し戻す。
「阿片《あへん》はいらない。意識を保っていないと」
この危機を脱したからといって、体を休める時間はない。朦朧《もうろう》として判断力を失えば、街といっしょに海に沈んでしまうかもしれないのだ。
「きみって人は……」
言いかけて口をつぐみ、覚悟を決めたようにそでをめくる。そんなフランシスの緊張感を、リディアは感じて足が震えた。
「リディア、別室で待っていてくれないか」
「でも……」
「きみに見苦しいところを見せたくない」
そうして彼は、微笑んでみせる。
「心配いらないよ。体の痛みは我慢できる。過ぎ去れば消えるものだから」
エドガーがそう言うなら、リディアは部屋を出るしかなかった。
けれどたぶん、安堵していた。銛を貫通させて引き抜くなんて、冷静に見守る自信がなかった。
建物は、裕福な商人の家といったところだろうか。奥行きが広く、陽光をたっぷり取り込む中庭がある。
花壇のわきにあったベンチに腰掛け、リディアは泣きそうな気持ちをこらえて待った。
苦しい思いをしているのはエドガーなのだから、泣くわけにはいかない。
いつも、エドガーだけが苦しんでいる。思い至って、リディアは祈るように両手を組み合わせた。
プリンスに両親を殺され、誰よりもプリンスの存在を憎んでいる彼が、その血筋のせいでプリンスの記憶を背負うしかなかった。
青騎士伯爵の地位は、エドガーを守るものであったはずなのに、妖精国《イブラゼル》から来た誰かが伯爵家のために使命を負っていたのが事実なら、エドガーはこれからも当主であり続けることができるのだろうか。
妖精国の者は、プリンスの後継者が伯爵を名乗るなど認めないかもしれない。青騎士伯爵として、貴族として、責任をまっとうしようとしているのに、プリンスの血筋だからと敵視するのだろうか。
アーエスはそうだ。妖精国のダイアナと、何らかのつながりがあった彼女は、エドガーの命をねらっている。
エドガーのせいじゃない。なのに、どうして彼が責められなければならないのだろう。
リディアは自分が無力に思え、たまらなくなった。
フェアリードクターとしての自分なんて、何の役にも立っていなかった。
妖精国について調べても、エドガーを追い詰めることにしかならないかもしれない。それに、アーエスの意図にはまって、ブルターニュまでやってきて、彼を危険にさらしている。
新婚旅行なのに、リディアは妖精のことばかりだった。そうすればエドガーの望むような妻になれると信じていたけれど、彼はますます物足りなく感じていたのだろう。
背後の足音に気づき、顔をあげたリディアは、爪《つめ》がくい込むほど握りしめていた両手をあわててほどく。フランシスが彼女の肩に手を置いた。
「終わったよ」
フランシスの笑みを見れば、リディアの胸にも安堵が広がる。急いで立ちあがる。
「あの、もうそばに行ってもいいの?」
「いいんじゃないかな。ああ、見苦しいところを見られたくないって言ってたっけ。でも彼、驚くほどしっかりしていたよ。ぼくだったら泣き叫んでるけどね」
そういう我慢強い人だということを、今は少し痛々しく感じる。リディアは頭を下げ、エドガーのところへ行こうとする。
「彼、古い傷がたくさんあるんだね。そんなに目立たないけど、いったいどんな生活をしていたのかな」
問うというよりは、リディアに教えるかのようだった。
そしてリディアは駆け出していた。
体の痛みは我慢できる。過ぎ去れば消えるものだから
そのくらい彼にとって、痛みはありふれたものだった。
それ以上の苦しみを、エドガーは知っていた。過ぎ去っても消えないもの。いつまでも彼をさいなんでいるもの。
心の痛みは?
生まれてきてはいけなかったなんて、あんまりな言葉だ。
エドガーは自分のせいで両親が殺されたと自覚していて、傷ついていた。それでもレイヴンや仲間を守るために生きてきて、ようやく自分の将来に希望を持てるようになったのだ。
リディアはその希望をささえられるつもりでいたけれど、この新婚旅行にしたって、エドガーを心から楽しませることができていただろうか。
楽しい時間を過ごそうと、彼の方は心を砕いてくれていたのに。
部屋へ駆け込めば、寝椅子に腰掛けたエドガーは、シャツを着ようと苦心しているところだった。
こちらを見て、何事もなかったかのように微笑む。
「リディア、心配をかけてごめんね」
痛みのせいで体がこわばっているのだろうか、ボタンがうまく留められない様子だ。
「ちょっと待って、きみに抱きついてもらえるように服を着るから。そう、人魚の銛は抜いたとたん水になって溶けてしまったよ……」
近づいていったリディアは、彼の手首にこすれて血がにじんだような痕《あと》があることに気がついた。シーツを裂いたひも状のものが床に落ちている。治療中に動かないように、手を縛ったんだと想像がつく。それでいて、手首に血がにじむくらいの力を入れて、エドガーは痛みに耐えたのだろう。
「まだ……痛い?」
「もう痛くないよ」
それさえも、彼にとっては過ぎれば消える何でもないもの。
隣に腰をおろしたリディアは、いつも気恥ずかしくて目をそらしてしまうばかりの、彼の素肌に手をのばしていた。
「リディア?」
胸に、肩に、腕に、消えかけた古い傷を見つめ、指先でなぞる。まだ痛々しい感じがする胸の傷は、結婚前にリディアをかばおうとしてできたものだ。
「知らなかった……」
彼を見ようとしなかったからだ。
恥ずかしがってばかりで見ようとしなかったから、彼が何を求めているのかもわからないままだ。
「何ならぜんぶ脱ごうか?」
はっとして顔をあげ、リディアは頬を染める。いきなり男の人のシャツをはだけて、見入っている自分はなんてはしたない女だろう。
「な、何言ってんの! あたしはべつに」
手を離して目をそらし、それが自分のいけないところだと思い直し、挑戦的に向き直る。
「だから、……知りたいだけ! あなたのこと、まだまだわからないことがあるんだって思っただけなんだから、脱がなくていいの!」
「そういう言葉は、ケンカ腰じゃなく色っぽく言おうよ」
抱き寄せられて、裸の胸に頭をくっつけるしかなくなる。どうしよう、とうろたえながらも、悲しいような痛みをリディアは感じていた。
大切な人の傷を知らなかったことが、自分の苦痛になる。どんな痛みも分かち合えるはずだと思っているからこそ苦しい。
リディアの体に青くなったあざを見つけたとき、エドガーもこんな気持ちだったのかもしれない。
「ごめんなさい……」
「えっと、冗談だよ?」
「出しゃばったことをして転んで、見苦しい傷ができたの。隠しててごめんなさい」
「それは、見苦しいとかじゃなくて」
「贈り物だって、うれしいくせに素直によろこべなくてごめんなさい。つまらない女で、あなたを楽しませられなくて……」
「何の話?」
「でも、わからないの。どうすればいいの? あたしの何が物足りないの? だってはじめてなのよ、何もかも……」
「うん、そうだね」
恥ずかしがらずに、彼が望むようにしたい。でも、こうして抱き寄せられているだけで、いまだに全身に力が入ってしまう。
「物足りないことなんて、何もないよ」
「うそよ。傷を知らなかったのよ」
「残っている傷は、仲間たちと戦っているときにできたものだよ。もう痛くもかゆくもない」
なだめるように、リディアの髪を撫でる。
「むしろ僕にとっては、自由のしるしだ。自分の思うとおりに動けて、傷を負うような危険を代償にしながらもひとつずつ手に入れて、最下層からのしあがった。プリンスのところにいたころは、傷をつくるなんて論外だった。それもそうだよね、プリンスの魂《たましい》を入れるべき器だ、穢《けが》れもくもりもあってはならない。高価な陶器みたいに丁重《ていちょう》に扱われ、やつはただ僕という心だけを殺そうとした」
心に触れたくて、持ちあげた片手を胸に重ねた。自分とは違う、広い胸を意識する。彼はこの体でリディアを守ろうとし、奥に秘めた心で愛してくれる。
「だから、心だけはずっと痛いのね」
顔をあげると、こちらを見おろすエドガーは苦しそうに眉をひそめた。
「リディア、物足りないんじゃない。誰にも望んだことのないところまで望んでしまうなんて。そうやってきみは、触れてこようとするから……こらえきれなくて」
長い指が髪に差し込まれる。キスというにはいきなり深く舌《した》をからめられる。
「リディア」
寝椅子に倒れたリディアに、おぼえたばかりの重さがのしかかる。
恥ずかしいこともはしたないことも、自分たちのあいだにはないのかもしれない。
そう気づけば、すべてがいとおしく思えた。
「リディア……」
何度も名を呼び、彼の方もどうにかしてリディアの心に手をのばそうとしているのか、苦しいほど強く抱きしめる。
エドガーの心の傷は、想像もできないほど大きくて深くて、ようやくリディアは、さらけ出された痛みに触れたところだ。彼がその傷を埋めるように求めるなら、ともに痛みも渇《かわ》きも感じていくしかない。
それが救いになるはずだと信じて、金色の髪に指をうずめる。
「エドガー」
キスの合間に、リディアは必死になって彼の名を呼んだ。
「何があっても、愛して……る」
ため息にしかならなかった言葉が、彼の耳に届いただろうか。
噛《か》みつくようなキスも体をまさぐる手も、やがてゆるゆると、慈《いつく》しむような抱擁《ほうよう》に変わる。気がつけば彼は、胸のふくらみに耳を押しつけてじっとしている。
「……ごめん、怖がらせた?」
「ううん、平気」
そう言っても、はげしく鳴る鼓動と落ち着きのない呼吸は彼の耳に届いているだろう。
けれど怖かったのではなく、不思議な高ぶりを感じているだけだ。
「ありがとう……、リディア」
じっとしたまま、彼は言った。
「こんな僕を、どこまできみが受け止めてくれるのかわからなくて、不安だった。たくさん愛情を感じているのに、この苦痛を埋めるように際限なく望んでしまう……。こんなふうじゃ、きみを怖がらせるだけだろうと」
「もう、がまんしないで……。あたしは、神さまに感謝してるわ。あなたが生まれてきたことも、出会えたことも」
ゆるりと体を起こした彼は、リディアが起きあがるのにも手を貸して、切《せつ》なげに見おろす。
「不思議だな。痛みを忘れようとしてきたのに、きみには触れてほしいと思う。この痛みは、僕が生きているあかしなんだろうな」
そろりと落ちてきた唇は、ふだんの彼の、胸が痛くなるほどのやさしい口づけだった。
(マイ・ロード)
アローの声がした。
(アルモリカの王女が来ます)
[#改ページ]
都の王女が望むもの
「エドガー、大変だ!」
アローに続いて、部屋へ駆け込んできたのはフランシスだ。しかしこちらの一大事は、アローの報告とは別のものだった。
「黄金の鍵がない! 落としたみたいなんだ」
「何だって? どこで落としたんだ?」
「わからない。もしかすると、小島の古城で波に呑《の》まれたときかも……」
あごに手を当て、エドガーは考え込んだ様子だったが、すぐにまた顔をあげて立ちあがった。
「だったらどうしようもない。別の手段を考えよう」
シャツを手に取る。手早く身支度を整える。
「黄金の鍵って何なの?」
立ちあがりながらリディアは質問した。
「フランシスが以前、ダイアナから盗んだものだよ」
「人聞きの悪い、独断で預かっただけだよ。でもエドガー、あれがないと……」
フランシスは落ちつきなく、戸口の前を行ったり来たりする。
「リディア、伝説では、王女の望むものを与えることができれば、男でもこの都から生きて帰れるってことだったよね。それで僕らは、王女の望みは都の水門の鍵じゃないかと考えた。海底の都へ行き、王女と何らかの交渉をしようとしていたはずのダイアナは、その鍵を見つけだしていたんじゃないかと」
「じゃ、フランシスがその鍵を持っていて、万が一のときはそれでここから帰る取り引きをするつもりだったの?」
エドガーは頷《うなず》く。しかしそれを落としてしまったとフランシスは言う。
「でも、本当にそれが、王女の望みなのかしら」
「きっとそうだよ。王女が命よりも大事だったのが、この海上都市なんだ」
フランシスは力説する。
「父王のために、妖精の血を引く彼女がこの都を作りあげた。人の世と妖精の世界の境目に。魔力で守られ、当時近海の脅威《きょうい》だったヴァイキングだろうと侵略できない、完璧な都市だった。だからこそここでは彼女に逆らえる者もなく、思うがままに男をかしずかせていた。そういう伝説だよ」
「だったら、王女は、たくさんいた恋人よりも、父王よりも、都が大切だったの?」
「ぼくはそう思うよ。彼女は誰も信じていなかった。手当たり次第に男を誘い、飽《あ》きれば追放したっていうから、そういうことじゃないかな」
妖精の血を引く王女は、そもそも自由|奔放《ほんぽう》な魂《たましい》を持っていたのだろう。妖精は、自分が交わした約束には忠実だけれど、一方的な押しつけは受け付けない。
聖者の教えに反発し、妖精の魔法にも通じていた彼女は、人々にとって理解できない存在だっただろう。だから何人男を従えても、本当に彼女を理解した恋人などいなかったのだ。
悪魔は、そんな王女の心の隙《すき》をついたのだろうか。たぶん、彼女が心を許しかけた男をそそのかした。
「……都だけが、彼女を守るはずのものだったのね。なのに恋人に裏切られて、要《かなめ》の水門の鍵を奪われて」
今もなお、王女の望みは、都の繁栄を思い出させるだけの水門の鍵なのだろうか。だとしたら淋《さび》しすぎる。かつてのような海上都市が、いまこのブルターニュの海に存在しても、かつての王国は取り戻せないのに。
「とにかく、その話は後だ。ここを出なければ。フランシス、アーエスがこちらへ向かってきているらしい」
そう聞いて、フランシスはますますあわてた。
「居場所がばれたのか? 魔よけが効いていれば、ここに隠れてることは気づかれないんじゃなかったの?」
(妖精には有効ですよ。でも王女は半妖精、人間の感覚も持ち合わせていますからね。暖炉の煙に気づいたのでしょう)
「迂闊《うかつ》だったな、ここには僕たちのほか、人間はいないと思ってた」
エドガーはそう言い、リディアの手を引く。
「千年以上も生きていて、まだ人間の感覚を持ってるなんて」
急いで戸口へ向かいながら、リディアはつぶやいた。
もともと片親が妖精だったとしても、都とともに海に沈みながらも人として死ぬことを放棄《ほうき》したなら、もはや人ではない。
それでも彼女は、人としての自分を忘れないよう努めてきたのだろうか。そういえばアーエスは、人らしい思いやりを持っていた。女たちに関してはそうだった。
男に裏切られ、自分を見捨てた人の世に、見切りをつけたわけではないのだろうか。
赤いムーンストーンの指輪をつけた肖像画が思い浮かぶ。婚約者のものだったという。
都の王女の悲しい心は、何を望んでいるのだろう。
この、人の姿の消え失せた、亡霊のような都を、もういちど海の上に現すこと? そのための黄金の鍵?
彼女の望みのものを与えられさえすれば、みんな助かるはずだと、リディアは必死になって考えるが手がかりはない。
「こちらはだめだ。裏口から出よう」
玄関口で外を確認したエドガーが、そう言いながら引き返してきた。マーメイドたちがせまってきているようだった。
さっきの中庭を通り、さらに奥の棟へ、三人は急ぐ。厨房らしき土を盛った竈《かまど》がある部屋から、路地へと出る。
(南へ向かいましょう。どのみち、小島へ通じる道は南側です)
「エドガー、頼みがある」
歩きながら、急にあらたまってフランシスが言った。
「ぼくを家臣にしてくれ」
「は? 騎士道ごっこでもする気?」
「本気だよ。ぼくは妖精国《イブラゼル》伯爵《はくしゃく》に忠誠を誓う」
「今どき、そういうのはどうかな。伯爵家の縁者になったからって、アーエスが大目に見てくれるとは限らないし」
エドガーは困惑《こんわく》気味だが、フランシスは譲《ゆず》らない。
「気持ちの問題さ。だから決めた、きみと運命をともにする。きみはダイアナを知らないかもしれないが、やっぱり妖精国《イブラゼル》の主人なんだ」
「アーエスは僕を殺したいんだ。そのために、リディアを島へ誘い込んだ。僕には妖精国伯爵を名乗る資格がないと思っている。さっき話を聞いていただろう?」
エドガーが正統な伯爵家の者ではないと、フランシスも気づいたはずだった。
「もしかしたらダイアナも、同じ考えかもしれない」
それでも、フランシスは迷っていなかった。
「これはぼくの問題で、アーエスも、ダイアナの考えも関係ないんだ。ぼくひとりならここには来られなかった。アーエスの古城を突き止められたとしても、男を排除する言い伝えに躊躇《ちゅうちょ》しただろうし、そもそもダイアナにはふられていて、彼女を想う資格もない」
心配しながら見守るリディアに、フランシスは笑みを向ける。
「資格なんてないけど、きみたちを見ていたら、ダイアナにもっと近づきたいと思った。ぼくはダイアナを知ろうとせずに、自分のものにしたかっただけだった。だからエドガー、きみが名乗る名を信じる。そしてぼくは、妖精国伯爵の家臣としてアーエスに向き合いたいと思う。ダイアナのことを知るには、それしかないだろう? ただのフランシスでは、伯爵家のために働いていたダイアナの行方を問う権利はないじゃないか」
エドガーは唐突に足を止めた。静かにフランシスに向き直り、アローを呼ぶ。
フランシスは、不思議なほど自然と、エドガーの前にひざをついた。
彼も貴族の、古い騎士の末裔《まつえい》なのだと、リディアはぼんやりと思う。
「メロウの宝剣……、そのスターサファイアも、ダイアナに聞いたことがあるよ」
エドガーは、剣を目の前に持ちあげる。
その剣先が肩に置かれるのを、フランシスは祈るように目を閉じて受け止めた。
言葉も何もなく、それだけで神聖な何かが彼らを結びつけたのだろう。
見入っていたリディアは、ひざまずいたままのフランシスに手を取られ、キスを受けて我に返った。
「行こう」
それも一連の儀式だったのか。エドガーは短く言い、また急ぎ足で歩き出す。
しかし、路地を抜け出して間もなく、目の前にはマーメイドたちが立ちふさがった。薄絹《うすぎぬ》をまとった悩ましい姿で行く手をさえぎる。
人の姿をしていても、妖艶《ようえん》なマーメイドたちは、人間の女にはない迫力がある。
「逃げても無駄よ」
立ちふさがるマーメイドのあいだを割って、輿《こし》が進み出た。美しく装飾された椅子《いす》を担いでいるのもマーメイドたちだ。そして高貴な女のための椅子には、アーエスが腰掛けていた。
古代ローマ風《ふう》のトゥニカをまとい、海の色に似た青いマントを肩に掛けている。黒い髪を飾るのは真珠のティアラだ。
あの、灰色のドレスで目立たなく装ったアーエスではなく、古《いにしえ》の都の王女の華やかさと威厳《いげん》に満ちていたが、紛《まぎ》れもなくアーエスだった。
「男を生きて帰すわけにはいかないわ」
輿をおりて、彼女はリディアたちの前に立つ。エドガーは宝剣を手にし、アーエスの接近を牽制《けんせい》する。
「メロウの剣……、本当に手に入れたとは大したものね。けれどわたしを斬っても、ここから出ることはできないわよ」
「リディアに手を出させないことはできる」
くす、とアーエスは笑った。
「誤解しないでくださらない? わたしはリディアの味方なのよ。さあリディア、こちらへいらっしゃい。あなたは無事に帰しましょう」
首を横に振り、リディアは一歩しりぞいた。
「あたしは、エドガーのそばにいるわ」
「いっしょに死ぬつもり? 伯爵、それでよろしいの?」
「連れて帰る」
エドガーはきっぱりと言うが。
「それは無理よ。ここにはここの決まりがあるのだから」
[#挿絵(img/granite_235.jpg)入る]
「あなたの望みをかなえないと、帰れないっていう決まりごと?」
「望み……、いまさら、何の意味もない望みね。だからリディア、よく考えて。あなたのフェアリードクターとしての能力は、世の中のために使うべきよ。そして伯爵、本当に彼女を愛しているなら、わたしの言うとおりにすべきだとわかるはず」
人魚に取り囲まれては、不本意ながらアーエスの話を聞くしかない。冷静な態度で、彼女はエドガーに目を向ける。
「災いの王子《プリンス》、そう呼ばれるのが不本意だとおっしゃるなら、リディアのために死を受け入れるべきではなくて? リディアは妖精国《イブラゼル》の妃《きさき》として、その宝剣を受け継ぐことができるでしょう。爵位は人が定めたものにすぎないのだから、妖精の世界でなら、リディアが妖精国《イブラゼル》の主人になれる。妖精と人のために、|悪しき妖精《アンシーリーコート》につながる能力が二度と悪用されないように、彼女なら力を尽くせるでしょう。英国に、イブラゼル伯爵という位がひとつ消えるだけですむわ」
エドガーが苦しそうに息をつく。そうじゃない、とリディアは思う。
自分はそんなに立派なフェアリードクターじゃない。一人前になりたいと思っているけれど、自《みずか》らが妖精族の主人になるなんて考えたこともない。
そもそもは母のようになりたかった。妖精たちに信頼され、父との深い愛情に満たされて、幸せそうに笑っていた母のように。
妖精と人とが理解し合って、どちらも幸福であってほしいという願いは、身近な幸せからにじみ出すよろこびとつながっている。リディアにとってはそういうものだから、アーエスの理想とはずれを感じる。
「ねえアシェンバート伯爵、それですべてがうまくいくのよ。青騎士伯爵としてあなたに果たせる役目があるとしたら、それじゃないのかしら? プリンスを葬《ほうむ》り、妖精族と英国の将来を守るべき、青騎士伯爵なのでしょう?」
「だめよ、エドガー!」
彼が頷《うなず》いてしまわないか心配で、リディアは声をあげた。アーエスの言葉に乗せられたら、妖精との契約が成立したことになってしまう。
「あたしたち、離れちゃだめなの。そうでしょう?」
リディアを見おろし、彼は目を細める。
「……ああ、そのとおりだ」
「なら、ふたりともここで死ぬのね? リディア、あなたを失うのは本意じゃないからこそここへ連れてきたけれど、都を守るためならしかたがないわ」
「いいえ、アーエス」
リディアは心を固め、都の王女に向き合った。
「あたし、あなたに望みのものを与えるわ。そしてみんなで無事に帰るの」
同情するように、アーエスは眉《まゆ》をひそめた。
「わたしの心がわかるというの?」
「わからないけど、あたしはただのフェアリードクターなの。妖精の魔力を手中にした、由緒《ゆいしょ》ある家系のことなんてこのあいだまで知らなかった。庶民のあいだにいて、ささやかな相談事を解決してきたフェアリードクターなの。あたしが持っているのはマッキール家の能力じゃなくて、母の知恵と誇りだけよ。妖精としてのあなたが、この都に定めた決まりごとがあるなら、解いてみせるのがあたしの仕事よ!」
ため息をついたアーエスが、ブルトン語らしい言葉で何か言うと、マーメイドたちが輪を縮《ちぢ》めた。彼女たちの髪の毛がうねる。
また波が来るのか。そんな気配《けはい》を感じたときだった。
石畳《いしだたみ》を駆ける轍《わだち》の音が近づいてきた。立派な四頭立ての馬車が、マーメイドを蹴散らすようにして目の前に飛び込んでくる。
中から銃声がしたかと思うと、人魚たちの輪が乱れた。
「見つけたぞ! 私の妻をどこへやった!」
太った大柄な男が、ピストルをかまえている。おまけに、お下げ髪の少女を人質にするようにかかえ込んでいる。
「ケリー!」
叫んだリディアは、御者台にレイヴンとニコの姿も見つけていた。
「あの男、スロープ? どうしてここに……」
エドガーも驚きとともにつぶやく。いったい何がどうなっているのか。
「あなたの妻は死んだ。自分で殺したのでしょう」
そう言ったアーエスの方を、血走った目でスロープはにらんだ。
「おまえ……、そうか、おまえもこのアシェンバート夫妻と組んでたのか」
引き金に指をかけたまま、銃口をリディアとアーエスに交互に向ける。
「早く妻を出せ、でないと……」
そのとき、レイヴンが馬車を急発進させた。
スロープはケリーをかかえたまま馬車の中に倒れ込む。
呆気《あっけ》にとられるリディアをつかんだと思うと、エドガーが馬車へ飛び込む。
馬車はそのまま、マーメイドの輪を突っ切って走り出した。
ゆさぶられ、気がつけばリディアは必死になってエドガーにしがみついている。体勢を立て直しながら彼が、かばうようにしてリディアを包み込むのは、目の前にピストルを手にした男がいるからだ。
しかしスロープも、はげしくゆれる馬車の中、ケリーを放すまいとしつつ、ひっくり返って起きあがれない様子だった。
「レイヴン、フランシスは?」
「こっちに引っ張り上げました」
御者台からレイヴンの声がした。ちらりと目を向けると、フランシスも振り落とされまいと必死になっていた。
ニコはレイヴンの腰にしがみついている。
スピードをあげて、馬車は走る。石段を駈け降り、広場を急|旋回《せんかい》して追っ手を引き離す。
高い壁際の道に出る。そのまま小島への通路を目指しているのだろうか。
「リディア、コルセットをしてないの?」
唐突に、しかもこの緊張した場面にそぐわないことをエドガーが耳元でつぶやいた。
「な、何言ってるの!」
「ずっと気になってたんだけど、抱き心地がよすぎて、どうしようって気分なんだ」
あらためてそう言われれば、思い出してリディアは動揺する。さっき隠れ家にした屋敷で、彼の手や重なる胸や頬や髪や、堅苦しいコルセットのない体で感じていた。
「寝室じゃないところでこういう、やわらかくて無防備なきみを抱くのって新鮮だよね」
「け、ケリーを助けてあげて!」
それどころじゃないでしょ、と言いたいが、そういうときほどふざけるのがエドガーだ。
「もちろん」
にっこりと含みのある笑みを浮かべたエドガーが、リディアの腰に回した腕に力を込める。
とたん、馬車が急停車する。
その衝撃を受け止めるために、リディアを強く引き寄せたのだと気づくが、すっかり馬車が止まっても、エドガーはリディアの体を自分にぴったりと密着させていた。
「……苦しいわ」
「もう少し待って」
そう言うエドガーの視線の先で、スロープがピストルを持ちあげていた。
至近距離だ。しかしエドガーは冷静に、むしろ冷淡に告げた。
「レイヴン、ケリーをそろそろ解放してやれ」
勢いよくドアが開いた、と思うとスロープは小柄な少年に押さえつけられ、ピストルをもぎ取られていた。
そのままレイヴンは、首に腕を回しながら男を引きずりおろす。
間もなく気絶したらしく、ぐったりしたスロープから手を離し、レイヴンはエドガー方に向き直った。
「もうしわけありません、エドガーさま。ケリーさんを人質に取られ、連れていけとこの男が。時間がなかったので、とりあえずそうしました」
とりあえず、という理由で人質にされたまま、怖い思いをしていただろうケリーを、リディアは助け起こした。
「ケリー、もう大丈夫よ」
リディアを見つめ、彼女は涙ぐむ。
「リディアさま、ご無事だったんですね」
「ごめんなさい、あなたにも心配かけちゃったわ」
「なるほど、時間がなさそうだね」
馬車を降りて、レイヴンが示す方を眺めたエドガーは、そうつぶやいた。
馬車は、長い通路の手前で止まっていた。両側を高い壁にはさまれた通路は、人間界にある古城の島へつながっている。しかしその石畳《いしだたみ》の道には、うっすらと水が流れ込んできている。
リディアは空に視線を動かす。太陽がずいぶんと傾いている。もう少しで水平線に接してしまいそうだ。
「うわっ、どうしてなんだ? さっきまで陽は高い位置にあったのに!」
フランシスが空を仰《あお》ぎ、頭をかかえた。
「きっと魔法を使っていたんだわ。あたしたちを油断させるために……」
男を生きては帰さない。都の掟《おきて》は、アーエスの強い意志でもあるのだろう。
(陽が水平線に触れたら、水門からの浸水がはじまります。日没で完全にここは海の中へ消えるでしょう)
アローの声が聞こえた。
(とりあえず、ここでマーメイドが近づけないようにしておきます。王女が来ないうちに、渡りきってください。都が沈めば、小島にも魔法の力は及びません。人魚も波を操ることはできなくなるでしょう)
「ああ、急ごう。鍵がないから、アーエスと取り引きはできない。フランシス、ダイアナのことを調べるのはまたの機会だ」
無念そうに、フランシスは頷く。
「じきに浸水がはじまるなら、馬車は途中で動けなくなるかもしれない。馬に乗っていく。フランシス、乗馬は得意かい?」
「どうにか……。鞍《くら》のない馬ははじめてだけどね」
レイヴンが指示を待たずに、馬車の手綱《たづな》をほどきはじめていた。
「ケリー、きみはニコといっしょにレイヴンに乗せてもらうといい」
それを聞いてケリーは顔色を変えた。
「あの、でも、あたし……」
ここへ来るまでのあいだに、きっといろいろとあったのだろう。ケリーのレイヴンに対する不信感は、リディアが知るよりも増しているようだった。
「フランシスの馬にするかい? でも、レイヴンの腕前は鞍がなかろうとたしかだよ」
「……もしもニコさんとあたしが落ちそうになったら、ニコさんを優先しますよね」
「はい」
答えなくていいのに、レイヴンはきまじめに即答した。ケリーはますます青くなった。
「だ、大丈夫よ、ケリー。レイヴンなら落ちそうになるってことがまずないから」
納得はしていないだろうが、ケリーはあきらめたのか頷いた。
「なあ……、鍵ってさあ……。黄金の、ずいぶん古そうな鍵か?」
御者台で仰向《あおむ》けになってのびていたニコが、ふとつぶやいた。
「ニコ、知ってるのか?」
「古城で見た。四階の広間に落ちてたけど、おれが拾おうとしたら、そいつが横取りしやがったんだ。おれのしっぽを踏んづけてさ!」
思い出したら頭にきたのか、跳ね起きたニコはそいつ[#「そいつ」に傍点]を指さす。
レイヴンにぶちのめされたスロープだ。
エドガーは、倒れているスロープに歩み寄る。すでに気がついていたらしい彼は、ゆっくりと視線をあげた。
ニコの言葉が聞こえていたのか、強気な目をする。
「あの鍵がほしいのか? アシェンバート卿。隠し場所を知りたかったら……」
最後まで言わせずに、エドガーは蹴りを入れた。体を折って、スロープははげしく咳《せ》き込む。
「な、何をする……」
「きみと取り引きする気なんかないよ」
冷たく言い捨て、頭を踏みつける。
「隠したなんて見え見えのウソだね。さっさと鍵を出した方がいいよ」
「わ、わかった……。出すから……」
足をどけかけたエドガーだが、スロープがポケットに手を入れると、再び蹴り飛ばした。
「エドガー! ひどいことはやめて……」
思わず声をあげ、エドガーに駆け寄ろうとしたリディアだが、フランシスに止められた。
「あいつはナイフを出そうとしたんだよ」
またうずくまったスロープのそばに、ナイフが落ちているのを見て、リディアは息をのむ。
同情していたら、エドガーが刺されていたかもしれない。
「リディア、きみに傷を作った男だ。許せないね」
言いながらナイフを拾おうとするエドガーに、スロープはおびえた様子で、座り込んだまま後ずさった。石段に突き当たり、立ちあがろうともがく。
「することが野蛮《やばん》ね、伯爵。それでもまだ、まともな人間のつもり? そんなだから、リディアの傷はあなたのせいだと思ったのよ」
石段の上に、アーエスが姿を見せた。
ひとり、ゆっくりと階段を下りてくる。青いマントが水のように段上を流れ落ちる。
「まともだよ。害虫の区別はつく。きみのように、男はすべて敵だと決めつける方がまともじゃないね」
エドガーの注意がアーエスの方にそれると、スロープは急いで起きあがり、助けを求めるように彼女のそばに駆け寄った。
「黄金の鍵を持ってる。……おまえもそれがほしいんだろう? 私を助けてくれれば、おまえにやってもいい」
アーエスは、白い腕をすっと上げた。魔女、と呼ばれた王女の、ただならぬ形相《ぎょうそう》にぎょっとしたのか、スロープは足を止める。
そんな彼の上着の内から、黄金の鍵が宙に浮かんだ。
「助けろと? これは、そもそもわたしのもの」
「ぼくが持ってきたんだ。アーエス、ダイアナが見つけ、きみに届けようとしていた。それがきみの望みなら、ぼくの頼みを聞いてほしい」
フランシスがあわてて主張した。
「残念ね、これと引き替えにするものは、ダイアナとの約束で決まっていたの。それにこれは、わたしのいちばんの望みではないわ」
「……ダイアナは、それと引き替えにするものを受け取るために、ここを訪ねたのか」
「そうよ。でも鍵をあなたに奪われ、取り引きするものがないままやってきて、何も得られずに去った。ひどい男、あなたは、彼女が命がけで遂行《すいこう》しようとしていた役目を踏みにじったのよ」
命がけで。ダイアナはもう生きてはいないのだろうか。リディアはそんなふうに感じながら聞いていた。フランシスももしかしたら、行方不明の彼女がどこかで命を落としたと考えていたのかもしれない。何も問わずにうなだれた。
それでも彼は、あきらめたわけではなかったようだ。どうにか声を絞《しぼ》り出す。
「ダイアナは、ぼくを許してくれた……。できるなら、彼女の意志を継ぎたいと思ってる。アーエス、その鍵と引き替えに、ダイアナとの約束のものをぼくにくれないか」
ダイアナが属していた妖精国、その主人であるはずのエドガーに忠誠を誓ったのは、彼のそういう決意だったのだろう。
しかしアーエスは首を縦《たて》には振らなかった。
「男は生きて帰さないのよ。あなたに渡して意味があるの?」
雲行きがあやしくなった。段上にマーメイドたちが姿を見せる。
そっと、エドガーがリディアの腕を引く。馬の手綱を手にしている。
「アロー、今だ!」
エドガーが呼んだ瞬間、銀色の閃光《せんこう》が辺《あた》りを覆《おお》った。
「レイヴン、フランシス、行くよ!」
あたりがよく見えないまま、リディアは馬に引きあげられる。壁にはさまれた通路へ向かって走り出す。
片手でエドガーは、リディアの体をしっかりとつかまえているが、鞍がないので安定が悪い。リディアの方も両手を回してしがみつく。
ニコとケリーを乗せたレイヴン、そしてフランシスが後に続き、その向こうは銀色の光に満たされている。
アローの魔力が、マーメイドのつくり出す波をかろうじてせき止めている。
それでも足元の通路にたまる水は、少しずつ深さを増してきていた。
馬はそんな水を跳ね上げ、雨のようにしぶきを立ててひたすら走った。
見あげれば、空の色がどんどん赤みを増している。高い壁にはさまれたここからは、太陽の位置がまるでわからないけれど、そろそろ水平線に接近しているに違いない。
もうすぐ、都は海に沈む。
遠い昔の、最後の日も、太陽はこんな色をしていたのだろうか。
空も海も、花崗岩《かこうがん》の海岸と同じ色に染め上げて。
いや、かつてこの海も岸辺も、赤く染め上げたのは魔法の宝石だった。
王女とともに海に沈んだ、ムーンストーンの色だった。
アーエスは、婚約者の手を自分から離したと言った。それで彼も、良心の呵責《かしゃく》を感じずに彼女を見捨てることができたと思っている。
意に染まぬ婚約だったから。
でも、それが単なる善意でも、ぎりぎりまで助けようとした男の存在は、王女の心に何かを残しはしなかっただろうか。
この海のように、海と接する一帯の、岩や建物のように。
淡く赤く。
「リディア、水が冷たい? 少しの辛抱《しんぼう》だよ」
エドガーが励ますように言う。リディアが無意識に、彼の胸に頬を寄せたせいだろう。
エドガーのぬくもりを感じていたかった。自分たちの逃亡は、あのときの王女と婚約者と同じではない。
伝説の悲劇のように、離ればなれになったりしないと切実に願う。
結局、アーエスの望みが何なのかわからないまま、エドガーはここを強行突破しようとしている。でも、そんなことが可能なのか、リディアは不安でいっぱいだった。
年にいちど、海上に姿を現した都が、人間界に近い状態だとはいえ、妖精界に属する場所であるなら決まりごとは変えられない。
それはエドガーだってわかっているはずだ。
だから怖い。エドガーは、リディアだけが助かればいいと、どこかで考えていたりはしないだろうか。
このままどこまでも、あきらめずそばにいようとしてくれるのだろうか。
けれどもう、時間がない。ほかに方法もない。突き進むしか。
(マイ・ロード、人魚の数が多すぎます)
アローの声が聞こえた。魔力をせき止めるのももう限界らしかった。
エドガーはさらにスピードを上げようと馬を急き立てるが、通路の水が馬の足取りを鈍《にぶ》らせている。
「エドガー、波が……!」
振り返ると、アローの銀色の光を突破して、大きな波が向かってくる。
「伯爵、リディアを離しなさい」
アーエスの声が響く。
「道連れにするなら、あなたはあの男と同じよ。妻を殺したあの男と」
そのスロープはどうなったのだろう。マーメイドにとらわれ、都とともに沈もうとしているのだろうか。
「両親を死に追いやって、家を破滅に導いたのがプリンスだと知っていながら、そのすべてを手に入れた。力を欲し、人を支配するために生まれた、あなたの本質よ。その欲望はどれほど罪深いか」
無言のまま、苦しそうにエドガーは歯を食いしばる。
「いずれきっと、リディアのことも踏みにじるでしょう」
そうじゃない。エドガーはリディアを守るために、プリンスのすべてを奪ったのだ。自分が苦しみを背負っても、周囲を幸せにしようと努めてきた。
そんなエドガーが、リディアのそばでは少しでも安らぎを感じてくれている。彼が心の平安を求め、リディアを求めるなら、自分のすべてで応えたい。
「エドガー、あなたはやさしい人よ。でなきゃ、こんなに傷ついたりしない……。罪深くなんかない」
いつまでも変わらずに、大切にしてくれるとあたしは信じている。
波の音がせまってくる。
しっかりとしがみついて、リディアは頭を押しつけるけれど、いつもみたいに彼は力を込めてはくれない。
「リディア……、きみを守りたいのに、どうすれば……」
「いやよ、離さないで! エドガー……!」
頭上を波頭が覆《おお》うのを、リディアは眺めながら叫んだ。
波がぶつかってくる衝撃に、一瞬息が詰《つ》まった。
落ちる。意識しながらエドガーは、反射的に手綱を放し、リディアをつかんだ。
波に引きずられまいと、壁際に体を寄せる。流れが止まったわずかな間に立ちあがる。
落馬したものの、通路の浸水が進んでいたおかげで怪我《けが》はなかった。しかし馬は走り去ってしまったようだ。
レイヴンたちの姿も見えない。
レイヴンなら、自力で何とかするはずだ。ニコとケリーを守ることもできるだろう。フランシスは、無事を祈るしかない。
「リディア、立てる? 小島はすぐそこだよ」
「ええ……」
島は見えてはいる。けれど道はまだ、半分も来ていない。リディアも気づいているだろうけれど、一生懸命に立ちあがり、濡れたスカートを持ちあげて足を動かす。
水はもうひざくらいまである。走っているつもりでも、なかなか先へ進まない。
こうすることが、リディアを死の淵《ふち》へ追いやっている。都の掟《おきて》は必ずエドガーを海へ引きずり込むだろう。そうわかっていて、なぜリディアを連れていこうとしているのか。
自分の罪深い欲望のために?
違うとリディアは言う。けれどエドガーは、自分が正しいのかどうかわからなくなる。
ただ、リディアが強く彼の手を握る。だから、その手を離せないままに先へと急ぐ。
足元の水の流れが変わる。また波が押し寄せてくるのだとわかる。
「アーエス、やめろ……! リディアは関係ないだろう!」
「だったら彼女を離しなさい」
冷静な声は、波の音にも紛れずに届く。
もう、それしかないのだろうか。
「エドガー、あなたはもうひとりじゃないの。あなたの過去も、あたしの一部よ」
離せない。こんな少女と出会えたから、エドガーは救われた。でも、だからこそ彼女を道連れにはしたくない。
「アーエス、あなたは何も知らないのね。何人恋人がいても、本当の愛を知らなかったのね? だけど、知りたいと思うのでしょう?」
リディアは必死になって言葉を続けた。
「教えてあげる……! エドガーは、何があっても手を離したりしないわ。あたしたち、死ぬときはいっしょでかまわないのよ。だっていっしょに生きていくしか、ほかの未来はないって気づいてしまったんだもの」
切実に、苦しいほどに、その言葉は胸に響いた。
ああ、手を離してはいけない。彼女の愛情を裏切ることになってしまう。
どちらかのためにこの関係を断ち切るなんて、もうそんなことは考えられないところまで、ふたりで進んできた。
プリンスの記憶を引き受け、それでもなお彼女と歩んでゆく覚悟をして、ここにいる。
「……そうだ、アーエス、きみは知らないんだろう? 僕がどれほどリディアを愛しているか……」
この手を離すことがあるとしたら、その理由はひとつだけ。
プリンスが自分を支配したとき。
そう決めたはずだった。
「リディアは守ってみせる。僕の内にあるものからでさえ!」
強く手を握り、リディアを引き寄せる。波はもう避けようもない。
立ち止まり、覚悟を決めたように微笑むリディアと目を合わせ、抱きしめ合う。
細い腕を背中に感じるこの一瞬を幸福だと実感しながら、エドガーは目を閉じた。
[#改ページ]
新しい伝説のために
海の国を支配する都は、高い壁に囲まれた、海上の要塞《ようさい》だった。
そのすばらしい都を築いたのは、妖精を母に持つひとりの王女だ。
あれは魔女だ。毎日のように、誰かがささやいている。都を囲む石壁が、海上からは見えないなんて、奇妙な魔法を使っている。この都は、魔女に支配されている。
美しい妖精だった亡き王妃のことでさえ、宮殿の中には、王をたぶらかした魔女だと言う者もいた。
妖精の魔力によって平和は保たれ、王国は繁栄していたのに、女の身でありながら政治に口出しし、王をないがしろにしているという、王女に対する悪口は絶えなかった。
リディアはどこからか、古《いにしえ》の都とその物語を眺《なが》めている。夢を見ているのかとぼんやり思う。
街には人があふれていて、皆忙しそうに働いている。教会の鐘が鳴ると、鐘楼《しょうろう》から鳩の群が飛び立つ。
けれどその風景は、水の中にあるかのようにゆらめいている。
俯瞰《ふかん》するリディアの意識には、街の井戸端《いどばた》会議も、宮殿の密談も、聞こうと思えば聞くことができた。
これが夢なら、遠い昔の、アーエスの夢の中にいるのかもしれない。
そう思えば、大理石に囲まれた部屋の中、幾重《いくえ》にも重なるカーテンの奥で、ローマ風《ふう》の寝|椅子《いす》に片肘《かたひじ》をついて横たわっている女の姿をリディアは見ていた。
波打つ黒髪と切れ長の目をした、妖艶《ようえん》な王女だ。
みんな、わたしの心を知ろうともしない。この国がほしいだけ
そんなつぶやきが唇《くちびる》からもれる。
いいえ、私にはわかります。あなたの淋《さび》しい心が
そばには、見目麗《みめうるわ》しい若者がひざまずいていた。直感的にリディアは知る。あれが王女を裏切った、最後の恋人だ。
かしこい人、あなたには国を治める力があるのに、聖者も大臣たちも、女だという理由で退けようとする。私にはわかります
その男が、別の誰かにそそのかされている情景も、リディアには見えていた。この美しい国をねらう、侵略者の手先だということも不思議と理解していた。
神も悪魔も、伝説が作りあげたイメージだ。王女はただ、妖精の血を引く故《ゆえ》に他の人とは違っていただけで、悪女ではなかった。なのに、侵略者が彼女の評判をおとしめた。
王女が眠っている隙《すき》に、恋人は黄金の鍵を盗み出す。都を海に沈めるために。
水門が開かれると、街には水が侵入し、人々が逃げまどった。王宮からそれを眺めた王女は、胸を痛め、悔しさに涙した。
誰も、信じなければよかったと。
まだここに? 王女よ、早く避難を。私がお連れします
そう言ったのは、赤いムーンストーンの指輪をした男だった。促されるままに王女は宮殿の外へ出るが、水はもう避難路に侵入してきている。
彼は王女を馬に乗せようとするが、ふたりも乗せれば馬の足は遅くなる。きっと間に合わない。
行ってください。ここはわたしの都。運命をともにします
唯一《ゆいいつ》彼女を裏切らない、安らぎの場所だから。
いいえこれを。ここはなかば妖精界、魔力の助けを借りれば、きっと
手渡されたのは、彼の指にあった赤いムーンストーンだった。くっきりした光沢《シーン》が、日暮れ前の空にある月と同じ姿をしていた。
けれどそれは、あなたを護《まも》る魔力。わたしたちのあいだには何もないわ。魔力は、わたしを助けはしない
婚約者だ。私は結婚を申し込むためにここへ来た
他人が勝手に決めたこと
それでも、縁談を受けたからにはあなたを愛する
いいえ、それはあなたの名誉ではあっても、愛じゃない。だからほら、わたしが手を離せば、あなたも……
王女が馬から落ちる。海の底へ沈んでいく。
都と、婚約者の赤いムーンストーンとともに。
海も空も、沿岸の岩も建物も、その色が染め上げる。
王女の悲しみと、最後に救おうとした人への、かすかな期待の色が溶けて、混ざり合って、その色だけが、王女の望みを知っていた。
「海は何もかも記憶している。そして忘れない。いつまでも」
誰かがすぐそばでささやくのを、リディアは感じた。
「アーエス」
リディアに自分の姿が見えないように、アーエスの姿も見えなかった。海の記憶の中を、意識だけが水になって漂っている。そんな気がする。
「わたしは、無関係な婚約者を道連れにするのも、助けられたとして恩に縛《しば》られるのもいやだった。だから後悔はしていない」
やわらかな声音《こわね》は、これまでの気丈《きじょう》なアーエスとは違い、愛に迷う女のようだった。
「ただ、知りたかったのかもしれないわ。手を離さなければ、どうなっていたのかしら。愛は伴侶《はんりょ》を、自分を犠牲《ぎせい》にしてでも救うもの? それとも道連れにするもの? どちらにしても欺瞞《ぎまん》と自己満足だとわたしは思っていた」
姿の見えないアーエスが、少しだけ微笑《ほほえ》んだような気がする。
「でもあなたたちは、どちらでもなかった。あきらめないこと、それがあなたたちの選択で、男と女のあいだに本物の絆《きずな》が存在するのか知りたいと望んだ、わたしへの答えだった」
都の風景がゆらぐ。水面の波紋に、かき消されてしまうかのように。
「帰りなさい、リディア。伯爵《はくしゃく》と、伯爵家の者たちと。あなたたちは、この都から生きて帰れるたったひとつの道を手に入れた」
去ろうとする気配《けはい》を感じる。リディアはあわてて呼び止める。
「待って、アーエス、教えてほしいの。赤いムーンストーンは今どこに? 妖精国《イブラゼル》へ行くにはどうすれば? ダイアナはどこにいるの?」
「せっかちね。でも、あなたはレディ・イブラゼル。知る権利はあるわね」
声はまた、その場にとどまる。
「赤いムーンストーンは、ダイアナに返したわ。あれは妖精国《イブラゼル》のものだから。ダイアナはここから海峡を越えてイギリスへ向かったはず。でも、死んだとだけ、海の者から聞いているわ」
「死んだ……の?」
「おそらく、志《こころざし》半《なか》ばにして……」
「プリンスの組織に?」
「いいえ、彼女は病気だったそうよ」
病身で、使命を負っていたのだろうか。
「リディア、あなたがあの伯爵と連れ添う覚悟なら、赤いムーンストーンを手に入れなさい。あれは、妖精国《イブラゼル》の最強の武器よ」
「武器、なの?」
驚きながらリディアは、白いムーンストーンのことを考えた。それは月であり弓であり、守護の力を持っている。一方で赤いムーンストーンは、敵を攻撃するものなのだろうか。
「妖精国のアシェンバート家に属する、男子にしか使えない武器。かつて持ち主の手を離れたとき、宝石は自《みずか》らの力でこの沿岸を染め上げたわ。ここにあるというしるしを、持ち主に教えるように」
「じゃあ今も、どこかにその目印があるかもしれないの?」
「持ち主たるべき人物の手にあるのでなければ、赤いムーンストーンは自《みずか》らの魔力でありかを示すでしょう。だけどリディア、伯爵の矢《アロー》は、まだその赤い弓が使えるほど成長していないし、青騎士《あおきし》伯爵の血縁でない当主に、そこまでの力が得られるかどうかは疑問だわ」
「それでも、見つければ得るものはあるのね」
「おそらく、あなたの夫の魂《たましい》を、プリンスから守れる力はあるはずよ」
それがあれば、エドガーはプリンスの記憶に支配されずにすむかもしれないのだ。
リディアは、アーエスの言葉を聞き漏らすまいと必死だった。
「リディア、ダイアナの持っていた地図をあなたに託《たく》すわ。形見としてわたしに届いたものだけれど、妖精国《イブラゼル》への道が記されているかもしれない」
「かもしれないって?」
「白紙なの。でも地図だと聞いているわ。あなたは、彼を本物の青騎士伯爵にしようとしている。彼も、本物になろうとしている。だったらダイアナの形見を受け取るべきはあなたたちなのでしょう。妖精国《イブラゼル》の扉が開かれるよう祈ってるわ」
アーエスは、去ろうとしていた。リディア自身ぼんやりと、長くここにはいられないのだと感じていた。
「さあ、行きなさい」
「また、会えるの?」
妖精と人間の、両方の魂《たましい》を持つ王女。それゆえに疎外《そがい》され、悲しい伝説の主人公になった。リディアはアーエスの気持ちが少しはわかるような気がするし、だからこそ彼女の望みにたどりつくことができたのだと思う。
まだ青騎士伯爵の名を持たなかった遠い昔の、妖精国の領主と会ったことのあるアーエスを、遠い親戚《しんせき》のようにも感じている。
くすりと、アーエスは笑う。
「愚問《ぐもん》ね、わたしは永遠にここにいるのよ。でも人の子の魂は、あまり長く体を離れていてはいけないわ。彼女が、気が気でないって様子だもの」
彼女?
海の中のようにゆらぐ視界に、うっすらと黒い影が見えた。目を凝《こ》らす。ひざまずいた女だとわかる。
男の服装をした、女。いや、|アザラシ妖精《セルキー》だ。
それはリディアもよく知る、セルキーになったアーミンだった。
「そうそう、水門の鍵を届けてくれた見返りのものを、伯爵にさし上げましょう。プリンスと戦うために、我が都の軍勢を。でも、招集するときは慎重に。伯爵の命をねらうことになるかもしれないのだから」
アーエスの軍勢、それはあのマーメイドたちだろうか。武器だの軍だの、物々しい話だった。
けれどそれを、ダイアナは妖精国のために必要とした。エドガーにとっても必要なものに、彼を守るものになると信じよう。
「ご案内します、マイ・レディ」
アーミンがそう言う。リディアは不思議と驚きもなく、彼女を眺めていた。
アーミンとは、同じ運命の中にいる。またいつか、会うことがあるだろうと思っていた。
「あなたの姿を、ホテルで見たような気がしたの。気のせいじゃなかったのね」
目を伏せたまま、彼女は立ちあがる。静かにきびすを返し、歩き出す。
「アーエスのところにいたの? ユリシスのもとじゃなかったのね。……そう、ここならユリシスたちも簡単には手が出せないもの。ねえアーミン、本当は今でも、エドガーのために働こうとしているんでしょう?」
アーミンは黙っていた。しばらくして、思いあまったように口を開いた。
「リディアさん、わたしに気を許さないでください。あなたから、大切なものを奪うかもしれません。……いいえ、そうならないように、あなたがたの力で、妖精国《イブラゼル》のすべてを手に……」
やがて夢から目覚めるように、彼女の姿が視界から消えてゆくと、体の感覚が戻ってくるのを、リディアは感じていた。
ただ、ひとつだけわかった。
アーミンも、大切なもののために戦っているひとりなのだろう。
* * *
「ほら、リディア奥さま、よくお似合いですわ」
イブニングドレスを着て鏡の前に立ったリディアは、おそるおそる目を開けた。
ふだんよりずっと大人っぽいドレス姿の自分がいる。何だか見慣れないけれど、思ったほどひどくはないようだと胸をなでおろす。
ローズレッドのドレスなんて、リディアにとってははじめてだからだ。
肩や腕のあざを隠してくれるデザインだったが、背中も胸元もかなり開いている。
背中にもある青いあざは、まだ治りきっていないが、ひとつに束ねた髪にカールをかけて、背中にたらせば上品にそれを隠してくれた。
シャンデリアやランプがいくつも灯《とも》る夜会では、揺れ動く髪の影が重なって、打ち身の痕《あと》に気づかれることはないだろう。野暮《やぼ》ったくなるのをがまんして、襟《えり》ぐりの浅いドレスを着なくてもすむのはありがたい。
ケリーが工夫してくれたその髪型は、結婚したばかりの初々《ういうい》しい娘らしさを残しながら、ミセスとしての落ち着きもそこなわない、今のリディアにはぴったりに思えるものだった。
それに何より、エドガーが買ってくれた白蝶貝《しろちょうがい》をビーズにしたハンドバッグが、赤一色のドレスにすばらしく映える。
「そうね、すてきだわ、ケリー。あたしじゃドレスの魅力やあなたの腕前をじゅうぶんに発揮《はっき》できないけど、あたしにしてはきれいよね」
ドレスやバッグで劇的に変わるわけではないが、いくらか伯爵夫人らしくは見えると思う。
「リディアさま、自己評価が低すぎます」
ケリーは不満そうに腰に手を当てた。
「リディア、準備はできたかい?」
エドガーの声が聞こえた。
ケリーが開けたドアから、リディアのドレッシングルームへ入ってくる。
ホワイトタイにテイルコート姿のエドガーは、そろそろ見慣れていい頃だろうに、いまだにまぶしく感じてリディアはつい目をそらしてしまう。
「パーティ、本当に行けそうなの? 無理せずに、断ってもいいんだよ。きみはまる一日気を失ってたんだから」
そうなのだ。アーエスの都から、アーミンに案内されて戻ってきたらしいリディアが目覚めたのは、宿泊していたホテルの客室だった。
エドガーたちはみんな、あのまま古城のある島まで流され、助かったのだという。むろんリディアもそうだったが、ひとり意識を失ったままだった。
城にいた老婆が、心配はいらないと助言してくれたようだが、それでもエドガーはまる一日、片時もリディアのそばから離れなかったとケリーが言っていた。
そんな彼が、リディアに何を求めているのか、今は少しわかったような気がする。
リディアは自分の、不慣れで不器用な愛情を捧げることを恐れていたけれど、それさえも切実に欲してくれた。
もっと、エドガーをよく見て、よく知りたい。彼の過去も傷も包み込めるようになりたい。
自分の役目は伯爵家のフェアリードクターだと思っていたけれど、それはそれで重要だけれど、もっと当たり前で大事なことがあったのだ。
これからはエドガーの妻であろうと意識を新たにし、だからリディアは、パーティにも気合いを入れて臨《のぞ》もうとしている。
「平気よ。どこも悪くないもの」
顔をあげて、ちゃんとエドガーを見る。
まぶしい金色の髪、自分の結婚相手がこんなふうだなんて想像したこともなかったほど端正な容貌。灰紫《アッシュモーヴ》の瞳はやさしく見つめられると、それだけで頬《ほお》が熱くなる。
そのうえ彼はさらに近づいて、リディアを間近で見おろす。
「今夜のパーティ、以前から約束してたんでしょう?」
知り合いのイギリス人貴族が、この薔薇《ばら》色海岸にある別荘に滞在している。エドガーが近くのホテルに泊まる予定だと話したとき、パーティを開くのでぜひ、と誘われたとのことだった。
「まあそうだけど」
上の空といった返事をして、あんまり彼がじっとこちらを見ているものだから、リディアはますますそわそわしてしまっていた。
やっぱりこのドレス、あたしにはもうひとつってところかしら。
花嫁道具として仕立てたイブニングドレスの中でも、いちばんすてきだけれど着こなすのは難しいだろうと思っていたものだ。もっと大人の淑女《しゅくじょ》になれたら着たい、そんなドレスを、どういう思いつきか旅行の荷物にケリーが詰め込んできたものだから、ちょっと着てみようという気になった。
ケリーはほめてくれたけれど、エドガーの目には奇妙に見えているのかもしれない。
「あの、エドガー、これ気に入らなかったら別のドレスに……」
後ずさりかけたリディアは、いきなり腰を引き寄せられ、倒れるように彼の胸に飛び込むことになった。
うなじをなぞる指を感じると、肩に唇《くちびる》を押しつけられている。エドガーはリディアの首の後ろを片手でつかみ、動けないようにしてしまうと、のどから鎖骨《さこつ》のくぼみに唇を這《は》わせる。
舌《した》先で舐《な》められ、ぞくりとしたリディアはあわてて身じろぎした。
「エドガー……ちょっと……」
「旦那さま、せっかくきれいにした髪を乱さないでくださいませ。それに、奥さまの肌《はだ》に痕が残ったらどうするんですか!」
ケリーの声が割って入り、エドガーはリディアから唇を離したが、ケリーの目の前でと思うとリディアはますます赤くなっていた。
召使《めしつか》いがいないかのように振る舞えるエドガーみたいには、リディアはやっぱりなれそうにない。
「目立たないところならいい?」
真顔《まがお》でリディアを見つめ、エドガーは問う。
「え?」
「キスのしるしをつけても」
言いながらエドガーは、いつもより少しだけ大胆に開いた胸元に指をすべらせた。
「だ、だめよ! 何言ってんの!」
あわててリディアは体を引く。それでもまた抱き寄せて、エドガーはささやく。
「困ったな、出かけたくなくなった」
「旦那さま、何をおっしゃるんですか。こうして奥さまが一生懸命準備なさったのに、台無しにするおつもりですか?」
[#挿絵(img/granite_269.jpg)入る]
ケリーが抗議の声をあげる。
「えっ、これは僕のために着飾ってくれたんじゃないの?」
「もちろんそうですわ。旦那さまが美しい奥さまをお持ちの幸せ者だということを、大勢の方に知っていただくためです」
せっかく着付けたドレスを、今にもめちゃくちゃにしそうなエドガーを、完璧にケリーはいさめてくれた。
さすがケリーだわと思いながら、リディアは残念そうにため息をつくエドガーのポケットチーフを整える。そうしていると、本当に自分たちは夫婦なんだという気がしてくる。
日常のささやかな行動が、ともに年月を重ねていく幸福な未来を予感させてくれる。
微笑《ほほえ》んでいたリディアは、自分がどれほどやさしくやわらかい愛情で彼に寄り添っているかも自覚していなかったし、どれほど輝いて見えているかも気づいていなかった。
気を取り直したように、エドガーはリディアを眺めて目を細める。
「毎日いっしょにいるのに、きみはどんどんきれいになるね。僕の愛情を注いでいる成果だったらうれしいな」
「やだ、そんなに変わらないわよ」
「自覚がないの? じゃあきみが満足できるには、まだまだ愛が足りないのかな」
「じゅ……じゅうぶんですから」
結局また赤くなって退いてしまうのだけれど、エドガーは楽しそうにくすくす笑った。
「おじゃましていいかい? 楽しそうだね」
現れたのはフランシスだ。ケリーが開けたドア際で、もうしわけなさそうに手を振る。
エドガーはリディアに腕を取らせつつ、彼のいるドローイングルームへ足を向けた。
「これからパーティだって? その前に、リディアにお礼を言いたくてさ」
「あたしは何も……」
アーエスから聞いたことは、すべてエドガーに話した。ダイアナの消息については、エドガーからフランシスに伝えてもらったはずだった。
いい報《しら》せではなかったことがつらい。
「いや、はっきりしてよかったよ。きみがいたからこそ、ぼくは救われた。アーエスはぼくを認めていないだろうけど、きみが妖精国《イブラゼル》の妃《きさき》だからダイアナの死を告げるべきだと思ったんだろう。それに、ぼくも伯爵家とのつながりでいっしょに帰ってくることができたようだしね」
リディアはフランシスに歩み寄り、その手を取る。
「あたし、思うの。ダイアナは、いつかあなたが黄金の鍵を手に、都を訪れてくれると信じていたんじゃないかしら。たぶんアーエスもそう聞かされていて、だから鍵と引き替えのものを、すんなりと約束してくれたんだわ」
目を伏せたフランシスは、ダイアナをまぶたに思い浮かべたのだろうか。
「たぶん、きみの言うとおりだ。あのころのぼくは、ダイアナの使命を恋の障害みたいに思っていたけれど、彼女のすべてを、使命も目的も守れるくらい愛せるかどうか、試されていたんだろう。もっと早く気づけば、きみたちのようになれたのかな……。アーエスが知りたいと望んだ、かけがえのない絆《きずな》を示すことができたきみたちのように」
リディアに視線を戻し、フランシスは微笑む。彼女の手を握ったまま、なかなか離そうとしないのは、深く感じ入っているのだとリディアは思ったが。
「どこを見てるんだ?」
いきなりエドガーは、リディアを背後に隠すようにしてフランシスの前に割り込んだ。
思いがけずフランシスは、いたずらっ気のある笑みを浮かべた。
「そりゃ、いちばん魅力的なところ」
「もうひとつの目もつぶされたいのかな?」
エドガーがふざけて突き出した指を笑いながら避けて、フランシスはきびすを返す。
「リディア、今夜のパーティが流血|沙汰《ざた》にならないことを祈ってるよ」
そう言い残して出ていった。
「旦那さま、そろそろ出かけられた方が」
ケリーが促す。
「そうしよう」
とリディアの腕を取りながらも、エドガーはため息まじりにつぶやく。
「ほかの男の目にさらされるなんて、もったいない。もう僕だけのものなのに」
視線が胸元に注がれている。さっきのやりとりの意味をようやく理解したリディアは、顔を赤らめて眉根《まゆね》を寄せた。
「な、何見てんの!」
「あれ? 僕は好きなだけ見てもいいんじゃないの?」
「そ、そのあからさまな目はやめてちょうだい。……それに、フランシスはべつにいやらしい気持ちで見たわけじゃ……ちょっと視界に入っただけだと」
「そんなわけないじゃないか! あのねリディア、僕が考えるくらいのことは、どんな男も当然考えているんだよ。口に出さないだけなんだから」
それこそ、そんなわけないわとリディアは思う。
「だったらあなたは、ほかの女性もそんな目で見てるってこと?」
「まさか、最愛の妻がいるのに興味ないよ」
ぜったいにウソだ。
「それならほかの男性も、あたしに興味はないはずよ」
「それは違うな。世の中うまくいってる夫婦ばかりじゃない。僕ほど奥さんを溺愛《できあい》してる男はちょっといないよ。だから、そう、今夜はあまり前屈みにならないように」
どこまでも調子よく、堂々とふざけたことを言う。リディアはちょっとあきれる。
「そうね、とくにあなたの前では気をつけるわ」
「ええっ、それはないよ」
ふたりして笑いながら、玄関ホールへの階段を下りていく。
慣れない社交もパーティも、エドガーといっしょなら不安はない。たわいのない言葉を交わしている時間も楽しいと思う。
このまま、幸せを守っていきたい。
「リディア、赤いムーンストーンを、必ず見つけよう」
ふとまじめな顔になって、エドガーは言った。
リディアは強く頷《うなず》き、結婚指輪の白いムーンストーンに視線を落とした。
「ねえエドガー、この白いムーンストーンが、魔法の白い弓だったでしょう? 武器だっていうそれは赤い弓なのよね」
白い弓は、宝剣のスターサファイアを矢につがえ、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力を浄化することができた。強い魔よけの力だった。
「そうだね。赤い弓は、宝剣のもうひとつの力、スタールビーを矢にするものかもしれない」
サファイアがルビーに変化したとき、宝剣は破壊の力を発揮《はっき》する。だとしたらその矢を射る弓も、同じような破壊の力を、それも剣のように一対一の相手ではなく、広範囲に及ぶ魔力を発揮するのかもしれない。
今のエドガーには使えないだろうとアーエスは言った。誰か、使える者がいるのかどうかリディアにはわからない。
それでも、赤いムーンストーンがエドガーをプリンスから守ってくれる可能性があるなら、見つけるしかない。
手がかりはダイアナの地図だけだ。気を失ったまま助けられたリディアが握っていたものは、銀のロケットペンダントで、中に何も書かれていない象牙《ぞうげ》の板が入っていた。今のところ手がかりにもなっていないが、どうやって使うのかさえわかれば、きっと妖精国の場所がわかるだろう。
「アーミンも、妖精国のすべてを手に入れるべきだって、そんなことを言っていたわ」
そしてまだまだ、自分たちが知らない物事が、プリンスの組織と青騎士伯爵家の背後にある。マッキール家の予言者も関係しているかもしれない。
「彼女の意図はよくわからないけど、無事でいて、囚《とら》われの身ではなく自由にしていられるならよかったよ」
相変わらず彼女は、味方とも敵ともわからない態度だったけれど、リディアの前に姿を現したことは、彼女にとっての心の区切りではあるのかもしれないと思う。
「どうして、あなたの前に姿を現さないのかしら」
「それはないと思うよ。彼女はもう、僕のためじゃなく自分のために行動しているって、自覚しているはずだから」
きっとそうなのだろう。けれどその一方でアーミンは、エドガーに自分の毛皮をあずけたままだ。つまりは命をあずけたまま。
彼女なりの忠誠心なのではないのだろうか。
彼女の魂《たましい》は、おそらく永遠にエドガーのもとに属しているのだろうから。
外へ出ると、ポーチに馬車が横付けになっている。いつもならそのあたりにいるはずの、レイヴンがいないのにリディアは気づく。
「ねえ、そういえばレイヴンをさっきから見てないわ」
「ああ、空を飛ぶガレットをさがしに行ってもらった」
平然とエドガーは言うが、リディアはえっと眉根を寄せた。
「ガレットって、飛ぶの?」
「きみが見てみたいと言ったんだろう? ガレットが飛ぶのを。ニコに聞いたよ。きみの願いなら何でもかなえたいからね」
「……それ、妖精が空飛ぶガレットの話をしたから不思議に思ってたんだけど、ホテルの人に訊《き》いたら食べ物だって言ってたわ。ニコったら……、あたし、妖精の妙な話に相づちを打っただけなのに!」
「そうなのか? じゃ、ニコの勘違いだね。ガレットが飛ぶなんて、僕も変だと思ったよ」
あっけらかんと笑うが、エドガーが命じたならレイヴンは必死でその空飛ぶガレットをさがしているはずだ。
「ちょっと、レイヴンを呼び戻さなきゃ」
「どこにいるかわからないよ」
「でも……」
「心配ないさ、きっと近いうちに空飛ぶガレットが見られるよ」
だからべつに見たいわけじゃ……。
リディアの困惑をよそに、エドガーはさっさと彼女を馬車に乗せる。
遠い昔、赤いムーンストーンが染めたという薔薇色の石畳《いしだたみ》を、馬車はすみやかに走り出した。
*
ホール時計の鳴る音が、ホテルの館内に響《ひび》いていた。
ケリーはドローイングルームの片隅で、主人夫妻が帰ってくるのを待っていた。
伯爵家に雇われてすぐ、新婚旅行に付き添ったのだが、にわかには信じられないようなことがたくさん起こった。
いや、ケリーは妖精の存在を信じている。ただ、自分が妖精の世界をじかに体験するとは思ってもみなかっただけだ。
「リディアさまは、本物のフェアリードクターなんだわ……」
だってあんな、異世界の都から帰ってこられたんだもの。
フェアリードクターという職業が廃《すた》れてしまったクナート氏族《クラン》でも、フェアリードクターがどういう人だったかはまだかろうじて言い伝えられている。
妖精も人も幸福にする存在。リディアはちゃんと、そうしようとしている。
フェアリードクターの中には、妖精の魔力を利用して彼らを支配する者もいると聞く。けれどリディアは、伝説の都もそこの掟《おきて》も守ったまま、王女の望みを見出し、みんなを脱出させてくれた。
妖精の信頼を得て、彼らの力を借りるのが、本物のフェアリードクターだというから、リディアは紛《まぎ》れもなくそうなのだ。
「あれ? レイヴンはいないのか」
ここにもひとり、リディアと親しい妖精がいる。
灰色の猫は、そんなふうに言いながら窓から入ってくる。長いしっぽを優雅にゆらし、二本足で立ってケリーを見あげる。
「はい、旦那さまの言いつけで、空を飛ぶガレットをさがしに行きました」
えっ、と目を見張ったニコは、小さな手でふさふさした毛並みから突き出した耳の辺《あた》りを掻《か》く。
「困ったな。それなんだけどさ、コリガンたちに確かめたら、ガレットは食べ物だっていうんだ。飛ぶって話してたくせに、そんなこと言ったかな? なんてもう忘れてやがる」
「……そうなんですか? レイヴンさん、どこまで行ったんでしょう。フランス語もブルトン語もわからないのに」
「まあでも、レイヴンなら本当に空飛ぶガレットを見つけてきそうだけどな」
「見つかりました」
ふたりして振り返れば、戸口にレイヴンが立っていた。
「ええっ、本当かよ。だってガレットは飛ばないんだろ?」
「五日後に近くの村で、ガレットを遠くまで投げ飛ばすのを競う祭りがあるそうです」
「また妙な祭りだな」
「豊穣《ほうじょう》祈願《きがん》でしょう。崖の上から海へ向かって投げるので、紙切れのように薄く焼いたガレットなら舞うように飛ぶのだとか」
「そりゃおもしろそうだ。さすがだな、レイヴン」
ほめられても表情の変わらないレイヴンだが、ニコを見つめる彼はうれしそうに見えた。
「ところでニコさん、ひとつ教えてほしいことがあるのですが」
そしてレイヴンは、ニコに対してだけはいくらか親しみのある態度を取る。
「おう、何でも訊《き》けよ」
小さな猫の姿をした紳士は、兄貴風を吹かす。
「あのとき……、私は|アザラシ妖精《セルキー》を見たような気がするのです。ニコさんなら、もっとはっきりと妖精の姿を見たのではないかと思うのですが」
あのとき、都から逃れるとき、波に呑《の》まれ、もうだめかと思った。けれどケリーたちは何かに水面へ押しあげられた。さらに波が立ったが、それは彼女たちを、一気に島まで押し流すものだった。
黒っぽい何かの群を、ケリーも見たような気がした。あれは伝説に聞くセルキーだったのだろうか。
マーメイドの領域に、セルキーがいたのだろうか。
リディアがアーエスに望みのものを与え、マーメイドたちは波の動きを変えた。みんなを海の中へ引きずり込むのはやめて、人間界へ押し流した。けれど、馬から投げ出され、溺《おぼ》れそうになった彼らに最初に救いの手を差しのべたのはマーメイドの魔力ではなかったと、ケリーも感じていた。
「ああ、セルキーだったよ」
ニコはなぜか、しみじみした口調で、やわらかくレイヴンを見あげた。
「このへんはセルキーの海じゃない。あれは彼女の仲間だったのかもな」
「どこか近くに、いたのでしょうか」
「そうかもしれない」
何のことかよくわからないけれど、彼らのあいだの、何かを懐かしむ空気に水を差す気はなくて、ケリーは黙っていた。
気を取り直したように、レイヴンは置き時計を見る。
「エドガーさまの今夜のお帰りは、きっと遅くなるでしょう。ニコさん、先にお休みになりますか?」
「もうすぐお戻りだと思いますわ」
ケリーが口をはさむと、レイヴンはやはりというか、はじめて彼女の存在に気づいたように視線をよこした。
「しかし、エドガーさまはたいてい、パーティで長居をするほうです」
「新婚旅行中ですよ。さっさと切りあげて、奥さまとふたりきりでお過ごしになりたいに決まっていますわ。それでなくても旦那さまは、今夜のお美しいリディアさまに子供みたいな独占欲を発揮していらっしゃいましたから」
「なるほど。リディアも大変だな」
ニコがおかしそうに笑う。
「さすがはケリーさん、年増《としま》くさいご意見ですね」
嫌味ではなく、まじめに感心している様子なのでケリーはもうあきらめるしかなかった。
「ま、何にしろ仲よくしててくれればいいさ。リディアも素直になってきたみたいだし」
「それなんですけど……、旦那さまはわざと、リディアさまを困らせたり怒らせたりして楽しむところがありますでしょう? だからリディアさまが機嫌よく寄り添っているときほど心配なんです」
「……たしかに、リディアさんが謙虚《けんきょ》なときほどエドガーさまが調子に乗って、ケンカに発展するのはよくあることです」
レイヴンも心配になったのか、かすかに眉《まゆ》をひそめる。
今日のふたりは、都から帰ってきて、無事を安堵《あんど》しあったためか、いつになく仲よくしていた。そろそろ何か起こりそうな気がする。
と思ったとき、音を立ててドアが開いた。
ドローイングルームに赤いドレスのリディアが駆け込んでくる。
「ケリー! ど、どうしましょ……」
「奥さま、どうなさったんですか?」
「あたし、忘れてたの」
「何をですか?」
「おわびにひとつ、僕のいうことをきくって話」
後から上機嫌のエドガーが現れる。
「おわび、ですか?」
「そうだよ。僕に傷を隠していたこと。リディアが親切でしたことをとがめるはずもないのに。これからはちゃんと僕を信頼して、隠し事はなしにしてもらうからね」
リディアはそう言ったエドガーに向き直る。
「もちろんそうするわよ。でも、それとこれとは関係ないじゃない?」
「あるよ。かたくなに肌を隠す意味はないってことさ」
「でもまだ、青あざは治りきってないし……」
「そんなのちっとも気にならないよ」
「で、でも、……ケリー!」
リディアは助けを求めるようにケリーを見る。
「ええと旦那さま、とりあえず、リディアさまの着替えを」
とにかくリディアを落ち着かせなければ、また言い争いになってしまうかもしれない。ケリーは間に入ろうとしたが、エドガーはさっとリディアを引き寄せて寝室のドアを開けた。
「その必要はないよ。今夜はナイトウェアはいらないから」
そのまま彼女を連れ込んで、ドアが閉じられた。
取り残されたケリーは、呆然《ぼうぜん》としつつ、レイヴンとそこに突っ立っていた。
やがて我に返る。息を詰めて寝室のドアを見守る。
しばしそうしていたが、リディアが飛び出してきそうな気配はない。
「……どうやら、今日の仕事は終わったようですわね」
肩の荷を下ろしたケリーは、ドレッシングルームの片づけを済ませてしまおうときびすを返した。
「なあ、大丈夫なのか? リディアは頑固《がんこ》だし、伯爵はリディアの弱みにつけ込むとますます調子に乗るだろうし」
そう言ったニコと並んで、不安そうにレイヴンも首を傾《かし》げている。
「たぶん、今夜は大丈夫でしょう」
一見強引でも、結局リディアに負けてしまうのがエドガーだ。いざとなって、リディアが泣きそうにでもなれば、無理|強《じ》いできずになだめることになるのだろう。
そしてリディアは、結局もうしわけなくなって、応じられるよう努力するのだろう。
「まったく、ハラハラさせてくれるよ。今朝は目覚めたばかりのリディアも素直で、いやがらずにくっついてたくせに」
「でも、これでいつもどおりだという気もします」
レイヴンの言葉に、ケリーも頷く。
「そうですね、切実に愛情を意識しなければならないほどの状況なんて、ないほうがいいんです。ちょっとケンカをしながらもいっしょに眠るおふたりの方が、ずっといいと思います」
平穏な夫婦でいられないものを背負っていながら、平凡な夫婦でいるのは難しいかもしれない。だからこそエドガーもリディアも、小さなすれ違いと和解の中に、ありふれた幸せを感じているのだろう。
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あとがき
こんにちは。今回は、新婚旅行《ハネムーン》編ですね。
いちおう旅行先はフランス、ということなのですが、たぶんそんなに有名な地域ではないので、ぴんとこない方も多いかもしれません。旅行のガイドブックを何冊か確かめてみたところ、たいていの本では省《はぶ》かれてしまっていました(!)。
でもこれは、妖精≠フ物語、フランスとくれば、そこへ行かないわけにはいきません。
何といっても、ケルト系の妖精伝説が生きている土地ですから!
短いあとがきですが、本編を楽しんでいただければ幸いです。
またいつか、この場でお目にかかれますように。
二〇〇九年三月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 魔都に誘われた新婚旅行」コバルト文庫、集英社
2009(平成21)年5月10日第1刷発行
入力:
校正:
2009年5月15日作成