伯爵と妖精
誰がために聖地は夢みる
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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《》:ルビ
(例)北極光《オーロラ》
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(例)|オーロラの精《フイル・チリース》
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目次
初夏の帰郷
婚約者とお兄さま
導かれた罠《わな》
予言者の眠る島
愛《いと》しい人を想《おも》うゆえに
聖地に集《つど》う者たち
せまられる選択
あとがき
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初夏の帰郷
ロンドンの空はめずらしく晴れ渡っていた。
テムズ河の上空を鳥の群《むれ》が舞う。白い帆《ほ》を張った船が、さわやかな風を受け止め、誇《ほこ》らしげに旅立っていく。
汽笛《きてき》やかけ声、さまざまな合図が響《ひび》く中、岸壁《がんぺき》にできた人混みは、大西洋を渡る客船に乗ろうという人たちか。優雅《ゆうが》な旅行者もいれば、一攫千金《いっかくせんきん》を夢見た労働者もいる。
そんな長い航海をひかえた大型船のわきで、国内の港を結ぶ定期船が、乗船を促《うなが》すベルを鳴らし続けていた。
「もう行かなきゃ」
リディアはそう言うが、エドガーはなかなか手を離してはくれなかった。
「出航まではまだ十分もあるよ」
もう十分しかない。
気をきかせてか先に船に乗った父が、リディアが乗り遅れないかとはらはらしているかもしれない。しかしエドガーは、別れを惜《お》しむように握《にぎ》りしめた手を持ちあげ、手袋ごしのキスをする。
それだけでは気がすまなかったのか、|縁なし帽《ボンネット》に包まれたリディアの頭を引き寄せ、おでこにも口づけた。
エドガー・アシェンバート伯爵《はくしゃく》、彼はリディアの婚約者だ。恋多き伯爵として社交界で浮き名を流していたが、その一方で、どういうわけかリディアを口説《くど》き続けていた。
めでたく婚約した今は、過去はすっかり清算したという。
リディアには確かめようがないが、とりあえず信用することにしている。少なくともエドガーは、リディアが戸惑《とまど》うくらいの行き過ぎた愛情を示してくれる。
あんまりスキンシップが多いので、結婚前なのにはしたないと感じてしまうリディアは、二人きりになるほど気を遣《つか》わねばならないくらいだ。
とはいえ、二人の間に愛情表現の温度差はあれど、今のところ、幸福な恋人どうしといって間違いはないだろう。
「来週には、僕もスコットランドへ行くから。少しのあいだ会えなくなるけど、がまんしてくれるね?」
「平気よ」
「少しは淋《さび》しがってほしいな」
「あ……、ごめんなさい」
恋人らしい会話にはなかなか慣れない。それでもエドガーは、楽しそうに微笑《ほほえ》んでいた。
これからリディアは、父とともにスコットランドにある実家へ帰郷する。婚約を母の墓前《ぼぜん》に報告するためだ。エドガーがそうしたいと言いだし、急遽《きゅうきょ》決まったことだが、都合で彼はあとから来ることになった。
そういうわけで、今日は見送る立場にいるエドガーだが、数日会えなくなるだけだというのに、やたらと名残惜《なごりお》しそうだ。
「……そういえば、ロタ、どうしたのかしら。見送りに来てくれるって言ってたのに」
あんまりじっと見つめられるのが気|恥《は》ずかしくて、リディアはつい視線をそらし、話もそらす。
「彼女は来られないよ。祖父君《そふぎみ》に、下町での大乱闘《だいらんとう》がばれたからね」
「まさか、あなたがばらしたの?」
エドガーは肩をすくめる。
「しばらく会えなくなるのに、この貴重な時間をじゃまされたくなかったから」
あきれながらも、リディアはもう、エドガーのどうしようもないところも受け入れている。
「すぐにまた会えるわ」
「僕のこと、忘れたりしないね?」
たしか、以前にそんなことがあった。
エドガーと離れ、スコットランドへ帰ったとき、ケルピーが魔法をかけたせいでエドガーとの婚約を思い出せなくなったのだった。
「大丈夫よ。心配しないで」
ケルピー、そういえば彼は、以前にくらべてリディアの前に現れることが少なくなった。今回も、スコットランドについてくるのかと思ったのに、用があるとか言ってどこかへ姿を消した。
リディア自身も、周囲も、婚約をしてから少しずつ変わってきている。
「できることなら、このまま僕もいっしょに船に乗っていきたいよ」
「でも、大事な用があるんでしょう?」
もちろんエドガーもそうだ。
結婚をひかえたエドガーは、アシェンバート家の主人として伯爵の地位をよりたしかなものにしていきたいと考えている。
彼の持つ妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》の称号は、中世から続く由緒《ゆいしょ》あるもので、イングランド貴族として席次《せきじ》も高いが、三百年も英国に不在だったことや、エドガー自身年若く貴族内に親戚《しんせき》という後ろ盾《だて》がないこともあって、不便なこともあるようだ。
社交界に出れば、華やかで魅力的な伯爵として注目されるが、家を盛り立てていくにはそれだけでは足りない。英国内での実績が必要なのだ。
そんなわけでこのごろは、貴族どうしのつきあいにしても、貴婦人や友人たちとたわむれているばかりではないらしい。
「きみより大事なものなんてないのに。ああそうだ、だからもし、ひとときでも離れたくないって言ってくれるなら……」
「エドガー、あたし、そんなわがままは言わないから安心して」
「わかってないね。世界中できみだけは、いつでも僕を言いなりにできるんだよ」
こんなせりふも彼にとっては日常だ。ちょっとしたお世辞《せじ》くらいに思っておくべきだとリディアは知っているが、このごろはふと、本気で言っているような気がすることもある。
「忘れたりしないから、心配しないで」
「向こうで誰かに言い寄られても、ちゃんと断ってくれるね?」
「そんなことあるわけないでしょ」
「口先だけの男に引っかかっちゃだめだよ」
もう引っかかっちゃったけど。と言いたいのを飲み込む。
「あたしが故郷《こきょう》で、まるきりもてなかったってことがわかって、がっかりするわよ」
「違うよリディア、これからがっかりすることになるのは、町中の男たちだよ。すばらしい女性をよそ者に取られたって気づくだろう」
エドガーの途切《とぎ》れない口説き文句をまともに聞いていたら、本当に乗り遅れそうだ。
一《ひと》呼吸ついて、リディアは今度こそ船に乗り込もうとして、エドガーの後ろにいる従者《じゅうしゃ》の少年をちらりと見た。
レイヴンという名の、褐色《かっしょく》の肌の少年は、さっきから何度もあたりを見まわしている。誰かをさがしているふうだと思えば、エドガーが思いついたように言った。
「そういえば、ニコの姿がないけど?」
「ええ……、知り合いの妖精と話し込んでたけど、もう船に乗ったんじゃないかしら」
妖精猫のニコは、リディアの幼なじみで、妖精博士《フェアリードクター》としての彼女の相棒《あいぼう》でもある。
気まぐれで自分勝手でふてぶてしい性格だが、意外と情に厚いところもある。
そんなニコは、このごろレイヴンと仲良くしていた。なのに言葉も交わさずに船に乗ってしまったなんて、レイヴンは薄情《はくじょう》だと思っているのかもしれない。
「あ、そうだわレイヴン、ニコがあなたによろしくって言ってたわ」
取って付けたみたいかしら。
リディアは笑顔でごまかすが、そうですか、とだけつぶやくレイヴンは、ふだんから無表情で、よろこんでいるのか怒っているのかすらわかりにくい。
それでも、これまでエドガー以外には誰にも心を開いていなかったレイヴンが、ニコのことは友達だと思っているらしいのだ。エドガーからそのことを聞かされているリディアは、彼の感情の成長が逆行するのは好ましくないと、ニコの薄情な態度に苛立《いらだ》った。
ニコは気分次第で誰とでも友達になるが、妖精だけに、不義理をしても気づかない。
だからこそ、そんなニコのためにも、レイヴンが傷つくことがないようリディアは気を遣わねばならなかった。
「じゃ、レイヴン、スコットランドでね。またニコの相手をしてやってちょうだい」
船員の鳴らすベルが、せわしなくなっていた。かけ声とともに、乗船を急がせている。
「おーい、リディア! 早く来ないと船が出るぞー!」
ニコの声がした。港の妖精にもらったのか、両手に魚をかかえ、二本足でこちらへ駆《か》け寄ってくる。急ぐ人波に紛《まぎ》れ、奇妙《きみょう》な猫の存在に誰も気づいていないようなのは幸いだったが、リディアはさすがにひやひやした。
「おう、レイヴン、ちょうどよかった。これひとつやるよ」
両手でぶら下げた魚をしげしげと見比べ、小さい方を放り投げる。生の魚を受け止めたレイヴンが、うれしく思ったかどうかリディアには想像もできない。
「リディア、気をつけてね」
もういちど、エドガーから指先にキスを受けたリディアは、少しあらたまった気持ちになって、軽く膝《ひざ》を折るお辞儀《じぎ》をした。
貴族に嫁《とつ》ぐ娘として、いくらかそれらしい振る舞いができるようになってきただろうか。
エドガーも笑いながら正式なお辞儀で応《こた》え、それから手を振ってくれる。
なんとなく照れくさくなりながら、ニコを抱きかかえ、リディアは急ぎ足で船に向かった。
* * *
長い夏の陽《ひ》がようやく暮れ始めたころ、エドガーは、チャリングクロスにほど近い、とある酒場《パブ》に向かっていた。
にぎやかな声が漏《も》れ聞こえる店の入り口を通りすぎ、建物のわきにある階段をのぼっていく。こちらがこの店の、上流階級《アッパークラス》専用の入り口だからだ。
階下からは、床板《ゆかいた》を踏《ふ》み鳴らし、手拍子《てびょうし》とともにダンスをしているらしい音が響く。そんな騒《さわ》がしさをよそに、こちらのフロアは毛足の長い絨毯《じゅうたん》が足音を消し去り、紳士《しんし》たちの話し声もひかえめだ。
エドガーは、見知った人物をさがしてぐるりとあたりを見まわした。
奥の席にいた、初老の男が立ちあがる。
「アシェンバート卿《きょう》、こっちだよ」
手招きするのはグレン公爵《こうしゃく》。このところエドガーが接近している有力貴族だ。
あいさつを交わすと、公爵は同席していたもうひとりの男をエドガーに紹介した。
クナートと名乗る、小柄《こがら》だががっしりした男は、高地地方《ハイランド》の有力|氏族《クラン》の長だった。
「お目にかかれて光栄《こうえい》です、伯爵」
「こちらこそ、ミスター・クナート」
ハイランドは、スコットランドの山岳地帯から島嶼部《とうしょぶ》を占める土地で、独自の言葉や文化を持っている。そのため、イングランドの王家と対立したこともあるが、今は連合王国というひとつの国だ。
とはいえ、ハイランドのことはエドガーにはわかりにくい。よそ者がその土地を知るには、土地の主人と知り合うに限るだろう。
エドガーには、ハイランドを知る必要があった。
リディアの亡き母が、ハイランドはヘブリディーズ諸島の、マッキールという氏族の出だとわかり、そのうえマッキール家の者が、リディアは生まれる前から次期|氏族長《しぞくちょう》の許婚《いいなずけ》だったと言いだし、家の事情に巻き込もうとしているのだ。
エドガーは、彼らマッキール家を敵にまわさねばならない可能性を考えながら、こうして別の氏族の長と会っているのだった。
「ところで、アシェンバート卿は、ハイランドの開発に興味をお持ちだったね」
ひとしきり世間話をしたあと、公爵が切りだした。
「ええまあ。新たな産業に投資するのもいいのですが、もっと別のことをやってみたいと考えていましてね」
「ほう、たとえば?」
「ただ資産を増やしても意味がない。長期的に、英国の発展につながる有意義な投資をと考えれば、ハイランドはまだまだ手つかずで、可能性のある土地だと思うわけです」
公爵は笑顔で頷《うなず》く。
「こういうわけだよ、ミスター・クナート。アシェンバート卿をきみに紹介したのはね」
愛嬌《あいきょう》のあるまるい顔に笑《え》みを浮かべていても、さすがにクナート氏族長の目は鋭《するど》い。厚いまぶたの下でまっすぐにこちらを見定めながら、彼は、おそらく最初から気になっていたのだろうことを口にした。
「ずいぶんお若いようですが、しっかりした考えをお持ちですな」
「なに、心配することはない。彼は由緒ある伯爵家の当主だし、すでにいくつもの事業に投資して成果を得ている。領地の収支《しゅうし》もよくわかっていないような貴族とは違って、非常に意欲的な若者だよ」
「早くに父を亡くしましたので、自力《じりき》で家を守るしかなかったのですよ」
からりと明るくエドガーが言うと、恐縮《きょうしゅく》したようにクナート氏は頭をかいた。
「失礼いたしました。なるほど、グレン公爵が見込んだとおっしゃるだけのことはありますな。ならば率直《そっちょく》に申しあげましょう。我《わ》が一族は非常に困窮《こんきゅう》しております。もちろんクナート家だけでなく、いくつものクランが立ちゆかなくなってきているのですが……」
「ハイランドでは不作が続いていると聞いていますが、そんなに深刻なのですか」
「島の方ではとくに深刻で、やむなく土地を手放す者も絶《た》えません。そのうえ、よそから来た者による土地の買収《ばいしゅう》が進んでいて、生活を立て直す前に先祖代々の土地から追い出されてしまうのです」
氏族長として彼は、金銭的な援助《えんじょ》を求めてロンドンへやって来たらしい。
そんな話をグレン公爵から聞いたとき、エドガーは、クナート家に恩を売って損はないと考えた。彼らはマッキール家と同じく、ヘブリディーズ諸島に広く土地を有している。
今後、エドガーのために役に立ってくれることもあるだろう。
「クナートさん、あなたのクランに、僕が投資をする価値はありますか?」
「詳《くわ》しい話をさせていただいてよろしいでしょうか」
彼は身を乗り出すようにして言った。
「ハイランドの有力クランを味方に付けたのですか。マッキール家をつぶしにかかるつもりですか?」
公爵とクナート氏が去り、ひとりになったエドガーが、考え込みながらスコッチのグラスを眺《なが》めていると、おぼえのある声がした。
瞬時に芽生《めば》える憤《いきどお》りを隠《かく》しながら、エドガーは顔をあげた。
「お久しぶりですね、伯爵《ロード》。……いえ王子殿下《ユア・ハイネス》」
まだ少年というくらいに若い男が、わざとらしくも胸に手を当て頭を下げた。
ユリシス・バーロウ。エドガーが敵対してきた秘密結社の一員で、そのリーダーであるプリンス≠フ側近《そっきん》だった。
プリンス≠ェ、エドガーの目の前で死んだのは最近のことだ。けれど組織を保ってきた核《かく》、黒魔術的な手法で生み出されたプリンス≠サのものの記憶は生き残った。
今はそれは、エドガーの中にある。
英国を追われた王家の血を引くというプリンス≠ヘ、たまたまその血統を継いでいた公爵家の嫡男《ちゃくなん》だった少年エドガーを、後継者《こうけいしゃ》にすべく誘拐《ゆうかい》した。
自力で逃れたエドガーは、その後も自分を追う組織と戦ってきたが、プリンスが死んでも、エドガーが記憶を引き継いでしまった以上、何一つ終わってはいないのだった。
そしてユリシスは、かつては裏切り者として抹殺《まっさつ》も考えていたエドガーのことを、主人として扱《あつか》う。
「ここは上流階級専用のはずだけど?」
エドガーは、せいぜい不機嫌《ふきげん》に言った。
「それは気づきませんでした」
ユリシスは意に介《かい》さない。
「マッキール家の予言者について、ご報告しておきたいことがあります」
「聞きたくない。消えろ」
「予言者は、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力に抗《こう》するための存在です。あんなものが存在していたとは、我々《われわれ》も予想外でしたが、目をさませば、いずれあなたを抹殺しようとするでしょう」
「聞こえないのか?」
「しかし、あれを葬《ほうむ》るのは簡単ではありません。我々にも、以前はそれなりの備えはありました。たとえば、戦いの女神マハの力を借りれば……、しかしマハを復活することはできませんでした。もうひとつ、夢魔《むま》も失いました」
むろんそうしたのはエドガーだ。だからユリシスは、丁重《ていちょう》な態度を通しながらも内心むかついているに違いない。エドガーを無視して言葉を続ける。
「プリンスの力のみしか、つまり殿下、あなた自身の中にあるアンシーリーコートの魔力を扱う能力、そしてメロウの宝剣、これを使っていただくしか、もはや方法はないのです」
「きみたちの都合など関係ない。予言者をどうするかは僕の勝手だ」
「マッキール家をつぶせば、予言者を目覚めさせようとする者はいなくなるとお考えですか? しかし間に合うでしょうか。予言者を目覚めさせることができるのは、次の満月の日です。十九年に一度、月がもっとも南に沈《しず》む夏、聖地の入り口が開きます。その日までに、マッキール家の者はあらゆる手を尽《つ》くすでしょう。あなたの婚約者を、どうにかして予言者の許婚にしようとするでしょう」
「消えろと言っているだろう!」
「予言者を葬るのも、そのときがチャンスです。聖地の入り口が開いたなら、起き出す前に始末してください。あなたはまだ完全なプリンス≠ナはない、目覚めた予言者を相手に勝つのは、まず難しいかと思われます」
グラスの中身を、ユリシスに向かってぶちまける。
パブの客たちがこちらを見たが、かまわずエドガーは、ユリシスの濡《ぬ》れた頭を両手でわし掴《づか》みにした。
少年の髪が乱れ、耳を削《そ》がれたあとがあらわになる。以前にエドガーが、従者のレイヴンにやらせたことだ。
「どうせ聞こえないなら、残りの耳もちぎってやろうか?」
耳をつかんだ手に力を入れれば、ユリシスはさすがに苦痛に顔をゆがめた。
しかし彼は、にやりと唇《くちびる》の端《はし》をあげる。
エドガーが間近でにらみつければ、まともにこちらを見ようとしない目はおびえの色を含んでいる。爪《つめ》がくい込んだ耳からひとすじの血が頬《ほお》に流れる。その痛みに恐怖を感じているはずなのに、笑おうとしてみせる。
「何がおかしい」
「……なるほど、前のプリンスが見込んだとおり、あなたはいまいましいほどすばらしい。恐《おそ》れ、そしておびえねばならないくらい、我らは絶対的な主人を求めているのです。そうでなくては、我らの悲願はかなわぬでしょうから」
力任せに突き放すと、辺《あた》りにあった椅子《いす》やテーブルクロスを巻き込みながらユリシスは倒れた。
ざわつく店内をよそに、エドガーはきびすを返す。
「聖地の正確な場所は、プリンスならご存じのはずです。調べる手間が省ければ、満月までに間に合うでしょう」
店を出る間際《まぎわ》に聞こえた声は、いつまでも耳に残った。
スコットランドはエジンバラにほど近い町、そこがリディアの育ったところだ。
目抜き通り、といってもほんの数十ヤードしかない一画《いっかく》をのぞけば民家はまばらになり、庭の先には畑や野原が広がっている。
そんなのどかな土地に、カールトン家は居《きょ》を構えていたが、現在は祖父母も亡くなり、ロンドン大学で教鞭《きょうべん》を執《と》る父とともにリディアもこの家を離れていたため、久しぶりの我が家だった。
空気を入れ換え、手荷物を片づけたあと、父とニコと三人でテーブルを囲み、遅めの夕食をとる。燭台《しょくだい》に火のともる食卓でくつろぎながら、リディアは見慣れたダイニングルームをなんとなく見まわした。
幼いころには、隣《となり》には母が座っていた。向かい側には祖母がいた。そんなことを思うと、時間の流れを感じる。
「リディア、この家で過ごすのも、おまえにとって最後になるかもしれないな」
しんみりと父が言った。
そうなるのだろう。なるべく早く式を挙げたいというエドガーの希望通り、母の墓前《ぼぜん》への報告がすめば、ロンドンへ帰って結婚する。
自分が結婚するだなんて、リディアにはまだぴんとこないところもあるが、エドガーのそばにいたいという気持ちはたしかなものになってきている。
「でも、結婚しても里帰りくらいするわよ」
「伯爵はなかなかおまえを離したがらないんじゃないかな」
「そんなことないわよ。父さまがひとりになっちゃうから、会いたいときに会えばいいって言ってたもの」
「結婚前の口約束なんか、信じるとえらい目にあうぞ」
ベーコンを口いっぱいに頬張りながら、ニコが言った。
「そういえばニコ、伯爵|邸《てい》にあなた専用の部屋を用意してくれるみたいよ」
「えっ、ニコも伯爵家へ行くのかい?」
思いがけない、といった様子で父は、ナイフとフォークを器用に使う灰色の猫を見た。
「えっ、ニコ、父さまと家に残るの?」
リディアにしても思いがけなかった。生まれたときからそばにいるニコだ。当然これからもいっしょだと疑っていなかった。
「いや……まだ決めてないけどさ」
困ったように口ごもった彼は、ナプキンでヒゲについた肉汁《にくじゅう》をぬぐった。
もともと、リディアの母が故郷《こきょう》の島から連れてきた妖精だ。猫の姿をしていても、誰のものでもない自由な妖精なのだから、どこで暮らすのかはニコが決めるのを受け入れるしかない。
しかたがないとは思っても、リディアは自分の周囲が大きく変わろうとしているのをまた感じ、淋《さび》しいような気持ちになった。
急に強い風が吹いて、古い家の窓がカタカタと鳴った。夏でも夜は肌寒い。カーテンが舞い上がれば、ランプの灯がゆれる。
リディアは立ち上がり、窓を閉める。スコットランドでは夜空も風も、ロンドンにはない濃厚《のうこう》な気配《けはい》に満ちていて、なんとなく胸騒《むなさわ》ぎをおぼえる。
この世のものではない何かが、奇妙《きみょう》にざわめいている。
そう思ったとき、玄関の呼び鈴《りん》が鳴った。
「おや、今ごろ誰だろう」
「妖精の気配がする」
「でもニコ、妖精は呼び鈴を鳴らして訪ねては来ないわ」
今回の帰郷のために、ロンドンから同行してもらった家政婦が玄関へと急ぐ足音を聞いていると、ややあって、その足音はダイニングルームへ近づいてきた。
現れた家政婦は、いくぶん困惑《こんわく》していた。
「旦那《だんな》さま、ご子息《しそく》だとおっしゃるかたがいらっしゃっています」
「えっ、まさか、エドガーじゃないわよね」
「リディア、伯爵はまだ私の息子じゃない」
娘の結婚を許した、というかあきらめたものの、そのへんのけじめには神経質になっているのか、父はすぐさま否定した。
が、なおさらわけがわからなかった。
「先生、今ごろになって隠《かく》し子が発覚かよ」
ニコが言うと、父は真顔《まがお》で憤慨《ふんがい》した。
「な、何を言うんだ。私には妻だけだ。ミセス・クーパー、わけのわからない訪問者など追い返してくれ」
家政婦は頷《うなず》きながらきびすを返そうとするが、そのとき別の声が割り込んだ。
「すみません。義理の息子、とでも言った方がよかったのかな?」
取《と》り次《つ》ぎを待たずに入ってきたらしい、長髪の青年が戸口に立った。
豪華《ごうか》に波打つ髪の毛は、ランプの明かりにオレンジ色に輝《かがや》いているが、陰になれば暗い赤にも見える。ありふれた服装ながら、どこか浮世《うきよ》離れした印象で、そのくせやけに愛想《あいそ》よく微笑《ほほえ》んでいる。
「ああでも、それもちょっと違うかな。でもまあ、面倒なのでお父さんと呼ばせてくださいよ」
「……面倒? ……だからお父さん……?」
父は理解しかねたらしく、呆然《ぼうぜん》と彼を見ている。
青年は、そのままにこやかにリディアの方に歩み寄った。
「やあ、きみが僕の妹だね?」
「ちょっと待って、何なのあなた?」
「きみの兄」
答えになっていない。
「あたしには兄はいないわ」
「知らなくても無理はないよ。僕はアウローラの隠し子……」
ガチャン、と父がフォークを落とした。
「そ、そんなはずはない!」
「ていうのは冗談《じょうだん》ですけど」
笑えない。
さすがに父は、憤慨したらしく立ちあがった。
「私の家族をからかいに来たのか? 帰ってくれないか」
「そんなつもりじゃありませんよ。これから事情をお話ししますって」
「けっこうだよ」
「聞きたくないんですか? リディア、きみは? どっちかっていうと、きみに聞いてもらいたいんだけど」
このまま帰られても、この人が何者なのか、気になるというのはたしかだった。
「ええと、あの……、ねえ父さま、何か事情がありそうだわ。母さまの名前を知っているんですもの」
父は深くため息をつく。
「どうやらリディア、彼はおまえに用があるようだ。私は席を外させてもらうよ」
そう言って、ダイニングルームを出ていった。
それを見送った、息子≠ヘ、肩をすくめ、父の席に腰をおろした。リディアをじっと見て、にんまり笑う。
「聞いてくれるんだね、僕の話」
「だって、さっぱりわけがわからないもの。母さまの隠し子でもないなら……」
「あんた、半分妖精だろ。人間と同じように肉体を持ってるけど、魂《たましい》は妖精の気配が強い」
言ったニコの方に、彼は顔を向けた。
猫がしゃべっても驚いていない彼は、「そのとおりさ」と屈託《くったく》なく答えた。
「半分妖精? 本当なの?」
「リディア、きみだってそうなんだよ。でも、人間界で暮らしてるぶん、ずいぶん人間に同化したみたいだね。うん、まったく人間にしか見えないよ」
「あの、ミスター……」
「ブライアン兄さまと呼んでくれないのか?」
ブライアンというらしい彼は、すがるような目をこちらに向けた。
「取り換え子としてきみが人間界に連れていかれるまで、そう呼んでくれていた。きみはおぼえてないだろうけどね」
|取り換え子《チェンジリング》。
「あ、あたしが取り換え子だっていうの?」
「そうだよ。僕たちは同じ両親から生まれた」
両親に似ていないと、子供のころから陰口《かげぐち》をささやかれていたリディアは、妖精が見える変わった娘という評判も相《あい》まって、子供どうしのあいだで取り換え子だといじめられたこともあった。
けれど父も母も、取り換え子だという噂《うわさ》はかたくなに否定した。
「……うそ言わないで。あたしはカールトン家の、父と母の娘だわ」
リディアは子供のころから、本当のところどうなのだろうと悩み続けてきた。けれど最近になって、母こそが取り換え子だったと聞かされた。
母の一族であるマッキール家は、妖精族と取り引きし、チェンジリングを繰り返しながら、一族に妖精の魔力《まりょく》に通じた者を絶《た》やさないようにしていたらしい。
母はそんな一族の決まりに一石《いっせき》を投《とう》じるつもりで、父と駆《か》け落ちして島を出た。
そんなことを知れば、なおさらリディアは、自分が取り換え子だなどと信じてはいけないと思えるのだった。
「いいや、きみが僕の妹なのは本当だよ」
けれど、ブライアンは断言する。腰を上げると、ゆっくり部屋を横切りながら、リディアに言い聞かせるように口を開いた。
「きみは、アウローラの娘と取り換えられた。あのころのきみは幼すぎて、僕には大人になったきみを想像するのが難しかったけれど、こうして目の前にすればたしかに妹だってわかる。想像以上にきれいになったけど、間違いないよ。面影《おもかげ》は残ってる」
「だったら、本物のカールトン家の娘が、妖精界のあなたの家にいるっていうのね? 連れてきなさいよ。その子に会わなきゃ信じられないわ!」
もしも本当に、リディアが取り換え子だったら、父は傷つくことだろう。だからリディアは、反論するのに必死だった。
「それは無理だ」
「ほら、やっぱりいいかげんなこと言ってるんだわ」
「死んだからだよ。まだ幼いうちにさ。だから僕はずっと、人間界にいるっていう妹のことを考えて過ごしてきた」
死んだ?
本物の、父さまと母さまの娘は、もうどこにもいないかもしれない?
そう思うと、リディアは罪悪感《ざいあくかん》をおぼえた。
結婚を、淋しがりながらも喜んでくれている父や、カールトン家の娘を迎えるのだと信じているはずのエドガーのことさえ、だましているような気持ちになったのだ。
「で、あんたは妹に会ってどうしたいんだよ」
成り行きを見守っていたニコは、黙《だま》り込んでしまったリディアの代わりに、冷静に問いかけた。
「べつに。会いたかっただけだよ。……マッキール家と血縁《けつえん》を結んだ僕らの一族は、もとの妖精族から離れて地上に暮らしていたけど、島は|悪しき妖精《アンシーリーコート》が増えて住みづらくなってきている。今度のとくべつな満月の日に、天上《てんじょう》への道が開くから、島を去るつもりだ」
「天上? あんた、もとはどういう妖精族なんだ?」
「フィル・チリース」
|オーロラの精《フィル・チリース》。夜空を舞う、光の踊り手だ。
母はその妖精族の血を引いていた。リディアも、チェンジリングであってもなくても、いくらかはフィル・チリースの血を引いていることになる。
ブライアンは、おだやかな目でリディアを見る。本当に妹を見るように、親しみとなつかしさのこもった目だった。
「僕は人の血を引いているけど、島を去れば人間界とは決別《けつべつ》して、完全に妖精として暮らしていくことになる。その前に、妹に会っておきたかった」
しんみりと言われれば、リディアの心はゆれた。
「だから、お願いだ。人の世を去る日まで、少しのあいだ兄として過ごさせてくれないか」
「でも、あたしは……」
「僕の話を信じなくてもいいよ。兄妹《きょうだい》のふりでもいい。妹がいたことを、忘れたくないんだ」
妖精として暮らすなら、人間のような家族の縁《えん》は薄《うす》れる。家族を思う感情も、地上での記憶も薄れるだろう。
半分妖精、でも半分人間。そういう彼の気持ちを推《お》し量《はか》るのは難しかったけれど、人間として育ちながら妖精界に本当の両親がいると知っていた母と重なれば、リディアは突き放せない気がするのだった。
「……父さまに、取り換え子の話をしないなら」
結局リディアは、そう言ってしまう。
「わかった。約束する」
「大丈夫なのかねえ」
ソースをすくったスプーンを熱心に舐《な》めながら、ニコはあきれたようにつぶやいた。
夕食を終え、リディアは父の部屋をノックする。そっとドアを開ければ、窓辺《まどべ》の椅子《いす》に腰掛けながら、開いた書物ではなくどこか外の方を眺《なが》めている父の姿が目に入った。
「父さま、……あの人は、ちょっと人間の家族を体験してみたかっただけだわ」
そばへ行って膝《ひざ》を折り、手に手を重ねる。
「母さまの本当の両親がいた、妖精界の一族なの。マッキール家の親戚《しんせき》で、妖精と人の血が混ざり合った人。だから、親戚だからあたしのこと妹って。彼らにとっては従妹《いとこ》とか、そのくらいの意味なのよ」
ごまかしながら、リディアは説明する。
けれど、母の親族だと聞かされて、父が取り換え子を連想しないわけはなかっただろう。
いきなり現れた若者がリディアを妹だと言った、その理由に思い当たったから、ダイニングルームで席を立ったのかもしれない。
リディアが取り換え子かどうか、おそらく父にも本当のことはわからない。だから、信じたい気持ちを否定されるような話は聞きたくなかったに違いない。
「人間の常識に疎《うと》いだけで、母さまを侮辱《ぶじょく》するつもりはなかったのよ。父さまを傷つけるつもりも……」
ゆっくりと、窓の外から視線を戻した父は、おだやかな顔をしていた。
「リディア、心配しなくていいんだよ。ちょっと母さまのことを思い出していただけだ。長い月日がたつと、悲しいとか淋しいとかいうよりも、思い出すたびに久しぶりに話をしたような気持ちになるね」
「じゃあ、母さまとの会話をじゃましてしまったかしら」
リディアが笑うと、父も目を細めて彼女の頭を撫《な》でた。子供のころのように、リディアは父の膝に頭を乗せる。
「妖精のことになると、私は無力だ。どうしようもないと思っていた。できるのは、妻が妖精族の血を引くことを受け入れて、見守ることだけだと」
「母さまは、そんな父さまに感謝してたはずよ。だからあたしにも、妖精が見えることは堂々としていていいって。そんなあたしを理解してくれる人が現れるはずだからって言ってたの」
「ああ、だけど伯爵《はくしゃく》は、私とはずいぶん違うね。私は、傍観者《ぼうかんしゃ》でありすぎた。アウローラを助けてやることはできなかった」
何について言っているのか、リディアにはよくわからなかった。
妖精のことでは、どんなときも母はひとりで対処するしかなかったからだろうか。
「伯爵は、自分から妖精のことにもかかわっていこうとしている。無謀《むぼう》だと思えなくもないが……、私とは違うだけに、おまえにとっていい伴侶《はんりょ》になるかもしれないと期待してもいるんだ」
そういえばエドガーは、たとえ妖精がらみでもかかわろうとする。どうにかして妖精界までも入ってくるし、魔法を使う妖精を相手に本気で戦おうとさえする。
父と同じように、とくべつな能力はなかったけれど、父とは違い、妖精と無関係ではいられない立場にあるからだ。
それだけに、リディアは母よりもっと、フェアリードクターとしての技能を身につけなければならないのだろう。
妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》の名を持つ彼と結婚するなら、リディアはまさしく妖精国の奥方になるのだから。
なれるのかしら。
もう結婚は決まっている。けれど少し不安になる。
「寒くないかい?」
開け放した窓を気にするように父は言った。
「ううん、大丈夫よ」
父はまた、ゆっくりと言葉を紡《つむ》ぐ。
「母さまはね、おまえが生まれてきたとき、本当に幸せそうだったよ。健康で美人になること間違いないってね」
「健康だけど、美人はどうかしら」
「リディア、私たちが駆け落ちしたことが、おまえを苦しめることにならなければいいと、いつも心配していたんだよ」
「苦しんでなんかないわよ」
「……それならいい。でも私は、父親としては頼りないほうだからね」
「ううん、父さまは、いつでもあたしのことわかってくれてるから」
父をなぐさめに来たつもりだったが、本当は、取り換え子という不安を否定できる何かを求めて、父に寄り添《そ》いに来たのかもしれなかった。
そのことに、たぶん父は気づいている。
母方《ははかた》の妖精族の存在は、母が取り換え子だったたしかな証拠《しょうこ》だ。だからリディアが不安になるかもしれないと気づいている。
「ありがと、父さま」
突然現れた兄よりも、自分にとってたしかな肉親は、父と母だと確信しながら、彼女はつぶやいた。
「……伯爵、どうかなさったんですか?」
ポールの声に、エドガーは意識を引き戻された。
彼の話を聞きながら、つい考え事に気を取られ、ぼんやりしてしまっていたようだった。
「ああ、すまない。何だったっけ?」
「はい、あの、マッキール家のふたりがロンドンを発《た》って二週間になりますが、彼らと同じ氏族《クラン》の組合にべつだん動きは見られません」
少し前に、ハイランドのヘブリディーズ諸島で暮らすマッキール家から、氏族長《しぞくちょう》の息子とフェアリードクターだという男がロンドンへ現れた。
妖精族の血を引くアウローラの娘をさがしに来たのだった。
彼らはリディアを突き止めたものの、彼女がエドガーと婚約したことを知り、またさんざん脅《おど》してやった結果、ふたりだけで島へと帰っていった。
念のためエドガーは、マッキール家に属するロンドン在住者の組合を注意するよう、仲間の結社に命じてあったが、心配はなさそうだと報告にやってきたポールは言う。
マッキール家はもう、リディアをあきらめたと考えてもいいのだろうか。
アシェンバート伯爵|邸《てい》の応接間で、画家のポールを目の前にしながら、エドガーは考え込んだ。
問題は次の満月だ。彼らの島に広がる、飢饉《ききん》や病気、それらを解決するには、救世主として言い伝えられている眠れる予言者≠ェ目覚めなければならない。
そのために必要な、マッキール家と妖精族との両方の血を引く若い娘が、もうリディアしかいない。
そして、特殊《とくしゅ》な満月の日は、十九年にいちどしかない。
そう簡単にあきらめるだろうか。
油断は禁物《きんもつ》だ。彼らの出方によっては、エドガーも強硬《きょうこう》手段に出なければならないかもしれないのだ。
けれどそれはもう、エドガーの個人的な事情だった。
どうやら危惧《きぐ》したとおり、マッキール家の予言者とプリンスの組織は、何らかの敵対関係にある。だからマッキール家の動きに、ユリシスがからんでくる。
エドガーに、予言者を葬《ほうむ》れとたきつける。
リディアを手放したくないから、エドガーはそうするつもりだ。けれどそれは同時に、敵であるはずのユリシスを利《り》することになり、ともにプリンスを抹殺《まっさつ》すべく戦ってきたポールとその結社、|朱い月《スカーレットムーン》≠裏切ることにもなるだろう。
「わかった。監視はうち切ろう。それからポール、そろそろ僕は、朱い月≠フリーダーを辞《や》めたいと思う。プリンスは死んだわけだし、僕がリーダーである必要はもうないだろう」
「でも伯爵、すべてが終わったわけではないなら、あなたがまたねらわれることも……」
心配そうなポールの言葉をさえぎるように、エドガーは立ちあがった。
「みんなに伝えてくれ。プリンスの残党《ざんとう》については、きみたちが気になるなら調査を続ければいいけれど、僕に報告する義務はないから」
「あの、伯爵、ぼくももう、必要ないのでしょうか? スカーレットムーンの一員としてではなく……」
「何を言うんだ、きみは友人じゃないか。これまでのように、いつでも訪ねて来てくれればいいし、リディアだってそう思ってるはずだからね」
「はい……」
そう言いながらもポールは納得《なっとく》し切れていない顔つきで、淋《さび》しそうにこちらを見ていた。
「すまないけど、これから用があるので失礼するよ。ああ、きみはゆっくりお茶を飲んでいってくれ」
部屋をあとにしながらも、背中に感じるポールの悲しげな視線がつらかった。
エドガーがひとりで何かをかかえていることに、ポールは気づいている。朱い月≠ニいう組織を切り離し、ひとりで行動を起こそうとしていることも、おそらく感じ取っている。
だからこそ、個人的にでも力になれるならと、ポールは思っているのだろう。
ありがたく感じながらも、エドガーはそれをもうしわけなくも思う。
何よりエドガーは、リディアを失いたくないのだ。そのために何をやらかすのか、自分でもよくわからない。
そして友人だから、ポールのことは、なおさらこれ以上巻き込むことはできないと思うのだった。
応接間をあとにし、エドガーが書斎《しょさい》へ入っていくと、間もなくレイヴンが現れた。
この先、ともに戦ってくれるのはレイヴンだけだろうけれど、ひとりきりではない幸運をよろこぶべきだ。そう思いながらエドガーは無言で頷《うなず》く。
レイヴンは、廊下《ろうか》を確認してドアを閉めると、部屋の中へ進み入った。
「ヘブリディーズ諸島の地図が手に入りました」
テーブルの上に、彼は地図を広げた。
「マッキール氏族《クラン》の土地は、外《アウター》ヘブリディーズのこの島にあります」
「島の半分以上を占めているのか。かつてリディアの母上がいたというのは、北端の村だと聞いた。とすると、このあたりのどこかに、予言者の眠る聖地があるのだろうな」
ハイランドの北西部、ヘブリディーズ諸島には、大小五百といわれるほどの島々がある。どの氏族がどの島を所有しているか、地図には細かく記されていたが、問題の場所はもっとも遠方の、地の果てともいえる場所だった。
しかしもちろん、地図だけでは聖地の正確な場所はわからない。おそらく周囲に道などないだろう。
プリンスなら知っているとユリシスは言った。
また、プリンスの記憶に接触しなければならないのだろうか。
「この空白の土地は? どこの氏族のものでもないとすると、よそ者に買収《ばいしゅう》された土地かな?」
「おそらく。この地図は十年前のものですから、今はもっと買収が進んでいるでしょう」
リディアの母がいた村も、大勢死んで離散《りさん》したという。エドガーは眉《まゆ》をひそめる。
「土地をよそ者が買いあさっているのも、よくない魔力《まりょく》が島を覆《おお》っているとマッキール家のふたりが言っていたことと関係あるのでしょうか」
「どうだろう。土地が奪《うば》われているのは、人間の身勝手な事情のような気がするけどね。ただ、大勢の地主が土地を売るしかなくなったのは、不作による飢饉が影響しているのだろうし、悪いことが重なるのは、マッキール家が考えるように、邪悪《じゃあく》な魔力が影響しているのかもしれないな」
そんな魔力に抗《こう》するための予言者≠セが、目覚めるのを阻止《そし》しなければならないと、エドガーは考えている。
彼らがリディアに執着《しゅうちゃく》するかぎり、そして予言者≠ェ、エドガーにとって自分の命をねらう存在であるかぎり、敵と見なすしかないのは当然だった。
マッキール家の不幸には同情するが、彼らのための犠牲《ぎせい》にはなれない。
「レイヴン、今度の満月までにはヘブリディーズへ行かねばならない」
「はい。でも、次の満月はどうとくべつなのですか?」
エドガーは、デスクの上に積み重ねてあった本を手に取った。
「調べてみたよ。十九年……、正確には十八・六年にいちど、めぐってくるらしい。満月が、もっとも地平線に近い位置を移動して、南寄りに沈《しず》む。そういう日だそうだ」
だからどうだというのか、エドガーにはよくわからない。レイヴンも首を傾《かし》げるが、予言者≠ノは重要なことなのだろう。
「その前に、リディアの実家に行かないとね。準備をしておいてくれ」
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婚約者とお兄さま
週があけて間もなく、エドガーは約束どおりスコットランドへやって来た。
家の前で止まった馬車の音に気づき、窓から外をのぞき見たリディアは、すぐさまきびすを返し、玄関へと駆《か》けていった。
外へ出て、庭を横切る。
門、というには質素《しっそ》な木戸のそばで、こちらに気づいたエドガーは、微笑《ほほえ》みながら両腕を広げた。
えっ、どうしよう。抱きつくべきなの?
そう思ったとたん、足が止まってしまった。恋人と再会した、ごく自然な動作《どうさ》なのに、リディアは相変わらず意識してしまうと堅《かた》くなる。
そんな態度にも慣れきったのか、エドガーは、数歩手前で立ち止まったままどうしていいかわからなくなってしまった彼女に大股《おおまた》で歩み寄り、遠慮《えんりょ》なく抱きしめた。
「せっかく、腕の中に飛び込んできてくれるかと思ったのに」
リディアはほっと息をつく。
気まずくなりそうな不器用なことを、ついやらかしてしまうリディアだが、エドガーはそんな彼女ごと包み込んでくれる。
このごろリディアは、エドガーがひるまない口説《くど》き魔《ま》でよかったかもしれないとさえ思う。
「会いたかったよ、リディア」
「ええ、そうね……」
「きみも? 会いたいと思ってくれていた? どのくらい?」
「えっ、どのくらいって……」
「一日に何回くらい僕のこと考えた? 毎晩、ロンドンの方を見ておやすみって言ってくれた? 夢の中に僕は出てきた?」
やっぱりもう少し、ひかえめな方がありがたいかしら。
「リディア、よく顔を見せて」
うれしそうに微笑みながら、リディアの頬《ほお》に手を触れる。きらきらした金髪と灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》を間近に眺《なが》めると、ようやく彼女にも、言葉にできないよろこびがこみあげてくる。
素直《すなお》な笑顔を彼に向けると、エドガーはやわらかく目を細める。
「少し離れている間にも、きれいになるね」
「やだ、変わらないわよ」
「いや、そういうものさ。きみがどんどんきれいになってくれないと、僕は婚約者として失格だ」
「へえ、ずいぶん仲がいいんだね」
突然の声に驚いて、リディアはあわててエドガーから離れた。
おかしそうに笑いながら、ブライアンが後ろに立っていた。
忘れていた。今、カールトン家には困った客人《きゃくじん》がいるのだった。
「あ、あのエドガー、この人は……」
「きみがアシェンバート伯爵《はくしゃく》? リディアの婚約者かあ。想像してたタイプとずいぶん違うんだけど、本気で彼女と結婚する気?」
「もちろん本気だ。それできみは?」
エドガーは彼に向き直り、いくらか威圧的《いあつてき》な口調《くちょう》で問うた。
「ああ、僕はブライアン、リディアの兄だよ」
「兄……? それは初耳だね」
当然のことながら、エドガーは困惑《こんわく》し、説明を求めるようにリディアの方を見た。
「あの、ブライアン、それは……」
「兄さま、だろ。そう呼んでくれって言ったじゃないか」
「リディア、いったいどういうこと?」
「ええと、ちょっと事情があって」
「まあそういうわけだから、僕らは義理の兄弟になるのかな。よろしく、エドガー」
なれなれしく名を呼んで、手を差し出す。握手《あくしゅ》を拒否《きょひ》したエドガーは、後ろに組んだままの手をほどこうとしなかったから、ブライアンはきまり悪そうに肩をすくめた。
「いくら貴族だからって、婚約者の家族をないがしろにするってのはどうかね」
「本当に家族なら、あらためてあいさつしよう」
「ねえ、エドガー! えっと、長旅で疲れたでしょ? とにかく中へ入って」
ブライアンから引き離すように、エドガーの腕を引くが、そのとき館《やかた》の中から家政婦の声がした。
「お嬢《じょう》さま、ビスケットが焦《こ》げてしまいますよ!」
「やだ、忘れてた! えっと、エドガー、ちょっと待っててくれるかしら」
「僕が代わりに案内するよ」
「えっ、ブライアン……兄さまが?」
エドガーもブライアンも、うっすらと微笑みながらにらみ合っているようで、ふたりきりにしていいものかどうか、リディアは悩んだ。
「そうさせてもらうよ。早く行っておいで。せっかくの、きみのビスケットを食べそびれたくないからね」
[#挿絵(img/bloodstone_047.jpg)入る]
エドガーにも促《うなが》されれば、しかたがなかった。
「じゃ、あとで部屋へ行くわ」
リディアは急ぎ足で玄関へ向かう。
心配で少し振り返れば、馬車から降ろした荷物を手に、レイヴンが、ブライアンの背後にぴったりとつけていた。
腰まで届きそうな長い髪を、おろしっぱなしの男というのもめずらしかった。
そのうえ、わずかな雲間《くもま》に差した陽《ひ》の光に、ブライアンの全身が淡《あわ》く輝《かがや》いて見えたのは錯覚《さっかく》だろうか。
人間、なのだろうか。ちらりとエドガーはそんなふうに思いながら、彼に招かれるままにカールトン家の階段をあがった。
「教授はいらっしゃらないのかな」
「散歩に出かけてるよ。で、きみが使う客間はここ。従者《じゅうしゃ》くんは一階になるから、あとでミセス・クーパーに聞いてくれ」
広くはないが、きちんと片づいた部屋だった。
嫌《いや》がらせで物置に案内するとか、思いつくほどひねくれてもいないらしい。が、リディアの兄だなどという彼は、エドガーにとってはそれだけでじゅうぶん鬱陶《うっとう》しい。
「ダイニングルームは下、廊下の突き当たりだよ。何か質問ある?」
ここを自分の家のように振る舞うのも気に入らない。
「リディアの部屋は?」
「何でそんなこと訊《き》くのさ」
「夜中に訪問したいから」
一瞬|絶句《ぜっく》したように黙《だま》ったが、ブライアンはにやりと笑う。そうして親しげに、エドガーの肩をたたく。
「階段の手前の部屋だよ」
「ありがとう。それが教授の部屋か」
舌打ちするブライアンから、エドガーはさっと離れた。
「どうして引っかからないんだよ」
そんなわかりやすいウソに引っかかるバカはいない。
「わりと疑い深いんだね。貴族って、そう教えられるの? それとも、ひどい目にあったことがあるの?」
わざと返事をしなかったが、ブライアンは気ままに問う。
「そういやエドガー、リディアのどこに惚《ほ》れたのさ。これって兄としちゃ聞いておきたいだろ? 僕の妹を本当に理解してる男でなきゃ、やっぱり認められないじゃないか」
兄だなどと、うさんくさいことこの上ない。何かたくらんでいるとしか思えない。それにリディアとのことを認めるとか、こいつに口出しされたくない。
さっさと追い出したくなったエドガーは、案内を終えてもまだ部屋の中に居残《いのこ》り続けているブライアンに向き直った。
「用があったらまた呼ぶよ」
そう言ってコインを投げる。とっさに受け止めたブライアンは、意味がわからなかったのか首を傾《かし》げた。
「何これ」
「チップだよ」
しばらく悩み、ようやく意味に気づいたらしく、こぶしを握《にぎ》りしめる。
「って、僕は召使《めしつか》いじゃない!」
「ああ、そうか。忘れていた」
「わざとだろ!」
「本気で忘れるバカがいるものか」
「……きみは、いやなやつだな!」
「お互いさまだよ」
「リディアにふさわしいとは思えないね!」
「ちょっと、もう、ケンカしないで!」
駆け込んできたリディアが、あわてたようにエドガーとブライアンのあいだに割り込んだ。
「リディア、こんな男が婚約者だなんて、僕は認めないぞ」
「ブライアン、とにかく今は出てって」
リディアは彼を押し出そうとする。
「兄さま、だ!」
「わかったから」
「僕も、こいつが義兄だなんて認めないね」
「エドガーは黙ってて!」
どうにかブライアンを追いだし、リディアはほっと息をついた。
心配していたものの、案《あん》の定《じょう》だ。どうしてもエドガーは、リディアに近づく男性に寛大《かんだい》にはなれないらしい。
変なところで子供なんだから。
いちおう兄≠ニ主張しているのだから、妬《や》く必要もないのにとリディアは思う。
責めるように彼を見るリディアだが、エドガーは、何事もなかったかのように微笑《ほほえ》んで、窓際《まどぎわ》に歩み寄った。
「見晴らしがいいね。すてきな部屋だ」
エドガーを案内した客間は、カールトン家の中ではいちばんいい部屋だったが、貴族の屋敷のようにはいかない。
「ちょっとせまいけど、がまんしてね」
「いや、視界が広いから、ロンドンみたいに窮屈《きゅうくつ》じゃない」
のどかな麦畑の向こうに丘が見える。エドガーの隣《となり》に並んで、リディアも、青々と草に覆《おお》われた丘陵《きゅうりょう》を眺めた。
そうしていると、ようやく落ち着いた気持ちになって、エドガーがこの家へ来てくれたことを実感しはじめる。
リディアは自然に口元をほころばせる。
「あの丘の上、真夜中になると、妖精たちが輪になって踊ってるのが見えるのよ。円形土砦《ラース》になってて、昔の遺跡《いせき》か何かみたい。小さな妖精たちがたくさん棲《す》んでいて、空気の澄《す》んだ夜には外へ出てくるの。きらきらと星みたいな光がたくさん集まって、それはもうきれいなのよ」
気がつくと、エドガーはそんなふうに話すリディアをじっと見つめていて、丘の方は見ていなかった。
「……どうしたの?」
あんまり熱い目を向けられると、ドキドキする。窓からの風に乱されたリディアの髪を、エドガーの手がかきあげる。
「妖精の話をしてると、きみは何より幸せそうだね。きみの見ている世界が、僕にも見えたらいいのに」
「見えなくても、想像すればいいのよ。そうすれば見えるのと同じことよ」
「そうか……、同じことなのか。じゃあリディア、これからはきみが見た妖精のこと、たくさん聞かせてくれるね?」
ちょっとした言葉にも、これからふたりの時間が増えるのだと意識させられ、くすぐったいような気持ちになる。
「ええ」
指先で彼は、おろしっぱなしのリディアの髪をもてあそんでいる。それもこのごろのリディアは、気|恥《は》ずかしいながらも受け入れている。急いで髪の毛を取り返そうとは思わなくなった。
「ところで、さっきの兄上のことなんだけど、どういう事情なのかな」
「あ、そうね。……じつはブライアンは、半分妖精なの。それで……」
リディアの説明を、エドガーは神妙《しんみょう》な顔で聞いていた。
「つまり、きみがチェンジリングにあってこの家に来る前に家族だった実の兄、と主張してるんだね?」
「証拠《しょうこ》はないのよ」
「きみは取り換え子じゃない」
リディアは頷《うなず》きながらも考え込んだ。
「もちろんあたしは、父や母の言うように、本当の娘だって信じるけど……」
「それなのに、彼を兄として扱うのかい?」
漠然《ばくぜん》とだが、リディアは思う。彼自身、幼いころに死んだという妹が、本当の妹なのか取り換え子だったのか、わかってはいないのではないだろうか。けれど彼としては、生きているリディアの方を、妹だと信じたいのだ。
妖精と人間の、どちらでもあってどちらでもない。だからこそ、人の世を完全に離れてフィル・チリースになる前に、人間としての自分を確かめておきたかったのか、人の世で暮らしている妹に会いに来た。
取り換え子という言葉が、リディアを足元のおぼつかない気持ちにさせるように、ブライアンも、両方の血を引く自分が何者なのか、不安になることがあるかもしれない。
「彼は、母と同じように妖精界で生まれたマッキール一族なの。だからいちおう親戚《しんせき》だし、でももう地上を離れるっていうから、それまでに人間界の家族を体験したいだけなら、妹になってもいいと思ったの」
またいつものお人好《ひとよ》しを発揮《はっき》してしまったリディアに、エドガーはあきらめのため息をついた。
「わかったよ。でもリディア、誰が何と言おうと、きみは人の世に属している。これまでも、これからもずっとだ」
頷くリディアを引き寄せて、エドガーは唇《くちびる》を近づけた。
と、咳払《せきばら》いが聞こえ、あわててリディアは顔を背《そむ》ける。エドガーの肩越しに、父の姿が目に入った。
「ようこそ、伯爵《はくしゃく》」
舌打ちしたそうな顔を一瞬リディアの方に向け、すぐに振り返ったエドガーは、満面の笑顔で父に歩み寄った。
「教授、お世話になります」
「出迎えられなくてすみません。ちょっと散歩に出ましたら、ついゆっくりしてしまって」
「もっとゆっくり……いえ、気になさらないでください。客というより、息子だと扱《あつか》ってくださってけっこうですから」
「河原《かわら》へ行くと、父さまは石拾いに夢中になっちゃうんだから」
リディアは、父の前でキスされそうになった恥ずかしさを紛《まぎ》らそうと口をはさんだ。
「そうだ、あのう、伯爵、到着|早々《そうそう》にもうしわけないんですが、明日地主のバレット氏が舞踏会《ぶとうかい》を開くそうなんです。ぜひ伯爵にいらしてほしいと……」
「父さま、急な話だから、それはお断りしたんじゃなかったの?」
もともとぼさぼさの髪をかきまわしながら、父は困惑《こんわく》気味《ぎみ》だ。
「それが、さっき散歩の途中でバレット氏に会って、もういちど頼み込まれたんだ」
帰郷したとたん、リディアが正式に婚約したことも、相手が貴族だということも、一日で町中に知れ渡ってしまった。
父もリディアも、昔からめったなことではパーティには出ないから、つきあいのあるバレット家も、カールトン家を強く誘《さそ》うことはなかった。けれど、今回はそうはいかないらしい。
「なにぶん田舎《いなか》なもので、めでたいことは皆で祝わねばならないという気持ちが強いようです」
「ありがたいことじゃないですか。僕はかまいませんよ」
エドガーがパーティを苦にするはずもない。あっさり引き受けると、父はほっとした様子だった。
めったに無理強《むりじ》いしないバレット氏が頼み込んでくるのだから、もう断れないと感じていたのだろう。
「ではそのように返事をしておきます。リディア、もちろんおまえも出るんだよ」
「え、でも、父さま……!」
リディアがいやがるのを知っている父は、そそくさと部屋から出ていった。
「あの、エドガー、町の人たちはあなたと知り合いたいのよ。だからあたしは……」
「行かない気なの? だめだよ、婚約したきみを見て、がっかりする男を僕は眺《なが》めたいんだから」
そんな人が見つかるわけないのに。
ますますリディアは行きたくなかった。けれど父もエドガーも、許してくれそうにない。
「さてと、リディア、出かけようか」
パーティの話を終わらせるように、エドガーは明るく言った。
「え? どこへ?」
「もちろん、きみの母上にごあいさつするんだ。そのために来たんだからね」
着いたばかりなのに疲れていないらしいエドガーは、リディアの手を取った。
町の教会の墓地に、リディアの母は埋葬《まいそう》されている。墓地といっても、ところどころに墓標《ぼひょう》が埋《う》め込まれているのに気づかなければ、ただの野原にしか見えないだろう。
草を踏《ふ》み分けた道がいくつもあって、まるで迷路のようだが、リディアは間違うことなく道を選んでいく。
家の庭で摘《つ》んだラベンダーは、リディアの腕の中でゆれるたびに、さわやかな香りを放《はな》っていた。
「あの木の下よ」
近づいていくと、何かが墓石の前にうずくまっていた。
灰色の、ふさふさした毛に覆われた妖精猫。ニコは背中をまるめ、うなだれているように見える。
こちらの足音に気づき、はっとしたようにニコは振り返った。
「おう、伯爵、もう着いたのか」
「きみも来てたんだ。じゃまをしてしまったかな?」
「いや、べつに。通りかかっただけさ」
そんなふうには見えなかった。
ニコがひとり母の墓前《ぼぜん》にいる姿を、これまでリディアは見たことがなかった。けれど考えてみれば、母の親友だったニコが、ここに通わないはずはない。
「ニコ、母さまと話してたなら、あたしたちまたあとで来るわ」
「いいんだ。そろそろおやつの時間だし、帰ろうと思ったとこだ」
よっこらしょと腰をあげると、ピンと背中を伸ばして二本足で歩き出す。
「今日のディナーはハギスだってよ。ミセス・クーパーが、手伝いに来た料理女の下ごしらえをこわごわ見てた」
じゃあな、と片手をあげる。気取った動作はいつものニコだが、心なしか足取りが重いように見えた。
おやつのためなら、いそいそと駆《か》けていってもよさそうなものなのに。そう思うとリディアは、ニコが何か悩んでいるのだろうかと気にかかる。
リディアが結婚したらどうするのか、まだ決めてないと言っていた。そのことを考えていたのだろうか。
もしかしたらニコは、母の眠るこの土地にいたいのだろうか。
「ハギスって何?」
ニコの背中を見送っていたリディアに、エドガーが問いかけた。
「あ、ええと、スコットランドの名物料理よ」
「へえ、恐《おそ》ろしい料理なの?」
「どうかしら、楽しみにしてて」
複雑な顔をするエドガーににっこり微笑《ほほえ》んで、リディアは墓石に歩み寄った。
アウローラ・カールトンここに眠る
そう書かれただけの石碑《せきひ》の前に、ラベンダーの花束《はなたば》を置く。
エドガーは帽子《ぼうし》を取って、もの思うように目を閉じた。
そよ風に、木の葉がさらさらと鳴る。足元の草がくすぐったそうにゆれると、妖精が残していった小さな足跡が、鱗粉《りんぷん》のようにきらりと光る。
「母さまが、祝福《しゅくふく》してくれてる」
この場所と自分たちを包むやさしい気配《けはい》に、リディアはそう感じていた。
顔をあげたエドガーは、どこかきびしい表情で墓石を見つめた。
「ミセス・カールトン、……本当に僕を認めてくださるのですか?」
エドガーは、リディアをマッキール家に渡すことはできないからと、母の一族の危機をいわば見捨てるつもりだ。
その許しを請《こ》いたいと、エドガーが今回の帰郷を提案した。
リディアが伝説の予言者の許婚《いいなずけ》になれば、マッキール一族は救われるというが、エドガーはそうするつもりなどないし、リディアも、彼のことを誰より大切な人だと思う以上、母の一族に同情するわけにはいかないとわかっている。
結婚を認めてくれるのかと、エドガーが母に問いかけた意味は、本当のところそれだけではなく、リディアが思うよりもずっと深刻な問いかけだったのだが、何も知らないまま彼女は、たしかに祝福を得たと信じていた。
またやわらかな風が吹いた。雲間《くもま》から淡《あわ》い光が差す。
草の間で不思議に光るものを、またリディアは見つける。
妖精の足跡ではない、もっと硬質《こうしつ》な反射光だと気になれば、彼女は身を屈《かが》めた。
「それは? 落とし物かい?」
拾いあげて確かめる。つやつやと光る暗緑色《あんりょくしょく》の石に、赤い色が点々と混じる。ブラッドストーンだ。
「ニコが落としていったんだわ」
球状に磨《みが》かれたそれが、ニコの持ち物だとリディアは知っていた。
「へえ、ニコの?」
「母さまにもらったって聞いたから、もともとは母さまの持ち物だったみたい」
ニコにとっては、形見《かたみ》のようなものなのだろうか。ネクタイの縫《ぬ》い目に入れて、いつも持ち歩いていた。
母の墓の前で、取りだして眺めていたとしたら、よほど感傷《かんしょう》にひたっていたのではないだろうか。
「金具も何もついてないから、装飾品《そうしょくひん》じゃないね。お守りかな?」
「そうね、母にとっては、自分の分身みたいなものだったのかも。スコットランドでは、ブラッドストーンは地に落ちた北極光《オーロラ》の欠片《かけら》なのよ」
「北極光《アウローラ》……、きみの母上の名だ」
地上に落ちたオーロラ、母はまさに、そんな一族のもとに生まれたのだ。
妖精フィル・チリースは、ハイランドではオーロラの別名でもある。オーロラがゆらめきながら、形や色を変えていくさまを、人々はフィル・チリースが夜空を舞っていると考えていた。
ブラッドストーンは、フィル・チリースの血であり、魂《たましい》なのだという。
これを大切にしていた母の心の内は、もはやリディアには想像するしかない。
マッキール家とチェンジリングを繰り返し、地上に暮らしていたフィル・チリースの末裔《まつえい》でもあることは、人であろうとした母にとっても、断ち切れないものがあったのだろうか。
「ちゃんとニコに返しておかなきゃ」
けれどこれを、母がリディアではなくニコに与えたのは、妖精族のものは妖精族に、そう考えたからかもしれない。
リディアには、カールトン家の娘として、人として幸せになってほしいと望んでいた母だから。
墓地をあとにし、野原を歩きながら、気がつけばリディアは、エドガーに手をつながれていた。
淑女《しゅくじょ》らしく男性の腕に手を添《そ》えて歩くよりも、この方がリディアは、エドガーを身近に感じる。
小さなころ、父や母に手をつながれて歩いたように、今はエドガーとそうしていることを思うと、あたたかい気持ちになれる。
人と妖精と、子供のころからふたつの世界の狭間《はざま》にいた。どちらともつかずに、どちらも何か物足りなかった。
けれどエドガーといっしょなら、リディアはどちら側にいても幸せかもしれないと思える。
「いつかきみと、イブラゼルへ行こう」
エドガーは何を考えていたのか、唐突《とうとつ》にそう言ったけれど、リディアはそれが、今の自分の気持ちに沿《そ》った言葉に思えた。
人の世も妖精の国も、自分たちを取り巻くひとつの世界だと感じながら。
「……僕が青騎士伯爵でいられるなら、いつかは行けるはずだから」
青騎士伯爵でいられるなら。かすかに不自然な気がしたが、些細《ささい》なことを気にするには、リディアは満ち足りていた。
垣根《かきね》の横木にちょこんと座って、ニコは頬杖《ほおづえ》をつきながらため息を吐《は》きだした。
夜も遅くなってきたが、空はまだうっすらと明るくて、遠くの稜線《りょうせん》もよく見える。
視線を手前へ動かすと、小妖精の行列が、足元を通り過ぎていく。
なじみの妖精に話しかけられるのも無視して、ニコは膝《ひざ》に置いたブラッドストーンを見やり、またため息をついた。
夕食のとき、落とし物だとリディアに手渡された。
アウローラが持っていた宝石だから、彼女に返したつもりだったのに、またニコの手元に戻ってきた。
ニコはそれが、アウローラの意志であるかのように思える。
「アウローラ、まだおれに、リディアのそばにいろっていうのか?」
リディアが独り立ちするまで見守ってやってくれと頼まれていた。
ブラッドストーンは、たぶん妖精にしかわからない、何ともいえない心地《ここち》のよい光を発していて、ニコが気に入ったからくれたのだ。けっして頼み事の見返りというわけではなかったが、ニコはこれを見るたび、アウローラのためにも、早くに母を亡くしたリディアに、妖精のことを教えてやれるのは自分しかいないと思ったのだった。
もちろん、リディアが成長するのを見ているのは楽しかった。
けれどそろそろ、自分はアウローラとの約束を果たしたのではないだろうか。
そう考えたものの、決心はついていない。迷いながら、アウローラのそばに置いてきたブラッドストーンなのに。
「ニコさん、パンプディングがあまっているそうですよ」
振り返ると、レイヴンがこちらを見おろしていた。
「いいよ、今日は食欲ないんだ」
「そうですか。さっき三つも召し上がっていましたので、お好きかと思ったのですが」
けっして嫌味《いやみ》ではなく、事実のみを言葉にしている。たぶんニコを元気づけようとしている。
……そうだよな? とニコはレイヴンの表情をうかがうが、従者《じゅうしゃ》の少年は常に無表情なのでよくわからなかった。
「なあレイヴン、あんたいつまで伯爵《はくしゃく》に仕《つか》えるつもりなんだ?」
「死ぬまでです」
愚問《ぐもん》だった。
人は人と、生涯《しょうがい》をともにできる。でも、人と妖精はそうもいかない。
ニコはまた、ため息をつく。
そのとき、レイヴンが何かに気づいたらしく、家の方を注視《ちゅうし》した。
裏口から出てきたブライアンが見えた。植え込みの陰に隠《かく》れるようにしながら、どこかへ向かって歩いていく。
「今ごろどこへ行くんだろ」
「ちょっと様子を見てきます」
なんとなくニコも、歩き始めるレイヴンについていくことにする。いきなり現れたブライアンのことは、ニコとしても気になっていた。
妹に会いたかったというが、本当にそれだけだろうか。それにリディアは、本当に彼の妹なのか。
マッキール家と血縁《けつえん》のある半妖精族とはいえ、ブライアンの一族は、チェンジリングを行う時をのぞいて、けっして人間と接したりはしなかった。人間界へ自由に行き来することもなかったはずだ。
なにしろマッキール家の人間が、取り換え子として妖精界に連れ去られた我《わ》が子に接触を持てるのは、十九年にいちどの、もっとも南に月が沈《しず》む夜だけと定められていたのだ。
足音も気配も消して、レイヴンはブライアンをつけていく。
細い裏道を抜け、雑木林《ぞうきばやし》の方に入っていったブライアンは、やがて小さな池の前で立ち止まった。
木の陰に隠れながら、レイヴンとニコも立ち止まる。ようやく空が暮れかけてくると、雑木林の中はいっそう薄暗《うすぐら》くなって、こちらが気づかれる心配はなさそうだった。
しかしそれは、こちらからもブライアンの顔がうかがえないということだ。
ブライアンはともかく、そこに現れたもうひとつの人影が、よく見えないのは問題だった。
相手が男だというのは、かろうじてシルエットでわかったが、年齢のほどはよくわからない。痩《や》せて背の高い人物だ。
ともかく彼は、その人物と会うためにここへ来たらしい。
ふたりは何やら話し始めたが、あまりに小声でニコにはよく聞こえなかった。
「レイヴン、聞こえるか?」
「はい」
「何て言ってる?」
「わかりません。英語ではありません」
「もしかしてゲール語か? ハイランドの言葉だけど……。よし、おれがもう少し近づいて盗《ぬす》み聞きしてやるよ」
「気をつけてください」
おう、と自信たっぷりに返し、ニコは四つんばいになってブライアンの方へ近づいていった。
半分妖精のブライアンには、ニコの姿を消す魔法が通用しない。物理的に身を隠すしかないが、池の周囲は見通しがいいため、むやみに接近できない。
そうだ、とニコはそばの木に飛びつく。木にのぼって、枝を伝《つた》っていけば彼らの真上に行けそうだと思ったのだ。
とはいえ、枝から枝へ飛び移れば、音を立ててしまうかもしれない。ニコは慎重《しんちょう》に、そっと枝を伝って歩く。
ちらりとレイヴンの方に振り返ると、心配そうにこちらを見ていた。
余裕《よゆう》だと見栄《みえ》をはって手を振り、ニコは池の方へ張り出した枝の先へと、またゆっくり進みはじめる。
ブライアンの声が聞こえてきた。
「……伯爵を、殺すって?」
殺す?
あまりの言葉に、ニコは歩みを止めた。
「そりゃ、リディアの婚約者はじゃまかもしれないけど…………でも……、いちおう彼は青騎士伯爵だろ?」
もうひとりの顔がちらりと見えた。ニコは息をのむ。
あれは、パトリックだ。
リディアの母方の、マッキール家の妖精博士《フェアリードクター》。先日ロンドンへ現れて、リディアを予言者の許婚《いいなずけ》として連れ帰りたいと言いだした男が、ブライアンと密談している。
彼らは知り合いなのだろうか。考えてみれば、そうだとしても不思議はなかった。ブライアンはマッキール家の血を引く妖精族だ。同じ一族だし、フェアリードクターのパトリックなら、何かの事情で妖精界に住む一族と接触があるとしても頷《うなず》ける。
そしてパトリックは言う。
「アシェンバート伯爵は、プリンスと通じているかもしれない」
……え?
「プリンスって、予言者と敵対するという、災いの王子《プリンス》か?」
「そうだ。伯爵は、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力を使って巨人《トロー》を殺した。急にあの手の魔力を扱えるようになったんだ。プリンスが彼に何らかの術を施したとしか考えられない」
そのときニコの足元が、つるりとすべった。
声をあげる間もなく、ニコは下方の茂みに突っ込む。その音に、ブライアンが振り返った。
「誰だ? そこで何をしてる!」
レイヴンはさっと木の後ろに身を隠したが、ニコの落ちた茂《しげ》みの方へブライアンはまっすぐに近づいてきていた。
まずいぞ……。
冷や汗をかきながら、ニコは固まった。
伯爵を殺すという衝撃的《しょうげきてき》な相談よりも、プリンスという名称がニコを混乱させていた。
伯爵と通じている?
いや、きっと彼らは勘違《かんちが》いしている。エドガーとプリンスとの因縁《いんねん》を誤解したに違いない。
そう思う一方で、ニコにも腑《ふ》に落ちないものがあった。エドガーにトローを殺せたことが、ずっと不可解だった。
だとしても、今の状況で彼らが、ニコの盗み聞きを許してくれるわけはないだろう。見つかったらひどい目にあわされるに違いない。あせりながらニコは、おろおろとあたりを見まわす。
ブライアンが茂みを覗《のぞ》き込もうとしたとき、急にパトリックが声をあげた。
「あぶない! ブライアン!」
手前の茂みから、大きな黒い影が飛び出した。
牙《きば》をむき出しにした、毛むくじゃらの妖犬《ようけん》だった。
飛びかかられたブライアンは、妖犬といっしょに倒れ込む。パトリックが、助けようとしてナイフを手に駆《か》け寄ってくる。
が、犬は一匹ではなかった。あちこちの茂みから飛び出してきた妖犬が、ふたりの男に襲《おそ》いかかる。
ブライアンにはね飛ばされた一匹が、ニコのいる茂みに落ちた。
ぎらぎらした赤い目がニコをギロリとにらむ。背中の毛を逆立《さかだ》てたニコは、あわてて茂みから飛び出す。
けれどそこは、複数の妖犬が入り乱れ、ブライアンたちと乱闘《らんとう》している場だ。ニコの目の前を鋭《するど》い爪《つめ》がかすめる。
もうだめだ、と目をつぶったとき、ニコの体はふわりと浮いた。
「レイヴン……」
妖犬たちの中に飛び込んできたレイヴンが、ニコをつかみ上げたのだった。
レイヴンは妖犬たちに身構えるが、急に彼らはほえるのをやめ、いっせいに静かになった。
と思うと、ゆっくりと後ずさる。距離を取って、その場に伏《ふ》せる。
ブライアンとパトリックも、わけがわからない様子で呆然《ぼうぜん》としていると、木々の間から、さらに大きな黒妖犬《こくようけん》がのしのしと歩いてきた。
ニコには見覚えがあった。ユリシスが使役《しえき》していた、ジミーという黒妖犬だ。
そしてそれは、レイヴンの方を見て言葉を発した。
(知っていますか、ミスター大鴉《レイヴン》。このふたりは、あなたの主人を殺す話をしていたんですよ。何なら、おれたちが始末してさしあげますよ)
「……私は、判断する権限を持ち合わせていません」
レイヴンはそれだけ言うと、ニコをかかえたまま彼らにくるりと背を向け、その場を後にした。
背後《はいご》はまた急に騒《さわ》がしくなったが、レイヴンはもう、我《われ》関《かん》せずと急ぎ足で雑木林を抜け出す。
いろんな考えが頭の中をめぐっていたニコは、そのころようやく我に返っていた。
「なあ……、おろしてくれよ」
立ち止まったレイヴンは、言われたとおりにニコを地面におろした。
二本足で立って、毛並みとネクタイを忙《せわ》しく整え、彼はレイヴンを見あげた。
「いったいどうなってるんだ? ユリシスの妖犬が、あんたを攻撃しなかった。そのうえ伯爵のために、あのふたりを始末してやるとまで言った」
レイヴンは黙《だま》っていた。
「あんたも伯爵も、おれたちに隠してることがあるよな。伯爵は、プリンスの組織と手を組んだのか? ブライアンとパトリックは、そんなことを言ってたぞ?」
「それは、違います」
「じゃあどうなんだよ、説明しろよ!」
「今は、お話しすることはできません」
ニコは苛立《いらだ》って、直したばかりの毛並みをかき乱した。
「リディアは伯爵を信じてるのに、結婚するってのに、どうすりゃいいんだ?」
ニコはひとり、レイヴンから離れるように歩き出す。
「ニコさん……」
「こっちへ来るなよ。おれは、リディアが傷つくのなんて見たくない」
レイヴンは、あきらめたようにその場に立ちつくしていた。
「しばらくひとりになりたい。里帰りするって、リディアに伝えてくれ」
バレット家のパーティへ向かう馬車の中、リディアは浮かない気持ちで窓の外を眺《なが》めていた。
ニコがいなくなってしまった。里帰りすると言っていたらしいのはレイヴンに聞いたが、理由も何もわからない。
里帰りというのは、母の故郷《こきょう》の島へ向かったのだろうか。
リディアは、ニコがこの町で暮らすつもりかもしれないとは考えた。けれど、そんな遠いところへ行ってしまうなどとは思いもしなかった。
戻ってきてくれるのかどうか、よくわからない。考えてみれば、ニコは母と知り合う前から長い年月を生きていた。彼がいつからヘブリディーズ諸島にいたのかもリディアは知らないけれど、彼にとって帰るべきところは、母の眠るこの町ではなく、あの遠い島であっても不思議はないのだった。
「リディア、元気を出して。ニコはまた帰ってくるよ」
隣《となり》に座っているエドガーは、朝からふさぎ込んでいるリディアに、何度目かわからない慰《なぐさ》めの言葉をかけた。
「本当に、自分の意志で姿を消したのかね。帰りたくても帰れない状況にあるとかさ」
そう言ったのは、エドガーと向かい合うように座っているブライアンだ。父のお古で正装《せいそう》している彼は、すっかりカールトン家の一員のように振る舞っている。
「僕の従者《じゅうしゃ》がうそを言ったとでも?」
エドガーとブライアンは、昨日にもましてお互いに棘《とげ》がある。
「人間はうそをつく生き物だからね」
「なるほど。きみも人間の血を引くからにはうそがつけるわけだ」
それに今朝《けさ》から、顔を合わせれば腹のうちのさぐり合いをしているかのような態度だ。
「なんというか、謎《なぞ》めいた従者くんだよね。異様な気配を持ってる。たとえば、ニコが従者くんの秘密を知ってしまった、とか。どう? 想像力も人間の特権だろ?」
「レイヴンとニコは親友だ。バカなことを言わないでくれ」
それからエドガーは、リディアの向かい側に座っている父を見る。
「ところで教授、本当に彼もパーティに連れていっていいんですか?」
「行きたいというからね」
「お父さん、大丈夫ですよ。ちゃんと人間らしく振る舞いますから」
こっそりため息をつく父は、もうあきらめた様子だ。
「ブライアン……兄さま、パーティでは従兄《いとこ》って紹介するんだから、よけいなこと言わないでよ」
「はいはい」
ふざけた態度のブライアンだが、ときおりちらちらとエドガーの方を見れば、緊張《きんちょう》した気配を漂《ただよ》わせていた。
ほどなくして馬車は、バレット邸《てい》に到着した。
エドガーにエスコートされて、リディアは屋敷《やしき》へ入っていく。
この町いちばんの大きな屋敷は、子供のころのリディアには、お城のように思えたものだった。威厳《いげん》があって近寄りがたかったはずだが、エドガーといっしょにいると、そんなふうには感じなかった。
はじめての場所でも、彼は憶《おく》することなく堂々としている。
バレット氏へのあいさつもそつなくこなし、すぐさまエドガーに魅了《みりょう》されたらしい地主は、満面の笑《え》みを浮かべていた。
「いやあ、それにしてもカールトンさん、伯爵《はくしゃく》のような立派《りっぱ》なかたとご縁《えん》があるなんて、男手ひとつで苦労して、お嬢《じょう》さんを育て上げた甲斐《かい》がありましたな」
「いえ、私は何も」
リディアに関して放任主義だった父は、困ったように頭をかいた。
「それにミス・カールトン、久しぶりで見違えたよ。母上に似てきたね」
「え、そうですか?」
そんなことを言われたのははじめてで、リディアは驚く。たまたま今日は、母のイブニングドレスを着ているせいかもしれない。
夜会向きのドレスを持ってきていなかったので、母のを着ることになったのだ。
サーモンピンクのサテン地は、母の透《す》けるように白い肌と淡《あわ》い金髪にはよく似合っていた。リディアにはどちらもない。
自分には似合わないような気がして、貸衣装《かしいしょう》にしようかとも思ったけれど、エドガーに強く勧《すす》められて着ることにしたのだ。
古いドレスでも、最先端の流行はまだまだ奇異《きい》に見られるだろう田舎《いなか》町だ。お針子《はりこ》を呼んで手直ししてもらう最中、エドガーがいろいろと口を出したせいか、リボンと生花《せいか》のアレンジだけで、ずいぶんとリディアらしい、初々《ういうい》しい雰囲気《ふんいき》に仕上がっていた。
「男のお子さんがいらっしゃらなくても、よくできたお嬢さんを持てば、きちんと孝行《こうこう》してもらえるということですなあ」
微妙《びみょう》なお世辞《せじ》に、父は苦笑《にがわら》いする。
カールトン家に跡取《あとと》りがいないからと、しばしば父が再婚を勧められていたことをリディアは思い出す。かたくなに断っていた父も、やっぱりこの町では、頑固《がんこ》で変わり者だった。
「あ、もしかしてそちらの甥御《おいご》さんを跡取りに?」
「え、いや、あの……」
「そうなんですよね、僕、これからおじ上のような学者になるために、勉強するつもりなんですよ」
調子よく口を出すブライアンに、父はあわてている。
その場から抜け出すように、エドガーがリディアの手を引いた。
広間の方へ入っていくと、すでに集まっていた人々の視線が、いっせいにこちらに向けられた。
「大丈夫。今夜のきみは、世界一きれいだ」
エドガーはほめてくれるけれど、人目を引くのはやっぱり彼の方だ。
ロンドンの華《はな》やかな社交界でさえ目立ってしまう彼は、田舎のパーティではもはや、鵞鳥《がちょう》の群《むれ》に間違って舞い降りた白鳥みたいなものだろう。
リディアは鵞鳥ですらない。人里に迷い込んだ黒ツグミ。
最初のダンスのために、フロアの中ほどに集まっている人の中へ入っていけば、あちこちから聞こえてくる話し声は、『あの変わり者の……』とか『本当に婚約者?』とか、そんな言葉ばかりだ。
「……ねえ、やっぱり幻滅《げんめつ》してない? あなた、妙《みょう》な女と婚約した人だって思われてるわ」
「え? 何言ってるの。みんなきみに目を奪《うば》われてるじゃないか」
「そんな見え透いたこと言わなくていいのよ」
「きみは鈍《にぶ》すぎるな」
あきれた顔をして、それから笑う。
「まあいいか、きみが気づかないうちは、熱い視線を送る男どもも大目に見てやろう」
音楽がはじまる。広間にステップの音が響《ひび》く。
踊りながらリディアは、いつのまにかダンスがうまくなったことも気づいていなかった。
リディアの中では、いつまでも自分はさえない田舎娘だったけれど、それでもエドガーが好きになってくれたと思えれば、不思議ともう、周囲の目も陰口《かげぐち》も気にならなくなっていた。
だから彼が、良家のお嬢さんたちに囲まれて、次々にダンスを申し込まれていても落ち着いていられた。
広間を離れ、リディアは飲み物のある小部屋へと移る。何人かの顔見知りに話しかけられたが、誰も彼もがエドガーのことしか聞かないし、リディアへの質問といえば、どんな魔法[#「魔法」に丸傍点]を使ってつかまえたのなんて、昔と変わらず魔女扱いされるばかりで辟易《へきえき》した。
やっぱりリディアをほめるのは、エドガーだけの欲目《よくめ》に違いない。
「リディア、ダンスがうまいね」
片隅《かたすみ》の椅子《いす》に腰掛けて、ブライアンがスコッチのグラスを持ちあげた。
「ブライアン……兄さまは、踊ってこないの?」
「動きが決まってるなんて、人間のダンスは堅苦《かたくる》しそうだ。フィル・チリースは自由に踊るのが好きだからね」
そういえばそうだと思いながら、彼のそばへ歩み寄る。
「きみも妖精のダンスの方が、きっとすてきに踊れると思うよ。僕の妹だから」
リディアは肩をすくめた。
「あたしはもともと、ダンスは苦手なのよ。……父さまに似たの」
取り換え子じゃないと主張したかったリディアの意図《いと》に気づいたのかどうか、ブライアンは話を変えた。
「エドガー以外とは踊らないの? せっかく誘《さそ》おうとしてる紳士《しんし》から、逃げるように立ち去ってきたね」
「えっ、誰も誘おうとなんてしてないわ。ちょっと話しかけられただけよ。でも、話が途切《とぎ》れて気まずくって……。無理にあたしに話しかけなくても、エドガーと知り合いたいなら直接自己紹介すればいいのに」
「そうか、どうしてきみの婚約者があのタラシくさい男なのか、わかったような気がするよ」
そう言って彼は笑った。
なぜ笑われるのか、リディアにはわからなかったが、ブライアンが人間の世界を楽しんでくれているならいいと純粋《じゅんすい》に思った。
「ねえ、あたしと踊る? あなたがフィル・チリースのステップで羽目《はめ》を外しても、あたしなら驚かないわ」
「ああ、そりゃいい考えだ」
立ちあがった彼は、率先《そっせん》してフロアへ出ていく。きっと踊りたくてうずうずしていたに違いない。
「なあリディア、この町の人間は、あんまり妖精を信じてないんだな」
手を取り合い、ゆったりしたステップを踏《ふ》みながら、ブライアンが言った。気軽に妖精の話をしてしまって、誰かに笑われでもしたのだろうか。
「そうね。いまだに妖精を身近に感じている人は、もう本当に少ないの。ハイランドは違うかもしれないけど、この町でも、ロンドンでも、目に見えないものはいないことになっていくのよ」
ブライアンは、ぶつかりそうなほど人があふれる広間を、リディアを連れたまま、苦もなく軽《かろ》やかにくるくると舞う。
「ねえ、あなたは妖精界にいて、人の血を引くことに違和感《いわかん》はなかった?」
「僕らみたいなのは、妖精界にいれば妖精らしく、人間界にいれば人間らしく育つ。違和感は感じたことなかったな」
「でも、人の世を知りたいんでしょう?」
「妹に会いたかった」
「そういう感情は、人間のものよ」
「……ああ、そうだな。同じように人の血を引く仲間の中でも、僕は少し違っていたかもしれない。どこに行くにも妹を連れ歩いた。僕を頼りにしてて、僕がいなくなると泣く、そういうところがかわいくてさ」
記憶をたぐり寄せるように、彼は遠くを見つめる。
「だから、いなくなってしまってからも、妹のことがずっと気になってて、両親や周囲の大人にしつこく訊《き》いた」
リディアは取り換え子ではないと思いたい。けれどそのときは、彼の本当の妹でないとしたら、ほんの少しだけ、淋《さび》しいような気がしたのだった。
ブライアンの足取りはオーロラのダンスだ。ゆらめくような心地《ここち》に、リディアは酔う。
彼の長い髪が淡く輝《かがや》いて、ダンスの軌跡《きせき》を残していくのは、きっとリディアにしか見えていないだろう。
「妹に、会ってみてどうだった?」
リディアが自分から妹と言ったからか、意外そうに彼は、目を見開いて彼女を見る。それからやさしく微笑《ほほえ》む。
「来てよかった。きみはとても幸せそうだし、人間界が好きみたいだ」
「ええ、父や母や、……それからエドガーのおかげだと思うわ」
曲が終わる。立ち止まったブライアンは、もの思うようにリディアを見ていた。
何を言おうとしたのか、彼が口を開きかけたとき、「あの」と声が割り込んだ。
「婚約、おめでとう」
牧師の息子の、アンディだった。リディアにとっては、意地悪をされた記憶しかないご近所さん。
ブライアンは兄らしく振る舞ったのか、さりげなく行ってしまう。リディアはアンディと向き合うしかなくなる。
すべてがつまらなさそうな顔をした男の子は、成長して久しぶりに顔を合わせても相変わらずだった。
「婚約者がいるって、きみの妄想《もうそう》じゃなかったんだね」
昔から、リディアのことを頭がおかしいと敬遠《けいえん》していたくせに、嫌味《いやみ》だけは言おうとわざわざ近づいてくるのも変わっていない。
「ええ、おかげさまで」
「あんまり釣《つ》り合わないように見えるんだけど、だまされたりしてない?」
「よけいなお世話よ」
むっとしてきつく返すと、彼はリディアが腹を立てたことに不思議そうな顔をした。
そのまま黙《だま》り込んでしまう。
だからといって立ち去ろうともしないから、リディアは居心地《いごこち》が悪くなる。こういうのは、今日何度目だろうか。みんなどうして、話すこともないのに話しかけてくるのだろう。
「あの、それじゃ……」
リディアの方から立ち去ろうとしたが、思い切ったようにアンディは言った。
「踊ってくれないか!」
「えっ」
とうとうリディアにダンスを申し込んだ男は、カールトン教授の友人の息子だという。
それを聞いたエドガーは、リディアにとって意地悪だったという幼なじみのひとりだろうと察していた。
エドガーは、アンディが最初からずっとリディアの周囲をうろついていたのを知っていた。
ほかの男がリディアに話しかけるたび、あせった様子でおろおろしていた。
彼に限らず、リディアにダンスを申し込みたくて話しかけていた青年たちは、おそらく子供のころ、彼女を変わり者とはやし立てたか無視していた輩《やから》だろう。リディアは警戒心《けいかいしん》をむき出しにしていたから、なかなかすんなりと「踊ってくれ」とは言えなかったようだ。
そんな様子を眺《なが》めながらエドガーは、それでいいとほくそ笑《え》んでいたが、あの男が申し込んでしまった。
「それにしても、この町の男子はシャイなんだな」
バルコニーに開かれた扉の前で、エドガーはひとりごちた。
「きみみたいなのがめずらしいんだよ」
いつのまにか隣《となり》に並んでいたブライアンが応《こた》える。
「妹とダンスができて満足したかい?」
「ああ、……いい子だよな。さすが僕の妹、どう考えてもきみにはもったいない」
エドガーとブライアンは、笑顔で視線を交えた。
「で、いつ僕を殺すの?」
「何のこと?」
「パトリックと、僕を殺す相談をしていたんだろ?」
リディアを予言者の許婚にしたがっていた、あのパトリックが現れ、ブライアンに会っていたことは、もちろんレイヴンから報告を受けていた。彼らの方も、密談の現場にレイヴンがいたのだから、自分たちの目的が知られてしまったことは承知《しょうち》しているだろう。
「パトリックがこの町に来てたとはね。とはいえきみもマッキール家の一員なのだから、彼とつるんでいても不思議はないんだね」
ブライアンは、にわかに深刻な表情になった。
「エドガー、あの黒妖犬《こくようけん》たちはきみの手先なのか? 青騎士|伯爵《はくしゃく》の子孫が|悪しき妖精《アンシーリーコート》を使うなんて考えられない」
「ブライアン、きみは妹と家族ごっこをしてみたかったわけじゃない。マッキール家を救うという予言者を目覚めさせるために、リディアを連れに来たんだろう?」
「何者なんだ? 偶然《ぐうぜん》青騎士伯爵の称号《しょうごう》を得た者? なのにどうして、巨人《トロー》を殺せた? アンシーリーコートがきみのために動こうとする?」
「そっちこそ何者? リディアの本当の兄だというなら、彼女の幸せを壊《こわ》そうとするかな」
「……アンシーリーコートに通じた男と結婚して、彼女が幸せになれるとは思えない」
どうなのか、エドガーにもわからない。
この先リディアを苦しめることになるのだろうか。
牧師の息子とぎこちなく踊っている彼女を目で追う。ああ、まるで釣り合わない。
リディアにふさわしい男は自分だけだ。誰よりも愛している。
手放せるわけがない。
運命がエドガーを断罪《だんざい》しないかぎりは、リディアは自分のものだ。
ゆっくり視線を戻し、エドガーはブライアンに微笑《ほほえ》みかけた。
「勝負してやってもいい。きみらも、僕に襲《おそ》いかかるチャンスを待つのは面倒だろう? 満月の日まで時間も限られていることだしね」
曲が終わる。フロアの人々の動きも止まる。
「さて、あの不器用くんを夢見心地から引きずり出してやらなければ」
つぶやいて、エドガーはリディアの方へと歩き出した。
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導かれた罠《わな》
夜更《よふ》けに、ドアをたたく音がした。
ベッドの中で、半分うとうとしかけていたリディアは、ぼんやりと目を開ける。
またドアが、遠慮《えんりょ》がちにコツコツと鳴る。
「リディア、起きてる?」
「えっ、エドガー……?」
どうしてこんな夜中に。
あわててベッドから抜け出したリディアは、ガウンに袖《そで》を通し、ドアへ歩み寄った。
音を立てないよう気をつけながらドアを開けると、エドガーがにっこり微笑《ほほえ》む。彼もガウンを着ていたから、とっくに休んでいたはずだ。なのに、いったいどんな急用なのだろう。
まさか……。と思ったリディアは、とっさにドアを閉めていた。
「エドガー、……だめよ。そ、そういうのは」
「違うよ、夜這《よば》いじゃない。ちょっと出てきてくれないか」
「本当に?」
疑いを込めて問う。
「本当だよ。窓の外に妖精たちのダンスが見えたんだ。だからきみに話したくて」
妖精と聞いて、リディアはもういちどドアを開けた。
「きみさえよければ、夜這いってことに変更してもいいけど……、って、冗談《じょうだん》だってば」
またリディアがドアを閉めようとしたので、エドガーはあわててノブをつかんだ。
そして彼女を手招きする。
「早く来て、ちゃんと妖精がいるかどうか、きみの目で確かめてくれ」
子供みたいにはしゃぐから、リディアはつられて廊下《ろうか》へ出る。
つられてエドガーの部屋へも入る。大丈夫かしらと思わないではなかったが、その窓からしか妖精の丘は見えないし、彼があんまり無邪気《むじゃき》に招くから、警戒《けいかい》するのもばかばかしくなって、リディアは窓辺《まどべ》へ歩み寄った。
明かりを消した部屋から眺《なが》めれば、暗い稜線《りょうせん》が、かすかに空との境界を形作っている。そのなだらかな丘のてっぺんで、妖精たちが輪になって踊っている。
きらきらと、地上に落ちた星が跳《は》ねるように輝《かがや》く。
「妖精だわ。ええ、ちゃんといるわよ、エドガー」
うれしくなって、リディアは窓から身を乗り出した。
「すごいわ、あたしも見たのは久しぶりよ」
「よかった。きみが言ったように、想像してたら見えたんだ」
ふたりして窓に寄り添《そ》えば、肩が触れ合う。リディアはドキリとしたが、エドガーは妖精のダンスに夢中のようだ。じっと丘を見つめている。
ほっとしながら、ほんの少しだけ触れあっている心地《ここち》よさに身をゆだねる。このくらいなら恥《は》ずかしくもないし、身の危険も感じない。
妖精のダンスを眺めながら、眠気《ねむけ》も手伝って、いつのまにかリディアはすっかりエドガーの肩によりかかり、頭をもたせかけていた。
「今夜はえらくひかえめだと思ってる?」
「え?」
「このままベッドへ連れていきたい衝動《しょうどう》と戦っているからだよ。止められなくなりそうだから、せっかくきみが油断してるってのにキスのひとつもできやしない」
あわててリディアは頭を離そうとした。けれどエドガーは、彼女の肩を引き寄せる。両腕をまわされ、抱きかかえられてしまうと、もう身動きできそうにない。
胸の下で組み合わされた彼の手は、ガウンを透《す》けて熱く感じた。
コルセットをつけていないと、やけに心許《こころもと》ない。布ごしでも、素肌《すはだ》に触れられているような気さえする。
お互いの鼓動《こどう》も呼吸も感じ取れてしまうほど密着していたから、リディアの心臓がどれほどの早鐘《はやがね》を打っているかエドガーにはわかってしまっていただろう。
「そんなに緊張《きんちょう》しないで。少しのあいだ、こうしていたいだけだから」
言葉通り、やわらかく大切に包み込まれていれば、しだいに恥ずかしさは薄《うす》れていった。
リディアがようやく力を抜くと、エドガーは安心したように笑った。
「きみの故郷《こきょう》へ来てよかった」
「……そう? 何もないところでしょ」
「僕が知る前のきみを、少しでも知りたかったんだ。きみが見ていた風景、接した人々、母上との思い出、僕にとっても大切なものになりそうだ」
あんまり彼がやさしいと、リディアは少し怖くなる。
こんなにいとおしい時間が、いつまでも続くと信じていいのだろうか。
「ねえ、エドガー、あなたのご両親には、婚約を報告しなくていいの?」
ずっと気になりながら、リディアは訊《たず》ねることをためらっていた。
両親を殺され、自分も死んだことにされたエドガーだ。彼の生まれ育った土地は、今の彼とは縁《えん》もゆかりもないことになっている。
両親の墓はあるだろうけれど、そこにはエドガー自身の名も過去も葬《ほうむ》られているのだ。どこの誰ともわからない子供の骨とともに。
[#挿絵(img/bloodstone_091.jpg)入る]
そんなところを訪れるには、彼にはまだ気持ちの整理ができていないのではないだろうか。
だからなかなか訊《き》けなかった。けれど、リディアの故郷に思いをはせる彼が、自分のふるさとを思い浮かべないはずはない。
「今は、行けない」
きっぱりと言ったけれど、あまりにも苦しそうだったから、リディアの胸は痛んだ。
「でもね、いつかはきみに見せたいと思ってる。シルヴァンフォードの美しい森を、いっしょに歩きたいから」
少し首を動かせば、悲しそうだけれど決意を秘めた強い瞳がリディアを見つめた。
朝早く、あたりに靄《もや》が漂《ただよ》っているうちに、エドガーはカールトン宅を出て、町はずれに向かって歩いた。
連れていくのはレイヴンだけだ。
麦畑を縫《ぬ》うあぜ道を進む。目印は、青々と伸びた麦の上に突き出て見える立石《メンヒル》だ。
そろそろ、いつブライアンたちが襲《おそ》いかかってきても不思議はない距離だった。
今日、あの石が見える範囲で決着をつけることになっている。
彼らがエドガーを殺すことにしたのか、それともとらえてプリンスに関する情報を得るつもりなのかは知らない。しかしエドガーが勝てば、予言者についていろいろと知ることができるだろう。
もちろん勝算はあった。彼らはレイヴンの能力を知らない。遠方からライフルでねらわれないかぎり、不意打ちを食らうことはないだろう。
ただ、半分妖精のブライアンにしろ、フェアリードクターのパトリックにしろ、銃《じゅう》を使うとは思えない。むしろ注意すべきは魔法だった。
「エドガーさま、何か来ます」
得体《えたい》の知れない、うなるような音が聞こえてきていた。黒い雲にも見えるものが、宙をうごめきながらこちらへ向かってくる。
虫の大群?
と思った瞬間、エドガーはそれに視界を奪《うば》われた。
レイヴンが素早《すばや》く動いた。
麦が茂《しげ》るその奥へ駆《か》け出していくと、すぐさまくぐもった悲鳴《ひめい》が聞こえる。
どさりと倒れ込んだ人の上に、レイヴンが馬乗りになる。長いオレンジ色の髪がちらりと見える。急に霧《きり》が晴れたように虫が散《さん》じたのは、ブライアンが気絶したからだろうか。
が、気を抜く間もなく、エドガーは背後《はいご》に人の気配《けはい》を感じた。
突き出されたサーベルを避《よ》ける。向き直ったエドガーから、パトリックは距離を取るが、エドガーはピストルを握《にぎ》りしめて身構えた。
しかし、ねらいが定まらなかった。パトリックの姿がぼやけ、二重、三重にぶれて重なる。
「まやかしか?」
「エドガーさま、気をつけてください!」
レイヴンの声に振り返ると、ブライアンが何人も、エドガーを取り巻いていた。
すでにレイヴンは、数人のブライアンと取っ組み合っている。
エドガーは続けざまに発砲《はっぽう》した。銃弾《じゅうだん》を受けたブライアンとパトリックの分身は、光を発して消え失せる。しかしいっこうに数は減らない。ゆっくりと、こちらに向かって輪を縮める。
「アロー、剣を」
呼び出した瞬間、メロウの宝剣が現れ、エドガーの手に握られた。
妖精を斬《き》ることのできる剣だ。あの分身たちはおそらく妖精だと思えば、宝剣は有効な武器になるに違いなかった。
けれどエドガーは、使うことをためらっていた。剣が持つ邪悪《じゃあく》な魔力《まりょく》を引き出すのだ。安易《あんい》に使っていいものだろうか。
できれば、|善良な妖精《シーリーコート》は斬るべきでない。そんな思いもある。
迷っていたそのとき、目の前の分身たちが一気に散った。光を発する小さな妖精となって逃げまどう。入り乱れてそれを追うのは、黒い邪悪な犬の群《むれ》だ。
ユリシスの手先に助けられるなど不本意だったが、かまってはいられなかった。
本物のパトリックは? ブライアンは?
エドガーは素早《すばや》く視線を動かす。立石《メンヒル》のそばにちらりと見えたブライアンを追う。
つかみかかろうとした瞬間、足元の地面が崩《くず》れた。
急に開いた穴が、エドガーを飲み込もうとする。落下しながらも、ブライアンの腕をつかむ。
いっしょに引きずり込む。
「やめろ……、うわあっ!」
ブライアンの悲鳴を聞きながら、エドガーはずいぶん長いこと落下したように感じていた。
気がつけば彼は、洞窟《どうくつ》のようなところに横たわっていた。
落ちた、とはいっても、怪我《けが》をした様子もなく、痛いところもない。手に触れる地面は湿《しめ》った土の感触で、真っ暗なことを考えると洞窟の中だとイメージしたものの、本当のところはよくわからなかった。
おそらく、人間界ではないのだろう。
「た、助けてくれ……」
どこからか、声が聞こえた。と思うと、低くうなる犬の声も重なる。妖犬《ようけん》まで落ちてきたのだろうか。
「エドガー、いるんだろう? ああっ、くそっ!」
「ブライアン、どこだ?」
「ここだよ!」
「何も見えない」
舌打ちが聞こえたが、急にあたりがうっすらと明るくなった。
ブライアンの長髪が淡《あわ》く発光している。しかし彼は地面に倒れ、のしかかった妖犬の牙《きば》がのどを貫《つらぬ》こうとするのを、かろうじて押しとどめているところだった。
「は、早く助けてくれって!」
「しかし、僕にきみを助ける義理があるのかな」
「……予言者のこと、知りたいんだろう?」
「それは、きみの命と同じくらい価値があるんだろうね?」
「リ……リディアの、予言者の許婚《いいなずけ》の本当の役目、聞きたくないのか?」
本当の役目?
剣をもつエドガーの手に、力が入った。
「なるほど、ぜひ聞きたいな」
「早く……!」
ブライアンはあせった声をあげる。メロウの宝剣を手に、エドガーは妖犬に近づいていく。
「おい、彼から離れろ」
妖犬は、ぴくりと耳を動かしたが、エドガーの言葉には従《したが》わなかった。彼らはエドガーを襲いはしないが、命令をきくのはユリシスかリーダー格の黒妖犬《こくようけん》だけなのだろう。
あちこち噛《か》みつかれ、ブライアンは力が出ない様子だ。
しかたがない。エドガーは剣を握り直す。
青いスターサファイアが、深紅《しんく》のルビーに変化する。すでに封印を解かれている剣は、エドガーの意志にすんなりと従う。
そのまま、力を入れて剣を振る。
妖犬の首がちぎれ飛び、腐臭《ふしゅう》を放《はな》つ黒い血があたりに飛び散った。
ブライアンは、息絶《いきた》えた毛むくじゃらの巨体から、必死になってはい出した。
「エドガーさま、そちらですか?」
レイヴンの声がした。
奥の暗がりから現れたレイヴンは、傷だらけのまま座り込んだブライアンを一瞥《いちべつ》し、警戒する必要はないと判断したようだ。すぐにエドガーに視線を移した。
「レイヴン、おまえもここへ落ちたのか?」
「はい。急いであとを追いました」
「パトリックは?」
「妖犬にかみ殺されていなければ無事でしょう」
それにしても、とエドガーはブライアンを見おろす。
「この穴はきみがつくったのか? 僕をとらえる罠《わな》だったのかな?」
「……そうだよ」
「ならちょうどよかった。きみがいっしょなら難なく出られることだろう」
「そ、それが……、内側からはどうにもできないんだ。だから、パトリックが助けに来てくれないと……」
ブライアンの表情をうかがいながら、エドガーは、ふんと鼻で笑った。
「へたなうそをつくんじゃない」
「ほ、本当だ!」
「僕の機嫌《きげん》を損《そこ》ねると、後悔《こうかい》することになるよ」
宝剣を目の前に突き出すと、彼は顔色を変えた。
「わかった! ……わかったから、それをしまってくれ」
レイヴンに引き起こされ、ブライアンはしかたなく立ちあがった。
「言っておくけど、抜け出すには時間がかかるぞ」
「では、歩きながら聞かせてもらおう。きみとパトリックが、リディアをどうするつもりでいるのか」
「……リディアの前じゃ、そうとう猫かぶってるだろ」
苦々《にがにが》しい顔で、ブライアンはつぶやいた。
「逆だよ。リディアの前でだけは、僕は本当の自分でいられるんだ。正直言って、こういうことはひどく不本意なんだよ」
剣をちらつかせながらにっこり微笑《ほほえ》むエドガーを、信じられなさそうに彼は見たが、面倒なことを考えるのはやめたらしく、問われていることを話し始めた。
「きみをここに閉じこめたら、リディアには、きみが予言者の敵に連れ去られたと告げるつもりだった。助けるためには、予言者を目覚めさせるしかないと説得して、ヘプリディーズへ連れていくことになっていた」
とすると、パトリックはひとりになっても、その計画を実行しようとすることだろう。
「それで、予言者の許婚の、本当の役目とは?」
「許婚は、本当は、結婚するために定められているわけじゃない。予言者に生命を分け与えるために必要なんだ。あれはいわば死者だから、人間界で活動するには、生き返るための生命がいる」
驚きはしたが、エドガーは冷静に聞いていた。そういった儀式で重要な役割を果たすなら、リディアの身に危険が伴《ともな》うこともあるだろうとは考えていたからだ。
「しかし、それではまるきり生《い》け贄《にえ》だ」
「そうだな……。でも許婚はそれで死ぬとは限らない。むしろ死なないだけの生命力のある女性が選ばれる」
「だったらなぜ許婚≠ネんだ?」
「それは、選ばれた娘が、いつでも目覚めた予言者のそばにいなければならないからだと思う。そばにいて、予言者の能力を補うんだ。予言者が役目を果たしてまた眠りにつくか、その娘の命が尽《つ》きるまで」
意外にも、ブライアンは正直に語っていると思われた。おそらく彼は、予言者を信奉《しんぽう》してはいない。
マッキール家を危機から救うという予言者だが、ブライアンは氏族《クラン》の縁者《えんじゃ》というよりむしろ、予言者のための仕組みがもたらした犠牲者《ぎせいしゃ》だ。
人の血を引きながら、妖精族でもある。予言者の許婚を絶《た》やさないために、彼のような中途半端《ちゅうとはんぱ》な存在が幾人《いくにん》も生まれてきたのだろうことを思えば、疑問を感じていても不思議ではなかった。
「許婚≠ェよほど健康な娘でも、その余生《よせい》は短くなるだろう。だからこそ、二人目の婚約者がいて、彼女の犠牲に酬《むく》いる。余生を不自由なく過ごせるように、あるいは彼女の家族に補償《ほしょう》をするために」
それでリディアにも、二番目の許婚がいたのか。ファーガス・マッキールという、氏族長《しぞくちょう》の息子だった。
役目を果たしたあとは、その男がリディアを娶《めと》るから心配はいらないと言っていた。そういう意味だったのかと、納得《なっとく》すればなおさら、エドガーは憤《いきどお》りを感じていた。
彼らは、氏族《クラン》のために命をよこせとリディアを迎えに来たのだ。そんな重要なことは隠《かく》したまま。
「しかし、そういうことなら許婚≠ェ女である必要はないんじゃないか?」
「女は男よりずっと、生命の力が強いだろ。だからじゃないかな。そのうえで、妖精の魔力に通じた人間でなければならない。そのためにこそ、ぼくらみたいな、人間と妖精の混血を、チェンジリングを繰り返して絶やさないようにしてきたんだ」
リディアの母は|取り換え子《チェンジリング》で、予言者の許婚だった。彼女が島を出たのも、その仕組みに異《い》を唱《とな》えたかったからだという。
だから、リディアが取り換えられるのを許すはずはないと、カールトン教授は言っていた。
ブライアンは、妹が取り換え子として人間界へ連れ去られたことで心を痛めた。取り換え子の仕組みに傷ついたひとりのはずだ。なのに、妹だというリディアを、パトリックと共謀《きょうぼう》して氏族《クラン》の道具にしようとしている。
おかしい、とエドガーは感じた。
「きみは、妹だと思って会いに来たリディアを、予言者の犠牲にささげるようなまねをするのか? 妹だっていうのは、うそなんだろう?」
にわかに眉《まゆ》をひそめたが、ブライアンは淡々《たんたん》と言った。
「すべては、マッキール家のためだから」
とても本気だとは思えなかった。しかし、ブライアンはそれ以上何も言わなかった。
ようやくのこと、前方にうっすらと、青白い明かりが見えてきていた。どうやら出口が近いらしい。
急ぎ足で、長い洞窟のようだったそこを抜け出すと、目の前には湖が広がっていた。
半分欠けた月が空に浮かぶ、夜の湖だ。
振り返っても、たった今通ってきたはずの洞窟らしいものはどこにもない。森が視界をさえぎっていた。
「そんなに時間はかからなかったじゃないか」
「これからだよ。まだここは妖精界だし、ずいぶん遠くへ出てしまったようだ」
ブライアンは、湖の向こうに黒い影のように見える山々を指さした。
「ここはもうハイランドだ。リディアのいる町まで戻るには、まず人間界への抜け道を見つけなきゃならないが、そこから移動するにもまた時間がかかるだろう」
「ハイランド? とすると、ヘブリディーズ諸島は近いのか?」
「そりゃまあ、内《インナー》ヘブリディーズへなら近道もあるけど」
「では、行き先を変えよう。ヘブリディーズだ」
呆気《あっけ》にとられ、そして渋《しぶ》い顔をするブライアンを、エドガーは威圧《いあつ》するように覗《のぞ》き込む。
「ひとつだけはっきりした。予言者さえいなければ、きみたちはリディアをあきらめるということだ」
エドガーは考えていた。こうしているうちにも、パトリックが無事なら、リディアを島へ連れていこうとするだろう。
満月までにと急ぐはずだ。
エドガーにとっても、予言者を葬《ほうむ》るチャンスは満月の日だけ。急いで町へ戻っても、おそらく間に合わない。
聖地へ、先回りするしかない。
朝、リディアが起きだしたときにはもう、エドガーはいなかった。レイヴンもだ。散歩だろうと父は言ったが、朝食もとらないまま、何時間も散歩をするだろうか。
それに、ブライアンもいない。
よくわからないままに、胸騒《むなさわ》ぎをおぼえたリディアは、エドガーをさがしに行こうと家を出た。
思い出せばゆうべの彼は、何かを決意しているように見えた。
とびきりやさしくて、ふたりで過ごすおだやかな時間を求められているのだとリディアは感じていた。
それはエドガーが、彼女の前から姿を消すことを予期していたからだろうか。
不安でたまらなくなりながら、リディアは駆《か》け回った。
町の中心部も、母の眠る墓地も、エドガーが訪れた形跡はなかった。郊外《こうがい》へ足を向け、麦畑に埋《う》もれかけた立石《メンヒル》がふと目につけば、なんとなくそちらへ向かう。
石に近づくと、茂《しげ》る麦の根元から、甲高《かんだか》い声が聞こえてきた。
(それはおれのだ)
(ちがう、おれがみつけたんだ)
どうやら、小妖精がケンカをしている。
(よこせ!)
(いやだ!)
人を見かけなかったか訊《き》こうと思い、リディアは覗き込んだ。
「ねえ、あなたたち……」
思わず言葉に詰まったのは、妖精たちが取り合っている、銀色のボタンが目についたからだ。
エドガーの、ボタン?
「ちょっと、それ見せて!」
妖精たちから奪《うば》い取って確かめれば、伯爵家《はくしゃくけ》の紋章《もんしょう》入りで、エドガーのものに間違いはない。
(なにするんだよ、リディア)
(おれのだぞ!)
二匹の妖精は、怒ってリディアの髪を引っぱったりつねったりした。
「わかったわ、返すわよ。でも教えてちょうだい。ここで見つけたの? 落とした人を見なかった?」
(ここに落ちてた)
(人は見てない)
「じゃ、何を見たの?」
(黒妖犬《こくようけん》が、フィル・チリースとケンカしてた)
黒妖犬? ユリシスが、しばしば黒妖犬を使っていた。それに、フィル・チリースとはブライアンのことだろうか。
エドガーが黒妖犬に襲《おそ》われて、ブライアンも巻き込まれたのだろうか。
(フィル・チリースなんて、このあたりじゃめずらしい)
(もっとたくさん現れたら、オーロラのダンスが見られるのにな)
(妖犬は現れなくていいけどな)
「それで、ケンカしてどうなったの?」
(そのうちみんな消えた)
リディアは立ち上がり、石の周囲をぐるりと歩いた。ここは妖精界との接点だ。消えたとしたら、散《ち》り散《ぢ》りに妖精界へ逃げ込んだのかもしれない。
エドガーも、ブライアンも?
あんまり仲がよさそうじゃなかったのに、と思えばそのへんも心配だった。
(なあ、それ返してくれよ)
(もういいだろう?)
せっつかれ、リディアは彼らの前にそっとボタンを置いた。
「いい? ケンカしないのよ」
頷《うなず》き、ふたりは仲良くボタンの両端をつかむ。そして消え失せる。
ひとりになって、リディアは急に震《ふる》えを感じ両腕を押さえた。
ユリシスの手先が現れた。エドガーは無事だろうか。
プリンスは死んだというのに、どうしてまだエドガーにかかわってくるのだろう。彼が幸福になってはいけないとでもいうのだろうか。
泣きたくなるのをこらえながら、リディアは家路を急いだ。
なんとかしなきゃ。エドガーを助けなきゃ。
でも、ニコもいない。フェアリードクターとはいえ、リディアは妖精界の道案内を常々《つねづね》ニコにたよってきた。ひとりでエドガーをさがしに行けば、道に迷って帰れなくなってしまうかもしれない。
母さま、どうすればいいの?
家にも母はいないとわかっていながら、リディアは子供のころ、恐《おそ》ろしい妖精に出会って逃げ出したときのように、家へ向かって走っていた。
「父さま!」
門の内へ駆け込んだ彼女は、玄関先に出てきた父に気づき、抱きつかんばかりに駆け寄った。
「どうしたんだ? リディア、遅いから、様子を見に行こうと思ったところだよ」
「エドガーが、いなくなってしまったの! レイヴンも、ブライアンもよ。どうしよう……妖精界に迷い込んじゃったかもしれないの!」
「落ち着いて、とにかく中へ入りなさい」
「黒妖犬に襲われたみたいなの。妖精界へさがしに行かなきゃ。でも父さま、あたしひとりじゃ、あんまり遠くへは行けないわ。すぐ道に迷ってしまう……。ああでも、行かなきゃ……」
「私に協力させてください」
そのとき、門にくっついた木戸を押し開け、黒髪の男が現れた。
リディアも父も、知っている男だ。
パトリックという、マッキール家のフェアリードクターだった。
パトリックとは、少し前にロンドンで会った。あのとき彼は、リディアにマッキール家を救ってほしいと持ちかけたものの、エドガーに追い返されたのだった。
けれど、今度こそきちんと話を聞いてもらいたいと、スコットランドにまで訪ねてきたらしい。
ロンドン大学で、カールトン教授の教え子だと偽《いつわ》って実家を聞き出した彼は、昨日この町に着いたのだという。
「ですが、アシェンバート伯爵とブライアンの姿を見かけまして」
パトリックの説明を、落ち着かない気持ちのまま、リディアは聞いていた。
カールトン家の応接間で、父は渋い顔をしていたが、パトリックがエドガーたちの身に起こったことを見ていたというのだから、以前のように早々《そうそう》に追い返すわけにもいかなかった。
「パトリックさん、ブライアンのことを知っていたんですか?」
「はい。彼らも氏族《クラン》の一員ですから。そのブライアンがこの町にいるので、私としても驚いたのですが……、それよりも、石柱《メンヒル》を囲むように黒妖犬の群《むれ》が現れたのには肝《きも》を冷やしました」
そうしてパトリックは、エドガーとブライアンが黒妖犬に襲われ、姿を消すのを見たというのだ。
加勢しようとしたらしく、自身にも妖犬の噛《か》み傷がいくつもあった。
幸い、人間界では妖犬の魔力は弱まるし、太陽の光が毒消しになる。噛まれた傷はじきに癒えるだろう。パトリックもよくわかっているのだ。気にした様子はなかった。
「あの、妖犬を操《あやつ》っている者はいましたか?」
こんなことを訊くのは不自然だろうか。プリンスのことを、関係のない人に話すわけにはいかないのに。リディアはそう思ったが、問わずにはいられなかった。
パトリックは、意外なことを口にした。
「あの場にはいなかったようです。しかしあれば、予言者と敵対する者の仕業《しわざ》です」
彼は、妖犬をあやつる者に見当がついているというのだ。
「予言者の、敵……ですか?」
「そうです、リディアさん。私たちの島に災《わざわ》いがもたらされているのは、そもそもその者たちのせいなんです」
ユリシスの妖犬ではなかったのだろうか。
マッキールの氏族が住む土地に、悪い妖精が増えて、土地の持つ生命力が弱まっている。不作が続き、家畜や人にも病《やまい》が広がる。
そんな状況を打開するために、彼らは伝説の予言者にすがろうとしているが、どうやら島に危機が訪れたのは、もともと予言者に敵がいたからだということになる。
予言者は、将来起こりうる一族の危機を予見したのではなく、敵≠ェいつか現れると知っていたからこそ、自分の力を残そうとしたということだ。
「ブライアンは、マッキールの血を引くフィル・チリースの最後のひとりです。予言者のいる聖地の場所を知っているし、中へ入ることができる。そのために連れ去られたのでしょう」
リディアは考えを中断し、顔をあげた。
「えっ、ひとりだけなの? 彼の家族や、ほかにも取り換え子の子孫がいたんでしょう?」
「悪霊妖精《スルーア》の群《むれ》に襲われて、亡くなりました。生き残ったのは彼と長老だけでしたが、その長老も間もなく亡くなり、彼は長老に、天上のフィル・チリースのもとへ行くよう勧《すす》められたそうです」
悪霊妖精《スルーア》。フィル・チリースが夜空に棲《す》む光の精霊《せいれい》なら、スルーアは完全な闇《やみ》の亡霊《ぼうれい》だ。もともと両者は敵対関係にある妖精族ではあるが、スルーアは光を恐れる。ブライアンの身内は完全な妖精ではないとはいえ、|オーロラの精《フイル・チリース》が襲われるなどということは考えられない事態だった。
「スルーアは、もともと島に多いアンシーリーコートですが、このところ活気づいて数が増え、ますます島を荒らしています。スルーアに殺された人間は、スルーアになってしまうので、悪循環《あくじゅんかん》が断ち切れません」
スルーアと口にするたび、パトリックは眉間《みけん》に深くしわを寄せた。
「スルーアの悪行《あくぎょう》も、予言者と敵対する者の仕業だということなんですか?」
「はい。すべては、災いの王子《プリンス》の仕業です。そもそもあのプリンスが、私たちの島々をアンシーリーコートの巣窟《そうくつ》にしようとたくらんだことなのです」
プリンス?
思いがけない言葉が出て、リディアは動揺《どうよう》を押し隠《かく》すのに必死になった。
災いの王子とは、エドガーの家族を殺した宿敵と同じ呼び名だ。
「災いのプリンスに抗《こう》するには、予言者の力を借りるしかありません。伯爵とブライアンを救うにも、予言者にたよるしか」
同じプリンス≠フことだとしたら、ユリシスの黒妖犬は、エドガーとブライアンの両方をねらって現れたのだろうか。
「リディアさん、マッキール家に力を貸してください。このままではアシェンバート伯爵も、あの妖精を斬《き》る剣の使い手として利用されてしまうでしょう。どうか、伯爵を救うためにも」
パトリックの言うように、リディアがエドガーのためにできるとしたら、これしかないかもしれない。
「でも……」
しかしリディアにとって、予言者の許婚《いいなずけ》≠ノなるということは、どうあってもできないことだった。
わかっているというように、パトリックは頷いた。
「……部外者には詳《くわ》しいことを話せないので隠していましたが、予言者を目覚めさせることと結婚は、本当のところあまり関係がないのです。ただ、その後に許婚≠フ女性には、予言者とともに妖精に通じる能力を発揮《はっき》してもらうことを想定して、許婚としてあったようです。夫や子供のいる女性に、予言者につきっきりになるというのは難しいですから。でもリディアさん、あなたにそこまで求めることができないのはわかります。ですから、予言者を目覚めさせることにだけ、力を貸してもらえませんか」
「本当に、結婚しなくていいんですか?」
「しかしリディア、待ちなさい。失礼だがパトリックさん、あなたの言うことを信じていいのかどうか。島へ行けばマッキール家の人ばかりだ。リディアを言いなりにするのはたやすいとお考えでは?」
父が口をはさんだ。
たしかに、パトリックの言うことを鵜呑《うの》みにして、島へ行ってみたら結婚させられるなんていうのでは困る。
でも、エドガーを助けたい。
「カールトン教授、結婚は神聖なものです。リディアさんの同意なくしては成立しません」
「だとしても、急に決められることではありませんので……」
「時間がないのです。次の満月が、十九年にいちどの機会です」
もう一週間しかない。リディアはあせりをおぼえた。
「……それを逃《のが》せば、また十九年後にしか予言者に近づけないの?」
「そういうことになります。月が最も南に沈《しず》むその夜、聖地の内へ通じる道が開きます。そこへ入っていって、予言者が眠る棺《ひつぎ》を開けてください。それで予言者は目覚めます」
「あたしがするのは、それだけでいい。そういうことですね?」
「ええ。棺を開けられるのは、妖精族の血を引くマッキール家の女だけです」
「リディア、やる気なのか?」
話が進んでいくことに、父は戸惑《とまど》ったようだった。
「父さま、母さまの一族だもの。あたしたちを悪いようにはしないと思うの」
「棺を開ければ目覚めるものなのかね?」
父はまだ、パトリックを信用しきれない口調《くちょう》だ。
「その日は魔力《まりょく》がじゅうぶんに高まっているので、場の力を吸収して目覚めるはずです」
「それにしても、あれはマッキール家の危機には勝手に目覚めるはずだと、私は聞いていましたが」
「そうですね……。ただ、予言者が自分の力では目覚めないときはどうすべきか、伝えられていたわけですから、予想されていたことかもしれません。十九年にいちどしかチャンスがないので、こちらから働きかけるということは、これまで考えられてきませんでしたが……。でももう、島の危機に猶予《ゆうよ》はありません」
頷《うなず》きながら、リディアは信じていた。これはエドガーを救うためだ。
予言者が、プリンスのたくらみと残った組織を完全に葬ることができるなら、エドガーは今度こそ解放されるはずだから。
「父さま、あたし、ヘブリディーズへいくわ」
湖に沿《そ》って、エドガーたちは歩いていた。
ずいぶん歩いているが、まだ夜は明けない。
「人間界へ出るのに、どのくらいかかる?」
エドガーが振り返りながらブライアンに問いかけたとき、急によろけた彼はその場に座り込んだ。
つらそうに眉《まゆ》をひそめ、青い顔をしている。
レイヴンがむりやり立たせようとしたが、エドガーは手振りで押しとどめた。
ブライアンの前にしゃがみ込んだエドガーは、彼の腕ににじむ血がまだ濡《ぬ》れているのに気がついた。
「血が止まらないのか? 妖犬《ようけん》の牙《きば》が入ったのかもしれないな」
「ああ……、たぶんそうだ」
「しかたがない。ここで休もう、陽《ひ》が昇るまで」
陽を浴びれば、牙は消えて血も止まる。しかしこのまま無理に歩かせれば命にかかわるだろうと考え、エドガーはそう言った。
思いがけなかったのか、ブライアンは不審《ふしん》げな顔でエドガーを見た。
「どのくらいで夜が明けるか、わかるかい?」
エドガーは問う。
「わからない」
「もちそうかな」
「運次第だろうね」
傷口から流れる血を少しでも押さえるために、エドガーはブライアンの腕にハンカチを巻きつける。そんな彼を、やっぱりブライアンは気味悪そうに眺《なが》めていた。
あとは待つしかないと、ブライアンから少し離れ、エドガーは岩の上に腰をおろした。レイヴンは、そこが自分の位置だと信じているのか、エドガーのそばに立つ。見張るように、体はブライアンの方を向けている。
みんなして黙《だま》り込めば、完全な静寂《せいじゃく》が訪れた。風の音さえしない。鳥や小動物の気配さえない。
一見人間界に似ているようでいて、妖精界は不思議な空気に満ちている。
そんな静寂に、かすかな衣擦《きぬず》れの音が割り込んだ。レイヴンが、ポケットから何かを取り出したのだった。
つやのある黒っぽい石を、レイヴンは気にしたように眺めている。
「レイヴン、それは?」
「雑木林《ぞうきばやし》で拾ったんです」
手渡されたものを眺めれば、ブラッドストーンだった。まるく磨《みが》かれた形に見覚えがある。
「ニコのブラッドストーンじゃないかな」
「やっぱりそうですか。ニコさんが落としたように思ったので拾っておいたのですが」
「返してやったらきっとよろこぶよ」
「はい」
大切そうに、またポケットにしまう。レイヴンは相変わらずの無表情だが、ニコの役に立てることをよろこんでいるなら、エドガーのために働くことしか頭になかったころにくらべ、格段に成長していた。
「……ブラッドストーン?」
ブライアンが、つらそうにしながらも顔をあげた。
「なあ、本物か? だったらそれ、貸してくれ。ブラッドストーンなら、握《にぎ》ってるだけでもフィル・チリースの血を補ってくれる」
ブライアンをちらりと見たが、レイヴンはポケットの中のものを出そうとはしない。
「これはニコさんのです」
「……ちゃんと返すってば。減るもんじゃなっ……!」
声をあげ、途中で力つきたみたいに、ブライアンは腕を押さえながらうなだれた。
「レイヴン、貸してやれ」
エドガーが言うと、ようやくレイヴンはブラッドストーンをブライアンに手渡した。
その石をぎゅっと握り込んで、深い呼吸を繰り返すうち、眉間《みけん》のしわがゆるみはじめる。彼にとっては命拾いをしたというところだろうか。
レイヴンは、鋭《するど》い目をブライアンに向けたままだ。ニコのブラッドストーンを隠したりしないか見張っている。
ブライアンはまだ、レイヴンが向ける殺気《さっき》立った視線に気づく余裕《よゆう》はなさそうだった。
「……エドガー、意外と親切なんだな。僕が義理の兄かもしれないから?」
それでも、しゃべる気力は出てきたようだ。
「きみはリディアの兄じゃない」
「じゃあ、僕がいないと妖精界から出られないからか。いや、いなくたって、プリンスの仲間が助けに来るんだろうな。とすると、僕をどうするつもり? 生かしておいて、予言者の聖地へ案内させる……。で、用が済んだら殺すのか。その恐ろしい剣で」
「僕はね、マッキール家にリディアを渡したくないからきみを利用する。だから今死んでもらっちゃ困る。でも、これとプリンスとは関係ない」
冷静に、エドガーは返した。
予言者を永遠に葬《ほうむ》る。そう決めたうえで、リディアの母の墓前に立った。あのときから、エドガーは奇妙《きみょう》に落ち着いている。
自分の意志はとっくに決まっている。そしてありのままの自分を、リディアの母は祝福《しゅくふく》してくれた。エドガーもたしかにそう感じられた。
ブライアンがエドガーのことをプリンスの手先だと思っていても、じっさいにプリンスの組織を利《り》することになるとしても、心がゆれることはもうなかった。
「妖犬の牙のこと、よく知ってるじゃないか。連中の仲間だからだろ?」
「噛まれたことがあるからだよ。牙が入って、ひどい目にあった」
ブライアンは疑いの目を向けたままだ。
「僕は、何度もプリンスに殺されかけた。仲間は大勢殺されたし、生き残ったのはレイヴンだけだ」
言葉にすればあまりにも軽くて、こんなことを聞かされたって簡単には信じられないだろうと思った。
けれどリディアは最初から、エドガーの痛みを感じ取ってくれた。重大なうそを隠していたエドガーを、助けようと必死になってくれた。
「私は、プリンスにとらわれていたのを、エドガーさまに助けられました」
言ったレイヴンの方を、ちらりと見たブライアンは、ニコのブラッドストーンに鋭い視線が注がれているのに気づき、急いで目をそらした。
「きみたちが、プリンスと敵対してたっていうのか? だったらどうして、妖犬がきみを守ろうとする?」
「さあ。妖犬は別の人間の命令で動いている。僕のいうことなんかきかなかったのは見ただろう? 妖犬の主人が何を考えているかなんて、知ったことじゃない」
「……でもあれば、妖犬を斬ったのは、|邪悪な妖精《アンシーリーコート》の剣だった。パトリックに、あんたが巨人《トロー》を殺したって聞いて半信半疑だったけど、本当なんだよな。人が、アンシーリーコートの力を使うなんて……」
ブライアンは身震《みぶる》いする。
「きみが助けを求めたんだ。あの剣がなかったら噛み殺されていたのに、僕は悪者かい?」
はっと顔をあげたブライアンは、その事実にいまさら気づいたらしく、動揺《どうよう》を浮かべた。
「……それは、でも、アンシーリーコートの魔力を直接|扱《あつか》うことができるとしたら、災《わざわ》いの王子と彼にかかわった人間だけだ」
「断言できるのか? 誰かが災いの王子をつくりだしたんだ。人から人へ伝えることができるものなら、ほかにもそういう人間がいても不思議じゃない」
眉根《まゆね》を寄せて考え込んだブライアンは、彼にとって絶対的な悪であるプリンスと、そうでないものを区別しようと必死だったのだろう。
「あり得ないよ。アンシーリーコートの秘密を得る、その方法は厳密に、ひとりからひとりへ伝えられてきた。それを知っていた家系は三つだけだけれど、どの家系でも、その知識を使うことは禁忌《きんき》だった。アンシーリーコートの魔力《まりょく》を、自ら扱う人間を作りだしてはならなかったんだ」
「三つの家系?」
「古い時代から、妖精族と縁《えん》の強かった家系。アイルランドのコノート王家。とっくの昔に神話となった一族だ。それからイブラゼルの青騎士|伯爵家《はくしゃくけ》。三百年前に消えた」
青騎士伯爵家も、アンシーリーコートの秘密を得る方法を知っていたのか。だとしても不思議ではなかった。最初の伯爵は、それを利用することを自らにも子孫にも禁じるために、宝剣の持つ魔力の半分を封印《ふういん》したということだ。
「で、もうひとつは?」
言葉を切ったブライアンが、なかなか続きを言い出さないので、エドガーは促《うなが》した。
「最後まで残ったのが……、ハイランドのマッキール家」
「まさか、プリンスを生み出したのは……」
ブライアンはうっすらと笑った。
「そいつが、アンシーリーコートの秘密を知っていた最後のひとりだった。マッキール家のフェアリードクターだった者だが、一族を離反《りはん》して、ジェイムズ王派についた。百年前の戦いの時だ。彼らは負けたけれど、恨《うら》みを募《つの》らせた一部の人間が、英国軍の追跡から身を隠し、自分たちの呪術的《じゅじゅつてき》な素養《そよう》を結集して、災いの王子を生み出したと聞いてる」
それを知ってマッキール家は、離反者がもたらした呪《のろ》いから島を守るため、予言者の力にすがる方法を考え出したのだろうか。
考え込むエドガーの方を、挑《いど》むようにブライアンは見た。
「エドガー、どうやってアンシーリーコートの力を得た? プリンスとかかわっているとしか考えられないじゃないか。ほかにはもう、その秘術を施《ほどこ》せる者がいないんだから」
「……青騎士伯爵家は、本来その術を知っているんだろう? 僕は青騎士伯爵だよ」
「本物の、青騎士伯爵の血筋《ちすじ》じゃないだろ」
エドガーは、かたわらに置いたメロウの宝剣に目をやる。妖精を斬るときでなければ、スターサファイアは醒《さ》めるように青く、ルビーの紅《くれない》はすっかり息をひそめている。
「それでもこの剣は、青騎士伯爵家のものだ。もともとそういう力を持つ剣だった。プリンスは関係ない」
自分に言い聞かせるように、エドガーはつぶやいた。
「プリンスが敵だというなら、予言者を目覚めさせるために協力すべきだろう?」
エドガーは剣をつかむ。それを手にブライアンをにらみつければ、彼はぴくりと体を引いた。
「プリンスの組織とは、長い間戦い続けてきたよ。僕は自分の運命を呪うばかりだったけれど、リディアに出会って、ようやく希望を見いだせるようになったんだ」
だから、リディアを失うくらいなら、プリンスの記憶だろうと引き受けてやると思った。
その背後《はいご》に、どんな陰謀《いんぼう》や因縁《いんねん》が渦巻《うずま》いていようと、エドガーはひとりで、このプリンス≠墓場まで持っていくつもりだ。
「だから悪いけど、僕にとってはプリンスも、きみたちの予言者も敵だ」
森を覆《おお》う空が、うっすらと明るくなりはじめていた。
夜明けはもう間近だった。
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予言者の眠る島
大小合わせれば、五百ほども島があるというヘブリディーズ諸島は、辺境《へんきょう》というには広大だった。
リディアは、父とパトリックとともに、数日をかけてようやく外《アウター》ヘブリディーズにある島のひとつにたどり着いたが、母が暮らしていたのはさらに数十マイルも北の方だと聞かされ、気の遠くなるような思いがした。
日暮れ前に、どうにかマッキール家の氏族長《しぞくちょう》が住む屋敷《やしき》へ到着したリディアと父は、そのまま客室へと案内され、ほっと一息つく。
氏族長と話ができるのは、どうやら晩餐《ばんさん》まで待たなければならないようだった。
椅子《いす》に腰をおろし、父ははずした丸眼鏡《まるめがね》を袖口《そでぐち》で拭《ふ》きながら、リディアの方を見た。
「長旅で疲れただろう? 食事の時間まで休んでおくといい」
リディアは首を横に振る。疲れは感じていなかった。エドガーの方が、つらい状況にあるに違いない。そう思うせいか気が張っていた。
「父さま、こんなところまでつきあわせちゃって、ごめんなさい」
「おまえをひとりで行かせるわけにもいかないだろう。ちょうど大学は夏期|休暇《きゅうか》だし、それに私は、遠方へ出かけるのはべつだん苦でもないからね」
ろくな交通機関のないところでも、鉱物《こうぶつ》採取のためとあらば出かける父だ。しかし今回は、それが目的ではないだけに、父にとっては不本意な旅行だっただろう。
「でも、母さまと駆《か》け落ちしたのに、いまさらあたしのせいで、親族と会うことになっちゃって……」
きっと気まずい心地《ここち》がしているのではないだろうか。
「おまえのせいじゃない。これは私とアウローラの、親としての責任だよ」
きっぱり言って、父はリディアをなだめるように微笑《ほほえ》む。
「私たちは何ひとつ後悔《こうかい》していないんだから、おまえもマッキール家に気兼ねをすることはないんだ」
リディアは強く頷《うなず》いた。
あくまで、エドガーのためになるならと思ってここまで来たつもりだ。
「しかし、意外となつかしい気がするものだな。母さまに出会った土地だと思えば、もういちど来てみたかったのかもしれない」
父は立ち上がり、窓辺《まどべ》へ歩み寄った。リディアも外の景色に視線を移す。
遠くに、霧《きり》がかかった山の峰《みね》が連《つら》なって見えるほか、視界には建物も人影も何もなかった。
ここへ来るまでの道のりでも、民家はあまり見かけなかった。ときおり廃屋《はいおく》らしいものが目についたが、畑もなく、緑の草が生えたところには羊ばかりだった。
しかしこの窓から見える風景は、岩場が多いせいか、羊の姿さえない。
「ねえ父さま、母さまのふるさともこんなふうだった?」
「少し違うな。山々は見かけなかった。風がやけに強くてね。でも、あのとき母さまといっしょに見ていた、空や空気の色と同じだ」
「なんだか、淋《さび》しい風景ね」
「不作が続いていると言っていたね。この夏も、いつもの年より天気が悪くて寒いって。そのせいもあるんだろう」
たしかに、低い雲がたれ込めていて肌寒い。太陽が見えないのは、今日だけのことではないのだろう。
暖炉《だんろ》にはあらかじめ火が入っていて、屋敷の中はあたためられていた。
「だけど、話に聞いてたほどひどい状況じゃなさそうだわ。港の近くには豊かな丘があったでしょ。南側の斜面《しゃめん》には青々と草が茂《しげ》ってて、新しい家も建ってたし、活気づいてるみたいだったけど」
「あれはよそ者が奪《うば》っていった土地だよ」
キルトをまとった人物が、戸口に立っていた。赤い髪が目立つ、快活そうな青年は、ファーガス・マッキールだ。
ロンドンで初めて会ったとき、不躾《ぶしつけ》にもリディアの許婚《いいなずけ》だと言い張った氏族長の息子は、リディアと父を見てにっこり笑った。
「カールトン教授、ここであなたがたをお迎えできるとは思ってもみませんでした。歓迎しますよ」
「リディアを嫁《よめ》にやるつもりはありませんよ」
父が釘《くぎ》をさす。ファーガスは肩をすくめる。
「パトリックに聞きました。あいつ、結婚は抜きにしてリディアさんに協力を受けてもらったって。まったく、おれの気持ちを平気で踏《ふ》みにじってくれる」
ファーガスは、リディアたち父娘の部屋に居座《いすわ》るつもりか、勝手に椅子に腰をおろした。
「でも安心してくれ。おれはリディアにできるかぎりの協力をするよ。婚約者を助けたいと、ここまで来てくれたあんたのためにね」
どうやら事情はすっかり聞いてきたらしい。
そして、しつこく言い寄る気はなさそうなファーガスに、正直リディアはほっとしていた。
「ねえ、よそ者が奪ったって、どういうこと? さっきそう言ったでしょ?」
リディアも、テーブルのそばに腰をおろす。
「あれか。島の中でもいい土地は、よそ者が目をつけて買いあさっていくんだ。そのせいでおれたちは、ますます生活に困窮《こんきゅう》することになる」
「どうしてそんな土地を売ってしまうの?」
「不作が続いてる。借金をしても返せずに、地主は土地を手放すしかなくなる。財産を失った地主も小作人も、氏族《クラン》はすべてを養いきれない。島を出ていく者は後を絶《た》たず、町や村が消えていく」
ファーガスは、急にきびしい表情になった。
「よそ者は、羊を飼う。いちばん儲《もう》かるからだ。耕作に適した土地を牧草地に変えてしまう。おれたちは痩《や》せた土地を耕して、かろうじて飢《う》えをしのいでいる。どこのクランも似たような状況さ」
一見しただけではわからない、島の変化は、何世紀もここで暮らしてきた人々を追い込んでいるようだった。
「三年前はとくにひどくて、冬を越せずに大勢が死にました」
晩餐の席で、氏族長は言った。
ダイニングルームに集まっていたのは、クランの重要な地位についている人たちばかりだったようだが、リディアには詳《くわ》しいことはよくわからなかった。
男性はほぼキルトで正装《せいそう》し、髭《ひげ》を長く伸ばしていたため、誰もがよく似ているように見えてしまう。かろうじてリディアは、真ん中に座っているのが氏族長で、その隣《となり》がファーガスだということだけは理解する。パトリックは、端《はし》の方の席にいた。
「あのう、アウローラのいた村でもたくさん亡くなったと聞きましたが。そのときのことなのでしょうか」
父が問う。
「そうです。しかしあの村は、飢饉《ききん》よりも悪霊妖精《スルーア》にやられたようなものです。彼らは妖精族とつながりがあっただけに、|悪しき妖精《アンシーリーコート》にねらわれてしまいました」
「たしかあのときは、アウローラの弟が村長を務めていたはずですが、彼も亡くなりましたわね」
氏族長の奥方がそう言った。
「生き残った者も移住してしまい、村はもうありません」
重々《おもおも》しい空気が辺《あた》りを覆《おお》い、リディアはスープをすくったものの、口に運ぶのをためらう。
ガチャン、と食器の音が響《ひび》いたのは、ファーガスの席だった。
失礼、と言いつつ、気にせず食事を続ける彼に、周囲がくすりと笑う。食事の途中だと皆が気づいたように手元を動かしはじめると、リディアもほっとしながらスープを飲んだ。
目が合うと、ファーガスはにっと笑う。
「それにしても、何世紀も私たちはこの土地で暮らして、食べ物も着る物もまかなってきたのに、こんなにひどいことははじめてですよ。夜な夜なスルーアがやって来て、人も家畜も作物も、あらゆる命を奪っていく」
「あの、スルーアは、よそから来た人たちに悪さはしないんですか?」
リディアは疑問を口にした。答えたのは、ファーガスだ。
「よそ者は気づいてないだけさ。雇《やと》われた働き手は入れ替わり立ち替わり、この島に定住するわけじゃないし、家畜も、弱ったりしたらさっさと新しいのを買い入れる。どのみち、はっきりした影響が出るとしたら数年は島の草を食ってからだろう」
「島のほかの氏族も、妖精の魔力《まりょく》の影響を理解しているわけではありません。島に根付いてきたあらゆる伝統が、この百年でずいぶん廃《すた》れました」
父は頷いている。リディアは父に問う代わりに、少し首を傾《かし》げた。
「そう、リディア、チャールズ・エドワード王子の反乱は知っているだろう? ハイランドの兵士が、たくさん王子がわについたために、その後、英国はハイランドへの締《し》め付けをきびしくしたんだ」
チャールズ王子、そうだ、プリンスの組織の発端《ほったん》は、その戦争だった。
プリンスとハイランドのかかわりに、あらためて気づかされ、リディアはどきりとした。
だから、パトリックはプリンスの存在を知っていたし、プリンスの側も予言者に危機感をいだいているのだろうか。
「ハイランド特有の文化は禁じられて、キルトも身につけちゃいけなかった。今は和解したけどね」
ファーガスがつけ足した。
「伝統というものは、いちど失われると二度とは戻らないのです。妖精と、昔ながらのつきあいを続けているのは、このマッキール家くらいのものでしょう」
灰色の鋭《するど》い目を、氏族長はリディアに向けた。
「ですからこの私たちが、アンシーリーコートから島を守るしかありません」
「でも、どうしてそんなに、アンシーリーコートが力を持ったのですか?」
止める者がいないか、確認するようにテーブルをぐるりと見まわしてから、氏族長はようやくリディアの質問に答えた。
「災《わざわ》いのプリンスが、動き始めたからではないかというのが、我《われ》らの一致した意見です」
やはり、問題はあのプリンス≠ネのだ。
リディアは黙《だま》ったまま、話を聞くことに徹《てつ》しようとした。
「カールトン教授がおっしゃったように、チャールズ・エドワード王子の反乱では、多くのハイランド人が彼を支持しました。少なくとも彼はスチュアート家の王子で、スコットランドの王族でしたから、ドイツ系で英国王におさまっていたハノーバー家より、ずっと自分たちの王にふさわしいと思えたでしょう。しかしハイランドでも、支持は分かれておりました。我々ハイランド人はそもそも、スコットランドの王族も、異国の王としか思っていなかったわけですから」
氏族長は、静かに言葉を紡《つむ》いでいった。
「しかし王子は魅力的な人物で、ハイランド人の心を惹《ひ》きつけるものがあったのはたしかです。表向き英国につきながら、敗《やぶ》れたチャールズ王子をかくまい、フランスへ逃がしたのがこのヘブリディーズに住む有力|氏族《クラン》だというのはご存じかと思います」
父は頷く。リディアもその話は聞いたことがあるような気がする。
「問題はその後です。英国の執拗《しつよう》な反逆者の追跡、ハイランドへの締め付け。反発とともに高まる、スチュアート王家への忠誠心《ちゅうせいしん》。王位|奪還《だっかん》と勝利を夢見た一部の者が集まって、英国王家への復讐《ふくしゅう》を計画しはじめたのです。それも、魔術的な方法を使って」
話は核心《かくしん》に迫りつつあった。それでも氏族長は、常に抑揚《よくよう》の少ない口調《くちょう》で、感情を交えずに続けていた。
「本当かどうかはわかりません。ただそのころ、チャールズ王子の御落胤《ごらくいん》だという子供が生まれました。彼らは、その子を新たに自分たちの王子とし、王位|継承者《けいしょうしゃ》とかつぎ上げたのです」
「しかし、本当だとしても王位継承権はないのでは」
父が言うが、氏族長は頷きながらも反論した。
「どのみち、まともな連中ではないのです。魔術を使うのに、法が関係ありますか? 御落胤だと、彼らが信じていば事足りる」
「なるほど、それもそうですね」
氏族長はパトリックの方を見た。どうやらこの先は魔術がかかわってくる。
続きを語るべく、パトリックが立ちあがった。
「その反逆者たちの中に、マッキール家のフェアリードクターがおりました。クランに伝えられ、そして禁忌《きんき》と扱《あつか》われてきたアンシーリーコートに関する知識を使って、赤子《あかご》に術を施《ほどこ》したのです」
「術……?」
つぶやいたリディアの方を、パトリックが見る。
「|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力に通じる、いわばその親玉にするような術です。これを、分別《ふんべつ》のついた大人ではなく無垢《むく》な赤子に施したのですから、彼は愛情も良心も持たない怪物に育ったことでしょう」
リディアは背筋《せすじ》が冷たくなった。
「その子が、災いの王子《プリンス》と呼ばれる存在です」
エドガーを苦しめてきたのは、そういう人物だったのだ。
「マッキール家は、一族の名誉にかけて、そのフェアリードクターを追跡し、とらえました。もちろんその男は処刑されましたが、アンシーリーコートの秘密を知っていたのはその男のみで、彼を殺したことによって、我々は一族に与えられてきた貴重な知識を失いました」
フェアリードクターとして、パトリックはそのことをひどく惜《お》しんでいる様子だった。
妖精に関する知識が、フェアリードクターの武器だ。とくにアンシーリーコートのことは、知っていればそれだけ悪い魔力から身を守れることになる。
とはいえ昔から、アンシーリーコートは人間と親しくすることがないため、その性質も魔力についてもわからないことばかり、ほとんどのフェアリードクターが、悪しき妖精に遭遇《そうぐう》したときのちょっとした対処方法しか知らない。
一方で、人間がアンシーリーコートの魔力を扱えるとならば、悪用されればとんでもないことになるのも事実だ。だからこそ、そういう秘術を知るフェアリードクターがいても、用心しながらごく一部の人間にしか伝えてこなかったのだろう。
「プリンスの組織は、とらえられなかったんですね」
「彼らは逃《のが》れました。結局、わかっていることはふたつだけです。災いの王子とその組織が、アンシーリーコートと契約《けいやく》し、妖精の魔力を用いて英国に復讐を企《くわだ》てていること。そのための拠点《きょてん》が、このヘブリディーズだということです」
彼らの組織が、アメリカで資金を蓄《たくわ》え着々と準備を進めていたことは、ここの人たちは知らない。
しかしリディアは、エドガーにかかわることをマッキール家に話すべきではないと思っていた。同様に、彼らもリディアにすべてを包み隠《かく》さず話すというつもりではないのだろう。
「ここが拠点でなければならないんですか?」
「災いの王子が生まれた土地です。ほかのどこよりも、彼と結びついている。アンシーリーコートたちは、力を蓄えたプリンスの存在を感じているのでしょう。だからこの島々に集まってきている。もしもプリンスが呼びかければ、英国中から集結するのかもしれません」
以前にプリンスが、ロンドン橋に集めたアンシーリーコートなど、足元にも及ばない数になる。
それでもどうにかリディアが落ち着いていられたのは、プリンスは死んだと聞かされていたからだった。
呼びかける者はもういないはずなのだ。けれど、勝手に集まってくるアンシーリーコートでさえ、島の人々は困窮している。
「それで、予言者は本当に、災いの王子に対抗《たいこう》できるんですか?」
パトリックが氏族長をうかがう。答えたのは氏族長だ。
「聖なる沼地で眠りについた予言者が、いつか氏族の危機に目覚めて彼らを救う。これはかなり古い伝説で、いつからあるのか誰も知りません。本当かどうか、我々には何の手がかりもない、純粋《じゅんすい》な伝説です」
「しかしあの伝説を隠れ蓑《みの》に、プリンスの組織に悟《さと》られないよう、対抗する力を蓄えることを考えたのが、当時もうひとり、マッキール家で実力のあったフェアリードクターでした」
再びパトリックが言葉を引き継いだ。
「マッキール家には常に、アンシーリーコートの秘密を受け継ぐフェアリードクターが道を踏《ふ》み外さないよう、見張り役になる者がいました。自ら予言者となったのは、その人物です」
「見張り役っていうことは、予言者となったその人物の方が、アンシーリーコートの秘密を受け継いだ人よりも力があるんですか?」
「能力で言うなら、アンシーリーコートの秘密を受け継ぐことができるのが、もっともすぐれたフェアリードクターだったと聞いています。もうひとりは、ただ一点において勝《まさ》っていたとか。何か、妖精の魔力に対抗するとくべつな力があったのでしょう」
「その人が、聖地で眠りについているんですね?」
「フィル・チリースの協力を得て、マッキール家の分家筋《ぶんけすじ》に妖精の血を注ぎ込む仕組みをつくりました。あなたも母君も、予言者に選ばれた家系なんです」
フィル・チリースは、オーロラの精。闇《やみ》を払う光の妖精。アンシーリーコートに対抗するために、力のある妖精族を選んで契約したということだろう。
本当なら、予言者を目覚めさせられる人間は大勢いた。そういう能力が絶えないように整えた仕組みのはずだった。なのに、皆が親族として近い集落で暮らしていたために絶えてしまった。
島を捨て、遠くへ駆《か》け落ちした母を除いて。
なんて皮肉《ひにく》なのだろうと思いながら、リディアは父と顔を見合わせた。
「しかし、マッキールさん、リディアはアウローラとは違います。私の娘ですから、妖精族の血は薄《うす》まっているはずです。つまり、能力が弱かった場合、危険があるのではありませんか?」
父は慎重《しんちょう》な態度だ。
「危険はありません。聖地にアンシーリーコートは入れませんし、私もついています」
氏族長ではなく、パトリックが断言した。
「おれもいっしょに行くよ。いいだろう? 父上」
ファーガスが言う。しかし氏族長は眉《まゆ》をひそめた。
「あなたでは聖地の中までは来られません。何の役にも立ちませんよ、ファーガス」
次期氏族長に平然と言い放《はな》ったのはパトリックだ。
「けど、じゃまが入らないよう、外で守りを固める必要もあるじゃないか。なあ父上、おれにクランの戦士を指揮《しき》させてくれ」
「むろん、誰かが儀式を守るべきだろう。しかし誰を行かせるかはあとで決めよう」
「おれはリディアの二番目の許婚《いいなずけ》だろ」
「ミス・カールトンは、今回のことではあくまで我々に協力してくれるというだけで、予言者の許婚でもなければおまえとも関係ない。そういうことですな、カールトン教授」
氏族長は、父にも同意を求めた。
「ええ……それは。リディアには婚約者がおりますので」
どうにも、ファーガスを同行させたくなさそうなのは、リディアはかすかに引っかかったが、大きな問題だとは思えなかった。
そのとき、ダイニングルームの窓が不自然にカタカタと鳴った。風の音というよりは、振動《しんどう》するようにビリビリと震《ふる》えはじめる。
と思うとガラスが割れ、何かが部屋へ飛び込んできた。
光のかたまりのように見えていたそれは、人の姿になって床にうずくまっている。オレンジ色の長い髪が淡《あわ》く輝《かがや》く。
「ブライアン……?」
なかば妖精の姿なのか、髪の毛は風もない室内で流れるようにゆれている。全身、うっすらと発光しているようにも見える。
何人かが立ちあがり、起きあがろうとするブライアンに手を貸した。
さっとパトリックが近づいていく。ブライアンに何かささやいたように見えたがどうなのだろう。
リディアも、急いで立ちあがっていた。
「ブライアン……、無事だったのね? エドガーは? いっしょじゃないの? どうなったの?」
駆け寄って、すがるように問う。
「リディア……」
彼は顔をあげ、口を開きかけたが、力が出ないようだった。
「話を聞くのはあとにしましょう。まずは休ませないと」
「無事なの? お願い、それだけ教えて!」
パトリックの制止に抵抗して、リディアは身を乗り出した。
「ああ……、生きてる……」
両肩をささえられ、連れていかれるブライアンから聞けたのはそれだけだった。
あとになって、ようやくリディアに伝えられたことは、エドガーはまだ敵の手の内にいるということ、ブライアンはどうにか逃《のが》れてきたということ、そしてプリンスの手先が予言者の命をねらって、島へ接近しつつあるということだったが、詳《くわ》しい説明はされなかった。
窓の外には灰色の海が広がっていた。曇《くも》り空の下、遠くの方は白く霞《かす》んでよく見えない。水平線さえ曖昧《あいまい》に、空の色といつのまにか溶け合っている。
けれどあの海の向こうに、外《アウター》ヘブリディーズの島がある。リディアの母が暮らしていたという島、そこに予言者が眠っている。
エドガーは、島影ひとつ見えない彼方《かなた》を凝視《ぎょうし》しながら考えていた。
ここは内《インナー》ヘブリディーズにある島だ。妖精界を通って、ブライアンとこの島へ出てきたエドガーだが、隙《すき》をついてブライアンは逃げた。
もっともエドガーは、この先ブライアンと同行するのは難しいだろうと考えていたところで、逃げられてもしかたのない状況だった。
町へ入れば、彼を縛《しば》りつけておくことも、剣で脅《おど》しながら連れ歩くこともできないのだ。
ただ、行き先を確認するためにアローに追わせたところ、おびえたブライアンは妖精の姿になって海峡《かいきょう》を飛び越えたという。半分人間なのだから、人間界ではかなりきつい飛行だったはずだとアローは言った。
そのアローは、ブライアンが逃げ込んだマッキール家の領地には入らずに引き返してきた。よそ者の妖精が侵入《しんにゅう》しにくいよう魔法がかかっていたらしい。
宝剣ごとエドガーが連れていってくれないと、単独では侵入できないとアローは言った。
どのみち、そういうことになるだろう。
「エドガーさま、クナート氏族長《しぞくちょう》が、よければ遠乗りにでも、とおっしゃっていますが」
レイヴンがやってきて、そう告げた。エドガーは朝食を終えたところで、ちょうどよいタイミングだった。
ここはクナート氏の屋敷《やしき》だ。もともとエドガーはヘブリディーズへ来るつもりだったし、そのときはクナート氏を訪ねるつもりだった。多少時期は早まったとはいえ、ブライアンに逃げられたあと、エドガーはクナート家のクランを目指し、ゆうべ、この町にたどり着いたところだ。
もちろんクナート氏族長は、よろこんでエドガーを迎え入れた。
「ああ、いいね。彼の土地を見せていただけるのだろう」
「では、準備をお願いしてきます」
言いながらレイヴンは、椅子《いす》の横に立てかけられていた宝剣に気づいたようだった。
「アローは帰ってきたのですね」
「うん、ブライアンはマッキール家に帰ったようだ。それからもうひとつ、重要なことがわかった」
レイヴンは、気を引き締《し》めてエドガーを見た。
「リディアは、外《アウター》ヘブリディーズのマッキール家に来ている。アローが、リディアの婚約指輪が近くにあるのを感じたと言っていた」
「やはりパトリックが」
「ああ、うまくリディアを丸め込んで、マッキール家へ連れてきたのだろう。予言者のもとへ行かせるつもりだ」
ブライアンが言っていたとおりなら、予言者を目覚めさせれば、リディアは命をけずることになる。おそらく彼女は、そのことについては教えられていないだろう。
「阻止《そし》しなければならない」
「はい」
今すぐにでもマッキール家へ乗り込んで、リディアを連れ出したい気持ちはあった。次の満月さえ過ぎれば、彼らが予言者を目覚めさせるにはまた十九年後を待たねばならない。
そのときには島の状況も、マッキール家の事情も変わっているかもしれず、またリディアが必要とされる可能性は少ないだろう。
けれど予言者は、自力《じりき》でよみがえる可能性もある。マッキール家の危機がせまっているならなおさらだ。
きっとリディアを手に入れようとするだろうし、エドガーは命をねらわれることになる。
予言者を葬《ほうむ》るには、目覚める前でないと難しいということだから、やはり満月の夜のチャンスに賭《か》けるしかなさそうだ。
あせってはならない。
確実に外堀《そとぼり》を埋《う》めていく。そのためには、クナート氏族長と懇意《こんい》になることも重要だ。
エドガーは、自分の気持ちを落ち着かせながら部屋を出た。
クナート氏は、思いのほかエドガーが早く島を訪れたことをよろこんでいた。氏族《クラン》を養っていくために、早急に資金が必要なのだ。援助《えんじょ》の話を早く進められるなら、それにこしたことはないのだろう。
並んで馬を進め、案内されるままに島の雄大な風景を眺《なが》める。なかなか目に楽しいものだったが、手つかずの荒野《こうや》や岩山を眺めるほど、きびしい自然を身近に感じずにはいられなかった。
じっさい、耕地を見かけても、初夏だというのに作物はかわいそうなほど育っていなかった。今年もきびしい不作になるだろうとクナート氏は言った。
「もはや採れるのはジャガイモくらいですよ。それにしたって、今度の冬を越せるかどうか」
エドガーには機嫌《きげん》良く接していた彼だが、自分の土地を見て回れば、やはり気持ちが沈《しず》むようだった。
「羊の放牧が盛んなようですが、どうなんですか? 今は羊毛が高く売れると聞きますが」
「はあ、あれはほとんどよそ者が飼っている羊です。彼らのように、畑も村も取っ払って羊を放すわけにはいきません。私たちは、働き手だけ寝起きする場所があればいい連中とは違って、女も子供も老人もいます。家族を養えるだけの、食べるものも住むところも必要ですから」
「たしかに、氏族の長ともならば、商売人のように単純に儲《もう》け話に飛びつくわけにはいきませんね」
エドガーは、同情するように頷《うなず》いた。
「羊毛もよほどまとまった量がないと儲かりませんし、畑がなくなれば大勢の小作人が仕事を失います。ただでさえ、よそ者に土地を奪《うば》われて島を去るしかない小作人が多いのです」
現状ではどうにもならなくて、彼はロンドンへ金策に来たのだ。しかしエドガーは、少なくとも何の展望もなく援助をするわけにはいかなかった。
「クナートさん、おわかりでしょう? 何かを変えなければ、今のままでは僕が協力するのも難しい。自給自足が難しくなってきているなら、島の外で売れるものが必要です」
「ですが、よそ者が羊を飼って儲けているのは、毛織りに加工するルートを持っているからです。羊を増やしても、買いたたかれるだけでしょう」
「ええ、ただ羊を飼っても意味がない。付加価値《ふかかち》をつけることです。大量生産できなくても、価値があれば売れます」
希望を感じたように、クナート氏は顔をあげた。エドガーはゆっくり馬を進めながら、彼と並んで話を続ける。
「機《はた》を購入して、クランで毛織りを生産すれば、羊毛を売るよりずっと高値《たかね》で取り引きできますよ。もともとあなた方には伝統的な毛織りの技術がある。仕事にあぶれた人も働ける。都市ではどれほどの人が、新しい生地を欲しがっているかご存じですか? まだ誰も着ていないような、心地《ここち》よく見栄《みば》えのいい衣服に身を包むことばかり考えているんです」
「それは……、伯爵、そのためなら援助していただけるのでしょうか」
「最初に、力になりたいと申しあげました。僕は古き良き伝統を守りたいと思っています」
エドガーは優雅《ゆうが》に微笑《ほほえ》んで見せた。
紅潮《こうちょう》したまるい顔をこちらに向けるクナート氏族長は、すっかりエドガーに心を奪われている。
とっくに、エドガーの若さなど気にならなくなっているのだろう。
いったん心をつかめば、エドガーは相手を動かすすべは心得ていた。
「ただ、条件があります。いえ、難しいことではありません。僕の、個人的な事情でぜひお願いしたいことがあるだけなんです」
「それはもう、私にできることでしたら何でもお力になりますが」
条件に不安をおぼえるよりも、エドガーの気が変わらないかどうかを心配しているのだろう、あくまで機嫌良く彼は応じた。
「マッキール家をご存じですね」
「ええ、もちろんですとも。私のクランは外《アウター》ヘブリディーズにも土地がありますが、マッキール家とは隣接しているところもございます」
「とすると、昔からご近所としておつきあいがあるのですか?」
「まあそうですな。島のクランなら、どこも氏族長どうしは存じておりますよ。しかしマッキール家は、少々変わっておりまして」
「ああ、変わり者という印象は受けましたね。いくらか無礼な態度を向けられました」
クナート氏族長が、マッキール家に微妙《びみょう》な感情を持っていると感じ取ったエドガーは、わざと否定的な言葉を使った。
「はい……、昔から少々|浮世《うきよ》離れしているといいますか、最近も、不作を悪霊妖精《スルーア》のせいだと主張しております」
クナート氏は、本音《ほんね》で話しやすくなったようだ。
「スルーア?」
「闇夜《やみよ》を漂《ただよ》う亡霊の群《むれ》とでもいいますか、島々にはよく知られた恐《おそ》ろしい妖精なんですが……」
彼は妖精を恐れてはいる。けれどマッキール家のように堂々とそう口にすることは、大人げないとも知っているからか、言いにくそうに口ごもった。
「妖精の話はきらいじゃありません。これでも僕は、妖精国《イブラゼル》伯爵ですから」
明るく告げると、クナート氏は安心したように相好《そうごう》を崩《くず》した。
「そうでしたな。これは失礼を。……つまりマッキール家も、妖精と親しかったという逸話《いつわ》がいくつも言い伝えられている家でして。彼らは、先祖はオーロラの国から来たと信じております」
なるほど、とエドガーはつぶやく。
ブライアンが言っていたとおりだ。妖精族の魔法に通じた人間の一族。三つの家系しかなかった、その、最後の生き残りだった。
「あのう、それで伯爵、マッキール家がどうかしたのでしょうか?」
「ええ、じつは……。手短《てみじか》に申しますと、マッキールの氏族長の息子が、僕の婚約者に好意を持ちましてね。少し困っているわけなんです」
「それはいけませんな」
「僕は彼女の名誉を守らねばなりません。そのために、お力添《ちからぞ》えをいただきたいのです」
「もちろん、伯爵とご婚約者のためになることでしたら、私どもにとっても名誉ですから」
クナート氏は胸を張った。
ともかく、今のところ思い通りにことは進んでいる。
これからどうすべきか。エドガーはさっと考えをめぐらす。
状況を見ながら動いていくしかないだろうが、とりあえず必要なことは何だろう。
「ありがとうございます。お願いしたいことはいくつかあるのですが、まずは、外《アウター》ヘブリディーズへ船を出していただけますか?」
「おやすいご用ですよ」
「それから、向こうに着いたら女性をひとり、僕のところへよこしてください。従順《じゅうじゅん》で働き者で大胆《だいたん》なこともできる女性を、できれば内密に」
「エドガーさま」
やや後ろからついてきていたレイヴンが、思わずといった様子で口をはさんだ。
「どうした?」
「…………いえ、何でもありません」
そう言いながらも彼は、不満げに目をそらした。
リディアがブライアンと直接話ができたのは、翌日になってからだった。
彼を見舞うことさえ、体調がすぐれないなどとパトリックに止められていたリディアだが、ちらりと覗《のぞ》いた窓の下に、ひとり歩いているブライアンを見つけ、急いであとを追ったのだった。
木製の垣根《かきね》が続く道の先で、ようやく追いつく。
「ブライアン!」
リディアの声に、彼は立ち止まった。
「兄さま、だろ」
まだ兄妹《きょうだい》ごっこを続ける気かしらと思いながらも、リディアは彼の希望をかなえるために言い直す。
「兄さま、どこへ行くの? さっきパトリックさんが、眠ってるから話はできないって言ってたばかりよ」
「ああ、あんまり質問責めにされたくないから、人と会わないつもりだった。でもリディアは別なのに、パトリックのやつわかってないな」
笑って、歩き出す。
「でも、体調は?」
「もう平気だよ」
質問責めにされたくないといった彼だが、質問するつもりで追ってきたリディアは、迷いながら並んで歩いた。黙《だま》っていると、彼の方から言いだした。
「エドガーのこと、聞きたいんだろ?」
正直に、リディアは頷く。
「本当いうと、エドガーのことはよくわからない。別のところに監禁《かんきん》されてたから。でも、生きてることはたしかだよ」
よどみなく言うブライアンが、ゆうべパトリックと急いで口裏《くちうら》を合わせたとおりにしゃべっているなんて、リディアは知らない。
無事だとしても、監禁されていると思うと、心配で息が苦しくなった。
「プリンスの手先って、どんな人だった?」
「顔は見なかった。僕の周囲にいたのは妖犬《ようけん》ばかりさ」
「レイヴンもエドガーといっしょなの?」
「あの従者《じゅうしゃ》くん? たぶんそうじゃないかな。でもリディア、きっと助けられるよ。エドガーは魔法の剣を持ってるだろ? やつらはそれを使って予言者を殺すつもりらしいから、エドガーしか使えない剣なら危害《きがい》を加えられることはないはずさ」
リディアは、自分がだまされているなどという疑問を感じる余地《よち》もなく頷いた。
ブライアンは、屋敷の西側にあった塔《とう》までやってくると、鉄製の扉を開けて中に入る。
ずいぶん古い塔だった。中は、石段が螺旋状《らせんじょう》に続いている。
「この上はとても見晴らしがいいんだ」
招かれていると感じ、リディアも階段をのぼっていく。
あぶないから、とさしのべてくれた手を取れば、急に身軽になって、羽でも生えたように軽々と石段をのぼっていける。
空を舞うフィル・チリースの魔力のおかげだろうか。
「でもブライアン、あなたが逃げたなら、プリンスの手先は聖地の場所がわからないわ。どうするのかしら」
歩きながら、リディアは訊《き》いた。
「連中は、場所なら知ってるんだろう。たぶん、魔法で守られた入り口がわからないから、僕を利用しようとしたんだろうけど、本当のところ、僕が何をしたって、聖地と縁《えん》のない人間は入れないんだ」
「そうなの? 予言者のいる内部には入れないってこと?」
「神聖なストーンサークルの中にはね。プリンスの手先は、聖地へ入ることはできない。プリンス本人でないかぎりは……。でも、彼らはそんなこと知らないんじゃないかな。エドガーを使おうってつもりなんだから。プリンス本人がひとりで乗り込むなんてことを考えてないかぎり、僕らを止めることはできないよ」
「プリンス本人は入れるの? どうして?」
ブライアンは立ち止まり、振り返った。いつのまにか、階段は終わっていた。
四角く切り取られた窓の方へ歩み寄れば、鳥になったかのように下方に島の風景が開けた。
遠景には霧《きり》がかかった岩山の峰《みね》、手前には大きく切り込んだ入《い》り江《え》が見える。ところどころに建つ家々は、ドールハウスのように小さい。
「ここからの風景が気に入ってるんだ」
フィル・チリースは、もっともっと高いところに棲《す》んでいることを思えば、ブライアンがそう言うのも頷けた。
「今の僕は、そんなに高くは飛べないけど、次の満月には聖地に魔力が満ちる。天上《てんじょう》の世界がもっとも地上に近くなる。半分人間の僕でも、純粋《じゅんすい》なフィル・チリースになって天上へ帰れるはずなんだ。そのときは、この島さえとても小さく見えるんだろう」
このままマッキール家で暮らすことだってできるのに。リディアはそう思ったけれど、やっぱりブライアンは妖精の気質《きしつ》を強く受け継いでいる。空へのあこがれはとくべつなものがあるのだろう。
「リディア、昔、|オーロラの妖精《フィル・チリース》は、あの高い峰に舞い降りて、地上へやって来た。島の美しさに心を奪《うば》われ、ここで暮らしはじめたのが、マッキール家の先祖だといわれている」
「じゃあ、マッキール家の人はみんな、フィル・チリースの親戚《しんせき》なの?」
「そうだよ。多かれ少なかれ、僕らと同じなんだ」
ほんの少し淋《さび》しそうに、けれどにっこり笑って、ブライアンはもっとも突き出た山の峰を指さした。
「聖地はあの山の向こう、ここからまっすぐに、どこまでも飛んでいけばたどり着く。下方に、沼地とストーンサークルが見えてくるはずだ」
見えたとしても、誰でも入れるわけではないという。
「プリンスが入れるわけはね」
思い出したように、ブライアンはさっきのリディアの問いに答えた。
「聖地で生まれたからさ」
「えっ」
島で生まれたとは聞いた。けれど、聖地だったなんて。
「でも、アンシーリーコートの魔力《まりょく》を扱《あつか》う能力を、赤ん坊に与えたんでしょう? アンシーリーコートが入れないっていう聖地でそんなことができるの?」
「聖地はもともと魔力の強い場所だけど、とくにそのあたりの、神聖な部分が集まっている。けれど同時に、聖地には影の部分がある。神聖なストーンサークルの影の魔力は、表裏一体となって聖地と接しているんだ。災《わざわ》いの王子《プリンス》はそこで生まれた」
「……だとしてもブライアン、百年以上も前のことよ。そのとき生まれたプリンスはもういないわ」
「後継者《こうけいしゃ》は、プリンス本人と同じことさ」
その後継者も、死んだはずだ。残った組織の者では聖地には入れない。
「入れないとなったら、連中は、聖地の外で待ち伏せして、予言者が出てきたところをエドガーを使って殺そうとするだろう。でも、予言者が目覚めれば、連中に脅《おど》されていようと操《あやつ》られていようと、エドガーは助けられる」
ブライアンは、教えられたせりふみたいに淡々《たんたん》とそう言ったけれど、リディアはエドガーを助けられるということにしか気が回らなかった。
勇気づけられた気がして、強く頷《うなず》く。
風が吹き込んで、並んで立つブライアンとリディアの髪をまきあげた。
彼の胸のポケットから、ハンカチが吹き飛ばされそうになる。リディアはそれをつかみ取り、クスリと笑った。
「もう少しで飛んでいってしまうところだったわ」
「それは……」
ブライアンは、急に複雑な表情を浮かべた。リディアはそのハンカチに見覚えがあることに気がついた。
「これ、エドガーのハンカチ……?」
「ああ、……僕が妖犬《ようけん》に噛《か》まれたから、エドガーが止血《しけつ》しようとしたんだ」
陽《ひ》を浴びたブライアンは、傷も流したはずの血も消えたのだろう。ハンカチには染《し》みひとつなかった。
「きみに、返しておくよ。僕はもう会えるかどうかわからないから」
満月の日に天上へ去るから、エドガーを助け出せても会う機会はない。そういう意味に受け取ったリディアは、素直《すなお》に頷く。
ブライアンが急いでハンカチから目を背《そむ》けたように見えたのは気のせいだろうか。けれどもリディアには、そのハンカチが、間違いなくエドガーに再会できるしるしのように思えた。
「意外と、いい人でしょ?」
何も知らないまま、リディアは屈託《くったく》なく言った。
「兄さまにはちょっと、信用してない態度をとってたかもしれないけど、エドガーはちゃんと、あたしの周囲の人は大事にしてくれるわ」
何に痛みを感じたのか、かすかに眉《まゆ》をひそめたブライアンは、けれど思い直したように笑う。
「彼が、好きなんだな」
頬《ほお》を染めながらも、これまでにないくらいリディアは素直に頷いていた。
「自信満々でうさんくさい、とか思わなかった?」
「最初はそう思ったわ。でもエドガーは、いろいろ大変なことを経験してきて、どんなふうにでも自分を演出できるけど、本当はとっても思いやりのある人なの」
いつか妹が結婚することになって、心の底から幸せそうな顔をすれば、少し淋しい気がするかもしれない。でも、自分も幸せな気持ちになるのだろうと、子供のころブライアンは考えていた。
人間界で暮らすことになる妹の結婚相手は、きっと人間だろうけれど、無骨《ぶこつ》で一本気なハイランドの男だと疑っていなかった。
なのに、ぜんぜん違っていた。
気障《きざ》なイングランド貴族。それだけならまだしも、妖精を殺せる剣を使う、邪悪《じゃあく》な魔力に通じた男。そのうえ、複雑な事情はありそうだが、このヘブリディーズ諸島を危機的状況におとしいれている組織と関係している。
祝福《しゅくふく》する気になれるわけがない。
けれどしかたのないことだ。ブライアンはひとりつぶやく。
どのみち、リディアは本当は妹ではないのだから。
エドガーのハンカチを握《にぎ》りしめ、はにかみながら微笑《ほほえ》んでいたけれど、彼女ももう、あれを返す機会はないだろうとブライアンは知っていた。
パトリックはリディアをだまして聖地へ連れていく。エドガーを助けるためではない。予言者を殺しに来るだろうエドガーは、聖地には入れないまま命を落とすことになるだろう。
リディアは、マッキール家を恨《うら》むだろうか。それでも彼女はフェアリードクターだ。|善き妖精《シーリーコート》たちと親しくし、彼らを愛する気持ちを持っているなら、島を守るために予言者に協力する気になるのではないか。
残された命が短いと悟《さと》ればなおさら、フェアリードクターとして使命を全《まっと》うしようとするはずだ。
パトリックはそんなふうに考えている。
けれどブライアンは、彼よりも少しだけ、エドガーとリディアのことを知ったぶん、かすかに感じる疑問を振り払わねばならなかった。
彼らのお互いを想《おも》う気持ちは、その程度のものだろうかと。
「おい、待てよ」
呼び止められたブライアンは、井戸のそばで立ち止まった。塔から屋敷《やしき》へ戻ってきて、リディアと別れた直後だった。
振り返ると、ファーガスが腕を組んで突っ立っている。短い赤毛が炎《ほのお》のように見えたのは、彼が怒った顔をしていたからだろうか。
「あんた、どうしてリディアに兄さま≠ネんて呼ばせるんだ」
「いけないのか?」
「あんたの妹は、リディアと取り換えられることなく死んだんだろ」
ブライアンは、身内がことごとく悪霊妖精《スルーア》にやられた一年前から、人間界の氏族長《しぞくちょう》の屋敷に世話になっているが、パトリック以外の人間と言葉を交わすことは少なかった。
とはいえ妖精界にいた一族の事情は、もちろん氏族長には伝わっているし、この跡取《あとと》り息子もそこから聞いているのだろう。
「いいじゃないか。妹になっていたかもしれないわけだし」
「は、ごまかすなよ。リディアのせいで妹が死んだと思ってるくせに」
いきなり傷口をえぐられたようで、ブライアンは黙り込んだ。
胸の奥で悲しい記憶が渦《うず》を巻く。リディアの母のアウローラが、チェンジリングを拒《こば》み、娘を取り返しに来たために、ブライアンの妹は未来を失った。
花もほころぶ年頃になれば、美しく成長し、恋もしたことだろうに、何も知らずに死んでしまった。人間でいうところ、まだ五歳だった。
逃げるように、ブライアンは歩き出そうとするが、ファーガスは目の前に立ちはだかる。
「おい、どうなんだよ」
「べつに、リディアのせいだなんて思ってないよ。強《し》いて言うならアウローラのせいだ」
「やっぱり恨んでるんじゃないか」
向き直り、彼はファーガスをにらむ。
「だったら何だ。……妹は生まれつき、妖精の気質が少なくて、妖精界の、魔力を含んだ空気が合わない体質だった。これまでも、僕らの一族にはそういう子供が生まれたけれど、人間界の子供と取り換えればいいだけで、それが当然のことだった。なのに、アウローラは拒んだ。リディアを取り返して、僕らには手出しをできないようにした。人間界で暮らせば、妹は、もっと生きていられたはずなのに」
「取り換えられたら、あんた妹とは会えなくなるじゃないか。……本当なら、妖精界のマッキール一族は、チェンジリングの場合を除いて人間界と接触しちゃいけなかったはずだろう?」
その通りだ。ブライアンは、どうにかスルーアから逃《のが》れ、パトリックに助けられた。こうして人間界にいるのは特殊《とくしゅ》な例外なのだ。
もちろん一族の掟《おきて》はわかっていたし、妹が取り換えられたら二度と会えなくなることもわかっていた。
それでも、と彼はこぶしを握《にぎ》りしめる。
「……生きていてほしかったんだ。今ごろ大きくなってるだろうとか、人間界で幸せそうに笑ってるところを、想像できればよかったんだよ……!」
空を飛ぶこともできず、なかば寝たきりだった妹を、ブライアンは大切に思っていた。
妖精界に住めば、人間の血を引いていても妖精の性質が強くなる。一族の者は、同胞《どうほう》意識はあっても、親兄弟に特別な感情をいだくことは少なく、ブライアンにとっては両親でさえ、そっけない印象がぬぐえなかった。
けれど妹とは、お互いに血のつながりを感じあえた。かけがえのない存在だと思っていた。
たぶん、よく似ていたのだ。妖精になりきれないところが似ていた。
淋しがったりあまえたりする幼い妹は、ほとんど妖精らしいところを持っていなかった。兄として面倒を見てやらねばと思うことで、ブライアンも妖精族の中では得ることができない、人としての半分をあたたかく満たされていた。
人間界のマッキール家に、チェンジリングにふさわしい子供がいなくて、妹は弱っていくばかりだったから、長老がアウローラの居所《いどころ》を突き止め、子供が生まれると聞いたときは、ブライアンは妹のためによろこんだ。
「リディアは健康だし、妖精界でも生きていけた。リディアがこちら側にいれば、もっと早く予言者をよみがえらせることだってできたかもしれないし、そうだったら僕らの村もスルーアにやられることはなかったかもしれない」
別れなければならないのはつらかったけれど、これで妹は助かるのだと思ったのに。
「恨んでたらどうだっていうんだ? きみだって、リディアが予言者の許婚《いいなずけ》になってくれないと困るんだろ!」
おさえようとした感情がほとばしる。
ファーガスに、ブライアンは突っかかる。
「彼女に気があるんだって? でもきみだって僕らと同罪だよ。一族のためなら、リディアを犠牲《ぎせい》にするんだろう?」
「犠牲?……何のことだ? おい、予言者を目覚めさせるのは、危険があるのか?」
驚くファーガスを眺《なが》めたブライアンは、おかしくなって笑い出した。
こいつは何も知らないのか。氏族長の息子でも、面倒があると思えば、パトリックは平気で隠《かく》し事をするらしい。
「べつに。危険なんかあるわけないだろ」
バカにした口調《くちょう》で返せば、ますますファーガスは怒ったように眉根《まゆね》を寄せた。
「あんた、パトリックとふたりで何をたくらんでる?」
「たくらむだって? きみの父親が許可しなきゃ、氏族《クラン》のことは何ひとつ動かせないってのに」
吐《は》き捨て、ブライアンはファーガスを振り切るようにして立ち去った。
井戸を囲む石垣《いしがき》の陰で、はみ出した灰色のしっぽが、あわてたように引っ込んだことには気づかなかった。
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愛《いと》しい人を想《おも》うゆえに
「おい、リディア、どうしてこんなところにいるんだよ」
窓際《まどぎわ》で声がした。暖炉《だんろ》のそばにいたリディアは、急いで窓辺《まどべ》に駆《か》け寄った。
「ニコ! ニコなの?」
灰色の長毛猫が窓から飛び込んでくると、リディアはとっさに彼を抱き上げる。
「もう、どうして急にいなくなったりするのよ!」
「やめろって、リディア、毛が乱れるだろ」
頬《ほお》をすり寄せれば、ニコはじたばたと暴れた。
「帰ってきてくれないんじゃないかと心配したのよ!」
「ああ、悪かったよ。勝手に出ていったりして……。あんたがここに来てるって、妖精たちの噂話《うわさばなし》に聞いて確かめに来たんだ」
リディアにぎゅうっと締《し》めつけられながらも、ニコは幼い子供にするように、彼女の頭に小さな手を置く。
長いこと生きているニコにしてみれば、リディアが自分よりずっと大きくなってしまっても、子供のようなものなのだろう。
なだめられ、ようやくリディアが力を抜くと、どうにか腕をすり抜けたニコは、テーブルの上に立って曲がったネクタイを直しながら言った。
「そんなことより、大事な話を聞いたんだ」
「大事な話?」
「重大だよ。ブライアンは、やっぱりあんたの兄なんかじゃない。チェンジリングはなかったんだ」
「……本当なの?」
「ああ、あいつとファーガスが話してるのを聞いた。でもリディア、ブライアンのやつには気をつけた方がいい。兄だとか言いながら、あんたを恨《うら》んでるかもしれないぞ」
一気に聞かされ、混乱《こんらん》しながらもリディアは、椅子《いす》に深く腰をおろす。そうして、ニコの話にしっかりと耳を傾《かたむ》けた。
母がリディアのために尽力《じんりょく》したこと、その結果、ブライアンの妹は人間界へ行くことができずに死んでしまったこと。誰もが大切な人を守りたくて、けれど誰かを傷つけてしまうことが悲しかった。
「だいたいリディア、あんたは先生とアウローラの子供だって信じてたんだろ。なのにどうしてこの島に来たんだ? またお人好《ひとよ》しなことでも考えたのか? ブライアンはもともと、あんたの同情を引いて島へ来させるつもりだったんだぞ?」
ブライアンはやさしく接してくれているけれど、リディアを恨んでいるかもしれない。少しだけ、彼のことが兄のように感じられたことを思えば苦しかった。
けれどもしかたがない。
リディアはけっして、マッキール家に同情してここへ来たわけではない。
「ニコ、あなたがいない間にいろいろあったのよ。エドガーがプリンスの手先に連れ去られて、予言者を殺すことに荷担《かたん》させられそうなの。聖地に現れるはずだから、そのときに助け出すしかないの」
ニコは悩んだ様子で、腕を組んだまま目を閉じた。うーん、とうなって、また目を開ける。
「それ、本当なのか?」
「え」
「ブライアンとパトリックが、本当のことを言ってるのか? 伯爵《はくしゃく》がつかまってなかったら?」
「でも、彼もレイヴンも行方《ゆくえ》しれずなのよ。つかまってないなら、あたしに何も言わずにどこへ行ったって言うの?」
ニコはため息をつき、テーブルから飛び降りると、肩を落として部屋の中を歩き始めた。
うろうろと室内を一周して、またため息をつく。
「なあリディア、少なくともブライアンは、あんたが妹じゃないと知っていて、うそをついて近づいてきた。ここの連中のことは信用しない方がいいぞ。かかわるのはやめて、さっさと島を出るべきだよ」
「じゃあ、エドガーはどうなるの?」
「家で待ってりゃ連絡はあるだろ。何があろうと伯爵は、あんたと結婚する気なんだから」
「連絡できない状況かもしれないのよ。妖犬《ようけん》が現れたのはたしかなの。ユリシスの手先に間違いないわ。エドガーが、妖犬といっしょに妖精界へ引きずり込まれたのも、小妖精が見てたのよ!」
リディアが泣きそうになれば、ニコも悲しそうな顔で彼女をじっと見た。
「ああ、どいつもこいつも……」
急に頭を抱え込む。
「ねえ、どうしたのニコ。このところ変よ。急に里帰りするって言い出すし、何か悩み事でもあるの?」
毛並みが少しでも乱れるのを気にするはずのニコが、頭のてっぺんがくしゃくしゃになっているのも気づかない様子でうなだれ、また急に顔をあげた。
「リディア、今夜こっそりここを出るんだ」
「出る? でも、もうすぐ満月だわ。予言者を目覚めさせないと」
「それが問題なんだ。危険を伴《ともな》うかもしれない。マッキール家のやつらはそれを隠《かく》してるかもしれないんだ。頼むよリディア、最後におれの言うとおりにしてくれよ」
「最後、……って」
怪訝《けげん》な顔をするリディアに、ニコは頷《うなず》く。
「おれ、リディアのことアウローラに頼まれてたけど、そろそろこの島に戻ろうかと考えてた」
薄々《うすうす》感じていたけれど、本気でニコがそう考えているのだと知れば、やはりショックだった。
「伯爵についていくんだろう? それは、何があっても変わらないだろう?」
それでもニコが真剣に問うから、リディアも真剣に答える。
「ええ、変わらない」
「あんたはそうだ。昔から……、いちど決めたことを変えたりしない」
「ねえニコ、エドガーといっしょにいると、いやなところがあるのはわからないでもないわ。わざとあなたを怒らせたりするもの……。でも悪気があるんじゃなくて、エドガーにとっては親しみを感じている証拠《しょうこ》なのよ。あたしからもちゃんと言っておくわ。ニコを紳士扱《しんしあつか》いするようにって。それに、そうだわ、レイヴンとは仲がいいじゃない。だから……」
「リディア、そういうことじゃないんだ」
窓辺に近づいていったニコは、背伸びして外をのぞき見た。
「長いこと生きてるほど、過去のことは遠すぎて思い出せなくなっていく。とうの昔におれは、いつからこの島にいるのか、どうしてひとりきりなのか、わからなくなってた。ただ、あの霧《きり》の山々を見てると、いつも同じことを感じる。ずっと昔から、ここにいたら誰かが、おれに会いに来るような気がしてたんだ」
「ここでまた、誰かを待つ気なの?」
「よくわからない。誰も来ないかもしれないし。でも、この島でならおれは、先のこと考えずにのんびり過ごせる。アウローラと先生の家も、リディアと伯爵の家も、いつまでもおれの家ってわけじゃない」
人の寿命《じゅみょう》は短い。親友のアウローラを亡くし、見守ってきたその娘も結婚して家を離れる。そんなめまぐるしい変化に、ニコはむなしさを感じているのかもしれなかった。
人とつきあえば、何度も悲しい別れを体験しなければならないから。
リディアはニコの前に膝《ひざ》をついて座り込んだ。
「あたし、島を出たら、もうあなたとは会えなくなるの?」
「ここへは来ない方がいい。マッキール家とは縁《えん》を切るべきだろ。アウローラがそうしたようにさ」
やはりこの島へ来てはいけなかったのだろうか。母がリディアを守ろうとし、マッキール家のしきたりをあくまで拒絶《きょぜつ》したのに、リディアが来てしまったことは、それを台無しにすることだったのかもしれない。
けれど、エドガーは?
パトリックやブライアンの言っていることが本当なら、リディアが逃げ出せば彼がどうなるかわからない。
それとも、ニコの忠告《ちゅうこく》に従《したが》うのか。
「伯爵は、必ず戻ってくるよ。おれには理解できないやつだけど、あんたをあきらめたりしない。それだけはおれにもわかる」
リディアは彼の手を取った。
「……ニコ、言うとおりにするわ」
臆病《おくびょう》で薄情《はくじょう》で、すぐ逃げ出すことを考えるニコだけれど、リディアを心配してくれているのは間違いない。
ブライアンやパトリックの言葉より、ニコを信用すべきではないか。
二度と、ニコとは会えなくなってしまうけれど。
いつまでもそばにいると疑わなかった。人間の友達がいなかったリディアが、淋《さび》しくなかったのはニコがいたからだった。ほかの妖精の友達よりも、ニコは人間のことをよくわかっていたから、妖精らしい勝手で気まぐれなところはあっても、リディアは彼と心を通わせていると実感することができた。
ニコの手のやわらかさを確かめていると、涙が頬《ほお》を伝《つた》った。
リディアが握《にぎ》りしめている手とは違う方の手で、ニコは彼女の涙をぬぐった。
その夜、リディアは父に事情を話し、そっと屋敷《やしき》を抜け出すことにした。
皆が寝入った時間、ふたりは荷物を整え、部屋から出る機会をうかがっていた。
しかしそのとき、ノックの音がした。
どきりとした。屋敷の者がちょっとした用件で訪ねてくるような時間でもない。
父はリディアに寝室へ入るよう目で促《うなが》す。
寝室へ続くドアを薄く開けたまま、リディアは父が対応するのを見守った。
「はい」
父が答えると、向こうがわからパトリックの声がした。
「こんな時間にもうしわけありません。ちょっとよろしいでしょうか」
ドアを開けると、パトリックの青白い顔が、リディアのところからもちらりと見えた。
「おや、まだお休みではなかったのですか?」
[#挿絵(img/bloodstone_169.jpg)入る]
父の服装を見て、彼は言う。しかしパトリックも昼間の服装だった。
「ええ、まあ。……ちょっと石をさがしに行こうかと。ご存じですかな? 月光のもとでは昼間とは違う色に見える鉱物《こうぶつ》があるのですよ。こういった岩の多い土地で見つかることがありますので」
父は苦しい言い訳をしていたが、パトリックがどう思ったのかはわからなかった。
「そうですか。石というと私などには、ありふれたもののように感じますが、さすがは専門家でいらっしゃる」
「あの、それでご用件は」
パトリックは手にしていた手提《てさ》げの籠《かご》を父に差し出した。
「夜回りの者が外で見つけたのですが、たしか、リディアお嬢《じょう》さんのご友人だったかと思いまして」
籠の中に、灰色のしっぽがちらりと見えた瞬間、リディアは寝室から飛び出していた。
「ニコ!」
籠を引ったくるようにして、リディアは中でぐったりしているニコを抱き上げる。
彼の体はいつになく存在感が薄くなっていて、向こうがわが透《す》けて見えそうなほどだった。
「ニコ、どうしちゃったの? しっかりして!」
けれど何の反応もない。
「魔法で魂《たましい》を縛《しば》られているようですね。プリンスの手先が接近したのかもしれません」
そう言うパトリックを、リディアは思わずにらみつけていた。
ニコをこんなふうにしたのは、マッキール家の者ではないのかと直感したからだ。むしろパトリック本人かもしれない。
きっと、リディアが逃げだそうとしているのに気づいたのだ。ニコが手引きしようとしていたのも知っていて、阻止《そし》しようとしている。
「ねえ、魔法を解いて。パトリックさん、妖精の魔法を扱えるでしょう? お願い、ニコをもとに戻して」
「残念ですが、私には無理です。でも、大丈夫ですよリディアさん。聖地へ連れていけば、きっと元に戻るでしょう」
うっすらと唇《くちびる》だけで微笑《ほほえ》む。どうあってもリディアには聖地へ行ってもらうという強い意図《いと》が感じられ、彼女は身震《みぶる》いした。
同時にそれは、ニコの言うように、リディアがだまされている可能性を示していた。
予言者を目覚めさせるということは、危険があるのかもしれないし、とにかくリディアがまだ知らないことがあるに違いない。
しかし、拒否《きょひ》することはできそうにない。明らかに、ニコを人質《ひとじち》に取られたようなものだった。
「教授、お嬢さんも鉱物に興味がおありですか。夜中に親子で散歩というのもけっこうなことですが、暗いですので足元にはお気をつけて」
リディアも寝間着《ねまき》姿でなかったことを皮肉《ひにく》るように言って、パトリックは部屋を出ていった。
父はため息をつく。
「リディア、どうするかね?」
「ニコを見捨てられないわ」
リディアはぐったりしたニコを守るように、胸に抱きしめた。
外《アウター》ヘブリディーズ最大の島は、北方に位置している。リディアの母の村があったというその島へ、クナート家の船で上陸したエドガーは、とりあえずはクナート氏族《クラン》の土地に身を寄せていた。
氏族長《しぞくちょう》の伯母《おば》が生前に住んでいたという屋敷で過ごしながら、エドガーは、この島に来たとたん、奇妙《きみょう》なものが見えることに戸惑《とまど》っていた。
ときおり空を横切る、黒い何かの群《むれ》。レイヴンは見えないと言うし、ほかの誰にも見えている様子がない。
曇《くも》り空が多く、日差しはあくまで薄いのに、やけに影がはっきりしている。草むらや茂《しげ》み、建物の陰から感じる視線のようなもの。しかし明らかに人ではない。
妖精、なのだろうか。
プリンスとつながりを持ったエドガーを、遠巻きにうかがっているのだろうか。
しかしエドガーには判断のしようもない。
クナート家にもフェアリードクターはいるようだが、魔除《まよ》けやまじないに詳《くわ》しいという以外、直接妖精と接するようなことはなさそうだった。
今となっては、リディアのように妖精に慕《した》われていたり、マッキール家ほどに力を持つフェアリードクターがいる方がめずらしいのだろう。
島は風が強く、古い窓はひっきりなしにカタカタと鳴る。そんな窓辺《まどべ》の机で、ランプの明かりにたよりつつ、エドガーは手紙をしたためる。
サインを入れ、蝋《ろう》で封印《ふういん》する。
「レイヴン、明日の朝にでもこれを執事《しつじ》に送ってくれ」
ちょうど部屋へ入ってきたレイヴンは、エドガーのそばへ歩み寄った。
「トムキンスは卒倒《そっとう》するかな」
エドガーは自分でもあきれながらつぶやく。
「では、気つけ薬も送りましょう」
「いい考えだ」
「融資《ゆうし》を決められたのですか」
とんでもない大金を、ドブに捨てるようなものかもしれない。
クナート家の毛織物《けおりもの》が産業として軌道《きどう》に乗れば、もちろん何の問題もない。しかしエドガーは、島々を救うはずの予言者を自らの手で殺そうとしている。
予言者がいなければ、島はアンシーリーコートの魔力《まりょく》に覆《おお》われ、不作や病気はますます蔓延《まんえん》するだろう。クナート家もクランの生活を立て直すのは難しくなる。
そうなると、もちろんエドガーの出資は大損を被《こうむ》るだろう。
「贅沢《ぜいたく》をさせてやれなくなったら、リディアはがっかりするだろうか」
「気にしないと思います」
「……そうか。でも、だったらどうやって、僕は彼女をつなぎ止めておけばいいのだろう」
エドガーがかかえている秘密を知ったら、気持ちが離れていくのではないかと考えずにはいられない。それでも彼は、あらゆる手を使ってリディアをそばにとどめるつもりだ。
「宝石は無理でも、花なら贈り続けられるだろうか」
「エドガーさま、でしたら万が一に備えて、私が花の咲かせ方をおぼえます」
「庭師の修業をする気かい?」
「はい」
真剣なレイヴンに、エドガーは微笑《ほほえ》んだ。
「いいね。僕も庭師になろう。リディアのための花園をふたりでつくれば、きっとよろこんでくれるだろう」
無償《むしょう》のお人好《ひとよ》しだったからこそ、エドガーは彼女に救われた。
結局、リディアのそこに、エドガーは望みをつなぐしかないのだ。
そばにいてくれと言い続ける。同情でも憐憫《れんびん》でも、心を動かしてくれるならと。
損を承知《しょうち》でクナート家に恩を売るのは、エドガーにとってマッキール家に相対《あいたい》するための切り札《ふだ》が必要だからだ。
リディアを守り、自分の身を守らねばならないからには、島のクランが一致団結して敵に回ることは避《さ》けねばならない。
クナート家はこの辺《あた》りでは権力を持つ大きなクランのひとつだ。彼らを確実に味方につけるための投資だと思えば、けっして高くはないはずだった。
「レイヴン、今夜はもう用事はないから、休んでいいよ」
エドガーは再びデスクに向かう。リディアに宛《あ》てて手紙を書く。どうにかして、マッキール家に届ける方法を考えながら。
しかしレイヴンは、なかなか立ち去ろうとしなかった。怪訝《けげん》に思い、エドガーが顔をあげると、彼は困惑《こんわく》したように口を開いた。
「エドガーさま、私はうまくうそがつけません」
「知ってるよ」
「ですから、もしもリディアさんに気づかれた場合、大変なことになります」
「何を気づかれるんだ?」
「浮気です」
エドガーは考え込んだ。最近浮気をしたことがあっただろうか? いや、なかったはずだ。しかし女性がどこから先を浮気だと思うのかは千差|万別《ばんべつ》。バレット氏のダンスパーティで何かやらかしただろうか。
「あー、レイヴン、いつどこで僕が何をしたのか、教えてくれないか」
「これからです」
「これから?」
「クナート氏に、女性の世話を頼んでいました」
「えっ、あれは……」
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》、失礼してよろしいでしょうか」
ドアの外で声がした。若い女性の声だった。
レイヴンが戸口へ歩み寄ってドアを開けると、簡素《かんそ》な身なりの少女が、スカートをつまんでお辞儀《じぎ》をした。
「氏族長に言いつかってまいりました。何なりとお申しつけください」
背中にたらしたおさげがひとつ。リディアと同じくらいの年齢かもしれないが、あか抜けない印象のせいかまだ十五、六といったくらいにしか見えず、おまけに小さく震《ふる》えている。
そういうことかと思いながら、ちらりとレイヴンの方を見ると、彼はきびしい表情で、いつのまにか寝室のドアをふさぐように立っていた。そのうえ、この場から立ち去るつもりもなさそうだ。
命じれば、渋々《しぶしぶ》言うことをきくだろうか。それとも、リディアのためにはじめてエドガーに逆《さか》らうだろうか。試してみたい気持ちになったが、そんなことを考えている場合ではないと思い直す。
「ええと、きみ、名前は?」
少女に声をかけると、意外にも毅然《きぜん》として顔をあげた。
「ケリー・クナートです。この屋敷で、氏族長の伯母上にお仕《つか》えしていました」
「働き者で大胆《だいたん》なの?」
「……わかりませんが、伯爵のお望みどおりにいたします」
明らかに度胸はありそうだった。たぶん生娘《きむすめ》だろうに、いきなり見知らぬ男の部屋へ行くように言われ、おまけにどんな要求をされても従《したが》うように言い聞かされている。
クランのために覚悟《かくご》を決められるくらいだから、エドガーの望みにも応《こた》えてくれるだろう。
なんとなく愉快《ゆかい》になって、エドガーは笑った。
「たのもしいな。クナート氏は僕の希望どおりの女性をよこしてくれたようだ。だけど、レイヴン、おまえも彼も誤解をしてるようだね」
レイヴンは怪訝そうに首を傾《かし》げた。
エドガーは立ち上がり、少女の方へ歩み寄る。エドガーの動きを追う褐色《かっしょく》の瞳《ひとみ》は、欲情するにはあどけない。
「夜伽《よとぎ》を求めたつもりはないんだけど。たしかに、そういう意味にとれるね」
「ほかに取りようがありません」
ぼそりとレイヴンはつぶやいた。
正直エドガーは、リディアのことしか考えてなかった。
「でも、せっかくそのつもりで来たなら期待に応えても」
少女のあごに指先で触れれば、従者《じゅうしゃ》の視線が背中に突き刺《さ》さった。
「……冗談《じょうだん》だよ、レイヴン」
彼女から離れつつ、部屋の中を歩きながら、どうするかと考える。
しかしもう、時間がない。できることは限られている。
「ケリー、僕は婚約者を救い出したい。きみにはまず、マッキール家へ行ってもらいたいんだ」
まだよく状況が飲み込めない様子ながらも、少女は頷《うなず》いた。
ねえエドガー、何してるの?
伯爵|邸《てい》の温室へ入っていくと、百合《ゆり》の香りがした。
アマリリス、グラジオラス、たくさんの花が香る。リディアは香りに誘《さそ》われるように、温室の奥へ入っていく。
エドガー、いるんでしょう?
こっちだよ、リディア。
声が聞こえて、リディアはほっと息をついた。
花壇《かだん》の中に姿が見える。優雅《ゆうが》な金色の髪に蝶《ちょう》がとまる。
おいでよリディア、もうすぐチューリップが咲く。
シャツの袖《そで》をまくり上げて、エドガーはスコップを手にしていた。
レイヴンが花壇に水をまいている。ガラスのドームから降りそそぐ光を水滴《すいてき》が反射して、キラキラした虹《にじ》が架《か》かる。
まるで夢のよう。たぶん、夢を見ている。
ねえ、いつから庭師になったの?
くすくすと、エドガーは笑った。
きみへの贈り物だよ。
すてきね。
気に入ったなら、僕の願いをきいてくれる?
いつのまにかリディアは、エドガーの腕の中にいる。彼女の背中で手を組み合わせた彼は、楽しそうに微笑みながらリディアを見つめる。と思うと、悲しげに眉《まゆ》をひそめる。
……聖地へ近づかないでくれ。
抱きしめられ、彼の肩に頬《ほお》を寄せながらリディアは、辺りの風景が急に変わるのを感じていた。
夜の荒野《こうや》だ。
エドガーの肩越しに、ぽつんと宙に浮かんだニコが見える。
薄《うす》く透《す》けたニコが、力なく言う。
リディア、島を出るんだよ。
山々の峰《みね》をかすめる月は、もう満月に近かった。
怖いんだよ、リディア。このままでは、きみを失ってしまいそうで。
エドガーの声が耳に残る。胸が苦しくなる。
不安になったリディアは、その息苦しさに浅い眠りから抜け出していた。
エドガーもレイヴンもいない、マッキール家の客室だ。隣《となり》の部屋に父がいるとわかっていてさえ、肌寒いほどの孤独を感じる。
どうにか首を動かせば、夜明けの淡《あわ》い光が漂《ただよ》う窓辺《まどべ》に、人形のようにニコが腰掛けていた。
ときおり起きあがったり動いたりするけれど、魂《たましい》を縛《しば》られているニコはしゃべれない。目を開けていても、どこか遠くを見つめている。そしてうっすらと透けている。
「ねえニコ、あたし、間違ってるの?」
エドガー、どうすればいいの? あなたはどこにいるの?
満月は明日にせまっていた。
「すみません! 誰かいませんか?」
表の方から声が聞こえていた。
ずいぶん早朝の来客だ。けれどリディアには関係ない。
応対する使用人の、迷惑《めいわく》そうな声が聞こえていたが、彼女はベッドにもぐり込んでまた目を閉じた。
エドガー。あたしだって、あなたを失いたくないの……。
「クナート家の使いだって?」
ファーガスは朝食のパンを口いっぱいに頬張りながら、パトリックの方を見た。
「ファーガス、氏族長《しぞくちょう》になれば、英国流のマナーは必須《ひっす》ですよ」
パトリックは顔をしかめる。が、いつものことだからファーガスは気にしない。
「父上はまだ当分元気だろ」
朝は家人が勝手な時間に食事をとるため、今テーブルについているのは、ファーガスとパトリックのふたりだけだった。
「それにしても、めずらしいな、何の用なんだ?」
「薬をわけてほしいそうです。東岸に、クナート氏族長の伯母《おば》が住んでいましたよね。その侍女《じじょ》だった娘が、薬草が採れなくなって困ってるとか言ってきたんです」
「誰か病気なのか?」
「小作人に咳《せき》の出る病《やまい》が流行《はや》っているようです」
堅《かた》いパンを山羊の乳で流し込む。
「ああいやだな。どこもかしこも弱っていくみたいで」
自分が食事を終えればさっさと席を立つ。パトリックはもう文句を言わなかった。
部屋を出て、ファーガスは応接間へ向かっていた。他のクランの女とはあまり会う機会がないから、どんな女か少しだけ興味があった。
しかし応接間には誰もいなかった。戻ろうとしたファーガスは、人影が階段をあがっていくのを目の端《はし》で認め、あとを追う。
「おい、あんた、どこへ行く」
はっと驚いたように振り返るお下げ髪の少女に、ファーガスは追いついた。
「人の家を勝手に歩き回るのがクナート家の作法か?」
「す、すみません。薬草を用意するまで待ってくれと言われていて。つい、退屈《たいくつ》で……」
少女はあわてて頭を下げた。
叱《しか》るつもりというよりは、ちょっと声をかけてみたかっただけのファーガスは、恐縮《きょうしゅく》されて困惑した。
「あ、いや、べつにいいんだけどさ。そっちは客の部屋だから」
「あの、お客さまって……、さっき若い女性の姿が見えたんですが、氏族《クラン》の方じゃありませんよね。英国風のドレスを着てらっしゃいましたもの」
急に顔をあげた彼女は、興味を持ったように早口に訊《き》いた。
「ああ、リディアのことか?」
「お目にかかったら迷惑《めいわく》でしょうか」
年齢の近い相手が気になるのか。田舎《いなか》の少女が、英国の都会の話題やドレスに関心を持つのも不思議はなかったし、リディアもこの屋敷《やしき》には話が合いそうな少女がいなくて退屈してるかもしれないとファーガスは思った。
ちょっとした気晴らしになるのではないだろうか。
「まあ、いいんじゃないか? その階段をあがっていって突き当たりの部屋だ」
少女はうれしそうに微笑《ほほえ》んで頭を下げた。
まだ子供っぽい、あんな少女が早朝から、不便な山道を越える使いに出されるなんて、クナート家も人手不足かな。そんなことを思いながらきびすを返したファーガスは、ふと気になって立ち止まった。
あの少女は、どこでリディアの姿を見かけたのだろう。
応接間からリディアの部屋は見えないし、リディアが客間から出てきていたなら、さっきまでファーガスがいた食堂から姿が見えたはずだ。ファーガスは、リディアが通りかかったなら気づく自信はある。
クナート家の少女が、ここにクランの者ではない若い娘がいると知っているとしたら、それはどういうことなのか。
気になればファーガスは、リディアの部屋へ向かっていた。
階段をのぼりきれば、話し声が聞こえる。
不作法だとは思いながらも、足音を忍《しの》ばせ、ドアに近づいて聞き耳を立てる。
「エドガーに会ったの?」
リディアの驚いたような声がした。
「はい、お嬢《じょう》さま。アシェンバート伯爵は、クナート家の屋敷にいらっしゃいます。ですからあたしがお迎えにまいりました」
「でも、本当にエドガーが?」
それはファーガスも、すぐさま疑問に感じていた。
パトリックもブライアンも、伯爵がプリンスの手先につかまっていると言った。これが罠《わな》である可能性はないだろうか。
「これをあずかってまいりました」
少女は何かをリディアに渡したらしい。椅子《いす》から立ちあがるような物音がした。
「お嬢さまはマッキール家の者にだまされているのです。伯爵はそうおっしゃっておられました。もしもあたしといっしょにここを出ることが難しいなら、今夜……」
少女が言葉を切ったのは、ファーガスがドアを開けたからだ。
リディアもクナート家の少女も、驚いた顔をファーガスの方に向けた。
「アシェンバート伯爵が、クナート家にいるって? マッキール家の者がうそをついてるって? それは聞き捨てならないな。いいかげんなことを言うと、侮辱《ぶじょく》にあたるぞ」
「本当です!」
少女は気丈《きじょう》に言い返した。
「リディア、慎重《しんちょう》に考えろ。その伯爵《はくしゃく》だという人物が、別人の可能性もあるんだ」
しかしリディアは、少女をかばうように前に出た。
「そうね、どちらが本当のことを言ってるのか、慎重に考えないと」
ファーガスは、ちらりとリディアの手元を見る。さっき少女が渡したのは手紙のようだ。
「何が書いてあるんだ?」
リディアはあわてたように手紙を背後《はいご》に隠《かく》した。
「あたし宛《あて》の手紙よ」
「プリンスの罠かもしれない」
「エドガーの筆跡《ひっせき》だわ」
「本当か? 似せることだってできるだろ?」
「だから、何なの?」
「検証する必要がある」
「個人的な内容よ」
そう言うとリディアは、ファーガスが止める間もなく、手紙を暖炉《だんろ》に投げ込んだ。
紙切れば、一気に炎《ほのお》を立てて燃え上がる。すっかり灰になるのを確認して、彼女はファーガスに向き直った。
「心配しなくても、あたしは逃げないわ。あなたたちの言うとおりにするつもりよ。でも、彼女に何かしたら気を変えるから!」
「なら、もう少し声を落としてくれ。パトリックがこのことを知ったら、今すぐ帰すわけにはいかないと言うぞ」
「……あなたは違うっていうの?」
ファーガスは悩みながらため息をついた。
この少女が、もしもプリンスとつながっていて、伯爵をだしにリディアを連れ出そうとしたなら、知らぬふりをして帰すのは愚行《ぐこう》だ。
けれどリディアはそうしたがっている。
同時にファーガスは、自分がまだ若輩者《じゃくはいもの》で、クランの重要なことをすべて知る立場にはないことを自覚していた。
とくに今回のように、妖精だの魔法だのがからむことには、口をはさむ権限がまるでない。
だったら、それを逆手《さかて》に取ったって、誰もファーガスを責められはしないだろう。
「リディア、おれはあんたの味方のつもりだ」
リディアは半信半疑な顔を向けた。
「パトリックやブライアンは、何か隠してるような気がする。伯爵の行方《ゆくえ》に関しても、真実だけを言ってるかどうかわからない。だからって、このお嬢さんの言うことが本当だとは限らないけどな」
少女の方をちらりと見ると、彼女は緊張《きんちょう》したように肩を震《ふる》わせた。
「隠してることがあるにしろ、クランのためを考えてる。それがパトリックの仕事だし、彼は信念を持ってそうしてるけど、おれはまだ、そこまで責任を背負ってない。だから、あんたの味方になれると思う」
「ファーガス、じゃあ、このことは黙《だま》っておいてくれるの?」
「あんたがそう望むならね」
ようやくリディアは、ほっとしたように表情をゆるめた。ファーガスもなんだか安堵《あんど》する。リディアに警戒《けいかい》した顔をされるのはいやなんだと気がついた。
「彼女を、何事もなく帰らせてくれるのね?」
「ああ、約束するよ。でもすぐに応接間に戻った方がいいな。おれが話し相手をしてたふりをしよう」
頷《うなず》き、リディアは少女の手を取って促《うなが》した。
「ケリー、気をつけてお帰りなさい。心配はいらないわ。この人は氏族長の息子。約束をたがえるような卑怯《ひきょう》なことはしないはずよ」
ファーガスは通路や階段に誰もいないのを確かめ、少女を連れて部屋を出る。
「ありがとう、ファーガス」
戸口で、リディアがそっとささやいた。
触れあうほどに近づき、カモミールの香りを感じると、なんとなく彼はやるせない気持ちになった。
「ああ、あいつより早く出会ってりゃ……」
「え、なあに?」
「何でもないよ」
ケリーが馬車に乗り込み、その姿が遠ざかるのを見とどけたリディアは、ほっとして息をついた。
部屋の中に視線を移す。夏でも朝夕は欠かせない暖炉の火は、今は消えかけていたが、リディアが放り込んだ手紙はもう痕跡《こんせき》もなかった。
エドガーの筆跡を、頭の中に思い浮かべる。
まださっと目を落としただけだった手紙だ。内容は読み切れなかった。
それでも目に焼き付いている文章がある。
予言者の許婚《いいなずけ》は、命をけずることになる
たしかにそう書いてあった。
だからリディア、僕を信じて、言うとおりにしてほしい
パトリックもブライアンも、このことをリディアに隠していた。危険はないと言ったのだ。
ニコはそれを感じ取ったのか、リディアに忠告に来たけれど、魔法で縛《しば》られてしまった。これもパトリックがやったのかもしれない。
この手紙を届ける少女とともに、マッキール家を抜け出すことができるだろうか? 難しいか、そうすることに身の危険を感じるなら、別の場所で落ち合いたい
パトリックとブライアンがほかにもうそをついているとしたら、やはりエドガーのことだろう。プリンスの組織にとらわれたと言っていたけれど、どうやらそうではなかったようだ。
リディア、僕は予言者を葬《ほうむ》るつもりだ
もしかすると、彼らはこの可能性に気づいているのかもしれない。
プリンスの組織に強制されているのではなく、エドガーが自ら、予言者を葬るために聖地へ向かっていると気づいているのだ。
そうせねばならないから、今すぐきみを迎えには行けない。けれど、きみが聖地へ連れていかれるなら、そこで会うことができるだろう
でも、エドガーは、聖地へ入れないことを知らない。
聖地へ入っても、彼らには従うな。きっと僕が救い出すから、予言者を目覚めさせてはだめだ。僕は信じている。何があってもきみは、僕の婚約者でいてくれると
リディアが目覚めさせさえしなければ、眠ったままの予言者を葬れると考えているのだろうか。
どうしよう。リディアはあせりながらオークの椅子《いす》に座り込んだ。
とにかく、エドガーの求めるとおりにするしかないだろう。リディアは予言者にはかかわらない。強制されるかもしれないけれど、ニコは聖地へ入れば魔法が解けるはずだし、逃げ出すことだけを考える。
近くにいるはずのエドガーと会えれば、彼は予言者を葬ることを断念していっしょに逃げてくれるだろうか。
予言者を殺そうとするなんて、聖地は魔法の領域だし、エドガーがどうなるかわからない。
リディアを守ろうとしてのことならなおさら、エドガーにそんな大それたことをさせてしまっていいのだろうかと悩む。
何があっても婚約者でいてくれると信じている。その言葉に込められた意味を知る由《よし》もなく、リディアは考えていた。
だけど、予言者が目覚めること自体は、けっして悪いことではない。
命をけずるというのがどの程度のことかはわからない。たしかに不安だけれど、エドガーがまだプリンスの組織に目をつけられているなら、予言者は助けになる存在ではないのだろうか。
「エドガー……、あたしだって、あなたを守りたいの」
寝室にいたはずのニコが、いつのまにかテーブルの上にちょこんと座っていた。しゃべらないし、眺《なが》めていても動かない、それでも彼は今、ほんのわずかに残った意識で、リディアのことを気にかけていてくれる。
「ごめんね、ニコ。あたし、あなたのことよくわかっていなかったわね」
ニコにとって、母はとくべつだったのだろう。だからリディアのそばにもいてくれた。
母が危険を冒《おか》しても、妖精界から取り戻したリディアを、ニコはちゃんと見守っていてくれた。
今度は自分の方から、大切な人に愛情を与えられるようになりたいとリディアは思う。
「リディア、退屈《たいくつ》してないかい?」
ブライアンの声がした。戸口から覗《のぞ》き込んだ彼は、少し驚いたように部屋の中を見まわした。
「一人で部屋にこもってるみたいだって聞いて、心配したけど、ずいぶんにぎやかなんだね」
にぎやか? 怪訝《けげん》に思いながらリディアも周囲を見まわすと、床が草花だらけだった。
足元に積み上げられたクローバー。ラベンダーやローズマリー、セージの花が床に敷きつめられたようになっている。
考え事をしている間に、妖精たちの訪問を受けていたようだった。
リディアが沈《しず》んでいる様子に、元気づけようとしてくれたのだろうか。
ここに来てから、たくさん小妖精を見かけたし、ビスケットをあげたりもしたけれど、彼らがリディアを気にかけてくれていたとは知らなかった。
「きみは、めずらしいくらい妖精に好かれやすいんだな」
「めずらしいの? 母さまもそうだったわ」
「フェアリードクターを妖精は信用するけど、必ずしも親しみを持つわけじゃないよ。パトリックなんか、有能だけど、どっちかっていうと小妖精のたぐいは怖がって近づかない」
リディアはくすりと笑った。
「母さまは、本当に妖精のことがよくわかっていたんだと思うわ。でもあたしは、フェアリードクターとしては未熟《みじゅく》だから、怖がられてないだけよ」
微笑《ほほえ》みを返すブライアンは、やさしげにリディアを見つめる。リディアのことを恨《うら》んでいるようには見えないほどだ。
それとも、この一瞬に本当の妹の姿を重ねて見ているのだろうか。
「ねえ、ブライアン兄さま、あたしは知らないうちに、誰かを傷つけてきたかもしれない」
かすかに彼は眉《まゆ》をひそめた。リディアは気づかないふりをしながら、ニコの方を見る。
「ニコだって、そばにいてくれるのが当たり前だと思い込んでて、彼の考えてることを問うこともなかったの。でも、エドガーはそんな未熟なあたしでも好きになってくれたから、彼だけは、傷つけるようなことしたくない」
考えながら足元のクローバーを拾いあげ、彼女は顔をあげた。
「エドガーを救うために、聖地へ行くわ」
「リディア……」
何か言いたげに口を開きかけたが、ブライアンはそのまま黙《だま》った。
「クランのためじゃないわ。兄さまは、エドガーのいいところ、少しはわかってくれるでしょう?」
エドガーのハンカチを持っていた。妖犬《ようけん》に噛《か》まれたというのはうそじゃないだろうし、エドガーといっしょにいたのも本当だと思うから、ブライアンがリディアを恨んでいるとしても、エドガーを想《おも》う気持ちはわかってくれると信じたかった。
「ねえブライアン兄さま、これをあげる」
手元のクローバーを、ブライアンに差し出す。
妖精が運んできた、四つ葉のクローバーだった。
地上を離れ、フィル・チリースの故郷《こきょう》へ向かうブライアンが、これまで失ったものよりも、たくさんの幸せを得られるようにと願う。
受け取ったブライアンは、四つ葉に気づきリディアを見た。
「きみだって幸運が必要だろう?」
「あたしは昔から、取り換え子であってもなくても、幸せ者だから」
素直《すなお》な気持ちで、リディアは微笑んでいた。
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聖地に集《つど》う者たち
ケリーがひとりでクナート家へ戻ってきたとき、エドガーは落胆《らくたん》を隠《かく》せなかったが、予想していたとおりといえばそうだった。
マッキール家の様子を訊《たず》ねれば、リディアはけっして監禁《かんきん》されているわけではないが、家の者に見張られているようで、ひとりで外出することはどうしても難しそうだったという。
残された時間も少ない。やはり、聖地でリディアを奪還《だっかん》するしかない。
決意したエドガーは、クナート家に馬を借り、これから聖地へ向かおうとしていた。今夜の月の出までに、聖地へ着かなければならないのだ。
「伯爵《はくしゃく》、本当におひとりで、マッキール家へ行かれるのですか?」
クナート氏族長《しぞくちょう》は、外へ出てきたエドガーに、心配そうに近づいてきた。
「ええ、マッキール家にも英語が通じる者はいるでしょうから、大丈夫ですよ」
もちろんエドガーは、マッキール家と話し合うつもりはないが、クナート氏にはそういうことにしてあった。
「私どもがマッキール家に、ご婚約者を帰すよう交渉《こうしょう》してみることもできますが」
「いや、話はもっと複雑なんです。問題の男が、早まって彼女を傷つけないとも限りません。今は僕ひとりで」
クナート氏は、太い眉《まゆ》を神妙《しんみょう》にひそめて頷《うなず》いた。
「わかりました。この島を出る船は用意しておきます。内《インナー》ヘブリディーズへ渡れば、マッキール家の手は及びにくくなるでしょう」
「ええ、よろしく頼みます」
リディアを取り戻し、予言者を殺す。そうしたならエドガーは、マッキール家の者に追われることになるだろう。この島から抜け出すルートは重要だった。
「伯爵、お役に立てなくてすみませんでした」
ケリーがおずおずと姿を見せた。背中に三つ編みを垂らした少女は、素朴《そぼく》な印象ながら、たしかに働き者だった。
「じゅうぶんよくやってくれたよ」
エドガーがそう言っても、彼女は納得《なっとく》できない様子でうつむいていた。
「リディアが手紙に目を通してくれたならいいんだ」
「はい、わずかな時間でしたが、ミス・カールトンは一読《いちどく》なさったはずです」
「うん、きっと僕の考えは伝わっているだろう」
取り上げられそうになり、暖炉《だんろ》に放り込んだというから、内容を把握《はあく》したはずだ。
マッキール家の者に知られてはいけないと気づいたなら、少なくともエドガーが予言者を殺すつもりだということは理解しているに違いない。
リディアはどう思っただろうか。
エドガーが予言者と、根本的に対立する者だということを目《ま》の当たりにしたら、彼を軽蔑《けいべつ》するだろうか。
信じていると書いたけれど、本当のところエドガーは、みじんも自信がないのだった。
けれどももう、後には引けない。
「レイヴン、行こう」
空は薄《うす》く曇《くも》っている。今夜の月は見えるのだろうか。見えなくても、聖地が開かれることに支障《ししょう》はないのか。魔法のことは、相変わらずエドガーにはわからない。
それでも彼は、道案内も頼まず、レイヴンとふたりだけで荒野《こうや》に馬を進めた。
聖地があるというこの島へ来てから、エドガーは、常にひとつの方向から自分を引き寄せる力を感じていた。
そのまま導かれれば聖地にたどり着くと、奇妙《きみょう》な確信があった。
聖地の正確な場所は、プリンスなら知っているとユリシスは言った。たぶん、エドガーの中のその記憶が、聖地へと引き寄せられているのだ。
ハイランドで挙兵し、ヘブリディーズの氏族《クラン》の力を借りて逃亡《とうぼう》したチャールズ・エドワード王子、彼の代わりに、打倒《だとう》ハノーバー王家を誓《ちか》った一部の者たちが、災《わざわ》いの王子《プリンス》をつくりだした。それにマッキール家を出奔《しゅっぽん》した人物も荷担《かたん》していたというのだから、最初のプリンスが何らかの形で聖地とかかわりがあるとしても不思議ではなかった。
北へ向かえば、平坦《へいたん》な地形が多くなる。道らしい道はなくとも、エドガーは荒野を突っ切っていく。レイヴンは、そんなエドガーに何も問わない。
夏の陽は長く、なかなか沈《しず》む気配《けはい》はない。
やがて前方に、ぽつんと黒っぽいスタンディングストーンが見えてきていた。
まるでエドガーの行く手を阻《はば》むように、立ちはだかっている。
近づいていって、彼は気づいた。
これまで見かけたスタンディングストーンとはどうにも違う。うっすらと向こう側が透き通って見える、巨大な煙水晶《スモーキークオーツ》の結晶柱《けっしょうちゅう》だった。
さらに先へ行こうと、彼は馬を進めるが、スタンディングストーンのそばを通り過ぎたとたん、それはまた前方に立ちはだかる。何度試しても同じことだ。
「結界《けっかい》か……」
おそらくこれは、聖地を囲む魔よけなのだ。
「エドガーさま、どうなさいますか」
少し考え、エドガーはメロウの宝剣を抜いた。
「破ればいいんだろう。レイヴン、あとに続け!」
剣を振りかざしたまま鐙《あぶみ》を蹴《け》る。
スタンディングストーンに向かって突っ込んでいく。
剣を振り下ろす、と同時に、意外なほどのもろい感覚で、煙水晶が飛び散った。
とたん、周囲の風景が変わった。
すっかり夜になっている。目の前には湖が広がって、キラキラと虹色《にじいろ》に輝《かがや》いて見える。
空を映しているのだ。そう気づき見あげると、夏の夜空なのにオーロラがゆらめいていた。
月はまだ出ていない。
ただオーロラが、まるで道しるべのように、湖の向こうへと空に横たわっていた。
急に馬車が止まった。リディアは座席から落ちそうになって、あわてて体に力を入れた。
「大丈夫かい?」
隣《となり》に座っていたブライアンが言う。
「ええ。どうしたのかしら」
窓から顔を出すと、馬に乗ったファーガスが近づいてきた。
「パトリックのやつが馬車を止めさせたんだ。しばらく待ってくれ」
結局ファーガスは、希望していた聖地への同行を氏族長《しぞくちょう》に許された。ファーガスの立場を考えれば、当然の人選だった。
「何かあったの?」
「島の守りの石が……」
言葉を切って、ファーガスは道の前方に目をやった。
何もない荒野《こうや》に、ぽつんとスタンディングストーンがある。その前に、パトリックが立って石にじっと見入っていた。
リディアは馬車を降り、スタンディングストーンに近づいていく。
馬車に乗ったリディアたちと、馬で同行する数人のマッキール家の者たちは、今夜、予言者を目覚めさせるために聖地へと向かっているところだった。
ずいぶん長いこと馬車にゆられ、もうすぐ目的地だと聞いた矢先に、パトリックが馬車を止めさせたという。いったいどうしたというのだろう。
「結界が破られている」
そう言いながら、パトリックが表面を撫《な》でる立石《スタンディングストーン》は、濃《こ》い茶色をした透き通った石だった。
煙水晶。けれどその内側に、くっきりとひびが入っている。表面には亀裂《きれつ》も何もなく、まるで内側から力が加わったかのようだった。
「これは、結界なんですか?」
「聖地を取り囲むものです」
「同じようなものが、島に複数あるはずなんだ。ぜんぶでいくつあるのか、そしてどこにあるのかは、誰も把握《はあく》してないけどね」
ブライアンが言いながら、背後《はいご》から石を覗《のぞ》き込んだ。
「どこか別の場所で、柱が壊《こわ》されたに違いありません。破壊の力がここにまで及んだとすると、その誰かは、聖地を囲む領域《りょういき》に侵入《しんにゅう》を果たしたことでしょう」
エドガーだ。リディアはそう直感していた。
「でも、いくらプリンスの組織の者でも、聖地の内部までは入れないんだろ」
ファーガスの言葉にパトリックは頷くが、こんなふうに守りの石を壊されることは予想外の事態なのか、きびしい表情をゆるめなかった。
「先を急ぎましょう」
促《うなが》され、リディアとブライアンは馬車に戻る。
間もなく、再び馬車は動き出した。
ニコは馬車の片隅《かたすみ》に座っている。ぬいぐるみのように動かないけれど、半分透き通っているだけにいつもより妖精らしく見える。
リディアの兄≠ニして、馬車に同乗しているブライアンは、十九年にいちどの満月と聖地の力を借りて、フィル・チリースの国へ旅立つ。
パトリックはもちろんフェアリードクターとして、ファーガスは氏族長の代理としてこの一行を引率《いんそつ》しているが、リディアの父は同行していなかった。
マッキール氏族長も、最低限の人間しか聖地に近づけたくはなさそうだったし、リディアもその方がいいと思った。
危険があるかもしれないならなおさらだ。
出発前、リディアはこっそりと父に、エドガーからの手紙のことを話した。
エドガーとニコといっしょに聖地を抜け出すつもりだから、父には、今夜中に何とか理由をつけて港町へ向かってほしいと頼んだ。
マッキール家が支配する土地を出れば、束縛《そくばく》されることなく自由に行動できる。
それに、彼らはリディアを屋敷《やしき》にとどめようと必死になっていたが、父がひとりで買いたいものがあると町へ出かけることを止めはしないだろうと思われた。
明日には、エドガーと父と、この島を出られるのだろうか。
エドガーが近くに来ている。
考えればリディアの鼓動《こどう》が早くなる。
でも、彼には予言者を殺せない。
どの程度、自分は生命を削ることになるのだろう。
リディアにしかできないというなら、エドガーのために予言者を目覚めさせる。
プリンスの組織がまだ力を保っているなら、エドガーが本当の意味で組織の追跡から自由になるためには、きっと予言者の存在が必要になるはずだから。
しかし彼女は、それ以上予言者やマッキール家とかかわるつもりはなかった。エドガーを説得して、そのまま彼と島を出る。
うまくいくのかしら。
馬車の中も外も、いつのまにか暗くなって、一行は夜道を進んでいた。
空にはオーロラが、光のベールとなって丘の向こうへ続いている。
「あのオーロラは、聖地から流れてきているんだ」
ブライアンが言った。
丘の向こうに聖地がある。もうすぐだ。
リディアは、婚約のあかしである薬指のムーンストーンに無意識に触れていた。
「ねえ、ブライアン兄さま、ひとつだけ、教えてほしいことがあるの」
リディアの深刻な問いに、ブライアンは戸惑《とまど》いを浮かべた。
「予言者を目覚めさせたら、あたしはどうなるの?」
「え……、どうって」
「少しでも、あたしを妹みたいに思ってくれたなら隠《かく》さないで。どのくらいの危険があるのか、知っておく権利くらいあるでしょう? あたし、逃げるつもりはないから」
まっすぐに彼の目を覗き込めば、ブライアンも真摯《しんし》な視線を返してくれた。そうして、ゆっくりと口を開く。
「危険というよりは……、きみの生命の力を予言者に与えることになるんだ。でもきみは若くて健康だし、すぐに影響が出るわけじゃないと思う。……持って生まれた寿命《じゅみょう》を縮めることにはなるかもしれないけど」
なら、考えていたよりも時間は残されるかもしれない。リディアはいくらか安堵《あんど》していた。
自分は意外と、結婚するのを楽しみにしていたようだ。
準備も進めてきたし、今回のスコットランドへの帰郷を終えたら式を挙げると決めていた。
エドガーと再会して、早くロンドンへ帰りたい。ちゃんと彼と夫婦になる、そのくらいの時間は残されているだろう。
馬車が丘をのぼりきれば、下方には沼地に囲まれたストーンサークルが見えていた。
細長い岩が地面に突き立てられたように並ぶサークルの中央には、石舞台のように巨石が横たわっていた。
リディアは辺《あた》りを見まわすが、自分たちのほかに人影は見あたらなかった。
沼地の方は暗くてよく見えない。エドガーは来ているのだろうか。
リディアは連れてきていたニコをサークルの片隅に座らせる。月が聖地と接して魔力《まりょく》が満ちれば、自然と魔法が解けるはずだった。
パトリックは、リディアを石舞台の前へ連れていく。そこから眺《なが》めれば、まるい月は玉座《ぎょくざ》のような石舞台の斜め上の方にあった。
「間もなく月が、あの岩の上に降臨《こうりん》します。聖地の奥へつながる扉が開かれますが、中へ入れるのは私たち三人だけです」
リディアと、そしてパトリックとブライアンだけだという。この地の魔法とかかわりの深い人間だけ。
「ファーガスたちには、プリンスの手先の攻撃に備えて、ここを守っていてもらいますから。ご心配なく、アシェンバート伯爵《はくしゃく》を人質《ひとじち》にしてくるとしても、彼の安全は保証します」
けれどたぶん、パトリックは知っている。エドガーは組織の人質になどなっていない。単独で、予言者を葬《ほうむ》ろうとしている。
だからこうして引き連れてきた戦士たちは、エドガーを警戒《けいかい》したものだ。
ファーガスも戦士たちも、そのことは知らないのだろうけれど、誰であれ、この領域には近づけまいとするだろう。
どのみち、聖地の奥に入ることのできないエドガーとレイヴンには、どうしても予言者を葬ることは不可能なのだ。
リディアにできることは、エドガーがよほど無謀《むぼう》なことをしないよう祈るだけだった。
石舞台の前に立ったまま、誰もがじっと待っていた。少しずつ月が動いていく間、ひたすら黙《だま》って立っているだけだ。
けれど月は、確実に、石舞台を目指して舞い降りてきているように見えた。
はるか昔に、月の動きを計算し尽《つ》くして造られた石の遺跡《いせき》は、人が天と地のエネルギーを魔術に利用するためのものだったと、リディアはあらためて感じている。
あたりは神聖な空気に満ち、静かに呼吸を繰り返すほど、何かが体に染《し》みわたる。爪《つめ》の先、髪の毛の先まで、不思議な力に包まれていく。
この巨石の遺跡は、過去の遺物ではなく今も生きている。
全身でそう感じ取りながら、リディアは石舞台に見入っていた。
月光は、柱のように並ぶ岩も、地面に敷き詰められた石も白く照らし、その反射光か、辺《あた》りは淡《あわ》い光に満たされている。
しかし光を感じるほどに、ストーンサークルの岩影は、くっきりと黒く地面に落ちる。
その黒い影を眺めているうち、リディアは軽いめまいを感じた。
風景がぶれたように見える。目を凝《こ》らすほどに、その微妙《びみょう》なずれははっきりと存在感を持って感じられる。
周囲のストーンサークルに重なって、もうひとつのサークルが存在している。
それはこの明るい月光を押しのけて、岩に影をくっきりと刻む。
表裏一体だという、もう一方の、影の聖地だ。
十九年にいちど、この場所に最大の魔力が集う。それは、ふたつに分かたれていた聖地がこの瞬間に重なるということに違いない。
月が石舞台に舞い降りて、天と地が、そして光と影がひとつになったとき、聖地は完全な姿を現すのか。
今や誰もが、身じろぎもせず、間近に迫ったその瞬間を待つのみとなっていた。
しかし、パトリックがはっとしたように首を動かした。
サークルの外に向けられた視線の先に、馬に乗った人影があった。
「エドガー……」
リディアはつぶやく。
そのときエドガーは、リディアではなく、立ちはだかるクランの戦士たちを注視《ちゅうし》していた。
月光に輝《かがや》いて見える金色の髪は、まだ完全な姿を現していない聖地よりも神々《こうごう》しいほどなのに、彼が手にした剣は、光を反射することなく暗く沈《しず》んだ色をしている。
剣を飾るのは、くっきりと赤いスタールビーだ。いつもの青いサファイアが、赤く色を変えたとき、メロウの宝剣は|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力を帯《お》びる。
エドガーはすでに戦う気だ。
速度をゆるめる気配《けはい》もなく、彼は馬を走らせる。サークルへと突っ込んでくる。
レイヴンがすぐあとに続く。
「ファーガス、止めてください!」
「わかってるよ!」
パトリックが叫《さけ》んだときには、ファーガスとクランの男たちは馬をエドガーの方に向けていた。
「やめて、エドガー! ファーガス!」
駆《か》け寄ろうとしたリディアの腕を、ブライアンがつかんだ。
「乱闘《らんとう》の中へ駆け込んでいくつもり?」
「でも」
「月が降りる。聖地の入り口が開きますよ」
パトリックはリディアの視界をさえぎり、石舞台の方へ押しやろうとした。
剣のぶつかり合う音が聞こえた。
レイヴンが馬上からジャンプし、エドガーに斬《き》りかかろうとした男に飛びかかる。そのまま馬から引きずりおろすのがちらりと見えたが、リディアはふたりに両側から挟《はさ》まれ、振り返ることができなくなった。
「リディア、行くな!」
エドガーの声が耳に届く。
リディアは迷い、足を止めようとする。
取っ組み合ったファーガスを殴《なぐ》りつけて振り切り、エドガーが走る。
「エドガー、無茶をしないで! 予言者はあなたの味方になるはずよ、だから……」
「……違う、僕は……」
エドガーが追いつく。リディアを引き寄せようとする。
そのとき急に、サークルの中に光があふれた。月がちょうど、石舞台の上に舞い降りたように見える瞬間だった。
「聖地が開くぞ!」
ブライアンの声が聞こえると同時に、リディアは、ふわりと体が浮くように感じていた。
目に見えない力が加わって、エドガーの手が離れる。
「あたしは、大丈夫だから、待ってて!」
彼の姿は見えないまま、リディアは叫ぶ。
風がやわらかく全身を包み込んでいた。飛んでいるというよりは、ゆっくりと落下している感覚だ。
淡い光があふれていて、周囲は見えない。
きっと聖地の奥深くへ導かれているのだ。
考えているうち、いつのまにかまた、足元に地面の感覚がよみがえってきた。
光もしだいにおさまってきて、周囲が少しずつ見えてくる。さっきとそっくり同じストーンサークルに囲まれていたが、サークルの中は、波打つ水にも似たゆらめく光にあふれていて、並び立つ石だけが、奇妙に浮かび上がって見えていた。沼地や丘や、夜空さえもあるのかどうかわからない。
まるでオーロラに包まれているかのようだ。
そう思って見あげると、上空で輝《かがや》くような何かがひらひらと舞っていた。
オーロラの精、フィル・チリースが集まってきている。遠く天上《てんじょう》にある彼らの世界と、この聖地とが接近したからだろうか。
ふと、サークルの中に立つ人影が目についた。リディアが視線を向けた先に、ブライアンがいた。
彼はまぶしそうに、フィル・チリースの群《むれ》を見あげている。舞い降りてきた彼らに、そっと手をのばす。
ああ、行ってしまうのね、ブライアン兄さま。
リディアはつぶやく。
彼はリディアの方を見て、どこか淋《さび》しげに微笑《ほほえ》んだ。
そしてフィル・チリースたちと同じように、不思議な光に輝きはじめる。
あたしは、あたしの役目を果たさなければ。
気持ちを引き締《し》めて、リディアは正面に顔を向けた。
棺《ひつぎ》が見える。サークルのほぼ中央に、石の棺が横たわっている。
サークルの立石《スタンディングストーン》に似た、白い石でできた棺だった。
歩き出そうとしたとき、声が聞こえた。
「リディア、だめだ」
エドガー?
振り返る。ゆらめく光の中に目を凝らせば、そこに姿を現したのは、間違いなくエドガーだった。
「予言者は、僕が葬る」
「……どうして、あなたもここに」
無関係な人物は入れないはずではなかったか。
深紅《しんく》のスタールビーが輝く、抜き身の剣を握《にぎ》りしめたまま、エドガーはリディアをまっすぐに見ていた。
「あれが目覚めても、僕たちを救ってはくれない」
「どういうことなの?」
「ミス・カールトン、下がって!」
パトリックがリディアの腕を引いた。いつの間にそこにいたのか、エドガーからかばうように、彼はリディアの前に出る。
「パトリックさん、エドガーはあなたがたの敵じゃないわ!」
リディアは彼から離れようとするが、パトリックはリディアの腕をつかんだまま離してくれない。そして、警戒心《けいかんしん》もあらわにエドガーを見据《みす》える。
「アシェンバート伯爵、どうやって、この中へ……」
「どうやって? そんなに意外なことなのかな」
「ここへ入れる者は、聖地と縁《えん》のあるごく一部の人間だけ」
「……なるほど、では、たまたま僕はその一部に含まれたようだ」
エドガーは冷ややかに言った。悲しげで、そして怖《おそ》ろしい気さえする声音《こわね》だった。
「だとしたら、結論はひとつしかありません」
「そう。ならきっと、当たり、だよ」
パトリックは大きく目を見開いた。
リディアにはわけがわからない。
「まさか、……あなたが災《わざわ》いの王子《プリンス》だとは」
何を言い出すのだろうと、リディアはエドガーとパトリックを交互に見たが、どちらも深刻な顔をしていた。
「困ったことだね。僕にはきみたちに対する敵意はさらさらなかった。リディアをさがしにさえ来なければよかったのに」
エドガーが、プリンス?
「青騎士伯爵の名を継ぐくせに、プリンスだと……?」
「不本意な結果だ」
死んだということだった、あのプリンスの座を、エドガーが引き継いだというのだろうか。
リディアは混乱《こんらん》し、めまいさえ感じていた。
「僕の婚約者から手を離してもらおうか」
やわらかな口調《くちょう》なのに、言いしれない怒気《どき》を含んでいた。それでも、わずかに震《ふる》えている彼女を見るエドガーは、あきらめたような悲しげな顔をしていた。
エドガーがプリンス。
リディアは必死で考えていた。
予言者を目覚めさせてしまえば、確実に彼の敵になる。彼が殺されてしまうかもしれない。
でも、だったら自分はどうすればいいのだろう。エドガーと結婚するということは、災いの王子と結婚するということだ。
|悪しき妖精《アンシーリーコート》を操《あやつ》り、英国を呪《のろ》うために生み出された、忌《い》まわしいプリンスと。
それでも彼についていくだけの覚悟《かくご》ができるのだろうか。
パトリックは、身動きできなくなったリディアから、ゆっくりと手を離した。そうしながら、ちらりと、上空のフィル・チリースに目をやる。
つられて視線を動かしたリディアは、フィル・チリースの群《むれ》が不穏《ふおん》に渦《うず》を巻いているのに気がついた。
雲のようにも見えるその中央に、光が集まっていく。
あぶない。
そう思った瞬間に、リディアは駆け出していた。
「エドガー!」
まぶしいほどの光が瞬《またた》く。
エドガーに飛び込み、ふたりで倒れ込んだ瞬間、すぐそばにあった石柱が砕け散った。
「リディア、大丈夫か? しっかりしろ」
エドガーに抱きかかえられて気づく。肩に傷を負ったらしく、血がにじんでいる。
けれど痛みは感じない。
「大したことないわ。早く逃げましょう」
いっしょにここから逃げ出そう。結局リディアには、それ以外のことは考えられなかった。
彼が何者だろうと、リディアにとって大切な人だ。
立ちあがろうとした。しかしフィル・チリースは、再び攻撃を仕掛けようとしていた。
リディアはエドガーから離れまいとする。
「だめだ、フィル・チリース! 彼女は予言者の許婚《いいなずけ》……」
パトリックが声をあげるが、フィル・チリースの動きは止まない。
(許婚? だがその娘は、災いの王子をかばった)
天上からの声が無情に響《ひび》く。
次の瞬間、光の刃《やいば》がまた瞬く。
エドガーにかかえ込まれるが、立ちあがる間《ま》もなければ逃げようもないと思った。
が、衝撃《しょうげき》もなく光は消える。
ふたりの目の前で、崩《くず》れるようにうずくまったのは、ブライアンだった。
「……兄さま!」
「エドガー……、あれを、壊《こわ》せば……」
傷だらけになった彼が、かすかな吐息《といき》でつぶやきながら、石柱のひとつを指さす。
リディアがブライアンをかかえ起こそうとする一方で、エドガーは石柱に向かって走った。
フィル・チリースの攻撃よりもわずかに早く、エドガーは剣を振る。柱が砕け散ると同時に、外側の闇《やみ》がサークルの内へ、どっと押し寄せてきた。
黒い霧《きり》のように流れ込んでくる。あれは、影の聖地に集まっていた|邪悪な妖精《アンシーリーコート》の群《むれ》だ。
羽虫《はむし》のように飛び交うもの、あるいは悪霊妖精《スルーア》の集団は、フィル・チリースと入り乱れ、光と闇がせめぎ合う。
妖精の攻撃がやむのを気配で感じながら、リディアはブライアンを起こそうと必死にゆすった。
「ブライアン……、どうしてこんな……」
リディアが涙を流せば、彼はわずかに目を開けた。
「これから、天上の国へ帰るんでしょう? 妖精として暮らすなら、地上の苦しみも憎しみも忘れて自由になれるのよ。なのに、どうしてなの? あたしは、本当の妹じゃ……」
黙《だま》ってと言うように、彼はリディアの唇《くちびる》に指をあてた。
「……僕の妹、きみに、会えてよかった」
「あたしは、あなたの妹を……」
「だましていて……、ごめん……」
苦痛に息を詰まらせながら、それでも彼は、まだ何か言おうとする。
「……幸せを願ってる」
そうして、唇から離れた指は、力なく敷石《しきいし》の上に落ちた。
「兄さま!」
リディアは恨《うら》まれていたはずなのに。
泣きながら、彼女は何度もブライアンに呼びかけたが、もう答えてはくれなかった。
身代わりになってまで、守ってくれたなんて。
自分にそんな価値があるとは思えなくて、リディアの心ははげしく乱れた。
エドガーを助けようとしているのだ。マッキール家やこの島にとって諸悪《しょあく》の根源であるプリンスだ。
けれど、リディアにとっても忌まわしい存在だったプリンスでも、エドガーだから離れられない。
「ごめんなさい、……ごめんなさい、兄さま」
だから、そう言うしかない。
「やめろ、伯爵《はくしゃく》!」
パトリックの声が聞こえ、リディアははっと顔をあげた。
エドガーが予言者の棺に駆《か》け寄ったのだ。
制止しようとするパトリックを蹴《け》り倒し、彼はためらいもなく、宝剣を棺に突き立てる。
棺のふたはやけにもろく、バラバラになって崩《くず》れ落ちた。
[#挿絵(img/bloodstone_219.jpg)入る]
つかの間、辺《あた》りが静寂《せいじゃく》に包まれた。
アンシーリーコートの群が、予言者におびえたのか、ざっと退《しりぞ》いたからだ。
しかし、棺を見おろすエドガーも、どうにか体を起こし棺を覗《のぞ》き込んだパトリックも、無言のまま身動きひとつしなかった。
「予言者が、いない?」
パトリックがつぶやいた。
おそるおそる近づいていって、覗き見たリディアも、棺の中が空っぽなのを目にしただけだ。
「どういうことかな、パトリック」
「こっちが聞きたい」
パトリックはめずらしく動揺《どうよう》したのか、ぞんざいに言い放《はな》つ。
ざわめく天上のフィル・チリースたちが、遠ざかりはじめていた。聖地に満ちていた魔力《まりょく》が、潮《しお》が引くように薄《うす》れていくのをリディアは肌で感じる。
「月が、聖地から消えるわ」
ここでは月は見えないけれど、外のストーンサークルでは、月が石舞台を離れ、地平線の下へ沈《しず》もうとしているのだろう。
十九年にいちどの、満月の魔力が消えていく。
エドガーはきびすを返す。リディアを引き寄せ、帰ろう、と言った。
「アロー、道しるべを」
宝剣からふわりと飛んだ小さな星が、ストーンサークルの外の暗闇《くらやみ》へとふたりを導く。
「このままさっきの場所へ戻ると、ファーガスたちが待ち受けているのだろうからね。僕らは別の道から帰るよ」
歩き出せば、パトリックが苛立《いらだ》ちをおさえながら眉《まゆ》をひそめた。
「予言者がいないはずはないのです。とっくに目覚めたということなら、必ずあなたは破滅《はめつ》しますよ」
「言っただろう。僕はきみたちに敵意はない。けれどそちらから仕掛《しか》けてくるなら容赦《ようしゃ》はしない。プリンスから島を守りたいのが本意なら、僕にもリディアにもかかわらないのが賢明《けんめい》だよ」
「島に手出しをしないとおっしゃるのですか?」
「きみたちしだいだ」
「……信用できません。プリンスが存在するだけで、島にはアンシーリーコートが集《つど》い、力を持ち続ける。それにプリンスの力を継いでいるなら、あなたはいずれその目的を果たそうとするでしょう」
「僕が死ねば何より確実なのだとしても、僕は死ねない。リディアが、顔も見たくないと言わないかぎりはね。けれどもしも、僕が僕でなくなることがあるというなら、そのときは、よろこんで予言者に命を差し出そう」
パトリックは黙《だま》り込み、エドガーもリディアも彼に背を向けるようにしてサークルを出た。
エドガーはリディアの腰を引き寄せ、抱きかかえるようにして歩いた。リディアもぴたりと彼に寄り添《そ》っていた。
そうしているうちに、リディアは泣けてきた。すすり泣く彼女の髪を、エドガーはもう一方の手で撫《な》でた。
「ごめんね」
そうつぶやく。
「……大事なことなのに、もっと早く、知りたかった……」
「婚約せずにすんだのに?」
「違うわ! 知ってたら、あたしは、この島へ来なかった」
「そうだね。……ごめん」
エドガーは長いため息をつく。
「怖かったんだ。きみの気持ちが離れてしまうんじゃないかって」
そうだったら、どんなに楽だろうか。
「あなたはあなたでなくなったりしない。そうでしょう?」
「うん、約束するよ」
信じるしかない。リディアは自分にそう言い聞かせた。
そのあとのことは、リディアはよく思い出せない。
急に気分が悪くなったのと、人間界へ出たとたん、激しい痛みが襲《おそ》ってきて立っていられなくなったのだ。
焼けつくような痛みに気が遠くなりながらも、彼女は思い出していた。
フィル・チリースの、光の刃《やいば》がかすめた。あの傷のせいだと。
ブライアンが無数に受けた傷、あのときの彼と同じ苦痛を受け止めているのだと感じながら、これまでのどんな危機に遭遇《そうぐう》したときよりも強く、彼女は死を身近に感じていた。
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せまられる選択
砕かれた煙水晶《スモーキークオーツ》のスタンディングストーン、そのそばで、事前に決めてあったとおりにレイヴンが待っていた。
エドガーの馬と、そして魔法が解けたニコも連れて、ファーガスたちとの乱闘《らんとう》を脱出してきたらしい彼は、リディアを抱きかかえて現れたエドガーに、急いで駆《か》け寄った。
「エドガーさま! ……リディアさんはお怪我《けが》を?」
「わからない、急に倒れたんだ」
「リディア!」
ニコがあわてた様子で、エドガーの肩に飛び乗った。
「どうしたんだよ。まさか、フィル・チリースの刃《やいば》を受けたんじゃないだろうな」
そう言って、青い顔をしたリディアを覗《のぞ》き込む。
「あのオーロラの精の? そういえば、光が炸裂《さくれつ》して彼女をかすめた」
「ああ、そりゃやっかいだぞ……」
「ニコ、どうすればいいんだ?」
ニコは腕を組んで考え込んだ。
「かすめただけなら、オーロラの結晶《けっしょう》を取り除けるかもしれないけど」
「エドガーさま、まずはここを離れるべきです。マッキール家の人間が追ってくるでしょう」
「わかった。急ごう」
いずれにしろ、安全な場所へたどり着くのが先決だった。
リディアを馬に乗せる。つかまっている力もないようだから、エドガーは自分の体に彼女を縛《しば》りつける。そうしてどうにか馬を走らせると、彼らが向かったのは、ここからいちばん近いクナート家の村だった。
それでも到着するころには、短い夜は明けていた。
小さな漁村だったが、クナート家につながる老地主の館《やかた》に、エドガーは迎え入れられた。
氏族長《しぞくちょう》の使いに話は聞いていると老地主は言い、すぐにリディアのための部屋を用意してくれたが、この村には医者がいないということだった。
「何かあれば隣村《となりむら》から呼ぶのですが、そちらはマッキール家の村なんです」
エドガーがマッキール家から婚約者を奪《うば》い返してきたということはわかっているらしく、老地主は困惑《こんわく》を浮かべた。
「ほかに医者のいる村はないのですか? 外科医《げかい》でもかまいません。傷を開いて、異物を取り除くことが必要なんです」
「港町にクナート家の医者がいます。ただ、馬車でも片道二時間はかかります」
これ以上、リディアを馬車でゆらすのは酷《こく》だと思われた。動けばそれだけ、傷がはげしく痛むようなのだ。
馬に乗っているときも、意識が戻るたびあまりの苦痛に暴れ、馬から落ちそうになったくらいだ。
阿片《あへん》を飲ませ、朦朧《もうろう》としている状態で、ようやくここまで運んできた。それでもときおり、痛みにはげしく体をこわばらせる。
「あたし、お医者さまを呼んできます」
戸口に現れたのはケリーだった。
「きみが、どうしてここに?」
「伯爵《はくしゃく》がこちらに立ち寄られるなら、ご婚約者のために女手が必要だろうと氏族長がおっしゃいましたので、あたしがまいりました」
夏の夜明けは早い。外は明るくなりつつあるが、まだ人が起き出すには早い時間で、彼女もおそらく休んでいたのだろう。騒《さわ》がしくて目がさめたのかもしれないが、すっかりきちんと着替えていた。すぐにでも出かけられるといった様子だ。
「そう。……だけど、往復で四時間もかかるのか」
「無理だよ伯爵」
ニコがおろおろと歩きながら言った。
「フィル・チリースの刃にかかったら、そんなにもたないよ。痛みはもっとひどくなる。……リディアが死んでしまう」
エドガーはニコに歩み寄り、膝《ひざ》を折って彼を覗き込んだ。
「オーロラの結晶を取り出せば、助かるのか?」
「わからない。でも、それが魔力《まりょく》を持ってて、リディアを苦しめてるのはたしかだよ」
考えながら頷《うなず》いたエドガーは、ゆっくりと立ちあがった。
「医者を呼ぶ時間はありません。僕がやります」
みんなが呆気《あっけ》にとられる中、エドガーは淡々《たんたん》と指示を出した。
「お湯をわかしてください。強いアルコールと清潔な布も必要です。レイヴン、ナイフをいくつか消毒して持ってきてくれ。それからケリー、きみにはここで手伝ってもらいたい」
レイヴンがさっと部屋から出ていくと、老地主もあわててついていった。彼が使用人を呼ぶ声が館に響《ひび》く中、エドガーは残ったケリーに言った。
「服を脱がせよう」
「あ、はい」
「おれ、見てらんないから」
ニコは涙をぬぐうように目をこすり、よろめきながら窓から出ていく。
オイルランプを手元に寄せ、エドガーは、うつぶせにしたリディアの髪を肩からそっと除《の》けた。
いつもなら、ただ触れたくてたまらなくなる白い肌を、痛々しい気持ちで眺《なが》める。
傷口を確かめるが、大した出血もなく、とっくに乾《かわ》いている。肩の少し下にある、一見して浅い傷は、それが彼女をここまで苦しめているとは想像できないものだ。
それでも、傷に手をあてれば、異様に熱く感じられる。そうして、何か固いものが奥にもぐり込んでいるのがわかる。
「ケリー、リディアをおさえておいてくれ」
気を失ってはいるが、急に動かれては困る。
エドガーにとって、こういうことは経験がないわけでもない。仲間の腹に入った銃弾《じゅうだん》をほじくり出したこともある。けれど、そこに横たわっているのが恋人とあっては、さすがに緊張《きんちょう》した。
できれば見苦しい傷を残したくない。そんなことより命が大事だとしても、回復したあと傷を気に病《や》む彼女を見ればいたたまれなくなるだろう、などと考えてしまう。
ああその前に、人の体というのはどうなっていただろう。このあたりに大事な血管はなかっただろうか。
大丈夫だ。傷を開くといってもこの程度なら、運がいいとさえ言っていい。そう思いながらも、エドガーは細心《さいしん》の注意を払っていた。
思いのほか、リディアはじっとしていた。ときおり苦痛に顔をしかめたが、たぶん、あばれる力もなかったのだろう。
問題の異物は、意外にも小さくて、そして血のかたまりにそっくりで、見つけるのに手間取った。
それでもどうにか取り出すことができる。傷も出血も少なくすんだ。
さほど時間はかからなかったはずだ。けれどもエドガーは、何時間も経《た》ったように感じていた。
ようやく苦痛の色が退《ひ》いたリディアが、そのまま眠りにつく。
処置を終え、ほっとしながらもエドガーは、そばを離れたくなくて居座《いすわ》っている。
別室で休息するようにと、老地主には勧《すす》められたが、リディアのそばにいたかった。
オーロラの結晶だという、傷の中にあったものは、血を洗い流せばブラッドストーンのかけらだった。
妖精、フィル・チリースの魂《たましい》、そして魔力の結晶。
オーロラは、闇夜《やみよ》に灯《とも》るかすかな明かり。神聖でありながら、恐《おそ》ろしい力を発揮《はっき》する。
同族のブライアンすらあっけなく殺したオーロラの魔力を、そのときエドガーはまだ、よく理解してはいなかった。
気がついたとき、リディアはベッドの上にいた。
天井《てんじょう》は木組みの梁《はり》がむき出しになった素朴《そぼく》な部屋だ。
ここはどこだろう。考えながら首を動かすと、すぐそばの椅子《いす》にエドガーが座っていた。
背もたれに体をあずけ、眠っている様子だ。
上着も、ネクタイもない。袖《そで》をまくり上げた格好《かっこう》のまま、くつろいでいるというには疲れ切ったように見える。
リディアは手をのばし、ひざの上で組まれた彼の手に触れた。
と、金色のまつげがかすかに動く。ゆっくりまぶたを開いたエドガーは、不思議そうな顔をしていたが、やがてまぶしげに微笑《ほほえ》んだ。
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》を細め、リディアを見つめる。身を乗り出し、やさしく頬《ほお》を撫《な》でる。
「おはよう、気分はどう?」
リディアは体を起こそうとした。
毛布が体からすべり落ちて、ようやく気がつく。
ドロワーズひとつのほか、彼女は何も着ていなかった。
「き、きゃあーっ!」
悲鳴《ひめい》をあげた彼女は、毛布を胸元にかき集める。近すぎるエドガーから離れようとして後ずされば、思いがけずせまいベッドだったため、反対側から落っこちた。
「リディア?」
痛いやら恥ずかしいやらで、どうしていいかわからなくなったところへ、悲鳴を聞きつけたらしいレイヴンが駆け込んできた。
「エドガーさま!」
そうして不思議そうに、ベッドの下にうずくまっているリディアと、突っ立っているエドガーを交互に見る。
「ああレイヴン、そこのガウンをとってくれ」
彼が言われたとおりにすると、エドガーはリディアのそばへやってきて、肩からガウンをかけた。
「大丈夫かい?」
「え、ええ……」
「レイヴン、もういいよ。リディアはちょっと驚いただけだ」
リディアから背を向けたエドガーが、レイヴンも顔を背《そむ》けさせているうちに、急いでガウンにそでを通す。
「ケリー、きみもね」
戸口から覗き込んでいたのは、先日エドガーの手紙を持ってきた少女だった。心配そうな顔をしていたが、エドガーの言葉に頷いて立ち去る。
薄《うす》っぺらいガウンだけでは心許《こころもと》なくて、リディアはもういちど毛布を引き寄せながら顔をあげた。
「あの、エドガー……、あたし、いつの間にこんな格好に……」
「僕が脱がせた」
「えっ、ど、どうしてそんな……」
「あのね、僕だって常に下心があるわけじゃないんだよ。傷口に入ったオーロラの結晶を取らなきゃならなかった。だからケリーに手伝ってもらったんだ」
リディアは包帯を巻かれた傷に手をやった。少し引きつれた感じがするのみだったが、傷口を押さえればまだ痛かった。
「そ、そうだったの。……ごめんなさい」
笑って、彼は手をさしのべる。
痴漢《ちかん》にでもあったみたいな声をあげたことを、もうしわけなく思いながら、手を引かれて彼女はベッドの上に座った。
エドガーは隣に腰掛け、握《にぎ》りしめたリディアの手を唇《くちびる》に近づけた。
「でもねリディア、僕は婚約者なんだし、そんなにいけないことじゃないだろう? それに、いまさら隠《かく》しても遅いと思わない?」
「え」
「だってさ、ゆうべのきみは隠すどころじゃなくて」
また一気に真っ赤になって、涙ぐむリディアに、さすがにエドガーはうろたえたようだった。
「いや、冗談《じょうだん》だよ。僕だってあせってたんだから、あんまり楽しいこと考える余裕《よゆう》もなかった」
「あんまり……?」
少しは考えたわけ? それに楽しいことって?
「そこ、聞き流してくれるかな」
小さく笑う彼の吐息《といき》が、額《ひたい》の生《は》え際《ぎわ》をくすぐった。唇がそこに触れるのを感じながら、リディアは目を閉じる。
いつもと変わらない、恋人らしい触れ合い。昨日の出来事が、ちょっとした悪夢だったかのように思える。
けれどあれは現実だった。
聖地に現れたエドガー、それは彼がプリンスである証拠《しょうこ》だった。
ブライアンが死に、予言者は消えた。
結局、リディアにはわけがわからないことばかりだった。
「……どうして、あなたはプリンスなの?」
頬に落とされた口づけが、羽毛《うもう》のようにかすかに唇をかすめる。触れるか触れないかの距離で動きを止めた彼は、リディアをじっと見つめた。
「僕は、青騎士伯爵だよ。たまたまプリンスの記憶を取り込んでしまっただけ……」
つらそうに言って、彼女を離す。
「記憶を?」
「もともとプリンスは、記憶を別人に移し替えることで、最初の、災《わざわ》いの王子≠ニ同じ能力や役目を継承《けいしょう》していたんだ。次のプリンスになる人物の人格を壊《こわ》して、魔力を持つ宝石を使って記憶を移し、最初のプリンスと同じような人間に作りあげていた」
それはリディアも、少しは話に聞いていた。
プリンスの組織で、エドガーは次のプリンスになるべく強制されていた。けれどそこから逃げ出し、組織に復讐《ふくしゅう》を誓《ちか》った彼は、もはや彼らにとって失敗作のはずだった。
「組織が、あなたにむりやり記憶を移したの?」
エドガーはゆっくり首を横に振る。
「僕のすべてを奪《うば》った、あのプリンスを殺すために、そして新しいプリンスが生まれるのを阻止《そし》しようとして、自分から僕は宝石を手に入れた。プリンスのすべてを奪い取ったから、それは僕のものになってしまったんだ」
プリンスの本質であるらしい記憶≠ェ存在し続けるかぎり、何人プリンスが死んでも、また作りあげられる。エドガーはその循環《じゅんかん》を断ち切ろうとしたのだろう。
エドガーが記憶≠保持しているなら、彼が望まないかぎり、ユリシスや組織の者たちは、もう英国への反逆を行動には起こせないはずだから。
一方で、リディアは思い出す。
プリンスの力を継いでいるなら、あなたはいずれその目的を果たそうとするでしょう
そう言ったパトリックの言葉を。
「あなたは、プリンスのすべてを知っているってこと?」
「記憶には触れないようにしてる。知ろうとしなければ、知らないままでいられるのかもしれない」
……知ってしまったこともあるけど。そうつぶやいたエドガーが、プリンスの記憶から何を得たのか、リディアはぼんやりと気づいていた。
|悪しき妖精《アンシーリーコート》の、魔力を扱《あつか》う方法だ。
だからエドガーは、宝剣に封印《ふういん》された、スタールビーの力を引き出せた。アンシーリーコートに属する魔力《まりょく》を扱えるようになったのだ。
そしてそれは、巨人族に連れ去られそうになったリディアを救うためだった。
「怖くなった?」
言いながらも、握りしめたリディアの手を離そうとしないのは、いつものエドガーだ。
プリンスなんかではなくて、リディアを好きになってくれた人。今も、変わらず愛情を持って接してくれる大好きな人。
「ううん、話してくれて、安心した」
彼が青騎士|伯爵《はくしゃく》だろうとプリンスだろうと、そのどちらでもなくたって、やっぱりエドガーが好きだから、リディアはそう言った。
体が疲れ切っていたのか、リディアはそれからまた眠った。午後になって微熱が出たが、大したことはないように思われた。
安静にしていれば、じきに回復するだろう。早く家へ帰りたい。島でのことはすべて忘れて、結婚式に向けて体調を整えなければ。
そんなことを考えながら、リディアはうとうとしていた。
ドアが薄く開いて、誰かが入ってきた。
ニコ……。ああ、魔法が解けたのね。
リディアが首を動かすと、ニコはとことこと近づいてきて、顔を覗《のぞ》き込んだ。
「よお、起きてたのか」
「ごめんねニコ、あたしのせいで、ひどい目にあったわね」
「……聖地へ行くなって言ったのにさ」
不満げに目を細めるが、彼は子供にするように、リディアの頭を撫でた。
「ま、おれがドジ踏《ふ》んだせいだよな。ファーガスとブライアンの会話を立ち聞きしてたのも、あんたにそれを話したのも、パトリックに見られてたんだ」
「あなたに魔法をかけたのは、やっぱりパトリックさんなのね」
「あいつ、油断ならねえぞ。氏族《クラン》のためなら何でもする。それに、かなり魔法にも通じてる」
「そうみたいね」
リディアはため息をついた。
けれどもう、彼らと自分は何の関係もない。予言者がすでに聖地にはいなかったのだから、リディアのことはあきらめてくれるだろう。
彼らがエドガーを追おうとさえしなければ、二度と会うことはないはずだ。
「ねえニコ、父さまと連絡が取れるかしら。あたし、聖地へ行く前に、港町へ出てくれって伝えておいたの。あの町は、どのクランにも属してないでしょう? あたしはもう、マッキール家には戻らないつもりだったから」
「わかった。レイヴンに頼んどいてやるよ」
やわらかいニコの手が離れると、リディアは急に淋《さび》しくなった。
ニコはこの島に残ると言っていた。今もその考えは変わっていないだろう。
早くここから離れたい、けれどそのときはニコと別れることになる。
リディアはこれから、プリンスの記憶をかかえるエドガーと歩んでいくのだ。そばにいてとニコに言える立場でもない。
人間くさい部分が多々あれど、ニコは妖精だ。アンシーリーコートの力を持つエドガーを、信用できはしないだろう。
けれど今は、リディアはニコと離ればなれになることを考えたくはなかった。今夜にでも去ってしまうつもりなのか、島を出るそのときまではついていてくれるのか、それさえも怖くて訊《たず》ねられなかった。
ニコも何も言い出さなかった。
「なあ、なんか食べたいものないか?」
「あたしが風邪《かぜ》をひくと、母さまがよくそう言ったわね」
「ああ、そうだったな。で、リディアはいつもハーブ入りのミルク粥《がゆ》を食べてた」
「あれは、あたしが何を食べたいと言っても、結局母さまはミルク粥しか食べさせてくれなかったのよ。チョコレートは眠れなくなるからとか、バタークリームのサンドイッチはもたれるからとか、塩漬《しおづ》けのオリーブはのどが渇《かわ》くからとか」
「あんたの体のこと考えたんだろ」
「だったら訊《き》かなきゃいいのに」
ニコはおかしそうに声を立てて笑った。
「アウローラらしいな。おれはずっと、リディアはミルク粥が大好きなんだと思ってたよ」
リディアもつられて笑う。
「ええ、大好きだったわ」
ニコがいなくなったら、母さまのことを話せる相手も、もう父だけになってしまうのだ。
仕事で家を空けることが多かった父とは違い、ニコは、リディアと母の日常を誰よりも近くで眺《なが》めている親友だった。
リディアは少し体を起こし、ニコに手をのばした。いつもは撫でられるのが嫌いな彼だが、リディアがふさふさした毛並みに指をうずめても、目を細めてじっとしていた。
「失礼します、リディアさん」
レイヴンの声がした。と思うと彼は、リディアの返事も聞かずに部屋の中へ入ってくる。さっと窓際《まどぎわ》へ進み、カーテンを引いた。
「どうしたの?」
彼が答える前に、窓の外から蹄《ひづめ》の音が聞こえてきた。それは館《やかた》の前で止まる。
ざわざわと数人はいるらしい声がする。
間もなく、玄関の扉をたたく音が館に響《ひび》く。
「マッキール家の者たちだ」
エドガーが現れ、そっとドアを閉めた。
「まさか、あたしたちをさがしてるの?」
「少なくとも僕を逃がすわけにはいかないと思ってるんだろう。ほうっておいてくれる気はないようだね」
干渉《かんしょう》するなら容赦《ようしゃ》しないと、エドガーはパトリックに宣言したけれど、マッキール家の拠点《きょてん》でもある島で、レイヴンとふたりだけでは何ができるわけでもない。
とにかく身を隠し、ひそかに島を脱出することを考えるしかないのだ。もちろんマッキール家はそうとわかっていて、今こそプリンスを追いつめるチャンスだと思っているのだろう。
「でも大丈夫だ。クナート家の土地では好き勝手なことはできない」
「ここのご主人は、あたしたちをかくまってくれるの?」
「ああ、それは問題ないよ。クナート家の氏族長《しぞくちょう》は買収《ばいしゅう》済みだ」
「買収?」
「融資を約束した。僕の安全にクランの運命がかかっているからには、マッキール家をあざむくくらいのことはいくらでもやってくれるだろう」
けっしてレイヴンとふたりだけで、無鉄砲《むてっぽう》に敵地へ乗り込んできたわけではないのだ。
感心するというよりはあきれながら、リディアはエドガーを見あげた。
にっこり笑ったエドガーは、窓際で、ほんの少しカーテンを除《の》けて外をのぞき見た。
「ほら、帰っていくようだ」
「でも、また来るかもしれないわ」
「ああ、きみの体調がよくなれば、島から出る安全な手段を確保しよう」
「あたしは、もう大丈夫よ。微熱ったって大したことないし、馬車や船にも乗れるわ」
リディアはベッドから立ちあがる。エドガーの方へ近づこうとしたが、不意に足元がふらついた。
あわてたエドガーが腕を出し、リディアは彼にしがみつく。
「無理しちゃだめだよ」
おかしい。急に突然全身がだるくなって、立っていられない。めまいに襲《おそ》われ、息苦しくなる。
「リディア、ずいぶん熱いじゃないか」
どうしたのか、自分の呼吸さえ熱く感じるほどだ。
「やだ……、さっきまで、もう元気になったと思ってたのに……」
「とにかく休んで」
ベッドにリディアを横たえ、しっかり毛布を掛けるエドガーは、彼女が震《ふる》えているのに気づいたからだろう。
じっさいリディアは、急な寒気《さむけ》にさいなまれていた。
「レイヴン、暖炉《だんろ》の火をおこしてもらうよう頼んできてくれ。部屋をもっと暖めないと」
「はい」
「やっぱり、結晶《けっしょう》を取り除いただけじゃだめなのかも……」
ニコがベッドのわきでつぶやいた。
「なんだって?」
「よくわからねえけど、人間の体には毒みたいなもんだから」
「あのブラッドストーンが毒なのか?」
「フィル・チリースのブラッドストーンだ。わずかでも魔力が残っていたら、ねらった敵を殺そうとする」
「……リディアがねらわれたわけじゃない」
憤慨《ふんがい》したようにエドガーは言った。ニコは皮肉《ひにく》っぽく彼を見る。
「伯爵、あんたがそばにいるじゃないか」
エドガーが、そばにいるから? だからまた、体がおかしいの?
リディアが目を開ければ、つらそうにこちらを見るエドガーと目が合った。
「そばに、いないほうがいいっていうのか」
「エドガー」
そんなのいやだ。そんなわけがない。
リディアは必死で体を起こした。
「ここにいて。フィル・チリースがあなたをねらったのなら、あたしをねらったのと同じことよ……。そうでしょう? ニコ」
気分が悪くて心細い。それにこんなことは初めてで、これからどうなってしまうのだろうと不安になるほど、エドガーにはそばにいてほしかった。
「ああ、……そうだな、同じだな」
ニコはリディアのためにそう答えたのだろう。しかしエドガーは、ますます心配そうな様子で、起きあがろうとするリディアを毛布に押し込んだ。
「少し眠れば、また気分がよくなるよ」
「眠るわ。だからそばにいて」
「そうだね。すぐまた様子を見に来る。ケリーについていてもらおう」
結局エドガーは部屋から出ていくが、リディアはひどい頭痛がして、もう頭を起こすことすらできなかった。
ファーガスは、氏族長《しぞくちょう》である父の部屋の前で足を止めた。中からパトリックの声が聞こえたからだった。
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》とカールトン嬢《じょう》は、まだ行方《ゆくえ》がしれないようですね」
「捜索《そうさく》の範囲を広げている。しかし、妖精界にいる可能性はないのか?」
「身の安全を考えるなら、さっさと人間界に戻るでしょう。それにこの島から、妖精界を通じて出入りするのは容易《ようい》ではありません。彼らはまだこの島にいます」
立ち聞きするほどのことではない。ファーガスも、マッキール家をあげての捜索に加わっているが、リディアもエドガーもまだ消息《しょうそく》がつかめていなかった。
けれど彼は、今回のことには疑問を感じ続けている。
聖地へ現れたのは、プリンスの組織ではなく、伯爵とその従者《じゅうしゃ》だけだった。彼こそがプリンスの後継者《こうけいしゃ》だったということだが、それが本当なら、そもそもプリンスの組織は、伯爵を人質《ひとじち》にはしていなかったことになる。
クナート家の娘が言っていたとおり、彼がリディアをマッキール家から連れ帰りたかったのだとすると、パトリックはリディアをだましてヘブリディーズへ連れてきたということだ。
それに、ブライアンが聖地で死んだ。伯爵に殺されたとパトリックは言ったが、ブライアンの全身に無数にあった傷は、フィル・チリースの恐《おそ》ろしい刃《やいば》について、ファーガスが昔話に聞かされたものを思い出させた。
フィル・チリースが、同族のブライアンを殺すことなど考えられない。しかし、伯爵が殺したとも思えない。
ひとつだけ考えられるのは……。
もしもブライアンが、パトリックとともにリディアをだましていた彼が、良心の呵責《かしゃく》を感じたとしたら。
ファーガスは、すんなりと想像できることに驚きはしなかった。
リディアはブライアンにとって、妹が死ぬことになった原因だが、リディアと接していれば、彼女を憎《にく》むことは難しかっただろう。
リディアを助けたのかもしれない。あるいはリディアのために、彼女の婚約者も助けようとしたなら。
パトリックも父も、明らかに、都合のいいように事実を曲げて公表している。
そう思えばファーガスが、父とパトリックの会話を気にするのも当然だった。
立ち止まったまま、彼は息を殺していた。
「カールトン教授には会えたのか?」
「はい。リディアさんはもうマッキール家に戻ることはないとおっしゃって、港町にとどまっていらっしゃいます。連絡があれば島を発《た》つつもりでしょうが、教授が町にいるということは、ふたりも島にいる証拠《しょうこ》です」
「ふむ、で、聖地にいなかった予言者だが、目覚めているとしたら、我《われ》らの救世主として現れてくれるのだろうか」
「それが予言者の役目です。必ず島を救ってくれると私は信じます。しかしやはり、補佐《ほさ》する許婚《いいなずけ》≠ェ必要です」
「カールトン嬢しかいない」
「……そうですね。彼女は予言者を目覚めさせるために生命を削ることはなかったわけですから、死期が間近にせまることもない。予言者の魔力《まりょく》を引き出すには、最適な伴侶《はんりょ》となれるでしょう」
生命を削る? 予言者を目覚めさせると、死期がせまる?
ファーガスには寝耳に水だった。
いや、リディアを犠牲《ぎせい》にするだとか、ブライアンが口をすべらせたことがあったではないか。
だったら、あのとき予言者が聖地にいたなら、リディアは……。
パトリックは、危険はないと再三《さいさん》リディアに言っていた。カールトン教授もそれで納得《なっとく》した。なのに本当は、リディアにとって確実に寿命《じゅみょう》を縮める危険な行為だった。
本当のことを話したら、彼女は引き受けなかっただろう。
クランの女なら、マッキール家のために犠牲になる気持ちくらいあるかもしれないが、リディアは違う。
けれど、だからといってマッキール家は、この島のために彼女からすべてを奪《うば》っていいのだろうか。
知らなかったとはいえ、ファーガスは次期氏族長だ。アウローラの娘をさがすことに奔走《ほんそう》し、彼女を見つけだした。
自分も、間違いなくリディアの幸福を壊《こわ》してしまうことに荷担《かたん》したひとりだった。
パトリックは部屋を辞《じ》そうとしていた。ファーガスはさっと身を隠し、彼が出ていくのを見送った。
しかしすぐまた後をつける。
建物の外へ出たところで、背後《はいご》から追いつき、回り込んでパトリックの足を止めた。
「あんた、リディアをだましてたんだな」
ファーガスがにらみをきかせても、パトリックは眉《まゆ》ひとつ動かさなかった。
「立ち聞きですか」
「それに、おれのことも」
「あなたにはまだ、すべてを話す必要はないと氏族長がおっしゃいましたので」
頭にきて、ファーガスはパトリックの胸ぐらをつかんだ。
「ファーガス、そんなふうに感情的なところはあらためるべきですよ。氏族長は、どんな個人的感情よりも、氏族《クラン》の利益を考えねばなりません」
「利益? 伯爵を殺して、リディアを言いなりにするのがクランの利益か? そんなことになって、彼女がおれたちのために協力するわけがないだろ!」
「説得しだいでしょう。ともかく今は、あのふたりを見つけるのが先決です。本当のところ氏族長は、あなたの手柄を期待しているんですよ?」
彼らを見つけ、連れてこいと言う。
父が期待しているかどうかファーガスは知らない。けれどパトリックが本気で期待しているのはたしかだ。
憤《いきどお》りをパトリックに向けることを削《そ》がれ、力をゆるめたファーガスの手を、彼は扱《あつか》いなれたように自分の衣服から離させた。
リディアは今ごろ、どこに身をひそめているのだろう。
手柄などとは無関係に、ファーガスは単純に心配になってきていた。
伯爵といっしょなら、ファーガスが心配するのも筋違《すじちが》いというものだ。しかし、マッキール家の者に見つかったら、プリンスだと確定した伯爵はどうなるかわからない。
「それにしても、どこに逃げ隠《かく》れているのでしょうね。どの村からも情報がないんですよ」
どこの氏族にしろ、この辺《あた》りの村が、よそ者をかくまうということは考えにくい。だから父は、荒野《こうや》にまで捜索の手を広げている。
しかしファーガスは、そのときはっと思い立っていた。
クナート家だ。伯爵はどうやら、クナート家と親しくしている。そしてそのことに気づくのは、マッキール家ではファーガスだけであるはずだった。
薬をわけてほしいとやって来たクナート氏族の少女が、伯爵の使いだったことを知っているのがファーガスだけだからだ。
島の人間には、よそ者を隠す理由などない。追われている様子の英国人などなおさらだ。
もともと島の住民は、英国から土地を買いに来た連中も、何かとハイランド人を抑圧《よくあつ》する英国人の役人も毛嫌いしている。マッキール家の者も頭からそう思い込んでいる。
しかし伯爵は、どうやったのかクナート家を味方にした。
ファーガスは黙《だま》ったままきびすを返し、ふてくされたようにパトリックから離れた。
このことをパトリックに話す気はなかった。けれどまだ、自分がどうしたいのかも、よくわかっていなかった。
この島に災《わざわ》いをもたらす、プリンスを逃がしてしまっていいのか。
しかしもし、伯爵をとらえたら。そうなったらリディアにとって、マッキール家は婚約者の仇《かたき》になる。
どうしたいのかわからない。けれど彼は、じっとしてもいられなかった。
あの聖地に近い、クナート家の集落はどこか。考えながら厩《うまや》に向かっていた。
日も暮れかけた薄暗《うすぐら》い空の下、エドガーの後ろ姿を見つけ、リディアは館《やかた》から外へ出た。
金色の髪が風になびく。空気は沈《しず》んだ灰色をしているのに、彼の髪は淡《あわ》く光をはらんで見える。
フロックコートが風にめくれあがるのもかまわず、海のほうをにらみつけるように、彼はたたずんでいた。
眺《なが》めていると、エドガーが遠くに感じられて、リディアは不安な気持ちになった。
すらりとした後ろ姿は見慣れたものなのに、もしも振り返った彼が、知らない人だったらどうしようと考えている。
エドガーがエドガーでなくなっていたら。
怖くなって、急いで近づいていく。
そんなことは起こらないと彼は約束してくれたけれど、プリンス≠ェどんなふうにエドガーの中にあるのか、リディアには想像もできない。
「リディア?」
足音に気づき、振り返った彼はいつものエドガーだった。リディアを走らせまいとして、足早《あしばや》にこちらへ近づいてきてくれる。
「起き出して大丈夫なのかい?」
「ええ、熱は引いたし、めまいもないわ」
確かめるように手をのばし、リディアの額《ひたい》に触れた彼は、ほっと安堵《あんど》したようだった。けれども急いで手を離す。少しばかり後ずさる。
やっぱりエドガーは気にしている。自分のせいで、フィル・チリースの刃《やいば》がリディアを苦しめているのではないかと。だからあれから、リディアの部屋へ来ようとしなかった。
エドガーのせいではないと思いたかったリディアは、自分から彼が取った距離を縮めた。
戸惑《とまど》ったような顔をしたけれど、彼はもう避《さ》けようとはしなかった。
「まだ寝てなきゃだめだよ。夕食はほとんど食べられなかったんだろう?」
「部屋でじっと待ってたわ。でも来てくれないから……」
だから起き出してきた。
かわいらしく会いたかったと言えないままのリディアだったが、エドガーは微笑《ほほえ》んだ。
風が舞いあげるリディアの髪に、彼は指をからめる。両手で頬《ほお》を包み込み、小さなキスを落とす。
「ここは風が強いから、館の中へ入ろう」
「ううん、ここがいい」
「じゃあ、あの建物のわきへ。ベンチがある」
エドガーはいつもと変わらない。けれど、彼がプリンスの記憶を受け継いだと知って、リディアの胸に生じた不安は、時間が経《た》つほどに広がっていく。
なんでもないこと。何も知らずに結婚準備を進めてきたこの数カ月、彼の愛情を疑ったことなどなかったではないか。
けれど、もしもプリンス≠ェ現れたら、どうすればいいのだろう。
エドガーがいなくなってしまったら。
いやだ、そんな彼は見たくない。
「どうしたの?」
リディアの金緑の瞳《ひとみ》がにわかにうるんだ。エドガーが心配そうに覗《のぞ》き込む。
「ううん、何でもない」
歩き出そうとすれば、くらりとした。
はっとしたエドガーが腕を差し出すが、リディアは必死で平気なふりをした。
「大丈夫よ。ちょっとスカートのすそを踏《ふ》みそうになっただけ」
「リディア、やっぱり部屋へ戻ろう。せっかくよくなりかけても、僕のせいでまた悪化したら……」
「違うわ、あなたのせいじゃない。フィル・チリースの魔法のせいよ」
リディアはベンチに駆《か》け寄り、そこに腰をおろした。しかたなく、といった様子でエドガーも腰かける。
「ねえ、エドガー、ひとりで、どこかへ行ってしまわない?」
「まさか」
「いっしょに、ロンドンへ帰れるわよね」
「……ああ」
ほんの少し、ためらうような間があった。リディアはそれだけで、たまらなく悲しくなった。いやな予感でいっぱいになる。
どうしていいかわからなくて、彼の方に手をのばす。その手をつかんだエドガーに抱き寄せられてようやくほっとする。
いつもならリディアは、恥《は》ずかしくて逃げ出しているかもしれないほど、しっかり体を引き寄せられても物足りない気さえした。
エドガーが力をゆるめないのは、リディアの方からしがみついているからだと気づかないまま、つぶやく。
「なんだか、長いこと会ってなかったような気がするわ」
「そうだね。九時間ぶりくらい?」
「その前よ、一週間も会ってなかった」
「一年くらいに感じたよ」
「離れてる間に、あなたの夢を見たわ」
「やっと僕のこと、夢に見るくらい好きになってきた?」
「あなたがレイヴンと、庭仕事をしているの。温室中に花があふれて、すてきな花壇《かだん》だったわ」
「へえ、そんなことをレイヴンと話してたよ。ずっと、きみを飾る花は欠かしたくないなって」
「あなたが花を育てるの?」
「飾るなら宝石の方がいい?」
「あたし、花がいいわ。毎日、あなたが咲かせてくれた花を飾って、あなたとレイヴンのためにお茶を淹《い》れるの。……舞踏会《ぶとうかい》よりずっとすてき」
ようやくリディアは力を抜いて、微笑むことができる。
気持ちは落ち着いてきていたが、同時にまた全身のけだるさを感じながらも、もう少しここにいたいとこらえていた。
「このままじゃ、リディアが死んでしまうよ!」
ニコは憤慨《ふんがい》しながら、エドガーとレイヴンがいる応接間に駆け込んできた。
リディアはまた、倒れるように寝込んでしまった。翌日になっても、容態《ようだい》は変わらなかった。
急に高熱を出したかと思うと、けろりとおさまることもあるが、ほとんど食事をしていない。
それに、やはりエドガーがそばにいるほど悪化するような気がするのだ。
「いつまでもあんな調子じゃ、体が持たないだろ?」
むろんエドガーも、そのことを心配していたところだ。
「ニコ、僕さえ離れていれば、リディアはよくなるのか?」
「すぐそばにいなきゃいいって問題でもないと思う。それにたぶん、この島を出たら、ますます状態は悪化するぞ」
「何だって?」
ニコは悩みながら、木彫《きぼ》りの肘《ひじ》置きがついた椅子《いす》に腰掛けた。
「おれはあんまり詳《くわ》しくないけど、フィル・チリースの刃なら、フィル・チリースの魔力でしか浄化《じょうか》できない。いちおうこの島には、彼らの守りの魔力《まりょく》がある。ここにいて、時間をかけて傷を癒《いや》すしか」
「……リディアをここに残して、僕には去れってことか?」
憤りをにじませながらも、エドガーはどこかでそんな予感がしていた自分に気づいていた。
リディアも感じていたのかもしれない。
ひとりで行ってしまわないかと訊《き》いた。そうして、気分が悪くなっていることを隠しても、そばから離れようとしなかった。
だんだんと彼女が、気持ちを向けてくれるようになったことも、今は素直《すなお》によろこべない。
いったい、どのくらいでフィル・チリースの魔力は消えるのか。どのくらい離れていなければならないのか。
けれど、事態は彼の予想を超えて、さらに非情《ひじょう》な条件を突きつける。
それは、外から聞こえてきた悲鳴《ひめい》ではじまった。
「や……やめてください!」
ケリーの声だった。それに重なって、男の声も聞こえる。
「あんた、伯爵《はくしゃく》の使いで来た女だな? どうしてここにいる」
「離して!」
レイヴンがさっと窓に駆け寄り、カーテンをずらして確認する。
「外にいるのはファーガス・マッキールです」
彼が告げると同時に、外からまた声が聞こえた。
「やっぱりそうか、ここにアシェンバート伯爵がいるんだな?」
エドガーも窓辺《まどべ》に歩み寄る。キルトをまとった赤毛の男には見覚えがある。
ファーガスから逃《に》がれようと、ケリーが片手を振り上げると、そのひょうしに手にしていた籠《かご》が落ちた。
リディアのために薬草を集めると出ていったケリーだった。籠からは、草とともに赤黒い何かのかたまりがこぼれ落ちた。
ファーガスは興味を持ったようにそれを拾いあげ、しばらく眺めていたが。その隙《すき》にケリーは駆け出す。
「あっ、おい、待てよ!」
しかしすでに、彼女は館に駆け込んでいて、ファーガスは舌打ちした。
しかたなくか、彼は館を見あげ、声を張りあげた。
「おい、聞こえるか、伯爵! おれはファーガス・マッキールだ! 聞こえてるなら出てきてくれ、話がしたい!」
エドガーたちのいる部屋へ、地主が現れ、どう応対するかと問うた。少し待ってくれとエドガーは、窓際《まどぎわ》で様子を見る。
ファーガスは返事のない館に向けて、ひとりでしゃべり続けた。
「おれひとりでここへ来た。誰にも、あんたとクナート家の結びつきはしゃべっていない」
「たしかに一人きりのようだけど」
エドガーはつぶやく。
「本当にしゃべっていないんでしょうか」
レイヴンは慎重《しんちょう》だ。
「……出てこないならこのまま帰るしかないが、氏族長《しぞくちょう》にすべて話すからな!」
そのとき、黙《だま》って考え込んでいたニコが口を開いた。
「たぶん、マッキール家ならリディアを助けられる」
「たしかなのか? ニコ」
「フィル・チリースとチェンジリングや混血を繰り返した一族だぞ。あの一族に対処できないなら、方法はないってことだよ」
「なら、あいつと話してみるしかないか」
エドガーは、皆に同意を得るように周囲をを見まわし、それから窓を開けた。
ファーガスは、すぐさまこの窓に注意を向けた。
「ひとりで来たって? 大した度胸だな。それが本当なら、このままきみを帰すわけにはいかないよ」
そんなことはちっとも考えていなかったのか、はっとした彼は、少々うろたえたように視線を泳がせたが、すぐに思い直して胸を張る。
「できるもんならやってみろ! けど、リディアが病気なんじゃないか? あんたがぴんぴんしてるなら、リディアに違いない。おれなら助けられるかもしれないぞ!」
「何のこと」
エドガーは冷静に返したが、ファーガスは、リディアの異常を確信しているようだった。
「ここにいるクナート家の少女、薬草を集めてきたみたいだな。それだけでなく、こんなものを必要としてる」
ケリーの籠から落ちた、黒っぽいかたまりを彼はかかげて見せた。
「アザラシの肝臓《かんぞう》だ。妖精の魔力が体に入った人間が、解毒《げどく》のために使う。けどもしリディアのためなら、彼女の体に入ったのはフィル・チリースの魔法だ。そうだろ? あのとき聖地で、ブライアンを殺したのも同じだろう? だったら、こんなものは効かない」
ファーガスは乾《かわ》いた肝臓のかたまりを、手の中で握《にぎ》りつぶした。
「いいだろう。きみと話すのもまったくの時間の無駄《むだ》ではなさそうだ」
そう返し、エドガーは窓際を離れた。
ついてこようとするレイヴンに、とどまるよう言って、応接間を出る。外へ出て辺《あた》りを確かめても、やはりファーガスはひとりだけで、さっきの場所に突っ立ったままエドガーが来るのを待っていた。
「リディアの様子は? そうとう悪いのか?」
本来ならリディアの許婚《いいなずけ》だった、と言い張るファーガスに問われると、エドガーは単純にむかついた。
「きみには関係ない」
が、ファーガスもエドガーと向かい合えばむかつくらしい。ひくりと眉《まゆ》をつり上げる。
「ああそうかい。だがあんた、妖精のこと何もわかってないだろ。あんたみたいに、アンシーリーコートに近《ちか》しい者がそばにいると、彼女もそうとう苦しい思いをしてるだろうな」
やはりエドガーの存在が、リディアの状態を悪化させている。動揺《どうよう》を顔に出さないよう彼は深呼吸《しんこきゅう》したが、気持ちは少しも落ち着かなかった。
「で、マッキール家には、フィル・チリースの刃《やいば》に効く薬があるのか?」
「薬はない」
「ならきみに用はない」
エドガーはきびすを返そうとした。が。ファーガスは急いでつけ足す。
「待てって。薬はないが、魔力を消すことはできるはずなんだ。マッキール家の土地には、妖精の魔力が効きにくい場所がある。リディアの状態にもよるけど、回復する見込みは十分あるはずさ。そこで二、三年も過ごせば……」
「三年!」
ファーガスの言葉をさえぎらずにはいられなかった。
「そんなにもリディアと離れてろっていうのか?」
「いやなら、彼女を見殺しにするしかないわけだ」
優位に立ったと誇示《こじ》するように、ファーガスは腰に手をあてた。
「リディアを助けるのは、あんたがこの島を離れることが条件だ。約束するなら、あんたが無事脱出するまで追っ手を差し向けないようにする」
「それはまた、どういう親切なのかな」
「あんたがマッキール家の者につかまって殺されれば、リディアはおれたちを恨《うら》むだろう。そうなったらうまく魔力が抜けずに悪化するかもしれない。もちろん、あんたには二度とこの島に近づかないでもらいたい。島へ来るなら、どうしたっておれたちはプリンス≠ニ戦わねばならないからな」
「それできみは、恨まれることなくリディアを僕から奪《うば》うってつもりか。むりやりでも彼女を自分のものにするチャンスだ」
「バカにするなよ。マッキール家の名誉にかけて無理強《むりじ》いなんてするか。けど言っておく。おれはリディアにあんたのことを忘れさせてみせるからな!」
彼はじゅうぶんに、そのための時間が得られるというわけだ。
一方で、エドガーにとっては不利な話だった。
長いこと離れていても、リディアは待っていてくれるだろうか。
「いやっ! そんなのいやよ!」
リディアは強くそう言って、エドガーを責めるように半身を乗り出し、上着をつかんだ。
「あたしを置いていったりしないって、言ったじゃない!」
「僕だって離れたくない。だけどこのままじゃ、きみの体はよくならない」
なだめようと彼女の手を握りしめるが、振り払われてしまう。そして彼女はそっぽを向く。
「……置いていくなら、婚約は解消ってことよ。だって、離れていたらあなたは、別の誰かを好きになるわ」
「リディア、僕にはきみだけだ。変わらないと約束する」
「あなたの約束なんて……。それに、あたしだってきっと変わるわ」
「僕を忘れてしまう?」
「あなたが好きになってくれたリディアじゃなくなっちゃうかもしれない」
「そんなはずないよ」
けれど彼女は、はげしく首を横に振った。
「ううん、今離れたら、あたしたちだめになるわ!」
「そうするしかないんだ。それに、僕たちはだめになったりしない」
「本当に、マッキール家ならあたしを治せるの? もしフィル・チリースの魔力が強ければ、治療をしても同じことかもしれないでしょう? だったら、あたしは悔やみきれなくなるわ。あなたと離れたことを後悔しながら死ぬなんていや!」
たしかに、確証はなかった。
けれど、このまま島を離れてしまえば、リディアは確実に……。
「エドガー、短いあいだでもいいの……。そばにいさせて」
うるんだ金緑の瞳《ひとみ》で懇願《こんがん》されれば、エドガーの気持ちはゆらいだ。いとしいキャラメル色の髪をそっと撫《な》でる。腕の中にもたれかかってくる彼女を抱きとめる。
ようやく、こんなふうに寄り添《そ》えるようになったのに。
気持ちもたしかに重なっていると感じる、大切な恋人と離れなければならないなんて、エドガーにとってもはじめてで、そしてこの上なく理不尽《りふじん》なことだった。
「リディア、僕は短いあいだじゃいやだ。長いこと、できれば年老いるまで、そばにいたい」
「……待ってるあいだに、あなたがいなくなったら……」
エドガーの中のプリンスを、リディアは案じているのだろう。たしかに今のエドガーは、世間でよくあるように、事情で遠方に行かねばならない婚約者というだけのものではない。
この先プリンスの記憶がどんな影響をもたらすかもわからないし、エドガーがプリンスである以上、再びこの島へ来るときは、マッキール家に命をねらわれることを覚悟しなければならない。
リディアが治ったとしても、すんなり再会できるわけではない。
「あたしは、待たない……」
リディアはおびえたように肩を震《ふる》わせ、エドガーの腕から抜け出した。
「マッキール家にも行かない! あなたを殺そうとするマッキール家になんて……。だってそうでしょう? 予言者がどこかにいるのよ? あたしがいれば、予言者のために利用される。あなたの命をねらう彼らに、力を貸してしまうことになるわ!」
「僕は負けないよ。予言者にも、プリンスにも」
リディアはまた、はげしく首を振った。
「置いていくなら、あたしは身を隠《かく》すわよ。マッキール家の人が来たって逃げ出すから! ひとりで、命が尽《つ》きるのを待つわ!」
声を張りあげると、急に苦しそうに胸を押さえる。荒い呼吸を繰り返す。
「リディア」
「お嬢《じょう》さま、大丈夫ですか」
ケリーが駆《か》け寄ってきて、水を飲ませようとする。うまく飲めずに、はげしくせき込む。
[#挿絵(img/bloodstone_265.jpg)入る]
「すみませんが、伯爵《はくしゃく》」
そばにいるほど、彼女の体に障《さわ》るのだ。これ以上話すのは無理だろう。
エドガーは頷《うなず》き、部屋を出た。
「あんまりだよ、……リディアがかわいそうだ」
ニコはレイヴンが淹れた紅茶をすすりながら器用に目をこすった。
「伯爵、あんたといっしょに帰りゃ死ぬのを待つだけだし、この島に残るのも、リディアにはつらいだけだ。おれはもう、見てらんないよ」
その通りだと、エドガーはため息をつく。
「なあニコ、ファーガスの言うように、本当にリディアは治ると思うかい?」
「刃のかけらは取り除いたんだし、残った魔力は消せないほどじゃないと思う。だけど、何年かかるかは、じっさいに治療してみなきゃわかんねえだろうな」
「エドガーさま、リディアさんは何とおっしゃっているのですか?」
レイヴンも、自分から訊《たず》ねるくらい、この成り行きを気にしているようだった。
「うん……、ここに残るのはいやだと言っていた」
「まさか伯爵、リディアを見殺しにする気か?」
「置いていくべきだと思うのか?」
「そんなことしたら、かわいそうじゃないか」
「どうしろっていうんだ」
「……どっちもいやだ」
ニコはまた紅茶をすすりながら目をこすった。
「たぶん、リディアは自暴自棄《じぼうじき》になってる。このまま死んでも帰りたいだなんて、そう思うのは、僕がプリンスの記憶を継いだと知って、少なからずショックを受けているんだ」
本当のことを知っても、彼女はエドガーへの気持ちは変わらないと示してくれたけれど、不安は感じている。このまま結婚していいのかとの迷いもある。
だからこそ、離れることを恐《おそ》れている。離れて、冷静になったら、自分たちの関係が壊《こわ》れてしまうかもしれないと恐れている。
先が短いのなら、気持ちだけで突っ走っていけるから、あんなふうに言うのだ。
「ええっ? プリンスの記憶を受け継いだ?」
がちゃんとカップを置いたニコが、すっとんきょうな声をあげた。
「ああ、そうか。きみは知らなかったんだっけ」
リディアにばれたから、もう誰に隠す必要もない気がしていた。
ニコは椅子《いす》の上に立ちあがり、テーブルに手をついて背中の毛を逆立《さかだ》てた。
「だっけ……じゃないだろ! プ、プリンスの記憶って、どういうことだよ!」
「話せば長い」
「それって……、あんたがプリンスってことじゃないのか?」
「まあそう、かな」
「リディアは? 知ってるのか?」
「聖地でばれた」
「ううう……」
ニコは苦悶《くもん》の表情で、頭の毛を両手でかきまわした。レイヴンは心配そうに、ポケットから櫛《くし》を出す。
「だからリディアは、いっそこのままのほうが、僕に何かが起こるのを知らなくてすむと思ってるんだ。幸せなまま死ねるって」
櫛には見向きもせず、乱れた毛並みのまま、ニコはふらりと椅子から降りた。
「……もう、おれはたえられないよ」
よろめきながら、部屋を出ていく。
ニコを追おうとしかけ、レイヴンは気にしたようにエドガーの方に振り返る。エドガーが頷くと、一礼して彼も部屋を出ていった。
「なあレイヴン、いつからあんたたちは、リディアやおれをあざむいてたんだ?」
ニコが外に出ても、しばらく歩き続けても、レイヴンはすぐ後ろを黙《だま》ってついてきた。
そうして、あざむいていたときつい言葉で問えば、かすかにたじろいだようにも見えた。
「プリンスが死んだときからです」
「リディアに隠して、伯爵は結婚の準備を進めてきたわけだ」
「エドガーさまもずいぶん悩んでいらっしゃいました」
「伯爵はどうすると思う?」
「……わかりません」
「おれは、この結果を見届ける勇気はないよ。だからレイヴン、あんたともお別れだ」
別れ、とレイヴンは、言葉の意味を噛《か》みくだくように口の中でつぶやいた。
「リディアには以前に話してある。顔を見たらつらいから、このまま行くよ」
「それは、どちらへ」
「さあ、この島のどこか、人のいないところかな」
ニコは足を止めずに歩き続けた。レイヴンはまだついてきていたが、何か言いたげでいながら何も言わなかった。
「あんたは一生、伯爵についていくことに迷いはないんだろ。それはそれで、おれは尊敬するよ。でも、たまにはおれのことも思い出してくれ」
「ニコさん」
「じゃあな」
ニコが手をあげると、レイヴンはようやく足を止め、そこで長いことニコを見送っていた。
エドガーが近づいていくまで、レイヴンは、もう動くものは何も見えない遠くの方を眺《なが》めていた。
誰かと別れるということに、痛みか悲しみか、ともかく何かをレイヴンが感じたのははじめてではないだろうか。
できれば別れよりも、友情を育てるよろこびを体験してほしかった。そう思うけれど、エドガーにはどうにもできないことだった。
「レイヴン、すまない」
振り返った彼は、不思議そうにエドガーを見た。
「なぜですか?」
「ニコが行ってしまったのは、僕がプリンスの記憶を手に入れてしまったからだろう? ニコは、僕を許せないだろうからね」
レイヴンは、ゆっくり首を横に振った。
「エドガーさまに仕《つか》える私を、尊敬すると言ってくださいました。エドガーさまの選択も、認めていらっしゃるはずです」
[#挿絵(img/bloodstone_271.jpg)入る]
「そう。ニコはすばらしく公平だ。立派《りっぱ》な紳士《しんし》だからね」
レイヴンは頷き、ポケットを探る。そうして、球状に磨《みが》かれたブラッドストーンを取り出す。
「これを返しそびれました。……いえ、返してしまうと、ニコさんと縁《えん》が切れてしまうような気がしたんです」
エドガーは、レイヴンが眺めていた遠くの方に目をやった。
「そうだね。それがあるなら、いつかまた返す機会が訪れるだろう」
「また、この島を訪れることがありますか?」
リディアを連れて帰るなら、もうあり得ない。けれどエドガーは、レイヴンの問いに頷く。
「ああ、必ず僕は戻ってくるよ」
リディアを死なせたくない。何よりもそう思えば、ほかに選択の余地《よち》はなかった。
けれどまた、リディアをだますことになるのだ。彼女はエドガーを恨むかもしれない。
それでも、彼がリディアを失わずにすむ可能性があるとしたら、マッキール家にたよることだけだった。
「僕はリディアを愛し続ける。いつか、もういちど彼女の心を取り戻してみせるよ」
夜になって、再びエドガーがリディアの部屋を訪れたとき、彼女はベッドの中ではなく、窓辺《まどべ》の椅子に腰掛けていた。
おまけに、すっかり外出着に着替えている。
「リディア、おやすみを言いに来たんだけど」
「眠くないし、気分がいいの。今のうちなら、マッキール家に見つからずに港へ行けるわ」
立ちあがった彼女は、こちらへ歩み寄ろうとしたが、足取りはふらついていた。
「だめだよ、夜はちゃんと休まないと。それに、今夜もほとんど食べてないだろう?」
急いで近づいていって、エドガーは手をさしのべる。
「……心配で、何ものどを通らないのよ。島を出たら、きっと食べられるようになるわ」
「ここは安全だよ。何も心配することなんてない」
「やっぱり、あたしの願いはきいてくれないのね」
失望したように、リディアは目を伏《ふ》せた。
「でも、あたしだって考えを変える気はないわ」
このまま治療を拒《こば》むという。
そうさせるわけにはいかなかった。
エドガーはため息をつき、リディアの髪を撫《な》でる。しばらくそうしていたが、思い切って口を開いた。
「わかった。いっしょに帰ろう」
「……本当に?」
驚きながら、不安そうに彼女は見あげた。
「きみだけは、僕を言いなりにできる。そう言っただろう?」
リディアを失うこと、それ以外なら、何だって言うとおりにしてやれる。
だからこれだけは、エドガーにとってゆずれない一線だった。
どんな手を使っても、リディアを死なせはしない。
リディアはしばらく、エドガーの目を覗《のぞ》き込んでいたが、ようやく口元をゆるめて微笑《ほほえ》む。
切《せつ》なくて、苦しくなりながらも、エドガーもどうにか笑《え》みを向けると、リディアを強く抱きしめた。
「リディア、必ず、結婚しよう」
「そうね……、時間がないもの。急がなきゃ」
ケリーがリディアのために、ホットミルクを持ってやってきた。そっとテーブルに置いて立ち去るのを意識しながら、エドガーは言った。
「この長い夜が明けたら、すぐにだよ」
誓《ちか》うように口づけをかわし、彼はリディアを椅子に座らせる。
「馬車を用意してもらってくる」
それから、何気なくミルクのカップを手にとって、彼女に差し出した。
「少しでも飲んで。旅に備えなければね」
レイヴンが眠り薬を入れたはずだった。
リディアを確実に、逃げ出す隙《すき》を与えずに、ファーガスに引き渡すにはこうするしかなかったのだ。
リディアはそれを、大事そうに両手で包み込み、口元に運んだ。
いっしょに帰れると信じ切っているのだろうか。それともエドガーのうそを感じ取っているのだろうか。
どちらともつかない表情で、ミルクを飲み干す。
彼女がカップを落とす前に、エドガーはそっと手を添えた。
それをテーブルに戻すと、力の抜けた体を抱き上げ、ベッドまで運ぶ。
今度こそ、寛大《かんだい》なリディアでも許してくれないかもしれない。
そう思っても、エドガーの決意はゆるがなかった。
「リディア、わかってくれ。僕がほしいのは、数日で終わるとわかっている幸福じゃない。きみとの将来で、幸せな家族なんだ」
もはやリディアには聞こえていなくても、彼はささやいた。
「だから、必ず結婚しよう。今度会えたときが、僕たちの夜明けだ」
[#改ページ]
あとがき
こんにちは。そして、ご愛読をありがとうございます。
スコットランドの話を書きたいとか、ずいぶん前に言ったことがあるような気がしますが、ようやくそういったところに突入しております。
当初は一冊で片《かた》が付く予定だったのが……。どうかこの続きも、楽しみにお待ちいただけますように。
ところで先頃《さきごろ》、猫の写真集を見ていて思いました。ニコって、ノルウェージャン・フォレスト・キャットって種類に似てるかも……。
毛の色は違いますけど、毛並みの雰囲気《ふんいき》とか、きりっとした顔立ちとか。
ノルウェーの森の猫、ですか。なんだか妖精っぽい名前ではないですか。
長毛《ちょうもう》の猫というと、私はまずペルシャ猫が思い浮かぶのですが、顔つきがニコのイメージじゃないなあと思っていました。このシリーズではじめてニコを登場させたとき、私の中での彼は、シャムとかアメリカンショートヘアのかっこいい風貌《ふうぼう》とペルシャとかチンチラの優雅《ゆうが》な毛並みが混ざった感じ、だったのです。
なんと適当なイメージ(笑)。
メインクーンも長毛でかわいくて、ニコっぽい風貌ではあるのですが、アメリカ生まれよりやっぱり北欧《ほくおう》系のノルウェージャン・フォレスト・キャットが、ヘブリディーズ諸島にいたというニコに近い気がします。
でもニコは猫ではないので、似てるなんて言ったら怒りますかね。
ごめんねニコ。
というわけで、(どういうわけで?)今回の話は『苦労人ニコの巻』でした。
さてさて、今回は久々に、表紙にニコが登場しました。リディアとエドガーの距離も、ぐっと近づいている感じですね。高星《たかぼし》さま、ありがとうございました。
ドラマCDの第二弾も五月発売と決まりまして、高星さまにはまたジャケットのイラストを描き下ろしていただくということで、私としても春に向けての楽しみが増えました。
もうひとつ、今、春に向けて楽しみにしているのが、桜の木の鉢植《はちう》えです。
ちゃんと花が咲くでしょうか。家の中でお花見ができるなんて、うれしいじゃありませんか。
と、心待ちにしているところです。
……ええと、脱線しましたが、読者のみなさまにも、ぜひともドラマCDをお手に取っていただければと思います。声優さんの聞き惚《ほ》れてしまうような声や演技も必聴《ひっちょう》ですよ!
それから、このたび担当さまが変わりました。
最後になりますが、この『伯爵と妖精』に長らくたずさわってきてくださった担当さまには厚く御礼《おんれい》申しあげます。そして新・担当さま、ふつつか者ですがよろしくお願い致します。
というわけで、新しい担当さまとともに、これからも渾身《こんしん》の(……うん、きっと)作品をお届けしたいと思っておりますので、ますます『伯爵と妖精』を応援していただければうれしく思います。
それではみなさま、またいつか、この場でお目にかかれますように。
二〇〇八年 二月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 誰がために聖地は夢みる」コバルト文庫、集英社
2008(平成20)年3月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年10月21日作成