伯爵と妖精
ロンドン橋に星は灯る
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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《》:ルビ
(例)矢《アロー》
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(例)|我らが王子殿下《ユア・ロイヤル・ハイネス》
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目次
忍び寄る影
愛しの妖精博士《フェアリードクター》
箱船と謎《なぞ》の妖精
仕掛けられた罠《わな》
逆心の王子
その星の名は
新たなる誓い
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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忍び寄る影
テムズ河には、まるで枯《か》れ木の林が出現したかのように、無数の帆柱《ほばしら》が並び立っていた。世界中の船が集まる大英《だいえい》帝国の港は、相も変わらず混雑している。
そんな中、一艘《いっそう》の船がゆっくりと河をさかのぼっていた。
河岸に引き込まれた水路や、倉庫群の並ぶドックランド、世界に名高い高速帆船《クリッパー》の優雅《ゆうが》な姿を眺《なが》めつつ、船はロンドン塔《とう》に近づいていく。
やがてそれも後方に見送りながら、この船が目指すのは、ロンドンブリッジの手前にある船着き場だった。
「相変わらず、古くさくて陰気な街だよな」
甲板《かんぱん》に立って、久しぶりのロンドンの風景を眺めながらつぶやく少女は、この船の持ち主だ。クレモーナ公国を亡命《ぼうめい》した大公《たいこう》の孫娘、ロタは、三ヵ月ぶりにロンドンへ帰ってきたところだった。
「ロンドンに入ったとたん、空が急に曇るってさ。街そのものが太陽にきらわれてんのかね」
ドレスだけが貴族の令嬢《れいじょう》ふうだが、ひとつに束《たば》ねただけの髪を馬のしっぽのように垂らし、紙巻き煙草《たばこ》をふかす。どうにもはすっぱな下町娘にしか見えないのは、下町で海賊《かいぞく》の首領《しゅりょう》に育てられたからだ。
血のつながった祖父と巡《めぐ》り会い、大公女《プリンセス》を名乗っても、本人にはあまり自覚はない。
「お嬢《じょう》さま、下船にはしばらくかかりそうです。桟橋《さんばし》が混雑しているようでして」
目付役の従僕《じゅうぼく》のとがめるような視線に、ロタは煙草をもみ消しながら舌打ちした。
「まったく、のろまな連中ばっかりだよ」
そうして甲板から下方を覗《のぞ》き込む。
小型の手漕《てこ》ぎボートだけが、大きな船のあいだを自由に行き来している。乗っているのは荷運びの男たちか船大工か。
あっちの方が早そうだ、と思うと彼女は、下方に向かって声をかけた。
「おーい、乗せてくれ!」
「お、お嬢さま!」
従僕がうろたえるのもかまわず、ロタは大きく手を振り、ボートが止まるのを確認すると、甲板のわきに積まれた縄《なわ》ばしごを手すりの外へ放り投げる。
ためらいもせず手すりを乗り越え、素早くはしごを下りていくと、男たちも驚いているボートへ、あっという間に飛び乗った。
「悪いね。ちょっと岸へ寄ってくれない?」
おかしそうに笑い出した彼らは、気前よくボートをこぎ出す。
「嬢ちゃん、いい船だな。そいつ、払い下げられた軍艦《ぐんかん》だろう?」
話しかけてきたのは、片目の老人だ。
「そうだよ。よくわかるな」
「このじいさん、ひとめで軍艦を見分けるんだぜ」
「へえ、もと軍人かい?」
「いや、軍艦にはよく追いかけられた方さ」
男たちがいっせいに笑う。
「海賊かよ」とつっこみながらロタも笑うと、彼らはさらに笑った。
「海賊に興味があるのかな、嬢ちゃん」
「ああ、あたしも海賊だったからな」
「おもしろいこと言うな」
「ありがとうよ」
すっかりうち解けた気分で笑いながら、あらためて河を見まわしたロタは、奇妙な旗をつけた船が浮かんでいるのに目をとめた。
「あれか? 箱船《ジ・アーク》≠チて呼ばれてるらしいな。金持ちが道楽で作ったんじゃないかね」
老人の方も、ロタにもと同業者の匂《にお》いを感じたのだろうか。親しげに教えてくれた。
なるほど、旗に描かれているのは、旧約聖書に出てくるノアの箱船を思わせる絵だ。船自体は箱船といった形ではなく、ふつうの帆船《はんせん》だったが、窓という窓に板が打ち付けられ、中が見えないよう隠されているのが異様だった。
「ふうん、大洪水でもあるっての?」
「どうかねえ、終末が近づいてるって噂《うわさ》は聞いたことあるけどな。ああ、それで助かりたい一心でつくったのかね」
「そんな噂があんの?」
振り返って問うロタに、男たちは日焼けした顔をくしゃくしゃにして笑った。
「頭のいかれた連中は、いつでもどこにでもいるもんさ。ロンドンなんて堕落《だらく》しきった街だ、神の鉄槌《てっつい》が下される日は近いってね」
「そういう話を信じる連中も、いつでもどこにでもいるからな」
箱船≠フ上には、人影がひとつもない。
神の怒りが招いた大洪水を、信心深いノアの一家だけは、お告げどおりに箱船をつくって免《まぬが》れた。そんな伝説にあやかった船なのかどうか、ただなんとなく、いやな感じだとだけロタは思う。
しかし、奇妙な船にまつわる印象も、陸地へ降り立ったとたん、ロタの中から消え失せた。
灰色の空、灰色の建物群に囲まれた退廃的《たいはいてき》な街。けれど大英帝国の首都は、人と物とがごったがえし、どこよりも活気にあふれていた。
* * *
ロンドンから北へ約六十マイル、ケム川のほとりにあるケンブリッジは大学の町だ。
エドガーがこの町を訪《おとず》れたのは、鉱物《こうぶつ》学者のカールトン教授に会うためだった。
多数のカレッジが並び立つこの町で、若かりしころ学位を取得したというカールトンは、現在はロンドン大学で教授の職に就《つ》いている。たまたま今の時期、権威《けんい》ある博物学の会議のためにこの町に滞在しているのだ。
じつをいうとエドガーは、先週もこの町へ来た。しかしそのときには、教授に本題を切り出す前に逃げられた。
カールトンのひとり娘、リディアとの結婚を許してもらうため、というエドガーの訪問の意図《いと》を察したせいらしかった。
その後は所用もあっていったんロンドンへ戻っていたエドガーだが、再びケンブリッジへやって来た。今度こそは逃がさないと心に決めている。
「いったい僕のどこが、教授は気に入らないんだろう」
駅からカレッジへ向かう馬車の中で、のどかな田園風景を眺めながらエドガーはつぶやく。隣に座る従者の少年は、考え込んだ様子だったが、答えがたくさんありすぎて迷ったのか黙《だま》っていた。
「教授は、貴族がまともな人間じゃないと思ってるからかな」
「貴族は、まともではないのですか?」
いつも無口な従者《じゅうしゃ》の少年は、ようやく口を開いた。
「そりゃ、愛人を囲うやら、名誉のための殺人もまかり通るやら、まともな社会のルールを逸脱《いつだつ》している、と思われてもしかたがないしきたりや習慣がいくらでもあるからじゃないか?」
カールトンは高名な学者だ。貴族とのつきあいも多い。けっして個々人に偏見《へんけん》を持っているわけではないが、貴族社会の一部について、まともな感覚では理解できないと感じているようなのだ。
そんなところに、大切な娘を嫁《とつ》がせられないと思っているのだろう。
「だけどレイヴン、僕がそんなことをするわけはないだろう?」
そもそも彼、エドガー・アシェンバート伯爵《はくしゃく》は、社交界でも有名な女たらしだ。完璧《かんぺき》な美貌《びぼう》と巧《たく》みな話術を武器に口説《くど》けば、噂になった女性は数知れず。愛人をいくらでも囲いそうなうえ、気にくわない相手は闇《やみ》から闇へ葬《ほうむ》りそうな人物だと、教授も、そして隣の従者も感じていることを知ってか知らずか、エドガーはそう言ってレイヴンを困らせた。
「リディアと結婚するためなら、いくらでも僕は変われるよ」
逃げ回っていたリディアを、ようやく口説き落としたのだ。父親を口説き落とせなくてどうする。
そうして彼は、何が何でも教授に会うべく、トリニティ・カレッジで博物学研究会議の一環として開かれている、特別講義の教室へともぐり込んだのだった。
学生で埋《う》め尽《つ》くされた大講堂で教壇《きょうだん》に立つカールトン教授は、講義が終わりに近づくまでエドガーには気づかなかった。
「えー、では、何か質問はありませんか?」
その声を待っていたエドガーが、さっと立ち上がったとき、教授は驚いたらしく口をあけたまま硬直《こうちょく》した。
「カールトン教授、折り入ってうかがいたいことがあります」
「はっ、待ちたまえ、今は授業中……」
「お嬢《じょう》さんを僕に」
「ああああ、わかった、わかりました、その件についてはあとで、あとで時間を取ると約束しますから……!」
「ありがとうございます」
にっこり笑って席に着く。
冷や汗をふき、ずり落ちた眼鏡《めがね》をかけ直しながら、教授は疲れ切ったように肩を落とした。
こうしてその日の夕刻、エドガーはようやく、カールトン教授と落ち着いて顔を合わせられる機会を得たのだった。
煉瓦《れんが》造りの宿舎でエドガーを出迎えたカールトンは、ふだんからの寝ぐせ頭をさらにぼさぼさにするほど、髪をかきまわして悩《なや》んだらしいことが見て取れた。
ひとり娘のリディアが、教授にとって宝物なのは知っているつもりだ。けれど彼女は、エドガーにとってもかけがえのない宝物になりつつある。
どうしても結婚を認めてもらわなければならないと、エドガーはまず愛想《あいそ》よく微笑《ほほえ》む。
「教授、すばらしい講義でした。本当のところ、さらに詳《くわ》しくお訊《き》きしたいこともあるのですが」
「いえもう、伯爵、世間話はけっこうです」
逃げ回っていたというのに、もはやさっさと終わらせたいらしかった。
「ではこの件はまたの機会に」
「あ、いや、もし興味がおありでしたら……」
それでも往生際《おうじょうぎわ》が悪い。
「リディアさんとの結婚を、お許しいただきたいのです」
はっきり告げると、絶望的な顔をしながら教授は椅子《いす》の背に体をあずけた。
「彼女からはプロポーズの返事をいただきました。こういったことは、まず父上である教授にお伺《うかが》いを立てるのが礼儀だとは思いましたが、どうしても彼女の気持ちを確かめたくて。順序が逆になってしまったことはお詫《わ》び申しあげます」
はあ、と教授はため息をつく。
なるべく考える隙《すき》を与えない方がいいだろう。エドガーはたたみかけることにする。
「じつは、リディアさんは今スコットランドのご自宅にいます。ケルピーが強引に連れて帰りました。……詳しい事情は話せば長くなりますが、僕はこれから、彼女を連れ戻しに行くつもりです。もともとケルピーが、リディアさんを妖精界に連れていきたがっていることはご存じですよね?」
教授はあわてて頷《うなず》いた。
「ケルピーの花嫁《はなよめ》にはさせられません。彼女を、僕の婚約者として連れ帰る許可をください。教授に認めていただければ、僕たちの正式な婚約は、妖精の魔力を遠ざける力になります」
不安げな顔をしていたが、それでも教授は冷静だった。
「妖精のことは、私が心配してもどうにもなりません。リディアは自分で対処できるでしょう。ですから伯爵、あなたのお申し出は、それとは別に考えたいのです」
やっぱり簡単じゃない。
こちらのペースに引き込もうとしても、肝心《かんじん》な部分では、カールトン教授は思惑《おもわく》どおりにはならないのだ。
強引に話を持っていくのは得策《とくさく》でないと判断し、エドガーは黙って頷いた。
教授はしばらくのあいだ、ひざの上に置いた手をもじもじと動かしていたが、やがて思い切ったように顔をあげた。
「正直、リディアに結婚などまだ早い、というのが私の考えです。しかし彼女がそうしたいというなら、止めることはできないでしょう。……ただ、こう申しては失礼なのですが、どうにも信じられません」
「彼女が、僕との結婚を望んでいるとは思えないということですか?」
「いいえ、そんなことは……。私の娘です。毎日見ていればわかります。あの子があなたを憎《にく》からず思っていることくらいは……。私が信じられないのは、伯爵、あなたがリディアを心から望んでいるのだろうかということです」
専門にしている学問以外には、まるで気が回らない。身なりにもかまわず、考え事をしていれば槍《やり》が降ってきたって気づかない。そんなふうにリディアが評する教授だが、じつは非常に鋭《するど》い人だとエドガーは思う。
物事の本質を、きちんと見分けられる。
ただ、すべてを見抜いていても、悪いところには目をつぶって、なるべくなら好意的に考えようとするとびきりのお人好《ひとよ》しだ。
リディアとそっくりの、愛すべきお人好し。
エドガーは、だからカールトン教授には、何ら自分をごまかすつもりはなかった。
「信じていただけないのは、女性関係の噂《うわさ》のせいですか?」
「いや、まあ、それは……、独身の男性が派手に遊び回るのは、よくあることといえばそうなんでしょう。ただし結婚は、身分の釣《つ》り合った相手を選ぶべき、それが世間の常識ですし、あなたもそう考えていらっしゃったはず。リディアに好意を持ってくださったとしても、伯爵家《はくしゃくけ》にふさわしい結婚相手でしょうか? なかなか思い通りにならない娘だから、結婚まで持ち出して意地になって口説《くど》いてみた……とか、そういうことであれば不幸だと思うのです」
「意地なんかでは。それに、階級の違う結婚も、今どきめずらしくはないはずです」
「貴族が好んで、あるいは妥協《だきょう》して結婚する庶民《しょみん》といえば、よほどの資産家ですよ。カールトン家は、中流上《アッパーミドル》とはもうしましても、資産家でもなければ貴族と血縁《けつえん》のある家系でもありません。その点で、あなたの社会的地位にマイナスになることもあるわけです」
「アシェンバート家は由緒《ゆいしょ》ある伯爵家です。百年や二百年しか歴史のない新興《しんこう》の貴族とは格が違う。誰が陰口《かげぐち》をたたこうと、マイナスになりようがありません。もちろん僕は、誰にも何も言わせるつもりはない」
階級のことは、エドガーとしてもまるきり安易《あんい》に考えているわけではなかった。だからこそ、のちのちリディアが煩《わずら》わされないよう立ち回るつもりだ。根回しも完璧《かんぺき》にやってみせると心に決めているから、エドガーは強く主張した。
カールトン教授は、やはり信じていないような顔をした。
「教授、本当のところ何より気にしていらっしゃるのは、僕が、自分のものではない伯爵位を手に入れた、得体の知れない男ということではないのですか?」
エドガーが、妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》の名を手に入れたいきさつを、教授は知っている。むろんエドガーは、そこをごまかすつもりもない。
「僕はもう、何があろうと彼女をあきらめるつもりはありません。ですから、教授が感じておられる僕についての不満や疑問を、納得《なっとく》していただくしかないというつもりで来ました」
身じろぎした教授は、窓から射し込む西日をまぶしく感じたらしく、眼鏡の奥の瞳を細めた。
そうして、ふと外に視線を向けると、今までの複雑な表情をやわらげ、おだやかな口調《くちょう》で言った。
「伯爵、少し外を歩きませんか?」
ケム川は、夕日で金色に染まって見えた。学生たちが練習するボートが、黒い影になって水面をすべっていく。
カールトン教授は、カレッジの庭を横切って、勝手を知った様子で建物の裏に回り込むと、小さな橋を渡って川沿《かわぞ》いを歩き始めた。
「リディアはこの町で生まれました。私は当時、トリニティ・カレッジの研究者《フェロー》で、妻とともにここで暮らしていたのです」
質問責めにされるかと思っていたのに、意外な話を切り出され、エドガーは教授の横顔をまじまじと眺《なが》めた。彼はかすかに微笑《ほほえ》んでいた。
「ここでのことは、リディアはおぼえていないでしょう。まだ小さいうちに、私はエジンバラ大学へ招かれることになり、実家のあるスコットランドへ帰りましたから」
教授にとっては、学生時代を過ごし、妻子を得た思い出深い町なのだろう。
そのころ彼は、家族とこの川沿いを散歩したのだろうか。
「リディアさんを見ていると、ご両親に愛されて育ったのがよくわかります」
リディアの背景にあふれる愛情を、うらやましくもいとおしくも思い、エドガーも微笑んだ。
「伯爵、あなたも愛されて育ったはずですよ」
そうだったろうか。
森と湖に囲まれた、優雅《ゆうが》な荘園邸宅《マナーハウス》。建物も敷地も広大なその屋敷は、パーティの時期でもなければ静かで退屈で、そして平和な場所だった。エドガーのそばには常に乳母《うば》や家庭教師がいて、大勢の召使いがいて、両親はときおり彼にかまうことで、威厳《いげん》と愛情を示す。たぶんそんなふうだった。
「父は、無口できびしくて気むずかしい人でした。僕はどうも、父が苦手にしていた天真爛漫《てんしんらんまん》な祖父と似ていたらしくて、扱いづらい息子だったように思います」
それでも、日常に不満も不安も感じたことがなかったあのころ。
「母は、着飾って微笑んでいるやさしい人、そんな記憶ばかりですが、どういう接し方であれ、両親が僕に最適な環境を与えてくれたのは確かです。それも、愛情だったのでしょうね」
自然とエドガーは、昔のことを話している。
本当の自分のことを。
庶民の家庭とはもちろん違っているだろうが、公爵家《こうしゃくけ》の長男として必要なものはすべて、与えられてきたのだと思う。
だからこそ、どん底の生活の中でも貴族の誇《ほこ》りを失わなかった。仲間を率いていく立場を、自然と理解していた。
今も、若造《わかぞう》でも爵位《しゃくい》を持つからには、老獪《ろうかい》な貴族たちとも対等に接していかなければならない。そんな中でエドガーは、なめられないよう気を抜いたことはない。
けれど教授と話していると、立場や身分や見せかけの鎧《よろい》を脱いで、素の自分に近づいていく。
エドガーくらいの年齢の学生たちを大勢相手にしている教授は、若造の相手など心得ているのだろうか。悩める学生と接しているかのように、ゆるりと言葉を引きだしていくのだ。
不思議とエドガーは、それを快く感じていた。
「ご両親は、早くに亡くなられたのでしたかな」
「十三歳のときでした」
「生まれながらに貴族でいらっしゃる、とは思っていましたが、リディアはすべて知っているのでしょうか」
エドガーは頷《うなず》く。
「そのころの僕の名は、モールディング侯爵《こうしゃく》、エドガー・リーランド。父はシルヴァンフォード公爵でした」
「公爵……」
理解しようとつとめるように、教授はつぶやいた。
「ではあなたが、現在はシルヴァンフォード公爵のはずでは」
「火事で屋敷が全焼し、両親はもちろん、滞在《たいざい》していた親族や客人、召使いも含め、大勢が亡くなりました。僕も死亡として扱われています。シルヴァンフォードの爵位を継ぐ者はなく、現在は空位に」
「生きていらっしゃるのに」
「証明する手だてはありません。火事は陰謀《いんぼう》によるもので、僕だけがその場から連れ出され、名を奪われたのも意図《いと》されたこと。それでも敵の手を逃《のが》れて、今はその相手と戦っています。リディアさんは、そんな僕をささえてくれると言いました」
教授の深いため息は、それだけの恐ろしい陰謀に荷担《かたん》した相手との戦いに、リディアが巻き込まれているからだろう。
「なるほど、リディアでなければならない理由が、少しわかったような気がします。あなたに惹《ひ》かれる女性は多いでしょうが、理解してついていくのは簡単ではありませんね」
川面《かわも》をボートが通り過ぎると、水面が白く波立った。教授は立ち止まり、風景のすべてをいとおしそうに眺めた。
「伯爵、あなたがどこの誰だろうと、私がリディアの結婚相手に望むことはひとつだけです。あなたはリディアとこうして、いつまでもふたり、夕日を眺めながら散歩道を歩けますか? あなたと並んで歩くとき、リディアは笑っていられますか?」
夕日に赤く染まる空に、未来を重ね、リディアの微笑みを重ねる。胸の奥が熱くなると、エドガーは泣きたいような気持ちになった。
かつてはありえない夢だった。けれど今は、手が届くはずだと信じている。
リディアと出会い、いつからか、彼女がそばにいるなら人並みの幸せを望むことができるかもしれないと思い始めた。
それは彼女が、どんな状況でも思いやりややさしさを持っているからで、妖精と自然を愛し、ささやかな日常に幸せを見つけることのできる少女だからだ。
そんなリディアを、おっとりとあたたかい目を持ったカールトン教授と、妖精博士《フェアリードクター》の亡き母親が大切に育てたのだ。
だからこそ、幸せにできないなら望んではいけない。教授がリディアに与えたもの、それ以上を与えられないなら結婚を申し込む資格はない。そうわかっていても、望むしかない。
「僕は、リディアにめぐり会えた幸運に感謝したい。彼女のご両親にも感謝したい。こんな状況で、結婚を考えるのは不謹慎《ふきんしん》かもしれませんが、僕には彼女が必要です。ひとりでは戦えないと気づいてしまいました」
せっぱ詰まった彼の言葉に、振り返った教授は、おだやかにこちらを見つめながらも、慎重《しんちょう》に口を開いた。
「お気持ちはよくわかりました。しかし、できればもう少し、考えさせていただきたい」
「いつ、お返事をいただけますか」
それには答えずに、彼はエドガーに折りたたんだ紙片を差し出した。
「リディアにたのまれて、調べていました。フレイアという特殊《とくしゅ》な蛍石《フローライト》についてです。このさい、あなたにお渡ししておきます。あなたが知りたいことなのでしょうから」
「……リディアが、僕のために……?」
「その鉱物にまつわる話は、あまりにも忌《い》まわしくて、私は正直、リディアがこんなことにかかわっているのがつらいのです。フェアリードクターは魔術師ではありません。こういう魔術的なことを実践《じっせん》する連中と、戦えるものではないのです。リディア自身は、あなたの役に立とうと一生懸命なのでしょうが、なおさら心配な親心をどうかお察しください」
エドガーは、神妙《しんみょう》な思いでそれを受け取った。
*
貧民街《スラム》の薄暗い路地は、明け方に降った雨のせいでぬかるみ、よどみきった空気にはいやな匂《にお》いが充満していた。
ひと気のない袋小路《ふくろこうじ》に足音が近づくと、ネズミが散るように逃げていく。そこにうずくまるぼろ切れに包まれた死体を、同じようにぼろ切れをまとった男が、乱暴な手つきで手押し車に放り込む。
スラムで暮らす人々には、身よりもなく、住む家さえない者は少なくない。行き倒れの死体に同情する人もいない。手押し車の中には、そんな死体がいくつも積み込まれている。
「行き倒れの数が、このごろやけに多いじゃないか」
ひとりが、うんざりしたようにつぶやいた。
「こりゃ疫病《えきびょう》の兆《きざ》しかもよ。役人のやつ、天候が悪いせいだとか言ってたが、このへんには近寄ろうとしないし、おれたちとだって近づきたがらない」
「やつらはいつも、安全だと言いながらおれたちに危険な仕事をさせるからな」
共同墓地へ向かう彼らの前には、すでに葬送《そうそう》の列ができている。
生きている人間の方が、むしろ死人のようにしわを深くし、顔色も灰色めいている。そう思えるほど、集まった人々は憔悴《しょうすい》しきっている。
「今週に入って、知り合いの葬儀は三度目だよ」
「墓地は掘り返されたあとだらけさ。そのうち、棺《ひつぎ》を埋《う》める場所がなくなりそうだぜ」
そんな会話は、スラムのあちこちで聞こえるようになってきた。
だがこういうことは、けっしてめずらしいことではない。
ロンドンでも悪名《あくみょう》高いスラム街、イーストエンドでは、いつでも病気が蔓延《まんえん》している。ときおりそれが、意志を持った怪物みたいに人を襲《おそ》い始める。
目には見えない、病気という怪物は、知らぬ間にじめじめした路地を這《は》い回り、そこで寝起きする連中を喰《く》らい尽《つ》くしていく。
やがて怪物は、家屋《かおく》の中にも侵入《しんにゅう》してくる。わずかな空間に、五人も六人も子供をかかえて暮らしている貧しい家族が襲われる。
誰にも止めようがなく、為《な》すすべもない。
だが今回は、いつもとは何かが違っていた。
何が違うとはっきり言うことはできないが、人々はぼんやりと、すすのたまった梁《はり》の陰に、カビだらけのベッドの下に、これまでにない何かがうごめいていると感じている。
河から立ちのぼるいやな匂いのする霧《きり》に紛《まぎ》れ、路地を這い回り、戸板の隙間《すきま》や立て付けの悪い窓からするりと入り込む小さな影は錯覚《さっかく》かもしれない。そう思っても、人々に不安な気持ちを呼び起こす。
しかしまだ、このあたりで何が起こっているのかを、正確に知る者はいなかった。
「うちの息子も熱を出して寝込んでる。ひどくならないことを祈るばかりだ」
「悪夢を見るらしいぜ。夢にうなされたら、三日持つかどうかだって」
「具合が悪けりゃ、誰だってうなされる」
「ふつうじゃないってよ。悪魔でも見たかのようだって」
たった今墓地から出てきた男たちは、手押し車を避けるように通り過ぎながら会話を続けていた。それを、ひとりの若者が耳にとめた。
「あのう、それは本当ですか?」
若者は、すれ違いかけた彼らに声をかけた。しかし彼の身なりが、少なくとも労働者階級《ワーキングクラス》のものではなかったからか、男たちはぞんざいな返事をした。
「なんだ、兄ちゃん、病気が怖いなら、こんなところは早く出ていくんだな」
「いえあの、その、悪魔の話を……」
「悪魔が怖いのか。なら神父に秘蹟《ひせき》を授けてもらえよ」
相手にしてもらえないまま、男たちが去ってしまうと、若者は立ちつくしたままため息をついた。
「よう、ポールじゃないか?」
彼の名を呼んだのは、この場にそぐわない陽気な声だった。振り返ると、こんな下町ではめずらしい、といえばポールもそうだが、きちんとフロックコートを着た男が立っていた。
「グレッグ……?」
あごひげを生やし、少々やつれたように思えたが、時と場所をわきまえないへらへらした笑《え》みにはたしかに見覚えがあったから、ポールはその名をつぶやいた。
以前はポールと同様、画家を目指していたはずだった。いつのまにか、画家の卵が集《つど》うクラブや画廊《がろう》に現れなくなったと記憶《きおく》している。
「久しぶりだな、ポール。こんなところで何をしてるんだ? 画壇《がだん》にデビューして、社交界に出入りしてるって噂《うわさ》で聞いたぜ」
「いやその、まだまだ駆《か》け出しで」
ポールが画家と名乗っていられるのは、アシェンバート伯爵《はくしゃく》の後ろ盾があるからだ。ポールの絵にお金を出してくれる貴重な人だが、それだけでなく、彼を友人扱いしてくれている。
ポールとしては、期待してくれている伯爵のためにも、もっと精進《しょうじん》しなければならないと思っているところだ。
「それにしちゃ、立派な上着だ」
伯爵にもらったのだった。よれよれの上着であの白亜《はくあ》の邸宅《パレス》へ出入りして、しばしばご用聞きに間違われたからだ。
「イーストエンドじゃ、まともな身なりの紳士《しんし》は相手にされないんだぞ」
「それよりグレッグ、きみこそまともな身なりじゃないか。ここで何を?」
「視察さ」
にやにや笑いながら言うから、意味深《いみしん》に聞こえるが、彼の場合そうでないことも多い。
「イーストエンドに病気が広がってる。どんな様子かと思って調べに来たが、ますますひどくなっているところを見ると、ムッシュの言うことも信憑性《しんぴょうせい》を帯びるわけだ」
しかし今回は、何やら意味深な事情があるようだと、ポールは意外に思うのだった。
「ムッシュ? フランス人?」
「予言者のムッシュ・アルバ。この病気は悪性の風邪《かぜ》なんてもんじゃない。いずれロンドン中に蔓延《まんえん》するって、人々に警告してる。聞いたことないか?」
予言者だの魔術師だの眉唾《まゆつば》な連中は、ロンドンにごまんといるから、ポールは曖昧《あいまい》に頷いた。
「この町は、近々|厄災《やくさい》に死に絶えるんだそうだ。助かるには彼にすがるしかない。そういう話さ。どうだ、ポール、信じるか?」
「……きみは、信じてるのか?」
「俺? 報酬《ほうしゅう》がいいから手を貸してるだけ。もし本当にムッシュの言うとおりなら、そばにいりゃ助かるわけだし、損《そん》はないだろ」
どうやら、ずいぶんあやしい団体に加わっているらしかった。
あやしい団体に属しているという意味では、|朱い月《スカーレットムーン》≠ニいう秘密結社の一員であるポールも人のことは言えないのだが、自分たちの組織はもともと職人の組合《ギルド》だと思えば、グレッグの言う終末信仰めいたものには異質な感覚をおぼえる。
しかし同時に、ポールはムッシュ・アルバという人物が気になっていた。
ロンドンでは、アシェンバート伯爵の宿敵ともいえる人物が動き始めている。まだ彼らが何をしようとしているのかつかめていない。けれど、ロンドンを廃墟《はいきょ》にする≠ニ宣言しているらしい彼らの動きと、アルバという人物の終末論的な予言が重なるのは気になったのだ。
「ポール、あんたなら昔のよしみで、ムッシュに紹介してやってもいい。ちょうど人手が足りなくてな。ムッシュの船上パーティの手伝いをするだけだが、いい金になるぜ。病気が怖いなら、なおさら気休めにはなる。庶民《しょみん》にゃ箱船《ジ・アーク》≠フ切符は手に入らないが、厄災から逃れられるのは、彼の箱船≠ノ乗り込める者だけだ、っていうからな」
にやけた笑いを浮かべながら、彼はポールに誘《さそ》いかけた。
*
スコットランドはエジンバラ近郊《きんこう》にある、のどかなその町は、各地に鉄道が敷かれつつある今日でも、駅がつくられることもなくのどかなままだった。
都会に急いで運ぶような特産もなく、工場を建てるには都市部から微妙に離れているという理由だ。
とはいえ、じゅうぶんに作物が育ち、山羊《やぎ》や羊が肥《こ》え育つ土地に、妖精たちが駆け回る。彼らのすみかである、古い円形土砦《ラース》や|巨石の遺跡《ドルメン》がある。リディアにとっては、唯一無二《ゆいいつむに》の故郷の町だ。
妖精博士《フェアリードクター》だった母親と同じように、妖精の姿が見え、彼らと接することができるリディアは、妖精を信じない町の人たちには変わり者扱いされているが、にぎやかな妖精たちがいるから淋《さび》しくはない。
人間の友達がいなくても、ロンドンで働いている父がめったに帰ってこなくても、リディアは妖精たちと元気に過ごしている。
きれい好きな|家付き妖精《ホブゴブリン》たちが、クロスを広げ花を飾って整えたテーブルに、リディアはハーブ入りビスケットを並べる。熱いミルクティーをカップに注げばお茶の時間だ。
ビスケットを目当てに、妖精たちも集まってくる。
いつもと同じ光景だ。
いつも……? いつもこうだったかしら?
ふとリディアは、疑問に感じ首を傾《かし》げた。
大事なことを忘れているような気がするのは、どうしてだろう。
「……そうだわ、ニコは?」
リディアが生まれたときからそばにいる妖精猫は、紅茶が大好きなのだ。なのにお茶の時間に現れないのはどういうことだろう。
「あいつはずっと、ロンドンに居残《いのこ》ってるんだろ」
そう言ったのは、リディアの向かい側でテーブルについている水棲馬《ケルピー》だった。
黒髪の、精悍《せいかん》な青年の姿で、ビスケットをつまみあげる。ひどくまずそうに噛《か》み砕くが、ケルピーの口に合うビスケットなんて最悪な代物《しろもの》だろう。まずそうにしてくれて幸いだ。
そもそもケルピーは、人や家畜《かちく》をまるかじりにする獰猛《どうもう》な種族なのだが、どういうわけかリディアを気に入っていて、家へはしばしばやって来る。
そうしていつでも彼は、しかめっ面《つら》のままビスケットを紅茶で流し込むのだ。
無理に食べなくてもよさそうなものだが、リディアに興味がある故《ゆえ》に、同じものを食べてみたいのかもしれない。
たとえしかめっ面でも、人間の姿になった水棲馬はうっとりするほど美しいものと相場が決まっている。彼も例にもれない。
たくましく、色っぽくさえあるけれど、そんな魔性《ましょう》の力で水棲馬は、人を水の中に誘い込んで食べるのだと知っているから、リディアは彼のことを、種族の違う生き物だとしか見ていなかった。
「ニコがロンドンに? そうだったかしら」
ロンドン、そういえば去年の今ごろ、父と復活祭《イースター》を過ごすために、彼女はロンドンへ行ったのだった。
「ほら、あれだ、めずらしい食い物を気に入ってさ」
「ああそう、そうだったわ。あれからニコはロンドンに住むって……」
あれ? じゃあもう一年も、ニコはここにいないってこと?
……そうだったかもしれない。
代わり映《ば》えのしない単調な毎日だと、一年も一日も同じ気がしてしまう。
「まったく、食い意地が張ってるんだから」
納得《なっとく》すると、リディアは紅茶を口に運びながら、平和だわと感じていた。
退屈な日々、けれどこれといった心配事も、心を痛めることもない。
ぼんやりと、自分は一生をこんなふうに過ごすのだと感じている。
母と同じようにフェアリードクターを名乗ってみても、イギリス中《じゅう》を機関車が走るこの時代に、妖精とのトラブルを相談に来るような人はいない。相変わらずリディアは、町いちばんの変わり者で、恋のひとつもできそうにない。
「ロンドンなんて、何度も行くようなところじゃないだろ。スコットランドがいちばんだ」
「……そうね」
リディアが答えると、窮屈《きゅうくつ》そうな椅子《いす》に足を組んで腰かけているケルピーは、なぜだか満足げに微笑《ほほえ》んだ。
「ねえケルピー、このティーカップ、ちょっとステキだと思わない? 昨日、のみの市で見つけたの。プレートもそろってて、ほら、この淡《あわ》いグリーンの色合いがきれいでしょ?」
「あ? べつに紅茶が入れば何でもいいだろ」
「……まあそうだけど」
水棲馬《ケルピー》にこの繊細《せんさい》な感覚がわかるわけはないと知っているのに、違う返事を期待していた自分に気づき、リディアは意外に思った。
人とするような会話を、長いことしていないはずだ。なのに、どうして彼にこんなことを言ってみたのだろう。
たとえば髪を結《ゆ》ってみても、いちばんいいドレスを着てみても、妖精たちは気づかない。
きみの金緑の瞳に、よく似合ってるよ≠ネんて言うわけがない。
このくすんだ鉄錆色《てつさびいろ》の髪を、おいしそうなキャラメル色≠ネんて言われることも、ありえない。
だいたい、人間だってそんなことを言う人がいるわけ……。
あれ?
リディアはまた、首を傾げる。
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳で熱い視線を投げかけながら、不敵な笑《え》みを浮かべる青年が、ふと思い浮かぶ。
いつでも自信たっぷりで、女の子なら思い通りになると思っている。まぶしい金髪の青年貴族。繊細で端整《たんせい》な顔立ちは、確かに女の子があこがれそうな印象だけれど、目的のためなら手段を選ばない、冷酷《れいこく》な一面を持っていた。
ああそう、あいつだわ。
気障《きざ》でタラシの悪党。
彼のせいで、リディアは散々な目にあったのだ。ロンドンへ行こうとして、なかば誘拐《ゆうかい》するように、強引に彼女を宝探しに巻き込んだ。それも、危険な宝探しに。
とんでもない出来事だった。なのに思い出してしまったことを悪い予兆《よちょう》のように感じ、リディアは彼の顔をかき消そうと、急いで頭を振る。
そんなこともあったけれど、あのあとリディアは父とロンドンで復活祭を過ごし、間もなくスコットランドへ帰ってきた。
ふだんの生活を取り戻した。
メロウの宝剣を得て、妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》の地位を手に入れた彼とは、以来一度も会っていない。もうリディアのことは必要ないはずだし、二度と会うこともないだろう。無関係な人なのだ。
そんなふうに思うリディアは、どういうわけかエドガーとのことがそれ以上思い出せない。宝さがしに巻き込んで、さんざん彼女を利用した人、そこまでの記憶しかない。
あの日から、ロンドンで彼に雇われ、フェアリードクターとして働いていたことも、少しずつ好きになっていったことも、プロポーズを受けたことも、リディアの中からその貴重な記憶がすっかり抜け落ちていることには気づかずに、彼のことなど考えるものかと思う。
ただ、奇妙なことがひとつだけ、リディアの心に引っかかっている。
この指輪は何なのかしら。
薬指におさまっているムーンストーンの指輪は、はずそうにも抜けなかった。
乳白色《にゅうはくしょく》のやわらかな光を、そっと閉じこめて輝く、美しいムーンストーンだ。
薬指にぴったりあつらえたようにはまっているのも、意味深《いみしん》に思える。
結婚を約束するとくべつな人が現れたとき、身につけるはずの指に、当然のようにおさまった指輪。
そんな人、いるはずもないのに。
平和な日常のはずなのに、指輪について何も思い出せないことは、リディアをかすかに不安な気持ちにさせるのだった。
「リディアが僕のことをおぼえていない?」
スコットランドに向けて走る汽車の中、特等車両の個室で紅茶を味わいながら、ニコはエドガーに、リディアの家で見てきたことを語りはじめたところだった。
ケルピーに連れ去られたリディアの様子を探るよう、エドガーにたのまれたニコは、スコットランドへ行っていたのだ。
妖精であるニコが鉄道|嫌《ぎら》いなのは、もちろんエドガーは知っている。しかしニコがエドガーのいたケンブリッジに到着したのは、彼らがエジンバラへ向かう汽車に乗る直前だった。
いやがるニコを紅茶とお菓子でつって、この汽車に乗せ、ようやくリディアの様子を聞き出したエドガーだが、それは彼にとって想像もしていないことだった。
「まったくおぼえてないわけじゃないんだ。ケルピーの魔法で、去年の今ごろ復活祭のためにロンドンへ行ったあとから記憶がすっ飛んでる。あんたのことは、たぶん、メロウの宝剣探しでひどい目にあわされた相手としかおぼえてないみたいだ」
「それは……、まったくおぼえてないよりたちが悪いじゃないか」
最初の最悪な印象だけが、リディアの中に残っていることになる。
「時間をかけて、ようやく僕を理解してもらえたところだっていうのに、ふりだしに戻るのか?」
ソファに身を投げ出し、エドガーはふてくされる。
初対面の状態なら、何度だろうと口説《くど》き落としてみせる。が、最初に彼女をだました前科があったからこそ、プロポーズも信じてもらうのも容易ではなかったのだ。
ニコは、エドガーの苦悩《くのう》にもかまわず、給仕《きゅうじ》をしている従者《じゅうしゃ》に悠長《ゆうちょう》な声をかける。
「ああ、レイヴン、ミルクをもっと入れてくれよ」
存分にお茶を楽しんでいる。鉄道がきらいだというのは本当なのだろうか?
姿形《すがたかたち》は灰色の猫にしか見えないが、器用に前足でティーカップをつまみ上げている、常にネクタイをして、紳士《しんし》のつもりの彼だ。レイヴンの方も、ニコを客人として扱うことに疑問を持っていない。
褐色《かっしょく》の肌の少年が、言われるままにミルクをつぎ足すのを眺《なが》めながら、エドガーはよく見れば奇妙な風景だと思う。
奇妙だが、妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》となり、妖精博士《フェアリードクター》のリディアと接するようになったエドガーには、不思議でも何でもない。
これからも、これが日常の風景であり続けるのが彼の望みだ。
「そもそもリディアに結婚を承諾《しょうだく》してもらえたのが奇跡《きせき》みたいなものなんだ。もういちどなんて無理に決まってる」
「エドガーさま、自業自得《じごうじとく》ですね」
レイヴンが言った。
「あっ、……自暴自棄《じぼうじき》、でした」
「わざと間違えたね?」
「とんでもないです」
表情は変わらないが、直立不動のレイヴンは、たぶんあせっているのだろう。
感情が薄く、心の機微《きび》がなかなか理解できないレイヴンが、わざと間違えるわけはない。が、エドガーにとっては図星なだけに落ち込む言葉だった。
まったく、自業自得だ。
頬杖《ほおづえ》をついて、彼は窓の外に目を向ける。
こんなことになったのは、エドガー自身が、ケルピーにリディアを連れて行かせたからだった。
危険な場所からリディアを遠ざけ、守るのが目的だった。そのためにケルピーと交わした約束は、スコットランドへ迎えに行けばリディアは必ず返す、というものだ。
しかしケルピーがすなおにリディアを返すはずもなく、何らかの魔法でエドガーが迎えに行けないようになっている、とは予想していた。
事実、ニコの話によると、彼女がいる町には魔法の壁ができていて、リディアは町から出られない上に、エドガーはもちろんカールトン教授やエドガーの仲間についても、一歩も町へ入れないようになっているらしい。
そのうえでケルピーは、リディアにロンドンでの生活を忘れさせた。
ロンドンでのリディアを知る人間を、すっかり遠ざけた町の中で、彼女は何の疑問も感じずに、日々を過ごしているようだという。
ケルピーはうまいぐあいに、約束を破らずにリディアを自分のそばにとどめる方法を思いついたというわけだった。こうなると、たとえエドガーが町へ入れたとしても、婚約をおぼえていないリディアがすんなりついてくるはずがない。
「やるな、あの馬」
しかしエドガーは、必ず迎えに行くとリディアに約束した。何があっても、その約束を守らねばならない。
「なあ伯爵、とりあえずリディアのことは、あのままにしておいたらどうだ? ケルピーの魔法の中にいれば、プリンスの組織も手出しできないわけだろ? その方が安全だよ」
ニコの言うことも、わからないわけではなかった。
プリンスと呼ばれる人物と、その配下の闇《やみ》結社が、エドガーからすべてを奪い、そして今も彼が戦っている相手だ。エドガーにとって大切なものは徹底的に奪おうとする連中だけに、リディアは危険な立場にいる。
だからこそ、リディアを心配したケルピーは、エドガーからむりやり彼女を連れ去った。
あのときリディアは、そばにいたいと言ってくれたのに、ケルピーと行かせるしかなかった。けれどもう、あんな思いはしたくない。
エドガーのそばにはまだまだ危険はあるが、これからは自分が彼女を守る立場だ。ケルピーにゆだねるのではなく、すぐそばにいて、ともに危機を乗り越えていく伴侶《はんりょ》となることを彼女は受け入れてくれたのだと思うから、今迎えに行かなくてはならない。
エドガーは考えながら、フロックコートの上から内ポケットに収まっている紙片に触れた。
教授に手渡された書類、そのかさかさとした紙の感触を確かめながら、記されていた内容を思い起こす。
|炎の蛍石《フレイア》は、イングランドのヨークシャー地方、ウォールケイヴ村でのみ採《と》れる、赤から黄色が混ざる炎に似た色の蛍石《フローライト》だ。
鉱物学的には、地質により様々な色を発現する蛍石の一種にすぎない、とカールトン教授は前置きしていた。
しかしフレイアは、昔は竜が吐《は》く炎の結晶《けっしょう》だと信じられていた、ともあった。
エドガーは、その伝説がある意味正しいことを知っていた。事実、フレイアを生み出していたのは、昔からその地に棲《す》む竜《ワーム》だったからだ。
プリンスは、眠り続けていたワームを目覚めさせてまで、もはや採れなくなっていたフレイアを新しくつくらせ手に入れた。
ワームの生命の源《みなもと》でもあるフレイアは、不死の石だとの言い伝《つた》えがあるらしい。しかし、妖精の魔力に通じた者でないと、扱えないとも聞いている。
そんなフレイアを、プリンスがどう使うつもりなのか、リディアは鉱物学者の父にたのんで、石にまつわる逸話《いつわ》を調べてもらおうとしたらしい。
ところがその内容は、逸話などという生やさしいものではなく、まったくの黒魔術だった。
カールトン教授が見つけた文献は、中世の魔法書だ。
こんな魔術を行う人間がいるとしたら、と教授が不安になるのも無理はない内容だった。
フレイアの中でも、核となる魔力の強い部分には、生者の魂《たましい》を肉体から取りだし保存しておく力があるという。そしてその魂を、新たな肉体に移し替えることも、また可能だというのだ。
不死の石だというのは、古くなって死を免《まぬが》れ得ない体を捨て、魂を移し替えて若い誰かの体を乗っ取ることができるという意味らしい。
その際には、新たな体にもともと宿っていた魂は、殺しておかなければならない。
方法として、拷問《ごうもん》とも思える数々の手段があげられていたが、どれも体に傷を残すことなく、心を絶望の淵《ふち》へ追い込み、思考力も抵抗力も奪い、人格を殺してしまう。そうなるだろうと想像できるようなものだった。
新たな体は、血縁者《けつえんしゃ》であることが望ましい。同時にそれは、新しく入ってくる魂に適合するように、同じ生活習慣を身につけなければならない。知識や教養、嗜好《しこう》や癖《くせ》、立《た》ち居《い》振る舞い、それらが受け入れる人物に近ければ近いほど、魂の移植は成功する確率が高くなる。
すべては、まさしくエドガーがプリンスのもとで受けた虐待《ぎゃくたい》と矯正《きょうせい》教育だった。
プリンスの正確な年齢をエドガーは知らないが、百年以上も生きているとは思えないからには、過去に一度や二度、この方法で新しい体を得た可能性がある。
竜《ワーム》の魔力であるフレイアを扱うのは、プリンスの側近であるユリシスだろう。青騎士伯爵家の血を引きながらも、庶子《しょし》の子孫であるために、直系が途絶《とだ》えてさえ伯爵とは認められなかったユリシスだが、妖精の魔力を扱う能力はかなりのものだ。
そうして今のプリンスも、高齢になりつつあり、不自由な体をかかえているからには、新しい体を得ようと急いでいるに違いなかった。
しかし、器《うつわ》にするつもりだったエドガーは逃亡した。
以前は、エドガーを生かしたままつかまえようとしていたプリンスだが、このところ、さんざん思い知らせてから殺そうと考えている様子からするに、別の入れ物≠見つけたのかもしれない。
何を考えているにしろ、エドガーはプリンスの計画をことごとく阻止《そし》するつもりでいる。
それがリディアや仲間を守ることになるはずだからだ。
「ともかくニコ、僕はリディアに会いたいんだ。リディアのためにはこのままでいいなんて言うけど、きみはケルピーが怖いだけだろう?」
「だってさ、今度見つけたらしっぽをかじってやるって言うんだぞ」
妖精だけあってニコは、ケルピーの魔法をかわせる。だからとリディアの様子を見に行ってもらったものの、ケルピーに見つかってひどい目にあわされたようで、やけに逃げ腰だ。
「しっぽくらい喰《く》わせてやればいい。その隙《すき》にリディアを連れ出せるかもしれない。代わりに狐《きつね》のしっぽでも買ってやろう」
「いやだよ! おれのしっぽは世界一なんだ!」
今すぐ盗《と》られるとでも思っているみたいに、ニコはふさふさした灰色のしっぽを両手でかかえ込んだ。心なしか涙目だ。
「冗談だろ。とにかく、ケルピーの魔法を突破する方法を考えてくれ」
ニコはまだ、不満げにしっぽを撫《な》でていたが、ちらりとエドガーを見た。
「日が沈《しず》むまでのあいだ、町へ入るだけなら方法はないこともないさ。でもそれだと、魔法の壁はそのままだからリディアは町から出られない。それから、一度しか使えない」
いい条件とはいえない。けれど、リディアに会えなければどうにもならない。
「どんな方法?」
「誰かに招かれればいいんだ。町の住人に」
[#改ページ]
愛しの妖精博士《フェアリードクター》
畑の脇道《わきみち》は、リンゴの花で淡《あわ》く白くけぶって見えた。リディアは、おろしっぱなしの髪を春らしいそよ風になびかせながら歩いていた。
(リディア、どこへ行くの?)
(どこへ行くの?)
花びらをまとった小さな妖精たちが、声とともにまとわりつく。
「ハチミツを買いに行くのよ」
(ハチミツ!)
(まあ、ハチミツ!)
意味もなく、妖精たちはくすくす笑う。リディアの髪につかまって、遊びながら飛び回る。
(菜の花色の、あまーいハチミツ!)
小さな妖精たちは、親愛を表現するかのようにリディアの髪にまとわりつく。それがきらいではないから、年頃になってもふだんから髪を結《ゆ》う気にはなれない。子供っぽく見られるのはわかっていても、つい髪をおろしたまま外出してしまうのだった。
やがてリンゴの道を通り過ぎ、たどり着くのは町で唯一《ゆいいつ》の繁華街《はんかがい》だ。木彫《きぼ》りの看板を軒下《のきした》に掛けた店が並んでいる。リディアはまっすぐに、目当ての店がある四つ角へ向かう。
買い物をすませて店を出ると、通りをはさんだ向かい側に、馬車が止まっているのが目についた。
馬車のそばで、今しがた降りてきたらしい少女が三人、楽しそうに立ち話をしている。
せまい町のことだから、リディアにとっても顔見知りの三姉妹だ。
見慣れないのは、その輪の中にいる黒い帽子《トップハット》の男性だった。
すらりとした立ち姿は、仕立てのいい外套《がいとう》に包まれている。あんなにつやつやした黒い生地《きじ》をまとった人は、この町の人間ではありえない。
少女たちがいつになくはしゃいでいるのは、都会から来た様子の、洗練された男性と知り合えたからだろう。
「本当にここでいいんですか? 観光するほどのところもありませんけど、もう少しわたしの馬車でご案内できますわ」
「そうだわ、家へ寄っていってくださいな。都会のかたにはめずらしいお酒もありますわよ」
やけにうれしそうな声を聞けば、リディアは少しうらやましくなった。
あんなふうに、誰かと出会って親しくなって、みんなは恋をするのだろう。
けれど自分には無縁のことだ。
「いえお嬢《じょう》さん、少し町を歩いてみたいんですよ」
なぜだかその声に、リディアはどきりとして立ち止まった。胸が高鳴るような、そんな気分になったのだ。
ばかばかしいと思いながら、また歩き出そうとする。
「ご親切に感謝します。馬車が溝《みぞ》にはまってしまったのには困りましたが、通りかかったのがあなたがたのような美しいお嬢さんで幸運でした」
まあ、と彼女たちはさらに気取った笑い声をたてた。
「いやだわ、都会には、もっと美しい女性がいらっしゃるでしょうに」
「飾り立てれば美しいというものでもありませんよ。どうやら僕は、この町の女性の野の花のような美しさに惹《ひ》かれてしまうようだ」
さっきとは違う意味で、はっとした。
この調子のいい口説《くど》き口調《くちょう》は。まさか。
おそるおそる、確かめるために首を動かす。
黒い帽子の男が、そのときリディアの視線を感じたかのように、ゆっくりと振り返った。
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が、彼女をとらえる。
「……リディア?」
驚きの表情が、ふと切《せつ》なげになり、やがてやわらかい微笑《ほほえ》みに変わる。
「ああ、本当にリディアだ。まさかこんなに早く会えるだなんて。うれしいよ、僕の妖精」
リディアの印象に残っている、傲慢《ごうまん》で不遜《ふそん》な微笑みとはあまりにも違う、あけすけなほどうれしそうな笑顔に戸惑《とまど》わされる。が、困惑《こんわく》する彼女の様子を気にもせず、彼は相変わらず大胆《だいたん》にこちらへ歩み寄った。
「待たせてしまったかい? 約束どおり、迎えに来たよ」
「な、何言ってるの?……ていうか、なんであなたがこんなところにいるのよ!」
「これからきみの家へ行こうと思ってたところさ。なのに町へ入ったとたん会えたってことは、僕たちはやっぱり運命の糸で結ばれているのかな」
手を取ってキスを落とされたことよりも、リディアには三姉妹の視線が気になった。
「あの、伯爵《はくしゃく》、彼女とお知り合いなんですか?」
ひとりがおずおずと訊《たず》ねる。
「ええ、僕の大切な……」
「ちょっと、やめてちょうだい!」
ほうっておくと何を言い出すやらわからない人だった。リディアは言葉をさえぎりながら、力を入れて手を振り払った。
が、多少の拒絶《きょぜつ》など気にするはずもないエドガーは、彼女がかかえていた紙袋をひょいと奪う。
「僕が持とう。さあ、きみの家へ案内してくれるね?」
家にまで押しかけてこられてはたまらない。
「あの、結構ですから。父が留守のあいだは、男の人を入れるわけには……」
「リディア、婚約者は例外だってことを忘れたのかい? きみとふたりで過ごす権利は僕だけのもの、そうだろう?」
「こ、婚約者?」
リディアよりも先に、少女たちが叫んだ。
「ほ、本当なの? リディア」
「えっ、あの……」
「ああそうか、同郷で同じ年頃なら、みんなリディアとは昔からの友達なのかな?」
せまい町のことだ。お互い家族構成からよく知っているが、友達だったことはない。
なのにどういうわけか、彼女たちはあわてたように引きつった笑顔を浮かべて頷《うなず》いた。
「ええ、……彼女とは幼なじみなんですの。だからびっくりしましたわ」
幼なじみ? 呆気《あっけ》にとられるリディアの隣で、エドガーは調子に乗る。
「それはよかった。友達なら、婚約のお披露目《ひろめ》には招待しなくてはね」
するとますます、彼女たちは色めき立つ。
どうやら彼女たちは、リディアを接点にしてでも、都会から来た貴族の友人知人と知り合うきっかけを熱望しているらしい。
「リディア、こんなステキな婚約者がいるだなんて、教えてくれればよかったのに」
「それも貴族だなんて、ほんとびっくり」
「ねえ、近いうちにあたしたちでお祝いさせて」
もう、どうしていいかわからない。
「よかったねリディア、その相談は、また友達どうしでゆっくりするといいよ。ではお嬢さんがた、僕たちはこれで」
「はいっ、さようなら、伯爵」
興奮さめやらぬ少女たちににっこり微笑んで、エドガーは呆然《ぼうぜん》としているリディアの腕を引いて歩き出した。
「な、何を言うのよ! 婚約だなんて!」
ようやく彼女が声をあげたのは、商店街を通り抜けて、小川に沿《そ》った道に出てからだった。
「いいじゃないか。彼女たち、きみと友達になりたがってた。もしいじめられたことがあるなら、仕返しするチャンスだよ」
仕返しって、あんなに愛想《あいそ》よくしてたくせに、腹黒いことを平気で言うんだから。
「べつに、いじめられたことはないわ」
「なら、せっかくだから仲良くすればいい。きっと彼女たちも、妖精の見えるきみへの先入観で避けてただけで、きっかけさえあれば友達になれるよ」
そうかもしれないけれど。
きっかけって、こいつとの婚約が成り立たなければならないのではないか。
「あのね、彼女たちのことはどうでもいいの」
そもそもリディアにとって問題なのは、勝手にエドガーが婚約だなんて吹聴《ふいちょう》したことなのだ。
「ところで、きみの家への道はこちらでいいのかな?」
「エドガー」
「僕は遠回りしたってかまわないけど」
「……そこを左よ」
なかばあきらめつつ言う。さすがに、エドガーがスコットランドまでやってきた事情も、気になりはじめていた。
ロンドンで、伯爵として忙《いそが》しく過ごしているのではなかったのだろうか。
どうしてまた、リディアのところへ来たのだろう。
あたしのこと、おぼえてたなんて。
そんなふうに思うと、かすかに胸の奥がうずく。どういう感覚なのかわからないまま、そこから目をそらしてリディアは問う。
「ねえ、何かあったの?」
「なんだかんだ言いつつきみは、僕を心配してくれるんだね」
「あのね……」
「いちど、きみの故郷へ来てみたいと思ってたんだ」
すぐにふざけるんだから。
「もう都会の女性に飽きたとか? 野の花みたいな女の子を探しにでも来たの?」
皮肉を込めて言うと、彼は苦笑した。
「さっきのはね、僕にとってこの町の女性が世界一だってこと。つまり、きみのことさ。妖精に愛される、野の花のような女の子」
相変わらずね、とリディアはつぶやく。
本当に、何をしに来たのかしら。
あたしを口説きに来たわけでもあるまいし。
バカみたい、とリディアは頭を振る。からかうだけにしたって、いくら何でもそんなにひま人ではないだろう。
「それにしてもリディア、どこを歩いてきたの? 髪の毛に、リンゴの花がたくさんくっついてるよ」
「え、やだ、取らなきゃ」
立ち止まった彼女が、髪をはらおうとすると、エドガーは止めるようにその手を取って微笑《ほほえ》んだ。
「せっかくの髪飾りだ。似合ってるのにそのままの方がいい」
でも、とリディアはあたりを見回す。
行きがけにも通ったはずの、畑に沿った小道には、花盛りのリンゴは見あたらなかった。
道沿いの木々には、まだつぼみさえ見あたらない。
妖精たちとなじんだこの町では、リディアはときどき、知らずと彼らの領域《りょういき》へ踏み込んでしまうことがある。
彼女にとっては大した出来事ではないが、まだどこにも咲いていないはずの花びらを身につけている少女は、気づいた人をぞっとさせるものだ。
だから急いで取ろうとしたのに、エドガーは笑っている。
「妖精たちのいたずらだわ。よくあることなの。……気味が悪いでしょうけど」
「妖精たちは、きみの美しさを引き立てる方法をよく知っているんだね」
肩に落ちた花を拾い、そっと耳元に挿《さ》し直すエドガーを、赤くなりながら盗み見た。
気味が悪いと思っている様子はない。
あまい言葉だけでなく、これも相変わらずだと知ると、正直彼女はほっとしていた。
利用するためだけに、妖精のことを理解したふりをしていたわけじゃない。彼は今でも、リディアと妖精のかかわりを、自然なものだと受け止めてくれている。
「あなたは……不思議な人ね。伯爵《はくしゃく》になって、貴族社会に戻れたから、もうとっくにあたしのことなんて忘れてると思ってた」
こんなことを言ったら、忘れてほしくなかったみたい。
気づけば、ちょっと恥《は》ずかしくなってうつむく。それに彼が何も言わないので、ますます変な言葉だったかと気になりはじめた。
「忘れるわけないじゃないか」
物思うような間《ま》をおいて、返ってきたのは思いがけず力が入った返事だった。
「リディア、きみがすべて忘れたって、僕は忘れない」
何のことだろう。再び彼の方に目をあげる。間近で彼女を見おろす、真剣な視線とぶつかる。
「僕と結婚すると言ってくれた、あのときの言葉は、何があっても忘れないよ」
「結婚……? 誰が?」
「やっぱり思い出せないの? 僕たち、少しずつ愛をはぐくんできたんだよ。イブラゼル伯爵と認められてすぐ、僕はきみを顧問《こもん》フェアリードクターとして雇った。それからきみはロンドンで、父上と暮らしながら、毎日僕のために、領地の妖精問題を処理してくれた」
「ちょっと待って……」
「思い出してくれ、リディア。お互い、過去も身分も関係ないと思うほど惹《ひ》かれ合って、結婚の約束をしたんだ」
「……うそ言わないで。あたしはずっと、ここで過ごしてたわ」
後ずさり、リディアは彼の視線を逃《のが》れようとした。しかし、腕をつかまれて引き戻される。
「きみは魔法に惑《まど》わされている。うそじゃない。これがその証拠《しょうこ》だ」
エドガーは、ムーンストーンの指輪を示すように、彼女の手を持ちあげた。
「僕たちの、婚約のしるしだよ。初代|妖精国《イブラゼル》伯爵の妃《きさき》、グウェンドレンの指輪だった。きみの手にこれがあるってことは、紛《まぎ》れもない事実だろう?」
なぜこんな指輪をしていたのか思い出せずに、リディアは戸惑っていた。
でも、エドガーの言うことなんて……。
リディアの心が波立つのと同時に、小川が荒い水音をたてた。
水しぶきをたてて、漆黒《しっこく》の馬が土手に駆《か》け上がる。
「よう伯爵、どうやって入ってきた?」
「リディアを迎えに来た。そしたらすぐに返すって約束だったよね」
人の姿に転じると、ケルピーは威圧《いあつ》するようにエドガーの前に立った。
「姑息《こそく》な方法で入ってきたって無駄《むだ》だ。まだ、あんたは俺の魔法を解いたわけじゃない。自力でこいつを連れ出せないからには、約束は成立してないぜ」
[#挿絵(img/my fair lady_057.jpg)入る]
強いつむじ風が巻き起こった。リディアは思わず目をつぶる。
再び目を開けたときには、エドガーもケルピーも姿を消していた。
*
エドガーと婚約?
まさか、そんなことあるわけがない。
でも、ケルピーはエドガーを知っているような口振りだったし、いきなり現れて彼を連れ去った。あのふたりが、いったいいつどこで知り合ったというのだろうか。
けれど、ケルピーとエドガーが偶然《ぐうぜん》知り合うことよりも、自分の婚約の方がありえない話だとリディアは思う。
結婚なんて、仮にも伯爵のエドガーが、貴族ではない娘を選ぶはずがないではないか。
それに彼は、とびきりうそつきの策士《さくし》だ。
「はっ、もしかして、結婚|詐欺《さぎ》のつもり?」
だとしたら彼がリディアの何をだまし取ろうとしているのか、考えてみたけれど、結局思いつけなかった。
玄関の呼び鈴《りん》が鳴った。
暖炉《だんろ》の前で本を開いていたリディアは、はっとして立ち上がった。
「今ごろ誰かしら」
もうすっかり日が暮れている。ふだんなら、訪問客などありえない。
またエドガーが……?
おそるおそる、玄関のドアの前で誰何《すいか》する。
「リディア? あたしだよ、ロタだ」
ロタ?
ドアを開けると、コーヒー色の髪を束《たば》ねた少女が抱きついてきた。
「リディア、元気だったか? ロンドンの家を訪ねたら、家政婦さんがこっちだって言うから来ちゃったよ!」
そうだわ、あたしにも人間の友達がいたんだったわ。
たしかロタは、祖父とオランダへ行っていたのだったと、リディアは自然に思い出す。
ケルピーの記憶の操作も、リディアの周囲の人間を町へ入れないようにとの魔法も、外国にいたロタまでは範疇外《はんちゅうがい》だったとは知らないまま、リディアはロタの顔をじっと見た。
「おかえりなさい、ロタ。これからはイギリスにいられるのね」
つり目がちの茶色の瞳を、愛嬌《あいきょう》たっぷりに細めて彼女は微笑んだ。
「来てくれてうれしいわ。さ、中へ入って。夜はまだ寒いでしょ?」
手を引いて、応接間へ招き入れる。大公女になって、さすがに上等のドレスを着ているというのに、手袋も帽子《ボンネット》もない下町娘みたいな格好《かっこう》もロタらしい。
「ね、おなかすいてない?」
「停車場のパブで食べてきた。それにしてもリディア、スコットランドへ帰ってきてるなんて、また休暇《きゅうか》を申し出たのか? あいつとケンカでもした?」
「あいつ?」
「あんたを顧問フェアリードクターとして雇ってるやつ」
リディアが首を傾《かし》げると、ロタも首を傾げた。
「エドガーだよ、アシェンバート伯爵……だっけ? ほら、本気っぽいプロポーズされたって、手紙に書いてただろ」
プロポーズ?
リディアは無意識に、ムーンストーンの指輪を右手で確かめていた。
昼間に会ったエドガーも、婚約したと言っていた。いったいどういうことなのか。
「あっ、もしかしてあいつ、よからぬことしようとしたから逃げてきたのか? いくら口説《くど》いても落とせないからって、実力行使とはひどいやつだな」
「あの、ロタ、あたしからの手紙って……」
「よう、海賊《かいぞく》娘、また来たのか」
リディアの言葉をさえぎって、ケルピーが窓から乗り込んできた。
「なんだ、ケルピー、だっけ? まだリディアにくっついてるんだな」
「悪いか」
「ま、あんたはリディアに襲《おそ》いかかったりしないからいいけどさ」
「ちょっと、ロタ……」
リディアが赤くなると、ロタは楽しそうににんまり笑う。
「相変わらずうぶだね。てことは、これといった進展もなしか」
「進展?」
「いや、いいんだ。リディアはそのままでいい」
なぜだかロタは、小さな子供にするように、リディアをぎゅっと抱きしめた。
「まったく、こいつの存在を忘れてた」
ケルピーは、いまいましそうにつぶやく。
「何か言った?」
「いやべつに」
「そういやリディア、猫の旦那《だんな》は?」
「ニコはロンドンよ。食べ物につられて居《い》ついてるらしいの」
「ふうん、せっかくオランダ土産《みやげ》を持ってきたのに」
そう言ってロタは、引きずってきたトランクを開けると、ワインの瓶《びん》を取り出す。
「ま、いいや、ふたりで飲もう!」
「俺のぶんは?」
ケルピーが不満そうに口を出す。
結局|宴会《えんかい》になってしまったのは、ケルピーが居座《いすわ》っていたのと、|家付き妖精《ホブゴブリン》たちが集まってきたせいだ。
エドガーに関するリディアの疑問は、にぎやかな場にかき消されてしまった。
ほどよく酔《よ》って、リディアは眠った。
夜中に目が覚めたのは、夢の中で何か叫《さけ》んだようだったからだ。
結婚するわ……
そんな言葉が、かすかに脳裏《のうり》に引っかかっていたが、目を開けると間もなく、跡形《あとかた》もなく消えてしまった。
どんな夢を見ていたのか、まるで思い出せないのに、リディアの頬《ほお》は濡《ぬ》れていた。
寝返りを打つ。
月明かりに目がさえてくると、月光を反射して輝《かがや》くムーンストーンの指輪が気になり、再び疑問が頭をもたげた。
何かがおかしい。
ロタも、リディアがロンドンのエドガーのもとで働いていたようなことを言っていたし、プロポーズがどうとか口にした。
そもそも、ロタとはどこで知り合ったのだったか。
彼女のことなら、少しずつ思い出せる。
たしか、海賊だったロタは、行方《ゆくえ》不明の親友をさがしに来たのだ。彼女は竜《ワーム》にとらわれていて……。
あれは、エドガーの領地で起こった事件だった。
ロタとエドガーは、アメリカにいたころからの知り合いだったはず。
断片的に思い出すほど、疑問は大きくなっていく。
どうしてリディアは、エドガーの領地へ行ったのか。どうして、ロタとエドガーが旧知だと知っているのか。
エドガーとは、宝剣さがしの件以来、疎遠《そえん》になっていたはずではないのか。
おかしい。ニコがいない。ケルピーは、いつになくしょっちゅう現れる。
焦燥感《しょうそうかん》に、いても立ってもいられなくなったリディアは、ベッドから抜け出し、外套《がいとう》だけを手に自室を出て玄関へ向かう。
夜中に外へ出てどうしようというのだろう。
自分でもよくわからないまま、エドガーはまだ町にいるだろうかと考えていた。
エジンバラから出る汽車は、明日の朝までないはずだ。だったら、どこかの宿《イン》にでも泊まっているかもしれない。
庭を横切って、低い木戸を押し開け門の外へ出る。
いや、出たと思ったのに、リディアはまだ門の内側にいた。月明かりに照らされた道は、木戸の外にある。
もういちどリディアは、木戸を押し開ける。ゆっくりと外へ足を踏《ふ》み出す。
が、一歩出ればまた内側にいる。
妖精の、まどわしの魔法だ。
そう気づいたリディアは、自分の記憶が欠けているのも魔法なのだと直感していた。
こんなことができるのは、強い力を持つ妖精だ。リディアが心当たるのは、ケルピーくらいしかいない。
「……どうして、こんなことを」
|魔性の妖精《アンシーリーコート》のケルピーだが、リディアには特別悪さをすることはなかった。魔法の力を彼女に向けたことなどなかったのだ。
ケルピーの魔法なら、破るのは難しい。そう知っていてもリディアは外へ出ようと試《こころ》みた。
裏口から出てみても、梯子《はしご》を持ち出して垣根《かきね》を越えようとしても同じだった。
疲れ果《は》て、梯子の下に座り込んだ。
「どうしたんだ? リディア」
ロタの声に、我《われ》に返って顔をあげた。
寝間着《ねまき》の上に外套を羽織《はお》っただけの格好《かっこう》なうえ、植え込みをくぐり抜けようとしたために、木の葉や土があちこちにくっついている。
ずいぶん異様な風体《ふうてい》だと気づくと、さすがに恥《は》ずかしくなった。
「ごめんなさい、物音で起こしちゃった?」
「いや、寝つけなかったとこだから。それより、何か心配事でもあるのか?」
「外へ、出られないの。あたしに魔法がかかってる」
魔法? と彼女は不思議そうな顔をしたけれど、現実的な問いを口にした。
「夜中だよ。出てどうすんの?」
「……会いたいの」
誰に、とロタは訊《き》かなかった。
「昼間に会ったの。まだ町にいるはずだわ。会って、確かめなきゃ、……あたし、本当に婚約したのかどうか……」
ただそっと手を引いて、リディアを立たせる。そうしてロタと家の中へ戻ったリディアは、応接間の暖炉《だんろ》のそばに座るよう促《うなが》された。
ロタが火をかき立てると、あたりがぱっと明るくなる。それだけで、少し落ち着く。
「エドガーが、ここへ来たのか?」
ロタの問いに、リディアは頷《うなず》いた。
「でもあたし、いろんなことを忘れてるみたいなの」
「忘れてるって?」
「ロタも言ったでしょ。あたしはロンドンでエドガーに雇われてたって。それで彼にプロポーズされたって」
「それ、おぼえてないのか?」
リディアはこくりと頷いた。
「よく考えたら、エドガーのことだけが記憶から抜け落ちてる。彼と会ったのは一度きりで、あたしはずっとこの町にいたと思ってたもの。でも今日、エドガーが来て言ったの。あたしを迎えに来たって。彼と婚約したって……」
「ふうん、ま、あいつはその気もないあんたをずっと婚約者扱いしてたけどな」
そうなのだろうか。だったらあれも、やっぱり彼の悪ふざけなのか。
「でもそのときのあんたは、強く突っぱねてた。会いたい、なんてぜったい言うものかって感じだった」
そう言ってロタは、やわらかく笑う。
「素直にそう思うなら、本当に婚約したのかもね。少なくともあんたの中で、何かが変わったんだよ」
変わったら、あのうそつきで悪党でタラシのエドガーを、好きになれるものだろうか。
「エドガーの方も変わったのかも。本気っぽいプロポーズされたってあんたが手紙に書いてたのも、浮《うわ》ついた気持ちじゃないって感じるようなことがあったんじゃないか?」
けれど今日会ったエドガーも、相変わらず調子よくて裏表があって、女の子には軽薄《けいはく》なほめ言葉ばかり口にする、以前の彼と同じだった。
リディアの理想の、まじめで不器用で誠実《せいじつ》な青年になっていたわけじゃない。
「……でも、あの、ロタ。会いたいっていうか、本当のことを知りたいだけなのよ」
「うん、じゃあさ、あいつに会ったときの印象はどうだった? 婚約がいつものあいつの先走りなら、うっとうしいだけだったとしても不思議じゃないし、そうじゃないなら、会えてうれしく思ったかも」
自分を利用した人、そんなふうな記憶しかないエドガーだった。なのにリディアは、彼が自分を忘れていなかったことが、少しだけうれしかった。
婚約者だなんて迷惑《めいわく》なことを吹聴《ふいちょう》されて、けれどさほど腹が立たなかったのも事実だ。
しかしリディアは思い出せない。
本当に彼にプロポーズされたのかすらわからないのに、エドガーが自分に恋しているなんて信じられない。
「ねえ、確かめてみて、違ってたらどうしよう……。ほら、たとえばあたしの方が好きになっちゃって、エドガーはおもしろ半分にからかってるのかも……。だって彼、自分に好意のある女の子を、ますますその気にさせるの好きでしょう?」
そう、あの悪趣味《あくしゅみ》な男は、自分の目の前で女の子が浮かれているのは大好きなのだ。
だからからかいに来たのなら、リディアは忘れていた方がましだと思う。
しかしリディアの不安をよそに、ロタはなぜかうれしそうに微笑《ほほえ》んで、彼女の頭に手を置いた。
「大丈夫だよ、リディア。もしあいつがそんないいかげんな気持ちだったら、あたしがたっぷり後悔《こうかい》させてやる」
そうして彼女は、すっくと立ち上がった。
「ちゃんと会わせてやるよ。あいつをさがして連れてくるから、ここで待ってろ」
*
エドガーは、隣町の宿《イン》にいた。
眠れない一夜を過ごし、部屋着《ドレッシングガウン》のまま、窓辺のテーブルで、今朝《けさ》届いたばかりの手紙を開いていた。
目の前の朝食はすっかりさめてしまっている。
「エドガーさま、あたため直してきましょうか」
ずっと考え事をしていたエドガーが、ほんの少し身じろぎしたタイミングに、レイヴンは言った。
食事に手をつけないことを気にしながらも、声をかけるタイミングを計っていたのだろう。
「いや、いいよ。悪いけど、下げてくれるかな」
「はい。では熱いミルクティーを」
「うん、そうしてくれ」
昨日、ケルピーにあっさり町から追い出されたエドガーは、それからいろいろと試みてみたが、やはり町へは入れなかった。
二股《ふたまた》の道を右へ折れれば、左からもとの場所へ戻ってくる。同じところをぐるぐる回らされる。一本道を進んでいるつもりでも、何度も同じ立て札が前方に現れる。
一度追い出されたならもう無理だとニコに諭《さと》され、しぶしぶ隣町で宿を取ったエドガーだが、どうやってリディアを取り返すのか、考えるべきことはそれだけではなくなっていた。
ロンドンで、プリンスの動きをさぐっている秘密結社、|朱い月《スカーレットムーン》≠ゥら手紙が届いていたのだ。
結社の団員で、エドガーの友人でもある青年画家、ポールが、行方《ゆくえ》不明になったという。
ポールの結社での役割は、エドガーとの連絡役で、危険を伴《ともな》うような任務にはあたっていなかった。そもそも彼の、善良な小市民的性格は、スパイ活動向きではない。
しかしポールは、エドガーの屋敷にしょっちゅう出入りしているし、プリンスの手先には顔を知られている。
ねらわれる可能性はもちろんあった。
「イーストエンドの貧救院《ひんきゅういん》へ、病気の子供たちを見舞いに行くといったきり、ポールの行方がわからないそうだ」
紅茶を運んできたレイヴンに、言うともなくつぶやく。
ポールはそこで、子供たちに絵を教えたことが何度かある。病気にかかったと聞いて、元気づけたいと思ったのだろう。
「イーストエンドで蔓延《まんえん》しているという、あの病気の見舞いに行ったのですか? 貧救院の子供たちも罹患《りかん》したのでしょうか」
「そうかもしれないね」
「画家も病気になったんじゃ?」
早々と食事をすませ、暖炉の前で紅茶を味わっていたニコが口をはさんだ。
「連絡もできないっていうのかい?」
病名もよくわかっていない。重い風邪《かぜ》のように高熱が続き、やがて肺《はい》をやられて死に至るというが、すぐさま意識不明になるわけではない。
「エドガーさま、私はやはり、あの病気にはプリンスがかかわっているような気がします」
エドガーたちが先日、ケンブリッジからいったんロンドンへ戻っていたのは、その病気のことで|朱い月《スカーレットムーン》≠ノ呼び戻されたからだった。
ロンドンの東の地区、イーストエンドは、貧しい労働者や移民たちが多く暮らしているスラム街だ。そこで伝染性の病気が流行《はや》りつつあり、ロンドン市民に警戒感《けいかいかん》が広がっているということだった。
もともとイーストエンドには、あらゆる病気が蔓延している。コレラもチフスも、流行の火種《ひだね》はたいていそこだ。
そういう意味では、病名が判然としない病気だろうとめずらしいことではないが、朱い月≠フ調査では、作為的《さくいてき》なものかもしれないということだった。
プリンスは、ロンドンを廃墟《はいきょ》にする
エドガーにそう告げて死んだ、プリンスの手先のことは、まだ記憶に新しい。
それがどういう意味なのか、エドガーは考え続けていた。
朱い月≠ノは、ロンドンで起こりつつあるどんな兆候《ちょうこう》でも見|逃《のが》さないよう指示してある。そうして彼らが目をつけたのが、イーストエンドの伝染病だった。
「ただの病気にしては、同じような症状がシティ以西にないというのが奇妙です」
レイヴンは、朱い月≠ニ同じ見解のようだった。
イーストエンドだろうとバッキンガムだろうと、地続きのロンドンだ。スラムで病気が流行れば、そこへ出入りする別の地区の住民にもぽつぽつと患者《かんじゃ》は出る。ところが、今回はない。
吸い取り紙に落ちたインクのように、じわじわと周囲に広がっていく。人を介《かい》して広がるというよりは、地面をゆっくりと這《は》いながら、何かが突き進んでいるかのようだ。
「レイヴン、それはおまえの予感? おまえの中の精霊が、何かを告げるのか?」
「わかりません。……でも、そうかもしれません。胸騒《むなさわ》ぎをおぼえるのです」
朱い月≠ゥらの手紙には、病気はまだ下町にとどまっているというのに、病気による終末が来ると不安に感じる人々が増えてきているとも書いてあった。
プリンスという存在も、彼らの組織のもくろみも知らないロンドン市民だが、不穏《ふおん》な気配《けはい》だけは感じるのだろうか。
ポールの失踪《しっそう》は、この病気と、そしてプリンスとかかわっているのだろうか。
「どうするんだ、伯爵《はくしゃく》。ロンドンへ帰るのか?」
ニコにとってはあくまで他人事《ひとごと》だ。悠長《ゆうちょう》な口調《くちょう》で紅茶をかきまぜつつ、湯気《ゆげ》をたっぷり吸い込んで目を細める。
帰るしかないだろう。たった今、エドガーはそう決めたところだ。けれどまだ、こちらにも気がかりが残っている。
「もういちど、リディアに会うことはできないのかな」
「ケルピーが警戒を強めてるんだぞ。やつの魔法を完全に解かない限り無理だって」
エドガーは肩をすくめるしかない。
「どうやって?」
「だいたい、魔法のことわからないくせに、安易《あんい》にケルピーなんかと取り引きするからだよ」
安易なんかじゃなかった。
「妖精の魔法だろうと、これまで何度もリディアと力を合わせて切り抜けてきたんだ。ふたりの絆《きずな》さえあればどうにかなるはずなんだ」
「リディアは絆なんておぼえてないぞ」
「そこが問題だ」
そのとき、ノックの音がした。宿《イン》の客室係が慇懃《いんぎん》にドアを開けた。
「伯爵にお客さまがいらっしゃっております。ご案内してもよろしいでしょうか?」
「客? 僕の妖精以外に用はないよ」
投げやりにエドガーは言う。
「リディアじゃなくて悪かったね」
案内も待たずに部屋へ入ってきたのは、コーヒー色の髪の少女だった。
アメリカにいたころ知り合った元|海賊《かいぞく》娘。彼女とエドガーは、お互いまるきり理解できない性格だという意味で、相容《あいい》れない存在だった。だからエドガーは、ロタを不機嫌《ふきげん》な顔つきのまま眺《なが》め、低く言った。
「レイヴン、つまみ出せ」
レイヴンが動こうとすると、ロタはあわてたようにソファの後ろへ回り込んだ。
「おいっ、あたしにそんな態度でいいのか? リディアにたのまれて、片《かた》っ端《ぱし》から宿をまわってまで来てやったってのに!」
リディアと聞いて、立ち上がったエドガーは、ロタに詰め寄った。
「リディアに会ったのか、どうやって町へ入った?」
「立ち話か?」
ロタは、自分の優位を示そうというように彼をにらむ。が、下手《したて》に出たふりの嫌《いや》がらせなら、エドガーは大得意だ。
「これは失礼しました、プリンセス・シャーロット、どうぞおかけください」
わざとらしくにっこり笑って、そっと手を引いてやるだけで、ロタは鳥肌を立てた。
「レイヴン、お茶を」
出ていこうとした彼を止め、「あれでいい」と幸せそうにティーカップを手にしているニコを一瞥《いちべつ》した。
「ニコさん、すみません」
と、エドガーにはけっして逆《さか》らわないレイヴンは、それを取り上げる。
「おい、何すんだよ。伯爵!」
目の前に置かれたロタも憤《いきどお》る。
「猫の飲みかけかよ!」
「おれは猫じゃねえぞ!」
テーブルの上に立って、前足を腰にあてて憤る猫にじっとにらまれ、ロタはすっかり力が抜けたようだ。
ニコの方にティーカップを押しやり、疲れたようにため息をつく。
「さあ、リディアのことを聞かせてもらおうか」
エドガーは、尋問《じんもん》でもするように冷淡《れいたん》に言った。
「リディアの頼みじゃなかったら、テーブルひっくり返して帰ってやるところだぞ」
「でもリディアの頼みだろ」
眉間《みけん》に深くしわを寄せながらも、ロタはもう、とっとと用を終わらせる気になったのか、エドガーを見て口を開いた。
「……町に出入りできるのは、リディアの知り合いではたぶんあたしだけだ。よくわかんないけど、魔法をかけたのはケルピーじゃないかって。けどその魔法の範囲に、オランダにいたあたしは含まれてなかったんだろ。で、あたしが来たからリディアは、思い出せはしないけど、自分がいろんなことを忘れてるって気がついたんだ」
「ならリディアは、僕が言ったことを信じてくれたのか?」
「婚約ってやつ? で、それは本当なのか?」
「もちろんだよ」
ロタは疑わしそうにエドガーを見、それからレイヴンを見た。
「本当です」
と急いで言うレイヴンに、彼女はさらに疑いの目を向ける。
「訊《き》いてないのに答えるって、エドガー、あんたが言わせてるだろ」
「そんなことより、リディアはどう言ってるんだ」
しらばっくれつつ、エドガーは話を戻した。
「……たぶん、半信半疑かな。でも、もういちどあんたに会って確かめたいと思ってる」
もちろんエドガーも、できることなら今すぐ会いたい。
「リディアは町から出られないんだろう? 僕も一度はうまく侵入《しんにゅう》したけれど、二度目は難しそうだ」
「うん、そこなんだ。夜は家の敷地からも出られないみたいだ」
「ケルピーの魔法を破るには、リディアが僕を思いだしてくれなければならない。でもそのためにはリディアに会わなければならない、か。……これじゃあどうしようもない」
「妖精国《イブラゼル》伯爵《はくしゃく》ったって、爵位《しゃくい》泥棒《どろぼう》じゃ意味ないってことか」
ロタは嫌味《いやみ》っぽく言った。
「いいえ、我《われ》らが青騎士伯爵が、ケルピーごときに負けるわけがありません」
姿なき声がした。
エドガーのことを、青騎士伯爵という別名で呼ぶのは、たいていが妖精だ。
あたりを見まわしても、姿はさっぱり見えないのだが、この声にはおぼえがあった。
「コブラナイ? どこにいるんだ?」
「ここでございます」
「いってえな……! こら、しっぽを引っぱるなよ!」
声をあげたニコの、しっぽの先が左右に揺《ゆ》れていた。
「伯爵、リディアお嬢《じょう》さまのムーンストーンの力は強まっております。ボウがわしに呼びかけるほどになったのははじめてですからな」
「ボウ?」
「あのムーンストーンを、昔からそう呼んでおりまして。ともかくボウのやつが、重要なことを教えてくれました。伯爵にお伝えせねばならないと、急いでまいったわけです」
コブラナイは、鉱山《こうざん》に棲《す》む妖精だという。鉱夫《こうふ》のような格好《かっこう》をしていて、三角帽にヒゲだらけの赤ら顔だとリディアには聞いている。
宝石には詳《くわ》しく、とくにこのコブラナイは、伯爵家に伝わるあの不思議なムーンストーンの世話係のようなものらしい。
「聞かせてくれ」
ロタもコブラナイのことは知っているのか、ニコのしっぽの方を注視していた。
「お嬢さまと会う方法がひとつあります。町の中で、ケルピーの魔法も及ばないのが教会、その尖塔《せんとう》の影が西日に長くのびて、町の境にあたる小川の向こうまで届いたとき、魔法の壁に穴ができるのです」
ニコがコブラナイからしっぽを取り返したらしく、毛並みを撫《な》でつけながらひざの上に置く。そうなるとエドガーには、コブラナイがどこにいるのかまるでわからなくなる。
ロタやレイヴンもそうだろうが、それでも相変わらず、みんなしてニコのしっぽを見つめていた。
「そこからリディアを連れ出せるのか?」
「出入りできるほどの穴ではありませんな。ガラス越しの再会のようなものと考えてくださいまし。そこを破るには、お嬢さまにかかっている魔法が完全に解けなければなりません」
それでも会えないよりはいい。ロンドンへ戻らねばならないことを、リディアに説明しておきたい。
「尖塔の影が、川の手前へ戻ってしまうまで、わずかな時間しかありませんが」
頷《うなず》きつつ、エドガーはロタの方に振り返った。
「リディアに伝えてくれるね」
ロタは立ち上がった。
それから、思い出したように立ち止まる。
「ひとつだけ確認しておきたいんだけどさ」
「くどいね。婚約は本当だ」
「結婚するしかないようなこと、リディアに無理|強《じ》いしてないだろうな?」
「言っておくけどロタ、僕は女性に無理強いしたことなんてない。もちろんリディアにも、この誠実な愛情を理解してもらっただけだ」
「は、やることなすこと強引なくせに」
「強引に口説《くど》くのと無理強いは違うよ」
「ずいぶんな屁理屈《へりくつ》だな。とにかくリディアの魔法が解けたとき、彼女が思い出したくもないことを思い出すなんてことにならなければいいんだ」
キスもろくにしていないのに、と思ったが、ロタに教えてやる気はなかった。
「リディアは、僕のそばにいたいと言ってくれた」
彼女が究極のお人好《ひとよ》しを発揮《はっき》したにしろ、そばにいてくれるなら、エドガーはそれでいいと思っていた。
*
夕日が西に傾《かたむ》きはじめたころ、リディアはケルピーがいないのを確認して、そっと裏口から家を出た。
ロタに話を聞いたとおり、まっすぐに教会へ向かう。
やがて建物が見えてくると、影に沿《そ》って歩く。尖塔の影は、教会裏の野原に横たわって長くのびている。
そのまま野原を横切っていくと、細い小川に突き当たる。丸太を並べただけの、短い橋が架《か》かっている。
尖塔の細長い十字架《じゅうじか》の影は、間もなく川の向こう岸へ届きそうにしていた。
その先に、彼女は黒っぽい人影を見つける。
エドガーだ。そう思うと駆《か》けだしている。
だんだんと、顔がはっきり見えてくる。帽子《トップハット》を取った彼は、まぶしい金色の髪が風に吹きさらされるのもかまわず、昨日と同じようにどこか切《せつ》なげに微笑《ほほえ》んでいた。
リディアは急ぎ足で橋を渡る。夕日が髪も頬《ほお》も赤く色づかせて、いつになく艶《つや》っぽく見えるなどとは知らないまま、息をはずませて走る。
以前なら、橋を渡りきったとたん手前の土手に戻っていることに気づいたはずだ。彼女は町の外へは一歩も出られなかったのだ。
けれども今は、きちんと向こう岸にたどり着いている。
十字架の影が、リディアの足元にあるからだ。
これ以上は動けない。立ち止まったまま顔をあげると、目の前で、エドガーがやさしく彼女を見つめていた。
「来てくれてうれしいよ、リディア」
「あの、あたし……」
何を言っていいかわからない。顔を見てもやはり思い出せるわけではなく、彼のことを好きだったのか、どんなふうにプロポーズを受けたのか、知りたいような気もしたけれど訊《たず》ねるのは怖かった。
「僕のこと、誤解されたままになるのはつらかったから、ロタには感謝してる。からかいに来ただけのふざけた男じゃないってことはわかってくれた?」
「ええ、ただ」
「すぐには信じられないよね。でも今は、説明してる時間がない。それにね、急いでロンドンへ帰らなければならなくなったんだ」
「そ、そうなの……」
「また、迎えに来るから。だから約束してくれないか。今度会ったときには、僕のことを思い出すって。妖精の魔法よりも、人の絆《きずな》は強いはずなんだろう? だったらそう約束してくれれば、僕たちはこの試練にうち勝てる。再会さえかなうなら、魔法は解ける。そう思うんだ」
再会がかなうなら。そんなふうに言うのは、再会そのものすら、エドガーにとっては危《あや》ういことなのだろうか。なんとなくそんなふうに聞こえ、リディアは不安になった。
「ロンドンで、何かあったの?」
もともと彼は、プリンスという人物が支配する組織から逃亡してきた身だった。敵はまだ、エドガーの追跡《ついせき》をあきらめていなかったのかもしれないではないか。
「プリンスのこと? エドガー、何か危険なことをしようとしてるの?」
「心配してくれるの? でも大丈夫だよ」
そんなのうそだ。容赦《ようしゃ》のないプリンスの組織が相手なら、エドガーは無茶だろうとやるしかない。
リディアは、問いつめるように彼を見つめる。
「いや、ごめん、きみをごまかすわけにはいかないね。僕のフェアリードクターなんだから」
エドガーは、降参《こうさん》した様子で話し始めた。
「ロンドンのイーストエンドで、伝染病が発生しているみたいなんだ。プリンスが、何か魔術めいた力を使っているのかもしれない」
「プリンスは、魔術師なの?」
「いや、やつの手先に、フェアリードクターの能力を持つユリシスって少年がいるんだ。|悪い妖精《アンシーリーコート》を従《したが》えたり、あやつったりする」
敵の手先にフェアリードクターがいる。驚きながらもリディアは、自分がエドガーのそばにいたという理由が、少しだけ見えたような気がしていた。
未熟なフェアリードクターでも、彼のそばでのリディアには重要な役目があったのだろう。
そうして少しずつ、誰より彼が身近な人になっていったのだろうか。
それとも、エドガーは相変わらず、打算的にリディアを利用しているだけなのだろうか。
「疫病《えきびょう》をもたらす妖精はいるわ。湿地帯《しっちたい》に住んでいて、人が侵入《しんにゅう》してきたり貢《みつ》ぎ物《もの》を怠《おこた》ったりすると、病気で人も家畜《かちく》も滅ぼしてしまう、恐ろしい妖精よ」
エドガーに宝剣さがしを依頼されたとき、彼が本物の伯爵《はくしゃく》ではなく、偽《いつわ》ってフェアリードクターを利用しているのだと知っても、この力が役に立てるならいいとリディアは思ったのだった。
だから今も、エドガーの本音は関係なかった。
妖精としかかかわれなかった自分が、人の世にいる意味は、この能力だと思っているから、役に立つならそれでいい。
そう思って、言葉を続ける。
「彼らに限らなくても、もともと妖精の中の邪悪《じゃあく》な種族は、悪意を持ってるというよりは、人にとって好ましくない、恐ろしい力を持ってるってことなんだけど、そういう|悪しき妖精《アンシーリーコート》が集まれば、大きな厄災《やくさい》になる危険はあるわ」
「とすると、プリンスはアンシーリーコートをイーストエンドに集めているのかもしれないのか。ロンドン近郊は、もともと大部分がテムズ河岸の湿地帯だ。疫病をもたらす妖精がいても不思議じゃないわけだね」
「ええ、でもロンドンはずっと、町として存続してきたわ。自然の災害はいくつもあったでしょうけれど、壊滅的な事態は起こらなかった。もともと、魔物を遠ざけるような、強い力で護《まも》られているんだと思うの」
「なるほど。そういえば以前、ヘイスティングズの近くにもロンドンを護る砦《とりで》があったよ。プリンスはユリシスにそこを壊《こわ》すよう指示していた。結局、完全には壊れなかったけど、力は弱まっているのかもしれないな」
そのときもリディアは、エドガーのそばにいたのだろうかと考えながら、少し怖くなった。
エドガーは、伯爵の地位を得てからも、何度もプリンスの組織と戦ってきているのだろう。今回が初めてではないのだ。
「ロンドンの護りがプリンスに壊されるようなことになったら、危険かもしれないわ」
神妙《しんみょう》に、エドガーは頷いた。
「護りって何だろう」
リディアは、それに関することを知っていたかもしれないと思う。思い出したわけではないけれど、直感的にそう思うのだ。
けれど結局、それ以上は思い出せず、護りが何なのかもわからなかった。
「とにかく、ありがとうリディア。重要なヒントになりそうだ。きっとプリンスの計画をたたきつぶしてやるよ」
エドガーは、リディアを安心させようとしてか、自信たっぷりに微笑《ほほえ》んだが、大事なことを何一つ思い出せないのが彼女にはくやしかった。
こんなリディアにも、彼はありがとうと言ってくれる。けれど彼女は、婚約だって信じられないままだ。
話したいことはたくさんあるのに、すべてを語り合うには時間が足りない。
尖塔《せんとう》の影を確認し、あせる気持ちに彼を見あげても、うまく言葉がでてこない。
そんなリディアを、名残惜しそうに見つめるエドガーも、何を話すべきか迷っているようだ伯った。
「必ずまた、会いに来るから」
ようやく、そんなふうにつぶやく。
「あたし、本当にあなたと婚約したの?」
「僕のことは、悪い印象しかない?」
「そういうわけじゃ……」
考えている間に、リディアは彼の腕の中にいた。ふわりとやわらかく抱きとめられたのだ。
「ガラス越しのようなもの、ってコブラナイは言ってたけど、触れることはできるんだね」
「そうね」
うろたえ、鼓動《こどう》がはげしく鳴っているのに、なんだか頭はぼんやりとして、リディアはとぼけた返事しかできない。
「リディア、以前のきみなら、こんなふうにしたとたん平手打ちにしようとした。でも今は、僕を受け入れてくれている。そう思わないか?」
そうなのだろうか。
わからない。まるで力が入らなくてじっとしているしかないけれど、不思議と、こうしていたいような気もしていた。
ふと、彼は腕をゆるめる。こちらを覗《のぞ》き込むように首を傾けたかと思うと、リディアの唇《くちびる》にあたたかく触れるのは彼の唇だ。
そっと撫《な》でていくような口づけを受け止めながら、ごく自然な出来事のように思う。
「記憶《きおく》はなくても、ぬくもりはおぼえてるってことはない?」
こんなことははじめてなのに、本当の自分はそうではないのだろうか。
「……こんなふうに、してたの?」
「うん、何度もね」
にっこり笑ってそう言うけれど、リディアはおぼえていないだけに、ますます恥《は》ずかしくなった。
何度もって、何度もあたしはどんなふうに、こんな時間を過ごしていたのかしら。こんなに緊張してたら、いやがってるみたいかしら。
平手をくり出されない限り、いやがられたとは思わないエドガーにしてみれば、リディアがじっとしているというだけで僥倖《ぎょうこう》だ。そんなことなど知らないから、彼にさらに求められ、リディアは驚く。
触れるだけのキスとは違う、深く口づけようとする強引な動作に、リディアはあわてて両手を突っ張り、彼から逃《のが》れた。
「あの、こんなことも……?」
「うん、してたよ」
「で、でもあの、……ごめんなさい、やっぱりまだ、思い出せないから」
「そうだね。だったら今から、ひとつだけおぼえておいてほしい。きみと出会えたから、僕は過去を乗り越えて生きていけると思えたんだ」
どんな顔をしていいかわからずに、うつむいていたリディアは、地面に落ちた尖塔の影が川岸を離れつつあるのに気がついた。
エドガーが彼女の髪をそっと撫でる。
何も言わず、ただ残りの時間を惜しむように、じっと彼女を見つめる。
もういちど、抱きしめてほしいような気がした。自分から手をのばせばいいと気づいた。
けれど、迷っているうちに彼の姿が消えた。
リディアはひとり、橋の手前に立っていた。
「エドガー……」
もう聞こえないとわかっていても、リディアはつぶやく。
「今度会えたら、きっと思い出させて。あなたのこと……」
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箱船と謎《なぞ》の妖精
「おかえり、リディア」
自宅へ帰ってきたリディアは、ロタの笑顔に迎えられた。
「ちょうどお茶が入ったとこだよ」
家族以外の人間には、好かれることも自分を理解してもらうことも難しいと思っていた。なのに友達がいたり、婚約者≠ェいたりする。どうして、いつから何が変わったのか、リディアには思い出せない。
妖精たちの、こちらの気持ちにはまったく無関心で傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な騒がしさも、淋《さび》しさを紛《まぎ》らせてくれるけれど、そばに人がいてくれるのとはまた違う。
エドガーに会って、まっすぐ家へ帰ってきた。まだ切《せつ》ないような物足りない気持ちも、頬《ほお》のほてりもおさまらないままだったけれど、リディアはロタがここにいてくれることがうれしくて、素直な気持ちで抱きついていた。
「ただいま、ロタ」
彼女は当然のように、抱擁《ほうよう》を返してくれる。
「そういやリディア、あんたの友達が訪ねてきたよ」
それからロタは、手を引きながらリディアをティールームへ連れていく。
「え? 友達?」
「名前を聞き忘れた。この町の女の子みたいだったけど」
思い浮かんだのは、エドガーといっしょにいた三姉妹だ。
単に貴族と近づきたいだけだとしても、リディアにしてみれば、町の女の子が訪ねてきてくれるなんてはじめての出来事だ。
エドガーはいとも簡単にリディアの周囲を変えることができるらしいと思えば、不思議だった。
エドガー、なのだろうか。
リディアを変えたのは。
たぶんロタも、エドガーがいたから知り合えたのだろう。
それに、これまでのリディアには、男の人と親しくなるなんて考えられないことだった。
もしも恋人ができたら、なんて考えてみても、せいぜい見つめ合うくらいのことしか想像できなかったのに、抱きしめられても唇《くちびる》を重ねても、驚きはしなかったのだ。
フェアリードクターの能力を、はじめて必要としてくれたエドガー。彼に出会ったから、リディアは変われたのだろうか。
「あがって待っててもらおうと思ったのに、木の葉のかたまりが動くのを見て逃げ帰っちゃったよ」
「まあ、妖精がいたずらでおどかしたの?」
おかしくなって、くす、とリディアは笑う。
少しばかり変わっても、やっぱり自分はこの町では、気味が悪いとか、変わり者だとか思われ続けるのだろう。
でもそれでいい。
妖精とのかかわりは、何よりリディアにとって大事なものだ。
たぶん、妖精ごとリディアをわかってくれる人だけが、これからもそばにいることになるのだろう。
「いたずら、かどうかは……。あれどう思う?」
ティールームに入ったところで、ロタはテーブルの方を見て肩をすくめた。
椅子《いす》の上に、木の葉のかたまりがいた。ティーカップを持ちあげ、鼻のあたりをひくひくとさせるのは、紅茶の香りを堪能《たんのう》している様子だ。
テーブルの上には、もうひとまわり小さな木の葉のかたまりもいて、ビスケットにかじりついている。
「ニコ、それにコブラナイでしょ? 何やってるの?」
椅子の上の木の葉は、ぎょっとしたように振り返った。
「な、なんでわかったんだ? 変装してるのに」
「だって、ねえ」
椅子に腰をおろしながら、リディアはロタと顔を見合わせ、頷《うなず》く。全身木の葉でうずもれていても、ふさふさした灰色のしっぽがまる見えだ。
コブラナイだって、食べるのに夢中で、もじゃもじゃヒゲも大きな鼻も隠れていない。
「変装って、どうしてなの?」
「ケルピーのやつに見つかったら、喰《く》われるからだよ。このあいだも追い出されたんだ」
ケルピーのまどわしの魔法は人間に向けられたもので、ニコのような妖精にはきかない。
だからこそ目を光らせていて、見つければ追い出すという方法をとったのだろう。
しかしニコが戻ってきたなら、リディアはケルピーの魔法に対し無力ではない。気がついて、彼女は身を乗り出した。
「そうだわ、ニコ、あなた、妖精の道を開けるでしょ。そこを通れば、あたしはケルピーの魔法の壁から出られるはずよね」
「へえ、そうなのか? じゃ、魔法を解くことができるのか?」
ロタも身を乗り出す。
「魔法は解けねえよ。記憶《きおく》がないってのは、町を出るだけじゃ元には戻らないだろうな。なのに、出てどうするんだ?」
「ロンドンへ行きたいの」
じっと待っているしかないなんていやだった。
敵方にはフェアリードクターがいるという。だったらエドガーだけでは、立ち向かうのは難しいのではないか。
「ロンドンでは|悪い妖精《アンシーリーコート》たちが集まって、街に厄災《やくさい》をもたらそうとしてるらしいって聞いたわ。そういう邪悪《じゃあく》なものからロンドンを護っているものを見つければ、エドガーを助けられると思うの」
が、葉っぱに埋《う》まった奇妙な格好《かっこう》のまま、ニコは首を横に振った。
「リディア、悪いことは言わねえ。ここでじっとしてろよ。伯爵《はくしゃく》がぜんぶ終わらせるまで待ってりゃいいだろ」
「しかしニコどの、青騎士伯爵のお妃《きさき》たるもの、夫を助け、危機にもともに立ち向かうのが本来の姿です」
口を出したのはコブラナイだ。
「あんたはなあ、リディアがどのくらい無謀《むぼう》なお人好《ひとよ》しか知らないだろう」
「リディアお嬢《じょう》さまのことは、ムーンストーンのボウがお守りすると言ってますよ」
「は? その石ころに何ができるんだよ。魔よけにはなるったって、リディアの記憶を戻せるでもなし、あんたとしか話もできないってのに」
「こいつにはこいつの、やり方があるのです」
コブラナイは、我《わ》が子のようにかわいがって面倒を見てきたらしいムーンストーンのために胸を張った。
「おい、何だ? そいつら」
窓辺で声がした。とたん、ニコとコブラナイは硬直《こうちょく》した。
「ケルピー……、あの、ええとこれは……」
「お、おれは……木の葉の精だよ!」
ニコがへたくそに声色《こわいろ》を変えたが、ケルピーはしっぽをむんずとつかんで持ちあげた。
「はあ? 俺さまをバカにしてるのか?」
「ぎゃーっ! や、やめろって!」
コブラナイは、急いでテーブルから飛び降り、床の節穴へ逃げ込もうと頭を突っ込む。が、おしりがつっかえているあいだに、ケルピーにつまみ出される。
ふたりとも、乱暴なケルピーに振り回されると、あっという間に木の葉が落ちて、猫と鉱夫《こうふ》の姿もあらわになった。
「やっぱりおまえらか。こんど見つけたら、喰ってやるって言っただろうが!」
「やめなさい、ケルピー!」
ケルピーの前に進み出たリディアは、腰に手を当てて彼を見あげた。
「あなたがあたしに、魔法をかけたことはわかってるのよ」
ケルピーは眉間《みけん》に深くしわを寄せ、それからふてくされたようにニコとコブラナイを放り出した。
「いけないっていうのか? おまえを守るためだったんだ。伯爵とも契約《けいやく》した」
開き直ってそう言う。
「契約? エドガーと?」
「リディアのことは、何があろうと敵から守る。やつが迎えに来るまでは、誰の手にも触れさせないってことだ」
「エドガーはここへ来たじゃない」
「あれは、魔法の隙間《すきま》からこっちを覗《のぞ》き込んだだけってなもんだ。伯爵のやつがおまえにかかった魔法を解けないなら、迎えに来たことにはならないんだよ」
エドガーに、ケルピーの魔法を解く算段があるはずもない。どうしてそんな無茶な契約をしたのかも、リディアは思い出せない。それでもそうするしかなかったなら、彼はどうしてもリディアを守ろうとしてくれたのだろう。
「だけど、町に壁をつくるのはともかく、あたしに彼のこと忘れさせるなんて、ずいぶん卑怯《ひきょう》な魔法じゃない。もとに戻してちょうだい」
「その必要はないな」
腕を組んで、ケルピーはリディアを横柄《おうへい》に見おろした。
「忘れてた方がおまえのためだ」
「どうしてよ!」
「あいつはどうせいなくなる」
それはエドガーが死ぬということなのだろうか。ケルピーは、エドガーの敵のことを知っているのだろうか。
「そ、そんなわけないわ」
「プリンスやユリシスは、何より伯爵に執着《しゅうちゃく》してる。やつをのうのうと生かしちゃおかない」
「再会の約束をしたのよ!」
「それも俺が忘れさせてやるよ。あいつのことを考えると、おまえはつらそうな顔をするだろ。以前のおまえは、そんな顔はしなかった」
ケルピーも、リディアを思ってのことなのだ。以前にはケルピーも、そんな複雑な表情はしなかったと思えば、リディアの胸はちくりと痛んだ。
「……忘れたくないの」
けれど、変わったのだ。リディアもケルピーも。たぶん、いろんなことがあったはずだ。
それは思い出せなくても、リディアの中にはたしかに積み重ねられたものがある。だからきっぱりとそう言える。
「エドガーのこと、思い出したいの」
「魔法を解く呪文《じゅもん》さえ思い出せないんだろ。本気でそう望んでるわけじゃないのさ」
「呪文?……でも、それだってあなたが忘れさせたんでしょう?」
「とにかく俺は、何も思い出させたくない」
そう言ってケルピーは、くるりと背を向ける。そのまま窓から外へと姿を消した。
庭木のそばのベンチに、リディアは座って月を見ていた。
薬指のムーンストーンは、月光を浴びるほど不思議に輝《かがや》く。
魔よけの力で、リディアを守ってくれているという。少なくともこの指輪は、リディアとエドガーが確かに婚約をしたと信じているのだろう。
だから、リディアに誘《さそ》いかける。ここにいていいのかと。この指輪の持ち主は、青騎士伯爵と共に歩むパートナーであるはずだと。
けれどリディアは、ここから自力で出ることはできない。
ため息をつくと同時に、すぐ隣からもため息が聞こえた。
いつのまにか、ニコが隣に座っていた。
「ねえ、何のため息?」
「リディアは昔っから、どこへでもひとり突っ込んでいくだろ。おれは気苦労が絶えないよ」
子供のころは、仲良くなった妖精に誘われて、向こう側の世界の奥深くまで入り込んでしまうことがしばしばだった。妖精に誘われてもむやみについていってはいけないと、母にはよく注意されたものの、ニコがさがしに来てくれると知っていたからだった。
ニコといっしょなら、妖精の世界も庭みたいなもの。どんなに遠くまで行っても、すぐにこちら側へ帰ってこられると知っていた。
「気苦労って、あなたいつも、母や父にたのまれてしかたなくって、面倒くさそうに迎えに来ただけじゃない」
「この町なら、気心の知れた妖精ばかりさ。あんたがひとりで帰れなくても、悪さをするやつはいないし、送り帰してくれたりもする。いちいち迎えに行くのも面倒くせえよ。でもちょっと遠くへ行けば、どんな土地なのか、どんな妖精がいるのかわからないんだ。何度冷や汗かかされたことか」
ときおりニコが、勝手に妖精界へ入るなと怒ったのは、リディアが遠くで迷っていたときだったのだろうか。
気まぐれで臆病《おくびょう》で、肝心《かんじん》のときにいなくなる相棒《あいぼう》だけれど、リディアにとって本当の危機には、ちゃんと駆《か》けつけてくれる。
あてにすると大変な目にあうけれど、あてにしていないとけっこうがんばってくれる。そういう相棒だと知っている。
「ねえニコ、ここから出たいの。お願い、道案内をして」
「伯爵《はくしゃく》と、婚約したって信じるのか?」
「……わからない」
「だったら、あいつのために危険を冒《おか》す必要があるのか? プリンスは、ロンドンでとんでもないことを始めようとしてるみたいだ。そんなところへ乗り込んでいく意味なんてないだろ」
「……そうね、おかしいわよね、あたし」
「おかしいよ」
ふてくされたように言うニコの手を、リディアはそっと取る。ふわふわした毛に包まれた、小さくてあたたかい手を握《にぎ》り込む。
「でもね、ニコ、あたしにも誰かを救える、そう思わせてくれたのがエドガーなの。どうしようもない人だけど、幸せにならなきゃいけない人だと思ったから、宝剣さがしのときも助けたのよ」
「伯爵のせいで、あんたが不幸になったらどうするんだ」
「あたしは、あたしが決めたようにするだけ。何があっても、誰かのせいじゃないわ」
「頑固《がんこ》なところなんか、母親に似なくてもいいのにさ」
母の親友でもあったニコだ。父と駆け落ちをして、故郷《こきょう》を捨てた彼女についてきた、たったひとりの妖精だ。
「人間ってのは、短い命しかないくせに無茶をする。そんでおれをおいていくんだ」
思い出しているのは、リディアの母や、それよりもっと昔に、ニコが親しくしていた人間のことだろうか。うつむきがちに耳を伏《ふ》せた彼は、とても淋《さび》しげだった。
「あたしはまだそばにいるわ。母さまよりは、ううん、父さまよりも長生きするつもりよ」
それでもニコにとっては、短い時間かもしれないけれど。
ニコはリディアの方に首を動かす。そうしてじっと、彼女を見つめる。
「……同じ顔するんだな」
「母さまと? あんなに美人だったらよかったんだけど」
「あいつはべつに、美人なんかじゃなかったよ。少なくとも、先生に出会うまではな」
そう言って、ニコは立ち上がる。
「行こう、リディア。ロンドンへ」
[#挿絵(img/my fair lady_101.jpg)入る]
*
ロンドンはめずらしく晴天で、春らしい日差しに包まれていた。
陽光を求め、人々も外へと出てくる。外套《がいとう》を取った軽装で、貴婦人たちは華やかな春色のドレスをゆらして歩く。
リージェントパークにつくられたオープンカフェでは、イーストエンドの出来事など別世界に思えるからか、人々は、いやな噂《うわさ》などすっかり忘れたかのように笑っていた。
そんな中、ひとり悲壮《ひそう》な顔つきの太った中年男を前に、エドガーはため息をついた。
「ポールのやつ、女の子に誘われて遊びほうけてるだけじゃないだろうね」
「伯爵、あなたじゃあるまいし」
むすっと返すスレイドは、エドガーがリーダーとなっている秘密結社、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ幹部だ。頭の固い男で、ちょっとばかりこの場の空気を和《なご》ませようと言ってみた冗談も通じない。
「なら、きみたちの調査は進んでいるんだろうね」
「イーストエンドの死人の数は、増えるばかりです。それでもまだ、シティより西の地区に病人は出ていません」
「結局それは、ポールと関係がありそうなのか?」
「ひとつ、気になるのはこれなんです」
スレイドが広げたのは、便箋大《びんせんだい》の紙切れだった。粗《あら》い印刷の、チラシか何かのようだ。
「ポールのような失踪《しっそう》事件が続いています。そのうち何人かの家から、このチラシが見つかっているそうなんです」
箱船に救いを求めよ、天国の門は開かれん
そんな見出しのそばに、ノアの箱船の絵が描かれていた。
「宗教くさい文句だけど、教会とは関係がなさそうだね」
「ムッシュ・アルバというフランス人が出した広告ですが、新手《あらて》の占い師みたいなものですかね。もうすぐロンドンに大きな厄災《やくさい》が降りかかるとか言って、箱船《ジ・アーク》≠ニかいう自分の船の切符を売りさばいているんです。箱船≠ノ乗れば、疫病《えきびょう》からも逃《のが》れられるそうです」
「売れるのか?」
「船はテムズ河に浮かんでいますからね。実物がある上に、イーストエンドの病気がシティへ入り込んでこないのはこの人物が阻止《そし》しているからだとも聞かされ、信じる者もいるようですよ。じっさい、病気はロンドンの東にとどまっていますから」
疫病は|悪しき妖精《アンシーリーコート》がもたらすこともあると、リディアが言っていた。ユリシスが妖精を操っているなら、病気の広がり方も制限できそうだ。
とすると、ユリシスはムッシュ・アルバという占い師に信憑性《しんぴょうせい》を持たせるために、病気の広がりをおさえているのだろうか。
しかし、病気と箱船=A両方にプリンスの息がかかっているとはまだ決めつけられない。
「どう思います、伯爵」
「ポールがこの箱船《ジ・アーク》≠ノ勧誘《かんゆう》されたかもしれないっていうなら、可能性はあるかもね」
「だとするとこのフランス人は、プリンスの息がかかっているんでしょうか」
「それとも単に、病気の噂に便乗してるだけなのか……。ともかく、顔を見てみたいな」
「もうすぐここに現れます」
スレイドは、自分の完璧《かんぺき》な段取りに満悦《まんえつ》したらしく胸を張った。
ぬるくなったコーヒーを口に運びつつ、エドガーは、スレイドが視線で示した女性に目をやった。
まだ若いが、既婚者《きこんしゃ》らしい落ち着いた風情《ふぜい》の婦人が、侍女《じじょ》らしい年輩の女性を伴《ともな》って、この屋外のカフェの、芝生《しばふ》に置かれたテーブル席についている。
人が来るのを待っているふうだ。
「右のご婦人が私の画廊《がろう》のお客でして、占い師やまじない師が好きみたいですよ。今日ここでムッシュ・アルバに会うと小耳に挟《はさ》んだもので」
「ふうん、とすると、あの男たちがアルバご一行かな」
男が三人、ちょうど婦人たちの席へ近づいていくところだった。
ようやく彼らの顔が見えたとき、エドガーは、真ん中の男にはっとさせられた。
顔の右半分を覆《おお》う、黒い仮面をつけている。
それが、エドガーの記憶にあるプリンスを思わせ、ぎょっとさせられたのだ。
しかしその男は、左の横顔から察するにまだ若い。せいぜい三十そこそこだろう。
それでも彼こそが、アルバと呼ばれる人物であり、両側の男はただの付き人だというのは彼らの態度ですぐにわかった。
「アルバは片目がつぶれているそうですよ。それであの仮面なのだとか。でも、謎《なぞ》めいているように見せる、占い師らしい演出かもしれませんが」
仮面以外は、目立つ印象でもない。頬《ほお》がこけ、貧弱そうに見える。
ただ、話し方にはいくぶん、人を惹《ひ》きつけるような力強さや威厳《いげん》が感じられた。
フランス人だというが、聞こえてくる英語はあきらかに上流階級が使う発音だ。ちょっとした手振りも、給仕を呼び止める動作ひとつも、なかなか洗練されていて、ふたりの婦人は彼に目を引きつけられている。
だが彼を見れば見るほど、エドガーはざわざわとした悪寒《おかん》に鳥肌が立った。
何もかも、プリンスに似ている。
言葉の抑揚《よくよう》も、座りかたも、テーブルに置かれた手の位置も。
プリンスの組織がエドガーにたたき込もうとした所作《しょさ》のひとつひとつに、あまりにも似ているのだ。
「あれ? あの男、見おぼえがありますよ」
スレイドがそう言うのを聞きながら、エドガーはどうにか、めまいがするほどのいやな気分を振り払い、気持ちをこちらに引き戻した。
「……どの男?」
「左の男です。以前に画家を目指していたはずで、私の画廊にも出入りしていました。たしか、グレッグとよばれていたような……」
「とすると、ポールとも知り合いか?」
「はあ、そういえばそうですね」
一本の糸が見える。まだ想像にすぎないが、ポールにつながっていると直感する。
視線の先でその男は、アルバに指示されて、目の前の婦人に封筒《ふうとう》のようなものを手渡した。
アルバは立ち上がり、にこやかに婦人と握手《あくしゅ》を交わし、その場を立ち去る。
カフェで何気なく新聞を広げていた|朱い月《スカーレットムーン》≠フメンバーが、すみやかに彼らの後をつけていくのを見送り、エドガーも立ち上がった。
エドガーは、アルバと話していた婦人たちの方へ近づいていく。
椅子《いす》から立ち上がりかけていた彼女の、すぐそばを通り抜けようとする。わざと肩がぶつかるようにしむけ、よろけた彼女がテーブルに手をつくと、エドガーはあわてたふりをしつつ立ち止まった。
「失礼しました、レディ」
「いえ……、わたしの方こそ、後ろも見ずに立ち上がろうとしてしまって……」
エドガーがもうしわけなさそうなまなざしを向けるだけで、相手の女性は頬を染める。
「手袋がよごれませんでしたか?」
彼女がテーブルに手をついたひょうしに、カップが倒れたのだ。クロスにコーヒーのしみが広がっている。
エドガーは、さっと彼女の手を取って確かめるそぶりをする。
「ああ、すみません。僕のせいです。ご迷惑《めいわく》でなければ、お名前をお聞かせください。新しいものを届けさせていただきますが」
手を握ったまま、またじっと彼女を見つめる。
戸惑《とまど》いながらも彼女はあわてたように首を横に振った。
「いえ、大したよごれじゃありませんわ。お気持ちだけでけっこうです」
そう言って、急いでエドガーから離れる。
「どうぞお気になさらないで。……失礼いたします」
小さく頭を下げると、足早に侍女と去っていった。
身持ちの堅い中流の夫人、といったところか。この手の女性が誘いに乗ってこないというのは、エドガーとしても予想していた。ただ、彼女の注意をそらしたかっただけだ。
スレイドのところに戻ったエドガーは、今の女性がさっき男たちから受け取った封筒を手にしていた。
「伯爵《はくしゃく》、スリの前科もお持ちで?」
「失礼な。教わったことがあるだけさ」
ふつう教わらないでしょう、とスレイドはつぶやくが、無視して封筒を開く。
「箱船《ジ・アーク》≠フ乗船券だ」
とはいえ、船上パーティが催《もよお》されるだけらしく、どこへ向かって出発するというわけではないらしい。
書いてあるのはそれだけだ。しかしエドガーは、別のところに目をとめた。チケットの裏に、船名とともに紋章《もんしょう》が刷られている。
「これは、スチュアート家の紋章だ」
「スチュアート家? とすると、プリンスが出自《しゅつじ》を主張する王家の……」
エドガーの宿敵は、名誉革命で英国を追われた国王、ジェイムズ二世の末裔《まつえい》を自称している。百年ほど前に、ジェイムズ二世の孫チャールズ・エドワードが皇太子《プリンス》と名乗り、英国の王権を取り返そうと戦いを仕掛け、敗北した。
その戦いでもその後の処理でも、ジェイムズ王派を支持した者は、英国では徹底的な弾圧を受けた。
彼らの恨《うら》みや抑圧が、黒魔術めいた力と結びつき、ジェイムズ王の血を引く、新たなプリンス≠ニいう存在を生み出したと聞く。そうして彼らは、裏社会に紛《まぎ》れた組織として現在まで血筋《ちすじ》を存続させながら、英国とその王家に復讐《ふくしゅう》の機会をねらっているらしいのだ。
ともかく彼らの組織にとって、プリンス≠ヘ、スチュアート家のジェイムズ王につながる王族でなければならないらしい。
だから彼らは、彼らなりの理屈で、英国中にジェイムズ王の血を引く貴族は少なくないとはいえ、もっとも適切な血筋としてエドガーを手に入れようとした。
そもそもエドガーは、プリンスの後継者《こうけいしゃ》として教育されるために、両親を殺され、自身も死んだことにされ、アメリカへ連れ去られたのだった。
「巧《たく》みに変えてあるけれど、象徴的な模様はスチュアート家特有のものだよ。それに、アルバって名前は、スコットランドの古い呼び名に由来するんじゃないかと思う。スチュアート家は、もともとスコットランドの王族だ」
「とすると、ムッシュ・アルバはプリンスの息がかかっているというだけでなく、フランスに逃《のが》れたジェイムズ二世の子孫……、そしてプリンスの親戚《しんせき》だということでしょうか」
エドガーに逃げられて、プリンスは王家の血を引く新しい後継者を見つけたのだろうか。
そうに違いない。
間違いなく、さっきのあの男も、特殊《とくしゅ》な矯正《きょうせい》を受けたのだ。虐待《ぎゃくたい》の末、徹底的に自我を壊《こわ》され、プリンスの意のままに動く人形に作り替えられた。
考えながらエドガーは、封筒をスレイドの方に押しやって立ち上がった。
「これはさっきのご婦人にうまく返しておいてくれ。それから、僕とレイヴンの乗船券を手に入れてもらうよ」
「箱船《ジ・アーク》≠ノ乗り込むんですか? ポールをさがすなら部下を行かせます」
「むろん、きみたちにも来てもらう。でも僕も行くよ。プリンスと戦うことは、もう僕の個人的な復讐じゃない。青騎士伯爵としての役目だから、誰にもゆだねることはできないんだ」
最初は、すべてを奪ったプリンスへの復讐のつもりで戦いを始めた。けれども妖精国《イブラゼル》伯爵の地位を得て、妖精たちにも青騎士伯爵の後継者と認められたエドガーは、もともと伯爵家が担《にな》っていた、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力から英国を守るという役目も引き継いだつもりだ。
伯爵家の最後の当主、グラディス・アシェンバートは、百年前にプリンスを英国から追放して力つきた。プリンスにつながる血筋を断てとの伝言を残したが、伯爵家に後継者はなく、プリンスの組織と野望は止める者もいないまま続いてきた。
しかし今は、エドガーが、妖精国の領主で青騎士伯爵だ。
たぶんエドガーに課せられた役目は、プリンスを葬《ほうむ》るだけでなく、その呪《のろ》われた野望を誰にも引き継がせてはならないのだろう。
妖精のことはわからなくても、魔法に通じる能力がなくても、プリンスの組織を葬るのは、青騎士伯爵と認められた者の責務なのだと理解している。
復讐心を捨て、|貴族の義務《ノブレス・オブリージュ》を果たそうと決めたときから、エドガーは、人としてまっとうに生きることへの希望が持てた。だからリディアを求めることも、幸福な未来を望むことも、許されると信じることにした。
守るべきものを守るために、負けるわけにはいかないのだ。
*
リディアはニコと、湖の畔《ほとり》を歩いていた。
月光が反射して、湖面は明るく輝《かがや》いている。細い道は蛇行《だこう》していて、ときおり月も湖も木々にさえぎられると、森にぽっかりと開いた洞穴《ほらあな》を進んでいるような気さえする。
ケルピーの魔法の壁を抜けるには、妖精界もずいぶん奥まで来なければならないらしく、リディアにははじめて見る風景が続いていた。
それでもニコがいるなら道に迷う心配はない。リディアは安心してついていく。
ロンドンまで行くとは、自分でも思えないほどの軽装で出てきた。妖精界を通るのだから、人間界のものは身につけられる以上を持ち込まない方がいい。荷物なんて、ちょっと目を離した隙《すき》に消えてしまうのが落ちだ。
だからリディアは、外套《がいとう》の内側に縫《ぬ》いつけた袋に、妖精界を抜け出したあと必要になるだろう旅費と、お菓子を少々つっこんできただけだ。
妖精界で、へたに妖精の目を引いてしまわないよう、そして動きやすいよう、着慣れた普段着にはクリノリンもつけず、引きずりそうなスカートをメイドのようにたくしあげ、腰にピンで留めている。
とてもじゃないけれど、婚約者に会いに行く格好《かっこう》じゃない。
なんて考えてしまった自分にあきれ、リディアはあわててその考えを頭から追い出した。
「どうした? 疲れたか?」
「え? ううん、そんなことないわ。ねえニコ、どのくらいでケルピーの影響下から抜け出せるの?」
「わかんねえな、時と場合によって抜け出せる距離が違うし、妖精界の道は刻々と変わってるし」
そんな場所で、妖精たちは何を道しるべにしているのだろう。
「それよりも、ケルピーのやつが気づいて追っかけてこないか心配だよ」
「しばらくはロタがごまかしてくれると思うけど……」
家を出てからどれくらい時間がたったのか、リディアにはわからない。長いようにも短いようにも感じられる。
ロタがごまかしてくれても、ケルピーはいずれ気づくだろう。リディアを連れ戻そうとするに決まっているが、妖精界でケルピーに追われれば、逃げ隠れは難しい。
なるべく早く人間界に戻らねばと思うものの、ニコの様子からするに、まだまだ先は長そうだった。
急に、ニコが立ち止まった。すぐ後ろを歩いていたリディアは、彼のしっぽを踏みそうになり、あわてて足を止めた。
「どうしたの?」
ケルピーなのかと身構える。ニコが見つめている、暗い森の奥にリディアも目を凝《こ》らす。
「ケルピーよりまずいかも」
ニコが二本足で立ったまま背中の毛を逆立《さかだ》てたとき、リディアもようやく、異様な気配《けはい》に気がついた。
赤い目をぎらぎらとさせた、黒い犬の群《むれ》に取り囲まれていた。
「黒妖犬《こくようけん》……?」
「ユリシスの手先だ」
ユリシスという名は、聞いたことがあった。たしか、エドガーが言っていた。プリンスの側近《そっきん》で妖精を操っている人物だ。
「ど、どうしてこんなところに?」
「あんたをねらってきたんだよ」
どうして自分がねらわれるのか、記憶《きおく》のないリディアにはまだぴんとこないが、木々のあいだからにじみ出す闇《やみ》のように、妖犬たちはじりじりと輪を縮めていた。
そんな犬の群の中から、青白い顔をした十歳くらいの少年が進み出た。人の姿をしているが、少年も黒妖犬に違いない。
リディアがにらみつけていると、にやりと笑って彼は口を開いた。
「青騎士|伯爵《はくしゃく》のフェアリードクター、こいつらの餌食《えじき》になりたくなければ、いっしょに来てもらいますよ」
ああそう、あたしってば本当に、伯爵家のフェアリードクターなのね。
そんなことを思いながらも、リディアはポケットの中に魔よけのサンザシの実をさぐっていた。
「ニコ、逃げるわよ」
相棒《あいぼう》にささやき、サンザシの実をぐっと握る。
「どきなさい、妖犬たち。そっちこそ痛い目にあうわよ!」
言うと同時に投げつける。ぼんやりと輝いて見えるサンザシの実は、闇の化身《けしん》のような妖犬たちの頭上で、強い閃光《せんこう》を放《はな》った。
彼らがひるんだ隙に、リディアとニコは駆《か》けだす。
しかし、妖犬の数はやたらと多い。次から次へとわいてくるようにして、ふたりのあとを追ってくる。
サンザシの実を何度か投げつけたものの、やがて使い果たしてしまったリディアは、ただもう逃げるしかなくなる。
彼らはまっすぐにしか走れないとはいえ、これだけ数が多いと、道をそれてやり過ごしたところで、すべての妖犬をかわすことはできそうにない。
「リディア、行き止まりだ!」
はっとして立ち止まると、目の前は崖《がけ》だった。
湖に突き出した断崖《だんがい》の上で、リディアはおそるおそる後ろを振り返った。
黒妖犬の群が、うなり声をあげながらじりじりと近づいてくる。
「……どうしよう、ニコ」
が、こういうときにはたよりにならない妖精猫だ。リディアのスカートの陰に隠れている。
少しでも後ろに下がろうとすれば、崖下へ石ころが落ちていく音を感じ、足がすくんだ。
そのとき。
突然、空が明るく輝いた。
銀色の光が、鋭《するど》くこちらにせまってくる。
まぶしさに、リディアは目を閉じる。
光が妖犬たちの目を焼いたのか、彼らの甲高《かんだか》い悲鳴《ひめい》とともに、あわてて去っていく足音が聞こえる。
ようやく静かになったとき、リディアがおそるおそる目を開けると、鋭い光もおさまった月夜の風景の中、崖縁《がけべり》に突っ立っているのはリディアとニコのふたりだけだった。
「おい、リディア、あれ」
ニコが指さす上方に首を動かす。
上空に浮かんでいるのは、さっきの閃光の正体かと疑うほどの、銀色のかすかな明かりだ。
雪片《せっぺん》ほどの小さな光で放射状に輝きながら、ゆるりとリディアの方へと降りてくる。
急にそれがかき消えたかと思うと、目の前には背の高い青年が立っていた。
薄手のローブのようなものを身につけ、長い髪も肌も全身が銀色の、神秘的な存在だった。
「お怪我《けが》はございませんか、お妃《きさき》さま」
かしこまったようにひざまずき、彼は言った。
「き、妃って?」
「青騎士伯爵の、お妃さまでいらっしゃいますね?」
確かめるように、彼はちらりとムーンストーンの指輪に目をやった。
この指輪をしていると、妖精にとってはそういう意味になってしまうのだろうか。
「あの、あたしまだ独身なの」
「ではご婚約者で? どちらでもかまいません、ぜひとも我《わ》が主人に、力を貸していただきたいのです」
「あたしに何の用なの?」
「それは、あなたにその資格がおありなら、いずれおわかりになるでしょう」
「資格って、どういうこと?」
「資格がおありなら、我が主人の矢を見いだせるはず。まずはそのために、私とともにおいでください」
なんだか、唐突《とうとつ》すぎてわけがわからない。
「矢を見いだしたら、あなたの主人に会えるってわけ?」
「見いだしたら、生きて帰ることができるでしょう」
は? 何それ。
「あなた、あたしを殺すつもり?」
「いいえ、あなたに資格がおありなら、私はあなたに従《したが》い、力を尽《つ》くしてお守りする。そういう意味です」
資格資格って、ずいぶん勝手ではないか。
自分のことは何も告げず、いきなり現れて、リディアを試そうとするのだ。
それも、いったいどういう種類の妖精なのか、さっぱりわからない。
「まさか、おいリディア、こいつの主人はユリシスじゃ……」
リディアの肩によじ登り、ニコが不安げにささやいた。
「でもニコ、いちおう彼は、ユリシスの手先の黒妖犬を追い払ってくれたのよ」
「あんたを油断させる作戦だったら? だいたい、ほかに誰が妖精を使っておれたちを誘《さそ》うんだよ」
「あなたに心当たりはないの?」
「そんなのないって」
あれだけの黒妖犬を一気に追い払ったのだ。そのへんにいるような妖精ではない。たしかに、そんな妖精の主人がリディアの力を借りたいなどというのは不審《ふしん》な話だ。
リディアは警戒《けいかい》しつつ、銀の髪の青年を見た。
「あたしを、どこに連れていくつもりなの? それも言えない?」
少し悩《なや》んだようだったが、やがて彼ははっきり言った。
「ロンドンブリッジです」
「えっ? どうしてそんなところへ?」
「主人がそこにおられるのです」
が、ロンドンブリッジと聞いたニコが、ヒゲをふるわせた。
「おいリディア、ロンドンブリッジといや、ついこのあいだプリンスが何人も人を殺してたところだぞ。あんたも殺されそうになったじゃないか」
「えっ、そ、そうなのニコ?」
やっぱりこの妖精はユリシスの?
もしかして、こんどこそ絶体絶命なのだろうか。リディアはあせる。
相変わらず彼女の背後《はいご》は崖縁で、銀色の妖精は、リディアたちを逃がすまいとするように正面に立ちふさがっている。
「あなたに危害を加えるつもりはありません。どうか私とともに来てください」
丁重《ていちょう》な態度ではあるが、断っても連れていくつもりではないだろうか。どうにも退《ひ》く様子はない。
どうしよう。と思ったとき。
「誰だ、てめえ」
声とともに木々のあいだから姿を見せたのは、漆黒《しっこく》のケルピーだった。
「リディアは俺が守ってるんだ。勝手に連れていってもらっちゃ困るな」
銀の妖精は、ゆっくりとケルピーの方に向き直ったが、冷静な表情を崩《くず》さなかった。
「水棲馬《ケルピー》か」
唾棄《だき》するように、そうつぶやいただけだ。
「リディア、ロンドンブリッジなんて冗談じゃないぞ。今いちばん危険な場所だ。あそこにいるのは、獰猛《どうもう》に成長しきった夢魔《むま》だけだ」
ケルピーにしても、得体の知れない妖精が持つ、強い魔力を感じているのだろうか。慎重《しんちょう》に距離を取りながら、リディアの方へと回り込む。
「夢魔……? そうなの? ケルピー」
「ああそうだ。ユリシスは成長した夢魔をあの橋につないで、橋が持つ神聖な力を弱めようとしてる。橋の上で殺人を続けてたのも、あの場所を穢《けが》して夢魔をつなぎやすくするためだった。ロンドンブリッジは昔から、魔から都《みやこ》を護《まも》る砦《とりで》だったらしいが、夢魔に侵《おか》されて、腐食《ふしょく》した金属みたいにぼろぼろになりつつあるだろうな」
砦? ロンドンブリッジが?
昔からロンドンブリッジは、人間の敵をくい止める砦だったとは聞いたことがある。けれど人間だけでなく、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の侵入《しんにゅう》を防ぎ、ロンドンを護る結界《けっかい》としても重要な砦だったなんて知らなかった。
いや、知らなかったのだろうか?
「ケルピー、あなたそれ、あたしに言ったことない?」
「さあ、あるかもな」
そう、知っていたはずだ。ロンドンを護るものが何なのか、リディアは知っているような気がしていた。
けれど思い出せずに、エドガーに伝えられなかった。
イーストエンドの流行病《はやりやまい》は、今はロンドンブリッジでくい止められているのだ。下町はあの橋より下流にある。シティや王宮《バッキンガム》、ロンドンの中心街は橋の上流になる。
ロンドンブリッジが夢魔の腐食で力を失えば、|悪しき妖精《アンシーリーコート》の群《むれ》とともに、悪い病気が一気にロンドンへ入ってくるだろう。
エドガーに報《しら》せなきゃ。
あせりをおぼえるが、リディアの目の前では銀色の妖精とケルピーとがにらみ合い、自身は動けない状態だ。
「その腐食を止めるためにこそ、あなたの力が必要なのです」
銀色の妖精は、思い切ったようにそう告げた。
「……あたしが?」
「バカ言うな。リディアに止められるわけがないだろう。夢魔の餌《えさ》にするつもりか?」
たしかに、リディアには夢魔に相対《あいたい》するような力はない。橋の力を強めることもできない。
フェアリードクターは、妖精の姿が見えて、彼らの声を聞くことができる。妖精たちと親しくしながら、彼らのしきたりやタブーを知り、魔法の性質を理解して、人と妖精がうまく共存していけるよう架《か》け橋になってきた。
フェアリードクターの本質はそこで、魔女や魔術師と混同されることは多々あれど、自分で魔法を使うようなことはない。
なのに妖精は、リディアが必要だという。
「あたしに、何をさせようっていうの?」
「来ていただくしかありません」
すっと近づいてきた彼は、リディアの方に手をのばした。
リディアは迷った。もしも本当に、この妖精がロンドンブリッジを護ろうとしているなら、そしてリディアにできることがあるなら、エドガーの助けになれる。
でも、彼の正体はもちろん、わからないことが多すぎる。
「やめろ、てめえ、リディアにさわるな!」
ケルピーが叫《さけ》んだときには、リディアは淡《あわ》い光のような彼の腕にかかえ込まれていた。
触れられている感覚はなく、ただ光の輪郭《りんかく》だけがリディアをかかえ込んでいる。
「ちょっと、やだ、離してちょうだい」
「|魔性の妖精《アンシーリーコート》のケルピーなどの言いなりになるのですか」
彼がそう言うと同時に、リディアは宙に浮かんでいた。
「きゃあっ!」
ニコがスカートに飛びついて、いっしょに空中へ持ちあげられるが、下方に湖しかないのが見えると、リディアは怖くて身動きできない。
「リディア!」
馬の姿に変じたケルピーが、崖《がけ》から飛んだ。
「|善良な妖精《シーリーコート》だろうと|邪悪な妖精《アンシーリーコート》だろうと、主人ってやつに悪意があれば同じことだ。こいつ、プリンスの手先に決まってる!」
ケルピーは銀色の妖精に飛びかかる。
素早く避けた妖精は、リディアをそっと離したが、彼女は淡い光に包まれて、宙に浮かんだままだった。
ケルピーに向き直り、妖精は高く腕を上げた。
「ケルピー! あぶないわ!」
黒妖犬《こくようけん》を一気に追い払ったことを思い出し、リディアは声をあげる。が、ケルピーは再び彼に飛びかかろうとする。
とたん、光が放《はな》たれた。
かろうじて目を開けていたリディアは、光にはじき飛ばされるケルピーを見ていた。
そのまま彼は、湖へと落下する。しぶきをあげた湖面が、大きく波立つ。
「ケルピー! ……あなた、何するのよ! 彼はあたしの友達よ!」
「水棲馬なら、水に落ちても問題はないでしょう」
「でもあたし、あなたと行くとは言ってないわ!」
彼は答えずに、リディアとニコを光に包み込んだまま、どんどん上空へとのぼっていく。
ケルピーでさえかなわない妖精に抵抗する力が、リディアにあるはずもない。
月まで行くつもりじゃないだろうかと思うほど高くあがっていくと、下方の湖は小さな水たまりのように見えた。
*
アシェンバート伯爵家《はくしゃくけ》に伝わる、人魚《メロウ》の宝剣は、初代の青騎士|卿《きょう》と呼ばれた人物が、英国王から爵位《しゃくい》とともに賜《たまわ》ったものだ。
その剣に飾られた大粒のスターサファイアは、メロウが魔法の力で星を刻んだがゆえに、メロウの星≠ニも呼ばれている。
この剣をエドガーが手にしたとき、サファイアは星を持たないただのサファイアだった。
メロウとの取り引きにより、エドガーが青騎士伯爵としての責任を果たすという約束をし、新たに星を刻んでもらったのだ。
深い藍色《あいいろ》をしたサファイアの中心には、以来、十字《クロス》の星が輝《かがや》いている。
エドガーは、その光沢《こうたく》にじっと見入る。
メロウの宝剣を受け取る資格を持つ、伯爵位を継ぐ血筋《ちすじ》なら、このサファイアにおさまるべき星≠持っているはずだった。しかしそれがなかったエドガーは、自分の体に刻まれた十字の焼き印を取り引きの材料にした。
プリンスにつけられた、奴隷《どれい》の刻印《こくいん》だったものだ。神秘的なものでも何でもない、ただのしるし。
そうして剣を得たものの、どのみちエドガーは、この剣が秘める謎《なぞ》めいた力に触れることはできない。だからこそ、プリンスと戦うにあたって、自分が青騎士伯爵の後継者《こうけいしゃ》として、じゅうぶんな力を発揮《はっき》できるのかとの疑念をいだくのだ。
「エドガーさま、こちらを」
部屋へ入ってきたレイヴンが、銀色のピストルを差し出した。
エドガーは宝剣をそっとテーブルに置き、ピストルを受け取る。弾が装填《そうてん》されているのを確かめ、フロックコートの内にしまえば、外出の支度《したく》は完了する。
これから出かけるのは、箱船《ジ・アーク》≠フ船上パーティだ。敵地へ乗り込んでいくといっていいかもしれず、何が起こるかわからない。
けれども、妖精の魔法がわからないエドガーには、宝剣は剣以上のものではなく、この古風な武器をパーティ会場に持ち込む利点がないとなれば、置いていくしかない。代わりに持ち込むのは、魔よけにもならないピストルのみだ。
それでもこれまで、知恵と武器だけで戦ってきた。魔術がわからなくても、やれるはずだと立ち上がる。
「伯爵、お出かけですか?」
そのとき、どこからともなく声がした。そういうことにも慣れてきたエドガーは、すぐに窓辺でふらふらと不自然に動く木の葉に気がついた。
「コブラナイ? どうしてここに?」
たしか彼は、ニコとともにスコットランドに残ったのだ。リディアの家にいるとばかり思っていた。
「それがですね、お嬢《じょう》さまとニコどのが、こっちへ向かうべく妖精界の道へ入っていきましたので、わしも自分の道を通って帰ってまいりました」
「リディアが? ロンドンへ向かったっていうのか? ケルピーの魔法は?」
エドガーは窓辺に駆《か》け寄って、ふらふらと動く葉っぱに顔を近づけた。
「ええ、その魔法の壁を通り抜けるために、妖精界へ入ったのですよ」
「僕のもとへ来ようとしたなら、リディアはすべてを思いだしたのか?」
「そういうわけではないようですが」
とすると、いつものお人好《ひとよ》しを発揮したのだろうか。
「ともかく伯爵、お嬢さまを迎えに行ってくださいまし。出発|間際《まぎわ》に、ムーンストーンのボウからたのまれた伝言です」
「そりゃ行きたいけど、いつどこへ行けばいいんだ?」
「わかりません」
それでは困る。
「ああそう、伝言はもうひとつ、メロウの宝剣をお持ちください」
「宝剣があれば、リディアの居場所がわかるのか?」
「はあ、宝剣のスターサファイアは、あのムーンストーンとは離れていてもお互い意思《いし》の疎通《そつう》ができるようですので、スターサファイアに訊《き》けば、お嬢さまの状況もわかるかもしれませんね」
「スターサファイアに? どうやって訊くんだ?」
だいたいエドガーは、宝石と話をしたことなんかないのだ。
「おや、しゃべりませんか? おかしいですな。名を呼びかければ話す、と聞いたことがありますが」
「名? メロウの星≠チて呼びかけるのか?」
「それは名ではありません。通称みたいなものですな。妖精族の名は、その本質を現すもの。これを人間に知られるのは、自分の秘密をさらけ出し、服従《ふくじゅう》するのと同じです。つまりは、すべてをゆだねられる相手にのみ明かすことのできるもの。ですので伯爵、早めにこれの名を見つけてやってください」
名を見つけるって?
エドガーは困惑《こんわく》するが、コブラナイは用は済んだとばかりに去ってしまった。
スターサファイアの名がわからないと、リディアの居場所もわからない。
コブラナイは、ムーンストーンと意思の疎通ができるが、離れているのでは無理なようだ。
いったいどうしろと?
「エドガーさま、そろそろお時間ですが」
レイヴンに声をかけられ、まずは箱船《ジ・アーク》≠セと我《われ》に返る。あれに入り込むチャンスを逃《のが》すわけにはいかない。
「どうなさいますか?」
「行くよ。帰ってくるまでに、おまえも考えておいてくれ、こいつの名を」
テーブルの上の宝剣をちらりと眺《なが》め、帰ってこないわけにはいかないと、エドガーはリディアを案じながら考えていた。
[#改ページ]
仕掛けられた罠《わな》
まだ夜が明け切らぬうちに、箱船《ジ・アーク》≠フパーティは始まった。
人影もほとんどない波止場《はとば》に集まった数十人は、この高価なパーティチケットを手に入れた、ロンドンでも裕福《ゆうふく》な層に属する人々だ。
貧富を問わず襲《おそ》いかかる疫病《えきびょう》におびえ、助かる可能性があるなら安いものだと考えている。
そんな人々を納得《なっとく》させるためにか、箱船≠フ内部は、すっかり外界から遮断《しゃだん》されるようになっていた。
入り口の大きな扉は二重になっていて、そこをくぐれば、甲板《かんぱん》下の広いフロアに案内される。窓はすべて板でふさがれ、ランプの明かりがすべて消えれば、完全に真っ暗な空間になりそうだ。
昼も夜もわからない、そんな息苦しい内部には、気休めのように天井につけられたファンがまわっていた。
機械音も振動も感じない。船は見るからに、帆船《はんせん》を改造したものだ。蒸気《じょうき》の動力が使われている様子はなさそうだし、ファンをまわしているのもおそらく人力で、何の設備もないとエドガーは見て取る。
見せかけだけの、張りぼてのような船だ。
パーティ会場も、絨毯《じゅうたん》が敷かれてはいるが、華美なものに慣れた人々にとっては、あまりにも質素に映るだろう。
なのに、この船の価値は装飾ではなく最新の科学技術だと、案内役の男は勢い込んで説明する。
疫病に汚れた空気を浄化して、船内には安全な空気だけを取り入れる設備が整っているとか、ここの空気を一時間|肺《はい》に取り込んでおけば、二十四時間は外へ出ても罹患《りかん》しないとか、いいかげんな話が続けられている中、エドガーは、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ顔ぶれが数人、ここへ紛《まぎ》れ込んでいるのを確認していた。
「エドガーさま、飲み物を口にされない方がよろしいでしょう」
ワインの入ったグラスが配られたとたん、レイヴンが言った。
頷《うなず》きながらエドガーも、何かが混入されていることは確信していた。
「この部屋は外から監視されていると思うか?」
「そう思います」
慎重《しんちょう》に、エドガーはあたりを見回しながら、部屋にいくつかあるドアを確認する。そして、並ぶランプの間隔《かんかく》を頭に入れる。
「それではみなさま、しばらくご歓談を。準備が出来次第、ムッシュ・アルバがご挨拶《あいさつ》にまいります」
そんなふうに言って、案内役の男が部屋を出ていくと、エドガーはレイヴンに耳打ちした。
「死角をつくる。出口を確保してくれ」
それだけでレイヴンは、エドガーがちらりと視線をやったドアの方へ、さりげなく近づいていった。
すべてのドアの前には、スタッフと称した見張りらしき男がふたりずつ立っているが、レイヴンなら簡単に始末するだろう。
エドガーは、目をつけた蝋燭《ろうそく》に近づいていく。よろけたふりをして、そばにあった花瓶《かびん》の水を引っかける。
その一角が暗やみに包まれた瞬間、レイヴンが見張りの男に飛びかかるのを、エドガーは気配《けはい》で感じていた。
音もうめき声も聞こえなかった。
わずかな衣擦《きぬず》れの音に、レイヴンが成功したことを確信し、壁《かべ》伝《づた》いにドアへ近づく。
広間に集まっている人々が、ひとり、またひとりとうずくまるように倒れていくのを目にしながら、ドアの向こうへと体を滑《すべ》り込ませた。
薄暗い階段が下方につながっていたが、人の気配はなかった。
「集めた人間を、いきなりみんな眠らせるとはね。どうするつもりだと思う?」
階段を下りていくエドガーに、レイヴンも続く。
「わかりません」
「|朱い月《スカーレットムーン》≠フ連中、ワインを飲んでいないだろうな」
「そう願います」
エドガーとレイヴンは、すぐに口をつぐみ、ふたりして立ち止まった。その先に、明かりが漏《も》れる部屋があったからだ。
かすかに話し声も聞こえてくる。
近づいていってのぞき見ると、先日見かけた、ポールの知人だという男がいた。もうひとりも、あのときアルバと名乗る箱船《ジ・アーク》≠フ所有者といっしょにいた男だ。
暇《ひま》つぶしにカードでもしているという様子で、片方が口を開いた。
「しっかし、あのアルバってやつ、大丈夫かね。まともじゃねえよな」
「ああ、ときどきまるきり別人みたいになっちまう。そいつはホテルのフロント係なんだそうだが、まったく、どうなってるんだか」
「へたくそな英語で自分はアルバじゃないとか言うし。さっきまでえらそうに、おれたちに指図《さしず》してたくせに、急に泣きながら助けてくれって言われてもな」
「頭がイカレてるんだろ」
エドガーは、聞きながら眉《まゆ》をひそめていた。
アルバという男は、やはりもともとの人格を殺されかけているようだ。そうして、プリンスになるべく矯正《きょうせい》を受けている。
「そういやアルバの弟だっておかしいぞ。ガキのくせに人を見下した態度だし、あいつを見て、イカレたほうのアルバがあげた悲鳴《ひめい》を聞いたことがあるか? 完全におびえてたぜ。本当に兄弟なのかね」
「しかし、兄弟でなくて、こんな箱船≠ネんかつくるのに大金使って、そのうえ乗客を……、あのガキにとって何の意味があるんだよ」
ユリシスだ。
乗客を、そしてこの船を、ユリシスはどうするつもりなのだろう。
彼らが言いよどんだ先の言葉を、聞き出さねばならなかった。
エドガーは、レイヴンに侵入《しんにゅう》の合図を送る。頷き、レイヴンは動く。
「おい、そろそろパーティ会場が静かになってるころだ。ぬかりないか見て来いよ」
「ああ? おまえが行けよ」
カードをにらみつつ、なかなか席を立ちたがらないふたりの方へ、レイヴンはゆっくりと近づいていった。
人の気配に、ふと彼らが顔をあげたときには、レイヴンはすぐそばにいた。
あわてて立ち上がりかけたひとりを蹴《け》り倒すと、壁際《かべぎわ》まで椅子《いす》ごと飛ばされた男は気を失う。間をおかずレイヴンは、もうひとりの襟首《えりくび》をつかんで引きずり起こし、締めあげながらエドガーの方に顔を向かせた。
「この船のチケットを買わせて、そのうえ監禁《かんきん》しようってのはどういうつもりなのかな?」
ポールの知り合いだという、グレッグという男だ。エドガーは彼の方へ歩み寄った。
「お……おまえ、何だよ」
「乗客たちをどうするんだ?」
「……すぐに大勢、ここへ来るぞ」
「そう。なら急がないとね」
エドガーは、ピストルを手に、それを相手の眉間《みけん》に押しつけた。
「さっさと言わないと、ほかのやつらが来る前に命を落とすよ。アルバと弟はどこにいる? やつらの計画についてしゃべってもらいたいんだけどね」
冷淡《れいたん》な目でにらみつけ、うっすらと笑ってやれば、エドガーは簡単に引き金を引きそうに見えるらしい。
見える、だけではないのだろう。事実彼が話をしないなら、やる気でいる。
駆《か》け引きとはそういうものだ。ためらっていたら見抜かれる。
「俺は……何も知らない。アルバに協力して人と金を集めれば、報酬《ほうしゅう》がもらえるから……それだけだ」
危険を感じたのか、グレッグは、おびえきった様子であわてて口を開いた。
「それに、アルバはここにはいない。お、俺たちは、乗客を閉じこめたまま船を引き渡すことになってるだけで……」
言い逃《のが》れをしている、とエドガーは感じた。
さっきのふたりの会話では、乗客をどうするかわかっていて、言いよどんだふしがあった。
エドガーは、ピストルの握りで男のあごを殴《なぐ》りつけた。
彼が倒れなかったのは、レイヴンがつかまえていたからだ。一瞬気を失った彼をむりやり気付けて、エドガーはさらに問いかけた。
「では別の質問をしよう。ポールはどうなった?」
あきらかに、彼はうろたえた。
「きみの昔の知り合い、ポール・ファーマンに、最近イーストエンドで会っただろう?」
「……ポール……?」
ごまかそうとしながらも、背後《はいご》の壁を気にしている。
隠し扉だ。気づいたエドガーは、壁を調べる。隙間《すきま》を見つけ、そこを押せば壁が開いた。
「レイヴン、そいつを連れてついてきてくれ」
奥の通路へ入る。真っ暗な通路だ。
「おい、やめろ、そっちへ行かない方がいい」
「なぜ?」
「明かりはダメだ、やめてくれ」
グレッグはひどくあわてふためいた。レイヴンが、部屋にあった燭台《しょくだい》を手に歩き出したからだ。
不審《ふしん》に思いながらも、すぐに通路は別のドアに突き当たった。どうやら鍵《かぎ》がかかっている。
壊《こわ》そうとピストルを向けると、グレッグは叫《さけ》ぶように言った。
「やめろ! 鍵ならここにある!」
さすがにエドガーも、いやな予感がした。鍵を受け取りながら、レイヴンを蝋燭の明かりごと下がらせた。
ドアを開ける。部屋の中は暗くてよく見えないが、片隅《かたすみ》で何かが動く。
「……グレッグ? なあ、今何時だ? こんなところにいると、時間がわからなくて……」
ポールの声だった。
背後でレイヴンが様子を見ようと動いたのか、明かりがドアの中へ流れ込む。
ポールは、柱に縛《しば》りつけられていた。
まぶしそうな顔でこちらを見あげ、間が抜けたように口をぽかんとあける。
憔悴《しょうすい》した様子だが、命に別状はなさそうだ。それよりもエドガーは、この隠し倉庫らしい空間を埋《う》め尽《つ》くす木箱を見まわし、危機感と直結する独特の匂《にお》いにあせりをおぼえていた。
火薬だ。
だからグレッグが火におびえた。エドガーも、油やガスの可能性を考えてはいたが、これほど大量の火薬だとは思わなかった。
「レイヴン、下がってろ」
「伯爵《はくしゃく》……、この船は、危険すぎます。早く逃げてください」
明かりの火に気づき、ポールもあせったように言った。
「きみもいっしょだ」
エドガーはナイフを取りだし、急いでポールの縄《なわ》を切る。
「それにしても、どうしてこんなことに?」
「……彼らはこれを爆破させて、船を沈めるつもりです。たまたま僕は、ここで働かないかと誘《さそ》われて。下町の病気と関係ありそうだと気になったので来てみたんですが、偶然《ぐうぜん》火薬を見つけてしまったせいで、このことをしゃべられると困るからと監禁されて……」
グレッグは、火薬の倉庫を見られたことをアルバやユリシスには隠そうとしたのだろう。監禁されてはいたが、ポールの存在をユリシスが知らないままだったらしいのは幸運だった。さらに幸運なことに、グレッグは昔なじみのポールには、ひどいことはしなかったようだ。
疲れ切っている様子でも、ポールは意外としっかりしていた。
しかし、エドガーには解《げ》せない。
「船を沈めるのに、こんなに火薬がいるっていうのか?」
ポールを助け起こしつつ、エドガーはグレッグをにらむ。
レイヴンが腕をねじりあげると、彼は悲鳴をあげつつ口を開いた。
「……橋を、壊すんだよ。こいつをぶつけて、あの、石の橋を……。乗客は道連れの生《い》け贄《にえ》だって……」
ロンドンブリッジを?
もともとあの橋より上流の、西側こそがロンドンだ。シティと呼ばれる旧市街、そのさらに上流に、王侯《おうこう》貴族が居留《きょりゅう》した。だからこそロンドンブリッジは、敵船の侵入を防ぎ都《みやこ》を護《まも》る砦《とりで》でもあったのだ。
そこまで考え、エドガーは気づいた。
人間の敵だけではない。テムズ河の湿地帯《しっちたい》から|悪しき妖精《アンシーリーコート》や魔物を遠ざけ、イーストエンドの病気を遠ざけていたもの。リディアが言っていた、ロンドンの魔術的な護りとなっているものが、あのロンドンブリッジに違いなかった。
同時に、エドガーは、ロンドンを廃墟《はいきょ》にするといったプリンスの計画を理解して、戦慄《せんりつ》をおぼえた。
橋が壊されれば、ロンドンは未曾有《みぞう》の疫病《えきびょう》に襲《おそ》われることになる。
「いつだ? それを実行するのは……」
グレッグが答える前に、騒がしい声が聞こえてきた。
船の乗組員たちが、異変に気づいたのだろう。
が、声は近づいてくるよりも、どこかで乱闘を始めている。|朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員ともみ合っているに違いない。
「ポール、行こう」
ともかくポールをここから連れ出さなければならない。
レイヴンは、グレッグを気絶させるとその場に放り出す。三人でもと来た部屋を抜け、静かな方の通路へと歩き出しながら、同時にエドガーは、このまま脱出しても得るものは少ないだろうと考えていた。
プリンスがいるかぎり、どんな方法であれ、橋の結界《けっかい》はいずれ壊される。
そうでなくても、このままにしてはおけない。
イーストエンドにせまってきている魔性《ましょう》の物たちが、シティに入ってはこなくても、すでに下町では多数の死者が出ているのだ。
もちろんその影響は、下町だけにとどまらない。労働力を失った町は、経済活動が止まる。世界中から集まってくる船が、せまいテムズ河の港に整然と入れるだろうか。交通が麻痺《まひ》し、ロンドンはあっという間に物資が不足し、食料の調達さえ困難になるだろう。
箱船《ジ・アーク》≠止めるだけでは勝ち目はない。
相手の懐《ふところ》へ入り込み、息の根を止めるしか。
考え込んでいたエドガーは、前方から近づいてくる足音にはっと立ち止まった。レイヴンが身構えるが、すぐに警戒《けいかい》を解く。
「伯爵! ご無事でしたか!」
声は、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ双子、ジャックとルイスだ。
ふたりは駆《か》けつけてくると、ポールに気づき、エドガーから引き取るようにしてささえた。
「外からボートが近づいてきています。船内の連中が応援を呼んだようで。急いで退却するしかなさそうです」
「なら、きみたちはポールを連れて脱出してくれ」
「伯爵……あなたは……」
ポールが、情けない声を出した。
「いいから行け。僕が注意を引く。敵のボートを左舷《さげん》に集めるから、右から河へ脱出しろ」
言うなり、エドガーは駆けだしていた。
「伯爵!」
「この船のことは、ポールときみたちにまかせる。あとの指示は追って出す。戦える者を集めておいてくれ!」
レイヴンだけはついてくる。
エドガーが行くところならどこでも、地獄《じごく》だろうと、レイヴンだけはとことんついてくるだろう。エドガーはそれを止めるつもりもないし、むしろ彼は自分にとって、宿命で結びついた戦士だと思っている。
「レイヴン、これからおまえにとって、何よりも難しくて危険なことをたのむ。できるか?」
「エドガーさま、何なりと」
「僕はプリンスのもとへ乗り込む。ユリシスにとらえられれば、そういうことになるだろう。その際、僕がどんな目にあわされようと、手出しをしてはいけない。おまえが必要となったときに、僕が呼ぶまで、姿を隠したまま、付き従《したが》うんだ」
ずいぶんな無理難題だ。レイヴンは身ひとつで、プリンスの隠《かく》れ家《が》に潜入《せんにゅう》しなければならなくなる。もしもつかまったら、エドガーへの見せしめのために殺されるだろう。
「わかりました」
それでもレイヴンは即答する。
振り返り、彼の目を見て頷《うなず》き、どのみち取り上げられるだろうピストルを手渡す。
「プリンスの隠れ家を突き止めたら、まずは朱い月≠ノ場所を伝えてくれ」
そうしてエドガーは、甲板《かんぱん》へ通じるドアを開けた。
レイヴンはその場にとどまり、柱の陰に身を隠す。
外へ出たエドガーは、船縁《ふなべり》の手すりへと歩み寄った。
朝靄《あさもや》の中、川面《かわも》を波立てて近づいてくるボートに目を凝《こ》らす。櫂《かい》のきしみと水音が、いくつも耳に届く。
わざとランプのそばに立てば、エドガーの金色の髪は陽光のように輝《かがや》く。手漕《てこ》ぎボートの上からは、目立って見えることだろう。
こちらを見あげる強い視線に、応《こた》えるようにエドガーも視線を動かす。ユリシスだ。
プリンスだろうと、この僕をひざまずかせることはできない。そう示してやるつもりで、エドガーはユリシスをまっすぐに見おろし、睥睨《へいげい》した。
*
妖精界と人間界は、薄い布の表と裏のようなものだ。お互い無関係に存在しているようでいて、じつのところはすぐそばに接している。
目には見えない裏側の世界。それでも、空気や水が布を通り抜けるように、妖精たちは自在に行き来する。人だって、知らぬ間に行き来していることもめずらしくはない。
クロスにこぼれた紅茶のしみが、裏側にまでにじむように、人間界で起こることは、妖精界にも多かれ少なかれ変化を及ぼすのだ。
[#挿絵(img/my fair lady_143.jpg)入る]
銀色の妖精に連れられ、上空を飛び続けていたリディアは、ようやく彼が下降するのを感じると、下方に横たわる大きな河に目をとめた。
テムズ河だ。
その河岸に、森でも草原でもない、黒っぽい色彩を感じると、それがロンドンの建物群だとわかってくる。
けれど、街らしい明かりはどこにも見えない。ふだんなら夜中でもガス灯《とう》の明かりが街にともり、大通りを皓々《こうこう》と照らしているはずなのに、道も建物もすべてが暗く、だから河岸の巨大な町は、黒い廃墟《はいきょ》のように見えた。
これは妖精界から見たロンドンだ。
こちらからは、人の姿も生活も見ることはできない。月光を浴びた街の影が、裏側の世界に建物の姿をくっきりと落としているだけで、妖精界にはあの、幾多《いくた》の建造物は存在しないのだ。
それでも銀の妖精は、影の街へと降りていく。
そしてリディアは気づく。ロンドンでも下流に近い東部の方が、真っ黒にうごめく虫のような何かに覆《おお》われているのだった。
路地にも建物にも、びっしりと張りついている。ときおり群《むれ》となって暗雲のごとく空中を飛び回る。
|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力が、あれだけ一所《ひとところ》に集まっているというのは、リディアにとっても信じられないくらい奇妙な風景だった。
彼らを街の東側に押しとどめているのは、テムズ河にかかる橋のひとつだ。
淡《あわ》い光を発していて、そこに魔よけの力が宿っているのがすぐにわかる。
リディアは、ロンドンのことはおぼえていないにもかかわらず、あれがロンドンブリッジだとすぐに理解していた。
けれどそれも、魔よけの光がくぐもって見える。何かが橋の上に、大きく横たわっている。
形は定かではないが、見たこともないような巨大な黒い魔物だった。
「夢魔《むま》に見つからないよう、橋の南端に降ります。声を立てないでください」
あれが、ケルピーの言っていた夢魔なのか。
想像以上に大きくて、得体《えたい》の知れない獣《けもの》めいた姿に、リディアは鳥肌が立った。
銀色の妖精は、慎重《しんちょう》に夢魔の頭上を通り過ぎ、静かに橋のたもとに降り立った。
影の橋、とはいえ近くで見れば、現実の橋と何ら変わりがないように見える。
そこから銀の妖精は、橋の下へ続く階段を下りていく。リディアとニコもあとに続く。
橋の真下へ入り込むと、目の前の橋脚《きょうきゃく》は石壁のように大きい。そこに彼は、そっと手を触れた。
と、橋脚に穴が開いた。暗くて深い、どこまでも続いているように思える穴だ。
「ここから境界へ入ります。飛び降りてください」
妖精は、声を落としてそう言った。
「えっ、こんなところへ?」
さすがにリディアは躊躇《ちゅうちょ》する。
覗《のぞ》き込んで、怖くなったのか毛を逆立《さかだ》てたニコは、強く首を横に振った。
「おい、あんたが先に行けよ」
「私が入ったら、すぐに穴が閉じてしまいます」
「だったら、しかたがないわ」
「待てよリディア、こいつが何者なのかわからないのに、こんなところに入れるもんか」
「それはいずれ、おわかりになると申しあげました」
銀色の妖精は、相変わらず冷淡《れいたん》に繰り返すだけだ。
「はん、資格ってやつがないなら、あんたはおれたちを見殺しにする気……」
ニコが言葉を切ったのは、急にあたりが暗くなったからだ。月光をさえぎる何かに気づき、見あげる。巨大な黒い影が、橋から身を乗り出すようにして、不気味《ぶきみ》に赤く光る目で、リディアたちをじっと見ている。
夢魔に気づかれたようだった。
「早く、穴の中へ!」
妖精が言ったとたん、夢魔の鋭《するど》い爪《つめ》のようなものが、こちらに向かって振り下ろされた。
リディアは足がすくんで動けない。
と、銀の妖精がリディアの前に割り込んだ。彼女を穴に押し込むようにしながら、叫《さけ》ぶ。
「どうか見つけてください、人柱《ひとばしら》の、乙女《おとめ》の矢を……!」
わけがわからないまま、リディアは穴の中に落ちていく。
銀色の妖精の背に、夢魔の爪が襲《おそ》いかかるのをちらりと見たが、すぐに視界は閉ざされ、リディアの周囲は真っ暗になった。
気がつくと、薄暗い洞窟《どうくつ》の中に立っていた。光源は見あたらないのに、ぼんやりと周囲が見えるのは、魔法のかかった空間だからだろうか。
「ニコ? どこなの?」
リディアは急いであたりを見回す。
「ぎゃあああ」
声は上から聞こえた。何やら灰色のかたまりが降ってくるのに気づき、リディアがあわててよけると、くるりと回転しながらニコはどうにか四本足で着地した。
ふう、と息をつきつつ、彼は二本足で立ち上がると、ネクタイとヒゲと毛並みを直し、後ろで手を組みながら気取った態度で振り返った。
「まったく、あの妖精、おれさまに猫みたいなまねをさせやがって」
猫でよかったと思ってるくせに。
「地面に顔をぶつけなくてよかったじゃない」
「つーかリディア、おれたち、あいつにここへ閉じこめられたんだぞ! まったくひでえよ、むりやり放り込みやがって」
「閉じこめられたって、出られないってことなの?」
「そうだよ。さっきの穴をふさいじまったんだ」
「それは、夢魔が入ってこないようにしたんじゃないの?」
「でも、あいつは夢魔にやられかけてた。もう喰《く》われたかもしれないし、おれたちこんなところでどうすりゃいいっていうんだよ」
「あの妖精、あたしをここへ連れてきたかったんでしょう? だったらあとは、あたしたちでどうにかするしかないわ。ここには彼の主人がいるらしいし」
夢魔の爪の一撃が、どれほど彼にダメージを与えたのかはわからないが、リディアを守るためだった。
彼はリディアに何も明かさず、説明もしなかったけれど、守る資格があるかどうかさえまだわからないのに助けてくれたのだ。悪意があるとは思えなかった。
「ねえ、彼は境界へ入ると言ってたわよね。ここはその境界にあたるのかしら」
歩き出しながら、リディアは言った。
「ああ、この壁の石は人間界の橋のものだよ。たぶん誰かが、橋の中のわずかな隙間《すきま》に、妖精界の空間をつないだんだろうな」
せまい洞穴《ほらあな》の道は、蟻《あり》の巣のように入り組んでいて、どこへ向かっているのかまるでわからなかった。
誰かが造った道だから、ニコにも方角はわからないという。
進んでも進んでも、石壁しか見あたらず、リディアがなすべきことの、ヒントになりそうなものは発見できない。
妖精の主人は、本当にこんなところにいるのだろうか。
それよりも、まずは矢≠セ。
見つかれば、リディアには資格≠ェあることになるのだ。妖精の主人に会い、何をなすべきか知る資格が。
「鍵《かぎ》は矢ね……、そう、人柱の矢……って、どういうことかしら」
「あ? 人柱の?」
「あの妖精が言いかけたの。……人柱の乙女の矢を、見つけてほしいって」
ニコは立ち止まり、ヒゲをひくつかせながら腕を組んで考え込んだ。
「まずくないか、リディア。あいつの本当の目的が、あんたに何かさせることじゃなくて、人柱にすることだったら?」
「あたしを、人柱に?」
「ロンドンブリッジの腐食《ふしょく》を止めたいって言ってただろう。ほら、昔から橋が水害に流されるのを防ぐのに、人柱を立てるってよくあったじゃないか」
たしかに、そんな話はリディアも知っている。
「まさか、どっかに仕掛けがあって矢が飛んでくるのか? おれたち、それで殺されるんじゃないだろうな」
ニコはあわてたようにあたりを見回した。
「こんな曲がりくねった洞穴のどこから矢が飛んでくるのよ」
けれども、人柱でロンドンブリッジを守るという方法は、あながち間違っていないかもしれないと思った。
魔物から首都を守る結界《けっかい》だ。それだけの力を保つには、強い術が施《ほどこ》されているはずだ。
人の魂《たましい》は、魔力を得るための代償《だいしょう》として、もっとも高価なものだと聞いたことがある。
リディアには、橋を守る特別な力などない。それでも人柱になるなら、じゅうぶんな魔力の代償となれるだろう。
ぞくりとした。
だとしたら、これまでも誰かの命と引き替えに、橋は守られてきたのだろうか。
怖くなる。けれどその一方で、リディアは冷静に考えている。
「ねえニコ、人柱を使ってでもこの橋を守ろうとしてるとしたら、橋を壊《こわ》したいプリンスの思惑《おもわく》と対立するわ。エドガーのほかに、プリンスと敵対してる誰かがいるの?」
はっとしたように、ニコは顔をあげた。
「そうか、じゃあまさか、あの妖精の主人は、青騎士|伯爵家《はくしゃくけ》の者なのか?」
「青騎士伯爵の血筋《ちすじ》は途絶《とだ》えて、エドガーが伯爵になったんでしょう?」
「そうだけど、百年前には最後の血筋の女伯爵がいたらしい。たしか……グラディス・アシェンバートっていう人物だ。百年前に、闇《やみ》の力を借りて生まれた、王家の血を引くプリンス≠、英国から追い出したのが彼女なんだって聞いたぞ」
そんなことも、リディアは知っていたのだろうか。けれど今は思い出せない。
「それで、レディ・グラディスはどうなったの?」
「プリンスを追放するのに力を使い果たして、後継者《こうけいしゃ》もないまま死んだらしい」
とすると。
そのときリディアは、ごく自然にひとつの結論にたどり着いていた。
「……ねえニコ、彼女は、このロンドンブリッジで亡くなったんじゃないかしら。プリンスが英国に戻ってこられないように、ロンドンを護《まも》るために人柱に……」
|悪しき妖精《アンシーリーコート》の魔力を利用した、英国を揺《ゆ》るがしかねない陰謀《いんぼう》によって生まれた王子《プリンス》。彼を追放するために、人柱になったのではないだろうか。
「ロンドンブリッジの結界は、魔物の侵入《しんにゅう》を防ぐけど、人間には効果ないぞ」
「もちろん、プリンスがただ帰国することはできるわ。でも、妖精の魔力がなければ、プリンスもその組織も、人間としてのありふれた力しか持たないのよ」
彼らにはもう、王族としての地位も、英国の王位|継承権《けいしょうけん》も、現実には存在しない。ただの庶民《しょみん》。だからこそ、アンシーリーコートの魔力をロンドンに持ち込む必要があった。
ならば、魔物たちの侵入を許してはならない。かつてレディ・グラディスが護ったロンドンブリッジを、再び誰かが護らなければならないのだ。
「あの銀色の妖精は、亡きグラディスの使いなのか? でも、だったら今の伯爵を連れてくるべきだろ?」
「あたしが、伯爵家のフェアリードクターだから……?」
「バカ言うなリディア、これは伯爵家の仕事だ。あの伯爵は乙女《おとめ》じゃねえが、人柱《ひとばしら》にくらいなれるだろうよ」
「ううん、ニコ、……婚約者だから。だから選ばれたんだわ」
青騎士伯爵家の一員だからだ。
リディアはムーンストーンの指輪に目を落とした。結婚はしていないけれど、この指輪の持ち主は、伯爵の妃《きさき》と決まっているらしい。
レディ・グラディスのように、ロンドンを護るべきは今、リディアの役目なのだろうか。
「逃げようリディア。あんたの役目じゃない。伯爵の婚約者だ? 正式に婚約したわけじゃない。赤の他人だ」
「でも」
「あんたは何もおぼえてないんだろ? あんたが同意したなんてまたあの伯爵の先走りかもしれないし、そんなことで殺されてたまるかっての!」
たぶんニコの言うとおりだ。リディアだってここで死にたいわけではない。
エドガーを助けたいと思っただけなのだ。
「で、でもニコ、冷静になりましょう。まだ人柱と決まったわけじゃないわ。だって矢は? 妖精は、矢を見つけろと言ったのよ。そうしたら、あたしを守ってくれるとも言ったわ」
ニコは深くため息をつく。
「あいつは夢魔にやられたかもよ」
言いながら壁に手をついた彼は、ふとそこに何かを見つけたように顔を近づけた。
「おいリディア、外が見える」
石組みの隙間に、境界のほころびがあるのか、たしかにかすかな空気の動きを感じた。
のぞき見れば、テムズ河とそこに集《つど》う船舶《せんぱく》が見える。ボートを漕《こ》ぐ人影もある。
「向こう側は、人間界のロンドンなのね」
「それより、河の水面が近いぞ。満《み》ち潮《しお》になったら、ここ、水中に沈《しず》むんじゃないか?」
「え……」
ニコはあわてて壁から離れると、リディアのスカートをつかんだ。
「上だ、上へ行こう!」
「で、でも、どっちに行けば上なの?」
「わかんねえよ。とにかく行こう!」
ニコにつられて、とりあえずリディアも駆《か》けだす。
走りながらリディアは、胸に浮かび上がるいやな予感と戦っていた。
ひとつはもちろん、ここの内部がすべて水没すれば助からないということ。まさにそのまま人柱だ。
そしてもうひとつ、リディアは、本当に百年前に死んだグラディスの意志で連れてこられたのだろうかということ。
人柱を得て、ロンドンブリッジを守るのが青騎士伯爵家の目的なら、今その計画を実行するべきは、現伯爵のエドガーなのではないか。
すでに彼が、この橋が重要な結界だと知っていて、リディアを誘い出そうとした、なんてことは? 婚約者≠セとか言い出したのも、人柱は伯爵家の一員である必要があるから?
エドガーは、彼女に好意があるように振る舞いつつ利用する。リディアは、そんな彼が憎《にく》めずに、助けたいと思ってしまう。
宝剣さがしのときと同じだ。
エドガーがまた、彼女を犠牲《ぎせい》にしてプリンスに対抗《たいこう》する力を得ようとしている可能性は……?
思いついてしまえば、それはあまりにも恐ろしく、なのに否定するのは難しかった。
もっともらしく再会の約束をしたのも、リディアがそれにつられてロンドンへ行こうとするのをねらってのこと?
だったら、ぜんぶうそなのだろうか。愛情のこもった視線も、強く求められたキスも。
こんど会うときには、思い出すという約束も。
再会なんて、望まれていなかったの?
あたしはまた、だまされて……。
*
エドガーが連れてこられたのは、ロンドンから馬車で二時間ほど離れたところにある、古くて大きな屋敷だった。
とはいえ、窓をふさいだ馬車の中にいたエドガーには、どこをどう走ったのか見当もつかない。ただその屋敷は人里離れたところに建っていて、仰々《ぎょうぎょう》しい城壁と門を持つ、昔の城を改築したものだった。
プリンスの隠《かく》れ家《が》かと問うものの、ユリシスは何も答えなかった。どこか不機嫌《ふきげん》な様子だったのは、エドガーが抵抗しない場合、むやみに傷をつけるなとプリンスに言われているからだろうか。おもしろくなかったに違いない。
ともかくユリシスは、丁重《ていちょう》な態度でエドガーをここまで連れてきた。
そうして建物の一室にエドガーを閉じこめるべく案内しながら、まだ少年に見える外見の、けれどすでに何十年もプリンスの側近《そっきん》をつとめているはずの彼は、はじめて嫌味《いやみ》な口を開いたのだった。
「あの大鴉《レイヴン》は、じきにここをかぎつけるんですかね。ロード、あなたに殉《じゅん》じて死ぬために……、見あげた従者《じゅうしゃ》ですよ」
「レイヴンは、きみたちには殺せない」
「でも、あなたが死ねば死ぬでしょう? 言っておきますがロード、殿下《でんか》はあなたを許す気はないのです。ご自分の手であなたを葬《ほうむ》る、そう考えていらっしゃる。無傷でお連れしたのは、殿下の楽しみをおれが減らしてしまうわけにはいかないからです」
「悪いけど、僕もプリンスを葬るつもりで来たんだ」
おかしいのをかみ殺すように、ユリシスは唇《くちびる》をゆがめた。
「武器もなく、あなたには魔力を扱う能力もないのに」
その通りだ。だがエドガーは、意味深《いみしん》に笑ってやる。ユリシスはますます不機嫌に眉根《まゆね》を寄せる。
「どうぞこちらへ。死刑|執行《しっこう》を待つ囚人《しゅうじん》の気分でも味わってください」
「味わったことあるけどね」
笑うところだろうと思ったけれど、ユリシスは笑わなかった。
開いたドアの中へ、エドガーは素直に入る。窓は下半分を板でふさがれているために、昼間でもやけに薄暗い部屋だった。
「明かりもないのか?」
「以前あなたは、自分のいる部屋に火をつけるなんて暴挙を行って逃走を図りましたからね。暖炉《だんろ》にも火を入れられませんがご辛抱《しんぼう》を」
また不機嫌な顔つきで言って、ユリシスはドアを閉めた。
プリンスは、エドガーを生かしておくつもりはないという。とすると、後継者《こうけいしゃ》をあのアルバという男に決めたのだろうか。
|炎の蛍石《フレイア》を使って、あの男を自分の新しい体にするつもりだろうか。
だとすると、プリンスを葬るには、本人だけでなくアルバも、そしてプリンスを存在させてきた魔術的な力も葬らなくてはならないのだろうか。
「アルバはここにいるのか?」
問いかけるが、もちろんこの部屋にはエドガーひとりしかいない。それでも、レイヴンが近くにいるはずだと確信して、彼は言う。
「やつがここへ来るようにし向けるんだ。プリンスの後継者は自分だけじゃないと教えてやれば、気になるだろうからね」
港で馬車に乗せられたとき、高く積み上げられた荷箱の上にレイヴンの姿をちらりと見た。馬車の屋根に飛び降りるつもりだろうと思いながら、エドガーは視線をはずした。
それからのことは、レイヴンがどうなったかはまるでわからない。しかし、彼がエドガーの命令をたがえるはずはないのだ。
建物の警備は厳重《げんじゅう》だろうが、アメリカでの屋敷のように完璧《かんぺき》な要塞《ようさい》と化すには、時間も人手も足りないだろう。レイヴンがここまでうまくたどり着いたなら、建物への侵入《しんにゅう》もぬかりなく果たすはずだ。
返事も何もなかったが、エドガーは待つつもりで、ソファに腰をおろした。
この敵地で、エドガーが利用できそうなのはまずアルバだった。プリンスに従順《じゅうじゅん》に従う人形ならなおさら、プリンスに見捨てられるのをおそれているだろう。
そこにつけ込んでやる。
エドガーは暗闇《くらやみ》と静寂《せいじゃく》の中でじっと待っていた。
時間が過ぎ、日が暮れると、明かりといえるものは淡《あわ》い月光だけになった。
それでも、暗闇も静寂も自分の味方だ。プリンスからの逃亡を続ける生活の中ではそうだったから、エドガーは落ち着いて待っていられる。
静寂は、わずかな気配《けはい》をかき消すことなく、周囲の異変を教えてくれる。
やがてそれは、かすかな物音としてエドガーの耳に届いた。
目を閉じて、音に神経を集中する。ドアの、鍵《かぎ》がはずされる音だ。次はゆっくりとノブが動く。そして薄くドアが開く。
せまい窓の隙間《すきま》から射《さ》し込む月明かりしかない部屋の中、侵入者には、目を閉じてじっとしているエドガーが、眠っているように見えただろう。
こちらへ近づいてくる。音だけでなく、息づかいや空気の動きを感じる。とぎすまされた感覚は、相手がどんな背格好《せかっこう》なのか、どんな動きで何をしようとしているのかさえ知ることができる。
殺気を感じる。手にしているのはナイフか。
相手が腕を振り上げた瞬間、エドガーは目を開け、さっと身をかわした。
男の手のナイフは、ソファに突き刺《さ》さる。と同時にエドガーは、つんのめった男に背後《はいご》からつかみかかる。
手首を押さえ、ナイフをもぎ取りながらのどを締め上げる。
窓の方に顔を向けさせて確認すれば、黒い仮面をつけた男だった。顔つきも、先日見かけた、アルバと呼ばれる人物に間違いなさそうだ。
エドガーは仮面をはぎ取って、よく顔を確かめた。スレイドが言っていたとおり、彼の右目はつぶされ、頬《ほお》にまで大きな切り傷があった。
「ムッシュ・アルバ、これはきみの独断かい? 勝手なことをすると、プリンスにしかられるよ」
「離せ、私がプリンスだ」
尊大《そんだい》な口調《くちょう》で、彼は言った。
「まだそうと決まったわけじゃない。だから僕を殺しに来たんだろう?」
「私に無礼《ぶれい》を働いて、……ただですむと思うな」
「ふうん、きみはそんなに、ここでの立場が強いのかい?」
「……私が、プリンスだからだ、そういう運命だとあのかたが。おまえは……どうせ殺される。今私が殺したって、あのかたはとがめたりしない……。私にはわかっている。あのかたのお考えはすべて、私の心に浮かぶことと同じだ」
なるほど、とエドガーは思う。人格を殺され矯正《きょうせい》教育が完成するとこうなるのか。
しかしまだ、彼はプリンスとまるで同じではない。そうだったなら、エドガーの存在に危機感をおぼえるはずがない。
そこから崩《くず》してやろうと考える。
薄く微笑《ほほえ》んで、エドガーはアルバを覗《のぞ》き込んだ。上機嫌なほど冷淡《れいたん》に、残酷《ざんこく》な処罰《しょばつ》を決定するプリンスと同じように。
「きみは僕の代わりにすぎない。プリンスは本当は、僕を後継者にしたかった。庶民《しょみん》に身を落とした、きみみたいな遠い血縁《けつえん》ではなく、貴族の、王家の血の濃い人間が必要なんだよ」
彼の目に狼狽《ろうばい》の色が浮かんだ。
「プリンスは、確かに僕を殺したいほど憎《にく》んでいるだろうね。それでも、手に入れたなら殺せやしない。いらなくなるのはきみの方だ」
いまだにそこまでエドガーに執着《しゅうちゃく》しているとは思わない。プリンスは、ユリシスの言うように、エドガーをとことん苦しめて殺すつもりなのは間違いないだろう。
魂《たましい》を入れる器《うつわ》とするには、エドガーは失敗作なのだ。
それでも、苦しめて殺すという憎しみの執着は想像以上に強いはずで、だからこそエドガーは、ひと思いに殺されることなく生き残っているのだともいえる。
それは周囲からすれば、エドガーを手に入れることを、プリンスがとことん望んでいるようにも見えるだろう。
「きみはプリンスをよく知っている。そういう教育を受けているんだろう? ならわかるはずだ。プリンスが、誰を望んでいるのか」
アルバは顔をゆがめた。
「いらなくなったきみは、細かく切り刻まれて下水へ流されるのかな」
ぎこちなく、視線が宙を舞う。青ざめて、ふるえながら唇を動かす。
「……違う、儀式の準備はできている。間もなく私が、あのかたからすべてを受け継ぎ……」
しゃべりながら彼は、混乱したように暴れ、エドガーを突き放した。そうして、床の上にうずくまる。
頭をかかえ、苦しげにうめく。
「……儀式だ、私は消える……、殺される……」
急に気弱な声音《こわね》になり、おびえた顔をあげながら、エドガーを見た。
「儀式って?」
問うと、はっとした様子でますますうろたえる。
「ゆ、許してください……。私は何も、何も言いません、考えません」
さっきの男とは、目つきも口調も違う。
するとこれは、もともとのアルバだろうか。殺されかけている方の、アルバの精神?
まるきり別人だとグレッグたちが言っていた、もうひとりのアルバだ。
「僕はきみの味方だ。心配しなくても、きみに罰《ばつ》を与えたりはしない」
プリンスの手下に、とことん虐待《ぎゃくたい》を加えられているだろう本当の彼だ。そう思ったからエドガーは、慎重《しんちょう》になだめようとした。
「味方……?」
「きみを助けるためにここへ来た。だから教えてほしい。プリンスが行う儀式とは?」
「た、助けてくれるんですか……?……いや、うそだ。何かの罠《わな》だ。そうに決まってる……」
「プリンスに消されたくないんだろう? 何もしなくてもきみは殺される。罠でも何でもすがるしかないんじゃないか?」
彼は黙《だま》っていた。
苦痛を感じるよりは殺されたいと思っているだろう。そんなふうに、プリンスはエドガーのことも絶望させようとした。
けれども彼の心はまだ生きている。絶望しきってはいない。
ならば救いを求めているはず。
「儀式は僕が阻止《そし》する。きみの協力が必要なんだ」
「そんなこと……できるはずがない……」
「僕は、青騎士|伯爵《はくしゃく》の後継者《こうけいしゃ》だ。プリンスをかつて英国から追放した伯爵家の現当主。青騎士伯爵のことは、プリンスの近くにいたなら聞いたことくらいあるだろう?」
信じないというように首を振りながらも、かすかに瞳に光が宿った。そう感じてエドガーは続ける。
「儀式できみの魂が殺され、プリンスに体を乗っ取られることになるんだね? その儀式の内容を知りたいんだ」
ためらうように視線を動かしながら、それでも彼は口を開いた、
「あ、赤い蛍石《フローライト》に、プリンスの記憶《きおく》が移されたんです。最初のプリンスの記憶です。近々、蛍石の中から私の中に移す儀式を行うと……」
「記憶? 魂ではなく?」
「……よくわかりません。私が耳にしたのはそういうことで……」
「記憶を移した、とするとプリンス自身はまだ生きているんだね」
「ええ……、でもあのかたは、今の肉体は、寿命《じゅみょう》の限界が近づいています。だから私が……、空っぽの体だけになった私に、あのかたの記憶が流れ込む。健康な新しい体で、重要な計画の指揮を執《と》るためにと……」
「どんな計画だ? 箱船《ジ・アーク》≠ゥ?」
彼は自信なさげに頷《うなず》いた。
フレイアに移されるのは、記憶。だとすると、プリンスは生きたまま、もうひとりの自分の働きを見届けるのだろうか。
「しかし、記憶?」
はたしてそれで、アルバはプリンスになれるのか。
考え込んだエドガーのそばで、アルバが急にくすくすと笑った。
「そうだ、記憶だ。|炎の蛍石《フレイア》が人から人へまるごと伝えることができるのは、記憶のみだ」
もうひとりのアルバだった。乱れた髪をかきあげ、鋭《するど》い視線でエドガーを見る。
「プリンスの記憶を得たって、他人の伝記を読むようなものじゃないか。その生涯《しょうがい》を知ったところで、他人の体験の情報でしかない。プリンスと同じ人間になるわけがない」
「だからプリンスの記憶を受け継ぐ人間は、もともとの人格を消され、プリンスが持つべき知識や嗜好《しこう》をたたき込まれる。事前に受けた教育が、記憶と混ざり合って同化し、完全にあのかたと同じ人間になれるわけだ」
そういうことか。そのための、洗脳と教育なのだ。
「それできみは、そんなふうに自分が殺されても平気なのか」
「あれは私じゃない。私はプリンスなのだからね。おまえは教育に失敗した体だろう? だからもう、プリンスにはなれないんだ。うぬぼれない方がいい。あのかたは、私を選んでくださった」
高らかに彼は笑った。
と思うと、急にあせった顔つきになり、身を乗り出してエドガーにすがりつく。
「いやだ、助けてくれ、私は消えたくない……!」
エドガーは、アルバの、本来の彼の肩をしっかりとつかむ。
「ああ、助けてやる」
彼はかつてのエドガーと同じなのだ。
いわれのない理由で、少しずつ殺されようとしている。大きな傷をつけないよう気を配った、数々の拷問《ごうもん》を知っている。
爪《つめ》のあいだに針を刺《さ》される痛みも、限界手前まで不眠不休や絶食を強《し》いられることも、日常|茶飯事《さはんじ》だった。目の前で大切な誰かが無惨《むざん》な殺され方をするたびに感じる、恐怖と絶望も、きっと知っている。
エドガーが体験したものと同じ光景を見てきたはずだ。
だからこそ、助けたいと思った。
「本当の名前を教えてくれ」
「……私は、ノディエ。平凡《へいぼん》でも幸せに暮らしていました。でも、突然やつらがやって来て、妻を殺し、家に火をつけ……」
それも同じなのかと、エドガーはすがりつく彼の肩を抱く。
アルバの顔を傷つけたのは、エドガーの場合とは違い、彼を知る人間すべてを消すわけにはいかなかったからだろう。
「もう、きみに手出しはさせない」
力強い言葉にうたれたように、アルバはまっすぐに顔をあげた。
「フレイアを、私に近づけないでください。もしも触れてしまったら、その瞬間、プリンスにつながる血に反応して、記憶が体に流れ込む。その前に……」
「わかった。儀式を阻止する。フレイアがどこにあるかわかるかい?」
わからないというふうに、彼は首を横に振った。
「こいつはなんにも知りはしない。聞くだけ無駄《むだ》だぞ」
また、もうひとりのアルバが顔を出す。
エドガーは、ぐいと彼の襟首《えりくび》をつかんで引き寄せると、鳩尾《みぞおち》を殴《なぐ》って気絶させた。
「悪いね、もうひとりのきみに騒がれると困るから、縛《しば》らせてもらうよ」
ネクタイをほどいて手足を縛り、声を出せないようハンカチで猿ぐつわを噛《か》ませる。上着のポケットをさぐると、アルバが勝手に持ち出したのだろうこの部屋の鍵《かぎ》と、小さく折り畳《たた》んだ紙切れが見つかった。
それは、レイヴンからの報告書だった。この建物の、大まかな部屋や通路の配置が記されていた。そうして、東棟《ひがしむね》だけが厳重《げんじゅう》に警備されていること、プリンスの側近《そっきん》くらいしか出入りがなく、おそらくその棟にプリンスがいるのだろうとの推測《すいそく》とが記してあった。
アルバの仮面を拾い、身につける。髪の色も背格好《せかっこう》も違うが、夜の暗がりの中、蝋燭《ろうそく》明かりくらいしかなければ、印象はごまかせるだろう。
そうしてエドガーは、ソファに刺さったままのナイフを抜き取る。
「レイヴン、東棟に侵入《しんにゅう》するよ」
近くにいなかったとしても、屋敷の見取り図を届けてきたレイヴンだ。アルバをエドガーの部屋に行かせたあと、どうすべきか、どうエドガーが動くつもりかは予想しているだろう。
部屋から出たエドガーは、ドアを閉め、鍵も閉める。
見張りらしい男たちが眠りこけているのは、アルバの仕業《しわざ》だろう。
そのそばを通り抜け、堂々と屋敷の中を歩けば、誰かがこちらを見たとしても、遠目ならとらえて監禁《かんきん》しているはずのエドガーだとは思わなかっただろう。
エドガーはまず、ユリシスをさがすことにした。
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逆心の王予
ロンドンブリッジの上には、夢魔《むま》が居座《いすわ》っている。あんなに巨大な魔物が、のたりと橋の上に寝そべっているのに、人々は鈍感《どんかん》にも行き来する。
ガス灯《とう》に明かりが灯《とも》る時刻だが、まだ橋は、馬車と歩行者とで混雑している。
夢魔は彼らから絶えず精気を吸い取って、どんどん力を蓄《たくわ》え成長していく。
漆黒《しっこく》の水棲馬《ケルピー》は、もはや自分にも手に負えないほどに巨大化した夢魔をあきれつつ眺《なが》めながら、ロンドンブリッジからそっと離れた。
銀色の妖精に連れ去られたリディアを追って、この橋までやって来た。
リディアの気配《けはい》は感じるものの、橋の内部に神聖な場の魔力があって、そこはケルピーが近づくことを許さない。
ケルピーのような|魔性の妖精《アンシーリーコート》と称される妖精とは相反《あいはん》する種類の魔力がたまっているようだった。
しかしそれが、ロンドンブリッジを護《まも》っている。夢魔が巨大化しても、まだ橋が橋として成り立っていて、人々がふつうに行き来できるのは、内部に強い聖域があるからだ。
橋の外側から、夢魔の影響でもろくなりつつあるとはいえ、まだ内側の強さで、どうにか結界《けっかい》としての橋を支えている。
それでもケルピーは、あせりを感じていた。
プリンスの組織が、橋を壊《こわ》そうと夢魔をここへつながせたのは確かだ。このうえ力が加われば、内部の聖域もろともリディアが壊れた橋にうずもれてしまうことになりかねない。
誰か、橋の内部に入ってリディアを助け出せるような人間の協力が必要だ。
不本意ながらケルピーには、あの伯爵《はくしゃく》しか思い浮かばなかった。人を喰《く》らう種族の彼に、そうそう人間の知り合いがいるわけはない。
「リディアが勝手に町を抜け出したのは、そもそもあいつのせいだってのに」
伯爵|邸《てい》へ行こうと、馬の姿に転じる。
行き交う人間たちには、たとえケルピーの姿が見えていても意識にはのぼらない。そんな魔法で身を隠しているはずなのに、誰かがこちらを見ているのに気がついた。
ケルピーは足を止めた。相手は人間ではなかった。
|アザラシ妖精《セルキー》だ。
「こんなところで何してるの」
不機嫌《ふきげん》そうに腕を組んで、彼女は言った。
「そっちこそ、何してるんだよ。ああ、夢魔と橋の偵察《ていさつ》か?」
相変わらずの男装で、彼女は優美《ゆうび》な眉《まゆ》をひそめる。人間だったころ、アーミンと呼ばれていた彼女は、エドガー・アシェンバート伯爵の仲間だったが、ユリシスによって妖精に生まれ変わらされた今は、敵方についている。
ケルピーには敵でも味方でもないが、たいていの妖精族が水棲馬《ケルピー》をおそれるように、彼女も本能的に、ケルピーが危険な生き物に映るらしい。
とはいえ彼女は、ケルピーが自分を喰らったりしないことは理解している。だからゆっくりと近づいてくる。
「リディアさんに何かあったの?」
ユリシスの妖犬が、リディアを追ってスコットランドにまで現れたのだ。ケルピーが彼女を保護していたことは、ユリシス同様このアザラシ女も知っているのだろう。
ひょっとするともう、リディアが正体不明の妖精に連れ去られたことも知っているかもしれない。
「それを聞き出して、あの小僧《ユリシス》に報告するのか?」
嫌味《いやみ》っぽく言いながらも、ケルピーは、彼女が完全にユリシスに隷属《れいぞく》しているわけではないことも知っていた。
敵の懐《ふところ》にもぐり込みながら、微妙に伯爵やその従者《じゅうしゃ》である弟のことを考えて行動している。
「報告はするわ。わたしは、あの組織から追い出されるわけにいかないもの。でも、あなたはこの橋が気になるんでしょう?」
なるほど、取り引きということか。
彼女はおそらく、ユリシスに命じられて、リディアの行方《ゆくえ》を調べている。ロンドンブリッジだと見当もつけ、ここへ来て確認しようとしている。
ならば、やつらはこの橋にリディアが閉じこめられるということが、何を意味するのか知っているはずだった。
「なあ、この橋の奥深くがどうなってるか知ってるか?」
突然ケルピーが言い出したことを吟味《ぎんみ》するように、彼女はじっとこちらの目を見ていた。
やがて口を開いたのは、リディアがそこにいることも、そしてケルピーが取引に応じたことも理解したからだろう。
「人柱《ひとばしら》の乙女《おとめ》が眠っているわ。それが橋とロンドンを護る神聖な力になっているの」
「人柱……?」
「ひとりの乙女が、命を代償《だいしょう》に護りの力を得たのよ。でももう百年も前のこと。護りの力は完全とはいえないわ」
「……なら、新たな乙女が人柱になれば、護りの力はまた増すのか? プリンスにも橋を壊すことができなくなる?」
[#挿絵(img/my fair lady_173.jpg)入る]
「橋を壊すことは可能よ。人間がつくったものを、人間の力で壊すだけのこと。でも、橋の奥で人柱の命が失われれば、それを代償に護りの力だけは壊れることなくあの場所にとどまる。その可能性はあるわね」
ケルピーは舌打ちした。
あの銀色の妖精は、リディアを人柱にするつもりなのだ。ユリシスの仲間でもなかったようだが、もっとたちが悪い。
ますます急がなければと、きびすを返したケルピーに、アーミンがまた言った。
「エドガーさまは、プリンスの隠《かく》れ家《が》よ」
「あ?」
思いがけない言葉に、足を止める。
「その橋の内部へ入れるのは、青騎士伯爵家の者だけ。つまりエドガーさまだけよ。でもエドガーさまも今、自由がきかない状況なの」
「どこだ、その隠れ家は」
「教えられると思う?」
あきれたようにそう言いながらも、彼女はかすかに笑って見せた。
そうして、橋に背を向け歩き出す。
ついていくのは勝手だ。そう解釈《かいしゃく》して、ケルピーは彼女のあとに続いた。
*
ユリシスの部屋は、見取り図にあったとおりだった。二階の広い客室の前には、雑用係兼用心棒か、男がひとりひかえていた。
エドガーは、堂々と彼の方に近づいていく。ちらりとエドガーを見ただけで、視線をそらしてドアを譲《ゆず》るのは、アルバだと思い込んでいるからだろう。
軽くドアをノックすると、誰だと問う声が聞こえたが、答えずにエドガーはドアを開けた。
ドアに背を向けたかっこうでデスクについていたユリシスは、なかなか振り返ろうとしなかった。
黙《だま》ったままドアを閉め、エドガーはユリシスの方へ近づいていく。
「何か用か?」
言いながら、ちらりと振り返ったが、アルバだと思ったのかすぐに視線をデスクに戻す。
それでもじわじわと異変を感じたのだろうか、突然立ち上がろうとした。
エドガーはそのとき、すでにユリシスの背後《はいご》にいて、まだ少年っぽい華奢《きゃしゃ》な肩を押さえながら、ナイフを頬《ほお》に押しつけていた。
「……まさか、テッド」
首を動かすことができないまま、ユリシスは、プリンスだけが呼ぶエドガーの愛称《あいしょう》を口にした。
「ロード・アシェンバートだ」
「……これは失礼しました、ロード。そのような姿でいらっしゃったのはどういうわけです?……ああ、ムッシュ・アルバが勝手にお部屋におじゃましたせい、ですかね」
おどけて降参《こうさん》するように、ユリシスは両手をあげたが、エドガーはナイフを彼にくっつけたまま椅子《いす》から立たせた。
「アルバは気のきく男だよ。部屋の鍵《かぎ》を開けてくれて、ナイフも持ってきてくれたんだ」
「大鴉《レイヴン》を使ったんですか? あなたをとらえたことを、アルバが知るはずはないのですよ。屋敷中に警戒《けいかい》をしいて、あなたの従者《じゅうしゃ》を見つけ出さなければなりませんね」
「きみは今、それどころじゃないんだよ。殺されたくなければ、僕の言うとおりにするんだ」
ユリシスの首筋からナイフをおろしたエドガーは、そのままそれを彼の脇腹《わきばら》にぴたりとつけた。
「知ってるかい、ユリシス。ここが肋骨《ろっこつ》の隙間《すきま》。このまま刺《さ》し込めば骨にじゃまされずに、楽に肺《はい》を切り裂《さ》ける。それとも、こう角度をつけて、心臓まで一気に……」
「わかりましたよ、言うとおりにしましょう」
ユリシスは、エドガーの言葉をさえぎって、あっさり脅《おど》しに屈した。
むしろ、言うとおりにしながら、逆転する隙をねらうつもりだろう。何しろここはプリンスの隠れ家だ。周囲はユリシスの味方ばかり。どう考えても、エドガーの方が分が悪い。逆にユリシスには、時間を稼《かせ》げばいくらでも勝ち目はある。
だからこそ、エドガーは早急にことを運びたかった。
「フレイアの隠し場所へ案内しろ」
ユリシスと歩調を合わせ、並んで歩き出す。
何事もなさそうな表情を装《よそお》って、ユリシスは部屋を出た。
棟《むね》と棟をつなぐ長い通路を抜け、東側の建物へ向かう。レイヴンからの報告どおり、その入り口のドアは固く閉ざされ、警備の人員がドアの外にも中にも、窓辺にも立って、慎重《しんちょう》にあたりの様子をうかがっていた。
しかし誰もが、ユリシスの顔を見ただけで道をあけ、ドアを開ける。
「ユリシスさま、この先へはおひとりでしか入れませんが」
「殿下《でんか》の許可は得ている」
そう言って、ユリシスはエドガーを伴《ともな》い、さらに奥の部屋へ入っていく。
さっきの見張りの言葉どおり、その先には警備の姿はひとりもなかった。
広間をふたつほど抜け、ユリシスが立ち止まったのは、古い絵に囲まれた部屋の中だった。
中央に、人の身長ほどの高さの金属製のドームがある。釣《つ》り鐘《がね》を伏《ふ》せたようなものだ。
それには、のぞき穴のような小さな窓がひとつだけついていた。
「フレイアはその中です」
窓の前に立てば、金属の台の上に、ガラスの箱に入れられた赤い石が見えた。
エドガーの領地の村から盗まれたフレイアだ。カットして、炎の色の濃い部分だけを取りだしたようで、プラムの種ほどの大きさになっていた。しかし、余分な赤を取り除いたフレイアは、まさに燃えているように美しかった。
不思議なことに、それは自ら光を放《はな》ち、ドームの中にきらきらと浮かび上がって見える。蝋燭《ろうそく》の炎をそのまま凍《こお》らせ、閉じこめたかの輝《かがや》きを放っている。
「開けろ」
「開けられるのは殿下だけです」
本当かどうか。
「ならこのままプリンスのところへ行くかい?」
ユリシスは渋《しぶ》い顔をした。もちろん、エドガーにしてやられたうえ、プリンスにそれを見せつけることになるのは気が進まないだろう。
「ロード、賢明なあなたならおわかりでしょうけど、おれを人質《ひとじち》にしたって殿下は気にしませんよ」
たしかに、プリンスなら部下を人質に取られても、殺したければそうしろと切り捨てるだけだろう。そういう主人だとわかっていて、組織の人間は忠実《ちゅうじつ》に従っている。
なぜそうなのか、エドガーには計り知れない。プリンスに従うことに利益を求めているのではなく、追放された王家にこそ正当性を見いだすという、信念なのだろうか。
それでもプリンスの部下たちは、死を恐れていないわけではない。
「それは命乞《いのちご》いかな」
にやりと笑ってやると、図星を突かれた彼は、はなはだ不満そうにこちらをにらんだ。
ユリシスだって、無駄死《むだじ》にはしたくないのだ。だからこそ、エドガーをここまで案内したし、プリンスのところへ行くのはいやがっている。
「いいかいユリシス、きみなら開けられるはずだ。フレイアは妖精の魔力を秘めた石だ。この組織で、妖精の魔力を扱えるのはきみだけだ。プリンスの記憶《きおく》をアルバに移すとか、その魔術もきみが施《ほどこ》すんだろう? これをきみが管理しなくて誰がする」
脇腹に、ナイフの刃を感じるくらいに押しつけてやると、ユリシスはあきらめたようにため息をついた。
「ムッシュ・アルバは、意外と口が軽かったようですね」
しかたなく、といった様子で金属製のドームに歩み寄る。
「鍵は二十二個あります。簡単には開きませんよ」
ポケットから鍵の束《たば》を取りだし、間違うことなく穴に合う鍵を挿《さ》し込んでいく。
それを眺《なが》めながら、エドガーは考えていた。
これは、以前ウォールケイヴ村から盗まれたフレイアだ。そしてフレイアは、過去にもあの村でしか採《と》れず、もはや二度と採掘《さいくつ》されることはない。
過去に出回ったフレイアが、まだどこかにある可能性は少なくないが、蛍石《フローライト》は壊《こわ》れやすい。ほかの宝石のように、永遠に形をとどめるものではないのだから、人手は困難だろう。そのうえ、魔力を持つ部分はフレイアの中でもさらに希少《きしょう》なはずなのだ。
だからこそプリンスは、竜をよみがえらせてまで蛍石を生み出させようとした。
ならここにある、アルバに使われる予定のフレイアは、最後のひとつだと思っていい。
これさえなければ、そして、病床《びょうしょう》だというプリンスが死ねば、組織は壊滅する。
「ロード、申しあげておきますけれど、このフレイアを奪っても、扱いに困るだけですよ。今は魔力が活性化している状態です。壊すことはできませんし、触れたとたん、その人間は焼け死にます」
ユリシスは、言いなりになることへの反抗か、淡々《たんたん》とそう言った。
アルバが触れれば、プリンスにつながる血に反応して記憶が流れ込むと言っていた。それ以外の人間には、まさに炎として反応するわけだろうか。
「フレイアの中にあるのは、プリンスの記憶であり、闇《やみ》の魔力を従える核ともいえるものです。魔物たちがロンドンを破滅に導こうとしているのはご存じだと思いますが、プリンスのご意志は彼らに進撃を呼びかけたままこのフレイアの中にある。命令を撤回《てっかい》することができるのは、この中身をすべて受け継いだのちのプリンス≠セけ。むろんアルバは、現在のプリンスと同じ存在になり、妖精たちをさらに勢いづけるでしょう。ロード、あなたになすすべはないのです」
「なるほど、忠告に感謝しよう。それにしても、プリンスが何度か肉体を取り替えて生き続けているとはね。きみも同じ方法なのかい? とすると、今のきみもかつては、アルバのように人格を破壊されていたのかな」
ふ、とユリシスは小さく笑った。
「そうだったとして、何だというんです? それはおれの身に起こったことじゃない。お忘れでないとは思いますが、おれは妖精族の血を引いている。フレイアがなくても、子孫の体にうまく処置さえ施せば、記憶を移し、永遠に生き続けられる」
フレイアの魔力は、妖精の魔力だ。青騎士|伯爵《はくしゃく》の血を引くユリシスに、もともとその力が備わっているとしても不思議ではないのかもしれなかった。
しかし妖精族の寿命は長い。子孫を犠牲《ぎせい》に長寿を得る必要はないのだとすると、子孫だろうが他人を蹂躙《じゅうりん》するこの方法は、どう考えても、人間が魔力を悪用したものでしかない。
「なのに青騎士伯爵家は、その魔法を禁じていた」
ユリシスは、話しながらも急に苛立《いらだ》ちをおぼえたようだった。
「それどころか、庶子《しょし》の系譜《けいふ》に魔力を扱える資質が現れないよう、たとえ現れても、大人になるまでに消えてしまうよう術を施していた。おれも、もう少しでこの力を奪われるところだったわけです。……救ってくださったのは殿下です。殿下のお力で、闇の妖精たちの力で、伯爵家の呪縛《じゅばく》は解かれた。おれは、この能力を永遠に持ち続けることができるようになりました」
それで、ユリシスはプリンスに従うのか。
けれどエドガーには、まだ納得《なっとく》できなかった。ユリシスを助けたのは、最初のプリンスだけではないのか。
「滑稽《こっけい》じゃないか、ユリシス。きみはアルバをさんざん虐待《ぎゃくたい》してきたんだろう? なのに彼がプリンスとなれば、忠実に従う気なのか?」
「おれは彼に従うんじゃない。プリンス≠ニいう偉大な存在に従うんです」
ユリシスはそう言いながら、最後の鍵を挿し込まずに手を止めた。
「残念ながらロード、時間切れです。ここへは、誰が入ろうとその都度《つど》殿下に報告が行くのですよ。許可したおぼえのないアルバを同行しているのはおかしいと、殿下がお気づきになったのでしょう」
とたん、銃声《じゅうせい》が鳴った。エドガーは床に伏《ふ》せる。その隙《すき》にユリシスが離れる。
続く銃声は、頭上をかすめて金属のドームに当たる。部屋へ駆《か》け込んでくる男が数人、次々に発砲する弾丸を避けるために、エドガーはドームの後ろへ回り込む。
「やめろ、相手は銃を持っていない。取り押さえろ」
ユリシスの声に銃撃がやんだ。しかし次の瞬間、彼らの悲鳴《ひめい》が聞こえた。
立ち上がったエドガーの目には、男たちに襲《おそ》いかかる漆黒《しっこく》の馬が映る。
「……ケルピー?」
「伯爵、さっさとここから出ろ!」
人間の武器で傷つけることはできないという妖精、ケルピーは銃弾もものともせず、ユリシスの手下に牙《きば》をむき、足蹴《あしげ》にして踏みつける。
どうしてケルピーが?
わけがわからないまま、エドガーは混乱のさなかをすり抜け、部屋から抜け出す。
「おい、こっちだ、追え!」
集まってくる敵を避けながら、走る。
目の前にひとりが立ちはだかる。
ナイフで応戦しようとしたとき、その人物は床に崩《くず》れ落ちた。
「エドガーさま、もうしわけありません」
レイヴンは、指示がある前に出てきてしまったことをわびたようだ。しかし今は、そんなことはどうでもよかった。
エドガーは頷《うなず》きながら、彼を促《うなが》し急いで近くの部屋へ入る。
ドアを家具で押さえながら、隠れるところはないかと見まわす。
「レイヴン、おまえが見つかるのはまずい。僕ならすぐには殺されない。身を隠すんだ」
「でも、彼らはすぐに発砲します。殺すつもりがなくても、流れ弾に当たる危険が」
「おい、静かにしろ!」
声は、家具でふさいだはずのドアの内から聞こえた。ゆるりと姿を現したケルピーは、黒髪巻き毛の人間に姿を変え、エドガーの方へ近づいてきた。
「いいか、声を出すな、わずかも身動きするな。誰かに触れられてもだ」
ドアを壊そうとする音が、振動とともに響いた。立てかけたクローゼットがゆれ、今にも倒れそうだ。
間もなく踏み込まれるのは確実で、エドガーにはケルピーの言うことを試みるしかなさそうだった。
信用していいのかどうか、半信半疑な気持ちで頷く。レイヴンにもそうするよう視線で合図した瞬間、ドアが壊され、部屋に男たちがなだれ込んできた。
ランプを手に、彼らは部屋の中をゆっくりと照らし出す。
エドガーは、光がまぶしく目に射し込むのを感じたが、それでも彼らは、そこにいる人物を椅子《いす》か何かのように見過ごした。
何人かが部屋の中を歩き回る。息を詰めて、エドガーもレイヴンもじっとしている。ケルピーの姿は、今は見えない。
ときおり男たちは、肩をぶつけるようにしてすぐわきを通り過ぎたが、それでもふたりの存在には気づかなかった。
窓から壁《かべ》伝《づた》いに隣室《りんしつ》へ逃げたかもしれない、誰かがそう言い、男たちは引き上げていく。
部屋に誰もいなくなって、ようやく息をついたエドガーは、ケルピーがまた姿を現すのを眺めていた。
「エドガーさま、お気をつけください」
レイヴンに言われて警戒する。なぜかケルピーに助けられたが、こいつはリディアをほしがっている妖精なのだ。エドガーのことはじゃまに思っているはずだった。
それに、リディアはケルピーの魔法の壁を抜け出して、ロンドンへ向かっているとコブラナイが言っていた。
ケルピーがリディアを追うなら話はわかるが、なぜエドガーのところに現れるのか。
そこまで考えたエドガーは、いやな予感にあせりをおぼえた。
「ケルピー、まさか、リディアに何かあったのか?」
ケルピーはちらりとエドガーを見て、視線をそらした。言いたくないけれど言わねばならない、そんなふうだった。
「正体不明の妖精に連れ去られて、ロンドンブリッジの中に閉じこめられた。橋の奥の、人間界と妖精界の境界にある魔力の聖域だ。俺は入っていけない」
「それでつまり……、僕なら入っていけるんだね?」
「ああ、入り口は教えてやる。だが、ただ入っていきゃいいってもんでもないぞ。何が何でも、リディアを無事連れ出してもらいたいんだ」
ケルピーの、自分こそリディアの保護者みたいな言い方にはむかついた。
「きみに言われなくても、僕は婚約者≠ネんだから、何が何でも無事助け出すつもりだよ」
こんどはケルピーが、婚約者≠ニ強調されてむっとしたらしく舌打ちした。
「つもりじゃなくて、きちんと算段してくれ。あの橋は夢魔《むま》の重みで今にも崩れそうだ。下流からアンシーリーコートの群《むれ》が押し寄せつつもある。まだどうにか持ちこたえているが、これ以上力が加わったらどうなるかわからない」
エドガーは、箱船《ジ・アーク》≠ノ積まれた火薬を思い浮かべていた。
あれを橋にぶつけるという、プリンスの計画が実行されれば、確実にロンドンの護《まも》りは崩壊《ほうかい》するということだ。
「なぜ、リディアがそんなところへ閉じこめられることに……」
「人柱《ひとばしら》だってよ。橋が壊《こわ》されても、乙女《おとめ》の命を代償《だいしょう》に聖域だけは結界《けっかい》としての力を保てるかもしれないから。リディアは人柱に選ばれたらしい」
「だから、どうしてリディアが? いったい、その妖精は何者なんだ?」
「知るかよ。そんなことより、リディアを助け出すことを考えてくれ」
その通りだと、エドガーは頭の中を切り換える。
まずは何より、橋が壊れる危険を取り除かねばならない。そのためには、ふたつの方向から対処することが必要だった。
まずひとつ、箱船≠止めること。もうひとつは、夢魔やイーストエンドに集まっている|悪しき妖精《アンシーリーコート》の進撃を止めること。
箱船≠フ方は、|朱い月《スカーレットムーン》≠ノまかせてある。人為的《じんいてき》な強硬《きょうこう》手段で止められるはずだから、彼らに期待するとする。
しかし悪しき妖精を止めるのは、どうすればいいのだろう。
「ケルピー、下町に集まってきているアンシーリーコートはきみも同類だろう。どうにかできないのか?」
「あんなゴミみたいな連中と、この気高《けだか》き水棲馬《ケルピー》をいっしょにするな」
「ゴミなら追い払えるだろう」
「数が多すぎる。人間だって、小さな虫の大群を止められないだろうが。だが、あの虫けらどもを率いてる強い妖精がいるはずだ。それを止めれば、虫の大群はまとまりを欠くだろうな」
「エドガーさま、それはプリンスが手に入れた、戦いの女神ではないでしょうか」
問われもしないのにレイヴンが口をはさむのはめずらしい。それだけに、彼には確信めいたものがあったのだろう。
「戦いの女神? 透輝石《ダイオプサイド》に封じられていたネワンとマハか?」
「箱船≠調べていたとき、ロンドン塔《とう》を旋回《せんかい》するズキンガラスを何度も見ました」
ズキンガラスの姿を取るという、三位一体《さんみいったい》の女神は、妖精の前身といわれるケルトの女神だ。そのうちのふたつをプリンスが手に入れた。三つめの女神は、レイヴンの中にいて、もはや表にでてくることはないだろう。
しかし、同じものをかかえているだけに、レイヴンはネワンとマハの存在にも気づいたに違いない。
「あの女神たちは戦いの将に従《したが》う。ユリシスじゃなくて、プリンスの意志で動いているんだろう」
ケルピーが言う。エドガーは、ユリシスの言葉を思い出していた。
フレイアの中にあるプリンスの記憶《きおく》は、闇《やみ》の魔力を従える核。すでにプリンスの、ロンドンを廃墟《はいきょ》にしろという命令は、その核とともにフレイアに込められている。プリンスを葬《ほうむ》っても、フレイアを奪っても、事態は変わらない。魔物の進撃を止めるには、記憶を受け継いだアルバが、妖精を止める意志を示すしかない。
しかし、記憶を引き継いでしまったら、おそらくアルバはプリンスと完全に同化する。
アルバのことは、できれば殺したくはない。助けると約束した。
ならば、残る方法は……。
「エドガーさま」
レイヴンの心配そうな声は、黙《だま》り込んだエドガーがあまりにも思い詰めた顔をしていたからだろうか。
「ああ、大丈夫だよ、レイヴン」
エドガーは平静を装《よそお》う。
「ケルピー、もしもプリンスが、女神に去るよう意志を示せば、|邪悪な妖精《アンシーリーコート》たちの群は散ると思うか?」
「さあ、あれだけ集まってると、散るというよりは目的を失って迷走しそうだな。それでも、今よりは力を削《そ》ぐことになるだろうが」
効果のほどは見込めない。それでも、すべてを阻止するために、リディアを守るために、やってみるしかない。
「あまり考えている時間もないな」
自分に言い聞かせるようつぶやいて、エドガーは顔をあげる。
迷っている場合ではない。そう心に決めて、微笑《ほほえ》んでみせる。
「さてケルピー、きみには僕の指示に従ってもらうよ」
「は? なんで俺さまが」
「リディアを救うために、協力を惜《お》しむつもりはないだろう?」
「そりゃ……」
「まず、敵の現状を偵察《ていさつ》してもらおう。さっきからやけに静かだ。僕らをさがしまわるより、何かをはじめようとしているのかもしれない。それからアルバって男を見つけて、今どうなっているか報告を。可能なら、僕のところへ連れてきてもらいたいんだけどね」
たたみかければ、ケルピーは不本意そうに鼻を鳴らした。
「あとでおぼえてろ。言っておくけどな、リディアはまだ俺の保護下だ。助け出せたって、魔法を解けないかぎりあんたと結婚するなんて言ったことは思い出せないんだからな。ああ、結婚なんてさせるもんか!」
捨てぜりふを吐《は》いて、姿を消した。
ケルピーのいなくなった部屋の中で、レイヴンはなぜか不思議そうにエドガーを見ていた。
「……本当だったんですね」
「ん? 何が?」
いえ、と目をそらす。
そういえば、と心あたる。エドガーがリディアに結婚の承諾《しょうだく》を得たと報告したとき、レイヴンはもちろん、執事《しつじ》も信じてくれなかったのだった。
考えてみれば、リディアが承諾の返事をくれたとき、あの場に立ち会ったのはケルピーだけだった。
「もしかしてレイヴン、まだ信じてくれてなかったのか? リディアが僕のプロポーズを受けてくれたことを」
「もうしわけありません」
素直にあやまられて、気が抜ける。
「おめでとうございます、エドガーさま」
今ごろほっとしたように言われても。
苦笑しながらも、けれどそのときエドガーは、レイヴンのずれた祝福《しゅくふく》に少しばかり救われていた。
もしもこの先、彼女があの瞬間を思い出すことがないとしても、確かにエドガーを受け入れてくれた。その事実があれば救われる。
これから自分がすることは、紛《まぎ》れもなくリディアを守るためだと確信できれば、すべてを失うことになろうとやり遂《と》げられる。そう思った。
*
「当クラブは女人《にょにん》禁制でございます。どうぞお引き取りください」
「オーナーに会いたいって言ってるだけだろ!」
「ですからオーナーは不在です」
「だったら誰か、見知った顔がいるかもしれないから中へ入れろよ」
「女人禁制だともうしあげましたが」
「あたしを誰だと思ってんの? 泣く子も黙る海賊《かいぞく》……いや、とにかく急ぎの用なんだよ!」
会員制高級クラブ、ムーンシャイン≠フ入り口で、重厚《じゅうこう》な黒いドアの前に立った従業員と、はすっぱな口調《くちょう》の少女とがもめていた。
ポールは、クラブへ入るためにそのドアへ近づいていきながらも、オーナーのスレイドに用があるらしい女を、何者だろうと眺《なが》めていた。
それにしても、奇妙な女だった。言葉|遣《づか》いもいいかげんにまとめた髪の毛も、下層の娘かと思うのに、まとうドレスは高級品だ。ポールでもわかるくらい、細工の細かなレースやビーズが縫《ぬ》いつけられている。
「エドガーんとこの執事にきいて来たんだよ。ほら、あのずんぐりした魚っぽい顔の執事」
そばを通り抜けようとしたポールは、思わず足を止めた。
「きみ、アシェンバート伯爵《はくしゃく》の知り合い?」
振り返った彼女は、顔を輝《かがや》かせ、抱きつかんばかりにポールに駆《か》け寄ってきた。
「そうだよ。兄ちゃん、あんたなら話がわかりそうだ。教えてくれ、エドガーのやつどこへ行ったんだ?」
ポールがはっと逃げ腰になったのは、エドガーの遊び相手ではないかと思ったからだった。
貴族が下層の娘を着飾らせて囲い込むなどというのはよくある話だ。言葉遣いに合わない服装も、そうだとしたら納得《なっとく》がいく。
そんなことが|朱い月《スカーレットムーン》≠フ中で噂《うわさ》にでもなって、リディアの耳に入ったりしたら大変なことになるのではないか。
リディアの態度ひとつで、エドガーがどれほど扱いにくい人になるか知っていたから、ポールは見知らぬ女を前に冷や汗を感じた。
「あの、お嬢《じょう》さん、伯爵はここへはいらっしゃらないよ」
後ずさりつつ言ってみる。
「じゃあどこだよ」
「その……」
「まさか、女のとこじゃないだろうな? あいつ、婚約したって言いながら、まだ遊び歩いてるのか?」
「えっ、伯爵が婚約したことを知ってるのかい?」
「あの女たらしの言うことじゃ、信用できないけどな」
彼女は信じたくないとでもいうふうだ。けれど知っているなら、エドガーは別れ話をしたのだろうとポールは思った。
「婚約者と会ってるんじゃないかな。だからきみは……」
もうあきらめた方がいいよと言いたかったが。
「しっかし、婚約って本当なのか? あの女好きが、ひとりの女房《にょうぼう》と一生やっていけると思うかよ?」
彼女は深刻そうに眉根《まゆね》を寄せ、ポールに詰め寄る。
「そ、それは……」
「なあ、あんた本当は居場所知ってるだろ。婚約者の家には家政婦しかいなかったぜ。それにエドガーのやつ、ゆうべは帰ってきてないって執事も言う。隠すってのはあやしいな」
まさかこの娘、リディアのこともかぎつけて、家まで押し掛けていったのだろうか。別れるつもりなんかなくて、婚約者と張り合うつもりなのだろうか。
ますますあわてながら、ポールは額《ひたい》の汗を手のひらで拭《ぬぐ》った。
そんなポールの様子に、彼女は自分の想像があたっていると確信したようだった。
「やっぱり女遊びが再燃したのか? あいつ、あたしにはまじめくさったこと言ったくせに、また得意のうそかよ! 見つけたらぶん殴《なぐ》ってやる!」
「いや、あの、違うんだ」
「じゃあエドガーはどこだよ。ここにいるのか? 出さないなら、あいつの結婚なんて妨害《ぼうがい》してやるからな!」
リディアも巻き込んでの泥沼《どろぬま》を想像したポールは、もうどうしていいかわからなくなり、急いでクラブの玄関へ逃げ込んでいた。
「あ、待てよ!」
追いかけてこようとする彼女を、ドアマンが取り押さえるのをちらりと眺《なが》め、階段を駆け上がる。
二階にある談話室に駆け込み、後ろ手にドアを閉めてようやくほっと息をつく。
そこにはすでに、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ幹部たちが集まっていた。
「どうかしたのか。ポール」
「え、いえ、何でもありません」
「警部《けいぶ》には会えたのか?」
ポールは、エドガーがよく知る|ロンドン市警《スコットランドヤード》の警部を訪ねてきたところだった。
箱船《ジ・アーク》≠ノ大勢が監禁《かんきん》されている。調べてほしいと訴《うった》えたが、彼らが自分で船に乗り込んだのは事実だ。そのうえ箱船≠ヘ、上の方が調べたがらないらしかった。
『買収《ばいしゅう》されやすいのは、私だけではないのですよ』
そう言って、日頃エドガーに買収されて情報を提供しているその警部は冷たく笑った。
「とすると、我々《われわれ》だけで対処するしかないわけだ」
スレイドが嘆息《たんそく》した。
「伯爵《はくしゃく》からは、何か連絡はありましたか?」
単身敵地へ乗り込んでいったのだ。ポールには気が気でない。
ポールが行方《ゆくえ》不明だと知って、わざわざスコットランドから戻ってきたうえ、箱船《ジ・アーク》≠フ中の隠し部屋から見つけだしてくれた。エドガーは、ポールのことも、この|朱い月《スカーレットムーン》≠焉Aけっして手駒《てごま》のようには使わない。ひとつの目的を共有する仲間だと考えてくれているのがわかるから、最初はかすかな反感を抱いていたスレイドのような人間も、今では自分たちのリーダーとして認めている。
それも良《よ》し悪《あ》しで、エドガーには仲間を守ろうとするあまり、自ら矢面《やおもて》に立とうとするところがあるから心配だ。
「レイヴンにあずけた伝書鳩《でんしょばと》が戻ってきた。プリンスの隠《かく》れ家《が》へ、ジャックとルイスが若い連中を引き連れて向かったところだ」
「ともかく、こちらは箱船≠フ始末に全力を注がねば」
「そうですね……」
ポールも、武器を扱えないからには、箱船≠止めるよう知恵を絞《しぼ》るしかなかった。
グレッグがあのまま、ユリシスの手先によって箱船≠ノ監禁されているようなのも気になる。ひどいことをされたとはいえ、知り合いを見殺しにはしたくない。
「どうやってあの船を止めればいいんでしょう」
「敵も警備を厳重にしているし、侵入《しんにゅう》はまず無理だろう。外側から止めるしかない」
「それには、それなりに大きな船がいる」
「船なんて、すぐに用意できるものじゃありませんよ」
その通りだ。動かすには水夫《すいふ》も雇わねばならないし、何より雇いの水夫なんかにどうやって箱船≠攻撃させるのか。
全員で考え込んだとき、女の声がした。
「あたし、船持ってるよ」
みんなしてはっと顔をあげる。注目したドアの前には、さっきポールが会った若い女が立っていた。
「き、きみ……、どうやってここへ」
ポールはあせって立ち上がった。
「ドアマンが、殴ったら気絶したから」
呆気《あっけ》にとられる男たちを見まわし、彼女はこちらへ近づいてくる。
「あんたら、エドガーの仲間なんだ。どうやら今、面倒なことになってるみたいだね」
「ポール、誰だ?」
声をひそめて、スレイドだけにポールは答える。
「ええと、……たぶん、伯爵の恋人です」
「なんだって?」
「兄さんたち、悪いけど、ちょっとばかり話を聞かせてもらったよ。まああれだ、エドガーのやつとは腐《くさ》れ縁《えん》だし、手伝ってやってもいいよ」
女はそう言って、勝手に空いている席に陣取ると足を組む。
「箱船《ジ・アーク》≠チて、テムズ河に浮かんでるあやしい船だろ。あれをどうするんだ? 沈《しず》めるのか?」
エドガーの事情を、多少は聞いているのだろうか。彼女は驚くでも不審《ふしん》がるでもなく、作戦会議に加わる態度だ。
「……伯爵の好みの女性は幅《はば》が広いな」
スレイドがつぶやく。ポールは頷く。
「なあ、煙草《たばこ》持ってない?」
そばの男に訊《たず》ねた少女は、葉巻を与えられると、慣れた様子で香りを確かめ、吸い口を噛《か》み切ってくわえる。燭台《しょくだい》を引き寄せて火をつける。
「で、どうする? あたしを仲間に加える?」
「……念のために聞くが、どんな船だ?」
「オランダ製のフリゲート。小型だけど、軽くて速い。あの混雑した河でも自由に身動きできるよ」
「フリゲート? 軍艦《ぐんかん》じゃないか」
「古くて払い下げられたやつなんで、大砲《たいほう》はついてないけどね」
スレイドは、少女にちょっと待ってくれと言い、みんなを部屋の片隅《かたすみ》に集めた。
「どうするんですか、ミスター・スレイド」
「船があれば作戦も立つ」
「信用していいんでしょうか」
「敵のスパイでは?」
「伯爵家の執事《しつじ》にここを教えられたそうですから、執事も知るうえ信用されている女性なんだと思います。確認すればすぐにわかることですが……」
ポールは言いながらも気が進まなかった。
しかしほかの仲間たちは乗り気だ。
「なら、問題はないでしょう。伯爵のために一肌脱ぐつもりのようですし」
「勝手に伯爵の女を使っては、あとで面倒になるのでは? 婚約したばかりなんだろう?」
「それは……、女性関係の始末くらい、ご自分でなさるだろう。得意分野だろうし」
たしかに、エドガーならそんなにあわてないかもしれない。けれどリディアはどうだろうと、聞きながらポールは不安になった。
軽い気持ちで女性を口説《くど》く、あの伯爵が考えているよりも確実に、リディアは潔癖《けっぺき》な娘だ。結婚を承諾《しょうだく》してくれたと伯爵は言うが、腐れ縁なんていうほど長いつきあいらしい女性を目《ま》の当たりにしたら、破談になりかねないではないか。
伯爵には、必ず平穏《へいおん》な幸福を得てもらいたいとポールは願っている。そのためにはリディアがいなくてはいけないだろうし、リディアだってきちんと愛されて幸せになるべき少女だ。
もとより結婚などありえない、遊び相手の女性にしてみれば、妻がいようと愛人関係でかまわないのかもしれないが、結婚前からこんなことでは波風が立つに決まっている。
しかし、ポールの心配をよそに|朱い月《スカーレットムーン》≠フ意見はまとまりつつあった。
「ところでお嬢《じょう》さん、名前は?」
スレイドが訊ねた。
「ロタ」
煙を吐《は》き出し、彼女はにっこり笑った。
気の強そうな、つり目がちの顔立ちだが、笑うとえくぼができてかわいらしくさえなるのをポールは意外に思った。
*
エドガーはレイヴンと、暗い階段の下に身を隠しながら、ケルピーが戻ってくるのを待っていた。
付近の様子を調べたが、すっかり人の気配《けはい》がなくなっている。
ユリシスたちがエドガーの捜索《そうさく》を打ち切って、別のことを始めようとしているのは間違いないだろう。
ここで何かがはじまるとしたら、フレイアの中の記憶《きおく》をアルバに移すという、その儀式しか考えられなかった。
そして儀式は、隠れているエドガーを誘《さそ》い出すにも効果的だと、ユリシスは算段しているに違いない。
もともと儀式は、今夜に予定されていたことかもしれないのだ。そうだとしたら、エドガーにも見せつけるつもりだっただろう。
結局、その場に居合《いあ》わせることになる。それが自分の宿命ならしかたがない。
そしてエドガーは、今のうちにしておくべきことはないかと考えていた。
レイヴンに、伝えておくべきことがある。
小さな声で名を呼ぶと、すぐそばの闇《やみ》の中で少年がかすかに動いた。
「レイヴン、この先のことは、おまえにはあえて何も命じない。だから、自分の判断で動いてくれ」
こちらに向けられた瞳は、遠くのランプ明かりさえも不思議に反射して、深い緑を帯びて見える。
レイヴンが、精霊とともにいるというしるしの緑だ。
はい、と小さく答え、彼はまばたきした。
「だけど、ひとつだけ頼みがある。命令ではなくて頼みだ」
たぶん、レイヴンにその違いはわからないだろうけれど、エドガーはあえて言った。
「何よりまず、自分を守れ」
「私の役目は、エドガーさまをお守りすることです」
「おまえが無事でないと、僕は冷静でいられないかもしれないからだ。たのむよ、レイヴン。この戦いで重要なのは、僕が迷わずに心を強くしていられるかどうかだ。たぶん、そういうことになると思う」
わけがわからない様子だったが、それでももう何も言わなかったから、彼は承諾したのだろう。
レイヴンは本来なら、彼の部族の王に従うべき戦士だ。精霊を宿《やど》して生まれたのはそのしるしだ。けれど彼は、王の末裔《まつえい》ではなく、エドガーを主人に選んだ。
王の末裔からレイヴンを取り返したエドガーはもう、レイヴンとの主従《しゅじゅう》関係を、いつかは解消するものだとは考えなくなっていた。
以前はそう考えていた。レイヴンはたまたまそばにいるけれど、本来は別の場所で、別の人生を生きるべきだと思っていた。
けれどもう、そんなふうには思わない。たとえ彼が独り立ちしても、自分は主人であり続けるだろう。
これは魂《たましい》の主従だ。生まれつきの身分に隷属《れいぞく》しているわけではなく、ひとつの完成した関係なのだ。そう感じるからエドガーは、これからどんな選択をしても、レイヴンだけはそばにいると確信できた。
「おい伯爵《はくしゃく》、出てこいよ。このへんにはどうせ誰もいない」
ケルピーの声だった。
「どうなってるかわかったのか?」
「みんな広間に集まってる。プリンスもユリシスも、その配下たちもだ。フレイアも釣《つ》り鐘《がね》みたいな入れ物ごとそっちへ運ばれていった」
「アルバは?」
「ああ、そう呼ばれてたやつは、鞭《むち》で打たれて倒れてたな。隙《すき》を見て近づいたら、青騎士伯爵が助けてくれるとか何とか、うわごとでつぶやいてたが、またユリシスが来たら別人みたいに急に起きあがって、傷の痛みもないのかうれしそうに笑ってたぞ」
ようやくプリンスになれると、彼はよろこびに打ち震《ふる》えていたという。
けれど本当の彼は、救いを待ち続けている。
理不尽《りふじん》に拉致《らち》され、組織に監禁《かんきん》されて以来、絶望の底で失いかけていた彼のかすかな希望に、エドガーはなっているのだ。
「それでアルバも広間に?」
「ああ」
「よし、僕らも行こう」
レイヴンと視線を交わし、エドガーは立ち上がる。
「乗り込んでいくのか? しかし広間は厳重《げんじゅう》に妖精よけが張り巡《めぐ》らされてる」
「ならきみは見物していてくれ」
歩き出そうとすると、ケルピーはおもむろにエドガーの肩をつかんだ。
「伯爵、あんた本当にリディアのこと想ってるんだろうな?」
めずらしく余裕《よゆう》なさげな、せっぱ詰まった口調《くちょう》だった。
「あんたにとって重要なのはプリンスとの戦いで、リディアは利用されてるだけ。俺はずっとそう思ってきた」
「今も、そう思っているんだろう?」
「ああ、あんたは信用できない。プリンスさえ葬《ほうむ》れば、リディアはどうなってもいいと思ってないか?」
「違うと言ったら信じるのか?」
ケルピーは、怒ったようにエドガーの胸ぐらをつかんだ。
「……いいか、絶対に死ぬな。リディアは婚約なんておぼえてないのに、あんたに会いたくて出ていったんだ! だから、死んだりしたら承知しないぞ!」
もういちど会いたいと、エドガーが言ったからだ。
だからケルピーは、恋敵《こいがたき》のはずのエドガーに、死ぬなと言う。
純粋に、リディアのためを思っている。
その言葉に、エドガーは心を強くした。
リディアを想う気持ちなら、こいつになんか負けはしない。
水棲馬《ケルピー》の無礼《ぶれい》な手を、親しみを込めてたたき払う。
「ケルピー、僕は、勝つつもりだ」
広間にずらりと整列するのは、黒いローブに身を包んだ、プリンスの組織の者たちだ。
中世の修道士みたいに、深くフードをかぶり、蝋燭《ろうそく》を手に広間へ入っていく。これから行われるのが黒魔術じみた儀式だと思えば、広間の床に、魔方陣《まほうじん》だの山羊《やぎ》の血などないことが、かえって不思議になるくらいだ。
エドガーはレイヴンと、同じ黒いローブをまとい、彼らの中に紛《まぎ》れ込んでいた。もちろん彼らの仲間から奪ったものだ。
ローブを奪われたふたりは、長年使われていそうにない暖炉《だんろ》の奥へ突っ込んできた。しばらくは発見されないだろう。
どのみち、ほとんどの人員がこの広間に集まってきているはずだ。屋敷の中に、これだけの人間がいたのかと思うほどだ。
そんな広間の中央には、例の釣り鐘を伏《ふ》せたような物が置いてあった。
フレイアが入っている、鍵《かぎ》だらけの入れ物だ。
玉座《ぎょくざ》、ともいうべきは、ビロードのカーテンの奥か。そこには男がひとり座っていた。
プリンスだ。
エドガーが知る数年前よりも、髪には白いものが増えている。顔を隠す仮面は、以前はアルバのように片目を覆《おお》うものだったが、今は顔のほとんどを覆っている。素顔が見えるのは、口元とひげを生やしたあごくらいだ。
火傷《やけど》のあとは顔の一部だけだったはずだが、以前にリディアを殺そうとしたプリンスの替え玉も、顔全体に包帯を巻きつけていた。皮膚《ひふ》がくずれるような病気でも患《わずら》っているのだろうか。
肘《ひじ》掛《か》けにゆったりと置かれた手は、黒い手袋に包まれ、大きな宝石のついた指輪で飾られている。ぴんと伸びた背筋も、堂々とした体格も、足の悪い老人には見えない。それは以前、エドガーがよく知っていたころと、少しも変わっていなかった。
何よりも、仮面の奥にのぞく目だ。
こちらからははっきりとは見えないのに、鋭《するど》い視線だけは感じられる。冷たく傲慢《ごうまん》な、あの目にとまった人間はことごとく運命を狂わされる、そういう目だ。
古代ローマの暴君《ぼうくん》のように、恐怖ですべてを支配する、この組織の長だ。
エドガーは、久しぶりに見る長年の宿敵に、全身の血が熱くなるのを感じていた。
あの男を前に、冷静でいるのは容易ではない。深い憎《にく》しみに突き動かされ、今すぐ飛びかかってしまいそうな気さえする。
そんなやり方では勝てないと自分に言い聞かせて、強く奥歯をかみしめる。
大勢の中に紛れていても、この強い殺気が、プリンスにこちらの存在を気づかせてしまうのではないかと恐れるほど、エドガーは憎しみの感情に支配されていた。
それでも彼は、以前とは違っていた。
ここにいるのは自分の復讐《ふくしゅう》のためではない。
青騎士伯爵として、妖精国《イブラゼル》の領主としての責務を果たすため。
そしてリディアを守るため。
心の中で彼女の名をつぶやく。それだけで気持ちが静まる。
再会を願ったエドガーを追い、安全なケルピーのもとを抜け出してきた彼女のために、勝たねばならない。
視界にプリンスの姿を眺《なが》めながらも、リディアのことを考えれば、エドガーはしだいに冷静さを取り戻してきているのだった。
そうなると、見えてくることもある。プリンスの状態がよくないらしいことは、かすかに指先がふるえているその様子から想像できる。
おそらく、ああして座っているだけで精一杯ではないのだろうか。
だからこそ、ロンドンを押さえるというこの大事な時期に、組織を率い指揮を執《と》り、現王室に宣戦布告《せんせんふこく》するために、若く見栄《みば》えのいい王子《プリンス》≠必要としているのだ。
フードの奥で視線を動かし、エドガーはプリンスの周囲に目を移す。そうして、ユリシスとアルバを確認する。
ユリシスは、|炎の蛍石《フレイア》が入った金属ドームのそばにいた。
それと向かい合うように置かれた椅子《いす》に、仮面をつけたアルバが、神妙《しんみょう》な顔つきで座っている。
エドガーも見覚えのある、プリンスの側近《そっきん》が数人、フレイアとアルバを囲むような配置で立っている。
ユリシスは、じゃらじゃらと耳障《みみざわ》りな音をさせて鍵の束《たば》を取り出すと、プリンスの方をちらりと見た。
ゆるりとプリンスが頷《うなず》く。
同時に、広間は静まりかえる。
儀式が始まったのだ。そう思わせる静寂《せいじゃく》の中、気が滅入《めい》るほどの陰鬱《いんうつ》な空気を感じるのは、黒いローブの集団のせいだろうか。金属ドームが、蝋燭の明かりに不気味に輝くせいだろうか。
ユリシスは、ついさっきエドガーの前でやって見せたように、次から次へと鍵を挿し込んでいく。そんな金属音だけがあたりに響く。
音は二十一回。そして二十二個目の鍵の音が、こんどは何の問題もなく聞き取れると、ドームの正面がゆっくりと左右に開いた。
それを眺めている組織の者たちは、声をあげるでもなく、感じ入る様子もない。
儀式というには、すべては簡素に進行していく。
ドームの中へ進み入ると、ユリシスは、間もなく|赤い蛍石《フレイア》の入ったガラスの箱を手に外へ出てきた。
アルバが椅子から立ち上がった。
今しかない。エドガーは、隣にいるレイヴンに目配《めくば》せした。
レイヴンは小さく頷く。
それを確かめ、エドガーはその場から駆《か》け出す、と同時に、銃声《じゅうせい》が部屋中に響いた。
レイヴンが周囲に向けて撃った二発は、あたりを騒然《そうぜん》とさせる。
黒いローブの連中が、銃声にうろたえて列を乱した。そちらに気を取られたユリシスは、向かってくるエドガーに気づくのが遅れた。
その隙《すき》に、ユリシスに飛びかかる。エドガーは彼とふたりして床に倒れる。
ガラスの箱をもぎ取る。
しかしユリシスは、エドガーに押さえつけられたままにやりと笑った。
「これは本物ではありません。あなたが奪いに来るだろうと、見せつけただけですよ」
同時にエドガーは、背後《はいご》から頭に銃口《じゅうこう》を突きつけられ、ユリシスから手を離すしかなくなっていた。
ピストルを持った男に、ローブをもぎ取られ、膝《ひざ》が床へつくよう押しつけられる。
むりやりプリンスの方へ顔を向けられると、視線の先であの憎い男は低く笑った。
「テッド、よく頑張《がんば》ったとほめてやる。私を本気で怒らせるほどの才能は惜《お》しい。おまえを逃がしたのは、まったくもって残念だよ。だがおまえには、殺す前に見せてやろう。私が生まれ変わる瞬間を」
プリンスは、上着の中に手を入れ、何かを取り出す素振《そぶ》りを見せた。
「アルバ、拾え」
絨毯《じゅうたん》の上に転がしたのは、燃えさかる炎のような蛍石《フローライト》だ。
アルバが、近づいていく。
触れればその瞬間、あのフレイアにおさめられた記憶《きおく》が、同じ血筋《ちすじ》に反応して、アルバの中に流れ込むという。
アルバの中に残っていたもとの彼は、もはやあらがう力もなくかき消されてしまうだろう。
だが、近づいていくアルバは、嬉々《きき》としてプリンスになりたがっている方の人格だ。
「やめろ、ノディエ!」
エドガーは、本当の彼の名を叫《さけ》んだ。
「しっかりしろ、自分で自分を殺したいのか!」
瞬間、彼がこちらを見た。それから周囲を見まわし、おびえたように膝をふるわせて座り込んだ。
「伯爵《はくしゃく》、……助けてくださ……」
だがすぐに、ふたりがかりで引き起こされ、フレイアのそばへ引きずられる。腕をつかまれ、むりやりフレイアへ押しつけられそうになる。
アルバはかろうじて抵抗《ていこう》しているが、もうひとりがしゃしゃり出てきたらおしまいだ。
そのとき、背後の男がエドガーから手を離した。そのまま床にくずれる。
フードをはねのけたレイヴンが、エドガーをかばうように立って、ナイフとピストルを両手でかまえる。
自由になったエドガーは、すぐさまフレイアに向かって走った。
アルバにフレイアをつかませようとしている男たちを押しのけ、エドガーはフレイアに手をのばす。
「まさか、ロード、やめろ……!」
ユリシスの声は、あせりと驚きに満ちていたが、エドガーはとっくに心を決めていたのだ。
アルバと同じように、プリンスに、そして王家につながる血をエドガーも引いている。
プリンスを存在させてきた意図《いと》や力を秘めた記憶、すべてがこのフレイアの中にあるなら、まるごと奪うことができるはずだ。
邪悪《じゃあく》な妖精を従《したが》える核。それを手に入れ、自分の意志で進撃を止める。ロンドンブリッジに向かう力を削《そ》ぐ方法はこれしかないと、決意していた。
もはや迷うこともなく、エドガーは、しっかりと手の中にフレイアを握《にぎ》り込む。
焼《や》けるような熱を感じた。
指の隙間《すきま》からまぶしいほどの光が漏《も》れる。と思うとそれが、一気に広がる。
思わず手を開くと、フレイアは跡形《あとかた》もなく、エドガーの手のひらに、赤い火傷《やけど》のあとに似たものが残っているだけだった。
自分の中に、最初のプリンスの記憶が流れ込んだのかどうか、何もわからない。変化は徐々に訪れるのかもしれない。
いずれにしろ、今はまだ、やるべきことが残っている。
周囲が呆気《あっけ》にとられているうちに、エドガーはレイヴンからピストルを受け取り、それをまっすぐプリンスへ向けた。
「……なるほどな。テッド、おまえが裏切ったとき、やはり早めに殺しておくべきだったな」
仮面の下の表情はわからないが、プリンスの口調《くちょう》は動じていないように思えた。
「だが、これで私に勝ったわけではない。この英国を追放された王家の呪《のろ》いは、粛正《しゅくせい》された支持者の恨《うら》みは、これからおまえにのしかかる。個人の力で止められるものではない」
「何と言おうと、あなたはもう終わりだ」
力を抜いたように、プリンスは笑う。予想外のはずのこの事態さえ、楽しんでいるかのようだった。
「テッド、おまえが私に復讐《ふくしゅう》を誓い、生き延《の》びるために何でもしたのは知っている。おまえは、人の上に立つべく生まれた。誇《ほこ》りを傷つける者は許さないと思うからこそ、私を憎《にく》んだ。その尊大《そんだい》な魂《たましい》で、いつか、目覚めるだろう。自分こそが玉座《ぎょくざ》に着くべき人間だと気づき、今の地位になどあまんじてはいられなくなるだろう」
「僕は、青騎士伯爵だ。それが今も、これからも僕の誇りだ」
どうかな。そうつぶやきつつ、プリンスは、さっきフレイアを取りだしたのと同じ動作で、上着の内からピストルを取りだした。
身構え、引き金に力を入れようとしたエドガーだが、思いがけずプリンスは、銃口を自らの頭に向ける。
「おまえには、私を殺すことはできない」
言いながら、ためらいもなく引き金を引いた。
血が飛び散った椅子《いす》の上で、宿敵はがくりとうなだれ、動かなくなった。
あっけなさすぎて力が抜ける。
エドガーは、握っていたピストルとともに腕をおろしていた。
フレイアはもうない。これで二度と、プリンスは現れない。
人格を殺されてはいないエドガーが、記憶≠他人のことと突き放していられるなら。
イーストエンドのアンシーリーコートは、進撃を命じる意志が消えたのを感じているだろうか。魔力は削がれただろうか。
ロンドンブリッジへの攻撃が弱まれば、リディアを救い出せる。
その代わりに自分がかかえるものも、すべてわかった上でこの選択をしたつもりだ。それでも、プリンスの最後の言葉が、エドガーに重くのしかかった。
エドガーは、プリンスという存在を、本当に葬《ほうむ》り去ることができるのか。
自分の中に流れ込んだものを。
すぐそばでレイヴンが警戒《けいかい》を強めたのは、ユリシスやほかの幹部たちが、目の前に並んだからだった。
ゆるりと見まわすエドガーの視線の先で、彼らはいっせいにひざまずいた。
「未来の英国を担《にな》う、|我らが王子殿下《ユア・ロイヤル・ハイネス》。我々《われわれ》は、殿下《でんか》に永遠の忠誠《ちゅうせい》を誓うものです。どうぞお見知りおきを」
笑わせる。ついさっきまで全霊を傾《かたむ》けて仕《つか》えていた老人が、死体となっては見向きもしないのか。
エドガーは、神妙《しんみょう》に頭《こうべ》を垂れているユリシスの胸ぐらをつかみ、引き起こした。
「箱船《ジ・アーク》≠ニイーストエンドの妖精たちを止めろ」
「できません」
ユリシスは、以前のような不遜《ふそん》な笑《え》みをこぼすこともなく、神妙に答えた。
「妖精たちはプリンス≠ニの契約《けいやく》に従って、呼びかけに応じたのです。呼びかけがやんだ今、まとまりを欠くことになるでしょうが、あれだけの数を急に止めるのは不可能です」
「船は? 動かすのは人間だろう」
「この計画は組織の、長年の願い。中止の指令はありえないからには、現在は波止場《はとば》を離れている船と連絡を取るすべはありません」
「なら、僕が止める」
「あなたの大切なフェアリードクターを、人柱《ひとばしら》にしたくないからですか?」
立ち去ろうとしたエドガーは、思わず足を止めた。
どうしてユリシスは、リディアの居所《いどころ》を知っているのだろう。それに、人柱のことも。
眉《まゆ》をひそめ、ユリシスをにらむ。
「かつて、ロンドンブリッジの人柱となったのは、最後の青騎士|伯爵《はくしゃく》、レディ・グラディスでした。彼女によって、我らがプリンスも組織も、英国を追い払われたのです」
「グラディスが、ロンドンブリッジの……?」
「そうです。大英《だいえい》帝国の首都は、グラディスが命と引き替えに得た、強い結界《けっかい》の力で護《まも》られ続けてきました。しかしそれから百年あまり、我らが組織は力を蓄《たくわ》え、一方ロンドンブリッジは、魔から首都を守る結界としての役割を忘れられつつある。グラディスの力も弱まっている。今なら崩《くず》すことができる。そうして綿密に計画を立て、プリンスと我らが組織は英国への人国を果たしたのです」
グラディスは、青騎士伯爵としての責任で、人柱として命を落としても、プリンスを追放する決意をしたのか。
「しかし、ロンドンブリッジには、グラディスのしもべがまだ生きていたようでしてね。彼女の妖精が、新しい人柱で結界の力を補強しようとしているのでしょう。あのフェアリードクターを連れ去ったのは、あなたの恋人だからでは?」
エドガーは驚かされる。
リディアは正体不明の妖精に連れ去られ、ロンドンブリッジへ閉じこめられたとケルピーが言っていた。
それが、グラディスの妖精だったというのだ。そのうえ、リディアを連れ去った理由が、新しい青騎士伯爵であるエドガーの婚約者だからだと。
だから、結界のために命を捧《ささ》げることも、彼女の役目だと妖精は考えたのだろうか。
リディアを殺そうとしているのは、プリンスの側ではなく、エドガーの味方であるはずの、青騎士伯爵家の一員だった。そのことにエドガーは愕然《がくぜん》とした。
「ですが、あの少女が死んでも、結界を守れるでしょうか。橋につないだ夢魔も、|邪悪な妖精《アンシーリーコート》たちの群《むれ》も、くい止めるにはよほどの力が必要です。彼女の力は、グラディスとはくらべものになりません」
リディアを求め、ようやく結婚の承諾《しょうだく》を得た。それがために、彼女を守るどころか、伯爵家の義務まで押しつけることになるなんて。
ばかなと言いたかった。リディアを死なせてまで、橋を守る必要があるだろうか。
「あなたが青騎士伯爵なら、うまくいく可能性がどれほどわずかだろうと、恋人を犠牲にする覚悟でロンドンブリッジの結界が持ちこたえる方に賭《か》けるのでしょうか? それとももし、あのフェアリードクターを救い出すなら、橋の結界を守れる可能性はもうありません。あなたは、我らのプリンス≠ニして、ロンドンの壊滅に手を貸す。そういう役割を果たすことになるでしょう」
ユリシスは、エドガーの動揺《どうよう》を見切っているかのようにたたみかけた。
そうしてわずかに、これまでの不遜な態度をのぞかせ、笑ったようだった。
「ついさっき、青騎士伯爵であることが誇りだとおっしゃった。ですが、本当にそうかどうか、見物させていただきたいと思います」
エドガーは、憤《いきどお》りのままにユリシスを殴《なぐ》りつけた。
少年は勢いよく床に倒れ込んだが、誰も助け起こそうとはしなかった。
プリンス≠フ暴力を受けることなど、おそらく彼らにとっては何でもない。
ユリシスは自力で起きあがると、無礼《ぶれい》をわびるようにまたひざまずいた。
エドガーは、こんどこそ立ち去るためにきびすを返す。ユリシスは執拗《しつよう》に、エドガーの背に向けて声をかけ続ける。
「あなたは妖精国《イブラゼル》の鍵《かぎ》をお持ちだ。その気になれば、もはやあの伯爵家を永遠に葬ることも可能です。そうすれば、我々をじゃまする者はいなくなります」
レイヴンが、放心してふらつくアルバを連れ、ついてくる。黒いローブの集団が、あわてたように道をあける。
「お待ちしていますよ、殿下《ユア・ハイネス》」
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その星の名は
ロンドンブリッジへ、エドガーがようやく到着したのは真夜中だった。
静まりかえった橋が、ガス灯《とう》に照《て》らし出されて目の前に浮かび上がる。
夢魔《むま》もアンシーリーコートの群《むれ》も見えないエドガーには、この橋が崩壊《ほうかい》するという何の兆候《ちょうこう》も見つけられない。
ただ、テムズ河の下流を眺《なが》めやれば、無数に停泊《ていはく》する船の、帆柱《ほばしら》や煙突《えんとつ》が群となって目につく。同時に、どこかにいるのだろう箱船《ジ・アーク》≠フ存在を意識させられた。
問題の船は、人質《ひとじち》を乗せたまま、あれからテムズ河を下ってしばしロンドンから姿を消していた。しかしグリニッジ付近をうろついていて、いつ河をさかのぼってロンドンへ向かってくるともしれないというのが、エドガーをプリンスの隠《かく》れ家《が》へ迎えに来た|朱い月《スカーレットムーン》≠ゥらの最新の報告だ。今はまだロンドンブリッジからは見えなくても、すでにこちらへ向かってきている可能性はじゅうぶんあった。
エドガーが隠れ家を出ていったとき、彼ら朱い月≠フ団員は、屋敷を取り巻き、突入の機会をうかがっていたところだった。
無傷でエドガーが出てきたことに驚きつつも喜び、プリンスは死んだとの報告も、素直に受け止めていた。
エドガーは今のところ、あそこで起こったことを誰にも話すつもりはなく、ただ自分のなすべきことに集中しようと思っている。
「エドガーさま、お待たせしました」
レイヴンの声に振り返ると、彼はメロウの剣を大事そうにかかえ、すぐそばに立っていた。
レイヴンには、屋敷へメロウの宝剣を取りに行ってもらったのだ。コブラナイが、宝剣を持ってリディアを迎えに行けと忠告《ちゅうこく》してくれたことを思い出したからだ。
役に立つのかどうかわからない。相変わらずエドガーは、これの名前など思いつけないし、スターサファイアはしゃべりはしない。
それでも、サファイアがムーンストーンと通じ合うというのだから、リディアを見つけやすくはなるかもしれないと思う。
「アルバ、じゃなくてノディエはおとなしくしてたか?」
「ちょうど朱い月≠フスレイド氏がいらっしゃったのであずけました。ときどき、自分がプリンスだとか妙なことを言い出すけれど気にしないでほしいと言い添《そ》えてあります」
今の彼は、抜け殻《がら》にでもなったようにずっとぼんやりしているが、おそらく、プリンスになれなかった自分を受け止めかねているアルバの方なのだろう。
「そう、ならあとは、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ連中が、箱船《ジ・アーク》≠止めてくれるかどうかだね」
受け取った剣を確かめると、エドガーは、フロックコートの内に帯剣《たいけん》する。
「何がなんでも止めろとのご命令を伝えました。どうやら、ロタさんが協力してくれているようです」
「ロタが? 帰ってきてるのか」
考えてみれば、リディアがニコとスコットランドの町を出たのだ。ロタも向こうにいる理由はない。ロンドンへ戻ってきて、こちらでリディアと会うつもりだったのだろう。
「ロタさんが自分の船で箱船≠攻撃すると言っていました。屋敷で会ったのですが、ちょうどトムキンス氏に大砲《たいほう》をねだっているところでした」
「大砲?」
「トムキンス氏は、念のためにエドガーさまに、大砲を購入してもいいか確認してほしいとおっしゃっております」
朱い月≠フ活動資金は、むろんエドガーが援助《えんじょ》している。執事《トムキンス》は伯爵家《はくしゃくけ》の維持《いじ》管理に必要なものを独断で購入できるほどには金銭管理を任されているが、大砲はさすがに困惑《こんわく》したことだろう。
「しかしレイヴン、箱船≠ヘ火薬を積んでいるうえ、人質も大勢乗っている。むやみに砲撃《ほうげき》するわけにはいかないって、ロタはわかっているのかな」
「わかっている、と思いますが」
ロタは船には詳《くわ》しい。どこをどう壊《こわ》せば航行《こうこう》不能になるかもわかっているだろう。火薬を積んでいる船首のあたりにダメージを与えずに、速《すみ》やかに船を止めるには、大砲も使い方しだいかもしれない。
「なら、ロタに伝えてくれ。大砲でも何でも、鉄のかたまりなら好きなだけプレゼントしよう。ああそうだ、どんな宝石よりも、きみには鋼鉄《こうてつ》の玉が似合う、ってね」
「……あとの方も伝えるんですか」
「当然だよ」
レイヴンがかすかに眉《まゆ》を動かしたのは、ロタのげんこつが飛んできそうだからだろう。
それでも反論せずに頷《うなず》いた彼は、ロンドン塔《とう》の方を気にしたように眺めやった。
「ズキンガラスの女神が見えるかい?」
「見えるわけではありませんが、いるような気がします。でも動きは感じません」
「とすると、夢魔と|邪悪な妖精《アンシーリーコート》たちの群も、少しは鎮《しず》まっているのかな」
「動きは止まってる。プリンス≠フ意志を感じないからだろう」
急に現れたケルピーは、橋の欄干《らんかん》に座っていた。
「しかし一部の連中はすでに橋によじ登りつつあるし、やつらをすべて退《しりぞ》けないと、どのみち橋は長くは持たないぞ」
妖精たちを蹴散《けち》らす方法を、エドガーは知らない。ケルピーでも手に負えない数だというから、どのみちふつうの方法では無理だろう。
運良く箱船《ジ・アーク》≠ロタが止めても、橋の崩壊は時間の問題だというなら、リディアを外へ連れ出すしかない。しかしそうしてしまえば、人柱《ひとばしら》がいなくなり、橋の結界《けっかい》としての力までもが崩壊する。
それはプリンスが望んだとおり、ロンドンの壊滅へとつながるだろう。
もちろんエドガーは、プリンスの組織に与《くみ》するつもりはない。自分は青騎士伯爵でなければならないと思っている。
けれど、リディアを犠牲《ぎせい》になどできない。
「ケルピー、中へ入れそうな場所は見つかったのか?」
夢魔の目を盗んで聖域へ入るために、ケルピーは入り口をさがしに行っていたのだった。
「ああ。それから言い忘れたが、中に入れるのは青騎士伯爵家の者だけだ」
エドガーは、心配そうなレイヴンの方を見て、大丈夫だと頷いた。
「で、伯爵、どうするつもりだ?」
「どうするって?」
「あんたを中に入れる前に、いちおう確認しておきたい」
ケルピーは、これまでになく深刻に問うた。
理由はわかっている。
プリンスの隠れ家で、あのときは広間に入れなかったケルピーだが、起こったことはすべて見ていた。
エドガーが、以前とは違うことも知っているのだから、深刻になるのも当然だ。
ケルピーにとっては、エドガーはますますリディアをまかせるに値《あたい》しない人間になってしまったはずなのに、あのときプリンスの部下に見送られて広間を出てきたエドガーに言ったのはひとことだけだった。
『リディアを裏切るなよ』
いったい何が、彼女を裏切ることになるのだろう。エドガーは考え続けている。
グラディスと同じ人柱として、死なせてしまうことだろうか。それとも助け出して、降りかかる厄災《やくさい》からロンドンを見捨てることだろうか。
「返事しだいでは、入り口を教えないつもり?」
にらむようにエドガーをじっと見ていたケルピーは、ふと脱力したように目を伏《ふ》せた。
「いや……。こんなことを訊《き》いたって、あんたはいくらでも俺をだませる」
ケルピーにとって、選択肢《せんたくし》はないのだった。ここが青騎士伯爵の聖域なら、エドガーのほかに、リディアの居場所にたどり着ける人間はいない。
「俺には、リディアが何を望んでるのかわからない。あんたと知り合ってから、もの思うようにしてることが増えて、人間くさくなっちまった。だけど離れりゃ、もとのあいつに戻るはずだと思ったんだ。なのにあいつは、昔のあいつにはならなかった」
ケルピーは、うなだれながらも憤《いきどお》ったように言った。
しかしケルピーにとっては不愉快《ふゆかい》でも、エドガーにとってそんなリディアは、やわらかないとおしさを感じさせてくれる。
魔法で忘れていても、リディアの気持ちは自分のそばにある。エドガーをひとりにはしないと、だから結婚すると言ってくれた、あのときの彼女のままに。
伯爵でなくなっても、リディアが再会を望んでくれた自分でいたい。それはプリンス≠ニも違う、本来の自分自身であるはずだ。
「リディアは必ず守るよ」
迷うまでもなく答えは出ていた。エドガーは何よりも、リディアを守るつもりでいる。自分自身よりも、ロンドンよりも、英国よりも、リディアを。
それは間違っているのかもしれない。青騎士伯爵であることを放棄《ほうき》したら、エドガーはプリンス≠フ記憶が持つ呪《のろ》いに負けてしまうのかもしれない。
だとしたらグラディス、僕の命を奪えばいい。それで伯爵家は、悲願を果たせることになるだろう。
宝剣に手をそえたエドガーは、スターサファイアの冷たい輝《かがや》きを手のひらに感じていた。
*
「水だわ。こっちも水浸《みずびた》しよ、ニコ」
迷路のような通路を、ずいぶん長いことさまよった。境界にあるというここは、人間界とは時間の流れが違うだろう。さまよいながらリディアは、ときどき石の隙間《すきま》から見える外の世界で、日がのぼり、また沈《しず》むのを確認した。
それにくらべれば、リディアの感覚ではここに来てまだ数時間しかたっていない。
とはいえ数時間も歩き回れば疲れ果て、リディアは壁際《かべぎわ》に座り込んだ。
「どの道も下へ続いてるな。上ばかり歩き回ってても、何も見つからないか」
ニコも疲れたように座り込む。
「あーあ、腹減ったよ」
リディアは、外套《がいとう》に縫《ぬ》いつけてある布袋をさぐった。
ロンドンまでの旅費のほかには、ビスケットが少々入っているだけだった。
「食べる?」
リディアはそれを、ニコに手渡す。
妖精界にいるかぎり、リディアは空腹を感じない。感じたとしても、それは気のせいなのだと知っている。
食べなくても死なないし、むしろ妖精の食べ物を口にすれば人間界へ帰れなくなる。
ビスケットは、リディアのおやつというよりは、妖精の手助けが必要なときに、お礼にするために持ってきたのだ。
しかしこの場所には、人間はもちろん、妖精の姿も見あたらなかった。
「これしかないのかよ」
文句を言いながら、ニコはビスケットをかじる。
「熱い紅茶が飲みたいな。焼《や》きたてスコーンにハチミツとジャム。肉汁《にくじゅう》が滴《したた》るローストビーフ、バターたっぷりのマッシュポテト、キドニーパイに酢漬《すづ》けのサーモン」
「妖精はそんなもの食べないわ。このハーブ入りビスケットがいちばんのごちそうよ」
「いつまでたってもやつらは、単純なうえまるきり洗練《せんれん》されないのさ」
人間の食べ物が好きな変わり者妖精猫は、まだぶつぶつとぼやき続けていた。
「ねえ、水が引いてきたみたい」
「そろそろ引《ひ》き潮《しお》なんじゃないか?」
「この石段の下の方、横穴があるわ」
「えー? 行くのかよ」
「あの先はまだ調べてないはずよ」
「どうせなんにもないって。おれたち、閉じこめられて死を待つだけなんだ」
耳を伏せたニコは、力なく言った。
悲観的なニコの様子に、リディアはまた、エドガーにだまされているのではという疑念が浮かび上がってくるのを感じていた。
フェアリードクターとして役目があるはずだから。エドガーがプリンスに勝てるよう、力を貸せるはずだから。そんなことより何よりも、エドガーと再会の約束をしたから、リディアはロンドンへ向かったのだ。
会って、早く思い出したかった。自分がどんな思いで、彼の求婚《プロポーズ》を受けたのか。何よりもそのことが、リディアを突き動かし、町から抜け出させた。
なのに、それもエドガーの思惑《おもわく》どおりだったなら。
「ううん、あたしは死なないわ」
リディアは足に力を入れて立ち上がった。
何が何でも、彼に会えないまま、死ねない。
だますつもりだったなら、ひっぱたいてやるためにも会わなければ。
ただそう思い、リディアはここを出る方法を見つけることに集中しようとしたのだった。
道をふさいでいた水は、見る見る水位を下げていく。石段を下りたリディアが、見つけた横穴へと入っていくと、結局はニコも疲れきった足取りでついてきた。
下りの石段が続いている。ふと壁に目をやると、石が崩《くず》れて握《にぎ》りこぶしくらいの穴が開いている。立ち止まり、彼女は穴から外をのぞき見ようとした。
「あぶない!」
ニコが叫《さけ》ぶと同時に、目の前に、かぎ爪《づめ》のようなものが飛び込んできた。と思うと、石壁に突き刺さり、砕く。
とっさに飛び退《の》いたおかげで、爪に目をつぶされるのを免《まぬが》れたリディアだが、壁から離れたくらいで安心するのはまだ早かった。
黒っぽく醜《みにく》い小妖精が、砕けた石のあいだからこちらをのぞき、にやりと笑った。
|邪悪な妖精《アンシーリーコート》のたぐいには違いない。
裂《さ》けたような口には、鋸《のこぎり》みたいな歯が並ぶ。わらわらと穴に集まってきた彼らは、爪と歯で石を砕き、こちらへ侵入《しんにゅう》しようとしている。
と、橋全体がゆさぶられるようなゆれを感じた。
壁や天井から、パラパラと小石が落ちる。
「おいリディア、こいつら、ここを崩そうとしてるんだ!」
リディアとニコは、急いで奥の道へと逃げ込む。そのとたん、背後《はいご》の通路が崩れ落ち、すっかり石に埋《う》まってしまった。
「……ここは夢魔も入れない聖域じゃなかったの?」
「やたら数が多いんだよ。ほら、ここへ入る前に見ただろ。アンシーリーコートの群《むれ》が川下方面を覆《おお》い尽《つ》くしてた。あれがこの橋にまで突き進んできてるんだ」
ロンドンを魔物から護《まも》る結界《けっかい》、その聖域が、少しずつ狭《せば》められているのだろうか。
「だったら、ロンドンブリッジはもうすぐ崩されてしまうの?」
「時間の問題だろうな。聖域に、どれくらい持ちこたえる力が残ってるのか知らないけどさ」
ニコはまた悲観的に言って、耳をたれてうつむいた。
「ああ、死ぬ前にもういちど、うまいメシが食いたいよ」
「とにかく急がなきゃ。人柱《ひとばしら》の乙女《おとめ》の矢を見つけるのよ」
「見つかっても、そのままおれたち人柱になるぞ」
「あなたは猫柱でしょ」
「……そんなことどうでもいいよ」
猫と言われて怒らなかったニコだから、相当悲観しているようだ。でもたぶん、ニコの危機感は正しいのだろう。
この空間が、どんどん|邪悪な妖精《アンシーリーコート》の魔力に腐食《ふしょく》されているのを、気配《けはい》で感じているのだ。
気丈《きじょう》に胸を張っていたけれど、リディアはうずくまって泣きたいくらいだった。
そのとき、またあたりがゆれた。振動とともに、どこかが崩れたような音がする。と思うと、はげしい水音が聞こえてくる。
「? 何なの?」
「リディア、水だ!」
狭《せま》い通路いっぱいに、水が押し寄せてくるのがちらりと見えた。
急いで駆《か》け出すが、道は下り坂だ。水は勢いを増してこちらへ向かってくる。
満ち潮で流れ込んだ水が、上方でせき止められていたのか。今どこかが崩れたせいで、一気に流れ出したようだ。
こんなの、逃げ切れるわけがない。
そう思ったとき、声がした。
「リディア、こっちだ!」
上の方の横穴から、エドガーが身を乗り出していた。
うそ……。
「エドガー?」
幻覚? それとも罠《わな》? 信じられないながらも駆け寄り、さしのべられた手をつかもうとリディアは必死に腕をのばす。
つかんだ。が、すぐ背後にせまった水が視界に入る。思わず目をつぶる。
ぐいと引き上げられるのを感じながら、リディアは、水が石を巻き込みながら流れていく轟音《ごうおん》を足元に聞いていた。
乾いた床に座り込み、ようやく目を開ける。灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が、間近に彼女を見おろしている。
「よかった、間に合ったね」
やさしげな口調《くちょう》もあまい声も、間違いなくエドガーだった。
「あーあ、びしょ濡れだよ」
リディアの足につかまって、ニコも引き上げられたようだが、水をかぶったらしく、体を震《ふる》わせて水をはね飛ばす。
リディアはまだ、目の前のエドガーが現実かどうかわからずに、じっと見ていた。
「会いたかったよ、リディア」
当然のように彼は、リディアを抱きしめた。
「僕が来たからには、もう何も心配いらない。すぐにここから出られるからね」
「妖精界と人間界の狭間《はざま》で、あんたに何ができるっていうんだよ」
ニコのぼやきは無視して、エドガーはリディアの髪を撫《な》でる。
長い指が髪の奥へ滑《すべ》り込み、やさしくいつくしむように触れられていると、急にリディアは胸の奥が熱くなって、視界が潤《うる》むのを感じていた。
あたたかい滴《しずく》が、頬《ほお》を伝《つた》う。
なぜ泣いているんだろう。
ひっぱたいてやるつもりだったのに、手をあげる気さえ起こらない。
まだ不安でいっぱいの、気を許してはいけないとか泣いている場合ではないとかいう気持ちとはうらはらに、涙は別のところからあふれてくる。
「……どうして、ここにいるの?」
混乱しながらも、リディアは言葉をもらした。
「きみを助けに来たんだ」
「うそよ……」
「ほかにどんな理由があるっていうの?」
「あたしを、人柱にするつもりでしょ?」
「えっ?」
「お願い、エドガー、あたしにうそをつかないで……」
「リディア、うそなんかついてない」
「前も、そうだった。やさしく好意的なふりをして、なのにあたしを罠にはめようとしたわ」
「……じゃ、もしかしてこれも、僕がだまして利用したとか思ったの?」
リディアが素直に頷《うなず》くと、エドガーはさすがに心外だという顔をした。
「ああ、以前の僕はそんなに信用がなかったのか」
心底ショックを受けたように、悩《なや》みながら、金色の髪をかきあげる。
「そうだね……、たしかに出会ったときの印象は最悪だったかもしれない。けど、あれから僕はきみに信用してもらえるよう、まじめな男になるようつとめてきたんだよ」
「そ、そうなの?」
どうだかね、とニコが小さくつぶやく。
「だからリディア、もう泣かないで。こんなに泣かせるほど、きみを怖がらせたならあやまるから。僕はきみを守るために来たんだ。本当だよ」
リディアは涙を止めようと目をこする。なのにまだ、勝手に涙があふれてくる。
「僕が言っても信用できない……よね」
「……違うの、そういうわけじゃ、ない、みたい」
だますつもりだったなら、彼はここへ現れるはずがないのだ。それにエドガーは、本気でリディアを心配し、再会できたことをよろこんでくれている。そう感じているのに、どうして泣いているのか、自分でもよくわからない。
こんな顔を見られたくなくて、顔を背《そむ》けようとするリディアだが、彼は容易に上を向かせ、指で涙を拭《ぬぐ》う。
そしてリディアは、彼の熱いまなざしやまつげにかかる金色の髪や、見とれてしまいそうな造作《ぞうさく》を目にすると、また涙が止まらなくなるのだ。
涙の原因は、エドガーが目の前にいるからだとしか思えないほど、その姿が瞳に映れば泣けてくる。
「もう、会えないんじゃないかと……思ってた……から」
ああ、そうなんだ。
死なない。もういちどエドガーに会うまでは。ひっぱたいてやるまでは。それは疑心暗鬼《ぎしんあんき》をうち消したいための強がりだったけれど、同時に、会いたいというあまい感情がからみあっていた。
本当にエドガーは、再会を望んでいるのだろうか。そんなふうに疑問を感じた。
婚約したなんて言い出したのは、リディアを利用するための作戦なのではないか。なのに町を抜け出して、少しでも彼の助けになりたいと考えている自分が、ものすごくバカなのではないかと思えていた。
ここで人柱《ひとばしら》になることは、ひょっとするとエドガーの意図《いと》かもしれない。その考えが頭から離れず、そのときリディアが恐れていたのは、エドガーとはもう二度と、会えるはずがないのかもしれないということだった。
彼にはリディアと会うつもりがないかもしれない。それが何より怖かった。
会いたい人に、会いたくないと思われていたらと考えるのが怖かったのだ。
「大丈夫だよ、ちゃんと会えた」
額《ひたい》にキスが落ちる。またやさしく抱きしめられる。
エドガーはここにいる。
再会の約束は、うそじゃなかった。
ようやく、目の前の彼が現実だと理解しはじめると、急にリディアは恥《は》ずかしくなってきていた。
泣いたのも、あまえたことを言ってしまったのも恥ずかしい。
「ご、ごめんなさい、エドガー。あたしちょっと、変よね。たぶん、混乱してるんだわ」
「そうだよね。こんなところに長いこといて、無理もないよ。でも、僕が心から再会を望んでいたことは信じてくれるね?」
お互いの額がくっつきそうなほど顔を近づけられて、リディアはさらにうろたえる。
「え、ええ、……そうね」
気持ちが落ち着いてくれば、うち解け合った恋人みたいな扱いには気が引け、そっとよけるように体を動かす。
リディアの遠慮《えんりょ》に気づいたのだろう。ケルピーの魔法で、彼女がいろんなことを忘れてしまっているという事実を思い出したのか、彼はゆるりと腕をほどいた。
エドガーは再会の約束を守ってくれた。なのに、リディアは何も思い出せていない。そのことを問うでもなく、そっと立ち上がった彼は淋《さび》しそうで、リディアは悲しくなる。
疑ったりして、約束を信じられなかったからだろうか。
だから、妖精の魔法にうち勝てるだけの絆《きずな》が得られていないのだろうか。
「あの、あたし、……もう少し落ち着いたら思い出せるんじゃないかと思うの」
「いいんだ、無理に思い出すことは……」
迷ったように言葉を切って、彼はリディアの手を引き立たせた。
「とにかく、きみはここを出るんだ」
「出口、わかるの?」
彼は頷き、手首に巻きつけた黒い糸を示した。それはずっと、通路の奥へつながっている。
出口まで糸がつながっているということなのだろう。
エドガーは、その黒い糸をほどくと、リディアの手首に結びつけた。
「ねえ、いっしょに外へ出るんでしょう?」
不安になって、リディアは訊《き》いた。エドガーはまるで、リディアだけを外に出そうとしているみたいだった。
「人柱がないと、橋が壊《こわ》れて|邪悪な妖精《アンシーリーコート》たちがロンドンへなだれ込む」
「まさかエドガー、あなたが人柱になるっていうの?」
彼が離そうとした手を、リディアは思わずつかんでいた。
「ここは、レディ・グラディスが眠る結界《けっかい》なんだろう? 彼女が人柱になって、ロンドンを護《まも》ったと聞いた。僕は伯爵家《はくしゃくけ》を継いだんだ。できるだけのことはしたい」
「でも、必要なのは人柱じゃないかもしれないわ。妖精は、あたしに矢をさがせって言ったもの。だからあたしも……」
手を離したら、また会えなくなってしまう。それが怖くて、リディアは彼をつかんだ手に力を入れる。
「だったら僕が矢ってやつをさがそう。ここはいつ崩《くず》れるかわからないんだ。橋は魔物に侵《おか》されているだけじゃない。火薬を積んだ船を追突させる計画もある。それはロタが阻止《そし》しようとしてくれてるはずだけど、うまくいくとは限らない。きみは早くここから出るべきだ」
エドガーがひとりで? そんなのだめ。ぜったいに……。
「妖精はあたしを連れてきたのよ。フェアリードクターでなきゃわからないことがあるのかもしれないわ。だからふたりで行きましょう」
リディアは食い下がった。
やさしくリディアの手を握《にぎ》り返しながら、エドガーは切《せつ》なげに眉《まゆ》をひそめた。そうして、思い切ったように口を開く。
「これまで僕は、きみに頼ってばかりだったよ。妖精のことは何もわからなくて、きみなしではやっていけなかった。でもね、雇われただけなのに命がけで働くことはないだろう? そこまで僕に義理立てする必要はないんだ」
義理立て? どうして急に、そんな他人|行儀《ぎょうぎ》なことを言い出すのだろう。
今までの彼の態度や言葉とは違うものを感じ、リディアは戸惑《とまど》った。
「だって、あたしは……、あなたの婚約者なんでしょう?」
ただの、雇われフェアリードクターなんかじゃない。
何も思い出せなくても、彼と再会した今は、漠然《ばくぜん》とでも婚約を信じていたのだろう。
「……違うんだ、リディア」
なのにエドガーは、そう言いながら目を伏《ふ》せる。
「うそなんだ」
「……どういうこと?」
「婚約したなんてうそ。きみが思い出せないのも無理はないよ。僕らには、どんなにがんばったってケルピーの魔法をかき消すほどの絆なんてないんだ」
リディアは意味が飲み込めなくて、立ちつくしていた。
「じゃ、どうしてそんなこと言ったの?」
「ずっと僕の片想いだった。いくら口説《くど》いても、きみは僕のことなんて好きにならなかった。……最初からね」
うそよ。リディアは根拠《こんきょ》もなくそう思った。
どうしてまた、そんなうそを。
「ひょっとするときみには、ほかに好きな男がいたかもしれないんだよ」
「だ、誰?」
「知っていたら半殺しにしてる」
ふざけ半分というには力を入れ、それから彼は、あきらめたようなため息をつく。
「リディア、僕はこんな男だ。ついてきたりしたら、すべて思い出したとき後悔《こうかい》するよ。だからもう行ってくれ。外でケルピーが待ってる。きみを心配して、僕がここへ入れるよう協力してくれた」
リディアが離そうとしない手を、そっと持ちあげ、そこに口づけた。
「こんなふうに、きみに強く手を握られたのははじめてだ」
からかうように言うから、つい力をゆるめた。そんな彼女から、素早く離れる。
リディアに背を向け、そのまま水が流れきった下の道へおりていこうとしていた。
そんなのうそ。本当のことを思い出さなきゃ。
リディアはあせるが、混乱するばかりだ。ふらりと彼を追おうとした。けれど、手首の糸がぴんと張る。と思うと、それが強くリディアの腕を引く。
ケルピーだわ。これはケルピーのたてがみだ。
リディアにつながっていることを感じるのか、ケルピーが彼女を引き戻そうとしていた。
力にあらがいながら、リディアはまた、うそよとつぶやく。
思い出してほしいと願いを込めて、再会の約束をしたときのエドガーは、こんなふざけたうそを言っているふうではなかった。
なのに、どうしてまた、ひとりで行こうとするの? またケルピーにあたしを……。
また?
ケルピーに少しずつ引っぱられながら、エドガーが下方の道に飛び降りるのを眺《なが》め、リディアは、かすかな記憶《きおく》の糸をたぐり寄せようと必死になった。
前にもこんなことがあった。エドガーは行けと言った。危険だからと。
きみだけが未来の希望だ。何があっても失いたくないんだ
そう言って彼は、リディアをケルピーと行かせたのだ。
そのときリディアは、彼に向かって何かを叫《さけ》んだ。
…………
……きっと、とても大切なことを。
何だったの?
自分をぐいぐい引っぱっていく力にあらがい、リディアは必死に思い出そうとしていた。
あのとき、どうしてもエドガーに伝えたかったこと。忘れてはいけない貴重な言葉。
だとしたらそれこそが、ケルピーの魔法を解く呪文《じゅもん》になり得るのではないか。
そう気づくと、魔法の堅い殻《から》にかすかなひびでも入ったかのように、手首の糸が自然にほどけ落ちた。
「おいリディア、こいつを離したら帰れなくなるぞ!」
ニコが叫ぶ。たぐり寄せられていくケルピーのたてがみにあわてて飛びつく。
つかんだそれに引きずられていくニコとは、反対の方向に駆《か》け出したリディアは、エドガーが降りていった道へ続こうとした。
ああそう、大切な呪文《やくそく》。
あのとき、ふたりの絆をたしかなものにするために、リディアは伝えたかったのだ。
「…………結婚、するわ! エドガー、あなたと……!」
思い出したと意識するよりも、彼女は叫んでいた。
「リディア、そんな無茶を……」
立ち止まったエドガーが、上の通路から飛び降りようとする彼女を見あげ、あわてて腕を広げる。
その中へ、飛び込んでいく。
しっかり受け止められながら、そのときリディアは、自分を覆《おお》っていた魔法が細かな砂のように崩れ、流れ去っていくのを感じていた。
エドガーのことを考えればどうしてこんなに苦しくて泣きたくなるのかを、すんなり理解していた。
彼がリディアを大切に想ってくれていることも、選んでくれたことも、半信半疑のまま傷つくのを恐れていたけれど、もっと強い気持ちに押し出され、信じようと決めたのだった。
そばにいれば、不安は消える。言葉よりもずっと確かな、彼の本当の気持ちを感じるから。
「うそつき……」
ぎゅっと抱きしめられる。
うそつきな言葉は信じない。でもこの、無言の抱擁《ほうよう》にうそはないとはっきりわかる。
同時に彼女は、ふわりとあたたかい光に包まれるのを感じていた。
「ムーンストーンが……」
握《にぎ》りしめた彼女の手を持ちあげ、エドガーがつぶやく。婚約指輪のムーンストーンが、絹のようなやわらかな光を発している。
光はどんどんあふれ、あたりを乳白色《にゅうはくしょく》の明るい色で満たしていく。
「どうなってるの?」
「リディア、目を閉じて」
エドガーが言った瞬間、それは瞳を焼《や》くほどの閃光《せんこう》を発し、視界のすべてをまっ白にした。
*
「何で、おまえだけなんだ?」
ケルピーは、たてがみの先にくっついたまま石組みの隙間《すきま》から釣り上げられた猫を見て、思いっきり眉をひそめた。
「ふう、やっと外へ出られたよ」
「てめーっ、リディアはどうした! おまえにたてがみを貸してやったんじゃねえぞ!」
ケルピーににらまれ、ニコはあわててたてがみから手を離すと、近くにいたレイヴンの足元にさっと隠れた。
「んなこと言ったってしかたないだろ。リディアが手を離したんだからさ」
レイヴンを盾にしたニコは、強気に言って舌を出す。
「このやろう、俺のじゃまばっかりしやがって。おい、大鴉《レイヴン》、その猫をよこせ」
レイヴンが黙っていると、ケルピーはさらに詰め寄った。
「いいか、こいつのせいで、おまえの伯爵《はくしゃく》だって中に取り残されたんだぞ」
足元に視線を動かしたレイヴンに、じっと見られてニコはあせった。
「ま、待てよ。おれたちトモダチだろ? だからこの野蛮《やばん》な馬から守ってくれるよな。な?」
「ともだち……」
「そうだよ、いつも仲良くしてるじゃないか。そ、それにおれがいない方が伯爵にとってはいいはずだぞ。リディアとふたりきりで仲直りできるもんな!」
「はあっ? ふたりで仲良く人柱《ひとばしら》かよ。冗談じゃねえぞ!」
ケルピーに怒鳴《どな》られて、ニコはさらに縮《ちぢ》こまった。
「でも、人柱じゃなくて、ここを守る方法があるのかもしれないんだよ!」
「ニコさん、本当ですか?」
「そりゃ、……確かなことはわかんねえけど、とにかくもう祈るしかないだろ?」
「ともだちって」
「あ? ああ、そっちかよ。うんうん、本当だよ」
確認すると、レイヴンはケルピーに向き直った。
「ニコさんに悪さをしないでください」
「ああもう、なんだよそれ。どうでもいいっての!」
苛立《いらだ》ったケルピーは、馬の姿に転じ、レイヴンとニコに背を向ける。
「どこへ行くんですか?」
「どうせ成り行きを見守るしかないんだろ。だったら俺は、ゴミ妖精どもを少しでも蹴散《けち》らす。あんまり意味はないけどな」
それでも何かしていないと落ち着かない気持ちのケルピーだ。
「待ってください、あれは」
呼び止めたレイヴンは、川下の方を指さした。
曲がりくねったテムズ河に沿《そ》って、延々と何マイルも続くドック群を、遠くまで見渡すのは不可能だ。しかし、箱船《ジ・アーク》≠監視している|朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員からの合図は、このロンドンブリッジにもはっきりと届いた。
夜空に、花火があがる。
レイヴンは言った。
「箱船≠ェ、下流のドックズ島に姿を現したようです」
ロタの船は、合図とともに帆《ほ》をいっぱいに張って風をとらえた。
どんな風向きだろうと、的確に帆の角度を変え、思うがままの方向に船を進められる熟練《じゅくれん》の水夫《すいふ》たちは、ロタがロンドンへ到着してすぐ雇い入れた。もと海賊《かいぞく》だの密貿易船だのを動かしていた前科者がほとんどだ。
テムズ河に入港した日に知り合った、あの老人に紹介してもらった船乗りたちは、ロタにとって満足できる人材だった。
水夫を総入れ替えしたのは、もちろん祖父には内緒《ないしょ》でだ。
水路を引き込んだ船着き場が集まるドックズ島、そこを箱船≠ェ通過したのを確認し、ロタは急いで船を、水路からテムズ河へと出させたところだった。
「船長、約十分後に目標船の後方に追いつきます」
船長、と呼ばれたのはむろんロタだ。
どんなにいい船乗りを雇っても、船長がグズなら台無しだ。結局ロタは、これも祖父には黙《だま》って自分が船を動かすことにした。
貴族の令嬢《れいじょう》が遊覧船を所有するくらいのつもりで船を与えたロタの祖父、クレモーナ大公《たいこう》は、孫娘が自ら航行の指揮《しき》を執《と》り、それに大砲《たいほう》まで積んでいるとは夢にも思わないだろう。
もっとも、ふつうの娘なら優雅《ゆうが》なヨットを選ぶはずだ。廃棄《はいき》寸前のフリゲートをねだられた時点で、大公も多少のことには目をつぶるつもりかもしれない。
「まずは気づかれないように近づいてくれ」
「それにしてもロタ、準備が間に合ってよかったよ」
彼女の采配《さいはい》を、そばで不思議そうに見ていたポールが言った。
朱い月≠ゥら何人か、この船に乗り込んでいる。箱船≠ニの戦闘要員だが、ポールは箱船≠ノとらわれていたため、いちばん内部に詳《くわ》しいだろうと同乗しているのだった。
「ああ、大砲のこと?」
「伯爵から買ってもいいって返事が来たのは小一時間ほど前だよ」
「うん、とっくに取り付けてもらってたから。あとは支払いの算段だけだったのさ。ま、エドガーはいやとは言わないだろうと思ってた」
「えっ、そ、そうなの?」
ポールは、見るからにおっとりとした印象の青年だが、ロタがエドガーのことを口にすると、とたんにおろおろした様子になる。どうしてだろうとロタは不思議に思うが、彼にエドガーの愛人だと思われていることなど想像できるはずがない。
「あいつの取《と》り柄《え》は、気前がいいとこくらいだろ」
「……じゃ、きみは彼のそこが好きなのか」
好きというわけではないが、気前の悪い男よりは組んで仕事がしやすいと思う。
昔からロタは、エドガーと組むのはきらいではなかった。無駄《むだ》のない計画を立てるし、準備をするのにケチくさいことは言わない。分け前をはねたりしない。
「あれでセコイ男だったら、とっくに縁を切ってるな」
そう答えると、ポールは複雑な目を向けた。
「ま、こいつはそんな高価な買いもんじゃないよ。あいつがそこら中の女にばらまいてる宝石にくらべりゃ安いもんだろ」
しかしあんなやっかいな男に口説き落とされて、リディアも大変だなとロタは思う。
エドガーの浮気ぐせが直るものかどうか知らないが、リディアをつなぎ止めておくためにはひかえめになるしかないだろう。
そのぶん彼の、女性をかまっていたいという性分《しょうぶん》は、リディアに向けられることになる。
釣った魚も餌《えさ》だらけにするに違いないが、たまにはよそで口説いてきてほしいなんてリディアに思われなければいい。
[#挿絵(img/my fair lady_249.jpg)入る]
「……結婚ね」
まだ信じられなくて、ロタはつぶやく。
リディア、それでいいのか? 彼女がいろいろ思い出したら、もういちど訊《き》いてみたい。
「さあ、大砲の準備だ」
気合いを入れてロタは言う。ポールに微笑《ほほえ》みかける。
「あんたも手伝ってよ」
ポールは何やら考え込んだ顔をしていたが、ロタが行こうとすると急いで口を開いた。
「ロタ、きみにはいずれ、大砲じゃなくて、ちゃんときみにふさわしい宝石をくれる人が現れると思うんだ」
まじめな顔で言われたが、ロタはそれを、イギリス人らしいブラックユーモアに違いないと思った。
「ああそうそう、ライフル突きつけりゃ、宝石箱ごとくれるもんな」
冗談で返したつもりだったが、笑ってくれないので、しかたなくひとりで笑い飛ばした。
するとようやく、彼もおかしそうに笑い出した。
「よかった、きみは笑ってる方がかわいい感じになるからさ」
「あはは、あたしが? あんた頭おかしいよ」
けれどたぶん、これから一戦を交えるという緊張感を和《やわ》らげてくれているのだろうと、勝手に考えることにする。
「船長、箱船《ジ・アーク》≠ェ見えました!」
声が飛ぶ。とたんにロタは、気を引き締める。
「まだだよ、距離を保って。河が曲がりすぎてる。あのカーブを抜けたら一気に近づくよ!」
*
とっさに目を閉じられなかったリディアは、ムーンストーンが発したあまりの光に目がくらみ、しばらく何も見えなかった。
光はやんだのだろうか。
彼女をかかえたまま、そろりと顔をあげるエドガーの動きを感じ、リディアも首を動かすが、彼の顔さえよく見えない。
「エドガー、どうなったの? 何か見える?」
「うん、きみの金緑の瞳がね」
「そ、そうじゃなくて」
「かわいい鼻も、おいしそうな唇《くちびる》も」
「ちょっと、エドガー!」
離れようとしたが、足元の石ころにつまずき、よろけたリディアは結局彼につかまえられた。
「あぶないよ」
そう言いながら、また抱き寄せられる。
たった今のふざけたような態度は影をひそめ、重いため息を耳に感じれば、リディアは体の力を抜いていた。
「……どうかしたの?」
「思い出したんだね、リディア」
それを、心からよろこんでくれているようには聞こえなかった。
「思い出せない方が、よかった?」
エドガーは彼女をよく眺《なが》めようとするように腕をほどく。
ようやく目が慣れてくると、リディアには、自分を見つめる彼の表情が、やけに苦しそうに見えた。
「僕が見える?」
「ええ」
「教えてくれ、リディア。ここにいるのは、きみが結婚してもいいと思ってくれた僕か?」
何を言っているのだろう。
目の前にいるのは、間違いなくエドガーだ。
なのにそんなふうに言うのは、結婚をためらっているのだろうか。彼の中で、リディアへの気持ちが変わってしまったのだろうか。
スコットランドで会った彼は、リディアが婚約を思い出すことを心から望んでくれていた。
けれど今は違うのだろうか。
「……心変わりしたの? もっと好きな人がいるって気づいた?」
怖くなりながらも、リディアは訊《き》かずにいられなかった。
「そういうことじゃない」
「さっきの、婚約なんてなかったって言ったのは、あなたはそのほうがよかったからなの?……じゃ、あたし、間《ま》が悪いのね。勝手に思い出して、勝手についてきちゃったわ」
「リディア、誤解しないでくれ」
「ううん、エドガー、うそをつかないでってあたし言ったわよね。ごまかされるのはいや。婚約をなかったことにしたいなら、はっきり言って。あたしをきらいになったって……」
リディアは少し離れようとしたが、強く引き戻される。そして、大きな両手で頬《ほお》を包み込まれた。
「愛してる」
迷いなど少しもない声で彼は言った。
「たとえきみが、僕をきらいになっても、恨《うら》むことがあっても、僕の気持ちは変わらない」
「どうしてあたしが、あなたを恨むの?」
「何があっても、きみへの想いは疑わないでほしい」
「……ねえ、何かあったの?」
わけがわからない。
それでも彼の深刻な様子に、心変わりを疑うなんてどうかしていると思い直すが、だったら何なのだろうと、かえって心配になってきていた。
「きみにうそはつかない。だから、話せるようになるまで待ってくれ」
苦しそうにエドガーは言うが、それ以上話してくれそうにない。
「わかったわ、エドガー」
けっしてリディアは、彼を困らせたいわけではないのだ。
だからエドガーが、安堵《あんど》したように表情をゆるめるのを眺め、彼女自身もほっとしていた。
間近にアッシュモーヴの瞳を見あげながら、どうしてこんなに、さっきからくっついているのかしらとふと思う。気づいてしまえば、これまでにないことで急に意識してしまう。
「ねえ、エドガー。ここ、さっきいたところと違うわよね」
気|恥《は》ずかしさを紛《まぎ》らそうと、リディアは話を変えつつあたりを見回した。
「ああ、ムーンストーンが輝《かがや》いて、気がついたら風景が変わってたんだ」
リディアが婚約を思い出したから、ムーンストーンは魔力を発揮《はっき》したのだろうか。
「だったらここは、ムーンストーンが導いてくれた場所かしら」
いつのまにか自分たちは、細く曲がりくねった通路とは違う、開けた空間にいるのだった。
背の高い円筒の底にいるかのようで、上の方には天井ではなく夜空が見える。
窮屈《きゅうくつ》な洞穴《ほらあな》ではないぶん、開放感をおぼえると、ムーンストーンが助けてくれたのかもしれないと、リディアは希望を感じていた。
「きっと、矢の隠し場所が近いのよ。早く矢を見つけましょう。そうすれば、あたしたちがするべきことがわかるかもしれないもの」
「ここにあるのかな。でも、何も見あたらない」
円筒状の壁に囲まれた、その内側は、広いといえど障害物は何もない。平らに敷かれた石敷きの床には、目印らしいものもなさそうだ。
エドガーは、ひとりこの空間の中央へと進み出る。あたりの石敷きを調べていたが、リディアの方に振り返り、やはり何もないと首を振った。
そのとき、この空間に一条の光が射し込んだ。
吹き抜けの天井から、月光が射し込んだのだ。見あげると、雲間からまるい月が顔をのぞかせている。
と同時に、月光が落ちる床面に、人らしき姿が浮かび上がった。
「エドガー、あれは……」
ふたりして近づいていく。
人影は、床の上に横たわり、両手を胸元で組んでいる、まるで棺《ひつぎ》の中の遺体《いたい》のようだった。
青いドレスをまとい、金色の髪が月光を浴びてきらきらと輝いている。若い、女性だ。
「これは、レディ・グラディス?」
エドガーがつぶやく。たしかに、以前に見たグラディスだという肖像画《しょうぞうが》の女性によく似ていた。
人柱《ひとばしら》として命を落とした彼女なのだろうか。しかしその姿は、百年前の遺体だとは思えず、今にも息を吹き返すのではないかと思えるほど生き生きとして見えた。
「冷たくて堅い。石のようだ」
エドガーは、大胆《だいたん》にも手を触れた。
「死んでいるからかしら」
「妖精界では死体はこうなるのか?」
「ううん、肉体は残らない。彼女の魔力の残像みたいなものだと思うわ」
「だとしたら、この結界《けっかい》の核でもあるわけだ」
なら、矢はどこにあるのだろう。
エドガーも同じことを考えたのだろう。彼女が何か持っていないか確かめようとしたに違いない。体を動かそうと試《こころ》みたけれど、横たわるグラディスは、そのやわらかそうな髪一本も、服のしわさえ石に刻んだ彫像《ちょうぞう》のように、動かすことはできなかった。
「ねえ、それ……、ティアラかと思ったら違うのね」
彼女の額《ひたい》で、何かがきらりと輝く。リディアは最初、装飾品かと思ったのだ。しかしよく見ると、放射状に輝く銀色のものは、彼女の額の奥から光を発しているのだった。
「これは……、あの妖精だわ!」
最初に彼がリディアの目の前に現れたとき、これと同じ、銀色に輝く放射状の光だったのを思い出したのだ。
光の姿で彼は、夜空から舞い降りてきたのだった。
「妖精? きみをむりやりここへ連れてきた?」
「そうよ。夢魔《むま》に襲《おそ》われて、どうなったのかと思ってた。力は弱まってるけど、生きてはいるわ」
「リディア、もしかしてこれは、メロウの星≠カゃないか?」
唐突《とうとつ》に、エドガーは言った。
メロウの星、それはメロウの宝剣を飾るスターサファイアのことだ。しかしエドガーは、スターサファイアそのものではなく、サファイアの中に浮かび上がって見える銀色の星の部分が、これではないのかと言っているらしかった。
グラディスの額で輝く銀色の星は、たしかに、スターサファイアと呼ばれる種類の宝石が内側から発する反射光に似ていた。
「え、でも、あなたの宝剣にはスターサファイアがちゃんとついてるわ」
頷《うなず》きながら、エドガーは腰に差していた宝剣を抜く。剣にはめ込まれた大粒のサファイアの内には、十字《クロス》の星が輝いている。
「だけどリディア、これは僕が宝剣を得たときに、メロウに刻んでもらった星だ。本当なら、伯爵家《はくしゃくけ》の子孫は星≠体のどこかに持っているはずで、メロウはそれを持つ人物を正統な伯爵家の子孫と認めて、宝剣を返すと同時に、星をこのサファイアに移し入れるってことになってたんじゃなかったっけ」
そうだった。けれどエドガーが現れるまで、宝剣を取りに来た伯爵家の子孫はいなかった。
星のないサファイアを飾ったまま、宝剣はメロウが保管し続けていたのだ。
「ええと、だから、メロウにあずけた宝剣を、取りに行くことなく死んでしまったグラディスは、星を持ったままだったってこと?」
「そうだよ。これが、このサファイアに本来おさまるべきだった、伯爵家の星≠ネんだ」
銀色の妖精は、グラディスの死後もずっとここで生きていた。そうしてロンドンブリッジの護《まも》りに力を貸してきたけれど、|邪悪な妖精《アンシーリーコート》に橋が侵食《しんしょく》されつつあるのを止めようと、リディアを連れに来たのだろう。
でも、どうしてリディアだったのだろう。
エドガーではなくて?
彼が宝剣の星なら、宝剣を持つエドガーにこそ助けを求めそうなものだ。
それとも、彼にとって必要なのは、宝剣ではなく……。
考え込んだリディアが、何気なく左手をあごに持ちあげたとき、ムーンストーンの指輪に月の光が当たった。と思うと、光を浴びて強く輝きだす。
その輝きが、横たわるグラディスを覆《おお》う。
と、額の星が銀色の閃光《せんこう》を発する。
一気にこの空間に広がった光が、やがてゆっくりおさまったとき、グラディスの姿は消え、その場所にはあの、銀色の妖精が立っていた。
薄いローブのようなものをまとった、神話の時代から抜け出してきたかの姿で、エドガーをじっと見る。
彼が手にしている宝剣を、にらむように見ている。
「なぜ、その剣を。我《わ》が伯爵の血筋《ちすじ》ではない者が」
「あの、これにはわけがあるの」
リディアが口をはさもうとしたが、エドガーは身構えながら片手を出して彼女を制した。
妖精がゆっくりとあげた手に、いつのまにか剣がつかまれていたからだった。
「それにこの男、妖精国《イブラゼル》の鍵《かぎ》も持っている」
「伯爵家の血は絶《た》えた。僕が新しい青騎士伯爵だからだ」
信じられないというのか、妖精はきびしい顔つきになった。そうして、エドガーと向き合ったまま、自身の剣を持つ手に力を入れる。
「新しい伯爵? 忌《い》まわしい血の匂《にお》いのするあなたが?」
妖精が手にしている剣は、メロウの宝剣を鏡に映したかのようにそっくりだった。
彼が宝剣の星≠ネら、剣は彼の一部でもあるのだ。だとしたらあれば、エドガーの持つ剣と、まるきり同じものと言っていい。
それを彼は、エドガーに向けようとしているのだった。
「やめて、妖精。本当に彼は伯爵なの。橋を護るために来たのよ!」
が、妖精はリディアの言葉を最後まで聞かずに斬《き》り込んだ。
エドガーは自分の宝剣でふせぐ。高い金属音が、円筒形の空間に反響する。
力を入れて、エドガーは妖精を突き放したが、その瞬間、剣は彼の手を離れ、宙を舞った。
ぴたりと空中で止まった宝剣を、あやつっているのは妖精だ。自分の一部でもあるはずのそれを、自在にくるくると回してみせる。
と思うと、エドガーをめがけて剣を飛ばす。
避けようとしたものの、剣は彼の肩をかすめて切り裂《さ》き、床石のあいだに突き刺《さ》さった。
肩に血のにじむエドガーを眺《なが》め、銀の妖精はつぶやく。
「あの|悪しき妖精《アンシーリーコート》どもと、契約《けいやく》を結んだ血だ」
何のこと?
リディアには意味がわからない。ただエドガーは、痛みをこらえるように眉根《まゆね》を寄せた。
「ならば私は、なおさらあなたを葬《ほうむ》らねばならない」
落ちた剣は拾うには遠く、エドガーに逃げ場はない。
どうしよう。リディアはあせる。
あの妖精を止めなければ。それはフェアリードクターとしての、自分の役目だ。強く思うと同時に、あの妖精がリディアに何を求めたのかを、必死になって考えていた。
矢を見つければ、資格を得る。
おそらく、すべてを知る資格。妖精が従《したが》う資格。なら、彼を止められる。
でも、どこに矢が?
悩《なや》むリディアに訴《うった》えかけるかのように、指輪のムーンストーンが瞬《またた》いた。
ボウ、あなたは知ってるの?
……え? これは、弓《ボウ》……?
とたん、リディアはひらめいていた。
「そうだわ! 宝剣の星≠セわ!」
彼こそが矢≠セ。
リディアのもとへ彼が来たのは、ムーンストーンと引き合う、一対《いっつい》の存在だったからだ。
夜空に浮かぶのは、月と、星。そして、ムーンストーンが弓《ボウ》≠セというなら。
月の弓《ボウ》と、星の矢《アロー》。ふたつそろってこそ武器になる。
見いだすべき矢は、スターサファイアの星であるこの妖精の名だったのだ。
「やめて、アロー! あなたが矢なんでしょう? 矢を見つければ、力を貸してくれるんでしょう?」
リディアは叫んだ。
「だから、エドガーを殺さないで!」
妖精は、エドガーに向かって剣を振りおろそうとしている。
止めようと、リディアは飛び出していく。
「来るな、リディア!」
そう叫びながらも、エドガーは飛び込んでいくリディアを受け止めようと両手をのばす。
背中に刃《やいば》を感じたリディアが、そのままエドガーの方に倒れ込んでいったからだった。
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新たなる誓い
大砲《たいほう》の音が、真夜中のテムズ河にこだました。
波止場《はとば》で眠る浮浪者《ふろうしゃ》を何人起こしたかは知らないが、砲弾が箱船《ジ・アーク》≠フマストのひとつに命中したらしい、鈍《にぶ》い音もあたりに響いた。
月光のみをたよりにした、夜の奇襲《きしゅう》もロタには慣れたものだ。雇った船乗りたちも、かつてはロタと同業だった者が多いからには、手順も抜かりはない。
帆《ほ》にダメージを受けた箱船≠ヘ、いくぶん速度を落としつつある。ロタは自分の船をさらに箱船≠ノ近づけていった。
もう一発、二発と、続けざまに撃《う》ち込む。船体には穴を開けないよう、帆をねらっていく。
むろん、こんな河川の港で大砲を撃てば、箱船≠通り越して、停泊している別の船に砲弾が当たってしまう可能性もある。暗くて確認できないが、そのへんはエドガーがあとで処理してくれるだろうと、ロタは気にしないことにしていた。
それも含めての、大砲のプレゼント≠セと思っている。
「それにしても向こうの船、人影ひとつ見えやしないよ」
ロタはつぶやく。船乗りたちは隠れているのだろうか。驚いて甲板《かんぱん》へ出てきた様子もなければ、傾いたマストを補強しようともしない。
反撃の気配《けはい》すらなく、砲撃にさらされ、大きく傾《かし》いでは水しぶきを立てつつも、箱船《ジ・アーク》≠ヘあきらかに前進している。
「まるで幽霊船みたいだ」
近くにいたポールがつぶやいて、ロタ自身も、めったにないことだが背筋に冷たいものを感じていた。
破れた帆をひらひらとさせ、月光に浮かび上がる箱船≠フ姿は、まさに幽霊船だ。奇妙なことに、あれだけ帆をやられても、いくぶん速度を落としたとはいえ走り続けている。
しかし迷っている時間はない。どうしても止めなければならない。
「砲撃は休止だ。同じ速度で船を並べろ。誰か、向こうに乗り移れる者は?」
ロタの声に、船乗りたちはてきぱきと従《したが》い、手の空いている数人が侵入《しんにゅう》に志願した。
「メインマストを切り倒せ。碇《いかり》を降ろして船を止めろ」
暗い場所をねらい、ロープを渡して箱船≠ノ侵入する。|朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員もその中には加わっていたが、箱船≠ゥらはやはり誰も現れずに、彼らの侵入をすんなりと許したのだった。
ロタは船を伴走《ばんそう》させたまま、潜入者《せんにゅうしゃ》からの報告を待つことにした。
「船長、船乗りがひとりも見あたりません!」
やがて返ってきた最初の報告がそれだった。
「とっくに脱出したようです。ボートがひとつなくなっていますから」
「船乗りがいないって?」
そんなことがあるだろうか。むろん自爆するつもりの船だ。ロンドンブリッジの直前で脱出するだろうとは思っていたが、すでに脱出しているとはどういうことか。
ひとりも船乗りがいなくて、どうやってこの船は動いているというのだろう。
河は直線ではない。風向きも随時《ずいじ》変わる。帆船《はんせん》を走らせるのは、本来人数と手間がかかるはずなのだ。
「人間がひとりもいないっていうのか?」
「人質《ひとじち》はいます。眠らされているようで、鍵《かぎ》のかかった部屋に閉じこめられています。数十人はいると思われます」
いずれにせよ、上流や中流の金持ち連中が、船を動かせるはずはない。
「碇は? おろせるか?」
「碇がありません!」
「舵《かじ》が固定されてます!」
ロタは舌打ちして、船縁《ふなべり》を蹴《け》った。
マストを倒す作業は進んでいる様子だったが、もしかするとマストなんかなくても、この船は突き進んでいくのではないかとロタは予感している。
「止まらないなら、沈《しず》めるしかないぞ」
「人質は……?」
ロタの独り言をまた聞きつけ、心配そうにポールが訊《き》いた。
ロタは彼をなだめるよう背中をたたく。
「心配するな。あたしは簡単にはあきらめない」
それから、振り返って船乗りに問いかける。
「おい! 人質をボートに乗せて河へおろせるか? どのくらい時間がかかる?」
「間に合いません。ロンドンブリッジに突っ込んでしまいますよ!」
そのとき、ロタの船が大きくゆれた。河へ放り出されまいと、必死にロープを握《にぎ》りしめる。
転がるポールにあわてて手をのばす。
つかまえる、が、こんどは反対側に揺《ゆ》り戻される。
甲板の上ではねたロタは、ポールとともに転がり、マストにぶつかって止まった。
「船長! 大丈夫ですか?」
「あ? ……ああ」
起きあがりかけたロタは、ポールを下敷きにしているのに気がついた。
「おい、ポール! しっかりしろ!」
脳しんとうでも起こしたか、気絶したポールをロタはかかえ起こす。そうしながら船乗りに問う。
「今のは何だったんだ?」
「わかりません。ゆれたのはこの船だけです。箱船《ジ・アーク》≠ゥら引き離されました」
「妖精かもしれない……」
つぶやいたのは、ロタにかかえられているポールだった。まだぼんやりとした様子で、瞳の焦点を合わせようと必死になっている。
「え? 妖精だって?」
「何かが河にいて、船を押し進めてるのかも……」
箱船≠動かしている何かが、進行を妨害《ぼうがい》しようとしたロタの船に攻撃を仕掛けたのだろうか。
「すぐに元の位置に戻れるか? 急げ!」
指示を出しているうち、ようやく意識がはっきりしたらしいポールは、「わっ!」と声をあげ、あわててロタから離れた。
「そんなに驚かなくても。女は苦手か?」
「いや、あの」
「ふうん、あんたうぶなんだな」
「ええと、……今のは、伯爵《はくしゃく》に言わないでくれるね?」
「なんで? 女を知らないとバカにされるのか? そりゃエドガーのやつがおかしいよ」
エドガーの恋人だったかもしれない女性と密着してしまったことは、なるべく知られたくないとポールが思ったなどと、ロタにわかるはずもない。
「あの、そういう話では……」
「船長、あれを!」
船乗りの声に、急いで立ち上がったロタは、ポールの言いたいことを誤解したままだったが、それどころではなくなったのですぐに忘れた。
船首に駆《か》け寄ると、川面《かわも》を横切るように、ぽつぽつと黄色くともる明かりが見える。
ガス灯《とう》だ。ロンドンブリッジの黒い影が、進行方向に横たわっている。
箱船《ジ・アーク》≠フ船体は、マストもないまままっすぐに進んでいる。
もはや船体に攻撃するしかない。けれど間に合うのだろうか。
摩擦《まさつ》の火花でも火薬に引火したら、船は吹っ飛ぶ。人質はどうするのか。
ロタは握りこぶしに力を入れた。
*
リディアを抱きとめ、エドガーはその場にひざをついた。
背中にまともに剣を受けた彼女は、まぶたを固く閉じたまま動かない。
「リディア……」
頬《ほお》にかかるキャラメル色の髪をそっとよけながら、どうしていいかわからなくなって、こんどは髪が乱れるほど強く抱きしめる。
「なぜ、きみが……。守ると約束したのに!」
妖精が近づいてくるのを感じながらも、エドガーは、戦う気にはなれなかった。
もう、戦う理由など何もない。たしかに自分は穢《けが》れている。生きていていいのかどうかよくわからない。
ただ、彼女を守ることが、そして何かを与えることが自分にもできるなら、生きていたいと思っていただけだ。
妖精は、エドガーの眉間《みけん》の先に剣先を突きつけた。殺せばいい。そう思いながらもエドガーは、青騎士伯爵としての誇《ほこ》りを持って、毅然《きぜん》と妖精をにらみ返した。
「彼女は、伯爵家のために働いてきた。こんな目にあういわれはない」
「伯爵家のため? それともあなたのため? 重大なほど意味が違ってくる。彼女が今後どちらがわの人間になるのか、私にはわかりませんが、ただ、剣は判断したようです」
「判断? だから殺したというのか?」
いいえ、と妖精は、そっとエドガーの眉間から剣先を遠ざけた。
「この剣は、彼女を傷つけてはいません」
はっとして、エドガーはリディアの背中に手をやった。
ドレスが裂《さ》け、コルセットも深く切り裂かれているのに、乾いた布の感触しかなく、少しも血が流れていなかった。
「リディア……、生きているのか?」
首筋に手を触れる。脈拍《みゃくはく》が伝わってくる。
生きている。
「強い魔力を受け止めたので、気を失っているだけでしょう」
安心すると同時に、彼女をしっかりと抱きしめながら、エドガーは長いこと忘れていた神の名をつぶやいていた。
頭ごとかきいだき、頬を寄せる。
彼女を失ったわけではないことをよろこびながらも、この先自分は、リディアをどこへ連れていくことになるのだろうと考えずにはいられなかった。
青騎士伯爵家につながる妖精たちも、味方とはいえなくなるのだろうか。それでもリディアはついてきてくれるのだろうか。
わからない。でも自分からこの手を離すことなどできはしない。
妖精は、ふたりを見おろしたまま、不思議そうに言った。
「あなたは、宝剣も鍵《かぎ》も持つ伯爵家を継ぐ者でありながら、血は穢れている。主人を傷つけることはないはずの剣が、あなたの血を流す。なのに彼女は、あなたの婚約者だという理由で、剣の力に守られている」
いったいどういうことなんでしょうね。
困惑《こんわく》したように問われても、伯爵家の妖精にもわからないことがエドガーにわかるわけがなかった。
「このねじれが何をもたらすのか、よきにつけ悪《あ》しきにつけ、今はあなたを殺すわけにはいかないようです」
こっちだって死ぬわけにはいかない。エドガーは顔をあげる。
「アロー」
リディアが見いだした妖精の名を、あえて呼びつける。
「おまえは僕のしもべだ。この剣は、誰が何と言おうと僕のもの。おまえも、この剣とひとつになるはずの存在なら、僕のものだ」
妖精は苦い表情でエドガーをにらんだ。
「不本意ながらその通りです。しかし納得《なっとく》するつもりはありません。私はあなたの婚約者に従うことにします。彼女は矢≠見つけた。私は約束を守らねばならない。彼女に力を貸す、だからあなたの望みに力を貸す。異論はございませんね?」
理屈はどうであれ、妖精の力を得られるならかまわなかった。
「アンシーリーコートの群《むれ》をくい止められるのか?」
「私だけでは難しい。長年|結界《けっかい》を護《まも》ってきて力が弱まっているうえ、夢魔《むま》に襲われ、休息を余儀なくされたほどです。ムーンストーンの力を借りて、いくぶん持ち直しましたが、あなたの助けが必要です」
「僕の、何を」
妖精はゆっくりと首を動かし、床に突き刺さったままのエドガーの宝剣に目をとめた。
ゆらりとゆれた剣は、床石から抜け、またふわりと宙に浮かぶ。そのままエドガーの目の前に移動し、見えない手がささげ持つかのように水平に静止した。
「剣に命じてください。私に力を貸すようにと」
「命じる? これはきみと一心同体じゃないのか?」
「私は長い間、剣から離れていました。どうやらこの剣の中には、新しい星が宿り育っている。私と同じ名を帯びた、同じ力を持つ分身、あるいは兄弟のようなもの」
リディアを片手でかかえながら、エドガーは剣を手に取った。深い藍色《あいいろ》をしたサファイアの中には、十字《クロス》の星がきらりと輝《かがや》く。
これも矢《アロー》≠ネのだ。リディアの指輪に宿る弓《ボウ》≠ニ、一対《いっつい》の存在。
「それが、私が投げた剣の方向をそらしたようですね。かすり傷のみであなたを守った」
自力でよけられたわけではなかったのかと、エドガーは苦笑しながら、宝剣のスターサファイアを指先でなぞる。
この十字架《じゅうじか》は、プリンスのもとでエドガーに刻まれた焼き印だった。
メロウがそれと引き替えに、この剣に同じ十字の星を刻んだ。
そのときエドガーは、プリンスのものだった自分から抜け出し、伯爵《はくしゃく》という地位を得た。新たな自分となったあかしこそがこれなのだ。
剣はエドガーの血を呪《のろ》っている。けれど彼が、真の青騎士伯爵になれるかもしれないと、まだ見放してはいないのだろう。
スターサファイアに、自分の星≠ノ、エドガーは静かに語りかけた。
「アロー、力を貸してくれ。ロンドンを護るために、おまえの兄とともに」
剣が輝いた。
銀色の妖精は、その放射状の光の一筋をつかみ取る。
矢≠セ。
美しい銀色の矢。しかしそれに見とれる間もなく、周囲がはげしくゆれだした。
振動に、壁石が崩《くず》れ落ちてくる。
「時間がなさそうです。いっしょに来てください」
どこへと問うと、妖精は空の方を指さす。
「婚約者を落とされませんよう」
リディアをしっかりかかえ直した瞬間、エドガーは体が宙に浮いたように感じた。
*
「おい、ポール、火薬の倉庫は船首の方だったよな。正確な見取り図をくれ!」
ロタは忙しく立ち動きながら、船を止めるべく知恵を絞《しぼ》っていた。
「船を箱船《ジ・アーク》≠フ前へ出そう」
見取り図をにらみつけ、それを手に今度は砲台に駆け寄る。
そのときロタの目の前で、ひょいと船縁《ふなべり》を飛び越え、甲板《かんぱん》に降り立つ者がいた。黒髪巻き毛の男が、不機嫌《ふきげん》そうに立ちはだかる。
「おい、船がちっとも止まりそうにねえぞ。どうなってるんだよ」
「……あんた、ケルピー?」
「リディアが橋から出てこない。あの船がぶつかれば、橋は壊《こわ》れちまうんだろう?」
「そうだよ。時間がないんだ。じゃましないでくれ」
ケルピーを押しのけようとし、ふとロタは立ち止まる。振り返りケルピーを見あげる。
たしかこいつは、水の中に棲《す》む妖精だった。水中や水際《みずぎわ》では恐ろしい力を発揮《はっき》するから、ケルピーのいる水辺には近づかない方がいい。そうリディアに教えてもらったことがある。
水をあやつって洪水を起こし、岸辺の家畜《かちく》をごっそりさらっていくこともあるほどだというのだ。
「あんた、大きな波を起こせるか?」
「は?」
「あたしの言うタイミングで、波を起こしてほしいんだ」
「なんで俺さまが、おまえの言うことなんかきかなきゃならない」
「リディアを助けたいんだろ?」
リディアと聞けばケルピーは、しぶい顔をしながらも黙《だま》った。
協力してくれると判断し、ロタは急いで船乗りに指示を出す。
「いいか、倉庫の真上だ。この横《よこ》っ面《つら》に穴をあけろ!」
「でもロタ、そんな近くに発砲《はっぽう》して、火花が火薬に飛んだりしたら……」
ポールの心配そうな声にも、ロタは凛《りん》と笑顔を返す。
「きっとうまくいくさ。ケルピー、準備をしてくれ」
「俺さまをなめるな。波くらい、準備なんかいるか」
「そりゃ頼もしい」
砲弾が詰め込まれるのを確認し、自ら大砲のひもを握《にぎ》ったロタは、タイミングを待った。
気がつくと、リディアはロンドンブリッジの上にいた。エドガーに抱きかかえられていた。
おろしてと言うには、全身に力が入らず、まだ恥《は》ずかしい気持ちも感じる余裕《よゆう》がないほど、リディアは疲れ切っていた。
エドガーは、リディアが目覚めたのに気づかない様子で、ゆっくりと欄干《らんかん》の方へ歩いていく。橋の上に等間隔《とうかんかく》で並ぶガス灯《とう》が、下方の川面《かわも》をわずかに照らしているのが見える。
夜明け前のロンドンブリッジに、人影は見あたらない。そんな中、寝静まっているはずのテムズ河に、大砲の音が鳴り響いた。
びくりと身を震《ふる》わせたリディアに気づき、エドガーが覗《のぞ》き込む。
「大丈夫、あれはロタが戦ってるんだ。箱船《ジ・アーク》≠止めるためにね」
「あの、エドガー、おろしてくれない?」
「立てるの?」
「ええ、……たぶん」
エドガーは迷ったようだったが、結局彼女をゆっくりと地面におろす。しかしまだふらつくリディアは、腰に腕をまわされ、寄りかかっているといいよと引き寄せられるのを断ることはできなかった。
それよりも、箱船≠ェ気になる。リディアは欄干から目を凝《こ》らした。
月光のもと、二艘《にそう》の船がこちらへ向かって走ってくる。ひとつは、ぼろぼろの帆《ほ》が傾《かたむ》いたマストにまとわりつく箱船=Aもうひとつは、あれがロタの船だろうか。
再び大砲が鳴ったとき、箱船≠ノ命中したらしく船体が大きくゆらいだ。
「あの船、火薬を積んでるんじゃなかったの?」
「ロタは知っているはずだ」
もし砲弾の火花で、火薬が爆発したりしたら、ロタの船も巻き込まれる。なのにまた、轟音《ごうおん》とともに砲弾が発射される。
次の瞬間、船にたたきつけるような波しぶきが立った。
「ケルピー?」
そのとき川面へ飛んだ、黒い馬の姿をみとめ、リディアはつぶやく。
そうして気づく。
まともに波をかぶった箱船≠ヘ、砲弾にあけられた側壁《そくへき》の穴から浸水《しんすい》し、水浸《みずびた》しになったに違いなかった。
「そうか……、火薬は濡《ぬ》れれば役に立たない」
エドガーが言うとおり、このときとばかりにロタは、自らの船をぶつけるようにして、箱船≠止めようとしているのだった。
しかし箱船《ジ・アーク》≠ヘ、ロンドンブリッジへ向かって進み続けている。たとえ火薬が爆発しなくても、橋にぶつかったとたん、船はバラバラになって人質《ひとじち》を乗せたまま沈《しず》んでしまうだろう。
破れた帆は風を受け止めるはずもなく、蒸気《じょうき》の動力を使っている様子もないのに、船は音もなく突き進んでくる。
その異様な姿よりも、リディアの目を引いたのは、船の周囲に蟻《あり》のように真っ黒に群《むら》がっている何かだった。
|邪悪な妖精《アンシーリーコート》の群《むれ》だ。
「アロー、早く妖精たちを止めてくれ!」
叫《さけ》んだエドガーにも、黒い群は見えているのだろうか。まだリディアもエドガーも、境界の結界《けっかい》に足を突っ込んでいる状態なのだろう。
「伯爵《はくしゃく》、あなたの婚約者を貸してください」
急いだ口調《くちょう》でそう言ったのは、頭上をちらちらと舞う星≠セった。
「なんだって?」
「弓を扱えるのは持ち主の彼女だけです」
「リディアに弓を引かせる気か? 無理に決まってる」
「ボウが手助けするでしょう」
「……エドガー、あたし、やるわ」
心配そうにリディアを覗《のぞ》き込んだエドガーは、手を離したくはなさそうだった。
無茶をさせたくないと思ってくれているのはわかる。けれど彼女は、自力で立ち上がる。
「あたし、伯爵家の一員になるんでしょう?」
だから、ともに戦う。リディアは金緑の瞳をまっすぐに彼に向け、そう語った。
銀色の光を瞬《またた》かせた妖精は、彼女の左手を持ちあげると、ムーンストーンを月光にさらすようにした。
指輪から、一条《いちじょう》の光が放《はな》たれる。
細い新月の弓が、空中に浮かび上がる。
それをつかみ取ったリディアは、自分の中に別の力が侵入《しんにゅう》するのを感じていた。
弓《ボウ》≠ニつながったのだろうか。
妖精にでもなったかのように身が軽くて、意図《いと》しないままにふわりと飛びあがると、欄干の上へ降り立っていた。
そこから河を見おろす。
箱船《ジ・アーク》≠ヘ、この橋桁《はしげた》へとどんどんせまってくる。
銀色の星≠ヘ、リディアの頭上で矢≠ノ姿を変える。
腕をのばしてそれをつかむのも、弓につがえるのも、リディアの意識とは関係のないところで進んでいた。
リディアは、あたたかくてやさしい力に全身を包まれて、それにすべてをゆだねている。
金色に輝くのは、月の弓《ボウ》。
空に放たれるのは、星の矢《アロー》。
星の軌跡《きせき》をリディアは目で追う。
夜空に吸い込まれるようにのぼっていった星の矢は、はるかな高いところで、一瞬夜空を昼間に変えるほどの閃光《せんこう》を発した。
その光が引くとともに、空を見あげるリディアの視界を、流星群が覆《おお》っていた。
自分の頭上を中心に、放射状に無数の星が流れ落ちる。
雨のように、ロンドンブリッジに、テムズ河に、そしてロンドンの街に降り注ぐ。
下町を覆っていた、黒い影がしりぞいていく。小さくなって、解けて消えていくように。
ロンドンブリッジに横たわっていた夢魔も、流星の光を浴びると徐々に影が薄くなり、やがて消える。
[#挿絵(img/my fair lady_281.jpg)入る]
箱船《ジ・アーク》≠ノまとわりついていたものも、家々の屋根や石畳《いしだたみ》や、側溝《そっこう》にたまっていた気配《けはい》さえ浄化《じょうか》されていく。
それを見守りながら、リディアは考えていた。
初代青騎士|卿《きょう》のスターサファイアと、お妃《きさき》妖精のムーンストーン。
ふたつの、謎《なぞ》めいた宝石に、選ばれてしまったのだろうか。
伯爵家とは無関係なエドガー。田舎《いなか》出《で》のフェアリードクターにすぎないリディア。それでも、彼が宝剣を手にし、引き寄せられるようにリディアの手元にムーンストーンが転がり込んできたときから、運命は定まっていたかのような気がするのだった。
はじめてエドガーからプロポーズの言葉を向けられ、ムーンストーンを受け取ったとき、リディアはまだ便宜上《べんぎじょう》の出来事としか思っていなかったけれど、妖精界の約束事として、エドガーとのつながりは、特別な意味を持ったのかもしれない。
思えばあれから、エドガーの口説《くど》き文句は度を超えるようになり、リディアは彼を意識するようになっていった。
リディアは川面《かわも》を見つめる。橋の手前で、動かすものがいなくなった箱船≠ェ、ゆるゆると止まる。
手に握《にぎ》っていた、金色の弓が消えていくと、急に体が重くなってふらつき、欄干《らんかん》から落ちそうになる。
あたしは、これからどうなっていくのかしら。
恋も結婚も、リディアにはまだ、自分のことだという実感が薄い。ただ彼に惹《ひ》かれていると感じるだけで、先のことは想像できない。
でももう、これまでのように、ひとりで妖精たちと過ごす自分も想像できない。
エドガーに抱きとめられるのを感じながら、この腕がいつもそばにあることを願い、彼女は意識を手放した。
* * *
流星群を避《さ》け、テムズ河の深いところを泳ぎながら、上流のロンドン郊外までやって来たケルピーは、河からあがると、たてがみの水滴《すいてき》を振り払いつつ、空を見あげた。
流星群は消えつつある。ときおりロンドンの方角で、小さな星が流れるが、それもじきにおさまるだろう。
そろそろ、東のほうが薄明るくなってきている。星は消える時間だ。
ケルピーはあのとき橋の下で、リディアが月の弓を射《い》るのを見ていた。リディアの体を借りた別の何かだったけれど、リディアが遠くなったかのように感じていた。
彼女はもう、青騎士伯爵の婚約者だ。あの頑固《がんこ》なリディアが決めたのだから、その事実は動かないだろう。
ただケルピーの気がかりは、エドガーのことだ。
彼はプリンス≠ノなってしまった。リディアを裏切ることがないといえるのだろうか。
「さすがに、疲れてるようね」
声に振り向くと、河岸の木陰《こかげ》に男装の女が立っていた。
「なんだ、|アザラシ妖精《セルキー》か」
「夢魔といっしょに駆除《くじょ》されたかと思ったわ」
「俺はそんなにやわじゃない」
「そのようね」
「で、なんでおまえはここにいるんだ?」
「偶然《ぐうぜん》よ」
「ふん」
アンシーリーコートの魔力を奪う神聖な光の矢が、ロンドン中に降り注いだのだ。もしもケルピーが、どうにか逃《のが》れることができたなら、河をさかのぼってロンドンを抜け出すだろうと、アーミンが様子を見に来たことに気づくはずもなく、ケルピーは別のことを考えていた。
立ち去ろうとする彼女を呼び止める。
「おまえさ、こうなることを予想してたのか?」
「こうなるって?」
振り返らずに、背を向けたまま問い返したアーミンは、ケルピーの訊《き》きたいことくらいわかっていたのではないだろうか。
「フレイアを盗み出して、ユリシスに渡したのはおまえだ。あれがあれば、プリンス≠フ肝心《かんじん》な部分は生き続ける。あの伯爵《はくしゃく》がプリンス≠ノなる可能性だって気づいてたんじゃないか?」
彼女は黙っていた。否定しないのは、そうだと言っているようなものだった。
「だから、プリンスの側についたのか? おまえが伯爵を手に入れる方法は、それしかないから? いつかやつが、リディアを裏切ってユリシスたちの王子《プリンス》になるなら、またあいつのそばで仕《つか》えていられるからか?」
彼女は振り返った。怒ったようにケルピーをにらみつけたが、発した声音《こわね》は静かだった。
「こんなことになると知っていたら、あのとき盗み出したりしなかった」
「じゃあなぜ盗んだんだ」
プリンスの組織にもぐり込むため、やつにおもねるためだったのだろうか。
しかしアーミンは、プリンスに与《くみ》しながらも、伯爵と弟のことを考えて、彼らを守ろうとしているとも思われる。なら、よほど特別な力を持つと思われるフレイアを、深く考えもせず、伯爵から奪ってプリンスに渡すようなことをするだろうか。
あの石の力を知らなかったならなおさら、敵の手に渡すには慎重《しんちょう》になるはずだろう。
「……でも、これが運命なら、やはりほかに道はないのよ」
アーミンは、ケルピーの問いには答えず、ただそう言った。
ケルピーは、素朴《そぼく》な疑問にとらわれていた。
いったい誰が、フレイアをアーミンに盗ませたのだ? 伯爵と弟のためを思うなら、ほかに道はないとアーミンに働きかけた誰かがいるのではないか。
そもそも彼女が独断で、たとえ伯爵の役に立てるとしても、裏切ってプリンスにつくことを考えつくというのは想像しにくい。
フレイアを手に入れたことで、彼女はプリンスに認められたのかもしれないが、同時に伯爵からの信用を失った。
それでも彼女に、その決意をさせたのは誰なのか。
「おまえ、誰に仕えてる。プリンスでもユリシスでもない、誰かが言ったんだろう? プリンスの組織に入り込むことが、伯爵と弟のためになるって」
「わたしの魂《たましい》の主人は、エドガーさまだけ」
「だが誰かの言いなりになってるんだろ」
アーミンは、おそらく話す気はないだろう。
「結局はわたしの意志よ」
誰の命令でも同じことだと言いたいのか、小さくため息をついた。
「後悔《こうかい》はしてない。だけど、できるならこの先、わたしがエドガーさまの役に立てるようなことは、起こらない方がいいと願ってるわ」
ケルピーだってそう願いたいと思う。
伯爵が、この先|セルキー女《アーミン》と接するとしたら、プリンスの組織と接点を持つということだ。
リディアのために、そういうことにはなってほしくない。
伯爵がリディアを失いたくないが故《ゆえ》に、フレイアを手にしたことは知っている。けれどそれは、正しい選択だったのだろうか?
ただでさえ彼は、リディアを危険な戦いに巻き込んでいるのに、そばにとどめようと執着《しゅうちゃく》する。リディアも向こう見ずに、危険に飛び込んでいく。
それでいいのかとケルピーはつぶやく。
「なあ、おまえは人間だったことがあるからわかるか? どうして人間は、恋をしたとたん、あんなに必死になってそばにいようとするんだろうな」
「……きっと、人間にはあまり時間がないからよ。あの、はげしくて刹那的《せつなてき》な感情も、突き進むしかない情熱も、短い生涯《しょうがい》を駆《か》け抜けるには必要なんじゃないかしら」
アーミンはそれだけ答えると、ケルピーの視界から去っていった。
「そういうもんかね」
ケルピーはため息とともにつぶやいた。
*
一夜が明けたロンドンでは、夜中に聞こえた大砲《たいほう》の音や、満天の流星群について、あちこちで話題になっていた。
何より、ぼろぼろになった箱船《ジ・アーク》≠ェ、ロンドンブリッジの手前に浮かんでいたのは市民にとって大きな謎《なぞ》となった。
中にいた人々は皆、無事に船外へ出されたが、ひとりとして何が起こったのかわかっていない。
ムッシュ・アルバという箱船≠フ所有者は姿を消した。そもそもそういう人物は存在せず、警察内の上層部には、アルバと名乗った男に買収《ばいしゅう》されていた者も少なくない。突っ込んで調べようとはしないだろう。
グレッグと仲間たちも、ユリシスの手先に箱船≠ノ閉じこめられ、乗客とともに殺されそうになっていたわけだが、もともと自分たちが荷担《かたん》した悪事について吹聴《ふいちょう》するはずもなく、早々に逃亡したようだ。
アンシーリーコートが消え失せた今、下町の病気もおさまってくるはずで、すべてはうやむやのまま忘れ去られるだろう。
プリンスの存在も、英国への組織的な反逆も、妖精だの魔法だのに話が及んでは、世間に公表するのは難しい。
それよりもエドガー自身、過去を隠して生きているだけに、プリンスのことは、王家を揺るがす問題だと知る以前から、国や司法に頼れることではないとわかっている。
だからこそロタに無茶なことを許可したのだし、箱船≠フ件もロタが大砲をぶっ放したことも、うやむやにするのはエドガーの仕事だった。
すべての事後処理は、夜明けまでに速《すみ》やかに行われた。
結界《けっかい》としてのロンドンブリッジは、相変わらずテムズ河に架《か》かっている。力は弱まっているとはいえ、自然に立ち現れる魔から街を護《まも》るには、まだじゅうぶんだということだ。
『私はグラディスさまのおそばに。彼女の護りの力がついえるまでは』
そう言って、銀色の妖精は去っていった。
『妖精も世代が変わる。それだけのことです』
エドガーの宝剣には、相変わらず十字《クロス》の星が輝いている。青騎士伯爵家の、新しい星≠ナあり、矢≠ナある妖精が、確かに息づいている。
エドガーは、疲れた体をソファにあずけ、肩に立てかけた宝剣の重みを、じわじわと感じていた。
自分は、青騎士伯爵家の救世主になるつもりでいた。けれど今は、この家のすべてを破滅《はめつ》に導く可能性をかかえている。
これから、どうなっていくのだろう。
「エドガーさま、休まれないのですか?」
ドアが開いたままになっていた戸口から、レイヴンが心配そうにこちらを覗《のぞ》き込んだ。
「ああ、もうすっかり陽《ひ》が高くなってしまったしね」
「でも、ゆうべはお休みになっていません」
事後処理に追われていたのだ。
それでも今も、眠れそうな気がしない。
「リディアは?」
「まだお目覚めの様子はありませんが」
橋の上で気を失ってから眠ったままだ。
エドガーは立ち上がると、宝剣をレイヴンにあずけ、部屋を出た。
「エドガーさま、それはもう、必要ないのでは」
すれ違う一瞬に、エドガーの上着に触れたせいだろう。ピストルを持ったままだと気づいたレイヴンは、不安になったかのように、めずらしく主人を呼び止めたのだ。
「ああ……、そうだね」
けれどもエドガーは、そのまま彼の前を行き過ぎた。
べつだん物騒《ぶっそう》なことを考えていたわけではない。それとも、考えていたのだろうか。
邸宅を出て、あてもなく歩いた。
気がつくと彼は、近くの教会へと足を踏み入れていた。
朝の礼拝《れいはい》を終えた礼拝堂に人影はない。
ステンドグラスからやわらかな光が降り注いでいる。そんな片隅《かたすみ》のベンチに腰をおろす。
ずいぶん長いこと、そこでぼんやりと過ごし、ふと、なぜこんなところにいるのだろうと不思議に思った。
エドガーは神を信じない。自分の運命がひとりの男にねじ曲げられた九年前のあのときから、神はいないと思っている。
地獄《じごく》のような場所を脱して生き残り、新しい名を得たのも、仲間たちにささえられ自分で切り開いたものだ。
だからこそ、今の自分の状況も、もはや神を恨《うら》むものではなく、自分の選択だったとわかっている。
握《にぎ》りしめていた手を、そっと開く。
フレイアに触れたときの、火傷《やけど》のようなあとはずいぶん薄くなった。そのうち消えてしまうのだろう。
まだ、何の変化も感じない。自分は青騎士|伯爵《はくしゃく》だと意識をしっかり保っていれば、プリンスの記憶《きおく》など単なる情報でしかないと、昨日から彼は何度も自分に言い聞かせている。
その一方で。
フレイアに触れた手のひらを、エドガーは自分の胸元に動かした。上着の内ポケットに入ったピストル、その固い手触りを感じながら、心臓の真上に銃口《じゅうこう》があることを考えていた。
自分が死ねば、プリンスを完全に葬《ほうむ》ることができる。それは確かな事実として、夜が明けても胸の内にくすぶっている。
将来をあれこれ考えるよりも、どれほど簡単なことだろうか。
けれど、リディアがいる。
彼女の存在を思うだけで、エドガーの手から力は抜ける。
「伯爵……?」
突然の声に、エドガーははっとして胸元から手をおろした。
振り返ると、ひとり礼拝堂へ入ってきた男性は、カールトン教授だった。
相変わらずのぼさぼさ頭も、ずり落ちかけたまるい眼鏡《めがね》も気にせず、彼はエドガーを見て相好《そうごう》を崩《くず》した。
「ああ、やはり伯爵でしたね。戸口から、あなたの金髪が目についたもので」
「教授、ケンブリッジから戻られたのですか?」
「ええ、今日は少しロンドン大学に用がありまして。それでお宅へ寄らせていただいたんですが……」
どうにか笑顔を作って、エドガーはベンチから立ち上がった。
「ではリディアさんには会われましたか? ああそうだ、事後報告になってもうしわけありません。彼女はスコットランドにいると先日もうしあげましたが、いろいろあってこちらへ戻ってきたものの、妖精とかかわったせいで体力を消耗《しょうもう》したらしく眠っています。健康に問題はないとのことですのでご安心ください」
「はい。執事《しつじ》のトムキンスさんにもお聞きしました。リディアもちょうど目覚めたところで、いつもの元気な様子でした」
「目が覚めたのですか? そうですか、よかった……」
「伯爵は散歩に出かけられたということでしたので、ちょっとこのへんを歩き回ってみたわけなんですが。つまり伯爵、今日は、先日のお返事をしなければならないと参ったのです」
リディアが目覚めたとほっとしたのもつかの間、エドガーは手のひらの火傷を意識しつつ、このまま返事を聞くわけにはいかないと考えていた。
教授に隠したままにしてはおけない。結婚の許しを得るために、エドガーは彼に正直であることを誓ったのだ。
「教授、これを見てください」
エドガーは、教授が返事を切り出す前に、手のひらを開いた。
「僕は、|炎の蛍石《フレイア》の魔力に触れました。老いた体から若い体へ、魂《たましい》を移すのではなく、記憶を移す魔法なんだそうです。僕の中には、そんな恐ろしい黒魔術を実践《じっせん》する男の記憶が紛れ込んでいます」
「記憶……ですか?」
「今は、それがどんなものなのかもわからないのですが、彼らの組織の長は、何度も自分の記憶を他人の体に移して、後継者《こうけいしゃ》をつくり出してきたらしいのです」
驚きと困惑《こんわく》の入り交じった複雑な目をエドガーに向けたまま、カールトン教授は何かを言いかけ、結局口をつぐんだのだった。
他人事《ひとごと》というには、自分の娘と深くかかわるエドガーの境遇《きょうぐう》を、受け止めかねたのだろう。
「教授、僕からはどうしても、リディアさんとの婚約を白紙に戻すことはできそうにありません。彼女を愛しているし、別れを告げることも忘れることもできない。でも、あなたが許さなければ、彼女は父親を裏切ってまで僕についてこようとはしないでしょう」
苦しい思いで、エドガーは一気に言った。
断られたって、あきらめるはずがない。気がついたら彼女を、どこか遠くへさらっているかもしれない。そんな自分を感じながらも、そう言うしかなかった。
「それは、どうでしょうね」
思いがけず、自嘲《じちょう》気味《ぎみ》にそう言った教授は、礼拝堂の入り口に視線をやった。
リディアがそこにいた。
走ってきたのだろうか。息を切らせながら、泣きそうな顔でこちらを見ている。
と思うと、むっとした様子で唇《くちびる》をむすぶ。エドガーの方へつかつかと近づいてくると、いきなり上着に手をかけた。
フロックコートをつかみ、内側に手を突っ込む。あっという間にピストルをつかみ出すと、リディアはそれを後ろ手に隠すようにして後ずさった。
「エドガー、もう、うそはつかないって言ったじゃない。本気だって言ってくれたプロポーズを信じることにしたのよ。なのに、あたしとの約束を破るつもりなの?」
「うそなんて。それはただの護身用だよ。置いてくるのを忘れただけだ」
リディアは勢いよく首を横に振る。
「ううん、うそつきね。レイヴンが心配してたもの。置いていかなかったって。あなたの様子がおかしいってトムキンスさんも気にしてたし、レイヴンは理由を知ってるみたいなのに何も教えてくれなかったけど、変に思いつめてるんじゃないかと思ったら……」
こらえきれなくなったようにぽろりと涙をこぼすと、彼女はくるりとエドガーに背を向け、いきなり父親に抱きついた。
「怖くてたまらなかったのよ!」
教授は困惑しつつ、泣いている娘の頭を撫《な》でる。
「リディア、抱きつく相手が違うよ」
「いいえ……父さま、あたし、エドガーには抱きつきたくないわ」
「結婚するんじゃないのかい?」
父にしがみついたまま、しばし黙《だま》ったけれど、彼女はきっぱりした口調《くちょう》でまた言った。
「……するけど、抱きつかないわ」
苦笑して、子供みたいにくっついているリディアの腕を、カールトン教授はそっとはがす。
そうしてハンカチを渡して涙を拭《ふ》かせると、エドガーの方に振り向かせる。
「こういう強情《ごうじょう》な娘ですが、伯爵、どうかよろしくお願いします」
「教授……」
本当にいいのかなんて、問う必要はないと思い直し、エドガーは口をつぐんだ。
教授は、もちろんさっきのエドガーの告白も考えた上で、こう言ってくれたのだ。
大切な娘の結婚話だ、お人好《ひとよ》しを発揮《はっき》したわけではないだろう。この人の学者らしい鋭《するど》い目で、公平な考え方で、曇りのない判断で、エドガーを信用してくれるのだと思うから、自分は変わらないと心に誓う。
「ありがとうございます」
そっとリディアの背中を押して、立ち去るカールトン教授に、エドガーは深く頭を下げた。
父親が行ってしまって、リディアはふてくされながらも気|恥《は》ずかしそうにベンチに座り込んだ。
「リディア」
「近づかないで」
「ごめんね、心配させて」
うつむいたまま、彼女は言う。
「……プリンスは死んだって、聞いたわ。でも、あなたは手放しでよろこんでない。いいの、あたし何も訊《たず》ねないわ。あなたが話す気になるまでは……。だから、ひとつだけ信じさせて」
「うん、何?」
「黙って、いなくなったりしないって……」
「ああ、約束するよ。これからはいつでもそばにいる。もしきみが逃げ出したくなったって、どこまでも追いかけるから」
隣に腰をおろし、ひざの上で固く握りしめている彼女の手に手を重ねる。
「あの、べつにそこまでは……」
「もう、離さないからね」
ふたりきりになったことを、リディアはかすかに後悔《こうかい》したのかもしれない。誰もいない礼拝堂をあわてて見まわし、困惑したように目を伏《ふ》せた。
「……近づかないでって言ってるでしょ。あたしまだ怒ってるの」
「抱きつきたくないくらいに?」
「そうよ」
頬にかかる髪を指先ではらうと、リディアはこわごわ視線をあげる。金緑の、妖精が見える不思議な瞳が、愁《うれ》いを含んでこちらを見つめる。
やっと手に入れた、自分だけの宝石だ。
「なら抱きつかなくていいから」
寄せた唇がかすかに触れあうと、リディアはまた、「うそつき」とつぶやいた。
「まだ何かうそをついたっけ?」
「……あたしたち、こんなふうにしたことなかったわ」
婚約を忘れていたリディアに、いつもそうしてたなんて言ってキスしたのだった。
そんなこと、とエドガーは笑う。リディアは笑い事じゃないと思っているのか、むっと頬《ほお》をふくらませる。
かわいくてまたキスしたくなる。
「うそじゃないよ。これからはいつものことになるわけだし」
[#挿絵(img/my fair lady_299.jpg)入る]
「ちょっと、ここは教会よ」
「婚約したんだから、神さまも祝福してくださる」
まだ不本意そうに眉《まゆ》をひそめながらも、彼女は顔を背《そむ》けはしなかった。
どうしてなんだろうと、エドガーは、かすかにうずく胸の痛みをこらえる。
小さな希望があるだけで、人は簡単には死ねないらしい。ならば自分は生きながら、プリンスを葬《ほうむ》らねばならない。
可能なのかどうかわからない。生きたいと願うことが、リディアを不幸にはしないだろうか。
それでももう、彼女のぬくもりを手放せやしないのだから、戦い続けるしかない。
リディアがいつでも笑っていられるように、そう願うかぎり、エドガーは自分のままでいられると信じて、腕に感じる華奢《きゃしゃ》な肩を引き寄せた。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは。
十冊目になりました『伯爵と妖精』、ご愛読くださいましてありがとうございます。
シリーズの山場のひとつ、というつもりの今回でしたが、宿敵との初対決はこういう結果に相成りました。
そんなわけで、エドガーと青騎士|伯爵家《はくしゃくけ》の行く末《すえ》は……?
婚約≠オたふたりは、無事結婚できるのか……?
まだまだ紆余曲折《うよきょくせつ》がありそうですが、これからも楽しみにしていただければと思います。
さてさて、物語には今回もロンドン橋が登場しました。
前巻のあとがきで、ロンドン橋のことを少し書きましたが、今回ももう少し。
あの有名な童謡《どうよう》、『ロンドン橋の歌』について、みなさんも疑問に思ったことはありませんか?
歌ってみれば何度も出てくるマイ・フェア・レディ≠ニいう歌詞は何なのだろう?
前後のつながりもなく、突然出てくるレディ≠チて誰? と思いますよね。
一説によると、人柱になった娘のことだそうですが、どうなのでしょう。
ようするにあの歌は、橋が洪水で流されちゃうので人柱を立てた、という意味だっていう説なんですが、童歌ってちょっと不気味だったり不思議だったりするところがあって興味を引かれますね。
そんなイメージも重なって、今回はこういう話になりました。
どうか楽しんでいただけますように。
それから、高星《たかぼし》麻子《あさこ》さまには今回もステキなイラストをつけていただきました。巻数も進んでまいりましたが、ますます優雅《ゆうが》なエドガーたちを目にできて幸せです。
読者のみなさまにも、うっとりイラストを眺《なが》めながら、物語を堪能《たんのう》していただけるよう願っております。
二〇〇七年 一月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
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底本:「伯爵と妖精 ロンドン橋に星は灯る」コバルト文庫、集英社
2007(平成19)年3月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年4月23日作成