伯爵と妖精
涙の秘密をおしえて
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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目次
離れていると気がかりなこと
はじまりの人魚《メロウ》の島
よくないことの前兆《ぜんちょう》
ひとり淋《さび》しい夜に
残された時間
金色の髪の貴婦人
命とひきかえにして
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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離れていると気がかりなこと
親愛なるリディアへ
昨日、ロンドンではずいぶん雪が降ったよ。
朝から馬車の事故があちこちで起こって、紳士《しんし》淑女《しゅくじょ》が屋敷の前で何人もひっくり返っているのは、なかなかの見物《みもの》だったな。
テムズ河もすっかり凍って、スケートを楽しむ人たちでいっぱいだった。
手をつないで楽しそうにすべってる人を見るとね、きみがいたらってつい考えてしまうんだ。
クリスマスシーズンは家族と過ごすものだから、きみも父上とおだやかな休日をおくっているのだろうね。どうしているのだろうと思いながら、いつかはクリスマスも新年も、きみと過ごせるようになりたいと切実に願うよ。
もうすぐ十二夜だ。
世間的にはクリスマスシーズンも終わりということだけれど、いつこちらへ戻ってきてくれるのかなんて、無粋《ぶすい》なことを訊《き》くのはやめよう。
休暇《きゅうか》はきみの希望どおりにするっていうのが、最初からの契約《けいやく》だったから、人使いのあらい雇い主だとは思われたくない。
今すぐ会いたい気持ちをおさえて、手紙を書くことで気を紛《まぎ》らせている。
でも本当は不安なんだ。きっときみは僕を誤解したまま、スコットランドへ帰ってしまったから、もういちどロンドンへ戻ってきてくれる気があるのだろうかって。
そちらもきっと、寒いのだろうね。風邪《かぜ》をひいたりしていないかと心配だよ。
きみはいつも、僕の言葉を信じられないと言うけれど、どうかひとつだけは信じてほしい。
離れていてもきみを想っている。
[#地付き]エドガー・アシェンバート
手紙を折りたたんで、栗《くり》の木の小箱にしまうと、リディアは小さくため息をついた。
妖精国《イブラゼル》伯爵《はくしゃく》、エドガー・アシェンバートの妖精博士《フェアリードクター》となって以来、こんなに長いあいだ彼と離れているのははじめてだった。
長い休暇をむりやりもらってきて、ロンドンを遠く離れたスコットランド、エジンバラ近郊《きんこう》の自宅で過ごしているものの、リディアはどうにも落ち着けないでいる。
エドガーから、毎日のように手紙が届くからだろう。
リディアを婚約者扱いしてはばからない伯爵、彼のあまい言葉を信じきれず、このまま好きになってしまったら怖いと、どうしていいのかわからないまま逃げ出してきた。
なにしろ彼は、百戦錬磨《ひゃくせんれんま》の口説《くど》き魔だ。この手紙だってどこまで信じていいのやら。
けれど、送られてきた手紙を読めば、リディアはロンドンでのちょっとしたできごとに頬《ほお》をゆるめ、家族のいないエドガーの淋《さび》しさを感じて胸を痛め、いつになく真摯《しんし》な言葉に心をゆさぶられる。
手紙のエドガーは、無邪気《むじゃき》で素直な人に思える。リディアのよく知っている、大胆で不遜《ふそん》で貴族的で、相手によってはとことん底意地の悪い美貌《びぼう》の悪魔とは別人のようだ。
でもエドガーには、繊細《せんさい》で淋しげなところがあって、そのせいでリディアは、ずるずるとロンドンに居着《いつ》き彼の屋敷に通い、婚約者≠ノさせられたままになっていたのだった。
左手には、婚約指輪≠フムーンストーンがおさまっている。
エドガーにしかはずせないのに、忘れてつけたまま帰ってきてしまった。
とはいえ、妖精の魔力を秘めているらしいムーンストーンは、その管理人である鉱山妖精のコブラナイが、とりあえず人の目には見えないようにしてくれた。
父にも、町の人たちにも、気づかれずにすんだ。
リディアの唯一《ゆいいつ》の家族である父は、大晦日《おおみそか》から新年にかけておこなわれるパーティのあと、大学が休みのうちに地質調査に行きたいと、北欧《ほくおう》へ出かけている。
ひとりになったリディアは、ロンドンへ行こうと思えばいつでも出かけられる状態なのだが、気持ちが定まらずにぐずぐずと過ごしているのだった。
文机《デスク》を離れて窓辺に歩み寄り、くもったガラスを指先でこする。
灰色の雲が低くたれ込めた外は、午後も早いうちから日暮れの気配《けはい》だ。
外気を受けとめて冷え切ったガラスは氷のようで、暖炉《だんろ》であたためた室内の空気に接すると、見る間にくもってしまう。
もういちどくもりをふき取ると、赤茶の髪をおろしたままの自分が、うっすらとガラスに映った。
ふつうの人には見えない妖精を映す、金緑の瞳。魔女のようだと人から忌《い》み嫌われる瞳が、ガラスの向こうから、いかにも負けん気が強そうに自分を見つめ返す。
エドガーが、「想っている」なんて書いてよこす少女が、この自分だとはいまだに信じられないから、リディアはなかなか彼と向き合う気になれない。
「リディア、もしかして、あいつからの手紙待ってる?」
戸口に現れたのは、コーヒー色の髪を無造作《むぞうさ》に束《たば》ねた少女だった。
「えっ、やだロタ、何言ってんの? そんなわけないでしょ」
あわてて否定するが、ロタは不審顔だ。
もと海賊《かいぞく》の彼女は、実の祖父と再会し、しばらくロンドンで暮らすと言っていたが、数日前からひとりでこちらへ遊びに来ているのだった。
「でもさ、毎日この時間になると窓辺に張りついてる。郵便配達が来る時間だよな」
「そうだったかしら」
「あっ、郵便屋!」
反射的にガラス窓に顔を寄せたリディアは、「なーんてね」とふざけたロタの声に我に返った。
恥ずかしくなりながら、頬をふくらませる。
「ひどいわ」
「ごめんごめん、でもべつに隠すことないじゃないか」
肩をたたかれ、またため息をつく。
「ただね、毎日手紙が来てたのに、このところ来ないから気になっただけなの。病気とか、怪我《けが》とかしてるんじゃないかって」
さっきリディアが読み返していたのは、以前に届いた手紙なのだ。
「あのエドガーが? そんなにヤワなわけないって。つーかこれはあいつの作戦に決まってる」
椅子《いす》に腰をおろし、ロタは足を組む。祖父と暮らすことにしたとはいえ、海賊の女|首領《しゅりょう》だったときの男っぽいクセは直らないらしい。
「作戦?」
「突然手紙が途絶《とだ》えると、あんたがそんなふうに心配するって知ってるのさ。で、休暇を切り上げてロンドンへ戻ってきてくれるって作戦だよ」
なるほど。さすがはエドガーの昔なじみだけあって、悪党ぶりもタラシぶりも知っているロタだ。
うっかりだまされそうになったわ。
気を取り直すとリディアは、もう手紙なんか待つもんですかと窓辺から離れた。
しかし、郵便屋が鳴らす鈴の音が聞こえたとたん、部屋を飛び出していた。
庭に出て、木戸を押し開け、郵便受けに駆《か》け寄る。ちらりとのぞいた白い封筒《ふうとう》を取ろうとしたら、毛のふさふさした灰色の猫が、横からそれを奪い取った。
「来た来た、おれ宛《あて》だ」
「ニコ、あなた文通なんかしてるの?」
驚くリディアの方を見て、郵便受けの上に二本足で立った妖精猫は、得意げに胸を張った。
「手紙ってのは紳士のたしなみだろ」
きちんとネクタイをして、毛並みやマナーに気を配る彼は、妖精だが紳士のつもりだ。
リディアの幼なじみで相棒でもあるが、人間とのつきあいが長いせいか、読み書きもできるし、リディアが知る妖精たちの中ではかなり人間くさい。
しかし、どうしたって姿形《すがたかたち》は灰色の長毛猫なのだから、人間くさいほど違和感《いわかん》がある。
「リディアお嬢《じょう》さま、ニコ殿《どの》、聞いてくだされ」
茂《しげ》みの中から聞こえてきたのは、コブラナイの声だった。団子《だんご》っ鼻《ばな》にもじゃもじゃ髭《ひげ》の小さな妖精は、垣根《かきね》によじ登るとあわてたように訴えかけた。
「一大事ですぞ」
妖精たちは何かと大げさだ。だからリディアは、コブラナイの一大事よりも気がかりな郵便受けの中をさぐってみたが、手紙はニコ宛の一通きりだったらしく、何も入っていなかった。
「お嬢さま、ご婚約者の青騎士伯爵にかかわることです」
ようやくリディアは、コブラナイの方に振り返った。
「あのね、エドガーは婚約者じゃないの」
青騎士伯爵というのは、妖精国《イブラゼル》伯爵の別名だ。
しかしリディアは、エドガーと正式に婚約したわけでもなんでもない。ちょっとしたいきさつがあって、エドガーから一方的に婚約者扱いされているだけだ。
何度もそう言っているのに、リディアがムーンストーンの婚約指輪をあずかっている以上、コブラナイにとって青騎士伯爵の婚約者という認識は変わらないらしい。
「なんと、伯爵のご先祖は、百年前にも英国に現れたことがあるそうなんです」
百年前?
公式な記録では、伯爵は三百年近く現れていないはずだった。
「そんなこと、誰が言ったの?」
「川縁《かわべり》の白鳥の仲間たちですよ。彼らと暮らしながら旅を続けている妖精がいるのはご存じでございましょ?」
もちろん、渡り鳥にまじって旅をする妖精たちがいるのは知っている。しかし野生の鳥と友達の彼らは、人に近づくことはほとんどないはずだ。
「彼らの群《むれ》は、青騎士伯爵に助けられたことがあるそうで」
「本物の伯爵か? 傍系《ぼうけい》のニセ者かもしれないぞ」
ニコが口をはさんだ。
たしかに、アシェンバート伯爵家の血筋《ちすじ》は途絶えたと言いつつ、貴族の資格を持たない庶子《しょし》の血は残っているらしく、その人物が、新しく伯爵家を継いだエドガーと対立している。
「妖精国《イブラゼル》の兵士やバンシーを連れていたというから本物でしょう。伯爵の血を引いていようと、傍系にそんなまねはできませんよ」
人間でありながら妖精国を治めていたという青騎士|卿《きょう》は、イングランド王に忠誠を誓い、伯爵位を賜《たまわ》った。青騎士伯爵と呼ばれるようになった彼の子孫は、英国内にも領地を持っているが、イブラゼルという、一般的に架空《かくう》の土地と信じられている島が本拠地《ほんきょち》の領地であり、そこに自分の私兵を持っていたとしても不思議ではない。
渡り鳥の妖精が会ったのは、本物の伯爵に間違いなさそうだ。
でも、とすると、本物の伯爵の子孫は、まだどこかにいる可能性があるのだろうか。それともその、百年前の人物こそが最後の伯爵なのだろうか。
その人物は、先代がメロウにあずけた宝剣を、どうして受け取りに行かなかったのだろう。
「コブラナイ、その渡り鳥の精に会ってみたいわ」
「はあ、それが、早々に旅立ってしまいました。伯爵とお妃《きさき》さまにお目にかかりたいとは言っておりましたが、事情が許さず……」
お妃じゃないってば。
ついむっとしてしまう。そんなリディアの代わりにニコが訊いた。
「事情ってなんだ?」
「それがその……」
コブラナイは言いにくそうだ。
「おいリディア、いいものやるよ」
そのとき、植え込みを一またぎにして、精悍《せいかん》な顔立ちの青年がリディアの目の前に現れた。
「な、何なの、ケルピー」
乱れた黒い巻き毛をかきあげ、無邪気に笑ったケルピーは、リディアの頭上に白い羽をぶちまける。
ふわふわと漂う白い羽毛は、天使の羽のようで、うっとり見とれるほどロマンティック……なんてことは、この獰猛《どうもう》な水棲馬《ケルピー》を前にしてはありえなかった。
「あなた、白鳥を食べたのね!」
「羽だけは取っといてやったんだぜ。おまえのためにな。ほら、このあいだ散歩の途中に羽拾って、うれしそうにしてただろ」
そりゃ、純白の羽がきれいだったから。
しかし、ケルピーがかぶりつきながらむしり取ったに違いないと思うと、勝手ながら印象が違う。
白鳥たちも、このエジンバラ近郊の低地《ローランド》に、高地《ハイランド》に棲《す》む水棲馬がいるとは思わなかっただろう。仲間を食べられて、白鳥の群が妖精たちと急いで旅立ってしまったことを悼《いた》みつつ、リディアは衣服についた羽毛を払った。
上機嫌《じょうきげん》のケルピーは、白い羽をくわえながらリディアを覗《のぞ》き込む。
「リディア、やっぱりスコットランドはいいよな。新鮮な食い物がいっぱいで、水もきれいだ。おまえもこのまま、ここで暮らしたくなってきただろ?」
「いけませんお嬢さま、このような|魔性の妖精《アンシーリーコート》の言うことになど耳を傾けては」
身を乗り出すケルピーの巻き毛を、コブラナイが引っぱった。
「あの伯爵《はくしゃく》には、おまえを幸せになんてできねえよ。こっちへ帰ってきたころおまえ、元気なかったじゃないか。あいつのせいなんだろ。女癖《おんなぐせ》の悪さに苦しめられてるんだって?」
「誰に訊《き》いたの?」
リディアがちらりとニコを見ると、彼は目をそらした。
まったく、おしゃべり猫。
けれど、ケルピーの言うことはあたっているかもしれない。
エドガーとのつかず離れずの関係が変わってしまうかもしれない、自分がそれを望んでいるのかどうかわからなくなって逃げ出してきたけれど、スコットランドで過ごして、リディアは少しずつ以前の自分を取り戻してきている。
相変わらず町の人たちは妖精を信じていないし、リディアを変わり者と敬遠しているけれど、人に陰口《かげぐち》をたたかれても、理解してもらえなくても、妖精たちと過ごしていれば淋《さび》しいと思わなくなってきている。
エドガーのもとを飛び出してきたときは、妖精がそばにいてくれても、なんとなく淋しくて心が乱れていた。
彼といっしょにいたときリディアは、自分が人並みの、あるいはそれ以上の、魅力的な女の子だと錯覚《さっかく》をしていたかもしれない。
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貴族で美形で女の子にもてまくっているエドガーが、自分だけを本気で好きになってくれるなら……、なんて夢みたいなことを一瞬でも望んだと気づけば、うぬぼれているとしか言いようがないではないか。
人には分相応《ぶんそうおう》という言葉がある。ひっそり妖精たちと暮らしているのが、いちばん自分には合っているのだろう。
「いえお嬢さま、殿方《とのがた》の浮気は病気みたいなものです。寛大《かんだい》な気持ちで愛情を持って接すれば、かならずや癒《い》え、お嬢さまだけを愛するように……」
ケルピーの髪の毛を引っぱり続けながら、コブラナイはまた言った。
なるわけないでしょ。だいたい、どうしてそこまで寛大でいなきゃいけないの?
「浮気がご心配なら、早く伯爵のもとへ戻られるべきです。お嬢さまがケルピーなどと浮気をなさってはいけません」
「待てよ、そりゃいい考えだ。リディア、伯爵に思いしらせてやりたきゃ協力するぞ」
「しなくていいわよ!」
「では早くロンドンへ」
「こらチビ、余計《よけい》な口出しするな。リディアはもうロンドンへなんか行かねえよ」
ケルピーがコブラナイをつまみ上げる。食べられるかと思ったらしい鉱山妖精は青くなって気絶した。
「もうケルピー、意地悪なことしないの」
「みんな、お茶の用意ができてるよー」
ロタが呼んだ。まっ先にニコが郵便受けを飛びおり、急ぎ足で戸口に向かう。そのへんの茂みから、小妖精たちがわらわらと出てくる。
コブラナイもむくりと起きあがり、ケルピーの手から逃げるように駆け出す。
「人間の食いもんは、あんまり腹の足しにならないんだがな」
そう言いつつ、ケルピーも家の中へ入っていく。
まったく、言いたい放題で勝手なことばかりの妖精たちだ。
それでもリディアは、彼らの悪意のない気まぐれと身勝手はきらいじゃない。
うまくつきあえば、親切にしてくれる。
なにしろこの妖精だらけの、町の人たちも寄りつかないカールトン邸《てい》では、家事を手伝うのは|家付き妖精《ホブゴブリン》たちだ。
地元ではいちおう名士の家だし、大学教授の父は町の人たちにも尊敬されているから、父が帰ってきているときだけは、さすがに通いの家政婦が来てくれる。けれど、一人娘は問題ありと思われていて、リディアがひとりで暮らしているあいだは人を雇ってはいなかった。
そんな自分の家に、れっきとした人間がいて、お茶だよとリディアに手を振る。
ホブゴブリンが用意したお茶は、いつのまにかテーブルに置かれていたりするが、ロタは気味が悪いと思わないらしい。
リディアには希有《けう》な人間の友達と、親しい妖精たちに囲まれていられる。とても幸せな時間ではないか。
このままがいちばんいいのかもしれないと思う。
ここにいれば、エドガーに心惑《こころまど》わされることも……、少ない、はず。
ロンドンへ帰らなかったら、彼はどう思うだろうか。
「リディア、何やってんの?」
夜遅くに、書庫の明かりをつけてごそごそやっていたら、ロタがのぞきに来た。
「まだ寝ないのか?」
「ええ、ちょっと調べたいことがあって」
リディアは、母の日記をさがしていたのだった。
フェアリードクターだった母の日記には、リディアの役にも立ちそうな、妖精に関する様々なことが書かれている。
青騎士伯爵に関する記述がないかと、何冊もあるそれをひっくり返してみたが、これといって見あたらない。
伯爵はイングランド貴族だから、スコットランドとはあまり縁がなかったかもしれない。
母も、物語として有名なことしか知らなかったのではないだろうか。
手に持っていた燭台《しょくだい》をテーブルに置いたロタは、そこにあったリディアの走り書きに目をとめた。
「青騎士伯爵のこと?」
「ええと、ほら、あたしはいちおう伯爵家のフェアリードクターでしょ。エドガーには妖精のことがわからないし、でも彼が、ちゃんと妖精たちとかかわれる伯爵にならないと、この先困ると思うの」
エドガーは、本物の伯爵になりたがっていた。なれなければ、本物の伯爵の不思議な力を受け継ぐ敵に勝てないからだ。
コブラナイが言っていたことも気になるし、このさい伯爵家についてきっちり調べた方がいいのではないかと思いついたのは、べつにエドガーが気がかりなのではなく、自分の仕事だからだ。
リディアが言いわけのようにそうつけ加えると、ロタは、不思議そうに首を傾《かし》げた。
「なあリディア、本当のところさ、エドガーのこと、好き?」
「えっ」
まさか、と笑い飛ばすつもりだったが、ロタがそれを許さないくらい真剣に見つめるので、リディアは口ごもった。
「離れてみて、やっぱり好きだと思ったなら、あいつの性根《しょうね》をたたき直してやるよ」
直るようなものかしら。
悩みながら、日記帳を閉じる。
「好きかどうか、やっぱりよくわからないわ。あたしにあまい言葉をささやいたのは彼がはじめてだし、まじめに思えることもあるし、それでときどき、信じたくなったりもするけど、ここにいると、エドガーがいなくても、あたしはじゅうぶん幸せな気がするの」
「でも、奴のために夜中まで調べものだろ」
「これは、どっちかっていうとあたしのためよ。フェアリードクターの仕事は貴重なの。だってあたしは、妖精がいなかったら、きっと不幸だもの」
「そっか。ここにいる妖精たちって、ほんとにあんたが好きって感じだもんな」
ロタは微笑《ほほえ》んだ。リディアも微笑みながら、ふと考えた。
フェアリードクターだった母は、故郷を捨てて父と駆《か》け落ちしたという。
親しい妖精たちと離れ、ニコだけを連れて、たったひとりの男性しか頼れる人のいない土地で暮らすことを選んだのだ。
どうしてそんな決意ができたのだろう。
父みたいにまじめな人なら信頼できるかもしれないと思いながらも、相手がまじめか否《いな》かの問題ではないような気もする。
母の日記を紐《ひも》解いたのは、それも知りたかったのかもしれないが、書かれているのは妖精のことばかりだった。
妖精と親しい母は、たぶん自分の死期を知っていた。
だから、自分と同じように妖精が見える娘のために、できるだけ妖精について書きとめようとしたのかもしれない。
「ねえロタ、あたし、マナーン島へ行こうと思うの」
「マナーン島って?」
「エドガーの領地の島よ。昔から伯爵家とつながりの深い、人魚《メロウ》の一族が棲んでるの。伯爵家のこと、エドガーもあたしもよくわかってないけど、もっと知る必要があるわ」
エドガーが青騎士伯爵になれるように協力したのはリディアだ。けれど、本物の青騎士伯爵の力は、妖精族の国をひとつ治めるくらい大きなもの。
伯爵家の顧問《こもん》フェアリードクターとはいっても、そんな力のないリディアにできることは、地道に調べることくらいだ。
「そのためにマナーン島へ? けどリディア、エドガーとのことで大事なのは、あんたの能力じゃなくて気持ちだと思う」
けれど気持ちのことは、リディアには答えを出すのが怖いのだ。
だから別のことに意識を向けようとしている。
マナーン島へ行くのは、ロンドンへ戻るのを遅らせるためであるのかもしれなかった。
朝、目がさめると、ポール・ファーマンの目の前にはまぶしい金髪の青年がいた。
「おはよう、ポール」
しゃべらなければ、寝はけた目には肖像画《しょうぞうが》だと映っただろう。
帽子《トップハット》とステッキを手にして、背筋《せすじ》を伸ばして立っている。端整《たんせい》な顔に浮かぶ柔和《にゅうわ》な笑みといい上品な身なりといい、服のしわひとつ取っても完璧《かんぺき》な美術品だ。
しかし背景がいただけない。なんだこの、はげしく散らかったきたない部屋は。
画家としてポールは、美意識に爪《つめ》を立てるあまりの惨状《さんじょう》に腹が立ってきたのだった。
こんなひどい場所にどうして貴族の彼が。いや、まだ寝ぼけているのかもしれない、と目を閉じかけたが、魅惑的《みわくてき》な灰紫《アッシュモーヴ》の瞳がじっとこちらを見ていることに気づくと、本物のアシェンバート伯爵だとようやく我に返った。
「は、伯爵……、どうしてこちらに……、いえあの、すみませんこんな格好で」
あわてて飛び起きる。
ベッドの上で姿勢を正しても、もともとのびっぱなしのくせ毛は悲惨《ひさん》なほどボサボサだし、画家仲間と飲んで帰ってきて服を着たまま眠ってしまったものだから、何もかもくしゃくしゃだ。
「返事がないから、勝手に入ってきたよ。鍵《かぎ》もかかっていないし、死んでいるんじゃないかと心配になってね」
死んでいるとはまた物騒《ぶっそう》な。
「はあ、どうもご心配をおかけしました。ちょっと飲み過ぎまして、明け方戻ってきて眠り込んでいただけです」
「そう。留守にしてて命拾いしたね。このごろは居直《いなお》り強盗も多いっていうし、ひょっとすると例の連中がきみをねらったのかもしれないしね」
だらしなくはずれたボタンを直しながら、命拾いという言葉を不審《ふしん》に思って首を傾げたポールは、この寝室も、その向こうに見えるアトリエも、めちゃくちゃにひっくり返されていることに、やっとのことで気がついた。
もともと散らかった部屋だが、そんな比ではない。
「ええーっ! ど、どうなってるんですか、これは!」
酔っぱらって帰ってきて、ベッドに倒れ込んだきり記憶がない。
部屋の惨状にさえ気づかなかったらしい。
ポールはベッドから転がり落ちかけ、どうにか立ちあがるとアトリエへ駆け込む。
「盗まれたものがないか調べた方がいいよ」
「で、でも、盗まれるような金目のものは何も……」
なにしろ駆け出しの妖精画家だ。今のところ、ポールを引き立ててくれているのはこのアシェンバート伯爵《はくしゃく》くらいで、絵もほとんどが彼からの注文だ。
作品を盗んでいったって、まともな値段はつかないだろう。
事実、絵は床に放り出されたきりだった。
しかしポールにとっては大切な作品だ。急いで拾い集め、汚れや絵の具のはがれがないか確認する。
「先日、スレイドのクラブもやられたんだ。使用人たちがみんな縛《しば》られて地下室に詰め込まれていたってさ」
スレイド氏は、ポールの絵を扱ってくれている画商《がしょう》で、上流階級を相手にする高級クラブのオーナーだ。
しかしそれよりも、彼が|朱い月《スカーレットムーン》≠ニいう秘密結社の幹部で、ポールもその団員だというところが、今回のできごとと関係があるように思えた。
もともとは装飾芸術家の組合だった結社だが、組織を率いてきた芸術家たちが、プリンス≠ニ呼ばれる人物の陰謀《いんぼう》によって殺された。
その人物こそ、ここにいるエドガー・アシェンバート伯爵の家族を殺し、まだ子供だった彼をアメリカへ連れ去って奴隷《どれい》にしていた男だ。
プリンスから逃《のが》れてきた伯爵が朱い月≠フリーダーとなり、協力して復讐《ふくしゅう》を誓っているが、英国へ来ているプリンスの手先が、今また動き始めたということだろうか。
「じゃあこれは、……ユリシスの、いやがらせなんでしょうか」
ポールもちらりと見知っている、ユリシスという一見十五、六の少年が、プリンスの側近《そっきん》なのだ。
「何かをさがしているんじゃないかと思う。たとえばポール、きみの父上はプリンスの手先に殺された。なぜねらわれたのかわからないと言っていたよね。もしも彼が、プリンスにとってまずいもの、あるいは必要なものを持っていたとしたら」
「そ、それを息子のぼくがあずかったかもしれないと思ってるんでしょうか」
「心当たりは?」
「ありませんよ」
「スレイドもないと言っていたんだけど、もうひとつの問題は、きみが殺された画家、オニールの息子だということや、彼自身が極秘にしていたはずの朱い月≠ニのつながりがどうして知られたのかだ」
なるほど。父が殺されたとき、巻き添えで死にかけたもののたまたま助かったポールは、父の知人で|朱い月《スカーレットムーン》≠フ同志だったファーマンという画家の養子になった。
しかし父は、朱い月≠ノ属していたことを家族や友人にも話していなかった。
そして、ポールがファーマンの本当の息子ではないことを知っているのも、ごく一部の人間だけだ。
もちろん伯爵は知っているし、だからこそ、どこからもれたのかを気にしているのだろう。
「でも、盗まれたものもなさそうですし、ぼくは何も持っていないと納得してくれたのではないでしょうか」
「それはどうかな、オニールの息子が生きていたとなれば、ただではすまないかもしれない。もしも彼が、重要な秘密を握っていたならね」
伯爵は、物騒なことを平然と言う。
「……どうすればいいんでしょう」
ポールは身震《みぶる》いした。できれば殺されたくはない。
「しばらく伯爵邸に避難しておいで」
ありがたく頷《うなず》くポールは、この年若い伯爵を、たのもしい人だと信頼しきっていた。
優雅で貴族的な美貌《びぼう》の青年は、今どき貴族でもめずらしいくらい、強いカリスマ性を持っている。
冷静で寛大《かんだい》、物|怖《お》じしないし頭も切れる。それでいて気さくなところが、ポールも含め朱い月≠フ若者たちを惹《ひ》きつけている。
女性関係の派手さだけはいただけないが、今は意中の少女のためにひかえているようだし、とにかく立派な人物だと思っている。
「奴らがほしがっているものを、こちらが先に見つけられればいいんだけどね」
「父の遺品は、スケッチと習作が数点だけなんです。ごらんになりますか?」
それらも床に散らばっていた。
「少なくとも、奴らがさがしたのは絵ではなさそうだ」
たしかに、何か重要なことが描かれた絵や文書が目当てなら、紙切れのたぐいはごっそり持って行っているだろう。
「ところでポール、きみもすみにおけないな。朝っぱらからおじゃまをしてしまったようだ」
絵を拾い集めていたポールは、伯爵の言葉の意味がわからずに、首を傾げながら振り返った。
開け放した寝室のドアのそばに、伯爵が立っている。彼の視線の先、ポールのベッドの上で、毛布のかたまりがもぞもぞ動く。
と思うとそれはむっくり起きあがり、毛布をはぎ取ってこちらをじっと見た。
長い髪の少女だった。年の頃は十四、五。血色《けっしょく》の薄い白い顔に、ほとんど下着みたいな薄っぺらな衣服を着ていた。
驚いて声も出ないポールを後目《しりめ》に、伯爵が彼女に歩み寄った。
「失礼、お嬢《じょう》さん。きみはポールの恋人?」
優雅ににっこり笑って、女性の警戒心《けいかいしん》を解くのはお手のものだ。ほっとしたような顔をした彼女が、頷きかけたのでポールはあわてた。
「伯爵! 違います! ぼくの知らない人です。……ええときみ、ど、どうしてここに」
と、少女は急に泣き出しそうに顔をゆがめた。
「ああ、泣かないで。大丈夫、僕が彼に言い聞かせてあげよう。ポールはまじめな青年だよ。きっと悪いようにはならないから」
伯爵は、少女をやさしくなだめながら、ベッドの下に落ちていた緑色のフードつきマントをその肩にかける。ポールのものではないから、彼女のマントなのだろう。
それから、呆然《ぼうぜん》としているポールを引きずって、隣室《りんしつ》へ連れ出した。
「あの、本当に、ぼくには身におぼえがないんです」
自分の方が泣きたいと思いながら、ポールは訴《うった》えた。
「しかし彼女は、現にここにいる」
「ええと、昨日は酔っていてあまりおぼえてなくて……」
「なるほど。よくあることだよ。けれどこういう場合、冷静に対処しなきゃいけない。向こうに騒ぎ立てられるのがいちばん面倒なんだ。とにかく、感情的にさせないためにも、身におぼえがないとか本人に言うのはもってのほかだよ。穏便《おんびん》に、なかったことにするしかないんだから」
声を落とし、たまに悪魔のようなこの伯爵はささやくのだ。
「伯爵、彼女に悪いようにはならないって言ったじゃないですか」
「こういう問題を処理する方法は色々あるってことさ。うまく別の男をあてがえば後腐《あとくさ》れもない」
「……そんなこと、いつもしてるんですか?」
心外だと、伯爵は眉をひそめた。
「酔っぱらっておぼえもないうちに連れ込んだことなんてないよ。だいたい、思い出せない情事なんて楽しくもなんともないし、あとあと問題になるようなミスじゃなくてミセスを誘うのが常識だろう」
常識だと力説されても……。ポールはほとんど脱力していた。
「あのう……、その人は、わたしのことを知らないんでしょうか」
不安げに、少女がドアの隙間《すきま》から口をはさんだ。
「わたし、自分のことをおぼえてなくて、ゆうべ、その人がわたしを知ってるみたいに声をかけてくれたので、きっと親しいかたに違いないと思い、ついてきてしまったんです」
「ポール、やっぱりきみが誘ったようだよ」
「えっ、いやべつに、誘ったわけじゃ」
ようやく少し思い出してきた。
この少女は、通りの片隅《かたすみ》に座り込んで泣いていたのだった。それで声をかけた。道行く人がみんな、泣いている少女を無視して歩いていくのが不思議だった。誰も彼女の姿が見えていないのではないかと思うほどだった。
細い記憶の糸をたぐろうと必死のポールの隣で、伯爵は少女に問う。
「で、お嬢さん、きみはゆうべここに泊まったの?」
楽しそうに問う伯爵は、他人事《ひとごと》だと完全におもしろがっている。
「はい。そばにいると、なんだかなつかしいような気もして……」
「とすると、運命的な出会いかもね」
おもしろがっている人に任せておいては、さらに事態が混乱しそうだ。ポールは自分で少女に問うことにした。
「あのー、それではくは、あなたに、その、何かしましたでしょうか」
ともかく彼女の立場や気持ちも考えて、誠意ある態度を取るべきだと腹をくくって返事を待つ。
「何かって、なんでしょうか」
しかし、心底不思議そうに訊《たず》ね返された。
「つまりね、ここへ来てからきみとポールはどうしたかってことだよ」
露骨《ろこつ》すぎませんか、伯爵。
「彼は、ベッドに倒れ込んで眠ってしまいました。それでわたしも、眠ることにしたんです」
「なんだ、つまらない」
伯爵はそう言ったが、ポールはほっとして力が抜け、椅子《いす》に座り込んだ。
「それでお嬢さん、きみは自分の家も名もおぼえていないってこと?」
「はい。……ただ、わたしは高貴なかたにお仕《つか》えしていて、主人の名だけはおぼえております」
「貴族の家に奉公《ほうこう》でもしていたのかな。何て名だい?」
「グラディスさまです。それはお美しく勇敢《ゆうかん》なかたで……」
そう言いながら少女は急に悲しくなったのか、ぽろぽろと涙をこぼしはじめた。
「すみません、どういうわけか主人のことを思うと泣けてくるのです」
「そのかたに何かあったの?」
身の潔白《けっぱく》が判明して、ポールは純粋に少女を思いやる気持ちになっていた。
「わかりません……」
涙は止まらず、彼女は顔を覆《おお》う。
「そんなすばらしい女性なら会ってみたいな。ファミリーネームがわからないと、知り合いの貴族にそういうレディがいるかどうか今すぐ思いつかないけど、調べてみよう」
「ありがとうございます……」
そのとき、ふと視線をおろしたポールは、気になるものを見つけ、少女の足元に身を屈《かが》めた。
床の上に、いくつもの黄金色のまるい玉が散らばっている。さらにまだ、上から落ちてくる。
それは、少女の涙だった。
ぱらぱらと音を立てて、次々にこぼれる。
さすがに伯爵も気づき、拾いあげる。
「これは、琥珀《こはく》……?」
「ど、どういうことでしょう」
ふたりして、まだ泣き続けている少女を見やる。
彼女の涙は、しずくとなって頬《ほお》をつたうが、空気に触れると固まるかのように、床に落ちるときにはすっかり琥珀と化しているのだ。
どう考えても、人間ではない。
「妖精、なのか? きみは……」
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伯爵の質問に、泣きながら少女は頷いた。
「じゃあその、きみのご主人も妖精?」
彼女は首を横に振ったが、違うという意味かわからないと言っているのかどちらだろう。
「伯爵、これはリディアさんを呼び戻した方が」
このごろ、本物の妖精を目にしても驚かなくなったポールだが、専門が妖精画家でも妖精のことはわからない。
妖精博士《フェアリードクター》のリディアが、長期のクリスマス休暇《きゅうか》を取っていることは知っているが、そろそろクリスマスシーズンも終わる。
「仕事だと呼び戻せって? それはできない」
「えっ、どうしてですか?」
「仕事なら、責任感のあるリディアは帰ってくるだろうけど、そうじゃなくて、僕のために戻る気になってほしいんだ」
「ですがいまだに戻ってくる様子が……」
言いかけ、ポールはあわてて口をつぐんだ。
女の子は選《よ》り取《ど》りみどり、ちょっと口説《くど》けば誰でも夢中にさせることのできる伯爵が、どういうわけか思い通りにできない少女。
恋人、と伯爵は周囲に公言しているが、どうにも恋人未満といった様子だ。
彼女の長期休暇を受け入れるしかなくなった事情をポールは知らないが、めずらしく慎重《しんちょう》になっている伯爵は、得意の強引なやり方で迎えに行くことすらできないらしい。
それを指摘すると、一気に機嫌《きげん》が悪くなるのがこのひと月の状態だったから、ポールは冷や汗を感じた。
にっこり笑って、何倍も辛《しん》らつな言葉が返ってくるのだ。
しかし今は、彼の機嫌は悪くなかったらしい。ポールの失言は聞き流してくれた。
「とにかく、僕はこれからリディアに会いに行くところだ。でも仕事の話はしたくない」
「やっと迎えに行く気になったんですか?」
ほっと胸をなで下ろす。
「リディアがマナーン島へ来るらしいって、調査員からの報告があったんだ。あそこは僕の領地だからね、僕に会いたいって言ってるようなものだろ」
調査員って、誰かに身辺《しんべん》を調べさせているのだろうか。
彼女が報《しら》せてきたのでないなら、伯爵が来るとは夢にも思っていないのではないか。
むしろ、会いたくないから報せてこないのでは……。
しかしさすがに、それを口にするのは思いとどまった。
「でしたら、この少女を連れていって、リディアさんに引き合わせてくださいませんか」
「仕事の話はしないって言っただろ。それに女の子を連れていって、また誤解されたらどうするんだよ」
「はあ、ではぼくも行きます」
「だめだ。リディアとふたりで過ごすんだから。この機会に、どうにかしてわだかまりを解かなきゃならない」
どうやら、自分の縄張《なわば》りでなら少しは強気になれるということのようだ。
「ポール、リディアが帰ってきてくれるまで、責任持ってきみが彼女の面倒を見てやってくれ」
「えっ、で、でも、妖精ですよ。どうやって面倒見るんですか?」
「まかせる。ああもうすぐ汽車の時間だ」
懐中時計《かいちゅうどけい》を取りだした伯爵は、このひと月見せなかったほどのうれしそうな顔でにっこり笑った。
「じゃあ、ユリシスにねらわれないよう気をつけるんだよ。早く荷物をまとめて。メイド頭《がしら》のハリエットに言えば、取り計《はか》らってくれるからね」
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はじまりの人魚《メロウ》の島
雪のちらつく寒い日だったが、リディアの乗った船がマナーン島に着くまでの間、波はずっとおだやかだった。
この海に棲《す》むメロウたちはきっと、リディアの訪問に気づいているのだろう。
イングランドの西岸、アイリッシュ海に浮かぶこの小島に、以前に訪れたときは早春で、淡い緑だった島影だが、真冬の今はうっすらと雪をかぶり、ぽつんと海に浮かんだ砂糖菓子のようだった。
「へえ、あの島かあ。エドガーの領地って、辺鄙《へんぴ》なところが多いんだね」
ロタは、結局島までついてきていた。
「辺鄙で妖精が多いから、昔のアシェンバート伯爵《はくしゃく》にゆだねられた土地ばかりなのよ」
「ふうん、でも景色のいいところじゃないか。あ、もしかしてあれ、城? かなり立派じゃない?」
「ねえロタ、まだ帰らなくてよかったの? ロンドンのおじいさまには、昨日までって言って遊びにきてたんでしょ?」
「あー、二、三日のびたって平気さ」
島いちばんの高台に立つ優雅な城は、白い風景の中、青みがかった色合いがいっそう鮮やかに見えていた。
以前はさびれた印象だった港だが、船の数も増えて、この寒空の下でも魚や荷物を積みおろしする人々の活気にあふれている。
そこで積み荷といっしょにおろされたリディアたちは、島で唯一《ゆいいつ》の宿屋《イン》に向かって歩き出したところだった。
「ニコがいないよ」
ロタは、いっしょに船を下りたはずの灰色猫をさがして首を動かした。
「さっき、知り合いの小妖精と再会をよろこんでたわ。誘われてついていったんじゃないかしら」
「あの見えない奴も?」
「そうね、コブラナイもいっしょだと思うわ」
「あのう、ミス・カールトンですね?」
声をかけられ、リディアは立ち止まった。
そこにいた男性は、宿屋の従業員だと名乗る。事前にリディアが手紙を出しておいたから、迎えに来てくれたらしい。
「ようこそいらっしゃいました。道が悪いので、馬車を用意しておきましたよ」
愛想《あいそ》よく言って、道の脇《わき》に止まっている馬車を指さした。
「でも、宿はすぐそこですよね」
疑問に思うリディアにかまわず、彼は乗るようにと勧める。
宿屋は、伯爵家代々の執事《しつじ》、トムキンスの一族が営んでいるものだし、リディアはまだ、警戒《けいかい》することなど考えていなかったから、素直に乗り込むことにした。
と、続いて乗ろうとしたロタを制するように、その鼻先でドアが閉まった。
「ちょっと、何するのよ。開けてちょうだい」
ひとり閉じ込められ、リディアはドアを開けようとしたが、馬車はそのまま走りだす。
残されたロタが追いかけてこようとし、宿屋の男に止められているのがちらりと見える。
次の瞬間、彼が殴《なぐ》り倒されたのも見たが、すぐに馬車は角を曲がり、スピードを上げて林の道へ入っていった。
「ご心配なく、おひとりずつご案内するよう言いつかっているだけですから」
そう言う御者《ぎょしゃ》も仲間らしい。
宿屋の前はとっくに行きすぎている。木々の間をまっすぐに走る馬車の行く手に、高台の城がちらりと見え、リディアは胸騒ぎをおぼえていた。
あいつには、何度となくこんなふうに、誘拐《ゆうかい》まがいのことをされている。
でも、まさか。ロンドンにいるはずじゃ?
悶々《もんもん》と考えている間に、馬車は城門をくぐり、庭園を突き抜けて、アプローチのある正面玄関へ横付けされた。
迎えに出てきた召使いはリディアの知らない人で、ごく事務的に小サロンへと案内される。
誰か来るのか、それがエドガーなのか訊《き》く間《ま》もなく、召使いはいなくなってしまった。
前に来たときとはえらく印象の違う城の内部を、リディアはあらためて見まわした。
十六世紀に建てられた古い城だが、エドガーのものになってから手を入れたのだろう。内装はずいぶんきれいになっている。
古い家具や調度品も、歴史を感じさせる重厚《じゅうこう》な風合《ふうあ》いをそのままに、補修され磨かれて、つい最近まで主《あるじ》のいなかった城とは思えないほどだ。
ほどよくあたためられた部屋の中、ソファに腰をおろしたリディアは、急に長旅の疲れを感じていた。
やっぱり、エドガーが来ているのかしら。
エドガーに会うなんてことを考えていなかったから、どんな顔をすればいいのだろうと思い悩む。
でももう彼は、リディアを口説《くど》こうとは思っていないかもしれない。
本命の代わりをする女の子なら彼のまわりにいくらでもいる。
そろそろフェアリードクターの仕事がたまってきているとか、何か妖精がらみで問題が起こったとか、ここへ来るとしてもそんな理由ではないだろうか。
がっかりさせられるのはいやだから、リディアはそんなふうに考える。
仕事が理由なら、どうしてがっかりするのかは気づかずに。
置き時計の規則的な音だけが時を刻み、窓の外では雪が静かに降り続けていた。
心地《ここち》のいいソファに身をゆだね、リディアはいつのまにか居眠りをしていた。
部屋の中に人の気配《けはい》を感じても、この心地よさを手放したくなくてうとうとし続ける。
その人は、雪と潮風《しおかぜ》の匂《にお》いがした。外から来たばかりなのだとぼんやり思うと、やさしく髪を撫《な》でる指を感じた。
それはリディアのうたた寝を促《うなが》すかのようで、そのまままた、彼女は浅い眠りに落ちる。
「……きみがいなくて、淋《さび》しかった」
ん、と夢うつつに答える。
「やっと、戻ってきてくれたんだね。僕の妖精」
妖精、そんなふうにリディアを呼びながら、からかいも皮肉もこもっていない人は、ひとりだけだ。
「……エドガー……?」
「そうだよ、リディア」
耳元でささやく吐息《といき》を感じ、リディアはやっとのこと、ぱちりと目を開けた。
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が目の前にある。うつむく彼の金色の髪が、リディアに触れそうなほどだ。
ソファの上で寝転んでいるリディアは、彼のひざに頭を乗せていることに気づき、あわてて飛び起きた。
「な、なな何すんのよ!」
「おや、もう少し眠っていてもよかったのに」
ソファから立ちあがり、リディアは落ち着こうと深呼吸した。
「僕はただ、隣で寝顔を眺《なが》めてただけだよ。そしたらきみの方がもたれかかってきて」
「そ、そんなことより、どうしてあなたがここにいるの?」
再会早々に隙《すき》を見せてしまった。あのひざがあまりにも快適だったことをくやしく思い、そして恥ずかしくなる。
「きみを歓迎するために来たんだよ。せっかく僕のカントリーハウスを訪れてくれるのに、もてなさないわけにいかないだろ?」
「だから、どうしてあたしがここへ来るって、知ってるのよ!」
「手紙に書いてあったよ」
「あたし、そんなこと書いてないわ」
「うん、ニコの手紙さ。イニシャルを彫《ほ》った封印《ふういん》をプレゼントしたんだ。彼も手紙を書く楽しみをおぼえたようだね」
……ニコの文通相手って。
ようするに、エドガーの知りたいことを教えてやっていたわけだ。
どうりで、島へ着いたとたんさっさと姿を消すわけだわ。
「そういえば、きみはなかなか返事をくれないから、郵便屋がさぼってるんじゃないかと思ってポストオフィスに乗り込んだよ。その日にようやくはじめての返事が来てたから、暴れずにすんだけどね。まったく、オフィスにあるならさっさと届けてほしいよね」
ど迷惑なワガママ貴族。
「だって、返事を書いてるうちに次の手紙が来るんだもの」
「いいんだ。五通に一通だろうと、きみからの返事があっただけで、僕は幸せ者だよ」
そんなに少なかったかしら。
三通に一通くらいは返さないと失礼だろうといちおうは考えていたのに。などと思っているうち、立ちあがった彼がこちらに近づいてこようとしたので、リディアは思わずあとずさった。
少し距離を開けたまま立ち止まり、彼はリディアをじっと見つめる。
「でも、ここ数日手紙を出せなかった。怒ってる?」
「べつに。そんな約束したわけじゃないもの。それにロタは、気になるように仕向けるあなたのいつもの手だって言ってたわ」
「そんなんじゃないよ。ちょっとごたごたがあって……、ああでも、この話はやめよう。せっかく再会できたんだ」
誤解されて淋しいという顔をしながらも、にっこり笑ってみせる。
それがどこまで計算なのか、いまだにリディアにはわからない。
「今夜は歓迎のディナーを用意してるんだ。料理長《クック》を連れてきてるから、きみの好きなアップルタルトを焼いてくれるように頼んでおいた。焼きたてのタルトに冷たいクリームをそえて。最高だろ?」
たしかに、伯爵家のフランス仕込み料理長のディナーは、たとえこいつの口説き文句垂れ流しを聞かされるとしても、断るのはもったいないと思わせるほどなのだ。
リディアが口ごもるのを見越し、彼はたたみかける。
「ねえリディア、話したいことはたくさんあるけど、まずは逃げないでくれ。もう少し、近づいてもいい?」
戸惑《とまど》っていると、音を立ててドアが開いた。
雪まみれのロタが、息を切らせながら駆《か》け込んできたのだった。
「こら、てめーっ、追い越しざまに馬車で泥水《どろみず》はね飛ばして行きやがって! ていうか、止まって乗せろって言ってんのに無視すんな!」
「おや、雪がめずらしいから散歩を楽しんでるんだと思った。アメリカじゃ、ちょっと降っただけでも大はしゃぎしてたじゃないか」
飄々《ひょうひょう》ととぼけるエドガーに、ロタはぶち切れた。
「ちょっとどころの雪じゃないぞ、めずらしいとかはしゃぐ度合いを超してるだろ!」
「ロタ、歩いてきたの?」
リディアは、肩で息をするロタに駆け寄り、髪の毛から雪を払う。
「あの宿屋、何だかんだ言いつつ足止めしゃがんだ。リディア、あんたのことが心配になってさ」
「ごめんなさい。知らなくて」
「悪いのはこいつだよ」
エドガーをにらみつけるが、彼はむしろ不機嫌《ふきげん》そうに腕を組んだ。
「言っておくけどロタ、ここは僕の屋敷だし、きみを歓迎しなきゃならない理由もない」
「ちょっとエドガー、ロタを追い出すつもり? だったらあたしも出ていくわ」
「せっかく、きみとふたりのディナーを楽しみにしてたのに」
不満げに言いながらも、リディアが納得するはずもないとわかっているからか、エドガーはあきらめたように肩をすくめた。
「しかたがない。でも正餐《せいさん》だからね。そちらのきたないレディにもドレスコードは守ってもらうよ」
「きたないって何だ! あんたが泥を飛ばしたせいだぞ!」
さらりと無視して、それから彼は、リディアの手を取って唇《くちびる》を寄せた。
不意をつかれたので、手を払う隙もなかった。
「飾らないきみも好きだけれど、きみを飾れるのは僕だけの特権だと思いたいんだ」
にっこり微笑《ほほえ》む。
「じゃあ、あとで迎えに来るよ」
言い返す間《ま》を与えずに、彼は部屋を出ていった。
リディアは立ちつくしていた。
ちっとも変わってないじゃない。
変わっていないことにほっとしている一方で、いっそうリディアはわからなくなっていた。
エドガーは、どういうつもりなのだろう。
以前と同じ、口先だけの口説き文句なら、紛《まぎ》らわしいからもうやめてほしいのに。
「ったく、相変わらずだな」
ドアが閉まるのを眺めていたロタが、あきれたように言った。
「でもさ、ドレスコードって? あたし、ドレスなんか持ってきてないよ」
「あたしだって持ってきてないもの」
「てことは、やつが持ってきてんの?」
リディアにはいつものことだが、ロタはさらにあきれかえった。
「大丈夫よロタ、あたしとそんなにサイズ変わらないでしょ?」
苦笑《にがわら》いしつつ、そう言うしかない。
そうこうしているうちにアーミンがやって来て、ふたりをドレッシングルームに案内した。
「あんたも来てたのか。あの東洋系の弟も?」
アーミンとレイヴンの異父姉弟は、エドガーが伯爵《はくしゃく》になる以前からの忠実な従者だ。
「はい、レイヴンも、執事のトムキンスも来ております」
貴族にとって領地の荘園邸宅《マナーハウス》こそが本邸《ほんてい》、自分の城なのだから、ロンドンにいる召使いたちをごっそり連れてくるのはふつうのことだ。
しかしエドガーは、そんなに長く滞在するつもりではなさそうで、一見したところ召使いの数も少なそうだった。
てきぱきと、ふたりの前にドレスを並べるアーミンを、やっぱり美人だわと思いながらリディアは眺める。
男性なみに武器を扱えるアーミンは、ふだんから男装だが、飾り気のない黒い上着にネクタイでも不思議と色っぽい。
ずっとそばにいて、エドガーを慕《した》っていたアーミンのことを、彼は家族のように大切にしてきた。そしてそれ以上に特別だったかもしれないと気づいてしまったときからリディアは、どうしようもなく戸惑っている。
エドガーが、アーミンを守るためにこそ、恋愛関係にならないよう一線を引いていて、そのかなわない想いを紛らそうとたくさん恋人をつくっていたなら、リディアはそのひとりにはなりたくないのだ。
「リディア、そのドレスにするのか?」
ロタに声をかけられて我に返る。
「え? ……ええ」
「じゃ、あたしこれにしよ。それにしても、エドガーは何着リディアのドレスをつくらせてるんだ?」
「さあ、数えたことがありません」
「あいつも好きだなあ。しっかし、着せかえ人形じゃないっての。なあリディア」
でも、そんなようなものよね。
ぼんやりしながらつかんでいた、淡いピンクのドレスは、自分には似合わない色に思えたが、真剣に選ぶのもばかばかしくなったから、リディアはそれを着ることにした。
「おいエドガー、これはいやがらせか?」
その夜、晩餐《ばんさん》の席で、鮮やかな青いドレスを着たロタはむっとして言った。
「は? 何か言ったかい?」
「いやがらせかって訊《き》いてるんだよ!」
数十人は座れる晩餐会用ダイニングルームの、やたら長いテーブルの先端で、ロタは声を張り上げる。
その反対側の、端に座っているエドガーからはいちばん遠い席だ。そして彼は、リディアを目の前に座らせている。
「まさか。大公女《たいこうじょ》のきみには、貴賓席《きひんせき》に座ってもらわなきゃならないだろ?」
たしかに、ロタの祖父は亡公国の大公だった。現在は亡命《ぼうめい》した身の上とはいえ、その孫だと判明したロタは、海賊に育てられたがれっきとしたお姫さまなのだ。
もっとも彼女にはまだ自覚がなく、祖父と暮らすことにしたものの貴族の暮らしが窮屈《きゅうくつ》で、リディアの家へ遊びに来たのだろう。
ロタはエドガーのことを、今でもギャングみたいなものだと思っているし、エドガーも、ロタの身分を本気で尊重しているはずがないのは明らかで、やはりこれはいやがらせに違いない。
しかし、たとえ三人でも正餐《ディナー》の席である以上、上流階級のしきたりをよく知らないリディアは、マナーだと言われれば口出しできずに困惑《こんわく》していた。
「リディア、この雉肉《きじにく》のパイも気に入ってもらえると思うんだけど」
目の前でエドガーは、楽しそうににっこり微笑む。
そりゃもう、絶品だけど。
「ねえ、それより、三人だけなんだから何もこんな広いダイニングルームを使わなくても……」
「きみがいると、ふだんの何倍も食事が楽しいな。毎日がこうだったらいいのに」
エドガーは聞く耳を持たない。
ロタはもうあきらめて、葡萄酒《ぶどうしゅ》を一気に飲みほすと、給仕《きゅうじ》をしているレイヴンにおかわりと突きつけた。
そこへ執事《しつじ》がやって来て、エドガーに耳打ちした。
何やらたくらんだ顔つきで、エドガーはにんまり笑ってロタの方を見る。
「ロタ、お迎えが来たようだよ」
「は? 迎えって?」
「きみが例の件のあと、リディアの家へ遊びに行くと習いたてのへたくそな文字で書き置きを残していなくなって、祖父君《そふぎみ》は心配していたよ」
「悪かったな、へたくそで」
「英語しか話せないきみのために、このまましばらくロンドンで暮らすことにはしたけど、いったんオランダの王室にごあいさつに行かなきゃならない。なのに、出発の日が近づいてもきみは帰ってこないって」
「え、ロタ、そうだったの? でも例の件って?」
ロタは困惑を浮かべながらうつむいた。
「……だって、貴族ってのはどいつもこいつもお高く止まってやがるし、あたしがいたら、じいさんに恥かかせてしまうに決まってるだろ」
「でも、おじいさまを心配させるのはよくないわ」
「大丈夫だよロタ、クレモーナ大公の人柄の評判は、きみが気に入らない貴族を二、三人|殴《なぐ》ったくらいでは失墜《しっつい》しない。だから僕が、きみの居場所を知らせておいてあげた」
まさかロタは、すでに貴族を殴ったりしたのだろうか? それでロンドンから逃げ出して、リディアのところへ雲隠れに来たのか。
「エドガー、余計《よけい》なことしやがって……」
「僕のリディアにまとわりつくからだよ」
「女にまで嫉妬《しっと》すんのかよ」
「嫉妬じゃないよ。リディアは僕の令夫人《レディ》になる女性だ。今後も親しくつきあうなら、きみにも貴婦人《レディ》らしくなってもらわないと困る」
「ちょっと、そんなの関係ないでしょ。ロタはロタのままで、あたしの友達だわ」
「そうだよ、他人の友情にまで口出しするな!」
「ならきみも、僕の悪口をリディアに吹き込んだりしてじゃましないでほしいね」
エドガーが視線を送ると、トムキンスがダイニングルームのドアを開けた。
と同時に、ふたりの大男が部屋の中へ入ってきた。
ひとりがエドガーに無礼《ぶれい》を詫《わ》びている間に、もうひとりがロタを羽交《はが》い締《じ》めにする。
「おいこら、離せってば、まだ食事中だっての!」
「お嬢《じょう》さま、汽車に間に合いませんので」
どうやら有無《うむ》を言わせないつもりらしい。
もがきながらロタは、無念そうにリディアの方を見た。
「リディア、楽しかったよ。元気でな」
引きずられていくロタに、リディアは急いで駆け寄る。
「ええ、気をつけて行ってきてね」
「それから、そいつはオオカミだぞ。ぜったいに寝室のドアを開けるな。どんな姑息《こそく》な手を使ってくるかわからないけど、部屋へ入れたら合意したことにされるぞ。気をつけろよーっ!」
ロタは叫びながら連れ出され、リディアの前でドアが閉められた。
マナーン島ならまだしばらくエドガーに会わずにすむと思っていた。けれど、彼の領地に彼の城。そこへ本人が現れるとは、リディアにとっては大きな誤算だ。
ひとりきりでエドガーと向き合うことになってしまった。
「やっとふたりになれたね」
すぐ背後《はいご》にエドガーの声を感じ、リディアは反射的に飛びのいていた。
「まったく、ロタのせいで僕の信用はなくなってしまったのかな」
もともとないわよ。
「でもねえリディア、物事には順序がある。わきまえているから心配しないでくれ」
どうだか。
「まずはデザートだね。ここは広すぎて落ち着かないし、もっとくつろげる部屋へ移ろう」
不審顔《ふしんがお》のリディアにかまわず、さっと手を取る。そのままドローイングルームに案内されたリディアは、暖炉《だんろ》のそばのソファに腰を落ち着けたものの、タルトを食べたらさっさと部屋にこもろうとだけ考えていた。
「この城、気に入ってくれた?」
人畜《じんちく》無害そうな笑みを浮かべながら、エドガーは隣に座る。
「まだ内装も途中なんだけどね、きみの好みも聞きたいなと思っていたところなんだ」
「あなたのお城なんだから、好きにすればいいじゃない」
「でもいずれ、きみの城にもなるよ」
「ならないってば」
「古いけど、広いし造りも立派だ。設計も美しい。僕たち結婚したら、マナーハウスとしてここに住むのもいいかもしれないね」
いいかげん、人の話を聞いてほしい。
「本当のマナーハウスは、妖精国《イブラゼル》にあるのだろうけど、きっと行けそうにないから……」
妖精の国を治めた青騎士伯爵の、本当の子孫ではないエドガーは、妖精とかかわる不思議な力がないのだ。
そのことを彼がくやしく思っていると知っているから、リディアは少し同情する。
「行けなくても、あなたがイブラゼル伯爵なのには変わりないわ」
「やっぱりきみはやさしいね」
切《せつ》なげな瞳を向けられ、リディアは目をそらす。
彼の思うつぼにはまってしまったかしらと思いながら、レイヴンがテーブルに置いていったデザートのお皿を引き寄せて、食べることに意識を向けることにした。
「早く食べないと、クリームが溶けちゃうわよ」
エドガーがつくり出そうとする艶《つや》っぽい雰囲気《ふんいき》を変えたかった。
けれど彼は、じっとリディアを見つめているだけだ。
「ここは人魚《メロウ》が守ってくれている島だから、あのじゃまなケルピーも来られないんだってね。新婚生活を送るにはちょうどいいんじゃないか?」
たしかに、メロウの縄張《なわば》りではさすがの水棲馬《ケルピー》もついてこなかった。
獰猛《どうもう》な水棲馬は、たいていの妖精族にきらわれているが、同時に怖れられてもいる。しかしメロウは、まったく相容《あいい》れない種族である上に強い魔力を持つから、さすがにケルピーも近づきたくないらしい。
しかし、これもニコが教えたのだろうか。
あの裏切り者。
ケルピーはともかく、ロタは行ってしまうしニコはいないし、エドガーの城で予想外の彼とふたりきりの状態だとはえらく不利だ。
リディアは、気をゆるめまいとがんばるしかなかった。
「し、新婚生活なんてありえませんからっ」
「でも、ずっときみはこの婚約指輪をつけてくれていたわけだろ?」
ムーンストーンの指輪に、彼は視線を落とした。
「はずれないんだからしかたないでしょ。でもこれ、あたしたち以外の人間には見えなくなってるわよ。コブラナイがそうしてくれたの。だから父も、誰も指輪に気づいてないから」
エドガーはちょっと残念そうに眉《まゆ》をひそめた。けれどすぐに気を取り直す。
「おいしい? 僕のぶんも食べていいよ」
「いらないわよ。だから早く食べたらどう?」
なんとかして、彼の気をそらしたかったけれど。
「僕のデザートはこっち。あまくこがしたキャラメルソース。眺《なが》めるだけで満足してるけどね」
さわってるじゃない。
キャラメル色とエドガーが言う赤茶の髪を、彼が指でもてあそぶのを眺め、リディアは、せっかくのタルトの味がわからなくなるのだった。
「リディア、きみがいないあいだ僕は、とてもつらかったよ。お互い、気持ちを重ね合えたと思えたのに、急にいなくなってしまうなんて」
いまさら、そんなこと言わないでほしい。
休暇《きゅうか》を過ごして、ようやくあのときの感覚は幻《まぼろし》だったのかもしれないと思えるようになってきたのに。
「あたしたち、結局そういうふうにはなれないのよ。あなたは口が上手だから、いっしょにいると錯覚《さっかく》しちゃうけど、ひとりになれば恋じゃないってわかる。すごく会いたいとか、苦しいとかじゃないもの」
本当にそうかしら。わからないながらもリディアは言った。
「あなただって、あたしでなきゃいけないわけでもないってわかってるはずよ」
「あれからずっと、きみのことしか考えられなかった」
うつむくリディアに、エドガーはため息をついた。
「と言っても信じてもらえないか。わかった、この話はやめよう」
ほっとしつつもリディアは、そんなふうに言うのはエドガー自身も曖昧《あいまい》にしておきたいのだろうと思った。
フェアリードクターは手放せない、だからリディアを婚約者扱いしているエドガーだけれど、本当の気持ちを突きつめれば、今の関係でさえこじれてしまうかもしれないから。
「久しぶりに会えたのに、きみを困惑させるような会話は野暮《やぼ》だよね」
エドガーはぜんぜん変わっていないと思った。けれどやっぱり、少しだけ以前と違う。
リディアが困っていても、こんなふうに退《ひ》こうとしなかった。むしろそれをおもしろがっていたのに、今は、リディアが困るとエドガーも困ってしまうかのようだった。
好きになってもいいかもしれないと思ったときに、エドガーは本当のところそれを望んでいないのではないかと、ふと感じてしまって、リディアは彼から離れた。
拒絶し続けてきたリディアが、寄りそう気配《けはい》を見せた変化に、きっと彼は困っているのだ。だから今は、深刻にならないうちに切り上げている。そんなふうに思えば、リディアはもう、怖くて気を許せない。
「そういえば僕は、きみがここへ来た理由を知らないんだけど、訊いてもいいかい?」
「えっ?……ええ」
間近で見つめられると、考えていることを見透《みす》かされてしまいそうな気がして、リディアはあわてて頭の中を切りかえた。
「ええとそれは、青騎士|伯爵《はくしゃく》についてもっと調べる必要があると思ったの」
「休暇中も僕のことを気にかけてくれて……」
「じゃなくてっ、あたしはまだいちおう、伯爵家のフェアリードクターだから」
「間髪《かんはつ》入れずに否定するんだね」
「……とにかく、気になることを耳にしたからよ」
「何を?」
「青騎士伯爵は、三百年ほど英国に現れてないはずだったわよね。でも百年ほど前に見かけたって妖精がいたの。伯爵家とプリンスの因縁《いんねん》は、そのへんから始まってるのかもしれないでしょ?」
「なるほど。百年前というと、チャールズ・エドワード王子の反乱と時期的に近そうだね」
英国を追われて亡命《ぼうめい》したジェイムズ二世の孫、チャールズ・エドワード、通称ボニー・プリンス・チャーリーは、自らの王位|継承権《けいしょうけん》を主張して反乱を起こした。結局彼は敗れ、英国の名門スチュアート家は途絶《とだ》えた。
けれども、子供のころのエドガーを誘拐《ゆうかい》したアメリカのプリンスという人物は、スチュアート家の血を引くとして、ひそかに英国王位をねらっているらしい。
プリンスが、青騎士伯爵という存在を敵視していて、自分の側近《そっきん》となったユリシス以外の、伯爵の血を引く者を皆殺しにしたのは知っているが、なぜ敵視しているのかはまだはっきりしない。
とにかくエドガーは、プリンスにねらわれている身でありながら青騎士伯爵の地位を得た。プリンスが怖れているのかもしれない不思議な力はないが、自分の身も、この地位も伯爵家の名誉も守らねばならず、そのためにリディアは、フェアリードクターとして力になりたいと思っている。
エドガーとぎこちなくなってしまっていても、その思いは変わらないつもりだった。
「ユリシスのことを知るためにも、あたしたちもっと伯爵家のこと把握しないといけないと思うの」
「たしかに、ユリシスはもっといろいろなことを知ってるんだろうね。後手《ごて》に回っていたら勝ち目はないな」
この話になるとエドガーは、急にきびしい表情になる。
憎い宿敵への復讐心《ふくしゅうしん》に火がつくからかもしれないけれど、彼の端整な顔立ちに鋭さが宿ると、はっとするほど美しい。
あまい言葉を吐《は》く彼とは別人のようで、けれどもその落差が、エドガーの背負っている苦しさだとわかるから、リディアは胸が痛む。
そうして目が離せなくなる。
口説《くど》き文句よりもずっと確実にリディアを引きつけていることを、彼は知らないだろう。
「と、とにかく、伯爵家のことをいちばん知っていそうなのがメロウだと思ったの。明日、メロウに会えないか呼びかけてみるわ」
一瞬にしてやさしい表情になったエドガーは、リディアを気遣《きづか》うように覗《のぞ》き込んだ。
「メロウと話をするのか。僕もいっしょにいていい?」
「ええ、そうね。その方がいいわね」
答えながらリディアは、微妙に体を引こうとしていた。
「あの、ごちそうさま。あたしそろそろ……」
言いかけたら、手を握られた。
そのまま黙ってこちらを見ているので、リディアはドキドキしながら硬直《こうちょく》する。
「な、なにかしら?」
「明日になっても、いなくなったりしないね?」
休暇の前は、エドガーに何も告げず夜明け前にスコットランドへ発《た》ってしまった。そのことを思い出しての言葉だろう。
「……メロウに会わなきゃいけないもの」
「もう、黙って行ってしまったりしないでくれ。僕が無神経だったりするときは、怒っていいから」
「やだ、違うの。あなたのせいじゃないのよ。あたしが……、どうかしてたの。だって、あなたがフェアリードクターを必要としてくれてることにうそはないけど、それだけでうぬぼれそうになって、どうかしてるって頭を冷やしたくなったの。勝手なことしてもうしわけなかったと思ってるから、伯爵家のことを調べにここへ来たのよ」
どうしてだか不満そうに、エドガーはリディアの手を握ったまま、なかなか離してくれなかった。
「あの、これからはちゃんと、あなたに休暇を願い出るって約束するわ」
苦いようなため息をついてから、彼は言った。
「おやすみのキスを許してくれる?」
「えっ」
と顔をあげた隙《すき》に、頬《ほお》にキスされた。
「おやすみ、僕の妖精」
「……おやすみなさい」
リディアは、きっと赤くなっている自分に気づかれないよううつむきながら、小走りに部屋を出た。
ひとり残されたエドガーは、頬杖をついたまま、皿を下げに来たレイヴンに視線を向けた。
「ものすごくガードが堅《かた》くなった気がする」
唐突《とうとつ》すぎて、何の話かわからないというふうに、褐色《かっしょく》の肌の少年は首を傾《かし》げた。
「いっそ僕を責めてほしかったのに。リディアは自分がどうかしてたと言うんだ。相思相愛《そうしそうあい》になれそうだったのは、どうかしてたから? それじゃあ、僕には望みがない」
懸命に考えているらしいレイヴンは、すっかり動作が止まっていたが、恋愛問題はまだ彼にとって難解すぎるのだろう。
「多少は気があるなら、離れているうち想いがつのるものじゃないか? 手紙を欠かさずに、でも強引に会いに行くのはひかえることにしたのに、そのあいだに、僕に会いたいと気づいてくれるどころか、さっぱりあきらめてしまおうとするってどういうことだよ」
リディアに駆《か》け引きなんか通用しない。こちらがしりぞいたぶん、やっぱり本気じゃないのだと彼女は思ってしまうらしかった。
「エドガーさま、あきらめたわけではなかったのですね」
「あきらめた? 何を?」
「以前に、脈がないときはあきらめてさっさと次に移るべきだ、女の子はいくらでもいるのだから、とおっしゃってましたから、今までリディアさんを追いかけなかったのはそうするつもりなのだと思っていました」
「脈がないわけないじゃないか。ディナーの誘いにも応じてくれたし、おやすみのキスだって許してくれた」
あまいもので釣《つ》ったとか、有無《うむ》を言わせぬ隙をついたとか、エドガーは忘れたことにする。
「それにレイヴン、女の子はいくらでもいるけど、リディアはひとりしかいないんだ」
とても納得したように頷《うなず》くレイヴンを見て、エドガーは自分が言ったことの意味を考えていた。
それは、リディアでなければだめだということなのだろうか。
リディアがいい。そばに置いておきたい。好きになってほしい。彼女がいてくれるなら、ほかの女性と遊ぶのはひかえようとも思うくらい本気だ。
自分でも不思議なくらい、彼女のことを知れば知るほど惹《ひ》かれていく。
でも、リディアでなければ?
どうしてもだめなら、きっと別の誰かを好きになる。そういうものだと知っているはずなのに、考えたくない気がしている。
「まだあきらめるのは早いよ。試していない手段はいくつもあるのに」
「ではいちばん手っ取り早くて確実なものを実行してください」
「なぜおまえがあせるんだ?」
「もうあまり、余裕がないと思うのです」
ユリシスが動き出している。彼はプリンスをこの英国に迎えるために準備をしてきているようだし、だとしたらエドガーは、近々彼らと決戦することになるかもしれない。
リディアを巻き込みたくないなら、手放す決意をしなければならない。
けれどすでにリディアのことはユリシスに知られている。もはや手放す意味がないのかもしれず、エドガー自身彼女を失いたくないと思っているからには、引きずり込んでしまうことも、そこで徹底的に守ることも覚悟しなければならない。
「ならレイヴン、協力してくれるか?」
「もちろんです」
手招きするエドガーに、レイヴンはまじめな顔つきで近づいてくる。
「さしあたり、リディアの寝室の合い鍵《かぎ》をトムキンスから盗んできて……、ああ待て、レイヴン」
本気にするんじゃないよと、きびすを返そうとする彼をあわてて呼び止めた。
冗談というには誘惑《ゆうわく》を感じながらも、エドガーにだって理性はあるのだ。
立ち止まったレイヴンは、もうしわけなさそうに振り返った。
[#挿絵(img/amber_069.jpg)入る]
「エドガーさま、そういえばリディアさんの部屋は姉の管理下です。鍵を盗み出すのは不可能です」
なるほど、と思いながら、少しほっとする。
「レイヴン、恋に手っ取り早くて確実な手段なんてないんだよ。だからもう少し待ってくれ。おまえに心配をかけないように、ちゃんと心を決めるから」
これまでは死ぬ気で戦ってきた。仲間たちも死を覚悟していたし、自分たちを奴隷《どれい》にしてきた憎い敵と戦うことこそが自由のあかしで、それが生きがいで目的だった。
けれどリディアを引きこむなら、死ぬわけにはいかない。死んでもいいなんて気持ちではだめだ。
復讐のためではなく、未来のために戦えるのかどうか、エドガーにはまだわからない。
だから、リディアが気持ちを重ねようとしてくれたまたとない機会に、突き放してしまうことになった。彼女はひとり傷ついて、休暇《きゅうか》にかこつけて帰ってしまったのだった。
今離れかけているリディアの気持ちを、もういちど引き戻せるのかどうかもわからないまま、エドガーは、久しぶりに触れた彼女の肩が、以前よりずっと緊張していたことを思い出していた。
「リディア、起きてるならドアを開けてくれよ。何で返事もないんだよ」
翌朝になって、ようやくニコは姿を見せた。窓から入ってくると、毛についた雪をしっぽで払いながら、不服そうにリディアの目の前に立つ。
朝になっても、雪はまだちらついている。昨日よりさらに積もって、外に見える広い英国式庭園は真っ白な積み木を並べたようになっている。
「すぐには開けられないからよ」
身支度《みじたく》を整えたばかりのリディアは、髪をとかしながら言った。
「で、何なんだ、これは」
ドアの前に積み上げた椅子《いす》やテーブルを、ニコは二本足で立ったまま見あげ、不思議そうに首を傾げた。
「……ちょっとね」
エドガーが忍び込んでこないように、用心したつもりだった。
そうまでしてリディアを求めるはずもない。とは思っても、なんとなく気になって、ちょっとした物音でもなかなか眠れなかったのだ。
けれども朝になってみると、どうしようもなく滑稽《こっけい》だ。エドガーは来なかったわけで、なおさら自分の過剰《かじょう》な心配が恥ずかしく思えてくる。
アーミンやトムキンスが来て気づかれないうちに直そうと、椅子に手をかけた。
「手伝おうか?」
「ええ、お願い……」
って、誰?
おそるおそる振り返ったリディアの視線の先で、椅子をひょいと持ちあげたのは、エドガーだった。
「な、なななんであなたがいるのよーっ」
「召使い用のドアから来たんだよ。こっちは開かないって、朝からアーミンに聞いたんだ」
貴族の屋敷には、たいてい召使い専用の通路とドアがあることなど、庶民《しょみん》のリディアはうっかり忘れていた。
それに考えてみれば、ドレッシングルームの洗面台には、ゆうべはなかったはずの水が用意されていた。
当然、アーミンが来ていたということだ。
「これってさあ、僕が忍び込むのを期待してたってこと?」
「き、期待? バカなこと言わないで。そ、そういうのは困るからに決まってるでしょ!」
「でも、きみが待っててくれたのなら、礼儀として訪ねてくるべきだったな」
どういう礼儀よ。それに。
「待ってないから!」
「ドア際《ぎわ》で、入れる入れないのやりとりってのも、人目を忍ぶ恋人どうしって感じでそそられるね」
こいつの、色ボケした思考回路をどうにかしてほしい。リディアは本気でそう思う。
「それよりリディア、客人《きゃくじん》だぞ」
ニコがスカートのすそを引っぱった。
「でもって伯爵、その客人が、城へ入りやすいように海をつないでもかまわないか聞いてくれって言ってるんだ」
「海? よくわからないけど、あとでもとにもどしてくれるならいいよ」
エドガーは首を傾げながら承諾《しょうだく》した。
と同時に、窓の外の風景が変わった。
急に陽《ひ》が陰ったかのように薄暗くなり、あたりが青みがかって見える。
海草がゆらめき、魚が泳いでいる。城ごと海の底へ沈んでしまったかのようだ。
メロウの魔法だと、リディアは気づく。
好奇心でエドガーが窓を開けようとして、リディアはあせったが、どうやら窓は開かなかったようだ。
「どうなってるんだ?」
「言葉どおり海とつながったんでしょうね」
「つまりこの外は、本当に海の底なのか? でもあそこには樹が見える。庭園にあるはずの糸杉《いとすぎ》だよ」
「あれはつなぎ目だ。現実の残像を目印にしておかないと、もとにもどすのに難儀《なんぎ》する」
部屋の中に現れたのは、赤い帽子をかぶった男だった。
少し帽子をあげ、「じゃまをしますぞ」と会釈する。
離れぎみの目に大きな口、いくぶん人間らしく姿を変えているが、ずんぐりした体つきと、両手を覆《おお》う鱗《うろこ》や水掻《みずか》きがあきらかにメロウだった。
リディアが以前に交渉した、メロウ一族の長だと思われる。あのときは人に化けていなかったから、少し印象が違うがそうだろう。
「メロウに話があったんだろ。おれが呼んできてやったんだ」
人魚《メロウ》の隣に立って、ニコが得意げに胸を張った。
「だからま、怒るなよなリディア」
どうやら、エドガーにリディアのことを教えていたのを忘れてほしいらしい。
もの言いたげにリディアがにらむと、ニコはかすかに引きつったのか、ヒゲをぴくりと動かしたが、威張《いば》った姿勢は崩《くず》さなかった。
「伯爵《はくしゃく》のフェアリードクターが、我らに面会を求めていると開き及んで来た」
メロウが言う。
「トムキンスかと思った」
エドガーがつぶやいた。
「お呼びですか、旦那《だんな》さま」
当の執事《しつじ》まで現れ、リディアが椅子を積み上げたドアの前にみんなして立っているさまは、ますます滑稽なことになる。
「ああ、トムキンス。客人だからサロンへ案内してくれ」
頷き、素早くバリケードを片づけたトムキンスは、体型から顔つきまで自分によく似たメロウのためにドアを開けた。
「おや、トム、まだ生きてたのか」
「……それはおそらく、私のご先祖でございます」
「とするとあんたはほぼ人間かね。トムにそっくりだな」
「先祖返りというやつでしょう」
メロウの血を引くと言い伝えられている一族でも、たぶん本物のメロウと対面したのははじめてなのだろう。執事は、平静を装いながらも引きつっていた。
「ところで伯爵、ごあいさつが遅れてもうしわけない。おかげさまで我らも再び島の民と齟齬《そご》なくやっていけるようになり、皆も満足しております」
「こちらこそ礼を言いたい。僕に宝剣を託《たく》してくれたからこそ、皆の役に立てる立場になれたのだから」
サロンに入ると、エドガーは、親しげに接しながらメロウに椅子を勧めた。
「それに、ご婚約されたようで。めでたいことですな。伯爵家が末永く続くなら、我らもあなたに託した甲斐《かい》があるというもの」
はっとしてリディアは指輪を隠すようにおさえたが、いまさら意味はなかった。
人間には見えないようになっていても、妖精には関係ないのが問題だ。
「早く世継《よつ》ぎに恵まれるよう、きみたちも祈ってくれるかい?」
このお調子者。
「もちろんで」
「そ、そんなことより、メロウの長、あなたに話というのは……」
リディアはあわてて、やっかいな話題をさえぎった。
「じつは、百年前に青騎士伯爵に会ったっていう妖精がいたんです。でも本物なら、どうして宝剣を取りにこなかったのか、その伯爵について何か心当たりはないでしょうか」
「百年前に? ああ、ではあの話は本当だったのか」
「えっ、知ってたんですか?」
「青騎士伯爵不在の間に、宝剣を盗みに来た者は数えきれず。しかし我らと対面を果たしたのは、あなたがたのほかにはひとりだけだ。もちろんその人物は、条件を満たせずに死んだが、彼が言うには、伯爵家を継ぐ人物は百年前に完全に絶えたから宝剣をよこせとのことだった」
「その男が現れたのはいつ?」
エドガーが口をはさんだ。
「ほんの最近。あなたがたが来る数年前だったかと」
「ユリシスと名乗らなかったかい?」
驚いて、リディアはエドガーを見あげた。
「ああそう。中年の男だった」
「……あのユリシスじゃないわ」
「たぶん親族だろう。ここで死んだんだ」
つぶやき、エドガーはまたメロウに問いかけた。
「その男は、伯爵家の傍系《ぼうけい》だと主張しただろう?」
「証明できなければ何の意味もない」
「つまり、宝剣を得るための謎《なぞ》を解けなかったということだね」
メロウは頷《うなず》いた。
正統な後継者《こうけいしゃ》が絶え、庶子《しょし》の系譜《けいふ》でも青騎士伯爵の血を引く人物は皆殺された。となれば、間違いなく伯爵家の血を引いているユリシス一族は、それだけで宝剣を得る権利があると踏んだのだろう。
けれど思惑《おもわく》に反して、宝剣を取りに来た男は死んだ。
プリンスが、そこでメロウの宝剣に関してあきらめたのなら、伯爵家と関係のないエドガーが宝剣を得るとは、夢にも思わなかっただろう。
「やっぱりプリンスは、百年前に現れたっていう青騎士伯爵と何か因縁《いんねん》がありそうだね」
「ともかく、その伯爵はマナーン島にはいらっしゃらなかった。歴代の伯爵が必ず島を訪れてくださったことを考えると不思議だが……。我らには、それ以上のことはわかりかねる」
「ねえメロウの長、伯爵家のことを、もっと知る方法はないんでしょうか。百年前の伯爵のこともあたしたちは何も知らないし、妖精国のことや宝剣のことや、いろいろ知りたいんです」
リディアは言った。
「そういったことは本来伯爵家の方ならご存じのはず。と言っても致《いた》し方《かた》ないが、伯爵家がそのユリシスが言うように絶えたのだとすると、あなたがたの知りたいことを知っているのはバンシーくらいだ」
「バンシー?」
エドガーは説明を求めるようにリディアを見た。
「名家につく妖精なの。その一族の若くして死んだ人の魂《たましい》だともいうけど、家系を見守ってくれて、一族の誰かの死を予見すると涙を流すといわれているわ」
「どこに棲《す》んでるの?」
「だいたいは、その家の敷地内よ」
「てことは、妖精国《イブラゼル》の? だったらさがしだせないよ」
「この城にいたこともある。伯爵が滞在のおりだったが」
「そういえば、百年前の伯爵もバンシーを連れてたって聞いたわ」
「人間界にいてくれることを祈るしかないのか。どうやってさがせばいいんだろう」
「たいてい年若い少女で、長い髪に緑の服を着て、泣きはらした目をしてるっていうけど」
ふとエドガーは考え込んだ。
「涙って、琥珀《こはく》になったりする?」
「あら、よく知ってるわね」
「旦那さま、ファーマン氏がいらっしゃいました」
トムキンスがまた現れて告げた。
「伯爵、すみません。待っていられずに来てしまいました。彼女の涙が止まらなくて……」
その後ろから、案内を待つのももどかしいといった様子でポールが駆《か》けつけてくるのを見て、エドガーは歓迎するように立ちあがった。
「ポール! ちょうどよかったよ。来るなとか言って悪かったね」
「は、いえ、あの、おじゃまでは……」
「今すぐきみを呼び寄せる手紙を書かなきゃならないかと思っていたところだった。ああでも、さすがに僕の親友だ。言わなくても察してくれる」
調子のいいせりふに、ふつうならむっとしそうなものだが、人のいいポールはほっとしたように微笑《ほほえ》むのだ。
どうにもエドガーの信奉者《しんぽうしゃ》は、彼の独善的な気まぐれに振り回されるのがきらいではないらしい。
「そ、そうですか。よかった……。どうすればいいのかわからなくて、もうリディアさんに相談するしかないと」
ポールは、フードつきのマントをすっぽり頭からかぶった少女を部屋の中へ招き入れた。
彼女は、赤い目をこすりながら顔をあげた。
「おや、この子だ、青騎士伯爵家のバンシーは」
「えっ?」
驚くリディアの目の前で、メロウは少女の顔を覗《のぞ》き込む。
「昔、伯爵が連れておいでだったのをおぼえておる」
「ほ、本当? ねえあなた、アシェンバート伯爵家のバンシーなの?」
「リディア、彼女は記憶をなくしているらしいんだ」
リディアにはさっぱりわけがわからない。どうしてポールがバンシーを連れてきたのかもだ。
「記憶がないって……、それじゃあ伯爵家のこと何もわからないってこと?」
「そうらしい。ああでも、ひとつだけおぼえてたよね。ええと、彼女の主人の名」
「グラディスさま……」
つぶやけば彼女の目から涙がこぼれ、琥珀になった。
「そういう名の伯爵は、我らメロウの知るかぎりいらっしゃらない」
「とすると、百年前の青騎士伯爵の名かもしれないわけだね」
「女伯爵なの?」
なるほど、とメロウはつぶやく。
「伯爵家にもはや女性の後継者しかいなかったとすると、英国に現れなかったのも頷ける」
「アシェンバート家のイングランド伯爵位は男子しか継げないからか。宝剣を受け取って、英国王に謁見《えっけん》する必要がない」
エドガーも納得したように言った。
「妖精には、領主は男女を問わず青騎士伯爵と呼ばれるが、人間の国はやっかいだ」
「じゃあどうして、そのグラディスって女性は英国に来たのかしら。ねえバンシー、名前しかおぼえてないの? あなたの主人がどうなったのかも、それがいつのことなのかも?」
バンシーは頷いた。
「わたしはずっと、人の世をさまよい漂《ただよ》っていて、時間の感覚も何もかも止まってしまっているのです」
「おそらく記憶を封印《ふういん》されているのだろう。むろんそうしたのは、グラディスというお方だろうが」
メロウが言う。
「いったい、何のために?」
「彼女に何があったのかはわからんが、バンシーが記憶を封印されひとり離れてさまよっているということは、すでに亡くなっていると思われる。おそらく、百年前の伯爵家の当主に違いなく、彼女の後継者がいないからこそ、伯爵家に関する重要なものをバンシーにあずけて記憶ごと封印したとしか考えられぬ」
亡くなっていると聞いて、バンシーはショックを受けたのかふらついた。そばにいたポールが差しだした手につかまる。
「重要なものって、何だろう」
エドガーはメロウに問う。
「それこそ封印を解かねばわからない」
「主人に会えば、思い出せるはずだったんです。でもグラディスさまが亡くなっていらっしゃるなら、わたしはもう何も思い出すことができないのでしょうか」
「思い出す方法はあるはずよ。だって、今のあなたの主人はエドガーだってことでしょ。彼が今の青騎士伯爵だもの」
伯爵家の血筋《ちすじ》が絶えることを知っていながら、グラディスが『主人に会えば思い出す』という暗示を与えたなら、新たに伯爵を継ぐ人物が現れる可能性を考えていたことになる。
「なるほど。ならお嬢《じょう》さん、僕に抱きついたら思い出すかも」
「抱きつかなくていいの!」
バンシーを守るように割り込んだリディアは、両腕を広げるエドガーをにらみつけ、少女の方に振り返った。
「ねえバンシー、あなたは、封じた記憶を解放する方法を知っているのかもしれないわ。主人に会えば、その方法を思い出すよう暗示がかかってるのかも。彼を見て、青騎士伯爵だと認めて思い出して」
悩んだように視線をあげたバンシーは、けれど小さく首を振った。
「わたしには、このかたが主人だとは思えません。グラディスさまのような力を、感じないのです」
きっぱり言われ、エドガーは小さく肩をすくめた。
「どうやら、僕が本物の青騎士伯爵になるのは難しいらしいね」
[#改ページ]
よくないことの前兆
思う存分泣いていたバンシーは、やがて疲れたのかソファの上で眠ってしまった。
メロウが帰ってしまい、窓の外にもどった庭園の風景を眺《なが》めながら、エドガーは悩んだように頬杖《ほおづえ》をついたまま黙り込んでいた。
バンシーに主人じゃないと言われたのは、さすがにショックだったのだろうか。
リディアは、少し心配になりながら、サロンから立ち去れないでいた。
「あの、バンシーを別室で休ませたほうがいいと思うんですが」
ポールの言葉に、エドガーは頷《うなず》く。
「ねえリディアさん、ずっと泣いては眠るの繰り返しなんですよ。病気ってわけじゃないんですよね」
「ええ、大丈夫だと思います」
「ぜんぜん、妖精に見えないんですけどね。ふつうの、人間の少女ですよ」
「バンシーはもともとは人間だったからかもしれませんね。彼女はバンシーとしての自分を忘れてるから、よけいに人間っぽいんだと思います」
ポールは少し微笑《ほほえ》んだ。
「ただ、こうしても、空気のように軽いんです」
彼がバンシーを抱きあげて連れていくのを眺めながら、リディアは、自分に何ができるのだろうと考えていた。
バンシーがエドガーを青騎士|伯爵《はくしゃく》と認め、記憶を取り戻してくれればいい。けれど彼女は、エドガーの中に、伯爵家の人々が持つはずの力を感じられないのだ。
エドガーにはない力を補うために、リディアは伯爵家のフェアリードクターとして働いている。けれども、本当に伯爵家の血を引くユリシスに対抗するなら、自分などでは役に立てないのかもしれないと思えば、気が重かった。
サロンのあちこちに、バンシーがまき散らした琥珀《こはく》が落ちている。
人の目に触れる状態のままで過ごしているらしいバンシーは、エドガーにもポールにも、ずっと姿が見えていた。
彼女が人間ではないという証拠《しょうこ》が、琥珀の粒だ。
足元のひとつを拾い、リディアは少し不安になった。
「これはどういたしましょう」
ていねいに琥珀を集めながら、レイヴンが言った。
「ネックレスにできるくらいあるかな」
ふざけ半分にエドガーが答える。
「だめよ。その……、悲しい涙だから、持っててもあまりいいものじゃないわ」
「そういえばリディア、バンシーが泣くのは一族の誰かの死を予見してるって言わなかった?」
「それは、そうと決まったわけじゃないわ。彼女は予見して泣いてたわけじゃなさそうだもの。ええと、そうだ、琥珀を燃やしてみて。燃え尽《つ》きたら、妖精の魔力がこもってはいないただの琥珀よ」
エドガーが頷くのを確認して、レイヴンは集めた琥珀を暖炉《だんろ》の火にくべた。
見る間に炎に包まれ、琥珀は燃える。
リディアはほっとして、肩の力を抜いた。
考えすぎだ。
わからないことが多すぎて、自分の気持ちも定まらなくて、不安になっているだけだろう。
「エドガー、あたしがきっと、バンシーの記憶の封印《ふういん》を解くわ。あなたは、ユリシスやプリンスから自分やみんなを守ることだけを考えて」
リディアの方に振り向いた彼は、いつになく真剣な目をしていた。
「僕がこの先、本当に青騎士伯爵としてやっていけるかどうかは、僕自身の資質の問題だと思ってる。バンシーの記憶も、僕に解くことができなければ意味がないんだろう」
それは、リディアの力は必要ないということなのだろうか。
「あたしを伯爵家の顧問《こもん》にしたのはあなたよ。あたしが協力することも、あなたの資質の一部じゃないの?」
「だったらきみは、僕と運命をともにするつもりがあるの? この先ずっと、きみの力に頼っていかなければ妖精とかかわれない僕に、一生ついてきてくれるのか?」
「……今までみたいに、伯爵家のために働くパートナーとしてやっていけるはずよ」
「それじゃあ無理だ」
「どうして? あなたと結婚しなきゃ、あたしの協力は意味がないっていうの? そんなのおかしいじゃない」
「少なくとも僕は、ただ雇っているだけのきみにそんな負担はかけられない。僕自身の将来が、きみの幸福に結びつくのでないなら、利用するだけになってしまう」
それだけ言いきると、エドガーは部屋を出ていった。
一方的な言い分だとしか、リディアには感じられなかった。
結婚する気はないとずっと言っているのに、何かと結婚を持ち出すのが、利用するためではないとでもいうのだろうか。
「なによいまさら、いい人ぶらないでほしいわ。これまでさんざんあたしを利用して振り回してきたじゃない!」
突っ立っていたレイヴンが、何か言いたげにリディアを見ていたが、苛立《いらだ》ったまま彼女はサロンをあとにした。
バンシーを寝かせたポールは、静かに部屋を出ようとしていた。
そのとき、か細い声が彼を呼んだ。振り返ると、起きあがったバンシーが彼の上着をつかんでいた。
「しばらく休んでたらいいよ。ここまで来るのに疲れただろう? 汽車に乗ってきたからよけいにさ」
妖精は鉄がきらいだとリディアに聞いたことがあったから、鉄道はどうなのかとバンシーにも気を遣《つか》って確認したポールだったが、彼女は大丈夫だと言ったのだった。
害があるというよりは、おおかた気分の問題らしい。
「すみません、取り乱してしまって……。でも汽車のせいではありませんし、妖精ですから、疲れてはいません」
ひとりになることを怖れているように見えたから、ポールはとりあえずそばの椅子《いす》に腰をおろした。
「ここにはフェアリードクターがいるから、きっときみの力になってくれるよ」
頷きながらもまだ不安そうだ。
「それに、アシェンバート伯爵は信頼できる人だから」
「……あのかたは、本当にグラディスさまにつながる一族なのでしょうか」
エドガーが、アシェンバート家の人間でないことは、ポールも知っている。本来の彼は、王族との血縁《けつえん》もある高貴な家柄《いえがら》、シルヴァンフォード公爵家《こうしゃくけ》の子息《しそく》だった。
プリンスの陰謀《いんぼう》に巻き込まれなければ、公爵家の当主として英国を盛り立てていく人物になったことだろう。
けれど、彼がどんなに高貴な血筋であっても、妖精族とのつながりを持っていたアシェンバート家と血縁がないのはたしかだった。
「人の世は、このところ大きく変わってきてるんだ。鉄の道が、この島国を縦横《じゅうおう》に走るようになったのはつい最近だよ。大きな町には工場がたくさんできて、人はどんどん、目に見えるものしか信じられなくなってる」
「妖精が見える人も少なくなったんですね。わたしのことも、何日も道ばたにうずくまっていましたけど、見えているはずなのに気づかない人がほとんどでした。あなたに声をかけてもらったとき、どんなにほっとしたか。それも、不思議といい匂《にお》いがして」
「匂い? オイルやニスの匂いかな。……女の子にはいやがられるんだけど」
「そんなことありません!」
必死に首を振って否定する。こんなに年下の女の子に気を遣わせてしまうなんてと、ポールはボサボサの頭をかいた。
「そう? ありがとう。ええとそれで、青騎士伯爵の子孫も、そういう能力が薄くなってるんだよ。でも伯爵は、自分に力が足りないことを自覚しながらも、領主としてきちんと責任を果たそうとしてる。フェアリードクターの力を借りて、領地の妖精たちが安心して暮らせるように心をくだいてる、そういう人だよ」
エドガーのことを新しい青騎士伯爵だと信じた方が、この少女にとってもいいはずだと、ポールは思った。
「ポールさんは、あのかたをとても信頼していらっしゃるんですね」
たしかに信頼している。それ以上に美化してしまうところはあるかもしれないが、軽薄《けいはく》な部分も含めて、エドガーのおおらかさや物|怖《お》じしないところを好きだと思っている。
「あー、そうだね。ぼくにとっては恩人だしね」
バンシーの少女は、はじめてかすかな笑顔を見せた。笑えばますます、ふつうの少女だ。わりとかわいいんじゃないかと思ったりもする。
「そうだ、もし退屈なら、きみの絵を描いてもいいかな。ぼくはいちおう、妖精画家だし」
「……はい!」
彼女がうれしそうに頷くのを確認し、ポールはスケッチブックを取ってくると言って部屋を出たのだった。
けれど、ほんの数分の間に、バンシーがいなくなった。
彼女をさがして、テーブルの下まで覗《のぞ》き込んだポールは、ふと窓辺に目をやったとき、外の風景にまぎれ、緑色のマントを着た少女の後ろ姿をちらりと見た。
まだ雪がちらつく中、長い髪をなびかせ、裸足《はだし》のまま急いだ様子で正門へと続く馬車道を駆《か》けていく。すぐに植え込みに隠れて彼女の姿が見えなくなる。
妖精だから寒さを感じないらしいが、なんとなく心配になったポールは、急いであとを追うことにした。
しかし、城の敷地は広大だ。整備された庭園はゆるやかに自然の森へとつながっているし、散歩道は無数にある。
馬車道には車輪のあとがいくつもあったが、散歩道にはまだ誰も入った様子がない。
とはいえ妖精は、雪の上に足跡を残さない。
どこへ行ったのだろう。敷地内ではなく、外へ続く道かもしれない。
バンシーの姿が見あたらずに、途方《とほう》に暮れてポールは立ち止まった。
「よう、何やってんだ?」
足元で声がした。見おろすと、そこにいたのはリディアの猫だった。
たしか、ニコという名の猫。フェアリードクターのリディアが彼と話しているのは何度も見かけ、そういうものなのだと納得していたポールだったが、猫に直接話しかけられると不思議な気がするのだった。
「あの、バンシーを見ませんでしたか?」
それでもいちおう、訊《たず》ねてみる。
さっき、メロウだというずんぐりした男性を送ってくると出ていったニコは、ちょうど戻ってきたところらしかった。
メロウにもらったのか、自分の身の丈《たけ》ほどもある大きな魚をかかえて二本足で立っていた。
「すれ違ったぞ。小走りで門を出てった」
「ありがとうございます」
また駆け出そうとしたポールだが、引き止められた。
「待てよ。あんた妖精の足跡は見えないんだろ?」
「えっ、妖精にも足跡ができるんですか?」
「しかたないな。おれが足跡をたどってやるよ」
ニコはそう言って、何か目に見えないものに魚をあずけた。
「厨房《ちゅうぼう》に運んどいてくれ。おれのだってことちゃんと言っといてくれよ」
ほかにも妖精がいるらしい。それはポールの目には見えなかったので、宙に浮いた魚がそのまま泳いでいったかのように見えた。
「じゃ、行こうぜポール」
歩き出すニコについていく。
「そのかわりってわけでもないんだが、あんたに頼みがあるんだ」
ヒゲを撫《な》でつつ彼は言った。
「おれの肖像画《しょうぞうが》を描いてくれないかなあ。ほら、紳士《しんし》なら一枚や二枚持ってるのが当然だろ」
「ええ、お安いご用ですよ」
即答すると、ニコはうれしそうに目を細めた。
二本足で歩いていても、意外と早い。雪の上に足跡もない猫のあとを、ポールは急ぎ足で追っていく。
ニコはバンシーの足跡を迷いもなくたどっている様子だったが、なかなか少女の姿は見あたらなかった。
一時間ほども歩いて、とうとう港のある村が見えてきたとき、ニコは立ち止まった。
「足跡が消えた」
「本当ですか? どういうことだろう」
「乗り物に乗ったかもしれないな。馬車とか手押し車とか」
「とにかく、村をさがしてみます」
小さな村は、家並みに近づいたと思うとすぐに海に突き当たる。
通りに人影は少なかったが、船着き場だけは人の行き来するさまが見える。
その奥で、今にも船に乗ろうとしている緑のマントがポールの目についた。
「いた……!」
桟橋《さんばし》へと駆け出す。
「おい、きみ! 待ってくれ、どこへ行くんだ?」
バンシーの少女が振り返った。
しかし、彼女を促《うなが》し船に乗せようとしている人影がある。ふたり並べば、一見、親子にも見える中年の女がいっしょだった。
「あなた、誰なんですか? その少女はぼくがここへ連れてきて……」
急いで追いついたポールだが、バンシーに手をのばそうとしたとき、女が彼の胸元に押しつけたのはピストルだった。
ポールは硬直《こうちょく》した。
青ざめて震《ふる》えるバンシーの肩をつかんだ女は、不機嫌《ふきげん》に言った。
「誰にも気づかれないようにって、伝えてあったはずなのに」
「あなたは、この少女のこと知っているんですか?」
「バンシーだってこと?」
緊張するポールに、女はなげやりに笑った。
「あなた、ポール・ファーマンね。ちょうどいいわ、この子が心配ならいっしょにいらっしゃい」
一瞬迷ったが、逆《さか》らえる状態でもない。
不安げに彼を見つめるバンシーをひとりにできないとも思い、ポールはともに船に乗り込んだ。
船の上から、そっとニコの姿を視線だけでさがしたが、見つけられなかった。それでも彼が見ているはずだから、伯爵《はくしゃく》の耳には入るだろうと自分を落ち着かせる。
この女が何者かわからない。ポールのことを知っているところをみると、ユリシスの手の者かもしれない。けれど、アシェンバート伯爵家のバンシーを守るのは、ここには自分しかいないのだとポールは心を決めた。
「エドガーさま、お呼びですか?」
書斎《しょさい》へ現れたアーミンは、いつものように姿勢を正して、まっすぐに彼を見た。
「どこへ行ってたんだ? 屋敷をさがしても姿がないとトムキンスが言っていたよ」
「もうしわけありません。……海を眺《なが》めていました」
ふと見せた悲しげな表情に、エドガーは思い当たった。アーミンはこの海で命を落としたのだった。
エドガーへの裏切りを告白し、海へ身を投げた。
今はこうして、また彼の前に戻ってきてくれたけれど、以前の彼女ではない。|アザラシ妖精《セルキー》に生まれ変わった彼女が、どんな感覚で自分の変化を受けとめているのかエドガーにはわからないが、人としての生命を失った場所で、深い悲しみを感じているとしても当然だった。
「いいんだ。少し心配になっただけだから」
恐縮《きょうしゅく》して、彼女はうつむいた。
「アーミン、おまえをここへ連れてきたことは、配慮《はいりょ》が足りなかったかもしれない。ロンドンに残るように言おうかと思ったけれど、わざわざそんな話を持ち出すのもどうかと迷ったんだ」
「いいえエドガーさま、ここへ来てわたしは、あらためて確認しただけです。何もかも許してくださったあなたに、ついていこうと」
その言葉に、うそも迷いもないとしか、エドガーには考えられなかった。
一方で、気になっていることを思い出す。
ロンドンで、ポールの下宿が荒らされたことを疑問に思ったスレイドが言ったことだ。
エドガーがマナーン島に出発する直前、駅のホームで話したときだった。
ポールの素性《すじょう》を知っているのはごくわずかな関係者だけで、敵に漏《も》れるとは考えにくいと彼は断言した。
『伯爵、あなたの方こそ大丈夫なんですか?』
密告者がいるのはそちらではないのかと、皮肉を込めたスレイドの言葉に、エドガーは考えてみた。
ポールがオニールの息子だと知っているのは、自分とリディア、そしてレイヴン。あとはアーミンが、エドガーとポールが昔公爵家で出会ったことを知っているかもしれないが、それだけだ。
リディアとレイヴンはありえない。けれど、アーミンをセルキーとしてよみがえらせたのはユリシスだ。
ポールがシルヴァンフォード公爵家に出入りしていたと聞けば、ユリシスなら、容易にオニールの息子だと結びつけられるだろう。
しかしそれは、アーミンとユリシスがいまだに接しているという仮定の上でのことだ。
そんなはずはないと、エドガーは信じたい。
アーミンのそばに歩み寄れば、まだ雪片が髪の毛にからみついていた。それを手で払うようにしながら頬《ほお》に触れると、彼女は一瞬、戸惑《とまど》ったような顔をした。
「ずいぶん、冷たいね」
たぶん、エドガーの態度にふだんと違う何かを感じたからだろう。
アーミンにはいつも、仲間や身内としての接し方を心がけてきたつもりだ。だからエドガーは何気なく触れたつもりだったけれど、彼女がそう感じなかったとしたら、自分は今、疑っているのだろうか。
それともいつになく、女性にするような態度で接してしまっているからだろうか。
「長く外にいたからでしょう。妖精になってから、寒さを感じなくなったかわりに、なかなか人肌に戻らないんです」
「そう、寒くないのならいいけど。ところで、ポールが伯爵家のバンシーを連れてきたんだ」
エドガーは、さっと話を切りかえながらも、まだ彼女の頬から手を離さなかった。
「はい。トムキンスさんから聞きました」
アーミンは、緊張したようにエドガーを見つめていた。
「バンシーに会った?」
「いえ、まだお目にかかっていませんが」
考えながらエドガーは、アーミンの肩の雪も払い、手をおろす。
「何もおぼえていないらしい。泣いてばかりだから、手がすいたときにでも話し相手になってやってくれ。妖精だから、人がそばにいるより安心するかもしれない」
「わかりました」
「用件はそれだけだよ」
彼女に背を向け、窓際《まどぎわ》へと歩み寄る。ほんの数秒、戸惑ったようにこちらを眺めている気配《けはい》を感じたが、いつものようにきびきびした動作で部屋を出ていった。
ドアが閉まる音を聞いてから、エドガーは振り返った。窓辺に寄りかかりながら、握っていた手を開く。
蜜《みつ》色の琥珀《こはく》が手の中にあった。たった今、アーミンの肩にくっついていたものだ。
衣服の繊維《せんい》をからめ、とろりと固まったかのような琥珀。織り目のあとがある。
アーミンはバンシーと会ったのではないのか? あの少女の涙が、彼女の肩にこぼれるような状況が考えつかない。
バンシーと会ったことを秘密にする理由は何なのだろう。
悪い予感に包まれたまま、エドガーはさらなる予感を確かめようとした。
銀のティースプーンに琥珀を乗せる。それを、ガラスの火屋《ほや》をはずしたオイルランプの火に近づけてみる。
琥珀は、燃えなかった。
炎を押しのけるかのような、淡い光に包まれてそこに在《あ》り続けた。
バンシーの涙は、一族の誰かの死を予見する。
今、アシェンバート家の人間といえるのは、エドガーしかいない。
これは、自分への死の宣告《せんこく》なのだろうか。
そうだとしてもエドガーは、自分の死には、あきらめに似たため息をおぼえただけだった。
プリンスに戦いを挑んで、いつ命を落としても不思議はないと思ってきた。その日が近いとしたら、結局負けるのか。そう思うとくやしいけれど、死にたくないというふつうの感情ではない。
むしろ、信じた者にまた裏切られる苦痛よりましではないのかとさえ思うのだった。
ノックの音がした。
エドガーは琥珀をポケットに隠しながら返事をした。
「エドガー、ちょっといいかしら」
リディアだ。彼女の声を聞くと、張りつめていた気持ちがゆるむ。
リディアだけは、人としてあたりまえの、ふつうの感覚を、彼に思い出させてくれるからだ。
敵のことや渦巻《うずま》く疑惑や、死がすぐ隣にある不安から一時離れ、エドガーにも平穏《へいおん》な日常があることを感じさせてくれる存在。
そっと遠慮がちにドアを開ける彼女のために、彼の方から扉を引いてやると、つんのめるようにリディアは部屋の中へ入ってきた。
もっと思いきりドアを引けば、腕の中まで飛び込んできたかもしれないと悔やむ。
「やあリディア、僕もちょうど会いたいと思ってたところだよ。気持ちが通じ合ったのかな」
「……べつに会いたくて来たわけじゃないの」
むっとして言うけれど、それもまたかわいい。ドア際からさらに進み入ろうとしない彼女を、もっと引きずり込みたくなってしまう。
「ちょっと気になることがあって……、ってエドガー、聞いてるの?」
「聞いてるよ」
「なんで手を握るの?」
「握りたいから」
怒った顔をしながら頬を赤らめるから、ますますかわいい。
「座って話をしようよ」
「ここでいいわ」
やっぱり以前よりかたくなになった。
けれども、とエドガーは考え方を変えてみる。リディアがふたりきりになるのを不安に思っているとしたら、彼女自身、以前のように拒絶《きょぜつ》しきれないと感じているからではないのだろうか。
都合のいい考えだろうとかまわない。
リディアにそばにいてほしい。
利用したくないなどと格好をつけても、やっぱり手放したくなんかないのだ。
引き寄せながら、彼女の指におさまっているムーンストーンの指輪に目を落とす。
妖精の魔力を秘めたムーンストーンは、リディアがエドガーの婚約者だということを証明している。
もう、迷わずに手に入れればいい。ともに戦うことも、プリンスから守ることも、決意すればいいのだ。そうしたいと思いながら、一方では燃えなかった琥珀のことを考えていた。
自分はもうすぐ死ぬのだろうか。
伯爵家の一員に、まさか婚約者のリディアは含まれないだろう。まだ結婚はしていないのだし。
でも、指輪を身につけていることで、リディアにバンシーの予言がふりかかったりしたら……。
「エドガー、バンシーとポールさんがいなくなったみたいなのよ!」
引き寄せるエドガーを両手で押し戻すようにしながら、リディアが言った。
コブラナイが言うには、城を出ていくバンシーを見た。ポールが彼女をさがしていたので、ニコが足跡を追っていった、ということだった。
リディアがこのことを知ったのは、お茶の時間になってもニコが姿を見せなかったため、コブラナイに訊《たず》ねたときだった。
彼らが出ていってから、もうずいぶん時間が経っている。何かあったのではとリディアは心配して、エドガーに相談したのだ。
話を聞いたエドガーは、レイヴンにさがしに行かせた。
そのレイヴンもなかなか戻ってこなかったが、夜になってからようやく帰ってきた。
リディアは、エドガーに呼ばれて出向いたドローイングルームで、レイヴンの報告を聞くことになった。
村の港で、バンシーとポールらしいふたりが、黒衣の中年女といっしょに対岸の町へ行く船に乗ったことを、漁師たちに聞いたレイヴンは、町まで調べに行ったらしい。
そこからは、彼ららしい三人を駅まで運んだ辻馬車《つじばしゃ》の御者《ぎょしゃ》がいたこと、ロンドンへ向かうようなことを話していたこと、それだけしかわからなかったとレイヴンは言った。
「上出来だよ」
「でも、ニコさんのことは、ファーマン氏といっしょにいたかどうかわからないのです」
リディアの方を見るのは、もうしわけないと思ってか。
「ニコは人に見えないよう姿を消すこともできるし、薄情猫《はくじょうねこ》だから、危険にはぜったい近づかないわ。ポールさんとバンシーほど心配しなくても大丈夫だと思うの」
「とにかく、バンシーを連れ出した女は、あの少女が妖精だってことも、もしかすると青騎士|伯爵家《はくしゃくけ》の者だってことも知っているわけだ」
「……ユリシスの手下なのかしら」
「そうとしか考えられない」
いつになくエドガーは、苦しげに眉根《まゆね》を寄せた。
こういうときいつもの彼は、憤《いきどお》りを通り越して、受けてたってやると楽しんでいるかのように見えるのに、悩んだ様子なのがリディアには意外に映る。
「レイヴン、明日の早朝ここを発《た》ってロンドンへ行こう。トムキンスに、準備をするよう伝えてくれ」
すぐに決断するのはいつもの彼だったが、どうかしたのだろうかと少し気になる。
「そういえば、アーミンはどうしたの?」
この場にいないのが不思議だった。彼女とケンカでもしたのだろうかと考え、そんな場面は想像できなくてリディアは首を傾《かし》げる。
アーミンは、リディアのようにはエドガーにつっかかったりしない。忠実な上に、うまくあしらうことができる。
「ロンドンへ行ってもらった。|朱い月《スカーレットムーン》≠フスレイドに急ぎの手紙を渡してもらうためにね」
アーミンを行かせるなんてめずらしい。それもごたごたが起こっているのに、追い払うかのようなタイミングだ。リディアはちらりとそう思ったが、あまり深くは考えなかった。
エドガーとアーミンとのことを、深く追求したくはなかったのかもしれない。
ぼんやりしているうちにレイヴンが出ていってしまって、気がつけばリディアは、エドガーとふたりきりになっていた。
このままではまたエドガーにせまられる、と警戒《けいかい》するが、彼は椅子《いす》に深く座ったまま、じっと暖炉《だんろ》の火を見つめていた。そしてぽつりと問う。
「きみは明日、どうする?」
え、どうするってどういうこと?
「いっしょにロンドンへ来てくれるの?」
これまでのエドガーだったら、有無《うむ》を言わせず連れていこうとするはずだった。
「だって、ニコをほうってはおけないもの」
けれどこういう返事も素直じゃない。思い直してリディアはつけ加えた。
「それにバンシーのことも、あたし、できるだけのことはしたいと思うから」
エドガーが青騎士伯爵になるためにも。そうも思ったけれど、口には出せなかった。
「わかった。ユリシスがかかわっているなら危険かもしれないけど、きみのことはきちんと守るから安心してくれ」
リディアがついていくことは、かえって足手まといなのだろうか。そんなふうに思える言い方だ。
しかし、バンシーをねらってユリシスが何かたくらんでいるなら、フェアリードクターは必要なはずだ。
「あなたに迷惑はかけないわ」
意地になって、リディアは言う。
「それはちょっと淋《さび》しいな。むしろ、頼ってほしいんだけど」
苦笑《にがわら》いを浮かべ、エドガーは立ちあがった。
「でも考えてみれば、いつも僕が迷惑をかけているね。ついきみに頼ってしまうけど、もっとしっかりしなきゃいけないな」
自嘲《じちょう》気味な言葉を吐《は》く彼を、怪訝《けげん》に思いながらリディアは見ていた。こちらに歩み寄られても、まずいような気配が少しもない。
「手を、出して」
え? と思っている間に、ムーンストーンの指輪をリディアの指から抜き取った。
「いちおうまだ、持っていてはくれるだろう?」
指輪を手渡し、淋しそうに笑ってみせる。
「人の目に見えないとはいっても、きみにとっては不本意だろうから、はずしておいた方がいいよね」
たしかに、リディアは婚約指輪をはめている理由はないと思っている。コブラナイが他人の目に見えないようにしてくれたから、まあいいかとがまんしていたけれど、自分では目に入るたびに違和感《いわかん》があった。
でも、エドガーからはずすと言い出すなんて、それこそ違和感をおぼえる。
それはもう、リディアを婚約者扱いすることもやめるという意思《いし》表示なのだろうか。
相変わらずなようでいて、微妙に違うエドガーだ。口説《くど》くような態度を見せても、ふと距離を置こうとする。
ロンドンへ行かないと言っても、納得して引き下がったのだろうか。
好きになっちゃいけないなら、はっきりそう言ってよ。
彼が立ち去ってしまった部屋の中、リディアはひとり、ムーンストーンの指輪を握りしめた。
「リディア、おい、ここ開けてくれ」
どのくらいそこで、ぼんやりと座っていたのだろうか。
声とともに窓をたたく音がして、振り返ったリディアは、そこに漆黒《しっこく》の馬を見つけ、驚いて窓辺に駆《か》け寄った。
「ケルピー、メロウの島へ入ってきちゃったの? だめじゃない」
「ちょっとおまえの様子見に来ただけだ。すぐ出てくよ」
リディアが窓を開けてやると、人の姿になって部屋の中へ入ってくる。
「伯爵のやつも来てるんだってな。何事もないか?」
「え、ええ……、まあね」
「なんだ? 元気ないな」
指輪を握りしめた手を後ろに隠しながら、リディアはどうにか微笑《ほほえ》んだ。
「そんなことないわよ。でもちょっとトラブルがあって、明日ロンドンへ向かうわ」
「ロンドンか。結局また、あいつのところへ戻るのか」
「あたしの仕事だもの」
ケルピーはリディアに近づき、じっと覗《のぞ》き込む。魔力をひそめてはいるけれど、人を惑《まど》わす魔性《ましょう》の美貌《びぼう》で見つめられると、なんだか頭がくらくらする。
「トラブルって、伯爵をねらってる連中が関係してるんじゃないのか?」
案外鋭い。
「リディア、もう首を突っ込むのはやめろ。あのユリシスってやつはヤバイと思う。そこまで伯爵のために働いてやる必要ないだろう? 婚約だって、向こうも本気だと思えねえし」
そうね。自分の都合だけで、指輪をはめたりはずしたり。
婚約という言葉も、エドガーにとって都合よく利用できるというだけのものだ。
握りしめた指輪が、手のひらにくい込んで痛い。無意識に眉をひそめる。
と、ケルピーは、いきなりリディアを引き寄せ、かかえ込んだ。
「な、何するの……」
「なんかおまえ、落ちこんでるみたいだ」
びっくりしながらも、ケルピーを突き放すことはできなかった。
彼は、容易に魂《たましい》に触れてくる。それが水棲馬の魔力だけれど、すんなりリディアを安心させることができる。
どうして落ちこんでいるのだろう。
エドガーが口説くのをやめてくれること。それを望んでいたはずだった。なのに指輪をはずされたことに落胆《らくたん》するなんてどうかしている。
落胆、しているのだろうか。
妖精と違って、人であるエドガーとは、何度手を取り合っても本心を知ることも、伝えることもできない。
「リディアさんを離してください」
レイヴンの声だった。
はっとして、リディアはケルピーを突き放そうとしたが、彼はますます腕に力を入れた。
「よう、ぼうや。おまえに指図《さしず》されるいわれはないぜ」
「リディアさんはエドガーさまの婚約者です」
「形だけのだろ」
レイヴンは、ケルピーにつかみかかろうとした。
レイヴンの手を払いのけたケルピーは、リディアを離し、さっとしりぞく。
「やめておけよ。おまえ、自分の力を自分で抑制できないんだろ? どうしてもやりたいなら、おまえが死ぬまでやることになるがな」
「やめて、ケルピー」
あわててリディアは、なだめるように間に入った。
「止めるならそいつを止めろ。そいつにくっついてるやつ、おれの力と干渉《かんしょう》して暴走したら、死ぬまで暴れ続けるぞ」
えっ、そ、そうなの?
あせりながら、今度はレイヴンに向き直った。
「レイヴン、落ち着いてね。ケルピーには出てってもらうから」
「はあっ? 俺に出てけって言うのか?」
「しかたがないでしょ。それに、そろそろ行かないと、メロウに気づかれるわよ」
舌打ちしつつも、リディアに背中を押され、ケルピーは窓辺に歩み寄った。
「なあぼうや、伯爵に言っておけ。リディアと婚約してるからって、俺が何もできないと思うなよ。リディアを苦しめるようなら、俺にだって考えがあるからな」
外の暗闇へケルピーが消えると、リディアは窓を閉め、おそるおそるレイヴンの方に振り返った。
「大丈夫です。私は冷静です」
無表情に答える彼にほっとし、けれども、ケルピーに寄りそっていたところをしっかり見られたことを思いだし、リディアは気まずい気分になった。
エドガーに見られるより気まずい。
エドガーだったなら、思ったままをまくし立てるだろうが、レイヴンは黙って責めるようにリディアを見ているだけだ。
やがて彼は、思い切ったように口を開いた。
「リディアさん、どうかエドガーさまを裏切らないでください」
「えっ、裏切るって? あたしは何もそんな」
「婚約していらっしゃるのに、ケルピーに心変わりされるのは裏切りです」
それはさすがに、不愉快《ふゆかい》になった。
「心変わりって何よ。そもそもあたしは、エドガーを好きだなんて言ったことないのよ。それに婚約は便宜上《べんぎじょう》のものだってあなたも知ってるでしょ?」
「どんな婚約でも婚約です」
「だったら、エドガーは裏切りまくってるじゃない! あたしより、あの浮気者の女たらしに言ってやってちょうだい」
「エドガーさまは浮気などなさっていません」
そんなわけないでしょ。
が、うそのつけないレイヴンがきっぱり言うからにはそうなのだろうか。
まさか、とリディアは首を振る。
リディアが休暇《きゅうか》中だった一月半、ばれる心配もないと遊んでいたに決まっている。そんなに長い間、女っ気なしでがまんできるはずがないではないか。
「エドガーさまには、あなたが必要なんです」
「……本当に必要なのはあたしじゃないわ」
死んだはずのアーミンが戻ってきたのだ。
エドガーが遊び回るのをやめて、ひとりに気持ちを定める決意をしたなら、この一月半のあいだに、リディアではなくアーミンに気持ちを向けはじめたからではないのだろうか。
生まれ変わって戻ってきたアーミンを、もう拒絶《きょぜつ》し続ける必要はないかもしれないではないか。
ケルピーになぐさめられたのに、また気持ちがささくれ立ってつらくなったリディアは、レイヴンの視線を振り切るように逃げ出していた。
目隠しをされて連れてこられたポールが、ようやくそれをはずされたのは、どこかの屋敷の中だった。
ロンドンのどのあたりだろうか。馬車に乗せられてずいぶん走ったような気がする。あたりがあまりに静かだから、市街ではなく郊外《こうがい》かもしれない。
窓が板でふさがれた部屋だったので、外の様子はわからなかった。
ドアはもちろん開かない。
「おい、ポール、そこにいるのか?」
ニコの声がした。驚いて、ポールはドアにはりついた。
「ニコさん、まさか、ついてきたんですか?」
「ああ、姿を見えないようにしてた。それより、やっかいな状況だぞ。ここにはユリシスがいる」
やっぱり、とは思いながらも、最悪の事態だった。ユリシスにとらわれてしまったとすると、殺されるかもしれない。
「ポール、聞いてるのか?」
「あ……はい、ちょっと、気が動転して」
「そんな場合じゃないぞ。今|鍵《かぎ》をあけてやるから、さっさと逃げようぜ」
「鍵、あるんですか?」
「あの女が引き出しにしまったのをくすねてきたよ」
なるほど。透明《とうめい》な存在になれる妖精は便利なものだ。彼がいてくれてよかった。
鍵のはずれる音と同時に、ポールはノブを回してドアを開けた。
通路はまっ暗だった。
「こっちだ」
ニコの声を追って、壁づたいに歩き始める。彼がいまだに姿を消したままなのかどうか、暗くてわからない。
「あの、どうしてぼくについてきてくれたんです? あなたはリディアさんの猫なのに」
「猫じゃねえよ。それにリディアとは対等な相棒なんだ。おれは好きなように行動してるし、あんたがいなくなると肖像画《しょうぞうが》を描いてもらえなくなるだろ。困るんだよ」
肖像画のためか。しかしまあ、絵を気に入ってもらったわけだしと思い直す。
「そうだ、ニコさん。バンシーはどこなんですか?」
「わからねえよ。あんたの方を追ってきたから」
「彼女を助けないと」
「あっちは妖精だ。ほっといたって死にやしない」
けれどポールは、バンシーの不安げにうるんだ瞳を思い出していた。
「でも、きっと心細い思いをしてると……」
そのとき彼の耳に、かすかなすすり泣きの声が聞こえてきた。
バンシーだ、とポールはきびすを返す。
「おい、妖精画家、どこへ行くんだよ」
声の漏《も》れる部屋にたどり着くと、ポールはそっとドアを押し開けた。鍵はかかっていなかった。
部屋の中ほどで、フードをかぶったままひざにちょこんと手を置いて座っていたバンシーは、うつむいて泣いていた。
「バンシー、大丈夫かい? ひどいことをされたのか?」
声をかけると、はっと顔をあげた彼女は驚いたようにポールを見た。
そうして、あわてて首を横に振る。
「いいえ、わたしは何も……」
「そう、よかった。立てる?」
「あの、もうあなたには会えないと言われたんです。それで……」
「早く、いっしょにここから逃げよう」
しかしバンシーは、立ちあがるのを拒絶するように、また大きく首を横に振った。
「わたし、ここで、本物の青騎士|伯爵《はくしゃく》にお会いするんです」
「何言ってるの。青騎士伯爵はマナーン島の城で会ったかただよ」
「でも、本当に青騎士伯爵の血を引くかたに会わせていただけるはずなんです」
困惑しながら、ポールはニコの方を見た。
灰色猫の姿を現していたニコも、困ったように腕を組んでいた。
「誰がそんなことを言ったんだい? ぼくたちをここまで連れてきた女性?」
「いいえ、マナーン島のお城で、受け取った手紙に書いてあったんです。本物の伯爵に会いたければ、誰にも見つからないようにひとりでお城を出て、港へ行くようにと。そこに女の人がいて、青騎士伯爵のところへ連れていってくれるということでした」
それで彼女は、急に部屋から姿を消したらしい。しかしそうなると、新たな疑問がわく。
「城で? 誰がきみにそんな手紙を?」
「黒っぽい髪を短くしたメイドです。男の人の服装をしていましたけど、手紙を、すぐに読むようにと置いていきました」
それは、エドガーに最も近い従者の姉だ。まさか、と思いながらポールはうろたえていた。
アーミンが、ユリシスからの指示をバンシーに伝えたことになる。
わけもわからず、単に手紙をあずかっただけだろうか。
けれど、誰がアーミンに手紙をあずけたにしろ、バンシーという重要な少女に宛《あ》てた不審《ふしん》な手紙を、伯爵に相談もせずに渡すだろうか。
バンシーがひとりきりになったわずかな隙《すき》に手紙を渡したのも気になる。
ポールは、知ってはいけないことを知ってしまったかのような気がしていた。ニコも困惑しきったように、しきりにヒゲを撫《な》でている。
「……それで、その手紙は? 持ってるの?」
「いえ、すぐに暖炉《だんろ》で燃やすように書いてあったので……。とにかく、本当にお血筋かどうか、確かめたいのです。グラディスさまが亡くなっていらっしゃるなら、その方こそわたしの主人」
「さすがに、バンシーは家系に忠実な妖精だよ」
割り込んだ声に、ポールは硬直《こうちょく》した。戸口に現れたのは、淡い金髪の少年だった。
ユリシスだ。
一見十五、六の少年ながら、プリンスの側近《そっきん》にして妖精の魔力に通じている男。
ポールはあとずさりかけ、バンシーを守らなければと気づくと、どうにか彼女の前に立った。
ユリシスは、ポールなど気にもとめずに進み出る。
「やっと会えたな、バンシー」
ふらりと、バンシーは立ちあがった。
ユリシスを見つめたまま、立ちふさがっているポールのそばをすり抜け、ユリシスに近づいていく。
「あなたが、青騎士伯爵の……」
「おまえならわかるだろう? 本物の伯爵家の血筋を見抜けるはずだからな」
「はい……、感じます。グラディスさまと同じ力を」
「待ってくれ、バンシー、彼は違う。正統な伯爵家の人間じゃないんだよ」
ユリシスは、苛立《いらだ》ったようにポールの胸ぐらをつかんだ。
「庶子《しょし》の系譜《けいふ》だからと言いたいのか? 先祖が正式に結婚してなかったというだけだろ。そんなのは人の事情だ。妖精族にしてみれば、血のつながった子孫がすべてを受け継ぐのが当然だ」
突き放され、倒れたポールに、驚いたらしいバンシーが駆《か》け寄った。彼女にしてみれば、ようやく出会えた主人だと思える人物が、ポールに乱暴をするのが信じられないのだろう。
うろたえたようにユリシスとポールとを交互に見る。
「バンシー、その男はおれの敵だ。おまえにやさしくしたかもしれないが、それもこれもだますためさ」
体を起こしながら、ポールは、こちらを心配そうに見つめるバンシーに訴《うった》えた。
「違う、あの男を信用しちゃいけない。頼むから、ぼくを信じて、伯爵は城で会ったあのかただと信じてくれ」
「テッドのやつの周囲には、どうしてこうも崇拝者《すうはいしゃ》が群《むら》がるんだか。うっとうしいったらないよ」
ユリシスはピストルを取り出し、ポールに向けた。
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ひとり淋《さび》しい夜に
真夜中のロンドンは、深い霧《きり》に埋もれていた。
ビッグベンの鐘の音が、泥《どろ》の底で眠るかのようなこの街に鳴り響く。
通りに並ぶガス灯が、霧にくもった光をぼんやりと浮かびあがらせているが、石畳《いしだたみ》や建物の影もはっきりとしない。
凍《い》てつくような寒さと霧のせいか、人影もほとんどなく、馬車が通り過ぎる気配《けはい》もない。
ケルピーは、堂々と馬の姿で通りを歩きながら、伯爵邸《はくしゃくてい》へ向かっていた。
リディアがロンドンへ行くと言うから、一足先にやって来たのだ。
ずっと休暇《きゅうか》が続けばいいと思っていたが、そうはならなかった。
彼女があの伯爵と婚約解消さえしてくれればなとつくづく思う。
力ずくでハイランドへ連れていくことだってできるのに。
危険から遠ざけるためなら、しばらくのあいだそうしたって、リディアも理解してくれるのではないだろうか。
そんなことを考えながら、いばらのからみついた垣根《かきね》をふわりと飛び越え、伯爵邸の敷地に忍び込んだケルピーは、噴水《ふんすい》の池で休もうと思っていた。
何気なく二階を見あげると、邸宅《パレス》の窓から抜け出そうとしている人影がある。
アザラシ女だ、と彼はつぶやく。
|アザラシ妖精《セルキー》のアーミンは、以前にも奇妙な動きをしていたことがあった。どうにも彼女は、主人である伯爵に隠れて行動しているところがあると思えば、ケルピーは気になった。
もちろん伯爵のためなんかではなく、そのそばにいるリディアのために気にしているのだ。
用があって出かけるなら、窓から抜け出す必要などない。妖精としての自覚が薄い彼女は、玄関から出入りするのがあたりまえの感覚であるはずだ。
不審《ふしん》に思ったケルピーは、アーミンのあとをつけてみることにした。
邸宅を出た彼女は、急ぎ足で通りを駆《か》けていく。妖精族は、霧でも闇でも、人のようにまったく見えなくなるわけではないから、彼女の足取りは早かった。
ケルピーがふだんねぐらにしている公園沿いの道をどんどん進み、ずいぶん郊外《こうがい》まで歩いたと思うと、やがて彼女は、枯れ草に覆《おお》われた沼地の、建物もまばらな場所にある一軒家《いっけんや》に近づいていった。
玄関の前に彼女が立つと、待っていたかのようにドアが開いた。ケルピーが見ているところからは、かすかに明かりがもれ、そして消えたのがわかる。ドアが閉じられたのだろう。
ケルピーは、そっと建物に接近する。
建物の窓には板が打ち付けられていて、中の様子はわからない。明かりももれていない。
どうやって中を探ろうかと考えながら、建物に沿って周囲を歩いていたケルピーの足元に、そのとき上から何かが落ちてきた。
「なんだ? 危ねえなあ」
屋根についた天窓から投げ捨てられた様子だが、木々の枝にさえぎられて、窓の様子はよくわからない。
身を屈《かが》め、足元にあるものを確かめれば、それは古びたトランクだった。
ゆさぶってみると、中身があるようだったが、鍵《かぎ》がかかっていて、簡単には開かなかった。
「またあなたなの?」
座り込んで鍵を壊そうと試みていると、背後《はいご》から声がかかった。
「よう、久しぶりだな、アザラシ女」
不機嫌《ふきげん》な顔で、彼女はケルピーを見おろし腕を組んだ。
「ひとりで何やってんだ? また伯爵に黙って何かたくらんでるのか?」
静かにと言うように、彼女が人差し指を立てたとき、戸口でアーミンを呼ぶ声がした。冷静な足取りで、彼女はケルピーから少し離れると返事をした。
「いいえ、人がいた様子はありません」
[#挿絵(img/amber_123.jpg)入る]
戸口の明かりにちらりと見えたのは、若い男の姿だった。
あいつだと、ケルピーは目を見開く。
以前にケルピーをだましたことがある、フェアリードクターの能力を持つ少年だ。
それも、伯爵を殺そうとしていたのだ。なのにケルピーの目の前にいるのは、伯爵が信頼している仲間のひとりだ。
「物音がしたと、おまえが言ったんだ」
「はい、でも見かけたのはキツネだけです」
「よく見回っておけ」
少年はそう言って館《やかた》の中へ消えた。
ほっと息をついたアーミンは、またケルピーをにらむように見た。
「俺はキツネじゃねえぞ」
「本当に、じゃまな妖精」
「だったらなぜ、やつに俺を突き出さない」
「そうしたら、わたしがあなたと戦わなきゃならなくなるからよ。体力の無駄《むだ》だわ」
なるほど、とケルピーは頷《うなず》く。水棲馬と一対一でやり合ってかなうわけがないと彼女は知っている。
「おまえ、伯爵のこと裏切ってあいつについてるのか」
彼女の整った眉《まゆ》が、かすかにひそめられる。人間くさいセルキー族にしてはめずらしいほどの美貌《びぼう》だとケルピーは思う。もっとも彼女は、人間だったときと同じ容貌《ようぼう》だというが、なおさら、あの女たらしの伯爵が手を出していないというのが不思議だった。
「そのトランクを開けてちょうだい。あなたの馬鹿力ならできるでしょ」
ケルピーの問いには答えずに、彼女は言った。
「なんでだ?」
「お友達が中にいるわ。持ち出そうとしたけど、見つかりそうになったからとっさに窓から落としたの。物音がしたと言いわけして出てきたら、あなたが……。とにかく、中身を持ってさっさと行って」
「俺には友達なんていない」
「そうなの。じゃあ、あなたの大切な人のお友達よ」
リディアの友達? 不審に思いながら、ケルピーは力を入れて錠前《じょうまえ》を壊し、トランクを開けた。
灰色の猫が、ぐったりと気を失っていた。
「なんだ、こいつか」
ニコをつまみ上げながら、アーミンの方を見る。
「おまえが裏切ってるってこと、口止めするかわりにこの猫か? リディアをよろこぼせたって、おまえのせいで危険な目にあうなら取り引きにならねえぞ」
「取り引きじゃないわ。リディアさんを奪われたくないから、あなたはエドガーさまの味方にはならない。口止めする必要はないじゃない。彼さえいなければ、リディアさんとスコットランドへ帰れるのに。そう思ってるんでしょう?」
「伯爵を殺す気かよ」
悩んだように、彼女はまぶたを伏せた。
「わたしは、エドガーさまを奪われたくないだけ」
どういう意味でそう言ったのか。守りたいのか、それとも裏切ってでも自分のものにしたいのか。
ケルピーも、リディアに対してどちらの感情も持っている。
リディアを傷つけたり悲しませたりするのはいやだし、守りたいと思っているが、その一方で、きらわれてでもいっそ水の底へ連れ込めば、あきらめてそばにいてくれるのではないかと思わないこともない。
そうすることが、結果的に彼女を守れることになるのではないかとも、ふと考える。
「おまえ、リディアに迷惑はかけないって言っただろ」
「どうしても心配なら、なんとかしてエドガーさまから遠ざけることね」
空っぽのトランクを拾いあげ、彼女は裏庭の方へ歩いていった。
「ニコ、しっかりして。死んじゃだめよ」
クッションの上に寝かせたニコを、リディアは必死で撫《な》でさすった。
ぐったりしたまま、ニコは少しも動かない。
ロンドンのカールトン家の応接間で、エドガーとレイヴンも様子を見守っている。
「怪我《けが》はしてないみたいだけど」
エドガーは、無抵抗のニコをひっくり返したりしっぽや足を持ちあげたりと勝手なことをするので、リディアはおろおろしながらやめさせなければならなかった。
「病気? 妖精も病気にかかるのか」
「わからないわ。とにかく、あんまりいじらないで」
ロンドンの自宅に戻ってきたリディアは、迎えに出てきた家政婦から、ニコが今朝《けさ》玄関前に倒れていたと聞かされた。
駅からリディアを送ってきたエドガーとレイヴンも、わざわざ馬車を降りてニコの様子を見に来てくれたのだが、断った方がよかったかしらとリディアは思う。
「紅茶の匂《にお》いを嗅《か》がせてみたら、起きるんじゃないか?」
「もう帰って」
泣きそうになりながら、ニコを抱きしめ、リディアはエドガーに背を向けた。
「リディア、ふざけてるんじゃないよ。きみの気分を少しでもやわらげようと思ってるだけなんだ」
「だったら黙っててちょうだい」
「あ」
と不意に言ったのはレイヴンだった。
「……いえ、すみません、黙っています」
「あなたはいいのよ。何か気づいたのなら教えて」
「僕と扱いが違うのか」
「当然でしょ」
ちょっとふてくされた主人の手前、レイヴンは話すのを躊躇《ちゅうちょ》していたが、エドガーが手振りで許可すると、ようやく口を開いた。
「ニコさんのヒゲがありません」
えっ?
ニコの顔を確かめると、たしかに、彼自慢のヒゲがぷっつりと切られていた。
「でも、ヒゲを切られたって、彼は妖精だし、痛くも不自由もないはず……」
言いかけたリディアの目の前で、ニコがうっすらと目を開いた。
「ニコ! 気がついたの!」
「…………ヒゲが……」
つぶやきかけたニコは、急にぱちりと目を開け、リディアの腕から飛び出すと、クッションの陰に隠れてしまった。
「えらく元気じゃないか」
エドガーがクッションをどけようとすると、ニコはそれを必死でつかんだ。
「わあっ、見るな! おれを見るんじゃねえ!」
「どうしたんだい? ヒゲがないから?」
「言うな!」
「それはともかく、ポールとバンシーがどうなったか知らないか?」
切羽《せっぱ》詰《つ》まった質問だったから、ニコもさすがに考え込み、まじめに答えた。
「郊外の空き家みたいなとこに連れてかれたんだ。チェルシーの南の、川を渡っていったところ、すぐそばに水車小屋のある建物だ。そこにユリシスがいて、妖精画家とバンシーはどうなったかわからない」
「きみもユリシスにつかまってたのか」
「つかまって、そしたらあいつ、おれさまの大事なヒゲを……。あまりのショックで気を失って、そっから何もおぼえてない」
「何も? どうやってカールトン家まで帰ってきたのかも?」
「わかんねえよ」
ニコはクッションを頭からかぶるようにしてしっかりつかみ、そこから出てこようとしないまま、また情けない声をあげた。
「リディアー、鏡を貸してくれ……」
手鏡を差し出してやると、彼はヒゲの様子を確かめたのだろうか。
ひー、と力ない悲鳴をあげ、クッションの下でまたぱったりと動かなくなった。ショックのあまり気絶したらしい。
あきれるやらほっとしていいやら、リディアはため息をついた。
クッションを持ちあげると、その下でニコは、さっきリディアが半泣きで介抱《かいほう》していたときと同様、苦悶《くもん》の表情で気絶している。
「きっとユリシスは、他人のいちばんいやがることを本能的に知っているんだろうね。まあとにかく、命に別状なくてよかった」
「そうね、無事でよかったわ」
力が抜けつつも、屈み込んでニコの曲がったネクタイを直してやる。そんなリディアをおだやかに眺《なが》め、エドガーが少しだけ淋しげな顔をしたのには、彼女は気づかなかった。
「レイヴン、早速《さっそく》だけど|朱い月《スカーレットムーン》≠ニ手分けして、ニコの言っていた建物をさがしてくれ」
レイヴンに的確《てきかく》な指示を与えるエドガーの声を聞きながら、リディアは立ちあがる。
ニコは無事だったけれど、ポールとバンシーはユリシスと接してどうなったのかわからないのだ。
まだ問題は何も解決していない。
レイヴンとともに出ていきかけたエドガーは、ふと立ち止まり、唐突《とうとつ》なことを口にした。
「ところでリディア、バンシーの死の予言って、期限はあるの?」
「えっ、どうして?」
「単なる興味」
変なことに興味を持つのがエドガーだから、リディアはあまり気にとめなかった。
「……だいたい一週間以内じゃない?」
「そう。じゃあ、ポールのこと何かわかったら連絡するよ」
そう言って去っていったエドガーが、再びリディアのところに使いをよこしたのは、翌日のことだった。
ニコの言っていた空き家が見つかり、レイヴンが踏み込んだとき、すでにもぬけのからだった建物の一室に、ポールは縛《しば》られて取り残されていたらしい。
伯爵邸《はくしゃくてい》へ連れてこられ、ようやく人心地《ひとごこち》のついたポールと、リディアは対面した。
応接間の片隅《かたすみ》に座っているポールの顔には、殴《なぐ》られたようなあとがあった。
「……ポールさん、無事だったんですね!」
情けなさそうに頭をかくのはいつもの彼で、ほかに怪我がなさそうなのが救いだった。
「すみません、ご心配かけて。それにバンシーを連れていかれてしまいました」
「ユリシスのねらいはバンシーだったのか?」
エドガーの問いかけに、ポールは神妙《しんみょう》な顔になって姿勢を正した。
「ええ、そうなんです。でもユリシスが必要としてるのはそれだけじゃなくて、バンシーの記憶の封印《ふういん》を解くための琥珀《こはく》もさがしているそうです」
「琥珀で記憶の封印を解く?」
「バンシーの記憶は、レディ・グラディスの死を予言したときの涙の琥珀に封印されたらしくて、どうしてもそれが必要なのだとか」
「ユリシスがそんなこと教えてくれたんですか?」
リディアは意外に思う。けれどエドガーは、やけに納得したように言った。
「それでポール、きみは殺されずにすんだわけだ」
なぜだかもうしわけなさそうに、ポールは頷いた。
「はい、琥珀をさがせと言われました。心当たりはないかと執拗《しつよう》に聞かれましたけど、ぼくにはまるでわからないし。だったら、その、青騎士伯爵にたのめば魔力を持つ琥珀くらい見つけられるはずだと……」
ユリシスにケンカをふっかけられたのだ。エドガーは不愉快《ふゆかい》そうに鼻を鳴らした。
「家捜《やさが》ししても、奴にだって見つけられなかったくせに、負け犬の遠吠えだよ」
だとしても、それが伯爵家にとって重要なものなら、エドガーは青騎士伯爵の名にかけて、琥珀をさがしださねばならない。
「それでポールさん、バンシーは人質《ひとじち》なんですか?」
「あー、いえ、危害を加えられることはないと思います」
「とすると、ユリシスに会って、伯爵家の血筋《ちすじ》だとバンシーは認めたのか?」
図星だったようで、さらにポールは、もうしわけなさそうにうなだれた。
「それにしても、ユリシスはどうして、ポールさんに琥珀をさがせと言ったの?」
「ユリシスはポールの実父が持っていたと思っているんだ。今はどこにあるのかわからないけど、父親が持っていたのはたしかなんだろう」
どうやらユリシスは、少しばかり秘密をあかして、こちらにあるはずの琥珀を見つけさせようとしているようだ。だから琥珀に近いはずのポールを殺さずに、エドガーへの伝言役にした。
だとすると、ポールの近くに琥珀があるはずだとユリシスは確信しているのだ。家捜ししたというが見つけられなかったのだから、よほど巧妙《こうみょう》に隠されているのだろうけれど、それでもポールが鍵だと思っている。
「ポールさんの身近にはあると思います」
リディアは言った。
「えっ、どうしてなんですか?」
「バンシーは、ポールさんのそばに現れたんでしょう? 何か感じるものがあったからだと思うんです」
ポールは考え込んだが、父親の遺品の中に思い当たるものがないのだろう。
「ねえリディア、琥珀を見つけて封印を解いて、バンシーがあずかっているものを手に入れた方が、実質的に青騎士伯爵としての力を得ることになるのかな」
「……そうかもしれないわ。レディ・グラディスが妖精の魔力を持つ琥珀に封じたなら、それ自体、妖精の魔法と同質のものなんでしょうから」
「ユリシスがこだわっている。とすると、プリンスが手に入れたがっているか、それとも他人の手に渡るとプリンスの脅威《きょうい》になるのか」
「伯爵家の血筋を抹殺《まっさつ》したのも、誰かが手に入れるのを怖れたからかもしれないわね」
「なおさら、僕がバンシーの琥珀を見つけて、封印を解かなきゃいけないな。でも僕は、琥珀を見つけたとしてもどうすればいいのかわからないんだ」
ユリシスは知っているのだろうか。
知っているのかもしれない。あるいは、バンシーが彼を伯爵家の子孫だと認めたなら、すでにその方法を思いだし、話してしまったかもしれない。
「とにかく、琥珀を見つけるのが先決よ。ポールさん、あなたの下宿《げしゅく》へおじゃましてもかまいません?」
「ええ……、そうですね。もういちどさがしてみましょう」
「だったらレイヴンと、他にも何人か人手を集めよう」
頷《うなず》きながらも、ポールがにわかに不安げな顔をして、エドガーを見あげた。
「あのー、伯爵、じつはもうひとつお話が」
立ち去りかけたリディアは、思わず足を止めるが、ポールはもうしわけなさそうに言う。
「できれば人払いをしていただけますか」
エドガーに出ていくよう言われる前に、リディアは部屋をあとにしたが、ほんの少し疎外感《そがいかん》をおぼえていた。
あたしはこの先、彼にとって必要なのかしら。
エドガーに指輪をはずされたときから感じているそれが、重く胸に積もっていくかのようだった。
バンシーがマナーン島の城を抜け出したのは、ユリシスに会うためだった。本物の青騎士伯爵が待っている、そう誘い出す手紙を渡したのはアーミンかもしれない。
ポールから話を聞かされたエドガーは、驚くというよりも、アーミンの肩についていた琥珀のことと、ぴったりつながるではないかとすっきりした気分さえしていた。
もちろんまだ、彼女が裏切っていると結論づけてしまいたくはない。
誰がアーミンにたのんだかも問題だが、単純に、あずかった手紙を渡してしまっただけかもしれない。
けれどアーミンは、バンシーに会っていないとうそをついた。それがエドガーには気にかかる。
とにかく、じゅうぶん用心しなければならない段階だ。
ひとり書斎《しょさい》にこもった彼は、ずっと考え続けていた。
そもそも以前にも彼女の心の内を見抜けなかったエドガーだ。
本人に問いつめても得られるものは少ないだろうし、注意深く経過を見守るしかないかもしれない。それも、彼女にこちらの変化を悟られないように。
重要な情報を彼女から隠さなければならないし、かといって雑用ばかりさせていたら不審《ふしん》に思われるだろう。
アーミンはけっこう察しがいいから困る。
エドガーはデスクの上で両手を組みながら、難しいがどうにかしなければならないと自分に言い聞かせた。
「……なぜなんだろう」
つい、つぶやきをもらす。
なぜいまだにアーミンは、ユリシスやプリンスの言いなりにならねばならないのか。
セルキーになった彼女は、アザラシの毛皮を脱ぐことで人の姿になれる。毛皮がないと海には帰れないから、毛皮を奪った人間に従うしかなくなるというが、ユリシスはもうアーミンの自由を奪うことはできないはずだ。
彼女の毛皮は、エドガーが持っているから。
アーミンを縛るつもりのないエドガーは、ただ毛皮を保管しているだけだ。彼女が望めば返すつもりでいるし、それはアーミンもよくわかっている。
まったく自分の意志で、ユリシスやプリンスにまた従う気になったとしたら、なぜなのかがわからない。
彼女は、エドガーの破滅を望んでいるのだろうか。
ひょっとすると彼女の魂《たましい》は、そう望むしか救われないのかもしれない。
希望の光を見せておきながら、この手で幸せにしてやることができなかったエドガーを、恨《うら》んでいるのだとしたら。
だったら、死んでやってもいいじゃないか。
心の片隅で彼は考えている。
何も与えてやれなかったから、こんな命くらい……。
胸のポケットから、一粒の琥珀を取りだし、透《す》かして眺める。
これがその、死の暗示なのかもしれないと思いながら。
蝋燭《ろうそく》の火を近づけてみる。
やはり、淡い光を発して炎を遠ざける。
「ほーお、死相が出てるな」
振り向くと、ケルピーが窓から部屋へすべり込んできたところだった。
「それ、あんたんとこのバンシーの涙だろ」
頭のてっぺんからつま先まで、ギリシャ彫刻みたいに均整の取れた体躯《たいく》で、エドガーの前に立ちふさがる。
顔も見たくない。
「何しに来た」
「なあ伯爵、まだリディアと婚約解消するつもりはないのか?」
「しつこいね。ありえない」
「どうせもうすぐ死ぬなら、さっさと解消してくれ。リディアに何かあってからじゃ遅いんだ。あんたが死ぬ原因に、巻き込まれないとも限らない」
もちろんそれは、エドガーだって気にしていることだった。だからといって、ケルピーに指図《さしず》されたくはない。
「リディアはきちんと守る。さっさと消えてくれ」
「言っておくが、こっちにだって手段はあるんだからな。いざとなりゃ、リディアを怒らせることになったって、あんたからむりやり離すことくらい……」
黒真珠《くろしんじゅ》の色をした、魔性《ましょう》の瞳がエドガーを覗《のぞ》き込む。こいつひとり追い払えない。青騎士伯爵だなんてお笑いだ。
かろうじてにらみ返しても、水棲馬は何も感じてはいないのだろう。
ノックの音がした。
「エドガーさま、失礼いたします」
レイヴンの声だ。ケルピーはやれやれとつぶやき、しりぞく。
「あんたの従者はやっかいな奴だからな」
言ったなり消えたケルピーが開け放していった窓を眺《なが》めながら、エドガーはため息をつく。まだレイヴンの方が、妖精に対して存在感を持っているのだろう。
「どなたかいらっしゃったのですか?」
部屋へ入ってきたレイヴンは、不思議そうにあたりを見回した。
「ああ、馬がね」
納得したように頷きながら、彼は窓を閉め、鍵もかけた。
「ケルピーのことは、用心した方がいいと思います。リディアさんの知人でも、私たちの味方ではありません」
「何かあった?」
レイヴンが、自分の考えを強く言うのはめずらしいことだと思ったから、エドガーは訊《たず》ねた。
「……リディアさんに言い寄っているところを見ました」
彼の淡々とした表情が、かすかにくやしそうに見えるのが気のせいでないなら、エドガーには見せない態度を、リディアはケルピーには見せたのだろうと想像できた。
ケルピーの気持ちなら、リディアは素直に受けとめることができるのだろうか。
妖精だからと拒《こば》んでいるけれど、彼自身の気持ちを疑うことはないのだろう。
妖精はうそをつかないから。
くやしいと、エドガーは思う。
今すぐリディアのもとへ行って、心変わりしないでくれと言いたい。そもそもリディアにとって、心変わりも何もないのだが、少しはこちらに向けられたはずの彼女の気持ちを手放したくない。
けれど、もういちど踏み込もうにも、自分には時間がないかもしれないのだ。
「レイヴン、リディアを守ってくれるか?」
唐突《とうとつ》な言葉を疑問に感じるでもなく、レイヴンは力強く頷いた。
「もちろんです。エドガーさまの婚約者なのですから」
「そうではなく、僕がいてもいなくても、友人としてリディアを守ってやってほしい」
いまひとつわけがわからないのか、レイヴンは首を傾《かし》げた。
わからなくても、いつかわかってくれればいい。
アーミンのことも。
エドガーは、レイヴンにアーミンの疑惑を告げるつもりはなかった。知ってしまったら、レイヴンは姉を殺そうとするだろう。今はまだ彼にとって、姉弟の情《じょう》よりも、エドガーへの忠誠心が絶対だ。
アーミンの裏切りがはっきりしても、レイヴンに手を下させてはいけないと思っている。
そうなったら彼は、人らしく生きる機会を永遠に失ってしまうだろう。
「それより、ポールの下宿はどうだった? 琥珀《こはく》は見つかったのか?」
「いえ、それらしいものはまだ見つかっておりません。額縁《がくぶち》やカンバスの木枠《きわく》の中まで確かめているのですが」
「一見琥珀に見えないのかもしれないな」
「琥珀に見えない琥珀……ですか?」
言ってみたものの、エドガーにも想像がつかない。上から色を塗られているとか、と思っても、それくらいは敵も考えるだろう。割ってみればすぐにわかる。
ユリシスも、きっと想像がつかないのだ。
こちらにさがさせ、奪うつもりなのだろうか。それとも、向こうにはバンシーがいる。琥珀のありかさえわかれば彼女の記憶を取り戻せるのだろうか。
「スレイドのクラブも調べてみよう」
頷き、部屋を出ていこうとしたレイヴンを、もういちど呼び止めたのは、エドガーにとってほとんど無意識だった。
「リディアは? まだポールの下宿に?」
「帰られました。今夜|父君《ちちぎみ》が採集旅行からお戻りになるそうで」
「ああ、そう」
なら今夜は、食事に誘っても無理か。
ああでも、これが自分の悪い癖《くせ》だ。リディアと過ごしているといやなことを忘れるから、強引に誘ってばかりだけれど、それも自分の都合でリディアを利用しているだけ。
本気で彼女を想うなら、スコットランドへ帰すべきだ。けれど、それができるくらいなら彼女の休暇《きゅうか》中に決断していた。
いまだに迷いながらエドガーは、デスクの上の琥珀をポケットにしまった。
「ニコ、本当に夕食いらないの?」
声をかけても、うんともすんとも言わないニコは、リディアのベッドの下にもぐり込んだきり出てこない。
「父さまのおみやげ、フィンランド産の鮭《さけ》の薫製《くんせい》とウィスキーよ。今行かないと、なくなっちゃうかもよ」
久しぶりに父との夕食を終え、二階の自室へあがってきたリディアは、お酒にもつられないニコが、深く傷ついているのを感じるのみだった。
ベッドに腰をおろすと、ほんの少しはみ出していたニコのふさふさしたしっぽが、ふいと引っ込んだ。
「ねえ、ニコ。ヒゲがなくたって、あなたは立派な紳士《しんし》よ。ポールとバンシーがどこに連れていかれるのか、確かめようとしたんでしょう?」
ベッドの下のニコは、身じろぎする気配《けはい》もない。
「気まぐれでときどき薄情《はくじょう》だけど、けっこういいところもあるって、あたしは知ってるから」
リディアは、小さな包みをベッドの下に押し込んだ。
「帰りがけにいいもの見つけたから買ってきたの。仮面|舞踏会《ぶとうかい》で使うマスクよ。ミニチュアの飾り物だから小さいけど、ニコにはちょうどいいんじゃない? ヒゲが隠れるわ」
ニコは関心を示さなかったようだ。
けれど、リディアが部屋を出ていこうとすると、急に言った。
「リディア、気をつけろ。アーミンのやつ、伯爵《はくしゃく》を裏切ってるかもしれないぞ」
「えっ、まさか」
あまりにも唐突で、悪い冗談としか思えなかった。だから笑いながら流したのだけれど、ニコの声は深刻だった。
「本物の青騎士伯爵に会わせてやるって手紙を渡して、バンシーをユリシスに引き合わせたの、彼女かもしれないんだ。ポールも話を聞いてたから、伯爵の耳にはもう入ってるかもしれないけどな」
人払いをして、ポールがエドガーに話したのはこのことだったのだろうか。
心当たりが見つかると、唐突なニコの言葉も急に信憑性《しんぴょうせい》を帯びてくる。
大切な人に、二度も裏切られるとしたら。
エドガーは、たいへんなショックを受けているのではないだろうか。
ひとりでいるのかしら。
どうしているのだろう。大丈夫だろうか。気になりはじめると落ち着かなくなった。
ううん、あいつはそうとう図太いはずよ。
何があってもうろたえたりしない。そんな彼をいつもリディアは見てきた。
でも、心の内を隠すのが上手だから。
階下の応接間に戻り、機関誌を読んでいる父のそばに腰をおろしながら、まだリディアは考えていた。
「リディア、雪が降ってきたよ。今夜も冷えそうだ」
「そうね、父さま」
バカみたい。あたしが心配する必要ないじゃない。
もし彼が深く傷ついていて、淋《さび》しくてたまらないと思っているとしても、なぐさめてくれるような女友達は何人でもいるはずだから。
リディアは、そういうひとりにはなりたくないと思ったから、彼と距離を置こうとしているのだ。
上流階級を顧客《こきゃく》にした、会員制高級クラブへ、エドガーはやって来ていた。
秘密結社|朱い月《スカーレットムーン》≠フ拠点ともなっているところで、結社の団員である芸術家が、後援者《パトロン》を見つける交流の場としてスレイドがはじめたクラブだった。
そのため、ここには絵画《かいが》や彫刻品などがたくさん飾られている。
高級クラブの名に反しないよう、あくまで厳選されたものが配置されているが、まだ名もない芸術家の作品も少なくない。
赤い絨毯《じゅうたん》の敷かれたホールの大階段をあがり、きらびやかなシャンデリアの下をくぐって案内されるのは、紳士たちが夜通し過ごす社交場。今夜も、見知った顔が何人も、エドガーに気づいて会釈《えしゃく》する。
「アシェンバート伯爵、このごろよくお目にかかりますな」
「男ばかりのクラブに通い詰めるなんて、きみらしくないよ。本命に浮気をとがめられたかい?」
「まあそんなところかな。このまま裏口から失礼しても、どうか見て見ぬ振りを」
すでに酔いが回っている紳士たちの笑い声を背に、エドガーはさらに奥の部屋へ入っていった。
そこから先は、先日、強盗に押し入られて荒らされた室内が片づかず、まだ客が入れないようになっていたが、エドガーに目礼《もくれい》して給仕《きゆじ》はさっとドアを開ける。
半分だけ片づけたらしいサロンに、オーナーのスレイドがいた。
「伯爵、琥珀なんてものを、オニールからあずかったおぼえはありませんよ」
「オニールの絵が何点かあるんだろう?」
「ええ、それはここに集めました。これから詳しく調べますが、額を壊されて、絵に傷がついてしまったものも少なくなくて、たいへんな損失ですよ」
エドガーは、サロンの一画《いっかく》に並べられた、ポールの父が描いたという絵を眺めた。
見覚えあるタッチの風景画に、懐かしさをおぼえる。エドガーの生家、シルヴァンフォード公爵邸《こうしゃくてい》を描いたのもオニールで、マナーハウスには何点も彼の絵があった。
子供のころエドガーがポールと知り合ったのも、オニールが絵を描くために滞在《たいざい》していたときだった。
もちろん、シルヴァンフォード公爵家の家屋敷や家族を描いたものは焼失し、ここにあるはずもないが、独特のタッチが記憶に残る生家の風景を思い出させるのだ。
ポールにも受け継がれた、細やかな筆致《ひっち》を視線でたどりながら、エドガーは言った。
「スレイド、これからこの件に関して、重要な伝言はポールを通すか直接僕に伝えてほしい」
「ほかの召使いのかたではだめなんですか?」
「きみが言ったんだよ。情報が漏《も》れてるんじゃないかってね。……あくまで、念のためさ」
アーミンの耳に入らないように、そんな気を使わねばならないのがつらかった。
仲間を疑うのはつらい。その疑いが晴れたとしても、疑ったという事実がつきまとう。
裏切る方も、つらいのだろうか。
そしてまた、いちど裏切った事実があるかぎり、たとえ許されても二度と心から受け入れられはしないと彼女は感じたのだろうか。
「ではちょうどよかった。お伝えしたいことがあったんです」
スレイドは、神妙《しんみょう》な顔つきで切り出した。
「ウォールケイヴ村の蛍石《フローライト》のことなんですが」
エドガーが竜《ワーム》退治の騒動に巻き込まれた村のことだ。そこは蛍石の産地で、ごくめずらしいフレイアという蛍石を、ユリシスが竜の魔力で生み出させようとしていた。
不思議な魔力を秘めているらしいフレイアは、結局村人のひとりが持って逃走したということだったが、あとでエドガーは、朱い月≠フ団員に消えた村人の行方《ゆくえ》をさがさせていたのだ。
「行方不明だった村人の死体が見つかりました。洞窟《どうくつ》の中の海底に沈んでいたんでしょうね。衣服に石が詰め込まれていたのですが、たまたま海が荒れた日に浮かびあがったようで」
「フレイアは?」
「見つかっていません」
沈められていたということは、誰かに殺されたのはたしかだ。そのうえ、村の洞窟の中で死んでいた。フレイアを持って逃げて間もなく死んだということだ。
その村人を見つけて追ったが逃げられたと、エドガーに話したのはアーミンだった。
「村人を殺した人物は、フレイアを持ち去ったのでしょう。プリンスの手の者でしょうかね」
無言のままきびすを返し、部屋を出ようとすると、スレイドが不審《ふしん》げに呼び止めた。
「伯爵、何かお心当たりでも?」
「ないよ。……少し飲みたいから、ジンを持ってきてくれ」
それだけ言うと、酒と娯楽《ごらく》に満たされた、きらびやかな輪の中に、エドガーは入っていく。
「おや伯爵、裏口から出て行かれたのではなかったのですか?」
「戻ってきたところですよ」
「えらく早いね。レディは引き止めなかったのかい?」
「きみも行ってみたらどうだい? 裏口の路地に、引き止めたりしない娼婦《レディ》がひまそうに立ってるから」
たわいもなく、品もない冗談で大笑いする酔っぱらいたちに加わるべく、ジンを流し込む。
酔ってしまえば、しばらくのあいだ何も考えずにいられるだろうか。
勧められるままに吸う煙草《たばこ》は、奇妙な味が混ざっていた。
白っぽく煙《けむ》る部屋の中、エドガーはふと、壁にかかった絵に目をとめる。
楯《たて》を持つ乙女の肖像画《しょうぞうが》だ。
大きな額縁が並ぶその隙間《すきま》を埋《う》めるためだけに飾られたような、小さくて地味な絵だったが、ガスランプが近くにあるせいか、女性の金髪が際立《きわだ》って見えた。
どこかで見たことがあるような気がする。
気のせいか。それとも、正義感の強そうな、緑の目がリディアを思い出させるからか。
……リディアに、会いたい。
胸が痛いほどに、そう思った。
父が書斎《しょさい》にこもったのを確認し、夜遅く、リディアはそっと家を抜け出した。
雪がちらちらと舞っている。吐《は》く息は白く、風は凍りそうなほど冷たい。けれど、こんな夜更《よふ》けにひとりで出かけるという大胆な気分で、リディアの頬《ほお》はほてっていた。
辻馬車《つじばしゃ》をつかまえ、アシェンバート伯爵邸へと告げる。
馬車にゆられているうち、落ち着きを取り戻したリディアは、だんだん、何をしにエドガーのところへ行こうとしているのかわからなくなってきていた。
もう休むと父にうそを言ってまで、家を抜け出してきた。
そうして、エドガーが落ちこんでいないかどうか確認して、どうするつもりなのだろう。元気を出してとリディアが言ったって、どうにもならないではないか。
それに、もしかすると今夜は屋敷にいないかもしれないし、ひょっとすると誰か知らない女の人がいたりしたら……。
引き返したくなってきた。
御者《ぎょしゃ》にそう言おうかと身を乗り出しかけたとき、伯爵邸の明かりが目に飛び込んできて、エドガーが待っているかのような奇妙な気分になって口をつぐんだ。
待ってるわけないのに。
けれど引き返すきっかけを失って、結局|邸宅《パレス》の前で馬車を降りる。
馬車が止まったことに召使いが気づいたらしく、リディアが玄関先にたどり着く前にドアが開いた。
迎えに出てきたのはレイヴンだった。
「こんばんは、レイヴン」
「こんばんは。どうなさったんですか? リディアさん」
夜半にリディアが訪ねてくることなどなかったから、不思議に思っているのだろう。
「ええと、ちょっと忘れ物を……」
と言ってしまったのは、リディア自身、エドガーに会いに来ただなんてどうかしていると気恥ずかしくなったからだった。
忘れ物をさがしつつ、それとなくエドガーの様子を訊《たず》ねてみよう。そう思った。
すぐ帰るからと外套《がいとう》を羽織《はお》ったまま、仕事部屋へと向かう。明かりをつけるために、蝋燭《ろうそく》を手についてくるレイヴンに話しかける。
「あの、エドガーは外出中?」
「さっき戻られました」
「ええと、元気かしら」
変なことを訊《き》いている。勘《かん》のいい召使いなら、忘れ物なんて口実《こうじつ》だと気づくだろう。
「ふつうです」
レイヴンでよかった。
「ひとりでいるの?」
安心してもっと訊いてみるが、彼が戸惑《とまど》ったように黙ったから、女性がいるのかとリディアはあせった。
「べ、べつにいいのよ、お客さんがいても。彼に用があるわけじゃないもの」
けれどレイヴンは、別のことを考えていただけのようだ。唐突《とうとつ》に言う。
「リディアさん、せっかくですからエドガーさまに会っていってください」
「えっ、でも……」
レイヴンは、リディアの戸惑いなど気にもせず、急いで仕事部屋のランプに明かりをともし、エドガーを呼んでくるつもりか部屋を出ていった。
リディアが訪ねてきたことを報告しないと、あとでエドガーにしかられると思ったのかもしれない。
仕事部屋の置き時計をちらりと見やり、あらためて何をしに来たのだろうとリディアは思う。こんな遅い時間に押しかけてまで心配するような間柄《あいだがら》ではないのに。
エドガーだって戸惑うのではないだろうか。
デスクのそばの椅子《いす》に腰かけ、エドガーが言い続ける婚約者という言葉に毒されてしまったのではないかとリディアは悩んだ。
「忘れ物は見つかりましたか?」
再びレイヴンが現れ、急いで顔をあげるが、彼は一人きりだった。
「え、ええ」
「ご案内します」
エドガーが来るのではなかったのか。リディアはレイヴンについていくが、応接間やサロンのそばを通り過ぎ、書斎の前さえ通り過ぎていく。
ようやく立ち止まったのは、エドガーの私室の前だった。
いつにないことだし、夜分に男性の部屋へ入るというのは少々抵抗を感じる。
何といってもあの危険な口説《くど》き魔の部屋だ。
リディアの懸念《けねん》をよそに、レイヴンはドアをたたいた。
「エドガーさま、リディアさんをお連れしました」
返事がない。なのにレイヴンはじっと待つ。姿勢を正して突っ立ったまま、ただ待つ。
いつまで待つ気なんだろうと不審に思いはじめたとき、突然勢いよくドアが開いた。
「リディア、会えてうれしいよ」
にっこり笑ったエドガーが、彼女の手を取り、部屋の中へ引き入れる。
「今ごろきみが訪ねてきてくれると思わなかったから、くだけた格好でもうしわけないけど、気にしないでくれるね」
ネクタイをはずし、ベストのボタンもはずしている彼が、妙に色っぽくて、リディアはどきりとした。
「ええ、あの、あたしも……忘れ物を取りに来たから、ちょっと寄っただけなの。すぐに失礼するわ」
「そう言わずに、座ってくれ。せっかくだからいっしょに飲もう」
「いいの、あたしは……」
背後《はいご》でドアの閉まる音がした。レイヴンが行ってしまったことを知れば、急にふたりきりを意識した。
「きみのことを考えていたところだったんだ。想いが通じたのかな」
むりやりリディアを座らせ、自分も寄りそうようにソファの隣に腰をおろす。いつもの上機嫌《じょうきげん》な彼だ。
なんだ、本当に元気じゃない。心配して損したかも。
彼が元気なら、なおさらふたりきりはまずい。さっさと切り上げて帰ろうと思う。
が、彼はリディアの肩を引き寄せ、グラスを持たせてジンを注ぐ。
「労働者の酒、なんていうけどね。アメリカでよく飲んだ。戦うための燃料だった」
リディアにはきつすぎるアルコールの匂《にお》いに、飲む気にはなれなかったが、彼がその燃料≠ナ酔っぱらっている理由がわかったような気がした。
やっぱり、元気に見えても落ちこんでいるのかもしれない。
「ところでリディア、忘れ物って何?」
「えっ、……ちょっとしたものよ。そ、それよりエドガー、けっこう酔ってない?」
リディアはあわてて話を変える。
「うーん、そんなに飲んでないのに。クラブで飲んだあやしげな薬のせいかもね。なんだか、気分がいいんだ」
薬って、大丈夫なのかしら。
エドガーが空《から》元気なのかどうか確かめようと、リディアは横顔を覗《のぞ》き込む。
不意に振り向いた彼と、間近で目が合う。
彼の瞳に自分が映っているとわかるくらいの距離で、彼はふと、まじめな顔でリディアの手を取った。
「僕が会いたがってるってこと、どうしてわかったの?」
「えっ、べつに、そ、そういうわけじゃ……」
「ニコに何か聞いたんじゃないの? ポールが人払いして僕に伝えたのと同じことを。だから、心配して来てくれたんだろう?」
しっかりリディアをとらえる灰紫《アッシュモーヴ》の瞳は、しらふのときと変わりない。相変わらず勘が鋭いし、酔ったふりをしてるんじゃないかとさえ思う。
「ええと、まあ、ちょっと気になったものだから。……あたしもその、信じられなくて」
彼の表情が、いつになくきびしくなった。
「このことは、誰にも言わないでくれるね」
「ええ、もちろん。でもどうするの?」
「……まだわからない」
「そうね、まだ決定的な証拠《しょうこ》があるわけじゃないもの。彼女を信じたいわ」
握りしめたリディアの手を、彼は自分の頬にもっていく。
「そう言ってくれるきみが、ここにいてくれてよかった」
顔が熱くなり、息苦しくなったリディアは、立ちあがろうとした。エドガーがとっさに外套をつかんだので、肩からするりと落ちてしまう。
リディアの外套を抱くようにかかえ込んで、いつものふざけ半分な表情で、彼は裏地にキスをした。
「まだ、帰らないでくれ」
「もう夜も遅いもの」
「外套は返さないよ」
なんとなく、まずい雰囲気《ふんいき》だ。
「じゃあこのまま帰るわ」
逃げるようにあとずさるが、立ちあがりかけたエドガーが急にふらついたので、思わず駆《か》け寄っていた。
「大丈夫? 無理しないで」
「本当に、お人好しだね、きみは」
リディアの両腕をしっかりつかみ、不敵に微笑《ほほえ》む。
だまされた?
けれども彼は、不意に淋《さび》しげな顔をすると、リディアの頭に頬を寄せて抱きしめた。
「そばにいてほしい。お願いだから」
切羽《せっぱ》詰《つ》まった気配《けはい》に、リディアは彼を押しのけようとする力をゆるめていた。
本当は、どうしようもなく傷ついている。そして彼は、ほかに、こんなふうに傷ついている自分をさらけ出してすがれる相手がいないのだと思うと、突き放せなくなった。
リディアの抵抗が少ないと見たのか、エドガーは腰に腕をまわし、さらに彼女を抱きよせる。
「心配して来てくれたなら、僕を助けてくれる気が少しはあるんだろう? 仕事じゃなくて、恋人としてささえてくれる気が、あると思っていいんだよね」
そんなつもりじゃ……。
けれど、フェアリードクターとして来たわけでないことはわかっていた。
彼がつらそうなら、そばにいることくらいはできると思っていた。
「仕事じゃないけど、エドガー、友達として来たの」
不満そうに、彼はため息をつく。
首筋に触れる吐息《といき》が熱い。
「今夜は、いっしょに過ごしたい」
「な、何言ってんの。そんなの無理……」
「やっぱり、僕にはきみが必要だ。あきらめることなんてできない。ケルピーなんかに奪われたくない。僕のものになってくれ」
[#挿絵(img/amber_159.jpg)入る]
「ちょっと、ケルピーって。あたしは誰のものにもなる気なんて」
「僕を助けてくれるだろう? きみに見放されたら、きっと死にたくなってしまう」
ああ、これもいつもの手だわ。死ぬとか何とか大げさに言うのよ。
最初からそうだった。リディアはそれでだまされたのだ。
そう思いながらも、耳に触れる唇《くちびる》を感じながらも突き放す力が出ない。
「やだ……、エドガー」
拒絶《きょぜつ》の言葉も、彼には拒絶に感じられなかったようだ。ふわりと抱きあげ、連れていこうとする。
さっきふらついたのは、やっぱり演技だったのねと冷静に考える一方で、リディアはうろたえたまま硬直《こうちょく》していた。
どうやって逃げ出せばいいのかわからなくなっている。いくらなんでも、こうまでしてなぐさめるつもりはなかった。
「ねえ、ちょっと、おろしてってば!」
素直におろされた、と思ったら、寝室のベッドの上だった。
「きみが、好きなんだ」
エドガーの『好き』は信じられない。けれど、切実な目で見つめられれば、信じてしまいそうになる。
「でも、こんな……」
「情けない男だけど、このまま僕を受け入れてくれ」
返事を待たずに、額《ひたい》に口づけが落ちる。
今のエドガーに必要なのは、慰《なぐさ》めの言葉なんかでなく、こういうことなのだろうか。
ずっとリディアがそばにいるという、たしかなしるしがほしいのだろうか。
本当にあたしが、必要なの?
「許して、くれるね」
わからない。でも、苦しげで痛々しくて、もういやだと言えない。
混乱したままリディアは、彼の手がやわらかく髪を撫《な》でるのを感じていた。
唇が首筋をたどる。リディアは緊張して、全身に力を入れるしかない。
そのときふと、彼の、かすかなつぶやきが耳に届いた。
「…………アーミン」
え? アーミン……?
って…………、なにそれ。あたしは思いっきり身代わり?
バカげてるわ。信じられない。
憤《いきどお》りを感じるよりも、リディアは情けなくて泣きたくなった。
求められているのは自分じゃない。
死にたいくらいなのはこっちだわ。
わずかな力も出ないほど、打ちのめされた気分になったリディアは、ただ顔を背《そむ》けて目を閉じた。エドガーを見ていたくなかったのだ。
心配したのが間違いだった。来なきゃよかった。そう思いながらも、どうすることもできなかった。
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残された時間
リディアの金緑の瞳が、まっすぐにこちらを見ていた。
あまそうなキャラメル色の髪に指をうずめ、カモミールの香りを感じながら、エドガーは満ち足りた気持ちになった。
もう彼女をあきらめる必要はないんだと、確かめるようにキスを落とす。
幸せだと思った。ただの満足ではない幸福感に包まれていて。それでもまだ足りないような不安が混ざり合っている。
けれどふと、リディアの目から涙がこぼれた。
わからないと、やわらかそうな唇《くちびる》がつぶやく。
『こんなに近くにいても、あなたのことがわからない』
どうして?
『あたしを求めておいて、でも、あなたはその命を、別の女性にささげるの』
別の……?
そんなことはないよ、リディア。むしろきみのためなら、命だって惜しくはない。
うそよ、と言ってリディアはまた泣いた。
抱きよせても、泣きやまない。
『これ以上、あたしを傷つけないで』
傷つけている?
ちょっと強引だったのは認めるけれど、むりやりじゃないと思う。
『エドガー、だからあたし、もうあなたには会えない。妖精の世界へ行くわ』
待ってくれ、リディア。
しかし彼の腕の中から、リディアの姿が消えた。
リディア、と叫ぼうとしたその瞬間、彼は目を覚ましていた。
夢か。
ほっとしながら体を起こす。
ぶ厚いカーテンが閉まったままの部屋の中は薄暗いが、外はもう陽《ひ》が昇っているようだった。
乱れた髪をかきあげながら、重たい頭痛を感じて顔をしかめた。
スレイドのクラブで飲んで、酔って帰ってきて、また飲んだ気がするが、それからのことが曖昧《あいまい》にしか思い出せない。
ぼんやりと残っているのは、リディアを抱きしめた感覚だ。
それは、さっきまで見ていた夢の中でのことだったのだろうか。
「そうだな……、夢に違いない」
そのくせ、彼女の表情や、抱きしめたときのたよりなくやわらかい感触や、頬《ほお》をつたう涙がランプの明かりに琥珀色《こはくいろ》に見えたことが、妙にはっきりとよみがえる。
どうせ夢なら、もっと大胆になってもよかったと思いながら、ふと彼は、ベッドに落ちていたボタンに気づき、拾いあげた。
自分のものでないのはたしかで、同時に、うっすらと思い出してきた。
ゆうべレイヴンが、リディアが来たと報告にやってきた。それから……。
まさかと思いながらもあせり、寝室を出る。隣のドレッシングルームでレイヴンを呼ぶと、すぐに彼は現れる。
「おはようございます、エドガーさま」
「昨日リディアが来ただろう?」
「はい、いらっしゃいました」
「ここに連れてきたのか?」
「はい」
額《ひたい》に手を当て、ドレッシングルームの中をうろうろとしばらく歩く。
「で、リディアはいつ帰った? どんな様子だった?」
「わかりません。私の知らないうちに帰られたようです」
うろたえていてもしょうがない。そこから先を思いだそうと部屋の中を見まわす。
リディアはたしかに、ここへ入ってきた。心配そうな目をエドガーに向けた。アーミンのことをニコに聞いて、エドガーが落ちこんでいるかもしれないと駆《か》けつけてくれた。
そこまでは、たぶん夢ではなく現実だと思う。
けれどその先は、夢のようにぼやけていて、リディアを抱きあげた感覚もキスも、現実か妄想《もうそう》かよくわからない。
肝心《かんじん》なことが、やはり何も思い出せない。
「最悪だ。はじめてのあまい夜なのに記憶がないなんて」
困惑《こんわく》したようにレイヴンは首を傾《かし》げた。
「とりあえず、……着替える」
ため息とともにつぶやくと、レイヴンは手際《てぎわ》よく、エドガーの前に着替えをそろえる。いつものように手伝おうとするが、それを制してエドガーは言った。
「自分でやるから、トムキンスを呼んできてくれ」
すぐに執事《しつじ》はやって来た。エドガーは、ネクタイを結ぶ手を止めずに、彼にもリディアがいつ帰ったかを訊《たず》ねた。
「私も存じませんでした。ひっそり帰られたようですね。リディアさんが来られたこと自体、今朝《けさ》レイヴンから聞いたばかりです」
ほかの召使いに訊ねてみますか? と執事は言うが、冗談じゃないとエドガーは思った。
酔っぱらってリディアを寝室に引きずり込んだうえ、何もおぼえていないと、屋敷中に知られてしまう。
とにかく、彼女の方からせまってくるわけがないし、状況からして自分がリディアに襲いかかったのは間違いなさそうだった。
「それはもういい。ところでトムキンス、結婚したことがあったよね?」
「はい。妻は十年前に亡くなりましたが」
「どうやって求婚した?」
「はあ、なにぶん昔のことであやふやですが、背びれのある子供なんてかわいいと思わないかとかなんとか言ったような。そうしたら妻はうれしそうに同意してくれまして。結局息子に背びれはなかったのですがね」
「……まったく参考にならないよ」
「ですね」
トムキンスは、しばし考えるように、離れぎみのまるい目をしばたたかせた。
「ではほかの召使いにも訊ねて……」
「やめてくれ」
「旦那《だんな》さま、きちんと結婚してからというのが世間の常識ですが、ちょっと順番を間違うご夫婦もめずらしくはありませんよ。そんなことは、長い間ともに暮らしているうちに些末《さまつ》なことになります」
長い間ともに。もちろんそうなるなら、エドガーにとって悩むことなんて何もない。けれどバンシーの涙の予言が彼の上にあるなら、明日をもしれない命かもしれないのだ。
急いで結婚しても、リディアを未亡人にしてしまうかもしれない。それでもまだ未亡人という立場の方が問題は少ない。こういう状況でエドガーに何かあれば、リディアは未婚のまま純潔を失ったふしだらな娘だということになってしまう。
こうしてはいられないと、エドガーは上着を手に取る。
「トムキンス、花束を用意してほしい」
「どんな花を」
「今すぐ用意できるものを。出かけるから、馬車も頼む」
トムキンスが出ていくと、戸口に立っているレイヴンの方に視線を向けた。
無表情ながら、困惑しているのがエドガーにはわかる。
「レイヴン、どうしてゆうべ、リディアを僕の部屋へ連れてきたんだ? 彼女には会わない、もう休んだと伝えるように言わなかったか?」
そこまでは、ぼんやりおぼえているのだ。
かなり酔っていたし、リディアに会ったら何をするかわからないと、自制心が働いていた。
「本当は、会いたがっておられると思ったのです。何か悩み事がありそうに思えました。リディアさんなら、エドガーさまのよき相談相手になられるはずだと」
まったくレイヴンの言うとおりだった。
だからエドガーは、レイヴンが指示に反してリディアを連れてきたとき、がまんできずにドアを開けてしまったのだ。
「僕の気持ちを察してくれたのは、ありがたいしうれしいよ」
人の気持ちがわからない殺人鬼だったレイヴンには、ずいぶんな進歩だ。
「でもね、リディアのことも考えなきゃいけない。僕が酔っぱらって自制心のないオオカミのときに、彼女みたいな純真でうぶな子羊を放り込んだりしたらいけないんだ」
わかったようなわからないような顔で、レイヴンは頷《うなず》いた。
「でもエドガーさま、オオカミでないときがあるのですか?」
……ないかもしれないな。
自分でも情けなくなった。
来客を告げる呼び鈴《りん》の音が、リディアの部屋まで聞こえてきた。窓辺に駆け寄ったリディアは、伯爵家《はくしゃくけ》の馬車が玄関前に止まっているのを見て、急いでカーテンを閉めた。
玄関のすぐ上にあるリディアの部屋には、応対する父の声が聞こえてくる。
「あのう、伯爵、リディアは風邪《かぜ》気味のようで、今日はお休みをいただきたいとこれから使いを出すところでした」
やはりエドガーが来たらしい。
急に落ち着かなくなって、リディアは部屋の中をうろうろする。
父は、風邪気味だとベッドから出なかったリディアの言葉を信じたようだが、エドガーが余計《よけい》なことを言わないだろうか。
「そうだと思ってお見舞いに来ました」
って、おかしいじゃないそれ。
「はあ、それはわざわざ……。このような早朝からお越しいただきまして恐縮《きょうしゅく》です」
父もわけがわからない様子だ。
「おじゃましてもよろしいですか?」
だめよ、来ないで。そう思ったが、たぶん断る理由が見つからなかった父は、彼を招き入れてしまった。
階段をのぼってくる足音がすれば、すぐにドアがノックされた。
「リディア、伯爵がいらっしゃったよ」
ここでエドガーを追い返したら、父に変だと思われるだろう。
しかたなく、リディアはドアを開けたが、泣きはらした目に気づかれないよううつむいていた。
「リディア、風邪気味なんだって? 大丈夫かい?」
大丈夫じゃないわよ。
「少し話をしてもいいかな」
戸口からリディアが下がると、エドガーは部屋の中へ入ってくる。父はドアを開けたまま階下へ戻っていった。
「……何しに来たのよ」
彼に背を向け、リディアは言った。
回り込むようにしてリディアの正面に立ったエドガーは、薔薇《ばら》のラウンドブーケを差し出した。
お見舞いの花というには、父が首を傾げたくなっただろう、情熱的な赤い薔薇だ。
「リディア、今すぐ結婚してほしい」
「バカなこと言わないで。無理にきまってるでしょ」
「そうだね。ふつうなら、婚姻《こんいん》予告を教区に願い出ても、三週間待たなきゃならない。でも三日待ってくれ。どうにかして結婚許可証を手に入れる」
「まだ酔っぱらってるの?」
「しらふだよ」
「正気じゃないわ」
花をリディアが受け取らないので、テーブルに置く。そうして距離をつめるものだから、少しずつあとずさりながら窓際《まどぎわ》まで来てしまったリディアは、もう顔を背《そむ》けるしかなかった。
しかし彼は、リディアのあごを指先で持ちあげ、顔を覗《のぞ》き込むのだ。
「ゆうべのことで、泣かせてしまったんだね。そんなに強引だった? 酔ってたから、自制心が働かなかったかもしれないけど、いつもはそんなのじゃないんだ」
いつもはって……。いつもの相手は誰よ、と言いたくなる。
「はじめてのきみを、ちゃんと思いやれなかったんだろうな。でもいやにならないでくれ。気に入らないところは直すから」
な、何の話?
「あの、エドガー」
「とにかく、こうなった以上一日も早く結婚するべきだ」
「えっ、こうなったって?」
「僕たちは、結ばれたんだろう?」
リディアは、一気に顔が赤くなるのを感じながらうろたえた。
「な、何言ってんの? やめてちょうだい、あたしたち、どうもこうもなってないじゃない!」
エドガーの手を払い、彼を押しのけつつどうにかリディアは距離を取る。
「それは、どういうこと?」
「あなた、おぼえてないの? 途中で急に寝ちゃったでしょう?」
彼がアーミンの名をつぶやいて、リディアが顔を背けて間もなくだった。のしかかってこられてあせったが、そのまま彼は動かず、完全に眠り込んでしまっていた。
起こさないよう細心《さいしん》の注意を払って、彼の指にからまる自分の髪の毛をほどき、急いでベッドから抜け出してきた。
家へ帰ってきて、リディアは心からほっとしたものの、自分が情けなくて泣き崩《くず》れた。
思い出せばまた、視界が曇る。けれどエドガーの前で泣くものかと思う。
リディアを見おろしながら、悩んだように彼は額の髪をかきあげた。
「途中って、どこまでした……」
「そっ、そんなことわかんな……、ってもうっ、すぐよ、すぐ眠っちゃったの!」
恥ずかしすぎて、エドガーの問いをさえぎるようにしてリディアは叫んだ。
そのさっぱりした美貌《びぼう》で、きわどいことを平気で言うのはやめてほしい。
「じゃ、本当に、まるで何もなかった?」
まったく何もおぼえていないらしいと、あきれ果てれば涙も引っ込む。
「ないわ」
「なら、どうして泣いてたんだ?」
「これは……」
死んでも言いたくない。
「ごめん、そうだね、きみにとってはじゅうぶん屈辱的《くつじょくてき》なことだっただろうね。襲われかけたようなものだから」
自分で勝手に納得してくれて助かった。
その一方で、ようやく彼が安堵《あんど》したように肩の力を抜くと、リディアはなんだかむなしくなった。
「でも、そうか、何もなかったんだ」
「だから急いで結婚しようなんてお気遣《きづか》いは無用よ」
「ああ……だね」
あたしと結婚しなくてすんで、そんなにほっとしてるってこと?
今度はだんだん腹が立ってきた。
「よかったわね。だからその花持ってさっさと帰って」
「いや、それは違うよ。たった今のプロポーズを取り下げるつもりは……」
「だったら今すぐ返事するわ。お断りします」
彼の言葉をさえぎって、リディアは言い放った。
エドガーがいつになく素直に困った顔をしたから、こちらが意地悪をした気分になる。
違う、ひどいのは彼の方よ。
「リディア、ゆうべのことはおぼえてない部分もあるけど、きみを求めたのはおぼえてる。いいかげんな気持ちじゃない。本当に好きだから、そばにいてほしかったしすがりたかった」
うそよ。
「本気なんだ。きみだけだ」
そんなこと、誰にでも言うくせに。
「あたしは、あなたをなぐさめるための都合のいい存在なの。それだけよ」
「信じてくれ」
たくさんいる恋人ではなくリディアにすがったのは、たまたま彼女が現れたからかもしれないし、エドガーの苦悩の理由を理解できるのが彼女だけだからかもしれない。
でも、どちらにしろ、身代わりだということに変わりはないのだ。
背を向けようとするリディアの肩を、彼はつかんだ。
「リディア」
引き寄せようとするから、両手を突っ張って抵抗する。
「いいかげんにして。あなたが求めたかったのはあたしじゃないわ。……抱きしめておいて、ほかの女性の名前を呼ぶなんて最低!」
さすがに彼は、戸惑《とまど》ったようにリディアから手を離した。
「ほかの……? 誰?」
「考えればすぐわかるでしょ。あなたにとっていちばん大切な人なんだから」
黙り込んだエドガーが、誰のことかを理解したのか、へたに名前を言って墓穴《ぼけつ》を掘るのを避けたのかは知らない。
リディアはまた泣きそうになるのをこらえながら、彼に向き直った。
「前も、そうだったわ。気持ちがゆれて、信じたいと思ったときに、あなたはあたしを失望させるの。だから信じない。帰ってちょうだい」
花束を取って押しつけるようにして返す。そのまま彼を部屋から押し出し、力任せにドアを閉めた。
エドガーは、何度か外でリディアの名を呼んだけれど、ドアを背中で押さえたまま、開ける気はなかった。
あきらめたのか去っていく足音を聞きながら、リディアは涙が足元に落ちるのを見ていた。
「伯爵、お帰りですか」
父の声だ。
「教授、よろしかったらこれをさしあげます」
「は?」
と困惑《こんわく》気味の父は、薔薇の花束を受け取ったのだろうか。
「またうかがいます」
もう来なくていいわよ。
玄関のドアが閉まる音を聞けば、涙腺《るいせん》がさらにゆるんだ。
「リディア、そんなに泣くなよ」
ベッドの下から声がした。ニコのしっぽがふさふさとゆれる。
「おれはさ、リディアの味方だぞ。伯爵にもらったレターセットだって突っ返してやるよ」
のそりと、ベッドの下から出てきたニコは、リディアが買ってきた仮面をつけていた。
思わずリディアは頬《ほお》をゆるめる。涙も止まる。
「おい、笑うなよ」
「ううん、かわいい……じゃなくて、ステキよ、ニコ」
「そうか?」
「謎《なぞ》の怪盗、ってふう」
「マントをつけた方がいいかな」
トコトコと二本足でリディアの方に歩いてくる。目をこすり、涙をぬぐったリディアは、しゃがみ込んでニコの両手を取った。
「ありがと、ニコ。あたし、もう大丈夫みたい」
一日一日と、残りの時間が短くなっていく。バンシーの予言が実現するとしたら、せいぜいあと三日かと、エドガーは考えている。
こうなると、リディアとのことは何もなくてよかったのだと、あらためて彼は思った。
急いで結婚しなければと考えたものの、そうすればバンシーの予言の対象がリディアにも及ぶところだった。
リディアのこととなるとエドガーは、どうにも後先なく思いつきで行動をしてしまう。
最初からそうだったけれど、このごろはあまりにも失態続きだ。
自分が迷っているせいだとわかっているだけに、誤解を解くこともできないまま、彼女の不信感をつのらせている。
「エドガーさま、お呼びですか?」
レイヴンとアーミンが、書斎《しょさい》に姿を見せた。
誤解を解いてリディアの信頼を得るのは、もう無理かもしれない。けれどエドガーには、残された時間を最大限に利用して、やるべきことが残っていた。
頭を切りかえ、彼はふたりの従者を前にして言った。
「これを、ポールが監禁《かんきん》されていた空き家に張りつけてきてくれ」
エドガーは、署名入りの手紙をアーミンに渡した。
「例の琥珀《こはく》が見つかったんだ。来るなら来いと書いておいた」
ふたりとも、驚く様子もなくエドガーの次の言葉を待っていた。
だが、琥珀が見つかったというのははったりだ。エドガーは、そういうことにしてユリシスを動かし、ひとり行動を起こすつもりだった。
「僕が見つけた。どこで見つけて今どこにあるかは、重要なことだから誰にも言うつもりはない。僕自身が、直接ユリシスと取り引きするつもりだ」
「でもエドガーさま、危険なのでは。ユリシスは不思議な力を使います」
アーミンの様子も口調《くちょう》も、ふだんと変わりない。
「こっちは頭を使うさ。ユリシスが僕にかなうと思うか?」
「……そうですね」
頷《うなず》いた彼女が、本気でそう思ったかどうかは知らない。が、そんなことはどうでもいい。
「それじゃあアーミン、張り紙の方はおまえにたのむ。ひとりで大丈夫だね?」
「はい」
「レイヴン、スレイドのクラブへ行くから、おまえは僕につきあってくれ」
アーミンが出ていったあと、エドガーは居残ったレイヴンに近づいた。
じっと顔を眺《なが》めても、直立不動で延々とエドガーの言葉を待っている。
この忠実な少年を守るためにも、残された時間でできるだけのことをしようと、エドガーは心に誓う。レイヴンはもう、エドガーだけにしか心を許せないわけではないはずだ。彼さえそう気づけば、二度とプリンスの手に落ちることはないだろう。
「レイヴン、僕の信頼する人たちは、おまえにとっても味方だ。わかるね?」
「はい」
「リディアやトムキンスは、おまえのことをひとりの人間として気にかけてくれるはずだから」
これには不審《ふしん》げにエドガーを見あげながらも、彼は口を開く。
「リディアさんは、私のことを怒っていらっしゃいませんでしたか?」
「ああ、彼女が腹を立てているのは僕に対してだけだ」
「でも、もとはといえば私が」
「大丈夫だよ。リディアは、おまえの気持ちは理解してる。……ところでレイヴン、僕が寝言で口にしそうな女性の名前って思いつくかい?」
「はい」と彼は即答した。
「それは……、ぜひ聞かせてくれ」
「アルファベット順でよろしいですか?」
「……やっぱりいいよ」
訊《たず》ねたことと、過去の自分の行いを少々反省しながらレイヴンの肩をたたき、エドガーは部屋を出た。
スレイドのクラブへ出向いたのは、昨日、酔っぱらいながらも気になることがあったと思いだしたからだった。
レイヴンを連れて、エドガーはクラブの奥へと入っていく。貸し切りのサロンで待っていたのは、スレイドとポールのふたりだ。
男性専用の会員制クラブということも、アーミンをのぞいて密談をするのに不自然でなく好都合だった。
「伯爵《はくしゃく》、この絵ですか?」
すでに個室に持ち込んであった絵を、スレイドが示した。楯《たて》を持つ乙女《おとめ》の肖像《しょうぞう》だ。エドガーが気になっていたのはこれだった。
「サインがないけど、誰が描いた絵?」
エドガーは、八インチ四方ほどの小さな絵を、額ごと手にとって眺《なが》めた。
「あのー、これはぼくの父の遺品です。でも絵を描いたのは父ではないと思うんです。タッチが違いますから、誰か知り合いの画家からもらったとかあずかったとか……」
ポールが言った。
「どうしてこれだけこのクラブにあるんだ?」
「ずっと作者|不詳《ふしょう》で気になっていたんですけど、クラブの顧客《こきゃく》に外国の鑑定士がいらっしゃると聞いて、先日、スレイド氏におあずけしたところだったんです」
「結局、作者はわからないままだったのですがね。ともかく今は、飾っておく絵が足りないので、ビリヤードルームに展示しておりました」
「伯爵、この絵がどうかしたんでしょうか」
ポールの問いに頷きながら、エドガーは絵をそっとテーブルに戻した。
「じつはこの絵、以前にも見たことがあるんだ。シルヴァンフォード公爵家《こうしゃくけ》のマナーハウスにあったものだと思う」
「えっ、じゃあ、シルヴァンフォード公爵がぼくの父に預けたということですか?」
「父がいつから、プリンスの陰謀《いんぼう》と公爵家がねらわれていることに気づいていたのかわからないけど、何か重要なものだったとすると、危機感があったからこそオニールにあずけたんだろう。そうだったなら、公爵家とも青騎士伯爵家とも関係のないオニールが、プリンスの手先に殺された原因の一つかもしれない」
「ではここに、問題の琥珀が?」
スレイドは、さっそく絵を調べはじめる。
額をはずそうとし、ふと思い出したように手を止める。
「そういえば、この絵はもともと額に入ってなかったのでしたよ。これは私が用意したものですから、琥珀が隠されているわけがありませんな」
「絵だけだったのか?」
「そうです」
落胆《らくたん》して、エドガーはなげやりに腰をおろした。
「でも、この絵は妙ですよね。なんていうか、構図がよくない」
ポールの言葉に、画商《がしょう》のスレイドも同意した。
たしかに、バランスが悪いとエドガーも思う。乙女の存在感にくらべ、銀色の楯が目立ちすぎるのだ。
「まるで楯が主役のようです」
顔を近づけて楯をよく見る。楯の文様《もんよう》は、組み紐《ひも》ふうな渦巻《うずま》き文様。しかしその複雑な模様の中に、ところどころ、文字のように見える線がある。
「もしかして、ここには何かのメッセージが書かれているんじゃないか? ほら、これはGだ。こちらはA、D、Y……|GLADYS《グラディス》。グラディス・アシェンバート?」
言いながら、エドガーはスレイドの方に振り返る。
「ルーペを持ってきてくれ」
すっ飛んでいったスレイドは、すぐに戻ってきた。
ガスランプの明かりを強くして、エドガーはさらに文字を拾っていく。そばでポールが書きとめ、単語を推測し、足りない文字が書かれていないかまたさがす。
やがて、入り組んだ文様の、青いラインを追っていくと、文章として読めることに気づく。
この個室の外、豪華なサロンでは、長い夜をもてあました紳士《しんし》たちが無駄《むだ》話と娯楽《ごらく》に時を費やしている。談笑の声がときおり聞こえてくるものの、個室にこもっている三人は、高揚《こうよう》した緊張感の中にいた。
エドガーが拾いあげるアルファベットと、ポールが走らせるペンの音だけが続いていく。
小さな画布に描かれた銀色の楯に、細密に書き込まれた文章が、ようやくすべて書き写されると、エドガーがそれを読み上げた。
「一七四七年、祝福なき者が産み落とされた。|悪しき妖精《アンシーリーコート》たちと契約した災いの王子《プリンス》だ。私は力を尽くし、英国からかの魂《たましい》を追放するだろう。だがおそらく命が尽《つ》きる。バンシーの予言があるからには、間違いない。あとのことは、未来にゆだねよう。災いの王子はいずれまた英国の地を踏もうとするだろう。青騎士伯爵を継ぐ者よ、王子の血を断て。かの悪魔を葬るのは、我ら一族の力しかない。新たな後継者《こうけいしゃ》が現れ、我が一族のすべてを継承《けいしょう》することを祈る。グラディス・アシェンバート」
しばし、みんなして考え込んだ。
「災いの王子というのは、あのプリンスのことでしょうか」
「しかし、百年以上前のことですよね。伯爵、プリンスはそんな長寿の老人で?」
若くはなかったが、そこまで老いてもいなかった。ふつうに考えれば、その人物の息子や孫あたりが今のプリンスだと思われる。
「とにかく、この文章を書いたのは、百年前に現れたという青騎士伯爵、レディ・グラディスだ。おそらくこの肖像画の女性じゃないかな」
「つまり彼女は、災いの王子を追放して、力尽きて亡くなったとかそういうことですか?」
「そしてそこで、青騎士伯爵の一族は絶えたということなんだろうな。少なくとも彼女の知る範囲では後継者が存在しなかったから、こういうメッセージを残したんだろう」
「だとすると、伯爵家の血筋《ちすじ》でなくても、力を継承できる者が現れればと願ったと……」
よくわからないが、その力がなければ、プリンスの陰謀を阻止《そし》できないのだ。
そもそものはじまりから、どうにもその出生《しゅっしょう》から、プリンスには妖精族の不思議な力がかかわっているらしい。だからこそ妖精の魔力を知る青騎士伯爵一族の力がないと、対抗できないということなのだろう。
そして、新たな継承者を望んだグラディスが、バンシーの記憶とともに封じたものは、おそらく青騎士伯爵一族の力を得るために必要な何かだ。
バンシーの琥珀こそ、プリンスの陰謀を阻止する楯に違いない。
それがユリシスの手に渡り、彼が青騎士伯爵家のすべてを受け継ぐことになったら、プリンスを止められる者がいなくなる。
エドガーは、琥珀を見つけ、ユリシスから守らねばならない。
けれど、彼にはかすかな懸念《けねん》があった。
王子《プリンス》の血を断てという部分だ。青騎士伯爵が災いの王子を葬るために、その血族を断つ必要があるとしたら、エドガー自身も粛正《しゅくせい》の対象に含まれないのだろうか。
プリンスは、名誉革命で英国を追われた王、スチュアート家のジェイムズ二世の血族らしい。そして、直系が絶えたはずのこの王の血を引く後継者を得るために、エドガーの母親に目をつけていた。
シルヴァンフォード公爵と結婚したエドガーの母親は、ジェイムズ二世の直系やプリンス自身と近い血縁《けつえん》にあるらしいのだ。そしてエドガーの父、シルヴァンフォード公爵家は、もともと王族との縁は深く、スチュアート王家とも血縁があった。
彼女がシルヴァンフォード公爵と結婚し、生まれたエドガーは、とにかくプリンスにとって、王家や自分との血縁が濃い、理想的な後継者だと思われているらしいのだ。
ひょっとすると自分を葬るのが、プリンスを破滅させる近道なのだろうか。
バンシーの予言。
アーミンの不審な動き。
エドガーは、自分の取るべき道をためされているような気がする。
青騎士伯爵にふさわしくないのだとしたら、このままこの地位にすがることは、ユリシスやプリンスを破滅させることのできる誰かが現れるのを妨げることになる。
それはバンシーの琥珀を見つけ、記憶を取り戻させることのできる誰かだ。名前だけの青騎士伯爵ではない。
エドガーにはできないこと。
だったら死を受け入れることが、自分にできる最も重要なことなのかもしれない。
考えながら彼は、リディア、と心の中でつぶやいている。
死ぬのはかまわない。いつだってその覚悟はできている。けれど彼女のことだけが気にかかる。
ああでも、何もなかったのだから問題はないか。未亡人にも傷物にもしなくてすんだわけだし。
だから急いだ結婚を取り下げたけれど、リディアは、プロポーズそのものを否定されたと思ったようだった。
手を出してしまったからしかたなく求婚に来たと、感じさせてしまった。
しかし何もなかったのなら、もうリディアを求めることはできない。バンシーの予言のことも、話すわけにはいかないではないか。
「伯爵、どうしましょうか」
ポールの声に、リディアのことをどうにか頭から追い出し、彼は意識を引き戻した。
「この絵は伯爵|邸《てい》に運んでおいてくれ」
「ええ、わかりました」
「スレイド、引き続き琥珀を見つけることに全力を注いでほしい。それからポール、バンシーはきみを信用していた。もし彼女がきみのところへ戻ったら、リディアと協力して保護してやってくれ」
バンシーが戻ることがあるのかと不思議そうな顔をしながらも、彼は頷《うなず》いた。
部屋をあとにしたエドガーは、レイヴンとともにクラブの建物を出た。
ゆうべと同じように、暗い空にはまた雪がちらついていた。
ロンドンの街は霧《きり》にけむり、ガス灯の明かりさえくもらせる。視界の効きにくい石畳《いしだたみ》を、馬車に向かって歩き始めたとき、闇から不意に抜け出してきたかのような漆黒《しっこく》の馬車が、エドガーの目の前に止まった。
レイヴンが警戒《けいかい》し、ナイフに手をやりながら進み出ると、馬車のドアが開き、十歳ぐらいの少年がひとり降りてきた。
「おや、ジミー、生きていたのかい」
エドガーの言葉に、青白い顔の少年はにやりと笑う。
ユリシスの手先の黒妖犬《こくようけん》、人間の少年ではなく妖精の彼は、以前ケルピーに噛《か》みつかれ、殺されかけたはずだった。
「お迎えにあがりましたよ、伯爵《ロード》。我らの主人がお待ちしております」
空き家の張り紙は、もうユリシスのもとに届いたらしい。
なかなか早いなと、レイヴンの肩に手を置き、ジミーに飛びかかりそうなのを制しながらエドガーはつぶやいた。
アーミンが、直接あの手紙を届けた可能性もなくはない。早いというほどでもないかもしれない。
「従者殿はご遠慮くださいますか」
しかしもともと、こうなることは予定していた。それに敵の手の中へ、レイヴンを同行させるつもりもエドガーにはなかった。
だから素直に頷く。
「エドガーさま、いけません。行けば殺されてしまいます」
殺気立ったレイヴンに、ジミーは居心地《いごこち》悪そうに距離を取ったが、人間のレイヴンが妖精に危害を加えるのは難しいのではないだろうか。
エドガーは、もちろん簡単に殺されるつもりはないが、琥珀《こはく》を見つけたというのがうそだとばれればどうなるかわからない。けれど、ユリシスに殺されなくても残された時間が少ないなら、賭《か》ける価値はある。
「レイヴン、僕は行くよ。行かせてくれるね」
力ずくでエドガーを止めるということのできないレイヴンは、混乱したのかもしれないが黙り込んだ。
エドガーはひとり馬車に乗り込む。
黒妖犬の少年がドアを閉めた。
「リディア、いい月夜だぜ。遊びに行こう」
真夜中に、ケルピーが部屋の窓をたたく。リディアはそれを、夢うつつに聞きながら寝返りをうった。
何を言ってるの。雪が降ってるし、月なんて見えないわ。ほら、寒そうな風の音が鳴りやまないじゃない。
それにあたし、今眠ってるの。
「ちょうどいいじゃないか」
え? と思った瞬間、リディアは月夜の草原を、黒馬の背中に乗って駆《か》けていた。
さわやかな香りのする風は、頬《ほお》に心地よく、雪はどこにもない。
夢の中だからだろうか。
ケルピーがリディアの夢の中へ入り込んできて、勝手に世界を広げていく。
ケルピーの背中は、不思議な力でリディアを包み込んでいて、どんなに草原を駆け回っても振り落とされそうな気はしない。
草原を越えると、花の咲き乱れる丘が目の前に広がった。
足を止めたケルピーの背中から、ふわりと飛びおりたリディアは、花の丘を駆け上がる。
光をまとった花の妖精たちが舞いあがるのを眺《なが》め、微笑《ほほえ》んでいた。
「楽しいか?」
「ええ、なんてきれいなの」
人間の姿になったケルピーが、リディアのそばにたたずんだ。
「そりゃよかった」
少し視線を上げただけでは、間近にいるケルピーの胸元までしか視界に入らない。首を上に向けて、ようやく背の高い彼の黒い巻き毛が月光に輝くのが見える。
ふとこちらを見おろし、長い腕をのばしてケルピーはリディアを抱きよせた。
「……なんなの?」
人間のような抱擁《ほうよう》の習慣も意味も知らないケルピーが、リディアのためにおぼえた仕草だ。
人のあいだにある愛情なんていうものを、理解できるはずもない水棲馬。けれども彼は、自分なりに、リディアを愛そうとしてくれている。
「おまえとこうしてると、不思議な感じなんだ。おだやかなようで、ざわざわと胸騒ぎがするような。長いこと生きてるつもりだけど、はじめての感覚だ」
「そ、そう?」
「おまえはどう感じる?」
静かで、波ひとつない水に包まれているかのよう。
リディアはぼんやりと、エドガーとはぜんぜん違うわと考えている。
エドガーとは違うから、ケルピーといっしょにいても、息苦しかったりつらくなったりしない。妖精は、うそをつかない。約束を破らない。
「リディア、月のそばへ行こう」
「月のそば? 無理よ、空は飛べないわ」
「見てみろよ」
促《うなが》され、リディアが首を動かすと、いつのまにか彼女は湖のほとりに立っていた。
鏡のような湖面の中ほどに、月がくっきりと映り込んでいる。
「あそこまで行こうぜ」
「あたし泳げないわ」
「夢の中だろ。それに、俺がついてるから大丈夫だって」
ケルピーに手を引かれ、リディアは湖へ向かって歩き出す。
水棲馬と水の中へ入るなんて、まずいのではないだろうか。ちらりと考えたけれど、ケルピーがリディアを食べようとしないことはよくわかっている。
それにこれは夢だ。目覚めてしまえば消える夢。
「お待ちください、お嬢《じょう》さまーっ!」
そのとき、どこからともなく声がした。
立ち止まったリディアの足元へ、草を割って進んでくる小さな者がいる。
「いけません、その水棲馬についていっては」
三角帽にもじゃもじゃヒゲの鉱山妖精《コブラナイ》は、勢いあまってすっ転ぶが、あわてて起きあがるとまた言った。
「そやつはお嬢さまを、妖精界の水底へ引きずり込むつもりです。戻ってこられなくなってしまいます!」
ケルピーは舌打ちした。
「だまれチビ。さあリディア、早く行こうぜ」
「ちょっと待って、ケルピー、この先はあたしの夢じゃなくて妖精界なの?」
「まあいいじゃないか」
「よくないわよ。戻ってこられなかったら困るわ」
リディアは湖岸からあとずさろうとするが、ケルピーは、急に強く腕を握った。
「あの伯爵《はくしゃく》のそばに、これ以上おいておきたくないんだ。あいつはおまえを守れない」
「な、何言ってるの?」
「ユリシスって奴に、あの伯爵が勝てるとは思えないからな。自分のことだって守れやしない男だ」
リディアを覗《のぞ》き込むケルピーの瞳は、魔法の力を帯びていた。いつもなら、けっしてリディアに向けたりしない魔性《ましょう》の瞳だ。
「でもおまえは、あいつの近くにいるかぎり、黙って見てられないに決まっている。あの伯爵に巻き込まれて、おまえを失うのはいやなんだ」
ケルピーの魔力にとらわれ、リディアは少しずつ歩き始めていた。
「いけませんってば、ケルピーどのーっ、その方は青騎士伯爵のご婚約者ですっ!」
「は、あのムーンストーンの指輪をしてないのは確認ずみさ」
そう、あれはエドガーがはずしたのだった。
このままリディアがケルピーと姿を消したって、エドガーは気にしないかもしれない。
『本気なんだ。きみだけだ』
めずらしく強い言葉だったから、リディアの耳に残っている。
でも、あんなのはほんの気まぐれ。
そう思いながらも歩みが遅くなる。その隙《すき》にコブラナイが、リディアのスカートに飛びついた。
必死によじ登ってくると、リディアにムーンストーンの指輪を示す。
「お嬢さま、早く、これをはめてください!」
「うるさいぞ、てめーっ! 婚約がなんだってんだ。どうせあの伯爵は数日の命だ」
リディアは思わず立ち止まった。
「……なんですって?」
「いやさ、だから、バンシーの涙の燃えないやつをあいつが持ってたんだ。伯爵家の人間はあいつだけだろ。やつが死ねば、どのみち婚約は無効になる。だからリディア、俺といっしょに行こう。やつが死ぬって時におまえが巻き込まれちゃ困るんだ」
エドガーが死ぬ? 彼に、バンシーの死の予言があったなんて。
まさか、彼が婚約指輪をはずしたのはそのせい?
三日で結婚すると言い出したり、何もなかったと知るとあっさりそれを否定したり。
違うかもしれない。ぜんぶ単なる、彼の気まぐれかもしれない。でも、バンシーの予言に何日ぐらい猶予《ゆうよ》があるのかとリディアに訊《たず》ねたエドガーが、死を覚悟しているのは間違いない。
「ケルピー、あたし帰るわ」
「リディア、あいつのことなんて考えるな。とことん利用されるだけだ」
きっとそうね。
そう思っても、リディアは自ら、ムーンストーンの指輪を薬指にはめていた。
ケルピーの魔力から解放される。目の前の湖が消える。
夢が薄れていくとともに、ケルピーはリディアから手を離した。
「どうしてなんだ?」
どうしてなのかしら。
伯爵家のフェアリードクターだから。ほんとうにそれだけ?
自分でも首を傾《かし》げながら、ゆっくりと目覚めたリディアは、自室のベッドの上で、見慣れた天井を眺《なが》めていた。
夢からさめて、疲れた気分で体を起こす。
「ああ、間に合ってようございました」
リディアのひざの上に乗ったコブラナイが、指におさまっているムーンストーンをうれしそうに撫《な》でた。
「このボウがわしに、お嬢さまの危機を報《しら》せてくれましてな。ケルピーがお嬢さまをさらおうとしているというので、あわてて夢の中へ参上いたしましたしだいです」
朝まだ早い時刻だったが、もう眠っている場合ではなかった。
リディアは、急いでベッドから抜け出した。
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金色の髪の貴婦人
早朝だったが、伯爵邸《はくしゃくてい》の召使いたちはとっくに起きているはずの時間だった。リディアが玄関のドアをたたくと、出てきたのはアーミンだった。
一瞬うろたえてしまったリディアは、あせりながら笑顔をつくる。
彼女の疑惑は、まだたしかなことではないのだ。
しかし、あわてて家を出てきたリディアは、不自然に早い出勤の理由を考えるのを忘れていた。
「あ、あの、こんな早くにごめんなさい。ええと、じつは……」
しゃべりながら考える。しかしそれをさえぎって、アーミンが口を開いた。
「リディアさん、これからお宅へうかがおうかと思っていたところでした」
「えっ?」
「エドガーさまが、ユリシスの手先に連れ去られたのです」
驚いて、リディアは声も出なかった。早口に、アーミンは説明した。
ゆうべ、スレイド氏のクラブを出たところで、黒妖犬《こくようけん》のジミーが現れ、レイヴンの目の前でエドガーだけを連れていったのだという。彼は自ら、敵の手の中へ向かったらしかった。
バンシーの予言を意識してのことだとリディアは思う。
「レイヴンと|朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員とで、ユリシスの居場所の手がかりをさがしています。わたしもこれから捜索《そうさく》に加わるつもりです」
「あの、ポールさんは?」
当分|下宿《げしゅく》を離れて、伯爵邸に居候《いそうろう》すると聞いていたから、リディアは彼の所在を訊《たず》ねた。
朱い月≠フ一員でもあるポールは、今の事情を詳しく知っているはずで、そのうえアーミンの異変に気づいている。
これからのことを相談できるとしたら、彼しかいなかった。
「ファーマン氏ですか? お部屋にこもっていらっしゃいます。二階右手の客間です」
いると聞いてほっとしつつ、リディアは言われた客間に向かった。
ノックをしても、なかなか返事がなかった。そのうえ内側から鍵《かぎ》がかかっている。
「ポールさん、リディアです」
三度目のノックをしたとき、ようやく薄くドアが開いた。
リディアしかいないのを確認するように、ポールはさっと視線を動かし、急いでリディアを中へ入れるとドアと鍵を閉める。
「あっ、誤解しないでください。これには事情があって……、ええと、あなたに、重要な秘密の話があるんです」
言いつつ、立てかけたイーゼルのそばへ歩いていく。そこで彼は、リディアを手招きした。
「昨日新たな発見があったんです。この絵、どうやらシルヴァンフォード公爵《こうしゃく》からぼくの父に預けられたものらしいんですが、それ以前に、百年前のレディ・グラディスが公爵家にあずけていたようなんです」
エドガーの本当の家、シルヴァンフォード公爵家は、古くからの由緒《ゆいしょ》ある貴族だ。同じように古い家柄《いえがら》のアシェンバート伯爵家と、貴族どうしのつきあいがあっても不思議はない。
リディアは、ポールから絵に隠されたメッセージについて聞きながら、不思議な思いに駆《か》られていた。
きっと誰も知らなかった。
シルヴァンフォード公爵家の最後のひとりが、後継者《こうけいしゃ》の絶えたアシェンバート伯爵を名乗ることになるなんて。
「それでリディアさん、僕はこの絵にもっとほかのメッセージが隠されているんじゃないかと思うんですよ。たとえば、琥珀《こはく》の隠し場所とか。それで眺《なが》めてたんですけど、なかなかわからなくて」
敵の手の内にひとり出向き、ユリシスと渡りあおうとしているエドガー。ポールは、エドガーの駆け引きが少しでも有利になるよう早く琥珀を見つけたいと思っているようだった。
たしかに、琥珀を見つけられる手がかりがあるとしたら、この絵は重要そうだ。
「ええ、ポールさん。あたしも、早く琥珀を見つけなきゃと思って来たんです。バンシーに会って確かめたいこともあるし……。バンシーの魔力を秘めた琥珀があれば、彼女のところへ行くことができるはずなんです」
リディアは、問題の絵を注視した。
楯《たて》を持つ、長い髪の貴婦人。甲冑《かっちゅう》こそ身につけてはいないが、青騎士|卿《きょう》の末裔《まつえい》にふさわしく、騎士としての姿で描かれているのだ。
古《いにしえ》の神々の残り火、美しき|金髪の妖精族《ディナ・シー》であるグウェンドレンを妻にしたという、最初の青騎士伯爵。その血筋《ちすじ》なのだと思わせる輝く金髪が、レディ・グラディスであるらしい彼女の体を覆《おお》っていた。
「ほう、すばらしいものですなあ」
コブラナイの声がした。と思うと彼は、リディアの外套《がいとう》のフードから顔を出した。
「あなた、ついてきてたの?」
「ラピスラズリの碧《あお》がなんと鮮やかなこと。孔雀石の緑も、なかなかの高級品ですなあ」
鉱物に親しい鉱山妖精は、絵を見ても顔料《がんりょう》の鉱物の方が気になるらしかった。
「ねえコブラナイ、今は彼と大切な話をしてるの、ちょっとはずしてくれないかしら」
「はあ、ですが、わしがお嬢《じょう》さまの役に立てるだろうとこのボウが言うものですから、ついてきたわけなんですが」
ボウ、とコブラナイは、指輪のムーンストーンのことを呼ぶ。
「どうやってお役に立ちましょう」
どうやってと言われても。
「ええと、あっ、そういえばあなた、隠されている宝石をさがしあてられるんじゃなかった?」
「以前に出会ったことのあるものだけです」
やはり無理そうだ。コブラナイとあのバンシーの少女は、あきらかに初対面の様子だった。
「目の前にある鉱物のことなら、いろいろとわかりますよ」
自慢げに言うが、それでは困るのだ。
どうしたものかとリディアは考え込む。が、コブラナイはあっけらかんと言葉を続けた。
「ああ、この琥珀など、色合いといいつやといい、絶品じゃありませんか」
「えっ、琥珀?」
リディアと同時に、ポールも叫んだ。
妖精の姿が見えていないポールは、混乱しながらもコブラナイの声が聞こえるテーブルに両手をついて身を乗り出し、あせり気味に問いかける。
「妖精さん、どこに琥珀があるんですか?」
「ここですよ。ご婦人の金髪です」
「まさか、この黄金色《こがねいろ》の顔料が……?」
ポールは衝撃を受けたらしく、しばし硬直《こうちょく》したかと思うと急に頭をかかえ込んだ。
「ああ、画家なのにどうして気づかなかったんだろう。でもリディアさん、ふつうは琥珀を顔料には使わないんですよ。粉末にして画布に塗りつけるには高価ですからね。こういう色合いはたいてい瑪瑙《めのう》で、ええ、瑪瑙はいろんな色味《いろみ》があって重宝《ちょうほう》するんですよ。いやまったく、だってねえ、この赤がルビーだとか考える人がいますか? 絵の具ですよ。まったく、貧乏性なもので、思いつきもしませんでしたよ!」
リディアは、金髪の部分に顔を近づけ、じっと見入った。心なしかきらきら輝いて見える。
「……じゃあこれが、バンシーの涙……?」
「きっとそうですよ。ねえリディアさん、そうとしか考えられないでしょう?」
リディアは頷《うなず》く。
「お嬢さま、役に立ちましたですか?」
「ええ、ありがとうコブラナイ」
満足そうに微笑《ほほえ》むと、コブラナイはテーブルに腰をおろしてパイプをくわえた。
「ポールさん、この絵、貸していただけませんか?」
「ええ、でもどうするんです?」
「バンシーのところへ行こうと思います。彼女がユリシスの隠《かく》れ家《が》にいるなら、エドガーもきっとそこです。なんとかして、バンシーとエドガーを連れ戻します」
小さな絵を、リディアは外套の中に入れる。そしてコブラナイの方を見た。
「コブラナイ、妖精の道を開いてちょうだい。できるわよね」
「それはできますがお嬢さま、わしには道案内はできません。万が一途中で迷ったら、人間は二度と出られなくなります。ニコさんのようにきちんとお嬢さまを案内できる妖精を連れていった方がいいと思います」
「でも、ニコはベッドの下にいなかったもの。どこか遊びに行っちゃったのよ。時間がないの。これがあれば、バンシーのもとへ行くのに迷うはずはないわ」
わかりました、とコブラナイは床に穴を掘りはじめる。絨毯《じゅうたん》の奥にぽっかりと暗い空洞《くうどう》ができるのを、ポールは困惑《こんわく》気味に眺めていた。
「リディアさん、そうだ、ぼくもいっしょに行っていいですか?」
「でも、安全とは言い切れませんわ」
「なおさらあなたのような女性をひとりで行かせられません」
まっとうな正義感を持っているポールだ。説得しても引き下がりそうにない。
それに、ポールがいた方がバンシーに帰ってくるよう説得しやすいかもしれない。
リディアが頷くと、ポールは紳士的《しんしてき》に、先に穴へ入ると言った。
レイヴンは何度も、ストリートとレーンが交差する曲がり角を行き来し、何度も首をひねった。
ゆうべ、エドガーを連れ去った馬車を追いかけ、見失ったのがここだった。角を曲がったところを見たのに、レイヴンが曲がり角に追いついたときには、闇に溶けてしまったかのように消えていた。
まっすぐな道だ、いくらスピードを上げたって馬車が見えなくなってしまうというのが、レイヴンには納得できないのだ。
「何やってんだ? 落とし物か?」
下の方から声がした。足元を見ると、灰色の長毛猫が彼を見あげるようにして二本足で立っていた。
しかし、派手な仮面をつけているので、レイヴンは表情には出さないまま少々|戸惑《とまど》った。
「……ニコさん、ですか?」
「謎《なぞ》の怪盗さ」
わからないことについては、あまり深く考えないようにしている。そもそもレイヴンにとって、エドガーに関すること以外は考える必要がないのだ。
だからただ、ニコの質問に答えることにした。
「エドガーさまが消えたのです。消えたとしか言いようがなくて困っています」
「ここでか?」
「はい」
ニコは手を後ろに組みながら、ゆっくりと歩き出した。ついてこいと促《うなが》すように、ちらりとレイヴンの方に振り返る。
仮面とマントをつけた二本足で歩く猫に、道行く人々が注目しないのは、姿を消すように気配《けはい》を消すこともできるからだろうか。
たしかに見えてはいるが、ちょっとでも目を離せば、あの目立つ灰色のしっぽさえ見失ってしまいそうな存在感の薄さだ。
離れないよう注意深くあとをついていくと、ニコは急に立ち止まった。
「ははあ、ここに隙間《すきま》がある」
「隙間って、何ですか」
「人間界と妖精界が少しぶれてるんだよ。ここから妖精の道へ入っていったんだ」
しかしレイヴンには、どこがどう隙間なのかわからない。
「どうすれば通り抜けられるんでしょう。エドガーさまをさがさなければならないんです」
「人間には無理だよ」
「でもエドガーさまはここから消えたのです」
「誰か、通り抜けられるやつが連れていったんだろ?」
レイヴンは少し考えた。
「あなたは通り抜けられるのですか?」
「あたりまえだ」
「ではニコさん、私を連れていってください」
「おれが境界の道を開くことを許されている人間はリディアだけだ。あんたが勝手についてくるなら別だけど、自力で通り抜けられない場所じゃ手を貸せないんだ」
「だったらわたしが、レイヴンを連れていきます」
いつのまにか、アーミンがそこにいた。
「妖精のために道を開くのはかまわないのでしょう?」
彼女を見あげるニコの視線は、レイヴンにはなぜだか困惑しているように見えた。後ろ手に腕を組んだまま、微動《びどう》だにしなかったのはほんのわずかの間だったが、緊張感がただよっていた。
「まあ、そりゃ、理屈はな」
「ニコさん、リディアさんがファーマン氏と姿を消しました。どうやら、妖精の道へ入っていったようなのです。エドガーさまがユリシスに妖精の道を通って連れ去られたなら、リディアさんたちもそちらに向かった可能性が高いと思われます」
リディアが行ったと聞かされれば、ニコも気持ちがあせったようだ。頭をかきつつ小さくうなった。
「なんだって? ああもうリディアのやつ、あんなに伯爵《はくしゃく》に泣かされて、まだ気にかけるなんてどうかしてるぞ」
しかしすぐに思い直したように、レイヴンとアーミンを手招きした。
「しかたがない。レイヴン、姉を見失うんじゃないぞ。はぐれたら、二度と人間界に戻れなくなるからな」
アーミンはレイヴンの手を取り、しっかりと握った。
「では行きましょう」
姉とそんなふうにして歩くのは子供のころ以来で、レイヴンは奇妙な感じがするのだったが、そんなことに気を取られている場合ではないと思い直す。
雪の残る歩道から、建物の間にある猫の通り道ほどの隙間に引きずり込まれたかと思うと、その先には春の野原が広がっていた。
館《やかた》の中の一室で、エドガーはずいぶん長いあいだ待たされていた。
窓の外には、どういうわけか細い月がふたつ。けれど、こんなことでいちいち驚いてはいられない。
馬車に乗せられ、ロンドンの街並みにこもる霧《きり》を眺めていたと思ったら、急に風景が変わった。霧が晴れて、無数にまたたく星のもと、緑の草に覆《おお》われた野原を、馬車はまっすぐに走っていた。
丘をいくつか越え、ぽつんと建つこの館に連れてこられ、ふたつめの月が空に昇ってからもうずいぶんになる。
懐中時計《かいちゅうどけい》は止まっていた。
妖精界のことは、不可解すぎてエドガーの感覚では理解しきれない。だからもう、考えないことにする。
とにかくこの点では、ユリシスにかなわないことはわかっているのだ。とはいえ、エドガーは彼と魔法の腕を競うわけではない。自分には自分のやり方がある。
ノックの音がしたとき、エドガーは奥の椅子《いす》に座ったまま、立ちあがるつもりもなく黙っていた。
エドガーの返事がなくても、この部屋の鍵《かぎ》を持っているのは向こうなのだ。勝手にドアが開けられ、ユリシスが姿を見せた。
「ようこそおいでくださいました、伯爵《ロード》」
「招待してもらって悪いけど、ずいぶんボロい屋敷だね。どこを歩いても床がきしむ」
「おや、ご機嫌《きげん》をそこねてしまいましたか。お待たせしてしまったせいですかね」
「きみの顔を見たせいだよ」
ユリシスは注意深く、口元の笑みを崩《くず》さないようにしたまま、ゆっくりと手前の席に着いた。
「こういう席を設けさせていただいたのは、おれの一存です。殿下が英国に来られる前に、あなたとおれとの個人的な問題に決着をつけておきたかったわけですよ」
誰が青騎士伯爵の後継者《こうけいしゃ》なのかということだろう。
「決着もなにも、結果はもう出ている。僕はメロウの宝剣を得て、イブラゼル伯爵と認められた。三百年前の伯爵、ジュリアス・アシェンバートの庶子《しょし》の子孫? そんなこと、どこに名乗り出ても相手にされないどころか、きみは不名誉な妾《めかけ》の子孫、爵位《しゃくい》の継承権《けいしょうけん》などない一庶民《いちしょみん》にすぎないんだよ」
わざと苛立《いらだ》たせてやったつもりだ。思惑《おもわく》どおり、笑っているのも面倒になったらしく、ユリシスは正直に不快感を顔に表した。
[#挿絵(img/amber_211.jpg)入る]
「おれのことを知ってくださったようで」
「メロウが言っていたよ。きみの父上のことだろうか? 宝剣をよこせと言って現れたけれど、謎を解くことができずに海の藻屑《もくず》となったそうだね」
「ロード、あれはおれ自身ですよ。もちろん死んでもいません」
「ああ、彼もユリシス、きみもユリシスだ。だがプリンスのもとで、僕が話に聞いていたユリシスは、きみのような青二才ではなかった。メロウが会ったユリシスも中年の男だということだった」
急にユリシスは笑い出した。そして、彼が次に言ったことは、さらにエドガーを混乱させた。
「あなたがプリンスのもとへいらっしゃったときのことを、よくおぼえていますよ。両親を殺され、何もかも奪われて、荷船の船底に押し込められてアメリカへ連れてこられた子供。まったく、スラムの浮浪児《ふろうじ》よりもひどいありさま、みじめで今にも死んでしまいそうな子供が、殿下にとってもっとも必要なものだとは信じられませんでしたよ」
そのときのエドガーは、体力の消耗《しょうもう》がひどく、ほとんど意識がなかったから記憶もない。プリンスの屋敷で回復するまでの間に、ユリシスがエドガーのことを一方的に見知っていたとしても不思議はなかった。
しかし今目の前にいるユリシスは、そのころせいぜい六、七歳だったはずだ。
なのに、大人の視線で眺《なが》めたかのように語り続ける。
「けれども、ロード、生きているかどうか確かめようとあなたに手を触れたとき、朦朧《もうろう》としながらもはねつけられたのには驚きました。薄く開いた瞳は、下賤《げせん》の者になど触れられたくないとはっきり主張しておられましたね。人々の尊敬を受けかしずかれるのが当然の、公爵《こうしゃく》家の若君《わかぎみ》。あなたは、自分が受けた不当な扱いを許せずに、誇《ほこ》りと憤《いきどお》りで、虐待《ぎゃくたい》続きの船旅を生き抜いたのだと知りました。そのときおれは、感動さえしたんですよ。我らがプリンスの器《うつわ》にふさわしいと」
エドガーは、プリンスの傀儡《かいらい》となるためにさらわれてきたのだった。
プリンスを頂点とした奇妙な秘密結社は、エドガーをプリンスと同種の人間に造り替えようとし、そのためにエドガー自身の自我を破壊しようとした。
アメリカでのエドガーの記憶は、瀕死《ひんし》の状態から回復したころからはじまるが、体の苦痛よりもあるいはたえがたい、精神的な苦痛の日々のはじまりでもあった。
ユリシスの言葉が記憶を呼び戻し、エドガーは、平然としたふりを装《よそお》いながら、手のひらに汗を感じていた。
「ではきみは、あの頃からプリンスの側近《そっきん》として働いていたとでもいうのか? 幼い子供のころから? バカげている」
「これはおれの、ふたつめの体ですから」
驚きを隠しきれないエドガーをあざ笑うかのように、にやりと笑ってみせる。しかしそこには、ユリシス個人の強い憤りがにじんでいた。
「青騎士伯爵家の、本家の血筋《ちすじ》は絶えました。三百年前の伯爵、ジュリアス・アシェンバートの死後、妖精国《イブラゼル》に暮らしていた伯爵家には男子が生まれないまま、宝剣を取りに英国へ来る者もいなかった。そして、もう女子しか残っていなかった最後のひとり、グラディス・アシェンバートが死に、それから百年の間に、我らが殿下は庶子の血筋まで抹殺《まっさつ》しました」
「……きみだけを残して」
「そうですよ。これで青騎士伯爵と血のつながる子孫はおれだけになったわけです。そして、宝剣の隠し場所へたどり着く鍵はふたつ。どちらも、すでにプリンスの手にありました。もともとその鍵は、庶子の先祖がつくったもの。おれの先祖、つまり宝剣を隠したジュリアス・アシェンバートの恋人です。単純な造りだった金の鍵は、三百年の間に次々に模造品が流れてしまいましたが、銀の鍵はたったひとつ、精巧な細工で簡単には偽造できません。ところがそれをロード、あなたが盗んだのはおぼえておられるでしょうね?」
脱走の計画を立てながら、プリンスについてできる限りの情報を得ようとしていたころだった。エドガーは最初、それが何なのか知らなかった。
敵を知らなければ戦えない。けれどもプリンスについて、多くの部分は謎に包まれたまま。
ただその謎めいた鍵は重要そうに思えたから、手に入れておいた。
脱走後、その使い道を知った。伯爵の地位を得られると信じ、リディアを巻き込んでマナーン島へ向かったのだった。
「鍵がないのに、マナーン島へ行ったのか?」
「おれの先祖がつくった鍵ですよ。設計図が残っていたから、新たに鍵をつくることができたんです。でなければ、プリンスに止められたっておれは、あなたを八つ裂きにすると誓ったことでしょう」
「だがメロウは、鍵を手に現れたきみに宝剣を渡さなかった。謎を解く詩の意味を理解していなかったから、そうだろう?」
エドガーが言うと、ユリシスは苛立ったように立ちあがった。
ふたつめの体という意味不明のキーワードを投げ出しておきながら、エドガーの混乱を誘うよりも、ユリシス自身が落ち着きを失っている。
「犠牲《ぎせい》の血をささげる、それが謎《なぞ》の答えではなかったと? メロウどもが集めたがる人の魂《たましい》を与えてやろうとしたっていうのに」
エドガーも最初は、それが答えだと思っていた。
けれどもリディアを前にして迷ったのだった。
非情にならなければ生き残れない、そういう日々を過ごしてきて忘れていた、正義感や人を思いやる気持ちを、リディアが思いださせてくれた。だまされていると知っても、エドガーの苦悩を思いやろうとしてくれた。そうして、フェアリードクターの能力を役立てたいと必死になっていたリディアがいた。
伯爵の地位を得ようとして宝剣を求めるなら、ギャングのリーダーのやり方が通用するはずがない。リディアを犠牲にするなどありえない。そんな謎解きを、青騎士伯爵が用意するはずがない。だからといって正しい答えはわからず、わからないならみんなして死ぬことになる前に、あの場にいたレイヴンとリディアを守らなければならないと気がついた。
それが、落ちぶれていても手放してはならない、|貴族に生まれた者の義務《ノブレス・オブリージュ》だと思いだしたのだった。
自分がユリシスに勝るとしたらこれしかない。あらためて自分のなすべきことを確認し、エドガーは目の前の少年を観察する。
一方でユリシスは、おさまりきれない感情をぶつけたがっているのか、強い口調《くちょう》に憤りをにじませて言った。
「なぜです? もうおれしかいないのに。メロウの奴らは、波で襲いかかり海に引きずり込んだ。荒波にもまれ、岩にたたきつけられて、ただ溺《おぼ》れるよりもひどいことになるんですよあの場所は」
それが、ひとつめの体を失ったという話だろうか? やはりメロウの前に現れた、ユリシスという名の男は死んだのだ。
ただ目の前の少年が、死んだ男の記憶を自分のことのように語るのが不可解だ。
不可解だがぼんやりと、エドガーは気づいていた。これがプリンスの組織の、悪魔じみた研究の成果だ。
その少年は、両手をテーブルについて、エドガーの方に身を乗り出した。
「でもおれは死んではいません。新しい、この若い体を得て生き続けている」
「……そんなふうに思い込んでいるのか? きみは、そんなふうに教育されたわけか?」
「教育? まあそれも重要ではありますけどね、肝心《かんじん》なのは魂です。ああそう、言っておきますが憑依《ひょうい》なんて低レベルの術じゃありませんよ。この体も人生も完全におれのもの。そしてあなたも、殿下の新しい体となるために選ばれたわけです」
たしかにエドガーは、プリンスの知識や考え方や、話し方から動作まで、あらゆる癖《くせ》を教え込まれた。もともとの自分が壊れていく感覚を味わったし、もしもあのまま組織にいたら、精神の糸が切れて、自分自身がプリンスであるかのように感じるようになったかもしれない。
けれどもそれは、エドガーがそんなふうに感じているだけで、プリンスと同一人物ではないはずだ。それとも、プリンスの過去を教え込まれ、それを自分の記憶と信じたエドガーはプリンス自身に成り代わるのだろうか。
わけがわからない。それでも目の前のユリシスは、自分がすでに死んだ昔のユリシスと同一人物だと信じている。
魂というものがあるとしても、他人の体に魂を移しかえるなどということができるのか、もともとそこにあった魂はどうなるのか。
こうなるともはや黒魔術だ。エドガーには信じられなかったが、自分が、プリンスにとって後継者ではなく、文字通り器として扱われていたのなら、数々の悪夢のような仕打ちに納得がいくのだった。
「宝剣を手に入れるのは失敗しました。でもおれでさえ手に入れられなかったのだから、もはや誰の手にも渡ることはない。殿下はそうおっしゃって、我らにとってじゃまな青騎士|伯爵《はくしゃく》一族の再来を気にする必要はなくなったはずだった。なのにロード、あなたが」
ユリシスが何より許せないのは、そこだったようだ。
最後の血縁者《けつえんしゃ》で、伯爵家の妖精族とかかわる能力を受け継いでいる自分ではなく、何の関係もないエドガーが伯爵位を受け取ったことだ。
「なぜおれではなくあなたなんだ? 伯爵家のことなど何も知らない、妖精を見ることすらできないのに、妖精国《イブラゼル》伯爵? 殺してやりたいと思いましたよ」
「殺せばいい」
エドガーは、熱くなるユリシスを後目《しりめ》に、冷静になろうと深く息をしながら言った。
「できないと思ってるんですか? 殿下の許可は得ていますよ。青騎士伯爵の後継者を生かしてはおけない」
「だがプリンスには、王家の血を引く僕が必要だ。老いて不自由な身体《からだ》をかかえている。つまりこれは、どちらが優先事項かということなんだろう? 青騎士伯爵と名のつくものをとことん抹殺するのが先か、プリンスを新しい体にするのが先か」
「その判断はおれにゆだねられてます。あなたの血筋は殿下にとって最適だけれど、とりあえず間をつなぐ肉体は見つからないこともない。そしておれは、あなたを殺してやりたくてしかたがない」
ユリシスはピストルを取り出し、銃口《じゅうこう》をエドガーに向けた。
「僕を殺したって琥珀《こはく》は手に入らないけどね」
むろんそんなことは、ユリシスにもわかっているはずだ。引き金を引く気があるとは思えなかった。
「きみはバンシーの琥珀がほしい。バンシーの記憶が戻り、彼女がきみを認めれば、妖精国の主人になれる。英国の爵位なんかより、妖精たちを動かせる実質的な力がほしいんだろう? そうすれば、僕の伯爵位などプリンスにとって脅威《きょうい》でも何でもない。奴が怖れている力を、僕が手に入れる心配はなくなるのだから。そして僕自身を、生きたままプリンスに引き渡せれば一石二鳥だ」
エドガーは、わざとらしくじゃまくさそうにしてピストルを手で押しのけた。
「けれど僕は、きみの思い通りになる気はない。だからここへ来たのは、賭《かけ》をするためだ」
そして胸元のポケットから、琥珀の粒を取り出し手のひらにおいたまま見せた。
疑わしげに、ユリシスはそれを眺めた。
バンシーの魔力が宿った琥珀には違いないが、それはエドガーの死を予言したものだ。グラディスが伯爵家の秘密を封印《ふういん》したものではない。だが燃えない琥珀だ。ユリシスにも見分けはつかないだろうと思った。
「本物をそんなに簡単に出すか? あなたにとって切り札でしょう。ここにあるとなれば、今すぐあなたを殺すこともできるのに」
「今すぐは殺せないよ。本物かどうか確かめない限りはね。だからきみは、今ここで、バンシーの封印を解いてみるしかない」
「おれに封印を解かせて、どうするおつもりで?」
「そう、たとえば、記憶を取り戻したバンシーは、自分の立場を自覚する。そのうえでこそ、本当の主人が誰かわかるというものだろう? もしも彼女が僕を選んだらどうする?」
「ありえませんね」
「なら賭けよう。バンシーがきみを選ぶなら、僕を殺すもプリンスに差し出すも自由。けれど僕が選ばれたら、僕こそ真の青騎士伯爵だ。ここから抜け出すくらいどうってことはない。きみもプリンスも、破滅を待つのみだ」
ユリシスは黙り込んだ。かすかに不安そうな気配を見せたことに、おやおや、とエドガーは思う。
ハッタリで言ってみたものの、妖精国をバックにした青騎士伯爵には、それほどの力があるのだろうか。
ユリシスも、バンシーがグラディスから何をあずかっているのか、具体的に知らないのだろう。バンシーの封印を解いたとき、何がもたらされるか油断できないと思っている。
「……あなたには無理です。たとえバンシーが認めたところで、妖精の魔力を扱うことはできない」
自分に言い聞かせるように、ユリシスは言った。
「そう思うなら、きみが賭をためらう理由はない」
何があっても、青騎士伯爵家の力をプリンスには渡さない。エドガーが、レイヴンや朱い月≠フみんなや、リディアのためにしておけることだと思っている。
|よき妖精《シーリーコート》たちのために、妖精を愛するリディアのために。
そもそもこの琥珀はユリシスのほしがっているものではないし、バンシーの封印が解けるわけもなければ、エドガーは賭などするつもりもないのだ。
ユリシスは、ドアの外に声をかけた。ひかえていたジミーが部屋へ入ってくると、バンシーを連れてくるように短く伝えた。
妖精の道へ入っていったリディアとポールがたどり着いたのは、どこかの屋敷の中らしい一室だった。
建物の様子も室内の装飾も、人間界のものだ。けれども何気なく窓の外を見ると、空に細い月がふたつかかっている。
奇妙なのは月だけでなく、夜空のほかには何もないことだった。
下方に地面らしきものはなく、建物はただ暗闇に囲まれている。
おそらくここは、けっして夜が明けることのない、夜だけをつないだ場所だ。
「ユリシスがまた、こんな場所をつくったんでしょうか」
ポールが言った。以前にもユリシスは、ロンドンにあった建物を、地下のゴブリンの巣につないだことがあった。
「そうですね。でもこれは、土の中に埋《う》まっていませんし、時間をかけて周到《しゅうとう》に準備した魔法でもなさそうです。魔法がかかっているのは建物の外側だけみたいですから、以前のように空間ごとつぶれるなんてことはないと思います」
ユリシスが使う闇の妖精が動きやすいよう、夜の世界にしてあるのだろう。
リディアの説明を聞き、ポールはほっと息を吐《は》いた。そうして、何か見つけたように身を屈《かが》めた。
「リディアさん、琥珀が」
彼が拾いあげたのは、足元に転がっていた琥珀の粒だった。
転々と落ちているそれをたどっていくと、ドアを開け放したままの隣室《りんしつ》へ続いている。しくしくと泣く声が聞こえてくる。
覗《のぞ》き込むと、ベッドに座り込んで肩を震《ふる》わせている少女がいた。
「バンシー! どうしたの? ぐあいでも悪いの?」
声をかけたリディアの方に振り返ると、バンシーは驚きに目を見開いた。
「あ……あなたがたは……」
「ユリシスにひどいことでもされたのかい?」
「ポールさん……! い、いえ、ユリシスさまはわたしにここにいるようにと言ったきりお見かけしていなくて、それよりお付きの少年が、ポールさんは死んだと、殺したと言うものですから、わたしのせいだと思うと……」
またぽろぽろと涙を流すバンシーに、ポールは歩み寄って、おろおろしながらなだめようと覗き込んだ。
「大丈夫だよ、ぼくは。このとおり元気だから、もう泣きやんでくれるね?」
「は、はい」
あわてて涙をぬぐうバンシーは、かすかに頬《ほお》を赤く染めた。
恥ずかしそうな様子にリディアは気づいたが、ポールはやはりというか、ちっとも気づいていないようだ。バンシーのことをよほど子供だと思っているかのように、頭をくしゃくしゃと撫《な》で続けている。
「バンシー、聞いて。あたしたちあなたを連れ戻しに来たの」
「そう、そうなんだ。ぼくたちといっしょにここを出よう。きみの記憶を取り戻せる琥珀も見つけた。伯爵が、あのアシェンバート伯爵とこちらのフェアリードクターが、きっときみを元どおりにしてくれるから」
でも、と彼女は迷う。ユリシスに感じる伯爵家の血は、よほど彼女を惹《ひ》きつけるらしい。
けれど、それでいてポールを信頼する気持ちがあるからこそ悩むのだろう。
だったら、説得あるのみだ。
「エドガーはメロウから宝剣を受け取ったわ。青騎士伯爵の力を、あなたが彼に感じられなくても、伯爵家の君主である英国女王|陛下《へいか》が彼をイブラゼル伯爵と認めてるの」
ますます困惑《こんわく》しながらも、バンシーは考え込んでいる。
「ねえバンシー、あなたの涙の中に燃えない琥珀があったの。一族の、誰かの死を予言する涙よ。それは、ユリシスではなく、今アシェンバート伯爵の名を継いでいるエドガーにふりかかる。そうでしょう?」
「えっ、リディアさん、それは本当なんですか?」
これにはポールも驚いた。
説明するひまがなかったのだ。今も、説明している時間がないから、リディアは頷《うなず》くだけしかできず、バンシーに問いかける。
「だったらやっぱり、エドガーが伯爵なのよ。彼のためにも、そう認めて。そして力を貸して。予言を無効にする方法はないの?」
しばらく少女が黙ったのは、考えたのではなく、言いにくいことを言わなければならなかったからだろう。
「無効にする方法があるとは思えません。わたしは、意図《いと》して予言の涙を流すわけではなくて、涙が宿命を知るだけなんです」
予想はしていた。けれどリディアは、納得したくないのだ。
この屋敷にユリシスがいるなら、エドガーもいるはずだ。琥珀は見つかったのだから、バンシーがエドガーを認めれば、彼がユリシスに挑んでいる駆《か》け引きを有利に進められるかもしれない。
そうだったなら、エドガーの上にある死の予言が、ここで実現することは避けられる。
どうにかして、エドガーと接触しなければならない。
しかしリディアには考えている時間はなかった。階段をあがってくるらしい足音が聞こえてきたのだ。
「誰か来ます。早く、隠れてください」
「おい、バンシー、ユリシスさまがお呼びだ」
ドアの外から呼びかける声に、バンシーはあわてて立ちあがりながら答えた。
「は、はい。ただいま」
そうして、うろたえながらリディアたちの方に振り返る。
「ユリシスさまの側近《そっきん》の黒妖犬《こくようけん》です。おそろしい妖精で、見つかればあなた方は殺されてしまいます。ああ、どうすればいいんでしょう。わたしも行かなければ。でも、何を信じれば、グラディスさまのお心にそうことができるのか、もうわかりません……」
「だったらバンシー、そのマントを貸して」
思いついたままを、リディアはもう口にしていた。
「早くしろ!」
黒妖犬だという外の声が苛立《いらだ》つ。バンシーとマントを取り換え、リディアは緑色のフードをすっぽり頭からかぶる。
「どうするつもりなんですか、リディアさん」
ポールに、琥珀の絵を押しつけるように渡す。
「ポールさん、あたしエドガーをさがします。バンシーとここを出てください。これを持っていれば、バンシーはあなたを見失うことなく妖精の道を通り抜けられるはずですから」
「でも、そうしたらリディアさんは……」
「フェアリードクターですから、なんとかします」
ガチャ、とドアが開いた。バンシーを呼びに来た黒妖犬がしびれを切らしたのだ。
しかし彼を部屋の外へ押しやるようにして、バンシーのふりをしたリディアは出ていった。
「遅いぞ」
フードを深くかぶったリディアを、バンシーだと思い込んだまま、黒妖犬の少年は歩き出した。
蝋燭《ろうそく》の明かりしかない建物の中は薄暗い。リディアが入るように指示された部屋には、人影がふたつあるとしかわからなかった。
だが薄暗いのとフードつきマントのおかげで、部屋の中の人物も、リディアのことをバンシーだと思い込んでいるようだ。不審《ふしん》がる様子もない。
突っ立っていると、男がひとりこちらへ近づいてきた。
「バンシー、無事でよかったよ。きみを助けに来たんだ」
えっ? エドガー……?
リディアはかろうじて声をのみ込み、フードの隙間《すきま》からそっと見あげた。
端整《たんせい》な微笑《ほほえ》みをこちらに向けるのは、間違いなくエドガーだ。
こんなにすぐに会えるだなんて。
ほっとしながらも、ユリシスがそこにいて、自分がバンシーのふりをしている状況では、気を抜くことはできなかった。
「無駄《むだ》ですよ、ロード。バンシーはおれこそが青騎士伯爵の血筋《ちすじ》だと知っている」
「いいや、青騎士伯爵は僕だ。バンシー、きみも伯爵家の一員なら、僕といっしょに帰るべきだ。わかるね」
「ともかく、賭《かけ》を実行しましょう」
そう言うユリシスを無視して、エドガーはバンシーの、いやリディアの手を取った。
「きみは、レディ・グラディスのことだけはおぼえているんだろう? だったら、高貴な彼女の精神を受け継ぐ伯爵に、どちらがふさわしいかわかるはずだよ」
まったく隙のない動作で、優雅に女性の手に口づけるのは彼にとっては慣れたことだ。それを、貴族的な美貌《びぼう》と上流英語のあまいささやきつきでやられたら、たいていの女の子はうっとりしてしまう。
手の内を知っているリディアでさえ、混乱しそうになるくらいだ。バンシーも女の子なら、自分になびかないわけはないと思っているのだろう。
どうしよう。なんだか変なことになってきたわ。
「あの男には、貴族の誇《ほこ》りなどない。卑《いや》しい心の持ち主だ」
わざとユリシスを挑発《ちょうはつ》しているのだろうか。
エドガーの態度に苛立ったらしいユリシスが、こちらへ近づいてきた。リディアの肩をつかみ引き寄せようとする。
「悪あがきはそれくらいにしてください」
突然、エドガーがユリシスに接近した。と思うと、相手の上着のポケットから素早くピストルを抜き取る。
次の瞬間には、それをユリシスの眉間《みけん》に突きつけていた。
不意をつかれたユリシスは、身動きできずに硬直《こうちょく》した。
「ふたりめのユリシス君、三つめの体はないのかい? 入れ物にする息子をつくるには若すぎるね」
「……そんなことをしても、ここから逃げ出すことはできませんよ」
「かまわないよ。一足先にきみに死んでもらいたいだけだ」
エドガーは、ユリシスを道連れにここで死ぬことを覚悟している。リディアがそう気づいたのは、躊躇《ちゅうちょ》なく、引き金を引こうとしたからだった。
銃声《じゅうせい》が聞こえる寸前《すんぜん》、黒い影が割り込んだ。
黒妖犬が、エドガーの腕に噛《か》みつく。銃口がそれ、弾はユリシスの肩をかすめる。
倒れ込むユリシスに、ジミーが気を取られた隙に、リディアはエドガーを引っぱって部屋から駆けだした。
「バンシー、どこへ行くんだ。ユリシスにとどめを……」
それができたとしても、エドガーもすぐさま殺されてしまう。
だからといって、リディアには、ここから逃げ出すすべもない。
騒ぎを聞きつけたのか、追ってくる妖犬たちの気配《けはい》を感じながらリディアは走った。
ユリシスが使う|悪い妖精《アンシーリーコート》は、ジミーだけではないのだ。けれど相手が妖精なら、リディアにはフェアリードクターの知恵がある。
「エドガー、伏《ふ》せて!」
倒れ込むようにして、ふたりして床に伏せる。妖犬に追いかけられたときには、これが手っ取り早い方法だ。
妖犬たちの群《むれ》は、そのままの勢いでふたりのそばを駆け抜けていく。急いで立ちあがったリディアは、とりあえず身を隠そうと、近くにあった部屋にエドガーを引っ張り込んだ。
まっ暗で何も見えなかった。手探りで動こうとすると、エドガーに腕をつかまれ、引き戻された。
「……リディア、なのか?」
返事をする前に、彼はリディアのフードをはずし、確かめるように髪に触れた。
「やっぱりそうだ。カモミールの香りがする」
声を耳元に感じ、彼がどれほど近くにいるか気づいたリディアは、戸惑《とまど》いがちにあとずさる。が、エドガーはリディアの髪をつかんだまま離さなかったので、ほんの少し距離を取っただけだった。
「ああ、でもどうしてこんなところへ……。危険じゃないか。ひとりで来たの?」
「ええと、ポールさんがいっしょよ。あの、例の琥珀《こはく》が見つかったの。それを使ってバンシーのいるここへ来ることができたのよ」
「琥珀が? 本当に?」
「レディ・グラディスを描いた絵に、琥珀が使われてたの。ポールさんにあずけてあるわ。それで彼が、バンシーを連れ出してくれているはずよ」
エドガーは悩んだようにしばし黙り込み、やがて小さくため息をついた。
「それできみは、どうしてバンシーのふりをしてここにいるんだ? ポールとバンシーといっしょにここを出なきゃ、帰れないんじゃないのか?」
「だってジミーが、バンシーを呼びに来たのよ。バンシーを行かせるわけにいかないから、とっさに入れかわったの」
「あのね、ユリシスはバンシーに危害を加えたりはしないけど、きみがいると知ったら何をするかわからないんだよ。どうしてこんな無茶をするんだ」
そうだけれど、まるで足手まといみたいに言われ、リディアは腹が立った。
「なによ、あたしが来ちゃいけなかったの? 無茶ならあなたの方がよっぽどだわ。バンシーの予言があるってこと、そんな大事なことあたしに隠したまま、ユリシスを殺しに来たの? それで死ぬ気だったっていうの? こんな身勝手なことないじゃない!」
「……どうして、予言のことを」
「ケルピーが知ってたのよ。……だからもう、あなたとの婚約は無効だって言って、あたしを連れていこうとしたわ」
あの馬、とあきれたようにつぶやくのは、ケルピーがよけいなことをしゃべったからだろうか。それともリディアを連れていこうとしたことだろうか。
後者《こうしゃ》だと考えるのは、今のリディアには難しかった。
「心配して損したわ。そうやって、あたしの前からいなくなるつもりだったのなら、ケルピーの言うとおりにすればよかったってことね! そうしてたら、もうあなたのことなんて忘れて、のんびり過ごしてたはずよ。こんな、悲しい気持ちにならずに……」
妙なことを口走ってしまいそうになり、リディアはあわてて口をつぐんだ。ようやく少し暗がりに目が慣れて、彼の輪郭《りんかく》がぼんやりと見えれば、さらに恥ずかしくなって背を向けようとしたが、今度は手を握られた。
[#挿絵(img/amber_233.jpg)入る]
「ごめん。そっか、それで婚約指輪を身につけて、僕を助けに来てくれた。ケルピーより僕を選んでくれたんだね」
彼の手は、指輪の感触を確かめていた。
どこまでもうぬぼれが強いんだから。
リディアは恥ずかしさを紛《まぎ》らすためにも、ついきつい口調《くちょう》になった。
「これはっ、単なるケルピーよけ! もう二度と心配なんてしないから、好きなようにすれば!」
「リディア、二度ときみには会えないと思っていたから、本当はとてもうれしい。でもこの死の予言に、きみを巻き込むことだけはしたくなかったから、黙ってひとりで来たんだ」
エドガーの口調は真剣で、足手まといというよりはその通りなんだろうと思ったけれど、なおさらリディアは、自分の力不足を感じて淋《さび》しくなった。
リディアのフェアリードクターの力が、ユリシスにはかなわないことをエドガーも知っているから、彼はこうするしかなかったのだ。
「ただ、バンシーが持っているものを、ユリシスの手に渡してはいけないと思った。あいつを青騎士|伯爵《はくしゃく》だとバンシーに認めさせちゃいけない。僕に伯爵の資格がなくても、これだけは僕の役目だと思っているんだ」
それで、バンシーの気を引こうとしたのだろうか。
「でも、あなたにバンシーを口説《くど》くのは無理よ」
「伯爵家の血をユリシスに感じているから? けど、もともとは人間の女の子なんだろう? どう考えても、僕の方がいい男だ」
やっぱりこいつのうぬぼれって……。
「ああでも、これは浮気心じゃないよ。必要あってのことだってわかってくれるよね?」
必要なら誰でも口説ける? その神経がわからないというのに。
「彼女、ポールさんのことが好きみたい。だから、あなたのあまい言葉は軽薄《けいはく》に聞こえると思うわ」
さすがに、うぬぼれがくじけたのだろうか。彼は少しの間黙った。
「なるほど、きみみたいに?」
「あ、あたしはべつに」
「ポールみたいに、恋愛に鈍感で女の子の気持ちなんてわからないけどまじめそうで仕事一筋なのが理想のタイプ。だから僕がいくら好きだと言っても信じてくれない」
「ポールさんは関係ないわよ。あなたが信じられないだけ! とにかく、こんなこと言い争ってる場合じゃないわ」
「そうだね。ここはやたら寒いし、足元に雪が吹き込んできてる気がする」
たしかに、足元に雪が積もっているかのような感触だ。しかし暗くてよく見えない。
「窓が開いてるのかしら。ねえ、向こうが少し明るいわ」
手をつないだまま歩き出すことになったが、周囲がよく見えない暗がりの中ではしかたがないと、リディアは自分に言い聞かせた。
歩くほどに、足元の雪が深くなっていく気がする。しかし明かりのもとが何なのかはわかってきた。
どうやら、暖炉《だんろ》の火がくすぶっていて、かすかに赤くともっているようだ。ただ、火に近づけども、少しもあたたかさを感じない。
「リディア、これはどういうこと?」
エドガーの声にあたりを見回せば、暖炉の火に照らされた周囲は、雪が積もった森の風景だった。
暖炉だけが、ぽつんとそこにある。
「いつのまにか外へ出てしまったのか」
「そんなはずないわ。魔法の力に囲まれた建物だから、簡単には外へ出られないもの。きっと、建物の中が変なふうにねじれてるのね。でもここは部屋の中のはずよ」
木の枝を折って火をかき立てれば、よりはっきりと風景が見えるようになったが、やはり部屋の中には見えなかった。
「さっきあたしたちが入ってきたドアが、どこかにあるはずだわ」
さがそうと歩き出したとき、エドガーがリディアの手を離した。
ふらついたらしく、そばの木に寄りかかった彼は、ずるりとその場に座り込む。
あわてて駆《か》け寄ったリディアは、彼の右手からしたたる血が、雪を染めていくのに気がついた。
「エドガー! 怪我《けが》をしてたの? たいへん、こんなに血が……」
彼自身も、はじめて気がついたように血を眺《なが》めた。
「痛くもなんともないのに」
そう言いながら、そでをめくりあげ、傷を確かめる。黒妖犬にかまれた傷のようだが、目立つほどのものではなかった。
ハンカチで傷口を縛《しば》ったものの、どういうわけか血が止まらない。
「黒妖犬の牙《きば》が入っちゃったんじゃ……」
「それってまずい?」
ちょっとまずい。
「はやく人間界へ戻らなきゃ、陽《ひ》の光にあたらないと血が止まらないわ。ここはずっと夜でしょう? |悪い妖精《アンシーリーコート》の魔力が強く働く場所になってるのよ」
けれど、どうやってここから抜け出すのか。それ以前に、この部屋から抜け出すのが先決だが、どこにドアがあるのだろう。見まわしてもわからないし、壁際《かべぎわ》であるはずの暖炉の向こうへ回り込んでも壁を感じないのだ。
「リディア、ナイフを持ってる? 僕のはここへ来る前に、取りあげられてしまってさ」
「持ってるけど、どうするの?」
「牙を取り出す。傷を開いて」
「えっ、自分でやるの?」
「慣れてるから」
信じられない、と思ったけれど、プリンスから逃《のが》れてきたエドガーは、ずっと戦場にいたようなものなのだ。
怪我も血も日常|茶飯事《さはんじ》。
しかしリディアには、ナイフを渡すことはできなかった。黒妖犬の牙は、きっともう溶けてしまっている。魔力の影響は取り除けない。
リディアが渋ったので、エドガーも理解したのだろう。疲れたようにため息をついた。
「これがバンシーの予言かな。痛くも苦しくもないけど、力が出ない」
リディアは首を横に振った。いやだと思った。
「大丈夫よ、ここから出れば助かるのよ」
「動けないんだ」
ちらつく雪が、さっきより多くなってきていた。風も出てきている。吹雪《ふぶき》になるのだろうか。
だんだんと、手足がしびれるほど冷たく感じはじめていた。
「行ってくれ。ここにいたら、きみまでこごえてしまう」
「バカなこと言わないで」
「僕のことなんて、もう心配しないんじゃなかった?」
「そ、そういうことじゃないでしょ! あなたを置いていけると思ってるの? そんなわけないってわかってるはずよ。なのにどうしてそんなこと言うのよ! この、卑怯者《ひきょうもの》!」
どうにかしてエドガーを立たせようと、腕を引く。
けれど逆にかかえ込まれ、リディアも倒れ込んだ。
「ごめん。まだ愛想《あいそ》を尽《つ》かされてないかどうか、確かめたかった」
抱きしめられていると、このあいだのことを思い出して、リディアは硬直《こうちょく》していた。けれどもあのときとは違い、エドガーの腕にはほとんど力が入っていなかったから、逃げ出そうと思えばすぐにでもできただろう。
「あのときのこと、まだ怒ってる?」
「な、何もなかったんだからもういいじゃない」
「誤解を解いておきたい。誰かの名前をつぶやいたってこと、言いわけさせてくれ」
ああそのこと。リディアはちくりと胸が痛んだ。
「べつに、いいのよ。あたしには関係ないもの」
「どんな名前だったの? たとえば、昔の家庭教師とか、従姉妹《いとこ》とかはとこかもしれないじゃないか。誤解されたまま死にたくない。僕にとっては重要なことだ」
返事ができずに、リディアは黙った。
「アン、アニー、アンジー……、こんなことならレイヴンに、アルファベット順で名前をあげておいてもらうんだった」
「あなたね、そんなに名前の心当たりがあるの?」
「心残りはもうひとつ」
「もう、不吉《ふきつ》なこと言わないで。陽の光をあびれば、黒妖犬の魔力は消えるのよ」
リディアの言葉を聞いているのかいないのか、エドガーは自分の話を続けた。
「僕たち、キスした?」
リディアは硬直したまま、それでも力を入れて、寄りかかっていたエドガーから体を離した。
でないとあまりにも気恥ずかしいからだ。
「し……てないわ」
彼は少し落胆《らくたん》したように笑った。
「酔っぱらってたががはずれてても、唇《くちびる》さえ奪えないのか。これってどうかしてると思わないか?」
そんなこと言われても。
「でもたぶん、どうかしてるくらい、きみが好きなんだ」
暖炉の明かりにゆらめく、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳に見つめられ、泣きたくなった。
けれどリディアは思い出す。あのとき彼が求めたのは自分じゃない。
アーミンを抱きしめているつもりだったからこそ、何もできなかったのではないだろうか。
「ああ、このままじゃ死にきれない。せめて口づけを許してほしい」
死ぬなんて言わないで。
リディアはもう、恥ずかしいのか腹立たしいのか、それとも悲しいのか、自分の心の中がわからなくなってきていた。
けれども乱れた心の中心に、ここへ来る前から、ずっと感じていた思いがある。
エドガーを失いたくない。
スコットランドに帰っていた間、エドガーなんていなくても幸せなんじゃないかと思った。
彼はリディアの能力を認めてくれた人だから、誰にも認められないよりは、伯爵家のフェアリードクターでいられることは幸運なのかもしれない。けれど、仕事なんてなくても、妖精たちとおだやかに暮らせるのもひとつの幸せかもしれないと思ったのだ。
なのに、フェアリードクターとしてのリディアではない別の部分で、彼がいなくなったらどうしようとうろたえている。
エドガーといると、幸せかどうかわからない。おだやかな気分ばかりじゃない。苛立《いらだ》ったり緊張したり、泣きたくなったりする。
でももう、彼がいなくなるなんてことは考えられない。スコットランドで以前と変わりない毎日が過ごせたとしても、リディアは以前と同じ幸福を感じることはできないだろう。
どうしてこんなことになったのだろう。彼のことを、信じられやしないのに。
リディアは、やっとのことで口を開く。
「無事に帰ってからよ」
困ったような顔をしていた彼は、やがて「そうだね」とつぶやいた。
「口づけで満足して、死ぬわけにいかないね。きみを無事ここから帰すまでは」
木に寄りかかるようにして、ふらふらと立ちあがる。
立てるくせに、まただまされかけたのかしら。
一瞬そんなふうに思ったけれど、腕から血がしたたり続けている。懸命に歩こうとするエドガーが、かなり無理をしているのはたしかだった。
「ドアを、さがすのだったよね」
雪はますますはげしくなっていて、どこに何があるのかますます見えづらくなっていた。
「リディア、誰かいる」
雪が舞うその向こうに、ぼんやりと人影が見えた。それはしだいにこちらに近づいてくる。
「……アーミン」
目をこらしたリディアは、よく見知った短髪の女性に気づいたが、ユリシスの屋敷で出会ったことにどう反応していいかわからなくて立ち止まった。
「エドガーさま、リディアさん、ご無事でしたか」
「無事とも言いきれないけどね」
「お怪我を?」
あわてた様子で駆け寄ってきたアーミンは、エドガーの腕からしたたる血に気づき、そこにひそむ黒妖犬の魔力も感じただろうか。深刻に眉《まゆ》をひそめる。
ふだんの彼女と何の変わりもなく、心底エドガーを心配しているようだった。
「アーミン、ひとりで来たのか? おまえこそ、見つからずに無事だったかい?」
エドガーは警戒《けいかい》していた。けれどあくまで、いつもの親しげな口調だった。
「レイヴンとニコさんがいっしょです。手分けして、おふたりをさがしておりました」
それが本当かどうか、今すぐ確かめるすべがない。
「ともかく、早くこの場所から抜け出しましょう」
吹雪を見まわし、アーミンは言った。
「出口がわかるの?」
「こちらです」
彼女のあとについて、先に歩き出したのはリディアだった。
アーミンはユリシスと通じているかもしれない。けれどどんな理由があるにせよ、彼女にはエドガーを害することはできないと思ったからだ。
「ねえ、エドガーには陽の光が必要なの。一刻も早く人間界へ戻らなきゃ……」
「わかりました。急ぎましょう」
エドガーも歩き出したが、そっとリディアに手渡したのは、ユリシスから奪ったピストルだった。
「もしものときは、僕にかまうな」
強い命令口調を向けられたのははじめてで、リディアは、どうにか歩いているエドガーが、かなり切羽《せっぱ》詰《つ》まっているのだと感じずにはいられなかった。
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命とひきかえにして
「これは、グラディスさま……!」
バンシーの少女は、ポールが広げた絵に食い入るように見入った。
「ずっとぼくがあずかっていた絵なんだ。だからきみは、何かを感じてぼくのことを気にとめたんだろうね」
描かれた女性の金髪を、彼女はそっと指でなぞる。それが琥珀《こはく》だとわかるのだろうか。
「わたしの流した涙が、この琥珀が、グラディスさまの死を予言してしまったのですね」
「きみのせいじゃないよ。それにこの琥珀があったからこそ彼女は、自分の死後に伯爵家《はくしゃくけ》を継ぐかもしれない人物に、意志を伝えることを思いついたんだと思うよ」
ユリシスのもとから連れ出すために、ポールはバンシーの説得を続けていた。
リディアがバンシーのマントをかぶっていると、いつユリシスにばれるかわからない。妖精の魔法に囲まれているらしいこの屋敷から出るにはバンシーの協力が必要だし、早く彼女を説き伏せて、リディアと、そしてエドガーのために助けを呼んでこなければならないのだ。
「ねえバンシー、これがきみの記憶を解く琥珀なら、きみの力で封印《ふういん》を解くことはできないのかい?」
「……ユリシスさまでなければ無理です」
エドガーにだって解けるかもしれないではないかという屁理屈《へりくつ》は、通用しそうにないので口にするのはやめた。
バンシーには、伯爵家の力を受け継いでいるのが誰かはっきりとわかっている。
そしてユリシスが封印を解けば、彼女はそのままユリシスをグラディスの後継者《こうけいしゃ》と認め、あずかったものを与えてしまうだろう。
「ぼくといっしょに、アシェンバート伯爵のもとへ戻ってくれる気にはなれない、か」
悩み、うなだれるポールを、バンシーはもうしわけなさそうに見ていた。
「ポールさん、あなたの伯爵は、きっと立派な方なんだと思います。でもわたしの主人では……」
急に、部屋のドアが開いた。
はっと顔をあげたポールは、そこに不機嫌《ふきげん》な顔つきの少年が立っているのを見た。
ユリシスだ。
「妖犬どもにバンシーの匂《にお》いをたどらせたのに、ここから出た様子がないときた。とすると、あの緑のマントの女は誰だ?」
背後《はいご》に妖犬を数匹|従《したが》え、ユリシスは部屋へ入ってくる。ポールをにらむように見おろす。
「またおまえか。しかし、おまえがひとりでここへ来られるわけはなし、女はフェアリードクター、ってところだな」
ユリシスはにやりと笑った。
「だがあの小娘だって、ここにたどり着けるほどの能力があるとは思えない。バンシーの琥珀があるんじゃないか?」
ポールはあわててうつむいたが、なおさらまずかったかもしれない。
いきなり胸ぐらをつかまれ、殴《なぐ》り倒された。
バンシーが悲鳴をあげたのが聞こえたが、ポールは顔をあげる間もなくさらに蹴《け》られた。
息が詰まって起きあがれない。ポールを痛めつけるのは、大柄な男だ。人の姿になった妖犬のひとりだろう、片手で襟首《えりくび》をつかんで彼を引き起こした。
「琥珀はどこにある? 言わないと死ぬぞ。こいつらは手加減を知らないからな」
「……やめてください、ユリシスさま……」
すがろうとしたバンシーを、ジミーが引き離した。と同時に、ポールはまた殴られた。
倒れた彼の衣服を、妖犬の男が探る。琥珀を持っていないか調べ、何もありませんと主人に告げる。
「フェアリードクターが持っているのかもしれないが」
言いながら、彼はジミーが取り押さえているバンシーを見た。
「おまえ、この男から琥珀を受け取らなかったか?」
返事に窮《きゅう》したバンシーの視線を、素早く追ったジミーは、ベッドの下をさぐる。グラディスの絵を、さっきとっさに、バンシーはベッドの下へ放り込んだのだった。
間もなくジミーはそれを見つけ、ユリシスに手渡した。
「何だ、これは」
「それは……、ポールさんからいただいた絵です。わたしが気に入るだろうと持ってきてくださっただけです」
返してください、とバンシーは震《ふる》える声で言った。
彼女が主人だと信じるユリシスに、本当のことを言わなかったのはどうしてだろう。
ポールはぼんやりとした意識で考えながら、ユリシスが興味を持たずに返してくれればいいと願った。
ユリシスは、気づかなかった。ただの絵にしか見えなかったのだ。けれどそれを、バンシーに返すのではなく、暖炉《だんろ》に放り込んだ。
「琥珀はやはりフェアリードクターか?」
「……いえ、ユリシスさま、この絵、燃えません」
ジミーの声に、ユリシスははっと振り返った。まずい、と思ったがポールは動けず、バンシーは硬直《こうちょく》していた。
暖炉に歩み寄ったユリシスは、女性の金髪が淡く輝き、炎を遠ざけているのをじっと眺《なが》めた。
そしてにやりと笑う。
「そうか、これが例の琥珀か」
ジミーが絵を拾いあげるのを横目に、笑いながらそう言い、ふと怖い顔になってバンシーに歩み寄った。
「おまえ、知っててごまかそうとしたな。おれに逆《さか》らう気か?」
「い、いえ、そんな……」
「もちろん逆らえるはずがない。おまえの封印を解けるのはおれだけだ。さあ来い、グラディスからあずかったものを渡してもらおう」
部屋から引きずり出されながら、バンシーは必死でポールの方に振り返ろうとした。
「ポールさんは……」
「おまえがおとなしくしていれば、殺さないでやるさ」
アーミンの案内で吹雪《ふぶき》の森を抜け出したリディアとエドガーは、きしむ廊下《ろうか》を注意深く歩き、ようやくバンシーがいた部屋まで戻ってきた。
先にアーミンが部屋へ入ったが、誰もいない様子だと言う。
「ポールさんはバンシーを連れて脱出できたのかしら」
そうだったらいいとリディアは思ったが、エドガーは首を傾《かし》げた。
エドガーは、ときおりつらそうに壁によりかかったりするものの、まだ自力で歩いている。血は止まらず、廊下にあったカーテンを裂《さ》いて腕に巻きつけ、血がしたたり落ちるのを防いでいるけれど、布地はどんどん赤く染まっていく。
それでも意外と、口調《くちょう》はしっかりしている。
「こんな短時間で、ポールに女性を口説《くど》けるわけがないよ」
口説くのとは違うでしょう。
リディアも首を傾げるが、エドガーは、何かに気づいたように奥の寝室へ踏み込んだ。
「ポール!」
声をあげ、彼が立ち止まったすみの暗がりに、ポールが倒れているのがリディアにも見えた。
エドガーが助け起こすと、ポールは意識を取り戻し、目を開けた。
「……伯爵……? リディアさんもいっしょで……、ああよかった」
「何があったんだ? バンシーは?」
体を起こしたポールは、そばにアーミンがいるのにも気づき、露骨《ろこつ》にぎょっとした。
「大丈夫ですか? ファーマンさん」
「え、ええ、あの、そのちょっと、こんなことになって動揺してるだけで……」
落ち着こうと深呼吸をし、ポールは自力でエドガーの方に体を向けると、ひざまずいたまま頭を下げた。
「すみません、伯爵。バンシーと例の琥珀をユリシスに奪われてしまいました」
「なら、取り返そう」
エドガーは即答した。
そんな時間はない。早くニコをさがして、エドガーをここから連れ出さなければならない。
リディアはそう思ったけれど、エドガーには自分の身を気にする様子もない。
「リディア、きみはポールといっしょにここにいるんだ」
「いやよ、あたしも行くわ」
けれどエドガーは、アーミンに目配《めくば》せすると、さっと寝室の外へ出てドアを閉めた。
「ちょっと、エドガー! 開けてちょうだい!」
「ごめんねリディア、必ずニコを見つけて、きみたちを連れて帰るように伝えるから」
「いやよ! ここは魔法がかかってる場所よ。あたしがいなきゃ困るはずだわ!」
「伯爵、ぼくも行きます。開けてください!」
ポールといっしょにドアをたたきながら、リディアは訴《うった》えるが、外から鍵《かぎ》をかけられてしまったようだ。エドガーの返事はもうなかった。
どうしよう、エドガーは死ぬ気だ。
ほかに出口はないものかと部屋の中を見まわすが、窓しかない。
しかし窓は開かないし、魔法に囲まれているから、ガラスもどんなにたたいても壊れない。
ポールは、どうにかして鍵をあけられないものかとドアの隙間《すきま》を覗《のぞ》き込んでいる。
リディアは、相変わらずふたつ月がかかっている外の風景を眺めながら、最初にここへ来たときから引っかかっていることについて考えていた。
どうやらここの魔法は、外の風景を固定している。メロウが使った魔法に似ている。
いくら妖精の魔力でも、自然の大きな力に手を加えられはしないから、月を増やすことなど不可能だ。
ならどうして、月がふたつに見えるのだろう。
最初にこの部屋へ来たときより、右側の月は高い位置にある。けれどもうひとつの月は、動いていないように見える。
どうして……。
「リディアさん、その手に持っているのはピストルですよね?」
ポールに声をかけられて、リディアは我に返ると、ずっと握りしめていたものを思い出した。
「ええ、あっ、そうだわ。これで鍵を壊せるかしら」
「でも、銃声《じゅうせい》でユリシスや妖犬たちに気づかれるかも……」
ポールとふたり、また考え込んだとき、ドアの外から声がした。
「リディア、そこにいるのか?」
ニコの声だった。リディアはあわててドアにすがりついた。
「ニコなの? ここを開けて! たいへんなの。エドガーがアーミンと、怪我《けが》をしてるのにユリシスのところへ向かったの」
すぐに鍵がはずされ、ドアが開くと、仮面をつけたニコとレイヴンが立っていた。
「エドガーさまが、お怪我を?」
レイヴンがにわかに殺気立った。
「ええ、バンシーも例の琥珀も、ユリシスに奪われたの。エドガーは命がけで、ユリシスがグラディスの遺産を得るのを阻止《そし》するつもりよ」
「行きましょう」
めずらしくポールが号令をかけ、連れだって部屋を出る。ニコだけがやれやれと肩をすくめた。
「やめとけったって、きかないんだろうなあ」
アーミンだけを連れ、エドガーはユリシスのところへ乗り込んでいった。
ユリシスに招かれたといった方が早いだろうか。廊下をさまよっていたら妖犬が現れ、ふたりを案内したのだから。
「まったく、あなたはひとをだますのが得意だということを忘れていましたよ」
吹き抜けのある広いホールの中央で、ユリシスはもう、エドガーに近づこうとはしないまま、苛立《いらだ》ちを抑えきれない様子で腕組みをした。
「それで、賭《かけ》の続きをするのかい?」
「そもそも賭にならなかった。いまさら取り引きなどする必要もないでしょう」
ユリシスのそばの椅子《いす》に、バンシーが座っている。うつむき、泣きそうな顔をしている彼女のために、エドガーは言った。
「ポールのことは心配しなくていいよ。僕の仲間が連れ出してくれるから」
「部下が助けに来たからといって、あなたに勝ち目はありませんよ」
ユリシスは、ちらりとアーミンを見る。
それだけで、今のところユリシスとアーミンが通じているかどうか確認できるような様子はどこにもなかった。
「ですからロード、早く命乞《いのちご》いすれば助かるとだけ言っておきましょう」
「プリンスの入れ物にされることが、助かることになるのかな」
「お好きなように。おれとしては、グラディスの遺産を手に入れるところを、あなたに見せつけてやりたいだけですから」
ユリシスは立ちあがった。
エドガーは、ふらつくのをこらえ、背筋《せすじ》を伸ばして立っていた。
「何を手に入れても、貴族の風格は手に入らないよ。きみには、伯爵家《はくしゃくけ》の末裔《まつえい》を名乗る資格などない。イングランド伯爵位の歴史も重みも知らない、領主としての高貴なる義務も、騎士道精神も知らない。本気で僕と張り合うつもり?」
「あなたの武器は口だけだ。生命も運命も、おれが握っている」
強気な口調でも、ユリシスは卑屈《ひくつ》な気持ちになっているはずだ。握ったこぶしが震えている。
この英国で、貴族になることは容易ではない。もしも彼が着飾ったとしても、言葉も振る舞いも、あきらかに庶民《しょみん》だ。ひとこと口を開いただけで出自《しゅつじ》を見破られるだろう。
だからエドガーはたたみかける。
「プリンスもだよ。あれが王族? アメリカのごろつきじゃないか。由緒《ゆいしょ》ある英国貴族をなめきっているとしか思えないね」
もっともプリンスは、上流英語を話せたが、そんなことはどうでもいい。エドガーは、ユリシスを動揺させたいだけだ。
だがユリシスも学んだのか、うっかりつっかかってこようとはしなかった。
「さて、無駄《むだ》話はこのくらいにして、そろそろ封印《ふういん》を解きましょう」
ユリシスがテーブルに置いたのは、グラディスを描いた小さな絵だ。その金髪を彼が指でなぞるのを見て、エドガーは、あれが琥珀《こはく》なのかと驚きとともにつぶやいていた。
気づかないはずだ。
奪いますか、とアーミンがささやいた。本気で奪い取る気かどうか知らないが、成功するとは思えなかった。
エドガーは、小さく首を横に振る。
「バンシーの燃えない琥珀を溶かすことができるのは、ひとつだけです。ロード、あなたは持っていないもの」
ナイフを取りだしたユリシスは、指先に小さく傷をつけ、にじんだ血をグラディスの金髪にこすりつけた。
劇的に見せるべき一連の動作に、気品も美しさもないとエドガーは眉《まゆ》をひそめる。
だが美意識など関係なく、血のついたところから赤い炎が立った。
琥珀が燃える。炎は小さな画布全体へ広がっていく。
炎に見入ろうとするように立ちあがったバンシーが、ふらりと倒れた。
反射的にエドガーは駆《か》け寄ろうとするが、ジミーが彼の腕をつかんで止めた。
黒妖犬《こくようけん》の、ジミーの牙《きば》がひそんでいる傷に、わざとらしく爪《つめ》を立てたのだ。
「僕にさわるんじゃないよ、犬ふぜいが」
エドガーの言葉にかっとなったらしいジミーが、犬の姿に変化した。
アーミンが割り込む。彼女のナイフを避けて、ジミーは後ろへ飛ぶ。
その隙《すき》にエドガーは、バンシーに近寄ろうとしたが、妖犬たちに取り囲まれた。
一匹が飛びかかってくる。そばにあった燭台《しょくだい》をつかみ、たたき払う。しかし背後《はいご》からも来る。
思うように動けない。
が、飛びかかってきた妖犬は、急に床にたたきつけられた。
ふらつくエドガーの視界に、褐色《かっしょく》の肌の少年が立っていた。
「遅くなりました、マイ・ロード」
レイヴンは、妖犬たちを威嚇《いかく》するようにナイフをかまえる。
魔性の犬を、人の手で殺すことは難しいのだろう。レイヴンのナイフをまともに受けとめたはずの妖犬も、じきに起きあがる。
それでもレイヴンの中にひそむという、人ならぬ精霊の存在を嗅《か》ぎ取ってか、妖犬たちはうなりながら動こうとはしなかった。
「きゃっ」
そのとき、バンシーの短い悲鳴が聞こえた。
少女をかかえ込み、そののど元にナイフをぴったり押しつけていたのは、アーミンだった。
エドガーにも、そしてユリシスにも予想外の事態だった。
「アーミン、何をする……」
「エドガーさま、バンシーがいなくなれば、レディ・グラディスの遺産は誰の手にも渡りません。わたしにも妖精族の魔力があります。この少女の、妖精としての生命を消すことができます」
「やめろ!」
さすがにユリシスがうろたえた。
「レイヴン、エドガーさまを連れて逃げて。早くしないと、お怪我が命にかかわるの!」
はっとして、レイヴンはエドガーの腕を見た。しかし、周囲を囲んでいる妖犬たちは動かない。
「道をあけてください、でないとこの少女を殺します」
ユリシスは迷い、悩んでいる。アーミンの意図《いと》をはかりかねているのだろうか。
エドガーにも、彼女の本音がよくわからない。ただ、アーミンがつくりだしたこの状況を利用すれば、助かる方法はあるかもしれないと思いながら、けれども、どうしてもそうする気にはなれなかった。
深呼吸して、口を開く。
「アーミン、その少女を離すんだ。彼女を犠牲《ぎせい》にして逃げるつもりはない」
バンシーは伯爵家の一員なのだ。そしてエドガーは、不思議な力などなくても、宝剣を受け継いだ伯爵家の当主のつもりだった。
リディアが思い出させてくれた、貴族としての自分。そしてリディアが与えてくれた青騎士伯爵の名を、誇《ほこ》りに思っている。
身内を手にかけるわけにはいかない。
困惑《こんわく》の表情をエドガーに向けたが、アーミンはゆっくりとバンシーを解放した。
ユリシスの、勝ち誇った笑い声が部屋に響いた。
レイヴンより少し遅れて、吹き抜けのホールへ続く階段へ出てきたリディアたちは、妖犬に取り囲まれているエドガーと、高笑いするユリシスを見おろしていた。
「ロード、仲間を犠牲にして戦ってきたあなたが、ずいぶんあまい判断ですね」
「あのときの仲間と、この少女は違う。それに僕の立場も違う」
「貴族の誇りとやらですか? 弱点になるくらいなら、おれはそんなものほしくありませんね」
ホールの空気は緊迫していた。
身を隠して様子をうかがいながら、リディアはどうすればいいのか必死で考えていた。
「バンシーの封印は解かれたんでしょうか」
ポールがつぶやく。
「たぶんな。あのテーブルの上の燃えかす、カンバスの切れ端みたいだ。あんたたちが見つけた、例の琥珀が燃えたってことだろ?」
ニコの言葉に、ポールは眉をひそめた。
「ああ、すばらしい作品が灰に……」
琥珀の価値以前に、ポールにとっては貴重な絵だったのだ。
「さあ、バンシー、こっちへ来い」
ユリシスが呼ぶと、少女はふらふらと立ちあがった。彼の方へと歩き出す。
「これでおまえは、すべての記憶をとりもどしたはずだ。青騎士伯爵の子孫に、受け渡すべきものがあるだろう?」
ユリシスに渡してはいけない。でも、どうすればいいの?
リディアは固唾《かたず》をのんで見つめる。
バンシーは、ユリシスの前で立ち止まり、高貴な相手にするように小さくお辞儀《じぎ》をし、口を開いた。
「ユリシスさま、お願いです。あのかたの命をお助けください」
けれどその口からもれた思いがけない言葉に、ユリシスは眉をひそめた。
「今すぐ陽《ひ》の光のもとへ送り返してください。そしたらわたしは、グラディスさまからあずかったものを、あなたにお渡しします」
「おれに取り引きを持ちかけてるつもりか? おまえの主人に?」
「いえ、でもあの……」
バンシーはぽろぽろと涙をこぼす。妖犬たちやユリシスが怖いのか、震《ふる》えている。けれども彼女は、ちらりとエドガーの方を見て、やがて毅然《きぜん》と顔をあげた。
「わたしには、あなたが主人だとは思えません」
リディアも、他の誰もが驚いたことだろう。しばらくあたりは静まりかえった。
だがその間に、ユリシスが冷たい怒りを蓄積していたのはたしかだった。
「なら、奴をさっさと殺してやる! おまえに選ぶ余地はない」
激昂《げっこう》し、ユリシスはジミーにやれと命じた。
黒妖犬の姿になった少年が、エドガーに飛びかかろうとする。レイヴンがナイフを振るが、ほかの妖犬たちもいっせいに飛びかかり、入り乱れる。
「やめて!」
リディアは思わず叫び、駆け出していた。
「リディア? 来るな!」
エドガーが声をあげる。階段を駆け下り、ふと気づくと、目の前の妖犬が牙をむき出しにして飛びかかってきた。
とっさにしゃがみ込む。どうにか妖犬を避けることができたが、顔をあげたリディアは、真っ黒な犬がエドガーをねらい、床を蹴《け》ったところを目にしていた。
「エドガー、後ろよ!」
気づいても、彼はもう視界すらかすんでいるのか、壁際《かべぎわ》で疲れたように座り込む。
そのとき、黒妖犬の前に、ふわりと人影が舞った。
バンシーが、妖犬の牙を受けとめ、黒い犬ともつれ合ったまま床に転がる。
なんてこと。
リディアはつぶやきながら、もう迷っている時間はないと決意を固めた。
この場からみんなを助け出すのだ。
やれるかどうかわからない。自分の推測が当たっているかどうかもわからない。でもほかに方法がない。
フェアリードクターの意地よ。
エドガーに渡されたピストルを握りしめ、それを持ちあげながら声を張り上げた。
「妖犬たち、聞きなさい! 今すぐおまえたちの巣へ、墓場へ帰るのよ! でないとここに、太陽の光を呼び込むわ!」
妖犬たちが、いっせいにリディアの方を見た。うなりながら、けれど少し戸惑《とまど》ったように見える。
「陽に目を焼かれる前に、巣穴へ去りなさい!」
「ふん、フェアリードクターとは名ばかりの小娘に、できるのか?」
ユリシスは、強気にせせら笑った。負けるもんかとリディアは言う。
「夜ばかりをつないだ魔法で、建物を囲んだのでしょうけど、つなぎ目をごまかすことはできないわ。あの月よ。左側の月は、窓に張りついたように動かない。あれがつなぎ目の目印なら、あそこに魔法の穴がある。月を撃ち壊せば、この建物は、もとあった太陽の下へ戻るわ」
妖犬たちが、怖れたようにざわめいた。推測は間違っていなかったようだ。けれどリディアにとって問題はそれだけではない。
「よく気づいたとほめてやるが、おまえが撃ったところで命中するわけがない。はずしたら、妖犬がすぐさまおまえののどに食らいつくぞ」
ピストルなんて撃ったことがない。月は、離れた高い窓にある。でも、はずしたらもう逃げ場がない。
「リディア、大丈夫だ。絶対にあたるから……」
エドガーは、壁際に座り込んだまま、リディアの方を見てにっこり笑った。けれど今にも気を失いそうだ。
リディアは腕の震えをおさえ、ねらいを定めようとした。
神さま。
「そうだよ、……そのまま、撃てばいいんだ」
エドガーの声に促《うなが》され、念じながら、思い切って引き金を引く。
次の瞬間、窓ガラスごと月がひとつ砕け散った。
「あ、あたった?」
銃弾が窓ではなく壁にめりこんだことも、くだけたガラス片にまぎれてレイヴンのナイフが落ちていることもリディアは気づかず、すごいわと思った。
壊れたガラスの向こうから、明るい光が射し込んでくる。
同時に、ホールを囲むすべての窓から、夜の風景が溶けるように消えていき、真昼の空が現れる。
この館《やかた》を覆《おお》っていた魔法が消えて、本来ある場所が、人間界の風景が戻ってきたのだ。
妖犬たちがあわてふためき、次々に姿を消していく中、人の姿に転じたジミーが片隅《かたすみ》のドアを開いた。
「ユリシスさま、早く」
暗いその奥は、|悪い妖精《アンシーリーコート》の夜の国にまだどうにかつながっているようだ。
ドア際で、ユリシスはいまいましそうにリディアをにらみ、エドガーの方を見た。
「ロード、とことん悪運の強い方だ。ですがあなたの運もここまでですよ。殿下はアメリカを発《た》たれた。じきにこの英国の地を踏みます。あのかたのやり方はご存じでしょうけど、おれに殺されておいた方がよかったと思うことでしょうよ」
捨てぜりふを吐《は》いて、ユリシスは扉の向こうに消えた。
レイヴンが駆《か》け寄って開いたドアは、もはやただの、無人の隣室《りんしつ》につながるのみだった。
「エドガー」
ピストルを捨てて、リディアは彼に駆け寄った。
「助かったのよ、もう大丈夫よ!」
彼は、黒妖犬にかまれた腕を持ちあげ、血に染まっていたはずの布から染《し》みが消えていくのを不思議そうに眺《なが》めた。
「傷も血も消えるのか……」
「怪我《けが》なんてしなかったってことなの。|悪い妖精《アンシーリーコート》の魔法ごと、光が消し去ってくれたわ」
けれどエドガーは、まだ少しけだるそうに首を傾《かし》げた。
「バンシーの予言が残ってる」
「いいえ、それはもう、わたしが引き受けました」
ポールにかかえ起こされ、バンシーが言った。
「ポールさん、わたし、あなたの伯爵《はくしゃく》を信じます。わたしを伯爵のそばまで運んでくださいますか?」
頷《うなず》いたポールは、バンシーを抱きあげ、言われたとおりにした。
エドガーは、そこにひざまずくバンシーに微笑《ほほえ》みかける。
「おかげで、助かったよ。きみも、黒妖犬にかまれた傷が痛むのかい? でももう、陽の光をあびれば治るはずだから」
「わたしは妖精ですから。妖精の魔力には弱いのです。人間界の太陽の、魔法を消す力は、妖精には作用しません」
そんな、とポールがつぶやく。エドガーは驚き、助けを求めるようにリディアを見たが、彼女も首を横に振ることしかできなかった。
「でも、これでいいのです。わたしも伯爵家の一員ですから、わたしが消えることで予言は成就《じょうじゅ》されます」
「なぜ、そうまでして……。記憶の封印《ふういん》を解いたユリシスに、どうしてきみは従わなかったんだ?」
バンシーの影が薄い。彼女は血を流しはしないが、生命が尽《つ》きようとしているのをリディアは感じた。
「思い出したからです。わたしの、なすべきことを」
急ぐように、彼女は続けた。
「バンシーは、一族の不幸を予言しますが、自分を身代わりにして、いちどだけ一族のかたを救うことができます。……わたしは、グラディスさまをお救いしたかった。妖精国《イブラゼル》で伯爵家の血をつないできた、最後のおひとり。生き残って、次の世代へ希望をつなぐべきかたでした。でも、災いの王子を英国から追放するためにお命をかけねばならず、わたしに、すべてを託《たく》されたのです」
頷きながらエドガーは、バンシーの言葉をひとことも聞き漏《も》らすまいとするように、彼女の瞳を見つめていた。
レディ・グラディスから自分に託された言葉だと感じているのだろう。享楽的《きょうらくてき》な貴族でいて、ときどきエドガーは、まっとうな君主《ロード》の気質をかいま見せる。
そういうときリディアは、彼をまぶしく感じる。
「グラディスさまが亡くなり、イブラゼルから連れてきた私兵もすべて力尽き、同時に、伯爵家の歴史も力も永遠に失われるはずでした。けれども主人は、遺産として遺《のこ》すことを選択したのです。それが、望まぬ相手の手に渡ってしまう危険を冒《おか》しても、もしかしたら英国に、伯爵家の子孫が生き残っているかもしれないからと。その中の誰かが、メロウの宝剣を受け取って伯爵を名乗る日が来るかもしれないから、そのかたに、妖精国《イブラゼル》の伯爵家が担《にな》っている、重要な役目をお伝えするのが、わたしに与えられた最後の使命でした。英国はもともと、妖精族と人間とが共存している土地。青騎士伯爵はそもそも、この王国のフェアリードクターなのです」
フェアリードクター。だとしても、並のフェアリードクターではない。
「国を揺るがす異変の中には、妖精族が関与するものもあります。それを平定するのが伯爵の役目。そのかわり、何百年不在だろうと、正確な系図がなかろうと、永遠にイングランド伯爵位を与えられています」
「……災いの王子が、妖精族の関与した異変なんだね」
「はい」
「災いの王子とは何なんだ?」
「ハイランドの戦いで流された血、高地人《ハイランダー》の無念を黒い魔力に、生まれた王子……。わたしはそう聞いています」
百年前、ハイランドでの戦いは、英国から亡命《ぼうめい》したジェイムズ二世の子孫が、英国王位を取り返そうとして起こしたものだった。ハイランドでは壮絶《そうぜつ》な死闘が繰り広げられ、ジェイムズ派の高地人兵士たちがことごとく殺されたという。
とにかくプリンスは、その亡命王の後継者《こうけいしゃ》のつもりでいるとリディアは聞いている。
「ハイランドの戦いで勝利を収めた英国には、平和が訪れました。しかし英国王さえ、災いの王子の存在をご存じないまま、グラディスさまは彼らと戦いました。そしてわたしにおっしゃいました。いつかわたしの記憶を解くことのできる人物が現れたら、青騎士伯爵にふさわしいかどうかしっかり見極めるようにと」
あらためて確認するように、彼女はエドガーを見あげた。
「血筋《ちすじ》が肝心《かんじん》だと思っていました。でも、そうではなかったのでしょう。この選択を、グラディスさまもよろこんでくれているはずです」
そしてバンシーは、エドガーの手をうやうやしく持ちあげ、額《ひたい》を押しつけた。
「伯爵《マイ・ロード》、あなたに、妖精国《イブラゼル》の鍵《かぎ》をお渡しします。あなたと、そのご子孫の領地です。どうぞお受け取りください。そしてどうか、この島国に暮らす|善良な妖精《シーリーコート》と、よき隣人たる人々のためにイブラゼルの力を使い、災いの王子の血筋を断ってくださいませ」
バンシーの額がきらりと光ったように見えたが、急に彼女の姿が、向こうが透《す》けるほど薄くなった。
そんな姿のまま、彼女はリディアに顔を向けた。視線は、薬指のムーンストーンに注目していた。
「グウェンドレンさまのムーンストーン……。ああ、それさえも忘れていたなんてお恥ずかしい。フェアリードクター、数々の失礼をお許しください。あなたがお妃《きさき》さまなのですね?」
「えっ? それはええと……」
「おふたかたの上に、いつまでも守護妖精の加護がありますように」
口ごもるリディアにかまわず、バンシーは目礼《もくれい》し、それからゆるりと立ちあがった。
ポールの方を見て、恥ずかしそうに微笑む。
「ポールさん、お世話になりました。あなたに出会えたおかげで、わたしは間違えずにすみました。ようやく、グラディスさまのもとへ行けます。人だったもとの魂《たましい》に戻って、神のもとへ召されるなら、わたしにとっては喜ばしいこと……」
空気に溶けるように、声の余韻《よいん》を残して消えていったバンシーを見送るように、ポールは突っ立ったまま、窓の外に視線を動かした。
しばらくのあいだ、誰も口を開かなかった。
昼の明るさにさらされれば、古びてほこりだらけの空き家だとわかる建物の広間で、時が止まったかのようにじっとしていた。
ようやくエドガーが、けだるそうに立ちあがった。
「……イブラゼルの鍵? でも、僕には見えない。何の感触もない」
バンシーに触れた手を目の前に開き、戸惑《とまど》ったようにつぶやく。
[#挿絵(img/amber_271.jpg)入る]
「リディア、きみならわかる?」
「あたしにも見えないわ。たぶんそれは、受け取った人にしか意味のないものなのよ」
きっともう、ユリシスにも誰にも奪えない。青騎士伯爵であるエドガーだけのもの。
「妖精を見る力がないのに、鍵も見えなくて、使い方もわからない。バンシーが命とひきかえに与えてくれたのに、これじゃあ宝の持ち腐れだね」
それでも見えないものを、彼は大切そうに手の中に握り込んだ。
* * *
薄い雲の切れ間から、ときおりのぞく陽《ひ》の光をまぶしそうに眺めながら、ロンドンへ向かう馬車の中で、エドガーは窓の外に視線をやったきり、長いこと考え込んでいた。
ユリシスが使っていた建物は、ロンドンから数マイル離れた町はずれにあったため、馬車を調達して帰るところだった。
ふたりだけで話したいと同乗させられたリディアは、話もせずに黙っているエドガーの隣に、警戒《けいかい》しながら座っていた。
とにかく、二度とこのあいだみたいなことにならないように、せまられそうになったら毅然《きぜん》とした態度を示さなきゃ。
そう自分に言い聞かせ、馬車にゆられながら、けれどもリディアは、エドガーが難しい表情で思い悩んでいる理由に察しがついたから、大丈夫かしらと気にもしていた。
自分には扱いようのない鍵≠託されたエドガー。それと同時に、伯爵家の最後のひとりがやり残したことを、引き継がねばならなくなった。
それを、彼はどう受けとめているのだろう。
「……ブリジット?」
突然、エドガーはそう言った。
「えっ? 何?」
「だったらそれは、昔飼ってた犬の名前だ」
「……はあ」
「違うのか。ねえリディア、たのむから、頭文字《かしらもじ》だけでも教えてくれ」
「あ、あなたね、ずっとまじめな顔してそんなこと考えてたの?」
「重要なことじゃないか」
本当はこんな奴だって知ったら、バンシーが幻滅《げんめつ》しそうだわ。リディアはわざと大きなため息をついた。
「だってリディア、きみが許してくれないと、僕は前に進めない」
「大げさだわ」
警戒してひざの上で握り込んでいた手に、彼は無遠慮《ぶえんりょ》に手を重ねる。
いつもの、不遜《ふそん》な口説《くど》き体勢でリディアの顔を覗《のぞ》き込むが、口調《くちょう》はいつになくまじめだった。
「ずっと、プリンスに復讐《ふくしゅう》するつもりで戦いを挑んできたけれど、思えば勝つという意識はなかったのかもしれない。両親や僕や、シルヴァンフォード公爵家《こうしゃくけ》に手を出したことを後悔させてやりたい、たぶんそれだけだったから、いつ死んでもかまわないと思っていた」
そうでしょうね、とリディアは思う。エドガーは、バンシーの予言を知って、ユリシスを道連れにしようとしていた。自分の命に、少しも執着《しゅうちゃく》していなかった。
「でもね、皮肉なことに怪我を負って、死ぬんだと実感したときに、きみがそばにいた。死にたくないと思えてきた。死んでしまったら、きみをほかの男に奪われる。愛をささやくのも、こうして手を重ね合うのも見つめ合うのも、僕だけの特権であるはずなのに」
べつにあなたの特権じゃないわよ。
「それどころか僕がまだ知らないきみのすべてを手に入れる男が現れるかもしれないなんて、許せない」
ちょっともう、先走りすぎ。
「生きたいと思った。きみを無事に帰すまでは。きみが僕を好きになってくれるまでは。……きみを幸せにするまでは。どんどん欲が出てくれば、ただ生きのびたいというのではなくて、きみの望むことすべて、僕の手でかなえたい、そういう気持ちになった」
引き気味になっているリディアが、座席の端の方へ身を寄せても、気にせず彼は隙間《すきま》を詰める。
「リディア、僕たちまだ、やり直せるだろう? 別れたくないんだ」
やり直すとか別れるとか、つきあってもいないのに。
「やっとわかったことがあるんだ。僕は自分ひとりだけで青騎士伯爵でいられるわけじゃない。グラディスとバンシーの希望が、僕を生かしてくれた。きみがいてささえてくれるから、ポールやレイヴンや、まわりの人たちが力を貸してくれるから、伯爵でいられる。ならもう、僕は、個人的な復讐も自滅的《じめつてき》な戦いも、考えてはいけないんだろう」
リディアは強く握られた手に困惑《こんわく》しながら、けれど同時に、これまでになくドキドキしながら、エドガーの淡々《たんたん》とした口調ににじむ決意を感じていた。
「もう、何も失いたくない。だれも死なせずに、守っていきたい。バンシーが与えてくれた命と、伯爵の名は、復讐の道具ではなくもっと重要なものだと思うから、妖精族と人々の平安のために、できるだけのことをしたいと思う。……きみと、いっしょに」
「でも、あたしには青騎士伯爵ほどの力はないのよ。そんな大それたフェアリードクターにはなれないわ」
「僕がなる。妖精族の魔力はないけど、重要なのは血筋じゃないとバンシーも言ってくれた。青騎士伯爵の役目だから、プリンスに勝たなきゃならないのも僕だ。だから、きみを危険に巻き込むことは承知の上で、でも未来のない戦いじゃないと希望を持っていたいから、ひとつだけわがままを言わせてくれ」
うわついた気配《けはい》のない、真剣な瞳が間近で彼女を見つめているから、鼓動《こどう》が激しく鳴って、くらくらした。
「守るべきものを守る覚悟をしたいから、きみにはずっと、そばにいてほしい」
「ずっとって……、雇用《こよう》契約《けいやく》がある間は……」
「死がふたりを分かつまで」
それは、三度目のプロポーズ?
うっかり頷《うなず》いてしまいそうだ。けれどリディアは、必死の思いで首を横に振った。
彼は少し目を伏《ふ》せ、悩んだようだった。
「じゃあね、せめて、友達以上には僕のこと好きだって言ってくれないか」
「ずいぶんうぬぼれてるわ」
顔を真っ赤にしてうつむいたまま、彼が握る手も振り払えないのに、リディアの言葉には説得力がなかっただろう。
だからエドガーは強気だ。
「リディア、いくらきみがお人好しで、僕をなぐさめたいと思ったのだとしても、ただの友達の寝室には入らないくらいの分別はあると思う」
「あ、あれはあなたが強引に」
「あのとき、僕のどうしようもない要求を受けとめようとしてくれた」
「どうしていいかわからなかっただけよ」
「たぶん、底なしにお人好しのきみは、欠点だらけの男が気になるしほうっておけない。つまり僕は、きみにとって完璧《かんぺき》な理想の男だ」
よくもまあそう、都合のいい屁理屈《へりくつ》が思いつくものだ。
「片想いじゃないと信じてる」
「……でも、あたし、あなたとは結婚しない」
「僕を好きだってことは認める?」
言い返せなくなって、リディアは口をつぐんだ。
認めたら、それはあたしの片想いだわ。
肩を抱くようにして引き寄せられる。頬《ほお》に触れる手が、上を向かせようとするのを感じたけれど、リディアはかたくなにうつむいていた。
「無事に帰ったらキス、の約束は拒絶《きょぜつ》しないよね」
忘れてた。
ど、どうしよう……。
だめよ。こういうことは毅然と、そうよ毅然と拒絶しなきゃ、またあんな……。
けれど、うろたえるリディアをなだめるように、彼は言った。
「でも、きみが心から望んでくれないなら意味がない。だからね、求婚を受けてくれるまで待つよ」
やわらかく、彼の指が唇《くちびる》をなぞる。
びっくりしてつい見あげてしまい、視線が合う。灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が、おだやかな笑みとともに細められると、リディアは急に切《せつ》なくなって、彼を見つめたまま涙をこぼしていた。
驚いたらしく、エドガーは唇から指を離したけれど、あふれ出した涙を止めることができず、リディアは彼を見つめたまま涙をこぼし続けた。
「ごめん、泣かないで」
「なんであやまるのよ」
「わからないけど、僕が悪いような気がするから」
そうよ、あなたがいけないの。
「いいかげんね。あなたの言葉も約束も、いつもそんなふうにその場しのぎだわ」
そう言いながらも、抱きよせられて胸に顔をうずめながら泣いているなんて、好きだと言っているみたいだ。
「何度ことわられたって、あきらめないよ。でないときみは、今の告白さえうそだと思ってしまうんだろう?」
そんなふうに言っていても、いつかあなたは、必要なのがあたしじゃないと気づく。
「……アーミンは、ちゃんとあなたを守ろうとしてたわ。ユリシスと通じてるかもしれないなんて、何かの間違いかもしれない」
突然リディアが話を変えたのは、恥ずかしがっているからとでもエドガーは思っただろうか。
「うん、彼女のことは冷静に見守るつもりだ」
エドガーのためにも、アーミンには裏切ってほしくない。そんなことはありえないと思いたい。
ひょっとすると自分の存在が、アーミンを苦しめて迷わせているのではないだろうか。
エドガーが過去を断ち切って振り向いてくれるのを、彼女はずっと待っているのかもしれないのに。
そう思うとリディアは、こうしてエドガーとふたりでいること自体に、罪悪感《ざいあくかん》をおぼえるのだった。
ハイドパークにある湖の底で眠っていたケルピーは、明けがた、水面に張った氷が割られ、水が波立つ気配を感じて目を開けた。
誰かが彼の縄張《なわば》りに侵入《しんにゅう》したようだ。追い払ってやろうと、黒いたてがみを水にうねらせながら水中を駆《か》ける。
気配のする方へと急ぐ。
そこにいたのは、|アザラシ妖精《セルキー》の女だった。
人の姿のままで、とはいえセルキーは毛皮がないとアザラシの姿になれないのだからしかたがないが、男装をした短髪の女は、湖の底に立ちケルピーの方に振り返った。
「おまえか。何しに来た」
「泳ぎたいときもあるわ」
「ここは俺の縄張りだ」
「市民の公園よ」
などと人間くさいことを言う、いまだ妖精になり切れていない未熟なセルキーだ。
「リディアさんを、どうにかしてエドガーさまから遠ざけるんじゃなかったの?」
「簡単じゃねえんだよ。あいつは伯爵と婚約してることになってるし」
「失敗したのね」
「うるさいぞ、喰《く》われたいのか?」
警戒するようにこちらを見ていたが、ケルピーが襲いかかるような様子を見せなかったからか、彼女はその場にとどまっていた。
そしてまた、口を開いた。
「あなたに報《しら》せておきたいことがあるの。もう、リディアさんを巻き込まずにすまなくなってしまった。大きく事態が変わったのよ。エドガーさまの側も、敵の側もね」
「どういうことだ?」
「プリンスが英国へ来るから。ユリシスはエドガーさまを目の敵《かたき》にしていて、他の人にはあまり関心がなかったわ。むしろ一対一で、屈辱《くつじょく》を与えてやりたいと考えてたの。でもプリンスは違う。エドガーさまにとって大切なものからつぶしていこうとするわ」
「だいたい、おまえはどちらの側なんだ?」
それには答えずに、アーミンは淡々と続けた。
「ひとつだけ、リディアさんをプリンスの手から守る方法があるの。あなたが、ユリシスに力を貸すことよ」
「は? 冗談じゃない。俺は人間なんかに従わない」
ケルピーはこのうえなく不愉快《ふゆかい》だった。ユリシスという奴は、とにかく虫が好かないからだ。なのに力を貸す? ふざけんなと思う。
「ユリシスは、いざというときあなたにじゃまをされたくないと思ってる。うまく取り引きをすれば、リディアさんを守れるわ。ゆっくり考えておいてちょうだい」
アーミンはふわりと水面に向かって浮上し、ケルピーの視界から消えていった。
[#改ページ]
あとがき
お待たせしました。五ヵ月ぶりの『伯爵と妖精』です。
前回、リディアが実家に帰っちゃったまま(笑)、どうするんだエドガーみたいなところで終わっていたので、続きを気にしてくださっていた読者さまには一息ついていただけたのではないでしょうか。
え? さらにもやもやが……?
それはともかく、スコットランドのことはまだこれからの展開しだいで書くことがあるかと思うので、すっ飛ばして年が明けております。でも話としては、少しは進んだのではないかと思うのですがどうでしょうか。
さて、今回の宝石クローズアップは琥珀《こはく》≠ナす。
この飴色《あめいろ》というか蜂蜜色《はちみついろ》の宝石は、古代の昆虫がそのままの姿で閉じ込められていたりして、宝石とは別に化石としてもロマンをかき立てられるものですね。
遠い昔に樹脂《じゅし》が固まってできたのだと今ではよく知られていますが、昔は人魚の涙≠セと信じられていたそうなのです。
というのも、琥珀は海岸で発見されることが多かったからなのですね。
琥珀を含んだ古い地層を川の流れや波が削り、海に流れ込んだそれはほかの岩石よりも軽いため、浜辺に打ちあげられやすいのです。
波にもまれて自然に研磨された琥珀の粒、透《す》き通った蜜色の玉を海岸で拾ったら、なるほど、人魚の涙かと思うのも頷《うなず》けます。
なので、バンシーの涙にしたのは私の創作です。とはいえバンシーも水辺に縁の深い妖精ですし、直訳すれば妖精の女=B琥珀と妖精をつなぐ神秘的なイメージを損なうことはないだろうと思っております。
そんなわけで、今回はあとがきが短いのですが、ご愛読に感謝しつつこのへんで。
またの機会にもお目にかかれますように。
二〇〇六年 二月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 涙の秘密をおしえて」コバルト文庫、集英社
2006(平成18)年4月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年4月20日作成