伯爵と妖精
花嫁修業は薔薇迷宮で
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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《》:ルビ
(例)薔薇《ばら》
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(例)|REGARD《リガード》
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目次
結婚についての諸問題
思いがけない花嫁《はなよめ》修業《しゅぎょう》
消えた|REGARD《リガード》
意地悪な嫉妬《しっと》
誤解だらけのふたり
青い薔薇《ばら》の貴婦人
妖精たちの宝石箱
あとがき
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結婚についての諸問題
|社交の季節《ザ・シーズン》が、今年もまためぐってこようとしている。
女王|陛下《へいか》のお膝元《ひざもと》、ロンドンでは、春らしい陽気に花々が咲きはじめたこの季節、地方に屋敷を持つ貴族たちが、続々とタウンハウスへ集まりつつあった。
盛大な夜会が開かれるのはまだ先だとはいえ、久しぶりに都会へ出てきた人々が、顔見せといった意味合いも込めて集まるのは、芝居や演奏会などのイベントだ。
今夜も一流ホテルの広間で、アイリッシュハープの演奏会が開かれている。
待合室となっているホールでは、華やかな衣装に身を包んだ少女たちの、明るい笑い声が響いていた。
なかでも、浮き足立つほどじっとしていられなくて、きょろきょろ視線を動かしているのは、今年社交界デビューをひかえた娘たちだ。
これまで慎重《しんちょう》に、世間と隔離《かくり》されて育てられてきた彼女たちだが、これからは人の集まる場所に出て、結婚相手を見つけねばならない。
とはいえ、好みの男性が目についたからといって、勝手に話しかけられるわけではなく、両親や伯父《おじ》伯母《おば》といった親族が紹介してくれないと自分を売り込むことも難しい。
結局は親が認めた相手としか知り合えないのだ。
それでも、もしかしたら見知らぬステキな男性が、自分を見初《みそ》めて声をかけてくれるかもしれないと、誰もが期待に胸を膨《ふく》らませている。
「ねえ見て、アシェンバート伯爵《はくしゃく》よ」
少女たちのひそめた声に、浮き立った気配《けはい》が混ざった。ホールへ現れたのは、目立つ美貌《びぼう》の青年だった。
妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》というめずらしい爵位名《しゃくいめい》を持つこの若い伯爵は、異国育ちだといい、三百年ぶりに伯爵家の当主として英国に帰国したという背景も相《あい》まって、神秘的な印象を人々に与えている。
加えてその輝《かがや》くような金髪と、気品と優雅《ゆうが》さを兼ねそなえた言葉や振る舞いに、ひとめで魅了《みりょう》される人は少なくなく、つまりどこにいても、何をしても目立つ人物なのだ。
一瞬でも目が合えば、微笑《ほほえ》みかけてくれるかもしれないと、少女たちはその姿を目で追う。
しかし、できることといえばそれだけだ。彼が通り過ぎてしまうまでの短い間に、目と目が合っただけでお互い恋に落ちるさまを空想するだけ。
そうして結局、空想するようなことは現実には起こらないと思い知る。
「そういえば、アシェンバート伯爵が婚約間近だって噂《うわさ》があるようですけど、ご存じ?」
「それ、わたしも耳にしましたわ」
「本当ですの? 噂の出所が大衆紙じゃ話になりませんわよ」
「叔母《おば》が、知人から聞いたの。伯爵がボソドストリートの宝石店に、|最愛の人《ディアレスト》≠チてメッセージ入りのリガードネックレスを注文したらしいんですって」
「まあ……」
ため息を吐《つ》く少女たちは、あこがれの人に選ばれた誰かを、うらやみながら軽く失望する。
けれどすぐに、羨望《せんぼう》よりも好奇心が勝《まさ》る。
「でも、伯爵とおつきあいしているようなご令嬢《れいじょう》っていましたかしら」
「前に噂になった、歌姫かもしれませんわよ」
「まさか、歌姫が伯爵と結婚できるわけないじゃない。噂になった相手なら、まだ銀行家の娘の方がありそうだわ」
「その女性は、別のかたと結婚が決まったそうよ。それに、婚約が本当なら、お相手は貴族に決まってるわ」
「そうですわよね。……いったいどなたなのかしら」
「ネックレスに刻《きざ》んだイニシャルがL・C、だとか。お相手の名前じゃないかしら」
「よほど美しいかたなんでしょうね」
「あら、結婚ですもの、美貌より家柄《いえがら》よ。あんなに浮き名を流してらしたアシェンバート伯爵が結婚を決めるなんて、よほど名家の令嬢なんだわ」
少女たちの視線は、遠くで貴婦人たちに囲まれている伯爵の方に、まだ注《そそ》がれている。
「わたしよ」
そのとき、彼女たちの輪のすみで、静かに座っていた少女が言った。
「わたしが婚約者なの」
「……ええっ、ルシンダ、……あなたが?」
「いつ、アシェンバート伯爵と知り合ったの?」
「新年のパーティでよ」
「でも、まさか。だってあなたは……」
言いかけて口をつぐんだ少女に、ルシンダはあえてにこやかに微笑んだ。
彼女が何を言いたいかは知っている。ルシンダの母親が貴族の出ではないから、伯爵家の中でも由緒《ゆいしょ》ある名を持つアシェンバート伯爵とは釣《つ》り合わないと思っているのだ。
「身分違いでもきちんと結婚をしたのだから、母を恥じることはないとおっしゃってくださったわ。それから文通を続けるようになって、先日、プロポーズを受けたの」
呆気《あっけ》にとられる友人たちに囲まれ、彼女は得意満面だった。
彼女の名前は、ルシンダ・コンスタブル。間違いなくL・Cだ。友人たちがその頭文字《かしらもじ》を頭に思い浮かべる間を待って、彼女はひかえめに付け足した。
「まだ世間には公表してないの。宝石店から話がもれるなんて、思ってもみなかったわ。お願いだからみなさん、もうしばらく黙っておいてね」
* * *
たとえば結婚を夢見る少女なら、相手も決まらないうちから、さまざまに思い描いてみるだろう。
花嫁《はなよめ》衣装はあこがれの白。女王陛下のご成婚にならった純白のドレスに、ブーケはもちろんオレンジの花。それとも、永遠の愛を花言葉に持つジリーフラワー。
青いものをひとつ身につければ、幸福な花嫁になれるというから、靴下留めに青いリボンを結んで、贅沢《ぜいたく》にレースを使ったトレーンを引きながら、バージンロードを歩くのだ。
披露宴《バンケット》は一流のレストランで。新婚旅行は夢にまで見た|花の都《パリ》。
理想どおりの結婚を実現するためには、もちろん花婿《はなむこ》も重要だから、相手の地位や財産も見極めなければならない。
良家の娘たちにしてみれば、年頃になって社交界へデビューするころには、結婚式の段取りも手順も、将来の暮らしぶりもすっかり頭の中にできあがっているのはめずらしいことではない。なにしろ物心ついたころから、花嫁|修業漬《しゅぎょうづ》けの毎日を過ごしているのだから。
ところが、リディアの頭の中には、結婚についての明確なイメージがまるでなかった。
結婚すると決めたのは、三週間ほど前のこと。彼についていこうという気持ちに偽《いつわ》りはないが、だからといって急に結婚を実感できるものではないらしい。
婚約したばかりの少女にとって、この準備期間ほど心浮き立つものはないはずなのに、リディアはただ戸惑《とまど》っている。
どんな結婚式にしたいかと問われても、何も思い浮かばない。なにしろ彼女は、いつか自分が結婚するということを、つい最近まで、簡単には起こり得ないことだと考えていたからだった。
奇跡的《きせきてき》に結婚相手が現れるとしても、それはまだ想像もできないくらい遠い未来のこと。漠然《ばくぜん》とそう思っていたのに、婚約者《フィアンセ》≠ェ目の前で微笑んでいる。
ロンドンのメイフェアにある邸宅《パレス》、その屋敷の主人である、エドガー・アシェンバート伯爵だ。
「ねえリディア、このドレスなんかどうかな。清楚《せいそ》できみに似合いそうだよ」
上品な調度品に囲まれた伯爵|邸《てい》の小サロンで、高貴な印象を与える灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が、熱くこちらを見つめる。
足元のペルシャ絨毯《じゅうたん》も、豪華な意匠《いしょう》で彩《いろど》られた天井も、壁に掛かる重厚《じゅうこう》な油絵も、窓辺を飾るビロードのカーテンも、彼を引き立てる背景でしかないくらい、優雅な風情《ふぜい》で部屋《サロン》にとけ込んでいる伯爵その人が、どういうわけかリディアの婚約者だ。
テーブルに積まれたファッションプレートやデザイン画は、眺《なが》めているだけで疲れそうなほどたくさんあるが、彼は楽しそうに一枚を選び出し、リディアに示す。
婚約が決まってからというもの、何からどう手をつければいいかもわからないリディアとその父に代わって、着々と準備を進めてくれている。
「ええ、ステキね。……でも……」
こんなにレースを使ったら、いったいいくらになるのだろう。
「シンプルすぎるかい? もう少し飾り気がほしいかな。真珠《しんじゅ》の花刺繍《はなししゅう》がついた、こちらの方がいいかもしれないね」
真珠?
庶民《しょみん》の娘が着るようなドレスじゃない。とてもじゃないけれど、カールトン家には手がでない。
「あたしなんかが着たら、ドレスに負けちゃわないかしら」
リディアは気を遣《つか》いつつ、隣に座っている父親の方をちらりと見た。
「そんなことはありませんよね、カールトン教授。リディアは華やかにしたって、じゅうぶん引き立つくらいきれいなんだから、もっと自信を持ってもいい。そう思いませんか?」
「え? ……いや、はあ……」
曖昧《あいまい》な返事をする父が、はらはらしているのがわかる。こんなことなら、早々と結婚を許すのじゃなかったと思っているかもしれない。
先日、リディアは父と、日頃つきあいのあるメースフィールド公爵《こうしゃく》夫人を訪問し、貴族の家へ嫁《とつ》ぐにあたって必要な準備について意見を仰《あお》いだ。リディアは母を早くに亡くし、数年前に祖母も他界したからには、こういったことを相談すべき年上の女性が身近にいなかったのだ。
そして、男親ほど娘の結婚に役に立たないものはない。
エドガーをよく知る公爵夫人は、快《こころよ》く相談に応じてくれたのだが、最初に彼女は、無理をせずに伯爵に頼ればいいと釘《くぎ》をさした。
アシェンバート伯爵家くらいの由緒ある貴族へ嫁ぐために、花嫁道具《トルソー》や持参金の相場が、想像以上に高額だということをやんわりと聞かされた父は、かなり気が滅入《めい》ったようだった。
結局リディアは、結婚に夢を見る間もなく、現実に突き当たってしまったのだ。
「いやはや、伯爵、そのウェディングドレス一着で、庶民の花嫁道具を一式そろえられそうですな」
父がそうもらすと、エドガーもようやくこちらの懸念《けねん》に気づいてくれたようだった。
「教授、リディアさんには身ひとつで来てくれればいいと思っているくらいですよ。衣装や道具、装飾品《そうしょくひん》もこちらでそろえますから、身の回りのものだけ用意していただければ」
「はあ、メースフィールド公爵夫人にも、あなたがそのように申し出てくださっていると聞きましたが、父親としましてはそういうわけにも……」
「合理的に考えていただければいいんです。金銭的なことに口を出すのは不躾《ぶしつけ》な話ですが、教授には理解していただけると思いました」
リディアの父は、常識にこだわる方ではない。学者らしい合理的な精神の持ち主だ。父親のプライドというよりも、母が生きていたなら、娘の結婚準備をまるきり相手任せにはしなかっただろうと気にしているのだ。
「せめて、ウェディングドレスはこちらで用意させていただけますか。……残りは、わずかですが持参金にくわえるということで」
エドガーにしてみれば、伯爵家の花嫁としてふさわしいよう、たっぷりとリディアを着飾らせたいのだ。しかし父の申し出に水を差すようなことは言わなかった。
「わかりました。では、結婚後にこちらで使うものはそろえておきます」
花嫁道具《トルソー》には、テーブルまわりからリネン類まで、生活に必要なもの一式が含まれる。それに加えて、新妻《にいづま》として必要になる新しい衣装や靴や帽子《ぼうし》、アクセサリーや化粧《けしょう》道具も用意しなければならない。
けれど、庶民には上等と思える花嫁道具を買いそろえても、伯爵家では使い物にならないだろう。
ドレスや宝石類なんて、上流階級に見合ったものをそろえるのはまず無理だし、クロスや食器にしても、エドガーの屋敷にはすでに高級品がそろっている。
結局、メースフィールド公爵夫人に助言されたとおり、カールトン家で用意するものは、ウェディングドレスのほかは身の回りの必需品《ひつじゅひん》のみになりそうだった。
執事《しつじ》が現れ、来客を告げられたエドガーが席をはずすと、父は疲れたように息をついた。
眼鏡《めがね》を取って、上着のそでで拭《ふ》く。リディアは父の、ちょっとだらしないけれどもこういう気取らないところが好きだ。寝ぐせ頭や、ほころびたシャツや、石ころを詰め込んで子供みたいにふくらませたポケットが好きだ。
だから父を眺めていると、こんなに早く結婚を決めてよかったのだろうかと思えてくる。
エドガーとの婚約が決まってから、父がやけに淋《さび》しげに見えて、リディアもなんだか淋しくなる。
エドガーのそばにいたいと、プロポーズを受けたけれど、そのときリディアは、父のもとを離れなければならないということは考えていなかったのだ。
それに、家柄の違う結婚が、こんなに気を遣うものだとは知らなかった。
「ごめんなさい、父さま……」
振り向いた父は、リディアをじっと見つめ、それから目を細めて微笑《ほほえ》んだ。
「おまえがあやまることじゃない。もっとうれしそうな顔をしなさい」
「ええ……」
「私だって、うれしくないわけじゃないんだよ。伯爵《はくしゃく》はずいぶん、おまえのことを思ってくれている」
それはリディアもわかっている。エドガーは、こういう問題が起こりうることを知っていて、メースフィールド公爵夫人にリディアの後見《こうけん》をたのみつつ、最初から身ひとつでいいと言ってくれていた。
とはいえカールトン家だって、故郷《こきょう》の田舎町《いなかまち》ではそれなりに裕福《ゆうふく》な層だ。学者肌で金銭に無頓着《むとんちゃく》な父は、研究のために散財することもしばしばだが、贅沢を望むわけでもなければ生活に困ったこともない。
それに、リディアのための結婚資金はきちんと用意してくれていた。
身分に釣り合った相手と結婚するなら、父はこんなふうに引け目を感じることもなく、立派な準備を整えられたはずなのだ。
もうしわけないと思うと、リディアはなかなか、結婚に浮かれる気持ちにはなれなかった。
うつむくリディアの肩に手を置いて、父はつとめて明るく言う。
「ドレスも装飾品も、伯爵が用意してくださるというんだから、思いきり贅沢させてもらいなさい。はじめが肝心《かんじん》なんだよ。結婚も年季が入ってくると、伴侶《はんりょ》を飾り立てる意欲がなくなってくるからね」
「まあ、父さまもそうだったの?」
「私ではなく母さまがね。最初は私の身なりをどうにかしようとがんばってくれたよ。でも一年くらいであきらめたようだね」
ようやく、リディアは少し笑った。
華やかな社交界の内部事情は、ロンドンの一般市民にとっても関心の的《まと》だ。常々《つねづね》にぎやかな女性関係でゴシップのネタになってきたアシェンバート伯爵が、婚約間近との噂が立てば、相手を憶測《おくそく》する記事が、間もなく大衆紙に書き立てられるようになった。
当の婚約者、であるはずのリディアは、憶測でさえ自分の名前があがらないことは複雑な気持ちだった。
しかたがない、とは思う。リディアは貴族の娘ではない。人目を引くような美人でもない。
くすんだ赤茶の髪は、昔から鉄錆色《てつさびいろ》と陰口《かげぐち》をたたかれていたし、黄色がかった緑の瞳は、魔女のようだと気味悪がられた。
それは単に瞳の色のせいだけではなく、リディアには、ふつうの人には見えない妖精たちを見ることができたからだった。
妖精が見えて、彼らと接することのできる人間は、この英国には昔から少なからずいた。
妖精はどこにでもいる。人々の生活のすぐそばにいて、ときには親切な、ときにはやっかいな隣人《りんじん》だった。
家畜《かちく》が病気になったり、ミルクが出なくなったり、子供を盗んでいったりと、妖精は様々な問題を引き起こす。けれどそれは、人間の方に彼らの決まり事を破るような行為がある場合も少なくなく、そういうとき、妖精と人間の調整役を買って出たのが、日頃妖精たちとも親しくしている、妖精博士《フェアリードクター》という存在だった。
今となっては、妖精を信じる人も少なく、フェアリードクターという存在も忘れられかけている。それでも、母親と同じ能力を受け継いだリディアは、自身もフェアリードクターを名乗ることにした。
そうしてエドガーに出会い、伯爵家の顧問《こもん》フェアリードクターとして雇われることになったのだ。
妖精国伯爵《ロード・イブラゼル》とは名ばかりで、昔の当主のように妖精の魔法に通じる能力がないエドガーだ。リディアは彼に代わって、領地で起こる妖精がらみの問題に対処してきた。
そんなリディアを、彼は好きになってくれた。……はずだ。
女たらしで、数々の女性と浮き名を流していた人だけに、そのへん不安なところはあるけれど、こればかりは信用するしかない。
大衆紙に婚約者との憶測で名があがる女性と、以前はどんな関係だったのか、本当にほかの女性とはみんな手を切ったのか、気になる気持ちを追い払い、リディアは立ち上がった。
エドガーは、接客に出ていってまだ戻ってこない。父は仕事があると帰ってしまった。
テーブルの上のファッションプレートをひとりで眺める気にもなれず、風に当たろうと、リディアは窓辺に近づいていく。
と、窓から灰色の猫が飛び込んできた。
「おいリディア、あの伯爵の婚約者候補、また増えたみたいだ。今度は本命から大穴まで、ずらりと載《の》ってるぞ。でもなんで、あんたの名前がないんだろうな」
大衆紙を片手に、知りたくもないことをわざわざリディアに報《しら》せてくれるのは、リディアの幼なじみの妖精、ニコだ。
猫の姿をした妖精は、二本足で立ったまま、意味もなくえらそうに腰に手を当てリディアを見あげる。
彼が突きつける新聞から目を背《そむ》け、ため息混じりにリディアは言った。
「ニコ、いいかげん、ゴシップ紙なんか読むのはやめたら?」
「なんだよ、婚約者の疑惑《ぎわく》は、結婚前に問いただしておいた方がいいと思って教えてやってるんだろ」
いちいち問いただしたってきりがない。
「単なる憶測の記事よ」
彼は不満げに、ふさふさしたしっぽを動かした。
「でもさ、どうしてこんな憶測記事が横行《おうこう》してるんだ? さっさと婚約者の名前を発表すればいいじゃないか」
「婚約発表の日取りはまだ決まってないのよ」
「なんでだ? 衣装や道具の準備は着々と進めてるのにさ」
「衣装は仕立てるのに時間がかかるもの」
「あやしいぞリディア、伯爵のやつ、発表できない問題でもかかえてるんじゃないだろうな」
えらそうにヒゲを撫《な》でながら、ニコは好き勝手にものを言う。
「問題って?」
「ほら、ほかにも結婚の約束をした女がいるとかさ。そっちと決着がついてないから発表できないのかも」
まさか、とは言い切れないのがエドガーだ。
でも、ああ、こんなこと疑っちゃだめ。
信じるしかないのだからと、リディアは自分に言い聞かせる。
「ううん、ニコ、そんなんじゃないわ。あたしがまだ、社交界にお披露目《ひろめ》できるだけの作法《さほう》も何もわかってないから、エドガーは先にのばしているのよ」
それよりも、リディアは自分にのしかかる問題に対処するのが先だと思った。
明日から、メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人の屋敷でお世話になることになっている。貴族の暮らしや、作法やしきたりを学ぶのだ。
でも、うわべを整えたって、リディアは生まれも育ちも中流階級《ミドルクラス》の庶民だ。ほんとうに、伯爵夫人になんてなれるのだろうか。
「それにしても、すげー額の持参金だな」
ちらりと、ニコの手もとにある新聞に目をやる。
目立つ見出しに、持参金を憶測する数字が目に飛び込んできて、リディアは肩を落とした。
いいかげんな記事だとしても、これが貴族の結婚の相場なら、リディアと結婚することは、伯爵家にとってずいぶんな損失なのではないだろうか。
「人間の結婚って面倒だな。親父《おやじ》さんみたいに駆《か》け落ちしてしまえば、持参金も花嫁《はなよめ》道具もいらないのにな」
リディアの両親は駆け落ち結婚だった。だから父には、なおさら結婚準備のことはわからないのだろう。
「ま、それも悪くはないけどね」
声は、エドガーだった。サロンへ戻ってきた彼は、にっこり笑ってこちらへ近づいてくる。
「だけどやっぱり、親しい人たちに祝福《しゅくふく》してもらいたいじゃないか。ねえリディア」
「そ、そうね」
「教授は? 帰られたの?」
そうしていつも、リディアにはまだ慣れないくらいに距離を詰める。
「ええ、午後からの授業があるって」
「そう。疲れたかい?」
「……少し。結婚って、思ったより大変なのね」
もう少し離れてくれれば顔をあげられるのに、間近で覗《のぞ》き込まれれば、ついうつむいてしまう。
「面倒なことはしなくていいんだ。みんな僕にまかせてくれれば」
エドガーには、じゅうぶんに大切に思われている。リディアも自分で決めた結婚だ。彼のそばにいたいと思うし、幸せを感じている。
なのにこんなに、不安げな態度ではもうしわけないと思い、少しでも笑おうとする。
「ううん、面倒ってわけじゃないの。はじめてのことばかりだから、まだ戸惑《とまど》ってるだけ」
「本当に?」
「ええ、ドレスやアクセサリーをいくつも選んでいいなんて、うれしくてわくわくしてるんだけど、流行とか上流階級のセンスとかよくわからなくて」
「堅苦《かたくる》しく考えなくていいんだよ。自分が気に入るように仕立ててもらえばいいんだ」
頷《うなず》きながら、少しだけ視線を上げると、やさしいキスが頬《ほお》に落ちた。
「でもたぶん、僕も口をはさむだろうな」
やわらかな光をはらんだ金色の前髪が、リディアの目の前でゆれる。彼は灰紫《アッシュモーヴ》の瞳を細め、幸福そうに微笑む。
いつからエドガーは、こんな表情を見せるようになったのかしら。
残酷《ざんこく》な運命に翻弄《ほんろう》されて、ぎりぎりの戦いを続けていたころの彼は、笑っていてもふざけていても、少しも隙《すき》がなかった。
自分が彼に、幸福な微笑みを促《うなが》すことができるなら、こんなうれしいことはない。
そうして、この先彼が少しずつ、冷酷で計算高い一面を忘れ去り、おだやかな日々を楽しめるように、力になっていければいい。
幸せになるための準備期間だ、不安になることなんてないではないか。
「リディア、早く準備を整えて、早く結婚したいんだ」
「そう……ね。いつごろがいいかしら」
「三カ月後くらいかな。それだけあれば、準備もどうにか間に合うだろう?」
「えっ、三カ月?」
早すぎないかとリディアは思った。
今でさえ、実感がわかなくてうろたえているのに、拳式が三カ月後なんて、まだまだ心の準備ができそうにない。
「待って、あたし、そんなにすぐに伯爵夫人《レディ》らしくなれないわ。貴族の心得とかしきたりとか、これから学ぶのよ」
「そんなの、結婚してからおぼえていけばいいよ」
「でも、もう少しゆっくり……、半年後とか一年後くらい……」
「そんなにがまんできない」
急に強い口調《くちょう》で、彼は断言した。
「たぶんね、リディア、三カ月が限界だよ。いや、正直言うと三カ月どころか、きみを目の前にするたび、かなりのがまんを強《し》いられているんだ」
な、何が?
よくわからないながらも、リディアは微妙に後ずさっていた。
「メースフィールド公爵夫人に釘《くぎ》をさされた。花嫁を大切に思うなら、結婚前に手をつけるなって。ああもちろん、ものすごく遠回しに、やわらかーくおっしゃるんだよ。でもきびしいかただよね。たしかに道徳的にも大切なけじめだと思うよ。神さまの前で誓うときに、きみを後ろめたい気持ちになんてさせたくない。きみは純粋《じゅんすい》でまじめな女の子だから、たぶん、情熱に身をまかせるよりは純潔《じゅんけつ》であることに幸福を感じるのだろうな。だから、きみのためなら僕は紳士的《しんしてき》なフィアンセでいようと思う。でも、三カ月が限界だ」
一気にまくし立てられたが、わかったようなわからないような……。
ただ、エドガーにとって譲《ゆず》れないことらしいと感じながら、リディアは頷くしかなかった。
ほっとしたように微笑んで、彼はリディアを引き寄せた。口づけされそうになり、あわてて顔を背ける。
「あの、エドガー、あんまり人前では……」
「人?」
といって部屋を見まわす。
「猫しかいない」
ソファに陣取って、しつこくも大衆紙を読みふけっていたニコは、猫という言葉にぴくりと耳を動かし振り返った。
「おい伯爵、おれは猫じゃねーっての!」
このごろエドガーは、どこでもかまわずキスしようとするから、リディアは人目のあるところでは隙をつくらないよう気を配らねばならないのだ。
今はニコしかいないと油断していたが、ニコの前だって恥《は》ずかしい。
「大丈夫だよリディア、人前でのキスとふたりだけのキスの違いは心得てるから」
そ、そんなことニコの前で言う?
戸惑うリディアの隙をつくように、さっと唇《くちびる》がかすめた。
見ていたニコがため息をついた。
リディアは赤くなる。
「エドガー、もう少し節度《せつど》を……」
「これまでにないくらい、きみの前では節度を保ってるのに?」
って、これで……?
「でもねリディア、節度ある時間を過ごしたからといって、僕に熱意がないなんて思わないでくれ。望んでくれるならすぐにでも、どれほど熱くきみを求めているか教えるよ」
「あの、教えてくれなくていいわ」
逃げようとしたけれど、腕の中にとらえられた。
「もしもだよ、そう、きみだって結婚式まで待てない気持ちになることがあるかもしれない。そうだったなら、ためらわずに飛び込んできてほしい」
「あ、あたしはそんなこと……」
「言いだしにくい? じゃあね、万が一きみがその気になったときを逃《のが》さないように、とりあえず毎日、寝室へ誘《さそ》ってみてもいい?」
どうしてこの人は、平然ときわどいことを言うのだろう。ふざけてからかっているのか、本気で言っているのか、いつもよくわからない。
リディアは恥ずかしさにうろたえるばかりだ。
「まーったく、結婚が決まったならあのしつこい口説《くど》き文句をもう聞かなくてすむかと思ったのに、今度は式まで待てないって口説くのかよ」
いいかげんにしてくれよとニコはつぶやく。
「しかたないだろう? 趣味なんだから」
「えっ、趣味だったのか……」
「でもリディア、心配しないでくれ。僕はもう、一生きみしか口説かないって決めたからね」
てことは、一生こうなの?
「ご愁傷《しゅうしょう》さま」
言うなりさっと姿を消したニコは、リディアを見放したようだ。
「ま、待ってエドガー、あたしたちまだ婚約したばかりよ。まだ、その、ふたりだけで過ごすのは慣れなくて、それに、婚約発表もしてないんだから、あんまり親しげなのもはしたないと思うの」
背中に腕をまわされたリディアは、あわててそう言った。
ふたりだけになると、リディアはとたんに不安になる。
見つめられて、露骨《ろこつ》に目をそらすわけにいかないし、キスも拒《こば》むわけにいかないし。
もちろん、恋人らしく寄り添《そ》うことも、キスも、けっしてきらいなわけではない。けれどエドガーの愛情表現に、リディアはまだどうやって応《こた》えればいいのかわからない。
ふたりきりのとき、恋人どうしならどういう態度で接すればいいのだろう。はじめてのことばかりで、抱きしめられてもキスされても、エドガーが望んでいるように振る舞えていない気がすると、リディアはもう硬直《こうちょく》してしまう。
まともに彼を見ることさえできない。
「ああ、婚約発表はね、きみの拝謁《はいえつ》がすんだらすぐだよ」
え?
「…………拝謁?」
「婚約発表のあとなら、キスをいやがらない?」
そんなことより。
「拝謁って、まさか」
「うん、女王陛下にご挨拶《あいさつ》して、社交界にデビューするんだ」
「ええっ、そ、そんなの無理に決まってるじゃない! あたしは貴族の娘じゃないのよ、許可されるわけないわ!」
「そこはどうにかするから」
逃げるようにしりぞくリディアににっこり微笑《ほほえ》む。エドガーがどうにかすると言ったら、どんな(きたない)手を使ってもどうにかするのだ。
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しかしリディアは、大きく首を横に振った。
「いやよ、そんな無理を通さなくたって、結婚できないわけじゃないでしょう?」
ブルジョアの大富豪《だいふごう》を父に持っていたって、商人の娘としか扱《あつか》われない上流階級の社交界だ。どんな中傷《ちゅうしょう》を受けるかわからない。
「きみの父上はケンブリッジの卒業者で、現在はロンドン大学の教授だ。ジェントリではないけれど、職業的にはジェントリと見なされる範囲だよ」
リディアにとって、そういう地位の高い職業とは、高位聖職者や法廷《ほうてい》弁護士くらいの印象だ。父の地位が、かろうじてその底辺《ていへん》に引っかかるとしても、だったらよけいに、拝謁の許しを得ようなんてずうずうしいのではないだろうか。
「社交界にデビューしてないあたしと、婚約を発表するのは、あなたにとって恥《はじ》なの?」
エドガーは困ったように眉《まゆ》をひそめた。
「だったら、貴族の令嬢《れいじょう》と結婚すればいいじゃない」
筋違《すじちが》いな言葉だとわかっていながら言ってしまったリディアは、どうしようもなくなって、その場から逃げ出した。
半時間ほど前のこと、たいそう憤慨《ふんがい》した様子でアシェンバート伯爵邸《はくしゃくてい》へ乗り込んできたのは、コンスタブル卿《きょう》という人物だった。
約束のない不躾《ぶしつけ》な訪問なのに、エドガーに非があるかのような態度で、ともかく伯爵を呼べと執事《しつじ》を怒鳴《どな》りつけた。
しかたなくトムキンスは、婚約者とその父親と談話中のエドガーに、来客を告げに来たのだった。
政界では有力な貴族だったから、追い返すのは思いとどまり、エドガーはコンスタブル卿と対面した。
『責任はとっていただけるのでしょうな』
開口一番に、彼は言った。
『何のことですか』
『アシェンバート卿、私の娘をたぶらかしておいて、おぼえがないとは言わせませんよ』
『娘さんがいらっしゃったとは存じませんでした』
エドガーの返事に、コンスタブル卿は憤《いきどお》りと屈辱《くつじょく》を感じたのか真っ赤になった。
『ルシンダは、今年社交界デビューをひかえた純情な娘ですよ。そんな世間知らずな娘に付け入って、恥ずかしいまねをして、しらばっくれてすむとは思っていないでしょうな』
彼は、表紙にリボンの縁取《ふちど》りがついた、少女趣味な日記帳らしきものを突き出した。
『娘の日記だ。あなたから恋文をもらったことや、ひそかに訪ねてきたときのことが書いてある』
『勝手に日記を見るのはルール違反では』
『私は父親だ。娘のことはすべて知っておかねばならない』
『どちらにしろ、僕はお嬢さんに手紙を差し上げたことはありませんね』
女性に関する記憶力には自信があった。だからエドガーはきっぱり言った。
『もしも誰かがお嬢さんを傷物《きずもの》にしたからとお怒りなら、きちんとご本人に確認した方がいいと思いますよ』
『き、傷物だと? きさま、唇を奪《うば》っただけではないのか!』
唇だけか、とエドガーはバカバカしくなって肩をすくめた。
『唇くらいで、責任をとれですか? なら、ええとルシンダ嬢でしたっけ? 十五番目の花嫁ということでよろしければ』
ふざけ半分に言ってやれば、来たとき以上に憤慨しながら、コンスタブル卿は帰っていった。
『エドガーさま、十五では少なすぎです』
従者《じゅうしゃ》の少年は、客人を見送ってからぽつりと言った。
『そうかな』
『私の知るかぎり……』
『レイヴン、知っていても言わなくていいよ。……リディアにもぜったい言うんじゃないよ』
『ぜったいに言いません』
エドガーがリディアを不機嫌《ふきげん》にするたび、そばではらはらしているのだろうレイヴンは、あせったのかやけにきっぱり言った。
そんな不愉快《ふゆかい》な来客のことを思い出しながらエドガーは、リディアが怒ったまま出ていってしまった小サロンで、落ち込んだ気分でふてくされていた。
身に覚えのないことなのだから、コンスタブル卿がどこに憤りをぶつけようと、恥をかくのは彼と娘だ。問題になりようもない、とエドガーは思う。
そう、リディアの耳に入らなければ問題はない。
マリッジブルー、とはいかないまでも、ナイーブになっているらしいリディアに、結婚への不安要素を増やしたくはない。
そういう意味では、この件もエドガーにとっては要注意な出来事だ。
しかしそれよりも、差し迫った問題がある。
「拝謁は無理、か……」
相変わらず、彼女は頑固《がんこ》でかたくなだ。
結婚準備を進めていけば、リディアはもっとエドガーのことを婚約者として信頼してくれるようになるだろう、と思っていた。
愛情を受け止めるにもまだぎこちない彼女だが、少しずつあまい気分になってくれれば、結婚に向けて心をひとつにできるはず、と。
なのに、なかなかそうはいかない。
よけいな問題が降ってわく。
たしかに、女王|陛下《へいか》の御前《ごぜん》へ出るなんてリディアには重荷《おもに》だろう。それでもエドガーがこだわっているのは、リディアがカールトン家の娘として社交界へ出ることに意味があると思うからだ。
伯爵夫人になってからでは遅いのだ。結婚によってたまたま上流階級へ入ってきた女と、生まれながらにその資格があった娘とは、当然周囲の目が違う。
リディアの居場所になるところで、冷たい視線を受けることがないように、できるだけのことはしておきたい。
「エドガーさま、リディアさんが帰られましたが」
部屋へ入ってきたレイヴンが言う。
感情が少なく、たいてい無表情なレイヴンだが、不安げな様子で現れたのはエドガーにはよくわかった。
「うん、拝謁はいやだと言って怒ってしまった」
眉ひとつ動かさなくても、エドガーの言葉にがっかりした気持ちになっているのだろう。
「なあレイヴン、どうすればリディアを説得できると思う?」
「無理です」
言葉を飾ることを知らない従者は、無表情なままきっぱりと答えた。
「そうかな」
「リディアさんは、そう簡単に考えを変えません」
まったくだ。
拝謁にこだわれば、ますます彼女は、エドガーが世間体《せけんてい》を気にしていると思うのだろう。
「エドガーさま、どうかあまり、リディアさんの機嫌をそこねないでください」
まじめな顔でそう言うレイヴンは、リディアが結婚の意志をひるがえさないかと恐れているようだ。
彼女が伯爵家に来ることを、おそらくエドガーと同じくらいよろこんでいるはずのレイヴンだ。そんなことになったら主人を恨《うら》むかもしれない。
何があっても、エドガーに口出ししたことも逆《さか》らったこともないが、リディアに関して意見するくらい、このまま何事もなく結婚までこぎつけるよう切望している。
「でもね、よくないことが起こる前に、できるかぎりのことをしておきたいんだ。僕が彼女に与えられるものはすべて、与えておきたい」
エドガーには、大きな敵がいた。リディアと知り合ったのも、敵から身を守るために、妖精国伯爵の称号を得ようと動いていたときで、彼女のフェアリードクターとしての力がエドガーを助けてくれたのだった。
|悪しき妖精《アンシーリーコート》を操《あやつ》る敵の組織と戦うために、リディアを手放せなかったエドガーだが、いつのまにか本気で好きになっていた。今はその能力よりもっと、リディアの存在を、やさしさや思いやりや、そばにいると感じる安らぎを、何があっても手放せないと思っている。
エドガーの家族を殺し、長年彼を苦しめてきた組織の長は死んだ。しかし、組織の根幹《こんかん》とかかわる記憶≠セけは残った。
エドガーが受け継いでしまったからだ。
エドガーは、組織の長であるプリンス≠ノなってしまった。
プリンスを存在させてきた呪《のろ》いの力が、エドガーを変えてしまうことになるのか、それとも記憶を封じ込んだまま、エドガーはエドガーでいられるのか、何もわからない。
それでも、リディアとの結婚も、未来の希望も手放せないエドガーは、彼女にはそのことを話せないまま、結婚の準備を進めている。
結婚して、自分の持てるものを残らずリディアに与える。それが彼女を守る力にもなるはずだと急いでいる。
上流階級の社交界も、エドガーが与えることのできるひとつだと思うからだ。
「何も、起こるはずありません。これからは、リディアさんといつまでも平和に暮らしていけます」
何もかも知っているのはレイヴンだけだ。そして彼は、きっぱりそう断言してエドガーを勇気づけてくれた。
「そうだね。とにかく……リディアにはちゃんと、機嫌を取っておくよ」
「あまりべたべたするのも、リディアさんはよろこんでいないように思うのです」
細やかな感情を理解できない彼は、きびしいことも思ったままにきっぱりと言う。
「……わかってる」
触れてもキスしても怒らなくなったのは、ふたりの仲が進展したのだと思いたいが、ふたりきりになると、以前より堅《かた》くなっているような気がするのはどうしてだろう。
また落ち込みそうになるエドガーだが、ゆっくり考えている時間もなかった。
執事が、来客を告げに来たからだった。
「旦那《だんな》さま、今度は若い女性ですが、お留守《るす》だと伝えてよろしいですか?」
トムキンスは冷静に問う。
このところエドガーに、婚約間近の噂《うわさ》が立ったせいか、それとなく聞きだそうとする女性が屋敷へ押し掛けてくることがある。
社交辞令程度のつきあいしかない女性たちだが、こちらに気があるらしい女性を目の前にして、調子よく口説《くど》いてしまわないという自信はないから、エドガーは会うのはひかえている。
有能な執事のトムキンスも、リディアの輿入《こしい》れを心待ちにしているひとりだ。エドガーに魔が差すことがないよう気を遣《つか》い、すでにその女性を追い払おうと意気込んでいる。
「よろしいですね。ではそのように」
そんなだから、呼び止めればトムキンスは怪訝《けげん》そうに振り返った。
「トムキンス、名前を聞いたかい?」
彼が客人の名前を伝え忘れたとは思わない。どういう理由か、執事の判断でエドガーには伝えなかったのだ。
ならば聞く必要はないと思うくらいには、エドガーは執事を信頼しているが、彼が手にしている訪問カードが気になったのだ。
コンスタブル卿が見せた、娘の日記帳と同じ、ピンクのリボンの縁取りがあったからだ。
「コンスタブル伯爵《はくしゃく》令嬢《れいじょう》、ルシンダさまとおっしゃいました」
やはり、当の娘だ。
さて、父親の早とちりを説明にでも来たのだろうか? どんな少女なのだろう。
エドガーは好奇心《こうきしん》につられた。
「ドローイングルームに通してくれ」
「よろしいのですか?」
「話があって来たんだろう? トムキンス、べつに浮気をするわけじゃないよ」
黒い髪を結《ゆ》った、色白の少女だった。小間使《こまづか》いらしい赤毛の少女を連れ、落ち着かなさそうに待っていた。
「はじめまして、レディ・ルシンダ」
彼女は、はじかれたように立ち上がった。
「アシェンバート伯爵……、こんにちは。あの、お会いしたのははじめてではありませんわ。……メースフィールド公爵邸《こうしゃくてい》で、新年の演奏会のときに……」
顔をよく見れば、見覚えはあった。なかなかの美少女だ。しかし、ひとことふたこと話しただけだろうとしか思い出せなかった。
「すみません、パーティで言葉を交わす女性は多いもので。お名前を聞いていたなら、きちんとおぼえているんですが」
彼女の方も、エドガーも、名乗らなかったはずだ。だからコンスタブル卿に娘がいるとは知らなかった。
困惑《こんわく》した表情で、彼女はエドガーのそばまでやって来ると、すがるように両手を組み合わせた。
「ごめんなさい、怒っていらっしゃるんですね? 約束を破《やぶ》って、会いに来てしまいましたから。でも、父に日記を見られてしまって。……あなたとのことが、書いてあったんです」
どうにも雲行《くもゆ》きがあやしいと思いながらも、エドガーは冷静に返す。
「コンスタブル卿《きょう》なら、あなたの日記の件で来られましたよ。しかしおかしな話ですよね。僕はあなたを知らないし、約束をしたおぼえもない。もちろん手紙のやりとりも、すべて身におぼえもないと話をしたばかりですよ」
「やっぱり、わたしのことはもうきらいになったんですか? あのときのプロポーズも、本気じゃなかったと……」
「プロポーズ? 僕には婚約者がいます」
「そんな、まさか……。じゃあ、あなたが婚約発表をひかえた女性って、わたしのことじゃなかったのですか……!」
両手で顔を覆《おお》い、彼女は泣き出した。
いったいどういうことなのかと、なだめて椅子《いす》に座らせる。
辛抱《しんぼう》強く話を聞き出せば、少なくとも彼女は、アシェンバート伯爵≠ニ文通していると思っていたらしかった。
手紙は突然彼女のもとに届いた。ロンドンのパーティで、手紙の主は彼女を見初め、名前を調べてラブレターを出したらしい。
手紙にはエドガーと同じイニシャルだけが書かれていて、ルシンダ嬢は間違いないと思い込んだ。
それからふたりのあいだで、手紙のやりとりが続いたという。
「伯爵からの手紙をあずかってきたのも、私からの返事を届けたのも、この小間使いです。返事は、彼女が聞いた指定の場所へ届けておりました。わたしたちの交際をしばらく秘密にしておきたいということでしたので」
「その小間使いは、こちらの娘さんですか?」
そばにいた小間使いは小さく頷《うなず》いた。
「手紙をどこへ届けたのかな」
彼女は黙《だま》っていた。
「アニーは生まれつき声が出せないんです。ですから話はできません。手振りで簡単な意思《いし》表示ができるだけです。でも、手紙を届けた場所には案内させました」
ルシンダが代わりに言った。
急に手紙が来なくなって、彼女は小間使いに案内させてパブを訪ねたようだ。
彼女が住む、ロンドン郊外《こうがい》の町にあるパブで、店の人に訊《たず》ねたが、受け取りに来ていた人物は使用人ふうだったとしかわからないという。伯爵≠ニの約束で、直接屋敷に手紙を出すわけにいかず、彼女はつらい日々を過ごしていたという。
それにしても、とエドガーは思う。
男が交際を秘密にしたいなどと言い出すのは、後腐《あとくさ》れなく別れることを想定しているに決まっているではないか。信じるなんてどうかしている。
「しかしあなたは、文通相手に会ったことがあるわけでしょう?」
キスしたとか日記に書いてあったらしいことは、さっきコンスタブル卿が言っていた。
「それは……、お会いしたのは一度だけ、夜の暗がりで……」
夜更《よふ》けに庭へしのんできて、窓辺の彼女に声をかけたのだという。
結局ルシンダ嬢は、相手の顔も何も知らないまま、エドガー・アシェンバートが恋の相手だと思っていたようだ。
ため息をおぼえつつも、エドガーは丁重《ていちょう》に口を開いた。
「お気の毒ですが、それは僕ではありませんね。誰かにだまされていたのでしょう」
ルシンダは蒼白《そうはく》な顔になった。
「そんな……、わたし、どこの誰ともわからない人に唇《くちびる》を……」
ハンカチを握《にぎ》りしめ、ふるえながら、彼女はいやがるように頭を振った。
「いいえ、そんなはずありません。はじめてお会いしたとき、わたしは知り合いの女の子たちに、母親の身分のことで陰口《かげぐち》を言われていました。いたたまれなくなって席を立ったとき、あなたにぶつかりそうになって……。やさしい言葉をかけてくださったから、わたし、あなたに恋をしたんです」
そういえば、そんな陰口をたたかれていた彼女を、なぐさめるような会話をした気もする。
それに、コンスタブル卿の最初の妻は、妹の家庭教師だったという噂を耳にしたことも、エドガーは思い出していた。
その、家庭教師の娘がこの少女か。
「伯爵、本当のことをおっしゃってください。わたしのどこがいけなかったんですか?」
しかしエドガーは、あのときも今も、彼女に同情する気持ちはなかった。
「信じられないというなら、手紙の筆跡《ひっせき》をくらべてみますか?」
「手紙は、もうありません。交際が知られないよう、その都度《つど》焼いて捨てるようにとのことでした。大まかな内容だけ、わたしが日記に書き留めました」
えらく周到《しゅうとう》な男だ。燃やせとは、機密文書じゃあるまいし。そのくせ、ルシンダ嬢は安易《あんい》に日記にしるし、おまけに父親に読まれている。
「いずれにしろ、納得《なっとく》できないというなら話を公《おおやけ》にして、公平な立場の誰かに判断してもらうしかないでしょう。このままでは水掛け論だ」
「公にするなんて、……無理ですわ」
むろん彼女にしてみれば、隠れて男と会っていたという深窓《しんそう》の令嬢にとってはスキャンダラスなできごとを、無関係な他人にわざわざ教えたくはないだろう。
突然思いつめた表情になると、彼女は立ち上がった。
「わかりました。あなたのおっしゃることがうそでも本当でも、わたしの恋が破れたことに変わりはないのですね。それでじゅうぶんです」
涙をこらえるようにうつむいて、きびすを返す。
エドガーが引きとめるのを待っているような間があったが、もちろん彼は引きとめはしなかった。
「さようなら、アシェンバート伯爵。どうかフィアンセとお幸せに」
まるで本当に恋人と別れる気分でいるかのようにつぶやいて、足早《あしばや》に出ていった。
おやおや。
エドガーはあきれながら窓辺に立つ。
「そっちはそれでいいかもしれないが、こっちのぬれぎぬはどうしてくれる。ずいぶんな侮辱《ぶじょく》じゃないか?」
「エドガーさま、面倒なことになりそうでしょうか」
静かに見守っていたレイヴンがそう訊《たず》ねるのは、リディアが聞いたりしたら当然、エドガーがルシンダをたぶらかしていたと思うに違いないからだ。
「僕は潔白《けっぱく》だよ。面倒も何も、向こうが勝手に思い込んでいるだけだ」
「でも、秘密の手紙や夜中に忍んでいくとか、似たような話を聞いたことが」
意外と記憶力がいいから困る。エドガーは苦笑《にがわら》いする。
「昔のことだろ? アメリカでのことだし、あのときはちょっと、退屈な既婚《きこん》婦人と……、ああもう、とにかく今回のことは本当に何もないんだから、おまえが心配する必要はないんだ」
ルシンダは、交際相手はエドガーだったと思いたいようだが、こちらに婚約者がいるとは理解したはずだし、二度と現れないだろう。
エドガーは楽観的《らっかんてき》にそう考えていた。
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思いがけない花嫁《はなよめ》修業《しゅぎょう》
「突然で、ごめんなさいね、リディアさん」
メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人は、アフタヌーンティーの席でリディアを前にしてそう言った。
公爵夫人はおっとりした老婦人で、どういうわけかエドガーのことを気に入っていて、孫のようにあたたかい目で見守っている。
エドガーは、英国へ来て間もないころ、ロンドンの社交界で伯爵《はくしゃく》として存在感を示すために、公爵夫人に取り入ったものと思われるが、それから身内のようなつきあいをしているのだから、夫人はけっして利用されたようには感じていないのだろう。
それもエドガーの、女たらしの才能だろうか。
公爵夫人には、あけっぴろげに意中の少女がいると話していたエドガーは、リディアが結婚を承諾《しょうだく》する前から、後見人《こうけんにん》として力になってくれるようたのんでいた。
そういうわけで、リディアは貴婦人の日常を学ぶため、公爵夫人の屋敷に滞在《たいざい》しはじめたのだが、これは三日めのできごとだった。
「まだあなたに何も教えていないのに、いきなりひとりで見知らぬお屋敷へ行かせることになってしまって」
「いえ、大丈夫です。もともと来週には行くことになっていたんですから」
公爵夫人とともに、来週リディアは、とある貴婦人の屋敷を訪ねることになっていた。貴族の令嬢《れいじょう》に社交界での振る舞いかたを教えることには定評《ていひょう》のある人物だそうで、メースフィールド公爵夫人は、そこヘリディアを少しのあいだ預けるつもりだったのだ。
しかし今朝《けさ》になって、公爵夫人の長女が急病との報《しら》せを受け、嫁《とつ》ぎ先のダービーシャーへ行かねばならなくなった。
公爵夫人はいつロンドンへ戻ってこられるかわからないし、それまでリディアのことを保留にもしておけない。
そこでリディアは、予定を早めて、すぐにもその貴婦人宅で花嫁修業をはじめることになったのだった。
「オートレッド伯爵夫人は、気取ってなくて親切なかたよ。あなたのことは歓迎《かんげい》してくださるってお手紙にもあったし、少しくらい予定が早まっても受け入れてくださるわ」
「はい。あたしのことでしたらお気になさらずに。お嬢さまが早くお元気になられるよう祈っております」
「ありがとう、リディアさん。先方にはすぐ電報を打っておきますから、サマセットへ明日出発できるかしら?」
サマセットは、イングランド西部の州で、ロンドンからは離れている。
エドガーとはしばらく会えなくなることを、リディアはちらりと考えた。
けれど、彼とは拝謁《はいえつ》のことで反発したあのとき以来会っていない。
リディアがメースフィールド公爵|邸《てい》にいることは知っているはずのエドガーだ。婚約して以来、安息日だろうと家に押しかけてきたくせに、こちらへ訪ねてこないのは、考えがあってのことなのだろう。
こういうことには冷却期間を置いた方がいいと思っているのだろうか。
「リディアさん、オートレッド夫人の口添《くちぞ》えがあれば、あなたの拝謁を願い出やすくなるわ。がんばってね」
リディアはどきりとして顔をあげた。
考えてみれば当然だが、リディアを社交界に引き上げることを、エドガーはすでに公爵夫人に打診《だしん》しているのだ。だからこそ公爵夫人は、あえてリディアを別の貴婦人のもとでも花嫁修業をさせることにしたのだろう。
拝謁のことは、エドガーのちょっとした気まぐれではない。だから、リディアをなだめに来ようとはしない。
考えを曲《ま》げる気はないということだ。
あらためてリディアは、自分の結婚相手が貴族なのだと意識させられていた。
しかも、伯爵だ。
中流上《アッパーミドル》の花嫁が彼にとって恥《はじ》かどうかという以前に、リディアは貴族社会へ入っていく努力をするしかないのだ。
できないなら、エドガーの隣には並べない。彼がリディアの隣に並ぶべく、爵位《しゃくい》を持ちながら貴族社会を退《しりぞ》くなんてことを望むつもりがないなら、リディアが階級の壁を乗り越えてみせるしかない。
「はい、あたし、がんばります」
思わず力が入ってしまい、リディアは自分でも驚いた。
そんなこと、自分にできるかどうか自信もないのに。
公爵夫人はにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「よかった、頼もしいわ。そうそう、サマセットまでのあなたの付き添い人なのだけど、わたくしもダービーシャーへ出かけるから人手が足りないのよ」
「あの、それならあたし、ひとりで行けます」
故郷のスコットランドからも、ひとりで旅するリディアだ。サマセットくらいどうってことはないと思った。
しかし公爵夫人はやんわりと拒否をした。
「カールトン教授から、大切なお嬢さんをおあずかりしているのよ。結婚前なのにひとりで行かせるなんて不義理《ふぎり》はできないわ。ちょうど、サマセットの別のお屋敷へ移る小間使《こまづか》いがいますから、彼女にオートレッド邸まであなたを送り届けるよう言いましょう」
ひとりで汽車に乗れるとしても、それを人前で主張してはいけないのだと気づく。
「リディアさん、アシェンバート伯爵は、今のままのあなたがいいとおっしゃっていたわ。わたくしに預けたのも、あなたを変えたいわけじゃないの。時と場所に応じた振る舞いを身につければいいだけよ。ひとりで行動することが許されないわけじゃなくて、あなたをよく知らない人の前で、そつなく過ごせればいい。それだけのことよ」
「はい。……わかりました」
けれど、そつなくというのはなかなか難しい。
がんばれるのかしら。
もしもオートレッド夫人に気に入られなかったら、どうしよう。
不安な気持ちを押し殺せば、リディアはますます、出発前にエドガーに会いたいような気がしていた。
けれど、自分から会いに行くのはためらう。
エドガーの思い通り、社交界へ入っていく覚悟ができるのかといえば、今はまだ自信がない。なのに会いに行けば、彼はリディアが折れる気になったと思うのではないだろうか。
お互いの気持ちを確かめ合い、婚約したはずだった。しかしリディアは、恋人になら不安も迷いも伝えて、ただあまえてもいいのだということは、まだ思いつけなかった。
結局エドガーには会いに行けないまま、リディアは翌日、小間使いと汽車に乗った。
窓の外には、緑の丘陵《きゅうりょう》が重なるのどかな風景が広がっていた。
サマセットは、イングランドの中でも妖精の伝説が多い土地だ。リディアはここを訪れるのははじめてだったが、なんとなく懐《なつ》かしい気分に包まれる。
盛り土をしたような小高い丘や、平原にぽつんとあるこんもりした森を見るたび、妖精の存在を感じられたからだろう。
「あなた、サマセットの出身なんでしょう?」
同行している小間使いに、リディアは訊《たず》ねた。メースフィールド公爵夫人にひまをもらったのは、故郷で働くことにしたからだと聞いていたのだ。
「赤いすねのデーン族を知ってる?」
怪訝《けげん》そうに首を傾《かし》げながらも、彼女は頷《うなず》いた。
「祖母に聞いたことがあります。財宝をどこかに隠してるから、見つけたら大金持ちになれるって」
「ええ、彼らはおしゃべりで、不注意に財宝のことをしゃべっちゃうことがあるの。でも、もしもそれを耳にしても、横取りしようなんて考えない方がいいわ。その代わり、誰にも言わないと約束すれば、願いをひとつかなえてくれるの」
「おとぎ話ですよ、お嬢さま」
そうね。
妖精が本当にいるなんて、信じる人はどんどん少なくなっていく。彼女の反応はありふれたものだったから、リディアは曖昧《あいまい》に笑った。
デーン族と安全に取り引きできるのは、彼らの財宝の隠し場所を知ったときだけ。その秘密と引き替えにするのでなければ、妖精に願い事なんてしてはいけない。
それは彼らの魔法の力が自分に及ぶことを意味するのだ。気軽に願い事などしたら、あまのじゃくな妖精族は、人にとんでもない魔法をかけてしまうだろう。
だから本当は、おしゃべりな妖精の話を聞いてしまっても、知らないふりをするのが無難《ぶなん》。
それを小間使いが、祖母から聞いているかどうかはわからないが、彼女にとってはどうでもいいことだろう。
「でもお嬢さま、デーン人といえばヴァイキングのことでございましょ? ヴァイキングが昔、このあたりへ現れたのが本当なら、彼らが略奪《りゃくだつ》した財宝もどこかにあるかもしれませんね」
「デーン族はヴァイキングのデーン人じゃないの。そんなふうに誤解されてるけど、古い時代の、ダーナ神族につながる妖精よ」
「はあ」
やっぱり噛《か》み合わないから、この話はやめておこうと思ったところへ、ちょうど車掌《しゃしょう》が現れ、リディアはほっと息をついた。
もうすぐ駅へ着くとのことだった。
「お嬢さま、ずいぶん到着が遅れましたね」
駅で汽車を降りたとき、ホームの時計を確認した小間使いが言った。
「本当だわ。あなた、次の汽車に乗らなきゃならないのよね」
彼女の新しい奉公先《ほうこうさき》は、汽車を乗り換えた先にある。
乗り換えを待つあいだに、リディアをオートレッド家の屋敷まで送り届けてくれる予定だったのだが、そうしていれば彼女は次の汽車に乗り遅れてしまうかもしれなかった。
「ええ、はい、それが最終の汽車なんでございますが……」
もうしわけなさそうに言う彼女を、無理に付き添わせることはないとリディアは思った。
お屋敷までは小一時間だと聞いていたから、これくらいは臨機応変《りんきおうへん》でもかまわないだろう。リディアはひとりで辻《つじ》馬車に乗っていくことにする。
せめて馬車までお供するという彼女に見送られ、リディアはオートレッドの屋敷へ向けて駅舎を離れた。
屋敷の門をくぐっても、建物はどこにも見あたらなかった。雑木林《ぞうきばやし》の中をまだしばらく馬車は走った。
貴族のカントリーハウスというものは、どれほど広大な敷地と立派な建物を備《そな》えているか、知っているつもりのリディアだが、未亡人がひとりで暮らしていると聞いていたからか、あまり広すぎるのも淋《さび》しさが増さないかとぼんやり考えた。
ようやく正面玄関に到着して、馬車を降りたリディアは、出てきた男性の召使《めしつか》いに、メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人の紹介で来たことを告げる。待つように言って、彼は奥へと引っ込んだ。
ずいぶん待たされて、ようやく現れたのは、地味な紺色《こんいろ》の衣服を着た初老の女性だった。
「名前は?」
「……リディア・カールトンです」
「わたしは、ボイルです」
オートレッド伯爵夫人ではないらしい。
「今日からは、わたしの言いつけに従ってもらいます。いいですね」
つまりはリディアの教育係なのだろうか。
ついてくるように言い、彼女は歩き出した。
こんなに大きなお屋敷で、廊下《ろうか》も階段もたっぷりと広いのに、彼女はわざわざ狭《せま》い通路へ入っていく。
リディアはそれほど豪華《ごうか》なスカートを身につけているわけではないが、女性がきちんとしたドレスで通れば、フリルやリボンが壁をこすってしまうような通路だ。スカートをおさえながら歩かねばならない。
「以前のお屋敷では、ずいぶん待遇《たいぐう》がよかったようね。ここではそうはいきませんよ」
彼女はひどく不愉快《ふゆかい》そうに、リディアのよそ行きのドレスを一瞥《いちべつ》した。
オートレッド伯爵夫人の屋敷を訪問するのだからと、飾り気は少ないが失礼のない程度には身なりを整えてきたつもりだった。なのに、何か間違ったところでもあるのだろうか。
「奥さまのお下がりで着飾《きかざ》って、勘違いする小間使いは多いようですけど、この屋敷の方針は違います。あなたはまず、質素《しっそ》な衣服に着替えなければなりませんね」
……小間使い?
わけがわからないまま、やはり狭苦《せまくる》しい階段をずいぶん上《のぼ》らされたリディアは、屋根裏らしい部屋へ入れられた。
「ここがあなたの部屋です。着替えたら、階段下のわたしの部屋まで来るように」
ひとりになったリディアは、狭い屋根裏部屋に立ちつくした。
小さな窓のそばには粗末《そまつ》なベッド、文机《ふづくえ》と椅子《いす》がひとつずつ、それだけで床にはもう物を置くような隙間《すきま》もない。
どう考えても召使いのための部屋だ。
何かの間違いだろうか。それとも、オートレッド夫人の指図《さしず》なのだろうか。
これも花嫁《はなよめ》修業《しゅぎょう》の一環《いっかん》だとか、リディアが貴族の家に嫁《とつ》ぐのにふさわしいかどうか試しているのかもしれないとか、一生懸命に考える。
「そうよ、何か深い思慮《しりょ》があって、召使いの生活を体験させようとしてらっしゃるのかも」
とにかくリディアは、不満をあらわにするわけにはいかないのだ。ここでしっかりオートレッド夫人の教育を受け、認められることを、エドガーもメースフィールド公爵夫人《こうしゃくふじん》も期待している。
がんばろうと気合いを入れたとき、ドアが開いて、前掛けをしたメイドの女が姿を見せた。
黙ったまま、彼女はメイドのお仕着せらしい衣服を手渡す。そのままきびすを返して去ろうとするから、リディアは急いで呼び止めた。
「ねえ、あの、ボイルさんってどういうかたなの?」
「ミセス・ボイルは、このお屋敷の|メイド頭《ハウスキーパー》です」
「ハウスキーパー……、そう、きびしそうなかたね」
「仕事中の私語は禁じられていますので」
もっといろいろ話を聞きたかったのだが、彼女はそう言うとさっさと行ってしまった。
それでも、ひとつだけはっきりした。
メイド頭が言いつけに従《したが》えというのだ。やはりここでのリディアは、召使いとして扱《あつか》われることになっているらしい。
それにしても、これがオートレッド夫人のやり方なのだろうか。
考えていてもしかたがないので、リディアはお仕着せに着替えると、屋根裏部屋を出て、また長い階段を下りていった。
「遅いわね。着替えるだけでそんなに時間がかかっては仕事にならないでしょう」
ミセス・ボイルにさっそくしかられ、リディアは小さくなった。
ちりひとつ見|逃《のが》さないような鋭《するど》い目で、服装を検分《けんぶん》される。とりあえずまとめておこうと三つ編みにしたリディアの髪を手でつまみ、もっときつく結《ゆ》うようにと注意する。
「小間使いだからといって、特別扱いはしません。奥さまのご用のないときは、ほかの仕事もしてもらいますからね」
リディアの立場は、いちおうは奥さま付きの小間使いということらしい。とすると、オートレッド夫人のそばに仕えるのだから、やはり夫人の深い考えがあってのことなのか。
「あの、あたしのこと小間使いにするよう、オートレッド夫人がおっしゃったんですよね」
ミセス・ボイルは、わかりきったことをと言いたげに眉をひそめた。
「当然でしょう。さっそくですが、奥さまのお部屋にお茶を届けてもらいます。毎日この時間です、おぼえておくように」
「はい」
「それから、奥さまはここ数日、部屋にこもっておいでです。そういうときは、あなたが入っていいのは控《ひか》えの間まで。奥のドアを勝手に開けてはなりません。控えの間で声をかけて、お茶を置いて下がりなさい」
「え、どうして部屋にこもっていらっしゃるんですか?」
「よけいなことは訊《たず》ねなくてよろしい」
「……はい」
「ご用がないか、食事とお茶の機会に忘れず訊ねるように。それ以外は、どんな急用だろうと奥さまに声をおかけすることはできません。いいですね」
となると、夫人と顔を合わせることも、どういう花嫁修業なのかと問うこともできない。
それに、部屋にこもっているなんて、話に聞いていたオートレッド夫人のイメージとは大きく違っている。
夫を亡くしてから社交界には出ていないものの、王室とも交友は続いていて、今でも社交界の作法《さほう》はオートレッド夫人に学べば間違いないと言われているほど、貴婦人の鑑《かがみ》のような人なのだとメースフィールド公爵夫人は話してくれた。
上品で人柄《ひとがら》も立派な、誰もがあこがれるような人だということだった。
ひょっとすると、ご病気か何かなのだろうか。
でも、それならリディアをあずかってほしいとたのまれたときに断《ことわ》るはずではないか。
予想外の奇妙《きみょう》な状況に置かれ、わけがわからなくなりながらも、リディアは命じられるまま、ティーセットのお盆を手に、教えられた主人の部屋へと向かった。
二階の、南側の部屋だった。
言われたように、控え室に入って声をかける。
「奥さま、お茶をお持ちしました」
返事はない。が、ごそごそとドアの奥でうごめくような気配《けはい》はある。
「ほかに何か、ご用はありませんか?」
「ないよ、さっさとお行き!」
意外なほどしわがれた声だった。オートレッド夫人は四十そこそこだと聞いていたのに、老婆《ろうば》のようだ。
やっぱり病気なのではと、リディアは心配になった。
「あの、どこか具合でもお悪いんですか? あたし、リディア・カールトンともうします。ここで作法を教えていただくことに……」
「うるさいよ、よけいなことをお言いでない! 出ていかないと、ひどい目にあわせてやるからね!」
怒鳴《どな》り声とともにドアを蹴《け》るはげしい音がして、驚いたリディアは部屋から逃げ出していた。
いったい、どういうことなの?
中にいるのは、本当にオートレッド伯爵《はくしゃく》夫人なのだろうか。
だからといってむりやりドアを開けるわけにもいかず、たとえそうしたってリディアは、夫人の顔を知らないのだ。
戻ろうと階段を下りていくと、玄関ホール横のサロンから声がした。ざわざわと騒《さわ》がしいのは、客人でも到着したらしい。
メイド頭のミセス・ボイルと、上級|召使《めしつか》いらしい何人かが出迎えている。
「ねえ、そこのあなた、それを運んでくださらない?」
呼び止められたのだと気づき、リディアは振り返った。
黒い髪の少女がこちらを見ていた。
彼女は、サロンに置いてあった象牙《ぞうげ》の箱を指さす。
「ステキな宝石箱でしょう? 滞在《たいざい》中、貸していただくことにしたから、わたしの部屋へ持ってきてほしいの。小間使《こまづか》いの手がふさがっているものだから」
彼女の隣で、もうしわけなさそうに頭を下げる赤毛の少女が小間使いらしかった。
薔薇《ばら》の花が彫刻《ちょうこく》され、銀細工《ぎんざいく》で縁取《ふちど》られた宝石箱は、それだけでかなり高価なものだろう。リディアが両手で持ちあげると、ミセス・ボイルが心配そうに口をはさんだ。
「リディア、気をつけて扱いなさい。それから、ルシンダお嬢《じょう》さまには、三階の左突き当たりの客室を使っていただきますから」
まだ慣れなくて戸惑《とまど》いながらも、リディアはどうにか頷《うなず》く。
「ではお父さま、わたし、お部屋で少し休みます」
ルシンダという少女が顔を向けた先には、父親だと思われる太った紳士《しんし》が立っていた。
「夕食はおりてくるのかい?」
「いえ、今日はあまり食欲がないの」
「そうかね。ならゆっくり休みなさい」
色白で繊細《せんさい》そうなルシンダ嬢は、物憂《ものう》げな雰囲気《ふんいき》も相《あい》まって、人目を引きそうな美少女だとリディアは思った。ゆっくりと階段を上がる動作も、ドレスのすそが優雅《ゆうが》に動くよう計算し尽《つ》くされている。
小間使いの少女は、相変わらず押し黙ったままついていく。
「あなた、リディアっていうの? このお屋敷に勤《つと》めて長いの?」
歩きながら、ルシンダ嬢が話しかけてきた。
「いえ……」
メイドとして来たのではないからには、新入りのメイドだと自分から言うのはためらい、リディアは口をつぐんだ。
「あの、奥さまのご親戚《しんせき》なんですか?」
代わりに、気になったことを問いかけてみたのだが、彼女には侮辱《ぶじょく》的な質問だったようだ。
「まあっ、わたしのことを聞いていないのかしら?」
おっとりと問うが、微笑《ほほえ》みをつくった表情の、瞳の奥に不機嫌《ふきげん》そうな色が見えてリディアは戸惑った。
おとなしげな令嬢《れいじょう》に見えたが、気位《きぐらい》の高い性格なのかもしれない。
「まあいいわ。レディ・オートレッドはわたしの伯母《おば》さまよ。父はコンスタブル伯爵。よくおぼえておいてね」
「すみません」
そうしてルシンダは、彼女の自慢すべき点についてリディアが何も知らないのはがまんできなかったのか、自分から話し始めた。
「今年、社交界にデビューするから、伯母さまにいろいろ教えていただこうと思って来たの。伯母さまの後ろ盾《だて》があれば、社交界でも一目《いちもく》置かれるのよ」
だとしたら彼女も、リディアのようにメイドから修業をはじめるのだろうか。それとも、親戚の令嬢では、庶民出《しょみんで》なのに伯爵と結婚しようとしているリディアとは違うのだろうか。
突き当たりの客室へ入ると、ミセス・ボイルがルシンダ嬢に選んだ部屋は、当然のことながら、リディアの屋根裏部屋とはくらべものにならなかった。
[#挿絵(img/turquoise_065.jpg)入る]
寝室にドレッシングルームがついた、きちんとした客室だ。
いくら何でも、伯爵令嬢にメイドをさせるわけはないのだろう。
「ここへ来たのは、それだけのためじゃないのよ。もうすぐここに、もうひとりお客さまが来られるの。わたしの婚約者よ」
「まあ、そうなんですか」
「以前から、文通を続けていたかたなの。わたしに結婚を申し込んだことを父に話すために来てくださるのよ。突然自宅を訪ねてきたら父は警戒《けいかい》するでしょうけど、伯母さまの屋敷で偶然を装《よそお》えば、話もスムーズに進むかと思って、ふたりで計画したの」
「ステキですね」
「でもね、父はわたしがまだ子供だと思ってるもの。うまくいくか心配だわ」
「大丈夫ですよ。お父上なんですから、きっとわかってくれます」
言いながらリディアは、自分のことを思いだし、頬《ほお》が熱くなるのを隠すようにうつむいた。
リディアのことを子供だと思っていたはずの父だが、意外にも早く、結婚を許してくれた。
エドガーと話しているリディアは、なんだか幸せそうに見えるのだと父は言った。
リディアはまだ、幸せというよりも、緊張《きんちょう》したり気|恥《は》ずかしかったり戸惑ったり腹が立ったり、切《せつ》なかったり、エドガーのそばにいると心を乱《みだ》される感じしかわからない。
それでも父に言われると、幸せはこういうふうなものなのだろうかと思う。
だから、オートレッド夫人の考えはよくわからないけれど、できるだけここでがんばってみるつもりだ。
「そうね、何かあったらあなたも協力してね」
それにしても、ルシンダは意外とおしゃべりなお嬢さまだった。なのに、そばに仕《つか》えている小間使いは、どうしてさっきからひとこともしゃべらないのだろう。
「その宝石箱、ベッドの下に入れてちょうだい」
隠すほど高価な宝石でも入れるのかしらと思いながら、言われたとおりにする。立ちあがったとき、ルシンダの小間使いとちらりと目があった。
リディアは話しかけてみた。
「あなたは、なんていうお名前?」
驚いたように目を見開き、それから小さく頭を振ったが、彼女は何も言わなかった。
「アニーよ。声が出せないの」
ルシンダ嬢が代わりに言った。
「ねえリディア、伯母さまってどんなかた?」
「え」
「じつはわたし、伯母さまにはお目にかかったことがないの。お父さまと伯母さまは仲が悪かったみたいで、このお屋敷へ来るのははじめてなのよ。わたしの将来のためには伯母さまの後ろ盾があったほうがいいって、お父さまは和解する気になってくれたの」
「あたしは、今日ここへ来たばかりなので」
「まあそうなの、残念だわ。伯母さまはしばらくお部屋でご静養中《せいようちゅう》だっていうから、話を聞こうと思ったのに。じゃああなた、伯母さまのリガードネックレスのことも知らないのね?」
リガードネックレスは、数種類の宝石をあしらい、それぞれの宝石の頭文字《かしらもじ》をつなぐと意味のある言葉になるというものだ。敬愛《けいあい》を込めてという意味で、|REGARD《リガード》という言葉になるよう並べたものが一般的だ。
「目を見張るほど豪華《ごうか》なものだそうよ。伯母さまは、ふたつと同じものを身につけたことがないほど相当の宝石をお持ちだそうだけど、とくにすばらしいのはそれよ。花をモチーフにしたデザインで、五種類の宝石が何百個も使われているんですって。見たことない?」
部屋へ入ったこともないのだ。リディアは首を横に振った。
「亡くなったご主人に贈られたものだそうよ。わたしが宮廷《きゅうてい》へ出向くとき、貸してもらえないかと思ってるの」
どんなに豪華な宝石なのか、リディアは想像もできない。
そんな宝石を身につけた令嬢たちが、大勢《おおぜい》集まるところが社交界だ。
エドガーはそこヘリディアを連れ出したがっているけれど、ドレスも靴も装飾品《そうしょくひん》も、花嫁《はなよめ》道具として用意できない自分が入っていくところだろうか。
考え出せば、リディアはふと思う。
もしかしたらオートレッド夫人は、リディアのような中流の少女を社交界へ出す気はないのかもしれない。
生まれつき貴族のルシンダと、その婚約者を招《まね》いたのがオートレッド夫人なら、リディアに貴族の結婚のあるべき形を見せつけようとしたのではないだろうか。
身分をわきまえろと言うために、小間使いの仕事をさせているのだとしたら、どんなにがんばってみても認められることはない。
……ううん、そんなはずないわ。きちんと仕事をこなせば、認めてくださる。
落ち込みそうな気分を追い払うように自分に言い聞かせ、リディアはルシンダの部屋をあとにした。
それでもため息は隠せなかった。
「ああ、これが花嫁修業だなんて」
独りごとを言ってしまってから、誰もいないのを確かめ、またため息をつく。
とぼとぼとホールのわきを歩いていると、ポーチに近づいてくる馬車の音が聞こえてきた。また客人なのだろうかと、窓の外に視線を動かす。
さっきルシンダが言っていた、もうひとりの招待客《しょうたいきゃく》に違いない。
どんな人なのだろう。なんとなく気になって、リディアは注目する。
馬車のドアが開き、降りてくる人影が目にとまったリディアは、思わず声が出そうになって口を押さえた。
帽子《トップハット》から靴の先まで隙《すき》のない、すらりとした後ろ姿は、リディアにとって見慣れた、そして間違いようもない人物だった。
「……エドガー……?」
あわててカーテンの陰に身を隠す。こちらに気づくはずもない彼は、レイヴンと玄関ホールへ向かっていく。
「どうして、エドガーが?」
リディアは、動揺《どうよう》する気持ちをおさえ、冷静になろうとする。ここへ現れたからといって、彼がルシンダの婚約者だとは限らない。
というか、そんなはずはない。
彼はリディアの婚約者だ。
エドガーは、リディアがオートレッド夫人に教えを請《こ》うことは知っている。夫人に用があって来ただけかもしれないではないか。
ひょっとすると、メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人から報《しら》せがいって、リディアの様子を見に来たのかもしれないのだ。
「そうだわ、……会いに来てくれたのかも」
けれど、そうだったとしても、素直《すなお》によろこべはしなかった。召使いの仕事をしている自分を見られたくなかったからだ。
オートレッド夫人の言いつけでも、これが重要な花嫁修業でも、少しでもきれいな格好《かっこう》でなければ会いたくないと思う自分がいる。
これまでは格好なんて気にならなかったのに、きれいじゃないと恋が冷めるのではないかと恐《おそ》れるくらいに、彼への気持ちを深くしていることには無自覚に、リディアは会いたくないと思うのだ。
エドガーを迎《むか》え入れる執事《しつじ》の声を聞きながら、召使いの専用通路に逃げ込んでいた。
以前から、オートレッド夫人と面会の約束を取り付けていたエドガーは、リディアがここへ来るのは来週だとまだ思っていた。
リディアがうまく社交界にとけ込めるよう考えれば、年上の貴婦人の口添《くちぞ》えは不可欠《ふかけつ》だ。
エドガーには直接オートレッド夫人を知る機会がなかったから、メースフィールド公爵夫人からリディアのことをたのんでもらったのだが、自身も直接会って話をしておきたいと考えていた。
それに、もうすぐここには、別の重要人物も現れる。
いろいろと算段をしていたエドガーだが、到着したとたん、しばらく夫人とは会えないと聞いて戸惑《とまど》っていた。
持病の発作《ほっさ》が起きたとかなんとか、そんな説明だったが、さらにエドガーの計算外だったのは、この屋敷にはコンスタブル卿《きょう》の一行が滞在《たいざい》するということだった。
おそらくコンスタブル卿は、まだエドガーのことを娘に手を出した男だと思っている。ルシンダ嬢《じょう》は、父親に説明するつもりはなさそうだった。
誤解のないよう、このこともリディアが来る前にオートレッド夫人に説明しておきたいところだったが、面会ができないのではどうしようもない。
窓辺からオートレッド邸《てい》の広大《こうだい》な庭園を見おろし、エドガーはため息混じりにつぶやいた。
「リディアは今ごろどうしているのかな」
「お茶の時間だと思われます」
懐中時計《かいちゅうどけい》を確認して、きまじめな従者《じゅうしゃ》は答えた。
メースフィールド公爵夫人のところでは、規則《きそく》正しい生活をおくっているはずだからその通りなのだろう。けれど。
「違うよレイヴン、リディアが、こんなふうに僕のことを想《おも》いながら過ごしているかどうかってことさ」
「それは、……どうでしょう」
たしかに婚約はしたものの、レイヴンが答えられないように、エドガーもそのへんリディアの気持ちはよくわからなかった。
自分から望んで求め、口説《くど》き落とした少女だ。もちろんリディアだって、しつこいからしかたなく結婚を承諾《しょうだく》したわけではなく、好意を向けてくれているとは思う。
しかし彼女が、胸を焦《こ》がすような恋にひたっているかというと、違うような気がする。
たとえば、愛してるなんて言葉を彼女の口から聞いたことはないし、ふたりきりで過ごしたがるのも、少しでも触れあっていたいと思うのもエドガーの方で、リディアはいくらか冷静に、彼の求めに応じているといったふうだ。
きっと、婚約したのだからきつく拒《こば》むのは失礼だと思っている。
それでもかまわないと、エドガーは思い直す。
何もかも望むのは身勝手《みがって》だ。リディアがそばにいてくれればいい。それが彼の、いちばんの望みだったはずだから。
「愛されたければ愛するなって、恋愛の基本だよね。先に好きになってしまったのだからしかたがないのかな」
ゲームじみた法則を当てはめて楽しんでいたこれまでの恋愛と、リディアへの気持ちは違う。もちろん愛されたいけれど、そのために冷めたふりをする気にはなれない。
結局は、戸惑いながらもどうにか恋人らしく振る舞おうと気を遣《つか》っているリディアを見るのが好きで、目の前で困り果てているのさえいとおしいからだ。
恋の駆《か》け引きなんてどうでもいい。そんなことのために、キスをがまんするのはばかばかしいと思うし、少しでも長くいっしょにいたい。
ただ、不満に思う気持ちがないわけではない。
「会いたいって、言ってくれれば飛んでいくのに」
しばらく会っていないのに、リディアからそんな言葉は聞けないままだった。
「ならどうして、会いに行かなかったのですか?」
レイヴンは、少々不満に思っているようだ。
「会ったらキスしたくなる。おまえが言ったんだよ。リディアにべたべたするのはよくないって」
「いやがることをしなければいいと思うのです」
「レイヴン、いやがってるんじゃない。リディアはちょっと恥ずかしがってるだけだよ」
「はあ……」
「それに僕は、リディアが恥ずかしがるほどそそられるんだから、目の前にいるのにがまんするなんて無理だよ」
けれど、もう少しくらい、うれしそうにしてくれないものだろうか。
窓の下に広がる庭園の、遠くの植え込みのそばで、道に迷《まよ》ったかのようにうろうろしているお下げ髪のメイドが、婚約者だなどと思いもせずに、エドガーは、このところずっとうつむきがちだったリディアを思い浮かべていた。
ディナーのテーブルに飾《かざ》る薔薇《ばら》が足りないと、庭園へ出されたリディアは、どこに薔薇が咲いているのかわからずにさまよっていた。
「広すぎるわ、この庭」
どちらへ行けば薔薇園なのか、訊《き》こうにも人がいない。
どうしよう、と思っていると、花壇《かだん》を野ウサギが横切った。
「あっ、ちょっと待って、教えてほしいの!」
あわてて追いかけると、野ウサギは止まって振り返った。
(おまえ、わしが見えるのか)
野ウサギの毛皮を着た妖精だった。もっとも、ふつうの人間には野ウサギにしか見えないだろう。
「薔薇園はどこにあるのかしら」
(薔薇園だと? おまえ、わしらの大事な薔薇を盗《ぬす》む気だな?)
「えっ、違うわ、盗む気なんて」
(うそだ! 薔薇園のことを訊《たず》ねる人間なんて泥棒《どろぼう》に決まってる!)
野ウサギほどの妖精は、怒った様子で、耳のついた帽子《ぼうし》も茶色い毛皮のマントも、大きな後ろ足でできたブーツも振り回す。
あまりにもあばれるので、赤い毛に覆《おお》われたすねがまる見えだ。
デーン族だわ。
リディアは観察しながらも、妖精をなだめようと言った。
「あたしは、フェアリードクターよ」
(フェアリードクターだと? ふん、何だろうとおしゃべりな人間なんか信用するか。ああ、黙《だま》ってられない人間どもなんか、薔薇園に入れやしないんだからな!)
言い捨てると、妖精はさっと植え込みの根本《ねもと》に消えた。
「おしゃべりって、妖精たちの方がよっぽどおしゃべりだわ」
むっとしながら、ひとりつぶやく。
「あんた、野ウサギ相手に何しゃべってんの?」
その声は、背後《はいご》から聞こえた。
あわてて振り返ると、使用人らしい青年が立っていた。
「あの、今のは……」
「ひとりごと、か? ま、愚痴《ぐち》ぐらい言いたくなるだろうな。ミセス・ボイルはきついもんな」
仕事をさぼっていたに違いない。短く切った髪にも、お仕着せの上着《うわぎ》にも草がくっついていたし、煙草《たばこ》の匂《にお》いがした。
「新入りの小間使《こまづか》いの、リディアだろ? おれはビリー、給仕《きゅうじ》係さ」
いかつい印象の青年だったが、笑うと人なつっこそうなくしゃくしゃとした顔になった。
「よろしく」
そう言うリディアを、彼はものめずらしそうに見る。
「せっかく知り合えたけど、あんたはどのくらいもつのかな。ここの小間使いは、たいていすぐにやめちまうんだぜ」
「え、そうなの?」
「ああ、ここの奥さま、ちょっと変わってるだろ? だから小間使いは常時《じょうじ》募集中」
あたしは、ついでに欠員《けついん》を埋《う》めるのに利用されてるのかしら。
考えていると、ビリーはさっとリディアの手をつかんだ。
「きれいな手だな。事情があって奉公《ほうこう》に出るしかなくなった、中流階級の娘さんってとこか? 何もこんなところへ来ることないのにさ」
急いで手を引っ込めたリディアは、薔薇園はどこかと早口に訊ねた。
「そのハリエニシダの小道の奥だけど」
「ありがと、じゃ、あたし仕事があるから」
リディアは駆け出したが、小道を折れるまでしばらく、彼がこちらを見ているのを感じていた。
それでも彼が教えてくれたとおり、その先に薔薇園はあった。
白い石の柱に絡《から》まってのびた薔薇が、頭上でアーチをつくっている。そこを入り口にして、一歩中へはいると、マリア像が立つ噴水《ふんすい》を、花壇が幾重《いくえ》にも取り囲んでいた。
きれいに整えられた薔薇園。しかし、どの薔薇もまだ花をつけていない。
考えてみれば、薔薇が花盛《はなざか》りになるのはまだ早い。花を摘《つ》むなら温室の方へ行くべきだったと気づいたが、リディアは引き返すよりも、その奥に注意を引かれて立ち止まった。
薔薇園の一画《いっかく》、背の高い木が植えられて、薄暗《うすぐら》い影になっているその向こうから、虹色《にじいろ》のぼんやりとした光が漂《ただよ》ってくるのだ。
何だろうと思い、近づいていく。
木の向こうへ、植え込みの隙間へ体をくぐらせて進んでいくと、どこからかのびてきた蔦《つた》が薔薇にからみつき、深い茂《しげ》みになっている。さらにその向こうへ踏《ふ》み込んだとたん、足元に段差があった。
と思うと、リディアはそのまま、落とし穴のような場所へ転げ落ちる。
ふかふかの絨毯《じゅうたん》みたいに草が生《は》えていたおかげで怪我《けが》はなかったが、奇妙《きみょう》な穴だった。
穴のわきについた石段は、妖精が使うのではないかと思えるほど狭《せま》い階段だ。
人の背丈《せたけ》より少し高いくらいの深さで、虹色の光は、穴の上方に漂っているだけだ。この穴を隠すための、妖精の魔法だと思われた。
妖精も見えるリディアには、たまたま見えてしまったようだ。そしてこの穴の奥には、地面に掘られた深い溝《みぞ》が、曲《ま》がりくねって続いている。妖精の道には違いないだろう。
そうなると、どこまで行けるのだろうと確かめてみたくなる。
溝の底を歩いていく。左右の土壁は芝のような草で覆われ、空が見えるはずの上方も、先へ行くほど両側からのびた草や蔓《つる》で覆われ、緑のトンネル状になる。
リディアはさらに歩き続けた。
やがて、薄暗かったトンネルの先に、白い光が見え始めた。出口らしいと急ぎ足になれば、どこからともなく声がした。
(おい、おまえの望みはなんだ?)
妖精だわ。
デーン族だろうかとリディアは考える。
そういえば、さっきのデーン族は、薔薇園をさがしていたリディアに、やけに腹を立てたのだった。
(この道を見つけたならしかたがない。ひとつ願いをかなえてやるから、今すぐ出ていけ)
どうやらこの先は、彼らの領域なのだ。侵入者《しんにゅうしゃ》を追い払いたがっている。
しかしリディアはフェアリードクターだ。どうすればいいかとっくに気づいている。
彼らの言葉に答えないことだ。
妖精は、侵入者を懲《こ》らしめるため、魔法をかける機会をねらっているのだから。
(どんな願いでもかなうんだぞ。試しに言ってみろよ。すぐにかなえてやる)
黙っていられない人間は、薔薇園には入れない。さっきの妖精はそう言っていた。
たしかに、言ってみるくらい簡単だ。信じていなくても欲をくすぐられ、望みを口にするものだろう。けれどそうしたら最後、魔法にかけられひどい目にあうだろう。
リディアは口をつぐんだまま、白っぽい光の方へ一歩踏み出す。
そこは紛《まぎ》れもなく薔薇園≠セった。
デーン族の、秘密の薔薇園だ。
白い靄《もや》に包まれた中、幾多《いくた》の薔薇が咲き誇《ほこ》っている。花はみな、自《みずか》らぼんやりと光を発しているかのように輝いて見える。
手を触れると、冷たくやわらかな花弁《かべん》が、しっとりと指を撫《な》でるかのような心地《ここち》だ。
貝殻《かいがら》のように虹色の光沢《こうたく》をもつ薔薇、本物のビロードかという手触りのものもあれば、ガラスのように透《す》き通った花弁もある。
薔薇園の中に進み入れば、妖精はあきらめたのか気配《けはい》ごと消えた。
これ幸《さいわ》いと、リディアは自由に歩き回る。
「なんてステキなの……」
仕事も忘れてうっとりと薔薇に見入った。
「おやめずらしい、お客さま?」
女の声だった。振り返ったリディアは、妖精ではなく人間がいることに驚いた。
「あ、すみません、勝手に入ってきてしまって」
日に焼けた顔の、中年の女性は、麦わら帽子に土だらけの前掛けという格好《かっこう》で、片手にじょうろを提《さ》げていた。
赤い薔薇を中心に、色とりどりの花を組み合わせた花輪《はなわ》を首飾りにして、この場所に妙《みょう》にとけ込んで見える。
「気にしないでちょうだい、私はただの庭師だから」
妖精が、人間の庭師を雇《やと》うという話は聞いたことがなかった。
「でも、ここで人に会うのははじめてだわ」
伯そうだろう。リディアも人に会うとは思わなかった。
「ここは、妖精の薔薇園ですよね」
もちろん彼女は、よくわかっているのだろう。微笑《ほほえ》みながら頷《うなず》いた。
「あなた、ここへ入る方法を知っていたの?」
「はい、あたしフェアリードクターなんです」
「おやまあ、妖精博士《フェアリードクター》って本当にいるのね。おとぎ話の中だけかと思ってたわ」
好奇心《こうきしん》いっぱいの、薄茶《うすちゃ》の瞳でこちらを見つめ、お茶でもどうかと彼女は片隅《かたすみ》の小屋へリディアを招《まね》いた。
「ローズティーしかないのだけど」
「大好きです」
「そう、よかった。ええと」
「リディアです」
「ヴァージニアよ、よろしく」
庭師の道具小屋かと思ったが、中はこざっぱりと片づけられ、ハーブの鉢植《はちう》えやドライフラワーの壁飾りもかわいらしい、まるで田舎《いなか》の小さな民家だった。
丸太でできたテーブルや椅子《いす》は暖かみがあって心地よく、梯子《はしご》ふうの階段を見ても、屋根裏に寝室でもありそうな雰囲気《ふんいき》だ。
「じつはね、ここで暮らしてるのよ」
リディアが疑問に思ったことを、先に彼女は口にした。
「ひとりでですか?」
「新種の薔薇が咲かないと、ここから出られないの」
「まさか、妖精の魔法で……?」
頷き、彼女は珊瑚《さんご》色の薔薇を飾った一輪挿《いちりんざ》しを眺《なが》めやった。
薔薇を育てるのが大好きな彼女は、オートレッド邸の薔薇園を管理しながら、新しい色や形の薔薇を研究し、品種改良に精を出していたという。
やがて屋敷の主人から、おそらく生前のオートレッド卿《きょう》から、妖精たちの庭園がこの土地のどこかにあると聞かされた。
「話には聞いていたのよ。妖精の庭へ入るには、これを身につければいいって」
ヴァージニアは、花輪の首飾りを軽くさわった。
「それから、入り口で妖精に問いかけられても、願い事を口にしてはいけないってね。長いこと信じてなかったのだけど、あるとき言われたとおりにしてみたの。そうしたら、この薔薇園を見つけられた。それからは毎日のようにここへ通ったわ」
一年中、薔薇が咲き乱《みだ》れる庭。ここに咲く不思議な薔薇は、人間界へ戻ればすぐに枯《か》れてしまう。種を持ち出しても、外ではけっして芽吹《めぶ》かない。せっかく見つけためずらしい薔薇も、持ち出して研究することができなかったのだと彼女は言った。
「そのうちに、どうしても、ここの不思議な薔薇を自分の手で育てて咲かせてみたいって気持ちが強くなって、とうとう、願い事を問う声に答えてしまったの」
その願いはかなえられ、彼女はデーン族の薔薇園《ばらえん》の庭師となったらしい。
おそらく妖精たちも、彼女の薔薇への情熱と、花を咲かせる技術を知っていた。だから、願い事を曲解《きょっかい》して、魔法でひどい目にあわせることはなく、まっとうな契約《けいやく》を結んだのだろう。
「でもね、この生活も悪くないわ。新種の薔薇が咲けば、妖精たちはとてもよろこんでくれる。そうしたら人間の世界へ戻って、ふだんの生活をして……。でもそのうち、ここが恋しくなってくるから、自分から戻ってきてしまうのよ」
そしてまた、人間の世界へ帰りたくなれば彼女は、新種の薔薇を咲かせるのだろう。
ローズティーは、気高《けだか》く豊かな香りがした。つぼみを開き、目覚めたばかりの、薔薇の吐息《といき》のようだった。
少しのあいだリディアは、心配事だらけのぎすぎすした心を癒《いや》されていた。
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消えた|REGARD《リガード》
夕食のテーブルに、コンスタブル卿《きょう》が同席することは、もちろんエドガーは承知していた。
だからといって、逃げ隠れする理由もない。彼の顔を見るのは不愉快《ふゆかい》だが、オートレッド夫人との面会を待つあいだ、そしてもうひとりの重要な客人が現れるまで、堂々と過ごすつもりで、エドガーはダイニングルームの席に着く。
先に席に着いていたコンスタブル卿は、エドガーをじろりとにらんで口を開いた。
「アシェンバート卿、こんなところでお会いするとは。気が変わりましたかな? 私に頭を下げるつもりで、姉に取りなしてもらおうと考えたのなら、話はうかがいますよ」
おやおや、とエドガーは内心《ないしん》笑う。
「そういえば、オートレッド夫人とはご姉弟でしたっけ。もっとも、亡きオートレッド卿にはきらわれていらっしゃったとか」
彼はあからさまにむっとしつつも反論した。
「姉とは疎遠《そえん》になっていたというだけです」
「しかしその、疎遠になっていた姉君と、このところ和解を望んでいらっしゃる様子なのはどうしたわけです? 夫人の財産目当てではないかとの噂《うわさ》ですよ」
ますます、コンスタブル卿は不機嫌《ふきげん》になった。
「私を侮辱《ぶじょく》するのか」
「単なる噂話を申しあげただけです」
「ならあなたは、何のために姉に近づく。世の中には、名声目当てに年増《としま》の未亡人だろうと口説《くど》く不届き者もいると聞く」
「僕の婚約者が、近々オートレッド夫人にお世話になることになっていまして。ご挨拶《あいさつ》にうかがったのです」
婚約者、とは噂には聞いていても、事実エドガーの口から出れば、本当だったのかと驚いたのだろう。コンスタブル卿はさすがに黙《だま》った。
静かに食事ができるかと思ったのもつかの間。
「よくもそんな恥知らずな!」
また彼は声をあげた。
「婚約者がいながら、平気で私の娘にも……」
「お嬢《じょう》さんが本当のことを日記に書いたとは限らないのでは? そもそも日記なんて、人に見せるものでもなし、好き勝手に想像することだってあるでしょう」
「何事もなかったなら、娘がそんなふしだらなことを想像するはずがない」
「なるほど。ふしだらなことを実行するのか、ふしだらな想像をするか、お嬢さんがどちらかなのはたしかですから、想像の方がまだましではないですかね?」
真っ赤になって、コンスタブル卿は立ち上がった。
「不愉快だ。アシェンバート卿、このままですむとは思わないでいただきましょう」
言い捨てると、食事を中断してダイニングルームを出ていった。
社交界に敵を作るのは好ましくはないが、しかたがないなとエドガーは思う。
ともかく、この件に関しては間違いなく潔白《けっぱく》だ。たとえそうでなくても、エドガーにとって自分を正しい方に持っていくのは難しいことではない。
打つ手ぐらいいくらでもあるし、向こうが問題を大きくしようとするなら、二度と社交界に出られないようにしてやるくらいの反撃は心得《こころえ》ている。
ただ、リディアの耳に入るようなことだけは勘弁《かんべん》してほしい。
ようやく、誠実な愛情を信じてもらえる足場ができつつあると思っているのに、水の泡《あわ》になりかねない。
しかし、リディアがここへ来るまでには数日の余裕《よゆう》がある、と彼はまだ思っていた。
「やっと、食事を楽しめる」
つぶやいたエドガーは、執事《しつじ》を招き寄せてシャンパンを注いでもらうことにした。
「上等《じょうとう》の酒を入れているね。さすがはオートレッド夫人の屋敷だ」
「恐《おそ》れ入ります」
「料理もいい。なのに、未亡人になられてから社交界を退《しりぞ》かれて、パーティを催《もよお》すこともなくなったのは残念だよ。ここの料理長の腕も、家人のもてなしも、なかなかほかの屋敷では味わえないものだと聞いているからね」
「大きな催しはありませんが、奥さまを慕《した》って来てくださるお客さまは絶《た》えません。わたくしどもは、奥さまの評判に恥じないよう働いているのみでございます」
執事は謙遜《けんそん》したが、満悦《まんえつ》しているようだった。
他人の屋敷で快適に過ごすには、屋敷の主人よりも使用人に好感を持たれることだとはよくいわれる。それだけでなくエドガーは、自分の印象がよくなれば、横柄《おうへい》な態度を取るコンスタブル卿の印象が悪くなるだろうとの計算をしていた。
使用人を侮《あなど》るなかれ。長年|勤《つと》めている上級|召使《めしつか》いの意見は、主人の考えだって左右する。
ルシンダの文通相手のことが問題になったとしても、オートレッド夫人にエドガーの言い分が正しいと印象づけられるだろう。
「このジェノバソース、もう少しもらえるかな」
器《うつわ》をかかえて突っ立っている給仕《きゅうじ》に、執事は目配《めくば》せしたが、彼はすぐには気づかなかった。
ビリー、と隣の給仕に小声で呼ばれ、はっとしたように我《われ》に返る。
まったく仕事に慣れていないようだ。
ようやくそばへ来て、スプーンを扱《あつか》う手つきもぎこちない。
その、ごつごつした手を眺《なが》めたエドガーは、かすかな違和感をおぼえていた。
召使いにはふさわしくない、あきらかに武器を扱う手だった。
ルシンダの髪を結《ゆ》うアニーは、慎重《しんちょう》な手つきでブラシを握《にぎ》っていた。
「ちょっと、痛いわね!」
びくりとし、小間使《こまづか》いの少女は小さく頭を下げる。
動作は遅いくせに、どうしてうまくやれないのだろうとルシンダはいらいらする。
「カールをもっときれいに垂らしてちょうだい。アシェンバート伯爵《はくしゃく》に会うんだから」
彼がいつどこを訪問するのかは、ルシンダは事前に調べていた。貴族の家どうしは複雑につながっている。彼とつきあいのある家へ訪ねた際、話題にすれば誰かは何かを知っている。
もちろん、何かと注目されているアシェンバート伯爵だからこそ、どの家と親しくしているのか、このところ召使いの行き来が増えて頻繁《ひんぱん》に連絡を取っているらしいのはどこか、といった話が聞こえてくるのだ。
そんなわけで、彼がこの日にオートレッド夫人の屋敷へ訪問の約束をしていると知ったのは、ルシンダにとって大きなチャンスだった。
急遽《きゅうきょ》予定を変え、伯爵と鉢合《はちあ》わせるようにやって来た。
「アニー、その髪飾りじゃないわ。珊瑚《さんご》のほうって言ったでしょう!」
あたふたと彼女は、珊瑚の髪飾りをさがす。
役に立たない小間使い。しかしルシンダは、最近|雇《やと》ったこの少女を気に入っているのだ。
仕事ができて頭のいい侍女《じじょ》なんていらない。のろまでおつむが足りなくて、よけいなことは考えられないアニーがいい。何よりこの子は、よけいなことをしゃべらない。
ルシンダが日記に作り話を書いたこと。それをわざと父の目につくようにして、アシェンバート伯爵と交際しているように思わせたこと。
アニーはどんな秘密もばらしたりしない。
伯爵には、誰かにだまされたかわいそうな娘と印象づける。唇《くちびる》を奪《うば》われたくらいでふるえているとなれば、かえって同情されるだろう。
ルシンダは、鏡に向かって微笑《ほほえ》む。
気弱な、そしてはかなげな微笑みは完璧《かんぺき》だ。それが自分の美貌《びぼう》を引き立てると彼女はよく知っている。社交界に出れば、殿方《とのがた》の気を引くことができるだろう。
「アニー、あなたには縁《えん》のないことでしょうけど、結婚は勝負なのよ。誰もがうらやむような相手を手に入れた女の子が勝ち。夫が立派なら、それだけ社交界で尊敬を集められるもの」
ようやく珊瑚の髪飾りを見つけた小間使いは、急いでルシンダの髪に飾った。
「もちろん、地位だけじゃなくて見栄《みば》えも重要よ。アシェンバート伯爵なら申し分ないわ。ひそかに思いを寄せてる女の子は多いもの」
立ち上がったルシンダは、今度は姿見の前に立って、ドレスを検分《けんぶん》する。くるりと回ると、スカートを飾るオーガンジーのフリルが軽やかに波打った。
「だけど、待ってるだけじゃ知り合えないわ。アシェンバート伯爵なんてとくに、お近づきになりたい女の子たちが何人も、ひっきりなしにあいさつしてたもの。でもわたしは、これで彼女たちから何歩もリードしたはずよ」
誰もがうらやむ結婚をすれば、みんなを見返してやれる。
母親の身分が低いから、大《たい》した縁談《えんだん》なんてあるはずがないと思っている女の子たちを悔《くや》しがらせてやれる。
アシェンバート伯爵の婚約者が、自分と同じイニシャルだと知ったとき、ルシンダはとっさにうそをついて見栄をはった。うそでも、みんなに羨望《せんぼう》の目を向けられるのは痛快だった。
もう、引っ込みはつかない。どうにかして、空想を現実にするしかない。
伯母《おば》にも仲を取り持ってもらおうと考えていたが、病気だというからあてにはできないし、あとは自分だけでどうにかするつもりだ。
「残る問題は、彼の婚約者ね」
しかし貴族ではないという噂も聞く。まだ、どの家からもアシェンバート伯爵との婚約話がもれ聞こえてこないからだ。
「身分の低い女なら、ライバルにもならないけど」
母がどうだろうと、ルシンダは間違いなく伯爵|令嬢《れいじょう》だ。どう考えても自分の方がずっと価値がある。伯母はオートレッド伯爵夫人で、王室ともつきあいのある人だ。
男の愛情は、女の外見と条件で決まると彼女は信じていた。
食事を終えたエドガーが、自分の客室へ戻ると、ルシンダ嬢がいた。
談話室を兼《か》ねたドレッシングルームだとはいえ、男の私室には違いない。小間使いがついていても、たいていの令嬢ならこんなところで待ったりしない。
レイヴンは、部屋の隅《すみ》で所在《しょざい》なげに立っていた。
「すみません、アシェンバート伯爵、こんな時間におじゃましてしまって」
「夕食をとらずに休まれたと聞きましたが?」
ドアを開け放したまま、エドガーは戸口で立ち止まった。
「どうしても、もういちどお話がしたくて。ここで偶然《ぐうぜん》ご一緒することになったのも、神さまの計《はか》らいだと」
そんな神はごめんだと、エドガーは思う。
「わたし、あなたが好きなんです」
「それはどうも」
「あきらめられそうになくて……」
「あなたが手紙をやりとりして、恋に落ちた相手は、僕ではないんだよ?」
「いいえ、あなたからのお手紙だと思ったからこそ、お返事をしました」
「もうしわけないけど、婚約者がいる」
ルシンダは淋《さび》しげに目を伏《ふ》せたが、戸惑《とまど》う様子もなくまた口を開いた。
「アシェンバート伯爵は、恋多きかただと聞いています。恋人が何人もいらっしゃるんでしょう? 結婚しても外に恋人を持つ男性は少なくないのに、わたしにお手紙をくれなくなったのは、フィアンセが、それを許せない女性だからなのですか?」
「だからね、それは僕じゃない」
「わたしなら、多少のことは大目に見ますわ」
聞いちゃいないか。困ったお嬢さんにつかまったものだ。エドガーは悩みながら髪に指をうずめる。
「そう思うのは、きみが僕のことを好きなんかじゃないからだよ」
「いいえ、心からお慕《した》いしています」
ルシンダは、しずしずとエドガーに歩み寄る。すぐそばで、目を伏せてささやく。
「……口づければわかると思うんです。あのときのかたが、あなただったかどうか」
「意外と大胆《だいたん》な女の子だね」
「大胆になれるのは、恋をしているからですわ」
口づければわかるなんて、キスを求める口実《こうじつ》だ。しかしエドガーは困ったことに、口実をつくってでも求められるのはきらいではなかった。
恋に恋しているだけでも、ロマンティックなひとときを過ごしたいと思う女の子なら、少しはあまえてくれるものだ。
本物の恋人どうしになればなおさら、ふたりきりで過ごす時間も口づけも、求めることをためらう理由なんてないはずだろう。
目を閉じて、少し背伸びするルシンダを見おろし、どうしてリディアじゃないのだろうとエドガーは思う。
かわいい口実を作ってでも、リディアがこんなふうに求めてくれたらうれしいのに。
エドガーを好きだと言うルシンダ。この少女ほどにも、リディアは恋愛感情を持ってくれてはいないのだろうか。
恋というよりは、エドガーの弱さも苦悩《くのう》も知っているリディアは、親愛の感情の方が強いのかもしれなかった。
「エドガーさま」
レイヴンが唐突《とうとつ》に堅《かた》い声を発したのは、エドガーがうっかりキスしてしまうのではないかと不安になったのだろうか。
しかし顔をあげたエドガーは、レイヴンの視線がドアの外に向けられているのに気づく。
不自然に寄りかかってくるルシンダを、無意識に受け止めながら振り返ろうとすれば、戸口にお仕着せ姿のメイドがいるのに気がついた。
いや、メイドじゃない。
驚きに目を見開いて、突っ立っているのはリディアだった。
「…………あの、あたし……、失礼しました」
頭を下げると急いで立ち去る。
リディアが? なんで?
わけがわからなかったが、追いかけねばならないことは考えるまでもなかった。
「レイヴン、後は頼む」
エドガーはルシンダを突き放し、リディアのあとを追った。
今のは、何だったの?
リディアは走りながら、ルシンダとエドガーが今にもキスしようとしていた光景を思い出し、混乱《こんらん》していた。
ルシンダの言う婚約者は、エドガーだったということだろうか。
ありえないことじゃない。エドガーが何人もの女性とつきあっていたらしいのはたしかだし、ルシンダと文通していて、調子のいい口説《くど》き文句くらい書いたかもしれない。
そうだとしても、ほかの女性とは別れたとリディアには言っていた。
ルシンダの方からせまっていた様子だったから、彼女に別れるつもりがないということなのだろうか。
……自分から目を閉じて、積極的な態度だった。
リディアとそう年齢は変わらないだろうに、とっくにレディとしての自覚を身につけている少女は、自分を美しく見せる身だしなみも完璧で、すでに結婚を意識していて、貴族の奥方がどんなものかも知っている。
男性とのつきあいかたも、リディアよりずっとよく知っているに違いない。
あんなふうにキスを待つなんて、リディアにはできない。
すでにたくさん負けているが、それが決定的な敗北感となって、リディアにのしかかる。
暗い広間に駆《か》け込んで、人の気配《けはい》がなくなったところでようやく息をつく。
前掛けをした自分の姿を見おろせば、急にリディアは冷めた気持ちになっていた。
ばかばかしくなった、という方が正直かもしれない。
生まれつき貴族の、華《はな》やかな令嬢と自分をくらべようというのがどうかしている。
それに、あんな完璧な女の子にせまられれば、彼の気持ちが動くことだってあるかもしれない。
だったらどうするのだろう、と考えてみても、すっかり力が抜けたリディアは、どうなってもしかたがないような気がしていた。
結婚が具体的になって、いろいろなことにリディアが戸惑っているように、エドガーも現実として、リディアが伯爵家の花嫁《はなよめ》には物足りないことに気づきはじめているに違いないのだ。
「……そうよね、エドガーって調子のいいこと言うけど、お嫁入り支度《じたく》もまともにできないなんて、あきれてるに決まってるわね」
「そんなことないよ」
エドガーの声がした。
「本当に、きみさえ来てくれるなら何もいらないと思ってるのに」
広間へ入ってきたエドガーは、後ずさるリディアを窓際《まどぎわ》まで追いつめつつ正面に立った。
「どうして逃げるの?」
薄暗《うすぐら》いしふたりきりだし、なんとなくあぶないような気がしたのだ。
婚約者を危険人物|扱《あつか》いするのはどうかと思うけれど、これは身に染《し》みついている感覚としか言いようがない。
「驚いたよ、リディア。きみが来るのは来週だと思ってたから」
たぶん、連絡もしなかったリディアに気分を害している。ここにリディアがいることを知らずに、ルシンダと会っていた後ろめたさにも苛立《いらだ》っている。そういう機嫌《きげん》の悪いときエドガーは、微妙に攻撃的な気配を秘めているから、リディアは少し居心地《いごこち》が悪い。
だからつい、顔を背《そむ》けてしまう。
「……急なことだったの。メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人のご長女が急病で、日を早めてこちらでご厄介《やっかい》になることになったの」
そう、と言ったエドガーの手が、リディアの肩に触れた。
「さっきのお嬢さんはね」
「あ、あなたに気があるみたいね」
「ちょっと勘違いしてるんだ。僕を、文通していたE・Aって頭文字の男だと思い込んでる」
あなたなんじゃないの? と言いたいのを飲み込んだ。
「違うと言ってるのに、なかなかわかってくれなくて困ってる。さっきも勝手に部屋へ押しかけてきたところだったんだ」
それにしては、親密そうだったわ。
「だからって、オートレッド夫人の姪《めい》だし、まるきり邪険《じゃけん》にするわけにもいかないだろ?」
先回りするように弁解するからますますあやしい。
「それだけのことなんだ。浮気心なんて疑《うたが》わないでくれ。僕にはきみのことしか考えられないんだから」
「……わかってるわ」
うそでも何でも、結婚を決めたときからリディアは、彼の言葉を信じるしかないと思っていたからそう言った。
「怒ってないんだね?」
「怒るようなこと、何もないもの」
探るように彼は、こちらを見つめる。
キスがくる?
ルシンダみたいに目を閉じて待つことができないリディアは、どうしようとあせる。
暗いしふたりきりだし、エドガーは遠慮《えんりょ》しないに決まっている。でも、ふたりきりのキスは息苦しすぎてちょっと苦手だ。
うろたえる気持ちを隠しきれず、たぶんリディアは、あからさまに逃げ腰になっていただろう。
そんな彼女から、エドガーは手を離した。
苦手だと思うくせに、キスがなかったのは意外すぎて戸惑って、彼の顔をちらりと見る。
相変わらず機嫌の悪そうな顔をしている。
「どうして怒らないの? ああいうときは誤解したっていいんだ」
エドガーが何を言い出したのかわからず、リディアは黙《だま》っていた。
「あやまって立ち去る場面じゃない。恋人の部屋に女がいるときはね、男をひっぱたいて女を追い出すのが常識だろ」
常識って、こいつには日常茶飯事《にちじょうさはんじ》?
「……怒ってくれれば、きみが許してくれるまであやまる。それで仲直りできる。そういうものじゃないの?」
「で、でも、べつにあなたが悪いわけじゃ……」
「妬《や》けないの?」
そういうわけじゃないけれど。
「だって……、メイドがそんなことしたらおかしいもの」
エドガーはそれで、リディアがメイドのお仕着せを着ていることを思い出したようだった。
「そうだ、どうしてそんな格好《かっこう》を? メースフィールド公爵夫人の紹介で、きみは客人としてここへ来るはずだろう?」
「ええ、よくわからないけど、オートレッド夫人のお考えなんじゃないかしら」
「夫人が? きみにメイドの仕事をさせているのか?」
「夫人は今、あまりお話ができない状態みたいだから、たぶんメイド頭のミセス・ボイルが、事前にあたしを小間使《こまづか》いにするよう言いつけられてたんだと思うの」
ため息をつきながら、エドガーはリディアのお下げ髪を手に取った。
「これもかわいいけど、きみを働かせるなんて納得《なっとく》できない。今すぐ帰ろう」
「え、だめよエドガー。勝手に帰るなんて」
「夫人が病気で寝込んでいるんじゃ、どうせ何も教われない。社交界の作法《さほう》を教わりに来たのに、小間使いにするなんてわけがわからないよ」
「でも、夫人の真意がわからないまま失礼なことはできないわ。あたし、礼儀がなってない娘だって思われるかもしれないもの」
それはエドガーにとっても不名誉なことになる。
「だけど、手に傷が」
無数のひっかき傷は、薔薇《ばら》を摘《つ》んだときにできたものだった。
「平気よ、これくらい」
あわててリディアは手を隠す。そうしながら、彼がいつものようにキスしなかった理由が、この格好にあるのではないかと思えていた。
きらきらしたルシンダ嬢《じょう》との落差《らくさ》に戸惑《とまど》ったのかもしれない。
そうね。いくらフィアンセでも、そんな気になれないわよね。
「あたし、まだ仕事が残ってるの」
早くこの場を立ち去りたくなって、リディアはきびすを返す。
エドガーは止めるように腕をつかむ。
そのとき、上のフロアから、さび付いた車輪がきしむような、しわがれた悲鳴《ひめい》が聞こえてきた。
声はしばらく尾を引くように響《ひび》き、やがて消えた。同時に聞こえたはげしい物音も、オートレッド夫人の部屋から発せられたようだった。
エドガーとリディアが駆《か》けつけたときには、コンスタブル卿《きょう》も駆けつけていた。彼の客室は、オートレッド夫人の部屋に近かったからだろう。
コンスタブル卿は、控え室の奥にあるドアを開けようとしていたが、鍵《かぎ》がかかっているらしかった。
「コンスタブル卿、何があったんですか?」
不愉快《ふゆかい》そうな視線を、彼はちらりとエドガーに向ける。それでも、ぞんざいにだが返事はした。
「わからんね。駆けつけてすぐ声をかけたが、返事も物音もしない」
「どうかしましたか?」
現れたのは、給仕《きゅうじ》係のビリーだった。彼も悲鳴を聞きつけたようだが、ほとんどの召使《めしつか》いが階下に集まっている時間だ。また仕事をさぼってふらふらしていたのだろうかとリディアは怪訝《けげん》に思う。
そんなので、よくクビにならないものだわ。
「ドアが開かない。オートレッド夫人に何かあったみたいなんだ。合い鍵はあるかい?」
「執事《しつじ》を呼んできましょう」
急いできびすを返す彼を、エドガーはなぜか鋭《するど》い視線で見送った。
すぐに執事は駆けつけた。
鍵を開けると、赤々と燃える暖炉《だんろ》の火に照らされた室内は、息をのむほどひどいありさまだった。
椅子《いす》やテーブルが倒れ、絨毯《じゅうたん》はめくれ上がり、置き時計や花瓶《かびん》や化粧箱《けしょうばこ》やらスリッパやら、何もかもが散乱している。
しかし誰もいない。
コンスタブル卿は、意外と落ち着いた様子で、その奥にある寝室のドアへと近づいていき、開けはなった。
「レディ・オートレッド?」
姉弟というには他人|行儀《ぎょうぎ》な呼び方だが、疎遠《そえん》になっていたせいだろうか。
返事も何もなく、寝室もやはりめちゃくちゃに乱れていた。
ベッドへ歩み寄ったエドガーは、不思議そうにそこにある何かを見おろしている。
リディアがのぞき込めば、ナイフが刺《さ》さった野ウサギの死骸《しがい》が横たわっていた。
「オートレッド夫人は野ウサギだったのか」
エドガーがとぼけた冗談を言ったが誰も笑わなかった。
「ば、バカを言うな。姉はどこだ?」
「奥さまがお部屋から出たはずはありません。内側から鍵がかかっていたのはたしかです」
「窓からとか?」
ビリーは、開いたままになっていた窓の外をのぞき見た。
「二階の屋根に飛び降りれば、脱出できなくもありませんね」
「とすると、窓から逃げたのかな」
エドガーは言う。
「逃げる? 姉がなぜウサギを殺して逃げなきゃならない?」
コンスタブル卿は、苛立ったように声を荒《あら》らげた。
「オートレッド夫人が逃げたとは言っていませんよ」
エドガーは、ウサギとナイフを確かめつつ問うた。
「ナイフは夫人のもの?」
「いえ、見覚えありません」
執事が答えた。
「このウサギ、冷たくなっているし、今死んだわけじゃなさそうだ。でもナイフの握《にぎ》りの部分があたたかい。誰かが、たった今まで汗ばむほど強く握りしめていたようだね」
「さっぱりわけがわからん! 悲鳴をあげたのは誰だ?」
「あの、きっと妖精です」
リディアはつい口を出していた。
あきれたような視線が集まり、いたたまれなくなりかけたが、エドガーがそばで頷《うなず》いてくれたから、リディアは勇気を出した。
「たぶん妖精が、オートレッド夫人のふりをしてこの部屋で過ごしていたんだと思います。ここ数日、夫人の様子はふだんと違っていたんですよね? 部屋に閉じこもって、返事をしたり食事やお茶を平らげていたのは妖精だったんです」
「じゃあ、さっきの奇妙《きみょう》な声は妖精の叫《さけ》び声なのかい?」
まともに聞いてくれているのはエドガーだけだ。それでも自分にわかることを、みんなに伝えるしかない。
フェアリードクターにしかわからないことだからと、リディアは必死で言葉を続けた。
「ええ、ここへ誰かが入ってきたせいです。その人が、魔法でオートレッド夫人の姿になっていた妖精にナイフを……。それで妖精があの悲鳴をあげたんだと思います。犯人の方も、夫人の姿をした妖精が部屋をめちゃくちゃにするほど暴《あば》れたので驚いて逃げたんじゃないでしょうか」
「バカバカしい、何が妖精だ。姉は、いきなり奇声《きせい》を発したり奇妙な行動をする病気だってことだろう? この屋敷の連中が隠したくなるのも無理はないが、妖精話でごまかせると思っているのかね」
リディアと、それから執事をにらみつけて、コンスタブル卿は部屋を出ていった。
「じゃあさ、これは野ウサギじゃなくて妖精の死体か?」
ビリーはあきれたのを通り越したのかおかしそうだ。
「これは、妖精が着ていた毛皮よ。危害《きがい》を加えられて、怒って暴れて姿を消したんだわ」
「では奥さまは」
荒唐無稽《こうとうむけい》なことを言うリディアにも訊《たず》ねる気になるくらい、執事はオートレッド夫人の行方《ゆくえ》を心配したのだろう。
「わかりません。ただ、妖精と入れ替わったなら、妖精界にいらっしゃるかもしれません」
「……妖精界……、ご無事なんでしょうか」
「それは……、妖精がこの部屋で過ごすことに夫人との約束があったからだとすると、誰かにじゃまをされた妖精にとっては、約束を破られたことになります。契約《けいやく》を破ったら、妖精は簡単には許してくれません。夫人に危害《きがい》を加える可能性もあります」
執事は、落胆《らくたん》した様子で肩を落とした。
「妖精話はそのくらいにしましょうよ。たしかなのは、ナイフを必要とするような目的があって、誰かがここへ入ったんだ」
ビリーはそう言った。
「夫人を殺すつもりだったか、強盗が目的か。何か盗まれたものはある?」
エドガーに問われると、執事はざっと室内を見まわし、ベッドわきのチェストの引き出しを開けた。
「リガードネックレスがありません。いつも大切に、ここにしまわれておりました」
「夫人が身につけている可能性は?」
「かなり大きなものです。イブニングドレスの胸元を覆《おお》うほど豪華《ごうか》なものですから、ふだんから肌身《はだみ》離さずというわけには」
「とすると、ねらわれる可能性があるくらいには高価なものだね。ほかの宝石類もあるかどうか確認した方がいいよ」
「そのほかのものは、あの扉の向こうです」
寝室の片隅《かたすみ》に、青銅《せいどう》製のレリーフにも見える、薔薇の彫刻《ちょうこく》を施《ほどこ》した扉があった。大人なら身を屈《かが》めてくぐらねばならないほど小さな扉だ。
「鍵がかかってる」
エドガーは取っ手らしきものを動かそうとしたが動かなかった。
「リガードネックレスが鍵になっていると聞いております」
「なるほど。それでリガードネックレスを盗んだのかな。ここを開ける余裕《よゆう》はなかったようだけど。しかし、そんなこと客に言ってしまっていいの?」
「皆知っていることですし、どうすれば鍵が開くのか、奥さまにしかわかりませんから」
エドガーは、またベッドの上に視線を動かし、それから窓辺へ歩み寄ると、窓の掛け金に手を伸ばした。
「黒髪のメイドは何人いる? ほら、黒くて長い髪が何本も引っかかっていた。窓から逃げるときに引っかけたのかもしれない。オートレッド夫人は黒髪じゃなかったよね」
執事は神妙《しんみょう》に頷いた。
「メイドのことなら、ミセス・ボイルに訊ねましょう。そうだリディア、ここへ呼んできてくれないか」
「はい」
リディアに仕事を言いつけた執事に、エドガーが何か言い出しそうにしたが、彼女が小さく首を横に振ると口をつぐんだ。
「おれもいっしょに行くよ。そのへんを泥棒《どろぼう》がうろついてたら、女の子ひとりじゃ心配だ。それから、早めに警察を呼びましょう」
そう言ったビリーの方を、エドガーは不愉快そうににらんだ。が、彼の意見には異《い》を唱《とな》えなかった。
「たしかに、ナイフの持ち主がうろついている可能性がある。警察を呼びにいった方がいいのでは? 夫人が屋敷内のどこかにいるのか、それとも連れ去られたのか、調べる必要もありそうだ」
しかし執事は、しばらく考え込むと、やがて慎重《しんちょう》に口を開いた。
「いえ、アシェンバート伯爵《はくしゃく》、このことは外部には……。しばらく伏《ふ》せておいていただけませんか。もちろん屋敷内は調べますが、奥さまは、自分が突然いなくなったときの対処を、常々《つねづね》私どもに話しておりました。少なくともひと月は、誰にも報《しら》せずそっとしておいてほしい、でないと帰れなくなるかもしれないからと」
「突然いなくなることは、よくあるのか?」
「奥さまに関してははじめてですが、このオートレッド家のご先祖や、先に亡くなった旦那《だんな》さまにはまあございました」
先祖代々、デーン族とかかわっていた人物がいたのだろうとリディアは考えていた。
妖精とつきあうと、ほんの小一時間過ごしたつもりでも、何日も家を空けることになる場合もある。
「しかし、危険人物がいるかもしれないのに、野放しにするんですか?」
「たのむよ、ビリー、これはオートレッド伯爵一族が代々守ってきたことでもあるんだ。静かに待っていないと、よくないことになる」
「あたしもその方がいいと思います」
妖精に連れ去られたなら、騒ぎ立てるのはたしかによくない。この屋敷も庭園も、どうやら昔からデーン族が遊び場にしているようだし、大勢の人間が不注意に探れば、彼らはなわばりを荒らされたように感じるだろう。
最悪彼らがここから去ってしまえば、出入り口がふさがれて、人は戻ってこられなくなる。
「ならおれは、徹底的に調べますよ。こそ泥くらいとっつかまえてやる。だいたい、女の黒髪が残ってたって、犯人の作為《さくい》かもしれないし、そういう意味じゃ、客だってあやしい」
執事は困惑《こんわく》し、エドガーにもうしわけなさそうな顔を向けた。
ビリーはリディアを連れ、出ていこうとする。
「ただの給仕係にしては、出しゃばるね」
薄く微笑《ほほえ》むエドガーは、ビリーの態度があきらかに気にくわない様子だ。疑われたことよりも、リディアに付き添《そ》おうとすることがしゃくに障《さわ》っている。
「犯人が女でないなら、きみだってあやしいうちのひとりだよ」
ビリーは聞こえないふりをしていた。
結局、オートレッド夫人の部屋からなくなったものは、リガードネックレスだけだった。
問題の黒髪が、誰のものなのかはまだわかっていない。黒髪のメイドは何人かいたが、あのときは皆、階下の使用人部屋にいたと確認され、不審《ふしん》なところはなかった。
リガードネックレスにしても、本当に盗まれたのか、夫人が持っているのかもわからず、屋敷中をくまなくさがしても、夫人の行方は見当さえつかなかった。
リディアは朝から、オートレッド夫人の部屋を片づけながら、この部屋にいた妖精と接触できるようなものがないかと注意してさがしていたが、何も見つかりそうになかった。
「おいリディア、さがしたぞ。こんなところで何やってるんだ?」
床に座り込んで、ポプリの花びらを集めていると、ニコの声がした。
窓からするりと入ってきた灰色の妖精猫は、腰に手を当ててえらそうにリディアの前に立つ。
「なんだ、あなたも来たの」
「なんだってなんだよ。ひとりじゃ心細いかと来てやったのに」
心細かったけれど、いろいろあってそれどころではなくなっていた。
「なんでメイドのまねごとしてる? それが花嫁《はなよめ》修業《しゅぎょう》か?」
「まあ……ね」
「しかしこの部屋、妖精の足跡だらけだな。天井や壁にも走り回ったあとがあるぞ」
ニコはそう言いながら、いちばん上等の椅子《いす》にさっと飛び乗った。
「そうだわニコ、あなたならあたしよりずっと、妖精の痕跡《こんせき》がわかるのよね。デーン族に奥さまがさらわれたかもしれないの。彼らと話をしたいのよ。どうにかならない?」
「うーん、デーン族かあ」
難しそうに目を細め、ヒゲを撫《な》でながらニコは考え込んだ。
「人間は欲張りで宝をねらうからきらいだって種族だろ。近づけば泥棒|扱《あつか》いされるぞ」
「でも、妖精は奥さまの部屋にいたのよ。オートレッド夫人とは交流があったはずだわ」
「デーン族とまともに話がしたきゃ、やつらの秘密を知るしかないだろ。秘密を知る人間以外は、相手にされないか嫌《いや》がらせをされるだけだ」
「秘密って?」
「もちろん、やつらのお宝のありかさ」
「でも、それは偶然《ぐうぜん》、たまたまデーン族たちの会話を聞きつけないと」
[#挿絵(img/turquoise_113.jpg)入る]
そのうえで、秘密を口外《こうがい》しなければ、信用してもらえるのだろうか。
「そういえば、この屋敷にはもうひとり、デーン族と契約をした人がいたわ」
リディアは窓から外を眺《なが》める。薔薇園《ばらえん》があるのはあの小道の先だ。
視線を動かすと、手前の生《い》け垣《がき》に沿《そ》ってエドガーが歩いているのが見えた。
と、建物から赤いドレスの少女が駆《か》け出してくる。エドガーを呼び止め、うれしそうに話しかける。
そのうち並んで歩き出す。
エドガーの表情は見えない。でもきっと、愛想《あいそ》よく笑っているのだろう。
昨日彼は、ルシンダが同じイニシャルの誰かとエドガーのことを勘違いしているだけだと言っていた。本当なのだろうか。
けれど彼は、自分に気がある女の子が好きだ。そもそも女の子が近づいてきて、邪険《じゃけん》にするはずもない。
エドガーはたぶん、軽い気持ちなのだろう。微笑みかけるのも並んで歩くのも。だからリディアは、不愉快《ふゆかい》になるのは違うような気がする。
ルシンダが彼の部屋にいたくらいで、怒って追い出すなんてぴんとこない。
キス、してたわけじゃないし。
けれど、不愉快とは違うけれど、なんだか落ち込む。
エドガーに近づく女の子はたいてい、自分に自信があってきらきらしてて、リディアとは違って見えるからだ。
「なんだ、伯爵も来てんのか」
窓から身を乗り出したニコも、彼に気づいたようだった。
「で、伯爵はあの真っ赤なドレスを着た女と優雅《ゆうが》に散歩してるのに、あんたはメイドになって花嫁修業かよ」
「しかたがないわ」
ルシンダのような女の子は、とっくに花嫁修業を終えていて、あとは社交界にデビューするだけなのだから。
「それよりニコ、手伝ってちょうだい。早く終わらせて、行きたいところがあるの」
「えー、紳士《しんし》のおれさまがメイドの手伝いかよ」
「猫の手も借りたいのよ」
「猫じゃねえって!」
夫人の部屋を片づけ終えたリディアは、庭師のヴァージニアに会うために、ニコと薔薇園に向かった。
昨日と同じように、オートレッド邸《てい》の薔薇園から茂《しげ》みに入っていく。やがてたどり着くのは、薄く紗《しゃ》のかかったような靄《もや》の中、不思議な薔薇が咲き乱れる妖精の薔薇園だ。
人影が見あたらなかったので、リディアは丸太の小屋へ足を向けた。
「こんにちは、ヴァージニア」
声をかけると、ドアが開いた。
「まあリディア、また来てくれたのね。おや、猫もいっしょなの?」
「おれは猫じゃない。妖精だ」
「ふうん、しゃべるのね。それに、立って歩くなんてなかなか生意気《なまいき》じゃない」
くしゃっと頭を撫でられたニコだが、飄々《ひょうひょう》とした彼女の態度に、怒る気は失せたようだった。
「この庭師のおばさん、妖精の薔薇園に自分から住みたがるだけあるな」
「とにかく入って、雨が降るわ」
招き入れられ、しばらくすると、彼女の言うとおりに窓の外に細かな雨が降り始めた。
椅子に腰掛けたニコは、しきりに毛並みを直している。ヴァージニアがローズティーを入れるのを眺めながら、リディアはあまりゆっくりしてもいられないと、話を切り出すことにした。
「じつは、あたしデーン族に訊《き》きたいことがあるんです。それで、あなたならデーン族と何度か接していて、知り合いといえるような妖精もいるんじゃないかと思って」
少し悩んだ様子で、ヴァージニアは首を傾《かし》げた。
「わたしは、そんなに親しいとはいえないわ。薔薇を咲かせる技術は気に入られてると思うけど、いつも彼らは、声がするだけで姿を見せてくれたことはないの」
「じゃあ、呼びかけたりすることはできないんですか?」
「呼びかけて、応《こた》えてくれることもあればくれないこともある。でも、今日は少し様子がおかしかったわね。今朝《けさ》、新しい薔薇が咲いたのに、何も言ってくれないし、まだ薔薇園から出られないのよ」
ローズティーをテーブルに置いた庭師は、窓辺の植木鉢《うえきばち》を指さした。
ごく小さな、黄金色《こがねいろ》の薔薇が咲いていた。
鼈甲細工《べっこうざいく》かと見まがうような、透《す》き通った黄金色の薔薇は、触れればやわらかな花弁《かべん》が指先を押し返した。
「ステキですね」
「ありがとう」
「でも、妖精が現れないなんて、まさか、事件のせいかしら……」
「事件って?」
「奥さまの部屋に泥棒が入ったんです。でも部屋にいたのは妖精だったらしくて、泥棒のナイフが刺《さ》さった野ウサギだけが残されてて。奥さまの行方《ゆくえ》がわからないので、妖精なら知ってるんじゃないかと思って」
庭師は難しい顔になって考え込んだ。
「ナイフ……、ずいぶん物騒《ぶっそう》な」
「ええ、誰かが奥さまの命をねらったのか、それとも高価な宝石をねらって侵入《しんにゅう》したようなんです」
「リガードネックレスを?」
宝石がリガードネックレスだと、どうして庭師が知っているのだろう。リディアはかすかな疑問にとらわれたが、すぐにそれはかき消された。
妖精の声が聞こえたのだ。
(ヴァージニア、人間はうそつきだ)
はっとして、庭師もリディアも黙《だま》る。
ニコはティーカップを持ちあげたまま、ぴくりと耳を動かした。
(約束を破って、おれたちをあの部屋から追い出した)
(この屋敷の人間とは長いつきあいだったが、もう信用できない。ここを埋《う》めておれたちは出ていく)
「……そう」
庭師はため息とともにつぶやいた。妖精を、言葉や情で引きとめることも、考えを変えることも難しいと知っているのだろう。
しかしリディアはフェアリードクターだ。難しくても、誰かのために妖精と駆け引きをするのが仕事だ。
「デーンたち、それは誤解だわ。オートレッド夫人は、約束を破ったんじゃないの。泥棒《どろぼう》が入っただけなのよ」
「泥棒? 冗談じゃない。そういうことなら急がなければ。でないと、泥棒に薔薇園を荒らされちまう」
やぶへびだったわ。
あせりながらもリディアはどうにかしようとデーン族に声をかけ続けた。
「ヴァージニアはどうなるの? 新しい薔薇が今朝咲いたのよ。彼女をここから出してちょうだい」
(昨夜のうちに契約《けいやく》は破られたのだ。ヴァージニアは出られない)
だったら彼女は、薔薇園ごと埋められてしまうではないか。
それはだめだ。助けなければ。
それに、妖精たちがいなくなったら、オートレッド夫人の行方もわからないまま、彼女もどこか妖精の領域に閉じこめられたままになるのではないか。
リディアは意を決めると、立ち上がって声のする方に向き直った。
「よく聞いて、デーンたち。あたしはフェアリードクターよ、あなたたちの、大事な秘密を知っているわ」
「おい、リディア!」
ニコがあわてた様子で、ティーカップをがちゃんと置いた。
(何だって? 本当か?)
案《あん》の定《じょう》、デーン族はあせった声になった。
(……ならしかたがない。ひとつだけ願い事を言うがいい。おまえの知る、我《わ》が一族の秘密と引き換えにかなえてやる)
もちろんリディアは、秘密など知らないのだから、今すぐ願い事をするわけにはいかなかった。
ようするにこれは時間|稼《かせ》ぎだ。
「それは、これから考えるわ。だから、それまであなたたちにこの屋敷にいてもらわなきゃ。勝手に出ていってしまったら、誰かに秘密をしゃべるかもしれないわよ」
(……五日後の、満月の夜明けまでだ。それ以上は待てない)
「わ、わかったわ。約束よ」
約束が成立すると、天井裏を駆けるような小さな足音が遠ざかっていった。
気配《けはい》がなくなったのを見計《みはか》らって、ニコが声をあげた。
「リディア、なんてこと言うんだ。うそだってばれたら大変なことになるぞ!」
「だってニコ……、ほかに方法がなかったわ。とにかく、うそがばれる前に彼らの財宝の隠し場所がわかればいいんでしょ?」
「わかるわけないだろ!」
椅子の上に立ち上がった彼は、頭をかきむしって自ら毛並みをくしゃくしゃにするほど苛立《いらだ》っていた。
「ほんっとにあんたって、無鉄砲だよ! 後先《あとさき》考えろっての!」
「でもニコ、どのみち彼らの秘密を知るしか、協力を取り付けることはできないのよ」
それからリディアは、ヴァージニアに微笑《ほほえ》みかけた。
「大丈夫です、あたし、何とかしますから」
「リディア、わたしのことはいいの。妖精と深くかかわるのは危険だって知ってて、ここへ出入りしてたんだから。残念なのは、友達に会えなくなってしまったことよ」
「友達、ですか?」
懐《なつ》かしげに目を細め、彼女は遠くを見つめた。
「もうすぐ来るはずだった。約束の薔薇が咲くからって手紙を出したの。事情があって、もう十年会ってないわ。でも、離れていても友情を忘れないために、いつか彼女のために青い薔薇を咲かせるって約束したのよ。そのときは、何があっても会いに来てくれるって彼女の方も約束してくれた」
青い薔薇。
それはまだ、誰も咲かせたことがないのだとリディアも聞いたことがある。
「青い薔薇が咲いたんですか?」
庭師は立ち上がり、リディアを外へ手招《てまね》いた。雨はもうやんでいた。
薔薇園には虹《にじ》が出ていた。石段を登り、小高い場所に出ると、薔薇の木が一株《ひとかぶ》だけ植わっていた。膨《ふく》らみかけたつぼみをいくつも付けている。
「五日後の満月の夜、月の出とともに咲くわ。間違いなく青い薔薇よ」
彼女がこの、妖精の薔薇園から離れられなかったのは、青い薔薇を咲かせられるのはここだけだと思ったからではないだろうか。リディアはふとそう思った。
友達との約束を実現するために、危険でも、何度もここへやって来たのだ。
「リディア、あなたはもう、ここへ近づかないことね。……奥さまのことも、なるようにしかならない。もし、青い薔薇のことを訊《たず》ねる人が屋敷へ現れたら、本当に咲いたんだってことだけ伝えて」
きっぱりと、彼女は言った。
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意地悪な嫉妬《しっと》
「リディア、あなたアシェンバート伯爵《はくしゃく》と知り合いだったのね」
薔薇園《ばらえん》から屋敷へ戻ってきたリディアの前に、にっこり笑いながら立ちはだかったのはルシンダだった。
「え……あの、まあ……」
「じゃあ、前にいたお屋敷は、伯爵のお知り合いの家? そこで伯爵のお手つきにでもなったわけかしら?」
お、おて……?
なんてことを言うのかしらとリディアは赤くなるが、ルシンダは平気だ。
「かわいそうに、それで仕事をやめさせられたの? 小間使《こまづか》いを遊び相手にするなんて、殿方《とのがた》にはよくあることみたいだけど、風紀《ふうき》の乱れた召使《めしつか》いはどこのお屋敷でも敬遠《けいえん》するものね」
「違います、そんなんじゃ」
「隠さなくていいのよ。あたし、伯母《おば》さまに告げ口したりしないから」
ルシンダはまだ、オートレッド夫人がいないのを知らないようだ。コンスタブル卿《きょう》が、娘を不安にさせまいと黙っているのだろう。
告げ口しないとわざわざ言うからには、なにやら考えがありそうなルシンダは、微笑《ほほえ》みながらリディアに寄り添《そ》う。
内緒《ないしょ》話をするようにささやく。
「父がね、アシェンバート伯爵との結婚を認めてくれないの。ほら、父に内緒であたしに手紙を送ったり、勝手にプロポーズしたのが許せないみたい」
それはエドガーではないというが。
「だから、彼と会おうとしてくれないの。食事にも同席しないって言い張ってるわ。でも伯母さまはご病気じゃあてにできないし」
「はあ……」
「それでねリディア、彼がどれほどあたしを想《おも》ってるか、父に説明してくれない?」
「えっ!」
「それらしく言ってくれればいいのよ。別の人に話を聞けば、また見方も変わると思うの」
ルシンダは、小間使いとしてのリディアの弱みを握《にぎ》ったと考えている。恋敵《こいがたき》としてじゃまに思うから、自分と彼との仲を取り持たせようとしているのだ。そうすることで彼女は、リディアとエドガーとの間を裂こうとしている。もともと遊び相手にすぎないのだから、と。
さすがにリディアは反発をおぼえ、黙《だま》り込んだ。
正式に婚約しているはずなのに、遊びだと決めつけられるなんて。
小間使いの身分だから?
いったいいつまで、こんなことを続けていなければいけないのだろう。
けれど、オートレッド夫人がいない。
勝手にやめればリディアは夫人の後ろ盾《だて》を得ることはできなくなるし、エドガーを落胆《らくたん》させてしまうかもしれない。
何よりも、庭師のヴァージニアを助けたいし、オートレッド夫人の行方《ゆくえ》も気になるし、とにかく妖精がかかわっている以上、簡単にここを去るわけにはいかないのだ。
でも、ルシンダの言いなりにはなりたくない。
「彼は、あたしだけだって……」
口をついて出たのはそんな言葉だった。
今のリディアにとって、よりどころはエドガーのその言葉だけだ。信じているのかどうかよりも、そこにすがらなければルシンダの思い通りにさせられてしまいそうだった。
ルシンダはさっと顔を赤らめた。頭にきたのか、急に手を振り上げると、リディアの頬《ほお》をぴしゃりと打つ。
「小間使いのくせに、おぼえてなさい」
貴族のお嬢さまだって人間なんだわ。呆然《ぼうぜん》としつつもそう思うほど、彼女は憎《にく》しみにゆがんだ顔をしていた。
そしてそのまま、しゃべらない小間使いを連れて去った。
「大丈夫ですか、リディアさん」
リディアが歩き始めたとき、階段の上で声がした。褐色《かっしょく》の肌の少年が、こちらを見おろしていた。
「……レイヴン、ずっと見てたの」
「たった今通りかかったところです」
彼が言うからにはそうなのだろう。それにしたって、平手打ちは見られたはずだ。
「エドガーさまが、話をしたいとさがしておられます」
「あたし、帰らないわよ」
リディアは歩き出す。レイヴンは追うようにあとをついてきた。
「屋敷内にはまだ、危険な人物がいるかもしれません。何事もなく振る舞っている誰かが、突然|牙《きば》をむくかもしれないんですよ」
「外からの侵入者《しんにゅうしゃ》だったなら、とっくにどこかへ行ってるわ。黒髪のあやしい女は屋敷にはいないんだし」
「ルシンダ嬢も黒髪です」
「まさか。姪《めい》が伯母上を襲うわけないでしょ」
リガードネックレスを借りたいとか話していたのを思い出すけれど、盗《ぬす》む理由はない。
「もともと不仲な親族らしいですから、どんな確執《かくしつ》があるのか部外者にはわかりません」
「そんなに怖いのなら、先に帰ってくれればいいわよ」
「エドガーさまが恐《おそ》れているのは、リディアさんが危険な目にあうことだけです」
レイヴンは心底《しんそこ》そう思っている。エドガーは……、そう思ってくれているならリディアはうれしくも感じるけれど、ルシンダにたたかれた頬はまだひりひりとした。
エドガーのせいじゃないとは思っても、すっきりしない。ルシンダは、どうあがいてもリディアは自分のようにはなれないと見下している。
小間使いではなくても、このままのリディアでは、たしかに社交界に出ることさえ難しい。
「……あたしは帰らないわ」
「ならせめて、メイドの仕事をやめて、エドガーさまの婚約者だという身分をきちんと明かしてください」
きちんと明かせば、ルシンダはあきらめるだろうか。でも、自分から明かしてしまえば、オートレッド夫人の教育を拒否《きょひ》したことになる。
慣れない使用人の仕事だけれど、音《ね》をあげずにがんばれば、これから、慣れない貴族社会で大変なことがあっても乗り越えられるとリディアは思うし、オートレッド夫人もそれを確かめようとしているのかもしれないのだ。
「夫人がいないのに、勝手に小間使いをやめるわけにいかないの」
「意地を張らないでください。そばにいないと、常には目が届きません」
むっとして、リディアは立ち止まった。
意地って何よ。
「これはエドガーが望んだことだわ。あたしがオートレッド夫人の言うとおりの教育を受けて、レディらしくなれば彼は満足なんでしょう? なのに今さらやめろって何なの!」
リディアはまた急ぎ足で歩き出すが、レイヴンはあきらめない。追いかけてきて、彼女の腕をつかむ。
「離してちょうだい」
「いいえ、いっしょに来てください」
「あたし忙しいの!」
「おい、あんた、何やってんだよ」
中庭の方から姿を見せたのはビリーだった。
レイヴンは、彼に向き直りながらもリディアの腕は離さなかった。
「誰だ? うちの召使いじゃないな?」
「私は、ロード・アシェンバートの従者《バレット》です」
「なるほど、女たらしと評判の伯爵は、召使いも女たらしか。うちの小間使いを口説《くど》くとは」
「違うの、ビリー……、彼とは知り合いで」
「行きましょう」
レイヴンはリディアを連れて去ろうとする。
ビリーが、無造作《むぞうさ》にレイヴンの肩をつかんだ。
とたん、レイヴンは身を翻《ひるがえ》した。肩から離れたビリーの腕を取り上げ、力を入れる。
「やめて、レイヴン!」
給仕《きゅうじ》係なんて一瞬で腕をへし折られてしまうのではないかとあせり、リディアは叫《さけ》んだ。
しかしビリーは、ひざを蹴《け》り上げて反撃しようとした。
それをかわして背後《はいご》に回り込んだレイヴンは、あわてて振り返ったビリーと、身構《みがま》えながら無言でにらみ合った。
ようやく彼らが緊張《きんちょう》を解《と》いたのは、メイド頭が現れたからだ。
「リディア、何をしてるの。さっきからさがしてるのに。休んでるひまはないのよ!」
「あ……、すみません、ミセス・ボイル」
リディアは、レイヴンの方をちらりと見る。
「お願いレイヴン、エドガーにあたしのこと、いちいち報告しないで」
それだけささやき、急いでメイド頭についていくリディアを、さすがにもうレイヴンは追ってはこなかった。
おぼえてなさい、とルシンダが言ったのは、単なる捨てぜりふではなかった。
その日からリディアは、ほかの使用人たちに無視され、陰口《かげぐち》をたたかれることになった。
どうやら、男とふしだらなつきあいをしてクビになった小間使いだと言いふらされたらしかった。
すぐにリディアはメイド頭に問いつめられた。否定はしたが、信じてくれたようには見えなかった。
「小間使いをやめさせる権利は私にはありませんから、奥さまが戻ってこられるまで雇《やと》うしかないでしょうけど、この家の品位を穢《けが》すようなことは許しませんよ」
強い口調《くちょう》は、あきらかに、自分だったら追い出しているという意味だった。
リディアは頷《うなず》くしかなかった。
ミセス・ボイルは、オートレッド夫人に新しい小間使いが来るとしか聞かされていないようだ。リディアを本当に小間使いだと思っているのだからしかたがない。
くやしい。けれど、追い出されないならリディアは、オートレッド夫人をさがし出して誤解を解くこともできるはずだ。
陰口なんて、聞き流せばすむことだわ。
「前のお屋敷で、奥さまのお客に言い寄ったりしてたんだって」
しかし、陰口だから陰で言われるとは限らなかった。メイドが数人集まれば、リディアが近くにいようと、堂々と噂話《うわさばなし》を口にする。
「やだ、恥《はじ》知らずよね」
「ここでも同じようなことするんじゃないの?」
「もうお客さまに言い寄ってるかも」
「奥さまの弟に?」
「あの若い貴族の方でしょ。あたしあの人に、あの子のこと聞かれたもん」
エドガーってばよけいなことを。
「でもあの人は、ルシンダさまの婚約者だって聞いたけど?」
「ええっ、なのに誘惑《ゆうわく》するなんて、あの子どういうつもりかしら」
こういうときは、仕事だと呼びつけられてさえほっとする。
しかしそれが、ルシンダ嬢のお世話だとなると、リディアはまた憂鬱《ゆううつ》な気分になる。
どういうわけか、リディアにはルシンダに言いつけられる仕事が振り分けられるようになっていた。
奥さまが留守《るす》では、小間使《こまづか》いの仕事が少なすぎるからだ。
ルシンダの部屋へ行くように言われ、中庭を横切ったとき、ぽつりと水滴《すいてき》を髪に感じた。
雨かしら。
見あげても、空は薄青《うすあお》く晴れている。
と、リディアは香水の強い匂《にお》いを感じ、眉《まゆ》をひそめた。誰かが窓から香水を捨てたようだった。
不愉快《ふゆかい》だったが、洗っているひまもない。
そのままルシンダの部屋へ入ると、ミセス・ボイルがこちらをにらんだ。
「リディア、お嬢さまのベッドを整えたのはあなたね?」
「はい」
「これはどういうことなの?」
シーツの上に泥《どろ》がまき散らされていた。
「あたしは……知りません」
「あなたのほかに、誰もこの部屋へ入っていないのよ」
だったらルシンダが自分でやったに決まっている。そう思って彼女の方を見たが、もちろん知らんぷりしている。
「リディア、本当のことを言いなさい」
「ねえミセス・ボイル、あんまりしからないで。わたしがアシェンバート伯爵《はくしゃく》の婚約者だからって、彼女は少し妬《や》いてしまったのよ。小間使いなのに、伯爵に気があるんですって」
この子……。
「あたしじゃありません」
乗せられたら相手の思うつぼだと、リディアはがまんする。しかしルシンダは、微笑《ほほえ》みながら近づいてくる。
「あら? 香水の匂い? これ……わたしの香水だわ」
えっ?
「まあリディア、あなたお嬢さまのものを勝手に使ったの?」
「ち、違います」
「そんなにわたしみたいになりたいのかしら」
……バカ言わないで。
あきれながら深呼吸したリディアは、ちらりと目があったルシンダの小間使いが、あからさまに目をそらしたのを不審《ふしん》に思った。
視線を動かし、彼女の爪《つめ》に泥が残っているのを見つける。
小間使いにやらせているんだわ。
そう気づいたとたん、リディアは反論する気がそがれた。
アニーの爪の泥を指摘すれば、ルシンダはすべて彼女のせいにするに決まっている。しゃべれないというアニーに、反論の機会はない。
「もういいわ。ミセス・ボイル、別の人にベッドを直してもらいます」
アニーの手を見つめるリディアに気づいたのか、ルシンダはさっさと話を切り上げた。
メイド頭が手振りで出ていくように示し、リディアは黙《だま》ったまま部屋を出た。
庭園の、噴水《ふんすい》のそばまでやって来たリディアは、石垣《いしがき》に腰掛け髪をほどいた。
鼻につく香水の匂いを洗おうと、流れる水で毛先をすすぐ。
水音に紛《まぎ》れ、くすくすと笑い声が聞こえるのは、木の葉のあいだを舞う妖精たちだ。
この庭園では、妖精を見かけることは少なくない。けれど、デーン族はなかなか見あたらない。
秘密を聞き出せないかと、彼らの会話を盗み聞きしようと思っているリディアだが、もくろみは成功していない。
仕事の合間に庭園を歩き回っているが、ちらりと姿を見かけても、リディアは警戒《けいかい》されているらしく、デーン族はすぐに隠れてしまうのだ。
「それにしても、おなかがすいたわ」
ため息とともにつぶやく。
今朝《けさ》はオートミールの皿に虫が入っていた。誰かの意地悪《いじわる》に違いなかったが、代わりの食事はもらえなかった。
あたりの木々を見まわすが、まだまだ果実が実る季節ではない。
代わりに目についたのは、ちょうどこちらへ向かって歩いてくるニコだった。
「なあリディア、やっぱり無理だよ。デーン族の秘密を知ろうなんてさ」
二本足でてくてく歩きながら、リディアに近づいてくる。
「あいつら、ほかの妖精族も寄せ付けない。先祖代々の宝を盗まれまいと必死だからな」
はったりでデーン族から猶予《ゆうよ》期間をもぎ取ったリディアのために、あれ以来ニコも、秘密を聞きだそうと協力してくれているが、成果はないようだ。
「とっとと逃げようぜ。あの庭師のおばさんも、薔薇園《ばらえん》で埋《う》もれるのも悪くはないと思ってるみたいだし、もう来るなって言ってたじゃないか。ここの奥さまにしたって、あんたが責任感じることじゃないだろ」
リディアは黙ったまま空を仰《あお》いだ。
「それにしても、噴水に頭からつっこんだのか?」
「……違うわよ」
「バカだなあ、水の中にデーン族はいないって」
はは、と笑うニコは人の気も知らない。
「お、伯爵《はくしゃく》だ」
「えっ」
リディアがはっと視線を戻したときには、エドガーは目の前にいた。
あわてて立ち上がれば、ますますエドガーの顔が近づいた。後ずさろうにも、背後は噴水の池だ。
ついうしろに転びそうになったリディアの背中を、エドガーの腕がささえた。
「やっと、ふたりになれた」
「ふたりじゃねえって」
ニコがあきれたように頬杖《ほおづえ》をつく。
「ニコ、ふたりきりにしてくれないか」
わざわざニコを追い払うエドガーは、ちょっと苛立《いらだ》っているように見える。
「はいはい、仲良くな」
薄情《はくじょう》にもニコは行ってしまう。
リディアをぐいと引き寄せ、彼は灰紫《アッシュモーヴ》の瞳で覗《のぞ》き込むようにじっと見つめた。
「どうして僕を避《さ》けるの?」
「べつに、忙しくて……」
避けていたのだがリディアはそう言う。
「リディア、本当のことを言ってほしいんだ」
レイヴンから報告は行っていないらしいとほっとしながら、なおさら何も言うわけにはいかなかった。
意地悪をされているなんて、エドガーには知られたくない。悪い噂を立てられていることも、ルシンダにこき使われさげすまれていることも、自分がふがいないからだと思えば、そんなことはエドガーには知られたくない。
もともと、妖精とばかりつきあってきて、人とかかわるのは苦手な自分だけれど、エドガーと結婚するなら人付き合いも避けてばかりはいられない。
貴族社会でやっていかなければならないのに、やっぱり人とはうまくいかないなんて思われたくないのだ。
「……本当に忙しいだけよ」
リディアはもがくようにして、どうにかエドガーから離れた。
正直、こんなところを誰かに見られたら困る。召使《めしつか》いのあいだでは、エドガーはルシンダの婚約者だと思われているのだ。なのに誘惑していたとか、ますます非難《ひなん》を浴びてしまう。
「きみがどうしても帰りたくないっていうなら、僕はここで見守るつもりだ。でも避けられていたんじゃ何もできない」
「大丈夫よ。……誰かにねらわれてるのは奥さまの宝石で、召使いじゃないでしょ」
「それも心配だけど、きみが慣れない仕事をしていることも心配なんだ。不安や悩みがあれば、どんなことでも話してほしい」
「だから、何もないってば」
「リディア、きみがここへ来るよう望んだのは僕だよ。でもこんなことで気持ちがすれ違うのはいやなんだ」
「エドガー、人が」
リディアが急いで距離をとると、足音が聞こえた植え込みの向こうから、こちらへやって来たのはビリーだった。
どうしてこの人にはよく会うのかしら。
「やあ、きみとはよく会うね」
エドガーが、リディアと同じ感想を口にしたが、この上なく冷たい声だった。
「どうも」
無愛想《ぶあいそう》に応《こた》えるビリーも、エドガーの敵意は感じている。
「給仕《きゅうじ》係はよほどひまなのかな」
「リディアをさがしてたんです」
彼はリディアを見て微笑み、小さな紙包みをかかげてみせる。
「料理長《クック》が、ちょっと焦がしたビスケットをくれたんだけどさ、おれあまいもの苦手だから」
「え、もらっていいの?」
空腹のリディアには願ってもないことだった。
が、手渡そうとビリーが近づいてきたとき、エドガーが足を出した。
「うわっ」
つんのめったビリーはよろけて植え込みに突っ込み、ビスケットを落としてしまう。包みがほどけ、中身が地面に散らばる。
「な、何するんですか!」
「なんだ。意外と隙《すき》があるね」
「は……、あなたの従者《じゅうしゃ》ほどの反射神経は、ふつう召使いには必要ありませんからね」
上着にくっついた木の葉を払いながら、ビリーはむっとして返す。
「それでもきみ、給仕係とは思えないほど腕が立つみたいじゃないか。ああそうだ、気に入らない客をディナーに招くときは、きみに給仕をたのもうか」
「招かなきゃいいでしょう」
「毒を盛りたい相手のことだよ」
「お断りしておきます」
にらみ合うふたりをよそに、リディアは茂《しげ》みに引っかかった包み紙を拾いあげてみるが。中身はひとつも残っていなかった。
食べそこねたとなると、急に空腹感が増す。
なんだか腹が立ってくる。
エドガーのせいだわ。
そう思うとリディアは、エドガーにずかずかと詰め寄っていた。
「もう、どうしてくれるのよ! ビスケットがだめになっちゃったじゃない! せっかくのビスケットが……。ええ、あなたってばいつもそう、一方的なばかりであたしのことちっともわかってないわ! なのにそうやってね、親切な男の人に意味もなく敵対心《てきたいしん》燃やすのはやめてちょうだい! 最低よっ!」
なかば涙目で言い放《はな》つと、リディアはきびすを返し、呆気《あっけ》にとられるエドガーとビリーを残してその場から駆《か》け出した。
夜も更《ふ》けたころ、月光を照り返して輝《かがや》く屋根の上をてくてく歩きながら、ニコは建物の端《はし》っこにある天窓から、屋根裏部屋へとすべり込んだ。
リディアが寝泊まりするこの部屋は、せますぎる上に寝床《ねどこ》にするソファもクッションもないのがニコには不満だが、いちおう彼は、眠るためにここへ帰ってきた。
リディアは、まるくなって眠っていた。
ベッドのすみに陣取ると、ニコは毛布を引き寄せた。
リディアが子供のころは、同じベッドで眠ったものだ。しかしリディアの寝相《ねぞう》は散々で、彼女が成長するほどに何度もベッドから蹴《け》り落とされるようになったため、もうこいつとはいっしょに寝るもんかと思ったのだった。
けれど、今夜はリディアのことが気になった。ちょっと疲れているように見えたからだ。たしかに、仕事をしながら妖精の秘密を調べるのは大変だろう。
リディアはいつでも、がんばりすぎるから心配だ。
婚約したのだから、ニコにとっては彼女のおもり役も卒業だと思いたいところだが、リディアは相変わらず、ひとりでがんばろうとする。
伯爵のことは好きなくせに、婚約したというだけでは素直《すなお》に心を開けないらしい。
「おいリディア、泣いてるのか?」
眠っていると思っていたが、かすかに彼女の肩がふるえているような気がして、ニコは問いかけた。
しかし返事はなく、身動きもしない。
やっぱり眠っているのだろうか?
ニコは覗《のぞ》き込もうとしたが、毛布をしっかりかぶったリディアの様子はわからなかった。
シーツに落ちた赤茶の髪を拾いあげてみた。つんつんと引っぱってみても、反応はない。
けれど、かすかに髪の毛が湿《しめ》っていた。
また頭から水をかぶったわけじゃないだろうし。
ニコは困り果てた。
リディアはもう、ニコがなだめたって泣きやまない。
彼女の母親もそうだったから、ニコにはよくわかっている。
これからは、リディアの心の曇《くも》りを取り払えるのはひとりだけだ。
「ビリーと同時に雇《やと》われた召使いは、彼を含めて四人です。ほかに新参《しんざん》の部外者といえば、庭園の木を植え替える作業員が数人いますが、彼らは離れの小屋で寝泊まりしているので、屋敷へ入ってくることはなさそうです」
朝からエドガーは、レイヴンの報告に耳を傾《かたむ》けながら、どうして昨日リディアがあんなに怒ったのかをずっと気にし続けていた。
料理長が失敗したビスケットを、そんなに食べたかったのだろうか。しかし、最低≠ニまで言われることだろうか。
「ビリー以外の三人は雑用係となっていますが、彼ら四人はもともと知り合いではあるようです。あの夜の、オートレッド夫人が消えた事件以来、頻繁《ひんぱん》に連絡を取り合っている様子があります」
それにリディアは、菓子をくれると言ったビリーに対し、とてもうれしそうだった。
「リガードネックレスについても、古くからいるメイドたちに、いろいろ聞き出そうとしています。単に探偵《たんてい》気取りなのかどうかはわかりません」
あんなにうれしそうなリディアは、かつてエドガーが贈り物をしようとしたときには見たこともない。
あいつ、ぶっ殺してやりたい。
「エドガーさま」
「え? ああ、夫人の、なくなったリガードネックレスか。あれが、夫人の宝石をしまった扉の鍵《かぎ》だったっけ」
オートレッド夫人は、社交界に出ていたころ、宝石持ちで知られていた。そんな多数の宝石が、あの扉の向こうにあるというのだから、宝石目当てならまずリガードネックレスをねらうだろう。
「ビリーが、四人組、あるいはそれ以上の窃盗《せっとう》団である可能性は捨て切れませんが、これといった証拠《しょうこ》もありません」
「ただね、あの夜ビリーが、夫人の部屋の近くにいたのは、給仕係にしては不自然なんだ。彼が犯人で、窓から屋根へ逃げて、別の部屋の窓から入ったのだとすればあり得る話だし、それともほかの仲間……黒髪の女が実行するのを見張っていたのかもしれない」
もしもそうなら、リディアの周囲をうろつくのも目的があってのことだ。
新入りとはいえ、オートレッド夫人の小間使《こまづか》いという立場のリディアが、宝石のことを知っているかもしれないと思っているのではないだろうか。
「レイヴン、リディアに危険がないよう、しばらく気をつけておいてくれるか?」
「はい。今の時間はミセス・ボイルといっしょに仕事をしているはずですから、ひとりになりそうなときは目を離さないようにします」
「うん、たのむよ」
エドガーの姿を見るとリディアは逃げるのだからしかたがない。
もともと彼女は、メイドなんてやっているのを見られたくなかったようだ。そのうえルシンダのことがあって、またエドガーを疑っているのかもしれない。
だから避けられるし、妬《や》いてもくれない。
信じると言ってくれているけれど、どこか気持ちが遠のいてしまったとしたら、エドガーにはつらいことだ。
「おい伯爵、大変だ! 何とかしてくれよ!」
落ち込みかけたところへ、わめきながら駆け込んできたのはニコだった。
あとにしてくれ、と片手で追い払おうとしたのだが。
「リディアが、一晩中泣いてたんだぞ。どうしてくれるんだよ!」
「なんだって?」
「このところ元気がなかったし、きっと何かあったんだ。フェアリードクターの仕事なら、つらくたって泣いたことなんかないんだぜ。夫人のことだっておれをせっついて、がんばって行方《ゆくえ》をさがしてるんだ。なあ伯爵、あんたなんか傷つけるようなことしてないか?」
「いや、それは……」
「だったらあやまってくれ。もう浮気なんかしませんってリディアにあやまってくれよ」
「浮気? 決めつけないでくれ」
「じゃあ何だって言うんだよ」
「あのう……」
意外にもレイヴンが、おずおずと口をはさんだ。
「もうしわけありません、エドガーさま。リディアさんが、言うなとおっしゃったもので」
そうしてレイヴンは、リディアがルシンダに嫉妬《しっと》され、意地悪をされていることや、悪い噂《うわさ》を流されていることを話した。
どうやらエドガーを避けていたのはそのせいもあるようだ。
「それに昨日は、配膳《はいぜん》のメイドたちに嫌《いや》がらせを受けたようで、土だらけのパンを捨てていました」
はっとして、エドガーは立ち上がった。
「じゃあリディアは、食事をまともにしていない?」
「私が見かけたのは朝食時だけですが」
「レイヴン、それを早く言ってくれ」
「……すみません。どうしていいかわからなかったのです」
わからないながらも彼は、リディアの希望どおりに黙っていたのだ。
これまでならレイヴンは、エドガーの命令だけに従っていればよかった。しかし今はリディアの言葉も尊重しようとしている。
それは、主人以外を人とも思っていなかったレイヴンにとっては大きな進歩だった。
「いや、おまえが悪いんじゃないよ」
それよりも、間違っていたのはエドガーだ。
リディアに危険が降りかかることばかり心配していた。けれど今の彼女は、宝石|泥棒《どろぼう》ではなく小さな悪意《あくい》に傷つけられる立場にいる。
オートレッド夫人の考えで、リディアは小間使いを体験しているだけだ。けれど本当のことを知っている夫人がいないなら、リディアの本当の立場を守れる者がいないのだ。
エドガーのほかには、リディアがそんな仕打ちを受けるいわれなどないことを知る者はいない。
「ああニコ、やっぱり僕のせいだ。ビリーがくれたビスケットを、リディアの目の前で落としてやったんだ。ほかの男から、うれしそうにお菓子をもらうなんてしゃくだったから」
「ええっ、リディアはそれ、すごく食べたかったんじゃ……」
「うん、ものすごく怒って行ってしまった」
「ああ、どうすんだよ伯爵《はくしゃく》、食い物の恨《うら》みは恐《おそ》ろしいんだからな!」
「そりゃあニコ、きみはそうだろうけど」
「リディアだってそうだよ!」
「レイヴン、どう思う?」
「私なら、一生忘れません」
純粋《じゅんすい》な意見で、彼は心底《しんそこ》エドガーを落ち込ませた。
が、落ち込んでいる場合ではなかった。
今すぐリディアには、小間使いなんてやめさせようと心に決め、部屋を出る。
しかし間《ま》が悪いことに、部屋を出たとたん、廊下《ろうか》の向こうから、太った男が歩いて来るのが目についた。
コンスタブル卿《きょう》だ。ルシンダを連れて帰ると言いながらまだ帰らない。ルシンダに帰る気がないのはもちろんのこと、エドガーに腹を立てながらも彼自身、別の腹づもりで居残《いのこ》っているのだろう。
ルシンダが家庭教師の子だというのは社交界に知れ渡っている。縁談《えんだん》を高望《たかのぞ》みすれば、二の足を踏《ふ》む貴族もいるだろう。そんなとき娘にちょっかいを出したのが、アシェンバート伯爵だと信じた彼は、悪くないと考えたようだ。
だから、エドガーに侮辱《ぶじょく》を受けながら、まだ責任を取らせることを考えている。
そんなコンスタブル卿が目の前で立ち止まったのは、エドガーにとっては悪い報《しら》せだった。
「アシェンバート卿、あなたは姉の小間使いと知り合いらしいね」
リディアのことか。
「まったく、ひどい女だ。ルシンダのブローチを盗《ぬす》むなんて」
「彼女がそんなことをするはずないでしょう」
「知らないと言い張るんだがね、伯爵、知り合いなら、ブローチを返すよう言い聞かせてくれないか」
「なぜ彼女が盗んだなんて、お嬢《じょう》さんは言いがかりをつけるんです?」
「言いがかりだと? ルシンダが象牙《ぞうげ》の宝石箱をベッドの下に入れたのを、あのメイドは知っているはずだからだ」
それだけで?
あきれたが、コンスタブル卿は憤慨《ふんがい》したまままくし立てる。
「とにかく、あのメイドの部屋を調べることになった。証人としてあなたに立ち会ってもらいたい」
それでエドガーを呼びに来たらしかった。
ルシンダは、エドガーの前でリディアに恥《はじ》をかかせる気だ。すぐにそう気づいたエドガーは、レイヴンを呼んだ。
彼には小さく耳打ちして、エドガーはコンスタブル卿と歩き出す。もちろん、こんなことを許してはおけないと思っていた。
何の証拠もないのに、部屋の中までさがすなんて冗談じゃない。オートレッド夫人がいたなら、リディアのここでの保護者として止めたはずだろう。しかし夫人がいないからにはメイド頭の裁量になってしまう。
エドガーは、オートレッド夫人を信頼してリディアを預けたが、メイド頭に預けたのではない。なのに最初から、不慮《ふりょ》の出来事とはいえリディアがそういう立場におかれてしまったことに、気づくのが遅れた。
むろん彼は、家捜《やさが》しなんて阻止《そし》するつもりだった。夫人がいないなら、リディアの保護者は自分だ。婚約者を侮辱されて黙《だま》ってはいられない。
召使《めしつか》い専用の階段を上《のぼ》りきると、屋根裏の一室の前で、当事者たちが待っていた。
リディアとルシンダ、そしてメイド頭と執事《しつじ》だった。
「お父さま……」
ルシンダは、涙目をこすりつつ父親にすがりつく。
「お父さまがベネチアのおみやげにくださった、大切なブローチなのに」
「大丈夫だ、すぐに見つかるからな」
リディアは青ざめた顔をしていたが、毅然《きぜん》と背筋《せすじ》を伸ばして立っていた。
けれど彼女は、エドガーの方を見ようとしない。助けを求める視線を期待していたかもしれない。そのぶん、他人|行儀《ぎょうぎ》な態度がちくりと痛かった。
あなたには頼らない、リディアは無言でそう言っている。
このオートレッド邸《てい》ヘリディアを来させたのはエドガーだ。ルシンダの嫉妬を買うことになったのも、彼のせいだと思っているだろうし、ビスケットの恨みもあるかもしれない。
とにかくリディアには拒絶《きょぜつ》されている。それはひしひしと感じたが、エドガーは彼女のそばへ進み出た。
「こんなことはやめてください。何の証拠もなく疑って、部屋の中まであばくのですか? 潔白《けっぱく》な人間にするべきことじゃない」
「潔白かどうか、調べればわかるでしょう。だいたい、召使いなんて手癖《てくせ》の悪いのは大勢いるんだから、さっさと調べるにこしたことはない」
「コンスタブル卿、それ以上言うと許しませんよ。彼女は……」
「いいんです」
リディアがはっきりした声で、エドガーの言葉をさえぎった。
「早く調べてください。アシェンバート伯爵にかばっていただいても、疑いは晴れません」
見事にはねつけられたエドガーは、黙るしかなかった。
アシェンバート伯爵? そんな他人行儀な呼ばれかたをされたのは、出会ってこのかたはじめてだ。
苛立《いらだ》ちと失望を同時にかかえながら、力ずくでこの場から彼女を連れ出したい気持ちを、エドガーはおさえねばならなかった。
結局、ルシンダのブローチは見つからなかった。
リディアはほっとした様子だったが、これで皆がリディアの言うことを信用したとはならないことを、エドガーは感じていた。
ルシンダは、見つからないはずはないと言って、執事とメイド頭のさがし方をなじったし、コンスタブル卿はそんなルシンダをなだめつつも、リディアにわびる気配《けはい》もなかった。
リディアは一度もエドガーの方を見なかったし、話しかける隙《すき》さえくれなかった。
メイド頭のあとに続いて、リディアが出ていこうとしたとき、とっさにエドガーは彼女の腕をつかんでいた。
リディアは、怒っているというよりはおびえたように振り返った。
まるで、彼女の罪を暴《あば》こうとしたがわの人間を見るようだと思えば、あせりを感じた。
最初は小さなすれ違いだったはずだ。なのにいつのまにか、リディアが遠くなっている。
「話をさせてくれ」
エドガーはせっぱ詰まっていた。
「……あとにして」
「いっ? きちんと約束してくれ。でなければ僕にも考えがある」
彼なら何をしでかすかわからない、と思ったのだろうか。リディアは仕事が終わる時間を告げた。
本当をいうと、離したくはなかった。しかし階段下からメイド頭の呼ぶ声に、しかたなく手を離していた。
ひとり外へ出ると、レイヴンが彼を呼んだ。
こちらへ近づいてきた彼は、エドガーの目の前で手を開く。
煉瓦《れんが》色の、カメオのブローチが手の中にあった。
「リディアさんの屋根裏部屋にありました」
「そう、間に合ってよかったよ」
「ルシンダ嬢の小間使いが、部屋からこっそり出ていくところを見ました」
「やっぱりね」
「それで、エドガーさま、こちらへ」
レイヴンに招かれ、渡り廊下《ろうか》を奥へ進む。
柱の陰に身を隠した彼は、中庭の、枝葉が重なる茂《しげ》みの向こうを指さした。
声が聞こえた。
木の葉の陰から、ドレスの派手な色がのぞく。ルシンダと、彼女の小間使いだ。
「どういうことなの、アニー。ちゃんとリディアの部屋へブローチを置いたの?」
小間使いは頷《うなず》いている様子だ。
「なかったのよ。あなた隠したでしょ。返しなさい。……知らないっていうつもり?」
小間使いは、必死で首を横に振っている。
しばらく、ルシンダが小間使いを罵倒《ばとう》する声だけが聞こえていたが、パン、と頬《ほお》を打つ音が響《ひび》くと、ルシンダは立ち去ったようだった。
小間使いはじっとしていた。ルシンダが視界から消えるのを待っているかのようだった。
そして、こらえきれなくなったように唇《くちびる》を開いた。
「ふん、バカな女。もうすぐ、あたしをバカにしたこと後悔《こうかい》させてやるから」
口がきけないはずの小間使《こまづか》いは、たしかにそうつぶやいた。
仕事が終わったら、とエドガーとは約束した。けれどリディアの仕事は時間どおりに終わるとは限らない。それなのに、約束の時間きっかりに、彼はリディアの前に現れた。
たまたま用事を言いつけられ、厨房《ちゅうぼう》の裏にある井戸で洗い物をしていたときだった。
「待ちきれなくてね」
「ごめんなさい。まだしばらく時間がかかるわ、これをぜんぶ洗わないと」
大きな樽《たる》と、大鍋《おおなべ》がいくつか、井戸のわきに積まれていた。
厨房の明かりも落ちて、召使いたちも休むために部屋へ引きこもった時間、リディアは手元を照らすランプを少し押しやり、エドガーから自分を隠すようにして座り込んでいた。
「下働きの仕事じゃないか」
そうだけれど、これは今朝《けさ》の騒ぎの罰《ばつ》なのだ。ブローチを盗んだのがリディアではなくても、ルシンダがリディアへの罰を望んだからこうなった。
ブローチを誰かが盗んだのはたしかで、本当ならメイドをみんな丸裸《まるはだか》にしたいところだとルシンダは言ったらしい。けれど彼女は、やっぱりリディアが犯人だと思うから、罰を与えてくれればもう忘れるとミセス・ボイルに訴《うった》えたのだ。
「誰かがやらなきゃいけないことだもの」
手癖の悪い召使いをしつけるように、鞭《むち》で手を打たれた痕《あと》も、注意深くエドガーから隠しながら、リディアは立ち上がり、水を汲《く》もうと井戸のそばへ歩いていく。
エドガーには、見られたくないところばかり見られている。今朝だって、泥棒《どろぼう》扱《あつか》いされている自分を見られたくはなかった。
彼はかばおうとしてくれたけれど、みんなに疑われているみじめな少女が婚約者だなんて、あの場で彼に言わせるわけにはいかないと思った。
だから一度も、エドガーの顔を見ることができなかった。目が合ったら、こらえているものぜんぶ、止められなくなってすがってしまいそうだったから。
今もリディアは、そんな気持ちを引きずって、エドガーの方を見ることができない。
やたら疲れを感じている。
そうして、かすかにふらついたリディアは、後ろから抱きとめられた。
腕に力を入れられ、体温を感じれば、リディアの鼓動《こどう》は高鳴り動けなくなる。
「たのむから、無理をしないでくれ」
「だ、大丈夫よ。無理なんて……」
いつになく強く熱く、うなじに唇を押しつけられ、やめてとかすれた声を出す。いやだ、と彼はささやく。
「……小間使いだから、何をしてもいいと思ってるの?」
力をゆるめた彼は、ため息をつく。
「きみは小間使いじゃない」
「今は、ここではそうよ」
「……とにかく、少しだけでも休んでくれないか。疲れてるんだろう?」
そう言うと、今度はやけに紳士的《しんしてき》な動作でリディアを樽の上に座らせた。
リディアの手から、鍋洗いのブラシを取ってしまうと、代わりにハンカチに包んだものを手のひらに置く。
バターの香りがするビスケットだった。
「リディア、僕にはもう失望した?」
「あの、昨日の、ビスケットのことなら……、あたしがどうかしてたわ」
「そうでないなら、目を見てほしい」
エドガーが彼女の前にかがみ込んだけれど、リディアは相変わらず、わずかに視線をそらしていた。
「あなたのほうが、あたしに失望したんじゃない?」
ずっと、それを不安に思い続けている。
「あたしには何もないわ。あなたの婚約者でなければ、何もない。ここへ来てそれがよくわかったの」
もともと庶民《しょみん》のリディアだから、誰も小間使いだと疑わない。ルシンダがエドガーの婚約者だと言いふらしたことはみんなが信じたようだけれど、リディアがそうだなんて信じないだろう。
エドガーの期待どおり、社交界に入っていける花嫁《はなよめ》にはなれそうにない。
「僕にだって何もないよ。きみの婚約者だというほかにはね。名前も伯爵位《はくしゃくい》もうそだ。でも、きみだけは何もない僕をささえてくれるから、かけがえのない人だと思ったんだ」
うれしいのに、どうして素直によろこべないのだろう。
たぶんリディアは、何よりも自分に失望していた。がんばろうと思ったのに、すべてに空回《からまわ》りしている自分に。
エドガーは立ち上がった。どうしても目を合わせられないリディアは、行ってしまうのかとこわごわ彼を目で追う。
しかし彼は、上着を脱いでそばの木に引っかけると、リディアから取り上げたブラシで樽を洗いはじめた。
「やだ、エドガー、そんなことしないで」
「いいじゃないか。きみが休憩《きゅうけい》しているあいだに終わる」
「でも……」
「たぶんね、きみよりうまくやれるよ」
にっこり笑ってそう言う彼は、リディアには動かすのも大変な大鍋を苦もなく運ぶ。
くもりひとつなく磨《みが》かれた靴も、糊《のり》のきいたシャツも、濡《ぬ》れてしまうのもかまわず大胆《だいたん》に水をかける。
「こうして、小銭を稼《かせ》いだこともあったなあ」
そのせいか、やけに手慣れている。
貴族の家に生まれたのに、両親を殺されアメリカに連れ去られた彼は、自力で逃《のが》れ、下町で生き抜いた。
今リディアが体験していることよりもずっと、つらい目にあってきたはずだ。
「きみといっしょなら、農夫のように日がな一日働くのも悪くないかもしれない」
エドガーのすらりと細身な印象は、いつも彼を貴族的に見せるのだけれど、意外と広い背中やしっかりした肩や、腕のしなやかな筋肉や、そういうところに生身の男の人っぽさを感じて、リディアは不思議な気持ちで見入っていた。
彼が貴族でなかったら、もっと素直に、婚約者として身近に感じられただろうか。
[#挿絵(img/turquoise_159.jpg)入る]
けれど何をしていても、黙々《もくもく》と働いていても、彼は別のことを考えているように思える。どうすればのしあがれるか考えていて、一攫千金《いっかくせんきん》を果たそうとするに違いない。
事実、金銭だけでなく、大胆に爵位《しゃくい》まで手に入れた。
「エドガー、畑を耕してたって、あなたは農夫に見えないのよ」
そういう人だから、貴族社会へ戻ってこられたのだ。エドガーを見ていると、人にはそれぞれ、ふさわしい場所があるのだと思う。
「あなたの婚約者が、あたしだなんて誰も気づかないのも同じことだわ」
手を止めたエドガーが、意外そうな顔でこちらを見た。
「僕たちは結婚するんだ。誰が信じようが信じまいが、お互いにとって真実じゃないか」
「真実……、ときどきあたし、本当かしらと思うの。あたしはあまりにも、結婚のことを知らなさすぎたわ」
ただそばにいることを求められて、応《こた》えたいという気持ちでプロポーズを受け入れたけれど、伯爵夫人になるという意識はあまりにも希薄《きはく》だった。
リディアは立ち上がる。
エドガーだけに洗い物をさせるなんてと思うから、せめて手伝おうと、洗い終えた鍋を引きずる。
「いいから、きみは座ってて」
「もう休んだわ」
「そこ、あぶないから」
「あっ!」
足元の段差に気づかず、リディアは転んだ。
何をやってるのかしら。与えられた仕事すらまともにできないなんて。
すぐに立ち上がれなかったのは足の痛みよりむしろ、脱力感におそわれたせいだ。けれど、驚いたように駆《か》け寄ってきたエドガーは、リディアをかかえて植え込みの石垣《いしがき》に座らせた。
「足、くじいた?」
「だ、大丈夫よ」
「少し、すりむいてしまったね」
リディアの前にひざまずくようにかがみ込んだエドガーが、足首に手を触れるものだからあせる。
けれどそれよりも、こちらを見あげた彼と目が合ってしまうと、かすかに憤《いきどお》りを含んだ視線にとらわれ、リディアは急に怖くなった。
やっぱり彼は、リディアのあまりのふがいなさに腹を立てているのかもしれない。
「ごめんなさい……」
「何であやまるの?」
「あたし、社交界なんて無理だわ。だから……、今ならまだ、婚約を解消することも……」
リディアはなかばおびえていた。エドガーががっかりするとか、あきれるとか、本当に婚約解消されてしまうかもしれないとか、反応が怖くて、言ってしまってから後悔《こうかい》して、全身で緊張《きんちょう》していた。
彼は、リディアがおそれたどんな反応も見せなかったけれど、やはり怒ったようにこちらを見ていた。
と思うと、足首に触れていた手を上へとすべらせた。
スカートのすそが持ちあがり、人目に触れてはいけないはずの白い足があらわになれば、リディアは息をのんだ。
エドガーの手は、彼女のひざをあたたかく包み込んで止まる。
男の人の手が足に、|下履き《ドロワーズ》に触れるなんてとんでもないことで、声も出せずに硬直《こうちょく》する。
そんなリディアを、じっと見あげた。
「今、何を考えてる? 僕から逃げること? きみにとって僕は、必要な存在じゃないのか。きみがつらいときに、何の役にも立たない?」
うつむいて、彼女のひざに布越しのキスを落とした彼は、苦しげにつぶやく。
「この手は不愉快《ふゆかい》なだけ? 何度キスしても、触れあっても、きみがどう感じているのかわからない。もっとほしいと僕は思うのに、きみはそうは思わないのか?」
言葉も手も、再びこちらに向けられた視線も、何もかもが熱い。リディアは、自分の中にくすぶる同じ熱を、まだ受け止めきれなくて、息をするのもやっとだ。
「……いや、求めてくれなくてもいい。きみを失いたくないんだ、それだけだ」
彼はそっと、手を離した。
[#改ページ]
誤解だらけのふたり
リディアは眠れずに、一晩中いろいろなことを考えていた。
明日になったら帰ろう、とエドガーは言った。まだ何一つ解決していないし、庭師やオートレッド夫人を見捨てるわけにはいかないのに、どのみち自分では力が及ばないのではないかという気がしてしまう。
それにリディアは、これ以上エドガーの言葉に逆《さか》らって、ひとりでがんばれる自信を失っていたし、意地を張れば今以上に彼を傷つけてしまうのだろうかとも考え、不安になっていたのだった。
婚約解消なんて口にしたのは、否定してほしかったから。彼はそうしてくれたけれど、リディアは自分のその言葉が、彼を傷つけたことを知った。
何を考えてる? 僕から逃げること?
逃げることなんて考えていなかった。自分のひざ頭《がしら》が、彼の手におさまるほど小さいのかと考えていた。
いったいどうすれば、彼が望むような女の子になれるのだろう。
オートレッド夫人の教育を受ければ、そんなふうになれると信じて努力してみたけれどうまくいかず、ますます自分が、彼にふさわしいとは思えなくなってきた。
空が明るくなりはじめても、ここを去るのかとどまるのか、リディアの心はまるで定まらなかった。
「おいリディア、起きろよ」
天窓をたたきながら、ニコの声がした。リディアは億劫《おっくう》ながら体を起こした。
「……起きてるわよ」
「デーン族のたまり場を見つけたんだ。早く来いよ」
それを聞くと、あわてて毛布をはねのける。すぐに着替えて部屋を出る。
あとについていけば、ニコは、中庭へ続くテラスのある、こぢんまりした書斎《しょさい》へ入っていった。
「見ろよこの部屋、妖精の足跡だらけだ。真新しい足跡もいっぱいある。やつら、しょっちゅうここへ出入りしてるんだ」
リディアには、妖精の足跡まで見るのは難しいが、ニコが言うのだから間違いはないだろう。
そこは、亡くなった先代|伯爵《はくしゃく》の書斎だろうかと思われた。きれいに整頓《せいとん》され、ちりひとつ落ちていなかったが、大切に使い込んだ様子の肘掛《ひじか》け椅子《いす》や文机《ふづくえ》に、故人の人柄がしのばれた。
「デーン族は、この屋敷の主人とは代々|縁《えん》があったみたいだから、前の主人を思い出してはここへ集まってきているのかしら」
オートレッド夫人に子供はなく、亡夫《ぼうふ》が持っていた伯爵位は、夫の親族に渡っているはずだ。その親族が、先祖が暮らしてきたこの土地に愛着を持っているかどうかリディアは知らないが、妖精たちにとっては、土地を離れてしまった親族を、この家の当主だと認めるのは難しいことだろう。
どのみちデーン族は、この屋敷を去らねばならないと考えていたかもしれない。
オートレッド夫人は、デーン族とどういう契約《けいやく》をしたのだろう。妖精を身代わりに屋敷へ置き、彼女自身はどこで何をするつもりだったのか。
彼らが去ってしまうまでに、妖精の力を借りたいことがあったのか。だから無茶な約束をしたのだろうか。
考えながらリディアは部屋を見まわす。
並ぶ肖像画《しょうぞうが》は、かつてこの屋敷に住み、デーン族と親しくした人たちだろうか。ならば妖精たちがここに足繁《あししげ》く現れるのも不思議ではない。
やがてリディアは、一枚の絵に目をとめた。
少々古めかしい衣装に身を包んだ貴婦人は、薔薇《ばら》の花輪を首飾りにしていた。
意外なことに、色の違う花を組み合わせたその花輪には、見覚えがあった。
庭師のヴァージニアがしていた花輪の首飾りと同じだ。花の種類も大きさも、色の並び方も同じ。
これはどういうことだろう。
昔の貴婦人を飾った花輪が、枯《か》れもせずにヴァージニアの胸元にある?
よく似た花輪を、ヴァージニアがつくっただけ? 何のために?
いや、生花だと思い込んでいたからそう見えただけで、あれが造花だったとしたら。
「まさか……リガード……?」
リディアはつぶやいていた。
薔薇はルビーの紅《クリムゾン》、葉はエメラルドの縁《グリーン》、ガーネットの朱《スカーレット》はアマリリスか、わすれな草はアメジストの紫《ヴァイオレット》、ダイヤモンドは白い薔薇。
それぞれの宝石の頭文字《かしらもじ》を取って、|REGARD《リガード》と敬愛《けいあい》のメッセージを綴《つづ》る。
ではこれが、オートレッド夫人のリガードネックレス?
身につければ妖精の薔薇園へ入れると言っていた。草花と妖精はそもそも近しいもの。花の力で、妖精の薔薇園の入り口が見つけやすくなるという意味かと思っていた。
しかしあれが、この家に代々伝わるリガードネックレスなら、デーン族の薔薇園へ入ることを許されたしるしだとしても不思議ではない。
花をモチーフにした宝石だと、ルシンダは言っていた。執事《しつじ》も、ふだん身につけるには目立つものだと話した。
「ニコ、あたし、わかったわ」
「え? 何がさ?」
庭師のヴァージニア、彼女こそがオートレッド伯爵夫人だ。
だから彼女は、身代わりの妖精がナイフで追い払われてしまって、あの薔薇園から出られなくなった。
リガードネックレスは盗《ぬす》まれたのではなく、オートレッド夫人が持ったままなのだ。
「夫人のリガードネックレス、あれがどこにあるかわかったの。確かめに行きましょう」
花壇《かだん》を手がけることを趣味とする貴婦人は少なくないし、何より彼女は、薔薇を咲かせる才能があった。ふだんから、薔薇園を自分で管理していたのだ。
「待てよリディア、どこへ行くんだ?」
ヴァージニアがオートレッド夫人なら、リディアがここでなすべきことも、はっきりとするのではないか。
すがる気持ちで駆《か》け出したリディアは、書斎の戸口へ急に現れた人影にぶつかりそうになって立ち止まった。
「おはよう、もう仕事かい?」
ビリーだった。
リディアの行く手をさえぎるように、彼はドアに手をついて戸口に立ちはだかっていた。
今の話を聞かれただろうかと、ちょっと気になる。ニコの言葉は、たいていの人には猫が鳴いているようにしか聞こえないだろうけれど、リディアが変な独り言をしゃべっていたように思われたかもしれない。
「あなたも早いのね」
「ちょうど、あんたを呼びに行こうと思ってたところなんだ。ちょっといいかな」
「あの、その前に用事が」
「すぐすむよ。じつは、ルシンダ嬢《じょう》のブローチを拾ったメイドがいてさ。すぐに返さなかったからあんたが疑われたんだろうって、あやまりたいって言ってるんだ」
「え、そうなの……」
「会ってやってくれないかな」
仕事前の今しか、下働きのメイドには自由な時間がないからだろうと、リディアは頷《うなず》く。
ちょっと待っててとニコには目で合図し、リディアはビリーと部屋を出た。
「ニコさん、朝食の用意ができてますよ。こんなところで居眠りですか?」
朝食と聞いて、ニコはぱっと目を開けた。
書斎の窓辺で、リディアを待っているあいだに眠ってしまった。ここの椅子が、あまりにも気持ちがよかったからだ。
「んあ、レイヴンか……。そういや腹が減ったよ。あれ? リディアは? まだ戻ってきてないのか?」
「私もリディアさんをさがしていたんですが」
「そうだ、ビリーって召使《めしつか》いに呼ばれていったんだ。ルシンダのブローチを拾ったメイドがいるとか言ってたな」
「なんだって?」
声をあげたのはレイヴンではなく、戸口から現れたエドガーだった。彼もレイヴンといっしょにリディアをさがしていたのだろう。
「ニコ、まさかリディアは、ビリーが連れていったきり戻ってきてないのか?」
血相《けっそう》を変え、エドガーはニコをつかみあげた。
「やめろよ、おろしてくれって……。ああもう、リディアに近づく男はみんな許せないみたいなやきもちはやめろよ」
「ほかに、何か言ってなかったか? オートレッド夫人の宝石にかかわるようなことを」
「ああ、そんな話をしたよ。リディアのやつ急に、夫人のリガードネックレスがどこにあるかわかったとか言い出してさ」
答えると、エドガーは舌打ちした。
投げ出すようにニコを離す。
「レイヴン、ビリーとリディアをさがし出せ。いますぐに」
「はい」
「何するんだよ! おれを投げるな! このやきもち焼きの狭量《きょうりょう》男!」
「やきもちじゃない。リディアが危険だ」
エドガーはせっぱ詰まったように言った。
リディアはビリーと、馬小屋の裏手へやって来ていた。しかしそこには、ルシンダのブローチを拾ったというメイドはいなかった。
代わりに、下働きらしい男の召使いが二人いた。
わけがわからないまま、リディアはビリーと彼らに取り囲まれた。
「なあリディア、あんた小間使《こまづか》いだなんてうそだろう?」
気づかれた? だからといって、なぜビリーがそんなに怖い顔をしているのかわからない。
「オートレッド夫人はどこだ?」
「え」
「夫人とリガードネックレスの行方《ゆくえ》、話してもらおうか」
「……何なの、あなたたち」
「おれたちのことはどうでもいい。質問に答えろ」
あまりに高圧的な言い方に、リディアは壁際《かべぎわ》に追いつめられながらも言い返した。
「あなたこそ、給仕《きゅうじ》係なんてうそだったのね」
「ああうそさ。だからおれを、あまく見るんじゃないぞ」
腕を振り上げたビリーは、リディアの後ろの壁板を力任せにたたいた。
「オートレッド夫人を連れ去って、寝室に変な小細工《こざいく》したのはあんただろう。野ウサギが妖精の仕業《しわざ》? は、迷信に惑《まど》わされやすい年寄り執事《しつじ》をうまくだきこんだもんだな」
驚いて、リディアはビリーを見あげた。
「あ、あたしじゃないわ」
あれは、夫人の宝石目当ての誰かが……。
「あんたが庭園で、野ウサギを追っかけまわしてたのを知ってる。その夜に、夫人の部屋に野ウサギの死体だ。あんたがやったんだろう。むろんひとりじゃないな? 仲間は誰だ? 夫人はどうした」
「知らな……」
「知らないじゃすまないんだよ?」
別の男が、リディアの目の前でナイフをちらつかせた。
「仕事の合間に、あんたがコソコソ屋敷を調べていたのはわかってる。夫人を監禁《かんきん》したものの、リガードネックレスが見つからないってところか? 隠し場所をさがしてたんだろう」
それは、デーン族をさがしていたのだ。
しかしどうやら、リディアは夫人の宝石をねらった泥棒《どろぼう》だと思われている。それに彼らも、宝石のことを気にしている。
「ビリー、あなたたち……、窃盗《せっとう》団なの? 宝石目当てで、召使いのふりをして……」
ナイフを持った男が何か言おうとしたが、ビリーが制して口を開く。
「あんたの仲間は、あの金髪の伯爵か? いや、伯爵を名乗る偽者《にせもの》ってことか。ま、あれほどの殺気を隠しもしない従者《じゅうしゃ》を連れてる貴族なんて、そもそもあやしいわけだが」
リディアは必死で考えていた。
どうやら、オートレッド夫人の部屋にナイフを持って忍び込んだのは、彼らの仲間ではないらしい。
ということは、ほかにも、宝石目当ての泥棒がいるのだろうか。それともその人物は、オートレッド夫人の命をねらったのだろうか。
「なあリディア、しゃべってくれるなら、宝石の分け前をやってもいい。ここで殺されるよりずっといいだろう?」
ビリーはいくぶんおだやかな口調《くちょう》で、なだめすかすようにリディアを覗《のぞ》き込んだ。
リディアは彼をにらみつけながらも口をつぐんでいた。
「あんたさ、前の屋敷をやめさせられたのは、男を誘惑《ゆうわく》してたからなんだって? 顔に似合わずやり手なんだな」
そんなことはぜんぶ、ルシンダが言いふらしたうそだ。けれど女の子にとっては最上級の侮辱《ぶじょく》だ。やりきれないほどくやしい。
リディアは憤《いきどお》りにふるえたが、ビリーは怖がっていると思ったようだった。
「おれはさ、そういう女きらいじゃないぜ。それに、女をこき使ったりしない。おれの女になれば、あの金髪野郎よりいい思いさせてやるよ」
頬《ほお》に触れられ、鳥肌が立つ。
「さわらないで!」
リディアは平手を振り上げたが、その手はあっさりつかまえられた。
リディアを壁板に押しつけるようにして、彼はさらに、説得とも脅《おど》しともつかない言葉を吐《は》く。
「おれたちの獲物《えもの》を横取りするやつは許さない。あんたの仲間も、どうせ庭園の肥《こ》やしになるだけだ。命がけで従《したが》う相手かよ? あんたがこんな目にあっても、どうせ気にしてないんだろ?」
リディアの手には、昨日|罰《ばつ》として打たれた鞭《むち》のあとが、まだ赤く残っている。ビリーはそれを憐《あわ》れむように見つめる。
一瞬力がゆるんだように感じたリディアは、ビリーを突き放そうと試みた。
力まかせにもがき、逃げだそうとするが、うまくいかない。別の男が背後《はいご》からリディアを羽交《はがい》い締《じ》めにする。
ビリーの手がのどにかかる。
「おれの言うとおりにしておけよ。ああいう気取った野郎はどうせ顔だけ……」
そのとき、はっと言葉を切ったビリーは、素早く後ろに退《ひ》いた。
リディアを羽交い締めにしていた男がその場に崩《くず》れると、つられて転びそうになったリディアをささえたのは褐色《かっしょく》の肌の少年だった。
「レイヴン……?」
そのまま彼は、視線だけでビリーともうひとりの男を威嚇《いかく》する。
「ねえきみ、そんな口説《くど》き方で女の子の気を引けると思ってるの?」
馬小屋の向こうから姿を現したエドガーは、後ろ手に縛《しば》った男をひとり引きずっていた。
どうやらビリーの仲間のひとりらしい。すでにそうとう殴《なぐ》られた様子の男は、よろけながらかろうじて立っている。
エドガーは、それを見せつけるようにしながら冷淡《れいたん》な笑《え》みをビリーに向けた。
「だいたい、僕の婚約者を口説こうなんていい度胸《どきょう》だよ」
連れていた男を蹴《け》り飛ばして地面に転がすと、それが合図だったかのように、レイヴンはリディアをエドガーの方へ押し出した。
そのまま彼は、素早くビリーに飛びかかっていく。
ビリーが武器を取り出そうとしたのか、上着の胸元に手を動かすのが見えたが、あきらかにレイヴンの方が早かった。
レイヴンが蹴り上げた瞬間、ビリーの手からピストルがはね飛ばされる。
リディアは、ビリーのわきをすり抜けつつ、手をのばすエドガーに駆け寄ろうとした。
そのつもりだったが、急にめまいを感じる。
周囲がぐるりと回転すると、足元がふらつく。
「リディア!」
エドガーの呼ぶ声は、やけに遠くに聞こえた。
[#挿絵(img/turquoise_177.jpg)入る]
全身に力が入らなかった。たぶん、張りつめていた気持ちが急にゆるんだせいだろう。
このところの緊張《きんちょう》や疲れが一気に表面化したらしく、リディアはまるでいうことをきかない体をもてあましながら、意識を保とうと試みた。
まぶたを開くことができないまま、自分が横たわっている場所について考える。
洗いたてのリネンや羽のクッション、やわらかな寝床《ねどこ》の感触は、屋根裏の粗末《そまつ》なベッドではない。それに、誰かがリディアの手を握っている。
エドガー?
唇《くちびる》がかすかに動いただけで、声は出なかった。
それでもそれをきっかけに、かすかな力が戻ってくる。うっすらとまぶたを開く。
エドガーは、リディアの手をなでさするようにしながら、深刻な表情で見入っていた。
鞭《むち》打ちの痕《あと》があることを思いだしたリディアは、恥《は》ずかしくてすぐにでも手を引っ込めたかったが、まだ手を動かすほどの力はなかった。
どうやらここは、エドガーが使っている客室らしい。おまけに彼の寝室だ。
どうしよう、と動けないのにうろたえる。
ふとエドガーが立ち上がった。リディアはどきりとするが、ドアの方に振り返ったところをみると、誰かが部屋へ入ってきたようだった。
「医者は? まだなのか?」
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》、ご迷惑をおかけしてもうしわけありません。リディアは彼女の部屋へ運びます。これ以上ご心配いただく必要はございませんので」
ようやく頭を動かせたリディアには、メイド頭のミセス・ボイルが、下働きの男を呼び入れるのが見えた。
「バカを言うな、勝手に動かすのは僕が許さない」
「ですが、お客さまの寝室に小間使いを寝かせておくわけにはまいりません」
「ともかく医者を呼べ」
「よくあることです。明日になれば治ります」
「治るだって?」
医者も呼ばずに運び出すと主張するメイド頭に対し、エドガーの中で何かが切れたのかもしれない。いつにないほど、彼は低くつぶやいた。
それでも声を荒《あ》らげなかったのは、リディアが眠っていると思っていたからだろうか。
「いいか、小間使いじゃない。リディアは僕の婚約者だ。何かあったらただじゃおかない。責任者のきみも、彼女をいじめたメイドも、生きたまま墓場に埋《う》めてやるからな!」
男を、一歩でもリディアに近づけまいとするように立ちはだかったエドガーは、もはや我慢できないというように言い切った。
メイド頭は、憐《あわ》れむような複雑な表情になった。なぜそんなに、使用人に入れ込むのかと不思議に思っているようだった。
「伯爵……、ともかく彼女はこの屋敷の召使《めしつか》いです。その、特別|扱《あつか》いはほかのものに示しがつきませんので」
「きみがオートレッド夫人から、リディアについてどう聞かされているのか知らない。けれど僕は、彼女をきみにあずけたんじゃない。オートレッド夫人を信頼してあずけたんだ。夫人がいない以上、もっと早くこんなことはやめさせるべきだった。まさかこれほどひどい扱いを受けているとは思わなかった」
「それは、小間使《こまづか》いは奥さま付きの侍女《じじょ》ではありますが、いちおう責任と権限はわたしに」
話が通じずに、エドガーはますます苛立《いらだ》った様子だ。
「小間使いじゃないと言っている。社交界に出るために少女をひとり教育してほしいと、メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人を通じて申し込んだ。オートレッド夫人には快諾《かいだく》いただいたが、きみに責任や権限があるはずないだろう。夫人のお墨付《すみつ》きを得て、女王|陛下《へいか》に拝謁《はいえつ》できるように口添《くちぞ》えをいただけるはずだった僕の婚約者だよ? これも夫人のやり方なのかと黙っていたけれど、もうがまんできない!」
通りかかった執事が、何事かと驚いたように、戸口に立ち止まるのがリディアにはちらりと見えたが、エドガーはメイド頭に抗議を続けている。
「だいたい、どういうことなんだ。泥棒を罰するみたいに、手を鞭打ったのはきみか? ルシンダ嬢《じょう》のブローチのことでは、リディアの疑いは晴れたはずじゃなかったのか? え? きみは、誰の手にあんなひどい傷をつけたかわかってるのか?」
たった今まで毅然《きぜん》とエドガーの言葉を突っぱねていたメイド頭は、しだいに不安げな表情になっていた。
「あの、そのご令嬢がいらっしゃるのは、明日の予定では……」
「メースフィールド公爵夫人が急用で、時期が早まったんだ。公爵夫人から連絡があったはずだろう」
「もうしわけありません、伯爵」
あわてたように、執事が割り込んできた。
「そういえば電報を受け取りましたが、奥さまのお部屋に届けたきりになっております。おそらく奥さまは、文面をごらんになってはおられません。お部屋の、未開封の手紙の中にまだありましたから、そのときからすでに、この屋敷にはいらっしゃらなかったのかもしれません」
「……なら、リディアを小間使いにしたのは? オートレッド夫人の指示じゃないのか?」
あれ? そういえば、そうよね。
リディアもぼんやりとした頭で考える。
「あの、それは……」
言いにくそうに口ごもったミセス・ボイルは、けれどまだ、事態を把握《はあく》し切れていないらしく首を傾《かし》げている。
代わりに執事《しつじ》が言った。
「新しい小間使いが、たった今ここに到着しました。大きな橋が壊《こわ》れて、しばらく道が通れなかったともうしております」
それを聞いて、メイド頭は卒倒《そっとう》しかかった。後ろで執事がささえなければ、あぶなかっただろう。
オートレッド夫人は、リディアを小間使いにしたわけではなかった。妖精と入れ替わって薔薇園《ばらえん》にいたため、リディアが早く到着することを知らなかったのだ。
そうして、たまたま新しい小間使いが来る予定の日に、リディアが到着してしまったから、メイド頭が勘違いした。
どうやら、そういうことらしかった。
「なんだって? どうしてきちんと確かめないんだ! リディアは倒れたんだよ。間違いですむと思ってるのか?」
「……エドガー……」
ようやく声を出したリディアは、どうにか少し体を起こす。
「あたしも、よく確かめればよかったの。勝手にこれが、花嫁《はなよめ》修業《しゅぎょう》だと思ってて……」
「リディア、無理をしないで。まだ横になってなきゃだめだ」
「大丈夫よ、だから、ミセス・ボイルが悪いわけじゃないわ」
考えてみれば無理もないのだ。良家の令嬢が、侍女も連れずにひとりで来るはずがないし、どんな理由があろうと小間使い扱いに従うはずもない。
結局リディアが、上流階級ではなかったから、こんな間違いが起こったのだ。
「あたしが……」
「ああ、わかったよ、もう彼女を責めたりしないから休んでいてくれ。まだ顔色がよくない」
「気分は、悪くないわ。少し……力が出ないだけ」
心配そうに、エドガーは身をかがめてリディアを覗き込む。
「もしかして、食事は? ちゃんと食べてなかったんだろう?」
そういえば、そうだったかしら。
「ううん、あなたがくれたビスケットは食べたわ。でも、少ししか食べられなくて」
リディアの頬《ほお》を撫《な》で、なだめるように抱き寄せながらエドガーは、執事とメイド頭に言った。
「医者と食事だ、今すぐに」
リディアが医者の診察を受けているあいだ、部屋の外へ出ていたエドガーは、ようやくほっとしながらも、どうにもならない苛立《いらだ》ちをかかえていた。
近くにいたのに、彼女を守り切れていなかった。立場が違うと、口を出すのも難しい。
小間使いの立場におかれたリディアに、伯爵のままでのエドガーは、ほとんど何もできなかったに等しいのだ。
エドガーが気にかけるほど、リディアはメイドたちのねたみを買うことになったし、みだらな噂《うわさ》の的《まと》になった。
結局エドガーは、リディアの身分を明かすことでしか、メイド頭に医者を呼ばせることすらできなかった。
これから貴族社会へ入ることになるリディアには、似たような苦労がついてまわるのだろうと、あらためて思い知らされている。
どうあがいても、エドガーは貴族でリディアは違う。それは、彼がどれだけ擁護《ようご》にまわっても、変えることはできない。
だからこそ、婚約を発表する前に、リディアの立場を押しあげておきたいと考えていた。
カールトン教授の、上流階級的職業《ジェントルマン・プロフェッション》を切り札に、中流上階級《アッパーミドル》出身の花嫁という印象が薄まれば、リディアにとって社交界での息苦しさは減るはずだった。
しかしそれも、オートレッド夫人の行方《ゆくえ》がわからないまま暗礁《あんしょう》に乗り上げている。
そしてエドガーは、もういいじゃないかと思い始めている。
リディアに無理をさせるべきじゃない。結婚したらロンドンを離れて、領地のマナーン島にでも引きこもって、のんびり過ごすのも悪くはない。
自分がいつまでまとも[#「まとも」に傍点]でいられるのかわからないけれど、妖精の多いあの土地でなら、リディアにとって心をなぐさめられるものもあるだろう。
何かが起こってしまう前に、自分の持ちうるすべてを、彼女に与えておきたい。エドガーは、ずっとそれを考えている。ある意味貴族社会も、リディアを守る武器になりうるものだ。
だからこそ、そこに彼女の居場所をつくっておきたかった。
けれど、難しいならしかたがないことだ。
目の前で、リディアが疲労に倒れては、彼はもう強引《ごういん》にことを進める気にはなれなかった。
「エドガーさま。ただいま戻りました」
レイヴンの声に、窓の外に向けていた視線を室内へ戻す。
「ビリーたちは?」
「馬小屋のそばの、馬糞《ばふん》を捨てる穴に放り込んでおきました」
「気の毒にね」
と言いながら、ざまあみろと思っている。
「それで、何かしゃべったかい?」
「いえ、死んでもしゃべりそうにありませんでした」
なかなか訓練されている。ビリーに関して、そういう印象は最初からあった。
レイヴンも、相手が脅《おど》しただけでしゃべりそうか、特殊な拷問《ごうもん》でもしないかぎり難しいかどうかはすぐにわかる。彼らが後者だと見切り、尋問《じんもん》は切り上げてきたのだろう。
そういう連中から情報を引き出すには、それなりの場所と道具が必要で、この屋敷ではまず無理だ。
本当に、ただの窃盗《せっとう》団だろうか。
「ただ、エドガーさま、オートレッド夫人の部屋に忍び込んでナイフを残していったのは彼らではなさそうですよね」
「ああ、そうなると、あの小間使いも気になる。ビリーたちとは別のグループで、もうひとつの窃盗団なのかもしれないな」
エドガーは、ビリーと同様ルシンダの小間使いについても昨日から調べていた。彼女が単独で何かをたくらんでいるのではなく、頻繁《ひんぱん》に接触している人物がいるのがわかってきたところだ。
それは、庭園の木を植え替えるために雇《やと》われた、敷地内の小屋にいる男たちの誰かだ。
あるいはぜんぶが仲間かもしれない。
口がきけない小間使い、少なくともルシンダはそう思っているし、そう信じさせるにはかなり注意深く過ごしていたことだろう。
ルシンダのそばについたのは、彼女がオートレッド夫人の姪《めい》で、社交界デビューをひかえていて、夫人の屋敷を訪れると知っていたからか。
ルシンダの小間使いなら、誰にも不審《ふしん》に思われず屋敷を歩き回れるし、オートレッド夫人にも近づけると算段したのかもしれない。
「ルシンダ嬢はどうなのでしょう。黒髪の問題が残っていますが」
レイヴンが言うそのルシンダの姿を、エドガーはさっきから窓の下方に眺《なが》めている。
白っぽい箱をかかえているのは、あれが象牙《ぞうげ》の宝石箱だと思われた。そこからリディアがブローチを盗《ぬす》んだと彼女は主張した。
オートレッド夫人のもので、飾ってあったのをルシンダが使いたがったのだと執事に聞いている。
それを手に、周囲を気にしながらガラスドームの温室へ入っていったルシンダは、出てきたときには何も持っていなかった。
今度は何をたくらんでいるのだろう。
「そうだな。彼女も微妙な動きをしてくれるが……」
ただ、宝石を盗むとか、オートレッド夫人の命をねらうなんて大それたことを考えているというよりは、リディアにからむ意地悪に力を注いでいるように思える。
「とにかくレイヴン、今すぐリディアを連れて帰るというわけにいかなくなった。危険な連中は徹底的に排除《はいじょ》しなければならない」
「はい」
「ビリーより、ルシンダの小間使いはいろいろ教えてくれそうな気がするが、どうだろう」
「口がきけないのではないなら、そう難しくはないでしょう」
「彼女なら、ルシンダ嬢があの夜の事件にかかわっているかどうかも知ってるかもしれないし。二度手間にならずにすむ」
レイヴンはじゅうぶんに、エドガーの考えを察しただろう。神妙《しんみょう》に頷《うなず》き、すぐにきびすを返した。
食欲はないままに、それでもスープを少し口にしたリディアは、いくらか気持ちも落ち着いてきていた。
めまいは疲れと緊張のせいだろうと医者も言い、しばらく休めば元気になると聞けば、エドガーもようやく、険《けわ》しい表情をゆるめてくれる。
リディアのそばへやって来た彼は、ベッドの端《はし》に腰をおろし、もの思うように彼女を見つめた。
相変わらずリディアは、この整った美貌《びぼう》に間近で見つめられるとそわそわする。
さりげなく目をそらしつつ、手持ちぶさたに毛布をいじった。
「……あたし、まるで意味のないことをしてたのね。意地になって、あなたに迷惑《めいわく》かけて、バカだったわ」
「リディア、僕は迷惑なんて感じていない」
「でも、いまさらあたしのこと婚約者だなんて明かすことになってしまって……。あたしがルシンダのブローチを盗《と》ったって、まだ信じてるメイドたちも多いのよ」
「だから何? きみじゃないことは、誰よりも僕がわかっている」
「あなたに、お鍋《なべ》と樽《たる》を洗わせちゃったし」
「きみのためなら何でも洗う」
「それに、あなたのベッドを占領しちゃった」
「大歓迎だよ。きみの隣で眠る口実《こうじつ》ができた」
「えっ、……ここで寝るの?」
混乱《こんらん》してあせるリディアを眺め、彼は苦笑《にがわら》いを浮かべた。
「そんなに怖がらないでくれ。恋人になれたつもりなのに、僕は狼《おおかみ》に見えるのかな」
「そ……そうじゃないけど」
恋人ならなおさら、リディアはどういう反応をすればいいのかわからない。恥《は》ずかしさや気まずさをごまかすために、以前のように怒ったり拒絶《きょぜつ》したりするわけにもいかず、だからといってあまい雰囲気《ふんいき》にひたれるほど恋に慣れていない。
あせるほど、ぎこちない態度になるばかりだ。
「冗談だよ。僕は隣の部屋を使わせてもらうことになったから」
あからさまにほっとしてしまうと、エドガーが眉《まゆ》をひそめたのを気配《けはい》で感じた。
「やっぱり、僕を見てくれないんだね。こんなことになったのは、少なからず僕のせいだと思ってる? 婚約なんてしてしまったから……とか」
「そんなこと……ないわ」
「じゃあ、ルシンダ嬢《じょう》のこと疑ってる?」
「手紙は彼女の思いこみなんでしょう? なら、疑うことなんて……」
「彼女の好意に、僕があわよくばといい顔したんじゃないかとか」
それはちょっと思った。
「したの、いい顔」
「してない、ちっとも」
「…………」
キスしそうにしてたくせに。
でも、無理もないと思った。
あんなふうに素直《すなお》に求められたら、エドガーでなくたって心が動くものではないか。
「彼女は美人ね。それに、自分に自信があるわ。ああいう女の子に好かれたら、ちょっと気になるのはしかたがないと思うの」
わずかな間、エドガーは悩んだように黙《だま》った。やっぱり彼女のこと、少しは気になったのだろうかと思ったけれど、彼は不満げに別のことを口にした。
「僕なら、きみがほかの男をちょっとでも気にするなんていやだ」
「けど、心の中のすべてを、いくら恋人どうしでも縛《しば》ることはできないもの」
そのとき彼がついた長いため息は、どういう気持ちを含んでいたのだろう。うつむいていたリディアには、彼の表情はわからない。
言葉だけが耳に届く。
「リディア、きみのすべてがほしいのに」
すべて。そのつもりでリディアは結婚を受けたのだ。ほかの男の人に心を動かしたこともない。なのに、エドガーはどうしてそんなふうに言うのだろう。
様子をうかがおうと、少しだけ視線を動かす。まだ目を見ることはできなかったから、耳元の透《す》き通るような金色の髪をぼんやりと眺めた。
エドガーの手が、リディアの方にのばされる。
そっとあごを持ちあげるようにしながら、彼は親指で唇《くちびる》に触れる。
逃げださないのを確認したのだろうか。ゆっくりと唇を合わせて、やわらかくついばむ。
ふたりきりのときのキスは、どうしても苦手だ。エドガーはなかなか離してくれないし、リディアはどうしていいかわからない。けれどじっとしていても、奇妙《きみょう》な気分に戸惑《とまど》わされる。
もの悲しいようなやるせないような、自分が自分でなくなってしまいそうな怖さと、そうなってみたいような高揚感《こうようかん》と。
わけがわからなくなって、リディアは動けなくなる。緊張したまま全身に力を入れてじっとしている。
ノックの音がした。
エドガーはそれを無視して、やさしく深く口づけを続けたまま、リディアを力強く抱き寄せた。
ドアの外で、メイドの声がする。
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》、ルシンダお嬢さまがお見えです」
いや、……離さないで。
一瞬そう思ってしまったことに驚き、リディアはつい、自分から顔を背《そむ》けてしまっていた。
エドガーはまだ物足りなさそうに、頬《ほお》や耳にキスを重ねたが、ドアはまたたたかれた。
「エドガー……、お客さまよ」
「べつに用はないよ」
「……向こうにはあるのよ」
覗《のぞ》き込もうとするから、また目をそらしてしまうリディアに、彼は小さなため息を残し立ち上がった。
「すぐ戻る」
寝室のドアが閉まる。向こうにあるドレッシングルームに、エドガーはルシンダを招《まね》き入れたのか、彼女の声がリディアにも聞こえた。
「アシェンバート伯爵、助けてください。アニーがいなくなってしまったんです!」
涙混じりの声だった。
「アニー? ああ、きみの小間使《こまづか》い?」
「お父さまの部屋へ行ってくるよう用事を言いつけたんです。なのに、アニーは来てないってお父さまは言うし、もう一時間も戻ってこなくて……」
「もう少し待ってみては? ちょっと息抜きしているだけかもしれないし」
「いいえ伯爵、こんなこと、今までになかったわ。何かあったとしか思えません。だって、このお屋敷には宝石|泥棒《どろぼう》がいるもの」
どきりとし、リディアは息を詰めた。
ルシンダは、オートレッド夫人の宝石がねらわれていることを知らない。つまりはリディアのことを、宝石泥棒と言っているのに違いなかったからだ。
「アニーは宝石箱を持って行ったんです。物騒《ぶっそう》だから、わたしの宝石はお父さまにあずかってもらおうと思って……。きっとリディアだわ! アニーから宝石箱を奪《うば》ったに違いありませんわ!」
「あのね、ルシンダ、リディアは潔白《けっぱく》だと昨日はっきりしたじゃないか」
「あんなの、どこか別のところに隠したに決まってます」
「リディアはそんな娘じゃない」
「伯爵、どうして小間使いなんかの肩を持つんですか?……いえ、わたし、少しはわかるつもりです。男の人は何人でも恋人を持ちたがる。遊ぶには小間使いくらいがちょうどいいっていうことでしょう? じゃまになったらやめさせればいいだけですもの」
床を引きずる衣擦《きぬず》れの音は、ルシンダがエドガーに接近したように思え、リディアは気が気でなくなる。
「だから世の奥さまがたも大目に見るのでしょう? でも伯爵、貴族の家は貴族が継ぐもの、きちんとした家の娘を結婚相手には選ぶべきですわ」
「きみがそうだと言いたいの?」
「だって、わたしなら伯爵家にふさわしい跡継《あとつ》ぎを生めるわ」
「なかなか具体的だね」
エドガーは面白がっているのではないだろうか。
そうね、そもそもエドガーが、積極的に近づいてくる女の子を積極的に突っぱねるわけがないわ。
リディアはあきらめようとしつつも、やっぱりじわじわと腹が立ってくる。
それに、話が行方《ゆくえ》不明のアニーからずれていっている。ルシンダは、アニーを口実《こうじつ》に、エドガーを口説《くど》きに来たかのようだ。
「それにわたし、素直《すなお》でかわいい小間使いを選ぶことができると思うんです」
「ふうん、きみが認めた相手なら、浮気してもいいっていうの」
この、女好きの最低タラシ! どうしてそこでくすくす笑うの、とリディアはますます苛立《いらだ》つ。
「ええ、リディアよりずっとましな小間使い、いくらでもいますもの」
はあ? 何よそれ。
気がついたらリディアは、ベッドを抜け出し、ドレッシングルームのドアを勢いよく開いていた。
「こ、こっちがお断りよ! あなたがいくらエドガーを好きでも、あたしは認めないわ! 彼の遊び相手には、ぜったいあなたみたいなの認めませんから!」
ルシンダは、飛び出してきたリディアに驚き、呆気《あっけ》にとられた様子だった。
それでも、メイドのお仕着せのままのリディアを眺《なが》め、我《われ》に返ったように言い返す。
「遊び……? わたしはコンスタブル卿《きょう》の娘よ! 遊びですむ女じゃないの! あなた、小間使いのくせにえらそうに……!」
「小間使いじゃないわ、エドガーの正式な婚約者よ。あなたがどんなに高貴な女か知らないけど、あたしが認めないかぎり、遊び相手にもならないのよ!」
「リディア」
ふらついたからか、エドガーが止めようと腕を出す。彼が視界に入れば、リディアの憤《いきどお》りはわけもわからず頂点に達していた。
「さわらないで……!」
思わず平手を振り上げる。
エドガーに命中する。
はっきりと部屋中に響《ひび》いた音に、リディアははっとする。ルシンダもびっくりしたように目を見開いている。
ああ、とんでもなくはしたないことをしてしまったみたい。
エドガーの前でルシンダとケンカして、そのうえエドガーをひっぱたいてしまうなんて。
我に返ればいたたまれなくなって、リディアは逃げだそうとした。がエドガーに腕をつかまれる。引き寄せられ、そのまま抱きしめられる。
もがこうとして彼の胸をたたくけれど、離してくれそうにない。
「ごめん、リディア」
急に力が抜けた。そうしたらわけもなく泣けてきた。
「僕が悪かった」
何も、エドガーが悪いことなんてないのに。
訪ねてきたルシンダに応対するよう促《うなが》したのはリディアで、彼は当たり障《さわ》りなく接していただけだ。
リディア自身、エドガーに八つ当たりしてしまったとわかっている。
それでも、彼があやまりながら、あやすように髪を撫《な》でるから、はしたないとか恥ずかしいとか感じるよりも、気がつけば強くしがみついていた。
「伯爵、この女、どうかしてますわ。婚約者だなんて」
「婚約者だ」
「まさか。男のかたをぶつなんて、育ちの悪い……」
ルシンダが何を言おうと、もうどうでもよくなっている。
「それ以上|愚弄《ぐろう》したら許さない。出ていってくれ」
いつの間にルシンダが出ていったのかもわからないまま、ソファに座らされたリディアは、エドガーの胸に顔をうずめて泣いていた。
「ごめんね、つらい思いをさせて」
「……違うの、あたしが……」
「お願いだからリディア、ひとりでかかえ込まないで」
何度も彼があやまるから、泣きやまなきゃと思うのに、涙は止まらなかった。
「……もう、どうしていいかわからなかったの……。あたし、ここでがんばろうと思ったけどできなくて、どうすれば……」
「こうしてればいいんだ」
「ちっとも、フィアンセらしくなれなくて……」
「そのままでじゅうぶんだよ」
「ううん……、あたし、恋人どうしのこと何もわからない……。物足りない女だってわかってる……、でも……ちゃんと花嫁《はなよめ》修業《しゅぎょう》すれば、変われるかもって……」
「言っただろう? そばにいてくれればいいんだって」
リディアが腕に力を込めるほど、強く抱きしめてくれる。
ごめんねと繰り返しささやかれるたび、押さえ込んでいたものが、ぜんぶあふれて流れ出していくようだと思った。
結婚への不安とか、貴族ではない引け目とか、ルシンダやメイドたちの意地悪とか、ビリーに脅《おど》されたこととか、ひとりでかかえきれなかった悔《くや》しさやつらい気持ちを、エドガーが受け止めてくれることを少しずつ理解していくと、リディアはもう、無理に泣きやもうとは思わなかった。
そうして、寄りかかってしがみついて、重かったものを投げ出して、だんだんと軽くなっていく。
いろいろと、エドガーに失望されたくないと思っていた。自分の情けないところを見せたくなかったけれど、すべてがほしいと言ってくれた彼にとって、そういうリディアも求められていたのだろう。
だからエドガーは、困ったふうでもあきれた様子でもなく、やわらかく微笑《ほほえ》んでいる。
やっとすべて吐《は》き出し、涙も涸《か》れて、少し顔をあげた彼女を、いとおしそうに見つめる。
「もう少し、こうしていようよ」
「え……」
「きみがね、僕に抱きついていてくれるのがうれしいから」
「そ、そう?」
抱き寄せたまま力をゆるめてくれないから、リディアはまた、彼の背に腕をまわす。
うれしいと感じてくれるなら、そうしていたいと素直《すなお》に思う。
「リディア、ひとつ訊《き》いてもいい?」
「……ええ」
「きみが認めた女の子となら、浮気してもいいの?」
それは。
「あれは、売り言葉に買い言葉で、……あたしには考えられない……」
「じゃあ、いやだってこと?」
「そ、そりゃそうよ。……ちょっとエドガー、何を笑ってるの?」
「そう言ってほしかったんだ」
ときどき、子供みたいな人。
リディアは自分も子供みたいに泣いていたくせにそう思った。
ようやくまともに、エドガーの目を見ることができる。
うれしそうに軽く額《ひたい》にキスを落とし、にっこり笑ったエドガーは、それからふと、何かに気づいたように窓の外へ視線を移した。
来客なのか、ポーチへ続く道を馬車の音が近づいてきていた。
「オートレッド夫人はいないのに、いらっしゃったのか」
エドガーはその客人が誰なのか知っているかのような口振りだった。
それから、はっとした様子で「ああ、そうか」とつぶやいた。
「どうりで口が堅《かた》いはずだ」
何のことだろうか。
しかしそれよりも、リディアは大事なことを思い出し、ぱっと顔をあげた。
「そうだわ、あたし、夫人の居場所がわかったの。妖精の薔薇園《ばらえん》に閉じこめられてるわ。早く、妖精と取り引きして助け出さなきゃ」
立ち上がろうとしたが、エドガーに止められた。
「きみはまだ休んでなきゃだめだ。それに、妖精と取り引きって、簡単に夫人を連れ戻せるわけじゃないんだろう?」
「そりゃ……」
まだ、デーン族と取り引きするための秘密を手に入れていないのだ。
「もうあまり時間がないわ。あたしにできるかどうかわからないけど、それしか方法はないの。とにかく妖精は怒ってて、もう人間は信用できないからって、夫人のいる薔薇園を埋《う》めてしまうつもりよ。待ってくれるのは、満月が終わる明日の夜明けまでなのよ」
頷《うなず》きながら外を眺め、エドガーはしばし考えていた。
「けどこの屋敷には、ビリーたちとは別に危険な人物がいる。ナイフを持って夫人の部屋に侵入《しんにゅう》した誰かだ」
そういえば、ビリーはそれがリディアだと思っていたようだった。
「とにかく、その人物も夫人の宝石をねらっている可能性が高い」
「でも、誰にも宝石は奪えないわ。扉の鍵《かぎ》のリガードネックレスは、オートレッド夫人が持っているの」
「妖精の薔薇園にあるってこと?」
「ええ。それにあの薔薇園は、決まり事を知らないまま足を踏《ふ》み入れれば大変な目にあうわ。妖精は、何でも願いをかなえてやろうって呼びかけるけど、答えちゃいけないの」
「……なるほど。なら夫人に関しては、今夜のうちはまだ安全だってことだね」
それから何やらたくらんだ顔になるエドガーは、この際たまったうっぷんを、八つ当たり的に晴らそうとしているのではないだろうか。
「リディア、夫人をねらった犯人のことは、夜が明けるまでに決着をつけよう。きみが夫人を助け出すのはそれからだ。でないと、オートレッド夫人がその薔薇園を出る方が危険なことになりかねない」
「ええ、でも、レイヴンとふたりだけでやるの?」
「心配はいらない。人手《ひとで》は得られそうだし。それより、今のうちにきみは、しっかり体を休めておくんだよ。いいね」
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青い薔薇《ばら》の貴婦人
「エドガーさま、準備はできました」
部屋へ入ってきたレイヴンは、きちんとドアを閉め、ひそめた声でそう言った。
リディアは隣の部屋で、うとうとと眠りについたところだ。聞こえはしないだろうが、聞かれたくないとレイヴンも感じているのだろう。
リディアのことを考えられるようになったレイヴンは、ずいぶん成長したのではないだろうか。少しずつ、人間らしい感情を得て、平穏《へいおん》な生活に慣れつつある。
そんな彼に、残酷《ざんこく》なことを手伝わせるのは気がとがめる。
しかしエドガーはまだ、命がけの戦いから解放されてはいないし、レイヴンは彼の戦士だ。どこまでもついてくるつもりでいることはわかっている。
主人として命じること、それが何よりも確かな、レイヴンとの絆《きずな》だと信じて、エドガーは口を開いた。
「アニーは怖がってる?」
「それほどでも。わりと気丈《きじょう》なようで、しゃべれないふりを続けています」
「なら、軽く脅《おど》しておいてくれ」
きっと、リディアがきらうやり方だ。けれどエドガーは、こういうやり方しかできない。
仲間を守り、敵を退《しりぞ》けるために、もっとも確実な方法を選ぶ。これまでもそうだったし、これからもそうだろう。
たかが窃盗《せっとう》団だろうと、徹底的にやるつもりだった。
「それからエドガーさま、これを」
レイヴンがかかげて見せたのは、赤毛の頭髪だった。アニーの赤毛だと思われた。
「頭の皮|剥《は》いだの?」
「…………かつらです」
さすがにまだ、彼に冗談は通じないようだ。
「とするとアニーは」
「黒髪でした」
ようやくすべてが腑《ふ》に落ちる。オートレッド夫人の部屋に忍び込んだのは、アニーだったのだ。ルシンダは、またリディアに罪をなすりつけようと宝石箱を隠しただけ。
「レイヴン、よく気がついた。これでこちらの筋書《すじが》きも決まったよ」
どんな筋書きなのか、レイヴンはしばしエドガーの言葉を待っていたようだ。
しかしエドガーは、ふと別のことをつぶやいていた。
「なあレイヴン、思っていたよりもリディアは、僕を好きになってくれているのかな」
黙《だま》ったまま、彼は答えあぐねたようにこちらを見ている。なかば独り言のつもりで、けれどこれから行うことの言い訳のように、エドガーは言葉を続ける。
「リディアはここで、僕のためにがんばろうとしてた。あんなにつらい目にあってもやめようとせずに、僕が望むような婚約者になろうとしてくれていたんだ」
もちろんフェアリードクターとして、妖精に連れ去られたらしい夫人のことが気がかりでもあったのだろうけれど、小間使《こまづか》いを続けたのは、たぶんエドガーのためだった。
彼女にとって、自分はとくべつな存在になりつつあると思うのは、うぬぼれすぎではないだろう。
フィアンセらしくなれないと言ったリディアは、エドガーが考えているよりもずっと無垢《むく》で、彼は急ぎすぎていたようだ。この情熱を理解してもらうにはまだまだ時間がかかりそうだけれど、そんなもどかしささえいとおしい。
「恋愛のセオリーなんていいかげんなものだね。たくさん愛した方が負け? リディアはきっと、愛するほどに愛してくれるよ」
リディアを守るためなら何でもする。この気持ちだけは、呪《のろ》われた自分に降りかかる傲慢《ごうまん》な欲望を遠ざけてくれるだろう。
恋人や家族や仲間や、誰かのために戦ううちは、道を踏《ふ》み外《はず》していないと思いたい。
「さてと、はじめるか」
エドガーは立ち上がった。
ルシンダの部屋へ近づけば、彼女の騒がしい声は廊下《ろうか》にまで響《ひび》いてきていた。
「いったいどういうことなの? アニーはどこなの? お父さま、早くアニーをさがすよう執事《しつじ》に言ってくださらない?」
「そのうち戻ってくるだろう」
「でも、花瓶《かびん》の水を替えるために出ていったきり戻ってこないのよ。ときどきさぼる癖《くせ》はあったけど、もうすぐ正午よ。がまんできないわ」
小間使いが帰ってこない、とさっきは心配でしかたがないかのようにエドガーに泣きついたが、じっさいにいなくなっても泣くわけではないらしい。
「口がきけなくてもよくしてあげたのに、あの子、内心わたしのことバカにしてるに違いないわ!」
エドガーは、ドアの前に立った。と、ノックをするまでもなく、ドアが開いた。
飛び出してこようとしたルシンダは、エドガーにぶつかりそうになって立ち止まった。
「……アシェンバート伯爵《はくしゃく》……、な、何かご用ですの?」
先刻、エドガーに追い出されたことを思い出したのだろう、つんと彼女は顔を背《そむ》けたが、一方で期待するようにちらりと視線を動かした。
「先ほどは失礼しました、レディ・ルシンダ」
すると彼女は、笑《え》みを噛《か》み殺して眉《まゆ》をひそめてみせる。
「ええ、わたし、あんな侮辱《ぶじょく》を受けたのははじめてです。伯爵ともあろうかたが、小間使いをかばうなんて」
どこまでも芝居がかったお嬢《じょう》さんだ。エドガーも、笑いを噛み殺して神妙《しんみょう》に言う。
「お詫《わ》びのしるしに、あなたの小間使いを見つけましたよ。なかなか苦労しましたけどね」
「……アニーが? あの子、どこで何をしてたんです?」
「あなたの宝石が入った箱を持ちだしたきり、ということでしたね。でも彼女は宝石箱を持っていなかった。どこかに隠したのだろうと、調べているところです」
「ルシンダ、アニーはおまえの宝石を持ち逃げしようとしてたのか?」
コンスタブル卿《きょう》が、驚いたように近づいてきた。
「ええ……あの」
思いがけずアニーが泥棒《どろぼう》扱《あつか》いされそうになって、ルシンダはあせっているようだ。
「なら、アニーを問いつめねばならない。アシェンバート卿、娘のためにお手数をかけましたな。彼女はどこに?」
コンスタブル卿は、今までになく態度をやわらげた。エドガーがルシンダのためにアニーをさがしだしたと信じているのだろう。
「こちらです。逃げないように見張っていますので、いっしょに来ていただけますか」
そうして、エドガーがふたりを連れていったのは、屋敷のいちばん端《はし》にある部屋だった。
人が来そうになく、少々騒がしくても大丈夫だろうと思われる場所だ。
勝手にドアを開けたエドガーが、中へ入っていくと、火を入れた暖炉《だんろ》のそばでレイヴンが待っていた。
「アニー……」
ルシンダが顔色を変えたのも無理はない。アニーは椅子《いす》に縛《しば》りつけられ、蒼白《そうはく》な顔でうつむいていた。
レイヴンの軽い°コしはきいているようだ。
直接痛みを与えることだけが拷問《ごうもん》ではない。現実の痛みよりむしろ、人は苦痛を想像することで際限《さいげん》ない恐怖を感じるのだ。
だからこそ拷問器具というものは、やたらと見かけが大げさになっている。
言うとおりにしなければどういうことになるか、鮮明に想像できるように言い聞かせれば、指一本触れずに打ちのめすことも難しくはない。
「さて、アニー、きみのご主人が迎えに来たよ。助けを乞《こ》うてみてはどうだい?」
彼女はおびえた目をエドガーに向けたが、ルシンダには一瞥《いちべつ》もくれようとはしなかった。
「きみが持ち出した、象牙《ぞうげ》の宝石箱、ルシンダ嬢の宝石が入っていたあれだよ。どこに隠したか言えば、きっときみのことを助けてくれる。さっさとしゃべった方が身のためだよ」
エドガーが続けて促《うなが》すと、戸惑《とまど》ったようにルシンダが口をはさんだ。
「アシェンバート伯爵、アニーはしゃべれないんですよ。生まれつき、声を発《はつ》することができないんです」
「本当かな。ねえルシンダ、きみはそれを確かめたの?」
「確かめるって……、彼女の紹介者がそう言ってましたもの」
「確かめてないのか。それは不注意だな。アニーがしゃべれない振りをしているだけかもしれないって、考えたことはないの? もしもそうなら、彼女はいろいろ、興味深いことをしゃべってくれるだろうにね」
「……まさか……」
しゃべられたくないことがたくさんあるのだろうルシンダは、あきらかに狼狽《ろうばい》していた。
「簡単に他人を信用しちゃいけない。しゃべれないのが本当かどうか、きちんと確かめないとね」
エドガーは、暖炉の方へ歩み寄る。赤く燃える薪《たきぎ》に差し込んであった、細長い鉄鋏《てつばさみ》を引っ張り出す。
熱く焼けた金属が、自分に押しあてられることを想像したのか、それだけでもアニーは震えだしたが、さらにエドガーは脅しをかけた。
「昔の拷問のやり方を知ってる? これでね、頬《ほお》の肉を焼きながら引きちぎるんだよ。あんまり悲鳴《ひめい》が聞き苦しいから、立会人は耳栓《みみせん》をしたらしい。でも彼女が声を出せないなら、その心配はいらないわけだ」
縛られた手足を、どうにか動かそうとアニーがもがいた。レイヴンが、背後《はいご》から押さえつける。
ルシンダもコンスタブル卿も、異常な状況にむしろ黙り込んでいる。
頭をつかまれ、身動きのとれなくなったアニーは、エドガーの目を見る。恐怖に目を見開いた彼女が、そこに何を見つけるのか、エドガーは知らない。
悪魔だろうか?
ただ彼は、何度もこんな場面に遭遇《そうぐう》しているからわかる。
この瞬間、勝負がつく。
「……いや……、やめてーっ! 助けて!」
焼けた鉄鋏が頬に触れるまでもなく、アニーは叫び声をあげた。
「あ、あたしじゃない、この女の宝石なんて知らない、どうせ偽物《にせもの》ばっかじゃないか!」
[#挿絵(img/turquoise_211.jpg)入る]
いちど言葉を発すれば、アニーはそれが命乞《いのちご》いになると信じているように、立て続けにまくし立てた。
「どうせ自分でどっかに隠したんだろ! ああ、このあいだのブローチも盗《ぬす》まれたなんてうそだったしね!」
ルシンダがリディアに関する悪い噂《うわさ》を故意に流したこと。ルシンダに命じられて、リディアの部屋にブローチを置いたこと。さまざまなルシンダのたくらみに荷担《かたん》させられたことを、アニーは嬉々《きき》として話す。
そのうえ、エドガーと同じイニシャルの手紙も、ルシンダが夜更《よふ》けに会ったというその男の存在も彼女の作り話で、わざと父親に見つかるよう日記を書いたことまで暴露《ばくろ》した。
「や、やめなさい、アニー! いいかげんなうそばかり言わないで!」
「本当のことさ! だって、あんたが口のきけない小間使いをさがしてたのは、いい子ぶってるってことを周囲にばらされたくなかったからでしょ? 悪巧《わるだく》みを告げ口されそうになるたび、小間使いを悪者にして追い出すのがもう面倒になったって、よく言ってたじゃないか!」
青くなったルシンダの肩を、コンスタブル卿がつかんだ。
「ルシンダ、そうなのか? アシェンバート卿と文通していたというのは……」
「あの、お父さま」
「来なさい」
恥《はじ》をかかされたことを悟《さと》ったコンスタブル卿は、逃げるようにルシンダを連れ出そうとした。
「コンスタブル卿、アニーはどうするんです?」
「そんな女はクビだ。あなたの好きにしてくださってけっこう」
それはまた横暴《おうぼう》な。
「彼女はまだ、ルシンダ嬢の宝石についてしゃべっていませんよ」
「どうせ安物だ」
本当に偽物ばかりなのかと、エドガーはあきれた。
だがそんなことはどうでもいい。エドガーはまたアニーに問う。
「ならアニー、ルシンダ嬢の宝石はどうでもいいよ。それより、象牙《ぞうげ》の箱の方だ。あれには、オートレッド夫人のリガードネックレスが隠されている。気づいて持ち出したんだろう?」
アニーも、そしてルシンダもはっとした顔をしたが、エドガーは素知《そし》らぬ振りをしていた。
頭にきているコンスタブル卿は、今のは聞いていなかったようだ。すぐにルシンダは、父親に引きずられるようにして部屋を出ていく。
しかしこれで、エドガーが張った罠《わな》には足を突っ込んだことだろう。
ルシンダは、隠した宝石箱を取り出そうとするに違いない。
そのときを、アニーとその仲間たちがねらうだろう。
もちろん、リガードネックレスが隠されているなんていいかげんな作り話だが、彼女たちは信じたようだ。
エドガーは、そこで窃盗《せっとう》団を一網打尽《いちもうだじん》にするつもりだった。
夕方になって起き出したリディアは、いくぶん元気を取り戻していた。
すぐにオートミールを運んできたのは、部屋につけられたメイドで、リディアに意地悪をした顔ぶれではない、歳《とし》を取った女性だった。
ミセス・ボイルが、リディアと接したことのない召使《めしつか》いを選んだのだろう。
リディアは、念のためにオートミールをかきまわしたが、異物が入っている様子はなく、ようやく安心して口に運んだ。
疲れがとれて、頭が働くようになってくると、オートレッド夫人のことが気がかりになってくる。
今夜が満月だ。夜明けまでにどうにかしなければならないが、エドガーは窃盗団を排除《はいじょ》するまで待てと言う。
どのみちリディアはまだ、肝心《かんじん》な、デーン族の宝の秘密を解き明かしていない。
ただ、ぼんやりと明かりが見えてきそうな気はしている。
オートレッド夫人のリガードネックレスが、デーン族の薔薇園《ばらえん》へ入ることを許されたしるしなら、あれはデーン族の宝石なのだろう。
オートレッド伯爵家に対する、デーン族からの信頼を示す贈り物なのだとリディアは思う。
それに、デーン族は薔薇園に人間が入るのを極端にきらっている。リディアが会った妖精は、薔薇園を盗《ぬす》む気かと怒った。
となると、彼らの財宝は、あの薔薇園に隠されていると考えてもいいのではないか。
しかし、宝石が薔薇園のどこにあるというのだろう。地面を掘り返せば、ざくざくと出てくるのだろうか。
妖精と取り引きするチャンスはいちどだけ。間違うわけにはいかないのだ。
リディアの考えは、結局そこで行き詰まる。
やはり自分には、デーン族と取り引きすることも、夫人を救い出すことも無理なのかもしれない。
ずっと自信を喪失《そうしつ》してきたリディアには、あきらめの気持ちがひろがりつつあった。
それでも自分はフェアリードクターだから、できるだけのことをしたい。夫人を助け出せなくても、できることはまだある。
そう思ったリディアは、青い薔薇のことを思い出していた。
今夜、月の出とともに花を開くと言っていた、オートレッド夫人の青い薔薇。
そういえば今日、この屋敷に客人が到着した。オートレッド夫人と青い薔薇の約束を交わした友人に違いない。
薔薇が咲くことを報《しら》せた手紙を読んで、この日にやってきたのだ。
夫人はリディアに、もしも彼女に会ったら青い薔薇がたしかに咲いたと伝えてほしいと言っていた。
でも、今ならまだ、青い薔薇を見てもらうことができるかもしれない。
ベッドから抜け出すと、リディアは自分のドレスに着替えた。はじめて会う貴婦人に、いきなりメイドの格好《かっこう》で押しかけても、妖精話を聞いてもらえるはずもない。
まともな格好をしていたって、理解してもらえるかどうかわからないが、とにかく話してみるつもりだった。
「ブライトベリー公爵《こうしゃく》夫人はどなたにもお目にかかりません」
その貴婦人がいるはずの客室は、専用階段の先にあったが、階段を上《のぼ》りはじめたところで上から降りてきた女性がリディアを止めた。
そうして、面会を望んだリディアの言葉はあっさり退《しりぞ》けられたのだった。
「オートレッド伯爵《はくしゃく》夫人が明朝までに戻られないようでしたら、このままおいとまいたしますので、居合《いあ》わせたお客さまがたには失礼ながら、ご挨拶《あいさつ》を遠慮《えんりょ》させていただいております」
公爵夫人の侍女《じじょ》、というよりは、身内や知人といった同行者なのだろうか。その女性は、質素《しっそ》な装《よそお》いではあったが、口調《くちょう》や動作の隅々《すみずみ》にリディアは貴族的な印象を受け取っていた。
「その、オートレッド夫人のことでお話があるんです。伝言をあずかっています」
彼女は、リディアのことをじっと見た。
髪を結《ゆ》ってくるんだったわ。それに、ああ、手袋もしていない。
貴族の令嬢《れいじょう》ではないとひとめで見抜かれてしまっただろうし、そんな庶民《しょみん》の娘が行方《ゆくえ》不明のはずのオートレッド夫人の伝言を持っているなどと不審《ふしん》に思ったことだろう。
「あたしは、リディア・カールトンともうします。オートレッド夫人に作法《さほう》を教わるためにこちらでごやっかいになっています」
「伝言なら、うかがいましょう」
どうにも面会は無理なようだ。
それでもオートレッド夫人の気持ちが伝わらないよりはいい。
「あの、オートレッド夫人は、約束の薔薇を育てることに成功しました。でも事情があってこの屋敷に戻ってくることができないので、たしかに青い薔薇が咲いたことを、あたしからブライトベリー公爵夫人に伝えてほしいとおっしゃいました」
「あなた、その薔薇をごらんになったのですか?」
「はい。……いえ、まだつぼみでした。今夜にだけ咲く薔薇なんです」
少し迷い、そしてリディアは思い切って伝えることにする。
「オートレッド夫人は、妖精の薔薇園にいらっしゃいます。青い薔薇もそこです。あの、信じていただけるかどうかわかりません。でも、できればこのこともお伝えくださいませんか」
頭がおかしいと眉《まゆ》をひそめられることも覚悟していたが、その女性は、少なくとも顔には出さなかった。
「でしたらあなた、妖精の薔薇園へ行ってらっしゃったってこと?」
静かな口調でそう言う。
「はい。あたしは妖精博士《フェアリードクター》です。でも未熟《みじゅく》なもので、オートレッド夫人をそこから連れ戻すことができそうにありません。妖精たちは、夜が明けたら薔薇園をうずめてしまうつもりなのに、あたしはどうにもできなくて……。夫人は、このまま薔薇園と運命をともにするとおっしゃいました。だから、公爵夫人をご案内することもできず、薔薇をお見せできなくて、とても残念そうでした。あたしには、それだけ伝えてほしいって……」
聞いてもらえるうちにと、一気に伝える。
「ただ、今夜のうちなら、薔薇園に入ることもできるはずです。あたしが道案内できます。でも妖精の世界です。何があるかわかりませんし、危険なこともあるかもしれません。だから、あの、けっしておすすめするわけじゃないんですが、あたしにできることがあれば、何でも力になりたいんです」
彼女は、リディアが言い終わるのをきちんと待っていた。そうして、落ち着いた返事をした。
「わかりました。ではこれから、わたくしをそこへ案内してください」
「えっ?」
「わたくしが、ブライトベリー公爵夫人です」
エドガーがアニーから、彼女の仲間や盗みの計画について聞き出す機会は、じつはなかった。
間もなくコンスタブル卿《きょう》が戻ってきて、アニーを連れていってしまったからだ。
好きにしていいと言ったくせに、アニーにこれ以上娘の悪口を垂《た》れ流されてはたまらないと思い直したからだろう。
そのさい彼は、アニーのうそを暴《あば》いたエドガーが諸悪《しょあく》の根源であるかのように苦言《くげん》を呈《てい》していくのは忘れなかった。
「アシェンバート卿、召使いとはいえか弱い少女に拷問《ごうもん》まがいの脅《おど》しはどうかと思いますな。ルシンダも、あんな場面を見せられてはすっかりおびえきっている。焼けた鉄鋏《てつばさみ》だの肉を引きちぎるだの、言葉だけにしたって悪趣味すぎますぞ」
「おや、僕はやる気でしたが。彼女がしゃべらなければね」
本気か冗談か、確かめたかったのだろうか。彼はエドガーの目を見ようとしたが、視線がわずかに合っただけですぐ目をそらした。
どうかしている、とつぶやくと、アニーの腕を乱暴《らんぼう》につかむ。
「ルシンダ嬢《じょう》はどうされてます?」
「しばらく部屋で謹慎《きんしん》させる。……伯爵、ご迷惑《めいわく》をかけたことはあやまりますが、今後娘には近づかないでいただけますね」
どうかしている男は、娘にはふさわしくないと言いたいのか。ともかく、これでルシンダの嫉妬《しっと》がリディアに向かうことはないなら願ってもない。エドガーは笑って頷《うなず》く。
アニーを連れて、コンスタブル卿は逃げるように行ってしまった。
どのみち、アニーの仲間がどう動くつもりかは、エドガーには関係ない。こちらの考えるとおりに動いてもらうだけだ。
そう思っていたから、ルシンダをおとりに罠を張った。
アニーには、仲間と連絡を取ってもらわなければならないのだから、さりげなく逃がすつもりだったが、コンスタブル卿が連れていってくれたのだから手間が省けた。
コンスタブル卿はアニーに、ルシンダの醜聞《しゅうぶん》を強く口止めし、解雇《かいこ》して屋敷から追い出すかもしれないが、アニーにとってはむしろ好都合だろう。
そして自由になった彼女は、オートレッド夫人のリガードネックレスをルシンダが隠したというニセの情報を、仲間に伝えるのだ。
窃盗団を取り押さえるために、エドガーの方も急いで準備を進めなければならなかった。
彼はすぐに、ブライトベリー公爵夫人の部屋を訪ねることにした。
そういう名前でここを訪《おとず》れている女性とは、すでに面識がある。そうして、彼女が偽名《ぎめい》を使って訪れているからには、ほかの貴族に会いたがらないだろうこともわかっていたが、これから起こることは非常事態だ。面会しないわけにはいかなかった。
意外にも、名乗っただけでエドガーは部屋の中へ招《まね》かれた。
侍女たちが落ち着かなくざわついているのは、かの貴婦人の部屋らしくないと奇妙《きみょう》に感じながらしばし待つ。
奥から現れたのは、公爵夫人ではなく、そば仕《づか》えをしている女官《にょかん》のひとりだった。
「お久しぶりです、アシェンバート伯爵」
もちろんエドガーも何度か会ったことのある初老の貴婦人だ。
エドガーは丁重《ていちょう》にあいさつを返すが、彼女は急いだ様子で口を開いた。
「伯爵、あなたを信用して助けを乞《こ》うのですが、口外《こうがい》しないとお約束いただけますか?」
「もちろんお約束いたしますが、何か問題でも?」
「少し前から、お姿が見あたらないのです」
「女王|陛下《へいか》のお姿がですか?」
さほど大きな声を出したわけではないが、神経質そうに彼女は声をひそめて答えた。
「ブライトベリー公爵夫人です。……今回は、おしのびでの訪問ですので」
「わかりました。ですが、誰にも声をおかけにならず、部屋を出られたということですか?」
「そのようなのです。それに伯爵、じつは到着して間もなく、先にこちらへ着いているはずの護衛官が姿を見せないので不思議に思っていました。こちらのお屋敷では、オートレッド伯爵夫人が行方不明だと聞きましたし、なのにブライトベリー夫人は約束だから必ず訪問するとおっしゃられて。ああ、不用心なのでお部屋からお出にならないよう申しあげたのですが、いつのまにかいらっしゃらなくなってしまったのです」
「護衛官の、ビリーのことでしたら僕が居場所を知っております」
エドガーが言うと、女王付きの女官は驚きと期待とに目を見開いた。
「ウィリアム・ラムジー中尉《ちゅうい》についてご存じなんですか?」
それがビリーの正確な名前らしい。
女王に仕える軍人だったのだ。だからただの給仕《きゅうじ》係とは思えなかった。おしのびで現れる女王陛下の護衛のために、彼らはこのオートレッド邸《てい》で、前々から準備をしていたのだろう。
「はい。ですが、もうしわけありません。中尉とその部下三人を、オートレッド夫人の宝石をねらう窃盗団だと勘違いして、とらえて監禁しておりました。彼らが身分を明かさないので、あやしい連中としか思えなかったのですが、ブライトベリー公爵夫人のご到着をお見かけして、もしやと思いうかがいました」
「彼らを監禁? 伯爵、おひとりで成し遂《と》げたのですか?」
「いえ、正確には、僕の従者《じゅうしゃ》が」
「まあ、どれほど屈強《くっきょう》な大男なのかしら」
軍人の護衛官が一介《いっかい》の貴族の従者などにやられたとあっては、女官としては複雑な心境かもしれない。エドガーは曖昧《あいまい》に話題を流し、いきさつをかいつまんで説明することにした。
窃盗団が宝石をねらっていて、オートレッド夫人の部屋が荒らされたため、ビリーたちはそれを排除しようと働いていた。ところが彼らは、エドガーとリディアが窃盗団だと勘違いをしたため、馬糞《ばふん》の穴に放り込まれることになったのだ。
「事件は知りませんでした。オートレッド伯爵夫人が、しばらく前から行方不明だということだけ聞いております。それでもブライトベリー公爵夫人が、どうしても今日の訪問を取りやめるおつもりはないと知って、彼らも必死になってくれたのでしょう」
話を聞いて、女官はビリーたちに同情した様子だったが、とくにエドガーをとがめはしなかった。
「はい。ですから公爵夫人にお願いするつもりでした。ビリー、いえ、ラムジー中尉の協力をいただきたいのです。僕に協力というのは気が進まないかもしれませんが、おそらく今夜、窃盗《せっとう》団が動きます。彼らを取り押さえるために、人員が必要です」
「わかりました、それは同行の大佐から話していただきましょう。ただ、そういうことになると、ますます公爵夫人の身が案じられます」
「もちろん、彼らとで早急に捜索《そうさく》いたします。その前に、ラムジー中尉がたのために風呂を用意してやってくださいませんか」
「……そうですね。公爵夫人が、彼らを避けるようでは困りますから」
周囲で侍女たちがくすくすと笑った。護衛官が無事だとわかり、少しは安堵《あんど》したのだろう。
オートレッド伯爵夫人と女王陛下は、彼女が王位につく前からの親しい友人だった。しかし、議会の政権交代にともなって、前政権とつながりの濃かったオートレッド伯爵家と、その一員である夫人は、女王と距離を置かねばならなくなった。
それでも、彼女たちが深い友情でつながっていることは、周囲の誰も疑っていなかっただろう。
そのころ夫を亡くしたこともあって、社交界を退《しりぞ》いたオートレッド夫人だが、彼女の紹介があれば、あくまで政治的な思惑《おもわく》がからまない女性たちの社交界で、王族に目をかけてもらえるきっかけになるというのは、知る人ぞ知る話なのだ。
だからエドガーは、オートレッド夫人へのつてを頼り、リディアの居場所を整えようと考えた。
エドガーは、ふたりの女性のあいだにどんな約束があって、もう何年も距離を置いていた彼女たちがこの日に会うことになったのかは知らない。
ただ、女王陛下がおしのびで、オートレッド邸を訪問するということだけは知っていた。
この機会にリディアを紹介することができれば、ふだんの彼女のいいところを見てもらえるのではないかと目論《もくろ》んだのだ。
しかしもう、そんなことはどうでもよかった。
これ以上リディアにいやな思いはさせたくない。
それに、ともかくエドガーは、リディアを危険から遠ざけておかねばならなかった。
ところが、リディアが部屋にいなかった。
休んでいるはずだったのに、どこへ行ったのだろうか。
大したことはないといっても、またどこかで倒れたりしたらと心配になったエドガーは、急いでさがしに行こうとし、ニコを見つけて立ち止まった。
悠長《ゆうちょう》に彼は、窓辺のソファでうたた寝していた。
まったく、食べているか寝ているかどちらかしかない妖精猫だ。リディアについていなくてどうする。
エドガーは指先でニコの鼻をつつく。寝ぼけた彼は、おいしいものでも見つけたかのように指をぺろりとなめるものだから、むかついたエドガーは、思いきり鼻をつまんでやった。
しだいに苦悶《くもん》の表情になったニコは、ぱちりと目を開け、じたばたとエドガーの手をはねのけた。
「な、何すんだよ! 伯爵《はくしゃく》! 苦しいじゃないか!……殺す気か?」
妖精も窒息《ちっそく》するのだろうか?
「リディアはどこへ行ったんだ? ひとりで出歩かせちゃ危険じゃないか」
「あ? ひとりじゃねえよ。どっかの貴婦人といっしょに、デーン族の薔薇園《ばらえん》へ行くって言ってた。おれもあとで行くつもりさ。けどもうちょっと寝かせてくれよ」
またクッションに顔をうずめようとするニコを、むんずとつかんで持ちあげる。
「貴婦人? まさか、黒っぽい髪の女性?」
「ああ、そうだよ」
「デーン族の薔薇園って、オートレッド夫人がいるというところか?」
「ああ。もう、おろしてくれよ。その貴婦人はヴァージニアの友達なんだろ。だからどうしてもひとめ会わせたいとか言ってた」
どうやら、女王陛下はリディアといっしょらしい。
ニコに案内させて、その薔薇園へ行くべきか。しかし窃盗団がいつ動き出すかわからない。
妖精の薔薇園なら、窃盗団による危険が陛下に及ぶことはないかもしれないが、たしかリディアは、妖精たちが薔薇園を埋《う》めてしまう期限が、夜明けにせまっていると言っていたのではなかったか。
「エドガーさま」
レイヴンだった。
「あの、ニコさんをおろしてやってくださいませんか」
つかみあげられたままのニコが、不愉快《ふゆかい》そうにもがいているのを、レイヴンは気にしたように見ていた。誰かに同情するなんてめずらしいと思いながら、エドガーはレイヴンの言うとおりにしてやる。
「どうしたんだ、レイヴン。猫好きだったっけ?」
「いえ、ニコさんは友達ですから」
「ああ、そう……。なるほど」
いつから友達になったのか。
強力な味方を得たニコは、毛並みをなおしながら、レイヴンの足元で得意げに胸を張った。
「それより、報告でも?」
レイヴンは、父親に謹慎《きんしん》させられているルシンダを見張っていたはずだった。
「はい、ルシンダ嬢《じょう》が部屋を抜け出しました」
動き始めた。ならもうエドガーは、こちらのことに集中するしかない。
リディアが薔薇園にいるうちに、屋敷内から窃盗団を一掃《いっそう》する。
「ラムジー中尉は? そろそろ準備ができたかな」
「ええ、おかげさまで、ようやく復活できましたよ」
着替えてきたビリーが、むすっとした顔で戸口に立った。
「アシェンバート伯爵、ご指示どおり、ルシンダ嬢が宝石箱を隠したと思われる温室へは、私の部下が見張りにつきました」
「そう。ああ、それ以上近づかないでくれ。まだ臭《にお》うから」
眉間《みけん》にしわを寄せ、頭にきている様子だが、ビリーはどうにか自分をおさえている。
「あなたの従者のせいですが」
「へえ、きみは従者ふぜいにやられたことを認めるのか」
「……油断しただけです」
「今度は油断しないでくれ。陛下の安全がかかっている」
それにはさすがに、彼も表情を引き締めた。
「そのことですが、捜索も内密に行わねばなりません。部下をすべて窃盗団の確保にまわすわけにもいかないのですが」
「いや、どうやら捜索は必要なさそうだよ。わけあって、おひとりで出かけられたようだが、とりあえずは危険はないはずだ。リディアもいっしょらしい」
「リディアと?」
ビリーがそんなふうに呼び捨てにしたのが、エドガーには気に障《さわ》った。
こいつはリディアに、おれの女になれ≠ネどとふざけた口をきいたのだ。
距離を置きつつも、彼の正面に立ってにらみつける。
「僕の婚約者をなれなれしく呼ぶな。それと、今回の誤解についてはあやまらない。きみたちがリディアにしたことを思えば、僕にはきみたちをぶちのめす権利があったと思うからね」
反論しようと口を開きかけたのかもしれないが、結局ビリーは黙《だま》っていた。
「窃盗団を温室へ誘《さそ》い込んで襲撃《しゅうげき》する。残りの部下に指示をしてくれ」
エドガーが言うと、しぶしぶながら敬礼《けいれい》し、きびすを返して立ち去った。
「あれで許すのですか?」
ビリーを見送って、レイヴンが意外そうにつぶやいた。リディアに関しては、常々|狭量《きょうりょう》なエドガーだから、殴《なぐ》りつけるぐらいはすると思ったのだろう。
「まあね、彼らもこちらに正体を知られないよう、リディアの前でせいぜい粗野な窃盗団を演じたのだろうし。本気で口説いたわけじゃないなら大目に見るさ」
オートレッド邸の薔薇園へ入っていけば、まだ花をつけていない薔薇の垣根《かきね》の上、紫がかった空にのぼりはじめた白い月が見えた。
目隠しするような植え込みに囲まれた、その場所へ入っていくと、草に覆《おお》われた穴と石段がある。そこから、両側の壁が草に覆われた、深い側溝《そっこう》のような道を進みながら、リディアは、妖精の薔薇園はさらにこの先だとブライトベリー公爵《こうしゃく》夫人に説明する。
彼女は、とくに緊張《きんちょう》した様子もなく、かといって半信半疑といったふうでもなく、淡々《たんたん》とリディアの案内に頷《うなず》いていた。
「この先で、どこからともなく声が聞こえてきます。けっして答えないでください。でないと、大変なことになります」
「ヴァージニアは、答えてしまったのですか?」
そうだけれど、そのこと自体は彼女にとって悪いことではなかったのだ。デーン族は、彼女の能力を認めていたから。
「オートレッド夫人は、不思議なかたですね。薔薇を美しく咲かせる魔法の手を持っていらっしゃる。妖精たちが好意を持つのも無理はないんです。でもそういう人は、妖精と近づきすぎてしまうから……」
「危険な目にあうのですね」
「はい。妖精は、たとえば水や火に似ています。人に心地《ここち》のよいものであるときもあれば、災《わざわ》いをもたらすこともありますが、いつでも彼らには、悪意も善意もありません」
「のどの渇《かわ》きを潤《うるお》してくれる水に、呑《の》まれて溺《おぼ》れることもある。そういうことですか。ミス・カールトン、あなたは妖精と近しいのでは? 危険はないのです?」
「……あるかもしれません。あたしはまだまだ未熟者《みじゅくもの》で、いつでもうまく妖精たちと渡り合えるわけじゃありませんから」
「婚約者がいらっしゃるようですから、あまり無茶はされない方がよろしいわね」
リディアの薬指に、ムーンストーンの指輪を眺《なが》めながら彼女はくすりと笑った。
このかた、見えるのだわ。リディアは少し驚かされた。
婚約発表がすむまではと、リディアはこの指輪が人の目に見えにくいよう、妖精に魔法をかけてもらってある。エドガーにしかはずせないし、彼にははずす気がないのだからしかたなくそうしてもらっているのだ。
ブライトベリー公爵夫人は、どうやら妖精の魔法に惑《まど》わされにくい人らしい。
そしてリディアは、驚きながらも心強く感じていた。そういう人なら、妖精の領域へ連れていっても、トラブルに見舞われる危険は少ないだろうからだ。
「あたし、この能力くらいしか取《と》り柄《え》がありませんから。彼の役に立てることならって思うんです」
「たぶん、殿方《とのがた》は、そんなことを女性に望んではいませんよ」
「それじゃあ、やっぱり美しくて見栄《みば》えがいいとか、社交界でうまく立ち回れるとか、そういうことが重要なんでしょうか。……父は大学教授で、あたしは上流階級じゃありません。だから、彼が望むようにできそうになくて」
「できないのなら、代わってもらえばよろしいのです。結婚なさるのでしょう? あなたにできなくても、彼にできることならば何の問題もありません」
けれど、拝謁《はいえつ》を代わってもらうわけにはいかないのではないか。
リディアは悩んだが、公爵夫人があまりにもきっぱり言うので、そういうものかもしれないと、なんとなく勇気づけられた。
雑談をしているうちに、草葉のトンネルに終わりが見えていた。
暮れかけた時間の、薄紫《うすむらさき》にけぶる明かりの方に踏《ふ》み出すと、妖精の薔薇園が広がっていた。
彼らの、侵入者《しんにゅうしゃ》を試《ため》す声が聞こえたが、ブライトベリー公爵夫人は、リディアの言ったとおり返事を避《さ》け、神秘の園に足を進めた。
わずかな風もなく、色とりどりの薔薇たちは日暮れの淡《あわ》い光の余韻《よいん》をまといながら、奇妙《きみょう》に静まりかえっているように思えた。
月はまだ白っぽく、空にのぼりはじめたところで、地上に光を注ぐにはか弱すぎるようだ。
ヴァージニアはどこにいるのだろう。
リディアは丸太の小屋へ急ぐが、そこにも彼女の姿はなかった。
公爵夫人は、テーブルの上にあったオートレッド夫人のノートを、もの思うように眺めた。
薔薇の品種改良について、びっしりと書かれたものだから、彼女の筆跡《ひっせき》が懐《なつ》かしかったのだろうか。
「出かけているのかしらね」
ブライトベリー公爵夫人の声に、リディアははっと思いつく。
「……そうだわ、きっとあの丘の上です」
月が昇った。そろそろあの青い薔薇が咲くかと、見に行ったに違いない。
リディアは急いで丘へ向かった。ブライトベリー公爵夫人と、石段をあがっていくと、あの青い薔薇の前にたたずむ、オートレッド夫人の姿があった。
「ヴァージニア」
リディアが駆《か》け寄っていくと、彼女は驚いたように振り返った。
「リディア? もう来てはいけないと言ったでしょう? どうして……」
言葉を止めた彼女は、リディアのあとから近づいてくる女性に気がついたのだろう。
「……アレクサンドリーナ……?」
「ヴァージニア、お元気そうね。約束どおり会いに来たわ」
「でも、まさか……。あなたがこんなところまで」
公爵夫人は力強い足取りでオートレッド夫人のそばまで歩いていくと、うれしそうに手を取った。
「わたくしたちの友情は変わらないと誓ったでしょう? 周囲の事情で会えなくなることくらい、大したことではないって。あなたは必ず青い薔薇を咲かせてくださるとおっしゃったし、そのときにはわたくしは、何があろうと会いに行くと言いました」
「ええ、忘れたことはないわ。あなたが、いちどでいいから見てみたいとおっしゃった薔薇が、もうすぐ咲くのよ」
ふたりは、目の前の薔薇のつぼみに目をやった。
少女のころに戻ったかのように、手を取り合ったまま薔薇に見入っている貴婦人たちを眺め、リディアは少しうらやましくなった。
リディアにとって、上流階級の社交界は特殊《とくしゅ》なところだ。家柄《いえがら》や嫁《とつ》ぎ先などで最初から順位が決まっていて、そこから出しゃばらずに当たり障《さわ》りのない関係を築くところ、そんなふうに考えていた。
でも、そこにいる人たちも、周囲の事情が許そうと許すまいと、自分が大切に思う人との絆《きずな》を築くのだ。
だったらリディアは、臆《おく》することなどない。エドガーがいるところだから行く。それを否定する人ばかりではないだろう。
「リディア、アレクサンドリーナを連れてきてくれてありがとう」
少し下がって眺めていたリディアを、招《まね》き寄せるようにヴァージニアは手をさしのべた。
「あなたがいなければ、私は約束を守れないままになるところだったわ」
「いいえ、あたしは何も。オートレッド夫人、まだこの薔薇園を守る方法が見つからないんです。だから、公爵夫人をお連れすることしか……」
リディアはむしろもうしわけなく感じていたが、彼女は失望するでもなく、ただ意外そうに言った。
「私が庭師じゃないって、気づいてたの?」
「はい、その花輪の首飾りがリガードネックレスだと気がついて……。同じものを身につけた、先代の肖像画《しょうぞうが》がありました」
彼女は自分の、生花をつないだような首飾りに目を落とし、納得《なっとく》したように頷いた。
「隠しててごめんなさいね。妖精と入れ替わっているときに名乗るわけにもいかなくて。それに、ここから出られないんじゃ、あなたに作法《さほう》を教えることもできないし、失望させてしまうと思ったの」
「え、あたしがメイドじゃないって知ってたんですか?」
「リディアって名前に、あとになってもしやと思ったの。それに、話に聞いていた通りだわ。かわいくてお人好《ひとよ》しで、誰よりも妖精国伯爵夫人《レディ・イブラゼル》にふさわしい女性だって」
「まあ、ミス・カールトンは、あのアシェンバート伯爵のフィアンセだったのですか」
「ええ……、はい」
なんだか気|恥《は》ずかしくて、リディアは赤くなった。
「ねえアレクサンドリーナ、初々《ういうい》しいお嬢《じょう》さんを見ていると、私たちも結婚したころを思い出さない?」
「そうね、ヴァージニア」
ふたりはまた、軽やかに笑った。
オートレッド夫人は、亡夫《ぼうふ》をしのぶように、彼からもらったというリガードネックレスをそっと撫《な》でる。
それを眺めながら、リディアは不思議に思った。
夫人のリガードネックレスは、宝石|細工《ざいく》の造花であるはず。なのに、彼女が指先で触れた花びらは、みずみずしい弾力を持つ薔薇《ばら》の花びらそのものに見えたのだった。
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妖精たちの宝石箱
ガラス張りの温室に足を踏み入れると、濃い緑がルシンダの視界を覆《おお》った。湿《しめ》り気をふくんだ、なじみのない草花の強い香りを不快に感じながら、奥へと進む。
たしかこの先の、大きなシダの根元に隠したはずだ。
目を引く背の高い樹《き》に近づいていくと、ルシンダはしゃがみ込んで、その下の茂《しげ》みをさぐった。
両手で箱を持ちあげる。象牙《ぞうげ》の透《す》かし彫《ほ》りで飾られた、それだけで美術品として鑑賞に値《あたい》する美しい宝石箱が姿を現す。
オートレッド夫人の、豪華《ごうか》なリガードネックレスを隠しておくには、なるほどふさわしい。
きっと底が二重にでもなっているのだろう。それとも、仕掛けがあって思いがけないところが開くのだろうか。
箱を振ってみたりひっくり返したり、いろいろと確かめていたルシンダは、けれどリガードネックレスを見つけることはできなかった。
「壊《こわ》すしかないかしら」
装飾品《そうしょくひん》として飾られていたくらいだ。宝石箱自体が高価なものではあるだろうが、ネックレスの方がもっと高価なはずだ。それにルシンダは、どうしてもネックレスを身につけたいと思っている。
このまま伯母《おば》と対面がかなわなくても、ネックレスさえ見つかれば借りていってもかまわないだろう。
伯母の宝石箱だが、アニーが壊したことにしよう。
彼女は出ていくように言い渡されたところだ。いなくなるのだから、言い訳もできまい。
宝石箱を壊すために、ルシンダはあたりを見回した。花壇《かだん》を囲う石垣《いしがき》に目をつける。
ぶつければ壊れるだろうか。
立ち上がり、箱を頭上にかかげようとしたとき、ルシンダのすぐ背後《はいご》で靴音がした。
はっとして、振り返ろうとしたとたん、羽交《はが》い締《じ》めにされる。思わず落とした宝石箱は、ふたがはずれたがまだ壊れはしなかった。
「これか、リガードネックレスの入った宝石箱は」
宝石箱を拾った男は、つかまえられたルシンダを見てにやりと笑う。
気がつけば、ルシンダは数人の見知らぬ男たちに取り囲まれていた。
「な、何なのあなたたちは……」
「おい、さっさと壊して中身を確かめろ」
口をふさがれたルシンダの目の前で、男は象牙の箱を石垣にたたきつけた。
破片が四方に飛び散る。壊れた箱に群《むら》がった彼らは、底やふたの裏側や、隙間《すきま》のありそうなところを丹念《たんねん》に調べていたが、やがてひとりがつぶやいた。
「……ないぞ」
「ネックレスなんてどこにもない」
え?
「おまえ、隠したのか? おい、どこへやった」
ナイフを突きつけられて、ルシンダはおびえた。
「いや……、知らないわ……助けて……」
「おいアニー、どういうことだ? この女がネックレスを隠したんじゃなかったのか?」
アニー?
驚いて、ルシンダはおそるおそる盗《ぬす》み見た。
黒髪の女がいた。しかし顔を見れば、間違いなくアニーだった。
「こっちが聞きたいよ。え? ルシンダお嬢《じょう》さま、ネックレスのこと知ってるなら、さっさとしゃべりな。でないと痛い目にあうよ」
「……アニー、あなた、どうして……」
「クビになった小間使《こまづか》いが、どうしてこんな連中といっしょにいるのかってこと? みんなあたしの仲間さ。この屋敷で盗みの計画を立てたってわけ」
「ど、泥棒《どろぼう》なの……?」
「ま、そういうことかな。あたしがあんたに近づいたのも、怪しまれずにこの屋敷へ入り込むため。以前にね、あたしこの屋敷に臨時で雇《やと》われたとき、小金を盗んですぐ追い出されたんだ。でもそのとき、ここには高価な宝石がたくさんあるって耳にしたわけ」
そうして髪の色を変え、口がきけないことにして、ルシンダの小間使いになった。客人の小間使いなら、執事《しつじ》もメイド頭も、経歴を調べたり注意深く観察したりはしない。アニーはいつもうつむきがちにしていたし、臨時雇いのメイドに似ていると思い出す者はいなかった。
「口のきけない小間使いを、あんたがほしがってるって知って芝居をすることにした。なかなかうまくやっただろ?」
いつもルシンダに叱《しか》られて、震《ふる》えているだけだったアニーが、別人みたいに彼女を見おろす。あざけるように笑っている。
宝石目当ての泥棒と仲間だったなんて。
驚いて言葉が見つからないルシンダを、気の短い男が殴《なぐ》りつけた。
「リガードネックレスはどこだ? 知らないっていうなら、あんたには用はないってことになるぜ」
倒れ込んだルシンダは、逃げるように体を引きずるが、男たちに取り囲まれている。
「おねがい、アニー、……助けて。あなたには、何度もお菓子をあげたじゃない」
アニーは笑いながら、ルシンダのスカートを踏《ふ》んづけた。
「ふん、食べ残しを床に放り投げて、拾えって言ったんだっけね。バカじゃない? 思い出したらますます、あんたには思い知らせてやりたくなったよ」
「面倒だから殺すか?」
ルシンダはもう、すすり泣くしかなかった。
「おい、泥棒ども、そこまでだ!」
突然、声がした。
温室の入り口に、見知った顔が現れる。
この屋敷の召使いだ。どういうわけか彼らは、ピストルを手にしている。
それに、金色の髪のすらりとした人影は……。
「おまえたちに逃げ場はないぞ、無駄《むだ》な抵抗はやめて武器を捨てろ」
しゃべっているのは短髪の召使《めしつか》いだが、ルシンダの目にはひとりしか映っていなかった。
「アシェンバート伯爵《はくしゃく》……!」
しかし、立ち上がろうとした彼女は、アニーに肩を押さえられた。
アニーは、ルシンダの頬《ほお》にナイフを押しつけながら声をあげる。
「くそっ、そういうことか。みんな、あの貴族にはめられたんだよ!」
どういうこと?
「罠《わな》だったんだ、その宝石箱にリガードネックレスが隠されてるなんてのは!」
「やっと気がついた?」
美貌《びぼう》の伯爵がうっすらと笑うのを、ルシンダは混乱《こんらん》しながら眺《なが》めた。
象牙の箱に、リガードネックレスが入っているというのは、うそ? アシェンバート伯爵は、わざとうそを言った?
ルシンダが箱を隠したと知っていたのだ。
リガードネックレスがあると聞いて、ルシンダが箱を取りに行くことも、アニーの仲間が後をつけることも知っていた。
アニーがしゃべれることを暴《あば》いた彼は、彼女が窃盗《せっとう》団の一味だとも知っていたのだ。
呆然《ぼうぜん》とするルシンダを人質《ひとじち》にしたまま、アニーは後ずさった。
「ちくしょう! この女がどうなってもいいのか? そっちこそ、武器を捨てろ!」
男がひとり叫《さけ》ぶと、ほかの仲間も勇気づけられたように身構えた。
それでも、ピストルをかまえながら、召使いたちはじわりと近づいてくる。
ナイフを持つアニーの手に力がこもり、ルシンダはあせる。
「こ、来ないでーっ、殺されるわ! 伯爵、助けて!」
なのに、自分にふさわしいと信じていた彼は、ルシンダの悲壮《ひそう》な叫びに微笑《ほほえ》みで返した。
微笑みは、ルシンダではなくアニーに向けられたものだった。
「アニー、そんなことをしても無駄だって、きみはよくわかってるだろう?」
名指しにされたアニーは、びくりと震えた。
焼けた鉄鋏《てつばさみ》を近づけられたことを思い出したのだろうか。
ルシンダも怖くなった。
あのときアシェンバート伯爵は、残酷《ざんこく》な行為にひるむ様子もなかった。
今も、人質を盾《たて》にしたって無駄だとアニーに言い聞かせている。それはつまり、ルシンダがどうなっても、アニーやこの男たちをつかまえるつもりだということだ。
アニーがおびえているのがわかるほど、ルシンダは声も出なくなった。
「中尉《ちゅうい》、さっさとやってくれ」
淡々《たんたん》と彼は促《うなが》す。
「しかし、人質が」
「主人の安全と、人質の命とどちらを取るか、きみたちは一瞬でも迷ってはいけないのでは?」
「……わかりましたよ」
彼らが踏《ふ》み出したそのとき、ルシンダの背後でガラスの割れる音がした。
黒い影が飛び込んできたかと思うと、目の前の男をひとり蹴《け》り倒し、その勢いのままルシンダをアニーから引き離す。
同時に、周囲で乱闘《らんとう》が始まる。
ピストルの音が響《ひび》くと、ルシンダは頭をかかえたが、すぐにさっき飛び込んできた男に引き起こされる。
褐色《かっしょく》の肌の少年、アシェンバート伯爵の従者《じゅうしゃ》だ。
「早く、外へ!」
彼に押されるように、ガラスの割れたところから温室の外へ出る。そのままルシンダは、あとも見ずに駆《か》け出した。
伯爵に見捨てられたわけではなかったのだとしても、そうは思えなかった。
痛みを感じる首筋《くびすじ》に手を触れると、血が流れていた。
あの従者が乱暴なことをしたせいで、アニーのナイフがかすったのだ。
ひとつ間違えば殺されていた。アシェンバート伯爵は、そうなったとしても心を痛めたりしない人なのだと感じていた。
母を侮辱《ぶじょく》する陰口《かげぐち》から、かばってくれたのに。
それは彼にとって、自分の、身分の違う婚約者を想《おも》っての言葉だったのだと、いまさらに気づかされる。
なのに、庶民《しょみん》の娘より貴族の自分の方が彼にふさわしいと考えていた。
走り続ければ息が切れて、ルシンダの足取りは重くなっていた。
きっともう大丈夫。ずいぶん逃げたもの。
そう思いながら足を止める。
息苦しい呼吸を整えながら、ここはどこだろうとあたりを見回す。広い庭園をむやみやたらと走ったため、自分がどこにいるのかすぐにはわからなかった。
薄暗《うすぐら》くなりはじめた庭園を、月光が照らしている。ふと生《い》け垣《がき》に触れたルシンダは、痛みを感じてはっと手を引っ込めた。
これは薔薇《ばら》の生け垣だ。周囲にあるのは、すべて棘《とげ》を持つ薔薇。
薔薇園。
そういえば伯母さまは薔薇を育てるのが好きだと聞いたことがあった。これだけの庭園に薔薇園があるのは不思議でも何でもないが、薄暗い中、白く浮かびあがる石柱に、這《は》うように巻きついた薔薇を眺めていると、ルシンダは不安な気持ちになった。
風が吹く。無数の棘を持つ枝葉が、笑うようにゆれる。
花々の女王、そんな薔薇のように、美しく人目を引くはずの自分。誰もがうらやむような結婚をして、陰口を言った女の子たちを見返してやりたかった。たやすいことだと思っていた。
なのに、アシェンバート伯爵は、あのありふれた印象の、庶民の娘に惹《ひ》かれている。どうして負けるのかわからない。
そんな自分を、花を持たない棘だらけの枝葉が、笑っているような気がする。
おまえは花じゃないと、高貴な薔薇じゃないから出ていけと、その棘で威嚇《いかく》する。
いたたまれなくなって逃げだそうとしたとき、生け垣のあいだから出てきた人影が立ちはだかった。
「……アニー……」
「逃がさないよ。あんたには、思い知らせてやりたかったんだから」
ルシンダは駆け出す。アニーは追ってくる。
薔薇園の、植え込みの奥へ入り込もうとしたルシンダは、アニーに髪をつかまれる。
もがきながら、取っ組み合う。
と、ルシンダの足元から急に地面が消えた。
バランスを崩《くず》し、アニーとつかみ合ったまま、落とし穴のようなそこに転げ落ちる。
アニーの下敷きになったルシンダは、起きあがれないまま、全身を打った痛みに抵抗する気力を失っていた。
「何だ、ここ……」
アニーが不思議そうに言ったのも無理はない。側溝《そっこう》のようなトンネルが、どこまでもうねうねと続いていたのだ。
両側の土壁は草に覆《おお》われ、天井も草木が折り重なって茂《しげ》り、まるで緑の洞穴《どうくつ》だ。
アニーはルシンダが逃げないよう、しっかり腕をつかんで立ち上がった。
「隠れてやり過ごすにはいいかもしれないな。いいかい? あの伯爵連中に見つかったら、あんたも命はないと思いな。殺されるくらいなら、道連れにしてやるからね」
足が痛くて、引きずりながらしか歩けないルシンダを、アニーはむりやり引っぱって、トンネルの奥へ歩《ほ》を進めた。
窃盗団が取り押さえられるのに、さほど時間はかからなかった。
ビリーたちとレイヴンとで、起きあがれないほどぶちのめしてから縛《しば》り上げる。
そのときになってエドガーは、アニーがいないのに気がついた。
「中尉、女がひとり逃げたようだ」
「アニーですか。女ひとりでは何もできないでしょう」
「しかし彼女は、ひとりでオートレッド夫人を襲《おそ》おうとしたやり手だよ。すぐにさがしだした方がいい」
「おい、伯爵!」
割れたガラスの向こうから、ニコがこちらを覗《のぞ》き込んで呼びつけた。
「その女、リディアのいるところへ向かってるぞ! ルシンダ嬢《じょう》を連れて、妖精の通路に迷い込んでしまったんだ!」
「何だって? ニコ、その通路はどこに?」
「薔薇園の奥にあるんだ。デーン族の薔薇園につながってる。ああ、おれ、リディアのところへ行こうと思って歩いてたら、あのふたりが上から落ちてきたんだ。とっさに隠れたんだが、小間使《こまづか》いのほうが令嬢を痛めつけて、おまけに道連れにしてやるとか何とか言ってるもんだからおかしいと思って……」
「あのー、アシェンバート伯爵、猫と話ができるんですか?」
たぶんビリーには、みゃあみゃあとうるさく鳴く灰色猫と話しているように見えたのだろう。
「女王|陛下《へいか》とオートレッド夫人も危険だ。アニーがそちらへ向かっているらしい」
エドガーは振り返って言った。
わけがわからず、怪訝《けげん》な顔をするビリーを覗き込む。
「僕の正式な名前を知ってる?」
「……妖精国伯爵《ロード・イブラゼル》……」
「そう。で、彼はね、猫じゃなくて妖精の紳士《しんし》なんだよ」
まだわかったようなわからないような顔をしている。
「レイヴン、急ごう」
エドガーがきびすを返すと、ニコは案内すべく二本足で駆けだした。
あたりが暗くなるほどに、月明かりは冴《さ》えはじめた。
リディアとふたりの貴婦人は、じっと薔薇に見入っていた。
青い薔薇のつぼみは、月光を浴びると、ふと目覚めたのか頭をもたげた。
と思うと、よろこびに包まれたかのようにかすかに震える。
目の前で、見る間につぼみがやわらかく膨《ふく》らんでいくと、こぼれ落ちそうに花びらが押し出されてくる。幾重《いくえ》にも、内から広がっていく青い花びらは、軽くカールして優雅《ゆうが》な形をあらわにする。
妖精界の薔薇は、そんなふうにあっという間に開き、誇《ほこ》らしげに彼女たちを見あげた。
オートレッド夫人は、薔薇の枝をひとつ切り取り、大きく咲いた一輪をブライトベリー公爵《こうしゃく》夫人に手渡した。
「ありがとう、ヴァージニア」
「残念ながら、薔薇を持ち出すことはできないの。でもこれは、あなたの薔薇よ」
持ち出すと枯《か》れてしまうと、ヴァージニアは言っていた。妖精が、持ち出すことを許さないのだろう。でももし、持ち出せたなら。
リディアはずっと考えていた。
花輪のリガードネックレスは、宝石なのだろうか。しかし今は、やわらかくゆれる生花の花輪にしか見えない。
ここが妖精界だから、そんなふうに見えるのか。
「不思議な色ね。鮮やかな、まるでターコイズのブルーだわ」
真珠《しんじゅ》の白、珊瑚《さんご》のピンク、鼈甲《べっこう》の黄金色《こがねいろ》、ここの薔薇はどれもこれも……。
デーン族の宝物の、秘密の隠し場所はどこ?
この魔法の薔薇園のどこか?
それとも……。
そのとき、地響きのような音がして、リディアの思考《しこう》はさえぎられた。
「何ですの、今の音」
「さあ、何かが崩れたんでしょうか」
言いながらリディアはいやな予感がした。
「リディア、あれは?」
オートレッド夫人が指さしたのは、この丘から見下ろせる庭園の一角だ。そこにあったはずの薔薇の花壇《かだん》が見あたらず、真っ暗な闇《やみ》に包まれている。
「まさか、この薔薇園が崩《くず》れかけているんじゃ……」
妖精たちは、ここを埋《う》めてしまうと言っていた。夜明けまで待ってくれるはずだが、待ちきれなくなったのだろうか。
「デーンたち、どういうことなの? まだこの薔薇園を埋めてしまうには早いわ!」
しばらく待てば、どこからともなく声が返ってきた。
(フェアリードクター、夜明けにここを埋め尽《つ》くすには、そろそろ作業をはじめねばならぬ)
夜明けからはじめるんじゃなかったの?
これだから妖精との約束は慎重《しんちょう》にならなければいけないのだ。けれどいまさら言ってもはじまらない。
「なら、なるべくゆっくりやってちょうだい」
(そうも言ってはいられない。泥棒《どろぼう》がここへ入ってこようとしている)
(ヴァージニアと入れ替わっていたわしらの仲間を、刺《さ》そうとした女だ)
なんですって?
「そんなバカな。どうして泥棒が入り口を見つけられたの?」
(ヴァージニアの血縁《けつえん》者がいっしょらしい)
(この家の者のためにと開かれた道だが、血縁者をあやまって招き入れてしまったのだ)
(泥棒は、その娘を人質《ひとじち》にしているぞ)
驚いて、リディアはヴァージニアの方に振り返った。
「……大変だわ。オートレッド夫人、ルシンダ嬢が……」
夫人は顔色を変えた。
「なんてこと、あの子ももう、この屋敷に来ていたのね」
(フェアリードクター、わしらはふたりを止めるぞ、いいな)
願いをかなえる代わりに去れと呼びかけるのだ。
でも、泥棒だけならともかく、ルシンダも問いかけに答えてしまうかもしれない。そうなったら、妖精の魔法でとんでもないことになるに決まっている。
「待って、デーンたち、あたしが追い返すわ。だから問いかけるのは待って」
返事はなく、妖精たちはすでに侵入者《しんにゅうしゃ》が現れる入り口の方へ行ってしまったらしかった。
リディアは急いでふたりの貴婦人に言った。
「お二人はここにいてください。泥棒だという人物が、武器を持っているなら危険です」
「いいえリディア、年若い娘に危険なことをさせるわけにはいかないわ」
オートレッド夫人が、勇敢《ゆうかん》にも大きなスコップを肩に担《かつ》ぐ。
「でも、ここはデーン族の領域です。人間界とは違いますから、あたし、なんとかしてルシンダを助けます」
すぐにリディアはきびすを返し、青い薔薇の丘を駆《か》け下ると、薔薇園の入り口へ急いだ。
薔薇の植え込みに沿《そ》って庭を横切るうち、再び地響きがした。どこかがまた崩れたのだろうか。
早くしないと、ブライトベリー公爵夫人を連れ出す時間もなくなってしまう。
ようやく石畳《いしだたみ》の小道へ出ると、その先に緑のトンネルが目に飛び込んでくる。
同時に、トンネルの手前に、ふたつの人影が見えた。
ルシンダだ。そしてもうひとりが、オートレッド夫人を刺そうとした泥棒だろうか。
「アニー……?」
小間使いのアニーが、ルシンダにナイフを突きつけている。そう気づいたリディアは、驚いて足を止めた。
彼女は、植え込みの向こうから現れたリディアに、はっと身構え、ルシンダを引きつけた。
「あんた……、リディア、どうしてここに……」
しゃべれないはずのアニーが、声を発したことに少なからず驚きながらも、リディアが驚くべきはもっと別のことだった。
「アニー、まさかあなたが、オートレッド夫人を襲《おそ》った泥棒なの?」
ちっ、と彼女は舌打ちする。
「リディア、助けて……」
ルシンダが弱々しい声を出すと、アニーはわざとらしくあざ笑った。
「へえ、リディアがブローチを盗《ぬす》んだように見せかけたくせに、助けてもらえると思ってんの?」
やっぱりルシンダが……。そう思ったけれどリディアは、今はルシンダに腹を立てる気にはなれなかった。
「アニー、彼女を離してちょうだい」
「いやだね、あたし追われてるんだ」
「逃げたいなら、逃がしてあげるわ。約束するから、人を傷つけるのはやめて」
アニーは信じてなさそうに、じろりとリディアをにらんだ。そうして唇《くちびる》をゆがめて笑う。
「そうか、あんたあの金髪の伯爵とできてたんだっけ。ならちょうどいいや。この女と代わってよ。こいつじゃ人質にならない。伯爵は、あたしといっしょに殺そうとするだろうからさ」
「そ、そうよリディア、あなただったら殺されないわ。だから……」
アニーを追っているのはエドガーなのか。だとしたら、人質のルシンダを見捨てる可能性はあるかもしれない。そう思ったから、リディアは迷った。
とにかく時間がない。すぐにアニーを外へ出して、妖精たちに薔薇園《ばらえん》をあちこち崩すのはやめさせないと。
「わかったわ。あたしが代われば……」
言いかけたとき、また地面がゆれた。
リディアははっとして後ずさる。
目の前の地面に、アニーたちとこちらを隔《へだ》てるような深い溝《みぞ》が走っていた。
妖精たちが、アニーを薔薇園に一歩も入れまいとしたのだろうか。
気づけば、デーン族が大勢、リディアやアニーを取り囲んでいた。
草葉の隙間《すきま》に、木々の枝に、薔薇の根元に、小動物の毛皮や小鳥の羽をまとった妖精たちが集まり、いっせいにこちらを見ている。
ルシンダやアニーも、ここでは妖精の姿が見えるのだろう。呆然《ぼうぜん》として声も出せない様子だ。
「な、何なの……? こいつら……」
(人間ども、よく聞け。願いをひとつかなえてやるから、今すぐここを出ていけ!)
デーン族の声が、月夜に響《ひび》き渡った。
彼らは、取り引きに応じた相手にしか魔法をかけることはできない。だから取り引きを持ちかける。
「願い……?」
顔をあげてつぶやいたルシンダは、今にも助けてと言い出しそうだ。
まずいわ、とリディアはあせった。
「だめよ、願いを言っちゃだめ!」
「そうだよ、ひとつしかかなえられないんだ。よく考えた方がいい」
エドガーの声だった。
レイヴンとニコもいっしょに、側溝《そっこう》の通路から姿を見せる。
振り返ったアニーは、顔をこわばらせながらルシンダを盾《たて》にするように引きつけ、彼女の口をふさいだ。
「どうする、アニー。それともきみが言わないなら、僕が言おうか?」
ええっ、エドガー……?
リディアは声を発しかけたが、止めるように後ろから肩に手を置かれた。ブライトベリー公爵夫人だった。
丘を降りてきたらしいふたりの貴婦人も、息を詰めて様子を見守ろうとしている。
「ねえ妖精たち、僕にもその権利があるんだろう?」
(ここへ足を踏み入れた者ならば)
ルシンダは何か言おうとしているが、口をふさがれていてうめき声にしかならない。
「なら、そうだな、この土地には昔から、妖精たちがたくさんの宝石を隠し持ってるって伝説もあるらしいことだし……」
「宝石は、あたしのもんだよ!」
とっさにアニーが叫《さけ》んだ。
「ぜんぶ、あたしたちがいただくはずだったんだ! 妖精だって? どんな願いでもかなえられるっていうなら、ありったけの宝石をあたしによこせよ! 体中、宝石で飾り立ててくれるんだろうね!」
その瞬間、アニーは光の柱に包まれた。
まぶしくて、みんな目を伏《ふ》せるしかない。
ようやく光がやんだのを感じて目を開けると、たった今までアニーがいた場所には、大きな水晶《すいしょう》の柱が立っていた。
「アニー……」
ルシンダがつぶやいて、リディアはその水晶がアニーの姿をしていることに気づく。
(宝石で飾り立てられて、満足か?)
妖精たちはそう言うと、みんなしていっせいに笑い出した。
(人間どもは欲のかたまりさ。願いをかなえてもらえると聞けば、黙《だま》っちゃいられない)
(おしゃべりな連中さ。口がきけなきゃ幸せだろうに)
妖精たちだって大事なことを黙ってはおけないくせに。そう思いながらも、リディアは皮肉に感じていた。
アニーはしゃべれないふりを続けていたのに、口を開いたためにこんなことになってしまった。
けれどこれで、ルシンダは助かった。解放された彼女は、その場にうずくまる。
オートレッド夫人が、深く入った亀裂《きれつ》を大胆《だいたん》に飛び越え、ルシンダに駆け寄るのを眺《なが》めながら、最悪の事態はまぬがれたようだとリディアは息をつく。
力が抜けて座り込みかけていたリディアは、腕をつかまれあわてて顔をあげた。
エドガーの、少し怒ったような顔が間近にあった。
「リディア、少しは僕のことも考えてくれ」
「え……、あの」
「身代わりに人質になろうなんて、お人好《ひとよ》しにもほどがある。きみに何かあったら、僕はひとりでは生きていけないんだからね」
聞かれていたんだわ。
くす、と笑ったのはブライトベリー公爵《こうしゃく》夫人だ。エドガーの、傍目《はため》かまわない愛情表現に、リディアは恥ずかしくて赤くなる。
しかしまた地面がゆれた。あわててエドガーにつかまるが、振動ははげしく、目の前の亀裂がさらに広がる。
「デーンたち、泥棒はいなくなったわ! 薔薇園を崩すのはやめて!」
(どのみち夜明けには、おれたちはここを去るんだ)
(フェアリードクター、わしらの秘密を知っているというなら、さっさと望みを言ってくれ)
せき立てられ、リディアは言いよどんだ。
「公爵夫人、まことにもうしわけありませんが、すぐに向こう側へ飛び移ってください。でないと帰れなくなります」
エドガーは、素早く判断し、彼女を促《うなが》す。
「僕の従者《じゅうしゃ》がお手伝いします」
向こう側にいるレイヴンに目で合図して、公爵夫人を押し出す。向こう側で手助けしたレイヴンが、彼女をささえ、安全な方へ導くのを確認して、リディアの腕を引いた。
「行こう」
しかし、あたりの地響きはおさまらず、踏《ふ》み出そうとすると足元が崩れる。
急いで後ずされば、飛び移るのが困難なくらい、亀裂が広がってしまう。
「リディア、向こうの方ならまだ飛び越えられる」
「エドガー、薔薇園はどんどん崩れていくわ。間に合わない……。あたし、デーン族と取り引きするわ」
それしか、オートレッド夫人をここから連れ出すこともできないのだ。
「できるの、リディア」
「できなければ、あなたも巻き込んでしまうけど……」
「きみと運命をともにするなら、願ってもないことだよ」
強く手を握《にぎ》り、微笑《ほほえ》んでくれる。エドガーがいてくれるから、リディアは落ち着ける。
ひとりではできないことも、エドガーとならやれそうな気がする。
「デーンたち!」
リディアは、周囲に向かって呼びかけた。
「ここにいるみんなを、無事人間界へ帰して。あなたたちの秘密と引き換えよ!」
(本当に、わしらの秘密を知っているんだろうな?)
「……知ってるわ」
(ならば取り引きに応じよう。フェアリードクター、わしらの秘密は忘れてもらう。その代わり、みんな外へ出してやる)
頷《うなず》き、リディアは目を閉じる。
さっき、もう少しでまとまりそうだった考えに、意識を集中する。
デーン族の、宝石の隠し場所。
昔から彼らは、この屋敷の主人と親しかった。オートレッド夫人のリガードネックレス、あれを身につける人物に、この薔薇園への道を開いていた。
同時にあのネックレスは、夫人が社交界で身につけていた豪華《ごうか》な宝飾品をしまったという扉を開く鍵《かぎ》でもあったのだ。
そう、そもそもあの、青銅《せいどう》の扉の向こうはどこに続いているの?
リガードネックレスは、扉の鍵で薔薇園への鍵。だとしたら……。
あのドアの向こうが、この妖精の園なら。
そして夫人のリガードネックレスが、ここでは宝石|細工《ざいく》ではなく、生きた花になるのなら。
「デーン、あなたたちは、宝石を隠しているんじゃない。育てて咲かせているのよ。ここに咲く薔薇も、そうなんでしょう? ひとつひとつの花は、あなたたちの国では咲いたり枯《か》れたりするけど、どれもこれも本物の宝石でできているのよ!」
妖精たちはいっせいに静まりかえった。
違ったのかしら。
不安になるリディアを、エドガーが守るようにかかえ込む。
そのとたん、デーン族は大騒ぎをはじめた。
(なんてこった、秘密が漏《も》れたぞ!)
(誰だ? おしゃべりなやつは!)
(人間界で不注意にしゃべるなって言ってるだろう!)
(おい、退散だ。さっさと行くぞ)
(フェアリードクター、もうあんたとはかかわりたくないからな!)
一陣《いちじん》の風が吹いた。
妖精たちのざわめきが、強い風にあおられた草木の音にかき消される。
木の葉が巻きあげられて空を覆《おお》い、月光がさえぎられると、あたりが暗やみに包まれる。
それはわずかな間のことだった。
すぐに風も音もやんで、再び静かな月夜が戻ると、あの不思議な花園にいたみんなは、オートレッド邸《てい》のマリア像のある薔薇園にたたずんでいた。
ブライトベリー公爵夫人が、不思議そうに、開いた手の中のものを見つめていた。
青い薔薇だった。
妖精の薔薇園で、オートレッド夫人が咲かせた青い薔薇、それはこの人間界では、ターコイズの精巧《せいこう》な細工として、彼女の手のひらにあった。
「ヴァージニアが咲かせた薔薇と、そっくりな色合いね」
まあ、とオートレッド夫人も驚く。
「きっと、妖精たちの贈り物です」
リディアの言葉に、公爵夫人は深々と頷いていた。
たくさんの薔薇を咲かせて、妖精たちを楽しませたオートレッド夫人への感謝をこめて、彼女がもっとも丹誠《たんせい》を込めた青い薔薇を一輪だけ持ち出すことを、妖精たちは許してくれたのだろう。
* * *
その夜、リディアは夢を見た。
どこともしれない大広間で、舞踏会《ぶとうかい》が始まっていた。部屋の四隅《よすみ》が見えないほどの、広い空間を、豪華《ごうか》な衣装を身にまとった男女が行き交う。どこまでも高い天井の、金銀の装飾《そうしょく》が、シャンデリアの明かりを反射している。
見とれていると、ひとりの貴婦人がリディアのそばに立った。
誰だろう。知っているような気がするのに。
ただリディアは、彼女の胸元を飾る、ターコイズの薔薇に見入っていた。
本物の薔薇かと見まがうほど、精巧な細工だった。
そしてリディアは、自分がやけに視線を集めているのを感じる。
貴婦人に話しかけられたせいだろうか。それとも。
そうだわ、あたし、普段着のままだわ。
イブニングドレスで盛装《せいそう》した人々の中、髪も結《ゆ》っていないのでは笑われるのも無理はない。そう思いながら、気後《きおく》れしてリディアはうつむいた。
青い薔薇の貴婦人が、リディアに何か言った。
彼女が促《うなが》す方に顔を向けると、エドガーがいた。
こちらへ近づいてきたかと思うと、ひざまずくからリディアは驚く。
そうして、お姫さまにでもするように、手袋もない手に口づける。
ミス・カールトン、踊っていただけますか? あなたのフィアンセと
エドガーに手を取られ、見つめられるだけで、リディアは自分の格好《かっこう》など気にならなくなった。
どんなにきらびやかな宝石よりも、彼はリディアを、とくべつな女の子にしてくれる。
彼が、とくべつに大切に想《おも》ってくれるかぎり、|灰かぶり《シンデレラ》がお姫さまになる魔法は解《と》けたりしない。
リディア。
エドガーのささやき声が、耳元で聞こえる。
きみが苦手なことは、僕にまかせてくれればいい。
いつものままのきみでいいんだ。誰よりこの場にふさわしい女性に見えるよう、魔法をかけるのは僕の役目だから。
頬《ほお》に触れる手を感じた。
額《ひたい》にキスが落ちる。
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳を細め、やさしく微笑んで、彼が手を離すと、しゃらりと音がした。
現実のその音に、リディアは夢うつつを抜け出す。
うっすらと開いた瞳に映るのは、静かに閉まろうとする寝室のドアだ。
エドガー?
彼が勝手に寝室へ入ってきても、腹が立たなくなっている。
昨日倒れたこともあるし、心配して見に来たのだろうと勝手に考える。
もう陽《ひ》は高い。ずいぶん眠っていたようだと、カーテン越しの明かりでもわかる。
頭を動かせば、またしゃらりと音がした。
手を首元へ持っていくと、首飾りらしきものが指に触れた。
ようやく目覚め、体を起こしたリディアは、サイドテーブルにあった手鏡を取り上げる。
その首飾りは、六種類の宝石が、品よい大きさとバランスで組み合わされ、連なっていた。
ダイヤモンド、エメラルド、アメジスト、ルビー、そしてサファイアとトパーズ。頭文字《かしらもじ》をたどれば、|最愛の人《ディアレスト》≠ニ綴《つづ》られたリガードネックレスだった。
思いがけない贈り物だった。
指先で、リガードネックレスに触れながら、リディアは微笑んだ。
早く起きて、ありがとうと言おう。
恥ずかしがらずに、素直《すなお》にうれしいと伝えたい。
一夜が明ければ、リディアも、そしてあのとき薔薇園《ばらえん》にいたみんなの中からも、デーン族の秘密に関する記憶は抜け落ちていた。
それだけでなく、すべてが夢の中の出来事だったかのように曖昧《あいまい》な印象しかない。
それでもリディアは、妖精たちと接し、取り引きしたことはおぼえている。
もちろんオートレッド夫人も、妖精たちと過ごした事実を疑ってはいなかった。
夫人のリガードネックレスは、人間界であらためて見れば、あきらかに宝石細工だった。
細かな宝石を無数に埋《う》め込んだ花びらで、立体感のある花々が作られていた。
けれど、ネックレスがあれば開くというはずの扉は、二度と開かなくなっていた。
よく見れば、扉と壁のあいだに隙間《すきま》は少しもなく、壁に埋め込まれた飾りだとわかる。以前は本当に開いたのかどうかさえ、夢を見ていたかのような感覚だと夫人は言った。
あの青銅の扉は、薔薇園へ続く側溝《そっこう》の道へつながっていたという。リガードネックレスを身につけることで、あの扉を開いて薔薇園への道へ入ることができたのだ。
かつて夫人が身につけたたくさんの宝飾品は、亡夫《ぼうふ》があの扉から持ち出し、また扉の向こうへ返していたという。デーン族からの借り物だったのだろう。
今はもう、扉は開かない。扉の先に、もはやあの妖精たちの薔薇園は存在しない。
薔薇園を失ったオートレッド夫人は、淋《さび》しげではあったが、吹っ切れたようなすがすがしい笑顔をリディアに見せた。
親友との約束の、青い薔薇を咲かせることはできたのだ。あの薔薇園から離れたくない気持ちもあっただろうが、永遠に妖精の薔薇園で過ごしても、あれ以上の薔薇は咲かせられないだろうと彼女は語った。
「ごめんなさいね、リディア。いろいろと迷惑《めいわく》をかけてしまったわ」
午後のひととき、リディアはエドガーとふたり、夫人の応接間に招かれていた。
「それに、姪《めい》のことも」
アニーに人質《ひとじち》にされていたルシンダが、リディアに代わるよう言ったことは、オートレッド夫人も聞いていた。そして彼女は、ルシンダ自身からも、リディアやエドガーにかけた迷惑の数々を聞き出したらしい。
「ルシンダの母は、中流上《アッパーミドル》出身の家庭教師だったわ。弟は、彼女と結婚したものの、本家の世継《よつ》ぎが急逝《きゅうせい》して爵位《しゃくい》がまわってきたとたん追い出してしまったの。……弟と縁を切る前に、あのときまだ二歳だったルシンダのことを、私はもう少し考えるべきだったのね」
ルシンダがひねくれたことに、彼女は少なからず責任を感じているようだった。
「いまさらだけど、ルシンダは私が再教育することにしました。社交界デビューは、彼女がきちんとしたレディになるまでおあずけ。いずれ、あなたにきちんとわびさせるつもりだけれど、今のところは大目に見てやってくれるかしら」
はい、とリディアは頷く。
「……あたしも、彼女にはちょっとけんか腰になったりして、大人げなかったんです」
「あら、そんな弱気なことではいけないわ。これから、婚約者を横取りしようとする女性たちを、追い払わなきゃいけないのよ」
「やめてください、オートレッド夫人。リディアにそんな気苦労《きぐろう》はかけませんよ」
エドガーは自信たっぷりに言うが。
「どうかしら」
くすくすと笑うオートレッド夫人と、同じことを思ったリディアは顔が引きつった。
「あの……、それであたしは、ここで社交界の作法《さほう》を教えていただけるんでしょうか」
そもそもリディアはそのために来たのだ。オートレッド夫人が無事戻られたなら、これからが花嫁《はなよめ》修業《しゅぎょう》の本番なのだと気を引き締めるが、エドガーが口をはさんだ。
「そのことなんですが、リディアはロンドンへ連れ帰りたいと思います」
「え、でも」
戸惑《とまど》うリディアを、彼は心配そうに見つめる。
「大丈夫よ、エドガー。もう無茶はしないわ」
「いや、違うんだ」
そして彼は、オートレッド夫人の方に顔を向けた。
「大切な婚約期間だから、ロンドンで、なるべく静かに過ごすべきだと気づきました。リディアがひとりでがんばっていて、まるで僕を頼りにしてくれないのでは意味がなかった。彼女が安心して結婚できるように、不安を取り除きたかったけれど、だったら、女王|陛下《へいか》の御前《ごぜん》だろうと貴族社会だろうと、僕がついているから平気だと思ってもらえるよう努めます」
夢の中で、そんな言葉を聞いたような気がする。それともあれば、半分眠りの中にいたリディアのそばで、エドガーが語った言葉だったのだろうか。
彼の気持ちが胸に沁《し》みた。けれどエドガーのせいだけじゃない。リディアが、素直に頼ったりあまえたり、うまくできなかったからだ。
「そうね、それにリディア、私も、とくに教えることはないと思うの。あなたにはきちんと思いやりの気持ちがあるもの。デビュー前のお嬢《じょう》さんたちには、形式張った作法より何より、それが大事だってことを伝えているだけなのよ」
それから夫人は、椅子《いす》のわきにあったテーブルから、カードを取り上げた。
「これは、アレクサンドリーナから。今朝《けさ》早くに出発してしまったものだから、ことづかったの」
「えっ、もう発《た》たれてしまったんですか? あたし、お見送りもせずに……」
「体調が悪いのに働いて、ようやく休んでいるきみを、起こすわけにはいかないとおっしゃってね」
社交には抜かりのないエドガーも、朝早くから彼女を見送ったらしかった。
「でもね、またロンドンでお目にかかれるよ。きみへの感謝のしるしだと、舞踏会に招待《しょうたい》してくださったんだ」
そのカードは、招待状だった。
直筆《じきひつ》で、ヴィクトリア・Rと書いてあった。
「よかったね、リディア。女王|陛下《へいか》から直々《じきじき》に、拝謁《はいえつ》と社交界デビューを許されたようだよ」
え? 女王陛下?
「今回は、おしのびでオートレッド夫人を訪ねていらっしゃったんだ」
おしのび、って、でも……。
「あの、夫人はアレクサンドリーナって」
「ええ、アレクサンドリーナ・ヴィクトリアよ」
「ええっ、こ、公爵《こうしゃく》夫人が……!」
リディアは両手を頬に手を当てたまま硬直《こうちょく》した。
うそ、あたし、平気でいろんなことしゃべったわ。愚痴《ぐち》とか言ったような気も……。
おまけに、お見送りもできなかったのに。
「これで僕も、婚約者を紹介できたわけだし、きみもお目通りがかなった。あとは堂々と、このとくべつな招待状を手に、宮廷《きゅうてい》へ乗り込んでいけばいいだけさ」
[#挿絵(img/turquoise_271.jpg)入る]
「で、でも、作法が……」
「基本的なことだけ知ってればいいから、メースフィールド公爵夫人が戻られてから教わっても間に合うよ。それにリディア、振る舞いを注目されるのはきみじゃなくて僕の方らしい。なにしろ、女王陛下に目をかけられた女性をダンスに誘《さそ》わなければならないんだから」
そんな場面を見なかっただろうか。
あれは……正夢《まさゆめ》……?
リディアはなんだかくらくらした。
できないのなら、代わってもらえばよろしいのです。結婚なさるのでしょう?
ブライトベリー公爵夫人の言葉を思い出しながら、その心遣《こころづか》いに感謝する。
「とにかく、これであなたたちも、世間に婚約を発表できるわね。ルシンダは悔《くや》しがるでしょうけど」
「大丈夫ですよ。彼女は僕の外見が気に入っていただけですから」
外見がって、自分で言うのもどうかと思うけれど。それはつまり、エドガーはルシンダが外見にいだいていた夢を、わざとぶちこわしにしたということではないのだろうか。
「あの、エドガー……」
「何?」
「ええと、……あとでいいわ」
オートレッド夫人の前で、ルシンダやアニーに何をしたのか問いつめるわけにいかなかった。
しかし夫人は勘違いしたらしく、微笑《ほほえ》んで、ふたりきりにするべく部屋を出ていく。
「早くふたりになりたかった?」
「ち、違うわよ」
「僕は、早くふたりになりたかったよ」
こちらに身を乗り出しながら、すっかりクセになっているかのように、キャラメル色とエドガーだけが言う赤茶の髪をすくう。
「ねえ、どうしてアニーがルシンダを人質にするようなことになったの? それに彼女、あなたにルシンダといっしょに殺されるっておびえてたわ」
エドガーは、何のことかととぼけるように、つまみあげたリディアの髪を指先でもてあそぶ。
「ちょっとしたアクシデントさ」
事故《アクシデント》? エドガーの場合、計画的にアクシデントを引き起こすから信用できない。
アニーに危険な願い事を言わせたように、エドガーは敵には容赦《ようしゃ》がない。冷酷《れいこく》な一面を手放せない彼は、いざとなれば戦える状態を持続していて、まだ平和な日常に身を置いていないのだ。
たぶん今でも、単純に結婚のことだけを考えているわけじゃない。
とすると、まさかあれも。
「エドガー、もしかして……女王陛下がいらっしゃるってことも知ってたんじゃ……」
「知るわけないじゃないか」
にっこり笑って答える。
ぜったいうそだわ。
この人、国家機密をどこから手に入れてるの?
いろんな意味で、めまいがする。
「僕たちには、幸運が味方してくれるってことだよ」
調子がいいったら。
視線をあげると、見慣れた笑顔がすぐそこにある。ふてぶてしくも機嫌《きげん》のよい笑顔は、いちばんエドガーらしいのかもしれない。
宿敵は死んだはずなのに、今も戦いの中にいる。その理由を、リディアはまだ知らないけれど、知るときが来ても、迷わず彼をささえられるようにと願わずにはいられない。
いつか、この笑顔の裏に策略《さくりゃく》も苦悩《くのう》も隠す必要がなくなるようにと……。
だからリディアは、リガードネックレスのお礼も、うれしい気持ちを伝えることも、相変わらずうまくできないままだったけれど、求められることを自分の望みでもあるように感じながら、重ねられた手をおずおずと握《にぎ》り返した。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは。
楽しんでいただけましたでしょうか?
花粉症に苦しみながら本書を書き上げたところですが、この本が出るころは、ジューン・ブライドの季節ですね。
リディアはまだ花嫁《はなよめ》修業《しゅぎょう》の段階ですが、何月の花嫁になれるのでしょうか。
エドガーは急いでいるようですけど(笑)。
六月というと、じめじめした梅雨《つゆ》の季節。でもヨーロッパではほどよい気候の初夏で、からっとしていて結婚式にはふさわしい時期のようです。
そして、結婚式といえば純白のウェディングドレス! と決まっている現在ですが、この白いドレスを着たのはヴィクトリア女王が最初だそうで、それまではむしろ、白なんてありえないという感覚だったわけなんです。
女王の影響《えいきょう》は大きく、白いドレスにあこがれた女性たちが、こぞって白を着たのがこの時代。すっかり現在まで定着してしまったのですね。
もっと昔のドレスの図版《ずはん》など見ていますと、花嫁衣装とあっても、とくに色に決まりはなさそうです。いくらか豪華《ごうか》なドレス、というぐらいでしょうか。
女王は英国産の宝石やレースを流行《はや》らせたりしていますので、昔からイギリスでは、王族のファッションや暮らしぶりに関心が強かったのかなと思います。
新婚旅行が一般化したのも、交通機関が発達して庶民《しょみん》も気軽に旅行に出かけられるようになったこのころのようで。
ついでにウェディングケーキも、今でもあるような大きく積み重なったものを使ったのが、この十九世紀ごろらしいのです。
結婚式にケーキを配る習慣そのものは、古代のギリシャでも行われていたとか。お菓子というのは贅沢品《ぜいたくひん》、昔から豊かさの象徴なんだそうですよ。
それにしても、白いドレスにしろ、飾り立てられた大きなウェディングケーキにしろ、現在の洋風結婚式のスタイルは、ほぼこの時代にできあがったのですねー。
さて、今回のお話は、一息ついたところでラブラブ(?)なふたりに焦点《しょうてん》を当ててみたいと思ったのですが……、どちらも相変わらずでした。
先走るエドガーに、戸惑《とまど》うリディアということで。とっくの昔に恋人気分のエドガーですから、リディアはついていけるのでしょうか?
それでもあのふたりにしてみれば、それなりに、じゅうぶんラブラブ…………なのではないでしょうかね。
ちょっと番外編みたいな独立した話ですが、紆余曲折《うよきょくせつ》を乗り越えて、まずは足場固《あしばがた》めをという意味で、どうしても入れたかったお話です。
これからもいろいろあることだろうし、結婚準備についてじっくり書ける機会があるかどうかわからなかったので、そのエピソードも入れておきたかったのです。
みなさまにも、息抜きしつつ、にやにやと笑っていただけたらなと思います。
それにしても、勢いで(?)結婚することになったリディアは大変です。
たぶんこの時代では、私たちが考えるようなおつきあいをする≠ニいう期間がふつうはなくて、想《おも》いを告白するということはそのまま結婚を申し込むということであって、おつきあいは実質婚約期間になるわけです。
じっさい、相手は親が決めることの多かった時代、いきなり結婚するのが常識で、そういう心構えは常にあったのでしょうが、奥手《おくて》なリディアにとっては、性急《せいきゅう》な事態にあわてふためいているというところではないでしょうか。
この当時、結婚準備に浮かれない女の子なんていない、というか、変わり者|扱《あつか》いだったわけですので、リディアの苦悩《くのう》もわかっていただけるかと思います。
というわけで、こんな話になりました。
リディアやエドガーと、そして妖精たちと、しばし楽しく過ごしていただけたなら幸いです。
そして、イラストの高星《たかぼし》麻子《あさこ》さまには毎度お世話になっております。ドラマCDのジャケットも書き下ろしていただけるとのことで、六月には本書とCDと二倍のカラーイラストを拝見《はいけん》できると心待ちにしているところです。
読者のみなさま、ぜひドラマCDも聞いてみてくださいね! キャラクターのせりふが声で聞けるのって、とっても新鮮ですよー。と宣伝《せんでん》。
それではみなさま、ご縁《えん》がありましたら、またこの場でお目にかかれますように。
二〇〇七年 四月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 花嫁修業は薔薇迷宮で」コバルト文庫、集英社
2007(平成19)年6月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年7月21日作成