伯爵と妖精
取り換えられたプリンセス
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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《》:ルビ
(例)竜《ワーム》
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(例)|炎の蛍石《フレイア》
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目次
浮気者の苦悩
海賊《かいぞく》がやって来た
隠されたチェンジリング
ほんとうの気持ち?
青騎士|伯爵《はくしゃく》のフローライト
竜の森と魔法のいばら
妖精界の約束事は
あとがき
[#ここで字下げ終わり]
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浮気者の苦悩
ここは、世界中のありとあらゆるものが集まる都市、大《グレーター》ロンドン。
高級品も混ざりものも、本物もまがいものも、本物以上に精巧《せいこう》な模造品もあふれているというのに、不思議とこの街は、本物しか存在しないような顔をしている。
人々は、生まれと育ちで階級に振り分けられ、どれほど富《とみ》や名声を得ようと、おいそれと上流にはなれない。
一夜明ければ、富豪《ふごう》が破産し文無《もんな》しが金脈を掘り当てる新大陸とは違う。機関車が走り、ガス灯《とう》が夜道を照らし、めまぐるしく変わっていくこの時代に、変化などなかったかのように、頑固《がんこ》に階級社会を守っている、老獪《ろうかい》な帝国だ。
そんな国へ、はじめてロタはやって来た。
霧雨《きりさめ》の降る通りは、夕刻のせいもあってか色彩がかすんで見える。
富を集めた華々《はなばな》しさを誇示《こじ》することもなく、歴史があるといえば聞こえはいいが、ロタには古めかしさしか感じられない。
ロンドンへ着いて一週間、晩秋《ばんしゅう》ともなれば思いがけないほど寒くて、早々に古着屋で手に入れたつぎあてだらけの外套《がいとう》をはおっている彼女は、物乞《ものご》いにでも見えるだろうか。
頭の上でひとつに束《たば》ねただけの髪もほつれかかっているが、ふだんから身なりを気にしたことなどない。
通りの四つ角にたたずんで、紙巻き煙草《たばこ》をくわえてじっと待っていたロタは、斜め向かいの建物前に止まった馬車に注意を向けた。
ロタが見張っていた馬車だ。御者からそれとなく行き先を聞きだし、先回りしてきたのだ。
その馬車から降りてきたのは、優雅な身なりの青年だった。
白い高襟《たかえり》に白いタイ、黒いテイルコートで颯爽《さっそう》と降り立つ。トップハットから手にしたステッキまで、見るからに高級品で身を包んでいる。
目の前に漂う煙草の煙を払い、ロタは青年の顔を確かめようと目をこらした。
貴族然とした上品な美貌《びぼう》、額《ひたい》にかかるのは純金みたいな髪。間違いなく彼だ。
アメリカ南東部のとある町で知り合った少年は、下町の浮浪児《ふろうじ》たちを統率するギャング団のリーダーだった。つかまって処刑されたと聞いていた。
ロンドンへ来るまでは、ロタはそれを信じていた。
ところがこの街で、彼の姿を見かけることになった。
そしていろいろと調べた。
イブラゼル伯爵《はくしゃく》、エドガー・アシェンバート。名前を知れば、ますます別人ではないかと思った。
もともと、英国貴族の出身だという噂《うわさ》だったが、そんな人物が、アメリカの最下層になんているはずがないと思っていた。
しかし今は、間違いなく本人だと確信する。
「あのやろー、爵位《しゃくい》まで盗んだか?」
それにしても、彼が問題の伯爵だったなんて、どう考えればいいのだろう。
「ロタ、ベティをさらったのはあいつなのか?」
すぐそばに立つ、ひげ面《づら》のいかつい大男が口を開いた。
「あれがアシェンバート伯爵なのは間違いないんだけどね」
「だったらとっつかまえて、ベティの居所《いどころ》を吐《は》かせようぜ」
「まあ待ちな。もっと周囲を調べてからだよ」
青年が降りた馬車には、まだ誰かが乗っている。彼は手を差し出し、ゆっくりした動作の女性が馬車を降りるのを見守った。
そう、連れは着飾った女性だ。
地面におりた女は、親しげに彼に腕をからめたかと思うと、人目もかまわず口づける。
ずいぶん情熱的なキスのあと、そのままふたりが建物の中へ消えるのを眺《なが》めながら、貴族になったってぜんぜん変わってないじゃないかとロタはあきれ果てた。
「……信じられない、あの女ったらし!」
しかし、声をあげたのはロタではなかった。
そろりと首を動かすと、本屋から出てきたばかりらしい少女が、ショーウィンドウの前に立ちつくしていた。
歳の頃は十七、八。くすんだ赤茶の髪はおろしたままだが、それでも見苦しくないくらいつややかでクセがない。きちんとした身なりの、しかし貴族ではなさそうなふつうの娘。
通りがかりに、たまたま恋人の浮気現場を見てしまったかのような反応だった。
あの男、こんなまともそうな娘にまで手を出してやがるのか。
まあでも、ちょっとあいつ好みの、気が強くてかわいいタイプだ。
ロタがじっと見ているのに気づいたらしく、こちらを振り向いた少女と目が合う。
自分が大きな声をあげたことを思い出したのか、驚いたように金緑の瞳を見開き、恥ずかしそうに彼女はその場を立ち去った。
灰色の猫が、彼女を追うように駆《か》けていった。
「かわいそうに。きっとあいつに泣かされるんだろうな」
「ベティみたいにか?」
「ベティは、そんなことで泣くような女じゃなかったけどな」
「あいつ泣き虫で、しょっちゅう泣いてたじゃないか」
「ありゃうそ泣きだ」
煙草を足元に投げ捨て、ロタは腕を組んで考え込む。
あいつが、アシェンバート伯爵? そしてベティが、あの男のそばにいる?
じつのところそれは、ロタには信じられなかった。
たしかにベティは、彼に熱をあげていたこともあるが、女癖《おんなぐせ》の悪さを思い知ってからは、あんなやつ死んじまえと言っていたはずだった。
彼の方だって、口説《くど》き文句は立派だったがベティにたいした思い入れはなかったはずだ。
それとも、彼はベティに別の利用価値を見出《みいだ》したのだろうか。
そうだとしたら、ロタはとても責任を感じてしまうのだった。
* * *
「エドガーさま、リディアさんが来られました」
「もうそんな時間?」
明け方帰ってきたエドガーは、さっき起きだして湯を使ったところだった。
夜中まで飲んでいたアルコールが、ようやく抜けて頭が働き出す。
今日の予定は何だったか。
「レイヴン、リディアの機嫌《きげん》は?」
「ふつうです」
身支度《みじたく》するエドガーの、ネクタイを結びながら、レイヴンが答えた。
伯爵家の召使い、しかしアメリカにいたころからエドガーの忠実な従者である褐色《かっしょく》の肌の少年は、出勤してきたリディアの様子を毎朝のように訊《たず》ねられるが、いやな顔ひとつしない。
そもそもエドガーに、いやな顔などしたことがなく、どんなにバカバカしい命令でも黙々と従うのが彼だ。
「ただエドガーさまのことを、ゆうべは遅かったのかと訊ねられました」
「なぜそんな話に?」
「着替えを手にした私とすれ違ったからです」
かすかにエドガーは眉《まゆ》をひそめた。
朝が遅い、ということは夜が遅かったという解釈《かいしゃく》か。
まるで、外泊しているのではないかと勘《かん》ぐられているかのようだ。
「今すぐ僕に会いたがってるってことかな」
いやな予感をうち消したくてそう言う。
「違うような気がします」
悪気などなくレイヴンは言った。
まずいことからは目をそらしたいと思う、人の繊細《せんさい》な心理がレイヴンには理解できないのだと知っているが、大人げなくも、エドガーは少々むっとしながら反論した。
「違わないよ。このところ、リディアとはとてもうまくいってるんだ。遊びに誘ってもいやがらなくなったし、手を握っても怒らなくなったし、いっしょにいると楽しそうにしてくれることもあるし、恋人らしくなってきたと思うんだ」
「これまでの恋人とは、ずいぶん違いますね」
鋭い指摘だ。が、聞き流す。
「このあいだの日曜だって、いっしょに教会へ行ったんだ。教会だよこの僕が。おとなしく説教を聞いて、それから彼女の家でティータイムだ。父上ともだいたいうまくやってるし、まあね、婚約の話はまだしてないけど、誠意を見せることには成功してると思う。清く正しい交際だろう? このまま続けていけば、リディアも結婚を受け入れてくれるはずなんだ」
「はあ」
と中途半端な返事をしたレイヴンは、そう簡単ではないと思っているみたいだった。
そういえばレイヴンは、リディアに問われると何もかもありのままに話してしまいかねないのだ。釘を刺しておかないと、とエドガーは彼に向き直る。
「あのねレイヴン、ゆうべ僕はスレイドのクラブでセブンブリッジを明け方まで……」
「言いわけする相手は、レイヴンではないのではありませんか?」
現れたのはアーミンだった。レイヴンの異父姉、男装のメイドはきっぱり言って、エドガーに歩み寄った。
「上着のポケットに、女物のハンカチが。どうなさいますか?」
「……捨ててくれ」
なげやりに言って、彼はソファに座り込んだ。
「エドガーさま、リディアさんに求婚したからには、ほかの女性とは縁を切るんじゃなかったんですか? 彼女の信頼を得るために態度をあらためると聞きましたが」
「切ったよ。ハンカチの女性とはちょっと話がはずんだだけで、やましいことなんて何もない」
「また悪い癖が出てますね」
アーミンは、子供みたいにふてくされている彼を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「そうやって言いわけしながら、いいかげんなことをしてしまうのは悪い癖です。複数の女性とつきあっているときにはうまく立ち回りますのに、ひとりとうまくいきそうになると、なぜうかつになるのですか?」
たぶん、まったく彼女の指摘どおりだったから、エドガーは苛立《いらだ》っていた。
「気づかれて、きらわれてもいいと思っているはずはありませんよね?」
「おまえは僕の女家庭教師《ガヴァネス》か?」
アーミンを黙らせるために、そう言う。効果はてきめんだ。
憮然《ぶぜん》としながら、エドガーは立ちあがった。
「今日の予定はどうされますか?」
出ていこうとする彼に、レイヴンは相変わらず事務的に訊ねた。
そうだった、今日の予定を思い出そうとしていたところだったのだ。
そして思い出せば、エドガーはため息をおぼえた。
リディアを誘って出かけるつもりだった。うまくいっている、と感じているエドガーにとって、予定を変更する理由はなにもない。
一方で、これでいいのかと自問し続けてもいる。
このままいっしょにいれば、確実に、自分の戦いにリディアを巻き込んでしまう。
そのくせあきらめる気があるのかというと、ただいやだと思う。
リディアが自分を好きになれないとしても、どんな手を使ってもそばに置いておきたい。
リディアのためにどうすべきかなどと考えても、結局エドガーは、自分のために彼女を婚約者という言葉でしばりつけ、ここにとどめている。
それでいて、リディアに知られたらまずいこともしてしまう。
いまさら、いい男《ひと》ぶって迷う資格もない。
「予定どおりだ。アーミン、|メイド頭《ハウスキーパー》をリディアの部屋へ連れてきてくれ」
妖精たちは、人間の干渉をきらう。そのくせ彼らは、人間とかかわりを持ちたがっている。
人の食べ物をほしがり、家畜を盗むかと思うと、気まぐれに旅人を道に迷わせる。
一方で、ときには人に幸運をもたらしてくれる。
どうして妖精たちは、そんなふうに人とかかわろうとするのだろうか。
妖精の専門家である妖精博士《フェアリードクター》でさえ、ただそういうものだと思ってきた。それが自然なことなのだと。
だからフェアリードクターの仕事は、人と妖精とが接するところで起こるトラブルを解決することで、両者の接点をなくしてしまうことではない。
ひょっとすると人間は、妖精がいなくなっても気に留めないかもしれない。十九世紀ともなるこの時代、妖精の存在をおとぎ話だと思っている人がほとんどだ。
けれどもフェアリードクターは、妖精が人間のそばにいたいと願うかぎり、彼らと人の架《か》け橋になろうとし続けるだろう。
ときには悲しい事態を引き起こす、妖精たちの仕業《しわざ》に、心を痛めながらも。
「|取り換え子《チェンジリング》かあ……」
伯爵邸《はくしゃくてい》の仕事部屋で、妖精とのトラブルに悩む人々からの手紙を読みながら、リディアはつぶやいた。
リディアは、妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》エドガー・アシェンバートの顧問《こもん》フェアリードクターだ。
その名のとおり妖精国に領地を持っていたという伯爵家は、青騎士伯爵という名で妖精たちに親しまれてきたため、人間界の領地にも妖精が多く棲《す》んでいる。
だから様々な相談ごとが、リディアのところへ押し寄せる。
本来なら、伯爵自身が妖精の魔力に対処する能力を持っているはずなのだが、エドガーはまともに妖精の姿を見ることさえできないため、リディアが代行しているというわけだ。
英国中に点在する伯爵家の土地から、さまざまな相談を受けてきたリディアだが、取り換え子となるとこれまでになく深刻だった。
「本物の取り換え子か?」
いつのまにかデスクの端に腰かけていた灰色の猫が、手紙を覗き込んで言った。
「文面では本物っぽいわね」
ふうん、とふさふさした灰色のしっぽを動かしつつ、ニコは腕を組んだ。
「青騎士伯爵の領地で取り換え子とはなあ。そういうの、昔の伯爵が戒《いまし》めてたんじゃないのか? これまでどこからも、そんな相談なかったじゃないか」
「そうね。でも本当なら、早く赤ん坊を取り返さないと」
妖精が人間の赤ん坊を盗んでいく代わりに、丸太や石や、年老いた妖精や、ときには妖精の赤ん坊を置いていくのがチェンジリングだ。
妖精たちが人間の赤ん坊をほしがるのは、ただかわいくて育てたいからとか、魔物に生贄《いけにえ》を強要されているからとか、様々な理由がある。
ともかく昔から、赤ん坊を妖精に盗まれないように、ゆりかごに魔よけをつけるのは常識だったが、このごろはそんな知恵も忘れがちになっているらしい。
まずはこの土地について知りたい。しかしエドガーの領地のことだ。彼に相談しなければならないだろうが、そうなるとリディアは、一気に憂鬱《ゆううつ》になるのだった。
「……どうしてあいつのことで、あたしがいやな気分にならなきゃいけないのよ」
昨日のできごとを思い出す。
物憂《ものう》げな雰囲気《ふんいき》の、色っぽい女性だった。
それに、あのときのキス。
ああいうふうなのが恋人どうしのキスなら、一瞬|唇《くちびる》がかすっただけのリディアの場合、赤ん坊にするようなものだ。
「落ち着けよリディア。いまさら驚くことないじゃないか。おれはむしろ、今まで決定的な場面を見かけなかったことが不思議なくらいだよ」
そうよ、だから。
自分とエドガーとの間には何もない。
あんな場面を見たからって、動揺することもないのだと、リディアは自分に言い聞かせる。
「決定的な、なんだって?」
その声に、リディアはさっと身構え、隙《すき》を見せないよう両手をひざの上に引っ込めた。
「おはようリディア、今日も美しいね。こうして毎日会えるなんて、僕は幸せ者だ」
部屋へ入ってきたエドガーは、にこやかに微笑《ほほえ》みながらリディアに歩み寄った。
「髪の毛まだ濡《ぬ》れてるわよ」
昨日は遅かったみたいね、という嫌味《いやみ》をこめたつもりだったが。
「身支度《みじたく》を完璧《かんぺき》にするよりも、きみに早く会いたくて」
「あたしに気を遣《つか》わなくても、お疲れなら休んでていいのに」
「疲れてはいないよ。昨日はスレイドのクラブで、ちょっとゲームがもりあがっただけ」
男性しか入れない高級クラブの名を出して、女っ気がなかったとでも主張したいのか。
「たしかにね、ああいうところに入《い》り浸《びた》って帰ってこないご主人を持つ奥さまがたの不満は耳にするよ。でももしそんなことを心配してるなら、約束する。僕は結婚したってきみに淋《さび》しい思いをさせたりしないから」
「心配してないし、結婚もしないから。クラブでも女性の家でも好きなところで遊んでちょうだい」
「なんか誤解してる? 僕にはきみしか見えていないし、もうきみにしか欲情しないと決めてるのに」
「しなくていいってば!」
思わずムキになってしまい、デスクに両手をついて身を乗り出せば、頭にキスされた。
こ、こんなことでうろたえちゃ、こいつの思うつぼよ。
リディアは自分に言い聞かせ、そっと深呼吸する。
エドガーは、リディアがいやがることすら、まるで恋人どうしがじゃれ合っているように感じるらしいと、このごろわかってきた。
だから、ちょっとくらいなれなれしいことをされたからって、目くじらを立てるほどこいつをよろこばせることになってしまうのだ。
「そ……んなことより、あなたの領地で重大なことがおこってるわよ」
冷静に、リディアは事務的な話をふった。
「こちらの問題の方が重大だ。いいかいリディア、これからウィンザーへ行かなきゃならない。いっしょに来てくれるね?」
深刻そうな顔をするものだから、つい「何かあったの?」と訊《たず》ねてしまう。
「急ぐから、汽車の中で話すよ。出かける用意を、ハリエットが手伝ってくれる」
はっとドアの方に振り向くと、ドレスをかかえたメイド頭のハリエットが、貫禄《かんろく》のある体躯《たいく》で出入り口をふさいでいた。
エドガーがリディアを飾り立てようとするときは、人の集まる場所へ連れ出して見せびらかそうっていう魂胆《こんたん》だ。重大な用でもなんでもない。
「いやよ、あたしは忙しいんだから……」
あとずさりながら逃げることを考えたリディアだが、背中にぶつかる人の感触にあわてて振り返れば、アーミンが彼女を見おろした。
「すみません、リディアさん。エドガーさまのいうとおりになさってくださいませ」
口調《くちょう》は丁寧《ていねい》でも、リディアの肩をつかむアーミンは逃がしてくれそうになかった。
「リディア、これも忘れないでくれ」
さっと手を取ったかと思うと、彼はムーンストーンの指輪をリディアの薬指にはめた。
妖精の魔力を持つ婚約指輪だ。ムーンストーンが目覚めてしまったせいか、はめてしまうと、この指輪を介して婚約≠オたことになっているエドガーにしかはずせない。
しかしこれは、リディアがあずかったまま、自宅に置いてあるはずだった。
「コ、コブラナイ! あなたなのーっ!」
デスクの上で、三角帽を取りつつ頭をかく小さな鉱山妖精を見つけ、リディアは叫んだ。
「ええお嬢《じょう》さま、伯爵が指輪を持ってくるようにとおっしゃるもので」
不思議なムーンストーンを管理している妖精は、リディアとエドガーの婚約が、うその約束だということを理解できない。
彼が世話を焼いている宝石、ムーンストーンのために、ふたりの結婚を待ち望んでいる。
「まあいいじゃないですか。おふたりで出かけるときくらい、身につけておくべきですよ」
「というわけでリディア、いっしょに行ってくれればあとではずしてあげるから」
「……卑怯者《ひきょうもの》!」
「さあリディアさん、さっさと着替えましょう」
ハリエットにまでがしりと腕をつかまれ、リディアはもう、まな板の上の鯉《こい》だった。
「旦那《だんな》さま、席をはずしていただけますか」
リディアの質素《しっそ》な普段着を脱がせようとし、メイド頭はエドガーがまだそこにいることに気がついたようだった。
「あ、やっぱりだめ?」
「あたりまえでしょっ、このドスケベ!」
憤《いきどお》りも頂点に達したリディアは叫んだ。
テムズ河のほとり、ロンドンからしばらく川上へ向かえば、森と水に囲まれたのどかな風景が広がる。
昔から王家の城があるこの町は、落ち着いた雰囲気《ふんいき》で、深まる秋の色をまとった木々が川面《かわも》に映る眺《なが》めは、うっとりするほど風情《ふぜい》がある。
天気もよく、リディアが着ているドレスの色にも似たアイリッシュブルーの空のもと、川沿いに建つ貴族の館《やかた》へ小舟で案内されるころには、彼女の苛立《いらだ》ちも少しはおさまってきていた。
エドガーが言うには、友人の婚約|披露《ひろう》パーティが開かれるとのことだ。
おめでたい場所でしかめっ面《つら》をしているわけにもいかないしと、リディアは不機嫌《ふきげん》な気分を頭の隅《すみ》に追いやった。
エドガーの方をちらりと見る。いつからこちらをじっと見ていたのか、目が合うと彼は楽しそうににっこり笑う。
リディアがつい微笑んでしまったのは、おだやかな日射しのせいだ。河面に反射するきらきらした光が、夢のようだったから。
小舟が横付けされた桟橋《さんばし》は、すでに屋敷の庭園の一部で、ガーデンパーティに集まった人々が、芝生《しばふ》の広場にドレスの花を咲かせていた。
華やかに飾られた周囲に目を奪われているうち、いつのまにかリディアはエドガーの腕に手をそえて歩いていることに気がついた。
離さなきゃ、と思いながら、芝生の上を引きずるドレスで歩くには、彼に手をあずけていた方が楽だったから、まあいいかと思ってしまう。
ひとつずつ気を許していくうち、だんだん彼といることが自然なことのように感じている。
術中《じゅっちゅう》にはまっていっているのだろうか。
このごろリディアの父も、エドガーについて批判めいたことは何も言わない。もっとも、彼の前で結婚に関する話題はけっして口にしないのだが。
「こういうガーデンパーティってのもいいね。空も風も、ふたりを祝福してくれる。僕たちのときはどうしたい?」
華やかな金の髪と、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳を見あげながら、どうしてこんなにうれしそうにこちらを見るのだろうと、リディアはむしろ不思議に思えてきた。
ふたりでいることが幸せだと、心の底から感じているみたいに。そして本当に、愛《いと》しい恋人を見つめるかのようだ。
「きみの妖精の友人たちが、気兼ねなく来られるようにしなきゃいけないな。ハーブのお菓子や新鮮なミルクをたっぷり用意して」
「……そうね」
「本当に?」
「え? あ、違うの! 今ちょっと、考えごとしてて」
「残念。今すごくドキドキしたのに」
たぶんリディアの方が、もっとドキドキしていた。
なんとなく、このまま本当に婚約して、パーティなんか開いたりするのが決まったことのように感じてしまった。
このごろ、ふとしたときにどうしてか、こんな気分になる。心の奥のうずくような感覚をもてあます。
「こちらが主役のふたりだよ」
言われてリディアは、戸惑《とまど》いを押し隠しながら、エドガーと並んで着飾った男女の前に進み出た。
「婚約おめでとう」
「ありがとうエドガー、来てくれてうれしいよ」
驚いたことに、友人は男の方だったらしい。
「僕の婚約者のジェーンだ」
隣の女性を彼が紹介すると、エドガーはごくふつうにあいさつと彼女への賛辞《さんじ》を返し、口説《くど》こうとするような下心の片鱗《へんりん》も見せなかったので、リディアは違和感《いわかん》をおぼえるほどだった。
よく考えれば、友人の婚約者に色目を使う方が不届きな話だが、あまりにもあっさりしていて逆に勘《かん》ぐってしまいそうだった。
「それでエドガー、きみの婚約者を紹介してくれよ」
ちょっとまって、とリディアは戸惑う。すでに婚約者ということになっているらしい。
が、婚約指輪をしているのに否定もできず、リディアはどうにか微笑《ほほえ》みながら、ふたりにあいさつするしかない。
「正式な婚約発表はまだなんだろう? いつの予定?」
「決まってないんだ。じつは彼女の父上にお許しをいただいていないから」
「まあ、反対されてるんですか?」
「慎重《しんちょう》に時期を選んでいるんですよ。貴族の男は信用できないらしくて」
じゃなくて、あなた[#「あなた」に傍点]が信用できないのよ。
「たしかにね、女性関係が派手だと誤解されがちだ」
本当に派手なんだから。
「でも、きちんと話せば伝わるはずだと思ってる。ねえリディア、きっと説得するから、僕を信じてくれ。今日は恋の障害なんて忘れて、彼らの幸せをわけてもらって楽しく過ごそう」
あたしの恋の障害はあなたよっ!
「そうね、楽しんでいってくださいな。ねえリディアさん、わたしも中流階級《ミドルクラス》の出身なの。身分違いの結婚って不安だし、この先いろいろと、相談しあえることもあると思うの。仲良くしてくださる?」
「え? ええ……」
手を握られ、リディアはついつい頷《うなず》いていた。
「よかった。いきなり上流階級《アッパークラス》に入っていって、馴染《なじ》めなかったらどうしようと思ってたの」
ちくりと罪悪感をおぼえ、そしてそれが、エドガーの計算だと思えばリディアはどっと疲れを感じた。
ただ飾り立てたリディアを連れ歩きたかったわけじゃないのだ。
確実に彼は、リディアの選択の幅をせばめていく。エドガーと結婚すれば何の問題もないという方向に。
社交会で戸惑《とまど》わなくてすむよう友達まで用意してくれるつもりらしい。
「ねえリディアさん、あなたのこと、ほかのお友達にも紹介したいわ」
とりあえずは計算だらけのエドガーから離れられると、リディアは言われるままに彼女についていくことにする。
いっしょに歩いていくうち、いつのまにか会場からはずれ、林の方へ入っていた。
どうして友達がこんなところにいるのかしらと思ったとき、ワイングラスを手にした若い男性がふたり目についた。
どうやら、すでに酔っぱらっている様子だ。
「飲み過ぎよ、おふたりさん」
彼女が声をかける。友達って、女の子じゃなかったの?
「やあジェーン、かわいい子を連れてるじゃないか」
「ねえきみ、いっしょに飲もう」
ひとりが近づいてきて、リディアの腕をつかんだ。酒臭さに嫌悪感《けんおかん》をおぼえる。
「けっこうです。あたし、失礼します」
行こうとしたが離してくれない。ジェーンに助けを求めるように振り返るが、急に彼女は背を向け歩き出した。
リディアはあせった。
「ちょっと、この人たちに何とか言って。あなたの友達なんでしょう?」
「いいじゃない、つきあってあげて。女の子といっしょに飲みたいんですって」
「な、なんなの?……どうして、そんな意地悪するのよ」
「さあ、あなた、いけすかないから」
はあ?
彼女の姿が木々の向こうに遠ざかると、頭にきたリディアは男たちに向き直った。
「離してって言ってるでしょ!」
「元気いいなあ。そういう女の子も嫌いじゃないけどさ」
肩に手をまわされ、怖くなってとっさに手をあげた。
「痛《い》てっ! 何するんだよ!」
平手が命中した男は、怒ってリディアを突き飛ばす。
そばの木にぶつかり、したたかにおでこを打ってリディアはうずくまった。
「やめないか、きみたち」
顔をあげると、目の前に老紳士《ろうしんし》が立っていた。しゃんと背筋《せすじ》をのばした彼が、気難《きむずか》しそうにしわの刻まれた顔をあげると、若造《わかぞう》には太刀打《たちう》ちできないような威厳《いげん》がある。
「女性に乱暴するなど、イギリス紳士の誇《ほこ》りはないのか」
鋭い目でにらまれ、騒ぎになってはまずいと思ったのか、ふたりとも逃げるように行ってしまった。
リディアの方に振り返った老紳士は、うって変わってやさしく言った。
「大丈夫か、お嬢《じょう》さん。どこか痛むかね? ああ、少しじっとしているといい。きみの連れを呼んでこよう。名前は?」
エドガーを呼ぶのには抵抗を感じた。けれど、リディアにはほかに知り合いはいない。初対面の老紳士にこれ以上迷惑をかけるわけにもいかない。
「……すみません。アシェンバート伯爵《はくしゃく》を……」
言うと、彼はかすかに眉根《まゆね》を寄せたような気がした。
「アシェンバート伯爵? 失礼だが、あなたの名は?」
「リディア・カールトンです」
「リディア! どうしたんだ? 大丈夫か?」
ちょうど、エドガーが駆《か》け寄ってくるのが見え、リディアは、紳士が深く考え込んだ様子なのには気づかなかった。
「ええ、ちょっとからまれて、こちらのかたが助けてくださったの」
老紳士にお礼を言いながらも、エドガーは心配そうにリディアの額《ひたい》を撫《な》でた。
「少し擦《す》り傷《きず》になってる。ジェーンがパーティ会場にひとりで戻ってきたから気になって見に来たけど、いったい何があったんだい?」
「こちらのお嬢さんを、男友達に押しつけたようだね」
老紳士が言った。
その原因は、リディアには目の前の女たらしにあるとしか考えられなかった。
「エドガー、あなた彼女を口説いたことあるわね?」
「は? なんで?」
「でもって傷つけるようなことしたんでしょ。だから彼女が、あたしにこんな意地悪を……」
「何もしてないよ。友人の恋人を口説くほど節操《せっそう》なしじゃない」
「じゃあどうして、こんなことになるのよ!」
エドガーとリディアのやりとりを聞いていた老紳士が、また口をはさんだ。
「貴族と結婚するのを夢見ていたのに、つかまえたと思ったら次男坊《ヤンガー・サン》だった。エジプトへ赴任《ふにん》が決まっているなんて知らなかった。もう手遅れ、とさっき女性たちがおしゃべりをしてたがね」
あきれながら、リディアはため息をついた。
貴族の子息《しそく》でも、家を継ぐ嫡男《ちゃくなん》以外は生活のために仕事を持たねばならない。爵位《しゃくい》も、土地も財産も受け継ぐ長男との差は大きいというわけか。
同じ中流出のリディアが、伯爵夫人の地位を約束されていると思ったから、『いけすかない』となったのだろう。
エドガーにささえられ、どうにか立ちあがったけれど、ワインの染《し》みがついたドレスと同様、リディアはみじめな気持ちだった。
そんなことで、あたしはひどい目にあわされたの?
これだから、人の集まるところは苦手だ。
昔からリディアには、陰口《かげぐち》や意地悪に悩まされる場所だったけれど、ロンドンへ来て、人前へ出る機会が多くなって、それでもエドガーがエスコートしているうちは、リディアに聞こえるような悪口を言う人がいなかったから、油断していたのかもしれない。
「ところでアシェンバート伯爵、ご婚約者の誤解が解けたところなのにもうしわけないが、私もお訊《き》きしたいことがある」
[#挿絵(img/fluorite_033.jpg)入る]
怪訝《けげん》そうに、エドガーは老紳士を見た。
「私の孫娘との結婚話はどうなったのかな」
リディアはまた、頭に血がのぼった。
「エドガー! あ、あなたって人は……」
「待ってくれ、何の話だかわからない」
「いったい何人にプロポーズしてるの?」
「誤解だって。だいたい、どなたなんですかあなたは」
老紳士が名乗ると、エドガーは、少々驚いたように姿勢を正した。
「クレモーナ大公閣下《たいこうかっか》? オランダに亡命《ぼうめい》中のはずでは?」
クレモーナ公国という国名は、リディアも歴史の勉強で耳にしたことはあったが、南ヨーロッパの小国というくらいしか思い浮かばない。
亡命中ということは、国で革命でも起こったのだろうか。それとも戦争に負けたのか。昨今、ヨーロッパ諸国は、政治的な変動が目立ち、英国には大陸から来た亡命貴族は少なくないと聞く。
「よくご存じだ。孫から聞いたのかね?」
「お孫さんのことは存じません。社交界に出ていればあなたのお名前くらいは耳にしますよ」
「お若い伯爵、十七年も前に崩壊《ほうかい》したクレモーナ公国のことを、ロンドンの社交界がいまだに話題にするとは思えないがね。私自身、オランダでひっそりと暮らしてきた。シャーロットをどうした? 結婚するなどとふざけた手紙を一通よこしたきり、なんの音沙汰《おとさた》もなし。英国まで来てみれば、当のあなたは別のお嬢さんを婚約者として連れていらっしゃる」
老人の声はおだやかだったが、エドガーを追及《ついきゅう》する口調《くちょう》に迷いはなかった。
「手紙? 僕からの手紙だというのですか?」
「私たちが命からがら亡命したとき、シャーロットはまだ三歳だった。娘夫婦とアメリカへ向かったはずが、船が難破《なんぱ》し、みんな死んだと思っていた。ところがだ、シャーロットだけは生きていて、あなたが花嫁《はなよめ》として自分の国に連れていくことにしたと手紙に書いてきたのではないか」
エドガーは、急に厳しい表情になった。
思い当たることでもあるのだろうか?
「つまりあなたは、その手紙を見るまで彼女が生きているとは知らなかった……?」
「知るはずがない」
考え込んだ様子ながら、エドガーはまた言った。
「でしたら、どうして手紙を読んだだけで、お孫さんが生きていると信じるのです?」
「孫が持っているはずの、紋章《もんしょう》指輪で押した印があった。花嫁衣装を着た木偶《でく》人形とともに送りつけてきたのはどういう意味だ?」
チェンジリングだ、とリディアはつぶやく。
「チェンジリング?」
大公はリディアの方に振り向いた。
「あの、イギリスではよく知られたフェアリーテイルです。妖精が人間の赤ん坊を盗む代わりに、木偶人形を置いていったりします。大人を連れ去る場合でもそういった身代わりを置いていくこともありますから、お孫さんの場合も……」
妖精の魔法では、人間の家へ身代わりを置いていくことで、盗んだ者を妖精の棲《す》みかへとどめておくことができるからだ。
いきなり妖精などと言われ、大公はさすがに戸惑《とまど》ったような顔をした。
「妖精ね。青騎士|伯爵《はくしゃく》と名乗ったあなたの悪ふざけかな。孫娘を、妖精がするようにして盗んだという意味か。調べてみれば、たしかにシャーロットらしい少女がアメリカにいて、何者かに連れ去られた形跡があった。アシェンバート伯爵、あなたは妖精と縁が深いなどと社交界でもめずらしがられている家柄《いえがら》のようだ。手紙にあった青騎士伯爵という名が、英国貴族のアシェンバート伯爵だとわかるのに時間がかかってしまったが、正式な名を名乗らないのは無礼《ぶれい》じゃないか?」
大公の厳しい言葉を聞いているのかいないのか、エドガーは上《うわ》の空《そら》に見えた。
やっぱり、心当たりがあるのではと、リディアは勘《かん》ぐる。
だって、孫娘はアメリカにいたというし。そりゃアメリカは広いけれど、大公の名を聞いて驚いたのは、彼の身分のせいだとは思えない。
大貴族とはいえ地位を失っているし、公爵家《こうしゃくけ》の出のエドガーが、かしこまるだろうか。
それにエドガーは、伯爵の地位を得る前から、リディアにアシェンバート伯爵と名乗っていたのだ。アメリカでもその名を使って、女の子をたぶらかすことくらいはしたかもしれないではないか。
大公の孫だと知っていたなら、力を必要としていた彼にとって利用価値があったかもしれない。
しかしエドガーは、きっぱりと否定する。
「いずれにしろ、僕は無関係です。お力になれなくて残念ですが」
リディアを連れて、彼はその場を去ろうとした。しかし老人は、ステッキを足元に突き出すようにして引き止める。
「結婚するつもりがなかったのなら、孫をどうしたのだ? ……まさか、私に会わせられないようなことに……」
「これ以上言いがかりをつけるなら、侮辱《ぶじょく》と取りますよ」
名誉にうるさい貴族どうしがケンカになればののしり合いではすまない。些細《ささい》なことでも殴《なぐ》り合いですらなく殺し合いに発展するのは庶民《しょみん》のリディアには理解できないが、今が一触即発《いっしょくそくはつ》の状態なのはわかる。
あせって、リディアはエドガーの背中を押す。
「あの、とりあえず失礼します。お礼はまたあらためて」
言いながら、どうにかエドガーを大公から引き離してその場を立ち去ることに成功すると、どっと疲れを感じながら川縁《かわべり》で立ち止まった。
「どうして、あんな言いかたするの? 誤解なら話せばわかるし、力になれることだってあるかもしれないのに」
エドガーは、不満そうに振り返った。
「よけいなことに首を突っ込みたくないじゃないか」
「って、あなたの名前が使われたのよ」
「二年も前なら僕が伯爵になる以前のことだ」
リディアは首を傾《かし》げる。
「二年前? クレモーナ大公はいつ手紙が届いたか言ってなかったわよ」
「……言ったよ。聞いてなかったの?」
さっと顔を背《そむ》けたエドガーのことを、リディアはますますあやしく思った。
思い違いでなければ、大公が言わなかったことを、エドガーは知っていることになる。二年前だなんてかなり正確だ。
隠すのは、やましいところがあるから?
彼女と結婚の約束をしたの?
それは利用するため? 彼女は、生きているの?
訊《き》けなくて、うつむき黙り込む。
エドガーは川に近づいていき、ハンカチを水に浸《ひた》した。
「リディア、彼のことは彼がどうにかする。僕らには、それでなくても敵がいるんだから」
額に冷たいハンカチがあてがわれる。幹にぶつかったときすりむいた傷がひりひりした。
うつむくと顔にたれかかる、ほつれた赤茶の髪を、エドガーの指がすくう。整えるように耳にかける。
指先が触れて鳥肌が立つ。
不意に、昨日見た場面がよみがえる。
触れられるくらいは平気になっていたのに、リディアは思わず体を引く。
「人って、よくわからない。あたしがこんな目にあう理由もバカげてるし、あなたはあたしに隠し事ばかり」
「隠し事?」
「……本当は、知ってるんじゃないの? クレモーナ公女のこと」
「きみまで疑うのか?」
「結婚を持ち出して、利用した女性が何人いるの?」
「プロポーズしたのはきみがはじめてだよ」
「うそつき。今日だって、朝からうそばかり言ってるわ」
「どのへんがうそ?」
心外だと言いたげに、エドガーは眉《まゆ》をひそめる。
「クラブでゲームしてたなんてうそ」
「本当だよ。スレイドに確かめればいい」
「口裏《くちうら》合わせるのなんて簡単よ」
「じゃあどうすれば信じてくれる?」
「信じないわ。だってあたし見たもの。きれいな女の人とキスして、そのまま彼女のお屋敷へ入っていくあなたを」
少しの間があった。けれどエドガーの表情は変わらなかったから、彼が何を思ったのか想像もできなかった。
「それは……、たぶんあいさつ代わりのキス」
「そんなふうじゃないことくらい、いくらあたしが子供っぽくてもわかるわよ」
「あのね、その場のなりゆきというか、それだけのことなんだ。彼女の家からはすぐに出てきたし、それ以上のことはしていない」
「そ、そんなこと訊いてないってば。あたしは本物の婚約者じゃないんだから!」
「でも怒ってる」
そうだ。どうでもいいのになぜ怒っているのだろう。
昨日だって、一瞬頭にきたけれど、冷静になれば自分には関係ないと納得したはずだった。
そして忘れたことにするつもりだったのに、急に思い出したらもう、苛立《いらだ》ちが止められなくなっていた。
「怒っちゃおかしいの? そういうことしながら、あたしを口説《くど》こうとするのは失礼だわ。……結局、あたしにもふざけてるってことね」
「きみのことは本気だ。でも今のところ僕の片想いだろ。人恋しくなることだってある」
「とりあえずは誰でもいいっていうの?」
「向こうだって単なるひまつぶしだ。もう僕の名前も忘れてるよ」
開き直ったように言われるほど、理解できずにむかついた。
「……わかったわ。あなたは、誰にも本気になんてなれない人よ!」
言い放《はな》ち、リディアはハンカチを突き返して歩き出す。
「どうしてそう意固地《いこじ》なんだ? きみには真剣な気持ちで接しているのに、これ以上どうやって本気を示せって?」
「意固地って何よ。あなたの誠意が見えないのはそんなものないからでしょ!」
「リディア!」
強く腕をつかまれ、痛みを感じたけれど、それよりもエドガーが腹を立てているのを感じ、リディアは急に心配になった。
誰にも本気になれないなんて、ひどいことを言ってしまった?
でもエドガーがいいかげんすぎるのよ。
信じられなくなるようなことをするんだもの。
振り払おうと力を入れても、離してくれる気配《けはい》もない。
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が、挑むようにこちらを見ている。目をそらしたら負けそうで、リディアはにらみ返す。
顔を近づけられ、震《ふる》えながらどうにか声を出す。
「……やめて。あたしに腹を立てながらそういうことするの?」
あきらめたように、けれど苛立ちを隠そうとはせず、エドガーはなげやりにリディアを離した。
「あ……たし、帰る」
動揺をこらえながらつぶやく。ドレスも汚れてしまったし、パーティ会場に戻る気にはなれなかった。
「わかった、帰ろう」
「ひとりで帰りたいの」
「ウィンザーからひとりで帰すわけにはいかない」
「なら、アーミンといっしょに帰る」
本当はそれすら、リディアには、エドガーに監視されているみたいで落ち着かない気がするのだったけれど、ムーンストーンの指輪をはずしてもらうためにも、これ以上言い争いはしたくなかった。
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海賊《かいぞく》がやって来た
夜《よ》更《ふ》けに自室を抜け出したエドガーは、邸宅《ていたく》の北奥にある石段を、地下へとおりていった。
手にした蝋燭《ろうそく》が、どこからともなく吹き込む風にゆれれば、自分の影が意志を持つ生き物のようにうごめく。
明かりが消えないように気をつけながら、すきま風から蝋燭をかばい、つきあたりの扉の鍵《かぎ》を開ける。
中へ入っていくと、奥にまた扉がある。
そこを開くとようやく、藍色《あいいろ》の夜に十字《クロス》の星が輝くかのような、大粒のスターサファイアが目に飛び込んできた。
人魚《メロウ》の星と呼ばれる、妖精の魔力を秘めた宝石、それが埋《う》め込《こ》まれた古い長剣は、初代の妖精国《イブラゼル》伯爵《はくしゃく》となった青騎士|卿《きょう》という人物が、イングランド王から爵位《しゃくい》とともに賜《たまわ》ったものだ。
これを手に入れたからこそ、エドガーは伯爵として国家に認められ、ここにいる。
メロウが守っていた宝剣を、生きて手に入れることができたのは、フェアリードクターのリディアのおかげだった。
宝剣が伯爵家の子孫に間違いなく渡るよう妖精が仕掛《しか》けた謎《なぞ》を、エドガーには解くことなどできなかったのだから。
結局はメロウも、エドガーが伯爵家の者ではないとわかっていて、宝剣をゆだねてぐれた。
もはや伯爵家の血筋《ちすじ》は絶えたと考えたからだった。
けれど、エドガーが得たのは伯爵という地位と名だけだ。妖精国伯爵として、代々の当主が持っていたはずの不思議な力はない。
それでもいいと思っていたが、今はそれがエドガーの弱点になってしまっている。彼の宿敵は、魔術的な力を使うからだ。
プリンスと呼ばれる男を頂点とした組織は、エドガーの家族を殺し、子供だった彼を連れ去って自由を奪った。
レイヴンとアーミンと、数人の仲間を引き連れ、エドガーはプリンスのもとから逃げ出したが、仲間はほとんど殺された。
それでも生きのび、伯爵の地位を手に入れたエドガーは、足場を固めながらプリンスへの復讐《ふくしゅう》をもくろんでいるが、最大の気がかりは、プリンスの手先であるユリシスという人物だった。
彼は、妖精たちを従《したが》え動かすことができる。
なのにエドガーは、妖精の姿を見ることさえままならない。
こんなことで、ユリシスと戦えるはずがない。
剣を取りあげ、鞘《さや》から引き抜く。
くもりなく磨かれた銀色の刃は鋭く、これが中世の剣かと思うほどだ。
「ほう、それが青騎士伯爵の剣でございますか。いやー見事なものですな」
声はすれども姿は見えない。しかしエドガーは、リディアのもとにやってきたその妖精を知っていた。
「コブラナイ? 夜はリディアの家にいるんじゃないのか」
「いやー、こちらの|家付き妖精《ホブゴブリン》たちと飲み過ぎまして、帰りそびれました」
この部屋にあるはずのないワインのコルク栓《せん》が、蝋燭を置いた台の上でくるくるまわる。どうやらそこに、コブラナイはいるらしい。
リディアの話によると、赤ら顔に団子《だんご》っ鼻《ばな》、もじゃもじゃヒゲの小さな妖精らしい。三角帽をかぶった鉱夫《こうふ》みたいな服装だというから、絵本にでてくるドワーフのようなものか、とエドガーは想像する。
「きみは宝石に詳しいんだったね。このスターサファイアをどう思う? 本来なら石の中に見える星は三本の光が交錯《こうさく》しているはずなのに、僕が伯爵となったせいで十字《クロス》の星になってしまった。スターサファイアの三つの光は、希望と信頼と運命をあらわすというよね。ひとつ欠けたこの宝剣も、僕自身も、何かが欠けているってことなんだろうか」
「いやいや、これはメロウの魔法がかかっていますからね。星の光は時と場合によっては変わることもあったようですよ。わしにわかることは、少なくともこいつはどこも欠けてなんかないってことです。ええ完璧《かんぺき》ですとも伯爵、敵には死を、味方には癒《いや》しを与える剣です」
そういえばこの剣は、青騎士伯爵の子孫の血を流すことができないんだったなと、エドガーは思い出した。それに中世では、剣は神聖なものだった。剣を傷口にあてると治るなどという迷信もある。
考えながらエドガーは、切《き》っ先《さき》を自分の指に押しつけてみた。
皮膚《ひふ》が切れて、うっすらと血がにじみ出す。
エドガーのものとなったはずの剣だが、伯爵としてはニセ者だと、こいつは見抜いているのだろうか。
だが、この剣がエドガーを認めていなくても構わない。それよりも、知りたいことがある。
「コブラナイ、敵とは、人ではないものも含まれるのか?」
「そりゃそうですな。昔の青騎士伯爵は、そいつで邪悪《じゃあく》な妖精たちを領地からおっぱらったといいますからね」
やはりこの剣は、妖精にも有効な武器なのだ。しかし問題は、エドガーが使っても、妖精を斬《き》ることができるのかどうか。
「なあ、試し斬りをさせてくれないか?」
言ってみたら、ばたりとコルク栓が倒れたきり、コブラナイの気配《けはい》が消えた。
*
エドガーと気まずくなるのは、たびたびあることだったけれど、だからといって仕事をさぼるわけにはいかない。
リディアは今日も、定時に伯爵邸へやって来た。
昨日はウィンザーまで連れ出されたせいで仕事にならなかったが、気になっている取り換え子の件を急いで調べなければならないのだ。
「リディアさん、問題の土地はここですね」
執事《しつじ》のトムキンスが、テーブルに地図を広げた。
エドガーに相談しにくかったので、執事に協力を求めることにしたのだ。
伯爵家のあらゆる事務的なことから、すべての召使いの管理までこなしている忙しいトムキンスに時間を割《さ》いてもらうのは心苦しいが、彼はいやな顔ひとつせず、リディアに必要な資料をそろえてくれる。
その土地は、ヨークシャーの沿岸|丘陵地《きゅうりょうち》にある小さな村だった。
「何か特殊《とくしゅ》な土地なんですか?」
なにしろ、英国にある青騎士伯爵の土地は、人間の領主には手におえなくてゆずられたという場合が多い。
ここもおそらく、妖精族の住人が多く、トラブルが多かったのだろうが、それだけではないかもしれない。
「蛍石《フローライト》が採れます。英国産の蛍石というとブルージョンが有名ですが、こちらのものは赤紫の蛍石です。フレイアと呼ばれる、内側で炎が燃えさかっているように輝いて見えるものが、まれに採れるそうなんですが、もう三百年記録がありませんね。よほど稀少《きしょう》なもののようで」
「ふつうのものは採れるのね。でも、もう十年以上出荷がないわ」
書類を眺《なが》めながら、リディアは言う。
「毎年決まった量しか掘り出さないことになっていました。このごろは、そうやって掘り出しても売り物になる質のものが少ないとか。鉱夫の数も減っています。町の工場へでも働きに出かけた方が稼《かせ》げるのでしょう」
「どうして、掘り出す量が決まっているんですか?」
「昔、伯爵が妖精たちと取り引きして決めたそうですよ。不作の年でも村人が飢《う》えたりしないぎりぎりの量です。裕福《ゆうふく》な村とはいえませんが、飢饉《ききん》に苦しむこともなかったわけです。好きなだけ掘り出していたら、とっくに鉱脈《こうみゃく》は尽《つ》きていたでしょうし、妖精との不和の種になったんじゃないでしょうか」
しかしその村で、取り換え子があった。
それに、リディアが雇われて以来、この村からの相談事がはじめてだというのも引っかかる。
これまで何事もなくて、いきなり取り換え子、なんてことがあるだろうか。
リディアが考え込んだとき、勢いよくドアが開いてニコが駆《か》け込《こ》んできた。
「うわあっ、やめろってば!」
あわてていても二本足で立ったまま、ニコは走る。
「しっぽの先だけでいいって言ってるだろ」
続いて部屋に入ってきたのはエドガーだ。どういうわけか、メロウの剣を手にしている。
「冗談じゃないぞ。この優雅なしっぽをちょん切られてたまるか!」
ふさふさしたしっぽを抱きかかえるようにして、ニコはテーブルクロスの下にもぐり込んだ。
「出ておいで、ニコ。好きな食べ物をあげるから」
「食いもんなんかとしっぽをひきかえにできるか!」
「どうせまたはえてくるんだろう?」
「トカゲじゃねえぞ!」
容赦《ようしゃ》なく、エドガーはテーブルクロスをめくりあげ、剣をかまえる。
「た、助けてくれーっ、リディア!」
ニコの悲鳴に、リディアはため息をつきつつ腰を上げた。
「ちょっとエドガー、あたしの仕事場で武器を振り回さないで」
いったん剣をおろし、リディアの方を見た彼は、いつものやさしげな微笑《ほほえ》みを浮かべた。
「おはようリディア、昨日の怪我《けが》はどう? もう痛まないかい?」
昨日いろいろと言い争ったというのに、エドガーは気まずいとか思ったことなんてないのだろうか。
たぶんない。そういうやつだわ。
「きみにからんできた男ふたりの身元はわかってる。きっちり思い知らせてやることにしたからね」
は? 何考えてんの?
「やめてちょうだい、仕返しなんて。……あたしはもう気にしてないし」
「じゃあ僕のことも許してくれる?」
それは別問題だわ、と思った。
リディアが黙ると、彼は少し困ったように首を傾けた。
「まだ無理か。でもね、僕は心を入れかえることにした」
剣を目の前に立てる。
「リディア、きみを守るためにはどうしても実験が必要なんだ」
彼はまた、ニコの方に向き直ったが、灰色の妖精猫はとっとと姿を消していた。
「逃げられたか」
舌打ちしつつ、エドガーは少し考え、視線を動かした。その先にいたトムキンスが、びくりと肩を震《ふる》わせた。
「トムキンス、おまえはメロウの血を引いているんだったっけ?」
「はあ、と言いましても何代も昔の話で、寿命《じゅみょう》も人並みですし海に落ちればおぼれますし……」
ずんぐりした体つきも、離れぎみのまるい目も分厚《ぶあつ》い唇《くちびる》も、男メロウの特徴を持つトムキンスだ。見たことはないが、背中にひれがあるともいう。
そんな彼は、あせってあとずさろうとするが、後ろは壁だった。
「だ、旦那《だんな》さま、それは命令ですか」
って、命令なら斬《き》られる気なの?
「もちろんだよ」
「やめなさいってば、エドガー!」
「おい、何さわいでるんだ?」
そこへ窓から入ってきたのは、黒い巻き毛の青年だった。
人の姿をしているときは、精悍《せいかん》で神秘的な美貌《びぼう》だが、本性《ほんしょう》は獰猛《どうもう》な水棲馬《ケルピー》である彼は、どういうわけかリディアを気に入っていて、スコットランドからロンドンへやって来たきりとどまっている。
そんなケルピーの方に、狩りの獲物《えもの》でも見つけたかのようにエドガーが振り向いた。
「ケルピー、逃げて!」
「はあ?」
と言っている間に、エドガーはケルピーに近づいていった。
いきなりメロウの剣を振る。
避けようともしなかったケルピーの体を、鋭い切《き》っ先《さき》がつらぬいたかのように見えた。
しかし彼は、窓枠《まどわく》に腰かけたまま平然としている。そしてにやりと笑う。
「よお伯爵《はくしゃく》、人間なんかに俺は殺せやしないぞ」
手ごたえはあったのに、とエドガーは刃を眺め落胆《らくたん》のため息をつく。
「あんたじゃ無理だ。昔の青騎士伯爵なら、その剣の力を引き出せたんだろうけどな」
突然のことに冷や汗を感じながら、リディアは、あわててケルピーに駆け寄った。
「大丈夫なの? 本当に怪我してない?」
「ちっとも。風が吹いたくらいのもんだ」
窓からおりて立ちあがったケルピーの体を確かめるように、リディアは手を触れた。
人間の男性だと思っていたらとても体にさわるなんてできないリディアだが、妖精だし、馬だと思っているので平気だった。
シャツの下のたくましい筋肉を手のひらに感じても、優美な馬の、天鵞絨《びろうど》の毛並みを撫《な》でているのと同じ気持ちだ。
「ほんと、なんともないわ」
しかしエドガーが、苛立《いらだ》ったようにリディアの肩を引いた。
「僕の目の前で、別の男の体をさわるなんてやめてくれ」
「そ、そんないかがわしい言い方しないで」
「人の姿をしてるんだから、いかがわしくしか見えないよ」
「だいたいあなたが、ケルピーを斬ろうとするからいけないんじゃない。もしも斬れてたらどうするのよ! メロウの剣だもの、ケルピーだって殺せたかもしれないのよ!」
「そんなにこいつが心配?」
「そ……そりゃ、友達みたいなものよ」
「僕の女友達の存在に腹を立てるのに、きみの男友達は黙認《もくにん》しろって言うのか?」
ものすごい屁理屈《へりくつ》じゃない?
「あのね、ケルピーは男友達じゃなくて妖精のお友達。あなたがカナリアを溺愛《できあい》したって、誰も妬《や》かないでしょ」
「そうかな。もしも孔雀《くじゃく》がきみの前で求愛の羽を広げたりしたら、僕なら撃ち殺すね」
冗談を言っているのかと思いたいが、こちらに向けられている灰紫《アッシュモーヴ》の瞳は真剣だ。
「だからこいつも、目障《めざわ》り」
ケルピーの方を一瞥《いちべつ》する。
「おい伯爵、いいかげんにしろよ。リディアを独占欲で縛《しば》りつけんな」
「口出ししないでもらおう。婚約者として当然のことを言ってるだけだ」
どこがよ。
と思えばそれはリディアの、昨日から引きずっている苛立ちをかき立てた。
知らない女の人とキスしておいて、そのうえクレモーナ大公《たいこう》の孫娘と結婚しようとしていたのかもしれず、なのにまだ堂々と、リディアを婚約者扱いするつもりなのだろうか。
ずうずうしいにもほどがある。
「ケルピー、ちょっとはずしてくれない? エドガーにはきっちり言っておきたいことがあるの」
「あ? 何でだよ」
ケルピーの前で婚約を否定するようなことを言うと、あとあと面倒だからだ。
「きみも気がきかないね。恋人どうし愛を語らおうっていうのに、じゃまなんだよ」
んなわけないでしょ、という言葉は、しぶしぶケルピーが消えるまで待った。
「エドガー、あたしはねっ」
意気込んでこぶしを握る。
「ちょっと待って」
「待たないわ。何でもかんでも思い通りになると思ったら大間違い……」
「トムキンス、もういいよ」
執事《しつじ》がまだいたことを、ようやく思い出したリディアは、恥ずかしくなってこぶしを握りしめたまま固まった。
「ではどうぞごゆっくり」
ぱたんとドアが閉まったが、何を言うべきだったかリディアが思い出す前に、エドガーが彼女のこぶしを包み込むように握った。
「リディア、わかってくれ。きみを誰にもわたしたくないんだ」
「どうかしてるわよ。あなたがわざと、信じられなくなるようなことしてるんじゃない」
「二度としない。約束するから、結婚に前向きになってくれる?」
「そ、それとこれとは別よ。わかってるでしょ」
手を握られたまま、リディアは少しでもあとずさろうとしたが、そのぶん、エドガーは間を詰める。
「別じゃないよ。きみがやきもちを妬いてくれるなら、僕らは相思相愛《そうしそうあい》だってことだ」
「やきもちじゃないわ。うそつきのあなたが何を言っても、信用できないってことよ」
「きみだってうそつきだ。僕を好きになりかけてるからこそ腹が立っているのに、認めようとしない」
開き直られて、リディアはうろたえた。
そんなわけないと言いたいのに言葉が見つからない。
目を合わせられなくてうつむく。
「認めて、僕を見てくれ」
エドガーの婚約者扱いに文句を言うつもりが、逆に言いくるめられそうになっている。
「そうしたら、きっと迷わなくてすむ。覚悟を決めるつもりでいる」
どうしようもなくドキドキして、顔が赤くなっているのが自分でもわかる。
「そ、それは何? 本当はあたしなんかと結婚するのを迷ってるってこと? 利用価値はあるけど、ひとりに縛《しば》られるのは、あなたには相当覚悟がいるってことなのね!」
「違うよ。きみを愛して、守っていこうと決意したいんだ」
そんなこと、どうしてあたしなんかに真剣な顔で言えるの?
とにかく逃げ出さなきゃとしか、リディアはもう考えられなかった。
でないと、エドガーの言い分を認めさせられてしまいそうだ。
自分の動揺に気づかれたくなくて、リディアは彼の言葉から耳を閉ざしたまま、その場から駆けだしていた。
投げ出してあったメロウの剣を、レイヴンが丁重《ていちょう》にとりあげ、鞘《さや》に収める。その気配《けはい》を視界の隅《すみ》に感じながら、エドガーは、リディアがいなくなった部屋の中、突っ立ったままつぶやいた。
「困ったな、レイヴン。これじゃあ戦えない」
剣が使えなかったから。
それでもリディアが、自分を好きになってくれるなら、そばにいたいと思ってくれるなら覚悟を決めて、彼女を守っていく方法を考えようと思った。
覚悟をしたところで、エドガーに妖精が見えるようになるわけでもなく、ユリシスに対抗できるという確信もない。
ただ、彼女を遠ざけるという選択肢《せんたくし》を見つめたくがないゆえだ。
心の片隅《かたすみ》では、リディアを守りたいなら遠ざけるしか方法はないのではないかと感じていながら、悪あがきのように口説《くど》き続けている。
「僕には、リディアを手放せそうにない。誰か、強引に奪っていってくれないかな」
「そのとき黙って見ているつもりがおありですか?」
ないだろうな、と思いながら、エドガーは深いため息をついた。
*
美しい挿《さ》し絵《え》に彩《いろど》られた、妖精物語の本だった。
子供向けの絵本だが、典型的な妖精話ですよと画家のポールが貸してくれたものだった。
絵本で妖精の勉強をしているなんて、あきれるくらい初心者だとエドガーは思った。
だが、妖精についてまじめに研究した書物などないのだからしかたがない。
絵本の内容は、誰でも子供のころに聞かされたことがあるような|おとぎ話《フェアリーテイル》だった。
美しい妖精の花嫁《はなよめ》は、夫にひとつ約束を課す。してはいけないこと、その約束を、何かのきっかけで破ってしまうことで、花嫁は消え去ってしまう。
ほんの些細《ささい》なきっかけ、それが自分からもリディアを奪っていくような気がして、落ちこんだエドガーは本を閉じる。
リディアの気持ちがまた一歩後退してしまったのは自分が悪いのだが、エドガーはむしろユリシスのせいだと感じている。
あの少年がフェアリードクターの能力を持っていたばかりに、エドガーは自分に青騎士|伯爵《はくしゃく》との血縁《けつえん》がないことを憂《うれ》う羽目《はめ》になった。
自分ではリディアを守れないことに気づいてしまった。
一見十五、六歳のくせに、やたらえらそうなあの男、徹底的にたたきのめしてやりたい。
しかし向こうだって、エドガーにたいしてそう思っていることだろう。
気がかりなのは、そのユリシスの動きがこのところ見えないことだった。
ロンドンにはいないようだ。かといってアメリカへ帰ったわけでもないだろう。
どこかで息をひそめ、時を待っているようにエドガーには思える。
彼の主人、プリンス≠ェ英国にやってくる時を。
それがいつのことなのか、それまで何かを仕掛《しか》けてくるつもりがないのか、情報もないまま、エドガーの方からは身動きできない状態が続いている。
だから、そろそろ心を決めなければならない。
どこまでプリンスと戦うのか。
何もかも失ったとしても、徹底的にやるのなら、そんなところまでリディアを連れていく覚悟と責任を持てるのかどうか。
リディアがそこまで、ついてきてくれるのかどうか。
リディアに執着《しゅうちゃく》しているのは、自分から女性を遠ざけるのはもったいないなんて、そもそもはよこしまな態度が染《し》みついているだけかもしれず、ときどきふと、リディアの方から愛想《あいそ》を尽《つ》かしてくれれば楽になれると思ったりもする。
けれどそうなりそうになっただけで、あわてて引き止めようとしてしまうのだから、支離滅裂《しりめつれつ》だと自分でも思う。
頭の中を切りかえようと、放置していた手紙の封《ふう》を切る。妖精がどうのという文面を見つければ、エドガーは最後まで読まずに折りたたむ。
リディアにまわすべき手紙だとわかっているからだ。
しかしその日は、別の文字が目について、再び手紙を広げてみた。
|取り換え子《チェンジリング》。
先日の、クレモーナ大公《たいこう》の話が気になっていたせいだろうか。
『……重ねてお手紙を送りつけるご無礼《ぶれい》をお許しください。取り換え子を取り戻そうとしてはいけないと、伯爵さまがおっしゃられたということを存じ上げず、助けてほしいなどとの手紙にご気分を害されましたでしょうか。私はよそから嫁《とつ》いできた者ゆえ、村のしきたりに疎《うと》く、ただ赤子《あかご》を盗まれたことに動揺しておりました。村中が信頼しております伯爵さまのおっしゃることならば、下々《しもじも》にはあずかり知らぬ重要な意味があるのでしょうが、子を盗まれた親は引《ひ》き裂《さ》かれそうな思いです。なにゆえに、これを受け入れなければならないのでしょうか……』
そこまで読んだエドガーは、不審《ふしん》な点に考え込んだ。
取り換え子を放置しろなどと、自分は言ったおぼえはない。何百年も前の伯爵の言葉を、この村は忠実に守ってきたのだろうか。
しかし文面は、昔の伯爵の言葉というより、現当主が言ったかのような印象だ。
と同時に彼は、クレモーナ公の孫娘が青騎士伯爵の花嫁として、チェンジリングを模《も》して連れ去られたという話を思い浮かべていた。
エドガーが伯爵となる前から、青騎士伯爵を自称する人物がいるのではないだろうか。
メロウの剣がないかぎり、国家にイブラゼル伯爵と認められはしないが、自称するだけならいくらでも可能だ。
調べてみる必要がありそうだと思う。
立ち上がりかけたエドガーのところへ、執事《しつじ》が現れた。
「旦那《だんな》さま、お客さまです」
「誰だ?」
「それが、名乗られませんので」
困惑《こんわく》した様子のトムキンスの後ろから、レイヴンが部屋へ入ってくると、エドガーのそばで小さくささやいた。
エドガーは頷《うなず》く。
「トムキンス、こぎたない客には早々に帰ってもらうから、お茶はいらない。応接間へは誰も近づけないように」
「わかりました」
不審に思ったとしても、執事は顔に出さないし、言いつけはきちんと守る。
あとはエドガーが、招かれざる客をたたき出せばいいだけだ。
「レイヴン、行こう」
神妙《しんみょう》に頷く彼をともなって、応接間へ入っていくと、若い男女が待っていた。
コーヒー色の髪を無造作《むぞうさ》に束ねただけの、つり目がちの女が、エドガーを見て口を開いた。
「よう、サー・ジョン。久しぶりだね」
「悪いけど、エドガーと呼んでくれるかな。それから、サーじゃなくてロードだ」
「あ、そ。名前、変わったんだね。えらくなったみたいだもんな」
にんまり笑う女の頬《ほお》に、かわいらしいえくぼができる。しかし、ソファを占領してふんぞり返ったままの態度は、かわいいとはほど遠い。
すぐそばにボディーガードよろしく腕を組んで突っ立っている、無精《ぶしょう》ひげを生やした巨漢は、たしか、ピーノという名の弟分だ。
椅子に腰をおろし、エドガーはふたりを交互に見た。
「わざわざアメリカから会いに来てくれたのかい? ロタ、きみはぜんぜん変わってないね。ピーノはえらく背がのびたようだけど。見違えるほど男らしくなったよ」
巨漢の少年は、わざと不機嫌《ふきげん》を装っているように「どうも」とだけ言った。
少年、そう、いかつい大男だが彼はまだ十代のはずだ。レイヴンと同い年だったか。
「で、用件は? 誇《ほこ》り高い海賊《かいぞく》のきみたちが、昔なじみにたかりに来たわけじゃないだろう?」
バカにするなと言いたげに、ロタはしかめっ面《つら》をした。
「何しに来たか、わからねえか?」
「わからないな」
「ベティをおぼえてるだろ」
「女の子のことは忘れないよ」
「あんたに会ったのは、あたしたちのお頭《かしら》が死んですぐのことだったっけね。ベティとピーノとあたしの三人は、お頭に姉弟みたいにして育てられてきた。血のつながりはないけどね」
「知ってるよ。きみだけはお頭の娘で、ベティとピーノはお頭が拾ってきた子供だったっけ? きみたちふたりは、ときどき海へ出ていたけれど、ベティは海賊なんて似合わないような女の子だったね。ずっと港町で、髪結《かみゆ》い女の家にあずけられて暮らしていた」
「そのままだったらよかった。でもあんたと出会って、ベティの運命は狂ってしまったんだ」
ロタが肩を落とすと、代わりにピーノが言った。
「紋章《もんしょう》のことなんて、知らなきゃよかったんだ。お姫さまってことでねらわれたなら……」
エドガーは、鷹《たか》と薔薇《ばら》が彫《ほ》られた紋章を思い出す。金の指輪は、コインほどの赤い石がはめ込まれていて、そこには高度な職人|技《わざ》で紋章が彫られていた。
内側で炎がゆらめくかのように、黄色みの混じった不思議な輝きを持ち、闇にうっすらと浮かびあがって見える蛍石《フローライト》だった。
たまたまエドガーは、その紋章がどこの家系をあらわすか知っていた。彼がまだ英国の、公爵家《こうしゃくけ》にいたころ、その紋章をもつ公国が崩壊《ほうかい》したこと、大公一家が散《ち》り散《ぢ》りになりながら他国へ亡命《ぼうめい》したことを聞いたことがあった。
家系をあらわす紋章は、それを見ただけで先祖がどこの出かわかるものだ。自分の家だけでなく、外国の紋章も学ばねばならない。そんな機会に聞かされた話だったと思う。
エドガーはベティに、紋章の大公家のことを話した。そのときはエドガーは、それがベティのものだとは考えてもいず、海賊のお頭がどこかで手に入れた戦利品だと思っていた。
しかしその日から、ベティは自分がお姫さまだったと身の上話を吹聴《ふいちょう》しはじめた。
噂《うわさ》を聞きつけ、やって来たのは、身内の消息《しょうそく》をさがしている大公に雇われたと自称する人物だった。
姉弟同然のロタやピーノと別れ、ベティは祖父が亡命しているオランダへ向かったはずだった。
そのまま、おとぎ話のように、幸せに暮らしているのかと思っていたが。
そうではなかったとすると、先日ウィンザーで会ったクレモーナ大公が言っていたとおりだということになる。
ベティを連れ去ったのは、大公とは無関係な人物だったのだ。
ロタがそれを知ったのは、本物の大公の使者が、ベティのいた町を調べに来たときだろう。そして親友の身を案じ、彼女は英国までやって来たのだ。
「大公の使いだとうそを言って、ベティを連れていった連中の首謀者《しゅぼうしゃ》が、青騎士|伯爵《はくしゃく》って呼ばれてたらしい。あたしたちはそいつのことを調べに来たところが……」
「僕がその青騎士伯爵だと知って驚いた、か。でもね、ベティがアメリカを発《た》ったとき、僕がまだあの港町にいたのはたしかじゃないか」
「でもさあ、ジョン……じゃなくてええと、エドガー、あんたは策士《さくし》だからなあ。どんな手使って伯爵になったのかも不思議だし、そんなことができるくらいなら、ベティがいなくなったことに一枚|噛《か》んでる可能性もあるかな、と」
「僕は何も知らない」
「ま、昔のよしみってだけで教えてくれるとは思ってないさ。だけどなあ、貴族になってこんな立派なお屋敷に住んでるあんたが、アメリカで処刑されたはずの強盗だって、知られたらまずいんじゃないの?」
「脅迫《きょうはく》するんだ?」
「取り引きさ」
[#挿絵(img/fluorite_067.jpg)入る]
バカバカしいとエドガーは立ちあがった。
「僕もいろいろ忙しいし、冗談ですむうちに帰った方がいいよ。昔なじみをテムズ河のゴミにしたくはないからね」
「あたしは本気だぜ。ベティに、指輪の持ち主がお姫さまだって教えたのはあんただ。そんでもって青騎士伯爵もあんた? そんな偶然あるかよ!」
ロタの手にナイフが握られていた。
次の瞬間レイヴンが動いた。
ロタではなくピーノに飛びかかったかと思うと、殴《なぐ》りつけ、ひざ蹴《げ》りを入れる。倒れた巨漢を押さえつけ、身動きできないよう腕をひねる。
エドガーは、その様子を呆然《ぼうぜん》と見ていたロタの手首をぐいとつかんだ。
「レイヴンがきみを止めているうちに、ピーノが僕を襲《おそ》う、って計画? 残念だったね」
ロタからナイフを取りあげる。
「そういえばロタ、僕たち手を握ったこともなかったね」
「な、何バカなこと……」
「きみはいつもそっけなかったし」
「あんたベティとつきあってただろうが」
「すぐふられたけど」
「てめーが毒入りの酒を飲ませようとしたからだ!」
「それは事実を曲解《きょっかい》しているよ。じっくり説明しようか、僕の部屋で」
「ロタ!」
レイヴンに押さえつけられたまま、ピーノが叫んだ。
「ロタに何かしてみろ、仲間たちが黙っちゃいねえからな!」
「エドガーさま、遊んでいる場合ではないかもしれません」
割り込んだ声はアーミンだった。
何? とロタをつかんだまま問う。
「リディアさんが早朝の船でヨークシャーへ発ったそうです」
思わず手を離す。
「ヨークシャー? どうしてそんなところへ?」
「ウォールケイヴという村から、取り換え子の相談があったそうで」
さっきの手紙の小領地だと気づくと、エドガーはあせりをおぼえた。
「知っていたのは執事《しつじ》だけです。エドガーさまには報告したとおっしゃっていたそうで」
「聞いてない。だいたい、僕がリディアをひとりで行かせるわけないじゃないか」
「ニコさんがいっしょだそうですが」
「あれをひとりと数えるか?」
一匹だろう、と強く思う。
それも、毛並みとヒゲとネクタイを気にするか、食べ物のことにしか関心がない猫だ。
ロタがピーノに駆《か》け寄り、助け起こそうとする。
それを横目に眺《なが》めながら、ベティを連れ去った青騎士伯爵と、ヨークシャーの小さな村で取り換え子を黙認しろと言いつけた伯爵《はくしゃく》とに、関連があるのかどうかをエドガーは考えた。
ベティが消えたとき、|取り換え子《チェンジリング》の形式どおりに木偶《でく》人形が大公《たいこう》のもとに届いた。そこに意味があるとすると、チェンジリングを放置しろと村人に言ったらしい青騎士伯爵とはつながりがありそうだ。
「トムキンス! ウォールケイヴ村の資料はあるか?」
呼べばすぐに、執事は書類を手に部屋へ駆け込んできた。
「特産が蛍石《フローライト》? ごくまれに、赤と黄の混じった稀少石《きしょうせき》が産出?」
「それ、大公家の紋章指輪……」
ロタがつぶやく。
「現在は鉱脈《こうみゃく》が尽《つ》きているようです。それより旦那《だんな》さま、わたくしこの村についてはあまりいい印象がなかったことを思い出しました。旦那さまがイブラゼル伯爵を継ぐむね通達いたしましたとき、この村からのみ何の返答もなかったのでございます」
領主といったって、顔も知らないただの地主だ。とくにこのアシェンバート家の場合、百年単位で不在がちなうえ、当主が領地を訪問することもめったになかっただろう。
エドガーだってまだ行ったこともない土地がほとんどだ。
そのわりには、妖精の住人が多い土地|柄《がら》、どこもかしこもエドガーに対して好意的な反応だったことからすると、ウォールケイヴ村はそもそも問題のある土地だったのかもしれない。
そしてそこへ、リディアが向かっている。
ロード・イブラゼルのフェアリードクターとしてだ。
ベティをさらった青騎士伯爵に遭遇《そうぐう》したらどうなる?
「トムキンス、リディアは船に乗ったって?」
「ええ、ニコさんが鉄道嫌いなので、よほど不便でなければ船を使うとおっしゃってました。妖精は鉄が苦手ですからねえ」
「どこの船に何時に乗った? 船会社で航路を確認できるか?」
調べようとトムキンスは急いで出ていく。
エドガーはロタとピーノに向き直る。
「きみたちの船はどこに?」
「ウォッシュ湾。テムズ河は入港管理が厳しいからさ」
「ちょうどいい。出番だよ。仮にも海賊《かいぞく》が、のろまな船になんか乗ってないよね」
「はあ? バカにすんな。クリッターだって追いつけるもんか」
「そんなわけないと思うけど」
「るせっ!」
「まあいい。追うのはクリッター船じゃない。ベティのことを知りたいなら、お互い協力すべきようだよ」
*
見たことのない旗を掲《かか》げた帆船《はんせん》だった。
黒地に目玉だなんて、なんだか不気味《ぶきみ》だ。それに、やたらと速い。
細い船首が波を割って、すべるように進む。
と思うと、あっというまに、リディアの乗っている船と並行に並んでいる。
船員たちが、わずかな風も逃《のが》すまいという的確《てきかく》な動きで帆《ほ》をあやつっているのが、小さく見える。
「ねえニコ、英国の船じゃなさそうよね。国旗もないし、どこから来たのかしら」
「海賊船じゃねーか?」
「え、まさかあ」
と笑いかけたそのとき、空に銃声《じゅうせい》が響いた。
むこうの船の甲板《かんぱん》に、ライフル銃をかかげた人影が見える。
銃声が合図だったかのように、船がこちらに急接近してくるのがわかると、リディアの周囲から悲鳴があがった。
乗客たちは逃げようと駆け出すが、どのみち船から逃げ出せるわけがなく、隠れようとしている人もいるが意味がなさそうに思える。
リディアはどうすることもできず、甲板の手すり際《ぎわ》にとどまりながら、ついさっきまでそこにいたはずのニコをさがした。
「ちょっとニコ! どこへ行ったの?」
まったく、逃げ足が早いんだから。
急に船がはげしくゆれ、リディアは転んだ。
すぐそばまで近づいてきた正体不明の船が立てる波のせいだ。
しかしむこうの船乗りたちは、ゆれをものともせず船上を動き回っている。
フックのついたロープがいっせいにこちらに投げ込まれると、さらにゆれに襲《おそ》われ、立ち上がれなかった。
ロープを伝《つた》って、船乗りたちが乗り移ってくる。船内はパニックになって、あちこちで悲鳴があがる。
なにしろこちらは、沿岸《えんがん》を航行するだけの定期客船だ。警備員だって客どうしのケンカの仲裁《ちゅうさい》やスリをつかまえるのが仕事だと思っているし、武装した海賊に立ち向かえるはずもない。
間もなく船員も乗客も、ほとんど無抵抗な状態で一カ所に集められ、周囲を男たちに取り囲まれた。
一段高いところに立って、声を発したのはライフルを肩に担いだ若い女だった。
「騒がせて悪いね。危害《きがい》は加えないと約束する。用が済んだらさっさと帰るからさ、ちょっと辛抱《しんぼう》してくれよ」
女海賊。本当にいるんだわと妙に感心していると、彼女と目があった。
頭の上で縛《しば》った髪が、背中に垂れ下がっている。馬のしっぽのようにゆらしながら、彼女はリディアに近づいてくると、目の前で立ち止まった。
つり目がちだが、上を向いた鼻や片えくぼのせいか愛嬌《あいきょう》のある印象だ。背丈《せたけ》もリディアとたいして変わらない。
不思議と怖いとは思わず、リディアは彼女を見つめ返していた。
「名前は?」
なんで? と思いながらも答える。
「リディア・カールトン……」
「ピーノ、間違いない」
えっ?
と思っている間に、見知らぬ大男にかつぎ上げられた。
「な、何するのよ!」
リディアが暴れても少しも動じず、しっかりつかんだまま、渡し板に飛び乗って船を移る。
ほかの海賊たちもいっせいに客船から立ち去ると、ロープを切り離して海賊船は再び速度を上げてその場から去る。
わけがわからないまま、船室の椅子《いす》におろされたリディアが、ガラス窓に目をやったときには、さっきまで乗っていたはずの船が遠く黒い点のように見えていた。
リディアをかついできた男は、彼女をおろして無言のまま出ていく。
意外にも小ぎれいな船室で、カーテンやクロスがなんとなく女性の部屋っぽくも思える。
さっきの彼女の部屋なのかしら。でもどうして、あたしをねらったの?
ユリシスの仲間?
むしろリディアは、まさかと思いながらもこの派手で強引なやり方に既視感《きしかん》をおぼえていた。
「やあリディア、僕から逃げられると思った?」
ドアが開いて現れたのは、やはりというか、目立つ金髪の、完璧《かんぺき》な微笑《ほほえ》みをたたえた青年だった。
「エドガー……、どういうことなの!」
「僕の前から黙って去ってしまうなんてひどいじゃないか」
「あたしはっ、フェアリードクターの仕事をしに行くだけなの」
「もういちど、ふたりの将来についてちゃんと話し合おう」
どうしてそうなるの?
「そんなこと言うために、船を襲わせたの? さっきの客船が港で通報したら、また犯罪者として追われるじゃない」
「大丈夫、あの船会社とは話をつけてあるから。抜き打ちの防犯訓練ってことで」
それはつまり、お金を渡してあるとか?
「あ、あなた非常識よ!」
「知らなかった?」
……知ってたわ。
脱力してうなだれる。
床に片ひざをついて、エドガーは身を屈《かが》めながらリディアを覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「いいかいリディア、若い女の子がひとり旅なんて、それこそ非常識だよ」
「仕事だもの、若くったって女だって、ひとりで行くのは当然よ」
「仕事だというなら、雇い主の意向を無視しないでほしい。僕の領地のことだ。ひとことの相談もなしに行動するのはおかしいと思わないか?」
たしかにその通りだから、リディアは頷《うなず》いた。
エドガーのことで腹を立てていたけれど、それとこれとは別問題なのに。
「それに、僕には敵がいる。奴らの動きが見えない時期に、きみをひとりで離れた土地へ行かせるなんて心配だ。たのむから、こういうことはしないでくれ」
困らせてしまったのだと気づくと、もうしわけなく思えてきた。
「……わかったわ」
ほっとしたような笑顔に惑《まど》わされる。
しかし、その点が正論だからといって、船からリディアを強奪《ごうだつ》していいわけはない。
海賊におそわれるなんて、びっくりしたし怖かった。そのショックを、にっこり微笑まれたってふつう水に流せるものじゃないと思うのに、リディアはもう怒る気力を失っていた。
「おいエドガー、婚約者|嬢《じょう》の猫ってこれかい?」
さっきの女性が顔を出した。毛足の長い灰色猫の首根っこをつかんでぶら下げている。
猫扱いされて、思いきり不機嫌《ふきげん》そうだ。
「ニコ!」
彼女が手を離すと、ニコは二本足で立ちあがり、曲がったネクタイを急いで直した。
「そうだリディア、紹介するよ。彼女がこの船のキャプテン、ロタだ」
「よろしくな、リディア」
手を差し出され、わけのわからないままリディアは、海賊と握手することになる。
それから、と彼女が呼ぶと、リディアをかついできた大男が姿を見せた。
「こいつはピーノだ。あたしの弟みたいなもの」
「お……弟? お父さんじゃなくて?」
思わずそう言ってしまうと、彼はひどく不機嫌な顔になってリディアをにらんだ。
「ピーノはレイヴンと同い年だよ」
エドガーに言われ、リディアは目をまるくする。戸口に突っ立っているレイヴンの姿がちらりと見えれば、ますます信じられなかった。
人種が違うとしても、腕の太さなんか三倍くらいありそうだ。
ピーノはさらに不機嫌そうに、口をゆがめた。
「この童顔といっしょにすんな。俺は年相応《としそうおう》だ」
「エドガーさま、殴《なぐ》ってもいいですか?」
「いいよ」
と言った瞬間、巨漢が床に倒れた。
「な、なにしゃがんだ、このっ!」
「ピーノ、やめとけ。かなう相手じゃないって知ってるだろ」
「レイヴン、いっぱつだけだよ」
はい。とレイヴンは素直にこぶしをおろし、ピーノは舌打ちしつつさっさと立ち去る。
いつのまにかレイヴンのそばにいたニコが、なだめるように彼の足をぽんぽんとたたいた。
「お互い、外見でなめられるよなあ」
妖精とはいえ猫と同類にされたレイヴンが、どう思ったのかは表情からうかがうことはできなかった。
[#改ページ]
隠されたチェンジリング
ロタの海賊団《かいぞくだん》とエドガーのつながりや、クレモーナ大公《たいこう》の消えた孫娘とベティという少女、ウォールケイヴ村でしか採れないフレイアという蛍石《フローライト》と、青騎士|伯爵《はくしゃく》を名乗る誰かの存在。すべてを一気に聞かされたリディアは、しばらく頭が混乱していた。
それでも、このままリディアがひとり村へ入るのは危険だと、エドガーが強奪《ごうだつ》を企《くわだ》てたのは理解した。
単なる悪ふざけというわけではなかったようだ。
甲板《かんぱん》に立って、日暮れ間際《まぎわ》の黒っぽい海を眺《なが》めていたリディアは、横風をさえぎる人の気配《けはい》に顔をあげた。
「暗くなる前に、近くの港へ入るよ」
エドガーが、手すりに寄りかかっている彼女の隣に並ぶ。
「この船でヨークシャーへ行くんじゃないの?」
「船底でごろ寝するのはいやだからなあ。今夜は港で宿を取って、汽車に乗ろうと思う。ニコにはロタたちと来ればいいと言っておいた。僕らは、通りすがりの旅人みたいなふりして村へ入る」
頷《うなず》きながら、肩が触れ合うのを感じたリディアは、本当は好きになりかけてるはずだと言った彼の言葉を思いだし、また息苦しくなっていた。
一方で彼は、やさしい微笑《ほほえ》みを浮かべ、おだやかにリディアを見つめている。
「こうしていると、思い出すね」
「……何を?」
「はじめて出会ったときのこと」
思い出して、リディアは眉《まゆ》をひそめた。
「そういえば、あのときもあたし、あなたに船で拉致《らち》されたんだったわ」
「そうだっけ?」
都合の悪いことは忘れるんだから。
「海の上で、ステキな一夜を過ごしたことしかおぼえてないな」
「誤解を招くようなこと言わないで」
「あのときが、運命の恋のはじまりだったと思わないか?」
「思わないわ」
「そのうち思うようになるよ」
ならないってば。
「そうだ、ベティのことはとっくに終わってるからね。彼女が見つかったって、変に気を回さないように」
アメリカにいたころつきあっていたとかいう話を、ロタがちらりともらしたのだった。
それだってリディアには、気になるような、気にするのはおかしいような、もどかしい感覚で、自分の中でどう整理していいのかわからない。
だた、フェアリードクターとして彼女を見つけだすことに専念しようとだけ思う。
「……もしもベティが|取り換え子《チェンジリング》として連れ去られたのなら、時間が経ってるだけに、難しいと思うわ」
「時間が経つと? どうして?」
「妖精の世界に馴染《なじ》んでしまうから」
「そう。彼女が妖精の世界を気に入ってるならそれもいいんじゃないかと思うけどね」
「あっさりしてるのね」
エドガーは、女好きだけどひとりに執着《しゅうちゃく》はしない。リディアは日ごろ、そんなふうに感じている。だからリディアのことも、ベティのように、いずれあっさり終わった≠アとになるのだと思う。
はじまってもいないけど。
「人は、そんなに簡単に人の世界から離れられないものよ」
「だったらきみも、ケルピーと妖精界へ行かなくてすむように、本気で僕と結婚する気になってほしいな」
「あたしは……、人じゃないかもしれないもの」
理解に苦しむといったふうに、エドガーはこちらを覗《のぞ》き込《こ》んだ。
「どのへんが? 妖精が見えるからかい?」
「取り換え子は、妖精の赤ちゃんを置いていくこともあるの。そういうとき妖精の子は、人間と見分けがつかないように魔法がかけられているのよ。でも体のどこかに、人とは違うところがあるはずなの。あたしは、この瞳の色がめずらしいからって」
「緑の目はべつにめずらしいわけじゃないよ」
それはリディアも知っている。でも、光の加減でくっきりと金緑に見えるリディアの瞳に、人は違和感《いわかん》をおぼえるらしい。
色のせいというよりは、妖精が見えるこの瞳は、本質的に人の目とは違う、妖精からの魔力を秘めた|贈り物《ギフト》なのだろう。
「ときどき考えるの。妖精界に本物のリディアがいるなら、帰りたがっていないかしらって」
「でもきみの母親はフェアリードクターだったんだろう? 娘が取り換え子にあったなら、放っておくはずはないと思うけど」
「そうね。父も、取り換え子なんかじゃないっていつも言うけど」
「納得できないの?」
「人の世に馴染めないから」
父の言葉を信じているけれど、自分の中の、人よりも妖精と通じる部分に気づいてしまうことがあるから。
「僕じゃ、だめなのか?」
どこか思いつめたように、エドガーは唐突《とうとつ》に言った。
「きみを人の世につなぎとめる存在にはなれない?」
「え……」
薄く擦《す》り傷《きず》の残るリディアの額《ひたい》に、そっと彼は手を触れた。風が髪をかきあげるから、目立ってしまうのだろう。
「ごめんね、女の子の顔に傷をつくってしまうなんて」
「すぐ治るわ。こんな傷、子供のころからしょっちゅうよ。……あなたのせいじゃないし」
「僕があそこへ連れていったんだ」
このところエドガーは、少し変わったとリディアは思う。彼女に対して責任を持とうとしている。婚約者としての責任を。
それまでのうわついた口説《くど》き方と違うと感じても、それをそのまま、彼の愛情だと信じるのは、リディアにはまだ難しい。
恋人どうしのように引き寄せられるのに抵抗を感じ、体を堅《かた》くする。
それでも彼は、これまでにないくらいやさしく肩を抱く。
「お願いがある」
「……何なの?」
「手を出して」
何だろうと思っている間に、薬指にムーンストーンの指輪をはめられていた。
「守護妖精のムーンストーン、魔よけになるんだろ? これから行くところは取り換え子のあったところだ。目には見えない何かからきみを守るためには、僕にできることは少なすぎる。だからせめて、今回のことが無事片づくまでは身につけておいてほしいんだ」
指先にキスして、これで安心と彼は微笑む。
いつのまにかリディアの手は、淑女《レディ》にするような彼のキスに慣れてしまった。
慣れたといっても、逃げたくなったり怒ったり混乱したりしなくなっただけで、唇《くちびる》が触れたところはいつまでも、自分の手じゃないような感覚が残っている。
「はずして、って怒らないんだね。ちょっとは僕を好きだって気がしてきた?」
はっ、忘れてた。
「はずしてちょうだいっ」
言ってみたけれど、やはりというか、エドガーは楽しそうに笑うだけだった。
*
小さな港町の宿《イン》を抜けだし、エドガーはひとり酒場《パブ》へ足を運んだ。
階級によって集まる酒場も違うのがこの国だが、宿に近いそのパブは、入口がわかれているだけの昔ながらのスタイルだった。
ちょっとした仕切りの向こうに、労働者階級の喧噪《けんそう》を聞きながら、ビールを注文する。
こちら側は、まばらに席が埋《う》まっているものの静かなものだ。
しばらくひとりで飲んでいると、アーミンが現れた。
「ご一緒させていただいてもよろしいですか?」
「監視に来たのかい?」
「はい。酔っぱらって女性を口説いて、宿に連れ込んだところをリディアさんに見られたりしたら、何もなかったなんてうそで切り抜けられませんよ」
「この間のことなら、うそじゃないよ」
「そういうことにしておきましょう」
苦笑《にがわら》いを浮かべながら、エドガーはビールをのどに流し込んだ。
「でもね、軽いキスでさえリディアには許せないらしい」
「軽くなかったからでしょう」
噂《うわさ》に聞くのと、目《ま》の当たりにするのとは大違いだということだ。
「もうね、自己|嫌悪《けんお》におちいってる。人の世に馴染めないとリディアは言った。このままじゃ僕のせいで妖精界へ旅立ってしまいそうにさえ思えた」
「では自制できますね?」
「楽しく会話するくらいは、浮気じゃないだろ?」
「会話ならわたしでがまんしてください」
「口説いてもいいのか?」
「お好きなように」
エドガーが、けっして自分を口説かないことを、アーミンは知っているから、冗談と受け流すだけだ。
「でも久しぶりだなあ、アーミン、おまえと飲むのはさ。レイヴンは昔から、酒場につきあうのは好きじゃないから、外で待ってるばかりだったし」
「子供に見られてしまうので、いやなんでしょう」
「ああ見えて意外と、童顔なのを気にしてるからね」
「下働きのメイドに十五歳と言われて、内心むっとしてました」
「感情を表現できるようになってるなら進歩だよ」
「でもあの微妙な感情表現は、誰にも通じていませんよ」
エドガーは笑う。
たわいのない話が、つかの間の安らぎを与えてくれる。この先どうなるか、何も見えないから、こんな時間がいとおしい。
「いいじゃないか。とにかくおまえが戻ってきてくれて、レイヴンはよろこんでると思う」
「どうでしょう。わたしの髪や爪《つめ》がのびないことや、眠ると水のように冷たくなる体を、受け入れがたく思っているかもしれません」
「僕は、うれしいよ。少しくらい以前と違っていたって、こうしてまた話ができて」
かすかに口元をゆるめたアーミンは、ほんの少し戸惑《とまど》っているようにも見えた。
「どんな感じ? 人の姿のままでいるのは、苦痛を感じるのか?」
「いいえ、自分では何も感じません。セルキーだということさえ、日ごろは忘れているくらいです。でもこうして海辺へやって来ると、波に呼ばれているような気がします」
「そう。……おまえを縛《しば》るつもりはないから、時が来たら、そう言ってほしい」
彼女がセルキーとしての自分を、自覚する時が来たら。
いつになく杯《はい》を重ねながら、無防備な酔い加減になる。店主が新たなグラスを差し出し、妖精のぶんだと言う。
ここの客は妖精に酒を奢《おご》ってやる習慣でもあるのだろうか?
酔っぱらった客からぼったくる手法かもしれず、だとしても妖精のぶんだなんておもしろい。
かまいやしないとシリング銀貨を放る。
ふと見ると、店主が置いていったグラスからは、飲んだおぼえもないのにビールが減っている。
妖精は、意外と身近にいる。リディアに出会ってから知ったことだった。
グラスをあけて、アーミンは立ちあがった。
「わたしはそろそろ」
「最後まで監視してなくていいのか?」
「監視役はわたしだけではありませんから」
意味がよくわからないまま、しかし彼女のそっけなさに、たぶん物足りなさを感じていた。
「アーミン、このまま僕は、リディアといっしょにいていいと思うか?」
気がついたら、引き止めるように手をつかんでいた。
「彼女には強引な態度で接しているのに、もしもその気になってくれたとき、ちゃんと受けとめられないんじゃないかと不安になる」
「そうする決意をなさったのでは」
「決意したつもりで、すぐにゆらぐ。彼女を守るすべもないまま、僕の争いに巻き込んで、取り返しのつかないことになるかもしれないと考えると、きらわれるようなことをしそうになるんだ」
「浮気をですか?」
絵本で読んだ妖精物語のように、すべてを台無しにしてしまう方法。
「そういうのが、リディアはいちばんいやだろうと知ってるから」
何でこんなことを言っているのだろう。
「修復不可能にきらわれてもいいんですか?」
「いやだ。でも、そこまできらわれないと、僕はリディアをあきらめられないだろう」
そして気づく。今夜はどうかしていると。
けれども、つかんだままのアーミンの手を、エドガーは見つめ、アーミンは彼の顔をじっと見ていた。
「そこまできらわれるだろう浮気相手が必要ですか?」
彼女はいつでも、正確にエドガーの意図《いと》を察するのだ。
「……かもね」
緊張するアーミンの気配《けはい》を指先から感じながら、冗談だと笑わなければと思う。
冗談なのだろうかと、自分でもよくわからないまま。
アーミンが慎重《しんちょう》に息を吐《は》く。
「わたしに、拒《こば》めるとお思いですか」
ようやく、エドガーは手を離す。
「冗談だよ、そんな怖い顔しないでくれ」
「…………」
「……にしたって最低だね。飲み過ぎたかもしれない」
「エドガーさま、自虐的《じぎゃくてき》すぎます。ふたりで手を取り合って、問題を解決していけばいいじゃありませんか。アメリカにいたときとは違います。ただ戦うばかりでなく、幸せになることを考えてもいいのではないですか」
「僕に女性を幸せにする能力があるのだろうか。恋人にはいつも愛想《あいそ》を尽《つ》かされるし、アーミン、おまえのことは傷つけてばかりだった」
「リディアさんは、愛する人となら、弱点も欠点もささえようとする人だと思います」
「……うん、もしも彼女が、僕を愛してくれるならね」
「わたしは、そうなるように願っていますから」
アーミンがパブの戸口から出ていく気配を背中に感じながら、エドガーはため息をついた。
「いったい、どうしたいんだろう」
妖精のためのビールがさらに減っているのを眺《なが》めていると、それがすべるようにテーブルの上を動いた。
「相当ひねくれてるな、伯爵《はくしゃく》」
声とともに姿を現したのは、テーブルに座り込んでいる灰色の猫だ。
かかえるようにして大きなグラスを持ちあげ、ビールを飲む。
「なるほど、もうひとりの監視役か」
「彼女と浮気すりゃ、そりゃリディアは傷つくだろうなあ。あっちはずっとあんたに惚《ほ》れてるんだし、それはリディアも知ってるし、気まぐれですまないじゃないか」
「アーミンにはもうそんな感情はないよ」
「んなわけねえだろ。わかってるくせに」
泡のついたヒゲを、ニコは前足でぬぐう。
「そうなったら、あんたは最低最悪の男だ。女の気持ちを利用して傷つけるだけ。リディアだって顔も見たくなくなるだろうって」
「しないよ、できるわけないじゃないか」
「それほどっちのためだ? リディアか? アーミンか?」
「どっちもだよ」
「うそだらけだな、伯爵」
「ニコ、リディアにはよけいなこと言わないでくれるね」
「魚のフライが食いたいな」
「わかったよ」
「かといって、言わないって約束はできないけどな」
ふてぶてしい態度にむかつくと、撫《な》でまわしてやろうかと思ったが、自分がいけないのはわかっていたから、かろうじてエドガーは、八つ当たりを思いとどまった。
こんなひどいこと、ニコだってリディアに聞かせたくはないだろうから。
*
「学者さんですか?」
「いえ、ただの道楽ですよ」
「妖精話を集めていらっしゃると」
「伝承物語《フォークロア》についての本を書こうと思っていましてね」
エドガーは、思いつきのうそを並べながら、出会った村人を馬車に乗せ、ウォールケイヴ村にはひとつしかないという宿泊施設へ案内させているところだった。
「この村に、妖精話なんかありましたかなあ」
「どこの土地でも、ひとつやふたつあるものでしょう。こういったことはお年寄りや女性の方が詳しいかもしれませんが」
「しかしなんでまた、ここをお訪ねに?」
「偶然ですよ。いつも行き当たりばったりなんですが、このあたりの丘陵《きゅうりょう》地帯は景観がすばらしいと聞きましたし、今回の旅行は婚約者を連れてきていますので、立ち寄ってみようかと」
「そういうことでしたら、見どころは色々ありますよ。都会のかたは、ちょっとした山や崖《がけ》がめずらしいみたいですからね」
やりとりを聞きながら、なんだか妖精話に触れられたくなさそうだとリディアは思う。
丘が幾重《いくえ》にも連《つら》なる風景に、岩肌の起伏が重なる。雄大な自然が目を楽しませてくれる。しかし集落に近づいても、農地があまりにも少ないのではないかと感じる。
柵《さく》に囲まれた麦畑も、この季節なら収穫を終えた麦藁《むぎわら》が積まれていてもよさそうなものなのに、枯れかけた雑草だらけだ。
村のいちばんの収入源は蛍石《フローライト》だというから、もともと農地は少ないのかもしれないが、このごろはフローライトも採れないと聞くのに、どうしているのだろう。
出稼《でかせ》ぎの収入だけで生活しているのだろうか。
考えているうち、集落を通り過ぎ、民家とは雰囲気《ふんいき》の違う、背の高い石造りの建物が見えてきた。その前で馬車が止まると、領主館だと村人は言った。ふだんは宿泊施設として開放していると。
「領主は住んでおられないのですか?」
「めったに来られませんな。あちこちに領地のある伯爵なので」
「最近はいついらっしゃいました?」
「さあ、いつでしたかな。二年は経っているかと」
それを聞いて、エドガーはリディアの方をちらりと見た。
やはりこの村には、青騎士伯爵を名乗る人物が訪れているのだと、リディアも神妙《しんみょう》に頷《うなず》く。
「ちょっとお待ちを」
そう言って村人は、建物の裏手へ姿を消す。ややあって、女性がふたり現れた。
「ミドルワース子爵《ししゃく》ですね。すぐご案内します」
エドガーがさっきの村人に名乗った偽名《ぎめい》がそれだ。年長の女が入り口の鍵《かぎ》をあけ、若い方の女にあれこれ指図《さしず》する。
今日の宿泊客は、どうやら自分たちだけのようだった。
「海の見えるお部屋がよろしいですか、奥さま」
「えっ」
突然そう呼びかけられて、リディアはあわてた。
「彼女はまだ婚約者だから、部屋を別にしてくれるかな。侍女《じじょ》の控《ひか》え室《しつ》がすぐそばにあった方がいい。海が見えればなおいいけどね」
侍女? と驚いて見まわし、目が合ったアーミンは、当然のような顔をしていた。
フェアリードクターだということを隠して、村に潜入《せんにゅう》する必要があったとしても、なんだかエドガーのいいようにされている気がしてくる。
いかにも貴族の令嬢《れいじょう》に見えるようなドレスを着せられているし、侍女を連れて婚約者と遊びに来ているように見えるだろうが、エドガーの悪ふざけにつきあわされている気分だ。
「マーサ、ではお嬢さまをご案内して」
年長の女が言い、若い女が頷いた。
マーサという名に、リディアは思い出す。|取り換え子《チェンジリング》の手紙を送ってきた女性も、たしかマーサだった。
「リディア、あとでね」
エドガーはにっこり微笑《ほほえ》み、レイヴンと部屋の中へ消える。
別室へと案内されながら、リディアは彼女に話しかけた。
「あのー、結婚してらっしゃるんですか?」
物静かというか、なんとなく沈んだ印象なのも、取り換え子の母親ではないのかと気にかかる。
「はい。この村へ嫁《とつ》いできて一年半になります。主人は隣町へ働きに出ていて、今は村にはおりませんが」
「お子さんは……」
「おりません」
この人じゃないのかしら。でもエドガーの話では、取り換え子をあきらめろと村で言い含められているらしいから、子供はいないと言っているのかもしれない。
不審《ふしん》がられるかもしれないと思いながらも、リディアは訊《き》いた。
「結婚して間がないご夫婦って、ほかにいらっしゃいます?」
「いえ、小さな村ですからあたしだけですが。……それが何か?」
「え? ええとあの」
「お嬢さまは、このところ若い既婚者の話を聞きたくてしかたがないようです。ご自分の結婚が間近となれば、いろいろと心配事もあるようで。でもどうか、お話しするのは結婚してよかったことだけにしてくださいませ」
アーミンが助けてくれて、リディアは胸をなで下ろす。
「そうですか。でもあたしでは、お嬢さまのお役に立てないと思います。結婚を、後悔していますから」
後悔? チェンジリングにあったから?
それにしても後悔だなんて、子供を盗られたというのに、夫がそばにいないからだろうか。
驚くリディアをよそに、彼女は事務的に部屋に案内する。
「お付きの方のお部屋は、そちらの奥にございます。暖炉《だんろ》の火種《ひだね》をあとで取りに来ていただけますか? 人手が足りないものですみません」
アーミンが頷くのを横目に、彼女はてきぱきとカーテンを開け、用が済めば去ろうとしたから、リディアはあわてて引き止めた。
「あの、あたし、妖精が見えるんです!」
怪訝《けげん》そうに彼女は振り返った。
「何か困ったことはありません? 妖精と話もできるし、力になれるかも……」
急に顔色を変え、彼女は言った。
「それがほんとうなら、この村から早く出ていった方がいいと忠告しておきます。でないと、命にかかわりますよ」
脅《おど》しのような言葉を吐《は》いて、彼女は足早に出ていった。
「どういうことなの?」
戸惑《とまど》いながらリディアはつぶやく。
「村ぐるみで、チェンジリングを口外《こうがい》しないよう彼女のことも脅しているのかもしれませんね」
「彼らが青騎士|伯爵《はくしゃく》だと思っている人物が、言いつけたことを守るため? そうね、だったらほかの村人も、妖精のことは話してくれそうにないわね」
でもどうして、取り換え子を取り戻してはいけないのだろう。
アーミンが、火種を取りに部屋を出ていく。
窓の外は、風の音が絶え間なく続いている。部屋の中とはいえ火が入っていない建物は冷え切っていて、外套《がいとう》を取る気にならず、そのままリディアはソファに腰をおろした。
窓が不自然に音を立てるのに気づき、顔をあげると、ニコがそこに立って、窓をたたいていた。
結局ニコも汽車に乗ってきたのは、いちおうリディアから目を離すまいと心配しているのか。開けてやると、窓からぴょんと飛びおり部屋の中へ入ってきた。
「おいリディア、この村ってやけに静かだな。道を歩いてる人も少ないし、青騎士伯爵の土地だってのに妖精の姿も見えないぞ」
人が少ないのは、町へ働きに行っている人が多いせいだろうが、そういえば妖精を見かけないのは不思議だった。
と思ったが、ふさふさとしたニコのしっぽに隠れるように、小さな黒っぽい影が動いたのにリディアは気づく。
「それは? ニコの友達?」
「あ?」
振り返ったニコは、しっぽを持ちあげ、そこにいた茶色くて小さな妖精を見つけると、腰に手をあてて向き直った。
「なんだおまえ、勝手におれのしっぽをさわるんじゃない」
(あ? ああ悪いね……。見かけない猫だと思って)
「猫じゃねえぞ」
(ええっ)
「猫はしゃべらないし、立って歩かねえだろうが」
(そ、そういえばそうだねえ……)
「おまえバカか?」
スカートをはいて頭巾をかぶっている、女の妖精だ。ブラウニーに似ているが、ちょっと頭が弱そうな感じはむしろドービーだろうか。
「ちょっとニコ、ひどいこと言わないの」
振り向いた小さな妖精は、リディアと目が合うと、あわてたようにまたニコのしっぽに隠れようとした。
「やめろって、この人間は怖くないからさ」
(へっ、あたしが見えるのかい?)
「見えるわよ。あたしはフェアリードクターだもの」
(フェアリードクター!)
妖精は、驚いたように声をあげ、リディアの足元に駆《か》け寄ると、必死の様子でスカートのすそをつかんだ。
(あたしの赤ん坊を助けておくれよ!)
「えっ? どういうことなの?」
(鍋に入れられてしまったんだよ。ほうっておいたら、ぐつぐつ煮立てられてしまうよ!)
鍋に妖精の赤ん坊を入れる? それは人が妖精のチェンジリングを疑ったとき、赤ん坊の正体を暴《あば》くためにとる方法のひとつだ。
妖精たちは、魔法をかけて人間の姿になった妖精を、盗んだ赤ん坊の代わりに置いていくことがある。そういう場合、妖精の赤ん坊をひどい目にあわせてやると、本性《ほんしょう》をさらけ出し魔法が解けてしまうから、盗んだ赤ん坊を返すと言われている。
しかしリディアには、あまりいい方法だとは思えなかった。
返してもらえるとは限らないし、そのせいで盗まれた人間の赤ん坊が妖精たちにひどい目にあわされる場合もある。
むしろ妖精を知らない人々が勝手に信じているやり方で、フェアリードクターならそんなことはしない。
「あなたの赤ん坊って、村人の赤ちゃんと取り換えた子?」
(そうだよ、でも鍋に入れるなんてひどいじゃないのさ)
妖精は鉄を好まないから、ゆりかごの代わりに鍋の中に寝かせただけでひどいと感じる。さっきの女性、マーサは、どこかで聞き覚えたその方法を試そうとしたのだろう。
しかし彼女はここで働いているし、鍋を煮立てるひまは今のところなさそうだ。
「だったら、彼女の赤ん坊を返してあげなさいな」
(だめだよ。みんなが許してくれないもん)
女のドービーは、リディアのスカートで涙をふいた。
そっと彼女を持ちあげ、リディアはテーブルの上に乗せる。
「みんなって、あなたの仲間? どうして許してくれないの?」
(そんなことしたら、あたしたちみんなワームに喰《く》われちまうよ)
ワーム? 蛇《へび》のような巨大な竜だ。トカゲみたいに手足があることもある。
翼のあるドラゴンとはまた別の、英国に多いのはこちらの種類の竜だ。
「ここにはワームがいるの?」
(ワームがフレイアを生み出すんだ)
フレイアという名の、貴重な蛍石《フローライト》が採れるということだった。
炎《フレイア》、という名は、ワームの吐く炎からきているのかもしれない。
(ワームは人間の子を食べたがってる。あたしたちに、人間を盗んでこいって言うんだよ。しかたないから|取り換え子《チェンジリング》で……。でもあたしの子が痛めつけられるのなんていやだ。助けておくれよ、フェアリードクター)
とすると、さっきの女性《マーサ》の赤ん坊は、ワームのところにいるということだ。
「じゃ、人間の子は食べられてしまったの?」
(まだだと思うよ。奴は人間をゆっくり岩にしてから食べるんだ)
けれど、まだだとしても取り返すのは難しい。
それにしても、この土地は昔、青騎士伯爵が妖精と取り引きして蛍石がきちんと採れるようにしたはずだった。そのときワームとも、フレイアのことで取り引きしているはずではないのだろうか。
「ねえドービー、ワームが人間の子をほしがるようになったのは最近じゃないの?」
(そうだよ。ワームはずっと眠り続けてたんだよ。青騎士伯爵に倒されてからずっとさ。でも目覚めちまった)
「だったらまた眠らせる方法を考えなきゃ」
(無理だよ。ワームは青騎士伯爵にしか倒せない。でも新しい青騎士伯爵がワームを目覚めさせたんだ。フレイアがほしいばっかりに。伯爵はもう、あたしたちの願いなんてきいてくれない)
新しい伯爵、そいつが村人たちに取り換え子をがまんさせている人物に違いなかった。
「その伯爵はニセ者よ」
(ニセ者? だったら本物の伯爵が来てくれれば、ワームを倒してくれるのかい?)
勢いよく言ったものの、リディアは返事に戸惑った。
エドガーに、昔の青騎士伯爵みたいに巨大な竜を倒せるわけがない。となると、本物がここにいると主張するわけにもいかない。
(ああ、それよりフェアリードクター、あたしの子をせめて鍋から救いだしておくれ。早くしないと煮立っちまう)
「わかったわ。案内して」
リディアは、素早く動く小さな妖精のあとについていくことにした。
領主館は、集落からは少し離れた場所にある。そこを出たリディアは、雑木林《ぞうきばやし》を抜けてしばらく歩いた。
村のはずれにあたる一軒家《いっけんや》の、勝手口でドービーは立ち止まる。リディアは中を覗《のぞ》き込《こ》むが、鍋が見あたらない。
(あたしの子、どこへ行ったんだい? さっきまでここに鍋があったのに)
ドービーの女は土間《どま》を歩き回る。
(寒くてかわいそうだったから、芋《いも》をいっぱい入れといてやったんだ)
「おいリディア、誰か来たぞ」
ニコの声に、リディアは急いで柱の後ろに身を隠した。
マーサの義母だろうか。年取った女が勝手口から入ってくると、芋の入った鍋をかかえているのがわかる。
鍋には芋がひたるくらいに水が入っている。眺《なが》めていると、彼女はそれをかまどの火にかけた。
「えっ、ちょっと待って!」
リディアは柱の陰から飛び出していた。
女を押しのけ、鍋に両手を突っ込む。芋をかきまわし、やわらかな産着《うぶぎ》をつかんで赤ん坊を引っぱり出す。
「だ、誰だい、あんた?」
「なんてことするの? 赤ちゃんが水浸《みずびた》しよ。そのうえ火にかけるだなんて!」
彼女は眉根《まゆね》を寄せて、リディアが抱いている赤ん坊と鍋を交互に見た。
「知らなかったよ。あたしは嫁《よめ》に、芋を煮ておくように頼まれただけで。でもその赤ん坊、ずぶ濡《ぬ》れでも泣きもしない。やっぱりふつうじゃないってことだね」
赤ん坊から目を背《そむ》け、彼女は背を丸めて椅子《いす》に座り込んだ。
ふつうの人間の赤ん坊よりこころもち小さいくらいだが、妖精の赤ん坊はくしゃくしゃした茶色い顔をしていた。耳もとんがっているし、人に見せかける魔法は、あまり上等とはいえない。赤ん坊の顔が急にこんなふうになってしまったら、取り換え子を疑わずにはいられないだろう。
赤ん坊の祖母も、戸惑《とまど》い、悲しんでいるようだ。
ドービーの女は、自分の子が火にかけられそうになってショックだったらしく、土間に座り込んで泣いている。もちろんリディアにしか見えていないだろう。
ニコのしっぽで顔をふこうとするものだから、彼はあわててしっぽを持ちあげた。
「ねえおばさん、取り換え子だからってひどい扱いをしちゃいけないわ。清潔な産着に包んであげて。鍋の中になんて寝かさないで」
再び彼女は、怪訝《けげん》そうに顔をあげた。
「だからあんたは誰なんだい?」
「あたしは、フェアリードクターよ」
「フェアリードクター? ふん、妖精が見えるって人は、妖精の味方ばっかりするさ。妖精のご機嫌《きげん》取りを勧めるばかりだよ」
「そんなことはないわ。妖精がひどいことをしたら、こらしめることもあるわよ」
「だったら、うちの赤ん坊を……」
言いかけ、彼女は口をつぐんだ。
取り換え子を連れ戻してはいけないと言い聞かされているからか。
「出てっておくれ」
「でも……」
「人を呼ぶよ。この村で、妖精のことに口出しするフェアリードクターだなんて名乗ったら、無事じゃすまないよ」
「どうしてなの? 領主がそう言ったから? でもその領主はニセ者よ!」
「なんてことを言うんだい!」
女は血相《けっそう》を変えて立ちあがった。
「この家の中でそんなこと言わないでおくれ。家族にまでとばっちりがくるよ!」
そのときリディアは、戸口をふさぐ人影に気がついた。
村人らしい男がふたりばかり、腕を組んで突っ立っていた。
「フェアリードクターか。この村に旅行客なんておかしいと思ってたんだよ」
リディアをにらみつけながら、ひとりが言った。
「う、うちは関係ないよ。なんだか知らないけどこのお嬢《じょう》さんが勝手に来たんだから」
「どうかなあ。誰かが呼んだんじゃないのか? とにかく、村長に話をつけてもらわなきゃならないな」
*
エドガーはレイヴンを連れて、領主館の三階へとやって来た。領主が滞在するための部屋が、このフロアだろうと考えたからだった。
二年ほど前にも現れたという、青騎士|伯爵《はくしゃく》を名乗る人物について知る手がかりがあるとしたらここだろう。
メロウの剣を手に、エドガーはひとつずつ部屋を確かめる。彼を青騎士伯爵と認めていないらしい村に行くなら、必要かもしれないと持ってきた。
今どき、軍人でもなければ帯剣《たいけん》している貴族なんてほとんどいないが、肌身離さず持っているしかないからしかたがない。
いくつかの部屋には鍵《かぎ》がかかっていたが、開けるのは造作《ぞうさ》なかった。
執務室《ジェントルマンズルーム》らしい一室に忍び込んだエドガーは、部屋の中をぐるりと見まわした。
カーテンが閉まったままの薄暗い中、部屋の片隅《かたすみ》で淡く浮かびあがって見えるのは蛍石《フローライト》の彫刻だ。
エドガーは歩み寄る。レイヴンが燭台《しょくだい》の蝋燭《ろうそく》に火を灯《とも》すと、赤みがかった紫の、その輪郭《りんかく》がさらにはっきりとした。
「飛び立とうとする白鳥か、レイヴン、すばらしい作品だね」
レイヴンは、肯定《こうてい》も否定もしなかったが、もとより返事は求めていない。エドガーは彫刻から離れると、デスクの上を検分した。
伯爵家の紋章《もんしょう》が入った便せんや封印《ふういん》があった。
引き出しを片《かた》っ端《ばし》から開け、中を確かめる。しかしほとんど空っぽだ。
レイヴンが鍵のかかっていた戸棚を開けたが、どう考えても不自然なほど、そこにも何も入っていなかった。
ここにあったはずの、見られて困るような書類は処分したか隠したか。
エドガーは暖炉《だんろ》に歩み寄る。掃除されているが、隅《すみ》に残った灰の中に、綴《と》じ紐《ひも》らしい革の燃えかすを見つけ舌打ちした。
しかしふと彼は、床の絨毯《じゅうたん》に目をとめた。
その片隅から、黄ばんだ紙切れのようなものがのぞいていたからだった。
絨毯をめくり、その下に入り込んでいたらしい紙を拾いあげる。
「エドガーさま、それは」
「帳簿《ちょうぼ》の一部、のようだ」
文字を目で追ううち、エドガーはしだいに眉間《みけん》にしわを寄せていた。
蛍石の採掘量が記されている。
採れなくなったはずの蛍石が、大量に掘り出されている。
「エドガーさま、人が来ます」
そのとき、階段をあがってくる複数の足音が、エドガーの耳にも聞こえた。
旅行客を不審《ふしん》に思った連中が、領主館へ調べにでも来たのだろうか。
戸口へ歩み寄ったレイヴンが、鍵をかけようとしたが、エドガーはもういいよと言った。
「逃げ隠れする必要もない。連中の言い分でも聞いてやろう」
領主の席であるはずの椅子《いす》に、エドガーは腰をおろす。
と同時に、勢いよくドアが開き、男が数人なだれ込んできた。
座ったままのエドガーのそばで、レイヴンが腰のナイフに手をやり身構えた。
村長だという老人についてくるように言われ、リディアは領主館へ戻ってきた。
なんとなく物々《ものもの》しい雰囲気《ふんいき》に包まれたまま、村の男たちに取り囲まれながら、建物の階段をあがるよう促《うなが》される。
勝手にフェアリードクターを名乗ってしまったことが、エドガーの迷惑になるだろうかと心配するが、いまさらどうしようもない。
エドガーが泊まっているはずの部屋へ確認に行ったひとりが、戻ってきて村長に何やら耳打ちした。
頷《うなず》き、彼はリディアを促しつつ階段をさらに上へあがる。
とあるドアの前で立ち止まり、しばし中の様子を確かめるように耳をそばだてていた彼らだが、やがてお互い頷きあうと、勢いよくドアを開け、中へとなだれ込んでいった。
「諸君、用があるときはノックをしてから入ってくるのが礼儀だよ」
エドガーの、まるきり平然とした声がリディアの耳に聞こえた。
「こんなところで何をしてる」
「何って、困ることでも?」
「あたりまえだろ、ここはおれたちの領主の部屋だ!」
「まあ待ちなさい」
血の気の多い若者を諭《さと》すように声をかけて、村長が部屋へ入っていく。リディアは、背後《はいご》の男に押されるようにして進み入る。
エドガーと目があったとき、一瞬彼にもレイヴンにも緊張が走ったように見えたが、村長が彼女を丁重《ていちょう》に椅子に座らせるのを、ふたりとも黙って見守っていた。
すぐにリディアのそばを離れた村長は、しかし誰も逃がさないというように、戸口に立ったまま口を開いた。
「お連れの少女が、フェアリードクターだと名乗って、村人の赤ん坊を鍋に突っ込んだそうです」
「ち、違うわ! あたしは赤ちゃんを助けたのよ。|取り換え子《チェンジリング》をいじめたって、本当の子供は戻ってこないわ。ちゃんとした対策をとらないと……」
「バカげていますよ、取り換え子だなんて。あの家の嫁《よめ》は、生まれてきた子供が少しばかり醜《みにく》いからって、取り換え子だと騒いでいるだけです」
さっきもリディアが、村長の屋敷で言い争ったことだった。
「どうしてあなたたちは、取り換え子のことをそこまで隠すの?」
リディアを無視し、村長はエドガーの方を見た。
「ミドルワース子爵《ししゃく》、とおっしゃいましたっけ。貴族を名乗って地方の名家に泊まり、貴重品を盗み出す泥棒がいるそうですな。この娘が村で騒ぎを起こしているうちに、鍵のかかっている部屋を物色するなどおかしいじゃないですか。警察に突き出される前に、さっさと出ていっていただけますか」
「残念だけど、泥棒なのはきみたちの方だよ。警察なんかに介入されたら困るのもね」
エドガーは、うっすらと笑みを浮かべながら立ちあがる。
リディアが知っている中ではいちばん危険なエドガーだ。相手を徹底的にやりこめてやろうと思っている。
「は? 何をおっしゃるやら」
「ここは僕の館《やかた》、すべて僕のもの。持ち出そうが壊そうが、僕の自由」
そばにあった高価そうな花瓶《かびん》を、わざと手で払って落とす。
ガラスの割れる耳障《みみざわ》りな音に、若者がひとり、反射的にナイフを取り出すと、次の瞬間にはレイヴンに殴《なぐ》り倒され、壁際《かべぎわ》まですっ飛ぶ羽目《はめ》になった。
「レイヴン、手加減するように」
「はい」
さて、とエドガーは硬直《こうちょく》する連中を見まわした。
「僕が誰だかわかった?」
デスクに置いてあったものを取りあげる。さやに収まったままの長い剣だ。
メロウの宝剣、と見守るリディアの前で、彼は剣を抜く。
大きなスターサファイアがよく見えるように、黙り込んだ村長の正面にかかげた。
「きみたちの主人、イブラゼル伯爵はこの僕だ」
村人たちは静まりかえった。
青騎士伯爵の身分をあかす宝剣を見たことはないだろうが、メロウの星と呼ばれるスターサファイアがついていることは知っているだろう。
シルクの光沢《こうたく》を持つ深い碧《あお》も、くっきりと浮かびあがる十字《クロス》の星も、そうそうある宝石ではない。
みんなあきらかに、驚きの表情を隠していなかった。
しかし村長は、落ち着こうとするように深呼吸した。
「……私は、領主には何度もお会いして、存じあげています。あなたではありません」
やれやれと、エドガーはおどけたように肩をすくめた。
「そいつにだまされてたってことにしておいた方が身のためだったのにね。これできみたちは、そいつと共犯だ。協力して僕をあざむいたと思われてもしかたがない」
剣をぶら下げながら、彼は村人たちの前をゆっくり歩く。
「この土地で採れる、僕の[#「僕の」に傍点]蛍石《フローライト》だけどね、鉱脈《こうみゃく》が尽《つ》きてきたと伯爵家《はくしゃくけ》の執事《しつじ》に報告しながら、実際には以前よりも採掘量が増えている。まったく、どっちが泥棒だか」
デスクのところまで戻ってくると、黄ばんだ紙切れをひらりと突き出す。
「フローライトを横流しして得たお金を、村長、一部の村人たちで山分けかい? とすると、裏の売買ルートがあるんだね。なにしろここのフローライトは、英国ではここでしか採れない特徴的な色合いだ。産地を偽《いつわ》って流通させることもできない。ということで、何もかもお膳立《ぜんだ》てして君たちと共謀《きょうぼう》し、僕のフローライトを盗んだ、きみたちの首領、青騎士伯爵を名乗った泥棒について話してもらおうか」
「フローライトの鉱脈は尽きております」
頑固《がんこ》に、村長は言った。
「おっしゃるとおり、勝手に売りさばくことなどできません。そんなものはただのメモで、正式の書類でも何でもないのです。村中さがしても、フローライトも大金も出てきませんよ。私たちはみな、慎《つつ》ましい暮らしを営むのがやっとです」
なるほど、とエドガーは楽しそうに微笑《ほほえ》んだ。完璧《かんぺき》な容貌《ようぼう》が浮かべる完璧な笑みは、残酷《ざんこく》な気配《けはい》がする。
あれはかなり頭にきているわと、リディアでもわかる。
「表沙汰《おもてざた》にしても、あくまでしらばっくれるということか。領主にたてつくつもりなら、それなりの覚悟はあるんだろうね」
「私たちの領主は、あなたではない」
「僕を怒らせたね。まとめて地獄へ送ってやるから」
昔の暴君《ぼうくん》みたいに、エドガーは冷ややかに言い放《はな》った。
[#改ページ]
ほんとうの気持ち?
対話は決裂《けつれつ》したまま、村長と村人たちは引きあげていった。
エドガーは領主館に残り、レイヴンとアーミンと、リディアを一室に集めて言った。
「さてと、これからどうするか」
「エドガー、何も考えずにあんな啖呵《たんか》切ったの?」
村長たちが蛍石《フローライト》を横領《おうりょう》したと暴《あば》く算段でもあるのかとリディアは思っていた。
「考えてたら啖呵切れるわけがないよ。こっちは四人しかいなくて、向こうは村中の男をかき集めれば数十人、ケンカにもなりやしない」
「現物のフローライトを隠しているでしょうから、それを押さえるしかありませんね」
アーミンが言った。
「でも、勝手に家《や》捜《さが》しもできないし、それより村中があたしたちに敵意を持ってるってことが問題じゃないの?」
「たしかに。僕らを殺して闇に葬《ほうむ》る、なんてことまでは考えてないと思うけど、無理に彼らとニセ領主の秘密を暴こうとすれば、こちらの身も危険だろうね」
かといって、エドガーにこのまま引き下がるつもりがあるはずもない。どうにも彼は、自分のものを奪われるのは我慢ならないと思っているふしがある。
物だろうと権利だろうと人だろうと、盗まれるまではそんなものがあったことさえ知らなかったとしても、踏み込んできた者は容赦《ようしゃ》しないのだ。
この間のパーティで、リディアにからんできた青年たちにも仕返しするようなことを言っていたし。
そう考えるとリディアは、自分も彼にとって所有物みたいな認識なのではないかと思う。
そのとき、ノックの音がした。
村人たちはみんな、領主館から引きあげていき、無人になったはずだった。下働きのメイドもいなくなれば、貴族が滞在《たいざい》するには不自由すぎる。
そうすることで、エドガーをさっさと出ていかせようと村長は考えたはずで、だったら誰なのかと部屋の中の四人はドアに注目した。
「あの、お茶が入りました」
ワゴンを引いて、マーサが現れた。
何事もなかったかのように、テーブルに焼き菓子やスコーンやサンドイッチを並べていく。
「もうしわけありませんが、今夜は料理人が来られません。夕食をお出しすることができませんので、お茶《ちゃ》請《う》けでご辛抱《しんぼう》くださいますか」
「それはかまわないけどね」
エドガーは少し不審《ふしん》げに、彼女がお茶を注ぐ手つきを見守った。
レイヴンが、ついとマーサに歩み寄って、ティーポットを置かせる。
「ぜんぶ下げてください」
「……どうしてですか?」
「ここで出されたものを口にすることはできません」
レイヴンが強く言えば、リディアはようやく、エドガーたちが何を警戒《けいかい》しているか知った。
ふたりの従者しか頼りにできる者もいなくて、それでもエドガーが村中を敵に回したのは、頭にきたから啖呵を切ってしまったなんて無計画なものではない。彼らは三人きりでこれまで戦ってきたし、今もそうしている。
相手の出方に、細心《さいしん》の注意を払って、負けない方法を考えている。
「お毒味が必要なら、あたしがしたってかまいません。これは大丈夫です。村長たちは、とりあえずあなた方に出ていってほしいだけで、大事《おおごと》になるようなことは望んでいませんから」
「あの、エドガー、この人は信用していいと思うの。だって、チェンジリングの手紙をくれたマーサ・タイラーさんだもの」
驚いたように、エドガーはリディアを見、彼女の方を見た。
「本当に?」
彼女は、思いつめた表情で頷《うなず》いた。
「ご無礼《ぶれい》をいたしました、伯爵《はくしゃく》。あたしは、本物の伯爵が別にいらっしゃるとは知らなかったんです。ですからお手紙に、非難するようなことを書いてしまいました」
「僕が本物だと信じるのか?」
「でなくて、わざわざこの辺鄙《へんぴ》な村を調べにいらっしゃるでしょうか。お手紙は、隣村へ行った機会に、そこの地主さまがロンドンの社交界でアシェンバート伯爵にお目にかかったとの話を聞き、ロンドンのご住所を教えていただいたんです。ロンドンで名が通っている方なら、どう考えてもあなたさまがアシェンバート伯爵だと思います」
「しかしきみは、村長に逆《さか》らって僕の世話を焼いたりして大丈夫なの?」
「村長に従ったって、あたしにはいいことなんてひとつもありませんから」
ティーカップを、リディアは手に取った。
「それもそうね。あたし、お茶をいただきます。おなかすいたわ」
そしてお菓子をひとつつまむ。
「あ、このビスケットおいしい」
「あたしが焼いたんです」
肩の力が抜けたように、マーサがほっと頬《ほお》をゆるめたのがわかった。これまでの彼女の、つっけんどんな印象は、誰も味方をしてくれない村の中で緊張感に縛《しば》られていたからなのかもしれない。
あきれたようにため息をつきながら、エドガーはリディアの隣に腰をおろした。
「大切な婚約者《フィアンセ》に毒味をさせるわけにはいかないな。ミセス・タイラー、僕にもお茶を」
リディアが手に取ろうとしたサンドイッチを、彼は先に口へ放り込む。
「ところで、村長たちが蛍石を横領していることは、チェンジリングを放置していることと関係あるんだよね?」
よくわからないと首を傾《かし》げるマーサの代わりに、リディアが言った。
「関係はあるわ。でも今はまだ、どうしようもないのよ」
フレイアを生み出す竜《ワーム》が、人間の子供を食べたがってるから、などとマーサの前では言えないから、曖昧《あいまい》な説明をするしかない。
「自分の子供をマーサさんの赤ちゃんと取り換えなきゃならなかった妖精のお母さんも困ってるの。でもこのことは、あたしがどうにかするから」
どうにかできるのかしら。
竜《ワーム》は青騎士伯爵にしか倒せないとドービーは言っていたけれど、エドガーには無理なのだからリディアがどうにかするしかない。
ワームを倒さなくても、取り換え子を連れ戻す方法はあるはずだ。根本的な解決にはならないが、今はそれしかない。
それにしても、ワームを目覚めさせたというニセ領主は、どう考えてもただの蛍石泥棒ではない。
そんな力を持つ人物が誰なのかと考えると、リディアにはひとりしか思いつかなかった。
ユリシスだ。
エドガーも薄々《うすうす》、ユリシスとプリンスがからんでいると考えているのではないだろうか。
彼らはそもそも、エドガーが青騎士伯爵の名を継ぐことなど予想外の以前から、青騎士伯爵を敵視していたらしい。
だとしたら、領主のふりをしたユリシスの、真の目的を、エドガーは知りたいはずだった。
日が暮れかけるとともに、風が強くなってきていた。海を見おろす領主館は、風をまともに受けているはずだが、しっかりした造りらしく、窓ガラスが震《ふる》えても蝋燭《ろうそく》の明かりがゆれることはなかった。
しかし、バルコニーのある窓際《まどぎわ》が、風ではない不自然な音を立てると、レイヴンが反応した。
そちらへ歩み寄ったかと思うと、勢いよく窓を開け放《はな》つ。
「わあっ! ちょっと待った!」
レイヴンに飛びかかられそうになり、悲鳴をあげたのは、大男の海賊《かいぞく》だった。
ロタの弟分のピーノだ。気づくとレイヴンの殺気がさっと消えた。
「だからロタ、俺はこんなとこから入るのは反対だったんだ」
「だっていくら呼び鈴《りん》鳴らしても、誰も出てこないんだからしかたないだろ。明かりがついてたのはこの部屋だけだし」
声とともに、ロタがバルコニーの手すりをひょいと乗りこえた。
「やあ、ロタにピーノ、ちょうどいいところに来てくれた」
ふたりを手招きしながら、エドガーは微笑《ほほえ》む。
あの顔は、何かたくらみを思いついた顔だわとリディアは警戒する。
エドガーのたくらみは、名案というにはとんでもないことが多い、とリディアには思えるからだ。
「村人をひとりも見かけなかったんだけどさ、なんか変な村だよな」
「じつはロタ、すでに僕がアシェンバート伯爵だということも、この村を調べに来たこともばれてしまったよ」
「はあっ? じゃ、どうすんだよ。ベティのことはわかったのかい?」
「まだ何も。そこで相談なんだけど、料理人を貸してくれ」
「料理人? ちょっとエドガー、それどころじゃないでしょ!」
「リディア、食事は重要だよ。何をするにもね」
それから彼は、マーサの方に振り返った。
「ミセス・タイラー、食料と酒はどのくらいある?」
「貯蔵庫にたっぷりあったと思いますが、見てきます」
頼むよ、と言いながら、彼はまたロタを見てにっこり笑った。
「今夜は宴会《えんかい》だ。みんな船から連れておいで」
「……で、酒を振る舞ってくれんのはいいけど、あたしたちにどうしろと?」
さすがにエドガーを知っているらしいロタは、慎重《しんちょう》な態度だった。
「戦争ごっこをしよう」
「ええっ! 何言ってんのよ」
と声をあげたのはリディアだけで、他の誰も、冗談だと思っていないらしく神妙《しんみょう》にエドガーを見つめていた。
「ようするにこの村は、僕の権利を奪ったニセの青騎士伯爵に占領されているわけだからね。攻め込んで奪還《だっかん》する。ここの村長は、青騎士伯爵を名乗るニセ者と通じている。ベティのことも知っているはずだ。洗《あら》いざらい吐《は》かせてやろう」
自分の名を明かしたときから、エドガーはロタたちの戦力を利用しようと考えていたに違いない。
四人では何もできないが、海賊船が到着すれば、じゅうぶんな戦力だ。
ベティを助けるために来たロタは、少しも迷わなかった。
「やってやろうじゃないのさ」
「決まりだ。作戦を立てよう」
倉庫にあったビールやワインが、樽《たる》ごと運び込まれた広間で、陽気な宴会が続いていた。
ロタが吹くオカリナの音は、陽気な中にもどこかもの悲しさがあって、リディアは異国の音楽に心惹《こころひ》かれた。
そのメロディは、広間を離れた静かな一室にもよく聞こえてきて、風と波の音に違和感《いわかん》なくからみ合った。
リディアはひとり、窓辺にたたずみ、月を眺《なが》める。
窓の下で、かすかな話し声がした。
見おろすと、エドガーとアーミンの姿があった。
アーミンと海賊の何人かが、村長や村人たちの家々を見張りながら、その動きを偵察《ていさつ》に行っていたはずだった。
村長たちは急いで、蛍石《フローライト》を横領《おうりょう》した証拠《しょうこ》を隠そうとしているらしいが、あえて時間を置き好きなようにさせることで、エドガーは重要なものがどこにあるかを把握《はあく》しつつあるようだ。
すべてをつかんでから襲撃《しゅうげき》を仕掛《しか》け、確実に村を押さえ込むつもりらしい。
エドガーは、アーミンから何やら報告を受けている様子だ。そんな会話がちらちらと聞こえたが、ひととおり話がすむと、彼はぽつりと言った。
「この間は、どうかしてた」
「もう忘れました」
あっさり忘れたと言われて、エドガーは物足りなさそうにも見えた。
「ロタやピーノが現れて、アメリカにいたころに時間が戻ったような気がしてしまう」
「できれば振り返りたくない過去です」
「でも、つらいことだらけな中、今夜のようなバカ騒ぎをよくやってたっけね」
「そうしている間は、いやなことぜんぶ忘れられましたから」
リディアの知らない、エドガーとアーミンだった。
主従ではなく、対等な仲間。それとももっと近い存在。
エドガーは、まっすぐに彼女を見つめていたが、リディアにするように手を触れようとは決してしない。
その距離に、高潔《こうけつ》な想いが秘められているかのようで、リディアは動悸《どうき》を感じる。
「おまえを、死なせたくなんかなかった」
「エドガーさま、すべて私の責任です」
「お互いにとって、いちばんいい方法だと信じてたんだ」
「その通りです。なのに、私が誤ったのです」
ただならぬ雰囲気《ふんいき》を感じながら、リディアは息を殺してじっとしていた。
そのまま会話は途切《とぎ》れ、ふたりは別々に立ち去ったけれど、リディアは、とくべつな場面に遭遇《そうぐう》してしまったような気がしながら立ちつくしていた。
意味なんかよくわからない会話。単なる昔話。なのに、この間のキスシーンよりも鋭い何かが、リディアの心に痛みをもたらした。
あんなに苦しげで、切《せつ》なげなエドガーを知らない。
自分でもわけがわからず、深呼吸を繰り返す。
「リディアさん、明かりをお持ちしましょうか?」
急に声をかけられ、不自然なほど驚いたリディアは、あわてて振り返った。
リディアの動揺ぶりなど無関心に、戸口に突っ立って返事を待っているのはレイヴンだった。
通りかかった彼が、暖炉《だんろ》の火しか明かりのない部屋にいるリディアに気づいて声をかけたらしかった。
「い、いいのよ。暗い方が月がよく見えるわ。ほら、波に光が反射して、外の方が明るいくらい」
[#挿絵(img/fluorite_127.jpg)入る]
近づいてきて窓の外を眺めやり、レイヴンはいつもの感情のない口調《くちょう》で「そうですね」と言った。
それでもしばし、風景から目を離さなかったから、何かは感じていたのだろう。
「ねえ、あなたはちっとも羽目《はめ》をはずさないのね。お酒はきらいなの?」
レイヴンに話しかけることで、リディアはわけのわからない感情を頭から追い出そうとしていた。
「いくら飲んでも酔わないのです。だからべつに、飲みたいとも思いません」
「そうなの。……そっか、考えてみれば、お茶をあびるほど飲みたがる人っていないものね」
リディアが微笑むと、彼はいつもめずらしいものでも見るようにじっと彼女に見入る。最初は、用もないのに話しかけただけでこの反応だった。
人殺しの道具として扱われてきた彼は、ふつうに人を相手にするように、笑いかけたり話しかけたりするリディアが奇妙に思えるらしい。
何を考えているのかわからないから、以前はレイヴンが近くにいると緊張したものだったが、このごろリディアは、彼のきまじめな性格にほっとさせられる。
うそつきで本心のわからないエドガーと違って、表情は読めなくても彼は正直すぎるくらい正直だからだ。
「そういえばレイヴン、あなたはベティを知っているのよね。どんな女の子なの?」
レイヴンは、はっとしたように目をそらすと、「わかりません」と言って出ていこうとした。
ガードが堅《かた》くなったわ。
以前なら答えてくれたのに、エドガーに、女に関することはしゃべるなと教え込まれたに違いない。
リディアは彼の上着をつかんで引き止めた。
「あのね、そういうんじゃないのよ。妖精たちに話を聞くにも、彼女の特徴があたしにはわからないんだもの」
「そいつは本当にわからないと思うよ。女の子の特徴なんて、スカートをはいてたってくらいしか認識してない。……って以前エドガーに聞いたもん」
ロタだった。
海賊《かいぞく》の女|首領《しゅりょう》に目礼《もくれい》しながらもレイヴンは、その評価は不本意だったらしく訂正を口にした。
「いいえ、エドガーさまの恋人に関しては、私がおぼえられなかったのではなく、おぼえる間もなく女性が入れかわっていただけです」
ロタが笑う。レイヴンはなぜ笑われているのかわからず、彼女に肩をたたかれながらも怪訝《けげん》そうだ。
「相変わらずだね。それより、あんたのご主人が下で呼んでたよ」
それを聞いて、急いで出ていくレイヴンと入れ違いに、ロタはリディアの窓辺に近づいてきた。
「野郎どもがうるさくてごめんよ」
「ううん、にぎやかなのはきらいじゃないわ」
「あんたさ、何も知らずにエドガーとつきあってんのかと思ったら違うんだね。あいつの昔のこと、知ってたんだ。どうりで海賊に遭遇してもたいして驚かないわけだよ」
驚いたわよ、とリディアは思う。
でも、エドガーのそばにいると、ありえないと思うようなことでも起こりうるというのは学んだ。
「エドガーのことは、そんなに知ってるわけじゃないわ」
「でも婚約してんだろ」
「本当の婚約じゃないの。事情があっただけで、あたし、結婚するつもりはないのよ」
ふーん、と言うロタは、そんなこととっくに気づいていた様子だった。
「なんか、婚約者って雰囲気じゃないと思ってた。あいつの方はともかく、あんたが退《ひ》いてるっていうかさ」
「彼って、女の子なら誰にでもあんなふうだもの」
少し笑い、ロタはリディアをじっと見た。
「あたしさ、奴に惚《ほ》れて傷ついたベティを見てたから、よけいなお世話だと思うけどあんたのことも気になったんだ」
それはリディアが、エドガーを好きになったりしたら傷つくということだろうか。
「ベティは、傷ついたの?」
「失恋のひとつやふたつで傷つくような女じゃなかったんだけど、あいつのことは、いろんな意味で傷ついたみたいだ。別れて間もなく、アメリカを離れて大公《たいこう》のもとへ行くって言いだしたんだ。ずっとあたしたち三人で育って、身元がわかったって関係ない、離れることなんてないって話し合ったばかりだったのに」
「……どうして別れたの? エドガーは、自分の方からふったりしなさそうだけど、やっぱり彼の浮気が原因?」
「やっぱりって、あんた浮気されてんの?」
「えっ、べつにそんなわけじゃ……」
あせって両手を振る。ロタは、考え込んだらしくしばらく黙っていたが、思い切ったように口を開いた。
「エドガーってさ、本当に好きな女のことは一度も口説《くど》いたことないんだよ。……そんな気がしない?」
アーミンのことだ。
リディアは、ついさっきのふたりの様子を思い出し、そうなんだと妙に納得していた。
アーミンの気持ちを受け入れないことが、ふたりにとっていちばんいい方法だとエドガーは考えた。そんなふうなことを言っていた。
アーミンはプリンスの女|奴隷《どれい》だったという。だから彼は自分が、アーミンにとってプリンスを思い出させてしまうのではないかと距離を保っていた。
エドガーにとっても、アーミンと深い関係になることは、プリンスから逃《のが》れられないような不安を感じることだったのだろう。
でも、それでよかったのかと、彼は今思い悩んでいる?
拒絶《きょぜつ》し続けたことで、アーミンは人としての生命を失ったから。
「……本当に好きなら、今からでも気持ちをうち明ければいいのに」
「それはありえないだろうな。なんだかわからないけど、あいつら見てたらほかに方法はないんだってひしひしと感じたんだ」
リディアが想像するよりももっと、ふたりの間にあるプリンスの影は大きいのだろうか。
「それでベティは、エドガーから離れたの?」
「いや、奪ってやるって意気込んで、アーミンに毒入りワインを飲ませようとした」
は?
とんでもないことをさらりと聞かされた気がして、リディアは口を開けたままロタの方に顔を向けた。
「ま、飲んだって死にやしない程度だって本人は言ってたけど。ところがエドガーの奴が気づいて、ベティに飲んでみろと言ったらしい。恋人に毒を飲ませようとするなんて最低な男! って別れたそうだよ。ま、どっちもどっちだと思うけど、いちおうあのときは、奴はベティを恋人扱いしてたんだ。やきもちをあしらうやり方じゃないよな。結局ベティは、それであいつの本心がわかっちまったってことじゃないか?」
ベティという女の子も、リディアの想像を超えているようだ。
いったいエドガーの好みって、節操《せっそう》なし? と思わずにはいられない。
でも、いちばんに想う相手ではないなら、誰を好きになっても彼にとっては同じことなのかもしれない。
なんとなくそばにいてくれて、淋《さび》しさを紛《まぎ》らわせてくれる女の子なら誰だって……。
きっとそうね。だから、彼のうそを信じちゃだめ。
「あんたがあいつに惚れてるなら、こんな話するべきじゃないんだろうけど、そうじゃないなら、あいつの餌食《えじき》にされそうなのを見過ごせないっていうか。うわべでつきあえば、やさしくしてくれるし楽しいんだろうな。でもいちばんを望むと、とたんに手をはねつけるような男だとしたら、はっきり言って女の敵だよ」
エドガーのことをそんなふうに言う女性ははじめてだったから、リディアは、落ちこみそうな気持ちをかかえながらもかえっておかしくなった。
本当に、その通りだわと思う。
「あなたは、だけどエドガーにとっていい友達だったんじゃない?」
「さあね。でもいちおう、あいつのタラシなところ以外はたいしたもんだと思ってたよ。下町のごくつぶしどもを牛耳《ぎゅうじ》って、裏組織の大人たちと渡り合ってたところとかね」
「ロタ、僕の心証《しんしょう》が悪くなるようなことを言わないでくれ」
エドガーが姿を見せた。
「ほめてやってるんじゃないか」
「その前に、女の敵とか言わなかったか?」
「本当のことだろ」
「リディア、こんなところにいたのか。さがしてたんだよ」
分《ぶ》が悪いと見たのか、ロタを押しのけて、エドガーはリディアに歩み寄った。
笑顔はいつもと変わらなかったが、さっきアーミンに見せた彼の表情を思い出すと、リディアは急に息苦しくなった。
「……何か用?」
あたしじゃないんだわ。彼が、本当に好きなのは。
だから婚約者だと言いながら、別の女性とキスしたりする。
わかってたはずなのに、ついさっきまで形のなかった、もやもやした気分を、今ははっきり意識してしまった。
「そろそろ出ようと思って、顔を見に来たんだ。ロタ、きみもみんなに指示を出してくれ」
あきらかにロタを追い出そうという魂胆《こんたん》だが、肩をすくめつつも彼女は出ていってしまう。
薄暗い部屋にふたりきりになると、リディアが逃げ出したくなる前に、エドガーはさっと手を取った。
「いつからここに?」
窓の方をふと気にしたように見えた。
「ついさっきよ」
リディアはうそをついた。
その返事を、エドガーは疑ったのかどうか、かすかに片方の眉《まゆ》を動かした。
しかしすぐに視線をおろし、薬指のムーンストーンを見つめ、乳白色《にゅうはくしょく》の淡い輝きに目を細める。
「きみが身につけていると、輝きが増すような気がするね。こうしてみると、きみがこの指輪の持ち主になって僕と結婚することは、最初から決まっていたかのようだ」
そんなわけないでしょ。
とリディアは手を振り払おうとしたが離してくれない。
「そんなことより、本当に村長宅に攻め込んだりして大丈夫なの?」
「心配してくれるの? 大丈夫だよ、人数は向こうの方が多いけど、こっちの方が襲撃《しゅうげき》慣《な》れしてるから」
……襲撃って、ふつう慣れるもんじゃないでしょ。
「あたしが心配なのは村人たちの方よ」
「手加減するよ」
そう言って彼は、リディアに詰め寄る。
気がつけば背中に彼の手がそえられているし、完全に恋人どうしの距離になってしまっている。
「あの、エドガー……?」
ちょっとまずい。
「あのね、エドガー、あたしはやっぱり、あなたとはその……、友達でいたいの」
唐突《とうとつ》に聞こえただろうエドガーは、少し首を傾《かし》げた。
「ロタが何か言った?」
「そういうわけじゃ……。とにかく、婚約者だとかもう言わないで」
「僕を好きになる可能性が、少しもないってこと?」
「まあ……そうよ」
なんて言ってしまえたのは、エドガーの質問のしかたがめずらしく悲観的で、リディアのその返事を予想しているように思えたからだ。
「わかった」
え? わかった?
どういうこと? と眉根を寄せるリディアに、彼は淋しそうに微笑《ほほえ》んだ。
「ロンドンへ帰るまでにきみの気が変わらなかったら、あきらめる」
「ほ、本当に?」
「信じてないね」
「だってあなた、約束なんて勝手になかったことにするもの」
「……本当だよ」
ため息とともに吐《は》き出した言葉は苦しそうだったけれど、たぶんそれは、リディアをあきらめることが苦しいわけではないのだろう。
あきらめるなんて、これまでのエドガーらしくないことを言いだしたのは、彼自身、リディアを口説く言葉の中にうそがあると感じているのではないだろうか。
この部屋の、窓の下で交わされたさっきの会話を、リディアが聞いてしまったかもしれないと思えば、エドガーはそのときの自分の気持ちを思いださずにはいられないだろうから。
「だけど、せめて今だけは婚約者として、僕の勝利を祈ってくれないか。戦いに赴《おもむ》く前にはさ、恋人が口づけとともに見送ってくれるものだろう?」
このへん、ふざけているのかまじめなのかよくわからない。
でも、戦いと聞いてリディアは不安になった。
向こうが本気で反撃してきたら、怪我人《けがにん》が出るかもしれないし、怪我ですまないことだってあるかもしれないのだ。
どうしよう。
キスって、頬《ほお》とかでいいのよね。騎士物語にはたいていそんなふうに書いてあったわ。
などと思い出しながら悩む。
これを渋ってエドガーに何かあったらいやだけれど、こんなおまじないはただの迷信ではないか。
でも……。
「いいんだ。欲張らないでおこう」
真剣に悩みすぎて、固まってしまったリディアがかわいそうになったのか、エドガーは少し笑ってそう言った。
「きみはそろそろ休むといい」
「もう行くんでしょう?」
「目覚めるころには、決着がついてるよ」
そんなの眠れるわけないじゃない。
しかしリディアにはどうせ待つことしかできない。
妖精とは無関係な、人間どうしの戦いに首を突っ込んだって足手まといなだけだ。
できることは、無事を祈りながら待つことだけ。
「じゃあ、行ってくる」
「……気をつけて」
頷《うなず》きながらもエドガーは、なかなかリディアの手を離そうとしなかった。
ようやく彼が、思い切ったように歩き出したとき、リディアは、まるで自分が離れがたく力を入れていたかのように感じたのだった。
好きになったりしたら、傷つくだけなのに。
*
ドービー一族の棲《す》む野原の茂《しげ》みで、ニコは濃いキノコ酒を舐《な》めながら、彼らの酒宴《しゅえん》に加わっていた。
(それでニコさんよ、フェアリードクターは|取り換え子《チェンジリング》のことでいらっしゃったのかい)
(無駄《むだ》じゃと思うがね。いくらフェアリードクターでも、青騎士|伯爵《はくしゃく》がよみがえらせた竜《ワーム》はどうにもできんじゃろう)
「その青騎士伯爵って、どんな奴だ?」
ニコはヒゲについたしずくをペロリとなめる。
(わしらは知らない)
(あたしはちらっと見たことがあるよ。ワームの花嫁《はなよめ》を連れてきたときにさ)
「花嫁?」
(そうだよ。青騎士伯爵は、ワームを目覚めさせたうえに花嫁まで与えてやったんだ)
「それって、人間の、若い娘ってことだよな」
(当然だよ。竜ってのは昔から、若い娘が、しかも高貴な姫君ほど好きなんだからさ)
いなくなったという、クレモーナ大公《たいこう》の孫娘は、ニセ青騎士伯爵の花嫁ではなくワームの花嫁にされたのか。
そりゃ災難だなあとニコは思う。しかしあの伯爵《エドガー》に愛想《あいそ》を尽《つ》かした女なら、浮気なんかしないワームの方がいい男に見える……可能性もなくはないかもしれない。
「で、青騎士伯爵はどんな奴だったんだ?」
(黒い服を着てたよ)
「……それだけかよ」
(だからちらっと見ただけだって。でも、ワームの花嫁ならよく知ってるんじゃないか)
「ワームのそばにいるんだろ、花嫁ってのは。どうやって話を訊《き》くってんだよ」
(たまに巣穴から出てくるよ。人間の食べ物をほしがってさ。かわいそうだからわしらが、ときどき届けてやってる)
「んじゃそのときなら会えるってわけか」
(ああそうだ、ちょうど夜明けに食べ物を届けに行くよ。大潮《おおしお》の日だからね。ワームの力が弱まる。どうにかお姫さまも、巣穴の境界へ近づけるってわけさ)
それを聞いたニコは、急いで立ちあがった。
「夜明けだな。待っててくれ。フェアリードクターを連れてくる」
眠らずに待つ、つもりだったリディアだが、ソファでぼんやりしているうち、眠ってしまったらしかった。
まだ暗い中、ふさふさのしっぽで鼻先をたたかれ、くしゃみをしながら目をこする。
「……ニコ? やだあたし、うたた寝してた?」
「そんなことよりリディア、お姫さまの居場所がわかったぞ!」
「お姫さま……?」
「ベティ、っていったっけ? 青騎士伯爵に連れ去られたっていう公女だよ。ワームの花嫁にされたらしいぜ」
はじかれたように、リディアは立ちあがった。
「ほ、本当なの?」
「月に一度だけ、ワームの巣穴から出てくるんだってさ。早くしないと間に合わないぞ」
「わかったわ、すぐ行く。ああでもちょっと待って、部屋へ行って外套《がいとう》を取ってこなきゃ」
朝方はかなり冷える。暖炉《だんろ》のある部屋の中でも、うたた寝していたリディアには肌寒いくらいだった。
「ホールで待ってるぞ」
急いで階段をあがり、寝室へ駆《か》け込《こ》む。クローゼットを開けながらリディアは、このドレスじゃ動きにくいわと考えた。
優雅な小旅行といったふうに見せかけるためのドレスだったが、さっさとエドガーの正体は知られてしまったし、よく考えればもう着飾っている必要はないのだ。
ワームの巣穴があるようなところなんて、ドレスがすぐ汚れてしまうに決まっている。
トランクから自分の普段着を取りだし、着替えることにすると、リディアはひらひらしたドレスを脱ぎ捨てた。
クリノリンもはずしてしまうと、ペチコート一枚のうえにスカートをまとう。
上衣のボタンをとめようとしていると、窓辺で物音がした。
「ニコ、もうちょっと待ってってば……」
ニコが急《せ》かしにきたのかと思った。しかし振り返ったリディアの視線の先で、あの水棲馬《ケルピー》がにやりと笑った。
「よう、リディア。急にいなくなっちまうからさがしたぞ」
「ちょっとケルピー! 勝手に入ってこないでよ、着替えてるのに!」
「べつに着替えのじゃまはしてないだろ」
「あなたには常識ってものがないの?」
「常識?」
馬で、しかも妖精に、あるわけがなかった。
説明するよりもリディアは、さっさと着替えをすませるべきだと判断する。どうせケルピーには、下着と衣服の違いなんてわからないのだ。
「煙の匂《にお》いがする。どっか燃えてんな」
ケルピーがふと言って、リディアはドレスのボタンをとめながらもあわてて窓辺に駆け寄った。
しかし暗くて、何も見えない。
と同時に発砲音《はっぽうおん》がひとつ聞こえた。
ああどうしよう。エドガーたちは無事かしら。
でも戻ってくるのを待っている時間はない。
ベティをさがしに行くってこと、誰かに伝えておかなきゃ。
リディアは部屋から出ようとする。
「おい、着替えながら外へ出るのは人間の常識なのか?」
ああもう。こういうとき、女は面倒くさい。ちょっと外へ出るにもだらしない格好はできないなんて。
それも女物の衣装はたいてい、ボタンがこれでもかというくらいついている。
あせりながらリディアは、ケルピーを呼んだ。
「ねえちょっと、背中のボタンをとめて」
「はあ?」
リディアはそでをとめるのに必死だ。
「早く、手伝ってちょうだい」
しぶしぶといった様子で、ケルピーは近づいてきた。
「なんだよこれ、どうすんだ?」
「穴に通すの」
「んなめんどくせえこと……」
「リディア、いるか?」
そのとき、勢いよくドアが開いた。
現れたのはロタだ。
彼女は、リディアの寝室にいて、おまけに着替えを手伝っているらしい見知らぬ男をじっと見て、ああ、と勝手に納得したような声をあげた。
「悪い。あとにするよ」
思いっきり誤解された?
「ま、待ってロタ! 違うの」
「わかってるって、誰にも言わないから」
「そうじゃなくて、これは人間じゃなくて馬なの! お願いだから行かないで!」
わけがわからないといった様子ながら、ロタは立ち止まった。
「こんな細かいこと俺にできるかよ。おまえ、手伝ってやってくれ」
「あたし?」
「ごめんなさいロタ、お願い」
「ああ……、いいけどさ。ええとそうだ、エドガーたちは村長宅を包囲《ほうい》してるみたいだ。夜中に村人たちが、何やら手分けして隠してたのは偵察《ていさつ》が確認してたから、あたしたちが先にそこは押さえたんだけど、村長の方がちょっと抵抗してるらしい。これから応援に行くよ」
リディアのボタンをとめながら、ロタは言った。
「さっきの発砲音……」
エドガーたちの襲撃《しゅうげき》の騒ぎなのだろうか。
「あのくらい心配ないよ」
今は、そう信じるしかない。
「そうだわロタ、ベティに会えるかもしれないの。この機会を逃《のが》したら、ひと月待たなきゃいけないって言うから、すぐにあたし出かけるわ」
「ベティが? 本当に会えるのかい?」
「でも彼女、竜《ワーム》の花嫁《はなよめ》になってしまったらしいの。だから、すぐに連れ出すことは難しいけど」
「ワームの花嫁?」
「妖精界の竜の巣に監禁されてるのよ」
いきなりおとぎ話みたいなことを聞かされ、ロタはしばし首をひねっていた。しかしリディアの言葉に笑うこともなく、やがて理解したように頷《うなず》いた。
「だったら、あたしも行きたい。こっちはピーノにまかせりゃ大丈夫だからさ。頼むよリディア、連れてってくれ」
「ええ……、そうね。その方が、本当にベティかどうかもすぐにわかるし」
決まり、というふうに片目をつぶると、ロタはドアの外に顔を出してピーノを呼んだ。
振り返って、またケルピーをちらりと見て言う。
「リディア、あんたって、面食いなんだな」
「違うってば!」
ケルピーが妖精だということを、それからリディアは説明し続けたが、納得してくれたかどうかわからないまま、リディアはロタとニコと、海岸沿いの崖《がけ》までやって来た。
ドービーたちが、ここへ来るようにとニコに言ったそうだ。
うっすらと明るくなりはじめた空の下、ランプがなくても、あたりの風景がわかるくらいになってきていた。
「ワームの巣だって? やめろよリディア、そんな危険なところへ行くなんて」
ケルピーもついてきている。
「ああいう連中は火を吹くんだぞ。冗談じゃないっての」
「あなたはべつに来なくていいわよ」
「俺がついてなきゃ、おまえワームに見つかったら喰《く》われちまうだろ。ただの妖精じゃないんだ、相手はでかい竜だ」
「ケルピー、あなたがいたってワームを相手になんてできないでしょ」
「心配すんな、足の速さなら負けない。どうせ図体《ずうたい》がでかいだけでとろいからな」
つまり逃げるってことね。
「なあリディア、あそこにボートがあるよ」
ロタが崖下の波打ち際《ぎわ》を指さした。
海とは断崖《だんがい》で接しているこの土地では、海へ出るには断崖に組まれた木製の階段をおりていかなければならない。
村人が組み立てた階段の下に、小舟が結《ゆ》わえ付けられていた。
「ワームの巣は、海に面した岩の裂《さ》け目から入るって言ってた。あのボートを使えってことじゃないか?」
ニコが言って、先に階段をおりていく。
二本足で立ったまま、器用に階段をおりていくニコを、ロタは不思議そうに眺めながらあとに続く。
リディアも下までやってくれば、小舟のそばに板きれが浮かんでいた。よく見ると、男のドービーが乗った筏《いかだ》だった。
(フェアリードクターか?)
「そうよ。あなたが案内してくれるの?」
(この小舟じゃ、人間はふたりしか乗れないぞ。妖精猫はまあ大丈夫だろうけどな)
リディアの後ろにいる、ロタとケルピーを見て案内人のドービーは言った。
「俺は泳いでいく」
言うなりケルピーは海へ飛び込む。
水しぶきをあげ、漆黒《しっこく》の馬に変化すると、さすがにロタが目をまるくした。
(この荷物も乗せといてくれ。フェアリードクター、ボートをあやつるのは得意かね?)
「え? えーと……、あたしがボートを漕《こ》ぐの?」
「あたしがやるよ。けっこう得意だ」
ロタが言ってくれて、ほっとリディアは胸をなで下ろす。
(じゃ、あとをついてきてくれ)
ドービーがリディアたちの乗る小舟に積んだ、草を編んだ籠《かご》には、キノコや木の実が入っていた。ベティに届けるという食べ物だろう。
断崖に沿って、ドービーの筏は進んでいく。岩にぶつかる波のうねりが、リディアたちが乗っている小舟をひどくゆらすが、ロタのあやつる櫂《かい》は舳先《へさき》をドービーの先導にぴったりとつけていた。
やがて断崖に、大きく縦に裂けた岩が現れると、ドービーはその裂け目へと筏を向ける。
リディアたちのボートがようやく通り抜けられるくらいのせまい隙間《すきま》を、ロタは器用に通り抜ける。
両側にせまる岩に圧迫感《あっぱくかん》をおぼえるが、しばらく進むと広い鍾乳洞《しょうにゅうどう》が目の前に広がった。
「うわ……」
ロタとふたりして声をあげる。
斜め上に開いた穴から、ようやくのぼり始めた朝の光がうっすらと流れ込み、白い天井も壁も、淡い光をはらんでいるように見える。
垂れ下がったつらら状の鍾乳石はシャンデリアのようで、同じく白い天然の柱は、この空間を神殿のように見せていた。
「ここが、ワームの巣なの?」
(巣はもっと奥の方さ。ああそれから、海の上はまだ人界だが、地面に上がったらワームの領域だ。舟から降りるんじゃないぞ)
そのとき、舟が大きくゆれた。
リディアは舟べりにしがみつき、ニコは転がって頭を打つ。
(こりゃいかん)
ドービーがつぶやいた。
「どうしたの、ドービーのおじさん?」
(いつもならこの時間、ワームは眠ってるはずなんだがな)
「えっ、てことは……」
(見つかっちまったようだ。早く逃げた方がいいぞ)
言うなり彼は、体の向きを変え、出口に向かって猛スピードで漕ぎ出す。
ロタが舌打ちしたのは、こちらの小舟《ボート》は筏のように簡単に方向転換できないからだ。そうしている間にも、巨大な何かが動く振動を受けて、頭上から崩《くず》れた石が降ってくる。
「おいリディア、こっちへ来い!」
ケルピーが馬の姿で水面に立った。
首を伸ばしてリディアの外套《がいとう》に噛《か》みつくと、舟から持ちあげるようにして背中に乗せる。
と同時に彼は波間《なみま》を駆《か》け出す。
「ケルピー! ニコとロタを……」
しかしケルピーはそもそも、リディアのことしか意識にない。
彼の首にしがみついたまま、リディアは大きな波が小舟に襲《おそ》いかかるのを見たが、洞窟《どうくつ》の横穴へケルピーが駆け込めば、ボートもふたりのことも視界から消えてしまった。
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青騎士|伯爵《はくしゃく》のフローライト
たとえば昔、領主が自分の土地と住人に関してすべての権限を持っていた時代には、反乱を鎮圧《ちんあつ》するために容赦《ようしゃ》なく武力を使ったことだろう。
領主はそもそも小国の王で、自分の軍隊を持っているものだ。
今となっては、内戦が絶《た》えて久《ひさ》しいこの英国で、どれだけの貴族が私兵を維持《いじ》しているのだろうか。どのみち、エドガーにはそんな気のきいたものはない。
それでも幸か不幸か、エドガーは、昔の貴族以上に戦い方を知っていた。
騎士道精神は学んだが、まったくフェアではないやり方も心得ている。
ようは勝てばいいのだ。
マントの内側、腰にぶら下げたメロウの宝剣は中世貴族のようだが、肩に担いでいるのは海賊《かいぞく》のライフル銃《じゅう》。トップハットから靴の先まで、夜会帰りかというくらい完璧《かんぺき》なファッションにはどちらも似合わない。
まったくとんでもない格好だ。何者だかわかりゃしない。
それでも今のところ彼は、かつてのギャング団のリーダーではなく、貴族のつもりで戦っている。
海賊の戦力を使って、敵対心のある村人の家を、ほとんど寝込みを襲《おそ》うようにして、抵抗する隙《すき》を与えずに押さえ込んでいくと、最後に村長宅に立てこもった十数人を包囲したところだ。
結局、村人たちの中でも、ニセ領主と組んで蛍石《フローライト》を横取りした恩恵《おんけい》にあずかっている者は一部だった。そうでない住人は、村長たちに不信感をつのらせていたわけで、エドガーに情報をくれる密告者は少なくなく、効率的に相手の反撃を押さえ込むことができたのだ。
すでに偵察《ていさつ》の段階で、最後まで抵抗しそうな連中のことは名前までわかっていた。
しかし、建物内に立てこもっている村長と取り巻きたちは、いまだ降参する気配《けはい》がない。
踏み込むのは難しくはないが、決死の反撃に出られる可能性もある。
エドガーがまだ、家屋の外で様子を見ているのは、彼らが蛍石を採掘するのに使う火薬を持ち込んでいるらしいからだった。
うっすらと空が明るくなりはじめていた。
もうすぐ夜が明ける。
「エドガーさま、荒れた畑に埋《う》められていた蛍石《フローライト》が見つかりました。かなりの量です」
レイヴンが近づいてきて耳打ちした。
「いちおう証拠品《しょうこひん》か。フレイアは?」
「その中にはありません。ですが村人の話では、ごく最近、握りこぶしほどのものが採取されたのを見たとか。何百年ぶりかと村中大騒ぎになったそうです」
その貴重なフレイアは、村長が隠しているのか、すでにニセ領主の手に渡ったか。
「何が鉱脈《こうみゃく》が尽《つ》きただ。僕のものを盗んだりしたらどうなるか、思い知らせてやる」
そろそろ海賊たちも退屈しはじめている、と判断したエドガーは、脅《おど》しにかかることにした。
海賊たちを従《したが》えて、村長宅の建物へと近づいていく。
少し手前で立ち止まる。
「聞こえるかい? フローライトは返してもらったよ。ここ数年分にはずいぶん足りないけどね。売り払ったぶんは、その床下に金貨として埋まってるんだって? 隠そうったってもう無駄《むだ》だよ。あきらめて出てきたらどうだい?」
もちろん返事はない。
「まあいいよ。これ以上ねばっても時間の無駄のようだから、僕は失礼する。ああそう、きみたちは悪事がばれて集団自殺、もしくは仲間割れで殺し合ったってことにでもしておくから」
カーテンをおろしたガラス窓の奥で、人影が微妙にざわついたようにも見えた。
エドガーは、たいまつを手にした海賊たちを手招きする。
「そいつを投げ込んでやれ」
「いいんですかい?」
「もう夜明けだ。明かりは必要ないだろう」
そういう問題じゃなく、と言いたげな男の手から、レイヴンがたいまつを奪った。
「蛍石は、火にくべると美しい光を発するんだよ。世界中でもここにしかないというフレイアが、どんな色に輝くのか見てみたいだろう?」
にやりと目を細める彼は、フレイアの輝きを確かめるためだけに、本気で家も人も燃やしかねないように見えただろう。
エドガーがしゃべっている間にも、レイヴンは無表情にたいまつを投げ込もうとした。
そのとき、玄関から数人、村人が転がり出てきた。
「ま、待ってくれ、降伏《こうふく》する!」
「おれたちはみんな、村長の言うとおりにしてただけだ、あの領主がニセ者だなんて知らなかった……」
「分け前をもらってたし、つかまれば罪人だって、最後まで抵抗するしかないって言われてここにこもったけど」
「だけど、……伯爵《はくしゃく》、死にたかないんだ! 助けてくれ……」
「村長は?」
エドガーは淡々《たんたん》と問う。
「自分だけ逃げ出しやがったんだ。秘密の通路があるらしくて、いつのまにやら姿がなくて」
それを聞くと海賊たちは、いっせいに建物の中へなだれ込んだ。
ガラスを割り、戸をたたき壊し、村長を引きずり出せと怒号《どごう》が飛ぶ。
火薬らしきものを見つけた数人が、さっさとそれを外へ運び出すのを眺《なが》めながら、エドガーは村長宅へ入っていく。
すでに戦う気力もない、残った村の男たちを、海賊たちは一カ所に集めているようだった。
「おい、サー・ジョン、……じゃなくてええと」
「エドガー」
ピーノの方に、エドガーは振り返った。めんどくさいと言いたげに、巨漢の少年は眉《まゆ》をひそめる。
「こいつらどうすんだ?」
「領主館で話を訊《き》こう」
「村長はやっぱ見あたらねえな」
「秘密の通路を見つけてやるさ」
あやしいのは地下室だ。厨房《ちゅうぼう》の奥にあった階段をおりていこうとするエドガーに、ピーノはまた言った。
「そうだ、あんたの婚約者がロタを連れて出かけてったぞ」
エドガーは立ち止まった。
「リディアが? どこへ?」
「さあ、ベティの手がかりか何か見つけたようなことを言ってた」
「ふたりだけで?」
「俺もいっしょに行きたかったけどさ、ロタがこっちをたのむって言うし」
ふてくされたようにそう言う。図体《ずうたい》が大きいうえにひげ面《づら》だが、ロタに頼っているところは少年ぽい。
「相変わらずだな、きみは」
バカにされたような気がしたのか、ピーノはひくりと眉をあげた。
「あの頃も、ロタのあとにくっついてばかりだった。きみたちのお頭《かしら》は、きみのことを跡継《あとつ》ぎにしようと考えていたんだって? ロタを盲信《もうしん》しているところがきみの弱点だと周囲にもらしていたらしいじゃないか」
カッと頭にきたらしく、ピーノはエドガーの胸ぐらをつかもうと腕をのばしたが、レイヴンにひねりあげられることになった。
体を引きながらも、ますますいまいましそうに、彼は舌打ちする。
「……ロタの方が頭《かしら》に向いてるじゃねえか。女だけど、そこらの男より度胸だってあるしケンカも負けやしねえ。みんなも信頼してる」
「そうだとしても、お頭はロタを海賊にするつもりはなかったと思うよ。ま、きみに頼られてるうちは、彼女だって自分のしたいように生きられないってことだ」
「したいように? ロタが海賊はいやだと思ってるみたいに言うな。あんたに何がわかるんだよ」
「部外者でも、きみがまだ一人前の男じゃないってのはわかるよ。ベティのことだって……、まあいいか、いまさらな話だ」
再び階段をおりていこうとするエドガーに、苛立《いらだ》ちをぶつけるようにピーノは言った。
「ああそうだ、リディアといっしょにもうひとり知らない男がいたな」
思わず立ち止まるエドガーを見て、彼はほくそ笑む。
「あんたの仲間じゃねえのか? 少なくともリディアとは親しいみたいだったぜ。彼女の部屋に堂々と入ってたし」
振り返りながらエドガーは、こぶしを握りしめていた。
「もしかして、黒い巻き毛で図体の大きな?」
「ああそれ。あんたに負けないくらいの美形だったなあ」
「あんなのは僕のライバルじゃない」
「ふうん、そうかい。女なんていくらでもいるからな、恋人のふりする相手なんて、リディアを取られたってほかにまた見つけりゃいいってくらいか。ベティだってあんたの気を紛《まぎ》らすための女だったもんな」
握ったこぶしでピーノを殴《なぐ》りつけてやらなかったのはどうしてなのか。
そうじゃない、リディアは違う。と反発を感じた瞬間、エドガーは、だったらベティに関しては、ピーノに反論できないのかもしれないと気づいてしまったからだった。
ベティと自分は、似たものどうしだったけれど。
リディアのことは今までになく本気で。
大切だし結婚したいと思っている……。
「エドガーさま、隠し扉です」
アーミンの声は、そのときのエドガーにとって助け船だった。
ピーノから目をそらし、彼は地下室の奥へ急いだ。
*
「ケルピー、引き返してよ! ロタとニコを助けに戻るの!」
ケルピーのたてがみにしがみついたまま、リディアは叫んだが、彼は戻ろうとしてくれなかった。
「ワームに見つかっちまうだろ」
洞窟《どうくつ》じゅうに響く振動がようやくおさまったころ、やみくもに走っていたケルピーは立ち止まったが、すでにここがどこだかわからなくなっていた。
「道に迷っちゃったじゃない」
ケルピーの背を降り、リディアは薄暗い周囲に目をこらした。
海からあがってしまった。ということは、ワームの領域に入り込んでいるのだ。
妖精界だからか、明かりもない洞窟の中なのにうっすらとあたりが見える。
「大丈夫だ、水の気配《けはい》に向かっていけば海だ」
青年の姿になったケルピーは、こっちだ、と指さした。
ちょっと待って、とリディアは立ち止まる。
「海じゃない方へ行けば、ワームの巣だってこと?」
「まさか、巣穴まで行く気じゃないだろうな」
「だって、|取り換え子《チェンジリング》はきっとそこにいるのよ。ベティもそうよ。助けなきゃ」
「ロタとニコはどうすんだ」
「ロタだって、ベティに会うために来たのよ。同じことを考えるはずだわ」
歩き出そうとすると、ケルピーは通せんぼするように立ちはだかった。
「ワームに近づくなんてダメだ。危険すぎる」
「ついてきてくれとは言ってないわ」
「おまえあれに遭遇《そうぐう》したことないから、そんな悠長《ゆうちょう》なんだろ」
と、急に地響きがした。
ケルピーはリディアをつかんでくぼみに身を寄せる。と思うと、黒っぽい鱗《うろこ》に包まれた、巨大な長いものが、目の前を通り過ぎた。
「……何、今の?」
「ワームのしっぽだろ」
「しっぽ? しっぽだけだっていうの?」
「だからワームはでかいんだって」
「それより、もう行っちゃったでしょ。離してちょうだい」
狭いくぼみに、ケルピーにかかえ込まれるようにして身を寄せているリディアは身動きできない。
「ああ」
「……ちょっと、どこさわってんのよ!」
「は? 立たせてやろうとしてるだけだろ」
「胸さわんないで!」
「なんでいけないんだ? ほかのところは文句言わないじゃないか」
かかえられながら立ちあがったリディアは、振り向きざまケルピーの鼻面《はなづら》を殴りつけ、ようやく解放された。
「人間の常識なの!」
「常識ぃ? そんなわけあるか。ロンドンの池で夜中に泳いでると、そのへんの茂《しげ》みにいる連中はどいつもこいつも……、おい、待てよ!」
そんな下世話《げせわ》な話やめてよと、リディアは恥ずかしくなりながら急いで歩き出す。
「リディア、そっちじゃないって。まだワームの巣へ行くつもりか? おまえが乗り込んでったって、話にならないってわかっただろ」
「取り換え子を取り戻すだけなら、ワームと対面しなくても方法はあるもの」
妖精にかけ合って子供を返してもらえるものなら話は簡単だ。しかしそういった例は少ない。妖精だって、手に入れたものはめったなことで手放そうとはしないのだ。
残る方法は、妖精の棲《す》みかにあるいばらを手折《たお》り、人間の赤ん坊を妖精のもとにつなぎ止めている魔法を解くことだ。
とくべつないばらは、妖精の棲みかをつくっている魔法のもとだ。折ってしまえば、その領域にある魔法をすべて無効にする。
人間界のものは人間界へ戻す力となるだろう。
「ねえケルピー、ワームのいばらはどこにあるのかしら」
「おまえ、いばらを手折る気か?」
「だってそうするしかないでしょ」
「いばらを折った者には、たまってた魔力が一気にのしかかってくるぞ。おまえみたいに、人の世に根のないやつが逃げ切れるのか?」
わからない。けれどそれよりも、リディアには懸念《けねん》すべきことがあった。
いばらを折ってしまうと、この領域にあるものすべて、本質が明らかになる。魔法をかけられていたものは、もとの姿を取り戻す。
人間の赤ん坊は母親の手元に戻るはずだし、ドービーの赤ん坊を人間に見せかけている魔法も解けて、もとの姿になってドービーたちのもとへ戻ってくるということだ。
そしてもしも、リディアが取り換え子だったら。
もともと妖精の子供だったとしたら、人間らしく見えるようにかけられていた魔法が解けてしまう。
人間として、リディア・カールトンとして育てられたことも、その名も、これまでのこともすべて忘れてしまうだろう。
「それに、妖精の棲みかのいばらって、簡単に言うが重要なものだぞ。ワームが大事に守ってるに決まってるじゃないか。それこそ無謀《むぼう》だ。おいリディア、聞いてるのか?」
「……ケルピー、あなたにはあたしがどう見えてる? 取り換え子にされた妖精? それともちゃんとした人間?」
深刻に訊《たず》ねたリディアだが、ケルピーは能天気《のうてんき》に返す。
「ああ? どうかなあ。べつにどっちでもいいじゃないか」
「よくないわ。取り換え子だったら、いばらを手折ったとき何もかも忘れてしまうかもしれないもの」
「そんなことなら心配するな。もしも人の世のことぜんぶ忘れてしまったって、俺が面倒みてやる。どんな種類の妖精だったって、おまえはおまえだからな、多少外見が変わるくらいで幻滅《げんめつ》することもないだろ」
そうじゃなくて。
「まさか、あの伯爵《はくしゃく》と結婚できなくなるのを心配してるのか?」
「ま、まさか! あたしはただ、父さまのことが気がかりで」
「忘れちまうんだから、気がかりにならないだろ」
そうなのね。
考えてみればリディアにとっては、そんなにつらいことでもないのかもしれない。
父は悲しむだろうけれど、フェアリードクターになると決めたときから、何が起こるかわからないとは覚悟しているはずだ。リディアの選択を受け入れてくれるだろう。
エドガーは……。
ちょっと気になる女の子なんてまわりにたくさんいる。アーミンだってそばにいるし、きっとすぐにリディアのことなんて忘れてしまうだろう。
リディアの方も忘れてしまうのだから、つらくない。
おぼえていたら、つらいのだろうか?
ケルピーの大きな手が、リディアの頭を包み込むようにして撫《な》でた。
「そんな顔するな。いばらを見つけるのはワームを倒すより至難《しなん》の業《わざ》だと思うぜ。だからこのまま帰ればいい。ワームが相手じゃ、フェアリードクターにだってどうにもできなくても当然だ。自分を犠牲《ぎせい》にしてまで人助けにこだわる必要もないさ」
でも、何もせずにあきらめたくない。
「もしも忘れたら、人間のあたしがどんなだったか教えてくれる? あなたが知ってることでいいから」
「やっぱり行くのかよ」
あきれたようにケルピーはつぶやき、「教えてやる」とリディアの頭をぐいぐいゆさぶった。
「ちょっと、そんなところでいちゃついてないでくれる」
突然、声がした。
ケルピーはリディアの頭をつかんだまま、警戒《けいかい》するように引き寄せた。
洞窟の岩陰からこちらを覗《のぞ》き込んでいるのは、リディアと変わらない年頃の少女だった。
「そこは竜の散歩道なの。じゃまなものがあると、あたしがしかられるんだから」
「あ……ごめんなさい。あたしたち道に迷って」
彼女は、リディアとケルピーをうさんくさそうにじろじろ見た。
「まったく、妖精たちってどうしてこう、人間に化けるのがうまいのかしら。紛《まぎ》らわしいことしないでほしいわ」
「あたしは人間なんだけど」
いちおう、今のところはそう信じている。
「人間がこんなとこ入ってくるわけないでしょ。あたしだって、いいかげん学んだわよ。最初は何度も、人に会えた、助けてもらえるって期待したけど、どいつもこいつも通りすがりの妖精たちよ。さっさと出てって」
「待って、ねえ、あなた、もしかしてベティ?」
リディアはケルピーを押しのけ、彼女の方に進み出た。
「なんであたしの名前を」
ロタと似たコーヒー色の髪。大きな瞳の、ちょっと小悪魔的な感じのするチャーミングな女の子だった。
エドガーとつきあってたんだわ、と思い浮かんだ複雑な気持ちをかき消すようにリディアは深呼吸した。
[#挿絵(img/fluorite_167.jpg)入る]
「ええと、あたしはリディア。ロタといっしょにあなたを助けに来たの」
「ロタ? うそよ、ロタが来るわけないわ」
「本当よ。親友のあなたのこと、とても心配してたわ」
「親友じゃない、あたしはロタを裏切ったんだから」
吐《は》き出して、彼女は恥じ入ったようにうつむいた。
ふたりの間に何かあったのだろうか。ロタは何も、それらしいことは言っていなかった。
事情を訊《たず》ねようと口を開きかけたリディアの言葉を封《ふう》じるように、ベティは強く言った。
「とにかく、さっさと出てって。人間だっていうなら、竜《ワーム》に見つかったら殺されるわ」
「でも、ロタだってこの鍾乳洞《しょうにゅうどう》のどこかにいるのよ。はぐれてしまったの」
はっと、心配そうに顔をあげる。
「そんな、竜に見つかったらどうすんのよ。早く見つけて連れ出してよ!」
「だったらあなたも協力して。ワームの棲《す》みかのことには詳しいんでしょ?」
そしてリディアは、彼女の手を取る。
「それから、ここを出るときはあなたもいっしょよ」
よせと言いたげに、ケルピーがリディアの背中をつついたが、リディアはさも助け出す自信があるかのように、ベティに微笑《ほほえ》んでみせた。
*
村長宅にあった抜け道は、岩壁をくりぬいたかのような地下の小部屋につながっていた。
たいまつを手に中へ入っていったエドガーたちは、炎を反射してあたりを満たす、赤紫の輝きに目を奪われた。
フローライトでつくられた、大小さまざまなレリーフや彫刻品の数々だった。
領主館にもあったが、どれも、気品と躍動感《やくどうかん》をそなえた優美な曲線が特徴的だ。この村の工房が、親方から弟子へと伝えてきた作風なのだろう。
蛍石《フローライト》は高価な宝石ではないが、村が限定された産出量で潤《うるお》ってきたのは、工芸品として付加価値《ふかかち》をつけることができたからだと思われる。
しかしその伝統も、蛍石の産出が激減した今世紀初頭を境《さかい》に、途絶《とだ》えたと聞いている。
エドガーは、レリーフのひとつに歩み寄り、片隅《かたすみ》のサインに目をこらした。
「|朱い月《スカーレットムーン》?」
サインかと思ったら、そう書かれていた。
スカーレットムーンといえば、プリンスと戦うためにエドガーと手を結んだ秘密結社だ。
三百年前に現れた青騎士伯爵、ジュリアス・アシェンバートの恋人と庶子《しょし》が、装飾芸術家の結社《ギルド》に加わり、組織を発展させてきたという。しかしその子孫が、青騎士|伯爵《はくしゃく》の再来を怖れたプリンスによって皆殺しにされたとき、残った芸術家たちが復讐《ふくしゅう》を決意して、|朱い月《スカーレットムーン》≠ニ名乗る結社を組織した。
朱い月≠ヘ、ゲール語ではフランドレン。それは初代のイブラゼル伯爵、青騎士卿と呼ばれた人物の、妖精の血を引く子供の名だ。
ジュリアス・アシェンバートの庶子も、ミドルネームにフランドレンという名を持ち、その子孫も同様だったと聞いている。
つまり朱い月≠ニいうのは、青騎士伯爵の庶子につながる、傍系《ぼうけい》の子孫たちをさす言葉でもあるはずだった。
「この村に、青騎士伯爵の子孫が職人として入っていたのか」
「こちらにも、スカーレットムーンの刻印《こくいん》があります。制作年は、ほとんどが今世紀初頭のようですね」
ひとつずつ確かめていたアーミンが言う。エドガーは考え込んだ。
「そのころ、伯爵家の子孫がここにいたわけだ」
「エドガーさま、これを」
レイヴンが取りあげたのは、蛍石を装飾した手紙箱だった。同じ人物の作品のようだが、使っていたらしい傷や黒ずみがあるのは、ほかのものとは違い、個人的な持ち物だったのだろう。
中には手紙が残っていた。彼の作品に寄せられた、賛辞《さんじ》の手紙のようだった。
エドガーはふと、ひとつの署名に目をとめた。クレモーナ≠ニ書かれている。クレモーナ公国|大公《たいこう》のことだ。
大公からの手紙も、作品への賛辞で、文面に注目するようなところはなかったが、エドガーはクレモーナ公国の紋章《もんしょう》を彫《ほ》った蛍石を知っている。
それはここでしか採れない、稀少《きしょう》なフレイアだった。
ベティの持っていた紋章指輪は、この人物の作品だったのかもしれない。
彼は青騎士伯爵の血を引いていた。一方で、クレモーナの王女が青騎士伯爵を名乗る人物にさらわれた。
今回のことは、この職人とフレイアの紋章指輪に端《たん》を発《はつ》するのだろうか。
職人の名前を確かめようと、エドガーは手紙の宛名《あてな》を確認する。
「ユリシス・バーロウ……」
ユリシス?
「そのかたこそ、この村の救世主でした」
戸棚の背後《はいご》に隠されるようにあったドアから、村長が姿を見せた。
猟銃《りょうじゅう》をかかえている。レイヴンが飛びかかる隙《すき》をねらうように身じろぎしたが、エドガーは待つように視線で合図した。
「正確には、バーロウ氏は兄弟でした。兄が職人、そして救世主だったのは、あとからやって来た同じ名前の弟です」
「救世主とはどういうことだ?」
「この村にはたっぷり蛍石があるというのに、毎年決められた量しか掘り出せない。掘り出そうとしても、妖精たちが隠してしまう。そんな中彼だけは、妖精とかけ合うことができ、足りない蛍石を調達することができたそうです」
村長は、しゃべりたがっているようだった。
おそらく、自分は正しいという主張を。
「もともと青騎士伯爵が、この村に必要なだけの蛍石の量を決めて、妖精と取り引きしたんだろう? なのに、蛍石が足りないとは?」
「はるか昔の伯爵が決めた量が、いつの時代にもふさわしいといえるでしょうか? 当時の、村の生活はぎりぎり。困り果てていたのです」
「蛍石の量は、けっして少ないとは思えないな。そもそも大量に掘り出せば、すぐに鉱脈《こうみゃく》が枯れてしまうだろうから、ぎりぎりの量を村人たちも納得したんじゃないのか? それ以上のことは、自分たちでできることをするべきだった」
そんな説教は聞きたくないとばかりに、村長は自分の主張を続ける。
「バーロウ氏は、妖精たちがじゃまをしようと蛍石を自由に掘り出せるようにしてくれました。赤みの強い石をより分け、フレイアと偽《いつわ》れば高値《たかね》で売れました。彫刻なんて技術を身につける労力もばかばかしい。かたまりを砕いて、わずかなかけらでも赤みがかっていれば、作品に仕上げるよりずっと儲《もう》かるのです」
「そのころからずっと、この村は領主をあざむき、にせ物を売るなんて詐欺《さぎ》行為を続けてきたのか」
「どうせ伯爵は現れない。伯爵家の財産を管理しているトムキンス家の執事《しつじ》殿も、フレイアは採れないとご存じだから、報告しなくても不審《ふしん》に思われない。フレイアのにせ物が出回るのは昔からよくあることで、村ぐるみだとばれないように、バーロウ氏は注意深く売りさばいてくださいました」
「そいつがここで、領主のように振る舞っていたわけだ」
「伯爵家の血筋《ちすじ》です。何の問題がありますか?」
「庶子の血筋では爵位《しゃくい》は継げない」
「爵位などより、この村は、伯爵家の血筋による不思議な力が必要だったのですよ」
「……彫刻家の兄は? 弟に反対しただろうに」
蛍石に愛情を注いだ彫刻の数々を見れば、粉々に砕いてしまうような弟のやり方を許したとは思えなかった。
村長は、薄く笑みを浮かべただけだったが、この村で工芸品の伝統が急に廃《すた》れたことを思えば、何が起こったのかは想像できた。
おそらくは、弟の手にかかったのだろう。
「バーロウ氏は、ときどき村を訪れ、妖精たちが採掘場に近づかないようにしてくださいました。あとを継いだ二代目も、同じように不思議な力を持っていました。バーロウ氏の言うとおりにすれば、何もかもうまくいく……、うまくいっていたのです、昨日までは」
「村の赤ん坊が盗まれて、親にあきらめろと強要して、一部の村人で利益を分け合って? ずいぶん暴君《ぼうくん》だな」
「フレイアを得るためには、赤ん坊の犠牲《ぎせい》はしかたがないのです。ようやく本物のフレイアを生み出す竜《ワーム》を目覚めさせられると、バーロウ氏は二年前にこの土地を訪れました。彼のおかげで、再び、炎の蛍石が採取できるようになりました」
竜を、目覚めさせた?
竜だって?
当惑《とうわく》するエドガーに、村長は唇《くちびる》をゆがめた。
「伯爵、あなたが本物の青騎士伯爵だとおっしゃるなら、この地の竜をその宝剣で倒せばいい。昔の伯爵がそうなさったように」
無理に決まっていると言いたげだ。
「昔の村人たちは、|取り換え子《チェンジリング》の被害をなくすために、フレイアをあきらめた。伯爵に竜を倒してくれとお願いした。しかし私たちの新しい領主は、逆のことをしたのです。それだけの力を持つ彼にこそ、この地の領主の資格がある。ユリシス・バーロウ、彼をのぞいて、伯爵の力を受け継ぐ者はもういないのですから」
二年前にこの村へやって来たのは、あのユリシスなのだろうか。
プリンスの側近《そっきん》、そしてエドガーの命をねらう少年。
あのユリシスが、青騎士伯爵の庶子《しょし》の血筋だったのは間違いなさそうだ。
ジュリアス・アシェンバートの傍系の子孫は、プリンスが敵視し皆殺しにされたはずだった。しかし、おそらくはプリンスについたことでユリシスは生き残っている。
プリンスは、青騎士伯爵の力を持つ者を手に入れたうえで、ほかの子孫たちを皆殺しにしたのかもしれない。
その力を、自分だけのものにするために。
ということは、竜を目覚めさせてまでフレイアをほしがっているのは、プリンスだ。
「フレイアはどこにある? まだ、ユリシスの手には渡っていないだろう」
「あれは不死の石、青騎士伯爵の血を引く者にしか扱えない。あなたでは、メロウの宝剣と同様、宝の持ち腐れというものです」
猟銃の先をこちらに向けながら、村長はゆっくりとあとずさった。
部屋の奥にはもうひとつドアがある。そのドアを開けると、彼は急に背を向け駆《か》けだした。
すぐさまレイヴンが追う。
エドガーも続く。村長がフレイアを持っているのは間違いない。
逃げ出したはずの彼がここでもたついていたのは、フレイアを持ち出すためだろう。
おそらくは、戸棚の奥の部屋に隠してあったのだ。
地下通路の突き当たりは、天然の鍾乳洞《しょうにゅうどう》だった。海水が入り込んで湾状になっているそこに、小舟が置いてあった。
村長が乗り込んで漕《こ》ぎ出すのが見えたが、エドガーたちが岸辺に駆けつけたときにはもう、手の届かないところまで舟は岸を離れていた。
このまま逃げられてしまうのかと思ったそのとき、何かが視界を横切った。
というよりも、目の前の空間を占領するかのような巨大なものが飛び出してきたのだ。
それは、何やら苦しげに全身をよじって暴れ回る。鍾乳洞の壁や天井に激突する。
エドガーたちはとっさに地面に伏せたが、村長と小舟がはね飛ばされ、海に沈むのがちらりと見えた。
と思うと、それは大きく口を開けて灰色のかたまりを吐《は》き出す。急に落ち着きを取り戻したかのように、素早く通り過ぎていった。
「……今のは?」
「竜、でしょうか」
レイヴンが淡々《たんたん》と言う。
竜ね。身を起こしながら、エドガーは笑いたくなった。
妖精国|伯爵《はくしゃく》になって、まわりに猫だの馬だのの姿をした妖精がいるのに、竜が存在したからって驚くことはないのだが。
「巨大な蛇《へび》かトカゲみたいだった」
「だあーもうっ、死ぬかと思ったよう」
声は、竜が吐き出していった灰色のゴミから聞こえた。
地面にへばりついていたそれは、むくりと起きあがり、竜の唾液《だえき》でベタベタした毛並みを必死になって撫《な》でつけている。
「ニコ! どうしたんだ? リディアといっしょじゃなかったのか?」
「あ? 伯爵?」
エドガーの姿に気づくと、急にニコは立ち上がり、怒ったように言った。
「見てたんなら奴を殺してくれよ。そうだ、さっさとやってくれ。あんなの生かしておいたらろくなことはねえ。メロウの剣なら、昔の青騎士伯爵みたいにざっくりやれるだろ。おれさまをのみ込もうとしやがったひでえ奴だからな!」
「あれを、倒せって?」
あきれ果てるエドガーを、まじまじと見たニコは、やっと理解したのか頭をかかえ込んだ。
「ああ、そ、そっか、あんたは名前だけの青騎士伯爵だったんだ! 倒せるわけないんだ!」
あからさまに言われると、事実だがむかつく。
「くっそー、おれさまをこんな目にあわせやがって、どうやって仕返しすりゃいいんだ?」
「それよりニコ、リディアは?」
「わかんねえよ。巣に近づいたとたん、急に竜《ワーム》が現れて、みんな散《ち》り散《ぢ》りだ。おれはぱっくりやられるし、のみ込まれまいとふんばって、奴の舌をひっかいてやったさ」
「リディアはまだ、竜の巣に?」
「ああ、だろうな。いちおうケルピーがいっしょのはずだ」
ケルピーといっしょ。エドガーにとっては心中おだやかではない状況だ。しかし今のところ、ケルピーがいてよかったというべきのようだった。
「しかし、リディアはベティのことを調べに行ったと聞いたよ。竜の巣って、そんな危険なところへなぜ行ったんだ?」
「ベティがそこにいるからだよ。彼女をさらってきた奴は、ワームに花嫁《はなよめ》として差し出したらしい」
「さっきのあの、大トカゲの花嫁?」
「そ、そうだ、ワームの巣に迷い込んじまったからには、リディアはあの性格からして、ベティと盗まれた赤ん坊を取り返すために何をするかわかんないよな」
ようやく憤《いきどお》りがおさまりかけたらしいニコは、リディアのことが気になりはじめたようだった。
人間など知らぬ間に踏みつぶしてしまう蟻《あり》のようなものだろうあの竜から、ベティを取り戻すことなど不可能に思える。しかし相手が妖精となるとリディアは、フェアリードクターだという自負《じふ》だけで、無謀《むぼう》なことをしでかしそうだ。
「竜のこと、リディアは最初から知っていたのか?」
「ここへ着いてすぐ、小妖精《ドービー》が言ってたからな」
「なら、どうして僕に何も言わずに……」
そう口にしながら、どうして竜の存在を黙っていたのか、エドガーには思い当たっていた。
エドガーには、村長の悪事を暴《あば》くことはできても、竜を相手になどできないからだ。
腰の宝剣を握りしめながら、エドガーは唇を噛《か》んだ。
「ニコ、竜《ワーム》の巣へ案内してくれ」
「え? あんたが行く気か?」
「リディアをほうってはおけない」
ケルピーとふたりきりにしてもおけない。
「だってどうせ役に立たない……」
またむかついたエドガーは、メロウの剣をニコの目の前に突きつけた。
「とにかく、僕が青騎士伯爵だ」
「相手は人間じゃねーぞ。ハッタリなんて効かないんだ」
「姫君を助けるために、竜を退治するのは昔から騎士と決まってるだろう。これでも騎士の末裔《まつえい》だよ」
「本気かよ」
やってやる、とエドガーは自分を奮《ふる》い立たせる。
ユリシスが青騎士伯爵の血筋《ちすじ》でも、妖精をあやつる能力を持っていても、メロウの剣を手に入れた伯爵は自分だ。
たぶん、どこかでエドガーは、このままでは本物の青騎士伯爵にはなれないと感じている。
この国の紋章院《もんしょういん》は、エドガーのことをイブラゼル伯爵と正式に記録した。けれど、伯爵家を今日《こんにち》まで維持してきた、人と妖精の世界をつなぐ見えない力は、エドガーに宝剣をゆだねながらも、まだ様子を見ながら試しているところなのではないだろうか。
伯爵家の当主に必要なのは血のつながりだろうか?
それだけではないからこそ、メロウは宝剣をエドガーにゆだねたのではないのか。だとすれば、竜と戦うことだって、最初から投げ出すわけにはいかないのだ。
「あー、伯爵。その前に体を洗っていいか?」
「そんな時間はないよ」
剣先でネクタイをつつかれたニコは、あきらめのため息をついた。
*
「ワームのいばら? 知らない。こんな鍾乳洞の中に、草木なんて見たことないわよ」
ベティは、自分の家だというところヘリディアを案内した。
洞穴《ほらあな》の中にぽつんと建つ石の家だ。その違和感《いわかん》は、ここが魔法のかかったワームの領域なのだとリディアに感じさせた。
「あたし、人間の家でないと暮らせないと言ったの。そしたら次の朝にはこれがあったの。でも、家の形はしてるけどここには石ばかり。石のベッドに石の椅子《いす》。ま、ワームはこの狭い場所には来たがらないから、それだけでもあたしにとっちゃ快適だけどね」
ケルピーには、ロタとニコをさがしに行ってもらった。
ベティに手を貸して、重い石のドアを開けて中へ入れば、たしかに石以外何もない部屋だった。
「ねえベティ、あなた食べ物は、外のドービーが運んできたものだけを食べてたの?」
「そうよ。だってワームの食べ物は岩よ。あたし飢《う》え死にしそうだったわよ」
ということは、ベティはまだ妖精の食べ物を口にしていない。ここから連れ出せば、人の世界へ戻れるはずだ。
「大丈夫よ、ベティ。ここから逃げ出せるわ。ケルピーがロタを見つけて連れてきてくれるから、そしたらすぐに逃げるのよ」
ベティは、まだ信じられなさそうに、石の椅子に腰をおろした。
「こんなことになったのも、あたしへの天罰《てんばつ》だと思ってる。大きなうそをついたから。あの紋章入りの指輪を……。そうよ、火の色の蛍石《フローライト》、あの伯爵《はくしゃく》はあれが目当てだったの」
「伯爵……」
「青騎士伯爵と名乗った、少年よ。あたしより年下に見えたけど、変に大人びてた」
「もしかして、淡い金髪の?」
ベティは頷《うなず》く。ユリシスだ、とリディアは思う。
ベティがここへ連れてこられたという二年前、ユリシスはエドガーが伯爵の位《くらい》を手に入れる以前から、プリンスの命令でこの村へ来て、青騎士伯爵を名乗っていたということだ。
プリンスと青騎士伯爵とのかかわりは、いまもってよくわからない。プリンスが自分のあやつり人形にしようとしたエドガーが、青騎士伯爵となったのは偶然としても、それはエドガーにとって、救いになるのだろうか。それともますます、宿命的にプリンスとの戦いの泥沼《どろぬま》にはまっていくだけのものなのだろうか。
そうはさせたくない。エドガーが伯爵となるために協力したリディアは、それが彼を助ける方法だと信じていたのだ。
しっかりしなくちゃ。あたしが、ユリシスのやることを阻止《そし》しなきゃいけないのよ。
「あいつ、魔法使いなんだわ。火色の蛍石でワームの眠りをさまさせてしまったの。ワームが目覚めていれば、あの紋章指輪と同じ種類の蛍石が採れるようになるって言って」
「そうだったの。あなたの紋章指輪がねらわれたのね。おじいさまに、クレモーナ大公《たいこう》に会うために、親しい人たちと別れてアメリカを発《た》ったのに……」
はっとしたように、ベティは顔をあげてリディアを見た。急に泣きそうな顔になった。
「あたしじゃない、本当のクレモーナ公女は。あたしはただの海賊《かいぞく》の娘よ。あの指輪は盗んだものなの!」
「違うよベティ、あれはあんたにあげたものなんだから」
開いたままの石の戸口に、ロタが立っていた。
「ずっとあんたが、大公のそばで幸せに暮らしてると思ってた。なのに、あの赤い蛍石のせいでこんなところに連れてこられてたなんて……」
石の家へ、ゆっくりと入ってきたロタは、ひとりだけの様子だった。巣穴をさまよっているうち、ここへ迷い込んだようだ。
ケルピーったらどこをさがしてるのかしら。
それよりも、紋章指輪をロタがベティにあげたって、どういうこと?
リディアは、思いがけない話に、口をつぐんだままふたりの様子を見守る。
「盗んだのよ。ううん、最初は借りるだけのつもりで、勝手に持ち出して、いろんな人に見せびらかしてたの。そしたらジョンが、王家の紋章だって教えてくれて、そのうち、大公の使いだって人が来て、紋章指輪を持つ孫娘をさがしてたって言われて、そのころあたし、あいつとひどい別れかたしたばっかりで気が滅入《めい》ってたし、父さんも死んで、お姫さまになれるなら何もかも失ってもいいって、あんたのことも裏切って、あたしの指輪だって言っちゃったの」
「海賊なんてきらいだって言ってたあんただから、お姫さまになりたいんだと思った。あたしは、海賊が性《しょう》に合ってたし、だから指輪はあげたつもりだった。でもあとになって、ジョンの奴に聞かされた。あたしとピーノができてると思ってたんだって?」
ベティはうろたえた顔をし、目をそらしてうつむいた。
「バカげた誤解だよ。あたしたちはまるっきり姉弟みたいなものなんだ。いや、兄弟かな。ピーノは早く一人前の強い男になりたいと思ってて、誰のためにって訊《き》いたら黙っちまったことがあったけど、いつも視線はあんたを追ってたな」
「……うそ、いつだってピーノは、ロタのことばっかりほめて」
「あたしが誰をのしたとか、ケンカに勝ったとかってほめ方だろ? 好きな女をそんなふうにほめる奴はいないよ」
困惑《こんわく》しきったように、ベティは黙り込んだ。
「やっぱり、そういうことだったんだ。あんたはわざと、ピーノと正反対の外見|優男《やさおとこ》ばかり追っかけて自分をごまかし続けてたし、ピーノはそのたび落ちこんでた。どいつもこいつも、ひねくれてるよ」
本当にそうねと思いながら、リディアはそっと息をついた。
ベティはアーミンのことで、エドガーに愛想《あいそ》を尽《つ》かしたと言っていたけれど、どちらも、本当に好きな相手には想いを告げられないから、代わりを求め合っていた似たものどうしだったのだろう。
エドガーはいまでも、代わりを求めて女の子を口説《くど》きまくっている。
誰にも、リディアにだって、いちばん大切な人の代わりはできやしないのに。
「なあベティ、あのときあんたは、ピーノをふっきるためにジョンに賭《か》けてみたんだろ。口説けない女を想ってるあいつが、あんたをいちばんにしてくれたらって。でもそうはならなかった。そんなときに公女をさがしてるって人が現れて、指輪の本当の持ち主が知れると、あたしとピーノが引き離されちまうと思ったんだよな。ピーノにつらい思いをさせたくなくて、指輪が自分のだって言ったんだ」
「お人好しね、ロタ」
「違うよ、あんたの考えそうなことならわかる。わがままで他人を振り回しても、友達を裏切ったりしない」
両手で顔を覆《おお》い、ベティはわっと泣き出した。
そんな彼女を、ロタがなだめるように抱きしめる。
リディアも涙ぐみながら、こうなったらどうしたってベティをワームから助け出さなければと思うのだった。
そのとき、地響きがした。
鍾乳洞《しょうにゅうどう》をゆさぶるような音は、だんだんこちらへ近づいてくる。
「ワームだわ」
ベティが怯《おび》えたようにつぶやく。
建物の外で、空気がびりびりと震《ふる》えるような声がした。
「呼んでる、行かなきゃ」
「ワームのところへか?」
「掃除に手を抜いたから、怒ってるみたい」
立ちあがろうとしたベティをとめるように、ロタが腕をつかんだ。
「出てっちゃダメだ」
「大丈夫よ、怒鳴《どな》られるだけ。逆《さか》らったら食べるぞとか脅《おど》すけど、痛い目にあわされたことはないわ」
「ううん、あんたはもう、ワームに従う必要ないんだ」
そしてロタは、リディアの方にベティを押し出した。
「リディア、こいつのこと頼むよ」
「え、でもロタ」
止める間もなく、ロタは戸口から出ていく。
と思うと大きな声で叫んだ。
「おい、ワーム! あんたの花嫁《はなよめ》は今日からこのあたしだ。ベティはもう出てったからな!」
リディアとベティは、建物の中でふたりして息をのんだ。
「どういうつもりなの、ロタは……」
「待って、今出ていくとよけいにワームを怒らせかねないわ。様子を見るのよ」
リディアはベティを引き止めつつ、そっと外をうかがった。
岩の上の方に、こちらを覗《のぞ》き込《こ》むような大きな赤い目があった。それはロタを見おろしつつ、ぎょろりと動いた。
(おまえが? 勝手なことをするな。ワシは高貴な乙女《おとめ》しか娶《めと》らんぞ)
「知ってるよ。おとぎ話じゃいつだって、竜がさらってくのはお姫さまだもんな。でも、本当のお姫さまはこのあたしだ。ベティはあたしの身代わりだっただけさ」
縦に細く切れ込んだようなワームの虹彩《こうさい》が開き、驚いたようにロタを見た。
(本当の姫?)
「気づかなかったか? あの子、高貴な女にしちゃがさつでいいかげんだっただろ?」
少しむっとしたように、ベティは頬《ほお》をふくらませた。
(たしかに、物覚えが悪くてすぐすねる、扱いにくい嫁だと思っておった)
「ロタよりあたしの方が家事はできるわよ」
ベティはこっそりつぶやいた。
ロタは、ベティがここから出られるなら、本当に自分がワームの花嫁として残ってもいいと思っているようだ。
しかしリディアは、このままロタのことだって置いていきたくはない。
それでもこの状況は、以前よりましなのかもしれないと思う。
ロタがベティと入れかわることで、かつて木偶《でく》人形と入れかえられた|取り換え子《チェンジリング》はロタになった。ベティは、ワームの魔力の縛《しば》りを解かれるのだ。
長い間ここにいたベティは、それだけで魔力の影響を受けているから、外に連れ出すのが容易ではないが、ワームに縛られていないならまだ連れ出せる可能性がある。
一方で取り換え子となったロタは、ただ連れ出すことはできないが、ワームのいばらを手折《たお》りさえすれば、まだこの場所に馴染《なじ》んでいないから自然に人界へ押し流されるだろう。
結局は、リディアはワームに近づく危険を冒《おか》さなければならないが、そうしてみんなを、盗まれた赤ん坊もいっしょに助け出せるなら、危険も冒し甲斐《がい》があるというものだ。
ロタはワームの説得を続けていた。
「あんたの花嫁はクレモーナ大公女なんだろ? それがこのあたしだって言ってんだよ。てことだから、ベティのことは忘れてくれ」
しばし間《ま》があり、よかろう、とワームは言った。
(来い)
巨大な目は二、三度まばたきし、壁の穴から遠ざかった。と同時にまたワームが体をゆさぶり、地響きが始まる。
ロタはちらりと石の家に振り返り、リディアに念を押すように頷《うなず》いて、ワームの地響きが去っていく方へ歩き出した。
「ちょっと、行っちゃうわ」
「ええ、でもこのまま彼女の作戦に乗りましょう」
「あんたロタを見捨てる気? あたしはいやよ!」
「わかってる、見捨てないわ。だけどまずあなたがここを出なきゃいけないの。ふたりいっぺんには無理だから」
「信用しろっての? ていうかそもそも、あんた何者なのよ。ロタの友達? なんてあり得ないわね、どう見たってちゃんとしたお嬢《じょう》さんだわ」
「ええと、あたしは……」
「リディアはフェアリードクターだ。妖精の専門家だからって、おまえを助けるためにわざわざ来てやったんだからな」
ケルピーが姿を見せた。
「ロタじゃなくてこいつを見つけたもんだからさ」
ケルピーは、面倒くさそうに言いながら、戸口の柱にもたれかかる。その後ろから、ピーノが家の中へ入ってきた。
「ピーノ、あなたどうやってここへ……」
「じつは手下に、ロタとあんたのあとをつけさせてあったんだ。小舟で岩の裂《さ》け目へ入っていったって聞いたから、こっちも片づいたし気になって来てみた。穴の中で道に迷っちまったんだがな」
村長の方は片づいたのか。エドガーは? と訊《き》きそうになるのをリディアはがまんした。
なんだか、あいつのことを心配してるみたいに聞こえてしまうから。
ピーノはベティの方に首を向けると、ゆっくり彼女に歩み寄った。
「会いたかった。心配してたんだぞ」
ベティはうつむいたまま黙っていた。
「いっしょに、アメリカへ帰ろう。お頭《かしら》の墓参りに行って、結婚の報告をしよう」
「結婚? 誰が?」
「おまえと俺」
「は? あたしは海賊《かいぞく》の女房なんかになる気は……」
「ないのか?」
「……ないこともないけど」
「じゃあ決まりだ」
ぎこちなく、ピーノは微笑《ほほえ》む。
「決まりって、それだけ? あたし肝心《かんじん》なこと聞いてない」
「肝心なことって?」
「そりゃ、あんたの気持ちとか」
「おいリディア、今はそれどころじゃないんじゃないか?」
ケルピーが口をはさみ、突然のプロポーズの行方《ゆくえ》を真剣に見守っていたリディアは我に返った。
「そ、そうね。あとでふたりでゆっくり話し合って。ピーノ、だったらあなたにベティのことをお願いするわ。ふたりで出口をさがせばきっとうまくいく。ねえベティ、ピーノにワームの魔法は影響してないから、彼があなたの命綱《いのちづな》だって信じてついていくの。ピーノ、あなたは必ずベティを取り戻すって強く念じて。迷ったり手を離したりしちゃダメよ。意志が魔法に勝てば願いがかなう。それが妖精界のおきてなんだから」
ベティは、じっとリディアを見つめ、頷いた。
「ロタも、助かるよね」
「もちろんよ。心の中で、ロタの手もつないでいて。それが彼女を呼び戻す力になるわ」
あんなプロポーズでいいのか? とケルピーがなげやりにつぶやくのを聞きながら、リディアは、手を取り合ったふたりが出ていくのを見守った。
[#改ページ]
竜の森と魔法のいばら
妖精に取り換えられたり連れ去られたりした人間を助け出すために、昔から様々な方法が語り継がれている。
的確《てきかく》な方法も、効果の少ない方法もある。成功することもあれば、失敗してその人を永遠に失うこともある。
だけど昔から、どうにかして妖精の棲《す》みかへ侵入《しんにゅう》し、大切な人を取り戻そうとする例はいくつもあった。
危険だけれど、魔力も、妖精と戦う能力もない人間にできることは、必ず連れ戻すと決めて行動することだけ。
妖精の世界のおきては、どういうわけかたったひとつ、人と人との強い絆《きずな》を断ち切ることはできないのだ。
どうしてだろうと、リディアはぼんやり考える。
妖精にはないものだからかもしれない。
それは彼らが、人の子を盗みたがることとどこかでつながっているのだろうか。
鍾乳洞《しょうにゅうどう》は奥へ向かうほど広くなっていた。
この先はワームのねぐらなのだと緊張しながら、リディアはケルピーと先へ進む。
ロタと、マーサの赤ん坊を見つけだして、ワームのいばらを手折《たお》ることを、何度もリディアは心の中に思い浮かべる。それしか方法はないのだから。
ふとリディアは、足を止めた。
「ねえ、何か聞こえない?」
「何がだ?」
「……音色《ねいろ》、ロタのオカリナだわ!」
音のする方へと、リディアは駆《か》けだした。
「おい待てって、ロタのそばにワームがいたらどうするんだよ!」
ケルピーの注意も聞かず、石灰《せっかい》の柱が連《つら》なる宮殿のようなその奥へ入っていく。
石の上に座ってオカリナを吹いているロタを見つけるが、すぐそばに、巨大な鱗状《うろこじょう》の壁があった。
壁ではなく、ワームの横《よこ》っ腹《ぱら》に違いない。頭の方はこの空間を横切ってさらに洞窟《どうくつ》の奥にあるらしく見えなかったが、リディアはケルピーに引っぱられて柱の陰で立ち止まった。
そこからロタの方を覗《のぞ》き見る。彼女に気づいてもらおうと小石を転がす。
こちらを見つけたロタは、オカリナを吹くのをやめ、ワームの様子をうかがうが、どうやら眠っているらしく、それは身動きもしなかった。
そっと立ちあがり、リディアの方へ歩いてくる。しかしロタの足には、枷《かせ》と鎖《くさり》がつけられていた。
「ロタ、その鎖……」
「ああ、ここに来たばかりの人間は、逃げ出すかもしれないからって。そのうちはずしてやるって言ってた」
時間が経って、妖精の魔力の影響を受ければ、人間界へ戻りにくくなるからだろう。
「あれが目覚めないうちに逃げた方がいい。歌を唄えっていうから、オカリナ吹いてやったらすぐ寝たけど、起きるまでに食事の支度《したく》しろってさ。岩を砕いとかなきゃならないんだよ。自分でやれっての」
ロタはすでに辟易《へきえき》しているようだ。
「ピーノが来たの。ベティを連れ出してくれるわ。だからあたしたちがあなたを助ける」
「ワームの鎖だ。切るなんて無理だぞ」
ケルピーが言う。
「大丈夫よ。いばらを折れば、取り換えられた人をここにとどめておく力はなくなるもの。鎖も役には立たないわ」
「いばら?」
「この巣のどこかに、ワームが育てたいばらがあるはずなの」
「それって、奴にとって大事なもの? だったら、森の向こうには入るなって言われたけど、それがどこにあるのかは知らない」
「森? 木が生えるようなところがあるのかしら」
とにかくそれをさがそうとリディアは思う。
「ロタ、もう少しだけがまんしててね。それから、いちばん大切な人のことを考えて。その人のために戻るんだってことを、強く念じておくのよ」
「うん、でもリディア、あんたは大丈夫なのか?」
心配そうに見つめられ、どきりとした。
「え、ええ。これはあたしの仕事だもの」
「あんたは、誰のことを考えてる?」
「え?」
「ここから帰るために」
一瞬、エドガーのことが浮かんだかもしれない。
「……父さまのこと」
「そっか」
しかし父を思うことは、リディアには当たり前すぎる。お互い分かり合いすぎていて、人の世への執着《しゅうちゃく》というには弱いのだ。
それでもリディアが、少しでも人の世が好きだと思えるのは、父がいて、母が選んだ世界だから。
それに代わるほどの執着は、たぶんまだない。
「あたしさ、じいさんに会いたいかもしれない」
悩みながらロタは言った。
「お姫さまってがらじゃないし、自分の生まれなんてどうでもいいと思ってた。育ててくれたお頭《かしら》やまわりの人たちと築きあげてきたものが何より大事だって。でも、じいさんがあたしのことをあきらめずにさがし続けてたって聞いて、気がついた。自分の本当のこと、もっと知りたいし、両親のことも聞きたい。あたしを忘れずにいてくれたじいさんに会いたい」
「会えるわ、必ず。そういう想いが、妖精の惑《まど》わしを退《しりぞ》けるの」
力強く頷《うなず》き、ロタはリディアの手を握りしめた。
いつのまにか、かすかに空気を震《ふる》わせるようなワームの寝息が途絶《とだ》えていた。
緊張しながらリディアは首を動かす。
「おいリディア、ワームが」
ケルピーが見あげる。洞窟の天井付近にある大きな目に見おろされれば、柱の陰にいても丸見えだった。
(何だ、おまえたち。ワシの御殿《ごてん》へ勝手に入ってくるなど許さんぞ)
「逃げるぞ」
リディアの腕を引く。
「リディア、危ない!」
ロタが叫ぶと同時に、何かがこちらに向かってきた。ワームがしっぽを振ったらしい。
ケルピーがリディアをかかえてさっとよけてくれなければ、石灰の柱とともに砕き飛ばされていただろう。
「くそっ」
ケルピーが舌打ちしたのは、引き返そうとした通り道にも、壁のようなワームの体が横たわっていたからだ。
「こっちだ、リディア!」
別の方角から声が飛んだ。
エドガーだ。どうしてここへ?
わけがわからないままリディアは、彼の姿が見えた狭い横穴の方へ走る。
岩の隙間《すきま》へ、ケルピーとふたりしてすべり込んだ瞬間、体当たりしてきたワームの体が岩にぶつかり、あたりがゆれた。
それでも、巨大な岩は崩《くず》れることはなかった。
ワームは、隙間に爪《つめ》を差し込もうとする。しかし、どうにもできない様子で、あきらめて下がったのか急に静かになった。
ほっとしながら、リディアは振り返る。エドガーと、レイヴンとアーミンがいる。
と思うと、エドガーに抱きよせられる。
「よかった、間に合って」
両手で顔を包み込むようにして、瞳を覗《のぞ》き込《こ》む。
「怪我《けが》はないかい?」
こういうときエドガーは、当然のように婚約者扱いする。あまりにも自然で、違和感《いわかん》をおぼえるリディアの方が間違っているかのような気分にさせられるのが困ったものだ。
動揺しつつ、リディアは両手を突っ張ってどうにか離れた。
「話はニコにきいたよ。ちゃんと僕に教えてくれていれば、ひとりで行かせたりしなかったのに」
「ひとりじゃないぞ。俺がついてるってのに」
ケルピーの存在はまるきり無視して、エドガーはリディアを壁際《かべぎわ》に追いつめながら言葉を続けた。
「わかってるんだ。妖精のことは、僕がいたってどうにもならないと思ってるんだろ? でもね、僕にはきみを守る責任がある。知らなかったではすまされない」
「……そんなの」
本物の婚約者じゃないのにと、言いたいリディアを察したのか。
「雇い主としても責任があるんだ。僕の領地のトラブルだからなおさらね」
「……ごめんなさい。こんなことになるはずじゃなかったの。ちょっと下調べのつもりで来たら……」
しかし、わずかでも素直なところを見せると、エドガーはつけあがる。やっぱり恋人にするみたいにリディアの髪に手を触れ、切《せつ》なげに灰紫《アッシュモーヴ》の瞳を細めた。
「いいんだ、無事だったならそれで。何より怖《おそ》れているのは、こうしてきみに触れられなくなることなんだから」
アーミンも、レイヴンもいるのにどうしてこう恥ずかしげもないのだろう。
しかしふたりとも、ありふれたことのように平然と待っている。ケルピーだけが苦々しい顔で壁を蹴《け》った。
「それより、ベティを見つけたわ。ピーノが連れ出してくれると思う。あとは、ベティの身代わりになったロタと、マーサの赤ちゃんを助け出せば……」
「問題は、どうやって助け出すかだね」
リディアの心は決まっている。けれど、ここへエドガーたちが来たのは予想外だった。
「ええと、ほかにここへ入ってきたのは三人だけ? ニコは?」
「いっしょにいたはずなんだけど、さっき竜に食べられかけたから、もう近づきたくないんじゃないかな」
食べられかけたの。
ちょっと同情しながらも、途中で逃げ出すなんてやっぱり薄情《はくじょう》な猫だわと思う。
それよりも、リディアは自分の計画に変更すべき点がないかどうかを考える。
ワームのいばらを折っても、ほかの妖精に悪影響はない。アーミンとケルピーは大丈夫。エドガーとレイヴンは生きた人間で魔法の影響もないから、海へ向かって進めば洞窟《どうくつ》から出られるはずだ。
ベティはピーノが連れ出してくれると信じるしかない。
リディアは、どうなるかわからないが、いばらはふつうの人間には見えないし、妖精には手を触れることができないもの。彼女がやるしかないのだった。
「とにかく、いったん外へ出よう。落ち着いて、ふたりを助け出す方法を考えるべきだと思う」
エドガーの言葉に、しかしリディアは強く首を横に振った。
「だめよ、方法はひとつしかないわ。このまま行く」
「でもリディア」
「だから、あなたたちは帰って」
エドガーは、あっけにとられたようだった。
ケルピーが笑う。
「伯爵《はくしゃく》、女たらしのあんたでも、こいつを思い通りにするのは容易じゃないみたいだな」
「僕はリディアを危険な目にあわせたくないだけだ」
「それが無駄《むだ》だってのさ。こうなったら俺は、とことんこいつのわがままにつきあってやるつもりだ。ボタンをとめろとか胸さわるなとか面倒なことばっかり言うが、どうってことはない。ワームのねぐらへだってついていくさ」
ちょっとケルピー!
「ボタン? 胸?」
案《あん》の定《じょう》、エドガーはそこに反応した。
「きみは、僕の婚約者に卑猥《ひわい》なことをしたのか? いやがる彼女にむりやり」
してないって。
「もしもそうなら、僕にはきみを殺す権利がある」
エドガーはケルピーに詰め寄った。
「俺のこと、殺せやしないのに?」
「やめてってば!」
リディアはふたりの間に割って入った。
「リディア、僕たちの名誉の問題だ」
「だからそんなんじゃないの!」
「エドガーさま、また竜の気配《けはい》が」
レイヴンが声をあげる。裂《さ》け目のむこうの広い空間で、腹を引きずってうごめくワームの振動を、みんなが感じて緊張した。
「まずい」
ケルピーがつぶやいた。
「おいっ、早く逃げろ、火の気配だ。ワームが火を吹くぞ!」
エドガーはリディアの腕をつかみ、駆《か》けだす。
みんなでいっせいに奥へ向かって走りながら、リディアは背後《はいご》に、ごうっという奇妙な音と熱気を感じて振り返る。
向こうの方がやけに赤く、そして明るい。
ケルピーが立ち止まる。
「くい止めるからさっさと行け!」
「で、でも、ワームの炎じゃあなたがあぶないわ」
立ち止まろうとしたリディアだが、エドガーはそうさせなかった。
「ケルピー、きみの犠牲《ぎせい》は無駄にはしない」
冗談ともつかないせりふをあっさり吐《は》いて行こうとする。
「はあ? やばくなったら逃げるぞ俺は! だからそれまでに、できるだけ遠くへ離れろっての!」
それからケルピーは、何度も振り返るリディアを安心させるためか、能天気《のうてんき》に言った。
「リディア、こんなことさっさと終わらせて、いっしょにハイランドで暮らすんだぞ。忘れんな。いや、忘れてもかっさらっていくからな!」
声を背中に聞きながら、道を横穴にそれると、ケルピーの姿はリディアの視界から消えた。
そのままエドガーと、洞窟の中を複雑に走った。
炎の危険がなくなったと思われるころ、ようやく彼らは立ち止まる。リディアは息切れして、しばらくは言葉を発することもできなかった。
レイヴンとアーミンが、付近の様子を確認すると言ってその場を離れると、エドガーは、まだ呼吸を整えているリディアの手をつかんだまま、問いつめるように言った。
「どういうことか、教えてくれるよね」
何のことか、すぐにはわからなかった。
「あの馬とハイランドで暮らすって」
「それは……」
何もかも忘れてしまうかもしれないなんてこと、話せない。
決定的な別れを切り出すかのようだから。
それが怖いと思う自分に混乱し、リディアは泣きそうになってうつむいた。
エドガーは、リディアの様子に戸惑《とまど》ったらしく、今度はなだめるように髪を撫《な》でた。
「あのね、きみを責めてるんじゃないんだ。心配しないで、何があっても僕の気持ちは変わらない」
いつもの調子のいいだけのせりふ。でも、そんなことを言われたら、ますます口を開けなかった。
「本当だよ、信じられない? あのケルピーが無理《むり》強《じ》いしたとしたって、そんなこと結婚の障害になんかならないよ」
は?
「何言って……」
「ケルピーに襲《おそ》われかけたくらいで、穢《けが》れたなんて思う必要ないんだ」
ちょっと待ってよ、どういう話?
「襲われてないわよ!」
「わかってる。婚約者の僕にだって口づけを許してくれないきみだから、些細《ささい》なことでも不実な過《あやま》ちに感じてしまうんだろう? でもそんなことできみがケルピーと結婚する気になるなら、紳士的《しんしてき》に接してきた僕はバカみたいじゃないか」
ちっともわかってないじゃない。
それに、紳士的ですって? どこが?
「違うってば! ボタンのことはとめるの手伝ってもらっただけ。だって彼は妖精だし、人間の男性じゃないし。あとはちょっと、転んだときに偶然……、それだけなんだから!」
確かめるように、彼はリディアの目を覗《のぞ》き込《こ》む。
「本当に? ならきみは、傷ついたりしていないんだね」
「変な勘《かん》ぐりはやめてちょうだい」
リディアは、気恥ずかしくてむかついて真っ赤になっているのに、エドガーは心底ほっとしたように、彼女の肩を抱きよせた。
なかなか離してくれなくて、リディアが不快感を示そうと身じろぎすると、彼の手が背中のボタンに触れた。
急にリディアは、緊張して硬直《こうちょく》してしまう。
ケルピーなら平気でも、エドガーの手は、ボタンひとつでさえ意味深《いみしん》に思えてしまうのはどうしてだろう。
「まあね、妖精で馬でも、いちおう男なんだからもう少し慎重《しんちょう》になった方がいいよ。だから今度は、僕が手伝ってあげよう。はずしたいときに」
まじめに心配してくれているのかと思うと、ふざけたことを言う。
「いらないわよ!」
両手に力を入れて、エドガーを突き放した。
「だいたいあなた、あきらめてくれるって言ったじゃない」
「まだ時間はあるじゃないか。それにあきらめるのは、きみがノーと言った場合だよ。本当に僕が必要ないのかどうか、ちゃんと考えて答えてほしい」
そしてまた急に、まじめな話になるのだ。
深刻な顔をされると、いつものようにやみくもに拒絶《きょぜつ》すれば、彼は本当に離れていくのだと感じてしまう。
もう二度と、恋人みたいに触れようとはしなくなる?
それでいいじゃない。安心して過ごせるわ。
それでいいの?
でもこんな約束だって、本気かどうかわからない。
そんなことは関係ない。リディアは自分の心のままに返事をすればいいだけだ。
「……わかってるわ」
「さて、話を戻そう。ケルピーに理不尽《りふじん》なことをされたわけでもない、とするとどうして奴はあんなことを言ったんだ?」
もう、流してくれればいいのに。
エドガーは、自分に都合の悪いことはうまくごまかしつつ話を変えてしまうくせに、リディアにはきっちり最後まで問いつめるのだ。
けれど今回は、問いつめている場合ではなくなった。
洞窟中《どうくつじゅう》に響きわたる咆吼《ほうこう》が聞こえてきたのだ。
と思うとまた地面がゆれる。
今までの、ワームが動くときの振動とはくらべものにならない、はげしいゆれだった。
レイヴンとアーミンが急いで戻ってくるのがちらりと見えたが、リディアは立っていられなくて、近くの石柱にしがみついた。
「リディア、そこから離れて!」
エドガーの声にはっと見あげれば、大きくひびの入った柱が今にも崩《くず》れそうだとわかる。
彼がのばした手をつかもうとしたけれど、ほんのわずか届かなかった。
エドガーの足元に亀裂《きれつ》が広がる。レイヴンが彼を引き倒すようにして助けるのが見えたが、一気に崩れだした亀裂は、リディアの方へ向かってきた。
リディアは腕をつかまれ、柱から引き離される。
「アーミン……」
「向こう側へ、飛び移ってください!」
もたついている間に、彼女はリディアを力いっぱい押し出す。
振り返ると、リディアがさっきまでいた場所が、アーミンを巻き込んで崩れ落ちようとしていた。
「アーミン!」
リディアは叫んだが、どうにもできない。落ちてくる岩を避けながら、岩盤《がんばん》のくぼみまでエドガーに引きずられ、身を寄せているのがやっとだ。
ようやくゆれがおさまっても、リディアの体の震《ふる》えはまだおさまらなかった。
エドガーは立ち上がり、急にそこにできた、深い断崖《だんがい》の谷間を覗《のぞ》き込《こ》んだ。
何度かアーミンの名を呼んだが、返事はなく、エドガーの声だけがあちこちに反響する。
「おりていって見てきましょう」
レイヴンが言った。
「危険だよ。またあんなゆれが起こるかもしれない」
震えてる場合じゃないと、リディアは体に力を入れて立ちあがった。
ワームのいばらをさがしに行かなきゃ。
それが、アーミンを助けるためにも役立つはずだ。
エドガーに声をかけようとし、思いとどまる。
彼はきっとこの場を離れたくないだろうし、どのみちひとりでやらなきゃならないなら、ひとりで行けばいいのだ。
リディアはそっとあとずさり、崖下《がけした》の方を覗き込んでいるふたりから離れる。きびすを返し、ゆれの被害を受けてなさそうな方向へ歩き出した。
今のゆれは、もちろんワームが起こしたものだろう。それも、リディアたちが逃げ込んだあたりをねらったようだ。
小さな人間を相手に、見失ってまで攻撃をしかけてきたのは、何かを警戒《けいかい》しているということだ。
おそらく、いばらのある場所が近い。
ヒントは森。森って、ふつうの木々ではないのかしら。
リディアは考えながら先を急ぐ。
が、不意に後ろから肩をつかまれた。
「ひとりで、どこへ行くつもり?」
エドガーが、怒ったようにリディアを引き寄せる。
「呼んでるのに立ち止まろうとしないし」
一心不乱《いっしんふらん》にいばらのことを考えていて、耳に入らなかったようだった。
彼の顔を見ることができなくて、リディアはうつむいた。アーミンが落ちてしまったことに責任を感じるし、エドガーの、少し機嫌《きげん》の悪い様子は、落ちこんでいるせいだと思う。
だからこそ、リディアは自分にできることをするしかない。
「あたし、ワームのいばらをさがしに行くわ」
何のことかと、エドガーは怪訝《けげん》そうに首を傾《かし》げた。
「もともとそのつもりだったの。そしたらワームの巣の中にたまっていた魔力が流れ出す。取り換え子の赤ん坊もロタも解放されるし、一時的にだけどワームの力も弱まるから、危険がなければアーミンを助けにいけるでしょう? 捜索《そうさく》なら小妖精《ドービー》たちに協力してもらうこともできるもの」
「わかった。じゃあ僕も行く」
「ひとりで行くわ」
「だめだよ。あの場はレイヴンにまかせてきたし、きみをひとりで行かせるわけにはいかない」
やさしく言い聞かせるように、微笑《ほほえ》む。
誰が見たって、彼がリディアに恋していることは間違いないと信じてしまいそうな、真剣な目を向けている。
でも、彼が好きなのはリディアではない。違うってことを、彼自身も気づいていないのではないだろうか。
そうね、エドガーは気づいていないのかもしれない。本当は誰をいちばんに想っているか、封印《ふういん》して、自分すらだましているのかも。
「婚約者だから? そばにいて守る責任があると思ってる? バカみたい」
「心配なんだよ。きみにまで何かあったら、たえられない」
今だって、たえられないほど心配な気持ちでいっぱいなはずだ。
「あたしが、落ちればよかったの」
たまらなくて、リディアは吐《は》き出す。
「何言ってるの。きみのせいじゃないだろ」
「でも、あたしを助けなければ彼女は落ちなかったわ」
いまさら言ってもしかたのないことだ。エドガーはそう思っているのだろう。少しあきれたようにため息をつく。
「きみだったら確実に命はないよ。アーミンだからまだ希望はある」
「そういうことじゃないわ」
「じゃあどういうこと」
エドガーにとって、その方がよかったのじゃないかということだ。
でも、それこそ言ってもしかたのないこと。リディアは黙ったまま歩き出す。
エドガーはついてきた。
「あたしについてきても無駄《むだ》。それにもう、ロンドンへ帰ることもできないかもしれないから、ここであきらめてちょうだい」
ひとりになりたい、そう思うだけだ。リディアはなげやりな気持ちだった。
「もしかしてそれ、ケルピーが言っていたことと関係ある?」
「…………」
「あるんだね」
急に前へ進み出、立ちはだかった彼に、リディアはぶつかりそうになる。
そんな彼女を抱きとめ、逃げられないようにする。
「ちゃんと話してくれないと、キスするよ」
どういう脅《おど》しかたよ。
あきれたけれど、両腕をつかまえられれば力を入れても身動きできず、彼はリディアを押さえつけるように体を寄せるし、キスどころか危険を感じ、あわてて言った。
「あ、あたしが|取り換え子《チェンジリング》かもしれないからよ!」
「それがどうして?」
「妖精のいばらを折ったら、近くにあるものすべての魔法が解けるの。だからとらわれている取り換え子は人間の世界へ押し流されるけど、逆に人間に見せかけられている妖精は、妖精の姿に戻ってしまう。……あたしが取り換え子なら、妖精に戻って、人だったときのことはぜんぶ忘れるわ」
一気に言ってしまうと、急に黙り込んだエドガーは、憤《いきどお》りを押さえ込んでいるように見えた。
けれど彼は、いつにないほどやさしくリディアの頬《ほお》を撫《な》で、髪を撫でた。
「そんな大事なこと僕に黙ったまま、ひとりで行こうとするなんてずるいじゃないか。妖精のことは、僕にはわからないから? 名前だけの青騎士|伯爵《はくしゃく》だから?」
「そ、そうじゃない……」
「じゃあ、もしもの場合僕と別れなきゃならないのがつらいから、話せなかった?」
「え」
こいつのうぬぼれって、並じゃないわ。
つらいかもしれないなんて、ちらりと思ったことは忘れたことにする。
「妖精になったって、みんな忘れてしまったって、きみをケルピーに渡す気はないよ」
「あなたは、人間よ。あたしの姿だって見えなくなるのよ」
そんなはずはないと確かめるように、リディアの頬を両手で包み込む。
「きみは取り換え子じゃない。僕はそう信じる」
「人間だったとしても、あたしは妖精とかかわりの深い体質なの。いばらを手折《たお》れば、魔力のうねりに巻き込まれる。そのときに、人の世に戻れるだけの意志を保っていられるかどうかわからない。でも、それでもいいと思ってるわ」
「妖精になりたいのか?」
わからない。妖精だったら、傷つかない。
「きみを人の世に引きとめられるのは、どうしても僕じゃないってことか」
心底苦しそうに言うから、リディアの胸も痛む。
「妖精のことはわからない。きみにとってとくべつにもなれない。それでも僕にできるとしたら、きみをひとりにしないことだけだ。それすら必要ないと言わないでくれ。終わったら、いっしょに帰ろう」
まぶたに口づけられ、泣きたくなった。
どうにかこらえ、体を引く。
「行かなきゃ」
頷《うなず》くエドガーは、リディアの手を取って歩き出す。
ひとりで行くと、もう言えなかった。
*
海の水は冷たく、ワームの火にあおられたケルピーのたてがみや皮膚《ひふ》を少しずつ癒《いや》していく。
淡水《たんすい》に棲《す》む彼にとって、海水は最適な環境とはいえないが、それでも陸よりはずっと過ごしやすい。
海底に座り込んで、ケルピーは魔力が体に戻ってくるのを静かに感じていた。
回復したら、早くリディアのところに戻らなければならない。彼女がいばらを手折れば、何が起こるかわからないのだから。
考えながらケルピーは、すぐそばに横たわっている女の方を見た。
彼女が、ゆっくり体を起こそうとしたからだった。
「やっと起きたか」
不思議そうにケルピーの方を見て、それからあたりを見回す。伯爵の、男装の女召使いだ。
たしか、アーミンとか呼ばれていた。
「おまえ、|アザラシ妖精《セルキー》の自覚がないって本当なんだな。泳ぎ方がなってないから、沈んできた岩にぶつかって気を失うなんて人間みたいなことになるんだ」
「ここは……?」
「海の底だ。とはいえ、ワームの洞窟《どうくつ》の下の方なわけだが」
「どうしてあなたがいるの?」
「助けてやったんじゃないか。気を失ったまま沈んだら、その上に岩が積もってるところだぞ」
水棲馬《ケルピー》という獰猛《どうもう》な妖精を、彼女は警戒《けいかい》しながら見ていた。
本能的なものだろう。ケルピーはどんな生き物でも殺して食べる。妖精たちにも怖《おそ》れられている。
彼がリディアという人間の少女を、食べ物として見るのではなく好意を持っている変わった水棲馬だと知っていても、助けられたなど信じられないのだ。
「何のために助けたの」
「喰《く》うため、とでも言ったら納得するか? ほうっておいたらリディアが怒るだろうと思っただけだ。礼に腕でもくれるってなら、拒否しないがな」
冗談にならないだけに、アーミンは礼を言う機会を失ったわけだが、ケルピーは気にしていなかった。
立とうとし、まだふらつくらしく彼女は座り込む。
「上の方は燃えてる。しばらく水の中にいたほうが安全だ」
「海中の洞窟も、あちこちにつながっているんでしょう?」
「あんまり動くと、伯爵のもとへ戻りにくくなるぞ」
アーミンは、岩壁に手をつきながら、もういちど慎重《しんちょう》に立ちあがった。
「村の中心部の真下がどのへんかわかる?」
「なんで」
「話す必要はないわ」
「それがものを訊《たず》ねる態度かよ」
「なら忘れて」
断崖《だんがい》に沿って、彼女はふらふらと歩き出した。
リディア以上に頑固《がんこ》な女だと思いながら、ケルピーは立ちあがる。忠実で従順《じゅうじゅん》なのは伯爵に対してだけか。
それとも……。
ケルピーがついてくる気配《けはい》に、アーミンは振り返って眉根《まゆね》を寄せた。
「ついてこないで」
「俺は行きたい方に行くだけだ」
「だったら先に行けばいいわ」
「それも俺の勝手だろ」
苛立《いらだ》ったように顔を背《そむ》け、アーミンはまた歩き出したが、あきらかにケルピーは、彼女のあとをつけていた。
「あなたこそ、早くリディアさんのところへ戻ったらどうなの? 離れるとやっかいなんでしょう?」
「気になることがあってな」
「……何」
「ちょっと離れたところからだったが、おまえが落ちるのを見てたよ。リディアを助けて、じゅうぶん余裕があったのに、わざと落ちただろ」
アーミンは黙り込み歩き続ける。ケルピーは、ついていきながらまた言った。
「下が海だと気づいて、大丈夫だと踏んだのか? しかし何のために? 村の中心部へ行きたい? 何も危険を冒《おか》さなくても、伯爵にそう言えばいいことだ。いや、言うわけにいかないのか? 伯爵と大鴉《レイヴン》ぼうやからあやしまれずに離れる必要があったってことか?」
急に振り返ったアーミンは、ナイフをケルピーに突きつけた。
「口は災いのもとよ」
「俺はセルキーみたいに、人間の武器じゃ死なないぞ」
「セルキー族をあまくみないで」
「まあそうカリカリすんな。俺はべつに、伯爵の味方ってわけじゃない」
ため息をついてナイフをおさめ、また歩き出した彼女は、もうケルピーを追い払うのはあきらめたようだった。
リディアとむりやり婚約してしまったエドガーのことをきらっているケルピーだ、よけいな告げ口はしないと思ったのだろうか。
アーミンは、ときおり海面に浮上し、周囲の地形を確かめながら先へ進んだ。
ケルピーはもう話しかけなかったし、彼女の方は完全に、ケルピーの存在を無視していた。
アーミンの様子が変わったのは、海底が盛り上がったいくぶん浅い場所で、小舟の残骸《ざんがい》を見つけたときだった。
そのあたりをくまなくさがしていたが、目的のものが見つからないらしい。
ふと、海面にたいまつの明かりらしい炎が見え、彼女はけわしい表情になると、波を立てないように慎重に岩陰に近づいていった。
そうしてそっと、岸辺へあがる。
鍾乳洞《しょうにゅうどう》の中に、海の水が侵食《しんしょく》している。その岸辺に、村人らしい男がふたりほど見えた。
彼らの足元に、死体が転がっていた。海から引きあげられた死体だろう、ずぶ濡《ぬ》れで、衣服が吸い込んだ水分が流れ出すとともに、血の赤が石灰《せっかい》の白い岩肌を染めていた。
急にアーミンが、男たちの前に飛び出した。
ナイフを手に、驚き戸惑《とまど》っている男をひと突きにする。
完全に心臓をねらっていた。手加減する気なんか毛頭《もうとう》ないらしい。
もうひとりが、たいまつで彼女に殴《なぐ》りかかった。
炎が顔をかすめ、ひるんだアーミンは後ずさる。死体につまずきバランスを崩《くず》すと、にやりと笑った男はたいまつを振りおろす。
彼女はその場にひざをついた。
怪我《けが》してるくせに、女ひとりで無謀《むぼう》だなと思いながら、ケルピーは眺《なが》めている。
彼女がすぐには立ち上がれないと見ると、たいまつを持った男は彼女に背を向け、逃げ出そうとした。
ケルピーは、たぶんほんの気まぐれで、男の前に立ちはだかっていた。
頭をつかまえ、ようやく立ちあがったアーミンの方へ押し出す。
「こいつ、逃がしてもいいのか?」
「だめよ、死んでもらうわ」
言うなり彼女は、ナイフを振った。
血が飛び散り、男はその場に崩れ落ちた。
アーミンは表情も変えず、倒れた男の衣服をさぐり、握りこぶしほどの赤っぽい石を取り出すと、慎重にそれを自分のポケットにしまう。
そうして疲れ切ったように、岩陰に座り込んだ。
「それがほしかっただけなら、殺すことはないだろ」
「あなたに言われたくない」
ナイフを胸元に抱きかかえるようにして、うずくまっている。返り血が青白い頬《ほお》を彩《いろど》り、彼女をより美しく見せるような気さえする。
殺したのは、男たちによけいなことをしゃべられると困るからか。
しかしケルピーにわかるのはそれだけで、あとは、これ以上ここにいても意味がないと思うだけだ。
彼女が伯爵《はくしゃく》のもとを離れた理由は、今手に入れた石のためだ。しかしそれが何なのか、言うつもりはないだろう。
立ち去ろうと、ケルピーはきびすを返す。
「リディアさんに、迷惑はかけないわ」
本当かどうか。
だが彼女は、ケルピーにそう告げることで、今見たことが彼には利益にも害にもならない、無関係なことだと言いたかったのだろう。
*
「森だわ」
リディアは思わず声をあげた。
とてつもなく広い空洞《くうどう》に出たときだった。そこには、鍾乳石《しょうにゅうせき》の高いつららが無数に林立《りんりつ》していた。
白い石の森となって、空間を埋《う》め尽《つ》くし、視界をさえぎっている。
天井はさらに高く、水蒸気に煙《けむ》っているようでよく見えない。
「この奥に、いばらがあるかもしれないのか」
エドガーもあきれたように見あげた。
「きっとあるわ」
リディアは確信する。
天井から落ちてくる水滴《すいてき》の、かすかな音が無数に重なれば、そぼ降る雨の中にいるようだ。
石灰をふくんだ水滴が地面に落ち、積もり積もって石の柱を高く高く作りあげていく。途方《とほう》もない時間をかけて自然の作業がつくりあげた森を、感嘆《かんたん》の思いでリディアは見あげた。
エドガーは、ふと近くにあった石灰|石《せき》のひとつに近づいていって、屈《かが》み込《こ》んだ。まだ人のひざくらいの高さしかない石灰柱だ。
「どうかしたの?」
「いや、精巧《せいこう》な彫刻のようだと思ってさ」
覗《のぞ》き込《こ》んだリディアは、息をのんだ。
岩の中に、うずくまった赤ん坊が埋もれかけているかのようだった。
「こ、これ、赤ちゃんよ! 取り換えられたマーサさんの赤ちゃんだわ」
「え? 石になってるみたいだけど」
「ワームの魔法がかかってるのよ。でもあたたかい、生きてるわ。早く助けてあげなきゃ」
立ちあがって、エドガーは眉《まゆ》をひそめながら森を見つめる。
「もしかしてここの石灰柱、みんな人柱だとかいう?」
「……さあ。ワームは人間を石にしてから食べるってドービーが言ってたけど、どのみち完全に石化《せっか》してしまってる古いものは助けられないわ」
リディアは、石柱群を見やって胸元で十字を切った。
「昔から、こうやって人を食べて、ワームはフレイアをつくりだしていたのね」
その悪循環を断ち切るために、昔の青騎士伯爵は、ワームを封《ふう》じ、村人を救い、そのかわりに高価なフレイアが二度と採れなくなることを村人は受け入れたはずだった。なのに。
「お金|儲《もう》けのために、また人を犠牲《ぎせい》にしようとするなんて……」
「あれは、ただ金になるというよりもっと別の使い道があるようだよ。青騎士伯爵の血を引く者にしか扱えないと村長は言ってたけど」
そこで彼は言葉を切り、急に話を変えた。
「ところでリディア、竜を倒す方法を知っているかい?」
「ワームなんて倒せないわ。だからこそいばらをさがしているのよ」
「だけど、昔話には竜を倒した英雄がいるよ。聖ジョージとか、ああでも有翼《ゆうよく》のドラゴン相手か。とにかく、昔の青騎士伯爵は、かつてワームを眠らせた。いったいどうやったんだろうと、ずっと考えてるんだけどね」
青騎士伯爵には不思議な力があった。妖精界と人間界を行き来し、どちらの民も治める領主だった。
たぶんその血を継ぐ者にしか、ワームを倒すなんてことはできない。ドービーもそう言っていた。
けれどエドガーは、方法はないかと考えている。
「竜は、強くて巨大で謎《なぞ》めいている。でも必ず急所があるというだろ? 古今東西《ここんとうざい》の例からいって、竜を倒せるのは、特殊な武器を手に入れた者か、急所を見抜いた者だけだ」
彼は、腰の剣を抜いた。
メロウの宝剣が、きらりと輝く。
「武器はある。竜と戦うには遜色《そんしょく》ない剣、かつてワームを倒したことのある剣だ。なのに僕が使っても妖精を斬《き》ることができない。でも急所がわかれば? ただの人間にだって倒すことができるはずだ」
「どうやって急所を知るの?」
「そこが問題なんだけど、時間がない」
「え?」
エドガーが周囲を気にしたように視線を動かすと、風が草むらを通り抜けたかのようにしゃらしゃらと音がした。
かすかな振動が、石柱の森をゆさぶっているのだ。気づいたリディアは、はっと振り返る。
「ワームが……!」
見あげるような鱗《うろこ》の壁が、目の前をゆっくり動いていく。どうやら、ふたりともすっかり、蛇《へび》のような長い体に取り囲まれている。
「気づいてたなら早く言ってよ!」
「気づいたときには囲まれてたから」
だから、竜を倒す話なんかはじめたの?
「ね、倒すしかないだろ?」
ね、じゃないわよ。蛇は苦手なのに。
全身が見えないときはまだよかった。しかし今は、ぐるりと見渡せば、長いニョロニョロしたものがうごめく感じがわかってしまうから、リディアは鳥肌が立つ。
もたげた頭が、高く上の方からこちらを見おろしている。
(おまえ、何物だ? なぜその剣を持っている)
あたりをゆさぶるような、ワームの声が響いた。
「なぜって、この剣の主人だからさ」
(青騎士伯爵はおまえではない)
[#挿絵(img/fluorite_227.jpg)入る]
「僕だ。おまえを目覚めさせたのはニセ者。だがもう、ニセ者の好きにはさせない。おまえも再び封印《ふういん》してやる」
メロウの剣を目の前にし、ワームは警戒《けいかい》したのか、じりと輪をゆるめる。
「エドガー逃げましょう。宝剣のおどしが効いているうちに」
しかし彼は、剣をかまえるようにして握り直す。
「いいや、僕はやるよ。やらなければ、本物の青騎士|伯爵《はくしゃく》になれない」
「何言ってるの、あなたは、もともと名前だけがほしくて……」
「そうだ、名前を手に入れたのは僕だ。奴じゃなくて僕だったんだから、伯爵としての責務《せきむ》を果たす」
「奴って?」
ワームは、宝剣の魔力を感じているのか、見入ったまま動かない。
「ユリシスさ。青騎士伯爵の、庶子《しょし》の血を引いている」
「ほ、本当なの?……だったら彼の、妖精をあやつる能力が並じゃないのは、青騎士伯爵から受け継いだ力……」
一介《いっかい》のフェアリードクターがかなうわけないじゃない。
「奴だって、宝剣を手に入れようとしたはずだ。でもできなかったから、プリンスは、青騎士伯爵の宝剣はもはや存在しないと考えたんだろう。けれどこれは、僕の手にある。不思議な力も、伯爵家との縁故《えんこ》もない僕に」
「エドガー、うしろ!」
ワームがしっぽを動かしてきた。振り返ったエドガーは、よけながら剣で防ぐ。
剣先がしっぽをかすめた。しかしワームの堅《かた》い鱗とぶつかり、岩をたたいたような音がしただけだ。
ワームは、エドガーには宝剣の力を引き出せないと確認したのか、今度は本気で襲いかかってこようと身構える。
鋭い爪のついた前足が、頭上にせまった。
リディアとふたり、石柱の森へ逃げ込む。
ワームの前足は、柱を数本なぎ倒す。
無数にある柱の陰に身を隠せば、ワームはふたりの姿を真上からさがそうと首を持ちあげた。
「きみは隠れてて」
エドガーはまた出ていこうとする。
「無理よ、もうやめて」
「あいつを倒せば、いばらを折らなくてもすむんだろう? きみが危険にさらされずにすむ」
「あなたが死ぬわ」
必死のリディアは、彼の腕にすがりついてとめようとした。
けれどこちらを見て、迷いもなく微笑《ほほえ》む。
「メロウの剣を、僕のものにしたいんだ。妖精だとか魔術だとか、そんなものを使う連中からきみを守る手だてもなくて、結婚を望むのは傲慢《ごうまん》だろう?」
「バカなこと言わないで、あたしと結婚しなくたって、あなたは困らないわ」
ワームに見つかった。
大きく口を開け、こちらに向かってくる。
リディアとエドガーは走る。
が、急に石柱の森が途切《とぎ》れ、岩壁が行く手をはばむ。
「横穴があるわ!」
駆《か》け込《こ》んだとたん、ワームの牙がさっきの場所に突き刺さっていた。
「急所さえわかれば」
外をうかがいながら、エドガーがつぶやく。
ワームの体を眺《なが》めやるが、どこがそうなのか見当もつかない。
ふたりが逃げ込んだ横穴を崩《くず》そうとするように、ワームは岩壁に体当たりし、しっぽを振り回して堅い鱗で岩盤《がんばん》を砕く。
「急所って、見てわかるの?」
ゆれがはげしくて、リディアは座り込む。
「鱗の色が違うのかもしれない」
ふと、思い出す。
「そうだわ、フレイア!」
「え?」
「ベティの持ってたフレイアが、このワームをよみがえらせるのに必要だったらしいの。てことは、ワームの体のどこかにそれがあるんじゃないかしら」
なるほど、とエドガーは考え込んだ。
「あの赤だったら目立つはずだけど」
さしあたって見あたらないのだ。
しかし、巨大なワームの全身から、コインほどの赤い石を見つけるのは容易ではない。腹の下や背中は見えにくい。
「そういえば、ワームは炎の舌を持ってるっていうわ。口から火を吐《は》くせいだと思ってたけど、もしかしたらフレイアは、舌にあるのかも」
言ってみただけだったが、エドガーは大きく頷《うなず》き立ちあがった。
「舌か……。ためしてみよう」
「待って、違ったらどうするのよ、ひとくちで食べられちゃうわ」
「正解だと信じるよ」
「でも」
振り返り、リディアの髪をすくい取って口づける。
「リディア、僕は本当に、きみと結婚したいと思ってる。そのための試練だから、行かなきゃならない」
エドガーにとって、自分に課した試練なのか。
リディアには、彼がワームに勝つことが愛情のあかしなのかどうかよくわからない。男の人の理屈なんだろうと思う。
でも、人とは違う能力を持つリディアのために、自分も変わろうとしてくれているのだとわかる。
メロウの剣を使えるようになりたいと願う彼は、リディアの能力を利用するのではなく、本当に守ろうとしてくれている。
気がついたら、リディアは彼の首に抱きついていた。
背伸びして、頬《ほお》に軽く唇《くちびる》を寄せる。
あわてて離れながら、自分でも驚いて真っ赤になりながら、どうにかつぶやく。
「……死なないで」
「……ありがとう」
からかったり調子に乗ったりするでもなく、そのひとことだけだったのは、彼も、ものすごく驚いていたのかもしれない。
横穴から、ワームが暴れる外へ、エドガーは出ていく。
気づいたワームは、警戒《けいかい》しつつ暴れるのをやめる。
どうしよう。本当に、舌が急所なの?
怖くて見ていられない。
目をそらしかけたリディアは、この横穴の上の方で、何かが光るのに気がついた。
目をこらす。淡い緑色をした、草の芽のような。
植物?
まさかあれ、いばら?
ちらりとエドガーの方を振り返る。ワームが身構え、今にも襲いかかろうとしている。
いばらを手折《たお》れば、ワームの魔力が弱まる。動きが鈍くなるはずだし、エドガーの助けになるはずだ。
思いつくとリディアは、岩壁に駆《か》け寄った。
スカートをたくしあげて結び、岩の出っぱりに足をかける。何度もずり落ちそうになりながら、少しずつのぼっていく。
岩の間から細く茎を伸ばしているいばらに、必死になって手をのばす。
刺《とげ》など気にしている場合ではなく、とにかくつかもうとしたとき、足元がすべって、リディアは勢いよく転げ落ちた。
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妖精界の約束事は
まっすぐにワームを見据《みす》えたエドガーは、下方にかまえた剣をしっかりと握りなおした。
ワームがこちらに向かって、口を大きく開いたときが勝負だと、その動きを見守る。
フレイアがなければ一巻の終わり、ワームにのみ込まれる。
無謀《むぼう》なことをしようとしているのだろうか。だがリディアだって、自分の身がどうなるかわからないのにいばらを手折《たお》ろうという。
そんな彼女を守れなくてどうするのだ。
利用価値があるから、最初はそう思って近づいたかもしれないけれど、今は、彼女の能力も、頑固《がんこ》でお人好しで気が強くてきまじめで、抱きよせると頼りなくてやわらかくてカモミールの香りがして、もっと近づこうとすると怒って手が出るところも、失いたくないと思っている。
だからやるしかない。
ワームが向かってきた。
頭ごと突進してくるが、口はわずかしか開いていない。
やり過ごそうとエドガーは走る。
ワームがぶつかって折れた柱が、こちらに倒れてきそうになり、どうにかよける。
ふと視線を動かすと、リディアが岩壁によじ登ろうとしているのが見えた。
何をやってるんだ?
まさか、いばらがあるのか?
おとなしく待っていればいいのに。と思っても、リディアはエドガーの思い通りになったためしがない。
頭上に影を感じ、はっと顔をあげる。
ワームの爪《つめ》が覆《おお》い被《かぶ》さるようにせまる。
転がりながらどうにかよける。
立ちあがろうとする彼に向かって、ワームが大きく口を開いた。
長い舌の先に、火にくべたかのように輝く赤い蛍石《フローライト》が見える。
あれだ。が、剣をかまえるのがわずかに遅れる。
鋭い牙が襲いかかる。
そのとき、ワームの動きが急に鈍った。
わずかな隙《すき》に体勢を立て直したエドガーは、身を屈《かが》め、牙をかわす。
そうしながらねらいを定め、舌の先めがけて剣を振った。
たしかな手ごたえとともに、蛍石が砕け散った。
一瞬、時が止まったかのように感じられた。
ワームの動きも、鍾乳洞《しょうにゅうどう》に響いているはずの水音も、何もかも静止した無音の世界に彼はいた。
再び音を意識したときには、ワームのもたげた頭がゆっくりと落ちてくるのに気づき、急いでしりぞく。
地響きを立てて、彼の目の前に倒れたワームは、もう完全に動く気配《けはい》はなかった。
崖下《がけした》にずり落ち、背中を打ったリディアは、痛みをこらえて体を起こした。
地響きのあと急に静かになった理由を確かめようと、目をこらす。しかしあたりは、土ぼこりに白く煙《けむ》っていてよく見えない。
エドガーは? どうなったの?
「リディア!」
そのとき、彼女を呼ぶ声とともに、エドガーが駆《か》け寄ってくるのが見えた。
「エドガー……、無事なのね?」
「ああ、竜は死んだよ」
ひざをついてリディアを覗《のぞ》き込《こ》んだ彼は、ふと眉根《まゆね》を寄せ、彼女の手を持ちあげた。
その手にリディアが握りしめていたのは、しおれたいばらだった。
エドガーに、いばらが見えているはずはない。ただ彼は、指の間から血のにじんだリディアの手を開かせ、刺《とげ》に引っかかれた傷を切《せつ》なげに見つめた。
「いばらを、折ったのか。それでワームの動きが鈍ったんだね。きみに助けられたよ」
そうして彼は、手折ってしまったいばらのせいで何が起こるのかと、不安げにリディアの頭を抱きよせた。
「早く、ここを出よう」
リディアも不安だった。自分がどうなってしまうのか、自分にもわからない。
「あたし、まだ人の姿をしてる?」
「|取り換え子《チェンジリング》なんかじゃない」
「まだ、すべてはこれからよ」
立ちあがる。
とぐろを巻いたまま石柱の森に頭をつっこんで、ぐったりしているワームの体が、石化《せっか》しはじめていた。それと同時に、森の石柱から淡い光が放《はな》たれる。
蛍《ほたる》のように飛び立っていく。
「人の世のものは人の世へ。この場に魔法で引き止められていた魂《たましい》だわ」
ふわふわと、上方へと漂《ただよ》っていく光にみとれそうになるリディアの手を、エドガーが引いた。
「妙な音がする」
波、それとも強い風を思わせる音だった。
「ワームの巣にたまっていた魔法が、軸を失って流れ出しているのよ。いばらを折ってしまったあたしにまとわりつくわ。いっしょにいるとあなたも巻き込まれる。帰れなくなるかもしれない……」
「何言ってるの。僕たちはいつでもいっしょだ。この先ずっと、ね」
またそんなことを。
エドガーのいつもの、口先だけの言葉。そう思っても今は、この魔法がかった妖精界で、自分の本質すらわからないリディアにとっては、とても貴重な意志の力に思えていた。
意志が魔法に勝てば願いがかなう。それが妖精界のおきて。
彼といっしょなら、帰れるかもしれない?
エドガーに手を引かれ、リディアは駆けだした。
しかし風の音は早かった。ふたりの背後《はいご》から、生暖《なまあたた》かいものが吹き抜ける。
漂っていた淡い光も、石にされかけていたマーサの赤ん坊も押し流す。
鍾乳洞の風景さえ、一気に変えてしまう。
もと来た道を戻っているつもりなのに、見たこともない崖縁《がけべり》の細い道に、ふたりは立たされていた。
「どうなってるんだ?」
「惑《まど》わしの魔法に取り憑《つ》かれたみたい。妖精の魔法は、人の記憶や五感を惑わせるものだから」
「とにかく、先へ進もう」
気を取り直し、エドガーは歩く。そして言った。
「この間読んだ妖精の絵本に、こんな話があったよ。連れ去られた恋人を助けに妖精界へ来た男に、親切な妖精が助言をくれる。人間界へ戻るには、何が見えてもまっすぐ前へ進むこと。外へ出るまで、ぜったいに恋人の手を離してはいけないって。でも妖精の魔法は、次から次へと恐ろしい幻《まぼろし》を見せて、ふたりを引き裂こうとするんだ」
「知ってるわ、その話。途中で男は、恋人が恐ろしい魔物に見えて、手を離してしまうんでしょ。それでふたりは永遠に引き離されてしまうの」
「……そうだっけ?」
最後まで読んでないわね。
「なんていうか、おとぎ話は残酷《ざんこく》だ。でも僕はぜったいに離さないから。妖精の惑わしをかわすには、お互いを信じてまっすぐ進む、手を離さない、そういうことだろう? つまりそれが言いたかったのさ」
口だけはうまいんだから。
理屈はエドガーの言うとおりだ。ただし簡単なことではない。惑わしの魔法をしりぞけるには、ふたりがどれだけ強い絆《きずな》で結ばれているかにかかっている。
不信や不安が心を惑わす。
ベティとピーノは、きっと大丈夫だ。けれどリディアは、エドガーと本当に心を通わせたことなどない。
手をつないだまま、狭い崖縁を歩きながら、リディアは怖くなった。
エドガーはいつ、どういうきっかけでリディアのことを離そうとするのだろう。その瞬間が怖いから、自分の方から逃げ出してしまいたい衝動《しょうどう》にかられる。
リディアの姿が妖精に変わってしまったら? 人の目からすれば、醜《みにく》い姿形《すがたかたち》かもしれないのだ。
「どうしたの?」
急に歩みが遅くなったリディアの方に、エドガーが心配そうに振り返った。
「あたし、魔力に打ち勝つ自信がないわ。だって、人の世に根がないの。もともとあたしは、どちらがわの存在かよくわからないもの」
「だから僕がついてる。きみのための根っこに、ここから出るための命綱《いのちづな》になるから」
手の力が抜けそうになるが、しっかりと握り直された。
「リディア、迷わないで」
無理、かもしれない。
あなたのいちばんはあたしじゃないから。
ほらもう、こんなにゆらいでいる。
リディアは、エドガーの言葉をずっと本気だと思えなかった。でもそれは、彼の浮気性のせいじゃなかった。
気づいてしまったのに、信じるなんてできそうにない。
「エドガー、どうせいつかあたしの手を離すなら、今離して。今ならあたし、平気でいられるわ」
「平気だって? あんまりじゃないか。きみを失ったら、僕は平気でなんかいられないよ」
そんなふうにやさしい言葉をかけられるほど、リディアは少しずつ、彼のことを信じたくなっていた。
今も、信じたい。
このままいっしょに帰りたい。そうしたら、きっともっと素直になれる。
でも彼は、本当にそれを望んでいるのだろうか。
わずかでも迷えば、惑わしの魔法が心の隙《すき》にしのびこむ。
「リディア、そいつの言葉なんか信じるな。あとでつらい思いをするだけだ」
上の方の岩場に、黒馬の姿のケルピーがいた。
「来いよ。わかってるんだろ、妖精界ならおまえを傷つけるものなんて何もない」
ええ、そうね。
前へ進む足取りが重くなる。かろうじて、エドガーに引っぽられて進んでいる。
「俺ならおまえだけだ。ほかの人間にも、妖精にだって興味はないからな」
本当にケルピー?
しかし、歩き続けるエドガーには何も見えていないし、聞こえてもいないようだった。
あれは、惑わしの魔法?
風景がゆらぐ。リディアは動けなくなって、そこに座り込む。
エドガーは、それでも彼女をかかえて立たせようとした。
そのとき、下方に人影が見えた。
崖下の道、目をこらすと、そこに倒れたまま身動きしない人影は、アーミンだった。
「エドガー、アーミンが!」
リディアの叫びに、下方を覗き込んだエドガーにも見えたようだった。つながれた手から緊張が伝わってくる。
「助けに行かなきゃ」
「いや……、無理だよ。今はどうにもできない」
リディアの手を握っているからだ。
「あたしは、大丈夫よ」
震《ふる》えないように気をつけながら、リディアは言った。
「少しくらいなら手を離したって大丈夫。あたしはここで待ってるわ。アーミンを助けて、あなたが戻ってきてくれるまで、道に迷わないよう待ってるから」
エドガーはしばし迷いながらリディアを見つめていた。
「……本当に?」
このままアーミンを失ったら、エドガーはまた深く傷つくだろう。リディアがいなくなるよりもずっと。
「ええ」
頷《うなず》きながら、さよなら、とリディアは心の中でつぶやいた。
エドガーの手の力がゆるむ。
うつむいてリディアは、深く息を吸い込む。手が離れればその瞬間押し流されてしまいそうな魔力のうねりを感じている。
目を閉じる。
急に、エドガーの気配《けはい》が感じられなくなった。
「何やってんだ伯爵《はくしゃく》! 離すんじゃねえぞ!」
ニコの声に、エドガーは我に返った。
とたんに強い風が吹いて、竜巻《たつまき》にでも巻き込まれたみたいに目も開けられず、けれど必死で、離しかけていたリディアの手をつかもうとする。
つかんだと思い、引き寄せる。
思いがけず、力なく倒れ込んできたリディアの体を抱きとめながら、エドガーは異変を感じ、彼女の顔を覗き込んだ。
「リディア、どうしたんだ? しっかりしてくれ」
目を閉じた彼女の体は、動く様子もない。
「遅かったか」
息を切らせながら、駆《か》け寄ってきたニコが言った。
エドガーのいる場所は、崖縁《がけべり》でも何でもなく、すぐそばに海がせまっている鍾乳洞《しょうにゅうどう》の中だった。
いつのまにか夜になったらしく、月光が射し込んだ鍾乳洞は、石灰《せっかい》がきらきらと輝き、ずいぶんと明るく思えた。
アーミンの姿は、どこにもない。
幻《まぼろし》だったのだと、ようやくわかる。妖精の魔法に惑わされ、リディアの手を離そうとしてしまった。
いや、ほんの一瞬だったけれど、離してしまったのだ。
リディアが、少しくらい手を離しても大丈夫だと言ったから。いや、リディアはこうなるとわかっていてそう言ったのだろう。
エドガーが、アーミンを助けるのに迷わなくていいように。
たとえ一瞬だろうと、リディアから気持ちも手も離してはならないことは、エドガーだってわかっていたはずだった。
ぐったりした彼女をかかえたまま、その場に座り込む。
「遅かったって? リディアはここにいる。呼吸も鼓動《こどう》もある」
「それは残像みたいなもんだからな。リディアの魂《たましい》は妖精界にとらわれちまった」
「ニコ、助けてくれ。どうにかならないのか」
「おれは妖精だから、人界に引き戻す力はねえよ」
腰に手をあてて、彼はひとつため息をついた。
「悪いな、伯爵。あんたは早く戻った方がいいぞ。そこの小舟に乗れよ。海の上は人間界だ」
だったら、この岸辺が境界なのか。ほんの一歩で、外へ出られたところだったのだ。
くやしくて、リディアの体をかき抱くが、何の反応もない。
「それは、置いていってくれ。もう外には持っていけないし、あんたが手を離せば消えるだけのものだ」
「なら、僕はここにいる。ずっとこうしている」
「……そっか、まあ好きにすればいい」
薄情《はくじょう》な猫は、あっさりそう言った。
エドガーは、本当にそうしているつもりだった。
アーミンを助けてと、ここで待ってるからと言ったリディアは、とても哀しげだった。そのうそにエドガーが気づいてくれることを、わずかでも期待しなかっただろうか。
期待していなかったとしても、なおさら彼は気づくべきだった。彼女の思いつめたような印象に。
婚約という言葉でしばりつけながらも、そのかわり必ず守るし本気で愛そうと思っているなら、気づくべきだった。
宝剣を扱うこともできず、このままではリディアを守りきれないかもしれないなんて、迷っているからどっちつかずで、こんなことになったのだ。
他人のために、帰ることをあきらめてしまえるくらいお人好しで執着心《しゅうちゃくしん》のない、だから人と妖精のためにフェアリードクターとして働こうと一生懸命だった彼女を、人の世に引き止め、ささえたいと思っていた。
何度も彼女にそう言ったけれど、うそになってしまったのだろうか。
ただの残像だとニコは言うけれど、このままひとりにはしたくないから、ずっとそばにいようと、なめらかなキャラメル色の髪を梳《す》く。
そばにいると約束したのだから。
握りしめた手を口元に引き寄せながら、エドガーは婚約指輪のムーンストーンに何気なく目を落とした。
やわらかな乳白色《にゅうはくしょく》の光が、かすかにまたたく。
はっと気づく。もしかしたら、この指輪がリディアの魂を引き止めてくれてはいないだろうか。
守護妖精の指輪だ。これによって、リディアはエドガーの婚約者という立場を約束されているはずだった。
指輪の力は、エドガーからリディアを引き離す力に対抗しようとするはずだ。
「リディア」
彼は呼びかけながら、目を閉じた。
そうしたらふと、彼女の気配をすぐそばに感じた。
ぼんやりと、その姿がまぶたに浮かぶ。途方《とほう》に暮《く》れたように突っ立って、キョロキョロとあたりを見回している。
リディアはまだここにいる。
エドガーの声を耳にし、けれどその姿が見つからないからか、少し首を傾《かし》げている。そんな表情までわかる。
エドガー? どこにいるの?
彼女の声を感じた。
「ここだよ。きみのすぐそばに」
……とても、遠いのね。
リディアには遠いのだろうか。
「リディア、僕は傷ついているよ。きみがうそをついてまで、手を離させようとしたことに」
でも、アーミンを助けるためよ。
彼女は弱々しくつぶやいた。
「違うよ、アーミンの幻を見ただけだった。僕はたぶん、きみを想う気持ちを試されたんだね。だけどずるいと思わないか? きみは大丈夫だと言ったんだ」
そうね、ずるいわね。
「きみを失ってしまうと知っていたら、死んでも離す気なんかなかった」
あなたを苦しめたくなかったの。
「だったら今、どんなに苦しんでいるかわかる? きみを連れて帰れないなら、僕も帰るつもりはないよ。このままここで、死んだってかまわない」
……あたしのためになんか、死なないわ。
「ならそこで、見ていればいい。うそじゃないとわかるまで」
急にリディアは、不安そうにうろたえた。
彼女の、本当の気持ちはわからない。でも今は、お人好しなところにつけ込むしかない。
はじめて会ったときから、困っているエドガーを見捨てられなかった。そんな彼女のやさしいところにつけ込んでも、取り戻したい。
「リディア、きみはまだここにいる。妖精の魔法をかわすために、もういちど気持ちをひとつにすれば戻れるはずだ。いっしょに帰ろう。僕のために、帰りたいと思ってくれ」
……帰りたいと思ってたわ。
彼女の顔が泣きそうにゆがんだ。
信じてもいいのなら、いっしょに帰りたいと思ってたの。
「うん」
目を閉じてリディアの心を感じたまま、エドガーは、意識のない手をしっかり握る。
本物の恋人どうしじゃないから無理。そう思ったけど、もしも惑《まど》わしの魔法をかわせて、帰れたなら、ちゃんとあなたの言葉を受けとめてみようって。
[#挿絵(img/fluorite_251.jpg)入る]
「なら、僕たちの心はひとつだ」
リディアは返事に口ごもったが、エドガーはかまわずに言う。
「二度と、離さないから」
そのとき、ムーンストーンが輝いた。
目を閉じていてもわかるほど、ムーンストーンの輝きが視界を白い光で満たす。
彼女の手が、ゆるく彼を握り返すのを感じながら、エドガーはまぶたを開く。
腕の中のリディアの、こちらに向けられた金緑の瞳を、貴重な宝物のように感じていた。
* * *
「いやほんと、さっぱりわけがわからないんだけどさ、気がついたらもう領主館の前に立ってたんだ」
領主館の一室、暖炉《だんろ》の前に置かれた浴槽《よくそう》につかりながら、ロタは紙巻き煙草《たばこ》の煙を、言葉とともに吐《は》き出した。
「|取り換え子《チェンジリング》の魔法が解けたからよ。ベティと入れかわって、ロタが取り換え子になったでしょ。だから自然に、属する場所へ戻ってきたの」
洗ったばかりの髪を、タオルでごしごしふきながらリディアは言った。
「それって楽ちんね。あたしはピーノといっしょに歩きながら、恐ろしい化け物に追いかけられたわ」
ベティは、手桶《ておけ》に入ったお湯をロタの頭から流す。ロタは煙草の火が消えないように、器用に片手を持ちあげていた。
「へえ、そうなのか。でもちゃんとピーノが守ってくれたんだろ」
「ええ。やっと、彼の本当の気持ちがわかったわ。遠回りしたけど」
恥ずかしそうに、ベティは微笑《ほほえ》む。
「しすぎだよ」
ロタも、つられてリディアも笑う。
ワームの巣から戻ってきた三人は、ほこりゃ土を洗い流して、ようやく人心地《ひとごこち》ついたところだった。
そこへ、ブラシを手にしたニコが現れた。
「おいリディア、背中の毛をとかしてくれ」
鍾乳洞《しょうにゅうどう》の中で、リディアが意識を取り戻したとき、エドガーのそばにいたニコは、野良猫みたいに汚れていた。目が合って、「ひどい格好ね」と言ってしまったリディアに、憤慨《ふんがい》するよりもあきれていた。
むしろ、リディアがエドガーに呼ばれて、あっさり戻ってきたことにあきれていたのかもしれない。
早く洗いたいとだけ言って、さっさと帰ってしまったのだった。
つやを取り戻した灰色の毛並みを、大きな鏡の前でとかしてやりながら、リディアは、結局人間のままの自分の姿を、不思議な感覚で眺《なが》めた。
取り換え子ではなかったのだろうか。それとも、取り換え子にかけられた魔法が解けないよう、守護妖精のムーンストーンが守ってくれた結果なのかはよくわからない。
ムーンストーンが秘めるまだはかりしれない力は、リディアを、婚約者であるはずの青騎士|伯爵《はくしゃく》が望む姿のままに保とうとしただろうから。
「お嬢《じょう》さんがた、お湯をたしましょうか?」
ミセス・タイラーが部屋へ入ってくる。彼女のところへも、取り換えられていた赤ん坊が帰ってきたということだった。
「マーサさん、こんなときに働かなくていいのよ。赤ちゃんのもとにいてあげて」
リディアを見て、彼女は意志の強い眼差《まなざ》しを少しだけゆるめた。
「今は眠っていますから大丈夫です。それに、伯爵とみなさんにお礼をしたくて。村人たちも、もう村長やニセ領主の言いなりにならなくていいと知って、こちらへ手伝いに来てますわ」
素直にリディアは、よかったと思う。
少し前に、ドービーの母親も姿を見せ、うれしそうに赤ん坊を抱いて、リディアに礼を言ったのだった。
ドービーの一族は、ワームを倒してくれた青騎士伯爵への感謝をこめて、領主館の前に大きな魚を置いていった。
とはいえまだ、すべてに決着がついたわけではない。
リディアたちより少し遅れて、レイヴンが戻ってきたが、アーミンを見つけだすことができなかったと落胆《らくたん》を見せた。
待つしかないと、エドガーは言った。
リディアがドービーたちに頼んで、鍾乳洞の中はくまなくさがしてもらっている。見つからないならアーミンは自分で動ける状態で、そのうち帰ってくるはずなのだ。
けれども姿を見るまでは落ち着かないし、一見平静なエドガーが、どれほど心配しているだろうと思うと、リディアは胸が痛んだ。
崖下《がけした》に倒れていたアーミンを見たのは、リディアとエドガーの心の隙間《すきま》に忍び込んだ、魔法の惑《まど》わしだった。
でも、リアルな幻《まぼろし》だっただけに、不吉《ふきつ》な印象はぬぐえない。
「着替えが終わりましたら、サロンへどうぞ。お茶と食べ物を用意してますので」
立ち去り際《ぎわ》にマーサが言う。ロタとベティは歓声を上げた。
しっぽの方までていねいにブラシをかけ終わると、ニコは鏡で検分《けんぶん》し、満足そうに目を細めた。
「じゃ、おれはドービーの宴会《えんかい》に行ってくるからな」
「飲み過ぎないようにね」
ニコを見送って振り返ると、湯船からあがったロタは衣服を身につけたところだった。
彼女のコーヒー色の髪を、ベティがふだんのように頭のてっぺんで束《たば》ねる。
ずいぶん手際《てぎわ》がいい。ふたりは子供のころからこんなふうにお互いの髪を結《ゆ》いあっていたのだろうかと想像する。
「リディア、あんたも結ってあげる。濡《ぬ》れたままじゃうっとうしいでしょ」
ベティは、有無《うむ》を言わせぬ口調《くちょう》でリディアの肩をつかむと、椅子《いす》に座らせた。
「かわいいドレスだよな。それあいつの趣味?」
からかうようにロタが言う。
自分の服が汚れてしまって、ほかに着替えもなく、リディアはここへ着いたとき身につけていた令嬢ふうのドレス姿だった。
でもなんだか、エドガーのためにきれいにしてるみたい。
髪を結われながら、ますますリディアはそう思う。
ベティはあっという間に、リディアの髪を器用に編み込んでリボンでとめた。
「これで完璧《かんぺき》。でもリディア、あんたって、あいつにはもったいないわ」
「だな」
とロタも言う。
「でもま、あいつもちょっとはまともになったんじゃない? あんたを連れて帰ってきたとき、そう思った」
鍾乳洞から海へ出ても、陸地へあがっても、領主館が見えてきても、まだ手を離すのが不安だったのは、リディアだけではなかっただろうけれど、とにかくしっかり手を握りあったまま、寄りそうように歩いていたことを思いだし、リディアは赤くなった。
「あ、あたしたちはそんなんじゃ……」
そう言いながらも、いっしょに妖精界から帰ってきた今夜は、これまでとは違うような気がして落ち着かない。
「正直言ってさ、あいつはつきあってる女がいようと、遊び相手は何人もいたし、それに関して罪悪感《ざいあくかん》なんかちっともなさそうだったよ。でも、あんたに求婚しながら遊ぶことには多少罪悪感があるみたいだ。えらくまともじゃないか?」
「ロタ、どうしてそんなことわかるの?」
ベティが首を傾《かし》げる。
「こないだロンドンで、本屋の向かいの家に、あいつが女と入ってくのを見た。リディア、あんたも見ただろ?」
「えっ、どうして知って……」
言いながら、はっと思いだした。あのとき、声をあげたリディアの方を見ていた女性がいた。
「あれ、ロタだったの?」
「でもリディア、あいつひとりですぐに出てきたよ。留守のはずの亭主《ていしゅ》でもいたのかと思った。でも今は、思い直したんだろうなって気がする」
「そ、そうなの?」
「で、どっかのクラブへ入っていった。そこまでしかわからないけどな」
スレイド氏のクラブに朝までいたと、エドガーの言っていたことは本当だったのだろうか。
でもそれが、彼のリディアに対する罪悪感のためかどうかはわからない。
わからないけれど、ちょっとほっとしている。
「さ、早くお茶にしよう」
ブーツをはきおえたロタが、元気よく立ちあがった。
リディアはふと、窓の外に視線をやる。えらく立派な馬車がとまっている。
そこからおりてきた人物に見覚えがあり、リディアは声をあげた。
ベティとロタが駆《か》け寄って、窓の外を覗《のぞ》き見る。
「誰なの?」
「あの老紳士《ろうしんし》、クレモーナ大公《たいこう》だわ」
えっ、と言って、ロタとベティは顔を見合わせた。
三人で、サロンの戸口にはりついたまま、そっと中の様子に耳をそばだてる。
大公は中にいるようだが、言葉はよく聞き取れない。ロタが薄くドアを開けると、お菓子のあまい匂《にお》いが漂《ただよ》ってきて、リディアの空腹感を刺激した。
しかしまだ、お菓子にありつけるような状態ではない。
はしたないと思いつつも、隙間《すきま》から覗き込むと、老紳士がエドガーと握手を交わしているのが見えた。
いきなり、エドガーはドアの方に振り向く。
「リディア、入っておいで」
呼ばれて、あせったリディアは、しかし気づかれているのに逃げ出すわけにもいかず、しずしずと部屋の中へ進み入った。
大公が優しげな目を向けてくれたので、ほっとしつつお辞儀《じぎ》をする。
「大公|閣下《かっか》、先日は助けていただいてありがとうございました」
「いやいや、傷は治ったかな? あなたが孫を助けてくれたと聞いて、心から感謝している」
どうやらエドガーが、大公を呼び寄せていたようだ。ニセ伯爵が存在したという事情もすでに話してあるのだろう。
しかし今となっては、蛍石《フローライト》の指輪はなく、大公は孫だと認めるのだろうか。
「リディア、公女どのをこちらへお連れしてくれ」
そういえば、エドガーはベティが大公女だと思っているはずだ。
「ええと、エドガー、その前にちょっと話が」
ロタは、祖父に会いたいかもしれないと言っていた。けれど、海賊《かいぞく》に育てられたロタにとって、否定されるかもしれないという不安は大きいだろう。
そのうえベティとロタと、どちらが公女かわからない状態で大公が混乱したら、再会の感動もありはしない。
「どうかした?」
「あのね、あのふたりはじつは入れかわってて……」
「ああ、知ってる」
「え?」
「僕も長いこと、だまされてたけどね」
そのとき、ドアが開いた。
ロタとベティが、ふたりして進み出た。
ふたりとも黙っていた。
証拠《しょうこ》の紋章《もんしょう》指輪がない以上、大公が孫娘として見出《みいだ》してくれるのを、ロタはじっと待っているかのようだった。
ふたり、若い娘が現れたことに、大公はしばし戸惑《とまど》ったが、すぐに視線を定めた。
「右がロタ、左がベティです。どちらがお孫さんかわかりますか?」
エドガーが言うと、もう迷いもなく歩み寄り、一方の手を取る。
「本当におまえなんだね」
言われたロタは、驚いたように目を見開いた。しかしすぐに、戸惑いながら目を伏《ふ》せる。
「あたし、紋章指輪をなくしちゃった。それでも、孫だと思う?」
「母親に生き写しだ。間違いない。それにロタと……、家族はみんな、おまえをそう呼んでいた」
「三歳くらいの子供なら、助けられたとき自分の名くらい言うだろうからね」
不思議そうなリディアに、にっこりとエドガーは微笑《ほほえ》む。
「え、でも、大公は孫の名前がロタだって言わなかったわ」
「シャーロットって言ってただろ。クレモーナはイタリア語だから、カルロッタになる。としたら、愛称はロタ。幼かった彼女は、自分のことをふだん呼ばれている愛称でおぼえてたわけさ」
大公に会ったときから、エドガーは、ベティとロタが入れかわっていることに気づいていたのだ。
「ロタ、おまえの国はもうないけれど、これからは私のそばにいてくれないか。家族と呼べる者はもういないと思ってきたが、おまえだけは生きていてくれた」
「あたし、海賊のお頭《かしら》に育てられたんだよ。じいさんの孫娘の資格なんて」
「おまえを、ここまで育てて守ってくれた人たちだろう? 私には、彼らに感謝する思いしかない」
ほっとした顔でベティはあとずさり、戸口に立っているピーノに歩み寄る。がっしりした大きな男が涙ぐんでいる。彼をなだめながら、そっと出ていく。
リディアも、エドガーに促《うなが》されるようにサロンを出た。
別室に移って、リディアは、やっとのことお茶とお菓子で一息ついた。
すぐそばで、エドガーはじっとこちらを見ている。
切《せつ》なげな熱い視線に、ミルクティを口に運んでいたリディアは、急に気恥ずかしくなってカップをおろした。
「ロタは、これからどうするのかしら。海賊の首領《しゅりょう》って、簡単にやめられるの?」
「ピーノがベティと結婚して、船を引き継げば問題ないんじゃないか? 前のお頭の船だし、ということは実の娘のベティのものだろ」
そっか。ベティは海賊の娘なんだわ。
そういえば、意外と肝《きも》が据《す》わっていたというか。ワームの目を盗んでいろいろサボってたみたいだし。
妙に納得しながら視線をあげると、またエドガーと目が合った。
「……食べないの?」
「こうしてまたきみのそばにいられる幸せをかみしめているんだ」
ふたりきりになったら、口説《くど》き文句の攻撃が始まるのはいつものことだ。しかし今回は、リディアはいつになく緊張した。
なぜなら、かなり分《ぶ》が悪い。
エドガーとのことをまじめに考えたいし、だから帰りたいと言ってしまった。
いばらを手折《たお》った彼女が、あの場所から脱出できたこと自体、すでにエドガーに確実な信頼を寄せていたことにほかならない。
そのへんを指摘してくるに決まっているし、そうしたら……。
「リディア、僕はきみのことを、もうあきらめなくていいんだよね」
いままでみたいに否定しきれない。
エドガーは、黙っているリディアの手からティーカップを取って、テーブルに戻した。
手持ちぶさたになって、ぼんやりと彼を見あげる。
エドガーのことは、これまでリディアはずっと、女たらしの浮気者だと思っていた。ひとりだけを好きになれる人ではないと。
けれど、そうではないとしたら。
もしかしたら彼は、かつてのベティのように、リディアに真剣になれるかどうか、賭《か》けているのかもしれない。
そうしたら、アーミンのことをふっきれると感じているのではないだろうか。
たぶん、リディアである必要はないけれど、少しは彼女のことに、恋愛感情めいたものを感じてくれているから、このまま本気になろうとしている。
そしてリディアはといえば、これまで彼のことを拒絶《きょぜつ》し続けてきたのは、いいかげんな人、というその部分でだった。いいかげんじゃないなら、拒絶する理由がなくなってしまうのではないだろうか。
たったひとりを、自分の気持ちを封印《ふういん》してまでも大切に想える人なら、彼に惹《ひ》かれてしまうかもしれない。
ワームを倒すために協力し合い、いっしょに帰りたいと、信じたいと思いながら、リディアはそんなことを考えていたのだった。
今も、エドガーが身を乗り出すのを眺《なが》めながら、考え続けている。
好きになったら、どうなってしまうのだろう。
金色のまつげに縁取《ふちど》られた瞳は、やさしげにリディアを映し、形のいい唇《くちびる》はやわらかく微笑みをたたえている。
「そんなに、怖い顔しないで」
「え……」
緊張しすぎているらしい。でもリディアは、固まったまま、エドガーをにらみつけてしまうようだった。
「じゃあね、目を閉じて。そしたら怖くないだろ」
って、何する気?
……なんて愚問《ぐもん》かしら。
しかし急にノックの音が響き、張りつめた糸のようだったリディアは、びくりと肩を震《ふる》わせた。
「エドガーさま、姉が戻ってきました」
レイヴンが告げると同時に、エドガーは立ちあがっていた。
戸口で頭を下げるアーミンの姿を見つけると、急いで歩み寄り、身内にするように腕をまわした。
「よかった、本当に心配してたんだよ。人だったら、とうてい助からない場所だったから」
「もうしわけありません。道に迷っていました」
「いいんだ、無事だったなら」
リディアも、ほっとしつつ立ちあがる。
「アーミン、ごめんなさい。あたしを助けたばかりに危ない目にあって」
「いいえ、私の役目ですから。リディアさんがご無事で何よりです」
上着を脱ぎ捨ててきたらしい彼女は、シャツにベストだけの格好だ。海に落ちたのか、乾ききっていない衣服からは潮《しお》の香りが漂《ただよ》っていた。
ふとリディアは、彼女のそで口に血のような赤い染《し》みがあるのに気づく。
「アーミン、怪我をしたの?」
と言いかけ、彼女のセルキーの血は、すぐに透明《とうめい》な砂のように変化することを思い出した。
ということは、誰かの、人の血だ。
「……村長の遺体を見つけました」
エドガーに顔を向け、彼女は言った。
「村人がふたり、海から引きあげた遺体をさぐって、何かを奪おうとしているようでした。声をかけたら切りかかってきたので応戦しました」
「きっとフレイアをさがしていたんだろう」
深刻な顔で、エドガーは言った。
プリンスは、それを手に入れるためにユリシスにワームをよみがえらせるよう命じたらしい。
ワームの急所でもあった|炎の蛍石《フレイア》は、妖精の持つ魔力そのものに非常に近いものなのかもしれない。
「それで、そのふたりは?」
「逃げられてしまいました」
「フレイアを持って?」
「……おそらく」
エドガーはため息をつく。それでも、アーミンをねぎらうように微笑《ほほえ》みを向けた。
「たいへんだったな」
彼女は小さく首を横に振る。リディアには、今にも倒れてしまいそうに見える。
「アーミン、顔色が悪いわ」
一瞬ゆらいだ視線は、うろたえたかのようだった。
「もう下がっていいよ。身体《からだ》を休めた方がいい」
一礼して彼女は出ていく。レイヴンがあとに続き、ドアを閉めていった。
「大丈夫なのかしら」
「うん、そうだね」
ちょっと心配そうな彼の横顔に、リディアの、さっきまでの胸の高鳴りが痛みに変わる。
好きになったりしたら、いけないのではないだろうか。
エドガーは、さっきの続きのようにリディアに手をのばそうとした。けれども、そうしながら戸惑《とまど》っているように見えたから、リディアもかすかに顔を背《そむ》けてしまう。
彼は、苦しそうにリディアを見つめた。
「きみも、疲れてる?」
「え? ええそうね。いろいろあったから……」
「そう。今夜はゆっくり休むといいよ」
あまりにもあっさり離れ、立ち去っていく後ろ姿を眺めながら、リディアは拍子抜《ひょうしぬ》けして立ちつくしていた。
それだけ?
これまでなら、露骨《ろこつ》にいやがってもしつこいほど口説《くど》こうとしたくせに。どうして今夜ばかりは、簡単に行ってしまうのだろう。
二度と手を離さないって言ったくせに。
椅子《いす》に座り込んだリディアは、冷めた紅茶を飲みほしながら、胸の奥に何かつっかえたみたいに息苦しくなった。
アーミンの様子が気がかりだったのかしら。
そうね、そうかも。
そういうものよと思いながらも、急に落ちこむ。
あのとき見た幻《まぼろし》と同じじゃない。
アーミンのために、エドガーはリディアの手を離しかけた。
それでも彼は、リディアを取り戻そうと必死になってくれたし、その気持ちにうそはなかったからこそ、彼女は今ここにいる。
だから今夜は、リディアも自分の気持ちに正直になろうと思っていた。
がむしゃらに突っぱねるのではなく。
もしも口づけを求められたら、殴《なぐ》ったり逃げ出したりしないようにとか考えてみたり。
「あーもうっ、バカバカ! あたしって大バカものだわ!」
「何わめいてんだ?」
ケルピーが、窓から入ってくる。あわてて居《い》ずまいを正すが、ケルピーなんだから行儀《ぎょうぎ》もなにも気にする必要はなかったかもしれない。
「……何でもないわよ」
リディアのそばへ来て、無遠慮《ぶえんりょ》に頭に手を置き覗《のぞ》き込《こ》む。
「結局、おまえ人間のままか。残念だけどしかたないな」
「そういえば、助けてくれてありがと。ワームの火は大丈夫だった?」
「問題あるように見えるか?」
「ちっとも」
「ま、そういうことだ。で、ひとりでお茶か? めずらしいな」
ロタは大公《たいこう》と、ベティはピーノと、いろいろあったことを振り返りながら、おだやかなひとときを過ごしているだろう。
エドガーは……、アーミンのところだろうか。
リディアも、いろいろあったけれど、今はひとりだ。
でも、いつだってそうだったわ。
「みんな忙しいのよ」
「じゃ、俺がつきあってやる」
テーブルに着いたケルピーは、スコーンをわしづかみにして口へ放り込む。
マナーも何もありはしないと思いつつも、リディアは少し笑う。
いつだって、そばにいるのは人よりも妖精だった。
だから、今夜はエドガーに口説かれなくてよかったかもしれない。
まだエドガーのことを、求婚を受け入れられるほど好きになってしまうと決まったわけじゃないのに、恋人どうしの気分になりかけていた。
だけどよく考えてみると、好きになってしまったら、リディアは永遠に片想いなのだ。
結婚しても、彼が浮気をしなくなったとしても、いちばんにはなれない。
冷静にならなきゃ。
戻ってこない方が、よかったんじゃないかしら。なんて思いたくない。
淋《さび》しい気持ちになってしまうのは、エドガーのせいじゃない。
少なくともあのときは、リディアは心から、彼といっしょに帰りたいと願ったし、彼もそう願ってくれたはずだった。
変化の少ない妖精界とは違い、人の世は移ろいやすく、人の心もゆれ動いていく。
そうと知っていても、彼を好きだと思えるほど、リディアは強くないのかもしれなかった。
*
その昔、青騎士|伯爵《はくしゃく》は、村人に請《こ》われて竜《ワーム》を封《ふう》じた。
そして、その急所である|炎の蛍石《フレイア》を、村のどこかに隠しておいたのだろう。
その後やって来たのが、伯爵の血を引く兄弟だ。彼らは、竜のフレイアがどこにあるのかも、それがあれば竜を再び目覚めさせられることも知っていた。
兄の方は、自分の彫刻の技術を蛍石の価値を高めるために生かそうとしていただけ。
ところが弟の方は違っていたのだ。
竜がつくり出す赤い蛍石、フレイアには、特殊な用途があるらしい。
不死の石で、青騎士伯爵の血を引く者にしか扱えない、と村長は言っていたが、どのように使えばそんな効果が得られるのかエドガーは知らないし、本当かどうかもわからない。
ともかく弟は、竜をよみがえらせ、再びフレイアが採取できるようにしたいと考えた。
それを危険だと感じた兄が、竜をよみがえらせることのできる唯一《ゆいいつ》の蛍石を、遠いクレモーナ公国に譲《ゆず》り渡してしまった。
紋章《もんしょう》を刻印《こくいん》した指輪に作りかえて。
弟に、殺されてしまう前に。
エドガーの知っている少年のユリシスは、その弟の息子、なのだろうか?
特殊な教育や洗脳を受けているように思われるが、血縁《けつえん》ではあるのだろう。
ともかく、プリンスの手先となったユリシスは、青騎士伯爵の血を引きながらも、プリンスについたために殺されることはなかった。
そうして、かつてクレモーナ公国に内密に譲られた蛍石をさがしあて、竜をよみがえらせたのだ。
結局、フレイアは村から持ち出されてしまったらしい。アーミンの言っていたふたりの村人は姿を消したままだ。
あの石を、プリンスが手に入れると、奴が死ななくなったりするのだろうか。
ちょっといやだなとエドガーは思う。
それにしても、謎《なぞ》は増えるばかりだ。
竜を倒したとはいえ、ほとんどリディアのおかげで、妖精を相手にメロウの宝剣の力を引き出すことができないエドガーに、戦っていけるのかどうか、いまだに何の確信もない。
リディアのことは、どうすればいいのかわからないまま。
朝日を反射する海を眺めながら、バルコニーに立っていたエドガーは、寒さを感じて部屋の中へ入る。
レイヴンが、朝食の用意ができたと告げに来たところだった。
「エドガーさま、村の郵便局へ行きますが、ほかにご用はありませんか?」
「郵便局? 何をしに?」
「リディアさんに頼まれた手紙を出しに」
「誰にあてた手紙だ?」
プライバシーの侵害《しんがい》、とは思っても、リディアのこととなると気になるから訊《き》いてしまう。
「お父上のカールトン教授です。このままスコットランドで休暇を過ごすと伝えたいそうで」
寝耳に水だった。休暇? とエドガーは聞き返す。
「早めのクリスマス休暇をいただいたと言ってましたが。許可なさったのでは?」
聞いていない。
上着を手に、あわてて部屋を出ようとする。
「あの、リディアさんはとっくに出発されました」
「行かせたのか?」
レイヴンに非はない。しかしエドガーは混乱していた。なぜ、という疑問しかない。
「休暇なんて許可していない。どうして報《しら》せに来なかった」
「まだ暗いうちだよ。起こさなくていいと言われりゃ、あんたの忠実なしもべは、婚約者のリディアの意見も尊重するだろ」
ノックもなく、ロタは男の私室へ入ってきた。そして紙切れを、彼の目の前に突き出す。
「リディアの休暇|届《とどけ》。たしかに渡したよ」
「……まだ十一月じゃないか」
「クリスマスが終わるまで一月半《ひとつきはん》、けっこうこき使われてるみたいだし、そのくらい休む権利はあるんじゃない?」
もう力を失いつつ、エドガーはソファに座り込んだ。
「だいたい、なんできみが休暇届をあずかってるんだ?」
「あたしがリディアに提案したから。このまま休暇もらって、あんたと少し離れてみたらって。思い立ったら、言いくるめられないうちに実行した方がいいって勧めた」
「はあ?」
開いた口がふさがらない。
「だって、あたしリディアに、あんたのことまともになったって言っちゃったんだよね。でもやっぱり、ベティのときとたいして変わってないんじゃないか? リディアを落ちこませてしまった責任を感じるよ」
リディアが、落ちこんでいた?
そんな様子はなかったから、エドガーはわけがわからない。
「女のことには抜かりがないと思ってたけど、違うんだ」
むかつきながら、眉《まゆ》をあげてロタをにらむ。
「それとも、リディアのことは冷静に計算できなくなるのか?」
「ひとの恋路をじゃましておいて、いったい何が言いたいんだ?」
「彼女の部屋に遅くまで、妖精たちがたむろしてたよ。あたしに見えるのは、黒髪巻き毛と猫だけだったけど、ずいぶんにぎやかだったからちっちゃい連中でも来てたのかな。で、なんであんたがいないのかと思ったわけ」
「リディアには、休むように言ったんだ。疲れてるはずだろう?」
「ああ、彼女にはたいへんな一日だったもんな。ベティやあたしや、マーサの赤ん坊や、みんないっぺんに助けなきゃならないし、妖精のことじゃ誰もあてにはできない」
その通りだ。リディアはひとりでやろうとし、帰れなくなることも覚悟していた。
だからエドガーは、ぜったいひとりにしたくないと思った。自分に妖精と戦う力がなくても、リディアのそばにいてやることはできるはずだと。
そして急に気づく。
ゆうべ、彼女はひとりだったのかと。
「あんたがそばにいるもんだと思ってた。いっしょに危機を切り抜けたならなおさら、彼女がどれだけたいへんだったか、本当のことをわかってるのはあんただけだ。てっきり口説《くど》き落として、そしたらリディアは、怖かったこととかぜんぶ忘れて、安心して休めると思ってた」
エドガーは黙るしかない。しかし、彼だってうっかり彼女をひとりにしたわけじゃない。
リディアとの距離を、一気に縮めることくらい考えていたけれど、ためらったのは、自分にはまだそんな資格がないような気がしたからだ。
フレイアは取り戻せず、それがどんな力を秘めていたのかもわからないまま。
本物の青騎士|伯爵《はくしゃく》の血を引くユリシスを相手に、どうやってリディアを守っていくのか。
ワームのときみたいに、いつもうまくいくわけではない。
手放せないくせに踏み込めない。
リディアは向き合おうとしてくれていたのに、エドガーは逃げたのだ。
「リディアは笑ってたよ。妖精だけはいつでもそばにいてくれるのって」
人間のことを、エドガーを信じることにして戻ってきたのに、そばにいるのは妖精だけか。
それは、……傷つくだろうな。
「あの子、妖精が見えるってんで、バカにされることが多かったんだろ。でもずっと、あんなふうに笑ってたんだろうな。あたしリディアには、彼女がいちばんの男と幸せになってほしいよ。だから今のあんたには、リディアをあずけられない」
「彼女の保護者のつもりか?」
「友達だよ。リディアはベティとは違う。あんたは軽い気持ちで口説くけど、彼女の方は突っぱねるか本気で惚《ほ》れるか、どちらかしかないんだ」
とことん辛辣《しんらつ》だ。ロタは完全に、エドガーに腹を立てているようだった。
軽い気持ち、なんかじゃない。
そう思っても反論もできないまま、エドガーはひとり取り残された。
「リディアさんを追いかけますか?」
まだそこにいたらしいレイヴンが、もうしわけなさそうに言う。
「……いや、今は、ちゃんと口説けそうにない」
レイヴンは、一礼して出ていった。
リディアとは確実に、一歩近づけたはずだった。そしてそのぶんエドガーは、自分が彼女の運命を変えてしまうかもしれないと思い、不安になっている。
どうしようもなく中途半端。
彼がどっちつかずだから、妖精の魔法に巻き込まれながら、リディアはエドガーのために手を離させようとした。
助けたくて、リディアを守るためなら妖精の惑《まど》わしなんかに負けないと心に誓いながら、彼女にあんなうそをつかせたのはエドガーなのだ。
守りたいのに傷つけている。このままでは彼女は、人の世に疎外感《そがいかん》をおぼえるばかりで、いつか彼のもとを去ってしまうだろう。
「どうするんだ?」
どうするといったって、彼女から距離を置くことがどうしても考えられないのだ。
結局考えているのは、どうやって今回の不手際《ふてぎわ》をなかったことにするかということ。
休暇なら、戻ってくる気はあるんだよなと思いながら。
[#改ページ]
あとがき
こんにちは。また『伯爵と妖精』でお会いできてうれしいです。
これがみなさんのお手元にあるころは、すっかり秋も深まった時期かと思いますが、執筆中は夏真っ盛りでした。
世間は夏休みだし、と気分転換にひまわり畑を観賞《かんしょう》しようと出かけたのですが、夏の日中になど出かけたのは大きな間違いでした。
一時間ちょっとのドライブで、ヒートアイランドと化した市街から抜け出せば少しは涼しいのかなと期待したものの。
溶けるかと思った……。
一面のひまわり畑という場所は、炎天下に日陰がないということなのですね(あたりまえだ)。
そんなわけで私は、日よけのテントでぐったり。
いつからこんなに軟弱《なんじゃく》になったんだろうと思いますが、もうきびしい自然環境の中では生きていけないなんてことを考えてしまうのでした。
いちおう、ひまわり畑に入って、見渡す限りのひまわりを体験できたのでよしとして、ひまわりアイスを食べて帰ってきました。
そんな軟弱者のくせに、物語の中では登場人物たちに過酷《かこく》なことをさせてしまってます。
でも彼らには、ますます過酷な体験をしてもらうことに……なるかもしれません。
ところでふと思ったのですが、もっといじめてもいいと思うキャラは? と訊《たず》ねたら、なんとなくですが読者のみなさんからは「エドガー」という返事が返ってきそうな気がしますが気のせいでしょうか。
今回とくに、伯爵《はくしゃく》の大バカ野郎、とか罵倒《ばとう》の声が聞こえてきそうなのは……。
あ、空耳ですかね。うん。
できれば、しばらくあたたかい目で見守ってやってくださいませ。
そのうち心を入れ替え……ないかもなあ彼は。
さてさて、もうちょいあとがきスペースがあるので、今回も英国豆知識(?)をやってみたいと思います。
えーっと、そうですね。簡単にファッションのお話でも。
この時代、女性の場合、ドレスの下にコルセットとクリノリンが常識でした。
コルセットは、ご存じ腰をぎゅっと締めるやつですね。
クリノリンは、ペチコートの代わりに考案されたスカートをふわりとふくらませて見せるものです。針金やクジラのヒゲをわっかにしてつないだもので、ランプシェードとか提灯《ちょうちん》みたいな状態といったらわかってもらえるでしょうか。もっとわかりにくいですか。
どちらにしろ現代人には縁がなさそうですが、もしも結婚式でウェディングドレスを着ることになったら、クリノリンが進化したようなものをつける機会があるかもしれませんよ。
そのさい、現代的なデザインのドレスではなく、古典的なお姫さまドレスを選びましょう。と勧めてみたりして。
いや、ウェディングドレスにあこがれる女の子はいても、クリノリンにあこがれる人はいませんかね。
そういえば、現在の結婚式の洋装は、ほとんどヴィクトリア朝上流階級の普段着みたいなものなのですね。
男性の場合も、ネクタイにベスト、上着が基本です。
でもって上着ですが、午前中はモーニングコート、午後はフロックコート、夜はイヴニングコート、と一日に何度も着替えるのだそうですから、着道楽《きどうらく》というかひま人というか(もちろん女性も、何度も着替えます)。
あとは帽子と手袋とステッキ、これが紳士《しんし》の必需品《ひつじゅひん》です。
男性の服装がモノトーンに定着しつつある時代なのですが、それ以前の色彩豊かな上着やネクタイも好きなので、厳密に年代とファッションを一致させる必要もなく、作中ではいろいろイメージしております。
文字だけで表現する小説ですと、やっぱり色がほしいのですよね(個人的に)。
というわけで、今回も本編を楽しんでいただけましたでしょうか。そうだったら幸いです。
表紙にはケルピー初登場らしいので、楽しみにしながらこれを書いております。
高星《たかぼし》麻子《あさこ》さま、いつも優美なイラストをありがとうございますね。
そして読者のみなさま、この刊、予定よりも早く出ましたので、次は少し間があくことになりますが、ゆっくりまったりお待ちいただけますように。
二〇〇五年 九月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 取り換えられたプリンセス」コバルト文庫、集英社
2005(平成17)年11月10日第1刷発行
入力:
校正:
2008年4月5日作成