伯爵と妖精
運命の赤い糸を信じますか?
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)決闘《けっとう》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|妖精の名付け親《フェアリー・ゴッドマザー》
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目次
不思議な贈り物と従者の受難
運命の赤い糸を信じますか?
リボンは勝負のドレスコード
あとがき
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不思議な贈り物と従者の受難
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レイヴンは、エドガー・アシェンバート伯爵《はくしゃく》の従者《ヴァレット》だ。
彼の仕事は朝早くから始まる。目覚めたらまず、主人の予定を確認して頭に入れる。主人が起き出す前に、ドレッシングルームを片づけ、洗面台を整えて湯を用意する。靴を磨《みが》いてそろえておく。洗濯係《ローンドリー・メイド》が持ってきたシャツを受け取り、問題はないか確認する。
わずかなアイロンのかけ残しも見|逃《のが》さないから、メイドはかなり緊張《きんちょう》している。
彼の、エキゾチックな容貌《ようぼう》や褐色《かっしょく》の肌、十九歳という年齢には見えない童顔から、まだ少女といっていい年頃の新入りメイドが興味を持つこともあるようだが、しばらくするとみんな、彼がそうとうに変わっていると気づく。
ただならぬ雰囲気《ふんいき》をまとっていて、まず笑わないし必要なことしか話さない。
そんな従者が崇拝《すうはい》している主人の持ち物を扱《あつか》うには、細心《さいしん》の注意を払わねばならない。
先日、伯爵のネクタイにアイロンの焦《こ》げ目をつくってしまったメイドは、無言でにらまれただけだが、殺されるかと思ったらしい。
ともかく、レイヴンはたいへん無口だが、暗い瞳《ひとみ》の奥にかすかな緑の光が横切ると、そこに何かがひそんでいるかのような、恐《おそ》ろしい感じがする人なのだそうだ。
今日の当番のローンドリー・メイドも、レイヴンを恐ろしいと感じているひとりなのだろう。シャツの確認を待つあいだ、落ち着かなく視線を動かしている。
不手際《ふてぎわ》を見つけ、レイヴンはため息をつく。
「しわが残っています。やり直してください」
シャツを突き返すと、メイドは急に泣き出した。
「す……す、すみませんでした……!」
震《ふる》える手でシャツをつかみ、脱兎《だっと》のごとく駆《か》け出していく。
メイドを叱《しか》ったことも怒鳴《どな》ったこともないレイヴンだ。でもなぜか、丁重《ていちょう》にお願いしているつもりなのによく泣かれる。
もっとも彼は、なぜメイドが泣くのかわからないし、そのことについて考えるのは自分の役目ではないと思っているから、淡々《たんたん》と次の仕事に移るだけだ。
モーニングコートにブラシをかけ、カフスやタイピンもそろえておく。
そうこうしていると、玄関の呼び鈴《りん》が鳴るのが聞こえた。
こんな早朝に来客の予定はない。けれど呼び鈴は二度、三度と鳴らされる。
誰も聞こえていないのだろうか。執事《しつじ》は地下のワイン倉庫かもしれない。そう思いながらレイヴンは部屋を出る。
主人の私室は玄関から離れているが、レイヴンは屋敷の中でおそらくいちばん耳がいい。
急いで玄関ホールへ向かった彼は、鍵《かぎ》をはずして重い扉を両手で引いた。
と、強い風が吹き込んできた。森の中で突風《とっぷう》に見舞われたかのように、大量の木《こ》の葉が玄関ホールをくるくると舞う。
その風がようやくやんだとき、ドアの外に目を向けたレイヴンの前には、黒っぽい外套《がいとう》を着た背の高い紳士《しんし》が堂々と立っていた。
「青騎士伯爵のお屋敷ですかな?」
帽子《ぼうし》を目深《まぶか》にかぶっていて、顔は少しもわからない。手にした杖《ステッキ》は、一本の木の枝だ。
「|はい、そうです《イエス・サー》」
髪や肩にくっついた木の葉を払い、レイヴンは慇懃《いんぎん》に答えた。
アシェンバート伯爵の、正式な称号は妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》。青騎士伯爵というのは古い通称で、今となっては人間の世界ではまず使われない。
レイヴンの主人を青騎士伯爵≠ニ呼ぶのは、おそらく妖精族だ。
考えながら彼は、注意深く訊《たず》ねる。
「どちらさまでいらっしゃいますか」
「昔、伯爵によくしていただいた者です」
男の姿は、よく確かめようとするほど霧《きり》に包まれたようにもやもやとして、どんな特徴も頭に入ってこなかった。
「本日は、心ばかりのお祝いの品を届けにまいりました。どうぞお納めください」
小さな包みをレイヴンに手渡す。そのまま彼は立ち去る。いや、消えたのだろうか。包みをじっと眺《なが》めたレイヴンが、視線をあげたときにはもう、その男はいなかった。
「レイヴン、誰か来たのかい?」
執事のトムキンスがホールに顔を出した。レイヴンが事情を告げると、彼はずんぐりした体をゆらして笑った。
「いやはや、妖精族も案外義理|堅《がた》い。旦那《だんな》さまが婚約を発表してから、ときどき妙《みょう》な贈り物が届くのだよ」
「妙な、ですか?」
「季節はずれの果実、減らないバターやハチミツ、蜘蛛《くも》の糸で編んだテーブルクロスや朝露《あさつゆ》をつないだネックレス、翌日には葉っぱに変わる金貨。ま、そういうものだよ」
「……はあ」
「さて、こんどは何だろうね」
トムキンスは、レイヴンの手から包みを持ちあげる。人魚《メロウ》の血を引く執事の指はやけに短くて、水掻《みずか》きがあるようにも見える。彼は包みを軽く振ってみたが、首を傾《かし》げながらまたレイヴンの手に戻した。
「旦那さまにお渡しして」
「はい」
「ああそれから、木の葉を掃《は》き出す必要があるとミセス・レインに伝えておいてくれ」
玄関ホールに積もった大量の木の葉を見まわし、レイヴンは頷《うなず》いた。
この屋敷の主人である、エドガー・アシェンバートは、最近正式に婚約した。ようやく婚約を世間に公表し、最愛の婚約者《フィアンセ》を社交界に連れ出すこともできるようになったのだが、常に上機嫌《じょうきげん》かというとそうでもない。
いつものように、レイヴンが給仕《きゅうじ》する朝食をとりながら、思い出したようにつぶやく。
「リディアは、今日も来ないのだったね」
エドガーの婚約者、リディア・カールトン嬢《じょう》は、伯爵家の顧問《こもん》妖精博士《フェアリードクター》だ。妖精に詳《くわ》しく、彼らと親しくしている不思議な少女だ。
「メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人が、御用達《ごようたし》のドレスメーカーにリディアさんのドレスの仕立てをお願いしてくださったとのことで、今日は採寸《さいすん》のために公爵|邸《てい》にいらっしゃるそうですが」
「採寸ね……。僕も立ち会いたいくらいだ」
そう言って、レイヴンの方を見る。
「なあレイヴン、今何を想像した?」
「……………………いえ、何も」
「いいんだよレイヴン、リディアの下着姿を想像したからといって怒ったりしないから」
完璧《かんぺき》な美貌《びぼう》で、完璧な笑《え》みを浮かべる。まぶしいほどの金髪と蠱惑的《こわくてき》な灰紫《アッシュモーヴ》の瞳を持つ青年伯爵は、笑顔を振りまくのは得意だが、笑わないレイヴンよりもずっと恐ろしい人物だということは、近《ちか》しい人間しか知らない。
レイヴンは目の前にいる敵しか攻撃しないが、エドガーなら、気にくわない相手がどこへ逃げようと、地獄《じごく》へ突き落とすだろう。
「で、どんなふう?」
「は」
「おまえの想像の中のリディア」
しばしばこうやってからかわれるレイヴンだが、からかわれていると感じたことはない。いつでも主人に忠実《ちゅうじつ》であろうとするだけだ。
問われれば、必死に想像しようとする。
一方エドガーは、レイヴンがささやかな隠《かく》し事や人間らしい戸惑《とまど》いを見せるようになってきたことを歓迎《かんげい》している。エドガーにとっては、からかいがいが出てきたというものだ。
「ああ、それにしても、婚約したっていうのに、前よりリディアと過ごす時間が減っているような気がするよ」
まだ悩《なや》んでいるレイヴンをそのままにして、エドガーはつぶやいた。
以前は毎日、顧問フェアリードクターとしてこの屋敷へ通っていたリディアとは、会いたいときに会うことができた。しかし今、彼女は結婚準備に忙《いそが》しいし、婚約者として公《おおやけ》の場に連れ出すことがあっても、なかなかふたりきりで過ごせない。
考えながらエドガーは思い出す。そういえば、このあいだ出かけたクラブのパーティで、リディアを怒らせてしまったのだった。
エドガーにしてみれば些細《ささい》なことで、リディアがまだ怒っているかもしれないなんてことはすっかり失念していたが、彼女はわりと、些細なことを気にするたちだ。
あれから数日、エドガーの方も忙しくて、きちんと話をしていなかったと気づけば、少し気になる。
フォークを置いて、彼はレイヴンを見た。
かすかに眉《まゆ》をひそめ、直立不動《ちょくりつふどう》のまま、まだ悩んでいる様子の従者《じゅうしゃ》を呼ぶ。
「レイヴン、紅茶を淹《い》れてくれるかい」
新しい指示を受けて、ようやくさっきの質問から解放されたと知ったレイヴンは、急いでポットを手に取った。
「エドガーさま、今朝《けさ》、祝いの品だというものが届いたのですが、ごらんになりますか?」
食事が一段落《いちだんらく》したと判断したのだろう、レイヴンは切りだした。
「誰から?」
「妖精だと思われます」
「開けてくれ」
包みを開くと、木でできた小箱が現れた。中に、植物の種らしいものが入っている。
「何の種だろう。見たことのない形だけど」
ひとつ手にとって、エドガーは転がしながら眺めた。黄緑がかった、クルミほどのまるい種子だ。
「何か書いてあります」
レイヴンは、蓋《ふた》の裏に注目した。
「使用禁止=Aです」
「どういうことだろう。使ってはいけないものを贈ってよこすなんて」
「わかりません」
レイヴンも首をひねる。
「なら、使ってみるしかないな。なぜ使用禁止なのかわかる」
こういった、エドガーのひねくれた考えを止めるという選択肢《せんたくし》は、レイヴンにはなかった。主人の言葉は絶対だからだ。
それでも、主人よりもいくらか常識的な意見を口にする。
「あの、危険なのではありませんか」
「危険? 種が襲《おそ》いかかってくるとでも?」
エドガーはふざけて返す。
「たぶん、何かが生えてくるんだろうな。よし、植木鉢《ポット》に埋《う》めてみるか」
立ちあがるエドガーの前に、レイヴンはあわてたように進み出た。
「エドガーさま、私がやります」
「え? いや、べつにいいよ。庭師に鉢《はち》を用意してもらうから」
「いいえ、何が起こるかわかりません。万が一のことがあっては困ります」
「万が一、種が襲いかかってきたら困る?」
エドガーはくすくす笑うが、レイヴンはあくまで真剣だ。主人の前から退《しりぞ》こうとしない。
「私にやらせてください」
こういうときレイヴンは、簡単には引き下がらない。従者としての彼の役目は、単なる職業ではなく天命であり、主人を命がけで守らねばならないと固く信じているからだ。
それというのも彼が、セイロンのとある小部族の末裔《まつえい》で、伝説的な精霊を宿しているからだった。
部族が小さな王国として繁栄していた時代なら、恐ろしい殺戮《さつりく》の精霊《せいれい》を宿《やど》して生まれてきた彼は、王の戦士として高い地位にいたことだろう。
しかし国はとうになく、いろいろあってエドガーに助けられたレイヴンは、彼を自分だけの王だと思っている。
生まれつき飛び抜けた戦闘能力を持ち、血が流れるほどに興奮し虐殺《ぎゃくさつ》をやめられない精霊の本性《ほんしょう》も、王にだけは従《したが》う。エドガーのそばにいることで、レイヴンは残虐《ざんぎゃく》な戦士ではなくひとりの少年になりつつある。
他人と心を通わすこともなく、人間らしい感情を理解できないまま成長したけれど、少しずつ、主人の周囲の人たちにも目を向けられるようになってきた。
けれども彼にとって、主人がすべてという感覚は、簡単に変わるものではないのだった。
「わかった、じゃあおまえに任せよう。変化があったら教えてくれ」
『ねえあなた、本当にアシェンバート卿《きょう》のこと、愛してらっしゃるの?』
とびきり美しい貴婦人に、リディアが声をかけられたのは、先日のパーティだった。
そのクラブに集まったのは、社交界のはみ出し者ばかりだというが、リディアには誰も彼も、きちんとした上流の紳士|淑女《しゅくじょ》に見えた。
とはいえ、そんなふうにあからさまに訊ねられたのははじめてだった。
『不躾《ぶしつけ》だったかしら? でもあなた、彼といっしょにいても、楽しそうに見えないのよ』
それは、リディアにとって社交界というのは慣れないもので、常に緊張しているからだ。それに、まだ結婚していないのにあからさまに親しげなのはよくないと思っている。
エドガーはそのへん節操《せっそう》がなく、恥《は》ずかしい思いをさせられそうになることもしばしばだから、リディアが自衛するしかない。
けれどそんな様子を見て、仲のいい恋人どうしではなさそうだと勘ぐられたなら、この女性はエドガーに気があるのだろうか。もしかすると、以前につきあいがあったのかもしれない。
女たらしで口説《くど》き魔なうえ、人目を引く美貌《びぼう》もあって、常にスキャンダルの的《まと》になっていたエドガーに、いったい何人恋人がいたのかリディアは知らない。本当にひとり残らず手を切ったのかも知りようがない。
ただ、こういうことがあると、リディアはちょっと落ち込む。
その、豊満《ほうまん》な胸元を惜《お》しげもなくさらしている女性は、セイルズ夫人と呼ばれていたが、どういう人かリディアは知らない。
やけに質問責めにしたかと思うと、警戒《けいかい》するリディアを見てくすりと笑い、急に思い立ったように、知人だという青年をリディアに引き合わせた。未来が見えるという変わった人で、ラットンと名乗った。
しばしリディアを観察し、彼は言った。
『お嬢さん、もしもわずかでも、結婚に迷いがおありなら、考え直した方がいいですよ』
それをエドガーに聞かれていたものだから、大事《おおごと》に発展してしまった。
インチキ呼ばわりしたエドガーに、毅然《きぜん》と反論したラットンは、自分の能力を証明すると言い張った。
もともと彼は、その特殊《とくしゅ》な力をみなに示したいと、パーティに来ていたようだった。
社交界ではこのところ有名になりつつあるらしい。
注目をあびながら、ラットンはひとり別室に入った。広間にいるリディアには、五分後に言葉をひとつ書き留めるよう言い残していった。ラットンはそれを、事前に読みとって記しておくというのだ。
結果はぴたりと一致《いっち》し、皆が感嘆《かんたん》の声をあげた。が、それもつかの間《ま》、エドガーが仕掛《しか》けを見破りあばいてしまった。
だまされていたと知った貴族たちは憤《いきどお》り、パーティは大騒《おおさわ》ぎになったのだ。
リディアは、騒ぎの原因が自分にあるような気がしてしまうと、エドガーのやり方も、もう少しおだやかに対処すればいいのにと、いやな気分のままむっつりしてしまっていた。
帰り際《ぎわ》にちらりと見えたセイルズ夫人の、不満げにエドガーをにらむ視線も、もやもやと胸に残った。
だから、数日ぶりにエドガーを目の前にして、そして急ぎと呼び出された原因があまりの事態だと知り、つい声を張りあげていた。
「どうして、使用禁止ってものを使うのよ!」
レイヴンが大変だと聞き、採寸を終えてすぐ伯爵邸《はくしゃくてい》に駆《か》けつけたところだった。
「だって、使ってみないとどうなるかわからないだろう?」
当然だと言わんばかりの返事だ。
好ましくないことになるからこそ使用禁止≠ネのだ。なのにこの人は何を考えているのだろう。婚約した相手でも、リディアにはときどき理解しがたい。
「わからなくてもいいじゃない!」
「僕はいやだな。贈り物が何なのか知らないまま、手元に置いておくなんて」
飄々《ひょうひょう》と肩をすくめる彼とともに、リディアは邸宅の中庭に立っていた。
「せめてあたしに相談してからにしてちょうだい。妖精のことなんだから」
そう言いながらも、こんな現象はリディアにとってもはじめて見るものだった。
中庭には、複雑に枝葉《えだは》が絡《から》み合った、釣《つ》り鐘《がね》状の大きなドームが鎮座《ちんざ》していた。
密に重なった枝葉には隙間《すきま》がなく、中の様子は見えない。枝を切ろうとしても、鋸《のこぎり》の歯も立たないという。そんな中に、レイヴンが閉じこめられてしまったらしいのだ。
「だけどリディア、きみはこのところ忙しいし、僕を避《さ》けてただろ?」
急に顔を近づけられ、リディアは思わず体を引いた。ほら、と不満そうに眉をひそめ、彼は姿勢を戻す。
「気に入らないことがあるなら、はっきり言ってくれ。用事にかまけてなんとなく遠ざけられるのは不愉快《ふゆかい》だ」
不愉快なんて言われ、むっとする。
「あたしがいくら言ったって、あなたは聞く耳持たないじゃない。人前でべたべたしないでって言ってるのに、このあいだのパーティだって、……ダンスの最中に……」
いきなり首にキスしたのだ。
「あのときは、気心の知れた仲間が多かったし、場の雰囲気《ふんいき》からして僕らに婚約者らしい振る舞いを期待してたんだ。それくらいいいじゃないか」
「そう、場の雰囲気のために、あたしを恥ずかしい気持ちにさせたの」
「あのねリディア、人前だからってあんまり他人|行儀《ぎょうぎ》なのもどうかと思うよ。妙《みょう》な誤解をされることだってあるんだ」
「あなたの昔の恋人が、婚約者とうまくいってないってことを期待するかもしれない?」
ちょっと驚いたような、困惑《こんわく》したような目を向け、エドガーは小さくため息をついた。
「そうじゃない。僕が心配なのは、きみに興味を持つ誰かが期待するかもってこと」
そんな人いるわけないのに。
「いいかい、リディア、僕は間違いなくきみ一筋《ひとすじ》だ。いいかげんに信用してくれ」
「し、信じてるわよ。でなきゃ婚約なんてしないもの」
「だけど、結婚を考え直せなんてインチキ野郎《やろう》の言葉に動揺《どうよう》してたじゃないか」
「……動揺なんかしてないわよ」
「してた。あいつの簡単な手品を見て、青い顔をしてただろ」
本当に未来が見えているのならと、怖くなったのはたしかだった。
「だからってエドガー、あの場で仕掛けを暴《あば》いて、彼を笑いものにすることはなかったわ」
「じゃあどうすればよかったんだ?」
意味のない言い争い。こんなのはいやだとリディアはうつむく。
「ごめん、ムキになってしまった」
エドガーは折れたように言う。リディアの頬《ほお》に手をのばす。
「これからは気をつける。それでいいね?」
「……ええ」
セイルズ夫人は? 結局それは口にできずに頷《うなず》くが、仲直りのしるしか彼の唇《くちびる》が頬に触れると、リディアはつい退《ひ》いていた。
「そ、それよりレイヴンのことでしょ。早く助けなきゃ」
しぶしぶリディアから手を離したエドガーは、皮肉《ひにく》混じりにつぶやいた。
「閉じこめられたのが僕でも、きみは急いで駆けつけてくれたのかな」
「旦那《だんな》さま、残りの木の実はこちらです」
ちょうどいいタイミングでトムキンスが現れた。ひょっとすると見計《みはか》らって待っていたのかもしれないが、彼はずんぐりした体に見合わない素早《すばや》さでさっと近づいてくると、種の入った木箱をエドガーに手渡した。
覗《のぞ》き込んだリディアにもはじめて見るものだったが、悪いものではなさそうに思えた。
「トムキンスさん、妖精の姿は見ましたか?」
「いいえ、応対したのはレイヴンです。わたくしが玄関ホールへ出たときには、すでにお帰りになられたあとで、ホールには落ち葉が大量に積もっておりました」
樹木そのものの精霊かもしれない。
「ウッドワースかしら」
「危険な妖精かい?」
「そんなことはないわ。古い種族で、人と接するのはまれだけど、伯爵家の先祖なら親しくしてても不思議はないわ。義理|堅《がた》い妖精だし、中のレイヴンに害はないとは思うけど」
エドガーは、枝葉のドームを見あげる。
「でも、こうなってから三時間以上|経《た》ってる。一生ここで暮らすわけにもいかない」
その通りだ。しかしウッドワースだとすると、こちらから接触するのは難しい。
リディアが考え込んだそのとき、絡み合った枝葉がざわ、と鳴った。
と思うと、木《こ》の葉がはらりと落ちてくる。
はらはらと、わさわさと、やがていっせいに散りだした木の葉は、雪崩《なだれ》のようになって中庭にいる三人の方へ押し寄せてきた。
木の葉に押し流されそうになったリディアは、エドガーに腕を引かれる。
足元をすくわれたトムキンスがしりもちをつくと、そのまま彼を埋《う》めてしまいそうな勢いで木の葉がドームから流れ出していく。
ようやくそれがおさまったとき、固く絡み合っていたはずの枝も見る見る枯《か》れて、すっかり風化《ふうか》したように消えてしまった。
呆然《ぼうぜん》としながら、視線を動かしたリディアは、さっきまで枝葉のドームに囲まれていた空間のほぼ中央に、植木鉢《ポット》をかかえて突っ立っているレイヴンを見つけていた。
妖精が持ってきた種は、土に触れたとたん発芽《はつが》した。そうして、あっという間に生長すると、大きな釣り鐘状になってレイヴンを閉じこめたのだった。
とはいえそれだけのことで、しばらくして自然に枯れるまで、レイヴンは心地《ここち》のいい森の中で過ごしているかのようだった。
結局、あの種を使えばどうなるかはわかったが、使い道は見当《けんとう》もつかない。
レイヴンにとっては、また日々の仕事を確実にこなすことだけが自分の役目となり、種のことはすぐに忘れた。
しかし間もなく、レイヴンの身におかしなことが起こりはじめた。
いつものようにお茶を淹れていたとき、ポットを持つ手が勝手に動いた。少なくともそう感じた彼は、とっさに体の向きを変えた。
ぶちまけられた紅茶はモーニングルームの床を盛大《せいだい》に汚したが、主人に頭からぶっかけるのはまぬがれた。
ほっとしながらも、わけがわからずにレイヴンは立ちつくす。
「どうした? 手がすべるなんてめずらしい」
エドガーの声に我《われ》に返る。
「もうしわけありません。あの、火傷《やけど》はなさいませんでしたか?」
「ああ、しぶきが少し飛んだだけだよ」
上着のしずくを拭《ふ》き取ろうとひざまずいたとき、また手が勝手に動きそうになった。
握《にぎ》ったこぶしをエドガーに向けてしまいそうになって、その場にうずくまる。
「レイヴン、具合でも悪いのか?」
「いえ……、何でもありません」
エドガーから離れれば、手にこもっていた奇妙《きみょう》な力が抜ける。それでも注意深くその手を押さえながら、レイヴンは頭を下げた。
「新しい紅茶を淹れてきます」
「いや、お茶はもういいよ。書斎《しょさい》にいるから、リディアが来たら教えてくれ」
直立不動《ちょくりつふどう》でエドガーを見送ったレイヴンは、主人が出ていってしまうと、そっと冷や汗をぬぐった。
右手を目の前で開いてみる。何ら変わったところはない。けれどさっきは、明らかに自分の意志とは無関係に動いた。
以前のレイヴンは、戦いの最中に我《われ》を失ってやりすぎることが多々あった。けれどそういうとき彼は、何も考えられない状態なのだ。止めようと思う冷静な自分があるなら、自分の体が思い通りにならないはずはなかった。
いったいどうしてしまったのか。
「レイヴン、一段落《いちだんらく》ついたなら休憩《きゅうけい》にしよう」
通りかかったらしいトムキンスに声をかけられるまで、彼はじっと考え込んでいた。
伯爵家の上級|召使《めしつか》いがくつろぐのは、執事《しつじ》の私室に続く小部屋だ。ほかの召使いとは別に、彼らは食事もここでとる。
レイヴンが執事といっしょに入っていくと、メイド頭《がしら》がお茶を淹れているところだった。
「すみません、ミセス・レイン。モーニングルームに紅茶をこぼしてしまいました。あとでメイドをよこしていただけますか」
「おや、旦那さまがまた何か、変な思いつきを試しでもしたの?」
「いえ、私が誤って」
「まあ、らしくないわね」
「壁紙も、染《し》みが残るとかなり見苦しくなってしまうかもしれません」
恐縮《きょうしゅく》するレイヴンを見て、大柄《おおがら》なメイド頭は笑い出した。
「紅茶の染みなんか、あんたがサロンを血だらけにしてくれたことを思えばどうってことないわよ」
そんなこともあっただろうか。
ただレイヴンには、主人を守るためにあたりを血だらけにすることが失態とは考えにくいため、紅茶の染みの方が気がかりなのだ。
「さあ座ろう。ビスケットがまだあったかな」
トムキンスが戸棚《とだな》をさぐる。ビスケットと、とっておきのハチミツをテーブルに並べる。
朝の仕事が片づいたひととき、一息ついて紅茶を味わう。こういうのを、平和というのだろうか。レイヴンはちらりと思う。
自分たちを追う敵がいなくなって、平和な日常が訪れるようになったら、自分だけの幸福を求めればいい。常々《つねづね》主人に言われていたことだ。
レイヴンには、自分の幸福がどういうものなのかよくわからない。そもそも自分の生《お》い立ちも運命も、過酷《かこく》なのかもしれないが、そういうものだとしか受け止めてこなかった。
ただわかるのは、エドガーが幸福なら自分も幸福なのだということ。だから今は、以前にくらべればずっといい。
「そうそう、ミセス・レイン、新しく|小間使い《レディ・メイド》を雇《やと》わなければならないね」
執事が言う。
「そうですね。奥さまの侍女《じじょ》、となると相応《そうおう》の女性でないと」
「レイヴン、どんな女性がいいと思う?」
エドガーが幸福でいられるように、そのためにも、婚約したばかりの彼が、リディアと平穏《へいおん》無事にやっていけることを切《せつ》に願う。
「エドガーさまが魔が差すことがないような女性なら」
真剣な気持ちで意見したのだが、執事もメイド頭もおかしそうに笑った。
部屋の壁に掛かるベルが鳴った。屋敷の主要な部屋とつながっているそのベルで、召使いを呼ぶのは、今のところエドガーだけだ。
書斎のベルが鳴っていることを確認し、レイヴンは立ちあがった。
書斎へ入っていくと、エドガーはさがし物をしているらしく、デスクの引き出しをひっくり返していた。
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「ああレイヴン、ペーパーナイフをどこへやったか知らないか?」
デスクを離れ、飾り戸棚も開けてみる。
「先日、エドガーさまが窓から捨てました」
「え? そうだったっけ」
「仕事中のリディアさんは用もなく話しかけると怒るからと言って、ペーパーナイフを借りるのを口実《こうじつ》に仕事部屋へ押しかけ、三十五分|居座《いすわ》りました」
「……思い出したよ。となると、新しいナイフが必要だな」
「購入しておきます」
「たのむよ」
レイヴンから目をそらしたエドガーは、ナイフがないならしかたがないと、手紙の封《ふう》を手でちぎろうとする。
「とりあえず、これをお使いになりますか?」
見かねたレイヴンは、日頃持ち歩いている小型のナイフを、内ポケットから取り出した。
そのときまた、彼の右手に違和感《いわかん》が走った。
ナイフを握ったままの手を、エドガーの方に突き出しそうになったのだ。
止めようと、レイヴンは左手を動かす。
「……っ……」
うめき声にエドガーが振り返ったときには、レイヴンの左腕にナイフが突き刺《さ》さっていた。
「何をしてるんだ、レイヴン!」
驚いて近寄ろうとしたエドガーから、レイヴンは後ずさる。
「いけません、来ないでください」
しかしエドガーは、かまわずレイヴンの腕をつかむとナイフを抜いて捨てた。
血があふれて滴《したた》る。止血《しけつ》のためにハンカチで縛《しば》ろうとすれば、エドガーの衣服まで血に染まる。
けれどまだ、レイヴンの右手には奇妙な力が入っている。手の届くところにいるエドガーに何をするかわからない。
そう思えば恐《おそ》ろしくて、レイヴンはエドガーの手を振り払っていた。
「いったい、どうしたんだ?」
「……わかりません……。でも、どうか、私に近づかないでください」
「おかしいよ、レイヴン」
「しばらく、お暇《ひま》をいただきます」
そうして彼は、逃げるように書斎をあとにした。
血だらけのレイヴンが、縫《ぬ》い物係の仕事部屋へ駆《か》け込めば、そこにいたメイドたちはいっせいに逃げ出していった。
かまわず針と糸を調達し、彼は腕の傷を自分で縫う。痛みを我慢《がまん》することには慣れているし、この程度は怪我《けが》のうちに入らない。
黙々《もくもく》と作業をしていたら、戸口に誰かが立った。
「怪我をしたんですって?」
リディアだった。レイヴンは立ちあがろうとした。
「あ、いいの、座ってて」
そうは言われても、主人の婚約者に失礼なことはできないのが彼だ。
「ここは召使いの仕事部屋です。ご用でしたら人をやりますので応接間でお待ちください」
「あなたの様子を見に来たのよ。エドガーが心配してたわ。でも、彼は近づいてはいけないようだからって」
リディアの足元から、灰色の猫がテーブルに飛びあがった。リディアの相棒《あいぼう》でもある、妖精猫のニコだ。
「ようレイヴン、変わった縫い物だな」
縫い針が刺さったままのレイヴンの腕をしげしげと眺《なが》める。
つられて覗《のぞ》き込んだリディアは、目を見開いたかと思うとふらりと倒れかけた。
あわててレイヴンは、怪我をしてない方の腕をまわし、どうにか彼女をささえる。椅子《いす》に座らせると、リディアはひとつ深呼吸《しんこきゅう》した。
「ごめんなさい……、でも、あの……、自分で縫うなんて、痛くないの?」
目を背《そむ》けようとしながらも、気になりすぎて見てしまうといった様子で、リディアはぶるっと震《ふる》え、また目を背ける。
「少し」
「そ、そう」
「まあ座って話そうぜ」
テーブルに腰掛《こしか》けたニコに促《うなが》され、レイヴンは結局腰をおろした。そうしないと、縫い目もあらわな傷がちょうどリディアの視界に入ってしまう。
糸を噛《か》み切って、まくり上げていたそでをおろせば見苦しい傷は隠《かく》れる。逆に血だらけのシャツが見苦しかったが、どのみちリディアは、レイヴンの首から下に視線をおろそうとはしなかった。
「ねえ、どうしてこんなことになったの? もしかして、このあいだの妖精の種のことと関係がある?」
言われてはじめて気づく。そういえば、右手に変な感覚をおぼえたのは、あの後からだ。
「よくわかりませんが、手が、ときどき意志に反して動くのです。最初は気のせいかと思っていたのですが」
「勝手に動くの? どういうときに?」
それはもう、はっきりしていた。
「エドガーさまが近くにいるときです。危害《きがい》を加えようとします」
「へえ、祝いの贈り物にかこつけて、伯爵《はくしゃく》に嫌《いや》がらせしようって妖精がいるってことか?」
「でもニコ、ウッドワースならそんなことをするとは思えないわ」
「うーん、ま、そうだよな」
「手を、見てもいい?」
傷がない方の、勝手に動く方の手を、リディアはそっと持ちあげた。
「一分以内にしてください」
「え? どうして?」
「それ以上リディアさんに触れるときは、エドガーさまに報告しなければなりません」
「エドガーがそう言ったの?」
リディアは眉《まゆ》をひそめた。そういうときの彼女は、何かが気に障《さわ》っている。が、レイヴンにわかるのはそこまでだから、事実を言うしかない。
「はい。ちょっとしたことなら気にしなくていいとエドガーさまはおっしゃいましたが、どのくらいがちょっとしたことなのか、私には判断できませんので」
「……だからって、一分は短すぎよ! ほんとにどうしようもない人だわ! いい? レイヴン、これはお医者さまの診察《しんさつ》みたいなものなの。原因を知る手がかりを調べてるんだから、いちいち報告しなくていいのよ!」
あえて手を離そうとしなくなったリディアに、思う存分調べられているうち、時計の長針がカチリと動いたのを確認したレイヴンは、主人に報告すべきこととして記憶しなければならなかった。
「ねえ、前からこんなあざがあった?」
彼の右手首に、インクをぽたりと落としたような黒っぽい染みがあった。
「なかったと思います。リディアさん、これが妖精と関係があるのですか?」
「ごめんなさい、まだわからないわ。でも心配しないで。あたしがどうにかするから」
「ふう、安請《やすう》け合《あ》いするなよな。あんたの悪い癖《くせ》だよ」
ニコに言われ、笑顔が硬直《こうちょく》するリディアには、どうにかできる算段などないのだろう。
あまり期待しないでおこうと彼は思う。
レイヴンから手を離したリディアの手首にも、同じようなあざができていたことには、まだ誰も気づいていなかった。
「どうだった? レイヴンは」
無蓋馬車《バルーシュ》にゆられながら、エドガーはリディアに訊《たず》ねた。
これからハイドパークへ、ふたりで散歩に出かけるところだ。とはいえこれも、リディアにとっては義務感に縛《しば》られた社交のひとつだ。
雲間《くもま》から太陽がのぞいている。かわいらしく造花をあしらった日傘を手にしたリディアは、結婚をひかえて初々《ういうい》しいばかりの、良家の令嬢《れいじょう》に見えることだろう。場にふさわしく着飾った彼女をなるべく人目にさらすことで、エドガーは、貴族の出ではない婚約者を社交界にとけ込ませようとしている。
大変なところはあるけれど、リディアも努力してついていこうとしている。
けれど今は、社交よりもレイヴンのことが気がかりだった。
「やっぱり、彼の身に何かが起こってるようね。問題が解決するまで、従者《じゅうしゃ》としての仕事をはずしてほしいって」
「そう。僕のせいだね。あの種をレイヴンに試させてしまったから」
エドガーは落ち込んだように目を伏《ふ》せた。
帽子《トップハット》の影が長いまつげに落ちて、いつになく淋《さび》しげに見える。
「大丈夫よ、エドガー。あなたは彼と、もっとひどい事態を切り抜けてきたわ。……それに今は、あたしだって力になれる」
彼が視線をあげると、力のこもった灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》がリディアをとらえる。
風にゆれていた金色の前髪が不規則に流れたのは、ゆるりと身を乗り出した彼が、リディアの手を取ったからだった。
「リディア、きみがいてくれてよかった」
切《せつ》なげな瞳とまっすぐな言葉は、直接リディアの心をかき乱す。
それを知ってか知らずか、エドガーは風にほつれた彼女の髪を指先で耳にかける。
「公園に行くのなんかやめようか」
「え」
「できれば、人目のないところへ。ふたりだけで過ごしたい」
ふざけているのか真剣なのか、わからないからどぎまぎする。
婚約してからのエドガーは、リディアを口説《くど》くにも遠慮《えんりょ》がなくなって、きわどいことまで口にするようになった。
口だけならいいとしても、行動にエスカレートしそうな気がしないでもない。
けれどリディアの方はまだ、恋人らしく語り合うとか見つめ合うくらいが精一杯《せいいっぱい》だ。
「だ、だめよ、エドガー……」
「そんなにかわいい声じゃ、ノーに聞こえないよ」
赤くなるリディアに、意地悪に笑ってみせる。ぐいと手を引かれ、前のめりになるリディアに整った顔が近づく。
とたん、リディアは力任せに彼を突き放していた。
婚約してからは、露骨《ろこつ》に拒絶《きょぜつ》しないよう気をつけていたはずだった。それに、そこまでいやがるようなことでもない。なのに勝手に手が動いた。
驚くリディアと同じくらい、エドガーも驚きを浮かべながら、座席に座り直す。
「怒ったの?」
「ち、違うの……、そういうことじゃ」
混乱した頭の中が少しもまとまらないうち、馬車はハイドパークの外周路へ入り込み、やがて止まった。
「降りよう」
足元に落ちたステッキを拾い、彼はリディアの手を引いた。が、その手もいきなり振り払ってしまう。
「リディア?」
リディアもわけがわからない。どうしていいかもわからない。
「このあいだのことは、仲直りできたはずだったよね。まだ僕に不満がある?」
エドガーも、さすがに気分を害している。
「あの、そうじゃないのよ」
「今日は、帰った方がいいかもね」
そう言いながらもエドガーは馬車を降りる。リディアを残してドアを閉める。
「ひとりになりたいだろうから。僕は辻《つじ》馬車でも拾うよ」
「待って!」
このままじゃいけない。あわててリディアは馬車を降りようとする。動きにくいほど飾りの多いドレスに足元を取られる。
「あぶないじゃないか」
エドガーに助けられ、転ぶのはまぬがれたが、リディアの手はまた勝手に動いた。
あっと思ったときにはもう、彼に向けて平手を振り上げていた。
すんでの所で、リディアの手をつかんで止めたエドガーは、憤《いきどお》りよりもむしろ落胆《らくたん》のにじんだ目でリディアを見おろす。
「……僕に触れられるのは、そんなに不愉抉《ふゆかい》ってことか」
強くつかまれたままの手に、痛みを感じながら、リディアはあわてて首を横に振った。
「違うの、あたしじゃないわ! 手が……」
「痴話喧嘩《ちわげんか》?」
すぐそばで聞こえた女の声に、リディアは言葉を飲み込んだ。洒落《しゃれ》た帽子《ぼうし》をかぶったセイルズ夫人が、笑いをこらえて立っていた。
「アシェンバート卿《きょう》、女性の扱《あつか》いは慣れていらっしゃるはずじゃなくって? うぶなお嬢さんを怒らせるなんて、らしくないわね」
「ご心配なく、ケンカするほど仲がいいってことですよ」
女性には誰彼《だれかれ》かまわず笑顔を振りまく人だ。なのに今の口調《くちょう》には棘《とげ》を感じた。彼女とは何か感情的なしこりがあるのだろうか。そう思えばリディアは心が乱れる。
「ミス・カールトン、もしお困りなら……、そう、彼に目の前から消えてほしいと思ってらっしゃるなら、力になりますわよ」
エドガーを連れて立ち去ろうというのか、さりげなく彼の腕に手を添《そ》える。
やめてくださいと言えばいい。こういうときこそ婚約者として毅然《きぜん》としないと、結婚を望んでいないかのように受け取られるのだ。
ちゃんと、そして誰よりもエドガーのことを想《おも》っているつもりなのに、態度にも言葉にも、リディアにはなかなかうまく表せない。
今は、なおさら難しかった。エドガーに近づいたら、また手が出てしまうに違いない。それこそセイルズ夫人に誤解されるし、エドガーもさすがに腹を立てるだろう。
「いえ、あたしが消えますから」
言ってしまう。リディアはきびすを返して駆《か》け出す。走りながら、ようやくこの異変の原因に思い当たっていた。
レイヴンと同じではないか。
息を切らしながら、大きな木のそばで立ち止まると、急いで手袋をはずし、手首を確かめた。彼と同じ、インクが一滴《いってき》落ちてにじんだようなあざがあった。
「ど、どうしよう……」
まさかこのまま、二度とエドガーに近づけないなんてことは……。
「リディア」
追ってきたらしいエドガーの声がした。はっとして、リディアは木の後ろに回り込んだ。
「だめ、近づかないで!」
「どうしてなんだ。わけがわからないよ」
「レイヴンと同じなの! 手が勝手に動くのよ!」
「……本当に? 伝染するものなのか?」
「来ないでって言ってるでしょ!」
へたをしたら、自分たちのあいだに決定的なひびが入ってしまいそうで怖かったのだ。動こうとするエドガーに、リディアはきつく言う。そのとき、強い風が吹いた。
あたりの木の葉が不自然なほどうなった。と思うと、いつの間にそこにいたのか、黒っぽい人影がすぐそばに立っていた。
「あれを使われたのですね?」
その人影が言った。
「少々遅かったようですな」
「……誰だ?」
帽子を目深《まぶか》にかぶり、木の枝を杖《つえ》にした男。だがそれ以上の容貌《ようぼう》は少しも頭に入ってこない。明るい日中なのに、薄闇《うすやみ》の中で眺《なが》めているような感覚は、相手が人ではないとリディアに教えてくれていた。
「あなたは、ウッドワース?」
彼が体をゆらすと、巨木の木の葉がこすれあってざわめくような音がした。
「青騎士|伯爵《はくしゃく》、ならびに奥方《おくがた》さまですな? 先日は失礼いたしました。間違って不良品を贈り物として届けてしまいました」
「不良品……、だから使用禁止なのか」
「使われたのならしかたがありません。それはそれとして、本物の贈り物をお受け取りください」
新しい箱を、妖精はエドガーに押しつける。
「待って、前の種はどうして不良品なの? あれのせいで、伯爵家の従者もあたしも、エドガーに危害《きがい》を加えようとしてしまうのよ」
リディアはあわてて引きとめた。
「ほう、とすると、我《われ》らの木の実に宿《やど》り、力を持ってしまった悪意は、伯爵に向けられたものだったわけですな」
「木の実に、悪意……?」
「これはとくべつな木に生《な》る実です。たまたまその根元に、誰かが悪意を込めたものを埋《う》めたのですよ。人のあいだには、憎《にく》い相手を呪《のろ》うため、恨《うら》みを書いた紙を巨木の根元に埋めるというまじないがあるそうですが、本来なら気休めでしかないまじない。けれど木の実の魔力《まりょく》のせいで、悪意が意志を持ってしまったのでしょう」
「誰かが僕を憎んで、そんなおまじないをしたってことかい?」
「おそらく。木の実に宿った悪意が我らをあざむき、誤ってこちらに届いてしまうことになったのかもしれません。それにお気をつけください。取り憑《つ》いた者に触れると、悪意が伝染します」
リディアはエドガーと顔を見合わせた。
「その悪意を消す方法はないのか?」
黒っぽい人影は考えるように頭をゆさぶり、また木の葉がざわめくような音をさせた。
「術《じゅつ》を施《ほどこ》した紙片《しへん》を当人に返して、恨みのある人物に近づかないようにすれば悪意の力は消えるでしょう。もし破ったりすると、力は術者に襲《おそ》いかかります。人を呪わば穴ふたつというやつですな」
風が吹く。妖精の姿がゆらぐ。
「もうしわけありませんが、行かねばなりません。伯爵、今後ともご健勝《けんしょう》であられますように」
「ウッドワース、問題の木はどこにあるの?」
肝心《かんじん》なことを訊《き》きそびれている。リディアは急ぎ、消えかけている影に問う。
「……郊外《こうがい》の、川沿《かわぞ》いの……赤い塔《とう》のそばの木です……」
それだけどうにか聞き取れたとき、妖精は姿を消していた。
結局、公園での散歩は取りやめにして、リディアは自宅へ帰ってきた。エドガーは、馬車の中ではリディアに手を触れないようにしていたが、カールトン宅に着くと彼女といっしょに馬車を降りた。
「寄っていってもいいかな」
いつものことといえばそうだけれど、さっきから馬車の中でも考え事をしていた様子のエドガーは、あまりしゃべらなかったから、さっさと帰るのだろうと思っていた。
リディアに近づけば、悪意≠フ取り憑いた手が何をするかわからないのだから、エドガーにとっては、いっしょにいてもいやな気分になるだけだろう。
けれど彼は当然のように、出てきた家政婦に帽子とステッキをあずけ、応接間へ入っていく。
「エドガー、誰があなたを呪ったのか、心当たりはあるの?」
窓辺《まどべ》に立った彼から距離を置いて、リディアはソファに腰掛けた。少し考えて、彼は答えた。
「恨まれるようなこと、してないよ」
してるに決まっている。
「川沿いの赤い塔をさがしてみなきゃ。妖精の木の根元に埋まってるものを見つければ、レイヴンもあたしも元通りになるのよね」
「だね、それは僕にまかせてくれ」
リディアにかかわってほしくなさそうだ。
「……知ってるの? 赤い塔を」
「え? いや、わかりやすい目印だから、簡単にさがせるだろうと思っただけだよ」
本当だろうか。
家政婦が入ってきて、テーブルにお茶を置いていく。ぼんやりとそれを見送っていたリディアが、ふと気づいたときには、エドガーが目の前にいた。
「エドガー、近づいちゃだめって」
「わかってる。でも、ひとつ訊《き》いていい?」
あざのある手がムズムズするのをリディアはこらえた。
「僕をひっぱたこうとしたのも押しのけたのも、まじないのせいで、きみの意志じゃないんだよね」
「そ、そうよ。あたしは何も」
「触れられたくないわけじゃないね?」
さっと隣《となり》に腰掛けた彼は、リディアの方に身を乗り出した。
「……ええ」
「よかった」と満面の笑《え》みを浮かべる。
「そばにいるのに、抱擁《ほうよう》もできないなんてつらい。きみもそう思うだろう?」
どきりとしながら、リディアは彼の目を覗《のぞ》き込んだ。いつになく真剣な目だった。
たしかに、このままだったらどうしようと、リディアも不安がないでもない。寄り添って歩くことも、ダンスもできない。手を取り合えないなら結婚式も挙げられない。
けれどエドガーの考えていることは、リディアが思い浮かべるささやかな不自由とは違う。いつだって何倍も性急《せいきゅう》なのだ。
「今も、態度とはうらはらに、きみの本心は僕を求めてる。そうだよね?」
「え……、それは」
やけに距離の近いエドガーを、押し戻そうとしていたのに、かまわず彼は肩に腕をまわし、耳元でささやいた。
「だったら決めたよ。いいかいリディア、このくらいのことで、ひるむ僕じゃないから」
わけがわからないうちに、リディアは花瓶《かびん》をつかんでいた。その手が勝手に振り上げられるのを感じ、ひやりとしたが、エドガーが冷静な顔で手首をつかんで止めた。
彼が慎重《しんちょう》に力を入れるのはわかったけれど、リディアの手首は折れそうに痛んだ。しびれて、花瓶から手を離す。
それでもまだ彼は力をゆるめずに、手をつかんだまま体を寄せる。ソファの上に押さえ込まれ、身動きできなくなる。
「ごめん、でももう限界」
「エドガー……、やめ……」
「ふだんの僕はこんなことしない。今だけだから、怖がらないで」
手首が痛いのと、いつになく体が密着する感覚に、リディアは混乱しきっていた。悪意≠ェ取り愚いた右手だけでなく、もう片方の手でも必死になって彼を押しのけようとしてしまう。
「僕を見て」
力ずくでリディアを押さえ込んでいる彼とは別人みたいに、瞳《ひとみ》はおだやかに、なだめるように見つめている。あくまでもやさしく、髪を撫《な》でる。
「何もしない、こうしていたいだけなんだ」
背中にまわした腕を引き寄せ、全身で彼女を包み込もうとする。心臓は相変わらず早鐘《はやがね》を打っていたが、少しずつリディアは落ち着いてきていた。
彼の肩に頬《ほお》を寄せ、息を吸い込む。整髪料のかすかな香りに、大好きな人がそばにいるのだと安心する。
触れあっていたいと思うのはリディアも同じだったのかもしれない。
そのとき彼女は、悪意に愚かれた手から力が抜けるのも感じていた。
抵抗《ていこう》を感じなくなったからか、エドガーも力をゆるめ、リディアの手をそっと持ちあげた。そしてつぶやく。
「あざが、消えてる」
リディアも視線を動かす。インクが落ちたようなあの染《し》みがない。力の入らない手は、エドガーがからめる指をそのまま受け入れる。
毒気《どくけ》が抜けたということなのだろうか。エドガーに向けられた悪意だけれど、彼に抱きしめられていたリディアの中で、呪いの力を保てなくなったのか。
ぼんやりしながら気を抜いたそのとき、耳をぺろりと舐《な》められた。
びっくりして、彼女は短い悲鳴《ひめい》をあげる。
「な、何するの」
「前言撤回《ぜんげんてっかい》していい?」
「え」
「何もしないってわけにいかないかも」
とっさに、自分の意志で右手を振り上げていた。
自分から主人のそばを離れるなんてことは、レイヴンには考えられないことだった。けれども今は、そうするしかなかった。
屋敷を抜け出し、行くあてもなくとぼとぼと通りを歩いていた。そんな彼を呼び止めたのはニコだ。
「よお、レイヴン、どこへ行くんだ?」
答えられずに彼は、街路樹の上で寝そべっていたニコのそばを通り過ぎた。
と、ニコは木から飛び降りて、レイヴンの前に降り立つ。二本足で立ったまま腕を組んで、不審《ふしん》げに彼を見あげた。
「そんなもの持って、人通りの多いところへ行かない方がいいぞ」
レイヴンが手に提《さ》げているのは、厨房《ちゅうぼう》にあった斧《おの》だ。鶏《にわとり》の血がこびりついている。
「そう、でしょうか」
「何に使うつもりだ?」
「いざとなったら、手首を切り落とそうと」
ぶるっと震《ふる》えたニコは、全身の毛を逆立《さかだ》てていた。けれども深呼吸《しんこきゅう》して、顔を引きつらせながらも冷静に口を開く。
「まあそう、早まるなって。ええと、とにかく、落ち着こうぜ」
そう言って彼は、道ばたの生《い》け垣《がき》まで歩いていって、石垣の縁《へり》に腰掛ける。手招きされ、結局レイヴンも従《したが》う。
「あんまり思いつめるなって」
肩をたたかれる。人とのつきあい方が今ひとつわからないレイヴンだが、ニコの親しげな態度はすんなりと受け止められる。声をかけてもらえてよかったと思う。
それでも彼は、かしこまって座ったまま、膝《ひざ》に置いた斧を握《にぎ》りしめた。
「でも、とうとうエドガーさまに殴《なぐ》りかかってしまいました」
「へえ、それで伯爵は?」
「うまくよけてくださったので、壁に穴が開いただけです」
壁に穴が開く勢いを不安に感じたのか、ニコはレイヴンの握りこぶしをちらりと見た。
「……そっか、よけてくれてよかったよ。リディアが婚約者を失うところだ」
レイヴン自身も冷や汗をかいた。一撃で人を殺してしまうこともまれではないのだ。
「どうしてそんなに近づいたんだよ。危険だから離れてるようにしてたんだろ」
「それは、リディアさんに伝染したあざが消えたとかで、エドガーさまは同じ方法を試そうとなさったのです」
「同じ方法? リディアに何したんだ?」
「昨日はがまんできなくて、力ずくで抱きしめたそうです」
ニコはあきれたような、憐《あわ》れむような目をレイヴンに向けた。
「なるほど。あんたはリディアと違って、腕力《わんりょく》も反射神経もあるからな。簡単に組み伏《ふ》せられないわけだ」
通りを歩いていく人は、猫と並んで座り斧を手にぶつぶつつぶやいているように見えるレイヴンの前で必ず急ぎ足になる。そんなことには無頓着《むとんちゃく》に、彼は斧を握りしめる手に力を入れた。
「やっぱり私は、右手を切り落とすしかないのでしょうか」
「や、待てって。そんな極端《きょくたん》なこと考えるなよ。ほかに方法があるかもしれないじゃないか。ああほら、リディアだってどうにかするって言ってたし」
「はい、安請《やすう》け合《あ》いをなさいました」
自覚のないまま皮肉《ひにく》を言ったレイヴンを見あげ、ニコは頭をかいた。
「まあな、そう言ったのはおれだけどさ、安請け合いでもリディアは必死であんたを助けようとするよ」
立ち上がり、行こうとしっぽで示す妖精猫にレイヴンは従った。
カールトン宅にニコとともに現れたレイヴンは、神妙《しんみょう》な顔でうつむいたまま、リディアがいくらお茶を勧《すす》めても口にしようとはしなかった。
事情を聞けば彼に同情し、早くどうにかしなければとリディアは思う。
エドガーが赤い塔《とう》をさがすと言っていたけれど、レイヴンにちゃんと説明していないようだ。説明する間《ま》もなく、レイヴンが邸宅《ていたく》を飛び出してきたのかもしれないけれど。
「とにかくレイヴン、あまり気に病《や》んじゃだめ。希望はあるのよ」
「はい。リディアさんの安請け合いだけが希望です」
まっすぐにこちらを見る目に、何ら含みはない。わかっているけれど、リディアの笑顔は苦しいものになる。
ニコが手に持っているティーカップがカタカタと鳴るのは、笑いをこらえているからに違いない。
「あのねレイヴン、算段はちゃんとあるの」
気を取り直して、リディアは言った。
「こうなった原因はわかったわ。だからあとは、おまじないを解くだけよ。郊外《こうがい》の、赤い塔のお屋敷にウッドワースの木があるから、根元に埋《う》められた物を見つければ」
「赤い塔の? あのお城ですか?」
「知ってるの? そういえば、エドガーも知ってるみたいなそぶりだったわ」
「たしか、セイルズ卿《きょう》のお屋敷です。数年前に購入した古城《こじょう》だそうで、招待《しょうたい》を受けたことがあります」
つまり、セイルズ夫人の家だ。なのにどうしてエドガーは、リディアには知らないなどと言ったのか。
それに彼女の屋敷で、エドガーへの恨《うら》みを込めた紙片《しへん》が埋められたのなら。彼を憎《にく》んでいるのはセイルズ夫人なのではないか。
やっぱり、彼女とエドガーの間には何かがあって……。
リディアは深呼吸して、乱れそうな心を落ち着ける。
これくらいで動揺《どうよう》してどうするの。
エドガーは、彼女に取り憑《つ》いた悪意≠消し去ってくれた。今は、リディアだけを見てくれている、はずなのだ。彼のためにも、レイヴンを救わなければならない。
「エドガーは、どうしてるの?」
「今日は貴族院の会合だったはずです」
だとしたら、妖精の木を調べに行っている時間はないのだろう。
「レイヴン、あたしたちで行きましょう。セイルズ卿のお城へ」
セイルズ卿のその城は、庭園を一般に開放していて、誰でも入ることができるようになっていた。
整備された私有地を、貴族が近隣《きんりん》の住人に公園として提供することはめずらしいことではない。そんなふうに、散歩用の道がもうけられた庭園内へ、リディアとニコについて入っていったレイヴンは、遠くからでもはっきり見えていた赤い塔を目指して歩いた。
エドガーの命令ではなく自分の仕事でもなく、勝手な行動をしている自分を、レイヴンは不思議に思う。以前の彼なら、まじないを解くための方法があるならなおさら、エドガーの指示を待とうとしただろう。なのに、どうしてリディアの提案に乗ったのかよくわからない。
リディアもニコも、レイヴンのために行動しようとしているからで、その気持ちが彼の心も動かしている。そう気づくにはまだまだ自分の内面を理解できない彼は、ただ、少し前を歩くふたりを眺《なが》める。
レイヴンにとって、エドガーのほかに仕《つか》え守らねばならない存在が現れるなんて想像もしなかったのが、今は自然に受け止めている。
奥方《おくがた》になるのがリディアでなければ、たぶん彼はそんなふうに感じなかっただろう。単にエドガーの持ち物[#「持ち物」に傍点]、とだけ認識しただろう。
「レイヴン、きっとあの木よ」
振り返ったリディアの明るい笑顔に、彼は目を細めた。
リディアが指さしたのは、赤い塔と高さを競うほどの巨木だった。
城よりもずっと古いのだろうその木は、根元といっても範囲は広い。それでもくまなくさがすしかない。
レイヴンは、さっそく作業にかかろうとしたが、「あ」とリディアが小さく声をもらすのを聞き、そちらに体を向けた。
植え込みの向こうにいる女と目が合う。
「セイルズ夫人……」
リディアがつぶやいた。
優雅《ゆうが》な足取りで、ゆっくりと近づいてくるセイルズ夫人を眺めながら、リディアは逃げ出したりおびえたりする必要などないと自分に言い聞かせ、じっと待った。
「奇遇《きぐう》ね、ミス・カールトン。あなたがここへ来てくださるなんて」
微笑《ほほえ》んでいても、圧倒的《あっとうてき》な存在感がリディアには威圧的《いあつてき》に感じられる。負けるものかと彼女は背筋《せすじ》を伸ばす。
「庭園を見にいらっしゃったのかしら? それとも……」
「セイルズ夫人に、お願いがあるんです」
リディアは直接話そうと決めて言った。
「まあ、何かしら」
「エドガーを恨むのは、やめてください」
夫人は、少し驚いたような顔をした。
「わたしが、アシェンバート卿《きょう》を恨んでると? どうしてそう思うの?」
「あたしは……何も知りません。エドガーがあなたに何をしたのかなんて。だからお願いするしかないんです」
背の高いセイルズ夫人を見あげる格好《かっこう》になりながらも、リディアはいつになく強い視線を向けていた。
しばし考え込んだ様子の夫人は、やがておかしそうに笑った。
「そんなに、彼が大事? 人に恨まれるような男よ? どんなにひどい男か、教えてあげましょうか」
「……知ってます」
いまさら、エドガーが何をしていようが驚かない。それでも好きになったのだから。
「彼がどんな人かは、誰よりも知ってます! そんなことより、……彼を呪《のろ》ったおまじないの紙、どこに埋めたかを教えてください」
リディアは、夫人に言い負かされまいと必死だった。意外そうな顔をしながらも、いいわよ、とあっさり彼女は言った。
「それであなたは、わたしに何をくれるの?」
「え」
「あなたの願いをきく代わりに、わたしの言うとおりにしてくださる?」
さらにこちらに近づくと、セイルズ夫人は両手をリディアの頬《ほお》にのばした。間近で見つめられ、リディアは混乱した。
「意外と気が強いのね。ますますかわいいわ」
戸惑《とまど》っているうち、抱き寄せられる。わけがわからずレイヴンの方を見るが、相手が男ならともかく、リディアに危害《きがい》を加えようとしているとも思えない夫人を前に、彼もどうしていいかわからないらしく、視線を返すだけだ。
「あの……、セイルズ夫人……?」
「ねえミス・カールトン、わたしたち、もっとよく知り合わない?」
髪をさらりと撫《な》でられる。間近で香る香水に、頭がくらくらした。
「セイルズ夫人、僕を本気で怒らせたいのですか?」
割り込んだのは、聞き慣れた声だった。腕をゆるめた夫人から、あわてて離れたリディアは、こちらへ近づいてきたエドガーに肩を引き寄せられた。
「あら、アシェンバート卿、わたしに腹を立てるのは筋違《すじちが》いだわ。彼女の方から取引を持ちかけたのよ」
「まじないの紙片が何のことか知らないのに、取引に乗ろうとするのは卑怯《ひきょう》ですよ」
知らない? エドガーを呪ったのはセイルズ夫人ではないのだろうか。
驚きながら、リディアはエドガーの横顔を眺める。きびしい顔をしたまま、彼は夫人に強く言った。
「ラットンを出してください。あなたがここにかくまっているでしょう?」
ラットン? まさかあの青年が?
[#挿絵(img/nightwear_061.jpg)入る]
戸惑うリディアをちらりと見て、夫人はため息をついた。
「伯爵《はくしゃく》、あなたがインチキを暴《あば》いたせいで、彼は社交界に出られなくなったわ。わたしが予知能力者として社交界に紹介したのに、恥《はじ》をかいたわ」
「あなただって、彼がちょっと器用な手品師だってことくらい気づいていたはずですよ」
「楽しませてくれるなら、だまされたふりもするのよ」
「そうでしょうとも。貴族の退屈《たいくつ》しのぎに娯楽《ごらく》を提供するのがラットンの仕事。なのにあの男は、立場を誤った」
この上なく冷ややかに、エドガーは言った。
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》が、いつになく青みをおびて氷のように見えるとき、エドガーに逆《さか》らえる人間をリディアは知らない。
セイルズ夫人は唇《くちびる》を微笑みの形に保ったままだったが、負けを認めたようにエドガーから目をそらした。
「わかったわ。ラットンを連れてきましょう」
そのとき、背後《はいご》の茂《しげ》みが音を立てた。
リディアは悲鳴《ひめい》をあげる。
茂みから飛び出したラットンが、素早《すばや》くリディアをつかまえ引き寄せたのだ。
「ラットン、バカなことはやめなさい!」
セイルズ夫人が言うが、彼はナイフをリディアに向けた。
「伯爵、僕に何の用ですか」
「恨むのをやめてもらおうと思っただけだよ」
「……簡単に言いますね。あなたはいつでも僕をバカにしていたし、クラブのギャンブルでは、きたない手を使って僕から大金を巻きあげたのに」
「逆|恨《うら》みもいいところだ。きみがやってきたイカサマを黙《だま》っててやったのは温情なのに」
「温情だと? 僕の手口を暴露《ばくろ》すると脅迫《きょうはく》して、わざと負けさせたうえに、借金までさせて賭《か》け金を支払わせたじゃないか!」
「それがギャンブルというものだよ」
エドガーはリディアを気にしながら、少しずつ接近を試みていた。
それに気づいたラットンは、リディアに向けていたナイフをエドガーの方に突き出した。
「止まれ、こっちへ来るな」
この隙《すき》をレイヴンが逃《のが》さなかった。
走る。リディアとのあいだに割り込み、ナイフを持つ手を押さえ込む。そのままラットンを殴《なぐ》りつけようとする。
いつもの彼なら、一瞬で倒していただろう。
なのに、急に手の力が抜けたらしいレイヴンは、ラットンが振り払ったナイフをよけるのが精一杯《せいいっぱい》だった。
不運なことに、エドガーも近くにいた。ラットンを取り押さえようと動いたエドガーを、じゃますることになってしまう。
はっと硬直《こうちょく》するレイヴンの視線の先で、巨木に背中をつける格好になったエドガーに、ラットンがナイフを振り下ろそうとした。
「エドガー!」
リディアは飛び出す。ラットンに後ろから飛びかかったとき、エドガーはとっさにラットンの腕をつかむ。
はね飛ばされたリディアは地面に転んだが、エドガーの体の脇《わき》をかすめたナイフは、フロックコートを突き抜けて、幹に深く刺《さ》さった。
ラットンは、動けないエドガーの胸ぐらをつかんだ。
「伯爵、あなたはもう運に見放されている。僕が呪いをかけましたからね」
「インチキ魔術の?」
エドガーは冷ややかに言う。
「違う。本物の、偉大《いだい》な魔術師に聞きだした方法だ。命が惜《お》しければ、僕に許しを請《こ》うことですね」
その魔術師もインチキなのは確かだったが、今は問題ではなかった。
動けずに、レイヴンは手を見つめていた。エドガーに近づけば、不本意ながら彼を危険にさらしてしまう。そしてその魔力《まりょく》はラットンの悪意だ。だから彼に危害を加えられない。
どうしよう。あせりながらリディアは、立ちあがろうと木の根に手をつく。と、何かが彼女の手に触れた。
紙片《しへん》だ。張りだした根の下にねじ込まれている。巨木が、ささやくように葉を鳴らす。
妖精の木が教えてくれたのだろうか。
急いでそれをつかんだリディアは、立ちあがって声を張りあげた。
「いいえラットンさん、呪いのおまじないは、もう効きません」
紙を開いて、かかげて見せる。エドガーの名前とラットンの署名《しょめい》、そして血をひとしずく落とした、あのインクのような染《し》みもある。
「エドガーから離れて。でないとこれを破ります」
ラットンは怪訝《けげん》な顔をした。彼が相談した魔術師は、まじないの紙を破られるのが危険だとは教えてくれなかったのだろうか。
「呪いが破られたら、魔力はあなたを傷つけるわ。お願いだから言うとおりにして。あなたがこれを受け取って、二度とエドガーに近づかなければ、ゆっくりと魔力は消えます。だから、すみやかに立ち去ってください」
リディアの方に首を向け、彼は笑った。
「伯爵、おもしろいじゃないですか。あなたの婚約者もどうやら僕と同類だ」
「違うよ、彼女は、由緒《ゆいしょ》正しい妖精博士《フェアリードクター》だ!」
言い終わると同時に、エドガーはラットンのみぞおちに膝蹴《ひざげ》りを入れた。
ラットンがよろめく。コートからナイフを引き抜いたエドガーは、さっと距離を取る。
「レイヴン、リディアも離れて!」
反射的にレイヴンは、リディアの手を引いて命令に従《したが》った。同時に、エドガーが何かを放り投げる。妖精の木の実だ。
それはラットンの足元に落ちたとたん、勢いよく伸び始める。枝は蔓草《つるくさ》のようにしなりながら絡《から》み合い、釣《つ》り鐘《がね》を伏《ふ》せた形をあっという間に作りあげる。
中にラットンを閉じこめたまま、青々と葉を茂らせていく。間もなく、妖精の種は生長を終えたのか、ぴたりと静止した。
「さてと」
息をつき、エドガーは微笑みながら、リディアに歩み寄った。
「まったくきみは、無茶をするんだから……」
そうして、ふわりと抱きしめる。リディアが恥《は》ずかしさに抵抗《ていこう》を感じる直前のタイミングで抱擁《ほうよう》を解くと、いつのまにか彼は、まじないの紙片を彼女の手から抜き取っていた。
と思うと、ためらいもなく破り捨てる。
とたん、枝葉《えだは》のドームの奥から、悲愴《ひそう》な声が聞こえてきた。
「もともといいかげんなまじないだ。たいした魔力じゃないだろうけれど、僕が被《こうむ》った不愉快《ふゆかい》のぶんは苦痛を味わってもらうよ」
この人、悪魔だわ。眉根《まゆね》を寄せるリディアに極上《ごくじょう》の笑《え》みを向け、「一件|落着《らくちゃく》だね」と無邪気《むじゃき》に言う。そのままレイヴンの方に体を向け、やはり無邪気に肩を抱く。
「これでもう、魔力は消えたんだよね」
「はい、そのようです」
レイヴンは、インクの染みみたいなあざが消えた手首をさすった。
エドガーは、うれしそうに彼の髪をかきまわす。
セイルズ夫人は、困惑《こんわく》した顔でドームを見あげていた。
「それにしても、これはどういう仕掛《しか》け?」
「秘密です。それよりもセイルズ夫人、今後リディアにかまうのはやめてもらえますね」
奪《うば》われまいとするように、エドガーは戸惑うリディアを引き寄せた。
「僕がひどい男だって知ってても、助けてくれる大切な婚約者《フィアンセ》なんですよ」
聞いてたんだわ、とリディアは赤くなる。夫人とエドガーに何かあったと勘違《かんちが》いして、彼女に啖呵《たんか》を切ったリディアを見ていたのだろうエドガーは、いつになく堂々と、人前でリディアに腕をまわしていた。
「わかったわよ。こんなにかわいくて無垢《むく》な女の子が、タラシの餌食《えじき》だなんて残念だけど。せいぜいお幸せにね、ミス・カールトン」
セイルズ夫人はあきらめたように、まだ事情が飲み込めないリディアに微笑みかけた。
「あの、ニコさんの姿が見えませんが」
レイヴンが言葉をはさんだとき、ドームの上方からか細い声が聞こえてきた。
「おーい、おろしてくれようー」
勢いよくのびた枝にネクタイを引っかけられたらしく、ニコがぶら下がっていた。
* * *
今度の件で、リディアはよくわかった。
エドガーが恨《うら》みを買うとしたら、女性ではなく男性なのだ。
自分にたてつく男は徹底的にいじめる。そういう人だということをうっかり忘れていた。
そして、女の子が大好きらしいセイルズ夫人は、エドガーとはライバルのような同好《どうこう》の士《し》のような関係だった。
「ねえリディア、だからときには、人前でも親しげにする必要があるんだよ」
エドガーは、リディアのための仕事部屋にさっきから居座《いすわ》っている。
「僕たちのあいだには誰も割り込めないって知らしめるためにね」
結婚準備もあって、このところ仕事ができなかったリディアが、久しぶりにフェアリードクターとして雑務を片づけようとしているのに、どうやら彼はじゃまをする気だ。
「……少しは気をつけるわ」
リディアが答えると、デスクのそばへやって来て、楽しそうにささやく。
「うまくやれるよう、練習しようか」
「し、仕事中よ、何言ってるの」
赤くなりながら、リディアはあわてて顔を背《そむ》けた。
「ところで、ウッドワースの木の実なんだけど、何に使うかわかったよ」
急に話を変えた彼は、手のひらに置いた木の実をリディアに見せる。
と、デスクの上にあったローズマリーの鉢《はち》にぽとりと落とした。
瞬間、木の実は芽吹《めぶ》く。窓も戸口もふさぎ、壁や天井《てんじょう》を覆《おお》い、部屋を埋《う》め尽《つ》くすように伸びた枝葉の中に、リディアはエドガーと閉じこめられた。
「……ちょっと、何するのよ! 出られなくなっちゃったじゃない」
リディアはあわててドアがあるはずの方向へ駆《か》け寄り、木の葉をかきわけるが、網《あみ》の目のように絡まった枝には少しも隙間《すきま》がない。なのに内部は、木漏《こも》れ日《び》のような光が降り注いでいて、そよ風はさわやかな木の香りに満ちている。
「そうだよ。当分ふたりきりってこと」
エドガーは、リディアの手を取ったかと思うと、流れるような動作《どうさ》でソファに座らせ距離をつめた。
「愛を育《はぐく》むには最適な贈り物だね」
「え」
「じゃまが入る心配はないし、どうする?」
「ど、どうするって……、だめよエドガー」
困り果てるリディアを見て、ますます彼は楽しそうにせまる。
距離を保とうと体を引くほど、リディアはソファの上に倒《たお》れそうになってあせった。
「ふだんはこんな、無理|強《じ》いしないって言ったじゃない!」
「でもね、こういうのも結構そそられるって、このあいだのことで気づいてしまったんだ」
ヘンタイ、と言いたい言葉を飲み込む。
両手で彼の胸を押し返そうとしたけれど、びくともしない。リディアの両肩を、エドガーは強くつかむ。
「すみません、エドガーさま」
突然、声がした。
びっくりして視線を動かせば、部屋の片隅《かたすみ》に、レイヴンが突っ立っていた。
「お茶をお持ちしたところだったのですが」
どうやらレイヴンもいっしょに閉じこめられたらしい。無表情な彼だが、途方《とほう》に暮れているに違いない。
それでもリディアにとっては救いだった。この空間に、エドガーとふたりきりではなかったのだ。と思ったのに。
「じゃあねレイヴン、むこうを向いて耳をふさいでいてくれ」
「はい」
「……じゃないでしょ! 何考えてるのよ!」
リディアが真剣に声をあげれば、エドガーはくすくす笑いながら彼女を離した。
からかってたんだわ、とリディアはむくれる。エドガーは、レイヴンが入ってきたことに最初から気づいていたに違いない。
「しかたがない、お茶にしよう。レイヴン、今はこの世界に三人だけだ。主従《しゅじゅう》を抜きにして、おまえもテーブルにつくんだよ」
案外、三人でくつろぐための時間を作ろうとしたのだとすると、レイヴンへの罪滅《つみほろ》ぼしの気持ちもあるのだろうか。
などと好意的に解釈してしまったが、単なるエドガーの気まぐれだったかもしれない。
「エドガーさま、じつはまた贈り物が届いたのですが」
ティーカップをテーブルに並べたレイヴンは、貝殻《かいがら》でできた壺《つぼ》もテーブルに置いた。
「へえ、これも妖精からの贈り物?」
「開けるなと書いてあります」
「ふうん、何が入っているのかな」
まるで注意書きを無視しようとするエドガーに、リディアは声をあげた。
「開けちゃだめでしょ!」
「でも、それじゃあ中身がわからないよ」
「でしたら私が開けます」
きまじめにレイヴンが申し出たとき、リディアはテーブルをたたいて立ちあがっていた。
「あなたたち、いいかげん学んでちょうだい!」
エドガーのせいで被る厄介事《やっかいごと》を、レイヴンが迷惑《めいわく》だと感じるようになるには、まだまだ時間がかかりそうだった。
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運命の赤い糸を信じますか?
[#挿絵(img/nightwear_073.jpg)入る]
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ああ、妖精だ。
目の前のものを眺《なが》めながら、少年はつぶやいた。
それは、部屋の片隅《かたすみ》にあるテーブルランプと同じくらいの背丈《せたけ》で、ひっつめ髪に枯《か》れ草《くさ》色のドレスを着ていた。笑いそうにない厳《いか》めしい顔つきといい、地味で隙《すき》のない服装といい、女家庭教師《ガヴァネス》みたいだと彼は思う。
しかし、家庭教師はこんなに小さくはないし、目の前のものには昆虫《こんちゅう》のような羽がある。
けれど彼は、さほど驚いてはいなかった。夢を見ているとわかっていたからだ。そう、妖精の夢を見るのははじめてではない。
夢の中で、妖精は言った。
(ぼっちゃま、父上が亡くなられたのは残念ですが、悲しんでいる場合ではございませんよ)
べつに悲しんでなんかいない。
(ぼっちゃまがご立派《りっぱ》になられれば、必ずや幸運は舞い込んできます。ですからここは、みなさまの助言どおり、すみやかにご婚約なさいませ)
女なんて面倒くさい。
(そんなことをおっしゃってはなりません。結婚は貴族のつとめでございます)
だからって、簡単に相手が見つかるものでもないし。親戚《しんせき》が連れてきた女の子たちは、みんな逃げ帰っていったじゃないか。どうして女って、あんなに簡単に泣くんだろうな。
妖精はため息をついたようだった。けれどすぐに、思い直した様子でまた胸を張る。
(ぼっちゃま、彼女たちとお互いに気が合わなかったのは無理もないことです。ふさわしい相手ではなかったのですから。でも心配はいりませんわ。運命の女性に出会いさえすれば、必ずやうまく縁談《えんだん》がまとまるでしょう)
運命の?
(目に見えない赤い糸で結ばれた相手です)
ばかばかしい、と彼は思った。
そんなの今どき、子供だって信じていない。
(運命の女性は、本当にいるのです。ぼっちゃま、わたくしの言葉を信じて、早く生涯《しょうがい》の伴侶《はんりょ》を見つけだしてくださいまし。でないと、幸運を逃がしてしまいますよ)
そうして、妖精は消えた。
目覚めると、彼の左手の小指には、赤い糸がからまっていた。それはベッドの下へもぐり込み、反対側から窓の外へと続いていた。
* * *
カールトン家の応接間で、リディアは久しぶりに、二人の友人とお茶の時間を楽しんでいた。
この家の娘であるリディアは、先頃婚約を発表したばかりだ。となれば、友人との会話も、なんとなくそういう話題になる。
「そうだわロタ、見てくれる? ウエディングドレスのデザイン画が届いたの」
へえ、と興味|津々《しんしん》でデザイン画を受け取ったロタは、リディアの親友だ。ひとつにくくっただけのコーヒー色の髪は、身につけている高価なドレスとはどうにもアンバランスだが、本人は気にしていない。
「いいじゃないか。清楚《せいそ》であんたに似合いそうだよ」
血筋《ちすじ》は亡国《ぼうこく》大公《たいこう》の孫、育ちは下町娘、という複雑な事情をかかえた彼女は、まったく貴族社会にとけ込めていないが、妖精とばかりつきあってきて世間知らずなリディアとは、とても気があっていた。
「ありがと。でもまだ、デザインが決まったこと、エドガーには言わないでね」
エドガーは、もちろんリディアの婚約者だ。伯爵《はくしゃく》だが、貴族ではないリディアに熱心に言い寄り、結婚を承諾《しょうだく》させてしまった。
以来リディアは、伯爵家に嫁《とつ》ぐための準備に追われ、忙《いそが》しい日々を送っている。
友人とお茶を飲む時間は、そんな彼女にとって、わずかな息抜きでもあった。
「どうしてさ。あいつ、早くドレスを決めろってうるさく言ってただろ?」
「ドレスの仕上がる日がわかったら、あの伯爵だ、すぐさま結婚式の日取りを決めちまうだろ?」
口をはさんだのは、テーブルについているもうひとり、灰色の長毛猫だった。
ふさふさした毛に覆《おお》われた手で、どうやっているのか器用にスプーンを持ちあげ、ミルクティーをかきまわす。首には蝶《ちょう》ネクタイをして、優雅《ゆうが》に紅茶の香りを確かめている。
もちろん本当のところは猫などではなく、正真正銘《しょうしんしょうめい》の妖精だ。妖精博士《フェアリードクター》として、人と妖精の仲立ちをつとめているリディアの幼なじみで、相棒《あいぼう》でもある。
「あー、なるほどな。エドガーのやつ、一刻も早くリディアを寝床《ねどこ》に連れ込みたくてしょうがないわけだからな」
女の子なのに、ときどきエドガーと同じくらいきわどいことを言うのがロタだ。けれどリディアは、否定できないので赤くなってうつむくしかない。
「ま、あせることないよ。あんたがあんまり早く結婚してしまうと、あたしもじいさんにせっつかれそうだ」
「そうなの? ロタ、あなたも結婚をすすめられてるの?」
「これでも年頃だもん」
にっと笑ったロタは、ティーカップの中身をぐいと飲み干した。
「結婚、するの?」
「そうだなあ、運命の人にでも出会えればな」
自分で言って、ロタは吹きだす。
「あはは、そんなガラじゃないってか」
「でもロタ、誰でもたったひとりの運命の人と、目には見えない赤い糸で結ばれてるっていうじゃない?」
「迷信だろ。だいたい、見えないくせに赤いって、どうして色がわかるんだよ」
「まあそうよね」
頷《うなず》きながらも、赤い糸はともかく、ロタにも好きな人ができて、必然的に結婚が決まればステキだとリディアはぼんやり想像していた。
ロタは男っぽい性格だけれど、かわいいところもいっぱいある。髪の毛をひとつに束《たば》ねているのがロープの切れ端《はし》でも、高級なドレスの下にコルセットもクリノリンもつけていないのが労働者階級《ワーキングクラス》の娘みたいだと眉《まゆ》をひそめられても、彼女を知ればそれさえ魅力的だとわかる。
しかし今日のロタは、いつもと少しだけ違っていた。髪を結《ゆ》わえたそっけないロープに、赤い紐《ひも》のようなものを結んでいる。
めずらしいけれど、これも彼女なりのおしゃれなのだろうか。
「ロタ、今日の髪飾りはいつもと違うのね」
「え? いつもといっしょだよ」
怪訝《けげん》そうに言い、ロタは足を組み直す。
「でも、その赤い紐、いつもは結んでなかったでしょ?」
「紐? そんなものがくっついてるのか? おかしいな?」
ロタは頭に手をやるが、紐というよりは糸みたいに細いのでうまくつかめない。リディアは立ち上がり、彼女の髪からそれをほどこうとしたが、思わず「あっ」と声をあげた。
「どうした?」
「消えたわ」
「やだなあ、からかうなよ」
「本当よ。魔法みたいに、つかんだとたんに消えたの」
そのとき、どこからともなく別の声がした。
(ちょっと、勝手にさわらないでくださいな! せっかく苦心して魔法をかけたんですからね)
と同時に、小さく光るものが空中に浮かんだ。ぱたぱたと動く、薄《うす》い羽だけが見える。
「へえ、これ妖精?」
リディアといっしょにいるおかげで、妖精と接することも少なくないロタは、このごろは何があっても驚かなくなっていた。
「あの紐は、あなたの魔法なの?」
妖精は、羽ばたきながらゆっくりとテーブルの上に舞い降りた。
光が弱まると、ぼんやりと姿が見えてくる。
ひっつめた髪に地味な服装。なんとなく、やり手の家庭教師という雰囲気《ふんいき》だ。やけに小さいことと、薄い羽がついていることを除いては。
後ろに手を組んで、妖精はじっとリディアを見あげた。
(あなた、どうしてわたくしの魔法に気づいたのです?)
「あたしは妖精博士《フェアリードクター》だもの」
妖精がかけた単純な魔法なら、見えることも少なくはない。
(おやまあ、ではしかたがありませんね。それにしても、このお嬢《じょう》ちゃまったら魔法がかかりにくいんですから。せっかく苦心しましたのに、勝手にほどいてしまわないでいただきたいわ)
「ちょっと、どういうことだよ。あたしに魔法をかけるなんて」
身を乗り出して、ロタは小さな妖精をにらみつけた。彼女は動じるでもなく、こほんと咳払《せきばら》いする。
(おやおや、少々おてんばなようですわね)
「あなた何者なの?」
リディアが問うと、妖精は腰に手をあて胸をはった。
(わたくしですか? 由緒《ゆいしょ》正しき|妖精の名付け親《フェアリー・ゴッドマザー》ですわ。愛《いと》しの名付け子に、すみやかに運命の女性を見つけてもらうために、目印をつけたところですのよ)
「運命の?」
(赤い糸をご存じない? 将来結ばれる相手とは、目に見えない糸でつながってるという伝説、ございますでしょう?)
「えっあれって本当なの?」
リディアはロタと顔を見合わせた。
ニコは頬杖《ほおづえ》をついて、テーブルの上の見慣れない妖精を観察している。
(ふつうは人の目には見えないものです。名付け子のために、わたくしが魔法で、見えるようにしてさしあげました)
「じゃ、ロタがあなたの名付け子の運命の人だってこと?」
(いいですか、フェアリードクターのお嬢ちゃま、赤い糸を勝手に取ってはなりませんよ。取ろうとしたら消えてしまいますからね、見えない糸に戻るだけならまだしも、本当にほどけてしまったらもう運命の人に会えなくなるのですよ。気をつけてくださいまし)
妖精は、急いでいるのか早口にまくし立てる。
(はあ、ではもういちど、糸が見えるようになる魔法をかけ直さないといけませんわね)
そうして、手にしていた小枝のようなものを忙《せわ》しく振り回した。
その瞬間、ロタの髪にまた赤い紐状のものが現れた。
「うわっ」
とニコが声をあげる。彼の前足、いや左手の指にも、赤い糸がからまっている。
はっとして、リディアも自分の手を確かめると、小指に赤い糸がある。
糸が見えるようになる魔法は、どうやらロタだけでなく、この場にいるみんなにかかってしまったらしい。
「ちょっと、どうしてあたしだけ、頭に糸がくっついてるのさ」
(さあ、単なる個性でしょう)
「それって、変わり者ってことかよ……」
ロタの嘆《なげ》きには無関心に、これでよし、と妖精はつぶやく。そうして、満足げにぱたぱたと羽ばたくと、思いがけないスピードで、流れ星のように窓から出ていった。
「で、あれの名付け子って誰なんだ?」
ニコのつぶやきに、リディアはロタとまた顔を見合わせる。
あわてて妖精を呼び戻そうと窓辺《まどべ》に駆《か》け寄ったが、その姿はもうどこにも見えなかった。
[#挿絵(img/nightwear_083.jpg)入る]
|妖精の名付け親《フェアリー・ゴッドマザー》は、昔話にもしばしば登場する守護妖精だ。気に入った赤ん坊の名付け親となり、その子の人生を見守る。
時には魔法で助ける。
どういう基準でゴッドマザーが子供を選ぶのか、リディアは知らないが、ともかく彼女に名をつけてもらった人物は、強い運を持っているといっていいだろう。
それにしても、とリディアは自分の小指に目を落とす。
本当にこの糸は、運命の人とつながっているのだろうか。
昔、ミノス王の国に、ミノタウロスという怪物がいた。それを倒そうとしたある若者が、自ら生《い》け贄《にえ》になることを申し出たとき、王女は彼に赤い糸の端を手渡したという。迷路のようなミノタウロスの宮殿《きゅうでん》から、迷わず戻ってこられるように、と。
はたして怪物を退治し、糸を頼りに若者が戻ってくると、王女は彼と結ばれる。
そうして赤い糸は、運命の恋人どうしを結ぶ糸として語り継がれるようになった。
話に聞くとおりに、リディアの指には赤い糸が巻きついている、床に垂《た》れ下がったその先は、テーブルクロスに隠《かく》れてよく見えない。
誰かにつながっているなら、ドアの隙間《すきま》や窓の向こうへ続いているはずだが、細い糸なので近づかないとよく見えない。
それでも、もしもずっとたどっていったなら、エドガーにたどり着くのだろう。
リディアは彼と結婚することになっているのだから、運命を疑う理由はないはずだった。
エドガーの屋敷にある、フェアリードクターとしての仕事部屋で、リディアは頭を切り換えようとして書類を開く。
妖精に詳《くわ》しく、彼らと接する能力のあるリディアは、妖精国伯爵《ロード・イブラゼル》という名を持ちながら妖精のことが少しもわからないエドガーに雇《やと》われ、伯爵家《はくしゃくけ》顧問《こもん》として働いていた。
けれど婚約が決まってからは、エドガーの勧めもあって、仕事よりも結婚の準備を優先してきたのだ。
このところ、妖精がらみの相談も少なくなっていたから問題はなかったが、今日は時間が余ったため、たまっていたデスクワークを片づけておくつもりだった。
しかし、仕事に没頭《ぼっとう》する間《ま》もなく、ノックの音がした。
ドアを開けたのはエドガーだ。リディアを見て、彼はうれしそうに微笑《ほほえ》んだ。
「やあリディア、きみが来ているって聞いて、急いで帰ってきたよ」
いつ見ても華やかな印象なのは、きらきらした金髪のせいだけではないのだろう。歩き方ひとつでさえ颯爽《さっそう》として、フロックコートの裏地の斬新《ざんしん》な色彩がさりげなく目に入る。
手にしていた帽子《ぼうし》をテーブルに置く動作も絵のようだ。
どこをとっても優雅な貴族、そんなこの人と、自分が結婚するなんて、リディアはなかなか実感できない。
「大事なおつきあいがあったんじゃないの?」
「うん、失礼のない程度に切りあげてきた」
「あたし、たまってる仕事を少しでも減らそうと思って来ただけなの。今日はべつに用事もないし」
「今日は予定がなかったの? だったら早く言ってくれれば、ふたりで過ごせたのに」
「昨日もふたりで食事をしたじゃない」
「それでも足りない気がする。そういうものだろう?」
こちらへ近づいてきて、デスク越しに彼はリディアを覗《のぞ》き込んだ。
そうするだけで、きっとどんな女の子の心も惑《まど》わせてしまうのだろう灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》が近すぎて、リディアはついうつむく。
エドガーは、ペンを握《にぎ》るリディアの手を引き寄せて、いつものように淑女《しゅくじょ》に向けるキスをする。
うつむいたままのリディアの視線の先には、机《デスク》に置かれているエドガーのもう一方の手があった。
小指に巻きつく赤い糸が、一本、……二本、三本、四、五、六……。
えっ?
リディアはまばたきして彼の手に見入った。
数えきれないほどの糸が、束になって垂れ下がっているではないか。
どうしよう、とまず思った。
エドガーの運命の人って、あたしだけじゃないってこと?
うろたえて、思わず立ちあがる。
「どうかした? リディア」
「な、何でもないわ……」
「気分でも悪いの?」
心配したエドガーが、近づいてきて頬《ほお》に手をのばすが、リディアはいっそう体を引いてしまう。
ムキになって接近しようとする彼を両手で押しとどめながら、たまらなくなって言葉を吐《は》きだした。
「エドガー、……やっぱり、あたしじゃ物足りないのね?」
「え? 何のこと?」
「……そ、そうよね。なかなかウエディングドレスも決めないし……」
「何を言ってるんだ。そんなこと気にしてないよ」
「じゃ、このあいだ家の前まで送ってもらったとき、あたしが恥《は》ずかしがってキスを拒《こば》んだから? もっとかわいい女の子はいくらでもいるって気づいたの?」
「あのね、リディア、そりゃあドレスを早く決めてほしいとは思うけど……」
「そんなにあたしのこと、不満だらけだったなんて……」
そうして、戸口に現れた人影に目をとめると、リディアは助けを求めるように駆け寄っていた。
「ロタ!」
「リディア、どうしたんだ?」
リディアを抱きとめながら、ロタは部屋の中にエドガーがいるのに気づきにらみつけた。
「エドガー、何したんだよ!」
「まだ何もしてない」
「は、まだって、やる気満々かよ! やっぱり最低の男だね」
「違うのロタ、手を……、彼の手を見て」
「手? ああ、まったくスケベったらしい手だよ」
「まったく下品だねきみは。色っぽいと素直に言ったらどうだい?」
むっとしつつ、エドガーはロタに歩み寄ると、嫌《いや》がらせに彼女の手を握った。
「なにしやが……」
エドガーの手を振り払おうとしたロタは、そのまま動きを止め、彼の手に見入った。
「なんだこれ」
どうやら、他人の赤い糸は手を触れないと見えないらしい。
「エドガー、あんた最低だな!」
あの、複数の赤い糸に気づいたロタは、エドガーを突き放すとリディアを守るように肩を抱いた。しかしエドガーには、相変わらずわけのわからない状況のようだ。
「リディアもロタもおかしいよ。いったい何なんだ?」
「やっぱりロタにも同じように見えるのね。ねえ、どうしよう……、あたし、どうしたらいいのかしら」
「こりゃ、婚約解消ものかもね」
「待て、僕が何をしたっていうんだ? リディア、わかるように説明してくれないか」
「自分の胸に聞いてみな!」
答えたのはロタだ。
「あのう、どうしたんですか?」
おっとりした声でそこへ割り込んできたのは、エドガーの友人のポールだった。
「伯爵はリディアさんの仕事部屋だと執事《しつじ》さんに聞いて……」
「やあポール、よく来てくれたね」
エドガーは助け船を得たとばかりにポールを部屋へ引きずり込んだが、ポールにとっては不運だっただろう。リディアとロタが腕を組んでエドガーをにらみつけているのを知り、うろたえた。
「女ふたりに僕ひとりじゃ分《ぶ》が悪いよ。これでちょうど二対二だ」
「え、あの、取り込み中ならぼくは帰りま……」
「さあリディアにロタ、話してくれないとポールがどうなるかわからないよ」
「ええっ!」
首に腕をまわされたポールは、悲鳴《ひめい》に近い声をあげた。
リディアはロタと顔を見合わせる。冷や汗をかいているポールを巻き添《ぞ》えにするのはかわいそうに思える。
「あのね、エドガー、じつは……」
ティーサロンでテーブルについた四人は、従者《じゅうしゃ》のレイヴンがお茶を淹《い》れるあいだ黙《だま》り込んでいた。
「運命の赤い糸、ね。信じたくないな」
エドガーがつぶやく。
「リディア、僕にはきみだけだ。この先もずっと」
「ま、言うだけなら何とでも」
ニコがズッとお茶をすする。いつのまにか加わっているのは、紅茶の香りに引かれて来たらしい。
「赤い糸が何本もあるって、何かの間違いじゃないのか? そうだ、ポールはどうなんだ? 彼にも糸が複数あるかもしれない」
「じゃ、見てみるか?」
ロタが言って、ポールの同意も得ずに彼の手をつかんだ。
「ひとつだけだ」
断《だん》じると、ポールは大きく安堵《あんど》の息を吐《つ》く。エドガーはますます眉根《まゆね》を寄せる。
「あの、私は」
後ろでひかえていたレイヴンが、ぽつりと言った。
エドガーの忠実《ちゅうじつ》な従者で、褐色《かっしょく》の肌をした異国の少年は、日頃から無口で、自分から口を開くことは少ない。そんなだから、あまりにもかすかな声音《こわね》だったけれど、リディアは気づいて振り返った。
彼の方を見ても、無表情なままレイヴンはそれ以上言葉を発しなかったので、何が言いたかったのかを理解するのに時間がかかった。
「あっ、そ、そうね、レイヴン、あなたも赤い糸のこと知りたいのね」
感情が少なく、エドガーに仕《つか》えることしか頭にないレイヴンでも、運命の赤い糸は気になるのだろうか。だとしたら喜ばしい成長だと思いながら、リディアは彼の手を取った。
が、彼の指には、そしてほかのどこにも、赤い糸は見あたらなかった。
「あれ? おかしいわね」
リディアが首を傾《かし》げると、ロタもレイヴンに手をのばす。
「あんたの糸、ないよ」
はっきり告げたロタに、レイヴンがショックを受けたのかどうかは、彼の表情からはわからなかった。
「ねえレイヴン、今は糸がなくたって、いつか現れるわよ、きっと」
リディアの苦しい慰《なぐさ》めが届いたかどうかもわからない。ただレイヴンは、ニコの方に顔を向けた。
「ニコさんは」
エドガー以外の人にはほとんど興味を持たないレイヴンだが、どうにもニコにだけは仲間意識を持っているようなのだ。
「おれ? ちゃんとあるよ、赤い糸」
気を遣《つか》うわけもなく、自慢するように片手を振ってみせたニコには、さすがにレイヴンも落胆《らくたん》の色を隠せなかったようだ。
「…………そうですか。…………私にだけないのですか」
「レイヴン、運命ってのは自分で切り拓《ひら》くものさ。自分が変われば未来も変わる。思うに、この赤い糸ってやつは、僕がどれほどリディアを想《おも》っているか、まだ気づいていないんだ」
エドガーは、レイヴンだけでなくリディアにも言い聞かせたいようだ。
「だいたい、何と言われても赤い糸なんて僕には見えないし、そもそもこの国では結婚はひとりとしかできないんだ。なのに運命の相手がたくさんいるなんて、どう考えてもあり得ないだろう?」
「こういう男もいるぜ。屋敷に妻以外の愛人を何人も住まわせていたってさ」
ニコが取り出したのは大衆紙だ。
「ふん、グローサー卿《きょう》の話か。低級紙《ゴシップペーパー》がよろこびそうな話題だね」
「先日亡くなった、グローサー卿ですか? 跡継《あとつ》ぎの息子が、じつは妻の子ではないという噂《うわさ》が持ちあがって、それが本当なら爵位《しゃくい》を継承《けいしょう》できないとか聞きましたが」
ポールが言う。画家である彼は、上流階級のサロンへ出入りすることもあるため、噂はエドガー同様よく耳に入ってくるようだ。
「今ごろになって愛人のひとりが、妻の子のことを本当は自分の子だと言いだしたんだ。卿の妻も亡くなっているし、おおかた金目当てだろうけどね」
「へえ、ひとつの屋敷の中のことじゃ、誰が産んだ子かくらい簡単にごまかせるってわけだ」
「……どうして、奥さまだけでは足りなかったのかしら」
リディアがため息とともにつぶやくと、皆の責めるような視線がエドガーに集中した。
「あっ、リディア、僕はけっしてそんな男じゃないよ。死んだ人のことを悪く言いたくはないけれど、グローサー卿は間違ってた。そうだよ、ひとりの女性を幸せにしてこそ男ってものだろ?」
しかし何と言われても、リディアは不信感をぬぐえない。
冷たい目で見てしまうせいか、エドガーは彼女にのばしかけた手を、ためらいがちに引っ込めた。
そこへ現れたのは執事のトムキンスだ。
「旦那《だんな》さま、お客さまです。モーダント卿の代理人とおっしゃっております」
エドガーは、怪訝《けげん》そうに眉を上げた。
「モーダント卿? 面識はないが、何の用だろう」
「どういたしますか?」
「来客中だがそれでもかまわなければと、ここへ案内してくれ。ちょうど噂話をしていたところだし、みんなも興味があるだろう?」
「噂話?」
首を傾げるリディアに、エドガーはにんまり笑う。
「モーダント卿は、グローサー卿の父上だ。噂の真相について訊《たず》ねてみるかい? 僕とグローサー卿が似ても似つかないってこと、はっきりさせようじゃないか」
トムキンスに案内されて、ティーサロンへ姿を見せたのは眼鏡《めがね》をかけた中年の男と十二、三歳くらいの少年だった。
中年の男は弁護士だと言い、連れてきた少年はモーダント卿の孫、つまりはグローサー卿の息子だということだった。
とすると、ゴシップの的《まと》になっている、愛人の息子かもしれないという少年が彼なのだろう。
少年は、ひどく不満げな顔をしていた。ぎょろりとした大きな目で、部屋の中にいるみんなをにらむように見まわす。目が合ってしまうと、彼はリディアを品定めするようにじろじろと見た。
そしていきなり、指を差す。
「あの女だ」
「アルフレッドさま」
弁護士が止める間もなく、彼はリディアの前へ進み出る。そうしてぐいと手をつかむ。
「ふうん、ものは試しだな。この糸をたどってみたら結婚相手がいるなんて、半信半疑だったけど」
「え」
「ほら、運命の赤い糸がつながってる」
リディアは目を見開いた。たしかに、少年の小指に結ばれた糸が、そのままリディアの小指にからみついている。
うそ。エドガーじゃ、なかったなんて……。
「おい、あんた赤い糸が見えるのか?」
呆然《ぼうぜん》とするリディアの代わりにロタが訊《き》いた。しかし、少年はそれを無視してリディアの肩を両手でつかんだ。
「目は緑ね。あんまり好ましくはないけどしかたがない」
あわてて退《しりぞ》くリディアの前に、エドガーが割り込む。
「彼女は僕の婚約者だ。求婚するならそれなりの覚悟《かくご》はあるんだろうね」
むっとした顔で、少年はエドガーを見あげた。
「何だ、金なら払ってやる。いくら払えばぼくにくれる?」
エドガーは、少年のおでこを思いっきりはじいた。あまりに痛かったのか、少年はよろめいた。
「心臓をよこしたってやるものか」
[#挿絵(img/nightwear_097.jpg)入る]
「……なんだよ、そんなにたいした女じゃないじゃないか。運命なら花嫁《はなよめ》にしてもいいかと思っただけなのにさ」
おでこを押さえながら、少年は怒る気もなさそうにつぶやいた。
リディアは引きつった笑いを浮かべるしかないが、エドガーは、今度は少年の頭にげんこつをくらわした。
「何するんだよ!」
一方で弁護士は、止めるでもなく黙って見ている。彼の仕事はモーダント卿の遣《つか》いであって、少年のおもりではないからだろう。
「愛も恋も知らないような子供に、女性に求婚する資格はないね」
しかし少年は、ふん、と鼻で笑う。
「愛だって? ばかばかしい。結婚なんて、家を存続させるためにするだけでしょう? 妻なんて、女なら誰でもいいけど、運命で決まってるならその方がいい。浮気とか家出とか、面倒なことをされなくてすむ」
「ふうん、きみの母上はそんなことをしてたのか。だけど無理もないね、父上が家の中に何人も愛人を住まわせるようじゃね」
少年の顔が傷ついたようにゆがんだ。リディアはさすがにかわいそうに思えてくる。
「ちょっと、エドガー、子供を相手に言いすぎだわ」
「子供じゃない。父上が亡くなったなら、彼が一家の主人だ」
めずらしく、屁理屈《へりくつ》ではなく正論でリディアの言葉を突っぱねたエドガーは、少年への攻撃の手をゆるめなかった。
「アルフレッドくん、本気でほしいと思うなら、女性に限らず情熱と努力で勝ち取ることだよ。面倒だから運命に従《したが》う? そんな情けないことじゃ誰も認めてくれなくて当然だ。さっさと帰って、ばあやのひざで泣くんだね」
少年は、顔を赤くしたけれど泣かなかった。つまらなさそうなため息をついただけだ。
「べつにいい。女なんて、この人でなくたっていいんだから。行こう」
促《うなが》すように弁護士を見るが、彼は帰ろうとはしない。
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》、お目にかかれたこの機会に、まことに不躾《ぶしつけ》ながらご相談したいことがございます」
「アルフレッドくんが運命の赤い糸をたどってきたついでに、相談事かい?」
弁護士は肩をすくめた。もともと、少年が言う赤い糸の話にはしかたなくつきあっただけだろう。
「きちんと紹介を得てから、どのみちうかがうつもりでした。ですが偶然《ぐうぜん》にも、紹介していただく意味がなくなりましたので」
弁護士が話しているあいだに、少年は黙ったままきびすを返す。
「あ、ねえちょっと……」
リディアが呼び止めようとしたが、彼は振り返らずに部屋から出ていった。
「失礼をしてすみません。いつものことですから、ほうっておいてくださいませ」
そう言う弁護士は、もはや相談事にしか興味がなさそうだ。
エドガーは、さりげなくリディアの手を取った。
テーブルを少し離れ、並んでソファに腰をおろす。そのまま彼女の手を離そうとしないのは、自分とつながっていない赤い糸よりも、たしかに触れあっていることが重要だと思いたかったからだろうか。
婚約したのに、運命の人じゃないなんて。リディアもなんだか不安になる。けれど、何本もある赤い糸が目に入ってしまうと、素直に彼の手を握《にぎ》り返せない。
「どうぞおかけください。それで、相談事とは?」
「はい。……どうやら運命の女性とのご縁《えん》はなさそうですし、アルフレッドさまには早急に別の縁談をさがさねばなりません。ただ、これまでのところ、どこの家にも色好《いろよ》い返事はいただけていないというのが現状です」
「彼はまだ十二、三だろ? どうしてそんなに婚約を急ぐのかな」
「それは、祖父君《そふぎみ》のモーダント卿のお考えでして。ご存じでしょうが、妙《みょう》な噂が立っておりますので、卿としても早々《そうそう》に立場を決めなければなりません。アルフレッドさまがきちんと婚約すれば嫡男《ちゃくなん》と認めるとおっしゃっているのですが」
正式な妻の子でないと、爵位は継げない。とはいえ、噂はともかく、書類上のアルフレッドは正式な嫡男であるはずだ。それでも、まだ子供で後ろ盾《だて》もない少年にとって、自身の正当な権利を周囲に認めさせることは容易《ようい》ではない。家を継げるかどうかは、家長であるモーダント卿の意志ひとつ、というところなのだろう。
「グローサー卿の放蕩《ほうとう》や悪い噂には、常々《つねづね》モーダント卿は腹を立てておりまして、アルフレッドさまが悪い影響を受けているなら、跡継ぎにはふさわしくないと思っていらっしゃるようなのです。とくに女性関係に誠実かどうかを気にしていらっしゃいます」
「なるほどね。だったら彼は、どんな女も面倒だと思ってるくらいだ、ひとり相手が決まれば、それ以上求めたりしないでしょう」
「ええ、ただ、そのひとりが決まりませんので。……まあその、よくない噂のせいなんですが」
嫡男でないかもしれないなら、たしかに、家柄《いえがら》と条件だけで相手を選ぶ場合は避《さ》けられてしまうだろう。
「ひとつだけ、まだお返事をいただいていない話がございます。その件で、できればアシェンバート伯爵にお口添《くちぞ》え願えないかと」
「僕が親しくしている家なんですか?」
「はい。クレモーナ大公家《たいこうけ》の姫君です。たいそう変わり者で、社交界に出ることもなく引きこもっていると聞きますが、家柄は申し分ない。大公も、年頃の姫君の将来に悩《なや》んでいらっしゃると聞きますし……」
「はあ? 冗談《じょうだん》じゃないよ。あたしゃあんなクソガキ、ごめんだね!」
ロタがテーブルをひっくり返しそうな勢いで立ちあがった。
驚く弁護士に、エドガーがあらためて紹介した。
「彼女が、クレモーナ大公女、レディ・シャーロットです」
「ええっ!」
声をあげたのはポールだった。
「なんだ、ポールは知らなかったのか?」
「そういや言ってなかったっけ」
ロタはあっけらかんとしたものだ。
「それ……、ほ、本当に……」
「うん、あたし貴族らしくないだろ。わけあって、下町の家で育てられたもんだからさ」
下町で……、とモーダント卿《きょう》の弁護士はつぶやいた。ロタは彼に向き直る。
「こんな女はそっちもごめんだろうけど、とにかく、あたしは政略結婚なんてごめんだからな!」
が、不意にエドガーが立ちあがった。
「わかりました。僕が大公を説得してみましょう」
「ちょっと、エドガー」
リディアは驚き、ロタはあんぐり口をあける。
「育ちはともかく、レディ・シャーロットは面倒見《めんどうみ》のいい女性です。アルフレッドくんのようにひねくれた男でも、叱咤《しった》しながらうまく操縦《そうじゅう》、いえ、支えていけることでしょう」
「おいっ、よけいなことするんじゃない!」
「ロタ、よく考えてごらん。こんないい縁談、きみには二度とないよ」
「あ、あんたな、リディアの運命の糸があのガキにつながってたから、むりやりあたしとくっつけようってことだろ!」
「よくわかったね」
「わからいでか!」
「婚約が決まらないと、彼は意地でもリディアにこだわるかもしれないし。さっさと縁談がまとまってくれれば、あの様子なら、赤い糸のことなんか忘れるだろうからね」
「自分さえよければいいのか!」
「そんなことはないけど、きみのことはどうでもいい」
エドガーとロタは、いつでもこんな調子だ。仲がいいとはとうてい思えないが、昔からそれなりに友情を育《はぐく》んでいるらしいと知っているから、リディアはため息をつくにとどめた。
「伯爵! あ、あなたがそんな人だとは思いませんでした!」
今度はポールが立ちあがった。
予想外のことに、驚いた皆がポールを見る。
「こ、婚約したからって、以前につきあっていた女性をそんなふうに扱《あつか》うなんて……」
「つきあっていた? 誰と?」
エドガーは大きく首を傾《かし》げる。
「ロタとですよ! じゃまになったから、別の男に押しつければいいというんですか? 彼女は今でも伯爵を思うからこそ、あなたともリディアさんともよき友人になろうとしているんじゃないんですか?」
エドガーとロタは、呆気《あっけ》にとられながら顔を見合わせた。
「そんなけなげなロタに、どうでもいいとかひどすぎます!」
「えっ、ポール……それは違……」
ロタが否定しようとするが、ポールは一気に言い放《はな》った。
「伯爵、リディアさんと婚約して、まじめになられたと信じていました。なのに……、女性に関してそんなふうにいいかげんだから、赤い糸がいまだに複数もあるんですよ!」
肩で息をするポールは、どうやら真剣に誤解をしていた。
困惑《こんわく》し、言葉を失ったままリディアもロタも黙《だま》り込む。
しばしの沈黙《ちんもく》のあと、くすくすと笑い出したのはエドガーだった。
「けっさくだ」
そう言って、思いきり笑う。
あんまりおかしそうなので、今度はポールが呆気にとられた。
「なあポール、あたしエドガーとは腐《くさ》れ縁《えん》だって言ったけど、もしかしてそれを男女の縁だと思ってたのか?」
「え、だってロタ、伯爵は女性と友達にはならないっていつも言って……」
「ロタが女性だって? 胸なんてレイヴンより平べったいくらいじゃないか」
部屋の片隅《かたすみ》でひかえていたレイヴンは、いきなり比べられ、何を思ったか両手を自分の胸に当てた。
「はあ? 何年前のことだよ! 今は立派《りっぱ》に成長したんだからな!」
「あのう……、アシェンバート伯爵」
モーダント卿の弁護士が、おずおずと口をはさむ。言い争いがはげしくなる中、そこにいるがさつな少女がクレモーナ大公女だということが、まだ受け入れられない様子で首を傾げている。
「ああ、すみません。でもミスター、アルフレッドくんは胸なんか気にしませんよね。たぶん子供は産めるでしょうから」
「エドガー! クソ野郎《やろう》!」
「あの、違うんですか? ロタは伯爵と……、違うんですか?」
ポールは頭をかかえ込む。
リディアは混乱状態の部屋の中、視線を動かした。
エドガーの小指に、赤い糸がいくつもからまっている。ポールの憤《いきどお》りは完全な誤解だとわかるけれど、そもそもエドガーが誤解を招くような人なのが問題なのではないか。
複数の赤い糸だって、ポールの指にあったなら何かの間違いだと思えるものを。
ゆっくりと苛立《いらだ》ちつつあったリディアは、エドガーに詰め寄った。
「ちょっとエドガー、どうしてあなたが知ってるの?」
「え、何を?」
「ロタの…………、まさか、のぞき見とかしたんじゃ……」
「いやリディア、誤解しないでくれ。ロタはしょっちゅう素《す》っ裸《ぱだか》で泳いでたんだ。港のそばでだよ。それでも誰も、気にとめないくらいさ。それこそ女に見えないってことだよ」
それを聞いて、弁護士は目を見開いて硬直《こうちょく》している。素っ裸で泳ぐ大公女は彼の想像力を破壊したに違いない。
が、リディアも頭に血がのぼれば、客人《きゃくじん》のことを気にしている場合ではなくなる。
「……か、体のことでからかうなんて、最低だわ!」
くるりときびすを返して駆《か》け出す。
「ざまあみろ! どうしたって生涯《しょうがい》タラシは直らないんだから、リディアにきらわれるのがあんたの運命さ!」
「くそっ、運命の糸が何だ。こんなものに僕たちの愛を裂《さ》くことなんて、できるはずがないんだからな!」
エドガーの憤った声を聞きながら、リディアはティーサロンのドアを後ろ手に閉めた。
運命の赤い糸、それが本物なら、リディアはあのアルフレッド少年と結ばれることになる。そしてエドガーは、リディアではない女性たちに囲まれて過ごすのだろう。
運命に逆《さか》らって、このままエドガーと結婚したとしても、いずれは同じ結果になるのだろうか。
リディアひとりでは物足りなくなったエドガーが、別の女性を連れてくるようなことになったら……。
そんなの、たえられない。
「リディア、落ち込んでるのか?」
逃げるように帰宅したリディアのところへ、間《ま》もなく訪《たず》ねてきたのはロタだった。
「……少しね」
「まあ、ね、あんなに赤い糸がたくさんある男ってのはどうかと思うけど、タラシが一生ものでも、エドガーはあんたにきらわれるようなことはしないと思うんだ」
リディアは頷《うなず》く。けっして、エドガーの今の気持ちを疑っているわけではない。
「胸がどうとかいう軽口《かるくち》は、あたしを女だと思ってないから出るだけで、あんたに文句はつけないって」
「そ、そんなことはべつに、……気にしてないのよ」
赤くなりながらリディアは言う。
ちょっとは気にしていたけれど。
それよりも、運命の糸だ。結婚という一大事を目の前にすれば、見えない将来に不安になってもしかたがない時期なのに、運命の相手ではないと言われれば、さらに不安になるではないか。
「ねえロタ、運命の人って、そもそもどういう人のことなのかしら」
誰よりも好きになる人? それとも、何不自由なく幸せに暮らせる相手?
「そうだよなあ。いくら糸がつながってたって、あのぼうやに恋はできないよな。だけどリディア、どうもおかしいと思わないか? この赤い糸は見えないはずのものだろ? あたしたちは、妖精の魔法で見えるようになっただけだ。とすると、あのアルフレッドも、同じように魔法で見えるようになったってことなのか?」
リディアもそれが引っかかっていた。
「そうよね。半信半疑で糸をたどってきたってことは、誰かにそうするように言われたのよね」
たしか、|妖精の名付け親《フェアリー・ゴッドマザー》は、自分の名付け子のためにロタに魔法をかけようとした。おそらくその名付け子にも、同じ魔法をかけたはずだ。
でも、アルフレッドが名付け子だとすると、糸がロタでなくリディアにつながっていたのがわからない。
リディアが考え込んだとき、か細い声が聞こえた。
(フェアリードクター! ねえあなた、フェアリードクターとおっしゃいましたわよね?)
見覚えのある小さな姿が、ふらふらと飛びながら、窓から部屋へと入ってきた。
「ゴッドマザー? 今度は何なの?」
(ああよかった、わたくしと話が通じる人がいてくださって)
よろめくようにテーブルにとまった妖精は、息を切らしながらも必死にしゃべった。
(大変なのです。名付け子が……、わたくしのぼっちゃまが、何者かにさらわれて……。フェアリードクター、赤い糸をたどって居場所《いばしょ》を突き止めてくださいませんか? そしてぼっちゃまを助けてくださいまし!)
さらわれたとは尋常《じんじょう》ではない。リディアはロタと顔を見合わせた。
「じゃ、あたしの糸をたどればいいのか?」
「ロタ、ちょっと待って。ねえゴッドマザー、あなたの名付け子って、もしかしてモーダント家のアルフレッド?」
(はい。そうでございます。ああ、お父上が亡くなったばかりで、つらい思いをしてらっしゃったのに、どうしてこんなことに……)
妖精はさめざめと泣いた。
「彼に会ったけど、赤い糸はロタじゃなくてあたしとつながってたわよ」
(あらっ)
急に泣きやみ、そわそわと落ち着かなく辺《あた》りを見まわす。
(いやですわ、わたくしとしたことが……。縁談《えんだん》のあるクレモーナ家の姫君を、ぼっちゃまにさがしあてていただくはずでしたのに)
「つまりあなた、ロタとの縁談が成立するように、勝手に赤い糸を結んだってことなの? なのに間違って、あたしと彼を糸でつなげてしまったわけ? だったら赤い糸って、運命でも何でもないってこと?」
リディアは責めるように妖精を覗《のぞ》き込んだ。
あわてて妖精は、ふるふると首を横に振る。
(見えるようになったのは、本当に運命の赤い糸ですわ。でもそれは、見えたからってたどることはできないんです。人はけっして、運命を知ることはできないんですから。……ですから、名付け子と縁談のある女性にだけ、たどれる糸を結ぼうと思ったのです)
赤い糸は本物。だとしたら、やっぱりエドガーは、これからも複数の女性と深くつきあうことになるのだろうか。
いっそすべて、ゴッドマザーのまやかしだったらよかったのに、見えるのは本物だと言われ、リディアはいっそう落ち込んだ。
けれど今は、それどころではなかった。
「とにかく、あの少年をさがさなきゃ」
(お願いします、フェアリードクター)
「ええと、だからあたしの糸をたどればいいのよね」
リディアが立ちあがると、ロタもいっしょに行くと立ちあがった。
誘拐《ゆうかい》されたというアルフレッドの居場所に近づくのは、女だけでは危険かもしれない。そう言ってロタが連れてきたのはレイヴンだった。
リディアの赤い糸をたどらねばならないため、エドガーが出てくるとややこしくなりそうだと気がかりだったが、彼はちょうど留守《るす》だったらしい。
そうして三人が、フェアリー・ゴッドマザーとともにやってきたのは、シティの南、テムズ河|沿《ぞ》いにある古びた建物だった。
「あの中に、アルフレッドがいるのかしら」
(わたくしが見てきましょう)
妖精は、赤い糸が続いている窓の方へ、そろりと飛んでいった。
リディアたちは物陰《ものかげ》で待っていた。
「なあ、エドガーのやつはどこへ出かけたんだ?」
ロタが退屈《たいくつ》を紛《まぎ》らすつもりか訊《き》く。
「リディアさんには言うなと言われています」
いつものバカ正直な態度でレイヴンは答えた。
もしかして、もう別の女性のひとりやふたりいるのかしら。リディアはため息をつく。よけいなことを訊いてしまったと思ったのか、ロタは舌打ちした。
「いや、まああれだよ、あいつ、名誉|挽回《ばんかい》しようと何か考えてるんじゃないの? うん、赤い糸のことで危機感おぼえてるはずだから、こんなときに浮気はしないと思うな」
そうだろうか。だとしてもリディアは、あの糸のことをどう受け止めればいいのかわからない。いまさら、知らなかったことにするのも難しい。
「そうそう、そういやニコも姿を見かけないな。あのときティーサロンからいつのまにかいなくなってたし、リディアの家にもいなかったし」
ロタは話を変えることにしたようだ。
「ニコさんは、自分の赤い糸をたどっていきました」
「え、もしかして、運命の人を見つけようとしてるの?」
妖精のニコでも、運命は気になるらしい。けれど、あの糸はたどることができないと、ゴッドマザーは言っていた。
ちょっとばかりニコが気の毒になる。
「あっ、おい、あれ……」
そのとき、急にロタが声をあげた。彼女が指さしたのは、問題の建物にある屋根裏の小窓だった。
白いものが垂《た》れ下がっている。シーツのようなそれにしがみつき、男の子が窓から抜け出そうとしている。背格好《せかっこう》からしても、アルフレッドに間違いはなかった。
「あぶないわ……!」
「声をかけたらびっくりして落ちるかもしれない。様子を見守ろう」
息を詰めて眺《なが》めているしかない。
少年が二階の窓の辺《あた》りまで降りてきたとき、いきなり下の戸口が開いた。
「おいっ、逃げようとしてるぞ!」
ドアから出てきた男が、少年を見あげて叫《さけ》ぶ。アルフレッドは危《あや》うく落ちそうになったが、かろうじてシーツにしがみついていた。
しかし、二階の窓も開く。アルフレッドをつかまえようと男が身を乗り出す。
とっさに飛び出そうとしたリディアを、レイヴンが制した。
「出ていっては危険です」
「でも、アルフレッドが。どうしよう……、助けられない?」
「……では、私が行きます。リディアさんは彼を連れて逃げてください」
言ったかと思うと、レイヴンが飛び出した。
下にいた男を一撃で蹴《け》り倒す。投げたナイフはアルフレッドのシーツを切り裂く。
落ちる。
リディアはドキリとさせられたが、アルフレッドが落ちたのは、レイヴンが倒した男の上だった。クッションになった男はそのままのびきったが、少年はすぐに立ちあがる。
あわてて外へ出てくる男たちの前に、レイヴンが立ちはだかった。
リディアとロタはアルフレッドに駆け寄る。
[#挿絵(img/nightwear_115.jpg)入る]
「早く、こっちよ!」
彼を連れて駆《か》け出す。馬車を拾おうと、大通りへ向かって走る。
運良く止まっていた辻《つじ》馬車に乗り込もうとしたとき、追いかけてきた男にロタが腕をつかまれた。
「リディア、先に行け!」
ロタは男と格闘《かくとう》している。リディアが迷っていると、横から出てきた何者かに、馬車の中へと押し込まれる。
「きゃっ、な、何するの……」
「残念だったな。騒《さわ》ぐんじゃないぞ」
アルフレッドをさらった仲間のひとりらしい男が、ピストルをちらつかせた。と同時に男は御者《ぎょしゃ》を脅《おど》しながら、リディアとアルフレッドを閉じこめたまま馬車を出させた。
ここがどこなのか、リディアにはよくわからなかった。通ってきたのも、ロンドンでもリディアの知らない下町の地区だ。
そうしてアルフレッドとふたり、地下室のようなところへ閉じこめられている。
鍵《かぎ》をかけられた小部屋の中、蝋燭《ろうそく》は一本だけで、これが消えたら前後もわからないほどの闇《やみ》に包まれるだろう。
周囲が見える今のうちにどうにかしなければと、リディアは部屋の中を歩き回った。壁や床に、抜け道がないものかと考えながら。
「もう、逃げられないよ」
ずっと黙《だま》りこくっていたアルフレッドがつぶやいた。
「このまま人買いに引き渡されて、外国行きの船に乗せられるんだ」
「どうしてわかるの?」
「最初の家で、誰かが話してたから」
アルフレッドは、他人事《ひとごと》のようにくすりと笑った。
「きみもいっしょに船に乗せられるんだろうな。お互い、こういう運命だったんだ」
彼は小指の糸を眺《なが》める。それは床に垂れ下がり、リディアの指につながっている。
「あーあ、きみがここにいなければ、まだ希望はあったのに。だってぼくらは結ばれる運命なんだろ? きみがロンドンにいるかぎり、ぼくはどんなに遠くへやられようと帰ってこられるはずだった。……いや、違うな。こうなることはとっくに決まってたってことか」
「あたしは、あなたの運命なんかじゃないわ」
妖精は間違って、見える糸をつないでいったのだ。けれどそれだけでなく、リディアはたぶん、運命とやらに反発を感じていた。
「婚約者がいるから? じゃあ、何でこんなことになってるわけ? 偶然《ぐうぜん》あそこにいたの? それこそ運命のいたずらとしか思えないけど」
「それは、|妖精の名付け親《フェアリー・ゴッドマザー》に頼まれたの。あなたのこと、助けてくれって」
一瞬だけ、彼の表情に子供らしい驚きが宿《やど》った。
「妖精の……? きみもあの妖精の夢を見たのか?」
「夢じゃないわ。あたしは、ふつうにしてても妖精が見えるの。フェアリードクターなのよ。ゴッドマザーは、あなたが婚約する気になるよう、目に見える赤い糸を、縁談《えんだん》のあるクレモーナ大公女《たいこうじょ》に結ぼうとしたんだけど、間違ってあたしに結んじゃったのよ」
少年は少し首を傾《かし》げたが、驚きも好奇心も閉ざすことに慣れているのか、またつまらなさそうにうつむいてしまう。
「きみじゃないのか。じゃ、どこか外国にいるのかもね。だけどぼくらは売られるんだ。まともな生活が待ってるわけじゃないし、誰かのおもちゃにされるだけだろ。そういうのも、運命の相手って言うのかなあ」
この年頃の少年にしては、アルフレッドは何もかもあきらめているようにリディアには見えた。
女なんて嫌《きら》いだけれど、誰でもいいからと手っ取り早く運命の相手をさがしに来た。祖父の命令だからしかたなく、けれど積極的に祖父に認められようとはしていない。
そうして、こんなことになってさえ、他人事のように淡々《たんたん》としている。
リディアはため息をつき、自分の指を眺めた。
あたしの赤い糸は、本当は誰につながっているのかしら。
このまま連れ去られてしまうとしたら、エドガーは運命の人ではなかったということなのだろうか。
ふと見ると、アルフレッドは自分の赤い糸をほどこうとしている。
「やめなさいよ。ほどいてしまったら、本当に運命の人に会えなくなるのよ」
「外国にいるぼくの買い手に? だったら会いたくなんかないね」
そう言って、止めようとするリディアの手を、逆に彼はつかんだ。
「きみもほどいてしまえよ。運命に引き寄せられなきゃ、外国へ売られなくてすむかもしれないだろ?」
勝手に糸をほどこうとするから、リディアはあわてた。
「やめて」
「なんで? ぼく見たよ。アシェンバート伯爵《はくしゃく》にはたくさん糸があった。あの中のひとつになりたいの? あの伯爵にしろ外国のきたない爺《じじい》にしろ、ありがたくもない運命の相手だろ」
彼の言う通りかもしれない。呆然《ぼうぜん》と脱力しかけたリディアの指から、アルフレッドはなおも糸をほどこうとしている。
けれど自分の糸がゆるみそうになると、彼女ははっと我《われ》に返った。
……いやだ。エドガーとつながっていないなんて。
アルフレッドの手を振り払う。
「あたしは、エドガーとつながってるはずなの! だって、彼のそばにいるって決めたのよ!……ふたりで決めて、約束したのよ!」
運命の糸がどうだろうと、エドガーとの絆《きずな》はたしかなはずだ。
アルフレッドは困惑《こんわく》気味《ぎみ》に眉《まゆ》をひそめていたが、彼女は足に力を入れて立ちあがった。
「あたしたち、まだ売られてないわ。ロンドンにいるのよ!」
あきらめたくない。そう思ったとき、戸口で鍵のはずれる音がした。
「おい、出ろ」
ふたりをここへ連れてきた男が姿を見せる。
逆《さか》らえるはずもなく、どうなるのかわからないまま、手を後ろに縛《しば》られる。そのままリディアとアルフレッドは、目|隠《かく》しをされて地下室から出された。
そうして、別室へと連れていかれる。ドアの開く音がして、背中を押されて数歩進めば、頬《ほお》にかすかな風を感じた。
少なくともここは地下ではない。窓を開け放したままの部屋の中だろう。
リディアはまだ、逃げ出す隙《すき》はないかとうかがっていた。
「売り物はこのふたりです」
椅子《いす》から立ちあがった人の気配《けはい》を感じる。人買いの前に連れ出されたのだろうか。
窓が開いているなら、逃げられるかもしれない。階段をあがったのは一度きりで、おそらくここは一階だ。
リディアが必死に考えていると、目の前に立ち止まった誰かが声を発《はつ》した。
「男の子供がひとりと聞いていたが?」
はっとして、リディアは思わず顔をあげた。
エドガーの声に思えたのだ。
「ええ、都合でもうひとり増えました。でも若い女ですから、すぐに買い手はつきますよ」
「面倒だな。こういう娘は船底に詰め込んだらじきに死んでしまう。かといって、近場で売るのはリスクが大きい」
いかにもその筋《すじ》の者らしい口調《くちょう》だったが、やっぱりエドガーだ。
彼の手が、品定《しなさだ》めを装《よそお》ってリディアに触れる。静かにというように指先が唇《くちびる》に触れるのを感じ、リディアは小さく頷《うなず》く。
「まあいいだろう。連れていこう」
このまま外に出られれば、もう大丈夫だ。
安堵《あんど》しかけたのもつかの間《ま》、はげしい音を立ててドアが開いた。
「おまえ、何者だ! オレの商品を横取りする気か!」
本物の、人買い?
誰かがリディアを乱暴《らんぼう》に押した。エドガーの手が自分から離れるのがわかる。
「その野郎をつかまえろ!」
引きずるようにして連れていこうとする力に、リディアは抵抗《ていこう》する。
彼女をつかんでいた誰かが、うめき声をあげたと思うと力がゆるむ。人が入り乱れ、罵声《ばせい》が響く中、逃《のが》れたリディアは目隠しで何も見えないまま、叫《さけ》んだ。
「エドガー! どこなの?」
リディアの後ろに誰かが回り込む。とたんに手が自由になると、目隠しもはずされる。
レイヴンだ。
彼に軽く押し出されたリディアは、そのままエドガーの腕の中におさまっていた。
「リディア、こっちだ」
リディアはとっさにアルフレッドの上着をつかむ。エドガーは部屋の奥にあった別のドアにすべり込むと、地下へと続く階段を、リディアをかかえるようにして駆け下りた。
真っ暗だった。手探《てさぐ》りで、三人はしばし奥へ進んだ。
地下通路は縦横《じゅうおう》に続いている。古い教会のあとなのだとエドガーは言った。
追いかけてくる誰かの声が聞こえたが、それはまた遠ざかる。と思うと、明かりがこちらへ近づいてくる。
「リディア、エドガー、そこにいるのか?」
「ロタだわ」
明かりを手に、彼女はこちらへ駆け寄ってきた。
「無事だな? よかった」
「上はどうなった?」
エドガーが訊《き》く。
「すぐに警察が突入してくる。それまでここにいたほうが安全だよ」
「エドガー、ロタも、どうしてここに……」
ロタの手にした明かりに、ようやくエドガーの顔を自分の目で確かめることができる。リディアはまだ、信じられない気持ちで彼を見つめた。
「モーダント卿《きょう》のところへ行って、いろいろと話を聞いてきた。このアルフレッドくんが僕のリディアによこしまな感情を持たないよう、きちんと話をつけておこうと思ったんだけど、複雑な事情を聞かされてね」
アルフレッド少年は、ようやく解かれた縄《なわ》のあとを痛そうに眺めていたが、むっつりと黙っている。
「事情?」
「モーダント卿の長男の、グローサー卿が亡くなっただろ? となるとモーダント卿の跡継《あとつ》ぎは、彼の次男になる。そしてその次は次男の息子。グローサー卿が父親より先に亡くなったことで、アルフレッドくんは爵位を継ぐことができなくなったわけだ」
それはわかる。リディアは頷くが、モーダント卿に次男がいたとは知らなかった。それならそもそも、アルフレッドが嫡男《ちゃくなん》かどうかは問題にならないではないか。
「モーダント卿の次男は、長いこと行方《ゆくえ》がわからなかった。死んでいるものと思われていたけれど、最近地球の反対側から連絡があった」
「生きていたの?」
「卿はそれを疑っている。遠方すぎて、本人を確認するのが難しい。モーダント卿にしても病気がちで老齢だ。次男を騙《かた》った何者かが自分が死ぬまで、異国で時間|稼《かせ》ぎをしてるのではないかと感じていらっしゃるんだ」
「でも、卿に何かあっても、ほかの身内の人が会えば、本物の次男かどうかわかるでしょう?」
「たとえばモーダント卿の死後、間もなく次男が死んだということにすれば? 一族の誰も知らない人物が現れても、それが次男の息子だと主張すれば、爵位《しゃくい》を継ぐことになる」
無関心にそっぽを向いているアルフレッドだが、エドガーの言葉を聞き漏《も》らすまいとしているようにも見えた。
「すでに死亡したとされている次男を、法的に生存とする手続きを、卿は保留《ほりゅう》にしていた。ところがそのうち、アルフレッドくんの周囲で不穏《ふおん》な動きがあることに気がついた。彼が嫡男じゃないという噂《うわさ》も流れだした」
「彼がねらわれたのね。……いなくなれば、モーダント卿は次男を認めるしかないもの」
「そう。モーダント卿は、連中の目を孫からそらそうと、彼を認めないかのような態度を取ってたんだ。けれど結局、誘拐《ゆうかい》にまで発展してしまった」
「じゃ、婚約にこだわったのも表向きか?」
ロタの方を見て、エドガーは頷いた。
「グローサー卿の好色《こうしょく》のイメージを、うち消すつもりもあったんだろうけどね。そうやって時間を稼ぎながら、モーダント卿は、調査を進めていたらしい。すでに彼らのしっぽをつかんでいて、一網打尽《いちもうだじん》にしようと周囲を固めていたところだったんだ」
そこに事件が起き、リディアたちは巻き込まれた。リディアが連れ去られたあとロタは、レイヴンとともに、モーダント卿とエドガーが話しているところへ駆け込んだのだろう。
「彼らの隠れ家《が》もつかめていたからよかったけど、きみたちが連れ去られたとわかって、計画を変更してもらったんだ」
エドガーはリディアを見つめる。ほっとしたように微笑《ほほえ》んで、彼女の頬《ほお》に手を伸ばす。
「人買いの振りをする計画?」
「警察が踏《ふ》み込む前に、きみの安全を確保したかったから。でも思いのほか、本物の人買いが現れるのが早かったよ」
「ぼくは、このまま売られたってよかったのに」
少年が、急にぽつりと言った。
「窓から逃げようとしてたじゃない」
リディアが指摘すると、彼はむっとして口をつぐんだ。
「みんなあなたを心配してるのよ。おじいさまも、フェアリー・ゴッドマザーも」
「爵位なんて、誰が継いでもいっしょだよ。ぼくでも、得体《えたい》の知れない叔父上《おじうえ》の息子でも同じだ」
くだらなさそうに言う。
「だってぼくは、嫡男じゃない。おじいさまも知らないだろうけど、……本当の母親は、父の愛人のひとりだった。ぼくを産んですぐ亡くなった。乳母《うば》が床下に隠していた日記を見つけたんだ。死産だった母上の息子の代わりに、乳母が父に命じられてぼくを抱かせたって。日記はすぐに燃やしたけど、母上は何も知らなくて、父上はずっと、彼女も周囲もだましてた。ゴシップと事実は違うけど、似たようなものなんだ」
そのとんでもない告白も、彼はやっぱり他人事《ひとごと》みたいに、突き放してさらりと言った。
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「でもあなたは、夢の中の妖精を信じたでしょう? おじいさまに認められる可能性を、信じたから赤い糸をたどったんでしょう?」
ゴッドマザーは、何度も彼を夢の中で勇気づけてきたのかもしれないし、たぶん彼は、その妖精だけは味方だと感じ取っていた。
「単なる気まぐれ。だってもし、ぼくが爵位を継いでしまったら、家を穢《けが》すことになる」
そう言うけれど、本当に何もかもに無関心なら、妖精なんて信じるはずがないとリディアは思う。
「何の問題もないじゃないか」
エドガーは、唐突《とうとつ》なくらいからりと軽く笑った。
「きみはグローサー卿の嫡男として育てられたんだろう?」
アルフレッドは不思議そうに顔をあげた。
「僕もね、きみくらいの歳《とし》に両親を亡くした。急に荒波に翻弄《ほんろう》される船の舳先《へさき》に立たされたような、孤独な気持ちになるんだ。きみの判断が、先祖代々積み重ねられた家の行方を左右する。自分なんかが継いでもいいのかってね。でもね、そう感じたなら、少なくともきみには、家を継ぐ自覚も誇《ほこ》りもある」
まるで興味なさそうな顔つきで、エドガーの言葉を聞いていたけれど、そのときアルフレッドの目からは涙がこぼれた。
自分でも驚いたように、彼は目をこする。
「大丈夫だよ」
エドガーに頭をくしゃくしゃにされながら、彼は声もなく涙をこぼし続けた。
たぶん、これまで泣けなかったぶんだけ。
泣きやまないアルフレッドを、エドガーはおだやかな目で見守っている。けれどリディアは気づいていた。
エドガーは、両親を殺されたときから、きっとまだ泣けないでいる。笑えるようにはなったのかもしれないけれど、家族の死にも自分の悲劇にも、涙を流したことはないだろう。
リディアはただ、そっと寄り添《そ》う。
エドガーに運命の女性が何人いたとしても、いつか彼が心を解放できるときに、こうしてそばにいられるのが自分だったらいいとぼんやり思いながら。
「エドガーさま」
通路の奥から、レイヴンの声が聞こえた。
「みんな取り押さえられました。もう安全です」
外へ出れば、薄曇《うすぐも》りの天気でさえやけにまぶしかった。
モーダント卿の弁護士がアルフレッドを迎えに来ていた。心配していた様子で、アルフレッドの顔が見えるとさっとこちらへ駆《か》け寄ってきた。
「アルフレッドさま、お怪我《けが》はございませんか?」
「うん、何ともないよ」
「モーダント卿がお待ちですが、お疲れでしたら明日になさったほうが」
「ううん、このまま訪ねる」
ロタが少年の肩に手を置いた。
「おい、いっしょに行ってやろうか? あんたと結婚は無理だけど、とりあえずじいさんを納得《なっとく》させるだけなら、婚約の噂くらい立ってもあたしはかまわないぞ」
振り返ったアルフレッドは、素直な笑顔をロタに向けた。
「……ありがとう、レディ・シャーロット。でもぼく、ひとりでちゃんとおじいさまに話すよ」
それから、リディアの方を見る。
「ありがとう、フェアリードクター。ぼくのゴッドマザーを見かけたら、お礼を言っておいてくれる?」
「ええ、もちろん」
「そうだ、アシェンバート伯爵《はくしゃく》。彼女はね、あなたに赤い糸が何本あろうと、そばにいるって決めてるんだってさ」
「え、ちょ、ちょっと! アルフレッド!」
リディアはうろたえる間もなく、エドガーに抱き寄せられた。
「本当に? うれしいよ、リディア」
「あ、あれは……、ここの地下に閉じこめられてて、外国へ売られるって聞いたから……、そ、そんなのはいやだって思って」
考えてみれば、あぶないところだった。
モーダント卿がすでに包囲《ほうい》を固めていたからよかったものの、本当に売られてしまうかもしれなかったのだ。
エドガーも、そう気づいたように急に深刻な顔でリディアを覗《のぞ》き込んだ。
「きみがどんなに遠くへ連れ去られたって、僕は追いかける覚悟《かくご》だったよ。この運命の赤い糸をたどってね」
複数の、赤い糸。
「あなたには見えないじゃない。……それに、見えたとしてもどの糸をたどるつもり?」
「うん、でもね、不思議ときみのことは見失ったりしないって思えるんだ。だって僕たちは出会ったじゃないか。遠くにいたのに、ちゃんと出会えた」
偶然《ぐうぜん》? それとも運命?
けれど不思議とリディアも、何があってもこの腕の中へ戻ってくるような気がしてしまう。
背中にまわされた腕が、強くリディアを引き寄せる。彼を見あげたままリディアは、身動きできなくなる。
どうやらアルフレッドたちもロタも、さっさと行ってしまったらしい。レイヴンだけが目をそらしつつも突っ立っている。
廃墟《はいきょ》となっているらしい教会の周囲には、もう誰もいなかったから、リディアは力を抜いてキスを受け止めた。
* * *
「おーい、ポール、まだ落ち込んでんの?」
ロタが訪ねていくと、下宿《げしゅく》兼アトリエの片隅《かたすみ》で、ポールはカンバスを前にぼんやりと座り込んでいた。
ちっとも手が動いていないし、アイディアを練って考え込んでいるふうでもない。
ロタの声に、彼ははっとして体を動かし、危《あや》うく椅子《いす》から落ちかけた。
「ロ……ロタ……、あ、いや、レディ……」
「ロタでいいよ。友達だろ? これまでどおりでさ」
「あ、そ、そうだね、……ごめん」
ため息をつくポールは、妙《みょう》な誤解をしてエドガーにいろいろ言ってしまったことに落ち込んでいる。
「エドガーは全然気にしてないよ。笑い飛ばしてただろ? あいつには、あたしとの誤解なんて悪い冗談《じょうだん》にもならない話だから」
「でも……、きみにも失礼なことだったし」
「あたし? うん、ちょっと驚いたな」
「ごめん」
「いや、ポールはあたしのことかばってくれたわけだろ。それに、あたしを女だって認識する人もいるんだってことで」
ロタがくすりと笑うと、ポールは不思議そうな顔をした。
「だって、男には見えないじゃないか」
「ああ、いちおうスカートはいてるしね。でもなんていうかさ、第一印象で女じゃないって、たいていの人の頭に刷り込まれるんだ。どんなに男と仲良くしてたって、色っぽい誤解は受けないみたいだ」
そうかなあ、とやっぱりポールは首を傾《かし》げた。
「あの……、それで、縁談《えんだん》はどうなったの?」
何のことかとロタは一瞬|悩《なや》んだが、たぶんアルフレッドとのことだと思い出す。自分のことでも彼女は一日で忘れたものだから、ポールがおぼえているのは不思議な感じがした。
「あれ? うん、アルフレッドに断られた」
ちょっとわくわくするような不思議。ロタは笑っていた。なんだか楽しくなった。縁談がどうなったとか訊《き》かれるなんて、女の子みたいだから。
「ええと、ロタ、きみにはもっとふさわしい人が現れるよ」
あわててなぐさめようとする彼は、どうしてこんなに女の子を相手にしているみたいなんだろう。
「前にもそんなこと言ったよな」
「えっ、そうだっけ」
「ありがと。そういうこと言ってくれるのもポールくらいさ。そうだ、これやるよ」
持ってきた小箱をポールに手渡す。何だろうと怪訝《けげん》そうに、彼はふたに手をかける。
とたん、中身が飛び出した。
「わあっ!」
驚いてひっくり返ったポールの頭に、ハリネズミがしがみつく。振り落とされて、床の上でまるくなる。
おかしくて、ロタは笑った。
「びっくりした? かわいいだろ、これ」
そっと拾いあげ、彼のほうに差し出す。やがて手の中で、もぞもぞと動き出したハリネズミに、じっと見られてポールも笑った。
「どっかで飼ってたんだろうな。リボンがついてるんだ。飼い主が見つかるまであずかってよ。あたしも世話をしに来るからさ」
箱に戻しながらそう言い、ロタは手を引いてポールを助け起こした。
何気《なにげ》なく彼の手を眺《なが》めるが、小指の赤い糸はもう見えなくなっていた。ロタの髪の毛にからまっていた糸も見えない。ゴッドマザーの魔法が解けたのだろうか。
「ああ……いいけど。まったくきみは、想像のつかない人だね」
照れくさそうに起きあがり、笑っているポールは、もう落ち込んだ様子はなかった。
運命の糸は、たどることはできないという。でも、どこかで誰かにつながっている。不思議で、そしてわくわくする。
糸が見えなくなっても、そんな気分はいつまでもロタの胸に残っていた。
どこからともなくいい匂《にお》いが漂《ただよ》ってくるのを感じ、ニコはぱちりと目を開けた。
魚のフライの匂いだ。と思うと急に空腹をおぼえる。しかしニコは思い出す。運命の赤い糸をたどっている途中だったのだ。
ちょっと休憩《きゅうけい》するつもりが、ずいぶん眠っていたようだし、さっそく仕事にかからねばと、彼は芝生《しばふ》の上に体を起こした。
「糸は……と」
ニコは両手を開いて確認するが、赤い糸がどこにもない。あわてて両足も確かめたけれど、ない。
魔法が解けたのか。ニコはため息をついてその場に座り込んだ。
ここはどこだろう。糸をたどってずいぶん歩いた。しかし見まわすと、見慣れた風景に囲まれている。
見覚えのある花壇《かだん》、彫像《ちょうぞう》のある噴水《ふんすい》、背の高い木々が等間隔《とうかんかく》に並んでいるかと思うと、それよりも高い石造りの建物が周囲を取り巻いている。
「ここ、伯爵|邸《てい》の中庭か?」
赤い糸は、たどってもたどってもキリがなかったが、どうやらニコは、伯爵邸の近辺をぐるぐる回っていただけだった。
「あーあ、なんだよう」
ふてくされ、また芝生に倒れ込んだニコは、再びおいしそうな匂いに鼻をひくひくさせた。
ふと見ると、しっぽに赤い糸が巻きついている。ニコはがばっと起きあがる。急いで糸をたどっていく。
テラスがある。赤い糸は、テラスに置かれたテーブルの上へ続いている。ジャンプする。
そのときニコの目に飛び込んできたのは、赤い糸で結ばれた魚のフライだった。
「おはようございます、ニコさん」
レイヴンがそばに突っ立っていた。
ニコは、レイヴンと魚を交互に眺め、納得した。
「……あーあ、おれの運命の人はフライになっちまったのか」
あまりにも滑稽《こっけい》で、おかしくなってニコはおなかをかかえて笑った。レイヴンは、これでも精一杯《せいいっぱい》、ニコがよろこびそうなものを考えて赤い糸を結んだのだろう。
どうしてもたどることができない運命の糸の代わりに。
「それにしてもいい匂いだ」
ほかほかのフライにありつけるのも、ステキな運命かもしれない。
「ポテトもいかがですか?」
レイヴンはちょっと得意げに見えた。
フェアリー・ゴッドマザーが小枝をひとふりすると、リディアの指にからまっていた糸がさっと消えた。そばにいるエドガーの糸も、もう見えない。
(これで元通りでございますわ)
ゴッドマザーは上機嫌《じょうきげん》に、はたはたとふたりの周囲を飛び回った。
機嫌がいいのは、アルフレッドのことがうまくいったからだろう。
「ところでゴッドマザー、目には見えなくても、運命の赤い糸は本当にあるの?」
エドガーが問う。
(もちろんですとも)
「僕には糸が複数あるってみんな言うんだけど、きみにもそう見えるのかな」
「エドガー、もうそれはいいじゃない」
もともと見えないはずのものだ。ゴッドマザーの魔法を介《かい》して、見えたように感じたとしても、それが真実かどうかはわからない。
わからないままでいいとリディアは思う。
エドガーとかわした約束以上の真実なんてないはずだから。
「でもリディア、僕としては不本意すぎる。結婚前から浮気男の烙印《らくいん》を押されたみたいじゃないか」
出会ったときから浮気男だとリディアは思っているのに、いまさらではないだろうか。
けれどエドガーは、ゴッドマザーの前に手を差し出す。彼女はめずらしそうに、エドガーの手に見入った。
(なるほど、伯爵さまは恋多きかたなのですねえ)
「だからもういいってば」
信じようとしてるのに、よけいなことは聞きたくないではないか。
(たくさんの愛情を持ってらっしゃいますから、糸も一本では足りなかったのでございましょ。それにしても、こんなふうに複数の糸がより合わさってひとつになっておりますと、伯爵さまの運命の女性は、愛されすぎて大変でございますわね)
えっ、とリディアが眉根《まゆね》を寄せたそばから、妖精は急いだように一礼する。
(ではわたくしは、これにて失礼)
そうして、素早《すばや》く窓から消えていった。
おそるおそる、リディアはエドガーの方を見る。
にやりと笑った彼は、こちらに近づいてくる。椅子の背に手を置いて、リディアを背後《はいご》から覗《のぞ》き込む。
「濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》が晴れてよかったよ」
おまけに、唇《くちびる》が耳に触れるほどの距離でささやくのだ。
「そ……そうね」
「悪いけどリディア、これからは何人分もの僕の愛を、一身《いっしん》に受け止めてもらうからね」
[#改丁]
リボンは勝負のドレスコード
[#挿絵(img/nightwear_141.jpg)入る]
[#改ページ]
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》、どうかこのわたしを助けてください」
妙齢《みょうれい》の貴婦人は、青ざめた顔で肩をふるわせていた。
そんな彼女の訴《うった》えを聞いていた若き伯爵は、優美な眉《まゆ》ひとつ動かさずに答えた。
「レディ、あなたの部屋に忍《しの》び込んだという男に、決闘《けっとう》を申し込むのはご主人の役目ではありませんか?」
「夫は新興《しんこう》貴族で、名誉《めいよ》のために戦うということがよくわかっていないのです。でも伯爵、あなたならよくご存じでしょう? 由緒《ゆいしょ》ある家柄《いえがら》の者なら、個人の誇《ほこ》りのために戦わねばならないことはその骨に刻み込まれています」
さすがにプライドの高い貴婦人だけあって、彼女は激《はげ》しい口調《くちょう》に感情をにじませる。
「ですがわたしはか弱き女です。武器をふるうことはできません。どうかわたしの代理人として……」
「お気持ちはわかります」
しかし伯爵は、話をさえぎることにしたようだった。
「ですがレディ、決闘は違法行為です。古い貴族にとって美徳でも、今の世の中には反社会的な行為ですよ」
「決闘に立ち会ったことがおありでしょう? そんなふうにおっしゃっても本心では、貴族にとっての正義だと思っていらっしゃるはず。庶民《しょみん》にはわからないことですわ」
「正義……、どうでしょうね」
伯爵はかすかに口の端《はし》をあげる。正義なんて信じていないとあざ笑うように。
端整《たんせい》な美貌《びぼう》が、おだやかではないすごみを帯《お》びる。
「僕が戦うときはただ、相手が存在することが許せない、それだけですよ」
やさしく人当たりのいい青年貴族、そんなふうにしか彼を知らなかった貴婦人は、いくらか困惑《こんわく》の色を浮かべた。
「でも、以前には、か弱き女性のために力を貸してくださったこともおありだと」
「それもまた、ささやかな娯楽《ごらく》ではありました」
「娯楽……」
伯爵は椅子《いす》から立ちあがる。彼女の帰りを促《うなが》すように。
「ですがこれからは、僕が決闘を受けるとしたら、愛する婚約者のためだけです」
[#改ページ]
初夏といえば、ロンドンは|社交の季節《ザ・シーズン》のまっただ中だ。そんな時期に、社交界|屈指《くっし》の有名人であるアシェンバート伯爵が姿を見せないことは、すぐさまロンドン中の噂《うわさ》になっていた。
妖精国《イブラゼル》伯爵、というめずらしい肩書きを持つエドガー・アシェンバートは、その若さと目立つ美貌で、あっという間に社交界を席巻《せっけん》した。
女性関係も華やかで、噂になった貴婦人や令嬢《れいじょう》は数知れないが、不思議と悪い評判は聞かれない。
新興の貴族が目立つこの時勢、中世からのイングランド伯爵位を継《つ》ぐ彼は、古き良き時代の貴族らしさを備えていたし、巧《たく》みな話術と存在感で女王|陛下《へいか》の宮廷に趣《おもむき》を添《そ》えれば、男女を問わず好ましく受け止められている。
そんなアシェンバート伯爵がいないとなれば、すぐさまその理由が社交界を駆《か》けめぐることとなるのは無理もないことだった。
じつのところ、たいした理由でもない。
怪我《けが》をして体調を崩《くず》し、屋敷で安静にしている必要があったというだけだ。
しかしそれが、記憶に新しい彼の婚約発表と同じくらいの早さで広まった今、伯爵の邸宅《パレス》には、見舞客《みまいきゃく》がひっきりなしに訪れていた。
「旦那《だんな》さま、お客さまです」
執事《しつじ》のトムキンスが、今朝《けさ》もまたくつろいでいるエドガーのところへやってきて告げた。
「リディアか?」
眺《なが》めていた冊子《さっし》を置いたエドガーは、期待を込めて婚約者の名前を口にしたが、執事は首を横に振った。
なんだ、と彼はつぶやく。
大勢の見舞客にいちいち応対していたら、とても安静にしていることにはならない。とくべつ無下《むげ》にはできない客人しか、トムキンスは取《と》り次《つ》がなくなった。
だから今、トムキンスがわざわざ告げに来たのが婚約者の来訪でないなら、位の高い客か、ともかく会う必要があるということなのだろう。
「で、誰?」
気を取り直して、エドガーは問う。
「|ロンドン市警《スコットランドヤード》のゴードン警部《けいぶ》だそうです」
「ふうん、とすると、見舞いに来たわけじゃなさそうだね」
怪我をしたといっても、肋骨《ろっこつ》にひびが入っただけだ。出血がひどかったと周囲は言うが、エドガーにとっては大した怪我ではない。
無理をしすぎて三日ほど寝込んだものの、熱が下がれば安静にするほどでもなく、ひまをもてあましているのだが、リディアが心配するのでしかたなく屋敷にこもっている。
どうにも彼女は、医者が言う安静に≠まじめに受け止めすぎているようだ。
退屈《たいくつ》したエドガーが、見舞客と連れ立って遊びに出かけたことにショックを受けたリディアは、まる一日口をきいてくれなかった。それからエドガーは、客人との面会もひかえることにした。
彼女の心をつかむべく、努力してきたことにくらべれば、しばらくの退屈ぐらいどうってことはない。
せっかくリディアが、以前より結婚を前向きに受け止めてくれるようになったところだ。結婚の時期を早めることにも同意してくれた。
エドガーが怪我を負ったのは、彼女を妖精族の巨人《トロー》から守ろうとした結果で、そんな彼の気持ちに応《こた》えようとしてくれている。
なおさらエドガーは、リディアを怒らせたくはない。
もちろんそれは、トムキンスも同じ考えであるはずで、ならば警部を取り次ぐ必要はないと判断しそうなものだが、彼はエドガーに近づいてくると、離れぎみのまるい目を神妙《しんみょう》にしばたたかせた。
「旦那さま、決闘を行ったのではないかと警察に勘《かん》ぐられているようです」
婚約者を暴漢《ぼうかん》から守って怪我をした、と知人には説明したような気がする。そこから話に尾ひれが付いたのかもしれない。
禁止されている決闘を行う貴族はいまだに少なくなく、原因のほとんどは女性がらみだからだ。
「なるほどね。警部の忠告を聞いておいた方がよさそうだ」
エドガーは立ちあがった。
ゴードン警部は、何かとエドガーに便宜《べんぎ》を図ってくれる人物だ。つまりは決闘の疑惑《ぎわく》も、それをうち消すために出向いてくれたようだった。
「伯爵、思っていたよりお元気そうですな」
跳《は》ねあがった口ひげも、真ん中でわけた髪の毛も、乱れたところを見た者はいないのではないかと思わせる中年の警部は、表情もほとんど動かさない。
「大したことはないのですよ。婚約者が心配性なもので」
噂を聞いて来たなら、よほどの重傷だと思っていただろうに、警部が待つ応接間に入っていったエドガーがふだんと違っているのは、部屋着のドレッシングガウンのままだというだけだ。
「暴漢にあったということですが、本当ですか?」
「決闘はしていませんよ」
「では、犯人の特徴はおぼえていらっしゃいますか?」
事務的に警部は質問する。決闘ではなく被害にあっただけという書類をつくるためだろう。
ゴードン警部にとって、エドガーが本当に法を犯《おか》していないのかどうかは問題ではない。疑惑をうち消す書類があればいいだけだ。
もちろんエドガーにしてもそれで問題はなかった。
「そうだなあ、あごひげを長く伸ばしていて、身長は十フィートくらい……」
「……六フィートくらいにしておきましょう」
勝手に捏造《ねつぞう》して手帳に書き込む。
「そうそう、木製の杖《つえ》を振り回して」
「凶器《きょうき》はステッキですか」
「魔法で岩を持ちあげて投げつけるんですよ」
「……石を投げつけてきた、と」
ぱたん、と手帳を閉じた彼は、これ以上エドガーの悪ふざけにつきあってもしょうがないと思ったに違いない。
本当のことなのに、と苦笑《にがわら》いをおぼえる。しかし彼だって、妖精国《イブラゼル》伯爵の名を得なければ、そしてリディアに出会わなければ、妖精も魔法も信じなかっただろう。
ともかく、警部が適当にそれらしく、事件の報告をまとめて、よけいな疑惑を払拭《ふっしょく》してくれればそれでいい。
「伯爵、このごろは警察の中でも、貴族をとくべつ扱《あつか》いするのはよろしくないと思う者が増えています。私闘《しとう》はひかえてください」
ゴードン警部はそう言って、椅子から立ちあがった。
もちろん、私闘は法律違反だ。しかし貴族社会に属する者にとっては、名誉《めいよ》のための決闘を犯罪として密告することこそタブーだ。当事者も立会人《たちあいにん》も、その周囲の人間も、決闘について漏《も》らしたりするはずがない。
なのにどうして、警察が敏感《びんかん》になっているのだろう。
「ところで警部、誰かが僕の怪我について、決闘の疑いがあるとでも言ったわけかな?」
振り返りつつ、彼は座ったままのエドガーを一瞥《いちべつ》した。
「そういうわけではありません。ただ、妙《みょう》な事件が報告されていましてね。いきなり決闘を申し込まれ、受けないと一方的に暴力をふるって立ち去るとか。しかしそれも噂の域でして、貴族の方々はたとえ言いがかりだろうと怪我をさせられようと、決闘について他人に話すのは恥《はじ》だと思っていらっしゃる」
「僕なら話すと思った?」
「いいえ、あなたがそんな男に遭遇《そうぐう》すれば、決闘という形だろうとそうでなかろうと、相手を再起不能にするでしょう。だとしたら、ロンドンの治安《ちあん》にとって朗報《ろうほう》だと思ったのですが」
「残念ながら、その妙な事件はまだ起こる可能性があるでしょうね」
頷《うなず》きながら警部はため息をついて、帽子《ぼうし》を頭に乗せた。
「失礼します。どうぞお大事に」
「もしもそいつに遭遇したら、再起不能にしてもいいの?」
「伯爵、それは犯罪です」
神妙な顔で釘《くぎ》をさしながらも、彼はまた言った。
「何かございましたら、いつでもご相談ください」
伯爵|邸《てい》へやってきたリディアは、口ひげを整えた男が屋敷から出ていくのとほとんど入れ違いに、玄関ホールへ入っていった。
「リディアさん、エドガーさまがお待ちかねです」
そう言って彼女を迎えたのはレイヴンだった。
エドガーの従者《じゅうしゃ》で、褐色《かっしょく》の肌をした異国の少年は、小柄《こがら》で童顔で十五歳くらいにしか見えないが、リディアより年上だ。
「あ、あのね、レイヴン。その前にちょっと、なくしたものがあって、仕事部屋に置き忘れてないか確かめたいんだけど」
「何をさがしておられるのですか? お手伝いいたします」
レイヴンは、何よりもエドガーに忠実《ちゅうじつ》で、主人のためなら危険も顧《かえり》みない。以前はエドガーにしか心を開いていなかったが、このごろはリディアにも心遣《こころづか》いを見せてくれる。
主人の婚約者として身近に感じてくれているようだった。
特殊《とくしゅ》な出生《しゅっしょう》のために、主人の命令がすべてだった彼が、自分の感情や意志を持ち始めている。それはリディアにとってもよろこぶべきことだが、さがしものの手伝いを、親しい召使《めしつか》いとはいえ男性にたのむ気にはなれなかったので、リディアは言葉を濁《にご》した。
「いいのよ。すぐ見つかると思うから、エドガーにもそう言っておいて」
「エドガーさまはリディアさんの仕事部屋にいらっしゃいます」
えっ!
あわててリディアは駆《か》け出した。
リディアは妖精博士《フェアリードクター》だ。妖精国《イブラゼル》伯爵というエドガーの名は、単に架空《かくう》の地名を冠《かん》した名前というわけではなく、どこかにあるという不思議な島、イブラゼルの領主として、この英国に住む妖精たちに認められている。
英国中にいくつかある、エドガーのほかの領地にも妖精たちは多く暮らしているので、妖精と人間が共存していけるように日々知恵を絞《しぼ》るのがリディアの仕事だ。
顧問《こもん》妖精博士として、この屋敷に仕事部屋を与えられているが、むろんエドガーは、彼女の仕事内容をすべて知るべき立場なのだから、デスクの上のものを手に取るとしても当然の行為だった。
しかし、部屋へ駆け込んだとたん、リディアは声をあげていた。
「エドガー、何してるの!」
「やあリディア、会いたかったよ」
案《あん》の定《じょう》、彼は机《デスク》のそばの椅子《いす》に腰掛《こしか》けて、彼女が置き忘れていた私物を手にしていた。
「か、勝手に見ないでちょうだい!」
薄《うす》い雑誌だが、急いでリディアは取り返そうとした。手をのばす彼女をひょいとかわし、エドガーは立ちあがる。必死になって奪《うば》おうとすれば、抱き寄せるようにして自由を奪う。
「そんなに急いで駆けつけてくれるなんて、きみも僕が恋しくてしかたなかった?」
腰《こし》に腕をまわし、片手で彼女の雑誌を背後《はいご》に隠《かく》したまま、彼はにやりと笑った。
「そ、それを返して」
「キスしてくれたら返してもいいよ」
[#挿絵(img/nightwear_153.jpg)入る]
「な……」
どうしていいかわからなくなって、真っ赤になったままリディアは硬直《こうちょく》する。待ちきれなかったのか、結局彼の方からリディアに軽く口づけた。
そうして、じゃれつくように、髪の毛に頬《ほお》をすり寄せる。
「ちょっと……」
「髪もカモミールの香りがする」
「何も……つけてないわ」
「じゃあ妖精の仕業《しわざ》かな。ほら、花びらが」
手のひらに取った白い花びらは、彼が息を吹きかけるとひらひらと宙に舞った。
そっとリディアを離し、彼は窓辺《まどべ》に歩み寄る。雑誌は返してくれないままだ。
「フランスのファッションプレートは華やかでいいよね」
「それは……、妖精が拾ってきたみたいで」
リディアには妖精の友達が多い。父と暮らしている館《やかた》にも、このエドガーの屋敷にも、|家付き妖精《ホブゴブリン》のたぐいはいて、今ではすっかり顔見知りだし、彼らはたまに、リディアの部屋にガラクタを置いていく。
その雑誌もそうだった。たぶん、どこかで拾ってきたのだろうけれど、華やかな図版《ずはん》に興味を引かれたリディアが、捨てずに取っておいたものだった。
「気に入ったデザインはあった?」
「そ、そんなのどれも、イギリスじゃ流行《はや》りそうにないもの」
それをエドガーに見られ、リディアは恥《は》ずかしくて顔を背《そむ》けるしかない。というのも、その雑誌が、ナイトウェアの特集だったからだ。
他人の目に触れるものではない寝間着《ねまき》は、下着と同様、口にするのさえはしたないというのが常識だ。なのにフランスでは、それをリボンだの刺繍《ししゅう》だのでドレスのように飾り立て、堂々と雑誌に載《の》せている。
そんなものを眺《なが》めていたことをエドガーに知られたのが、どうしようもなく恥ずかしい。
「きみの好みはこれ? うん、かわいいと思うな」
あんまりステキだったので、折り目を入れておいたページを、エドガーが開いてみせるものだから、リディアはますます頭に血がのぼった。
「からかわないで!」
「からかってなんかないよ。この国のレディは、どういうわけか夫の前では質素《しっそ》にしようと努めるみたいだけど、僕はむしろ、ふたりだけだからこそ華やかなきみを眺めていたいと思うよ」
「あたしが、こんなもの着ると思ってるの?」
「じゃあきみは裸《はだか》で寝るの?」
「っ……バカなこと言わないで! まともな女の子は、寝間着で着飾ったりしないわ!」
ようやくエドガーの手からそれを奪い返し、背後に隠す。
リディアは恥ずかしさに気が動転しそうなくらいなのに、エドガーはおもしろがっているのかくすくす笑う。
「なおさらステキだね。誰も想像できないきみを、僕だけが知っているなんて」
「想像しないでってば!」
「いいじゃないか。僕たち結婚するんだし」
そう、もうすぐ結婚する。
ウエディングドレスも決まったし、お嫁入《よめい》りの道具も衣装もそろいつつある。
けれど、今ごろになってリディアには、ひとつ悩《なや》みが生じていた。
先日、できあがったばかりの新しいナイトウェアや肌着に、手持ちのリボンを縫《ぬ》いつけようとしていたら、家政婦が驚いて止めたのだ。
『お嬢《じょう》さま、肌着に装飾《そうしょく》なんて非常識ですよ』
非常識とまで言われれば、リディアも驚いて手を止めた。
『少しくらいいいんじゃない? そでとすそにリボンを飾って、小花柄《こばながら》の刺繍でもすればかわいくなるわ』
『見えないところを飾るのに、手間ひまをかけるなんてほめられたことじゃありません』
え、そうなの?
けれどリディアにしてみれば、できあがってきたナイトウェアは、子供のころから着ていた単純な貫頭衣《かんとうい》と変わりなく、あまりにもそっけなかった。
そのころたまたま、フランスの雑誌を見て、こんなのを着てみたいとあこがれた。
『見えないところだもの、飾ったって飾らなくたって、誰も気づかないんだからいいじゃない』
『伯爵《はくしゃく》がお気づきになります』
指摘されてあせった。
けれどたぶん、とっくにリディアは意識していた。
これまでは家族でも、父だって、リディアが寝間着に刺繍をしようとリボンをつけようと気にするはずもなかった。
でも、これからはエドガーの目に触れる。そう思ったからこそ、リネンを縫い合わせただけのそっけなさが気になったのだ。
自分は腕も足も子供みたいに痩《や》せて見える。飾り気のない寝間着なんて、シーツを引っかけたかのようで、女の子らしさのかけらもないのではないだろうか。
けれど、家政婦はあくまで、寝間着を飾るのには反対らしい。
『下着が人様《ひとさま》の目に触れることを意識するなんて、卑《いや》しい女のすることです。結婚したとたん、軽蔑《けいべつ》されるようなことになったら大変ですよ』
エドガーがそんなふうに思うのかしら。
軽蔑されるのはいや。でも、わざわざかわいげのない格好《かっこう》をするのもいや。
どうしよう。
悩めるリディアは、結婚に前向きになったとはいえ、そのままの自分が彼の目にどう見えるのかわからなくて不安なのだ。
せめてナイトウェアが、いかにも下着といったものではなくて、いくらか見栄《みば》えのいいデザインだったら、少しでも恥ずかしさが減るんじゃないかと考えた。
でも、それだと男の人は、卑しい女だと思うの?
今も、エドガーはそんなふうに思ってあきれてる?
「リディア?」
エドガーの声が遠くに聞こえた。急に目の前が暗くなる。
混乱しきったまま、リディアは息をするのを忘れていたのか、意識が遠のくのを感じていた。
「大丈夫ですよ、リディアお嬢さま。コルセットをゆるめましたからね」
まぶたを開けると、伯爵家の|メイド頭《ハウスキーパー》のふっくらとした顔が目の前にあった。
「あの……ハリエットさん……」
「よくあるんですよ。結婚をひかえたお嬢さま方は、コルセットを締《し》めすぎますからね」
仕事部屋のソファに寝かされていたリディアは、ゆっくり息を吸い込んだ。
気を失ったのはわずかな間のようだった。
「ハリエット、リディアは気がついたのか?」
ドアの外からエドガーの声がする。
「はい、ご心配はいりませんよ。ちょっとお待ちください」
リディアを起こし、背中のボタンを手早く留める。そうして彼女がドアを開けると、待ちわびたようにエドガーが部屋の中へ入ってきた。
「旦那《だんな》さま、ウエディングドレスのウエストを、むやみに細く仕立てるのはよろしくない風潮《ふうちょう》ですわ」
メイド頭の言葉を聞きながら、心配そうにリディアを覗《のぞ》き込む。
「そうだね。寸法《すんぽう》を変えてもらおう」
「いいの。今はまだ慣れてないだけで、結婚式までには苦しくなくなるわ」
少しばかりコルセットをきつくしたくらいで倒れるなんて、と情けなくなりながら、リディアは言った。
貴族の女の子たちは、当然のようにそうしているという。ふだんのドレスより細めに仕立てるのがふつうだし、その方が見栄えもいいと仕立屋《したてや》に勧められた。
伯爵家に嫁《とつ》ぐリディアのために、いろいろと力になってくれているメースフィールド公爵《こうしゃく》夫人が紹介してくれたドレスメーカーだ。そんな有名店がリディアのドレスをつくってくれるのだから、社交界を彩《いろど》る貴婦人たちみたいに着こなせるようになりたい。
「無理することないよ」
「花嫁が野暮《やぼ》ったくても平気なの?」
「あのねリディア、僕はドレスと結婚するわけじゃないんだ。それに、少しも野暮ったくないよ。ふつうにしててもきみは細いくらいなんだから」
痩せていて、肩や腕の女性らしいまるみが少ないからこそ、もっとウエストを細くする必要があるのに。
「ドレスと結婚するわけじゃないなら、あたしの好きなようにさせて」
レイヴンが、水の入ったグラスを手に部屋へ入ってきた。エドガーが受け取り、リディアに差し出す。
それからなだめるように髪を撫《な》でて、頬を手のひらで包み込む。
部屋着のままの彼は手袋をしていないから、素肌《すはだ》の体温を直《じか》に感じ、いつになく気恥ずかしくなった。
「うん、好きなようにしていいんだよ。僕にしか見えないところに好きなだけリボンをつけてもね」
さっきの雑誌はテーブルの上だ。表紙に堂々と、リボンだらけのナイトウェアが描かれている。
「り、リボンなんてつけませんからっ!」
メイド頭もレイヴンも目に入っているはずだと思うと、ますます真っ赤になったリディアは、もういちど倒れたいくらいだった。
母が生きていたなら、こんな恥ずかしい失態を犯《おか》さずにすんだかもしれないのに。
リディアには、同性として気軽に相談できる身内や、既婚《きこん》女性の知り合いがいない。
結婚の準備や式の段取りを教えてくれる人には欠かないけれど、そのあとのことは誰も教えてくれない。
父に寝間着のことなんか話せるわけがないし、結婚準備を手伝ってくれているメースフィールド公爵夫人には、おそれ多くてそんなあからさまなことは訊《き》けない。
ベッドの上に広げた、真新しいナイトウェアを、リディアは眺める。
そでを絞《しぼ》ってリボンや刺繍を縫いつけてみたのはゆうべのこと。
家政婦のミセス・クーパーに見つかって反対されたけれど、少し手を入れただけで、ずいぶんかわいらしい雰囲気《ふんいき》になったナイトウェアは、ちょっとした部屋着のようにも見える。
フランス風の豪華なものにはほど遠いけれど、レースの飾り襟《えり》があればもっといい。
「でも、こんなの着ちゃいけないのよね」
元通りに直さなければならない。
エドガーは、雑誌のナイトウェアをかわいいとか言っていたけれど、本当のところどう思っているのだろうか。
リディアは自分がここまで常識知らずだったことにあきれているし、彼だってあきれているかもしれないと思うと落ち込む。
「よおリディア、何を暗い顔してるんだ?」
窓辺《まどべ》で声がして、あわててまるめたナイトウェアを、リディアは掛布の下に突っ込んだ。
「ケ……ケルピー」
二階の窓辺にいきなり現れた人影は、リディアにとってはごく親しい妖精だった。
黒い巻き毛に精悍《せいかん》な顔立ち、たくましくも色っぽい外見だが、本性《ほんしょう》は馬。人を喰《く》うと恐《おそ》れられている魔性《ましょう》の水棲馬《ケルピー》だ。
しかしどういうわけか、リディアは彼に気に入られている。エドガーと婚約した今でも、退屈《たいくつ》しのぎかしばしば現れる。
「べつに、暗い顔なんてしてないわよ」
にっこり笑ってみせるリディアに近づいてきて、彼はじっと覗き込んだ。
「だったらいいけどな。あの伯爵との結婚、やめたくなったらいつでも俺に言えよ」
この乱暴者《らんぼうもの》にだけは、よけいな愚痴《ぐち》さえ言うまいとリディアは思っている。結婚への不安など口にしたら、とんでもないことになりそうだ。
「そうだリディア、あの本、気に入ったか?」
「本って?」
「このあいだ、ここに置いてってやっただろ。変な服の絵がいっぱい載《の》ってたやつ」
あの、フランスの雑誌だ。
「あなたが拾ってきたものだったの?」
「ああ、おまえが好きそうだと思ってさ。おまえって妙《みょう》な服ばっかり着てるもんな」
今どきの女性のドレスは、ケルピーには奇妙に見えるらしい。とはいえ彼にとっては、ドレスかナイトウェアかの区別はつかないようだ。
リディアはため息をつく。
もっともリディアだって、英国風の下着の常識を知らなかった。
そもそも他人に見せたり語ったりするのは非常識とされているものについての常識を、みんなは誰から教えてもらうのだろう。
たぶん、身近な女性から。
けれど、母親を早くに亡くし、祖母もリディアが年頃の悩みや疑問を意識するようになる前に亡くなって、おまけに妖精しか友達がいなかったため、知らずにここまできてしまった。
未婚の女性が男性とふたりきりになってはいけないとか、なぜいけないのかは大きくぼやかしながらも何度も教えられるのに、下着に飾りつけをするなとは聞いたことがなかった。
たぶん、それほど重大なことではないからこそ、リディアにとっては盲点《もうてん》だった。
「なんだ、気に入らなかったのか?」
「ううん、そんなことないわ。見てるだけで楽しかったわよ」
本当に、眺《なが》めていれば楽しかった。こういうのだったら、エドガーの前でもそんなに恥《は》ずかしくないと思えた。
「顔が赤いじゃないか。熱でもあるのか?」
リディアの額《ひたい》に、ケルピーは無造作《むぞうさ》に手を当てる。
「だ、大丈夫よ、何でもないわ」
考えていることを読まれたみたいで、よけいに恥ずかしくてリディアは体を引いたけれど、水に属する妖精の手は冷たくて心地《ここち》がよかった。
だからやわらかくケルピーに微笑《ほほえ》みかける。
「ありがと」
ケルピーもいつになく表情をゆるめる。
「おまえ、このごろとげとげしさが少なくなったよな」
「とげとげしさって、あたしそんなにつんけんしてたかしら?」
言いながらも、たぶん心に余裕《よゆう》がなかったのだろうと自分でも思った。エドガーの本気が信じられなくて、自分に自信がなくて、戸惑《とまど》っていたころは。
今は、結婚に向けていろいろと不安はあるけれど、迷いはない。
「幸せなんだな」
目を細めたケルピーは、少し切《せつ》なげに見えた。
「おいおい、ケルピーくさいと思ったら、また来てんのかよ」
また窓辺から声が聞こえた。するりと入ってきた灰色の妖精猫は、床の上に二本足で立つが、歩けばいくらか千鳥足《ちどりあし》だ。鼻の頭が真っ赤だし、どうやら酔《よ》っぱらっているらしい。
「なんだ、猫か」
「猫じゃねえ、ニコさまだ。ああもう、おれの椅子《いす》に座るなよ」
ふだんなら、獰猛《どうもう》なケルピーにはなるべく近づかないのに、酔って気が大きくなっているのだろう。
ケルピーはどうでもよさそうに立ちあがり、リディアが座っているベッドに腰《こし》をおろした。
「おかえりニコ、遅いから、もう夕食は終わったわよ」
「いいよ。もう腹いっぱいだ」
どこかで妖精たちの酒宴《しゅえん》に加わってきたのだろう。機嫌《きげん》よさそうにニコは、ふさふさしたしっぽの毛並みを撫でつけた。
ニコはリディアにとっていちばん古い親友だ。そうしてリディアのそばには、昔からいつでも妖精たちがいた。
こればかりは、エドガーと結婚しても、伯爵《はくしゃく》夫人になっても変わらないだろうと思えるから、リディアは安心していられる。
「そうそうリディア、今日はおもしろいものを見たぞ。馬に乗った甲冑《かっちゅう》が、リージェントストリートを走っていった」
「甲冑って、エドガーのお屋敷に飾ってあるようなの?」
「ああ、全身を金属で覆《おお》ったやつさ」
「そんなの着てる人、いるわけないじゃない」
しかしそのとき、ケルピーが戸口を指さした。
「ああいうやつか?」
首を動かしたリディアは、息をのんだ。
銀色の甲冑がそこにたたずんでいたからだ。
冑《かぶと》に胴着、腕当てから手甲《てっこう》から、もちろん両足もきっちり鎧《よろい》で覆った何者かは、中世の図版《ずはん》から抜け出してきたかのような出《い》で立《た》ちだ。
「だ、誰? どこから入ってきたのよ!」
そしてそれは動いた。ガシャガシャと音を立てて、リディアに近づいてきたかと思うと、いきなりひざまずいた。
「姫君、お久しゅうございます」
「は?」
「あなたをお救いしたい一心《いっしん》でまいりました。どうかこの私を信じ、ともにおいでくださいませんか」
冑の奥の顔を確かめようと、リディアは目を凝《こ》らしたが、暗い闇《やみ》のようで何も見えない。ただその奥にあるはずの、彼の強い視線だけを感じ、リディアは疑問を口にするよりも戸惑っていた。
「おい、きさま、リディアに近づくんじゃねえよ!」
立ちあがったケルピーが割り込む。はっとしたように、甲冑の男は後ずさった。
「おまえ、人間ではないな?」
「俺は気高《けだか》き水棲馬《ケルピー》だ」
警戒心《けいかいしん》もあらわに、その男は腰の剣を抜いた。それもまた中世的な、重そうな剣だった。それでケルピーを牽制《けんせい》しながらも、彼はリディアに語りかける。
「姫君、おわかりでしょう。あなたの夫になる男は、強欲《ごうよく》で非道な悪魔です」
「そ、それほどでもないと思うけど……」
「否定しないのかよ」
ニコがつぶやく。
「逃げなければ、必ず不幸に……」
「とっとと消えろ!」
ケルピーが馬の姿に変化した。いなないて、甲冑の男に飛びかかる。
彼がかまえた剣を前足ではね飛ばすと体当たりをくらわす。
重そうな甲冑ごと、はげしい音を立てて男はベッドのわきに倒れ込んだ。
「くそっ、あの極悪《ごくあく》領主、このような魔物に姫君を見張らせるとは」
「ケルピー、家を壊《こわ》さないで!」
リディアが止めようとケルピーにすがった隙《すき》に、男は立ちあがる。
しかし、いきり立ってたてがみを逆立《さかだ》てているケルピーと、踏《ふ》みつけられて曲がった剣を見て、勝ち目はないと感じたようだった。
急いで剣を拾いながらも後ずさる。
「姫君、私はあきらめません。また必ず、お救いにまいります」
「来るんじゃねえぞ!」
「どうかこのハンカチを、約束のしるしにいただきたい」
男がつかんだのは、掛布の下からちらりとのぞいた、細いリボンがついた白い布だ。
「ええっ、ちょっとそれは……!」
ハンカチではなくナイトウェアだ。
しかしリディアが止める間《ま》もなく、甲冑男は窓から飛び出す。
ナイトウェアも、それについていくようにふわりと宙を舞う。
「やだ、返して!」
ケルピーがすそをつかんだが、それは音を立てて破れる。
そのままそでの切れ端《はし》とともに、男は窓の外に消えていった。
あんな重いものを着て、二階の窓から飛び降りるなんて自殺行為だ。
あわてたリディアは窓辺に駆《か》け寄り、外をのぞき見た。
しかし彼の姿は、下の通りにもその先にも見あたらない。
走り去るような、馬の蹄《ひづめ》の音だけが石畳《いしだたみ》に響《ひび》いていたのは、どこか魔法じみている。
「ふん、口ばっかりのやつだったな」
「あれ、人間なのか?」
ニコが首を傾《かし》げた。
[#改ページ]
姫君。
誰かがそう呼んだ。
リディアはあたりを見まわす。薄暗《うすぐら》くてよく見えない。切り抜いたように四角いところから、淡《あわ》い光が射《さ》し込んでいる。
ここはどこだろう。
石の壁、石の床、しだいに目が慣れてくれば、四角いところは窓らしく、月がのぼっているのがわかる。
リディアは窓辺《まどべ》に近づいていく。鎧戸《よろいど》を開け放してはあるが、窓には格子《こうし》がはまっていて、その向こうに、月光に照らし出された尖塔《せんとう》が見えていた。
まるで古いお城にでもいるようだ。
きっと、中世のお城。
今にも甲冑《かっちゅう》を着た騎士が現れそうな。
そういえば、あの甲冑の男は、リディアのことを姫君と呼んだ。
夢を見ていると感じながら、リディアはそんなことを考えていた。
姫君、とまた呼ぶ声がした。
視線を動かすと、下方の茂《しげ》みに人影があった。
簡素《かんそ》なチュニックを着て、腰に剣を提《さ》げた若い男だ。髪を肩まで伸ばしている。
二階ほどの高さにある窓を、彼は必死に見あげていた。
リディアは、澄《す》んだ泉のような瞳《ひとみ》をしたその人を、よく知っていると感じていた。
(いけないわ、見つかってしまいます)
芝居《しばい》を見ているような感覚だったが、そう言ったのは自分だった。
(姫君、しばしご辛抱《しんぼう》ください。明日、婚礼が始まる前に、必ずあなたを救い出します。そうしたら、私とともに、来ていただけますね?)
(ええ、必ず)
(どうかこの私に、約束のしるしを)
リディアは胸元に手をやった。ドレスの襟元《えりもと》からハンカチを取り出し、そっと格子の隙間《すきま》から落とす。
空中で受け止めた彼は、それに唇《くちびる》を押しつけた。
足音が聞こえる。誰かがこの部屋へ近づいてくる。リディアはあわててささやく。
(早く、行って)
見つかったら、彼はきっと殺される。
木製の扉の前で、足音が止まる。
きしんだ音を立てて、扉が開くのを、リディアは緊張《きんちょう》しながら見つめる。
黒い影にしか見えなかったけれど、そこにいるのは、彼女をここへ閉じこめた領主に違いなかった。
その奇妙《きみょう》な夢は、目覚めても鮮明《せんめい》に記憶に残っていた。
甲冑男の印象があまりにも強烈《きょうれつ》だったせいで、あんな夢を見たのだろうか。
そのうえリディアは、あの男が奪《うば》っていったナイトウェアの切れ端《はし》のことが頭から離れず、憂鬱《ゆううつ》な気持ちが晴れなかった。
うらはらに、エドガーは上機嫌《じょうきげん》な笑顔で彼女を迎える。
「やあリディア、待ちわびていたよ」
翌日、伯爵邸《はくしゃくてい》へ出向いたリディアの前に現れたエドガーは、どういうわけかふだんどおりに正装《せいそう》をしていた。
「エドガー、まさか出かけるつもりなの?」
「うん、これから王立歌劇場《シアター・ロイヤル》に行くんだよ。もちろんきみもね」
言うなりメイド頭を呼ぶと、ハリエットがイブニングドレスを手にして現れる。
「でもエドガー、あなたの怪我《けが》が……」
「もう外出しても問題ないって、今朝《けさ》来た医者が言ってくれたよ。きみが一日中付き添《そ》ってくれるならがまんもできるけど、そろそろ退屈《たいくつ》で死にそうになっていたところだ」
ほうっておくと少しも安静にしていないエドガーだから、リディアは毎日屋敷を訪問していたし、そこそこ付き添ってきたつもりだった。
たしかに今日は、屋敷へ来るのが遅くなってしまったが、それもエドガーにとっては不満だったらしい。
「今夜は新作オペラの初日だし、以前から観《み》に行こうって言ってただろ?」
「え、ええ……、だけど無理して初日に行かなくても」
「有力貴族が集まる日だ。顔を出しておいた方がいい。ほかに予定でも?」
じつのところリディアは、ゆうべの甲冑男をさがそうとしていたところだった。
リディアのことを姫君と言った。誰かと間違えていたとしか考えられない。なおさら、赤の他人に素肌《すはだ》に身につけるものを盗まれたなんて、ほうってはおけないことだ。
おまけにリボンを縫《ぬ》いつけたあれが、人目にさらされたら、と思うといても立ってもいられない。
それに、あの男が何者なのかも、フェアリードクターとしては気にかかる。
得体《えたい》の知れない甲冑を着た男は、ケルピーを見ても驚いたわけではなかった。ニコの言うように人かどうかわからない。
けれど、鉄でできた甲冑は本物のようだった。妖精が身につけるとは思えない。彼らは鉄が大嫌《だいきら》いだ。
ともかくあの出《い》で立《た》ちなら目立つはず。今はロンドンのあちこちを、ニコやケルピーが手分けしてさがしてくれている。
「……ううん、べつに予定はないけど……」
気になって、観劇どころではない。しかし、フランス風に飾ろうと試みたはしたないナイトウェアを盗まれたなんて、エドガーには言えない。
「なら出かける用意を。久しぶりの婚約者との外出だから、とびきりに着飾ってね」
微笑《ほほえ》みながら頬《ほお》に軽くキスをして、彼は部屋を出ていった。
しかたなくリディアは、ドレスを手に待ちかまえているメイド頭と目を合わせた。
着飾って、エドガーの腕に手を添えて、劇場の人混みへと入っていく。そろそろこういうことにも慣れなければいけないのに、まだまだリディアには緊張する場面だ。
それに今夜は、これまでになく人の視線を感じる。
久しぶりにエドガーが社交の場に現れたのだから無理もないのだろう。
リディアにはまだおぼえきれないくらいたくさんの紳士《しんし》淑女《しゅくじょ》と、彼があいさつを交わすたび、戸惑《とまど》いながらお辞儀《じぎ》をする。
ボックス席へ案内され、腰《こし》を落ち着けてさえ、数えきれない訪問を受ける。
「やあ、エドガー。フィアンセを守ったという名誉の負傷は癒えたのかい?」
かしこまった対面が続くかと思えば、砕けた口調《くちょう》でボックス席へやってきたのは、エドガーの友人だった。リディアも何度か会ったことがある人物だ。
「ああ、すっかり回復したよ。彼女が熱心に看病してくれたからね」
「この男をおとなしく治療に専念させるなんて、どんな魔法を使ったのかな? ミス・カールトン。僕も怪我をしたらあなたに看病をお願いしようか」
「えっ、魔法だなんて……」
「スティーブン、魔法なんて信じないといつも言っているじゃないか」
「それは本物を見たことがないからさ。魔法にしろ、きみの名前にある妖精国にしろ、本当に存在するなら見てみたいね。どうかな、ミス・カールトン」
「悪いけど、リディアの魔法は誰にも貸さないよ」
やれやれ、と彼は肩をすくめる。
「相変わらずの溺愛《できあい》ぶりだ。ミス・カールトン、僕が彼よりいい男だと思っても、口には出さないでくださいよ。殺されそうだ」
「あのね、スティーブン、リディアが明らかなお世辞《せじ》を言ったって、いちいち腹を立てたりしないよ」
たぶん軽い冗談《じょうだん》を口にしながら、どちらもからりと笑う。
「そういやエドガー、フォークナー卿《きょう》が重傷を負ったそうだ。奥方《おくがた》の部屋に忍《しの》び込んでハンカチを盗んだ男とやりあったってさ」
「ふうん、正式に?」
「当初はそのつもりだったようだよ。奥方の名誉を守るためなんだから、決闘《けっとう》しかない」
「決闘?」
リディアは思わず声をあげた。
「ハンカチくらいで殺し合いになるっていうの?」
「リディア、決闘は殺し合いじゃない。命がけの勝負だよ」
どう言おうと犯罪だ。
眉根《まゆね》を寄せるリディアをなだめるように、エドガーは彼女の手を引き寄せた。
「それにね、昔から貴婦人が自分のハンカチを与えるのは、その男に心を許したしるしなんだよ。つまりは奥方を奪おうとしたってことと同じ。許すわけにはいかないんだ」
「そうそう、お嬢《じょう》さん、正義のために命がけで戦うからこそ貴族なのですよ。不義は正さなければならない」
「じゃあ、負けたらどうなるんですか? 名誉を回復もできず、死ぬかもしれないんでしょう?」
リディアがムキになるのを楽しそうに眺《なが》めながら、エドガーが返事をする。
「奥方の名誉のために、命を懸《か》けたことは称賛に値《あたい》する。男として、貴族として立派《りっぱ》に戦ったということさ」
リディアにはさっぱりわからない。そんなことで戦う必要があるのだろうか。
「……それで、ハンカチを盗んだ人はどうなったんです?」
「それが、姿を消したとか。結局、決闘の方法でもめてケンカになって、正式な勝負は行われなかったようですよ」
「とすると、ただの乱闘《らんとう》で卿は怪我を負ったわけか」
「おまけに奇妙なことに、フォークナー夫人が言うには、男は人違いをしていたらしい。赤毛の女をさがしていたとか。そういえば、ミス・カールトン、あなたも赤毛だ」
今気づいたように彼は言った。
「エドガー、気をつけた方がいい」
「大丈夫、誰にも触れさせない」
ひとふさ首筋《くびすじ》に垂らしたリディアの髪に唇を寄せ、エドガーは誰に言い聞かせているのか曖昧《あいまい》にささやいた。
首筋に吐息《といき》を感じ、リディアは頬を染める。どうにか気持ちを落ち着けられたのは、じゃれつくエドガーよりも気がかりなことが頭に浮かんだからだ。
赤毛の、人違い?
まさか、ね……。
けれどもし、ゆうべの甲冑男が、リディアの赤毛を誰かと間違えたのだとしたら。
そういえば、ハンカチがどうとか言って、リネンのナイトウェアを持ち去った。
「あの、サー、その人の特徴とかわかります?」
「どうしたのリディア、気になるのかい?」
「え、いえ、……だってなんだか怖いもの……」
「だったら昼も夜もそばにいてあげるよ」
からかうように言うエドガーが握《にぎ》っている自分の手を、リディアは強引《ごういん》に膝《ひざ》に戻す。スティーブン卿は少し笑って、彼女の問いに答えてくれた。
「そこはよくわからない。夫人に非はなかったんだから、よけいな噂《うわさ》をされたくないのでしょうね。相手の名前も容貌《ようぼう》も関係者は口をつぐんでいるようですよ」
考えすぎならいいけれど。
「おい、リディア」
そのとき、カーテンの陰で声がした。
灰色のしっぽが招くようにゆれる。ニコだ。
甲冑男のことで何かわかったのだろうか。
「すみません、ちょっと失礼します」
急いで席を立ったリディアは、通路にいたニコをあわてて抱き上げる。二本足で立った猫と話しているところを人に見られるのはやっかいだと思ったのだ。
「何だよリディア、おろせよ」
猫|扱《あつか》いのきらいなニコが、両手足を突っ張る。
「ちょっとがまんして。人目が多いのよ。それより、何かあったの?」
「ああ、やつだよ。見つけたんだ」
「どこにいたの?」
「そこ」
ニコが指さしたのは、カーペットを敷きつめた大階段の下だった。
人であふれたこのオペラハウスの入り口近くに、甲冑が突っ立っている。飾り物ではないことは、首を動かしてあたりを見まわしているからわかる。
周囲の人混みは甲冑を気にした様子はない。歌劇団の役者にでも見えるのだろうか。
しかしリディアは、悲鳴《ひめい》をあげそうになるのをかろうじて飲み込んだ。男が腕に巻きつけている、リボンのついた白い布は、ゆうべ盗まれたリディアの……。
「わあっ、いきなり離すなよ!」
ニコを投げ出し、階段を駆《か》け下りたリディアは、甲冑に駆け寄った。
「おお、姫君、やはりこちらでしたか。今夜は立派な馬車がこの建物に集まってきているので、もしやと思い参りました」
「ちょっと、話があるの」
人目を気にしながら、リディアは男を片隅《かたすみ》のカーテンの陰へと連れていく。エドガーに見つかったらどうなることかわからない。
「結婚をやめる決意をされましたか?」
「まずはそれを返してくれない?」
リディアは男が腕に巻いているものに手をのばそうとしたが、彼はさっと後ずさった。
「お返しできません」
「それはハンカチじゃないのよ」
「見ればわかります」
そんなにじろじろ見られたのかと、むっとしながらもリディアは赤くなる。それでもさらに言い返そうとしたが、男がまた言った。
「何だろうと、姫君が身につけるものなら同じです。これはあなたの、私への信頼のあかし」
「信頼ですって? 勝手に盗んでいったんじゃない。それにあたしは姫君じゃありません。あなたは人違いをしてるのよ」
「いいえあなただ。私の姫君の生まれ変わり……」
「生まれ変わり?」
当然のことのように、甲冑《かっちゅう》は頷《うなず》いた。
「あなたは高貴な姫君でした。私はあなたに仕《つか》えた者。それでも私たちは惹《ひ》かれ合い、将来を約束しました」
物思う様子で、腕に巻いたリボンに触れる。
「なのにあのあくどい領主は、私の恋人を見初《みそ》め、むりやり花嫁《はなよめ》にしようと奪っていったのです」
リディアは首を傾《かし》げたくなる。
「ねえ、それっていつのこと?」
「私にとっては一年前のこと。しかしこの土地へ戻ってきてみれば、数百年も経《た》っていました」
「おいリディア、もしかしてそいつ、妖精界から帰ってきた人間じゃないか?」
ニコの言うことは的《まと》を射《い》ていた。
妖精界と人間界では時間の経過が違う。ひと月のつもりが何年も経っていたり、何十年も過ごしたはずが数日後に帰ってきたり、そういうことはよくあるのだ。
甲冑の男は、ケルピーを驚かなかったのと同様、猫が口をきいても得心《とくしん》したように頷いていた。
「妖精界……、そうなのでしょう。私を疎《うと》ましく思った領主は、魔女の力を借りました。魔女は美しい女に姿を変え、私を誘惑《ゆうわく》して森へ閉じこめたのです。魔女が死んで、どうにか外へ出たものの、人の世はすっかりかわってしまっていて……」
「だとしたらあなた、もう人の世では暮らせないわ」
長い間妖精界で過ごした人間は、たとえ帰ってこられたとしても、この世のものには触れられない。もしも触れれば、塵《ちり》と化してしまうだろう。
「今は、鹿《しか》の皮で作った魔法の防具を身につけています。そのうえ甲冑で全身を覆《おお》っているからには、この世のものに触れることはあり得ません」
「だけどさあ、いつまでもそのままの格好《かっこう》でいるつもりかよ」
ニコもいくらか同情的になった。
「希望はあります。姫君を見つけ、悪魔のような領主との勝負に勝てば、もういちど人としてやり直せると、魔女が書き残した魔法書にありました」
冑《かぶと》の奥から、強い視線がリディアをとらえている。瞳《ひとみ》は見えないけれど、リディアは青い色彩を感じる。
夢で見た情景がまぶたに浮かぶ。
姫君、と呼んだ青年の、青い瞳。
まさか、あれが前世《ぜんせ》のことだっていうの?
めまいがする。カーテンの向こうの、ホールのざわめきが別世界のように思える。
「ですから姫君、今度こそあなたを、悪徳領主の手から救い出します」
あたし、この人を知ってるの?
本当に結ばれるべき人は……。
「リディア、真っ青だぞ」
ニコの声が耳に届き、急に我《われ》に返る。
生まれ変わりなんて、あれはただの夢よ。そう思い直し、リディアは呼吸を落ち着ける。
事態はますます複雑だ。こんなことがエドガーの耳に入ったりしたら……。
「リディア、もうすぐ幕が開くよ」
びくりと肩をふるわせたリディアは、あわてて振り返った。
夢だの前世だのは一瞬で頭から吹き飛んだが、ますます彼女は青くなった。
「エ、エドガー」
カーテンをよけて、エドガーが近づいてくる。
「こんなところでニコと内緒《ないしょ》話?」
ニコとリディアを交互に見る彼は、甲冑のことは飾り物だと思っているのかもしれない。
行こう、とリディアの腰に手を回す。
と、甲冑が声を発した。
「貴様が悪徳領主だな? 私の姫君に手を出すな!」
ようやくエドガーが甲冑を見た。
「エドガー、行きましょ」
まずい、とリディアは彼の腕を引くが、男の方に体を向けたエドガーは、怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》をひそめた。
「リディア、僕を驚かすいたずらでも考えてた?」
「えっ、そ、そういうわけじゃ……」
「いたずらなどではない。私は貴様を倒すために戻ってきたのだ」
「倒す? 僕を?」
「彼女は私の恋人だ」
そのひとことで、エドガーは静かに、しかしあきらかに憤《いきどお》った。含みのある笑みを浮かべる。
「言葉に気をつけた方がいい。その甲冑がきみを守ってくれる保証はない」
「違うのエドガー、この人は妖精界にとらわれてて……」
しかし甲冑男の方も、憎《にく》き領主だと信じ込んだ相手しか目に入らなくなっている。
「仮にも貴族なら、一騎打《いっきう》ちから逃げ出すような臆病者《おくびょうもの》ではなかろうな」
「僕の婚約者だと知っていて、勝負を挑《いど》んでいるわけ?」
「しーらないっと」
ニコはそう言って、さっと姿を消してしまう。
「ちょっとニコ、ああもう、エドガー、話を聞いてってば」
「私は、サー・ウィリアムだ。貴様に決闘を申し込む」
ふん、とエドガーは鼻で笑った。
「リディアは僕だけを想《おも》っている貞淑《ていしゅく》な女性だ。言いがかりで決闘を持ち出すきみを相手にするほどひまじゃない」
いくらかほっとしたのもつかの間《ま》、甲冑男は腕の白い布をほどいた。
「言いがかりではないぞ。姫君は私との約束のしるしとして身につけるものをくれた」
リディアは青くなりながら、悲鳴をあげる。
「きゃあっ、やめて、返してよ! 約束じゃないわ、勝手に奪《うば》っていったくせに!」
破れたそでだけとはいえ、ひらひらと振れば、きっとエドガーにもそれが何かわかったはずだ。彼の表情が険《けわ》しくなる。
「なるほど、それは引き下がるわけにはいかないな」
「では決闘に応じるな?」
「だめ、決闘なんてだめよ!」
リディアはまた声をあげるが、カーテンの向こうに人が集まりつつある気配《けはい》がした。
大勢の人に、ナイトウェアの切れ端《はし》もリボンの飾りも見られたくない。
あせったリディアは甲冑男を奥の通路へと押し込もうとした。
「早く、行って! それを人に見せたら、あなたのこと恨《うら》むから!」
「姫……」
「言うとおりにして!」
リディアの気迫《きはく》に動じたのか、甲冑男は迷いながらも後ずさる。
「話は後日にしよう。いつでも来るがいい。僕はロード・アシェンバートだ」
リディアの肩を抱いて、さりげなくその場を離れたエドガーは、さっきの場所へ人々が集まっていくのを横目に、すみやかにボックス席へと彼女を連れ戻った。
しかしもちろん、リディアにとってはもう観劇どころではなかった。
あらためて、甲冑男の言ったことを考えている。
昨日の夢を思い出すと、なんだか胸が苦しくなる。暗示にでもかかったように、望まぬ結婚を強いられた姫君の気持ちになる。そうして、助けが来るのを待っている。窓の下に現れた青年の顔を思い出せば、まるで恋をしているみたいにドキドキしている。
[#挿絵(img/nightwear_187.jpg)入る]
恋? そんなはずないわ。
好きな人はここにいる。
リディアは、隣《となり》に座るエドガーの様子をちらりと見た。
彼はさっきから、歌が始まっても、有名な歌手が登場しても、拍手《はくしゅ》もせずに黙《だま》り込んでいた。
怒っているのだろうか。
前世の恋、だなんてバカげたことを考えただけでも、リディアは後ろめたい気持ちになりながらうつむいた。
「あれはさ、リディアがいつも着てるやつ?」
唐突《とうとつ》にエドガーが言った。
はっと顔をあげると、彼は意味深《いみしん》な顔つきでこちらを見ていた。
何のことかしばし考え、気づいてリディアは赤くなる。
「ま、まだいちども着てないわよ」
はげしく否定するが、エドガーは微笑《ほほえ》みをそのまま凍《こお》り付かせた。
「きみのものに間違いないんだね」
「い、いえ、どうかしら。あんな切れ端《はし》だもの、もしかしたら違うのかも……」
こんなことでエドガーをごまかせるはずもなかった。リボンが不器用に縫《ぬ》いつけられていたのだ。薄《うす》いリネンの、明らかに肌着に近いものを飾る女性はめったにいないとなれば、彼はリディアが忘れていったフランスの雑誌を思い出しただろう。
「とにかく、決闘《けっとう》なんてするようなことじゃないわ。……ハンカチじゃないし」
「ハンカチに深い意味があるのは、素肌《すはだ》に触れるものだからだよ」
そうなの?
だったらこの場合、もっと深刻な事態なのだろうか。
リディアには、貴族が考える名誉の問題はよくわからないけれど、さっきスティーブン卿《きょう》が話していたことを思い出せば怖くなった。
フォークナー卿の相手があの甲冑男かどうかはわからないが、決闘になれば誰かが怪我《けが》をする。命を落とす危険だってあるのだ。
震《ふる》えながら、ひざの上に置いた手をきつく握《にぎ》りしめる。
「お願い、決闘なんてやめて」
「なら僕にもくれる?」
「え?」
「いつも着てるのがいい」
「はあ? へ、変なこと言わないで!」
くす、と笑う彼は、いつもの悪ふざけで深刻な空気をやわらげようとしているのだろうか。けれど、リディアの不安は少しもやわらがない。
本当に前世なんてものがあって、そのときの恋人があの人だったらどうしよう。
エドガーが危険な目にあうなんていや。けれどもし、あの人がエドガーの手にかかったら、そのとき前世の姫君は、リディアの心のどこかで、エドガーを憎《にく》んだりするのだろうか。
エドガーを好きな気持ちより強く、前世の恋人を好きになってしまったら?
混乱しながら、リディアは震える手を握りしめた。
「あなたには何の落ち度もないのに、どうして命を懸《か》けなきゃいけないの? 悪いのはあたしよ。婚約者がいるのに、不注意であんな……もの、盗まれちゃって。あたしが、あなたにとって不名誉な婚約者なら……」
「リディア、解消とか言い出したら、僕は場所もわきまえずにキレるよ」
エドガーが、どれほど自分を望んでくれているかは理解したつもりだ。そうして、何をしでかすかわからない人だということも知っているから、リディアはあわてて口をつぐんだ。
大丈夫、とリディアは自分に言い聞かせる。
好きな人はひとりだけ。
気がついたら、確かめるように手をのばしていた。エドガーの手に触れようとし、急に恥《は》ずかしくなってためらう。
と、その手を握られる。
ひざの上に引き寄せた手を、彼は強く握りしめ、手のひらを重ねて指をからませた。
それだけで、夢の中の人を意識した淡《あわ》い感情は薄れていた。
エドガーのことで胸がいっぱいになる。
安心して、いつになくリディアは、彼の手を握り返している。
それを不思議に思ったのか、こちらを覗《のぞ》き込んだエドガーは、もう一方の手でリディアの耳元に触れた。
「何も心配しなくていい」
ふんわりと結《ゆ》った髪の毛に、かすかなキスをする。ゆるく結んであったオリーブグリーンのリボンを、そのままくわえてほどく。
そうして、まるで戦利品のように、それをイブニングコートの内ポケットにしまってしまう。
「……エドガー……」
「あの男が盗んだリボンとは違う、きみが身につけていたものだから、約束のしるしに、僕にくれるよね」
唇《くちびる》を寄せてささやく。
「約束……」
「きみは僕のものだっていう、しるし。この髪も、神秘的な瞳《ひとみ》も、かわいらしい唇も」
口づけされそうになり、リディアは体を引く。けれど思うほど力は入っていなかった。
「人前よ」
オペラハウスは社交の場。客席はお互いが見えるようになっているのだ。
それでもかまわず彼は、唇が触れ合いそうな距離でリディアを見つめた。
大胆《だいたん》に肌を出した貴婦人たちとくらべれば、色気も何もないけれど、少女らしくひかえめに開いた襟《えり》ぐりを、指の背で撫《な》でていく。そんなふうにされると、いつもの自分じゃなくなる気がする。
「この白い肌も、触れていいのは僕だけだ。そうだろう?」
硬直《こうちょく》して動けなくなる一方で、艶《つや》っぽい声に胸の奥がざわつく。
彼だけは、何をしてもリディアに嫌悪感《けんおかん》をいだかせない。いつも、恥ずかしくて拒絶《きょぜつ》してしまうけれど、いやだと感じたことはない。
大丈夫、こんなふうに思えるのはエドガーだけ。
「何もかも、僕のものなんだから、きみの名誉だって僕が守る。いいね」
離れればまた、あの夢がもたらした違和感《いわかん》にさいなまれそうで、リディアはずっと彼の手を握りしめていた。
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「おい、リディア、起きろよ。もう朝だぞ」
ニコのしっぽにくすぐられ、はっとリディアは目を開けた。
夢か、と安堵《あんど》する。それでも額《ひたい》に汗がにじんでいる。まだ動悸《どうき》がする。
「悪い夢でも見たのか? 苦しそうな顔してたぞ」
「ええ……、ちょっと」
「先に朝食食べるからな。先生も出かけた。下へ行くならちゃんと着替えてからにしろよ。レイヴンがいる」
レイヴン?
そういえばそうだった。あの甲冑《かっちゅう》男《おとこ》がまた現れるといけないから。そう言ってエドガーが、ゆうべの帰り際《ぎわ》にレイヴンを置いていったのだった。
レイヴンは、父と家政婦に困惑《こんわく》されながらも、一晩中リディアの部屋につながる階段の下に陣取《じんど》っていたはずだ。応接間で休んでもいいと言っておいたけれど、エドガーに命じられた彼が一睡《いっすい》もするはずはなかった。
ニコが出ていくのを見送って、リディアはベッドから出る。
クローゼットを開け、ため息をつく。
また、とらわれの姫君を夢に見た。
今度は、あの若者と城から逃げ出そうとしていたところだった。
逃げても逃げても、せまる追っ手を振りきれない。つかまって、引き離される。
リディアは、それとも姫君は、目の前で若者が剣に倒れるのを眺《なが》めていた。
愛《いと》しい人を足蹴《あしげ》にして、こちらへ近づいてくるのはあの、憎《にく》い領主だろうか。
リディアは無我夢中《むがむちゅう》で、ドレスに忍《しの》ばせていた短剣を領主に向けた。
抱きつこうとするように、その胸に飛び込んでいく。警戒《けいかい》もせず腕を広げ、彼女を抱きとめた男は、侵入者《しんにゅうしゃ》から彼女を助けたつもりだったのだろうか。
そのとき、月明かりに照らされて、領主の顔がちらりと見えた。
リディアは愕然《がくぜん》としていた。
エドガー、そうつぶやきかけ、そして目がさめた。
リディアはぞくりとし、震《ふる》える肩を両腕で抱く。
あんな夢を見たのは、甲冑の男がエドガーを領主|扱《あつか》いしたからだ。暗示にかかったように、エドガーを領主と重ねてしまっただけ。
けれどなんだか気分が悪い。間違った結婚をしようとしているかのような焦燥感《しょうそうかん》と、こんなことに惑《まど》わされている罪悪感《ざいあくかん》にさいなまれる。
いったい、どうしてしまったのかしら。
夢の残像を追い払うように頭を振る。急いで普段着に着替えるが、落ち着くまでダイニングルームへは行けそうになく、ドレッサーの椅子《いす》に座り込む。
本当に決闘《けっとう》になるのかしら。
リディアが思い浮かべようとすれば、あの甲冑の男は、夢の中の若者の姿になる。やさしげで正直そうな、好ましい印象しかない。
その人が、エドガーに殺されるかもしれない。
夢の中で見たように。
ううん、それよりもエドガーが……。
あたしが心配なのは、誰よりもエドガーのはずなのに。
またくらりとめまいを感じた。
「リディアさん、大丈夫ですか?」
はっと顔をあげると、レイヴンがドアのそばに立っていた。
「すみません。ノックをしても返事がなかったもので」
「……いいのよ、考え事をしてただけなの」
そう言いながらリディアは、レイヴンから目をそらしていた。
エドガーと婚約しているのに、別の人のことを考えてしまう。わけがわからず気持ちがゆらいだことを、見抜かれそうで怖かったのだ。
甲冑男に平穏《へいおん》な日常をかき乱され、憤《いきどお》りを感じるべきだと思うのに、そうしていいのかわからなくなっている。リディアはますます動揺《どうよう》している。
「下へ行きましょう」
どうにかそう言って、部屋を出た。
ダイニングルームに降りていくと、パンケーキを頬張《ほおば》っているニコがこちらを見た。
「顔色悪いぞ、食欲ないのか?」
「ええ、ちょっと」
「じゃ、そのパンケーキくれよ」
心配するでもなく、もぐもぐと口を動かしながらニコは、リディアのパンケーキにねらいを定めている。
黙《だま》ってリディアは、テーブルの上のプレートをニコの方に押し出す。
「お、サンキュ」
椅子に腰《こし》をおろし、レイヴンの方を見る。ダイニングルームの戸口に立った彼は、リディアの護衛《ごえい》という仕事に気を抜く様子はなさそうだ。
「レイヴン、あなたも座ったら?」
いちおう声をかけてみるが。
「いえ、リディアさんの下着を盗んだ不届き者が、いつ現れるかわかりませんから」
まじめな顔で、きっぱりと彼は言う。
……下着じゃないのよ。
訂正したかったが、そんな言葉を男性の前で口にするのもはしたないから、赤くなりながら口をつぐむしかなかった。
「まったくどうかしてるぜ。あんな布っきれのために、本当に殺し合いする気かよ」
ニコはナプキンで口元をぬぐう。
「リディアがリボンだの刺繍《ししゅう》だの縫《ぬ》いつけるから、ハンカチに間違えられたんだろ。でなきゃケルピーに追い立てられて、やつは何も取らずに逃げたはずだぞ」
「そ、それは、もう言わないでってば……」
落ち込みながら、家政婦が淹《い》れたミルクティーに口をつける。
「とにかく決闘だなんておかしいわ。ねえレイヴン、あなただって、そんなことにこだわるなんてバカげてると思うでしょう?」
少し考え込んだ彼は、やがて同意するように頷《うなず》いた。
「はい。リボンがついていてもいなくても、脱いでしまえば同じだと思うのです」
「は……、何の話……」
え? 脱ぐ……?
思いがけないレイヴンの返事に、リディアは言葉もなかばに硬直《こうちょく》した。
そんなこと聞いてないわ。
「あのな、レイヴン、リボンのことじゃなくて」
助けるようにニコが口をはさむが。
「では刺繍ですか?」
「あーあ、リディアが動揺してるじゃないか」
ティーカップを持ったまま動かなくなったリディアを見て、レイヴンは気を遣《つか》わねばならないと気づいたらしかった。
無表情ながら、いくらかあせった口調《くちょう》になる。
「いえあの、リディアさん、ご心配は無用かと思います。エドガーさまはリボンも刺繍もお好きです」
「もう黙《だま》ってていいよ」
冷たくつぶやくニコに、レイヴンはうなだれた。
リボンも刺繍も、そしてあの甲冑男のことも、リディアが世間知らずで子供っぽいから面倒な事態になったのだ。
もうすぐ結婚するというのに、こんなことでいいはずがない。
しっかりしなきゃ。
リディアが選んだのはエドガーだ。自分が心変わりするなんて考えられないし、あの姫君は自分ではない。
言い聞かせながら深呼吸《しんこきゅう》して、どうにか気持ちを落ち着かせる。今は、ナイトウェアのことに気を取られている場合ではなかった。
「レイヴン、あの、気にしなくていいのよ。それより……、エドガーはまだお屋敷にいるかしら」
とにかく、決闘をやめさせなければならない。
そうして、自分がわからなくなりそうな、こんな気分もどうにかしたい。
エドガーのそばにいれば、夢のことなんて忘れてしまうはず。
彼に会わなきゃ。
リディアはいても立ってもいられないほどにそう思った。
アシェンバート伯爵邸《はくしゃくてい》へ到着し、玄関ホールへ入っていったときだった。リディアはちょうど、大階段を駆《か》け下りてくる女性とすれ違った。
その若い女性は泣いているようにも見えたが、うつむいたまま駆け出していく。あとを追うように小間使いも急いで出ていくのを眺《なが》めたリディアは、自分の間《ま》の悪さを呪《のろ》いながら、ますます動揺せずにはいられなかった。
ただでさえ気持ちが乱れているのに、どうしてこういうことになるのだろう。
婚約してから、ときどきこんな場面には遭遇《そうぐう》していた。エドガーが婚約したことにショックを受け、彼を問いつめたり泣き出したりする女性は少なくないらしい。
けれど、婚約を発表した直後はともかく、このごろは落ち着いてきていたはずだったのに。
「いらっしゃいませ、リディアさん」
執事《しつじ》のトムキンスが、微妙《びみょう》な笑顔でリディアを迎えた。
「どうか気になさらないでください。今のご令嬢《れいじょう》は長期のご旅行から帰られたばかりで、旦那《だんな》さまの婚約をついさっき知ったようです」
知って、駆けつけてくるのだから、ひそかにあこがれていた少女というかわいいものではないのだろう。
リディアはため息をついた。
このごろ少しだけ、エドガーの前で恋人らしく振る舞えるようになった。会いたいという気持ちのままに訪ねてこられるくらい、そんなふうにしても歓迎される立場なのだと自覚できるようになったのだ。
けれど、こういうことがあると、リディアはつい萎縮《いしゅく》してしまう。エドガーの隣《となり》で胸を張る自信がしぼむ。
「旦那さまは書斎《しょさい》です。レイヴン、ご案内して」
リディアといっしょに屋敷へ戻ってきたレイヴンは、トムキンスの言葉に頷くが、リディアはとっさに首を横に振っていた。
「いえ、あたし、ちょっと仕事部屋に用が……」
「その前に、話をしよう。リディア」
階段の上から、エドガーが現れた。
「今の女性は、とくに親しくしてたわけじゃないんだ。まあそう、社交辞令の範囲でパーティヘエスコートしたことがあっただけ」
リディアを書斎の椅子に座らせ、自分は立ったまま、弁解がましく彼は説明した。
「でも、泣いてるみたいだったわ」
「僕の婚約が本当かどうか確かめたかったそうだよ。ちょっと驚いていたけど、傷つけるようなことをしたおぼえはないよ」
「あなたはそうでも、いちいち期待するような口説《くど》き文句を言ったに違いないわ。だからきっと、ショックだったのよ」
「向こうが期待したかどうかは知らないけど、きみを裏切ってもいないし、腹を立てられるようなことは何もないんだ」
「どうかしら。あんなふうに、あなたの前で泣きそうになった女の子はほかにも見たわ。みんながみんな、勝手に想《おも》いを寄せてたっていうつもり?」
そんなはずがないことくらい、いくらリディアが世間知らずでもわかる。
「そりゃあね、昔はいいかげんな恋も……したことがないとは言わないよ。だけど、きみとこうして将来を約束する前の、終わったことでも許せない?」
エドガーはそう言うけれど、相手の女性にとって終わったことでないならどうなのだろう。
今でも彼をひそかに思っている人はいるかもしれない。そういう人と再会したとき、エドガーはかつての気持ちを思い出したりはしないのだろうか。
リディアには経験がないからわからない。
だから、夢の中の姫君を思い浮かべてしまう。
今でも姫君を思い続けている人がいる。彼女は、それをどう感じているのだろう。
とっくに終わった過去のこと?
違うような気がする。かつての気持ちを思いだして、彼のもとへ行きたがっているように思える。
なんて想像をあわててうち消す。
こんなふうに前世《ぜんせ》の恋を想像するだけでさえ、リディアはエドガーに対し罪悪感をおぼえ、もうしわけない気持ちになる。
なのに、彼はそうではないのだ。
そう思うと悲しくなった。
「じゃ、あなたはどうなの?」
うつむきながら、リディアはつぶやいていた。
「あたしがもし、昔の恋人と再会しても、過去のことなら気にしないのね」
エドガーはわずかな間、怪訝《けげん》そうに眉《まゆ》をひそめたが、すぐに断言した。
「きみの恋人は僕だけだ。これまでも、これからもね」
たしかに、リディアに好意を寄せてくれたのはエドガーがはじめてだ。けれど、自信満々にそう言われるとむかつく。
まるでもてない女の子みたいではないか。その通りだけど……。
「そ、そんなことあなたにわからないでしょ。出会う前のことなんて」
突っ立ったまま彼は、あごに手を当てて考え込んだ。と、急に険《けわ》しい表情になって、威圧《いあつ》するようにリディアの目の前に立つ。
「きみの心を手に入れた男が、いたっていうのか? どんな男? いつどこで知り合った?」
過去の、終わった恋に嫉妬《しっと》するなと言いながら、自分は問いつめようとするってどうなの。
「リディア、僕たちは結婚するんだ。隠《かく》し事はなしにしないか」
あなたの方が隠し事だらけじゃないの。
けれど、膝《ひざ》を折った彼に手を握られ、いつになく自信なさげに覗《のぞ》き込まれれば、リディアは意地になるのもばかばかしくなってくる。
「もう、そんな人いるわけないでしょ。だから、ハンカチ……と間違って盗まれただけなのに、決闘《けっとう》だなんて騒《さわ》ぐのはやめてほしいの」
はっとしたように手を離した彼は、見事に話を結びつけた。
「まさか、あの男がそうなのか? きみをあきらめきれずに現れた?」
「えっ、ち、違うわ! あの人は妖精にとらわれてて、人間界へ戻ってきたら何百年も経《た》ってたから、このままじゃこの世のものに触れたとたん塵《ちり》になってしまうの。昔の、恋人を奪《うば》った仇《かたき》に勝てば、ふつうの人間に戻れると信じてるだけで……」
「昔の仇? 何百年も前に死んでるってことだろ?」
「そうよ。でも彼は、生まれ変わりがいるっていうの。……あたしが、前世の恋人だったって、勝手に決めつけて」
「なんだって? 前世の恋人? そんなこと言われてその気になってるのか?」
苛立《いらだ》ったように声をあげる。
「なってないわ。わからなくて……ちょっと混乱しただけで」
だからエドガーに会いたくて、どうしようもなかった。そばにいれば戸惑《とまど》うことなんてなくなるはずだった。
なのに彼は、リディアの態度に腹を立てている。
こんな言い争いはしたくないのに。
「それで、きみとあの男を引き裂《さ》いたのが前世の僕?」
「ちが……」
「本当にそうだったら? あの男の勝利を願うのか」
「あたしは、決闘なんてやめてって言ってるの」
急にリディアの腕を引く。立ちあがるしかなかった彼女を、そのまま腕に抱きとめる。
「エドガー……」
「やめない。むこうはもう、場所と日時を指定してきた」
そんな。
「きみにとって真の恋人はどちらなのか、運命が選ぶだろう。決闘はね、神が結果を定める、正しい裁判だと昔から信じられてきたんだ」
リディアはエドガーを選んだはずだ。ほかの誰に決めてもらう必要があるだろう。
そう思っているのに、言葉にできない。
夢の中の姫君が、エドガーに、いや、領主に向けたナイフが、自分の手の中にあるのではないかと怖くなって身動きができない。
手が震《ふる》えて、彼の背に手を回すこともできなかったから、エドガーはリディアに受け入れられていないと感じたのかもしれなかった。
そっと腕をほどいて彼女を離す。
「過去のことって僕が断言するのは、再会しても気持ちが動くことはないと知っているからだ。だけどきみは、会えば心を惹《ひ》かれるのか……。それが見覚えもない前世の恋人でも」
唇《くちびる》を動かそうとしても、声にならないリディアに、彼は苦しげなため息をついた。
「あの男が勝って、塵にならずに暮らせるようになるのがきみの望み? だったら、あいつのもとへ行けばいい。きみをよろこばせることができるなら、命くらい安いものだ」
震えながら立ちつくすリディアを残し、エドガーは部屋から出ていった。
「エドガーさま、リディアさんが帰られるようですが」
書斎へやってきたレイヴンは、肘掛《ひじか》け椅子《いす》の上でふてくされているエドガーには近づかず、ドア際《ぎわ》から声をかけた。
「レイヴン、困ったことになった」
エドガーのつぶやきに、従者《じゅうしゃ》は無表情のままわずかに首を傾《かし》げた。
「大きなうそをついてしまった。いや、たしかにリディアをよろこぼせるためなら何でもすると思ってるよ。だけど、ほかの男に彼女をわたせるわけがないじゃないか」
たとえリディアが望んだって、いや、彼女にとってエドガー自身よりも惹かれる男がいるというならなおさら、そいつを地獄《じごく》へ送ってやるとしか考えられない。
「なのに、あいつのもとへ行けばいいなんて言ってしまった」
握《にぎ》ったこぶしに力が入る。
「本当に行ってしまったらどうしよう」
ちょっと弱気になってみるが、レイヴンは同情してくれなかった。
「それは……、どうにもできませんが」
「冗談《じょうだん》じゃない。何が何でも行かせるものか!……かといって、彼女が同情を感じている男を目の前で痛めつけたりしたら、僕の印象も悪くなりそうだ」
同情、それだけならいいけれど。
やけに熱心に、決闘をやめさせようとする。
そう思うエドガーは、たかが決闘で自分が死ぬかもしれないなどとはほとんど頭にない。だからリディアが、相手の男を心配しているように感じてしまう。
そもそもリディアは、そんなに簡単に男に恋心をいだいたりしない。エドガーだって振り向かせるのにずいぶん骨を折った。
なのに会ったばかりの、しかも甲冑《かっちゅう》で顔もわからない男に好意を向けるなんてことがあり得るのか。
おかしい。そう思うけれど、リディアのことがすべてわかるわけではない。
生まれ変わりだの運命の恋だのという状況に、酔《よ》っているだけだろうか。
「エドガーさま、リディアさんの機嫌《きげん》を損《そこ》ねても、決闘をするのですか?」
レイヴンは、めったなことで動揺《どうよう》しないが、リディアの機嫌を損ねることは恐《おそ》れている。おそらく彼にとっては、女性の機嫌を修復することは、ひとりで数十人をぶちのめすより難しいと思えるからだろう。
「そうしないと、ますます問題だね。妖精界から来たらしいし、生まれ変わりだとかリディアを口説いているし、もとの人間に戻れるかどうかが決闘にかかっているなら、ただのリボン泥棒《どろぼう》じゃない。どうやらずっと深刻な状況だ」
「甲冑を着ています。ピストルは役に立ちません」
頷《うなず》きながら、エドガーは考え込んだ。
最近の決闘は、ピストルを使うことが多いけれど、おそらくあの男は見たこともない武器を使う気にはならないだろう。
それに、リディアが言うように妖精界から戻ってきた男なら、甲冑を脱ぐことも承知《しょうち》しないだろう。
決闘は、双方が合意する方法で行われる。どんな武器を使い、どんなふうに条件を対等にするかが問題だが、エドガーにしてみれば、あんな防具はかえって動きのじゃまになるだけだ。
かといって、何もなければ不利になる。
勝てる方法は?
「暗殺しますか?」
レイヴンなら、甲冑の隙間《すきま》から頸動脈《けいどうみゃく》を切るくらい可能かもしれないが、選択肢《せんたくし》として完璧《かんぺき》ではない。エドガーはそう思う。
ただあの男を消したとしても、リディアに言い寄っていたことが悪い噂《うわさ》として残っては困る。それだけでなく、エドガーか手を下したと知ったリディアが、ますますあの男に同情するのも好ましくない。
だからこそエドガーは、決闘という公正な勝負が最善の方法だと思う。違法でも、騎士道精神に則《のっと》った一対一の勝負だ。リディアの名誉《めいよ》は保たれるし、彼女だって納得《なっとく》するしかないだろう。
「レイヴン、リディアの名誉にかけて戦うのに、卑怯《ひきょう》なことはできない。正々堂々と行われるからこそ、貴族が誇《ほこ》る伝統なんだ」
言いながらもエドガーは、名誉のために死ぬのはバカだと思っている。貴族としての美学はもちろん理解しているけれど、生きるためになりふり構わず戦わねばならなかった経験は、彼をただの貴族ではないものにした。
卑怯なことを厭《いと》う気持ちは、本当のところエドガーにはない。問題は、卑怯だという印象を周囲に与えないこと、それだけだ。
「ああ、やめてではなく、勝ってと言ってほしかったな」
そうだったなら、何をしてもリディアは許してくれると思えたのに。
考えながら、エドガーは立ちあがった。
「今朝《けさ》さっそく、あのウィリアム卿《きょう》とやらから手紙が来てね。早急に立会人《たちあいにん》を決めなきゃならないから、トムキンスを呼んできてくれ」
レイヴンは神妙《しんみょう》に頷く。
「もうしばらく、私がリディアさんの護衛《ごえい》につきますか?」
少し考え、エドガーは首を横に振った。
「今日はもういいよ。リディアがいやがるだろうから」
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エドガーにきらわれてしまったかもしれない。
そう思うとつらくて、リディアはドレッサーの前で唇《くちびる》を噛《か》んだ。
涙をこらえながら、気をそらそうとして髪を硫《と》かす。けれど手を動かしながら、どうしても考えてしまう。
エドガーが怒るのも当然だった。婚約しているのに、ほかの男の人に恋人だと言われてその気になりかけているなんて、彼にとっては許せない裏切りだ。
ううん、心変わりなんてしていない。好きなのはエドガーだけ。
ただ、混乱しているだけなのだ。
けれどうまく伝えられなくて、エドガーを傷つけてしまったかのようにリディアは感じている。
甲冑《かっちゅう》男《おとこ》のところへ行けばいいなんて、これまでの彼なら言わなかった。ちゃんとリディアを引きとめてくれた。
でも、自分の心が定まらないのに、彼にだけ手を離さないでほしいと求めるのは身勝手だった。
決闘《けっとう》を止めることもできずに、どうすればいいのだろう。
大丈夫よ。もうすぐ、あのかたがわたしを救い出してくださるわ
突然そんな声が聞こえて、はっとしたリディアは、髪を硫かす手を止めた。
ドレッサーの鏡に、自分が映っている。その鏡から聞こえたような、自分の心の中に浮かんだような、奇妙《きみょう》な感覚だったが、夢で見た姫君の言葉だと直感していた。
あの若者を待っている、彼女の言葉だ。
おかしい。あたし、どうかしてしまったの?
リディアはブラシを置いて、胸に手を当てる。
「エドガー」
つぶやいてみる。ほんの少し、落ち着くような気がするけれど、すぐにわからなくなる。
彼だけを想《おも》っているのかどうか、自信が持てなくなる。
泣きそうな顔をした、自分が鏡に映っている。と思うとまた、姫君の言葉を感じた。
あの男にとっては、結婚相手なんて誰でもいいのです。自分に逆《さか》らおうとする乙女《おとめ》を、むりやり言いなりにしたいだけ
あせって、リディアは手のひらで鏡をたたいた。
「それはエドガーじゃないわ。彼はそんな人じゃないの! あたしを守ろうとして……」
そう、もともとは決闘をするほどのことじゃなかった。ナイトウェアのことだけなら、エドガーをなだめられたかもしれない。
けれど、あの甲冑男がリディアを昔の恋人だと言い張るなら、エドガーが引き下がれないのは当然だった。
エドガーは、リディアを愛していると言ってはばからない。口先だけではない、とこのごろリディアも実感している。
彼は伯爵家《はくしゃくけ》をリディアの家に、居場所《いばしょ》にするためにぬかりなく振る舞っている。
そんなとき婚約者に昔の恋人が現れたとなれば、たとえいいかげんな噂《うわさ》でも、もともと身分の低いリディアには中傷《ちゅうしょう》の種になりうるから、決闘という形できちんと否定しなければならないと考えている……。
そこまで考えたリディアは、今ごろになって気づいていた。
貴族に嫁《とつ》ぐと決めたのだから、決闘をやめさせるのではなく、勝ってほしいと言うべきだった。
婚約者として彼の身を案じ、和解の方法をさぐるのは、そのあとのことだった。
けれどそんな冷静さも、姫君の夢や声がかき乱す。
あの領主さえいなければ……
「やめてよ、決闘が避《さ》けられないのはあなたのせいよ!」
(決闘ですと? 青騎士伯爵がですかな?)
そのとき、リディアの足元で声がした。
今度は空耳めいたものではない。しわがれた高い声だ。
と思うと、床の節穴《ふしあな》から三角|帽子《ぼうし》の小さな妖精がはい出す。
(ほほう、我《われ》らが青騎士伯爵に決闘を挑《いど》むとは、命知らずがいたものですな)
床の上に立つと、もじゃもじゃヒゲをゆさぶりながら、彼は胸を張った。
アシェンバート家の先祖とゆかりのある、鉱山妖精《コブラナイ》だ。彼もリディアの周囲にしばしば現れる、顔なじみの妖精だった。
ほっとリディアは息をつく。
一人きりだとどうにかなってしまいそうだったから、話し相手が現れたのはありがたかった。
「コブラナイ、昔の青騎士伯爵が決闘をしたときのこと、知ってるの?」
(先祖に聞いております。伯爵は負け知らずだったとか。槍《やり》の一撃で相手を落馬させるくらい朝飯前で)
「槍? 決闘って槍を使うの?」
(もちろんです。馬上から槍で打ち合うのです。正面から挑んで、ひるまないだけの度胸《どきょう》がなければ勝てませんな)
本で読んだことがあるけれど、それではまるきり中世の馬上《ばじょう》試合だ。
疑問に思わないでもなかったが、大した知識もないリディアは、地下の鉱山で暮らしてきたせいか中世で認識が止まっているコブラナイの言うことを信じ込んだ。
そもそも貴族というのは、中世から連綿《れんめん》と続く家柄《いえがら》と制度を引きずっている。いまだに名誉のための決闘が黙認《もくにん》されているくらいだから、正式な勝負なら昔ながらのやり方をするとしてもあり得ない話ではない、と思う。
しかし、だとしたらあの甲冑男は現役で馬上試合を実践《じっせん》していた世代だ。この十九世紀の貴族が、たとえ馬や武器の扱《あつか》いに慣れていると自負していても、彼らほど日常的に訓練しているはずもない。
「じゃあ、エドガーには不利だわ……」
あんな男、殺されて当然です
まただ。リディアは眉《まゆ》をひそめる。
「どうした、リディア。腹でも痛いのか?」
また別の声がした。せまい窓から、窮屈《きゅうくつ》そうに体を曲げてケルピーが部屋へ入ってきたところだった。
「あー、ったく、ひどい目にあったぜ」
「ケルピー、どうしたの? 何かあったの?」
「それがだな、あの甲冑のやつを見つけたんだよ。野原の真ん中に寝そべってやがったから、襲《おそ》いかかって噛《か》みついてやろうとしたんだ。そしたら固いのなんのって」
「当たり前でしょ、鉄の鎧《よろい》を着てるのよ」
いくらケルピーでも歯が立つわけがない。
しかし、そうじゃないと言いたげにリディアを見おろして、ケルピーは腰に手を当てた。
コブラナイはケルピーを避けて、さっとベッドの下にもぐり込んでいる。
「あのな、俺だって鉄が固いことくらい知ってる。飛びかかったら、うまいぐあいに手甲《てっこう》がはずれたんだ。今だ、って手首に噛みついたら、古びた手袋が俺さまの牙《きば》を跳《は》ね返しやがった」
「手袋が?」
「あいつ、えらく頑丈《がんじょう》な革を着てるぞ。強い魔力で手足を覆《おお》ってるようなもんだ」
そういえば、鹿《しか》の皮でつくった魔法の服を着ているとか言っていたのではなかったか。
考えてみれば、甲冑だけで数百年の年月の影響は遮《さえぎ》れない。鎧は手のひらまで覆っていないし、地面に触れる足の裏もそうだ。ふつうの革靴では、風化《ふうか》の力に耐えきれないだろう。
「彼は、人間よね。そんな魔法の手袋や靴をどうやって手に入れたのかしら」
(聞いたことがありますぞ)
離れたところからコブラナイが言った。
(そのような、とくべつな革の靴や衣服をつくるという妖精のことを。わしらが鉱物の細工《さいく》に長《た》けているように、毛皮の職人として右に出るものはいないとか)
「もしかして、レプラホーンのこと?」
リディアがそう言うと、今度は天井《てんじょう》の方から声がした。
(そうだ、レプラホーンのブーツとチョッキと手袋を、あいつが盗んでいったんだ)
天井板の隙間《すきま》から、赤い帽子の小妖精がひょっこりと顔を出した。
それはぴょんと飛び降りて、リディアの足元からこちらを見あげる。革の前掛けをして、いかにも職人ふうだ。
(あんた、フェアリードクターだって? おいらの力になってくれるはずだって、あんたの相棒《あいぼう》に案内されて来た)
「ニコに?」
「そうさ、おれが見つけてきてやったんだ。リディア、あの甲冑男の正体がわかったぞ!」
ニコが窓から飛び込んでくると、リディアの前で、得意げに胸を張った。
「彼の正体って、どういうこと?」
(うわっ、ケルピーだ。ケルピーがいる!)
レプラホーンが、ふと気づいたらしく飛びあがった。逃げだそうとして節穴に頭を突っ込むが、つっかえてもがいている。ニコがそれを見て笑った。
「あはは、臆病《おくびょう》だなあ。ケルピーなんかが怖いなら、おれの後ろにいろよ」
(おお、あんたはケルピーでも恐れないのか。さすがはフェアリードクターの相棒だな)
あきれてケルピーは、わざとニコをつまみあげた。
「おい、猫。リディアの前だからって、おまえを味見できないわけじゃねえぞ」
「ケルピー、やめて。レプラホーンの話を聞きたいのよ」
「ふん、わかってるって。おまえらなんか喰《く》わねえよ」
そう言ってニコを放り出すと、ケルピーはコブラナイが隠《かく》れたベッドの上に座り込んだ。
ニコはリディアのそばへ来て、平静を装《よそお》いつつ、乱れたネクタイと毛並みを直した。何事もなかったかのように、また胸をはる。
「さっ、リディアに事情を話してやってくれよ、レプラホーン」
ケルピーを避けるようにして、またリディアのそばまでやってきた妖精は、こくりと頷《うなず》いた。
(あれは困った男でね、その昔、魔女をだまして、女を思い通りにする魔法の薬を手に入れたんだ)
「魔法の薬?」
(女が身につけていたハンカチや肌着に薬をしみこませると、その持ち主は男を前世《ぜんせ》の恋人だと思い、好意を寄せるようになるんだってよ)
まさか……。
リディアは動悸《どうき》を感じながら胸に手を当てる。急いで妖精に続きを促《うなが》す。
「そ、それで? 彼はどうしたの?」
(貴婦人たちに魔法をかけては、楽しんでいたようさ。ところがあるとき、美しい姫君に目をつけた。領主の婚約者だったんだ)
「その姫君の、ハンカチを……」
(盗もうとしてつかまった)
とすると、姫君は心変わりをさせられはしなかったのか。
甲冑男がかけた魔法に、あんな夢を見せられただけで、姫君はリディアと何の関係もないのだろうか。
(しかし男はずるがしこくてね、下女《げじょ》の同情を引いて逃亡《とうぼう》したって。このままじゃ他国に逃げられるって、領主は魔女と協力し、男を妖精界へ閉じこめることにしたんだ。あの魔女も、男を恨《うら》んでいたからな)
「あの人は、魔女が死んだから出てきたっていってたけど……」
(ああ。魔女が死んで、魔法の力が弱まって、男は閉じこめられていた森から出てきたけど、もう人間界には戻れない体になってた。だからおいらの宝物を、とくべつ出来のいい革のブーツとチョッキと手袋を盗んでいったんだ)
レプラホーンは、いったん口をつぐんだ。
しかし、泥棒《どろぼう》のことを思いだして頭にきたのか、せきをきったようにまくし立てる。
(盗まれたものを追って、おいらロンドンまで来た。でも、盗人《ぬすっと》が見つからずに困ってたんだ。あんた、あの男に目をつけられてるんだって? だったらまたあいつは現れるよな? つかまえてくれよ。おいらのブーツやチョッキや手袋を取り返してくれ!)
リディアは混乱した頭を抱え込んだ。
魔法でだまされていたなんて。
そのショックはもちろん大きく、レプラホーンの話を信じたくない気持ちもある。
けれど、リディアはフェアリードクターだ。だからもう惑《まど》わされてはいけないこともわかっている。
妖精はうそをつかない。
うそをついたのは、あの甲冑《かっちゅう》男《おとこ》に間違いないのだ。
「おい、てめえ。盗まれたのは自分の不注意だろ。リディアに頼るんじゃねえよ」
ケルピーが口を出した。
一喝《いっかつ》されて驚いた彼は、ぱたぱたと駆《か》けて部屋の隅《すみ》にへばりつく。
「いいのよ、ケルピー。彼のおかげで真実がわかったもの。……だけど、あたしに取り返してあげられるかどうかは……。だってあの人がブーツを脱ぐはずがないもの」
(青騎士伯爵なら、そのような悪い男を成敗《せいばい》してくれるのではありませんか?)
コブラナイが言った。
「ああそうだ、ちょうどいいじゃないかリディア。伯爵はあいつと決闘《けっとう》するつもりだろ」
ニコまでそんなことを言い出す。
だまされていたとなれば、リディアとしてはますますエドガーを危険に巻き込みたくはないのだ。
それに、レプラホーンの革の服まで身につけているとなると、ありふれた武器では傷つけることも難しいだろう。
「だけど、決闘をしたって甲冑もブーツも脱がすことはできないでしょ。ほかの方法を考えなきゃ」
リディアは急いで考えをめぐらす。
「レプラホーン、あの人は、憎《にく》い領主を決闘で倒せば、人間界で暮らせると言うの。本当なのかしら」
彼がへばりついている壁際《かべぎわ》に、リディアはしゃがみ込んだ。
(人間界で暮らせる? そんな魔法があるのかね。それに生まれ変わりが今この世にいるなんて誰がわかるんだよ。ああだけど、あいつは死んだ魔女の本を手に入れた。おいらのお宝を盗んで、わざわざ危険を冒《おか》して人間界へ戻ったのには、とくべつな目的があるんだろうな)
本当のところあの甲冑男は、生まれ変わりを信じているわけではなさそうだ。それでも決闘にはこだわっている。
いったい何をしたいのかはわからない。しかし、彼にとって利益になる魔法と決闘は関係があるに違いない。
となると彼は、これからも決闘を繰り返すだろう。そうするために、リディアのように魔法でだまされる女性も増えるだろう。
ほうってはおけない。
魔法なんかに惑わされて、エドガーを傷つけてしまった。そう思うと胸が苦しい。
自分に腹が立って、どうしようもないリディアは、なかぼやけ気味《ぎみ》に決意を固めて立ちあがった。
「あたしが、決闘を申し込むわ」
馬の姿になったケルピーが、リディアを乗せて走った。どんなにスピードを出しても、彼はリディアを落とさずに駆《か》けることができる。
人を乗せることなどあり得ないのが水棲馬だけれど、ケルピーはリディアだけにはそれを許してくれている。
向かっているのは、これから甲冑男がエドガーと決闘を行うことになっている郊外《こうがい》の野原だ。
時間と場所は、ニコが伯爵邸《はくしゃくてい》に忍《しの》び込んで調べてきた。
リディアの決闘するという宣言に、当然ニコは異《い》を唱《とな》えたが、食べ物でつったら協力した。
「リディア、おまえが決闘するなんて、考え直した方がいいんじゃないか?」
しかしケルピーも、あまり乗り気ではない。
「おねがい、ケルピー。あなたが協力してくれないと、あたしだけじゃ決闘なんてできないもの」
決闘は馬に乗って行うと、コブラナイが言っていた。馬になんて乗れないリディアだが、ケルピーがいると思い立ったからこそ、自分でもどうにかなるかもしれないと考えついたのだ。
「そりゃまあ、俺にまかせりゃ、あいつを馬から引きずりおろして、参ったと言わせてやるくらいわけないけどな」
鼻を鳴らし、いくらかやる気になってくれたようだ。
「それにしても、そんな飾り物の槍《やり》でいいのか?」
もうひとつ、決闘に必要なもの。そう思い込んでいたリディアは、装飾用《そうしょくよう》の槍を手にしている。
こちらはコブラナイが、ホブゴブリンたちと力を合わせ、エドガーの屋敷から持ち出してきたものだ。
使いようのないくらい派手《はで》な飾りのついた武器は、たいてい貴族の屋敷に飾ってある。
リディアが本当の意味で武器を使えるわけはないので、飾り物でもかまわなかった。
しかしやたらと重い。両手で握《にぎ》っていなくてはならないが、それだけでも大変なのだから、馬がケルピーでなかったら、とても乗っていられるものではないだろう。
けれどもケルピーの背中にいるリディアは、どんなにゆさぶられても、しっかりしたオークの椅子《いす》に静かに腰掛《こしか》けているような感覚だった。
「飾り物だから、向こうは油断するでしょ」
こんなものを振り回すつもりはないのだ。
「ケルピー、ごめんなさいね。あたしを乗せたまま、相手の馬に体当たりするなんて難しいことをたのんだりして」
「どうしても、おまえが乗ってないとダメなのか?」
「だって、決闘するって見せかけないと、彼が応じるとは思えないもの」
そう、これは見せかけだけの決闘だ。
「彼が落馬したら、コブラナイが甲冑をはずすわ。鉱山《こうざん》妖精なら、鉄でも思い通りに扱《あつか》えるもの。そしたらレプラホーンが素早《すばや》くブーツを取るの」
「それで塵《ちり》にしてしまうわけか」
「彼が盗んだものを全部返して、妖精界へ戻ってくれるならそれでいいのよ。きっとそうすることを選ぶでしょう」
本当なら決闘は神聖なもので、一対一の勝負でなければならない。
けれどあの甲冑男は女性をだまし続けてきて、おまけに泥棒だ。リディアは、フェアリードクターとして仕事をするつもりでいる。
レプラホーンの宝物を取り戻し、あの男をあるべき場所に戻すためだ。
決闘なんてする価値のない男。エドガーがそんな人のために命を落とすなんてことだけはいや。
ナイトウェアを盗まれたのはリディアの不注意が原因で、おまけに魔法にかけられて、エドガー以外の男性に気があるような態度を取ってしまったことを悔やむほど、彼女は必死になっていた。
「姫君、どうしてあなたがここへ」
野原に座り込んでいた甲冑男は、もう何時間も前からそこにいるという様子だった。エドガーが来るにはまだ時間があるはずだが、ほかに用もないからだろう。
そうして彼は、現れたリディアに困惑《こんわく》の口調《くちょう》を向けた。
「あなたに、決闘を申し込むわ」
「……わけがわかりませんな。私はあなたを悪い男から救おうとしているのですぞ」
「本当のこと、レプラホーンに聞いたのよ」
がしゃん、と甲冑を鳴らして、彼は警戒《けいかい》したように立ちあがった。
「レプラホーン? あの妖精と話ができたというのですか?」
それでもまだ、信じられない様子だ。たしかに、レプラホーンは妖精の中でも人と接するのをきらうし、群れることもない種族だ。
「あたしはフェアリードクターだもの」
「ほう……、そうだったのですか。ケルピーを恐《おそ》れていない様子なのは奇妙《きみょう》だと思っていましたが、なるほど、姫君の生まれ変わりが魔女だったとは」
甲冑男は、リディアがリボンを縫《ぬ》いつけたリネンの切れ端《はし》を、やはり腕に結んでいる。
「ですが姫君、現世《げんせ》のあなたが何者だろうと、私の姫君に変わりはありません」
魔法はまだ、リディアを縛《しば》っているのだろうか。彼が姫君と口にすれば、急に胸騒《むなさわ》ぎがして鼓動《こどう》が乱れた。
リディアは深呼吸《しんこきゅう》する。
魔法になんか惑わされちゃダメ。
心をしっかりと持てば大丈夫。
「あたしはリディア・カールトンよ。あなたが見初《みそ》めた姫君じゃないし、魔女でもないわ。だから、あなたのしたことが許せないの。あたしには決闘を言い渡す権利があるはずよ!」
一気に言うと、彼は冑《かぶと》の奥で笑ったようだった。
「なるほど、馬も槍もある。なかなか威勢《いせい》のいい出《い》で立《た》ちですが、今でもそんな決闘をすることがあるのですか?」
えっ、……違うの?
「まあいいでしょう。私には慣れたやり方だ」
彼が口笛を吹くと、どこからともなく馬が現れた。一見ふつうの栗毛《くりげ》馬だったけれど、この世の馬ではなさそうだ。
妖精界には、妖精たちが家畜《かちく》にする動物が少なからずいる。おそらくそういった馬なのだろう。
「しかし姫君、あなたの馬がケルピーでは、公平な勝負とはいえないのでは?」
甲冑男は、妖精馬の鼻面《はなづら》を撫《な》でながら、ケルピーをにらんだ。
「そっちだって妖精の馬でしょ。速さも力も、人間界の馬とはくらべものにならないわ」
「ま、俺さまの足元にも及ばないが」
ケルピーがこっそりつぶやく。
「それとも、相手が女でもハンディのひとつもつけられないのかしら?」
「本当にやる気なのですか?」
「あなたは、決闘をするためにこの世に戻ってきたんでしょう? 相手が憎い領主の生まれ変わりでなくても、本当はかまわないんでしょう? あたしの申し出を断る理由がある?」
断らないはずだと、リディアは思っていた。
しかし彼は、悩《なや》んだように黙《だま》り込んだ。
腕に結んだリディアのリボンに、もの思うように手で触れる。
「信じていただけないかもしれませんが、私は姫君を心から愛していました。戯《たわむ》れで近づいたのではありません」
「あたしは別人なのよ」
そんなことを聞かされても意味がない。
「……姫君はもういない。しかし納得《なっとく》したくはなかったのです。魔法を使えば、彼女の生まれ変わりだと思い込ませれば、代わりが得られるかもしれないと考えました」
「身勝手だわ」
「たしかにそうです。私を許せないのもわかります。ですから、こんなことを申しあげるのは筋違《すじちが》いかもしれませんが、あなたは本当に、髪の色もその負けん気の強いところも、姫君によく似ている。どうか今だけ、私の姫君になってはいただけませんか」
「ど、どういうこと?」
話が意外な方向に進んで、リディアはうろたえた。
それに何というか、彼の声はリディアの耳に心地《ここち》よく、聞いているうちに許せない気持ちも疑いも薄《うす》れていく。
魔法のせいだと思っても、どうにもならない。
その場で彼は、ゆっくりと手を持ちあげ、冑を取った。革でできたフードをはね除《の》けると、肩まである髪が風になびく。
リディアが夢の中で見た、素朴《そぼく》な若者の顔で、悲しげに微笑《ほほえ》む。
あらためて彼の素顔を目の当たりにすると、リディアの心はまた乱れた。
「姫君として、私を許すと……。そのしるしに、額《ひたい》に口づけを」
「えっ、そんなことすれば、あなたは塵になってしまうわ」
「かつての私の望みは、領主との勝負に勝って、姫君を得ることでした。今はもうそれが叶《かな》わないとしても、姫君に望まれ彼女のために戦いたかった……。命をかけることで、もういない姫君に、私の気持ちが戯れではなかったと示したかったのです。だからもし、あなたが姫君として、私の犯《おか》した罪を許してくださるなら、それでもう、この世に思い残すことはなくなる」
リディアは迷いながらも、ケルピーの背から降りた。
「本当にそう思ってるの?」
「姫君に誓《ちか》って」
「リディア、よせ」
ケルピーがささやいた。
「でも、彼の方から罪を認めて、許しを請《こ》いたいってことよ」
「信じるな。何かたくらんでるかもしれない」
「あたしが手を触れれば、それだけで彼は塵になるわ。何もできないはずよ」
冑を取って、無防備に頭をさらしている。信じてもいいのではないかとリディアは思った。
罪を償《つぐな》うつもりがあるなら尊重したい。
それともこれは、リディアが魔法にかけられているせいで、判断が曇《くも》っているのだろうか。
男はひざまずいて、リディアが来るのを待っていた。戦意は感じられない。
「ケルピー、そこにいて」
慎重《しんちょう》に足を踏《ふ》み出す。ケルピーから離れ、あの男と一対一で向き合う。
(おいリディア)
風に乗って、どこからともなくニコの声がした。
(額に口づけなんて、伯爵が知ったらえらいことになるぞ)
「許しを与えるだけなの。静かにしてて」
(ああ、もう遅いや。言ってるそばからレイヴンが報告しちまった)
えっ?
ニコはどこにいるのか。わずかに首を動かしかけたとき、蹄《ひづめ》の音が聞こえてきた。
こちらに向かって馬に乗って駆《か》けてくる姿がある。
三頭ほどの馬の列だ。先頭の馬をあやつる、明るい金髪が遠目にも目立つ。
「エドガー?」
決闘《けっとう》の時間にはまだ間があるはずなのに。
ああもう、ニコが告げ口したのね。
と思ったそのとき、甲冑《かっちゅう》男《おとこ》が立ちあがった。
「リディア、もどれ! そいつから離れろ!」
エドガーの声が耳に届くと同時に、男が槍を手に取った。
それがリディアに向かって飛んでくる。けれど身動きできない。
ケルピーが走る。
しかし槍は、ケルピーよりも早くリディアの目の前にせまる。
目を閉じることもできなかった。が、急に槍は強い光を発《はつ》し、リディアの頭上《ずじょう》ではじけるように輝《かがや》き、消えた。
「リディア、無事か?」
ほっとしたのもつかの間《ま》、動こうとしたリディアは見えない壁に突き当たった。
あわてて別の方向を確かめようとして、ぐるりとその場を一周したリディアは、四方を囲まれていると悟《さと》るしかなかった。
「どうなってるの……?」
野原を吹く風が少しも感じられない。男の言葉だけが聞こえる。
「死んだ魔女はいろいろと、魔法の道具を集めていましてね。中には素人《しろうと》にも使えるようなものがあるのですよ」
エドガーが駆け寄ってくる。
リディアに手を触れようとするが、やはり見えない壁にさえぎられる。
「むやみに触れない方がいいでしょう。それごと彼女もこわれますよ」
そう言いながら、男は冑を拾い身につけた。
「おいっ、俺まで閉じこめやがって、このっ!」
ケルピーも魔法の槍《やり》の光を浴びたせいだろうか、見えない壁に囲まれたらしい。馬のままでは体の向きさえ変えられなかったからか、人の姿になって、せまい場所をぐるぐる回っている。
それでも彼はリディアとは違い、魔力《まりょく》の強い妖精だ。内側からしきりに、見えない壁をゆさぶる。
「あの水棲馬が魔法を破るまでには決着がつくでしょう。決闘を始めましょう」
甲冑男は淡々《たんたん》と言った。
「勝った方が彼女を手に入れる。よろしいですね?」
「女性の意志を尊重するのが騎士道精神だろう。勝敗にかかわらず、リディアはきみを選んだりしない」
「どうでしょうね」
彼はまた、腕に結んだリネンの切れ端に触れた。
「私がこれを使ってかけた魔法は、決闘に勝ったとき完成する。私に心を移し、ともに妖精界へ来ることを、彼女は迷わず承諾《しょうだく》してくださるはずです」
そんな、とリディアはつぶやいた。
男の本当の目的はそれだったのだ。
姫君への想《おも》いから決闘にこだわったのではなく、詫《わ》びるつもりも罪を償うつもりもなく、ただ身代わりにする娘がほしかっただけ。
魔法で心も体も縛り、とらえて姫君の代わりにしようとしていた。
人間界には戻れないから、姫君の代わりにそばに置く娘をさがしに来た。
リディアのナイトウェアを盗んだだけでなく、エドガーと決闘しなければならなかったのは、魔法を完成させるためだった。
だから彼にとっては、リディアと決闘なんて意味がないし、姫君としての許しもどうでもよかったのだ。
でも、それがわかったところでもう遅い。
リディアは人質《ひとじち》も同然の状態だ。エドガーは、決闘をやめることができない。
悔《くや》しい。そして情けなくて、震《ふる》えながらリディアはエドガーを見あげた。
見えない壁を撫《な》でるように、エドガーは手を動かした。
彼の手首には、リディアのリボンが結ばれていた。
オペラハウスで勝手にほどいた、オリーブグリーンのリボンは、リディアに直接触れていたもの。
昔、貴婦人のために戦う騎士は、彼女のハンカチを身につけたという。
だからそれは、リディアのために戦うというしるしだ。
「本当はね、リディア、きみが心変わりしたって、おとなしく引き下がるつもりなんかなかったんだ。……知ってるだろう?」
「エドガー、あたし……」
もう怒ってないのだろうか。
「だから、ニコに聞いてほっとした。きみの様子がおかしかったのは魔法のせいだって。心変わりじゃないんだよね?」
「ごめんなさい……」
「僕が冷静になれなかったせいだ。きみの話をきちんと聞いて、対処する方法を考えるべきだった。きみがほかの男に心を奪《うば》われたかもしれないなんて、それだけで取り乱してしまっていた」
[#挿絵(img/nightwear_235.jpg)入る]
切《せつ》なげに、彼は目を細めた。
「でも、心配はいらない。心変わりなんてさせないから」
「……負けないで」
リディアはそう言う。
純粋《じゅんすい》にリディアは、エドガーに勝ってほしいと感じていた。
危険だからやめてほしい。リディアを助けるよりも、自分の身を守ってほしい。そう思うのとは別に、勝ってほしいと思う。
自分はエドガーの婚約者で、何もかも彼だけのもの。そう証明してくれるなら、魔法で心をねじ曲げられても、きっとエドガーだけを想い続けられる。
そんな矛盾《むじゅん》したことをぼんやりと考えている。
「ああ、負けないよ」
安堵《あんど》したように、彼は表情をゆるめた。
決闘前にはそぐわないほど、やわらかく微笑《ほほえ》む。
「そう言ってくれるなら、リディア、僕はどんなことでもできる」
そしてエドガーは、甲冑男の方に向き直った。
「さて、サー・ウィリアム、こちらの立会人《たちあいにん》はここにいるスティーブン卿《きょう》だ」
オペラハウスでも会った青年が、馬から降りてきた。
彼は不思議そうにリディアとケルピーを眺《なが》めたが、驚いているというほどではなさそうだった。
魔法を見てみたいなどと言っていた人だから、エドガーは立会人に選んだのだろうか。
首を動かし、スティーブン卿は甲冑男に落ち着いた声をかける。
「そちらの立会人は? 見たところ一人きりのようですけど?」
「いらない、というつもりでしたが。彼女に見届けてもらいましょう。私の恋人に」
リディアの方を指さす。エドガーはひくりと眉《まゆ》を動かしたが、黙っていた。
レイヴンが、馬具からはずした剣を手にエドガーに近づく。
伯爵家《はくしゃくけ》の家宝、メロウの宝剣だ。
「武器は剣、というのがきみからの申し出だったね。同意しよう」
宝剣は妖精を斬《き》る力がある。レプラホーンの革|細工《ざいく》を斬ることができるかもしれない。しかし、鋼鉄《こうてつ》の甲冑はどうだろう。現実の鉄に対しては、いくらあの剣でも鍛《きた》えられた鉄でしかない。
エドガーは、鞘《さや》がついたままの剣を手に取った。
「はじめるに当たって、僕の方からも注文がある」
「何でしょう?」
「決闘なのだから、作法《さほう》にのっとってもらわねば困るんだ」
「もちろんです」
「では、あらためて正式に、決闘を申し込んでもらうよ」
なるほどというように甲冑男は頷《うなず》き、手甲《てっこう》を取った。
一対一の勝負の、作法を守ろうとしているときに、じゃまをする者などいるはずがない。
だから、エドガーがゆっくり彼に近づいていっても、男は警戒《けいかい》していない。もちろんエドガーだって、剣を抜くような気配《けはい》はない。
ただ、男の動作《どうさ》を見守っている。
決闘は、一方が脱ぎ捨てた手袋を、一方が拾えば成立する。そんな話はリディアも本で読んだことがある。
そして作法の通りに、レプラホーンの手袋が脱がれ、捨てられる。
草の上に落ちた手袋を拾うため、エドガーは身を屈《かが》めた。
と思った瞬間、一歩前に踏み出す。そのまま手をのばし、甲冑男の手袋のない手をつかむ。
はっとして、男はエドガーの手を振り払ったが、もう遅かった。
風が吹く。
さらさらと、男の甲冑の隙間《すきま》から、細かな塵《ちり》が流れ出す。
あまりにもあっけなく、肉体は時の重みに滅びて消える。
中身を失った甲冑が、地面に崩《くず》れ落ちるのを眺《なが》めていたリディアは、寄りかかっていた見えない壁が急に消え、つんのめるようにして転んだ。
「リディア!」
振り返ったエドガーが駆け寄ってくる。
座り込んで、リディアを抱きしめる。
よかった、とリディアはつぶやいていた。
エドガーが無事でよかった。
そしてリディア自身も、盗まれたリボンにかけられた魔法も消えてしまったのか、迷いもなく彼にしがみついている。
エドガーの肩越しに、塵とともに風に舞い上がったハンカチが見えた。
繊細《せんさい》なレースがついたそのハンカチも、一気に押し寄せる時間にたえきれず、見る間《ま》に崩れ、風に消えた。
男が肌身《はだみ》離さず持っていたのだろうか。
だとしたら、姫君の……。
姫君のことは戯れではなかったと言った。それだけは本当だったのなら、あれは盗んだものではなかったのかもしれない。
けれどもう、遠い昔の話だ。
「怒ってない?」
すっかり体をあずけているリディアに、エドガーがささやいた。
「何を?」
「卑怯《ひきょう》な手を使うしかなかった……」
甲冑《かっちゅう》男《おとこ》をだましたからか。
「いいや、まだ決闘《けっとう》は成立していなかったよ」
スティーブン卿が言った。
「手袋は拾われていない。……そのうえ、決闘を申し込んだ方が急にいなくなったとすると、卑怯なのは向こうで、エドガーには非はないね」
「は、最初から罠《わな》にはめるつもりだったんだろ」
ケルピーが、ふてくされた態度でぽつりと言った。
「伯爵、あんたはそもそも、手段を選ばないやつだ。正々堂々と勝負なんて、リディアがからんでるのにするわけなかったんだ」
聞こえないふりをして、エドガーは立ちあがる。リディアの手を引いて立たせ、友人の方に向き直る。
「スティーブン、つきあってくれて感謝するよ」
卿は、甲冑男の残骸《ざんがい》の方にちらりと目をやった。
レプラホーンが、革のブーツと手袋とチョッキを、甲冑の下から引きずり出そうとしている。ニコとコブラナイが手伝ってやっている。
いったい卿の目にはどんな状況に見えているのだろうか。
「ああエドガー、なかなか楽しいショーだった。妖精だの魔術だの、この目で見てみたいと言ったのは僕だが、まあきみのことだから、これも僕をかついだのじゃないかと思っておこう」
小さな妖精たちが、鎧《よろい》をどけるのに手間取っているのを見かねたのか、結局レイヴンが甲冑を持ちあげた。
そうして彼は、何かを拾いあげ、リディアの方へやって来る。
「リディアさん、盗まれた下着です」
「あああっ、ありがとうレイヴン!」
下着じゃないってば!
急いでリディアはそれを引ったくると、赤面《せきめん》しながら背後《はいご》に隠《かく》さねばならなかった。
* * *
決闘になる前に相手が突如《とつじょ》消えたことも含めて、すべてのいきさつは当事者のみの心にしまわれ、誰の口にのぼることもなかった。
何事もなく三日が過ぎたころ、リディアは、どう言い訳して新しいナイトウェアを仕立て直してもらうかという問題に頭を悩《なや》ませていた。
二度とリボンを縫《ぬ》いつけたりしないわと心に誓《ちか》いながら、自宅でリネンの生地《きじ》とにらみ合っていると、どこからともなく声がした。
(フェアリードクター)
リディアは首を動かす。赤い帽子《ぼうし》の妖精が、窓から顔を出す。
(このあいだは助かったよ。おかげでおいらの宝物が戻った)
「よかったわ。わざわざお礼を言いに来てくれたの?」
(ああそうさ。それからこれは、レプラホーンの感謝のしるしだよ。受け取ってくれ)
彼がそう言うなり、窓から投げ込まれたものがリディアにふわりと覆《おお》い被《かぶ》さった。
「な、何これ……」
両手でつかみ上げてみれば、まっ白なナイトウェアだ。それも、リボンの縁取《ふちど》りやたっぷりのフリルや、繊細《せんさい》な刺繍《ししゅう》が施《ほどこ》された、フランス風の。
(伯爵さまのご注文だ。これとそっくりに、ってことだったからな)
「えっ、エドガーが?」
雑誌の一ページも、ふわりと舞ってリディアの手元に落ちる。あれは捨てたはずなのに。
エドガーが同じものを見つけてきたのだろうか。
(じゃ、おいらはこれで。お幸せに)
「ちょ、ちょっと待って、レプラホーン……!」
しかしもう、赤い帽子は姿を消している。
入れ替わりに家政婦がドアをたたいた。
「お嬢さま、アシェンバート伯爵がお見えです」
「ええっ!」
エドガーは案内も待たず、さっさとカールトン家の応接間に入ってくる。いつものことだが、リディアはあわててナイトウェアを自分の背中と椅子《いす》のあいだに押し込んだ。
「やあリディア、今何を隠したの?」
「な、何でもないわ」
近づいてきた彼が、刺繍を施したすそがリディアの背後からはみ出しているのを見つけたのは間違いないだろう。
楽しそうににっこり笑う。
「レプラホーンってさ、手先が器用な妖精なんだってね。見事なブーツや手袋だっただろ? だから革じゃない衣服もつくれるのかって訊《き》いたら、凝《こ》った刺繍だってあっという間だって。もう仕上がったなんて、本当に早いんだね」
「エドガー、あなた……何考えてるのよ」
「もちろん、はじめての夜のこと」
「は…………」
「いいじゃないか。妖精からのお礼のなんだから、きみを飾るのにこんなにふさわしいものはない。それに、僕だけのためにかわいくしようと努めてくれるなんて、とってもそそられるからね」
もうリディアは、恥《は》ずかしくて口を開けない。
「どんなの? 見せてくれないの?」
真っ赤になって、ふるふると頭を振る。
「まあいいか。楽しみにしていよう」
リディアの反応をおもしろがっている彼は、にんまりと笑う。
あたし、どうしてこの人のことが好きなのかしら。
甲冑男の魔法は解けたはずなのに、リディアは疑問に思わずにはいられなかった。
[#改ページ]
あとがき
今回は短編集になりました。
シリーズではおなじみの、妖精がらみの小品を、と思い、一冊に詰め込んでみました。
はじめて読む方にも、手にとっていただきやすい短編集になりましたでしょうか。
続けて読んでくださっている方にも、わきキャラの日常のひとこまなど、本編ではあまり出てこないシーンにもスポットを当てた小品ですので、楽しんでいただけるかと思います。
リディアとエドガーについては、婚約期間ならでは(なのかな?)のエピソードを……という気持ちで、書き下ろしにさせていただきました。
それではちょっとばかり解説を。
『不思議な贈り物と従者の受難』
タイトルどおり、従者《じゅうしゃ》のレイヴンを中心にしたかった話です。
しかし彼は、感情が表に出ない人なので、何を考えているかわかりません。周囲の反応にも無自覚です。伯爵家《はくしゃくけ》の召使《めしつか》いの中では浮いているに決まっています。
なんて考えていると楽しかったです。
執事《しつじ》のトムキンスさんが理解のある人でよかったね!
『運命の赤い糸を信じますか?』
運命の糸が見えてしまったら……、そんなひと騒動をお楽しみください。
エドガーとリディアだけでなく、ロタやポールやニコ、それにレイヴンの糸はどうなっているのか? と考えていたらこんな話になりました。
本編で、ポールがロタのことを誤解したままなのが気になっていたのですが、とりあえずこれで、本当のことがわかったようですね。
ちなみに、フェアリー・ゴッドマザーが登場する有名なおとぎ話は『シンデレラ』です。
シンデレラに魔法をかけ、カボチャの馬車を用意してくれる彼女、なんとなく魔法使いとして認識している人も多いのではないかと思いますが、妖精なのですね。
『リボンは勝負のドレスコード』
今でこそ勝負服とか言いますが、リディアだってきっと、特別なときには気に入った服を着たいでしょう。
それはともかく、決闘《けっとう》の話です。やっぱり衣装の話かな?
この時代の女性は、語ってはいけないことがいろいろあって大変ですね。
きちんとしたお嬢《じょう》さまは、知ってはいけないことが何か知っていなければならないので苦労したらしいです。
さてさて、話は変わりまして。
すでにご存じの方も多いかと思いますが、この『伯爵と妖精』がアニメ化されることになりました。主要キャストも、ドラマCDで演じてくださった声優さんに決定し、着々と準備は進んでおります。
そんな中、監督《かんとく》を務めてくださるそ〜とめこういちろう氏に、先日お目にかかることができました。
リディアの(乙女《おとめ》の?)気持ちになってくださっているようです(笑)。
イギリスに強行日程ロケにも行かれたようで、こういう作品にしたい、というようなお話もうかがい、物語の見所をいちばんいい形で表現していただけるのではないかと実感できてありがたかったです。
スタッフの方々もみんな、熱心に取り組んでくださっていて、いいチームなんだなあと思いました。
きっとステキな『伯爵と妖精』になるのではないでしょうか。
私も読者のみなさまと同様、視聴者として楽しみにしているところです。
本編を読んでくださっている方、アニメに興味を持って本書を手にとってくださった方、ひとりでもたくさんの方に観ていただけたらうれしいです。
まんが化も進行中でして、香魚子《あゆこ》さんの作画で、十月号の「ザ マーガレット」から連載されます。ぜひぜひ、こちらもごらんになってくださいませ。
それではみなさま、次回は本編の続きになる予定です。
アニメやまんがはプロの方におまかせしつつ、私の役目は小説を書くことですので、じっくりと物語を進めていきたいと思います。これからも、ますます楽しんでいただけますように。
そしてまた、この場でみなさまにお目にかかれることを願っております。
二〇〇八年 六月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
初出一覧
[#ここから2字下げ]
『不思議な贈り物と従者の受難』……『Cobalt』'07[#「'07」は縦中横]年12月号
『運命の赤い糸を信じますか?』……『Cobalt』'08[#「'08」は縦中横]年6月号
『リボンは勝負のドレスコード』……書き下ろし
[#ここで字下げ終わり]
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[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 運命の赤い糸を信じますか?」コバルト文庫、集英社
2008(平成20)年8月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年10月21日作成