伯爵と妖精
すてきな結婚式のための魔法
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|青いもの《サムシング・ブルー》
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目次
結婚式をひかえた伯爵家の諸問題
祝福と呪い
青いリボンはどこに
健やかなるときも病めるときも
妖精を頼りにしてはいけません
死がふたりを分かつまで
青騎士伯爵の名のもとに
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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結婚式をひかえた伯爵家の諸問題
秋の訪れを告げる、聖人の祝日。その日から二週間は続くお祭りのために、ロンドンはいつにも増して人でごった返していた。
街の一画にあるバーンズフィールドには市《フェア》が立ち、並ぶ屋台で様々なものが売られている。
クレアは、屋台と人混みを縫《ぬ》って歩きながら、エナメル細工のブローチについ目を奪われ、はっと我《われ》に返ってあたりを見まわした。
空色の|縁なし帽《ボンネット》と、背中にたらした赤茶の髪をさがす。屋台の向こうに見つけ、あわてて追う。
クレアが後をつけているのは、リディア・カールトンという名の娘だった。友人らしい女性と連れ立って、市《フェア》を眺《なが》め歩いている。
ときおりリディアは、妙な方向に視線を動かす。人の足元や、屋台のテントの上。そうして誰もいない方向に微笑《ほほえ》みを向けさえする。
彼女たちが立ち止まったとき、チャンスとばかりに近づいていったクレアは、自分も商品を選ぶふりをしながら、そっとリディアを観察した。
はじめて間近で眺めれば、想像していたような完璧な美女、というわけではなかった。かといって、どこにでもいそうな少女というわけでもない。
とにかく不思議な感じがする。たぶん瞳《ひとみ》の色のせいだろう。
金緑の瞳が強く印象に残るせいか、かわいらしく魅力的な女の子といっていいはずなのに、近寄りにくい気がしてしまう。
視線を感じたのか、彼女がこちらを見た。クレアはあわてて目をそらした。
リディアたちは屋台を離れてまた歩き出す。クレアもまたついていく。
しばらくするとふたりは、屋台の隙間《すきま》を抜け、奥へ続く細い道へと入っていった。
どこへ行くのだろう。不審《ふしん》に思いながらも、クレアも路地へ足を向ける。角を曲がると、狭い通路の向こうに広場がある。
こんな建物の裏手に広場があったなんて知らなかった。クレアは驚きながらも、にぎやかな広場へと進み出た。
建物に囲まれた空間の中央には、大きな木が生《は》えている。敷物を広げただけの露店が、所狭しと並んでいる。楽器を奏《かな》でる一団がいて、あたりで好き勝手に人々が踊っている。
さっきまでの市《フェア》の人混みと、似ているようで何かが違う。
けれど戸惑《とまど》いを感じたのはわずかな間《ま》で、すぐに何も気にならなくなる。
それだけでなく、あらゆる気がかりが消えてなくなってしまったかのようで、クレアは急に楽しくなってきていた。
「お嬢さん、ひとつどうかね」
露店の店主が、よく熟《う》れたプラムを差し出す。なんていい匂いがするのだろう。
「お嬢さん、こっちはどうだい? あんたによく似合いそうだ」
別の露店から声がかかれば、吸い寄せられるように彼女は近づいていった。白蝶貝の髪飾りは、見たこともない虹色の光沢《こうたく》を放っている。
クレアは、何のためにここに来たのかも忘れ、リディアを目で追うことも忘れ、この路地裏のフェアに目を奪われていた。
彼女は知らなかったのだ。
ここは|妖精の市《フェアリー・マーケット》。ときおり間違って迷い込んだ人間は、人の世を忘れ、帰ることができなくなってしまうこともあるということを。
「リディア、すごいなあれ、ハープが勝手に鳴ってる」
|妖精の市《フェアリー・マーケット》をはじめて見るロタは、めずらしそうにあちこちに目を奪われていた。
リディアにしても、久しぶりの妖精市場だ。
ロンドンの妖精は、田舎《いなか》ほど人と接点を持とうとしない。そのせいか、市場の噂《うわさ》を聞くことも、目にすることもなかったが、先日、|家付き妖精《ホブゴブリン》から市が開かれると耳にしたリディアは、興味を感じ、親友のロタとともに来てみたところだった。
「妖精のフェアも、人間たちのフェアに負けないくらい立派なもんだな」
ロタは、リディアが妖精と親しくしている変わった少女だと知っていても、変な目で見たりしない。彼女自身、亡国の大公女でありながら海賊に育てられた特異な女の子だが、お互い気が合っている。
「ロンドンじゃそれほど妖精を見かけないと思ってたけど、案外たくさんいるのね」
(そりゃあ違うぜ、青騎士伯爵のフェアリードクター。郊外や別の土地からもいっぱい集まってきてるんだ)
近くで薬草を売っていた妖精が口をはさんだ。
人と同じ大きさに見えるよう魔法を使っているが、目深《まぶか》にかぶった帽子から、とがった耳が飛び出している。そして彼は、リディアのことを青騎士伯爵のフェアリードクターだと知っている様子だった。
(結婚式があるからさ)
(式が終わるまでは市を開く。遠方から来た妖精たちが、ロンドンで途方に暮れないようにな)
「結婚式? 妖精の?」
(いいや、あんたのさ)
「へえ、リディア、有名人だな」
驚くリディアに、ロタは茶化したように言った。
(青騎士伯爵の結婚なんて何百年ぶりだろう。こりゃ浮かれるしかないぜ)
「……そうなの。みんなで祝ってくれてるのね」
妖精国に領地を持つという伝説の人物、青騎士伯爵は、正式には妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》。今その位を継ぐエドガー・アシェンバートが、リディアの婚約者であり、近々式を挙げる相手でもある。
どうやらそのことが、妖精たちの世界をにぎやかしているようだった。
(先祖が妖精国《イブラゼル》からやってきたって妖精族は少なくない。青騎士伯爵はイングランドの妖精にとっちゃとくべつな主人さ)
(結婚式はみんなで祝福するぜ)
いつのまにか周囲に集まってきていた妖精が口々に言い、リディアの帽子《ボンネット》に花を挿《さ》した。
「あの、ありがと。でもみんな、羽目《はめ》を外しすぎないでね」
好意的なのはありがたいが、妖精は人の常識では計り知れないところがある。
とはいえ、たいていの人間は妖精を見ることができないのだから、彼らが大騒ぎしてもいたずらをやらかしても、さほど問題にはならないのだろう。
「じゃあロタ、そろそろ帰りましょうか」
「なんだ、|青いもの《サムシング・ブルー》≠買わないのか?」
「妖精の市で買い物はしないほうがいいわ。やっぱり、さっきの屋台で見かけたシルクのリボンにしようかしら」
頷《うなず》いたロタと歩きかけたとき、リディアを呼び止める声がした。
「おーいリディア、シリング銀貨を貸してくれ」
いきなりずうずうしいことを言うのは決まっている。リディアの相棒の妖精だ。
「ニコ、あなたも来てたの」
振り返ると、やはりニコがそこにいた。灰色の猫の姿をした妖精が二本足で立っている。
「ああ、これだけの市はめったにないからな。でさ、すてきなネクタイを見つけたんだ。銀貨一枚で買えるってさ」
紳士ぶってネクタイを欠かさない妖精猫は、小さな手をリディアの前に突き出す。
「ネクタイ、たくさん持ってるじゃないの」
「あんたの結婚式に新品をあつらえたいんだ。身内が普段着じゃいけないだろ」
猫にしか見えない姿なのに、身内として式に出るらしい。苦笑しながらも、リディアが銀貨を手のひらに載せてやると、うれしそうに彼は耳をぴんとさせて目を細めた。
「すてきなネクタイって、どんなやつさ」
ロタが訊《き》けば、ニコはふさふさした毛並みをふくらませて胸を張る。
「飛び魚みたいなやつだよ」
よくわからなくて、リディアもロタも首を傾《かし》げる。
「ああそうだ、リディア、何も知らない人間が市に迷い込んでるぞ。ほら、あれだ」
ニコが指さした木のそばには、露店の前に座り込んでいる若い女がいた。
縮《ちぢ》れた薄茶の髪をきちんと結って、身なりも質素ながら見苦しくなく整えている。
妖精は、魔法で人に姿を変えていようとなんとなくわかるものだが、彼女は紛《まぎ》れもなく人間だ。
おまけに、無防備に妖精の食べ物を口に入れようとしているではないか。
「まあ、大変だわ!」
急いでリディアは彼女のそばに駆け寄り、その手から赤く熟れたプラムをもぎ取った。
「食べちゃだめ、人間界に帰れなくなるのよ!」
呆気《あっけ》にとられたように彼女はリディアを見あげ、それから地面に落ちてつぶれたプラムを見た。
「よかった、まだ何も口に入れてないわよね。あたしたちといっしょに帰りましょう」
リディアはにっこり微笑むが、いきなりのことだったせいか彼女は戸惑いを浮かべ、少し後ずさった。
「あの、あたしべつにあやしいものじゃないのよ。フェアリードクターだから、妖精のことには詳しいの。妖精の市は人間界に近いところにあるから、すぐに出られるわ」
「フェアリードクター……? 妖精の市?」
ああそうだ、彼女はここが人間界ではないことに気づいていないのだ。いきなりプラムを投げ捨てて、妙なことを言いだしたリディアを、おかしな娘だと思っている。
どうしよう。どう説明すれば連れて帰れるのだろう。困り果てたリディアの代わりに、ロタが親しげに口をはさんだ。
「あんた、名前は? あたしはロタ、彼女はリディア」
「あたしは……、クレア」
「付添人とはぐれたのか?」
「え、いえ……ひとりで来たの……」
ふつう、中流階級《ミドルクラス》以上の女性がひとりで買い物に出かけることはない。けれどクレアは、きちんとした家の娘に見える。
ともかくロタの助け船に乗って、リディアはどうにか彼女を連れて帰ろうとした。
「じゃ、あたしたちといっしょにフェアの外まで行かない? さすがにお祭りともなると人が多いし、女性がひとりじゃ何かと物騒《ぶっそう》でしょ?」
わけがわからないながらも、一人きりだということに不安を感じたのか、クレアは頷《うなず》く。
今のうちにと、ロタとともに彼女の腕をとり、リディアは妖精の市をあとにした。
短い路地を抜ければ、じきにバーンズフィールドの市に出る。迷い人を助け出せたリディアがほっとしたとき、クレアは一瞬めまいを起こしたようにふらつき、リディアにつかまるようにして寄りかかったが、すぐに気がつくと、あわててリディアから手を離した。
やっぱり、変な娘だと警戒されているのかしら。
ちょっとばかり落ち込みかけたリディアを、クレアはじっと見ていたが、やがておずおずと口を開いた。
「あの、あなた、ミス・リディア・カールトン……?」
まるで、たった今リディアを認識したかのように問う。
「ええ」
怪訝《けげん》に思いながらも答える。
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》の、ご婚約者の……」
どこかで会ったことがあるのかしらと思いながら、思い出せないままリディアは頷いた。
「ごめんなさい、ミス・カールトン。あたし、じつはあなたに話しかけたくて、後をつけていたらここまで来てしまったの。でも、そのことをたった今まで忘れてて、どうしてしまったのかしら……」
妖精のせいだ、とのどから声が出かかったが、リディアはどうにか口をつぐんだ。またクレアを混乱させることになるだろう。それよりも、彼女が自分の後をつけてきていたということが思いがけなかった。
「あたしに話しかけたかったって、どうして?」
人混みの中、立ち止まった彼女は、せっぱつまった顔で祈るように両手を組み合わせた。
「じつは、侍女《じじょ》に雇ってもらえないかと」
驚くリディアの後ろから、ロタがクレアを覗き込む。
「へえ、そういや、アシェンバート家がリディアの侍女を募集してたよな」
「でも、それはエドガーにまかせてあるの」
「あいつに選ばせていいのか? あんたが気に入らなきゃ意味ないじゃないか」
「もちろんそうだけど……」
「クレア、どうして直接リディアに頼もうとしたんだ? 伯爵家へ行けばいいのに」
「それは、あたし、紹介状がないし、侍女の仕事をしたこともないからなの」
クレアはうつむきがちにそう言った。
たしか伯爵家が出した条件は、貴族の屋敷に侍女として勤めたことがある女性、だった。
「でも、以前は貴族のお屋敷で小さなお嬢さまの家庭教師をしていたから、上流階級《アッパークラス》のことならわかるし、侍女の仕事もすぐおぼえるわ。リディアさんは中流上《アッパーミドル》のお嬢さんだって知って、話を聞いてもらえるかもって思ったの」
リディアはロタと顔を見合わせた。
「家庭教師? だったら、無理に侍女の仕事をすることはないんじゃない?」
一般的に考えて、家庭教師のほうが女性にとってよほど外聞《がいぶん》がいい。
「父は学校の教師だったわ。でも亡くなって、兄がロンドンに住んでるから出てきたんだけど、お金がなくて。あたし、仕事がないと生活に困ってしまうの。アシェンバート家が侍女を募集しているのを知って、その、お給料がいいものだから」
家庭教師よりも、と彼女はつけ足した。
働かないはずの中流以上の女でも、家庭教師という仕事なら誇りをそこなうことはない。とはいえ賃金となると、侍女やメイド頭といった上級召使いのほうがよかったりするのが現実だ。
それに名門貴族なら、召使いとはいえ別格の侍女には、それなりに教育を受けた女性を雇うことも少なくない。
クレアのようなお嬢さんにとってあまり名誉な職業ではないが、がまんできないほどではないだろう。
「……兄は遊んでばかりで、まともに働こうとしてくれないの。家庭教師の職にこだわってはいられないわ」
「そうだったの」
リディアは同情を感じていた。
そもそもリディアには、侍女を使うという意識が希薄《きはく》で、何かと話し相手になってくれる人、という認識だ。そういう意味ではクレアは階級も近いし、年齢もそう変わらないだろうし、親しみやすい感じがしていた。
「あなたのこと、あたしから話してみるわ。雇えるかどうかはわからないけど、明日の午後、伯爵家を訪ねてみて」
「あ……ありがとう、リディアさん」
頬《ほお》を染め、心からうれしそうなクレアを見て、リディアは安堵《あんど》した。
少しは自分の、変な娘だという印象が払拭《ふっしょく》できただろうか。そう思えたからかもしれない。
リディアが伯爵家へ嫁ぐ日、エドガーとの結婚式が、一週間後にせまっていた。
スコットランドのヘブリディーズ諸島からロンドンへ帰ってきて、すぐにエドガーは日取りを決めた。
とっくに結婚許可証を入手済みだということで、本来必要な三週間の結婚予告を公示しなくても好きなときに結婚できるらしい。
便利だが、高価な許可証だという。もっともエドガーは、最初から予告の公示などするつもりはなかったようだ。
とにかく準備のほとんどは、伯爵家のほうで進められた。花嫁がわでするべきことも、頼る部分が多くなったが、本来家柄が違うのだから見栄《みえ》をはってもしかたがない。
リディアも父も、ありがたくまかせることにしている。
エドガーと、伯爵家の有能な召使いの手にかかれば、煩雑《はんざつ》な準備も手早く進められ、すべては順調だと執事のトムキンスは胸を張った。
なんだかあわただしいけれど、そんな忙《いそが》しさの中にもリディアは幸せを感じている。
婚約したばかりの頃は、本当に自分が結婚なんかしていいものか不安が先に立っていたが、今はもっと前向きだ。
エドガーとの将来しか、自分には考えられないと気づいてしまったから。
「それで今日は、|青いもの《サムシング・ブルー》≠買えたのかい?」
ワインのグラスを置いて、エドガーは優雅な微笑《ほほえ》みをこちらに向けた。
リディアはナイフを動かす手を止めて、ちらりとだけエドガーを見た。
ふたりだけのランチも、もはやめずらしいことでもなんでもないが、もうすぐ結婚するというだけで、リディアは心なしか緊張している。
ようやく恋人らしい振る舞いができるようになってきたところだが、今度は妻としてふるまわねばならない。できるのだろうかと、ふたりだけになると考えてしまうのだ。
「ええ。これで、花嫁に必要な五つのものがそろったわ」
答えながらもリディアは、ぎこちない態度になってしまわないよう、食事に集中する。
式まではなるべく父と過ごしたいというリディアの意向を汲んで、夜のディナーではなくランチタイムをいっしょにと、エドガーが決めた。
結婚までのあいだ、お互い準備もあって忙しいけれど、なるべく会う時間をつくりたいというのが彼の主張だ。
リディアもそう思う。とはいえ、彼のことがどうしようもなく好きらしいと知ってしまったリディアは、いまさらながら、いろいろと照れくさく感じてしまう。
以前はエドガーの言葉や態度に気|恥《は》ずかしさを感じるだけでよかったが、今は、つい彼を見つめてしまう自分や、別れ際を自分から引き延ばしてしまいそうなことや、なんだかんだと恥ずかしい。
「おいしいわね、このアスパラガス」
「料理長《クック》に伝えておくよ」
ああっ、つけ合わせをほめてどうするのよ。
とリディアはあせりながらつけ足す。
「あの、もちろんラム肉のソテーも最高よ。マディラ酒のソースとぴったりだわ」
楽しそうに、エドガーは笑った。
「きみの好みは素朴《そぼく》な塩ゆでのアスパラガス。うちのクックはよく知ってるし、本当に気に入ったものをほめればいいんだよ。自分の家の料理人に気を遣《つか》うことはない」
フランス仕込みの宮廷料理人が、自分の家のクックだなんて、簡単に納得できそうにない。
「そ、そういえばエドガー、あなたのいちばん好きな料理は?」
「プラムとハチミツのシャーペット」
「そうなの。知らなかったわ」
「さっきのきみの唇《くちびる》の味」
ワインでむせそうになった。
「な、何言って……」
「祝日の市《フェア》って、おいしそうな屋台が出てるんだよね」
そのとおりだ。ちょっとはしたないと思いつつも、ロタとシャーベットを買って、市場のベンチで食べた。
それからこの伯爵邸へ来て……。
婚約して以来、いや、それ以前から、しばしばエドガーは、紳士的とは言い難《がた》いことを言い出すのだ。こればかりは、リディアは平気になれそうにない。
むしろ以前よりもっと、頬《ほお》が赤くなってしまう気がする。
恋人どうしなのだから、恥ずかしがっているほうがおかしいと思うほど、どういう態度をとればいいのかわからなくなる。
「それにしても、幸福な花嫁になるために身につける五つのものって、いったい誰が考え出したんだろうね」
硬直してしまったリディアをなだめるように、エドガーは話を変えた。
気を取り直し、リディアはナプキンを手に取る。
「さあ、でも古くからの言い伝えだもの。御利益《ごりやく》はあるはずよ」
結婚式には、新しいものと古いもの、借りてきたものと青いものを身につけて、靴には六ペンス硬貨を入れるといいといわれている。
リディアももちろんそうするつもりだ。
「新調したドレスに母さまの古いベール、メースフィールド公爵夫人がすてきな真珠のイヤリングを貸してくださったし、青いもの≠ヘ買ったばかりのリボンを手首に結んでおくの」
「楽しみになってきた? 僕との結婚」
エドガーは、うれしそうににっこり笑う。
「……そ、そりゃあ、一生に一度の晴れ舞台だもの」
「一緒に暮らせるようになるってことは、楽しみじゃないの?」
「えっ、それも……まあ」
リディアが答えあぐねているうちに、身を乗り出したエドガーは頭にキスをした。
音もなくレイヴンが近づいてきて、新しい料理を取り分けていく。
ふたりだけの食事だとはいえ、まったくのふたりきりではないのだ。
今のキスだって見られたじゃない。
給仕をするレイヴンを気にしたリディアに、エドガーはまた笑った。
「召使いがいても、いないようにふるまっていい。彼らの仕事が完璧だってことだ」
「……ええ……」
「すぐに慣れるよ」
慣れるのかしら。
貴族は、着替えるときも、お風呂でさえ召使いがついているのが当たり前で、彼らの視線を気にしないのだという。
上流階級の作法やしきたりを学びながらもリディアが、生活習慣の違いに戸惑わなかったといえばうそになる。
けれど、好きな人と結婚することを思えば、そんなのは些細《ささい》なことだ。
大きくとられた窓から、陽の光が射し込む。エドガーは機嫌よく微笑んでいて、少し髪を切ったのか、ますます貴公子らしく見える。
まぶしい金色の髪と、貴族的な容貌。普段着でさえ仕立てのいい上着は上品に彼を引き立て、フォークを口に運ぶ動作でさえ絵になってしまう。
この人と並んだら、どう考えても花嫁より花婿が目立ってしまうわ。
そんなことを考えながらも、リディアは微笑む。
用意された昼食は、落ち着いた雰囲気《ふんいき》のティールームで、小さめのテーブルに気取らないリネンのクロスをかけて。とても家族的で居心地がいい。
エドガーは、リディアの好みをよく知っている。
そしてリディアは、じんわりと幸せを感じている。
ロンドンへ戻ってこられてよかった。
いちどはあきらめかけた結婚だった。けれどエドガーがあきらめないでくれたから、彼女は今ここにいる。
これは、夢じゃないのよね?
何度自分に問いかけたことだろう。
「あたしたち、本当に結婚していいのよね」
「ほかに選択肢がある?」
「……ううん」
少し照れくさくて、うつむきがちに答える。
エドガーの手が、テーブルの上のリディアの手に重ねられる。
ついまた、レイヴンのほうを気にしてしまう彼女に、エドガーはささやいた。
「慣れるまでは人払いしてもいいよ?」
エドガーに忠実な少年は、視線を投げかけられただけで、ワインの瓶《びん》を置いて出ていこうとした。
完全にふたりきりになったら、食事どころではなくなる。そう思ったリディアはあわててレイヴンを呼び止めた。
「い、いいのよレイヴン、ここにいてちょうだい!」
再びエドガーの顔をうかがい、元の位置に戻ったレイヴンは、やはり主人の視線だけで意図を察することができるらしい。
レイヴンほど絶対的な忠誠心を持つ従者はほかにいないだろうが、自分も日常的に世話をしてくれる侍女《じじょ》を持たなければならない。
うまくやっていけるような人がいればいいけれど。
そうだ、クレアのことを話しておかなきゃ。
思い出し、口を開きかけたとき、執事のトムキンスが部屋の中へ入ってきた。
「旦那さま、グレン公爵がおいでですが」
ちらりと置き時計に目をやったエドガーは、「ずいぶん早いご到着だ」とつぶやいたが、すぐに立ちあがった。
「リディア、すまない。公爵と会う約束があってね。先に失礼するけど、きみはゆっくりデザートを食べていってくれ」
相手が目上の貴族では、時間どおりの訪問ではなくても待たせられない。それくらいはリディアもわかる。
「そうするわ。あたしのことは気にしないで」
身を屈《かが》めて、彼はリディアの頬に口づけた。
「ありがとう、僕の妖精」
あわただしく部屋を出ていこうとしながら、また振り返る。
「ああそう、トムキンスがきみに相談したいことがあるそうだ。食事のあとで話を聞いてやってくれないか」
「ええ」
エドガーが出ていくと、そのドアをそっと閉めようとしていたトムキンスに、リディアは声をかけた。
「トムキンスさん、相談事ってなんですか? よければ今から聞きますけど」
食事中だからと迷ったようだったが、トムキンスも急いでいたのだろう。また部屋の中へ一歩進んで一礼する。
「では失礼させていただきます。レイヴン、デザートをお持ちして」
レイヴンが皿を下げると、トムキンスはテーブルのそばへ来て、立ったまま話をはじめた。
「じつは、妖精へ宛てた結婚式の招待状を、どうやって届ければいいのかわからなくて困っているのです」
「えっ、妖精も招待するんですか?」
まるい目をしばたたかせたトムキンスは、神妙に頷く。
「我がトムキンス家は代々青騎士伯爵家の執事として、妖精のリストを保管してきました。当主の結婚式に招待せねばならないと言い伝えられてきた五人の妖精たちです」
上着の中から、トムキンスは筒《つつ》状に巻いた古い羊皮紙《ようひし》を取り出した。
開いてみると、見たこともない文字のような記号のようなものが並んでいた。
「何て読むの?」
「わかりませんが、宛名のところにこれを書き写せばいいと聞いています。ですが、ポストに入れてもいいものかどうか悩んでおりました」
「妖精のポストに入れればいいんじゃないかしら」
なるほど、とトムキンスは手をたたき、それからまた難しい顔になった。
「しかしそれはどこにあるのでしょう」
「そういえば、ロンドンではあまり見かけないわね」
「見かけるものなのですか?」
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「実家の近所にはあったわ」
人魚《メロウ》の血を引くトムキンスでさえ、驚いた様子で目をまるくする。
「ほう、とすると、マナーン島にもあるのでしょうな。いや、気づかなかったとは残念です」
「妖精の市場で見かけたような……。そうだわ、ニコに投函《とうかん》してきてもらいましょう」
「えー、また市場へ行くのか? 腹が減ったからこっちへ来たのに」
窓からすべり込んできた灰色の猫は、面倒《めんどう》くさそうにそう言って、エドガーが座っていた席に腰をおろした。
「おーいレイヴン、おれにもデザートをくれ。伯爵のぶんがあまってるだろ?」
デザートののったプレートを手に戻ってきたレイヴンに、ずうずうしく手を振る。
「すみません、ニコさん。エドガーさまのぶんは私がいただくことになっています」
きっぱり言ったレイヴンは、唯一の友達のニコにも譲《ゆず》るつもりはなさそうだった。
「ええっ、……そうなのか」
がっかりしたニコはうなだれる。
「レイヴンもお菓子が好きなの?」
「はい。ニコさんが好きなものなので、私も好きになることにしました」
なんだかその友情は間違っていないかと思ったが、ニコも気づいていないようだったので指摘するのはやめておいた。
肩としっぽを落としたまま、リディアの前に置かれたチョコレートクリームのタルトを、ニコはちらりと見る。
「あげるわ」
「本当か?」
急に元気になったニコは、うれしそうにしっぽをふさふさと動かしながら、タルトを自分のほうに引き寄せた。
「その代わり、トムキンスさんのお遣《つか》いを頼まれてくれるでしょう?」
「しょうがないなあ」
そう言ったときにはもう、タルトを頬張《ほおば》っていた。
「ありがとうございます。これで式に間に合います」
トムキンスも肩の荷が下りた様子だ。
「あ、そうだわ、トムキンスさん。侍女に雇ってほしいっていう女性に会ったんです。一応、書類を預かったので、エドガーにも見せておいてくださいませんか?」
「ほう、リディアさんのお知り合いですか?」
「いいえ、初対面だったの。経験はないけど、人柄のよさそうなかたでしたわ。面接だけでもしていただけたら……。明日こちらへ来るはずですから」
「わかりました。旦那さまにお伝えしておきましょう」
クレアが少しでも条件のいい仕事を得られればいいと思いながら、リディアはトムキンスに書類をあずけた。
「ミス・クレア・フローリーが、リディアに直《じか》談判した?」
エドガーがそれをトムキンスから聞いたのは、翌日のことだった。
もっとも、昨日のうちに渡された書類をきちんと見ていなかったのだ。
「ご存じのかたなんですか?」
ジェントルマンズルームへ現れたトムキンスは、クレアの履歴書が昨日彼が置いたテーブルの上に、動かした形跡もなく乗っかっていることに気づき、話を持ち出したようだった。
「ああ、以前つきあいのあったボートン卿の屋敷に、家庭教師として勤めていた女性だよ」
「はい。ボートン卿が身内の不幸を機にロンドンを去られて、家庭教師の仕事はやめたと書類にありました」
「……そう。それで仕事をさがしてるわけか」
トムキンスは意味深に咳《せき》払いをして、デスクのそばへ歩み寄ると、エドガーに耳打ちした。
「旦那さま、もし手を出したことがおありなら、うまく断らねばなりません」
「ないよ」
即答したエドガーだが、……と思う、と心の中でつけ足しながら考えていた。
縮《ちぢ》れた薄茶の髪がキュートな娘だった。仕事熱心で、ボートン一家には気に入られていたし、小さな令嬢にも慕われていたようだ。
何度か言葉を交わしたこともあるし、エドガーにしてみれば女性をうち解けた気持ちにさせるのは難ないことで、彼女がこちらに向ける好意は感じていた。
とはいえ、ボートン卿が突然の不幸に見舞われ、人付き合いを絶ってしまって以来、彼女には会っていないし連絡を取ったこともない。
エドガーにとってクレアは、あくまで知人の屋敷に住む家庭教師にすぎなかったし、彼女も自分の立場はわかっていただろう。
いや、わかっていなかったのだろうか。リディアに近づき、侍女に雇ってほしいと申し出た。エドガーに未練《みれん》があるから、という可能性もなくはない。
うぬぼれている、というにはエドガーにとって、そういうことはあまりによくあるのだ。
それにクレアは、意外と大胆な娘かもしれない。男に対しても、リディアよりずっと直情的だ。思い出せば、あのときのことは気がかりだった。
「ではミス・フローリーは候補に入れてもよろしいですか? 侍女として働いたことがないとはいえ、経歴も身元もきちんとしています。教養もありますし、リディアさんと話も合うのではないでしょうか」
考え込んでいたエドガーは、はっとして頭を振った。
「彼女はだめだ」
「……やはり手を出……」
「違うって。いいかい、トムキンス、侍女《レディ・メイド》だよ。リディアの友達を選ぶわけじゃない。身の回りの世話をする女性が必要なんだ。リディアは侍女を持つのがはじめてなんだから、最初に未経験者をつけるのはよくないよ」
「わかりました。ではそのように致しましょう」
トムキンスが納得したのか誤解したままなのかは知らないが、ともかく彼はそう言って部屋を辞した。
入れ替わりに、執務室《ジェントルマンズルーム》にはレイヴンが姿を見せた。
脱力しながら椅子に身をあずけたエドガーは、ティーカップをデスクに置く彼に、問うともなく問う。
「レイヴン、僕に気がある女性がいたって、僕の落ち度じゃないよな?」
「そう思います」
「手を握られたとしても僕のせいじゃないよね?」
「……たぶん」
「勝手にキスされたら?」
「ありえません。女性からキスをされそうになっても、力ずくで阻止できます」
「レイヴン、機会があったらわかるよ。力ずくで阻止する気になんかならないんだから」
エドガーはため息をつく。
「ああ、でも、あのときは不可抗力だったんだ。ボートン卿の屋敷でお茶会があったときに、ちょっと庭園へ出て、ベンチでうたた寝していたら」
クレアが現れた。そっと様子をうかがいながら、こちらへやってきた彼女は、目を閉じていたエドガーに顔を近づけて。
かすかに唇が触れたとたん、脱兎《だっと》のように駆け出して逃げていった。
その話を聞いてレイヴンは淡々と言った。
「つまり、眠っていなかったのですね?」
「そういうのはふってわいたラッキーってものだろう? 眠ったふりくらいいいじゃないか」
「エドガーさま、私には災いの種に見えますが、ラッキーなんですか?」
「とにかく、クレアを口説《くど》いたこともないし、事故みたいなものなんだよ、わかってくれ!」
「それはリディアさんにおっしゃったほうが」
「だめだ、彼女はうぶで潔癖《けっぺき》なんだから、不可抗力でも気にするに決まってる」
かつての恋人のことならともかく、何もないはずの女性がこんなときに現れるなんて。
結婚式はもうすぐだ。こんなことでリディアをいやな気持ちにさせたくないし、へたにケンカになったりしたら、式を挙げることもあやうくなる。
「旦那さま」
再びトムキンスが現れたのはそのときだった。
「ミスター・フローリーがいらっしゃいましたがどういたしましょう」
「ミスター? クレアじゃないのか?」
「兄上だそうです」
トムキンスは、冷静な口調だったが、眉間《みけん》にかすかなしわが寄っていた。
好ましくない人物だと、ひかえめに伝えているのだ。
「ミス・フローリーを雇ってほしいとおっしゃっております」
クレア・フローリーの兄だという人物は、痩《や》せて血色の悪い男だった。
ボートン卿の屋敷で、何度か会ったことがあるのを思い出すが、とくに言葉を交わしたことはない。
焦点の定まらない目をせわしなく動かしていたフローリーは、エドガーが応接間へ入っていくと唇《くちびる》をゆがめてにやりと笑った。
「どうもすみませんねえ、アシェンバート伯爵。突然おじゃましたりして」
「ミス・フローリーを雇ってほしいそうだけれど、ずいぶん妹思いだね」
「ええまあ。自慢の妹ですからね。それでぜひにと思い、紹介状を持ってきました」
手渡された紹介状には、ボートン卿の署名があった。遠方に引っ込んだという卿に、わざわざ紹介状を書いてもらったのだろうか。それともこれは偽物《にせもの》だろうか。
「きみが働いて、妹さんを養うべきでは?」
妹の就職のために紹介状を手に入れる手間をかけるくらいなら、嫁に行くまで養おうとするのがまっとうな兄だろう。
「ですがね、伯爵、妹はどうしてもこちらで働きたいんですよ。あなたのそばでね」
「募集しているのは妻の侍女だよ。それに、侍女の仕事に精通した女性を募《つの》っている」
不機嫌な態度で応じるが、男はへらへらした笑いを浮かべたままだ。
「たしかにそちらの条件にぴったりとはいえませんが、そのぶんあなたの相手もさせましょう。いかがです? 伯爵」
そうして、エドガーの様子をうかがう。
「僕の?」
少し考える素振りを見せれば調子に乗った。
「好きなようにしてくださってかまいませんよ。クレアはあなたに気があるんです。雇っていただければ何でも言うことを聞きますよ。ああ、だからって賃金をつり上げようってわけじゃありません。たまに小遣いでもやってくれれば……。いえ、とにかくまあ、安い買い物じゃないですか?」
エドガーは、にっこり微笑みながら、紹介状を目の前の男にたたきつけた。
「僕は女性を買ったことはないよ。きみのような男には虫ずが走る」
呆気《あっけ》にとられるフローリーに背を向ける。
「レイヴン、つまみ出せ」
すでにフローリーの背後に立っていたレイヴンは、すぐさま回り込んでにらみをきかせた。
「お引き取りください」
「な、なんだあ? 気取りやがって……」
「お引き取りください」
レイヴンが肩をつかもうとすると、フローリーは頭にきたようだった。
「召使いが、きたない手でさわるんじゃないぞ!」
レイヴンは、自分に向けられたこぶしをつかんで止めると、そのままひねりあげる。
悲鳴をあげたフローリーは、レイヴンが手を放したとたん勢いあまって転倒した。
「お兄さん!」
そのとき、戸口で女性が声をあげた。
メイドに案内されてきた、クレア・フローリーだった。
「ど、どうしてここに……。伯爵に何をしたの!」
あわてふためく妹を後目《しりめ》に、立ちあがった兄は床に唾《つば》を吐く。
「おれがやられたのに、伯爵を心配するのか」
「だって……」
妹を押しのけ、フローリーは逃げるように出ていく。クレアは呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。
「久しぶりだね、ミス・フローリー。元気そうで何よりだよ」
エドガーは、青くなっているクレアに声をかけた。
「は、はい……、あの……」
「立ち話もなんだから、どうぞ」
椅子《いす》を勧めつつ、エドガーも腰をおろす。そうして、どうしたものかと考える。今日はリディアが来られない日でよかったかもしれない。
「兄が、何か失礼を……」
「気にしなくていい」
おそらくクレアは、兄が彼女の身を売ろうとしたことなど知らないのだろう。少なくとも、そんなことを受け入れるような娘ではなかったとエドガーは思う。
「ところで、リディアに会ったんだってね。それで、侍女として働きたいって?」
「あたし、伯爵を尊敬しています。こちらで侍女を募集していると知って、尊敬するかたのために働ければと思ったんです」
「ありがたいけれど、僕よりもリディアのことを尊敬できる女性を求めているんだ」
と、はじめてその当然の要求に気づいたように、彼女は目を見開いた。
「そ、それはもちろんです。奥さまの好みや習慣に共感できると思います」
貴族の出ではないリディアと、クレアは同じだといいたいのだろうか。
けれどそれでは困る。侍女は主人と対等ではない。
それに、どうにもまだこちらに未練がありそうな彼女が、リディアを傷つけたりはしないかということも、エドガーには気がかりだった。
「きみは、リディアをどう思う?」
「……とっても純粋で、妖精がいるとか夢みがちな……いえ、そういうかただから、あたし、お役に立てると。おとぎ話は好きなんです。家庭教師をしていたときも、お嬢さまたちにせがまれてよく話をしました」
リディアを、無知な子供と同じように考えているらしい。
エドガーは深くため息をついた。
ともかくはっきりした。クレアがこちらに気があるという問題よりも、リディアにふさわしい侍女ではないだろう。
リディアの能力を自然と受け入れられる人を迎えたい。
話を終わらせるために、エドガーは立ちあがった。
「残念だけれど、やはりきみを雇うことはできない。ミス・フローリー。いい仕事が見つかることを祈ってるよ」
にこやかにそう言えば、クレアはもう頷くしかなかったようだった。
これでもう、リディアに近づかないでくれるだろうか。そうしてエドガーへの淡い想いも封印してくれればいい。
そう願いながら、彼はクレアが出ていくのを見送った。
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祝福と呪い
真夜中に、部屋の中で何やら話し声がした。
リディアがうっすら目を開けると、トルソに着せたウエディングドレスの前に、うずくまってひそひそと話しているものがいた。
言葉というには甲高《かんだか》く早口で、古びた歯車がきしむような話し声だ。
妖精かしら……?
体を起こそうとすると、その中のひとりが振り返った。
(おお、花嫁が目覚められた)
リディアにもわかる声で、そう言う。残りの妖精もいっせいに振り返る。
(こちらが青騎士|伯爵《はくしゃく》の)
(花嫁になられるという)
月明かりが届く窓辺まで、妖精たちが進み出ると、ようやくその姿がよく見える。
スカーフで頭を覆《おお》い、前掛けをし、背中をまるめた姿はどこにでもいそうな老婆だが、幼児ほどの背丈しかない。五人、ベッドのそばに一列に並ぶと、真っ黒い大きな瞳で、リディアのことをまじまじと眺《なが》める。
(伯爵家が花嫁を迎えるのは、何百年ぶりじゃろうか)
(ともかくめでたい)
「あの、あなたたちは?」
(招待をいただいてまいりましたよ)
はっとして、リディアは思い出す。伯爵家に伝えられているという、トムキンスの名簿にあった、五人の妖精だ。
(わしらの名前を言い当ててくだされば、結婚の祝福をいたしましょう)
「えっ……」
困惑しながら、リディアは五人をよくよく見た。いきなりそんなことを言われても、以前の伯爵家が親しかった妖精の名前などリディアにはわからない。
もちろんエドガーにもわからないだろう。エドガーは、単に妖精国伯爵位を引き継いだだけの、まったく血縁のない当主だからだ。
「言い当てられないとどうなるの?」
(残念じゃが、祝福はできませんな)
困ったことになるわけではなさそうだが、伯爵家の伝統であるらしい妖精の祝福を受けられないのは、もったいないような気がするのだった。
それにリディアは妖精博士《フェアリードクター》だ。母から受け継いだ妖精の知識がある。もしかしたら知っている種類の妖精かもしれないと、あらためて老婆たちをよく観察する。
すると、妖精たちが皆、糸巻き棒を持っていることがわかった。
細長い棒に、不思議に光沢のある糸が巻きついている。糸|紡《つむ》ぎの妖精なのだろうか?
言い伝えには聞いたことがあった。彼女たちはたいてい、女の味方だ。
古来より糸紡ぎは、女神の仕事であり、日常的な女の仕事だった。そうして、糸紡ぎを上手にできる女ほど、いい結婚ができると信じられていた。
錘《つむ》が、女の子の誕生のお祝いとして贈られることもあったくらいだ。
今は紡績工場がいくつもあるが、昔は手作業で糸を紡がなければどんな衣服もつくれなかった。働き者で辛抱《しんぼう》強い娘は、よりよい結婚相手に望まれた。
糸紡ぎの妖精は、いつからか女性と結婚の守り神のようになった。
なるほど、それで青騎士伯爵家は、結婚式に彼女たちを招待することにしているのだ。
素早く考えをめぐらしながら、リディアは妖精の名前を思い出そうとしていた。
糸紡ぎ妖精を見た者は、その名を知ることさえできれば、魔法の恩恵を得られるという。
そんな伝説とともに、いくつかの名は言い伝えられている。
「ええと、名前ね? ……トゥルティン・トゥラティン?」
(おお、わしですじゃ)
当たった、とほっとする。五人の中のひとりは、糸紡ぎ棒を回しながら、踊るような足取りでウエディングドレスに近づいていった。
(古いものに祝福のしるしを)
そう言いながら、リディアの母のものだったレースのベールに、糸巻き棒でそっと触れた。
一瞬、ベールが淡く輝いたように見えた。
(さあ、あと四つ、名を言ってくだされ)
「わかったわ。……グワルイン・ア・スロット、トライテン・ア・トロッテン、それから……ワッピティ・ストゥーリー!」
並べて言えば、次々に妖精たちはくるくると舞った。
新しいウエディングドレスに、借りてきたイヤリングに、靴の中に置いた銀貨に、糸巻き棒で魔法の祝福を授けてくれる。
しかしまだ、ひとりがリディアの前にいて、じっとこちらを見あげている。
「あなたは……そうね……」
もうひとつ、糸紡ぎ妖精の名を思い出さなければ。
「そうだわ、ハベトロット!」
小柄な老婆はスカートをつかみ、くるりと回った。軽やかにドレッサーのほうへ、そこに手袋や靴下留めといっしょに並べてあった青いリボンに近づいていくと、糸巻き棒を一振りする。
青い光がきらきらと、リボンに吸い込まれて消えるのを眺めているうち、妖精たちはまたリディアの前に一列に並んでいた。
(青騎士伯爵の花嫁、この五つを身につければ、とどこおりなく結婚式が行えるでしょう)
「ありがとう、おばあさんたち。……でも、とどこおりなくって、どういうこと?」
(それは、あの六人目が)
六人目?
リディアが首を傾《かし》げたそのとき、窓が音を立てて開いたかと思うと、風にカーテンが巻きあげられた。
何事かと振り返ると、窓辺にもうひとりの老婆がたたずんでいた。
(青騎士め、いつもいつも、祝い事からわしを閉め出す。招待状が届かぬとはどういうことじゃ!)
怖ろしい形相《ぎょうそう》で、老婆はリディアをにらみつけた。
「な、何なのあなた」
リディアの問いかけを無視して、老婆の妖精はウエディングドレスやベールに手をのばす。きっとめちゃくちゃにしたかったのだろうけれど、彼女が手を触れることはできなかった。
糸紡ぎ妖精たちの、祝福の魔法がかかっていたからだろう。
さらに老婆はあばれたが、どうにもできないとわかったのか、捨てぜりふを吐いた。
(おぼえておれ、結婚式など台無しにしてやるからな!)
そうしてまた、風とともに姿を消した。
(あれが六人目ですじゃ)
善良な糸紡ぎ妖精が言った。
(わしらの古い知り合いじゃが、あまのじゃくなやつで、祝福などする気もないのに祝い事に出しゃばりたがる)
(昔から、青騎士伯爵には無視されてばかりで、気にくわぬのでしょう)
(心配には及びませぬ。わしら五人の祝福があれば、あの妖精に悪さはできませんからの)
「そうなの? じゃ、結婚式を台無しにされたりしないのね?」
リディアはほっと胸をなでおろした。
(五つの祝福を、忘れずに身につけなされ)
(このわしらが、すばらしい結婚式と、仲むつまじく幸せな生活をお約束しましょう)
「ありがとう、おばあさんたち」
翌朝リディアは、明るい光のもとでドレスやベールを確かめた。
ベールの端や、ドレスの肩口に、細く透けるような糸が、そっと縫いつけられているのがわかった。
イヤリングや青いリボンも同じだ。靴の中の銀貨は、どうやったのかと不思議に思うけれど、ともかく糸が通っていた。
ふつうの人の目には見えないだろう。リディアでも、ちょっとした光の加減でかすかに見える程度だ。
それでも祝福の魔法がここにあることは間違いない。
六人目の妖精が悪さをしようとするかもしれないけれど、これがあれば大丈夫だ。
「リディアお嬢さま、お客さまです」
家政婦の声がして、リディアは手にしていた青いリボンを、またていねいにドレッサーの上に置いた。
「どなた?」
「ミス・クレア・フローリーとおっしゃるかたですが」
クレアだわ。
先日、伯爵家で面接を受けたはずだが、どうなったのかは気になるところだった。
クレアを自室へ案内するように言って、リディアはテーブルの上を片づけた。
「おはよう、クレア。よく来てくれたわ」
間もなく階段をあがってきた彼女を、リディアは部屋へ迎え入れる。
「おはようございます、リディアさん。あたし、このあいだのお礼をと思って」
「お礼なんて、あたしは何も」
好感触だったのかどうか、訊《き》こうと思ったリディアだが、クレアが沈んだ表情をしていたので、とりあえず椅子を勧めた。
「ううん、おかげで、話だけは聞いてもらえたもの。でもやっぱりだめだって」
「……そう、残念だわ」
エドガーの判断だろう。
どういう人が侍女にふさわしいのか、リディアの庶民的な感覚ではよくわからない。そしてエドガーにまかせてあるからには、これ以上彼女のためにできることはなさそうだった。
「でも、せっかく知り合えたんだから、これからも訪ねてきてくれればいいわ」
驚いたように顔をあげ、それから彼女は心細げな顔になった。
「本当に……、そう思ってる?」
「ええ、もちろん」
けれどクレアは、悲しげに眉《まゆ》をひそめる。
そうして、思いつめたように口を開く。
「ねえリディアさん、その……、伯爵のこと、好きだから結婚するのよね?」
「えっ、そ、そうね」
リディアがつい口ごもったのは、そういうことを口に出すのに慣れていないからだ。
「もし……」
「もし?」
「い、いえ、何でもないの」
そう言って彼女は立ちあがろうとした。
「じゃあ、あたしは……」
「ねえ、お茶くらい飲んでいって」
役に立てなくてもうしわけないと思いながらリディアは彼女をもういちど座らせた。
生活のことで悩みをかかえているクレアだが、少しでもくつろいでいってほしかった。それに、何か話したいことがありそうだ。
「ちょっと待っててね」
お茶を淹《い》れてもらおうと、リディアは階下へ降りていく。
家政婦をさがして厨房をのぞくと、料理女がいて、父の書斎の掃除をしていると教えてくれた。
再び廊下へ出たとき、急いで階段を下りてくるクレアとはち合わせた。
彼女はリディアと目を合わせると、うろたえたような顔をし、それからあわてて早口に言った。
「やっぱりあたし、これで。お礼と報告に来ただけだから……」
「え、そう?」
「ごめんなさい。……おじゃましました」
もう引きとめる間もなかった。
クレアは急いだ様子で玄関を出ていった。
「やっぱり、あたしのこと変な娘だと思ってるのかしら」
首を傾《かし》げたとたん、二階から大きな物音が聞こえてきて、リディアは眉間《みけん》にしわを寄せた。
「ちょっともう、ニコ! 何してるの?」
階段を駆けあがり、自室のドアを開け、思わず絶句する。
部屋の中が妖精だらけだ。しかも好き勝手にカーテンによじ登ったり、ベッドの上で飛び跳ねたり、棚の上のものを次々に落として遊んでいるかと思えば、本が空中を飛び交っている。
「何なのあなたたち! やめなさいっ! でないとハシバミの実をぶつけるわよ!」
いっせいに動きがやんだ。妖精たちがこちらに注目する。虫のように小さな妖精たちもいれば、天井につっかえそうなのもいる。そんな異形《いぎょう》の者たちから、いちどに視線を向けられ、リディアもさすがにたじろいだ。
「ほらみろ、叱られただろ」
能天気な声がした。
窓のところに腰掛けていたニコが、ぴょんと床の上に飛び降りる。そうして、えらそうに腰に手を当てて演説をぶった。
「いいかみんな、こちらがフェアリードクターで青騎士伯爵の花嫁になるリディアだ。このとおり、悪さをするとおそろしいからな、結婚式は静かに祝うんだぞ」
「ちょっとニコ、おそろしいって何よ」
リディアは抗議するが、妖精たちはみんなしていっせいに頷く。
「よーし、じゃ、あとはロンドン見物にでも行ってこいよ。くれぐれも、人間とトラブルを起こすなよ」
ニコが言い終えるやいなや、妖精たちはいっせいに消えた。
散らかった室内を見まわし、リディアはため息をつき、ニコをにらんだ。
「どうしてあんなにたくさん連れてくるのよ」
「人間のルールを教えてやってるんだ。ロンドンも人間界もはじめてだっていうおのぼりさんが多くてさ」
それにしたって、タイミングが悪い。
「やっぱりあなたのせいね。妖精に押しかけられて、クレアが驚いて逃げ出したんだわ」
妖精の姿が見えなくても、あれだけ大勢押しかけてくれば、異変は感じるだろう。誰もいないのに棚の上のものが倒れたり、カーテンや壁の絵がゆれたりしたら不気味に思って当然だ。
「さっきの娘か? あれは妖精が来る前に、急いで部屋から出ていったんだぞ。おれが窓から入っていっただけで驚いた顔してた」
「二本足で歩いて見せたんじゃないの?」
散らばった本を片づけ、クッションやスリッパをもとの場所に戻し、リディアはウエディングドレスを確かめた。
「えー、猫のふりしてたぜ」
問題はなさそうだとほっとする。妖精が投げつけたものが当たった様子もないのは、糸紡ぎ妖精の魔法のおかげかもしれない。
「ねえニコ、青いリボンが落ちてない?」
次にドレッサーの上を確かめたリディアは、リボンがないことに気がついたのだ。
「んー? ドレッサーの下にはないぜ」
家具の下を覗き込んで、ニコが答えた。
「おかしいわね」
リディアはベッドカバーや椅子の上のクッションをどけて確かめたが、青いリボンは見つからなかった。
「妖精が持っていったのかしら」
いや、魔法がかかっているのだ。妖精たちに触れることはできなかったはず。
「あの娘じゃないのか?」
「えっ、クレアが?」
「そういやおれが部屋へ入ったとき、そのドレッサーの前に立ってた。何か隠したようにも見えたな」
「まさか……、そんなはずないわ」
クレアは他人のものを盗むような人ではないと思いながらも、リディアは混乱した。
あわてて帰っていった彼女は、たしかに様子がおかしかった。
けれど、リボンを盗んで何になるというのだろう。すぐ横に置いてあった、真珠のイヤリングには手をつけずに、リボンを盗むなんてわけがわからない。
「なくなったのはリボンだけか? だったらまた買えばいいだろ」
ニコの言うように、高価なものでもないし、ありふれた青いリボンだった。
でもあれば、ほかにふたつとないリボンなのだ。
「それじゃだめなのよニコ。ゆうべ妖精が祝福を授けてくれたリボンなの。あれがないと、青騎士伯爵家に恨《うら》みを持つ妖精が、結婚式を邪魔しに来ちゃうのよ!」
あせるリディアとはうらはらに、ニコは悠長《ゆうちょう》に椅子に腰をおろして足を組んだ。
「だったらさっきの娘に、返してくれって頼めばどうだ?」
「証拠もないのに、泥棒扱いするの?」
それに、知らないと言われたらそれまでだ。
どうしよう、とリディアは部屋の中をうろうろ歩く。
「けどさあ、だまってて返してくれるのかよ。だいたい何でそんなリボンを持っていったんだ? 結婚にあこがれてるのか?」
そうなのかもしれない。
女の子なら、結婚式のドレスや小道具が気になるものだし、ちょっと手に取ってみたくもなるだろう。けれどニコが入ってきて、物音に驚いて、つい隠したのかも。
今ごろ彼女も、後悔しているかもしれない。
「だったらもういちど、彼女をこの部屋に招いたら。それとなく青いリボンの話をしたら、こっそりと戻しておいてくれるかもしれないわよね」
「そりゃま、盗む気がなかったのならそうするかもな」
とにかく、クレアが持っているならどうしても返してもらわなければならない。
不自然にならずに、どうやってもういちどこの部屋に招くのか。
うまくいかないと、結婚式が台無しになってしまうかもしれないのだから、リディアは必死になって考えていた。
その日も午後から、伯爵邸を訪れたリディアは、レイヴンに案内され、応接間へと足を踏み入れた。
いつもと様子が違う、と思うと、ソファの上にいろいろな布地が広げられている。
「なあに? これ」
「上質の毛織物だよ。クナート家から届いたんだ」
機嫌のよい様子で、エドガーがあとから部屋へ入ってきた。
「クナート家? ヘブリディーズ諸島の?」
エドガーが親しくしている氏族《クラン》だ。
「ああ。ほらリディア、手触りを確かめてごらん。やわらかいけれどしっかり目が詰まっていてあたたかい。冬の外出着に最適だ。まずはきみのドレスをひとつ仕立てよう。このモスグリーンがいいかな? 上品な色だろ?」
布の端を持ちあげ、リディアの肩に掛けてみる。
「ええ……、でもどうしたの? お祝いの品?」
「いや、これは新しい商品の見本だよ」
「商品?」
「そう、氏族《クラン》の生活を助ける事業のために資金を融通《ゆうずう》したんだけど、これならヘブリディーズ産の羊毛を高値で売れそうだ。特産品になれば、クナート家はうるおう。ほかのクランも毛織りの技術を持っているんだから、需要が高まれば、島々の氏族が暮らしを立て直す活力源になるよ」
「エドガー、いつの間にそんな計画を進めてたの?」
にっこり笑って、エドガーはリディアの手を引き、ソファに座らせる。その手を握ったまま、楽しそうに話す。
「あぶない賭《かけ》になるかと思ったけれど、きみに倹約《けんやく》を求めなくてすみそうだ。グレン公爵も……このあいだ来てた貴族だけど、クナート氏族長の知り合いで、協力してくれることになって、もう買い手も決まりつつあるんだ」
「そうなの、よかったわ。でもあたし、倹約は得意よ」
「頼もしい言葉だけど、僕としてはきみにその特技を実践《じっせん》させたくないな。だからこれで服を仕立てて、社交界で流行《はや》らせよう」
何だかよくわからないけれど、ひとつの事業が成功しつつあるらしい。そうしてそれは、伯爵家を経済的にうるおすらしい。
貴族はふつう、領地から上がってくる収益で生活をしているが、少なくともエドガーはそれだけに頼っていない。
家計、というには莫大《ばくだい》な伯爵家の収支のことは、リディアにはまだ勉強不足だが、新しいドレスの生地を社交界に広めることが、母の故郷でもあるヘブリディーズ諸島のためになるなら喜ばしく思った。
リディアが少し微笑《ほほえ》むと、じっとこちらを見つめていたエドガーは、それを待っていたかのように彼女の髪に手を触れた。
「とびきりきみに似合うデザインにしてもらおう」
「でも、あたしなんかが着て、貴婦人がたの目にとまるかしら」
「大丈夫。僕たちの結婚は社交界でも注目されているんだよ。秋の集まりだって、すでにいろんなところから招待を受けている。きみは注目の的になること間違いないんだから、ドレスだって目につくよ」
それを聞いて、リディアは落ち着かない気持ちになった。
もう結婚後のスケジュールまで決まっているのかしら。
夫婦として貴族社会のつきあいをこなさなければならないことはわかっているが、もしも結婚式で不都合なことが起こったら、伯爵家の醜聞《しゅうぶん》になってしまうのではないか。
妖精の妨害を許すわけにはいかない。
一生懸命そのことを考えていたリディアは、エドガーに抱き寄せられても上の空だった。
[#挿絵(img/something blue_059.jpg)入る]
「ああもう、面倒《めんどう》だわ……」
「……リディア?」
怪訝《けげん》そうな顔で覗《のぞ》き込まれ、はっと我に返る。
「面倒?」
「えっ、ううん、何でもないの。そ、そうだわエドガー、お願いがあったの」
「キスをつつしめっていうのでなければ聞くよ」
エドガーは少し気分を害したように見えたけれど、リディアは自分の問題で頭がいっぱいだった。
「クレアのことなんだけど……」
「彼女はもう断ったよ」
「知ってるわ。わざわざ家まで報告に来てくれたもの。侍女の経験がないからっていうのはわかるけど、しばらく試用期間ってことにして、様子を見るわけにはいかない?」
「家に来た?」
とがめるようにエドガーは言った。
「……そうよ。いちおうあたしが仲介したから、お礼を言いたかったって」
「それだけ? ほかに何か言われなかっただろうね?」
「な、何かって何?」
「……いや、何でもない」
眉《まゆ》をひそめて目をそらす。
「とにかく、彼女を雇うつもりはないんだ」
「でもあたしは、クレアとならうまくやれそうな気がしたの」
「僕はそう思わないな。彼女はきみの能力も妖精も理解できそうにない」
「すぐには無理よ。でも慣れてくれば……。結婚式まで、あたしの家へ通ってもらうのはどうかしら」
「なぜこだわるんだ? もっと有能できみにふさわしい侍女を見つけるから、僕にまかせてくれればいいんだ」
でも、妖精の祝福をもらったリボンを持っているのは、おそらくクレアなのだ。
けれどそれをエドガーに言うわけにはいかなかった。確証はないのに彼女を泥棒扱いすることになる。
それに、本当にクレアが持っているならなおさら、エドガーは彼女を雇わないだろうし、クレアの今後にも影響するだろう。
主人の持ち物に手をつけたとなれば、召使いとしては致命的な欠点だ。もちろん、家庭教師としても雇ってもらえなくなる。
ともかくリディアは大事にはしたくなかった。リボンが返ってくればそれでいい。
「結婚前に侍女がいることに慣れておいてもいいでしょう?」
「だったら早急に決める。条件のいい候補はいるんだから」
「あたしは……、クレアをよく知りたいの!」
リディアは強く言うが、エドガーも引かなかった。
「僕は反対だ!」
どうしてそうまでかたくななのか、考える余裕はリディアにはない。ふたりの結婚式のためなのに、と思えば腹が立つ。
もちろんエドガーに事情を説明できないことがいけないのだが、どうしてもクレアではいけない理由がリディアにはわからない。
エドガーのほうも、自分のがわの問題をリディアに隠したまま反対しているとは気づかないまま、リディアは頭にきて立ちあがった。
「だったらあたしが雇います! まだ結婚してないんだから、勝手に自分の侍女を雇ったってかまわないわよね」
「リディア……!」
彼が止めるのも聞かず、振り切るようにしてリディアは部屋を飛び出していた。
「伯爵、どうしたんですか? 元気がありませんね」
ポールがそう言った。エドガーは眺めていた下絵をテーブルに置き、顔をあげた。
「いいと思うよ。これで進めてくれ」
「はい……わかりました」
そう言いながらも気にしたようにポールは、エドガーのほうを見る。絵を描く作業を中断して椅子から立ちあがると、テーブルのところまでやってきて、冷め切った紅茶に手をのばす。
画家であるポールの下宿兼アトリエに立ち寄ったエドガーは、邪魔をしないように彼の作業を眺めているつもりが、結局ポールが集中できない原因になっているのだった。
「ポール、きみは女性に面倒だと言われたことがあるかい?」
「えっ、いえ僕は……、女性と話す機会はそうないですから……。でも伯爵、あなたほど女性を楽しませるのが得意なかたでも、そんなふうに言われることがあるんですか?」
「ありえないと思うだろう? さすがにショックだよ。リディアは僕の愛情表現に応《こた》えるのが面倒みたいなんだ」
「そりゃ、大概《たいがい》うっとうしくもなるだろうな」
そう言ったのは、奥の部屋から現れたロタだった。
「なんだ、きみもいたのか。ポールの寝室で何をしてたんだ?」
「いえ伯爵、そういうんじゃありませんから! ロタはちょっと疲れたから休ませてくれと」
あわてて言い訳するポールに気を遣うでもなく、ロタは大きくのびをする。豪華なドレスを着ていても、まったく身なりに気を配っていないのは相変わらずだ。
「朝まで仲間と飲んでたら、家へ帰るのが面倒になってさあ。ポールの下宿が近くだったって思い出したんだ」
「そ、そうなんです。けっして僕は、未婚の女性を引きずり込んだりなんてことは」
「ポール、きみはもう少し不真面目《ふまじめ》になってもいいと思うよ。ロタが相手では間違いが起こりようもないのはわかるけどね」
ふんと鼻を鳴らし、ロタはエドガーのそばへ来ると、なれなれしく肩に手を置く。
「あんたはなあ、リディアが好きすぎて過剰にべたべたするから面倒くさがられるんだよ」
「これでもかなりひかえめにしてる」
「先が思いやられるな」
同情するように言いながらも、ロタはおかしくてたまらないのか笑いをかみ殺していた。
たしかに先が思いやられる。結婚式が目前にひかえているのに、いろいろとやっかいなことが起こる。
それにリディアは、婚約者とふたりで過ごす時間を、エドガーほどには必要としていないように見える。
いや、それはしかたがない。女性にとっての結婚は、それまでの家や生活に別れを告げることだ。いろいろと複雑な心境になるのだろう。それにエドガーは、彼女のほうから積極的に触れ合おうとしてこなくても、不満に思ったことはなかった。こちらから望めば恋人らしく応じてくれる、そういうところもいじらしいと思えるからだ。
けれど、面倒に思いながらしかたなく応じているとしたら、あんまりではないだろうか。
それに、クレアを侍女にと言いだしたことも、まったくエドガーには理解できなかった。
「エドガー、面倒がられたくらいで、リディアの気持ちを疑うなよ。青いもの≠選ぶのだって楽しそうにしてたし」
「きみに言われるまでもない」
むっとしつつエドガーは返した。
お互いに心から望んだ結婚だ。いろいろあったけれど、リディアとの絆《きずな》はよりたしかなものになった。ちょっと横やりが入ったからといって、気持ちが変わることはないと信じている。
それでも、口論を引きずったまま結婚式を迎えたくはない。
クレアを雇うべきか。
エドガーが考え込んだとき、階段を駆けあがってくる足音がした。
「ポール! いるか?」
体格のいいふたりの男が、慣れた様子でポールの部屋へと入ってくる。エドガーがいるのに気づき、驚いたように直立する。
「伯爵……いらっしゃってたんですか」
「やあ、ジャックにルイス、久しぶりだね」
双子の彼らは、顔つきから体格までそっくりで、見分けがつくようになるのに時間がかかるほどだ。ポールも属する装飾芸術家の結社、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ一員だ。
朱い月≠ヘ、三百年前の青騎士伯爵との縁があって結成された組合《ギルド》だった。しかしその、伯爵家との縁故《えんこ》のせいで、プリンス≠フ組織に目をつけられた。
団員の中には、ポールの父のようにプリンス≠フ組織によって殺された者も多く、エドガーもついこのあいだまでは、朱い月≠フリーダーとしてともに戦ってきた。
けれどプリンスが死んだ今、朱い月≠ヘもともとの芸術家の組合に戻ろうとしている。
エドガーはすでに、リーダーを辞した。
ジャックもルイスも、詳しい事情は知らないだろうけれど、エドガーがもう自分たちとは無関係な人間だということは聞かされているだろう。
「はい、あの、近々ご結婚されるそうで。おめでとうございます」
「ありがとう。それじゃあポール、僕は帰るよ」
そう言って、エドガーが立ちあがろうとすると、ジャックとルイスはいきなり近づいてきて椅子の両側に立った。
まるでエドガーを逃がすまいとするかのようだった。
そうして、ふたり同時に口を開く。
「伯爵、助けてください!」
体格のいい双子の兄弟は、用心棒的な役割でエドガーと行動をともにすることもあった。けれど、寡黙《かもく》な彼らが、エドガーにこうして頼み事をしてくるのははじめてだった。
「助ける? きみたちを?」
「ミスター・スレイドが、殺人と詐欺《さぎ》の疑いで警察に連れていかれました」
「ええっ!」
誰よりも驚いたのはポールだ。
画商のスレイドは、結社の幹部でもある男だった。
エドガーがリーダーになる以前から、そして今現在も、朱い月≠実質的にまとめているといっていい。
頭の固い男で、もともと青騎士伯爵家と縁のないエドガーのことは、全面的に信用はできないと態度で示していたが、プリンス≠フ組織と戦うためリーダーと認めた以上は、きまじめな態度で従ってくれた。
画商としてクラブも経営していて、朱い月≠ノ属する芸術家を上流階級の顧客に熱心に紹介している。融通《ゆうずう》の利かないところはあったが、詐欺だの殺人だのとはにわかに信じがたい。
「本当なのかい? いったいどうして……」
ポールはうろたえて、絵筆を持ったまま右往左往《うおうさおう》する。
「本当だ。スレイド氏のクラブも画廊も捜査が入って、保管してあった絵や美術品を持っていかれた。近日顧客に引き渡す予定の絵も、ぜんぶだ」
「ほかの幹部や団員も何人か、共犯を疑われて家に踏み込まれたりしている」
「そんな」
と頭をかかえたポールが、助けを求める視線をエドガーに向ける。しかし彼は、むりやり椅子から立ちあがった。
「僕はもう、きみたちの結社とは無関係な人間だ。スレイドから聞いているだろう?」
双子に視線をやると、反射的に彼らは一歩下がる。しかしすぐに我に返り、エドガーの前に立ちふさがった。
「でも、伯爵、あなたしか頼れなくて」
「突然脱会した僕のことで、スレイドは腹を立てていたと聞いた。ほかにもそう思っている団員は少なくないだろう。僕に話したのは、きみたちふたりの独断じゃないのか?」
ジャックとルイスは、顔を見合わせうつむいた。
ポールのところへ報《しら》せに来たのは、エドガーの耳に入れるつもりだったからだろう。
「たしかに、伯爵が朱い月≠見捨てた……、そう言う者もいます。でも俺たちは、何か理由があるに違いないと……。だってポールは、変わらずあなたを尊敬しています」
「理由なんてないよ。突然リーダーをやめたのは僕のわがままだ」
エドガーはきっぱり言った。
エドガー自身が、プリンスの記憶を持つ者になってしまった。朱い月≠ノとって仲間を大勢殺した仇《かたき》でもあるプリンスの、後継者になってしまう可能性を秘めている。それを知っているのはポールだけで、朱い月≠フ団員に話すことができず、エドガーは身勝手にリーダーの座を降りた。
もう、彼らにはかかわるべきではないと思っている。
「エドガー、水くさいだろ。話くらい聞いてやれよ」
けれどロタが口をはさんだ。ジャックとルイスに協力するようにエドガーを取り囲《かこ》む。
「で、スレイド氏が疑われてるって、どういう事件なんだ?」
彼女はかつて朱い月≠ノ協力したことがあったからか、ルイスとジャックは部外者のようには思わなかったようだった。質問に素直に答えた。
「断片的な情報からすると、先月死んだ朱い月≠ノ属する画家の遺品を、スレイド氏が譲り受けたことが問題らしいんですよ」
ロタに答えたと言うよりは、エドガーに顔を向けての説明だった。
「オーウェンという画家なんですが、天涯孤独《てんがいこどく》で、もしものときはすべての絵と遺産を|朱い月《スカーレットムーン》≠ノ譲るという遺言《ゆいごん》状を残していました」
「相続人はスレイド氏、ということか?」
ロタが問う。
「ええ。しかしある人物が、オーウェンの遺言状を別に持っていて、自分に譲られたはずのものをスレイド氏にだまし取られたと言ったようです」
ルイスはエドガーに向けて話す。
「なるほどなあ。で、その遺言状の信憑性《しんぴょうせい》は?」
「そちらが本物で、スレイド氏は偽造したと決めつけられたようで。そのうえ、オーウェンが急死したのは毒を盛られたからとまで……」
ルイスが言葉を詰まらせると、ジャックがあとを引き取った。
「過去にもスレイド氏は、身内のない団員の遺品を受け取っています。朱い月≠ヘ芸術家の組合《ギルド》です。同志であり家族も同然なんですから、自分に何かあれば仲間のための資金にするのは当然なんです。なのに、これまでも画家に遺言を書かせて毒を盛ったことがあるのではと疑われているようです」
「じゃ、画家のオーウェンと、もうひとつの遺言状を持っているという人物はどういう関係なんだ?」
「よくわかりません。どこの誰なのかも……。ただ、オーウェンは数カ月前から、朱い月≠フ集まりに姿を見せなくなっていました。アトリエには人を寄せつけず、カーテンも閉め切って。見られてはいけないような絵でも描いているのか、という噂は聞きました」
「そりゃあ妙だな。陰謀《いんぼう》の匂いがする」
無責任なことをロタが言ったが、エドガーもそう思う。
「とにかく、エドガー、あんた市警《ヤード》に知り合いがいるだろ? そのへんの事情は聞けるよな」
すっかりこの場を仕切っている。
望まないまま事情を知る羽目《はめ》になったエドガーは、深くため息をついた。
「今のところ、力になれるのはそれだけだよ」
それでもルイスとジャックは、そしてポールも、安堵《あんど》の表情になった。
「よかった……伯爵にご相談できて。このままでは、|朱い月《スカーレットムーン》≠ニいう組織に疑いがかけられるかもしれないのに、みんなどうにもできないと言うばかりで」
闇《やみ》組織を相手に戦ってきた朱い月≠焉A法的に潔白《けっぱく》とは言い難《がた》い。スレイドは殺人も疑われているわけで、組織ぐるみの犯罪であるかのように決めつけられれば、結社にとっては致命的だ。
「ただ、スレイドのことをすぐに自由の身にできるとは期待しないでくれ。どこの誰だか知らないが、そちらの遺言状が本物だということになっているんだろう? スレイドが本当に偽造したのでないなら、事実をねじ曲げることのできる人物がいる」
相手によっては、エドガーにもどうにもできないかもしれない。
「有力な貴族がいるってことか?」
ロタがうなりながら腕を組んだ。
「ま、あたしもできることがあれば協力するよ」
そして彼女は、なれなれしくエドガーの肩に手を置く。
そうされても少しも気分が高揚しないこいつは、本当に女なのかとエドガーは思う。
「ならロタ、リディアがどうしてクレアを侍女にしたいのか教えてくれないか」
「は? 何の話だよ?」
「なんだ、知らないのか。じゃあいいよ」
事情を話し終えたからか、ようやく双子の威圧的な包囲がゆるみ、エドガーは彼らのあいだをすり抜ける。
戸口で立ち止まり、振り返った。
「知っていると思うけど、僕の優先順位は何よりリディアだ。来週の結婚式だ。たとえスレイドが縛《しば》り首にされそうになっても、リディアを優先するからね」
下宿の建物をあとにしたエドガーが、通りに出れば、馬車のそばでレイヴンが待っていた。
「ああ、結婚式は無事行えるのだろうか」
レイヴンに言うともなくつぶやく。なんだか問題ばかりだ。
「いや、弱気になってどうする。何が起ころうと、もう結婚は延期しない。ぜったいに! わかったね、レイヴン」
馬車のドアを開けたレイヴンは、呼びかけられて緊張気味に背筋《せすじ》を伸ばした。
「……はい、命にかけても、誰にも結婚式のじゃまはさせません」
そう、エドガーにとってこの結婚がどれほど重要なことかわかってくれているのはレイヴンだけだ。
誰も彼も、この大事な時期にやっかいなことを持ち込んでくる。
花嫁になるはずのリディアでさえ……。
「ありがとう、レイヴン。おまえはそう言ってくれると思ったよ」
レイヴンはぜったいに、口にしたことをたがえたりしない。無茶を言わせた自覚はあるが、忠実な従者の言葉に、エドガーはしばし心を落ち着けた。
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青いリボンはどこに
どうしよう……。
テーブルの上に置いた青いリボンを眺《なが》め、クレアは深くため息をついた。
どうして持ってきてしまったのか、自分でもわからない。
リディアの部屋で、トルソに着せられたウエディングドレスをうっとりと眺めた。ベールを引き立てるように雰囲気《ふんいき》をそろえたレースが、胸元やそでを飾っていた。サテン地に薄く透けたオーガンジーを重ねた生地が、朝靄《あさもや》に漂う陽光のような、淡い光をかかえ込んで見えた。
空気のように、泡《あわ》のように、妖精の羽のように、軽やかで上品なドレス。
彼女はなんて幸せな女の子なんだろう。そう思った。
アシェンバート伯爵《はくしゃく》の花嫁になれるなんて。
もしも自分だったらと、クレアは想像せずにはいられない。
クレアのあこがれの人が選んだのは、貴族の令嬢ではなかった。だったら、もしも何かきっかけさえあれば、自分がリディアのようになっていたかもしれないのに。
もっと話しかけていたら。
気持ちを伝えていたら。
彼女より先に出会えていれば。
クレアにしてみれば、リディアが自分とそうかけ離れた少女ではなかったからこそ、そんなふうに考えてしまうのだった。
気がつけば、ドレッサーの上にあった青いリボンを手に取っていた。
|何か青いもの《サムシング・ブルー》を身につければ、幸福な花嫁になれるというおまじないは知っている。
これが自分のものだったなら。そう思ったとき、窓辺で物音がして、驚いたクレアは、握りしめたリボンを背後に隠していた。
窓辺を見ると、灰色の猫がこちらをじっと見ていた。
猫、とほっとしながらも、クレアはリボンをドレッサーの上に戻すことができなかった。階段の下にリディアの足音が聞こえたからだ。
自分でもわけがわからないほど動転して、リボンを手にしたまま部屋を飛び出していたのだった。
そうして今、リディアの青いリボンを前にして、クレアは途方に暮れている。
これじゃあ泥棒だわ。返さなきゃ。
けれど返しに行けば、どう言い訳してもクレアがしたことは非難されるだろう。伯爵の耳にも入るかもしれない。
それが怖くて、クレアはどうにもできないでいる。
片想いでも、好きな人には軽蔑《けいべつ》されたくなかったのだ。
ノックの音がして、はっと我に返ったクレアは、リボンをクッションの下に押し込んだ。
呼吸を整えて返事をすると、下宿の家政婦がドアを開けた。
「お手紙です」
「……ありがとう」
受け取ったクレアは、差出人を見て驚いた。
リディア・カールトンとあったからだ。
家政婦が出ていくと同時に、急いで封を切る。何度も文面に目を走らせ、そうして彼女は、どういうことなのかと考え込んだ。
とりあえずひと月、侍女として働いてみないかと、リディアが手紙を出した翌日、クレアはカールトン家へやってきた。
結婚式まではカールトン家へ通ってもらうという条件に頷《うなず》きながらも、クレアは戸惑《とまど》い気味に見えた。
「リディアさん、どうしてまたあたしを……。伯爵は経験のある侍女がいいと言ってらっしゃるんでしょう?」
「だからあたしがあなたを雇うの。あなたが文句のない侍女だってわかったら、エドガーを説得できるわ」
「でも、そうまでして」
「あたしだって、侍女を持つのは初心者なのよ。ほら、貴族のお嬢さまに仕え慣れた人じゃ、ことあるごとに庶民的すぎるってあきれられそうじゃない?」
「……本当に、それだけなんですか?」
「えっ、それだけ……よ。……どうして?」
どきりとしながらリディアは返す。
「……いえ、べつに」
もちろんそれは、リディアにとって本音だった。
たぶんリディアは、侍女に着替えから入浴まで手伝ってもらうなんてことはできそうにない。けれど、何でも自分でやろうとすれば、庶民育ちだと見下されるかもしれない。
だからできれば、クレアのように、侍女の仕事に先入観のない女性がいい。
とはいえ、彼女に青いリボンを返してもらいたいというのも、大事な目的ではあった。
「そ、そうだわクレア、さっそくだけど、ドレッサーの前の絨毯《じゅうたん》をどけるのを手伝ってもらえないかしら」
ドレッサーという言葉に、クレアが落ち着きをなくしたように見えたけれど、リディアは不自然にならないよう一気に言った。
「たぶん風でも吹いて、ドレッサーの後ろにリボンが落ちてしまったみたいなの。近いうちに家具を動かしてもらうんだけど、絨毯が邪魔だから」
ドレッサーの後ろにそっと、リボンを入れておいてくれればいい。リディアが一生懸命考えた作戦だが、うまくいくだろうか。
ええ、とクレアは小さく答えた。
「よう、リディア」
自室のドアを開けたとたん、窓辺に腰掛けた黒髪の男が目に入ったリディアは、あわててドアを閉めた。
「リディアさん、どうかしたの?」
不思議そうなクレアに、ドアノブを手で押さえたままリディアは首を横に振る。
「……何でもないの。部屋が散らかってたのを忘れてたわ。あとにしましょう」
「だったら、あたしが片づけます」
「ええっ、そ、そうね……。でも」
もう、ケルピーったらどうしてこんなときに来るの? しばらく来てなかったのに。
クレアにどう説明しようと迷っていると、いきなりドアが開けられて、後ろに倒れかけたリディアはケルピーに抱きとめられた。
「なんだよリディア、無視すんなよ」
背の高い、精悍《せいかん》な青年がしっかりリディアをかかえ込んでいる。クレアは驚きに目を見開き、リディアとケルピーを交互に見た。結婚をひかえた娘が、婚約者ではない男となれなれしくしている。彼女の目にはとんでもないできごとに映っただろう。
もちろんリディアにとっても、人間の男が相手ならあり得ないことだ。
けれどケルピーは妖精だ。本来は人をも喰らう水棲馬で、なのにリディアを慕っている、変わり者の昔なじみだ。
リディアにしてみれば、ニコと寝起きをともにしているのと変わりはないといっていいが、このままではクレアに誤解されるのはたしかだった。
「あの、違うのよ。か、彼は馬なの!」
リディアはとっさにそう言って、ケルピーを突き放すが、ますますクレアを動揺させてしまったかもしれない。
大丈夫だろうかという顔で、彼女はリディアをうかがい見る。
「……じゃなくて、ええと、従兄《いとこ》なの」
妖精の話はまだまだ彼女には禁句だ。気づいて言い換えたが、よけいにリディアはどうかしてしまった女に見えたかもしれない。
「はあ」
信じていなさそうにクレアが頷いた。
「しっかしこの部屋、ひどい匂いがすると思ったら、魔法がかかったものだらけだな」
ケルピーは部屋の中をぐるりと歩き、ウエディングドレスの前で立ち止まると顔をしかめた。
糸|紡《つむ》ぎ妖精の祝福の魔法は、|魔性の妖精《アンシーリーコート》であるケルピーには不愉快なものなのだろう。
「結婚式ってのはこんなもの着るのか。裸のほうがましじゃないか?」
「えっと、クレア、この人のことは気にしないで。さっさと絨毯を片づけましょう」
リディアはもう、強引にケルピーの話をさえぎった。
「おい、リディア」
彼はいないことにして、床に身を屈《かが》める。
ケルピーは、クレアにはまったく関心を示さない。もともと彼は、リディア以外の人間には興味がない。ニコみたいに、見知らぬ人間の前では猫のふりをするなんて気|遣《づか》えるほど人間を理解していないのだからしかたがない。
「そちらの端をまるめてくれる?」
「ええ……」
戸惑いながらも、クレアも絨毯の端で身を屈める。
「何を始めるんだ?」
「……あの、ドレッサーの後ろに落としたものがあるかもしれなくて」
返事をしたのはクレアだ。リディアの従兄、の質問を無視できなかったらしいが、リディマははっとして絨毯から手を放した。
「なんだ、だったら俺が」
「だ、だめよ! ケルピー!」
止めようとケルピーのシャツをつかんだが、もう遅かった。
馬鹿《ばか》力の水棲馬は、オーク製のひどく重いドレッサーをあっさり持ちあげて動かしていた。
ああもう……。
リディアは額に手を当てるが後の祭りだ。
「後ろには何もないぞ。クローゼットを動かしてみるか?」
一晩考えた計画が台無しだ。
「……今日はもういいわ! ケルピー、また今度ね」
両手を組み合わせ、帰ってと懇願《こんがん》するつもりでリディアはケルピーの前に立ちはだかる。
「なんだよ、機嫌悪いな。結婚前で気が立ってるのか? ああそうか、発情期か」
「な、な……何言ってんの!」
にやりと笑って、ケルピーはリディアの頭をくしゃくしゃにした。
「まあいいさ、結婚したって俺はおまえのものだからな」
誤解を招くようなこと言わないで!
リディアが言葉を飲み込んでいるうちに、ケルピーは二階の窓からさっと出ていった。
呆然とそれを見ていたクレアは、心なしか、いや完全に引きつっていた。
侍女として試用期間を設けて雇うというリディアの提案を、少し考えさせてほしいと言って、間もなく帰っていったのだった。
翌日、午後からエドガーがやって来た。
ランチをともにできない日が続いているからと、わずかな時間カールトン家の応接間で、ふたりでお茶を飲んだ。
先日、クレアのことで口論になってから、二日会っていなかったが、エドガーはそれには触れようとしない。
何も言ってくれないなら、リディアから切り出さねばならない。
クレアはもう来てくれないだろうとリディアは思ったが、あるいは気が変わるかもしれないし、試用期間を提案したということを、エドガーに隠したままにはしておけなかった。
「あの、ね、エドガー」
ティーカップを置いて、リディアはあらたまって口を開く。
「昨日、クレアに来てもらったの」
「聞いたよ、カールトン教授に」
思わず言葉に詰まったリディアは、父がエドガーに話すなどとは思いもしていなかった。
けれど、いくら常識にとらわれない父でも、結婚直前の娘が勝手に召使いを雇おうとしているとなれば、婚約者にうかがいを立てたくもなるだろう。
「……ごめんなさい。でもあたし」
「いいんだ。きみはまだ教授の娘だ。父上が許可したなら、僕が文句を言うのは筋《すじ》違いだ」
いくらか棘《とげ》のある言い方だったがしかたがない。
「じゃ、結婚したら彼女をクビにする?」
リディアをじっと見つめ、エドガーはため息をついた。
「そんなに物わかりの悪い男だと思ってるの?」
そう言った彼は、しかたなくといった様子だったが、それほど不機嫌ではなさそうだった。
微笑《ほほえ》んでくれてリディアはほっとする。
「よかった……。まだ彼女が承諾《しょうだく》してくれるかどうかはわからないけど、許してくれてありがとう、エドガー」
リディアも笑顔を返し、気がつけば手を握られていた。
「リディア、僕のこと愛してる?」
「え……、……ええ……」
つい消え入りそうな声になってしまうリディアは、いまだに面と向かってそういう言葉が口にできない。恥《は》ずかしくて、目を合わせるのも難しくなる。
「これからは、ずっといっしょにいられるんだね」
「そう……ね」
答えながらも、今のままでは無事式が挙げられないかもしれないのだと思い出していた。
「子供は何人はしい?」
そうなのだ。結婚式までに何とかしないと。
しかし式は数日後にせまっている。
「僕の希望は十人くらいかな」
冗談だか本気なんだかわからないエドガーの悪ふざけに、リディアはつっこむ余裕もない。
「ねえ、結婚式を延期できない?」
しかし、唐突《とうとつ》すぎたに違いない。エドガーは驚いた顔をした。
「……多すぎる? だったら七人、いや五人でも一
「あの、そうじゃなくて」
いつになく険しく眉をひそめる。
「本気で言ってるの?」
怒ってる、と思うとリディアはうつむいた。
「エドガー、聞いてちょうだい。妖精が」
「いやだ。何があっても延期なんかしない」
「でも……」
あの青いリボンがないまま式を挙げても、きっとじゃまをされてしまう。妖精が何をするのかわからないが、一生にいちどの結婚式がめちゃくちゃにされるなんて、リディアにはがまんできそうになかった。
それに、妖精のせいで結婚式ができなくなれば、結局延期することになる。
当日のトラブルで延期するより、事前に延期を決めたほうがましなのではないか。
「理由があるのよ、エドガー」
「理由? 僕が怖くなった? プリンスの記憶にとらわれてしまうかもしれないって」
「違うわ! そんなわけないじゃない!」
「だったらほかに、結婚を延期する理由なんてあるわけないじゃないか! 僕たちの未来は、何があろうとひとつだ。そうじゃないのか?」
「そうよ。だけど」
リディアが取ろうとした手を、エドガーは引っ込めた。そうして立ちあがる。
「ねえ、話を聞いてくれないの?」
「これ以上言い争いたくない。どんな理由を聞かされようと、僕はぜったいに延期はしない」
だから帰るよ、とエドガーは言った。
「あたしはただ……、心から幸せな気持ちで、あなたとはじめたいだけなのよ!」
必死で背中に言葉をぶつけると、はっとしたようにエドガーは振り返った。
悲しそうな顔で、彼女の頬をそっと撫《な》でる。
「ごめん。だけどお願いだ、リディア。延期したいなんて言わないでくれ。こうしてきみを取り戻せたことが、まだふと信じられなくなるくらいなんだ」
お互い、同じことを望んでいるのに。そう気づくとつらくなって、リディアはうつむいた。
リディアもふと、今の幸せに実感が持てなくなることがある。
エドガーとの結婚をあきらめかけた、そうするしかなかったときのつらさがよみがえる。
目覚めたら、あのヘブリディーズの淋《さび》しい館にいるのではないかと思い、眠るのが怖くなる。
エドガーも同じように、むしろリディア以上に苦しく思っている。
リディアの体から、|オーロラの精《フィル・チリース》の毒はすっかり抜けたけれど、エドガーはプリンスの記憶をかかえ続けているのだから。
「明日、また来るよ」
そう言った彼は、めずらしくキスもせずに立ち去った。
「いったい、どうすればいいの?」
ひとりになった夜、リディアはぐったりした気分でベッドに倒れ込んだ。
そこでうたた寝していたニコが、はじかれて床に落っこちた。
「うぎゃっ、何するんだよ、リディア!」
結局、青いリボンを取り戻すいい方法は思いつけないままだし、昼間エドガーと口論になりかけたことだけが、後味悪く残っている。
たかがリボンがないというだけで、エドガーとぎくしゃくしてしまうなんてバカげている。
けれど、あれがないと、きっと結婚式は大変なことになるだろう。
こうなったら、青いリボンを取り返すよりもほかの方法を考えたほうがいいかもしれない。
「そうだわニコ、もういちど、ハベトロットに魔法をかけてもらえれば……! ねえ、あの糸紡ぎ妖精も、|妖精の市《フェアリー・マーケット》にいるんじゃないかしら」
「ああ、いるかもな」
ニコは不機嫌に、寝起きの目をこすり、毛並みを整えている。
「市場に行きましょう!」
ベッドから起きあがったリディアは、力を込めてそう言った。
「今からか? 夕食もすんで、くつろいでるところなのに」
「ニコ、あたしの結婚が延びれば、伯爵家のおいしい紅茶もお預けになるわよ」
しぶしぶという顔ながら、ニコは立ちあがった。
ショールを肩に掛けた軽装で、父に気づかれないようそっと、リディアはニコと家を出る。
夜のロンドンをひとりで歩くなどという物騒《ぶっそう》なことは、結婚前の娘がすることではないが、ニコの案内で妖精の道を通っていけば、人影は見あたらない。
建物も通りも、見慣れた町並みだが、人間界から少しだけずれた場所をリディアたちは歩いていく。
まれにすれ違う黒い影に注意を向けるなら、人ではないものだと気づくだろう。
昼間の市《フェア》が行われている広場までやってくれば、暗がりの中に屋台のテントだけが並び、ひっそりとしていた。
けれども、虹色の明かりがもれる路地の奥からは、にぎやかな音楽が聞こえてくる。
|妖精の市《フェアリー・マーケット》は、昼も夜も関係なくお祭り騒ぎの最中だ。
リディアはニコと、糸巻き棒を待った老婆の姿をさがして歩いた。
「おいリディア、あれじゃないか?」
建物の前の石段に、老婆が五人並んでいる。スカーフをかぶった頭を寄せ合い、糸巻き棒を手に、何やらおしゃべりに夢中なようだ。
リディアは彼女たちに近づいていき、声をかけた。
「こんばんは、おばあさんたち」
(おやおや、青騎士伯爵の花嫁じゃないかい)
(妖精の市を見物に来たのかね?)
歯の抜けたしわだらけの口で、にっと笑う。五人ともよく似た顔なので見分けがつきにくい。青いリボンに魔法をかけた妖精の名を、リディアは呼びかけた。
「ハベトロット」
(何かね?)
ひとりが返事をした。
「あなたが魔法をかけてくれた青いもの、なくしてしまったの。もういちど魔法をかけてもらうことはできないかしら」
(なくしたとな? そりゃあ困ったのう)
五人の老婆がいっせいに首を傾《かし》げた。
(祝福の魔法をかけ直すことはできないんじゃ)
「そっ、そうなの?」
どうしよう。いきなり行き詰まってしまった。リディアはうろたえながらも食い下がろうと、老婆のそばに身を屈めた。
「じゃ、六人目の妖精に結婚の邪魔をさせない方法がほかにないかしら?」
(すまんが、わしらにできることはほかにないのう)
「そんな……」
(別の魔法ならかけてやれるが)
「え、どんな?」
思わず身を乗り出すが。
(すばらしい初夜を過ごせる魔法じゃ)
「……けっこうです……!」
思わず腰が引けていた。
(あやつに気づかれなければよかろう。わしらの魔法がかかったものを、すべて身につけていると思わせれば邪魔をするのはあきらめるじゃろう)
「本当? それでいいの?」
また身を乗り出しかけたが、突然背後から声がした。
(なくしたって? 祝福の魔法をか?)
糸巻き棒を持った老婆がまたひとり、そこに立っていた。六人目だ。
「い、いえ、まさか! なくしてなんかいないわ!」
あわててリディアはそう言ったが、もう遅かった。
(なくしたとな? はっ、愚《おろ》かな娘じゃ!)
「あーあ、墓穴掘ったなあ、リディア」
階段に腰をおろして、のんきに足を組んでいるニコが言った。
まったく他人事な態度のニコを、リディアはにらむしかない。そして六人目の老婆は、腰に手を当てて高笑いする。
(これで青騎士の結婚式をじゃましてやれるぞ! 楽しみじゃな!)
小躍りしながらリディアに背を向ける。
「ちょっと待って!」
リディアはその、意地悪な糸紡ぎ妖精のそでをつかまえた。
「どうしてもじゃまをするっていうの? 昔の伯爵が招待しなかったってだけで?」
(わしをのけ者にするために、そいつらを招いたのじゃ。許せんな)
「今から招待してもだめなのかしら」
(やめときなされ、花嫁どの。そいつを招くのは無理じゃよ)
ハベトロットが口をはさんだ。
振り返った六人目も、腕を振り上げつつ憤慨《ふんがい》する。
(招待だと? わしの名を知らないくせに! わしはそこにいる五人よりずっと、女神の恩恵を授かったものじゃぞ! 女神の像の見ているものはすべて見える。いまいましい大天使の修道院と坊主どもが消え失せるのも眺めた。まったくいい気味じゃ! このわしの名が、青騎士の嫁などにわかるはずがない!)
意味不明な言葉を精いっぱいまくし立てる。ともかくリディアにわかったのは、妖精の名が重要だということだけだ。
そういえばそうだった。伯爵家のリストに、五人の妖精の名前はあった。少なくとも彼らは、リディアにも言い当てられたくらい、人に知られた名を持つ糸紡ぎ妖精だった。
妖精の名を知れば、魔法の恩恵を受けられる。たいていの妖精に当てはまる決まり事だ。名前さえわかれば、この老婆も悪さはできなくなる。
けれど、妖精国と人間の領地を自由に行き来していた昔の青騎士伯爵すら知らない名前なら、リディアの知識の中にあるはずもない。
伯爵家さえ手を焼いて、苦肉の策で、五人の老婆の祝福を利用したのだろうか。
妖精は、手を放せと言いながら、糸巻き棒でリディアの腕をたたいたが、そでをつかんだまま彼女は考えをめぐらせていた。
「でも、じゃまをするのは無理よ。青騎士伯爵は妖精のすることなんかお見通しなんだから」
少しでも、ヒントになりそうなことを引き出したくて挑発してみる。
(ふん、いくら青騎士でも、人間のルールには従わねばなるまい。結婚に異議を唱えてやろう。式は即刻中止じゃな)
「えっ、そんなことするつもりなの!」
教会で、神さまの前で結婚に異議を申し立てられたら、式を続行することができなくなる。
呆然とするリディアの手から、妖精はするりと逃げ出す。
(ほほっ、楽しみじゃな!)
そう言って姿を消した。
夜も遅くなったころ、伯爵邸へ帰ってきたエドガーが応接間へ入っていくと、ポールとともに|朱い月《スカーレットムーン》≠フ双子が緊張した面もちで待っていた。
「待たせて悪かったね」
「いいえ、伯爵。お忙しいときにすみません」
結婚式が最優先と、先日エドガーがせっぱつまった口調で言ったためか、三人とも恐縮《きょうしゅく》した態度だ。
エドガーがテーブルのそばに腰をおろすと、彼らも思い思いに椅子に腰掛け、エドガーの言葉を待った。
「スレイドの件だけど、わかったことはひとつだけだ。オーウェンの遺産を譲《ゆず》り受けるはずだという人物は、ボートン卿《きょう》だった。今は遠方の本邸にこもっているが、代理人を雇っている」
「貴族ですね。その男が、遺言書を偽造したんでしょうか」
「でも、貴族が貧乏画家の、なけなしの遺産をほしがるなんて不思議ですね」
ジャックとルイスが疑問をたたみかける。
「遺産の中の何かをほしがっているんだろう」
「でも、スレイド氏のところにあったオーウェンのものは警察が持っていってしまったし」
「もうとっくに、向こうの手に渡っているかもしれないな」
頷きつつ、みんなしてため息をついた。
「伯爵……」
ポールが不安そうにこちらを見た。
「もうひとつ、疑問があるんだ」
そこに希望を見いだそうとするように、みんなは身を乗り出す。
「ボートン卿が田舎《いなか》に引っ込んだのは、ロンドン郊外のタウンハウスで火事があったからなんだ。妻子が亡くなって、当人も重傷を負ったために話ができる状態じゃないと聞いたことがある。代理人に自分の意志を伝えることができるんだろうか」
「とすると、今回の首謀者《しゅぼうしゃ》は、ボートン卿ではなく、さらに背後にいる者だという可能性もあるわけですね」
おそらくそうだろう。
となると、ボートン卿の一家を襲った火事のことも、作為的な事件かもしれない。
そうしてエドガーは深刻に眉《まゆ》をひそめた。
ボートン家に雇われていたクレアが、自分やリディアに近づこうとしているのは偶然だろうか。
クレアを雇うことを、リディアに許してよかったのか。
先刻、スレイドの件で話をした親しい警部の口から、ボートン卿の名前が出てから、エドガーは心配している。
こんなに夜遅くでなかったら、すぐにでもリディアのもとへ駆けつけていただろう。
「伯爵、お疲れですか?」
ポールが気にしたようにこちらを覗き込んだ。
ああ、とエドガーは顔をあげる。
「少しね。……きみたちに報告できることは以上だ。あとは、ジャックとルイス、ボートン卿のロンドンでの交友関係を調べられるか? オーウェンとのつながりがあるかどうかもだ」
「はい」
「ポール、スレイドの屋敷やクラブに、オーウェンの遺品で残っているものがないか確認してくれ。警部の話では、遺産として価値のないものは没収していないというし、何かの手がかりがあるかもしれない」
「わかりました」
三人が帰ってしまうと、エドガーはソファの上に倒れるようにして寝ころんだ。
そうして、いろいろなできごとに混乱しそうな頭の中を、少しでも整理しようと努める。
何よりも気がかりなのは、リディアが結婚式を延期したいと言ったことだ。
理由を聞くべきだった、と冷静になれば後悔していた。あのときは、延期なんて言葉が彼女の口から出たことで動揺したのだ。
結婚を望んでいるのはリディアも同じであるはずなのに、自分だけがあせっているかのように思えてしまう。
リディアがいない将来なんて考えられないと思う自分ほどには、彼女は熱くなっていないから、簡単に延期なんて言えるのだと腹が立った。
結婚すれば面倒[#「面倒」に傍点]が増えると思っているのかもしれない。
だとしてもリディアは、今の彼女が表現できるせいいっぱいの気持ちで、彼を想《おも》ってくれている。それは間違いないはずだ。
延期なんて言い出したのには、抜き差しならない理由があるに違いなかった。
話くらいは聞くべきだっただろう。
「エドガーさま、何か飲み物でもお持ちしましょうか」
部屋へ入ってきたレイヴンが言った。
「リディアはがっかりしているだろうな。思いのほか、僕は心の狭い男だって」
彼に言うともなくつぶやく。
「とっくに知っていると思います」
レイヴンはきまじめに答えた。
「……そう。だったらいいけどね」
そうしてきまじめに、エドガーの指示を待っている。時計をちらりと気にするのは、レイヴンにしてはめずらしい。
「今夜はもういいよ」
「では着替えられますか」
「自分でするから、あがっていい。何か予定があるんだろう?」
「いえ、予定ではありません。もし時間があいたら、遊びに来ないかとニコさんが」
「へえ、妖精の宴会でもやってるのかい?」
「はい、屋根裏で」
ニコがよくそうしているらしいのは知っていた。ときおりレイヴンが誘われているらしいことも。
「楽しいのか?」
純粋に疑問を感じ、エドガーは聞いた。
レイヴンは、お酒を飲んでも酔わないし、騒がしい集まりも好きなほうではない。それにニコが連れてくる家付き妖精《ホブゴブリン》やブラウニーのような小さな連中は、レイヴンには見えないだろう。
「はい」
それでもレイヴンは、無表情のままはっきりと答えた。
すごく楽しいんだな。とエドガーはうらやましくもうれしくも思う。
主人しか目に入らなかったレイヴンが、ニコを友達として認識し、楽しくつきあっているというのは、はじめて息子が友達を連れてきた父親のような心境だった。
しかし今夜のエドガーは、別の意味でその宴会に関心を持った。
ニコがまだこの屋敷にいるらしい。リディアが延期を言いだした理由を知っているかもしれない。
「僕が加わってもいいと思うかい?」
「はい。ニコさんは紳士ですから」
邸宅のいちばん奥にある、ふだんは使われない階段は屋根裏部屋へと続いている。ランプを手にしたレイヴンと、きしむ階段をあがっていく。突き当たりにあるドアを開けると、やけに明るくてエドガーは目を細めた。
天窓の中央に月がかかっている。がらんとした屋根裏部屋いっぱいに、月光が差し込んで、急に異界へすべり込んだかのような不思議な感覚がする。
と思うと、灰色のふさふさした毛並みの猫が、足を踏み鳴らして踊っているのが目に入った。
いくらかふらついているが、ハイランドふうのダンスだろう。
「ようレイヴン、やっと来たか。あれ? 伯爵もか?」
「おじゃまするよ、ニコ」
自慢のしっぽを優雅に振り回したニコは、ほかの妖精と踊っていたのだろうか。彼がこちらへ来ようとしたとき、何か小さな光がニコから離れていったように見えた。
エドガーには、リディアのように妖精を見る能力はない。見えるのはニコのように、妖精がその姿をわざと人前にさらしているときだけだ。
「おうっ、まあそのへんに座れよ」
レイヴンがそうしたように、エドガーもそこにあった木箱に腰掛けた。
ニコは窓辺に寝そべって、機嫌よくしっぽをゆらゆらさせている。
(伯爵、めでたいことですなあ。結婚式までロンドンのあちこちで妖精の宴会が開かれとります。こんなに楽しいのは何百年ぶりでしょう)
コブラナイの声がした。銀製の、中世ふうのゴブレットがこちらへ向かってくるのは、あの鉱山妖精が運んでいるのだろう。
(ささ、どうぞ)
「ありがとう、コブラナイ」
姿は見えないけれど、ゴブレットを受け取ったとき、妖精が笑ったような気配を感じた。
妖精の魔力が強くなる夜、月の不思議な力を借りれば、リディアのような能力のないエドガーでも、かすかに小さな妖精たちの存在を感じられるのか。
そうして、リディアの愛する妖精たちに囲まれていることで、エドガーは彼女との絆《きずな》を実感する。
青騎士伯爵として自分は、リディアを妖精国《イブラゼル》の妃《きさき》に迎えるのだ。彼女ほど、それにふさわしい女性はいないだろう。自分に何かあっても、リディアなら妖精たちとともに伯爵家を守っていってくれるだろうから。
そんなふうに考えてはいけないと思いながらも、プリンスの記憶をかかえた不安は、消えるはずもなく、ふとしたおりに意識にのぼった。
(マイ・ロード、今夜はもう出かけないでくださいよ)
別の声がする。銀色の星が、きらりと視界を横切ったようだった。
「アローか? おまえもここに?」
(なんだか、飲み過ぎて……。呼ばれても、戦えそうにありません)
青騎士伯爵家に伝わる宝剣の妖精だ。彼が酔いつぶれているということは、剣は武器として役に立たないということだろう。
出かける予定はないものの。
「困るな、アロー、いつ何が起こるかわからないのに」
(人間相手なら、私より従者どののほうが役に立つでしょう?)
眉をひそめるエドガーの目の前で、また星が瞬《またた》いた。
「レイヴン、乾杯しよう。結局頼りになるのはおまえだけだ」
ゴブレットを持ちあげると、レイヴンは緊張した面《おも》もちで応《こた》えた。
中身のワインは、ずいぶん上等のものだった。妖精がつくったのかもしれない。
宴会というには、屋根裏には自分たちのほか誰の姿も見えない。ただ、ざわざわした音というか、気配のようなものは感じる。
妖精たちの歌やおしゃべりなのだろうか。
それは森の中の木の葉のざわめきのような、せせらぎのような、懐かしい感じのするものだった。
「伯爵、あんたはいいやつだよな」
酔っぱらったニコが、窓辺に片肘《かたひじ》をついて横になっている。いくらか上機嫌な様子だ。
「めずらしいね。きみが人をほめるなんて」
「もうそう思うしかないからな」
「結婚式は三日後だから?」
「リディアを不幸にしないよな」
「神に誓って」
「神か、信じてるようには見えないけどな」
「信じているよ、今は」
「現金だな」
とニコは鼻で笑った。
「だけどニコ、リディアは結婚式を延期したいと言ったんだ」
「へえ、リディアって、まだわかってないんだな。あんたにそんな禁句を言うなんて。結婚式を延期する代わりにって、むりやり寝床に連れ込まれるのがオチだ」
「あのねえニコ、僕だって立派な紳士なんだよ。ちゃんと合意は取りつけるよ」
ニコは冷たい目をこちらに向けた。
「でも、リディアはよっぽど結婚式をじゃまされたくないんだな」
驚いて、エドガーはニコを覗き込んだ。
「じゃまされるだって?」
「そうさ。五人の糸|紡《つむ》ぎ妖精を伯爵家は招待した。けど招待されなかった六人目が、そもそも伯爵家に恨《うら》みを持っていて、式のじゃまをするつもりなんだ。五人の妖精は祝福の魔法を花嫁の五つのものにかけてくれたけど、ひとつだけ、青いもの≠なくしてしまったから、六人目の悪さを防げなくなっちまった」
「妖精? そうか、妖精のせいなのか」
それを聞いて、エドガーは正直ほっとしていた。
「そうだよ。僕に不満なんてないはずだよね」
ひとつやふたつあるだろ、と言ったニコの言葉はもうどうでもいい。
「安心したよ、ニコ!」
ニコの手をつかんで大きくふる。迷惑そうな顔をして、彼はエドガーの手から自分の手を引っこ抜いた。
「安心じゃねえよ。妖精のすることを、あんたじゃどうにもできないだろ」
「でも、僕の欠点が問題になってるよりましだ。欠点はいまさら直せないからね」
「開き直ったな」
「それで、妖精はどうやって式を妨害するっていうんだい?」
ため息をつきながらも、ニコは起きあがって座り直した。
「式の最初に、結婚に異議を唱えるんだとよ。だからリディアは、どうにかしてそいつを止める方法を考えてるわけさ」
「それで、いい方法が見つかるまで延期したいってことか」
「妖精の名前がわかれば止められるんだろうけど、誰も知らないんだ。昔の青騎士伯爵にもわからなかったようだし、無理だろ」
どうだろうか。
飲み干したはずのワインは、いつのまにかまたゴブレットを満たしている。
杯《さかずき》を重ねれば、妙に楽観的な気分になる。
リディアが結婚を望んでいてくれるなら、何の問題もない。
妖精にも、クレアにもスレイドにも、じゃまなんかさせない。
「ねえニコ、僕は新しい青騎士伯爵なんだよ。昔の伯爵にはできなかったかもしれないどんな手段だって使ってやるから」
酔いが回ってきたエドガーがにやりと笑うと、心なしかニコはレイヴンのほうにすり寄った。
レイヴンは話に加わるでもなく、杯を重ねるでもなく、ただ座っているだけだ。
[#挿絵(img/something blue_105.jpg)入る]
これで楽しんでいるのだろうか。
首を傾げながらエドガーは寡黙《かもく》な少年を眺めたが、彼の髪や肩にふと灯る淡い光を感じ、小さく笑った。
意外と妖精たちに好かれているようだ。
「ニコ、ところでクレアのことだけど」
もうひとつ訊《き》こうとしたけれど、レイヴンにもたれかかったニコは、酔いが回ったのか唐突に眠っていた。
翌日、エドガーはカールトン家に出向いたが、リディアはちょうど出かけたところらしかった。
「どこへ行ったかわかりますか?」
まだ家にいたカールトン教授に、急いでそう訊《たず》ねる。
スレイドの事件にボートン卿の名があがってきたのが昨日のことだ。クレアの思惑がはっきりしないからには、ひとりで出かけたとなると気がかりだった。
「あのう、何かあったのですか?」
教授を心配させてしまったらしい。エドガーは思い直し、ふだんの笑顔を浮かべた。
「いえ、昨日彼女とちょっと言い争って。早く仲直りしたいだけなんです」
「ああ……、すみません。頑固《がんこ》な娘なもので」
「ご心配なく、教授。これも惚《ほ》れた弱みですから」
相好《そうごう》を崩《くず》した教授は、リディアは郊外へ向かったと答えた。
「ケンジントンの西に、修道院の遺跡があるのをご存じですか? それを見てみたいと言い出しましてね。景色がいいとでも妖精に訊いたのではないですかね」
礼を言って、帽子をかぶり直したエドガーを、教授はふと呼び止めた。
「伯爵、結婚式の延期は考えていただく必要はありませんので。リディアには私から言い聞かせました」
「リディアがその話を?」
「ええ」
「理由は聞かれましたか?」
「はい。妖精のことはよくわかりませんが……。それでもリディアが延期を口にするのは間違っています」
世間の目からすれば、そういうことになるだろう。男に非がないのに、女のほうから結婚の延期を申し出るのは問題だし、その理由が妖精のせいだなんて誰も信じるわけがなく、リディア自身に問題があるか、わがままな娘なのかと邪推《じゃすい》されるだろう。
その後きちんと式を挙げても、あとあと社交界でのリディアの傷になりかねない。
だからこそ教授は、カールトン家に延期の意思はないとはっきりさせることで、リディアをかばっているのだった。
「彼女はただ、婚約者に相談事をしただけです。そんな大事ではないのですから」
エドガーは言ったが、それでも教授は、神妙な顔つきで言葉を続けた。
「私は、リディアを自由に育てすぎたかもしれませんが、どうか伯爵、大目に見てやってください。あなたの不名誉になるようなことを、安易《あんい》に言い出すような娘ではないはずです」
教授はリディアにきびしく忠告しながらも、エドガーに譲歩《じょうほ》を申し出た。
伯爵家のほうからそれらしく理由をつけての延期なら、貴族社会の反感は少ないだろう。
ああ、やっぱりこの人は上手だ。
エドガーは、そういう人と身内になることを誇らしく思いながら、神妙に頷いた。
「彼女とよく話します。お互い納得できるように」
カールトン家をあとにしたエドガーは、ケンジントンへ向かうよう告げて、レイヴンと馬車に乗り込んだ。
間もなく動き出した馬車の中で、クレアのことを考えていた。
ボートン卿の妻子が亡くなるまで、クレアは屋敷に勤めていた。火事の時、彼女は休暇中だった。やけにタイミングがいい。
クレアはやはり、エドガーに片想いしていただけの女ではないかもしれない。
郊外へ向かって馬車は進む。公園沿いの道を抜ければ、やがて町並みの雰囲気《ふんいき》が変わる。ときおり目にする建物は、立派な邸宅ばかりの高級住宅地だ。
この先に古い修道院の遺跡があることを、エドガーも知っていた。とはいえ、土地の所有者は遺跡を保護するでもなく放置していると聞く。
昨今《さっこん》、そういったものに歴史的価値を唱《とな》える人々も増えてきてはいるが、たいていの人間には、何百年も前に壊された修道院などガラクタと同様、家屋敷を建てるには建物の残骸《ざんがい》がじゃまな、使い道のない土地でしかないのだった。
そんな場所に、リディアはどうして関心を持ったのだろう。妖精に誘われるような風景だっただろうか。瓦礫《がれき》の廃墟《はいきょ》を眺めておもしろいこともないだろうとエドガーは思う。
「エドガーさま、前方をごらんください」
御者の横に座っているレイヴンが、前の小窓からこちらを覗き込んで言った。
「馬車を止めますか?」
エドガーが外を確認すると、前方に人がひとり立っていた。
まっすぐにこちらを見ていて、ゆっくりした動作で帽子を取る。肩まであるくすんだ金髪が風になびく。
ユリシス。
そう気づいたエドガーは、止めろと御者に命じていた。
ユリシスのそばを通り過ぎたものの、間もなく馬車は道の真ん中で停止した。
少年、といっていいだろう若い男は、こちらへと近づいてくると、外から窓際のエドガーを見あげ、慇懃《いんぎん》に胸に手を当てた。
「殿下《ユア・ハイネス》、ご無沙汰《ぶさた》しており……」
「あの女はきみの手先か」
ユリシスのあいさつをわざとさえぎり、エドガーはそう言った。このタイミングで現れるからには、何か関係があるとしか思えなかった。
だからこそ、エドガーは顔を見るのも不愉快な男のために馬車を止めたのだ。
「あの女、と申しますと?」
あきらかにすっとぼけている。
ユリシスは、エドガーが長年戦ってきたプリンス≠フ側近だった。今はその組織を、彼が実質的に率いているのではないだろうか。
エドガーをプリンス≠ニして覚醒させたいと望んでいて、ときおりからんでくる。
「知らないなら用はない」
わざと突き放すと。
「クレア・フローリーなら、関係はないと申しあげておきましょう」
さっさと立ち去られるのは不本意らしく、ユリシスはあっさり答えた。
「何を知っている」
エドガーが気にしている女の名前を言い当てたのだから、クレアが何者なのか、ユリシスはいくらか情報を握っている。それをほのめかしたからには、教える気がないわけでもないのだろう。
「あの女が、どこまで彼らに関与しているのか、残念ながらつかめていないのです」
「彼ら?」
「それよりも、ボートン卿について話しませんか?」
ユリシスが、重要なことをただで教えるわけはないと思った。
しかし、この男や彼ら≠ニいう連中の思惑を、もう少し探りたいのはたしかだ。
「レイヴン、彼を馬車に」
御者台から降りたレイヴンは、馬車のドアを開ける。そうして、ユリシスを警戒するように、レイヴンもドア際に乗り込んだ。
再び走り出した馬車の中で、ユリシスはわざとらしく微笑んだ。
「そうそう、ご結婚されるそうで。おめでとうございます」
「やめてくれ。きみに祝われるなど縁起《えんぎ》が悪い」
「我々としましては、あのカールトン嬢が将来の王妃にふさわしいとは思えませんが」
ユリシスたちの組織は、王子《プリンス》≠アそが英国の王位継承者だと思っている。昔、英国を追われ、そして王位の奪還《だっかん》にも失敗した、スチュアート王家の血統だとして、災いの王子を生み出し、黒い魔力を用いて王位を奪おうと考えている。
プリンス≠フ継承者となったエドガーを、いずれ頂点に据えるつもりだ。
しかしエドガーにとって、プリンスやユリシス、そしてその組織は、家族を殺した仇《かたき》だった。それだけでなくエドガーを拉致《らち》監禁し、名前も地位も完全に奪った。
プリンスの記憶を受け継ぐ器にするために、エドガー自身の人格を破壊しようとした。
だからこそエドガーは心に決めた。プリンスの記憶を墓場まで持っていく。誰にも手出しはさせない。それがエドガーの、青騎士伯爵としての役目であり、憎い連中への復讐《ふくしゅう》だ。
「きみたちと王様ごっこをする気はないんだ」
「いつかそのときに、新しい妃をお望みになれば、我々がいかようにも処分しますよ」
「僕を怒らせたいようだね」
静かな動作で、ステッキをユリシスの首に押しあてながら、エドガーは彼をにらんだ。
「リディアへの侮辱《ぶじょく》は、死にたくなったときにするんだね」
「あなたがその気になれば、おれを殺すチャンスはあったでしょう。けれどまだ、おれは生きている」
「できないと思っているわけだ」
「いずれおれが必要になります。お気づきだからでは?」
エドガーは笑った。ステッキを引いて力を抜くと、背もたれに寄りかかった。
張りつめていた空気が急にほどけたのは、ユリシスには思いがけなかったのだろう。いつもの饒舌《じょうぜつ》さを失ったらしく、黙ってエドガーを見ていた。
「僕はきみが大嫌いだが、できれば殺したくはない。きみも、プリンスのかわいそうな犠牲者だと思うからね」
ユリシスは眉をひそめたが、冷静な態度は崩さなかった。
「ボートン卿の屋敷です」
淡々とそう告げる。窓の外に、黒く煤《すす》をかぶった屋敷が見えた。
そういえば、このあたりだった。
何度かエドガーも訪れたことのある屋敷は、枯《か》れ果てた植え込みや庭木の奥に、無惨な姿をさらしている。
建物が焼け落ちるほどの火事ではなかったようだが、卿の妻子が亡くなった。
火事があってからもここを通りかかったことはあるはずだが、見ないようにしていたのだと気づかされ、エドガーはユリシスの横顔を盗み見た。
自分もかつて、家が焼けるのを眺めた。
意識も朦朧《もうろう》としていて、どこからそれを見ていたのかよくおぼえていないけれど、優雅で堂々としたマナーハウスが、炎に包まれる情景はまぶたに焼き付いている。
何が起こったのかもわからないまま、エドガーは、自分の家族や親戚《しんせき》や、あそこにいた親しい人たちとはみんな、もう二度と会えないのだと直感していた。
思い出したくない記憶だ。だから無意識にも、ボートン卿一家の不幸の象徴を視界から遠ざけていたのだろう。
「きみたちがやったのか」
憤《いきどお》りを押し隠し、エドガーは問うた。
「いいえ。でも、火はすべてを焼き尽くしてくれます。理想的な手段です」
「少なくとも、事故じゃなかったんだな?」
ユリシスは薄く笑う。
「何もかも、屋敷も人もあたりまえの日常も、一瞬で灰にしてしまう。二度と取り戻せない。そうでしょう? 殿下」
挑発しているのだろうけれど、エドガーはどうにか平静を保っていた。
「誰が何のために、ボートン家を?」
「おそらく制裁です」
「……何だって?」
「その存在を外部にもらした者は、地獄の業火《ごうか》に焼かれる……。あの教団の決まりです」
「教団? 卿があやしい宗教団体に属していたというのか?」
「属していなければ、もらされて困るような秘密を知ることはできないかと」
そういったところはたいてい、組織の存在を他にもらすことが禁忌《きんき》となる。禁忌を犯せば殺される。
「クレア・フローリーもか?」
「可能性はあります」
そうでなくても、ボートン家にいたなら何か知っているかもしれない。
「彼女が勤めた家は、変死をする者が続いています。まるで死神の先触れのように。そして今度は、あなたの屋敷へ入り込もうとしている」
「で、きみはなぜそれを、僕に教える」
「もちろん、あなたが我らの王子《プリンス》だからですよ。彼らの組織は、このところ少々やりすぎのようです。裏組織として、慎重にやるべきことにまで注意を怠《おこた》っている。それに、我々としてはあなたに手を出してほしくない。我々なら、あなたが築き上げたもの、これから得るだろうもの、すべて守ることができます。火を放たれる前に、火を放つことも」
ユリシスの言葉を鵜呑《うの》みにはできない。エドガーはまず警戒した。
別の組織の暗躍《あんやく》をほのめかしたくらいで、エドガーが簡単に自分たちと手を組むなどとユリシスは考えていないはずなのだ。
情報を与えて利用しようというのが関の山。むしろ、向こうのことをよく知っている様子なのは、必ずしも敵対している相手ではないのかもしれない。
「勘違いしないでくれ。僕は青騎士伯爵だ。きみたちの組織をたたきつぶすのが僕の役目だ」
ひとりでも戦う覚悟はできている。いまさら迷うはずもない。
いや、ひとりではない。レイヴンがいる。……それにポールや、朱い月≠フジャックとルイスも。少なくとも今は、スレイドのためにもエドガーを信じてくれている。
「なるほど、ではどうぞご自分で。火の元にはお気をつけください。大切な少女のために」
わざとエドガーの不安をあおって、ユリシスは馬車を止めるよう御者に声をかけた。
「そうそう、この先の修道院跡で、クレア・フローリーの姿をしばしば見かけましたよ」
それだけ言い残して、ユリシスは馬車の外へ消えた。
[#改ページ]
健やかなるときも病めるときも
父さまが、あんなふうに言うなんて。
『結婚式を延期したいなんて、言い出すものじゃない。伯爵《はくしゃく》にあやまっておきなさい』
さすがにリディアは落ち込んだ。
けれど、父に諭《さと》されて気がついた。
誰に強制されたわけでもなく、ふたりで決めた結婚だけれど、ふたりの問題ではすまされないことがたくさんあるのだ。とくにエドガーは貴族で、リディアはそうではないのだから、慎重になるべきことだっただろう。
エドガーが頭にくるのも無理はない。
あからさまなケンカになるのを彼のほうから避けてくれたけれど、どう考えてもリディアがいけなかった。
馬車の中で思い出しながら、ため息をつく。
けれど、延期が無理ならなおさら、妖精の妨害をどうにかしてふせがなければならない。
そう思ったリディアは、六人目の妖精の棲《す》みかをさがそうとして、郊外の修道院跡へ向かっているのだった。
妖精は言っていた。
女神の見ているものはすべて見える。憎らしい大天使の修道院が消え失せるのも眺めた
かつてこのイングランドにあった修道院は、十六世紀にヘンリー八世が国教会を樹立したときにことごとく壊された。カトリックを追放したからだ。老婆が見ていたというのは、そのときのことだろう。
そんな修道院跡はいくつもあるけれど、大天使という言葉を手がかりに、ともかくリディアは郊外までやってきた。
馬車を降りて、御者に教えられたとおりに林の中の細い道を歩いていくと、急に目の前が開ける。
崩《くず》れかけた石造りの建物が、草木の隙間《すきま》に骸《むくろ》のような姿をさらしている。
ひと気のないその場所を奥へ進むほど、淋《さび》しいというよりは不気味で、リディアはひとりで来たことを後悔しはじめていた。
薄曇《うすぐも》りの空の下、建物の残骸に囲まれ、中世に迷い込んだかのような気さえする。
かろうじて立っている柱とアーチを眺めれば、聖ガブリエル修道院と文字が読みとれる。
大天使の修道院。六人目の妖精が言っていたのは、ここで正しいのだろうか。
リディアはさらに奥へ入っていく。
糸|紡《つむ》ぎ妖精の名を知る方法は、リディアの知識の中にはひとつだけしかなかった。
妖精の棲《す》みかをのぞき見ることだ。こっそり眺めていれば、妖精は独《ひと》り言《ごと》の中で自分の名前を言ってしまうことがある。
しかしそれも、のぞいているときにタイミングよく独り言を言うのかどうかと考えるとあやしい言い伝えだが、ほかに方法は考えつかなかった。
ともかく、妖精が自分の棲みかについてもらしたと思われる、女神像という言葉だけが手がかりなのだ。
「でも、修道院に女神の像があるのかしら」
女神と妖精が言うからには、古代の神々のうちのひとりだろう。けれどカトリックの修道院が神々の像をあがめるわけがない。
いや、そうとも言い切れないだろうか。
そのときリディアは、石壁の陰《かげ》にぽつんとたたずむ、子供の背丈ほどの石像を見つけていた。
修道院の遺跡よりも古そうなそれは、かろうじて目鼻立ちがわかる程度だが、体つきからして女の像であることに間違いはないだろう。
聖母だろうか。右手には十字架を持っている。
しかしリディアは、像のもう一方の手に注目していた。
「これは……錘《つむ》じゃないかしら」
糸巻き棒は昔から、女神の小道具だった。
そういえば聖母マリアは、キリストの教えがこの島国に入ってきたころ、古い女神たちと同一化したとも聞いたことがある。もしかするとこの像は、もともとはマリア像ではなく、もっと古い時代の女神だったのかもしれない。
糸紡ぎ妖精たちの先祖、それとも彼女たちの、もともとの姿。
だとしたら、このそばに妖精の棲みかがある。
でも、そばといったって、どのへんをどうさがせばいいのだろう。
考え込んだリディアの耳に、草を踏む音が聞こえた。はっとして振り返ると、向こうもびっくりしたようにこちらを見ていた。
「……クレア?」
「あ……、リディアさん……」
思いがけない対面に困惑したようにも見えたが、同時に彼女は、おびえたような目で背後を気にしていた。
「誰かいるの?」
「えと……、知らない人につけられて一それを聞いて、リディアも急に不安になっていた。こんなひと気のないところでは、何かあっても助けを呼べない。
「いっしょに行きましょう」
早くこの場を離れ、通りまで出るべきだと思った。
「あの、でも……」
戸惑うクレアを促し、急ぎ足で歩き出す。
たしかに視線を感じる。足を止めずに振り返れば、木立の陰に人の気配《けはい》がある。身を隠しつつもこちらをうかがっているのだろうか。
自分たちの足音に紛《まぎ》れるように、背後の足音も近づいてくる。リディアが急ぎ足になれば、足音も急ぐ。
ちらりとクレアを見れば、彼女の表情も硬く、目が合うと不安そうに視線をそらした。
「ねえ、後をつけられる理由があるの?」
彼女は青ざめたが、ただ首を横に振る。リディアを置いていきかねないくらい早足になる。
急いで蔦《つた》のアーチをくぐり抜けたとき、目の前に人影が現れ、リディアはびっくりして悲鳴をあげそうになった。
「リディア!」
名を呼ばれると同時に、いきなり抱き寄せられる。
「えっ……エドガー……?」
見あげれば、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳がリディアを覗き込んだ。せっぱ詰まったように、かすかに眉《まゆ》をひそめる。
「リディア、よかった……。教授に行き先を聞いて、追いかけてきたんだ」
背後に感じていた足音や人の気配は消えていた。リディアは安堵《あんど》して息をついた。
「驚いたわ……」
「僕もだ。急にきみが飛び出してきたから」
エドガーはリディアをさらに抱き寄せて、髪に頬《ほお》を寄せる。
ふたりきりではないときにそんなふうにされると、リディアはまだまだ戸惑う。
「あの……、エドガー、クレアよ。たまたまここで会ったの」
だからつい、彼の腕を逃れてしまうリディアは、そばにクレアがいることを気づいてもらいたくてそう言った。
クレアは膝《ひざ》を折ってお辞儀《じぎ》をし、エドガーは唐突な笑顔を彼女に向けた。
「ミス・フローリー、こんなところにひとりで? 何をしていたの?」
そう言われれば、リディアも不思議に思う。
「……あの、それは」
「エドガー、不審な人が後をつけてたみたいなの。もういなくなったと思うけど」
「ふうん、そうなのかい? 後をつけられるような事情が?」
「伯爵……」
「無理に話す必要はないけれど、ミス・フローリー、こんな場所にひとりで来て、誰かに後をつけられるようなことがあるとなると、リディアの侍女につけるのはどうしても心配だな」
クレアは事情を話そうとしたのかもしれない。けれどエドガーは、にこやかに話しながらもあえてさえぎったようにリディアには思えた。
「エドガー、そのことは」
「リディアが試用期間を決めて雇いたいと言ったそうだね。きみはどうしたいと思ってる?」
今ここで返事を求めるなんて。そう思ったけれど、リディアが口をはさむ前に、クレアは答えた。
「……辞退したいと、思ってました。リディアさんの気持ちはうれしかったんですけど」
エドガーにあきらかに迷惑そうにされて、働きたいと言えるわけがなかっただろう。
いや、どのみちクレアは断ってくるだろうと思っていた。リディアに対し、努力してうち解けようとしながらも、難しく感じているように見えた。
さっきも、後をつけられているとおびえながら、リディアと会って安堵した様子もなかった。女だけでは、ひとりきりでもふたりでも、危険に変わりはなかったからかもしれないが、断られるのもしかたがないとリディアは思う。
自分だって、クレアが必要だというよりも、リボンのことを考えていたのだから。
「そう。ならそういうことで。従者にきみを送らせよう」
それだけ言うと、レイヴンを視線で促し、彼はリディアの腕を引いてその場を離れた。
ずいぶん強引に、リディアを引っぱっていく。あきらかに機嫌が悪そうだ。
それもそうだろう。クレアのことも結婚式の延期を口にしたことも、このところ自分はエドガーに逆らってばかりだった。
黙々と歩き続けたエドガーは、ふと立ち止まり、リディアのほうに向き直った。
「ごめん。やっぱりクレアはだめだ。……理由は、今はまだ言えない」
思いがけない言葉に驚いて、リディアが眉をひそめると、彼はあわてたようにつけ足した。
「わかった、こうしよう。代わりに何でもきみのいうことをきくから。ああでも、結婚の延期はだめだ。ほかのことなら……」
「怒って、ないの?」
リディアが問うと、彼は意外そうに首を傾《かし》げた。
「昨日は、すごく怒ってたでしょ?」
エドガーはあのとき、感情を抑《おさ》えようとしていただけに、そうとう頭にきていたはずだった。父に叱られて、リディアは気がついたのだ。
「昨日の僕はそんなにひどい態度だった?」
「いつもと違ってたわ」
「そうかな」
「……帰り際に……しなかったもの」
「え? 何を?」
キスを、とは言えずに、リディアはあせった。
あたしったら、何を言い出すの?
「えっと、その、昨日はあたし、自分のことしか考えてなかったわ。延期なんてできるはずないのに。だから……言いたいことは言ってくれていいのよ。父みたいにあたしのこと甘やかしてたら、わがままな奥さんになっちゃうわ」
前言をうち消すように言葉を続けるが、それもなんだかあまえたような会話になって、リディアは逃げ出したい気持ちにさえなった。
そういうときエドガーは、リディアを見おろし、楽しそうな顔をする。
「そんなふうにかわいらしくあやまられたら、怒るどころか押し倒したくなるよ」
修道院跡の廃墟に、人影はない。
エドガーの言葉はどこまで冗談だかわからないから、リディアは落ち着かなくて歩き出そうとする。
けれど彼は、そうさせまいとするように腰に腕を回した。
「僕は教授よりずっと、きみを甘やかすと思うな。教授よりずっと、心は狭いけどね」
それから急に、真剣な口調になる。
「僕のほうも、きみにあまえていた。ニコにあとで聞いたけれど、妖精が式をじゃましようとしてるって、悩んでたんだね。なのに、きちんと話も聞かずに、頭ごなしに反対した」
瞳を覗き込んで、輝くばかりにやわらかく微笑む彼は、いつからこんな表情をするようになったのだろうか。
どんな苦労もこの世の闇《やみ》も知らず、のびのびと育った公爵《こうしゃく》家の令息だったころは、こんなふうに微笑んでいたのかもしれないとリディアは思う。
そしてその無垢《むく》な一面を、自分に向けてくれることがいとおしい。
「妖精のせいだろうと、延期はしないよ。リディア、きみが僕との結婚式をすてきなものにしたいと思っているならなおさら、これ以上待てない」
リディアは赤くなってうつむいた。
結婚式はそもそも、花嫁にとっての一大イベントだ。早く結婚したいだなんて、いちども言ったことがないリディアだが、楽しみにしているのは当然だろう。
そう見抜かれて、気恥ずかしかった。
「でも、式が混乱するのは、あなたも困るでしょう?」
「青いもの≠なくしたから、妖精のじゃまを防げないんだって?」
「ええ、祝福の魔法は、二度とはかけられないみたいなの。式の最中に異議を唱えられたら、もうどうにもできないわ」
なるほど、とエドガーはつぶやいたが、すぐに楽観的な笑みを浮かべる。
「大丈夫。どんな手を使っても式を挙げてみせる」
ああ、エドガーだわ。
得体《えたい》の知れない力を持つ妖精相手にだって一歩も引かない。危険なくらい根拠のない自信に見えるけれど、結局いつも、何もかも、彼は思い通りにしてしまうのだ。
だから彼がそう言うなら、リディアはぼんやりと、どうにかできそうな気がしてしまう。
顔を近づけて、エドガーはささやいた。
「|青いもの《サムシング・ブルー》≠買いに行こう」
「祝福の魔法のない青いものじゃ、役に立たないわ」
「そんなことはないさ。だってそもそも、五つのものを身につけるおまじないは、魔法がかかっていようといまいと、効き目があるって信じられてきたわけだろう?」
「そうだけど……」
会話をするには近すぎる距離で、エドガーはリディアを見つめている。密着してしまいそうになるから、リディアは彼の胸をいくらか押してみるけれど、背中をかかえ込まれていれば距離は大して変わらなかった。
「青≠ヘ誠実な愛のあかしだ。魔法なんかなくたって、僕たちのあいだには誠実な気持ちがあるだろう?」
誠実なんて言葉からはほど遠い人だった。けれど今、リディアは彼の気持ちを信じている。
「きっと最高の日になるよ」
「ええ……そうね」
少しだけ顔をあげて、リディアは笑った。
「やっと笑ってくれたね」
彼女の耳元の髪をそっとよけながら、エドガーは目を細めた。
「今も面倒《めんどう》だと思ってる?」
「え?」
「僕が何かとべたべたするから」
「……面倒なんて、そんな……、思ったことないわ」
いつもちょっと恥ずかしいだけ。
考えながら、あ、とリディアは思い出した。
「あのときのこと……? ち、違うのよ。この前は、違うことを考えてたの。妖精が面倒ばっかり引き起こすから……」
「なんだ、僕のことじゃなかったのか」
子供みたいにうれしそうな顔をする。端正で貴族的で、知らずと頬が熱くなるようなエドガーの笑顔を、かわいいなんて思う日がくるなんて。
笑顔のまま、彼はリディアの額に口づけた。
「だったら、ひかえめにしなくてもいいんだね?」
「えっ、でも外ではひかえめに……」
「よかった。ふたりで過ごして、キスのひとつもしないなんて無理だと思ってたところだ」
リディアが言いかけたことはまったく聞いてもらえないまま、キスはまぶたに、頬にと続いた。
まあ、いいか……。
これからはずっと、この人がそばにいる。リディアはそれを強く実感しながら、おだやかな気持ちになっていた。
こうして、並んで歩けることがうれしい。
もう彼をあきらめなくていいんだと思うと、ようやくハイランドでのつらかった日々を抜け出せたような気がする。
ロンドンへ帰ってきても、結婚が目前にせまっても、なかなか現実を信じられずにいたから、妖精にじゃまをされるとなって、うろたえるしかできなくて、彼を困らせてしまった。
けれど、きっともう大丈夫。
いつのまにか修道院跡の敷地を抜け出して、ふたりは並木の道を歩いていた。
リディアは自然に、エドガーの腕に手を添えていた。
もう少し歩きたいとエドガーが言って、そのまま住宅地が広がる道へ出る。
郊外の高級住宅地は、最近になって富裕層の屋敷が増えているため、眺めのいい町並みになっている。ロンドンの中心部とは違い、広々とした庭園をかまえられるのが人気らしい。
エドガーがふと足を止めたので、リディアも立ち止まると、道沿いの生け垣に、紫の可憐《かれん》な花が咲いていた。
「ヘリオトロープね。さっきからいい香りがすると思ったわ」
「ああ、そうだね」
言いながらエドガーは、花の生け垣の向こう、木々の枝が重なる奥に目を向けていた。
建物は奥まったところにあって、ぼんやりと黒っぽい影にしか見えない。
火事のあった屋敷だとは知らないまま、リディアはエドガーのほうに視線を戻した。
「不思議だな。失ったものは取り戻せないと思っていた」
そして彼は、もの思うようにつぶやく。
「すべてが灰になった。僕の名前さえ。だけど今は、アシェンバート伯爵の名が、僕を生き返らせてくれた」
リディアを見て、切《せつ》なげに目を細める。
「シルヴァンフォード公爵の名は失ったけれど、きみと出会えたから、自分らしさを取り戻せた。プリンスのもとで虐待《ぎゃくたい》を受けて、きたない世の中に身を置いて、公爵家の御曹司《おんぞうし》とはいえない僕になってしまったけれど、もういちどあのころのように、日々に幸せを感じられるようになった」
いつのまにか、リディアは手を握られていた。
「もう、恐れることなんてない。あのときの炎も陰謀《いんぼう》も、すべてを奪うことはできなかったんだから、これからだってそうだ」
つながれた手は、二度と離れることはないだろう。
「リディア、きみのことは僕のすべてにかけて守る。だから、もういちど僕に与えられた|高貴な義務《ノブレスオブリージュ》を、いっしょに守っていってほしい」
新しい伯爵家のために。リディアはたしかに望まれていることを実感しながら頷いた。
〜*〜*〜*〜
大きな扉が目の前で開かれると、パイプオルガンの音色がせまるように耳に響《ひび》いた。
白い布を敷いたバージンロードの先に、エドガーの姿を見つけ、リディアの鼓動《こどう》が高鳴る。
母のウエディングベールごしに見る風景は、柔らかい光に包まれて、どこか夢のようだ。
ステンドグラスを透かした虹色の光が、祭壇《さいだん》に降りそそいでいる。リディアは、母がすぐそばで見守ってくれているように感じている。
父が奮発《ふんぱつ》して用意してくれたドレスは、着心地よく軽く、ひかえめにした装飾が繊細《せんさい》なレースを引き立てて、誰の目にもリディアは、伯爵家の花嫁にふさわしく見えただろう。
ブーケは百合《ゆり》とオリーブの花。真珠がゆれる耳元にも花をあしらって、リディアは自宅で鏡に映る自分を眺めたとき、くすんだ赤茶の髪も魔女めいた金緑の瞳も、好きだと思えた。
そうして父の腕に手を添えて、かわいらしいプライドメイドに先導され、一歩ずつ進む。
ロタとポールの笑顔が目に入る。ニコもいる。メースフィールド公爵《こうしゃく》夫妻と、リディアが結婚準備のためにお世話になった貴婦人たちが集まってくれて、花嫁がわの参列席も華《はな》やかだ。
うれしく思うのと同時に、彼女は気持ちを引き締めてベンチのすみを確認した。
老婆が五人、並んで座っている。
人の目には見えないだろう、糸紡ぎ妖精だ。
少し離れたところにもうひとりいる。問題の六人目。
妖精たちはふつう、教会には入ってこないが、正式に招待されたあの五人の老婆はとくべつだろう。六人目にとっては、教会は不愉快な場所であるはずだ。しかし伯爵家への恨《うら》みの執念《しゅうねん》か、参列席に腰をおろしている。
エドガーはどうやってあの妖精を黙らせるつもりなのかしら。
今朝早く、伯爵家から届いたメッセージカードには、何も心配しなくていいとエドガーの筆跡で書いてあった。
式当日は顔を合わせられないので、詳しいことはわからないままだ。それでもリディアは、どうにかなると自分に言い聞かせていた。
古いもの、新しいもの、借りたもの、青いもの、靴の中には六ペンス銀貨。
幸福な花嫁になれるというおまじないはぜんぶ身につけている。
手袋の内がわ、手首に直接結んだ青いリボンは、妖精の魔法はかかっていないけれど、エドガーが魔法をかけてくれた。
誠実な想いは、ちゃんとふたりのあいだにあるから……。
バージンロードの中ほどで、父が立ち止まると、リディアも歩みを止めた。視線をあげれば、エドガーが目の前に立っていた。
こちらを見つめ、彼は微笑む。
ベール越しだとはいえ、間近で眺めたエドガーは、あまりにもまぶしかった。
まっ白なモーニングコートに、瞳の色にも似た淡いすみれ色のアスコットタイを結び、リディアのブーケとお揃《そろ》いの花をボタンホールにしている。
華やかな金色の髪には、白い礼服も花も似合いすぎてまぶしすぎる。ため息がもれ聞こえるのは、エドガーを眺めている参列者からだ。
やっぱり、どんなドレスで着飾っても、エドガーのほうが目立ってしまうんだわ。
そう思ったけれど、彼だけはリディアを見てため息をもらす。
「ああ、最高にきれいだよ」
他の人にどう見えていようと、エドガーがそう言うなら、リディアは自分に自信が持てた。
そうして、カールトン家の娘だったリディアは、これからアシェンバート家の一員になる。
父の腕に添えていた手を、今度はエドガーの腕に添え、リディアはまた歩き出す。
エドガーが隣にいれば、さっきまでの緊張感はやわらいでいたが、牧師の前に立ったとき、急に心配になってきていた。
妖精が口を出して、式がめちゃくちゃになったらどうしよう。本当に大丈夫なのかしら。
考えているうち、結婚式は始まっていた。
結婚についての話をしたあと、牧師は参列者を見渡した。
ここだ。問題なのは。
牧師は言うだろう。この結婚に異議のある者は、今すぐ申し出なさい。さもなくば、永遠に口をつぐみなさい、と。
そこで妖精が口を出したら、式は中止になってしまう。
エドガー、どうやって妖精を止めるつもりなの?
リディアは全身に力を入れて待った。
けれど、牧師は問題の言葉を発しなかった。
代わりに、耳に聞こえてきたのは賛美歌だ。
パイプオルガンの音色《ねいろ》と歌声が響《ひび》く中、リディアは驚きながらエドガーを見た。
こちらに気づいたエドガーは、軽く片目をつぶってみせる。
これって、エドガーの作戦?
やがて歌が終わり、聖書の朗読が始まっても、牧師はすっ飛ばした手順に戻る様子もない。
妖精は黙っている。
異議を問う手順をはずすよう、エドガーが牧師に頼んだということだろうか。妖精が気づいて、急に暴れ出したりしないかしら。
リディアが悩んでいる間にも、式は順調に進められていく。
参列者の席は静まりかえっている。妖精が悪さをしそうな気配もない。
そうなの? 妖精は気づいてないの? 牧師さまがあの言葉を告げるときを、このまま待ち続けるだけ?
冷静になってみれば、その可能性は高いだろうと思われた。
妖精はたいてい、融通《ゆうずう》がきかないものだ。決まりごとには頑固に従う。
あの六人目の糸紡ぎ妖精にとって、伯爵家の結婚をじゃまするということも、五人の魔法の守りがあればじゃまできないということも決まりごとなら、牧師の言葉に従って異議を唱えるというのも決まりごとだったのだ。
リディアには盲点だった。
魔法を使う妖精だと頭にあったから、魔力でふせぐことしか考えていなかった。
そもそも、神聖な儀式の手順を変更するなんて罰当《ばちあ》たりなこと、想像もできなかった。
神に仕える牧師が、儀式の重要なところを省いてくれるとは思いもしないではないか。
「……健《すこ》やかなるときも病《や》めるときも……」
けれどそれをさせてしまうのがエドガーだった。
脅《おど》したのかしら。それとも買収?
「……常にこれを愛し……」
よく通る牧師の言葉を聞きながら、リディアはよろこぶべきかあきれるべきか真剣に迷いたくなった。
でも、そういうエドガーに自分は守られてきた。そういう人だから、リディアをヘブリディーズの島から連れ出してくれた。
これからも、エドガーが何をしようと、どんな選択をしようと、彼が青騎士伯爵として大切なものを守るためになすことなら、受け入れるのがリディアの役目だ。
[#挿絵(img/something blue_137.jpg)入る]
「……誓いますか?」
式はすでに、誓約の言葉を交わす段階に移っていた。
「はい、誓います」
エドガーは意味をかみしめるように答え、リディアを見て微笑んだ。
「新婦、リディア・カールトン」
また急に緊張しながら、リディアは顔をあげた。
「あなたはこの男と結婚し、神の定めに従って夫婦になろうとしています。健やかなるときも病めるときも、常にこれを愛し、これを敬い、これを慰め、これを重んじ、これを守り、死がふたりを分かつまで、かたく節操《せっそう》を守ることを誓いますか?」
「……はい、誓います」
もう大丈夫。妖精はじゃまをすることができなかった。
安堵《あんど》して、そしてあらためて、誓いの言葉が胸にしみ入ると、リディアの瞳はうるんだ。
エドガーの手が、頬をぬぐうように触れた。
いつのまにかベールはあげられていて、隔てるものもなく彼の顔を間近に見ている。
父と子と聖霊のみ名において……
口づけは驚くほど慎重だった。
そっと触れて、そっと離れた。
神があわせられたものを、人は離してはなりません。……アーメン≠烽、誰かに、不本意に、引き離されることなんてないんだ。
そう思うとうれしくて、こらえきれずに涙がこぼれた。
〜*〜*〜*〜
結婚式も祝宴《バンケット》もめまぐるしく執《と》り行われて、リディアが一息つけたのは、午餐《ごさん》も終わってからだった。
祝宴はエドガーの屋敷で行われた。
教会から屋敷へ到着したとき、玄関からダイニングルームから、広間や応接間もオリーブと百合の花で飾られていて、ふだんの屋敷ともきらびやかな夜会のときとも違う華やいだ雰囲気に、リディアは驚かされたのだ。
けっして華美な祝宴ではなかったが、上品な趣向《しゅこう》で、料理もお酒も余興も、客人たちを満足させていた。
花嫁道具のひとつとして、ぎりぎりの予算で父が用意してくれた食器のセットを使うと決めたのはエドガーだ。それはふだん使いのつもりで買ったため、あまりにも飾り気がなかったが、テーブルのセッティングや料理とのバランスで、今日の祝宴にはこれ以上ないくらいふさわしいものに見えていた。
花嫁道具の披露《ひろう》もしながら、家柄の差を感じさせない配慮はありがたかった。
とはいえ、招待客の大半を占めるエドガーの友人たちは、まだリディアにはおぼえきれていない。気心の知れた人とばかり話しているわけにはいかないので、どうしても気を遣《つか》う。
客人たちはますますにぎやかに話がはずんでいて、広間ではダンスも始まっているが、そんなわけでリディアが一息つこうとやってきたのは、自分の、フェアリードクターとしての仕事部屋だった。
大きくて使いやすいデスクをのぞけば、女性好みに装飾された明るい部屋は、リディアは思えばかなり気に入っていた。
広く取られた窓は外の光をたっぷり取り込んでくれたし、小ぶりなテーブルのそばのソファに座って、休憩時間にお茶を飲むのも楽しみだった。
ここで、伯爵家のフェアリードクターとして、妖精がらみの問題に取り組み始めたときは、エドガーと結婚するだなんて想像もしなかった。
外に見える中庭は、毎日眺めてきたものだ。けれど今日は、あらゆる木々に花が咲きみだれ、はじめて見る景色になっている。エニシダやリンゴ、バラにオリーブ、デイジーやチューリップは花壇を色どり、妖精たちの祝福の魔法に満ちている。
この仕事部屋も、そんな花でいっぱいに飾られている。
物思いに耽《ふけ》るリディアは、ノックの音で我に返った。ドアを開けたのはロタだった。
「やっぱりここだった」
「ロタ! それにポールさんも」
「おじゃましてもいいですか?」
「ええ、もちろん」
ふたりそろって入ってくると、後ろからレイヴンが、ティーセットを手にして続いた。
「リディア、あんまり食べてなかっただろ? そう思って、軽いもの持ってきてもらった」
サンドイッチや小さく切ったキッシュをレイヴンがテーブルに置く。慣れた手つきでお茶も淹《い》れる。
「わあ、ありがとう。そういえばお腹がすいてきたわ」
食事の席では、式の余韻《よいん》もあって胸がいっぱいだった。それにたくさん話しかけられて、食べているどころではなかったのはたしかだ。
「いい結婚式でしたね、リディアさん。ぼく、感動しましたよ」
「そうそう、ポールってば涙ぐんでたもんな」
自分のことのようによろこんでくれるポールは、エドガーの苦労をそばで見てきたからだろう。
リディアをハイランドの島から連れ戻すために、エドガーはポールとともに、あとで話を聞いたリディアが青くなるくらいとんでもないことをした。
「ありがとうございます、ポールさん。……それに、ロタも」
「あたしはリディアが幸せそうで満足さ」
にっこり笑えばえくぼができるロタは、さすがに今日はいつもより令嬢らしく見える。髪を結ぶのにロープではなくリボンを使っていたし、ポールも礼装でぐっと男前だ。
「でも、結婚式って案外、エドガーと話ができないのね。今日はまだ、ろくに話をしていないのよ」
「へえ、そういうものなんだ。じゃ、リディアが淋《さび》しがってるって言ってこようか? あいつすっ飛んでくるよ」
本当にすっ飛んできそうなのでリディアはあわてた。
「え、いいのよ。お客さまと話してるんでしょうし」
「だな、その気にさせるにはまだ時間が早い。披露宴そっちのけになりそうだ」
からりとロタは笑うが、あけすけな物言いに、リディアよりもポールのほうがうろたえていたかもしれない。
「や、ロタ、このサンドイッチおいしいよ」
などと彼女の気をそらそうとする。
「エドガーさまは、カールトン教授と話し込んでいらっしゃいました」
レイヴンが、そっと教えてくれた。
「やだ、何の話をしてるのかしら」
「まあいいじゃん、男同士つもる話もあるだろ。さ、リディアも食べなよ」
ロタはもうサンドイッチに気を取られたらしい。
「ねえレイヴン、今日はありがとう。あなたには忙しい一日だけど」
立ち去ろうとしている彼に声をかけると、少し振り返り、リディアをじっと見た。
いつもの、まったく感情の読めない淡々とした目で長いこと見られるのは、なんだかにらまれているような気分になるが、たぶんレイヴンは言うべき言葉をさがしていたのだろう。
「はじめてです。こんなに楽しい一日は」
それだけ言うとさっさと立ち去ったが、リディアはうれしくて微笑んだ。
「おーい、リディアー」
窓からニコの声が聞こえた。
窓枠に二本足で立って、しっぽをゆらゆらさせるニコは、かなり酔っぱらっている様子だ。
「ちょっとこっちにも顔を出してくれよ」
「ニコ、妖精たちだけで集まってるの?」
「そうさ、|妖精の市《フェアリー・マーケット》とこの窓がつながったところだ。早く来いよ。スコットランドの家からも、あんたの花嫁姿を見に、みんな来てるんだぞ」
リディアが立ちあがろうとするよりも早く、ロタが立ちあがった。
「すごいな、妖精も祝宴《バンケット》を開いてるのか。あたしも行ってもいい?」
「ええ、もちろん。ポールさんも」
「いいんですか?」
「この窓から出てくださいね」
ひょい、とニコが窓の外へ姿を消すと、リディアは椅子を窓辺に寄せ、ドレスのすそを持ちあげながら窓の外へ踏み出す。
「ええっ、リディアさん!」
ポールが驚いて窓から身を乗り出したのは、そもそもここは二階だからだろう。
けれども今、外は、窓と同じ高さで花咲き乱れる野原が広がっていた。
見渡すかぎりの草原で、ロンドンの建物はひとつも見あたらない。
大きな木が一本生えていて、そのまわりに集まっているのは妖精たちだ。
ポールやロタも、こちら側に足を踏み入れれば妖精の姿が見えただろう。
物売りの屋台があるかと思うと、あちこちで妖精たちが浮かれ踊っている。大きさも種類も様々な妖精たちは、羽のあるものは虹色の光を撒き散らしながら空を舞い、またそうでないものは地面の穴から顔を出していたり、木の枝にぶら下がり、木の葉につかまって風に乗る。
そんな小さなものたちの中には、スコットランドの自宅で親しくしていた顔もあった。
「みんな、来てくれたのね」
きゃらきゃらと声をあげながら、昔なじみたちが集まってくる。うれしそうに、リディアのドレスにまとわりつく。
(お妃《きさき》さま、ようやくそうお呼びできますなあ)
声のした足元に身を屈めれば、もじゃもじゃヒゲの鉱山妖精がいた。
「コブラナイ」
(ボウもよろこんでいるようです)
背伸びして、コブラナイはリディアの指にあるムーンストーンの指輪を覗き込んだ。今は結婚指輪となったそれは、コブラナイの一族が世話をしてきた妖精族の宝石だ。
初代青騎士伯爵の妃のものだった。
「ほんと? よかったわ」
(そうそう、ボウは人の言葉をしゃべれませんが、あれがお妃さまにお目にかかりたいと)
コブラナイはあたりを見まわし、それから草の茂みを蹴った。
(ほら、あいさつせんかい、アロー)
銀色の光が瞬《またた》いた、と思うと、そこに寝転がっていた少年が姿を現す。そうして彼は、億劫《おっくう》そうに体を起こした。
(また酔っぱらいおって、おまえは伯爵の剣じゃぞ。生まれて間もないとはいえ、自覚がなさすぎる)
腰に手を当てた小さなコブラナイが、人間の幼児くらいの少年を叱る。少年はうっとうしそうに眉をひそめ、(そんなに酔ってませんよ)とやけに大人びた口調でつぶやいた。
そして身軽に立ちあがり、さっとリディアの前にひざまずく。
(|お妃さま《レディ・イブラゼル》、このたびはおめでとうございます。伯爵家の宝剣、アローです)
「あなたが、アローなの」
リディアが直接このスターサファイアの星≠ノ会うのははじめてだった。
宝剣を飾るサファイアに宿った星。人魚《メロウ》の力で生み出された、宝剣そのものの妖精。
以前の伯爵家のアローには会ったことがあった。彼は青年の姿をしていた。このアローは、まだ幼児といっていい姿だが、なるほど、髪も体も全身銀色に輝いているのは同じだ。
「めでたくなんかないぞ」
大きな影が地面に落ちて、コブラナイはあわてて木の根っこに隠れる。あたりにいた小さな妖精たちも悲鳴をあげながら散っていくと、アローも眉をひそめてさっと消えた。
「ケルピー」
黒い巻き毛の、背の高い青年をリディアは見あげながら立ちあがった。
人の姿になっている水棲馬は、不機嫌そうに腕を組んでいる。
「……ああ、これであの伯爵が死んでくれるまで、おまえをスコットランドへ連れ帰ることができなくなったな」
「ありがとう……。この日を迎えられたこと、あなたにも感謝してる」
「リディア、頼むからあいつより先に死ぬなよ」
……どうかしら。
苦笑いするリディアの肩に、不意にケルピーは頭を寄せた。人間の姿をしても、本性は馬の妖精である彼が思いつく精いっぱいの親愛の表現だとわかるから、リディアはたてがみを撫《な》でるようなつもりで、ケルピーの黒い巻き毛に指をうずめた。
「おーい、リディア」
またニコが呼ぶ。
「伯爵にもちょっと顔を出してくれるよう言ってくれよー」
そうね、と頷《うなず》くと、ケルピーがリディアの腕を取った。
「俺が屋敷まで連れ帰ってやる」
次の瞬間、リディアはもうケルピーの背中に乗っていた。
ロタとポールは、妖精たちの市を楽しそうに見物している。ニコにふたりのことをたのんで、リディアは邸宅へ戻ることにした。
思いつめた顔の女性が、ずっと屋敷の前に立っている。
トムキンスにそう耳打ちされて、彼女を屋敷へ入れるよう指示したエドガーは、客人たちの輪をそっと中座した。
結婚式の日に、嫌がらせとしか思えない。エドガーが捨てた女だと思われかねないし、今日もそのへんをうろついているゴシップ紙の記者に見つかれば、格好《かっこう》の餌食《えじき》だろう。
少々気分を害しながらも、エドガーがその女性と話す気になったのは、彼女からぜひとも聞き出したいことがあったからだった。
誤解のないよう、部屋というよりは通路でもあるギャラリーで彼女を待たせていた。
エドガーがそこへ入っていくと、クレアは椅子から立ちあがった。
「用があるなら訪ねてきてくれてもいいんだよ」
なるべくおだやかに、エドガーは言った。
「……今日は、取り込んでるご様子でしたので」
「なおさら、屋敷の周囲を意味ありげにうろつかれるのはね」
はっとして、恐縮したらしい彼女が黙り込んでしまったので、エドガーは言葉を引き出すべくやさしく口を開いた。
「だけど、ちょうどよかったよ。きみに話があったんだ」
思いがけなかったのか彼女は目を見開く。表情に、かすかな期待がにじんでいる。
「侍女に雇ってほしいというのは、何かの口実? このあいだ修道院跡で、何か言いかけたよね。リディアの前だから、話しづらいこともあるかもしれないとさえぎったけれど、今なら遠慮《えんりょ》はいらない。僕に、話したいことがあるんだよね?」
瞳に安堵《あんど》の色が広がる。エドガーに受け入れられたと感じているのだろう。冷静に観察していたエドガーは、クレアのような娘の心を思い通りにする手練手管《てれんてくだ》は心得ていた。
「伯爵、あたし怖いんです。あなたの身に危険がせまってるんじゃないかと思うと」
周囲を気にしながら、彼女はそう切りだした。
「危険? どうしてそう思うの?」
あまり人に聞かれたくない話なのか。クレアはさらに小声になる。
「じつは、あたしが雇われる家で、いつも不幸なことが起こるんです。ボートン卿《きょう》は、あの火事が起こる少し前から、何かにおびえている様子でした。……以前にも、同じようなことがありました。あたしが家庭教師に行った家で、妙なことを言いだすようになった執事が窓から身を投げたことも……」
教団の存在をもらした者への制裁、そう告げたユリシスの言葉が浮かんだ。死神の先触れのように、クレアは不幸が起こる屋敷で働いているとも言っていた。
「なるほど。それが偶然でないなら、きみはその家に不幸が起こることを知っていて、勤め先を選んでいることになる」
「違います! あたしは何も知らないんです。でも兄が……勧めてくれた屋敷に勤めはじめると、なぜか不幸なことが……」
ボートン卿の屋敷も、その前も、どうやらあの兄が見つけてきた勤め先だったらしい。クレアが何も知らないというのは本当だろうか。
「最初は、たまたま伯爵家が募集していると知って、リディアさんにお会いしました。でも、兄があたしを雇うようお願いしたとわかって、伯爵がねらわれてるんじゃないかと気づいたんです」
エドガーがねらわれているというよりは、スレイドとオーウェンの件で、朱い月≠フ動きを警戒している可能性はある。
「するとミスター・フローリーが、ボートン卿に何かしたように思えるけど」
しばらく黙っていた彼女は、やがて泣きそうな小声で答えた。
「そ、そういうことでは……。あたしはただ、わけがわからなくて」
彼女の兄は教団の者で、制裁を加えたい人物のもとに妹を送り込んで、自身も出入りしながらスパイをしていた。そう考えるのが妥当だろう。けれどクレアにしてみれば、実の兄について他人に迂闊《うかつ》なことは言いにくいに違いない。
「すみません。変なことを言って。……あたしはこれで」
まだ帰すわけにはいかない。もっと知っていることがあるのだろう。
エドガーは引き止めるべく彼女の腕をつかんだ。聞き出すのは難しくはない。なにしろ彼女はこちらに気がある。信頼できるなら、すべてを打ち明けたいと思っているはず。
驚いたように顔をあげるクレアを、エドガーはやさしく見つめる。
「そうか……、兄上のことじゃあ言いにくいだろうに、それでも僕のためを思って、危険を報《しら》せようとしてくれたんだね?」
恥じらうように目を伏せて、彼女は頷《うなず》いた。
「人に聞かれたくないか。場所を移そう」
エドガーは歩き出す。別室のドアを開ければ、彼女は神妙な面《おも》もちで入ってきた。
ふたりきりになることへの警戒心はないらしい。
「もし、兄がよくないことにかかわっているなら、止めたいんです」
ドアを閉めて、エドガーはクレアに歩み寄った。目を覗き込めば、戸惑った顔をしながらも彼女は頬《ほお》を染めた。
「わかるよ。それよりきみに危険はないのかな。後をつけられていたって言ってただろう?」
悩んだ様子で、彼女は目を伏せる。
「……それよりも伯爵、あなたのことが心配で」
言いづらいらしい。もう少し、とエドガーはクレアの手を握る。
はっとして、わずかに後ずさったけれど、彼女は手を払おうとはしなかった。
「やさしい人だね。もっと前に、きみのことをよく知りたかったよ。きみのほうからは、なかなか話しかけてくれなかったから」
「それは……、あたしなんかが話しかけても迷惑かと思って」
「きみに話しかけられて迷惑だなんて思う男はいない」
まじめな口調で告げる。今このときだけの夢を、現実だと信じ込ませるために。
クレアはしばらく考えていたが、思い切ったように口を開いた。
「リディアさんを……遠ざけることはできませんか?」
そう言って、エドガーを説得しようというつもりか、急いで言葉をつけ足す。
「その、彼女、無理にでもあたしを雇いたがって、変だと思ったんです。それに、妖精がどうとか妙なことを言いますでしょう? ボートン卿もあの火事が起きる前、そうだったんです。何か怖ろしいものが、怪物とか悪魔とか、そんなものが見えると騒いだりして、それで、奥さまはおびえていらっしゃいました」
リディアを遠ざける。そんなことを口にできるほど、クレアは彼の手中に落ちていた。
エドガーがその不愉快な言葉をさも神妙な顔で聞けば、彼女は先を続ける。
「先日の、郊外の修道院跡でリディアさんに会ったのは、ボートン家の門に花を供《そな》えに行ったときでした。リディアさんを見かけたから、気になってあとをつけて……。見失ったと思ったら誰かに追われて……。とにかくあの修道院跡はおかしいんです。あんなところをうろついていたリディアさんは、きっと伯爵に何か隠しています。ボートン卿も、ときどきふらりとあそこへ出かけていました。それに、地下の礼拝堂には血の跡が……」
「地下の?」
はっとして、彼女は口をつぐむ。よけいなことを言ってしまったと思ったのだろうか。
なおさらエドガーは知りたかった。
震えているクレアの肩に手を置く。
「話すのも怖ろしい?」
「……こんなこと、信じてもらえるかどうか……」
「信じるよ」
「誰かに話したら、呪《のろ》われるんじゃないかって気がして」
「大丈夫だよ。僕なら守ってあげられる。あのときのキス、戯《たわむ》れなんかじゃなかったよね?」
クレアは少し驚いたけれど、もう気持ちを隠そうとしなかった。
「やっぱり、気づいてたんですね。……あたし、あれから恥ずかしくて、なんてことしてしまったんだろうって、あなたと顔を合わせられなくなってしまいました」
「そうだったの。避けられてると思ってた」
驚きとよろこびの入り交じった瞳で彼を見あげる。
もう少し、親密な空気を演出するために、エドガーは彼女をゆるく抱き寄せた。
「地下の礼拝堂って?」
尋問でしかない問いかけも、彼女はあまいささやきを聞くような目を向ける。
「……ボートン卿の屋敷の庭に、修道院の遺跡の一部があります。そこから地下道が……、突き当たりに礼拝堂があって」
「見たんだね。そこで何があったのか」
「おそろしいことが……」
クレアが言いかけたときだった。はげしく窓が音を立てたかと思うと、部屋中のカーテンが巻きあがった。
「おい伯爵! どういうつもりだ!」
黒い巻き毛の男が飛び込んでくる。エドガーの胸ぐらをつかむ。
「! ケルピー、待て……」
「結婚した日からほかの女とべたべたするなんて、いいかげんにしろよ、この女たらし! リディアを泣かせるようなことしてみろ、頭から喰ってやるぞ!」
「じゃまをしないでくれ」
ケルピーの手を引きはがすが、彼はクレアとのあいだにむりやり割り込む。
「は? あんたまさか、結婚さえすりゃ、好き勝手をしてもリディアは逃げられないとでも思ってるんじゃないだろうな!」
「バカを言うな。彼女とは話がある……」
「リディア、おい、おまえも怒れ! あれ? リディア、どこ行った?」
それを聞いたエドガーのほうが、今度はケルピーの胸ぐらをつかんだ。
「ケルピー! まさかリディアもいたのか?」
「まさかじゃねえよ! いっしょにあんたを呼びに来たってのに」
あせったエドガーは、窓から外を確かめる。
中庭を駆けていくリディアの白いドレスがちらりと見えると、下町の少年みたいにあわてて窓から飛び出していた。
「伯爵……!」
クレアの声が呼び止める。
彼がリディアを追いかけるなどとは思いもしなかったかのように。
夢からさめたみたいに感じているだろうか。まだ、重要なことを聞いていない。けれどエドガーはためらう余裕もなく、リディアを追いかけた。
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妖精を頼りにしてはいけません
夕暮れ時にもなれば、あたりは薄暗く、マルメロの白い花陰に隠れたリディアのことは、エドガーは気づかずに通り過ぎた。
彼が去っていってもしばらく、リディアはその場にうずくまっていた。
まだ陽の光に満ちて明るかったフェアリー・マーケットからこちらへ戻ってくると、もうそんな時刻になっていた。ケルピーの背中でリディアは、庭にも温室にも、広間の窓辺も、すでに明かりがともされているのを眺《なが》めた。
それは、フェアリー・マーケットで飛び交っていた妖精たちの明かりのように、あたりのものを照らしながらぽつぽつと輝き、とても幻想的だった。
邸宅の屋根の上からそんな風景をしばし楽しんで、ケルピーと地上へ降りていったリディアが、開いたままの窓辺のひとつに、エドガーの姿を見つけたのは間もなくだった。
明かりの灯っていない部屋だったから、あんなところで何をしているのかしらと不思議に思った。そうして、ケルピーと窓へ近づいていって、驚いた。
クレアがいて、エドカーと見つめ合っていたからだ。
会話までは聞こえなかった。ただリディアは、エドガーのほうから彼女を抱きしめたように見えたことにショックを受けた。
そうして今、身を隠すようにうずくまりながら、考えている。
何かわけがあるのよ。クレアをなぐさめようとしただけかもしれないし。
そもそも、クレアはどうしてここにいるのだろう。先日のエドガーの、彼女に対する態度は冷たかった。
もう雇ってもらえるとは思っていないはずだし、リディアも彼女には誤解されっぱなしで、わざわざお祝いを言いに来てくれたような気はしない。
それよりも、同じ女性としてぼんやりと感じ取っている。クレアがエドガーを見つめる目は、恋をしていた。
もしかして、以前から彼女はエドガーと知り合いだったのだろうか。
リディアに接近してきたのも、侍女になりたいと必死に見えたのも、エドガーのそばにいたかったのかもしれず、だからエドガーは、クレアを遠ざけようとしたのかもしれない。
でも、じゃあ、どうしてあんなふうに、恋人どうしのように見つめ合ってたの?
わけがわからなくなって、リディアは頭を振る。
結婚したのに、こんなことで動揺してどうするの。
エドガーに想いを寄せる女の子なんて腐るほどいるのだ。それでも彼はリディアを選んでくれたのだから、何人押しかけてこようと毅然《きぜん》としていればいい。
立ちあがって胸を張ってみるけれど、簡単に自信はわいてこない。
急に、エドガーと顔を合わせるのが怖《こわ》くなった。
きっと彼は、どういうことなのか説明してくれるだろう。でも、リディアに納得できるだろうか。
できなかったら? あやふやな気持ちのまま、夜を過ごせるの?
彼は、クレアに自分から腕をのばした。リディアに向けるのと同じ微笑みを浮かべていた。
あの情景が思い浮かべば、今彼と顔を合わせて同じようにされても、きっといやな気分になってしまうだろう。
「……どうしよう、ぜったいに無理だわ」
こんな気持ちのまま同じ部屋で眠るなんて……。
赤くなっているのか青くなっているのかわからない自分の頬に、両手をあててつぶやく。
(どうしたのかね、青騎士伯爵の花嫁)
奥まった草むらから声がした。
リディアがよくよく覗き込むと、五人の小さな老婆が花壇の石垣に腰掛けていた。
「おばあさんたち……」
(結婚式が無事にすんでよかったのう)
(青いものに魔法がないから、心配しておったが)
(あのあまのじゃくな妖精は、まだ教会でチャンスをじっと待っておるよ)
「えっ、そうなの? 式が終わったって教えてあげたほうが……」
(そのうち気づくじゃろう。放っておけばいい)
「ちょっとかわいそうだったかしら」
(いつものことじゃよ)
五人の老婆は肩をすくめた。
(さて、わしらはそろそろ帰るとしよう)
「ありがとう、おばあさんたち」
リディアは五人の妖精に手を差し出す。握手を交わせば、子供ほどの小さな体に見合わず彼女たちの手は大きくて、糸紡ぎを続けてきたからか硬くて豆だらけだったけれど、とてもあたたかかった。
(本当に、初夜のための魔法はいらんのかね?)
ハベトロットが振り返る。
「えっ、ええ……」
苦笑いしながら首を振りかけ、ふと迷う。
「あの、ねえ、その魔法があれば、逃げ出したくならないかしら……」
(そういう、うぶな娘のための魔法さ)
(すすんで花婿の胸に飛び込んでいきたくなる)
だったら、今のいやな気分も消えるだろうか。
結婚式の日に、エドガーとケンカはしたくなかった。
それにきっと、今夜リディアが拒《こば》んだりしたら、彼だっておだやかではいられないだろう。
今までとは違う。リディアはもう彼の妻なのだから。
「……やっぱり、あたしに魔法をかけてくれない?」
(その気になったかね)
老婆たちは声をそろえて笑う。
ひとりがリディアの前に、錘《つむ》を差し出して言った。
(手をお出し)
言われたとおりにすると、錘の先端でリディアの指先をつつく。一瞬、錘が金色に輝いたように見えたが、痛みも何も感じなかった。
(効き目は明日の朝までじゃぞ)
(ではな、よい夜を)
そう言って、老婆たちはそろって消えた。
「これで魔法は効いているのかしら」
とくに違和感もなく、もやもやした心が晴れたわけでもない。
祝宴の続いている屋敷へ戻る気にもなれない。
結局リディアは、仕事部屋へと戻ってきた。
この邸宅のどこよりも、そこは自分の居場所に思えた。
けれど、薄暗い部屋の中、窓辺にたたずむ人影に気づく。
室内よりはいくらか明るい窓辺で、金色の髪はあきらかに目立つ。白い上着もその姿を浮かび上がらせて、静かな視線がリディアをとらえると、彼女は胸が苦しくなるような気さえした。
「さがしたんだよ。ここへ来ると思った」
「エドガー……」
「リディア、逃げないで聞いてくれ」
逃げ出したい気持ちでいっぱいになったが、かろうじてこらえていた。
いったい、魔法は効いているのかしら。
「じつは、スレイドが何者かに濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せられて、警察に拘束されている」
思いがけない言葉を、エドガーは口にした。てっきり、クレアとは何でもないとか言い出すのだと思ったリディアは、意外すぎてエドガーのほうに顔を向けていた。
「このままでは、結社の|朱い月《スカーレットムーン》≠ノも警察の手が入るかもしれない。誰が仕組んだのか調べていたら、どうも、ボートン卿という貴族がかかわっているようなんだけど、卿の家族は殺された。そのボートン家に勤めていたのがクレアなんだ。彼女は何も知らずに利用されていたようだけれど、背後にある組織について重要なことに気づいていて、おびえていた」
「クレアは助けを求めてきたの? あなたのこと、前から好きだったから、そうなのね」
「以前から知り合いではあったけど、それだけだ」
「……おびえてたから、なぐさめてあげたわけでしょ?」
悩んだ様子で眉《まゆ》をひそめ、エドガーは髪をかきあげた。
「そうじゃない。問題の組織がクレアを僕に近づけたのは、僕がスレイドや朱い月≠ニ親しいことを知っていて、探ろうとしているに違いないんだ。だったら逆に、クレアからいろいろと聞き出せると」
「じゃ……助けてあげるふりをして、利用するために口説《くど》いてたってこと?」
ああもう、この人ってばどうしてこうなの。
失望と憤《いきどお》りで、リディアは頭にきていた。
「リディア、本気で口説いてたわけじゃない」
「もっと悪いわ! 利用するために彼女をいい気分にさせて、結局傷つけるってことよ」
魔法なんてやっぱり効いていない。こんなに彼に不信感を募《つの》らせては、せっかくかけてもらった魔法も消えてしまったのかもしれない。
「クレアの背後にあるのは、ボートン卿の妻子を殺した連中だ。きみに何かあってからじゃ遅いんだよ」
大またで歩き、急に目の前まで来た彼は、リディアの瞳を覗き込んだ。
「リディア、きみを守るためなら、どんな手だって使う」
その手が頬に触れたとたん、リディアはくらりとめまいを感じた。
一瞬目の前が暗くなり、はっと気がついたときには、エドガーの首に腕を回していた。
「そんなに、あたしのこと、好き?」
えっ、ちょ、ちょっと、何を言ってるの!
自分で自分が口走った言葉に驚き、混乱しきっているのに、その一方でリディアは、体をさらに密着させていた。
「リディア……? もう、怒ってない?」
いや、これはエドガーが力を入れて抱き寄せたせいだ。どうなってるの? もがこうとするが、エドガーは何の抵抗も感じていないようだった。
「もちろん、大好きだよ」
耳をやわらかく噛《か》まれて、頭の中では悲鳴をあげる。けれど、彼にしがみついている自分の腕をほどくことができない。
「だ……だめよ!」
ようやく、全力で突き放す。リディアは肩で息をしながら、何が起こったのか必死に考えようとしていた。
が、エドガーはまた彼女に手をのばした。
「やっぱり怒ってるの? でも僕は、いつだってきみのことだけを考えてるんだ。ほかの女性に心を動かすなんてことはあり得ないんだから、機嫌を直してくれ」
触れられたとたん、自分が自分の思い通りにならなくなる。
「……いいわ。機嫌が直るようにして」
また抱きついたかと思うと、顔をあげて目を閉じている。自分に驚くリディアの内心はパニックになった。
何なの、これ。……魔法のせい?
そんな、あたしまだ、何も納得できてない。
クレアを口説いて利用しようとしたのは、エドガーの理屈では当然のことなのだろうけれど、女の子としてリディアには引っかかった。
クレアの表情は、すっかりエドガーに恋していた。なのに彼は、そんな気などなくても、平気でやさしい素振りができるのだ。
手段を選ばない彼のやり方は知っているし、今度も何か危険な問題がかかわっていそうだ。
かつて何もかも奪われたから、これからは確実に守る。スレイドや朱い月≠焉A彼にとっては見捨てられないものになっている。そんなエドガーの気持ちはわかる。
けれどリディアは、少しでも、血も涙もない策士になるしかない寸前までは、紳士的でいてほしいと彼に望んでいるのだろう。
口づけされそうになる前に、やっとの思いでリディアは顔を背《そむ》けたけれど、エドガーは彼女の腰に腕を回したままだ。
リディアは抱きつきたい衝動と必死に戦わなければならなかった。
けれどそちらをがまんするのに必死になれば、勝手に口が開くのは止められない。
「……なんだか暑いわ」
「そうだね。ボタンをはずそうか?」
いつものふざけ半分の口調だ。なのにリディアは、ええ、とため息混じりに答えている。
エドガーは少し意外そうな顔をしたけれど、すぐに微笑んでリディアの額にキスをした。
「寝室へ行く?」
あせった。
どうしてそうなるの?
いや、どう考えてもリディアが誘ったようなものだ。ますます暑くなって、冷静さを失ったリディアは頷いていた。
「って、あの……、ちょっと待って……」
ようやく自分の言葉を吐き出すが、それもなんだかうわずった声で、さらにエドガーをその気にさせてしまっただけかもしれない。
「大丈夫だよ。怖くないから」
そんなさわやかに微笑まれても。
「そ、そうじゃないの……」
ちゃんとしゃべろうとすれば、腕が勝手に彼にしがみつく。
「ここで、いいの」
あわてて腕をほどこうと力を入れれば、知らずとそんなことを口走っている。
「ここで?」
エドガーだってさすがにおかしいと思わなかっただろうか。けれど彼は、いかにも慣れたやり方でリディアをソファに横たえた。
「そんなに、きみもがまんしてたのか」
そ、そんなわけないじゃない!
「早く結ばれたかったのは僕だけじゃなかったんだね。だったら祝宴なんてさっさと切りあげればよかった」
ちがうってば!
こんなのはいや。そう思ったけれど、どうにもならない。
全身力が入らないし、うるんだ瞳で彼を熱く見つめてしまうだけだ。
しかしエドガーは、ふと冷静な顔になった。
「リディア、酔ってる?」
上からリディアを見おろしながら眉をひそめる。
「やっぱり、いつものきみじゃない」
わずかだが手が離れたとたん、リディアは自由になった。
急いで体を起こすと、ソファの端まで後ずさってエドガーから距離を取る。
「こ、これは、魔法のせいなの!」
「魔法?」
「おねがい、今はあたしに触れないで。触れられると魔法が働くみたいなの」
エドガーは困惑しきった顔でリディアを眺め、金色の髪に指をうずめてため息をついた。
「なんで、そんな魔法を」
「それは……、糸紡ぎ妖精のおばあさんたちが、花嫁のための魔法だって。その、今夜逃げ出したくならないように……」
「魔法がなければ逃げ出したいってこと?」
さすがにむっとした口調だった。
「だってあなたがクレアと! それであたし、動揺して、妖精に助けを求めちゃったのよ!」
「そんなに僕は信用がないのか?」
「あなたから彼女を抱き寄せるのを見たのよ。……わけがわからなくなったってしかたがないでしょう?」
「隠れたりせずに僕の話を聞いてくれればよかったんだ」
「聞いたって、納得できないわ」
「どうして……」
エドガーが言いかけたとき、突然窓が開いたと思うと、ソファの両端にいるふたりの前にケルピーが立った。
「伯爵もリディアもここにいたのか。|妖精の市《フェアリー・マーケット》へ行かないのか?」
リディアは黙ったまま、エドガーから目をそらす。ケルピーはあきれたように、リディアとエドガーを交互に見た。
「なんだ、ケンカしてんのか。やっぱりこいつとの結婚なんてやめるか? リディア」
そう言って彼がリディアの肩に手を置いたとたん、まためまいがした。
あっ、と思ったときにはもう、ケルピーに抱きついていた。
「リディア?」
エドガーが声をあげた。
「ケルピー、何をするんだ。リディアを放せ!」
「俺じゃないって、リディアがしがみついて離れない」
「バカを言うな」
つかみかかろうとしたエドガーから、リディアをかかえたままケルピーはひょいと逃れた。
「そうかリディア、やっとこいつより俺がいいってわかったのか?」
「レイヴン、そいつからリディアを引き離せ!」
ちょうどドアを開けたレイヴンに命じる。
さっとケルピーの前に出たレイヴンは、エドガーの言うとおりにするべくリディアの腕を引こうとした。
とたん、リディアはレイヴンに抱きついた。
突然のことに驚いたのか、レイヴンはよろけた。どうにかリディアをささえて持ち直したけれど、彼女の熱い抱擁《ほうよう》に身動きできなくなって硬直した。
「リディア……、なんでそいつに抱きつく?」
ケルピーが戸惑った声をあげる。
「リディアさん、手を、放してください」
レイヴンはそう言って、助けを求めるようにエドガーを見る。しかしエドガーも呆然《ぼうぜん》とした様子だ。
「レイヴン、動くな。ケルピーにはリディアに手を触れさせるな」
レイヴンは硬直しながらもケルピーからリディアを遠ざけるべく後ずさった。
苛立《いらだ》った様子のケルピーは、エドガーに向き直る。
「どうなってるんだよ。あんた、リディアに何をしてくれた?」
「いいからきみは消えてくれ。僕らのじゃまをするな」
「って、おかしいだろ! 結婚したはずのリディアが、あんたじゃなくて俺やあのぼうやに抱きつくなんて!」
「僕にだって彼女は抱きつく」
エドガーはむきになって言い返すが、論点がずれている。
このままじゃいけないわ。
リディアは必死になって、レイヴンから体を引きはがす。どうにかそれに成功すると、よろけながら部屋の隅《すみ》にうずくまった。
「誰も近づかないで。明日の朝までひとりにさせて!」
「それしかなさそうだね」
近づいてきたエドガーが、少し距離を置いて立ち止まると、ため息とともにつぶやく。
「今のきみは、男なら誰でもいいようだから」
あきれきった言葉が、ぐさりとリディアの胸に突き刺さった。
「誰でもいいって……ひどいわ! 魔法のせいなのよ、あたしの意志じゃないのに」
「だいたい、魔法にたよるなんてどうかしてるじゃないか」
身を屈《かが》め、リディアを覗き込むが、彼は手を触れないようにしていた。
「きみには心から望んでほしかった。だから結婚式まで待った。やっと式を挙げられたのに、逃げ出したいだなんて……。拒《こば》めないから魔法の力でがまんするつもりだって? そんなきみを抱いたってうれしくなんかない」
唇《くちびる》をかみしめながら、リディアは泣きそうになるのをこらえた。
「あなたが悪いのよ!」
「そんなふうに僕に腹を立てていても、気持ちに関係なく抱きついてしまうんだろう?」
わざとリディアの手を取る。
抱きついたら、ほらね、とあきれたように言うのだろう。
そう思ったとたん、こらえていた涙が頬に流れた。同時にリディアは、彼の手をぴしゃりと払っていた。
エドガーが驚いたのは、リディアが抱きつかなかったことか、それとも涙をこぼしたことだろうか。
「……あなたにだけは、ぜったい抱きつかないわ!」
立ちあがったリディアは部屋から駆け出した。
「リディア、待ってくれ!」
我に返ったように、エドガーが追ってくる。腕をつかまえられても、やっぱり魔法は効かなかった。
リディア自身も、驚き混乱した。
「そんなに、どうしても僕には抱きつきたくなくなったってことなのか?」
エドガーも動揺しているようだ。けれどリディアは、彼に対してもうしわけない気持ちになるには傷ついていた。
「うれしくないんでしょ? だったらこれでいいじゃない!」
「とにかく、クレアのことでは少しもきみを裏切っていない。こんな無意味な誤解のために、僕の話も聞かずに魔法なんて」
エドガーにとって、利用するためにだけ口説くことは、リディアが妬《や》くような浮気の範疇《はんちゅう》に入るはずもないのだろう。
けれどそう聞かされれば、リディアはいっそう悲しい気がしていた。
エドガーに紳士でいてほしかったというだけではない。
たぶん、以前の自分を思いだしてしまったのだ。
エドガーにどんなに口説かれても信じられなかったころ、信じたら傷つくと思っていた。
今は、彼の言葉が戯《たわむ》れだとは思わないけれど、ほかの女の子にそんなふうに口先だけで口説くことができるなんて目の当たりにすると、どうしても胸が痛んだ。
クレアのように傷つくのは自分だったかもしれない。どこかでそんなふうに感じている。
「無意味じゃないわ。彼女をだますためにしたことを、あたしにもするの?」
ああ、あたしもひどいことを言ってる。
そう思ったけれど、言い訳できないまま、エドガーの力がゆるむのを感じていた。
また逃げ出すしかなかったリディアは、向こうからロタがやって来るのが見えると、彼女のもとに駆け寄る。
「ロタ!」
もうどうしていいのかわからなかったから、リディアは親友の腕にすがりついた。
「どうしたんだリディア、遅いから戻ってきちゃったよ。……て、あれ? さっそくエドガーとケンカしたのか?」
追ってきたエドガーと、リディアとを、ロタは交互に見ると、腰に手を当ててエドガーをにらんだ。
「エドガー、あんた何をしたんだよ! まさか、デリカシーもなくいきなり襲いかかったんじゃないだろうな」
「人聞きの悪い。僕はちゃんと寝室へ誘ったのに……」
「エドガー、言わないでっ!」
真っ赤になってリディアは叫んだ。
「なんだ? どうなってるんだ?」
ふう、とエドガーのため息が聞こえる。
「ロタ、とりあえず、リディアのことを頼んでもいいかい? とにかく彼女には男を近づけないでくれ」
「あんたもか?」
「僕は……、リディアにきらわれたようだからね」
そんなのじゃない。でも、どう言っていいのかわからない。
背を向けて立ち去るエドガーを見ないように、リディアは目を伏せた。
だらだらと続いていた祝宴も、ようやくお開きになったころ、すっかり酔いつぶれた客たちは、召使いたちに馬車に押し込まれながら、ひとり、またひとりと帰っていった。
アシェンバート伯爵邸に、ふだんの静けさが戻りつつあったそんな時刻、エドガーは書斎でひとり、憮然《ぶぜん》としたまま頬杖《ほおづえ》をついていた。
「あーあ、妖精の魔法も効かないくらいだなんて、よっぽどひどいことを言ったんだな」
声のほうに首を動かすと、ニコが窓から入ってきて、エドガーの足元に二本足で立った。
責めるように、両腕を組んでエドガーを見あげる。
リディアに事情を聞いてきたのだろう。
「リディアはどうしてる?」
「さっきポールが来て、抱きつきそうになってたけど、おれとロタががんばってどうにか難を逃れた」
「そう」
やっぱり、魔法が効かなくなったのはエドガーに対してだけらしい。
考えてみればリディアは、自分から魔法をかけてもらったのだ。クレアのことがあって、心にわだかまりを感じていても、エドガーと夫婦になることをためらわなかったからこそ、魔法を選んだ。
魔法を使ったことに失望を感じていたエドガーは、あのときはそんなリディアの気持ちにまで思いが至らなかったことを後悔している。
「リディアのことになると、僕は十歳くらいの純朴《じゅんぼく》な少年になってしまう」
「おい、純朴だったのは十までかよ」
「せっかく魔法が効いていたのに、あのまま成り行きにまかせればよかった」
ふだんのリディアとは少しくらい違っていても、なるようになればクレアのことなんてどうでもよくなっただろう。
「リディアがあんな調子であんたにせまったのに、何もなかったなんて驚きだよ」
「だけど僕としては、ちょっといやがってるくらいのリディアがいいというか」
「ヘンタイかよ」
「いや、リディアが自分から積極的になってくれるのなら大歓迎だよ。やっぱり、まるごとリディアでなきゃいやなんだ」
「案外ロマンチックなんだな」
「ニコ、わかってくれてうれしいよ」
「だったらそう言やいいのに。誰でもいいのかなんて、リディアがそんな女なわけないだろ」
冷静にニコに叱られて、エドガーは落ち込む。
けれど、猫が相手だからこそ、情けない胸の内を打ち明けてもいいような気がしていた。
「今夜がまんしなきゃならないことがショックだったらしい。ついリディアに八つ当たりしてしまった」
「あきれるくらいバカだな」
今日のニコは、いつもと違うネクタイをしている。おしゃれで紳士な妖精猫に悪態《あくたい》をつかれるのも悪くはない。
「まったく、きみの言うとおりだ。それにしてもニコ、今日のネクタイすてきだね」
ほめればニコは、機嫌よく胸を張る。ヒゲを撫《な》でながらうれしそうに目を細める。
「さすがに伯爵、センスがわかるな。飛び魚みたいにすてきだろ?」
「うん、まったく飛び魚みたいだ」
きっと妖精の世界では、飛び魚は何かすてきなものを形容する言葉なのだろう。
ますます満足げなニコを見ながら、エドガーは思う。
彼も伯爵家の一員になったのだ。だからいつになくエドガーに親身なのだろうか。
少し、うれしい気がする。
今日は特別な日だ。エドガーは貴重なものを手に入れた。リディアだけではなく、彼女が持っている様々なものを。
妖精たちとの絆《きずな》や、幸せの予感、おだやかな日常と将来への希望。
大切にしたい。
ケンカなんてしている場合じゃない。
「ま、リディアも意固地《いこじ》だから、あんたも大変だってのはわかるよ。でも結婚したからって、油断するな。ケルピーが上機嫌だからな」
それは聞き捨てならなくて、エドガーは身を乗り出した。
「ケルピー? あの馬、またリディアのそばにいるのか?」
あれもリディアにくっついているものだ。エドガーには好ましくないがしかたがない。
「ああ、馬の姿ならリディアは妙な気にならないらしいからな。それでケルピーのやつ、あんたの悪口言いまくってた」
気に入らない。しかししょせん馬だ。本当の姿ではリディアを誘惑することなんてできないのだから、人間の男よりはましだろう。
それでもエドガーは、じっとしていられなくて椅子から立ちあがった。
「そろそろ、リディアも落ち着いて話を聞いてくれるかな」
「どうだろうなあ」
ニコはそう言ったけれど、エドガーは書斎を出た。
「ケルピー、もう帰ってもいいわよ」
馬の姿で部屋に居座っていたケルピーは、そう言ったリディアを見て不服そうな顔をした。
「なんだ? 男がおまえに近づかないよう見張ってないといけないだろ?」
とりあえず、客間のひとつにリディアは引きこもっている。
ロタは、ポールを見送りに行ったところだ。ケルピーとふたりになって、リディアはだんだん、みんなに甘えすぎていないかと気になってきていた。
「でも、夜遅くまであなたといっしょにいるわけにいかないもの」
「このくらいの時間なら、おまえの家には出入りしてたじゃないか」
そうだった。ケルピーは人間ではない。妖精だから、少々遅い訪問も、勝手にリディアの私室へ入ってくることも許していた。でももう、これからはそうもいかない。
「ここはエドガーのお屋敷だもの。これからは、あたしの部屋でも勝手に入っちゃだめなの。わかってちょうだい」
リディアは手をのばし、ケルピーのたてがみを撫でた。
「ありがとう、ケルピー。男の人に近づかないよう自分で気をつけるわ。もうお客さまも帰られたし、トムキンスさんもハリエットさんも気を配ってくれてるし、大丈夫よ」
それでも心配そうに、彼は黒真珠の瞳をこちらに向ける。
「あの海賊娘も帰るのか?」
「そうね、そろそろロタも……」
いつまでも引きとめておくわけにいかないだろう。
考えていると、ドアが開いて、ロタが部屋へと戻ってきた。
「リディア、じいさんが迎えをよこしてきたんだ。今日はちゃんと帰るって約束してたから」
リディアは立ち上がり、ロタのほうに歩み寄った。
「そうね、長いこと引き留めてごめんなさい。あたしはもう大丈夫よ」
「本当か?」
「ええ」
リディアはできるだけ明るく微笑む。
「ケルピーにも、もう帰ってもらおうと思ってたの」
ロタは頷き、リディアの肩を抱いた。
「ま、エドガーのやつも今ごろ反省してるよ。ちゃんと仲直りしろよ」
「ええ、ありがとう、ロタ」
ロタが出ていくのを見送ったリディアは、ドアを閉めながら、しっかりしなきゃと自分に言い聞かせた。
「おいリディア、無理してないか?」
笑顔になろうと努め、ケルピーのほうに振り返る。そして驚き、目を見開く。いつのまにか彼が、青年の姿になっていたからだった。
「ケ、ケルピー、何してんのよ!」
馬の姿のケルピーなら、手を触れても大丈夫だと安心していた。なのに、いきなり人の姿になられて、リディアは後ずさった。
けれどケルピーは、かまわずリディアに近づいてくると、乱暴に肩をつかむ。
「やめ……」
て、と言おうとしたときにはもう、抱きついていた。
「リディア、おまえが笑っていられるなら、結婚しちまうのもしかたがないと思ってた。だけどこんな日に、あの伯爵はおまえのこと淋しがらせてる」
「……ケルピー、あなただけよ、そんなふうにあたしのことわかってくれるのは」
な、何言ってんのよ!
また勝手にしゃべってしまっている。
わかっているくせに、ケルピーはリディアを腕の中にかかえ込む。
「なあ、今夜だけでも俺と過ごさないか。月夜をどこまでも駆けるのは、きっと気持ちがいいぞ」
「そう……ね、すてきだわ」
「よし、決まりだ」
だめ、このままじゃ……。
リディアは全身に力を入れた。けれど、妖精の魔法があらがう力を奪う。
これほど魔法が効いているのに、エドガーを拒絶してしまった。それは彼が嫌いだからではなく、誰よりも好きだから。
だから彼に、ますますあきれられるのが怖くなった。それだけはいやだから、リディアは魔法よりも強く、自分の意志を保てたのだ。
魔法のせいだろうと、ケルピーについていくことはできない。強く自分に言い聞かせる。
ぜったいに、だめ!
とっさにリディアは、手を振り上げていた。
平手打ちをくらったケルピーは、リディアから手を放す。その隙に逃れたリディアは、ドア際に急いで駆け寄った。
「ケルピー、あたしの意志をねじ曲げるようなことはしないで……」
「けどあの伯爵、あのときの女とキスしたとか何とか話してたぞ! 人間は、とくべつな相手としかそうしないんだろ? それっておまえへの裏切りじゃないのかよ!」
キス? クレアと?
「やめて! そんなこと聞きたくなかったわ!」
リディアは逃げるようにきびすを返し、ドアの外へ体をすべらせる。
「……悪かったよ」
ケルピーのそんな言葉を受け止める余裕もなく、動揺しながら駆け出していた。
キスってどういうこと?
エドガーはクレアと、知り合いだっただけじゃなくて、つきあってたってこと?
だったら、利用するために口説いただけじゃないかもしれないの?
朱い月≠ニのことで問題が生じているのは本当だとしても、さっきのエドガーの説明は、どこまで本当なのだろう。
本当に、クレアは何かを知っていて、それがスレイドのことと関係があるのだろうか。
肝心《かんじん》なところさえ、急に信じられなくなる。
昔の恋人が押しかけてきただけなのではないのか。
それを隠して、ふたりきりで恋人同士みたいに話していたと思えば、リディアの気持ちはますます乱れる。
帰りたい。
急にそんな気持ちがわき起こった。
このままこの屋敷で、ひとりで過ごさなきゃならないなんて。
焦燥感《しょうそう》に駆《か》られ、リディアはさらに足を速める。
階段を駆け下りようとしていたところで、メイド頭に呼び止められた。
「お嬢さま……、あ、いえ奥さま、カールトン教授がお帰りになります」
父さまが。
いっしょに帰るなんて言ったら、叱られるだろうか。けれど事情を話せば。
「父さま!」
玄関ホールへ駆け込んでいけば、心地よく酔っているらしい父が笑顔を向けた。
「リディア、そろそろ帰ろうと、おまえを呼びに行ってもらったところだよ」
「ええ、父さま、あたしも帰りた……」
「カールトン教授」
エドガーの声が、リディアの言葉をかき消した。リディアははっとして口をつぐんだ。
きびしい表情でちらりとリディアを見たエドガーは、彼女が言いかけた言葉に気づいたのだろうか。
けれどすぐに彼は、父に笑顔を向けた。
「いえ、もうお父さんとお呼びしても? 祝宴に遅くまでつきあっていただいて、ありがとうございました」
父を見送りにきたという態度で、さりげなくリディアの隣に立つ。
「伯爵、覚悟していたとはいえ、今夜から淋しくなりそうです。リディアのこと、よろしくお願いしますよ」
何も知らない父は、涙ぐみながらもうれしそうだった。
帰りたいなんて、父にだって言うべきことではないのだ。気づいたリディアはもう何も言えなくなってうつむいた。
ちゃんと微笑まなきゃ、変に思われたら心配をかけてしまう。そう思ったけれど、顔をあげようとすれば泣きそうになる。
「もちろんです。またいつでもいらっしゃってください。リディアのためにも」
そう言いながらエドガーは、父との別れに声を詰まらせた花嫁を気遣うかのように彼女の肩を引き寄せた。
触れられても、やっぱり魔法の力は働かなかった。
父が出ていくと、エドガーは手を放した。
そのまま何も言わず、こちらを見おろす視線だけは感じるから、リディアはいたたまれない。
「……教授に何を言うつもりだったの?」
どこか慎重に、エドガーは口を開いた。
「何でも、ないわ」
「リディア、きみの家はここだ。帰るべきところもね」
「……わかってるわよ」
きびすを返そうとすると、腕をつかまれた。
「それにきみの部屋はこっち」
「ちょっ、エドガー」
有無を言わせず、彼はリディアを引っぱっていくと、プライベートルームへ続く階段をあがっていく。
主寝室に続くドレッシングルームのドアを開け、リディアを引きずり込むと、背中でドアを押さえた。
リディアを強くつかんで放そうとしない。苦しそうに彼が眉をひそめるのは、リディアがおびえた顔をしているからだとは気づかないまま、彼女はその灰紫《アッシュモーヴ》の瞳から目が離せなかった。
エドガーが求めていることはわかる。リディアの望みも同じはずだった。でも今、こんなふうに心が乱れていては、すべてをゆだねられそうにない。
「離して……、痛いわ」
そうするのはひどく難しいとでもいうように、彼が手を離すまでにはずいぶんと時間がかかった。
それでもドアはエドガーが押さえたままだ。リディアはどうしていいかわからず、やり場のない苛立《いらだ》ちを彼に訴える。
「クレアと、つきあってたの?」
意外そうな視線を、彼はあげたが、リディアは止められないまま言葉をぶつけた。
「キス……したって、そんな間柄だって本当?」
「何を言うんだ。彼女とは何でもな……」
「本当のことを言って! したの? してないの? あたしにうそはつかないで!」
彼が真剣に悩む様子を、はじめて見たような気がした。それだけにリディアには、答えの予想がついていた。
「僕にとっては、何の感情もないことだった」
うそはつかなかった。そのことに安堵すれども、はっきりした事実はリディアに重くのしかかる。
「そう、なの」
「リディア……」
「……エドガー、あたし、今日は客室で休むわ」
「ここにいてくれ」
ため息のように、彼は言った。
「リディア、同じじゃないんだ。きみに触れるときに僕が考えていることも感じていることも、とてもとくべつなことなんだ」
リディアも本当はわかっている。自分だって、エドガーのそばにいるとき、話をするとき、いっしょに食事をとるときも、ほかの誰とも違う、とくべつな感じがしている。
クレアと同じようにするの? なんて言ったのは、ただくやしかったからだろう。同じじゃないことくらいわかっていた。
でも、見聞きしてしまったことを忘れるにはもう少し時間が必要で、今はまだ彼をまともに見られない。
「僕は出かけるから、ここにいてくれ」
思いがけない言葉に、リディアは少しだけ視線をあげた。
「きみのための場所にいてほしい。僕を傷つけたいわけじゃないなら、別の場所へ帰るなんて考えないで」
「エドガー……」
「おやすみ」
それだけ言って、彼はドアの外へ消えた。
傷つけたいわけじゃない。
ああ、……バカだわ、あたし……
リディアはつぶやく。
でももう、傷つけてしまった。なんてひどいことをしたのだろう。
ようやく自分はエドガーの家族になったのに、もうここだけが自分の家なのに、父と帰りたいなんて考えた。
悔やんだけれど、彼を追いかけることはできないまま、リディアは部屋の中に立ちつくしていた。
|朱い月《スカーレットムーン》≠フ拠点でもあるスレイドの画廊兼高級クラブは、当の主人が拘束されているために休業になっていた。
明かりの消えた建物の前で馬車を降り、エドガーはレイヴンを連れて裏口へとまわった。
結社に属するものだけが知る合図を送れば、内側からドアが開く。
顔を出したポールが、驚いた様子でエドガーを見た。
「伯爵……、どうなさったんですか?」
「オーウェンの遺品を調べているんだろう? みんなここだろうと思った」
「あの、リディアさんは」
ポールはひどく不安げな顔になるが、エドガーはにっこりと笑顔でかわした。
「屋敷にいるよ。入ってもいいかな」
「え……、はいっ、ど、どうぞ」
首を傾《かし》げながらも案内するポールに従って、狭い通路を奥へ進む。明かりがもれているドアは、スレイドの事務室だ。そこへ入っていくと、蝋燭《ろうそく》の明かりだけをともした部屋の中に、二十人あまりの団員たちが集まっていた。
みんな一様に、エドガーが現れたことに驚いた様子だったが、結社の中でもよくエドガーを慕っていた若手ばかりの集まりとなれば、見捨てられたという不信感よりも、再会できたよろこびのほうが大きいらしく、屈託なく彼の周囲に集まってきた。
「伯爵、やっぱり僕たちを見捨てずにいてくださったんですね」
「きっとそうだと思ってました」
「直接のリーダーでなくなったとしても、僕たちにとって心の支えは青騎士伯爵なんです。なのにスレイドさんは、もうあなたの存在は忘れろと……」
「いえ、あの人は頑固《がんこ》なだけで、本当は伯爵に去ってほしくなかったんです」
まっすぐな心根の、若い団員たちを前にして、エドガーは、自分にもっと自信があったならと考えずにはいられなかった。
プリンスの記憶を引き受けていても、朱い月≠裏切らないと確信できればいい。けれどそうするにはまだ、自分でもわからないことが多すぎる。
「すまない。でも、朱い月≠フリーダーを降りさせてもらったのは、考えがあってのことなんだ」
「どうしてなんですか?」
「この朱い月≠ヘ、かつての青騎士伯爵が庇護《ひご》し育ててくださった芸術家の結社です。いつでも青騎士伯爵のもとに集《つど》うと誓っているんです」
「あなたが朱い月≠顧《かえり》みなくなっても、僕らの主人は青騎士伯爵です」
エドガーが伯爵家の血を引いていないと知っていても、そう言ってくれるのはありがたかった。けれど今は、何の結論も出すことはできない。
「それより、今はスレイドのことが重要だろう?」
「そうですね。みんな落ち着いて。伯爵を困らせてもしょうがない」
ジャックがそう言って、ようやくみんなが口をつぐんだ。
「伯爵、ちょうどご報告したかったんです。オーウェンがボートン卿とやりとりしていた手紙がありました。何度か絵を依頼されていたようですが、彼はそのことを隠していたんです」
ルイスがさっそく本題を告げる。
「みんなも知らなかったのか?」
「はい。絵の種類によっては、購入者が名前をふせたがることはままありますから」
つまり、道徳的、倫理的にあまり人前に出せない絵だ。
「オーウェンが追求していたテーマは、悪魔や地獄……、とにかくグロテスクな、ご婦人方なら目を背《そむ》けたくなるような絵です」
「なるほど。ボートン卿はそれを気に入っていたと」
「そのようです。ただ、オーウェンは熱意のあまり、実物をこの目で見たいというようなことをもらしていました」
「本物の悪魔を?」
「近くそれがかなうというようなことも、知人のひとりが聞いています」
「その後彼が死んで、あんまり不気味なので知人は黙っていたようです」
エドガーは考え込む。クレアの話ともう少しでつながりそうだと思ったとき、ポールが口をはさんだ。
「あのー、伯爵、花嫁をほうっておいていいんですか?」
どうしても気になるらしい。
エドガーはにっこり微笑みながらもポールに歩み寄り、威圧《いあつ》するように顔を近づけていた。
「朱い月≠フために、最愛の花嫁よりスレイドのことを優先しているんだよ。僕の好意が気に入らないのかな?」
「いえっ、まさか。……でも、あとでリディアさんともめたりしませんか……?」
もちろんエドガーのためを思っての言葉だが、ポールは男女のことになると察しが悪い。
「ポール! 伯爵はこんな大事な日でもおれたちのことを考えてくださってるんだ」
ルイスの助け船も、ポールにはぴんとこない様子だ。
リディアが最優先と断言したエドガーが、結婚式の日に男ばかりが集まる場所にやってきたことは、触れてはいけない事情だと、この場にいるポール以外のみんなは気づいているというのに。
「そうだ伯爵、これをごらんください。さっき出てきたところなんです」
別の若者がポールを押しのけ、エドガーの前に紙の束を差し出した。
「これは?」
「日付からしておそらく、オーウェンがボートン卿にたのまれた最新の絵の下絵です」
「オーウェンは、スケッチブックよりもこういう紙くずに、見たものや感じたものを描き写すのがくせで」
受け取り、エドガーはそれらをテーブルの上に並べた。
書き損じの便箋《びんせん》や包装紙、チラシや本の破れたページなど、紙くずに思えるものに、インクの細い線でびっしり絵が描かれていた。
「なるほどね。ボートン卿の名を使った誰かが取り上げていったのは完成した絵ばかりで、こういうものは落書きかと見落とされたんだね」
絵はどれも、宗教がかったモチーフで埋め尽くされていた。
古びた礼拝堂に祭壇、壊れかけた天使の像、聖書は炎に包まれているように見える。
おそらく一枚の絵になるはずのものの、部分のイメージやスケッチなのだろう。
神聖な印象は薄く、退廃《たいはい》的なのはまさに画家のテーマに沿っていた。
「これは、魔方陣?」
エドガーは新たなスケッチに目をとめる。
「……黒ミサですか?」
悪魔を呼び出すという儀式の場面を描こうとしたのだろうか。
それとも。
地下道だ。
エドガーはさらに別のスケッチを引っぱり出す。暗く長いトンネルのような場所、その奥に十字架のついた扉がある。
クレアは、ボートン卿の庭園に地下通路があるといっていた。この絵がその場所なら、ボートン卿もオーウェンも、もしかするとここから、地下礼拝堂を覗き見ていたのではないか。
ボートン卿は教団に属していなければ知らないようなことを知った。しかし、それを他人に、たとえば懇意《こんい》の画家にもらすというようなことは、掟《おきて》を知る信者なら考えにくい。偶然、この地下通路を見つけ、教団のことを知ったのではないだろうか。
クレアもたまたま、地下礼拝堂とやらに近づき、何かを見た。たぶん黒ミサを。
おそろしいことが≠ニ彼女は言った。
ボートン卿とオーウェンは、隠し通路から覗き見るだけに飽《あ》きたらず、修道院跡を調べようとしたのだろう。そうして、彼らに秘密を知られたと知った教団は、クレアの兄に探らせ、葬《ほうむ》ろうとした。
オーウェンの絵を、ひとつ残らずスレイドから回収しようとしたのも、絵が外部に流出しては困るからだ。
とすると、何か、黒ミサを行った連中にとって隠さなければならないものが、絵の中にあるに違いなかった。
エドガーは、紙くずの束をさらにさぐった。
ここにあるはずだ。もしも世に出たら、空想画とは片づけられない何か重要なものを描き記しているはず。
やがてエドガーは、折り目のついたクリスマスカードをつかみ出すと、印刷された聖母子の図柄を裏返し、唯一の人物画にじっと見入った。
ほかのスケッチとは違い、薄い水彩で着色されている部分がある。走り書きとは違いずいぶん丁寧《ていねい》に描かれているのは、絵の重要なテーマの部分だからか、オーウェン自身にこだわりがあったからか。
それは、法衣の人物だった。十字架を踏みつけ、洗礼に使う杯《さかずき》を手にしている。真っ赤な中身はおそらく、ワインではなく血。黒ミサを行う司祭の姿だ。
黒く塗りつぶされたマントで全身を覆《おお》っているが、法衣を着ていると思われたのは、聖職者のものらしいそでやすそがマントの下に少しだけ見えているからだ。
足元を覆う長いすそは紫。赤いチョッキふうのローブを重ねているように見える。
「そういうことか……」
エドガーはつぶやいた。
「これは国教会の主教だ」
「ええっ」
朱い月≠フみんなは、驚きに言葉を詰まらせた。
「……高位聖職者が、黒ミサを?」
ポールは胸元で十字を切る。
あり得ないことではない。キリストをとことん冒涜《ぼうとく》することで、悪魔をたたえる黒ミサは、昔から退屈をもてあます貴族や聖職者のあいだで流行《はや》った娯楽だった。
けっして公《おおやけ》にはできない、背徳《はいとく》的で危険な遊び。
「この人物を特定しよう。首謀者に違いない」
「でも、この絵では顔などわかりませんし」
「僕にまかせてくれ。それから、レイヴン」
黙ってひかえていた従者は、エドガーの方に一歩踏み出す。
「ブルームズベリに住んでいるクレア・フローリーの兄を連れてきてくれないか。手段は問わないが、人に知られないように。必要な人数を連れていってくれ」
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死がふたりを分かつまで
エドガーが屋敷へ戻ってきたころには、すっかり夜も明けていた。
プライベートルームへ続く階段をのぼり、主寝室のドアをそっと開けると、立派な家具や調度品に囲まれた広い部屋の窓側に、毛布にくるまったリディアの、キャラメル色の髪がちらりと見えた。
と、手前のソファにあった灰色の毛のかたまりがのそりと動いた。ふさふさしたしっぽをゆらしながら体を起こしたニコが、うらめしそうにエドガーを見た。
「入ってもいいかな」
ささやき声でエドガーが問うと、ニコはふんと鼻を鳴らす。
「結婚したら、おれがリディアの世話を焼かなくてすむはずじゃなかったのかよ」
「すまない。そばについててくれたんだね」
「今日かぎりにしてくれよ」
「僕もそう願いたいよ」
足音を立てないように、ベッドに近づいていく。リディアは、広々としたベッドの隅《すみ》っこでまるくなって眠っている。
起こさないよう注意しながら、エドガーは指先で彼女の髪を撫《な》でた。
「ごめんね……」
頬《ほお》に涙のあとがある。胸を痛め、彼は眉《まゆ》をひそめる。
目覚めるまでそばにいたいし、話し合って仲直りしたい。
けれど|朱い月《スカーレットムーン》≠ニスレイドのことがある。背後が思った以上に大物だと判明した以上、早急に動くべき事態になってきている。
こちらが悪魔信仰について知ったことを、気づかれないうちに攻めなければならない。
頭に軽くキスをして、リディアのそばを離れると、部屋の外でレイヴンが待っていた。
「ミスター・フローリーは、売春宿にいたところをとらえました。娼婦は買収ずみです」
「わかった。レイヴン、僕はこれから、教会関係者の貴族を訪ねて、あの絵の主教についてさぐってみる。フローリーのことは朱い月≠ノまかせていい。……念のために、リディアから目を離さないでくれないか」
なにしろリディアは、連中が儀式を行っていると思われる、あの修道院跡を訪れた。
あのときクレアの後をつけていたのが教団の者なら、ひとりであんな場所にいたリディアのことも不審《ふしん》に思っているかもしれない。
朱い月《スカーレットムーン》≠ノかかわるエドガーの妻でもあるのだから、目をつけられる可能性は大いにある。
レイヴンがいれば大丈夫だろう。
そう自分に言い聞かせ、エドガーは部屋を離れた。
「うまいなあ、このオムレツ。バターもミルクもたっぷりなんて贅沢《ぜいたく》だよ。なあリディア」
ニコは上機嫌に、朝食をほおばっている。
椅子《いす》の上にクッションを積んだ、彼のための席に腰掛け、ナプキンをネクタイに引っかけて、器用にナイフとフォークを操っている。
「まだ怒ってんのか? 伯爵《はくしゃく》のこと、そろそろ許してやったらどうだよ。女たらしだってことくらいわかってたじゃないか」
リディアは、ゆうべから何度目かわからないため息をつき、食事の手を止めた。
「……怒ってるわけじゃないの。あたしだって、ひどいこと言っちゃったし」
そんなだから、どうやってこの状況を修復すればいいのかわからない。
「じゃ、そのことだけでもあやまったらどうだ?」
「許してくれなかったら?」
エドガーにしてみれば、昨日のリディアには失望したことだろう。
魔法のせいでほかの男の人には抱きついてしまうのに、エドガーだけは拒《こば》んだ。そのうえ家へ帰りたいなんて考えたのだ。
「あの女にあまい伯爵が? 許してくれないわけないだろ」
そうだろうか、とリディアは思う。
いくら女の子にあまくても、傷つかないわけじゃない。
「そんなに簡単に、気持ちを切り換えられないこともあるわ」
リディア自身がそうだからだ。
理由がどうであれ、結婚式の日にクレアを口説《くど》いている彼なんて見たくもなかった。
それだけでなく、以前にもエドガーは、特別な感情もなくクレアにキスしたことがあるという。
過去のことだけれど、どうしてそういうことができるのかリディアには理解できなくて、心の中で整理をつけられない。
エドガーだって同じように思っているかもしれないのだ。理由がどうであれ、目の前で花嫁が、男性なら誰彼かまわずくっつくなんて、許せないと思って当然だろう。
ニコはふう、とため息をついた。
「これからは好きなだけ、バターオムレツが食べられると思ったのにな……。レイヴン、おかわりをくれ!」
今のうちに食べておこうとでもいうのか。ちょうどモーニングルームへ入ってきたレイヴンに手を振る。
「リディアさんもおかわりはいかがですか」
急にこちらへ近づいてきたレイヴンが、深刻な顔で訊《き》いた。
「あたしはもう……」
「では何か、食べたいものはございませんか」
「いいのよ、ごちそうさま」
「お好きなものを何でもご用意します」
なぜだかやけに熱心だ。
「魚のフライでもスコッチでも、リキュール入りのチョコレートもございます」
「レイヴン、そりゃおれの好物ばかりだよ」
ニコが声を立てて笑った。
「……レイヴン、あたしは食べ物につられてエドガーと結婚したわけじゃないのよ」
彼は困ったのか、しばし考え込んだ。
「では、何につられたのですか?」
またニコがおなかを抱えて笑った。
リディアは困惑しつつも、レイヴンが一生懸命に、この屋敷にリディアを留めようと考えていることはわかっていた。
レイヴンに心配をかけるのは本意じゃない。思い直して微笑《ほほえ》みかける。
「あの、心配しないでね、レイヴン。……こんなのは、深刻なことじゃないの。これまでだってあった些細《ささい》なケンカよ」
そう言いながらも、些細だと思っているのは自分だけかもしれないと考えると、リディアの気持ちは沈んだ。
朝食のあと、外出着に着替えたリディアがこっそり出かけようとすれば、レイヴンに見つかった。そうして、同行すると彼は言い張る。
なにしろ朝からレイヴンは、リディアを見張るように周囲をうろついていた。
まだ侍女《じじょ》がいないとはいえ、レイヴンの仕事はリディアの朝食の給仕ではないはずなのに、ずっとモーニングルームにいたではないか。エドガーに命令されたに決まっている。
しかしこれがエドガーの命令なら、同行するというレイヴンを止める方法は、ないだろうと思われた。
「どちらにいらっしゃるのですか?」
「ええ、……教会よ」
じつはあの、六人目の糸|紡《つむ》ぎ妖精のことが気になっていたのだ。
「でもレイヴン、あたしは妖精に用があるの。あたしひとりでないと、妖精は口をきいてくれないかもしれないし……」
「離れたところにいます」
どのみちついてくることに変わりはないらしい。
そうしてやってきた教会は、昨日式を挙げたときとはうって変わって、人影もなく静かだった。外で待っていてほしいと告げると、レイヴンは素直に頷《うなず》いてくれたのでほっとした。
大きな扉を押し開き、礼拝堂へ足を踏み入れながら、リディアは深く息をつく。奇妙な緊張感とともに祭壇のほうを眺めやる。
結婚を誓った、あのときの気持ちが、おのずと胸によみがえる。生涯《しょうがい》変わらないはずのもの。彼を想《おも》うからこそ、意地になって傷つけたかもしれないことがつらい。
苦しくなって、祭壇から視線をそらし、彼女はすみのほうのベンチを見た。
おそらくリディアの目にしか見えていないだろう、老婆がそこに座っていた。
子供の背丈ほどしかなく、土色のチュニックから棒きれのような手足がのぞいている。昨日と同じように背中をまるめ、錘《つむ》を握りしめ、しわに埋もれそうな目を見開いて、まばたきもせずに前方をにらみつけている。
結婚式をじゃまするチャンスを、まだじっと待っているのだろうか。
そんな糸紡ぎ妖精のほうへ近づいていったリディアは、そっと声をかけた。
「おばあさん、結婚式はもう終わったのよ」
老婆はぎろりとリディアを見上げた。
「だから、そろそろ帰ったほうがいいわ」
長いこと教会にいるのは、妖精にとっては辛抱《しんぼう》しなければならないことだろう。
だから忠告に来たのだが、老婆の妖精は、リディアをにらんだままわなわなと震えた。
怒って暴れ出すだろうかと身構えると、急に老婆は力が抜けたようにうなだれた。
(今度の青騎士も、またわしをのけ者にしたか。……どうせわしは嫌われ者じゃ。誰も名を呼んではくれぬ)
やけに淋《さび》しそうで、リディアは首を傾《かし》げた。
この妖精は、青騎士伯爵を恨《うら》んで嫌がらせをしているわけではないのだろうか。
「それは、あなたの名前を誰も知らないもの。教えてくれたら招待できたのよ」
(名を教えるじゃと? 妖精が人間などに名を教えられるものか! 名を教えたら、わしは人間のために魔法を使わねばならなくなるのじゃぞ!)
もちろん、妖精にとって人間に名を知られるのは不都合が多いだろう。しかしほかの五人の糸紡ぎ妖精は、青騎士伯爵に名を知られ、結婚式に招待を受け、花嫁に祝福の魔法を使うことを誇りに感じているようだった。
名を知られたくないというのは妖精の本能だ。その一方で、信頼できる誰かに名を呼んでもらいたい気持ちもあるなら、ほかの妖精たちはうまく人間にヒントを与え、自分の名を見つけさせることができたのだろう。
「ねえおばあさん、これからはもう、伯爵家に悪さをしないでほしいの。あなたのためにできることがあればするわ」
(わしは青騎士を恨むと決めたんじゃ! 何をしようと無駄じゃ。おまえの子供たちも、そのまた子供たちも呪《のろ》ってやる!)
あまのじゃくでひねくれ者の妖精。しかしそれは、名を見つけてほしかった期待への裏返しかもしれない。
ふとリディアはそんなふうに思うと、この老婆に同情を感じていた。
「でも、どうして青騎士伯爵ほどの人が、あなたの名前がわからなかったのかしら」
考えながら彼女は、老婆の隣に腰をおろした。
よほどこの、老婆のガードが堅かったのか。それとも意地悪であまのじゃくな彼女を懲《こ》らしめようと、青騎士伯爵はわざと無視をしたのだろうか。
(青騎士なんぞ、しょせんは滅《ほろ》ぶべき人間じゃ。結婚せねば人は、家を保てん)
それで、結婚式の妨害をするようだ。
「ギリトゥルット、じゃないわよね? あなたの名前」
(は? 違う!)
「じゃ、ビーリフールは?」
(違う違う!)
それからリディアは、思いつくかぎりの妖精の名を言ってみたが無駄だった。
(おまえなんぞにつきあっておれん!)
そして妖精は急に消えた。
怒らせちゃったかしら、と気になったリディアだが、もしかすると礼拝堂に人が入ってきたせいかもしれない。
レイヴンが待ちきれなくなったのかと思ったけれど、現れたのは見知らぬ少年だった。
リディアに近づいてくると、彼は無造作に手紙を差し出した。
「あんたに渡してくれって、今外で」
急いでリディアが封を開けると、青いリボンと手紙が入っていた。
リボンは、ハベトロットの魔法がかかったものだ。そして短い手紙には、どうしても、お会いしてあやまりたいのです。バーンズフィールドで待っています≠ニ書いてあった。
リディアは思わず立ちあがる。
名前はないが、クレアからに間違いないだろう。リボンはやはり、彼女が持っていたのだ。
「あの、これをあなたにあずけた人、まだ近くにいる?」
「いないよ。急いで馬車に乗り込んでいったから」
それだけ言って、少年は立ち去る。クレアを追いかけようとするのはあきらめて、リディアは考え込んでいた。
どうしよう。クレアと会えば、当然エドガーの話にもなるだろう。あまりレイヴンには聞かれたくない。
クレアが、朱い月≠陥《おとしい》れようとしている誰かとかかわっているかもしれない。そうエドガーから聞かされたことは頭にあった。けれど彼女は利用されただけで、直接その組織とかかわりはなさそうだともエドガーは言っていた。それに、そのこととは別に、リディアはクレアをひとりの女性として考えていた。
彼女はきっと、エドガーのことが好きで忘れられなかった。リボンを持っていったのも、そのせいだろうと思えば、気持ちはわからないでもない。
同じように恋をしている女の子、そう思うリディアは、意を決すると、礼拝堂の裏口へそっと向かった。
辻《つじ》馬車を降りたリディアが、ひとりで市場のほうへ向かって歩くと、バーンズフィールドは思いがけず閑散《かんさん》としていた。
フェアの開かれる期間が終わったことを、リディアはそのとき知ったのだ。
煉瓦《れんが》造りの建物は出入り口が閉じられていて、周囲の広場にも、荷車や木箱がいくらか残っているとはいえ、広々として感じられる。
フェアのときには、所狭しと屋台が並んでいたし、車も人も思うように動けないくらいだったのに、同じ場所とは思えないほどだ。
踏み固められた地面に、交差した轍《わだち》や足跡がいくつも残っているが、それゆえに誰もいない広場は異様な感じがする。
リディアはひとりで来たことを後悔しはじめたが、クレアだってひとりで来ているはずだ。
気を引き締めて建物のほうへ近づいていく。
煉瓦の壁際に、女がひとり立っているのが見えてくると、彼女もこちらに気づき、小走りになって駆け寄ってきた。
少し手前で立ち止まり、うつむきながら口を開く。
「リディアさん……、あの、昨日は、ごめんなさい……。あたし、どうかしてたの。奥さまのいる人が、振り向いてくれるはずもないのに……」
リディアはどう言っていいかわからずに黙っていた。
「伯爵は、あの場であたしをおとなしく帰らせようとしたのね。……そうよね、屋敷まで押しかけてくるような思いつめた女が、冷たくされて取り乱したら、祝宴が台無しになるものね」
クレアはあのときのエドガーの態度を、そう解釈したのだろうか。
「でもあたし、伯爵を困らせたかったわけじゃないの。ただ、助けたかったの」
「助ける?」
「お願い、アシェンバート伯爵のこと、裏切らないで」
「あたしが?」
急に話が見えなくなって、リディアは口をあけたままクレアを見た。彼女は、どこか正義感に満ちた瞳《ひとみ》をリディアに向ける。
「あなた、あの教団の一員なんでしょう?」
教団って……何のこと?
ますますリディアにはわけがわからなかった。けれどクレアは、何かを思い込んでいるらしくたたみかけるのだ。
「ボートン卿のように、家族を犠牲《ぎせい》に捧げるなんておそろしいことはしないで。悪魔に魂《たましい》を売って、いいことがあるはずないわ!」
「あ、悪魔ですって……?」
さすがにリディアは、すっとんきょうな声をあげていた。
「あたし、知ってるのよ。あの修道院跡の教会で、黒ミサが行われてる。悪魔がどうとか言いだした卿は、教団とかかわってた……。あなたも……」
その教団のことを、エドガーは知りたかったのだろうか。リディアが考えている間にも、クレアは勢い込んで言葉を続けた。
「リディアさん、あたしが秘密を知ってるかどうか、確かめたくて呼び出したんでしょう?」
「え」
「罠《わな》かもしれない……、そう思ったけど、言いたかったの。伯爵はあなたを信じてる。だから裏切らないで!」
自分たちがどんな想いで、ようやく結婚にこぎつけたのかクレアは知らないし、わかるはずもない。けれどそう反論するより、もっと引っかかったことがあった。
「ちょっと待って、あたしがあなたを呼びだしたっていうの? あなたのほうから手紙が来たのよ」
リディアは急いで、ポケットから手紙と青いリボンを取り出すと、クレアに示して見せた。
クレアは驚き、困惑と羞恥心《しゅうちしん》が混ざった複雑な表情で眉をひそめた。
「それ……、あたし、どうしても出す勇気がなくて捨てたはず……」
「じゃ、あなたが出した手紙じゃないの?」
「……誰がそれを……、まさか……」
(逃げるんじゃ!)
そのときリディアの耳に、誰かの声が響いた。しわがれた、妖精の声に思えた。
(早く、青騎士の花嫁!)
糸紡ぎのおばあさん?
とたん、建物の陰から人影が躍り出る。と思うと、いつのまにかリディアの背後に現れたふたりの男が、乱暴に肩をつかんだ。
「な……」
強く押さえられ、動けなくなったリディアは、さっきの人影がクレアにつかみかかるのを眺《なが》めているしかできない。
「何なのよ、あなたたち! 誰か、助け……」
声をあげようとしたが、口を手でふさがれる。殴られたらしいクレアが、その場に倒れる。
「あんたがリディア・カールトンか?」
もうカールトンではないのだけれど、とっさに頷いてしまうと、男はそばにいる仲間に目配せした。
「そっちがクレア・フローリーだ」
男がナイフを取り出すのが見えた。リディアはくぐもった声をあげる。
「静かにしてな、お嬢ちゃん。あんたのことは殺しやしない。ただし、あの女を殺したのはあんただってことになるけどな」
ますます強く、リディアを押さえ込みながら、男が言った。
どうして。リディアは目で訴えるしかない。男はにやりと笑う。
「犯人がいりゃ、あの女のことをそれ以上は誰も調べない」
朱い月≠フスレイドが、人殺しの疑いをかけられているということだった。
あれもこの人たちが……。
「男を取り合った末の殺人か。ま、あの伯爵なら、そのくらいのスキャンダルはあったって不思議はない……」
言葉を切ったかと思うと、男は急にリディアを放した。
逃れようと力を入れていたリディアは、勢いあまって倒れ込む。なんだかわからないまま顔をあげると、レイヴンがもうひとりを蹴り倒したところだった。
必死で起きあがりながら、リディアはクレアのほうを見た。
「おい、早く女を始末するんだ!」
クレアのそばにいる連中が、あせりながら声をあげる。
ナイフを持った男がクレアのそばにかがみ込もうとしている。動かないクレアは、気を失っているのだろうか。
「レイヴン、クレアを助けて!」
「なぜですか?」
振り返った彼は、淡々とそう言った。
説明している時間なんてない。
リディアはとっさに、クレアのもとへ駆け寄っていた。
ナイフを持った男に、背後からつかみかかる。
「この……っ」
男はすぐさまリディアを押さえ込む。腕をひねりあげられかけたとき、男の悲鳴が耳に響いた。
リディアを放した男が足元に倒れると、クレアのそばにいたもうひとりも倒れていた。
「これでよろしいですか、マイ・レディ」
レイヴンはまた淡々と言う。
ほっと息をついて、リディアは煉瓦の壁に寄りかかった。
「ありがと、レイヴン……」
いつのまにか落としたらしい帽子《ボンネット》を、レイヴンは無表情に拾いあげてリディアに手渡す。
気を失って周囲に倒れている男たちが視界に入ると、レイヴンがいなかったらどうなっていただろうとぞっとせずにはいられなかった。
「あの、どうしてあなたがここに」
「見知らぬ老婆が、教えてくれたのです。リディアさんが教会の中にいなかったので、急いでこちらへ」
老婆。さっきリディアに警告してくれたのも同じだろうか。
あの教会にいた、六人目の糸紡ぎ妖精?
彼女が助けてくれるなんて、何かの間違いだろうか。
「そう……だったの。ごめんなさい、勝手に教会から抜け出して……」
さすがに自分の無謀さを反省して、リディアはうつむいた。
「では、帰りましょう」
レイヴンはきびすを返す。
「あ、待って。このへんに部屋を借りられるところはないかしら。クレアをこのままにはしておけないわ」
結局レイヴンは、クレアを背負う羽目《はめ》になった。むっつりと黙りこくったまま、リディアの言うとおりにしてくれた彼だが、エドガーが結婚したことでとんだ面倒《めんどう》が増えたと思っているだろうか。
ともかくレイヴンは、いやな顔ひとつせず、というよりいやな顔をされてもリディアには見分けられないだろうが、近くに|朱い月《スカーレットムーン》≠フ隠れ家があると案内してくれた。
部屋を借り、ソファにクレアを寝かせる。
「どうしてなのですか」
彼女をおろしたレイヴンは、急にそうつぶやいた。
「この女性は、エドガーさまに近づいて、あなたを傷つけたのに」
なのにどうして助けるのかと言いたいようだ。やはりレイヴンは、理不尽《りふじん》に思いながら従ってくれていたのだろう。
「エドガーさまなら、あなたが眠っているあいだに唇を奪った男を許しません」
「眠ってるあいだに?」
「彼女はそうしたのです。ボートン家に招かれたおり、エドガーさまがうたた寝をしているあいだに」
キスって、もしかしてそのことだったのだろうか。
エドガーに恋していたクレアが、きっと出来心で……。
しかしリディアは、非常に疑わしく思う。
「エドガーは本当に眠ってたの?」
レイヴンは微妙に目をそらした。
やっぱり。
エドガーのことだから、クレアが自分に気があることくらい知っていただろう。そんな女の子がそっと近づいてきたら、眠ったふりくらいするに決まっている。
リディアはあきれて肩をすくめた。けれど同時に、安堵《あんど》していた。エドガーのほうからもてあそんだわけではないなら、よかったような気がしている。
「レイヴン、心配してくれてありがとう。でもあたし、クレアに傷つけられてはいないわ。ナーバスになりすぎてただけなのよ」
そうして、クレアのほうを見る。
「一生にいちどの大切な日だから、エドガーにはほかの女の子に手を触れてほしくなかったのね。……ひどいやきもちだわ」
リディアはソファのそばに座り、クレアの手を持ちあげた。
ナイフを避けようとしてできたのだろう傷が痛々しい。
ハンカチをその手に巻きつけていると、クレアは気がついたらしく目を開けた。
「……リディアさん……? あたし……」
「クレア、ここは安全よ。心配しないで」
頭を動かそうとして、彼女は痛みを感じたのか眉根を寄せた。
「頭を打ったんでしょう? 横になっていたほうがいいわ。傷は手のひらだけね。しばらく手を使えないけど……」
それでもどうにか体を起こし、クレアは絞《しぼ》り出すように言った。
「ごめんなさい……。リディアさんのこと、誤解してたわ。あたしのせいで、あなたまで危険な目に」
「……あたしたちを呼び寄せた人に、心当たりがある?」
こくりと頷《うなず》きながらも、苦しそうに彼女は口を開いた。
「兄だわ。リボンを返そうと、お詫《わ》びの手紙を書いたの。それを、あたしの部屋のくずかごから拾ったのよ」
「お兄さんが? まさか、だって……」
リディアはにわかには信じられなかった。
あの男たちは、クレアを殺すつもりだった。
「たぶんあたしが、教団の存在を知ったことに気づいたから……。兄は、上からの命令に従わされているのよ。……逆らえば殺されるんだわ。だからあたしが、妹でも、見捨てるしか」
そしてリディアも、教団のことを知っているかもしれないと疑われ、クレアを殺した犯人にされるところだったのだろう。
「本当にごめんなさい。あなたの青いリボンを持って帰ってしまって、返そうと思いながら、怖くてできなくて」
クレアは両手で顔を覆《おお》う。
「エドガーのこと、好きだから?」
なだめるように、リディアは問いかけた。
「ただの片想いなの。伯爵は、ボートン家の家庭教師にすぎないあたしにもやさしくて、淑女《しゅくじょ》として接してくれて」
「それで、好きになったのね」
「あたし、なんの取り柄もない娘なのよ。家庭教師として優秀ってわけでもないし。お嬢さまだってなかなか懐いてくれなかったわ。でも伯爵があたしのこと、まじめで熱心だってほめてくれると、みんなもあたしを見直してくれたの。急にあの一家にとけ込めるようになって、奥さまもお嬢さまも信頼してくれて、ほんとうに、有能な教師になれたかのようで……」
エドガーはそういう人だ。どんな女の子でも、彼に持ちあげられればお姫さまのように感じてしまう。自分では気づかなかった魅力を引き出してくれて、彼のそばにいると周囲の見る目も変わる。
リディアも、そんな魔法みたいな彼の態度や話術に巻き込まれながらも、振り回されまいと必死になって、自分の気持ちがわからなくなっていたころがあった。
すぐに解けてしまう魔法ならいらないと警戒したけれど、クレアは素直に恋したのだろう。
リディアには少しうらやましかった。
エドガーのいいところを素直に受け入れて、好きだと言えたなら、ケンカなんてしなくてすむのに。
彼がまだ怒っているかもしれないと、自分からあやまることができないリディアは、愛情が足りないような気がして情けなかった。
けれど、彼を目の前にしても意固地にならずにいられる自信がない。
「リディア!」
そのとき、いきなりドアが開いた。
エドガーが部屋へ駆け込んでくる。
立ち上がりかけたリディアは、いきなり彼に抱きしめられた。
「無事でよかった」
「エドガー……」
少し離して、リディアの顔を覗き込む。あんまり顔が近いので、うつむこうとするが、両手で頭をつかまれてはどうにもできない。
「報《しら》せを聞いて飛んできたよ。何者かに襲われたって……。怪我は? どこにもない? ああ、でも怖い思いをしただろうね」
もういちどリディアをきゅっと抱きしめる。そうしながら彼は、ソファの上のクレアに気づいたようだった。
「リディアを、どうするつもりだった」
かかえ込まれたままのリディアの耳に聞こえた声は、うって変わって冷ややかだった。
リディアを放したかと思うと、エドガーはクレアに詰め寄った。
「リディアを呼び出したのはきみなんだろう? 誰かに命令されたのか?」
「ちょっとエドガー、そんな言いかたするってどうなの。昨日みたいにやさしく……」
「ああそうだ。僕がいけなかった。クレア、昨日はきみを誤解させるようなことをした。そのせいでリディアがこんな目にあったのなら、自分が許せない」
「ち、違うのよ。クレアは……」
リディアは説明しようとするが、エドガーは耳を貸そうとせず、クレアを冷たくにらみつける。
「リディアさえいなければいいと思った?」
青くなるクレアとエドガーの間に、リディアは必死で割り込んだ。
「エドガー! クレアだってだまされて襲われたのよ。あの人たちは、クレアを殺してあたしを犯人にしようとしたの。あたしたち両方を、バーンズフィールドに呼び出して……。スレイドさんをおとしいれた人たちに間違いないわ!」
一気に言うと、エドガーはようやくリディアを見た。それからレイヴンのほうを見て、彼が頷くのを確認する。
「エドガーさま、おそらく本当に、ミス・フローリーは教団とは無関係です。襲った連中は、どちらの女性がミス・フローリーか確認していました」
納得したのか、エドガーはほっと息をついた。
「なるほど。悪魔|崇拝《すうはい》の教団は、かなりあせっているようだ」
「エドガー、知って……」
「だいたいのことはわかってきた。ミスター・フローリーが、いくらか話してくれたからね。しかしよほど下《した》っ端《ぱ》なのか、肝心《かんじん》なことは何も知らない」
唖然《あぜん》として、リディアはエドガーを見あげた。
「クレアのお兄さんを……? な、何をしたの?」
「強制的に協力してもらっているだけだ。今のところ五体満足だよ」
それだけ言うと、エドガーはリディアの背中に腕を回しながら、くるりときびすを返した。
「さて、ここに長居は無用だ。リディア、帰ろう」
「エドガー……、ちょっと、クレアにあんまりな態度じゃ……」
抗議しようとすると、いきなり立ち止まる。唐突な笑顔でクレアのほうに振り返るが、口調はさっきと変わらなかった。
「ミス・フローリー、昨日のきみにだまされたのかと思って、本気であせったよ。誤解をして悪かったけれど、僕はこういう男だ。リディアに何かあったらきみを恨む。リディアを守るためなら、きみに恋をささやいてでも利用する。すまないね」
それから彼は、ドアの外にいた朱い月≠フ若者に言った。
「今日のところはここで、ミス・フローリーをかくまってやれるか? 明日には決着がつくだろう」
「あの……伯爵……」
クレアは、エドガーのささやかな思いやりに、すがろうとするように呼び止めるが。
「きみに何かあると、リディアが僕に腹を立てるだろうから」
それも完璧な笑顔を崩《くず》さないまま、彼は言った。
朱い月≠フ隠れ家を出て、馬車の中でエドガーとふたりきりになると、リディアは急に落ち着かない気持ちになっていた。
ついさっきは、昨日のケンカなんてなかったかのようにリディアを心配して駆け込んできたエドガーだったが、今は黙り込んでいる。
とにかくリディアは、心配をかけたのだし、ゆうべのこともまだあやまっていない。
素直にごめんなさいと言うべきだ。すぐには許してくれなくても、意地を張っていたっていいことはない。
そう思うのに、口を開こうとすれば、心の内とは違うことを口走っていた。
「どうしてあんなふうに、手のひらを返したような態度なの?」
エドガーはこちらを見て、深く息をついた。苛立《いらだ》ちを鎮《しず》めようとしているみたいで、リディアはますます彼に詫《わ》びることが不安になっていた。
「もう機嫌を取る必要もないじゃないか」
利用価値がなくなったから?
クレアを冷たく突き放したのは、もはや彼女に期待させないためだろうし、リディアへの思いやりだ。そう感じていながらもリディアは、説明をしてくれないエドガーは、昨日のことをまだ怒っているのだろうと思った。
「機嫌を取る必要がなくなったら、あたしにもそうするの?」
こんなことを言っちゃいけない。バカげたケンカの傷が広がってしまうだけ。そう思っても止められなかった。
「だってあなた、さっきと態度が違うじゃない。今はすごくよそよそしいもの。本当は、あたしのことが許せないんでしょう?」
「きみのほうだろう? 僕を許せないのは」
その口調が冷たくて、リディアは怖くなって口をつぐんだ。
たぶん、リディアはずっと、自分とクレアが似ているように感じていた。
教師の娘という境遇は似ていた。それでいてリディアの父は健在で、上流階級的職業《ジェントルマン・プロフェッション》としての地位もあって、おかげでリディアは貴族と婚約にまでこぎつけた。けれどクレアは、父親を亡くしたときから生活のために働かねばならなくなった。
兄がいたにもかかわらず、働くことを強要されたのだ。
本当なら彼女も、着飾ってパーティに出ている年頃なのに。
リボンのことがあったけれど、リディアにはクレアを悪くは思えなかった。
彼女がエドガーを好きになった理由にも共感した。
リディアだって、彼がうまく立ち回ってくれているから、どうにか上流階級でやっていけそうだというところなのだ。
もし、エドガーの気持ちが変わったら、自分はどうなるのだろう。
結婚式のごたごたで、彼を困らせたり傷つけたりしてしまった。
そんなふうに思うから、エドガーのクレアへの態度は、自分に向けられたものではないとわかっていても不安になった。彼女にやさしくしているところを見てしまったからこそ、彼は容易に態度を変えられるのだと想像してしまう。
エドガーがそうした理由はわかっているし、愛情を疑ってもいない。それなのに、エドガーが自分に腹を立てているのがわかるから、何か言えば冷たくされそうな気がしてしまう。
「教団のミサが今夜、あの修道院跡の地下で開かれるらしい」
エドガーは唐突にそう言った。
「乗り込んでいって、教祖と取り引きする」
驚いて、リディアは顔をあげた。
「そ、そんなことができるの?」
「スレイドを助けられるチャンスだ。勝算はあるよ」
けれど、またエドガーは危険なことをしようとしているのだ。
「クレアを殺そうとした人たちでしょう? 大丈夫なの?」
「彼女は教団の存在を知っただけた。僕らがしっぽをつかめば、連中も騒ぎを大きくするのはやぶ蛇《へび》だと気づく。制裁をひかえるだろうし、彼女のことは放置するだろう」
エドガーはリディアのほうを見ないまま話していた。それもまた、リディアをいたたまれない気持ちにしていた。
リディアにとって心配なのは、クレアよりも何よりもエドガーだ。
「乗り込んでいくなんて、危険だわ」
僕を心配してくれるの? といつものエドガーなら言っただろう。けれど今は違っていた。
「案外、よかったのかもしれないな。僕に何かあっても、きみはまだ僕の妻じゃない。法的には結婚を無効にできる。もういちど、カールトン家の娘に戻って家へ帰れるんだ」
耳をふさぎたかった。リディアは泣きそうになるのをこらえてひざの上でこぶしを握った。
「これから、今夜の計画を朱い月≠ンんなと打ち合わせする。明日まで帰れないけど……」
「やっぱり、あなたのほうよ。あたしを許せないのは」
冷め切った声をさえぎりたくて、リディアは声をあげた。
「カールトン家になんて帰らないわ! あたしは、ちゃんと夫婦になりたいのよ」
気づけば身を乗り出して、彼の上着をつかんでいた。
驚いた様子の彼と視線が合い、はっと我に返ってリディアは座席の上であとずさる。
「リディア……」
「言わないで!」
そんな気になれないとか言われたら、二度と立ち直れない。馬車から飛び降りたくなってしまう。
彼がリディアに腹を立てているとわかっているのに、どうしてこんな、せまるようなことを言ってしまったのだろう。
あせりと不安で、リディアはもう何が何だかわからなくなってきていた。
「今のは忘れて。あ……あなたがあたしに失望したなら、無効にでも何でも……」
違うわ。こんなことが言いたいんじゃない。
素直に気持ちを伝えればいい。さっきとっさに言ってしまったことのほうが、リディアにとっての本音だった。
けれどもう、声が詰まってしまって言えそうにない。
「僕はダメな男だな。きみを前にすると、とんでもない失態を重ねてしまう」
うつむいたエドガーは、ため息まじりにそう言った。
「何があったって、結婚を無効にしたいなんて思うはずないだろう? 昨日、自分が最低なことを言った自覚はあるんだ。正直、どうすれば許してもらえるのかわからなくて、きみにきらわれたくないから、必死に自分をおさえている」
悩んだように髪に指をうずめ、それから再びリディアのほうを見る。
「ひたすらあやまるとか、なかったことにしてなし崩しにせまるとか、いつもの手が使えないくらい、今も混乱してるんだ。なのに、僕がきみに触れられないのは、許せないからだと思った?」
そうしてリディアのほうに身を乗り出した彼は、さっきまでの感情を抑えた冷たさはもうなかった。切なげに微笑み、熱くこちらを見つめている。
「今すぐ夫婦になりたい」
急に態度が変わるから、リディアはあせりながらまた微妙に体をずらした。
そうしたところでせまい馬車の中。座席のすみに背中をくっつけるのが関の山だ。
「い、今? ……馬車の中よ」
「いや?」
あたりまえでしょ! と言いかけ、きっと彼はからかっているのだから、そういうきつい態度はよくないのかもしれないと考えて迷うと、リディアの心の内を見透かしているのか、エドガーはくすりと笑った。
「ああ、いつものリディアだ」
「……そ、そう?」
「もう、怒ってないね?」
「……あなたも、怒ってない?」
「キスしてみればわかるよ」
返事を戸惑っているあいだに、馬車が止まった。
レイヴンがドアを開けても、エドガーはなかなかおりようとせず、リディアの動作を待っているかのようだったけれど、無表情のままレイヴンが、ひたすら主人が降りるのを待っているものだから、キスすることなんてできなかった。
「……家へ着いたわ」
リディアはどうにかエドガーを押し戻す。
少し不満そうにしながらも、馬車を降りた彼は、黙って屋敷の中へ入っていく。
また気分を害したのかしら。と思ったけれど、出迎えたトムキンスに、帽子とステッキを手渡すと、急に彼はリディアを腕の中に引き寄せた。
「トムキンス、当分、誰が訪ねてきても取り次ぐな。たとえ女王|陛下《へいか》でも」
「かしこまりました」
トムキンスは得心した様子で頭を下げる。
「えっ、エドガー……、これから朱い月≠ニ打ち合わせが……」
さっきはそう言っていたはずだ。けれどエドガーは、顔を近づけてささやく。
「もう火がついてしまった」
えっ?
「レイヴン、僕が行くまでに、みんなと今夜の計画をつめて準備を進めておいてくれ」
「はい」
あっさり頷き、レイヴンはきびすを返す。
な、なんなの?
ぼんやりと理解するうちに、顔が熱くなってくる。エドガーは彼女を抱き寄せたままプライベートルームのほうへ歩き出した。
「あの……、まだ夜じゃないわ」
「夜でなきゃいけないわけじゃないよ」
そ、そうなの?
「で、でもあの、せっかく妖精がつくってくれたナイトウェアが……」
「帰ってきてからの楽しみにしておくよ」
そう言われてリディアは、彼が危険なことをしようとしているのだと思い出していた。
立ち止まって、つい不安げな顔をしてしまうが、エドガーはやさしく微笑んでみせる。
「大丈夫、何があってもきみのもとへ戻ってくるから」
部屋へ足を踏み入れれば、背の高い窓から午後のやわらかな光が射し込んでいる。リディアが昨日ひとりきりで過ごした広い寝室は、明るすぎるような気がしたが、戸口でたわむれるようなキスを受けているまに、メイド頭が静かにカーテンを引いていった。
「奥さまのしたくをいたしましょうか?」
「いいよ、僕がする」
そっと交わされた会話は、リディアにはよく意味がわからなかった。
メイド頭がドアを閉める音を聞きながら、ふたりきりになったことを考えながら、不思議に思っていると、エドガーがおかしそうに目を細めた。
「世の中には、コルセットのはずしかたを知らない令嬢もいるから」
リディアはそこまで箱入り娘じゃないけれど。
「あなたは、知ってるの?」
それもまた、純粋に不思議に思うくらい、リディアはもう頭が回っていなかった。
「パブリックスクールで習った」
エドガーって、学校へ行ったことなかったんじゃ……。
またおかしそうにこちらを覗き込むエドガーを見あげながら、からかってるんだわと思う。
ふわりと体が浮いたかと思うと、ベッドの上におろされている。
彼が手袋をはずすのを、不思議な思いで見つめている。リディアの手袋もはずされると、じかに指が絡《から》み合う。
[#挿絵(img/something blue_231.jpg)入る]
靴ひもさえほどいたことのない令嬢になったかのように、彼がそうするのを眺めているだけだ。されるがままのリディアは、それでも必死で考えている。
大事な言葉を、まだ告げていない。
ごめんなさい。傷つけるつもりはなかったの。帰るのはもうあなたのそばだけ。
ううん、もっと肝心《かんじん》な言葉。
あなただけを……。
「リディア、いつまでも、僕だけのきみでいてくれるね?」
緊張と動悸《どうき》のせいでぼんやりしながらリディアは、こくりと頷く。愛してると告げようとする間もなく、長いキスがはじまった。
[#改ページ]
青騎士伯爵の名のもとに
「おいリディア、風邪《かぜ》でもひいたのか?」
ケルピーの声がした。
「まだ月ものぼってないのにもう寝てるのか」
呼びかけられて、リディアは浅い眠りから抜け出し目を開ける。
少しだけ開いたカーテンの向こう、空はすっかり暗くなっている。そんな窓の外、バルコニーの手すりに腰掛けたケルピーがいて、こちらを眺《なが》めているのだった。
「やだ、眠っちゃったのね」
目をこすりながら体を動かし、そばにエドガーの姿がないことに気づく。
もう出かけてしまったようだ。起こしてくれればよかったのに。
いつの間に眠ってしまったのかわからないくらい、彼の腕の中が暖かくて心地よくて、安心しきっていたことを思い出すと、かすかに頬《ほお》が染まる。
一方で、ここにケルピーがいるという事実を徐々《じょじょ》に理解し、リディアは跳《は》ね起きた。
「ちょっ、……ケルピー! どうしてそこにいるのよ! もう寝室には来ないでって言ったでしょ!」
「だから外にいるだろ」
「バルコニーもダメなの!」
真っ赤になりながら、シュミーズ一枚の自分にあわて、毛布にもぐり込む。手探りでガウンをさがし、ようやくそれらしいものをつかんでほっとしていると、ケルピーはまだそこにいたらしくまた声が聞こえた。
「機嫌悪いな。まだ伯爵《はくしゃく》と仲直りしてないのか」
仲直りした。そのことが思い浮かぶと、リディアはますます赤くなるしかなかった。
「この窓を開けてくれ。おまえに大事な用があるっていうから、ババアどもを連れてきてやったんだぞ」
ババアって?
急いでガウンにそでを通し、バルコニーのほうに歩み寄ると、ケルピーの足元に五人の老婆がうずくまっていた。
あの善良な糸|紡《つむ》ぎ妖精たちだ。
彼女たちは水棲馬を恐れてはいないのだろうか。それとも歳《とし》を取りすぎて、リディアと仲のいい妖精が水棲馬だとは気づいていないだけかもしれない。
バルコニーへ続く窓を開けると、五人は急いで駆け寄ってきて、リディアを取り巻いた。
(助けておくれ、青騎士伯爵の花嫁)
(女神の像が壊されそうなんじゃ)
(あれが壊されたら、女神の魔力が散じてしまう。わしらも消えてしまう)
「落ち着いて、女神の像って、あの六人目のおばあさんが言っていたもの?」
五人の妖精ははげしく頷いた。
「あなたたち糸紡ぎ妖精は、その古い女神の末裔《まつえい》なのね」
(女神の分身、いや、わずかな魔力の残り火というところか。それでもひっそりと生きながらえてきた)
(あの像を、人が聖母と呼んだおかげで……)
「誰がそれを壊そうとしてるっていうの?」
(ときどきあの場所で、人間たちが集まって妙な儀式を繰り返しておるというのは耳にしていた)
(それが悪魔を呼び出す儀式だったとは……)
そうだ。あの修道院跡には錘《つむ》を持った聖母の像があった。そしてあの場所のどこかで、クレアを殺そうとした悪魔教団が儀式をしているということだった。
やはりあの聖母像が、六人目の妖精が言う女神の像だったのだ。
たしかに妖精たちにとって一大事だ。そしてそれ以上に、リディアはあせりを感じていた。
そこは今夜、エドガーが|朱い月《スカーレットムーン》≠引き連れて向かうはずの場所だからだ。
「まさか、本物の悪魔が現れる……ってことはないわよね?」
しゃがみ込んで、老婆たちを見まわす。
(すでにあの場所には、よくない魔力がたまってきておる。おそらく、今宵《こよい》の儀式で悪魔が現れる)
「現れるの!」
(女神の魔力が悪魔に飲み込まれれば、像は壊れ、わしらも……)
……本物なのね。とリディアはため息をつく。
どうしよう。悪魔なんて、フェアリードクターには専門外だ。
(下等なやつじゃ)
(女神の土地へ、昔大陸から修道士がキリストだの何だのを持ち込んだとき、くっついてきたものじゃろう)
(修道士が懲《こ》らしめて、女神像の下に閉じこめた。眠っておったはずじゃが……。あの連中が起こそうとしておる)
「おい、悪魔なんてものにかかわるのはやめろ。いくら何でも無謀だぞ」
ケルピーが口を出した。
リディアもそう思うけれど、この心やさしい糸紡ぎ妖精たちを見捨てたくはない。
それに、本物の悪魔が現れたりしたら、エドガーだって危険なのではないだろうか。
「ねえ、女神の像が守られれば、悪魔は出現することができないってこと?」
(むろんそうじゃ。女神のもとでは力を保てんはず)
「だからって、どうやって像を守るんだよ。おまえらじゃどうにもできないんだろ? リディアは人間だ。魔力なんか持ってねえし、魔法も使えない」
強い魔力を持っている者はというと、リディアの周囲にはケルピーくらいだった。
リディアがそう考えていると、老婆の妖精たちも、目の前の黒髪の妖精が強い魔力を持っていることは感じているらしく、頼るようにケルピーのほうを見た。
「言っておくが俺は魔性の水棲馬だぞ。悪魔と戦うのなんかごめんだが、そうしたところで、魔力を使えばおまえらの女神像なんか粉々《こなごな》になるかもな」
そうだ、だから頼れない。
(水棲馬?)
(|魔性の妖精《アンシーリーコート》!)
(ま、まさか! なぜ悪《あ》しきものが青騎士伯爵の花嫁の取り巻きに!)
老婆たちは驚いた声をあげると、さっとリディアの背後に回り込んだ。
やっぱり水棲馬だって気づいてなかったんだわ。
「あのね、おばあさんたち。彼はとくべつだから危なくないの。心配しないで」
糸紡ぎ妖精は互いの顔を見合わせながら、何やらコソコソ話していたが、この場から逃げ出すよりも女神の像のことが重要だと判断したのか、リディアの背後にとどまっていた。
(わしらにだって、本来ならじゅうぶんな魔力はあるのじゃ)
(そう、かつては水棲馬なんぞ恐れるものではなかった)
(ただ、ひとつ問題が)
「はん、威張《いば》ったって今じゃ弱小妖精だろ」
「ケルピー、黙ってて。おばあさんたち、女神像を守る方法があるの?」
(わしらが力を合わせさえすれば、あそこは女神の土地、よそ者から女神の像を守ることは難しくないはずなんじゃ)
(しかしもうひとりが協力してくれん)
(あの、あまのじゃくときたら、名前を知らないものには力を貸さんと言い張る)
つまり六人目の妖精のことらしい。
「えっ、でも、力を貸さなきゃ、彼女も消えちゃうんでしょう?」
(どうしようもないひねくれ者じゃ)
本当に、ものすごい頑固《がんこ》者だ。名を呼んでほしい様子もあったのに、それでいて誰にも名を教えようとしない。
(あれのせいで、七百年ほど前には女神の土地に修道院なんぞ建てられてしもうた)
(あのときは、像は壊されずにすんだが)
そんな昔からあの性格なのか。
「でも、それじゃあたしが説得しても、女神の像を守るのに協力してくれないでしょう?」
(あれの名を見つけてくれ)
(そうすればすべてうまくいく)
しかし、結婚式のときもそうしようとしてうまくいかなかったのだ。
「そうだわ、今夜あの女神像がある場所へ、エドガーが向かってるの。儀式が中断されれば、悪魔は出てこられないんじゃない?」
(中断? それはやっかいじゃ。伯爵の身に危険があるかもしれん。儀式で呼び出された悪魔は呼び出した者に従うというが、中断されると制御のきかない魔力だけが暴走する。その場にいる人間を皆殺しにしかねん)
「ええっ、そ、そんなに怖ろしいの?」
どうしよう。そうなると、悪魔をどうにかしなければならないのは、妖精たちだけの問題ではなかった。
エドガーは朱い月≠フスレイドを釈放《しゃくほう》させるために行くのだ。教団の悪魔崇拝の証拠をつかんで、教祖と取り引きするつもりなら、儀式が始まってから踏み込むつもりに違いない。
「大変! 止めなきゃ! ケルピー、朱い月≠フ隠れ家へ連れていって」
そう言ってケルピーに手をのばしかけたリディアは、自分がガウンしか着ていないのに気がついた。
「よし、行くぞ!」
「ああっ、ちょっと待って! 着替えなきゃ!」
|朱い月《スカーレットムーン》≠フ隠れ家を出て、エドガーは郊外の修道院跡へと向かっていた。
スレイドの疑いを晴らしたいと、エドガーのもとに集まった朱い月≠フ団員は想像以上に多く、若者ばかりではなく、幹部に属する古株も顔をそろえていた。
なぜエドガーが朱い月≠フリーダーを降りたのか、誰も直接|訊《たず》ねようとはしなかったが、こうして彼が結社のために尽力すれば、おのずと期待するような視線が集まっている。
エドガーが本物の青騎士伯爵家の血を引く者ではないと知っていながら、プリンスと戦うためにやむなくリーダーに迎えた朱い月≠フ団員たちだが、血筋《ちすじ》よりもエドガー自身を信頼してくれるようになった。
だからこそエドガーは、彼らを裏切りたくはなくて、リーダーの座を降りた。それは一方的な通告のみだった。
なのにまだ頼られることを、うれしくも感じながら、一方で胸の痛みも感じていた。
スレイドを助けるために協力することに、ためらいはない。けれど自分が力を貸しても、スレイドはよろこばないかもしれない。
彼は朱い月≠フ幹部でありながら、常にエドガーを冷静な目で見ていた。自分たちが従うべき血筋ではないと、目的のために互いが必要だから手を組んだのだと、感情に流されずによくわかっているのがスレイドだった。
彼を救うことができたら、本当のことを話すべきかもしれない。エドガーはそう考えはじめていた。
今のところ、エドガーがプリンスの記憶を引き受けたことを知るのはポールだけだが、このままではエドガーは、朱い月≠ニのつながりを断ちきれずに、彼らに真実を隠し続けることになるだろう。彼らに対する裏切りを続けるだけだ。
「伯爵、もうすぐボートン邸です」
馬車の中から外を眺めていたポールが言った。エドガーは黙ったまま頷いた。
間もなく馬車は、木々の陰《かげ》になった暗い場所で止まり、そこで馬車を降りると、すでに朱い月≠フ団員が数人、暗がりに身をひそめて待っていた。
「皆はすでにボートン邸の敷地にいます」
ジャックが近づいてきてそう言った。
「フローリーは問題ないか?」
とらえて尋問したところ、今日ここでミサが行われることを話したクレアの兄は、居場所がわからないとなると教団に不審に思われるだろうと解放した。
もちろん、人事不省《じんじふせい》にしたうえでだ。
「もともと薬物の常習者だったので、じゅうぶんに与えてやりました。当分まともに話せないでしょう」
「では行こうか。目立たないように」
そこからは徒歩でボートン家へ向かうことにする。
クレアから聞いた隠し通路は、すでに朱い月≠フ団員が確認したとエドガーの耳には入っていた。
たしかに地下の礼拝堂につながっていて、礼拝堂の壁面にあるモザイク画が出入り口となっているらしかった。
礼拝堂のほうからは、そのモザイク画が扉になっているようには見えないようだ。
ボートン一家を始末した教団だが、ここをふさぐような行動を起こしていない。もう何カ月も人が入った形跡はないということで、制裁に荷担したクレアの兄も、通路のことは知らなかった。教団もまだ知らないはずだ。
やはりボートン卿は、興味本位で覗き見た絵をオーウェンに描かせただけで、教団とは無関係だったのだろう。修道院跡を探っていて教団に目をつけられたというところか。
クレアの兄は教団に命じられて、卿の周囲をさぐっていた。そうして絵の存在が彼らの知るところとなったのだ。
ともかく地下通路を使えば、儀式を確かめ踏み込むことも難しくなさそうだと、エドガーは考えた。
月もない暗がりの中、ボートン家の敷地は明かりのひとつもなく闇に包まれている。
黒く焼けこげた建物のそばまで、明かりも持たずに進んできたエドガーたちは、通りからは見えないだろう建物の陰に立ってようやく小さな明かりをともすことができた。
それでも慎重に、足元だけを照らす。
ボートン邸の裏手にある修道院跡、そこに集まってくるはずの、悪魔教団の連中に気づかれるわけにはいかないからだ。
「古い十字架の石碑が、庭園の植え込みに隠れた奥にあります。オーウェンの走り描きにあったものと同じです」
案内に従って進んでいくと、枯れた木々に囲まれた場所に、十字架の黒い影がどうにか見えた。
ボートン家の庭園の一部ではあるが、ここはかつての修道院の片隅でもあったのだろう。十字架の後ろには、古い霊廟《れいびょう》か何か、小さな石造りの建物が、崩れかけてはいるがそれなりの形を保って残っていた。
なかば埋もれていたものを掘り起こしたらしく、周囲は土がむき出しになっていて、すっかり錆《さ》びた鉄の扉はぼろぼろだ。
ボートン卿は、好奇心でこの遺跡を掘り起こし、内部を調べたのだろうけれど、それが悲劇の発端となったのか。
中世の建物には、秘密の抜け道が造られることが少なくなかった。そうしてこの修道院も、地下に通路が造られていて、出口のひとつがここだったのだろう。
エドガーはレイヴンとともに、霊廟の中へ入っていく。下へ続く石段はすぐに目についた。
「距離はどのくらい?」
「五百ヤードほどです。通路は一本で、突き当たりが問題の地下礼拝堂になっています」
階段を下りきりると、たしかに細い通路がまっすぐ続いているようだったが、ランプをかかげてみても、奥のほうは暗い穴のようにしか見えなかった。
「ジャックとルイス、それからあと五人ほどついてきてもらおう。あとは等間隔で通路に入って待機、合図があったら礼拝堂へ乗り込んできてくれ。残りは外で見張りにつく、いいね」
朱い月≠フみんなは神妙に頷く。
「レイヴン、おまえは教団信者に紛れて、修道院跡のほうから礼拝堂へ入ってくれ」
当然そう考えていたはずのレイヴンも、黙って頷いた。
そろそろ、黒ミサのために信者が集まってくる時刻だろう。
エドガーは、通路を奥へと歩き出した。
最初の報告どおり、突き当たりには石の扉があった。
「この扉はちゃんと開くのか?」
「錆《さ》びついて開かなかったので、開くようにしました。押せば向こう側に倒れます」
「なるほど」
石の扉に手を触れていたエドガーは、急いで手を引っ込めた。
とはいえ、かなり厚みのある扉だ。押し倒すには、寄りかかったくらいでは無理だろう。
「上のほうに穴があります」
ルイスの指さすほうに視線を向ける。上方に小さな穴が開いていて、かすかに向こう側の光がもれていた。
近づいていってのぞき見れば、地下礼拝堂は思ったよりも広い空間だった。
祭壇にも壁にも、蝋燭《ろうそく》がいくつも灯されている。壁にはモザイク画が並んでいて、ずいぶん美しい礼拝堂だ。保存状態もよく、地上の建物が大部分壊されていることを考えると、遺跡としてはこの地下はかなり価値があるのではないだろうか。
しかしその、神聖な場所は、悪魔崇拝の黒ミサで穢《けが》されている。
祭壇には羊の頭が捧げられ、手前の床にはロープで魔方陣が描かれている。
しかも、ミサを行うのは聖職者だ。
だからといってエドガーは、義憤《ぎふん》をおぼえるのではなく、ただ苦笑するだけだった。
そもそも昔、この英国にあった神の家、修道院をことごとく破壊し、カトリックを追い出したのは国王、ヘンリー八世だった。
ローマからは悪魔と呼ばれた。
そして今、この地下礼拝堂には、まさに悪魔崇拝者が集まろうとしている。
ぽつぽつと、人影も見えていた。
みんな黒いフードつきのローブをまとっていて、顔つきまではわからない。
エドガーは、祭壇のほうに注目していた。
もうすぐ首謀者が現れるだろう。
「主教の名前がわかったよ」
エドガーは、近くにいる誰に言うでもなくつぶやいた。
「もしも僕が失敗したら、とある貴族の手に証拠の絵が渡るようにしてある。だけど、彼がそれを白日《はくじつ》の下にさらしてくれるという保証はない。相手が大物だし、誰だって自分の身が大事だ。スレイドを助けることは難しくなるけれど、誰かの手に証拠があれば、この教団はうかつに朱い月≠ノ手を出せない。だからきみたちには、僕が知った名を明かさない。知らないことで、身を守れるだろう」
みんな黙っていた。
エドガーは礼拝堂の中を注意深く観察し続けていた。
「伯爵、何があろうとお守りします」
しばらくして、誰かがぽつりと言った言葉は、その場にいたみんなの総意のようにも聞こえ、心強かった。
急に扉の向こう側が静まりかえった。
と思うと、長い杖《つえ》を手にした司祭らしき人物が礼拝堂へ入ってくるのが見えた。
来たようだと、エドガーが手振りで合図をすると、みんないっせいに気を引き締め、その緊張感が伝わってきた。
ケルピーの背に乗って、リディアは朱い月≠フ隠れ家へと急いだが、そこにはもう誰もいなかった。留守番の召使いが、みんなして出かけたと教えてくれただけだ。
すぐにリディアは、行き先をあの修道院跡に変更する。
どのみち、六人目の糸紡ぎ妖精を説得しなければならないのだ。エドガーに悪魔の存在について注意を促すことはできなかったのだから、もう妖精たちの力に頼るしかない。
「ええっ、そこにはもう危ない連中が集まってきてるんだろ?」
ニコが不満そうに腕を組んで、リディアを見あげた。機嫌よく寝ているところをむりやり連れてきたために、まったく協力的ではない。
いや、ふだんからこんな調子だと思い直し、リディアはニコを覗き込んだ。
「だからあなたを連れてきたのよ。妖精の道を使えば人の目につかないし、あの六人目の棲《す》みかも見つけやすくなるかもしれないわ」
「妖精の道に入ったら、伯爵がどこにいるのかはわからないぞ」
そうだ。人間界のことはまるで見えなくなる。
だからこそ、出発前に話をしたかった。けれど間に合わなかったのだから、リディアにできるのは妖精と交渉することだけだ。
「あたしはフェアリードクターよ。妖精とかかわることしかできないし、そうやってエドガーを助けるのがあたしの役目だわ」
本当の意味で、リディアは青騎士伯爵家のフェアリードクターになったのだから。
「ケルピー、急がなきゃ。お願い」
「ああ、わかったよ」
一瞬で馬に姿を変じたと思うと、リディアもニコも、もう彼の背中にいた。
すぐにリディアの視界から、ロンドンの雑踏が消えた。灰色の建物に囲まれた、無人の街を、漆黒の水棲馬は駆け抜ける。
妖精界と人間界の狭間《はざま》を通り抜けるケルピーの背中で、リディアは人の世の裏側からロンドンの街を眺めているのだった。
そんな町並みもあっという間に通り過ぎ、気がつけば、草が生い茂った川縁を駆けている。
どこまでも草原は続いている。やがてこんもりと木々の茂る森へケルピーは進んでいく。
木々のあいだを駆け抜けたと思ったら、そこでケルピーは足を止めた。
目の前には、月明かりに照らし出された石の柱が立っていた。
かつての修道院の門柱だ。
石造りのアーチの向こうに、崩れた建物らしき数々の石塊が、草や土に埋もれながらも、白い表面に月光を受けて、淡く闇《やみ》に浮かび上がっている。
この修道院跡があるのはロンドン郊外の住宅地のはずだったが、石壁や柱の残骸のほか、周囲に建物は見あたらなかった。
このあたりは、建物も新しいものが多い。
妖精の世界から眺めると、長い時間を存在していないものは、建物も人も、淡い影のようなものでしかなく、目には映らないのだろう。
「妖精の棲みかは、女神の像が見えるところだと思うの」
リディアは、アーチだけが残る門をくぐり、錘《つむ》を持った女神像があった場所を目指して、記憶を頼りに歩き出す。
周囲に建物も道もないので、方向感覚がなかなか記憶と一致しない。
「で、女神の像はどこだ?」
「ええと、門からまっすぐに歩くと、かなり大きな壁が残ってて……、あ、あれだわ」
しかし、壁の左側にあったと記憶していた像は、そこにはなかった。
「裏っかわにもないぞ」
壁際をひとまわりしてきたケルピーが言った。
「おかしいわね」
さらに範囲を広げ、手分けして歩き回るが、どういうわけかあの女神像は見つからなかった。
「リディアー、ないじゃないかあ」
ニコが疲れたように言って、草の上に座り込んだ。
「そんなはずないんだけど……」
リディアにも、さっぱりわけがわからない。
夜だとはいえ、妖精界に存在するものは自《みずか》らの輪郭《りんかく》を主張して、木の葉のひとつひとつも昼間と変わらずリディアの目に映る。あの石像を見落とすわけがない。
(青騎士伯爵の花嫁)
途方に暮れかけたとき、どこからともなく声がした。
(こっちじゃよ、花嫁)
「おばあさんたち? どこなの?」
リディアは急いで声のするほうへ駆け出すと、丘状になった場所の、そのてっぺんのあたりに五人の妖精たちの姿があった。
近づいていくとそこは、大きな岩が地面から盛り上がり表面をのぞかせた、岩の丘だとわかる。修道院跡にこんな岩場があっただろうか。
疑問に思いながらも、息を切らして丘を駆けあがる。ケルピーやニコもついてくる。
(やっぱりあのひねくれ者は、力を貸さんと言い張った)
(もうおしまいじゃ。女神の像はバラバラになってしまう)
老婆たちは、リディアを見て早口にそう言った。
「ねえ、その女神の像なんだけど、さっきからさがしてるのに見あたらないの」
呼吸を整えながらリディアが訴えると、老婆の妖精たちは困惑したように顔を見合わせた。
(見えぬとな。遠くからでも目に入るじゃろうに)
(まあまあ、人間はわしらにくらべて目が不自由なものじゃ)
彼女たちはそう言いながら、足元を指さす。
えっ……。
足元に視線を落としたリディアは、思わず息をのんだ。
「うわあっ!」
ニコが声をあげて飛び跳ねると、リディアの肩によじ登る。
岩場だと思っていた足元には、手をかたどったラインがくっきりとある。
まさか、丘のように見えていたこれが石像だというのだろうか。
「何だこれ! リディア、こんなに大きな石像だって言わなかったじゃないか!」
「だって、あたしが見たときには人くらいの大きさで……」
女神とも聖母ともつかない荒削りな石像は、子供の背丈くらいだった。けれど今足元にあるのは、同じように錘を手にしているが、なかば土に埋もれ、横たわった巨大な女神像だ。
(人間界から見えているのは、女神の足の先じゃ)
「そ、そうだったの……。さすがは女神さまね」
「しかし、でかいばかりで魔力は薄いな」
ケルピーがそう言った。
(かつてはこのあたりの大地一帯を覆《おお》っていた女神の魔力じゃが、もうわしらが持つ力だけになってしまった)
(しかしこの場所で、我らの力を合わせれば、像を守るくらいの魔力はまだある)
五人の老婆は、大きく目を見開いて、リディアに期待を向ける。六人目をどうにかしてくれというのだ。
「六人目の妖精はどこにいるの?」
(棲みかじゃろう。しかしわしらにもやつの棲みかはわからん)
(呼びかければ話はできたのじゃが、もう返事もせんようになった)
リディアは必死で考え込んだ。
問題は棲みかだ。糸紡ぎ妖精の名を耳にする幸運は、たいていの伝説では、その棲みかを見つけた者に与えられる。
しかし、以前にこの修道院跡をさがしたときには、六人目の妖精の棲みかは見つけられなかった。
女神の像の近くにあることはたしかなのに。
そう思いながらリディアは、あの妖精がもらした言葉をよく思い起こす。
女神の見ているものはすべて見えている。
リディアは、像のそばに棲みかがあるに違いないと考えた。けれどこの妖精界では、女神像が大きすぎて、周辺といっても広大な範囲になってしまう。
そこまで考えたとき、周囲がにわかに暗くなるのを感じ、リディアは空を見あげた。
黒い雲が広がってきている。月がその、煙のような雲に隠されつつある。
「おい、リディア! あれ……」
ニコが指さす方向に首を向け、リディアは悲鳴を飲み込んだ。
地面が真っ黒に塗り潰《つぶ》されたかのように見える。そのインクを落とした染みのようなものが、少しずつ広がって、こちらに向かってきている。
(悪魔じゃ……!)
妖精たちがおびえた声をあげる。
(もう間にあわん)
(こうなったら、わしらの棲みかだけでも守るしか……)
(生き残れるかどうかわからんが……)
「ちょっと待って、おばあさんたち!」
彼女たちにも最後まで協力してもらいたかった。けれどおびえきった妖精たちは、散り散りになって逃げ出す。
岩の丘を、前後左右に駆け出したかと思うと、五人ともいっせいに消えた。
「もうっ、隠れちゃったわ。……どうしよう」
「あれはまだ影だけだな。本体じゃない」
悪魔を眺めていたケルピーがつぶやいた。
影が少しずつ大きくなってきている。儀式が始まったのだろうか。
「いずれ本体が現れるのかよ。見たくねえよ」
ニコはリディアのスカートの後ろに隠れるようにしながら、全身の毛を逆立てていた。
「なあ、おれたちも逃げようぜ、リディア」
「何言ってるのよ、ニコ。エドガーたちはもうこの近くにいるのよ」
儀式が始まったのなら、途中で止めるのは危険だという。エドガーたちが踏み込んでいく前に、悪魔を封じ込めなければならない。
リディアは落ち着こうと深呼吸し、五人の老婆たちが消えたあたりを確かめながら岩の上を歩いた。
彼女たちは、自分たちの棲みかだけでも守ろうと言った。つまり棲みかに戻ったのだ。
ということは、五人ともこの岩場が棲みかなのではないか。
「で、どうするリディア。さっきのババアを引っぱり出すか?」
ケルピーが身を屈《かが》めたのは、女神像の胸のあたりだった。
「そこに糸紡ぎ妖精がいるの?」
「ああ、岩に開いた穴の奥だ」
リディアは自分の足元にある、節穴ほどの小さな穴を覗き込んだ。奥に空間があって、そこにも老婆がひとりいる。何やらつぶやきながら、部屋の中を動き回っている。
それはちょうど、錘を持った女神の右手にある穴だ。
顔をあげたリディアは、ほかの妖精たちが消えた場所も確認する。
「右手、左手、右足、左足、それに胴体……。五人の妖精の棲みかはそこにあるってことよね。じゃあ六人目は……、頭、なんじゃない?」
「なるほどな。で、頭のどこだ?」
ケルピーが率先して、女神の頭のほうへ歩き出した。
女神の見ているもの、すべてが見える≠サれは像のそばという意味だろうか。もしかすると、女神の目、そのものなのではないか。
気づいたリディアは駆けだし、像の目の部分に駆け寄ると、落ち葉をかきわけて穴をさがした。
「あったわ! でも、奥が見えない。穴が曲がってるみたいだわ」
そうしてリディアはニコを見る。
「わかったよ、入ってみりゃいいんだろ」
帰りたくてたまらない様子のニコだが、リディアが納得しないかぎり帰らないのはわかっているのだ。だからあきらめてか、リディアに手を差し出した。
「ありがとう、ニコ」
「女神の領域じゃ、俺が入るのは無理だな。これを持っていけ。何かあったらすぐに引っぱり出してやる」
ケルピーはたてがみを一本、リディアの指に結わえた。
「ありがとう、ケルピー」
「さ、行くぞ」
ニコがそう言った次の瞬間には、リディアは洞穴の中のようなところにいた。
上のほうにまるく開いた部分から、黒い雲間に顔を出した月が見える。
あれが入り口の穴なのだろう。
「それにしても、ずいぶん曲がりくねった穴だな。あの妖精といっしょで、通路までひねくれてるわけだ」
ニコは文句を言いながら先へと進んだ。
たしかにそこは、右へ左へと蛇行《だこう》していて、どこまでも続いているかのようだった。
それでも歩き続ければ、ようやく突き当たりにたどり着く。
石の扉があって、小さくくりぬかれた窓からは明かりがもれていた。
リディアはそこから中を覗き込んだ。
部屋の中ほどに糸巻き車があって、その前に六人目の妖精がぽつんと座っていた。しかしぼんやりとした様子で、じっと身動きしないし、名前をつぶやきそうな様子もない。
「どうだ?」
「いるけど、独《ひと》り言《ごと》を言わないわ」
しばらく待ってみたけれど、やはり彼女は何も言いそうになかった。
どうしよう。時間がないのだ。儀式はどんどん進んでいるはずだ。
「おい、リディア、どうする気だよ」
声をひそめながらもニコがあわてたのは、リディアが扉に手をかけたからだ。
「直接話してみる」
「それで名を教えてくれるわけないだろ!」
けれどもう、リディアは扉を押し開けていた。この妖精も、本当は淋《さび》しくて、名を呼んでほしいはずなのだ。
ひねくれているせいで、かたくなに名を教えまいとしている。けれど、あのとき教会で、レイヴンにリディアの危険を報《しら》せてくれたのが彼女なら、あざむいたり意表をついて名を聞き出すのは間違っているのではないかと思った。
「こんばんは、おばあさん。ステキなおうちね」
妖精は驚き、見開いた目をこちらに向けたが、すぐに顔をくしゃくしゃにして憤《いきどお》った。
(おまえか! 何しに来た! 勝手にわしの家に入ってくるな!)
「あなたを助けたくて来たのよ。女神像が壊されそうだって知ってるんでしょう?」
(ふん、わしのことなぞどうでもいいくせに。どうせあの五人にたのまれたんじゃろう)
「どうしてそんなことを言うの? あなた、自分が消えてしまってもいいの?」
(しょうがない。わしの名を知る者はおらんからの。名を呼ばれんと魔力は使えん)
「じゃあ名前を教えて」
(何でおまえなんぞに!)
老婆はさらに顔を赤くして憤った。
急にあたりが大きくゆれた。
天井から小石が崩れ落ち、ゆさぶられて転びそうになる。壁際に寄りかかるリディアに、ニコが必死でつかまる。気づけば老婆の妖精も、リディアのスカートにしがみついていた。
ゆれがおさまって、リディアと目が合うと、老婆はあわてた様子で飛びのいた。
(……ちょっと驚いただけじゃからな!)
「ええ、でもおばあさん」
悪魔の力が大きくなっているのか。リディアは急いで説得を続けようとした。
「あたしも、あなたに助けてほしいのよ。青騎士伯爵がこの近くにいるの。あたしたちを助けてくれれば、あなたのことはこの先ずっと感謝する……」
またはげしくゆれたかと思うと、足元の床が崩れ落ちる。
「リディア!」
ニコとともにジャンプして、リディアはどうにか落下はまぬがれたが、床に開いた穴の向こうから、禍々《まがまが》しい気配が血の匂いとともに漂ってくるのを感じ、顔をしかめた。
(これは……、人間界とつながってしまったようじゃ)
老婆の妖精が言った。
穴から下方をのぞき見れば、真下に魔方陣らしきものが見える。黒ずくめの人が大勢、周囲に集まっている。
何やら呪文のような言葉が、低い声で唱えられているのが耳に聞こえ、司祭らしい人物が、杯《チャリス》のような入れ物から血かと思える液体をしたたらせている。
魔方陣の中に、煙のような影が立ちのぼり、少しずつ濃くなっていく。
「あれが、悪魔……?」
でもたぶん、悪魔の姿は向こうにいる人間たちには見えていないのだ。
(もうおしまいじゃな。みんな消える。ふん、わしをのけ者にするからこうなるんじゃよ)
「どうしてなの? 素直に心を開いてくれれば、みんなも、あなたも幸せになれるのよ」
悲しくなりながら訴え、けれど何も言ってくれない老婆から目をそらし、リディアはまた下方を覗き込んだ。
「エドガーはどこ?」
下方の人混みに、彼が紛れ込んでいるのかどうか、リディアは礼拝堂の中を見まわすがわからない。
「リディア、あれはレイヴンだ」
ニコがそう言った瞬間、すみにいたひとりが素早く動いた。
司祭を守るように取り囲んでいた男たちに襲いかかる。
と同時に、壁のモザイクが倒れ、そこから次々に人影が躍り出た。
礼拝堂の中は一気にざわめいた。
乱闘がはじまるの中、礼拝堂の蝋燭《ろうそく》がちらつき、リディアには誰が誰だかよく見えない。一瞬、エドガーの金色の髪が視界をよぎったような気がするだけだ。
「エドガー!」
リディアは必死になって叫んだ。
「エドガー、だめなの! 魔方陣を壊したら、悪魔がみんなに襲いかかるわ!」
けれど声が届いた形跡はなく、魔方陣の中の影が、急にふくれあがり大きくなった。
誰かが陣をつくっているロープを乱したのかもしれない。
ふくれあがった影は、陣の中いっぱいに広がって、その結界を破ろうとしているように見えたと思うと、また周囲がはげしくゆれた。
礼拝堂も大きくゆれる。
人間界にまで現れた異変に、そこにいた皆が驚いて周囲を見まわした。
燭台《しょくだい》が倒れて消え、壁の蝋燭の灯もゆれる。小石が雨のように落ちる礼拝堂の中、みんな戸惑っている。
ゆれのようなものはおさまらず、床の岩がまた崩れた。
糸紡ぎ妖精が足をすべらせる。
「おばあさん!」
リディアは手をのばし、老婆の足をつかんだ。と思ったが、リディアの足元も崩れる。
「きゃあっ!」
もうどうしようもなく、ふたりしていっしょに落下する。
「痛った……」
ずいぶん高いところから落ちたはずなのに、階段を二、三段落ちたくらいにしか感じなかったのは、妖精界から人間界へ落下したせいだろうか。
だからといって、よかったとはいえなかった。腰をさすりながら起きあがろうとすれば、目の前に黒いローブを着た人物がいる。フードの奥の顔は仮面に隠されていたが、儀式用の杖を手にしている。この黒ミサを執《と》り行っていた司祭に違いない。
乱闘を逃れるように、祭壇の陰に隠れていた彼の前に、リディアは落ちてきたようだった。
驚いているのか、男は黙ったままこちらに顔を向けていたが、あきらかにリディアにとってはピンチだった。
「おまえ……、いったいどこから……」
男が手をのばそうとしたとき、灰色のかたまりが上から降ってきて、彼の頭に激突した。
「ニコ!」
「リディア、早く逃げろ! ケルピーのたてがみを使うんだよ!」
でも、エドガーがまだこの礼拝堂にいるはずだ。
ニコに助けられた隙に、リディアはどうにか立ちあがるが、逃げる間もなく司祭も起きあがり、リディアの前に立ちふさがる。
その背後、祭壇の向こうには、巨大化した悪魔の姿があった。
煙のようだった影が、くっきりと黒いかたまりになりつつある。角らしきものと、長いしっぽがあるのがわかる。
乱闘がやんだのか、口々に悲鳴のようなものが聞こえるのは、皆が悪魔の存在に気づいたからだろう。
大きく天井が崩れたせいで、妖精界と人間界が混ざってしまい、皆の目にも悪魔が見えるようになったに違いなかった。
けれどもう遅いかもしれない。崩れかけた魔方陣は、もはやあれを閉じこめてはおけない。
それよりもまず、悪魔教団の司祭から逃れる方法を考えなければならなかったリディアは、目の前の男をにらみながらじりじりと後ずさった。
(おまえ、わしらの女神になんてことをしてくれる!)
リディアの背後に隠れていた老婆が、いきなりそう言って司祭に飛びかかった。
(ひどい人間じゃ! 青騎士よりひどい!)
が、子供ほどの背丈の老婆は、大柄な司祭の足元で怒鳴りつけるしかできない。
「なんだ、これは……」
妖精など見たことがないのだろう司祭は、薄気味悪いものを見るように少ししりぞいたが、すぐに思い直して、手にしていた杖を振り上げた。
主教杖。気づいたリディアは飛び出していた。
本物なら、あれに触れたとたん、妖精は石になってしまう。
老婆をかかえ込んだリディアの頭に、振り下ろされた杖がせまった。
目を閉じる余裕もなかったが、突然杖は目の前で止まった。
「レイヴン……」
褐色《かっしょく》の肌の少年が、司祭の腕をひねりあげる。
杖をもぎ取ると、そのままの勢いで大柄な男を壁際まではね飛ばす。
「リディア!」
座り込みそうになったリディアをささえた腕は、エドガーのものだった。
「ああ、どうしてきみがここに」
老婆の妖精をかかえたままのリディアを抱きしめ、エドガーは眉をひそめる。
「ごめんなさい、勝手なことして……。でもあれのことを報せたかったの」
「どうやら本当に、悪魔を呼び出したってことか」
どこか冷静にエドガーは、魔方陣の中の魔物を眺めた。
「早く逃げなきゃ。儀式が中断されてしまったら、悪魔がこの場にいる人を皆殺しにするわ」
リディアの顔を両手ではさみ、神妙に彼は頷く。
「わかった。レイヴン、朱い月≠ノ撤退を」
「はい」
レイヴンは素早くきびすを返すが、そのとき魔方陣のロープがちぎれ飛んで宙を舞った。
「ぎゃあ!」
礼拝堂の奥のほうから悲鳴が聞こえた。
悪魔の触手が何人かを薙《な》ぎ払ったのか、それがこちらへも向かってくる。
「エドガーさま!」
レイヴンの声だけが聞こえたが、主従のあいだを隔てるように、壁が大きく崩れ落ちた。
リディアをかかえながら、エドガーは祭壇のくぼみに身を寄せる。
しかしそこから身動きできそうになく、悪魔はますますこの礼拝堂をゆさぶり、崩してしまおうとしているかのようだった。
「リディア、ごめん。こんなことに巻き込んでしまって」
「あたしが……力不足だったのよ。悪魔を消す方法はあったけど、できなかったの」
彼にしがみついたまま、こんな状況なのに、リディアは不思議と安堵《あんど》していた。
こんな状況だからこそ、いっしょにいられてよかったと思いながら、強く抱きすくめられるのを感じていた。
「大丈夫だ、何があってもきみは守るから」
落石がひどく、身動きできなくても、エドガーはリディアを勇気づけようとそう言う。
「いいの、こうしていられれば怖くないわ」
「だめだよ。無事に帰らなきゃ。さっきはまだまだ愛し足りなかった。あんなものだと思われたまま死にたくない」
な、何のこと……?
戸惑うリディアを見つめ、ようやく彼は、リディアがかかえ込んでいる妖精に気づいたようだった。
「この妖精は?」
「伯爵家の友人よ」
結局この妖精も救えなかったのか。フェアリードクターとして、妖精を恨む気になれないリディアは、そうなりたかったとの思いで言った。
と、急に老婆はリディアの腕から逃げ出した。
駆け出そうとし、顔をくしゃくしゃにして振り返る。
(友人じゃと? 青騎士の家の者なんぞ大嫌いじゃ! このティタン・ティット・トットが友人になどなってやるものか!)
はっとして、リディアはつぶやく。
「ティタン・ティット……」
老婆の妖精は悪魔のほうに突進していく。
「ティタン・ティット・トット!」
リディアは立ち上がり、呪文のように妖精たちの名を唱えた。
「トゥルティン・トゥラティン、グワルイン・ア・スロット、トライテン・ア・トロッテン、ワッピティ・ストゥーリー、ハベトロット! 女神の力でここを守るのよ!」
老婆の姿が淡く輝く。と、五つの光の玉が集まってくる。最後の六人目が重なったと思うと、一気にまぶしく輝き、あたりをまっ白な閃光《せんこう》で包み込んだ。
とっさに目を閉じたけれど、光は刺すように目に染みた。
光の魔力がおさまる気配を肌《はだ》で感じながらも、しばらくリディアは何も見えなかった。
エドガーも、そこにいるみんながそうだっただろう。何が起こったのかわからないはずだけれど、誰も動こうとしなかった。
ゆれはおさまり、落石の音も消えた静寂の中、ようやく視力が戻ってくる。エドガーの手が肩に置かれるのを意識しながら、リディアは礼拝堂の中央を見つめていた。
壊れた魔方陣の中にも、どこにも、もう悪魔の姿はなく、六人の糸紡ぎ妖精がうれしそうに踊っていたが、その姿もやがて消えた。
「おーい、レイヴン、大丈夫か?」
ふさふさしたやわらかいものを頬に感じ、レイヴンは目を開けた。
「はーっ、間一髪《かんいっぱつ》だったな。岩に押しつぶされるかと思ったよ」
ニコがこちらを覗き込んでいる。レイヴンは草の上に横たわっている。
柱が倒れてきたのはおぼえている。それから背中に衝撃を感じ、意識を失ったのか。
思い出すと同時に、レイヴンは反射的に体を起こしていた。
「エドガーさまが……」
背中に痛みは残っているが動ける。すぐに助けにいかなければ。どうやってあの崩れかけた地下に戻るか考えをめぐらせるが、のんびりとしたニコの声が、レイヴンのせっぱつまった緊張感をかき消した。
「きっと無事だよ。悪魔は消えたみたいだし。さっき、あの地下礼拝堂のあたりが輝いてた」
「……本当ですか?」
「おい、猫に鴉《からす》! 何でおまえらふたりなんだよ!」
ぬっと現れたのはケルピーだ。
「俺のたてがみはリディアに貸したんだぞ。何でおまえらだけがくっついてくるんだ!」
「えーと、リディアからほどけたんだよ。そんで、危機一髪ってところで、俺とレイヴンがたてがみにつかまったんだ」
ニコはレイヴンの後ろに隠れながらそう言った。
「ちっ、またかよ。で、リディアはどうなった?」
「たぶん、エドガーさまといっしょです」
レイヴンが言うと、ケルピーはますます苦々《にがにが》しそうに眉をひそめ、きびすを返したかと思うと姿を消す。
リディアをさがしに行ったのだろうか。ふと気づくと、ニコの姿も消えていた。
「ニコさん……?」
ケルピーのたてがみをつかんだままのニコが、引きずられていってしまったのだとはわからないレイヴンは、妖精だから気まぐれに消えるのもしかたがないのだろうと思うことにした。
ともかく自分も行かなければ。そう思い、立ちあがる。
そのとき奥の茂みががさがさと鳴った。振り返ったレイヴンは、闇に紛れながらよろよろと出てくる人影を見つけていた。
ふたりいる。仮面をつけた男と、寄り添うようにくっついている護衛らしき者。
悪魔教団の首謀者だ。逃がすわけにはいかない。
とっさに、体の痛みも忘れて駆け出していた。
仮面の男の前に飛び出し、一撃で殴り倒す。
もうひとりがあわてふためきながら逃げだそうとしたが、かまわず仮面の男を押さえつけようとした。
「レイヴン、もうひとりのほうだ!」
エドガーの声が耳に届いた。
はっとして、仮面の男から手を放す。逃げるもうひとりを追いながら、ナイフを投げる。
ローブを貫いたナイフはそばの木に深く突き刺さり、男は縫《ぬ》いつけられたようにその場から動けなくなった。
「よくやった、レイヴン」
木々の奥から、エドガーは進み出た。レイヴンのそばを通り過ぎ、男の前で立ち止まる。
そうして彼は、男の足元にのぞく紫の聖衣を確認し、フードを剥《む》いで顔を覗き込んだ。
目つきの鋭い、初老の男だった。
エドガーは会ったことがなかったが、この男を知る貴族から話を聞いていたとおりに、特徴のある鷲鼻《わしばな》が目についた。
「はじめまして、チェンバレン主教。信仰を同じくする兄弟にあなたの仮面をかぶせ、おとりにして逃げるつもりでしたか」
「……私はそんな名ではない」
目をそらし、彼は否定した。
「どのみち、あなたの正体はつかんでいます。証拠もありますよ。オーウェンの描いた、黒ミサの下絵がね」
「絵など、それが私だかどうかわかるものか」
「わかるからこそ、あなたは絵も画家も始末したのでしょう? 主教杖に紫の聖衣、もちろんそれだけでは個人を特定できませんが、絵の人物は左利きだった。左利きの主教はあなただけだ」
「この聖職衣《カソック》も主教杖も、本物だと思っているのか?」
なかなか悪あがきをする。
「こうして、お顔を確認させていただいたからには、出るところに出ればごまかしきれませんよ。僕もそれなりに、この国での地位はあるつもりです。とっくに僕のことはご存じでしょうけれど」
うろたえた様子を隠しきれないまま、彼は黙り込んだ。
「とはいえ、あなたが本当にチェンバレン主教かどうか、論争で時間を無駄にする気はありません。それはもし、必要となれば、女王陛下に進言するとして」
「……必要となれば?」
言葉を切ったエドガーに問う口調には、かすかな期待がこもっていた。
そもそもエドガーは、誰が悪魔を崇拝しようとどうでもいいのだ。主教の罪をまっとうな手段で暴《あば》くには、自分自身も朱い月≠烽キねに傷を持つ身、面倒なことになりかねないと自覚している。
だからこそ、取り引きのために今夜ここへ乗り込んだ。
「オーウェンを殺したと疑われているスレイドを釈放してください。簡単なことでしょう? それから、朱い月≠ヨの捜査もやめさせていただきます。お互い干渉《かんしょう》しないことが、もっとも賢明な選択だと思いませんか?」
しばし考え込んだ様子を見せたが、主教はゆっくりと顔をあげる。
「……そうすれば、確実に秘密は守られるのか? でなければ、こちらにも考えが」
「あなたの正体を知るのは僕のみですよ。そちらが約束を守るかぎりは、ご心配は無用です」
レイヴンのほうをちらりと見たが、異国人召使いの発言になど信憑性《しんぴょうせい》はないと思っているのか、彼が正体を知るひとりに加わっていないことを納得したらしく、主教は頷いた。
「そうそう、僕を消せばいいなどとお考えにならないように。こちらも潔癖《けっぺき》な性分ではないので、この世の地獄を見ることになりますよ」
ミサでは悪魔を呼び出そうとしていたくせに、主教はエドガーの微笑みを、おびえた目で眺めていた。
もしかすると、悪魔を消し去ったのはエドガーだと思っているのかもしれない。
エドガーは彼に背を向けて歩き出す。
レイヴンがナイフを木から抜くと、主教は脱力したようにその場に座り込んだ。
朝のシティは、馬車で混雑していた。車輪が壊れて立ち往生《おうじょう》した馬車が、道をふさいでいると聞かされ、チェンバレン主教は急ぐ気持ちを抑えて背もたれに深く寄りかかった。
窓の向こうにも馬車が並ぶ。同じように先へ進めずに苛立《いらだ》っているのだろうか、中にいる男が窓から顔を出す。
「悪魔を従えるのには失敗したようですね」
その男が、こちらを見るともなしにそう言った。
はっとして、主教は男の顔を覗き込んだ。
「……あなたか。驚かさないでくれ」
たしか、ユリシスと呼ばれていた。まだ少年かというくらいに若いが、もっともプリンス≠ノ近い位置にいて、かなりの権限を与えられていたはずだ。
「あの伯爵にやり込められたわけですか。正体を握られて言いなりになられたようで」
その通りだが、少年のような若造に言われると腹が立った。
「ご忠告したでしょう。朱い月≠ノ手出しをするのはどうか、と」
「そんなことを言うために現れたのかね」
「いいえ、もっと重要なことを」
「もったいぶらずに言えばいい」
苛立つ主教を見て、ユリシスは見下したようににやりと笑った。
「あれが、我らの新しいプリンスですよ」
意味がわからずに、主教は眉をひそめた。
「アシェンバート伯爵です」
「……プリンス? あのプリンスは、死んだのでは?」
「ええ。そして彼が、前のプリンスからすべてを受け継ぎました」
「後継者ということか。だがあの伯爵は、あなたたちと組む気はなさそうだったな。画家の結社のほうがお気に入りのようだが、弱小結社とたわむれている若造に、王家と戦う力など……」
そう言いながら主教は、彼に正体を見破られたときに感じた、得体の知れない威圧感を思い出し身震いした。あの悪魔を消し去ったのは、本当にアシェンバート伯爵だったのだろうか。
[#挿絵(img/something blue_275.jpg)入る]
「でもあなたは、彼に屈した」
見透かしたように、ユリシスはくすくすと笑う、この結果をわかっていたとでも言いたげだった。
「前のプリンスにはうまく取り入っておられたあなただが、今度のプリンスには嫌われたかもしれませんね。まだ挽回《ばんかい》はできますよ。ただ、彼にはプリンス≠フ自覚がない。おもちゃを取り上げようとすれば、全力で抵抗します。しばらくは、遊ばせておくのが最善でしょう」
「ユリシス殿、あなたなら、いずれプリンスを意のままにできると?」
「その考えは捨てるべきです。プリンスは、まだ赤子のようだろうと、自《みずか》らがすべての上に立つことを直感的に知っている……。実感なさったはずでは?」
そうだった。美しく鋭利な刃物のような、青年貴族。それでいて、この世の地獄というものを本当に知っているのかもしれないと、微笑みの裏にそら恐ろしさを感じた。
「プリンスの新しい英国での恩恵をお望みなら、今後は我らに従っていただけますね?」
この、プリンスの組織を束ねる若者も、おそらく見かけどおりではないのだろう。
「王子が目覚めたあかつきには、国教会を廃し、あなたの望む教会を樹立することができるでしょう。悪魔信仰だろうとご自由に」
馬車の列が動き始めていた。ユリシスの馬車は止まったままだったのか、間もなく主教の視界から消えた。
* * *
アシェンバート伯爵邸に、しかめっ面《つら》をした黒|髭《ひげ》の紳士が訪れたのは翌日のことだった。
トムキンスに案内されてサロンへ入ってきたとき、リディアはロタとポールとニコと、お茶を楽しんでいるところだった。
にこりともせずに、彼はまずリディアを見た。
「レディ、このたびはご迷惑をおかけしました。結婚式にもお祝いを申しあげることができずにご無礼を……」
「いえ、気になさらないで、スレイドさん。よかったら、こちらでお茶でも」
「けっこうです。伯爵にお目にかかれればすぐに失礼します」
かたくなな態度なので、リディアもそれ以上誘うのは思いとどまる。
それに彼は、エドガーが|朱い月《スカーレットムーン》≠抜けたことを、まだ怒っているのかもしれなかった。
「ブタ箱にいたってのに、痩《や》せないねえ」
ロタが軽口をたたく。たしかに、相変わらず堂々とした恰幅《かっぷく》だ。彼はかすかに眉をあげたが何も言わなかった。
「あの、ミスター・スレイド……」
何やら意味ありげに、ポールが声をかけるが口ごもる。今度はポールを一瞥《いちべつ》して、スレイドは口を開いた。
「ポール、私の考えは直接伯爵に話す」
そうして、突っ立ったままエドガーを待った。
悪魔が消えてから、エドガーはリディアを朱い月≠フ仲間にあずけて、逃げ出した教祖を追っていった。
しばらくしてレイヴンとともに戻ってきた彼は、取り引きは成立したとだけ言った。
そうして翌日、スレイドは釈放された。
クレアももうねらわれることはないと聞き、リディアは安堵している。
「やあスレイド、疑いが晴れてよかったね」
エドガーの明るい声が聞こえた。彼はドアからではなく、テラスのほうから現れたのだった。
サロンへ入ってくると、さっとスレイドに歩み寄る。硬い表情のままの彼を覗き込んで、少し淋しそうに笑った。
「そんな怖い顔をしないでくれ。恩に着せるつもりはないよ。裏切り者に頭を下げるのは下の者に示しがつかないと思うなら、きみらしくそうすればいい」
スレイドのそばを離れると、みんなのいるテーブルへ来たエドガーは、リディアの隣に腰をおろした。
「……ポールから聞きました」
突っ立ったままのスレイドは、唐突にそう言う。
ひざの上の手を握られたリディアは、エドガーにとって好ましくない話題なのかもしれないと感じながら、彼のほうを見る。
こちらを見つめていたエドガーは、目が合うと少しだけ表情をゆるめた。
「ああ、話してくれと言っておいたからね。やっぱり、朱い月≠ノ事実を隠すのはいけないと思ったんだ。まあそういうことだから、僕たちは距離を置こう」
プリンスのことだ。リディアはそう直感する。エドガーがプリンスの記憶を継いでしまった。だからこそ朱い月≠フリーダーを降りたことを、スレイドにも伝えたようだった。
「距離を置くなど、もはや誰も納得しませんな」
憤《いきどお》りを押さえた口調だった。
「なら、僕を殺したい?」
サロンの中に奇妙な緊張感が増す。しかしスレイドは、まるきりあきれたような口ぶりで言った。
「結局、みんなあなたから離れられなくなりました。覚悟してもらいますよ」
「……どういう意味?」
「|朱い月《スカーレットムーン》≠引き受けていただきます。パトロンとしての貴族はいくらでもいますが、私たちの朱い月≠、危険を冒《おか》しても守ってくださるのはあなただけです。それはあなたが、青騎士伯爵の名を継ぐかただからでしょう?」
「……さあ、僕はプリンスと戦うためにきみたちを利用しただけかもしれないよ」
「|朱い月《フランドレン》、初代伯爵の子と同じ名。そのもとに集まった我らが結社を、一族と同様に保護するのもご自分のつとめだと思っていらっしゃる。みんなそう信じています」
「事実を知ってもかい?」
「はっきりわかりました。なおさら私たちは、あなたを守らねばならない。そもそも朱い月≠ヘ、青騎士伯爵家のために集う者なのですから」
目を伏せたエドガーは、考え込んだように見えた。やがて、おかしそうに口の端をあげる。
「きみは、そんなにロマンチストだとは知らなかったよ」
ここにいる中で、このやりとりにもっとも緊張していたのかもしれないポールが、ほっとした息をつくと、ロタは笑いをかみ殺していた。
「では伯爵、私はこれで」
用がすめばスレイドはさっさと帰ろうとする。
「あっ、僕もそろそろ失礼します」
ポールが立ちあがると、ロタもティーカップを置いた。
「じゃ、あたしも帰ろっと。新婚のじゃまをしちゃいけないしな」
「そんなことないのよロタ、ゆっくりして……」
「めずらしく気がきくじゃないか、ロタ。当分来なくていいよ」
リディアの言葉をにこやかにさえぎったエドガーに、ロタは親しみを込めたしかめっ面《つら》を返す。
「あ、そうだわ、ポールさん、クレアはまだ朱い月≠フ隠れ家に?」
「午後の汽車に乗るそうです。兄上のもとを離れて、遠い親戚《しんせき》に世話になるのだとか。なので、これから送っていきますよ」
振り返ったポールに駆け寄り、リディアは青いリボンを差し出した。
「じゃあ、これを渡してもらえますか?」
幸せな花嫁のための、魔法。
「リディア、もしかしてそれ、妖精の魔法がかかったっていう青いもの≠カゃないのか? みつかったのか」
「ええ。でもあたしにはもう、魔法よりもたしかなものがあるから」
クレアのために、いつか彼女がこれを身につけられるよう幸せを祈りたい。
「おあずかりします」
三人が出ていくのを見送りながら、エドガーはリディアの髪に唇《くちびる》を寄せた。
「魔法よりも、僕を信じてくれるんだね。僕の本物の愛はきみだけのものだってこと」
調子がいいから、リディアは苦笑いする。
そんなことを言いながら、自分に気がある女の子にはいい顔をするに決まっているのだ。
「信じるけど、なんだかもう、侍女はいらないんじゃないかって気がするわ。だって、あなたを好きになる女性はこれからもきっと絶えないもの」
「召使いに手を出したりしないよ」
「でも、眠ったふりはするんでしょ?」
「……誰がそれを?」
ティーカップを片づけに来ていたレイヴンが、めずらしく手をすべらせたらしく、ガチャン、と食器が音を立てた。
エドガーは肩をすくめつつも知らないふりをして、リディアを見つめる。
「じゃあ、僕なんかよりきみが好きでたまらない女性はどう?」
そんな人いるわけないわと思ったけれど、彼は上着のポケットから手紙を取り出す。
「ようやく承諾《しょうだく》してもらえたんだ」
一読し、リディアは驚きの声をあげた。
「ケリーが来てくれるの? あたしの侍女に? ありがとう、エドガー!」
リディアの満面の笑みを眺めたエドガーは、少し物足りなさそうに首を傾《かし》げた。
「そういうときは、抱きついてくれるものじゃない?」
「えっ、そ、そう?」
「夫婦なんだから」
そういうものかしら、と思いながら、手をのばすべきか悩むリディアを、待ちきれなかったようにエドガーが抱きしめた。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは。
寒い季節ですが、ホットな物語をお届け……できましたでしょうか。
ホットなのは約二名、ですかね。
前回のあとがきで少し触れましたが、ようやく結婚式にたどりつきました。
いろいろと相変わらずではありますが、新しく伯爵《はくしゃく》家の一員となったリディアを、これからも応援してやっていただけるとうれしいです。
エドガーは? って?
彼は今|有頂天《うちょうてん》ですので、ひとりで幸せを満喫《まんきつ》していればいいでしょう。リディアは苦労がたえないかもしれませんが(笑)。
もちろんリディアも、今は幸せを実感しているところだと思います。
もっともっと幸せになれるといいなあ、と、親戚《しんせき》のような気持ちで私も祝福したいです。
とはいえ、作者の視点では、きっと大変だよーと思ってしまうのですが、そのへんはまだどうなっていくのか曖昧《あいまい》模糊《もこ》としておりますので、読者のみなさまもハラハラドキドキを楽しんでいただければいいなと思います。
さて、今回も高星《たかぼし》さまにはすてきなイラストをつけていただきました。
結婚式なので、いつもに増して気合いを入れてくださったそうです。
この一年はアニメ化もあって、予定外の仕事をお願いしたりということもあったようですが、多忙な中でも快《こころよ》く引き受けていただいたとのことで感謝しております。
コバルト文庫の冬のフェアで当たる、カレンダーイラストの下絵を拝見したのですが、結婚後の一場面、ということで、ほのぼのかわいらしくて、できあがるのを楽しみにしているところです。
抽選のプレゼントではありますが、みなさまもぜひ応募してみてください。
カレンダーにつくミニブックには、私も短いストーリーを書き下ろしております。
抽選じゃ、当たるかどうかわかんないし……。というあなたには、『伯爵と妖精』のカレンダーブックが販売されておりますので、そちらを購入していただくと、一年中リディア&エドガーを眺めていられますよ!
これまでのイラストを集めた画集としても楽しんでいただけますし、表紙がイギリスの絵本っぽいデザインでかわいいのです。シルエットのニコがポイントです。
そういった、思いがけないグッズがつくってもらえたのも、みなさまの応援のおかげですね。
ニコのしっぽストラップをなでなでしながら、これを書いています。
ケルピーのたてがみストラップとか無理でしょうか……。
無理ですね。撫《な》でてみたいけど(笑)。
ではではみなさま、新しい年も、ますますこの物語を楽しんでいただければ幸いです。
またいつか、この場でお目にかかれますように。
二〇〇八年十二月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
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底本:「伯爵と妖精 すてきな結婚式のための魔法」コバルト文庫、集英社
2009(平成21)年2月10日第1刷発行
入力:
校正:
2009年2月1日作成