伯爵と妖精
誓いのキスを夜明けまでに
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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目次
果ての島に取り残されて
あるじの見る夢
あなたに会いたくて
青亡霊《あおぼうれい》の幽霊船《ゆうれいせん》
宝石が眠る島
泉のほとりで
淡《あわ》い夢から目覚めれば
約束の夜明け
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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果ての島に取り残されて
岬《みさき》に立つ館《やかた》からは、どこにいても海が一望《いちぼう》できた。
強い風が絶《た》え間《ま》なく吹きつけて、ガラス窓をふるわせている。空は厚く雲に覆《おお》われ、海は夏だというのに寒々しい灰色をしている。
室内から眺《なが》めていてさえ、リディアは無意識に、ショールの前をかきあわせずにはいられなかった。
「いやあ、たいへんな風だね」
ドアが開いて、父が部屋へと入ってくる。くしゃくしゃに乱れた髪は気にもせず、室内に風は吹いていないというのに、帽子《ぼうし》を胸元《むなもと》でしっかりと押さえている。
「おかえりなさい、父さま、散歩には向かない日ね」
リディアは窓辺《まどべ》を離れ、テーブルのそばに腰《こし》をおろした。
「ちょうどお茶を淹れてもらったところよ。父さまもどう?」
「ああ、もらうよ」
ここはマッキール家の土地にある、人里離れた一軒家《いっけんや》だ。氏族長《しぞくちょう》が所有する別荘だが、数週間前からリディアは、治療のためにここに滞在している。
リディアが受けた、|オーロラの妖精《フィル・チリース》の刃《やいば》は、その魔力《まりょく》で傷を悪化させ、体の不調をもたらし、いずれは命を奪《うば》うという強力なものだが、マッキール家のこの土地は、魔力を中和できるくらい大地の力がたまった場所で、刃の毒が消えるまで、リディアはここで過ごさねばならないのだった。
療養生活、とはいえここにいるかぎり、傷の痛みや発熱からは解放されている。
事情を知った父がマッキール家へ戻り、そばについていてくれたこともあって、生活にも慣れ、リディアは落ち着きつつあった。
「リディア、今日は顔色がいいようだね。体調もよくなってきているのか?」
「そうみたいね。夜もよく眠れるし、食欲も出てきたもの」
できるだけ明るく、リディアは微笑《ほほえ》む。
体に残る毒は少しずつ薄《うす》くなっているのかもしれないが、本当のところ、心には大きな穴があいたままだ。
エドガーに、置き去りにされた。
ロンドンに帰ったら結婚するはずだったのに、リディアをこの島へ残し、彼は行ってしまった。いっしょに帰りたいと、あんなに懇願《こんがん》したのに聞き入れてくれなかった。
けれどもこうなることはわかっていた。
リディアが治療するにはこの島に残るしかなく、ここから出れば衰弱《すいじゃく》して死ぬ。一方でエドガーは、マッキール家の敵として追われる立場にあった。
短いあいだでもいいからいっしょにいたい、今はそばを離れたくないとリディアは願ったけれど、エドガーはそんな選択をしてはくれなかった。
『いっしょに帰ろう』と彼が言ったとき、リディアはそれがせいいっぱいのうそだと気づいていた。それでも少しだけ、期待したのに。
ううん、きっと、うそじゃない。
それが彼の約束の言葉だ。いつかそうするために、リディアを残していったのだ。
わかっているけれど、約束なんてあやふやなものだ。年月が経《た》てば、彼の気持ちは変わってしまうかもしれない。
だからリディアは、不安でしかたがない。
目がさめたとき、エドガーがいなかった。代わりにマッキール家のファーガスがいて、おまけに見知らぬ館にいて、ここでリディアの病《やまい》を癒《いや》すためにエドガーと取り引きしたと言われたときから、裏切られたような気持ちになっている。
けれど、気分が落ち込んでいては、治療にも時間がかかってしまうかもしれない。そう思えばリディアは、努めて前向きに過ごそうとしている。
「知っているかね、リディア。ハイランドはめのうの産地だ」
鉱物《こうぶつ》学者の父は、うれしそうに言って、かかえていた帽子の中から石ころを取り出した。
「このあいだも聞いたわ。海岸でめのうをみつけたんでしょう?」
「今日はこれだ。オニキスにカーネリアン」
黒っぽい縞目《しまめ》のある石と、オレンジ色がかった石をテーブルに置く。石の話をするとき父は、子供のように無邪気《むじゃき》な顔になる。
ともかく鉱物が大好きな父だが、こうして娘を相手に講釈《こうしゃく》をたれるのは、たぶん気を紛《まぎ》らそうとしてくれているのだろう。
事情はエドガーから聞いているようだが、何も言わずにリディアを見守ってくれている。
「まあ、めずらしいのね」
「いや、めずらしくはないさ。カーネリアンもオニキスも、緑色のプレーズやブラッドストーンだってハイランドで産出する」
「そんなにいろいろな宝石が? まるで宝の島だわ」
「そうだよ。でも本当はみんな同じ、カルセドニーって種類の鉱物なんだ。少しずつ、含有物《がんゆうぶつ》が違っているだけ。兄弟みたいなものなんだ」
リディアは父のカップに紅茶を注ぐ。父は慣れた様子でミルクピッチャーに手をのばす。
他人の家なのに、座るべき椅子《いす》もテーブルの上の食器にも迷わないのは、毎日同じティータイムを繰り返してきたからだろう。
ティーカップをそっと持ちあげる。温かい紅茶の風味はロンドンで飲むものと変わりなく、リディアは遠いハイランドの島にいることを忘れそうになる。
リディアをここに住まわせている、氏族長の息子のファーガスが、何不自由なく取りはからってくれているからだ。
みんな、リディアのためを考えてくれている。
だから、嘆《なげ》いているわけにはいかない。
機嫌《きげん》良く紅茶をかきまわしている父を眺めながら、このところ考えていたことを告げようと、リディアは口を開いた。
「父さま、そろそろロンドンに戻らなきゃいけないんでしょう?」
父はティースプーンを持ちあげたまま、意外そうにこちらを見た。
「あたしはもう大丈夫よ。ゆっくりここで治療するわ。だから、大学へ戻って」
教授としての仕事がある。夏期|休暇《きゅうか》もそろそろ終わるし、学生を放っておくわけにはいかないだろう。
「しかし、おまえをひとり置いていくわけには」
「これまでだってあたし、父さまがロンドンで働いてるあいだ、スコットランドの自宅でひとり暮らしてたじゃない。心配はいらないわ」
「……ニコがいたからね」
どうやら父は、ニコのことを、リディアの保護者のように考えていたらしい。
猫《ねこ》の姿をした妖精なのに。
ニコは、早くに亡くなった母の代わりに、リディアを見守ってくれていた。小さくて猫にしか見えなくても、頼りにならなくても、何百歳も年上の保護者だった。しょっちゅう妖精界へ迷い込んでしまうリディアを、いつもさがしに来てくれた。
落ち込んでいるときは、的《まと》はずれなはげましや、能天気《のうてんき》な態度でなごませてくれた。
気まぐれで好き勝手に生きていて、それでも生まれたときからそばにいたニコは、リディアにとって自分の一部のような感覚だった。
一方で、妖精であるニコにとって、人との暮らしはいいことばかりではなかったのだろう。
そう気づいてやれなかったことが、悔《くや》しい心残りだ。
「あたしだってもう、子供じゃないわ。それにマッキール家は母さまの親戚《しんせき》よ。あたしにとっても……」
「しかし彼らは、おまえを利用しようとする」
深刻な顔になった父は、まるい眼鏡《めがね》を外してナプキンで丹念《たんねん》にふいた。ひどく悩《なや》んでいる様子だ。
リディアがため息をついたとき、ノックの音がした。
ドアを開けたのは、ファーガス・マッキールだ。
格子柄《こうしがら》のキルトをまとった赤毛の青年は、リディアと父を見て快活な笑《え》みを浮かべた。
「こんにちは、カールトン教授」
父とリディアが立ちあがろうとすると、ファーガスは手振りで押しとどめた。
「どうかそのままで。ごいっしょしてもかまいませんか?」
「あ、ええ、もちろんですとも」
氏族長の息子であるファーガスは、独断でエドガーと取り引きしてリディアをあずかった。彼の判断で、エドガーはマッキール家の者につかまることなく島を抜け出せたはずだ。
そしてファーガスは、毎日のように、ここへ見舞いにやってくる。
マッキール家氏族長の屋敷からは、馬を走らせても小《こ》一時間はかかるが、面倒くさがっている様子はない。
「リディア、気分はどうだ?」
「悪くはないわ」
「そうか、よかった」
ファーガスはほっとしたように相好《そうごう》を崩《くず》す。まだつきあいは浅いとはいえ、裏表のない人だとはわかる。
「ところでファーガスくん、リディアが完治《かんち》するにはどのくらい時間がかかるか、まだはっきりしないのですかね?」
眼鏡をかけ直した父は、席に着いたファーガスに問いかけた。
「ええ、少しずつ様子を見るしかないでしょう。パトリックが言うには、ここにいて寝込むほどではないようなら、三年もかからないだろうとのことですが」
パトリックは、マッキール家の妖精博士《フェアリードクター》だ。かつてはリディアの母もそうだった。妖精の魔力にはもちろん詳《くわ》しい。
「三年、ですか。今日明日に治るようなものではないということは、変わらないのですね」
「ねえ父さま、急いだってどうなるものでもないのよ。夏期休暇が終わるまでに、ロンドンへ戻って」
父はまたため息をついた。
「カールトン教授、ご心配なのは当然ですが、リディアさんのことは、おれが責任を持ってお預かりします」
ファーガスは真摯《しんし》にそう言ったが、父は微妙《びみょう》に眉《まゆ》をひそめた。
「きみたちは、リディアに危険はないと言って、この島へ連れてきたんですよ。そうして亡《な》き妻の代わりに、予言者を目覚めさせるという儀式に参加させた結果、リディアは命の危機にさらされた」
「父さま、ファーガスは危険のことは知らなかったのよ」
「父とパトリックの独断でした。……いえ、あなた方をだましたことになったのは、おれにも責任がないとは言えません。ですからリディアさんのことは、これからは父にもパトリックにも好きにはさせません。若輩者《じゃくはいもの》ですけど、おれは次期氏族長です。天に誓《ちか》って約束します」
それでも父にしてみれば、簡単には納得《なっとく》できないことだろう。
「どうかファーガスを信用してやってくれませんか」
別の声がした。
戸口に黒髪の男が立っていた。パトリックだ。
予言者を目覚めさせることのできる許婚《いいなずけ》≠ニして、リディアを儀式へ連れていった人物。しかし予言者はすでに聖地にはいなかった。
島々を救うという切り札《ふだ》をなくして、今彼が何を考えているのか、まだリディアを利用するつもりがあるのかどうか、そのポーカーフェイスからは何も読みとれない。
「氏族長も、リディアさんの治療に関してはファーガスに一任《いちにん》するとおっしゃっておりますし、カールトン教授にはお詫《わ》びの気持ちを込めて誠実《せいじつ》に対応すると約束いたしました」
「パトリック、あんたは詫びる気がないのか?」
ファーガスは、いきなり現れたパトリックに擁護《ようご》されたのが不本意であるらしく、責めるようにそう言った。
しかしパトリックは、いつでも淡々《たんたん》としている。
「私はフェアリードクターです。カールトン教授、奥さまもフェアリードクターでしたし、お嬢《じょう》さんもそう名乗っておられる。妖精とその魔力にかかわる人間として、対等だと考えております。予言者にまつわる危険を知っていようと知るまいと、あれはマッキール家の血を引くフェアリードクターの宿命、この結果について謝罪することはできません」
たしかに、リディアは自分の意志で聖地へ行った。マッキール家のためではなく、エドガーのためだった。
危険を知ってもやめる気はなかったのだから、パトリックのせいだとは思っていない。
むしろ、諸悪《しょあく》の根源は、災《わざわ》いの王子《プリンス》≠ノある。
エドガーがそれを背負うことになったのも、リディアの今の状況以上に不本意なことなのだ。
「失礼はお許しください。ですが、高地人《ハイランダー》の誓いは、命よりも重いものです。ファーガスは約束をたがえたりはしません」
「知っていますよ。妻もそうでしたから」
父は皮肉《ひにく》めかしてそう言った。
「パトリック、あんたが言うと、ますます教授に信じてもらえなさそうなんだけどな」
ファーガスが不満げに口をはさむ。
「それはもうしわけない」
「で、今日は何しに来たんだ?」
「私がカールトン嬢を見舞ってはいけませんか?」
たしかにパトリックも、たまには姿を見せていた。しかしまず、用事があってついでに見舞うといったところだ。今日も何か用があるに違いなかった。
「あまり歓迎されていないようですから、さっさと済ませましょう。ロンドンの新聞が手に入ったので、届けに来たのですよ」
そういって彼は、背後《はいご》に隠《かく》していたタブロイド紙を持ちあげて見せた。
「ロンドンの?」
リディアは思わず立ちあがる。
「ええ、アシェンバート伯爵《はくしゃく》のことが載《の》っています」
エドガーの名を聞いただけで、リディアは胸が締めつけられる思いだった。会いたい気持ちと、本当は見捨てられたのではないかという不安とが交錯《こうさく》する。
「パトリック、リディアの前で出すことないだろ」
「おや、ファーガス、リディアさんには事実を隠しておくつもりなんですか?」
「事実って、何なの?」
聞かない方がいいと思いながら、意に反してリディアは問うていた。
あれは大衆紙《たいしゅうし》だ。ゴシップが載っているに違いない。信用できる記事でもない。そう思えば怖くても、エドガーがどうしているのか知りたくてしかたがなかった。
「教えてください、パトリックさん」
「伯爵に、婚約解消の噂《うわさ》が立っているようですよ。女性と派手《はで》に遊び回っているとか」
力が抜けて、すとんと腰をおろすリディアを、心配そうに父が見た。
「ご自分で確認しますか?」
ファーガスが新聞を差し出すが、リディアは首を横に振った。
「では、これは処分しましょう」
そう言って、パトリックはきびすを返す。ファーガスが苛立《いらだ》った様子で立ちあがり、後を追って出ていった。
「リディア、伯爵には社交界でのつきあいもあるだろう。貴婦人の誘《さそ》いを無下《むげ》に断ったりもできないんじゃないかな」
めずらしく父がエドガーをかばうようなことを言ったのは、リディアがあまりに落ち込んだ顔をしていたからかもしれない。
「ええ、そうね。わかってる……」
エドガーの気持ちは信じたい。だからこそリディアは恐《おそ》れている。彼が心変わりをするなら、エドガーがエドガーでなくなったときかもしれない。
まだ彼は変わらずに、リディアのことを想《おも》ってくれているのだろうか。
「父さま、ロンドンへ帰ったら、エドガーに浮気《うわき》しないよう釘《くぎ》をさしておいてね」
どうにかふざけた調子で笑顔をつくったリディアだが、うまくいったかどうかわからなかった。
「本当に、ひとりで大丈夫なのかね?」
父ももう、そうするしかないと感じているようだ。
「休暇には訪ねてきてね」
「ああ。そうだ、伯爵も|社交の季節《ザ・シーズン》が終わったら時間ができるだろうし、来てくれるんじゃないかな」
「どうかしら。会ってしまったら、あたしがまた、治療をやめるってだだをこねるかもしれないから……」
父は、エドガーがマッキール家の宿敵として追われる立場になったことまでは知らないはずだ。エドガーの中にあるプリンス≠フ記憶が、リディアを苦しめているフィル・チリースの刃を活性化することも知らない。
そんな状況では、彼からの手紙ひとつもリディアのもとに届くことはないだろう。
常に身につけていた婚約指輪も、リディアが目覚めたときにはもうなかった。治療のためにはエドガーに属するものは持たない方がいいとあとで聞いたが、彼が自分からはずしていったのだと思う。
そしてリディアはまだ、自分のほうから手紙を書くことはできないでいる。彼に伝えるべきことが思い浮かばないからだ。
こうなってもまだ、リディアは心のどこかで、連れ帰ってほしかったと思っている。
そうだったなら、将来に悩むこともなく幸せなひとときを過ごせただろう。
「リディア、ファーガスくんは信用できると思うんだね?」
父は念を押す。
「ええ、父さま。うわべだけじゃなくてあたしを気遣《きづか》ってくれているもの」
嘆いていてもしかたがないのだ。しっかりしなきゃ。
エドガーに会いたい。再会したとき彼が変わらないでいてくれること、自分も変わらないでいられること、それだけを願って、リディアは孤独にたえようと思った。
パトリックを追って、館の外に出たファーガスは、馬車に乗り込もうとしている彼を呼び止めた。
「パトリック、どういうつもりなんだよ。伯爵のこと、リディアの前で話すなんて」
「確かめてみたんですよ。カールトン嬢がどのくらい伯爵を信用しているのか」
よくわからなくて、ファーガスは眉をひそめる。パトリックは、大衆紙を差し出した。
「アシェンバート伯爵が、ロンドンに帰っている様子はなさそうです。この島を去ったとはいえ、まだヘブリディーズ諸島のどこかにいるのかもしれませんね」
「え? でも、この新聞に……」
怪訝《けげん》に思いながら、ファーガスは新聞を広げた。英文の見出しを拾ってみたが、どこにも伯爵の記事はなかった。
「この新聞を確かめさえすれば、カールトン嬢は私のうそに気づけたのに。あの伯爵ならあり得る記事だと思ったのでしょうかね。そして自分の目で確かめることから逃げていた。……ふ、もろいものですね」
さっと強い風が吹いて、キルトのマントが舞いあがった。
ファーガスとパトリックの、同じマッキール家の格子|模様《もよう》が、灰色の風景を覆《おお》う。
「うそ、だって? そんな……どうしてリディアを傷つけるようなことするんだよ! 伯爵は彼女を救う選択をした。だからリディアは、治療を受け入れてるっていうのに」
「そうでしょうか? アシェンバート伯爵は、自分が助かりたかっただけかもしれませんよ。カールトン嬢を置いていけば見|逃《のが》すとあなたが約束したのですから。それにプリンスの後継者《こうけいしゃ》なら、彼女をそばに置くことは、自分を滅ぼす予言者を引き寄せてしまうかもしれないわけです」
「だけど、まだロンドンに帰ってないんだろ? 少しでも彼女の近くにいたいんじゃ……」
「ファーガス、伯爵は婚約者を見捨てた、そういうことにするんです」
平然と、パトリックは言い放った。そうして、顔を近づけてささやく。
「あなたがつけ込めるとしたらそこですよ」
「つ……け込むだって?」
「なぐさめてやることですね。恋人よりも、彼女があなたを好きになるように」
ファーガスはうろたえた。
たしかに、そうなればいいと思わないではなかった。伯爵にはそんなふうに啖呵《たんか》を切ったような気もする。けれど。
「うそをついて、彼女の気を引こうなんて……」
「卑怯《ひきょう》ですか?」
「おれは、リディアが治ればいい。それから彼女がどうするかは、強制できることじゃないだろう?」
パトリックは、出来の悪い生徒を前にした教師みたいにため息をついた。
「カールトン嬢を見つけてきたのは手柄《てがら》だと、氏族長はあなたを評価しましたが、伯爵を逃がしたのはマイナスでした。しかし氏族長はあなたに期待しています。応《こた》えたいなら、リディア・カールトンを手に入れるべきです。氏族《クラン》のためにも、島々のためにも。いずれクランを背負わねばならないあなたなら、わかりますよね?」
島々も、そこに住む人々も、今は危機的状況にある。不作と病気が蔓延《まんえん》し、土地は英国人によって安く買いたたかれ、いくつもの村が離散している。
そうなったのは、島に|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力《まりょく》が強まっているからだ。そしてその根源が、英国王家を呪《のろ》うために、百年前の戦争の直後にこの島で生み出された災いの王子《プリンス》≠セ。
プリンスの台頭《たいとう》に対抗《たいこう》するために、マッキール家は予言者≠ェ眠るという棺《ひつぎ》を護《まも》ってきたが、思いがけずその棺は空《から》だった。
なぞすでに予言者≠ヘ目覚めていて、どこかにいるのか、あるいは最初からいなかったのか、謎に包まれている。
リディアは、予言者に協力して島々を救うべくマッキール家が育ててきた、妖精に通じるとくべつな者だ。その唯一《ゆいいつ》の生き残りだ。
「ファーガス、今私たちは、予言者の行方《ゆくえ》を調べています。伯爵は、いえプリンス≠ヘ、いつまたこの島へ上陸するかわかりません。ともかく彼は敵なのです。カールトン嬢を、懐柔《かいじゅう》するのがあなたの役目ですよ」
だからといって、リディアをだますのはいやだ。
しかしファーガスは、反論できずに立ちつくす。それを後目《しりめ》に、パトリックは馬車の中へ消えた。
カールトン家の館《やかた》は静まりかえっていた。
のどかな田舎町《いなかまち》の日暮れ間際《まぎわ》、人影も見あたらなくなった通りに突っ立って、ケルピーは悩《なや》みながら腕を組んだ。
「リディアのやつ、何でいないんだ?」
ここはスコットランド、エジンバラ近郊《きんこう》にあるリディアの実家だ。しばらく前に、リディアは父親と一緒に帰郷《ききょう》すると言ってロンドンを発《た》った。
二週間もすれば帰ってくると聞いていた。なのになかなか戻ってこない。
それでここまで来てみたケルピーだが、館の中には誰もいない。通りを眺《なが》めていても、帰ってくる様子はない。
ふと彼は、足元の草が動くのに気づき、視線を動かした。小さな妖精と目が合う。
とたん、妖精は驚いたように飛びあがり、急いで逃げようとしてすっ転んだ。
ケルピーはさっと足を出して、そいつのチュニックを踏《ふ》んづけた。逃げられなくなってじたばたとあばれる妖精を、彼は覗《のぞ》き込んだ。
「おまえ、ここに棲《す》んでる|家付き妖精《ホブゴブリン》だな?」
妖精は震《ふる》え上がる、青くなって、声も出ないようだ。
「おい、そんなに怖がるな。俺のことは知ってるだろうが。リディアに会いによく来てただろ?」
ようやくホブゴブリンは、こわごわと顔をあげた。
水棲馬《ケルピー》という種は、世間では怖《おそ》ろしい魔性《ましょう》の妖精として知られている。人も家畜《かちく》も食い荒らすし、妖精だって丸飲みにしかねない。
人の姿になればとびきりに美しく、魔性の魅力《みりょく》で獲物《えもの》の人間を引きつけるが、妖精たちはさすがに外見に惑《まど》わされたりしない。
どんな種類の妖精たちにも、本能的に恐《おそ》れられていた。
しかし彼は、リディアのことを気に入っている。獲物《えもの》として見たことはなく、彼女を眺めていることや言葉を交わすことを楽しく感じている。そんなだから、リディアと周囲の人も妖精も、傷つけるつもりはない。
ここにいるのがその奇妙《きみょう》なケルピーだと理解したのか、ホブゴブリンは力が抜けたように座り込んだ。
足をどけて、ケルピーは彼に問う。
「リディアがどこへ行ったか知らないか?」
小さな妖精は、おどおどしながら何やら指さした。
「は? それじゃあわかんねえだろ!」
びくりと震え上がる。
(ヘブリディーズだよ)
声の出なくなった仲間の代わりか、誰かが植え込みの奥からささやいた。
(そいつは気が小さいんだ。おどかさないでやってくれ)
「ヘブリディーズ? 高地地方《ハイランド》のか?」
(アウローラの故郷《こきょう》から来た、マッキール家のフェアリードクターといっしょに行った)
いったいどういうことだろう。
ホブゴブリンの気配《けはい》は間《ま》もなく消えたが、ケルピーは腕《うで》を組んで考え込んだ。
マッキール家といえば、リディアを花嫁《はなよめ》にほしがっていたあの連中のことだ。伯爵《はくしゃく》に追い払われたが、あきらめていなかったのだろうか。
「リディアさんは、当分島から出られないんだと思うわ」
建物の陰《かげ》から、女がひとり進み出た。
人間の世界では男のものだとされている服装をした女だ。
「おまえ、なんでここにいる」
しかし彼女は人ではない。かつてはそうだったが、いちど死んで|アザラシ妖精《セルキー》に生まれ変わった。
「わたしをさがしていたんでしょう?」
ケルピーは彼女に向き直り、あきれながら腰に手を当てた。
「おまえな、用があるとか俺を呼びだしておいて、約束の場所に現れなかっただろう」
アシェンバート伯爵を裏切った女だ。人間だったときは、アーミンと呼ばれていた。今は、前のプリンス≠フ側近《そっきん》だったユリシスという男に従《したが》っている。
そんな女だ。伯爵にとって敵なのか味方なのか判然《はんぜん》としないが、少なくとも彼女は、伯爵とその従者《じゅうしゃ》である弟を守ろうとしているように見える。
ときには役立つ情報を提供してくれることもあって、ケルピーは彼女とつながりを保つことにしていたが、会うのは久しぶりだった。
「悪かったわ、しばらくユリシスのそばを離れられなかったの」
ユリシスは、伯爵にプリンスとして覚醒《かくせい》してほしいようだが、彼女はそうさせたくはないはずだ。
もちろんケルピーもそう思っている。
リディアには傷ついてほしくない。
その点でアーミンとは、利害が一致《いっち》しているだろう。
ただ、彼女の背後にいるのが、ユリシスとその組織だけなのかどうか、ケルピーは疑問に思っている。
「で、あんたがここにいるってことは、ユリシスの命令でハイランドへ向かうところか?」
彼女は小さく肩をすくめた。
リディアがヘブリディーズへ行ったというのだから、伯爵もそうだろう。あの辺境《へんきょう》の島で、何か起こっているのだろうか。
「リディアさんが危険だってことを伝えたかったのだけど、間に合わなかったわ。今はもう、状況が変わってしまってる」
「リディアが危険だって?」
つかみかかりそうな勢いで、ケルピーは歩み寄る。彼女はさっと後ろに下がり、植木の向こうに回り込んだ。
「冷静に聞いてちょうだい」
「わかってる、早く話せ!」
「エドガーさまもリディアさんも、ヘブリディーズから戻らない。島の聖地へ向かってたはずだから、もしかすると|オーロラの妖精《フィル・チリース》の刃で傷を受けたかもしれないの」
「フィル・チリース? 何だってそいつらを敵にまわすことになるんだ? あれはたしかに夜空の覇者《はしゃ》だが、人に危害《きがい》を加えたりしないはずだ」
「それは、エドガーさまが彼らの敵だからよ。プリンスは、もともとあの島で生み出された、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の主人だから」
エドガーがプリンス≠フ記憶を取り込んで、前のプリンスを死に追いやったことはケルピーも知っている。しかし、ハイランドの辺境の島と、プリンスのかかわりは知らなかった。
リディアの身に何が起こっているのか、疑問は数々あれど、ケルピーはいちばん気になることを口にする。
「じゃ、いっしょにいたならリディアも危害を受けたかもしれないのか?」
アーミンは神妙《しんみょう》に頷《うなず》いた。
「むしろ、リディアさんに何かあったんじゃないかと思うわ。エドガーさまだったら、ロンドンの伯爵|邸《てい》がもっとあわただしくなっているはずよ」
だとしたら、リディアがロンドンへ帰ってこないのも頷けた。フィル・チリースの傷を癒《いや》すには、フィル・チリースの魔力がたまった土地で療養するしかないと聞いたことがある。
「くそっ、そういうことか。マッキール家の土地はどの島なんだ? リディアは?」
ケルピーはきびすを返しつつ、どうやってリディアの居場所《いばしょ》を知ればいいのかわからずにこぶしを握《にぎ》る。
「そうだ、あのちびっこいのなら、リディアの指輪がどこにあるかわかるはず……」
婚約指輪のムーンストーンの管理人、鉱山妖精《コブラナイ》だ。
「待って、まだ話は終わってないわ」
馬に姿を変え、今にも駆《か》け出そうとするケルピーを、彼女は止めた。
「何だよ」
「フィル・チリースの魔力だろうと、たちどころに消し去るという、島々のあるじ≠フ薬のことよ」
「薬? そんなの聞いたことがないぞ?」
フィル・チリースの力を消し去れる妖精が存在するなんて、ケルピーは知らない。刃の魔力は、フィル・チリースそのものの魔力で少しずつ中和するしかないのではなかったのか。
「ヘブリディーズの|アザラシ妖精《セルキー》に伝えられてきたことよ。遠い昔、島々のあるじ≠ヘ、自らの夢の中に美しい島々をつくりだした。それを欲しがった人間と契約《けいやく》を交わし、譲《ゆず》り渡したために、島々は人の世に、現実の世界になったのだけれど、そのときあるじは、切り離した自らの夢をある場所に閉じこめたわ。あるじが持っていた、夢の世界を創造する強い魔力とともに。ユリシスは、薬の存在をちらつかせれば、エドガーさまは動くと考えているの」
「ユリシスは、夢の魔力を欲しがってるわけか?」
「人に扱《あつか》える魔力じゃないわ。でも、薬を手に入れるにはあるじを目覚めさせる必要がある。そして、あるじが目覚めて夢の魔力が解放されれば、あの島々は、人の世でありながら強い魔力に覆われる。|悪しき妖精《アンシーリーコート》が存分に力を持つ」
もともと人の世では、妖精は思うように魔力を発揮《はっき》できない。自然の中に漂《ただよ》う力が、妖精界にくらべて格段に弱いからで、だからたいていの人ははっきりと妖精を見ることができないし、悪さをされても気づかない。
けれどもし、人の世が妖精界のように魔力で覆《おお》われれば、ドラゴンが飛んできて町を焼く、などと直接的なことが起こりうるかもしれない。
「あるじってのはアンシーリーコートなのか?」
「さあ、そういったものではないんじゃないかしら。ひとつだけわかっているのは、あるじの夢の源《みなもと》に近づけるのは、青亡霊《あおぼうれい》の船だけ。なにしろ彼らは、あるじの宝石をねらってとらわれた者たち。亡霊となってのみ、夢の外へ出てこられるの」
「青亡霊ね、腐《くさ》った海賊《かいぞく》どもだが、人間が近づくのは危険だな」
「今のエドガーさまなら、彼らを支配することもできるでしょう。危険なのはむしろ島々のあるじ≠諱Bどういう存在なのか、まるでわからない。それを目覚めさせるなんて……。だからケルピー、エドガーさまを止めて。わたしが忠告してもエドガーさまは信じないでしょうけど、あなたなら……」
それがリディアを守ることになるなら、ケルピーはそうするつもりだ。一方で、伯爵がプリンスになってしまえば、あるいは死んでしまえば、リディアは彼と縁を切ることができるのではないかと考える。
いっそそのほうが、リディアにとってはいいことなのではないのか。
「で、おまえは? ヘブリディーズへ行くのか?」
「エドガーさまの居場所を調べるのがユリシスの命令だけど、わたしは……このままあの男のもとから逃亡するつもり」
「逃亡? 簡単に逃げられないんじゃないのか?」
「そうね。でも、どうにかするわ」
「別の主人のもとへ行くのか」
「何のこと?」
アーミンは不愉快《ふゆかい》そうにとぼけたが、ケルピーはその頑固《がんこ》さがおかしかった。
「無茶すんなよ」
にやりと笑って言ってやると、アーミンは、にわかに眉《まゆ》をひそめた。
「水棲馬《ケルピー》に心配されるなんて気持ちが悪いわ」
「心配なんかしてねえよ。セルキーなんてヤワな妖精だ。おまけにおまえは、妖精としちゃ赤ん坊《ぼう》なみだろ。忠告《ちゅうこく》してやってんだ」
「そう、ね。生きていたら、また会いましょう」
肩までの黒い髪とフロックコートをなびかせ、彼女はくるりと背を向ける。
また、会う必要があるかもしれないということだろうか。単に再会を望む、などということは、あの女に限ってはないだろう。
生きていてくれないと、退屈《たいくつ》しのぎが減るな。
そんなふうに思いながら、漆黒《しっこく》のたてがみを震わせると、ケルピーは自分の目的のために駆《か》け出した。
アシェンバート伯爵のタウンハウスは、ロンドンの高級住宅地にある。しばらく主人が留守《るす》にしているそこへ訪れたのは、ひとりの若い女だった。
令嬢《れいじょう》ふうのドレスを身につけているのに、コーヒー色の髪はロープでひとつにくくっている。馬車も使わず徒歩で、お付きもいないままやってきて、白亜《はくあ》の邸宅《ていたく》の呼び鈴《りん》を鳴らす。
出てきた執事《しつじ》に「やあ」と声をかける。
「エドガー、いる?」
子供が近所の家へ遊びに来たかのような態度だが、執事は慣れきっていた。
「まだスコットランドから戻られておりません、ロタさま」
「そうなのか? えらく遅いじゃないか。あいつ、リディアの母さんの墓前《ぼぜん》にあいさつをすませたら、すぐ戻ってきて結婚式を挙げるって勢いだったのに」
「はあ、その予定だったのですが」
執事はまるっこい目を困惑気味《こんわくぎみ》にしばたたかせた。
「何かトラブルでも?」
ロタが問うと、執事のトムキンスはあわてたように首を横に振った。
「いえっ、詳《くわ》しいことはよくわかりません」
「や、待て、知ってるだろ! わかった、エドガーのやつがまた、あたしにはよけいなこと教えるなって言ってるんだな? あのやろう、リディアを独占したいにもほどがあるよ。女どうしのつきあいまで口出しするつもりか?」
「すみませんがお引き取りを」
執事が閉めようとしたドアに、ロタは体を突っ込んで阻止《そし》した。
「おい、エドガーのことはどうでもいい。リディアはどこにいるんだよ。ずっとスコットランドの実家に手紙を出してるのに返事が来ないから、おかしいと思って、こっちへ確かめに来たんだ!」
ロタは踏《ふ》ん張りながら、トムキンスの薄《うす》い頭を真上から見おろす。顔をあげた彼は、にこやかに、けれど力を入れてドアを閉めようとする。
「そうですか。まことに残念ながら、わたくしどもは何も存じませんので」
ロタがはさまっていても構わず、執事はドアを押す。ぐいぐいと彼女の体をしめつける。
「おい、レディになんてことするんだよ!」
「すみませんが、こういう場合はこうするようにと、旦那《だんな》さまに言いつかっておりますので」
「はあっ? エドガーのやつ、あたしを何だと思ってるんだ?」
「今度はとくに、首を突っ込んでほしくないそうです」
「なんだってっ?」
「あのう、すみません」
そのとき、おずおずとした声が割り込んだ。
ロタが振り返ると、乱れたくせ毛もそのままの、一見《いっけん》冴《さ》えない青年が立っていた。
「ポール」
ロタもよく知っている、エドガーの友人だ。
「……ロタもトムキンスさんも、何をやってるんですか?」
「これはどうも、ファーマンさん」
急に執事がドアから手を離したので、ロタは勢いあまって玄関ホールへ突っ込み、絨毯《じゅうたん》に顔面をこすりつけることになった。
「ロタ! だ……大丈夫かい?」
駆け寄ってきたポールが、手を差し出す。ロタはまじまじとポールを見あげ、にっこり笑ってその手を取る。
妖精画を得意とする画家のポールは、ロタから見ればとても変わり者だ。なにしろ彼女を女の子のように扱う。
もちろんロタは正真正銘《しょうしんしょうめい》の女性だが、昔から数多い男友達に仲間と扱われはしても、女として見られたことはなかった。
たぶんポールは、誰に対しても誠実《せいじつ》な青年なのだろう。
「ファーマンさん、今日はどんなご用でしょうか?」
執事のほうは、やっと起きあがったロタには気の毒そうな一瞥《いちべつ》を向けながらも、ポールに問う。エドガーにはよほどしっかりと、ロタを客扱いするなと言われているに違いない。
「ええ、あの、伯爵はまだ戻られていないんですよね? 今どちらにいらっしゃるんですか?」
ロタと同じ質問をしたポールに、トムキンスはため息をついた。
「旦那さまはしばらく戻れないとのことです。それから、ファーマンさんが心配して来られたら、大丈夫だとお伝えするようにと」
「あたしのことは? リディアからの伝言とかないのか?」
「とくにございません。ただ首を突っ込ませないでくれと」
「なんだよその、ポールとの扱いの違いは!」
トムキンスにつかみかかりそうなロタを、ポールが止めた。
「メッセージは同じだよ、ロタ。伯爵《はくしゃく》はたぶん、ぼくらを巻き込みたくないんじゃないかなあ」
深呼吸《しんこきゅう》して、ロタは気を鎮《しず》めた。
「だけどポール、あんたも気になってじっとしていられないんだろ?」
ポールは困惑《こんわく》しつつも頷《うなず》く。そうして、執事のほうに一歩進み出る。
「トムキンスさん、伯爵とは、スコットランドへ発《た》たれる前にお話ししましたけれど、どうもひとりで何かをはじめようとしていらっしゃるみたいでした。だからぼくは気がかりなんです。ぼくなんかには手助けできないことなのかもしれませんが、伯爵が相手にしてきた闇《やみ》組織のことは、少しは知っています。このままじっとしていて、本当に大丈夫なんでしょうか?」
悩んだように、トムキンスはうつむいた。やがてまた顔をあげると、心を決めたのか姿勢を正す。
「どうぞこちらへ」
ずんぐりした体躯《たいく》のわりにはきびきびと、ポールとロタを応接間に案内した彼は、廊下《ろうか》に人影がないのを確認しつつドアを閉めた。
まっすぐに立ったまま、それから彼は口を開いた。
「わたくしも、とても心配しております。旦那さまのことは、英国へ帰国する前にどこで何をしていらっしゃったのか存じません。ただ何やら危険なことに足を突っ込んだことがおありだとは感じてきました。ですが、家《いえ》屋敷《やしき》を守るのがわたくしの仕事、よけいな口出しをすべきではないと自重《じちょう》してまいったわけです」
ロタもポールも、たぶんトムキンスよりはエドガーの事情を知っている。しかし、簡単に話せることではない。
「三百年ぶりに英国へ戻ってきてくださった主人です。何かできることがあればと気をもんでいるのはわたくしも同じです。ただ、どうすればいいのかわかりません」
深く頷き、ロタは立ちあがった。
「とにかく、ここにいるみんな、同じ気持ちだってことだ。エドガーとリディアに何かあったのかもしれない、そして力になりたいってことだろ?」
「だけどロタ、伯爵にとって本当に迷惑《めいわく》なことにならないかな。考えてみれば伯爵は、協力がほしいときはちゃんとそう言ってくれていたから」
心配しながらも、ポールは遠慮《えんりょ》がちだ。
「なんていうか、淋《さび》しくなるくらい、きっぱり拒絶《きょぜつ》された気がしたんだ」
それを聞いてますますロタは、想像以上のことが起こっていると確信した。
「同じ目的を持つ仲間なら、やつはいくらでもこき使う。けど無関係な友人は、縁を切ってもかかわらせまいとするとことがあるな。……だから昔、エドガーはあたしたちの前からだって急に姿を消したんだ」
消息《しょうそく》を知ったのは、離れた町で処刑されたと聞いたときだった。
ロタは、エドガーとはけっして仲がいいとはいえないし、相容《あいい》れるところも全くない、話せばむかつくだけの野郎《やろう》だが、どういうわけか、認めるしかない相手だった。
エドガーの方もそうだったと感じているのは、けっしてうぬぼれではないだろう。
だから昔、何も言わずに彼が姿を消したときは、彼らに常にまとわりついていた危険がこちらに及ばないよう、すべて断ち切っていったのだと納得《なっとく》した。
けれどエドガーは、リディアだけは断ちきれなかった。プリンスとは決着がついたようでいて、新たな問題がありそうだが、どうしてもリディアは手放そうとしない。
そしてロタは、リディアが大好きだ。エドガーのクソ野郎だけならほうっておいたっていいけれど、リディアをあの男だけに任せておくのは心配だ。
「あたしは行くよ。エドガーだってもう、大切な友人だからこそ距離を置かなきゃならないなんてこと、うんざりしてるはずだろ」
「ロタ……」
ポールも我《われ》に返ったように立ちあがった。
「ああ、まったくそのとおりだ。ぼくは……伯爵にきらわれたくない気がしてただけだ」
「ま、あたしはきらわれてるから、迷惑《めいわく》だろうとかまわないんだけどね。さてトムキンス、いちおうエドガーの居場所はわかってるんだろ? あんたも、命令に背《そむ》いても協力してくれるんだよね?」
「ファーマンさんにしか教えられません」
トムキンスは胸を張ったままそう答えた。
ロタは舌打ちする。
「いいよ、どうせあとでポールに訊《き》く」
ふたりを残し、ロタは大またで歩いて部屋を出た。
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あるじの見る夢
石を積み重ねた壁に、藁《わら》やヒースで葺《ふ》いた屋根が乗っかっている。そんなこぢんまりとした建物が、海|沿《ぞ》いにぽつぽつと見えた。
そこは、ヘブリディーズ諸島にある島のひとつだ。エドガーはレイヴンとふたり、クナート家の船でここまでやってきた。
リディアのいる島からは離れているが、もちろん彼らには目的があった。
クナート氏族長《しぞくちょう》が教えてくれたことだった。
大小五百もの島があるという、このヘブリディーズ諸島には、数々の氏族《クラン》が暮らしているが、海峡《かいきょう》の中ほどに浮かぶ島に、今となっては希少《きしょう》なまじない師がいるという。
島々の古い歴史に通じていて、病気の治療や魔よけの知識も豊富だとか。
まだ存命《ぞんめい》かはわからない、ということだったが、エドガーはそこに希望をつないでいた。
リディアをマッキール家に渡すことは、何よりも苦渋《くじゅう》の選択だった。彼女が望んだように、連れて帰ることだって何度も考えた。
そんなことをすれば、リディアの命は尽《つ》きる。わかっていても、エドガーだってそんな誘惑《ゆうわく》に身をゆだねたい気持ちになったのだ。
将来のことなんて考えずに、情熱のままに幸福を求めたっていいのではないのか? リディアが長く生きられないというなら、自分の生も短くていい。邪悪《じゃあく》な災《わざわ》いの王子《プリンス》=Aその呪《のろ》いの記憶を完全に葬《ほうむ》るのが自分の役目なら、いっそそのほうが……。
何度も考え、何度も否定した。
何よりも守りたいリディアを、自分の手で死に追いやるようなことはできない。
その想《おも》いだけが彼を引きとめた。
だましてまであの島に置き去りにするしかなかったエドガーのことを、リディアは恨《うら》んでいるかもしれない。再会したときに、許してくれるかどうかもわからない。
不安はたくさんあるが、今はリディアが治療に専念してくれていることを願っている。
その一方でエドガーは、このまま何年ものあいだ、じっと待っている気にはなれなかった。
マッキール家にゆだねるしかないとしても、向こうはリディアがほしいのだ。数ヵ月で治るものを、三年かかると言っている可能性だってあるし、こちらでもきちんとした情報を集めるべきではないのか。
それに、ほかに治療の方法がないかどうかも調べたい。
そんなエドガーにとって、クナート氏族長のくれた助言は頼みの綱《つな》だった。
そこはごく小さな、さびれた島だったが、きちんとした船着《ふなつ》き場《ば》があった。船を桟橋《さんばし》に着けたクナート家の船乗りは、イングランド人がつくったものだと言った。
島に上陸してみれば、新しい白壁の建物や整備された道が目立つ。海から沿岸《えんがん》に見えていた、古い石の家々とはまるきり風情《ふぜい》が違う。
この島も、よそ者による土地の買収《ばいしゅう》が進んでいる様子だった。
「エドガーさま、あの店ではないでしょうか」
レイヴンが指さしたのは、酒場を示す看板だ。そこの主人なら英語がわかるし、まじない師のことも知っているだろうと聞いていた。
建物へ近づいていくと、路地《ろじ》の方から怒鳴《どな》り声が聞こえてきた。と思うと、そこから駆《か》け出してきた男の子が、小石に躓《つまず》いて目の前で転び、エドガーは立ち止まった。
「生意気だぞ、クソガキ!」
十歳くらいだろうか、その少年に浴《あ》びせられた声は英語だった。
せまい路地からは男が次々に出てきて、立ちあがろうとする少年を取り囲む。最後に出てきた紳士《しんし》風《ふう》の人物が、男たちの主人だろう。
その紳士が、といってもいかにも成金《なりきん》風情だったが、口を開いた。
「俺はな、金を出して土地を買ったんだ。書類もちゃんとある。自分の土地を好きにして何が悪い」
筒状《つつじょう》に巻いた紙を手にしている。そして、もう一方の手に握《にぎ》っているステッキで少年を打つ。
「なのに出ていけだと? 文句があるなら、おまえが土地を買い取りゃいい。言っておくが、大金だぞ。金さえあればこんな不便な田舎《いなか》に居残《いのこ》ってやる理由はないからな」
男のステッキをつかんで、少年はまだ気丈《きじょう》に反抗した。
「……金なんか、ない……、でもあの島には近づくな!」
立ちあがった少年のほうも英語だった。
そのまま頭から紳士のほうへ突っ込んでいく。
不意をつかれ、彼は少年とともに転んだが、周囲の雇《やと》われているらしい連中が急いで少年をつかまえ、主人から引き離した。
「はなせよ! あの島は……、誰のものでもないんだ! なのに買ったなんておかしいだろ! 勝手に書類を作ったってみんな言ってる……」
「うるさいぞ!」
再びステッキを振り上げた男の手は、そのまま宙で止まった。
エドガーが男の手をつかんだからだった。
「いいかげんにしたら? 英国人の面汚《つらよご》しだ」
「な、何だ、おまえは」
男はエドガーの手を振り払ったが、向き直ってこちらを値踏《ねぶ》みすると、戸惑《とまど》ったように眉《まゆ》をひそめた。
「名乗るほどのものがきみにあるというなら、名乗ってもいいけど?」
そう言ってやれば、あきらかに戦意を喪失《そうしつ》する。周囲の男がエドガーに近づこうとするのを止める。
「やめろ、貴族を相手にする気か」
その言葉がもう少し遅ければ、レイヴンが手を出していただろう。
しかしそのときはまだ、レイヴンはわずかにも殺気《さっき》を見せていなかった。男が倒れたときに落とした書類を拾い、エドガーに手渡す。
「なるほど、土地の権利書かい? しかし妙《みょう》だね。ここにある役人のサインは僕もよく知る貴族のものだけど、綴《つづ》りが違っている」
男は顔色を変え、唇《くちびる》を噛《か》んだ。
「ひょっとするとこれは、偽造《ぎぞう》の証拠品《しょうこひん》になるかも……」
急いでエドガーから書類を奪《うば》い取ると、引きちぎるようにして破り捨てた。
「行くぞ」
と皆を促《うなが》す。そうしながら、捨てぜりふを吐《は》くように少しだけ振り返った。
「旦那《だんな》、イングランド貴族のかたならおわかりでしょう? ハイランド人をかばったって、いいことなんかひとつもありませんよ」
エドガーは立ち去る男たちから目をそらし、傷だらけになっている少年のそばに身を屈《かが》めた。
「大丈夫?」
さっきの男と同じイングランド人を警戒《けいかい》したのか、彼はにらむようにエドガーを見あげた。
「何しに来たんだよ。……あんたも、土地を買いに?」
「違うよ、この島に有名なまじない師が住んでいると聞いて、相談に来たんだ。クナート家の氏族長が、ここの酒場の主人なら案内してくれると言っていた」
準備中、となっている酒場の戸口をちらりと見て、少年は自力《じりき》で立ちあがる。
顔についた泥《どろ》と血をそででぬぐう。どうやら大した怪我《けが》はなさそうだ。
どこか異国ふうの、くっきりした顔立ちで、目も髪も黒い。
そして少年は、クナート氏族長の紹介とわかってか、いくらか態度をやわらげた。
「ふうん、だったらオレが案内してやるよ。ここ、オレんちだから」
チップを要求しているらしく、ぐいと手を差し出す。
「本当に? まじない師を知ってるの?」
「ああ、それに父ちゃんは今|留守《るす》だし、早くまじない師のところへ行きたいだろ?」
エドガーが頷《うなず》き、ペニー銅貨を手渡すと、少年はそれを大切そうにポケットに入れた。
すぐに彼は歩き出した。
「三十分も歩けば着くよ」
「そう。ところで、きみはいつもあんなに無鉄砲《むてっぽう》にケンカを売るの?」
こんな子供が、大の男を何人も相手に、どうしてあれほどムキになっていたのか、エドガーは興味を感じたのだ。
少年は、急に表情を堅《かた》くしたが、少し考えてゆっくり答えた。
「……いつもじゃないよ。イングランド人はきらいだけど、オレんちはおかげで繁盛《はんじょう》してる」
「きみも小遣《こづか》いにはこと欠かないようだ」
彼のポケットの中で、いくらかの小銭が歩くたびに小さな音を立てていた。
「でもあれだけは許せないんだ」
歩きながら彼は、海のほうを指さした。
ほとんど樹木の生えない平坦《へいたん》な島だ。どこにいても海が見えるのではないだろうか。
首を動かすだけで、曇《くも》り空の下、どこまでも広がる暗い藍色《あいいろ》をした海が見えたが、少年が指し示しているのは、沖合《おきあい》に小さくぽつんと浮かんでいる島のことだろうと思われた。
ここからそう遠くないだろう。島はなだらかな丘状《きゅうじょう》をしているが、かなり小さな島だ。
「あの島には何かあるのかい?」
「無人島だよ。この島の人も、めったなことじゃあそこへは行かない。なのにあいつら、島を買ったとか言って、岩を掘り起こす計画を立ててた。宝石をねらってたんだ」
言ってしまってから彼は、宝石の話をしたことを後悔《こうかい》するようにエドガーの反応を盗《ぬす》み見た。あえてエドガーは聞き流したが、少年はあわてたようにつけ足した。
「でもあの島は、石ころだって島々のあるじ≠フものさ。泥棒《どろぼう》はひどい目にあうだけだよ」
「島々のあるじ=H 精霊《せいれい》とか妖精みたいなもの?」
「違うよ、あるじはあるじだよ」
少年は、たしなめるように強く言った。
「そのあるじを大事にしないと、海が荒れたり困ったことが起きるのかな」
「そうだよ。イングランド人はそういうことバカにするけどな」
「そうかな。僕の島も同じだよ。人魚《メロウ》が棲《す》んでいて、彼らとうまくやっていかないと海も島も荒れる」
驚いたように、少年は顔をあげてエドガーを見た。
「サーの島?」
「僕の名は妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》だ。妖精の知り合いはたくさんいる。人の知る世界がすべてじゃないと感じているし、このハイランドの人たちと通じるところがあると思ってる」
妖精を愛するリディアのことを想《おも》えば、エドガーは島々のあるじ≠信じる少年に同調する。もしもリディアがここにいたなら、自分のことのように必死になって、あの小さな島を守ろうとするだろう。
「さっきの男たち、二度とここには来ないと思うけど、偽造書類が出回ってないか、注意するよう行政機関に伝えておくよ」
なんて自分らしくないくらい、お節介《せっかい》なことを言っているのだろう。そう思いながらも、少年が警戒を解いて瞳《ひとみ》を輝《かがや》かせれば、純粋《じゅんすい》に彼はうれしく感じていた。
リディアと離れて、よりいっそうエドガーは、自分は青騎士|伯爵《はくしゃく》だということを意識しようとしている。
プリンスの記憶を引き継いでいても、リディアが結婚を約束してくれた自分自身でいなければならない。
「ありがとう、サー、……じゃなくてロード。あ、まじない師の家が見えてきたよ」
立ち止まって彼は、丘の上を指さした。
黒っぽい小さな民家がぽつんと見えた。
ここでいいとエドガーが言うと、少年は頷いた。
海からの強い風がにわかに吹きつけ、エドガーは帽子《ぼうし》を押さえる。再び視線をあげたときには、少年の姿はもう見えなかった。
館《やかた》を出て、リディアは海沿いをゆっくり歩いた。閉じこもってばかりでは気が滅入《めい》る。気を遣《つか》って、ファーガスが散歩に誘《さそ》い出してくれた。
めずらしく風はおだやかで、雲間からときおり陽射《ひざ》しが降りそそぐ。いくらか体力の戻ってきたリディアにとって、外出にはほどよい天気だった。
「今日は海が青く見えるわ」
今朝《けさ》がた父は、ロンドンへ発《た》った。リディアは孤独を身に染《し》みて感じながらも、つとめて明るい声を出した。
「母さまもここを歩いたことがあったかしら」
「あったんじゃないかな。分家《ぶんけ》筋《すじ》の村長の娘だろ。本家へ来たことは何度もあるって聞いたし、フェアリードクターだったなら、こういう土地には興味を感じただろうから」
リディアは波打ち際《ぎわ》に近づいていく。打ち寄せてくる波と追いかけっこをする。
海からのやわらかい風が、|縁なし帽《ボンネット》の耳元にからまる赤茶の髪の毛をさらった。
ふわりと舞いあがるひとふさは、まるでエドガーがふざけてもてあそんでいるかのようだ。
キラキラした夏の陽をあびて、くすんだ錆色《さびいろ》が不思議と、エドガーの言うような透《す》きとおったキャラメル色に見えてくる。
「あぶないだろ」
砂に足を取られそうになったとき、ファーガスが手をさしのべてリディアをささえた。
そばにいるのはいつもエドガーだった。けれど今は違う。わずかな間、それを不思議に思い、そして我《われ》に返る。
エドガー以外の男の人に手を握《にぎ》られるなんて。
リディアは離そうとしたが、ファーガスはまるで気にしていないかのようにそのまま彼女の手を握っていた。
親戚《しんせき》だし、そんなに意識することじゃないのかもしれない。リディアは思い直す。
「そろそろ戻るか?」
「あんまり岬《みさき》を離れちゃいけないのよね」
「ああ、あの岬が見えるところでないと、また体に悪影響が出るかもしれないってさ」
ファーガスは、リディアの手を引いたまま、岬の方へと海岸を歩き出した。
そのとき、向こうから人が駆けてくるのが見えた。
「リディアお嬢《じょう》さまー!」
大きく手を振っている。背中にたらしたおさげがはねる。
「ケリー? ケリーだわ!」
「えっ、クナート家の娘が?」
見る間にこちらへ近づいてくると、ケリーはリディアの前で息を整え、あらたまってお辞儀《じぎ》をした。
「お嬢さま、またおそばでお世話をさせていただきますわ」
「まあ、そうなの?」
ケリーには以前にも世話になったし、同じ年頃の女の子がそばにいてくれるのはありがたい。リディアはうれしくて、素直《すなお》に彼女を歓迎しようとしたが、ファーガスが割り込んだ。
「ちょっと待て、ここはマッキール家だ。クナート家の娘を雇うつもりはないぞ。そもそもあんたもクナート家も、アシェンバート伯爵の息がかかってるだろ。……そうか、あんた伯爵の差し金で来たんだな?」
「違います。クナート氏族長《しぞくちょう》のはからいですわ」
「同じだろ! クナート氏族長は伯爵の言いなりだ」
「とにかくファーガスさま、あたしを雇っていただきます」
ケリーはやけに強気だった。
「だから、雇えないって言ってるじゃないか!」
「マッキール家の屋敷で、あたしを見|逃《のが》してくださいました。あのときもし、あなたがお父上や誰かに本当のことを言っていれば、伯爵の計画を知ることができましたのに」
そう言う彼女は、あきらかにファーガスを脅《おど》していた。
ケリーがエドガーの手紙を携《たずさ》えて、こっそりリディアに接触したとき、ファーガスに見つかった。けれど彼は、リディアが望んだとおり、ケリーをすんなり帰してくれたのだ。
今も、エドガーとクナート家のつながりを知っているのはファーガスだけだろう。雇ってくれなければ、ケリーはそのことをファーガスの父親に告げ口するということだ。
困惑《こんわく》しきったファーガスは、あきらめたようにため息をついた。
「……わかったよ! だがあんた、マッキール家の者だってことにするからな!」
「はい。うまくごまかしてくださいませ」
リディアはほっと胸をなでおろし、ケリーに笑顔を向けた。
「よかった、また話し相手になってくれるわね」
「ええ、お嬢さま。それに、悪い虫を近づけないのもあたしの役目ですから」
そう言ってちらりとファーガスを見る。彼がリディアの手を握ったままなのも確認して、またにらむ。
「おれのことかよ。英国紳士なんて連中より、ずっと紳士的だぞおれは!」
リディアの手を離したファーガスは、あわてて自己弁護した。
「紳士は、未婚の女性とふたりきりにならないよう気を遣うものです」
舌打ちして、開き直る。
「うるせえよ。おれはハイランダーだ」
「ハイランドの男なら、女性の前で鼻の下を伸ばしたりしません!」
「してねえ!」
ファーガスのあっけらかんとしたところは、今のリディアにはありがたく感じられる。そうしてリディアは、気持ちを明るくしようとして笑った。
でも、どうしても、こんなふうににぎやかに会話がはずんでいるときでさえ、淋《さび》しさは消えない。
いつのまにか、エドガーでなければならなくなってしまった。
彼がとんでもないものを背負っていると知っても、だまされて置いていかれたと思っても、やっぱりリディアは再会を待ち望んでいるのだ。
「マッキール家のことはよく存じませんな。たしかに古くから、あの家系には人並みはずれた能力を持つものが多く、予言者や妖精博士《フェアリードクター》と名乗ることがあったとは聞いておりますが、クランの中のことは、よそ者には知る機会はありませんでの」
エドガーを前にして、まじない師だという老婆《ろうば》はそう言った。
村から離れた一軒家は、このあたりではよく見かける石組みに藁《わら》葺《ぶ》き屋根の建物で、その前で畑仕事をしていた彼女は、どこにでもいそうな農家の老婆だった。
しかし家の中へ一歩入ると、薬草の匂《にお》いが充満《じゅうまん》していて、蝋燭《ろうそく》に火をつける彼女のしわだらけの手は、やけに魔女めいて見えた。
「あなたはフェアリードクターでは?」
「妖精に関する知識なら、いくらかありますがな、彼らの姿も声もわからない、そういう能力はないのですよ」
老婆は、エドガーに椅子《いす》を勧《すす》め、自らは暖炉《だんろ》にかけた鍋《なべ》のそばに腰《こし》をおろした。
「それで、何をお聞きになりたいのですかな? 若き伯爵さま」
「フィル・チリースのことを」
「オーロラの妖精ですな。|悪しき妖精《アンシーリーコート》の領域《りょういき》である長く暗い夜から、島々を守ってくれる光だと、昔から信じられておりました」
「強い魔力《まりょく》を持つ妖精だとか」
老婆は深く頷《うなず》いた。
「闇《やみ》を切り裂《さ》く、魔力の刃《やいば》をふるうもの……」
「その刃による毒を、消す方法を知りませんか?」
「フィル・チリースが人を襲《おそ》うなどとは、聞いたことがありませんな」
真意をうかがうような老婆の目から、エドガーは視線をそらした。
フィル・チリースがねらったのは、リディアではなくエドガーだった。自分はそんなふうに、人ではない何かになってしまっているのだろうか。
本当にこのまま、プリンスの影響を抑え込んでおけるのか、疑問を持ちながらもエドガーは、リディアを求めずにはいられない。
「ともかく、フィル・チリースの魔力のことなら、どこよりマッキール家が詳《くわ》しいでしょうな」
事情を問う気はないらしく、黙《だま》り込んだエドガーに、老婆は淡々《たんたん》とそう言った。
「マッキール家には頼れません」
老婆は少し考えをめぐらし、また口を開いた。
「わたしが知るのは言い伝えのみです。事実かどうかはわかりません。フィル・チリースに魔力を与え、闇夜の番人としたのが、島々のあるじ≠ニいう存在だと聞いたことがあります。……そして、あるじの泉からわき出る雫《しずく》を飲めば、どんな魔力による病もたちどころに消えるとか」
希望を感じ、エドガーは顔をあげた。やはり、フィル・チリースの刃に効く薬はあるのだ。
時間のかからない治療法も。
「島々のあるじ=c…、さっきこの土地の者から聞きましたが、沖合《おきあい》の小島にいるという存在ですか?」
「あの島は、あるじのものだということですが、そこにいるのかどうかは誰も知りませんな。その昔は、毎年あの小島で、あるじに酒を捧《ささ》げておったそうです。儀式が行われなくなって、ずいぶんになりますかな」
「どうして捧げものをしなくなったのです?」
あるじはもういない、などと言われたら、希望がついえてしまう。エドガーは食い下がるように質問を続けた。
「あるじの夢ができあがり、もはや目覚める心配がなくなったから、と、子供のころに聞いたことがあります」
「……とすると、あるじに眠ってもらうために捧げものをしていたと」
「とにかくあれは眠っているべきもので、目覚めると人間にとってはやっかいなのですよ」
謎《なぞ》めいていて、つかみ所のない話だった。妖精のたぐいではないと、さっき会った少年も言っていた。
しかしその、島々のあるじ≠フ泉が見つかれば、リディアを今すぐ連れ戻すこともできるかもしれないのだ。
「あるじの夢が壊《こわ》れれば、夢の領域が人の世を侵《おか》しはじめる……」
エドガーが頭の中を整理しているあいだに、老婆は独り言のようにつぶやいていた。
貴重な言葉だったのかもしれない、けれどその意味をつかむよりも、エドガーにとって重要なのは、どうやって泉のわき水を手に入れるかだった。
「泉はどこにあるのですか?」
「むろんあるじの夢の中ですよ」
「どうやって行けばいいのです?」
しかし老婆は首を横に振った。
「わたしには、それ以上はわかりませんな」
落胆《らくたん》するしかなかった。
それでも、得たものもあるのだ。気を取り直し、エドガーは老婆に礼を言った。
立ち上がり、去ろうとすると、彼女はふと思い立ったように呼び止めた。
「伯爵《はくしゃく》さま、誰からお聞きになりました?」
何のことかと思い、足を止める。
「島々も氏族《クラン》の民《たみ》も、昔とはすっかり変わってしまいました。この島にはもう、あるじとあの小島の結びつきを知る者はいないと思っていましたから」
「ああ、でも、十歳くらいの少年でしたが、あるじの島を大切に思っているようでしたよ。そう、村の酒場の子供だと言っていました」
すると老婆は首を傾《かし》げながらも、不思議な笑《え》みを浮かべた。
「あの家に、男の子はいないはずですな。伯爵さま、あなたには何か、この島々と縁がおありなのかもしれない。……いいものか悪いものかはわかりませんが」
まやかしにあったような気持ちのまま、エドガーは老婆の家を出た。
外で待っていたレイヴンは、黙って歩いていくエドガーに、黙ったままついてきていた。
老婆の家からずいぶん歩き、先刻《せんこく》少年と別れた丘の下まできたとき、エドガーはようやくレイヴンの方に振り返った。
「レイヴン、さっきの少年をさがさなければならない。人間じゃないのかもしれないし、重要なことを知っているに違いないんだ」
考えるようにこちらを見ていたレイヴンは、ふと視線を動かし、ゆるやかな警戒《けいかい》を示しつつエドガーのそばに歩み寄った。
レイヴンが見つめる方向には、漆黒《しっこく》の馬がたてがみを風になびかせて立っていた。
「ねえケリー、ここにいるあいだにあたし、刺繍《ししゅう》がすごく上手になれそうだわ」
空と海のほか何もない島の、人里離れた岬《みさき》の館《やかた》にいるリディアにとって、たっぷりあるのは時間だけだ。
「あんまり好きじゃなかったけど、時間をつぶすには最適ね」
やけ気味《ぎみ》のリディアを見て、洗いたてのシーツを手に部屋へ入ってきたケリーはくすくす笑った。
「あっ、でもどうしよう。でもこのままじゃ、せっかく習った礼儀|作法《さほう》や貴族のしきたりを忘れてしまいそうだわ」
急に気づいて、リディアはあせった。
怪我《けが》が治ったら、すぐにロンドンへ帰って結婚するのに、そんなことでは困るではないか。
花嫁《はなよめ》修業《しゅぎょう》をやり直さなきゃならないなら、結婚は延期《えんき》になるのかしら。
そこまで考え、バカバカしくなる。いつになったら結婚できるのかもわからないのに、延期を気にするなんて無意味だ。
本当に、結婚できるのかどうかさえ、わからなくなってきているのに。
つい手が止まってしまったリディアに、ケリーが気遣《きづか》った声をかけた。
「お嬢さま、今日も妖精のお客さまが贈り物を置いていきましたよ」
それからケリーは、窓辺《まどべ》から何かを拾いあげ、リディアのところへ近づいてきた。
「まあ、きれいなパンジー」
「花瓶《かびん》に挿《さ》しておきますか?」
「そうだわ、これ、押し花にできないかしら。部屋が花瓶だらけになるもの」
すでにマントルピースの上は、妖精が持ち込んだ草花で、野原のようになっている。
「ケリー、ちょっと待ってて、たしか押し花の道具、ファーガスが持ってきてくれた長持《ながもち》の中にあったと思うの」
思い立ったとたん、リディアは立ちあがっていた。
何かに集中していれば、エドガーのことを考えずにすむ。だからこのごろのリディアは、落ちつきないほどに思いついたことをすぐに実行しようとしてしまう。
物置になっている部屋へ入っていくと、長持はすぐに目についた。
リディアが退屈《たいくつ》しないようにと、いろんな道具を詰め込んで、ファーガスが運んできたものだ。
刺繍の道具はもちろん、本にボードゲームやチェス盤《ばん》、絵の具とカンバスやヴァイオリンまで入っていた。
リディアの趣味がわからなかったと言うファーガスは、世間《せけん》の令嬢《れいじょう》がたしなみそうなものを片《かた》っ端《ぱし》から集めたようだった。
それにしたって子供向けのぬいぐるみやおはじき、フープなんていうのもある。
おかしな人。
照《て》れくさそうに、けれど少し得意げに、これを館に運び入れたファーガスのことを、リディアは思い出して口元をゆるめる。
エドガーだったら、目当ての女性が何に興味があるかなんて、それとなく聞き出すくらいお手のものだ。いきなり好みのものを届けて驚かせる。
リディアは、彼からの贈り物を気に入らなかったことはない。
その一方で、不器用でもファーガスのことは好ましく感じられる。
考えてみれば、エドガーみたいに器用でもてる男の人を好きになってしまったことが、リディアにとっては不思議なくらいだ。
あまり飾らない人のほうが、自分には理解しやすいし、つきあいやすいと思っていたのに。
ついエドガーとくらべてしまって、なんだか恥《は》ずかしくなるけれど、リディアは自分に近づいてきた男の人を、エドガーのほかには知らないのだから無理もなかった。
押し花の道具箱はすぐに目についた。取り出そうとしたとき、話し声が聞こえてきて、リディアはドアのほうに振り返った。
薄《うす》く開いたままのドアの向こうで、誰かが立ち話をしている。いくらかひそめた声は、ファーガスのようだった。
「海峡《かいきょう》の島に……?」
今日も訪ねてきてくれたのだろうか。誰と話しているのだろう。
考える間もなく、もうひとりの声も聞こえた。パトリックだった。
「ええ、アシェンバート伯爵は、どうやらそこにいます」
エドガーの名前に、一気に全身が熱くなった。硬直《こうちょく》したまま、リディアは聞き耳を立てる。
海峡とはおそらく、内《インナー》ヘブリディーズと外《アウター》ヘブリディーズのあいだの海域だろう。
そこに、エドガーがいる?
ロンドンの社交界を飛び回っているのではなかったのか。
「そんなところで何をしてるんだ?」
「おそらく、島々のあるじ≠ノついての情報を集めているのではないでしょうか?」
「あるじって、……あの伝説の? もともとこのヘブリディーズ諸島は、あるじが見ている夢だった、ていう」
「そうです」
「あれって、ただの昔話だろ?」
「完全にそうともいえません」
「だって、この島は夢じゃない。現実の人の世だ」
「それはあるじが、夢の中の島を人に譲《ゆず》り渡したからです。人はその美しい島々を欲《ほっ》し、あるじは誰にも妨《さまた》げられることのない眠りを欲した。両者の利害は一致《いっち》し、契約《けいやく》が成立した。あるじは、人の世と夢を切り離し、自らを夢の中に閉じこめ、人は、その夢が完成するまで毎年酒をふるまって、あるじが眠り続けられるように努めることとなった。そういう昔話です」
「へえ、じゃ、あるじが目覚めたら島はどうなる?」
「人間のもの、とは言い難《がた》い世界になるでしょう」
「よくわからないけど、あるじってのは本当にいるのか?」
「わかりません」
「……で、伯爵は何をしようとしてるんだ?」
「わかりません。あるじのことは古すぎて、もう私たちにはきちんと伝わっていないし、伯爵に何かできるのかどうかも……。ただ、彼の目的はおそらく、フィル・チリースの傷をも癒《いや》せるという泉でしょう」
どきりとしたリディアは、背中の傷の鈍《にぶ》い痛みを意識した。
リディアが受けた、フィル・チリースの刃、その傷を癒す方法が、ここでの治療以外にもあると、パトリックは言っているのか。
「あるじの泉の雫《しずく》は、どんな病《やまい》もたちどころに治すそうですから」
「どういうことなの?」
思わずリディアは声をあげていた。
ドアを開けて、ふたりの前に進み出る。
ファーガスは驚いた顔を向けたが、パトリックは冷静だった。
「これはどうも、おじゃましていますよ」
「パトリックさん、あたしを治療する方法は、ここで時間をかけて毒気《どくけ》を抜くしかないとおっしゃいましたよね。たちどころに治る薬があるのに、黙ってるなんてひどいじゃないですか」
彼は小さく肩をすくめた。
「話を聞いていたならおわかりでしょう? そんな薬、見つけることなどできませんよ」
「どうかしら。だって、エドガーはそれをさがしているとあなたは考えてるんでしょう? あたしには、彼がロンドンにいるかのようにうそをついて、エドガーのことを調べてたなんて……。島々のあるじ≠チていうのが本当にいるかもしれないことも、そこにエドガーが近づくことも警戒しているわ」
ため息をつき、開き直ったのかパトリックは、リディアのほうに向き直った。
「ええ、その通りです。アシェンバート伯爵は、災《わざわ》いの王子《プリンス》≠ナすよ。アンシーリーコートの魔力を手中《しゅちゅう》にできる。もしも昔話が事実を含んでいるなら、あるじが目覚めれば夢の中に閉じこめられたはずの魔力がこの島々に満ちる。災いの王子が|悪しき妖精《アンシーリーコート》を戦力として使うことが容易になる」
問題は、エドガーがリディアのために薬をさがしているということではないのだ。パトリックはプリンス≠警戒している。
そのことにようやく気づき、はっとさせられたリディアに、パトリックはたたみかけた。
「リディアさん、あなたもフェアリードクターなら、伯爵を止められないか考えてください。人間界はもともと、妖精界のようには魔力《まりょく》が働かない場所だ。それでも災いの王子《プリンス》が生まれたことで、|悪しき妖精《アンシーリーコート》が力を持ちつつある。そんな状態の今、人の世に魔法の領域が流れ出せば、どういうことになるかわかりますか?」
「でも、エドガーはプリンスになる気はありません。プリンスの記憶も目的も、封印《ふういん》したままにしようと……」
「いや、彼は確実に、プリンスに近づいています。それもすべては、あなたのために」
あたしの、ために?
「やめろよ、パトリック」
ファーガスが止めようとしたが、パトリックはリディアを冷たく覗《のぞ》き込む。
「伯爵は、あなたを奪《うば》われたくないばかりに予言者を殺そうとした。それ以前に、人が手に入れることさえ禁忌《きんき》のはずの、アンシーリーコートの魔力を得ることを選んだのは、あなたを巨人族《トロー》から守るためだった」
そう、エドガーはそのたびに、触れずにおくべきプリンスの記憶を自分のものにしなければならなかったのだ。
「アシェンバート伯爵は、危険な人です。正しいかどうかよりも、あなたを守ることを優先する」
……でも、正しいことって何?
「エドガーが間違ってるっていうの? あなたたち、何も知らないくせに!」
エドガーはプリンスの犠牲者《ぎせいしゃ》だ。彼らの組織と戦ってきて、やっと復讐《ふくしゅう》を果たしたのに、新しいプリンス≠ノされようとしている。
「あなたたちも予言者も、エドガーさえいなくなればいいのでしょうけど、それが正しいことだっていうの? あなたたちが氏族《クラン》を守りたいように、エドガーだって大切な人たちのために戦っているだけだわ!」
リディアの必死の反論にも、パトリックは動じなかった。
何がおかしいのか、にやりと笑う。
「伯爵をプリンスにしたくないなら、確実な方法がありますよ。婚約を解消することです」
「な、何を……」
「あなたの気持ちが変わったとなれば、アシェンバート伯爵は、薬を手に入れる必要はなくなります。もはや悪しき妖精の力を使う意味もなく、さっさとロンドンへ帰って、島々の魔力やプリンスの因縁《いんねん》とかかわりなく過ごすなら、ただの人間としての彼のままでいられるのでは?」
リディアがいるから、エドガーは一線を踏《ふ》み越えてしまう。
パトリックの言うとおりだった。
そばにいたいと捨て身になって願ったリディアは、ある意味エドガーを追いつめていた。
リディアのためにも、時間のかからない治療方法をと、彼は考えたに違いない。
そのために、またプリンスの記憶をほどいてしまうかもしれないのだ。
いたたまれなくなって、リディアはその場から逃げ出していた。
「あっ、おい、リディア!」
ファーガスの声が聞こえたが、リディアは勢いのまま館の外へ飛び出す。
治療なんて拒絶《きょぜつ》するべきだったと思えた。
置いていくなら治療は受けないとエドガーに訴《うった》えたのに、彼はリディアを置いていったのだ。そうと気づいたのはこの屋敷で目がさめたときだったが、隙《すき》を見て逃げ出すことくらいできただろう。
そうしなかったのは、やっぱりエドガーが好きだからだった。まだリディアとの将来を望んでくれているなら、何年かかってもきっと彼のもとへ帰ると心に決めた。
それまでに何があるかわからないと思えば不安だったけれど、前向きでいようとしていた。
でも、自分の存在がエドガーを変えてしまうかもしれないなら、いなくなった方がましなのではないか。
走りながらリディアは、岬の先端へ向かっていた。
崖《がけ》の手前で立ち止まり、下方を見れば足がすくんだ。
怖いと思う。もちろんリディアは、死にたくなんかないからだ。死んでもいいなんて言ったのは、エドガーと離れるのが何よりも怖かっただけ。
離れてしまえば、彼が彼でなくなってしまいそうで。
それともそばにいても、やはりいつかはそうなるのだろうか。
どうすればいいのだろう。
「リディア!」
突然|腕《うで》を引かれた。気づけばリディアは、ファーガスの胸に倒れ込んでいた。
驚いて、両手を突っ張って離れようとするが、彼はリディアをかかえ込んだまま離そうとしない。
「バカなことはやめろ」
「な、何もしてないわ、海を見てただけよ」
「えっ、海を? 本当に……?」
力をゆるめたファーガスを押しのけ、リディアはさっと距離を取る。
心配そうな目を彼はリディアに向けながら、何か言おうと口を開きかけたが、それをさえぎるようにリディアは言った。
「あたしのこと、気遣うふりなんてしなくていいのよ」
「ふり?」
「あなただって、あたしがエドガーと別れればいいと思ってるんでしょう? そうよね、マッキール家の次期|氏族長《しぞくちょう》だもの。エドガーと取り引きしたのも、彼から引き離してあたしを説得するつもりだったから? パトリックさんとは違って、中立的な立場であたしのこと気遣ってくれてるなんて考えちゃいけなかったのね」
「違う、おれは……」
近づいてこようとするファーガスに、リディアは後ずさった。そんなリディアの態度に彼は困惑《こんわく》し、やけになったように声を荒《あら》らげた。
「ああ、たしかに伯爵《はくしゃく》のやつは気にくわねえよ。だけど、マッキール家のためじゃない。ただあんたの力になりたかったんだ」
「やめて! そんなこと、もう言わないはずでしょう? もともとあなたは、許婚《いいなずけ》って言葉にあたしを重ねただけで、あたしを好きになったわけじゃないわ」
「でも今は、あんたのことを知った。それでも好きになっちゃいけないのか?」
まっすぐなファーガスの視線から、リディアは目をそらした。
「いけないわ。あたしには婚約者がいるの」
そう言っても、彼はひるまない。その婚約者は、リディアに会うことも近づくこともできないと知っているからだ。
「パトリックの言うことは間違ってないよ。伯爵といっしょになれば、あんたは不幸になる」
「決めつけないで」
うつむいたまま、リディアは言う。きっぱり否定できない自分が歯がゆかった。
「たしかにあいつは、あんたのためなら何でもするかもしれないけど、それは本当にあんたのためになるのか? またアンシーリーコートの魔力に手を染めるつもりだとしたら、ますますあんたを苦しめるだけだ」
気がついたら、距離をつめられたリディアは、ファーガスに腕をつかまれていた。
「自分が邪悪《じゃあく》なものになって、婚約者を守れるはずもないってことくらい、わかるはずだろう?」
風が吹く。ファーガスが肩に掛けているキルトが舞い、リディアの視界を覆《おお》った。
と同時にその中に包み込まれる。力強い腕にかかえ込まれ、リディアは動けなくなる。
ファーガスは全身でリディアを抱きしめたまま離さなかった。
「やめ……」
「おれを、好きになれよ……。おれなら、あんたを苦しめるようなことはしない。伯爵は間違ってる」
エドガー……
助けを求めるように彼の名を心の中で叫《さけ》びながら、同時にリディアは悲しくなっていた。
どうしてなの? どうしてあなたのそばにいられないの?
もう、会えないのかもしれない。
すべては彼からリディアを引き離そうとしている。運命も予言者も、ファーガスも。
力が抜けそうになったそのとき、彼は急にリディアを離した。
「痛《い》って……」
とファーガスは頭を押さえて振り返る。
「お嬢《じょう》さまに何するんですか!」
ケリーがほうきを手に、再びファーガスに襲《おそ》いかかろうとしていた。
「おい待て、やめろ……」
「いいえ、許せません! 氏族長の息子ともあろう人が、保護している客人《きゃくじん》にむりやり……、高地人《ハイランダー》の恥《はじ》もいいところです!」
ほうきを振り回すケリーを、ファーガスは必死になって避《よ》ける。
その様子をおかしく思う余裕《よゆう》もなく、立ちつくしていたリディアは、胸の痛みに押しつぶされそうな気がしていた。
息苦しい、そう感じたとたん、視界が暗くなる。
「お嬢さま!」
ケリーの声が遠くに聞こえる。意識が遠のく。
もういちど、エドガーに会いたい。
リディアはただ、そのことだけを考えていた。
もういちどだけ。それが叶《かな》うなら、彼のためにいちばんいいことを、冷静に選択できると思いたかった。
海峡《かいきょう》の島で、小さな宿に部屋を取ったエドガーは、ケルピーと向き合っていた。
黒い巻き毛の、精悍《せいかん》な青年の姿になったケルピーは、立ったまま腕を組んでエドガーを見おろした。
「リディアはどこだ?」
「きみには関係ない」
「関係なくないだろう。俺はあんたより早くリディアと知り合ったんだからな!」
だからどうだというのか。馬の理屈はよくわからない。エドガーは肘掛《ひじか》けに寄りかかって頬杖《ほおづえ》をついた。
「リディアに何の用?」
「何の用だって? あいつに何かあったんじゃないのか? だいたい、あんたがそばにいないってどういうことだよ。……リディアのことは、これからはあんたが命がけで守るんじゃなかったのかよ」
水棲馬《ケルピー》なんかに言われるまでもない。けれどエドガーは、自分の力でリディアを救うことができず、マッキール家のファーガスにゆだねるしかなかった。
悔《くや》しい苛立《いらだ》ちを抑え込み、ケルピーに冷たい目を向ける。
「何かあったって、どうしてそう思う」
「実家には誰もいないし、だから鉱山妖精《コブラナイ》のやつにリディアのムーンストーンの行方《ゆくえ》を調べさせた。このあたりの島をずいぶん駆《か》け回ったがな」
ケルピーは自分の後ろ髪をまさぐり、何かをつまみ上げて見せたが、エドガーには何も見えなかった。
「ちっ、気絶してやがる」
そのままテーブルに置く動作をして、軽くつつく。それはかすかなうめき声をあげたが、まだのびているらしかった。
コブラナイの姿はエドガーには見えない。わかるのは声だけだ。それにしても、ケルピーのたてがみにつかまって、振り回されていたのだろう小さな妖精のことを思うと、同情を感じる。
「かわいそうに。まったく乱暴《らんぼう》だな、きみは」
どうでもいいとばかりに、ケルピーはエドガーを覗《のぞ》き込んだ。
「伯爵、あのムーンストーンの指輪を持ってるな? なのにリディアはいない。それは、婚約を解消したってことか?」
「バカを言わないでくれ。僕たちはもう、指輪なんてしるしがなくても心で結びついている。きみには付け入る隙なんてないよ」
「心で? 本当にそうか? プリンスの記憶を引き継いだこと、リディアに黙《だま》ってるだろ」
「……もう彼女は知ってるよ。それでも、僕と結婚すると言ってくれた」
今でもそういう気持ちでいてくれているだろうか。あのときリディアは、自分の命が短いと感じていたからこそ、そう思えたのかもしれない。
「そんなことよりケルピー、きみは何をしに来たんだ? あらたまって話があるというから、貴重な時間を割《さ》いてやっているのに、リディアに会いたいっていうだけなのか」
眉《まゆ》をひそめたケルピーは、自分の用件を思い出そうとしたようだ。ゆっくり部屋の中を歩き、窓辺《まどべ》に寄りかかった。
「伯爵、ヘブリディーズのフィル・チリースを敵にまわしただろう。それでリディアが刃《やいば》を受けたんじゃないのか? この島々はハイランドでも特殊《とくしゅ》な場所だ。妖精の力を侮《あなど》ると大変なことになる」
「こっちの事情にやけに詳《くわ》しいね。そういやきみは、ユリシスに協力していたこともあったっけ」
前のプリンスの側近《そっきん》だったユリシス、今は、プリンスなき組織を率《ひき》いているのか。
ともかく彼は、エドガーを完全なプリンスにしたがっている。
「やつに協力したわけじゃない。俺はいつでも、リディアのためになると思ったようにする」
「情報をくれるなら、やつらと接するのも厭《いと》わない?」
「今となっちゃ、あっちの組織のほうがわかりやすいな。あんたはプリンス≠ナ、やつらの親玉なのに、ユリシスを敵視している。そのくせ、やつらの思惑《おもわく》どおり、プリンスに近づいている」
「僕に説教をしに来たの?」
「そうだ。リディアのためとか言いながら、フィル・チリースの魔力《まりょく》を癒《いや》す薬を得ようなんて考えるな。それこそまた、ユリシスの思い通りになるぞ」
意外なことになってきた。エドガーは考えながら、注意深くケルピーを観察した。
おそらくこの馬は、エドガーが知りたいことを知っている。
「……島々のあるじ≠ノ近づくには、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の力が必要だから?」
ユリシスが望むとしたらそういうことだろう。エドガーはカマをかけてみた。
「ああ、ユリシスのやつ、あんたなら青亡霊《あおぼうれい》の連中を動かせると目論《もくろ》んでるんだろ? 連中の船なら、あるじの夢の源《みなもと》に近づける」
「そして僕は、ますますプリンスに近づいていく、か」
「わかってるなら、ユリシスの誘《さそ》いになんか乗るな」
「なるほど、そういうこと」
エドガーは口元だけで微笑《ほほえ》んだ。
「なるほど?」
「青亡霊ね、それを利用すれば、リディアの薬を得られるんだな。いいことを聞いたよ、ケルピー」
呆気《あっけ》にとられたように、ケルピーは目を見開く。
「……知らなかったのか?」
「ああ、まったく情報がなくて困っていたところだ」
「ユリシスの手先にけしかけられてるんじゃないのか?」
「ユリシスも黒妖犬《こくようけん》も見かけてない。僕の居場所《いばしょ》がわからないんじゃないかな」
くそっ、とケルピーは吐《は》き捨てる。
「あの女……、俺を利用しやがった? いったい何考えてやがるんだよ、まったく!」
「女?」
「おい、青亡霊なんて聞かなかったことにしろ!」
「できるわけないだろう。で、青亡霊って何だ?」
「教えられるか! 全部忘れさせてやる!」
エドガーの胸ぐらに手をのばそうとしたケルピーは、割り込んだレイヴンにナイフを突きつけられた。
人間の武器くらいでケルピーに危害《きがい》を加えられるわけもないが、ケルピーはレイヴンの中に宿《やど》る異国の精霊《せいれい》を警戒《けいかい》しているらしい。とりあえず退《ひ》くことにしたようだった。
「……これだから人間は信用ならない。ああもう、わからねえよ! どうしてリディアはあんたなんかを信じてるのか」
エドガーは、ゆっくりと椅子《いす》から立ちあがった。
「レイヴン、青亡霊について調べよう」
「はい」
レイヴンは、帽子《ぼうし》とステッキを取ってエドガーに手渡す。
「おい伯爵、今度こそやめておけ。いくらリディアだって、あんたに愛想《あいそ》を尽《つ》かすに決まってる!」
「何もしなければ、彼女の気持ちが変わらないって保証もないだろう」
「俺は、リディアの気持ちを尊重するつもりだった。でもあんたがプリンスに飲み込まれる可能性があるなら、リディアはわたせないぞ」
ケルピーはそう言って挑発《ちょうはつ》する。
レイヴンは、黙ったままドアを開ける。
「ケルピー、僕はプリンスから逃げ切ることはできないんだ。だったら戦うしかない。自分の中のプリンスとも、プリンスの敵だという予言者や、すべての原因となったこの島々の魔力や謎《なぞ》とも、向き合うしかないんだよ」
それだけ言って、エドガーは部屋を出た。
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あなたに会いたくて
リディアは浜辺《はまべ》を歩いていた。
月光に照《て》らされて、砂浜が白く浮かび上がる。どこまでも続く、一本の道のようだ。
満天の星空を流れる銀河が、遠く水平線の彼方《かなた》で海に流れ込んでいるのかと思うほど、海がキラキラと輝《かがや》く。
どうしてこんなところを歩いているのか、いつからここにいるのか、リディアは何もわからないまま、ひたすらどこかに向かって歩き続けていた。
海の沖合《おきあい》に、気がつけばずっと、小島が浮かんで見えていた。月光のせいかどうか、その島はぼんやりと淡《あわ》く、緑がかった光に包まれていた。
「なあ、どこへ行くのさ?」
声が聞こえ、リディアは立ち止まった。人影など見かけなかったのにと思いながら首を動かすと、波打ち際《ぎわ》に少年がぽつんと立っていた。
十歳くらいだろうか。子供がこんなところにひとりでいるなんて。
目鼻の大きなくっきりした顔立ち、黒髪からのぞく大きな耳も、人というよりはどこか異界のものらしい特徴を感じる。
そして、こちらへ近づいてくる彼には影がなかった。
「あなた……、人間じゃないの?」
「あんただって同じさ」
ふと見れば、リディアの足元にも影がない。驚《おどろ》くリディアに、少年は言った。
「ここは夢の中だよ。あんたは眠ってるんだ」
「あなたも?」
彼は少し首を傾《かし》げたが、それには答えなかった。
「世界のすべては、夢の中でつながっている。どんな境界もないところだから、自由に好きなところへ行ける。でももし、方向を見失うと、あの島に取り込まれてしまうよ。夢を集めた、大きな結晶《けっしょう》があるから」
海原《うなばら》にぽつんと浮かぶ小島を、彼は指さす。
「どこへ行きたいのさ? 思い出して」
「あたしは……」
どこへ行きたかったのだろう。
そうだ、帰りたかった。ロンドンへ。ううん、エドガーのところへ。
そう思った瞬間、リディアは部屋の中にいた。
どこなのかわからない。どこにでもありそうな、飾り気《け》のない部屋だった。
窓が開いていて、カーテンが風にゆれている。
月光が差し込むその窓の向こうには、海と、そしてあの、淡《あわ》い緑の宝石みたいな島がぽつんと見えていた。
クリソプレーズのよう。リディアはそう思う。父が教えてくれた、カルセドニーの一種だ。
島々のカルセドニーは、夢の結晶でできているのだろうか。
ぼんやりそんなことを考えていると、部屋の片隅《かたすみ》で何かが動いたような気がして、リディアは視線を動かした。
ソファがある。誰かが寝ころんでいる。胸の上に広げた本を置きっぱなしにして、そのまま疲れて眠ってしまったかのようだ。
エドガー……?
リディアは驚きながら、本当に彼なのか確かめたくて、ゆっくりソファに近づいていった。
月明かりと同じ色にも見える金髪。端整《たんせい》な横顔。上着はなく、ゆるめた襟元《えりもと》にきれいな鎖骨《さこつ》がのぞく。戸惑《とまど》いながらも、リディアはのぞき込もうとする。
長いまつげは、頬《ほお》に薄《うす》い影を落としている。
身を屈《かが》め、絹糸《きぬいと》のような金色の髪に触れようとすると、ゆっくりと彼がまぶたを開いた。
印象的な灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》が、リディアをとらえる。
驚いたように、けれど熱っぽくもまっすぐに見つめられ、頬が赤くなるのを感じたリディアは急いでしりぞこうとした。
「リディア、なのか?」
体を起こし、彼はこちらへ手をのばした。
手を取られれば、リディアのよく知るあたたかさが、彼女の指を包み込んだ。
引き寄せられて、指先に口づけられる。
ここにいるリディアは、生身の体ではない。エドガーも、夢の中の存在だ。なのに触れ合っている感覚があり、どうしようもなくドキドキした。
「……夢を見ているのかな」
不思議そうに言って、彼はリディアを隣《となり》に座らせた。
「あたしも、夢を見ているらしいの」
あまりにも間近に彼の顔があって、リディアはついまぶたを伏《ふ》せる。
「会いたかった。夢の中でもいいから会えないかと、夜ごと願っていた」
耳元に手が触れる。彼女をもっとよく見ようとするように、両手で頬を包み込む。
「あたしのこと、考えていてくれたの?」
「当然じゃないか。……きみは? 僕を恨《うら》んでた?」
リディアは首を横に振った。
微笑《ほほえ》んで、エドガーは唇《くちびる》を重ねる。
わずかにリディアが戸惑ったのは、ついさっき、ファーガスに抱きしめられ、告白されたことを思い出してしまったからだ。
嫌《きら》いな人じゃないからこそ、あんなふうに踏《ふ》み越えてきてほしくなかった。エドガーの婚約者として尊重してほしかったから、どうしようもなく悲しくなった。
それだけのことだけれど、エドガーに対し、秘密を持ってしまったかのような、後ろめたい気持ちになれば、少しだけ怖くなった。
自分は変わってしまっていないだろうか。以前と同じように、彼の愛情を受け止められるのだろうか。
体を固くすれば、エドガーはすぐに唇を離した。
「でも、少し怒《おこ》ってるね。まるで婚約する前のきみだ」
「そんなことないわ。……久しぶりに、会ったから」
「キスのしかたを忘れた? じゃあね、もういちどゆっくり教えてあげるよ」
いつものエドガーの、ふざけたせりふだ。けれどそうやって、リディアの戸惑いを払いのけてくれる。
やわらかく抱きしめられて、ほっとしていた。ようやく緊張《きんちょう》が解ける。
自分も彼も変わっていない。お互いの気持ちも。ようやくそう思えていた。
リディアの心を知っているかのように、また唇が重なる。
婚約したばかりのときだって、こんなに慎重《しんちょう》じゃなかったと思うほど、リディアが驚かないように、触れるだけのキスを繰り返す。
やさしくて、切《せつ》なくなる。
夢の中だけれど、やっと会えた。なのに本当の気持ちを伝えられないなんていやだ。
リディアは一生|懸命《けんめい》、彼にあまえようと腕《うで》をのばした。
背中に腕をまわしたとたん、ぐっと腰《こし》を引き寄せられた。
驚くほど力を込めて抱きしめられる。さっきとはうって変わって、情熱的な態度に戸惑っているうち、ソファの上に倒されていた。
忘れていた。エドガーが望む恋人らしいふるまいは、リディアが望むことよりもっと親密なのだ。
真上から覗《のぞ》き込む彼は、なだめるように髪を撫《な》でる。
「夢の中だから、もう少しくらい許してくれる?」
「え……、もう少しって……」
いつのまに背中のボタンをはずされていたのか、ゆるんだ襟元を唇がたどった。
夢なのに、どうしてこんなにたしかな感覚があるのだろう。首筋《くびすじ》に、熱とともに鈍《にぶ》い痛みをおぼえ、リディアは身じろぎする。
「エドガー……何を、したの?」
顔をあげて、彼は切なげに微笑む。
「早く結婚しよう。やっぱり何年も待つなんていやだ。……きっとすぐに、迎えに行くから」
その言葉に、はっとさせられた。
エドガーに会う前に考えていたことを、思い出したのだ。
ああ、会ってはいけなかった。
夢でも、会いに来ちゃいけなかった。
もういちどだけでもいい、なんて考えたからこんなことに。
額《ひたい》に落ちる口づけをさえぎるように、リディアはつぶやいていた。
「あたしたち、別れましょう」
動作を止め、彼はリディアを覗き込んだ。
「どうして? 何かあったの?」
「何も。ただ、よく考えたの」
体を起こした彼は、ひどく悩《なや》んだ表情で、金色の髪をかきあげた。
リディアは、冷静に話ができるくらいの距離を保って座り直す。
「うそをついて、きみを置いていったから?」
「そうじゃないわ」
エドガーを説得しなければならない。|悪しき妖精《アンシーリーコート》に接近して、島々のあるじ≠フ薬を得ようなどとしないように。
注意深くリディアは考えをめぐらせ、言葉をさがした。
「あたし、あなたに口説《くど》かれてプロポーズされて、熱に浮かされてたようなものだったの。恋をよく知らなかったから。望まれてうれしくなるのが恋みたいに思ってたわ。だけど、あなたのそばだと、いつまでたっても緊張してしまう。やっぱり、釣《つ》り合わないんだと思うの」
[#挿絵(img/chalcedony_083.jpg)入る]
ちがう、好きだから落ち着かなくなるの。見つめられるだけでドキドキして、こんなに幸せでいいのかしらって怖くなる。
自分で自分の言葉を否定しながらも、リディアは必死でうそをついた。
「信じない」
エドガーはきっぱり言った。
「……あいつに何かされた?」
彼にしてみればそれが、リディアが別れを切り出すもっともあり得そうな理由だったのだろう。
「ちがうわ……」
「あのねリディア、ファーガスがどんな卑怯《ひきょう》なことをしようと、僕の、きみへの気持ちは変わらない。別れる理由なんてないじゃないか」
「ファーガスのせいじゃないわ!」
リディアはつい、声をあげる。
エドガーを暴走させてしまうかもしれないのは、リディアなのだ。
いっそ、彼が愛想《あいそ》を尽《つ》かしてくれればいい。そう思いながらリディアは言った。
「あたしはそんな、一途《いちず》な女の子じゃなかったのよ。ファーガスのこと、ちょっといい人だって思ったら、あなたのこと、本当に好きなのかどうかわからなくなったの」
怒ったように、エドガーの手がリディアの肩をつかんだ。
「バカバカしい、きみはひとりで治療を続けているんだから、あの男を頼りたくなったって不思議はないよ。だけど僕のそばに戻ればすぐに忘れる。……忘れさせてやる」
力が抜けてしまいそうになる自分を奮《ふる》い立たせ、リディアは彼の手を振り払う。
「……きっと忘れられないわ。不器用で、女の子の扱《あつか》いに慣れてないけど真剣で、……あなたとは違ってるけど、安心して話せるの」
自分でもなんてことを言っているのだろうと思う。でも夢の中だからか、生身の自分より冷静でいられる。
エドガーが傷ついたように眉《まゆ》をひそめれば、リディアの胸は痛んだ。
ぜんぶうそだと言ってしまいたい。けれど、こうするしか彼を止められない。
「知っているはずだろう? 僕がどれほどきみを愛しているか」
「ごめんなさい、でも」
「別れない。必ずきみを、僕のもとへ連れ戻す。……薬があることをもっと早く知っていれば、あんな男にきみをあずける必要もなかったんだ」
「エドガー、あたしは薬なんていらない」
「手に入れてみせる」
エドガーはまた、こちらに手をのばそうとした。けれどもう、リディアには触れられなかった。
エドガーのことも、周囲の風景も、ぼやけて見える。きっと彼も、リディアのことがはっきり見えなくなってきているに違いない。
ひとつにつながっていた夢が消えようとしている。
「お願い、あたしのことは忘れて。もう危険なことはしないで」
「僕を心配してくれるなら、リディア、別れたいっていうの本音《ほんね》じゃないよね」
信じないから、そんなささやきが耳に残ったまま、リディアの目の前から、エドガーの姿は消え、周囲は真っ暗になった。
急にひとりになって、リディアは泣きたくてたまらなくなった。
涙をこらえながら、どこへ向かっているともわからずにとぼとぼ歩く。
どうしてまだ夢の中にいるのだろうかとふと考えたけれど、目覚めたくないような気がしていた。
「リディア、何やってんだよ!」
リディアは足を止めた。目の前に、青年の姿をしたケルピーが立った。
周囲は暗闇《くらやみ》だけれど、彼の姿ははっきりと見える。
「早く自分の体へ戻れ、魂《たましい》だけでうろついてると、帰れなくなるぞ」
「ケルピー、どうしてあなたがここに」
「伯爵《はくしゃく》の近くにおまえの気配《けはい》を感じたから、追ってみたんだ。夢の中で、あいつに会いに来たのか」
「もう、会わないわ」
怪訝《けげん》そうに彼は眉をひそめたが、すぐに納得《なっとく》したように頷《うなず》いた。
「ふうん、おまえ、フィル・チリースの刃《やいば》を受けたんだろう? あいつのせいだからか? ま、プリンスになっちまった伯爵だ、別れるのが正解だろうな」
はっとして、リディアはケルピーに詰め寄った。
「ケルピー、知ってたの? エドガーがプリンスの記憶を受け継いでしまったこと、どうして知ったの?」
「そりゃ、見てたから」
「見てた?」
「ああ、伯爵がプリンスの記憶を手に入れたとき、俺もその場にいた」
「どうして教えてくれなかったの?」
ついリディアは、ケルピーをせめるような口調《くちょう》になる。
「伯爵はおまえを助けたい一心《いっしん》だった。だから、おまえに話すかどうかはあいつが決めることだと思った」
リディアがエドガーとの婚約を決めてから、ケルピーは以前にくらべてエドガーを認める態度を見せるようになった。リディアの意志を尊重してくれることにしたのだと思っていた。
けれどそれだけではなかったのかもしれない。ケルピーは、プリンスとの決戦に挑《いど》んだエドガーの近くにいたからこそ、その選択を尊重したのだ。
きっと、エドガーがプリンスの記憶を引き継いだことは、ケルピーにとっても、そうするしかないと感じたことだった。
つまりはリディアを救うために必要だったこと……。
「あたしのために、エドガーはプリンスに近づいてしまったってことなの?」
リディアはうろたえていた。
「どうして、そんな大変なことを……」
結局そのときから、エドガーのあやうい選択がはじまっている。聖地の予言者を葬《ほうむ》ろうとしたのもリディアのためなら、フィル・チリースの魔力を消すために島々のあるじ≠ノ近づこうとしているのもリディアのためだ。
「だからってリディア、恩を感じることはないさ。そうだろう? もともとあいつが、おまえを危険に巻き込んだ……」
そのときリディアは、ケルピーの言葉も聞かずに駆《か》けだしていた。
「あっ、おい、どこへ行くんだよ。待てって! 帰れなくなるって言ってるだろ!」
帰れなくていい。リディアはそう思った。
いっそ消えてしまいたい。
二度と、エドガーが道を踏み外すことがないように。
「リディア! ……」
急にケルピーの声が聞こえなくなった。振り返れば、その姿も消えていた。
リディアはまた、闇の中に一人きりだ。
本当に帰れなくなっちゃったのかもしれない。そう思ったけれど、怖くはなかった。
エドガーは、ソファの上で目をさました。
窓からは朝の光が射し込んでいる。
たった今見ていた夢を抱きしめるように、両腕を伸ばす。朝日混じりの空気は何の感触もなく、そうしてむなしくなる。
「リディア……、きみはここへ来ていたのか?」
ただの夢だったらいい。別れの言葉が、彼女の本音だとは思いたくない。
けれど夢はあまりにも鮮明《せんめい》で、リディアに触れた感覚も、彼女の反応も、すべて現実のことのように記憶に残っていた。
「エドガーさま、ソファでお休みになられたのですか?」
ドアを開けたレイヴンが、驚いた様子で口を開いた。
体を起こし、エドガーは乱れた前髪をかきあげる。
「ああ……、調べものをしているうちに眠ってしまった」
テーブルの上に積んであるのは、英語で書かれた魔法に関する文献《ぶんけん》だ。昨日のまじない師の家から借りてきた。
島々のあるじ≠ノ近づくには、青亡霊《あおぼうれい》の力を借りなくては難しい。そうケルピーから聞かされたエドガーは、さらに助言を求めようと、再びまじない師の家を訪ねたのだった。
ところがまじない師はいなかった。
留守《るす》にしていたのではない。
ほんの一、二時間前にエドガーが訪ねたときには、家の前の畑はきちんと手入れがなされていて、建物も部屋の中もこざっぱりとしていたのに、すっかり様子が変わっていた。
畑は荒れ放題で、家も一見《いっけん》して空き家だとわかった。鍵《かぎ》のこわれたドアを開けると、中はほこりと蜘蛛《くも》の巣だらけだった。
あとで酒場の主人に、まじない師は三年前に死んだと聞かされた。
いったい、自分が会ったのは何だったのだろう。
そもそもまじない師の家へ案内してくれた少年が、この世の存在ではないようだった。
わけがわからない。けれどぼんやりと思う。エドガーを、すでに亡《な》きまじない師に会わせてくれたのは、あの少年なのかもしれない。
結局、まじない師から話を聞くことは二度とできそうになく、エドガーは彼女の家にあった書物を拝借《はいしゃく》してきた。
しかし、この島々についてエドガーが知りたかった記述は見つかっていない。
「レイヴン、もう内《インナー》ヘブリディーズへ行ってきたのか? ずいぶん早いな。寝てないんじゃないか?」
この島には、小さな村がひとつあるだけで、英語のわかる人も少なく、まともな情報が得られそうになかった。そのために、レイヴンが内ヘブリディーズのクナート家へ出向いたのだが、思ったより早い帰還だった。
「船の中で休みました」
だったら大して寝ていないだろう。昼までに戻ればいいと言っておいたのに。
このごろレイヴンは、自分で考えて行動するようになった。エドガーの言いつけどおりにするだけではなくなった。
レイヴンにとっては成長したしるしだ。エドガーにとってもありがたいことではあるが。
「無理をしなくていいんだよ」
「問題ありません」
「そう、じゃあ収穫《しゅうかく》は?」
「青亡霊は、この海峡《かいきょう》では昔からよく知られたものだそうです。島々のあいだを行き来する船を襲《おそ》い沈《しず》めてしまうとか。青亡霊に連れ去られた人間は永遠に奴隷《どれい》にされるとか、そんな話を聞きました。ふだんは海の底の岩穴に棲《す》んでいて、悪天候になると波間に浮かび上がってきたり、古びた船をあやつって近づいてくることもあるということでした」
「青亡霊の船なら、島々のあるじのところへ行けるということだった。その古びた船を手に入れればいいってことか」
しかし、どうやって。
悪天候になれば現れるというが、そんなときに船を出せば、青亡霊に出会わなくても海の底へ沈みそうだ。
「島々のあるじについては? 何か新しいことはわかったか?」
「クナート家ではもはや詳《くわ》しく知る者はいないということでした。昔、海に捧《ささ》げ物をしていたらしいという記憶があるくらいです」
聞きながら、エドガーは腕を組んで考え込んだ。
「青亡霊との関連はわからないんだね」
「青亡霊は単純な|悪しき妖精《アンシーリーコート》です。遠い昔、海峡で難破《なんぱ》した海賊《かいぞく》の魂《たましい》だともいわれているようですが、悪霊《あくりょう》のようなものだとか。一方で、島々のあるじ≠ノはとくべつ悪い印象はありません」
悪くはない、しかしあるじ≠ヘ得体《えたい》が知れない。ごくわずかな情報しかないが、島々の妖精たちや魔力の根源《こんげん》であるかのような、そんな大きさをエドガーは感じる。
「そういったことに詳しいのは、やはりマッキール家だとは言っていました」
「マッキール家に頼れないのでは、どうしても情報が偏《かたよ》るということか」
あるじは夢を見ている。
すでにこの世にいないはずの、まじない師の老婆《ろうば》に聞かされたことを思い出せば、奇妙《きみょう》なイメージが脳裏《のうり》に浮かぶ。
海の底の岩穴から現れるという青亡霊。深い海の奥、あるじの夢の裂《さ》け目から、この世に流れ出てくる異形《いぎょう》の者たち。
忘れかけられていても、この島々ではまだ迷信の世界が色濃《いろこ》く残っている。
マッキール家だけがそれを自覚している。
何が起こっても不思議はないくらい、人の世と異界が近い場所、それがこの島々なら、夢に現れたリディアが本当のリディアでもおかしくはない。
不本意だが、今は、たしかに彼女を目の前にしていたのだと、エドガーは確信していた。
そうして彼女は、薬なんていらないと言った。もう、エドガーのもとへ戻るつもりはないからと。
信じない。
薬さえ手に入れば、リディアをロンドンへ連れ帰れる。
むりやりにでも……。
そうすれば、もういちど彼女を説得できるはずだ。
繰り返した口づけも、彼を求めてのばされた腕も、彼女の気持ちが離れたことを感じさせるものは何もなかった。
きっと引きとめられる。
まだ、早いうちならば。
「それにしても、妖精だの魔法だのはよくわからない。リディアもニコもいなくて、僕の手元にあるのはメロウの宝剣だけだ」
スターサファイアが埋《う》め込まれた剣は、妖精国《イブラゼル》伯爵の家宝でもある魔法の剣だ。
「アローは、島々のことはまったくわからない様子だし」
この宝剣そのものでもある妖精のアロー≠ヘ、エドガーのしもべだということだが、生まれて間もない妖精で、宝剣の、つまりは自分の魔力《まりょく》のことくらいしかわかっていないようだ。
「ニコさんに、相談できないでしょうか」
めずらしく、レイヴンが自分の考えを口にした。エドガーは、無表情でも緊張《きんちょう》気味《ぎみ》のレイヴンの顔をまじまじと眺《なが》めながら考えた。
「そりゃあ、ニコがいればね……。だけど、どこにいるかわからないだろう?」
「さがします」
マッキール家の土地がある、外《アウター》ヘブリディーズの島のどこかにはいるのだろう。けれど、ニコは妖精だ。人のように集落を訪ね歩いても無駄《むだ》だろう。
「レイヴン、ニコに会いたいのか?」
彼は首を傾《かし》げた。誰かに会いたいという感情を、おそらくレイヴンはこれまでいだいたことがないだろう。だからよくわからなかったのかもしれない。
「夢を見ました」
ぽつりとそう言う。
「ニコの夢かい?」
「……妖精たちがたくさんいるところで、ニコさんは、酔《よ》っぱらって踊っていました。だけどなんだか、淋《さび》しそうでした。私は声をかけられなくて。でも、周囲の風景はおぼえています。特徴のある山の峰《みね》が見えました」
夢の中のことなのに、レイヴンはその場所が本当にあって、ニコがそこにいると信じているようだった。
あるいはレイヴンも、夢の中でニコのそばへ行ったのだろうか。
「そうか……、でもニコが僕に力を貸してくれるかな。彼は、僕がプリンスになったと知って去っていったんだ」
リディアも別れたいと言いだした。エドガーは、自分の中にあるプリンスの記憶を、そっと封印《ふういん》してはおけないかもしれない。
薬を手に入れようとすることは、たぶんそういうことだ。けれど、リディアを手放したくない。
これまでのところエドガーは、自分が変わったとは思えない。プリンスの記憶に触れてしまい、手に入れた力はあるけれど、それも宝剣を使うときだけに現れるもので、相変わらず自分はただの人間だ。
心の片隅《かたすみ》で、プリンスの記憶はあくまで他人の記憶で、自分に影響を及ぼすものではないのではないかと考えている。
それとも、望みをかなえるために自分を抑制《よくせい》できなくなっているとしたら、もう引き返せない道に踏《ふ》み込んでいるのだろうか。
プリンス≠フ思惑《おもわく》どおりかもしれないという危機感はあるのに、どうやって薬を得るのか、考えることをやめられそうにない。
「レイヴン、僕のやろうとしていることをニコが知ったら、そのために協力させようとしたら、おまえもきらわれるかもしれないよ」
ニコにきらわれる、それはレイヴンにとってつらいことに違いない。彼はかすかに眉《まゆ》をひそめ、しかしすぐに、いつもの迷いのない視線をエドガーに向けた。
友情よりも忠誠《ちゅうせい》を優先する。それはレイヴンの感情が未発達だからではない。彼が彼であるかぎり、変わらない本質なのだろう。
「命じてください。必ずニコさんを連れてきます」
考え込んだエドガーは、ふと窓の外に目をやった。この辺《あた》りではまず見かけない、大きな船影が、視界の片隅を横切ったのだ。
沖合《おきあい》に見えるその船の帆柱《ほばしら》には、クレモーナ大公家《たいこうけ》の紋章《もんしょう》が翻《ひるがえ》っていた。
マッキール家の土地がある、外《アウター》ヘブリディーズのその島は、どこにいても空が広々と見えるほど平坦《へいたん》だが、南側の一部だけに、切り立った山が目立つ土地があった。
岩場が多く、草木も生えない山々は、黒々と視界をさえぎり、人が近づくことはほとんどない。棲《す》んでいるのは妖精ばかりだ。
峰の隙間《すきま》を吹き抜ける風が、絶《た》えず不気味《ぶきみ》な音を立てる。
かつてそんな場所で暮らしていたニコは、今またそこへと戻ってきた。
そうして、切り立った崖《がけ》の上に立って、灰色のしっぽをゆらしながら、遠く海のほうを眺《なが》めていた。
リディアはどうしているだろう。
おそらく伯爵《はくしゃく》は、リディアを連れては行けなかっただろう。でなかったら軽蔑《けいべつ》する。
そう思いながらも、だとしたらリディアは今、絶望的になっているのではないかと考え、気になってしかたがなかった。
リディアと伯爵の先行きを思えば、そばにいるのがつらくなって逃げてきた。けれど結局、何一つ頭から離れない。
離れるはずがない。あれからニコがしたことといえば、知り合いの妖精族の土地を駆《か》け回り、予言者を見かけなかったかと訊《たず》ね歩くことだった。
聖地にはいなかった予言者が、すでに目覚めているならどこにいるのだろう。その人物がエドガーと対立することになるなら、リディアの将来に影を落とす。
それが気になって調べているのに、リディアのことを考えたくないなんて矛盾《むじゅん》しているではないか。
そんなだから、リディアの母のアウローラと知り合う前、長いこと暮らしていたこの山間《やまあい》に帰ってきても、ニコは帰郷《ききょう》したという落ち着いた気持ちにはなれないでいた。
崖の下方に、崩《くず》れかけた小屋が見える。ニコにとってはそれも見慣れた風景だ。
かつて、旅人がひとり住み着いていた。少し変わった英国|紳士《しんし》で、隕石《いんせき》をさがしていた。この山に落ちたのを見たと張り切っていた。
その男とは、なんとなく親しくなった。ニコのことを紳士だと言い、ネクタイをくれた。高潔《こうけつ》な魂を持つ、立派《りっぱ》な男だけが紳士と呼ばれるのだと教えてくれた。
長いこと生きているニコにとって、ひとりで、あるいは妖精たちと過ごしている時間は圧倒的《あっとうてき》に多い。なのに、ほんの少し接しただけの人間が、強く印象を残していく。
人は短い時間に命を凝縮《ぎょうしゅく》し、鮮烈《せんれつ》に生きている。熱い想《おも》いを秘めていて、妖精にはないその熱に、ニコはゆさぶられる。
アウローラやリディアといた時間も、彼にとってはごく短いものなのに、心の中を占領《せんりょう》している。
けれど彼らは、いつでもすぐに去っていく。
この島特有の強い風に、あばら屋の残骸《ざんがい》がきしむのを眺めながら、あの小屋も、かつてそこにいた英国人よりも長く存在しているとはいえ、そのうち跡形《あとかた》もなくなるのだろうとニコは思った。
「なあ、もしかしてあんた、オレに用がある?」
誰もいないはずの間近で声がした。
驚いてニコが振り返ると、見たことのない少年が立っていた。こんな山間に人間の子供がいるわけはないのだから、人ではないとわかる。
「なんだよ、あんた、亡霊《ぼうれい》か?」
「夢、だよ」
「誰の夢だって?」
「島々のあるじ≠フ」
そういう存在はニコも聞いたことがあった。このあたりの島々は、あるじ≠ェ見た夢から生まれたという伝説だ。
もっとも、どんな妖精族もあるじ≠見たことはないという。
「予言者をさがしていたんだろう?」
少年は、考え込んだニコにそう言った。
ニコは瞳《ひとみ》を見開く。
「……あんたが予言者なのか?」
マッキール家が守る聖地には、予言者が眠っているということだった。リディアはパトリックにだまされ、予言者の許婚《いいなずけ》として聖地に赴《おもむ》いた。予言者が目覚めれば、プリンスがもたらした島々の危機を救ってくれるというのがマッキール家の言い伝えだった。
しかし聖地に予言者はいなかったのだ。
すでに目覚めているなら、どこで何をしているのか。
予言者が存在するなら、プリンスの記憶を継いでしまったエドガーの敵になる。リディアは、予言者の許婚としてエドガーと敵対させられる可能性もある。
リディアにとってますますつらいことになるだろう。できればニコは、予言者が存在しないという証拠《しょうこ》がほしかった。
昔なじみの妖精たちに聞いてまわったが、これといって成果もなかったところだ。
緊張して見あげるニコに、少年はにっと笑った。
「島々を救うという存在のことなら、オレじゃないよ。ただ、もしもネクタイをした灰色の猫が予言者をさがしていたら、質問に答えてやってほしいと言っていたから」
「誰が?」
「アウローラ」
それはリディアの母の名だ。驚いて、ニコは少年に向き直った。
「アウローラを知ってるのか?」
「それが最初の質問? 会ったのはずいぶん前だ。彼女は聖地へと入っていった。そうしてそこにあった棺《ひつぎ》を開けた」
「聖地の棺?」
それを開けることができるのは、十九年にいちどだということだった。予言者を目覚めさせられるチャンスだという満月は、十八年と少しの周期でやって来る。つまりそれが、十九年にいちどの機会だったはずなのだ。
だとすると、聖地の棺が空《から》だったのは、アウローラがこの前の機会に、すでに開けていたせいだということになる。
「……で、あんたもその場に?」
「聖地に人が入るのは百年ぶりくらいじゃないか? 興味があったから、アウローラについていった」
「じゃ、あんたも棺の中の予言者に会ったのか?」
「会った、っていうのかな。棺の中に残されていたメッセージは、アウローラといっしょに聞いたけどね」
「メッセージ? 誰かがそこにいたんじゃないのか?」
「いいや、そこにあったのは言葉さ。未来の出来事を言葉として知る、それが予言者の能力だからね。言葉を残した人物は、百年前に聖地へ入った予言者だ。いくつかの、マッキール家に起こる未来を知っていた。そうしてその中から、災《わざわ》いに打ち勝つことができる可能性のある選択肢《せんたくし》を選んで実行し、そして子孫にも、彼の選んだ未来へ進むべく道筋《みちすじ》を作ったんだ」
「ちょっと待てよ、じゃあ予言者は、危機に目覚めると言い残して聖地に引っ込んだけど、目覚める気はなくて、メッセージを伝えるためにそう言ったってことか? アウローラの一族に、妖精の血が濃《こ》く残るよう、チェンジリングを繰り返させる仕組みを作ったはいいけど、肝心《かんじん》の島々を救う者がいないってどういうことだよ」
「救い手はいるだろ。そうなるべき者に与えられる力は、アウローラにあずけられた。少なくともそこまでは、百年前の予言者が選んだ未来だったんじゃないかな」
つまり予言者の許婚≠ニされたマッキール家の女は、何らかの力をあずかる役目だったということか。
「本当なら、アウローラの許婚がそれを得たんだろうけど、彼女はもう結婚していたね。それも、マッキール家の者じゃなかった。だからその先は、予言者の考えとは違ってしまったかもしれない」
「マッキール家の者なら誰でも救い手になれるのか?」
「そういうわけじゃないと思うな。ただ百年前の予言者は、メッセージと力を受け取る娘が現れたとき、その許婚に、それだけの能力のある者がいると解釈《かいしゃく》したんだろう」
少年は、思いをめぐらせるように遠くを眺めた。
「未来を示す言葉は曖昧《あいまい》で、正確に意味を解釈するのは難しいんだ。解釈する能力も予言者の才能だけど、予言者がそれを誰かに伝えた瞬間から、言葉は人から人へ伝えられる宿命に置かれ、意味が変わってしまう。だから予言者は、直接、予言の言葉が必要になるだろう人物にメッセージを伝えたかった」
「予言者の棺を開けた娘の命が短くなるっていうのは、そのあずかった力のせいだったのか?」
ニコは、アウローラが若くして死んだことを思い、目を閉じた。
「それ自体のせいじゃない。古《いにしえ》の力を封《ふう》じた聖地の棺は強い魔法がかかっていたから。解く者は、どうしても跳《は》ね返る力を受け止めることになる」
アウローラは、そんな危険をおかしてまで、どうして聖地へ行ったんだろう。ニコは急に浮かんだ疑問に、はっと目を開ける。
予言者の許婚≠ニいう役目をきらい、カールトン教授と駆け落ちした。そうして故郷《こきょう》の島ともマッキール家とも縁を切った彼女が、ニコも知らないうちに島に戻ったのは?
十九年前、そうだ、あのときだ。
「ええと、アウローラは赤ん坊《ぼう》の話をしてなかったか?」
「ああ、赤子を抱いてた。リディアという女の子を」
やはり、とニコは思った。チェンジリングがあったときだ。
アウローラが島に戻ることがあるとすれば、リディアが|取り換え子《チェンジリング》として、半妖精の親族に連れ去られたときに違いなかった。
彼女がどうにかしてリディアを連れ戻してきたというのは聞いていたが、そのとき聖地に入って棺を開けていたなんて。
「……でもどうして、リディアを取り戻したあと、わざわざ聖地へ入って棺を開けたんだろう」
「聖地の棺が開かれれば、もうチェンジリングは必要なくなるはずだから。それで、アウローラを追ってきたマッキール家の半妖精は、あきらめて去っていったようだ。でも彼女は、予言の道筋を変えてしまった。いや、それとも予言者はこうなることも知っていたのか? わからないからこそ、アウローラが棺を暴《あば》いたことは伏《ふ》せられたようだね」
妖精界で暮らし、チェンジリングを行ってきた半妖精の一族は、おそらく一部の者をのぞいて、アウローラがチェンジリングを拒否したことしか知らなかったのだろう。そうして、マッキール本家にも、何も伝えられなかった。
ニコはため息をついた。
アウローラは、棺を封じていた魔力がもとで、あんなに健康だったのに、しだいに病気がちになったのだ。
それでも、教授とリディアと過ごした数年間、彼女はいつでも笑っていた。
きっとじゅうぶんに幸せな時間だったのだろう。
「じゃあやっぱり、救い手はいないんじゃないのか? アウローラの夫はなり得ないし、もともとの許婚ももう死んだはずだぞ」
「ほかの、マッキール家の人間にも可能性がないわけじゃない。棺にあった古い魔力《まりょく》を受け継ぐことさえできればね」
「……魔力って、アウローラがあずかったとかいう?」
けれどそんな怖《おそ》ろしいもの、アウローラはすぐ捨てたのではないだろうか。
「ああ、ブラッドストーンだよ。マッキール家の危機には聖地で眠る予言者が現れるって伝説が、はるか昔からあっただろ? あの伝説の正体が、ブラッドストーンの魔力なんだ。百年前の予言者はそのことも知っていた。魔力を継ぐ能力がある者が触れれば、淡《あわ》い緑色に輝《かがや》く」
ぴくりとニコはヒゲを動かした。
そういえばアウローラは、ブラッドストーンを持っていた。形見《かたみ》の品みたいに、それをニコにくれた。
まさか、あれが古の魔力……。
何も知らずにニコはあれをアウローラの墓前に置いてきた。しかし、リディアが拾って戻ってきた。とするとリディアが手を触れたのに何の変化もなかったのだから、予言者になる可能性はなさそうだけれど、ニコは違う意味で冷や汗を感じていた。
なにしろ、またなくしてしまったからだ。今度はどこで落としたのかわからないが、さがそうとはしていなかった。どのみち捨てるつもりだったからだ。
「ブラッドストーン……、なくしてしまったらどうなるんだ?」
おそるおそる訊《き》く。
「アウローラがどこかに隠《かく》したまま死んだのか?」
「あ……いや、まあ……」
「ああいう魔力のあるものは、いずれふさわしい誰かの手に渡るさ。もっとも、島々を救うのに間に合うかどうかわからないけどね」
アウローラは、あれをニコにどうしてほしかったのだろう。
マッキール家の因縁《いんねん》とは、リディアを切り離したかったアウローラ。リディアには、人としての幸せを望んでいた。
捨てるよりも、妖精のニコが持っていた方が、人手に渡りにくくなる。
この少年に、ニコが予言者の謎《なぞ》を追い始めたら真実を話すようたのんでいったのも、リディアの将来を考えてのことに違いないのだ。
けれどニコは、あのブラッドストーンをなくしてしまった。
もう、リディアのためにできることはないということかもしれない。
「さて、そろそろいいかな」
そう言った少年の姿が、消えそうに薄《うす》れていた。
「オレはあるじ≠フ見ている夢だから、浮かんでは消える。ひとつのところに長くとどまってはいられないんだ」
ニコが頷《うなず》くよりも先に、その姿が見えなくなる。と、風に乗ってかすかな声だけが最後に届いた。
「……ああそうだ、リディアが道に迷っていたぞ……」
えっ、リディアが? どこだ?
ニコは周囲を見まわし、人の目には見えない異界への隙間《すきま》にさっと身を翻《ひるがえ》す。
まったく、ひとりで勝手に異界へ入ったのだろうか。
この島々の妖精界は、リディアの故郷やロンドンとはくらべものにならないくらい広くて深い。ニコだって入っていけないところがたくさんあるのだ。
世話がやける、なんて悠長《ゆうちょう》なことは言っていられない。
境界のあたりにいてくれればいいけど。
人間は、知り合っても親しくなっても、どうせすぐに会えなくなる。わかっているのに、会えなくなると心の中に風が吹く。
妖精みたいに、何十年会っていなくても、昨日別れたかのように再会できると思えば淋《さび》しさも減る。だから、リディアが生きているあいだなら、離れていてもそんなに苦しくないだろうと思っていた。
けれど、人間はいつ急にいなくなってしまうかわからないのだ。
あせりをおぼえながらニコは、人の世と妖精界の境界、夢の領域《りょういき》に踏《ふ》み込んで、リディアの気配《けはい》をさがそうとヒゲをピンと立てた。
「リディア、何やってんだよ!」
暗闇《くらやみ》でうずくまっていたリディアは、急に声が聞こえ、はっとして顔をあげた。
「フェアリードクターのくせに、道に迷う前に気をつけろっていつも言ってるだろ!」
「ニコ……なの?」
目を凝《こ》らすと、ぼんやり姿が浮かび上がってくる。灰色の長毛猫《ちょうもうねこ》が、二本足を懸命《けんめい》に動かして、こちらに駆《か》け寄ってくるのがわかる。
立ち上がり、リディアも駆けだしていた。
腕をのばしたリディアの方へ、ニコもジャンプする。飛び込んできたニコをしっかり抱きしめれば、彼も短い腕をリディアの首にまわしてしがみついた。
「リディア、ああ、見つかってよかった」
「ニコ……、どこ行ってたのよ! どうしてあたしをひとりにしたの? もう会えないかと思ってた……」
ぎゅっと抱きしめて、ふわふわした毛並みに頬《ほお》をすり寄せる。
そんなふうにしてもいやがらないニコははじめてだったけれど、馴染《なじ》んだ感触に、リディアは安堵《あんど》していた。
傷ついてさまよいながら、家族であり親友でもあるニコのことを、心が求めていたのだろう。そう自覚しながら、彼女はさらに灰色の毛に顔をうずめた。
「元気だったのか? おれ、あんたが苦しむのは見てられなくてさ」
ようやく顔をあげたニコの目はうるんでいるように見えた。リディアはもちろん泣いていたけれど、そんなニコを見て口元がゆるんだ。
「ありがと、ニコ……。今日は毛並みが乱れても怒《おこ》らないのね」
するとはっとしたように、ニコはリディアの腕から飛びのいた。
二本足で立って、毛並みやネクタイを急いで直し、すました顔で目を細める。気取って腰《こし》に手を当てる。
「そ、それよりリディア、いったいどうした? 何かあったのか?」
問われれば、エドガーのことを思い出した。リディアはまたつらくなって座り込んだ。
「あたし、エドガーと別れることにしたの」
ニコはべつだん驚かなかった。その方がいいと思っているみたいだった。ただなぐさめるように、リディアの頭に手を置く。
「ねえニコ……、今どこにいるの?」
「山の方さ」
「あたしも、そこで暮らそうかな」
「バカなこと言うなよ。リディア、今は体を離れてるんだろ」
「このままあたし、妖精になれないかしら」
「無理だよ。人の血が濃《こ》いんだから。早く戻らないと、帰れなくなるぞ」
それでもいいと思いながら、ふらふらとさまよっていたのだ。
「……帰りたくないわ」
目をさましたら、本当にエドガーとは離れてしまったんだと自覚するだろう。何のために見知らぬ土地にとどまって、治療に専念するのかわからなくなるだろう。
絶望してしまいそうで怖い。
「伯爵と別れたくないくせに別れたのか?」
「だって、あたしのためにエドガーはプリンスになったのよ。それにまた、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の力を使っても、フィル・チリースの傷を治す薬を手に入れようとしているわ……」
ふう、とニコはため息をついた。
「伯爵《はくしゃく》は三年も待てないってか」
「どうしよう、ニコ……。どうすればいいの?」
「ま、とりあえず帰ろうぜ」
ニコは面倒くさくなったのかそう言った。
親友だけれど、昔から相談事をするには向かない薄情者《はくじょうもの》だった。
そんなふうに遠慮《えんりょ》のない相手だから、リディアもわがままが言える。
「いやよ、帰らない」
「じゃ、おれは行くからな」
ニコはくるりと背中を向けた。
置いていかれそうになり、思わずリディアは立ちあがった。
振り返って、ニコは手をさしのべる。
「まったく、大人になったはずなのに、子供のころと同じだな」
母にしかられて、妖精界で道に迷って、帰りたくないと言いながら、迎えに来たニコに置き去りにされるのはいやで、いつも結局あとを追った。
背が伸びてしまったリディアは、ニコと手をつなげば彼をぶら下げそうになってしまう。それでも、ニコの方が保護者|然《ぜん》として、リディアの手を引きながら半歩前を歩く。
昔みたいに、ニコとそうして歩くうち、リディアはだんだんと落ち着きを取り戻していた。
あたしにはまだ、大切な家族がある。ニコと父さまと。失恋したからって、絶望的になってどうするの。
気づけばリディアの足元には地面があった。
辺《あた》りは暗闇《くらやみ》ではなく、夜空に月がかかっていた。背後《はいご》に山の峰《みね》が重なっている。
「おいおい、あいつ、あんたを心配してこんな僻地《へきち》まで来たみたいだぜ」
ニコがそう言って、前方を指さした。野原に漆黒《しっこく》の馬が立っていた。
ケルピー。
「リディア、さがしただろ! 夢の中を闇雲《やみくも》に走っていっちまうから心配したぞ」
彼はそう言って、こちらに駆け寄ってくる。
「猫とちんたら歩いてる場合じゃない。体はどこにある、急げよ!」
ふわりと浮く。気づいたらケルピーの背中に乗せられている。もちろんリディアは、ニコもしっかりかかえ込んでいた。
「おいっ、おれも行くのかよ!」
もう少しだけ、そばにいて。
そう思いながらニコのふかふかの毛に頬をすり寄せれば、彼はあきらめたようにリディアの腕に自慢《じまん》のしっぽをからめた。
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青亡霊《あおぼうれい》の幽霊船《ゆうれいせん》
オランダ製の、民間に払い下げられたフリゲート艦《かん》だというクレモーナ大公家《たいこうけ》の船は、小型だとはいえ、漁船用の桟橋《さんばし》しかない海峡《かいきょう》の小島に近づくことはできなかった。
沖合《おきあい》に停泊《ていはく》したまま、ボートがおろされるのを、浜辺《はまべ》に集まってきた島の住人たちが何事かと見守っていた。
宿を出てきたエドガーも、レイヴンとともにまばらな人の輪の中にいて、貴族所有の旅客船というには頑丈《がんじょう》そうな船影を眺《なが》める。
「あれは、ロタさんでしょうか」
レイヴンが目で追うボートは、浜にこしらえられた簡素な桟橋にたどり着き、女がひとり降りてきたところだった。
ひとつに束《たば》ねた髪が馬のしっぽのようにゆれる。がさつな走りかたといい、間違いなくクレモーナ大公女のロタだ。
「エドガー! 会いに来てやったぞ!」
こちらに気づいたロタは、妙《みょう》にうれしそうに駆《か》け寄ってこようとした。
冷静にエドガーは、レイヴンの背後《はいご》にしりぞく。
腕《うで》を広げて駆け寄ってきたロタは、勢いあまって止まれずに、いや、止まる気などなかったのか、そのままレイヴンに抱きついた。
「よう、レイヴン、あんたも元気そうで何よりだ」
硬直《こうちょく》したレイヴンは、わずかにエドガーの方に首を向けた。
「エドガーさま、……今のうちにお逃げください」
「あ? どういうことだよ、あたしの親愛表現を攻撃みたいに言うな!」
「どう考えても迷惑《めいわく》な攻撃だよ。いいかげん離してやってくれないか。レイヴンがかわいそうだろ」
ロタはそうしたが、ずいとエドガーに歩み寄ろうとすれば、またレイヴンが間に入った。
レイヴンの肩越しに、ロタはエドガーをにらむ。
「だったらエドガー、あんたがあたしの抱擁《ほうよう》を受け止めろよ」
「女性にしか抱きつかれたくないんだ」
「あたしは女だ!」
「そうかもしれないが、きみだって毛虫を男とは認められないだろう?」
「は……?」
「あの、まあまあそのへんで……」
背後から、緊張感《きんちょうかん》のない声がした。困惑《こんわく》した様子のポールが、乱れたくせ毛をかきまわしながらこちらへ近づいてきたところだった。
「ポール、きみまで来たのか」
「はあ、ロタに誘《さそ》われて……、伯爵《はくしゃく》がなかなか戻ってこられないので気になって」
もうしわけなさそうに言う。
そんなポールを見て、エドガーは不思議と安堵《あんど》していた。
ヘブリディーズにいるエドガーは、マッキール家の宿敵だ。プリンスとして命をねらわれる立場にある。そのうえこの島々は、ほかの土地にくらべて妖精の存在感が強く感じられる。リディアのようには能力のないエドガーにも、プリンスの記憶の悪影響か、人ならぬものが見えたかと思うと、現実的な感覚が失われる。
自分はまだ、ありふれた人間だろうか。|悪しき妖精《アンシーリーコート》たちの王子《プリンス》に近づいていっているのではないのか。わからなくなりそうで戸惑《とまど》っていた。
リディアが別れを告げていったのも、自分では気づけない変化におそれを感じたのかもしれない、などとも考えた。
けれどポールを目の前にすれば、自分は何も変わっていないと思える。彼が親しげな目を向けてくれれば、以前と同じエドガー・アシェンバートのままなのだと確信できる。
「ありがとう、会えてうれしいよ」
エドガーは微笑《ほほえ》んで、屈託《くったく》なくポールの肩に手を置いた。
「伯爵……よかった、何かあったのではと心配していました」
「すまない、連絡もできずに」
「いえ、お節介《せっかい》かと思ったのですが、何かぼくにできることがあればと。……トムキンスさんに居場所《いばしょ》を聞き出して、来てしまいました」
ようやく表情をゆるめたポールは、以前にエドガーが距離を置こうとしたことを気にしていたのかもしれない。
もちろんエドガーにとって、これ以上ポールを巻き込めないという気持ちは依然《いぜん》としてある。彼の実父を殺したのはプリンス≠フ組織なのだ。
それでも今は、友人として純粋《じゅんすい》に、心配してくれたことをありがたく思う。
「で、リディアはどこだ?」
ロタは辺《あた》りを見まわした。船がただの旅行者だとわかったからか、村人たちは浜辺から散ってしまっていた。もちろんリディアの姿もなく、彼女は首を傾《かし》げる。
「ここにはいない」
「なんでだよ。そもそもふたりともリディアの実家にいたんじゃなかったのか?」
帰ったらすぐに式を挙げるつもりだった。
なのに、離ればなれになったばかりか、リディアは別れたいなどと言いだしている。
本当に、ファーガスに心を惹《ひ》かれているのだろうか。もしもそうなら、あのきまじめなリディアが、エドガーの口づけをいやがらずに受け止めるだろうか。
以前にくらべて緊張《きんちょう》気味《ぎみ》だったとはいえ、いやがってはいなかった、と彼は思う。
けれど今のままではエドガーは、リディアを説得しようにも近づくことすらできない。
薬さえあればとあせりながら悪あがきしている。
島々のあるじ≠フ泉を、さがしあてるしか方法がない。
考えながらエドガーは、沖合に泊まるロタの船を眺めた。
立派《りっぱ》な船だ。あれなら多少海が荒れても航行《こうこう》できるのではないだろうか。
「ロタ、船を貸してくれないか」
思いつけばエドガーはそう言った。
「え、なんでだ?」
「幽霊船《ゆうれいせん》を見つけたい」
リディアが目をさますと、窓の外には月がかかっていた。ついさっき、夢の中の山間《やまあい》でニコと見ていたのと同じ月だった。
部屋の隅《すみ》で、ケリーがうたた寝をしている。
薄暗《うすぐら》い部屋の中で、きしむような物音を聞き、リディアはそっと首を動かす。
誰かがドアから出ていこうとしているのがちらりと見えた。
格子《こうし》柄《がら》のキルトがふわりとゆれてドアの向こうへ消える。
ファーガス?
寝室へ勝手に入ってくるなんて。そう思いながらもリディアは、彼に対して腹を立ててはいなかった。
なんとなく、もうしわけないような気がしている。
彼の気持ちを聞かされたけれど、自分はもう、誰も好きにならないだろうと思うからだ。
ファーガスのことはきらいではない。強く抱きしめられたことも、嫌悪感《けんおかん》は残っていない。
でも、エドガーのときのように、思い起こしても胸が熱くなることはない。
ほかの誰かが、あんなふうに自分の心をかき乱すとは思えなくて、だからもう、恋なんてできないのだろうと感じている。
寝返りを打とうとしたけれど、うまく動けなかった。体が、意識と馴染《なじ》んでいないかのようだった。
疲れを感じ、リディアはまた目を閉じる。夜が明ければ、完全に目覚められるだろう。
そう思いながらすぐさま眠りに落ちたのか、再び気がついたときには、外はすっかり明るくなっていた。
「お嬢《じょう》さま! 気がついたんですね?」
ケリーが瞳《ひとみ》をうるませて、こちらを覗《のぞ》き込んでいた。
「ああ、よかった……。まる一日意識がなくて、どうなってしまったのかと思いました」
「ごめんなさい、心配かけて」
リディアはそっと体を起こす。もう違和感《いわかん》はない。
視線を動かすと、ベッドのわきにある椅子《いす》の上で、灰色の猫《ねこ》が寝そべっていた。片目を開けてちらりとリディアを見たが、猫のふりをしているつもりだろうか。何も言わない。
それでも、目覚めてもまだニコがそこにいてくれたことに、リディアは安堵《あんど》していた。
「そうだわ、お嬢さまの猫が帰ってきたんですよ!」
ケリーはうれしそうに言って、寝たふりをしているニコをいきなり持ちあげた。
「クナート家の村からいなくなってしまったでしょう? よくお嬢さまの居場所がわかりましたよね。かしこい猫だわ」
「猫|扱《あつか》いすんなよな……。ああもう、離せよ」
ニコはつぶやき、不愉快《ふゆかい》そうに身をよじったが、ケリーには猫の鳴き声にしか聞こえなかったのだろう。そのまま彼をリディアに抱かせようと押しつけた。
しかたなく受け取ったリディアだが、ニコは不服そうに目を細めている。
なのにケリーは、リディアがよろこびながら猫をかわいがるだろうと期待した目でこちらを見ている。
夢の中では抱きしめても許してくれたし、まあいいか。
そう思ってリディアは、ニコの頭にキスをした。
うにゃ、と彼は妙な声をあげた。
「ありがとう、ニコ」
しょうがないなという顔をして、照《て》れくさそうに彼がさっと窓から出ていくのを見送って、リディアは着替えようとベッドから出た。
「着替え、ここに置きますね」
ケリーは相変わらず、きびきびと働く。
いつもどおりの朝だ。けれど鏡の前に立ったとき、リディアは首筋《くびすじ》に赤いあざのようなものがあるのに気がついた。
「何かしら、これ」
手を触れると、もっと熱い何かが触れたことがあるような、奇妙《きみょう》な感覚がよみがえった。
わけもわからず、ドキドキする。
覗き込んだケリーが、はっとして顔を赤らめた。
「さ、さあ……、ぶつけたんじゃありません?」
こんなところを? それに、ぶつけた跡《あと》とはどう考えても違う。
あきらかにごまかそうとしている。
「何なの? 教えてちょうだい」
リディアはケリーに向き直ったが、彼女は目を合わせまいとするように、リディアのドレスを着せにかかる。
そうまでされれば、リディアもますます気になった。
「ねえ、お願い。ケリー、あなたはあたしの味方でしょ?」
てきぱき身なりを整えていくケリーの腕をつかんで止める。
ため息をついた彼女は、あきらめたようにリディアを見た。そうして、慎重《しんちょう》に言葉を選んで説明した。
ぼんやりとわかってくるほど、リディアは頭に血がのぼってくらくらした。
寝てる間に、こんなところにキスされただなんて、考えるだけで赤面する。
ゆうべ、戸口へ消える後ろ姿を見たことを思い出せば、彼に違いないと思った。
身内だからって油断していたところはある。もちろん悪い人じゃない。けれど、どうしてそんなに失礼なの?
「あっ、お嬢さま!」
リディアは部屋を飛び出していた。
館《やかた》の外に、ファーガスの姿がちらりと見える。馬に水をやっているようだ。
リディアは頭にきたまま、ずかずかと彼に近づいていく。
「リディア、目がさめたのか?」
驚《おどろ》き、そしてうれしそうにファーガスはこちらを見た。
「よかった、パトリックのやつ、このまま目覚めないかもしれないなんておどかすからさ。あ、もう起きてて大丈夫なのか?」
まるきり無邪気《むじゃき》な様子だ。リディアはなるべく眉間《みけん》にしわを寄せ、彼を見あげた。
「夜中に、あたしの寝室へ来たでしょう?」
すると彼は、いたずらを見抜かれた子供のように困惑《こんわく》を浮かべて目をそらした。
「え、ああ……。ごめん、ちょっと心配で」
「心配で? だったら寝てる間に勝手にキスしてもいいと思ってるの?」
「え?」
きょとんとして問い返され、リディアは憤《いきどお》りを削《そ》がれる。
「まさか……あなたじゃ、ないの?」
思わず首筋に手を当てた。やっぱり熱い。だけど、望まないキスをされてこんな気持ちになるなんてどうかしている。
「な、何でもないわ。忘れて」
後ずさろうとしたとき、ファーガスが言った。
「それのことか」
不愉快そうに眉《まゆ》をひそめ、リディアが手で押さえた首筋をじっと見ている。
襟《えり》の詰まったドレスを着ている今は、肌についた跡は見えないはずだ。それでもこれのことだと知っているなら、やっぱり彼が。
「おれだよ」
ファーガスは、短い赤毛に指をうずめ、なぜか苛立《いらだ》ったかのように吐《は》き捨てた。
「……やっぱり、そうなのね。ひどいじゃない、あたしがいやがるってことくらいわかってるくせに!」
「あんたの寝顔見てたら、がまんできなかった」
カッと顔が熱くなる。リディアはとっさに手を振り上げていた。
平手が頬《ほお》に命中しても、ファーガスは意に介《かい》さずにリディアを強く見つめていたが、そんな視線もいたたまれなくて、きびすを返した彼女はその場から逃げ出す。
どうして、とつぶやいていた。
首筋の跡に手を触れれば熱くなる。
どうして? こんなふうに感じるのは、エドガーだけじゃなかったの?
リディアは混乱《こんらん》していた。
現実には彼は遠くにいて、リディアは手を重ねることすらできないのに、夢の中のキスの記憶と、現実の意にそわないできごとが、ねじれて入れ替わってしまったかのようだ。
それとも、自分は、気が多いだけの浅はかな娘だったのだろうか。
エドガーと別れる、そう決めたから、ほかの人を好きになってもいいじゃないなんて、無意識に考えているのだろうか。
はじめて本気で男の人を好きになって、生涯《しょうがい》をともにしようと思えたのに、そんなに簡単に他の人とすり替えてしまうなんてどうかしている。
リディアは自分を責めながら、館を離れて野原を走った。
館からも見える白い岩場まで来ると、ようやくそこで立ち止まる。
ファーガスに追いかけてこられるのはいやだったから、これ以上遠くに行くつもりはなく、岩の上に座り込んだ。
夢から覚めたことを後悔《こうかい》したくなった。
いつかエドガーのことを考えなくなる日が来るのだろうか。
それでもリディアは、彼を忘れたくはない気がしている。
好きだからこそ、別れた方がいいと決めたのだ。誰よりも彼を大切に想《おも》う気持ちは失いたくない。
だから誰も好きにならない。
ひざをかかえてうつむいていたリディアの前に、人影が立った。はっとして顔をあげると、黒い巻き毛の青年がこちらを見おろしていた。
「間に合ってよかったな」
「ケルピー……」
急いで彼が駆《か》け戻ってくれて、どうにかリディアは夢の中から戻ってこられたのだ。
「あのパトリックってフェアリードクターが来てるだろ。あいっ、いろんな魔よけを館に張り巡らせてやがるから、俺みたいな魔性《ましょう》の妖精は近づけなくて困る」
愚痴《ぐち》っぽく言いながら、ケルピーはリディアのそばに腰《こし》をおろした。
「あたしの窓辺《まどべ》にだけ、あなたが通れるような通路をつくっておくわ」
「好きなときに来てもいいのか?」
「どうして? いつでもそうしてたじゃない」
リディアが首を傾げると、ケルピーは悩《なや》んだように頬杖《ほおづえ》をついた。
「この島へ来て、おまえもアンシーリーコートを憎《にく》むようになったんじゃないかと思ってさ。猫に聞いたぞ。ここじゃ魔性の妖精たちが悪さをしまくってるって。で、あんたはそいつらを退治するフェアリードクターの血筋《ちすじ》なんだろ?」
そんなこと、とリディアは受け流す。
「関係ないわ。あたしの水棲馬《ケルピー》になってくれたんでしょう?」
「なら伯爵《はくしゃく》は? 魔性の妖精を支配する力を持ってるが、あんたの婚約者だ。この島のこととは関係ないのに、別れるつもりか?」
こちらを覗き込んだケルピーの、黒真珠《くろしんじゅ》の瞳から、リディアは目をそらした。
エドガーがプリンスでも関係ない。そう思おうとしながら、リディアは彼が変わってしまうことをおそれている。
変わらないと信じ切ることができないから、自分のせいでそうなってほしくないと逃げ腰になっているのだ。
「もういいの。エドガーのことは言わないで」
口をつぐんだケルピーは、小さくため息をつく。それから、話題を変えようとしたのか唐突《とうとつ》に言った。
「なあ、俺には礼はないのか?」
「え」
「猫にしたのと同じでもいいぞ」
そうして彼は、自分の思いつきに楽しくなったのかこちらを見て笑った。
心配をかけたからとニコの頭にキスしたことを、リディアは思い出していた。考えてみればケルピーにも心配をかけたし、リディアが無事目覚められたのも彼のおかげだ。
「どこから見てたの?」
「見てねえよ。猫がさっき、迷惑《めいわく》そうに毛並みを直しながら、『リディアのやつ、頭にキスなんかしやがった』……ってあきらかによろこんでるって態度で自慢《じまん》してた」
かわいらしくておかしいから、くすりと笑い、リディアはケルピーの頬《ほお》に両手をのばした。
背の高い彼の頭は、座っていてもリディアの目線より上にある。だから抱きつくように引き寄せて、黒い巻き毛の額のあたりにキスをする。
澄《す》んだ水の匂《にお》いがする。そのまま彼に寄りかかったリディアは、肩に頭を乗せて、水の中を漂《ただよ》うような感覚に身をゆだねた。
「なるほどな、なんとなくいい気分になるんだな」
そう言ったケルピーは、人のように触れ合うことを知らない。それでもリディアの肩を抱く。
人の愛情表現を、見よう見まねで試してみるだけ。それでいてケルピーは、魔性の妖精にはない情《じょう》のようなものを、リディアから感じ取っているのだろうか。
だからどういうわけか、いつまでもリディアのそばにいる。
人間の男の人には、二度とこんなふうにしない。でも、ケルピーは妖精だから、触れていても許されるんじゃないかと思いながら、リディアはじっとしていた。
「ねえケルピー、この傷が治ったら、何もかも以前と同じになるわ。あの小さな町へ帰って、妖精たちとのんびり過ごすのよ。あたしがお嫁《よめ》に行っちゃうより、あなたも退屈《たいくつ》しないでしょ?」
「俺はさ、退屈よりもあんたが笑ってた方がいいんだけどな」
「笑えるようになるわ。……きっと」
「どうしたんです? その頬は」
パトリックは、ファーガスの赤くなった頬を見て、気の毒そうに眉をひそめた。
「ファーガス、彼女の気を引くチャンスだとは言いましたが、あせっては逆効果ですよ」
むっとして、ファーガスはパトリックをにらみつけた。
そんなことはわかっている。もともとファーガスは、時間をかけてリディアと親しくなれればいいと考えていた。
何かとパトリックが口を出すから、面倒なことになるのではないのか。
そもそもリディアが倒れる直前のことだって、パトリックが伯爵のことでリディアを責めたからだった。
[#挿絵(img/chalcedony_127.jpg)入る]
ファーガスは、あきらかに傷ついたリディアをどうにかしたくて、つい抱きしめて告白してしまった。
それに、彼女の首筋にあるキスの跡のことだって、こうして平手打ちをくらうことになったのはパトリックのせいなのだ。
ゆうべ、彼はたしかにリディアの寝室へ行った。そうして、月明かりのもとで眺めた彼女の首筋に、赤いあざのような跡があるのに気がついた。
いったい誰が? 必死になって考えた。
リディアの周囲には女の召使《めしつか》いしかいないし、ケリーはもちろん彼女たちのいたずらだとは考えにくい。
あせったファーガスは、まさかとは思いながらもパトリックを問いつめた。
パトリックの答えは簡潔《かんけつ》だった。
『アシェンバート伯爵でしょう』
そんなばかな、とファーガスは言った。
エドガーはまだヘブリディーズ諸島のどこかにいるようだが、少なくともマッキール家の土地にはいない。
荒野《こうや》には道らしい道もないのだ。案内もなしによそ者が来られる場所ではないし、夜中に侵入《しんにゅう》して立ち去るなんて無理な話だ。
『夢の中で、あのふたりは密会していますよ』
正式な婚約者どうしなのだから、密会というのも妙だが、パトリックはそう言った。
『リディアさんはおそらく、夢にとらわれたせいで目覚めない。ならば、向かうのは伯爵のところでしょうからね』
わかるようなわからないような話だった。
夢の中で会ったからって、リディアはここで眠っているのだ。あんなふうに体に跡が残るなんてことがあるのだろうか。
『心が受けた強い印象は、肉体にも影響します』
夢の中で彼女は、いやがったり怒ったりしなかったのだろうか。ファーガスには見せることのない表情で、伯爵を見つめていたのだろうか。
目覚めたとたん、頭にきた様子でファーガスに詰め寄ったリディアは、あれが伯爵が残したものだなんて考えもしていないようだった。
現実に、彼女に触れられるほど身近にいるのはファーガスなのに、夢の中でしか会えない男に勝ち目はないのか。苛立ちながら、彼はうそをついた。
リディアが寝ている間に、自分がキスをしたことにした。
本当のことを教えれば、彼女は安堵《あんど》し、遠くの恋人だけに見せるつつましいはにかみを浮かべただろうか。そんなことは知りたくなかった。
エドガーといっしょにいるときのリディアの反応など見たくなかった。
だったらまだ、憤りだろうと自分に感情を向けてくれたほうがいい。
そうして結果、その通りになったのだから満足している。
リディアを、マッキール家に役立つ血筋だから欲しがっているパトリックとは、自分は違うのだ。そう思うファーガスは、兄のように頼ってきたフェアリードクターに、めずらしく反発を感じていた。
「いちいち口出しするなよ。おれはおれのやり方でやる」
打算でリディアを口説《くど》き落とすなんて器用なことは自分にはできない。駆け引きも知らない。正面から向かっていって何が悪い。
「できるんですか?」
「子供|扱《あつか》いするな。リディアをここへ連れてきたのはおれだぞ」
「あの伯爵は、一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない相手ですよ。リディアさんをあずけたのもあなたが利用できると踏《ふ》んだからで、いずれさっさと取り返していくつもりでしょうからね」
たぶんその通りだからむかつく。
反論できないことを悟《さと》られないように、ファーガスは苛立ちをあらわにして、パトリックに背を向けた。
空に黒っぽい雲が立ちこめはじめていた。
波が出てきたらしく、船のゆれはさっきからひどくなってきている。
ロタが船乗りたちにあわただしく指示を出すと、船上では次々に帆《ほ》がたたまれていった。
進むのをやめた船は、ただ波にもてあそばれて、目的もなく流されていく。
「海が荒れてきたな。このまま航行《こうこう》を続けるのか?」
舳先《へさき》に近い甲板《かんぱん》に立って、前方を見守っているエドガーに、ロタが近づいてきて言った。
「きみの船は、このくらいの波や風にもたえられないのか?」
「は、バカにすんなよ。こいつは古くたって、頑丈《がんじょう》で性能も抜群だ。大洋での嵐だって何度も切り抜けてきた船だぞ。こんな海峡《かいきょう》の悪天候くらいではびくともしない」
「なら問題ない。青亡霊《あおぼうれい》は海が荒れたときに現れるというから、この天気は好都合だ」
エドガーは海の方を見やったままそう言った。
雲がたれ込めた視界に島影は見えない。海峡とはいっても、内《インナー》ヘブリディーズと外《アウター》ヘブリディーズはそれなりに離れている。ここは、内海というにはよく荒れるのだという。
「船より、ポールに問題がありそうなんだけど」
ロタが親指を立てて背後《はいご》を示す。すっかり船酔《ふなよ》いしたポールが、甲板の手すりにしがみついている。さっきまで船室で横になっていたはずだが、風に当たろうと出てきたようだ。
「いえ伯爵……、ぼくは大丈夫です……」
青い顔をしながらも彼は主張する。
「すまないね。しばらくがまんしてくれ。おそらくそんなに時間はかからない」
そう言ったエドガーはさっきから、風に混じる腐臭《ふしゅう》を感じていた。
レイヴンは何も感じないという。ロタも船乗りたちも異変を口にしていない。
これは|悪しき妖精《アンシーリーコート》たちの、魔力《まりょく》の気配《けはい》だ。
エドガーの中にある、プリンスの記憶が知っているものだ。
かつてプリンスは、アンシーリーコートの魔力を手中にするために、その養分《フォイゾン》を飲み込んだ。あのおぞましい匂いを、エドガーは追《つい》体験した。それと同じものを、たしかに風の中に彼は感じ取っていた。
海原《うなばら》にはまだ何も見えない。けれど、何かが近づいてきている。
黒い雲は見る間にあたりに広がって、稲妻《いなずま》が空を引き裂《さ》いた。
とたんに大粒の雨が降ってくる。高波に船が大きくゆれる。
「あれは……?」
波頭《なみがしら》があがる海の奥、はげしい雨のベールの向こうに、大きな黒い影がある。少しずつこちらへ近づいてきているのだ。
青白い、ぼんやりとした光をまとった何かが、黒い影に従《したが》うように、海面を漂《ただよ》っている。
「エドガー、身を乗り出すな、海に落ちるぞ!」
ロタが叫《さけ》んだ。
「青亡霊だ」
エドガーは指をさすが、ロタは目を凝《こ》らしながらも首を傾《かし》げる。
「何も見えないぞ?」
エドガーにしか見えていないらしい。だとしたら、青白い亡霊がまとわりつく、あの大きな影も誰にも見えていないのだろうか。
それは船の形をしていた。
さらに近づいてくれば、マストらしい黒い柱に、ぼろぼろの帆がまとわりついているのか、何かが風にはためいていた。
しかし船は、まるで影絵のようだった。ただ黒く、のっぺりとして見える。そうして、近づくとともに巨大化する。
さらに雨風がはげしくなる中、エドガーは目を見張った。
ロタの船にぶつかるくらいに接近した影は、見あげるほど大きくなっていた。と思うと、それに体当たりされたかのような衝撃《しょうげき》に船がゆさぶられた。
ロタが声をあげ、船乗りたちに指示を出し続けている。エドガーはどうにか手すりにつかまりながら、この船に覆《おお》い被《かぶ》さりゆさぶっている黒い影を見あげる。
青白い亡霊たちが甲板を飛び交っている。遠巻きにしながらも、エドガーの周囲をぐるぐると回る。
「エドガーさま、ロープを!」
レイヴンがロープを投げた。体を固定するために、もう一方の端《はし》をマストに結《ゆ》わえ付ける。
しかしエドガーはそれを自分の体に結ばずに、どうにか両足を踏《ふ》ん張ってまっすぐに立つと幽霊船《ゆうれいせん》の船影を見あげた。
「青亡霊たち、僕が何者かわかるだろう? 島々の|悪しき妖精《アンシーリーコート》と、契約《けいやく》を交わした記憶がここにある」
エドガーに何かを感じ取って、近づいてきたはずだ。だから彼は、青亡霊に呼びかける。
「よく聞け、とらわれの海賊《かいぞく》ども、おまえたちは、僕のしもべだ!」
急に風がぴたりと止んだ。
船のゆれも止まる。が、それは一瞬のことで、今度は大きな波が甲板めがけて襲《おそ》いかかってきた。
海水が船に覆い被さり、そこにあったものを押し流す。
足を取られ、エドガーも流される。
「エドガーさま!」
レイヴンが手をのばすが届かない。それよりもエドガーは、同じように流されようとしているポールの衣服を必死でつかんだ。
「伯爵《はくしゃく》……」
ポールが力の抜けた声を発したが、次の瞬間、ふたりして海の中に引きずり込まれていた。
「おい、エドガー! ポールも流されたぞ!」
奇妙《きみょう》なことに、海中からエドガーはロタの船を見あげていた。
海は荒れ狂っているはずなのに、水のうねりを感じることもなく、あくまで透明《とうめい》な水の膜《まく》を透《す》かして海上の様子がわかる。
レイヴンが甲板から身を乗り出し、エドガーをさがそうと見まわしている。
しかしその風景も遠ざかっていく。
気を失ったポールをつかんだまま、エドガーはゆるりと漂《ただよ》っている。
海の中、しかし大きな空気に包まれているかのようで、水に濡《ぬ》れる感覚もなく、苦しくもない。青白い炎《ほのお》にも似た、異形《いぎょう》の亡霊たちに取り巻かれながら、しだいに、深く沈《しず》んでいっているのか、それとも浮上しているのかわからなくなる。
そうして気がつけば、エドガーは船の上にいた。
波の上を漂う船の上に立っていたのだ。
夜空には細い月が浮かんでいる。静かに凪《な》いだ海は、船をそっと運んでいる。やはり、体は少しも濡れていない。足元に倒れているポールを覗《のぞ》き込むが、彼も同じ様子だった。
「ポール、大丈夫か?」
うっすらと目を開けた彼は、あわてて体を起こした。そうして辺《あた》りを見まわし、船酔いも忘れたのか大きな声をあげた。
「な、何ですかこの船は!」
マストは折れ曲がり、ちぎれた帆がまとわりついている。甲板の床は穴だらけで、海草が至るところに引っかかっている。
朽《く》ちかけたロープは、内臓のようにとぐろを巻いて、てらてらと不気味《ぶきみ》に光る。
たった今海の底から浮かび上がってきたとでもいうように、どこもかしこも水浸《みずびた》しだ。
「たぶん、幽霊船だよ」
エドガーがあっさり言うと、ポールは悲しそうに眉《まゆ》をひそめた。
よく耳を澄《す》ますと、船底からうめくような声が聞こえてきていた。ドアがきしむような音が、一定のリズムで絶《た》え間《ま》なく続いている。
「何の音でしょう」
何気なくポールは、甲板の朽ちた床板の下方を覗き込んだが、悲鳴《ひめい》をあげて後ずさった。
何事かと確かめたエドガーも、さすがに暗い気分になった。
「なるほど……この船はガレー船なんだね」
船底で、奴隷《どれい》たちが櫂《かい》を動かし続けている。船は帆がなくともゆっくりと進む。
「そ、そういうことではなく……」
青くなっているポールは、鎖《くさり》でつながれた漕《こ》ぎ手が骸骨《がいこつ》ばかりだと言いたかったのだろう。
「あれが、青亡霊につかまって奴隷にされた者たちなんだろう」
「……まさか、ぼくたちもああなるんでしょうか」
「さあ、そうでないことを願うけどね」
一瞬の間に、船の上には大勢の人影が現れていた。
青白い死人の顔をした亡霊たちが、ぼろぼろの衣服をまとい、三日月《みかづき》なりをした刀を手にしてエドガーとポールを取り巻いている。
エドガーは、メロウの宝剣がそばにあるのかどうかをちらりと考えた。宝剣の妖精は、エドガーの意図《いと》を察して、スターサファイアをきらりと光らせる。
妖精を斬《き》る力がある剣だ。多勢《たぜい》に無勢《ぶぜい》だが、威嚇《いかく》することはできるだろう。
考えていると、亡霊たちのあいだから大柄《おおがら》なひとりが進み出た。
(おまえが、災《わざわ》いの王子《プリンス》か?)
その言葉に、ポールが驚きの顔をエドガーに向けた。
「違うよ、僕は青騎士伯爵だ」
エドガーは答える。
(青騎士……、知らんな。しかしおまえは、我《われ》らをしもべだと言った。島々のアンシーリーコートと契約を交わした者だと)
「そう。その契約は僕の中にある。……プリンスは死んだ。そうして契約を僕が引き継いだ」
「伯爵、それはどういう……」
ポールは困惑《こんわく》しながら、不安げにエドガーを見あげた。
こんなふうに、ポールに知られてしまうとは思わなかった。けれどエドガーは亡霊たちからポールを守らねばならないし、そのためにはプリンスの記憶≠ェここにあることをあきらかにしなければならなかった。
「すまない、あとできちんと話す」
そう言ってエドガーは、自分が上に立つことを示すように、亡霊海賊たちの船長《キャプテン》らしい男を堂々とにらみつけた。
男は、曲がった鼻をひくつかせて言った。
(魔力は感じる。しかしあまりにもかすかだ。人でありながら災いの王子《プリンス》となった彼《か》の者だというなら、証拠《しょうこ》を見せろ)
証拠か。どうするか。
エドガーがわずかに迷ったとき、船長のそばにいた亡霊が、刀をひるがえした。
(証拠がないなら、魂《たましい》をもらう!)
飛びかかってくる。
「ひっ」
とポールが悲鳴をあげて頭をかかえ込んだとき、アロー、と小さくつぶやいたエドガーの手には剣が握《にぎ》られていた。
宝剣のスターサファイアは、剣を振った瞬間ルビーに変化した。
赤い光が剣とともに弧《こ》を描く。切《き》っ先《さき》が亡霊を切り裂く。瞬間にそれは金切《かなき》り声を残して消え去る。
周囲を取り巻く亡霊たちがざわめき、いっせいにしりぞいた。
(……なるほど、そのような剣が存在することは聞いたことがあったが、それを扱えるならばたしかに、我らが王子《プリンス》だということだ)
青騎士伯爵の血を引く本物の子孫なら、もちろんこの剣のスタールビーの力を引き出せたはずだった。そんな古い血筋《ちすじ》が絶えた今は、災いの王子だけが、この能力を持ちつつ生きながらえている。
しかしエドガーは、プリンスの記憶からこの能力を得てもなお、青騎士伯爵であるつもりだった。
(王子よ、我らに何を望む)
船長が問う。エドガーは剣をおろした。
「島々のあるじ≠フ夢へ、案内してもらいたい」
亡霊たちは色めき立った。
(では、あるじを目覚めさせるのか? その剣があるならできるかもしれぬ)
(あるじが目覚めるなら、我らはあの暗い岩場から解放される。岩場に朽ちた肉体をとらわれたまま、悪天候にだけ亡霊となって人の世に侵入《しんにゅう》する運命から逃《のが》れられる)
(自由になれるのなら、人の世を呪《のろ》うためによろこんで力を貸そう)
こいつらを解放するために来たわけじゃない。だがそう思っていようとどうでもいい。
「あるじの夢の中に、泉があるだろう? 案内できるか?」
今度は彼らは気色《けしき》ばんだ。
(泉? ああそうだった。あるじを目覚めさせるには、泉の奥底に湧く魔力が必要だ。しかし我らには近づけない。あるじの夢の源《みなもと》、宝石に囲まれた場所だ)
かつてこの海賊たちが盗《ぬす》もうとしたという宝石のことだろうか。
(そこに侵入するのは簡単じゃないぞ。招かれざる者は我らのようにとらわれの亡霊となるだけ)
「ともかく、案内してもらおう」
エドガーが宝剣をちらつかせれば、亡霊《ぼうれい》たちは持ち場に散るように次々と消えた。
船はおだやかな海面をすべるように動き出した。
ケルピーの背に乗って、リディアは浜辺を駆《か》けた。遠くまで行けないのはわかっていても、風を切る感覚は心地《ここち》よく、いやなことをぜんぶ忘れていられた。
このままエドガーのところまで駆けていけたらいいのに。そんな考えを振り払う。
陽光が降りそそぐ空を、雲が急いだように流れていく。
ケルピーは水際《みずぎわ》まで近づいては、ふざけて波を蹴散《けち》らし、リディアはしぶきをあびた。
「もう、濡れちゃうじゃない」
「どうせなら海中も散歩してみるか?」
ケルピーといっしょなら可能だろうけれど、さすがにやめておいた方がいいだろうと思った。
「それよりケルピー、もう少し遠くへ行ってみたいわ」
岬《みさき》が見える場所にいなければならないリディアだ。治療に適した魔力は、あの岬のある場所に集中していて、離れるほど傷が痛みだすと警告を受けている。
でも、本当にそうだろうか。
パトリックはもちろん、ファーガスだって信用していいのかどうかわからない。
「いいけど、この先は魔力の流れが変わるぞ」
「少しだけよ」
ケルピーは海岸|沿《ぞ》いを、ゆっくり先へ歩き出す。けれど、さっきの場所から数ヤード進んだだけで、背中の傷が痛み出すのをリディアは感じていた。
ケルピーのたてがみを握《にぎ》る手に力が入る。
気づいたらしく、ケルピーは立ち止まる。
「おい、大丈夫か?」
「ええ、……やっぱり、無理なのかしら」
引き返そうとケルピーが向きを変えたときだった。馬に乗った黒髪の男が、前方に立ちはだかった。
「水棲馬《ケルピー》か、ロンドンでもリディアさんにつきまとっていた……」
パトリックだ。魔よけの短剣を手にしている。ケルピーがわずかに足を引いたのは、短剣が不愉快《ふゆかい》な魔力を発していたからだろう。
馬を下りたパトリックは、身構えながらこちらへ近づいてくる。
「リディアさんがひとりで散歩に出かけたと聞き、おかしいと思いましたよ。魔性《ましょう》の妖精が侵入していたなんて」
「パトリックさん、やめてください……」
しかしパトリックは、短剣でケルピーを威嚇《いかく》する。
「彼女をおろして立ち去れ」
ケルピーは、まだじりじりと後ずさる。
「このケルピーは、あたしの友達なのよ」
リディアは声をあげたが、パトリックは、ちらりと冷たい目を向けた。
「あなたはフェアリードクターだが、自分の能力を過信してはいませんか? 信用できる妖精ではありませんよ」
「能力じゃないわ、あたしは彼をよく知ってるの!」
一瞬パトリックは戸惑《とまど》ったような顔をしたが、動こうとしたケルピーに注意を引き戻す。
ケルピーが地面を蹴《け》った。パトリックに向かっていく。
「リディア、どいてろ!」
ケルピーがそう言うと同時に、リディアは彼の背から落下する。いや、ふわりとおろされ、砂の上に腰《こし》をおろす格好《かっこう》になったが、急いで顔をあげたときには、彼はもうパトリックに飛びかかっていた。
が、目に見えない何かにケルピーははね飛ばされた。
「くそっ、いろんな魔よけを使ってやがるな……」
倒れ込んだケルピーは、動けない様子だ。
パトリックは近寄ろうとする。
「魔性の妖精よ、消えるがいい」
短剣を振りかざす。リディアは走っていた。
「やめろ、リディア!」
ケルピーが止めるのも聞かず、かばおうとして、彼の前に割り込む。
短剣が自分の目の前に迫り、思わず目を閉じたが、次の瞬間、高い金属音が耳元で響くのを聞き、はっとして目を開けた。
短剣は弧を描いて飛び、波打ち際《ぎわ》に突き刺《さ》さる。
呆然《ぼうぜん》としながら右手を押さえているパトリックは身動きせず、その首筋《くびすじ》にナイフを押しあてているのは、褐色《かっしょく》の肌の少年だった。
「レイヴン……?」
「殺しますか?」
無表情に彼は問う。
「や、やめて、殺しちゃだめよ」
今のうちに逃げてと、リディアはケルピーにささやく。
ケルピーの姿が消えると、レイヴンもナイフをパトリックから離し、リディアを守るように彼女のそばに立った。
「お怪我《けが》はありませんか、リディアさん」
「ええ、ちょっとした行き違いよ。パトリックさんは敵じゃないから……」
「わかっています。でも、あなたに危害が及びそうでしたので」
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》の従者《じゅうしゃ》が、なぜここに」
冷や汗をぬぐい、パトリックは確かめるようにレイヴンを見た。
「あたしが連れてきた」
声に振り返ると、ドレスのすそを大胆《だいたん》にからげたロタが、岩場を飛び越えたところだった。
「ロタ!」
「リディア、心配でさがしに来たんだよ!」
駆け寄ってきたロタは、屈託《くったく》なくリディアを抱きしめる。
「ごめんなさい……、連絡できなくて。そうよね、とっくにロンドンに帰ってるはずだものね」
「いいんだ、元気そうでよかった。瀕死《ひんし》の重傷だって聞いたから驚いたけど」
「ここにいるあいだは、ふつうにしてられるの。でも……」
ケルピーと遠くまで来てしまって、さっきから傷が痛み出している。
ロタに会って安堵《あんど》すると、また痛みが意識にのぼり、リディアは顔をしかめた。
「早く館《やかた》に戻った方がいい。リディアさんの体調にさわります」
パトリックの言葉に、リディアを抱きとめたままロタは頷《うなず》いた。
レイヴンがこうして、再びマッキール家の土地を訪れることに決めたのは、エドガーとポールが幽霊船とともに消えて間もなくだった。
エドガーと離れてしまったことは、レイヴンにとっては許せない出来事だった。
しかし、どうやって亡霊たちのあとを追えばいいのか、エドガーがどこにいるのかまるでわからない。
結局彼は、ニコに相談するしかないと思ったのだ。
ニコは妖精だし、この島々で長いこと暮らしていたという。青亡霊や島々のあるじ≠ノついても知っているだろう。
ニコをさがすということは、以前エドガーに提案した。あのときエドガーは結論を出さず、レイヴンに何も命じなかったが、ほかに方法はなさそうだ。
ロタの方は、海峡《かいきょう》の沖合《おきあい》でしばらく様子を見ていたが、天候はじきに回復し、エドガーたちが戻ってきそうにないと判断すると、船をマッキール家の土地があるこの島に向けた。
彼女はそもそも、リディアに会うためにやってきたのだから当然だ。
ケリーがクナート氏族長《しぞくちょう》を通じて報《しら》せてきたリディアの居場所《いばしょ》は、レイヴンもすでに知っていたから問題はなかった。
海岸沿いの岬だということで、ぽつんとそこに建つ館は、船の上から望遠鏡で確認できた。
そうしてレイヴンは、ロタとともに、ボートで浜辺《はまべ》に上陸した。
ケルピーとパトリックがにらみ合う場に遭遇《そうぐう》したが、リディアを守ることができてレイヴンは満足している。
ロタもリディアに会えて、安心したようだった。今は、安静にしているリディアのそばについている。
一方でレイヴンは、建物の裏のベンチに座り込み、どうやってニコに会うかを考えていた。
「おい、何しに来た」
そう言ってレイヴンの前に立ったのは、ファーガスだった。
「言う必要はありません」
「ふん、どうせあの伯爵が何かたくらんでるんだろ。だがな、フィル・チリースの刃《やいば》に効く薬をさがそうたって無駄《むだ》だぞ」
「無駄かどうか、エドガーさまが決めることです」
「とにかく、リディアはここにいないと傷を癒《いや》すことはできないんだ。わかっただろう? さっさと帰って伯爵に伝えるんだな」
レイヴンは立ちあがる。
「何年かかっても、リディアさんがあなたを好きになるとは思えません」
ファーガスは眉根《まゆね》を寄せた。
「そんなの、あんたにわかんねえだろ」
「エドガーさまが必死になって一年もかかったのです。私はそれまで、エドガーさまが一時間以内に口説《くど》き落とせない女性を知りませんでした」
レイヴンがまじめな顔で言えば、ファーガスはあきれた様子だった。
「はあ? そんな野郎《やろう》いるわけないだろ!」
「とにかく、あなたには無理です」
「……リディアはおれに心を開いてくれている。それに、一年どころか、こっちにはもっと時間があるんだ」
視線が殺気《さっき》立ったことにファーガスは気づいたのか、言葉を切ると警戒気味《けいかいぎみ》に体を引いた。
レイヴンは深く息をついた。
「残念です。ここにエドガーさまがいらっしゃれば、あなたを半殺しにできたのに」
くるりと背を向け、その場を離れる。
歩きながら、ファーガスに中断された考え事を再開しようとしていた。
夢の中で見たニコは、山にいた。とにかく山間部《さんかんぶ》へ行ってみなければならない。
リディアに相談することも頭に浮かんだが、彼女に余計《よけい》な心配をかけることはエドガーの本意ではないだろう。
それに、体調を悪化させてもいけない。やっぱりニコに頼るしかない。
レイヴンは辺《あた》りの風景に目をやった。このあたりは起伏《きふく》が少なく、山は見あたらない。
「ニコさん、どこにいるのですか……?」
「ここだよ」
驚《おどろ》いて、レイヴンは立ち止まった。
キョロキョロと首を動かせば、草の上に寝そべっていた灰色の猫《ねこ》が体を起こした。
よう、とニコは片手をあげる。
「ロタといっしょに来たのか? 沖にでっかい船が泊まって、何だろうと思って見てたよ」
ニコは飄々《ひょうひょう》として、いつもの様子だった。
「リディアさんのそばにいらっしゃったのですか……。見ていられないとおっしゃっていたので、ここにはいないかと思っていました」
「ああ、そのつもりだったんだけどな、やっぱりリディアをほうっておけなくてさ」
立ちあがった彼は、後ろに腕を組んでうんうんと頷《うなず》いた。
「そばにいてくれって言うんだ。おれがいなくて、淋《さび》しかったのも無理はないよな。ま、家族みたいなもんだからな」
まんざらでもなさそうに、ニコは目尻《めじり》を下げる。
「ニコさんは、ひとりで淋しくなかったんですか?」
「ん? ああ、おれが淋しいわけないだろ。立派《りっぱ》な紳士《しんし》だぞ」
ひくひくとヒゲのあたりが引きつっていたが、レイヴンは気づかなかった。
「そうですね。ニコさんがリディアさんに抱きついて泣くなんて、想像できませんね」
ニコは目を細めたまま固まったが、レイヴンは気づかなかった。
「……それよりレイヴン、ここへは何しに来たんだ?」
そうだった、とレイヴンは気持ちを引き締めてニコを見る。
「ニコさん、私をきらいになりますか?」
「なんでだ?」
「知恵を貸してほしいのです。でも、|悪しき妖精《アンシーリーコート》に関することです。エドガーさまは、リディアさんを連れ戻すためなら手段は問わないつもりです。フィル・チリースの毒を消す薬を手に入れるために、ニコさんに相談できないかと思って来ました」
なるほどな、とニコはつぶやいた。
「あんたは伯爵に命じられるとおりにするんだろう? だったらきらいになるのは伯爵だけにしておくよ」
「命令ではありません」
レイヴンはきっぱり言った。
「エドガーさまは、私に何も命じないまま、幽霊船《ゆうれいせん》に乗りこんでいきました。あとを追いたいのです」
「幽霊船?」
「はい。青亡霊と呼ばれる者たちの船です。その船なら、島々のあるじ≠ノ近づけると聞きました」
「……それは、あんたがついてたって何もできやしないよ。伯爵が青騎士伯爵でもプリンスでも、あるじを目覚めさせる力があるとはおれには思えないけど、やってのけるのか、それともあるじの夢にとらわれて、青亡霊どものようになるか、どちらかだ」
「でも、行かねばなりません」
ニコは不思議そうに、じっとレイヴンを見あげた。
「あんたの意志か。どうしてそんなふうに決められるんだ? 伯爵がいないと、あんたの中の精霊《せいれい》が暴れ出すから?」
これまで自分の意志を示したことのないレイヴンだが、自分の意志でニコのところへやってきたことを、今ははっきりと自覚していた。そうして、ニコの問いに、一生|懸命《けんめい》に考え込み、やがて答えた。
「たしかに、私の意志だけでは、精霊を抑えることはまだ難しい。でも……何よりエドガーさまの近くにいたいのです」
そのとき、ロタが館から飛び出してきた。レイヴンを見つけると、急いだようにこちらへ駆け寄ってくる。
「おーい、レイヴン、大変だ!」
「どうしたんですか?」
「リディアの……様子が……」
[#改ページ]
宝石が眠る島
レイヴンとロタはどうしてここへ現れたのだろう。
リディアはベッドの中で、うとうとしながら考えていた。
岬《みさき》の館《やかた》まで帰ってくれば、背中の痛みは治まりつつあったが、少しだけ熱が出て、ケリーに薬を飲まされたのだ。
それがリディアを眠りに誘《さそ》う。
ロタがそばにいる。
せっかく久しぶりに会えたのだから、いろいろ話がしたかったのに。
レイヴンがいっしょにいたということは、ロタはエドガーに会ったのだろうか。
エドガー、……今ごろどうしているのだろう。
もうとっくに気持ちを切り換えたかしら。
レイヴンもロタも、正式に婚約解消することを告げに来たのかもしれない。
そんなふうに思うと、リディアは胸の痛みを感じた。
婚約解消だなんて。別れると自分から告げたくせに、頭に浮かんだその言葉はつらかった。
もしも結婚していたら、どんなふうだったのかしらと考えずにはいられない。
朝も夜も彼がそばにいて、家族になって年月を重ねていくのは、どんなに幸せなことだっただろう。
想像して、待ち遠しく感じていたことも、悲しい思い出になった。
(……エドガーさまが……幽霊船《ゆうれいせん》に……)
かすかな話し声が耳に届いた。ぼんやりした夢のベールの向こう、うつつの領域《りょういき》で、レイヴンとニコが話している。
どういうこと? 幽霊船?
青亡霊《あおぼうれい》、島々のあるじ、そんな言葉もとぎれとぎれに聞こえ、リディアは急に心配になった。レイヴンは、リディアに別れを告げに来たのではないのだろうか。
「リディア、このままじゃあ彼は災《わざわ》いの王子《プリンス》になってしまうよ」
声に驚いて、リディアはあたりを見まわした。夢うつつに、以前に見たことのある少年がたたずんでいた。
「あなた……誰なの?」
このあいだも、彼はリディアを、エドガーのところへ導いた。
「オレ? 夢さ。島々のあるじ≠ェ見ている夢の一部」
あるじの夢……?
「彼が、災いの王子と関係あるって知ってるの?」
「あるじは知ってるさ。島々で起こったことは何もかもね」
「どうしてあたしを、彼のところへ行かせようとするの?」
「あんたしか彼を止められないだろうから」
どういうこと?
「青亡霊を従《したが》えて、彼はあるじに近づきつつある。もしもあるじが目覚めれば、その夢に閉じこめられていた魔力《まりょく》が地上に流れ出す。魔力に善悪はないけれど、災いの王子が|悪しき妖精《アンシーリーコート》たちを結集させれば、島々は彼らに好き放題にされるだろう。人々は希望を失い、なおさら悪しき妖精たちが力を持つんだ」
「そんな……、まだ、薬をあきらめてないってことなの?」
リディアは驚《おどろ》いて、少年に歩み寄った。
彼はゆっくりと頷《うなず》いた。
それで、ロタとレイヴンはここへ現れたのだろうか。エドガーが青亡霊のところへ行ってしまったから?
どうしよう、とリディアは震《ふる》えを感じて自分の両肩を抱いた。
エドガーは、リディアの別れの言葉に、納得《なっとく》などしていなかったのだ。
「……無理よ、あたしには止められない」
離れようとしても、そばにいても、彼を変えてしまうことになる。
「あるいは彼は、あるじを目覚めさせる前に命を落とすかもしれない」
少年は、リディアを脅《おど》すようにまた言った。
「だったら、あなたは何も心配しなくていいじゃない」
リディアはおだやかではない心を隠《かく》しながらそう言った。
早く、エドガーのところへ行かなければと気持ちはあせっている。けれどどうやって止めればいいのかわからず、まだためらっている。
「問題は、彼は青騎士|伯爵《はくしゃく》だってことさ。災いの王子《プリンス》であって、青騎士伯爵……。本当はどちらなのか、あるじにもわからない」
ため息をつきつつ、少年は遠くを見るように目を細めた。
「予言者が見極めるのを待つしかないのか」
予言者が? 敵と判断したらエドガーは殺されるのだろうか。それとも、彼がプリンスにならずにすむかもしれないという可能性はまだあると考えればいいのだろうか。
「とりあえずは、あんたにゆだねるしかないってわけさ」
少年はうっすらと微笑《ほほえ》んだ。
「あたしは、予言者やマッキール家のがわの人間じゃないわ。彼の婚約者……だったのよ」
「もちろん知ってる」
「予言者は本当にいるの?」
「予想外のことがたくさん起こった。けど、いないという結論は、まだ出ていないからね」
そう言って少年は消えた。
「……行かなきゃ」
リディアはつぶやく。
自分にエドガーを止められるのかどうかわからない。
エドガーは、リディアがいようといまいと、プリンスの記憶をかかえていかねばならない。
リディアのために、宿敵の記憶を受け入れる選択をしたのに、別れると言った彼女に失望しているだろうか。そうだとしたら彼女の言葉に耳を傾けてくれるとは思えない。
エドガーのために、そう思ってしたことが裏目に出てしまっているのに、この上何ができるのだろう。
それでも行かなければならない。
「エドガーを止めなきゃ」
「ひとりじゃ道もわからないだろ。それに、迷子《まいご》になったらまた帰れなくなる」
気がつけば、ケルピーがそこにいた。
「おまえと話してたあれ、何者だ? 近寄りたくない感じだったから、話だけ聞いてた」
「夢、なんだそうよ」
「ふうん、ま、何でもいいけどな。とにかく乗れよ」
「ケルピー、青亡霊《あおぼうれい》がどこにいるかわかる?」
「さあ、でもおまえなら、伯爵の居場所《いばしょ》はわかるだろ」
わかるのかしら。
夢の中、ケルピーの背で、リディアはエドガーを感じ取ろうとして目を閉じた。
「ふう、どうやらまた、魂《たましい》だけで夢の中へ入っていったみたいだな」
ニコは、ベッドに横たわっているリディアをじっと眺《なが》め、心配するロタの方に振り返った。
「夢の中?」
リディアはまるで動かない。息もしていないように見えるし、声をかけてもゆさぶっても反応がない。
それでロタは、あわてて外へ出ていったのだ。
しかしニコの様子からするに、リディアがすぐさまどうにかなることはなさそうだった。
「ああそうだよ、リディアはここから離れられないだろ。だから夢の中に入り込んで、伯爵に会ってたらしい」
「そんなにお嬢《じょう》さまは、伯爵のことを……」
ケリーが涙ぐんだ。リディアの小間使《こまづか》いとしてそばについているという少女は、エドガーが親しくしている別の氏族《クラン》の少女らしい。
エドガーにしては、まともな人選だなとロタは思う。自分の好みとか邪《よこしま》な考えははさまなかったらしい。リディアのそばにつけるのだから当然か。
そんなケリーは、ニコが話しているとは思っていないらしく、猫《ねこ》のそばにいたレイヴンをうるんだ瞳《ひとみ》で見あげる。
レイヴンは、困惑《こんわく》しているようには見えない無表情のまま、ただ目をそらした。
「じゃあ、リディアはエドガーの現状を知って、助けに行ったってことか」
「たぶんそうだろうな」
「じゃあ、あたしたちも行くしかないな。ニコ、どこへ向かったらいい? エドガーはどこにいる?」
ニコはため息をついて考え込んだ。
「たしか……、青亡霊の棲《す》む海底の岩場は、どこかの小島につながってるって聞いたことがある」
「どこの小島だろう」
「なあロタ、どこで青亡霊に遭遇《そうぐう》したんだ? そのあたりにある可能性は高いと思うぞ」
「よし、調べてみよう」
「あの、あたしにもできること、ありますか?」
ケリーも一生懸命、協力しようとしてくれている。
そうだな、とロタはつぶやく。
「あと問題になりそうなのはファーガスとパトリックだな。リディアがこんな状態で、あたしたちがいなくなったとなると、何かかぎつけるかもしれない」
「今日のところは、パトリックさんは氏族長《しぞくちょう》の屋敷へ戻られたので、明日まで来ないと思います。それにあの人は、わざわざ寝室までお見舞いには来ません。ファーガスさんも、この部屋には入れないよう気をつければ、リディアお嬢さまのことはごまかせます」
「よし、じゃあそれはケリーにまかせよう」
ロタが肩をたたくと、ケリーは力強く頷いた。
レイヴンが、何かを感じたように戸口を振り返る。しかし彼が確認したときには、もう誰もいなかった。
ドアが閉められたあと、赤いキルトのマントが、息をひそめていた物陰《ものかげ》でそっと身をひるがえした。
幽霊船はいつのまにか、海中を航行《こうこう》していた。
穴だらけの甲板《かんぱん》に立って、今にもこわれそうな手すりに寄りかかり、海中の風景を眺めていると、目の前を魚の群《むれ》が泳いでいく。ポールが不安そうに、エドガーの方を見る。くせのあるポールの髪は、水草のようにゆれている。
エドガーの金色の髪も、きっと同じようにゆれているのだろう。
大丈夫だという代わりに、エドガーはポールに笑みを返す。
ここは妖精界なのだろうか。水中でも溺《おぼ》れるわけではないし、光もないのにぼんやりとあたりが見えているのだからそうなのだろう。
船は、ゆっくりと漂《ただよ》うように進んでいく。
「ポール、とりあえず彼らの棲《す》みかに着いたら、きみのことは人間界へおくりとどけてもらうから。もう少しがまんしてくれるね」
するとポールは、複雑な顔をしてうつむいてしまった。
「伯爵、ぼくは……」
「きみはやさしい人だから、僕をひとりにしてはいけないと思っているのかもしれないけれど、気にする必要はないんだ。きみにも、|朱い月《スカーレットムーン》≠フみんなにも、プリンスの記憶を継いだことを隠していたんだから」
「それは、いつから……」
「あのプリンス≠葬ったときから。新たな後継者《こうけいしゃ》を生まないためにも、僕自身がそうなることを選んでいた。何も変わらないと思いたいけれど、少しずつ変わってきている。いつかあの男のようになるかもしれない。ポール、きみの父上を殺した組織は、僕をかつぎあげようとしているんだ」
このことで、ニコも去っていったのだったとエドガーは思い起こす。レイヴンには悪いことをした。
それにリディアも、言葉では受け入れてくれたけれど、このことが原因でいっしょにはいられなくなってしまった。
このまま、本当に彼女は別れるつもりなのだろうか。
「だからポール、僕を仇《かたき》だと思ってもいい」
「リディアさんは」
ためらいながら、ポールはまた問う。
ファーガスはたしかに、リディアにとっては自分よりも理想的な男だろう。惹《ひ》かれるとしてもしかたがない。そう思いながらもエドガーは、認める気にはなれなかった。
「知っている。だけど、リディアだけは手放せないんだ。今の僕を、心から受け入れてはくれないとしても、そばにいてほしいから、どうしても薬がいる」
ポールはこわばった表情でエドガーを見た。怒《おこ》っているようにも見えた。無理もない、とエドガーはため息をついた。
「ぼくはいなくてもかまわないんですか?」
あきらかに苛立《いらだ》った口調《くちょう》だった。
何を怒っているのかわからずに、エドガーは首を傾《かし》げた。
「ぼくは、あなたを仇だと思おうと友人だと思おうと、勝手にすればいいと……わあっ!」
そのとき、船がはげしくゆれた。
バランスを失い転んだポールが、甲板の上を転がる。
「ポール!」
マストにつかまったエドガーは、手をのばしてどうにかポールをつかんだ。
「は、伯爵……、大丈夫ですか!」
そう言いながらも彼はエドガーにしがみついている。
「落ちるんじゃないよ。妖精界の海なんて、きっと助けられないからね」
はげしく頷き、ポールは必死になってマストに手をのばした。
波がひどくうねっている。さっきまで静かだったのに、急にどうしたというのだろう。
「船長《キャプテン》、どうなってるんだ!」
エドガーは、姿の見えない青亡霊に問いかけた。
(獲物《えもの》だよ、旦那《だんな》)
返事はすぐあった。
(悪天候に船を出したバカがいる。ちょっと寄り道するぜ)
青亡霊たちが、人間界の荒れた海に船を近づけているらしい。
(つかまえて、奴隷《どれい》にしてやる)
姿を現したかと思うと、彼らは潮《しお》の渦《うず》をつくりながら素早《すばや》く船から消える。波のうねりは続き、船はきしみながらゆれ続けている。
「人間が乗るものじゃないな」
エドガーはつぶやく。
しばらくすると、ゆれはすっかりおさまったが、ポールはぐったりとして甲板の上に横たわった。
エドガーは、あたりの様子を確かめようと立ちあがる。
いつのまにか帰ってきたらしい亡霊たちが、船尾の方に集まって、何やら騒《さわ》いでいるようだった。
その輪の中に、ロープで縛《しば》られた人間が倒れていた。そう、おそらく人間だろう。亡霊たちとは違い、きちんとしたキルトを着ている。
赤毛の、若い男……。
ファーガスだ。
気づいて、エドガーは足を止めた。
目を閉じて、気を失っているのか身動きしないが、間違いなくあの男だ。
こいつが気になりつつあると言って、リディアはエドガーに別れを切りだした。
こいつさえいなければ。そう思うエドガーは、ファーガスが青亡霊の奴隷になって、永遠に働かされるのならいい気味《きみ》だと笑ってやりたくなった。
けれど、彼がいなくなれば、リディアは悲しむのだろうか。
彼女が本気なのかどうか、エドガーは疑問に思っている。それでも、ファーガスのことは、見知らぬ土地にいるリディアにとって、親しみを感じられる人物なのだろうとは思う。
リディアをほかの男になんて渡したくない。一方でエドガーは、リディアが必要としているものを奪《うば》うことにはためらいを感じるのだ。
自分は彼女のそばにいることができるのか、この先ずっと彼女を守りきれるかどうかわからない。
自分に何かあったら、ファーガスに……なんてとても考えられないし譲《ゆず》れない。それでも、彼女を救えるかもしれない誰かを奪ってしまうのは怖《おそ》ろしかった。
「僕にくれないか」
エドガーが口を出すと、青亡霊たちがいっせいにこちらを見た。
「僕もひとり奴隷がほしい」
(そりゃ、かまわないけどね、旦那)
(おい、キャプテン、これは俺たちの奴隷だ)
(まあいいじゃないか。この旦那は俺たちをあるじから解放してくれるんだ)
(本当にそんな力があるのか?)
(剣を見ただろ)
(しかし、あるじにあれが効くかどうかわからんぞ)
(無理だったらまとめて奴隷にすりゃいい)
(なるほど、さすがはキャプテンだ)
こそこそ話し合っているつもりでもまる聞こえだが、エドガーは黙《だま》って待った。
すぐに結論は出たらしく、ファーガスを縛ったロープの端《はし》を、ひとりがエドガーに手渡した。
(こいつを離すなよ。離したら、こいつの所有者じゃなくなるぞ。また俺たちがつかまえたら、俺たちのものだからな)
そうして青亡霊《あおぼうれい》たちはすっと姿を消した。
船はまたゆっくりと進みはじめていた。
「伯爵《はくしゃく》……、どうするんですか、その人を」
ぐったりしていたポールでさえ、エドガーが亡霊たちの奴隷を欲しがったことに驚いたらしく、這《は》うようにしながら近づいてきた。
エドガーはファーガスをつま先でつついてみる。すると彼は、ゆっくりとまぶたを開いた。
エドガーを見る。そのまま彼は不愉快《ふゆかい》そうに眉《まゆ》をひそめる。
「そうだな、骨になるまで働かせてやるか」
灰紫《アッシュモーヴ》の目を細め、エドガーはつぶやく。冗談《じょうだん》のつもりだったが、口調には力が入っていたかもしれない。
ファーガスは急に目を見開き、「うわぁっ!」と声をあげて飛び起きた。
「な、何であんたが……、いや、ここはどこだ?」
「青亡霊の幽霊船《ゆうれいせん》だよ。きみは彼らにとらわれたんだ」
「伯爵、知り合いなんですか?」
ポールが問う。
「少しね」
「……って、あんたたちもつかまったのか?」
キョロキョロあたりを見まわしたファーガスは、またエドガーに視線を戻す。
「いいや、僕たちはこの船の客人《きゃくじん》だ。でもきみは、僕の奴隷になったからね」
見る見る彼は眉間《みけん》に深くしわを寄せた。
「奴隷だと? おれはマッキール氏族長の息子だぞ! 誰の言いなりにも……」
立ちあがろうとしたファーガスは、いきなり床につんのめった。エドガーが彼の腰に結《ゆ》わえたロープを引っぱったからだ。
「な、何するんだ!」
打ちつけた額《ひたい》を押さえつつ、顔をあげようとしたファーガスの頭を、エドガーは押さえつけた。
「僕が許可しないかぎり、きみは頭を上げることもできないんだよ」
どうしても力が入らないらしいファーガスは、屈辱《くつじょく》に顔をゆがめる。エドガーは彼のそばにしゃがみ込んで、床板が壊《こわ》れたままの穴を指さした。
「見えるかな。この船を動かしている奴隷たちだ。ああはなりたくないだろう?」
船底にとらわれたまま、永遠に船をこぎ続けている。白骨化したかつての人間たちを見て、ファーガスは青くなった。
反抗する気がなくなったらしく、よろよろと船縁《ふなべり》にもたれかかる。
「さて、質問に答えてもらおうか。ファーガス、どうしてきみは、荒れた海峡《かいきょう》へやってきたんだ? 僕がまだヘブリディーズにいると知って、つかまえに来た?」
それでもまだ、腰の縄《なわ》をほどこうと試みていたが、すぐにあきらめて顔をあげた。
「……リディアのところへ、ロタとあんたの従者《じゅうしゃ》が来たんだ。あんたとポール……ってそっち? ふたりが幽霊船と消えたって話をして、ニコといっしょに青亡霊のところへ行くと言ってたから、おれは先回りすることにした」
「えっ、ロタとレイヴンが……? でも伯爵、ぼくたちが彼らと離ればなれになってから、まだ二、三時間くらいですよね」
ポールが首を傾げる。
「妖精界は時間の進み方が違う。レイヴンたちにとっては、もっと時間が経《た》っているんだろう」
エドガーと離れてしまったから、レイヴンはニコに助けを求めたのか。
「それでファーガス、わざわざ荒れた海に出てまで、僕を追おうとしたのはどうしてかな」
「それは……リディアが」
「リディアが? どうかしたのか?」
ファーガスは言いよどんだ。しばし考え込んだのか黙《だま》り、顔をあげるとエドガーをにらむように見据《みす》えた。
「いや、おれはリディアのために来た。彼女はあんたによけいなことをしてほしくないと言った」
「よけいなことだって?」
エドガーはつい頭にきて、ファーガスの胸ぐらをつかんだ。
「ああそうさ。薬がなくても時間をかければ傷は治る。なのに、あんたは|悪しき妖精《アンシーリーコート》を従《したが》えて、島々のあるじ≠目覚めさせてしまうかもしれないのに、その薬を奪おうとしている」
「うそをつくな。リディアがよけいなことだなんて言うはずがない」
「とにかくやめろよ! リディアのためならなおさらやめろ。彼女はそんなこと望んでないって、わかるだろ?」
思わず握《にぎ》りこぶしに力が入った。けれど同時に、こいつは何もわかっていないのだと脱力感もおぼえていた。
「伯爵、落ち着いてください……」
ポールに仲裁《ちゅうさい》されるまでもなく、エドガーはファーガスから手を離す。
落ち着こうと深呼吸《しんこきゅう》し、投げやりに座り込む。頭をかかえるようにして、金色の髪に指をうずめる。
ファーガスの言うことは間違ってはいない。リディアはきっと、エドガーが悪しき妖精に近づき、プリンスの記憶に属する力を使うことなど望んでいないだろう。
けれどファーガスは、当然のことながら、自分たちの間にあった切実《せつじつ》な気持ちなど少しも知らないのだ。
「リディアは、治療なんか受けないと言った。僕とロンドンに帰りたいと言い張って、置いていくならひとりで死を待つとまで……。彼女が、僕に恋人らしいわがままを言ったのははじめてだった。いつも人の気持ちを考えて、自分のことはひかえめにしか主張しない彼女が、感情をあらわにして、どうなってもいいとまで言って僕を求めてくれたんだ。あれは彼女の本音《ほんね》だった。だから僕は、もしも方法があるなら、悪魔に魂《たましい》を売ったってかなえてやりたい……」
たとえリディアが、今はそんな気持ちを失ってしまったのだとしても、あのときの彼女のために、エドガーは薬を欲《ほっ》している。
彼にとってのリディアは、夢の中に現れ別れを告げた彼女ではなく、わがままをきいてやれないまま、だまして置いてきた婚約者だった。
どちらもリディアには違いない。けれどどうしても、彼女のせっぱ詰まった本音は、クナート家の村で見せた別れ際《ぎわ》のものだったとしか考えられない。
「……悪魔に魂を売ったりしたら、リディアに幻滅《げんめつ》されるだけだぞ」
ファーガスは、いくらか勢いを削《そ》がれたようにぽつりと言った。
「だったらファーガス、僕を止められなかったきみも、いっしょに幻滅されることになるだけだ」
それから長いこと、誰も彼も黙っていた。
エドガーもファーガスも、身動きせずに座り込んでいた。
そんな中、ポールが口を開いた。
「伯爵、ぼくは、ひとりで帰りませんよ」
唐突《とうとつ》な言葉に、何のことかと思いながらエドガーは顔をあげた。
「あなたを残して人間界へなんて帰れません。薬があるというところまでついていきます」
さっき、ファーガスが現れる前にしていた会話の続きらしかった。
「ポール、何を言うんだ。どんなことがあるかわからないし、きみが僕のために危険を冒《おか》すのは間違っている」
「間違ってません! 伯爵、あなたはプリンスの思い通りにならなかったじゃないですか。今でもそうやって、リディアさんはもちろん、ぼくのことなんかも守ろうとしている。自分の手を汚すことだってためらわないけれど、自分のためだけにはそうはできないのがあなたです。プリンスに支配されるはずがありません」
いつになく、ポールは熱くなっていた。
「あのプリンスに復讐《ふくしゅう》を果たしたんですよ。ぼくも|朱い月《スカーレットムーン》≠フみんなも、あなたのおかげで解放された。もう戦う必要はないし、プリンスの魔の手におびえることもなくなりました」
「復讐?」
ファーガスが怪訝《けげん》そうに口をはさむが、ポールの耳には届かなかったようで、力を込めて彼は続けた。
「伯爵、あなたはプリンスじゃない。ただみんなのために犠牲《ぎせい》になって、忌《い》むべきものを引き受けただけだ。なら、ぼくはあなたを守るために何だってします!」
思いがけなかった。この先はひとりで、自分の内にあるものと戦っていくしかないと思っていたけれど、そうではなかったのかもしれない。
「ポール……、ありがとう」
微笑《ほほえ》みを向けると、ポールはようやく安堵《あんど》したようだった。いつもの、恥《は》ずかしそうな笑みを浮かべ、その笑顔にエドガーは、以前と変わらない彼の友情を確信していた。
(旦那《だんな》、岩場に入るぞ)
どこからともなく青亡霊の声がした。エドガーが視線を動かすと、前方にそびえるような岩山があった。
その頂上は海面に突き出しているのではないだろうか。彼らのいる場所はかなり深いようで、上の方はよく見えなかったが、考えながらエドガーは眺《なが》めやる。
「伯爵、さ、裂《さ》け目に吸い込まれていきますよ!」
ポールが叫《さけ》べば、岩の裂け目が間近に迫っていた。そうしてそこに向かって、船は潮《しお》の渦《うず》に乗ってスピードを増していた。
また船は大きくゆれる。
エドガーたちは振り落とされないように周囲のものにつかまらなければならなかったが、急に泡《あわ》立った水が押し寄せてきて、何も見えなくなったまま、懸命《けんめい》に手すりにしがみついていた。
それでも水は苦しくなく、エドガーには風のようにしか感じられなかった。
すべてがおさまって、目を開けると、船は洞窟《どうくつ》の中らしい場所にあって、岩場に乗り上げたような状態で止まっていた。
そこはもう、海中ではない。海の水は、わずかに地面を濡《ぬ》らしているだけだ。
潮が引いた海岸みたいに、海草がからまり、ところどころに潮溜《しおだ》まりができている。
青亡霊は次々に船を降りていく。
エドガーたちも促《うなが》されて、縄ばしごを使って岩場に降り立つと、船長が近づいてきて、奥に見えるせまい横穴を指さした。
(ここはすでにあるじの夢の端《はし》だ。その先に、夢のさらに奥へ入っていける入り口がある)
(そこを通り抜けないと、あるじの夢の源《みなもと》には行けない。……だが、入り口に触れるときは、邪《よこしま》な願いを捨てるんだな。でないとあるじの怒《いか》りを買うぞ)
「きみたちのようになるってことか?」
(そうだ。この薄暗《うすぐら》い岩場につながれた亡霊となる。夜《よ》な夜《よ》な荒海へ出ていけるだけだ)
「ふん、海賊《かいぞく》め。あるじの宝石を盗《ぬす》もうとしたからだろ」
ファーガスはつぶやくが、かつての海賊たちには屈辱的な過去すら遠すぎるのか、懐《なつ》かしむように目を細めた。
(まったく。昔は大海をいくつも制したものだが、こんな北の、せまい海峡に閉じこめられることになるとは)
(旦那、あるじの夢を壊して、泉の魔力《まりょく》を俺たちに分け与えてくれ。そうすればおれたちは自由になれる。好きなだけ海で暴《あば》れられる)
「バカ言うな! |悪しき妖精《アンシーリーコート》が自由になったら、島々の氏族《クラン》が迷惑《めいわく》するだろ!」
ファーガスの暴言も、亡霊たちはバカにしたように笑った。
(どっちみち、人の世は災《わざわ》いに満ちてるだろ。あるじの夢はこのところほころびが大きくなって、悪霊妖精《スルーア》どもだって、人間界で存分《ぞんぶん》に暴れていると聞く)
「それは、災いの王子《プリンス》のせいだ」
(災いの王子が生まれて、アンシーリーコートを勢いづかせている。とはいえそれ以前からこの島々は、災いの王子を生み出すくらい、あるじの夢にほころびができていたってことさ)
「なぜあるじの力が弱まった?」
エドガーが問う。
(夢が完成する前に、人間たちは亀裂《きれつ》のほころびをふさぐことに気を遣《つか》わなくなったからじゃないか?)
(このごろの人間は、あるじのことを忘れかけてる)
(あるじは何もしない。姿も現さない。ただ夢を見ているだけだからな。人には、妖精以上に信じにくい存在だろ)
反論できなかったのか、ファーガスは黙《だま》った。
「行こう」
エドガーは、あるじの夢の入り口を目指して歩き出す。
力強く頷《うなず》き、ポールがあとをついてくる。ロープでつながれたままのファーガスも、しかたなくというよりは、自《みずか》ら進んで歩き出した。
ロタたちの一行は、目星をつけた小島に上陸していた。
エドガーとレイヴンがロタと再会した島にほど近い場所で、天気のいい今日は、うっすらとその島影が見えている。
そんな、無人のごく小さな島に降り立ち、最初に口を開いたのはレイヴンだった。
「ここは、島々のあるじ≠フものだという島ではないでしょうか」
「あるじって、エドガーが言ってた、薬を持ってるってやつか? だったら薬もここにあるのかな」
ごろごろした岩が重なる人《い》り江《え》は、ボートを近づけるのもやっとだった。どうにか草の生えた丘までのぼってきたところで、ロタはあたりの様子を見まわした。
「薬は夢の中にあるんだろ? ここがあるじの島でも、夢の中へ入らないかぎりは見つけられないぞ」
ニコもしっかり二本足で地面を踏《ふ》みしめる。
そこに立てば、向こう側に海が見える。なんて小さな島だろう。
リディアはどこにいるか。夢の中へ入っていった彼女の気配《けはい》は判然《はんぜん》としない。
けれどリディアのことだ。そのうち助けを求めてニコを呼ぶだろう。近くにいれば声が届く。リディアを見つけられる。そう思ってニコはロタとともに来た。
ケルピーも姿を見なかったから、リディアといっしょなのかもしれないが、体ばかり大きくて魔力が強い妖精でも、リディアの心の支えになれるのは自分だとニコは思っていた。
ケルピーなんかより、ずっとリディアを知っている。
子供のころから面倒を見てきた。
リディアは強がりで頑固《がんこ》で、母を亡くしてからも、父親や祖母の前では明るく振る舞っていた。妖精が見えることで意地悪をされても、人前では泣かなかった。ニコだけが、彼女の涙をぬぐってやっていた。
リディアのことは誰よりわかっているのに、どうして彼女のそばを離れてしまったのだろうと、今は後悔《こうかい》を感じている。
アウローラに頼まれた、リディアの成長を見届けるという役目は終わったから?
そうではない。ニコはたぶん、リディアが結婚して、本当に自分が必要ではなくなったら、そう実感するのはいやだったから、離れようと思ったのだ。
だから、彼女がニコをさがして現れたときは、うれしかった。
「なあニコ、ここから青亡霊《あおぼうれい》の棲《す》みかにつながってると思うか?」
ロタに問われ、ニコは風に吹かれる毛並みを意味ありげに撫《な》でつけた。泣きそうな顔をしていたのは、たぶんロタには気づかれなかったはずだ。
「地下へ行く道が見つかればな」
「地下ねえ。どっかに階段でもあるって? レイヴン、昔から完全な無人島なんだろ?」
「そう聞きました。昔はここであるじに供物《くもつ》を捧《ささ》げたとか。けれど英国人がねらっていて、不正に占拠《せんきょ》しようとしてたみたいです」
「英国人がこんな島を欲しがってたのか? 草もわずかで、ヒツジを飼うのもどうかってところだ」
「宝石があるとか、聞きましたが」
「宝石か。あるじの夢の中心は、宝石でできているっていわれてるからな」
ニコはつぶやく。
「そうなのか?」
「ああ、青亡霊どもが海賊だったころ、それをねらってたって伝説だ。ともかく、宝石の話が本当なら、ますますこの島に入り口がある可能性は高いよな」
丘の上を歩き回っていたニコは、ふと気づいて立ち止まった。
「空洞《くうどう》があるぞ」
「えっ、どこだ?」
駆《か》け寄ってきたロタがキョロキョロと見まわすが、何も見えないようだ。
「この先は妖精界だな。自分で通り抜けてくれないと、おれは連れていけないんだが」
「見えれば入れるんですか?」
ニコのそばへ来たレイヴンが、覗《のぞ》き込んだ。
「レイヴン、見えるのか?」
「はい。穴が開いてます」
意外に思いながらニコは首を傾《かし》げるが、ともかく見えるのならレイヴンだけは連れていける。
ロタは案外あっさり納得《なっとく》した。
「じゃ、あたしはここで待ってる。レイヴン、くれぐれもポールを見捨ててくれるなよ」
レイヴンは意外そうに振り返った。
「ファーマンさんもエドガーさまといっしょなのですか?」
「は? あんたも見ただろ! ポールがエドガーと海に落ちたのは!」
ロタに詰め寄られ、レイヴンはまばたきをした。
「……思い出しました」
「まったく、ポールのことなんてすっかり忘れてたのかよ! ああもう、心配だな。エドガーとリディアは守るだろうけど、ポールは目に入らないんじゃないだろうな?」
「とりあえずおぼえておきます」
気休めだな、とつぶやき、ニコは地面にぽっかり開いている妖精界の穴に飛び込んだ。
続いてレイヴンも降りてくる。穴はそう深くはなかったが、上を見あげてももうロタの姿は見えなかった。
そこからは、なだらかに下方へ続く洞窟がつながっていた。
「行くぞ、レイヴン」
「はい」
少し歩くと、道が二つに分かれていた。立ち止まったニコは悩《なや》みつつ腕を組んだ。
「どちらへ行けばいいのでしょう」
「そうだな、きっとこっちだ」
当てずっぽうでニコは言った。
「さすがはニコさんです。妖精界の道には詳《くわ》しいのですね」
ほめられれば図に乗るのがニコだ。おうっ、と胸を張りつつどんどん進む。と、また道が分かれている。
迷った素振《そぶ》りを見せず、さっと右の道を選ぶ。
しかし分かれ道がどんどん増えてくるほど、ニコはあせりを感じ始めていた。
「ニコさん、ここはさっきの三叉路《さんさろ》ではないでしょうか」
「あ、ああ……、いや、ちょっと勘違《かんちが》いしてたな。こっちへ行かなきゃいけないんだった」
「さっきもそちらへ行きました」
「そ、そうだった。こっちだ」
「今そこから出てきたのですが」
「ええと……」
もう、何が何だかわからなくなる。
戻るべき道もわからない。ニコは頭をかかえて座り込んだ。
「ごめん、迷子《まいご》になった!」
「そうですか」
淡々《たんたん》と、しかしいつもの調子で言ったレイヴンは、ニコに幻滅《げんめつ》したのかどうかはわからなかった。
意気消沈《いきしょうちん》して座り込むニコに、並んで腰をおろす。彼も途方《とほう》に暮れているのか、黙り込んでいた。
「……おれは、ほんとは大して役に立たない妖精なんだ。そりゃ妖精界のことはリディアより知ってるけど、並の妖精なんだよ。大した特技もなけりゃ、魔力もわずかしかない」
「知っています」
悪気《わるぎ》のない本音《ほんね》に、ニコには返す言葉もない。ますます落ち込んでうなだれる。
「でもニコさんがいると、何でもどうにかなりそうな気がするんです。深刻にならずにいられるというか」
どうやらレイヴンは、ニコを元気づけようとしているらしかった。
「きっと、ニコさんは運がいいんです」
ほめられているのかどうかよくわからない。それでもニコは顔をあげる。
ほんの少し、レイヴンは笑っているように見えた。
本気でそう思って、楽天的になっているのだろうか。
しかしニコはまだ悲観的だった。自然に存在する妖精界の道なら、迷うなんて考えられないことだ。
どうやらここには、何かとくべつな力が働いている。青亡霊の魔力ごときではない、おそらく、島々のあるじ≠フ夢が、この洞穴《ほらあな》に影響しているのだ。
あるじのことはまるでニコにもわからない。とんでもないところに迷い込んでしまった。
「あの」
レイヴンはまた、何か思いついたように口を開いた。
「これを、お返ししなければと思っていました」
ポケットから取りだしたものを、彼はニコの小さな手のひらに乗せた。まるく磨《みが》かれたブラッドストーンだった。
「ニコさんの落とし物だと思って、あずかっていました」
アウローラの形見《かたみ》の、なくしたと思っていたあの石だ。
ニコはそれをそっと握《にぎ》り込む。
また戻ってきてしまった。
アウローラが、聖地の棺《ひつぎ》から取り出したブラッドストーンだ。古い伝説の、島々を救うと言い伝えられた予言者が残していった石だという。
もしも新たな救い手が触れれば、変化を見せるというもの。
ニコにはぼんやりとした心地《ここち》よい響《ひび》きしか感じられないが、よほどとくべつな力があるに違いない、そんなブラッドストーンが、また彼の手に戻ってきた。
「そうか、レイヴン、あんたに妖精界の穴が見えたのは、これを持っていたせいか」
「この石は、ここで採《と》れたものなんでしょうか」
「なんでだ?」
「いえ、なんとなく。島々のあるじ≠ヘ宝石を持っているというのでふと思っただけですが」
なるほど、とニコは腕を組んだ。
あるじの宝石なら、とくべつな魔力がありそうだ。それにこの島はあるじの島だというし、ここでレイヴンに作用《さよう》したのも頷《うなず》ける。
「うん、そうかもしれないな。とにかく、……拾ってくれてありがとうよ、レイヴン」
ニコはブラッドストーンをネクタイの縫《ぬ》い目に入れようとした。が、手がすべってぽろりと落とす。
と、それは傾斜《けいしゃ》のついた地面に沿《そ》って転がり出した。
「あっ!」
ニコはあわてて追いかけるが、球状のブラッドストーンはどんどん転がっていく。
「うわあ、待てって!」
「ニコさん!」
レイヴンも急いで追ってくるが、ブラッドストーンを手放してしまったせいか、あまり周囲がよく見えないようだ。
石は、複雑に枝分かれした洞窟《どうくつ》を勝手気ままに転がっていく。傾斜はますます急になり、ニコももう止まれなくなっている。
「わわわわ……、ああっ!」
足元の小石につまずいた、とたん、つんのめったニコにレイヴンがつまずく。
ふたりして宙に投げ出されたようになった。
落ちる、と思いながらニコは目を閉じる。
どさり、と体が地面にたたきつけられるまでに、ずいぶん時間がかかったような気がしたのは錯覚《さっかく》だろうか。
おまけに落下したのは硬い岩の地面ではなく、ふわふわと草がたっぷり茂《しげ》った場所だった。
はっとして、ニコは起きあがる。
見まわせば、やわらかな風が吹く草原にいた。
そばでレイヴンも体を起こす。驚いたように周囲を見まわしている。
それから彼は、ふと草の上に視線を落とし、小さな玉を拾いあげた。
濃《こ》い赤を含んだ暗緑色《あんりょくしょく》の宝石、ブラッドストーンだ。
「こいつが、道を教えてくれたのかな」
再びそれを手にして、ニコはつぶやく。
「ここはどこでしょう。青亡霊の棲みかなんですか?」
「たぶん、あるじの夢の領域《りょういき》だよ」
レイヴンは立ちあがった。そうしてニコに手を差し出す。
その手につかまりながら、ニコは考えていた。人の手を取るのは、三人目だ。
「やっぱり、ニコさんは頼りになります」
昔、小さなアウローラが道に迷って、ニコが暮らしていた山間《やまあい》に現れたことを思い出す。その手を取って、ニコは彼女の村へ行った。
同じ山に現れたのがリディアだ。
同じように道に迷って、泣きながらニコの前に現れた。ニコは再び、彼女とともに山を下りた。
待っていれば、誰かが迎えに来る……。
いつからか、どうしてだか感じていたその感覚とともに、ニコが待っていたのは、そういう人間たちのことなのかもしれない。
アウローラやリディアと手を取り合ったとき、ニコは孤独ではなくなった。
死んでしまっても、アウローラと過ごした日々は、ニコの中に鮮やかに残っている。
いつまでもいっしょにはいられない。けれど人との思い出は、いつまでもニコに寄り添《そ》っている。
そうして今は、レイヴンがニコの手を握っている。
[#挿絵(img/chalcedony_183.jpg)入る]
「どちらへ行けばいいんですか?」
迷子になった子供のように、彼は小首を傾げる。
「そうさな、たぶん……、こっちだ!」
ニコは適当に指さしたが、レイヴンは信頼のまなざしを向けて頷いた。
洞窟というには、そこは広大な地下の空洞だった。海水が入り込んでできた湖がどこまでも広がっているように見える中、エドガーたちはその岸辺に沿って歩いていた。
見あげれば上方には、岩の天井が覆《おお》い被《かぶ》さっている。あたりに草は一本もなく、むき出しの岩場が続いていた。
青亡霊《あおぼうれい》の船が着いた人《い》り江《え》から、ずいぶん奥へ入ってきた。しかし、あるじの夢の入り口に近づいているのかどうか、よくわからない。
こんなふうに湖に沿って進んでいていいのだろうか。
「伯爵《はくしゃく》、あれはなんでしょう」
そのときポールが指さしたのは、湖の中ほどに向かってのびる細長い道だった。湖からせり上がった岩が連《つら》なって、一本の道のようになっているのだ。
「先に何かあるようだけど、見えるか?」
「立石《スタンディングストーン》だよ」
ファーガスが答えた。
そう言われれば、岩がひとつ、直立しているように見える。
「あれが、入り口か」
つぶやき、駆《か》け出したエドガーは、少し進んだところでふと立ち止まり、ファーガスの方に振り返った。
当然だが、ポールとともにファーガスもついてきていた。
「いつまでもきみについてこられるのは困るんだが」
「知るかよ、あんたがロープをほどいてくれないんだろ」
彼が言い終わらないうちに、エドガーはメロウの宝剣を抜いた。
「な、何する気……」
ひとふりしてロープを断ち切ると、ファーガスは目を見開いたままよろけてしりもちをついた。
「……てめーっ、おれをバカにするなよ!」
「望みどおりにしてやっただけだろう。これでもうきみは自由だ。さっさと好きなところへ行ってくれ」
エドガーはまた駆け出す。ポールもついてくる。が、ファーガスもそのまま去ってはくれなかった。
「好きなところへ行けって言うなら、おれはあんたを見張るぞ。あるじに手出しするのは見|逃《のが》せないし、リディアをそんなあんたに近づけたくないからな」
かまわずエドガーは、立石《スタンディングストーン》に向かって走った。
近づいてくれば、はっきりわかる。黒い一枚岩がぽつんと立っている。
エドガーは宝剣を握りしめる。
「おい、待て! それが入り口なら、招かれた者しか入れない。壊《こわ》したりしたら、青亡霊たちと同じとらわれの亡霊になるぞ!」
ファーガスがエドガーの腕を押さえるようにしてつかんだ。
「じゃまをするな」
「おれは亡霊になりたくない!」
「だから解放してやっただろう」
「……もうちょっとおだやかな方法を考えろよ! ここまで無謀《むぼう》だとは思わなかったぞ!」
無謀だと言われても、エドガーが島々のあるじ≠ノ招かれるはずはないのだ。むりやりでも入っていくしかなかった。
ファーガスを払いのける。岩場で足をすべらせた彼は、湖に落ちた。
剣を振り上げようとしたときだった。
「エドガー、やめて!」
はっきりとリディアの声がした。
エドガーはあたりを見まわすが、どこにも姿はない。
「リディア、いるのか?」
「おねがい、やめて……、そんなことをすれば、きっと命を落とすわ」
声は、立石の向こう側から聞こえてきているようだった。
「そちら側か……? きみはあるじの夢の中に?」
「こっちへ来ちゃだめ。エドガー、あなたにはもう、薬を手に入れる意味はないでしょう? ロンドンへ帰って。あなたにふさわしい女性はいくらでもいるわ」
漆黒《しっこく》の岩の表面を、エドガーはそっと撫《な》でた。光沢《こうたく》のある平らな面に、自分の姿がぼんやりと映る。それを眺《なが》めながらエドガーは、リディアが同じようにこの向こう側で、岩に手を触れていると感じる。
同じように、エドガーの姿を思い描いているはずだ。
夢の中で会ったとき、求めればぎこちなくも応えてくれた。あんなふうに、心がすぐそばにあると確信できる。
なのに本当に、あのファーガスを好きになったというのだろうか。
「ねえ、バカなことはやめて」
「バカげていてもいいんだ。ただ、償《つぐな》いたい。きみを傷つけたのだから」
「あたし……、傷ついてなんかないわ」
「だまして置いていった。あのとききみは、少なからず僕に失望したんだと思う。いいんだ、きみが誰のもとにとどまろうと、僕は薬を手に入れたい。僕のリディア、きみが僕を求めてくれたあのときの願いを、かなえさせてくれ」
エドガーは決意を固め、宝剣を握り直した。
「リディア、岩から離れて!」
ファーガスの、止めようとする声がまた響いたが、エドガーは剣を振った。
そのとき、突然湖が波立った。
高く盛り上がった水が、スタンディングストーンに覆い被さる。
宝剣が石の柱をたたき割る、その手応《てごた》えを感じたかと思ったが、ぶつかってくる水のかたまりはあまりの衝撃《しょうげき》で、エドガーは気を失った。
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泉のほとりで
あなたは、招かれざる者
暗闇《くらやみ》の中で、誰かが言った。
夢の入り口はそう判断した。だから水が襲《おそ》いかかった。なのに夢は、夢そのものは、あなたを迎え入れた……
声は直接、頭の中に響《ひび》いてくるかのようだった。エドガーは体を動かそうとしたが、思うように力が入らず、目を開けることもできなかった。
波打ち際《ぎわ》に横たわっているかのように、ひたひたと耳元で水音がした。
きっと、あなたがあるじの島を守ったことがあるからだろうな
「僕が、あるじの島を?」
唇だけはかすかに動く。
詐欺師《さぎし》の英国人を追い出してくれた
それで思い出した。聞き覚えのある声だった。
「きみは、あのときの少年か。……僕をまじない師の老婆《ろうば》のところへ案内してくれたね」
あなたの目的を知りたかったから
「知って、今は殺すべきだったと思っている?」
オレにできるのは知ることだけさ。あなたを殺すことも、生かすこともできない。オレはもう、生きてはいないんだから
生きている者もいない者も、あるじのもとでは同じように在《あ》るのだろうか。
青騎士|伯爵《はくしゃく》? それとも災《わざわ》いの王子《プリンス》? オレが知りたかったことは、結局わからないままだったけどね
「僕がどちらだろうと、きみの望みどおりにできるわけじゃない」
今のオレはあるじの夢、あるじが何も望んでいないからには、オレも同じさ。ただ、人々が望むあるじの姿が、変わらなければいいと思ってる
「それは……、眠り続けるあるじかい?」
そうだよ
そして少年の気配《けはい》は唐突《とうとつ》に消えた。
ほとんど同時に、エドガーはまぶたに光を感じていた。
間近でリディアの声がする。
こちらを覗《のぞ》き込んでいるに違いない、やわらかな髪の毛が落ちてきて、彼の耳元をくすぐった。
「エドガー、しっかりして!」
草の上に横たわる彼に、リディアは何度も呼びかけた。けれど動かない。
のぞき込み、頬《ほお》に手をのばす。いつもより冷たい感じがする。
息をしているのか心配になって、顔を近づけようとする。
と、急に身動きした彼の唇が頬に触れた。
「きゃっ」
びっくりして、リディアはあわてて体を起こした。
寝ころんだまま、まぶたをひらいた彼は、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》でまぶしそうにリディアを見つめ、そして満足げに微笑《ほほえ》んだ。
「ああ、いつものリディアだ」
そんな彼を目にしただけで、リディアは頬が熱くなる。ドキドキする鼓動《こどう》に気づかれるんじゃないかと気になって、もじもじと後ずさる。
けれどそうやって気休めの距離をとっても、意味はなかった。起きあがったエドガーがさっと身を乗り出し、リディアの手に手を重ねた。
「このあいだのことは、夢だったんだよね」
このあいだ、別れを告げたことだ。
「……夢だけど、本当なのよ」
「僕は別れるつもりはないよ」
手を引き抜こうとしても、エドガーは離してくれなかった。
「ねえ、もう無茶をしないで。こちらへ入ってこられたからよかったけど、そうでなかったら死んでたかもしれないわ」
リディアは話を変えようとした。
「きみは? 僕を心配して来てくれたの?」
「そ、それは……」
「僕をきらいになったわけじゃない、そう思っていいんだよね」
「あたしのために、危険を冒《おか》すのはやめてほしいの。なのに、あなたが青亡霊《あおぼうれい》の幽霊船《ゆうれいせん》に乗り込んでいったと聞いて、急いで夢の中へ……。ケルピーがいっしょに来てくれたんだけど」
「ケルピー? どこに?」
「それが、彼はここに入れなくて。とにかくあたし、あたりを調べてたら丘の上に立石《スタンディングストーン》が見えて、近づいていったらあなたの声が聞こえたの……。そしたら急にあなたがここに現れて」
腕《うで》をのばした彼は、ふわりとリディアの頭を抱き込んだ。
「こうしていると、ちゃんと存在感があるのに、きみは夢の中の存在なんだね」
そのまま力を抜いてしまいそうになり、リディアはあわてて彼を突っぱねた。
もう、婚約者じゃない。エドガーに、薬のことをあきらめてもらわなければならない。
けれどそんなふうに拒絶《きょぜつ》しても、エドガーは気にしていなかった。いつものように、リディアが恥《は》ずかしがっているだけだと思ったのだろうか。
立ちあがった彼は、自然な動作《どうさ》でリディアの手を引いて立たせた。
まるで空気が流れるように、エドガーはリディアをお姫さまみたいに、そしてとくべつな恋人として扱《あつか》う。気づけばリディアは落ち着かない気持ちになる。彼が手を差し出せば、戸惑《とまど》うことなくその手を取ってしまう。
婚約者じゃないのに。
歩き出しながら、リディアは自分を戒《いまし》めて、つないでいた手を離した。
エドガーはちらりとこちらを見たけれど、何も言わなかった。
草原にぽつんと立つ石柱から離れれば、右も左も同じ風景で、どちらへ向かって歩いているのかすらわからなくなった。草に覆《おお》われたなだらかな大地がどこまでも続いている。
空はやけに青く、空気は澄《す》んで心地《ここち》がいい。
あるじの夢の中は、人を怖がらせるものなど何もなさそうだったが、ただあまりにも広くて、単調な景色で、少しだけ淋《さび》しい感じがするのだった。
「どこへ行くの?」
しばらく歩いてから、リディアはようやくそのことを疑問に感じて問いかけた。
「あるじの泉をさがすんだ。そこから湧《わ》き出す雫《しずく》を飲めば、きみの怪我《けが》はすぐに治る」
「たとえ見つけても、手に入れることはできないわ。だってここは、あるじの見ている夢なのよ。夢の中のものを、現実に持ち帰ることはできないの」
「あるじが目覚めれば、夢は世界と地続きになるんだろう?」
「だめよ、そんなことになったら、島々は混乱《こんらん》するわ」
「どのみち僕が生きているかぎり、島々の災いは消えない。|悪しき妖精《アンシーリーコート》が力を持ち続ける。それに、飢饉《ききん》や疫病《えきびょう》でとっくに島は混乱しているじゃないか」
「今だって大変なのに、もっとひどいことになるのよ」
「彼らの自業自得《じごうじとく》じゃないのか?」
エドガーはいつになく強い口調《くちょう》で言った。
足を止めて、リディアを覗《のぞ》き込む。
「リディア、僕たちはマッキール家には同情しない。そう決めたよね。たしかに僕はプリンスの記憶を持っているけれど、島を拠点《きょてん》に悪しき妖精を集めるつもりもないし、王家に戦争を挑《いど》むつもりもない。あとのことは、島々の住人が解決するべき問題じゃないか」
急に彼は、リディアを引き寄せ抱きしめた。
背中をかかえ込んだ腕が、あまりにも強く力がこもっていて、リディアは驚く。
「だけど彼らはきみを、僕らをだまして巻き込んだ」
胸に顔を押しつけるしかなくて、息苦しいほどだ。
いつもはやさしくて。おだやかに包み込んでくれるのに、余裕《よゆう》などないかのようにリディアをかき抱《いだ》く。
そんな強引《ごういん》な抱擁《ほうよう》に、いつもよりずっとリディアの心はざわついていた。
「僕らはここを去りたいだけだ。そのために必要なことをするだけ。マッキール家が迷惑《めいわく》を被《こうむ》るとしても、お互いさまだろう?」
「……エドガー……」
もっとしっかりと彼を感じていたい。できるなら彼を抱きしめたかった。それでもリディアはどうにか思いとどまっていた。
「僕たちとマッキール家の願いは一致《いっち》しない。お互い干渉《かんしょう》しないことで折り合いをつけるしか、どうすることもできないじゃないか。彼らが犠牲《ぎせい》になればいいとは思っていない。でも、僕らが犠牲になればいいのか? 不公平じゃないか」
「エドガー……、薬を得ても、あたしは飲まないわ。だったら手に入れる意味がないでしょう?」
「飲む気になるかもしれない」
「ううん……」
「だってきみは、この腕から逃《のが》れようとしない」
はっとした。いつのまにかエドガーは力をゆるめていた。それでもリディアは全身を彼にあずけていた。
どうしようと思っているうちに、耳元にキスが落ちた。
うなじを彼の手が撫《な》でる。リディアは促《うなが》されるように顔をあげている。キスはそっと、まぶたに頬にと続く。
別れると決めたのに、こんなことしてちゃだめ。
そう思っても突き放す力は入らないまま、唇が重なる感覚につい目を閉じる。
彼はまた強くリディアを抱く。
やさしくて荒々しい口づけに、どうしていいかわからなくなる。
「やめて……」
言葉を継ごうとしても、またすぐにふさがれる。あまく噛《か》まれ、離れては重なる。
「あたしたちはもう……」
「きみはまだ、僕を愛してる」
リディアの頬を両手で包み込み、確信に満ちた表情でエドガーはささやいた。
「そんなこと」
「ほかの男に心を移したなら、こんなふうに僕を受け入れたりしない。きみがキスを許すのは僕だけ。ファーガスが好きだなんてうそだ」
「……違うわ」
やっとの思いでエドガーの腕の中から逃げ出したリディアは、首筋《くびすじ》を押さえていた。
ファーガスがつけたというキスの跡《あと》はまだ残っている。それは目につくたび、思い出すたびにリディアの心をかき乱した。
そんな自分を恥《は》じれば、エドガーを以前のように好きだなんて言う資格はない気がした。
「言ったでしょう、あたし、……あなたが好きになってくれるほど純粋《じゅんすい》な女の子じゃなかったって。……だから、あなただけじゃない、ファーガスにもキスを許したわ」
エドガーは信じていないと言いたげに、首を横に振った。
「むりやり、か」
「……跡が残るほど長いあいだ……。むりやりじゃないわ。目につくたび、胸が熱くなるの。あなたのキスじゃなくても……」
押さえた首筋を、エドガーはじっと見入る。何を考えているのかわからなかったけれど、リディアに幻滅《げんめつ》しているならそれでもいいと思った。
雨がぽつりと頬に落ちた。
いつのまにか、空に雲が広がっていて、雨粒が次々に、リディアのまつげや唇や髪の毛を濡《ぬ》らした。
「雨宿《あまやど》りできる場所をさがそう」
空を見あげたエドガーがそう言って、そっと背を向けた。
ファーガスは、気がついたときには湖岸《こがん》に打ち上げられていた。ポールという青年も近くに倒れていて、声をかければすぐに意識を取り戻した。
ふたりとも、これといって怪我はなかった。
しかし、アシェンバート伯爵の姿は見あたらない。
ポールはあせった様子で湖岸に沿《そ》って駆《か》けていった。伯爵がどこかに打ち上げられていないか、さがしているようだ。
ファーガスは、ポールに協力する気にはなれずに座り込んでいた。
せり上がった岩が連《つら》なる細い道は、さっきと変わらず湖の中ほどへ続いている。その先には、一本の石柱が立っている。
遠くてはっきり見えないが、折れたり壊《こわ》れたりした様子はなさそうだ。
エドガーの剣は、あれを崩《くず》すことはできなかったのだろう。
そうしてあの巨大な波が、彼に向かって襲《おそ》いかかった。
エドガーは島々のあるじ≠ノとって招かれざるものだったのだから、今ごろ湖の底に沈《しず》んでいるのではないか。
それとも、生きてあの立石の向こう側へ入り込めた可能性はあるのだろうか。
リディアといっしょにいる可能性は?
考えにくいと思いながらも、ファーガスは、エドガーが生きているように感じてしかたがなかった。
リディアとのあいだを裂《さ》くことは、島々のあるじ≠セろうと災いの王子《プリンス》≠セろうとできないのではないだろうか。そんなふうに思う自分がおかしかった。
リディアを手に入れたいと思っているくせに、同時に、エドガーにはとうていかなわない気がしている。
夢の中のキスでさえ、リディアはエドガーのことを全身で受け止める。その肌と血で感じ取るのだ。
ファーガスはそんな恋を知らない。それほど女性に想《おも》われたこともない。
ため息をつこうとすると、背後《はいご》でため息が聞こえた。
湖岸を一周したらしいポールが、意気消沈《いきしょうちん》した顔で戻ってきたところだった。
ファーガスのように座り込み、彼は頭をかかえ込んだ。
「なあ、伯爵の復讐《ふくしゅう》ってなんだ?」
エドガーの友人だというポール。ファーガスの中には、この青年に対する疑問がわきあがってきていた。
「ぼくが話すことじゃありませんから」
「あいつは、プリンスと戦ってきたのか? あの組織に属していて、後継者《こうけいしゃ》になったんじゃないのか? リディアには何もかも隠《かく》していて、だから……」
「違います。リディアさんは、伯爵の過去も苦しみも理解して寄り添《そ》っていらっしゃったんです」
いくらか頭にきたように、ポールは断言した。
ファーガスは不思議な気がしていた。
ポールは見るからに善良そうな男だ。
悪魔に魂《たましい》を売ってもいいというエドガーを、ささえると言い張った言葉をわけもわからず聞いていたが、どうしてポールはそんなに、エドガーに心酔《しんすい》しているのだろう。
「あんたもリディアと同じか? 伯爵《はくしゃく》の過去も苦しみも知ってるってことか」
「さあ、ぼくはそこまで理解していないかもしれません。でも、伯爵には何度も助けられたし、誇《ほこ》りに思える人なんです」
「誇り、ね。おれを奴隷《どれい》にしやがったぞ。そりゃおれは、リディアを横取りしようとしてるじゃまな男だ。きらわれてるのは百も承知だけど、表面くらい取り繕《つくろ》うのが紳士《しんし》だろ」
顔をあげたポールは、怪訝《けげん》そうにファーガスを見た。
「伯爵は、あなたを助けたんですよ」
「船底の骸骨《がいこつ》にならずにすんだからか? ふん、助ける気ならすぐにロープをほどけばいいだろう。だったらおれだって感謝する気になったかもな」
「さっさと解放されてたら、また青亡霊《あおぼうれい》の奴隷にされるだけです。今も、もし自由にしているのを彼らに見つかったらまずいでしょう」
ポールの言葉に目を見開く。
「ええっ、そうなのか?」
思わず立ちあがったファーガスは、ゆるくカーブした湖岸の奥に目をやり、あわてて岩影に身を隠した。
「やつらだ!」
「え」
ポールのことも岩影に引き込みながら、ファーガスは早口にまくし立てた。
「青亡霊の連中だよ。見つかったら骸骨にされちまう」
「すぐにはならないと思いますが」
そんなことはどうでもいい。
「あんた、何とかしてやつらを追い払ってくれよ」
「で、でも、ぼくも伯爵の付属品みたいな扱《あつか》いでしたから……」
エドガーがいないとなれば、ふたりとも奴隷にされるのだろうか。
そうしているあいだにも、青亡霊たちは近づいてきていた。ざわざわと話し声が聞こえる。
どうやら彼らは、さっきの高波《たかなみ》と洞窟《どうくつ》の振動《しんどう》を感じ取り、どうなっているのかがまんできなくなって見に来たらしい。
このままでは見つかってしまう。
「ど、どうしましょうか」
「逃げるしかねえだろ」
ファーガスは駆け出す。あわててポールもついてきた。
(おい、人間たちだ)
しかしすぐに、青亡霊に気づかれる。
(旦那《だんな》はいないぞ。奴隷ばかりだ)
(なら俺たちがもらってもいいな?)
「冗談《じょうだん》じゃないぞ」
つぶやきながら、ファーガスはせまい横穴に逃げ込んだ。
奥へと逃げ続ける。しかし亡霊たちもあきらめずに追ってくる。
「道が分かれてますよ!」
行き止まりだったらおしまいだ。
「こっちだ!」
そのとき女の声がした。
「ロタ?」
声のした方にポールが駆け出す。ファーガスも駆け込めば、ロタが手招きしている。
「あんた、ロタと知り合いなのか?」
「えっ、そっちもですか?」
「ふたりとも、こっちだよ。上へ行けば外へ出られる」
「ああっ、まだ青亡霊が追ってきます」
振り返ったポールがあせった声をあげた。
「ファーガス、あんた氏族長《しぞくちょう》の息子だろ! やつらの撃退《げきたい》方法くらい知らないのかよ」
「知ってるけど知らない!」
「なんだよそれ!」
走りながら、ファーガスはロタと言い合う。
「とどめの言葉≠言えばいいんだよ! でもそいつがどんな言葉か知らない」
「はあっ? 役に立たねえな!」
「韻《いん》を踏《ふ》んだ言葉なんだ。知ってるのはそれだけだよ」
「韻……って何だ?」
ロタは首を傾《かし》げた。
「それは、……とにかくおれは詩は苦手だ!」
「詩? ポール、得意だったよな」
「えっ、い、いや……、ぼくは才能がなくて」
「おいファーガス、とどめの言葉≠ノ才能はいるのか?」
「さあな、むしろ破壊力だろ!」
「だそうだ、ポール」
「ええっ、そんな、創作すればいいってものでもなさそうな……」
「やってみるしかないじゃないか!」
走りながらも話し合いは決着した。運命をゆだねられたポールはもう、息も絶《た》え絶《だ》えなのにさらに青くなっていた。
「早く、何か思いつけよ!」
青亡霊との距離が縮まってきているのに気づき、ファーガスは急《せ》き立てる。
意を決したのか、ポールは立ち止まった。
追ってくる青亡霊たちに向き直る。
彼が何か言いかけたそのときだった。
上方《じょうほう》から光が射した。
その真上は地上まで届く空洞《くうどう》だったらしく、外の雲が急に晴れたのか、陽光が洞窟の中まで直接に降りそそぐ。
光をあびた青亡霊は、うめき声をあげた。
急に方向転換をして、互いにぶつかり合いもつれ合いながら引き返していく。
そのまま視界から姿が消えると、洞穴《ほらあな》に響《ひび》いていた彼らのざわめきも消えていった。
「やったな、ポール! すごい効き目だ」
呆然《ぼうぜん》としていたポールに、ロタが抱きついた。
「まだ何も言ってないけど……」
すっかり脱力したまま岩壁《いわかべ》に寄りかかったポールがつぶやく。ファーガスはおかしくなって、座り込みながら思いきり笑った。
[#挿絵(img/chalcedony_205.jpg)入る]
稲光《いなびかり》が空を裂《さ》く。とたん、空気をゆさぶるような音が響いて、リディアは耳を押さえながら目を閉じた。
「空が明るくなってきた、きっとすぐに雨はやむよ」
そう言いながらエドガーは、窓、というよりは四角くくりぬかれただけの壁際《かべぎわ》から移動し、リディアから少し離れた椅子《いす》に腰をおろした。
草原の中にぽつんと建つ小屋を、ふたりが見つけたのは、雨が降り出して間もなくだった。
石を積んだ建物に藁葺《わらぶ》きの屋根、昔ながらの建物だったが、中には誰もいなかった。
ここは島々のあるじ≠フ夢の中だ。人が暮らしているはずはない。だとすると、小屋があるのも奇妙《きみょう》な話だったが、なんとなくリディアは、あるじの厚意《こうい》のように感じていた。
それとも、泉をさがさせまいとして、ここに閉じこめておく意図《いと》だろうか。
雨はやまないのかもしれない。
ファーガスにキスされたことを話してから、エドガーはリディアに一定の距離を保っている。
恋人どうしの距離ではなくなったと、リディアはそんなふうに感じる。
「寒くない?」
変わらずリディアを気遣《きづか》ってくれるし、こちらを見つめる視線は少しもよそよそしくないけれど、ふたりきりなのに手をのばしても届かないところにいる。
「ええ。……あなたの方が。あたしは生身じゃないもの」
「そうだったね。だけど僕も寒くも暑くもないな。現実の世界じゃないからかな」
リディアはつらい気持ちを押さえ込んで微笑《ほほえ》んだ。
これでいいと自分に言い聞かせる。別れたいと言いだしたのはリディアだし、エドガーは薬をあきらめてくれるかもしれない。
「小降りになったら、僕は行くよ」
けれど彼はそう言った。
「ど、どこへ?」
「もちろん泉をさがしに。きみは、ちゃんと自分の居場所《いばしょ》に帰るんだよ。……薬が手に入ったら、誰かに届けてもらう。飲まなくても、それはきみの自由だし、僕の勝手な目的につきあう必要はないんだから」
リディアは思わず立ちあがった。
「どうしてなの? あたしが薬はいらないって言っても、手に入れなきゃならないの?」
「そうだよ」
静かに、そして淋《さび》しげにエドガーは頷《うなず》いた。
「あきれてる? 島々が危機に直面してもかまわないなんて、自分勝手な理屈だって」
それでいて、ゆるぎのない目をしている。
「でも、これが僕だ」
守るべきものを守るためなら、何だってする、そういう人だ。そしてそれは、貴族だからだとリディアは思う。
マッキール家だって、氏族《クラン》を率《ひき》いている主人だから、民《たみ》のためにリディアの犠牲《ぎせい》はやむを得ないと考えていた。
同じように、エドガーも戦っている。自分のためではなく、世の中のためでもなく、守ると決めたもののために。ひとりきりで。
きれいごとじゃすまされない。だから、リディアの言葉は届かない。
エドガーを止めたいリディアは、この島々のためを考えているわけではない。本当はただ。
「……これ以上、プリンスに近づいてほしくないの」
もう好きだとはいえないから、そう言う。
「ああ、危機感はあるんだ。だけど僕は、プリンスだって利用しようと思ってしまう。きみがいなくなったら、プリンスの記憶をかかえて生きていく意味なんてなくなるんだから」
けれどリディアがそばにいれば、エドガーはこの先何度も、ことあるごとにプリンスの力を使うかもしれない。
結局、何を願っても、彼を止めることはできないのだ。
「だから、リディア、きみがこの島々に愛着を感じていて、守りたいというなら、僕は消えてもいいんだ。そしたら、たとえあるじが目覚めても、|悪しき妖精《アンシーリーコート》ばかりが力を持つこともないだろう?」
あせりを感じて、リディアは彼に歩み寄った。
「消えるって、何なの? あなたは自分がいなくなっても、あたしに薬を飲ませたいの?」
すぐそばに立つリディアを見あげながらも、彼はさっきのように手を取ろうとはしなかった。
「そんなに近づいたら、またむりやりキスしてしまいそうだ」
むりやりじゃなかった。リディアが好きなのは、今でもエドガーだけだ。けれど彼には、ファーガスを好きになったと伝えた。
それでいてキスを受け入れた彼女のことを、エドガーはあきれているのだろうか。
恥《は》ずかしくなって、リディアはうつむいた。
「きみが幸せになれるなら、僕はどうなってもいい。だけど、薬だけは手に入れる」
「わからないわ、どうして?」
「償《つぐな》いたいから」
立石《スタンディングストーン》を壊《こわ》そうとしていたときも、彼はそんなことを言っていた。置き去りにしたことで、リディアを傷つけたとも言った。
けれどそれは、リディアを助けるためにしたことだ。今となっては、自分が冷静になれなくて、とんでもないわがままを言っただけだとわかる。
「償うようなことなんてないじゃない」
「後悔《こうかい》しているんだ。あのとききみの願いをかなえてやれなかったこと。だから今の僕の願いは、泉の雫《しずく》を手に入れることだけ」
「あれは、ただのわがままよ」
「本気のわがままだった。僕のそばにいたいと言ってくれた」
はっとして、リディアは口をつぐんでいた。
「きみはもう、あのときの願いなんてどうでもいいのだろうけど、薬を手に入れられないなら、僕はきみの言葉を聞き入れずに、説得して安心させることもできずに、だまして置いてきただけの最低の婚約者だったことになる」
だからなの?
今のリディアが、何を言ってもエドガーには届かない。なぜそうなのか、やっとリディアは理解していた。以前の自分には、もっと強い願いがあったからだ。
エドガーを止めたいという今の願いよりも、ずっと強く心の底から願ったあのときの思いが、彼を動かしている。
リディアを置いていく決意をした、エドガーの方がつらかったのだ。
リディアが彼に向ける好意はいつでも子供っぽくて、ぎこちない恋人でしかなくても、エドガーは大きな愛情で包んでくれていた。だからこそあのとき、苦しい思いをしても治療を選択したのだし、薬があるというなら手に入れなければならないと思っている。
まだ表面的な恋しか知らないリディアが、彼のためにと考えた別れの選択なんて、彼にとっては何の意味もないことだった。
リディアの心が誰に向かおうと、エドガーは、たしかに自分に向けられた願いをかなえようとしているだけ。
彼の決意に気づいても、どうしていいかわからないまま、リディアは震《ふる》える手を胸元《むなもと》で握《にぎ》りしめながら突っ立っていた。
エドガーは立ち上がり、迷いながらリディアにのばしかけた手を、結局そのままおろして言った。
「そろそろ行くよ」
傾いた木戸を開けるその背中を、リディアは眺《なが》めていることしかできない。
小屋の外はまだ雨が降っていて、ときおり空も光る。なのにエドガーはひとり出ていく。
このままもう、会えなくなるの?
そんなのいやだ。
しかしリディアは、エドガーを止められなかった。
彼がプリンスに近づく危険をおかすなんて、これで最後にしてほしいから、追うことなんてできない。
……本当にそう?
違う、あたしはプリンスを恐《おそ》れているだけ。
エドガーは、プリンスから得たものでも青騎士|伯爵《はくしゃく》の力にできると思っている。立ち向かっていこうとしている。けれどあきらかに無謀《むぼう》な行為で、不幸な結果を招くだけかもしれない。
……だったら、いっしょに堕《お》ちればいいじゃない。
彼が背負ってしまったものも、それが招く結果も、いっしょに受け止めればいい。
自分も彼も幸せになれないなら意味がないと、別れようとしたなんて。
行かなきゃ。
リディアはまだ、彼が与えてくれた愛情に応《こた》えていなかった。
リディアが心の底から欲しがったものを、エドガーは手に入れようとしてくれているのに、逃げ出すなんて間違っていた。
するべきことは、エドガーを止めることなんかじゃなかった。
「エドガー!」
何があっても、彼が何をしようと、そばにいる。彼が望んでくれるかぎり……。
「エドガー、待って!」
小屋から駆《か》けだす。
雨の中を、エドガーを追いかけて走る。
気づいた彼が、立ち止まって振り返った。
走りながら、リディアは迷った。
抱きついていいのかしら。でも、自分はファーガスを好きになったと彼に言った。なんて軽薄《けいはく》な女だと思うかしら。
そんなだから、つい勢いが削《そ》がれる。彼の前で立ち止まろうとしたとき、雷鳴《らいめい》がとどろいた。
「きゃあっ!」
とっさに抱きついていた。
すぐに我《われ》に返って、急いで離れようとしたけれど、エドガーの腕がしっかり腰にまわされていた。
「……あたしを、連れて帰って!」
迷ったら言えなくなる。リディアは勢いにまかせてそう言う。
わずかな間でも、彼が黙《だま》っているのが怖くなる。視線を首筋《くびすじ》のあたりに感じると、キスの跡《あと》があることを思い出し、そこだけが熱くなった。
ここにあるのはリディアの意識だけだから、跡が見えるはずもないと思うのに、エドガーは見えているかのように眉《まゆ》をひそめた。
「もういちど僕を選んでくれるの?」
おだやかな声で、彼はそう言ったけれど、今のリディアは、かつて連れて帰ってと願ったリディアとは違っている。
リディア自身は変わらないけれど、エドガーにとっては違うだろう。そう気づくとますます怖くなった。
「あたしのこと、もうきらいになった?」
おそるおそる訊《き》く。他の人を好きになったと言いながら、いまさら遅いのだろうか。
「なるわけないじゃないか。……いいんだね? この僕で」
しっかりと抱きしめてくれる。
それでいて、少しだけ遠慮《えんりょ》を感じる。
ひかえめに頭にキスしただけなのは、リディアが言葉をひるがえさないかと心配しているのか、それとも、彼の心にわだかまりがあるからなのか。
でも、そばにいる。リディアはもう迷わないつもりだった。
エドガーが薬を手に入れるというなら、少しばかり、リディアに幻滅《げんめつ》しているとしても、以前のようには愛してもらえなくなっても、いらないと言われないかぎりはついていこう。
間もなく雨はやんで、またさわやかな青空が広がった。エドガーはリディアと、草原を歩き続けていた。
あてもなく、というわけではない。歩いているうちにエドガーは、奇妙な現象に気づいていた。
綿雲《わたぐも》が浮かぶ空は、べつだん奇妙でも何でもないが、どうにも雲は放射状に流れていく。注意して眺めていると、空の一点から雲がわきだしてきているようにも見える。
あそこがあるじの夢の中心なのではないだろうか。
だとしたら、夢の源《みなもと》だという泉も、きっとあのあたりにある。
つながれた手を意識して、リディアの方を見る。目が合うと、彼女ははにかんだ笑《え》みを浮かべる。
二度と離したくない。
つい力を入れてしまいそうになるけれど、できるだけそっと、エドガーは彼女の手を握っていた。
はじめて手をつないだ恋人どうしのように、最初からやり直すつもりでいる。ゆっくりと、リディアがもういちど自分だけを見てくれるように。
急いで以前の距離を取り戻そうとして、彼女の心に違和感《いわかん》が残れば、ファーガスに傾いた気持ちを思い出してしまうかもしれない。エドガーはそれを恐れていた。
急いだりしなければ、必ずリディアを取り戻せる。
ファーガスのことは、少し淋しかっただけに違いない。時間がかかっても忘れさせてみせる。
「エドガー、あれを見て」
リディアが前方を指さした。
頬《ほお》を紅潮《こうちょう》させ、まばたきする。何かを見つけたらしいリディアが、こちらを覗《のぞ》き込むのがかわいい。
「ちょっと、何見てるの? あっちよ」
困惑《こんわく》して、ますます赤くなりながら、必死で何かを指さすリディアがかわいい。
「エドガー……」
「それはきみよりも眺《なが》める価値があるの?」
「もうっ」
頬をふくらませるリディアもかわいいけれど、あまり彼女を怒《おこ》らせないために、エドガーは首を動かした。
地平線しかなかった草原に、岩がぽつんとあるのが見えた。
雲が湧《わ》きだしているように見える、その真下だ。
リディアと顔を見合わせ、駆け出す。
近づいてくれば、岩は見あげるほどに大きく、卵のような形をしていた。歩いて一周するのに数分はかかるだろう。
夢の卵、ここからあるじの夢は生まれるのだろうか。そんなイメージが思い浮かぶ。
「これが夢の源かしら」
「宝石でできていると聞いたんだけどな」
岩の表面は、灰色のありふれた石に見えた。それに泉もない。
「エドガー、こっちに大きな割れ目があるわ」
リディアが呼んだ方へ回り込むと、卵の岩にはひびが入ったようになっていた。
その亀裂《きれつ》は、人が入っていけるほどの幅《はば》があり、岩の内部へと続いているようだった。
「行ってみよう」
数歩中へ入ったとたん、風景が変わった。
壁面が磨《みが》かれた鏡のように、エドガーとリディアの姿を映しだしたのだ。
外側の岩とはうって変わって、内側は漆黒《しっこく》の石でできていた。
「……オニキス……?」
そのつやつやした黒い表面が、彼らの姿を合わせ鏡のように何重にも映し出す。
「エドガー、あるじの宝石なんだわ」
ふと気づくと、リディアがそばにいなかった。声は聞こえる。ちらりと姿は見えるけれど、鏡像ばかりだ。
「リディア、どこだ?」
「え……、やだ、エドガー、そこにいたんじゃないの?」
岩の内部は複雑に亀裂が入り組んでいた。声が反響し、リディアがどこにいるのかわからない。
「動かないで、僕がきみのところへ行くから」
「わかったわ」
オニキスに映るリディアの姿をさがそうと、エドガーは目を凝《こ》らす。キャラメル色の髪がちらりと見えたような気がした。
急いで目で追おうとするが、また見失う。しかしエドガーは足を止めた。すぐそばの石壁にここにあるはずのない風景が、ぼんやりと映っているのに気がついたのだ。
いったい何だ?
よく見ようと覗き込む。人影がいくつもうごめいている。
黒い石の奥に像を結んでいるのは、礼拝堂《れいはいどう》らしきところだった。
黒い服の男女が、棺《ひつぎ》の周囲で泣いていた。
葬儀なのだろうか。いったい誰の?
めまいとともに、エドガーはその幻影《げんえい》の中に引き込まれる。ゆっくりと、棺に向かって歩いていく自分を意識する。
そうしながら彼は、参列者に知っている顔をさがそうとするが、誰の顔もよく見えなかった。
棺のそばにいたひとりが、こちらを見ていた。その顔だけははっきりとわかった。
カールトン教授……。
まさか。
『あなたのせいだ』
教授はエドガーを責めるようにそう言った。
『あなたは、……守ると誓《ちか》ったじゃないですか』
リディアが、僕のせいで。
『なのにあの子は、ともに堕ちてもいいとまで……。あなたに利用されただけだ』
利用? そんなバカな。
棺に駆け寄ろうとした。その瞬間、幻《まぼろし》は消えた。
ただの幻だ。そう思おうとする。それともあるじの意図《いと》だろうか。望まない侵入者《しんにゅうしゃ》を追い出そうとしているのかもしれない。
とにかく彼女のところへとあせりながら、エドガーは歩き出す。
けれどオニキスの岩壁《いわかべ》は、またエドガーの目を引きつけた。
礼拝堂、けれどさっきとは違う雰囲気《ふんいき》の中、後ろ姿のリディアをエドガーは見つけたのだ。
花嫁《はなよめ》衣装を着たリディアだった。しかし隣《となり》にいる男はエドガーではなかった。
赤毛だということはわかる。そのうえ、キルトを身につけている。
ファーガス?
彼の方を見たリディアは、幸せそうに微笑《ほほえ》んでいた。
誓いの口づけを待って、彼女はそっと目を閉じる。
エドガーにしか見せたことのないはずの表情。いや、もうファーガスも知っているのか。
いったいこの幻は何だ? 島々のあるじ≠ェ見せる幻覚《げんかく》? それとも、未来?
エドガーには彼女を幸せにはできない。待っているのは不幸な結末だけだと示されたかのようで、彼は動揺《どうよう》していた。
「リディア!」
思わず叫《さけ》んでいた。
しかしその幻に、エドガーの入り込む余地《よち》はなかったのだろうか、像はゆっくりと消えていった。
「エドガー、こっちよ。わかる?」
返事がある。リディアの姿を見つける。ほっとするが、不安は消えない。
ただの幻だったらいい。けれどこのまま、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力《まりょく》を使って薬を手に入れて、本当にリディアの未来を明るいものにできるのだろうか。
「ねえエドガー、この奥が明るいの。オレンジ色の光が見えるわ」
「リディア、まだ動いちゃだめだ」
強い好奇心に惹《ひ》かれたのか、リディアは少しだけ奥をのぞき見ようとしたのだろう。わずかに動いたらしく、またエドガーの視界から消えた。
足を速めようとしたエドガーの目にも、オニキスの壁の奥、オレンジの光がちらりと見えた。
リディアがそちらにいるのは間違いない。エドガーは明るい方へ向かって急ぐ。
オニキスのトンネルを抜けたと思うと、周囲の壁も床も天井《てんじょう》も、オレンジ色の石に囲まれた場所に出ていた。
「これは、カーネリアン?」
「父さまに聞いたことがあるわ」
リディアの声が聞こえた。
「オニキスもカーネリアンも、同じカルセドニーって種類なんですって。ジャスパーやブラッドストーン、プレーズも同じで、スコットランドでは昔から貴重な宝石だったのよ」
そしてその、カルセドニーが詰まった卵が、島々のあるじ≠フ夢の源なのだ。
島々を覆《おお》う魔力は、善《よ》きものも悪《あ》しきものも、ここに凝縮《ぎょうしゅく》され、代わりにあるじは島々を人の世として譲《ゆず》り渡した。
あるじが目覚めると、夢の卵は消え、魔力が島々を覆い、人の手には負えないことになる。
考えながらエドガーは周囲を見まわす。カーネリアンが柱のように重なる、その空洞《くうどう》の奥で、呆気《あっけ》にとられたように上方を眺めているリディアが見えた。
「リディア」
駆け寄ろうとしたエドガーに、彼女も気づき、走ってこようとした。
しかしそのとき、リディアの目の前に黒い影が舞い降りた。
「ケルピー!」
「よかった、やっと見つけた」
「どうして入ってこられたの?」
「さあな。だがおそらく、伯爵《はくしゃく》がプリンス≠フ記憶とともに入り込んだからだろう。あるじは、あいつを排除《はいじょ》できそうなものなら何でも侵入《しんにゅう》を許してるんじゃないか?」
言うなり馬に変じたケルピーは、たてがみを震《ふる》わせ、もうリディアを背中に乗せていた。
「何をする、リディアをおろせ」
エドガーは声をあげるが、ケルピーはちらりとこちらを見ただけだ。
「悪いが伯爵、もう時間がない。リディアは長いこと体を離れているわけにいかない」
「待って、ケルピー、もう少しだけ。水音がするの」
リディアの言葉に、エドガーは耳を澄《す》ました。たしかに、かすかな水音らしきものが聞こえる。泉はすぐ近くに違いない。
「リディア、すぐに薬を手に入れる」
エドガーは水音の方へと駆《か》け出した。
「手に入れるだと? 本気かよ! おいリディア、止めるんじゃなかったのか!」
ケルピーの声が耳に届く。
「いいの、あたし、エドガーが望むようにするって決めたの」
「あいつがプリンスになってもか?」
「それでも、好きでいてくれるかぎりそばにいるわ」
プリンスに、なっても?
リディアはそんな可能性まで考えて、覚悟《かくご》をしているというのだろうか。
走りながら、ふとエドガーの脳裏《のうり》に、オニキスの洞窟《どうくつ》で見た幻が浮かんだ。
エドガーのそばにいれば、リディアの未来はあんなふうに……。
そんなはずはない。エドガーは自分のすべてで彼女を幸せにするつもりだ。
プリンスになどならない。
水音を追って、カーネリアンの空間を走り抜ける。いつのまにか道は行き止まっている。
水音は周囲に反響し、すぐそばで聞こえているのに、どこに泉があるのかわからない。
悩みながら視線をおろしたエドガーは、足元の岩盤《がんばん》が深い水の色に変わっているのに気がついた。
澄んだ水が光をあびたときに見せる、鮮やかな緑色だ。
しゃがみ込んでエドガーは、足元の岩を撫《な》でた。
「……プレーズか?」
カルセドニーの一種、カーネリアンやオニキスと同じ種類の石だという。
プレーズの岩に耳を押しあてれば、水音は、足元に広がる岩盤の、はるか下方から聞こえてくるようだった。
泉はこの奥底で湧《わ》き出しているのだろうか。
「泉の水はもうねえよ」
声に、エドガーは振り返った。
ファーガスだ。ポールと、どういうわけかロタもいっしょだった。
「伯爵、無事だったんですね!」
ポールは駆け寄ってこようとしたが、ロタに止められた。ファーガスがエドガーをにらみながら剣を抜いたからだった。
「もうないって、どういうこと?」
エドガーは、ファーガスに戦意を込めた視線を返しながら、宝剣に手をかけた。
「泉はとっくに石化《せっか》したってパトリックに聞いた。あるじはその強い魔力を少しずつ結晶化《けっしょうか》して、夢の殻《から》に閉じこめて、眠り続けている。はるかな昔に、島々を人に明け渡し、人が住む世界としたときの契約《けいやく》の通りだ。水音は、あるじの記憶さ」
「……なるほど、しかしあるじの夢には亀裂《きれつ》ができていた。青亡霊《あおぼうれい》たちは、夢の結晶がほころびつつあると感じていたよ」
あるじの夢の殻は完成したと、エドガーが会ったまじない師は言っていたが、おそらくそうではなかったのだ。
だから、災《わざわ》いの王子《プリンス》≠フ誕生をきっかけに、|悪しき妖精《アンシーリーコート》が力を持ち、島に悪い影響をもたらしている。
それはますます、あるじの眠りの力を弱めつつある。
「まだすべては石化していない。あるじの夢の殻は完成していない。そういうことだろう。この岩の底に、泉が残ってるかもしれない」
「この岩を砕くってのか? あるじが目覚めてしまったらどうするんだよ!」
「あるじが目覚めれば、泉の雫《しずく》は手に入ると聞いたよ」
ファーガスは憤《いきどお》り、歯をかみしめた。
「そうはさせない。おれたちハイランド人の島だ!」
向かってくる。
エドガーは剣を抜き、受け止める。鋼《はがね》がぶつかり合う。
力任せに押してくるファーガスから、エドガーは力をそらし、剣をかわした。素早《すばや》く下がったファーガスは、また剣を握《にぎ》り直して身構えた。
「リディアのためなら、こんなことやめろ」
「よく言うね。卑怯《ひきょう》な手で、僕から彼女を奪《うば》おうとしたくせに」
「おれはべつに、卑怯なことなんて……」
「婚約者のいる彼女に、不埒《ふらち》なことをして傷つけ惑《まど》わせた」
ファーガスは戸惑《とまど》った様子だったが、すぐに開き直って眉《まゆ》をつり上げる。
「キスのことか?……それくらいのうそで壊《こわ》れる仲なら、それだけのものなんだろ」
「うそ、……だと?」
「ああそうだよ。彼女の首にあった跡《あと》は、夢の中で会った誰かのしわざだろ。おれは……、リディアがそいつのことを考えるのがいやだったから、自分がやったと言っただけだ!」
夢の中で?
まさか、と思い浮かぶ。現実には体に触れていないのに、そんなことがあるのだろうか。
それでもエドガーは、すぐに納得《なっとく》していた。リディアにそんなキスをしたのは自分だけだ。
きっとリディアも、夢の中のできごとが体に跡を刻むとは思いもしなかった。だからファーガスの言うことを信じ込んだ。
エドガーは静かに逆上《ぎゃくじょう》していた。
リディアはファーガスに心を動かしてなどいない。ただ、キスの跡があることを不愉快《ふゆかい》に感じられなくて、自分の気持ちに自信がなくなっただけ。
けれどそれは、夢の中でエドガーが与えたしるしだと、無意識にでも知っていたからではないだろうか。
なのに、こいつのせいで。
「なら僕は、どんな手を使っても、きみたちの氏族《クラン》を破滅《はめつ》させても、リディアを取り戻すだけだ」
「それでリディアを苦しめてもか? 彼女はフェアリードクターだ。|善良な妖精《シーリーコート》に親しまれてる。なのにあんたは、彼女のためだと言いながら、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力に染まっていく。どう考えても幸福な未来なんかないじゃないか!」
またにわかに、オニキスに映し出された幻が、エドガーの脳裏に浮かんだ。
隙《すき》をついて、ファーガスが踏《ふ》み込んでくる。一歩遅れたが、かろうじて避《よ》ける。
振った剣が、カーネリアンの柱にぶつかると、きらきらとオレンジの光を撒《ま》き散らしながら破片《はへん》が飛ぶ。
「違うわ、ファーガス! あたしが望んだの」
リディアの声が割り込んだ。
はっとしたように、ファーガスは剣を引いた。
「お願い、やめて……。あたしはエドガーといっしょにいたいの」
ケルピーの背に乗せられたリディアが、カーネリアンの岩が張りだした上方《じょうほう》から、こちらを見下ろしている。
しかしファーガスには、夢の像でしかないリディアが見えないのか、キョロキョロあたりを見まわしながら言葉を返す。
「リディア、伯爵がプリンスになってしまってもか? ここを壊したら彼は、望もうと望むまいと、この島々に巣くうあらゆる悪《あ》しき老たちの王子《プリンス》になるんだ!」
そうなってもエドガーは、その地位を利用するつもりはない。けれど得たものを使わずにいられるだろうか。自分でもよくわからない。
もともとエドガーは、この宝剣が持つ力も、使うのは一度きりのつもりだった。なのに、妖精の魔力がかかわる事態になれば、使わずにはいられない。
それでも、リディアを失いたくはない。泉の雫を手に入れなければならない。
「エドガー、あたしは大丈夫……」
ファーガスはリディアを見つけようと気を取られている。エドガーは彼から距離を取りながら、足元のプレーズの岩をにらみ、宝剣を振り上げた。
「あなたが……後悔《こうかい》しないならいいの」
後悔?
エドガーは思わず手を止めた。
僕が後悔しないって?
あなたのせいだ°ウ授が言った。
あれを、後悔しないような人間になるというのだろうか。
なのにあの子は、ともに堕《お》ちてもいいとまで……
リディアは、そんなふうに考えている?
気づいたエドガーは愕然《がくぜん》としていた。
別れを告げたリディア、それをひるがえして、もういちど彼を選んでくれたリディア。
リディアは少しも変わってなんかいなかった。エドガーにしかキスを許していないし、ほかの男に心を動かしてもいない。
だからこそ彼女は、どこまでもついてきてくれると言った。ともにこの、プリンス≠ニいう宿命を背負うことも、罪の杯《さかずき》を飲むことも覚悟して……。
そこまでさせて、これはリディアのためだと言えるのか。
自分の独《ひと》りよがりにすぎないではないか。
何よりすべきことは、リディアを守ることだった。彼女に、苦しみや悲しみを覚悟させるなんてどうかしていた。
エドガーは剣を振り上げたまま、戦意を喪失《そうしつ》していた。
しかしこちらの動きに気づいたファーガスは、エドガーが今にもプレーズの岩を突き破ろうとしていると見て取った。
「やめて、ファーガス!」
叫《さけ》んだリディアの姿が、ふわりと宙を飛び、ファーガスのそばに舞い降りたようにエドガーには見えた。
けれどファーガスは、勢いをゆるめないまま、エドガーを止めようと斬《き》りかかってきた。
戦う気力を失ったエドガーの目の前には、ファーガスの剣がせまる。
「エドガー!」
リディアの悲鳴《ひめい》が聞こえる。避ける気力もないまま、エドガーは、もうひとつの幻《まぼろし》を思い出していた。
リディアが笑顔で迎えた結婚式だ。
そうか、そのとき自分は、もうこの世にいないのか。
それでもいいと思った。どちらかを選べとあるじが示して見せたなら、自分が消えよう。
ごめん、リディア。
きみを連れ帰るという約束を、また破ってしまった……。
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淡《あわ》い夢から目覚めれば
ごめんね、リディア。
エドガーの声が聞こえたような気がした。
きみは幸せになるべき人だ。妖精に愛されているフェアリードクターが、僕といっしょに堕《お》ちてはいけない。だから……
いや……、エドガー、おいていかないで!
リディアは叫《さけ》ぼうとし、はっと目を開けた。
漆喰《しっくい》の天井《てんじょう》が目に入る。小さな窓は閉まっていて、カーテンを透《す》かした外の光が、ベッドの上をぼんやりと照《て》らしている。
オークのテーブルの上には、退屈《たいくつ》しのぎに読みかけた本が数冊乗っかっている。
見慣れた、マッキール家の館《やかた》だ。
夢から覚めたリディアは、額《ひたい》の汗を手でぬぐい、離れたくなかった人の名をつぶやいた。
「よう、目が覚めたか」
窓辺《まどべ》のカーテンがゆれた。窓は閉まったままだったが、ケルピーが頬杖《ほおづえ》をついて、ベッドの端《はし》に腰掛《こしか》けていた。
「あれ以上夢の中にいたら、体が目覚められなくなっていたぞ」
夢の中で、エドガーがファーガスと戦っていたのはおぼえている。
エドガーは、プレーズの岩盤《がんばん》と化した泉を砕こうとし、ファーガスは止めようとした。
それから……。
その先をリディアは見ていない。ケルピーが強引《ごういん》にリディアを連れ去ったからだ。
「寝てろよ。まだ動くのはきついんじゃないか? 戻ってきてからもう半日|経《た》ってるが、やっと意識が戻ったくらいだからな」
体を起こそうとしたリディアは、ケルピーの言うように、思うように動けなかった。
夢の中へ抜け出していた意識が、体とまだ馴染《なじ》んでいないようだった。
「ケルピー、エドガーはどうなったの?」
それでもリディアは半身《はんしん》を起こし、ケルピーの方に身を乗り出す。
「さあ。おまえを連れて急いで帰ってきたから、俺も知らないな」
ケルピーがあの場を急いで離れたのは、エドガーの身に起こることをリディアに見せたくなかったからだろうか。
そう思うのは、あのときエドガーが、避《よ》けることも抵抗《ていこう》もしようとしていないように見えたからだ。
ファーガスは、何が何でもエドガーを止めるという勢いだったのに。
考えれば怖くなって、リディアは両手で肩をかかえ込んだ。
「おっと、面倒なのが来た。あとでな、リディア」
ケルピーが急に姿を消す。と同時に部屋をノックしたのはパトリックで、リディアは急いでベッドサイドにあったガウンを身につけた。
「パトリックさん、お嬢《じょう》さまにお会いになるなら、少しお待ちになってください……」
ケリーがあとから駆《か》け込んでくるが、パトリックはかまわずリディアのそばまでやってきた。
「失礼してすみませんが、リディアさんにとって重要な報《しら》せだと思いましたので」
「……何でしょうか」
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》が亡《な》くなったそうです」
ケリーが息をのむ気配《けはい》が伝わってきた。リディアは硬直《こうちょく》したまま声も出せなかった。
「誰が、……そんなことを」
しばらくして、ようやくか細い声を出す。
「先ほど、ファーガスが氏族長《しぞくちょう》の屋敷へ戻ってきました。アシェンバート伯爵があるじの夢を壊《こわ》すのをやめさせようと、ファーガスは独断で海峡《かいきょう》へ赴《おもむ》いたらしいのですが、その海域にある小島でいろいろとあったようですね。ともかく、島々のあるじ≠フ夢は守られたとのことでした」
リディアが夢の姿で見てきたことだ。だとしたら、結論はひとつだった。
「ファーガスが、エドガーを……?」
口にしてしまえば怖《おそ》ろしくなった。
あのままエドガーが、ファーガスの剣を無防備に受けたとしたら。その情景を想像できてしまい、リディアは震《ふる》えた。
「彼はマッキール家の次期氏族長として、島を守るために戦った。それだけです」
「そんなこと……聞きたくありません」
「死んでいたのがファーガスなら、悲しまずにすみましたか」
「……ひどいことを、言うんですね」
戦ってほしくなどなかった。ファーガスの死を願うことも恨《うら》むことも、できるはずがないからこそ、リディアは止めようと必死だった。
けれど夢の姿でしかないリディアは、ファーガスに干渉《かんしょう》できなかった。
エドガーには触れることができたのに。
きっとエドガーとだけ、リディアは魂《たましい》で触れ合うことができていたのだろう。
無意識に、首筋《くびすじ》に手を当てる。
ファーガスはうそをついたと言っていた。
これは、あのとき夢の中でエドガーがつけたしるしだ。
不思議だけれど、すんなり納得《なっとく》できた。どうしてこれのことを考えると、胸が熱くなったのかわかった。
いつでも、リディアにはエドガーだけだ。これまでも、これからも。
なのに、エドガーは……。
「……信じないわ……」
リディアはつぶやいた。
「パトリックさん、またあたしをだますつもりなんでしょう?」
パトリックは、感情をひそめた神妙《しんみょう》な顔つきのまま、また口を開いた。
「伯爵は、あきらめたのですよ。薬を手に入れることも、あなたを連れ帰ることも。そうして、自分とともにプリンスを葬《ほうむ》ることにしたのでしょう。青騎士伯爵としての誇《ほこ》りで」
だから、ごめんとリディアに言ったのだろうか。あのときエドガーは、たしかに覚悟を決めたように見えた。
だけど、信じたくない。
「ファーガスは……どうしているんですか?」
「今は、あなたに会うことはできないと感じています」
だから、パトリックが報告に来たのだろう。
リディアはうつむいたまま黙《だま》り込んだ。
パトリックが帰ってしまうと、リディアはひとり、館の外へ出た。ぼんやりと岬《みさき》に沿《そ》って歩きながら、ただエドガーのことだけを考えていた。
僕といっしょに堕ちてはいけない……
彼は土壇場《どたんば》で、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力《まりょく》を使うのをやめた。プリンスの記憶を利用しても、リディアとの約束を果たそうとしていた彼だけれど、約束よりももっと大きな、リディアを守るという誓《ちか》いのために、別れを覚悟した。
彼が背負ってしまったものに、リディアを巻き込むまいと決めたのか。
いつでも、本当につらい思いをしていたのは、リディアではなくエドガーだった。
リディアは結局何もできなかった。
彼から離れることもできず、そばにいると決めたことさえ彼を守ることにはならず、与えてくれた愛情を返すこともできないままだった。
海からの風を体に受けながら、リディアは涙が出ないことを不思議に思った。
この傷が癒えても、もうエドガーに会うことはできないなんて、本当だろうか。
まだ少しも信じられない。
だったら、この目で確かめなきゃ。
リディアはまだエドガーの婚約者だ。結婚はしていなくても、血縁者《けつえんしゃ》のいない彼の生死を確認するべき立場であるはずだ。
そう思うと彼女はくるりときびすを返し、駆《か》けだしていた。
カーネリアンの岩の上を、ちらりと見やったとき、エドガーはケルピーと目を合わせた。
察したように、ケルピーはリディアをむりやり連れ去り姿を消す。と同時に、エドガーは、宝剣を握《にぎ》った腕をおろしていた。
ファーガスが剣を振り上げて突っ込んでくるのをただ眺《なが》めた。
死にたかったわけではない。ただ、自分がリディアのためにできることはもうないのだと思うと、避ける気さえ起こらなかった。
そのとき、目の前に黒い人影が飛び込んできた。
次の瞬間、ファーガスの剣がはじかれて宙を舞う。
「レイヴン……」
褐色《かっしょく》の肌の少年は、剣の切っ先がかすめたらしい腕から血が流れるのも気にせず、武器を失ったファーガスの方に素早《すばや》く踏《ふ》み出す。
ただ驚いているファーガスの顔を、無表情のまま殴《なぐ》りつけると、ずっと体格のいいハイランド男がよろけてしりもちをついた。
「レイヴン、もういい!」
エドガーは急いで止めるが、意外にもレイヴンは、「はい」と冷静にしりぞいた。
どうやらそれ以上ぶちのめすつもりはなかったようだ。このところレイヴンは、手加減というものがずいぶんわかるようになった。
「エドガーさま、遅くなってすみません」
ファーガスが立ちあがる様子がないのを確認して、レイヴンはエドガーの方に振り返った。
「どうやってここへ?」
「ニコさんが連れてきてくれました」
奥の方の柱の陰《かげ》で、ニコがしっぽをゆらした。
エドガーはネクタイをほどき、血がにじむレイヴンの腕に巻きつける。
「すまない、僕が少しでも避けようとしていれば」
レイヴンなら、こんな傷を負うこともなく、確実にファーガスの剣を止められただろう。
「いえ、かすり傷です」
ポールがファーガスを助け起こそうと手を貸していた。
それをちらりと眺めながら、ロタが口を開く。
「レイヴンもニコも、さっさと夢の中へ入っていったくせに、あたしより遅いってどういうことだよ」
「少し道に迷ったのです。でも、ニコさんとブラッドストーンのおかげでここまでこられました」
「レイヴン、おまえ、ニコに相談に行ったのか? ポールと僕が青亡霊《あおぼうれい》に連れ去られたから……」
レイヴンは神妙に頷《うなず》いた。
「はい。ほかに方法を思いつきませんでした」
「伯爵、あんたが助かったのはおれのおかげだぞ」
もはや乱闘《らんとう》はないと安心したからか、岩影から出てきたニコは胸を張って威張《いば》ってみせる。
「青亡霊の棲《す》みかや島々のあるじ≠フ夢とつながってるのは、古くからいわくのあるこの島に違いないって、おれが思いついたんだ」
「しかしね、きっとニコ、きみのその知識をこのマッキール家のぼうやが聞きつけたんだろうよ」
その通りなのだろう、ファーガスは舌打ちした。
「すみません、エドガーさま。誰かが立ち聞きしていたような気配は感じたのですが」
レイヴンは、もうしわけなさそうにうなだれる。
「いや、レイヴン、これでよかった」
ファーガスが来たから、エドガーはあるじの夢を壊すことを思いとどまった。
それに、夢の入り口にとどまっていたはずのファーガスとポールを連れてきたのはロタだ。
むしろエドガーは思う。ニコやレイヴンはともかく、魔法とは何の縁もないはずの、ファーガスたち三人がここへ入り込んだのも、あるじの意志ではないだろうか。
エドガーを止めるために、ファーガスを招き入れたのかもしれない。そうして、結局そうなったのだ。
「とにかく、もうここにいてもしかたがない。出よう」
プレーズの池を離れ、卵の殻《から》のような岩に包まれたカルセドニーの洞窟《どうくつ》を出れば、エドガーが入ってきたときとは違い、目の前に立石《スタンディングストーン》があった。
そのそばを通り抜けたとたん、どこまでも広がっていた野原の風景が一変した。
急に夜になったかと思うと、現実の小島の、狭《せま》い海岸に、五人と一匹は放り出されたように立ちつくしていた。
振り返っても、もちろんあのカルセドニーが詰まった巨大な卵はない。
目の前に広がる海は、月に照《て》らされている。
(旦那《だんな》、泉にはたどり着けたのか?)
あまりにも静かな波間に、青白いものが漂《ただよ》っていた。
風も凪《な》いだ海では、青亡霊の魔力は弱まるのだろうか、彼らは小さく、クラゲのように浮かんでいるだけだ。
(あるじは目覚めなかったようだな。だが、夢の源《みなもと》へは入れたんだろ?)
(泉の魔力を俺たちにもわけてくれ。魔力があればどうにかなる)
(暗い海の底から解放される)
青亡霊は口々に求めた。
「泉はもうなかったよ。すべて石化《せっか》していたんだ」
すると彼らは、何やらざわめく。
(旦那、知らなかったのか? あるじの泉は石の泉だ。湧《わ》き出すのはとくべつな宝石。天と地の魔力が混ざり合い、少しずつ結晶化《けっしょうか》し、千年にいちど、ようやくひと雫《しずく》が池の底に湧き出す)
石の、泉?
「池って、プレーズの岩盤か? まさか、あれが泉の水?」
(違うぜ旦那、その岩の奥底に湧き出すんだ。月のようにまるい、濡《ぬ》れたように深い緑と、力強い赤を秘めた、ブラッドストーンがね)
ブラッドストーン。たしか、それもカルセドニーだ。
あるじの夢の源は、カルセドニーの泉だった。そうして、泉から湧き出す雫《しずく》は、水ではなくブラッドストーン。
まるくて、つやつやと輝《かがや》くような……。
エドガーはその宝石に既視感《きしかん》をおぼえていた。
見たことがある。そう思いながら、急いでレイヴンを見る。エドガーの視線を受けたレイヴンは、そのままニコに視線を動かす。ニコははっとした様子で、手をひらいて握りしめていたものをじっと見た。
(それだ。俺たちにくれ!)
青亡霊たちが、不意に海から浮かび上がった。ニコめがけていっせいに飛びかかろうとする。
「わあっ、これはだめだ、やれないよ!」
ニコはあせりながらレイヴンの足元に隠《かく》れようとするが、いくらレイヴンでもとっくに死んでいる亡霊が相手ではどうにもできない。
青亡霊たちが暴《あば》れれば、波と風がいっしょに襲《おそ》いかかってくる。
みんなして、近くの岩にしがみつく。
エドガーはレイヴンを守るためにニコをむんずとつかんで持ちあげた。
「わかった、やるからさっさと消えてくれ!」
「ぎゃー、は、伯爵《はくしゃく》! おれごと投げる気か!」
ニコをかかえ込みながら、エドガーは、こっそり拾った小石を海に向かって投げる。
青亡霊たちは、それが泉のブラッドストーンだと信じたらしく、いっせいに小石を追っていくと海の中へ姿を消した。
ほっと息をついたニコは、エドガーの腕にしがみついている。
唯一《ゆいいつ》の友達が海に投げ捨てられてしまうとあわてたらしいレイヴンも、いくらかひかえめにエドガーの上着をつかんだまま硬直《こうちょく》していた。
「さあ、今のうちに逃げよう」
「あたしの船はこっちだ」
ロタが指さし、みんなして駆け出す。
小島の丘を越え、反対側の海岸へと急ぐ。じきにロタの船が見えてくる。
しかし、ロタの船に乗り込んだ頃には、ニコが姿を消していた。
ブラッドストーンをエドガーに取り上げられることを恐《おそ》れたのだろうか。
はからずも、あの石がリディアのための薬でもあったのだ。
だからこそニコはいなくなったのだろうと、エドガーはぼんやりと感じていた。
自分などがいない方が、リディアは幸せになれるのではないかと、ニコもきっと気づいているのだ。
月夜の静かな海に、クレモーナ大公家《たいこうけ》の旗をひらめかせながら、帆船《はんせん》は進んでいた。
クナート家の拠点《きょてん》である、内《インナー》ヘブリディーズへ進路を向けて。
エドガーは、甲板《かんぱん》に立って海を眺めている。と、レイヴンが近づいてきて言った。
「エドガーさま、命じてください。ニコさんを説得します」
あのブラッドストーンをもらえないか説得するというのだろう。そうすれば、エドガーはリディアをすぐにでも連れて帰れるのだ。
「本当はそんなことしたくないんだろう? レイヴン」
ニコが姿を消したのは、そうなることを恐れてだ。あれがニコにとってどういうものなのか、エドガーは知らないが、ニコ自身にとって大事なものであるにしろ、リディアのためにしろ、レイヴンに頼まれてもニコは困るだけだろう。
「でも、エドガーさま」
「いいんだ。薬を得ようとしたのは、僕の間違いだった」
リディアを連れ帰ることは、彼女のためだと思いたかったけれど、自己満足にすぎなかった。
プリンスのことも、リディアとなら乗り越えていけると自分に言い聞かせながら、彼女を道連れにしてしまう可能性から目をそらしていたのだろう。
最悪の事態を、彼女に覚悟《かくご》させるのでは意味がなかった。
エドガー自身に、何があっても道を踏《ふ》み外さないという覚悟が必要だった。
今すぐ彼女を取り戻せるという誘惑《ゆうわく》よりも、その方がずっと重要なことだったのに、見えなくなっていた。
そんな婚約者などいなくても、リディアは、母親の故郷《こきょう》でもあるこの島々で、新しい幸せを見つけるだろう。
彼女をあきらめることが、エドガーが与えられるたしかな愛情なら、そうしようと思う。
「風は上々、じきに島に着きそうだよ」
舵《かじ》を握りながらロタは、紙巻き煙草《たばこ》をふかしていた。ポールは疲れ切ったらしく、樽《たる》に寄りかかってうとうとしている。
「おい、おれを手近な港でおろしてくれ」
さっきまで船室に引っ込んでいたファーガスが、甲板へ出てきてロタに言った。左目のあたりを腫《は》らし、ひどく不機嫌《ふきげん》な顔だ。
「いいけど、もう大丈夫なのか?」
「ああ。……だいたいおれは、ここにいるあんたらにとっちゃ、招かれざる者だろ。どうも居心地《いごこち》悪いし、さっさとマッキール家の島へ帰るさ」
さっさとリディアのところへ帰る、とエドガーには聞こえた。できるなら、右目も腫らしてやりたいくらいだ。
が、ファーガスは危険を察知もせずにエドガーに近づいてきた。
「伯爵、いちおう、助けてくれた礼は言っておく」
「……何のことかな」
「あんたのことは、おれにはさっぱり理解できない。でも、ポールみたいなまともな人間に信頼されてる。だからたぶん……、いや、何でもいいさ。結果的におれは、青亡霊に奴隷《どれい》にされずにすんだってことだよ」
いかにも一本気《いっぽんぎ》な若造《わかぞう》だ。エドガーもじゅうぶんに若造だけれど、自分がこんなふうにはなれないことはよく知っている。
リディアにとって、こういう男が心から信頼できる相手になるのだろうことも、想像するのは難しくなかった。
「それはよかった」
エドガーはわざとどうでもよさそうに答えたが、ファーガスは、あくまでまじめに問いかけてくる。
「それで、あんたはどうするんだ?」
「何を?」
「リディアのことさ」
エドガーが黙《だま》り込むと、ファーガスは手すりに寄りかかり、月を見あげる。
「前と同じか。三年かかるとしたら、その間おれは黙って見てるつもりはないぞ」
「同じじゃない。僕はもう……。婚約を解消する」
リディアを忘れることはできないだろう。でも、彼女の幸せをいちばんに考える。エドガーはそう決めたばかりだ。
ファーガスは、驚いた顔をしてこちらを見た。ファーガスだけではない、ロタも煙草を落としそうになっている。
「エドガー、本気か?」
「ああ」
「ちょっと待てよ、あんた、あれだけリディアを口説《くど》いたくせに……」
そう言って、エドガーにつかみかかろうとしたロタより先に、ファーガスの手がのびて胸《むな》ぐらをつかんだ。
「そんなの一方的だろ! リディアが納得《なっとく》するはずないじゃないか。あんたを助けたくて、夢の姿で追いかけたくらいだぞ!」
レイヴンを視線で押しとどめながら、エドガーはファーガスの手を引きはがした。
「きみにとっては朗報《ろうほう》じゃないのか? それに、リディアは納得するよ」
別れを切りだしたときのリディアは、それがエドガーのためだと考えていた。
今ならわかる。リディアはファーガスに惹《ひ》かれたと言ったけれど、だったらどこまでも、エドガーとともに堕《お》ちてさえついてこようと決意を変えるはずもない。
リディアの本気が、自分に向けられた想《おも》いがはっきりわかったからこそ、エドガーはあるじの夢を壊すことを思いとどまった。
きっと、エドガーが別れを決意した気持ちを、彼女はわかってくれるだろう。
「だったら、リディアにはあんたは死んだと告げるぞ。おれがどんな手を使おうと、あんたには関係ないってことなんだろうからな」
ビシッと言ったつもりでエドガーに人差し指を突きつけても、目のまわりを腫らしたファーガスはさまになっていない。
おかげでエドガーは、「きみなんかにリディアを落とせない」と嫌味《いやみ》を言ってしまいそうになるのをこらえることができた。
「ロタ、きみもリディアのところへ行くなら、そういうことにしておいてくれ」
ロタは頭にきているらしく、きゅっと眉《まゆ》をあげたが、無言のままエドガーに背を向け、また舵を握った。
ファーガスがマッキール家の本邸《ほんてい》へようやく帰り着き、パトリックの詰問《きつもん》になかば上の空で答え、倒れるように休養していた頃、パトリックはリディアのいる岬《みさき》の館《やかた》を訪ねていた。
エドガーが死んだ、などということを本気で告げるつもりはなかったファーガスとは違い、話を聞いたパトリックは、手っ取り早い方法だとさっそく実行に移してしまったのだ。
それを知ったファーガスは、すっきり目覚めたばかりなのに頭をかかえ込むはめになった。
「な……なんでそんなことするんだよ!」
「そうしてもいいと伯爵が言ったんでしょう?」
「でも、そんなのうそだってわかったら逆効果だろ!」
「ではばれないようにすることですね」
あっさりとパトリックは言ってくれた。
そうして、頬杖《ほおづえ》をついてふてくされるファーガスの方に身を乗り出す。昔から変わらず、年下のファーガスを諭《さと》すようにゆっくりと話す。
「いいですか、ファーガス。私たちは、いずれプリンス≠ニ戦わねばならないのかもしれません。だとしたら、あなたが伯爵を手にかける可能性は少なくないのです」
「……なおさら、婚約者を殺した男に、リディアが心を開くもんか」
「あなたはマッキール家の長になる。リディアさんを手に入れるつもりなら、あの伯爵と敵対することさえ彼女に受け入れてもらうしかありません。今なら、ひととき彼女があなたを恨《うら》んでも、マッキール家から去ることはできない。償《つぐな》い、許しを得るだけの時間はあります」
パトリックの言うことは正しい。ファーガスはいつも、反発を覚えても反論ができない。
「それとも、そこまでするほどの女性ではありませんか?」
「バカを言うな。……そりゃ最初は、興味本位に見てたけど、いい娘だよ、本当に」
満足げに、パトリックは頷《うなず》いた。結局いつもファーガスは、思い通りに説得されてしまっている。
「彼女をマッキール家の一員にするには、あなたが伯爵以上の存在になるしかない。でなければ、伯爵がプリンスとなったとしても、目の前に現れれば彼女は追いかけるでしょう」
まったくその通りだ。
けれどリディアのことに関しては、ファーガスはパトリックの言うとおりにすれば間違いないとは思えなかった。
恋は予想を裏切るものだと、どこかで感じているのかもしれない。
そもそもアウローラがカールトン教授と駆け落ちしたことも、ファーガスの許婚《いいなずけ》になっていたはずのリディアがアシェンバート伯爵と婚約していたことも、その伯爵が災《わざわ》いの王子《プリンス》≠フ継承者《けいしょうしゃ》で、唯一《ゆいいつ》プリンスに勝《まさ》るはずの予言者を目覚めさせられる女がリディアだったことも。
何もかも、予言者の予見さえ裏切っているではないか。
そしてファーガスが、パトリックのように計算で動くには、リディアに本気で惚《ほ》れてしまったことも。
「失礼します」
そのときファーガスのいる部屋へ、召使《めしつか》いが入ってきた。リディアのいる、岬の館で働いている男だった。
彼の報告を聞き、ファーガスは思わず立ちあがる。
「リディアがいなくなった?」
「ああ、やはり簡単ではなさそうですね」
パトリックは、表情も変えずにそう言った。
「あんたがよけいなことを言ったからじゃないのか? まさか、よくないことを考えて……」
伯爵のあとを追おうとする可能性だってある。ファーガスはあわててマントを手に取った。
「アウローラの娘ですよ、そこまでやわな女性ではありませんよ。おそらくケリーとクナート氏族《クラン》の土地へ向かったのでしょう」
「って、パトリック、知ってたのか? ケリーの身元を……」
「調べさせました」
抜かりのない男だと思いながら、ファーガスはリディアが出ていった理由を考えていた。
クナート家へ向かったとすれば、伯爵の死を確かめるためか。
しかしリディアは、あの岬から離れれば、フィル・チリースの刃傷がもたらす苦痛にさいなまれることになる。
とにかくじっとしてはいられないと、ファーガスは屋敷を飛び出していた。
馬を走らせながら、パトリックには言わなかったことを思い起こしていた。
ファーガスを船から降ろすとき、ロタが言ったことだ。
『あんた、本気でリディアに惚れてるのか?』
どこか同情したような口調《くちょう》だった。
『悪いか』
ロタも裏表のない人間だと思う。ファーガスにしてみれば、信用してもいいと思わせるタイプだ。そして彼女も、ファーガスには理解できないエドガーの肩を持つ。
『あたし、エドガーをリディアのところへ連れていく。あのふたりが、このまま別れていいわけがない。会って、これからのことを話し合うべきだと思うから』
ただ彼は、ぼんやりと感じていた。エドガーは、たぶんとんでもないやつだ。善悪を越えて、何をしようと他人を納得させられるだけの経験をしてきている。
プリンスの被害者だったというポールの言葉が本当なら、彼が災いの王子《プリンス》≠ノなったことも、親しい人間たちは納得しているのだ。
もちろんリディアも同じなのだろう。
だとしたら、おそらくこれまでのプリンスの組織にとって、予想外のできごとだ。
エドガーは、百年前に邪悪《じゃあく》な魔法で生み出された災いの王子≠ニは別の、新しい何かなのだろうか。
『リディアの怪我《けが》は、伯爵《はくしゃく》の持つ魔力《まりょく》に近づけば悪化する。完治《かんち》するまで会うこともできないんだよ』
ファーガスが言うと、ロタはよくわからないというように首を傾《かし》げたが、細かいことはどうでもよかったのだろう。さっさと要点を告げた。
『あの黒髪の、……パトリックだったっけ? あいつにわからないように、リディアを連れ出してくれ。合図に火を三つともしてくれれば、岸へ向かう』
『そんなこと、おれがすると思ってるのか?』
するとロタはファーガスを覗《のぞ》き込んで、にっと笑った。
『無理にとは言わない』
冗談《じょうだん》じゃないぞ。
馬を走らせながら、ファーガスはつぶやいた。
馬車が岬から離れるほどに、リディアは背中の傷が病《や》めるように痛み出すのをこらえていた。
体がだるくなって、熱っぽさも感じる。
「お嬢《じょう》さま、大丈夫ですか?」
ケリーが心配そうに覗き込む。
「ええ、たいしたことはないわ」
まだがまんできないほどではない。エドガーが死んだ、それが本当だったらと考えることが、体の痛みよりももっと苦しい。
そしてリディアは、冷静に考えていた。
エドガーに何かあったのなら、レイヴンがクナート家に身を寄せるはずだ。このヘブリディーズ諸島で、マッキール家に対抗《たいこう》するために、エドガーは別の有力|氏族《クラン》であるクナート家を抱き込んだ。クナート氏族長はエドガーに全面的に協力していて、だからケリーもリディアのために働いてくれている。
クナート家の土地へ行けば、エドガーについて正確に知ることができるだろう。場合によってはリディアは、亡骸《なきがら》だろうとこの目で確かめるつもりだった。
「もうすぐ着きます。あの丘を越えれば」
ケリーはリディアを元気づけようとするが、その丘はまだ遠く、灰色に霞《かす》んで見えた。
馬車がゆれるたびに、ふさがらない傷に響《ひび》く。
ケリーが急用で実家へ帰るからと、呼び寄せた馬車だ。無蓋《むがい》の簡素《かんそ》なもので、大判のキルトをショールのようにまとったリディアは、御者《ぎょしゃ》にはケリーと同じように小間使《こまづか》いに見えていただろう。
ふたりも乗れば窮屈《きゅうくつ》だが、こっそり抜け出すにはしかたがなかった。
「お嬢さま、あたしに寄りかかっていてください。その方がきっと楽ですわ」
「ありがとう、ケリー」
傷の痛みに慣れてくると、眠気が襲《おそ》ってくる。フィル・チリースの毒にあらがう体は、少しでも体力を蓄《たくわ》えようとしている。
ケリーにもたれかかっていれば、硬い馬車の振動《しんどう》もいくらかやわらぐ。リディアは浅い眠りに落ちる。
いつしか時間の感覚はなくなっていた。
ずいぶんあたりが暗くなったと意識したことはおぼえているが、そのあとリディアが気がついたのは、簡素なベッドの上だった。
クナート家の館だと、そばにいたケリーが言った。
野原にぽつんと腰をおろし、ニコは手のひらの上で、ブラッドストーンを転がしながら眺《なが》めた。
強い風が吹いて、ニコの長い毛並みを逆撫《さかな》でる。短い草を次々に薙《な》ぎながら、風は丘を駆けあがる。
ブラッドストーンは、やわらかく心地《ここち》のいい光を発《はっ》しながら、風に身じろぎもせずニコの手に鎮座《ちんざ》している。
そこが気に入っているとでもいうふうだ。
「どうすればいいんだろ。……アウローラ、教えてくれよ」
これがあるじの泉の雫《しずく》だった。リディアに飲ませれば、フィル・チリースの刃《やいば》で負った傷もたちどころに治るはずだ。
オーロラの結晶《けっしょう》だというブラッドストーン。島々に注がれた天上《てんじょう》の光が、大地の奥底でカルセドニーに包まれて、あるじの夢の泉に湧《わ》き出すひと雫となったのか。
この島々にはいまだ、天と地に魔力の交歓《こうかん》がある。異界の者たちも力も、色濃《いろこ》く生きている。だからこそ災いの王子《プリンス》≠ニいう存在が生み出されもしたし、予言者もどこかにいるはずなのだ。
そしてその予言者を知る手がかりでもあるのがこのブラッドストーンだという。
予言者がこれを得れば、色が変化する。その人物は、ここに秘められた魔力で、島々を救うはずだ。
そんなものをリディアに飲ませて大丈夫なのだろうか。ニコはまずそれが気になった。
このブラッドストーンがリディアの体に取り込まれれば、予言者はリディア自身を必要とすることになるのではないか。
プリンスを倒すはずの予言者に、逃《のが》れようもなくリディアは荷担《かたん》させられる。彼女自身がエドガーを追いつめることになるなんて、きっとがまんできないだろう。
リディアが薬を得て、このままエドガーと結婚するなら、夫婦なのに敵対させられてしまうかもしれないのだ。
だったら薬はなかったことにして、リディアには時間をかけて治療してもらえばいい。ニコはこのブラッドストーンを、誰の手にも渡らないようにできる。
けれど薬がなければ、ふたりはおそらく別れることになるだろう。リディアはそうするつもりだったし、エドガーも、自分の強い想《おも》いが彼女を不幸にするかもしれないと気づいてしまった。
だから彼は、薬を手に入れることをあきらめ、殺されてもいいとさえ感じていた。
別れたっていいじゃないか。その方がリディアのためだ。
ニコは自分に言い聞かせ、ブラッドストーンを握る。
これは隠《かく》しておけばいい。
立ち上がり、リディアのいる岬の館へ帰ろうと歩き出す。けれどすぐに立ち止まる。
そうかな。伯爵と別れて、リディアは本当に幸せになれるのかな。
アウローラは、教授と駆け落ちしたから幸せだった。あきらめていたら、彼女はあんなに輝《かがや》いてはいなかっただろう。
死期がせまってさえも、微笑《ほほえ》んでいた。夫と娘のそばで、満足げだった。
「だーっ、もう、おれにはわかんねえよ、アウローラ……」
ニコは頭の毛をかきむしった。
「おい、チビ猫《ねこ》! さっさと帰ってこないでなにをやってる!」
「おれは猫じゃない!」
突然の声に、反射的に言い返しながら、ニコは振り返った。
黒い馬が頭上《ずじょう》にせまってくる。ニコはあわてて地面に伏《ふ》せる。
蹴《け》られたらひとたまりもないと震《ふる》えたが、ケルピーはニコを飛び越え、そして立ち止まった。
「な……なにするんだよ、あぶないじゃないか!」
「リディアがいなくなったぞ、どうしてくれるんだ!」
いなくなった? 事情が飲み込めないニコに、ケルピーは鼻面を近づけた。
「いなくなったって、リディアはあの岬を離れられないじゃないか」
「なのに出ていったらしい。パトリックってやつがリディアの部屋を訪ねてからだ。何かあったに違いない。さあ、行くぞ!」
いきなりケルピーは、ニコに噛《か》みつくほどに口をあけた。
喰《く》われる……! と目をつぶる間もなく、ニコのネクタイが牙《きば》に引っかけられる。
そのまま首を大きく振って、ケルピーはニコを放りあげる。
「うわああっ!」
宙を飛んだニコは、かろうじてケルピーのたてがみにつかまったが、すでに風のように走り出した水棲馬《ケルピー》に落とされないようしがみつくだけで必死だった。
「どこへ行くんだよお!」
「決まってる。リディアを連れ戻すんだ。岬を離れたら、体調が悪化するんだろ? 早く見つけないと、命にかかわるじゃないか」
「けど、居場所《いばしょ》がわかるのか?」
「リディアがとんでもないことをやらかすときは、伯爵がかかわってるに決まってるだろ!」
[#改ページ]
約京の夜明け
クナート氏族《クラン》の村で、二時間ほど休息をとったリディアは、内《インナー》ヘブリディーズにある氏族長《しぞくちょう》のもとへ向かおうと、早々《そうそう》に決めていた。
当然のことだが、クナート家の村に着いたからといって、エドガーのことがすぐさまわかるわけではなかった。
村長が使いを出してくれたというが、待っているのももどかしい。
もしも訃報《ふほう》が届いたら、どのみち氏族長の屋敷へ行かねばならない。
そう思ったリディアは、身支度《みじたく》を整え、さっそく船を手配してもらった。
ヘブリディーズの島々から離れるわけではないのだから、病状が急に悪化することはないだろう。マッキール家の岬《みさき》で治癒《ちゆ》の魔力《まりょく》に浴《よく》しているのでなければ、どこにいても苦痛は似たようなものだ。だったらここで情報を待つより、出向いていった方が早い。
「お嬢《じょう》さま、海岸までロバの荷車《にぐるま》しかありませんが」
「じゅうぶんよ、ケリー」
椅子《いす》から立ちあがり、自力《じりき》でリディアは建物の外へ出る。
まだ夜中といっていい時間だが、外はうっすらとあたりが見えるくらいになっている。
いくらか気分もいい。この調子なら海峡《かいきょう》をわたることもできるだろう。
垣根《かきね》の向こうに、ロバの荷車が見えていた。
と、そこで村人と言い争っている男がいた。
マントの色があきらかにクナート家のものではないとわかる。むしろ、見慣れたマッキール家の色柄《いろがら》だ。
赤毛の青年、その人物がリディアに気づき、さっと駆《か》け寄ってこようとした。あわてて、ケリーがリディアの前に立った。
「リディア、やっぱりここだったんだな」
「ファーガス……」
「話がある」
彼はリディアの手をつかんだが、とっさにリディアは振り払っていた。
「あ……、ごめんなさい……」
うつむくリディアに、ファーガスはため息をついた。
「おれのことは許せない、か」
「あなたにはあなたの立場があるわ。でもあたしは……、エドガーの婚約者だから」
そう言いながら、気持ちをしっかり持たなければとリディアは全身に力を入れていた。
ファーガスは真実を知っている。そうして、エドガーを手にかけたことを否定しようとしていない。
だとしたら、やっぱりエドガーは……。
どうしよう。確かめるために来たけれど、自分には受け止められないのではないだろうか。
震《ふる》える指先を握《にぎ》り込めば、ファーガスは深く眉間《みけん》にしわを寄せ、リディアを見おろしていた。
「あいつ、婚約を解消するって言ったぞ」
そして彼は、なぜか脱力したようにそう言った。
わけがわからず、リディアはぼんやりと顔をあげた。
「あんたは納得《なっとく》するはずだって言ってた。おれが、伯爵《はくしゃく》は死んだってことにするぞと言っても、それでいいって」
「死んだことに……?」
「ああ、すまない。パトリックのやつが、だったらそうするのがいちばんだって先走ってあんたに伝えたようだ」
リディアは息をするのも忘れるくらい驚《おどろ》いていた。
「……本当なの?」
声を発《はっ》して、ようやく息苦しさに気づき、あわただしく空気を吸い込む。ファーガスの真意を知ろうと、穴が開くほど彼を見つめる。
「だまそうとしてごめん。伯爵はぴんぴんしてるよ。あのとき、あいつは自分の意志で泉の岩を砕くのをやめた。おれはあの従者《じゅうしゃ》にやられてこのざまさ」
よく見れば、ファーガスは目の上がいくらか腫《は》れていた。
本当なんだ。
エドガーが生きている。
リディアは力が抜けて、その場に座り込みそうになった。あわてて腕《うで》をのばしたファーガスがささえる。
男の人に抱きとめられて、はしたないと思っても、足に力が入らなかった。
エドガーは生きている。そのことで頭がいっぱいになった。
涙が出てきた。
「よかった……、生きててくれて。本当だったらどうしようって……」
もうわけがわからなくなりながら、ファーガスの腕の中で泣く。彼がどんなに困っているかも気づかずに。
「怖くてしかたがなかったの……」
そんなふうに命を落とすことが彼の人生だなんて思いたくなかった。たくさんつらい経験をして、生き延びてきた人だ。幸せにならなきゃいけないのに、リディアのためにプリンスの記憶≠背負った。
そばにいて、彼の安らぎになりたかったけれど、できないなら祈るだけだと決めた矢先、彼が死んでしまって願うことすらできなくなるなんてと、考えただけで苦しかった。
「すまなかった」
そう言いながらファーガスは、リディアの頭を撫《な》でた。
母さまにつながる親戚《しんせき》だから、そんな意識がかすかにあったのだろう。なかなか自分の力で立つことができなかった。
泣き続けるリディアを促《うなが》し、ファーガスは軒下《のきした》のベンチに座らせてくれる。
ケリーは水をもらいに、館《やかた》の中へ入っていく。
しだいに落ち着いてくると、エドガーが婚約を解消すると言ったということが、じわじわとリディアの意識にのぼっていた。
あるじの夢を壊《こわ》すのをやめたのは、これ以上プリンスの記憶に触れたりしないと決意したからだろう。
いっしょに堕《お》ちてもいいと思った。けれど彼が幸せになってくれるのが、リディアのいちばんの望みだ。それがかなうなら、そばにいられなくてもいい。
エドガーが、プリンスではなく青騎士伯爵として生きていってくれるなら、それだけで。
「帰るわ。治療に専念しなきゃ」
涙をぬぐいながら、リディアはつぶやいた。
ファーガスは、切り変わりのはやさに驚いた様子でリディアを覗《のぞ》き込んだ。
「早くあいつのところへ戻るためか?」
もう、その約束はなくなった。
「エドガーは婚約解消するって言ったんでしょう? あたしは、彼の言うとおりにするわ」
エドガーの気持ちを少しも疑ってはいない自分に、リディアは驚いていた。好きでいてくれるからこその決断だと思った。
「リディア、だったらおれ、あんたのささえにはなれないか? 前にも言ったけど、わりと、いや、本気なんだ」
真剣な目をして、そんなふうに言ってもらえるなんて、これまでのリディアには考えられないことだったから、素直《すなお》にうれしかった。
「……ありがとう、ファーガス」
けれど、リディアが少しばかり自信を持てるようになったのは、エドガーが好きになってくれたからだ。
リディアにとってのいちばんは、きっと変わらないだろう。
「ごめんなさい、あなたに抱きついて……はしたないことをして」
「おれはかまわない」
ファーガスは、人間の男性の中ではめずらしく、リディアにとって安心できる人だった。エドガーを知らなければ、いちばん好きになれたかもしれない。
「あたし、傷が癒《い》えたら自分の家に帰るわ。ニコも帰ってきてくれたし、ケルピーもいるし、マッキール氏族長の奥さまなんて立場より、妖精たちと静かに暮らすのが、あたしには似合ってると思うの」
「誰とも結婚しないつもりか?」
「しないわ。だってあたしは、これからもずっとエドガーの婚約者だもの」
苦笑《にがわら》いとともに赤毛をかきあげたファーガスは、薄暗い空を見あげてため息をついた。
考え込むように黙《だま》っていたかと思うと、急にリディアの腕をつかんで立ちあがる。
「行こう」
「え、どこへ?」
有無《うむ》をいわせず、ファーガスはリディアを引っぱっていく。そうして強引《ごういん》に馬に乗せる。
「お嬢さま! ちょっと、リディアお嬢さまをどこへ連れていくつもりなんです!」
館から出てきたケリーが、気づいて駆け寄ってこようとした。
「心配すんな。何もしやしない」
ファーガスは、ケリーが止めるのも無視して馬を走らせた。
北の島の夜は短く、月がなくともうっすらとあたりが見える。そんな真夜中、クナート氏族長の屋敷から港に向かって歩けば、いかにも軍艦《ぐんかん》といった船影が、小さな港に不|釣《つ》り合いなほどに目立っていた。
ロタの船だ。
積まれた大砲《たいほう》はむき出しのまま、船乗りたちが、出航の準備に追われ、忙《いそが》しく働いている。
ロタは早々に、外《アウター》ヘブリディーズのマッキール家を訪ねるつもりだという。早くリディアのそばに戻ってやりたいということで、しばらく滞在《たいざい》するらしい。
親しい友人がそばにいてくれれば、リディアにとっては安心できることだろう。
そう思えばエドガーは、二度と彼女に会えなくてもいくらか心をなぐさめられた。
「伯爵、散歩ですか?」
ポールが道の向こうから現れる。
「しばらく夢の中にいたせいか、眠る気になれませんね」
そう言う彼は、エドガーとともにロンドンへ帰ることになっていた。
プリンスの記憶をかかえていても、ポールは変わらない友情を示してくれた。あるじの泉の雫《しずく》は手に入れられなかったけれど、なおさらエドガーは、これでよかったのだと思う。
「ロタの出航準備が進んでるのか見に来たんだけど、きみもかい?」
「ええ、彼女、船が好きなんですね。知識が豊富で、完璧《かんぺき》に船乗りたちを指揮《しき》してましたよ」
ロタがもと海賊《かいぞく》だなどと知る由《よし》もないポールは、真剣に感心していた。
そんなポールの、まったく人を疑わないところがほほえましい。
ポールの信頼にも、リディアの気持ちにもきちんと応《こた》えるために、エドガーはプリンスの記憶に惑《まど》わされまいと心に誓《ちか》う。
「そうだ、レイヴンを見なかった?」
「あ……、ええと、たしかあちらに……」
そう言ったポールは、うろたえたように視線を泳がせた。
何だろうと思いながら、ポールが指さした路地《ろじ》へ入っていこうとすると、屈強《くっきょう》な男たちが走り出てきて、突然エドガーを取り囲んだ。
身構えたものの、その中にロタがいるのに気づいたエドガーは、つい警戒《けいかい》を解いてしまう。
「ロタ、それに……、ロタの船乗りじゃないか?」
「よし、つかまえろ!」
ロタが言った。とたん、彼らがいっせいに襲《おそ》いかかってきた。
「な、何なんだ、ロタ!」
わけがわからないまま、エドガーは羽交《はが》い締《じ》めにされる。
そのうえ目|隠《かく》しまでされ、むりやり船に乗せられた。
船室に連れ込まれ、椅子に縛《しば》りつけられる。
何かの冗談《じょうだん》かと思えば、本気で抵抗《ていこう》するのもはばかられたエドガーだったが、どうやら向こうは本気でエドガーの自由を奪《うば》う気だ。
部屋に鍵《かぎ》をかけられたのもわかったが、カフスにしのばせた刃をロープに押しあて、ようやく両手が自由になったときには、船は港を離れていた。
窓の外に、うっすらと内《インナー》ヘブリディーズの島影がある。
眺《なが》めながらエドガーは、ロタが何をしようとしているのか、ぼんやりと察していた。
すぐに船を引き返させなければ。そう思う一方で、行動に移せずに、島影が見えなくなるまで、彼はじっと窓辺《まどべ》に立っていた。自分は監禁《かんきん》されている。それを言い訳に、一目リディアに会うことができるかもしれないと、心のどこかで考えている。
それじゃあだめだ。会ってしまったら、何をするかわからない。
ようやく決意を固め、椅子に座り直す。まだ縛られているふりを装《よそお》いながら、声をあげた。
「おい、ロタ! どういうつもりだ! 今すぐ説明しないと、きみの大事な船を薪《たきぎ》にしてやるからな!」
間もなくドアが開いて、ロタが部屋へ入ってきた。
「勘弁《かんべん》してくれよ。あんたがそれくらいやりかねないのは知ってるから」
「だったら縄《なわ》をほどいてくれ」
「まだだめだ。リディアのところへ着くまではな」
エドガーの前に立って、ロタは腕を組む。
やっぱりそうかと思いながら、エドガーは目を伏せた。
「……僕はリディアには会えない。彼女の傷が悪化するし、それにもう、お互いに納得《なっとく》したことだ」
するとロタは、気に入らなさそうにきゅっと眉《まゆ》をつりあげた。
「納得? してるわけないだろ! 婚約ってのは、あんたにとっちゃ軽い言葉でも、リディアには一生にいちどの決意だ。簡単に解消できるかっての」
「軽い言葉なんかじゃない。もともとリディアが別れたいと言いだしたんだよ。僕もそれがいちばんいいと気がついたんだ」
「本当にそうかどうか、会わずにわかるわけないじゃないか。夢の中じゃなくて、現実のリディアを見ろ。声を聞いて、すぐそばで感じて、本当にリディアが納得してるのか、あんたがどうしたいのかちゃんと考えろよ!」
えらそうに人差し指を突き出す。苛立《いらだ》ちながら、ロタのその指をぐっとつかんだエドガーは、突然椅子から立ちあがってみせた。
呆気《あっけ》にとられるロタの耳元で言ってやる。
「きみの指図《さしず》なんか受けない」
ついでに息を吹きかけてやったら、ぎゃっと悲鳴《ひめい》をあげたロタはあわてて後ずさった。
「ちっ、さすがに油断も隙《すき》もない」
「港に戻ってもらおうか」
しかし彼女も、簡単に言いなりになる人間ではなかった。
「いやだ。こっちには人質《ひとじち》がいるんだからな!」
ロタが指を鳴らすと、ポールがおそるおそるドアを開けた。
「ポール、きみが人質?」
「いえ、あの……」
「すみません、エドガーさま」
両手を縛られたレイヴンが、ポールに連れられて現れた。
あんな縄、レイヴンなら三秒ともたない。そもそもレイヴンを拘束《こうそく》するなんてこと、ロタの船乗りたちが束《たば》になってかかったってできるわけがない。
エドガーは脱力しつつレイヴンを見た。
「おまえもロタに賛成なのか……」
「いえ、私は……、エドガーさまに従《したが》います」
命じれば、レイヴンはこの船にひとつふたつ穴をあけることも、港に引き返させることもできるだろう。けれど、エドガーをむりやり連れ出すというロタの計画を止めたくなかったからこそ、拘束されることを選んだのだ。
「みんなで仕組んだってことか」
レイヴンも、ポールもロタも、エドガーをリディアに会わせようとしている。ちゃんと会って、将来のことを決めるべきだと思っている。
さっきの椅子に腰をおろし、エドガーはため息をつく。あきれつつ友人たちを眺める。
「ともかく、レイヴンの縄をほどいてやってくれ。そんなもの、あってもなくても同じだろう?」
ポールが頷《うなず》くと同時に、レイヴンは縄から手を引き抜いていた。
「キャプテン、ちょっと来てくれ」
そのとき、船乗りのひとりがやってきて、ロタを呼んだ。
「どうした」
「目的の島から合図があるんだが、場所が違うんだ」
「合図?」
エドガーが問うと、ロタはついてくるよう手振りで示した。
みんなして甲板《かんぱん》へ出る。
望遠鏡を覗《のぞ》いたロタは、まだ暗くてよく見えない、西の方を注視した。
「なるほど、もう少し近づいてから確認しよう」
ロタに手渡された望遠鏡で確認すれば、暗い空の下にかすかな島影が見える。その一画《いっかく》にちらつく明かりは、たき火なのだろうか。三つ、赤い点のような明かりが灯《とも》って見える。
「何の合図だ?」
「ファーガスがリディアを、人目につかない海岸まで連れてきているはずなんだ。だけどあの場所は、リディアがいるはずの岬《みさき》よりずいぶん北だ」
「あのあたりは、マッキール家の土地ではありません。クナート家の村があるはずです」
地図と方角を確かめながら、レイヴンが言った。
それはどういうことなのか。エドガーは考え込んだ。リディアがあそこにいるとすれば、怪我《けが》の痛みをおして岬を出たということになる。
クナート家の土地へ来たなら、それは自分に会うためではないのか。
まさか、ファーガスに死んだと聞かされて……?
「早く、確認してくれ。岬を離れていれば、リディアの病状は悪化するんだ」
気が気でなく、エドガーはあせりながら船縁《ふなべり》から身を乗り出した。
海岸で馬を止め、リディアをおろしたファーガスは、薄暗《うすぐら》い砂浜で何やら黙々《もくもく》と作業をはじめた。
ここへ来る途中の民家で手に入れた泥炭《ピート》と藁《わら》で、浜辺《はまべ》に三つの小山をつくる。
傷の痛みは薄らいでいたリディアだが、熱があがってきたらしく、寒気を感じながらキルトをしっかりかきあわせた。
「寒いのか? 今火をつけるからな」
ファーガスはそう言って、ピートに灯《ひ》をともした。
リディアをその近くへ座らせながら、海の方に目を凝《こ》らす。
「ねえ、これは何なの?」
「……そのうちわかるよ」
ぶっきらぼうに言うファーガスは、説明したくなさそうだ。
リディアにはわけがわからない。けれど、ファーガスがあまりに海の方を気にしているから、船に向けた合図なのではないかとぼんやり考えていた。
東の空は、もう朝の気配《けはい》が漂《ただよ》いはじめている。
船が……来るの?
たき火のおかげであたたかくなったリディアは、眠気を感じていた。
うとうとしながら考えている。
そうだわ、ロタが来てくれるのかしら。
それとも、まさか、エドガー……?
ううん、彼は来ないわ。その方がいいって、わかってるはずだもの。
だって、会ってしまったら……。
せっかく決意したのに、わがままを言ってしまいそうで。
「リディア、来たぞ」
ファーガスの声に、はっとして目を開ける。
さっきよりも明るさが増した空の下、波打ち際《ぎわ》にボートが見えた。その沖合《おきあい》には、大きな船が泊まっている。
ボートには人影がふたつあって、ひとりが浅瀬《あさせ》に飛び降りると、砂浜まで歩いてきて立ち止まった。
「エドガー……」
立ちあがったリディアは、無意識に駆《か》け寄ってしまいそうになる。
「リディア、お別れを言いに来たんだ」
その言葉に、思いとどまる。
一方で、エドガーの声は、どうしようもなくリディアの胸をざわめかせた。
夢ではなく、彼がそこにいる。声は現実にリディアの耳に届き、風になびく金色の髪も、すらりとしたシルエットも幻《まぼろし》ではなく、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》はたしかにリディアを見つめている。
息苦しいのが、フィル・チリースの刃《やいば》のせいなのか、エドガーが目の前にいるからなのか、自分でもわからない。
「……帰るのね、ロンドンへ」
やっとの思いで、リディアはそう言った。
「ありがとう、きみが愛してくれたから、僕は道を踏《ふ》み外さずにすんだ」
「あたしは、あなたに迷惑《めいわく》かけっぱなしだったわ。なのに、何も知らないままで」
切《せつ》なげに微笑《ほほえ》んで、彼は首を横に振る。
「最後にひとつだけ言わせてくれ。きっと僕は、生涯《しょうがい》きみしか愛さない」
「だめよ……、そんなの! あなたは貴族なんだから」
伯爵家《はくしゃくけ》の将来とともに、エドガーの幸せもあるはずだから、ちゃんと家を守っていってほしい。
「ばかやろう、そんな話をしに来たのか?」
急にファーガスが怒《おこ》った声をあげた。
「いいか伯爵、リディアはあんたが死んだと聞いて、確かめるために岬を離れたんだ。婚約者だから、唯一《ゆいいつ》の親族みたいなつもりなんだ。あんたが解消すると言ったって、一生婚約者でいるつもりだって……」
「ファーガス、いいの。エドガーは、あたしの気持ちはわかってくれてるもの」
「リディア、もう少しだけ近づいても大丈夫かい? 顔をよく見たいんだ」
頷《うなず》くと、エドガーはゆっくりとこちらへ歩き出した。リディアも、少しだけ歩み寄ろうと足を踏み出す。
けれどそうやって、お互いに近づこうとすれば、途中で足を止めることはできなかった。
リディアはいつのまにか小走りになっていたし、きっとエドガーの方もそうだったのだろう。
気がついたら、彼の胸に飛び込んでいた。
ぎゅっと抱きしめられて、リディアも抱擁《ほうよう》を返す。けれどすぐに我《われ》に返ったように、彼は腕をほどく。
「ごめん、傷に障《さわ》るね」
「ううん、大丈夫」
エドガーに触れれば、とたんに傷が痛みだしていた。それでも離れたら、もう二度と触れられない。その方がずっと苦しい。
リディアがしがみついたままでいると、今度はやさしく抱きしめられた。
夢の中の抱擁とは、くらべものにならなかった。衣服ごしに感じるあたたかさや無駄《むだ》のない筋肉や、腕にこもる力強さをじかに感じ、再会できたよろこびをリディアは全身で受け止める。
彼は髪に頬《ほお》を寄せる。何か言いたげに名をつぶやき、けれどそのまま口をつぐむ。
傷が治るまで待っていてほしいと、わがままを言いそうになるのを、リディアは必死でこらえていた。
それではこれまでと同じだ。またエドガーがリディアのために、プリンスの記憶に触れてしまうかもしれない。リディアが予言者とつながっているかぎり、そばにいればエドガーはプリンスの記憶を宿《やど》してしまった自分と向き合わねばならなくなる。
「……ありがとう、エドガー」
ようやくリディアは腕をほどき、濡《ぬ》れた頬をぬぐった。
息をするのも苦しいほど、痛みがひどくなってきていた。平気な顔でいられるうちに別れを告げよう。ここで倒れたりしたら、エドガーが気に病《や》むに違いない。
「さよなら……」
彼はその言葉を口にしたくはなさそうに黙《だま》っていたけれど、リディアはやっとの思いで背を向けた。
「伯爵ーっ!」
そのとき、ニコの声がした。
海岸を、黒い馬が走ってくる。たてがみにぶら下がって、灰色の猫《ねこ》が振り回されている。
ニコと、ケルピー?
「ええい、もう、考えたっておれにはわかんねーよう! だからあんたを信用する!」
ニコが何かを投げたように見えた。エドガーはそれを受け止めたのだろうか。
振り返ったら立ち去れなくなりそうで、リディアは確かめることなく歩き出す。
「待ってくれ、リディア!」
突然、こらえきれなくなったように、エドガーはそう言った。
リディアは腕をつかまれる。振り返る間もなく、ぐいと引き寄せられる。
驚《おどろ》いて見あげれば、いきなり口づけられた。
いつになく強引《ごういん》に、唇《くちびる》を割って入ってこようとする。あせりながらリディアは、小さな硬いものを口の中に感じたけれど、エドガーが離してくれないのでどうにもできないまま、それを飲み込んでしまった。
「……エド……、何を……」
ようやく声を発《はっ》しながら、あえぐように息をする。
別れなければならない人とのキス。なのに、はじめてのときよりずっとリディアは混乱し、頬が熱くなって体に力が入らない。
一方で、傷の痛みが一気に引くのも彼女は感じていた。
熱っぽさも、全身が鉛《なまり》のように重かった感覚も消える。
エドガーの手が傷を覆《おお》うように触れても、何も感じない。
あたし、何を飲んだの?
「ああ……、会ってしまったら、手放せなくなるに決まっているじゃないか」
エドガーはそう言って、リディアの髪をそっと撫《な》でた。
苦しげに眉《まゆ》をひそめる。
「ごめんねリディア、やっぱりきみをあきらめられない。僕のわがままを許してくれ」
ふわりと体が浮いたのは、いきなり抱き上げられたからだ。そのまま彼は、ボートの方へと歩き出す。
「え……、エドガー?」
「ファーガス、感謝する!」
エドガーが振り返りもせずにそう言うと、
「あんたのためなんかじゃない!」
ファーガスが悔《くや》しそうに、けれど口の端《はし》で笑いながら言った。
「ちょっと、エドガー! おろして、あたしは……」
エドガーはまるで耳を貸そうとせず、リディアを抱いたまま浅瀬を歩いていく。
「ねえ、いっしょにいたら、いつかまた、あなたが苦しい選択をすることになるかもしれないわ……!」
背中をたたいてもおろしてくれない。
「お嬢《じょう》さま!」
ボートに乗せられたとき、ケリーの声がした。
心配で駆けつけてきたらしい彼女は、そばにいるのがエドガーだと気づいたのだろう。大きく手を振って、リディアを見送ろうとしている。
「……お元気で、お嬢さま! 伯爵とお幸せに……!」
「だ、だめよケリー、エドガーを止めて!」
けれどケリーは、その場で微笑みながら手を振り続けていた。
レイヴンが沖に見える船影に向かってボートをこぎ出すと、ケリーもファーガスもどんどん遠ざかって小さくなり、やがて声も聞こえなくなった。
* * *
白い帆《ほ》がひらけば、船は波を切って進みだした。ニコはマストの横木に座り、遠ざかっていく島を眺《なが》めた。
かつてアウローラとカールトン教授とともにあとにした島を、今度はリディアと伯爵といっしょに去ろうとしている。
リディアやレイヴンと、できるかぎりの時間を過ごしたいと思うし、そうしてもいいのだと思えたから、この島ではない場所へ、あらためて旅立つつもりだ。
島は、やさしくニコを見送ってくれている。彼はそう感じて目を細めた。
「行ってしまうんだね、アウローラの相棒《あいぼう》」
目の前に、少年が浮かんでいた。あるじの夢の一部だという彼だ。
「今はリディアの相棒だからな」
「いいね、あんたは自由で」
「自由か……。そうだな。だけど、これでよかったのかな。リディアも伯爵も、あれが何なのか知らないのに」
「アウローラがあんたにあずけたなら、あんたが思うようにしていいのさ」
アウローラは、リディアの幸せを願っていた。いつかリディアが結婚するとき、自分がそばにいられないことを知っていたからこそ、本当に好きな人と結ばれるようにと祈っていた。
だったら、アウローラもよろこんでくれているはずだ。
「予言者はどこにいるんだろう」
「さあなあ。だけど予言者は、あのブラッドストーンに出会わないかぎり、己《おのれ》の運命を知らずに過ごすのかもしれない」
「血縁者《けつえんしゃ》か……。マッキール家の土地を離れれば、出会う確率は少なくなるよな」
「それとももう、運命は変わっているのかな。あの伯爵は、あるじを目覚めさせなかった」
「そういうものなのか?」
「ああ、未来ってのはそういうもんなんだよ。知ることができたとしても、どんどん変わっていくんだから」
かつての予言者が見ていたものとは、もうかけ離れているのかもしれないな……。
そんな声を残して、少年の姿は消えた。
あるじの夢の中に戻っていったのだろう。
日の出間近の海が、少しずつ色を変えていく。遠くに豆粒のように見える小島は、島々のあるじ≠フものだというあの島だ。
船乗りたちが舳先《へさき》に集まって、樽《たる》を運んでいる。島々でつくられた麦酒《ビール》を、景気よく海に流している。
かつては島々の各地で行われていた、あるじへの捧《ささ》げものだ。
エドガーに島々のあるじ≠フ話を聞いて、クナート家は、昔のように捧げものをすることを約束したという。ほかの氏族《クラン》にも呼びかけていくらしい。
あるじの、夢の亀裂《きれつ》が修復されれば、人間界にはびこる|悪しき妖精《アンシーリーコート》の力は弱くなる。
急には何も変わらないだろうけれど、いつかは変わるはずだ。
あるじの夢が不安定になったこの百年|余《あま》りのあいだに、災《わざわ》いの王子《プリンス》が出現した。プリンスにまつわる呪《のろ》いの力が、少しでも弱まっていけば、エドガーはその記憶を封印《ふういん》したままでいられるかもしれない。
ニコは視線を動かす、いつのまにか、同じマストの横木に、青年の姿のケルピーが座っていた。
「なあ、そもそも島々のあるじ≠目覚めさせるなんて、人間にできることなのかね」
ケルピーは、ニコに問うでもなくつぶやいた。むしろ自問のつもりだった。
「いくら青騎士伯爵の宝剣でも、人が扱える程度の魔力《まりょく》で、あれだけの夢の結晶《けっしょう》を壊《こわ》すなんて考えにくいだろ?」
「……そうだな。伯爵がもし思いとどまらなかったら、命はなかったかもしれないな」
そうでなくても、あるじに近づこうとした伯爵が、無事夢の入り口を突破したのが意外だったほどだ。
だからこそ、アーミンは伯爵を止めてくれとケルピーに言った。その一方で彼女は、伯爵を島々のあるじ≠ノ近づけようとヒントを与えた。
あの女は何をしたかったのか。ケルピーはそれが引っかかっている。
ユリシスにとって、伯爵はプリンス≠セ。自分たちの目的をかなえるためには不可欠な存在で、死ぬかもしれないような危険を冒《おか》させるとは考えにくい。
なら、アーミンを動かし、伯爵を導いたのは、ユリシスではないのではないか。
彼女は、そしてその誰かは、結果、伯爵を試したのではないかとケルピーには思える。
伯爵の、本質を。
プリンスの記憶にとらわれる可能性があるかどうかを。
もしも|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力に突き動かされ、伯爵が自分を抑制《よくせい》できなかったなら、プリンスの記憶ごと死に追いやるつもりだったのではないか。そんなふうにしか考えられない。
彼を崇拝《すうはい》し、守ろうとしていたアーミンが、そんな危険な賭《か》けに荷担《かたん》したのだろうか。
ケルピーを利用したのは、リディアを動かすためだったかもしれない。リディアなら、伯爵の心を青騎士としての彼にとどめておけるかもしれないと。
「いったい何なんだ、あの女……」
「あの女?」
ニコが不思議そうにこちらを見た。
「何でもねえよ」
彼女のことはまだ心の内にとどめておくつもりで、ケルピーはそう言った。
リディアが幸せになろうとしているときだ。不安な要素は引っ込めておくべきだろう。
見おろせば、リディアの姿が目に入る。伯爵が手を引いて、船室から甲板《かんぱん》に連れ出してきたようだ。
「ああ、それにしても残念だ。あいつが死んでくれりゃ、リディアと以前のように暮らせたのに」
ケルピーは苦笑《にがわら》いを浮かべてつぶやいた。
「エドガー……、そんなに強く手を握《にぎ》らないで」
引っぱられるように歩きながら、リディアは戸惑《とまど》いつつ口を開いた。
「だけど力をゆるめたら、きみは船室へ逃げ込んで鍵《かぎ》をかけてしまうだろ?」
エドガーは本気で、離したとたんリディアは逃げ出すと思っているようだった。
「さっき鍵を開けられなかったのは、ロタに背中の傷を見てもらってたところだったからよ」
きちんと服を着ないとドアを開けられないのに、『当分会いたくないってさ』とロタがふざけて返事をしたものだから、彼は悩《なや》みながらドアのそばで待っていたらしい。
衣服を整えて、外へ出ようとしたロタがドアを開けたとたん、強引に踏《ふ》み込んできたエドガーは、『話がしたい』とリディアを部屋から連れ出した。
そうして、ふたりで甲板に出てきたところだ。
「傷を?」
「ええ……、痛みはすっかり消えたし、もう傷跡《きずあと》も残っていないって」
エドガーはようやく安心したのか、力をゆるめ、リディアを見て、やわらかく微笑《ほほえ》んだ。
「そうだったのか。……よかった。フィル・チリースの刃《やいば》の魔力は完全に消えたってことなんだね」
リディアは頷《うなず》く。
「ニコの持っていたブラッドストーンが、あるじの泉の雫《しずく》だったなんて」
母さまはあれをどこで手に入れたのかしら。
このヘブリディーズの島々でフェアリードクターをしていたのだから、たまたま持っていたとしても不思議ではないのかもしれないけれど。
「じゃ、僕を避《さ》けたいわけじゃない?」
手すりのそばまで来て立ち止まり、エドガーは体ごとリディアに向けて、覗《のぞ》き込むようにして問いかけた。
避けたいわけはない。けれどリディアは、まだ少し戸惑っている。
別れると決めたのに、このまま流されてしまっていいものだろうか。
東の空が淡《あわ》いオレンジ色に染まりつつある。水平線のすぐ下に、太陽の気配《けはい》が感じられる。
「ニコは、僕がプリンス≠ノなったりしないと、きみを幸せにできると信じて、あのブラッドストーンを譲《ゆず》ってくれた。あれを手にしたとき、僕はもう、どんな理屈を並べてもきみを離せないとだけ感じていた。だから……」
エドガーは言葉を切って、不安そうにリディアを見た。
「でも、怒《おこ》ってる? 僕たちの結婚は間違ってると思う?」
「わからないわ。……考える間もなく、あたしは強引にこの船に乗せられたもの」
リディアは目を伏《ふ》せた。
「納得《なっとく》できない、か」
ほんの少し、リディアは腹が立っていた。考えて、悩んで決めても、エドガーは熟考するよりも直感で選択する。リディアが必死に考えたことも簡単にくつがえす。
「あなた、いつも勝手すぎるわよ。あたしがそばにいたいっていったときは置き去りにして、薬なんていらないって言ってるのに危険を冒《おか》して。悩んで、何があってもそばにいようって決めたとたん、あっさり死のうとしたり……」
並べ立てているうちにますます腹が立ってきた。
「それで何なの? お別れを言いに来たくせに、いきなり気が変わってあたしを船に乗せて、これで元通りだっていうの? あたしが、すぐに気持ちを切り換えられると思ってるの?」
さすがに彼は、自分の理不尽《りふじん》さに気づいたようだった。うろたえたらしく、リディアの方にのばしかけた手を引っ込める。
そうしてため息をつく。
「きみのことになると、どうにも冷静になれないんだ。独《ひと》りよがりな判断をしてしまう」
けれどすぐに、強気になる。
「でもね、今ここにふたりでいることは、間違ってなかったと思ってる。たくさん間違った判断をしたかもしれないけど、これは、独りよがりじゃないと……。きみだってあのまま別れたかったわけじゃないと信じてるんだけど、……違う?」
リディアを振り回して、そのくせ自信満々なのも相変わらずだ。
いや、それほど自信があるわけでもないのだろうか。うつむいたままのリディアを、不安げに覗き込む。
「やっぱり別れたい?」
おそるおそる、問う。
ううん、訊《き》けるのは自信があるからだ。リディアから、別れる気はないという言葉を引き出したいから。
やっぱりリディアは腹が立った。
「そんなこと、訊くの?」
答えは決まっているじゃない。なのに卑怯《ひきょう》だわ。
そう思うと涙が出てきた。
「別れたいって言ったら引き返してくれるの?」
声が震《ふる》えてしまうと、彼があわてたように言葉を詰まらせたのがわかった。
「ごめん、それはできない。お願いだから、泣かないで……。今すぐ以前と同じようにできなくてもいい。僕の婚約者でいてくれれば……」
本気であせってるのかしら。意外に感じると、腹立たしさはおさまってきていた。
それでも、涙はなかなか止まらなかった。悲しいというわけでもなく、うれしいのとも違う、ほっとしているのかもしれないけれど、素直《すなお》になるにはまだ、いろんなことがありすぎて戸惑っている。
エドガーの手が頬《ほお》に触れ、涙をぬぐう。いつになく遠慮《えんりょ》がちで、それ以上べたべたさわろうとはしない。
「そうしてくれれば、この日のことを後悔《こうかい》させないと誓《ちか》う」
それは真剣な、迷いのない口調《くちょう》だった。
リディアはようやく、少しだけ顔をあげた。
「青騎士|伯爵《はくしゃく》としての自分を失ったりしない。ユリシスにも誰にも惑《まど》わされたりしない。僕のつとめをまっとうする」
「でも、予言者が現れたら……」
「僕たちはプリンス≠フ敵と戦う者じゃない」
その言葉を聞いて、リディアは不安が解《ほど》けていくのを感じていた。
エドガーは、少し変わったかもしれない。守るべきものを本当に守るということは、がむしゃらに戦うことではないのかもしれないと、あのときあるじの夢の泉で感じ取ったのだろうか。
もう、自分のせいで彼がプリンスに近づいていくことはないのかもしれない。
「リディア、結婚してくれるね?」
そう言ってエドガーは、ポケットをさぐると光るものを取り出した。
ムーンストーンの婚約指輪だ。
のぼりはじめた陽《ひ》の光が、この船まで届くと、ムーンストーンに反射する。
早朝の月は厳《おごそ》かに白く、恥《は》じらう無垢《むく》な花嫁《はなよめ》のようにひかえめに輝《かがや》く。
ようやく泣きやんで、リディアが静かに頷くと、手を取った彼は、指輪をそっと薬指に差し込んだ。
満足げに眺《なが》めて、エドガーはまぶしそうに目を細める。
「やっと、夜が明ける」
離れて過ごしていた長い夜が、やわらかな光に包まれて明けようとしていた。
[#挿絵(img/chalcedony_289.jpg)入る]
[#改ページ]
あとがき
お待たせしました。久しぶりの本編です。
とりあえず、ひとつは落着《らくちゃく》したはずですが、いかがでしたでしょうか。
この本が出る頃には、アニメの放送が始まっています。そちらではまだまだ初々《ういうい》しい、出会ったばかりのリディアとエドガーが見られますので(しかも動画で声つき! 当然か)、ぜひご覧くださいませ。
今回も、舞台は引き続き、スコットランドです。
そんなスコットランドがらみの話を少し。
アンティークのアクセサリーを見ていると、スコティッシュと呼ばれる伝統的なジュエリーを目にすることがあります。色合いやデザインが特徴的で、スコットランド産のカルセドニーや煙水晶《スモーキークオーツ》などが使われているものです。
主にブローチや飾りピンなどで、女性向けのネックレスみたいなものは見かけないのですが、民族衣装のキルトを留めるのに使ったのだと聞けば、なるほどと頷《うなず》けます。
宝石|細工《ざいく》というと、ヴィクトリア朝のものはとくに繊細《せんさい》できらびやかな印象ですが、スコティッシュジュエリーは、半透明、不透明の宝石を大きく使っていて、石そのものの魅力を感じさせてくれるのです。
様々な色合いの石を贅沢《ぜいたく》に使っていて、けれど落ち着いた色なので、うわついたところのない統一感があって、素朴《そぼく》だけど力強い、そんな印象です。
本編を書きながら、スコティッシュジュエリーのイメージがしばしば頭に浮かびました。ハイランドの宝石と夢の世界を、うまく描けていればいいなと思います。
スコティッシュに限らず、アンティークを眺《なが》めるのは楽しいのですが、先日、ムーンストーンの指輪を見つけました。かなり大きなムーンストーンで、リディアの婚約指輪みたい! とついほしくなってしまいました。
しかもヴィクトリア時代のものだとか。
眺めているよりも、じっさいに手で触れてみると、磨《みが》いた石や金属の細工が指に心地《ここち》よくできているのです。
石と金属なのに、なんとなくぬくもりを感じるのが不思議でした。
どんな人が持っていたものなんでしょう。
当時のジュエリーは、上流階級のために職人が手作りした一点ものがほとんどだとか。ロマンを感じますね。
しかし高い……(笑)。
そんなわけで、眺めるのみに。
さて、雑談ばかりでしたが、あとがきまでのおつきあい、ありがとうございました。
この物語、まだしばらく続きますが、次は結婚式……にたどり着けるでしょうか。楽しみにお待ちください。
イラストの高星《たかぼし》麻子《あさこ》さまには、ますますお世話になっております。ステキなイラストを見たい! と思えば、ドキドキワクワクのシーンを考えるのにも力が入りますね。
というわけで、読者のみなさまには、絵も物語もますます楽しんでいただけますように。
機会がありましたなら、またこの場でお目にかかれますよう祈っております。
二〇〇七年 一月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 誓いのキスを夜明けまでに」コバルト文庫、集英社
2008(平成20)年11月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年11月6日作成