伯爵と妖精
女神に捧ぐ鎮魂歌
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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(例)透輝石《ダイオプサイド》
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目次
魔都にうごめくもの
想うのは誰のこと
悪夢はロンドンブリッジに
精霊と女王
心はとめられない
ふたつの姿を秘めるもの
パーティがはじまる
あとがき
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魔都にうごめくもの
このところロンドンでは、不気味な殺人が続いていた。
事件の現場は、この街の名所のひとつ、ロンドンブリッジだ。
大《グレーター》ロンドンを貫くように、大きなカーブを描きながら横たわるテムズ河、そこにかかるこの橋は、昔から都を守る砦《とりで》でもあった。
敵艦が河をさかのぼるのを防ぐとともに、橋の上から石や弓で攻撃するためのものだ。
昔、デーン人のヴァイキングに奪われたこの都を取り戻そうとした王は、行く手を阻む橋を見事に落とし、戦に勝利したという。
それから千年近く経った今も、当時の出来事は市民の記憶に深く刻まれ、誰もが知る童話にもなっている。その橋、ロンドンブリッジに、六人目の犠牲者《ぎせいしゃ》がつるされたという今朝のタイムズ紙を、妖精国《イブラゼル》伯爵《はくしゃく》、エドガー・アシェンバートは深刻な表情で見入っていた。
ロンドン市民を震撼《しんかん》させているこの殺人事件は、被害者の年齢も経歴も様々だが、共通点がひとつだけある。ロンドンブリッジの欄干《らんかん》に結わえたロープで、首をつって死んでいるということだ。
最初は自殺と報じられた。自分で首にロープを巻き付けて飛び降りたのを見たという証言者がいたからだった。
しかし、また違う証言もある。
そばに人影があったとか、人ではなく悪魔のような恐ろしい姿をしていたとか。
「それで伯爵、今度の犠牲者なんですが、英国人ではないようなんです。マイケル・カーンという英国風の名を名乗っていて、こちらの女性と結婚していますが、セイロンの小部族の出身だとか」
アシェンバート伯爵邸のジェントルマンズルームで、声をひそめつつエドガーに告げるのは、新人画家のポール・ファーマンだ。
エドガーの友人で、敵を同じくする秘密結社、|朱い月《スカーレットムーン》≠フメンバーでもあるポールは、結社が進めた調査の報告に、伯爵邸を訪れているのだった。
「セイロンの植民地化が進む以前は、ハディーヤという小国をつくっていたという部族の、首長一族の生き残りらしいんです」
「ハディーヤ?」
「ええ。ただこの話は、死んだ本人が親しい者に話していたものだそうで、英国がわの資料には、そういう地名はないんですが……」
「入植者たちは、勝手に土地を分割して名前をつけて、先住民を追い出してしまうからね。だけどポール、その土地の名は、僕も聞いたことがあるよ」
ポールは驚きに目を見開いた。エドガーは、たたんだ新聞をデスクに置き、従者の少年が置いていった紅茶のカップを眺《なが》めやった。
「幼いころに、故郷から連れ去られるようにして売られた姉弟がいた。ふたりとも、自分のふるさとがこの地上のどこに位置しているのか知らなかった。何度も違う船に乗り換えさせられ、長いこと海を渡ったことしかわからない。ただ彼らが知っていたのは、自分たちが生まれた場所の、現地語でいうハディーヤという名前だけ」
姉弟の記憶をもとに、エドガーも、ハディーヤがどこにあるのかを以前に調べたことがあった。しかし、わかっているのは英国の植民地だということだけ。そしてそれは広すぎた。
結局、地域をしぼることすらできなかったのだが、こんなふうに不吉《ふきつ》な事件に関連して、その名を聞くことになるとは夢にも思わなかった。
「セイロンとはね」
大きな敵の、しっぽがかすかに見えたのだろうか。それをつかむには、まだまだ情報が足りない。
「ポール、事件についてもっと知りたいな」
「はあ、それが、この件は警察が注意深く情報を隠しているようなんですよ。新聞社の連中も情報屋も、売るネタがないと言ってるくらいで」
「なら、この人物に連絡を取ってくれ。僕の名前を告げればいい」
手元の紙切れに、エドガーはペンを走らせる。そのメモを受け取りながら、ポールはまだ不思議そうに首を傾げた。
「でも伯爵、今回の事件にプリンスがかかわっている可能性は、本当にあるんでしょうか」
「ますますありそうに思えるよ。今話した姉弟は、プリンスのもとへ売られてきたんだ」
「えっ、……とすると……」
「ハディーヤは、レイヴンとアーミンの故郷だよ」
エドガーの忠実な従者であるレイヴンと、エドガーを裏切って敵のスパイを続けているのかもしれないその姉、アーミンの故郷。
散り散りになった民の、首長一族のひとりが、今この時期にロンドンで奇妙な殺され方をしたことは、エドガーにはどうしても意味があるように思えるのだった。
* * *
久しぶりに雲間から太陽が姿を見せたその日は、草木も急いで若葉を芽吹かせたか、野原は淡い緑に包まれていた。
ロンドン近郊《きんこう》の、なだらかな丘の上に立つ教会では、今しも祝福の鐘が打ち鳴らされ、結婚式を終えたばかりの男女も、彼らを取り囲む参列者にも笑みがこぼれる。
そんな参列者の片隅《かたすみ》にいて、リディアはひとり無意識に、難しい顔をしてしまっていた。
厳《おごそ》かな儀式と純白の花嫁衣装を、これまでなら素直にあこがれの気持ちで眺《なが》めただろう。けれど今のリディアは、すべてに対し複雑な心境なのだ。
彼らはどうして結婚する気になったのだろうとか、少しも迷う気持ちはないのだろうかなどと、よけいなことを考えてしまう。
新郎が父の教え子だというだけで、よく知らない人の結婚式だからなおさらだ。
つまりはリディア自身、プロポーズされて困惑《こんわく》しているところだったから、他人の結婚式でさえ、つい自分と重ねて考えてしまうのだった。
教会の正面に並んで、祝福の花びらが舞うのを眺める新婦の気分になって想像する。
隣にいるのが彼だったら、幸せな気持ちになれるのだろうか。
リディアの想像の中での彼は、白い花びらが舞うなか、遠くの方をじっと見ている。隣にいるリディアではなく、参列者の中にいるだろう親しかった貴婦人たちでもなく、遠くで控《ひか》えめに見守っている召使いたちの中に、ひとりの姿をさがしている。
想像にすぎない。けれど彼は本当に、リディアが相手で幸せになれるのだろうか。
「ねえ、父さまは、どんなふうに母さまにプロポーズしたの?」
隣にいる父に、なんとなく訊《き》いてみた。
「そのとき母さまは、迷わずイエスと答えたの?」
困った様子で、父は無造作《むぞうさ》に頭をかく。めずらしく整えてきたはずの髪の毛が、変なふうに乱れてしまったことには気づかない。
「えっ、さあ……、なにぶん昔のことだからね」
まったく身なりにこだわらない、女心にうといし気が回らない、学問バカの博物学者だ。どうやって母を口説《くど》いたのか、娘のリディアはつねづね疑問に思ってきたが、何度|訊《たず》ねても聞き出せたことがない。
リディアが幼い頃に亡くなってしまった母には、もう訊きようがない。
「おや、リディア、記念撮影をするようだよ」
逃げ出したいとばかりに、父は言った。
「あたしはいいわ。あっちの木陰のベンチで待ってる」
じっとしていなければならない写真撮影なんて苦手なくせに、父は頷《うなず》きつつ、そそくさと行ってしまった。
「あ、父さま、髪の毛が乱れて……」
言いかけたが、まあいいわと口をつぐむ。どうせつい動いてしまったりして、父のところだけ写真はぼけたようになるのだろうから。
教会前から石畳《いしだたみ》の小道をそれ、リディアはベンチのあるところまでやってくる。腰をおろすと、遠くの草原《くさはら》に羊の姿がぽつぽつと見えた。
静かな場所へ来れば、リディアの耳には、草木の根本でこちらをうかがう、ざわざわとした妖精たちの声が届く。
のどかで平和な風景を目の前に、リディアはほっと息をつく。
ひざに置いた手の中には、レースペーパーに包まれた砂糖菓子《さとうがし》がある。さっきみんなに配られたものだ。それをひとつ取って、彼女はそっと足元に置いた。
眺めていると妖精たちは出てこないから、少しのあいだ目を閉じる。再び目を開けたときには、砂糖菓子は風に溶けてしまったかのように消えていた。
妖精たちのざわめきが、うれしげな歓声に変わるのがわかると、リディアもおもわず顔をほころばせる。
妖精と接するひとときは、リディアにとってのささやかな幸福でもあった。
「楽しそうだね」
突然の声に、はっとして顔を上げた。
声だけで、すぐに誰だかわかる。その主は、リディアのよく知る金髪の青年だ。
すらりとした体躯《たいく》を上品な衣服で包み、ステッキを軽く腕にかけて、微笑《ほほえ》みながら彼はこちらへ近づいてくる。
「迎えにきたよ、僕の妖精」
リディアの前で足を止め、優雅な動作でトップハットを取る。春の日差しに似た金髪がやわらかくゆれる。
誰でも一瞬で魅了《みりょう》してしまう美貌《びぼう》を自覚している彼は、とびきりの笑顔をリディアに向けると、その笑顔が彼女だけのものだとでもいうように、熱い視線でじっと見つめた。
リディアの雇い主で、どういう気まぐれか彼女に結婚をせまり続けている、エドガー・アシェンバートだ。
「エドガー……、どうしてここに?」
「そろそろ式が終わるころだと思ったから」
「じゃなくて、どうしてここがわかったのよ」
「きみのことなら何でもわかるよ」
口先だけは立派な人。
「帰りはひとりだって聞いたから、迎えに来たんだ」
ああまた、どうせニコが教えたんだわとリディアはため息をつく。薄情《はくじょう》ですぐ食べ物につられて、エドガーに何でも教えてしまう妖精猫だ。
このごろすっかり、エドガーに買収されてしまっている。
「妖精がいるの?」
リディアのため息などお構いなしに、エドガーは、さっき彼女が見つめていた草むらに視線をやった。
「え? ええ……」
「その砂糖菓子、僕にもひとつくれる?」
隣に腰掛けた彼は、小さなバラの形をした砂糖菓子を手に取り、石ころの上に置く。
「取りに来てくれそうかな?」
「じっとこちらを見てるわ。でも人見知りする妖精たちだから、目を閉じなきゃだめ。いい? 三つ数える間よ」
リディアもいっしょに目を閉じる。心の中で三つ数えたとき、額《ひたい》にキスされ、びっくりして目を開けた。
「な、何するのよ!」
「せっかくきみが目を閉じてるのに、もったいないなと思って」
「あ……あなたね……!」
「ほら、砂糖菓子がなくなってる。妖精は気に入ってくれたかな?」
エドガーが無邪気《むじゃき》な笑顔を見せたから、リディアは怒る気をそがれてしまった。
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「……そうね、よろこんでるみたい」
恋人どうしでもないのに、こんなことでいいのかしら。
許してしまう自分はふしだらなのだろうかと思っても、もうよくわからない。
ただ、リディアは不思議に思う。
妖精と自然に接する自分のことを、ごく当たり前のように受け止めてくれる人に、めぐり会いたいと思ってきた。
きみのことなら何でもわかると言ったエドガーは、誰にも話したことのないリディアのそんな心まで、わかっているのだろうか。
思いつきの軽い言葉を、本当に実行してしまうことがあるから、リディアは彼の言葉を信じられないと思いながら、信じたくもなってしまうのだった。
自分だけを想ってくれるという言葉は、本当なのだろうかと。
「ねえリディア、長い黒髪の男がいただろ? あれは誰?」
ふとエドガーは、深刻な口調になった。
この女たらしが、女性ではなく男性について訊ねるなら、そこにあるのはまず敵意だ。リディアは不穏《ふおん》な気配を感じながらも、隠せば変に誤解されると思い素直に答えた。
「ウルヤさんのこと? ひと月ほど前からロンドン大学に来てる留学生で、父の生徒よ」
華奢《きゃしゃ》で中性的な印象だが、褐色《かっしょく》の肌をして、背中まである長い黒髪をひとつに束《たば》ねているところが、どうしても人目を引く青年だ。インドの出身だと聞いている。
親を亡くし、インドに住む英国人に引き取られたということで、流暢《りゅうちょう》な英語を話す。養父が帰国することになり、いっしょに英国へ来た。リディアが彼について、エドガーに話せるのはそれくらいのものだった。
「フルネームは?」
「一度聞いたけど、おぼえられなかったわ。みんなウルヤって呼んでるみたい。彼がどうかしたの?」
「ずっときみのことを見てた」
は?
「あなた、いつからここへ来て観察してたの? 悪趣味だわ!」
「いやだなあ、ちょっと早く着いてしまったから、馬車の中で待ちながら眺めてただけだよ。教会の外へみんなで出てきたときから、彼はきみを目で追い続けてたんだ」
「か、髪型が変だったかしら?」
「リディア、きみはね、とってもかわいいんだよ。気になってしまう男がいたって不思議でもなんでもない」
真顔で言われると恥ずかしい。
だいたい、そんな言葉をリディアに吐くのはエドガーだけだ。
「きっと今も、どこからかこちらを見てるはずだよ」
「まさか」
「確かめてみようか?」
急にエドガーは、リディアの肩を引き寄せ、抱きしめた。
「な、何すんのよ!」
あわててもがくが、離してくれない。
「やめてってば!」
あせると同時に、怖くなった。突き放そうとしても、自分の腕にちっとも力が入っていないような気がしたのだ。
結婚なんかしないと拒絶《きょぜつ》しているのに、触れられると不快に感じているのかどうかわからなくなる。
自分はどうかしていると思えば、泣きたくなる。
「おい、彼女を離せ」
そのときエドガーの肩越しに見えたのは、ウルヤの姿だった。
「いやがる女性に何をしてる」
「何の権利があって、じゃまをするんだ?」
リディアを離したものの、エドガーは、手だけはしっかり握ったまま、ウルヤに挑発的《ちょうはつてき》な目を向けた。
「権利だって?」
「リディアは僕の恋人だ」
疑わしそうな顔をしたまま、ウルヤはリディアの方を見る。泣きそうになった顔を隠すために、リディアはうつむく。
「本当かい? ミス・カールトン」
「えっと、それは……」
「きみね、ずっと彼女を見ていたようだし、今だって植え込みの向こうで僕らをのぞき見してたっていうのは、それこそどういうつもりなんだ?」
「私はべつに……。ちょっとそこで一服していただけだ」
わずかに目をそらしたのを、エドガーは見逃さなかっただろう。
急に立ち上がると、ウルヤの襟首《えりくび》をつかんで引き寄せた。
「煙草《たばこ》の匂いがしないよ、うそが下手だね」
そのままのどを締め上げようとするから、リディアはあわてた。
「エドガー、やめて」
突き放され、よろけてしりもちをついたウルヤは、どうにか顔を上げながらエドガーをにらみつけた。
「ウルヤさん、ごめんなさい。怪我《けが》はない?」
駆《か》け寄ろうとしたが、そうはさせまいとエドガーがリディアの腕を引いた。
「リディア、彼にかまうな」
「あたしに命令しないで」
立ち上がりながら、それを聞いたウルヤが笑う。
「恋人とは思えないな。一方的につきまとってるだけじゃないの?」
まずい、とリディアは思った。エドガーが殺気立つのを肌で感じたからだ。
「あっ、父さま、こっちよ!」
ちょうど、記念撮影を終えたカールトンの姿が見えて、リディアは声を張り上げた。
さすがにエドガーも、リディアの父親の前で暴力を振るうつもりはなかっただろう。こぶしを収めてくれたのでほっとする。
ウルヤの方も、挑発的な態度をひかえ、カールトンに会釈《えしゃく》して入れ替わるように去っていった。
「これは伯爵《はくしゃく》、いらっしゃってたんですか」
「こんにちは、教授。これからケンブリッジへ出かけられるそうですね。王立《ロイヤル》アカデミーの研究会議があると聞きました」
たった今ウルヤに向けていた殺気を一変し、エドガーは愛想《あいそ》よく微笑《ほほえ》んだ。
エドガーのことをうさんくさいと思っている父の心証《しんしょう》を、少しでもよくしようと彼が努力していることはリディアにもわかる。そんなエドガーがリディアに特別な関心を持っていることは、さすがに父も気づいているはずだが、あくまで雇い主とフェアリードクターの関係だと言い続ける娘の言葉を信じることにしてくれているようだ。
そもそも父は、爵位《しゃくい》持ちの貴族が、階級の違う中流上《アッパーミドル》の娘などに本気で入れ込むとは思っていない。
そんな父だから、エドガーにプロポーズされたなんて知ったらどれほどあわてふためくだろう。エドガーが妙なことを言い出さないかと、リディアは気が気でないままふたりの会話に注意を向けていた。
「はあ、よくご存じで」
「我が国にとって博物学の集大成ともいえる、レベルの高い会議だそうで。鉱物学の権威として当然カールトン教授が選ばれるだろうと思っていましたよ」
「大げさです、伯爵」
父は困惑《こんわく》気味に頭をかくが、エドガーの言うとおりなのはリディアも知っていた。父の助手をしているラングレー氏が教えてくれたからだ。
「ひと月は向こうに滞在されると聞きました。ロンドンにお嬢《じょう》さんをひとり置いていくのはご心配でしょう」
「ええまあ、でもリディアは、私と離れて暮らすのは慣れていますからね」
そう言いながらも父はリディアに、いっしょにケンブリッジへ来るかと訊《き》いたことがある。というのも、このところロンドンでは、理由もなく人が殺される事件が続いているから心配したようなのだ。
けれどリディアには、伯爵家のフェアリードクターとしての仕事がある。
今この時期、エドガーが復讐《ふくしゅう》を誓っている宿敵が英国に人国した可能性が高く、いつ何が起こるかわからない状態で、彼のそばを離れるわけにはいかないと思っている。
何しろ敵は妖精の魔力に通じているし、一方エドガーの味方内で妖精のことがわかるのはリディアだけだ。
「じつは教授、今日こちらへうかがったのは、そのことでご相談があったからなんです。ぜひともリディアさんを、僕の屋敷であずからせていただけませんか?」
はあ? とリディアは眉《まゆ》をひそめた。
父も驚いたらしく、口を開いたままずり落ちかけた眼鏡《めがね》を直す。
「近ごろロンドンで、無差別に人が殺される事件が続いています。僕としてもリディアさんのことが心配ですし、彼女も、お父上の許可さえいただければそうしたいと」
「あ、あたしそんなこと言ってないわ!」
エドガーの家へ泊まり込むだなんて、とんでもない。
「言ったじゃないか。僕のそばを離れたくないし、でも事件のことがあるから、父上のいない家はちょっと怖いって」
「あなたのそばじゃなくて、仕事があるから不安だけどロンドンを離れるわけにいかないって言っただけよ!」
そういえばそんな会話をしたとき、伯爵邸へ泊まればいいだなんて、エドガーが冗談めかして言ったことを思い出す。しかしリディアは、そんなこと父に話せるわけないでしょ、とはねつけたはずだった。
「未婚の娘から父上に、ひと月もの外泊なんて言い出しにくいっていうきみの気持ちはもっともだと思うよ。だから、雇い主としての責任できみをあずかりたいってこと、僕からきちんとカールトン教授に話すべきだと思ったんだ」
リディアの言葉をわざと曲解している。まるで、リディアがそう望んでいるかのようだ。
「ケンブリッジへ行こうとおっしゃった父上の提案を、僕のために断ってくれたのはありがたいけど、だったら教授がいないあいだ、きみを保護するのは僕の役目だろう?」
父にケンブリッジへ誘われていたことまで知っているのだ。
これでは、何でもかんでもリディアがエドガーにうち明けて、相談しているかのように聞こえるだろう。
きっとニコだわ。
リディアは、相棒の妖精猫をはげしく恨んだ。
「たしか教授、お宅のご近所からも被害者が出ていましたよね。リディアさんと同じ年頃の、中流上《アッパーミドル》のお嬢さんが、夜中に外出するはずもないのに朝方ロンドンブリッジで無惨《むざん》な姿をさらしていたなんて話を聞くと、父上のいない家に彼女を置いておくなんて気がかりで」
リディアに否定も、いいわけもする間も与えず、エドガーはたたみかける。
立て続けに報道される事件の悲惨《ひさん》さを思い起こしてしまえば、父は不安をかき立てられ、心がゆらいだようだった。
「伯爵、これはつまり、雇い主としてのお申し出なんですね?」
「ええ。仕事への責任感から、彼女がロンドンにとどまってくれるというなら、安心して過ごせるようにするのは僕の役目です」
「いちおう嫁入《よめい》り前の娘です。その、間違いがあっては……」
「僕がついていますから大丈夫ですよ」
あなたがついてるから問題なの。
エドガーには、以前に襲《おそ》われかけたこともあるのだ。あのとき彼は酔っぱらっていたとはいえ、ひとつ屋根の下なんて、ぜったい安心できない。
「あたしはひとりで大丈夫よ!」
「リディア、きみはいつもそうやって強がるけど、これからはもうひとりで無理をすることはないんだよ」
やさしい瞳でリディアを見つめ、意味深なことを言い出す。
「どんなことでも頼ってほしいって言ったじゃないか。いっそ父上に本当のことを話して……」
「本当のこと?」
「な、何でもないわ父さま! つまりあたし、……やっぱり本当はひとりじゃ不安なの」
今エドガーに、結婚の話なんか持ち出されれば、父にとって重要な研究会議に影響しかねない。
卑怯者《ひきょうもの》、と心の中でエドガーに悪態《あくたい》をつきながらも、リディアはそう言うしかなかった。
「伯爵邸で世話になりたいんだね」
「ええ……、まあ」
「おまえにとってその方が安心なら、私がやめろと言うのもおかしな話だからね」
リディアの肩に手を置き、父はエドガーの方に向き直った。
「伯爵、どうかよろしくお願いします」
「おまかせください」
思い通りにことが運べば、エドガーは機嫌《きげん》よく微笑んだ。
新郎新婦との晩餐会《ばんさんかい》に招待されている父は、そのあとすぐケンブリッジへ発つことになっているから、リディアは必然的に、迎えに来たというエドガーとロンドンへ帰ることになる。
髪の毛をなおした方がいいわと忠告し、父と抱擁《ほうよう》をかわすと、あきらめに似た心境でエドガーと歩き出した。
「どういうつもりなのよ。いきなりあんなこと言い出して」
ふたりになった馬車の中で、リディアは不機嫌な態度をあらわにして言った。
「きみに話している時間がなかったんだ」
「とにかく、あたしはあなたの屋敷になんて行きませんから」
「そういうわけにはいかないよ。教授の許可はもらったんだから、むりやりでも連れていく」
リディアは眉をひそめて彼をにらんだが、ふざけた様子もないエドガーは、本気でそうするつもりらしかった。
「例の事件と、プリンスがかかわっている可能性があるんだ」
プリンス、そう呼ばれている人物こそが、由緒《ゆいしょ》ある公爵家《こうしゃくけ》に生まれたエドガーから何もかもを奪った男だ。
英国王家の血を引くというプリンスの存在は、妖精族の邪悪《じゃあく》な魔術と関係があるらしく、その力で英国に反逆を企《くわだ》てているとも聞く。そのために、自分と同じように王家の血を引くエドガーを手に入れたかったらしい。
しかし、プリンスのもとを逃れ、今では妖精国《イブラゼル》伯爵の地位を得たエドガーは、彼らにとって生かしておけない存在となっているはずだ。一方でエドガーの方も、プリンスを完全に葬《ほうむ》り去ることこそ、青騎士伯爵とも呼ばれるこの謎めいた伯爵家を継ぐ者のつとめだと意識しているはずだった。
「プリンスが、無関係な人を次々殺してるの?」
「無関係に見えるけど、どうかわからないよ。魔術的な、何かの儀式みたいな、そんな意味があるのかもしれない。それに、犠牲者《ぎせいしゃ》のひとりが、レイヴンと同じ国の出身だったんだ」
レイヴンという、エドガーの従者の少年は、褐色《かっしょく》の肌の異国人だ。少々変わっているというか、人間らしい感情が未発達なのは、生まれつき殺戮《さつりく》の精霊を宿しているからだという。
妖精が見えるリディアだが、レイヴンの精霊を見たことはない。それでも彼が持つ独特の気配には、人間とは別の存在を感じることがある。
精霊という存在と共存してきた、そんな謎めいた遠い国のひとりが、ロンドンで殺されたと聞けば、たしかに不穏《ふおん》な気配を感じさせられた。
「それもね、どうやら小部族の首長一族、いわば王族のひとりだ。レイヴンの中にいるっていう精霊は、部族神であって王家に属する精霊でもあるわけだろう? プリンスは、あらゆる魔術的なものを研究していて、レイヴンの精霊にも興味を持っていたから、生き残りの王族をさがしだして、部族の魔術や精霊にかかわる秘密を得るために殺したとも考えられる」
「偶然かもしれないわ」
「うん、でもちょっと気になってね。プリンスはきっと、僕をとことん苦しめようとするだろう。奴のところからいっしょに脱走してきた、最後の生き残りの仲間……、まずはレイヴンをねらうってのはありそうだから」
プリンスをよく知っているだけに、エドガーには言葉にできない確信があるのかもしれなかった。
窓の外に顔を向けた彼は、薄く微笑んでさえいるように見える。戦う決意を固め、もはや誰にも弱みは見せまいとする、リーダーの表情だ。
そんな横顔を眺《なが》めるのは、リディアには少し淋《さび》しい。
ずっと強がっているのはつらいだろうから、誰もいないときくらい、息を抜いてほしい。
今は、リディアのほかには誰もいない。強がる必要もないのにと思う。
「ねえ、さっきあなたが言ってた、若い女性の場合はどうなの? プリンスとは何の関係もなさそうじゃない」
少しでも、エドガーが安心できそうな要素を、リディアは引っぱり出したつもりだったが。
「ああ、さっきのは作り話だよ」
……は?
「教授には、なかなか効果的だっただろ?」
「あ、あなたね!」
振り向いた彼は、突然彼女の手を強く握りしめた。
「うそつきだから信用できない。きみがそう思ってるのは知ってるし、信用してもらえるようにつとめているつもりだけど、こればかりはなりふり構っていられないんだ」
いつも軽いあいさつ代わりに、口元に手を引き寄せるけれど、同じようにそうしても、今はあいさつというには熱いほど唇《くちびる》を押しつける。
はねつけることができないまま、真っ赤になって硬直しながらリディアは、またそんな自分に嫌悪《けんお》を感じた。
どうして自分は、結婚する気もない人にこんなことを許してしまうのだろう。
エドガーの悪ふざけなんて、ひっぱたいて拒絶《きょぜつ》すればよかったはずだ。それができなくなってしまったなんて、どうかしている。
こんなこと、彼は誰にでも簡単にできるのにと思うと、胸が苦しくて、ただ消えてしまいたくなる。
「あなたは、いつだって一方的なの。さっきだって、ふざけて、ウルヤさんに見せつけるためだけに、あんなこと……」
「ふざけてもないし、見せつけるためじゃないよ。少しでもきみに触れたいってだけ」
「あたしにさわらないで。馬車を止めてちょうだい」
ようやく解放された手を、隠すように引っ込め、やっとのことリディアは拒絶の言葉を口にした。
「できないね」
「……飛び降りるわよ」
だだをこねる子どもをなだめるかのように、エドガーは微笑《ほほえ》みながら茶化《ちゃか》してみせた。
「僕は人さらいじゃないよ、そんなに怖がらないで」
似たようなものよ。
「じゃあこうしよう、触れたりしないから、僕の屋敷で過ごすと約束してくれ」
「本当に、さわらないわね?」
「うん、しばらくは」
「あたしが屋敷にいるあいだ、ずっとよ!」
エドガーはしばし悩んだ。しかしあきらめたように、わかったよとつぶやいた。
「リディア、僕は心を決めたんだ。きみが僕を愛してくれるようになるのかどうかはわからないけれど、たしかなことがひとつだけある。僕からはもう、逃げられないんだよ」
わがままで一方的で、脅《おど》すかのような言葉なのに、淋《さび》しげな顔をされれば、リディアは自分が彼を苦しめているような気持ちになる。
「きみを守るため、一生そばにいてもらうために、どんな手でも使うつもりだからね」
不遜《ふそん》にも、触れそうなほど近くで彼はささやいた。
*
このところ、アシェンバート伯爵邸《はくしゃくてい》で目につくのは、|朱い月《スカーレットムーン》≠ゥら派遣されている警備員の姿だ。
伯爵邸の警備がさらに必要だと言い出したのは、朱い月≠フ幹部のスレイドだという。リーダー宅が手薄では示しがつかないというのが彼の持論で、エドガーは、頭の固いスレイドを日頃からとことん困らせているだけに、この件では妥協《だきょう》したようだ。
朱い月≠フ団員たちも、いつ現れるかわからない敵の動きを警戒《けいかい》し、いくつかある隠れ家へ集結しつつあるらしい。
リディアも、外出するときは護衛をつけると言われている。
何気なく窓から外を眺めたとき、体の大きな双子の若者が、建物の周囲を見回っているのを目にすれば、彼女も今までとは違う物々しさを実感せずにはいられなかった。
あの双子が、邸宅警備の責任者で、彫刻家だとリディアは昨日紹介された。ジャックとルイス、と名前も聞いたけれど、どちらがどちらかはわからない。
エドガーもわかっていなかったと思う。
そうしてエドガーは、彫刻家ならちょうどいいなどと言って、屋根の装飾を修理させようとしていたから、ふたりは今、見回りではなくそれを確認しているだけかもしれない。
エドガーの態度はいつも、本当にせっぱ詰まっているのか悠長《ゆうちょう》なのかまるでわからない。そうやって、敵も味方も煙《けむ》に巻く。
だから彼の、本当の気持ちもわからない。
伯爵邸の客間《ゲストルーム》で、しぶしぶながら一夜を過ごしたリディアは、ぼんやりとそんなことを考えた。
「ふうん、こっちに泊まることにしたんだ」
ニコの声だった。
灰色の毛並みをした妖精猫は、どこへ遊びに行っていたのか、窓からするりと入ってきた。
ニコにはいろいろと言いたいことがあったリディアは、ため込みながら待っていたのに、ゆうべは姿を見せなかった。今朝になってようやく現れたのだ。
しかし彼は、リディアの方は見もせずに、品定めでもするように部屋の中を二本足でぐるりと歩き、革張りの椅子《いす》に目をとめると、ぴょんと飛び乗って座り心地を確かめた。
「うん、なかなか上等だな。今夜からおれはこれを寝床にするからあけといてくれよ」
なんだか機嫌《きげん》のよさそうなニコの前に回り込んだリディアは、不機嫌な態度もあらわに、腰に手を当てて彼を見おろす。
「ニコ、あなたまたエドガーによけいなことしゃべったわね?」
「ま、いいじゃないか。女だけになっちまう自宅より安全だし、メシは上等だし、寝床もずっと快適だ」
「あなたは快適かもしれないけど、あたしは不快よ。ちっともくつろげないわ」
「おや、お嬢《じょう》さま、ゆうべはよく眠っておられましたよ」
別の声がした。チェストの上に、三角帽子の鉱山妖精《コブラナイ》がいた。
それは……、人の集まる結婚式に参列して、少々疲れていたのだ。
「それにしてもお嬢さま、ようやく伯爵のお屋敷で暮らすことができるようになって、……ああ、ようございました」
感慨《かんがい》深げに頷《うなず》きながら、コブラナイはもつれた長い髭《ひげ》を撫《な》でる。
「これで名実ともに、青騎士伯爵のお妃《きさき》さまとなられたわけで」
「名も実もないわよ! あたしは客として滞在してるだけなんだから」
気の早いコブラナイに一喝《いっかつ》するが、わかっているのかいないのか、彼はひょうひょうとパイプをくわえた。
あくまでリディアをエドガーとくっつけたがる妖精だ。
宝石に詳しいコブラナイは、先祖代々、妖精の魔力を秘めたムーンストーンを管理している。初代の青騎士伯爵の、お妃が身につけていたという由緒正しい宝石だからだ。
今はそれが、エドガーとの婚約指輪≠ニしてリディアの指におさまったままなのも、この妖精のせいだ。
リディアが苦い顔をしているのもかまわず、コブラナイは、自分の養い子でもあるかのように、名を呼んでムーンストーンに語りかける。
「ボウ、心配するな。おまえの持ち主はじきにお妃さまになるからな。同じ家で暮らしはじめれば、あの伯爵さまだ、どうにかなさるにきまっておる」
「どうにかされちゃ困るの!」
リディアは息巻くが、妖精たちはマイペースだ。コブラナイはゆったりとパイプをくゆらし、ニコは椅子の上で大きなあくびをする。
「なあおい、しかしこのごろ、ケルピーのやつ現れないな」
そういえば、しばらくケルピーの姿を見ていなかった。しかしあの水棲馬《すいせいば》も気まぐれな性格だし、そもそも人を喰らう|魔性の妖精《アンシーリーコート》で強い魔力を持つのだから、何かしら危険な状態にあるとは考えにくい。
獰猛《どうもう》な魔物のくせに、リディアに好意を寄せているという奇妙な妖精だが、人間の恋愛感情とは違いあっさりしているものだから、現れなくてもリディアはあまり気にしてはいなかった。
「正直わしは、あの水棲馬を見かけないとほっとします。このままお嬢さまのご結婚をじゃましないでくだされば……」
言いながらコブラナイは、不安になったのか窓の方を確認したが、たいてい悪口を言ったタイミングで怒鳴《どな》り込んでくる黒い馬の姿は見あたらない。
「まあな、おれもべつに、やつのこと心配してるわけじゃない。何かたくらんでなきゃいいって思っただけさ」
「ケルピーが? 何をたくらむっていうのよ」
「水棲馬の考えることなんて、おれさまにわかるかよ。さ、食後の散歩でもしてくるか」
「ニコ、朝食はもうすんだの?」
「腹が減ったから先に用意してもらったよ」
他人の家なのに、まったく遠慮のない猫だ。
「じゃあな、リディア。あの伯爵に何かされそうだったら助けを呼べよ」
「呼べば来てくれるって?」
つきあいは長いが、リディアの危機に駆《か》けつけてくれたことなどないではないか。
「もしも聞こえたら、だけどな」
ニコがそう言って消えると同時に、ノックの音がした。朝食を告げに来たのはアーミンだった。
「用意ができましたので、モーニングルームへいらっしゃってください」
肩までしかない短髪、黒いネクタイに黒い上着、質素《しっそ》な男装をしている彼女は、エドガーがもっとも大切に思っているはずの女性だ。
あの女たらしが、彼女の気持ちを知っていながら手を出せないほど大切に思っている。
いちばんつらい時期をささえあい、ともに戦ってきた。リディアには理解しきれないほど、そして代わりにはなれないほど、強い絆《きずな》でつながっているはずだった。
そんな彼女がまたエドガーを裏切っているかもしれないという疑惑《ぎわく》に、重い気持ちになる。リディアはそれが、自分のせいかもしれないと思う。
エドガーが伯爵になることに協力し、フェアリードクターとしてそばにいることになってしまったから。
逃亡を続けている間は、エドガーにとって特別な存在でいられると望んでいたアーミンの願いに、はからずも終止符を打ってしまったのはリディアだった。
「あの、モーニングルームにはエドガーも?」
地味な男装でも隠しきれない美貌《びぼう》やスタイルのよさを、眺《なが》めるたびに意識してしまう。
「はい」
エドガーと並んだら、誰も文句のつけようがないほど見栄えがするだろう。
「こっちで食事するわけにはいかないかしら」
そんなことを考えていると、ますますリディアの気持ちは後ろ向きになる。
このところエドガーは、以前にまして強引だ。そしてリディアの方は、以前のように強く拒絶できない。だからよけいに、彼と接するのは避けたいと思う。
アーミンは少し困ったような顔をしたが、「わかりました」と言って出ていく。
リディアがほっとしたのもつかの間、今度はレイヴンが現れた。
「お願いします、リディアさん。モーニングルームへいらっしゃってください」
怒っているのかと思うような、強い口調で彼は言った。もっとも無表情なのはいつもの通りで、彼にとっては切実な懇願《こんがん》だったのかもしれない。
「え……、あの、でも、レイヴン」
「エドガーさまは今のところ、お酒も薬も入っていません。近づいても危険はないはずです」
そういう問題じゃない。
それに、しらふだったって危ないわよ。
しかしレイヴンが引き下がらないのは、リディアがエドガーに対しますますかたくなになっていることに、責任を感じているからかもしれなかった。
酔っぱらっていたエドガーの部屋へ、リディアを連れていったのは彼だからだ。
「あなたってほんと、主人思いね。エドガーが、何が何でも連れてこいとでも言ったの?」
「いいえ、もしエドガーさまに、リディアさんがお部屋で朝食をとられるとお伝えしたら、こちらへ押し掛けてこられるでしょう。その方が危険なのではないかと思うのです」
リディアは、この客室を見回した。
気取ったところのない、くつろぐための部屋だった。いわばリディアに与えられた私室なわけで、うち解けた相手と過ごす場所という雰囲気ではある。
一方でモーニングルームは、私室から外へ出た社交の場だ。自分の家の中でも、貴族は公私を使い分ける。そういう意味でも、ここへエドガーに押し掛けてこられるのは問題だった。
思い直すと、リディアは結局重い腰を上げた。
「おはよう、リディア」
彼女がモーニングルームに入っていったときには、エドガーはすでにテーブルについていたが、迎えるように立ち上がると、うれしそうに微笑《ほほえ》みながらこちらへ近づいてきた。
「昨日はよく休めたかい?」
「え、ええまあ」
「自分の家にいるつもりで、くつろいでもらえたならうれしいんだけどね」
ここが自分の家になったらたいへんだわ。
とリディアはさっそく警戒《けいかい》するが、エドガーは遠慮もなく、リディアの髪をひとふさすくい取るようにして口づけた。
「部屋付きのメイドに不手際《ふてぎわ》はなかったかな。きみのことは何もかも、このキャラメル色の髪も神秘的な金緑の瞳も、僕の宝物なんだから丁重《ていちょう》に扱うようにって言っておいたんだけど」
「ちょっと、そんな恥ずかしいこと本当に言ったの?」
「恥ずかしくなんかないよ。本当のことなんだから」
あたしは恥ずかしいの!
「とにかく、ここで過ごすのにきみが遠慮することは何もないんだからね。要望があったら何でも言ってくれ」
だったら、この人に黙っていてほしいと思う。
が、仏頂面《ぶっちょうづら》になってしまっていたリディアは、この部屋にもうひとり、中年の男性がいるのに気がついて、あわてて引きつった笑顔を作りながらエドガーからしりぞいた。
「エドガー、……お客さまがいらっしゃるじゃないの」
「ああ、これから紹介しようと思っていたところさ」
人前でずいぶん親密な態度をとられたと気づけば、リディアはますます恥ずかしい気持ちになったが、エドガーはまったく気にしていない。
「こちらは、ロンドン市警《しけい》のゴードン警部《けいぶ》だよ」
整えた口ひげも、髪の毛一本の乱れもないよう撫《な》でつけられた頭も、やけに神経質そうな男性は、テーブルのそばでさっきから突っ立っていたようだったが、リディアと目が合うと堅苦《かたくる》しい会釈《えしゃく》をした。
「朝っぱらからおじゃましております」
「例のロンドンブリッジの事件のことでいらっしゃったんだ」
エドガーはリディアの手を引いて、テーブルへと導く。レイヴンが引いた椅子に、リディアが腰をおろすのを待って、ゴードン警部も席に着く。
貴族の屋敷の客人だから、リディアのことも貴族だとでも思っているのだろうか。
今のエドガーの、あまったるい態度を不審《ふしん》に思っている節もない。エドガーがまた勝手に、婚約者≠セとか言ったのかもしれない。
しかし、リディアに訂正する機会はなさそうだった。警部はもうリディアから意識をそらしている。きっと、伯爵《はくしゃく》の客人が何者だろうと関心がないのだろう。そう思えば、さっきの気恥ずかしさも少しはやわらいだ。
あらためて、事件のことでここへ何をしに来たのだろうと気になりはじめたリディアは、警部の様子をうかがう。
レイヴンと同郷《どうきょう》の人物が殺されたというから、そのことだろうか。
「せっかくですから警部、朝食をいかがです?」
エドガーは、警察の訪問をいぶかしく思っている様子もなく、やはり上機嫌《じょうきげん》だ。
「いえ、すぐ失礼しますので、どうぞおかまいなく」
「そうですか、ではさっそくうかがいましょう」
そう言ってナプキンを広げたのを合図に、レイヴンが朝食の給仕を始めた。
突然の訪問者のおかげで、どうやらエドガーの相手をしなくてすみそうだと、ほっとしながらリディアは、淹《い》れたてのミルクティーが注がれたカップに、たっぷりと砂糖《さとう》を入れた。
「ロンドンブリッジの事件は、じつは手がかりが非常に少ないのです。悪魔がどうのという話はさておき、有力な手がかりはふたつだけです」
ゴードン警部は淡々《たんたん》ときりだした。
「ひとつは、吊るされた被害者をじっと見おろしていた不審な人物がいた、という証言です。声をかけるとその人物は、急に逃げようとしたそうで。すでにロンドンブリッジの事件は知られていましたから、犯人かと義憤《ぎふん》半分、おもしろ半分で追いかけ、もみあった末に逃げられたということです」
「顔や背格好《せかっこう》はわかっているんですか?」
「暗かったので何もわからなかったようです。ただ、男の格好をした女だったと」
驚いて、リディアは紅茶をこぼしそうになった。しかしエドガーは冷静だった。
「もみあって、女だとわかったというわけですか」
「ええそうです。人に見られる危険があるからこそ男装していたのでしょうが、そうなると犯人自身なのかその近くにいる人物なのか、とにかく女性がかかわっているということです」
だとすると、普段から男装をしているわけではないのだ。アーミンを思い浮かべたことをもうしわけなく思いながら息をつくと、リディアはちらりとレイヴンの方を見た。
ホットディッシュをリディアの前に置きながら、彼は特に会話の中身を気にかけている様子もない。
「それで、ふたつめの手がかりは?」
どういうわけか、エドガーの方が尋問しているみたいだった。とはいえリディアが口をはさむような話ではなさそうだったから、遠慮なく食事を進めることにして、バターオムレツにナイフを入れた。
「先日の、いちばん新しい犠牲者《ぎせいしゃ》ですが、緑色のガラス片のようなものが口の中に残っていました」
「セイロン出身の、マイケル・カーンという男ですね」
「彼の妻が言うには、緑色のその石は、アーモンド大のもので、表面に何か記号のようなものが彫《ほ》ってあったとか。ミスター・カーンは、それをとても大切にしていて、肌身離さず持っていたのだそうです。かけらを調べたところ、透輝石《ダイオプサイド》という鉱物だとわかりました」
「あまり聞かない鉱物ですね」
「宝石として出回ることは少ないようです。加工しにくく、壊れやすいらしいので」
「かけらがどうして口の中に」
「奪われまいと、飲み込もうとしたのではないかと」
「しかし犯人がむりやり奪ったために、口の中で石が欠けてしまったと」
「ええ」
「とすると、その石は今、犯人の手元に」
「そう考えています」
ガチャン、と食器が音を立てたのは、レイヴンがジャムの壺《つぼ》を置こうとしてそばのグラスに触れてしまったようだった。
ちらりと視線を向けたエドガーに、レイヴンは小さくわびの言葉を口にする。
「警察がわかっているのは、本当にそれだけなんですか?」
エドガーはすぐに警部との話に意識を戻したが、レイヴンらしくないミスだとはいえ、それくらいでにらまなくていいじゃないとリディアは思う。
「困ったものでしょう? 隠すほど情報もないわけですが、新聞屋どもはこの事件に強い箝口令《かんこうれい》が敷かれているなどとかき立てているんですよ」
「あなたがたの名誉のためには、邪推《じゃすい》させておいた方がよろしいのでは?」
「まあそういうことですな」
一息ついて、口ひげの警部は立ち上がった。
エドガーは執事《しつじ》のトムキンスを呼ぶ。ドアの外で待っていたかのように、すぐに彼は現れた。
「あの、警部さん、何か調べにいらっしゃったんじゃないんですか?」
もう帰るのだろうか。不思議に思い、リディアは訊《たず》ねる。
「調べに? 私は割に合わない仕事はしないたちなので」
トムキンスがさりげなくテーブルに置いた封筒を、警部が上着の内にしまうのをぼんやりと眺めていただけのリディアは、まだ状況が飲み込めていなかった。
「では伯爵、私はこれで」
「ご苦労さま、何かあったらまたお願いしますよ」
警部の後ろ姿を見送り、エドガーに視線を移す。リディアが事態を把握《はあく》したのは、何事もなかったかのように彼が食事を続けるのをしばし眺めたあとだった。
「エドガー! あなた、け、警察官を買収《ばいしゅう》したわね!」
思わず声をあげたリディアに、顔を向けたエドガーは、ナイフとフォークを置き、いつになく神妙《しんみょう》に口を開いた。
「リディア、本当にほしいものは、いくらお金を積んでも手に入らない。たとえば僕が失ったものは……。わかっているから、お金でどうにかできることならいくらでもつぎ込む。もともと、奴らと戦うために築いた財だ」
「それは……、でも、あなたがあの警部さんに悪いことをさせたのよ」
「悪いこと、か。たしかに規律違反だろうけど、警察に実害があるかな。あの事件は、きっと彼らの手に負えない」
「あなたの気持ちはわかるわ。どうしても必要な情報なのかもしれないけど、実害があってもなくても、いけないのよ」
リディアがきっぱり言うと、エドガーは意外にも素直に「そうだね」と頷《うなず》いた。
「責めるつもりじゃないの。ただ……」
うまく言えない。
「この罪深さがきみを遠ざけている一因かもしれないけれど、僕の武器なんだ。大切なものを守るためには手放せない」
エドガーの、容赦《ようしゃ》のない一面。それが彼をここまで引っ張ってきたし、今もまだ気をゆるめるわけにはいかないのだ。犯罪すれすれのことだろうと、彼がためらったら、レイヴンや、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ仲間たちの命にだってかかわるだろう。
「僕たちは、考え方も感じ方も、何もかも違っている。でも、僕にないものを持っているきみだから惹《ひ》かれた。それではだめなんだろうか」
彼の罪やうそや、冷酷《れいこく》さを、軽蔑《けいべつ》できたならとっくに離れていた。
軽蔑できないのは、超然と微笑んでいながら、哀しげに戦い続けているからだ。
では自分は、そんな彼に同情しているだけなのだろうか。
それだけで、これまで助け合いながら、危機を乗り越えてこられたわけがない。
そう思っても、悩んでしまうと何も言えなくなってしまう。
「答えなくていいんだ。いずれすべてに、いい返事をくれると信じているから」
話を打ち切ったエドガーは、ふと視線を動かし、仕事を終えて立ち去りかけていたレイヴンを呼び止めた。
「レイヴン、さっきの話を聞いたね?」
「はい」
「おまえの意見は?」
どうやらエドガーは、レイヴンにも聞かせるために、彼が給仕をしている食事の席にあえて警部を招き入れたようだった。
「……ありません」
立ち止まった彼は、少し考えてそう言った。
「殺されたのは、本来おまえが仕えるはずだった首長一族だよ」
「会ったこともない人です」
「おまえの部族の血が、その中の精霊が、何かを感じてはいないかと思ってね」
「私の主人はエドガーさまだけです。何があろうと……、信じてください」
いつも冷静な、というよりほとんど感情を表さないレイヴンが、わずかだがムキになっているようだった。
「ああ、疑ったことなんてないよ」
エドガーがそう言うと、ほっとしたようにも見えた。
「どう思う、リディア」
レイヴンが行ってしまうと、エドガーはドアの方を見て言った。
「どうって?」
「隠し事をしている」
「えっ、レイヴンが? だって今、主人はあなただけだって」
「それは間違いないけど、わざわざそう言う必要があるなら何かを隠してる」
「そんなの、信じられないわ」
エドガーの命令は、レイヴンにとって神の声にも等しいはずだ。知っていることがあるなら、包み隠さず話すはずだった。
「悪いことだとは思わないよ。レイヴンの主人は、僕である前に自分自身であっていい」
エドガーは、食事を中断して立ち上がった。
「だけど、今はほうっておくわけにはいかない。レイヴンひとりでは、きっとまだ背負いきれない」
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想うのは誰のこと
リディアはエドガーと、邸宅《ていたく》の厨房裏《ちゅうぼううら》にある召使い専用階段をのぼった。
やがて薄暗い廊下《ろうか》に出ると、余分な家具や道具をしまってある小部屋がある。入り組んだそのあたりに、ドアが不規則に並んでいるのが見えた。
使用人の私室が並ぶその一角、そんなドアのひとつへ、レイヴンの姿が消えるのを確認すると、エドガーは悪い予感が当たったとでもいうようにため息をついた。
「アーミンの部屋だ」
召使いたちには忙しい時間帯だ。ほかに人影はない。
アーミンがここにはいないことを、レイヴンは知っているはずだ。だとすると、姉弟とはいえ姉の留守に部屋へ入る意図《いと》は何だろう。
「行こう」
エドガーは、レイヴンがいるはずのドアへ近づいていく。
そっと中の様子をうかがうなどということをせず、いきなりドアを開ける。のぞき見しようと近づけば、レイヴンには確実に気づかれてしまうからだろう。
部屋の中の、小さな文机《デスク》のそばに立っていたレイヴンは、俊敏《しゅんびん》に身構え振り返ったが、エドガーを見とめた彼の、変化に乏しい表情が動揺しているのかどうか、リディアにはわからなかった。
ただ、そのまま彼は身じろぎひとつしなかった。
「レイヴン、さっき僕に言い忘れたことがあるね?」
エドガーは威圧的《いあつてき》に言いながら、彼の前に進み出た。
レイヴンはやはりじっとしたまま、答えあぐねていたのだろうか。
さっと手をのばしたエドガーは、彼の手首をつかんだ。
一見細い、まだ少年ぽさを感じる腕だ。それでいて人の首を一瞬でへし折るその腕が、さして力を入れていないエドガーに容易に持ち上げられる。
「おまえがひとりでかかえ込むことじゃない。すでにいろいろなことが、僕の耳に入っていた」
その言葉に、レイヴンは救われたかのように全身の力を抜き、頭を下げた。
「……もうしわけございません」
手首を握られたまま、彼はその手につかんでいた、小さな木箱をエドガーの方に差し出した。
受け取ったエドガーがふたを開けると、深い緑色をした石がひとつ入っていた。
色は濃いが透明感《とうめいかん》のある石だ。表面に、傷のような荒っぽい線が目立つため、安っぽいガラス片のように見えた。
「これを、この部屋で見つけたのはいつ?」
「三日前です」
「ミスター・カーンが殺された日か」
「真夜中に、この部屋の窓が開いていました。明かりはついていないし、気になって見に来ると、真っ暗な部屋の中で姉は、ひどく不安げにこの箱の中のものを見つめていました」
明かりを手にしたレイヴンが、そばまで近づいていくと、ようやくアーミンは我に返った様子で顔をあげ、あわてて箱を閉じ、レイヴンから隠すように引き出しにしまったのだという。
レイヴンは、箱の中に緑色のガラス玉のようなものを見たけれど、装飾品か何かだろうと思っただけだった。
アーミンは、そういったものをいきなり異性から押しつけられることがよくあるらしい。
贈られる、ではなく押しつけられるとレイヴンが言うように、アーミンにとってはいつでも迷惑だったのだろう。だから弟の目から隠すとしても、不自然ではなかったのだ。
けれどさっき、警部の話を聞いていて、まさかと思いながら確かめに来たのだという。
エドガーから渡された石を、リディアも手に取ってみた。
[#挿絵(img/diopside_053.jpg)入る]
警部の言っていたとおり、欠けた部分がある。刃物でそいだような劈開《へきかい》の痕跡《こんせき》だ。
はじめて外気に触れたその断面は、光に透《す》かしてさえ、暗い沼底のとろりとした水を詰め込んだかのような深緑だった。
くるりと回してみて、リディアは石の表面に傷のように見えていたものが、警部も言っていた何かの記号らしいと気づく。直線的なその記号は、どこかで見たことがあるような気がする。
「エドガーさま、姉はまだ、プリンスのために働いているんですね?」
「レイヴン、その判断は僕がする。おまえはこれまでどおりに振る舞えばいい」
「ですが、姉が|アザラシ妖精《セルキー》となって戻ってきたときに、許しを請《こ》うたのは私です。きちんと監督《かんとく》すると約束しました」
レイヴンは、その場に片ひざをつく。
「私の責任です。エドガーさま、どうかこの始末をつけさせてください」
「それはおまえの仕事じゃない」
「いいえ、あのとき申しあげました。もしもまた姉が裏切るようなことがあれば、わたしがこの手で殺すと」
このやりとりに口を出すわけにはいかず、うろたえながら見守っていたリディアは、背後にふと人の気配を感じ、振り返ろうとした。
とたんに、腕をつかまれた。
「……アーミン」
濃いブラウンの瞳が、リディアを穏《おだ》やかに見つめる。いつもの彼女の、何の敵意もない表情だったが、リディアの腕をひねりあげる力は強かった。
そうしてリディアの手から緑色の鉱物を取り返すと、力を緩めはしたが、まだ離してはくれないままエドガーとレイヴンの方を見た。
「エドガーさま、レイヴンのせいではありません。すべての責任はわたしにあります」
「いいわけする気もないっていうのか」
「そろそろ、潮時《しおどき》だと思っていました」
「なら、以前にウォールケイヴ村で|赤い蛍石《フレイア》を奪ったのもおまえなんだな?」
「やはりお気づきでしたか」
「あれもプリンスのためか。何に使うつもりだ?」
問いかけながら、アーミンに近づいていく。
「いずれ、おわかりになるでしょう」
答えを引き出せるとは思っていなかったのだろう。エドガーは、リディアをつかんだままのアーミンに接近し、ささやくように言った。
「リディアを離してくれ」
「そうしたいのはやまやまですが、今は身を守る必要がありますので」
アーミンのナイフが、リディアの背中に接している。レイヴンは鋭い殺意をこちらに向けながら、武器があるのだろう腰にゆっくりと手を動かす。
「おまえの、セルキーの毛皮は僕が持っている。プリンスのもとへ逃れても、おまえの命は僕が握っているんだよ」
「お好きになさってください。わたしには、この石を持って逃げる時間さえあればいいのです」
「なら行くがいい。リディアに危害を加えることだけは許さない」
アーミンには、もともとリディアを害するつもりはなかっただろう。
けれど、アーミンは警戒《けいかい》を解かず、リディアの背中にあたっているナイフは離れない。
と、レイヴンがいきなり動いた。リディアに向かって突っ込んでくるかのように見えたが、アーミンから離すようにエドガーに押された彼女は、よろけて床に倒れ込む。
同時に、エドガーはアーミンを引き倒したらしく、レイヴンのナイフが空を切った。
それでもレイヴンは、間をおかずアーミンに襲《おそ》いかかろうと向き直る。
しかしわずかな隙に、彼女は窓から外へと飛び出していた。
窓辺に駆《か》け寄ろうとするレイヴンの前に、エドガーは立ちはだかった。
「追うな。僕が許可した」
「逃がせば、プリンスの利益になるだけです」
「命令だよ、レイヴン」
そう言われてしまえば、彼は戦意を喪失《そうしつ》したのか肩の力を抜いた。
「リディア、大丈夫かい?」
差し出された手をつかみそうになったが、リディアは思いとどまる。
触れないでと言っておいたのに、こういう些細《ささい》なことでも前例を作ってしまうと、エドガーに約束を反故《ほご》にするきっかけを与えてしまうのだ。
自分で立ち上がると、エドガーは残念そうに肩をすくめた。
「ごめん、アーミンのナイフから遠ざけたかったとはいえ、とっさで乱暴なことをしてしまった」
「平気よ」
スカートをなおしながら、思う。エドガーは同時に、アーミンも守ろうとしていたのだ。
殺気立ったレイヴンから、盾になるようにしてかばい、彼女を逃がしてやった。
裏切られても、守ろうとしている。
「エドガーさま、私にとって最優先の命《めい》は、主人からあらゆる危険を排除することです。納得できません」
レイヴンにとって唯一《ゆいいつ》の身内、だからこそ、もう一度アーミンを信じたのだろう。なのに裏切られ、めずらしく彼は引き下がらない。けれどエドガーも譲《ゆず》らない。
「彼女を殺していいのは僕だけだ。彼女だってそのつもりで、セルキーの命でもある毛皮を持っている僕を裏切って出ていったんだから」
やっぱりエドガーは、アーミンのことを。誰よりもいちばんに……。
リディアはそっと、部屋をあとにする。
そうして仕事部屋にこもった彼女は、さっき見た石に刻まれていた記号を思い出しながら書き写すことに専念すると、よけいな考えを頭から追い出した。
*
かつてエドガーは、何度も同じ夢を見た。
プリンスのもとを逃れてきたはずなのに、目を覚ませばまたあの、牢獄《ろうごく》のような建物に監禁《かんきん》されているという夢だった。
豪華な部屋だった。公爵家《こうしゃくけ》の子息としてエドガーが暮らしていた、荘園邸宅《マナーハウス》の一室にも引けを取らない、重厚なオークの家具に囲まれていたけれど、絹織りのカーテンの向こう、窓という窓には鉄格子《てつごうし》がはまっていた。
外をのぞき見ても、高い石塀《いしべい》があるほか何もわからなかった。
いつも建物のどこからか、悲鳴やうめき声のようなものが聞こえていた。
プリンスは、夜にしか現れない。闇《やみ》を押し分けるかすかな明かりこそが、彼の存在感を際だたせ、畏怖《いふ》をいだかせると知っているからだ。
そしてプリンスは、あらゆる手を使って、エドガーの心をさいなんだ。
中でも最悪だったのは、小さな希望をいだくたび、それをたたきつぶしていくというやり方だ。
格子の隙間《すきま》から忍び込んできた子猫は、三日後に首がなくなっていた。
エドガーにつけられた最初の従僕は、禁じられている雑談をしたという理由だけで舌を切られた。
プリンスに忠実な人間がほとんどだったエドガーの周囲に、そうではない人間が紛《まぎ》れ込んでいたのは、結局プリンスの意図だったのだろう。
エドガーと心を通わせた誰かは、二度と近づきたくはないと思うほどの仕打ちを受ける。
アーミンもそうだった。奴隷《どれい》同然の生活の中で、お互いの存在が救いになりかけたとき、彼女はひどい仕打ちを受けた。
芽生えかけた淡《あわ》い感情をとことん穢《けが》されて、けれどアーミンとの、自由を得るために戦うという絆《きずな》だけは失われなかった。
たぶん彼女は、弟を救うために、エドガーのそばにいれば思い出さずにはいられない屈辱《くつじょく》を封印したのだろう。
彼女に後悔をさせたくない。そう思ってエドガーは、周到《しゅうとう》に慎重に、脱走の計画を立てた。
プリンスのやり方を学び取ることもいとわず、逆にそれを利用して、ひそかに同志を増やしていった。
そうして今は、この英国へ帰ってきた。貴族としての地位も、落ち着いた生活も手に入れた。
けれどもまだ、夢を見る。
抵抗、反発、それらが苦しくむなしいものだと、徹底的に教え込まれている自分を。
何も持たず、望まなければいい。そうすればもう、苦しむことはない。ぼんやりと、ただ息をしていればそれでいい。
いつか、この世に絶望しかないと知れば、それがどれほど安らかなものかを知るだろう。
薄闇の中に、プリンスが現れてそう告げるのだ。
おまえからすべてを奪い、甘美な絶望を与えてやろう。と。
「なんだ、伯爵《はくしゃく》、浮かない顔だな」
中庭に面したテラスへ入っていくと、ひなたぼっこでもしていたのか、灰色の長毛猫はラタンの椅子《いす》に寝そべっていた。
先客にはかまわず、エドガーは椅子に歩み寄り、ニコをつまみあげてどけた。
「おいっ、何しやがるんだよ!」
「僕の席だ」
そこに座り、届いたばかりの手紙を開ける。
調査中の人物について、報告すべきことはまだございません
雇った探偵も役立たずばかりだ。二日おきに報告をよこすよう依頼してあるが、プリンスが入国したたしかな証拠も、英国のどこを拠点にしているのかも、手がかりさえつかめない。
ため息をついて、手紙を投げ出す。
それは、エドガーの足元で文句を言い続けていたニコの顔を覆う。
むしり取って踏みつけたニコは、怒りにまかせてエドガーの足を蹴《け》った。
ふとエドガーは手をのばし、またニコをつかみあげる。
「わっ、冗談だってばよ。いや、蹴ったわけじゃない、ちょっと当たっただけなんだ。お、怒るなって」
あわてふためくニコの鼻先に顔を近づければ、さらに彼はあせったようだった。
「血迷うな伯爵、おれはリディアじゃない! 女でもないぞ!」
「きみみたいに毛深いのとリディアを間違えるもんか。でもニコ、リディアと同じ香りがするんだね」
カモミールの香りは、いつもリディアのそばにいるからだろうか。腹立たしいほどうらやましい。
にやりと笑ってエドガーは、つまみあげられたまま不安げに硬直《こうちょく》するニコを、ぎゅっと抱きしめてみた。
「ぎゃーっ、やめろってば!」
「リディアはね、ここにいるあいだいっさい触れるなって言うんだ」
「だからって、おれを代わりにするなーっ!」
「仕事部屋には鍵《かぎ》をかけてるし、忙しいの一点張りだ」
「きらわれてんだよ!」
「そうは思えない。でも、求婚を受け入れてもくれない。どうしてなんだろう」
「あんたがタラシだからだ!」
「今はリディアひとすじだよ」
リディアに出会ってからは、過去の夢を見ることもなかった。
それくらいエドガーは、リディアの存在に希望を感じていた。だからこそどうしても彼女を手放せず、守りきると決意したのだ。
女性関係も清算した。迷いはもうない。
けれどまた、不安な気分になっている。
だから昔の夢を見る。
たぶん、自分はおびえているのだ。
かけがえのないものを得てしまえば、プリンスはそれがエドガーの弱点だと見抜くだろうから。
「肝心《かんじん》なときに、違う女の名を呼んだんじゃな。説得力ないっての!」
思わず脱力したエドガーから、ニコはするりと逃げ出した。
手の届かないところで立ち止まり、ニコはパンチのそぶりで怒りをあらわにしながら、急いで曲がったネクタイを直す。
「やっぱりそれ、リディアはこだわってるのか」
「そりゃそうだろうよ!」
ため息をつく。エドガー自身には記憶がないのだから、弁解のしようもない。
ただ、見当はついていた。
あのときエドガーは、リディアがほしくてたまらなかった。ほかの女性を相手にしたって、リディアの名を連呼したに違いない。
抱きしめて、感じていたかったのはリディアのぬくもりだ。
ひとつだけ、ほかのことを考えたとしたら……。
「……違うんだ」
「何が違うって?」
言葉になんてできやしない。
ただ、リディアを求めてやまない自分が、彼女《アーミン》を追いつめてしまったかもしれないという罪悪感と戦っていた。
「旦那《だんな》さま、ちょっとよろしいですか?」
神妙な顔で執事《しつじ》がテラスへ入ってきたのに気づき、意識を切り換えて顔をあげる。
「どうした、トムキンス」
「ときに女性というのは、不可解な行動をなさいます」
「……うん、それで?」
「ですがそういうときこそ、鷹揚《おうよう》にかまえていなくてはなりません。紳士《しんし》の器というものです」
「だから、何が言いたいんだ?」
意を決したように、トムキンスは言った。
「リディアさんの姿が見あたりません」
テーブルをたたくようにして、エドガーは立ち上がっていた。
ひとり伯爵邸を出て、自宅へ戻ってきていたリディアは、自分の本棚から母のノートを抜き出し、ぱらぱらとめくった。
「これだわ」
あの文字についての手がかりになりそうなノートが、家にあったはずだと思い出したため、急いで取りに来たのだった。
黙って出てきたのは、言えば誰か人をつけられるだろうと思ったからだ。最悪の場合、ついてくるのはエドガーだっただろう。
すぐに戻るつもりだったし、できれば誰にもついてきてほしくなかった。
もうひとつ、リディアにはひとりでやっておきたいことがあったのだ。
ノートを手に自宅を出ると、辻《つじ》馬車を拾い、テムズ河の河岸へと向かう。ウェストミンスターブリッジの近くで馬車を降り、街路樹の柳がさわさわとゆれる道を河に沿って歩きながら、彼女は襟元《えりもと》から小さなペンダントを取り出した。
母の形見のアクアマリンは、セルキー族との末代にわたる友情のしるしだ。
セルキーの心臓と呼ばれるこの宝石の力を、リディアはまだよく知らないけれど、彼女を呼び出すことはできるだろうと思ったのだった。
セルキーに生まれ変わったアーミン。彼女はまだ、セルキーとしての自覚を持っていない。それでも妖精族なら、目に見えない魔法の力には敏感なはずだ。
「アーミン、話があるの。お願い、セルキーの心臓の持ち主の、友情に応えて」
セルキー族のふるさとである海に続くこの河から、ロンドンの街中に吹き込む風が、リディアの声を届けてくれるはずだった。
そこに立ち止まったリディアは、じっと待つことにした。
ふと、かすかな水の匂いを感じた。濁《にご》った河からのものではない、透《す》きとおって冷たい、北の海風の匂いだと思った。
同時に、街路樹の枝に見え隠れしながらこちらへ近づいてくる人影に気づき、リディアは目を凝らした。
「アーミン……」
駆け寄ろうとすれば、立ち止まった彼女は、肩までの髪を風になびかせながら、拒絶《きょぜつ》するように首を横に振った。
「裏切り者に、むやみに近づいてはいけません」
「あなたはあたしに危害を加えたりしないわ」
「他人を信用しすぎるのも危険ですよ。それより、わたしを呼びだした理由は何でしょうか」
もちろん、世間話をするためではない。
今にも去ってしまいそうなアーミンに、リディアは急いで切り出した。
「どうして、エドガーを裏切るの? あなたにとって大切な人でしょう?」
アーミンは答えなかった。
「それとも何か、抜き差しならない理由があるの?」
「何も、お話しするつもりはありません。それがご用件なら失礼します」
「待って、エドガーはあなたをいちばんに想ってるわ。プリンスとの戦いがすめば、過去を忘れてふたりで幸せになることだってできると思うの。あなたは妖精だけど、人間と結婚したセルキーだっているし……」
「エドガーさまはあなたに求婚なさったのに」
「エドガーの言葉はよくわからない。でもあたしが、あなたたちのあいだに割り込んでしまったならもうしわけないと……」
「わたしのために、彼からのプロポーズを断ってくださるとおっしゃるのですか? でもそれは、あなた自身の問題です」
見抜かれて、リディアは恥《は》じ入った。
エドガーはアーミンひとりを想っているのかもしれない。そう感じるようになってから、エドガーに惹《ひ》かれてしまいそうな自分が怖くなった。
自分のせいで、エドガーもアーミンも幸せになれないとしたら、悲しすぎる。なのにエドガーに婚約者扱いされながら、結局リディアは拒絶しきれていない。
自分ではどうしていいかわからなくて、アーミンに確かめようとしているのだ。もしもふたりが相思相愛なら、それがはっきりしさえすれば、リディアは以前のように、エドガーのことを拒絶できると思いたかったから。
「リディアさん、エドガーさまは公爵家《こうしゃくけ》のご子息《しそく》ですよ。幼いころから、どういう相手がふさわしいのか徹底的に教えられています。下層階級の女に恋慕《れんぼ》をいだくわけがないじゃないですか」
口調をゆるめたアーミンは、リディアがかわいそうになったのかもしれない。
「で、でも、あたしだって身分は下だし、彼はいろんな女性とつきあってたわけでしょ?」
「つきあうのは自由、でも結婚は別です。きちんとした貴族の男性なら、好意を感じた下層の女に示すべき愛情は、寛大《かんだい》な主人として庇護《ひご》することだと知っています」
だったらエドガーは、アーミンに対してそういう愛情を示したのだ。
けれど、あくまで主人としての愛情だっただろうか。
リディアは、階級だけで人の感情を限定することなんてできないと思う。げんにアーミンは、身分を意識していてもエドガーを好きになった。
「あなたは美人だし、エドガーは女性と友達になったら終わりだなんて言う人よ。女として見ないわけないじゃない。気持ちを抑えてたかもしれないけど、まるで恋愛感情がなかったとは思えないわ」
アーミンは、遠くを見るように目を細めた。
「仮にそういうものが芽生えたことがあったとしても、もうあとかたもありませんよ。わたしは彼を想い続けてきたけれど、今思えば、そうしていられたのは彼がきっぱりと距離を置いてくれたおかげだったんだとわかります。泥沼《どろぬま》に入り込んで、お互いが破滅する、そうなってしまうとわかっていても、わたしにはどうすることもできなかった気持ちを、彼が拒絶し続けてくれたんです」
「それだけエドガーは、あなたのことを」
「違います」
リディアが困惑《こんわく》するほど強く、彼女は言った。
「あくまでわたしは庇護すべき者だったから、エドガーさまは常に冷静でいらっしゃった。本当の恋をすればわかります。どうしたって、どんな理由があろうととめられないんです」
だったらリディアは、本気の恋をしたことはない。エドガーに対しても、誰に対しても、そんなふうに思う自分を想像できない。
「ならどうして、あなたはエドガーから離れるの? 想い合ったら破滅する? そんなのわかんないわ。お互い、傷を癒《いや》すこともできるはずでしょう?」
おせっかいな娘、とでも思っているだろうか。それとも、エドガーを独占できる立場にいるリディアにいろいろと詮索《せんさく》されれば、腹が立っているかもしれない。
「ごめんなさい、困惑させるようなことを言って。でもあたしには、エドガーにとっていちばんそばにいてほしいのは、今でもあなたなんじゃないかって思えるの」
リディアをじっと見つめていたアーミンは、ふと自分の両手に視線を落とした。
風とともに、また海の気配を感じる。彼女が、人間ではないセルキーの自分を意識し、その魂《たましい》につながる海の力を、呼吸するように吸い込んだからだろう。
「わたしは、プリンスの命令でエドガーさまにあてがわれた女でした。事情を知った彼はわたしには触れず、ふつうの少女として扱ってくださいました。けれどそのことが知られてしまうと、プリンスは、エドガーさまの目の前でわたしを犯しました」
あっさりした口調だったから、すぐには意味が飲み込めなかった。リディアがぼんやりと考えているあいだに、アーミンはまた淡々《たんたん》と言葉を続けた。
「彼の目の前にいることすらたえられないのに、気持ちは抑えきれず、抱いてほしいと思ってしまう。でももしそんなことになれば、プリンスに受けた屈辱《くつじょく》にさいなまれ、愛する人さえ恨《うら》むようになるかもしれないと思う自分もいる。エドガーさまも、プリンスと同じ行為でわたしを踏みにじったように感じてしまうでしょう。だから彼は、何があってもわたしに触れることはない。そうわかっていても最後まで、人として命を落とすあのときまで、振り向いてほしいと想い続けていました」
ようやく理解しつつあったリディアは、体がふるえるのを感じたが、アーミンの表情は意外なほどおだやかだった。
「今は、もう人間ではないからでしょうか、そんな強い気持ちは薄れています。エドガーさまがあなたに惹《ひ》かれているのを感じても、不思議と嫉妬心《しっとしん》も起こらなかった。こんなことをお話しできたのも、わたしという人間はもういないからです」
「……それでも、行かなきゃならないの?」
エドガーの従者として、おだやかに過ごすこともできないという。
「セルキーになっても、消えない感情もある……。ですからもう、こんなふうにお会いすることもないでしょう」
それがどういう種類の感情なのか、本当にエドガーと敵対するつもりなのか、アーミンはこれ以上話すつもりはないらしく、リディアにゆっくり背を向けた。
まだふるえながら、リディアは頬《ほお》が濡《ぬ》れているのに気づき、手のひらでぬぐう。
そんなひどいことがあっていいのだろうかと、怖くなった。エドガーがどんな目にあってきたのかも、漠然《ばくぜん》と知っているだけでじゅうぶん恐ろしいのに、リディアには想像すらできないようなことがまだまだたくさんあるのだ。
彼のこともアーミンのことも、自分には永遠に理解できないだろう。そう思うと、苦しくて淋《さび》しい。
背を向けたままアーミンは、ふと思い立ったように口を開いた。
「リディアさん、セルキー族の友情にすがることができるなら、ひとつだけお願いがあります。レイヴンを、あの透輝石《ダイオプサイド》に触れさせないでください」
あれは、アーミンが持っていったのだ。なのに触れさせるなと念を押す。
「わたしが不用意に持っていた透輝石は、幸いレイヴンが触れることはなかったようですが、あれと同じ石はまだあります。触れてしまうと、レイヴンの精霊の力が増すでしょう。エドガーさまに従わなくなるかもしれません。気をつけてください」
急いでそれだけ言うと、彼女は河岸の並木に紛《まぎ》れるように姿を消した。
伯爵邸《はくしゃくてい》へ帰ってくれば、すぐさま出てきたトムキンスは、エドガーのいる執務室《しつむしつ》ヘリディアを連れていった。
「おかえり、リディア」
デスクの前の肘掛《ひじか》け椅子《いす》に座っていたエドガーは、にっこり微笑《ほほえ》んでそう言いながらも、あきらかに不機嫌《ふきげん》だった。
戸口に突っ立ったままリディアは、ドア際《ぎわ》で入室を促す執事《しつじ》をちらりと眺め、ついさっき彼がくれたありがたい助言について考えた。
『いいですか、リディアさん。旦那《だんな》さまをなだめるのは簡単です。駆《か》け寄って、あやまりながらかわいらしく手を握ればいいのです』
そんなこと、できるわけがない。
『今後のために、おぼえておいて損はありません』
おぼえたって、使い道ないってば。
いつまでも突っ立っているわけにもいかず、そっと足を進めたものの、リディアはトムキンスの助言には従《したが》えず、うつむいたまま口を開いた。
「……家へ、ノートを取りに帰ってただけなの。すぐだから平気だと思って」
「うん、何事もなくてよかったよ」
「あの、それでね、例の透輝石《ダイオプサイド》に刻んであった記号のことがわかったの。あれはルーン文字よ。ほら、母がまとめたノートに同じ記号が」
リディアは広げたノートをかかげて見せる。
手なんか握らなくたって、あたしにもなだめることくらいできるのよ。
きっとこれで、不機嫌な態度を改めてくれると思ったから、リディアはにっこり笑ってみせた。
エドガーは、小さくため息をついて立ち上がった。
テーブルのそばの椅子を引くと、リディアに座るよう促《うなが》す。向かい合うようにエドガーも腰をおろす。
「この文字よ。見覚えあるでしょう?」
二本の縦線、そのあいだにXに似た記号がおさまっている。
「アルファベットのMにあたるの。あとふたつの文字も、同じくルーン文字のCとH」
「MCH……、何かの略?」
「たぶん、子音だけで綴《つづ》ってるの。マハっていう精霊のことだと思うわ。アイルランドの古い神話に出てくる、戦いの女神よ」
妖精は、古い時代の神々が力を失い、徐々に小さくなって草木の陰や地面の下で暮らすようになったものだという言い伝えがある。
伝説では恐ろしい力を駆使し人間の英雄と戦った神々も、今ではそれこそ物語の中でしか名を聞くことはない。
妖精の先祖ではあるが、じっさいに妖精と接するのが仕事のフェアリードクターよりも、詩人や文学者の方が詳しい名ではないだろうか。
「どうしてそれを、セイロンの小部族王が持っているんだ? 北欧《ほくおう》のルーン文字で、アイルランドの精霊の名を刻《きざ》んだ石?」
「ええ、そこがよくわからないんだけど」
あんまり役に立たなかったかしら、と不安になって、うつむきがちに彼の様子を盗み見る。
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳は、しっかりこちらを見ていたから、そらしょうがないくらい目が合ってしまった。
「……リディア、これは貴重な情報だし、調べてくれたのは本当にありがたいよ。でもね、トムキンスに三十分待ってみてはと言われてそうしたけれど、僕は心配で死にそうだった。これも、きみには信じられない言葉?」
ちょっと大げさだとは思うけれど。
「……ごめんなさい」
「行き先を告げるのも、護衛をつけられるのも、そんなにいやなこと?」
やっぱりぜんぜん機嫌は直っていない。
「慣れてないから、ついひとりで……」
「僕に縛られているように感じるから?」
それもある。勝手に父と話をして、この屋敷にリディアを滞在させると決めてしまったのはエドガーだ。
エドガーが彼女を、自分のもののように扱おうとするほど、反発したくなる。
あたしはアーミンじゃない。代わりにしないでと。
けれど彼は、リディアに触れないという約束を守っている。今だって、いつもの彼なら、リディアに非があるのをいいことに、べたべたしようとしたはずだ。
そのへんは、彼がリディアにきちんと示そうとしてくれている誠意だとも感じるから、自分のひねくれた態度がもうしわけないような気もするのだった。
「あ、あのね、マハと同じ戦いの女神として、ネワンとモーリグーっていう精霊もいるわ」
リディアは話を戻そうとした。
「三つの女神は、どれもバウっていう強大な戦いの女神の分身なの。だから、あの透輝石《ダイオプサイド》と同じようなものがまだあるはずなのよ。ネワンとモーリグーのぶんよ」
「ほかの女神の名も、ダイオプサイドに刻んであるってこと? その可能性はあるけど、根拠はあるのかい?」
「アーミンが言ったの。ほかにまだある透輝石に、レイヴンを触れさせちゃいけないって」
「アーミン? 会ったのか?」
失言だったと気づいたが、もう遅い。
「きみひとりで彼女に? アーミンは僕たちを裏切って出ていったんだよ。敵と話をするなんてどうかしている」
「でも、彼女はあたしに危害を加える気はなかったわ。それに、レイヴンのことがいちばん気がかりなのよ。ダイオプサイドに触れるとレイヴンの精霊が強くなって、あなたに従わないようになるかもしれないって、それをとても心配してた。だからあのとき、ダイオプサイドを持ってここを去ったんだと思うの」
エドガーは立ち上がる。不機嫌に腕を組んで、デスクの方へ歩み寄る。
「ああ、そうかもしれない。けどきみは危機感がなさすぎる」
なんだかさっきから、一方的にしかられている。と思えてきた。
心配をかけたのは悪かったけれど、リディアにはエドガーの言いなりにならなければならない理由などない。どこへ行こうと何をしようと、自由なはずだ。
「ええそうね。だってあたしは、プリンスに会ったこともないし、どんなに恐ろしいか聞かされたって実感できないもの」
「実感するようなことになっちゃ困るんだよ?」
「言っておきますけど、あたしに命令できるのは父親だけよ。それだって、父はあなたみたいに傲慢《ごうまん》じゃないもの。あたしの意志を尊重してくれるわ。言うことをきく女の子がいいなら、アーミンをしっかりつかまえておくべきだったのよ。あなたが彼女の気持ちを無視して、いろんな女の子を口説きまわるから……」
「無視してなんかない」
強い口調に胸をつかれ、リディアは口をつぐんだ。
やっぱり、いちばん好きなの?
アーミンの言うように、主人の愛情としての言葉なのかどうか、リディアにはわからない。けれどどちらにしろ、エドガーにとって彼女が特別だというのはわかる。
苦しげな表情のままリディアから目をそらしたエドガーは、トムキンスを呼んだ。
「リディアにつけたメイドには、彼女が外出する際は報告するようにと伝えてあるはずだね?」
「はい。ただ今回は、仕事部屋にいらっしゃらないのに気づいたものの、屋敷内だろうと深く考えなかったようで」
無理もない。リディアは見つからないように出ていったのだから。
滞在中の身の回りの世話をさせるからと、客室係としてつけられたのは、若いメイドだった。まじめそうな少女で、リディアのことをエドガーの婚約者だと信じているらしく、雲の上の存在だとでも思っているのか、口をきくのもいけないという態度だった。
「今度こんなことがあったら、出ていってもらう」
「えっ、ちょっとエドガー、メイドさんは関係ないわ。なのに追い出すなんて、やめてちょうだい」
「きみが気をつけてさえいれば、彼女は職を失わない」
それはあきらかに脅迫《きょうはく》だと、リディアはこぶしを握りしめて立ち上がった。
「卑怯《ひきょう》なやり方。あたしを縛るために、周りの誰かを傷つけるの? プリンスと同じよ!」
プリンスのやり方を学び、正義感を切り捨て、非情に徹して戦ってきた彼だ。それでもけっしてプリンスと同じにはなるまいと、仲間はとことん守ろうとしてきたのは知っている。
けれど結局、ほとんどの仲間を失ったエドガーにとって、組織の独裁者で暴君のプリンスと同じだと言われれば反論できなかっただろう。
プリンスが、エドガーへの制裁としてアーミンを傷つけたのと同じ。
はっと気づけば、リディアは自分こそ卑怯だと思った。
言ってはいけないことだった。
ただエドガーが、リディアの言葉にひるまなかったのは救いだった。
「言っただろう、きみを守るためなら手段を選ばないって」
彼は高慢《こうまん》な笑みさえ見せる。
そんなだから、またリディアの憤《いきどお》りに火がつく。
「あたしのため? そう言えばおとなしくなると思ってるの? 本当にメイドを追い出したりしたら軽蔑《けいべつ》するから!」
「どうしてそう頑固《がんこ》なんだ?」
「頑固がきらいなら、あたしを追い出せばいいわ」
「僕は、ちっとも言うことをきいてくれないきみが好きだ。こんなにむかつくけど、好きなんだからしょうがないだろ!」
怒りながらも口説《くど》くって。
リディアは一気に、反論する気をそがれた。
ため息をついて、肩の力を抜く。
透輝石《ダイオプサイド》のことについては全部伝えた。用はすんだのだからと出ていこうとすると、彼はまだ呼び止める。
「なによ、まだ何かあるの?」
「きみに手紙が来てる。自宅の方から転送してもらったぶんだ」
差し出された封筒を取ろうとすると、さっと引っ込められた。
「署名がない。ここで開けてくれないか」
不審《ふしん》な手紙だと警戒《けいかい》しているのだろうけれど、それもまたリディアはかすかに不快に感じた。
言うとおりにしないなら、取り上げられそうな気配すら感じる。
頷《うなず》くと、ようやく手渡してくれたが、自分宛の手紙をひとりでそっと読めないのも屈辱的《くつじょくてき》だし、じっと反応をうかがわれているのは気分が悪い。
「ロタからよ」
一読して、リディアは言った。
祖父とオランダへ行っている、リディアにはめずらしい人間の友達で、エドガーとも旧知の少女が、近々ロンドンへ帰ってくるという内容だった。
プリンスのこととは関係のない手紙だ。
「何て?」
「そこまで言う必要ないでしょ」
「僕の悪口が書いてあるんだろうけどね」
ちょっとは書いてあった。が、詮索《せんさく》されればリディアはまた腹が立った。
「あなたってほんと、いやな夫になりそうなタイプよ!」
言い放って、逃げるように彼の書斎《しょさい》を飛び出した。
「いやな夫になりそうだって? どう思う、レイヴン?」
執務室へ入ってきたレイヴンは、いきなりそう言われ、いったい何の話かと思ったことだろう。小首を傾《かし》げた。
「なるよ、きっと。でもそれを結婚前に気づかれてどうする」
「リディアさんがおっしゃったんですか?」
窓辺に立って通りを見おろせば、この邸宅《ていたく》を警備している|朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員の姿が見える。彼らはみんな、プリンスの組織によって親しい人を殺され、復讐心《ふくしゅうしん》に燃えている。
戦うのは自分や仲間のためだ。
けれどリディアだけは違う。戦う理由などないのに、エドガーが巻き込んだ少女だ。
フェアリードクターとして、妖精の魔力を悪用する連中は許せないと思っているだろうけれど、彼女にあるのは純粋な正義感だけ。
それでもそばにいてほしくて、どうしても手放せなかったから、何があっても守ると決めた。
なのにこんなことで言い争ってしまうのは、エドガーがリディアにとって信頼に足る男ではないからだ。
リディアに危機感が足りないというよりは、エドガーの危機感やそのための対策が、リディアには身勝手に自分を縛《しば》っているとしか感じられないらしい。
「……だめかもしれない」
窓の外を眺《なが》めたまま、エドガーはつぶやいた。
「はじめて口説き落とせなかった女の子が、リディアだってことになるかもね」
「そんな弱気な言葉、はじめてうかがいました」
「はじめてづくしだ」
いっしょにいるだけで安らげて、未来を夢見ることができる女の子も、リディアがはじめてだった。
いつのまにか彼の中で、リディアの存在は大きくなっていた。
「だめでも、リディアは守るしかない」
振り返る。レイヴンの大きな瞳はかすかな迷いもなくまっすぐにエドガーを見ている。
この忠実な少年には、これまで何度もささえられてきた。
アーミンが行ってしまっても、リディアが振り向いてくれなくても、エドガーはレイヴンとなら戦っていけると勇気づけられる。
「すべて終わって、リディアがもう僕の顔も見たくないと思うとしても、そう思われるような手段を取ってしまうかもしれないとしても、彼女の未来を守るのが巻き込んだ僕の役目だから」
もしもプリンスに負けることがあっても、彼女を救う道だけは確保しなければならない。
「情けなさすぎるな。レイヴン、それでもおまえだけはついてきてくれるか?」
「もちろんです、エドガーさま」
問題の透輝石《ダイオプサイド》をレイヴンに触れさせてはいけない。そうアーミンが警告したというリディアの言葉を思い出しながらも、エドガーは、レイヴンの言葉を力強く感じていた。
出かけよう、とエドガーは言った。
「どちらへ」
「セイロンの透輝石について知りたい。ケンブリッジまで行きたいところだけど、教授は忙しいだろうし、ロンドン大学に一番弟子がいただろう?」
「ラングレー氏ですか?」
「ああそう、そんな名だった」
[#改ページ]
悪夢はロンドンブリッジに
エドガーが外出したと知り、正直リディアはほっとしていた。
アーミンのことで、エドガーは苛立《いらだ》っている。もちろんそれは、プリンスが動き始めたということと直結しているのだけれど、リディアにはどうしても、エドガーは動揺を押し隠しているのではないかと思えてしまう。
彼女の不審《ふしん》な行動を知ったとき、エドガーは深く傷ついてリディアにすがった。あのときから、いずれはこうなると覚悟していたかもしれないけれど、裏切りが決定的になったのは、彼にとってたえがたいことだろう。
しかし今のエドガーは、リディアに弱みを見せようとはしない。
それをリディアは、かすかに不満に思っている。
彼の心の中を、ほんの少しでも知りたい。本音をのぞかせてほしい。
以前に襲《おそ》われかけたのは不本意で、傷ついて泣いたし、自分の情けなさにもあきれたけれど、あのときのエドガーの、どうしようもない痛みや誰かにすがるしかなかった気持ちは偽《いつわ》りのないものだった。
だからリディアは、救いたいと思ってしまった。
求められたのは自分ではなかったとしても、それをのぞけば、エドガーの切実な言葉も強く抱きしめられたことも、何ひとつ不快に感じてはいなかった。
そんな自分を認めたくはないから、リディアは目を背けているけれど、エドガーの心が見えない今、彼女も苛立っているのだった。
「ミス・カールトン、お客さまがいらっしゃってますが」
仕事部屋のデスクから顔を上げると、例のメイドが戸口に立っていた。
「お客さま? どなた?」
「ウルヤとお伝えすればわかるとおっしゃっておりました。お通ししてもよろしいですか?」
「ウルヤさん? ええ、お願いします」
エドガーが留守でよかった、と思いながら、彼が何の用だろうとリディアは首をひねるが、仕事部屋へ入ってきたウルヤは、急いだ様子で早口に告げた。
「リディアさん、教授が……、カールトン教授が、ケンブリッジで事故に遭《あ》われたらしいんだ」
立ち上がったリディアは、すでに気が動転していた。
「事故って、どんな……、それで父は……?」
「詳しいことはまだわからない。カレッジで受け取った電信の一報がそれで。とにかく、いっしょにカレッジへ行こう。追って知らせが入ると思うし、ケンブリッジへ行く必要があるなら大学の職員も同行するはずだから」
頷《うなず》きながらもリディアはペンを握りしめたまま、何を持って行けばいいかわからなくなっていた。
そばにいたメイドは、今度は自分の仕事を怠《おこた》らなかった。すぐに執事《しつじ》を呼んできたらしく、トムキンスがショールと帽子を取ってくれた。
しかし彼は、そうしながらもリディアをまず椅子《いす》に座らせた。
「落ち着いてください、リディアさん。旦那《だんな》さまが戻られるまで、お待ちになってはいかがです? こういうときはおひとりではない方がいいかと存じます」
「私がついているから、大丈夫だよ」
ウルヤが言う。
「ですが、旦那さまもユニヴァーシティカレッジへ行かれたところです。もしかすると同じことを聞いていらっしゃるかもしれませんし、でしたらすぐ戻られるだろうと思うのです」
「なら、カレッジへ行けば会えるんじゃないか?」
「行き違いになるかもしれません」
「トムキンスさん、とにかくあたし、ウルヤさんと行くわ」
ここでどうするかと言い合っている時間さえ惜しかった。早く父の様子が知りたい。大学にはもう、詳しい話が届いているかもしれない。
「では誰かひとり同行させましょう」
「馬車はふたり乗りなんだ」
「こちらで用意します」
「それは、私が信用されてないってことかな。カレッジに行くあいだだけでも、リディア嬢《じょう》とふたりにはできないって?」
「そうは申しておりません」
「なら、急いで行こう。ミス・カールトン」
彼女は頷いていた。
自分の父の一大事なのに、思うままに駆《か》けつけることもできないなんておかしいじゃない。
そう思えば、トムキンスがウルヤを信用していないらしいのが理不尽《りふじん》に感じられた。
どうせエドガーは、リディアに男を近づけるなとかなんとか指図《さしず》しているに違いないが、ウルヤはリディアの父の教え子だ。この伯爵邸《はくしゃくてい》の人間にとっては初対面だからといって、警戒《けいかい》される筋合いはないのだ。
「トムキンスさん、大丈夫です。それにこれは、あたしの父のことですから」
リディアがそう言って立ち上がると、トムキンスは心配そうな顔をしながらも、もう異を唱えなかった。
「セイロンの透輝石《ダイオプサイド》ですか? ええあの島は宝石箱みたいなものですから、いろんな貴石が採れますよ」
ラングレーは気前よく、カールトン教授の研究室にエドガーを招き入れた。
相変わらず雑然と散らかり、どこに何があるのかさっぱりわからない部屋だ。
しかし教授の一番弟子は、ほこりにまみれて床に転がっている小石さえ踏まずによけて通っていく。それが学術的に貴重な石なのかどうかエドガーは知らないが、この部屋にあれば、たとえ床の上だろうと、誰かが踏んだと思われる足跡がついていようと、世紀の新発見として注目を浴びるにふさわしいものかもしれないと感じてしまうのが不思議だった。
「私は教授のようなロマンチストじゃないもので、神話にはあまり興味がないんですが、あれは非常におもしろい石ですよ、伯爵」
「そう、どんなふうに?」
「あの石をこう、薄く割って、たとえばこの文字の上に置くとします。すると、文字が二重になって見えるんです」
「ああ、それで、|ふたつの姿《ダイオプサイド》=H ギリシャ語だね」
「よくご存じですねー。教授もあなたのこと、広い教養をお持ちだとおっしゃってましたけど、高名な教師《せんせい》がついてらっしゃったんでしょうね」
高名かどうかは知らない。プリンスが学んだことをすべて、エドガーにも詰め込もうとした連中だ。
けれどそれが今のエドガーを、遜色《そんしょく》ない教育を受けた伯爵家の当主と見せるのに役立っているのだから皮肉なものだ。
プリンスと同じ。リディアにそう言われたことを思い出しながら、いったいどこまで、自分はプリンスの影響に染まっているのだろうと、エドガーは強い嫌悪《けんお》を感じていた。
「こちらです、伯爵」
ラングレーは、ついたての奥にある倉庫のような一画へ入っていく。
神話には興味がないと言いながらも、カールトンが集めた鉱物にまつわる伝説の、膨大な資料のありかを把握《はあく》している。
「じつは、透輝石《ダイオプサイド》と名付けられたのは最近でして、古い文献に出てくるそれらしい石が、果たしてダイオプサイドのことかどうか、わからないことがほとんどなんです。おさがしの石にまつわる神話があるとすればここなんですが」
書類が積まれた棚をひとつ、ラングレーは指さした。
「ああでも、セイロンでしたっけ。インド系の物語となると、まだ収集の手が回らなくて案外少ないんです」
「インド系かどうかはわからないんだ」
「そうですねえ、島民の大半は、仏教徒かヒンドゥー教徒らしいですが、英国の植民地になる前は、ポルトガルとオランダが占領していましたし、そもそも多民族の島ですからね。でも、セイロンの話があるとすればこのあたりですよ」
結局、彼が抜き出したファイルはひとつだけだった。
それでもずいぶん分厚かったが、エドガーは窓辺に近づき、めぼしいキーワードをさがしてばらばらとめくってみた。
戦いの女神の、三つの分身、それぞれの名を刻んだ透輝石《ダイオプサイド》が三つあるという。しかしそれは、セイロンの小部族王の末裔《まつえい》が肌身離さず持っていたという宝石だ。そもそも、アイルランドの女神とは無関係だったはずだ。
王族とかかわりのある宝石なら、神話に登場するとか、魔術めいた伝説のひとつやふたつ持っているものだろう。そしてそれは、三つであることに意味のある石だったはずなのだ。
そういった、宝石にまつわる伝説を収集し、鉱物の分類に興味深い視点を加えているのが博物学者のカールトンだった。
だから今エドガーは、もっとも手がかりのありそうなところにいる。
ファイルを読み進んでいくうち、やがてエドガーは、三つ頭《がしら》の蛇《へび》≠ニいう項目に目をとめた。
昔、その恵み深き島は、三つの蛇頭《じゃとう》を持つ魔族《ラークシャサ》の王が支配していた。神々は、残酷《ざんこく》な悪行の限りを尽くす魔王を倒そうと試みたが、できなかった。それというのも、以前に神々は、そろいもそろって魔王を殺すことはできないという誓約をかわしていたからだった。そこで神々は、魔王と誓約をかわしていない種族、かよわき種族としての人間にしか彼を倒すことはできないと考えた
エドガーはさらに先を読む。
そこで現れる、神の血を引く超人的な英雄の誕生や、彼の冒険。試練を乗り越え、やがて魔王を倒すというのは、ギリシャ・ローマはもちろん、ヨーロッパでも各地にある典型的な英雄神話だ。
しかしそれより問題なのは、透輝石がどう扱われているのかということで、見落とさぬように注意しながら、カールトンの細かな筆跡《ひっせき》を目で追う。と、それは最後の方に、ごく簡単に書かれていた。
魔王の三つの蛇頭を斬《き》り倒すと、三つの深い緑色をした宝石になった。英雄の子孫に受け継がれた宝石は、魔王の力によってあらゆる精霊たちを従《したが》えることができると伝えられている
「ああそれ、インドの有名な叙事詩《じょじし》の類型ですね。でも宝石の話がくっついているのがめずらしいと、教授が関心を寄せていました」
「その恵み深き島、というのがセイロンの可能性はあるのかな」
エドガーの質問に、ラングレーは頷いた。
「同型の叙事詩では、セイロンを指しているようですけど、どうでしょう」
この伝承の出所が、例のハディーヤという小部族国だとしたら、殺されたカーン氏が持っていたのは、魔王の首のひとつだ。
もちろんそういう言い伝えだというだけで、本当に魔王の首かどうかは疑問だが、宝石と精霊は何やら親戚《しんせき》のようなものらしいと、リディアや妖精たちと接するようになってから学んだつもりだ。魔術的な力を秘めた宝石だということだろう。
けれど、あの透輝石《ダイオプサイド》がそういういわれのものだとしても、ルーン文字や戦いの女神との関係はますますわからなかった。
「それに、ああ、この話、出典は十六世紀の作家、ブラウンの草稿集だそうですよ」
ラングレーはファイルの別のページをめくりながらそう言った。
「ブラウンというと、あの?」
アシェンバート伯爵家の始祖、青騎士卿の伝記をまとめた人物だ。ブラウン自身は、当時宮廷に現れた青騎士伯爵、ジュリアス・アシェンバートと親しくしていて、彼から聞いた伯爵家先祖の逸話《いつわ》をまとめたとしている。
妖精や魔法が飛び交う、荒唐無稽《こうとうむけい》な幻想|冒険譚《ぼうけんたん》は、おとぎ話として現在の英国でも読まれているが、青騎士卿と呼ばれる人物が、英国王エドワード一世に仕えたのは事実で、エドガーにとってはこの伯爵家の真実[#「真実」に傍点]を知る貴重な手がかりにもなっている本だった。
その著者の名が、思いがけず出てきたのだ。
「ブラウンの草稿集は、他人から聞いた外国の不思議な話を記述したものです。当時宮廷にいて、この手の話をしそうなのは、伯爵、あなたのご先祖かもしれませんよ」
ラングレーには思いつきの冗談だっただろうが、エドガーはこの奇妙な接点を見過ごすわけにはいかないように感じていた。
ジュリアス・アシェンバートは、諸外国を旅していたというから、セイロンに立ち寄った可能性もじゅうぶんにある。
そしてもし、彼がハディーヤの王族と知り合っていたなら……。
セイロンの魔王と、妖精族の女神との接点が見えてはこないだろうか。
となると、アシェンバート伯爵家と百年前に戦ったという因縁《いんねん》を持つプリンスの組織が、透輝石を求めている、その接点も浮かび上がってくる。
「失礼します、エドガーさま」
レイヴンの声が聞こえ、エドガーは考えを中断する。そうして、積み上げられた書物を崩《くず》さないよう気をつけながら、ついたてから顔を出した。
「どうした?」
「さっき屋敷の者が来て、伝言を頼まれました。リディアさんがウルヤという留学生とこのカレッジへ来ているはずだということです」
「リディアがあの男と?」
ウルヤという名を聞けば、エドガーには殴《なぐ》ってやりたい衝動《しょうどう》しか浮かばなかったから、思わずこぶしを握りしめた。
「カールトン教授がケンブリッジで事故に遭《あ》われたとかで、こちらに詳しい情報が入ると、リディアさんを迎えに来たらしいんですが」
「えっ、教授が事故に!」
驚いたのはラングレーだ。
「きみは聞いていないのか?」
「ええ……、はい」
「助手のきみに知らせずに、学生のひとりにすぎないウルヤが知っている?」
おかしいと思えば、一気にいやな想像が頭を巡《めぐ》った。
「伯爵、しばらくお待ちください。事務所へ行って確認してきます」
「いや、待ってくれ、ミスター・ラングレー。ウルヤの……、そう、養父は英国人だと聞いたけれど、会ったことは?」
なぜ今そんなことを訊《き》くのだろうという顔で、彼は首を傾《かし》げた。
「会ったというか、見かけたことはあります。体が不自由でインドから帰国してきたと聞いていましたから、あの車椅子《くるまいす》の紳士《しんし》が父親なんだろうと……」
「車椅子? それで、顔に大きなやけどのあとはなかった?」
「はあ、包帯をしていましたが」
……プリンスだ。
背筋に冷たいものがはしる。
どうして、考えが及ばなかったのだろう。
ウルヤはリディアをあからさまに見ていたし、エドガーに直接|不愉快《ふゆかい》な態度を示した。けれどそれは、プリンスの手先のやり方ではなかったからだ。
連中なら、もっと警戒させない近づき方を心得ているはずだと頭にあったエドガーは、ウルヤを不届きな男としか思っていなかった。
けれど、そうやって裏をかかれたのだろうか。
まさか、カールトン教授に近づくとは。
ふるえそうになるほどの憤《いきどお》りを、エドガーは、プリンスよりもむしろ自分に向けていた。
父のことで頭がいっぱいになっていたリディアは、馬車の中でもそわそわと落ち着かないまま、けれども何も話す気になれずに、ウルヤの隣で黙り込んでいた。
「きっと大した事故じゃないよ」
声をかけられて、はっと顔を上げる。心配するようにこちらを見ているウルヤに頷いてみせる。
「ええ、そうね……」
漆黒《しっこく》の髪に漆黒の瞳、褐色《かっしょく》の肌。そういう外見だけで、リディアの目にウルヤは神秘的に映る。
星明かりさえさえぎられた、深い森の奥にひそむ夜を閉じこめたかのような。そんな瞳に、あんまりじっと見つめられていると、不安な気持ちになってきた。
急いでいたとはいえ、男の人とふたりきりになったのは不用意だっただろうか。でもこの人は父の教え子だし、と、いいわけにならないいいわけを考えてみる。
目をそらし、何気なく窓の外を見る。建物の向こうに、ちらりと河岸の風景が映る。
テムズ河? カレッジは、河とは反対方向のはずだった。
「ウルヤさん、道が違うわ。あれはウォータールー橋よ」
振り返ろうとしたとき、強く手を握られた。
エドガーが強引にそうするときと同じようでいて、エドガーのようなもの言いたげな様子も艶《つや》っぽい気配も、どこにもなかった。
ただ逃がすまいとしているかのようで、きつくリディアをつかんでいる手は、冷たく思いやりのかけらも感じない。そしてウルヤは、うっすらとした笑みを口元に浮かべている。
「な、何するの、……離してちょうだい!」
怖くなって、リディアは声をあげた。
彼は何も答えない。さっきまでのウルヤとは違う。瞳の奥にあるのは、暗い、底なしの闇《やみ》だ。
ウルヤさん、じゃない。
彼の全身からにじみ出すような、暗い影を感じた。
人ではないものの強い魔力が、あたりに満ちる。リディアは頭の中に侵入《しんにゅう》してくるかのような不快感に吐《は》き気《け》をおぼえる。
「……や」
かすれた声を出す。
「助けて……、ニコ……!」
呼べば来るといった相棒のことを思いだしたものの、聞こえるはずもなく、今どこを走っているのかも判然としない馬車の中に来てくれるわけはない。
やっぱり、……役立たずの薄情《はくじょう》猫だわ……。
けれどもう身動きもできないまま、リディアの意識は邪悪な魔力にのみこまれ、闇の底へ沈んでいった。
夢魔《むま》だ。
ぬめりとした不快な夢の中で、リディアは考えていた。
以前、ナイトメアという名のブラックダイヤにひそんでいた魔物だ。それがウルヤをあやつっている。
あのときブラックダイヤは砕け散ったけれど、ダイヤモンドの中で成長した夢魔は生きているはずだった。プリンスの側近で、妖精の魔力に通じたユリシスという少年が手に入れたと思われていた。
リディアは、ユリシスの罠《わな》にはまってしまったのだろうか。
夢にとらわれてはいけない。そう思いながらも、悪夢の片鱗《へんりん》がぼんやりと像を結びはじめれば見入ってしまう。
夢魔が見せる夢の中、暗闇《くらやみ》に現れたのは、横たわる裸身《らしん》の女だった。
傷やあざだらけの体が痛々しく、生きているのかどうかもわからなかった。
リディアはおそるおそる近づいていった。
闇に浮かびあがる白い肌。濃い色をした髪は乱れ、白い顔を覆っている。
それでもリディアは、これが誰だかぼんやりと気づいていた。
「アーミン……」
声をかけても反応しない彼女を、リディアは突っ立ったまま見おろしていた。
ふと彼女は、もうひとつの人影に気がついた。
少し離れた場所に座り込んでいたのはエドガーだった。
まっすぐに、彼はアーミンを見つめていた。
優美な眉《まゆ》をかすかにひそめ、憤りの炎が宿った灰紫《アッシュモーヴ》の瞳で、彼女の痛みから目をそらすまいとするようにじっと見ていた。
ふたりのあいだに、リディアが言葉をかける余地はなかった。
リディアは目を閉じた。そうすることで悪夢が消えてくれることを願った。
『そうやって、すべてに目を背けるつもりですか?』
はっとして目を開けると、アーミンが上半身を起こし、リディアの方に顔を向けていた。
エドガーの姿はもう見あたらなかった。
『いいかげんに目を開いて、本音をおっしゃったらいかがです? わたしに成り代わりたいと。エドガーさまにとって、とくべつな女に』
目をそらせずに、リディアはアーミンの、不思議と赤い唇《くちびる》に見入っていた。
彼女の、その美しい顔にだけは、傷やあざのひとつもなかった。
『代わってさしあげますよ、いくらでも』
身を乗り出す彼女に、思わず一歩下がる。すると彼女はくすくすと笑った。
「あたしは、彼とは……」
『結婚するつもりはない? 自分の心が見る夢から、そんな言葉で逃れることができるとお思いですか? あなたは、どちらかを選ばねばならない。エドガーさまにとって、女は二種類だけ。わたしか、その場しのぎの恋人か。彼の心がほしいなら、わたしにおなりなさい』
アーミンの手がリディアに触れた。手首をつかむ冷たい手にふるえ、あわてて振り払う。
けれど彼女は、リディアにのしかかり、押さえつける。
全身で感じる、彼女のやわらかな体はやはり冷たかったけれど、一糸まとわぬ姿はリディアから見ても艶《つや》っぽくて美しくて、押しのけることができなかった。
アーミンは、リディアにはないものを持っている。
うらやましいほどの、強さと美しさだ。
このあいだ話したときから、感じていた。
きっとその強さで、エドガーから離れる決意をしたのだ。
それはレイヴンのためかもしれない。あの石に触れさせるなと警告した。
エドガーも、彼女の選択を認めている。二度の裏切りに傷ついても追わなかったのは、彼女なりに考えがあっての選択だと割り切ることにしたのだと思う。
敵として戦うことになっても、どちらかがどちらかを殺すようなことになるとしても、ふたりのあいだにあるものは、どういう種類の愛情にせよ、失われることはないだろう。
うらやましいと思った。
けれどどんなにうらやんでも、リディアはエドガーと過去を共有することはできない。
それでも今は、この夢の中でなら、アーミンとひとつになれそうな気がしている。その場しのぎの恋人なんていやだ。
彼女が指先でなぞると、リディアの襟元《えりもと》やそでが裂け、肌は傷つき血がにじんだ。
赤いその唇《くちびる》が、リディアに近づく。重なる唇を身動きもせずに受け止める。
同時に、ゆっくりと周囲の闇が動くのを感じながら、リディアは視界に少しずつ風景が現れるのを眺めていた。
馬車の天井、窓、薄暗い外の風景。
目の前にいるのは、アーミンではなくウルヤだ。
たった今、唇に触れていた感触はウルヤだったのだろうか。
それともこれはまだ夢の続きかもしれない。
頭がぼんやりしていて、現実的な感覚がない。
そこにいるのはやはり、ウルヤを支配している魔物だ。暗い視線だけで、リディアを動けなくしている。
「父さまの事故は……」
それでも、どうしても確かめておきたくて、必死になって口を開いた。
「ああ、作り話さ」
ほっとしながらも、声を出したことでようやく体が目覚めかけていた。
「きみには何の恨みもないけれど、私にはどうにもできない。魔物が成長するためには餌《えさ》がいる、それだけのことなんだ」
ウルヤの繊細《せんさい》な手が、リディアの頬《ほお》を撫《な》でる。
それをたまらなく不愉快《ふゆかい》に感じ、力を入れてどうにか顔を背ける。
逃げなければという気持ちが、強くわきあがる。
「さあ、もっと眠って。ようやく日が暮れた。夜は|魔性の妖精《アンシーリーコート》の領域だ」
夢魔の餌は、悪夢と恐怖、そして死。
このままじゃ、殺されてしまう。
「いや……」
リディアは目を閉じ、魔物の視線から逃れると、力いっぱいにウルヤを押しのけた。
どうやって馬車から飛び出したのかわからない。気がつけば暗い路地を走っている。
足元の道は雨にぬかるみ、いやな匂いがする。両側に建物がせまり、ネズミが走る。薄汚れたひどい場所だ。
[#挿絵(img/diopside_103.jpg)入る]
そんなごみごみした町中《まちなか》なのに、どういうわけか人影がひとつもない。
魔物が人を遠ざけているからか、それともこれもリディアの夢なのか。
わからないまま人影をさがして、路地にたまった水たまりに踏み込んでは泥《どろ》をはねとばすのもかまわず、リディアは走った。
やがて広い通りに出るが、そこにも人はおろか馬車のひとつもない。不安に叫び出しそうになるのをおさえながら、彼女はよくよくあたりを見回し、ようやく、街灯の下を歩く人物に気がついた。
上品な衣服に身を包んだ、すらりとした後ろ姿だった。
とたんに安堵《あんど》がこみあげてきた。
「エドガー!」
助けを求めてリディアは叫ぶ。
しかし、駆《か》け寄ろうとして足を止めた。
振り返った彼の隣に、見知らぬ若い女性がいたからだった。
彼の腕に手を添《そ》えて、親しげに寄り添っている女性が口を開く。
「だあれ?」
「さあ、誰だったかな」
ちらりとこちらを見たエドガーの、冷たい言葉に愕然《がくぜん》とした。
「昔の恋人でしょう?」
「まさか、僕が恋をしたのはきみだけだよ」
「本当かしら」
「本当だよ」
「そうね、泥だらけのひどい格好《かっこう》。あなたに釣《つ》り合う女性じゃないわ」
くすくす笑いながら、ふたりは歩き出そうとする。
「この、大うそつきっ!」
ひどいじゃない。ひどすぎる。そう思うとリディアは彼に駆け寄った。そでをつかんで引きとめていた。
「あたしにだって言ったじゃない、あたしだけだって……! 本気だってプロポーズまでしたくせに!」
エドガーは、リディアの手を振り払う。勢い余ってよろけた彼女は、地面に座り込んだ。
「なあに、この女。エドガー、泥がついちゃったわ」
「ああ、まいったね」
水たまりに転んだリディアのことなど、少しも気にしていない。
「やっぱり、誰のこともその場しのぎの遊びなのね。……信じたかったのに」
信じたかった。いちばんではなくても、ほかの女の子たちとは違うと、心の奥ではたぶん信じていた。
だからこそ、アーミンと自分をくらべずにはいられなかったのだ。
二番目でも、その他大勢ではないなら、いつかいちばんになれるのだろうかと。
「リディア」
名を呼ばれ、かすかに希望を感じて顔を上げたリディアだが、見おろすエドガーの視線は冷ややかだった。
「きみは僕を拒《こば》んで、ウルヤと屋敷を出ていった。彼とキスしてただろ。そんなふしだらな女だとは思わなかったよ」
はっとして、リディアは口もとを手で押さえた。馬車の中でのことを、エドガーに見られていたのだと思った。
すでに彼女の中で、何が現実で何が夢なのかわからなくなっていた。
エドガーは連れの女性と去っていく。
取り残されたリディアのそばに、ウルヤが立っている。
もう逃げる気力もない。
「捨てられたのかい? かわいそうに。私が救ってあげるよ」
のぞき込むようにして身をかがめたウルヤは、リディアののどを強くつかんだ。
「苦しいのは少しのあいだだけだ。何もかも、すぐに忘れて楽になれる。私と、橋の上へ行こう」
橋? ロンドンブリッジ……?
まさか、あの事件はみんな……。
そのとき、空に鋭い光が走った。
稲光だ、と思ったとたん、轟音《ごうおん》が耳をつんざく。
気がつくと、はげしい雨が自分の体に降り注いでいる。
夢ではなく、それはあくまで現実の感覚だった。
リディアは眠りから抜け出していた。
馬車からずり落ちたかのような格好で、そのわきに座り込んでいる。
開いたままの馬車のドアから、漆黒《しっこく》の馬がウルヤを引きずり出そうとしているところだった。
「……ケルピー」
前足でウルヤを踏みつけながら、ケルピーが鋭い牙で噛《か》みつくのは、影のような真っ黒な何かだ。
夢魔、だろうか。獰猛《どうもう》な水棲馬の魔力に押さえ込まれ、まだ定まった姿を保つことができないらしい魔物は、複雑に影をうねらせながら暴れていた。
ケルピーがそれを、ウルヤの中に押し込もうとしたとき、影は突然反撃した。
ケルピーの首に噛《か》みついたのだ。
「うわっ、この野郎……!」
ケルピーの牙が離れた瞬間、黒い影は勢いよくウルヤの体から飛び出す。そのままするりとケルピーのそばをすり抜け、豹《ひょう》に似た素早い動きで逃げ出してしまう。
あっという間にその姿を見失うと、ケルピーは舌打ちしつつ肩をすくめた。
「まあいいか、すぐに見つけてとっつかまえてやる」
言いながら、気を失っているウルヤから足をどけ、リディアの方に振り返った。
「おい、大丈夫か? もう目はさめただろうな」
「……ええ、でも、ケルピー、どうしてここへ……」
しばらく姿を見せなかった。ニコが何かをたくらんでいるに違いないと言っていたことを思い出すが、いきなりここへ現れたのはどういうことなのか。
また稲光が空を割ると同時に、彼は人間の姿に変化した。
黒い巻き毛の、精悍《せいかん》で非の打ち所のないほど美しい青年になる。
その姿で、リディアの手を乱暴に引いて立たせる。いつもどおりの彼だ。
大粒の雨をあびて、水棲馬は水の中にいるかのように生き生きとした顔をしている。
「おまえ、びしょ濡《ぬ》れだな。寒くないか?」
寒い。けれどそれよりも気になる。
「ねえ、ケルピー、あなたこのところ、どこで何をしてたの?」
「ああ、ちょっとな。夢魔を調教してたんだ」
夢魔を、調教?
眉《まゆ》をひそめるリディアを、ケルピーは雨がかからない軒下《のきした》へ連れていった。
「力ばっかり強くても、あれは生まれたてみたいなもんだ。腹を空かしてばかりで見境《みさかい》もない。すぐ人間に襲いかかろうとしやがる」
手のひらで、ぐいぐいとリディアの濡れた顔をぬぐう。乱暴でも彼らしい思いやりは感じるのだが、リディアはわけがわからず困惑《こんわく》しきっていた。
「……調教した夢魔を、どうするの?」
「飼うんだろ」
「だ、誰が?」
「そんな物好きは、あのユリシスって小僧くらいだろう。とりあえずはウルヤって奴を入れ物にして飼い慣らしたいって言うから、人間の体に合うように調教してやったんだ」
「ユリシスが、ウルヤさんを夢魔の入れ物に?」
「ああ。ところがユリシスの奴、勝手に夢魔に餌をやってたみたいだな。夢魔の力が強くなってきてるから、おかしいと思って後をつけてたんだが見失っちまって。それにしても、まさかおまえに襲いかかってるとはな。やっと見つけたのはいいがあせったっての」
リディアが憤《いきどお》りにふるえているのにも気づかず、ケルピーは能天気《のうてんき》にしゃべる。
「しっかし、夢魔は逃げだしちまったからな。すぐにさがして戻しておかないと、また誰かに襲いかかるかも……」
「あなたっ、ユリシスのためにそんなことしてたの! どうしてなの? 彼らはエドガーの敵だって知ってるんでしょ?」
急に神妙《しんみょう》な顔になって、ケルピーは腕を組んでリディアを見おろした。
「小僧のためじゃない。おまえのためだ」
「あたしの……?」
「あの伯爵《はくしゃく》のそばにいるかぎり、おまえにも危険が及ぶ。ユリシスは、夢魔が奴の思い通りになるよう調教するだけでいいと言ったんだ。それだけで、おまえに手は出さないって」
ユリシスと取り引きしていたのだ。
リディアはかっと頭に血がのぼった。
ケルピーを両手で押しのける。
「どうかしてるわ、ユリシスの言うことを信じるの?」
「信じるも何も、契約《けいやく》だ」
「あいつは、妖精の魔法に通じてるうえにずる賢いのよ、契約を反故《ほご》にする手くらい考えてるわ! げんにあたしは……、あたしが夢魔に襲われたのだって偶然じゃないわ、ユリシスか、それともプリンスがそうさせたのよ!」
ケルピーとの約束があるから、自分では手を出さないようにして、ウルヤと夢魔にリディアを襲わせたのだ。
さすがにケルピーは顔色を変えた。
「本当なのか? 偶然じゃなく?」
「そうよ、ウルヤさんは父の生徒よ。父が事故にあったって言って、あたしを連れだしたのよ。あなたは、夢魔があたしを襲うための手助けをしたってことよ!」
誰も信じてはいけないのだ。
ウルヤも、ケルピーも、敵の手のうちだった。
アーミンも、エドガーを裏切って出ていった。
プリンスは、とっくにこちらの内側に入り込んでいて、崩《くず》していこうとしている。
リディアは雨の中へと駆け出した。
「おい、リディア!」
戸惑《とまど》っていたのか、ケルピーはすぐには追ってこなかった。
リディアは急ぐ。早く帰らなければ。
帰る? どこへ?
エドガーのところへ?
彼のことを思い浮かべれば、急に不安になる。
ウルヤとキスしてただろ。そんなふしだらな女だとは思わなかったよ≠れは夢魔が見せた夢だ。
でも、唇《くちびる》が触れ合ったようなあのときの感覚は。
涙が出てきた。いやだ、こんなことで泣きたくなんかない。アーミンだったらきっと泣かない。
走りながら視界がくもるのは雨のせいだ。
やみくもに走っているうち、ロンドンブリッジまで来てしまっていた。
この雷雨だからか、歩いている人はない。馬車もリディアの存在になど気づいていないのだろう。容赦《ようしゃ》なく泥水をはねとばしていく。
と思うと、その立派な二頭立ての馬車は橋の中程で急に止まった。
ドアが開き、人影が降りてくるのはわかったが、暗さと雨とでよく見えない。ステッキを頼りに、片足を引きずるように歩く。
それでも、背筋を伸ばした姿勢と、少しもすり切れていない靴音は、あきらかに上流階級の人間だとわかった。
「失礼、お嬢《じょう》さん。ドレスを汚してしまったようですな」
声は、初老の紳士《しんし》だと思わせる。
「よろしければ、家までお送りしましょう」
親切そうな言葉だけれど、こちらへ近づいてくれば感じる奇妙な威圧感《いあつかん》に、リディアは後ずさっていた。
稲光が走る。一瞬映った男の顔は、包帯に覆われている。不気味《ぶきみ》な風体に息をのむ。
また空を裂いた光は、ふとリディアの目に御者台の人物をくっきりと映し出した。
にやりと笑う、淡《あわ》い金髪の少年だった。
「ユリシス……?」
足がふるえるのを感じながら、リディアはもういちど初老の男に視線を移した。
まさか、……プリンス?
逃げるのよ、と頭の中で自分に言い聞かせても、思うように足が動かず、ゆるりと後ずさるのがせいいっぱいだ。
近づいてくる男が、ロープを手にしているのが目につくが、橋の欄干《らんかん》が背中に当たれば、それ以上後ずさることもできなくなる。
「それがテッドの女ですよ」
ユリシスが御者台の上から言った。
顔を覆う包帯の奥で、男はかすかに笑った。
「もう少しましなのがいなかったのかと思いますけどね、女の好みと扱い方は、たたき込む前に逃げられましたからね」
けなされても、頭にくるどころではない。気がつけば、ロープが首にまわされている。
ロンドンブリッジに吊るされた死体。リディアはプリンスに、次の犠牲者《ぎせいしゃ》と選ばれたのだ。
夢魔から逃れても、プリンスが定めた運命からは逃れられない。
そんなふうに思えると、抵抗する間もなく、リディアは肩をつかまれ、欄干から押し出されようとしていた。
体がふわりと浮く。
落ちる、と思ったそのとき、男の手が離れた。
後ずさるようによろめいたその男は、背後に現れた黒い人影に引き倒される。
同時にリディアは、誰かに腕をつかまれる。身を乗り出しかけていた橋の欄干から、ぐいと引き戻されるのを感じながら、自分を殺そうとした男がかすれた悲鳴をあげるのを聞いていた。
座り込んで、ようやく顔をあげたとき、崩れた男のそばに立っていたのは、ナイフを手にしたレイヴンだった。
「プリンスが……、死んだの?」
「あれはプリンスの影だよ。本人じゃない」
リディアのそばで、聞き慣れた声がした。
首にかかったロープを、慎重な手つきではずしてくれたのはエドガーだった。
「影……?」
「プリンスはほとんど歩けない。彼に代わって外へ出ていくのが影さ。進んで身代わりに殺されることだって」
「そうだわ、ユリシスが!」
リディアはあわてて馬車の方を見たが、御者台にはもう人影らしいものはなかった。
レイヴンがすでに馬車の周囲を確かめたらしく、エドガーの方に振り返り、首を横に振った。
危険は去ったらしい。けれどリディアには、別の不安がこみあげてきた。
夢魔に見せられた悪夢を思い出すと、エドガーにじっと見られているのがたえがたくなった。
顔をあげれば、彼は夢の中と同じように、冷ややかにこちらを見おろしているのではないだろうか。
泥だらけのリディアを眺め、百年の恋もさめるほどにあきれかえっているかもしれない。
あせりながら自分の衣服をたしかめたリディアは、襟元《えりもと》が切り裂かれているのにはじめて気づく。
夢の中でアーミンが、それともウルヤが手を触れたのだ。
指でなぞると、肌に薄い切り傷があった。
エドガーの視線をそこに感じ、隠すように手で押さえる。足に力さえ入るなら、今すぐここから逃げ出したくなる。
むしろエドガーが、何も言わずに立ち去ってくれればいいとさえ思った。
けれど彼はそこにいた。リディアは、肩を覆うあたたかい感覚に思わず顔をあげていた。
エドガーが上着を掛けてくれたのだ。
「だ、だめよこんな……、汚れちゃうわ」
急いで返そうとするが、彼は襟元をかき合わせるようにしてリディアを上着で覆ってしまうとやさしく微笑《ほほえ》む。
「何言ってるの。そんなこと気にするような間柄《あいだがら》じゃないだろ?」
「気にするわ。……そういう間柄よ」
「リディア、怒ってるの? 怖い思いをさせてしまったね。もっと僕がまわりをよく見ていれば……」
「違うわ、あたしが不注意だったの。父が事故って聞いて、気が動転してて、そしたらウルヤさんから夢魔が出てきて」
「話はあとでゆっくり聞くよ。ウルヤはここへ来る前に倒れているところを見つけた。|朱い月《スカーレットムーン》≠フ連中が屋敷へ運んでくれている。だからきみはまず落ち着かないと。怪我《けが》の手当もしてからだよ」
「ないわ、怪我なんて……、夢魔が、夢を見せただけよ。不安な夢を見せて、あたしを殺そうとしたの」
支離滅裂《しりめつれつ》な説明を聞いても、エドガーはさっぱりわからなかっただろう。だからあとで聞くと言ったのだろうけれど、リディアは止められずに言葉を吐《は》き続けた。
「怖かったの。必死で逃げて、あなたを見つけたわ……。なのに、助けてって言ったのに、あなたは別の女の子と行っちゃった」
「ひどいな。でも、夢なんだろう?」
「夢よ。夢の中で、あたしのことふしだらだって言ったのよ」
「僕が?」
「そうよ、だからもう、あたしのこと嫌いだって」
リディアが勝手に見た夢だ。なのに責められて、エドガーは困惑《こんわく》していただろう。
「うーん、ごめん。あやまるから許してくれ」
「なによ、それ。簡単にあやまらないで。あなたがその目で見たんでしょう?」
もうリディアは、自分でも何が言いたいのかわからない。
「ええと、何を見たって?」
「あたしが、ウルヤさんとキスしたって」
「あのね、たしかに僕は心が狭いし、いやな夫になりそうかもしれないけど、夢の中のことまでとやかく言ったりしないよ」
「でも、わからないのよ……、違うかもしれないの!」
「違う?」
「これも夢だと思ってたもの」
リディアは、切り裂かれていた襟元をぎゅっと握りしめた。
急に、よけいなことを言ってしまったという後悔が押し寄せてきていた。
どうしよう。この場から逃げ出したくなるけれど、まだ足に力が入らない。
と、エドガーの手が耳元に触れた。髪に指をうずめるようにして引き寄せられ、頭ごと抱え込まれる。
驚いて離れようとしたが、ますます彼は力を入れた。
顔が熱くなって、リディアはうろたえた。
「さ、さわらないって言ったじゃない」
「屋敷にいるあいだはさわらない、ってことだろ? でも今は外だ」
いいかげんな屁理屈《へりくつ》を言いながらも、離してくれなかった。
いつの間にかリディアは力を抜いていた。
「ごめん、もっと早く、助けたかった」
苦しそうに言われたら、なおさら突き放せない。
エドガーがそんなふうに自分を責めるのは、アーミンを助けられなかった過去があるからだろうか。
それでもリディアは、髪を撫でる彼のやさしい手つきに、悪夢の残滓《ざんし》がかき消されていくのを感じていた。
「おーい、いつまでいちゃついてるつもりだよ」
ニコの声に我に返る。
雨の中、いつまででも突っ立って待っているつもりだろうレイヴンの隣で、灰色の猫は不服そうに腰に手を当てて鼻を鳴らした。
「ニコ……、あなたもいたの」
「いたのって、おれが伯爵を案内したんだぞ。リディア、助けを呼んだだろ?」
「えっ、あれが聞こえたの?」
「聞こえるわけねーだろ。近くにいた小妖精がしらせてくれたんだ。おれさまがこのロンドンの妖精たちの兄貴分として、日頃から面倒見てやってるからだぞ」
「そうだったの。ニコ、ありがと……、役立たずだなんて言ってごめんなさい」
リディアは素直に感謝する気持ちになって、ニコの手を取る。
抱きしめようとしたのに。
「わっ、やめろよ、泥がつくじゃないか」
エドガーよりも、ひどいのはこいつだった。
むっとしながらも手を離す。それでも、ニコの能天気な態度のおかげで、リディアは少し落ち着きを取り戻していた。
けれども、気を緩めることができたのはほんの一瞬だけだった。
身動きもせずに突っ立っていたレイヴンが、急に身構えたからだ。
雨足はすでに弱まっていて、霧雨《きりさめ》に変わりつつあった。そんなじめじめした暗がりに、レイヴンは視線を止める、急に駆《か》け出す。
欄干に飛び乗ったかと思うと、石柱の後ろへ回り込むようにしてナイフを振りかざした。
同時に、レイヴンから逃れるように、そこから人影が飛び出してきた。
レイヴンの、一撃で敵を仕留める素早い動きをよけたのだ。
けれどそれも当然だった。そこにいたのは、彼をよく知った人物、アーミンだった。
「こんどは偵察《ていさつ》かい? アーミン。プリンスは人使いが荒いからね」
エドガーが、彼女を見て言った。
「偵察ではありません。逃げ出した夢魔をつかまえるために来ました。リディアさんを襲《おそ》おうとした夢魔を、ケルピーが逃がしてしまったようですので」
アーミンはレイヴンから距離を取るように、ゆっくりと橋を横切った。
「そう、で、夢魔はどこに?」
「お気をつけください、エドガーさま。おそらく近くにいます。ユリシスがここを夢魔の餌場《えさば》にしたからには、あれは腹を空かせてこのあたりをうろつくはずなんです」
「まだ僕を気遣《きづか》ってくれるのか」
皮肉っぽく言うエドガーにも、アーミンの感情を抑えた表情は変わらなかった。
リディアが彼女と話したときも、強い意志で感情を押さえ込んでいた。何を心に秘めているのか、まるでわからない。
ただ、エドガーを裏切った理由も含めて、そこにある何かは、彼女にとってゆるぎないものだとだけはわかる。
しかし、彼女の弟もまた、強い意志を持っていた。
エドガーのために、裏切り者は姉でも容赦《ようしゃ》しないと言い張ったレイヴンは、静かに隙《すき》をねらい、再びアーミンに向かっていった。
よけるには、ほんの少し時間が足りなかった。アーミンは自分のナイフでレイヴンの刃をくい止めたが、ひざ蹴《げ》りを入れられ、はね飛ばされるようにして橋の欄干へぶつかった。
「やめろ、レイヴン!」
エドガーの声にも立ち止まらず、彼はよろけるアーミンの方へ近づいていく。
「僕の言うことがきけないのか?」
「エドガーさま、どうしてもとおっしゃるなら、私は自分の命を絶って始末をつけねばなりません」
「バカなことを言うんじゃない」
「いいえ、姉を連れ戻した私が、エドガーさまを危険にさらしたも同然。このままお仕えすることなどできるはずがありません」
「レイヴン、完璧な人間なんていないんだ。間違うことがあっても、迷うことがあってもいい」
エドガーが説得しようと言葉を続けるあいだにも、レイヴンはアーミンに近づいていく。弟を牽制《けんせい》するように、アーミンはナイフを振ったが、力が戻りきっていないのだろう、あっさり手首を取られてしまう。
そのまま腕をひねりあげると、レイヴンは、アーミンの白い喉元《のどもと》にぴったりとナイフをあてがった。
彼がそこで手を止めたのは、あたりの空気を圧迫するかのような暗い影が、急に周囲を取り巻いたのに気づいたからだろう。
悪寒に似たこの感覚を、リディアはついさっき体験したばかりだった。
「……夢魔だわ!」
言ったとたん、さらに濃い影が、黒い豹にも似た姿をとってリディアに向かってきた。
エドガーに抱え込まれる。二人して石畳《いしだたみ》に倒れる間際《まぎわ》、血の匂いのこもったなま暖かい気配が頬のあたりをかすめた。
姿ははっきりとしない魔物。リディアにもぼんやりとしか見えない。しかしその、邪悪《じゃあく》な気配を、エドガーもはっきりと感じているのか、リディアを引き寄せながら、影の濃い方を凝視している。
「エドガーさま!」
エドガーに注意を向けたレイヴンのナイフが、一瞬アーミンからそれた。
しかしアーミンは、弟の手から逃れようとはしなかった。
レイヴンの声に反応し、ふと向きを変えた夢魔が、彼らの方へ飛びかかっていったのだ。
夢魔がよく見えなかっただろうレイヴンが気づいたときには、闇《やみ》色の獣《けもの》は、手前にいたアーミンに鋭い牙を突き立てていた。
それでも彼女は、セルキーの魔力をふりしぼって、夢魔を振り払う。
ふっと、夢魔の気配が消えたかのように思えた。
しかし、夢魔からレイヴンを守る盾になったアーミンは、胸のあたりに血を流しながらも警戒《けいかい》するように叫んだ。
「気をつけて、夢魔はまだあたりにいる」
「……姉さん、あなたの仲間が放ったものだ」
ナイフを握りなおしたレイヴンは、どうしても自分の手で彼女を殺すつもりなのだろうか。
「レイヴン、早くここから去って。夢魔に触れちゃだめ」
「私は、あなたを許せない」
「ええ……、そうでしょうね」
「純粋に、エドガーさまに仕えたいと言った。それを信用したのに」
「あなたの、好きにすればいいわ。でも」
「好きに?」
「でもこれだけは聞いて。夢魔に触れれば、魔力があなたの中の精霊に影響を……」
「誰が、好きこのんでこんなことを……!」
その叫びと、レイヴンがナイフを動かしたのは同時だった。
リディアは、最悪の事態を覚悟しながらも目を背けることができなかった。
自分をかかえるエドガーの腕にも力が入るのを感じる。もう、息を詰めて見守るしかない。
けれどまだ、アーミンは倒れずに立っていた。レイヴンのナイフが切り裂いた、アーミンのネクタイだけが石畳に落ちる。
レイヴンの手は力なくおろされ、アーミンはそろりと彼の方を振り返ろうとしていた。
そのときリディアは、また夢魔の気配があたりにふくれあがるのを感じていた。
見回せば、影はアーミンのすぐそばの、欄干《らんかん》の上だった。
リディアが叫ぶ間もなく、夢魔が動く。
飛びかかってくる夢魔に、レイヴンが向き直った。しかし彼は、暗い影と接した瞬間はね飛ばされた。
「レイヴン!」
アーミンが飛び出そうとする。と、その前に割り込み、夢魔とぶつかり合った黒い姿があった。
それはアーミンを引きずり倒すと、反対側の欄干に着地した夢魔と、まっすぐににらみ合った。
「ケ、ケルピー……」
リディアはつぶやいた。
「|アザラシ妖精《セルキー》、おまえは引っ込んでろ」
すっくと立ったケルピーは、起きあがろうとしたアーミンに一喝《いっかつ》する。
「檻《おり》から出ちまったからな、ちょっと面倒だぞ」
檻とは、夢魔の入れ物にされていたウルヤのことだろうか。
夢魔を飼い慣らすための器でもあり、檻でもあるウルヤ。それが可能だとすると、彼はよほど魔にたえうる体質だ。
リディアが知っている彼の経歴がうそなら、本当はどういう人なのだろう。
考えている間もなく、橋がはげしくゆれだした。
崩《くず》れ落ちるのではないかと思うほどだった。
ケルピーが夢魔と、正面からぶつかり合ったのだ。
しかしさっき、ウルヤの中にいた夢魔とは違い、ケルピーが苦戦している。
「ケルピー、ここは夢魔の力が強まる場なの。だから、無理よ、いつものやり方じゃ……!」
アーミンが叫んだ。
「うるせー、わかってる!」
夢魔が獣の姿を失い、輪郭《りんかく》を巨大化させていた。あたりのすべてをのみこもうとするかのように広がっていく。
「レイヴン、しっかりしろ……」
エドガーは、倒れたままのレイヴンの方へ近づき、助け起こそうとした。
「おいよせ、伯爵、離れろ! そいつの中の精霊が、夢魔の力に触れてしまった。引きずられてるぞ!」
隠れていたか逃げ出していたか、いなくなっていたはずのニコが現れ、叫んだ。
はっとしたエドガーが、レイヴンを離し後ずさったのは、急にむくりと起きあがったレイヴンが、殺気のこもった目を向けたからだ。
そのままレイヴンは、主人に向けてナイフを振った。
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よけられる距離だったが、エドガーにとっては思いがけないことだっただろう。
以前のレイヴンは、精霊の持つ殺戮《さつりく》の衝動《しょうどう》を抑えきれず、我を失っては手当たり次第に人を殺す危険な存在だったという。エドガーにもそれを止めることは難しかったとはいえ、エドガー自身に刃《やいば》を向けることはあり得なかった。
なのに今は、視界に入るだけでじゃまだとでもいうように、闇雲《やみくも》に攻撃しようとしている。
何の計算もない、レイヴンらしくない無駄《むだ》な動きが、皮肉なことにエドガーによける隙を与えているというだけだ。
「リディア、逃げろ。夢魔の魔力が暴走する。もう止めるのは無理だ!」
夢魔らしきものの中心と取っ組み合っている、ケルピーが叫んだ。
橋のゆれはますますひどくなっていた。
エドガーは、必死にレイヴンを止めようとしていた。けれど、ナイフを振り回す彼には容易に近づけない。
「エドガー、あぶないわ!」
リディアは叫ぶ。駆け寄りたくても、橋がしなるほどのゆれに立ち上がることができない。
もはやこれは、現実に橋がゆれているのではなく、夢魔の魔力が空間をはげしくゆがめ、ゆさぶっているのだろう。
「リディア、僕は大丈夫だ……。でも、あれは、レイヴンの目じゃない」
苦しげに言うエドガーの視線の先で、レイヴンは急にうずくまり、その場に倒れた。
足に細いナイフが刺《さ》さっているのに気づいたリディアは、その向こうに人らしい姿を見つけていた。
ユリシスと、人か妖精かよくわからない数人の手下たちだった。
「猛獣《もうじゅう》を捕らえるのはこの手に限るね。しびれて動けないだろう?」
手下たちがレイヴンを取り囲み、連れ去ろうとする。
エドガーはもちろん、敵の手からレイヴンを救い出したかっただろう。
けれどはげしいゆれと黒い影が渦を巻くこの場から、リディアを連れて出るべきだと判断したのか。
どうにかこちらへ近づいてくると、リディアの腕を引いた。
「ニコ、どっちへ行けばいいんだ?」
「こっちだ、早く!」
ニコが、この夢魔の場から抜け出す道を見つけたようだった。
エドガーにかかえられるようにして、リディアはやっとの思いで立ち上がる。
「ロード、どこにも逃げられはしませんよ」
ユリシスの声が背後に聞こえた。
「あなたからは確実にひとつずつ、すべてを奪ってさしあげます」
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精霊と女王
昔、森の奥に住んでいた老人が言った。
『ああ、この子の中には精霊がいる。王の戦士になる定めじゃな』
そのとき姉は、弟の、黒いはずの瞳にかすかに混じる緑の秘密を知ったのだった。
世捨て人のような老人は、ハディーヤというその土地に古くから伝わる数々の伝説を知っていた。
白い肌の姉は、褐色《かっしょく》の肌をした幼い弟を連れて、しばしば老人のところを訪れた。
弟は、五歳になっても言葉をしゃべらず、笑うこともなく、母親は忌《い》み嫌っていた。けれど嫌われていたのは姉も同じだ。
姉を身ごもって間もなく、英国人の経営する農園を追い出されたという母、そこで彼女をもてあそんだ男に似ているという理由だった。
もっとも、姉も弟も、それぞれの父を知らない。
ただ姉は、弟がとくべつな子供だと知っていた。
小さくても、強かった。
姉に乱暴しようとした男に襲《おそ》いかかると、手にした石で息絶《いきた》えるまで殴《なぐ》り続けたこともあった。
姉はその死体を木の葉で隠し、血のついた石を沼に沈めた。
もしも弟が人を殺したと知られたら、縛り首にされてしまう。
彼は罪を犯したのではないと信じたかった。
今はもうない、小さな国。けれどその国を守るために、天から授かった能力なのだ。
恐ろしい精霊だという。
けれども昔、王家の先祖によって改心させられ、いつまでも王家に仕えると誓った精霊だとか。
何かを守るための力なのだから、悪いものであるはずがない。
森の老人の言葉は、小さな姉を勇気づけた。
弟は何も話さないけれど、言葉はきちんと理解していた。表情は変わらなくても、感情がないわけではなかった。
森の奥から帰る小道、手を差し出せば、おずおずと姉の手を握った。
そのとき彼女は、心に決めたのだった。
おまえを必ず、王さまに会わせてあげる。
おまえが仕えるべきかたに。
気がつけばアーミンは、水の底に横たわっていた。
あたりは深い藍色《あいいろ》をした闇《やみ》に包まれているが、妖精である彼女の目には、小さな魚の群《むれ》やかすかな流れにうごめく水草が見えていた。
冷たくやわらかく、体にまとわりつく水が心地よく、そこから自然界に満ちる生命力が、自分に流れ込んでくるように感じている。
夢魔《むま》に襲われた傷から、痛みは消えていた。
血も止まっているようだ。
そっと傷口を指で確かめながら、彼女はここがどこかと考え、間もなくおおよその見当をつけていた。
ハイドパークにあるサーペンタイン湖だ。
リディアを追ってロンドンに居着いたケルピーが、棲《す》みかにしているところだろう。
「よう、起きたか?」
かすかに水を泡立て、漆黒《しっこく》の馬がそこに現れた。
優美な馬の姿を見あげながら、前にもこんなふうに、助けられたことがあると、アーミンは思い出していた。
獰猛《どうもう》な水棲馬《ケルピー》のくせに、案外おせっかいだ。
「セルキーならおぼえとけよ。水の中の方が体力の回復が早い。おまえの場合は海の方が体に合うだろうけど、ロンドンには海水がないからな」
しかしもちろん、このケルピーが、純粋に彼女を助けてくれたわけではないことはわかっている。
だからアーミンは、少し警戒《けいかい》しながら体を起こした。
「みんなは、どうなったの?」
「みんなって、伯爵《はくしゃく》たちのことか? おまえの主人は、伯爵を殺そうとしてるプリンスなんだろうが」
裏切った相手のことを心配するなんてと、ケルピーはあきれているのだろう。
エドガーのことは、プリンスはすぐさま殺すつもりはないのだ。そしてリディアは、ケルピーが平然としているところを見ると無事なはずだ。だからアーミンの懸念《けねん》は、本当のところ残るひとりのことだった。
「大鴉《レイヴン》ぼうやのことならな、ユリシスが連れていった」
察したというよりは、ケルピーは思いついたままに言っただけだろう。
「そのくせユリシスのやつ、倒れてるおまえのことは放りっぱなしだ」
ユリシスは、アーミンを信用していない。プリンスが彼女を使うように命じたから、利用できるところだけ利用しようと思っている。
殺された男の透輝石《ダイオプサイド》をアーミンに持たせていたのも、ユリシスがレイヴンへの影響を調べようとしたためだった。あれがどういうものなのか、アーミンは聞かされていなかった。
しかしあの石の色合いや、ものが二重に見える性質は、昔彼女が森の老人から聞いた話と一致した。もしもハディーヤ王家の宝石なら、レイヴンに近づけてはならないと気づいたとき、エドガーたちもアーミンが持つ透輝石《ダイオプサイド》の存在に気づいたのだ。
透輝石を持っていたことが知れて、もはや彼女がエドガーのところにいられなくなったのはユリシスの失策にもかかわらず、石の効果が確認できなかったと彼は憤《いきどお》りをあらわにしていた。
そもそもユリシスにとって、妖精は道具にすぎない。動けなくなれば捨てるだけなのだ。
「……レイヴンが、つかまってしまったの?」
しかしアーミンにとって、気がかりなのは自分の扱いよりも弟のことだった。
暴走した夢魔の力に、レイヴンが触れてしまったことまではおぼえている。そしてケルピーが現れて……。けれどそこで、彼女は気を失ってしまった。
レイヴンは、彼女を殺すチャンスをふいにした。
それが彼の意志だったのか、エドガーの命令に従っただけなのか、そしてそれでよかったのかどうか、アーミンにはわからない。
自分がこうして選んだ道も、今はまだ、どういう結果をもたらすのかわからないのだ。
殺された方が、彼らのためになったかもしれないとさえ思う。
「行かなきゃ……」
それでも生きているなら、ここでじっとしてはいられない。
しかし立ち上がろうとすると、水棲馬が前足で制した。
「まだだ。おまえには、言いたいことも訊《き》きたいこともある」
やっぱり、と思いながらも、アーミンは、用がすむまで解放してはくれないだろうとあきらめていた。
あるいは、彼は許さないかもしれない。水棲馬を怒らせたら、どういうことになるのか。半ば覚悟しながら、こちらを覗《のぞ》き込む黒真珠《くろしんじゅ》の瞳から目をそらした。
「ユリシスのやつ、俺をだますつもりだったな? リディアに手を出さないなんてうそっぱちだ。おまえ、知ってたんだろう?」
「ウルヤに命令したのは、ユリシスではなくてプリンスよ」
「そんな詭弁《きべん》でおれをだまそうって魂胆《こんたん》か?」
「あなた、リディアさんがほしいんでしょう? プリンスは、エドガーさまをとことん傷つけるやり方で、リディアさんを彼から引き離すつもりだけど、必ずしも殺す必要はないはずよ。最終的には、あなたが彼女を連れて、ハイランドの湖の底でもどこでも行けばいいと思ってるわ」
「伯爵が傷つくやり方で? それはリディアが、痛い目にあうってことじゃないのか?」
「その可能性はあるわね」
死よりもつらい苦痛を、リディアが受ける可能性は高い。
「ユリシスのやつ、言ってたぞ。これまでにも、伯爵の女をさんざんな目にあわせてやったってな」
アーミンの知る限り、プリンスのもとを逃げ出してからのエドガーは、特定の恋人をつくらないように気をつけていた。恋人扱いしている女性が常に複数いたと言うべきか。ひとりに入れ込めば、プリンスにねらわれると警戒したからだろう。
だから彼らの言う女≠ニは、まだとらわれていたころに、勝手にエドガーに与えた少女たちだ。
それでも、身近な誰かが無惨《むざん》な仕打ちを受ければ、エドガーが心を痛めたのは間違いないが、いつからか彼は、誰がどんな目にあっても平然としているふりをおぼえていた。
そうしている限り、プリンスはその手を使うことはなかったからだ。エドガーが心を失ってただ息をしているだけの人形になることこそ、プリンスの要求だったのだから。
もちろんエドガーは、プリンスの思い通りにされていくふりをしながら、心を失ってはいなかった。
「俺はな、リディアをそんな目にあわせたくないから取引に応じたんだ。なのにユリシスのやつ、俺が調教した夢魔《むま》を使ってリディアを襲わせたんだぞ!」
憤《いきどお》りもあらわに、たてがみを逆立てたケルピーは、人の姿に転じると、アーミンののどをぐいとつかんだ。
「俺には、壊れかけてぼろぼろになったリディアをくれてやるって? おまえ、そこまでわかってて、俺にユリシスを手伝うよう持ちかけたのか?」
相手が人間だったら死んでいるだろうというほど力を入れられて、彼女はあえいだ。苦しいというのではなく、ケルピーの爪が食い込んで痛かった。
それでも我慢していたのは、こんなふうに彼が怒るだろうことは予想していたからだ。
アーミンは、ユリシスに命じられたままにケルピーに協力を持ちかけた。逆らえなかったわけではなく、ケルピーを巻き込むためだった。
もちろん巻き込んだところで、彼がどんな動きをするかはわからない。それでも、不確定な要素は多い方がいいと思っていた。
リディアを守ろうとするケルピーの、意志もその魔力も、ユリシスの計算どおりとはいかないだろうから。
じっとたえていると、ケルピーは急に、彼女を投げ出すように手を離した。
「なぜ、そんな顔をする。何もかもあきらめたような顔しやがって」
憤る価値もないと突き放されたように感じれば、のどにくい込んだ爪よりも痛かった。同時に、おさえきれない感情がこみあげてくる。
何も、あきらめてなんかない。だからこそ孤独をかみしめているのだ。
「あなたに何がわかるの? 自分より大切なものなんてない|悪しき妖精《アンシーリーコート》のくせに。リディアさんのことだって、自分が退屈しないからほしいだけでしょう? どんな犠牲《ぎせい》を払っても、守りたいのに、できなくて絶望的な気持ちになることもないでしょうに!」
つい、彼女は声を荒らげる。
するとケルピーは、意外そうな顔をしながら、彼女を覗き込んだ。
「弟のことか。伯爵のことしか頭にないわけじゃないんだ」
そして、にやりと笑った。
「なら、ユリシスの言いなりになったわけじゃないんだな」
「……だったら、何なの」
「べつに。おまえの意志で俺を利用しようってなら、受けて立ってやる。気の強い女はきらいじゃない」
「……そうなんでしょうね」
リディアを気に入った水棲馬だ。
「だがな、俺もおまえを利用するぞ。こうなった以上、俺だって連中の動きを知る必要があるからな」
「まさか、協力しようっていうの?」
「利用し合うって言ってるだろ。誰がユリシスの手先と協力するかよ」
怒ったようにそう言いながら、ケルピーはなぜか、彼女の頭に手を置いた。
わけがわからず、アーミンはケルピーをにらみつけたが、彼は気にした様子もなく、不機嫌《ふきげん》そうな顔をしたままくしゃくしゃと髪を撫《な》でた。
「それにしてもおまえ、リディア以上に向こう見ずだな。いいか、もうしばらく水の中にいろよ。首の傷が消えるまでな」
それだけ言って去っていったケルピーは、アーミンの首に傷をつけた、さっきの乱暴な態度をわびたつもりなのだろうか。
水棲馬に気を遣《つか》われるなんて、とびきり奇妙な具合だと思った。
ため息をつきつつ、アーミンはケルピーのせいで乱れた髪をそっと直す。
どうしてあんなことを、ケルピーに言ってしまったのだろうと思う。
けれど、エドガーにとってもユリシスにとっても、味方とはいえないケルピーの存在は、どちらからも裏切り者だと思われているアーミンにとって、唯一《ゆいいつ》本音を隠す必要のない相手なのだ。
ケルピーを巻き込んだのは、不確定な要素を入れるため?
ひょっとすると、あまりに孤独すぎて、敵でも味方でもない誰かが必要になった、自分のためなのかもしれなかった。
*
レイヴンのことを考えていたのか、屋敷へ帰り着くまで、エドガーはずっと難しい顔をしていた。リディアも、いろんなことが一気に起こったために、気持ちの整理がつかず、彼にかける言葉が見つからなかった。
濡《ぬ》れた髪からしずくがしたたる。それを気にもせず、彼はじっと前を見つめていた。
憤りは、彼をますます冷静に、そして冷酷《れいこく》にするのだろう。陶器《とうき》のように白い頬《ほお》が、リディアのまぶたに焼きついている。
上着をリディアに与えたままの彼の方が寒いだろうに、そんなそぶりを少しも見せなかったことを思い出す。
結局リディアが言葉をかけることができたのは、屋敷へ着いて馬車を降りる直前、それもありきたりの言葉でしかなかった。
『レイヴンは、きっと無事よ。あなたのもとへ帰ってくるわ』
なぜだか驚いたようにリディアを見て、エドガーは突然リディアの手を握った。
『こんなに冷たい手をして……、つらい思いをさせたのに、僕を心配してくれるのか』
彼が苦しそうに黙り込んでいたのは、レイヴンのことだけではなかったのだろうか。
『どこへも行かないでくれ。きみさえいてくれるなら、僕はまだ、戦える』
リディアは答えられなかったけれど、思い出しながら、頬が熱くなるのを感じている。体があたたまったせいだと考えることにする。
邸宅《ていたく》のドレッシングルームで、ようやく泥だらけの衣服を脱ぎ、乾いた肌着に着替え、暖炉《だんろ》の前で雨に濡れた髪を拭きながら、彼女は大きく深呼吸をした。
プリンスは確実に、エドガーを追いつめつつある。よみがえらせたアーミンを再び奪われたのも、エドガーにはつらいことだった。そのうえ、腹心の従者であるレイヴンも連れ去られた。
リディアは、エドガーの言葉ほど、自分が彼にとって重要なのかどうかわからない。
レイヴンやアーミンがいなくて、本当に自分の存在がエドガーの救いになるのだろうか。
かすかな物音がしたのは、そんなことを考えたときだった。
はっと振り返ったリディアは、きちんと閉めたはずのドアが薄く開いているのに気がついた。
「エ……エドガー?」
あいつだったら、屁理屈をつけながらも堂々とドアを開けそうなものだ。
しかし、ほかに誰がドレッシングルームにいるリディアに興味を持つというのだろう。
「……着替え中を覗《のぞ》くなんて、どういうつもりっ!」
思い切って声をあげたとたん、背後からつかみかかってきた人影に、リディアは押し倒された。
視界をさえぎるのは、エドガーの金髪ではなく、真っ黒な長い髪だ。
ウルヤ……。
|朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員が連れ帰ってきて、屋敷の一室に監禁《かんきん》していると聞いていた。その彼が、リディアにのしかかるようにして、口元を手で押さえつける。
「すまない、ミス・カールトン。どうか声を出さないでくれ。あなたに、話したいことが……」
ただもう、恐ろしくて、リディアは暴れようとした。
「聞いてほしい、私は」
「いや……! 助け……」
「やつらに利用されていただけなんだ」
話なんか聞く余裕もない。怖いのと、無防備な下着姿だという羞恥心《しゅうちしん》とがごっちゃになって、涙が出てくる。
「……エド……」
助けを求めようとしてもままならず、こんなことならのぞき見くらいしていてくれればよかったのにとさえ思う。
「あなたを辱《はずか》めるつもりはない。私は、女なんだ」
え?
思わず暴れるのをやめたリディアの口元から、ウルヤはそっと手を離した。
ほどけてしまった長い髪、中性的な顔立ちは、よくよく見れば女だとしても違和感はない。
男にしてはほっそりした肩や腰。しかし、ウルヤと似た肌の色を持つレイヴンも、英国人の男性とくらべればかなり華奢《きゃしゃ》だ。
男装の女というと、身近にアーミンがいたこともあって、たとえ男の格好《かっこう》をしていても、女らしいふくらみはそう隠せるものではないと頭にあった。
けれどウルヤは、体つきも中性的だ。
戸惑《とまど》っているリディアの手を取って、ウルヤは自分の上着の内へ導いた。
薄いシャツ越しに胸のふくらみに触れ、リディアはようやく納得する。
相手が同性だというだけで、羞恥心が消えると、落ち着きを取り戻していた。
「ミス・カールトン、あなたをだましたことは、すまないと思ってる。でも、私は命令に逆らえる立場じゃなかった」
そうね、とリディアは思う。夢魔の入れ物にされていたのだ。
けれど、せめて女の格好をしていてくれればよかったのに。
「どうして、男装をしてたの? 女では大学に入れないし、父に、……つまりあたしに近づいてだますため?」
「それもあるけれど、もともと私は、男の格好で過ごしてきた。……我が一族の習わしで……、家を継ぐ男が生まれないときは、長女が継ぐ。結婚するまで男装で過ごす」
「でも、あなたは英国人の養子になったんでしょ?」
「私は、インドのボンベイで生まれたけれど、先祖はセイロン島の山間部で、ごく少数の民を従《したが》えていた首長一族の生き残りだと聞かされていた。英国人になっても、一族の習わしを捨てるわけにはいかなかった」
「セイロンの……? まさか、このあいだ殺された人も、そのあたりの王族だって……」
「そうなんだ。亡くなった父親から、英国へ渡った親戚《しんせき》がいると聞かされていた。親族に会うために英国へ行きたかったけれど、私にはそれだけの資金もなく、途方《とほう》に暮れていたんだ。そんなときあの老人が現れて」
「老人?」
「私を養子にして、この国へ連れてきてくれた。そればかりか、セイロンの故国を、ハディーヤという土地を取り戻してくれると……。裏社会の大きな組織を牛耳っているアメリカ人だとも聞いたけれど、王族の血筋だとかで、プリンスと呼ばれていた」
リディアは、ロンドンブリッジでのことを思い出し、ぞくりとした。
あれは本物のプリンスではなかったけれど、本物はすでに身近にいたのだと思うと恐ろしい。
「王にはなれなくても、地主になることはできる。先祖代々の土地を取り戻せる。今は英国人が所有している鉱山《こうざん》があるんだ。それを買い取れば民の生計も立てられる。プリンスに協力するならと言われて承諾《しょうだく》した。一族の宝物だという、緑色の石をあずけることが条件だった」
それは、殺されたカーン氏が持っていたのと同じダイオプサイドではないのか。
「緑の石? アーモンドくらいの大きさで、記号が彫《ほ》ってなかった?」
リディアの問いに、なぜ知っているのだろうと思ったのか、ウルヤは不思議そうな顔をした。
「ああ……」
「おしえて、どんな文字?」
ウルヤがリディアの手のひらになぞってみせたのは、ルーン文字のNMMだ。
ネワン、やはり、ケルトの戦いの女神で、マハと同じくバウの分身だった。
リディアは考え込んだが、ウルヤが直面している問題は、ルーン文字のことではない。急いで彼女は話を戻す。
「あの男は、プリンスは、私の宝石がほしかっただけだ。私は、体の中に魔物を閉じこめる器にされ、言いなりにさせられていた」
そうして、座り込んだまま、すがるようにリディアの肩を両手でつかむ。
「ミス・カールトン、私を助けてくれ。アシェンバート伯爵《はくしゃく》は、プリンスと裏社会の覇権《はけん》を争っている宿敵なんだろう?」
その言い方はまるで、ギャング団どうしが抗争でもしているみたいだ。
「だったら私は、敵のスパイだ。拷問《ごうもん》にかけられて、見せしめに殺される」
が、ウルヤの懸念はあながち大げさとも言えない。そういう意味ではエドガーは、ギャングなみに容赦《ようしゃ》がない。
「あなたしか、頼れない。私をここから逃がしてほしい」
どうしよう。
と思ったときだった。ノックの音がした。
はっとウルヤは息を詰める。リディアも硬直する。
「リディア、着替えはすんだ?」
エドガーだった。
「ま、まだよ、もう少し」
あわててそれだけを答えた。
「メイドに手伝わせようか」
最初にリディアは、それを断ってひとりで着替えることにしたのだ。切り裂かれた衣服や、胸のあたりについた傷を誰にも見られたくはなかった。
なのにまたエドガーがそう訊《たず》ねるのは、逃げたウルヤをさがしてここへ来たからだ。
ウルヤがここにいて、リディアを脅《おど》している可能性を考えているからに違いなかった。
「大丈夫よ、すぐすむわ」
「本当に?」
「ええ、ありがと」
答えたとたん、ドアが蹴《け》り開けられた。
リディアの肩に手を置いたままじっと息を殺していたウルヤは、身を隠す隙《すき》もなかった。
「おかしいと思ったよ。ドアがきちんと閉まっていないし、ふだんなら着替え中に声をかけただけだって覗くなと怒りそうなリディアが、ありがとうだ」
そんなにあたし、ふだんから怒ってる?
エドガーは、ウルヤの方に歩きながら、手にしていた剣《レピア》を抜いた。
ウルヤはもちろん、じっとしてはいなかった。そばにあった小テーブルを倒しながら、エドガーの剣を避けようとした。
しかしエドガーは軽々と、倒れたテーブルを飛び越え、ウルヤに剣先を突き立てる。
リディアは悲鳴をあげたが、細い剣先は彼女の上着の袖《そで》だけを貫き、壁に突き刺さっていた。
が、ほっとするにはまだ早かった。
ウルヤを壁に縫《ぬ》い止めたエドガーは、剣から手を離し、彼女を壁に押しつけながらひざ蹴りを入れる。
「やめてーっ!」
リディアは、自分が肌着の上に三枚重ねのペチコートをつけただけの下着姿だということなどすっかり忘れて、エドガーに駆《か》け寄っていた。
「ウルヤさんは、プリンスに利用されてただけなの!」
「僕の婚約者を辱めようとした。切り刻んでやる」
「ちがっ、この人は女性よ! あたし、何もされてないわ!」
エドガーは、ウルヤをつかんだまま動きを止めた。そうして彼女を、上から下まで何度も眺《なが》め、眉《まゆ》をひそめた。
「女、だって?」
「そうよ。お願い、彼女の事情を聞いてあげて」
「本当だろうね」
脅すようにウルヤをにらみつけながら、いきなり彼女の足のあいだに手を入れた。
「な、何するのよ! エドガー……!」
びっくりして真っ赤になって、リディアは声をあげたが、彼は平然としてウルヤを離すと壁から剣《レピア》を引き抜く。
「確かめただけじゃないか。敵の言うことなんか鵜呑《うの》みにできない」
ウルヤは力が抜けたように、ずるずるとその場に座り込んだ。
「だからね、リディア、僕がほかの女に触れたなんて怒らないでくれよ」
ふざけた口調でそう言いながら、けれどエドガーは剣をおさめようとはせず、ウルヤを鋭く見おろしている。
「確かめることはまだあるんだ。ウルヤ嬢《じょう》。きみは同性愛者か?」
何を言ってるのかしらとリディアは思う。ウルヤも怪訝《けげん》な顔をしながら、首を横に振る。
「リディアの唇《くちびる》を奪った?」
「それは……夢魔が、魔物が勝手に」
「でも事実なんだね」
「うっすらとしかおぼえてな……」
エドガーはまた剣《レピア》を振る。ウルヤの黒髪がひとふさ散った。
「この件については、髪の毛で許してあげよう。男じゃなくてよかったね。チョン切ってやるつもりだったよ」
ようやく剣をおさめ、リディアをじっと見おろす。
「さて、リディア、彼女にはまだまだ訊《き》くべきことがあるんだ。別室へ連れ出すから、ちょっとそのソファーの後ろへでも行っててくれないかな」
自分の格好にはたと気づいたリディアは、あわててエドガーから離れると、ソファーの後ろへ駆け込んだ。
ほとんど同時に、エドガーがドアの外に声をかける。すぐに、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ大柄《おおがら》な双子が入ってくる。
「すみません、伯爵。こいつ気を失っていたもので、見張りが油断して目を離したんです」
その隙に逃げ出し、リディアのところへ駆け込んできたらしい。
「気をつけてくれ。それから、そちらは女性だそうだから、丁重に扱うように」
意味深なほど、丁重に≠ニ力を入れたのはどういう含みだろう。
朱い月≠フふたりは、ウルヤを見て驚いたように顔を見合わせたが、すぐに頷《うなず》く。
彼らがウルヤを連れ出すのを見送ったエドガーは、深くため息をついて、リディアが隠れているソファに背を向けたまま、そばにあった|肘掛け椅子《アームチェア》に腰をおろした。
「ごめん……、二度もきみに、怖い思いをさせてしまった」
心底落ち込んでいるように聞こえた。
「……大丈夫よ。あなたのせいじゃないし」
「守ると約束したんだよ。なのにこのざまだ」
「あたしは何ともないもの」
「本当に?」
「あの、エドガー、あたし着替えたいの」
隠れていても、こんな格好のまま彼と話しているのは落ち着かなかった。
「すぐに出ていくから、答えてくれないか。ウルヤが女だったから、もう傷ついていない? さっき雨の中で、きみは壊れてしまいそうな顔をしていた。僕は自分を呪いたくなった」
同性だったからというだけで、単純すぎるかもしれない。けれどリディアの中では、まったく重さが違っていた。
そもそも中流以上の少女たちは、そんなふうに教育されているのだ。女の子どうしなら誰も何もとがめないが、身内以外の男性とは、親密になるなどもってのほかだ。
悪い男についていってはいけないと繰り返し聞かされるものの、いったいどういう男が悪い女のかよくわからないまま、純潔を守れないふしだらな女がどれほど世間に冷たい目で見られるかを教え込まれる。
たぶん、ほかの家庭にくらべれば放任主義で自由に育てられたとはいえ、そのへんはリディアも例外ではない。
異性と親しくなるのはとにかく慎重になるべきことで、正式な交際相手でもない人にキスを許すなんてありえない。身近に兄弟や幼なじみといった気心の知れる男性もいなかったリディアにとってはなおさらだった。
ともかく、女の子どうしの親愛のキスに目くじらを立てる人などいないのだから、異性と同性とではまったく意味が違うのだと幼いころから認識している。
ウルヤの場合は親しいわけではないけれど、自分が穢《けが》れたように感じたことも、女性だったと知ったとたん消え失せた。
けれどふと、リディアは不安になった。エドガーは違うのだろうかと。
「あなたは、許せないの? ウルヤさんはプリンスの手先だから、やっぱりあたしのこと、穢れた娘だと……」
「何を言うのさ、そんなことあるわけないよ」
すぐさま否定されてほっとする。
と同時に、リディアは恥ずかしいことを言ってしまったと気がついた。
「あの、違うの。あなたにどう思われるか気にしてるわけじゃ……」
あきらかに、気にしている発言だった。いいわけすればますます墓穴を掘りそうで、黙り込むしかない。
「きみが無理に強がったりしてないか、心配になっただけなんだ」
立ち上がったエドガーが、こちらを見ているのがわかって、急に緊張した。
もちろんソファの後ろのリディアは見えないはずで、リディアの方からも彼の顔は見えないけれど、こちらを向いているのはわかる。
「だからね、きみにはどうでもいいことかもしれないけど、いちおう言っておくよ。何があっても愛してる、僕の妖精」
ドキドキして、じっとしていられないくらい体が熱い。ひざをかかえて座り込みながら、リディアは全身に力を入れている。
エドガーは、いつもの軽い口説《くど》き口調ではなく、やけに淡々《たんたん》としていたが、リディアにはなんとなく、やるせなく聞こえた。
じっさい彼は、やるせない心境だったのだろう。
「でもこの先、きみの方が僕を許せなくなるかもしれない。わかってくれとは言わない。でも隠せばもっときみは傷つくだろうからね」
不穏《ふおん》な言葉だった。
「……何なの?」
「ウルヤとは二度と会えないと思ってくれ」
それって……。
彼女から聞き出せるだけ聞き出すとしても、生きて帰すつもりはない?
「だ、だめよエドガー、ウルヤさんを助けてあげて!」
思わずリディアは、ソファの後ろから飛び出していた。
「彼女はしかたなく、プリンスの言いなりになってたのよ」
「きみに何を言ったか知らないけど、プリンスの身近にいて、自由に動き回れる人間は、奴の腹心しかありえないんだよ」
「夢魔がいたのよ。いうことをきくしかないわ」
「どうかな。僕には、脅されているだけの人間には思えない。はじめて会ったときからね」
「でも、お願い、殺したりしないで」
すがるように彼女は、エドガーの腕をつかんでいた。自分から手を触れてしまっているとは気づかずに、彼がさらりと髪を撫《な》でたのでびくりとした。
「軽蔑《けいべつ》、する?」
淋《さび》しげに眉《まゆ》をひそめる。
軽蔑?
あまりにも、リディアの心にそぐわない言葉だった。
「それでも僕の希望は、もうきみしかいない。少しでも同情してくれるなら、すべてが終わるまでは離れていかないでくれ」
リディアは、彼が非道なことをやってきた人だと知っている。プリンスの手先に対する容赦《ようしゃ》ない仕打ちも、親しい仲間をもっとひどいやり方で何人も殺されているのだと知れば、エドガーの行動を罪悪だと単純に糾弾《きゅうだん》する気にはなれなかった。
軽蔑したことなんてない。
彼を理解しきれなくても、いっしょにいて力を合わせてきたことは事実で、エドガーはいつでも戦場の君主だったと知っている。
自分の知恵と力しかない。ほかの誰も、彼と仲間たちを守ってはくれない。
リディアのような感傷や同情に従っていたら、エドガーはとっくに何もかも失っていた。
「あたし、あなたのすることを止められないし、もうとことん協力するしかないと思ってる。でも、いけないことを平気でするようにはなってほしくないの。良心を持ち続けていてほしいの」
彼の腕をつかんだまま、力が入っていた。そんなリディアをなだめるようにして、肩を抱き寄せられる。
触れないという約束を、お互いがやぶっていても、リディアは彼から手を離せなかった。
今の言葉は切実なリディアの願いだ。そしてもう、彼が何をしても、離れられないとわかっている。
とっくに気づいていたことだった。
エドガーのことが、好き。
夢魔にあんな夢を見せられるまでもなく、エドガーにとってとくべつな女の子になりたいと思っていた。
だからこれだけは譲《ゆず》れない。プリンスのようにはなってほしくない。
「あたしはここにいるわ、そばにいるから、お願い、人を傷つける前に少しだけ考えて。プリンスのねらいが、あなたからすべてを奪って絶望させることなら、あたしだけはどこへも行かない。あなたを絶望させたりしない。だから……」
「結婚してくれるの?」
「…………」
好き、だから怖い。
プロポーズを受けたら、きっと一番を望んでしまう。あなたの心が少しでも、彼女を想うことさえ許せなくなる。
そこは、リディアには踏み込めない領域だとわかっていても、今よりもっと苦しくなる。
エドガーにとって女は二種類だけ。アーミンか、その場しのぎの恋人か。
夢魔が見せた夢。けれど真実かもしれない。
それでも、この人と結婚できるの?
「僕を気にかけてくれるのに、結婚は無理?」
この複雑な心境を伝えることは難しかった。
黙ってしまったから、たった今のリディアの精一杯の言葉も、エドガーにはお人好しの延長に思えただろう。
「リディア、だったらちょっと刺激が強すぎるな。酒も薬も入ってないけど、我慢の限界かもしれない」
……下着姿だった。
なのにエドガーに抱きつくように寄り添《そ》っている。彼の腕もすっかりリディアをかかえ込んでいる。
「ねえ、じゃあ手を離して」
あせりながらリディアは、離れようと試みた。が。
「困ったな、無理みたいだ」
「な……、無理って……」
「殴《なぐ》ってくれ」
「ええっ」
「でないと止められないかもしれない」
頬《ほお》をなぞった指が、そっとあごを持ち上げる。
「それとも、いっそ……」
エドガーが言い終わらないうちに、つい平手が出てしまっていた。
*
「伯爵《はくしゃく》、どうなさったんですか、それ」
赤く平手《ひらて》のあとがついたエドガーの頬について、最初に訊《たず》ねたのは、書斎《しょさい》へ現れたポールだった。
執事《しつじ》のトムキンスも、朱い月≠フルイスやジャックも、予想できるエドガーの事情を察して見て見ぬ振りをしていたというのに、さすがにポールは能天気《のうてんき》だ。
「とびきり情熱的な愛情表現」
「はあ、しかし」
「まさかこんな、思いっきり殴られるとはね」
いとおしいから離したくなくて、ちょっと困らせてみたくなっただけなのに。
「選択を誤った。殴ってくれなんて言うものじゃない」
「そりゃそうですよ」
「ポール、きみも愛する女性に殴られてごらん。冷めるどころかますます火がつくから。手を出すわけにいかないのに、自分で自分の首を絞めたようなものだよ」
あきれ顔のポールに微笑《ほほえ》みかけ、エドガーは座っていた椅子《いす》から立ち上がった。
「ところで、何か新しい情報でも?」
ポールが来たのは、何かしら報告があるのだろうと思ったのだ。
困惑《こんわく》しながらも、ポールは用件を思い出したらしく、あわてて姿勢を正した。
「あ、はい、そうでした。殺されたカーン氏の未亡人が見つかったんです」
「本当か? 今どこに?」
「お連れしました。とにかく、次は自分が魔物にねらわれると思ってるみたいで、伯爵が守ってくださると説得したんです」
「魔物に? つまり彼女は、夫を殺したのは魔物だと?」
「はあ、どうもそう思ってるみたいですね」
事実、ロンドンブリッジの事件には夢魔が関与していたようなのだ。
カーン夫人は重要なことを知っているに違いない。
「リディアにも立ち会ってもらおう」
ルーン文字の女神たちにも話が及ぶだろう。
着替えを終えたリディアは、トムキンスに呼ばれ、応接間へと向かっていた。
マハの名を刻んだ透輝石《ダイオプサイド》を持っていたカーン氏の妻を、ポールが連れてきたということだった。
応接間へ入ると、エドガーとポールはすでにそこにいた。
間もなくカーン夫人は、トムキンスに案内され、部屋へ姿を見せる。
青白くやつれた顔をしていたが、喪服《もふく》に身を包んで、見苦しくない程度には身なりを整えていた。
小さくお辞儀《じぎ》をした彼女は、エドガーを見て、か細い声を出した。
「あなたが、青騎士伯爵」
まだおびえている様子のカーン夫人は、そう言いながらも落ち着きなく視線を動かす。
「本当にわたしを、恐ろしいものから守ってくださるんですか?」
「ミセス・カーン。ここへいらっしゃったからには、もう何の心配もいらない。優秀なフェアリードクターもついていますからね」
リディアの方をちらりと見るが、やはり彼女は不安げな顔つきだった。
「じつは、ここへうかがうのは迷っていました。魔物が主人を殺したなどと、誰も信じてはくれないなか、妖精国《イブラゼル》伯爵の名を継ぐあなたさまのことは思い浮かびましたものの、以前から夫が、新しい伯爵は本物ではないと言って……、すみません、ご無礼《ぶれい》なことを……」
「かまいませんよ、どうぞ続けてください」
「青騎士伯爵の血筋は、百年前に途絶えたはずだと、間違いないと言うものですから」
確かにそれは事実だった。しかしそれを知っているとすると、ハディーヤの王族は百年前の伯爵とつながりがあったのだ。
リディアはエドガーの表情をうかがうが、彼も同じことを考えたのだろう、リディアをちらりと見て頷《うなず》いた。
どうやら、カーン氏が持っていたセイロンのダイオプサイドと、英国に伝わる伝説の女神との接点が見えてきた。女神の名を刻《きざ》んだのは、英国の伝説や妖精に詳しい人物であるはずなのだ。
それが、百年前の青騎士伯爵だとすると納得がいく。
「百年前に、僕の先祖であるグラディス・アシェンバートという女伯爵がいました。彼女がご主人の先祖に当たる人物と、何かしら協定を結んだ。そうして、ハディーヤ王家の透輝石《ダイオプサイド》に文字を刻んだことと、今回の事件は関係があるのではないかと、ご主人は考えていたのですね?」
エドガーは、おそらくリディアと同様たった今|推理《すいり》したことを、とっくに知っていたかのように言ってのけた。
「レディ・グラディスは、そのころ|魔性の妖精《アンシーリーコート》が引き起こした英国の危機を救おうと奔走《ほんそう》していました。ダイオプサイドはその戦いで必要になったものなのでしょう。彼女は戦いで命を落としたけれど、伯爵家は途絶えたわけではない」
そう言うことで、カーン夫人の迷いが一気に消えることは計算済みだっただろう。
「それをご存じなら、あなたさまはやはり青騎士伯爵……」
事実彼女は、安堵《あんど》の表情を見せた。
「もっと早くに、ご相談すればよかったんです。主人は死なずにすんだかもしれません。伯爵がもういらっしゃらないと思えばこそ、主人は出自を隠し、本名を隠して、魔物の力を手に入れようとする邪悪《じゃあく》な組織からひとりで宝石を守ろうとしたのです」
「その組織は、かつてグラディスが戦った相手だね」
プリンスの組織だ。
「そうだと思います。宝石が三つとも組織の手に渡ってしまうと大変なことになると。青騎士伯爵の遺言だったとか」
「大変なこととは?」
「詳しくは存じません。透輝石《ダイオプサイド》は、かつてハディーヤの王家に従うことを誓った魔王の力そのものだと聞いていますから、王族以外の誰かが三つそろえても意味はないと思うのですが」
「王族の誰かが悪用する可能性はあるけどね」
「それとも、戦いの女神が復活するのかもしれないわ」
リディアは口をはさんだ。
「だってエドガー、戦いの女神バウは残忍な精霊だけど、彼女がついた方が必ず勝つわ。プリンスが、戦に敗れて二度と英国に戻ることがなかったジェイムズ王派の一員なら、ほしがらないはずはないと思うの」
「とすると、グラディスは女神をプリンスに渡すまいとして……」
プリンスの存在は、百年前のハイランドでの決戦で流された血と、|悪しき妖精《アンシーリーコート》のものである黒い魔力によるという。
かつてないほど悲惨《ひさん》な戦場となったハイランドで、ジェイムズ三世の王子、チャールズ・エドワードは敗北したが、王子の支持者たちの多くは、スコットランドやアイルランドの住人だった。古《いにしえ》の神々が変化したという妖精たちと近しい人々だった。
宿敵だったハノーバー王家に復讐《ふくしゅう》を誓ったかもしれず、そこで何らかの呪術に頼ったとしたら、忘れ去られ、消え去ったはずの古の女神を、戦場の血によってよみがえらせることができたかもしれない。
百年前なら、ハイランドには、妖精の魔法に通じた人物も少なくはなかっただろう。
それを悪用できる者も。
「|悪い妖精《アンシーリーコート》たちが勢いづいて、力が強くなっていたとすると、変化に気づいたレディ・グラディスは、ともかくバウの力を押さえ込もうとしたんじゃないかしら。でもそれに見合う力を持つ道具が必要だったと思うの」
「それで彼女は、セイロンの魔物の透輝石を使うことにしたってことかい?」
「ええ」
「しかし、それはハディーヤ王族の宝だよ。いくらハディーヤの王家と青騎士伯爵家に古くからの親交があったとはいえ、英国のために使うというのもね。どうなのかな、ミセス・カーン」
エドガーの問いかけに、カーン夫人は神妙に答えた。
「植民地化が進み、土地を追われ散り散りになっていた一族のうち、主人の曾祖父《そうそふ》は、青騎士伯爵のご援助で英国に渡り、それなりの暮らしを得られるようになったと聞いています。友情のあかしとして、宝石の力を貸すことはためらわなかったでしょう」
「……そしてグラディスが、復活しかけた女神を透輝石《ダイオプサイド》に閉じこめたのね。彼女が命がけでしたという仕事がそれだったんだわ」
呪術的な方法で生まれたと思われるプリンスと、その支持者は力をそがれ、グラディスによって英国から追放された。
しかしプリンスの命までは奪うことができなかったから、その血族らしい今のプリンスは、青騎士伯爵の血筋を皆殺しにし、グラディスに奪われた女神の力を取り戻そうとしている。
「でもすでに、三つの透輝石のうちふたつが、敵の手に渡ってる。カーン氏のマハと、ウルヤさんのネワンよ」
エドガーは、神妙に頷いた。
「残るひとつは、モーリグーね。戦いの三女神の中でも、もっとも強い精霊よ」
「三つそろうと、女神が復活するか……?」
この英国が、百年前の戦を再開する戦場になるかもしれない。
三つめの透輝石は、今誰の手にあるのだろう。ハディーヤの王族がまだいるのか、それともまったく関係のない第三者の手に渡っているのか。
プリンスはそれをさがしているだろうし、同時にレイヴンのことも気になる。
透輝石に触れてしまうと、レイヴンの精霊がエドガーに従《したが》わなくなるとアーミンは言っていた。ハディーヤという土地に属する精霊たちは、おそらく皆、透輝石《ダイオプサイド》そのものとなった魔王の眷属《けんぞく》なのだろう。だとしたら、レイヴンの意志には関係なく、魔王の主人であるハディーヤの王族が、彼を支配することになる。
ほかに王族がいるかもしれないし、その人物がウルヤのようにプリンスの手先となってレイヴンを手に入れたなら、どういうことになるのか。
ひょっとするとエドガーは、アーミンはおろかレイヴンまで、敵にまわさなければならないのだ。
「ミセス・カーン、ほかの透輝石がどこにあるか、お聞きになっていませんか?」
エドガーはまた問いかけた。
「わかりません。そもそも夫の家系は、故郷を失って以来、ひとつの透輝石しか受け継いでいなかったんです。青騎士伯爵……、レディ・グラディスがどうやって三つをさがしだしたのかもわかりません。ただ夫は、自分の透輝石をねらう存在を感じ、魔物が自分をつけねらっていると感じていたようです」
カーン氏も、ウルヤと同様、霊的な存在に耐性があるぶん感覚も優れていたのだろう。
「夫の言うとおりになってしまいました。わたしもねらわれるのではないでしょうか」
「今のところ、あなたをねらう理由はないと思いますよ。とはいえ、あなたはこのアシェンバート家の古き友のご夫人だ。安心して過ごせるようにはからいましょう」
そう言ってエドガーは、ポールの方を見た。
「だいたい話はわかったね? スレイドに報告しておいてくれ。それから、カーン夫人をワイルマンホテルへ案内してほしい」
エドガーが所有しているホテルだ。警備も万全なはずで、朱い月≠フ何人かも滞在している。
頷《うなず》いたポールは、カーン夫人を先に退出させると、何やら心配そうな顔でさっとエドガーのそばまで戻ってきた。
「伯爵、あなたのまわりが手薄になっていませんか? 腕の立つ従者が必要なら、……まあ彼の足元にも及びませんが、役に立ちそうな者もいますよ」
レイヴンがいなくなったのだ。邸宅の警備をしている人員だけでは心許ないようにリディアにも思えた。
けれどエドガーは、首を横に振る。
「僕の従者はレイヴンだけだ。自分の身くらい自分で守れる」
我を失い、エドガーを守るべき主人と認識できなくなっていたレイヴンを目の当たりにしても、自分こそが唯一無二《ゆいいつむに》の主人でいようという決意だったのだろう。
リディアがいれば戦えると、エドガーは言ったけれど、本当のところ彼は、何を失っても最後にそばにいるのはレイヴンだと思っていたのではないだろうか。
ポールが出ていくのを見送りながら、なんとかしてレイヴンを助け出さなければと、リディアは強く思った。
「レイヴンはどこへ連れていかれたのかしら。やっぱり、プリンスの隠れ家?」
「ウルヤ嬢《じょう》に訊《たず》ねてみてるけどね、自分のことしか話さないよ。うまく言いくるめられていたとか、脅《おど》されて従《したが》っていたとか。でも、奴らの情報をまるで漏《も》らさないのは、よほど訓練されているんだと思う」
なら、彼女がリディアに見せた、被害者的な態度は芝居だったのだろうか。
エドガーはリディアをちらりと見て、「まだ何もしてないよ」と付け加えた。
「ふーん、大鴉《レイヴン》ぼうやの行方を知りたいのか」
突然の声は、窓辺からだった。
精悍《せいかん》な青年の姿をして、いつの間にか窓枠に腰掛けているケルピーがいた。
不敵な笑みを浮かべ、彼は挑発的にエドガーを見る。
「ケルピー、知ってるの?」
思わず駆け寄ろうとしたリディアを、エドガーの手が引きとめた。
「ただで教えるつもりはないんだろう?」
「当たり前だ」
「なら出ていけ。きみにやるようなものはない」
経験上、ケルピーが要求するのはリディアに決まっていた。しかし思いがけず、ケルピーは違うことを言った。
「夢魔の入れ物をよこせよ」
「……ウルヤを?」
驚いたようにエドガーは返した。
「夢魔を野放しにしておくわけにはいかないんだ。リディアの血をおぼえちまってる」
胸元の傷のあたりを押さえたリディアは、これをつけたのはウルヤを乗っ取った夢魔だったと思い出していた。
「このままでは、またリディアがねらわれるっていうのか?」
「そうだ、だから夢魔の檻《おり》をよこせ」
「ケルピー、ユリシスに命じられて来たんだろう?」
ユリシスという名を耳にすれば、ケルピーはいまいましそうに眉間《みけん》にしわを寄せた。
「バカ言うな。俺さまがあんな小僧に使われてたまるか。俺をだましやがった奴への報復はゆっくり考えてるところだ。それより伯爵、あんたにはリディアを夢魔から守るすべがないのが問題なんだよ」
痛いところをつかれ、エドガーはむっとしながらも、慎重に問うた。
「ウルヤを渡したら、レイヴンの居所を教えるって?」
「ああ、あの異国人をここから放り出せ。そしたらレイヴンぼうやの居場所を教える。ただし夢魔を奴の中に閉じこめるまではリディアは俺があずかる。夢魔がリディアに手が出せないようになるまでな」
それを聞いて、エドガーは頭にきたらしく、置いてあった剣《レピア》をつかんだ。
「やっぱりリディアが目当てか。とっとと消えろ!」
「待って、エドガー」
リディアは彼を押しとどめながら、レイヴンを助けるためにはどうしてもケルピーの情報が必要だと考えていた。
「あたしはすぐ戻ってくるわ。ケルピーはうそはつかないもの」
「リディア、うそをつかなくても他人をあざむく方法はある。本音を言わないってことさ」
「大丈夫よ、あたしはフェアリードクターよ。妖精との駆け引きは得意なの」
半人前で経験不足は承知しているが、この場はそう言うしかなかった。
「だめだ」
「でも、レイヴンを助けなきゃ」
「自分たちで何とかする」
「夢魔がまた暴れたら、レイヴンにも影響するのよ。それにケルピーは、あたしに危害を加えたりしないわ」
「きみを僕から奪おうとする」
「あたしは、誰のものでもないのよ」
リディアがエドガーのためにできる、いちばんいい方法であるはずだった。だから自分の意志で、この取引に応じようと思った。
けれどエドガーは、今の言葉で彼女に拒絶《きょぜつ》されたと感じたのかもしれない。苦しげに眉《まゆ》をひそめた。
それでもリディアは、自分を止めようとつかんでいた手から力が抜ければ、行かなければと決意を強める。
「エドガー、少しだけ待ってて」
迷っている時間はないと、ケルピーの方へ歩み寄れば、腕をのばしたケルピーがリディアをかかえ込んだ。
と思うと、漆黒《しっこく》の馬に姿を変える。
リディアはふわりと宙に浮くように感じ、背中に乗せられている。
「リディア!」
強い風が舞ったのは、ケルピーが窓から飛び出したからだ。
たてがみにしがみつきながら、目を閉じる。エドガーの声だけが耳に届く。
「僕をひとりにするのか?」
急にリディアは不安になった。
そばにいると約束した。レイヴンにはおよばなくても、彼を絶望から救うことができるならと。
少しの間でも、離れてはいけなかったのだろうか。
大丈夫、ポールさんや朱い月≠フみんながいる。エドガーはひとりじゃない。
リディアは自分にそう言い聞かせた。
[#改ページ]
心はとめられない
リディアがケルピーに連れてこられたのは、小川のほとりにある小屋だった。
ここへ来たときは夜中だったため、あたりは真っ暗で何も見えなかったのだが、ケルピーが出かけてしまうと、流れる水音ときしむ水車のリズムを聴きながら、リディアは長椅子《ながいす》の上に横たわっているうち眠ってしまったらしかった。
目が覚めれば、薪《まき》ストーブには火がともっていた。どうりで、寒さは感じなかった。ケルピーには火を扱えないはずだから、いったい誰がつけたのだろう。
よごれてすすけた窓ガラスをこすり、外の様子を眺めると、うっすらと白くただよう夜明けの靄《もや》があたりに立ちこめていて、小さな橋が架《か》かった小川と木々が、けぶる景色の中かすかな影のように見えていた。
窓を開けて身を乗り出してみても、橋の向こうは木々と靄にさえぎられて、民家らしきものが見あたらない。
それでもこの小屋にあるランプには、リディアの家にもあるランプと同じメーカーのラベルが貼ってあったし、妖精界ではなく、人間界だろうとだけは見当がついた。
手元に視線を落とすと、エドガーとの婚約指輪となったムーンストーンが、薬指に輝いている。初代青騎士|伯爵《はくしゃく》の守護妖精でもあった、お妃《きさき》のムーンストーンだ。
エドガーにしかはずせないこれがある限り、ケルピーといえどリディアの意志を無視して妖精界へ連れていくことはできないはずだった。
人間界なら、ロンドンからそう遠くはないはずだ。
エドガーはもう、ウルヤを解放しただろうか。
考えていると、彼女を呼ぶ情けない声がした。
「リディア……、おおい……」
小屋の中を見回す。けれど誰もいない。
「リディアー、助けてくれよお」
声の方をさぐるように、小屋の中ほどに立てかけられた梯子《はしご》の向こうを覗《のぞ》き込む。と。
「ニコ! まあ、どうしてここにいるの?」
柱にくくりつけられていた灰色の妖精猫は、むっとした顔でリディアを見た。
「ずっと呼んでたのに、起きないってどういうことだよ。ケルピーの奴が、おれさまをこんなひどい目にあわせやがったんだぞ」
急いでほどいてやりながら、ごめんなさいとリディアはつぶやく。
「どうしてあなたまで……。ケルピーにつかまったの?」
「知るかよ。夜中にいきなり来て、眠ってるおれさまをむんずとつかんでこんなところへ連れてきやがったんだ。マッチで火をつけろって言うからそれが用事かと思ったら、今度はしばらくここにいろって縛り付けたんだ」
妖精のくせに、マッチなんてものまで使えるニコを、ケルピーは利用したらしかった。
縄《なわ》をほどかれたニコは、急いで立ち上がると乱れた毛並みを整え始めた。
「だいたいリディア、なんでケルピーといっしょに出ていったんだよ。伯爵のやつ、すげー落ち込んでたぞ」
ちくりと胸が痛んだ。
「おかげでな、ゆうべはおれのことつかまえて、寝床に引っぱり込もうとしやがる。たまに子どもみたいなんだよな。いいかげんにしてほしいっての」
文句を言いながらもニコは、以前ほどエドガーの態度に憤慨《ふんがい》する様子はない。
「このごろ、エドガーと仲がいいのね」
「あ? 誰のために仲よくしてやってると思ってるんだ」
あきれたように、腰に手を当てリディアを見あげる。
「まったく、おれの苦労も知らずにさ」
「え……?」
「え、じゃねえよ。伯爵に気があるんだろ?」
「な、何言って……、あんな女たらしよ?」
「あのな、おれはあんたが生まれたときから見てるんだぞ。夜更《よふ》けにこっそり出かけていったと思ったら、何があったかしらないけど泣いて帰ってきて、ほかの女の名前を呼んだとかって翌日訪ねてきた伯爵を追い返したら、バカでも察しがつくっての」
リディアは真っ赤になりながらうつむいた。
「でなかったら、あんな傲慢《ごうまん》でおれさまを猫扱いするやつになんか近づくもんか」
それはどうかしら。高級紅茶やお菓子《かし》にすぐつられるくせに。ちらりと彼をうかがうが、ニコはえらそうにふんぞり返ったままだ。
「そ、それよりニコ、いったいケルピーは何を考えてるのかしらね?」
気恥ずかしいから、リディアはそっぽを向いたまま話をそらすことにした。
「知らねえよ。とにかく、あの馬が来ないうちにさっさと帰ろうぜ」
ところが、くるりと振り返ったニコの前に、ケルピーが仁王《におう》立《だ》ちになっていた。
「馬じゃねえぞ、この猫」
不意に現れたケルピーが、ニコを足蹴《あしげ》にした。
ぎゃあっ、と悲鳴を上げながらも、くるりと宙を舞ったニコは、棚《たな》の上に着地する。
「何すんだよ!」
頭にきたらしく背中の毛を逆立てたが、ケルピーはニコの威嚇《いかく》など気にもしない。
「リディア、朝飯だ。腹減ってるだろ?」
そう言って、リディアのひざの上に、パンとチーズのかたまりを投げ出す。
「盗んだんじゃないぞ。代わりに鴨《かも》を置いてきてやった。おまえ、鴨を丸飲みにはできないだろう?」
リディアのためにどれほど気を遣《つか》ったかと言いたいらしい。
それはまあ、ありがたいと思えなくもない。ひざの上に鴨の死骸《しがい》を投げ出されても困る。
「おい、おれさまのぶんは?」
ニコが不機嫌《ふきげん》に口を出した。
「は? 自分で調達してこい」
「おれを縛りつけておいて、どういうことだよ!」
「ニコ、半分ずつしましょ」
「そういう問題じゃねえんだ。こいつの偉そうな態度が気に障る……」
足を踏みならしつつ怒っていたニコは、ケルピーにひょいとつまみ上げられて、急に威勢《いせい》を失い縮み上がった。
「な、なんだよおい、離せよ、おれを喰ったってうまくないぞ」
「ちょっとケルピー、やめてちょうだい」
[#挿絵(img/diopside_177.jpg)入る]
「こんな貧弱な猫なんか喰うかよ。いいか、妖精のくせにあのニセ青騎士伯爵に手なずけられた猫め。俺の言葉をしっかり奴に伝えろ。レイヴンぼうやは、ロンドンブリッジ近くの民家にいるはずだ。駅の西側、赤い屋根に黒い煙突の家。玄関前にデイジーの鉢《はち》が置いてある。それでわかるだろ」
言うとニコを、窓からぽいと放り投げた。
「ニコ! 何するのよ、ケルピー!」
リディアはケルピーにつかみかかりながら、ふと不安になってきていた。
ウルヤを解放したらレイヴンの居所を教えると、ケルピーは言った。リディアは、ウルヤの中に夢魔が封じられるのを見届けたうえで、自分がレイヴンの情報を携えてエドガーの元へ帰る、そういう約束のつもりでいた。けれどケルピーはニコを伝言役に使おうとしている。これでは、ケルピーが夢魔を封じる必要もなく、リディアを返す必要もないということになる。
「ケルピー、あたしもニコといっしょにロンドンへ帰るわ」
「まあそう急ぐことないだろ」
ケルピーは、ひとつしかないドアの前に立ちふさがっていた。
「夢魔はどうなったの?」
「あれな、たっぷり餌《えさ》を食って、おまけにレイヴンぼうやの中の強い魔力に同調して、すっかりでかくなっちまった。もう人間の体じゃ間に合わないんでね、ロンドンブリッジにつないでおいた。あの橋は、昔から街の結界みたいなものなんだって? どうやらユリシスのやつ、いずれ夢魔を成長させてあそこにつなぐつもりだったようだし、たしかに魔力を引きつける力がある場所だ。人通りも多いから夢魔くらい養えるだろうよ」
ケルピーは、もともとそうするつもりだったのだ。もはやウルヤが夢魔の檻《おり》に使えないことは承知していた。
「だからリディア、あの橋には近づくなよ」
なのに、エドガーに取引を持ちかけたのだ。
「じゃ……、どうしてウルヤさんを解放しろなんて言ったの?」
「おまえを取引の材料にしないためさ。それなら、いっしょに来てくれると思った。おまえは俺とここへ来たし、もはや夢魔をウルヤに閉じこめることはできないんだから、おまえを伯爵のところへ帰す必要もなくなったわけだがな」
「あたしを……、だましたのね?」
力を入れて、ケルピーを押しのけようとしたが、彼はびくともしなかった。
「俺はだまされてばかりだった。おまえは伯爵と婚約させられたし、ユリシスにもあざむかれた。人間とのつきあい方を考え直すことにしたんだ」
うそをつかなくても、人をあざむくことはできる。エドガーはそう言った。
本当のことを言わないだけ。
あたしって、どうしてこうなの?
いつだって、本当のことを見抜けない。
そのくせ、いちばん信じたい人を疑ってばかりだ。
信じ切れずに、気持ちを伝えられなくて、そばにいると約束したのに彼から離れた。傷つくのが怖いばかりに、彼を傷つけてしまっている。
「そこをどいてよ、ケルピー、あたし帰らなきゃならないの!」
背が高く完璧なほど均整《きんせい》のとれた体格のケルピーは、リディアに胸をたたかれながらも平然としている。
むしろリディアの方が、手のひらに痛みを感じている。その華奢《きゃしゃ》な指が赤く腫《は》れ上がるのではないかと心配したように、ケルピーはリディアの手を包み込むようにして止めたのだった。
「俺が憎いか?」
「そんなんじゃないわ。でも、お願い……」
「頼むよ、おまえを守りたいだけなんだ」
逆に懇願《こんがん》されてしまうと、リディアはどうしていいかわからなくなった。
「伯爵の敵はただものじゃない。俺が言うのも何だが、魔物が人の姿をしているようなもんだぞ。……いや、人間なんだが、何人もの遺恨《いこん》をかかえ込んでいるみたいな感じだ」
それがどういう印象なのか、リディアには理解しがたい。ただ、英国を追われた王子たちの、そして戦や迫害で殺された支持者たちの遺恨なのだろうかと考える。
「プリンスに会ったの?」
「ちらっと見ただけだよ」
「ユリシスみたいに妖精を使う力があるの?」
「さあ、妖精にかかわる仕事は、ぜんぶユリシスがやってるようだからどうなんだろうな。けど力なんかなくたって、あれは存在自体がやばいって気がする。強い負の引力を持ってるんだ。なんていうかほら、あの伯爵にも人を惹《ひ》きつける何かがあるんだろうし、この国の人間は王族ってだけでありがたがるだろ。そんなふうに、人や運命を動かす力……、特にあれば、暗い感情や破滅的な欲望を惹きつける」
エドガーを絶望させ、暗い感情で満たして支配しようとしていたプリンス。そのやり方を今も変えるつもりはなく、エドガーをとことん苦しめようとしている。
離れてはいけなかったのだ。
どこにも行かないでくれと言った彼。軽蔑《けいべつ》するかとこちらに向けた淋《さび》しげな顔。
ポールやトムキンスや、ほかの身近な人たちの前では、ふだんの軽薄《けいはく》で不遜《ふそん》で独善的なままのエドガーだったけれど、レイヴンを奪われて、それでもまだ望みを捨てるわけにはいかないと、どうにか自分をささえているのをリディアは知っていたはずだった。
エドガーが弱みを見せるのはリディアにだけだ。
もともと、彼を信奉《しんぽう》する仲間とは微妙に違う立場だったから、そうなっただけかもしれないけれど、リディアはそんなエドガーがきらいではなかった。
自分のように平和で平凡な少女でも、彼を理解できると思えた。彼もごくふつうの、二十代の若者なのだと思えば、自分にも力になれることがあるだろうと。
それだけでも、自分はそばにいる価値があったはずだった。
「……あたし、帰りたいの」
うつむいたまま、リディアは声を絞り出す。
ケルピーがリディアを心配しているのは、じゅうぶんわかっているけれど、ここにはとどまれない。
「あの伯爵《はくしゃく》が、好きなのか?」
アーミンのような情熱はなくても、リディアはリディアなりに、彼が好きだと思う。
「でもあいつが、ちゃんとおまえだけを大事にできるのか?」
それはエドガーの、本当の心だけがわかること。
リディアはただ、彼の心がどこにあろうと、今は帰りたいと感じている。
「ケルピー、あなたは、孤独を苦痛に感じない。妖精だもの、人とは違うの」
「おまえにとって苦痛なら、孤独を感じさせるようなことはしない」
「ううん、そうじゃない。人が心の底から孤独じゃないって思えるのは、誰かの孤独を癒《いや》せるときなの」
エドガーと出会うまで、リディアは、人に求められる喜びを知らなかった。妖精たちがいるから、淋しくないと思っていた。
たしかに淋しくはなかったけれど、自分の存在が誰かの安らぎや救いになれるなんて想像もしなかったし、そういう実感が自分を動かし変えていくなんて知らなかった。
気を許してはいけない人。そう思いながらも好きになってしまったのは、無遠慮に触れながら、軽々しく口説きながらも、リディアを見つめては幸せそうな顔をしてくれたからだ。
傷ついてはリディアを求め、リディアさえいればまだ戦えると言ってくれた。
「だから、エドガーのそばにいたいの」
「おまえが殺される」
「いっしょにレイヴンを助けたいの」
「蛇《へび》か鳥かわからないような化け物をかかえてるぼうやのことなんか、おまえに関係ないだろ」
「あたしにとっても友達なのよ」
「今はだめだ」
黒真珠《くろしんじゅ》の光沢を持つ、魔性《ましょう》の瞳がリディアを覗《のぞ》き込んだ。
人を惑《まど》わせ、思考を奪うケルピーの魔力が向けられる。そうやって人を水中に引きずり込み食べるための、水棲馬本来の力だ。
リディアは全身の力が抜けるのを感じていた。頭がくらくらする。
ケルピーにはもう、魔力を使うことへのためらいがないからか、ムーンストーンの魔よけの力もおよばない。
ケルピーの行動を縛っているのは、リディアがエドガーと、その場しのぎに誓った婚約の言葉だけだ。それが未だに、彼女を異界へ連れ去るには枷《かせ》になっているといえ、エドガーのそばへ帰すつもりはないと、黒真珠の瞳には強い決意がにじんでいた。
ケルピーの両腕が、リディアをかかえ込む。
波ひとつない水にぶかりと浮いているような心地よさに、彼女は意識を手放した。
*
レイヴンはロンドンブリッジの近くにいる。
ニコからの情報を手に入れたエドガーは、すぐさま問題の家をさがしだし、部下を配置して見張らせていた。
ロンドンブリッジをはさんだシティの対岸、駅につながる鉄道の高架《こうか》をくぐり、大通りをそれて西へ入っていくと、ごみごみとした風景になる。
細長い民家が何軒も並ぶそのあたりの一軒に、ケルピーがニコに伝えた特徴を備えた家は確かにあった。
そこを調べる一方で、エドガーは、リディアがケルピーに監禁《かんきん》されていたという小屋もさがさせたが、見つけた小屋にはすでに誰もいなかったのだ。
まだ薄暗い早朝の辻に馬車を寄せ、間口の狭い四階建ての建物がかろうじて見えることを確認する。
そうして、部下からの報告を待ちながら、エドガーはニコの言葉を思い出していた。
『ケルピーのことだから、水辺のどこかにはいるはずなんだ』
水辺だというだけでは、見つけようがない。
それでも可能なら、自分であちこち駆《か》け回ってさがしたい衝動《しょうどう》を抑えて、ここにいる。
身の危険がせまっているという意味では、レイヴンの方が最優先だったからだ。
少なくともケルピーは、リディアを傷つけたりしない。しかしレイヴンは、いつプリンスの気まぐれで殺されるかわからない。
プリンスは、レイヴンの能力や精霊の秘密を研究させようとしていたから、あっさり殺すようなことはないと思うものの、エドガーに衝撃を与えるためなら何をするかわからない。
「青騎士伯爵! お待たせしました!」
考えていると、どこからか声がした。
窓からふわりと入ってきた木の葉が、馬車の座席の上で不自然にひらひらと動いた。
声は聞こえても、姿はいまひとつエドガーには見えないため、そうやって居場所を教えてくれる妖精はコブラナイだ。
どうしてなのかエドガーには理解できないが、ニコやケルピーのように、どんな人間にも見えるように現れることのできる妖精もいるかと思えば、そうではないものもいるらしい。
しかし、青騎士伯爵であるはずのエドガーに妖精を見る能力がなくても、コブラナイは気にしていないようだ。
「間に合いましたか、伯爵。戦へ出陣と聞きまして、急いで参りました」
ただこの妖精、価値観が中世のままなのが問題だ。
「どうしたんだい? コブラナイ」
エドガーは葉っぱを持ちあげ、手の上に乗せた。コブラナイもいっしょに手のひらに乗っかっているのかどうかわからないが、そこを見ながら妖精の返事を待つ。
「じつは、我が一族が伯爵のために仕立てた甲冑《かっちゅう》ができあがりました」
「甲冑? いや、そういうものは今の時代には……」
が、コブラナイはエドガーの手のひらに、銀色のコイン大のものを置いた。
「これは?」
「甲冑でございます」
声は自信満々だ。
「きみたち専用の?」
「いいえ、伯爵専用です。どうぞお使いください」
「……それは、ありがとう」
「ああそれから、伯爵、リディアお嬢《じょう》さまと早く結婚の段取りをなさった方がよろしいですよ。あのムーンストーンの力は、おふたりの婚約が正式なものになれば力が強まります。水棲馬なぞに、付け入られている場合ではありませんぞ」
それができれば苦労はしない。
落ち込みたくなるエドガーにかまわず、言うだけ言うと木の葉はふわりと窓から出ていった。おそらく、コブラナイもいっしょに去ったのだろう。
代わりに窓から顔を見せたのは、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ大柄《おおがら》な双子だ。
「伯爵、相変わらず中に人の気配が感じられません。火を使っている様子も、明かりが漏《も》れる様子もないんです」
そろそろ起き出したあたりの家々からは、煙突の煙やカーテン越しの明かりが生活の気配を見せ始めている。なのに問題の家は、何の変化もない。
「物売りを装って呼び鈴を鳴らしてみましたが、誰も出てきませんね」
ジャックとルイスの報告を聞きながら、エドガーは甲冑≠内ポケットに突っ込みつつ思案した。
すでにレイヴンは、別の場所へ移されてしまったのだろうか。
「昨夜ウルヤを見失ったのも、このあたりだったね?」
昨日は、ケルピーの要求をかなえるために少々警備をゆるめ、彼女に逃げる隙《すき》を与えてやった。
逃げ出せたことを疑問に思ったかもしれないし、後をつけられている可能性も考えたかもしれないが、彼女はロンドンブリッジへ向かうと橋を渡り、大通りを西へそれたところで急に姿を消したのだという。
ここがプリンスの組織の隠れ家のひとつなら、ウルヤが逃げ込んだ可能性はある。
だとすれば、息を殺すようにしてひそんでいるのかもしれない。
ただこの家は、玄関前や窓際に並んだ鉢植《はちう》えからして、隠れ家というよりは、ごくふつうの日常生活があるように思われる。鉢植えの花はまだ生き生きとしているし、今にも玄関を掃《は》き出すためにメイドが出てきそうな気配なのだ。
「踏み込みますか? 伯爵」
「もうひとつ情報が届いてからだよ」
言いながら視線を動かす。早朝ともあって、薄く霧《きり》がたち込めた周囲に人影はほとんどなかったが、今はこの馬車に近づいてくる、太った黒髭《くろひげ》の男が目にとまった。
「伯爵、お待たせしましたな。この家の住人についてわかりましたよ」
朱い月≠フ幹部、スレイドだ。
彼が手渡したメモに、エドガーは素早く目を走らせる。
家名は、ウェブスター。家長は鉄道会社の元事務員。すでに退職している。老夫婦のふたり暮らし。つい最近、インドから弟が養子を連れて帰国したと、主人が行きつけの酒場《パブ》で話していた。
「……プリンスとウルヤだ」
そこまで読んで、エドガーはつぶやいた。
だとすると、この家の老夫婦はプリンスの手先なのだろうか。それとも、プリンスはウェブスター氏の本物の弟を殺した上でなりすましたのか。
ユリシスの場合も身内になりすまして人国していた。同じような手を使っているのかもしれない。
顔の大きな火傷を包帯で隠しているプリンスは、本物の弟に似ていなくても問題はない。
「そのインド帰りの男というのが、向こうでかなり成功したとかで、この夫妻に旅行をプレゼントしたそうですよ。しばらく留守にするから店にも来られないと、ウェブスター氏はうれしそうに酒場の主人に話していたようですな。それが二週間ほど前のことだそうで」
「隠れ家にするために、夫婦に出ていかせたんでしょうか」
「えらく親切ですね」
そんな会話を聞きながら、エドガーは思わず眉《まゆ》をひそめていた。
いやな予感と頭に浮かんだ惨事《さんじ》については、今は考えないことにして、馬車から降りる。
伯爵家の家宝である人魚《メロウ》の宝剣を、帯剣《たいけん》用のベルトに差し込み、顔を上げる。
役に立つのかどうかわからないが、魔物などという存在とは戦うすべを持たないエドガーにとって、魔よけくらいにはなるのではないかと思っている。
もちろん、人間相手の武器としては上等だ。
「中へ入ってみよう」
エドガーが言うと、スレイドは首をひねった。
「伯爵、どこから入るんです?」
「窓からだよ。ガラスを割るしかないだろう?」
「いや、そうですけども、まさかご自身で?」
「何か問題でも?」
「いちおう、我らのリーダーは由緒《ゆいしょ》正しい伯爵なんですよ。コソ泥《どろ》みたいなまねをされては、下の者に示しが……」
「貴族が窓から入っちゃいけないという法でもあるのか?」
「他人の家に勝手に入ってはいけないという法ならあります」
「スレイド、きみたちは義賊《ぎぞく》とはいえ、さんざん泥棒《どろぼう》をしてきたくせに、法が気になるって?」
「万が一泥棒でつかまったりしたら、監獄《かんごく》行きなだけでなく笑い者ですよ。それも貴族が庶民《しょみん》の家に」
スレイドはときどき、破天荒《はてんこう》なエドガーのやり方が気に入らないらしいが、ここで議論している時間はなかった。
「女性の家に忍び込んだことなら何度もあるけど、泥棒扱いされたことはないよ」
ジャックとルイスに手振りでついてくるよう示し、エドガーは建物に近づいていく。
「ここの女性は老女ですよ!」
「隣の家と間違えたことにするさ」
口をあけたままのスレイドが、もはや反論する気を失ったのをちらりと見て、エドガーは続けた。
「スレイド、裏口からふたり、中へ入るよう言ってくれ。それから外には要所に見張りと連絡役を頼むよ」
「隣は空き家です」
悔し紛《まぎ》れか言い捨てると、スレイドは近くにいた部下たちに指図《さしず》を始める。
レイヴンが中にいるのなら、エドガーはどうしても自分が行かなければならなかった。
侵入した二階の一室は、寝室だったが誰もいなかった。そこからすべての部屋を確かめたが、やはり誰もいない。
「隠し部屋がないか、くまなくさがしてくれ」
「わかりました」
ルイスかジャックか、エドガーのそばにいたひとりがそう言ったとき、階段の上からもうひとりが叫んだ。
「屋根裏です、たぶん、ウェブスター夫妻です!」
駆けつけたエドガーは、そこに無惨《むざん》な死体を見つけ、嘆息《たんそく》した。
予想はしていたものの、あまりのことにこぶしを握りしめる。
プリンスは、早々にエドガーがここへ踏み込むことを承知している。ウルヤがとらえられたのだから、当然そのくらいは予想できるだろうけれど、だったらそれを利用して、エドガーを翻弄《ほんろう》してやろうと考えている。
「……何もこんなに、ひどいことを」
プリンスの組織が、死体を作ることに関して悪趣味《あくしゅみ》としか思えないこだわりを持っていることを知らない|朱い月《スカーレットムーン》≠フ若者は声を震《ふる》わせた。
「あれ? ふたりじゃない、三人ですよ。腕が……多いような……」
そんなせりふを聞きながら、エドガーは切り裂かれた黒い上着に目をとめた。
ステッキで持ちあげ、確認する。
「レイヴンの上着だ」
むろんあせった。それでもゆっくりと呼吸しながら、腕があるなら頭もあるはずだと視線でさがした。
それは長持の脇《わき》に転がっていた。
長い髪の、女だとひとめでわかった。
「あー、三人目はメイドですね」
「ここの召使いでしょうね。雇っていたのはひとりだけか」
エドガーはわずかな間、祈るように目を閉じる。
「しかし、殺されて間もないようですが……。それまでここに監禁《かんきん》されていたんでしょうか」
「面倒なのにどうしてでしょうね」
「死体にすると臭うからだろう」
つぶやきながら、きびすを返す。
プリンスからの招待状だと、エドガーは奥歯をかみしめた。
パーティはこれからだと言っている。
「伯爵、クローゼットの裏に穴が……!」
階下《かいか》で声をあげたのは、気分が悪くなったのか、早々に屋根裏から出ていたひとりだった。
*
まるで猛獣《もうじゅう》か何かのように、彼は鉄格子《てつごうし》の檻《おり》に入れられていた。
アーミンはオイルランプを手に、檻へと近づいていく。中でうずくまっているのは、かわいそうな少年だ。こんなところへ閉じこめられてなお、両手を縛られている。
「レイヴン、食事をしてないの?」
檻の中にぞんざいに投げ込まれたパンには手がつけられていない。そんなものを食べる気にはなれないだろうと思ったが、今のレイヴンは、食事どころか自分をねらう刺客《しかく》にすら反応しそうになかった。
明かりを向けられても、まぶしそうにすることもなく、ただ見開いている瞳がランプの明かりをまともに受けて、暗い緑を帯びて見える。
魂《たましい》の抜けたような、どこも何も見ていない瞳の奥で、夢魔《むま》に触れて目覚めた魔物が、レイヴンの意識を飲み込んでしまっているのだ。アーミンはそう思った。
昔はしばしば、こんな状態に陥《おちい》ったものだった。精霊に支配されて、手当たりしだいに殺戮《さつりく》の衝動を向けて暴れたあとは、疲れ切ったようにほとんど何にも反応しなくなるのだった。
精霊をコントロールできずに力を発散することは、人としてのレイヴンの体には負担が大きいのではないだろうか。
エドガーに従うようになってからは、そういうこともなくなっていたというのにと、アーミンは苦しい思いで弟を眺《なが》めやった。
「おい、勝手に逃がしたりしないでくれよ」
声の方にゆっくりと振り返ったアーミンは、戸口に立っている褐色《かっしょく》の肌の青年を見つけ、警戒《けいかい》しつつそっと武器をさぐった。
そうしながら、ウルヤというこの人物が、男装をしているが女だったはずだと思い出す。
彼女は、任務に失敗したとユリシスに聞かされていたのに、まだ生きていて、しかも無傷の様子でここにいる。
どういうことなのだろう。
「あなた、つかまったんじゃなかったの?」
ウルヤの方に、これといった緊張感がないのを感じると、アーミンはやや警戒《けいかい》を解いて口を開いた。
「逃げ出せたのは、おとりのつもりかな。きみの前の主人、そんな見え透《す》いた手でくるなんて、噂《うわさ》ほど大したことないんじゃないか?」
アーミンの知る限り、エドガーは敵の手先を無傷で解放したことはない。それにプリンスも、失敗した手先が戻ってきたからといって簡単に許すはずもなかった。
「プリンスは、あなたをとがめなかったの?」
ふ、とウルヤは小さく笑う。
「私は特別なんだ」
それから彼は、この狭い部屋にひとつだけの窓を見やった。
「パーティ会場はこの先だ。あのロンドン塔のずっと向こうさ。そしてプリンスは、特等席で高みの見物だそうだよ。きみの役目も言い遣《つか》っている」
自発的にここへ来たつもりのアーミンは、なのにプリンスが始めようとしている何かに組み込まれているらしいと知って、不快感に寒気をおぼえた。
「きみがユリシスの目を盗んで、ここへ彼の様子を見に来たことくらい、とっくに存じていらっしゃるのさ」
「わたしに、何を」
「招待客をパーティに案内すること」
「……エドガーさまを」
「そう。じきにやって来るだろうからね」
アーミンは自分の両手に目を落とした。
まだ、生きている。
エドガーはいつでも、アーミンに近づくことなく猶予《ゆうよ》を与えることなく葬《ほうむ》り去ることができる。セルキーの毛皮を持っているのだ。
けれど彼はまだ、その権利を行使していない。
いつでもできることだから、今すぐでなくてもいいと思っているのだろうか。
どのくらい彼に背いたら、死ねるのだろうか。
まだ死ぬわけにはいかないと思っていても、エドガーの意志なら受け入れるつもりだ。
けれど、生きているうちはプリンスに逆らうことはできない。
「それにしても、不可解だね。あの伯爵の召使いをあえて手先にするなんて、プリンスは物好きなかただ」
なぜだか機嫌《きげん》のいいウルヤを、アーミンはじっと見た。
ウルヤも、自分の願いのためにプリンスのそばにいる。けれどアーミンには、少しだけあわれに見える。
プリンスを知らなさすぎる。
「わたしはプリンスを憎んでいるわ。そんなことくらい百も承知で、プリンスはわたしを使うのよ」
それがエドガーを苦しめることになるなら、使う。いらなくなったら、そしてもしもプリンスにとって危険な動きをしたら殺す。それだけのことだ。
「あなた、本当に信じてるの? プリンスが、あなたのために土地を取り戻してくれるなんてこと」
「私が愚かだと言いたいのかい? でもきみだって、プリンスにねだったんだろう? 伯爵《はくしゃく》の女にしてくれってね」
アーミンは黙った。そう言えばプリンスは面白がると知っていた。けれどプリンスは、アーミンが取り入ろうとしながらも何かをたくらんでいると見抜いていた。
本当のところプリンスが面白がったのは、機嫌を取るための方便としてエドガーをほしいと言ったアーミンが、方便ではなくいまだにエドガーを想い続けていることなのだ。
「私と同じじゃないか。自分では手に入れられないから、プリンスの力を借りている」
「違うわ。あなたとは違う」
ついアーミンは声を強める。
「そうかもね、私は違う。プリンスに頼らなくても、私には望むものを手に入れる力がある。そのことにようやく気づいたんだ」
そう言って、アーミンを見下したように笑った。
「そう、私こそが要《かなめ》だった。だからプリンスは、私を欲したんだ」
急に尊大な口調になったウルヤは、上着のポケットから何かを取り出す。
「白い肌のきみ、けど、私と同じハディーヤの血が流れているんだろう? ならばきみも私の民だ。これからは、弟ともども私のために働いてもらうことになるかもね」
深い緑色をした、透輝石《ダイオプサイド》がふたつだった。
ひとつは殺されたカーン氏のもの。もうひとつはウルヤが持っていたものだろう。どちらも、プリンスが手元に置いていたはずだった。
「プリンスから渡されたんだよ。私がハディーヤの王族を代表する者だと、この少年の中にいる精霊にわからせるためにね」
レイヴンを従わせるためだ。
王家の宝石が戦士の精霊を従《したが》わせるのだと、アーミンは昔、森の老人から聞いたことがあった。だから精霊は王の忠実な守り手となるのだと。
けれど宝石などなくても、レイヴンはエドガーを信じ、主人とすることで、精霊をコントロールできるようになっていった。
あの透輝石《ダイオプサイド》の力は、レイヴンの意志よりも強いのだろうか。
ウルヤは、ゆっくりとレイヴンの檻に近づいていく。
アーミンは息をのんで、それを見守るしかない。
鉄格子の隙間《すきま》から手を入れ、ウルヤは透輝石をうつむくレイヴンの眉間《みけん》にそっとあてた。
と、かすかにレイヴンが首を動かした。
相変わらず瞳はうつろだ。けれどたしかに、ウルヤに注意を向けている。彼の中の精霊が、透輝石に反応しているのだろうか。
レイヴンの意志は、目覚める気配もない。
鍵を取り出したウルヤは、それで鉄格子の扉を開けた。
「さあ、出ておいで。私のしもべ」
手を縛られたままのレイヴンが、慎重に立ち上がろうとする。
おぼつかない足取りで檻から一歩踏み出したとき、大きくふらつくのを見て、アーミンは思わず手を差しだそうとした。
瞬間、レイヴンは攻撃的にその手をつかみ、ひねりあげると、彼女をその場に押し倒した。
刃物を持っていたなら、一撃でやられていただろう素早い動きで、アーミンをねじ伏せる。
まだ、彼の両手はひとつに縛られたままだ。
「やめろ」
ウルヤのひとことで動きを止め、手を離す。
エドガーのそばにいるときは、戦闘態勢に入ってしまうとなかなか言うことをきけなかったレイヴンが、宝石の主人には完璧に従っている。
「聞き分けがいいじゃないか」
レイヴンを足元にひざまずかせ、ウルヤは満足したように言った。
「あなた、レイヴンをどうするつもりなの?」
「プリンスはね、この少年がアシェンバート伯爵を痛めつけるのが見たいそうだ。そしてこの少年の魔物に、三つめの透輝石《ダイオプサイド》をさがさせるつもりだよ。王家の宝石に従う魔物なら、そのありかを嗅《か》ぎ分ける能力もあるはずだってね」
でも、とつぶやき、ウルヤは口の端で笑う。
「プリンスもユリシスも知らない。私は三つめの宝石を手に入れた。ハディーヤの伝説の魔王と、彼らがほしがっている戦いの女神の両方を得れば、どれほどの力になるだろうね」
*
瞳の奥へ、針のような細い光が射し込むのを感じ、リディアは目を開けた。
草の上から半身を起こす。
雲に覆われた空は、どこに太陽があるのかはっきりしないのに、たった今リディアが感じたのはまぶしい陽光のようだった。
ふと手元に目を落とすと、ムーンストーンの指輪が淡《あわ》く光を帯びたように見える。
月の満ち欠けにあわせて輝きを変える不思議な宝石だ。いつもより明るく見えるのは、満月が近いからだろう。
それともこれが、ケルピーの魔法からリディアを目覚めさせてくれたのだろうか。
思えばケルピーの姿がない。
まばらな木々の向こうになだらかな丘が見える。民家は見あたらないが、草を踏み分けた道らしい細い筋がある。
今なら逃げ出せる。リディアはそう思うと立ち上がった。
魔法で眠らせたリディアが目覚めるはずはないと思って、ケルピーは食事にでも出かけているのだろう。
道へ向かって、急な斜面をどうにか降りると、エドガーと自分をつなぐ指輪の力を信じることにして、リディアは道に沿って歩き出した。
方角なんてわからない。ただ、道があるならいずれ誰かに出くわすだろう。そのときに訊《き》こうと考えていた。
が、リディアが最初に出会ったのは、人ではなかった。
道ばたの小石に腰掛け、パイプをくわえている小さくてしわくちゃな存在だった。
道の奥を眺《なが》めても、丘の方を見回しても、人らしき姿も家らしき建物もまだない。
「ねえ、|善きお隣さん《グッド・ピープル》、教えてほしいことがあるんだけど」
結局リディアは、妖精に話しかけた。
「ロンドンはどっち?」
そうして、ケルピーにもらったチーズをひとかけ草の上に置く。
妖精は、木の葉をつないだ帽子ともいえない被り物の奥から、ちらりとリディアを見たようだった。
(急ぐのか?)
「ええ」
すると茶色の小妖精は、パイプを吹かしながら右手の方に首を動かした。
「ありがとう、善きお隣さん」
再び歩き始める。
しばらくすると、急に空が暗くなり始めていた。
まだ日暮れには早すぎる。そう思っても、あたりはどんどん暗くなっていく。
気がつけば、まっすぐに続いていたはずの道が消え失せ、周囲が鬱蒼《うっそう》とした森に囲まれている。
ああ、とリディアは声をもらした。
そうだった、妖精の近道なんてろくでもないと決まっていたわ。
フェアリードクターのくせに、ときどきうっかりしてしまう自分が情けなくなる。
でももう、引き返せない。突き進むしかない。
立ち止まったり方向を変えようとしたりすれば、迷ってしまう。妖精が教えてくれたとおりにどこまでも行くしかない。
リディアは自分を勇気づけるように、指輪をそっと撫《な》でて歩き続けた。
*
クローゼットの裏の壁には、大きな穴があいていた。それは、壁をぴったりくっつけて狭い敷地に建っている隣家にまで突き抜けていた。
スレイドが空き家だと言っていた家を、ウルヤやプリンスの部下たちは勝手に使用していたのだろうか。
そこから隣家へ入っていったエドガーたちは、やがて、中央に鉄格子《てつごうし》の檻《おり》が置かれた奇妙な部屋にたどり着いた。
「なんですか、これ。猛獣《もうじゅう》でも飼ってたんでしょうか?」
レイヴンだ、とエドガーはつぶやく。
しかし、鍵つきの扉は開いたまま、檻の中にはパンが転がっているだけだ。
「あの従者の少年を、こんなところへ閉じこめてたんですか?」
今度はどこへ連れていかれたのだろうか。
「きみたちに言い忘れたけれど、レイヴンは今、猛獣より危険な状態かもしれない」
|朱い月《スカーレットムーン》≠フ皆は、不思議そうにお互いの顔を見合わせた。
「では、見つけた場合どうやって助け出せばいいんでしょうか」
どうするか、と考えたとき、エドガーは人の気配を感じてはっとドアの方に振り返った。
アーミンがそこに立っていた。
「もう、レイヴンのことはあきらめてください」
朱い月≠フ連中が身構えるのをゆるりと眺めながら、彼女は無防備に部屋へ足を踏み入れた。
「あきらめろとはどういうことだ?」
「レイヴンの精霊は、ふたつの透輝石《ダイオプサイド》を持つウルヤを王と認めました。彼はもう、王のために戦い、従うハディーヤの戦士です。エドガーさま、あなたを殺せと命じられれば、迷いもなくそうするでしょう」
我を失って、精霊が暴走していたあのときよりも、やっかいな状態だということだった。
だからといって、あきらめることができるだろうか。
精霊がウルヤを認めたとしても、それはレイヴンの意志であるはずがない。
エドガーは、アーミンの方へと足を進めた。近づきながらまっすぐににらみつければ、彼女は困惑《こんわく》気味に美しい顔をこわばらせたが、目をそらしはしなかった。
「それを言うために、ここへきたわけじゃないだろう? おまえは、プリンスの命令で動いている」
「わたしにもまだ、自由な意志はあります」
「だから、僕のために警告してくれるって? 回りくどいことはやめろ。レイヴンの居場所を知っているんだろう? むりやりでも言わせるよ」
アーミンに敵意を向けなければならないのを、苦痛に感じながらもエドガーはそうした。
「……そこへご案内するのが、わたしの役目です」
「なるほど、プリンスにとっては興味深い見せ物だってことか」
「ご案内できるのは、エドガーさまおひとりだけです」
アーミンは、エドガーだけに聞こえるように小声で言った。
ここにいる朱い月≠フ連中が、異を唱えて騒ぎ出すのを避けるためだろう。
むしろエドガーには、招待されるのがひとりだけだというなら、願ってもないことだった。
朱い月≠フ仲間たちを、レイヴンの手にかけさせたくはない。
「ひとりじゃない。レイヴンがいる」
そっとつぶやく。
どんな状態だろうと、彼はエドガーがもっとも信頼する従者なのだ。
レイヴンを取り戻す。そうして、プリンスに立ち向かうことになるなら、必ずレイヴンとともにいく。
「案内してもらおうか」
エドガーだけを連れていこうというアーミンの意図に、みんなが気づかないうちにと、エドガーは毅然《きぜん》と伝えた。
フロックコートの下、腰にぶら下げたメロウの宝剣を確かめるように手を触れる。
エドガーは青騎士伯爵の名を継いでいるのだ。英国に戦《いくさ》をもたらすだろう戦いの女神、彼女を閉じこめた、三つの透輝石のうちふたつをウルヤが持っているのだとしても、彼らに立ち向かわなければならない。
宝剣を守っていた人魚《メロウ》も、伯爵家のバンシーもエドガーを伯爵として認めてくれた。
レイヴンを助け出し、女神が復活するのを阻止するために手を尽くす。
それが、プリンスの組織と戦ったレディ・グラディスにゆだねられた、自分の役目であるはずだった。
「本当によろしいんですか?」
「おまえがやらなければ、どうせユリシスが来るんだろう。あいつについていくのだけはごめんだね」
アーミンは、エドガーの方に手をのばした。
そのまま肩に手を触れる。
はっとしたように、ジャックとルイスが動こうとしたが、すでにアーミンの魔法の力は働いていたのかもしれない。
「少しの間、目を閉じてください」
エドガーがそうしたのは一瞬だけだった。
けれどその一瞬に、周囲の風景が一変していた。
そこは、長いこと放置されていたのだろうと思わせる、荒れた庭園だった。
植え込みは無造作《むぞうさ》にのび、花壇《かだん》は立ち枯れた草花が無惨《むざん》なほどだ。煉瓦《れんが》敷きの歩道もぼろぼろで、落ち葉にうずもれている。
エドガーはアーミンと向かい合うように立って、アーチを組んだ四阿《あずまや》の下に立っていた。
かつてはたっぷりと茂っていただろう葡萄《ぶどう》も枯れ、編み目のように巡《めぐ》らされた枝だけがアーチの骨組みを覆っている。見あげれば、鳥かごの中に押し込められたかのように感じられた。
視線を動かし、エドガーは目の前に立っているアーミンを見おろす。
と、彼女の濃いブラウンの瞳が、切なげにこちらを見つめ返した。
こんなに間近に向かい合うなんて、今となってはありえない関係なのに、彼女の視線には、敵意も憎しみもこもっていなかった。
そんなアーミンを見ていると、エドガーにはどうしても、彼女が自分と敵対するために去ったとは思えなかった。
「……プリンスのところから逃亡して、三日三晩眠らなかった。おぼえているかい?」
エドガーの唐突《とうとつ》な言葉にも、アーミンは自然に頷《うなず》いた。同じことを思い出していたのかもしれない。
「ようやく追っ手の影を振り切ったと思えたとき、隠れひそんだのはこんな廃園だったね」
同じ境遇の仲間たちと、身を寄せ合って眠ったのは、天幕のように蔓草《つるくさ》がたれ込めた四阿だった。
あのとき、木の葉の隙間《すきま》から月を見あげ、エドガーはこれからのことを考えた。
どうやって生きていくのか、どうやってプリンスの追跡から仲間たちを守るのか。
そして、アーミンのことも。
「……忘れるはずもありません」
アーミンがこちらに向ける瞳は、あのころと少しも変わらない。
エドガーは、彼女が幸せになれるよう、ずっと見守るつもりだった。
けれど今、昔と変わりない親愛の情を向けられるのを意識しながら、その気持ちを拒絶《きょぜつ》し続けてきた自分が彼女の幸福を願うなんて、身勝手だったと気づいている。
考えないようにしていたけれど、エドガーは、昔と同じではない。
昔と同じように、アーミンを大切に感じていても、同じではない。
それが彼女を裏切らせた原因だとは思わないけれど、彼女が自分の居場所を、エドガーのそばに見いだせなくなった要因のひとつではあるのだろう。
「こんな場所に僕を招待したのは、プリンスの悪趣味?」
エドガーがそう言うと、彼女は落胆《らくたん》したような、淋《さび》しげな顔をした。
「思い出を、プリンスに話したことなどありません」
夢からさめたかのごとく、エドガーから目を背け、離れようとする。
そんな彼女の腕をつかみ、エドガーは引きとめていた。
きっともう、言う機会はないだろうから、言わねばならないと思った。
「アーミン、許してほしい」
「……何をですか? 裏切ったのはわたしです」
「僕はリディアが好きだ」
「知っています」
「おまえが僕を恨んでいるなら、命くらいくれてやると思った。でももう、それはできない。僕の命はリディアのものだ。彼女のためにしか死ねない、彼女と生きたい」
残酷《ざんこく》なことを言うと思っているのだろうか。彼女は複雑な表情をしていた。それでもエドガーは続けた。
「恋人よりも、誰よりもおまえをいちばんに考えようとしてきた。兄弟みたいに、決して切れない絆でつながっていると思ってきた。恋愛なんてどうせ長続きしない、でもおまえのことは違うと、それで僕は、罪滅ぼしと責任をまっとうできると思っていた。ぜんぶ僕の、ひとりよがりだったんだろう」
[#挿絵(img/diopside_211.jpg)入る]
「エドガーさま、それは違います。わたしは、身に余るほど愛情を注いでいただきました」
「足りなかったはずだよ。そうだろう?」
「…………」
「距離を保っていれば、お互い、思い出したくないことを思い出さずにすむ。大切だから、そう思っていたけれど、ただ楽になりたかっただけかもしれない」
アーミンは望んでいたはずだ。たとえ傷つくことになっても、求めてほしいと思っていたはずだった。
「リディアに出会って、知ったんだ。苦しくても、楽になりたいとは思わない。あきらめられない想いがある。巻き込んでしまっても、傷つけるかもしれなくても手放したくない。彼女に何かあれば、死にたいくらい後悔するとわかっていても、もう、とめられない」
かすかなため息を吐いて、アーミンは小さく笑ったかのようだった。
ようやくエドガーが、アーミンと同じ心境になったことを、けれどそれが、別の少女に向けられた想いだということを、苦笑したのだろう。
「リディアさんにとって、迷惑でなければよろしいのですが」
とびきりの皮肉も、アーミンらしかった。
エドガーが手を離すと、彼女は数歩|退《しりぞ》き、枯れ枝の隙間から空を見あげた。
「プリンスは、あそこです。ずっと成り行きを見物しています」
遠くに浮かぶ、気球が見えた。この廃園の上空へ近づいてきているようだった。
エドガーとレイヴンの、どちらが死ぬかを見物しているのだ。それとも、レイヴンの手で殺されかけたエドガーの苦痛を存分に楽しむために、殺す手前でやめさせるのだろうか。
どちらにしろ、レイヴンが本気で向かってくるなら、こちらも本気でやらなければ、あっという間にあの世行きだ。
「それでここは、妖精界?」
「いいえ、人間界のとある場所です」
まだましだな、と思った。かといって、有利というわけでもない。思いがけない魔法の力に惑わされることが少ないだろうというだけだ。
けれど、レイヴンに本気で武器を向けられるだろうか。
精霊に支配されているレイヴンの意識を、どうやって呼び戻すのか、方法も見つからないままここにいるのだ。
そのとき、アーミンがはっと身構えた。そばの茂《しげ》みががさがさと動いたからだった。
「伯爵《はくしゃく》、ああ、いたいた」
しかし、聞こえた声は拍子抜けするようなものだ。
すぐに、アーチを覆う枯れ枝をかきわけ、灰色の猫がエドガーの前にぴょんと飛び降りた。
「ニコ、……どうしてここに」
緊張を解くアーミンを、ちらりと気にしたニコだが、急いだように一気に言った。
「朱い月≠フ連中が、あんたがアーミンと急に消えたって騒いでたもんだから、急いで追ってきたんだ。あいつら、檻の前にでっかい穴が開いてても見えないんだな」
穴なんてあったのか。
「穴がどこにつながってるか、みんなに教えといてやったから、いずれこっちへ駆《か》けつけてくるだろうさ。いや、おれの言ってることがわかったかどうか知らねえけど。だから、ああ、それはいいとしてだな、つまり大変なんだ。リディアが、ケルピーのところから逃げ出して、こっちへ向かってるみたいなんだ!」
「ここへ? どうしてここがわかるっていうんだ?」
「リディアを返せって、ケルピーの奴が伯爵邸《はくしゃくてい》へ怒鳴り込んで来やがったけど、帰ってきてないからさがしに行ったんだ。そしたら、途中で妖精に道を訊《たず》ねたらしくってさ。妖精の近道へ入ったなら、あんたのいるところへ出てくるんじゃないかと思って」
「なんだって? ここへ来てしまったら危険だよ? プリンスが用意した場所だ」
「え、そうなのか?」
驚いて、その場から飛び上がったニコは、茂みへさっと身を隠した。が、ふさふさしたしっぽがまる見えだ。
しかしまた思い直したように葉の隙間から頭を出し、エドガーを見あげる。
「妖精の近道なら、早くたどり着きたいと思ってるところへ出る。リディアは、きっとあんたとレイヴンのことを気にしてるはずなんだ」
「なら、すぐにリディアを見つけて、ここから出るように言わないと」
ニコは木の葉の間で頷いた。
「エドガーさま、むやみに歩き回るのは不利です。身を隠せる茂みが多い場所です。どこから襲《おそ》いかかってくるかわかりません」
なおさらリディアを、こんなところへ迷い込んだままにしておけない。
「アーミン、誰の味方だかわからない発言だよ」
口をつぐんだアーミンに、別れの言葉の代わりにと微笑《ほほえ》みを向ける。
決別の道は、避けられないことだった。エドガーが彼女に望んだ幸福とは違っていても、アーミンはすでに自分の道を見つけたのだろうし、エドガー自身も、いちばんに想うたったひとりを選んでしまった。
アーミンではない、別のひとりを。
「言っただろう。リディアのことではもう、立ち止まれない」
エドガーは駆け出していた。
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ふたつの姿を秘めるもの
精霊が暴走した日は、ちくちくと針の先で絶えず突き刺されているかのようで、一晩中眠れなかった。体中だるくておっくうで、身動きひとつも、横になることもできずに、ねじの切れたからくり人形みたいにうずくまっていた。
そうしていても、少年を気にする者はなかった。
鉄格子《てつごうし》のはまった部屋の中に、いつもひとりで閉じこめられていた。
ここから出るときは、訓練を受けるときだ。
武器の使い方や技術を教える人がいる。教師はしょっちゅう入れ替わる。なぜなら少年が、訓練中に教師を殺してしまうこともしばしばだったからだ。
戦闘の技術は瞬く間に進歩した。けれど強くなればなるほど、周囲は彼の扱いに困るようになっていった。体罰《たいばつ》を加えて教え込まれても、いったん戦い始めると、誰彼かまわず傷つけてしまうのだ。
やがて、手足に枷《かせ》をはめられているとき以外は、誰も彼に近づかなくなった。近づく者はというと、抵抗できない少年に暴行するためだと決まっていた。
けれどプリンスが、少年の教育を放り出した部下たちを許しておくはずもない。
様々な学者や医者が、少年の精神状態を研究しようとし、怪しげな宗教家や魔術師も雇われたがうまくいかなかった。
プリンスは、少年の特殊《とくしゅ》な能力に興味を持っていたけれど、使い道がないとなれば、いずれ殺されるだけの運命だ。そんな声は、少年自身の耳にも聞こえ始めていた。
少年にかかわっていた誰もが、プリンスが「もういい」とひとこと言うのを待っていて、鎖《くさり》につながれたままの少年には格子の隙間《すきま》から食事を与えるだけになっていたころ、その人が現れた。
『おまえの主人を見つけたわ』
少年の姉がそう言った。真夜中に人目を忍んで、しばしば訪《たず》ねてきていた彼女が、他人を連れてくるのははじめてだった。
こんな人間がいるのかと思うほどの、美しい金髪に端正《たんせい》な顔立ちをした若者だった。
どこで手に入れたのか、入り口の鍵《かぎ》を開け、彼は躊躇《ちゅうちょ》なく中へ入ってくる。
微笑《ほほえ》みながら見おろし、撫《な》でるように頬《ほお》に手を触れた。
『僕の戦士にならないか?』
彼はそう言った。
触れられた瞬間、精霊がひれ伏したように思えたのは気のせいだろうか。
理不尽《りふじん》な暴力を受け続け、精霊は反撃したくてうずうずしていた。鎖《くさり》のついた枷にどうにもできないまま、神経を針でつつかれ続けているような痛みが続いていたが、それが一気に引いたのは事実だった。
『この地獄から救ってやる。おまえとその精霊が、僕に忠誠を誓うならば』
態度も言葉も、少年が知る誰とも違っていた。貴族という存在を知らなかったけれど、姉がなぜ、主人を見つけた≠ニ言ったのかは漠然《ばくぜん》と理解していた。
彼は、少年の中の精霊をおそれていない。どんなに危険か聞いているだろうに、堂々と手を触れ、得体の知れないものを相手にしてさえ、本能的に上位に立つ。
支配される威圧感《いあつかん》はなく、庇護《ひご》されるおだやかな感覚だけが少年を包む。
『名を、与えてあげるよ。新しいおまえになるためにね』
大鴉《レイヴン》、彼はそう呼んだ。
『古の神話では、あらゆる精霊たちの長として伝えられている。これからはおまえ自身が、精霊を動かす存在になるんだ』
頬に触れている彼の手を、少年は両手でつかんだ。以前なら、精霊はそのまま相手の腕をへし折り、頭をたたき割っていただろう。けれどそのとき少年は、わずかにもそんな衝動《しょうどう》を感じていなかった。
誰に教えられたわけでもないのに、ごく自然にひざまずきながら、すんなりとのびた白い指を額《ひたい》に押しあてた。
*
薄暗い森の道を、リディアはひとり歩き続けていた。
背の高い木の枝々が頭上を覆うように茂り、どこまでも続く洞穴《ほらあな》の中を歩いているかのようだった。
得体の知れない鳴き声のようなものが、ときおり静寂《せいじゃく》を破る。張り出した低木の枝が、衣服や髪に引っかかる。そのたびにびくりとしながらも、彼女は足を止めなかった。
道を遮《さえぎ》る巨木も岩も、不気味な沼さえも、幻だとわかっていた。
足を止めずに突き進めば、それらは細い枯れ枝や小石、そして小さな水たまりでしかなかった。
妖精の道は、人の心を映し出す。不安になればなるほど、困難な道になるのだ。
なかば夢のような、魔法の領域を突き進んでいく。
そんなリディアの近くで、また不気味な鳴き声がした。
彼女は首だけをそちらに向けた。
鳴き声の主は、黒い翼を広げて飛びたつと、リディアの頭上を旋回《せんかい》し、また前方の枝にとまってこちらを見ていた。
灰色の体に黒い翼を持つ、ズキンガラスだ。
ただのカラスだろうか。それとも、こんな場所に現れたのだ、妖精の化身だろうか。
戦いの女神の三つの化身は、ズキンガラスの姿で現れると言い伝えられている。
戦場を舞う、不気味なカラスとなって、敗者の血を求めるのだ。
(誰じゃ、わらわの行く手を妨げるのは)
カラスが言ったかのように思えた。
女神のことを考えた、リディアのイメージが作り出した幻かもしれない。
魔法の領域で見る幻には、真理が含まれているともいうけれど、リディアにはどちらなのかわからない。
(青騎士伯爵、とな。そなたに、わらわを止めることができるのか? 大きな戦《いくさ》が起こる。この島国に、どれほどの血が流れるか。災いの王子は、その血をわらわに捧ぐと約束したぞ)
災いの王子、という言葉に、リディアはカラスに注視した。
それは、レディ・グラディスが英国から追放した王子だ。百年前の戦いで敗北した王家の呪いか、悪しき妖精たちの力を借りて生まれたというおぞましい王子。
それが今、エドガーと対立しているプリンスとその組織の大元らしいと聞いているリディアには、気になる言葉だった。
ズキンガラスは、また言った。
(この島国は、ますます|悪しき妖精《アンシーリーコート》の力が強まっていくだろう。王子に呼び起こされたのはわらわだけではない)
このカラスは、誰なのだろう。ネワン? マハ? それとも、モーリグー?
そして、昔の青騎士伯爵と、おそらくレディ・グラディスと言葉を交わしている。
リディアはこの幻の空間で、プリンスの組織に目覚めさせられたという女神の過去の姿を見ているのだろうか。
(青騎士よ、わらわは戦場の女神、誰に属するものでもない。戦場でより多くの血を捧《ささ》ぐ者にこそ、加護《かご》を与える)
カラスはくぐもった声で鳴く。笑ったかのように聞こえる。
(そなたは血を嫌う、ならばそなたの勝利はない。わらわの復活を妨げるか? なるほど、ではあれば、そなたの手の者か)
カラスが見あげた枝が、不意にがさがさと動いた。
そこに、大きな蛇《へび》が巻きついているのに気づくと、リディアは悲鳴を上げた。
苦手な蛇から離れたい一心で、その場から走り去ろうとする。
しかし逃げても逃げても、蛇のぶら下がる木はリディアの目の前にある。汽車の窓から眺《なが》める稜線《りょうせん》のように、視界からは消えていかない。
蛇とカラスは、ずっとにらみ合っている。
長い緊張が続いたあと、突然に蛇は動いた。
カラスに飛びかかると、噛《か》みつき、締めつけようとする。
カラスは激しく暴れ、鋭いくちばしで蛇を攻撃する。鱗《うろこ》がはがれ、血を流しながらも蛇はカラスを飲み込もうとする。
激しい戦いが続いていた。片目をつつかれた蛇は、苦しげに体をくねらせる。カラスは巻きつく体から逃げ出そうともがき、蛇の目玉をえぐり出す。
しかし蛇は、力をゆるめなかった。
ついにカラスの頭にかぶりつくと、強く締めあげる。そうして骨を砕きながら、動かなくなったズキンガラスを飲み込んでいく。
やがて、ふくらんだ腹を引きずりながら動き始めた蛇は、首をもたげたまま、ふとリディアの方を見た。
足がすくんだリディアは、思わず立ち止まってしまっていた。
ひとつだけになった蛇の目は、深く透明《とうめい》な緑色だった。
透輝石《ダイオプサイド》の、妖しい緑だ。
グラディスが使った、セイロンの宝石。その魔王の分身がこの蛇だ。
目覚めかけた女神を飲み込み、閉じこめた。
そんな恐ろしい魔物が、リディアをねらうかのようにじっと見ている。
逃げなきゃ、と思った瞬間、それはリディアをめがけて飛びかかってきた。
大きく開いた口が目の前に迫ったとき、リディアは誰かに引き倒された。
蛇は彼女をかすめ、茂《しげ》みにがさりと落ちたらしい音だけが耳に届く。
倒れたリディアは、すぐさま腕を引かれて立たされる。
「早く、ここから離れてください」
レイヴンだった。彼は、リディアの腕をつかんだまま駆《か》けだした。
「レイヴン、あなた、どうしてここに……」
「リディアさんこそ、どうして。ここは私の夢の中ではないのですか?」
「夢?」
やがてふたりは、枯れ枝を積み上げたような、粗末な小屋の前で立ち止まった。
「ここまでは追ってきません。たぶん」
言いながらレイヴンは、つかんでいたリディアの腕を、なんだかもうしわけなさそうにそっと放した。
「この小屋は? レイヴン、これもあなたの夢?」
「ええ、たぶん……。遠い昔に見たことがあるような気がします。姉と、何度かここを訪《たず》ねたことがあるような……。でもよくおぼえていません。夢はここから始まりました」
夢の中で、レイヴンは何度も同じところをぐるぐる回っているのだという。エドガーのもとへ帰らなければと思っているのに、帰れない。目覚めたいのに目覚められない。
ここから森の奥へ進んでいくと、必ずズキンガラスと大蛇《だいじゃ》が現れる。レイヴンの目の前で争い、蛇が勝つ。するとその蛇は、今度はレイヴンに喰《く》らいつこうと襲《おそ》いかかってくるのだという。
次の瞬間目が覚める。いや、目が覚めたと思ったのは錯覚《さっかく》で、またこの小屋の前にいるというのだ。
ところが今回は、リディアが現れた。レイヴンが何度も見ている夢の中で、変化があったのははじめてだったらしい。
「あたしは、妖精の近道を抜けてロンドンへ帰る途中なの。でも、迷っちゃったのかしら」
「エドガーさまは、ご無事ですか?」
頷《うなず》きながらリディアは、レイヴンが目覚められないのは、精霊に支配されたままだからだろうかと考えていた。
ロンドンブリッジで、レイヴンの精霊が暴走し、彼自身の意志では抑えきれなくなったのだった。そのままユリシスにとらわれてしまったレイヴンが、どうなっているのかわからない。
けれど、目覚められないというレイヴンがここにいるとなると、いまだにあのままの状態なのかもしれなかった。
「そうだわ、あたしといっしょになら、ここから出られるかもしれないわ」
リディアはレイヴンの手を取る。
「いい? あなたは何も考えないで、あたしが手を引くままについてくるのよ。あたしの持ち物みたいなつもりでね」
「わかりましたが、主人のご婚約者に手を引いていただくなど、身に余ります」
レイヴンは、そっと手をほどこうとしたが、リディアは離さなかった。
「これは非常事態よ。エドガーだって怒らないわよ」
こうしていないと、きっとはぐれてしまうだろう。
「……どうでしょうか」
レイヴンは不安そうだ。
あいつのやきもちは、ほめ言葉と同じで口説《くど》き文句の一部、女性の気を引くために妬《や》いてみせるのが手なのだ。と思っていたが、違うのだろうか。
「じゃ、黙ってればわからないわ」
「エドガーさまに隠し事などできません」
「いい? こんなことで怒るような男だったら、見損なうわよ。どうなの、レイヴン、エドガーはそんな人?」
しばらく悩んだ末、彼はため息のように答えた。
「いえ、違います」
脅《おど》しはきいたようだった。
「でしょ。さ、行きましょ」
リディアは歩き出す。
レイヴンは黙々《もくもく》とついてくる。カラスも蛇も現れそうにない。きっとうまく抜け出せるわとリディアは心を強くした。
やがて、頭上に重なる枝の隙間《すきま》から、薄紫に染まった空が見えるようになると、道の先が、かすかに明るくなり始めていた。
夜明け間際《まぎわ》のように、薄紫の空が光をはらんでいる。
出口が近いに違いない。
ところが、明るくなるほどにレイヴンの足取りが重くなっていった。
「ねえ、急ぎましょう」
けれども、急に立ち止まると、彼はリディアの手をほどいた。
「レイヴン?」
「……忘れていました。私はもう、戦えないのです。主人の敵を殺すことを、ためらってしまいました」
「アーミンのこと? エドガーだってやめろって言ったじゃない」
「でも、わずかな迷いが命取りになる。だから、精霊をコントロールすることもできませんでした。こんなことでは、主人を守ることなどできません」
雲間から急に陽《ひ》が射し込んでくるかのように、周囲が明るくなっていく。鬱蒼《うっそう》と茂る森の風景がかき消えていく。
同時に、レイヴンの姿も薄くなっていくようだった。
このままじゃ、彼は目覚められない。
リディアはあわてて手をのばしたけれど、もう彼に触れることはできなかった。
「リディアさん、現実の世界で私に会っても、けっして近づかないでください。そしてエドガーさまに伝えてください。私の中の精霊は、右の目しか見えていません。精霊だけが暴走しているなら、左側が弱点です。私を倒すなら、必ず……」
「違うわ、レイヴン! 人らしい感情を持ったなら、あなたは本当に、エドガーのための戦士になったのよ!」
けれどリディアの叫びもむなしく、レイヴンの姿はかき消えた。
リディアは、見慣れない廃園の中に立っていた。
雑草と低木が生い茂るそこが、雑木林ではなくかつて庭園だったとわかるのは、ローマ風の石柱が並び立っているからだった。
ロンドンの近くなのだろうか。それとも、途中で迷ったぶん思いがけないところへ出てしまったのだろうか。
悩みながらあたりを見回すと、石柱の間から人影が進み出た。
さっきまでリディアのそばにいたはずの、レイヴンだった。
いっしょに戻ってこられたのだ。うれしくなって駆け寄ろうとしたが、様子が違うのに気づき、リディアははっと足をとめた。
彼は上着を着ていなかった。ほどけたネクタイもそのままで、エドガーの従者として恥ずかしくないよういつも気を配っているレイヴンらしくはなかった。
殺戮《さつりく》の精霊に支配されたままの、現実のレイヴンだ。
彼の手には、ナイフが握られていた。
とっさにリディアはきびすを返し、駆《か》け出した。
けれど彼は追ってくる。あっという間に背後にせまるのが気配でわかる。
「リディア、こっちだ!」
そのとき聞こえたのは、エドガーの声だ。
どこにいるの? ときょろきょろする間もなく、こちらへ伸びた腕に茂みへ引き込まれる。
「エドガー……」
倒れ込むように、その腕の中へ飛び込んでしまいながらも、リディアはこのときだけは、いつもの頑固《がんこ》な羞恥心《しゅうちしん》を忘れ去っていた。
無我夢中で、彼の胸に頬《ほお》を寄せる。強く抱きしめられるのを感じると、胸がいっぱいになる。
「エドガー、あたし……」
けれどまだ、言葉を交わしている余裕はなかった。すぐに彼は、リディアを背後へ押しやると、剣を抜いた。
高い金属音がした。メロウの剣が、レイヴンのナイフを受け止めたところだった。
力で防ぎながら、エドガーはどうにかレイヴンを押し戻す。
またリディアの腕を引いて駆け出す。
レイヴンは足が速い。逃げたって無駄なのではないかと思えた。しかしエドガーが駆け込んだのは、背の高い植え込みで造られた迷路だった。
木々はのび放題で、どこが通路か判然としない。それでも奥へ入り込めば、レイヴンから姿を隠すことには成功していたようだった。
エドガーはメロウの宝剣でじゃまな小枝を落としながら先へ進む。
リディアは、追っ手の足音が聞こえなくなっても、背後が気になって何度も振り返った。
「レイヴンは方向|音痴《おんち》だから、こういうものには弱いと思うよ」
「そうなの?」
「最初のうちは、屋敷の中でもよく迷ってた」
ようやく速度をゆるめ、ゆっくりと歩きながらエドガーは言った。
「じゃ、あなたは?」
「僕?」
「この迷路、入ったら二度と出られないなんてことはないでしょうね?」
リディアが不安になったのは、さっきエドガーが切ったと思われる枝が、また足元に落ちているのを見つけたからだ。
「子どものころ、屋敷の庭園にもこんな迷路があったよ。虫の好かない家庭教師や小うるさい叔母《おば》をまくのに使った」
屋敷へ遊びに来た令嬢《れいじょう》を、監視役の侍女《じじょ》からうまく引き離して、ふたりきりになれるよう画策したなんてことを思いつくはずもないリディアは、純粋に、やんちゃな男の子のほほえましい日常を思い浮かべた。
「でも、ここの迷路と同じ造りじゃないわけでしょ?」
「きみとふたりなら、僕はずっとここにいたってかまわないけど」
立ち止まり、メロウの剣をおさめると、ふざけた表情で振り返る。
「こんなところで暮らせるわけないじゃない」
「こんなところでなきゃ、僕と暮らせる?」
リディアは、相変わらず戸惑《とまど》って、黙り込んでしまう。好きだと思っても、なかなか心のままを口にはできない。
「今はそれどころじゃないでしょ」
「いつでも、いちばんの関心事なんだけど」
そう言って、彼はリディアを引き寄せた。
「会いたかった……。もう帰ってきてくれないんじゃないかと思った。レイヴンの居所を言いに来たのはニコで、きみはケルピーにとらわれたままだって聞いたとき、それはもしかしたらきみの意志でもあるんじゃないかと考えてたんだ」
「な、なんでなの?」
さっきとっさに抱きついたのとは違う。
あらためて、背中に腕をまわされて、切なげに間近で見つめられるのは恥ずかしい。それでも逃げ出さずにいることが、リディアにとってのせいいっぱいの彼への想いだった。
「ケルピーを選んだんじゃないかって」
ケルピーの前で、選んだのはエドガーだった。エドガーがいたなら絶対に口にできないようなことを言った。
「だって……いちおう約束したもの。あなたをひとりにしないって」
素直じゃない。そう思いながらもいつもの口調になってしまっていた。
「ありがとう。きみはやさしい女の子だ」
そういうことじゃない。
「あの、エドガー、ケルピーは男の人っていうより、妖精なの。友達だし、……そういう対象じゃないわ」
「じゃあ僕は? そういう対象になる?」
あまりにも熱い瞳で見つめられると、自分がどれほど真っ赤になっているのかわかるだけで、返事もできなくなってしまう。
そんな彼女の答えを待たずに、こめかみに唇《くちびる》が触れた。
びくりと緊張するリディアをなだめるように、髪を撫《な》でる指を感じる。
細くて長い指は、リディアの頭を包み込んでしまう。そんなふうにして頭ごと抱き寄せられれば、もう顔を背けることができない。
まぶたにキスを受け、目を閉じるしかなかった。
けれどリディアは、急に怖くなっていた。
目を閉じたら、エドガーの姿が見えない。彼が自分を見つめているのかどうかわからない。
彼の目に映っているのは、本当にあたしなの?
だって、エドガーは約束した。
リディアが求婚を受け入れるまで、むりやりキスしたりしないと言ったはずだ。
「……待つって言ったわ」
目を閉じたままつぶやいたリディアは、触れそうだった彼の気配が、ほんの少し退《しりぞ》くのを、かすかな空気の動きで感じていた。
「そうだったね。ごめん」
うそつき。
なのにどうして、いまさらうそつきになるのをためらうの?
やだ、何を考えてるのかしら。
うろたえながら、リディアはエドガーの腕をほどいてあとずさった。
とにかく、今はそれどころじゃなかったはずだと、急いで話を変える。
「ねえ、ここはどこなの? レイヴンはロンドンブリッジに近い隠れ家にいるんじゃなかったの?」
「ここは、プリンスが僕とレイヴンを戦わせる場所に選んだところらしいよ」
エドガーも、リディアのかたくなな態度に苦笑したものの、すんなり質問に応じた。
ゆっくりと、植え込みの迷宮を歩き出す。
リディアは、安堵《あんど》したのかがっかりしたのかよくわからないまま、あとに続いた。
「レイヴンの精霊は、ウルヤを王だと認めたらしいんだ。精霊に支配されている以上、レイヴンは僕らを敵と見なすだろう」
「レイヴンと戦う? そんなの無理だわ」
「どのみち、今の状態のレイヴンに近づけばそういうことになるんだ」
「ねえ、ここから逃げ出せないの? レイヴンと対決する必要はないわ。あなたが倒すのはプリンスよ」
けれどエドガーは、しっかりと首を横に振った。
「レイヴンを取り戻したい。彼が自分の意識を取り戻して、僕との絆《きずな》を思い出してくれれば戦わずにすむ」
「それまでに殺されるわ」
「プリンスは僕をまだ殺したくはないはずだよ。もっとも信頼しているはずのレイヴンに、さんざんやられるさまが見たいだけだろう」
「レイヴンの意識がないのに、殺戮《さつりく》の精霊に手加減なんてできるの?」
「ウルヤが命令するんだろうさ」
だったらなおさら、エドガーには危険なことだ。殺されないという確証はない。
それでも向かっていこうとしているエドガーにとっては、殺されるかどうかよりも、すでにこの状況が苦痛なのだろう。
アーミンに裏切られ、レイヴンを奪われ、そしてそのレイヴンと戦わねばならない。親しい相手と、殺すか殺されるかに追い込まれるのは、これ以上ない屈辱《くつじょく》だ。
エドガーを絶望させ、服従させるために、彼の周囲の人間が踏みにじられ、道具にされる。
プリンスのやり方に、今更ながらリディアは激しく嫌悪《けんお》をおぼえる。
なにより、エドガーの勝ち目がほとんどない戦いだ。
「やっぱり無理よ。エドガー、レイヴンは目覚められないままなの。もう、あなたを守ることはできないって言うの」
エドガーがじゃまな枝を払うと、その向こうに石垣で囲われた噴水《ふんすい》が見えた。
迷路の出口だ。
そこで立ち止まったエドガーは、リディアの方に怪訝《けげん》そうな顔を向けた。
「レイヴンが言ったの? いっ?」
「妖精の近道を通ったときよ。レイヴンの夢の中へ迷い込んじゃったみたいで、夢から目覚められないって言ってたわ。でも、目覚められないのは、レイヴン自身が目覚めたくないのもあるんだと思うの」
「目覚めたくないって、どうしてなんだ?」
「アーミンを殺せなかったから……。どうして殺せないのか、彼自身にもわからないのよ。自分が急に弱くなって、無能になったかのように感じてる。だから精霊が暴走したときに、彼の意識は押さえ込まれて、そのままになってるんだわ」
リディアの話を聞きながら、苦しげに、エドガーは眉《まゆ》をひそめた。
「あたし、説得して連れ出そうとしたけど無理だったの。それで彼が、最後に教えてくれたことが……」
もうひとつ重要なことを伝えるべきかどうか、リディアは正直迷っていた。伝えれば、エドガーはさらに苦しい選択をせまられることになる。
けれどレイヴンは、エドガーがプリンスに勝つためなら、命も惜しくはないと思っているだろう。そしてレイヴンの意志をどうくみ取るのか、決断を下すのはエドガーでなければならないはずだった。
「レイヴンの精霊は、左目が見えないんですって。精霊が体を支配しているなら、それが弱点になるはずだって、あなたに伝えてほしいって言うの」
エドガーは、黙って空を見あげた。厳しい表情で、どんな決意をしたのだろうか。
「リディア、あの気球から、プリンスはこの庭園を見おろしているらしい。ときどき光を反射させて、地上にいるウルヤと連絡を取っているんだと思う」
そう言われて、リディアははじめて上空に浮かぶ気球の存在に気がついた。
「この迷路の茂みの中なら、上からは見えにくいだろうけど、ここから出ればすぐに気づかれる。だからきみはここにいてくれ。ニコもきみをさがしているところだ。彼といっしょなら、誰にも見つからずにここから出られるだろう?」
「エドガー、ひとりで行くつもり?」
「レイヴンが相手なんだ。わかるだろう? ひとりでやるしかない」
リディアにはレイヴンと戦うすべなどないし、エドガーにとってはリディアを気にかけている余裕もないということだ。
でも、レイヴンを支配しているのは精霊だ。遠い異国の精霊でも、妖精と似たような霊的存在だ。フェアリードクターのリディアにしかわからないことだってあるかもしれない。
「いや、あたしも行くわ。レイヴンを目覚めさせる方法が見つかるかもしれないし、彼が目覚めれば、戦う必要はないのよ」
「無理だって、きみが言ったんだよ」
「でも、あなたの力になりたいの」
「うれしいけど、今は危険が大きすぎる」
「そりゃちょうどよかった。リディアのことは俺にまかせろ」
声がしたかと思うと、黒い馬が植え込みを一飛びにして目の前に立った。
「ケ、ケルピー!」
「さがしたぞ、リディア。眠りの魔法を解いて、勝手に帰ってしまうから心配したんだ」
「あなたが勝手に魔法をかけたのよ。あたしは帰るって言ったのに!」
人の姿に変じ、ケルピーは困惑《こんわく》したように頭をかいた。それでもふてくされた口調で反論する。
「けど、伯爵《はくしゃく》はおまえがじゃまだって言ってるじゃないか」
「じゃまだなんて言ってない」
「そ、そうよね、エドガー……」
「でもねリディア、レイヴンの前に出ていくのは僕だけでいい。きみは、何があっても身を隠したまま、機会を見てここを出るんだ」
「ちょうどいい。リディアは俺が守ってやる」
リディアの肩を、ケルピーがつかんだ。
「いや、あたしも行く!」
リディアはだだっ子のように、ケルピーの手を振り払った。
「あのぼうやに殺されたいのか?」
「だったらケルピー、レイヴンの精霊を鎮《しず》めるのに力を貸してよ!」
「悪いがな、ずいぶん古くて力の強い奴みたいだから、俺はかかわりたくないね」
鳥か蛇《へび》かわからないような奴。レイヴンの中の精霊を、確かケルピーはそう言った。
何かがリディアの脳裏に引っかかっていた。
「ウルヤだ。レイヴンもいる」
エドガーは、植え込みの外に視線をやった。
「ケルピー、どうやらきみが派手に登場してくれたおかげで、僕らがここにいることに気づかれたようだよ」
ウルヤはまっすぐ、この迷路の出口に近づいてくるようだった。
エドガーは出ていこうとする。とっさにその上着をつかんで、リディアは引きとめていた。
「待って、あたし、何か大事なこと伝えるの忘れてる……」
「僕と結婚する気になったこと?」
「違うわよ!」
「違うのか」
それどころじゃないのに、残念そうな顔をしないで。
「さっさと行けよ、伯爵」
口出しするケルピーをひじで押しやり、リディアはエドガーに詰め寄った。
「そう、蛇とカラスよ!」
レイヴンの夢の中で、ズキンガラスの女神と、透輝石《ダイオプサイド》に似た瞳を持つ蛇が戦っていた。
レイヴンも知らない過去の記憶が、彼の魂《たましい》の中にあるのだ。
「レイヴンの中に、蛇とズキンガラスがいるの!」
「どういうこと?」
「三つの戦いの女神は、ズキンガラスの姿で現れるって言い伝えられてる。そのなかのひとりを、あたしレイヴンの夢の中で見たの。あれはきっと三つめの女神よ。モーリグーに違いないわ。それに、モーリグーを飲み込んだのが蛇だった……。あれが女神を閉じこめた透輝石《ダイオプサイド》の魔物だとしたら。だったら間違いないわ。レイヴンの中には、ふたつの精霊がいる。透輝石の蛇と女神の化身のズキンガラスがいるのよ!」
「それは……、レイヴンが残りのダイオプサイドを持ってるってこと?」
「石そのものを持ってるわけじゃないわ。本来なら石の形を取っている魔物の核そのものが、人の魂に取り込まれてるんだと思うの」
そうすることで、魔王の三つの断片のうちひとつが、残る透輝石を所有する王やその一族を、つまりは自分の分身を守る存在になったのだ。
邪悪《じゃあく》な魔王を、人に従《したが》わせるための手段だった。
「つまり……、レイヴン自身が、魔王の分身と戦いの女神を秘めた三つめのダイオプサイドなのか」
エドガーは、冷や汗でも感じたのか、額《ひたい》に手を押し当てた。
三つの透輝石がそろえば、女神が復活する。
「となると、ウルヤの手には三つのダイオプサイドがそろってることになる。透輝石の魔王の力は、女神を閉じこめ押さえ込んでいるけれど、今はウルヤが魔王の主人だ。女神を解き放つよう命じることができるかもしれないんだね」
レイヴンには今、ウルヤに従う精霊を押さえ込むだけの意志がない。
「プリンスは? レイヴンがモーリグーを秘めてるって気づいてるの?」
「気づいてたら、ダイオプサイドをふたつともウルヤに渡すものか」
「じゃ、ウルヤさんは……」
「自分の一族に伝わる神話だ。気づいているかもしれないな。それに彼女の目的は、自分の国の再興だろ? 力さえあれば、プリンスに頼らなくても……」
ウルヤが女神を復活させようとしたら、そうしてレイヴンが精霊を押さえきれないなら、エドガーが勝つためには、レイヴンの命を絶つしかない。
レイヴンが死ねば、精霊はモーリグーを飲み込んだまま、再び人の体に宿るまで、永い眠りにつくだろう。プリンスが女神を手に入れることもできなくなる。
しかしエドガーに、レイヴンを殺すことなどできるのだろうか。彼の弱点を知っていても、もはや彼の意識が目覚めそうにないと悟《さと》っても、殺せるだろうか。
できなければ、エドガーが……。
「ねえエドガー、ズキンガラスの女神たちは、妖精族の祖先よ。英国の妖精のことなら、あたしの仕事よ」
リディアにはどうしても、ここで彼と離れるのは怖かった。
二度と会えなくなるんじゃないかと、不安がまとわりついている。
「バカ言うなリディア、こうなったらむりやりでも連れていくぞ。ここにいたらおまえ、いきなり飛び出して行きかねないっての」
ケルピーが、今度は簡単には振り払えないくらいに強くリディアの腕をつかんだ。
「ケルピー、リディアは僕の婚約者だ。勝手なまねはするな」
「じゃあなんだ? あんたがやられたときリディアが連中の前に飛び出していってもいいってのか? それに、リディアが危険なのは今だけじゃない。夢魔《むま》はリディアの血をおぼえちまってるし。あんたの敵はリディアをまたねらうかもしれないんだろ。いっそ俺にまかせろ。あんたが迎えに来るまで、安全なところへかくまってやる」
エドガーは悩み、ため息をついたが、わずかな間のことで、また顔を上げた。
「ムーンストーンの契約《けいやく》がある。僕が迎えに行ったら、すぐリディアを返すね?」
「ああ、生き残ってたならすぐ来ればいいさ」
ケルピーはにやりと笑った。
「だめよ、エドガー、妖精と契約しちゃだめ!」
「迎えに行けないような場所では困る」
「できればそうしたいがな、じゃまなムーンストーンのせいで、リディアを妖精界には連れていけない。だからそうだな、スコットランドのリディアの家。来れるだろ?」
「無理よ、たとえ人間界でも、ケルピーは妖精の魔法であたしを縛るわ」
「伯爵、あんたリディアの婚約者なんだろ。妖精の魔力なんかより、人間が持つ愛情は強いんじゃなかったのか? それとも自信がないのかよ?」
「エドガー、そばにいてってあなたが言ったんじゃない! あのとき、ケルピーと出ていったこと、あたし後悔したのよ。やっぱり離れちゃいけなかったんだって思ったから戻ってきたのに!」
必死で彼の方に手をのばすが、その手を取ろうとはしてくれなかった。
「おまえを伯爵といっしょに死なせるわけにはいかないんだ」
ケルピーは、暴れるリディアをかかえ込む。
そんなリディアをなだめるように、エドガーは静かに微笑《ほほえ》む。
「リディア、ありがとう。その言葉だけで僕は希望が持てる。きみが再会を望んでくれるなら、死なないと約束するよ。妖精の魔法だってどうにかする」
「……うそつき、あなたはいつも、いつもいいかげんな約束ばかりよ」
どうにかするなんて、魔法のこと少しもわからないくせに。
「きみにうそはつかない」
「それもうそよ! 好きだって言うくせに、強引に口説こうとするくせに、ほかの女性のことを考えてキスをためらうんでしょ!」
「違う、リディア……」
「あたしは、どうしていいかわからないのよ。だからちょっと怖くなって引いてしまったの。だって、あなたの言葉は信じられない。なのにキスを待ってるような、そんな気分になるのは、はじめてだったんだもの!」
恥ずかしいとかはしたないとか、感じる余裕もなく、リディアはケルピーに引きずられながら叫んでいた。
エドガーは、リディアの方へ体を動かそうとしたのかもしれない。わずかに身を乗り出しかけたけれど、その場からは動かなかった。
ただ、せっぱ詰まったように言った。
「僕だってはじめてなんだ。口づけひとつでさえ、きみが許してくれないならできないなんて!」
驚いて、力をゆるめてしまったリディアを、ケルピーは肩にかつぎ上げた。
「わかってくれ、青騎士伯爵として生まれ変わった僕にとって、きみだけが未来の希望だ。何があっても失いたくないんだ」
「契約は成立だぜ、伯爵」
立ちはだかる壁のような生《い》け垣《がき》に、ケルピーが片手をつっこむ。するとそこを、枝葉が生き物みたいにするするとよけて、通路のような穴が開く。
妖精だけが開くことのできる通り道に、ケルピーはリディアを連れ込もうとする。
[#挿絵(img/diopside_245.jpg)入る]
どうにもできず、リディアはただ叫んだ。
「あたし……、結婚する! あなたと結婚するわ! だから……」
とめられない。そう感じていた。
自分に、アーミンのような情熱がないなんてうそだった。
エドガーのいちばんでなくても、いつでもいちばん近くにいたい。好きだと言ってくれるなら、信じていたい。傷ついたってかまわない。
穴の中に引き込まれながら、リディアは泣きながら、結婚すると言い続けていた。
だからもう、何があっても絶望しないで。
あたしが希望になれるのなら、本物の恋人になりたい……。
[#改ページ]
パーティがはじまる
生《い》け垣《がき》に開いた穴は、リディアとケルピーを飲み込むと同時に消えた。
エドガーが振り返ると、ウルヤがレイヴンを連れて、噴水《ふんすい》の手前で立ち止まるのが見えた。
「隠れてないで、出てきたらどう? それとも、ここまで来ておいて逃げ続けるつもりかい?」
ウルヤが挑発するように声をかける。
エドガーは、生け垣の迷路から、ゆっくりと外へ足を踏み出した。
エドガーの姿が目に入った瞬間、レイヴンはナイフを構えた。
メロウの剣を握り直すが、小柄《こがら》で機敏《きびん》な少年は、すでにエドガーの目の前まで接近してきている。
と思うと、すぐさま獣《けもの》のように飛びかかってくる。
こちらの剣を警戒《けいかい》しようとするそぶりもなかった。
たぶん、エドガーにまだ斬《き》りつける気がないのを見抜いていたのだ。
剣の切っ先はレイヴンのシャツをかすめただけだが、相手のナイフはまっすぐにエドガーの心臓をねらってくる。
よける間もなく、胸に重い衝撃を感じた。
エドガーは後ろに体を引きながら、殴《なぐ》られたような痛みをこらえ呼吸を整える。
レイヴンは、不思議そうにナイフの刃こぼれを眺《なが》め、警戒するようにエドガーを見た。
コブラナイの甲冑《かっちゅう》≠ゥ。
胸元を押さえながら、ポケットに入れた金属片の感触を確かめる。
これがなければ、今の一撃で死んでいただろう。
様子見なんて、レイヴンには通用しない。
今度は、あきらかに無防備な首をねらってくる。
レイヴンは、すぐにまた殺気をこちらへ向けた。体勢を立て直したエドガーは、精霊には見えていないという左側を意識した。
来る、と同時にナイフを避け、左へ踏み出す。
レイヴンの脇《わき》をすり抜けるようにすれば、エドガーを目で追うために、彼は体ごと向き直らなければならなくなった。
そのわずかな間に、エドガーは剣を振った。
ナイフに当たり、はね飛ばす。
けれど、武器がなくなったくらいでひるむレイヴンではなかった。
エドガーの動きを読んで左へ動いた。と思うと飛ぶ。
背後をとられた瞬間、首に腕がかかった。
一瞬、意識が遠のく。
引き倒され背中を打った痛みに、はっと気がついたときには、のしかかったレイヴンが拾ったらしいナイフをエドガーののど元に突きつけていた。
「殺すな。プリンスへの手みやげだよ」
ウルヤの言葉に素直に従い、そのままレイヴンは殺気を消す。もっとも、エドガーが身動きできないよう、急所にぴったりナイフを押しつけたままだ。
ウルヤはこちらへ歩み寄りながら、満足げに笑った。
「プリンスは、女神を手に入れた私を裏切り者だと思うかもしれないが、彼と敵対するつもりはないんだ。伯爵《はくしゃく》、あなたを差し出せば、取引の材料にはなるだろう?」
「女神は、プリンスと契約《けいやく》した精霊だ。きみの思い通りにはならない」
「我が一族の忠実な臣下となった透輝石《ダイオプサイド》の魔物と、戦いの女神はもはやひとつの存在なんだよ。わたしは、三つのダイオプサイドを所有しているんだ。魔物も女神も私のものだ」
暗い緑の透輝石。レイヴンの、黒い瞳の奥に宿るかすかな緑。
目の前で、何の感情もなくこちらを見おろしている少年の瞳を眺めながら、これが三つめの宝石なのだと、エドガーは深く納得していた。
彼の中に棲《す》む精霊は、セイロンの魔王と、ケルトの女神との、|ふたつの姿《ダイオプサイド》。
けれどレイヴンは、ウルヤが持つふたつの透輝石《ダイオプサイド》とはあきらかに違う。石ではなく魂《たましい》は、王といえど所有することはできない。
エドガーは、首にナイフがこすれるのもかまわず、体を動かした。
殺すなと命じられているレイヴンが、ナイフをエドガーからわずかに離した。
右目をねらって、思いきり殴りつける。後ろにいくらかよろけたレイヴンだが、さほどのダメージはなかっただろう。
それでも、しばらくは目がかすんでいるはずだった。その隙《すき》にエドガーは立ち上がった。
剣を手に、身構える。
「ウルヤ嬢《じょう》、わかってないね。殺すななんて命令は、レイヴンを混乱させるだけだよ」
そもそもレイヴンの精霊は、手加減ができないからこそ、殺戮《さつりく》の精霊なのだ。殺すなと言われれば、動けなくなるだけ。
目をすがめ、どうにか相手を確認しようとしているレイヴンに、エドガーはまともに斬りかかろうと地面を蹴った。
本気だった。覚悟を決めていた。
レイヴンが目覚めないなら、この手で葬《ほうむ》る。
「殺せよ、レイヴン。おまえの主人はこの僕だ。そいつに従《したが》うなら、僕を殺してからだ」
もしもレイヴンが反撃し、ここで殺されるなら、それはウルヤの命令が絶対ではなかったということ。精霊にはまだ、衝動的《しょうどうてき》に動く余地があるということだ。
ならば殺されても、レイヴンには自分の意志で精霊を動かす余地がある。きっと目覚められると信じることにする。
もしもウルヤの命令を優先するなら、レイヴンは反撃できない。エドガーの剣は、彼を貫くことになるだろう。
だからエドガーは、この一瞬に賭《か》けていた。
事態を悟《さと》ったのか、ウルヤが舌打ちした。
そしてあせったように声をあげる。
「聞け、ハディーヤの魔物《ラークシャサ》。女神とともに、復活するがいい!」
「レイヴン、おまえはラークシャサでもモーリグーでもない。大鴉《レイヴン》だ。僕がそう呼んだ。精霊たちの主《あるじ》だ!」
復活なんてさせない。レイヴンを|悪しき妖精族《アンシーリーコート》には渡さない。
エドガーは渾身《こんしん》の思いで剣を振った。
頭上の木々を横切るような、大きな羽音がして、夢の中をさまよい続ける少年は空を見あげた。
黒い翼だった。
さっきまで何度も見ていた、あの灰色が混ざるズキンガラスの姿ではない。
漆黒《しっこく》の、大鴉《レイヴン》だ。
堂々と翼を広げ、我が物顔に空を横切る。世界の支配者だとでもいうのか、その黒い影を見あげた森は、風さえ凪《な》いで身じろぎもせず、あたりは不意に静寂《せいじゃく》に包まれる。
そのとき、少年は思い出していた。
はじめて彼のことを、レイヴンと呼んだのはエドガーだった。
『おまえの主人を見つけたわ』
姉が連れてきた、美貌《びぼう》の貴公子だった。
『名を、与えてあげるよ。新しいおまえになるためにね』
そうしてレイヴンは、エドガーの戦士になった。
神秘的で強い、ぴったりだろ。エドガーは、大鴉という奇妙な名前の由来を仲間や知人に尋ねられるたびに答えていた。
黒髪に褐色《かっしょく》の肌という少年の風貌《ふうぼう》と、名前のイメージが一致しやすかったらしく、誰もがその由来を妥当《だとう》だと思ったようだ。
けれどレイヴン自身は、エドガーが名前に込めた別の意味を誇《ほこ》りに感じていた。
なのに、どうして今、忘れてしまっていたのだろう。
『これからはおまえ自身が、精霊を動かす存在になるんだ』
あれは、最初の命令だった。
背《そむ》いて、こんなところで何をしている?
エドガーさま……
レイヴンはつぶやいた。
「エドガーさま……」
剣を振り下ろす寸前、レイヴンの声が耳に届いた。
はっとして、エドガーは勢いを削《そ》ぐ。
かろうじてそらした刃がレイヴンの耳元をかすめると、もはやこちらに向けられたナイフごと、少年を抱きとめるしかなくなった。
反撃の姿勢を見せていたレイヴンは、まともに突っ込んできた。
ぶつかり、押されるようにして、エドガーはレイヴンと取っ組み合ったまま木の幹に背中をぶつける。
しかしナイフは、エドガーの体に触れるすれすれのところでとまっていた。
深く息をついて、レイヴンはこちらを見あげた。
「……レイヴン、なのか?」
大きな瞳を見開き、そうして苦しそうに眉《まゆ》をひそめた。
「二度と……、おそばを離れません」
目を伏せながら、ちらりと視線だけ動かし、後方にいるウルヤを一瞥《いちべつ》する。
「あとは私にやらせてください」
頷《うなず》く代わりに、エドガーは剣を引きつける。
同時に、レイヴンもさっと距離をとる。
と思うと急に向きを変え、ウルヤめがけて襲《おそ》いかかった。
声もなく、ウルヤは倒れた。
突き刺さったままのナイフは、肺に達しているだろう。けれどまだあえぎながら、彼女は息をしていた。
わずかとはいえ、息絶えるまでの時間を与えたのは、ウルヤが何かしゃべるかもしれないとレイヴンは考えたからだろう。
ウルヤの手から、ふたつの透輝石がこぼれ落ちる。
拾ったエドガーは、すぐに偽物だと気がついた。
「これは、ガラス玉だ。透輝石は後ろにあるものが二重に見えるはずなのに」
「私は……だまされていたのか……」
彼女はかすれた声を絞り出した。
むろん最初は本物を渡されていたのだろう。けれどどこかで、おそらくここへ来る直前に、すり替えられたに違いない。
「プリンスは信用できないって、薄々《うすうす》気づいていたんだろう? だからきみは、三つめのダイオプサイドのことを、プリンスに隠していた」
しかしプリンスは、ウルヤを利用しつくしただけだ。エドガーとレイヴンを戦わせる見せ物に荷担《かたん》させた。この勝負にウルヤが勝っていたとしても、彼女をあざむきながらさらに利用しようとするだけだっただろう。
ウルヤは、ふっと力無く笑う。
「伯爵……、プリンスは、ロンドンを廃墟《はいきょ》にするぞ……」
「どうやって? 三つめのダイオプサイドとハディーヤの魔王の力は、もうレイヴンだけのものだ。戦いの女神の復活は、必ず阻止する」
「……ロンドン……ブリッジを……」
「何だって?」
しかしもう、ウルヤはかすかに首を横に動かすだけだった。苦痛にたえきれず、ふるえる唇《くちびる》だけで、殺してくれと小さくつぶやく。
「レイヴン、もういいよ」
エドガーは、ウルヤのそばから立ち上がり、空を仰いだ。気球は相変わらずそこに浮かんでいる。
この状況を見て、プリンスが何を思っているのかは知らない。
いずれにしろ、女神の分身のうちネワンとマハは向こうの手の内だ。
「レイヴン、プリンスは、僕に思い知らせるために英国へ来たわけじゃない。長年の計画を実行するためだ」
ナイフをおさめたレイヴンが、エドガーのそばに立った。
「百年前の戦争の続きですか?」
「そういうことだろうね」
ロンドンブリッジが、どうだというのだろう。
昔、ヴァイキングに国を奪われた王が、ロンドンブリッジを攻め落とし、再びこの都を我がものにした。
歴史をなぞろうとでもいうのだろうか。
百年前、あとわずかでロンドンに到達できなかったスチュアート家の王子の代わりに、あの災いの王子《プリンス》が来ようとしている。
プリンスの宴《パーティ》は、まだ始まったばかりなのだ。
* * *
ケルピーはリディアを乗せたまま、野原を駆《か》け続けていた。
遠くの丘のふもとを、黒い煙を吐き出しながら汽車が走っていくのが見える。
ここはどのあたりなのだろう。
泣きながら結婚する≠ネどと口走ってしまったリディアは、ケルピーとふたりになれば気まずくて恥ずかしくて、ずっと黙り込んでいた。
それに、ケルピーの魔法のせいか、リディアはほとんど動けないのだ。
水の中にいるみたいに、空気が重く感じられて、ゆっくりとしか手足を動かすことができなかった。
そんなリディアを強引に背中に乗せたまま、ケルピーは走り続けている。
ようやく冷静になりつつあれば、自分があの場に残っても何もできなかっただろうと理解している。
あのとき何よりも重要だったのは、エドガーとレイヴンの絆《きずな》だった。リディアでは目覚めさせられなかったレイヴンを、エドガーが夢の中から引き戻すことができるかどうかだけが、運命を左右する条件だった。
エドガーは、そのことだけに集中して、思い通りの結果を引き出したはずだとリディアは信じる。
ふたりとも、きっと無事でいる。
「ケルピー、スコットランドまで走るつもり?」
リディアが声をかけたことを不思議に思ったように、ケルピーは少しだけ首を動かして振り返った。
「ああ、当然だろ」
「もうすぐ日が暮れるわ」
「知ってる」
「あたし、野宿はいやよ」
「心配すんな。一晩中走り続けるつもりだ」
ということは、ケルピーの背中で眠るしかないらしい。
眠ってしまっても落ちることはないだろうけれど、家へ着くまでにぐったり疲れそうだ。
疲れ知らずの水棲馬《すいせいば》と旅なんてするものじゃないわねと思う。
けれどケルピーが、真剣にリディアの身を案じてくれているのはわかっている。いつものケルピーらしくないほど強引なやり方も、事実リディアがねらわれていて、それだけ危険が大きいからだともわかる。
獰猛《どうもう》な水棲馬のくせに、変な妖精だ。
「……あなたが人間だったら、あたしは、きっと迷ったでしょうね」
「人間だったら、俺を選んだか?」
それでもたぶん、エドガーなのだろう。
などと思ってしまう自分は、どうかしているのだろうか。
浮気者の女たらしのくせに独占欲が強くて、どうしようもない男なのに。
「リディア、あの伯爵《はくしゃく》は口先だけの野郎だ。もしあいつが迎えに来なくても、悲観的になるなよ」
エドガーは来ないかもしれない。ケルピーに言われるまでもなく、リディアに不安はつきまとっている。
うそも本音も、同じ言葉、同じあまい声でささやく人。
できもしないくせに、どうにかするなんて簡単に言う。うそになってしまってもかまわないと思っているのだろうか。
迎えに行くという約束だって、いいかげんなものなのだろうか。
ううん、そうじゃない。
エドガーがさも簡単そうに約束をするのは、周囲も自分も追いつめないためだ。だから、それを実現するために果てしない努力をする。
仲間たちとプリンスのもとから脱走したときも、その後戦い続けていたときも、きっと何度となく、うまくいくなどと自信ありげに言ってみたことだろう。
だからこそついてきた仲間がいるはずで、レイヴンもアーミンもそうだったはずだ。
失った仲間たちのことも、アーミンのことも、幸せにしてやれなかったと悔やんでいる彼は、約束がうそになってしまったと自覚している。
それでもまだ、うそをつき続ける。
すべてが、本当になる日のために。
「エドガーは、来るわ」
気づけばリディアは、そうつぶやいていた。
「あのうそつきを信じるのか」
エドガーの楽天的な言葉には、切実な願いが込められている。それを、リディアがうそにしてしまうわけにはいかないから。
「ケルピー、あたしたち、本当に婚約したのよ。もう、今までとは違うの」
そう信じていいのよね?
夕暮れの淡《あわ》いオレンジに染まり始めた空を、リディアは見あげた。
*
「エドガーさま、お許しください」
レイヴンが唐突《とうとつ》にひざまずいてそう言い出すのは、昨日から何度目だろうか。
従者としての仕事に戻った彼が、エドガーの体に傷やあざを見つけるたびに、はっとした様子でいきなりあやまるのだ。
「気にするなって言ってるだろう?」
首筋の傷を隠すように、エドガーはネクタイを結んだ。
「ですが、主人に怪我《けが》を負わせるなどもってのほか。おとがめなしでは、やはり私の気がすみません」
「でもね、僕だっておまえのこと殴《なぐ》ったりしたわけだし」
手をのばして、エドガーはレイヴンの前髪をそっとよけた。
「痛くないか? それ」
不思議そうにレイヴンは首を傾《かし》げた。
「右目のまわり、あざになって腫《は》れてるけど」
片手でまぶたを押さえ、はじめて痛みに気づいたように顔をしかめる。
「それで、トムキンス氏が氷をわけてくださったのですね」
しみじみと納得した様子で言う。
「レイヴン、鏡を見てないのか?」
「鏡……、べつに見る機会もなかったので」
機会がないと見ないのか。
レイヴンの日常生活には、鏡は必要ないらしい。
あきれながらもエドガーが鏡の前に立たせてやると、ようやく理解したようだった。
「メイドたちが私の顔を覗《のぞ》き込もうとするので、変だと思っていました」
レイヴンらしいと思えば、おかしさがこみ上げてくる。
「そういうわけだから、もうお互いの怪我の話はなかったことにしよう。いいね」
小さく笑い、エドガーは窓辺に歩み寄った。
けれど、今はまだ心の底から笑うことはできない。
リディアがいない。そしてプリンスは英国にいる。
窓の外、プリンスの存在など知らないロンドンの街は、表面上、落ち着きを取り戻しつつあった。
ロンドンブリッジでの殺人事件も、次々に新しい事件やゴシップ記事が世に出回れば、人々の記憶から薄れていく。カーン氏以来、犠牲者《ぎせいしゃ》は出ていない。
しかし、プリンスの計画の要がロンドンブリッジだと思えば、あのあたりはまだまだ要注意だ。
さらに犠牲者が出る可能性はある。
もちろん状況は暗いことばかりではない。
レイヴンこそが三つめのダイオプサイドだということは、プリンスはまだ知らない。
リディアの特殊《とくしゅ》な能力のおかげで、エドガーはそれを知ることができたし、レイヴンを取り戻すことができた。
このまま女神《バウ》の復活を阻止できるなら、こちらにも勝ち目はあるのではないだろうか。
どうしても、勝たねばならない。
エドガーは強く心に念じる。
それはロンドンや英国のためではなく、レイヴンや|朱い月《スカーレットムーン》≠フ仲間たちのために。
エドガーにチャンスを与えてくれた、この青騎士伯爵家のために。
そして何よりも、リディアのために。
ようやくプロポーズに応えてくれた、彼女を幸せにするために。
「旦那《だんな》さま、汽車のチケットは取っておきました。ご訪問の手紙も、先に届くよう手配ずみです」
部屋へ現れたトムキンスは、カシミヤの上着を手にしていた。
真っ白なシルクのジレの上にそれを羽織り、紋章《もんしょう》を彫《ほ》ったカメオのタイピンを留めたエドガーは、目上の貴族への公式な訪問かというくらい、あらたまった服装だった。
「お出かけですか、エドガーさま」
だからレイヴンは、不思議そうに首を傾げた。今日はそんな、特別な約束は入っていなかったはずなのにと思っているのだろう。
「そうだよ。将来にかかわる大切な訪問だから、おまえも粗相《そそう》のないようにね」
「はい。どちらのお屋敷へ?」
「ケンブリッジ」
ケンブリッジに重要な貴族が住んでいただろうかと、レイヴンは考え込んだようだった。
「カールトン教授だよ」
「はあ」
と言いながら、やっぱり不思議そうな顔をしている。重要な人物だが、貴族ではない。
伯爵であるエドガーの方から、先方に手紙まで出して表敬《ひょうけい》訪問という形はふつうありえない。
「リディアを迎えに行く前に、教授に会う必要があるんだ」
エドガーは、窓辺の長椅子《ながいす》に寝そべっているニコに、ちらりと目をやった。
「なあニコ、きみもそう思うだろう?」
「ああ? さあな、状況を確かめないことには何とも」
ケルピーにスコットランドへ連れ去られたリディアは、何らかの魔法でエドガーが簡単には接触できない状況に置かれているだろう。彼女を連れ戻すには、教授の協力が不可欠だと、エドガーは考えていた。
「なら早く確かめてきてくれ」
彼女がプリンスにねらわれる危険は承知した上で、プロポーズした。
今はまだ、リディアの身の危険が完全に取り除かれたわけではないけれど、無事レイヴンは取り戻せた。そしてこちらも守りを固めつつあるからには、早いうちに迎えに行きたいと思っている。
「おれはあんたの手先じゃねえ。リディアが安全なところにいるなら、おれにはあわてる必要もないし」
ニコは、長椅子に張られたビロードが気に入っているらしく、頬《ほお》ずりしながらまだ起きあがろうとはしなかった。そのうえこのぐうたら猫は、生意気なことを言う。
「しっかしなあ、水棲馬の魔法なんて、どうせ面倒なことになってるぞ? ほんとにあんたって、後先考えてねえな」
考えて思い通りになるなら、誰も苦労はしない。それでもエドガーは、その場その場で最善の選択をしているつもりだ。
あのときの、せっぱ詰まった状況ではほかに方法はなかったし、ムーンストーンの契約《けいやく》に縛られている以上、ケルピーはリディアに手は出せないと思えばこそ、彼女を行かせた。しかし、リディアがケルピーのそばにいるというのは、エドガーにとってはなはだ不本意なことに変わりはない。
だから今も、自分にできる最善の策を考えている。
「ニコ、面倒なことになるかどうかは、事後の処理にかかってるんだよ」
「じゃあ何か策があるのかよ」
「コブラナイが教えてくれた。正式な婚約であれば、ムーンストーンの力は増すはずなんだそうだ。ケルピーがリディアを縛る魔法よりも、ムーンストーンが強い力を持てば、きっとリディアを連れ戻せる」
エドガーは、今度はレイヴンの方を見て、意味深に問いかけた。
「正式な婚約、の意味がわかるね?」
「リディアさんが、正式に結婚に同意するということですか?」
「すでに彼女は同意してくれた」
「…………それは、おめでとうございます」
言いながらもあきらかに、レイヴンは疑っているようだった。かすかにもうれしそうな様子を見せないどころか、不安そうでさえある。
エドガーが強引に話を進め、リディアが怒り出したらどうしようとか思っているに違いない。
少々むっとしながら、エドガーはトムキンスに顔を向けた。
「トムキンス、おまえは信じるだろう?」
「もちろんでございます。ですが旦那さま、カールトン教授がお信じになりますでしょうか」
トムキンスも、信じていないようだった。
たしかにこのぶんでは、教授がエドガーの言い分を信じてくれるかどうかは問題だった。
しかも、リディア本人に確認するのが難しい。
「そう、そこでだ。レイヴン、おまえが証人だよ」
「しかし、私はリディアさんの返事を聞いておりませんが」
「聞いたことにしろ」
「あとでリディアさんが怒りませんか?」
「おまえの主人はリディアか?」
黙り込んだレイヴンは、困惑《こんわく》したのだろうか。
しかしエドガーは、この命令を撤回《てっかい》するつもりはなかったし、レイヴンが断るわけがないと知っている。
「正式に婚約するために、あとは、教授が同意してくれることだけだ。リディアは未成年だし、父親の許可がなくては結婚できないからね」
本当のところ、リディアが結婚すると言ってくれたことを、いちばん信じられないのがエドガー自身だった。
むりやりケルピーと行かせたこともあるし、少し冷静になれば彼女は、結婚すると言ってしまったことを後悔しているかもしれない。
けれど、当然のことながら、エドガーはこのまま話を進めるつもりだ。
何があったって、手放すつもりなんかないのだから。
本当のところまだ彼女が迷っていたとしても、いつか、結婚してよかったと思ってくれると信じている。
「さあ、そろそろ出かけないと、汽車の時間に間に合わない」
懐中時計《かいちゅうどけい》をポケットにしまうと、エドガーはニコの首根っこをつかみ持ちあげた。
「おい、伯爵、何しやがる!」
「トムキンス、これを荷造りして、スコットランドのカールトン宅へ速達の鉄道便で送ってくれ」
「わあっ、やめろってば、行くよ! 今すぐ行けばいいんだろ!」
手を離すと、ニコは逃げるように姿を消した。
エドガーは、トムキンスからステッキと帽子《トップハット》を受け取る。
すべてはこれからだ。
リディアと自分の将来が明るいかどうかも、プリンスとの決戦にかかっているのだから。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは。
久しぶりの本編となりましたが、いかがでしたでしょうか。
これを書きながら、ふと思い出したことがありました。小さいころ持っていた、童話の絵本のことでした。
誰もが一度は聞いたことがあるような、有名な童話ばかりを集めたもので、『ロンドン橋の歌』とはじめて出会ったのがそれだったかと思います。
この『ロンドン橋の歌』に添《そ》えてあった絵のことを、今回、なんとなく思い出していたわけなのです。
本はもうありませんので、確かめるすべもないのですが、私のかすかな記憶では、どういうわけか橋の上に家が建ち並んでいるように見えて、子供心に変な橋≠セと思ったのでした。
この物語の時代、十九世紀のロンドンブリッジを古い写真で見る限り、立派な橋ではありますが、何ら変わったところはありません。
が、別の図版に描かれたロンドンブリッジの上に、びっしりと家が建ち並んでいるのを発見し、長年の疑問が氷解したのでした。
どうやら中世から近世にかけて、ロンドンブリッジはそのような状態だったらしいのです。
現在でもヨーロッパに残っている中世の橋には、やはり建物が乗っかっている構造のものがありますが、ロンドンブリッジの、まるで町並みの延長のように五、六階建ての建物が平然と並んでいる様子はなんだか異様です。
そんな中、橋を渡るためには、迷路のように建物の中をくぐり抜けていかなければならなかったらしいのですから、橋という感覚では計り知れない感じがします。
そんなふうなおもしろい橋がなくなってしまったのは残念ですが、きっと通行の邪魔だったんでしょうね。
十九世紀に建てられた立派な橋も、今はもうなく、ロンドンブリッジはさらに近代的な橋へと生まれ変わっています。
リディアたちが目にしただろう当時の橋は、現在はアメリカのどこかに移築されているらしいので、見ようと思えば見ることはできそうです。
でも、ロンドンに架《か》かってないと雰囲気は違う、かな?
それはともかく、本編のロンドンブリッジ事件(?)は次回へつながっていく予定です。楽しみにお待ちいただければ幸いです。
話は変わりますが、この夏私は冷蔵庫を買い換えました。
今さら当たり前の機能なんですが、新しい冷蔵庫は氷を勝手に作ってくれるので便利です。
朝起きて、冷蔵庫を開けると、昨夜には使い切っていたはずの氷が山盛りになっているのを見ると思うのです。
きっと夜中に、冷蔵庫の妖精さんがこっそり出てきて、わんさかと氷を作ってくれているに違いない……。なんて。
そういえば、冷蔵庫の妖精をアメリカのアニメ(たぶん?)で見たことがあります。
冷蔵庫の中のランプは、ドアを閉めると消えるようになっているわけですが、本当に消えたかどうか気になりますよね(ならないか?)。
とにかく、気になるという人が出てきて、何度もドアを開け閉めするものの、どうしても消えたかどうか確認できないので、小さな確認用のドアをつけるのです。冷蔵庫のドアを閉めたあと、極小ドアを開けて覗《のぞ》き込むと、ランプがまだついたまま。と、奥の小部屋(?)から小さな妖精が出てきて、ランプをパチッと消して帰っていくのでした。
冷蔵庫に住めるなら、働き者の妖精さんにはぜひパソコンの中にも住んでみてほしいです。
でもって、朝になったら原稿ができあがって……たらいいのになあ。
さて、いろいろ書き散らしてしまいましたが。
いつも愛読してくださってるみなさま、今回も最後までのおつきあいをありがとうございました。物語は山場にさしかかりつつ転換期を迎えているかなというところです。たぶんもうしばらく続きます。
そして毎回、惚《ほ》れ惚《ぼ》れするようなイラストを描いてくださっている高星《たかぼし》麻子《あさこ》さまにも感謝しつつ、そろそろ締めくくらせていただきたいと思います。
それではみなさま、できればまたの機会にもお目にかかれますように。
二〇〇六年 八月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 女神に捧ぐ鎮魂歌」コバルト文庫、集英社
2006(平成18)年10月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年4月23日作成