伯爵と妖精
紅の騎士に願うならば
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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目次
ハイランドからの訪問者
あなたのそばにいるために
チェンジリング
真実は見えないまま
引き裂かれた恋人たち
青い騎士と赤い騎士
太陽が海に飲み込まれるとき
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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ハイランドからの訪問者
「あの馬車ですよ、ファーガス」
言われて、彼は窓から身を乗り出した。
このホテルの一室からは、通りを隔《へだ》てた向かいにある帽子屋《ぼうしや》の入り口がよく見える。そこに止まった馬車からは、少女がふたり降りてきたところだった。
「アシェンバート伯爵家《はくしゃくけ》の馬車です」
二頭立て箱馬車を飾る紋章《もんしょう》を見分ける知識はファーガスにはないが、そばにいる彼の連れが言うのだから間違いはなかった。
父親の部下だが、間違いなく役に立つからと、今回の旅に同行させた男だ。
「で、パトリック、どっちだ?」
ファーガスの目当ての少女はひとりだけだ。この帽子屋に注文した品を受け取りに、伯爵家の馬車で乗りつけるだろうことは調べてあった。
直接話をする前に、できればいちど見ておきたいと思っていた少女が、目と鼻の先にいる。しかし、同じ年頃の少女がふたりも馬車に乗っているとは予想外だった。
「残念ながら、どちらがリディア・カールトン嬢《じょう》かは私にもわかりかねます」
「おれはブロンドが好みなんだが、どっちも違うな」
「それなら、アシェンバート伯爵が金髪だそうですよ」
「へえ……そうなんだ。じゃないだろ! 男の金髪なんか興味ねえよ!」
「でもファーガス、どんな男か知りたがっていたじゃありませんか」
「そりゃまあ、知りたいだろ」
アシェンバート伯爵、それがカールトン嬢の婚約者だという男なのだから、気になって当然だ。
「新聞によれば、人目を引くほどの美貌《びぼう》で、英国に帰国したとたん社交界の寵児《ちょうじ》となった。若いながらも切れ者らしく、貴族社会でも一目《いちもく》置かれている人物。数々の女性と浮き名を流しては大衆の関心までも集めてきたが、先日いきなりの婚約発表をし、ロンドン中を驚かせ……」
「読み上げなくてもいい。そんな記事は腐《くさ》るほど読んだ」
部屋の中ほどにあるテーブルには、彼らがここ数日で集めたアシェンバート伯爵に関する記事が山と積まれているのだ。
しかし、ロンドンに来てまだ間もない彼らは、実物にお目にかかったことがない。
そうしてファーガスは、女たらしと評判らしい伯爵の婚約に苦言《くげん》を呈《てい》する記事でさえ美しい≠ニいう形容詞を使わずにいられないらしいのが、なんとなくむかついていた。
男は顔じゃない、心《ハート》だろ! と思うわけだ。
とにかく、カールトン嬢の婚約者については、評判からして気に入らない。いや、気に入らなくて当然なのだ。ファーガスにとって、ライバルとなるだろう相手なのだから。
「だいたいそういうのに限って、じっさい見てみりゃ大したことなかったりするんだ」
「そうですね」
パトリックは、感情を込めずに同意した。
ファーガスはもういちど窓の外に顔を向けたが、そのときにはもう、少女たちはとっくに店の中へと姿を消していた。
ふたりとも、身ぎれいなドレスを着ていた。どのみちこの距離では、顔まではよく見えなかったのだが、美人だろうかと想像する。
評判のプレイボーイが結婚を決めたくらいだから、それなりのものだろう。
「会う前から期待すると、ろくなことはありませんよ」
パトリックは、ファーガスの空想にまで水を差す。
「あんたは……、冷静な男だな」
「ありがとうございます」
ほめたわけではないが。
「けど、期待したくもなるだろ。本当なら、おれの許婚《いいなずけ》になっていたはずの女に会えるんだ」
かつて、一族の村を出て、よそ者と駆《か》け落ちをした女がいた。彼女に子供がいれば、ファーガスと同じ氏族《クラン》の血を引くことになる。
子供が女なら、一族は救われるかもしれない。
そんな話が持ちあがり、消息《しょうそく》を求めて半年、ロンドンにいるらしいとわかってきた。
はるばるロンドンまでやって来たファーガスは、二十年ほど前に氏族の娘を連れ去った男の名前と職業しか知らなかったが、幸運にもその名を紙面に見つけることができたのだ。
アシェンバート伯爵が婚約を発表したという記事だった。相手の女性はリディア・カールトン。ロンドン大学教授で王立《ロイヤル》アカデミー会員の鉱物《こうぶつ》学者、フレデリック・カールトン氏の長女。
間違いはなかった。
ファーガスは、氏族《クラン》のとくべつな血を引く少女を、是《ぜ》が非《ひ》でも連れ帰らねばならなかった。
* * *
リディアが親友のロタと連れ立って帰宅した夕刻、めずらしく父がすでに帰ってきていた。
どうやら客人《きゃくじん》がいるらしく、応接間で話し込んでいると家政婦が言うので、お茶を二階の自室へ運んでもらうように頼み、リディアはロタとともに階段をあがった。
「ねえロタ、夕食、食べていってくれるでしょ?」
「いいのか? 客が来てるのに」
「突然のお客さまみたいだし、すぐ帰るんじゃないかしら。それより、今日はあたしの買い物につきあわせちゃったもの」
「あたしは楽しかったよ。エドガーが馬車を貸してくれたおかげでラクチンだったし」
リディアの部屋へ入ると、帽子を取ったロタは、自宅へ帰ってきたみたいにくつろいだ様子でのびをした。
「ま、せっかくだからごちそうになろうかな」
「あ、お家に連絡しておく? あとで誰かに手紙を届けてもらいましょ」
「いいよ。じいさんには、あたしが帰ってこなくても二週間は気にしないでくれって言ってあるから」
ロタは、亡命《ぼうめい》貴族のクレモーナ大公《たいこう》の孫娘だ。わけあって海賊《かいぞく》に育てられたため、ふつうの令嬢《れいじょう》みたいにじっとはしていられないが、大公も大目に見ているようだった。
そんなロタだから、リディアが妖精と親しくしている変わった少女でも、仲良くなろうとしてくれた。
リディアにとっては、貴重な人間の友人だ。
椅子《いす》に腰をおろしながら、ロタと顔を見合わせてリディアは微笑《ほほえ》んだ。
「帽子、思い通りに仕上がっててよかったな」
「ええ。でも、もうひとつ目当ての買い物ができなかったわ」
思い出しながら、ため息をつく。
じつをいうと、今日は婚約者への贈り物も選ぶつもりで出かけたのだ。
「男の人への贈り物って、難しいのね。父は使えるものなら何でもよろこぶ人だから考えなくてもよかったけど、エドガーは気に入ったものしか使わないもの」
「あんたが選んだものなら、何でもよろこぶと思うけど」
そうだろうか。と、ふだんの彼を思い浮かべてみれば、身につけているのは高級品な上、趣味のいいものばかりだ。いまさらリディアが買える範囲で選んだものなんて、ありがたがるだろうか。
だったらあまり人目につかない日用品を、と考えてみても、男の人なら何をほしがるのかよくわからない。
そもそも、婚約の贈り物をするには、プロポーズを受けてから時間が経《た》ってしまっているのではないだろうか。
婚約の指輪を贈られた女性は、何か記念になるようなものを男性に贈るといい、とは知っていた。けれど、リディアの指輪は特殊《とくしゅ》な妖精族のムーンストーンで、エドガーから贈られたというよりは、不思議な縁《えん》で与えられたようなものだったから、人の慣習のことは忘れていた。
リディアがそれを思い出したのは、婚約発表もすませた後のことだ。
|最愛の人《ディアレスト》、と宝石の頭文字《かしらもじ》で綴《つづ》られた、彼からの贈り物であるネックレスをみんなにほめられながら、これは指輪には込められなかったエドガーの気持ち、純粋に彼からの婚約のしるしなのだと気づいたときだった。
「あたしったら、エドガーがよろこびそうな物ひとつ思いつかないなんて、婚約者としてどうなのかしら」
「そんな心配するなって。あんたが結婚してやるってだけであいつはもうけすぎ。くれるって物はばんばんもらって、あとはにっこりしてりゃいいんだよ」
「そ、そう……?」
「文句を言ったりしたら、ぶん殴《なぐ》ってやるからあたしに言いな」
頼もしいが少々過激なロタは、なかなか貴族の娘らしくはできない。けれどそんな飾らないところがリディアは好きだし、心を許せる友人だ。
またふたりして笑えば、なんとなく気が晴れる。
「お茶、まだかしら。ちょっと見てくるわ」
リディアは立ち上がり、部屋を出た。
階段を下りていこうとすると、ニコが急に姿を見せた。
「おい、今は下へ行かない方がいいぞ」
灰色の長毛猫の姿をした妖精は、二本足で立ったままリディアを見あげる。
「どうしてなの?」
「やっかいな連中が来てる」
「父さまのお客さまのこと?」
「とにかく、あんたは姿を見せない方がいい」
ニコはリディアのスカートを引っぱり、部屋へ戻るよう促《うなが》したが、父の客がどうして自分に関係あるのか、リディアはますます気になってしまう。
「ねえ、誰なのよ」
そのとき、階下の応接間でドアが開いたらしい音がした。踊り場から下を覗《のぞ》き込んだリディアに、いつになくきびしい顔つきの父がちらりと見えた。
「どうぞお引き取りください」
その口調《くちょう》も、たいてい人当たりよくおだやかな父らしくはなかった。
「お嬢さんと直接話をさせてくれませんか」
声は若い男だった。
「その必要はありません」
「彼女だって、自分にかかわることなら知りたいはずでしょう?」
ドア際《ぎわ》で父に食い下がるのは、二十歳《はたち》すぎくらいの赤毛の青年だ。キルトというタータンチェックの衣装を着ている。スコットランドの民族衣装だ。
「そちらの事情など、とうの昔に私どもとはかかわりのないことになったはずです」
「そういうわけにもいかなくなったんです。カールトンさん、奥さんの実家があった村では、大勢が亡くなりました」
母の、実家と関係のある人なのだろうか。それに、大勢亡くなった?
ニコにせっつかれても、リディアはその場から動けなくなっていた。
母方の親戚《しんせき》のことは、リディアはほとんど知らない。知っているのは、北方の島から父と駆け落ちをして出てきたこと。妖精に通じ、知識も豊富で、村人に頼られたフェアリードクターだったということくらいだ。
けれどあの若者は、何やら知っている様子だ。おそらく母の故郷《こきょう》から来たのだ。
リディアが手すりに寄りかかったとき、階段がかすかにきしんだ。
赤毛の若者の背後《はいご》にいた、もうひとりの男が視線をあげた。こちらは民族衣装ではなく、茶色のフロックコートを着ている。黒髪の、二十代後半くらいの、目立たない感じの痩《や》せた男なのに、こちらに向けられた目はやけに鋭《するど》い。
視線に縫《ぬ》い止められたようになって、動けずにいたリディアに、赤毛の方も気づいた。
すぐさま彼はこちらへ近づいてくる。牡鹿《おじか》のように身軽な動作で、さっと階段を駆けあがった彼は、もう踊り場に立ってリディアの目の前にいた。
「あんたが、リディア?」
「え……、あの」
「おれはファーガス・マッキール。あんたの母親、アウローラと同じ、マッキール氏族《クラン》の族長の息子だ」
母さまの、親族?
ファーガスというその青年は、少年ぽさを残した好奇心《こうきしん》いっぱいの瞳《ひとみ》でリディアを見る。そうして、連れの男に顔を向ける。
「なあパトリック、期待してよかったじゃないか。ブロンドじゃないけど、なかなかかわいいぞ」
「失礼ですよ、ファーガス」
「リディア、部屋へ戻っていなさい」
父に言われ、そうしようとしたが、ファーガスというその青年はリディアの腕をつかんで止めた。
「おれと結婚してくれ」
「は?」
「あんたは知らないだろうけど、生まれる前からおれの許婚《いいなずけ》と決まってたんだ」
「おいっ、てめー、ふざけんなよ!」
ロタが目の前に割り込んだ。
「リディアにはちゃんとした婚約者が……、いや、ちゃんとしてないけど、とにかく婚約者がいるんだぞ!」
「でもまだ結婚してないんだろ。解消すれば問題ない。それに、順番から言っても、その女好きの伯爵《はくしゃく》がおれの許婚と勝手に婚約したようなもんじゃないか」
「婚約は、順番じゃなくて合意で成立するってことも知らないのかな」
突如《とつじょ》聞こえた嫌味《いやみ》な口調は、間違いなくエドガーだった。
おろおろする家政婦をしりぞけ、玄関から奥へと入ってきた彼は、階段の下からファーガスをにらみつけた。
彼がそこにいるだけで、空気が変わる。圧倒《あっとう》されたようにファーガスは、ごくりとつばを飲み込み、エドガーがゆっくり階段をあがってくるのを見守る。
「僕のフィアンセに、気安く手を触れないでくれ、ぼうや」
目の前で立ち止まるまで、まるで見とれているかのようにぽかんとエドガーを眺《なが》めていたファーガスは、我《われ》に返ったらしくこぶしを握《にぎ》りしめた。
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「ぼうやだって? あんた、おれと年齢そう違わないだろうが」
「おや、それにしては、親に決められただけの相手に固執《こしつ》するなんて、恋も知らないぼうやのたわごとに聞こえるよ」
「気取ってんじゃないぞ! 婚約が順番じゃないっていうなら、これからおれにだってチャンスがあるってことだ」
「僕からリディアを奪《うば》えると思ってるの?」
くす、と笑って、エドガーはファーガスの肩をつかんだかと思うと、階段から押し出した。
不意をつかれ、よろけたファーガスは足を踏《ふ》み外す。その場にいたエドガー以外のみんながヒヤリとしたはずだ。が、転がり落ちかけたファーガスは、下方にいたパトリックという黒髪の男に抱きとめられた。
勢い余ってふたりして倒れたが、すぐに起きあがったところを見ると怪我《けが》はなさそうだ。
ただファーガスは、呆気《あっけ》にとられた様子で、抗議の声も忘れたように座り込んでいる。
ふつう、いきなり階段から突き落とすだろうか。すぐ下方に連れの男がいるとわかっていたにしてもやりすぎだ。
リディアも、父もロタも驚いて声も出せずにいた中、淡々《たんたん》と言ったのはパトリックだった。
「評判通りの伯爵じゃないですか。ねえファーガス、実物は大したことないなんて予想は外れましたね」
「おまえ……、それが今言うべきことか! おれが侮辱《ぶじょく》されたんだぞ!」
「先に侮辱したのはそっちだよ。他人の婚約者に言い寄るなんて、きみが貴族なら決闘《けっとう》を言い渡してもいいくらいだ」
「伯爵、ご無礼《ぶれい》はお許しください」
ファーガスが頭にくる前に、パトリックはこの場をおさめようとしたらしく慇懃《いんぎん》に口を開いた。
「私はマッキール家|氏族長《しぞくちょう》に仕《つか》える妖精博士《フェアリードクター》です。私たちがこちらを訪ねましたのは、許婚がどうのということよりも、もっと切迫《せっぱく》した事情があってのことなのです。話を聞いていただけませんか」
あの人が、フェアリードクター。
リディアは驚きの目をパトリックに向けた。
母の故郷から来た、母と同じフェアリードクター。
引きとめて話を聞きたいような気がしたが、ふたりの高地人《ハイランダー》の視線から隠《かく》すように、エドガーがリディアを引き寄せた。
「聞く必要はないね。カールトン教授もきみたちには帰ってもらいたがっているようだし、さっさと出ていかないなら放り出すよ」
玄関口に突っ立っているエドガーの従者《じゅうしゃ》は、無表情だがおそらく殺気立っていて、ふたりを引きずり出すための許可を待っている。
が、相手もなかなか粘《ねば》り強い。
「仮にも妖精国伯爵《ロード・イブラゼル》の名をお持ちだ。なのに私たちの言葉に耳を傾《かたむ》ける必要もないとおっしゃるのは、伯爵家はとうの昔に、たぐいまれな力も存在意義も失った、というわけですか」
それはエドガーを挑発《ちょうはつ》するにはじゅうぶんだった。
常々《つねづね》、本物の伯爵家の血筋《ちすじ》ではないことを気にしているエドガーだ。
彼には、妖精の魔力《まりょく》に通じる能力がなく、リディアに頼るしかない。
しかしそれはエドガーのせいではない。伯爵家は絶《た》え、そうしてさまざまな条件の上に、エドガーは伯爵の名を継ぐことを許されている。
「僻地《へきち》のフェアリードクターに、伯爵家の何がわかる?」
感情をおさえながら、エドガーは言った。
「失礼ながら、妖精国《イブラゼル》の伯爵家が、いまだに力を保っているのかどうか、私は疑問に思っておりました。聞くところによると、三百年ぶりに現れたのがあなただとか」
「エドガーは間違いなく伯爵家の後継者《こうけいしゃ》だわ。古くから伯爵家にかかわる妖精たちも認めてるのよ」
リディアは思わず口を出す。
「それを否定するつもりではありません。ただ、アシェンバート伯爵、あなたは今、人間界と妖精界の力の均衡《きんこう》が破《やぶ》れかけていることをご存じないでしょう」
冷静に、パトリックは言葉を続けた。
「妖精界で起こる変化は、人間界にも影響します。目に見えないところで、何かが起こりはじめている。イブラゼルの領主なら、お感じになりませんか? いえ、感じないなら知っていただければいいだけです。我《わ》が氏族《クラン》だけの問題ではありません。ほうっておけば、やがては英国中の危機になり得ます」
「それで、何だ? 僕には名前だけで力はない、だからクランの危機のためにリディアをよこせとでも?」
彼らは、ただリディアにフェアリードクターとして協力してほしいと言っているわけではない、ファーガスが許婚《いいなずけ》などと言い出すには、そうする必要があると思っているのだ。
エドガーに力のないことを指摘し、英国の危機などとあおっても、結婚をじゃましようということなら、彼がブチ切れるのは時間の問題だった。
「リディアの母上の一族なら、僕にとっても親戚になるだろう。困っているなら力になれないこともない。だが、彼女を奪うというならきみたちは赤の他人どころか盗人《ぬすっと》だ。クランの危機の前に、自分の危機をはっきりその目で見ることになるよ」
明らかに脅《おど》している。
言い返そうとしたのか、ファーガスが勢い込んで立ちあがったが、パトリックが止めた。
「ファーガス、今日のところは帰りましょう」
「バカ言うな、脅されたっておれは怖くも何ともないぞ」
「あれは脅しではなく本気ですよ」
扱《あつか》い慣れた様子で肩をつかんで促せば、ファーガスは渋々《しぶしぶ》ながら帰ろうとする。
パトリックは父に頭を下げる。
「おじゃまいたしました、カールトン教授、それから伯爵。私たちは当分ロンドンに滞在《たいざい》します。ですから、ひとつだけ心に留めて、どうか話し合いに応じていただきたい。私たちを遠ざけても、リディアお嬢《じょう》さんのためになるとは限りませんよ」
彼の方も、おそらくただの脅しではないのだろう。そう言い残して出ていった。
「私と駆け落ちする前、妻のアウローラにも許婚がおりました」
リディアの父は語りはじめた。
「妻の実家は、マッキール一族の中でも何やら役目を背負っていたようで、妖精と近《ちか》しい血筋だったそうです。そして彼女の許婚は、妖精族の聖地に長い間眠り続けている予言者で、いつか一族を災《わざわ》いから救うためによみがえると言い伝えられていたのだとか」
「いつよみがえるかわからないのに、母さまはその人の許婚だったの?」
父は頷《うなず》き、古い記憶をたぐるように目を閉じた。
「たしか、二十歳をすぎるまでに予言者が目覚めなかったら、また別の少女が許婚に決められるのだったかと……」
「教授、では氏族《クラン》のそのしきたりと、あのふたりが来たこととは関係があるわけですね?」
そんなふうに問うエドガーは、そもそも気まぐれでリディアの家に立ち寄っただけだった。
しかし、これから用事があるにもかかわらず、事情を把握《はあく》するためにカールトン家の応接間にとどまっている。
「彼らの土地が危機に瀕《ひん》しているというのです。病気が増え、土地が荒れ、いくつかの村が離散《りさん》したとか」
「妖精界と人間界の均衡がどうとか言ってたわよね。自然や人為的《じんいてき》な要因ではなくて、何かよくない魔力がたまってそんなことになってるなら、大問題なのは確かだわ」
かすかにリディアが同情を寄せるのを、エドガーが不安そうに見た。
「じゃ、やつらはリディアのフェアリードクターの能力が必要なのか? 黒髪の男もフェアリードクターだって言ってたけど」
ロタは神妙《しんみょう》な顔で腕を組む。
「男ではだめなようです。一族を守るために、眠る予言者の伝説に頼るしかなくなったけれど、クランにはもはや彼の許婚にふさわしい娘がいなくて、二十年も前に家出をしたアウローラの血筋をさがし、ここまで来たといいます」
「リディアを、その男の許婚にするために……、か」
淡々とした口調《くちょう》に、エドガーは強い憤《いきどお》りをにじませた。
「しかし教授、今まで目覚めなかった者を、リディアを許婚にしたからといって目覚めさせることができるのですか?」
「わかりませんが、予言者とクランの危機について、一族の末端《まったん》にすぎない妻が知っていた以上のことを、氏族長の直系である彼らは知っているようです。確実な方法があるのかもしれません」
「でもあのファーガスって人、あたしに結婚してくれって言ったわ」
予言者の許婚が必要なのに、どうして氏族長の跡取りがしゃしゃり出てくるのだろう。
「それは……、リディア、母さまには、二十歳をすぎても予言者が目覚めなかったとき結婚するための、もうひとりの許婚がいたんだ。同じ仕組みだと思うけれど、彼らが言うには、予言者が役目を果たした後は、ファーガスという男がリディアを……その、妻にするから心配はいらないと」
無言でこぶしを握《にぎ》りしめたエドガーを眺《なが》めながら、この話を、彼らから直接聞かされていたら流血騒ぎになっていたかもしれないと思ったリディアは、パトリックが早々に引き上げてくれたことに安堵《あんど》した。
「とにかく伯爵、もはやリディアには関係のないことです。私の妻は、故郷のすべてを断ち切ったはずでした。ですからこの件については、どうぞご心配なく」
断言すると、父はリディアに視線を移す。
「リディア、おまえは正式に婚約したんだ。これまでのように、フェアリードクターだからというだけで自分勝手な判断をしてはいけないよ。わかっているね」
彼らと接触するなと釘《くぎ》をさすのだ。父がリディアに命令するのはめずらしいことだったが、それだけに、婚約した自分はただのリディア・カールトンではないのだと意識させられた。
「ええ、父さま」
社会的にも、すでにロード・アシェンバートに属する身分になりつつある。ほかの男性と接近するようなことがあってはならない。
リディアの返事に安堵したのか、エドガーは少しだけ口元をゆるめた。
けれど、ただ彼らを遠ざけるだけですむ問題だろうかとの不安は残る。
その場では誰も言い出さなかったが、リディアの身にも危険が及ぶようなことを、パトリックは言い残していった。彼ら氏族《クラン》の血を引くかぎり、リディアも宿命的に巻き込まれるということなのだろうか。
「リディア、大丈夫だよ。何があっても僕が守るからね」
エドガーはリディアの不安を感じ取ったのか、そう言って立ちあがった。
「あわただしくてすみません、教授、これから約束がありまして」
「あ、いえ、お忙《いそが》しいところをお引き止めしてもうしわけありませんでした」
「エドガー、リディアのことはあたしがついてるから心配ないよ」
早く追い出そうとするように手を振るロタを、ひとにらみしたエドガーは、見送ろうと立ちあがったリディアとともに玄関へ向かった。
通りで待っていた馬車の前で、彼はリディアに向き直る。ふたりきりになれたからか、急に立ち去りがたくなったかのようにリディアをじっと見つめた。
「どうしても顔を見たくなってね。立ち寄ってみてよかったよ」
「……心配性ね」
エドガーとふたりになると、いつも思う。
距離が近すぎないだろうか。
なにしろリディアは、かなり上を向かないとエドガーの顔が見えない。だからといって顔をあげれば、間近でこちらを覗《のぞ》き込んでいる彼とキスしそうなほどの距離になってしまうので、ついネクタイの結び目あたりを眺めることになる。
世間の恋人たちは、意味もなくこんなに接近しているものなのだろうか。
リディアが思う恋人どうしの距離は、なかなかエドガーのそれとは重ならない。これでも以前にくらべれば、親しげに振る舞えるようになったと思う彼女だが、エドガーは満足していないのだろう。
「かわいい婚約者を持てば、いろいろと心配にもなるよ」
「それはあなたの欲目《よくめ》よ」
「自覚がなくて無防備《むぼうび》なのも困ったものだね」
くす、と笑ったエドガーは、空気を抱くようにふわりとリディアを包み込んだ。
こんなふうにおだやかな、ほっとするような触れ合いは好きだと思う。緊張《きんちょう》させられることなく、エドガーのやさしさを感じる。
たぶん、このごろは彼も、リディアが望む恋人らしい空気をつくろうと努めてくれている。エドガーにとっては、子供っぽいごっこ遊びのようなつきあい方だとしても、少しは歩み寄ろうとしてくれているようだ。
「不思議だな。こうしてると、目を閉じていてもリディアだってよくわかる。いつのまにか、この抱き心地がきみだっておぼえてしまったよ」
そんなにしょっちゅう、こうしていたかしら。
「きみはわかる? 僕だって」
「え、ど、どうかしら」
まだそこまでの余裕《よゆう》はないから、あらためて問われると恥《は》ずかしくなる。そんな反応も面白《おもしろ》がっているように、くすっと笑った彼は、腕をほどいて話を変えた。
「ロタとの買い物は楽しかった?」
いくらか距離が開いたので、リディアはようやく顔をあげ、微笑《ほほえ》むことができた。
「ええ」
「彼女は……まあそう、いろいろと問題はあるけれど、そばについていてくれれば心強い女性だろう。しばらく、ひとりで出かけないようにした方がいいと思う」
頷きながら彼女は、贈り物が決まらなかったことを思い出していた。
いっそ、本人に訊《き》いてみようか。
「あの、エドガー、今何か欲しいものって、ある?」
「あるよ」
と彼は即答した。
「何?」
「きみの愛」
「え、そ、そういうのじゃなくて」
「いつになったら愛してるって言葉が聞けるのかなって、ずっと待ってるんだけど」
そういえば、言ったことないかも。
「そろそろ聞かせてくれる?」
なんていきなり言われても。
「僕のこと、好き?」
リディアは真っ赤になったまま混乱《こんらん》した。エドガーはいつもさらりと言う。何度でも言う。けれどリディアは、そんな言葉を求められるなんて考えてもみなかった。
エドガーの愛情に応《こた》えるために、触れあうことに少しでも慣れようと必死で、それで想いは伝わっていると感じていたけれど、気持ちを言葉にするなんて思いもつかなかった。
そうして今、それがキスよりも恥ずかしい気がしてしまっている自分に驚く。
「…………」
言ってみようとしたけれど。
「え? 聞こえないよ」
ああ、無理だわ。
そう思ったから、リディアは急いで話を変えることにした。
「えっと、あのね、エドガー、婚約の贈り物、あたしからはまだだったでしょ? 何か記念になるものを買おうと思ったの。でも、何がいいのかわからなくて」
「だから、きみの……」
「ほかには?」
なかばムキになって、エドガーが話を戻すのを阻止《そし》してしまう。
彼は少し肩をすくめ、意地悪《いじわる》な笑《え》みを浮かべた。
「僕のことで頭を悩《なや》ませてくれるってのも、いいかもね。きみが選んだ贈り物、期待して待っていよう」
訊かなきゃよかったかも。よけいに選びづらくなってしまったではないか。
そう気づいたときにはもう、エドガーは馬車に乗り込んでいた。
「明日、屋敷へ寄ってくれる? 見せたいものがあるんだ」
「ええ、マナーのレッスンが終わったら行くわ」
「待ってる。愛してるよ、僕の妖精」
いつものように彼は、ためらいも恥じらいもなくそう言ったけれど、リディアは頷《うなず》くしかできなかった。
うまく気持ちを伝えられないし、言葉にできない。ふたりきりで過ごすときも、子供っぽい態度になるばかりで、彼の欲しいものさえ思いつかない。ずいぶん物足りない婚約者に違いない。
ため息をつきながら、リディアは馬車を見送った。
*
荒野《こうや》に、無数の死体が横たわっている。
エドガーはひとり、血に染まった大地を歩いていた。
また同じ夢を見ている。気づいていても、夢からは抜け出せない。
夕日のせいか、空も血のように赤い。
無惨《むざん》にも引き裂《さ》かれた戦旗《せんき》が、動かない戦士たちと同じように、みじめな姿をさらしている。
スチュアート王家の旗だ。
ここは決戦の地、カローデン。英国を追われたジェイムズ二世の孫、チャールズ・エドワード王子が、王位|奪還《だっかん》を企《くわだ》て、そして敗《やぶ》れた最後の地。
百年ほど前、はげしい決戦が行われたというその土地に、エドガーは立っていた。
動くものは何もない。いや、二羽の鳥が赤い空を舞っている。ズキンガラスだ。
古《いにしえ》の、戦いの女神の化身《けしん》が、エドガーを招く。
と、唐突《とうとつ》に場面が変わった。
産湯《うぶゆ》に浸《つ》かった赤子《あかご》が見える。真っ赤な産湯……。それはあたかも血の洗礼だった。
赤子の周囲に集《つど》うのは、亡霊《ぼうれい》、それとも異形《いぎょう》の精霊《せいれい》たち。邪悪《じゃあく》な、暗い闇《やみ》に棲《す》まうものども。
エドガーは気づいている。この先は、別の王子の物語だ。
百年前の戦いで敗れ、反逆者として迫害《はくがい》された人々の、英国王家への呪詛《じゅそ》により、災《わざわ》いの王子《プリンス》と呼ばれる存在が生まれた。
彼らは闇の結社を組織し、邪悪な力でこの国を奪《うば》い取ろうと目論《もくろ》んでいる。
戦いに敗れた王子の代わりに、途絶《とだ》えたはずのスチュアート王家の、細い血脈《けつみゃく》にすがって、再び戦いを挑《いど》もうとしている。
その戦いは、とっくの昔にはじまっていた。
公爵家《こうしゃくけ》の長男だったエドガーを誘拐《ゆうかい》し、次のプリンス≠ノ仕立てあげようとした闇結社は、エドガーから家族も身分もすべてを奪った。
どうにか組織を逃《のが》れた彼は、プリンスに復讐《ふくしゅう》を誓い、青騎士|伯爵《はくしゃく》の地位を手に入れた。
プリンスさえ死ねば、自由になれると思っていた。
うなされ、エドガーは寝返りを打つ。
闇の中、無数の亡霊や|邪悪な妖精《アンシーリーコート》たちが、いつのまにかエドガーを取り巻いている。逃れようとしても、どこまでも彼に付き従《したが》う。
なぜだかわかっている。今は、エドガーが彼らの王子《プリンス》だからだ。
エドガーを苦しめた男は死んだが、プリンス≠ニいう得体《えたい》の知れない存在の記憶は、エドガーの中に取り込まれた。
違う、と彼はつぶやく。
自分は青騎士伯爵だ。プリンスを葬《ほうむ》り去るべく奮闘《ふんとう》した、伯爵家の後継者《こうけいしゃ》だ。
気がつくと、エドガーの手には伯爵家の家宝、人魚《メロウ》の宝剣があった。
邪悪な妖精たちを追い払おうと、宝剣を振る。
闇に青い閃光《せんこう》が放《はな》たれる。
いっせいに、邪悪な者たちは退《しりぞ》く。彼らは宝剣に近づくことはできない。
しかしこの剣は、遠巻きに付き従う彼らに、それ以上のことはできないのだ。
妖精の魔力を帯《お》びた剣、なのに妖精を斬《き》ることはできない。エドガーには妖精に通じる能力がないからだ。
だから、いつまでたっても完全な伯爵にはなれないのだろうか。
ああ、宝剣の真の力を使うことさえできれば……。
願ったそのとき、エドガーの目の前にいた異形の妖精がちぎれ飛んだ。
誰だ? 妖精たちがいっせいに逃げまどう中、辺《あた》りに目を凝《こ》らす。
誰かいる。剣を手にした誰かだ。
暗くて顔は見えないまま、その人影が手にした剣に、エドガーは注目した。
メロウの宝剣にそっくりだった。同じように、大粒の宝石が飾られている。けれどもそれは、明らかにメロウの宝剣とは違っていた。
剣を飾るのは深紅《しんく》の石だ。
ルビー、だろうか。
人影が剣を握《にぎ》り直した一瞬、宝石の内に放射状の光が見えた。スタールビーだ。
エドガーの持つ宝剣のスターサファイアが、ルビーにつられたようにきらりと光る。
その誰かは、今度はエドガーに向き直ると、無言で赤い剣を振り上げた。
避《さ》けようにも、まるで体が動かなかった。
刃《やいば》が目の前にせまった瞬間、また場面が変わった。
エドガーは自分の寝室にいた。
それでいて、まだ夢を見ているとわかる。金縛《かなしば》りになったかのように体は動かないし、目を閉じているのに、部屋の中が隅々《すみずみ》までわかるのだから、夢に違いないのだろう。
(ずいぶん、ひどい夢をごらんになっていらっしゃいますね)
どこからともなく声がした。
「……誰だ?」
(あなたのしもべです。|ご主人さま《マイ・ロード》)
夜明け前の暗い部屋の中に、銀色の影がぼんやりと浮かんだ。
キューピッドを思わせる幼い少年の姿でいて、短い髪も肌も、身につけているものも、青みがかった銀色だ。彼に似た存在を、成人した姿ではあったが、以前にエドガーは見たことがあった。
「アローか」
宝剣に宿《やど》る、スターサファイアの星、その妖精の名をつぶやけば、少年は頷いた。
「なぜここに」
(私をお呼びになりました)
呼んだのだろうか。助けを求めたのかもしれない。
「どうせ助けに来たのなら、おまえがあの連中をバラバラにしてくれればよかったのに」
(マイ・ロード、あなたにできないことは私にもできません)
「弓がないと役に立たないのか。剣の形をしていても、矢《アロー》でしかないというわけだ」
(私はまだ、生まれて間もない妖精なのです。アローは名であり、私の本質。生まれつき備わった力ですが、剣にはあなたの意志が必要です。これからは、あなたのお望みのままに成長するでしょう。ですからお気をつけて。剣にどんな影響を与えるのか、それがあなたの運命を左右します)
あどけない顔つきのまま、もったいぶった言葉を吐《は》く。エドガーは苦笑する。
「僕が、この宝剣に影響を与えることができるのか? 知っているんだろう? 妖精の魔力《まりょく》に通じる能力のない、ただの人間だ」
(そうであることを願いましょう。ならば今の私でも、あなたを守ることはできますから)
意味深《いみしん》に言いながら、スターサファイアのアローは消えた。
そのままゆるりと目をさませば、薄暗《うすぐら》い部屋の中、別室にしまわれていたはずのメロウの宝剣が淡《あわ》く輝《かがや》いて見えた。
エドガーを守ってくれるというのは、プリンス≠求める邪悪な妖精たちを、いくらか遠ざけておいてくれるということだろうか。
そのせいかどうか、夢の中のあの不愉快《ふゆかい》な気配《けはい》は消え失せ、エドガーは落ち着きを取り戻している。
あれはただの夢ではなく、夜な夜なやって来るものなのかもしれない。
それとも、彼の内部で騒ぎ出す何か。
そんなものを、宝剣のアローは鎮《しず》めてくれているのだろうか。
自分の中に宿《やど》ってしまった、プリンス≠フ記憶が目覚めるのを、このままふせいでくれるのならと、エドガーは淡い期待をする。目覚めたら何が起こるのか、自分がどうなるのかもわからないままに。
「エドガーさま、起きていらっしゃるのですか?」
ドアの外から声がかかる。レイヴンだ。
返事をすると、腹心《ふくしん》の従者《じゅうしゃ》が蝋燭《ろうそく》を手に部屋へと入ってきた。
「声がしたものですから」
「レイヴン、僕が結婚したら、声がしたくらいで駆《か》けつけなくていいよ」
茶化《ちゃか》して言いながらも、わかっていた。レイヴンは、エドガーがしばしばうなされているのを気にしている。このところは熟睡《じゅくすい》できないでいることだろう。
「はい」
「明かりを、こちらへくれないか」
エドガーは、ベッド脇《わき》のテーブルに立てかけられた宝剣を手に取り、明かりを近づけた。
自分にはわからないことばかりだ。この宝剣ひとつにしても、よくわかっていない。
どんな力を引き出すかで、運命が変わるという。
もしも、自分の内にあるプリンス≠ノ勝つ方法があるとしたら、この剣は要《かなめ》になるのだろうか。
けれど考えれば考えるほど、自分を殺すしかないような気がしてくる。
それはできないと知っているのに。
エドガーには、どうしてもできないこと。自分からリディアを手放すこと。
だからこそプリンスの記憶を奪い取ったのだし、とんでもないものをかかえたまま、生きる道を模索《もさく》している。
彼女がそばにいてくれるかぎり、希望はあると信じられる。
ただ、エドガーはリディアにすべてを伝えてはいない。
「レイヴン、僕についての事実を知ったら、リディアは、どう思うだろうか」
エドガーにさえ答えられない難問をぶつけられ、レイヴンはまばたきをした。
「おまえは? 主人の中で、憎《にく》むべき敵が生きながらえているのをどう感じている?」
レイヴンだけは、エドガーの身に起こったことを知っている。けれどレイヴンは、何があろうとエドガーの忠実《ちゅうじつ》な戦士だ。
「私は、エドガーさまについていくだけです」
そう答えるだろうことはわかっていた。お互いに、分かちがたい魂《たましい》の絆《きずな》を持っているはずだから。
けれどリディアは、そこまで彼の前にすべてを投げ出しているだろうか。
懸命《けんめい》に、婚約者らしくなろうとしてくれているのはわかる。いじらしくていとおしいけれど、相変わらず、エドガーが親密になろうとしすぎると逃げ腰になる。
いや、その前にまず、エドガー自身、将来にかかわる重大なことをリディアに話せないまま結婚を急いでいるのだから、彼女にすべてを投げ出しているとはいえないのだろう。
「怖いな。これまでおまえといろんな危機に遭遇《そうぐう》してきたけれど、こんなに怖いと思うのははじめてだ」
真実を告げるというだけのことが、できないなんて。
蝋燭の火が揺《ゆ》らめく。青いスターサファイアが炎《ほのお》を映して、夢の中で見たルビーのように、赤く瞬《またた》いたような気がした。
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あなたのそばにいるために
何も知らないままリディアは、エドガーが長いこと戦ってきた宿敵、プリンスは死んだとだけ聞かされていた。
けれど彼が、戦いが終わったと安堵《あんど》しているわけではないことは感じ取っていた。
それは、エドガーとともに戦っていた結社、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ中の空気も同じらしい。
結社の一員であり、エドガーの友人でもある妖精画家のポールは、伯爵邸《はくしゃくてい》を訪れたリディアにそんな話をした。
「伯爵はまだ、生き残ったプリンスの部下たちのことを朱い月≠ノさぐらせていますよ」
邸宅《パレス》の応接間でエドガーを待つあいだに、たまたまこちらに来ていたポールと会ったのは久しぶりのことだった。
帰るところだったポールを引きとめたのはリディアだが、相変わらず彼は、快《こころよ》く話し相手になってくれる。
「じゃあプリンスの組織は、肝心《かんじん》のリーダーを失ったのに、組織として力を保っているということですか?」
「そうですね。プリンスの死で、彼らが求心力を失ったというわけではなさそうなんです」
「ユリシスも生きているんですよね」
プリンスの側近《そっきん》で、エドガーとは何かと直接火花を散らした人物だ。
「ええ。所在《しょざい》ははっきりしませんが、組織ごと隠《かく》れひそんだようで……。ユリシスは妖精を操《あやつ》ることができますからね。レイヴンが二羽のズキンガラスをよく見かけるらしいんですが、プリンスと契約《けいやく》した妖精にそういう姿を取るものがいるとか」
それは戦いの女神の化身《けしん》だ。三位一体《さんみいったい》の女神だが、プリンスはふたつしか手に入れていないはずで、今のところ恐《おそ》れる必要はないだろうが、見張られてはいるのかもしれない。
「それでエドガーは、まだ警戒《けいかい》しているのかしら」
妖精のことなら、相談してくれてもいいのにと思いながら、リディアが深刻に眉《まゆ》をひそめると、ポールはあわてた様子で明るい声を出した。
「でも、そんなに心配することはありませんよ。たぶん、ほら、伯爵にとっては結婚という大事がひかえているから、彼らにかきまわされたくないと慎重《しんちょう》になっているんでしょう」
結婚の準備も進んでいるこの時期に、リディアを悩《なや》ませるような話はしてはいけないと、ポールは思っているようだった。
「ああそうだ、リディアさん、結婚のお祝いもかねて、新しい絵を何点か描いているんですよ。今もそのために部屋の広さを確認してきたところで。リディアさんの部屋にも飾られるそうですから、きっといいものに仕上げますよ」
気を遣《つか》ってくれているのがありありとわかるから、リディアは笑顔を返した。
「まあ、楽しみですわ」
誰と会っても、このごろはお祝いムードだ。もちろんありがたいことだけれど、結婚で頭がいっぱいになるには、リディアにはいろいろと気になることがある。
プリンスのことは、エドガーが何か言ってくるまで口出ししないつもりだったけれど、まるで何も聞かされないのも落ち着かない。
それに、昨日リディアの家に現れたふたりのことも、エドガーとの結婚に影を落とさないかと不安だ。
かかわるようなことはしまいと心に決めているけれど、妖精界で何かが起きているらしいとか、自分も無関係でいられないらしいというのは気がかりだ。
もっとエドガーと、こういったことも話し合う必要があるのではないだろうか。
よく知っているつもりでも、お互いに知らないことはまだまだある。
「あの、ポールさんは好きな人はいます?」
唐突《とうとつ》な質問に、彼は目をまるくした。
「え、いやその、ぼくはそういうことに疎《うと》いもので」
「じゃあ、理想の女性を思い浮かべてください」
真剣に頼み込んだからか、彼はしかたなくといった様子で目を閉じる。思い浮かべようと努力しているのか、苦しそうに眉根《まゆね》を寄せた。
「その女性が、贈り物をくれたところを想像してみてくれますか?」
「……はい」
「開けてみると、何が入ってます?」
「えっと、……ハリネズミ、とか……」
「えっ?」
「はっ、あの、その……、なんとなく思いついただけで、ああ、どうかしてますね」
自分でも驚いたみたいに、やけにポールはあわてふためいた。
「で、でもね、リディアさん、案外楽しいじゃないですか。笑わせようとしてくれた贈り物だとしたら、驚くぼくを見て笑ってる女性ってのもいいなと思いますよ」
「ほんとだわ……、いいですね、そういうの」
心が通じれば、そんなふうにステキな贈り物ができるのだろうか。堅苦《かたくる》しく考えなくてもいいのかもしれない。
いくらか気持ちが軽くなったリディアは、ポールと笑《え》みをかわし合った。
「楽しそうだね」
現れたエドガーにも、そのまま素直な笑顔を向ける。彼はリディアを見て、まぶしそうに目を細めた。
「ポールさんにね、どういう人が理想なのか訊《き》いてたの」
「へえ、そういう話はいつもはぐらかされるんだけど、聞き出せたのかい?」
「もっといい話が聞けたわ」
エドガーに差し出された手を取って、リディアが立ちあがると、ポールも腰をあげた。
「伯爵、ぼくはこれで失礼します」
「ああ、いい絵をたのむよ」
ポールが出ていくのを見送ってから、エドガーはリディアを伴《ともな》って応接間をあとにした。
「きみを迎《むか》えるためにね、部屋を少し改装してるんだよ。今日はそれを見せたくてね」
頷《うなず》きながらリディアは、エドガーがいつもとは違う方向へ廊下《ろうか》を進もうとするのに気づき、不思議に思った。
「ねえ、あたしの仕事部屋はこっちよ」
立ち止まった彼は、リディアを困惑《こんわく》気味の目で見つめた。
「……そうじゃない。これからのきみの、生活の場だよ。これまでは僕ひとりだったから、いちばん広いベッドチェンバースイートは使ってなかったんだけど、これからは僕たちのプライベートルームにしようと思うんだ」
「え、そ、そうなの」
考えてみれば、結婚すればこの屋敷で暮らすことになるのだ。なのにほとんど考えていなかったことに、リディアは驚きと軽い自己嫌悪《じこけんお》をおぼえる。
エドガーは、気を取り直したようにまた歩き出す。
廊下の先にある専用階段をのぼれば、これまでリディアが足を踏《ふ》み入れたことのない領域《りょういき》だった。
エドガーは、内装が仕上がったばかりだというドレッシングルームのひとつに彼女を案内した。
淡《あわ》いブルーを基調に、品よくまとめられた部屋だった。透《す》かし模様の入った壁紙に、同じ色柄《いろがら》のソファがさわやかな印象だ。
明るい色でいて、装飾《そうしょく》や家具のひとつひとつに木目《もくめ》のアクセントが効いているのか、落ち着いた気持ちになれる。
見あげれば、浮き彫《ぼ》りの天井画《てんじょうが》も見事なさまで、リディアはため息をつく。
「気に入った?」
「ええ……」
感想のひとつも出てこないくらい、見入っていたリディアの肩を抱き寄せ、エドガーは頭にキスをした。
「カーテンとかクロスとか、希望があれば言ってくれればいい。きみの部屋なんだからね」
「あたしの? なんだか、ステキすぎてぴんとこないわね」
そう言うと、エドガーは少し肩をすくめた。
「そろそろ、結婚するってことを実感してほしいな」
「してるわよ」
「でもリディア、きみは僕に何も訊《たず》ねない。部屋のことだって、この家の奥方になるってのに、仕事部屋にでも寝泊まりするつもりだった? 教会の手続きとか、新婚旅行はどうするかとか、気にならないの?」
たしかに、どれもこれもまだリディアの頭の中にはなかった。けれどエドガーだって、そんなのひとことも口にしていないではないか。部屋の改装をしていたことも、リディアは今はじめて知ったのだ。
それに彼女としては、積極的に結婚に向けて動いているつもりだ。
花嫁道具《トルソー》や衣装も選んだ。婚約者として上流階級の社交にも出向いているし、時間を見つけては公爵《こうしゃく》夫人《ふじん》に貴族のマナーを教わっている。
強《し》いて言えば、どれもエドガーのお膳立《ぜんだ》てがあって、リディアは言われるままにこなしてきたようなものではある。
「何も訊ねないってことはないでしょ。きのうだって、欲しいものはないかって訊いたじゃない」
「……つまりきみはまだ、婚約の贈り物に頭を悩ませている段階なのか」
ショックを受けたように、エドガーはそばの椅子《いす》に座り込んだ。
「だから、あたしたちもっと話し合う必要があるって気づいたの」
「なるほど。確かにそうかもね。じゃあ話し合おう。そろそろ日取りを決めてもいいと思う」
「それも大事だけど、あたしが気になってるのはプリンスのことよ」
エドガーは、わずかに眉をひそめた。リディアは窓辺に立って、外を眺《なが》める。
「ズキンガラスの女神があなたを見張ってるかもしれないって聞いたわ。そんなことすら、あたしは知らなかった」
「妖精のことで頭がいっぱいになると、きっときみは、結婚なんてそっちのけになるだろ?」
「そんな理由で黙《だま》ってたの?」
あきれたくなりながら、リディアはエドガーの方に向き直った。
「あなたに何かあったら、結婚どころじゃないでしょ?」
「彼らは何もできやしない。うろついてるだけだよ」
「わからないじゃない!」
「とにかくきみは、よけいなことを考えなくてもいいから」
「よけいなこと? あたしはフェアリードクターよ。なのに結婚のことだけ考えてろっていうの?」
「リディア、できれば今は、僕のいうとおりにしてほしい」
わがままをいさめるように言われ、リディアは違和感《いわかん》をおぼえた。
エドガーは、フェアリードクターとしてのリディアを尊重してくれていた。妖精のことがわからないからこそ、何でもリディアに相談してくれていた。
なのに、どうしてそんな言い方をするのだろう。
「ねえエドガー、あたしに隠してること、まだあるでしょう?」
プリンスが死んだときから、何かをかかえているようだとリディアは感じてきた。いつか話してくれるまで待つと、自分から言ったリディアだが、ズキンガラスのことを隠すのも、そのことと関係があるのだろうか。
「ないよ、何も」
エドガーは座ったまま、リディアの方を見ようとせずにそう言った。
やっぱりなんだかごまかされているような気がする。
「プリンスのことは、終わったんだ。ユリシスが残った妖精たちを使おうと、大したことはできない。僕はね、これからはきみと幸せになることだけを考えたい」
本当に、終わったの?
「もうきみを危険な目にあわせることはないから、……そう、伯爵《はくしゃく》夫人《ふじん》として充実した暮らしをすることも考えてほしいんだ」
リディアはただ伯爵夫人になるわけではなく、伯爵家のフェアリードクターとして、これからもエドガーと協力していくつもりなのだ。
それとも、そう考えているのはリディアだけで、彼はリディアに人並みの主婦業以上のことなんて求めてはいないのだろうか。
よけいなことを考えず、エドガーが心安らげる家庭をつくればいいと言いたいのだろうか。
でも、これまで力を合わせてやってきて、だからこそお互いに離れがたい存在だと思えたのに。
「うそだわ」
直感的に、彼女はそう言っていた。
「もううそはつかないって、約束してくれたんじゃないの? なのに、ごまかそうとするのはどうして? あたしのこと、信頼してないの?」
億劫《おっくう》そうに椅子から立ちあがり、リディアのほうに振り返ったエドガーは、苦しげに眉をひそめた。
「信頼、か。だったらきみは、どのくらい僕を信頼してる? 何を聞いても気持ちは変わらない?」
「か……変わるわけないじゃない」
「何をしても変わらない?」
え?
ゆっくりと戸口へ歩み寄ったエドガーは、ドアの鍵《かぎ》を閉める。
いつもの悪ふざけじゃない。そう気づくくらい、彼はつらそうに見えた。
「いますぐきみがほしい」
「な、何言ってるの」
「どうしても、と言っても、僕の願いをかなえてはくれない?」
突然のことで、困惑《こんわく》したままリディアは立ちつくすしかない。
きわどい言動はあるけれど、リディアのことを真剣に考えてくれている。女の子にとって不名誉なことを無理強《むりじ》いするはずはないと、心の片隅《かたすみ》では信じていた。なのに、本気で言っているのだろうか?
「僕のためだけに、自分は変えられない? わかってるよ、結婚前にこんなこと求める男は最低だ。それでも、僕を愛してくれる気はあるの?」
無茶を言いながらも、どういうわけかエドガーは苦しそうに突っ立ったままで、リディアに近づこうとも、強引《ごういん》に触れようともしないままだった。
混乱《こんらん》しながらもリディアは、ぼんやりと感じていた。
今逃げ出したら、きっと彼は深く傷つく。
それくらい、せっぱ詰まった視線を向けられ、ただ傷つけたくないと思う。
どう答えればいいのか、出てこない言葉を迷うほど、返事もできなくなってしまったリディアは、緊張《きんちょう》に震《ふる》える手を襟元《えりもと》のリボンへと動かしていた。
ほどく。けれどそうしたとたん、それがどれほどはしたないことか、意識してしまって怖くなった。
まだ式を挙げていないのに。目の前にいる人が婚約者でも、いけないことには違いない。
毅然《きぜん》と断れない自分は、身持ちの悪さを恥《は》じながら生きていかなければならない、などと、無知だからこそ無垢《むく》な世間の少女たちがふつうに考えることが頭に浮かべば、不安でいっぱいになる。
それでも、あまりの恥ずかしさに目を閉じてうつむきながらも、リディアは手を動かそうとした。
指が震えすぎて、ボタンのひとつもはずせないうちに、涙が出てきた。
気がついたら、エドガーがリディアの手をつかんでいた。
「ごめん……」
震えを止めようとするように、彼女の手を包み込み、自分の胸元に引き寄せる。もう片方の手をのばし、濡《ぬ》れた頬《ほお》をぬぐおうとする。
「リディア、ごめん。僕がどうかしていた」
[#挿絵(img/star ruby_053.jpg)入る]
ひどい泣き顔のまま、顔をあげたリディアは、絶望的な気持ちになった。
「どうして、あやまるの? これじゃわからないわ。あたしはどうすればいいの? どうすれば、本当のことを話してくれるの?」
問いつめても、エドガーは困惑したようにリディアを見つめるだけで、何も言ってはくれない。
「いつかは、話してくれるの?」
それにすら頷《うなず》かない彼は、これ以上リディアにうそをつくまいとしているのかもしれない。だとしたらこの先ずっと、何かを隠したままにするつもりだということだろうか。秘密を持ったまま、やっていけると思っているのだろうか。
エドガーを突き放す。
戸口へ駆《か》け寄っても、急いで鍵をはずす間も、彼は引きとめようとしなかったし、部屋を飛び出しても同じだった。
*
(伯爵、またリディアお嬢《じょう》さまを怒らせなすったようですな)
姿の見えない声は、鉱山妖精《コブラナイ》だろう。振り向いたってどうせ見えないと知っているから、エドガーは窓のほうも見ずにソファに座り込んでいた。
(ムーンストーンのボウが、嘆《なげ》いております。ご結婚が遠のくようなことになっては困ると)
エドガーだってもっと困る。
アシェンバート伯爵家の始祖《しそ》から伝わるという、妖精の魔力《まりょく》を持つムーンストーンの婚約指輪は、リディアが伯爵家当主の妃《きさき》になるというあかしだ。そのムーンストーンと意志を通わせることのできるコブラナイは、エドガーとリディアの成り行きにも心を砕《くだ》いている。
「あとでちゃんと、機嫌《きげん》を取っておくよ」
今回は少々難しそうだと思いながらも、あきらかに非があるのはエドガーだった。
リディアと、分かちがたく心をひとつにできると実感したかった。そうだったなら話せるかもしれないと思った。
なのに、泣かせてしまっただけだ。
最悪の泣かせ方だった。
リディアは懸命《けんめい》に彼を理解しようとしていたけれど、エドガーが望んだことは、リディアの許容《きょよう》範囲を超えていたようだ。
恋にのぼせれば、うぶで貞淑《ていしゅく》な女の子でも案外その気になるものだ、とエドガーは知っている。一方で、リディアは恋にのぼせているわけではないともわかっていた。
結婚前なのに愛情を引き合いにするような男の言葉を信じてはいけない。常識としてそう教え込まれているリディアのような少女は、のぼせていないなら冷静に逃げ出すに決まっている。
それならそれでしかたがないと思っていたが、そんな予想を裏切った彼女は、卒倒《そっとう》しそうなありさまでボタンに手をかけ、ますますエドガーの予想外の事態になったのだ。
(なるべく早く、仲直りなさってください。ケンカしてる場合ではございませんよ)
「コブラナイ、それはどういう意味だ?」
(ええ、ボウが言っておりましたが、宝剣に異変が生じているようなのです)
思わずエドガーは窓のほうを振り返ったが、やっぱり妖精の姿は見えなかった。
「異変?」
(よくわかりませんが、悪《あ》しき力を呼び寄せているかのような、そんな気配《けはい》だとか)
宝剣によく似た、赤い剣を夢の中で見たことをエドガーは思い浮かべた。
どこか禍々《まがまが》しい印象を持つ剣だった。
メロウの宝剣は、あの剣の存在を知っているのだろうか。呼び寄せようという悪しき力は、あの剣と関係があるのだろうか。
「そういう兆候《ちょうこう》は、以前にも出たことがあるのか?」
(はあ、そうですな、代々の伯爵は、自力で宝剣に異変が起こるのを抑制《よくせい》していたと聞きますから)
エドガーにはそんな能力はない。
「ならばコブラナイ、抑制しなければどうなるんだ?」
(よくないことが起こるのでしょう)
「どんな?」
(たぶん、そういうことは起こったことがないので、ボウにもわからないでしょうなあ。ただ伯爵、青騎士伯爵家の危機になりうる異変だそうですから、ご用心ください)
赤い剣の持ち主は、サファイアの宝剣を持つエドガーに斬《き》りかかろうとした。たしかに不吉《ふきつ》な夢だった。
それに、アローが言っていたではないか。
どんな影響を与えるのかで運命が変わる、と。
だとしたら、宝剣に現れるという不吉な変化は、エドガー自身のせいなのかもしれない。
青騎士伯爵であるはずのエドガーの中に、宿敵の記憶がうずいている危機を、宝剣は感じ取っているのだ。
自分こそが、伯爵家を危機におとしいれている。このままではエドガーは、青騎士伯爵としての使命も誇《ほこ》りも、剣とともに穢《けが》してしまうことになるのだろうか。
そんな一大事を話せないまま、リディアと結婚しようとしている。
リディアがそばにいてくれるなら、プリンスになど負けはしないと、呪文《じゅもん》のように唱えながら。
ああ、でも、リディアとは最悪の状態だ。
考えたくなくなって、エドガーは強く目を閉じた。
*
「どうしたのさ、リディア、元気ないな」
ロタはそう言って、ビールを一気にあおる。
彼女の行きつけのパブは、上流階級のお嬢さまが入《い》り浸《びた》るのにふさわしい場所ではなかったが、ロタは自分のすみかのようにくつろいでいて、リディアにもお酒を勧《すす》めた。
「エドガーに襲《おそ》われそうにでもなったか?」
「えっ」
うろたえて、赤くなりながらリディアは目をそらす。図星《ずぼし》か、とロタは舌打ちする。
「ったくあいつ、リディアの性格わかってるくせに、どうして結婚まで待てないのかね」
「……ううん、いちおう、待ってくれてるわ」
ただエドガーにとって、今の状態は中途半端《ちゅうとはんぱ》なのか落ち着かないのか、結婚を急ぐ。
ようやく婚約したことを自覚しはじめたリディアには、結婚というゴールはまだよく見えない。そのために待とうとしてくれているようだけれど、そうかと思うと突然せっかちな態度にもなる。
それも、彼がかかえている秘密のせいなのだろうか。
「それにしても、あんたを誰かに盗《と》られてしまわないか、心配でしかたがないんだな。ケンカのあとは見張りをつけてよこすわけだ」
狭《せま》い店内に、客はもともとロタしかいなかった。そして今は、なぜかレイヴンとニコまでいる。
リディアが伯爵邸《はくしゃくてい》を飛び出してきたときからついてきていた。レイヴンは、もちろんエドガーに命じられて来たのだろう。
「見張りではなく、私は護衛《ごえい》です」
隣《となり》のテーブルでレイヴンは、不服そうに訂正した。
「おかわりっ!」
機嫌良くビールを飲み干したニコが言う。こちらは何をしに来たのだかよくわからない。
ニコが猫にしか見えてないだろう店主のために、ロタが代わりに注文した。
「おっさん、こっちの兄さんにもう一杯《いっぱい》な」
猫がお酒を飲むとは思っていない店主は、レイヴンの前にビールを置いていく。
最初から、レイヴンは一滴《いってき》も飲んでいない。
「ま、そういうことならリディア、気にする必要ないよ。エドガーのやつは、あんたがいやがってんのも好きみたいだから」
いつもはそんなふうに思えなくもない。
けれどさっきのは、ふだんの悪ふざけっぽくはなかった。
何を聞いても気持ちは変わらないのかとエドガーは言った。
変わらないと言いきれるだろうか。リディアは少し怖いと思う。
エドガーが好きだ。けれど、そう口にすることもできないし、求められても羞恥心《しゅうちしん》や罪悪感《ざいあくかん》のほうが強くて泣いてしまう。
そんな自分に、受け止められることかどうかわからない。
話してくれないエドガーを責める前に、リディアがもっと大人になるべきなのかもしれないのだ。
「さっさと結婚したら? そしたらいけないことでも何でもなくなるし、ケンカにならないじゃないか」
そっとレイヴンも頷いている。
たぶん、そういうものなんだろうと思う。けれどリディアはまだ、エドガーとお茶を飲んだり散歩に出かけたり、おだやかな時間を過ごすのは心地《ここち》いいと思えるけれど、おもしろ半分にでもせまられるとあせって逃げ出したくなる。
長い口づけを終わらせるのはいつもリディアのほう。
彼のことをもっとよく知りたいと思うくせに、踏《ふ》み出せない。
ため息をつきながらリディアは、客が入ってきたらしいドアベルの音を聞いていた。
とたんにレイヴンが立ちあがった。リディアが顔をあげると、ドア際《ぎわ》に立った赤毛の青年が、息を切らしながら店内を見まわしたところだった。
昨日のハイランド人、ファーガスだ。
リディアに目をとめ、急いで駆け寄ってくる。レイヴンが立ちはだかる。
「じゃますんなよ、おまえ……、いや、それどころじゃない。ええと、リディア、早く逃げろ!」
逃げる? 思いがけない言葉に戸惑《とまど》っているうち、ファーガスはレイヴンにつかまえられた。一見|華奢《きゃしゃ》なレイヴンの腕で、いとも簡単に締《し》め上げられながらもがく。
「……聞けよ……、あれが来るんだ……」
「あれって?」
その瞬間、建物が大きくゆれた。
「あぶない!」
ランプが倒れかかってきて、ロタが叫《さけ》んだ。レイヴンがリディアとロタの腕を引く。ニコは一目散《いちもくさん》にテーブルの下へ逃げ込み、ファーガスもその場にうずくまった。
ようやくゆれがおさまったとき、みんなの目の前には、身の丈《たけ》十フィートはありそうな大男が立っていた。
人とは思えない大きさと現れ方。黒いローブに身を包み、頭からすっぽりとフードをかぶっているので髭《ひげ》に覆《おお》われたあごしかよく見えないが、はるか昔の魔法使いを思わせる長い杖《つえ》を手にしていた。
ロタに助けられ、立ちあがったリディアのいる場所は、あの狭いパブではない。だだっ広い野原に、パブにあったテーブルや椅子や壊《こわ》れたランプが散らばっている。
幸い、かどうか店主はこの事態に巻き込まれなかったようだが、レイヴンもニコも、ファーガスも連れられてきていた。
「ち、つかまったか」
ファーガスがつぶやく。
「マッキールさん、何なの、あれは……」
「おれたちの島に棲《す》む巨人《トロー》族だよ」
巨人族。妖精の中でも古い種族のひとつだ。人と親しくする一族もいれば、人喰《ひとく》いでしかない集団もいる。
どちらなのかとリディアは緊張《きんちょう》する。
「マッキールの息子、なぜ逃げる」
巨人の男が声を発した。
どうやらファーガスを知っているらしい。とすると、少なくともいきなり喰われることはなさそうだが、安心するのはまだ早かった。
「予言者の許婚《いいなずけ》が見つかったそうだな」
え? あたしのこと?
「どっから聞きつけやがった」
ファーガスは巨人をにらみつけるが、何の効果もなさそうだ。
「どこからでもよかろう。おまえの父は、妖精の魔力に通じた女が一族にはいないと言ったが、かの予言者の許婚にすべき娘なら、我《われ》らの花嫁《はなよめ》にもふさわしいはずだ」
どうやら、リディアを花嫁にしたいらしい。
ロタとぎゅっと手を握りあいながら、巨人《トロー》から逃げ切れるものかどうか、リディアは必死に考えていた。
「おれの氏族《クラン》の女は、おまえらにはやれねえよ」
巨人族には女がいない。リディアはそんな言い伝えを思い出す。だから人間の女を連れ去るが、巨人族は魔力が強いため、人間の女は子をひとりしか産めずに死んでしまう。
とはいえ伝説では、巨人の妻となって長生きした魔女もいるというから、彼らはそういう人間をさがしているのだろう。
もっとも、リディアは巨人と暮らす気は毛頭《もうとう》ない。
しかし目の前の巨人は、ファーガスの後ろにいたリディアとロタをじろりと見た。
「どれが予言者の許婚だ?」
みんなして黙《だま》っていると、彼はリディアがしているムーンストーンの指輪に目をとめた。
巨人が杖を振ると、指輪が抜けて宙に浮かぶ。エドガーにしかはずせないようになっている指輪なのに、コブラナイがかけた魔法など、巨人にはあってないようなものらしい。
「この指輪、たいそうな魔力があるな。なるほど、人間は結婚の約束に指輪を贈ると聞いたことがある。予言者の許婚はおまえか」
がしりとリディアの肩をつかむ。と、ロタが宙に浮いた指輪をつかみ取り、勢いよく割り込んだ。
「ち、違うよ! これはあたしの指輪さ! ちょっと貸してただけなんだ」
「ロタ!」
「いいからリディア、あんたは逃げろ」
「バカ言わないで」
「平気だよ。あたし、竜の花嫁にもなったことあるんだ。知ってるだろう、うまくあしらうって」
「だめよ。巨人《トロー》、彼女は違うわ、あたしよ!」
リディアは指輪を取り返そうとし、ロタともみ合う。
「おい、どちらなのだ」
取り合うはずみに、指輪が飛んだ。
それはニコの頭上に落ちる。手に取ったニコを、ずいと巨人は覗《のぞ》き込んだ。
「おまえかっ?」
リディアの相棒《あいぼう》なのに薄情《はくじょう》な妖精猫は、すぐさまぶるぶると首を横に振る。関係ないとばかりに指輪を放り投げる。
受け止めたのはレイヴンだ。
巨人は、今度はレイヴンをじっと見る。
「私です」
表情を変えずに、彼はひとこと言った。
男でしょ!
リディアが突っ込む間もなく、巨人は指輪をレイヴンから奪《うば》い、杖を振りかざした。
「ええい、面倒だ! みんな連れていく」
また地鳴りがして、足元が崩《くず》れそうになる。
「おいっ、つかまれ!」
ファーガスは木の枝をつかみながら、こちらに手を伸ばした。しかしゅれがひどくて動けない。
「リディアさん」
レイヴンがリディアを押し出そうとしながら言った。
「エドガーさまのもとへ戻ってください。そばにいてください。……どうか、エドガーさまを救ってください」
救う?
ファーガスが、かろうじてリディアの手をつかむ。
瞬間、あたりが真っ暗になる。
「ぎゃあああ」
ニコの声だ。どうなったのかよくわからないまま、遠ざかっていく。
「ニコ……、レイヴン、ロタ!」
叫んだけれど、返事はない。
再び周囲が明るくなったとき、リディアは野原にいて、木の枝をつかんだファーガスとふたり取り残されていた。
「みんなはどうなったの?」
「わからんな」
「助けなきゃ」
「無理だよ。トローと戦うことは誰にもできないんだ。彼らは死なない。太陽の巨人族だ。島に伝わる昔話では、彼らが太陽を沈《しず》まないようささえるから、白夜《びゃくや》が起こるといわれてるくらいだ」
「あの巨人は、太陽を支配する神々の末裔《まつえい》なの?」
「そうなんだろうな。だからこれまで、誰にも倒されたことはなかった。……ただひとつ、もしもトローが殺されることがあるとしたら、それは海が三たび、太陽を飲み込んだとき≠セって伝えられているだけさ」
「どういう意味かしら?」
「意味は知らない。でも、太陽の巨人を殺すことができる者が現れるなんて、どう考えてもよくないことの兆《きざ》しだ。闇《やみ》の時代が訪れる兆しに違いないって、おれのじいさんはよく言ってたな」
「じゃあ、みんなを助けるにはどうすればいいの?」
「それは、あとで考えよう。とにかくおれたちは、人間界へ戻ることを考えるしかない」
どこまでも続く野原に、畑も道も、わずかな人工物も見あたらないのは、妖精界だからだ。
それにしても、この人とふたりきりだなんて。
リディアは警戒《けいかい》するが、ファーガスは気にした様子もなく歩き出した。
「あの丘の上へ行ってみよう。何か見えるかもしれない」
ほかに方法もなさそうだと、リディアもついていく。
「ねえ、このままじゃロタが花嫁にされてしまうのかしら。あの中で女の子はロタだけだわ」
「あいつら、人間が女か男かなんて見分けつかないからな」
「え、じゃ、レイヴンが花嫁にされてしまうかも?」
「名目《めいもく》だけさ。やつらの一族に女はいないけど、べつに妖精は女から生まれてくると限ったわけじゃないだろ」
その通りだった。そもそも妖精は、自然に生じる神秘の存在だ。結婚や出産をする種族はいるが、形式のようなものでしかない。人間をまねたがり、人間のものを欲しがるという彼らの習性が、そんな習慣をつくりだした。
事実、妖精が人間の妻や夫、子供を得ようとする伝承《でんしょう》は枚挙《まいきょ》にいとまがなく、人間のまねごとが妖精族にとっては重要らしいのだが、なぜそうなのかは誰も知らない。
「でも、巨人族の国へ連れ去られたら、ロタもレイヴンも寿命《じゅみょう》を縮めることになるわ」
今はどうしようもないと言いたいのか、ファーガスは頷《うなず》いただけだった。
「最近まではこんなことなかったんだ。あの巨人族とは平和にやってきた。五十年にいちど花嫁行列を組んで、馬に乗せた花嫁をやつらの森へ送り出す。花嫁ったって人形だ。でもそれで満足してた。すぐに死なない花嫁がいて、子供に恵まれる、ってやつらは思ってるんだからそれで何の問題もなかった」
「だったら、どうして急に人形では満足しなくなったの?」
「子供が生まれなくなったらしい。島は今、そういう状態だ。作物が育たない、家畜が子を産まない。人もそうだ。病気や死産が増えて、多くの民《たみ》が飢《う》えているし、各地にあったマッキール氏族《クラン》の村がいくつも離散《りさん》している」
そこで巨人族は、もっと丈夫《じょうぶ》な花嫁を欲しがったのか。
クランの長に直談判《じかだんぱん》したが断られ、けれどファーガスが予言者の許婚にすべくリディアを見つけたことを知り、追ってきたということだろう。
「|悪い妖精たち《アンシーリーコート》ばかりが増えて、生命の力を食い尽《つ》くそうとしている。早くどうにかしなきゃいけない」
「……でも、マッキールさん、あたしは協力できないわ」
彼は少し振り返り、困ったように頭をかいた。
「ファーガスでいいよ、親戚《しんせき》だろ。ま、今はその話をする時じゃないな。お互い、ここを出ることに力を尽くそう」
初対面の時は、あまりに直接的な態度で失礼な人だと思ったけれど、どうやらごくふつうの青年だ。
それに、親戚というのは不思議な安堵感《あんどかん》をもたらす。氏族長《しぞくちょう》の長男なら、駆《か》け落ちをする前の母が、幼い彼のことを知っていた可能性もある。そう思えばなおさらだった。
「あんたのこと、今日はずっと見張っててさ、パブをのぞこうとしてたおれを、あの巨人が見つけたんだ。だからこんなことになってしまった」
詫《わ》びるつもりか、そう言う。
「あの黒髪の人とはいっしょじゃなかったのね」
「パトリックか。あいつは勝手に動くなって言うから、ないしょでホテルを出てきた。でも、あいつがいればよかったな。もう少しまともに対処できただろうに」
ようやく丘の上に登り切るが、どちらを見渡しても野原ばかりだった。
どうしよう、とファーガスは腕を組む。
「あっ、あんたもフェアリードクターだよな。道がわかるか?」
「ごめんなさい、あたしは、ひとりで妖精界に出入りするのは難しくて」
そういうことはニコが頼りだったが、連れ去られてしまった。
「そっか……、ま、歩くしかないな」
歩いていくうち、境界にたどり着くかもしれない。
ファーガスとふたり、また歩き出す。
「なあ、どうしてあの伯爵《はくしゃく》と婚約したんだ?」
唐突《とうとつ》に、彼は言った。
「え、それは……」
簡単に説明できることではなかった。リディアにとってはいろんな心境の変化があった。
結局は好きになってしまったからだけど、それだけではこんな身分違いの結婚を思い切ることにはならなかったかもしれない。
だったら何なのだろう。
どうしてそんな強い気持ちになったのか。エドガーの屋敷で、リボンをほどいてしまったあのときのように、よくわからない。
「あんたのこと調べてて、新聞を読んだよ。伯爵に捨てられたって女の告白とか書いてあった」
「ゴシップ記事でしょ」
「本当だったら、男としてどうかと思う」
「作り話よ」
少なくともエドガーは、低級紙に情報を売るような女性を相手にしていない、とレイヴンがうっかり白状してしまったことがあるから間違いないのだろう。
むしろリディアにとっては、社交界のパーティで、こちらをじっと見ては急に泣き出して立ち去る女の子の方が気になる。
「でも、婚約したのに浮気とかされてるんだろ?」
「えっ?」
「涙目をこすりながら、あの屋敷を飛び出してきたじゃないか」
リディアの後をつけていたというのだから、当然あのときのリディアの様子も見られていたのだ。
ふつう、婚約者とケンカといえば、浮気|疑惑《ぎわく》とかそういうことなのだろう。
恥《は》ずかしくなって、リディアはうつむいた。
「結婚前から愛人がいるって、貴族にはよくあることなのかもしれないけどさ、考え直した方がいいんじゃないか?」
「……そんなのじゃないわよ。あなた、エドガーのこと知らないくせに」
「自分の女に近づく野郎は許せない。そういうやつだって初対面で知ったぞ」
いきなり階段から突き落とされたことを思い出しているのか、憤慨《ふんがい》したように彼は唇《くちびる》を曲げた。
「自分は女たらしのくせに、独占欲《どくせんよく》ばかり強いって問題じゃないか?」
たしかに、独占欲は強いのかもしれないと思うこともある。でもそれは、エドガーが自分のものを確実に守らねばならない立場だからだとリディアは知っている。
地位も財産も、大切な仲間たちも。ようやく築いたものを、二度と奪《うば》われたくないと思っている。いちどはすべてを失った人だから。
だから? 失うことを恐《おそ》れているから、あんなにせっかちになったりするのだろうか。
おそらくまだ終わっていないプリンスとの戦いのことを考えるほど、失うことを恐れているのなら……。
「違うわ、エドガーは何も悪くない。あたし、エドガーとケンカなんかしてない!」
思わず強く言ってしまったリディアを、ファーガスは驚いたように見た。
「もしかして、あの伯爵のこと好きなのか?」
何を言うのだろう。
「だって……婚約してるのよ」
「親が決めたからだろう? それとも伯爵が、あんたのこと気に入って嫁《よめ》に欲しいと言ってきたか? どっちにしろ、父親が決めればあんたは首を縦に振るしかないわけだし」
「婚約はあたしが決めたの」
「ま、無理もないか。ふつう女の子は、婚約者だとあてがわれた男を好きになるっていうからな。てことはだ、もしもあんたが最初からおれの許婚《いいなずけ》として育ってたら、おれを好きになったと思わないか?」
立ち止まった彼は、リディアに向き直ってまっすぐに顔を覗《のぞ》き込んだ。
「お、思わないわ」
リディアは後ずさった。
帰らなきゃ、早く。
エドガーとケンカなんかしてる場合じゃなかった。そばにいなければならなかった。
彼が、話せない何かをかかえているならなおさら。
自分が役に立つのかどうかわからないけれど、それでもレイヴンが言ったように、少しでも救いになれるなら、何も聞かずに寄り添《そ》っているべきだった。
きびすを返し、リディアは駆け出す。
帰り道もわからないままひたすら走るが、ファーガスが追ってくるのがわかる。
「リディア、待てよ!」
すぐに追いつかれ、腕をつかまれる。
「離して」
「見えてないのか? 深みにはまるぞ」
はっと気づけば、足元に水が流れていた。知らずとリディアは川の中に入っていたのだ。
が、岸へ上がるひまもなく、急にはげしい水が押し寄せてきた。
「うわっ!」
叫《さけ》んだファーガスが、鉄砲水《てっぽうみず》に飲み込まれる。
リディアは息を止めて目を閉じるが、いつまでたっても水が覆《おお》い被《かぶ》さってくることはなかった。
水音はやみ、足元の流れも水の感触も、いつのまにか消え失せている。
おそるおそる目を開ける。
川はどこにもなく、リディアは草の上に立っている。ファーガスの姿はない。
代わりに、彼女の視線の先には漆黒《しっこく》の馬が立っていた。
妖《あや》しいほどに美しい、そして恐ろしい感じさえする魔性《ましょう》の水棲馬《ケルピー》だ。
「よう、元気そうだな」
人を喰《く》う馬、けれども彼は、リディアにとってはごく親しい妖精だったから、ほっとして肩の力を抜いた。
「ケルピー……! 今までどこへ行ってたの? ずっと姿を見ないから、スコットランドへ帰ったのかと思ってたわ」
駆け寄って、リディアは確かめるように手をのばす。艶《つや》やかなたてがみを撫《な》でれば、ほんの二月《ふたつき》ほど会っていなかっただけなのに、とても懐《なつ》かしい気持ちになった。
「心配した、わけじゃないだろ」
「そりゃ、あなたの身に危険なことが起こるとは思えなかったけど」
気にはなっていた。
「ちょっと思うことがあってな」
リディアを見つめる黒|真珠《しんじゅ》の瞳《ひとみ》は、複雑な胸の内を感じさせた。以前のように、ひとつのことに突っ走っている彼ではなく、だからかどうか、やけにやさしげに感じられた。
「でも、どうしてここにいるの?」
「巨人族がおまえをさらおうとしてるって聞いたから、さがしに来た」
思いがけない言葉に、リディアは驚く。
「って……誰に?」
「言えない。とにかく、人間界へ連れ帰ってやるから」
背に乗れと促《うなが》す。
どうにもリディアの知らないところで、いろんなことが起こっている。そのうえケルピーまでエドガーと同じように、何も話せないと言うのだ。
けれど今は、ここを脱出することが先決だった。でないと、ロタたちを救出する方法も見つからない。
「ねえ、いっそみんなを助け出すことはできない? ニコとロタとレイヴンが巨人に連れ去られてしまったの」
いちおう相談してみるが、ケルピーはあっさり首を横に振った。
「おまえを安全なところへ連れていく。それ以外のことをする気はない」
「じゃ、ファーガスは? あなたが押し流した人」
「幻《まぼろし》の水だ。溺《おぼ》れはしないさ」
だったらそう遠くまで流されていないはず。見つけ出して、人間界へ連れ帰るべきだと思った。
しかしケルピーは、リディアの言葉を封《ふう》じるべく鼻先を突き出し、言い含めるように口を開いた。
「リディア、お人好《ひとよ》しはいいが、もっと自分のことを考えろ。おまえの選んだ道は、生やさしいものじゃないぞ」
あたしの道。
それは、エドガーと婚約したことをさすのだろうか。
きびしい言い方をするケルピーは、エドガーが何をかかえているのかを知っているのだろうか。
「あの、ケルピー」
「おい待て、おまえ、影がないぞ」
あわてて足元を見れば、たしかに影がなかった。
「えっ、どうして……」
つぶやきながらも、リディアははっと気づく。
ムーンストーンの指輪を奪われたからだ。
強い魔力で自分に結びついているものを失ったことで、リディアは巨人に連れ去られた三人と同じように、とらわれたままになってしまった。
ここにいるリディアは不完全で、だから影がない。
このままでは帰れない。道がわかっても、妖精界から出ることができない。
草の上に座り込んで、リディアはため息をついた。
いつのまにか人の姿になったケルピーが、やはり悩《なや》んだように隣《となり》に座った。
ずっと、リディアを自分の郷《さと》に連れていきたがっていたケルピー。けれど今は、そばにいてもそんな要求はしない。
たぶん、リディアがエドガーを選んだことを、静かに受け止めてくれている。
「ケルピー、あたしまだ、あなたにお礼を言ってなかったわ。ロンドン橋で、助けてくれたでしょ?」
振り向いた彼は、不思議そうにリディアを見た。
「怒ってないのか?」
「何を?」
「おまえを伯爵《はくしゃく》から引き離そうとした」
「あたしを守ろうとしてくれたのはわかってるから。それに、エドガーがあきらめずに来てくれたから、あたしは彼を信じていいって確信が持てたんだと思うの」
ケルピーは、声を立てて笑った。
「俺は墓穴《ぼけつ》を掘ったってことか」
あのときエドガーは、彼との婚約を忘れてしまっていたリディアに、思い出させようと努めてくれた。魔法のことなんて何もわからないのに、約束を守って来てくれた。
妖精の魔法にとらわれていたって、リディアはフェアリードクターだ。どうにかして彼のそばに戻ってみせる。
考え込んだリディアは、やがて顔をあげた。
「ねえケルピー、あなた、|取り換え子《チェンジリング》の魔法は使える?」
「あ? そりゃ妖精だからな。……って、おまえまさか」
リディアは頷《うなず》いた。
「それしかないわ。今のあたしは妖精界に属しているわけでしょう? だから人間界へ戻れない。だけど、チェンジリングの要領で人間界へ送り込んでもらえれば、無条件でここから出られる!」
「けど、おまえを誰かと取り換えなきゃならないぞ」
そこが問題だ。リディアはまた考え込んだ。
「あっ、だったら人形と入れ替わるのはどう? 家に陶器《とうき》の人形があるわ。あたしの外見を少しだけ人形に似せて、取り換えてくれればいいの」
魔法の領域では、形が似ているものは同種なのだ。人間と人形は区別はされない。人間と入れ替わるのと同じことだし、人形には魂《たましい》がないから迷惑《めいわく》もかからない。
「そもそも妖精の取り換え子って、中身はそのままで、外見だけ相手に似せるわけでしょ。だったらあたしはあたしのまま、顔立ちや髪の色が変わるだけで、人間として生活するのに支障《ししょう》はないわ」
「そりゃ、そうだけど。おまえ、自分が取り換え子じゃないかって気にしてただろ?」
ケルピーは、リディアが気づかないフリをしていた気がかりを言い当てた。
「それ、やっぱり問題があるの? もしあたしが取り換え子だったら、重ねてチェンジリングの魔法をかけるのはまずいと思う?」
「ふつうはまずい」
あっさり言ってくれる。
「でも、以前に竜《ワーム》の巣から戻ってきたとき、何事も起こらなかったわ。……取り換え子じゃないのかも」
しかし魔法は、予想できないことが起こるものなのだ。あのときだって、リディアにかかっているチェンジリングの魔法がたまたま強かっただけかもしれないし、だからといって今度も何事もなくすむとは限らない。
でも、ためらっている場合ではない。
「あたし、取り換え子じゃないわ。父もそう言うし、信じることにするわ」
決意を固めたリディアだが、ケルピーはまだ乗り気ではなかった。
「でもなあ、わかってるのか? 外見が変わったら、伯爵がおまえだって気づかないじゃないか」
「……本当だわ!」
せっかく決意したのに、基本的なことにいまさら気づき、リディアは頭を抱え込んだ。
「あたしがリディアだって自分で言ってしまったら、チェンジリングの魔法が解けて、妖精界へ逆戻りしちゃうし……、どうすればいいの?」
困り果て、考え込んだ彼女は、しばらくしてまた前向きに考えることに成功し、顔をあげた。
「そうよ、自分からは言えなくても、どうにかして気づいてもらえばいいだけよ。ねえケルピー、そしたらすべてうまくいくわ。姿形《すがたかたち》に惑《まど》わされずに、エドガーがあたしだって認めてくれれば、指輪で巨人につながれている魔法よりも、強い絆が持てるはずでしょ? それで巨人に連れ戻されることもなくなるし、もとの姿にも人間界にも戻れて一石二鳥《いっせきにちょう》じゃない!」
しかしケルピーは、深刻な顔で忠告《ちゅうこく》した。
「うまくいかなかったら、おまえは傷つくことになるぞ」
そうかもしれない。エドガーに気づいてもらえなかったら、そう考えると、チェンジリングの魔法が自分に及ぼすかもしれないことを考えるよりも怖い気がしたが、リディアは迷わなかった。
何よりも、エドガーのそばに帰らなければ。
それしか彼女にできることはない。
「いいの、魔法をかけて。あたし、エドガーのそばへ戻りたいの。必ず彼に気づいてもらって、みんなを助け出せるよういっしょに考えるわ」
ため息をひとつつき、立ちあがったケルピーは、リディアの腕を引く。
抱えあげられたように感じた次の瞬間には、リディアは漆黒の馬の背に乗って、野原を疾走《しっそう》していた。
「ケルピー、助けに来てくれてうれしかったけど、あたしにはもう、あんまりかかわらない方がいいかもしれないわ」
リディアがエドガーに巻き込まれるのを、ケルピーはきらってた。けれどリディアはもう、エドガーと運命をひとつにしている。そしてケルピーを巻き込むべきではないと思う。
なのに、はは、とケルピーは笑いとばす。
「妖精ってのはいつだって退屈《たいくつ》なんだ。おまえは格好の退屈しのぎだってだけだよ」
確かにケルピーがリディアに興味を持ったのは退屈しのぎだった。結婚したいと言いだしたのも同じ。人間の恋愛とは違う。
でも彼は、一般の水棲馬《ケルピー》にはない、人への好奇心《こうきしん》を持っている。退屈しのぎ以上にリディアを知ろうとしてくれた。
「どうせひまなんだから、俺は見届けることにした。おまえの運命を」
リディアが手に入らないと知っても、まだ好奇心はおさまらないらしい。
「立派《りっぱ》なフェアリードクターになりたいなら、おぼえておけ」
前方に、切り立った崖《がけ》が現れる。ケルピーはかまわず疾走し、勢いよく空中へ飛ぶ。
「おまえは最初の、水棲馬を得たフェアリードクターだ」
[#改ページ]
チェンジリング
リディアとレイヴンが姿を消して、まる二日が過ぎていた。
エドガーは書斎《しょさい》のソファに座り込んだまま、身じろぎもせずに考え込んでいた。
ニコもロタもいない。彼らの足取りは、ロタの行きつけのパブから先、まるでわからなくなっていた。
パブの店主は何もおぼえていないと言う。
もちろん、先日カールトン家に現れたマッキールを疑ったエドガーは、朱い月《スカーレットムーン》≠ノ彼らを調べさせている。
今のところ、ホテルから出てくるのは黒髪の方ばかりで、赤毛の男は見かけないらしい。黒髪も、ロンドンにいる同じ氏族《クラン》の集まりに出かけるくらいで、妙《みょう》な動きは見えない。
いったい何が起こったのか。
手がかりが見つからないことに苛立《いらだ》ちながら、エドガーはまぶたを閉じる。
思い浮かぶのは、震《ふる》えながら涙をこぼしたリディアばかりだ。
あんなふうに求めたりしなければ、何事も起こらなかったかもしれない。そう思うと後悔《こうかい》が押し寄せてくる。
「旦那《だんな》さま、失礼します」
まぶたを開けたとき、リディアが帰ってきているなんていう奇跡《きせき》を祈ってみるが、そこにいるのはトムキンスだけだ。
「ドクターはお帰りになりました。あのお嬢《じょう》さまもじきに目覚められるだろうとのことです」
そして執事《しつじ》の言葉に、つい先刻、見知らぬ少女を連れ帰ってきたばかりだということをエドガーは思い出していた。
曲がり角で、彼の乗った馬車の前に飛び出してきた。かろうじて御者《ぎょしゃ》がよけて、大事には至らなかったが、少女は倒れたまま動かなかった。
「そう。幸い、馬車にはぶつからなかったからね。驚いて転んで、脳しんとうを起こしたようだったけど」
そんなわけで、屋敷まで連れてくることになったのだが、トムキンスは不安そうにエドガーを見る。
「目がさめたら、家へ送っていかないとね。でも、どこの令嬢《れいじょう》だろう。きれいな身なりをしてたけど」
「旦那さま、こう申しあげては何ですが、あまり深入りしない方がよろしいかと」
「何を心配してるんだ?」
「うっかり口説《くど》いてしまわれないかと」
「バカなこと言うんじゃないよ。こんなときにそんな気分になれるわけないだろう」
こんなときでなければなるのですね。と思ったのかどうか、トムキンスが遠くを見るような目をしたことは気にせず、エドガーは立ちあがる。
「様子を見てこよう」
客室へ向かったエドガーは、待つだけで何もできない苛立ちを紛《まぎ》らせたかったのかもしれない。
部屋へ入っていくと、彼女につけておいたメイドが軽くお辞儀《じぎ》をした。
ベッドの中にいるのは、リディアと同じくらいの年齢の少女だが、ブルネットの髪も顔立ちも、リディアと重なるところはなかった。
なのに彼女がゆっくりとまぶたを開けば、瞳《ひとみ》は淡《あわ》い緑だ。
リディアによく似た、明るい緑の瞳に、エドガーはつい引き寄せられた。
身を乗り出した彼を見て、少女は微笑《ほほえ》んだ。
あまりにも無防備《むぼうび》な笑《え》みで、このところようやく、といってもまれに、リディアが見せてくれるようになった笑顔を思い出せば、なんだか混乱《こんらん》しそうになる。
「エドガー……」
そのうえ彼女は、親しげな声を発し、こちらにゆるりと手をのばした。
驚きながらもその手を取ったエドガーは、どうかしていると自分を戒《いまし》める。リディアが気になってしかたがないからって、瞳の色が似ているだけでリディアに見えてしまうなんて。
冷静になれば、少女が自分を知っていたとしても不思議はないとわかる。エドガーにとって、話したこともない女性に興味を持たれるのはよくあることだった。
気持ちを落ち着け、あくまで社交的なキスを彼女の手に落とす。
と、彼女は我《われ》に返ったように驚きを浮かべ、それから急いで体を起こした。
「やあ、気がついた? きみ、僕の馬車とぶつかりかけたんだよ。念のためにお医者さまに診《み》てもらったけど、怪我《けが》はないそうだ。よかったね」
彼女はまだ混乱した様子であたりを見回し、それから胸元に垂れ下がる自分の髪をしきりに気にする。
まるで、はじめて目にするとでもいうふうだ。
「ここは僕の屋敷だ。きみがどこの誰だかわからなかったから、とりあえず運んだのだけど。どう? 気分は」
エドガーの言葉を聞いているのかいないのか、少女は顔を触ったり目の前に両手を広げたり、意味不明の動作を繰り返し、やがてあきらめたような顔でエドガーを見あげた。
「あ……あの、ごめんなさい。あたし、迷惑《めいわく》をかけたみたいで……」
「いや、うちの御者の不注意でもあったんだから、気にしなくていいんだよ」
「でも、あの、……あたしが誰か……わからない……ですよね」
エドガーは率直《そっちょく》に、ないと答えた。彼女はひどく落胆《らくたん》したようだった。
「僕をご存じのようだけれど、残念ながらきみのことが思い出せない。どこかで会ったことがあるのかな?」
一方的に知られていることにも慣れた口調《くちょう》になってしまえば、彼女はますます悲しそうな顔をした。
「名前を教えてくれるかい?」
「あたしはリ……! り、えっと、あの、リズ」
勢い込んで言いかけたかと思うと、口ごもりつつ答える。
「そう、リズ。家はどこ? 送っていくよ。ご家族が心配してるだろうから」
突然姿を消した、リディアとレイヴンのことを思い、エドガーはひそかにため息をついた。
こんなふうな、ちょっとした事故だったなら、そうして次の瞬間にも、誰かが報《しら》せを持ってやって来たならいいのにと思いながら。
リズの返事を待っていたエドガーだが、彼女が黙《だま》り込んでしまったのに気づき、その顔を覗《のぞ》き込んだ。
「どうしたの? 帰りたくないとか?」
「あの、あたし」
「でもね、とりあえず、きみのご家族に連絡しておかないと」
「えと、その、……思い出せないの!」
頭痛がするかのように額《ひたい》を押さえてみせる動作は、どことなくぎこちない。
「あたし、どこの誰なのかしら」
それも、おぼえたてのセリフみたいだ。
「何も思い出せない?」
「そう、みたい」
「でも僕の名を呼んだ」
「あっ、そ、そうね……、でもどうしてなのかわからなくて……。あなたを、知ってるような気がしたんだけど」
また顔をあげた彼女は、心細そうで、今にも泣き出しそうだった。
「だから、あの、あなたがあたしのこと知らないかと思って」
本当だろうか。
いくらかエドガーは疑っていた。自分に好意を持つ少女が、接近するために思いついた小芝居《こしばい》、と思えなくもない。しかし本当に思い出せない、という可能性もないわけではない。
ただ、心底《しんそこ》困り切ったように、せっぱ詰まった目を向けられ、リディアがどこかでこんなふうに心細く過ごしていたらなどと考えてしまうと、このまま追い出すのもためらわれた。
「わかった。とりあえず、今日はゆっくり休むといいよ。明日になったら思い出せるかもしれないしね」
*
リディアは鏡の前に立ち、あらためて自分の姿をよく眺《なが》めた。
ブルネットの巻き毛、やさしげな少女らしい顔立ち、瞳の色以外は、まるでリディアの面影《おもかげ》はない。
一夜明けても、当然のことながらリディアは、見知らぬ少女の姿だった。
ケルピーがチェンジリングに使ったのは、リディアがエドガーにもらった陶器《とうき》の人形だ。エドガーは、瞳の色が似ているから買ってしまったと言っていた。
そういえばこんなふうな顔立ちだったが、リディアは、自分よりずいぶん美人だと思う。
ともかくそうやって、とりあえず人間界へ戻ってきたリディアだったが、当初はどうやってエドガーに近づこうかと悩んだ。
なにしろ自分は、エドガーにとってはまったく初対面の女でしかなくなったのだ。
邸宅《パレス》の周囲をうろつき、しかしいきなり訪問するわけにもいかず、自然なきっかけはないものかと思案し、思いつけずに途方《とほう》に暮れかけていた。
結局、エドガーの馬車を見つけたときに飛び出していたのだが、自分でもよく無事だったと思う。
そうして、この屋敷に運ばれたのは、想像以上の結果だった。
それに、リズ≠ェどこの誰だかわからないうちは追い出されずにすみそうだ。
しかし問題はここからだった。
エドガーには、彼女を見て接して、それだけでリディアだと気づいてもらわなければならない。
ムーンストーンの婚約指輪の代わりに、リディアを人間界へ引き戻すだけの力が必要なのだからしかたがない。
けれど、そんなことが本当に可能なのだろうか。
自分でも自分だとは思えない姿を鏡の中に眺めれば、無理なんじゃないかと思えてくる。
「ううん、……大丈夫よ。目を閉じてても触れればわかるって、エドガーは言ってたもの」
外見では惑《まど》わされても、触れあえるチャンスがあればわかってくれるのではないか。
魔法がかかっているのは見かけだけ。顔の輪郭《りんかく》も体つきも、手で触れる感覚はリディアのままなのだ。
(おや、リディアお嬢さま、どうして変装なさってるんです?)
リディアと呼ばれ、驚いて振り返った。
窓辺にちょこんと座っているのは、三角|帽子《ぼうし》にもじゃもじゃヒゲの小さな妖精、コブラナイだった。
「あなた……わかるの?」
(これまた、取り換え子の魔法ですな? 伯爵《はくしゃく》のご趣味ですか?)
どんな趣味よ。
(いやはや、伯爵はお嬢さまにいろんなドレスを着せたがりますが、髪や顔まで取り換えたがるとは。まあ別の女性に気が移るよりは、雰囲気《ふんいき》を変えて浮気の虫がおさまるなら、それにこしたことはありませんがね)
エドガーの浮気の虫のために、いちいちこんなことしてられないわとリディアはため息をつく。
チェンジリングの魔法も、ごく表面だけの弱いものだから、コブラナイには正体が見えたのだろう。それで彼には、リディアがドレスや髪型を変えるのと同じことに思えるらしい。
「あのね、コブラナイ。これは遊んでるわけじゃないの。エドガーにはこれがあたしだって言っちゃだめよ」
言い聞かせようとしたリディアだが、コブラナイは違うふうに取ったらしい。
(ああ、ひょっとしてそれで、急に家出をされたのですか? ははあ、黙ったまま伯爵が好みそうな美女になって、ちょっとばかり浮気心を満たしてやろうってことなのですね?)
「え、ちょっと……」
好みそうな美女って、まるでリディアの容姿《ようし》はその範疇《はんちゅう》には入らないかのようではないか。
(なるほどー、夫を手のひらで転がしてこそよき奥方というもの。もちろん浮気はいけませんが、あまり縛《しば》りつけるのもよくありませんからな。奥方に内緒《ないしょ》で遊んだつもりになれば、後ろめたさも手伝って、より奥さまを大事になさることでしょう)
……そういうものなの?
否定するのも忘れ、リディアが悩《なや》んでいる間に、コブラナイはすっかり納得《なっとく》してしまっていた。
(そういうことならこのコブラナイ、お嬢さまの味方になりますゆえ、ご心配なく)
「えっ、ちょっと待って!」
(伯爵には黙っておきます。うまくやってくださいまし)
そのまま彼は姿を消してしまった。
どうしよう。でもとりあえず、黙っててくれるみたいだから大丈夫かしら。
とにかく、コブラナイが言うように、この容姿がエドガーの興味を引くのなら、接する機会が増えるだろう。中身はリディアなのだから、彼が浮気したことにはならないし。
まだ楽天的にリディアは、そうやってエドガーがリズ≠好きになるなら、本当はリディアなのだということも気づいてもらえるはずだと考えていた。
「でも、昨日は意外とあっさりした態度だったかしら」
「何があっさりしてたの?」
驚いて振り返ると、戸口にエドガーが立っていた。
「元気になったみたいだね、リズ」
「ええ、あの、おかげさまで」
「まだ何も思い出せそうにない?」
「……ごめんなさい」
近づいてきた彼は、うつむくリズの髪をさらりと撫《な》でた。
リディアは驚くが、エドガーは完璧《かんぺき》な微笑《ほほえ》みを返してみせる。
こういうことは深い意味もなくする人だったと思い出すが、もっと触れあわないと気づいてもらうのは難しいだろう。
「もし気分が良ければ、いっしょに外へ出ないかい?」
「え、どこへ?」
「知り合いのお茶会。きみのこと、知っている人がいるかもしれないし、あるいは誰かが人さがしをしてるとか、噂《うわさ》が聞けるかもしれないからね」
その可能性はないが、エドガーに接近するきっかけがつくれるかもしれないと思ったリディアは頷《うなず》いた。
早く、みんなを巨人から助けるためにも急がなければ。リディアの気持ちはあせっていた。
けれどエドガーは、あんまりリズの方を見ない。馬車で移動する間も、お茶会の開かれる屋敷に着いても、そつなく丁重《ていちょう》にエスコートしてはくれるけれど、ふだんのようにたびたび目が合うわけではないことを、リディアは不思議に思った。
ふたりでいるとき、どれほど彼に見つめられているのか気づいていなかったのだ。リディアが視線を向けて、彼がこちらを見ていなかったことはないと思うくらい、これまでは見つめられていた。
このままじゃいけない。もっとこちらに興味を持ってもらわないと。そう思っても、いい方法が思いつかない。
そもそもリディアは、エドガーの気を引こうとしたことがなかった。
いつでも彼の方から、過剰《かじょう》なほどせまってくるばかりだったから、むしろ彼女は少し退《ひ》いて、結婚前の娘として適度な距離を保つことに力を注いできた。
自分から距離を縮めるには、いったいどうすればいいというのだろう。
悩んでいるうちに、お茶会がはじまった。とある男爵《だんしゃく》夫人《ふじん》の主催《しゅさい》だということだった。
リディアはリズ≠ニして、紹介されたが、パーティに余興を提供するかのように、エドガーはわざと、彼女がどこの誰かということを伏せて、皆の関心を引くように仕組んだ。
もしもリズを知る人がいれば、得意げに主張するはずだと言って、いたずらっ子みたいに微笑んだ。
けれど、リズから目をそらすと、エドガーから笑顔はすっかり消える。レイヴンやリディアのことを心配しているのだろうと思う。
レイヴンの状況はわからないけれど、早く事情を話せるようになりたい。せめてリディアが目の前にいると知れば、少しは慰《なぐさ》めになれると思うのに、本当のことをいえない状況はもどかしかった。
それでもエドガーは、誰かに話しかけられればいつもの完璧な笑《え》みで応じている。
本心を隠《かく》すのがうまいとはよく知っているリディアだが、だからこそ彼がかかえている秘密がどれほどのことなのか、うかがいしれないのだと思うと情けなかった。
あのときのエドガーは、助けを求めていた。リディアは助けたかった。でも、彼女には受け止めきれないとエドガーは感じたのだろう。
だからあのとき、リディアが頭で考えている恋人≠フその先へは、連れていこうとはしなかった。
「ねえきみ、きっと外国人だろう?」
話しかけられ、我《われ》に返る。
「東欧《とうおう》あたり?」
「いや、おれはローマで、きみみたいな雰囲気のお嬢さんをよく見かけたよ」
気がつけばリディアは、いやリズは、数人の男性に取り囲まれていた。
「どこでエドガーと知り合ったの?」
「ええと、それは」
「秘密かい? 当ててみろってわけだね」
「ひょっとすると、もっと身近な間柄《あいだがら》かもしれませんよ。アシェンバート伯爵の、婚約者のご親戚《しんせき》とか」
「ああ、それはあり得るな。こんな社交の場に女友達を連れてくるなんて、婚約者に知られたら疑われそうだ」
「そうそう、婚約者を同伴してるときは、彼ときたら、おれたちが近づかないよう目を光らせてるくらい惚《ほ》れ込んでるからね」
え、そうなの?
リディアはまったく気づいていなかったが、そういえばどこのパーティでも、こんなふうに男性に囲まれたことはなかった。
「今日は、婚約者は急用で来られなかったのでしょう? 代わりにあなたを連れてきたのだから、やっぱり親戚ですよ」
「どう? 違うの? それとも、エドガーの親戚?」
だがこうはしていられない。親睦《しんぼく》を深めるために来たわけじゃない。
リディアは苦心して彼らの輪から抜け出すが、今度はエドガーのもとに近づくのが一苦労だった。
彼の周囲に、女の子たちが群《むら》がっている。
リディアがリディアとしてパーティに出たときには、こんなことはなかったから、少々|面食《めんく》らった。
やっぱりエドガーってもてるんだわ。
目《ま》の当たりにすれば、不安になる。
この様子では、リディアでなくても彼をなぐさめられる女性のひとりやふたり、すぐに見つかるかもしれない。
そんなのいやだ。と思い直すが、彼のそばへ行こうとしたリディアは、わざとぶつかられ、目の前に立ち止まって話し込む女性たちに通り道をさえぎられる。
エドガーは少しもリズに気づかない。
入れ替わり立ち替わり、話しかけられて忙《いそが》しそうだ。
誰かがエドガーの腕に手を添《そ》える。テラスの方へ誘《さそ》っているのか、連れ出そうとする。
リディアはテーブルと人混みにさえぎられて動けない。
広がったスカートのドレスでは、人の背後《はいご》をすり抜けることなど不可能だ。
なんだか、くらくらする。
「エドガー」
思わず声をあげてしまうと、周囲の視線がいっせいに向けられた。
社交の場で、大声で人を呼びつけるなんてはしたないと、奇異《きい》の目で見られる。
リディアは恥《は》ずかしくて逃げ出したくなるが、身動きするのも難しかった。
突っ立っているしかできないでいる彼女の方へ、貴婦人方のドレスの隙間《すきま》を器用に通り抜け、エドガーが来てくれたのは救いだった。
「どうしたの? 疲れた?」
「人が多くて、気分が……」
「じゃ、庭園へ出よう。少し休んだ方がいい」
ほっとしながらリディアは、エドガーに連れられて庭へ出ると、四阿《あずまや》のベンチに腰をおろした。
郊外《こうがい》のお屋敷だけあって、広い庭園だった。
四阿からは池が見えて、そこには木の橋が架《か》かっている。視界が開けて心地《ここち》がいい。
「冷たい飲み物でももらってくるから、待ってて」
リディアは頷いた。
人の話し声が遠くなったのと、室内の蒸し暑さから解放されて、胃のあたりの気持ち悪さもおさまってきていた。
もともとパーティは苦手だったけれど、婚約してから人前に出る機会は格段に増えた。それでもリディアは、エドガーといっしょにいるかぎり、パーティを苦痛に感じたことはなかった。
ずいぶん、守られていたんだと思う。
なのに、彼にとって本当に救いが必要なとき、何の助けにもなれなかったなんて。
自分の子供っぽさがいやになる。
大切な人よりも、世間体《せけんてい》や常識を守る必要なんて、あるはずもない。
愛してると言えなくて、恥ずかしいとばかり思っている自分は、本当の意味で愛情なんてわかっていないのだろう。
植え込みのゆれる音がして、リディアは顔をあげた。
エドガーが戻ってきたのかと思ったが、目の前にいたのは、さっきエドガーに群がっていた少女たちだった。
彼女たちは笑っていた。
くすくすと笑いながらリディアを取り巻く。
ひとりが、座っているリディアの肩に手を置いた。
「な、何なの?」
答えないまま彼女たちは、立ち上がれないようリディアを押さえつける。足をつかんで靴を脱がせる。
そのまま、片方だけ靴を持って駆《か》け出す。
「ちょっと、返して!」
リディアは裸足《はだし》で追いかけるが、もう少しで追いつくかと思ったとたん、彼女たちは靴を池に向かって投げ捨てた。
「ああ……っ」
それは池の中ほどにある小島に落ちたが、簡単には取りに行けそうにない。
少女たちは、リディアが困り果てるのを見てまたくすくす笑う。
「どうして、こんなことするのよ!」
「裸足で伯爵の前に出られるかしら?」
「あの子の親戚なら、庶民《しょみん》の出ですもの。裸足くらい平気でしょう?」
それだけ言って立ち去ってしまう彼女たちから目をそらし、リディアは深く息をついた。
本物の婚約者にはできなかったことを、たまたまエドガーが連れてきた、どこの誰だかわからない少女だから実行したのだ。
本当ならリディアにやってみたかった嫌《いや》がらせ。けれどリディアは女王|陛下《へいか》に拝謁《はいえつ》し、社交界にデビューして、少なくとも表向きは庶民とはいえなくなった。
一方でリズ≠ヘ、彼女たちと同じ、エドガーに選ばれた女性ではない。なのに、まるで自分だけがとくべつであるかのように、彼を呼びつけたから気に入らない。
リディアは落ち込みながらため息をついた。
裸足で屋敷へ戻ったりしたら、エドガーに恥《はじ》をかかせてしまいかねない。
池に架かる橋の中ほどまで渡り、下方をのぞき見る。草が茂《しげ》った小島は、橋のほぼ真下にあり、ここから降りられなくもなさそうだ。
丸太を組んで渡しただけの、素朴《そぼく》なふぜいの木の橋だ。高さもそれほどではない。
風が吹いて、曇《くも》り空からぽつりと雫《しずく》が落ちてきた。
雨だ。ひどくならないうちに戻らないと。
リディアは思いきって小島に飛び降りると、草の根元をさがした。
じきに靴は見つかったが、あらためて大きな問題に気づく。
飛び降りるのは難しくなかったが、再び橋によじ登るのは、どう考えても難関だった。
「……どうしよう」
何度か試してみたが、とうてい無理だ。
雨は橋を濡《ぬ》らし、つかまろうとする手もすべる。
「リズ!」
何度目かのしりもちをついたとき、エドガーの声がした。
「何をやってるんだ、あぶないじゃないか」
急いで駆け寄ってきたエドガーが、橋からこちらを見おろす。
「あの、靴を落としてしまって」
「いいから、つかまって」
のばされた手をつかむ。エドガーが身を乗り出したとき、懐中時計《かいちゅうどけい》がポケットからすべり落ち、ひとつはねて濁《にご》った池へ落ちてしまったが、彼はかまわずリズの体に腕をまわし、落ちたりしないよう慎重《しんちょう》に引き上げた。
「大丈夫かい? 雨がひどくなってきたから、とりあえず四阿へ行こう」
「でも、時計が」
「気にしなくていい」
手を引かれるままに、リディアは走った。
四阿に駆け込む直前、空気を裂《さ》いて稲妻《いなずま》が瞬《またた》く。
びっくりして、思わずエドガーにしがみついたとき、リディアは今しか機会はないと感じていた。
自分からは、どうすれば触れあえるような状況にもっていけるのかわからないのだ。今を逃《のが》したら、二度とこんなふうに抱きつけない。
お願い、気づいて。
祈りながら、リディアは彼の背に腕をまわした。
あたしはここよ、ここにいるの。
そばにいるために帰ってきたの。
エドガーの手が肩に触れた。いつもなら、ためらいもなく彼女をかかえ込む手。リディアが想像するよりもずっと強く、戸惑《とまど》わされるほどに抱きしめようとするはずの腕が、ゆっくりと彼女を押し戻した。
信じられない気持ちで、リディアは彼を見あげた。
女の子に抱きつかれるくらいはよくあることなのか、エドガーは、何事もなかったかのような顔をしていた。
「雷が怖いの? 僕のフィアンセもそうだ」
自分の話が出て、どきりとした。
「怖くなんかないって言うけど、大きな音がするとなんとなくそわそわし出すからね」
べつにそわそわしてないわ。といつもなら強がりたい気持ちも、エドガーが気づいてくれなかったことにくらべれば、どうでもよかった。
ときおり光る空の方を眺《なが》め、エドガーはリディアを見つめるときのようにやわらかく目を細める。
彼はリディアを想《おも》い、つらい気持ちを押し隠している。けれど、真実には気づいてくれない。
リズを拒絶《きょぜつ》するのは、それだけリディアを想ってくれているということだ。けれど、こうして別人になっている彼女にとっては、振り向いてもらえない絶望感でいっぱいだった。
*
ロタはレイヴンやニコとともに、薄暗《うすぐら》い穴蔵《あなぐら》の中にいた。
岩をくりぬいたような空間だ。四方を岩壁《いわかべ》に囲まれ、出入り口らしいところはどこにもない。
巨人は彼らをここに置き、岩壁を通り抜けて出ていった。どのくらい時間が経《た》ったのか、まるでわからないがまだ戻ってこない。
どうやってここから逃げ出すのか、相談しようにも、あとのふたりは当てになりそうもないと思えば、ロタは黙《だま》っていた。
レイヴンは、戦闘能力は優れているけれど、作戦を立てる能力はおそらく皆無《かいむ》だ。今も、いざというときのために体力を蓄《たくわ》えているつもりか、目を閉じて座り込んだままぴくりとも動かない。
一方ニコは、最初こそ腹が減ったとぼやいていたが、今はふてくされたように横になっている。こっちはもともと、何ができるのかすらロタには不明だ。
「なあ、ここは巨人の国なのか?」
しかしだんだん、黙っているのもたまらなくなって、ロタは口を開いた。
「やつらの国は遠いからな、ここで道がつながる時を待ってるんだろうよ」
ニコが答えた。
「道がつながったら、あたしたちのうち、誰かが巨人と結婚することになるのか」
むくりと起きあがり、ニコは意味深《いみしん》にこちらを見た。
「なあ、あんた花嫁になってもいいって言ってたよな。だったらそうしてくれ。あんたが指輪の持ち主ってことにしてくれれば、関係ないおれとレイヴンは解放してもらえるかもしれないからさ」
「なんだって? 薄情《はくじょう》だな。レイヴン、あんたも指輪の持ち主だって主張してたよな。公平にトスで決めようぜ」
ロタはポケットからコインを取り出す。海賊《かいぞく》がよく使う、両方表のイカサマコインだ。
「いやです」
静かに目を開いたレイヴンは、しかしきっぱりと言った。
「私はエドガーさまの戦士以外のものにはなれません」
「じゃ、なんでさっきはあんなこと言ったんだよ!」
「リディアさんを守るためです」
「あたしを守る気はないのか!」
「あなたがどうなっても、エドガーさまに支障《ししょう》はありません」
ロタは頭をかきむしった。
「だーっ! どうしてこんな連中といっしょにとらわれちまったんだよ! ひとりの方がましだっての!」
憤《いきどお》りにまかせ、ロタはコインを壁に向かって投げつける。
と、それが岩壁を通り抜けたかのように消え失せた。
「え? な、何だ?」
ロタはそこを手で撫《な》でるが、穴も何もない。ごつごつした岩が手に触れるだけだ。
しかしニコが急に立ちあがると、そこに顔を近づけ、それから腕を組んで「ふむ」とうなった。
「じゃあロタ、決まりだ。あんたはひとりの方がましなんだよな」
「は? どういうことさ」
「おれとレイヴンがここから出て、助けを呼んでくる。あんたはここで、あの指輪の本当の持ち主がリディアだってことばれないようになんとかしてくれ」
「待て、助けって誰だよ。まさかエドガーのことじゃないだろうな。あれが巨人を相手にあたしを救出してくれるっていうのか?」
「ぜったいに見捨てます」
ロタも重々《じゅうじゅう》わかっていることだが、レイヴンにそこまではっきり言われるとむかついた。
「でも、リディアの指輪があるからには、伯爵《はくしゃく》だって動くだろ」
なるほど、ニコの言うことには一理ある。
「伯爵が魔法で対抗できるわけじゃないけど、青騎士伯爵の名があれば、巨人族だって対話には応じるかもしれないからさ、ロタ、それまで辛抱《しんぼう》してくれよ」
おいおい、とロタは思う。
かもしれないって、ちっとも安心できやしない。
「いやしかし、それはニコ、あんたはここから出られるってことか? だったらみんなで逃げようよ」
「魔法の隙間《すきま》は見つけたけど、おれの力じゃ、ひとり引っぱり出すのが限界だよ。ふたりじゃ重すぎて、もし途中で力つきてみろ、あんたら岩を通り抜けられなくて、そのまま埋まっちまうぞ」
想像すればぞっとした。
どうやら、ほかに選択の余地はなさそうだ。
もともとロタは、リディアの身代わりになるくらいかまわないと思っている。
竜《ワーム》の事件の時、彼女はロタを助けてくれた。自分は一生|海賊《かいぞく》でいるつもりだったけれど、血のつながった祖父に会いたい気持ちも捨てきれなくて迷っていたとき、軽く背中を押してくれたのはリディアだった。
人の絆《きずな》は、妖精の魔法を退《しりぞ》けるほど強いものだと知ったから、クレモーナ大公《たいこう》だなんてたいそうな名を持つ祖父が、海賊に育てられた自分でも認めてくれると信じられた。
だったら、リディアとの友情も、魔法で断ち切ることなんてできないはずだ。
「わかったよ。あたしが残って、巨人にリディアが本物だって気づかせないようにすればいいんだろ」
頷《うなず》いて、ニコはレイヴンの肩に飛び乗る。
「はあ、これでやっと帰れるよ。さあレイヴン、まっすぐに、勢いよくつっこめ!」
岩壁に激突しそうな状況なのに、恐怖感を持たないらしいレイヴンは、ためらいもなく突っ込んでいった。
同時に、彼らの姿が消え失せる。
「本当に、助けを呼んでくる気があるのかな」
いいかげんな猫と、エドガーのことしか頭にないレイヴンだ。外へ出たとたん、ロタのことなんか忘れてしまいそうだ。
いや、あいつらのことなんかどうでもいい。
これはリディアのため。巨人の目をリディアからそらすために残ったんだと、ロタはひとりきりの自分をなぐさめるようにつぶやいた。
*
アロー、と眠りかけのかすかな意識でエドガーが呼びかければ、それは夢の中に、不思議とはっきりした姿を取って現れた。
どうやらこの妖精とは、夢の中でしか接触できないようだ。ふつうの人間でしかないエドガーには、宝剣の妖精を現実に実体化させるだけの力がないからだろう。
彼と話をすべく試みたのは何度目か。最初に現れたのが夢の中だったことを思えば、同じように夢を見ようと考えたが、このところなかなか眠れなかったエドガーは、眠りをコントロールできないことがうらめしかった。
しかし、どうにか今日は、うまくタイミングをつかめたようだ。
アローは夢を現実に近づけるのか、夢を見ながらもエドガーはなかば覚醒《かくせい》している。
ともかく、このチャンスを逃すまいと、知りたかったことを問う。
「ムーンストーンの行方《ゆくえ》がわかるか?」
宝剣のスターサファイアである矢《アロー》は、リディアの指輪のムーンストーンに宿《やど》る月の弓《ボウ》と一対の存在だ。そもそもこのふたつの武器は、初代の青騎士伯爵とその妃《きさき》のものだった。
だからこそあのムーンストーンの指輪は、リディアの婚約指輪となっている。
そしてアローには、離れていてもボウのことがわかるという。
(|ご主人さま《マイ・ロード》、今のところ、わかるのはふたつだけです。まず、誰か魔力《まりょく》の強い者がボウを手に入れたらしく、私の呼びかけが届きません。つまりはご婚約者は、その者にとらわれたか、指輪を奪《うば》われたということです)
「その誰かは人間か?」
(人間ではないでしょう。存在自体魔力の強い何かです)
エドガーはため息をつく。やはり今度のことには妖精がかかわっているようだ。
しかしリディアがねらわれたなら、ただ妖精だけの仕業《しわざ》だとはエドガーには思えなかった。
人間の思惑《おもわく》がからんでいるのではないのか。
あのハイランド人のパトリックという男だろうか。それとも、ユリシスだろうか。
「もし状況が変わったら教えてくれ」
(わかりました)
「ところでアロー、宝剣によからぬ兆候《ちょうこう》が出ていると、ボウがコブラナイに告げたらしい。おまえは何か気づいているのか?」
宝剣をそばに置いて眠れば、悪夢を見ることはなくなっている。しかし剣の状態まではエドガーにはわからない。
(変化は感じます。よからぬことかどうかは、私にはわかりません)
「だがこの剣は、僕によって成長すると言った。よからぬ方に成長することもあるわけだ」
(ご主人さま、あなたが望むように変わるのです。よからぬことを望まれないなら、すべては杞憂《きゆう》です)
アローが消えたのかどうか、やがてエドガーは深い眠りにつき、このやりとりを思い出したのは翌朝だった。
ストランドのコーヒーハウスへ行けば、ポールがそこで待っていた。彼は|朱い月《スカーレットムーン》≠ニエドガーとの間の連絡役でもあるが、覇気《はき》のないその顔を見れば、リディアたちについて大した情報がないことは、口を開く前からわかっていた。
「やあポール、このあいだ、女の子を拾ったんだよ」
だからエドガーは、どうだったかと訊《たず》ねるのはやめて、関係のない話をはじめた。
「自分の家が思い出せないらしくてね、とりあえず屋敷であずかってる」
「えっ、……いいんですか?」
ポールは深刻な事態だとでも思ったように眉《まゆ》をひそめた。
「どうしてみんな、そんなに心配するんだ? 僕はリディアしかいらないのに」
ほかには何もいらない。
リディアを返してくれるなら、何だってくれてやるとまで思う。
「それじゃあ、リディアさんが戻ってきたとき、誤解されたら困るのでは」
「うん、だからポール、きみにも言っておくよ。僕はかわいそうなレディに親切に振る舞ってるだけで、下心なんてみじんもなかった、と証言してくれるね?」
「はあ」
下心はない、と思う。けれどエドガーは、彼女を見るたび、リディア、と呼びかけそうになる。お茶会でも、突然の雷雨のときも、頼られればリディアに頼られているような気分になった。
あの強がりなリディアが、まれに心細さを見せるとき、エドガーは無条件に抱きしめたくなるのだけれど、そんなふうに切《せつ》ない感情でいっぱいになった。
彼女を見ていると、どこかで助けを求めているのかもしれないリディアと重なるのだろうか。
妖精がからんでいるとなれば、名前だけの青騎士伯爵でしかないエドガーには、手だてが何もない。今ごろリディアは、そんな彼のことを憂《うれ》えているだろうか。
「リディアは僕といて、幸せを感じてくれていたのかな」
「あのう、伯爵、そう気を落とさないでください」
「恋人らしくなろうとしてくれていたけれど、婚約も結婚もたいへんなことばかりで、幸せになるのだとかは思えなかったかもしれない。僕が、リディアにはたくさん求めてばかりだったから」
「でもリディアさんは、伯爵への贈り物を一生|懸命《けんめい》に考えてましたよ」
わかっている。リディアは、ちゃんとついてきてくれる娘だ。
エドガーとプリンスの本当のことを知っても、変わらないかもしれない。
けれどそのときリディアは、彼のそばで心から幸せを感じることができるのだろうか。
「ポール、きみは父親の仇《かたき》を許せるか?」
唐突《とうとつ》に話が変わったことをいぶかしむように、ポールは首を傾げた。
「プリンスは、完全には死んでいないとしたら」
今はそれ以上のことを言うつもりはなかったが、プリンスを憎《にく》む朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員の前で、この可能性を口にしたのははじめてだった。
エドガーとともにプリンスと戦ってきた朱い月≠セが、エドガーは彼らの敵にもなりうるのだ。
「ぼくは、もういいんです。朱い月≠ヘぼくにとって、父も籍《せき》を置いていた芸術家の組合《ギルド》ですし、身を守るために加わったようなもので。それに伯爵、あなたの役にも立ちたかっただけです」
ポールのことも、仲間としての朱い月≠フ団員たちも、裏切ることにならないよう、エドガーは願うのみだ。
「ありがとう、ポール。ところで例の男、パトリックのことだけど、今からここで会うことになってるんだ」
「え、リディアさんがいなくなったことにかかわっているかもしれない男とですか?」
「向こうから話があると言ってきた。きみも立ち会ってくれるね」
「ええ、それは。でも、今はレイヴンもいないし、伯爵、ぼくじゃ護衛《ごえい》は務まりませんよ」
「あのね、ポール、僕はそんなにやわじゃないよ。ただし、きみも自分の身は自分で守ってくれ」
ああ、来たようだ。と窓の外を眺《なが》めながらエドガーが言うと、ポールは緊張《きんちょう》した様子で背筋《せすじ》を伸ばした。
間もなく黒髪の男が、入り口のドアを押し開けた。
ひとりきりらしいことに、とりあえずポールはほっとしたようだ。屈強《くっきょう》な|ハイランド男《ハイランダー》を引き連れてくるかと心配したのだろう。
パトリックはすぐにエドガーに気づき、こちらの席へとやって来た。
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》、突然お呼びだてしてすみません」
帽子《ぼうし》を取って、丁重《ていちょう》に口を開く。エドガーは椅子《いす》を勧《すす》め、彼が用件を語り出すのを待った。
「じつは、私と同行しておりましたファーガス・マッキールが行方不明なのです」
朱い月≠ェ見張っていても、まったくホテルから出てこないというファーガスが、ひょっとするとそこにいないのではないかということは、エドガーも予想していた。しかし、行方不明というのは意外だった。
そのうえ、ファーガスがいなくなったという日は、リディアやレイヴンが消えた日と一致していた。
エドガーは、パトリックが一通り話し終えてもまだ、黙《だま》っていた。こちらのことを伝えるのは、もう少し早いと思った。
パトリックは、今度は疑問を口にした。
「失礼ながら伯爵、カールトン嬢《じょう》はどちらにいらっしゃいますか? 私が知り合いから聞きましたのは、あなたがとあるお茶会に、婚約者の代わりに見慣れない女性をエスコートしていたとのこと」
「たまにはそういうこともあるよ」
しかしパトリックは、エドガーの返事を無視して続けた。
「ファーガスは、リディアさんに会おうと出かけて行ったきりなのです。できれば彼女に話を聞きたいと思いましたが、自宅にはいない様子。もしもあなたが、用心して婚約者をかくまっているわけではないなら、私たちは情報を共有すべきではないのでしょうか」
ファーガスといっしょに、リディアも消えたと彼は確信しているらしい。
当然だが、パトリックの側も人を使って、エドガーの周囲を監視《かんし》していたのだろう。
それは予想の範囲内だったが、今問題なのは、ファーガスだけでなくリディアもいなくなったことが、パトリックにとっては重要らしいということだ。
ならば彼には、その原因に心当たりがあるに違いなかった。
「今の話からすると、きみのところの坊ちゃんが、僕の婚約者を無計画に誘拐《ゆうかい》したかのように聞こえるんだけどね」
エドガーはまだ、リディアがいなくなったことには言及《げんきゅう》せず、慎重《しんちょう》に口を開いた。
「違います。おそらくファーガスもいっしょに連れ去られたのです」
彼はきっぱりとそう言った。
「誰に?」
「心当たりはひとつだけあります。けれどどういうわけか、その心当たりにそぐわないことも起こっております。とすると、伯爵の方にも何かお心当たりがあるのではないでしょうか?」
エドガーが気にしているのは、もちろんユリシスが裏で糸を引いている可能性だ。しかしそれをこの男に言う気はまだない。
「何が起こってるんだ?」
「|悪しき妖精《アンシーリーコート》が、私の周囲をうろついています。小さなゴブリンどもですが、まるで見張っているかのように」
「きみの心当たりに、悪しき妖精は関係ないというわけか」
「あのような連中が、自分の縄張《なわば》り以外で活動するのはめずらしいことです。誰かがやつらを動かしているのでしょう」
「それが誰か、僕が知っていると思うのかい? でもね、きみは最初僕に言っただろう。青騎士伯爵と名乗っても、昔のような力はないのではないかってね。はっきり言ってその通りだ。|悪しき妖精《アンシーリーコート》にしろ|善良な妖精《シーリーコート》にしろ、どこで何をやっているのやら僕には見ることも知ることもできない」
「でしたらなおさら、リディアさんを見つけだすことに私は協力できるでしょう」
この男はフェアリードクターだ。リディアがいないと妖精のことは何もわからないエドガーには、このままでは八方ふさがりなのは確かだった。
けれど、信用できるのか。
本当にアンシーリーコートが動いているのかどうかも、彼の言葉を鵜呑《うの》みにするしかなく、エドガーには確かめようがないのだ。
「ファーガスを助けたいなら、ひとりでできるんじゃないのか? 不審《ふしん》なゴブリンをつかまえるなり何なりしてはどうかな」
パトリックは黙り込んだ。
何やら考えている様子なのは、手持ちの札《ふだ》を明かすかどうか、というところだろうか。
「私だけでは無理だと判断したのは、手がかりになるかもしれないものが、伯爵のおそばにあるからです」
エドガーは、ポールと顔を見合わせた。
「お屋敷にいる女性に、アンシーリーコートがつきまとっております。これは偶然でしょうか?」
リズに?
エドガーはかろうじて、その名前を飲み込んだ。
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真実は見えないまま
宿《やど》り木の文様《もんよう》が、リディアの手の中で銀色の落ち着いた輝《かがや》きを放《はな》っていた。
新しい懐中時計《かいちゅうどけい》は、蝋燭《ろうそく》明かりにも文字盤がよく見える。装飾《そうしょく》の文様も、魔よけの木が美しく彫《ほ》られていて、きっとエドガーは気に入ってくれるだろう。
先日、池に落としてしまった懐中時計が気になっていたリディアは、これをエドガーへの婚約の贈り物にしようと思いついた。
そうして、急いで時計店へ出かけ、買ってきたのはよかったが、よく考えてみればリディアは、まだこれを彼に渡すことはできないのだった。
リディア≠ノ戻れる前に渡したってしかたがない。
でも、いつになったら元に戻れるのかわからない。このまま戻れない可能性もある。
何の進展もなく、いい考えも浮かばない。また無駄《むだ》な一日が過ぎたことを気にしながら、リディアは雨音にますます閉塞《へいそく》感を募《つの》らせていた。
日暮れから降り始めた雨は、いっそうひどくなって窓をたたいていた。遠くの方で、ときおり空が妖《あや》しく光る。お茶会の時の雷雨を思い出せば、リディアの気は滅入《めい》るが、雷鳴はくぐもって遠くに聞こえるだけで、幸いひとりきりでも怖くはなかった。
雨音に紛《まぎ》れ、玄関ホールの大時計が真夜中を告げる音が聞こえてきていた。
エドガーはまだ帰ってきていない。リディアは休む準備もしないまま、自分に与えられた客間でじっと待っている。
このところ、エドガーの姿を見ていない。屋敷は広いし、彼は出かけることが多く、顔を合わせることがなくても不思議はなかったが、リディアにはつらかった。
ちらりとでも姿を見たくて、できれば「おやすみなさい」のひとことでも言いたくて、寝間着《ねまき》に着替えずに待っている。
雨音に耳を澄《す》ましているのは、馬車の音を聞き分けようと思うからだ。偶然《ぐうぜん》を装《よそお》ってホールのそばを通りかかる。そうすれば、顔を見ることぐらいできるのではないか。
けれどまだ、彼は帰ってきそうにない。
思い立って、リディアは腰をあげた。
燭台《しょくだい》を手に部屋を出る。廊下《ろうか》を奥へ向かい、専用階段をのぼっていく。
エドガーがリディアをここへ案内してくれたのは、ついこのあいだのことなのに、なんだかずいぶん前のような気さえする。
そんなことを考えながら、リディアはベッドチェンバースイートのドアを開けた。
暗がりの中では、独特の青い色調《しきちょう》が、海の中に誘《さそ》われたような感覚を引き起こす。部屋へと進み入ったリディアは、燭台をテーブルに置いてゆっくりとあたりを見回す。
「あたし、ここで暮らすことができるのかしら」
いつもエドガーの前では、恥《は》ずかしさが先に立って、感じたままによろこべない。
この部屋を見せてもらったとき、どんなにドキドキしていたかとか、結婚が待ち遠しいような気さえしたとか、言葉にできなかった。けれど、それだけはエドガーに伝わってほしいと、今は切実に望んでいる。
リディアはチェストの前に歩み寄った。
いちばん上の引き出しを開け、そこに銀の懐中時計をそっと置いた。
もしかしたらもう、ここに足を踏《ふ》み入れることはないかもしれない。そんなふうに感じている自分がいやで、立ち去ることができず、じっと時計を眺《なが》めていた。
雨がはげしくなる中、エドガーは屋敷へ帰宅した。
なじみのクラブでつい長居《ながい》した。パトリックの言ったことを、ずっと考え続けていた。
リズはユリシスと通じているのか。
ユリシスは|悪しき妖精《アンシーリーコート》をしもべに使う。
そしてリズのそばにいたのは、ゴブリン程度のものではない、もっと強い妖精だともパトリックは言った。その妖精は、パトリックと目があった瞬間消え失せたらしい。
はっきりとは見えなかったというが、人型をとれるほど強い妖精らしい。
それがつきまとっていることを、彼女は知っているのか否《いな》か。
どうにも、うまくうそがつけるような少女には見えないのだが、それも芝居《しばい》なのだろうか。
寝静まったホールの階段をあがり、エドガーはまっすぐに自室へ向かう。
リディアの居場所をリズが知っているというなら、どんなことをしてでもしゃべらせるつもりだ。しかしエドガーは、パトリックを信用しきれていない。リズが敵だと確信できないなら、徹底的に問いつめられるかどうかわからない。
もしも彼女がリディアのことに無関係だったとして、結果何の手がかりも得られなかったとしても、自分は悪魔になりきるのか。
問いつめるなら、途中でやめることはできないのだ。やるかどうか心を決めるために、エドガーにはもう少し時間が必要だった。
(伯爵《はくしゃく》、元気がございませんな)
ふと見ると、廊下に飾られていた花がひとつ、宙に浮いていた。
「わかってるだろう、コブラナイ」
ため息とともに、エドガーは吐《は》き出す。
(リディアお嬢《じょう》さまのことですか。ふうむ、ではこのわしが、元気づけて差し上げましょう)
「また今度たのむよ」
足を止める気もなく、花瓶《かびん》のそばを通り過ぎる。
(スイートルームへ行ってみてはいかがです?)
はっとして振り返ったときには、花は床に落ちていた。コブラナイは姿を消してしまったようだった。
スイートルームに何があるというのだろう。
エドガーは考えるよりも駆《か》け出していた。
冷静になればありえないとわかるのに、リディアが帰ってきているのではないかと感じたのだ。
自分たちのための部屋だ。ほかの誰も入るはずがないと思っていた。
急いでドアを開けたとき、蝋燭《ろうそく》の明かりしかない部屋の中、片隅《かたすみ》の暗がりで身動きした人影が、リディアに見えたのも無理はなかった。
「リディア……」
駆け寄って、抱きしめた。
肩の細さも、戸惑《とまど》い気味に体を固くするのも、彼がよく知るリディアだった。
どうにも止められなくて、唇《くちびる》を奪《うば》った。そんなふうに急ぎすぎれば、唇を固く閉じてわずかにも反応してくれなくなるリディアだった。
何度も彼女の名を呼んだ。
彼女の髪は、カモミールの香りがした。そう感じさえしたのに。
身じろぎした彼女に、蝋燭の光が届いたとき、エドガーははっとした。
体を離して確かめるまでもなかった。そこにいるのはキャラメル色の髪のリディアではなく、ブルネットの少女だったのだ。
こちらを見つめるリズから、エドガーはのろのろと離れた。
「どうして、きみがここに……」
リズは失望した表情になり、目を伏《ふ》せた。
「すまない。リディアだと思ったんだ」
一気に地獄《じごく》に突き落とされたような気分になりながら、エドガーは疲れて壁にもたれかかった。
「あの、あたし」
「腹が立つならひっぱたいてくれ」
うつむいたまま手をあげようとしない彼女は、かといって立ち去ろうともしない。
エドガーは苛立《いらだ》ちを感じた。間違えたのは自分で、こちらに非があるのもわかっているが、リズがここにいることが許せない気がしていた。
「ひっぱたく気がないなら、出ていってくれないか」
今度は、驚いたように顔をあげる。
「ここは、リディアのための部屋なんだ」
頷《うなず》きながらも、彼女はこちらへ近づいてこようとしていた。
止めるためにエドガーは言う。
「今のこと、悪いけれど忘れてほしい。僕が抱きしめたのはリディアだ」
足を止め、リズは黙《だま》り込んだけれど、傷ついたわけではなかったのか、きっぱりとした口調《くちょう》で言った。
「だったら、それでいいの」
蝋燭が消えたのは、彼女が吹き消したからだ。ときおり光る空のほか、明かりのなくなった室内に、雨音だけが響く。
次に空が瞬《またた》いたときには、リズは目の前にいて、エドガーの手を取った。
「今は、あたしをリディアだと思って」
その手を、彼女は自分の頬《ほお》に押し当てる。暗くて顔がよく見えないまま、エドガーが感じるのはリディアの頬の輪郭《りんかく》だ。
どうしてこの少女は何もかも、リディアを思い起こさせるのだろう。
一瞬エドガーは、考えることをやめたくなった。彼女をリディアだと思えば、たとえつかの間でも、疲れた心を休めることができるのではないか。
いつのまにかリズは、エドガーの胸に寄りかかるようにしている。そして、思い切ったようにつぶやく。
「……好きなの、エドガー……」
切望した言葉だった。けれど。
リディアはこんなふうに、自分から抱きついてこない。ほんのひとことの好き≠ナさえ言葉にできない。
リディアじゃない。
「本当に、それでいいの?」
自分でも意外なほど、冷ややかな声だった。
「愛する人の代わりに、どこの誰とも知らないきみを抱きしめる。そんなことができる男のどこを、きみは好きだって言うの?」
はっとしたように顔をあげたリズは、おびえた目でエドガーを見た。
逃《のが》れようとしたリズの肩をつかまえ、壁際に押しつける。エドガーの乱暴な態度に、彼女は怖くなったのか、両手で突き放そうとする。
それでいい。リズが自分に求めている、あまやかな幻想《げんそう》が崩《くず》れればいいと思いながら、エドガーは、むりやりその両手を押さえつける。
痛みを感じたのか、彼女は顔をゆがめた。悲鳴《ひめい》に似た声をもらす。
「いやなの? きみが望んだんだよ」
重なる稲光《いなびかり》が、断続的に彼女の姿を暗闇《くらやみ》に浮かび上がらせる。
まだ何もしていないのに、今にも泣き出しそうな目がこちらを見ていた。エドガーがほんの少し力をゆるめただけで、リズは全力で彼を押しのけた。
彼はまた、リディアを思い出していた。
何もしていないのに、その先のことを匂《にお》わせるだけでいっぱいになるらしいリディア。この部屋で、震《ふる》えながらリボンに手をかけた彼女を、どういうわけかリズの目が思い出させる。
めまいを感じ、エドガーは後ずさる。
落ち着きを取り戻し、顔をあげたときには、リズが勢いよく部屋から駆けだしていくところだった。
こうするためだったとはいえ、後味は悪かった。
エドガーは深くため息をついた。
冷静になろうとし、何気なく部屋の中を見まわしたとき、チェストの引き出しが開いたままなのに気がついた。
近づいていってのぞき見れば、銀の懐中時計が入っていた。
「リズが……?」
池に落としてしまったから、弁償《べんしょう》しようとでも考えたのだろうか。しかし、どこからこれの代金を工面《くめん》したのか。
ふたを開いてみると、何やら文字が刻まれている。
よく見ようと、ポケットを探りマッチを擦《す》ったエドガーは、炎《ほのお》を時計に近づけた。
エドガーへ これからは、ふたりで時を刻んでいけますように。
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婚約を記念して リディア・カールトン
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「リディア、からの?」
混乱《こんらん》し、エドガーは髪の毛に指をうずめた。
リディアが失踪《しっそう》する前に、婚約の贈り物をここへ置いていったのだろうか。
しかし、リディアがいなくなったのは、エドガーがこの部屋を彼女に見せた日のことだ。
それに、彼が時計をなくしたのはリディアがいなくなってからで、このことはリズしか知らないはずだった。
では、リズがリディアの名を使ったのか。
今夜のように、リディアの代わりでもいいと言った彼女が、何を考えているのかエドガーにはわからない。
しかしそれも、納得《なっとく》はできなかった。
リディアがエドガーへの贈り物に悩んでいたことまで、リズが知るはずはない。
もしも知っていたなら、リズはリディアと会っていたことになる。
リディアの失踪に、リズがかかわっている?
だとしたら、もうためらっている場合ではなかった。
*
ニコを肩に乗せ、レイヴンは野原を走っていた。
地響《じひび》きとともに、足元が崩れる。とっさに飛び上がり、穴に落ちそうになるのをふせぐのは何度目か。
追ってくるのはあの巨人《トロー》だ。
岩の中から抜け出したものの、彼らはちょうど、帰ってきた巨人と鉢《はち》合わせしてしまったのだ。
巨人は、どこかで見つけてきたらしいファーガスを肩に担《かつ》いでいた。たぶんファーガスは気を失っていたのだろうが、巨人は彼を、レイヴンたちがたった今出てきた岩の中に投げ込むと、両手で彼らをつかまえようとした。
レイヴンが応戦しようと取りだしたナイフは、巨人がにらんだだけで飴細工《あめざいく》のように溶けてしまう。とてもじゃないが、刃向《はむか》かえる相手ではない。
レイヴンとニコは、ともかく駆け出した。
巨人はすごい形相《ぎょうそう》で追ってきた。
杖《つえ》を振るたびに、天変地異が巻き起こる。稲妻《いなずま》や竜巻に追われながら、レイヴンは走る。ニコがいつのまに肩に乗っかったのかもわからないくらいだった。
森へ逃げ込めば、竜巻も稲妻も消え失せた。木々がじゃまで使えないと思ったのか。けれど今度は、無数の枝葉がこちらへ向かって伸びてきた。
首に巻きつきそうになった蔓《つる》をさっとよけたレイヴンだが、そのとき耳元でニコの悲鳴が聞こえた。
「ぎゃあああ!」
振り返ったときには、蔓が体に巻きついたニコが、宙に投げ出されたところだった。
「や、やめろって! トロー、あんたの花嫁《はなよめ》は岩の中だ。おれたちはもう帰ったっていいだろ?」
「だめだ。おまえは花嫁の世話係だ」
巨人は蔓にぶら下げられたままのニコを見あげた。
「おれは妖精だよー、世話係なら人間の方がいいだろ!」
レイヴンの方を、巨人はちらりと見た。
「では、こいつの代わりにおまえが残るか」
巨人は人差し指で招く。立ち止まったままレイヴンはためらった。
「助けてくれー、レイヴンよー」
けれど、すぐに決意する。
「ニコさん、すみません」
きびすを返し、また駆け出す。
「えええ、レイヴーン!」
じたばたと暴れたニコの体から、急に蔓がゆるんだ。
地面に落下した彼は、急いで立ち上がり、レイヴンを追って駆け出す。
「誰だ? わしのじゃまをするのは!」
潮《しお》の香りを含んだ風が、前方から一気に森を吹き抜けた。
「……海のものか?」
そのときレイヴンは、かすかな声を聞いていた。
(走って、この先の入《い》り江《え》まで)
言われたとおりに走る。ニコも必死だ。巨人はまだ追ってくる。
やがて森が急に開ける。海が見える。
しかし道は突然|途切《とぎ》れ、レイヴンは断崖《だんがい》の上で立ち止まるしかなくなっていた。
(飛び降りるのよ)
声はまた聞こえた。
下方を覗《のぞ》き込めば、海面で何かが無数にうごめいていた。
あれは、アザラシ?
ニコがレイヴンの背に飛びつく。巨人がすぐ後ろにせまっている。考えるまでもなく、レイヴンは崖《がけ》から飛ぶ。
「うわあっ!」
飛び降りるとは思っていなかったらしいニコが叫《さけ》んだが、次の瞬間にはもう、ふたりして海中へと沈《しず》んでいた。
それもわずかな間、レイヴンはニコとともに、アザラシに押しあげられるようにして浮上する。そのまま彼らとともに入り江を離れれば、がけの上に突っ立った巨人はもう、手出しはできないようだった。
やがてレイヴンは、アザラシに導かれ、白い浜辺にたどり着いた。
アザラシたちはそのまま海へと戻っていった。
「太陽の巨人は海がきらいなの」
背後《はいご》に立つ人影に、レイヴンはとっさに反応するのを忘れていた。かつてはそれくらい、身近な存在だったからだ。
明らかに女だとわかるシルエットを包むのは、黒っぽい上着とズボン。肩までしかない髪が海風になびく。
「アーミンか……?」
ニコがつぶやいたのは、レイヴンの姉の名だ。
「巨人の島では、西には海しかない。太陽はいつでも海に沈むからよ」
死んでしまったレイヴンの異父姉は、プリンスの手先によって|アザラシ妖精《セルキー》としてよみがえらされた。そうして彼女は、エドガーを裏切り、プリンスの側近《そっきん》だったユリシスという男の意のままになっている。
プリンスが死んだ今も、ユリシスの手先であることに間違いはない。
エドガーは、プリンスの記憶を受け継いでしまったとはいえ、それを永遠に封《ふう》じ込めようとしている。そうである以上、ユリシスもアーミンも、レイヴンにとっては敵なのだった。
「姉さん、なぜここに」
身構える弟を眺《なが》め、彼女は淋《さび》しげに眉《まゆ》をひそめた。
「その質問には答えられない。だけど、あのアザラシたちはユリシスとは関係ないわ。純粋に、同胞《どうほう》の呼びかけに応えてくれただけ」
レイヴンを助けるために呼びかけたということだ。
[#挿絵(img/star ruby_135.jpg)入る]
それにしても、レイヴンは姉のことがわからない。ユリシスの言いなりになっているというのに、レイヴンを守ろうとする。
姉弟だからだとエドガーは言うが、ずっと理解できなかった。今も理解したわけではないが、レイヴンの方も、彼女がエドガーを苦しめる敵だとしても殺せないと知ってしまった。
そしてエドガーは、そんなレイヴンを認め、それでいいと言ってくれた。
肌の色も背負うものも違う姉は、すでに人ではなくても裏切り者でも、レイヴンの姉だ。助けられた理由について問う必要は、もうなかった。
「巨人に見つからないよう、海岸|沿《ぞ》いを行きなさい。人間界への境界は、ニコさんがわかるでしょう」
立ち去ろうとし、またふと振り返った彼女は、いくぶんためらいがちに口を開いた。
「レイヴン、もしも可能なら、エドガーさまを巨人に近づけないで」
なぜ、と問う代わりに、レイヴンは鋭《するど》い視線をアーミンに向ける。
「どうせ理由が言えないのなら、よけいな指図《さしず》などしないでくれ。エドガーさまを混乱《こんらん》させるだけだ」
「……その通りね。未来は、エドガーさま自身が選ぶしかないものなのだったわ」
そう言ってふたりに背を向け、ゆっくり歩きだしたアーミンは、風景に溶けるように姿を消した。
レイヴンは、海岸に沿って歩き始める。ニコもてくてくと、二本足で歩きながらついてくる。
そうやってしばらく歩いているうち、レイヴンはふと気がついた。さっきまでと違い、ニコがやけに彼から離れて歩こうとする。
どうしてだろう、と考えれば、ぼんやりと理由に思い当たる。
もしかしたら、きらわれたのだろうか。
なにしろレイヴンは、ニコを見捨てかけたのだ。巨人からひとりで逃げようとした。
ニコの方がまずレイヴンを身代わりにしようとしたのだが、そのことはとっくにレイヴンの頭の中にはない。きらわれた、という言葉だけがぐるぐる頭をめぐる。
立ち止まって振り返ると、ニコはびくりと毛を逆立《さかだ》てた。
「ニコさん」
「あ、あのな、レイヴン、まあ落ち着け……」
「さっきはすみませんでした」
「えっ?」
「私が見捨てようとしたから、怒っているんですね?」
「……いやあ、その」
「私にとってはいつでも、エドガーさまのことが最優先で、その次は自分です。ほかの誰かのために怪我《けが》をして、エドガーさまを守ることができないなど、私にとってあってはならないことだからです」
困惑《こんわく》したように、ニコはぽりぽりと頭をかく。
「でも、そうしたとき仲間たちはいつも、私を恨《うら》み、疎《うと》んじました。ですから、きらわれてもしかたのないことです」
だからといって、レイヴンは気にしたことなどない。なのに今は、ニコも彼らと同じ態度を取るのかもしれないと思うと、奇妙《きみょう》にやるせない気持ちになっている。
「……なんだ、そういうことか」
つぶやいたニコが、むしろレイヴンが怒っているのではないかとおびえていたことなど知る由《よし》もない。
ニコはほっとしたように息をつくと、急に胸を張って咳払《せきばら》いをした。
「そりゃ、たいへんだったな。人間ってのはそのへん、器《うつわ》が小さいからな」
「ニコさんは違うのですか?」
「いいか、レイヴン。おれはそんな細かいことを気にする男じゃねえ。誰にだってそれぞれ事情ってもんがあるからな。あんたに悪気がないってことはわかってるさ」
てくてくとこちらへ近づいてくると、いつものようになれなれしく膝《ひざ》のあたりをぽんぽんとたたく。
「心配しなくていいぞ。きちんとあやまる相手には、寛大《かんだい》な気持ちで許すのが紳士《しんし》ってもんだ」
許してもらえたと素直に受け止めて、レイヴンはニコをちょっと尊敬した。さすがに紳士なんだと思った。
「ではこれからも、見捨ててもいいのですね」
「お……おう」
ふんぞり返って大きく出た姿勢のまま、ニコはそう答えるしかなかったが、レイヴンはありがたく受け止める。
これが友情というものなのだろうか。
見捨ててもきらわれないという、友情っていいものかもしれない、と彼は思った。
少々ずれた仲直りをし、ふたりはまた歩き出す。
海岸線はどこまでも続いている。
太陽は水平線の少し上に浮かんだまま、時間が止まっているかのようにそれ以上沈むことはない。
妖精界の時間の経過は、レイヴンにはよくわからない。ずいぶん長い間歩いているような気がするが、それも気のせいなのかもしれない。
大きく弧《こ》を描く海岸線のその先に、かすんだように岬《みさき》が見えている。そういえば、歩いても歩いても、あの岬が近づいてこない。
レイヴンが疑問に感じ始めたころ、ニコが不意に立ち止まった。
「なあレイヴン、ファーガスが巨人につかまってただろ。リディアはどうなったんだろう」
そういえばそうだ。けれど何があっても、リディアはエドガーのもとへ帰ろうと努めたはずだとレイヴンは信じている。
「きっとエドガーさまのそばにいます」
しかしニコは、困惑したように首を横に振った。
「ムーンストーンの指輪を巨人が持ってるからな。人間界へ戻るのは容易《ようい》じゃない。ひとりで妖精界をさまよってるのかもしれない」
「見つけだすことができるでしょうか」
「闇雲《やみくも》にさがし回っても見つかるかどうかわからないし」
「ではやはり、エドガーさまのもとへ戻るしかありません。何をするにも人手が必要です」
もともとそのつもりで、ロタをひとり残してきたのだ。
けれどニコは立ち止まったまま、海の方をじっと見る。
「どうして人間は、自分以上に大切なものが必要なんだろうな」
そうして、独り言のようにつぶやく。
「あんたもリディアも、伯爵《はくしゃく》も、たぶんアーミンもまだ人間だったことを引きずってるし、そういうことなんだろう?」
「必要、なんでしょうか。そうでない人もいるのでは?」
「いいや、必要なんだよ。長いこと人間と暮らしてるが、つくづくそう思うんだ」
そう言って、長いため息をついた。
「おれは自分がいちばん大事だけど、これでもいちおうリディアも大事なんだ。伯爵はまだ、プリンスと戦いつづけてるのか? だとしたら、リディアはどうなるんだ?」
アーミンが現れ、忠告をしていったことで、ニコはまだプリンスのことが解決していないと感じているのだろう。
「いちばん大切な人に、リディアが裏切られるようなことだけはいやだ。わかるだろ?」
そんなことはありえない、と言いたかった。けれどレイヴンには、エドガーの本当のことを知ったリディアが傷つかないのかどうかはわからなかったから、何も言えなかった。
「で、レイヴン、あんたは伯爵のもとへ帰るってこと、迷ってないんだな? 起こったことを話せば、アーミンの忠告を無にすることになるぞ。今の状況じゃ、伯爵はリディアを守ろうとするだろうし、そのためには巨人と対決するしかなくなる」
「私が決めることではありません。ありのままに、エドガーさまにはお伝えします」
ニコは悩《なや》んだように頭を振ったが、やがて意を決したのか足を止めた。
「なら、境界はこっちだ」
急に彼は、もと来た道を戻り始めた。
*
寝室へ駆《か》け込んだリディアは、倒れるようにベッドに突《つ》っ伏《ぷ》した。
涙があふれて止まらなかった。
スイートルームにエドガーが現れ、突然の抱擁《ほうよう》と口づけに、気づいてもらえたのかと期待したのもつかの間、間違えたと彼は言ったのだった。
くるおしいほど、リディアは彼に求められていることを知った。そして同時に、今の自分はどうあがいても、エドガーの恋人にはなれないのだとも知ってしまった。
よく考えてみれば当然のことなのに、どうして気づかなかったのだろう。
リディアは重大な思い違いをしていたのだ。
代わりでもいいと言ったのは、もっと触れあえば、リズがリディアだと気づいてくれると思い込んでいたからだ。
けれどエドガーにとって、どうあってもリズはリディアではない。
彼がリディアではない女の子を、恋人の代わりにできるなんてことを知りたいはずもない。
なのにリディアがしようとしていたのは、そういうことだった。
気づいて、逃げ出してきたリディアの手首は、エドガーが強くつかんだせいでまだ少し痛かった。
あんなエドガーははじめてだった。
ときどきリディアに強引《ごういん》なこともするけれど、エドガーを怖いと思ったことはない。
けれど、さっきは怖かった。やさしさも愛情も、少しも感じられなかった。
当然だ。
エドガーは、リディアだけだと彼女に誓《ちか》ったとおり、約束を守ってくれている。だからこそ、別人にしか見えないリズは受け入れられない。
もしも彼がリズを受け入れたなら、そのときは心変わりをしたということで、リディアはとくべつな女の子ではなくなってしまうのだ。
ようやく気づいて、リディアは泣いた。
これ以上、もう、どうにもできない。
そばにいても役には立てないし、何よりリディアは、彼に拒絶《きょぜつ》されるのがこんなにつらいとは思っていなかった。
「リディア、泣いてるのか?」
ケルピーの声がした。
「だからチェンジリングなんてやめとけって言ったんだ」
大きな手が頭を撫《な》でる。エドガーとは違う、無造作《むぞうさ》な撫でかただ。
エドガーはいつでも、指先のひとつひとつでさえ、リディアを感じ取ろうとするように慎重《しんちょう》に触れていく。だからリディアは、ほんの少し触れあうだけで鼓動《こどう》がはげしく鳴るのを止められない。
エドガーのことを考えれば、また胸が苦しくなるのをこらえながら、リディアはどうにか顔をあげた。
「……大丈夫よ、ケルピー。泣いてなんかないわ」
「何だ、強がるなよ」
黒い巻き毛の、精悍《せいかん》な青年の姿で、彼はリディアを覗《のぞ》き込む。
今の自分をリディアだと理解して、以前と代わらず接してくれる妖精を前にすれば、心から安心できる。
ひとりでいると、自分が本当にリディアで、エドガーの婚約者なのかどうかわからなくなりそうになるのだ。
けれども彼女は、ケルピーにすがって泣いてしまいたい気持ちをこらえた。
リディアはエドガーを選んだ。それでも力を貸してくれるケルピーは大切な友人だと思うから、なおさらあまえてはいけないのだ。
「ううん、あたし、強くならなきゃ」
エドガーに気づいてもらえないなら、遅かれ早かれ巨人が指輪の持ち主を疑い、リディアは妖精界へ連れ戻されるだろう。ロタやニコやレイヴンを助けるためにも、何か方法を考えなければならない。
「ねえケルピー、明日、チェンジリングの魔法を解いて。あたし、妖精界へ戻るわ」
「巨人に見つかるぞ。俺だって、あんなのは相手にできない」
もともとエドガーにだって相手にできない妖精だ。リディアはただ、エドガーのそばにいたくてチェンジリングの魔法にたよった。レイヴンがそのために、リディアを逃がそうと努めてくれたからだった。
けれど、エドガーのそばにいる意味がないなら、自分が巨人のところへ行って、みんなを解放してもらうのが、いちばん確実な方法ではないだろうか。
妖精との交渉《こうしょう》は、フェアリードクターの仕事だ。
そうなったら、巨人の国に連れ去られて、二度と帰ってこられないかもしれないけれど。
「明日、あなたが棲《す》みかにしてるサーペンタイン湖へ行くわ」
もう少しだけ、決意する時間がほしかった。
エドガーと別れねばならないかもしれない決意をするのは、さすがに容易ではなかった。
*
リズがスイートルームに残していった懐中時計《かいちゅうどけい》には、有名な老舗《しにせ》の刻印が入っていた。エドガーは翌朝、店を訪れ、そこで購入されたものだと確認した。
さらに奇妙《きみょう》なことに、買いに来たのはブルネットの髪の少女だったという。リディアの名前とメッセージを入れてほしいと頼んだのも彼女だそうだ。
リディアからの贈り物を、リズが用意した。それがどういうことなのか、エドガーは考えあぐねている。
しかしどういう意図《いと》にしろ、リズとリディアに接点があるのは間違いなかった。
そうなると、パトリックの言っていた、リズのそばにいたという|邪悪な妖精《アンシーリーコート》の存在も信憑性《しんぴょうせい》が増す。
パトリックと協力するのが得策《とくさく》か。
エドガーは考えながら、馬車の窓から空を仰《あお》ぎ見た。
リディア、きっともうすぐ助けに行く。
どうか無事でいてくれと祈りながら、教会の鐘《かね》の音を聞いていた。
間もなく馬車は、カールトン宅に到着した。
朝早くからエドガーが会いに来たのは、リディアの父だった。
リディアがいなくなってから毎朝、教授が大学へ出かける前に、エドガーは報告することがあってもなくても、ここを訪れることにしていた。
リディアが心配なのは、当然のことながらエドガーだけではないからだ。
教授はむろん、気が気でない毎日をおくっているが、どこか達観した様子でもある。
妖精に通じるリディアには、たとえ父親だろうと力の及ばない、助けることさえできないことが起こりうると知っているからだろう。
カールトン教授にとっては、亡き妻がまさにそんな存在だった。
だから、こうして毎日エドガーが訪れ、リディアについて新しい進展がないことを告げるしかなくても、彼を責めたりはしなかった。
「伯爵、あなたが責任を感じる必要はありませんよ。リディアはきっと帰ってきます」
エドガーは、報告に来るというよりは、なぐさめられに来ているような気さえする。
「ひとつだけ、リディアにつながるかもしれない手がかりを見つけました。ですから、何があってもそこから彼女をさがしだすつもりです」
頷《うなず》き、教授はずり落ちかけた眼鏡《めがね》を押しあげ、何やら考え込んだ。
「私は、妻の家系のことはもはや、リディアには関係がないものと考えてきました。妻もそのつもりでした。でも、マッキール家にとっては違っていたようです」
「今回のことが、マッキール家の仕業《しわざ》と決まったわけではありませんよ」
事実、ファーガスも連れ去られたというのだ。
「ええ、でも、伯爵、あなたの家系にマッキールの血が流れ込むことになるのです。結婚の申し出をいただいたときに、お話ししておくべきだったかもしれません」
ハイランドの氏族といえば、どれもこれも由緒《ゆいしょ》ある家柄《いえがら》だ。リディアの母は、氏族長《しぞくちょう》の直系ではないとはいえ、土地を与えられた分家筋であるようだから、カールトン家の地位をそこなうものではなく、リディアにとってもエドガーにとってもマイナスになることではない。
つまり教授が気にしているのは、家柄のことではなく純粋《じゅんすい》に血縁《けつえん》のことなのだろう。
眠れる予言者がどうとか、今の世にそぐわない風習を血縁者に義務のように押しつけていることだ。
「私の妻は、取り換え子でした」
教授の告白は、エドガーにとっては驚くほどのことでもなかった。リディアの語る母親はいつでも、とびきりに美しく謎《なぞ》めいたフェアリードクターだった。
「彼女の一族では習慣的にチェンジリングが行われていたようで、取り換え子といっても、妖精族とマッキール家の、両方の血を引く存在、とでもいうのでしょうか。そのために、彼女の家系にはフェアリードクターの才能を持つ者が絶《た》えなかったようです」
「リディアも、いくらか妖精族の血を引いている……、ということなんですね」
「そういうことになるのでしょう」
「彼女は以前、自分が取り換え子かもしれないともらしたことがあるのですが」
「いいえ、私たちの娘です」
教授はきっぱりと言った。けれどそれは、間違いないというよりは、そう信じているという意味合いだったのかもしれない。
「生まれてすぐにいちど、リディアは妖精に連れ去られたことがありました。けれど妻が、手を尽《つ》くして取り返してまいりました。妻がそう言ったのですから、間違いはありません」
奇妙《きみょう》な言い方だと思った。
つまり教授には、連れ去られた赤子《あかご》と戻ってきた赤子が同じには見えなかったということなのだろうか。
単純に、赤子の区別はつきにくいからか。
それでも、自分の子供なら見分けくらいつくのではないか。
エドガーが疑問に思っていることに気づいたのか、教授は言葉を付け足した。
「瞳《ひとみ》の色が、変わっていたのです。しかし妻は、まだ人間界の光に慣れないうちに、妖精界の光にさらされたせいだと」
リディアの、金緑の不思議な瞳を思い浮かべる。妖精が見えるとしても納得《なっとく》させられる、神秘的なあの瞳は、いちどチェンジリングにあったせいなのだろうか。
「そうです、伯爵。成長すれば髪や目の色が変わる人は少なくありませんし、鉱物《こうぶつ》だって色に惑《まど》わされると本質を見誤ります。何が変わろうと、リディアはリディアに違いないのです」
何か重要なことが、頭の中をよぎったような気がしながら、エドガーはそれをつかみそこね、よりどころのない気分になった。
リディアはリディアに違いない。
その言葉だけが宙づりになって浮かんでいる。
つかもうとすれば、残っていた印象さえも霧《きり》のように消え失せ、代わりにまったく別のことが思考を占領《せんりょう》してしまった。
鉱物がどうとか、教授が言った部分だった。
「カールトン教授、鉱物の色に惑わされるとは、どういうことなのですか?」
突然話がリディアからそれ、教授はかすかに首を傾《かし》げたが、すぐに学者の表情になった。
「色の違いは、条件のわずかな差にすぎないのです。外見が違うとまるで別のもののように私たちは感じてしまいますが、たとえば伯爵、サファイアとルビーがまったく同じ鉱物だというのはご存じですか?」
「サファイアと、ルビーが同じ……?」
もちろんそのときエドガーは、メロウの宝剣を思い浮かべた。
エドガーの持つスターサファイアの剣。それはこのところ、異変を生じているという。同時に彼は、夢の中で見たもうひとつの剣が存在することを確信しながら、問題の異変と関係があるのではないかと考えていた。
あの剣は、サファイアをルビーに取り換えたかのようによく似ていた。
「ええそうです。同じコランダムという鉱物です。昔は、まったく別の石だと思われていました」
しかし、あれが同じ石なら。
二つの剣は、もしかしたら同じ剣だということにならないだろうか。
そもそもあれば、人間に属する剣ではないのだろう。内側の輝《かがや》きが月のように満ち欠けするリディアのムーンストーンと同じように妖精族のものだとすると、サファイアからルビーへと色が変わるとしてもあり得ることかもしれない。
だとしたら、エドガーが夢の中で見たスタールビーをはめ込んだ剣は、メロウの宝剣の、もうひとつの姿だということだ。
伯爵家に危機をもたらすという宝剣の変化が、サファイアが赤く輝くことを意味しているのなら、あのときの夢はとても象徴的《しょうちょうてき》だった。
夢の中で、ルビーの剣を手にした誰かは、青騎士伯爵であるエドガーを斬《き》ろうとした。
「伯爵、どうかしましたか?」
エドガーは視線をあげ、慎重に微笑《ほほえ》みをつくった。
「いえ、教授、なかなか興味深い話でした」
そして立ちあがる。
「では僕はそろそろ。またうかがいます」
教授も立ちあがると、ていねいに玄関まで見送ってくれた。そうして家族を送り出すように、親しみとお節介《せっかい》のこもった目をこちらに向ける。
「どうか、あまり無理をしないでください。リディアが帰ろうとするなら、あなたのところしかないのですから」
そんなに、まいっているように見えただろうか。
しかし教授の言うとおりだった。リディアが妖精界にとらわれているなら、エドガーは彼女の命綱《いのちづな》なのだ。どんなに強い魔力《まりょく》でも断ち切れないのが人の絆《きずな》だから。
正式に婚約した今は、それだけの絆があると思いたい。
少なくとも教授が、エドガーを認めてそう言ってくれるのだから、気持ちがすれ違ったまま離れてしまったリディアだけれど、きっと彼とのつながりを信じてくれている。
「ありがとうございます、教授。リディアが帰ってきたときには、最初に僕が抱きとめてもかまいませんか?」
教授は苦笑《にがわら》いを浮かべながらも頷いた。
「お断りしても無駄《むだ》でしょうからねえ」
フェアリードクターの女性と結婚した教授は、いわば先達《せんだつ》だ。押しつけがましくなく、エドガーに大切なことを教え諭《さと》してくれる。
独特のおっとりした人柄と、学者らしい鋭《するど》い視点に、エドガーは親しみやすさと同時に尊敬も感じている。
リディアの父を自分にとっても父親のようにすんなり感じられるとき、特殊《とくしゅ》な体験をしたことを忘れ、ひとりのありふれた青年になれるような気さえする。
家族や、平穏《へいおん》な日常。エドガーが失ったものを、リディアが与えてくれる。だからもう二度と、何も失いたくはないのだ。
けれど敵は、何よりも自分の中にある。
間違うことなく、大切なものを守っていけるのだろうか。
カールトン宅をあとにしたエドガーは、これからしようとしていることを思い浮かべ、苦い気持ちになった。
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引き裂かれた恋人たち
リディアはドアを薄《うす》く開け、廊下《ろうか》に誰もいないのを確認すると、そっと部屋から抜け出した。
召使《めしつか》いは休憩《きゅうけい》している時間だ。誰にも見られることなく、階段までたどり着く。下方のホールにも人影はない。
今だわ。
一気に玄関まで駆《か》け抜けようと気合いを入れたときだった。
「出かけるのかい、リズ」
すぐ後ろで聞こえたエドガーの声に、思わず階段を踏み外しそうになった。手すりにつかまり、どうにか体をささえながら振り返る。
「え、ええ、ちょっと散歩に」
エドガーはリディアの前に回り込み、まるで逃がすまいとするように道をふさぎながら微笑《ほほえ》んだ。
「ちょうどよかった。気分転換に、これから郊外《こうがい》へ出かけないか?」
ゆうべのことがあったから、リディアはエドガーの態度に戸惑《とまど》った。彼はもう、二度とリズにやさしい言葉をかけたりしないだろうと思っていた。
「あの、でも……」
「きみにあやまりたい。ゆうべは気が立っていて、ずいぶん失礼なことをしてしまった」
心底《しんそこ》もうしわけなさそうに、彼は目を伏《ふ》せた。
「リディアは……、僕の婚約者は、突然いなくなってしまったんだ。知人には里帰りしてるって言ってあるけど、彼女の身に何かが起こって、帰れなくなっているに違いない。だけど手がかりがなくて、ついきみに苛立《いらだ》ちをぶつけてしまった」
なぜエドガーがこんなことを言いだしたのか、リズ≠ノはわからない。黙《だま》って聞いているしかない。
「きみみたいに、どこかで記憶をなくしてしまっているのかもしれない。そう思ったらますます、きみを傷つけたのが悔《く》やまれてね」
切《せつ》なげに眉《まゆ》をひそめる。その言葉は本音かもしれないと思えば、リディアは胸が痛んだ。
けれども同時に、怖いような気もした。
目の前にいるのは、やっぱりリディアの知らないエドガーだ。微笑んでいても、どこかよそよそしい感じがする。
「ゆうべのお詫《わ》びをさせてほしい。少しだけ、僕に時間をわけてくれないか」
さりげなく彼女の手を取る。ゆうべとはうって変わって、完璧《かんぺき》な淑女《しゅくじょ》扱《あつか》いだ。だからこそ、ますますエドガーが何を考えているのかわからずに、リディアは迷った。
相変わらずエドガーには、リズがリディアだと気づいてくれそうな気配《けはい》はない。けれど彼は、リズが自分に好意を持っていると知っているし、ゆうべのリズは、今思い出せばリディアとしては卒倒《そっとう》しそうなほどあからさまに彼を誘《さそ》った。
まさか今日になって、エドガーはリズをリディアの代わりにする気になったのだろうか。
それは困る。
このままついていくのは危険だ。
と頭ではわかっていても、リディアにはエドガーの手を振り払うことはできなかった。
もしかしたら、今度こそ気づいてもらえるかもしれない。そんな淡《あわ》い期待をせずにはいられなかったからだ。
このまま彼から逃げ出せば、リディアは二度と帰ってこられないかもしれないのだから、わずかな可能性にでもすがろうと思うのは当然だっただろう。
結局リズ≠ヘ、エドガーと馬車に乗った。
ゆうべのひどかった雨も朝にはあがり、雲の切れ間からはときおり陽《ひ》が降りそそいでいる。
道すがら、エドガーはリズを退屈《たいくつ》させないよう、陽気な会話を続けていた。あるいは、彼女に思い直す隙《すき》を与えないようにしていたのかもしれない。
昨日までは、リディアだと気づいてもらおうと必死になっていたけれど、必死になればなるほど、お互いにとってよくないことになる。そう気づいたリディアは、おとなしく相づちを打つくらいしかできなかった。
そんなふうに、少し引いて眺《なが》めれば、エドガーはつくづくまぶしい人だとよくわかる。
帽子《トップハット》の下で風になびく金髪は、陽光にきらきら輝いている。顔立ちはむしろストイックなのに、不思議と色っぽい灰紫《アッシュモーヴ》の瞳に、意味ありげにじっと見つめられれば、自分だけが特別なように錯覚《さっかく》してしまう。たぶん、そう思わせるのはお手のもの。
たいていの女の子は、あっという間に恋する気分になってしまうだろう。
そんなエドガーが今、本当にリズ≠ノ詫びたいだけなのかどうか、リディアには心の片鱗《へんりん》も覗《のぞ》けない。
婚約しても、エドガーがよろこんでくれそうなものひとつ思いつけなかったリディアだ。リズという他人を前に、隙なく感情を抑《おさ》えているエドガーは、なおさらわかるわけがない。
見つめられるほどリディアは、彼が自分の婚約者だなんて信じられなくなってくる。むしろ自分は、どうしてもエドガーに振り向いてもらえないリズ≠ナ、彼にとってとくべつなリディア≠ヘ別の誰かなのではないかと思える。
たぶん、それが今の現実だ。ここでの彼女はリズで、リディアにはなり得ない。
「元気がないね。やっぱり、僕と出かけるのは気が進まなかった?」
「えっ、……ううん、そんなことないわ」
「でも上《うわ》の空《そら》だ」
かすかに彼が、機嫌《きげん》の悪さをにじませたような気がして、リディアは「ごめんなさい」とつぶやいていた。
「この先に景色《けしき》のいいところがあるんだよ。行ったことがあるかい?」
「え、はじめてよ」
「そう。そのことはおぼえているんだね」
はっとしてリディアは口を押さえたが、エドガーは冷ややかな笑みを浮かべた。
「あの、変ね、ただはじめてだって気がしたの」
ごまかしてみるが、エドガーには納得《なっとく》した様子はなかった。そして急に身を乗り出す。
「ねえリズ、僕はね、きみのことをもっとよく知りたいんだ。たとえば、きみは本当は誰なのか」
どきりとした。リディアだと、のどまで声が出かかった。けれどエドガーは、そんなことはつゆほどにも考えなかっただろう。
これから口説《くど》こうとしているかのように、そっとリズの手を握《にぎ》る。あくまでやさしく微笑みながら。
「どうして僕の馬車の前に飛び出してきたの? 何もおぼえていないなんて言ったのはなぜ? 僕に近づいて、どうするつもりだった?」
やわらかな口調《くちょう》、それでいて彼は鋭《するど》い問いを向ける。
「誰に命令されたのかな」
「……え、命令って……」
「ユリシスに脅《おど》されてるとか?」
「ち、違うわ!」
エドガーの瞳に、一瞬強い憤《いきどお》りがよぎったのに気づき、リディアはまた失言をしたことを悟《さと》った。
「なるほど、きみはユリシスを知っている」
つかまれた手は、けっして強く握られているわけではなかったが、リディアが力を入れても少しも動かすことができなかった。
「ユリシスがリディアを連れ去ったの? 何のために?」
馬車のドア側はエドガーにふさがれている。さらに詰め寄られ、リディアはもうどうしていいかわからなかった。
わかるのは、エドガーに疑われているということだけだ。彼の婚約者を連れ去った犯人の仲間だと思われている。
「教えてくれるよね」
なだめるように頬《ほお》を撫《な》でる指は、少しでも抵抗《ていこう》すれば首をひねろうとするのだろうか。
「きみの知っていること、ぜんぶだ。怖がらなくていい、リディアが助かるなら、きみのことも助けてあげられる」
ぞくりとした。
エドガーはあきらかにリズを脅していた。何が何でもしゃべらせるつもりだ。
「違う、知らないわ、あたしは何も」
リディアは必死で首を振った。しかしエドガーの冷たい表情は少しも動かない。
「誰でも最初はそう言うんだ。でも、最初だけだよ」
「本当よ、あたしは……あなたの敵じゃない」
いつのまにか馬車は止まっていた。
自分でも肩が震《ふる》えているのがわかった。怖くて、そして悲しくてしかたがなかった。
「……お願い、わかって、エドガー! あたしが誰なのか、あなたは知ってる」
彼は眉をひそめた。
「目を閉じて、心で感じて。そしたらわかるわ。あなたがそう言ったのよ!」
リディアの反応は、エドガーにとって敵のスパイがせっぱ詰まったときの態度とは違っていたのだろう。だからかどうか、彼は考え込んだように見えた。
「あたし……逃げないわ。あなたが気づいてくれるって信じてるから。だから、少しだけ目を閉じて」
懇願《こんがん》するリディアの手をつかんだまま、彼は言われたとおりにした。
落ち着かなければと、リディアは深呼吸し、自分も目を閉じる。
エドガーの手を握り返す。そのあたたかさや大きさや、ほっそりした指を確かめれば、リディアにとってよく知っている手だとわかる。
リディアとはまるで似ていないリズ、けれどそれは見せかけだけで、手も指先も、髪も耳も唇《くちびる》も、何もかもリディアなのだから、気づいてくれるはず。
しかし、急に馬車のドアが開いた。
エドガーは我に返ったように目を開け、変わらず疑いのこもった視線をすっとそらして振り返った。
「伯爵、準備はできましたよ」
そう言った男の顔は、逆光でよく見えなかった。エドガーは、彼女を残してさっさと馬車を降りてしまう。
男はぞんざいに、降りろとリディアに命令した。
外へ出て、ようやくその男がパトリックだとわかる。けれど、どうして彼がここにいるのか、リディアには考える余裕《よゆう》もない。
エドガーに見放され、誰も助けてはくれないと思えば、心細くて立っているのがやっとだ。
郊外というにはずいぶん遠くへ来た。馬車が去ってしまえば、エドガーとパトリックのほかに人影はなく、丘を囲むような古い石垣《いしがき》が目についた。
そばには川があり、濁《にご》った水が流れていた。昨日の雨で増水したのだろう。
川に沿《そ》って、積み重なった岩の列が続いている。土に埋《う》もれ、草に覆《おお》われかけた城壁だ。その、いくらか高さの残っているところを、パトリックは見やった。
つられて見あげたリディアは、張り巡《めぐ》らされた糸に気がついた。
ふつうの人の目には見えない、妖精が紡《つむ》いだ糸だ。そしてそれが、網の目のように張られている。ということは、妖精をとらえる罠《わな》になる。
パトリックが仕掛《しか》けたのだろうか。
リディアはあわてて周囲を見まわした。ケルピーが来ていなければいい。そう思ったけれどよくわからなかった。
「こっちへ来るんだ」
パトリックは乱暴に、リズの腕を引いた。
張り巡らされた糸の方へ、崩《くず》れかけた石段をのぼっていく。少し後ろから、エドガーがついてくる。
ただでさえ足が震えているリディアに、切り立った崖《がけ》のようにも見える城壁の、ゆがんだ石段をのぼるのは難しかった。
おまけに下方の川は、濁った水音を立てている。身がすくむ。なのに、むりやりパトリックが引っぱるから、足がもつれてリディアはその場に座り込んだ。
「何をやっている、さっさと立て」
まるで罪人《ざいにん》扱いだ。くやしくて泣きそうになる。
「きみが乱暴に扱うからだ」
近づいてきたエドガーは、意外なほどやさしく、リズを助け起こしてくれた。
「伯爵、リディアさんを助けるためですよ。私だって、あえて心を鬼にしているんです」
「わかっているよ」
エドガーはため息をつきながらリズを見た。
「手に、怪我《けが》を?」
気遣《きづか》うように言うけれど、リズを心配などしていないことはわかっていた。彼の視線は、敵を見るように冷たいままだ。
「そんな怪我くらい何です? これから彼女の血で、近くに付き従《したが》ってるはずの|悪しき妖精《アンシーリーコート》をおびき寄せるんです。それに、この女自身からも色々聞き出さなきゃならない」
「なら、無駄《むだ》に怪我をさせるのは愚《おろ》かだよ。小さな傷で萎縮《いしゅく》させると、人の体は血が出にくくなる」
「だったらあなたが連れてきてください」
パトリックは先へと石段をのぼり始めた。
おい、逃げろ、今だ
そのとき、リディアの耳にケルピーの声が聞こえた。
糸から離れろ。俺はそっちに行けない
エドガーは、リズを立たせただけですぐに手を離した。彼女が逃げるなどとは考えていないのだ。
もちろん、重いドレスのまま走ったって、男の人から逃げられるものではない。けれど今なら、わずかな距離だけ彼らを振りきれば、ケルピーのところまでたどり着ける。
そうしたとしても、リズはユリシスのスパイだと思われたままエドガーのもとを去らねばならないが、血を流すような恐《おそ》ろしい目にあわずにはすむだろう。
足に力を入れて、きびすを返して駆《か》け出せばいいだけだ。
けれど、全身に力を入れたリディアは、とっさにエドガーにしがみついていた。
「……助けて、エドガー」
自分で自分が何をやっているのかわからないまま、そう言っていた。
「伯爵、何をやってるんですか!」
パトリックが苛立《いらだ》った声をあげたのは、エドガーがまるでリズを守ろうとするように肩に腕をまわしたからだ。
それにはリディアも驚くが、手を出そうとするパトリックを制しながらも、エドガーはリズにささやきかけた。
「リズ、言っただろう? 話してくれれば助けてあげられる」
エドガーは簡単に、敵に情けをかけたりしない。どんなにやさしく見えても、けっしてリズにリディアの存在を感じてくれているわけではない。
この腕はもう、彼女を守ってくれるものじゃない。
そう思うとリディアは怖かった。
チェンジリングの魔法が解けてしまうのは承知《しょうち》で、リディアだと言ってしまいたかった。けれど、それでも今のエドガーは信じてくれないかもしれない。
本当のことを言って拒否《きょひ》されるのは、本当のことを気づいてもらえないよりもずっと恐ろしい。
それに、こんなことになってしまった以上、いまさら本当のことを言えば、エドガーを苦しめることにならないだろうか。
パトリックと協力して、リズを責め立てるつもりのエドガーが本当のことを知ったら……。
「伯爵、早くしないと罠の効果が薄れます」
苛立ったパトリックは、エドガーにしがみついているリズを引き離そうとした。
「いや! エドガー……」
けれど、考えていることとはうらはらに、リディアはひたすらエドガーを離すまいとしていた。離れたくなかった。
なのにむりやり引き離される。
「助けて、お願い!」
それでもリディアは、必死でパトリックから逃《のが》れようと身をよじる。
のばした手は、宙をさまようだけだ。
無我夢中《むがむちゅう》で暴れながら、不安定な足元のことなど、思考から飛んでいた。
「やめろ、パトリック!」
そのとき、エドガーがそう言った。
戸惑ったパトリックが不意に力を抜いた瞬間、リディアは石組みの上でバランスを失う。
下方の川がちらりと視界に入ったときにはもう、足が石段から離れていた。
「リディア!」
ケルピーの声?
そうだろう。エドガーは、リズをリディアとは呼ばない。
とっさにリディアは石垣《いしがき》の間に生えた草をつかんでいたが、それで体をささえられるはずもなかった。
エドガーが石垣から身を乗り出すのがちらりと見えた。こちらへ手をのばそうとするけれど、届きそうにない。
もう、だめ。
「さよなら、エドガー……」
下方の川へ、まっすぐ落下するのに身をまかせながら、リディアはつぶやいた。
*
地の底をゆさぶるような音が、岩の洞穴《ほらあな》に響いていた。
うたた寝をしていたロタは、驚いて目をさまし、地震かと身構えた。
「何だ、この音は」
「巨人《トロー》のいびきだよ」
あきれたような声が、洞穴の片隅《かたすみ》から聞こえてきた。
「あんた、ロタ、だっけ? こんなところでよく寝てられるよな」
「あたしはどこでも寝られる」
大きくあくびをし、ロタは気づく。そこにいる赤毛の男は、たしかリディアといっしょに逃れたはずの、ファーガスとかいうやつではなかったか。
「あれ? 何であんたがここにいるんだ?」
「つかまったんだよ。おれが氏族長《しぞくちょう》の息子だから、氏族の娘を花嫁《はなよめ》に連れていくことを許せって、親父《おやじ》と取引する材料にするつもりらしい」
「えっ、じゃ、リディアは? リディアもつかまったのか?」
ロタはあわててあたりを見回すが、リディアの姿はない。ファーガスは、その方がよかったと頭をかかえた。
「彼女は……、とんでもない妖精に連れ去られた。喰《く》われてなきゃいいけど」
「なんだって?」
「あの真っ黒な馬、きっと水棲馬《ケルピー》だ。……どうしてケルピーがこんなところにいるんだか知らないけど……」
ケルピーってあのケルピーだろうか。
ロタは岩に背中をあずけてほっと息をついた。それならリディアは無事だろうからだ。
「リディアなら大丈夫だよ。フェアリードクターだからね」
「フェアリードクターだったって、水棲馬にかなうもんか! あれは|魔性の妖精《アンシーリーコート》だぞ、人間界なら対処できても、妖精界で何の準備もなく遭遇《そうぐう》すりゃ、いきなり喰われたって不思議じゃないんだ!」
息巻くファーガスを、ロタはおもしろいやつだと眺《なが》めた。
「人喰い馬でも、あのケルピーはリディアの友達なんだ」
「は? まさか。ケルピーと人間が友達になれるわけないだろ! おれならぜったい、大好物のニシンと友達になんかならないぞ!」
「その気持ちはわかるけどさ、ま、あのケルピーは変わってんのさ。それにしても、あんた、わりと妖精のこと詳《くわ》しいんだな」
くすくす笑いながら、悠長《ゆうちょう》に話を変えるロタに勢いを削《そ》がれ、ファーガスは口ごもる。
「え……、そりゃまあ、おれたちの住む島は妖精が多い土地柄《とちがら》だし、氏族長になるには連中のことも知ってなきゃならないからな」
「それにしちゃ、あんたのせいであたしはこんな目にあってるわけだけど」
「……ごめん」
素直に言って、ファーガスはまた頭を抱え込んだ。
「巨人にどうされようが、あんたは自業自得《じごうじとく》だよ。でも、リディアにはいい迷惑《めいわく》だ。これから幸せになるってのに、ぶちこわしに来やがって」
責めるというより、ロタは愚痴《ぐち》程度のつもりだった。
リディアは、妖精が見えるということをのぞけば、どこをとってもふつうの女の子だ。なのにエドガーに気に入られ、巻き込まれたことにロタは同情している。
しかしエドガーに目をつけられなくても、結局リディアは妖精がらみのトラブルと無縁ではいられないのだろう。
「はっきり言うんだな。……でも、そうだよな。彼女に婚約者がいるなんてこと、ロンドンに来るまで知らなかったし、おれ、ずっと前から彼女に会いたいと思ってたから、単純に楽しみにしてて、早く見つけて連れ帰りたいとしか考えてなかった」
「ずっと前から? リディアは母親の実家のこととか何も知らないって言ってたのに、何であんたはリディアのこと知ってるんだ。島でトラブルが起こって、はじめてリディアをさがすことになったんだろ」
「ああ、だけど、小さいころにおれ、駆け落ちしたアウローラの話を親戚《しんせき》に聞いたんだ。彼女が島で娘をもうけていたら、おれの許婚《いいなずけ》になるはずだったって知って、気になってた」
「リディアと関係ないじゃないか。彼女はカールトン教授の娘なんだ」
リディアの母が島の男と結婚していたら、その娘はリディアではない、と考えるのがふつうだ。
「そうだけど、……アウローラはすごい美人で気だてがよかったって聞いて」
「その娘なら、とりあえず美人だろうと思ったわけ?」
あきれ果てるがおかしすぎて、ロタは笑った。
「けどさー、あんただって今は別の許婚がいるんじゃないの?」
「いたけど、二年前に病気で死んだ。まだ十歳だったな。許婚って実感したことなかったよ」
つまりこいつの初恋は、会ったこともないアウローラで、リディアなのか。
許婚のことは気の毒な話だが、ロタはますますおかしくなった。
タラシにつかまったと思ったら、横から現れたのは想像だけで恋する純情くん。人を喰う馬にまで好かれているリディアは、まともな男に恵まれないのも運命なのだろうか。
「おい、巨人のいびきがやんだぞ」
ファーガスは、緊張《きんちょう》した様子であたりに耳を澄《す》ました。
ロタもそうしようとしたとき、別の音が聞こえてきた。
弦楽器《げんがっき》の低い音にも似た、空気が振動するようなその音は、ロタには聞き覚えがあった。
弓の、弦《つる》を震わせた音に似ている。
と思うと、岩壁《いわかべ》をすり抜けて、巨人がロタたちのいるところへ大股《おおまた》で踏《ふ》み込んできた。
「おい、おまえの指輪がうるさくてかなわん。どうにかしろ」
巨人はムーンストーンの指輪をロタに投げてよこした。
音は確かに、その指輪から聞こえてきていた。うなるような響《ひび》きは、まるで危険を報《しら》せるかのようだ。
ロタは胸騒《むなさわ》ぎをおぼえる。まさか、リディアの身に何かあったのではないだろうか。
しかしロタにはこの、妖精の指輪をどう扱《あつか》えばいいのかなどわからない。ファーガスをちらりと見るが、彼も不思議そうに目を見開いているだけだ。
指輪を手にし、握《にぎ》ったりなだめるように撫《な》でてみたりしたが、どうにもならない。
巨人は苛立ったらしく、身を乗り出し、ロタをにらむ。
「なぜ音がやまない。……おまえ、これの持ち主ではないな?」
まずい。ロタはあわてて指輪を握り込む。
「な、何言ってんの。あたしのだよ!」
「いいや、持ち主のいうことならきくはずだ」
巨人が杖《つえ》を振ると、ロタの指が勝手に開き、指輪が転げ落ちた。
拾った巨人は、ムーンストーンをためつすがめつ眺める。そうして杖を高くかかげる。
「指輪よ、おまえの主《あるじ》を示せ。おまえにつながる者を、この場に呼び寄せよ!」
ロタは止めようと、巨人に飛びかかったが、その瞬間、杖が発した光にはじかれた。
岩壁に背中をぶつけ、光で何も見えなくなる中、ロタはなぜか、リディアの姿だけを見ていた。
砦《とりで》のような石垣《いしがき》の上から、彼女は落ちていくところだった。
*
「リディア!」
エドガーは、落ちていくリズに向かって叫《さけ》んでいた。
とっさに、自分も川へ飛び込もうとする。
「何をするんですか、伯爵《はくしゃく》!」
パトリックが彼の腕をつかんで止めた。
「あれはリディアさんじゃありません」
その通りだと、頭ではわかっている。けれどどこか、心の深いところから、早くと急《せ》き立てる自分がいる。
早くしないと、彼女を助けないと、取り返しのつかないことになる。
「リディアは泳げないんだ」
そう口にした自分を理解できないまま、エドガーはパトリックの制止を振り切り、川へ向かって飛び込んでいた。
水はひどく濁《にご》っていた。リズの姿はもう、水面からはわからない。エドガーは彼女をさがして水中へ潜《もぐ》るが、ほとんど何も見えなかった。
あせりをおぼえるほどに、どういうわけか、リズがリディアだったという確信が強くなる。
そしてそれは、ますます彼を動揺《どうよう》させる。
気が遠くなりそうだった。
だめだ、リディアを守ると誓《ちか》った。
右だ……、もっと……
そのとき、どこからともなく聞こえた声に、考える余裕《よゆう》もなく従《したが》う。
かすかに、青いドレスがゆらめいて見える。
エドガーは必死に手をのばし、ドレスをつかむと、そこにあった体を引き寄せた。
抱きかかえ、浮上する。
思いのほか流れが速く、なかなか川岸《かわぎし》へ近づけない。
川の中ほどに突き出した岩までどうにかたどり着くと、リディアをその上に押しあげる。
人ひとり、どうにか半身を乗り上げることができる程度の岩だ。
エドガーは流されないよう岩につかまりながら、リディアに呼びかけた。
「しっかりしろ、リディア」
彼女はわずかに頭を動かした。息はある。怪我《けが》をしている様子もない。
安堵《あんど》しながら、濡《ぬ》れたブルネットの髪をよけ、彼女の頬《ほお》に手を触れた。
冷たいけれど、顔色は悪くはない。そして彼女は、うっすらと目を開く。
「僕が、わかる?」
エドガー、と唇《くちびる》がかすかに動いた。
髪の色も、顔立ちさえ違っていても、エドガーはもう、彼女がリディアだと疑わなかった。
[#挿絵(img/star ruby_175.jpg)入る]
確かめたくて唇を重ねた。彼女はほとんど反応する気力もなかったけれど、エドガーはたしかにリディアを感じていた。
口づけだけでわき起こる、しびれるようなあまい感情は、リディアにしか感じたことがない。ひかえめな糸切り歯がどうしてこんなにいとおしいのか。
「リディア」
もういちど名を呼ぶ。指にからめた髪の色が、光の加減か赤みが差したように思えた。
伯爵、よけろ!
また、どこからともなく声が聞こえた。
振り返ったエドガーの目にとまったのは、勢いよくこちらへ向かって流されてくる流木だった。
避《さ》ければリディアに当たってしまうかもしれない。
彼がその場にとどまることを選んだ瞬間、太い枝がぶつかってきた。
自分の血が、濁った水に広がるのがわかった。水中に沈《しず》んでいきながら、このまま溺《おぼ》れてしまったら、岩の上のリディアを誰が助けるのかと思い、何とかして泳ごうとしたが、どうにも体が動かなかった。
薄《うす》れる意識の中で、エドガーはつぶやく。
ケルピー、いるんだろう?
リズにつきまとっていたという|悪しき妖精《アンシーリーコート》。今となっては、リディアを見守っていた彼に違いないと感じている。
リディアを、助けてくれ。
水の流れがふと強くなり、押し流されながら、エドガーは目を閉じた。
何が変わろうと、リディアはリディアに違いないのです
カールトン教授の言葉が思い浮かんだ。
どうして、もっと早く気がつかなかったのだろう。
のどに流れ込んでくる水は、苦しい後悔《こうかい》のように彼の胸をいっぱいにした。
リズと接したときから、ずっとリディアの気配《けはい》を感じていながら、外見が違うことに惑《まど》わされていた。
リディアは何度も、彼に訴《うった》えかけていたのに。
馬車の中で、逃げないから気づいてと言った。あのときエドガーは、目を閉じて触れたリズが、リディアにしか感じられなくて戸惑《とまど》っていた。
逃げないと言ったとおり、彼女はぎりぎりの瞬間も、逃亡を試みるのではなくエドガーにすがりついた。
彼に助けを求めた。
当然だ。将来を誓った相手が目の前にいたのだから、必ず自分を守ってくれると信じたはずだ。
なのにエドガーは、リズの態度に動揺していただけだった。理屈ではなく、リディアに助けを求められているように感じていたのに、直感を信じることができなかった。
リズに同情すれば、リディアの行方《ゆくえ》を知ることができなくなる。懸命《けんめい》に、自分にそう言い聞かせた。
冷淡《れいたん》な言葉とはうらはらに、リズをかかえ込んだまま離せない自分がいたのに。
懇願《こんがん》とともにのばされた手を、取ることができなかったエドガーを前に、彼女はどんなに傷つき、失望したことだろう。
いやだ、さよならなんて言わないでくれ。
「エドガーさま!」
強くゆさぶられ、彼は目を開けた。褐色《かっしょく》の肌の少年が、こちらを覗《のぞ》き込んでいた。
レイヴンも濡れそぼっている。エドガーは彼に助けられ、川岸に引き上げられたらしかった。
「……レイヴン……、どうして、ここに」
「妖精界を抜け出すとき、エドガーさまの声が聞こえました。声を追って駆《か》け出したら、この川岸に出てきたんです」
「まったく、勝手に動いたら迷子《まいご》になりかねないってのに。レイヴンを追いかけるのに必死だったよ」
ニコが額《ひたい》の汗をぬぐうような仕草《しぐさ》をした。
レイヴンとニコが帰ってきた。ぼんやりと現状を意識する。川上に目をやれば、木々にさえぎられ、あの砦の丘が見えないくらいエドガーは流されてきたらしいとわかる。
と同時に、はっとして彼は体を起こした。
「リディアは?」
あたりを見回すが、彼女の姿がない。川面《かわも》から所々に張り出している岩の上にも、人影は見あたらない。
「リディアはどうしたんだ?」
意味がわからない様子のレイヴンと視線が合えば、エドガーは背筋《せすじ》が冷たくなった。
まさか、流されてしまったのだろうか。
立ちあがろうとすれば、胸に痛みが走ってうずくまった。
「エドガーさま、むやみに動かないでください。ひどく出血しています」
濡れたシャツに血の染《し》みが広がっている。流木がぶつかったせいだ。
だが怪我などどうでもよかった。
「離せ、レイヴン。リディアを助けないと……」
「リディアは連れ戻されちまったよ」
エドガーの前に、黒い巻き毛の男が立ちはだかった。
「ケルピー……、連れ戻されただって?」
「ああ、あんたはリディアに気づいたけど、少しばかり遅かった。ムーンストーンの指輪を持っている巨人《トロー》のやつが、魔法でリディアを呼び戻してしまったんだ」
ケルピーはそう言って、エドガーの方に何かを投げてよこした。
受け止めたものは、陶器《とうき》の人形だった。
リディアに贈った人形だ。ブルネットの髪、緑の瞳《ひとみ》、やさしげな表情はリズと重なる。
「チェンジリングの魔法で、そいつとリディアを入れ替えた。だからリディアは、その人形と似た外見になってたんだ。そうするしか、指輪を巨人に取られたリディアを人間界へ戻す方法がなかった」
リディアはどうしても、どんな姿でもエドガーのそばに戻りたがったのだと、ケルピーは不満そうにつぶやいた。
「まさかあんたが、リディアをユリシスの手先|扱《あつか》いするとは思わなかったからな」
苦いものがこみあげてくる。エドガーはケルピーをにらみつける。
「きみが迂闊《うかつ》にも、パトリックに見られたからだ。アンシーリーコートがリズを見張っていると聞けば、ユリシスしか思い浮かばなかった……」
「ああ、たしかに迂闊だった。あいつが罠《わな》を張ってたから、なかなかリディアに近づけなかった。でなきゃ、川に落ちたリディアくらいすぐ助けられたんだ」
エドガーは、濡れた金色の髪を悔《くや》し紛《まぎ》れにかきまわし、ともかく気持ちを落ち着けようとした。
リディアは巨人《トロー》とかいうものにとらえられたらしい。しかし溺れて流されたわけでないなら生きている。これはエドガーにとってかすかな救いだ。
「忠告《ちゅうこく》しておくが伯爵《はくしゃく》、トローはただの人間に手出しできる相手じゃないぞ。俺だってまともにやり合う気はない」
ケルピーは先回りしてそう言った。
「ケルピー、相手が何だろうと、僕はリディアを救い出す」
ふん、と彼が笑ったのは、あきれたというよりは、予想通りの返事だったからだろう。
「好きにすりゃいい。協力はしない。俺はリディアを見守るつもりだが、伯爵、あんたの味方はできない。わかってるだろ」
よくわかっていた。
ケルピーは、エドガーがプリンスとひとつになったことを知っているからだ。リディアを思うならエドガーとの結婚は認めたくないだろうが、ただ彼は、リディアの意志を尊重している。
「もちろん、ユリシスの役に立ってやる気もないがな」
それだけ言うと、ケルピーは一瞬で姿を消した。パトリックがこちらへ駆けつけてくるのが見えたが、残っていた気力を使い果たしたエドガーは、傷の痛みとひどい寒気に倒れ込んだ。
熱に浮かされ、いやな夢ばかり見た。
メロウの宝剣は、プリンスの影響からエドガーを守ってはくれるが、純粋《じゅんすい》な悪夢から守ってくれるわけではないらしい。
何度もエドガーは、炎《ほのお》の中にいた。
彼の両親と家屋敷と、すべてを焼いた炎の記憶は、体の熱さに呼び起こされた夢に違いない。
だが彼は、炎の中でリディアをさがしている。屋敷の間取りは隅々《すみずみ》まで、子供のころ彼が暮らしていたシルヴァンフォードの荘園邸宅《マナーハウス》だったけれど、必死になってリディアをさがす。
水の中で失ったはずのリディアが、火の中にいるはずはないというのに、さがし続ける。
体が焼けるようだ。
リディアはどこにもいない。
ああそうだ。さよならと告げられたのだった。
結局エドガーは、リディアのことを一方的に求めて、一方的に拒絶《きょぜつ》して、おまけに怖い思いをさせてしまった。去ってしまうのも当然かもしれない。
けれど、リディアがいなくては生きていけない。
だから願う。彼女を取り戻せないなら、このまま炎に焼かれたい。
そう思っても、のどの渇《かわ》きをおぼえ、エドガーは目をさます。
夜明け間際《まぎわ》なのか、わずかな灰色の光が、カーテンを透《す》かして部屋の中に薄く漂《ただよ》っている。ベッドサイドのテーブルにあったグラスを取り、体が欲しがるままに水を飲み干せば、どうやらまだ死にそうにないらしいとあきれ果てる。
渇きはおさまらず、さらに水差しに手をのばすが、胸の傷が痛んでうずくまりかけた彼は、危《あや》うく水差しを倒しそうになった。
さっと手を差し出す者がいた。
水差しを取って、新たに水を注いだグラスをエドガーに手渡す。
「レイヴン……、いたのか」
黙《だま》ったまま、彼は頷《うなず》いた。
「寝てないのか?」
「眠れそうにありませんので」
「休んだ方がいい。おまえだって、長いこととらわれていて、疲れてるだろう」
「妖精界ではそれほど時間は経《た》っていなかったのです」
そういえば、時間の流れ方が違うのだったっけ。
エドガーはそういう初歩的なこともよくわかっていない自分に苦笑した。
「……疲れていないなら、話してくれ。何が起こったのか。ムーンストーンの指輪でリディアを連れ去ったというトローって何だ?」
寝ている場合ではないのだ。さっさと事態を把握《はあく》して、対策を考えなければならないのに、熱のせいで朦朧《もうろう》と過ごしてしまった時間が惜《お》しかった。
「エドガーさま、深い傷ではありませんが、肋骨《ろっこつ》にひびが入っているそうです。一週間は安静にと侍医《じい》はおっしゃいました」
「僕はずいぶん眠っていただろう?」
「まだ十七時間です」
「じゅうぶんだよ、レイヴン。医者ってのは自分の仕事がいかに重大か大げさに言うんだ」
二杯目《にはいめ》の水を飲み干したエドガーは、相変わらず熱と傷にさいなまれていたが、ベッドの上で体を起こした。
レイヴンはガウンを取って、エドガーの肩に掛けると、立ったままで話し始めた。
ハイランドの島々に起こっている異変は、そこに棲《す》む妖精族にも悪影響をもたらしている。ファーガスの氏族《クラン》とは旧知の、太陽の巨人族と呼ばれている巨人《トロー》のひとりが、マッキール家の予言者の許婚《いいなずけ》を自分たちの花嫁《はなよめ》にしようと追ってきたらしい。
しかしその巨人は、妖精の魔力《まりょく》に馴染《なじ》んだ人間の娘が誰だかわからず、とりあえずレイヴンとニコは、ロタだと思い込ませることにした。
その間に、リディアはケルピーの力を借りて、チェンジリングの魔法でエドガーのそばにいようと努めたようだった。
しかし巨人は、ムーンストーンを利用して、リディアを連れ戻してしまった。もはやリディアこそが目当ての娘だと知られてしまったことだろう。
リディアやロタをとらえたまま、巨人は今はまだ妖精界でも浅いところ≠ノいるはずだという。自分の国へ帰るには、道が開けるまで数日かかるようなことを言っていたそうだが、それがこちら側でどのくらいの時間になるのかよくわからない。
それに、今なら相手にすべき巨人はひとりだけだが、彼らの国には大勢の巨人族がいるのだろうし、リディアを取り戻すことはますます難しくなりそうだ。
急がねばならないが、どうやって妖精界の巨人のもとへ行くのか、人間にはどうにもできないとケルピーが忠告した相手にどうするのか、そこから考えなければはじまらない。
巨人を目《ま》の当たりにしたレイヴンも、次から次へと魔術を使う巨人は、人間の武器などでは歯が立たないと言うくらいだ。
「パトリックは、何か言っていたか? ファーガスは巨人につかまっているわけだろう?」
「はい。ミスター・マッキールの状況を伝えましたが、できることは何もないとおっしゃっておりました」
「氏族長《しぞくちょう》の息子を見捨てる気なのか」
「そもそも彼らは巨人族とは旧知ですから、あの妖精がマッキールを傷つけることはないと思っているようです。……憶測《おくそく》ですが、リディアさんはマッキール家が定めた予言者の許婚、巨人はそんな彼女を欲しがっているわけですから、ファーガス・マッキールは取引しだいで氏族長のもとへ帰されるのではないでしょうか」
「つまり、リディアを巨人にくれてやると約束すれば、ファーガスは帰されると?」
エドガーはあまりのことに憤《いきどお》り、グラスを壁に投げつけた。
「勝手な話だ。もしもそんなことになったら……」
続く言葉を飲み込んだのは、あのパトリックにこそぶつけてやるべきだと思ったからだ。
「結局、ファーガスとパトリック、あのふたりがリディアに目をつけたせいで起こったことなのか」
しかし引っかかる。ケルピーは、ユリシスの役に立つ気もないとわざわざ吐《は》き捨てていった。巨人のこととユリシスとは関係があるのだろうか。
ケルピーは、どうしてリディアが巨人にねらわれていると知ったのか。
「レイヴン、今度のことに、ユリシスの影は感じなかったか?」
エドガーが問うと、レイヴンは神妙《しんみょう》に頷いた。
「エドガーさま、私は巨人に追われたとき、姉に助けられました」
「アーミンに?」
その名を口にすれば、どうしても胸が痛む。
エドガーにとっていつでも、誰より幸せになってほしい女性だった。恋人が何人いても、けっして恋人とは呼べない彼女をいちばんに考えてきた。
リディアに出会うまでは。
誰よりもリディアがとくべつな存在になってしまったエドガーは、主人としてでもアーミンを守ってやることはもうできないのだと気づき、彼女とは決別《けつべつ》した。
レイヴンは、たとえアーミンが敵であろうとも弟に違いない。けれどエドガーは、もはや彼女とは何のつながりもない。
ユリシスに従《したが》っている彼女がどういう考えでいるのか知らないけれど、リディアを守るためには警戒《けいかい》すべき相手なのはたしかだった。
「アーミンは、おまえが妖精界をさまよっていることを知っていたわけだ」
「いろんなことを知っている様子でした。話してはくれませんでしたが、ひとつだけ、できるならエドガーさまを巨人に近づけるなと言いました」
「僕を、巨人に?」
アーミンはそうなる可能性を知っていた。
リディアが巨人にねらわれていることを知っていて、エドガーが後先《あとさき》かえりみず出ていくに違いないと思ったということだ。
エドガーは、慎重《しんちょう》に考えをめぐらせる。
「ユリシスのねらいは何だ?」
問うまでもない。エドガーをプリンスにすることだ。彼らには、英国の王位継承者《おういけいしょうしゃ》たる王子《プリンス》が必要なのだから。
巨人に近づくなとアーミンは言う。
近づけば何が起こるのか。アーミンは誰のために忠告したのか。
レイヴンのためだとしたら、エドガーが巨人に近づくことは、ユリシスを利《り》することになる。エドガーの中の、プリンスの記憶に何らかの影響があるのかもしれない。
「ユリシスは、ファーガスたちの動きや目的を知っている。巨人族の事情も知っている。僕が巨人と対立するのが彼にとって好都合なら、ひょっとすると、巨人にリディアのことを吹き込んだかもしれない」
「はい」
リディアを利用されてたまるか。
頭に血がのぼればくらくらした。
倒れ込むように、またベッドに横たわったエドガーは、頭痛と傷の痛みに顔をしかめた。
「痛み止めをお持ちしましょうか」
淡々《たんたん》とレイヴンは言うが、突っ立ったまま動かないのは、エドガーがあまりにも苦しそうでうろたえているのだろう。
「それは、心の痛みにも効くのか?」
困ったように彼は首を傾《かし》げる。
「なあレイヴン、リディアはずっとそばにいてくれた。自分から僕に抱きついて、はじめて、僕を好きだと言ってくれた。なのに、彼女がリディアだと気づかなかったなんて、考えるだけで、死にそうに苦しいんだ」
傷も熱も、これにくらべれば虫さされくらいのものだ。
リディアを救い出す、どんなに難しいとしても、いくつも危機を切り抜けてきたエドガーは、方法はあるはずだと思っている。けれどそれが成功したとき、リディアがどんな目で彼を見るのか、何よりそれが不安だった。
「リディアは、僕を許してくれるだろうか」
ずいぶん考えていた様子のレイヴンは、何やら思いついたらしくその場から一歩|踏《ふ》み出した。
「大丈夫です、エドガーさま。きちんと詫《わ》びれば、ニコさんは私を許してくれました」
関係があるのかどうかよくわからなかったが、エドガーはなんとなく元気づけられたような気がして口元をゆるめた。
まだ、戦える。戦いは続いている。
ユリシスにとって、エドガーはプリンスという駒《こま》なのだ。エドガーの周囲の人間も、駒を動かすための道具でしかない。
だが思い通りになどさせるものか。利用しようとするなら、逆にそれを利用してやる。
「レイヴン、もうすぐ夜明けかな」
「はい」
「一時間後に起こしてくれ。それから、パトリックに会う。彼をたたき起こして連れてくるように」
「わかりました」
レイヴンが出ていく足音を聞きながら、エドガーは目を閉じた。
[#改ページ]
青い騎士と赤い騎士
「リディア、しっかりしろ」
声が聞こえた。
エドガー?
あたしのこと、気づいてくれたの?
リディアは必死になって目を開けようとする。かすかに感じた光を逃《のが》すまいとしながら、重いまぶたをどうにか持ちあげる。
ぼやけた人影がこちらを覗《のぞ》き込んでいる。
エドガー、じゃない。女の子だ。
「……ロタ……?」
「リディア! よかった、生きてた」
ロタに抱きしめられたリディアは、かすんだ目が少しずつ見えるようになってくると、四方を岩に囲まれた空洞《くうどう》のようなところにいるのに気がついた。
川などどこにもない。なのに彼女はぐっしょりと濡《ぬ》れている。
「あたし、どうしてここに……」
「巨人が魔法を使ったんだ。水といっしょにあんたが流れ込んできてびっくりしたよ」
巨人《トロー》が。リディアは視線を動かす。
ロタの後ろで、心配そうに覗き込んでいるのはファーガスだ。それからふと頭上に影を感じ、上を向いたとたん、髭《ひげ》に覆《おお》われた大男が視界に入った。
巨人がムーンストーンの指輪を使って、リディアをここへ引き戻してしまったようだった。
同時に、結局エドガーにはわかってもらえないまま離れてしまったのだと思うと、リディアは泣きたくなるのをこらえねばならなかった。
彼に名を呼ばれたような気がしたのも、口づけも幻《まぼろし》なら、リディアが最後につぶやいたさよならの言葉だけが、現実としてのしかかる。
「ごめんなさい、ロタ。あたし、助けを呼んでこられなかったわ」
「そんなこといいんだ。どうせエドガーにどうにかできる相手じゃないんだろ」
だとしても、こんなふうに連れ戻されては、巨人と取引すらできない。
うなだれるリディアに、頭上から巨人の声が降ってきた。
「間違いなくおまえの指輪だな。ではおまえが我《わ》が一族の花嫁《はなよめ》だ」
ムーンストーンの指輪を示してみせる。リディアが手をのばそうとすると、さっとそれを引っ込めた。
「これは我《われ》らの国へ入るまであずかっておく」
逃げられないように、ということだ。
巨人はそれだけ言うときびすを返す。リディアは濡れたドレスに寒気を感じ、小さなくしゃみをした。
「おい、このままじゃリディアが風邪《かぜ》をひいてしまう。なんとかしてくれ。あんたら、彼女に何かあったら困るんだろ」
ロタの言葉に少しだけ振り返ったトローは、かすかに頷《うなず》くと、杖《つえ》を一振りした。
全身ぐっしょり濡れていたはずのリディアだが、髪の毛のしずくまで一瞬にして乾く。
「便利なやつだよな」
ファーガスがつぶやいた。
巨人が岩壁《いわかべ》を杖で触れると、黒っぽい穴が開く。彼はそこを通り抜けて出ていこうとしている。リディアはそれを盗《ぬす》み見ながら、この岩の中に取り残されれば抜け出すチャンスはまずないだろうと素早く考えていた。
「トロー、待って」
呼び止めながら、言うべきことをさがした。
「ええと、噂《うわさ》には聞いてたけど、本当に巨人族ってすばらしい魔法の使い手なのね」
ともかく彼女はにっこり微笑《ほほえ》む。
妖精たちはたいてい、自尊心《じそんしん》が強い。彼らが悪さをしないようおだてておくために、人は昔から妖精のことを|善き隣人《グッド・ピープル》≠ニか|良家の方《ザ・ジェントリー》≠ニかいうふうに呼んだ。
巨人だって、おだてておいて悪いことはないはずだ。
案《あん》の定《じょう》、巨人は「当然だ」と言いながら、さらなるほめ言葉を期待するように足を止めた。
「ね、トローさん、あたしちょうど、川で溺《おぼ》れかけてたの。あなたが魔法で連れ戻してくれなかったら、きっと死んでたわ。だからあなたには感謝してる」
巨人は満足げに頷《うなず》く。
このままこちらを信用させなければと、リディアはかわいらしく両手を組み合わせてみたりする。
「巨人族の花嫁になれるなんて、光栄だわ」
さすがにロタが、不安そうにリディアをつついた。
何を言い出すんだよ、と彼女はささやく。
大丈夫、とリディアは手振りでロタを押しとどめながら、巨人の方に向き直った。
「ステキなトローさん、あなたのステキな魔法を、もっと見せてくれないかしら。きっと、人間には信じられないようなことができるんでしょう?」
「何だってできる」
「たとえば、小さな豆になれる?」
古典的な駆《か》け引きだが、それしか思いつかなかった。
「豆だと?」
「あの、えっと、無理……かしらね。あなたみたいに大きな体が、小さな豆にってのは、いくらトローさんでも、ね」
こちらの意図《いと》に気づかれて、怒り出さないかとおびえながら、リディアは引きつった笑《え》みを浮かべ、じりじり後ずさった。
ロタもリディアの考えに気づいたのか、息をのんで見守っている。
「何だってできると言っただろう」
巨人は杖を振った。とたん、その大きな姿が消え、彼が立っていた場所にエンドウ豆がひとつ転がっていた。
「おい、ファーガス、今だ。あれを食っちまえ」
ロタが声をひそめてファーガスに指図《さしず》する。彼はびっくりした顔で彼女を見た。
「お、おれが? いやだよ、巨人《トロー》なんか食えないよ」
「豆だろ。昔話じゃ、食ってしまってハッピーエンドって落ちだ」
「いやだって、ならあんたが食えよ」
切り返されて、むっと口ごもったロタも食べるのはいやだと思ったに違いなかった。
「どうだ、驚いたか」
得意げな声が、豆粒から発せられる。
リディアはあせった。
「えっ、ええ、驚いたわ。すごいのね」
リディアの後ろで、ロタは声をひそめながらもファーガスにまた言い返した。
「あんた、それでも男かよ。ここでリディアにいいとこのひとつも見せられないんじゃ、エドガーに勝ち目はないね!」
「あれ食って、腹こわして死んだらどうしてくれる。勝ち目もクソもないだろ!」
「何をごちゃごちゃ言っている」
「いえっ、みんな感動してるのよ!」
ロタとファーガスはあわてて黙《だま》ったが、しゃべりながら微妙《びみょう》に動く豆では、食べる気はおろか、近づくにも勇気が必要だった。
「でもトローさん、豆はしゃべったり動いたりしないのよ。本当の豆みたいに、何があってもじっとしていられるなら、あたしたちもっと感動するわ」
リディアはそう言ってみる。
なるほど、とつぶやいて、エンドウ豆は動かなくなった。
そっと近づいていったリディアは、豆粒をつまみあげた。本物の豆と何ら変わらない。
「やめとけ、リディア。ファーガスにやらせろ。あたしたちがこうなったもともとの原因は、こいつなんだからな」
非情《ひじょう》なロタに押さえつけられかけ、ファーガスは抵抗《ていこう》している。
さすがにリディア自身も、食べるのはためらわれた。
しかし、いつまで巨人がじっとしていてくれるかはわからない。
あたりを見回し、岩壁の隙間《すきま》に目をとめる。
リディアはそこに豆を転がし込むと、急いで巨人の杖を拾った。
「とにかく、逃げましょう」
「あれでやつは動けなくなったのか?」
「わからないわ。少しの時間|稼《かせ》ぎにしかならないかも」
杖の先で岩壁に触れれば、出入り口が開く。
三人はそこから抜け出す。
外に出れば、野原が広がっていた。背後《はいご》には大きな岩がひとつ転がっていて、自分たちはその中に閉じこめられていたのだとわかる。
それから彼らは、いっせいに駆け出した。野原の端《はし》にちらりと見えた森へ、身を隠《かく》すために本能的に向かっていた。
森の入り口へたどり着こうというときだった。大きな音が聞こえ、地面が震動《しんどう》した。
驚いて振り返ると、閉じこめられていた岩があった辺《あた》りから、火山が噴火《ふんか》でもしたようにもうもうと土煙《つちけむり》が上がっていた。
「巨人のやつ、岩を破裂《はれつ》させてあの亀裂《きれつ》から出てきたんじゃ……」
ファーガスがつぶやき、体を震《ふる》わせた。
「食わなくてよかったな」
あっさりそう言うロタに、苦々《にがにが》しい視線を彼は送った。
「杖が、巨人を呼び寄せてしまうわ」
リディアは、手にした杖が低くうなるのを感じていた。こちらの居場所がわかってしまう。
森の奥へと逃げ込みながら、リディアがさがしたのはナナカマドの木だ。
ようやくそれを見つけると、杖を幹に立てかける。
杖のうなりがやんだのは、ナナカマドは強い魔よけの力を持つからだった。
「これで巨人が杖を見つけるのも、少しは時間がかかると思うわ」
「でもリディア、あいつが杖を手にしたら、またムーンストーンの指輪であんたを連れ戻すことができるんじゃないのか?」
その通りだ。けれど、ロタとファーガスはうまくすれば人間界へ戻れるだろう。
「ねえ、そういえばニコとレイヴンはどうなったの?」
「ああ、ふたりだけ先に逃げ出せた。助けを呼んでくるってあたしを残していったけど」
ニコがいっしょなら、レイヴンは人間界へ戻れたかもしれない。けれど、助けは期待できない。
ニコはリディア以外の人間を妖精界へ導くことはできないのだ。
でも、とリディアは前向きに考えようと努める。エドガーはパトリックと協力していた。フェアリードクターの彼なら、何かできるかもしれない。
そして、もしもエドガーが助けに来てくれれば、リディアにとってムーンストーン以上のつながりだ。巨人に連れ戻されずにすむ。
エドガーに会いたい。リディアは純粋《じゅんすい》にそう思った。リズとしてではなく、ちゃんとリディアとして会いたい。
フィアンセとして、恋人として。
もう会えないかもしれない、そういう思いに駆《か》られている今は、ひたすら彼が恋しくて、リディアはつらかったことなど忘れていた。
「さあ、できるだけ遠くへ行きましょう」
ナナカマドの木から離れ、三人はまた森の中を走り出した。
*
エドガーは身支度《みじたく》を整え、屋敷の小サロンでパトリックを迎《むか》えた。
むりやりレイヴンにたたき起こされ、ホテルから拉致《らち》されてきたのだろうパトリックは、乱れた髪の毛のままネクタイもせず、かろうじて上着を羽織《はお》ってきた様子だ。
それを本人も不愉快《ふゆかい》に感じているのか、顔つきはあからさまにむっつりしていた。
「このような格好《かっこう》でお目にかかる無礼《ぶれい》をお許しください、伯爵《はくしゃく》。なにぶん、支度をする時間がありませんでしたので」
開口《かいこう》一番、嫌味《いやみ》が飛び出すが、エドガーは椅子《いす》に座ったまま完璧《かんぺき》に微笑んだ。
「気にしなくていい。僕はきみに用があるのであって、きみの衣服と話をするつもりではないからね」
「昨日倒れられた割には、ご加減がよろしいようで」
「そうでもないよ。だからよけいなおしゃべりをする気はない。さっそくだけれど、いくつか聞きたいことがある」
「座らせていただいてもよろしいですか?」
エドガーが手振りで許可すると、パトリックは手前の椅子に腰をおろした。
「質問の前に言っておく。リディアが連れ去られたのはきみたちの責任だとはっきりした。マッキール家とは縁《えん》が切れているはずのカールトン嬢《じょう》を、自分たちの都合で一族の一員にしようとしたうえに、知り合いの巨人族にそのことを知られてしまったからだ」
巨人にリディアの存在を吹き込んだのがユリシスの組織だとしても、エドガーはともかくパトリックを糾弾《きゅうだん》しないことには気がおさまらなかった。
「彼女を取り戻すために、最善を尽《つ》くしてもらおう。それから、もしもきみたちがまだ、チャンスさえあればリディアを予言者の許婚《いいなずけ》にしたいと思っているなら、今すぐそんな考えは捨てるべきだ。いいね」
パトリックは、イエスともノーとも答えなかった。
「よけいなおしゃべりをされるつもりはなかったのでは?」
「これは重要なことだよ。きみはこれから、僕がいかに憤《いきどお》っているかを心に留《とど》めておくべきだ。でなければ、二度とハイランドの土は踏《ふ》めないと思った方がいい」
エドガーは返事を必要とはしていなかった。今のところパトリックには、エドガーに逆《さか》らう気持ちはないだろう。ただエドガーにとっては、彼に協力を求めるのではなく従《したが》わせることが重要だった。
この男に借りをつくるわけにはいかないからだ。
「ではまず訊《き》きたい。巨人からリディアを取り戻す方法は?」
「ありません」
「まるでないことはないだろう」
「太陽の巨人族は死にませんから」
「ぜったいに?」
エドガーはしばしパトリックとにらみ合ったが、やがて向こうは折れたように口を開いた。
「伝説では、例外がひとつだけ語られています。遠い昔、彼らがまだ神々と呼ばれていたころ、とある賢者がこう言ったとか。太陽の巨人はけっして死なない。海が太陽を、三たび飲み込んだときをのぞいては≠ニ」
「海が太陽を……。それは日没《にちぼつ》のことじゃないのか?」
パトリックは注意深く頷《うなず》く。
「昔は、彼らが日没をふせごうと太陽をかかえ上げているために白夜《びゃくや》が生じると信じられていました。言い伝えにすぎませんが、彼らの魔力《まりょく》が太陽の動きとかかわっているのはたしかでしょう。一般に巨人族は、陽《ひ》の光を浴びると石と化すなどといわれているものが多いのですが、太陽の巨人族は夕暮れを忌避《きひ》します。魔力が弱まるのです」
「ではそのときになら、リディアを奪《うば》い返せるかもしれないんだね」
結論を急ぐエドガーを戒《いまし》めるように、パトリックは大きく首を横に振った。
「あくまで彼らの魔力がいくぶん弱まるというだけです。島での日没は、最も昼間の長い夏至《げし》だろうと必ずやってきますが、巨人族は死んだりしません。解釈《かいしゃく》の要《かなめ》は、三たび≠ニいうところでしょうが、つまり言い伝えの意味はよくわからないのです。いったい何によって、巨人が死ぬというのか」
とはいえ、倒すことがまったく不可能というわけではない。エドガーにとっては希望だったが、パトリックはそんなエドガーに釘《くぎ》をさそうとしたようだ。
「伯爵、ほとんどの妖精は、まず死んだりしません。たとえ姿を失い消えたとしても、雲のようにどこかにまた現れ雨を降らすのです。一方で死は、彼らを形作っている魔力を他者に完全に取り込まれてしまうこと。そのようなことが、あなたにできますか?」
「きみはどうだ?」
エドガーは切り返した。
「フェアリードクターなのだろう? 妖精の魔力に通じる能力がある」
まさか、と驚きを込めてつぶやき、彼はおぞましいことを問われたという不快感もあらわに眉《まゆ》をひそめた。
「私は|善良な妖精《シーリーコート》に分け与えられた力しか持っていません。妖精を殺すような力は、そんなものがあるとしても、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の部類だとしか思えませんね」
リディアもそうなのだろう。
善良なフェアリードクター。だからこそエドガーにとって希望の光になった。けれど、呪《のろ》われたプリンスの核心を受け継いでいる自分は穢《けが》れている。
プリンスは、ユリシスが操《あやつ》るアンシーリーコートの主人でもあった。
エドガーもそうなるかもしれないとしたら、このパトリックのように、リディアも彼のことをおぞましいと感じるのだろうか。
「シーリーコートは人間に好意的で、不思議な力を与えてくれることもあります。けれどアンシーリーコートの魔力を人間が知ることは難しい。与えてくれることはまずないですし、人は、そんな恐《おそ》ろしいものにたえられるでしょうか?」
パトリックは知らないのだ。人は、ときにはとんでもなく恐ろしいものになれる。アンシーリーコートよりも、悪魔よりも。エドガーはそう思っている。
ひょっとすると、自分もそういう種類の人間かもしれない。
プリンスは、死に際《ぎわ》に言った。いずれエドガーは、プリンス≠ニしての地位を自ら欲《ほっ》するだろうと。
ありえない。エドガーはこの先、何があっても青騎士伯爵として生きるつもりだ。
その一方で、リディアを救うためなら青騎士伯爵の名さえ捨てるのではないかと思う自分がいる。
あるいは、ユリシスのねらいは……。
エドガーをプリンス≠ノするために、そこに付け入ろうとしているとしたら。
まだ熱が引かない頭は、考えたくないことを考えようとすればくらくらした。
「……たえられるかどうかはともかく、方法はあるのか?」
それでもエドガーは、話の核心に向き合おうとした。
「は?」
「アンシーリーコートの魔力を知る方法は」
苦笑《にがわら》いを浮かべたパトリックは、エドガーの無知を笑ったのだ。
妖精に通じる能力のない、名前だけの青騎士伯爵が興味本位で踏み込めるほど、妖精の世界はやさしくはないと。
「妖精の肉を味わってみますか? 正確には、彼らに肉体はないので養分《フォイゾン》です。妖精の魔力を取り込むことができるといいますが、本当かどうかは存じません」
そのとき、エドガーの脳裏《のうり》に、ひとつの場面がひらめいた。
るつぼの中にうごめく、虫のような何か。立ちのぼる煙からしたたる黒い体液。錬金術《れんきんじゅつ》の実験でもしているかのような、奇妙《きみょう》な施設は、プリンスの記憶が見せる悪夢だろうか。
と思った瞬間、胸が悪くなるような腐臭《ふしゅう》を感じた。匂《にお》いだけで、冷や汗が吹き出す。全身がしびれるような気さえする。
これはプリンスの記憶だ。最初の、災《わざわ》いの王子が体験したこと。他人の身に起こったことにすぎない。
けれどそれは、エドガーに教える。五感に働きかけて、追《つい》体験させる。その忌《い》まわしい記憶を新しい体におぼえさせようとするように。
「エドガーさま?」
黙って部屋の隅《すみ》に立っていたレイヴンが、異変を察して彼に呼びかけた。
吐《は》き気と悪寒《おかん》、めまいが一気に襲《おそ》ってきて、エドガーはもう声も出せなかった。
(|ご主人さま《マイ・ロード》、アンシーリーコートとのつながりを望みましたね?)
アローの声がした。
(あなたが望めば、たとえ悪いものでも私は退《しりぞ》けることができなくなるのです)
全身がだるくて、目を開けることができなかった。それでも不思議と頭は冴《さ》えている。
エドガーは眠っているわけではなかったが、アローの声ははっきりと聞こえた。
(あなたの中にある異物は、知りたいことを教えてはくれるでしょうが、ひとつ知ればひとつ、あなたは別人の記憶と融合《ゆうごう》していくことになります)
アローの言うように、エドガーは知った。自分の中、そしてプリンスの記憶の中に、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力に通じるための、重要な情報があるということを。
妖精の肉を食えばいいとパトリックは言った。プリンスは、おそらくそうしたのだ。
あの実験室のようなところで、彼らは妖精の養分《フォイゾン》を抽出《ちゅうしゅつ》したのだろう。そして、プリンスはそれを飲んだ。
そうやって、人でありながらアンシーリーコートの魔力を操る、災いの王子になった。
けれどエドガーはまだ、彼らが行ったことを知っただけだ。魔力を扱《あつか》う能力を得たわけではない。
それを得るためには、あのおぞましい養分を飲み込んだ後の、プリンスの記憶を取り出さねばならない。
アンシーリーコートの魔力を知れば、リディアを救う可能性が開けるのだろうか。
だとしたら、エドガーは知ることを厭《いと》うつもりはなかった。
傷つけてしまったリディア。これ以上つらい思いをさせたくない。
無茶を言って彼女を求めたせいで、泣かせてしまった。なのに、そばにいてほしいと望んだ彼のために、チェンジリングをしてまでも戻ってきてくれた。
ユリシスの手先かと疑う彼を前にしてさえ、ぎりぎりまで信じようとしてくれた。
だから、エドガーがあきらめるわけにはいかないのだ。
「アロー、しばらく消えていてくれ」
ユリシスは、巨人とエドガーを戦わせようとしている。だとしたら、巨人を倒す方法は必ずエドガーの中にある。
彼の中の、プリンスの記憶が知っているはずだ。
(マイ・ロード、無謀《むぼう》なかたですね)
あきれながらも、アローは消えた。
目を閉じたまま、重苦しい眠りに引き込まれるのを感じながら、エドガーは決意を固める。
利用しようというなら、利用してやる。
ユリシスのねらい通り、エドガーはプリンスに少し近づくことになるだろう。けれどもユリシスは、エドガーのすべてを知っているわけではない。
リディアのためならどれほど強くなれるかということも、ユリシスは知らない。
たとえプリンスの記憶に触れたとしても、リディアがいればエドガーは、必ず自分自身に踏みとどまれる。
証明して見せてやる。
妖精の養分は、生まれたばかりの赤子《あかご》の口に流し込まれた。
その赤子は、まだこの世の何も知らないうちに、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力の秘密を知った。
それがどんなものか、理屈で理解したわけではない。ただ手足を動かすように、考えるまでもなく知っているという感覚だった。
養分を飲み込んだわけではないエドガーは、プリンスが知ったことをそのまま知るだけだ。
何を知ったのか、自分でもよくわからないまま、夢の続きを見ている。
異形《いぎょう》の妖精たちが、いつのまにかエドガーを取り巻いている。そのおぞましい存在に、本能的な恐怖感をおぼえると、エドガーはあとずさった。
ズキンガラスが二羽、頭上を舞っている。そしてひと声高く鳴く。異形の妖精たちはいっせいにひれ伏《ふ》す。
殿下《ユア・ハイネス》
王子《プリンス》に対する敬称《けいしょう》で呼んだのはズキンガラスか。
あなたが王になられたなら、我《われ》らの願いをかなえてくださいますか
約束してくださるなら、あなたのもとに集《つど》いましょう
プリンスは約束を交わしたのだろうか。自分が英国の王位につく、その戦力を得る代わりに、アンシーリーコートの要求を呑《の》んだのだろうか。
エドガーが黙《だま》っていると、返事を促《うなが》すように妖精たちがじりじりと動き、輪を縮めた。
この先何が起こるのか、知りたいような気がした。プリンスのすべてを知れば、もっと戦いやすくなるのではないか。
巨人のことだって、ユリシスが知っているということはプリンスも知っていたはずだ。
プリンスが人間の世界で何を目論《もくろ》んできたかはわかりつつあっても、妖精とのかかわりや、妖精界で起こってきたこと、これから起こるかもしれないことは、まだエドガーは把握《はあく》できていない。
ちらりとそんなふうに考えたとき、青い光が宙を横切った。
ズキンガラスが悲鳴をあげて飛びすさる。
青白く輝く宝剣が、エドガーの前に現れると、十字架《じゅうじか》のように、まっすぐ地面に突き立っていた。
(知りたいことは手に入れたはず。これ以上、記憶と同化するのは危険ですよ)
「……アロー」
(その記憶は、触れれば単に知るだけでなく、あなたの血肉になるのです)
エドガーは剣をつかんだ。
宝剣の魔力が、自分とひとつになるかのように感じた。はじめての感覚だった。
けれど、エドガーの中にあるのはアンシーリーコートの魔力だ。
宝剣は、その力と呼応するように、ゆるりと光の色を変える。
サファイアがルビーに変わる。
その赤い光に、妖精たちがざわめいた。
考えるよりも、剣を振る。手前にいた妖精たちを、切《き》っ先《さき》が二つに裂《さ》く。
異形の妖精が散ったその向こうに、エドガーは人影を見つける。
スターサファイアの宝剣を握《にぎ》りしめ、驚いたようにこちらを見ている。
エドガーも驚く。それは自分自身だった。
いつかの夢と同じ。ルビーとサファイア、それぞれの剣を手に向かい合うのはどちらも自分だ。
本当の自分がどちらなのか、エドガーはわからなくなりながら、二つの剣が同時にこちらに斬《き》りかかってくるように感じ、やめろと声をあげた。
(お気をつけください。それが、メロウの宝剣に封じられている力です)
気がつけば、闇の中に、エドガーはひとり取り残されていた。
(あなたは、宝剣が持つ本来の力、|善き妖精《シーリーコート》の魔力を扱うことはできないまま、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の力を扱うのです。どういうことになるのか、私にも予想ができません)
アローの声だけが聞こえる。
「サファイアが赤く輝くとき、この宝剣は妖精を殺すことができるんだな?」
(悪《あ》しき妖精も善《よ》き妖精も関係なく、妖精という存在を切り裂く力。もともとこの剣は、それゆえに妖精族に恐れられた剣でした。最初の伯爵《はくしゃく》、青騎士卿と呼ばれた人物は、英国王に忠誠《ちゅうせい》を誓《ちか》うことで、王が持っていたその剣によって自分の領地が脅《おびや》かされることをふせいだのです。英国王は、剣を伯爵に譲《ゆず》り渡し、彼の土地と臣下《しんか》としての地位を保証しました)
「剣を得た青騎士卿が、妖精たちのために危険な力を封《ふう》じたのか」
(サファイアに星を、つまり私を刻み込むことで、剣を青騎士伯爵のみに属するものとしました。青騎士伯爵は、アンシーリーコートの魔力を持たない。そうであるかぎり、宝剣の赤い力はよみがえることはない。そのはずでした)
しかしエドガーは、宝剣の主人でありながら、悪しき妖精の力に通じた。本物の青騎士伯爵ではないまま剣を得たゆえに、アローにも先の読めない事態になった。
「おまえの矢の力は、妖精を消し去った。宝剣の赤い力と何が違うというんだ?」
(私はボウとともに、アンシーリーコートの魔力《まりょく》を浄化《じょうか》することができるのみです。浄化はすなわち、魔力を均《なら》し自然に帰すこと。妖精を殺すわけではありません。けれど、宝剣に秘められたルビーは、斬った妖精を完全に取り込み、この世界から消滅させます。妖精は、二度とよみがえることはできません)
「……太陽の巨人は? 宝剣の封印《ふういん》を解けば、斬ることができるのか?」
(封印は解かぬがよろしいでしょう。解放してしまったら、もはや誰にも封じることはできません)
その先いつか、たった今夢で見ていたように、自分で自分を葬《ほうむ》ることになるのだろうか。
「できるのか?」
それでもエドガーは問う。
アローが返事を渋《しぶ》るような間があった。
(伝説に込められた意味を解かねば、巨人を殺すことはできません)
こんな主人にはつきあいきれないと思っているのかもしれない。アローは逃げるように気配《けはい》を消し、エドガーは眠りから抜け出してまぶたを開いた。
「エドガーさま」
レイヴンが食い入るようにこちらを覗《のぞ》き込んでいた。顔つきは冷静そのものだが、ずいぶん心配させてしまったのだろう。
エドガーはサロンのソファに寝かされていた。気を失ってから、それほど時間は経《た》っていないようだった。
「ああ……レイヴン、僕は、倒れたのか?」
「はい」
「パトリックは?」
「別室でお待ちいただいておりますが、出直していただきましょうか?」
「いや、いい」
体を起こしたエドガーは、自分の両手に目を落とした。
何ら変わったふうには見えない。ただの夢を見ていただけのような気もしてくる。けれど、宝剣のことを考えながら視線を動かせば、それはいつのまにかそばにある。
寝室に置いてあったはずのものだ。
宝剣の、隠《かく》された方の力だとはいえ、魔力を動かせるものをエドガーが得たということだろう。
手をのばして剣を手に取る。
夢の中で感じたような一体感は起こらず、サファイアの色が変わる気配もなかった。
封印は、そんなに簡単には解けないということなのか。
アンシーリーコートの力だけ手に入れても無理なのだろうか。それとも、斬るべき敵を目の前にすれば何かわかるだろうか。
「レイヴン、僕は、プリンスの記憶をほどいてしまったよ」
ひざの上に置いた剣を指でなぞりながら、エドガーは告げた。
「少しだけだ。ほんの少し……、リディアを救うための力がほしかった。ユリシスが仕組んだことなら、プリンスの記憶に触れることこそ、巨人に勝てる条件だと思ったから」
レイヴンは、直立不動《ちょくりつふどう》で聞いていた。
「だけど、最初に心に決めた禁忌《きんき》を犯してしまったことに違いはない。自分から手をのばしてしまったんだ。僕は変わらない、そう思っていたのに、たぶん今は、少しだけ、以前の僕とは違ってしまっている」
少しだけと思いながら、いつかプリンスに支配されてしまうのだろうか。ユリシスはおそらく、それをねらっている。
「きっとレイヴン、おまえならわかるだろう。僕が僕であることの境界を越えてしまったか否《いな》か。もしも僕でなくなったなら、おまえが決着をつけてくれ。……そしてリディアを守ってほしい」
レイヴンは、しばし考え込み、やがて口を開いた。
「いいえ、エドガーさま、リディアさんを守るのはエドガーさまです。ほかの誰かに任せることができるのですか?」
あまりにも当然のことだと思えば、気づかなかった自分がおかしかった。
「ああ、できないだろうね」
そう思うかぎり、エドガーはエドガーなのだ。誰かを、自分よりも何よりも大切に思えるかぎり。
レイヴンに教えられ、少し心が軽くなる。なら今も、エドガーは変わっていない。
「パトリックを、ここへ」
レイヴンがサロンを出ていくのを見送って、エドガーは、メロウの星が輝《かがや》くスターサファイアに見入った。
サファイアにひそむ深紅《しんく》のルビー。それがいったん目覚めれば、再び封じることはエドガーにはできない。そして、アンシーリーコートの魔力による宝剣の変化は、伯爵家にとってよくないしるしだという。
しかしそれは剣がもともと持っていた力で、すべて含めて伯爵家のものだ。アンシーリーコートの魔力が忌《い》むべきものだとしても、青騎士伯爵に与えられた力ではないのか?
青騎士伯爵として、エドガーが力を引き出すことは、許されないことだろうか。
青いサファイアの力を欠いた、青騎士伯爵ではいけないのだろうか。
ノックの音に、エドガーは顔をあげる。
レイヴンに案内され、パトリックが再びサロンに現れると、エドガーは考えるのをやめ、メロウの宝剣を手に立ちあがった。
「パトリック、きみは優秀なフェアリードクターなんだろう? これから僕を、巨人がいる妖精界へ案内してもらう。できるね?」
「これから、ですか? 伯爵、倒れられたばかりですよ」
問い返す黒髪の男は、エドガーの体調を気遣《きづか》ってではなく、あきらかに、無謀《むぼう》な行動に手を貸すのを渋っていた。
「僕のことより、自分が寝込まないか心配した方がいいよ。言っただろう? きみたちには非常に腹を立てているって」
「巨人と敵対するくらいなら、あなたの代わりに寝込んだほうがましです」
なかなかユーモアがわかる。が、エドガーは退《ひ》くわけにはいかなかった。
「きみが寝込むのはともかく、氏族《クラン》がなくなるのは不本意だろう? ああそう、たしかに僕は、青騎士伯爵とは名ばかりの若造《わかぞう》だけれど、イングランド伯爵位は本物だ。魔法は使えなくても、権力を使う方法はよく知っている」
「立場の弱いものを脅《おど》すのですか」
「立場が強いか弱いかなんて関係ない。僕の大切なものを奪《うば》おうとするなら手段は選ばない。きみたちの予言者だって、リディアに手を出そうとするなら永遠に眠ることになるだけだ。おぼえておいてもらおう」
唇《くちびる》を噛《か》むパトリックは、結局それが最後の抵抗《ていこう》のしるしだった。
「準備はできました」
レイヴンはなぜかニコを小脇《こわき》にかかえていた。
「え? 何だ? おれも行くのか?」
ティーカップを持ったままのニコは、悠長《ゆうちょう》にお茶をしていたところをレイヴンにいきなり連れてこられたのか、わけがわかっていない様子だ。
「ニコさんも、自分の次に大切なリディアさんが気になって、じっとしていられないはずですから、私がお連れします」
「ええっ? いや、でも、伯爵《はくしゃく》が行くならおれはべつに……」
「ここから妖精界へ入るのは無理です。少し遠出をしていただきますよ、伯爵」
不機嫌《ふきげん》なパトリックに言葉をさえぎられたニコは、レイヴンにかかえられたまま同行することになった。
*
ケルピーは黒馬の姿で、白い砂浜を駆《か》けていた。
巨人に連れ戻されたはずのリディアを探し回ったがなかなか見つからない。ひとりで駆け回ってもらちがあかないと、海辺へ出てきたところだ。そうして、走りながら海に向かって呼びかける。
「おい、|アザラシ妖精《セルキー》ども、訊《き》きたいことがある!」
しかし、波間からは何の応答もない。
当然だった。アザラシ妖精に限らず、どんな妖精族も喰《く》われるのを恐《おそ》れ、ふつう水棲馬《ケルピー》には近づかないからだ。
こちらから海へ潜《もぐ》っていったって彼らは隠れてしまうだろう。
平気でケルピーに接するセルキーは、つい最近まで人間だったひとりだけだ。
「くそっ、あの女はどこだ?」
巨人《トロー》の動きを見張っているはずで、彼女ならリディアの居場所もわかるはずだ。
「アーミン、ちょっと出てこい!」
岬《みさき》の先端で立ち止まり、ケルピーは声を張りあげた。
何度目か叫《さけ》んだとき、誰かが背後《はいご》に立った。
「気安く呼ばないでちょうだい。わたしがあなたとまだ接点があるなんて、ユリシスは知らないのよ」
振り返ったケルピーから、少し離れて彼女は立ち止まった。平気で彼の前に姿を見せるとはいえ、必要以上に近づくわけではない。
アザラシの姿にはなれない|アザラシ妖精《セルキー》は、常に生前の、人だったときの男装のままで現れる。
「ユリシスのやつは人間界にいるんだろう。聞こえるわけない」
「彼の手先の妖犬《ようけん》が、どこで聞いているかわからないわ」
ケルピーはたてがみを震《ふる》わせ、辺《あた》りに神経を配った。
「妖犬の匂《にお》いはしない」
しかしアーミンは、腰に手を当てたままケルピーをにらむ。
弟よりは、まだ彼女には表情があるが、そういえば笑ったところを見たことがないとケルピーは不思議に感じた。
怒った顔は完璧《かんぺき》だ。セルキーにはめずらしいほど、攻撃的で美しい。しかし彼女も人間の女だったのだから、笑えるだろうと思うのだ。
リディアのように笑えば、リディアではない女でも、ケルピーに人を喰うよりも満たされた感覚をもたらすことができるのだろうか。そんな興味をおぼえるが、ケルピーには、人間がどんなときに笑うのか今ひとつわからないため、どうしようもないのだった。
「まあ気をつけよう。おまえは別の誰かの命令で、ユリシスに従ってなきゃならないんだったな」
アーミンはそのことについては、肯定《こうてい》も否定も口にしたことはない。今も、さらりと聞き流す。
「で、何の用?」
「リディアが巨人に連れ戻された。伯爵家《はくしゃくけ》の婚約指輪をトローに奪われたせいだ。もう少しで人間界へ戻れるところだったのに……。どこにいるかわかるか?」
「巨人の居場所なら、丘ふたつ越えた岩場よ。でもさっき、そちらで大きな音がして、土煙《つちけむり》が見えたわ」
「なんだって? リディアはどうなった?」
「わからない。これから調べに行くところ」
丘の方へ、ケルピーは駆け出そうとした。
「待ちなさい。エドガーさまがこの領域へ入ったみたいよ。どのみち、彼しかリディアさんを連れ帰れない。わかってるでしょう?」
婚約指輪を巨人が取り上げたままならそういうことだ。指輪とリディアの結びつきよりも、当の婚約者の方がつながりは強いのだから、彼ならリディアを連れ帰れる。
「しかし、伯爵がトローに向かっていったって、殺されるのがオチだろ」
「あなたが向かっていっても同じでしょう」
はっきり言うところはリディアに似ている。不愉快《ふゆかい》になりながらも、ケルピーはにやりと笑った。
「伯爵が殺されたら、婚約指輪に意味はなくなる。トローはあの指輪でリディアを縛《しば》ることができなくなるかもしれないな」
アーミンは顔色を変えたが、気丈《きじょう》に言い返した。
「リディアさんを悲しませる気は、ないでしょう」
「だから何だ。リディアも伯爵も助ける策《さく》が、おまえにあるってのか」
「ないわ。もはや成り行きを見守るだけ」
あの伯爵と結婚するということは、こういうことだ。ケルピーはリディアを想《おも》い苛立《いらだ》った。
リディアのがわの家系で起きた問題さえ、ユリシスに利用される。
「しかし、ユリシスは伯爵が死んだら困るんじゃないのか?」
「もしものときは、彼の手下たちがエドガーさまだけ助けようとするでしょう」
ケルピーは舌打ちした。
リディアを見捨てる気だとは、冗談《じょうだん》じゃない。
「そんなことになったら、リディアの婚約者だろうと、俺がおまえらの王子《プリンス》を殺してやる。妖犬どもにそう言っておけ!」
アーミンを押しのけ、ケルピーは駆け出した。
[#改ページ]
太陽が海に飲み込まれるとき
リディアたち三人は、海へ向かって歩いていた。太陽の巨人族は海が苦手だとファーガスが言ったからだった。
しかし森を抜け出ても、彼らの前にはまた、見渡すかぎりの野原が広がっている。低い位置にある陽《ひ》を目印にまっすぐ進むが、はたして海の方向へ歩いているのかどうか、よくわからない。
野原を避《さ》けて、ひたすら木々の多いところをたどって歩く。
「それにしても、妙《みょう》だな」
ちょうど森が途切《とぎ》れた場所で、薄《うす》い雲間《くもま》に差す光に目を細めながら、ロタは口を開いた。
「なあ、巨人の岩場を出たときから、太陽の高さが変わらない。あれが朝日か夕日かよくわかんないけど、朝日だったらもっと高くなってるはずだし、夕日だったら沈《しず》んでるはずだろ」
「本当だわ」
あらためて陽の位置を確認したリディアもつぶやいた。
「ここは今、白夜《びゃくや》なんだよ。たぶん、巨人《トロー》が魔法を使ってる」
「え、じゃあずっと明るいままなのか?」
「ああ、おれがトローにつかまる前、さまよっていたときも陽の高さはあれくらいだった。ここはトローの土地じゃないから、警戒《けいかい》して日暮れが来ないようにしてるんだ」
日暮れと海をきらう巨人族。それが彼らの弱点ではあるのだろうが、人もどんな妖精族もかなわないという。
三たび、海が太陽を飲み込んだとき
それが、不死身《ふじみ》のトローが死ぬとき。
どういう意味なのだろうか。
この謎《なぞ》が解けなければ、リディアはたぶん、エドガーのもとへ帰ることはできない。
「どうした、リディア?」
ロタが振り返る。リディアが立ち止まったのは、エドガーの声が聞こえたような気がしたからだった。
けれど、人影などどこにもない。空耳に違いない。
ロタはリディアの手を引き、また歩き出した。
「大丈夫だって、あれだけ木が生えてる森の中で、巨人が杖《つえ》を見つけるのは簡単じゃないし、ニコやレイヴンも、エドガーだって何か手を考えてるはずさ」
リディアが不安がっていると思ってか、ロタは元気づけてくれる。
「それにさ、リディア、もしも巨人が杖を見つけて魔法を使ったって、あんたをひとりにしやしない。あたしもいっしょだ」
しっかり握られた手を、リディアはうれしく思いながらも、そういうわけにはいかないと考えていた。
巨人の国へ連れていかれたら、ロタは寿命《じゅみょう》を縮めることになるだろう。
「ねえ、少し休まない? 疲れたわ」
リディアは不自然にならないようロタの手をほどき、大きな木の幹にもたれかかった。
「そうだな、どのくらい歩いたら海に出られるかもわからないし。妖精界って、空腹ものどの渇《かわ》きも感じないけど、疲れは感じるんだな」
ロタもひとつのびをして、木の根元に無造作《むぞうさ》に腰をおろした。
「なあリディア、婚約指輪に縛《しば》られない方法があるぜ」
リディアの目の前に立ったファーガスは、今思いついたというよりは、ずっと考えていた様子で切りだした。
「おれのプロポーズを受けることさ」
「は? バカを言うなよ」
すぐさまロタが否定したが、ファーガスはリディアが寄りかかっている木に片手をつき、主張を続ける。
「トローに盗《と》られた指輪がリディアにとって重要なのは、婚約指輪だからだろ? 婚約を解消すれば、ただの指輪だ。トローが魔法であんたを連れ戻すことはできなくなる」
「……無理よ。そんなに簡単に気持ちを変えられるわけないでしょ」
「だけどさ、あの伯爵《はくしゃく》はあんたを人間界へ連れ戻すチャンスを無にしたんだろ」
言い当てられて、リディアは驚きとともにファーガスを見あげた。
「ちょっと考えればわかるさ。あんたを連れてった水棲馬は、知り合いの妖精なんだって?」
仲間の妖精なら、リディアを人間界へ帰そうとするはずで、指輪がなくてそれが難しいなら、チェンジリングを考えるはずだと彼は言った。
さすがに、マッキール氏族長《しぞくちょう》の長男だけあって、妖精に関する知識はあるらしい。
「おれなら気づく。婚約者が妖精がらみでいなくなって、別の見知らぬ女が近づいてきたら、もしかしたらって考える。だいたい、リディアがフェアリードクターだってことわかってるのに、青騎士伯爵を名乗ってるあいつがチェンジリングの可能性に気づかないなんておかしいって」
でも、それはしかたがない。
リディアだって、エドガーがチェンジリングの魔法を使ったことにまで気づくとは思っていなかった。ただ、リディアがそばにいると直感してくれることを期待しただけだ。
「それにな、トローはあんたのことあきらめないぜ。人間界に戻れたとしても、またあんたを連れ去ろうとする。チェンジリングも知らない伯爵に対処できるのか? 巨人族は、マッキール家の者だけは殺さないって約束をしてるけど、ほかの人間を殺すのはわけないんだぜ。おれたちなら、巨人族と取引も可能だ」
エドガーが、巨人に殺されるかもしれない。
そのことに気づけば、リディアは怖くなった。
エドガーが助けに来てくれればとか、彼に会いたいとか願ったけれど、そうなったら、エドガーはときどきとても無鉄砲《むてっぽう》だ。とんでもないことになるかもしれない。
「ファーガス、いいかげんにしろよ」
返事もできないでいるリディアの前に、ロタが割り込もうとしたが、ファーガスは動揺《どうよう》しているリディアをぐいと引き寄せた。
彼の赤い髪が、リディアの頬《ほお》に触れるほど近づいた。
びっくりした。
彼女にこんなふうにする男の人はエドガーだけだった。
リディアは、エドガーの金髪しか触れたことがない。エドガーの灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》しか、これほど間近で見つめ合ったこともない。
最後に彼に触れた記憶が、感情を隠《かく》したあまりにも冷たい瞳だったことが瞬間的によぎれば、ファーガスの熱のこもった視線にくらりとする。
混乱《こんらん》して、身動きひとつできないでいたとき、空で何かがきらりと光った。
銀色の光が、まっすぐこちらへ落ちてくる。
「うわあっ!」
悲鳴をあげたファーガスが背後《はいご》へ飛び退《の》いた瞬間、彼が踏《ふ》んでいた地面に立派《りっぱ》な剣が突き刺《さ》さった。
メロウの、宝剣だ。
「な、なんだよこれ……」
ファーガスが剣を覗《のぞ》き込もうとしたとき、木々の奥から声がした。
「さわるな! 僕のものに手を触れるのは許さない」
それはエドガーの声だった。
どきりとし、リディアは森の奥に目を凝《こ》らした。
人影が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
「脳天から串刺《くしざ》しにしてやれと言ったのに」
エドガーがつぶやくと、剣が答えた。
(冗談《じょうだん》かと思いました)
そのまま剣はふっと消え失せ、エドガーは、リディアから少し距離を置いて立ち止まった。
その後ろから、レイヴンとニコが駆《か》けてくるのが見える。パトリックもいっしょだ。
パトリックがエドガーを追い越し、ファーガスに駆け寄ったが、エドガーは立ち止まったまま、少し悲しそうな顔でリディアを眺《なが》めた。
「リディア、……無事だったんだね」
きちんと彼女の名を呼ぶ。心から安堵《あんど》した響《ひび》きや、聞き慣れたやさしい声音《こわね》に、リディアは人目もかまわず抱きつきたい気持ちになった。
けれどできずに、そばにいたロタにしがみつく。
たった今、ファーガスとそうしていたことに気づけば、エドガーは自分を受け止めてくれないのではないかと思えたのだ。
そんなはずはないとわかっているのに、リズ≠セったとき、抱きついても突き放された感覚がよみがえってきて、なおさら怖かった。
「ほら、行けよ、リディア」
ロタが促《うなが》すが、リディアは彼女から離れられない。
「で、でもロタ……、教えて、あたし今、ちゃんとリディアに見える?」
「は? どうしたんだよ」
「どこか変なところはない?」
「ないよ。なあ、エドガー」
逃げ腰なリディアを見て、エドガーは困っている様子だ。ふだんならかまわず接近して抱きしめようとするのに、そうしないのは、リディアにしてみれば、ますます自分が変なのではないかと思えてくる。
エドガーが、あのときのリズをリディアだと気づいたことも知らなければ、そのことで心を痛めているとも知らない。
「リディア、再会をよろこんでくれないのか?」
「おいエドガー、言っておくけど、今のはリディアは悪くないぞ。あいつがむりやりせまったんだ」
ロタは、エドガーの誤解をリディアが恐《おそ》れていると思ったようだった。
「わかってる。リディアが正式なフィアンセ以外の男に気を許すわけがない」
それを聞いたファーガスは、勢いよく振り返った。
「何が正式なフィアンセだよ。チェンジリングもわからないくせに」
そうしてリディアに、さっきと同じ熱い視線を向ける。
「リディア、よく考えてくれよ。伯爵《はくしゃく》かおれか選べって言ってるんじゃない。巨人の花嫁《はなよめ》にされるのか、おれと島へ来るかだよ!」
エドガーはファーガスに歩み寄った。かばおうとするパトリックを押しのけ、乱暴に胸ぐらをつかむ。
[#挿絵(img/star ruby_231.jpg)入る]
「巨人の花嫁になんてさせない。僕はやつを倒しに来たんだ」
「は? これだからイングランド人は……。妖精のことちっともわかっちゃいない。トローを倒せるわけないだろ」
ファーガスはせせら笑う。
「ならきみは、その首でも賭《か》けるかい? 僕が勝ったら、巨人の次に目障《めざわ》りなのはきみだ」
「ファーガス、挑発《ちょうはつ》に乗るんじゃありませんよ」
パトリックが口出しするが、ファーガスは退《ひ》かなかった。
「好きにしろよ。どうせあんたは殺される」
「エドガー、やめて」
止めようとして、リディアはロタから離れるが、それでも自分からエドガーに触れることができずに、彼の後ろで立ち止まったまま、にらみ合うふたりにおろおろしていた。
そのときだった。急にリディアは、髪の毛が引っぱられるような、奇妙《きみょう》な感覚におそわれ、鳥肌が立った。
「トローの魔法だ……!」
ニコが叫《さけ》ぶ。
とたん、強い風が吹いた。かと思うと、それは木々を取り巻き、渦《うず》を狭《せば》めてみんなを取り巻く。
木の葉と土埃《つちぼこり》に視界を奪《うば》われている間に、風の渦はねらいを定めたかのようにリディアをとらえた。
巨人が、杖を見つけたのだ。リディアを魔法で連れ戻そうとしている。
風に連れ去られそうになった瞬間、エドガーにつかまれた。けれど、体は宙に浮く。
エドガーがここにいるのに、指輪に引きずられる。彼に対し戸惑《とまど》いがあるからだ。そう思ってもどうしていいかわからない。
それでもエドガーは、リディアの手を離さなかった。いっしょに風に巻き込まれる。
このままでは、エドガーも巨人のもとに連れていかれてしまう。そうしたら、ファーガスの言うように殺されるかもしれない。
そんなのいやだと思ったとき、リディアはもう片方の手を彼の方にのばしていた。
ほんの少し前、あの砦《とりで》の川では届かなかったリディアの手が、今度はしっかりつかまれる。
両腕を体にまわされ、抱きしめられる。リディアが彼の胸に体をあずけたそのとき、風はいきなり止《や》んだ。
急に風から解き放たれ、ふたりして地面に投げ出される。
打ちつけた膝《ひざ》の痛みをこらえながらリディアが顔をあげたとき、辺《あた》りは草原のほか何もなかった。
エドガーがつかまえてくれたから、巨人のところまで連れ戻される前に、リディアと指輪をつないでいた魔法の効果がなくなったのだろうか。
「リディア……、できればこのままでいたいところだけど、今は無理かもしれない」
苦しそうにエドガーが言った。リディアは彼を下敷きにしたままだった。
「あっ、ご、ごめんなさい」
あわててどくと、エドガーは痛みをこらえるように慎重《しんちょう》に体を起こした。見ると、胸元はベストにまで血がにじんでいる。
「あなた、怪我《けが》をしてるの!」
「これね、ちょっと傷が開いただけさ」
「でも……、やだ、痛い? 傷って深いの?」
リディアはうろたえながら、どうしていいかわからなくて泣きそうになる。エドガーはそんな彼女を見てなぜか微笑《ほほえ》む。
「よかった……、まだ僕のことを心配してくれるんだね」
頬に触れる手を感じながら見あげれば、まぶしくて、リディアの鼓動《こどう》ははげしく鳴った。会いたいと思っていた人に会えた。そんなよろこびに身をまかせてしがみつきたくなったけれど、やっぱりまだ、少しだけ怖くてできなかった。
それよりも、エドガーの手がやけに熱く感じる。
「エドガー、熱もあるの?」
「ああ、大したことないよ」
頬を撫《な》でていた手をそっと引っ込めたのは、熱の高さを知られたくなかったからではないだろうか。
大したことないなんてうそだわ。リディアはますます心配になった。
「どうして怪我なんかしたの?」
「川で泳いでたら、流木がぶつかってきた」
川って、まさかあのときの……? でも、どうしてエドガーが川へ?
切《せつ》なげにこちらを見るエドガーは、今度はリディアの髪にだけそっと手を触れた。
「外見に惑《まど》わされて、なかなか気づけなかった。失いかけてようやく気づくなんて情けない。結局間に合わなくて、きみを巨人に連れ去られてしまったんだ」
エドガーに川から引き上げられたような気がしたのも、名を呼ばれたのも夢ではなかった。
驚きながらリディアは、あのとき確かめるように重ねられた唇《くちびる》を思い出し、赤面する。
「そんな、やだ、あたしのせいで……」
「いや、僕の自業自得《じごうじとく》だ。きみを危険な目にあわせたのは僕で、そのうえ深く傷つけることになった。だから、わかってるんだ。僕のことを怖いと思ってるだろう? 婚約者として信頼できなくなってるよね」
そんなことはない。エドガーを好きな気持ちに変わりはない。ただ、好きだからこそ、受け止めてもらえない怖さを肌で感じてしまったリディアは、答えられずにうつむく。
エドガーは苦しげなため息をついた。
「もう、きみの婚約者でいる資格はない?」
「ち、違うわ。チェンジリングに気づかないのがふつうなのよ」
「でもきみは、僕がちゃんと気づくと思ったからこそケルピーの魔法で戻ってくることにしたんだろう?」
「それは、あたしの勝手な思いこみだったっていうか……」
と、エドガーは不満げに眉《まゆ》をひそめた。
「期待しすぎた? そんなふうに言わないでくれ。僕がその程度の男だと……。その程度なんだけど、少しは成長してる。だってほら、きみ以外の女の子にせまられても、素直によろこべなくなった」
素直にって。
困惑《こんわく》するしかないリディアの目を見つめる彼は真剣だった。
「助けてときみは何度も言ったのに、気づかなかった僕だ。愛想《あいそ》を尽《つ》かされてもしかたがないと思ってる。だけど、きみを助けるチャンスはまだあるだろう?」
本気で巨人に歯向かう気なのかと、リディアはあせった。
「無理よ。相手は巨人よ。誰にも殺せないって一族なのよ」
「だから? ファーガスが言ったようにするつもりじゃないよね」
わからなかった。どうすればいちばんいいのか。けれど、エドガーが死ぬのだけはいやだと思うリディアにとって、ほかに方法はなさそうに思えた。
考え込んだリディアを眺《なが》め、エドガーは強く首を横に振った。
「いや、聞きたくない。頼むから冷静にならないで。僕をののしっても殴《なぐ》ってもかまわないから、二度と、別れの言葉なんて聞かせないでくれ」
そしてリディアから視線をそらすと、薄く曇《くも》った空を眺め、彼は低い太陽に手をかざす。
「巨人が縄張《なわば》りを魔法で囲んでいることも、きみがいる場所も、アローが空から見渡して教えてくれた」
話を変えるように言って、エドガーは「アロー」と呼んだ。
空中に、スターサファイアが飾られた長剣が現れる。エドガーがのばした手に、しっかりと握《にぎ》られている。
「アローと話ができるようになったのね」
「人間界ではまだまだ思い通りにとはいかないかな。でも、わずかでも僕は、この宝剣の力に通じたはずなんだ。だから、これが秘めている力の封印《ふういん》を解いて、スタールビーの力を引き出せば、巨人を倒すことができるかもしれない」
「スタールビー?」
「サファイアが赤く輝《かがや》く。ルビーになるんだ。そうしたらこれは、妖精を斬《き》る剣になる」
妖精を斬る? リディアは怪訝《けげん》に思って眉根を寄せた。
それは、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力ではないのだろうか。
メロウが星を刻むよりもっと古い時代から存在するのだろうその剣が、不吉《ふきつ》な種類の魔力を持っていても不思議ではないが、エドガーがその力を引き出すというのは考えにくかった。
それに、宝剣の力に通じたってどういうことなのだろう。
「だけどリディア、まだ解かなきゃならない謎がある。巨人が死ぬのは、海が太陽を三たび飲み込んだとき≠セけだ。ひとつは日没《にちぼつ》のことだと思うけど、そのときに巨人を斬ることができるんだろうか」
「エドガー、この辺りでは日没はないわ」
リディアが言うと、絶句した様子で彼は振り向いた。
「巨人が魔法で、陽《ひ》が沈《しず》まないようにしてるみたいなの」
「そんなことができるのか?」
「ここは妖精界だし、たぶん彼の魔力《まりょく》が及ぶ範囲だけ日没を止めてるんでしょうね」
「……なら、その範囲の外へ巨人を誘《さそ》い出そう。そうまでして日没をきらうなら、やっぱりそのときがこちらのチャンスだよ」
エドガーは簡単に言うけれど、日没だけで条件を満たすとは思えない。いくら宝剣に妖精を斬る力があるとしても、巨人は伝説の条件以外では死なないだろう。
伝説は、事実を伝えるとは限らない。けれど、必ず真実を含んでいる。
それでもエドガーはやる気だった。
ひどくつらそうに立ちあがるのを眺め、リディアははらはらした。手を貸そうとしたけれど、大丈夫だと言ったエドガーは、巨人と戦うことに集中しようとしたのだろうか。
「きみに触れられると、きみのことしか考えられなくなる」
そう言って自嘲《じちょう》気味に笑う。
「何日も会えなかっただろ。僕が気づいてなかっただけだけど、心配でどうにかなりそうだった。そのぶん、抑制《よくせい》がきかなくなりそうだ。きっと、ほかのことなんてどうでもよくなってしまう」
「でも、エドガー、そんな体じゃ」
「巨人を倒さなきゃ、きみがねらわれ続ける。やるしかないんだ」
剣を握り直した彼は、少しもふらついてはいなかったけれど、ひとつのことに集中しようとしているのは、それだけ余力がなかったのだろう。
ふだんは、危機の時でもふざけるてみせる人だと思えば、リディアはなおさら気が気でなかった。
「剣が震《ふる》える。きっと巨人が近づいてきてる。アローは、ムーンストーンのボウのことがわかるから」
エドガーは注意深く周囲を見まわす。
リディアの耳に、かすかに地響《じひび》きに似た足音が聞こえた。
丘の上に視線を動かす。黒い影が見える。と思うとそれは、杖《つえ》を高く持ちあげる。
「エドガー、あぶない!」
リディアが彼を押しのけた瞬間、地面に大きな亀裂《きれつ》が走った。
足元が崩れ、飲み込まれそうになったリディアは、エドガーにかかえ込まれ、草原に転ぶ。
巨人は丘を駆《か》け下りてこようとしている。
急いで起きあがったふたりは、手に手を取って走り出した。
「待て! わしらの花嫁《はなよめ》を置いていけ!」
地響きとともに、巨人の声が響く。
「リディアは僕の婚約者だ!」
走りながら、エドガーは言い返す。
「この娘は予言者の許婚《いいなずけ》のはずだ。おまえ、マッキール家の予言者ではないだろうが」
「青騎士|伯爵《はくしゃく》だよ!」
「青騎士……?」
その名前はさすがに巨人でも耳にしたことはあるのか、警戒《けいかい》するようにつぶやいた。
「うそをつくな。その一族は絶《た》えたと聞いたぞ」
うそじゃない。エドガーはつぶやき、リディアの手を引いてひたすら走った。
巨人がまた、魔法を使おうとした。
彼が杖を振ると同時に、巨大な火柱が立った。見る間に炎《ほのお》の竜巻となる。それはこちらへ向かって丘を駆け下りてくる。
背後《はいご》に熱を感じれば、すぐそばにせまってきているのがわかる。
巻き込まれる、と思ったそのとき、リディアの視界のすみを何かが横切った。
漆黒《しっこく》の、馬だ。
瞬間、リディアは水しぶきの混じった冷たい空気に包まれた。同時に、どこからともなく水が押し寄せてくる音を聞く。
リディアのすぐ背後で、草や土砂を押し流した水は、その勢いのまま炎の竜巻に襲いかかった。
「ケルピー?」
「そのまままっすぐ走れ! 海辺はそっちだ!」
丘の中腹で、火と水がせめぎ合う。
ケルピーが巨人を押しとどめていてくれる間に、リディアはエドガーと海辺へ急いだ。
言われたとおり、じきに海が見えてきた。
巨人が苦手とする海辺だ。しかし太陽は、低い位置にあるとはいえ、沈む気配《けはい》はない。
海岸で立ち止まったリディアは、息を切らしながらあたりを見回す。
とりあえず身を隠《かく》せそうな場所はないかと思ったが、白い砂浜が続いている。
しかたなく、遠くに見える岬《みさき》の方へ足を向けようとすると、ニコの声が聞こえた。
「おーいリディア、こっちだ!」
振り返ると、波打ち際《ぎわ》に立った妖精猫が手を振っている。
と思うと、まるで目に見えない壁に隠れるようにすっと姿を消す。
駆け寄ったふたりがその壁の向こうへ足を踏み入れたとたん、風景が切り替わった。
そこはごつごつした黒い岩がいくつも転がる場所だった。大きめの岩の間から顔を出し、ニコが手招きした。
「エドガーさま」
立ちあがったのはレイヴンだ。
「ふたりだけか?」
「はい。あのあとパトリックは、ファーガスを連れてすぐ帰ると言い張りましたが、ファーガスが反対してもめていました。ロタとは手分けしておふたりをさがすことに」
「ロタ……、ひとりで大丈夫かしら」
いくらロタでも、妖精界で一人きりは心細いのではないかと思ったが、レイヴンは考える様子もなく「大丈夫でしょう」と返事をした。
「止めるまでもなく、ひとりで駆け出していきましたから」
レイヴンと再会して、エドガーはいくらか安心したのだろうか、崩《くず》れるように岩に座り込む。
ひざまずき、様子をうかがうレイヴンには、心配いらないと片手を振ったが、どう見てもつらそうだった。
レイヴンは、エドガーの胸元に広がる血を眺《なが》めていたが、何も言わなかった。
「とにかく、さっさと人間界へ戻ろうぜ。ロタのことは後で迎えに来りゃいいだろ」
ニコは、巨人の縄張りになどいたくないという様子でそわそわしている。
「人間界でも巨人は魔法が使えるんだろう?」
エドガーが顔をあげた。
「そうね……。妖精界ほど派手には使えないでしょうけど」
「リディアを追ってくるなら、今戻っても同じことだ。ここでけりをつける」
「ええっ、どうすんだよ。無理だって」
ニコは毛を逆立《さかだ》てるが、エドガーが考えを変える様子はなかった。
「妖精界の方が魔力が強いなら、この剣の力もじゅうぶんに発揮《はっき》できるはずだ」
「剣って、あんたそれろくに使えないじゃないか」
エドガーはそれを無視してつぶやく。
「問題は日没だ。巨人の魔力が影響しないところまで行かなければ」
「おいっ、おまえら! こんなところに隠れたって、すぐ見つかるぞ!」
見あげると、大きな岩の上にケルピーが立ってこちらを見おろしていた。
「どうしようもなくちゃちな魔法の壁だな。ない方がましだっての」
ヒゲをピンと立てて、ニコは抗議《こうぎ》するように人の姿をしているケルピーをにらみつけたが、彼が振り向くと、やはり怖いのかさっと目をそらした。
「ケルピー、巨人はどうなったの?」
「川で足止めしたが、どうせすぐ渡ってくるだろう」
ケルピーを見あげようと首を動かしたリディアは、そのときふと風景に違和感《いわかん》をおぼえ、あたりを見回した。
彼らがいる岩場は、すぐそばの断崖《だんがい》から崩れてきた岩でできている。そしてその断崖は、海へ向かって張り出し、岬を形作っている。
岬の先端《せんたん》には、背の高い木が一本だけ目立つ。
それを記憶にとどめながら、リディアは振り返って砂浜の続く入《い》り江《え》に目をやる。
遠くにうっすらと岬が見える。その張り出した形も、一本だけ目立つ木も、こちら側にある岬とまるで同じだった。
「巨人の魔法の境界が、この岬にあるんだわ。エドガー、この辺《あた》りに、巨人が魔法をかけたものがあるはずよ。それさえ見つければ……」
「陽が沈まない魔法は解けるのか?」
そのとき、岩場の陰で何かが光った。
こんな黒っぽい岩場には不自然なほど、光を反射する。
「あれ、鏡《かがみ》じゃない?」
言いながら、リディアははっと気がついた。
同じ風景が合わせ鏡のように重ねられている。そうしてここは閉じた空間になる。
巨人が用いたのは鏡の魔法だ。
「エドガー、わかったわ。あたしが魔法を解く」
言うなりリディアは駆け出した。
「うわあっ!」
ニコが急に声をあげた。脱兎《だっと》の勢いで岩場から離れ、波打ち際まで駆けていった彼は、海という安全な場所に自分だけ身を置いて、ようやくみんなに向かって言った。
「トローだ、逃げろ!」
黒い影が岩の上に立った。
鏡に向かって岩場を踏《ふ》み越えようとしているリディアをギロリとにらむ。
つかまるわけにはいかない。リディアは急いだが、足場が悪く何度も転びそうになって岩にしがみつく。
「リディア!」
エドガーはこちらに向かって駆けてこようとしながら、ケルピーを一瞥《いちべつ》した。
「ケルピー、何をぼんやりしてる! きみがあれを取ってきてくれればいいだろう!」
「巨人の魔法がかかったものなんて、妖精には手を触れることなんてできない」
「何だって? 役立たずが」
「私が行きます」
レイヴンが走った。
また足をすべらせたリディアは、エドガーに助け起こされる。レイヴンは素早くリディアを追い越し、岩をよじ登ると、光るものに手をのばす。
手のひらくらいの大きさの、まるい鏡をつかみ取る。
「レイヴン、それを壊《こわ》して!」
リディアの声と同時に、レイヴンは鏡を岩場にたたきつけた。
とたん、割れた鏡から赤い光があふれ出した。
あっという間に広がって、海も空も、辺りの何もかもが光に染まる。
赤いインクをぶちまけたみたいに、空気までも赤い。
夕暮れの色だった。
巨人が閉じこめていた夕暮れの赤い陽光が、一気に流れ出し、この空間を満たしたのだ。
気づけば、太陽も赤く染まっている。
水平線すれすれのところにあって、今にも海に飲み込まれそうだ。
巨人は呆然《ぼうぜん》と海を見やり、西日から目を背《そむ》けた。
「おのれ……」
つぶやき、急いできびすを返すと駆け出していく。
その姿はいったん岩場から消え去ったが、岩陰から様子をうかがえば、波打ち際から離れたところに居座《いすわ》っているのがわかった。
「苦手な夕暮れが過ぎ去るのを待つ気だわ」
「なら、今しかないわけだ」
エドガーは宝剣をしっかりと握《にぎ》りしめた。
「でもエドガー、海が太陽を飲み込むという条件は、まだひとつだけしか実現してないわ」
「とにかく試してみる」
きっと殺されてしまう。
リディアはたまらないほど怖くなった。
危険な事態を、これまでだってエドガーはいくつもくぐり抜けてきたけれど、見守りながらもリディアは、これほど怖いと思ったことはなかった。
エドガーがいなくなる。考えただけで、息ができなくなりそうな気がする。
「……行かないで」
リディアの口をついて出たのはそんな言葉だった。
エドガーに駆け寄り、宝剣を握る手に手を重ねる。彼の手はやはり熱っぽい。
そしてメロウの宝剣は、西日に銀色の刀身《とうしん》を赤く輝《かがや》かせながらも、存在感のあるスターサファイアは、不思議なほど青かった。
これが赤く輝くとエドガーは言うけれど、本当にそんなことがあるのだろうか。アンシーリーコートの魔力を解放するなど、どうやって彼にできるというのだろう。
剣の力が発揮できなければ、エドガーに勝ち目はない。たとえ発揮できても、巨人を倒せる条件はそろっていない。
「お願い、やめて。このまま人間界へ帰りましょう」
困ったように、彼は眉《まゆ》をひそめた。
「体調を整えて、怪我《けが》も治してからでなきゃ無理よ」
「寝込んでるときに巨人が来て、きみを連れ去ろうとしたら?」
「あたしのためにそんなに必死になることないわ!」
巨人の花嫁になった方がまし。そうとさえ思えた。
「必死にならなくていい? もう僕は必要ないってこと?」
「エドガー」
「失った信頼を、回復する機会もくれないのか?」
「……ええ、そうよ!」
とっさにリディアはそう答えていた。
「あたし、あなたに失望してるのよ。……すごく怖くて、気づいてほしくて、何度も助けてって言ったのに、ゆ……許すと思ってるの?」
エドガーは悲しそうな顔をしたけれど、リディアはただ、彼を引きとめようと必死だった。
「巨人と戦えばいいってものじゃないでしょ? ほんとにあたしを想《おも》うなら、このままいっしょに帰って。巨人が追ってきたらいっしょに逃げて。そしたら許してあげる。結婚でも何でもあなたの望み通りにするわ!」
「とても誘惑《ゆうわく》を感じるけど、逃げるのはいやだ。僕は長いこと、プリンスから逃げることで自分も仲間も守ろうとしたけれど守りきれなかった。逃げ続けるつらさをきみに押しつけるなんて、がまんできない」
引きとめるのは無理だと感じながらも、リディアは彼をつかむ手に力を入れた。
エドガーはやわらかく微笑《ほほえ》み、手を引き寄せて間近でリディアを見つめた。
「キスしてもいい?」
ちらりと周囲に視線を走らせ、「頬《ほお》に」とつけ足す。ふたりきりでないと、唇《くちびる》へのキスをリディアがいやがることを知っているから。
でもいやだ。そんなお別れみたいなキス。
「お願い……、行かないって約束して」
力なく言うしかない間《ま》に、彼の唇を感じた。頬というにはきわどいくらい、ほとんど唇の端《はし》に触れていた。
と思うと、そのままなぞるように唇をふさぐ。驚いても身動きできなかったのは、いつのまにか頭をつかまれていたからだ。
口づけと、髪の間にすべり込む指とをリディアは同時に感じていた。撫《な》でるというには荒々《あらあら》しく髪の毛を乱され、わけのわからない気持ちになる。
動けないまま、されるがままに、いつもよりずっと熱のこもった彼の唇を受け止めている。
ふたりきりのときでも、こんなにはげしかったことはない。そう思うとリディアも熱が出そうだったが、ただ切《せつ》なくて、彼の首にしがみついた。
いっそこのまま、巨人と戦うことなんて忘れて、ふたりきりになろうと思ってくれればいいのに……。
かすかにそんな期待が頭をよぎったけれど、エドガーは最後にいちど、強く抱きしめてリディアを離した。
「やっぱり、触れてしまうと止められなくなるな」
うそつき。だったらどうして行こうとするの?
そう思ったけれど、リディアはもう、何も言うことはできなかった。
「レイヴン、リディアを頼んだよ」
必死で目をそらしていた様子のレイヴンは、呼ばれて急いで頷《うなず》く。
ニコはいちおう両手で目を覆《おお》っていたが、不自然に指の間が開いていた。その隣《となり》で、ケルピーは堂々とこちらを見ていた。しかも、不思議そうに問う。
「おまえ、伯爵《はくしゃく》に喰《く》われそうだったぞ」
「ち、違うわよ、あれは……その……」
「楽しいのか?」
ケルピーは、興味津々《きょうみしんしん》でリディアに顔を近づけるものだから、急いで後ろに下がらねばならなかった。
「こ、恋人どうししかできないの! ていうか、それどころじゃないのよ!」
リディアは浜辺に視線を向けた。
赤く染まった波打ち際に立ったエドガーは、巨人とまっすぐにらみ合った。
「巨人《トロー》、僕の婚約者を連れ去ろうという考えをあらためないかぎり、僕はおまえを倒すしかない」
抜き身の剣を、エドガーは目の前に立てた。
サファイアは、赤い陽光を吸い込んでさえ醒《さ》めるように青く輝いている。
エドガーが夢の中で感じた赤いルビーの力は、やはり沈黙《ちんもく》したままだ。いつもの、ただの古い剣を握る感覚しかなかったが、だからといって後に引く気はなかった。
退《しりぞ》けば、彼にとって何よりも恐《おそ》ろしいことになるだけだ。リディアを奪《うば》われるのだけはがまんできない。
巨人は、浜辺からやや離れた、砂地よりも草が目立つようになった斜面《しゃめん》に座り込んでいた。
「人間などにわしは殺せない」
「そうかな。怖《お》じ気《け》づいているように見えるよ。さっさと僕をひねりつぶせば、望みの花嫁《はなよめ》は手に入るのに、そこからわずかも動けないのかい?」
挑発《ちょうはつ》すれば、巨人は素直に反応し、面倒くさそうにしながらも立ちあがった。
「わしを侮《あなど》るな。夕暮れだとて、魔法を使えないわけではないぞ」
ゆっくりと、浜辺へ降りてくる。
もっとこっちへ、海へ来るがいい。
エドガーは、剣をかまえながら左に動き、足元に波がかかるまで下がる。が、巨人は海水がいやなのか、砂が乾いているところで足を止めると、杖《つえ》を振りかざした。
岩がひとつ宙に浮かんだ。そのまま杖を振ると、エドガーの方に向かって飛んでくる。
かろうじてよけたが、水に足を取られ、波打ち際《ぎわ》に転がる。それを見て巨人はいくらか油断したのか、さらに海に近づいた。
杖を、今度はそのままエドガーの方に向ける。
魔法を使う寸前に、急いで起きあがったエドガーは、波間《なみま》に落ちた剣を握り、水を掻《か》くように振り上げた。
水しぶきが立って、巨人を濡《ぬ》らした。
急にうろたえた巨人は、あわてて退《しりぞ》こうとし、こちらに背を向けた。
その隙《すき》にエドガーは体勢を立て直し、巨人に斬《き》りかかる。
が、メロウの剣は、何の手応えもなく巨人の体をすり抜けた。
やはり妖精を斬ることはエドガーにはできないのか。それとも、条件がそろっていないからか。
波打ち際から退いた巨人は、長衣《ローブ》のそでで濡れた杖をぬぐう。海水のついた手も必死で衣服にこすりつける。
日暮れと海が苦手な巨人は、この赤く染まった海水さえ恐れている。
その様子を眺《なが》め、エドガーは気がついた。
ここにいるのは太陽の巨人≠セ。巨人を海に引きずり込めば、二つ目の条件がそろう。
海に沈《しず》もうとしている西日と、波に濡れる巨人とで、二度、海が太陽を飲み込むことになるのではないか。
では、三度目は?
本当のところ、エドガーはとっくに、最後の答えを直感していた。ユリシスが望んだのがこれなら、必ず巨人を倒せる。
けれどその前に、巨人はそう簡単に海へ足を踏み入れそうにない。
どうやって誘《さそ》う?
巨人はエドガーと波打ち際から、おそらく魔術が届くぎりぎりの距離を取ったまま、また杖を振り上げた。
瞬間、エドガーははね飛ばされ、岩だらけの浅瀬《あさせ》にたたきつけられる。
「エドガー!」
リディアの悲鳴《ひめい》が聞こえた。
来るな。エドガーはつぶやく。レイヴンが彼女を岩陰に押しとどめているのがちらりと見える。
「青騎士と言ったが、やはり本物ではないようだな」
起きあがろうとしたが、体は悲鳴をあげていた。傷口からはさらに血が流れ出している。
「本物だよ。これはメロウの宝剣だ。おまえの苦手な、海の種族の……」
「使い方もわからないくせにか」
また岩が浮かんだ。立ちあがる間もなく頭上に落ちてくる。
よけたという意識はなかった。よろけるようにわずかに体を動かすのが精一杯だったが、岩はぎりぎり彼の手前に落ちた。
けれど幸運だったわけではない。宝剣が岩の下敷きになってしまったのだ。
引き抜こうと、エドガーは柄《つか》をつかむ。巨人はまた岩を投げつけようとしている。
そのとき、レイヴンの制止を振り切ったリディアが、濡れるのもかまわず駆《か》けてきた。
「戻れ、リディア!」
エドガーは叫《さけ》ぶが、彼女はエドガーのそばに座り込むと、巨人に向かって声を張りあげた。
「トロー! その岩であたしも殺す気なら投げればいいわ!」
ああそうか。やつはリディアを殺せない。花嫁として連れ帰らねばならないのだ。
でも、あまりにも無謀《むぼう》だ。今出てきたら、巨人につかまってしまうだけだ。
案《あん》の定《じょう》、巨人は魔法で浮かせた岩を元の位置に戻したが、今度はリディアをとらえるべく、ゆっくりと歩みを進め始めた。
「ごめんなさい……」
あきらめたようにそう言う彼女を、エドガーは抱き寄せる。
「あたしやっぱり、あなたさえ無事なら」
巨人のもとへ行くつもりか。そんなことさせるものか。
慎重《しんちょう》に波打ち際へ足を踏み入れる巨人を眺めながら、エドガーは深呼吸《しんこきゅう》した。
ただの人間でしかないエドガーを、巨人は恐れることはないと悟《さと》った。それなら夕日も海も、自分に危機をもたらすものではないと考え直したのか、自ら海へ進み入る。
「……だめだよ、リディア。さよならは二度と言わせない」
それは、エドガーにとっては絶好のチャンスだった。
リディアがつくってくれたチャンスだ。
片手でリディアを抱きながら、宝剣を握《にぎ》る手に力を入れた。
失敗すればリディアを失う。
彼女を守るために、それはたぶん、エドガーにとって、どんな迷いも払拭《ふっしょく》する力だったのだろう。
自分が自分の望まない何かになることさえ迷う余地はなかった。
そのとき彼は、宝剣の力を感じていた。
スターサファイアが輝《かがや》く。
護《まも》りの青から、攻撃の深い赤へ。アンシーリーコートの魔力へ。
メロウの海に似た青が、たった今|陽《ひ》を飲み込もうとしているこの海と同じ、紅《くれない》に変わる。
[#挿絵(img/star ruby_257.jpg)入る]
太陽が三たび、海に飲み込まれたとき
伝説の条件はそろった。
足元の波を蹴散《けち》らし、巨人はエドガーとリディアを見おろす。
身を屈《かが》め、リディアに手をのばそうとする。
今しかない。
岩の下から、エドガーはルビーの剣を引き抜いた。
不思議と抵抗《ていこう》なく、剣はエドガーの意志に添《そ》う。
そのまま、渾身《こんしん》の力を込めて剣を突き出す。
たしかな手応えを感じた。
剣は巨人の胸を貫《つらぬ》いている。スタールビーは、さらなる紅《くれない》に輝く。
空は夜を迎《むか》える間際《まぎわ》の、暗い赤へと変化していた。水平線の向こうへ、今にも隠《かく》れようとしている太陽を象徴《しょうちょう》するように、巨人は波間に崩《くず》れ落ちた。
倒れた巨人の体に何度も波が被《かぶ》さるのを眺め、ようやくエドガーは、すべてが終わったことを知り、顔をあげたリディアと見つめ合った。
「……トローは、死んだの……?」
「ああ」
短く答え、確かめるようにリディアを抱きしめる。いつになく自然に身を寄せてくれる彼女をいとおしく思いながらも、彼は自覚していた。
巨人は死んだけれど、これからこそがエドガーにとって苦難の始まりだ。ユリシスが望んだように、少しだけプリンスに近づいてしまった。
このことでいつか、リディアが彼をおそれ、離れていくかもしれないという考えは、今は頭から追い出し、どんな手を使ってもリディアを守りたかったのだから後悔《こうかい》はないと自分に言い聞かせていた。
宝剣が突き刺《さ》さったままの巨人の体は、海も空も藍色《あいいろ》に変わるころ消え失せた。波間に落ちた宝剣も、ルビーはサファイアに戻っていた。
エドガーが剣を拾いあげると、ムーンストーンの指輪が転がり落ちた。
陽の気配《けはい》を失った空に、月がのぼり始めていた。
* * *
(殿下《ユア・ハイネス》)
暗闇《くらやみ》の中、誰かが呼んだ。
エドガーは、ぼんやりとした夢の中で、二羽のズキンガラスを見たような気がしていた。
僕はおまえたちの王子じゃない。
エドガーはつぶやく。
青騎士|伯爵《はくしゃく》として、宝剣の力を使っただけだ。これ以上、おまえたちに近づくつもりはない。
旋回《せんかい》しながら、ズキンガラスは鳴く。
(しかしあなたは、最初のプリンスと同じようにして、その能力を得ました)
もう、使わない。
(どうでしょうか)
(ハイランドの予言者がよみがえるでしょう。あなたを亡き者にするために)
僕を?
リディアを許婚《いいなずけ》とするためなのか、それともマッキール家の予言者は、プリンスを知っているというのだろうか。
(でなければ、あなたが彼を、永遠に葬《ほうむ》るしかありません)
(新しいあなたなら、可能です)
何もかも、プリンスの組織の思いのままに進んでいるということか。
消えろ。
今は何も考えたくない。
ズキンガラスが舞う。うるさく鳴きながら。
消えろともういちどつぶやく。
青い光が、闇を横切った。
ズキンガラスが消え去ると、銀色の子供が宙に浮かんだままこちらを見た。
アロー、とエドガーは問いかける。
おまえはどう思う? 僕はもう、青騎士伯爵ではないのか?
(私は、あなたから生まれた星。そしてわたしの主人こそが宝剣の主《あるじ》。あなたを青騎士伯爵として仕《つか》えるのが私の役目。それ以外のことはわかりません)
自分が何なのか、たしかなものはどこにもなかった。
いや、まだ、拠《よ》り所はひとつだけある。
そうだ、リディアはどこだ?
彼女がいてくれれば、何も変わらない。
プリンスの記憶など閉じこめたまま、おだやかな幸福を得られるはずだ。
でも、どこだ? いないのか?
ああそう、彼女なら気づいたはずだった。巨人を殺したのは、アンシーリーコートの魔力だと。
そうして、恐ろしくなっただろうか。
(エドガー、話があるの)
声とともに、夢の中に現れたリディアは、深刻な顔をしていた。
いやだな、別れ話でも切り出されそうだよ。
茶化《ちゃか》して言ってみて、エドガーは後悔した。リディアの顔が泣きそうにゆがんだからだ。
本気なのか?
待って、考え直してくれ。何でもするから。
去ろうとする彼女の手を必死でつかむ。
「……リディア!」
叫んだ自分の声に驚いて、彼ははっと目がさめた。
エドガーは、誰かの手を握っていた。女の手だ。
確かめるべく視線を動かす。かたわらでにっこり微笑《ほほえ》むのは……。
「…………ロタ?」
「よう、気分はどうだ?」
あわてて手をふりほどく。不覚だった。こいつの手を握るくらいなら、トムキンスの方がずっとましだとエドガーは思う。
「なんできみがここにいるんだ。寝込みを襲《おそ》おうって魂胆《こんたん》か?」
「は? 何だよその言いぐさは。看病《かんびょう》してやったのに」
「やめてくれ。きみが看病すると悪化するって、昔から有名だったじゃないか」
ロタは舌打ちして立ちあがった。
「あーあ、病人でもかわいげがないって、どうなのかね」
あきれ果てたように言って、ロタは出ていこうとする。エドガーは急いで問う。
「リディアは?」
「あぶなくてあんたの看病なんかさせられるか。熱に浮かされて、ベッドに引きずり込みかねない」
「リディアはどこだ?」
ふふん、とロタは優位に立ったことを楽しむように笑った。
「さあな、ファーガスが口説《くど》いてるところかもな」
「あいつ……まだロンドンにいるのか」
「あんたと同じくらいの歳《とし》なのに、すれてないっていうか、純朴《じゅんぼく》だよな。正直だし、好感度高いかもよ」
せいぜいエドガーをいやな気分にさせて、ロタは出ていった。
「くそっ」
起きあがろうとするが、すぐにレイヴンが部屋へ入ってきた。
「エドガーさま、今度こそ安静になさっていてください」
「リディアに会いに行く。レイヴン、着替えを」
「は……はい」
返事をしながらもレイヴンは、明らかに戸惑《とまど》っていた。
すぐに出ていったが、彼なりにエドガーを引きとめる方法を考えたのだろう。着替えといっしょに執事《しつじ》まで連れてきたのだ。
トムキンスは、起きあがろうとするエドガーを強引《ごういん》にベッドに押しつけた。
「旦那《だんな》さま、無理をなさってはいけません」
「離せ、休んでなんかいられないんだ」
「また熱がぶり返しますよ」
「レイヴン、トムキンスを追い出せ!」
が、エドガーの命令を聞いてしまわないよう耳をふさいでいたレイヴンは、じりじり後ずさりながら部屋を出ていってしまう。
「……トムキンス、離さないとクビにするよ!」
「けっこうですな。旦那さまに何かあれば、わたくしはどのみち職を失うのですから」
ずんぐりして小柄《こがら》なわりには力のある執事は、確実にエドガーを押さえ込んでいた。が、エドガーだって負けてはいない。
「ミセス・レイン、手を貸してくれ!」
|メイド頭《ハウスキーパー》を呼ぶトムキンスの声が屋敷に響《ひび》いた。
*
あわただしく着替えを終えたリディアは、自室を出て階段を下りていく。ダイニングルームでは、朝食を終えた父が新聞を広げ、しばしくつろいでいた。
カールトン家の、いつもの朝の風景だ。しかし今朝《けさ》のリディアは、朝食を取る間もなく出かけようとしていた。
「父さま、行ってきます」
戸口から覗《のぞ》き込んで声をかけると、父は顔をあげた。
「もう行くのかい? そんなに心配なら、あちらの屋敷に部屋を借りた方がいいんじゃないかい?」
「ん、でももうそんな必要もないと思うわ。昨日は熱も下がって、安心できる状態だってことだったもの」
三日三晩、エドガーは寝込んだ。リディアはなるべくそばについていたかったが、いくら婚約者の看病でも、嫁《よめ》入り前に彼の屋敷に泊まり込むのは父に悪いような気がしたのだ。
エドガーの屋敷に部屋を借りたらなんて言うけれど、本当は抵抗を感じているに違いない。リディアの返事に、明らかにほっとした様子だ。
ロタは、リディアの付添人《つきそいにん》としていっしょにいてくれたのだが、結局リディアを気遣《きづか》って、夜くらいは家に帰るよう勧《すす》めてくれた。おかげでリディアの負担も少しは軽くなったのだ。
「まあ、あれだ。おまえが倒れては、伯爵もゆっくり養生できなくなるからね」
「ええ、無理はしてないもの」
心配そうな顔をしながらも、何があったのかとか、父は突っ込んでは訊《き》かない。しばらく行方《ゆくえ》がわからなかったリディアが、突然帰ってきた三日前も、お帰りと言って抱きしめてくれたけれど、問いつめたり叱《しか》ったりはしなかった。
妖精にかかわることは、たとえ父親でも手助けできないと知っているからだ。
リディアが手の届かないところへ行ってしまったとしても、持って生まれた運命ならしかたがないと考えるだろうし、無事帰ってきて、今ここにいるならそれでいいと思うことにしているらしい。
たぶんリディアの母に関しても、父は同じように受け止めてきたのだろう。
それをリディアは、父の大きな愛情だと感じている。
「父さま、今日はちゃんと、常識的な時間に帰ってくるわ」
歩み寄って、娘らしく父の頬《ほお》にキスをして、リディアは家を出た。
辻《つじ》馬車を拾うため、大通りまで歩いていくと、街灯のそばに立つ人影が、こちらを見ているのが目にとまった。
キルトをまとっているからすぐにわかる。ファーガスだった。
「早いな。どこへ行くんだ?」
「待ち伏《ぶ》せてたの? もう会わないって言ったでしょ?」
ファーガスはおどけたように肩をすくめた。
彼とパトリックは、巨人が倒れて間もなくあの浜辺に現れた。エドガーが巨人を倒すところは見ていたらしい。
そしてそれは、彼らにとって衝撃的《しょうげきてき》であると同時に、忌《い》むべきことでもあった。
少なくとも彼らの島での言い伝えによれば、太陽の巨人の死は凶兆《きょうちょう》だという。そしてエドガーが引き出した宝剣の魔力《まりょく》は、忌まわしいアンシーリーコートの力だったのだ。
彼らがエドガーに、懸念《けねん》の目を向けたのはいうまでもない。
「伯爵は生きてるみたいだな」
さも残念そうに言うのは、それだけの理由ではなかった。あのあとファーガスは、エドガーに殺されそうになったからだ。
巨人を倒したのだから首を差し出せと言って、宝剣をファーガスに向けたのだ。エドガーに、そうするだけの体力が残っていなかったのが幸いだった。
「元気になったら、あなたの首をもらいに行こうとするでしょうね」
「……本気かよ」
彼は胸元で十字を切る。
「許してくれってあやまれば、たぶん寛大《かんだい》な気持ちになると思うけど」
そう、エドガーは敵意を向ける人間には容赦《ようしゃ》がないが、庇護《ひご》を求められればかなり寛大な貴族だと思う。
しかし深く眉《まゆ》をひそめ、ファーガスはぜったいにいやだと言った。
「ハイランダーがそう簡単に、イングリッシュにあやまってたまるか。そもそもあいつ、いけ好かないタイプだし、パトリックのこと脅《おど》したっていうし、おれたちの氏族《クラン》をつぶすとまで言ったんだぜ。まともじゃないよ」
まともじゃない陰謀《いんぼう》に巻き込まれた人だから。
彼の癒《い》えない苦悩《くのう》を思い、リディアは胸が痛んだ。
「それにリディア、あんたも気づいてるんだろ? 巨人を人間が倒せるなんて……ありえないよ」
「伝説の条件がそろったのよ。人間だろうと何だろうと、巨人を倒せるのは当然なのよ」
それが彼らの、妖精族の世界での決まり事なのだから。
「でもあのときの魔力は、忌まわしい力の結晶《けっしょう》だった。パトリックがそう言ってた。人が扱《あつか》えるはずのない、アンシーリーコートの魔力だったって」
もちろんリディアも、目《ま》の当たりにして驚いた。
どうやってエドガーは、あの力を思い通りにできたのか、今もさっぱりわからない。
考えればただ不安になる。エドガーはたしかに、リディアの知らない秘密をかかえている。
「あんた、そんな野郎と結婚できるのかよ。悪魔と契約《けいやく》したかもしれない男だぞ」
たしかに、それに近いことがあったとしか考えられなかった。
「なあリディア、あいつとの結婚なんかやめて、ヘブリディーズへ来てくれ。あんたの母親の故郷《こきょう》だ。氏族《クラン》の女になって、おれといっしょに一族を守ってくれないか?」
母が生きていたならどうするだろう。
力を貸そうとするかもしれない。
予言者の許婚《いいなずけ》にはなれなくても、ファーガスとの結婚は無理でも、妖精のことが原因でクランが危機に陥《おちい》っているなら、力になれることはあるのかもしれない。
そう考えながらもリディアは、首を横に振っていた。
エドガーを困らせたくはない。
「ねえファーガス、あなたは、とんでもなく恐《おそ》ろしいものを得てまで、あたしを巨人から助けようと思うかしら?」
眉をひそめたまま、ファーガスは答えなかった。
リディアはまた歩き出す。その場にとどまっていたファーガスは、もうついてこようとはしなかった。
どうしてエドガーなのか、リディアはずっと疑問に思っていた。どうして彼を好きになったのか、彼でなければならなくなったのか。
今は、少しだけわかったような気がする。
エドガーが強く望んでくれたから。
なかなか信じられなくて、かたくなに拒絶《きょぜつ》していたときも、彼はちっともひるまなかった。もちろん自分に自信があったのだろうけれど、だったらほかにいくらでも女の子はいるのに、不思議になるくらいだった。
たぶん彼は、リディアがどれほど恋に臆病《おくびょう》かに気づいたから、努力してくれたのだと思う。
だから、釣《つ》り合わないはずの自分でも、彼を好きになれた。結婚だってできそうな気がした。
リディアは相変わらず奥手《おくて》で、彼にはついていけないことが多々あるが、エドガーが変わらず強く望んでくれているから、結婚を迷うことはなくなっている。
メロウの宝剣に封印《ふういん》されていたという、スタールビーの力を解き放ってしまったエドガー。けれどそれも、リディアを手放すまいと望んでくれた結果だから、目をそらしたくはない。
そんなすがすがしい決意とともに、伯爵邸《はくしゃくてい》に到着したリディアだが、廊下《ろうか》でレイヴンが耳をふさいで突っ立っているのを不思議に思いながら部屋へ入ると、まず目に飛び込んできたのは、小柄な執事と大柄なメイド頭を相手に格闘《かくとう》しているエドガーだった。
「エドガー、何してるの!」
声をあげたリディアの方を見たエドガーは、驚いたように動きを止めた。
締《し》め上げられかけていたトムキンスは、その腕から逃《のが》れると、急いで乱れたネクタイを直し、薄い髪の毛を撫《な》でつけた。
「ああリディアさん、いいところに来てくださいました。旦那さまが出かけると言ってきかないのです」
「なんですって? エドガー、安静にしてなきゃならないのはわかってるでしょう? そんなに暴れて、また傷が開いたらどうするの?」
メイド頭と執事の間をかきわけ、リディアはエドガーに近づく。
「子供じゃないんだから、じっと寝てなさい!」
圧倒されたように、エドガーは頷《うなず》く。
「でもリディア、きみに会いたかっただけなんだ」
「いつでも会えるじゃないの」
なんて世話がやける人なのかしら。あきれながらリディアがため息とともに吐《は》き出せば、エドガーは捨てられた子犬みたいな目でこちらを見た。
「本当に?」
暴君《ぼうくん》みたいに横柄《おうへい》で、とんでもないことを実行してしまうかと思うと、ときどきこんなふうに気弱な態度を見せたりする。
トムキンスが引いてくれた椅子《いす》に腰掛けながら、リディアはしかめっ面《つら》をつくる。
「あなたが無茶をしなければね」
執事とメイド頭は、そっと部屋を出ていく。
エドガーはリディアの一挙一動《いっきょいちどう》を見|逃《のが》すまいとするようにこちらを見ていたが、いつもみたいに身を乗り出して距離を詰めようとはしなかった。
「そんなに怖い顔しないでくれ」
「だって、びっくりするじゃない。昨日やっと熱が引いたところなのよ」
「ごめん」
素直にあやまるけれど、困惑《こんわく》しているように見える。
サイドテーブルに置いたままの薬に、リディアは目をやる。
「薬、飲んでないの?」
「どうせ大して効かない」
「だめよ、効くと思えば効くんだから」
「きみが飲ませてくれたら効くかも。口移しで」
ちょっといつもの調子になる。が、リディアもつい、いつもの態度になってしまった。
「ふざけないで」
「……飲むよ」
これじゃあ、彼のことを責めてるみたいだ。
エドガーが寝込んでいる間も、今朝ここへ来るまでも、リディアはもっと別のことを考えていた。
ちゃんと話したいと思い、居《い》ずまいを正す。
「ねえエドガー、聞いてほしいことがあるの」
「ああそうだ、リディア、お礼を言うのを忘れてた。懐中時計《かいちゅうどけい》……、ありがとう。大切にするよ」
「あれ、気づいてくれてたの」
すっかり忘れていた。
「最高にステキな贈り物だよ。これからずっとふたりの時を刻んでくれる……。メッセージに込められたきみの気持ちがうれしかった。結婚のこと、なかなか実感してくれないって言ったけど、そんなことなかった。ちゃんときみは、生涯《しょうがい》そばにいてくれるつもりなんだってわかったから」
結婚するのだから当たり前のことなのに、エドガーはやけに感慨《かんがい》深く言う。
「どうせなら、あのときにリズがきみだってことも気づくべきだった。思い出せば悔《くや》しいよ」
「それはいいのよ」
「よくないよ。あのとき僕は、大切な言葉をもらったのに」
好きと言ってしまったのだった。
「もういちど、聞かせてくれるとうれしいんだけど」
ドキリとし、リディアは赤くなってうつむく。どうしよう、と思うけれど、やっぱり、リディア≠フままでは言えそうにない。
「あの……エドガー、それよりあたしの話を……」
けれどリディアは話を戻そうとすると、エドガーはあせりを浮かべた。
よけいなことをしゃべらせまいとするように、急に口をはさむ。
「わかった! 無理に言わなくてもいいんだ。きっと僕と同じ気持ちでいると信じてるから」
「……それでね」
「外出できるようになったら、行きたいところある? たまには社交抜きで、ふたりで出かけたいな」
「どうして話をさえぎるの?」
あまりにも不自然だと問う。すると、エドガーは深くため息をつき、金色の髪の毛に指をうずめた。
やがて思い切ったように顔をあげる。
「あのね、リディア。たしかに僕は、色々ときみにつらい思いをさせた。でも心から反省してる。これからは、困らせるようなことはしない。……あんなふうに、強くせまったりしない。結婚までちゃんと待つ。日取りだってあせらない。何でもきみの言うとおりにするから」
「ええ、だからあたしの話を……」
「でもそれだけはいやだ」
「え」
「きみの願いなら何だってかなえてみせる。でも別れ話は聞かない。死んでも聞かない」
「別れ話? な、何言い出すの?」
驚くリディアの顔を、彼はじっと覗《のぞ》き込んだ。
「……違うのか? だって、僕は」
それから両手に視線をおろす彼は、宝剣に変化を促《うなが》してしまったことを思い浮かべている。たとえ巨人を倒せても、リディアの心境に変化が起こるかもしれないと考えていたのだろうか。
リディアは、彼が見つめる手に手を重ねた。
「ありがとう、エドガー」
助けに来てくれて。それから。
「あたしを好きになってくれて、ありがとう。だから、早く……式を、挙げましょう」
リディアにとってはそれだけ言うのが精一杯だったが、気がつけば彼の腕の中にいた。
「本当に?……婚約を、後悔《こうかい》してない?」
「するわけないじゃない」
「ああ、リディア、よろこんでくれるなら、もっと好きになるよ」
「えっ、もうじゅうぶんよ」
「今すぐ教えようか? どれほどきみのことを愛しているか」
耳元でささやき、抱き寄せる腕に力を込めるから、リディアはさすがに危険を感じた。
「ちょっと、たった今ちゃんと待つって言ったじゃない」
「しまった」
って、うれしそうに言うのってどうなの。
本当に、どうしようもない人。
そうして彼は、ふざけているかと思うと、ふとまじめな口調《くちょう》になったりする。
「リディア、考えていたんだけど、式を挙げる前に、きみの母上の墓前《ぼぜん》を訪ねたいんだ」
「母の? お墓参りをするの?」
「そうだよ。きみとの結婚を、きちんと母上にも報告しておきたい。この先僕は、マッキール家を無視することになるかもしれないけど、許してもらうしかないから」
たぶん、母の故郷や予言者とのかかわりを断ち切るために。
「そうね。あたしもまだ、母さまに結婚を報告してなかったわ」
顔をあげたリディアを見つめ、いつものようにやわらかく微笑《ほほえ》む彼は、純粋《じゅんすい》に結婚のことだけを考えているように見えた。
その胸に秘めていることも、マッキール家を無視するのではなく敵視しようとしていることも、まだ何も知らないまま、リディアは、エドガーが無事だったことを心から神に感謝していた。
[#改ページ]
あとがき
お待たせしました本編です。
前回は短編集でしたが、そこに入れました書き下ろしの一編からつながっております。
……というよりも、その一編を予備知識にしていただくとより楽しめる、という感じでしょうか。
ハイランド、そしてヘブリディーズ諸島などというと、ロンドンみたいな大都市とは違い、読者のみなさまにはなじみの薄い土地かもしれません。
ということもあって、そのあたりの地方については、リディアのお母さんの話として前回の文庫で書きました。
今回の本編ではまだ、直接ハイランドは関係はありませんが、背景にあるイメージを少しでもつかんでもらえる手がかりになっていればいいなと思っております。
英国も北方の島々になりますと、かつてはノルウェー領だったりすることもあってか、妖精もケルトと北欧《ほくおう》の伝説が混ざっているような印象を受けます。
北欧では、トロールという巨人の怪物(?)が有名ですが、英国のトローという呼び名と少し似ていますよね。
トロールといえば、トールキンの『指輪物語』では恐《おそ》ろしい巨人として登場していました。映画の『ロード・オブ・ザ・リング』でも原作通りに描かれていましたから、思い浮かぶかたもいるでしょう。
一方で私は、『ムーミン』を思い浮かべます。正確には彼の名は、ムーミントロール≠ナすからね。
でもムーミンには巨人というイメージはないし、おだやかな森の精霊《せいれい》という感じです。
ひとくちにトロールといっても、きっと色々な言い伝えがあるのでしょう。
そういえば私は、アラビア社のムーミンシリーズのマグカップを集めているのですが、(てなことを以前にどこかで書いたような気がしますが、)先日、ついにニョロニョロのカップを発見しました!
なかなか発売されなかったのか、売り切れたまま欠品になっていたのかわかりませんが、大好きなニョロニョロの図柄《ずがら》がないのがずっと気になっていたのです。
北欧系の輸入雑貨屋さんで見つけて、即《そく》購入。
ここではお見せできないのが残念ですが、ニョロニョロたちがお茶をしている図柄は、何ともいえない違和感《いわかん》があってかわいいのですよ!
あっと、話がそれてしまいました。
ええと、つまり英国のトローにしても、恐ろしい存在もいれば、まあそう悪くはないものもいるようだということです。
トローのほかにもいろいろ、巨人にまつわる伝説は、英国の至るところにあります。
呼び名も地域によりますし、タイプもさまざま。凶暴《きょうぼう》なものも心やさしいものもいれば、大きささえも、巨人といいながら、ふだんは小さな妖精の姿をしていることもあります。
もともと妖精は、古い時代の神々が小さくなってしまったもの、といわれていますから、現在の姿はどうであれ、昔は大きかったということなのでしょうか。
ともあれ、本編をお楽しみいただけたならうれしいです。
いつものことながら、高星《たかぼし》さまには美麗《びれい》なイラストを描いていただいております。
このごろわりと、リディアとエドガーとのほのぼのした場面も増えてきたのではないかと、イラストを眺《なが》めつつ感じました(笑)。
以前のリディアは怒ってることが多かったですからねー。
ずいぶん素直になりましたよ。
結婚に向けて、ますます幸せそうなふたりを描いていただける……かどうかはストーリーの展開次第かもしれませんが、新キャラも含め、これからもいろんなイラストを見せていただけるのを、読者のみなさまとともに楽しみにしたいと思います。
それではみなさま、ご愛読をありがとうございました。
またいつか、ご縁《えん》がありましたなら、この場でお目にかかれますように。
二〇〇七年 十一月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 紅の騎士に願うならば」コバルト文庫、集英社
2008(平成20)年1月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年10月21日作成