伯爵と妖精
紳士の射止めかた教えます
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)煙水晶《スモーキークオーツ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)|小夜鳴き鳥《ナイチンゲール》
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(例)[#改ページ]
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目次
コウノトリのお気に召すまま
紳士の射止めかた教えます
学者と妖精 この世の果ての島
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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コウノトリのお気に召すまま
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あなたの子供です。大切に育ててください
それは、騒々しい一日のはじまりだった。
ロンドンでも屈指《くっし》の高級住宅地、メイフェアにあるアシェンバート伯爵邸《はくしゃくてい》、その玄関前に、バスケットに入った赤ん坊が置かれていたのだ。
そえられていた手紙には、ったない字でそのように書かれ、幸福をもたらすというコウノトリの羽がはさんであった。
しかしまだ、この件に関して召使《めしつか》いたちの疑いの目を一身に受けている伯爵その人が、どうやって婚約者≠ごまかそうかと考えているかなど知らないまま、いつものように邸宅《ていたく》に出勤したリディアは、いつものように自分の仕事部屋へまっすぐに向かっていた。
彼女は、この伯爵家の顧問《こもん》妖精博士《フェアリードクター》だ。
妖精国《イブラゼル》伯爵の称号を持つエドガー・アシェンバートに雇《やと》われている、妖精の専門家だ。
古くから妖精とかかわりを持っていた伯爵家に与えられた英国の領地には、妖精族の住民も多く、人間と妖精との間に摩擦《まさつ》や誤解が生じやすい。そんなとき、両者の間に立って問題を解決するのがフェアリードクターの仕事なのだ。
まだまだ半人前だが、フェアリードクターの仕事に誇《ほこ》りを持っている少女は、もちろんこの伯爵邸へは仕事のために通っているのであって、エドガーの遊び相手をするためではなく、もちろん彼の婚約者≠ナもない。
なのにあの若い伯爵は、リディアと結婚すると断言している。
プロポーズは断ったはずだが、あきらめないと言ったまま、顔を合わせれば口説《くど》こうとし続けているのだから困ったものだ。
今朝《けさ》も彼女は、廊下《ろうか》でばったりエドガーに会ったりしないよう、警戒《けいかい》しながら足を速めた。
しかし、応接間の前を通りかかったときだった。レイヴンの姿がちらりと見え、彼女は立ち止まった。
褐色《かっしょく》の肌のその少年は、エドガーの従者《じゅうしゃ》だ。陽当《ひあ》たりのいいテラスがわの椅子《いす》に腰かけたまま、ひざに乗せたバスケットを微動《びどう》だにせず覗《のぞ》き込んでいる。ほんの少しでも動いてはいけないと思い込んでいるかのようだ。
いつも無表情で、感情を見せることのない少年だが、かすかに困惑《こんわく》しているようにも見えたから、リディアは戸口から様子を眺《なが》めた。
エドガーの命令なら、どんなことでも黙《だま》って従うのがレイヴンだ。何か理不尽《りふじん》なことでもさせられているのではないだろうか。
「おはよう、レイヴン」
リディアが声をかけると、勢いよく彼は顔をあげた。驚いたのかもしれない。
「ねえ、何を大事そうにかかえてるの?」
ひざから落ちそうになったバスケットを、あわててかかえ直す彼に歩み寄ろうとする。
「いけません、こちらへ来ないでください」
「え? どうしてなの?」
「あなたに見せてはいけないと、トムキンス氏に言われています」
「なあに、危険なもの?」
「そんなことはありませんが……」
見てはいけないと言われればますます見てみたい。執事《しつじ》の指示なら、レイヴンにとってエドガーの命令ほどには絶対ではないだろう。
レイヴンがバスケットの中身に視線を落とした隙《すき》に、リディアはさっと近づいた。
覗き込むと、小さな赤ん坊がすやすやと眠っていた。
ほとんど色素のない、白っぽい髪が小さな頭を覆《おお》っている。顔つきはふっくらとして愛らしい。
「まあ、赤ちゃんじゃない。かわいい」
結局レイヴンは、リディアの視界から赤ん坊を隠《かく》そうとはしなかった。むやみに動いて、起こしてしまうことを恐れたからだろう。
だからリディアはさらに近づいて、頬《ほお》をゆるめながら、思う存分赤ん坊を眺めた。
なぜ見てはいけないのかという疑問は忘れていた。
まつげがかすかに動くと、ほんの少し目をあける。リディアを見て、安心したようにまた目を閉じる。微笑《ほほえ》んでいるようにも見える。
「でも、どこの子なの?」
少し悩み、たぶんうそのつけないレイヴンは、正直に答えた。
「玄関前に置かれていたんです」
「ええっ、捨て子?」
「いえ、あの……わかりません」
なんだか妙《みょう》に歯切れが悪い。
ふとリディアは、バスケットの隅《すみ》に紙切れを見つけ、何の気なしに手に取った。
それにはこう書かれていた。
あなたの子供です。大切に育ててください
これって……まさか。
手紙には署名もなく、あなた≠ェ誰のことなのかわからない。けれどこの屋敷にはエドガーのほかには召使いしか住んでいない。
たとえ男性召使いを全員含めて考えても、ついでに両隣のお屋敷まで含めても、もっとも可能性のありそうなのはあいつだった。
「か、隠し子なの? エドガーの?」
まぎれもなく彼は、女好きでタラシだ。
口がうまくて女心をつかむのもうまい、美貌《びぼう》の青年貴族とあってはもてないわけがなく、複数の女性とスキャンダラスなつきあいをしていたらしいことは、噂話《うわさばなし》に疎《うと》いリディアでも知っている。
でも、隠し子だなんて。
「信じられない、無責任だわ!」
思わずリディアが声をあげると、レイヴンが「すみません」とつぶやいた。
「どうしてあなたがあやまるのよ」
「私のせいで、リディアさんを怒らせたようですから」
「あたしはべつに怒ってないわ。ただ無責任だって言ってるの!」
「すみません」
「あなたじゃなくてエドガーがよ! だってそうでしょ、子供まで作っておきながら、その人と別れて他の女性を口説いたりつきあったりするなんて信じられない。きちんと結婚すべきよ。でなきゃ子供がかわいそうじゃない!」
「じゃあリディア、早く結婚しようよ」
「は?」
突然割り込んだ声に、熱く力説した勢いのままテラスのほうを振り返ったリディアは、問題の無責任男を見つけてますます頭に血がのぼった。
「エドガー! あなた、ことの重大さをわかってるの?」
なにしろ彼は、いつもの不敵な笑《え》みを浮かべ、嫌味《いやみ》なくらいまぶしい金髪を朝の陽射《ひざ》しにさらしながら、テラスのガラス戸に片手をついて立っていた。
モスグリーンのネクタイも、チャコールグレーのモーニングコートも品よく似合っていて、朝っぱらから完璧《かんぺき》ないでたちだ。
「わかってるよ。だから早く結婚しよう」
さっとこちらに近づいてくると、リディアの手を取ってキスをした。
このあいさつにはいつまでたっても慣れない。ただのあいさつというには、熱い瞳《ひとみ》で見つめるからだ。
しかし今は、そんなことよりも隠し子だ。こちらを混乱させて、うやむやにしようったって、ごまかされるもんですか。とリディアは反論する。
「相手を間違ってるわ。求婚しなきゃいけないのは、この子の母親によ」
「だからそうしてるじゃないか」
「な、何言ってるの?」
襟《えり》に挿《さ》してあった羽を取り、エドガーはリディアの手を両手で包むようにして握《にぎ》らせる。
「リディア、僕たちの赤ん坊だよ。あわてんぼうのコウノトリが、届ける時期を早まったみたいだけど、いずれ結婚するのだから問題ないよね」
「……コウノトリ?」
「うん、バスケットの中に、このコウノトリの羽が入ってたんだ。僕たちが夫婦になるってことは、コウノトリも認めてるくらいゆるぎない運命だってことだよ」
たしかにそれは、コウノトリの羽ではあるようだった。が。
「ふたりで、大切に育てよう」
絶句しつつ、エドガーの顔をうかがったが、やわらかく微笑んでリディアを見つめる彼は、あくまでもうれしそうだ。
やさしく握られた手と、いつになくあたたかい印象の灰紫《アッシュモーヴ》の瞳から逃《のが》れられずに、リディアはくらくらとした。
そうだったの。コウノトリが、あたしたちの未来の赤ちゃんを運んで来ちゃったのね。
……なんて思うわけがない。
「バ、バカにしないで! コウノトリが子供を運んでくるわけないでしょ!」
「そうなのか? 知らなかったなあ」
あっけらかんと言ってのける。しらじらしいにもほどがある。
「だったら、赤ん坊はどこから来るのさ」
「えっ、そ、そんなこと……」
からかわれてる、とは思っても、顔が赤くなってしまうのはどうしようもなかった。
「ねえリディア、おしえてくれ」
完全におもしろがっている。
握られたままの手は離してくれないし、うろたえながら顔を背《そむ》けても覗き込もうとする。
「ちょっと、……離してちょうだい」
「どうして?」
どうしてって。
「あんまり見つめ合ってると、またコウノトリが来てしまうかな?」
こいつってば、もうどうしようもない。
「きみとの子なら、何人でもうれしいけどね」
「エドガー、その子があなたの赤ん坊でも、あたしは関係ないわ! ふたりで育てよう? どうかしてるわよ。あなたがそこまでいいかげんな人だったなんて、……知ってたけど、ううん、とにかく見損《みそこ》なったわ! それにあたし、絶対に結婚なんてしませんから!」
どうにか手を振りほどいたときだった。
「ボクが迷惑《めいわく》なのか? 母ちゃん」
母ちゃん?
振り返ったリディアは、声の主をさがしてゆっくり部屋の中を見まわし、やがてレイヴンがかかえているバスケットに目をとめた。
そこから、赤ん坊が顔を出してこちらを見ている。とうてい言葉をしゃべれるとは思えないような幼さだ。ありえないと、目をそらそうとするが、それはまた口を開いた。
「結婚しないなんて言わないで。おねがいだよ、母ちゃん」
あきらかに、リディアに話しかけている。
そのうえ赤ん坊は、よっこらしょとバスケットをまたぎ、レイヴンのひざから床にぴょんと飛びおりた。
フリルのたくさんついた白い産着《うぶぎ》は、そでが黒いリボンで縁取《ふちど》られている。ふわりとめくれたすそをなおしながらも彼は、しっかりと二本の足で立っていた。
「な、なんなのあなた」
「母ちゃんの息子さ」
めまいをおぼえ、ふらついたリディアは、エドガーに抱きとめられたが、突き放す力もでなかった。
「ああ、驚かないでよ。ボクまだ、この世に生を受けてなくて、コウノトリの精として暮らしている身なんだ。だから母ちゃんがボクのこと知らなくても無理はないんだ」
「コウノトリ……?」
よくよく見れば、赤ん坊の背中には小さな翼《つばさ》があった。服の飾りかと思ったが、ぱたぱたとせわしなく動く。まだ未熟《みじゅく》な雛鳥《ひなどり》の翼にも似たそれは、白い羽毛《うもう》に覆われているが、先端には風切《かざき》り羽《ばね》の黒がまじる、まさしくコウノトリのものだ。
「うん。人の赤ん坊は、この世に生まれる前はコウノトリの妖精なんだ。コウノトリたちと空を飛んで、人間界の様子を学ぶためだってさ」
「ほ、本当なの?」
「みんなそう言ってる」
しかしリディアは、にわかには信じられなかった。
妖精の世界は奥が深いし、まだ半人前のリディアに知らないことがあっても不思議はないが、コウノトリの妖精が、人間の赤ん坊ほど数が多いとはとても思えない。
「じゃあ、僕の隠し子じゃなかったのか」
エドガーが、ほっとしたようにつぶやいた。
あなたやっぱり、心当たりがあったんじゃない。
ますますリディアは脱力する。
「でもリディアの将来の子どもなら、僕の子でもあるわけだよね」
隠し子がいるかもしれないような男が、ずいぶんずうずうしい。さらにずうずうしいことに、彼はまだリディアをかかえ込んだまま離してくれない。
そんなエドガーの方を見あげ、赤ん坊は小さく首を傾《かし》げた。
「どうかなあ。母ちゃんが誰と結婚するのか、まだわかんないわけだし」
「えっ、とすると、きみの母親は決まってるけど、父親は決まってないってことなのか?」
「そうだよ。だから、もし母ちゃんが恋する気持ちを失ってしまったら、ボク、この世に生まれることができないんだ」
急にせっぱつまった顔になって、彼は小さな両手を祈るように組み合わせた。
「仲間が教えてくれたんだ。ボクの母ちゃんはひどい男性不信で、このままでは結婚できないかもしれないって。だったらボクが、母ちゃんを説得しなきゃと思って……」
「男性不信って、あ、あたしはいいかげんなこの人と結婚する気はないだけで」
「じゃ、ほかの人となら結婚する?」
とたん、リディアを離したエドガーは、赤ん坊をさっと抱きあげ、部屋の片隅《かたすみ》へ連れていった。
「ねえぼうや、リディアは僕の婚約者だ。ほかの男が彼女の気を引こうなんてしたら、徹底的に蹴散《けち》らすからね。つまりね、こういうことだ。彼女が僕を好きにならないと、きみは生まれてくることができない」
飾り台の上に立たせ、顔を近づけて力説、いや、なかば脅《おど》す。
「ちょっとエドガー、勝手なこと言わないで」
「そこでだ。僕たちは協力すべきだと思わないか? きみはリディアに結婚してほしい。僕はリディアと結婚したい。利益が一致するじゃないか」
リディアにかまわず、エドガーは続けた。
「……うん、そうだな」
納得《なっとく》しないで。
「まずね、僕以上に立派《りっぱ》な父親は考えられないと思うよ。きみはアシェンバート伯爵家《はくしゃくけ》の跡継《あとつ》ぎになって、何不自由なく暮らせる。リディアが僕と別れてどうしようもない男に引っかかったりしたら、母子ともども不幸になってしまうんだよ」
よく言うわとリディアは思う。こいつこそ、どうしようもない男の代表ではないか。
しかし、タンポポの綿毛《わたげ》みたいな髪をゆらして、小さな男の子は神妙《しんみょう》に頷《うなず》いた。
「それはいやだよ」
「じゃあ決まりだ。僕を父親と認めて、理想的な父子の関係をリディアに見せつけるんだよ。そうすればリディアも、未来の子供のために結婚すべき相手は僕だって気づくだろう」
「わかったよ、父ちゃん」
ええっ、ちょっと待ってよ。
「お父さま、だよ。貴族らしくね」
「うん、とうちゃ……じゃなくて、お父さま」
「ねえ、それより本当に、あたしが母親なの? どうしてあたしだってわかるのよ」
リディアには、まずそこが信じられない。
「わかるよ。ひとめでぴんときたもん」
そんないいかげんな。
「この家にいるってことは聞いてたし、間違いないよ、母ちゃん」
「リディアのことはお母さまと言いなさい」
「はーい、お母さま」
「いい子だ。とりあえずきみのことは、ティルと呼ぼう。ティルダーストン子爵《ししゃく》、僕の持つ爵位のひとつで、我《わ》が伯爵家の長男につく儀礼称号だよ」
「わあっ、かっこいい名前じゃん!」
なんだか彼もすっかりその気だ。
エドガーは、やさしく赤ん坊の頭を撫《な》でると、リディアの方に振り返った。
「さて、さっそくだけどこれから親子でピクニックにでも行かないか? 幸せな家族を実感するために」
「行かないわよ、あたし忙しいの」
「気難《きむずか》しいお母さまだ。ティル、きみからもお願いしてみなさい」
再び抱きあげたティルを、エドガーはリディアに押しつけた。
落とさないように抱きとめるしかなかった。
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まだ人間ではないから、この重さも、やわらかくてあたたかい感触も錯覚《さっかく》だ。そう思っても、本物の赤ん坊のようだった。
少し恥《は》ずかしそうに微笑《ほほえ》んで、赤ん坊の妖精は、リディアにぎゅっとしがみついた。
「お母さまっていい匂《にお》いがするな。夢に見たとおりだ」
そんなふうに言われてしまうと、人違いだなんて口にできない。
「行こうよ、お母さま」
「でも、あのね……」
「やっぱり、ボクなんていらないのか?」
大きな青い瞳《ひとみ》が、じわりと涙でうるむものだから、リディアはあわてた。
「いえ、もう、行くわ。ピクニックに行きましょう!」
「レイヴン、出かける用意を」
間髪《かんはつ》をいれずにエドガーが言った。
バスケットをかかえたまま、黙《だま》ってなりゆきを見守っていたレイヴンは、はじかれたように立ちあがった。
*
エドガーのことは、けっしてきらいなわけではない。見ため以外にもいいところはある、とはいちおうリディアも認めている。
妖精とばかり親しくしてきて、周囲の人たちには奇異の目で見られてきたリディアにとって、フェアリードクターとしての能力を認めてくれたのは純粋にうれしい。
生まれてはじめてのプロポーズをしてくれた人だし、こんなことは最初で最後かもしれないと思えば、かすかにときめかないわけではなかった。
けれど、どうしても、彼が本気で自分を想《おも》っているとは信じられないのだ。
たくさんの女性をとっかえひっかえしていたエドガーにとっては、きっと恋なんてすぐさめるもの。恋愛感情よりも、伯爵家にとって重要な役目をになうフェアリードクターを、一生この家につなぎ止める手段にしたいというのが本音ではないだろうか。
妖精国《イブラゼル》伯爵の称号を得ても、エドガーには妖精と接する能力がない。妖精に関して、すべてリディアに頼っているからには、ただの雇用関係では心もとないというだけだろう。
だからリディアと結婚するために、エドガーが女友達[#「女友達」に傍点]とは手を切った≠ニ宣言しても、とうてい信じられない。
なにしろ、ほんの数日前にリディアは、彼がとある女性と深刻な話をしているのを聞いてしまっていた。
『あたし、もてあそばれたんですね』
エドガーの書斎《しょさい》の前を通りかかったときだった。聞き捨てならない言葉が聞こえ、リディアはつい立ち止まったのだった。
若い女性の声だった。
『そんなわけないじゃないか。ただね、恋の花はいつまでも咲き続けるわけじゃない。美しい時間を過ごせたなら、色あせてしまう前に別の恋を見出《みいだ》した方がお互いのためってこともあるんだよ』
口先でまるめこもうというようなそのせりふも声も、会話の相手はエドガーに間違いなかった。
『やっぱり、あたしが下層の娘だからですか? 身分は関係ないなんて言葉を、信じちゃいけなかったんですね……』
『人を好きになるのに身分は関係ない。でもきみを大事に思えばこそ、別れるしかないってことなんだ。愛妾《あいしょう》なんて立場にしたくないからだよ。わかってくれるね?』
あ、愛妾?
露骨《ろこつ》な言葉にショックを受けながらも、さすがにこんなことを聞いていてはいけないと思い、リディアは急いでその場を離れようとした。が、勢いよくドアの開く音がしたかと思うと、メイド姿の少女が顔を覆《おお》いながら駆《か》け出してきた。
リディアの姿に気づき、あわてて顔を背《そむ》けた彼女は、はじめて見る顔だったから、新入りのハウスメイドだろうか。
召使《めしつか》いにまで手を出すなんて、とあきれたリディアは、時間が経《た》つにつれだんだん腹立たしくなってきたのだった。
本気だと言って口説《くど》いても、すぐに飽きて気が変わるなら、遊び半分、もてあそんだも同然ではないか。
リディアにも気のあるそぶりを見せるエドガーだが、プロポーズも何もかも、きっと一時の気まぐれだ。本気にしたら、悲惨《ひさん》な目にあうに違いない。
あらためてそう自分に言い聞かせたリディアは、エドガーには毅然《きぜん》とした態度でいようと心に誓った。
なのに。
ティルが現れたために結局エドガーの思うままだ。
どうしてこうなるんだろうと、あきらめに似た境地で、隣にいる彼をちらりと見る。
ずっとこちらを見ていたのか、すぐに目が合う。
きたない鉄錆《てつさび》色なんて言われる髪のリディアにはうらやましいほどの、明るい金髪が目の前で風になびく。
にっこりと微笑むエドガーは、リディアを眺《なが》めることで幸福を感じているとでもいうそぶりだが、この、いかにも気が強そうだといわれるかわいげのない容姿のどこを見ているのだろうか。
「気持ちのいい陽射《ひざ》しだね。小鳥のさえずりも、僕たちを祝福《しゅくふく》してくれているかのようだ」
木陰《こかげ》に広げたブランケットに腰をおろし、彼は親しげな距離でリディアにささやいた。
いつのまにか、手を重ねられている。
「あのね、エドガー、あの子を利用するのはやめない? 先のことなんてわからないし、本当にあたしが母親になるのかどうか疑問だわ。それに、まだ人間じゃないんだもの、自分の居場所に戻るべきよ」
「僕たちが仲のいいところを見せつければ、ティルは安心して帰るよ、きっと」
さらにリディアに寄りそう不届き者から、逃れることはできなかった。ティルの前では、いつものようにエドガーを突き放すわけにいかないからだ。
「彼のためにもさ、僕といっしょにいて楽しいって気持ちになってくれないか?」
しかたないわね、なんて少しでも気を許したらつけ込まれる。
わかっているのに、やわらかな木漏《こも》れ日《び》がちらちらとゆれると、こちらを見つめる灰紫《アッシュモーヴ》の瞳も微妙に色が変化して、リディアは心乱される。
郊外《こうがい》の森を奥へ進んだところにある、小さな湖のほとりは、本物の恋人どうしなら、ロマンティックな気分に浸《ひた》れることだろう。
ヒルベリーの茂《しげ》みにまぎれ、けぶるように咲く薄黄色の小花が目を楽しませてくれる。深い緑色をした湖は雑木《ぞうき》に囲まれ、枝葉や草花が映り込んで、都会の公園にはない神秘的な雰囲気《ふんいき》をたたえている。
ロンドンからはほど近く、ちょっとしたピクニックには最適だ。
以前にも、ここへ女性を連れてきたことがあるんでしょ? なんて意地悪な疑問が浮かぶが、リディアはどうにか胸の内にとどめた。
蝶《ちょう》を追いかけて、ティルが楽しそうにあたりを駆け回っている。ここでエドガーとケンカをすれば、彼は帰ろうとしなくなるだろう。
しかしリディアがおとなしくしているとなると、調子に乗るのがエドガーだ。
「このところ、ふたりで過ごす時間がなかったね」
「毎日顔を合わせてたじゃない」
「出かけるのは久しぶりだよ。雑事が多くて時間がとれなかった。でもね、きみのことをないがしろにしてるなんて思わないでくれ」
「べつに、どうでもいいもの」
「今日はたっぷり埋《う》め合わせするから、あまえてくれていいよ」
そんな危険なことできるものですか。
しかし彼は、ティルがこちらを見たタイミングをねらったかのように、リディアの帽子《ボンネット》をはずし頭にキスをした。
「ティル、おいで。ランチにしよう」
軽いキスなんて日常の一部とでもいうふうにさらりとした態度で、小さなティルを呼ぶ。
「はーい、お父さま」
駆け寄ってきたティルは、リディアに白い花を差し出した。
「そこの茂みに咲いてたんだ。きっとお母さまは好きだと思って」
愛らしいスズランの花。少々早咲きなのは、ティルが妖精の魔法で咲かせたのだろうか。もちろんきらいじゃないけれど、むしろティルが好きな花なのだろう。そう思いながら、リディアはエドガーのせいで仏頂面《ぶっちょうづら》になっていたのをあわてて微笑みに変えた。
陽なたの明るい場所に、レイヴンが簡易テーブルと椅子《いす》を並べている。クロスをかけたテーブルには、ピクニックバスケットから取りだしたまっ白な皿とグラスが並べられ、葡萄酒《ぶどうしゅ》が注がれる。
リディアの手を取って立たせると、エドガーは慣れた動作でテーブルヘエスコートする。
小さなティルのためには、椅子の上にクッションが重ねられ、レイヴンがそっと抱きあげて乗せた。
コールドミート、ハーブ入りソーセージにチーズ、ピクルスにニシンのオイル漬け、色鮮やかなスグリのジャムやハチミツ。めずらしいのか、テーブルの上をティルは楽しそうに眺めている。
「ねえお母さま、これ何?」
やはりお母さまと呼ばれるのは奇妙《きみょう》な気分だが、ティルに屈託《くったく》のない笑顔を向けられ、リディアはまたどうにか微笑んだ。
そうよ、この子を安心させれば、仲間の所へ帰るはず。本当に母親であってもなくても、今のリディアにできるのはそれだけだ。
「焼きリンゴよ。食べてみる?」
「ううん、ボクまだ人間じゃないから、ミルクだけにする」
両手でグラスを握《にぎ》りしめ、とてもおいしそうに口をつける。
「ボクもはやく生まれてきて、お父さまとお母さまと同じ料理を食べてみたいな」
「そうだね。きみが生まれてきたら、また三人でここへ来よう。ねえリディア」
「え? ええ……」
「ホント? 楽しみだなあ。今日のことをおぼえていられないのが残念だけど」
ほんの一瞬、ティルは淋《さび》しそうな顔になった。そんなときは来ないかもしれないと、やはり不安がぬぐえないのだろうか。
「……あたしたちがおぼえてるわ」
リディアは、彼を安心させるためにそう言った。
すると、むしろエドガーがうれしそうに相づちを打つ。なんだかやっぱり、彼の策略《さくりゃく》にはまっている。
「それでリディア、結婚式はいつにする?」
「は?」
「ほら、婚約しただけでまだ何も決めてなかったけど、早く結婚したくなってきたな。せっかくだから、ティルの前で日取りを決めるってのもいいんじゃないか?」
「そ、それはね……」
ティルが期待を込めた目でリディアを見るから、エドガーのやり方が頭にきつつも、引きつった笑いを浮かべるしかない。
「エドガー、まずは食事をしましょ!」
ティルが帰ったら、おぼえてなさい。
こっそりエドガーをにらみつけながら、リディアはグラスを口に運んだ。
見あげれば、うっすらと青い空を雲が流れていく。エドガーの思惑《おもわく》を除けば、とてもおだやかなピクニックだ。
エドガーさえ視界に入らなければ、いつだって平和なのに……。
そう思ってみても彼女は、これまでずっと、エドガーから目を離すことができずにきた。
どうしてなのか、わかっているような気がしても、認めたくない。
木々の上を風が通っていく。杏《あんず》の花びらが舞うのを眺めていると、急にいたずらな風が起こり、リディアの帽子《ぼうし》が吹き飛ばされた。
ふわりと舞いあがり、すみれ色のリボンが木の枝に引っかかる。
「やだ、あんなところに」
すぐに取りに行こうとしたのはレイヴンだったが、彼を止めてエドガーが言った。
「大丈夫、僕らが取ってきてあげよう」
「え、僕らって?」
「ティル、お母さまのために手伝ってくれるね?」
元気よく頷《うなず》いたティルを、エドガーはひょいと抱きあげた。
片手で軽々と赤ん坊をかかえれば、いつになく男の人っぽく見えた。
細身な彼は、優雅《ゆうが》で貴族的な印象が強い。言葉ひとつで人を動かし従わせる、君主的な資質には感心もするけれど、もっと身近で素朴《そぼく》な男らしさとは無縁のような気がしていた。
恋人扱いもあまい言葉も、いつもリディアを緊張《きんちょう》させるものだ。こんなふうに、ほっとできる男らしさを感じたのははじめてではないだろうか。
小さくてかよわい存在を、ちゃんと守って育《はぐく》んでいける人?
何を考えているのかしらと、リディアはあわてて深呼吸する。
エドガーは、帽子が引っかかっている枝の下まで歩いていくと立ち止まった。そうしてティルを肩に乗せる。
「どう? 手が届くかい?」
「うーん、もうちょっと」
ティルは肩の上で立ちあがる。足をすべらせたらたいへんだ。
リディアは、彼が妖精だということを忘れてはらはらする。
「ねえ、もういいわ。エドガー、やめさせて」
「がんばれ、ティル」
「あ、届きそうだよ」
小さな手が、リボンの端《はし》をつかんだときだった。彼の体がぐらりと傾《かたむ》いた。
「きゃあっ、あぶない!」
落ちるかと思った。
リディアは椅子を蹴《け》って立ちあがる。しかしエドガーの手は、落ちそうに見えたティルの体をしっかりとつかんでいた。
つかんだまま、くるりと振り回す。そうされて、ティルが笑い声を立てる。かかえられたまま、空を飛ぶかのようにくるくる回されて、怖がるどころかおもしろがっている。
逆《さか》さまにされてもよろこぶ。エドガーが自分を落としたりしないと信じ切っている。
[#挿絵(img/smoky quartz_035.jpg)入る]
ようやく地面におろされても、ティルは飛ぶには役に立たない貧弱《ひんじゃく》な羽をぱたぱたと動かしながら、まだ愉快《ゆかい》そうに笑っていた。
「エドガー……、何をするの? 怪我《けが》でもしたらどうするのよ!」
「大丈夫だよ。ちゃんとつかんでたし」
「落ちかけたじゃない!」
「冒険するには、危機を体験して乗りこえないとね。さあティル、心配性のレディに帽子をお渡しして」
リディアのところまで駆《か》け寄ってくると、彼は胸を張って帽子を差し出した。
「はい、お母さま」
その顔つきは、小さな冒険を成《な》し遂《と》げた少年だ。危険を冒《おか》して得た成功を誇《ほこ》りに思っている。
「ありがと……」
抱きしめてやりたくなったけれど、リディアには、屈託《くったく》なくそんなふうにすることができなかった。
彼を認めてしまえば、エドガーのことも未来の夫だと認めることになってしまいそうで。
エドガーとティルが、本物の父子のように見えてしまったから。
エドガーは、リディアが思っているよりもずっとまじめに結婚を考えていて、ステキな家庭をつくれるのかもしれないなんて、勘違《かんちが》いしてしまいそうだから。
遊び疲れて草の上で眠ってしまったティルをひざに乗せると、リディアは、帰り道の馬車の中でもずっとそうしていた。眠っている間なら、彼を未来の子供だと認められない自分がやさしく抱いていても、許されるような気がしていた。
*
「なんだこいつ。立って歩いてやがるぞ」
翌日ティルは、リディアが出勤するとすぐ仕事部屋へやってきた。
まだ帰る気になれないらしく、伯爵邸《はくしゃくてい》で一夜を過ごしたようだ。エドガーは用事で出かけているというし、退屈なのだろう。
そんなティルを見て不思議そうな声をあげたのは、リディアの相棒の、二本足で歩く妖精猫だった。
「わあっ、猫がしゃべった!」
「うわっ、赤ん坊がしゃべった!」
似たような背丈《せたけ》のふたりが、突っ立ったまま顔を突き合わせて驚いている。伯爵邸の仕事部屋で、リディアは書き物の手を止め、眺《なが》めながら奇妙な風景だわと思った。
「あのねニコ、彼はコウノトリの精なの。まだ人間の赤ん坊じゃないのよ」
ニコは首を動かして、ティルの背中の羽を覗《のぞ》き込んだ。
「ほんとだ、コウノトリの精の赤ん坊か。なんでここにいるんだ?」
「お母さま、この猫ネクタイなんてしてるよ」
「お母さまって、リディアのことか?」
「ちょっと事情があるのよ。ねえニコ、あたし仕事中だから、しばらくティルと遊んであげてくれない?」
昨日エドガーに連れまわされたせいで、ちっとも仕事が進んでいないのだ。
「えー、おれさまが子守りかよ」
「お母さま、ボクこの猫と遊んでてもいいよ」
ニコよりずっと、聞き分けがいい。
「おれは猫じゃないぞ! 気をつけろ、コウノトリ」
「ボクだってコウノトリじゃない! もうすぐ人間になるんだから」
「はん? 妖精が人間になるって? 聞いたことないぞ」
「猫にはわかんないさ」
「生まれたてのチビ妖精が。ついてこられるなら遊んでやる」
ニコはドアからするりと抜け出す。ティルも勢いよく駆け出していく。
「仲良くするのよ!」
声をかけつつ、リディアは再びデスクに向かった。
入れかわりにメイドがひとり入ってきた。フェアリードクターへの新たな相談の手紙をデスクのわきに置く。
「ありがとう」
言いながら顔をあげたリディアは、その若いメイドが、先日エドガーの書斎《しょさい》にいた娘だと気がついた。
うつむきがちに小さくお辞儀《じぎ》をする。元気がない様子なのは、エドガーの冷たい仕打ちに傷ついているからだろうか。
と、立ち去り際《ぎわ》、急にふらついた彼女はその場にうずくまるように倒れ込んだ。
「ちょっとあなた! 大丈夫? 今誰か呼んで……」
しかし、引き止めるように彼女はリディアの腕をつかんだ。
「平気です。すぐ治りますから……」
メイド頭《がしら》に知られたらしかられるのだろうと察したリディアは、とりあえず彼女をここで休ませようと考えた。
肩を貸して助け起こそうとしたとき、誰かが手を差しのべてくれた。メイドの少女をかかえあげたのは、レイヴンだった。
「どこへ置きますか?」
荷物か何かのように言うのは相変わらずだ。
「あ、そこのソファへお願い」
すみやかに、彼は言われたとおりにする。
「ありがと、レイヴン。あの、ちょっと彼女をここで休ませるわ」
「何か食べさせた方がいいと思います。コニーはこのところ、ろくに食事をしていません」
「え? そうなの?」
失恋のショックで、食事がのどを通らないのかもしれないと思いながら、リディアはふと疑問に思った。エドガー以外の他人にはほとんど無関心な彼なのに、メイドが食事をしていないことに気づくだろうか。
「どうして、そんなこと知ってるの?」
「様子を見ておくように言われています」
つまり、エドガーに?
頭にきたリディアは、コニーというらしいメイドを残し、レイヴンを引っぱって部屋を出る。廊下《ろうか》で、声を落として彼に言った。
「なにそれ、どういうこと? 捨てた女性のこと、観察させるなんて悪趣味だわ」
レイヴンは意味がわからないらしく首を傾《かし》げた。
「あたし聞いたのよ。エドガーが彼女に別れ話を持ち出してるところ。使用人に手を出すなんて、しかもすぐに捨てるなんて、紳士《しんし》のすることじゃないでしょ!」
「それは、違います」
「何が違うの! 彼女に、気持ちがさめたって言ってたのよ!」
レイヴンは、怒ったような顔つきのまま身動きしなくなった。小柄《こがら》な東洋系の少年だが、もともと、とんでもなく腕の立つボディガードだ。にらまれれば、リディアはちょっと不安になって体を引く。
が、彼はただ考え込んでいたのだろう。
ずいぶん悩んだらしく長いこと黙《だま》っていたが、やがて口を開いた。
「それは、私のことです」
「は?」
「エドガーさまが、私の代わりに話してくださったのです」
「あ……あなたが、コニーと?」
ありえない。エドガーをかばっての発言としか思えない。そもそもレイヴンは、エドガーのために働くにあたって必要な人間以外と口をきくことがない。下《した》っ端《ぱ》メイドの娘とどんな会話をするというのか。
それに彼女は、はっきりと、身分の違いを口にしていた。
憤《いきどお》りをどうにか静めようと、リディアは深く息を吸った。レイヴンにあたってもしかたがない。悪いのは、すべてエドガーなのだから。
「とにかく、彼女に温かいミルクでも持ってきてくれない?」
頷《うなず》いて、レイヴンが立ち去ると、リディアは仕事部屋へときびすを返す。コニーはゆるりと体を起こし、リディアを見た。
「すみません、お嬢《じょう》さま」
「いいのよ。でも食事をしないのはいけないわ。失恋してつらい気持ちはわかるけど……」
「どうして、知ってるんですか?」
「あ、ごめんなさい。たまたま聞いてしまったの」
「……そうですか」
「あの、元気を出して」
なんて陳腐《ちんぷ》なことしか言えない。コニーはうなだれ、ハンカチで目頭《めがしら》をおさえた。
「信じてたのに……、あたし、もう男の人なんて好きになれません……」
リディアは彼女のハンカチに見入った。
レースのついた絹は、貴婦人が使うような高価なものだ。メイドの少女が買えるようなものではないと思えば、エドガーに贈られたものかもしれなかった。
エドガーに腹が立つというよりも、わけのわからない胸の痛みを感じながら、リディアはハンカチの刺繍《ししゅう》に目をとめた。
純白の、スズランの花。
ティルが、リディアにくれた花だ。お母さまが好きだろうと思ったと言った。
もしかして、このメイドの好きな花では?
男性不信の少女。伯爵邸に住み込みで働いている。条件は一致する。
まさか、ティルの未来の母親は……。
「ミルクをお持ちしました」
レイヴンが現れると、リディアは勢いよく立ちあがっていた。
「レイヴン、エドガーは帰ってるのね?」
「はい」
聞くと同時に、部屋を飛び出した。
駆け込んだのは、エドガーの書斎だ。昼間のプライベートな時間なら、たいていここで過ごしているはずだった。
ノックもそこそこにドアを開けたリディアに、彼はいつもの鷹揚《おうよう》な笑《え》みを向け、立ちあがって迎えた。
「やあリディア、ちょうどよかった。ティルのために乳母《ナニー》をさがさなきゃいけないんだけど、相談しようと思ってたんだ。やっぱりきみとうまくやれる人じゃないと困るだろ?」
は? 乳母?
「どうでもいいわよそんなこと!」
「乳母はいらない? でもきみには伯爵夫人としての役割があるし、子供につきっきりってわけにいかないんだから」
「そうじゃなくて、ティルの母親はあたしじゃないわ。メイドのコニーよ」
「コニー? 新入りメイドの?」
「だからエドガー、彼女と結婚なさい」
「リディア、いったい何の話だい?」
「彼女、あなたにふられて男性不信になっちゃったの。このままじゃティルが生まれてこられないわ。何もかもあなたのせいなんだから責任取るべきよ。彼女はまだあなたが好きなんだから」
「ちょっと待ってくれ、彼女とは何もない」
「とぼけても無駄《むだ》よ。ここでコニーに別れ話をしてたじゃない」
ああ、と脱力したようなため息に、リディアは胸の奥をかきむしられたような気分になった。
この最低タラシ。そんなことはわかっていたはずなのに、どうしていまさら、傷つけられたような気分になるのだろうか。
「そのことなら、違うんだ。リディア、彼女とつきあってたのは僕じゃなくて、どうも別れ話がこじれてたから仲介役《ちゅうかいやく》を……」
「あ、あなたなの? レイヴンにあんなこと言わせたのは! 彼がメイドとつきあってたなんて、そんな見《み》え透《す》いたうそをレイヴンに言わせるなんてどうかしてるわ」
「レイヴンが? 自分が彼女とつきあってたって言ったのか?」
「あなたのために一生|懸命《けんめい》だったわよ」
「口止めしたからか。……へえ、ずいぶん思い切ったことを考えるようになったなあ」
口止めしたなんて言いながら、悪びれる様子もない。
それに、感心している場合じゃないでしょ。
「とにかく、ティルに父親だってことを認めさせたのはあなたなんだから、コニーが下層の出だろうと、どうにかして正式に結婚するしかないのよ? わかってるの? 彼女の身分を偽装《ぎそう》させるくらいの工作は得意でしょ?」
エドガーのへらへらした態度にますます苛立《いらだ》ったリディアは、ついきつい口調《くちょう》で言い放った。
すると気分を害したのか、エドガーはいつになく不機嫌《ふきげん》に眉《まゆ》をひそめた。
「本気でそう思ってる?」
「……彼女が傷ついたままじゃ、ティルもかわいそうだわ」
「僕がそんな男だって、信じるの? 何かの間違いだと思ってくれないのか?」
だって、エドガーのことだから。うそをつくのも、人をだますのも得意な人だ。
こちらへ歩み寄ろうとしたエドガーに、壁際《かべぎわ》に追いつめられそうになる。この状況でせまられれば危険だ。逃げなければと、リディアはあとずさりかけたが、エドガーは強く腕をつかむ。
いつになく力が入っていて痛い。怖くなったけれど、彼の方が痛みを感じているみたいにも見えて、リディアはどうしていいかわからないまま視線を受けとめていた。
「言うとおりにすれば、それできみは満足なのか? きみが好きだと言っているのに、ほかの女性と結婚しろって? 僕の気持ちなんてどうでもいいってこと?」
気持ちって。
「あなたの方が、あたしの気持ちなんてちっとも考えてないじゃない。何度も断ってるのに、勝手に婚約者だとか言ってティルを引っぱり込んで……。でも、あたしにいい顔しながら、コニーとつきあってたわけでしょ?」
こんなことを言ったら、ますます彼を怒らせてしまう。そう思っても、リディアの中には女たらしへの不信感がどうしようもないほど大きくて、エドガーが腹を立てるのは筋違《すじちが》いだと思ってしまう。
「ちょっと気に入った娘を自分の思い通りにしたいってだけなのよ。あたしのことだってすぐさめるわ。結婚しちゃったら、簡単には別れられないのよ? 気持ちがさめても、フェアリードクターならつないでおいて損はない? それであたしに、あなたが遊び歩くのを黙《だま》って見てろっていうの?」
止められなくて、リディアは言い放った。
急に彼は、脱力したように手を離した。
「……わかったよ。だったら彼女にプロポーズでも何でもする。きみから伝えてくれればいい」
ひどく冷たく聞こえたその言葉は、ついさっき強くつかまれた腕よりも、鋭い痛みをリディアにもたらす。
むしろ苦しくて、彼女は書斎から駆《か》け出す。
「本当に、きみがそう望むのならね!」
投げつけられたエドガーの声は、仕事部屋へ戻ってきてもまだ耳に残っていた。
ソファの上にコニーの姿はもうなく、リディアはひとり、崩《くず》れるように座り込んだ。
彼女にプロポーズするとエドガーは言った。
これでコニーは傷つかなくてすむし、ティルもいつか、伯爵家《はくしゃくけ》の子として生まれてくることができる。
昨日の、のどかなピクニックの風景に、リディアが加わることは二度とないというだけだ。
ふとしたときに、エドガーの意外な一面を知ったりするのも、もうリディアじゃない。
バカみたい。もともとあんな未来なんてありえないことだったじゃない。
なのにひどく落ちこんで、リディアはうつむく。そんな彼女の髪の毛を、誰かがつんつん引っぱった。
顔をあげると、ティルが心配そうにこちらを覗《のぞ》き込んでいた。
「ティル、どうしたの? ニコと遊んでたんじゃなかったの?」
「お母さま、お父さまに意地悪されたのか?」
「え……、そんなんじゃないわ」
ケンカをしていたのが、ティルに聞こえてしまったのだろうか。
子供の前でケンカなんていけないことだわ。と思ってしまい、苦笑する。すっかり子持ちの心境だ。
ティルも、エドガーと同様リディアの将来とは無関係なのに。
「ボク、お母さまが幸せになれるなら伯爵家に生まれなくてもいいよ。お金持ちでなくたって、お母さまをいじめたりしないお父さまなら……」
「あ、あのねティル、意地悪じゃなくて、ちょっと意見が食い違っただけなのよ。エドガーはいいお父さまになれるわ。彼のこと、好きでしょう?」
[#挿絵(img/smoky quartz_049.jpg)入る]
素直に、ティルは頷いた。
「ゆうべも、お母さまがいないあいだ、いっぱい遊んでくれたよ。海賊《かいぞく》ごっこをして、キレイなおねえさんをさらってきたら、親分がご褒美《ほうび》をくれるんだ」
「親分って……?」
「お父さま」
エドガーの遊び方って、教育上よろしくないのでは。しかしリディアは、それについてとやかく言う立場ではないのだった。
「エドガーもあなたのこと気に入ってるのよ。だから、お父さまが彼じゃなくてもいいなんて思わないで」
「じゃあ、お母さまはエドガーお父さまのことが好き?」
タラシでいいかげんだけど、好きかもしれないと思うこともある。だから完全には彼のことを突っぱねられないのだとは、薄々《うすうす》気づいている。
「これからもずっと、仲良くしてくれる?」
けれど、だからなおさら、女性にいいかげんなところが許せないのかもしれなかった。
リディアは身を屈《かが》め、ティルの両手を取った。
「じつはね、あなたのお母さまはあたしじゃないの。あたしはこの伯爵邸で暮らしてるわけじゃないし、あなた、お母さまはここに住んでるって聞いて来たんでしょ?」
ティルは、きょとんと首を傾《かし》げた。
「メイドにコニーって女の子がいるわ。あなたが会いに来たのは、彼女だと思うの」
「その人が、ボクのお母さま?」
「男性不信になりかけてたけど、でもきっと大丈夫よ。彼女はね、エドガーのことが好きなの。それでね、彼の方もコニーともういちどつきあう気になったみたいだから、これからあたし、彼女にそう伝えるわ」
すぐにでもコニーに話さなければ、そう思っても、リディアはまだ立ち上がれなかった。
ああ、午前中の仕事が残ってたわ。とりあえずそれを片づけてからでもいいわよね。
言いわけのように考えている。
きみが好きだと言っているのに、ほかの女性と結婚しろって?
本当に、こうすることがいちばんいいのだろうか。自分は、エドガーの気持ちをないがしろにしようとしているのだろうか。
飾る余裕《よゆう》もない本音に聞こえた。
迷えばますます、座り込んだまま動けない。ティルがそっと部屋を出ていったのにも気づかなかった。
*
生まれてはじめて目に入った動く存在、それが母親なのだと思い込んでいた。ティルはまだコウノトリの精で人間の赤ん坊ではないが、この伯爵邸で目覚め、うっすらと目を開いたとき、最初にリディアを見つけてひとめで好きになった。
こちらを覗き込んで、やさしく微笑《ほほえ》んでいた。母親に違いないと思った。
けれども、リディアは違うと言う。
彼女がそう言うなら、ティルの母親はコニーという少女なのだろう。
それよりもティルは、リディアの様子に心を痛めていた。昨日は幸せそうだった彼女が、今日はやけにつらそうだった。
エドガーお父さまはリディアお母さまと結婚したいと思っている。昨日はたしかにそう言っていたし、お父さまの口からは、親愛に満ちたリディア≠ニいう名前しか、ティルは聞いたことがない。
コニーという名は聞いたことがない。
でもコニーというお母さまがエドガーお父さまを好きで、リディアお母さまとケンカしたお父さまは、コニーお母さまと結婚する気になったらしい。
そして、とってもつらそうなのはリディアお母さまだ。
ティルは人間として生まれるために、母親になる人が恋する気持ちを失ってしまってはいけないと、なんとかするためにここへ来た。
ティルの母親がコニーなら、彼女が失恋しないようつとめなければならない。
けれども、リディアが自分のせいで悲しい思いをするのはいやだ。最初にティルに向けられた、あの笑顔を失ってしまうなんて。
「コニー、お使いに行くなら寄り道せずに帰ってくるのよ」
声が聞こえ、ティルは階段で立ち止まると、手すりの陰から下方を覗き込んだ。
「はい、ミセス・レイン」
年かさの|メイド頭《ハウスキーパー》に返事をしていた若いメイドは、勝手口から出ていくところだった。
あれが、リディアの言っていたコニーだ。
黒っぽい髪の、リディアと同じ年頃の少女だ。けれど彼女を眺《なが》めても、ティルには何の感慨《かんがい》もわいてこなかった。
人間の赤ん坊は、見ただけで血のつながりを直感できるものなのかどうかは知らない。
ただ、コウノトリの精のティルにとっては、はじめてこちらに向けられた微笑みこそが、安心してあまえられる母親のあかしだ。それは簡単に変えられないほど強い印象なのだ。
ティルはコニーのあとをつける。
昨日はあんなにいい天気だったのに、今日のロンドンは小雨《こさめ》がぱらついていた。
道行く人々は、雨を避《さ》けるためか帽子《ぼうし》を目深《まぶか》にかぶり、わき目もふらず足早に歩いていく。姿を見えなくしているティルには、もちろん誰も気づかない。
道を渡ろうとしてコニーが立ち止まった隙《すき》に、ティルは背後《はいご》から近づいていくと、妖精の魔法の粉をふりかけた。
コニーは何も気づいていないけれど、これで伯爵邸へ帰る道を見失い、同じところをぐるぐると回ることになるだろう。
彼女が道に迷っているあいだに、エドガーお父さまとリディアお母さまに、仲直りしてくれるようお願いしなければならない。
伯爵邸へ戻ろうと、ティルは急ぐ。
雨に濡《ぬ》れたせいか、翼《つばさ》のあたりが妙に重かった。
*
午後になってもまだ、コニーに話す決心ができずにいたリディアは、仕事の区切りがつかないことにしつつ、けれど少しも仕事が進まずに、書き損じの書類でくずかごがいっぱいになっているのをため息とともに眺めた。
そこへ、あわてた様子で執事《しつじ》が駆け込んできた。
「リディアさん、たいへんです、ティルぼっちゃまが勝手口で倒れてらっしゃって……」
「えっ、ティルが?」
トムキンスといっしょに客間へ駆け込むと、広いベッドの上に小さな赤ん坊はちょこんと寝かされていた。
うずくまって目を閉じているティルは、なんだか苦しそうだ。
「ティル、どうしたの? 具合が悪いの?」
ベッドのわきに座り込んでリディアは声をかけるが、彼は何も答えない。
「トムキンスさん、エドガーは?」
「またお出かけになられていて。お知らせするよう使いを出したところです」
「どうしましょ……、お医者さまは……」
「お呼びした方がよろしいでしょうか?」
離れぎみの目をしばたたかせ、戸惑《とまど》ったように問うトムキンスは、ティルが妖精だと知っている。妖精の病気が、人間の医者にわかるわけがない。
「ごめんなさい、あたしも気が動転してるわ」
フェアリードクターのくせに、どうしていいかわからないのがますます歯がゆい。
それでもリディアは、必死になって考えた。
ティルがこうなったのには何か原因があるはずだ。それを取り除けば元気になるのではないだろうか。
少し前に、本当の母親はコニーというメイドに違いないと話した。彼はコニーに会いに行ったかもしれず、だったら彼女が、ティルに何があったのかを知っているかもしれない。
「トムキンスさん、すみませんがコニーというメイドを呼んできてもらえませんか」
思い立ったリディアがそう言うと、執事は頷《うなず》いて部屋を出ていく。しばらくして、メイド頭のハリエットが現れた。
「コニーは使いに出かけたまま、まだ戻らないのです」
言いながらハリエットは、愚痴《ぐち》でもこぼしたげに太った体をゆらした。
「あれほど寄り道するなと言ったのに。きっと前に勤めていたお屋敷へ行って、あたりをうろついてでもいるんでしょう。まったく、使いに出すといつもこれだから」
「前のお屋敷に? 戻りたいのかしら」
「解雇《かいこ》になったんですから、戻ることはできませんよ。メイドがお屋敷のご子息《しそく》と親しくなったりしたら、そりゃご主人さまに追い出されるってものです」
リディアは驚き、ハリエットをまじまじと見つめた。
「コニーが、そこのご子息と……?」
「まあねえ、素直な娘なんですが、惚《ほ》れっぽいらしくて、働く先々で問題を起こしているんですよ。前のお屋敷のご子息は、うちの旦那《だんな》さまとお知り合いで、別れるくらいなら死ぬと騒ぐ彼女をなんとかしてくれと泣きついていらっしゃったとか。縁談《えんだん》がもちあがっているのにメイドのことが後を引けば、父上に勘当《かんどう》されてしまうって……。それもひどい話ですよ。追い出されたメイドが、紹介状もなくてはどこかに雇われることは難しゅうございましょう? 身よりのない娘にとっては死活問題ですから、死ぬとすがるのも無理はありませんのに」
「じゃ、エドガーは知人とコニーのために」
「コニーを雇《やと》うことにして、別れ話も角《かど》が立たないように仲介《ちゅうかい》なさったようですよ。うちの旦那さまはあんなふうですけど、立場の弱い女を傷つけるようなことはしませんからね。そのご子息、もう旦那さまに頭があがらないって感じでしたよ」
コニーへの別れ話は誤解だと、エドガーは言っていた。
あれはうそじゃなかったのだ。
なのに、エドガーを責め立ててしまった。
「ああすみません、よけいなおしゃべりをしてしまいました。コニーは誰かに迎えに行かせましょう。戻りましたらお知らせします」
ハリエットが出ていくのも上《うわ》の空《そら》で、リディアは自分の早とちりにあきれ果てていた。
コニーとエドガーを引き合わせても意味がないどころか、ふたりにいやな思いをさせるだけだった。
げんにエドガーとはケンカしてしまった。
おまけにティルまで具合が悪くて、リディアはどうしていいかわからない。
情けなくて落ち着かなくて、部屋の中をぐるぐる歩いていると、ティルがうっすらと目を開いた。
「……コニーお母さまはね、今日は戻ってこないよ。ほかに好きな人ができたから、その人に会いに行ったんだ」
わけがわからなかった。今朝《けさ》は、失恋のショックが癒《い》えずに食事もできないと言っていた彼女に、好きな人が?
「だから、リディアお母さま、エドガーお父さまと結婚して……。お父さまのこと、好きだろ?」
「な、何言ってるの。あたしは……」
はっと気づき、リディアはティルの手を握《にぎ》りしめた。
「ティル、あなた彼女に何をしたの?」
苦しげな顔をしながらも、ティルは微笑《ほほえ》もうとする。
「ボク、お母さまの子でなくても、お母さまが好きだよ」
「……妖精の魔法を使ったわね?」
もしもそうなら、コニーは道に迷っていて帰ってこられない。ロンドンには物騒《ぶっそう》な場所も多いし、小雨もぱらついている。このまま夜になっても帰れないと、彼女の身によくないことが起こるかもしれない。
すでに何かあったかもしれず、そうなったらティルは生まれてはこられない。
もしかしたら、そのせいでティルはこんな病気に。
また目を閉じて、眠るというよりは気を失うようにぐったりしたティルの背中の、貧弱な翼《つばさ》から羽毛がたくさん抜け落ちた。
このままじゃ、死んでしまう。
「リディア、ティルの様子は?」
エドガーの声だった。急いだらしく、帽子とステッキを手にしたまま部屋へ入ってきたエドガーに、リディアはすがるように駆《か》け寄っていた。
「エドガー、どうしよう……、あたしのせいだわ。あたしが、ティルの気持ちも考えずに、母親はコニーだって言っちゃったから」
「大丈夫だよ、リディア。大丈夫だから」
事情もさっぱりわかっていないはずなのに、エドガーはそう言う。
ふわりとかかえ込まれても、いつものような気|恥《は》ずかしさをおぼえる余裕もなく、なだめるように髪を撫《な》でる手つきにむしろほっとしながら、リディアは言葉をこぼし続けた。
「ティルは、あたしを好きになってくれて、なついてくれてたのに……」
「きみのせいなんかじゃない」
「でも、こんな小さな子が、急に母親じゃないなんて言われたら傷つくはずよ。なのにあたし……」
「いいかいリディア、きみがそんなにうろたえてちゃ、ティルが落ち着かないよ。どんな病気だって、安心して休めることが大事なんだから」
はっとして、リディアは顔をあげた。
「そうだわ、あたし、コニーをさがしにいかなきゃ。妖精の魔法で道に迷ってるはずなの。彼女が無事帰らないと、ティルが死んじゃう」
けれどエドガーは、リディアを離そうとしないままレイヴンを呼んだ。
「彼に行かせよう」
「だめよ、あたしでなきゃ、妖精の魔法で迷ってる人といっしょになって迷ってしまうわ」
「いいから、きみはここにいるべきだ」
エドガーが視線を動かしたティルの方をふと見れば、無意識だろうに、小さな手がリディアの髪の毛の先をしっかりとつかんでいた。
「おれがついてってやるよ」
レイヴンの足元で、いつのまに来たのかニコが言った。
ニコなら、妖精の魔法にかかったコニーを迷わずに連れ帰ってこられるだろう。でも面倒くさがり屋の彼が、自分から手を貸してくれるなんてめずらしい。
「ありがとう、ニコ。あなたもティルのこと心配してくれてるのね」
「んー、遊んでたときにさ、バルコニーから屋根に飛び移ったら、こいつ、ついてこれなくて落っこちたんだよな」
「ええっ、ちょっとニコ!」
「ま、このチビだって妖精だし、落ちたくらいでどうってことないはずだけどさ」
でも少しは気になるらしい。
「じゃ、行こうぜレイヴン」
ふたりが出ていくのを見送って、リディアはまたティルのそばに座り込んだ。
エドガーも隣に座り、ティルの綿毛《わたげ》頭をそっと撫でた。
ぼんやりと眺めながら、少しだけ落ち着いたリディアは、エドガーにあやまらなければならないことがあったと思いだしていた。
不愉快《ふゆかい》なことを言ったリディアなのに、まるで何事もなかったかのようにエドガーが接してくれるから、忘れていた。
今もエドガーは、リディアの方を見て、なだめるように微笑む。
「……ごめんなさい、コニーがつきあってたのは、あなたじゃなかったのね。ハリエットさんに聞いて、あたし……」
「ああ、傷ついたんだよ」
にっこり笑って言うけれど、リディアはもうしわけなさが増す。
「ほんとに、あたしってば頭に血がのぼっちゃって、話もちゃんと聞かずにひどいこと言ったわ」
「いいんだ。これまでの僕が、きみを不安にさせるような男だったってことだ。でもね、僕がきみに飽きるとかさめるとか、そんなことありえないよ。結婚を承諾《しょうだく》してくれるなら、ぜったいに後悔はさせないから」
「……ええ」
「口先だけだと思ってる?」
「えっと、それは……」
「これから、挽回《ばんかい》するチャンスもないなんて言わないでくれるね?」
「……わかったわ。ごめんなさい」
「きみにあやまられるのって、なんだかそそられるな」
本当に挽回する気があるのかしら。
あやまる立場なのに怒るわけにいかず、困惑《こんわく》したリディアは、エドガーに見つめられながら顔を赤らめるしかない。
「僕がメイドに手を出したりしない紳士《しんし》だってこともわかってくれた?」
「そうね」
「でも、きみがメイドだったら口説《くど》いてたな。女王さまだったって、斬首《ざんしゅ》覚悟で部屋へ忍び込むよ」
いつもの調子で大げさなことを言われれば、ケンカのわだかまりはもうないのだと感じる。
だからか今は、あまいせりふも熱い視線も不愉快じゃない。
いつになくリディアは、エドガーがそばにいてよかったと思っている。
いっしょにティルを見守ってくれて、深刻ぶらない明るさで落ち着かない気持ちをなだめてくれる。
ティルの頭に慈《いつく》しむようなキスをする彼が、ここにいてくれてよかったと切実に思う。
「ねえリディア、僕がコニーにプロポーズするなんてこと、本当はいやだと思ってくれたよね」
相変わらずの自信|過剰《かじょう》。
「……わからないわ」
けれどリディアは、本当によくわからなかったし、今は意地っ張りな自分が影をひそめていて、素直にそう言うしかなかった。
「めずらしく、脈のありそうな返事だ」
「そ、そうかしら」
「否定されなかっただけでもうれしいよ」
リディアの手を取ったエドガーは、彼女にティルの手を握らせた。
「ティルはきっと大丈夫だよ。僕たちの子供だから、そう信じてあげよう」
そうだったらいいと、純粋にリディアは思った。
ティルがいてくれたら、エドガーはいつものいいかげんな女たらしではなくて、家族を大切にするたのもしい人に思える。
そういうところも、彼の本当の姿なんだろうけれどなかなか信じられずにいるリディアだ。けれど今は、ティルのためにもエドガーを信じようと思える。
「ほら、ティルもがんばろうとしてる」
小さな手が、リディアの指先を握り返すのを感じた。
エドガーは、リディアの肩を抱く。いつもみたいに逃げ出したくならないのは、うわついたところを感じないからか。
ティルのことが心配で、怖くて壊《こわ》れてしまいそうなリディアを、しっかりささえてくれている。
「エドガー、あなた、あたしの母に似てるわ」
気がゆるんでいて、何かしゃべろうとすれば、思いついたままが口に出てしまっていた。
「そう?」
支離滅裂《しりめつれつ》なリディアの言葉を、けれどもエドガーはおもしろそうに聞く。
「……子供のころにね、あたし、木から落ちたことがあったの。父はすごく心配してうろたえてたけど、母は大丈夫だからってちっとも動じないの。結局は母の言うとおりだったけど、あたしは父に似ちゃったのね」
「なら、僕たちきっと、似合いの夫婦になれるね。ふたりで、きみの敬愛するご両親みたいにささえあえるはずだよ」
……そうなのかしら。
まだ、心の中でつぶやくしかできなかったけれど、リディアは素直に、彼の腕に身をゆだねていた。
そうしていると、ティルは大丈夫だと信じられた。
*
「エドガーさま、ただいま戻りました」
レイヴンの声に、ゆるゆると視線を動かす。リディアはまだエドガーに寄りかかったままだったが、彼が離そうとしなかったから、まあいいかとさえ思っていた。
「ああレイヴン、ご苦労だったね」
そのひとことで、用はすんだと察したレイヴンは、一礼してさっと部屋を出ていく。
レイヴンの隣にいたメイドのコニーは取り残され、どうしていいものかと戸惑《とまど》いながら、エドガーを見てこわごわお辞儀《じぎ》をした。
「あの、旦那さま、もうしわけありません。あたし、どうしてだか道に迷って帰れなくて」
主人の前に連れてこられて、しかられるのではないかと怯《おび》えているようだった。
「これからは心を入れかえて働きます。ですからクビにしないでください、お願いです」
「クビにする気はないよ。それより……」
「本当ですか? よかった!」
安心したらしいコニーは、明るい声をあげた。今朝の元気がなかった様子とはうって変わっているが、元気ならなおいい。ティルのために彼女を連れ戻してきてもらったのだと、ようやく思い出したリディアは立ちあがった。
「コニー、待ってたのよ」
「ああお嬢《じょう》さま、さっきはありがとうございました。あたしもう大丈夫です。だって、新しい恋ができそうなんです!」
「新しい恋?」
突然の言葉に、リディアは驚く。捨てられた恋人を想《おも》って沈《しず》んでいたのは今朝のことだ。早すぎはしないだろうか。
「彼、このところいつもあたしのことを見てたから気になってはいたんですけど、お嬢さまの部屋で倒れたあたしにミルクを運んできてくれたりして、やさしい人だなって思って。さっき迎えに来てくれたときも、黙《だま》ったままじっとあたしのこと見つめるんですよ。無口だけど、きっと一途《いちず》な人なんですね!」
それって、レイヴンのこと?
レイヴンはただ、エドガーにたのまれていたから、コニーのことを観察していたのでは。
それにミルクのことだって、リディアが言ったからだ。
「よかったね。でも恋も大事だけど仕事も大事だよ」
エドガーがそう言うと、はしゃぎすぎを恥じらうように、彼女は神妙《しんみょう》に「はい」と答えた。
あっけにとられながら、リディアはコニーが出ていくのを見送った。
「いいの? レイヴンのこと誤解してるわ」
「いいんじゃない? レイヴンがコニーの好意に気づく前に、彼女の恋の対象は別の男に変わってると思うけどね」
「で、でも、そうだわ、コニーはティルの母親になる人だから帰ってきてもらったのに」
急いでコニーを呼び戻そうとしたときだった。
「リディア、ティルが目を覚ましたみたいだ」
エドガーの声に振り返ると、ティルはベッドの上で体を起こし、毛布をつかんだままこちらをじっと見つめていた。
具合の悪そうなところはどこもない。色素の薄い髪の毛が少しのびたように見えるほか、何の変わりもない。と思いたかった。
けれどティルは、以前とは違っていた。
羽毛《うもう》の抜け落ちた貧弱《ひんじゃく》な翼《つばさ》の代わりに、今は彼の身長ほどもあると思われる大きな翼が生えている。
黒い風切《かざき》り羽《ばね》を持つ、コウノトリの立派《りっぱ》な翼だ。
「ボク、どうしたのかな……」
ティルもわけがわからない様子で、こわごわ首を動かし背後《はいご》を見る。
「だ、大丈夫よティル。何の心配もないわ」
わけがわからないながらも、リディアは駆《か》け寄り、ティルを不安がらせまいとした。
「大人になったんだよ、きっと」
エドガーが適当なことを言った。
「大人って、まだ赤ん坊の姿よ」
リディアは声をひそめて反論するが、窓辺で別の声がした。
「伯爵《はくしゃく》のおっしゃる通りで」
ニコと並んで、そこにコウノトリが一羽とまっていた。今しゃべったのは、そのコウノトリらしい。
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「じいちゃん……」
ティルがつぶやく。
「えっ、ティルのおじいさん?」
「一族の長老だってさ。チビのことさがし回ってたみたいだぞ。メイドをさがしてたら偶然会って、チビの病気のこと話して、いっしょに連れ帰ってきたんだ」
ニコが得意げに胸を張った。
「その子は病気ではございません。雛鳥《ひなどり》の羽が生えかわったのです」
窓から飛びおり、コウノトリは歩いてこちらへ近づいてくると、片翼を広げて器用にお辞儀をしてみせた。
「青騎士伯爵、そしてフェアリードクター殿《どの》、ご迷惑《めいわく》をおかけしました。私どもコウノトリの妖精にはもともと親鳥がおりません。ですが雛鳥のころというのは、コウノトリの親子を見ては親がいないことを淋《さび》しく思うもの。それで私たちは、いずれ人間の赤ん坊になって優しい両親を得ることができると言い聞かせるのが常なんです。もちろん迷信ですが」
「迷信? じゃ人間の赤ん坊をコウノトリが運んでくるって迷信はどこから来たんだろう」
エドガーが首をひねると、老コウノトリは神妙に言った。
「それはですね、私どもが人間の姿をとろうとすると、赤ん坊にしかなれないからです」
一瞬にして長老は、生まれて間もない赤ん坊に姿を変えた。
「コウノトリとたわむれるこの姿の私どもを見かけた人間が、昔から少なからずいたのです」
「……なるほど」
長老はすぐにコウノトリの姿に戻ったが、ティルは赤ん坊の姿のまま、本物の人間にはなれないと知って動揺《どうよう》していた。
「じいちゃん……、じゃあ、ボクがこの家の子供になるってうそだったの?」
「おまえはとくに淋しがり屋だったから、夢を持たせてやりたかったんだよ。この青騎士伯爵家なら、おまえがたびたび様子を見に来ても危険はないと思ってそう言ったんだが、仲間のひとりがおまえをからかおうと、母親が男性不信だとか作り話をしたようだね」
しかし乗り込むとは思わなかった、と老コウノトリはつぶやいた。
とすると、コニーもティルの母親ではなかったのだ。
「おまえももう雛鳥ではないのだからわかるね。立派なコウノトリの精にならなければならないんだ」
長老に諭《さと》され、ティルは淋しそうにリディアを見あげた。
短い間にすっかり成長したティルは、じゅうぶんに理解している。けれど淋しい気持ちが理屈で消えるわけじゃない。
リディアは思わずティルを抱きしめる。
「ティルはあたしたちがあずかってもいいわ! 彼の気がすむまで、ここで暮らしても……。ねえ、エドガー?」
「ああ、もちろん」
お母さま、とティルはつぶやきしがみつく。行ってしまわないで、とリディアは思う。
けれど彼は、やがてリディアから離れると、まっすぐに立ってこちらを見た。
「エドガーお父さま、リディアお母さま、ありがとうございました。短い間だったけど、ボク、本当にこの家の子になれたみたいでうれしかった」
泣きそうな顔でにっこり笑い、生えかわったばかりの翼を、大きく広げる。
もう子供ではないのだ。巣立ちを引き止めることはできない。
「さようなら。ふたりとも、もうケンカしないでね」
にわかに風が舞ったのは、コウノトリの精の羽ばたきだ。
一瞬目を閉じたリディアが、再び目をあけたときに見たのは、窓の外を二羽のコウノトリが旋回しながら飛んでいる姿だった。
やがて彼らは、小雨《こさめ》あがりの雲間《くもま》を遠くへと消えていった。
突然の別れを、リディアはまだ受け入れきれないまま、ベッドに落ちた羽を拾いあげた。
淋しくて、たたずんだ窓辺から動けなかった。
背後に立つエドガーの気配《けはい》を感じる。リディアを抱くように腕をのばした彼は、ティルの羽を彼女の手ごと、いとおしそうに包み込んだ。
「大丈夫だよ」
彼の言葉に、リディアはささえられる。
「短い間だったけど、ティルはたしかに僕たちの子供だった」
「ええ……、そうね」
めずらしく、エドガーと心をひとつにしたような気持ちで、リディアは頷《うなず》く。
ティルがいてくれたから、エドガーの前で素直になれた。リディアの中で、彼の存在感がたしかに増した。
これからは、もう少し彼を信用して、すぐケンカ腰になったりしないでおこうと思う。
せっかく、幸福の象徴《しょうちょう》、コウノトリの妖精が舞い降りたのだから……。
「ティルのこと、ふたりであずかろうって言ってくれたとき、うれしかった。少しは僕のこと認めてくれたのかなって」
「……そうね」
「かわいい赤ん坊がほしくなった?」
「そうね……」
「なら、いつでも協力するよ」
ふわりと耳元にキスされ、ようやく会話の意味を悟《さと》ったリディアは真っ赤になった。
恥《は》ずかしくてうろたえて、頭に血がのぼると、たった今の素直な気持ちは吹き飛んで、力いっぱいエドガーの手を振り払っていた。
「けっこうですから!」
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紳士の射止めかた教えます
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ピカデリーにあるコーヒーハウス、ナイチンゲール館≠ヘ、ロンドンでも名のある人々が集《つど》う名店のひとつだ。コーヒーハウスとはいえ、フランス料理を出す高級レストランでもあり、今夜も着飾った上流階級の人々が席を埋《う》め尽《つ》くしている。
そんなレストランに今、ひとりの青年が入ってきたところだった。
雪が舞う外の寒さも別世界に思えるほど、ほどよく暖められた店内に、ヴァイオリンの独奏がやわらかく響く。高価な花で飾られたテーブルの間を、給仕《きゅうじ》に案内されて歩く青年は、エドガー・アシェンバート伯爵《はくしゃく》だ。シャンデリアの明かりよりもまぶしく感じる金髪と、貴族的で端整《たんせい》な横顔に、食事中にもかかわらず視線をあげる人は少なくない。
皇太子《プリンス・オブ・ウェールズ》がいたところで、見て見ぬ振りをすることに慣れたこの店の顧客《こきゃく》にとって、べつだんめずらしい人物ではないはずだ。
にもかかわらず、なぜか視線を集めてしまう彼は、知り合いと目が合うたび軽く会釈《えしゃく》しながら、ようやく用意された席にたどり着くと、そこにいた友人たちに微笑《ほほえ》みを向けた。
「やあ、待たせたね」
「聞いてくれ、エドガー。ポールときたら、せっかくの女性の誘《さそ》いを断ったらしいんだよ」
今夜の集まりは、とくに目的のあるものでもない。クラブで見かける顔ぶれが、なんとなく集まっただけだから、会話もいきなり直接的だ。
「おや、今度も誘われたことにすら気づかなかったって?」
エドガーは、給仕が引いた椅子《いす》に腰をおろしながら、みんなの視線に困惑《こんわく》している、見るからに人のよさそうな青年に目を向けた。
「いえ伯爵、不思議な|小夜鳴き鳥《ナイチンゲール》の絵がこの店にあると聞いて、そう教えてくれた女性と見に来たんですよ。それだけのことなのに、みなさんがひどいと言うんです」
エドガーの友人のひとりで、駆《か》け出しの画家のポールは、助けを求めるように説明した。
このナイチンゲール館≠ノは、小夜鳴き鳥の歌声が聞こえてくる不思議な絵がある、という話はエドガーも聞いたことがある。
しかし、たいていの男女はその噂《うわさ》の本当の意味を知っている。
「どういう仕掛《しか》けなのかと気になったんですけど、絵はただ壁に掛かっていただけで、何の鳴き声も聞こえませんでしたよ」
まるでわかっていないポールを見て、重症だな、とエドガーはつぶやいた。
恋愛にはうとい画家だ。彼らしいといえばそうだが、芸術家なら火遊びも霊感《インスピレーション》の源《みなもと》というものではないのだろうか。
そう思ったからエドガーは、人差し指で彼を招き寄せ、そっと忠告をすることにした。
「いいかいポール。夜に鳴くナイチンゲールの歌を聴こうっていうのは、世間では一夜をともに過ごしましょうってことなんだよ。つまり、異性を誘う常套句《じょうとうく》だってこと」
「えっ! ……で、でも、じゃあどうして絵の中の鳥が鳴くなんて話に……」
「ナイチンゲール館の名前の由来《ゆらい》を知ってるかい? 小夜鳴き鳥の絵が至る所に飾られているからだ。そこで絵と例の常套句をひっかけて、絵の中の鳥が鳴くからって誘うのは、ここでひとときを過ごそうってこと。このレストランの上階は、人目を忍ぶ恋人たちのための宿だからね」
うんうんと、周囲のみんなも頷《うなず》く。
驚いて目を見開いたまま、ポールは混乱しきったのか返事もないまま固まった。
友人たちは口々に言う。
「せっかく誘われたのに、絵を見ただけとは」
「小夜鳴き鳥は恋の歌を唄《うた》う鳥だ。昔から詩人たちは、こぞってあの地味な小鳥に恋を語らせてきた。ロマンティックな一夜を過ごそうって暗喩《あんゆ》には悪くない」
「で、鳴くって絵はどんな絵なんだ?」
「エドガー、きみも見たことあるんだろう?」
「あるわけないじゃないか」
「おや、きみが奥の階段を上がっていくのは何度も見かけて……」
「過去はもう忘れたよ。僕はそういう自堕落《じだらく》な恋愛とは縁を切ったんだ」
「しかし伯爵、今日の遅刻だって、どうせ女性につかまってたんだろう?」
まあね、とにっこり笑って答えれば、みんなはやっぱりなという顔をする。
「きみが女性と縁を切れるわけがない」
「で、その女性とはどうだった?」
「ここへ誘うまでもなかったって?」
好奇心いっぱいの質問も、エドガーは上機嫌《じょうきげん》な笑顔でかわしつつポールを見た。
黙《だま》り込んだまま、しだいにうなだれていった彼は、すっかり落ち込んでしまったようだ。
恋の女神はひねくれ者に違いない。もってまわった誘惑《ゆうわく》の言葉も、遠回しな拒絶《きょぜつ》も思わせぶりな態度も、ことごとく誤解を招くようにできている。
まるで、あまねく男女が恋にうろたえるのを、ひっそりと楽しんでいるかのように。
*
そのころ、エドガーの話題にされていた当の少女、リディア・カールトンは、ようやく彼が去ってくれた自宅の応接間で、ひとりほっとしているところだった。
夕方から約束があると言っていたくせに、急にリディアを送っていくと言いだし馬車に乗り込んできたエドガーは、自宅に着くと「ちょっとおじゃましてもいいかな」なんて家にあがりこんできた。
運悪く父が留守《るす》で、男性の訪問客には家政婦《ハウスキーパー》が目を配ってくれることになっているとはいえ、リディアはひとりで彼の相手をしなければならなくなったのだ。
そのうえ父がいないとなると、さんざん調子に乗るのがエドガーなのだ。
こうしてきみに見つめられるだけで、僕は幸せな気分になれるって知ってる?
見つめてません。
すぐ赤くなるところがかわいいね
……そろそろ約束の時間じゃないの?
もう少しいてほしいって言ってくれるなら、今日の約束なんて忘れるよ
べつにいてほしくなんか……。
じゃあね、キスをしてくれたらもう行くよ
どこまで図に乗るのかとあからさまにむっとしたら、不敵に微笑みながらようやく腰を上げてくれたのだ。
もっとも、帰り際《ぎわ》にリディアの手にキスすることは忘れなかった。
この、エドガーのあまいせりふの数々も、リディアの家へ上がりこむことも、じつは日常|茶飯事《さはんじ》だ。
しかしリディアにしてみれば、堂々と好意を示され、恋人扱いされるのは、毎日だろうと戸惑《とまど》うことなのだった。
とくにエドガーは、やたらと女性にもてる人だし、本人もその状況を存分に楽しんでいる女たらしだからタチが悪い。
結婚を申し込まれているとはいえ、タラシのプロポーズなど本気にするのは怖いと思っているリディアにとって、彼の態度が真剣に見えれば見えるほど、以前にもましてかたくなに拒絶《きょぜつ》してしまうのだった。
とにかく、もうエドガーは帰ったのだ。いつまでも彼のことを考えているほどしゃくなことはない。
リディアは、自分の部屋へ行こうと応接間を出て階段を上がる。
すると、二階のリディアの部屋からにぎやかな笑い声が聞こえてきた。
ドアを開けると、緑の服を着た小さな妖精たちが、暖炉《だんろ》の前で輪になって踊っていた。
陽気に足を踏《ふ》みならしながら、かけ声をあげる。|家付き妖精《ホブゴブリン》たちが勢揃《せいぞろ》いした宴会《えんかい》だ。その輪の中心にいるのは、リディアが生まれたときからそばにいる妖精猫だ。
「ニコ、何やってるのよ!」
「よう、リディア、あんたも飲むか?」
姿形《すがたかたち》は灰色の長毛猫だが、人の言葉を話すし、二本足で立ったままくるくる回る。ネクタイをして紳士《しんし》を気取っているが、酔っぱらって千鳥足《ちどりあし》なのはやけにオヤジくさい。
窓際《まどぎわ》にはなぜか、スコッチの樽《たる》がでんと居座《いすわ》っている。妖精たちが運んだのだろうが、乙女《おとめ》の部屋に酒樽ほどふさわしくないものがあるだろうか。
おかげで、酔いそうなほど部屋中にお酒の匂《にお》いが漂《ただよ》っている。
「もう、人の部屋で宴会をしないでほしいわ」
リディアがずかずかと部屋へ入っていっても、ホブゴブリンは踊り続けている。人間に姿を見られるのをきらう彼らだが、リディアは妖精博士《フェアリードクター》だと知っているから平気なようだ。
リディアには、生まれつき妖精と接する能力がある。亡き母と同じその能力を生かして、フェアリードクターになろうと決めた。
昔からこの英国では、妖精に信頼されることで彼らの秘密に近づくことのできる人間がいて、人と妖精とが平和に共存できるように知恵を貸してきた。けれども十九世紀も半ばとなっては、妖精の存在が信じられなくなってきているためか、フェアリードクターの役割はなかなか人に理解されにくい。
幸いリディアは、妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》の称号を持つものの妖精に関してはまるで無知なエドガーに雇われ、仕事に忙しい毎日を送っている。
妖精とばかり親しくしていたため、常に変わり者扱いされてきたリディアのことを、きちんと理解してくれるエドガーは貴重な人だ。
ただ、顔を見るたび口説《くど》いてくるから困るのだ。
「けどさあリディア、ナイチンゲールがあんたに会いたいって言うんだから」
「え? ナイチンゲール?」
ニコはスコッチの樽に視線を動かしたが、リディアには何も見えない。近づいていってよく目をこらす。
(はあーい、あなたがフェアリードクターのリディア?)
鈴が鳴るような、美しく澄《す》んだ声が聞こえた。樽の端《すみ》っこにさらに顔を近づけると、身の丈《たけ》三インチほどの、透《す》き通ったガラス細工のようなものがかすかに動いた。
少女の姿に薄い蜻蛉《かげろう》のような羽が、かろうじて確認できる。
妖精の姿をはっきり見ることのできるリディアでも、小さいうえに半透明《はんとうめい》ではよく見えない。そんなだから、フェアリードクターにさえ昔から姿なき妖精と呼ばれてきたのがナイチンゲール≠セ。
もちろん本物の|小夜鳴き鳥《ナイチンゲール》ではない。
美しい声の持ち主として、詩歌《しいか》に詠《うた》われる小夜鳴き鳥は、夜中にさえずるために人がその姿を見る機会はまれだった。だからこそ、姿なき妖精が唄っていると信じる人々も少なくなかったのだ。
じっさい、妖精のナイチンゲールは、美しい歌声で唄う。妖精の魔法を秘めた歌声は、喜びや悲しみや、様々な感情を人の心に浮かび上がらせ、ゆさぶる力がある。
古《いにしえ》の詩人たちには、小夜鳴き鳥に紛《まぎ》れて唄う、姿なき妖精たちの歌を耳にした者も少なくないのかもしれない。
妖精博士《フェアリードクター》のリディアには、目の前の極小妖精がそういうものだとはわかる。しかし、ニコにこんな友達がいたとは知らなかった。
「めずらしい妖精ね、どこから来たの?」
(森の中よ。外の世界ははじめて。ニコが連れ出してくれたの)
「知ってるか? ナイチンゲールの歌声を聞かせると、酒がとびきりうまくなるんだ」
そう言って、いとおしそうに酒樽を撫《な》でるニコは、どうやらそのためにナイチンゲールを宴会に連れてきたようだ。
(パーティで歌う代わりに、ニコがあたしにあなたを紹介してくれるって言ったの)
上機嫌な様子で目を細め、ニコは頷く。
リディアはかすかにいやな予感がした。
ニコが、自分の望みをかなえてもらう代わりにリディアを差し出したかのような、そんな気がしないでもなかったからだ。
そもそも彼は、リディアの相棒だと言いながら、すぐ食べ物につられるし、危機にはいなくなる薄情《はくじょう》な猫だ。
「フェアリードクターに用でもあるの?」
(ううん、あたしはね、あなたみたいな女の子の役に立ちたいの。恋を知らない、かわいそうな女の子のね!)
「か、かわいそうって」
(ええ、あなたとっても教え甲斐《がい》がありそうよ。あたしにはひとめ見ただけでわかるの。あなたの恋心がどんなに幼い姿をしてるかってね。でも大丈夫、恋が育つのに時間はいらない。ステキなきっかけさえあればね!)
雲行きのあやしさに、リディアは一歩後ずさった。
「あの、ね、ナイチンゲール、あたしはべつにこのままで……」
(だめよ! このあたしの信念に賭《か》けて、あなたの恋を成就《じょうじゅ》させてあげる!)
妖精は、はじけた口調《くちょう》で断言した。
*
|小夜鳴き鳥《ナイチンゲール》は恋の歌を唄う。
そんな言い伝えどおりに、小さな妖精は恋愛のエキスパートのつもりらしかったが、彼女につきまとわれることになったリディアには、迷惑《めいわく》以外の何ものでもなかった。
アシェンバート伯爵邸《はくしゃくてい》へ、翌日も普段のように出勤するが、異変ははじまっていた。
「おはようございます、リディアさん」
エドガーの従者《じゅうしゃ》が、いつもどおりのあいさつをする。
「おはよう、レイヴン」
リディアが返してもにこりともしないが、不機嫌なわけではなくこれがふつうだ。褐色《かっしょく》の肌の少年は、主人のためなら何でもするが、笑えと言われてもそれだけは難しいだろうというくらい感情が薄い。
エドガー以外の人間に関心も示さないが、エドガーの意向として丁重《ていちょう》に扱うべき人物かそうでないかを間違うことはない。
エドガーが婚約者∴オいするリディアには、ずいぶん気を遣《つか》ってくれている。
今も彼は、通りかかっただけなのにわざわざリディアの仕事部屋のドアを開けてくれた。
が、部屋へ入ろうとしたリディアは、何もないところで不意につまずいた。
そのままレイヴンの方へ倒れかかりそうになるが、思いがけないことに、彼はさっとしりぞいたのだ。
つかまるものが何もなくなったリディアは、絨毯《じゅうたん》の上にすっ転んだ。
「大丈夫ですか? リディアさん」
伯爵邸のやわらかな絨毯のおかげで、痛くもなく怪我《けが》もなかったが、リディアに抱きつかれるという事態を瞬時に避《さ》けたレイヴンの判断力と自分の無様《ぶざま》な格好《かっこう》に、苦笑しながら彼女は体を起こした。
「ええ……、大丈夫よ」
そう、レイヴンの気遣いは、あくまでエドガーのためであって、必ずしもリディアの利益にかなうわけではない。
彼は、主人の婚約者にむやみに触れてはいけないと思っているのだ。抱きつかれるなどもってのほかだ。
「足元にはお気をつけください」
それだけ言って立ち去ってしまう。
(なあに、ひどい男ね。女性が転びそうになったら、ささえるものでしょ?)
ナイチンゲールの声が聞こえ、リディアははっと声の方に首をめぐらした。
「ちょっと、今あたしを転ばせたのはあなたなの?」
(まあまあいい男かも、って思ったのに。リディア、彼はだめよ、やめときなさいね)
「レイヴンはそんなんじゃないの!」
(うん、それにちょっと若すぎ? そうよ、あなたにはちゃんとリードしてくれるような大人がいいわね)
「ねえ、人の話を聞いてちょうだい」
(あら、彼なんかどう?)
「えっ?」
おそるおそる振り返ると、開いたままのドアの前にポールが立っていた。
最悪の相手、あの口説き魔伯爵ではなかったことにほっとしていいのかどうかわからないまま、リディアは笑顔を取り繕《つくろ》う。
「ポ、ポールさん、……おはようございます」
エドガーが懇意《こんい》にしている画家は、邸宅《パレス》の広間の壁画を描くために、しばらくここに泊まり込んでいるのだった。
「おはようございます。あの、少し時間ありますか?」
そう言いながらも不思議そうに部屋の中を見まわすのは、リディアが話していたはずの相手をさがしているのだろうか。
ほかに誰もいない困惑《こんわく》を、人のよさそうな笑《え》みでうち消しながら、彼は絵の具のついた手で、のびかけた髪の毛をかき上げた。
「ちょっと絵を見てもらえませんか? 伯爵が、リディアさんの意見も仰《あお》ぐようにとおっしゃったので。なにぶん妖精画ですから」
「ええ、そういうことならよろこんで」
ポールにはにっこり微笑《ほほえ》みかけ、どこにいるのかよくわからないナイチソゲールに気をつけながら、リディアは部屋を出る。
もしも転んでも、ポールに抱きつかずにすむくらいには距離をとりつつ、彼のあとについていった。
広間の壁画は、妖精たちの舞踏会《ぶとうかい》だ。薄絹《うすぎぬ》のような羽を持つ、見目麗《みめうるわ》しい妖精たちが、淡《あわ》い光の粉をまき散らしながら舞っている。
「まあ、ステキ」
リディアは感嘆《かんたん》の声をあげた。
「ありがとうございます。でもおかしなところがあったら遠慮《えんりょ》なく言ってくださいね」
「いいえ、おかしなところなんて」
リディアはもっとよく見ようとして、絵に歩み寄る。ポールには近づきすぎないように気をつけるのは忘れなかった。
しかし彼女は、急に髪の毛を引っぱられた。
「あ、リディアさん、気をつけて……」
とポールが言ったが遅かった。
気を取られ、振り返ろうとしたとき、そばのテーブルにあった絵の具の皿にひじが当たる。はじかれた皿は、床に落ちて絵の具をあたりに飛び散らせた。
「やだ、大変……!」
絵の具が壁にまで飛び散っている。あわてたリディアは、壁に手を触れようとした。
「ああっ、だめです、さわらないで」
ポールのひどくあせった声に、かろうじて触れるのを思いとどまる。壁画自体が乾ききっていないのだ。こすったりしたらもっと大変なことになるところだった。
「ごめんなさい……」
手を引っ込めながらも、リディアはうろたえきっていた。ポールが丹誠《たんせい》込めた絵をよごしてしまったのだ。
「いえ、大丈夫ですよ。これくらいなら、すぐ直せます」
壁画にかかった絵の具はわずかだった。それを慎重《しんちょう》に確かめて、ポールはリディアを安心させるように微笑んだ。
「本当ですか? でもあたしのせいでこんな……。何かお手伝いできることがあれば……」
「あなたのせいじゃありませんよ。ぼくが絵の具を置きっぱなしにしてたから」
そんなふうに言われれば、ますますもうしわけなさが増す。しかもこれは、リディアにくっついている妖精の仕業《しわざ》だからなおさらだ。
けれど、ナイチンゲールのせいならますます、ポールのじゃまをするわけにはいかなかった。手伝うどころか、もっとひどいことになるだろう。
そう気づくと、リディアはもういちどポールにわびつつ急いでその場を立ち去った。
(なあに? 彼もまるでダメね。やさしそうだと思ったのに、女性のドレスがよごれても気遣いなしってどうなの?)
またナイチンゲールの声がする。
ドレスどころじゃないのがわからないの?
しかし言い返す気分にもなれないほど落ち込みながら、仕事部屋に戻ってきたリディアは、このナイチンゲールをどうにかしなければならないと、ニコの姿をさがした。
いつもなら、リディアより早く伯爵邸へ来て、執事《しつじ》が淹《い》れたお茶でくつろいでいるはずの灰色猫がいない。
テーブルクロスをめくって、そこにいた伯爵邸の|家付き妖精《ホブゴブリン》に訊《たず》ねてみると、お茶を飲むとすぐ外へ出ていったという。
ナイチンゲールを連れてきたのはニコだ。リディアがどんな目にあっているか気づいているはずだ。とすると。
逃げたわね。
連れ戻して、この迷惑《めいわく》な妖精をもとの場所へ帰すよう言い含めなければならない。
リディアは外套《がいとう》を手に取ると、ニコをさがすために伯爵邸を飛び出した。
さほど遠くへは行っていないだろう。そう考えながら通りを歩き出すが、一ブロックもいかないうちに、外出は間違いだったと気がついた。
なぜか足元がふらついて、馬車の前に飛び出しそうになる。
止まった馬車からあわてて降りてきた青年がリディアに駆《か》け寄る。
「お怪我はありませんか、お嬢《じょう》さん」
「ええ……はい、ご心配なく!」
リディアは、見知らぬ男性に抱きつくことになる前に逃げ出す。
警戒《けいかい》して車道から離れて歩けば、建物の窓から花瓶《かびん》が降ってくる。危《あや》うく直撃するところだ。
「すみません! 大丈夫ですか?」
二階の窓から身を乗り出した男性が、下へ降りてくる前に、リディアはきびすを返して駆け出すしかない。
このままでは、命がいくつあっても足りないのではないか。
「ナイチンゲール、あなたの考える出会いは危険すぎるわ!」
(危険な方がいいのよ。ドキドキするでしょ? それが恋のときめきに変わるんだから)
「バカ言わないで!」
結局伯爵邸へ逃げ帰ってきたリディアは、仕事部屋にこもると、メイドを呼んで部屋には男性をひとりとして近づけないでくれとお願いし、ようやくほっと一息ついた。
が、問題はまだ少しも解決していないのだ。
(出会いを遠ざけるなんて、どうかしてるわ)
ナイチンゲールの悲観した声を聞きながら、リディアはデスクのそばの椅子《いす》に倒れるように座り込んだ。
「もう、しばらくひとりにしてちょうだい!」
引き出しから、トネリコの枝を取りだして振り回す。魔よけの力を持つ神聖な木は、妖精のいたずらを避《さ》けるのに役立つ。
とはいえ、一時的に追い払っても、今回のように目をつけられている場合、あまり意味がないのはわかっていた。
(短気ねえ。そんなだから恋ができないのよ。まあいいわ、ひとりで頭を冷やすのね)
遠ざかる声とともに、妖精の気配《けはい》が消えた。
「もう、どうすればいいのかしら」
「まあそう悩むなよ。ナイチンゲールは気まぐれなやつさ。そのうちあきて帰るって」
ニコの声だった。窓からするりと入ってきた彼は、二本足で床の上に立った。
もうしわけなさそうにするでもなく、ふてぶてしくヒゲを撫《な》でているものだから、リディアはますます腹が立つ。
「そのうちっていつよ。彼女があきる前に、大怪我しそうよ」
にらみつけてやるが、ニコはまるで人ごとな態度で、デスクに座って足を組んだ。
「あー、じゃとりあえず、射止める相手を決めたらどうだ? そいつにナイチンゲールの恋の指南《しなん》を実行すれば消えてくれるはずだぞ」
「恋の指南? どんなこと?」
「それは知らねえよ。男を射止める必勝法みたいなもんだろ。でも妖精の考えるこった。的《まと》はずれかもしれないけどな」
それもまた、トラブルを引き起こしそうな気がする。それに、相手を決めるって、とりあえず決められるようなことじゃない。
「……そんな面倒なことしてられないわ。ニコ、彼女に帰るように説得してちょうだい」
「あいつ人の話なんて聞かねえよ」
「わかってて、どうして連れてきたのよ!」
怒鳴《どな》ったとたん、ノックの音がした。
リディアはあわてて咳払《せきばら》いするが、聞こえたに違いない。
メイドかと思って返事をすると、くすくす笑いながらドアを開けたのはエドガーだった。
「何を連れてきたの?」
仕立てのいいフロックコートにシルクのネクタイ、カフスにもタイピンにも上品なエメラルドが光る。しかし身なりよりも何よりも、豪奢《ごうしゃ》な金髪に灰紫《アッシュモーヴ》の瞳《ひとみ》が貴族的で、ひと目で人を臆《おく》させる。
そんな、この屋敷の主人である伯爵自身が、召使《めしつか》いみたいにティーポットとカップののったトレイを手にしていた。
「え、……いえ、べつに」
「めずらしいね、ニコとケンカかい?」
「あの、エドガー、どうしてあなたがお茶を……?」
「メイドたちがいっせいに風邪《かぜ》をひいたらしくてね、くしゃみが止まらないんだって。でもきみの部屋へ男の召使いを近づけてはいけないらしいから、僕が引き受けることにした。メイドの風邪がきみにうつったりしたら困るからね」
ナイチンゲールだ。メイドに悪さをしているに違いない。しかし、男を近づけないでと言っているのに、よりにもよってこの男だ。
もちろん、召使いたちに主人を止めることなどできないのはわかっているが、まさか伯爵自らが、召使いの仕事を奪《うば》うとは思いもつかないではないか。
リディアはあわてて立ち上がり、エドガーからトレイをひったくるように引き取った。
「ごめんなさい。あなたにこんなことしてもらうなんて……。あとは自分で淹れますから」
「気にしなくても、愛《いと》しい女性のためにお茶を運ぶくらい、貴族だってするよ」
にっこり笑って、エドガーはティーセットをテーブルに置かせると、リディアをそばの椅子に座らせた。
そうして、ひざまずくようにして覗《のぞ》き込む。何だろうと思っていると、彼はリディアの髪をさらりとすくった。
「どうしたの? キャラメル色の髪に、粉砂糖でもふりかけたみたいだ」
くすんだ赤茶の、魅力のかけらもない髪色を、キャラメル色だなんて言うのはエドガーだけだ。おまけに粉砂糖なんて、あますぎて歯が浮きそうなことを平気で言う彼に赤面しながら、リディアは自分の髪に視線を落とす。
エドガーの言うように、白いものが飛び散ったように髪にくっついている。
「やだ、これ絵の具だわ。今朝《けさ》ポールさんの絵を見に行ったから……」
絵の具皿を落としたとき、ドレスのそでだけでなく、髪もよごしてしまったようだ。
「ああ、むやみにさわっちゃダメだ。ちょっと待ってて」
いったん部屋を出ていったエドガーは、すぐに戻ってくると、絵の具の溶剤が入った瓶《びん》を手にしていた。
それを布に含ませて、リディアの髪にこびりついた絵の具をふき取る。
「あの、あたし自分で」
「自分じゃよく見えないだろ? 動かないで」
間近に見つめられ、髪の毛をいじられているなんて恥《は》ずかしい。それでも仕方がないからじっとしているが、彼はリディアの居心地《いごこち》の悪さを承知で、わざとゆっくり手を動かす。
「できた。これで大丈夫」
ようやく彼が立ち上がったとき、リディアはほっとしたあまり、大きなため息をついてしまった。
「ねえリディア、噛《か》みついたりしないから、もう少しリラックスしてほしいな」
どうかしら。
正直、エドガーのことは信用していない。隙《すき》を見せれば噛みつきかねないと思っている。
不審感《ふしんかん》たっぷりのリディアに微笑《ほほえ》みかけ、金髪の狼《おおかみ》は子羊の手を取る。指先にキスを落としながら、軽く歯をたてる。
噛みつかないと言いながらこれだ。
くらくらして脱力しきった彼女が、じわじわと怒る気になったころには、エドガーはドアから出ていくところだった。
どうしようもない、女たらしのスケベ男!
もう、心の中で言うしかない。
(まあ、ステキなかたね。絵の具をふき取ってくれるなんて、彼こそ本物の紳士《しんし》だわ!)
ナイチンゲールの声に、リディアは今度こそ頭にきて立ち上がった。
「ちょっと、あなたもう、いいかげんにしてくれない?」
(リディア、彼にしなさいな。あたしがうまく結びつけてあげるわ)
「女の子なら誰でもいいような男よ」
(そういう殿方《とのがた》こそ射止めがいがあるわ! あなただけを見つめてくれるようになればいいのね!)
ますますやる気になったらしく、小さなガラス細工《ざいく》のような少女は、ふわふわとうれしそうにリディアの周囲を舞った。
「ナイチンゲールを止めるのは無理だな。あきらめろよ」
ニコがつぶやく。
あきらめて、恋の指南とやらを実践《じっせん》するしかないのだろうか。
「ねえ、ナイチンゲール、あなたの恋愛指南を実践すれば、恋が成就《じょうじゅ》しようがしまいが、帰ってくれるの?」
(成就しないわけないわ!)
「とにかく帰ってくれるの?」
(そりゃ、あたしが恋を指南できるのはそこまでだもん)
リディアは悩んだ。
かなり長いこと考え、ようやく顔をあげる。
「ちなみに、どんなことをすればいいの?」
(まつげの先にキスをしてもらうの。それであなたの想《おも》いは彼に伝わる。彼の心にも恋が芽生えるわ)
「……まつげ? って、どうして?」
(恋する気持ちはまつげの先に宿《やど》るからよ。想いを胸に秘めて、じっと見つめるでしょう? 眠れば想い人の夢を見る、目覚めてもその姿を追う、まつげに恋が宿るせいよ)
[#挿絵(img/smoky quartz_099.jpg)入る]
「ナイチンゲールだけあって、ロマン派の詩人みたいだな」
ニコが茶々を入れた。だらしなくあくびなどして、ますます他人事な態度だ。
だがニコにむかついている場合ではない。
「ねえ、ナイチンゲール、もう少し簡単な指南にならないかしら?」
とにかくキスをねだるなんて無理。けれどこのまま彼女につきまとわれるのは困る。
両手を組み合わせて、妖精相手に必死に懇願《こんがん》するリディアに、
「フェアリードクターとは思えないな」とニコがつぶやくが、気にしている場合ではない。
(弱気ねえ。ま、いいわ。あたしは恋に弱気な女の子の味方よ。彼がまつげにキスする気になるよう、雰囲気《ふんいき》づくりから教えてあげる。まずは今日、街へ彼を連れ出しなさい)
キスにくらべればまだやさしいが。
(そうしたら、ウィンドウショッピングでもしながら、贈り物をねだるのよ!)
そんなずうずうしいことができるだろうか。けれどナイチンゲールは、戸惑《とまど》うリディアにきっぱりと言った。
(男性にとってはね、女性に贈り物をねだられるほどうれしいことはないんだから!)
そんなわけないでしょう。
けれど、妖精は思いこみの激しい連中なのだ。訂正するのは不可能だと、フェアリードクターとしてリディアはよく知っていた。
*
夕方になって、帰る時間が近づいたころ、リディアはようやく決意を固め、レイヴンを呼んでエドガーに伝言をたのむことにした。
父親のための誕生日プレゼントを見立ててほしいと言いつくろい、街へ誘《さそ》い出そうと考えたのだ。
けれどその時間、邸宅のサロンには客人《きゃくじん》が訪れていたようだ。伝言をたのんだレイヴンは、そう言いながらも、主人に訊《き》いてみると答えた。
接客中ならとリディアは、伝言を取り消そうとしたけれど、エドガーに忠実なレイヴンは、リディアのことなら何でも報告するようにとでも言いつけられているのだろうか。
しばらくして、エドガーがリディアの仕事部屋に現れた。
「待たせたね、リディア。行こうか」
「えっ! お客さまは?」
さすがに驚くが、エドガーは気にせず彼女の手を取る。
「意味もなく人の屋敷に集まってくるだけの連中だ。客扱いするほどじゃないよ。勝手にカードに興じてる」
「でも、あの、ごめんなさい。急にこんなことたのんだりして」
「きみのたのみごとなら、毎日でもうれしいよ。遠慮《えんりょ》することなんてない」
けれど、たのみごとはこれだけではないのだ。まつげにキス≠ネんて言い出せないからとはいえ、贈り物をねだるなどというのも、かなり難しいと思っている。はたしてうまくやれるのだろうか。
悩みながらもリディアが彼と向かったのは、オックスフォードストリートの商店街だった。
「こんなふうにふたりで街を歩くのって、はじめてだね」
エドガーにはいろんな場所に連れ出され、遊びにつきあわされてはいるが、たしかにショッピングははじめてかもしれない。
が、リディアの頭の中はそれどころではなかった。贈り物をどうやって切りだすのか、思いつけずにいたからだ。
「それで、カールトン教授へのプレゼントを見立てるんだったっけ?」
「え?……ええ、もうすぐ父さまの誕生日なの。手袋なんかどうかしら」
「だったらこの先に、いい店があるよ」
すでに失敗したという気がしてきた。自分の買い物につきあってもらうべきだった。父へのプレゼントでは、どう考えてもエドガーにねだる機会はない。
ひそかにため息をつきつつ、雑踏《ざっとう》を見まわす。ロンドンの東西を貫《つらぬ》く目抜き通りは、早々と暮れかけた寒空の下でも、人や馬車で込み合うほどにざわめいている。
商店に沿《そ》った歩道は、買い物や見物に来た人たちであふれ、光が漏《も》れるショーウィンドウの前で思い思いに足をとめる。立派《りっぱ》な店構えの高級店から、あやしげな貴金属を雑多に並べた屋台までが競い合う。
リディアの視線の先では、寄り添って歩く男女が、まっすぐに宝石店へと入っていく。
「僕たちも、このまま結婚指輪を買いに行こうか」
いかにも結婚目前といったふたりを目で追っていたのに気づいたのだろうか。エドガーからふざけた言葉が飛び出した。
「な、何言うのよ」
あわてて却下《きゃっか》するが、ここで頷《うなず》けば贈り物をしてもらえることになったのだろうかとふと考える自分の浅ましさにあきれ果てた。
ナイチンゲールを追い払う代わりに、エドガーに一生つきまとわれることになるというのに、どうかしている。
「冗談だよ。いつかそんな日がくればいいなって考えただけ」
笑いながらリディアの手を引き、腕を取らせる。気後《きおく》れしてしまうようなレディ扱いも、彼はごく自然だ。
「いまの僕の希望は、こんなふうにきみがもっと、あまえてくれたらいいのにってこと」
こんなせりふの数々が、誰にでも言うことなのか、自分だけがとくべつなのか、リディアにはよくわからない。
それでも今は、自分から誘ったこともあって、離れて歩くのは失礼かもしれないと、彼の腕に手を置いたまま寄り添《そ》って歩く。
ときおり、ガラス窓に映る自分の姿が目に入る。父親以外の男性とこんなふうに歩いていることが、とても奇妙《きみょう》に思える。田舎《いなか》出のリディアにとっては、人混みは苦手なもの。そのうえ、父ではない赤の他人といっしょにいるのに、どうしてこんなに安心した顔をしているのだろう。
エドガーが、エスコート上手だから?
リディアはまだ、男性として彼をたよりにしている自分には無自覚だったから、ただ不思議に思うのだ。
そうしてぼんやりと想像する。プロポーズを受けたなら、こんな時間が当たり前になるのだろうか。案外、不自然な感じがしない、なんて……。
「ねえ、あれは何の店かしら」
とんでもない空想から気をそらそうと、音楽が漏れ聞こえてくるショーウィンドウに彼女は顔を向けた。
近づいてみると、オルガンを弾《ひ》く道化《どうけ》の人形がユーモラスに動いていた。
「からくり仕掛《じか》けのオルゴールだね」
エドガーも、ガラスの奥を覗《のぞ》き込む。様々な形をした人形が並んでいる。
「そう、オルゴールなの。かわいい……。あんなに小さいのも動くのかしら」
「見せてもらう?」
「え、……ううん、いいのよ」
外出を楽しんでる場合ではない。
父のプレゼントを買ったら、便箋《びんせん》を選びに行こう。それでちょっときれいなポストカードでも、今日の記念にとか言ってみれば……。
リディアががんばれそうなのはたぶんそこまでだ。これでどうにか、ナイチンゲールに帰ってもらえないだろうか。
そんなことを必死に考えていたから、リディアはなかば上《うわ》の空《そら》だった。
「せっかく来たんだから、見ていこうよ。もし気に入ったものがあればプレゼントさせてほしいな。今日の記念に」
「えっ!」
「そんなに驚かなくても」
思いがけなくてびっくりした。絶好のチャンスだった。
けれどリディアは、急に引け目を感じていた。物欲しそうな顔をしたかしらとか、よけいな考えが頭をめぐる。
「な、何言ってるの。……理由もなく贈り物なんてもらえないわ」
あせると同時に、いつものかたくなな態度で答えてしまったリディアは、自分で自分の計画をダメにしてしまったことに気づいたがもう遅い。
そのうえ、エドガーの苦笑《にがわら》いにも、なんだか落胆《らくたん》させられた。
かわいげのない女だわ。
こんなふうでは、まつげに触れたくなるようなあまい雰囲気になりようがない。
もともとリディアには、恋する女の子らしくあまえるなんて無理なのだ。
あきらめの心境で歩き出す。
幼いころから妖精とばかりつきあってきた変わり者の少女は、年頃になっても男の人に好意を持たれたことなどない。
自分のことを、リディアはつねづね魅力がないと思っている。
エドガーは誰でも分け隔《へだ》てなく口説《くど》くという天然口説き魔だから、こんな自分でも女の子扱いするけれど、ナイチンゲールの言うとおりにしたって、男性を射止めることなどできるはずがないのだ。
リディアの目的は、ナイチンゲールを追い払うことだったはずだが、もうわけがわからなくなりながら彼女は、エドガーに自分だけを好きになってもらうなんて無理に決まっていると思うのだった。
*
(もう、せっかくうまくいきかけたのに、何をやってるの?)
外出が不首尾《ふしゅび》に終わったことを、ナイチンゲールは嘆《なげ》いて言った。
落ち込んだ気持ちのまま、リディアが帰宅した直後だった。
「あたしにはやっぱり無理よ。恋なんてできそうにないわ。あなたがいくらがんばっても無理だと思うの。あきらめてくれない?」
時間がかかっても、迷惑《めいわく》を被《こうむ》っても、リディアはもう、気まぐれな妖精が去ってくれるのを待つしかないという気持ちだった。
(バカ言わないで。あなたの恋がうまくいかなかったら、あたしこのまま消えちゃうわ!)
ふわふわと漂《ただよ》いながら、ナイチンゲールは急にわっと泣き出した。
それはリディアにとっても寝耳に水だった。
ナイチンゲールは気まぐれな恋の指南役《しなんやく》だ。失敗するのはプライドが許さないだろうけれど、消滅するなどとは聞いたことがない。
「どういうことなの? それって、あなただけの特殊な事情?」
リディアの赤茶の髪を引っぱり、ナイチンゲールは涙を拭《ふ》こうとした。
(森のあるじと約束したの。あたしをナイチンゲールにしてくれた人。彼の森を離れない、その代わりにあたしに、ステキな歌声をくれるって約束だったの)
「あなた、ナイチンゲールじゃなかったの?」
しかたなく髪の毛を貸しながら、リディアは問う。
(あたしは恋する乙女《おとめ》だった。病弱で、若くして命が尽《つ》きたけれど、まつげにともった恋の火だけは消えなくて、彼の森でナイチンゲールになったのよ)
魂《たましい》の行方《ゆくえ》を変える力を持っている。森のあるじは人間ではないのだろう。
(だけどナイチンゲールの使命は、乙女の恋をかなえること。森の中にはあるじしかいない。だから彼は、ひとつだけあたしに条件を出したわ。森を出るなら、最初に出会った乙女の恋を実らせねばならない。できなければ森へ戻れずに消えるって)
ひどいわ、と思いながら、リディアは眉《まゆ》をひそめた。
森のあるじとかいう存在は、ナイチンゲールの命を握《にぎ》って、自分のそばから離れないようにしているようだ。
彼女を、ナイチンゲールにしたのも、きっとその歌声を独占したかったのだろう。
自分の森を飾る、美しい歌声を。
(ねえリディア、あたし、そろそろ森へ帰らなきゃならないの。ちょっとだけのつもりで、あるじに黙《だま》って出てきたの。孤独な女の子さえ見つかれば、すぐに幸せにしてあげられる。そしたら消えずにすむって……)
それもリディアがふがいないせいだ。そんなにせっぱつまった事情だとは知らなかった。
けれど、森のあるじにも憤《いきどお》りを感じる。ナイチンゲールが危機に陥《おちい》っているのは、何よりまず、そいつが彼女にかけた魔法のせいだ。
(ああでも、あたしは未熟《みじゅく》なナイチンゲール。リディアの恋を実らせられないまま、空気に溶けて消えちゃうんだわ)
また大粒の涙を流したナイチンゲールは、リディアの髪を湿らせた。
人間のためだけでなく、妖精のためにも力を貸すのがフェアリードクターだ。どうにかしなければ、とリディアは思う。
「わ……かったわ、ナイチンゲール。あたしもう少しがんばってみる」
まつげにキス=Aどうやら彼女を救うにはそれしかないようだ。
ふわふわと浮くガラス細工《ざいく》のような妖精は、よろこんだのかかすかにふるえた。
(本当? よかった!)
しかしうれしそうな彼女とうらはらに、リディアは昨日のことを思い出して気が沈《しず》む。
「でも……、あたしにはキスなんて言い出しにくいの。ああ、何かいい方法はないかしら」
がんばろうとしても、言えないものは言えない。無理なことをしようとすると墓穴《ぼけつ》を掘るだけだ。昨日の失敗から、それは身に染《し》みていた。
ようやくリディアの髪を離し、ナイチンゲールはせわしなく羽を動かしながら目の前に回り込んだ。
(そうだわリディア、森の近くまで、彼を連れてきて。魔法の力が増すはずだもん。そこであたしの歌を聴けば、きっとまつげにキスする気になるわ!)
まつげにキス、だ。それだけで、一瞬にして人の気持ちが変わるとは思えない。けれどナイチンゲールにとっては、どうやらそれがすべてらしい。
ならば、リディアがエドガーを本気にさせられるかどうかはともかく、まつげにキス≠ウえあれば、ナイチンゲールは助かるはずなのだ。
エドガーは書斎《しょさい》にいた。リディアが駆《か》け込んでいくと、本から顔をあげ、すぐににっこり笑ってみせた。
「おはよう、リディア。今朝《けさ》は元気がいいみたいだね。昨日は少し疲れてたようだったから、心配してたよ」
「あの、エドガー、昨日はどうもありがとう」
「どういたしまして」
立ち上がり、彼はリディアに歩み寄る。
「それで今日はどこへ行く? また誘《さそ》いにきてくれたんだろう?」
「え、ちが……」
違うと言いかけ、あわてて口をつぐむ。
誘いにきたのに、否定してどうするのか。
エドガーのペースに乗せられると、またいつものかたくなな拒絶《きょぜつ》が表面に出てしまいそうだ。それだけは避《さ》けなければと、リディアは急いだ。
「ええあの、それで、お礼ってほどじゃないけど、今夜、ナイチソゲールの歌を聴きに行かない?」
すると、彼は微妙に怪訝《けげん》そうな顔をした。
「とっても不思議なナイチンゲールなの。美しい歌を唄《うた》うわ」
「へえ、どこで?」
「ナイチンゲールの森よ。ピカデリーの」
さっきナイチンゲールから聞いた、森がある場所を告げる。
「……ナイチンゲール館のこと?」
「え? どうかしら。とにかく行ってみればわかるわ」
ナイチンゲールの棲《す》む魔法の森。その入り口がピカデリーにあるらしい。ともかくリディアの仕事は、そこにエドガーを誘い出すことだ。
あとは、その場で逃げ出さないとか、雰囲気《ふんいき》をぶちこわすようなことを言わないとか、気をつければどうにかなるはず。
けれどエドガーは、やけに難しそうに眉根《まゆね》を寄せてリディアを覗《のぞ》き込んだ。
「ナイチンゲールの歌を聴くって、それ、どういうことだかわかってるの?」
えっ? と不自然に驚いてしまったのは、キスのことまで見透《みす》かされたのかと思ったからだ。まさかエドガーは、この誘いの裏にある意味を知っているのだろうか。
ナイチンゲールの歌を聴くと、まつげにキスしたくなるとか、ひょっとするとそういうおまじないがあるのかもしれない。
恋にうといリディアとは違い、エドガーはおまじないだとか占いだとか、恋する女の子が好きそうなことにやけに詳《くわ》しかったりする。
リディアは赤くなってうろたえながら、とっさに目をそらしたが、これでは下心……ではなくて裏の意図《いと》を認めたようなものだった。
彼の困惑《こんわく》したようなため息が聞こえた。
「ねえリディア、昨日といい、きみの方から誘ってくれるなんて、ふだんとは違うだろ。いや、僕はむしろうれしいと思った。僕に気を許そうとしてくれているのかなと。でも、今はそう能天気《のうてんき》じゃいられない。何かあったのかい?」
話してしまったら、ナイチンゲールの恋愛指南は失敗になる。それは彼女が消え去るということだ。
「な、何もないわ。いっしょに、ナイチンゲールの歌を聴きたいだけよ」
だから彼女は、あわてながら否定した。
「……僕と?」
「ええ……まあ」
「それは、僕を愛してるってこと?」
「えっと、それはまだ……」
「きみは、愛してもない男を誘うような女の子じゃない」
それはそうだけれど、事情があるのだ。
「あなたには簡単なことでしょ? あたしは、あなただったらがまんできなくないっていうか……」
がまんって言い方はまずかったかしら。案《あん》の定《じょう》、エドガーにも引っかかったようだった。
「がまん? 心から求めあうべきことだろ」
苛立《いらだ》ったというよりは、落胆《らくたん》したように聞こえた。
でも、どうしてなのだろう。いつだって彼は、リディアの意志などおかまいなしに、手だの髪だの好き勝手にキスするくせに、まつげはだめだというのだろうか。
わけがわからない。けれど断られては困る。説得しなければと取りすがった。
「お願いエドガー、断らないで。あたし、どうしていいかわからなくなるわ」
必死な目を向けると、彼の腕を背中に感じた。と思うとぐいと引き寄せられる。体が密着するほど抱きしめられて、リディアはあわてた。
「きみの頼みなら断ったりしない。でも、本当にがまんできる?」
耳元でささやかれる。怖くなったが、ここで突き放したりしたら彼はリディアの頼みをきいてくれなくなるだろうと感じ、抵抗《ていこう》するのは思いとどまる。
おろしたままの髪に顔をうずめるようにして、彼はリディアの首筋に頬《ほお》を寄せる。
恥《は》ずかしさと不安とでどうしていいかわからなくなるが、ひたすら耐えようと強く目をつぶって全身に力を入れる。
「……たったこれだけでも、きみには苦痛なんだろう?」
はっと目を開けたリディアは、苦しげにこちらを見つめるエドガーの視線を間近に受け、自分がどんな顔をしていたのか気がついた。
ただ苦痛な時間を耐えているだけ、そんな女の子をいとおしく思えるはずもなく、キスする気になれるわけもない。
「だったら無理だよ。がまんできるわけがないじゃないか。いったい、僕をどうしたいんだ? きみへの想《おも》いを試してる?」
静かな口調《くちょう》に、強い失望を感じた。
エドガーにとっては簡単なことだなんて、勝手に思いこんでいた。こんな失礼なことってあるだろうか。
女たらしだけど、彼は女の子を楽しませていい気分にさせようとするだけで、苦痛なことを強要する人じゃない。
それに、本気の恋かどうかはともかく、彼がリディアを大切に思ってくれているのはたしかで、だったらなおさら、がまんするからキスがほしいだなんてどうかしている。
ようやくそう気づくと、情けなくて恥ずかしくて顔があげられなかった。
「……ごめんなさい。あたし、どうかしてたわ」
リディアには、その場から逃げ出すのが精一杯だった。
*
「おいリディア、ナイチンゲールが! 急にうずくまったと思ったら……」
仕事部屋に戻ったとき、あわてた様子で駆け込んできたのはニコだった。
「卵になっちまった!」
「えっ!」
驚くリディアの目の前に、ニコは前足を突き出す。肉球の上に、真珠《しんじゅ》ほどのまるいものが乗っかっている。
彼女が消える前の段階なのだろうか。
「ああ……、あたしが失敗したから?」
「失敗したのか? あの伯爵《はくしゃく》を誘い出すくらい、女なら誰だってできるだろうが」
たぶんその通りだと思うと、リディアはますます落ち込む。
どうしてあたしは、こんなにダメなの?
「ニコ、どうすればいいの?」
厄介者《やっかいもの》だったナイチンゲールだが、彼女も消えないために必死だったのだ。
思いこみが激しいし、まつげにキスだの贈り物をねだるだので本当に恋が成就《じょうじゅ》するとは思えないが、恋に悩む乙女《おとめ》の味方として、彼女は本気でリディアを励まそうとしていた。
善良な妖精が、このまま消えてしまうのを黙って見ているわけにはいかない。
「そうだわ、森のあるじ……! 彼女の運命を握ってるんだもの、助けようと思えばできるはずよ」
「ええっ、そんなの得体《えたい》の知れない相手だぞ」
「とにかくニコ、森へ案内して」
「いやだよ、あれはふつうの森じゃない」
薄情《はくじょう》な猫は逃げる気らしく、さっと窓辺へ移動した。
「待ちなさい。だったら場所だけでも教えて。ピカデリーのどこなの?」
「建物の中だったよ。おれ、屋根の上を歩いてて、たまたま通りかかった窓から入っただけなんだ。場所はよくおぼえてない」
「わかったわ。じゃあ呼びかけてみる」
「リディア、むやみに近づくのは危険だって」
ニコの忠告も耳に入らない勢いで、彼女はもう部屋から駆けだしていた。
ピカデリーの東端までやって来ると、リージェントストリートとシャフツベリーがぶつかる円形広場《サーカス》の人混みをかきわけ、リディアはおのぼりさんのごとくあたりを見回した。
見あげても、看板を掲《かか》げた高い建物が並ぶばかりで、サーカスは行き交う馬車に埋《う》め尽《つ》くされている。
ロンドン一の繁華街、この大通りには、もちろんどこにも、森らしき風景はない。
ふつうの森ではないらしいし、建物の中だとニコは言っていた。どの建物だろうか。
「……ナイチンゲール館?」
ふとリディアの目についたのは、そう書かれた看板だった。
偶然の一致か関係があるのか、わからないままに建物に近づいていく。
上品なカーテンが掛かった窓からは、真冬だというのに、立派《りっぱ》な挿花《さしばな》がちらりと見える。あのガラスの内側には、温室育ちの花がたっぷり飾られているのだろう。入り口の絨毯《じゅうたん》も重厚《じゅうこう》なドアも、その前で待ちかまえているドアボーイも、すべてが高級そうな店だった。
霧《きり》とスモッグで灰色にかすんだ視界に、ちらちらと雪が舞い始めていた。
何気なく、リディアは見あげる。ナイチンゲール館と刻まれた建物の壁面には、コーヒーハウスという文字と、前世紀の年号が寄り添っている。
店の前で、上の方をじっと見あげていたら、ドアボーイににらまれた。店の雰囲気《ふんいき》からするに、上流階級の社交場だ。小娘がひとりで来るようなところではないからだろう。
少しその場を離れ、また立ち止まったリディアは、建物を見据《みす》えながら、行き交う人の視線を浴びるのもかまわず、あるじに呼びかけることにした。
「ナイチンゲールの森のあるじ、聞こえる? あたしはフェアリードクターよ。ナイチンゲールのことで話があるの」
とたん、風を感じるでもないのに、雪が渦《うず》を巻いて舞った。
一瞬気を取られ、そして気づくと、周囲の雑音がやんでいた。同時にリディアは、ぽつんとひとり、月光が差す森の中に立っていた。
さっきまで彼女を取り囲んでいた石造りの建物の代わりに、見あげるような木々が並ぶ。
空を覆《おお》うのは、煙突《えんとつ》が吐《は》き出す煙ではなく、木の葉をたっぷりとまとった枝だ。
「ナイチンゲールがどうしたって?」
あわてて振り返ったリディアの視線の先には、少年がひとり立っていた。今どき芝居の中でしか見かけないくらい、派手なモール飾りのついた衣服を着ていた。
「あなた、森のあるじ?」
リディアよりも年下に見える、十四、五歳くらいの少年だった。
けれど彼が近づいてくると、リディアは自分の方がずいぶんと小さいことに気がついた。
「何か用、お嬢《じょう》ちゃん。きみの恋の年齢は、ずいぶん幼いようだね」
「……恋の年齢?」
「ここはナイチンゲールの森。そう名づけられて生まれた世界だから、この森では誰もが恋の年齢にふさわしい姿になる」
少年の、青い瞳《ひとみ》に薔薇《ばら》色の頬《ほお》は、まるで絵画《かいが》の中から抜け出してきたかのようだ。美しく、そして無垢《むく》な何ものか。わかるのは、幽霊でもなく妖精でもなく、けれど不可思議な、神秘の領域に棲《す》む存在だということだけだ。
そんな少年の前で、リディアは幼い子供の姿でしかないことに驚きながらも、重要な用があったのだと頭を切り換えて言った。
「ナイチンゲールが死にかけてるの。お願い、助けてあげて。あなたならできるでしょう? 彼女の恋愛|指南《しなん》が成功しなかったら消えちゃうなんてあんまりよ。そんな魔法で彼女を縛《しば》るのはやめてほしいの」
「いいよ」
あっさりと彼は言った。
けれどリディアが身構えたのは、うっすらと浮かべた笑《え》みが、憤《いきどお》っているように見えたからだ。
「彼女が森を出ていきたいならしかたがない。でもぼくの森にはナイチンゲールが必要なんだ。きみが代わりに来てくれるかな?」
まずいかも、と思った。
「あたしは、無理よ。だってほら、この姿だし、……恋を知らない。ナイチンゲールにはなれないわ」
言いながら、リディアは外套《がいとう》にしのばせていたはずの、トネリコの枝をさぐった。妖精の魔よけは、彼にきくのだろうか?
「そう? たしかにきみの心は幼い。でも、本当に恋を知らないのかな」
とたん、月夜の森の風景に、渦巻く雪が吹き込み、リディアの視界を奪《うば》った。
*
「エドガーさま、ナイチンゲール館は全室押さえました」
レイヴンの報告に頷《うなず》きながら、エドガーは、本当にそれで大丈夫だろうかと思案していた。
リディアが伯爵邸《はくしゃくてい》を出ていったきり帰ってこない。もちろん自宅にも戻っていない。
ピカデリーに向かったらしいことまではわかっているがそれだけだ。
おまけにニコの姿もない。
可能なら、ロンドン中の連れ込み宿を借り切っておきたいくらいだ。リディアがせっぱつまってほかの男を誘《さそ》わないとも限らない。
彼女は何やら必死だった。
あんなことを言い出すのには、抜き差しならない理由があったはずなのだ。
「がまんできなくもない、か」
その程度の基準にしろ、選ばれて頼られたなら、言うとおりにするべきだっただろうか。
けれどエドガーにとって彼女は、結婚を望んでいる少女だ。本気で求婚しているのに、あなたには簡単なこと≠ニ言われて、少々|滅入《めい》ったのは事実だった。
「エドガーさま、また[#「また」に傍点]ナイチンゲール館の常連客になるおつもりですか?」
「……レイヴン、今夜はリディアのために借り切ったんだよ」
「それでリディアさんは逃げたのですね」
リディアがいなくなったのは、また[#「また」に傍点]エドガーがむりやりせまったからだとでも考えているのだろうか。
ため息とともに、頬杖《ほおづえ》をつく。
こんなことなら、もう少し彼女の意図《いと》をさぐるべきだったとは思う。ナイチンゲール館へ同行するくらいはできたかもしれない。
けれど、あそこでさっきみたいにせまられたら、止められる自信はない。がまんできなくはないと言いながら、ぎゅっと目を閉じてふるえている様子にそそられるくらいには、彼はじゅうぶん悪趣味だ。
そう思ったからこそ、わけありげな様子で誘おうとしているリディアに、役得だなどと不謹慎《ふきんしん》に応じるわけにはいかなかった。
ともかく、リディアの身に何かあっては困る。じっと待ってはいられない。
椅子《いす》から立ち上がると、エドガーはレイヴンに歩み寄った。
「レイヴン、これからナイチンゲール館へついてきてもらうよ」
「はい」
「その前に、準備が必要だ。|メイド頭《ハウスキーパー》のハリエットに言ってドレスを着せてもらうように」
感情が表に出ないレイヴンだが、そのまま硬直《こうちょく》したように見えたのは間違いないだろう。
レイヴンの、さっきの無自覚なつっこみへの仕返しのつもりで、エドガーはほくそ笑む。
「僕の名誉にかけて、男だってばれないようきっちり女装するんだよ」
「あの……どうしてなのですか?」
エドガーの命令に、めずらしく理由を訊《たず》ねるのは、よほどいやなのだろうが、撤回《てっかい》するつもりはない。華奢《きゃしゃ》で童顔な彼なら、問題なく女に見えるはずだ。
「いいかい、レイヴン。ナイチンゲール館を借り切っておいて、ひとりで行くなんておかしいだろう? かといって女性を連れていくなんて誤解のもとだ。わかったね」
ナイチンゲール館については、エドガーには他に気になることもあった。
リディアはフェアリードクターだ。彼女が必死になることといえば、妖精のことに決まっている。底抜けなほどのお人好《ひとよ》しを発揮《はっき》して、とんでもないことをしでかすのも、妖精がからんでいるから、というのがこれまでの常だった。
今度もそうかもしれないと思い当たった彼は、ナイチンゲール館にまつわる不思議な絵のことを重ねて考えていた。
夜中に絵の中のナイチンゲールが鳴く。
異性を誘う常套句《じょうとうく》に引っかけた洒落《しゃれ》、としか思っていなかったが、もしも本当に不思議な現象が起こるのだとしたら、ナイチンゲールの歌を聴こうとリディアが誘ってきたことと、関係があるかもしれないではないか。
問題の絵は、『ナイチンゲールの森』というタイトルで、月光に照らされた深い森の中、少年がひとり眠っているという構図だった。
金モールやビーズをふんだんにあしらった、バロック調の衣装を身につけた少年は、月光のもとで白い頬に女性的な色香《いろか》さえ漂《ただよ》わせ、人というよりは霊的な存在にも見える。
少年と月光のほかには、むせかえるほどに重なり茂《しげ》る草木のいきれが漂ってくるが、不思議なことにナイチンゲールは影も形も描かれていない。
ナイチンゲールは姿の見えない小鳥。鳴き声だけが森を満たす。だから小鳥の姿はなく、ナイチンゲールの歌を聴きながらまどろんでいる少年だけが描かれている。
そういう解釈《かいしゃく》とは別に、この絵にはもうひとつ逸話《いつわ》がある。
昔、ある富豪《ふごう》の、病気で寝たきりの娘の部屋に飾られていた。外の世界を知らない娘は、絵の中の少年に恋をした。森の中へ行ってみたいと切実に願っていた。
やがて彼女が亡くなったとき、魂《たましい》だけがナイチンゲールとなった。そうして森の奥で、彼女は少年のために恋の歌を唄《うた》い続けている……。
だがこれも、ロマンティックな気分を盛り上げるための作り話かもしれない。リディアと関係があるかどうかなどわからない。
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それでもエドガーは、その絵が飾られた一室で、ひとり絹張《きぬば》りのソファに座り込んで、ナイチンゲールの歌が聴こえないだろうかと待っていた。
今夜、いっしょにナイチンゲールの歌を聴こうと言った、リディアの誘いに応じたことにならないだろうか。
本当のところ、ここへ来たのはそのためだ。
たぶん彼女が望んだことは、世間の常套句に含まれる意味ではなかったのだろう。
ならば彼女の目的のためには、エドガーが『ナイチンゲールの森』へ行くことが必要で、こうしていれば、彼女との接点ができるはずだと信じたかった。
じっと耳を澄《す》まして待つ。
ピカデリーの喧噪《けんそう》も、コーヒーハウスのざわめきも、この上階の部屋までは届かないのか、やけに静かだ。
むろんこのフロアには、エドガーと、隣室《りんしつ》でひかえているレイヴンしかいない。
背もたれに体をあずけ、目を閉じる。
と、かすかな風が吹いて、髪を撫《な》でたような気がした。
閉め切った部屋に、風が吹くはずはない。そう思うと、木の葉の鳴る音が耳に響いた。
はっと目を開けたエドガーの周囲には、月光に照らされた森が広がっていた。
さっきまで目の前にあった、あの絵の風景と同じだった。少年の姿がないだけで、目立つ木の枝振りもまるで同じだ。
立ち上がると同時に、ナイチンゲール館との接点だったソファも消えた。
「エドガー……?」
呆然《ぼうぜん》と突っ立っていると、聞き慣れた声がした。
「どうしてここにいるの?」
木の陰で、驚いたようにこちらを見ているのは、金緑の瞳の、間違いなくリディアだ。
エドガーは、不安げな彼女の方に、ゆっくりと近づいていった。
「ナイチンゲールの歌を聴きに来たよ。いっしょに聴きたいって、きみが誘ってくれただろ?」
「でも……」
「きみの頼みなら、断らないって言ったはずだよ」
リディアから求められた役割は、まだエドガーのものだ。ここで会えたのはその証拠《しょうこ》だと思ったから、彼は心から微笑《ほほえ》みながら彼女をよく見ようとしゃがみ込んだ。
「どうして、驚かないの?」
「驚いてるよ。いきなり森の中だ」
「そうじゃなくて」
「きみがやけに幼く見えるってこと?」
森のあるじから逃げ出したリディアは、ひとり森をさまよっていた。そうして池のそばに立ったとき、ようやく水に映る自分の姿を確かめることができたが、十歳くらいにしか見えなくて落胆《らくたん》した。
「ここではみんな、恋の年齢の姿になるんですって。……でもこれじゃ、あんまりよね」
「子供のころからかわいかったんだね」
「……あなた、変わらないわね」
「そう? 老《ふ》けて見えてなければいいけど」
リディアはつい吹き出す。
エドガーのこういうところに救われる。どんな事態になっても、彼は変わらない。ふざけた態度も軽い口調《くちょう》も、気持ちをやわらかくしてくれる。
「帰ろう、リディア」
切《せつ》なげな瞳《ひとみ》とやさしい言葉に、リディアは泣きたくなりながら素直に頷《うなず》いた。
けれど、どうすれば帰れるのかわからない。森のあるじに見つかれば、ナイチンゲールにされてしまうかもしれない。
エドガーに帰りかたがわかるはずもないだろうけれど、彼は迷子《まいご》の子供を導くかのように、手を引いてまっすぐに歩き出す。
彼を振り回すようなことをしてしまったけれど、変わらずにやさしくしてくれる。
「あの、エドガー、あたし……苦痛ってわけじゃなかったの。あのとき……」
「僕が抱きしめたとき?」
「……だけど、ただ……、どう言えばいいのかしら」
「うん、わかるよ。時間が必要なんだね」
立ち止まると、幼いリディアを見おろして、彼はごめんねとつぶやく。
「ゆっくりでいい。ときどき僕は、ちょっとせっかちになってしまうけどね。でも、きみが僕のために少しずつ大人になってくれるなら、いくらでも待つよ」
向かい合いながら、不思議と今は、彼の言葉を少しも疑わなかった。
エドガーのために大人になることすら疑わなかった。
そのときリディアは、自分の背が少しだけのびて、もとの姿に近づきつつあることに気づいていなかった。
見つめられながら、彼との距離が少しだけ近づいたかのように感じていた。
「僕は、なにをすればいい?」
「え……」
「こんなことになったのも、きみの望むようにできなかったからだろう?」
まつげにキス。
それできっと、ナイチンゲールは息を吹き返す。この森に戻ってくる。
そうしたら、自分たちはここから出られるのだろう。
でも。考えるだけで顔が熱くなってしまう。
「そんなに恥《は》ずかしいこと? でも言えないならしかたがない。きみが恥ずかしがりそうなこと、試してみるから……」
「や、やだ! 待って、言うから……」
しかしリディアがその先を口にする前に、ざっと木々が風に鳴った。
つむじ風とともに現れた少年は、もう幼くはないリディアと、そばにいるエドガーを見て、にやりと笑った。
「恋ができないわけじゃない。だったらナイチンゲールにもなれるよ、きみ」
エドガーが彼女を引き寄せ、少年をにらみつける。しかしリディアは、少年にまとわりつく強い魔力に圧倒され、逃げ場もないと思うだけだ。
(やめて!)
そのとき、ナイチンゲールの声がした。
(森のあるじ、あたしを追い出さないで!)
リディアの目の前に、ふわりと小さな妖精が浮かんだ。
死にかけた様子もない、元気なナイチンゲールだった。
(ほかの女の子を、ナイチンゲールにしないで。あたしをここにいさせて!)
「ナイチンゲール! 無事だったの?」
「ごめんなさい……、リディア。卵になったのは疲れて眠ってただけなの。でもあたし、あのまま消えると思ってた。彼が魔法をかけるって言ったんだもの。だからすっきり目覚めたときも、ニコに連れてきてもらって森へ入れたときもびっくりしたわ。自由に出入りできるなんて」
「じゃあ、あるじはナイチンゲールを魔法で縛《しば》ってたんじゃなかったの?」
森のあるじは、いたずらがばれた子供みたいに、むすっとして目を伏《ふ》せた。
「そう言ったら、ナイチンゲールはここから出ていかないと思ったんだ。もしも出ていっても、乙女《おとめ》の恋の世話もひとりだけにしてすぐ戻ってくると……。だって彼女にぼくの魔法はきかない。……恋をしてしまったから」
「恋? ……あなたがナイチンゲールに?」
浮かぶナイチンゲールを見あげ、彼は言う。
「そうだよ。だけど想《おも》いを伝えても、きみは応《こた》えてくれない。どうすればきみの恋人になれるのか教えてくれない」
ナイチンゲールは戸惑《とまど》いながらうつむいた。
(だって……)
「ちょっと待って、ナイチンゲール。あなた今、彼のそばにいたいって言ったわよね。……つまりあなたも、彼が好きなの?」
(それは……、あたしは……)
相思相愛《そうしそうあい》? 森のあるじに脅《おど》されているかわいそうなナイチンゲールだと思っていたのは、リディアの勘違《かんちが》いだったのか。
ニコに誘《さそ》われて森を出たけれど、彼女はただ早く帰りたかったのだ。
「思わせぶりな態度だけなら、もういいよ。ぼくには言いたくないんだろう?」
恥ずかしくて言えないのだと、リディアは気がついた。
まつげにキスして≠ニ言えない。
ナイチンゲールにとって、想いを重ね合う唯一《ゆいいつ》の方法はそれだ。なのに彼女は、森のあるじに言い出せない。
リディアは、真っ赤になって羽をふるわせているナイチンゲールを眺《なが》めた。
とんだ恋の指南役ね。自分の恋には臆病《おくびょう》なくせに。
臆病なのはリディアも同じだ。けれど、自分の恋ができなくても、他人の恋の指南役にはなれるだろうか。
「違うわ、森のあるじ、彼女はあなたを愛してる」
リディアは代わりに声をあげた。
「まつげよ、まつげにキスしてあげて」
(きゃっ、リディア! なんてこと言うの!)
ナイチンゲールはあわてふためいて、リディアのまわりをぱたぱたと舞った。
「あなた、あたしには何度もそうしろって言ったじゃない」
(そ、そうだけど……)
「ナイチンゲール、それが恋人になる方法なのか?」
呼びかけながら、森のあるじは飛び回る妖精にそっと手を差し出した。
「帰ってきてくれるね?」
せわしなく羽を動かしながらも、彼女はやがて思い切ったように少年に近づいていくと、差し出された手のひらにちょこんと座った。
「なんだかよくわからないけど、落ち着いたようだし、僕らは失礼しよう」
状況を見守っていたエドガーは、さっさと立ち去りたそうに口を開いた。
「帰り道を教えてくれるかな」
森のあるじが頷きつつ指さす方へ、リディアを引き寄せ歩き出す。
(リディア、ありがとう)
ナイチンゲールの、鈴の鳴るような声が背後《はいご》に聞こえた。
(あたし、知らなかったわ。まつげにキスしなくても、あなたたちはとっくに……)
わずかな間に、リディアはエドガーと、壁に飾られた絵の前に立っていた。見覚えのある森と、少年の絵だった。
|小夜鳴き鳥《ナイチンゲール》の、歌うような鳴き声がまだ耳に残っている。
「まつげにキス、か。それが解決の鍵《かぎ》?」
エドガーはおかしそうに微笑みながら、リディアの頬《ほお》に手をのばした。
「あんまり恥ずかしがるから、もっと違うことかと思った」
「え、……どんな?」
「恥ずかしくて言えない」
彼女が赤くなると、彼はますます楽しそうな顔をした。
とっくに、恋人どうしなのね……。
ナイチンゲールは最後にそう言ったのだろうか。そんなわけないじゃないと思いながらも、リディアはまつげにかかる彼の吐息《といき》を感じていた。
たぶんリディアは、必死にがまんしているといった顔になったはずだ。
もう、がまんしてまでキスをもらう必要はないというのに、じっと目を閉じていた。
*
アシェンバート伯爵《はくしゃく》、ナイチンゲール館で両手に花
そんな見出しがタブロイド紙を飾ったのは翌日のことだった。
このところ不祥事《スキャンダル》と無縁だったエドガーが、女性をふたりも連れてナイチンゲール館から出てきたのは、低級紙《ゴシップペーパー》の記者には格好《かっこう》のネタだったらしい。
レストランの上が、人目をしのぶ宿だというのはロンドンではありふれたことだというが、知らなかった。だからレイヴンがどうして女装していたのかも知らなかったリディアは、あの建物から出るとき、レイヴンと帽子《ぼうし》を取り替えた理由を、翌日になって知ったのだった。
ベールつきの|縁なし帽《ボンネット》で、顔も髪も隠《かく》すように言われたおかげで、紙面にはエドガーのことしか書いていない。
カールトン家の居間で、ニコが広げているタブロイド紙を覗《のぞ》き込みながら、事情を知ったリディアは倒れそうな思いだった。
「まああれだ、人騒がせなナイチンゲールだったな」
それを連れてきたのは誰よ、と思いながらニコをにらむ。
「ナイチンゲール? 何の話かね?」
父が居間へ入ってきて、リディアはあわててニコからタブロイド紙をひったくった。
が、父はそれをちらりと見て肩をすくめる。
「伯爵は相変わらずのようだね」
「教授は先に読んでたぜ」
ニコが耳打ちする。
どうして見えるところに置いておくのよ。
父が買うはずもない低級紙を、カールトン家に持ち込むのはニコなのだ。
「あの、父さま。これはきっと捏造《ねつぞう》記事よ」
ついかばうような発言をしてしまうと、父は意外そうな顔をした。
「いえ、エドガーならやりそうなことよ。でも、このごろはわりとまじめにしてるっていうか……」
「ったく、妖精を追い払うだけなら、恋愛|指南《しなん》を実行する相手なんて誰でもいいのにさ。あっさり伯爵に決めて、必死に誘ってたくせに、あのナイチンゲールより往生際《おうじょうぎわ》悪いよな」
ニコのあきれたようなつぶやきは、リディアの耳には聞こえなかった。
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学者と妖精 この世の果ての島
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〜父の秘密〜
スノーフレークの花びらを、そのまま編み込んだかのような、純白のレースだった。
無垢《むく》な心≠花言葉に持つ可憐《かれん》な花の模様は、広げたレースの縁取《ふちど》りにちりばめられている。布を切り込み、ひと針ひと針ていねいに糸をからめ、手間ひまをかけて仕上げられたレースのベールは、暖かみのある白い色合いも手触りも、少しも古さを感じさせなかった。
リディアは、ため息をつきつつ、広げたレースをそっと撫《な》でた。
かすかに手を触れるだけで、さざ波のようにゆれる繊細《せんさい》なベールだ。身につければ、やわらかく髪を覆《おお》い、ちょっとした動作でさえ、優雅《ゆうが》にしとやかに見えることだろう。
「ステキね、父さま。これが、母さまのウェディングベールなの?」
「そうだよ、彼女がその母親から……、つまりおまえの祖母にあたる人からもらった、手作りの品だ」
リディアの父、フレデリック・カールトンは、昔を懐《なつ》かしむように目を細め、淡雪《あわゆき》のようなレースを眺《なが》めやった。
「でも、父さまと母さまは駆《か》け落ちをしたのよね。おばあさまは、それでも母さまの結婚を祝福《しゅくふく》してくれたってことなの?」
つつましい感じのする短いベールは、どんなドレスにでも似合いそうだ。
それに、短いといってもこれだけのレースを編むにはかなりの時間がかかっているはずで、おそらく祖母は、母が幼いころから、少しずつ編み続けていたのではないだろうか。
そんな祖母のことを、リディアが想像するのははじめてだった。
リディアは、母方のことはほとんど何も知らない。母を早くに亡くしたこともあって、故郷や家族について訊ねる機会もなかった。
たとえ訊ねたとしても、たいした話は聞けなかっただろう。母も、そして父も、母方の一族との縁は切れたかのように考えている。リディアは幼いころから、それだけは感じてきた。
それでも両親とも、縁が切れた母方について、何ら感情的なしこりはなく、今はもういない古い友を忍ぶように思い浮かべていたことは知っている。
だからこそ父は、リディアが結婚するとなってこのベールのことを思い出し、スコットランドの実家にしまってあったのを、ロンドンまで送り届けてもらうよう手配したのだろう。
「そう……だったね。おばあさまだけは、母さまの幸せを心から祈ってくれていた」
これをまとえば、リディアは母と、そして見知らぬ祖母からも祝福されて嫁《とつ》ぐことができる。なかなか結婚に実感がわかない彼女だが、そう思うと少しばかり心が浮き立った。
婚約をしたばかりのリディアは、ベールを手に、亡き母に思いをはせる。
仕事の都合でスコットランドの自宅を離れている父とともに、ロンドンで暮らしているリディアにとって、母の故郷だという北方の地はあまりにも遠い。
ベールを頬《ほお》に押しあててみれば、北国の、冷たい潮風《しおかぜ》の匂《にお》いがするような気がした。
「ねえ、父さまは、どうやって母さまにプロポーズしたの?」
これまでも、何度も問いかけたことがある。いつも父にははぐらかされたが、娘の結婚が決まった今なら答えてくれるかもしれないと、期待して訊《き》いてみる。
が、父は相変わらず困ったような顔をし、あせった様子で眼鏡《めがね》をはずしてみたりする。
「まあ、昔のことだよ」
そうして、ちょうど部屋の前を通りかかった家政婦《ハウスキーパー》に、助けを求めるように声をかけた。
「ああ、ミセス・クーパー、晩餐《ディナー》の準備はどうかね?」
「問題ありませんわ、旦那《だんな》さま。ついさっき、ホテルのレストランから料理が届きました。ダイニングルームの準備もできております」
今夜、カールトン家では、リディアの婚約者を招いてのディナーが催《もよお》される。とはいえ、テーブルを囲むのは父とリディアと、その婚約者の三人だけだ。
婚約前から彼は、しばしばリディアの家に出入りしているし、父とともに彼の屋敷のディナーに招かれたことも少なからずあるが、正式に婚約し、あらたまった形でこの家で食事をするのははじめてだ。
そうなると、ふだんの食事の延長とはいかないのは、リディアの婚約者が貴族だからだった。
庶民《しょみん》の家庭の食卓に文句をつけるような婚約者ではないが、上流階級ともふだんからつきあいのあるカールトン家としては、格式張った作法《さほう》も無下《むげ》にはできない。
夕食に誘《さそ》った以上、正餐《せいさん》としてもてなさなければならないのだった。
「ヘンデルズ・ホテルの料理は、伯爵《はくしゃく》の口に合うかな」
不安げに父はリディアを見る。
「高級なフランス料理は食べ慣れてるから、たまにはめずらしくていいんじゃないかしら」
カールトン家のような、上流階級ではないがそこそこ裕福《ゆうふく》だったり社会的に地位のある中流上《アッパーミドル》の人々にとっては定評のあるレストランだ。むろんカールトン家には料理女がいるが、晩餐《ディナー》やパーティ向きの料理人ではない。
そんなわけで、たかだかひとりを招くだけのディナーだというのに、なんとなくあわただしくなっているのだった。
「そうかね……。ああ、そうだろうね。どのみち伯爵は、料理になんぞ興味はないだろうからね」
リディアを眺めながら、やけに淋《さび》しそうに言う。ひとり娘の婚約者を迎える夕食なんて、父親にとっても料理を味わうどころではないのだろう。
「でしたらそろそろ、お嬢《じょう》さまも準備をなさいませ。メインディッシュよりも華やかに引き立てなければなりませんから」
あたしは料理じゃないわよ。と思いながらも、頷《うなず》く父に促《うなが》され、リディアは立ちあがった。
「料理より目立つと、うっかり喰《く》われかねないぞ。あの伯爵は狼《おおかみ》みたいなもんだからな」
いつのまにかそばにいたニコが、二本足で歩きながらついてくる。ふさふさした灰色のしっぽを優雅《ゆうが》にゆらす妖精猫は、リディアが生まれたときからそばにいる親友だ。
もともとは、母とともに遠い北国からやってきた、猫の姿をした妖精。しかし紳士《しんし》のつもりの彼は、いつもネクタイをしているし、お酒と食べ物にはうるさく、何かと気取っている。
「ねえニコ、あなたも、父さまがどうやって母さまにプロポーズしたのか知らないのよね」
二階の自室へと、並んで階段を上がりながらリディアは訊いた。
「そういや、聞いたことないな」
結局、父のプロポーズの話はまた聞けないままだった。
「どうしてそんなに隠《かく》すのかしら。二十年以上も前のことなのに、恥《は》ずかしいものなの?」
「恥ずかしいとかじゃないような気がするな。あのおしゃべりなアウローラだってうっかりもらしたこともないぞ」
どうにも、ふたりだけの秘密らしい。
「けどリディア、なんだってそんなこと聞きたいんだ?」
「だって、父さまのどんな言葉で、母さまは両親や故郷と永遠に別れる気持ちになったのかしらと思うのよ」
結婚を決めたリディアだが、貴族に嫁ぐということが現実的になればなるほど戸惑《とまど》うことも増えている。
それに、リディアの婚約者は、社交界でさんざん浮き名を流してきた女たらしだ。リディアが必要だという彼の言葉を信じているが、不安がないわけではない。
だから、母が、父のどんな言葉を信じ、ささえにして嫁いできたのか、知りたいと思う。
けれどそんなリディアの願いは、かなえられそうになかった。
なにしろ彼女の父親は、そのことについては墓場まで持っていくつもりだったから。
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(1)出会い
妖精、それはおとぎ話の中だけの存在だと、フレデリック・カールトンは思っていた。
けれど、人は夢を見る。不思議なもの、美しいもの、恐ろしいもの、この世のものでない何かを空想せずにはいられない。
そういう意味ではフレデリックは、語り継がれるあらゆる不可思議に興味を持っていたし、妖精を見たという他人の話を一笑に付すような人物ではなかった。
しかし、自身がそういった、不可思議な領域《りょういき》に踏《ふ》み込むことになるとは、夢にも考えていなかったのだ。
とはいえ、彼にはあのときのできごとが、本当に妖精の仕業《しわざ》だったのか判然としない。あまりにもぼんやりした記憶しかなく、幻覚《げんかく》を見ただけなのではないかとも思える。
おぼえているのは、道に迷ったこと。日暮れ間際《まぎわ》だったのかどうか、薄暗い野原をさまよった。やがて見つけたのは巨石の遺跡。地面にそそり立つ背の高い岩の群れ、その大きなスタンディングストーンが、煙水晶《スモーキークオーツ》でできていたこと。
グラスに注いだスコッチを思わせる、茶色味がかった、けれど透明度《とうめいど》の高い、上質の煙水晶。その巨大な結晶《けっしょう》が、地面に並んで立っていた。
眺《なが》めていると、それは内側から発光しているように見えた。ゆらゆらと、表面をゆれるかすかな光は七色に変化した。
空を映しているのだ。
見あげながら彼は、妖精の魔法だと思った。
なぜそう思ったのかはわからない。
何よりも、その色彩が鮮明に焼き付いていて、思い起こせば不思議と心が乱れる。
とても貴重な何かを、そこに置き忘れてきたかのような。
けれど思い出そうとすればするほど、夢を見たのだという気がしてくる。
たぶん、夢なのだろう。
気がついたら彼は、村はずれの道ばたに座り込んでいた。
歩いても歩いても村が見えてこなくて、少し休もうと草の上に腰をおろしたことを思い出した。
足を休めるだけのつもりが、うたた寝でもしたのだろうか。自分では小一時間ほどの感覚しかなかったのに、村の宿に戻ると六時間も経《た》っていた。
妖精に惑《まど》わされたのだと、宿の主人は言った。
地元の人たちはごく自然に妖精を信じているようだった。慣れた道で迷うのも、よくあることだという。
妖精に遭遇《そうぐう》した。なら、それもまたいい。
夢を見たのと同義でも、なかなかロマンティックだ。
けれどもフレデリックには、どうしても納得《なっとく》できないことがひとつだけある。あのとき、煙水晶の小さなかけらを拾ったらしく、彼は、ずいぶん経ってからそれを上着のポケットの底で見つけたのだ。
すべてが、幻《まぼろし》だったわけではないのだろうか。
まだ学生だったときだ。教授の研究のためとかり出され、辺鄙《へんび》な島へ同行し、地質の調査を手伝っていた。使いに出かけたままいなくなり、数時間も外をほっつき歩いていたものだから、どこで遊んでいたと先輩たちに責め立てられるし、不思議な話も下手《へた》くそな言い訳と取られただけだ。
短い滞在《たいざい》期間にやるべきことは無数にあって、一学生に自由な時間などない。
煙水晶のスタンディングストーンなど、目立ちすぎてとっくに泥棒《どろぼう》に持ち去られていると言う友人の話をもっともだと思い、あの場所が存在するのか確かめることもないまま、島をあとにした。
心に引っかかりを感じながらも、その後も大学生活に忙殺《ぼうさつ》され、煙水晶のことは記憶の片隅《かたすみ》に追いやられた。
あれから五年、フレデリックは、ケンブリッジで学位を取得して、鉱物《こうぶつ》学者になった。二十八歳になる今もケンブリッジのカレッジに在籍し、研究員《フェロー》として教鞭《きょうべん》を執《と》っている。
そんなおり、ふとあのときのことを思い出したのは、同僚《どうりょう》と英国産の煙水晶について話していたときだった。
スコットランドの高地地方《ハイランド》には、煙水晶の産地がある。しかしその同僚は、同じハイランドでも産地から離れた島嶼部《とうしょぶ》で採れたという、大きな煙水晶の結晶を見たことがあると語った。
島の、とある氏族長《しぞくちょう》の屋敷で、先祖代々大切にされていたもので、言い伝えによると、妖精からの贈り物だとか。氏族長は、こういったものは島々にはまだあるはずだと言い張ったらしい。
ハイランドの島嶼部には、まだ世間に知られていない煙水晶の鉱脈《こうみゃく》があるのだろうか。
だとしたら、フレデリックの見た煙水晶のスタンディングストーンは、現実だったのだろうか。
個人としても、鉱物学者としても、その話にかつての体験を思い出せば、彼は強く興味を引かれた。
もういちど、あの島へ行ってみよう。そう決めるのに時間はかからなかった。
折しも、大学は夏期|休暇《きゅうか》が近づいていた。
遠い果ての島。イングランドの人々にとってそれ以上のイメージを持つことは難しいだろうその島は、大西洋から吹きつける風がまともに陸地を薙《な》いでいくためか、樹木も育たないきびしい土地だった。
スコットランド人であるフレデリックでさえ、ここが同じスコットランドだとは思えない。そもそも、彼のように南部の低地《ローランド》に住む者にとって、北方の高地《ハイランド》といえば異国も同然、言葉も文化も違う。そんなハイラソドのさらに辺境、多数の島々からなるヘブリディーズ諸島の、さらに遠方となる外《アウター》ヘブリディーズともなれば、人が暮らしていることを信じることさえ難しいだろう。
しかしフレデリックは、外ヘブリディーズ諸島のひとつ、その島へ再びやって来た。
島最大の町は、漁業で栄える港町だが、そこから内部へ向かえば、急に人間の世界から切り離されたように感じられる。
人影も家畜の姿もない、道らしき道も、木々らしい木々もない荒野を延々と馬車にゆられていく。何もない地平線に、ふと姿を見せるスタンディングストーンが、フレデリックを異界へ向かわせているかのような奇妙《きみょう》な心地《ここち》にさせる。
無造作《むぞうさ》に並び立つ巨石、似たようなものは英国各地にあり、フレデリックの故郷にもあった。妖精のすみかだと、幼いころに聞かされ、やがて古代人の遺跡だと知った。
いずれにせよ、謎《なぞ》めいている。あれが何なのか、本当のことを知る者はいないのだ。
そんなことを考えながら、数時間かけて小さな村に到着したとき、フレデリックには、五年前と何ひとつ変わっていないように見えた。
おそらくここは、何百年も昔から変わっていないのだろう。
白壁の宿《イン》も、一階の酒場《パブ》でパイプをくゆらしている主人も、五年前と同じだった。深くしわの刻まれた、赤ら顔の老人が、五つ歳を取ったのかどうかは判然としない。
「あの、部屋は空いていますか?」
主人は、旅行者にしては軽装な、鞄《かばん》をひとつ提《さ》げただけのフレデリックを一瞥《いちべつ》し、早口に何か言った。ゲール語だった。
そういえば、この宿でまともに英語を話せるのは長男だけだったと思い出す。フレデリックにはゲール語はわからない。
どうしようか、と思ったとき。
「宿泊なら、少し待ってくれって言ってるわ。部屋を用意するからって」
ハイランド訛《なまり》のない、きれいな英語だった。パブの奥に座っていた女性が、彼を見てにっこり笑った。
タータンチェックのスカーフで髪を覆《おお》い、灰色のドレスはまるで飾り気がない。あまりに地味な服装のせいで、なんとなく年増の夫人かと思っていたのだが、こちらに向けられた顔は若く、二十歳《はたち》くらいかと思われた。
かなりの美人だと、日頃他人の容姿に感想を持ったことがない彼にでもわかるほどだが、笑顔はまるで屈託《くったく》がない。
宿の主人が、彼の前にビールを置いて二階へ上がっていくと、彼女はこちらへ近づいてきて、隣に腰をおろした。
「あなた、イングランド人ね?」
興味|津々《しんしん》といった顔で覗《のぞ》き込む。さえない男がかえってめずらしいのだろうか。
ここしばらく散髪に行っていない。髪の毛はぼさぼさだし、不格好《ぶかっこう》な丸|眼鏡《めがね》が手放せず、ペンだこはあっても力瘤《ちからこぶ》はない。洗い晒《さら》しのシャツにはアイロンもかかっていないし、よれよれの上着はまともな職業に就《つ》いているようにも見えないだろう。
二十八にもなれば、恩師や同僚や両親から親戚《しんせき》から、結婚の心配をされるのだが、パーティなどで紹介されるたいていの女性は、一瞬でフレデリックを値踏《ねぶ》みすると、そわそわと立ち去りたがる素振《そぶ》りを見せる。
学者としては秀《ひい》でたものがあると認めてくれる人は少なくないが、それが女性にとって魅力的に映らないこともよく知っている。
だから彼女に、あまりじっと見られると、さすがにフレデリックは戸惑《とまど》っていた。
「いや、あのー、私はスコットランド人だよ」
「低地《ローランド》の人でしょう。高地人《ハイランダー》でなければ|イングランド人《イングリッシュ》、このへんの人たちはそう思ってるわ」
スカーフの縁《ふち》に、肌の白さに近いほどの淡《あわ》い色の髪がのぞく。瞳《ひとみ》は薄い青。
島も北へ来るほど、金髪で色白、長身という北欧《ほくおう》の特徴を持つ人が目立つようだ。
ゲール語を話すケルトの末裔《まつえい》でありながら、彼らには北欧から来たヴァイキングの血が濃く混ざっている。
「あたし、アウローラ・マッキール。よろしく」
屈託なく、彼女は右手を差し出す。
「あ……どうも。フレデリック・カールトンです」
彼女の手はやわらかく、それなりの家の娘なのだろうと思わせた。胸元に光るペンダントはアクアマリン。それも安っぽい石ではない。
マッキールという姓は、この島の主要な氏族《クラン》のひとつだ。ハイランドでは、クランの長が地主のようなもので、その一族からかかえる小作人まで同じ姓を名乗っている。英語を話せることからしても小作人ではなさそうな彼女は、氏族長の一族だということになる。
「こんな辺鄙《へんぴ》な村へ、どうして来たの?」
「ええと、スタンディングストーンを見に」
「遺跡が好きなの?」
「いや、石が好きなんだ」
そう言うと、たいていの人は困った顔をするのだったと気づき、あわてて付け足す。
「鉱物学の研究をしてるものだから」
しかしアウローラは、意外なことにずっと微笑《ほほえ》んでいた。
「鉱物学? 難しそうだわ」
「そんなことはないよ。もともと博物学の一分野で、世界中のあらゆる種類の石を見つけだして名前をつけるっていう単純な学問だよ。でも、まったく違う色をしていても、同じ種類の石だってこともあるし、宝石のように昔から人が興味を持って名づけてきた石だけでなく、道ばたの石も、土も砂も、もちろんスタンディングストーンも、何でも研究の対象になる。それに、地面の下はまだまだ未知の領域で、誰も見たことがない鉱物が眠っているかもしれない。ひとつの石を調べていくと、いろんなことがわかってくるんだ。生成物質や性質、それが生まれたときの周囲の環境や年代。誰も見たことがない、とうていたどり着けない地底のさらに奥深くから、メッセージを携《たずさ》えてきている。そんな石のことを考えていると時間はつきなくて……」
はっと我《われ》に返り、フレデリックは言葉を切った。いつものことだが、石についてしゃべり出すと、時と場所をわきまえられなくなるのは困ったものだ。
「……ああ、ごめん。いきなり変な話を」
「変? どうして?」
不思議そうに首を傾《かし》げた彼女は、べつだん、フレデリックの話に違和感《いわかん》を持った様子もなかった。
「ねえ、質問してもいい?」
「あ……ええ、どうぞ」
「独身?」
「え」
「よね? 奥さまがいたら、ボタンもほつれも直してくれると思うの」
彼女がじっと見ている袖口《そでぐち》のほつれに気づき、急いで隠《かく》すが、よく考えればいまさら無意味なことだった。
「あたし、直しましょうか?」
「い、いや、とんでもない」
「遠慮《えんりょ》しなくていいわよ」
上着をつかまれ、フレデリックはあわてた。
これを脱いだら、シャツだってあちこちほつれている。何もかも脱がされそうな気がする。
下宿《げしゅく》のおばさんがそういう人だが、人なつっこい態度がアウローラと似ていると思えば不安は加速する。学生のころから世話になっている老婦人ならともかく、初対面の若い女性の前で半裸《はんら》にはなれない。
「あのっ、本当に、気持ちだけで」
かたくなに拒絶《きょぜつ》すると、彼女は手を離したが、気分を害した様子もなく、相変わらずにこやかだった。
「じゃあ、もうひとつ訊《き》いてもいい?」
ほっとしつつ、彼は頷《うなず》く。
「いつまでここにいるの?」
「ええと、できるなら、どうしても見てみたいスタンディングストーンが見つかるまで」
「どんな?」
煙水晶、と夢だか何だかわからない話はひかえつつ、規模や特徴を話しながら、フレデリックは考えていた。
矢継《やつ》ぎ早《ばや》に質問を繰り出す彼女こそ、ここで何をしているのだろう。
ほかに客の見あたらないパブに、昼間から居座《いすわ》っている。かといって彼女の座っていたテーブルにはビールもスコッチのグラスもなく、ティーカップと本が置いてあるだけだ。
椅子《いす》の上に寝そべっているのは、彼女の猫だろうか。灰色の、ふさふさした長い毛の猫だ。
「スタンディングストーンって、見る方角で印象が違うから、話を聞いただけではあたしの知ってる遺跡かどうかわからないわ。そうだ、これから近場のスタンディングストーンに案内しましょうか」
よほどひまなのだろうか。それにしても、やけに親切だ。
好意にあまえていいものか、こんなふうに女性に興味を向けられたことのないフレデリックが答えあぐねていると、入り口のドアが開いた。
入ってきたのは、赤ん坊を抱いた女だった。
泣きやまない赤ん坊を気にしながら、女は不安げな顔で店内を見まわし、すぐにアウローラに目をとめると、何か言った。
応《こた》えるように彼女は立ち上がり、女と言葉を交わす。
親しげに、それでいて、教師が生徒に向けるような毅然《きぜん》とした口調《くちょう》で年上の女に語りかけている。そうして、女から赤ん坊を受け取ると、その小さな耳元に何やらささやく。
呪文《じゅもん》に聞こえたのは、赤ん坊がとたんにぴたりと泣きやんだのが、魔法みたいだと思ったからだろうか。
母親に赤ん坊を返したアウローラは、ほっとした様子の母子を見送り、またフレデリックの方へと戻ってきた。
「ごめんなさい、急に用事ができたわ。これから魔よけの薬草を採りに行かなきゃならないの」
魔よけ?
聞き間違いだろうかと首をひねる。言葉の違う国の人は、ときどき奇妙な英語を使うことがあるものだ。
「じゃあ、またね、ミスター・カールトン」
忙しそうにきびすを返し、彼女は奥の席にいる猫を呼んだ。
「ニコ!」
灰色の猫はむくりと起きあがり、テーブルの上の本をかかえると、二本足でとことこと歩き出す。
あの本は彼[#「彼」に傍点]のだったのか……。
そんなバカな。
紳士然《しんしぜん》とネクタイをした猫は、視線を感じたように、オリーブ色の瞳をちらりとフレデリックに向ける。
目が合ってしまい、なぜだか緊張感《きんちょうかん》をおぼえたフレデリックがまばたきしている間に、それはぱっと姿を消した。
いや、素早く駆けだしていったに違いない。
もちろん四本足で。
長旅で疲れているようだと、眼鏡を外して目頭《めがしら》を押さえる。
「それにしても、……薬草か。彼女は何者なんだろう」
「フェアリードクターでさ、旦那《だんな》」
魚のたっぷり入った籠《かご》をかかえながら、カウンターへ入ってきたのは、この宿《イン》の長男だった。見覚えがある。五年前より少し太って、若主人らしい貫禄《かんろく》が出てきている。
「アウローラさんは村長のお嬢《じょう》さんでね、まずよくできたフェアリードクターでさあ。村人から妖精の相談を受けるために、しょっちゅうここまで出かけてきてくれるんで、みな助かっとります」
「フェアリードクター……?」
「はあ、ここらにゃ妖精が多くてねえ。何かと悪さしよるんです。あの赤ん坊は、おおかた妖精につねられたんでしょうなあ」
ありふれたことのように、彼は言った。
*
妖精博士《フェアリードクター》。むろんフレデリックも、そういう種類の人が存在することは知っている。彼の祖母は、少女のころ大きなできものが治らずに、フェアリードクターに相談したとか聞いたこともある。
助言に従い、円形土砦《ラース》のふもとに供《そな》え物をしたところ、三日で治ったのだとか。
妖精と親しくし、彼らの魔法に通じたフェアリードクターは、妖精と人との間に起こるトラブルを解決し、両者が平和に共存できるよう心を砕いている。
昔、そんなフェアリードクターは、社会の中にふつうにいた。けれど、ロンドンを席巻《せっけん》した近代化の波はスコットランドの都市部にも広がってきている。
南西部の古い街は、すでに英国有数の工業都市と化した。
ロンドンから北へとのび続けている鉄道がエジンバラにたどり着くのは時間の問題だ。
妖精という曖昧《あいまい》な、目に見えない存在は、忘れ去られていく。
彼らが本当にいるのかどうか、フレデリックにはわからない。理性では信じていない彼も、妖精と聞けば恐ろしいような懐《なつ》かしいような、奇妙《きみょう》な感情をかき立てられる。
ほとんど白夜《びゃくや》といっていい北の島の夜半、寝付かれずに窓の外を眺めていると、何もない地平線を強い風の音だけがうなりながら通り過ぎていく。
圧倒的な自然の前に、人の知恵も力もあまりにも小さい。そんな土地に身を置けば、どこか本能的に、フレデリックは妖精の存在を受け入れている。
アウローラは、妖精が見えるのだろうか。彼らと対話することができるのだろうか。
だとしたら、煙水晶のスタンディングストーンを知っているかもしれない。そんなことを、眠りに落ちる間際《まぎわ》にぼんやりと考えた。
なかなか眠れなかったせいで、翌朝フレデリックが起き出したのは遅い時間だった。
着替えていると、外から騒《さわ》がしい声が聞こえてきた。何気なく窓から見おろせば、体の大きな男が大声で怒鳴《どな》っている。彼と言い争っているのは、淡い黄金《こがね》色の髪の……、アウローラだ。
何かトラブルがあったのだろうか。それにしたって、か弱い女性をああも怒鳴りつけるなんてどうかしている。
止めなければと思うと、フレデリックは髪を梳《と》かすのも忘れ、といってもいつも手ぐしで整えるだけだが、寝ぐせもそのままに部屋を飛び出した。
階段を駆《か》け下りたとき、男は、腕をつかんだアウローラを引きずるようにして、パブの中へと入ってきたところだった。
フレデリックに気づき、じろりとにらむ。赤い髭《ひげ》をたっぷり蓄えた、いかにもハイランドの男だ。
「ケンブリッジの先生だそうだな」
いきなり自分に言葉を向けられ、彼は戸惑った。
アウローラにはそこまで自己紹介していなかったが、ゆうべ、宿の若主人やパブの客たちとは色々と話した。小さな村にはめずらしい旅行者のことだ、一晩で知れ渡るのは無理もないと思えば、赤髭の男に素性《すじょう》を知られていても不思議ではなかったが、次に彼が発した言葉は、さすがにフレデリックにも解《げ》せなかった。
「イングランドじゃ偉《えら》いのか知らんが、わしらには関係ない。こんな辺境の娘をほしがることもなかろう」
「え? あの……」
「父さま、やめて、違うのよ!」
父親なのか、と驚きながら、アウローラと男を見比べるが、似たところは見あたらなかった。
「この人じゃないの」
「アウローラ、わしをごまかせると思うな。この男、五年前にもこの村へ来たことがあるというじゃないか」
そのことも、ここの若主人と話した気がする。教授に同行していた学生の中にいた、いちばん下《した》っ端《ぱ》のフレデリックのことを彼はおぼえていると言い、話もはずんだ。
「なあ、そうだろうよ、先生」
「はあ、まあ」
わけがわからないまま頷くと、男はますます憤《いきどお》った様子で、フレデリックの胸ぐらをぐいとつかんだ。
「若いときの気まぐれか知らないが、いずれ迎えに来るなどと旅先の少女を口説《くど》くような男はろくなもんじゃない」
「父さま!」
「わざわざ娘との約束を果たしに来たとは信じないぞ。どうせ忘れていたものを、何かのひょうしに思い出しただけだろう。純朴《じゅんぼく》な田舎娘《いなかむすめ》をからかいに来ただけなら、さっさと帰れ。今なら大目に見てやる」
乱暴に突き放され、カウンターに背中をぶつけた。
「違うって言ってるでしょ! あたしが約束したのは、……別の男性なの! ね、カールトンさん、まったく身におぼえのないことだって言ってやって」
「別の男だと? きさま、いまさらわしの前で娘との約束を否定するようなまねをしてみろ、泥炭《ピート》の下に埋《う》まることになるぞ」
「……あの、少し落ち着いてください。話を……」
「これが落ち着いていられるか! 娘には許婚《いいなずけ》がいる。おまえにはやれん」
フレデリックには本当に身におぼえがないのだが、男は言い分に耳を貸す気もなさそうだった。
そうして、アウローラを連れ去るようにして出ていった。
カウンターの奥で、成り行きを見守っていた宿の老主人は、英語の会話は理解していなかっただろうけれど、なおさら誤解をしたに違いなかった。
憐《あわ》れむようにフレデリックを見て、肩をすくめた。
このことも、間もなく村中に広まるのだろう。
村長の娘に言い寄った間抜けな男とでも噂《うわさ》されるのか。
まあ、いいか。ここに住むわけでもなし。
だから自分のことはいい。ただ彼は、アウローラに意に添《そ》わない許婚がいるらしいと知り、気になっていた。
(2)約束
村に最も近いスタンディングストーンは、宿から半時間ほど歩いたところにあった。
見あげるように背の高い、立派《りっぱ》な岩がひとつだけ、すっくと野原に立っていた。
強い風をものともせず、何千年ものあいだここに立ち続けてきた岩だ。
風に飛ばされそうな帽子《ぼうし》を片手で押さえながら、フレデリックは岩に顔を近づける。
もちろんそれは煙水晶ではないが、石が過ごしてきた長い時間を考えるとき、彼はその魅力に引き込まれる。
何時間|眺《なが》めていても、きっと飽きない。
「カールトンさん」
そのとき、風の音とは違う、やわらかな女の声が耳に届いた。彼は急いで振り返った。
「今朝《けさ》はごめんなさい」
アウローラだった。瞳《ひとみ》が潤《うる》んで見えるのは、水をたたえたような青さのせいだろうか。
「いや、気にすることはないよ。父上の誤解は解けた?」
彼女は小さく首を横に振った。
赤く腫《は》れた頬《ほお》が痛々しい。
「思い込んだら、ひとの話なんて聞かないの」
父親にぶたれたのだろうか。けれど、それくらいでひるまない女性だと見える。凜《りん》とした表情をフレデリックに向ける。
「あたし、結婚話を進められたくなくて、島の外に約束した人がいるってこと、つい話してしまって」
「その人は、以前にここへ来たことのある旅行者で、たまたま私と条件が合ってしまった、ってわけだ」
彼女は少し、口元をほころばせた。
「ええ……。|この世の果て《ヘブリディーズ》=Aこんな島々のさらに果てのこの村にまで、何度も来る人はめずらしいわ。でも、あなたは二度目で、しかも若い男性で、あたしが親しげに話しかけたことも父に耳に入って、すっかりそうだと思い込んでしまったの」
彼女が宿《イン》のパブに出入りしているのは、恋人が訪れるのを待っているからだろうか。フェアリードクターとしての依頼を待つだけなら、村長宅である自宅でもかまわないだろう。
しかしあの宿に、彼女の待ち人が現れたことはおそらくまだない。
この村に何度も訪れる人はそういない。二度目のフレデリックでさえ、宿の若主人にめずらしがられたのだ。アウローラの恋人は、それきりここへは来ていない可能性が高い。
だとしたらその約束は、本当に守られるものなのだろうか。旅先の地で魅力的な少女と出会い、いずれ迎えに来るなどと約束しても、日常に戻れば忘れてしまうなんていう話はよくあることだ。
「手紙とか、来るの?」
他人事《ひとごと》ながら心配になって、ついフレデリックは訊《き》いていた。
「カールトンさん、そんな口約束守られるはずがないって、あなたも思う?」
「あ、いや、その……」
「あたしだって、そんなに子供じゃないわ。彼は、約束なんておぼえていないかもしれないってことくらい考えてる。でもあと五日間、信じていたいの」
「五日?」
「その日に、許婚が迎えに来るわ」
そんなにせっぱ詰まった話だったのか。
なぜだかフレデリックはあせりをおぼえる。
「それじゃ……、きみはどうするの? 五日で彼が来なかったら、その許婚に嫁《とつ》ぐつもりなのかい?」
悩んだように、彼女は目を伏《ふ》せる。
「家を、出るつもりよ」
「ひとりで?」
「彼に、気持ちを確かめたいから」
「けどそれは……」
親の決めた結婚から逃《のが》れ、別の男のために家出をするなんて、世間の常識では受け入れられない。不名誉な娘と後ろ指をさされる。氏族《クラン》の結束が堅《かた》いこんな土地柄《とちがら》ならなおさら、二度と家へ戻ることは許されないだろう。
会いに行った男が、アウローラを受け入れてくれなかったら、彼女は路頭に迷うことになる。
当然そんなことはわかっていて、家を出るつもりだという。
そんなにその男が好きなのか。それともよほど、許婚がきらいなのだろうか。
「アウローラ、こんなところで何をしてる」
馬に乗った男が近づいてきた。アウローラは急に表情をこわばらせ、フレデリックをかばおうとするように数歩進み出た。
「家から出るなって、おじ上にきつく言われたはずだろう」
肩まで伸ばした金髪を風になびかせた若い男だ。馬を下りて、不満げにフレデリックを見る。
「それにしても、俺の許婚がほかの男とふたりでいるってのは、見過ごせないな」
フレデリックにも言い聞かせたいのだろう。わざわざ英語を使っている。
「……ケネス、あなたはあたしの許婚じゃないわ」
「二番目の許婚だ。だがじきにおまえは俺の妻になる」
二番目? どういうことだろうと、フレデリックはふたりを交互に見る。彼女には、婚約者が何人もいるのだろうか。
「ならないわ!」
アウローラは力を入れて叫《さけ》んだ。
それを鼻で笑い、男はフレデリックを見る。
「おまえが、アウローラに手を出したイングランド人か」
明らかに敵意を向けながら、こぶしを握り込む。
「消えろ。目障《めざわ》りだ」
手も出していないし、イングランド人でもなく、逃《に》げなければならない理由もない。しかしフレデリックは、そう説明するよりも、目の前で男をにらみつけているアウローラの肩が小さく震《ふる》えているのに気づき、どうにかしなければと思った。
「あの、気持ちはわかるけど、目障りなのはお互いさまじゃないかな」
とっさに口を出すと、アウローラは驚いたように振り返ってフレデリックを見あげた。
「何だと、やる気か」
「ああ、いや、そうじゃないんだ」
殴《なぐ》りかかられそうになり、フレデリックは、あわててなだめるように両手を前に広げた。
「彼女の本当の婚約者にとって、私たちはどちらも目障りなんじゃないかってことだよ」
「は……?」
「ええと、つまりだね、お互い、婚約者のいる女性の気を引こうとしている同じ立場なわけだろう? 私たちが争っても、あんまり意味がないと思うんだが」
「あんたと同じではない。俺は……」
「二番目の許婚? ありえないことだよ。神がそれを認めるのか?」
主はひとりの男に、ひとりの女のみ娶《めと》ることを許した。それに背《そむ》きかねない言葉を、信徒が口にするなど恐ろしいことだ。
敬虔《けいけん》なプロテスタントが住む島だ。血の気の多い男でも、気がそがれた様子でしぶしぶ腕をおろす。
「ミス・マッキール、家まで送ろう」
フレデリックは、彼女を促《うなが》し歩き出した。背後《はいご》から殴りかかられないかと不安を感じたけれど、そのまま何事もなく、ふたりは男から遠ざかった。
唇《くちびる》をむすんだまま、男の姿が見えなくなっても急ぎ足をゆるめない彼女は、フレデリックの腕にしがみついている。ぼんやりと彼は、アウローラの頬を打ったのは、父親ではなくあの男かもしれないと思った。
「きみの家は、こちらでいいの?」
ずいぶん歩いてから、フレデリックが問うと、アウローラは我《われ》に返った様子で顔をあげた。
「あっ、ごめんなさい。……あたしったらまた、迷惑《めいわく》をかけてしまって」
あわてて彼から手を離す。
「かばってくれて、ありがとう。でもあれじゃ、あなたますます誤解されてしまったわ」
「どうせ誤解は解けそうにないし、私は気楽な旅行者だし、かまわないかと思ったんだ」
震えながら体を張っても、フレデリックの前に出たアウローラにくらべれば、恋人のふりをするくらい簡単なことだった。
「お人好《ひとよ》しなのね」
少し笑って、アウローラは立ち止まった。
「家はあの丘の向こうなの。ここでいいわ」
強い風が吹き抜けて、ほつれた淡《あわ》い髪を舞いあげる。真夏だというのに陽光は雲に紛《まぎ》れている。そんな肌寒いこの土地で、磁器《じき》のように白い肌は、微笑《ほほえ》んでいても彼女を淋《さび》しそうに見せる。
南部の、やわらかな陽《ひ》のもとに連れ出したいような衝動《しょうどう》に駆《か》られる。
「ミス・マッキール」
思わず呼び止める。
「私にできることなら、力になれると思う。旅行者だし、たいした役には立たないだろうけど、味方になるくらいは」
振り返って、彼女は潤んだような、けれど力のこもった青い目をじっとこちらに向けた。
「じゃあ、結婚してくれる?」
「えっ、……け、っこん……?」
「ほら、困っている女にやさしくしすぎると、つけ込まれるわよ」
深刻な表情を一変させ、アウローラはくすくす笑った。
つけ込むにしたって、女の人は相手を選ぶ。フレデリックはそう思ったけれど、冷静にそんなことを考えている頭の中とはうらはらに、びっくりしすぎてひどい動悸《どうき》がした。
「アウローラと呼んで、フレデリック。これなら、そんなに無理なお願いじゃない?」
彼女は美しい。親しみを向けられれば、それだけで心浮き立つほど。
想《おも》いを寄せているのがどんな男か知らないけれど、もしも再会し、彼女が置かれたこの状況を知れば、この島から連れて逃げることなど迷わないだろう。
だったら、彼女の方から押しかけていくことも、そう無謀《むぼう》ではないのかもしれない。
「あしたの夕方、父は隣村へ出かけるの。二、三日留守にするから、その間ならあたし、家を抜け出せる。かばってくれたお礼に、このあたりの遺跡を案内するわ。運がよければ、お目当ての煙水晶が見つかるかも」
そう言って、アウローラは歩き出した。
フレデリックは、その後ろ姿をじっと見送る。
どうして、煙水晶を求めて来たことを知っているのだろう。
フェアリードクターの不思議な力で見透《みす》かすのだろうか。
あの、巨大な煙水晶の結晶群《けっしょうぐん》は、本当に存在するというのだろうか。アウローラは見たことがあるのだろうか。
フレデリックは、ふいに足元がおぼつかなくなるような感覚にとらわれ、確かめるように地面を踏《ふ》みしめた。夢と現実の狭間《はざま》が、見えない場所に口を開いている。そんな途方《とほう》もないことを想像しながら、煙水晶のスタンディングストーンが存在するのは、はたしてこの世なのだろうかとも考えていた。
この世の果て、ヘブリディーズ。
この世ではないどこかに、最も近い島。
*
どうして父も母も、あまり笑わないのだろう。物心ついたころからアウローラは、疑問に思ってきた。
彼女は小さいときから、よく笑う少女だった。陽気な妖精たちが跳《は》ねるように歩くのを見ては笑っていたし、ばあやにしかられたときでさえ、しかめっ面《つら》がおかしくて笑い出したりした。そのうちばあやもおかしくなるのか、笑い出す。
けれど父と母は、どんなにアウローラが楽しくしていても、心から笑っていなかった。
その理由を知ったとき、彼女も父や母の前で、心から笑えなくなった。
アウローラは取り換え子だった。
妖精が、人の子を盗み、代わりに岩や丸太や妖精の赤子を置いていくという|取り換え子《チェンジリング》。彼女の家では、何代も昔から、妖精族との契約《けいやく》のもと、チェンジリングが行われてきたというのだ。
奪われた子は妖精界で育ち、妖精族と結婚する。その子を、マッキール家の子孫の、結婚して最初に生まれる子と取り換える。
妖精界にいる人間の血を引く一族と、人間界の親族の赤子が繰り返し取り換えられることで、マッキール家は妖精の血が強められ、フェアリードクターの能力を持つ者は絶えない。
それは、マッキールの姓を持つ家々の頂点にある氏族長《しぞくちょう》が、親戚筋《しんせきすじ》にあたるアウローラの家に与えた役目だった。
父と母の本当の娘ではない。彼らの子は妖精界に連れ去られた。二度と会うことはない。
すべては父から直接聞かされた。
自分たちの子を手放し、アウローラを育てたのだから、彼女も氏族《クラン》の掟《おきて》に従わねばならないと言った。
アウローラの役目は、決められた相手と結婚することだ。
何もかもがクランの意志。
父も母も、子を奪《うば》われた悲しみをかかえ、粛々《しゅくしゅく》とこらえている。
歳《とし》の離れた弟が生まれたとき、少しは家の中も変わるだろうかと思ったが、そうはならなかった。
まだ何も知らない弟はアウローラを慕《した》っているが、無口な性格で、家の中はやはり静かだ。
この家に取り換え子がいるかぎり、変わるはずもない。両親は彼女の顔を見るたび、胸を痛めているのだろう。悲しみは癒《い》えることはない。
「アウローラ、本当に島を出る気か?」
窓辺に腰掛けた灰色の妖精猫が、心配そうに言った。
アウローラはちっともページが進まない本から目を離し、顔をあげた。
本気なのかどうか、アウローラ自身にもよくわからない。ただ、妖精の血と魔力で強くこの島と結びついた彼女が、島の外へ出るのは容易ではない。
そして、いったん島を離れれば、この土地が持つ魔力は二度と、アウローラが足を踏み入れることを許さないだろう。
「あのケンブリッジの先生は、あんたをおぼえていないじゃないか」
「……だけどニコ、スタンディングストーンのことはおぼえてたわ。あの、煙水晶は忘れてないの」
「それはつまり、石にしか関心がないってことだろ」
ふつうの人が、知らずと迷い込んだ妖精界でのことをおぼえていることは少ない。眠りの中で見た夢を忘れてしまうのと同じことだ。
煙水晶の石柱の前で、アウローラに会ったことは、彼の記憶にはない。
「目的が石でも、こんな果ての島まで来たのよ。もしかしたら、思い出してくれるかも」
「それを待ってる時間はないぞ。そもそもな、アウローラ、迷い込んだ妖精界からあんたのおかげで出られたってことを思い出したって、あのときはありがとう、で終わりだろ」
ニコの言うとおりだ。たとえ彼が何か思い出してくれたとしても、ふたりのあいだにはとくべつな約束などない。
約束といえるのは、またの休暇《きゅうか》に彼がこの島を訪ねてくれるということ。そのときアウローラが、煙水晶のスタンディングストーンへ案内するということ。それから。
――連れていってくれる? ケンブリッジやロンドンや、いつか行ってみたいの。
――いいよ、もちろん。
十六歳だったアウローラには、とくべつな約束のように思えた。
けれど、あのとき彼は、アウローラのことを妖精だと思っていた。夢の中で、自由気ままな妖精を遠くへ連れていくと約束することに、何の考えもあるはずはなかった。
それでもアウローラは待っていた。
休暇に来てくれると言った。おぼえていてくれたなら、もういちど会える。そのときに決めようと思った。この島を出るかどうか。
ひとりで島を出ることはできない。島を囲む魔法の力が、アウローラを縛《しば》っている。
でも外から来た人が力を貸してくれるなら、それが彼なら、アウローラは決意できると思えた。
「それにアウローラ、島から出たら、うまいニシンやゲーリック・ウイスキーが味わえなくなるんだぞ」
「どっちもあなたの好物ってだけじゃない」
不服そうに、ニコはヒゲを撫《な》でた。
「ねえニコ、あたしがいなくなったら、母さまや弟のことお願いね」
「おれは人間のおもりじゃねえんだ」
「わかってるけど、そういうときは親友のために、まかせとけって言うものでしょ」
「家出があんたのためになるのか? 先生があんたの気持ちに応《こた》えてくれなかったら、ひとりでどうやって生きていけるっていうんだよ。島を出たら、あんたは二度と戻れないんだぞ」
「それは、……フェアリードクターとして仕事をさがすわ」
ニコは深いため息をつく。
「よそ者のフェアリードクターを信用してくれる土地なんてあるのかよ」
わからない。けれどここにいたって、望まない相手と結婚し、子供を妖精に連れ去られ、笑うことを忘れて生きていくだけだ。
「ごめんね、ニコ」
ふさふさした灰色の毛を撫で、頭のてっぺんにキスをする。
立ちあがったアウローラは、ひとり部屋を出た。
階段を下りていくと、応接間に母の姿が見えた。
窓から差し込む光は青白く、いつになく母がやつれて見える。クッションを敷いた椅子《いす》に腰掛け、一心にカットワークのレースを編んでいる。
立ち止まったまま、アウローラはしばし母の姿を眺《なが》めた。
オークニー諸島から嫁《とつ》いできた彼女は、結婚式の日に父とはじめて対面したという。
それはめずらしいことではないけれど、この家の、妖精との深い関わりもチェンジリングのことも、何も聞かされずに嫁いできて、子を失った心の傷は深いに違いない。
アウローラにとってはやさしい母だけれど、編んでいるレースは、妖精界にいる娘のためだと親戚の噂話《うわさばなし》に聞いた。
十九年にいちど、月が地平線をすれすれに動くとき、妖精族が集《つど》うストーンサークルに置いておけば、取り換えられた子の元に届くという。
本物のアウローラ≠ェ無事成長し、嫁ぐ日を迎えるようにとの祈りを込めて少しずつレースを編み続けている。
アウローラがいなくなっても、取り換え子が戻ってくるわけではないが、この先一族の誰かが母になるとき、この習慣に疑問を持ち、異を唱《とな》えるきっかけができればいい。
取り換えられた子供もつらいのだから。
足音をたてないようドアのそばを通り抜け、アウローラは外へ出る。庭を横切って、白い垣根《かきね》に沿《そ》って歩く。ほどいたままの髪を風がさらった。
わずかな牧草地に家畜の群《むれ》、泥炭《ピート》の積もった荒野、緩《ゆる》い起伏しかない大地、沈まない陽《ひ》も、ほとんどが曇《くも》り空に隠《かく》れている。そんな島の風景を目に焼きつけようと、ゆっくり歩く。
生まれ育ったこの島は、それ以上の力でアウローラの魂《たましい》とつながっている。
なのにもっと強い気持ちで、外へ出ることを考えている。彼に出会ったあのときから。
本当のところ、なぜこんな気持ちになるのかわからずに、両親への引け目や身内に課せられた理不尽《りふじん》な役目を変えたいなどと理屈をつけている。
たぶん彼女の望みは、この上なく単純なことだ。
恋した人のそばにいたい。
その想《おも》いはため息となって、風に紛《まぎ》れた。
ふとアウローラは視線を動かす。道の先の人影に気がついたからだった。
それが不愉快《ふゆかい》な人物だとわかると、無意識に眉《まゆ》をひそめていた。
ケネス・マッキール、二番目の許婚《いいなずけ》≠セ。
「どこへ行く」
「散歩よ」
アウローラは足を速めるが、にやけた笑いを浮かべながら彼はついてくる。
草の根本を歩く妖精の列を無言で蹴散《けち》らし、踏《ふ》みつける。アウローラは、彼のこういうところが何よりがまんできない。
マッキール家の一員であるからには、フェアリードクターになれるほどではなくても妖精の気配《けはい》を感じ取れるはずだ。しかし彼は、妖精を虫けらか何かのように考えている。彼らの仕返しを退《しりぞ》ける方法を知っているからこそ、恐れることもないのだから始末が悪い。
「宿《イン》へ行くつもりじゃないだろうな」
フレデリックはふつうの人なのに、見えない妖精を無意識に避《さ》けていた。
それは彼が、石に愛情を持っているからだ。自然の存在に敬意を払い、世界の成り立ちとその不思議に目を向けている人だから。
妖精が見えなくても、彼らに畏敬《いけい》の気持ちを持っていれば踏みつけることはない。
だからこそアウローラは、五年前よりももっと、彼に惹《ひ》かれている。
「おい、待てよ。おじ上が出かけているあいだ、留守《るす》を任されてるのは俺なんだからな」
ケネスは彼女の腕をつかんだ。そのままぐいと引き寄せる。
間近に彼がせまると、強い風が麦畑を渡り、うなるような声をあげた。
「やめて」
突き放そうとするが、彼は力をゆるめることなく、アウローラを覗《のぞ》き込んで目を細める。
「正直昔は、おまえがこんなにいい女になるとは思ってなかった。そばかすだらけで髪はぼさぼさで、やせっぽっちで色気もなくて、こんなのが俺の許婚かとがっかりしたもんだ」
「あたしはまだ、あなたの婚約者じゃないわ!」
大嫌いな男をにらみつけるが、彼はおかしそうに笑うだけだった。
「知ってるさ。取り換え子の許婚は、伝説の予言者だ。そいつが目覚めて、許婚を迎えに来るって? 来るわけないだろ。何百年も昔からの言い伝えだが、現れたことないんだからな。どのみちあと四日、伝説の男が来なきゃ、おまえは俺のものだ」
これくらい許されるだろうとばかりに、アウローラの体をかかえ込む。
「掟に背《そむ》くつもり?」
「掟に背こうとしてるのはおまえだ。だったら俺が正してやるさ」
いきなり、唇《くちびる》をふさがれた。
抵抗《ていこう》しながらアウローラは身をよじるが、強くつかまえられて動けない。
そのとき、茂《しげ》みから小さな影が飛び出した。
ケネスに飛びかかり、鋭《するど》い爪《つめ》を立てる。
「うっ、……このクソ猫……!」
「ニコ!」
耳をかじられ、彼はアウローラから手を離す。見届けたニコは素早く逃げようとしたが、一歩遅れ、ケネスにしっぽをつかまれた。
「や、やめろ、ぎゃーっ!」
もがくニコを振り回し、ケネスは力任せに放り投げる。
「ああっ、……ニコ!」
アウローラは駆《か》け出そうとしたが、こんどは彼女の髪を、ケネスがつかんだ。
が、草むらがざっと音を立てて動く。わき出したのはネズミの群だ。いっせいに、ケネスの足元へ集まりよじ登る。
「こいつら……、妖精の仕業《しわざ》か!」
ケネスがひるんだ隙《すき》に、アウローラは逃《のが》れる。
倒れているニコを拾いあげ、そのまま後ろも見ずに走った。
「……あのネズミども、すぐあとに続けって言ったのに……、おれだけに行かせやがった……」
ぐったりとしたまま、ニコはつぶやいた。
「ああ、おれが野良猫から助けてやった恩も忘れてよ……、薄情《はくじょう》なやつらだよ……」
そして彼は目を閉じる。アウローラは、走りながらあわててゆさぶる。
「ねえ、痛いの? 苦しいの?」
「おれはもう、だめだ……」
「しっかりして」
ケネスが追ってくる気配はなかった。それでもアウローラは駆け続けた。
無理やり口づけられた嫌悪感《けんおかん》に、唇を痛むほどこすりながら、動かないニコを抱きしめ不安に震《ふる》えながら走った。
(3)逃避行
「煙水晶《スモーキークオーツ》ですか? さあ、この島で採れるなんて聞いたことありませんなあ」
夕食のあと、宿の若主人と話していたフレデリックは、何気なく訊《き》いてみたが、返事はそっけないものだった。
「しかしまあ、ちっこい欠片《かけら》ならどこの家にもありますよ。ああ、村長の家なら、もっと立派《りっぱ》な水晶があるはずですがな」
「どこの家にも?」
「昔から煙水晶は、悪いものを退《しりぞ》けてくれるって言い伝えがありますで。遠い先祖のケルト人は、予言にも使ったんだとか」
彼が肌身離さず持っているという、煙水晶の小さな玉を見せてもらったが、フレデリックが一見したところ、ハイランドのよく知られた産地で採れたものだろうと思われた。
彼が見たスタンディングストーンの煙水晶は、もっと明るい色だった。琥珀《こはく》に似て、濁《にご》りなく向こうが透《す》けて見えた。
魔よけの煙水晶でつくられたスタンディングストーン。もしも本当にあるのなら、何やらとくべつないわくでもありそうだ。
ともかく、このあたりにある遺跡をひとつ残らず確かめる。フレデリックはそのつもりだったし、アウローラが案内してくれるというのはありがたかった。
運がよければ見つかると、彼女は言った。
彼女も見たことがあるのかもしれない。おそらく、正確な場所がわからないのではないか。
荒野に点在する遺跡だ。道も、目印になるものもなく、正確な方角や距離がわからなければ、同じ場所に再びたどり着くのは容易ではない。
それでも、新しい発見を期待すれば、学者として気持ちが高ぶる。
一方で、昨日からずっと落ち着かない気分なのは、煙水晶のせいだけだろうか。
フレデリックは、五年前に見たスタンディングストーンを思い浮かべようとするが、連想してしまうのはなぜかアウローラの顔ばかりだ。
つらいのに微笑《ほほえ》みながら、ぎりぎりまで恋人の訪れを待ち続けている。
世の中には、幸運な男がいるものだ。なのにその誰かは、自分の幸運に気づいていない。
何度となくそんなことを考えたのは、酒のせいかもしれない。
軽くひっかけたウイスキーを醒《さ》まそうと、宿のパブを出る。近所をひとまわりするつもりで歩きかけたとき、建物の陰に座り込んでいる人影に気がついた。
「アウローラ?」
声をかけると、はっとしたように彼女は顔をあげた。
「……助けて」
そう言ったかと思うと、フレデリックにしがみつく。
やわらかな髪を首に感じ、うろたえた彼は、どうすればいいかわからない両手を広げたまま立ちつくした。
「あたしを、ここから連れ出して。お願い、今すぐに……」
「ど、どうしたんだ?」
「あたし、ここにいちゃいけないの。みんな不幸になる……。だから、連れて逃げて。どこでもいいわ、この島の外へ」
「しかし」
「待ってたのよ、きっと迎えに来てくれるって。あなたといっしょなら、島を出る勇気が持てる、見知らぬ土地でもやっていける、そう思ったから……」
ああ間違えているのか。ぼんやりと、フレデリックは失望した気持ちになった。それも変だと思いながら。
「それは……私じゃないよ」
言うと、驚いたように顔をあげた彼女は、大きく見開いた瞳《ひとみ》でフレデリックを見つめた。
力が抜けたみたいに、ゆるりと後ずさりながら目を伏《ふ》せる。そんなアウローラの、ひどくがっかりした表情に、彼はもうしわけなくなった。
遠方からの旅行者、それも再びこの村を訪れた希有《けう》な人物が、彼女の望む男でなかったことが、自分のせいであるような気さえした。
「やだ、ごめんなさい。あたし、何だか混乱してて」
「うん、気にしなくていいんだ。ほら、私にできることなら力になるって言っただろう? 何か困ったことでもあったのかい?」
濡《ぬ》れた頬《ほお》を手のひらでぬぐい、彼女は足元のショールをそっと持ちあげた。
ぐったりした灰色の猫がくるまれていた。
「ニコが、あたしを助けようとしてこんなことに」
「助けようとして?」
「ケネスが……」
急に赤くなって黙《だま》った彼女の様子に、鈍《にぶ》いフレデリックでもぼんやり察しがつく。
[#挿絵(img/smoky quartz_185.jpg)入る]
「それできみの猫は、怪我《けが》をしてるのかい?」
覗《のぞ》き込むが、灰色の毛のかたまりが生きているのかどうかよくわからなかった。
「長老のところへ連れていけば、助かるかもしれないの」
「遠いの?」
「少し」
「じゃあ、私もいっしょに行こう。時間も遅いし、ひとりでは心細いだろう?」
頷《うなず》きながら、ようやく落ち着いてきたらしい彼女は、瞳に決意をにじませ遠くを見つめた。
「ねえ、フレデリック。あたし、ニコを長老にあずけたら、そのまま島を出るわ。どうしてもケネスとは結婚できない。はっきりわかったもの」
「このまま? 荷造りもせずに?」
「家へ戻ったら、ケネスに見張られて外へ出られなくなる。お金なら少しはあるし、どのみちほかに、持っていくほどのものなんてないわ。だから、お願いがあるの」
猫をしっかり抱きかかえ、フレデリックに一歩近づく。
「あたしを、島の外へ連れ出して。詳《くわ》しくは話せないけど、この島を覆《おお》う魔力があたしに働いていて、ひとりで島から出ることができないの。島の外から来た人が連れていってくれないと、結界を抜け出せない」
魔力? 結界? フレデリックにはわけがわからないが、アウローラは急いだように話す。
「そうしてくれるなら、煙水晶のスタンディングストーンを見せてあげるわ。あれは本当は、外から来た人を近づけたりしないものだけど、あなたは目にしたことがあるんだから、石が許してくれるなら案内できる」
「煙水晶の?」
彼女を島から連れ出すくらい、簡単なことだった。むろん、煙水晶のことは知りたいし、どうやらそれは、フェアリードクターの彼女でなければ知らないことでもあるようだ。
けれど同意すれば、彼女の人生を左右することに、フレデリックは荷担《かたん》してしまうことになる。
むろん彼女が決めたことだけれど、外から来た者がいなければ島から出られないというのが本当なら、彼女の運命を曲げてしまうのは自分だ。
小さな村で生きてきた彼女は、家を離れ保護者のいない女が、どれだけ白い目で見られるかを知らない。
「そうよ。おねがい、フレデリック、あなたに迷惑《めいわく》はかけないわ」
けれど、知ったところで、やっぱりアウローラは島を出ると言うのだろう。
何が彼女にとって幸福なのか、部外者にわかるはずもない。
ついさっき、取り乱した彼女が待ちこがれた恋人にすがるようにして、連れて逃げてと言ったことが、奇妙《きみょう》な衝動《しょうどう》に駆り立てる。
迷いながらも、フレデリックは頷いている。
「わかった。行こう」
ノートやペン、ルーペやピンセットや金槌《かなづち》や、鉱物《こうぶつ》採集の道具が一式。ほかには、最低限の着替えくらいしか荷物を持たないフレデリックは、長い旅行でもちょっとした鞄《かばん》ひとつで移動する。
宿の部屋へ戻った彼は、さっさと荷物をまとめ、帽子《ぼうし》を手に取った。
宿代は明日のぶんまで前払いにしてある。急に発《た》つことになったとのメモをデスクに置き、いくらかのチップを残し部屋を出る。
この状況でフレデリックがいなくなれば、彼がアウローラを連れていったことは一目瞭然《いちもくりょうぜん》だろう。当然、駆《か》け落ちだと思われる。
マッキール氏は憤慨《ふんがい》するに違いない。宿には世話になったのに、主人が村長に対し気まずい思いをするのだろうかと考えるともうしわけなかったが、こうするしかなかった。
外はまだ明るいが、隣家《りんか》でも数百ヤードは離れている村の道には昼間でも人影が少なく、夜ともなれば誰もいない。
村人と顔を合わせる心配はないだろう。そう思ってフレデリックは歩き出す。宿の立て看板のそばに、女性がいることには気づいていなかった。
「カールトンさんですね」
声をかけられ、驚いて立ち止まった。
頭をスカーフで覆った、痩《や》せた中年の女性だった。
「はじめまして、アウローラの母親です」
「えっ、あ、どうも」
思いがけなくて、間抜けな返事をしながらも彼は、母親がアウローラをさがしに来たのだろうかと身構えた。
「あなたのことは、以前に娘から聞いたことがあって、気にとめておりました。約束なんて戯《たわむ》れだろうと思っていたのですが、こうして来てくださったのなら、誠実な気持ちだと信じてよろしいのですね?」
それは自分のことではない。
しかし彼女は、フレデリックのアウローラへの気持ちを信じたがっている。
うそをつくのは気が引ける。けれど本当のことを話すわけにもいかず、彼は曖昧《あいまい》に頷いていた。
「これから、発たれるのですか?」
フレデリックが手にした鞄をちらりと見て、彼女はそう言った。
「あの、それは……」
「あの子もあなたも、決意をされたということですか。なら、いいんです、それで」
自分を納得《なっとく》させるように深く頷き、彼女は大事そうに胸にかかえていたものに目を落とした。
そうしてそれを、フレデリックに差し出す。
「どうか、これをアウローラに渡してください」
それだけ言うと、彼女はきびすを返し、とぼとぼと歩き出した。
まっ白なカットワークのレースだ。ずいぶんと手の込んだ、細かな模様が編まれている。
おそらく、結婚の衣裳《いしょう》やベールにつかうもの。
「ミセス・マッキール」
フレデリックは思わず呼び止めていた。
「あの、これはアウローラに直接会って渡した方がいいのではありませんか」
立ち止まった彼女は、少しばかり迷うような表情を見せたが、やがて首を横に振った。
「いいえ、会えばあの子の決意が鈍るかもしれません。あの子自身に迷いはないのに、わたしをあわれに思って迷うとしたらかわいそうです」
フレデリックの方に体を向けて、淋《さび》しげに彼女は微笑む。
「島を出れば、あの子はもうマッキール家に背《そむ》いた人間です。二度と会うことはできないでしょうけれど、母としていつでも幸せを願っていると、お伝えください」
また歩き出すその背中を眺《なが》めていたら、ありきたりな、けれど重要な言葉が、とっさに口をついて出た。
「お嬢《じょう》さんのことは、必ず幸せにします」
ああ、どうしてこんなことを言っているのだろう。そう思いながらも、ちらりと振り返った母親の、ほっとしたような笑《え》みにフレデリックは安堵《あんど》していた。
彼はもう、アウローラの運命にかかわってしまった。煙水晶のスタンディングストーンに執着《しゅうちゃく》したために。
石に惹《ひ》かれ、再会したいがために駆け落ちのまねごとまでしようというフレデリックもまた、アウローラと同じ種類の人間なのかもしれない。
だから、なんとなくわかる。
この島から連れ出すことを、彼女はフレデリックに望んだ。引き受けたからには、とことん恋人のふりを通さねばならない。
*
村から最も近いスタンディングストーンのそばで、アウローラは待っていた。
フレデリックがレースのベールを渡すと、驚きながらも黙って受け取った。
猫をかかえ直し、「行きましょう」とだけ言う。
背の高い石柱《メンヒル》のそばを通ったとき、一瞬、目に見えない壁を通り抜けたかのような、風景が切り替わったかのような奇妙な感覚に襲《おそ》われたが、振り返れば、さっきまでフレデリックが通ってきた、村へ続く道が当たり前のように見えていた。
それからアウローラは、目印も何もない荒野を、一直線に歩いた。
やがてあたりが薄暗くなり、島にごく短い夜が訪れるころ、フレデリックは奇妙な建物の中にいて、奇妙な住人たちに囲まれていた。
不揃《ふぞろ》いな石を積み上げた、小山のような建物で、床には毛織りの絨毯《じゅうたん》が敷きつめられていた。家具らしいものはなく、直《じか》に床に座っている人々は、フレデリックの腰くらいまでしか身長がない。男は髭《ひげ》を、女は髪を引きずるほど長くのばしていた。
アウローラが長老と呼んだのは、中でも最も歳《とし》を取って見える白い髭の人物だった。いや、人だろうか? ともかく彼は、灰色の猫を抱きかかえると、アウローラを伴《ともな》って、地下へと続いているらしい階段を下りていった。
フレデリックはひとり、興味|津々《しんしん》に彼を取り巻く小さな人たちのあいだに取り残された。
「おまえさんがアウローラの」
「あの娘が惚《ほ》れたという」
「はあ、……まあ」
彼らの言葉がわかることを疑問に思わなかったのは、自分が今いるところは人間の世界ではないと、ぼんやり気づいていたからだろうか。
「あの子を嫁《よめ》にするとは幸せ者じゃ」
「……そうですね」
「おまえさん、石の匂《にお》いがするぞ」
「え、ああ、よく小石を拾うもので」
目につくと拾ってしまう。ポケットや鞄の底に入れたまま、忘れていることもしばしばだ。
裏返したポケットから、色目の目立つ小石がいくつも転がり落ちると、小さな人たちはけらけらと笑った。
「石が好きかね?」
「わしらとは仲よくなれそうだな」
うち解けられたようだと、ほっとしながら、フレデリックは気になっていたことを訊《き》いてみた。
「あのー、彼女はよくここへ?」
「おお、小さいときは、あの子の祖父がよく連れてきた。あの男もすぐれたフェアリードクタ――だった」
フェアリードクターの家系なのだろうか。
「アウローラは、気むずかしい海の連中ともすぐ仲よくなった。入《い》り江《え》でやつらとたわむれるのはいいが、あやまって沖へ流されやしないかとひやひやしたな」
「この島には、ほかにもフェアリードクターがいるんですか?」
「いるかもしれんが、わしらはマッキールしか人間を知らん」
「アウローラが出ていくなら、弟がフェアリードクターになるだろう。あれもよく、アウローラがここへ連れてきた。能力は彼女ほどではないが、わしらのことをよく理解している」
弟がいるのか。そんなこともフレデリックは知らない。出会ったばかりだし、知るはずもない。なのに、誰もが彼らを親しい間柄《あいだがら》だと思っているのだ。
この小さな人たちも、アウローラの母と同じように、フレデリックを信じている。
「彼女が島を出るつもりだと、みなさんは以前から知っていたんですか」
「知っていた」
「淋しいがしかたがない。そもそも人間は、ひとつのところにとどまっていない。わしらがここに根を下ろしてから、いくつもの部族がやって来ては去った」
ピクト人、ケルト人、デーン人、そんなふうにつぶやく彼らは、いったい何千年前からここにいるというのだろう。
「アウローラの許婚《いいなずけ》は目覚めそうにない。だったら彼女が、生きたいように生きるのは誰にも止められない」
「許婚?」
目覚めないとはどういうことだろう。そういえば、ケネスという男は、自分が二番目の許婚だと言っていた。
つまり、一番目の、本当の許婚が、その男だということになる。
「あの、目覚めないって」
「男がひとり、聖なる沼地で眠り続けている。マッキールの氏族《クラン》を災《わざわ》いから守るために」
「災い……」
「詳しくは知らん。その男は予言者で、特殊《とくしゅ》な術をつかったとか」
「まあ心配はいらんよ。人間の魔術は不完全なもの。長い間に消えてしまう。予言者は、氏子孫《うじしそん》に確実に伝わる伝説をつくるために自らを犠牲《ぎせい》にした、そういうことじゃろう」
災いの起こるときによみがえって、クランの女と結婚するという伝説だろうか。
予言者が目覚められないとしたら、そんな伝説が何の役に立つのだろう。危機感を持たせるのが関《せき》の山《やま》だ。
考えているうち、フレデリックの周囲にいた小さな人たちは、いっせいに立ちあがった。
「さて、わしらは地下に戻る時間だ。あんたは朝まで、ここで体を休めるがいい」
そして、ぞろぞろと階段の下へ姿を消した。
アウローラもちゃんと休んでいるのだろうか。そう思いながらフレデリックは、ひとりには広すぎる広間のようなそこで横になった。
敷物の下に感じる地面は、意外と堅《かた》くはなく、そしてあたたかかった。
そのまま浅い眠りに落ちた。
(なあ、先生)
夢を見ていた。フレデリックのそばに、灰色の猫が二本足で立っていた。
小生意気にネクタイをした、アウローラの猫だ。向こう側が透《す》けるほどぼんやりとした輪郭《りんかく》の、実体はなさそうなそれが、フレデリックに語りかける。
(どうして、アウローラを連れていく気になったんだよ)
「ええと、きみは……、もしかして幽霊《ゆうれい》なのかい?」
(勝手に殺すな。まあ、幽霊も妖精もあんたらには似たようなもんだろうけどさ。質問に答えてくれよ)
「それは、彼女はあのケネスって男と結婚したくないんだろう? それに、島の外にいる恋人を想《おも》っている」
(それだけか?)
ほかに、何があるというのだろう。
(それだけなら、アウローラを連れていかないでくれ)
「でも、だったらきみは、彼女があの男の妻になってもいいのか? きみをそんな目にあわせた男だろう?」
猫は、悩んだようにうなだれた。
(おれにはわからない。あんたとケネスと、どちらがよりアウローラを苦しめることになるのか)
苦しめる? 自分がアウローラを?
それこそフレデリックにはわからなかった。
たしかに、島を連れ出せば彼女は後戻りできないのだろう。それでもし、恋人に受け入れられなかったら、つらい思いをすることになる。けれどもそれは、フレデリックが彼女を苦しめるということではない。
(なあ先生、すべてはあんたしだいなんだ)
そう言って猫は消えた。
と同時に目を覚ましたフレデリックは、誰かが階段を上がってくる足音を耳にしていた。
やがて広間に姿を現す。白いベールをまとった、アウローラだ。
ゆっくりと彼女は、こちらに近づいてくる。ほどいた黄金色《こがねいろ》の髪は、ベールの下でゆるく波打っている。瞳《ひとみ》は切《せつ》なげな憂《うれ》いをたたえ、厳《おごそ》かに唇をむすび、まるで新床《にいどこ》へ向かう花嫁のように。
まだぼんやりとして、そんなことを考えていたフレデリックは、はっと我《われ》に返ると、眠気を振り払うように急いで体を起こした。
「ごめんなさい、起こしてしまったわね」
「いや、……きみは眠らなくていいの?」
「いろんなこと考えてたら、眠れなくて」
そばへ来て、彼女は腰をおろした。
肩が触れ合うほど近くて、妙な気分だった。風の音も聞こえず、天窓から差し込む青白い光が静寂《せいじゃく》を漂《ただよ》っている。この部屋にいるのはふたりだけだ。なのに彼女は、息づかいさえ感じるほど近くにいる。
「ニコは、きっと元気になるって。それまでここであずかってもらうことになったわ」
「そう、よかった」
さっきまで見ていた夢のことが、ちらりと頭に浮かんだ。
何が、フレデリックしだいなのだろう。
アウローラはそっとベールを取った。衣擦《きぬず》れの音が、なぜかなまめかしく感じた。
「あたし、とても驚いたの。あなたがこれを、母からあずかったと言ったとき」
「よくわからないけど、母親ってそういうものなんじゃないかな。きみが家を出ても、望む人と結ばれる幸せを願ってる」
「ええ、母にとって、本当の娘ならそういう存在なんだと思う。でもあたしは違うの。本当の娘じゃない。父も母も、氏族《クラン》の役目に従ってあたしを育てて、その代わりに自分たちの子供を手放したわ」
驚きながら、フレデリックはアウローラを見た。
「クリスマスには、余分な席がひとつあって、いつも不思議に思ってた。母の手製の、襟《えり》飾りやリボンもいつもふたつ」
とつとつと、彼女は話す。
「でも、これだけのレースはふたつも編めない。母はこれを、あたしの目につかないようにこっそり編んでたし、だからずっと、これはあたしじゃない娘のものだと思ってた」
白い頬《ほお》を涙が伝《つた》い、レースのベールにこぼれた。
「きみの、だったんだよ」
彼女が本当の娘のことを忘れていないとしても、たぶん、アウローラのことだって、本当の娘のように、それ以上に思っていたはずだ。
「私に会いに来たマッキール夫人は、心底娘のことを考えている母親だった」
アウローラは、小さく首を傾《かたむ》ける。彼の肩に、頭を乗せるようにして。
「フレデリック、あなたはいい人ね」
吐息《といき》が首筋をくすぐる。想像したよりも彼女の肩は細く、そっと腕をまわしただけで寄り添《そ》うようにあずけてくる体はやわらかい。
こういうのを、据《す》え膳《ぜん》っていうのだろうか。などという不埒《ふらち》な考えはどうにか頭から追い出す。
アウローラは泣いている。本物の恋人ではない彼に許されているのは、静かに涙をこぼしている彼女を、抱きとめることだけだ。
それだけか?
灰色の猫が夢で問いかけてきた言葉が、また浮かぶ。
なぜ、アウローラを連れていこうと思ったのか。
彼女が助けてほしいと言ったから。
それだけじゃないとしたら、自分は何を望んでいるのだろう。
煙水晶のスタンディングストーンを、確かめたかったから。
それも彼女を連れ出そうと思ったことと結びついているようでいて、理由と言うには弱い気がする。たとえアウローラが煙水晶のことを知らなくても、フレデリックは結局、彼女の望みをかなえようとしたのではないかと思うからだ。
かわいそうな女にやさしくすると、つけ込まれるわよと彼女は言った。
つけ込んでくれてもいいかなどと、ちらりと考えたのはどうかしているのだろうか。
(4)迷い道
長老の恩恵《おんけい》で、翌朝ふたりは荷馬車に乗せてもらうことになった。
煙水晶のスタンディングストーンは、徒歩で行くには遠いらしい。
以前にフレデリックは、道に迷ったとはいえマッキールの村から徒歩でたどり着いたはずだが、長老は、前より遠くなったのだと言って笑った。
空を覆《おお》う雲の向こうに、うっすらと映る太陽は、地平線をなぞるように動いていく。その高さで時間を計ることはできず、フレデリックの懐中時計《かいちゅうどけい》は昨日宿を出たころから止まったままだ。
島の上を絶え間なく吹き抜けていたあの風が、どういうわけかぴたりとやんでいて、草をゆらすのは荷馬車の車輪だけだ。そんななだらかな丘をいくつも越えていく。
やがて前方に沼地が見えてくると、小さな人は荷馬車を止めた。
「ここを抜けた方が近道だよ。沼の向こうに、スタンディングストーンが見えてくる。けど、馬車は通れないんだ」
アウローラは眉《まゆ》をひそめて、不安そうに沼を見やった。
「歩いていけるのかい? 底なし沼じゃないだろうね」
フレデリックが問うと、小さな人は笑った。
「聖なる沼だよ。危険なんかない」
「……そうね。行きましょう、フレデリック」
聖なる沼、それはアウローラの許婚《いいなずけ》が眠るという場所ではなかったか。
しかし彼女は意を決めたらしく、荷台をおりて歩き出す。フレデリックも彼女に続いた。
水たまりが無数に点在し、野原を覆っている。沼地はそんなふうに見えた。
かわいた場所をたどりながら、ふたりはそこを奥へと進んだ。
「きみの、許婚の話を聞いたよ。ゆうべ、長老の広間にいた彼らに」
アウローラはちらりとフレデリックを見て、ため息をついた。
「そう。奇妙《きみょう》な話でしょう。遠い昔に死んだはずの人が許婚だなんて」
「どうしてその人は、許婚が必要なんだろうね。もしも目覚めたとき、すぐに結婚しなきゃいけない理由があるのかな」
「そうね……、たぶん、誰もちゃんとした理由はわかってないけど、自分だけでは災《わざわ》いを止めるのが難しいのかも。何らかの力のあるパートナーが必要だとか」
「それは、魔術的な力ってこと?」
アウローラは神妙《しんみょう》に頷《うなず》いた。
「彼の許婚は、マッキールの氏族長《しぞくちょう》が定めた娘。二十歳以下の、妖精の魔力に通じる者。そういう娘が絶えないように、そして魔力に通じる血筋をより強いものにするために、あたしたちは、両親も親族も、決められた生涯《しょうがい》をおくるの」
アウローラの祖父もフェアリードクターで、いずれは弟がそうなるということだった。その血筋は、眠れる男の言い伝えに従って保たれているものなのだろうか。
「あさって、あたしは二十一歳になるわ。彼が目覚めなかったら、あたしの許婚ではなくなる」
「そのときは、ケネスが決められた相手ってことか」
「予言者に嫁《とつ》ぐ準備をして、夜が明けても彼が現れなかったら、そのまま違う相手のもとへ行くのよ。おかしいでしょう?」
「……魔法は不完全で、長くは続かないって聞いたよ。彼はとっくに死んでいるって」
「ええ、そうなのかもしれない。だとしたら、重要なのは彼のパートナーじゃなくて、妖精の魔法に通じる能力を、人間の血筋《ちすじ》にどれほど濃く注ぎ込めるかってことなんでしょうね」
予言者は、災いに抗《こう》する人間をつくりだそうとしたのだろうか。
それは時間をかけて、フェアリードクターの能力を持つ者どうし、親族間での結婚を繰り返させ、あの村の主《ぬし》である一族を、まるごとフェアリードクターの血筋に仕立てあげた。
「だけど、あたしには理解できない。フェアリードクターの能力は、魔力を扱えるかどうかじゃないわ。妖精と親しくつきあいながら、人とは違う気質や決まり事を理解して、お互いの齟齬《そご》を埋《う》めるように役立てていくことよ。大切なのは心の持ち方で、血筋や力じゃないのに」
だから彼女は、自分が島を出ることで、この習慣に風穴《かざあな》を開けることを考えたのだろうか。
たとえ恋人が迎えに来てくれなくても、決められた結婚はしないと決めたのか。
「災いって、何なのだろう」
「誰も知らない。でも、これまでだってクランの危機はいくつもあったはずだわ。疫病《えきびょう》、飢饉《ききん》、戦争……、でも、とくべつなことは何も起こらなかった」
聖なる沼地。この湿地帯《しつちたい》のどこで、その男は眠っている。
さっと風が吹き抜けた。
草が流れ、水面が波打つと、ちらつく水影の底に、眠れる男の姿を見たような気がしてフレデリックはめまいを覚えた。
その娘を連れていってはならぬ。
我《われ》らから奪《うば》うことは許されぬ。
空耳でしかない声を振り払うように、急ぎ足になる。いつのまにか彼は、アウローラの手を握《にぎ》っている。
彼女もこの沼地から早く抜け出したいと思っているのだ。細い指がしっかりと彼の手を握りしめている。
そのときフレデリックは、本当にアウローラと駆《か》け落ちするかのような錯覚《さっかく》をおぼえていた。
許婚から奪って逃げようとしている。
彼女が必死についてきてくれるから、まるで心をひとつにしての逃避行《とうひこう》であるかのように、彼は手を離すまいと考えている。
どこまでも続くかと思われた沼地も、いつのまにか足元から遠ざかっていた。
ゆるい丘をのぼっていることに気づき、立ち止まる。振り返れば、じめじめした湿気に薄い靄《もや》がかかって見える沼地は、ずいぶん下方にあった。
つながれたアウローラの手を、急に意識してしまうと、フレデリックは力をゆるめる。アウローラも気にしたのか、さらりと指が離れるのを感じると、彼は、いっそ沼地が続けばよかったかのような気さえした。
「ここを登り切れば、スタンディングストーンが見えるはずよ」
アウローラは、沼地を抜けてほっとしたのだろうか。ようやく笑顔を見せてくれる。
気を取り直して、フレデリックは歩き出す。
「フレデリック、そっちはだめ!」
とつぜんアウローラが叫《さけ》んだが、それを耳にしたときにはもう、草むらにぽっかり開いた穴に、彼は落下していた。
「痛……」
感覚的には、数フィートの高さから落下したくらいだった。その証拠《しょうこ》に、彼は手を少しすりむいただけだ。なのに見あげると、空が見えるまるい穴ははるか上方にある。
「フレデリック! 大丈夫?」
アウローラが、そんな遠くの穴からこちらを覗《のぞ》き込んでいる。
「ああ、怪我《けが》はないよ」
返事をしながら、落とした眼鏡《めがね》を拾いあげる。そうして周囲を見まわすと、ずいぶん広い空間だとわかる。この穴は、まるで大きなフラスコのようだ。
前にも、見たような気がする。
そしていやな予感がする。
「あぶない、気をつけて!」
アウローラが叫ぶと同時に、小石が彼の背中に当たった。
と思うと、周囲からいっせいに、雨のように小石が降り注いできた。
ああそうだ、こんなことがあった。
とたん、思い出す。過去の情景が脳裏《のうり》にひらめく。
こんなふうに小石が降り注ぐ中、彼はかつて妖精を見た。
黄金色《こがねいろ》の羽で舞い降りた、美しい妖精だった。
「やめなさい、ゴブリンたち!」
アウローラは穴から身を乗り出した。こちらへおりてこようとしている。
「アウローラ、あぶないから……」
言ったとたん、彼女が足をすべらせた。
受け止めようと、あわてて両手を広げる。
ひどくゆっくりと、彼女は落ちてくる。黄金色の髪が広がって、まるで羽のようだ。
以前に見た、妖精と同じ……。
アウローラを抱きとめたとたん、小石の雨がやんだ。
が、フレデリックは足元の小石を踏《ふ》んでバランスを崩《くず》す。彼女をかばいながら倒れたとき、岩壁でしたたかに頭を打った。
「フレデリック!」
自分を呼ぶアウローラの声が遠くなるのを感じながら、フレデリックは考えていた。
あのとき、五年前。
同じことがあった。
あのとき見た妖精も、もしかしたら。
*
五年前、アウローラがフレデリックにはじめて会ったのは、こんなふうに、ゴブリンがあちこちにつくる穴の底だった。
ゴブリンの穴に誰かが落っこちたらしいのは、彼らが騒ぎ出したからすぐにわかった。
駆けつけたアウローラは、中に男の人がいるのを見つけ、ゴブリンたちを止めようと穴に飛び込んだが、彼は落ちてくるアウローラが危険だとあわてたらしい。
ゴブリンの穴は、本当はさして深くない。気をつけて飛び降りれは怪我をすることもないのだが、アウローラを受け止めようとした彼は、石に足を取られて転び、頭を打って昏倒《こんとう》した。
得体《えたい》の知れない他人を助けようとして、自分が怪我をするなんて、めずらしいお人好《ひとよ》し。
そう思いながら、倒れた彼を覗き込んだ。
十六歳のアウローラにとって、島の者ではない若い男性を、間近で見るのははじめてだった。
村の宿《イン》に、大学の先生だという初老の紳士《しんし》が、学生を数人連れて滞在《たいざい》していると聞いていた。その中のひとりだろうとは想像がついた。
こんなところにいるなんて、妖精に惑《まど》わされて彼らの世界に迷い込んでしまったのだろうけれど、彼はそれに気づいているのだろうか。
いや、ふつうの人間が気づくはずもない。
でも心配はいらないわ、とアウローラはささやく。
あたしがいれば、人間界に連れ戻してあげられる。
じっと彼を見つめながら、校章のついた指輪や髭《ひげ》のない頬《ほお》や、何もかもが島の男とは違うと、彼女は興味を感じていた。
額《ひたい》に、石が当たったらしい擦《す》り傷を見つけ、そっと指先で触れる。
顔をしかめた彼は、急に目を開けると、間近でアウローラと見つめ合い、それからあわてたように跳《は》ね起きた。
『もう大丈夫よ。ゴブリンたちは追い払ったから』
『ゴ……ブリン……?』
『妖精よ。迷い込んだ旅人に意地悪するのが趣味なの』
『はあ』
ぽかんと彼はアウローラを眺《なが》め、それから周囲を眺め、困惑《こんわく》した様子で口を開いた。
『ここは、どこなのかな。私はどのくらい気を失っていたんだろうか』
『ほんの少しよ。あなた、妖精に惑わされて道に迷ったんでしょう?』
『妖精に……、そう、夢を見てるのかな……』
『まあそんなようなものね。さあ立って、あたしが道案内するわ』
立ちあがった彼は、足元に落ちていた眼鏡を拾いあげ、ため息をついた。
壊《こわ》れてしまっていたからだ。
『それがないと、まるで見えないの?』
『いや、少しは見えるよ』
『あたしのこと見えてる?』
『ええと、きみは淡《あわ》い黄金《こがね》の髪で、瞳《ひとみ》は空の青。それに』
彼は少しでも焦点を合わせようとして目を細めた。
『……本物の妖精?』
『えっ?』
『昔、本で読んで想像してた妖精にそっくりだ……。ああ、やっぱり、妖精ってきれいなんだね』
『今ひとつ見えてないわね』
納得《なっとく》できなさそうに彼は首を傾《かし》げたが、自分の容姿に関心なく生きてきたアウローラは、最近気がついた。自分はきれい≠ネ方ではない。
二番目の許婚だというケネス・マッキールは、紹介されたアウローラを見て舌打ちした。
そんなだから、目が悪い上にアウローラを妖精だと勘違《かんちが》いしているくらい正常な判断ができない人にでも、きれいだなんて言われたのははじめてで、どきどきした。
『とにかく、ここから出ましょう』
彼は素直についてきた。
好奇心でいっぱいのアウローラは、歩きながら彼を質問責めにした。
見知らぬ土地の話は興味深かった。イングランドでは次々に鉄道が敷かれ、町から町へと汽車が走る。都会の道は街灯が並び、ガスの火が夜道を照らすという。
芝居小屋、ではなく劇場では夜ごとオペラが繰り広げられ、サーカスだとか動物園だとか、めずらしい見せ物だっていつでも見られるのだとか。
思いのほか話が弾むと、アウローラは楽しくて、もっともっと話していたいと思った。
やがてゴブリンの穴を出ると、平地に並ぶスタンディングストーンが目についた。
あそこを通り抜ければ、人間界へ戻れる。
アウローラは彼と、地面から生えたかのような巨大な柱へ近づいていく。
『これは、煙水晶《スモーキークオーツ》……?』
驚いたらしく、彼は石柱へと駆け寄った。
巨大な煙水晶の結晶《けっしょう》。それが無数に並ぶさまは、謎《なぞ》めいていて美しい。刻々と移り変わる空の色を映してはさまざまな表情を見せるから、いつまでも眺めていたいと思うほどだ。
この島の護《まも》りの石。見慣れたアウローラでさえ、近づくたびに目を奪われるのだから、彼にとってはなおさらだろう。
彼は、なかなか立ち去ろうとしなかった。
『また来ればいいわ』
また会いたいと言う代わりに、彼女は言った。
『うん。休みが取れたらきっと来よう。ああでも、この場所へどうやって来たのかわからないのに、またたどり着けるのかな』
『あたしが案内してあげるわ』
『本当に?』
アウローラは、よろこんで頷《うなず》いた。
『そしたら、こんどはあなたが、あたしの知らない土地へ連れていってくれる? ケンブリッジやロンドンや、いつか行ってみたいの』
『いいよ、もちろん。妖精を招待するなんてステキだな』
アウローラには、島を出ることは許されない。出れば二度と戻れない。それでも彼女は、約束よと彼に言った。
名前は、と彼が問うた。
『こんど会うとき、どうやってきみを見つければいい?』
『おぼえておいて、あたしの名前。そうしたら必ず会えるわ』
忘れないでいてくれるよう、願いを込めて彼女は自分の名を伝えた。妖精だと思われているなら、それもいい。そばかすだらけでやせっぽちな村娘の自分より、妖精であった方が、彼の記憶に何らかの印象を残せるかもしれないから。
もう行かなきゃとアウローラが促《うなが》し、ようやく彼も歩き出す。
人間界との境界に近づいたとき、まっすぐ行くように伝えて、彼女は彼のそばを離れた。
妖精界を出れば、彼は最初に迷い込んだ場所へ戻ってきたことに気づくだろう。もともと別の道から来たアウローラの出口は別の場所だ。
彼とはそのまま離れてしまうとわかっていたから、さようならを言える場所で別れた。
けれども一歩外へ出れば、たいていの人は妖精界でのことを幻《まぼろし》のようにしか思い出せない。
アウローラのことも、また来るという約束も、忘れてしまうに違いない。
『今すぐ宿へ行って、道に迷ってるところを助けてやったって話してこいよ』
彼のことをうち明けたら、ニコはそんなふうにアウローラをせっついた。
『でなきゃあいつ、一生あんたのことなんて思い出せっこないぞ』
『今は会えないわ、だって、あたしがきれいなんかじゃないってわかっちゃう』
『はあ?』
『こんど会うときには、そばかすが消えて少しは見られるようになってるかもしれないし。そうよニコ、大人になったら消えるものだって母さまが言ってたでしょ? 海風で痛んだ髪の毛だって、これからはちゃんと手入れをするわ』
『こんどって、いつだよ。こんな不便な果ての島に、二度も来るような物好きはいないって。口約束をおぼえてたって来るとは思えないだろ』
だとしても、アウローラにとって、これは賭《かけ》だった。
もしも、もういちど会えたなら、そのとき彼が、変わらずやさしく接してくれたなら、決められた人生から抜け出す勇気が持てるかもしれない。
*
頭痛を感じながら、フレデリックは目を開けた。心配そうに彼を覗き込んでいるのは、アウローラだ。
そうだ、頭を打って倒れたのだった。
思い出しながら体を動かそうとした彼は、アウローラのひざに頭を乗せていることに気がつき、あわてて跳ね起きた。
「ああっ、ご、ごめん」
「どうしてあやまるの?」
「ええと、ほら、なんていうか、嫁《よめ》入り前の女性に失礼なことを」
「あたしが、そうしたかったのよ」
少し淋《さび》しそうに言って、彼女は立ちあがった。
「こちらから、外へ出られるわ」
相変わらずフレデリックは、深いフラスコ状の穴の底にいたけれど、アウローラの指さす方に横穴があった。
ふたりして、奥へと進んでいく。
穴の中なのに、不思議と暗くはない。
「頭、こぶができてたけど大丈夫?」
本当に? と言いながら、自分でさわってみて、痛みに顔をしかめる。
「……うん、これくらい大したことはないよ」
「学者の先生がバカになったら大変だわ」
「いや、私はよく、看板や街灯のポールにぶつかるから、いまさらどうってことはないんだ」
「ぶつかるの? どうして?」
「考え事をしてたり、本を読みながら歩いてたり」
くす、と彼女は笑った。
五年前のあの妖精は、本当にアウローラなのだろうか。フレデリックは悩みながら、先を歩く彼女の背中を眺める。
でも、彼女はそれらしきことは口にしない。
ただ彼は、少しずつ、この狭い抜け道のことも思い出している。
上へ続く石段がある。
もうすぐ地上に出る。
そうしたら、目の前にはあの……。
風が吹き抜けた。
草の上に立ったアウローラの髪が、妖精の羽のように風を受けて広がった。
彼女がたたずむ前方に、並び立つ柱が見える。
それは背後《はいご》からの陽光を受け、褐色《かっしょく》に透《す》き通るその内側に、やさしく光を抱き込んでいる。そうして、まるで呼吸でもするように、淡い光を吐《は》き出している。
荒野にぽつぽつと並び立つ、やわらかな光の柱。その不思議な光景に、フレデリックは息を呑《の》んだ。
まぎれもなく煙水晶だ。見たこともない巨大な結晶柱でいて、見事なほど透明度《とうめいど》の高い、ブラウンの鉱石。
「ああそうだ……、前に見たときのままだ」
近づいていき、フレデリックはその表面に手を触れた。
「島の道はすべて、ここにつながってる」
アウローラがつぶやく。
「道? でも、村の人は誰も、煙水晶のスタンディングストーンなんて知らないみたいだったよ」
「目には見えない道のことよ」
「だから、迷子になると見えない道に沿《そ》ってここへ来てしまう?」
「石の力を感じる人なら」
力を感じるのかどうか、フレデリックにはわからない。けれど自分は、周囲の人が気味悪がるほど石のことばかり考えているらしいから、この場所に引き寄せられるものがあったのだろうと思う。
「おもしろいな。この煙水晶はやはり、ハイランド産に似ていない。よほどの山岳地帯でないと、透明度の高い煙水晶は出ないのに、この島も、そもそも英国にはたいした山がない。……遠くから運ばれてきたんだろうか」
「どこになら、こんな煙水晶があるの?」
「アルプス」
自分で言ってから、おかしくなってフレデリックは笑った。
「ありえないか」
「でも、妖精が運んだのかも」
そうだった、ここは妖精の領域なのだ。
この不思議を、彼の知識で解き明かそうと思うのが無理な話。
「だったら私の専門外だ。この奇跡《きせき》に出会えた幸運に感謝しよう」
アウローラも微笑《ほほえ》んだ。
「ありがとう。きみのおかげで、またここに来られた」
「約束だもの」
約束……。そんな言葉を、以前にもここで聞いたような気がする。
訴《うった》えかけるようなアウローラの瞳が、記憶の中の妖精と重なってくらりとする。けれどすぐに、フレデリックは思い直す。アウローラと交わした約束は、スタンディングストーンへ案内する代わりに、彼女を島から連れ出すというものだった。
「虹《にじ》だわ」
つと目をそらし、空を見あげる彼女につられ、フレデリックも視線をあげた。
陽《ひ》の光が淡く、色彩の薄いこの島では、虹もどこかはかなげな七色だ。
そして彼は思い起こす。
前にもここで、七色の光を見た。
フレデリックにとって、スタンディングストーンと結びついているのはその情景だ。
煙水晶の表面に映り込んだ空が、そして七色の輝きが、スタンディングストーンの並ぶこの空間を、ますます神秘的に彩《いろど》るのだった。
けれど、虹……だっただろうか。
記憶とのかすかな齟齬《そご》を感じ、フレデリックは眉《まゆ》をひそめた。
あのとき眺《なが》めた空は、もっと暗かった。そこに揺《ゆ》らめいた光は、地上を照らすほど明るく、うねるように姿や色彩を変化させた。
はじめて目にするような不思議なもので……。
はっとして、彼はアウローラの方に振り返った。
「どうしたの?」
彼女はやわらかく微笑んでいるだけだ。
あのときもそうだった。妖精≠フ少女はずっと笑っていた。フレデリックにしてみれば、自分と話している女性が(妖精だけれど)、楽しそうにしているということはかつてない経験だった。
名前は?<tレデリックはそう訊《き》いた。
少女は空を指さした。
空を彩る光のベールは。
北極光《アウローラ》……。
あまりにも神々《こうごう》しくて、この情景は忘れまいと心に刻みつけたはずだった。
たしかにそれだけは、彼の記憶にぼんやりと残った。なのに少女のことを忘れていた。
きみは本当はあのときの。
妖精?
確かめたかった。けれど彼が口を開きかけたとき、アウローラが言った。
「ねえフレデリック、男の人はひとめで運命を感じるってこと、ないのかしら」
石柱のあいだをゆっくりと歩きながら、唐突《とうとつ》に問う。
「それは、人によるとしか」
「運命を感じなくても、やさしくできるの?」
恋人のことを考えているのだと思うと、急に彼は冷静になっていた。
五年前に、彼を助けてくれたのがアウローラだったとしても、それがどうだというのだろう。
自分は、彼女の運命の男ではない。
これまでいちどだって、フレデリックは女性を口説《くど》いたことがない。向こうが多少好意的でも、場違いな言動であきれられてしまう、と友人たちにはあとで指摘される。
なのに、会ったばかりの少女と、駆《か》け落ちの約束ができるはずがない。
迎えに来るだなんて、煙水晶のスタンディングストーンに目を奪《うば》われどんなに浮かれていたとしても、口にするとは思えない。
あのときのことを、ぼんやりとしか思い出せなくても、フレデリックにとってそれだけはたしかだった。
「フレデリック、あなたにはある? 運命を感じたこと」
「さあ……、考えたこともないな」
アウローラを外の世界へ駆り立てるのは、ひとめで恋に落ちた誰かで、昔たまたま助けた学生が目の前にいるとしても、大したことではないのだ。
「どうして?」
「運命なんて言葉を口にできる男は、限られていると思うからね」
アウローラは、なぜだか悲しそうに見えた。
(5)旅立ち
丘の向こうに海が見えていた。
スタンディングストーンを離れ、いつ妖精の領域《りょういき》を抜け出したのかフレデリックにはわからなかったが、気づいたら馬車の轍《わだち》が目立つ道を歩いていた。
間違いなく人間の道だ。現に馬車や人とすれ違ったが、不思議な体験をしたあとでは、そんな当たり前の風景が、かえって見慣れない気さえした。
もうすぐ浜辺にたどり着く。そこから小さな定期船が出ているという。
船に乗って島を離れれば、フレデリックの役目は終わる。
そのときが近づけば、これでいいのだろうかとも思えてくる。
それだけなら、連れていかないでくれ
灰色の猫の言葉は、ずっと頭にこびりついていた。
それだけでなければ? ほかに理由があればいいのか? たとえばどんな?
このまま連れ出すことは、彼がアウローラを苦しめることになるのだろうか。
「なあ、きみは本当に、ひとりでは島の外へ出られないの?」
「見えない鎖《くさり》でつながれているの。だからほら、力が働く」
アウローラは海の方を指さした。海は相変わらず、丘の向こうにうっすらと見える。
「さっきからずいぶん歩いてるのに、少しも海が近くならないわ」
そういえばそうだ。もう少しだと思ったのに、海は最初にその姿を現したときのまま、遠景にかすかな水平線を描いているだけだ。
「ねえフレデリック、あたしを連れていくの、いやになった?」
「え?」
立ち止まり、アウローラはまっすぐに彼を覗《のぞ》き込む。
「やっぱり、責任を感じてしまうわよね。でもお願い、迷わないで。島を出たあたしに何があっても、あなたのせいじゃない」
その真剣な瞳《ひとみ》に、なぜか胸の痛みをおぼえる。
「引き受けたことだ。迷ってるわけじゃないよ」
「……じゃあ、別の原因なのね」
「原因がわかるのかい?」
切《せつ》なげに眉《まゆ》をひそめる。
と思うと、青い瞳が間近に近づく。
薄い色のまつげをそっと伏《ふ》せた彼女の唇《くちびる》が、かすかに彼に触れた。
「おまじない」
呆然《ぼうぜん》とするフレデリックに、無邪気《むじゃき》を装《よそお》った笑顔を向ける。
本当に無邪気なおまじないだと思えなかったのは、声も肩もわずかに震《ふる》えていたからだ。
「今だけでいいから、あたしのこと、あなたのものだと思って。連れていくのが当然なんだって」
あまいはずの口づけが、痛い。
フレデリックには足りないものを補うための、必死の口づけだ。
アウローラの、島を出ようという強い思いが伝わってくるほど、痛いと感じながら、フレデリックは頷《うなず》いていた。
けれどたぶん、彼は気づきはじめていた。
どうしようもなく惹《ひ》かれ、忘れられなかったのは、煙水晶のスタンディングストーンだったのだろうか。
それよりも鮮明《せんめい》に、結晶柱《けっしょうちゅう》に映る七色の輝きが記憶に焼き付いていた。
アウローラは緊張《きんちょう》しているのか、口元をきゅっと結んでまた歩き出す。彼女にとって、後戻りできないときが近づいてきている。
並んで歩きながら、フレデリックは、彼女が望むように考えようとつとめる。
再び歩き出して間もなく、気がつくともう、ふたりは浜辺へとたどり着いていた。
「あの船よ」
アウローラが指さす。人影のない浜辺の先に、短い桟橋《さんばし》があり、古びた船が浮かんでいた。
内《インナー》ヘブリディーズまで、海峡《かいきょう》を渡るというには粗末《そまつ》に見える。それに、誰があれを動かすのだろう。近くに人らしき姿は見あたらない。
(おーい)
誰かが呼んだかのように聞こえた。それとも、風の音だろうか。
(おーい、アウローラー)
「ニコ? どこにいるの?」
あの猫が? フレデリックはあたりを見回すが、丘はどこまでも薄い草が生えているだけで、何も見あたらない。
(アウローラ、早く、間に合わな……)
そのとき、蹄《ひづめ》の音が聞こえてきた。アウローラが、緊張感に体を堅《かた》くする。
「フレデリック、急ぎましょう」
浜辺に向けて駆《か》け出したとき、丘の向こうから馬に乗った男が姿を現した。
ケネスだ。後ろも見ずにふたりして走るが、近づいてくる蹄の音は、あっというまに間近に迫った。
そうして、いきなり目の前に回り込む。
「あぶない!」
馬の足に引っかけられそうになったアウローラを、フレデリックがかろうじて引き寄せ、そのままふたりは倒れ込んだ。
とんでもない無茶をする。ケネスという男は、許婚《いいなずけ》が怪我《けが》をしてもかまわないと思っているのだろうか。
めずらしく憤《いきどお》りを感じながら顔をあげたフレデリックの目の前に、馬から下りてきたケネスが立ちふさがった。
「残念だったな、駆け落ちごっこは終わりだ」
「いいえ、あたしはこの人といっしょに行くわ」
へえ、とバカにしたように言って、ケネスは笑う。笑いながら、フレデリックを見る。
「なあ先生、あんた本当は、アウローラが待ってた男じゃないんだろ。宿の長男に聞いたぜ。あんたとアウローラとは初対面らしかったってよ」
答えられないフレデリックを、アウローラが不安そうに見た。
「アウローラ、会ったばかりの男に色目を使って駆け落ちを持ちかけるとは、マッキール家の恥《はじ》もいいとこだ」
「きみこそ恥ずかしくはないのか。許婚だと言いながら、思いやりのかけらも持っていない。彼女や猫にもひどいことをして、家出を決意するしかないくらい追いつめているじゃないか」
ケネスは意外そうに、片方の眉をあげた。
「なんだ、それでアウローラに同情したのか。わからんね、惚《ほ》れたわけでもないのに、連れていってどうする。どっかに売り飛ばそうとでも考えてるなら話は別だが」
「失礼なことを言わないで! ケネス、彼は純粋に、あたしを恋人に再会させてくれようとしただけなの」
「ふうん、だがアウローラ、その恋人ってのは、本当にいるのか? 正直俺はずっと、おまえの作り話だと思っていた。俺との結婚を破談にしようと、父親にでまかせを言い出したとな」
アウローラは動揺《どうよう》する。それを見て、ケネスはにやりと笑う。
「どうだ、そんなところだろう。行くところもないくせに、島を出ていいことがあるってのか?」
「あなたの顔を見なくてすむわ」
カッとしたケネスが、彼女をつかんで引き起こした。
振り上げられたこぶしに、フレデリックは飛びかかる。ケネスを止めようと取っ組み合うが、すぐにはじき飛ばされる。
アウローラはあわててフレデリックに駆け寄ろうとしたが、またケネスにつかまれ、引き戻された。
「アウローラ……」
フレデリックは急いで立ちあがるが、そのまま身動きできなくなった。
アウローラをかかえ込んだまま、ケネスがピストルをこちらに向けていた。
「先生、忠告しておくけどな、ここであんたが消えたって誰にも気づかれないぜ。村人みんなに、学者なんぞを島で見かけたことなどないって言わせるくらいわけないんだ」
「やめろ、ケネス」
そう言ったのは別の声だった。
いつのまにかすぐ近くで、馬に乗った人影がこちらを見ていた。
「……父さま……」
「そんな物騒《ぶっそう》なものを持ち出さなくても、アウローラもじきに目が覚めるだろう。恋人などいないなら、ばかげたことをしているとよく知っているのは彼女自身だ」
「……いいえ、彼女の恋人は本当にいます」
フレデリックはつぶやいていた。
「ほう、なぜわかる」
「わかります。彼女がどれほど、その出会いを大切にしていたか。……彼女は本気で、何もかも捨ててもかまわないと思っています」
きっぱりと口にしながら、どうして鈍感《どんかん》な自分に、そんなことがわかるのだろうと不思議に思う。
けれどその答えも、彼は知っている。
「アウローラが好きなのか?」
ケネスの銃口《じゅうこう》を見つめながら、そういうことなんだと、彼はすんなり納得《なっとく》していた。
彼もまた、恋をしている。一途《いちず》に誰かを想《おも》うアウローラに。その誰かに運命をゆだねて、一族の悲しい習慣を断ち切ろうとしている彼女に、どうしようもなく惹かれているから、アウローラの本気もわかる。
「だとしてもだ、ミスター・カールトン、アウローラは、ふつうの娘ではないぞ」
「父さま!」
アウローラは抗議するように叫《さけ》んだが、マッキール氏は続けた。
「取り換え子だ」
取り換え子?
この場で聞くような言葉だとは思えず、フレデリックはぼんやりとアウローラを見やる。
彼女は悲しそうに目をそらす。
「それはいったい……」
「意味はわかるな」
「妖精……だというんですか? 人間じゃないと……?」
「さあ、そんな区別は、この島では大したことではない。取り換え子は先祖に何人もいて、わしらはその血を引いている。アウローラは、妖精界へ連れ去られたマッキール一族の子ではあるのだろうが、わかっているのは、妖精族が我《わ》が子と取り換えていったということだけだ」
魔法を扱う能力を強めるため。
沼地に眠る予言者の許婚。
アウローラが変えたかった一族の決まり事は。
|取り換え子《チェンジリング》。
だから彼女は、魔法の力でこの島につなぎ止められていて、いちどそれを断ち切れば、二度と島には戻れないのだ。
「アウローラと約束したという恋人も、今どきの英国人なら躊躇《ちゅうちょ》するだろう。たとえ約束がうそではなかったとしてもだ」
そうかもしれない。が、その男のことなんてどうでもいい。フレデリックは混乱しながら、気を落ち着けようと深く息をする。
「ごめんなさい、フレデリック」
アウローラは、何もかもあきらめたように脱力していた。ケネスにつかまえられたまま、弱々しく微笑《ほほえ》む。
「……ここまでありがとう。親身になってくれて、うれしかった」
「イングランドへ帰りな、先生。船が出るぞ」
ケネスはこちらに向けた銃口をおろそうとしないまま、追い払うつもりかあごをしゃくった。
ちらりと振り返ると、いつのまにか船のそばに人がいた。ロープをほどきながら、こちらを見る。
帰る? このまま? 何をしに来たのかわからない。
もともと彼は、煙水晶のスタンディングストーンを確かめに来たはずだった。
けれどそれは、手がかりにすぎなかった。本当は、あのとき感じた何かを、もういちど欲《ほ》っしたからここまで来たのだ。
何かが変わりそうな予感。自分はわりと幸福な人間だと知っているけれど、これまで知ることがなかった新しい幸福の片鱗《へんりん》を、煙水晶に映る七色の光に見ていた。
たぶん、誰かがそばにいて、楽しそうに笑っているという幸福。
妖精の煙水晶は、彼の研究の手には負えない。けれど、彼女はちゃんと、こちら側の世界に、人間界に存在しているのに、このままでは……。
「わかった、アウローラ。お別れのしるしにこれを」
無意識に、ポケットの中に突っ込んでいた手は、そこに詰め込んだ小石に触れていた。
とっさにフレデリックは、小石を空に放り投げた。
ケネスの注意が小石に向けられる。銃口が逸《そ》れたとき、彼の体は勝手に動いていた。
アウローラの腕をつかむ。そのまま引っぱって駆け出す。
「おいっ、何をする!」
銃声が聞こえた。身がすくんだが、かまわず走る。
銃弾は、ふたりとは別の方向へ飛んでいったらしく、次の瞬間、ケネスの悲鳴《ひめい》が聞こえた。
「うわっ、やめろ、この……っ!」
一瞬振り返ったフレデリックの目に、ネズミの大群がケネスに襲《おそ》いかかっているように見えた。
(走れよ、先生、よそ見するな!)
アウローラの猫なのか。ただの空耳か。
しかしもう考えるのはやめていた。桟橋を駆け抜けた彼は、アウローラの手を離すまいとしながら船に飛び乗った。
ゆるりと船が動き出す。
息が切れて、そのまま座り込んでいたフレデリックが顔をあげたときには、遠くなりつつある浜辺に、馬に乗ったマッキール氏の姿がぽつりと見えた。
彼の大切な娘を奪《うば》ってきてしまった。そう意識しながら、目の前のアウローラを見る。
まだ手を握《にぎ》ったままだと気づき、うろたえながら離す。
「あ、あの、ごめん、強引《ごういん》なことを……」
彼女は、不思議そうな困ったような目で、フレデリックをじっと見つめた。
「でもあの、ちゃんと責任は取るから、いやその、変な意味じゃない。きみを恋人のところへ送り届けるつもりだし」
「本当は、約束なんてしてないの。あたしの片想いだったのよ。名前も住所も知らなかったのに、父にはつい、そう言ってしまって……」
「えっ、……そ、それなら、ああそうだ、私の知り合いには独身者も多いし、きみが気に入るような立派《りっぱ》な紳士《しんし》も」
違うじゃないか。こんなことを言っている場合じゃないと気づいているのに、あせるほど言うべき言葉が出てこない。
「あなたは?」
勢い込んでそう問われ、ますますフレデリックはうろたえた。
「独身で、立派な紳士だわ」
「で、でも、アウローラ」
「結婚してください」
「ええっ?」
「あたしじゃ、無理? 好きになれない?」
「ま、まさか」
「なら、あたしをお嫁《よめ》さんにして」
何がどうなって自分が求婚されているのかわからない。もしかしたら夢を見ているのだろうか。だとしたら、覚めるまでに答えなければ。早く。
答えないまま目覚めてしまったら一生後悔するに違いないと、混乱する頭で必死に言葉をさがしている意識とはうらはらに、気づけば彼は|はい《イエス》=Aとあまりにもありきたりな返事をしていた。
とたん、抱きつかれた。
アウローラのたしかなぬくもりを感じれば、彼女の存在もたった今交わした言葉も、間違いなく現実だとわかる。
彼女が待っていたのは自分だったと、フレデリックが知ったのはもっと後のことだが、片想いだったという男がもしも万が一現れても、渡してしまうようなお人好《ひとよ》しだけは発揮《はっき》すまいと思いながら、彼女を抱きしめた。
「よかったな、アウローラ」
パイプをくわえた船乗りが、こちらを見て笑う。
「仲間もよろこんでるぞ」
[#挿絵(img/smoky quartz_235.jpg)入る]
彼が海の方を見まわすと、波間に浮かぶ黒っぽいものが、無数に集まってきていた。
アザラシだ。
風は凪《な》いでいるのに、アザラシの群《むれ》に押され、船はどんどん進んでいく。船乗りは不思議がるでもなく、アザラシに船をまかせている。
「|アザラシ妖精《セルキー》たち、ありがとう」
抱きついていた腕をようやくほどいたアウローラが、船から身を乗り出して手を振った。
妖精の、定期船なのだろうか。
フレデリックはもう、不思議なことはありのままに受け入れるしかないと学んでいる。アウローラが取り換え子だということも同じだ。
(おーい、アウローラ……)
波の音に紛《まぎ》れて声がした。と思うと、アザラシの背に乗った灰色の猫が、ぐんぐんとこちらへ近づいてきていた。
(おれを置いていく気かよー)
猫は勢いをつけて、アザラシから船の中へと飛び移る。
「ニコ!」
彼女は、こんどは彼をぎゅっと抱きしめた。
「おい、よせって、毛が乱れるだろ」
「さっきはありがと。元気になったのね?」
「まだふらふらだよ」
「いっしょに来てくれるの?」
「そろそろ、ニシンもゲーリック・ウイスキーも飽きてきたしな。ケンブリッジにゃもっとうまいもんがあるかと思ってさ」
「あなたってほんと、おバカさんよね」
猫はいやがっているようだったが、アウローラはかまわず彼の毛並みをくしゃくしゃにした。
そんな彼と、ふと目が合う。
ま、よくやったよ、先生。
そう言われたような気がした。
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〜父の願い〜
女性からプロポーズされたということが、一生の不覚になるとは、そのときまだカールトンは気づいていなかった。
石にしか興味のないあの男が、どうやってあれほどの美女に求婚できたのか、と、のちのち周囲の人に問われれば、返事に困ることがしばしばとなり、ようやく彼も気がついたのだ。
そういえば世間の常識では、女性が自分から求婚するというのはありえないことだった。
積極的なほどふしだらだと思われてしまうのが世の中だ。そして、待っていてもなかなか求婚してこないような男からは、女性は黙《だま》って離れていく。
そもそもカールトンは、好意を持たれてもなかなか気づかないし、そのうち向こうが離れていっても気づかないという、どうしようもない部類の男だ。
だから、自分から求婚もできない腑抜《ふぬ》けと思われることなどどうでもよかったが、アウローラのことを奔放《ほんぽう》な女だとは思われたくなかった。
そうしてこのことは、ふたりだけの秘密になった。
アウローラはどちらかというと、その秘密を面白がっていたようで、何ら引け目を感じてはいなかったと思うが、だからこそ、ふたりのあいだでは思い出深いシーンを、はしたないとか何とか、一辺倒《いっぺんとう》な言葉で穢《けが》されたくなかったのだ。
けれど、父親になってみれば思う。できればかわいい娘の相手は、まともにプロポーズもできないようなろくでなしであってほしくない。
そう願い続けてきたカールトンだが、まさか娘の結婚相手が、いつでも恥《は》ずかしげもなくあまい言葉をささやける、天然|口説《くど》き魔だとは思いもしなかった。
「父さま、エドガーの馬車が着いたみたいよ」
支度《したく》を終えたリディアが、ドアの外から書斎《しょさい》を覗《のぞ》き込む。
その口説き魔、いや客人を迎えねばならないと、カールトンは立ちあがった。
カールトン家の玄関に立ったアシェンバート伯爵《はくしゃく》は、従者《じゅうしゃ》の少年を従えて、相変わらず完璧《かんぺき》な出《い》で立《た》ちだった。庶民《しょみん》の家に招くのは恐れ多いような気さえする。
よくよくこの家を訪れていた伯爵だが、押しかけられるのと招くのとはまた違う。
しかし彼は、いつものように、男女を問わず魅了《みりょう》する上品な笑《え》みをカールトンに向ける。
「教授、お招きありがとうございます」
「ようこそおいでくださいました、伯爵。正餐《ディナー》とはいえ、身内だけの食事ですし、自宅だと思っておくつろぎください」
こんな窮屈《きゅうくつ》な家では、伯爵はかえってくつろげないかもしれない。そう思ったけれど、彼はカールトンの言葉に、社交辞令というには心からうれしそうな顔をしてみせるのだ。
「今夜は記念すべき日になりそうです。ここに、家族として訪れることができるなんて」
家族か。これが私の息子になるのか?
あまりにもそぐわなくて、カールトンにはまだまだ実感がわかない。
「リディア、これをきみに」
そのままの笑顔で、彼は手にしていたピンクデイジーの花束《はなたば》をリディアに差し出す。
「まあ、かわいい。ありがとう、エドガー」
「きみをより美しく引き立てる花を、そう思って選んだけれど、どんな花束でもきみの前ではかすんでしまう」
「またもう……」
「知ってる? きみに会うたびに、僕は恋に落ちるんだよ」
「毎日会ってるじゃない」
「うん、だから毎日、ドキドキしてる」
そして彼は、リディアの手にあくまで紳士的《しんしてき》なキスをした。
どうだろうこの、生まれつきとしか思えないタラシ根性は。
女性がよろこびそうなことなら何でも、恥ずかしげもなくやってのける。奥手《おくて》なリディアを口説き落とすのにも、あれこれと手練手管《てれんてくだ》を駆使《くし》したようだ。そんな男が娘に近づくのを、はらはらしながら眺《なが》めていたカールトンは、いずれこうなるかもしれないとは漠然《ばくぜん》と感じていた。
もしも伯爵が本気になったら。
そうなったら彼は、家柄《いえがら》や世間体《せけんてい》など気にもしないだろうし、その熱意とあけすけな愛情表現でリディアにイエスと言わせるだろう。
まともに求婚もできないろくでなしではなかったが、違う意味でとんでもない男だ。けれど、本気だとわかったから、カールトンはもう口出ししまいと思った。
「さあどうぞ、奥へ」
カールトンが促《うなが》すと、伯爵の従者は一礼して出ていこうとする。それをリディアが、思い出したように呼び止めた。
「そうだわ、レイヴン、時間はある?」
「何分ご入り用ですか」
無表情な少年は、返事も堅苦《かたくる》しい。が、どこかずれていておかしい。
「ええと、ニコがね、ちょっと寄っていかないかって」
そこに顔を出したのはニコだ。
「よう、レイヴン。めずらしい酒が手に入ったんだ。みんなで飲もうってんだけど、あんたもどうだ? どうせ、伯爵が帰るまでひまなんだろ」
「いえ、屋敷に帰って、エドガーさまを迎えに来る時間まで、執事《しつじ》の手伝いをすることになっていますので」
「レイヴン、たまにはいいんじゃないか? トムキンスにはあとで僕が説明するし、そんなに急ぐ仕事もないよ」
従者は、伯爵の方をじっと見た。ありがたく受けていいものかどうか、迷っているように見えた。
「それは、ご命令ですか?」
伯爵はおかしそうにくすくす笑う。
「命令じゃないけどね、おまえがニコに誘《さそ》われてうれしいと思っているなら、僕もうれしい」
恐縮《きょうしゅく》したように従者が頭を下げる。伯爵はまた、にこやかにカールトンの方を見る。
「すみません、教授、僕の従者もおじゃましますがよろしいでしょうか」
「かまいませんが、妖精たちの宴会《えんかい》はおそらく屋根裏ですよ」
それでも従者の少年は、馬車で待つ御者《ぎょしゃ》に駆《か》け寄り、ひとこと告げて戻ってくると、ニコといっしょに階段をあがっていったから、むっつりした顔つきはともかくよろこんでいたのだろう。
「めずらしいお酒って、どうしたのかしら」
「同僚《どうりょう》にもらった土産物《みやげもの》のゲーリック・ウイスキーだよ。ニコが好きだったと思い出してね」
「父さまがあげたの? 妖精たちって、酔っぱらうとやっかいなのよ」
「まあいいじゃないか」
今日は善《よ》き日だ。
「ところでリディア、ウェディングドレスのデザインは決まった?」
ダイニングルームで席に着いたとたん、上機嫌《じょうきげん》な伯爵に問われ、リディアは急にとまどいを浮かべた。
「あ……うん、そのことなんだけど、今日、母のウェディングベールが届いたの。それでちょっと、ドレスももう少し考えたいなって……」
「だけど、早く決めないと仕上がらないよ。ほかの花嫁《はなよめ》道具なら、少し遅れてもかまわないけど、ウェディングドレスがないと式ができない」
婚約発表をすませたばかりだが、伯爵は一日でも早く式を挙げたいらしい。
「ああでも、ドレスなんてなくてもいいかな。生まれたてのヴィーナスみたいに、そのままのきみだけで」
意味深《いみしん》な言い方に、こちらの方が赤くなりそうだ。
カールトンは咳払《せきばら》いするが、彼は気にしていない。
「と、とにかく伯爵、一生にいちどのことですから」
「そうですね。こういうことは花嫁の望み通りにしないと、あとあと夫婦げんかの種になると言いますし」
そっとため息をつくリディアは、伯爵が急ぐほど、戸惑《とまど》いが増すようだ。
このところリディアが、両親の昔話を聞きたがるのは、まだまだ結婚への不安があるからだろうというのは気づいていた。
伯爵がどんな言葉で求婚したのかカールトンは知らないが、言葉だけを頼りにするのでは、伯爵家に嫁《とつ》ぐことも、彼にまつわる女性関係もさまざまな問題も、吹っ切るのは容易ではないだろう。
そんな娘に、何をどう言えばいいのか、父親にはわからない。
自分とアウローラを結びつけたものが何だったのか、説明するのは難しいし、とっさに彼女を奪《うば》ってきてしまった彼自身の心境も、プロポーズの言葉に込められたアウローラの感情も、振り返れば当然のように、そうであるべきものだった。
だとしたら、似たようなものは、リディアと伯爵のあいだにもあるはずなのだ。
だから、カールトンの心配をよそに、伯爵はいとおしそうにリディアを見つめる。
「ベール、あとで見せてくれる?」
「え? ええ……。とってもステキよ。手作りなの。あなたも気に入ると思うわ」
そして結局、リディアは幸せそうな顔をする。
[#挿絵(img/smoky quartz_245.jpg)入る]
言葉よりも贈り物よりも、お互いの顔を見れば、そばにいるのが自然だとわかる。そうだったなら、リディアも迷いを感じなくなるだろう。
まっすぐに前だけを見つめていけるだろう。
あのアウローラの娘だから。
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あとがき
短編集です。今回は三編収録となりました。
もちろん読み切りとして、一冊でも楽しんでいただけますが、最後の書き下ろしは、ちょっと今までとは毛色の違う作品で、これからのエドガーやリディアの行方《ゆくえ》とつながってくるかもしれない話です。
ほか二編の雑誌掲載分にくらべ、いくらか長めになりましたが、本編の続きが気になるかたにも、あれこれ想像しながら読み進めていただけるのではないかと思っております。
それではいちおう、順番に解説を。
『コウノトリのお気に召すまま』
このあとがきを書く少し前、兵庫県のコウノトリの郷《さと》公園≠ゥら野生化を目指して放たれたコウノトリ夫婦の二世が巣立ったところでした。ティルとは関係ないけど、なんだか気になってテレビに見入ってしまいましたね。ホームページの画像もチェックしたし(笑)。
野原を自由に羽ばたいてほしいものです。
それはさておき、ここではまだ、リディアとエドガーは正式には婚約していません。エドガーが一方的に婚約者扱いしていたころですね。そんなわけで、赤ん坊≠ノ振り回されておりますが、結構楽しそう、かも?
いつか本物がアシェンバート家に訪れるよう、作者としても祈っておきましょう。
『紳士の射止めかた教えます』
いつもと違って、リディアが積極的になったらどうなるのだろう、と考えながら書いたものです。
とはいえリディアですので、せっぱ詰まってしかたなく、必死でエドガーを誘《さそ》ってみるわけですが……。
これも婚約前の話です。
レイヴンも(いやいやながら)がんばってます。
いちおう、雑誌でのヴィクトリアン特集の一編《いっぺん》ということでしたので、ロンドンの街に繰り出したりしてみました。
当時の雰囲気《ふんいき》を少しでも感じていただければうれしいです。
『学者と妖精この世の果ての島』
タイトルで誰のことか察しがつくでしょうか。
カールトン教授の昔話です。
朴念仁《ぼくねんじん》なんだか度胸《どきょう》があるんだかよくわからない人です(笑)。
でもこういう人が主人公というのは、書いている方も意外性があって楽しかったです。
以前から、教授が自分のプロポーズの話を絶対にしないということは本編にも出てきていたのですが、こういうことだったのですね。
読者のみなさまにだけ、ばらしちゃいました(ごめん、教授)。
リディアはきっと、知らないままでいることでしょう。
今じゃどうってことはないというか、よくあることなんでしょうけれど、二世紀も昔のことですのでね。
そんなこんなで、楽しんでいただけましたでしょうか。
今回も、イラストの高星《たかぼし》麻子《あさこ》さまにはお世話になりました。
若かりし教授とアウローラがどんなふうになるのか、楽しみにしているところです。
そういえば、雑誌掲載時のティルがめちゃくちゃかわいかったなあと思い出したりして、この短編集もできあがりが待ち遠しいです。
みなさまにも満足していただける一冊でありますように。
次回はまた、リディアとエドガーをメインに、本編の話を進めていく予定です。
それではまたいつか、この場でお目にかかれますように。
二〇〇七年 八月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
初出一覧
[#ここから2字下げ]
『コウノトリのお気に召すまま』……『Cobalt』'06[#「'06」は縦中横]年8月号
『紳士の射止めかた教えます』……『Cobalt』'07[#「'07」は縦中横]年2月号
『学者と妖精 この世の果ての島』……書き下ろし
[#ここで字下げ終わり]
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底本:「伯爵と妖精 紳士の射止めかた教えます」コバルト文庫、集英社
2007(平成19)年10月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年7月21日作成