伯爵と妖精
呪いのダイヤに愛をこめて
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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(例)夢魔《ナイトメア》
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目次
伯爵《はくしゃく》は災いのもと
白昼夢《デイドリーム》とナイトメア
王家の伝説
すれちがう想い
うるわしきハーレムの姫
ゴブリンの迷宮
ダイヤモンドより強く
静かな予感
あとがき
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伯爵《はくしゃく》は災いのもと
彼女には名前がなかった。だからエドガーが名前をつけた。
忘れられない女の名で呼んでほしいなどと、生意気なことを言っていた。
ジーン、と呼ばれて彼女は、とてもうれしそうだった。
罪もない少年少女を何人も奴隷《どれい》にしていた男のもとから、ともに逃《のが》れてきた。エドガーの仲間のひとりだった。
「僕らの、黒いダイヤモンド」
粗末な棺《ひつぎ》を見おろし、エドガーはつぶやいた。
ロンドンのはずれにある教会裏の墓地に、真夜中の鐘が鳴り響いた。
「この棺桶《かんおけ》の中に、幻《まぼろし》のブラックダイヤがあるんですか?」
今夜エドガーが集めたのは、腹心《ふくしん》の部下であるレイヴンとアーミンのほかに、秘密結社|朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員たちだ。
エドガーを奴隷にしていた、プリンスと呼ばれる男は、アメリカの裏社会に幅を利《き》かせていた。スカーレットムーンの団員も、プリンスに恨《うら》みを持つ。だからエドガーは、彼らと手を組むことにした。
今口を開いたのは、幹部のスレイドだ。彼を筆頭に、スカーレットムーンの団員は、新しくリーダーとなったエドガーが、何を考えているのかいまひとつわからないといった顔つきで、棺のそばにたたずんでいた。
「プリンスが苦心の末入手したというブラックダイヤ……。伯爵《はくしゃく》、あなたが彼のところから逃亡した際、持ち出したそうですが」
言ったのは、朱い月≠フひとり、エドガーが懇意《こんい》にしている画家のポールだった。
彼の言う通りだ。だがこのダイヤモンドを横取りしたことは、ますますプリンスを怒らせただろう。結局エドガーは、レイヴンとアーミンをのぞいて、仲間をみんな殺された。
それとも、そうなったのは、ブラックダイヤの呪《のろ》いだろうか?
本来の持ち主のもとから消え、人の手を転々としてきたというダイヤモンドは、手に入れた者を不幸にすると噂《うわさ》されていたから。
「しかし、棺桶にダイヤを隠しておいたのですか? アメリカから死体を取り寄せたなどと聞いて、みんな眉《まゆ》をひそめましたよ」
「死体を取り寄せたんだよ」
「は?」
帽子《トップハット》を取って、エドガーは棺に頭《こうべ》を垂れた。
明るい月と同じ輝きを持つ金の髪が、夜の墓地に目立つ。
ジーンは、エドガーの金髪が好きだった。下町に身をひそめていたあのころ、アーミンが彼の髪を切るのをじっと眺め、自分ならもっとかっこよくできると言い張った。
「ジーンはね、ダイヤモンドをプリンスに奪われないために、自ら命を絶《た》ったんだ。僕にだけわかるように隠して」
レイヴンが、棺に打ち付けられた釘を、慎重に抜いた。
「隠れ家をプリンスが襲撃《しゅうげき》してきたとき、留守をまもっていた彼女は、ダイヤモンドを隠して死んだ。亡骸《なきがら》を見つけた僕は、教会へ運び、埋葬《まいそう》してくれとだけ頼んだ」
もちろん、自殺したなどとは言っていないから、牧師は少女の死に同情し、墓地の片隅に埋《う》めてくれると約束した。
そして英国に落ち着いたエドガーは、しばらく前からジーンの遺体を引き取る手配を進めていたのだった。
「エドガーさま、ふたを開いた痕跡《こんせき》があります」
「ということは伯爵、プリンスがすでにダイヤを持ち去ってしまったのでは?」
当時、ブラックダイヤをさがして、プリンスはエドガーが隠しそうな場所はすべて、仲間の墓まで片《かた》っ端《ぱし》から調べただろう。
だが、ジーンのブラックダイヤは奪われてはいないはずだ。エドガーは確信していた。
ようやく、ふたが持ちあげられる。
「美しい宝石は、人の運命を狂わせる。リージェントというダイヤモンドを知ってるかい? その昔鉱山の奴隷が、見つけた大粒のダイヤをくすねて逃げた。自分のふくらはぎを切って、石を埋め込んで隠したんだ。ジーンにはその話をしたことがあったから、遺体を見つけたときすぐに気がついた」
そしてエドガーは、そのまま彼女を埋葬すれば、もっとも安全にダイヤモンドを隠せるのではないかと考えた。
「ありました」
レイヴンがあっさり言う。白骨化した遺体は、もはやダイヤモンドを隠してはいなかった。
プリンスは、墓を暴《あば》くのを急ぎすぎたようだ。
エドガーは、身を屈《かが》めて棺の中の少女をやさしく見つめた。
「ありがとう、ジーン。そしておやすみ。もう、きみの眠りを妨げたりはしないから」
手にしていた百合《ゆり》の花を置き、立ちあがった。
「スレイド、このダイヤを以前と同じデザインのネックレスに復元できるかい?」
記録では、周囲に小さなダイヤを散りばめた華やかなネックレスだったはずだが、人手をへてブラックダイヤだけになってしまったのだ。
「スカーレットムーンの職人なら簡単です。……ですが」
棺を見おろしていたスレイドは、がまんできなくなったように吐き出した。
「まだ、子供じゃないですか」
ジーンはわずか十歳だった。
「伯爵、プリンスと戦うためなら、子供を犠牲《ぎせい》にしてもいいと思ってるんですかな?」
あのころは、レイヴンもアーミンも、エドガーだって子供だった。だとしても、命を落とすには、十歳は幼すぎるだろう。
「犠牲にしたくてしてるわけじゃないのは、わかっているでしょう?」
エドガーの代わりにポールが返した。
「ですがね、伯爵はリーダーとして印象的すぎるんです。人を惹《ひ》きつける外見も言葉も持っている。純粋な子供には、絶対的な存在に映りやすい。あなたのためなら何でもできる、しなければならないと思い込んでしまうんですよ。この少女もそうだったかもしれないし、現に朱い月≠フ中にも、すっかりあなたに夢中になっている少年が」
そういえば、このところ伯爵|邸《てい》へよく現れる少年がいたようだとエドガーは思い出した。
「我らスカーレットムーンの中でも、若い連中はあなたに従おうとやる気になっていますよ。でも、かつてのあなたの仲間がほとんど全滅したと聞けば、よほど無茶なことをなさるんじゃないかと、年配者は不安になるわけです。たしかに私たちは、青騎士伯爵が英国に現れ、私たちを導いてくれるのを待っていましたが、伯爵の名を引き継いだだけのあなたを、どこまで信じていいものか」
「信じてもらわなくてもいいけれど、従ってもらわないと、プリンスには勝てないよ」
棺が閉じられるのを眺《なが》めながら、エドガーは帽子をかぶり直した。
「でも、僕のために死ぬ気などないならそれもいい。もう、そんな戦い方はしたくないからね」
エドガーの痛みを、少しは感じ取ったのか、スレイドは黙った。
棺に土がかぶせられていく。
たくさんの仲間が死んで、エドガーは生き残っている。
なぜなのかと思うとき、スレイドの言うように、エドガー自身にまとわりつく宿命みたいなものを意識させられる。
貴族に生まれたからには、幼いころから人の上に立つ意識を育てられてきたかもしれない。
けれどそれ以上に、エドガーの周囲に集まる人間は、彼の中に理想の主人≠見る。
外見のせいなのか、自分の性格のせいか、それともプリンスに植え付けられた、人の心をつかみあやつる方法を無意識にも使ってしまうせいなのかよくわからない。
ただエドガーは、プリンスのもとを逃げだすと決意したときから、仲間にとって安心してついていけるリーダーが必要ならそうなろうとしてきた。
けれどその、強い忠誠心による結びつきは、戦いの場から逃げるよりも死ぬことを、仲間たちに選ばせた。
そんな価値が、自分にあるはずもないのに。
しかしエドガーはまだ、プリンスと戦おうとしている。
犠牲者たちの痛みを癒《いや》すためと思いながら、犠牲を増やすとしたら、矛盾しているのだろうか。悩んでも、やはり宿命のように、彼は動かされてしまうのだ。
ジーンが命とひきかえに守ったダイヤモンドを、使わないわけにはいくまいと感じるから。
* * *
お茶会は、上流階級の社交的な集まりのうちでも、堅苦《かたくる》しさは少なくて、若いリディアにも親しみやすいものだった。
そうはいっても、貴婦人ばかりが集まっている会話の輪に、スコットランドの田舎《いなか》から出てきた中流階級の少女が入っていくのは簡単じゃない。
もともとリディアは、人付き合いが苦手な方だ。妖精とつきあうのは得意だけれど、妖精に対する作法《さほう》と上流階級の作法はまるきり違う。
本音で言いたいことを言ったって、妖精たちは気にしないが、人づきあいはうそも方便《ほうべん》。そもそも世間では、妖精なんておとぎ話だと思っている人が多いわけで、そのためリディアは、頑固《がんこ》な変わり者だと思われがちだ。
それでもリディアは、今日、女性ばかりが集まるお茶会にやってきた。
「近ごろ、あのかた見かけませんわね」
「なんでも駆《か》け落ちなさったそうよ」
年齢の近い少女たちが集まるテーブルに、たまたま加わっているリディアだが、噂話《うわさばなし》は誰のことかさっぱりだ。ちっとも会話に入っていけない。
「でもね、お相手のお屋敷へ行ってみたら、すでに奥さまがいらっしゃったんですって!」
お茶会の主催者は、メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人という。エドガーの紹介でリディアが知り合った貴族のうちでは、もっとも彼女に親身に接してくれる老婦人だった。
妖精の存在を信じている公爵夫人は、リディアと妖精話をするのを楽しみにしてくれている。ふつうの人には見えにくい妖精たちが見えて、言葉をかわすことも友達になることもできるリディアの能力を認めてくれている。
夫人にとってリディアは、孫くらいの年齢でもあるし、友達というにはあまりにおそれ多いが貴重な人だ。
だからこそ、招待を受けたのだが、女性ばかりの内輪の集まりとはいえ三十人もいて、公爵夫人とだけ接しているわけにはいかないのは当然だった。
公爵家のタウンハウス、広い中庭に向かって開放されたテラスで、リディアは噂話をよそに、スコーンにクリームをたっぷりつける。
「それで彼女は、逃げ出して帰ってきたっていうのだけれど」
「そんな男性にだまされて、傷物だって扱われるわ」
「もう、社交界に出てこられないでしょうね」
さっきから、ラベンダーの花壇《かだん》にいる小妖精が、物欲しそうにこちらを覗《のぞ》いているのだ。リディアはスコーンを、足元の芝生《しばふ》にそっと置いた。
「ねえリディアさん、どう思う?」
「え? な、何が?」
急に話を振られ、リディアは姿勢を正す。スコーンに集まってきた小妖精が、椅子の下からそれを運び出す。ふつうの人の目には芝生の上をクリームの乗ったスコーンだけが動いていくように見えただろうが、少女たちは気づいていなかった。
「男性とのおつきあいについてよ。結婚を前提にするのは当然だけれど、口約束だけじゃだまされるかもしれないじゃない?」
「……そうね」
「やっぱり、親が認めたかたと交際するのがいちばんってことかしら」
「ねえ、リディアさんのところは大学教授のご家庭ですもの、お父さまはお堅いのでしょう? 貴族の男性には気をつけるように言われているんじゃなくて?」
たしかにリディアの父は大学教授だが、その職業からイメージする人物像とはほど遠い放任主義だ。だが、そんなことはどうでもいいはずの彼女たちが聞きたいのは、庶民《しょみん》の娘が貴族と交際することについての意見だろう。
貴族の男が、うぶな少女に手を出しておいて捨てるというのはよく耳にするが、良家の令嬢《れいじょう》に対してそんないいかげんなことはできないとしても、相手が庶民ならありふれた話になる。
この場には、公爵夫人が大切なお友達≠ニ紹介したリディアのことを、あからさまに見下《みくだ》す人はいない。それでも、ちょっとばかり毛色が違うと思われているがゆえの質問だろう。
「伯爵《はくしゃく》とは、本当におつきあいしてるの?」
「な……何のことかしら」
「アシェンバート伯爵よ」
リディアは、エドガー・アシェンバート伯爵の顧問|妖精博士《フェアリードクター》だ。
美貌《びぼう》の若き伯爵、しかも妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》というめずらしい称号を持つ彼は、ロンドンの上流階級では有名人だ。
十九世紀も半ばの現在、称号はあくまで称号で、彼が本当に妖精国の領主だなどと誰も思っていないだろうが、英国に棲《す》む妖精たちにとって、その称号を持つ伯爵は、どこか果ての地にある彼らの故郷、妖精国を治めていた人間の末裔《まつえい》として一目《いちもく》置かれる存在だった。
じつのところエドガーは、伯爵家の血筋ではなく、妖精のことはわからない。なのでリディアが雇われているわけだが、行動をともにすることが多いため、仲がいいと誤解されている。
以前ゴシップ紙に、伯爵の本命だと書かれたこともある。
だから彼女たちは、どこかで耳にした噂を確かめてみたくなったのだろう。
「ま、まさか、単なる雇い主よ」
ほっとしたような空気が広がる。と同時に、当然よねと思っているらしい気配《けはい》も。
みんながみんなエドガーに好意を持っているわけではないだろうが、彼の恋人が目の前のリディアでは納得できないと思うのだろう。
鉄錆《てつさび》色なんて陰口をたたかれる赤茶の髪を、いちおう結《ゆ》ってはいるものの、お嬢さんたちみたいに気合いの入った髪型ではないし、金緑の瞳は魔女のようだと気味悪がられてきた。
リディアだって、いまだに納得できない。
エドガーのプロポーズなんて、本気のはずがないのだ。
「でもあのかた、やさしいし話題も豊富だし欠点が見つからないくらいステキなんだけど、ちょっと信用できないような気がしなくて?」
輪の中のひとりがそう言った。
それよそれ、何よりあいつは、信用できないのよ。
「誰にでも同じようにやさしいみたいですものね。話していると、気があるのかしらって思ってしまうのだけど」
「かなり遊んでそう」
「それですの。わたし、ハーレムを持ってるって噂を聞いたわ」
「は? ハーレム?」
聞き捨てならないと、リディアはつい身を乗り出していた。
「ロンドンにはそういう場所を提供するお店があるんですって。愛人を何人も囲っておいて、異教徒の王さまみたいに振る舞える場所だって聞いたわ」
エドガーの悪い噂は、あきるほど耳にした。いいかげんなものもあるけれど、どれもこれも女がらみで、ハーレムくらい彼ならつくりかねないと思う。
「なんでも、伯爵に恋した異国の姫君が、家も婚約者も捨ててロンドンへ来たんですって。異教徒だから結婚は無理、だからといって追い返すわけにもいかないから、ハーレムに隠してるって噂よ」
「どうして追い返せないの?」
「そりゃあ、手をつけてしまったら無理でしょう。異教の国では、結婚前に処女を失った娘は、父親に殺されるんですって」
ほ、本当かしら。キリスト教はそこまで厳しくないけれど、女にとって一生の汚点になることには変わりはない。
それにしても、もしも本当だとしたら、エドガーはとんでもなくひどい男だ。
遊びですまないのに手を出すなんて……。
そう考えながらリディアは、自分も気をつけなくちゃと思ってしまい、そんな想像をしたことすら恥ずかしくて頭に血がのぼった。
「姫君といっても、異教徒に伯爵が本気になるわけないのに」
「軽率《けいそつ》な女性ね。身分をわきまえなきゃ。ねえリディアさん」
身分が違うから、口説《くど》かれたって遊ばれてるだけ。伯爵にちやほやされていい気になってるとひどい目にあうわよ。とか彼女たちは言いたかったのかもしれないが、ハーレムなんていう刺激の強すぎる話に気を取られていたのでリディアは聞き流していた。
「リディアさん、こちらへいらっしゃらない? 年寄りの相手もしてくださいな」
公爵《こうしゃく》夫人が声をかけてくれたのは、リディアが会話から浮いていたからだろうか。
おっとりと話す上品な老婦人は、とても気さくで少女のようにかわいらしい。話しかけられると、身分の高い人だということを忘れてほっとする。
招かれるままに、リディアは席を立った。
あちこちのテーブルに談笑の輪ができあがっているが、公爵夫人はリディアを連れてテラスを離れる。
別室に案内されると、窓辺にたたずんでいた人影が振り返った。
目立つ金髪の、細身の青年は、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳をこちらに向け、うれしそうに微笑《ほほえ》んだ。
さっきの噂《うわさ》の張本人だ。
ダークグリーンのイブニングコートに、すみれ色のネクタイ。品よく身なりを整えているのはいつものことだが、夜の装いというのは貴族にとってとくに気合いが入るものらしい。
服装だけでなく容貌《ようぼう》も非の打ち所のない彼と、こんなふうに思いがけず外で出会うと、リディアは自分に微笑みかけられているという実感がなくなり、つい後ろを振り返りそうになるのだった。
「僕のリディア、会いたかったよ」
僕の、は余計《よけい》よ。
異教の姫君の噂を引きずって、リディアはいつもに増してエドガーが危険な軽薄《けいはく》男に見えてしまっていた。
噂なんていいかげんなものだと、わかっているけれど気分は悪い。
顔をしかめるリディアをよそに、いつものように彼女を淑女《しゅくじょ》扱いして手を取る。あいさつのキスが指先に触れる前に、あわてて引っ込める。
あからさまにいやがるリディアの態度など、彼は気にもしない。
「エドガー、どうしてここにいるのよ! 今日のお茶会は女性だけの集まりよ」
「きみを迎えに来たんだよ。それに、公爵夫人にお会いして、以前から頼み事をしていた件についてご返事をいただきたいとも思ってたしね。僕たちのために快く引き受けてくださったから、きみからもお礼を言ってくれ」
いやな予感がした。
「お礼って……」
「僕たちが正式に婚約できるよう、力を貸してくださるそうだ」
開いた口がふさがらなかった。
エドガーはいつだって、周囲を固めておいてリディアを思い通りにするのだ。
彼の詐欺《さぎ》に引っかかったような婚約≠、リディアは受け入れる気なんかないというのに、わかっていながら話を進めようとする。
「ちょっとエドガー、ふざけないで!」
「まあまあ、落ち着いてリディアさん。座ってお話ししましょう」
公爵夫人にそう言われれば、リディアも感情的になるわけにいかない。
テーブルを囲んで腰をおろすと、間もなくメイドがお茶を持ってきた。
お茶会の続きのように、夫人はにこやかにエドガーとリディアを眺《なが》め、少しおかしそうに口を開いた。
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「本当、指輪をしていないのね。伯爵《はくしゃく》の、プロポーズの返事は保留のままなの?」
「え、あの、それは……でも」
「伯爵にうかがったの。今のところ色よい返事はもらえなくて、婚約指輪をあずけたものの、身につけてくれる気配がないって」
この女たらしが、自分などに本気なわけはないとリディアは思っている。彼が伯爵でいるためには、リディアのフェアリードクターの能力が必要で、だったら一生そばに置いておけるよう結婚すればいいという魂胆《こんたん》だ。
どうせひとりだけで満足するわけのない彼が、愛だの恋だので結婚相手を選ぶはずもない。
そう思うからリディアは、すぐに婚約者扱いしたがるエドガーをどうにかやり過ごしているのに、公爵夫人に何を言ったのかと、憤《いきどお》りと不安をおぼえながら、平然としている彼をにらみつけた。
まさか、結婚を断れないようなことを画策《かくさく》して……。
「あなたの気持ちの問題なのに、わたくしが口をはさむのを許してね。でも彼は、あなたのことを考えて、わたくしにうち明けたのよ。結婚を申し込んだのは真剣な気持ちで、けっしてあなたの名誉を傷つけるつもりはないと言うの。わたくしに、その証人になってほしいということよ」
意外な言葉に、リディアは顔をあげた。
「……証人、ですか?」
「伯爵家でお仕事をしているわけだから、彼とふたりきりになる機会があっても不思議はないわ。そのうえ伯爵があなたに好意を持ってるとなると、下世話《げせわ》なことを思う人もいるでしょうけれど、彼はあなたのことを、けっしてそんなふうには扱わないと誓ったの。もしもあなたが求婚を断っても、将来に差し障《さわ》るようなことはないとわたくしが保証します」
未婚の娘は、男とふたりきりになっただけで傷物扱いされかねないのが世間の見方だ。
とくにリディアは貴族ではないから、立場が弱いと思われやすい。そこでエドガーは公爵夫人の後ろ盾を得ようとしたようだ。
夫人はもともとエドガーに好意的な人で、彼のことはあたたかい目で見守っている。それに彼女の夫、メースフィールド公爵は、リディアの父と親交があるから、間に立ってもらうにはちょうどいいということなのだろうか。
これで世間的に見て、エドガーは公爵夫人を通じてリディアに求婚したことになり、間違いなく結婚を前提に交際を申し込んだ相手であるからには、正式な婚約も整わないまま手を出すなど、夫人の名誉を穢《けが》すことになりかねない。
たしかにリディアのことを考えているように思われるが。
「あとはもし、彼と結婚する気になった場合だけど、それもわたくしが取り計《はか》らいますから、何も心配することはないのよ」
「えっ」
「お父上のカールトン教授は、英国が誇《ほこ》る立派な学者でいらっしゃるし、あなたもきちんとしたお嬢《じょう》さんだし、伯爵家の花嫁《はなよめ》として推薦《すいせん》することに問題はないと思うの。それよりもあなたが、伯爵夫人《レディ》になることを不安に思ってるなら、わたくしが力になるわ。社交界のおつきあいも、慣れればどうってことはないのよ」
レディになるための教育まで、公爵《こうしゃく》夫人に頼んだらしい。やっぱり純粋にリディアのためだなんて、こいつにかぎってありえないようだ。
「あたしは、でも、結婚なんて……」
「とにかく、きみにとって僕との結婚をためらうような障害が、ひとつでも減るようにと願ってるだけだよ」
何だかんだ言って、リディアが逃げられないように仕向けているのではないか。
少なくともこれで、エドガーがリディアに求婚したことも、婚約指輪を彼女があずかっていることも、ふたりのここだけの話≠ナはなくなってしまった。
「本当ならまず教授に、お嬢さんに結婚を申し込みたいと、おうかがいを立てるのがすじなんだけど」
「や、やめてって言ってるでしょ! 勝手に父に言ったりしたら許さないから!」
いつものように怒鳴《どな》ってしまってから我に返る。公爵夫人の前だった。
「そうね、気持ちが定まらないのに、お父さまに心配をかけたくないのはわかるわ」
夫人はおだやかに笑っていたが、品がないと思われただろうか。貴族の奥方にはふさわしくないとか……。
はっ、じゃなくて、あたしは奥方になんてなる気はないのよ!
ああもう、エドガーのせいで、気苦労ばかりが増える気がするわ。
「だからこそ公爵夫人にお願いしたんだ。すべてきみの気持ちしだい。卑怯《ひきょう》な手を使ってきみを言いなりにしたとは、教授にも思われたくないからね」
これまでじゅうぶん卑怯なことしてるじゃないの。
のどまで出かかった罵倒《ばとう》の言葉を、リディアはどうにか飲み込んだ。
*
「これで僕は、心おきなくきみを口説《くど》ける」
馬車の中で、エドガーはそう言って、遠慮もなくリディアに接近した。
結局エドガーに送ってもらうことになってしまったのだが、断ればよかったかしらとリディアはため息をつく。
不敵に微笑《ほほえ》み、髪に手をのばした彼は、リボンを勝手にほどいてしまう。さらにヘアピンを抜くと、ひとつに束《たば》ねてあっただけの髪が肩に落ちる。
「ちょっと、何するのよ!」
「いまいち色気のない結び方だよ。いっそおろしてた方が好きだな」
「あなたの趣味はどうでもいいの」
彼の手からリボンを奪い返し、リディアは乱れた髪を手ぐしで整えながら顔を背《そむ》けた。
「婚約者《フィアンセ》の意見くらい聞いてくれてもいいじゃないか」
だから婚約者じゃないってば。
何度言ってもわからないらしい。
「せっかくだから、寄り道していこう」
「帰りたいの」
「ハイドパークで気球の飛行ショーがあるらしいよ」
馬車はちょうど、ハイドパーク沿いを走っていた。
「日暮れ時の散歩もいいものだよ。きみももうちょっと、あまい気分になれるって」
逃げようのない馬車の中で、せいいっぱい端に体を寄せているリディアにさらに近づく。
「手を出さないって公爵夫人に誓ったでしょ」
「あれは建前《たてまえ》」
「はあっ?」
「何が起こっても結婚すれば問題なしなんだから」
「だからあたしは、お断りだって……」
急に馬車が大きくゆれた。エドガーにぶつかり、思わずしがみつく。
舌を噛《か》みそうになりながら全身に力を入れたとき、傾いたまま馬車は止まった。
「……な、何なの?」
「旦那《だんな》さま、お怪我《けが》はございませんか!」
あわてた様子で御者《ぎょしゃ》がドアを開けた。
「どうにかね。リディア、大丈夫かい?」
「ええ……」
頭を打たないように、エドガーがかばってくれていたことに気づくが、かかえ込まれていては恥ずかしいので急いで離れる。
「すみません。黒猫が飛び出してきて、車輪が溝《みぞ》に……」
「それは不吉《ふきつ》だな」
傾いた馬車から降りたエドガーは、状況を確かめ、リディアに肩をすくめてみせた。
「車輪がはずれかけてる。直すのは時間がかかりそうだから歩いていこう」
代わりの馬車を呼んでくるという御者に、かまわないからと告げ、リディアに手を貸して馬車から降ろす。
落ちた帽子とステッキを拾い、歩き出す。しかたなくリディアはついていくことになるが、結局こいつと、薄暗くなりはじめた公園を散歩する羽目《はめ》になってしまった。
若い娘がひとりで帰るのと、この女たらしと並んで歩くのと、どちらが危険なんだろう。
そう悩んでいる間にもエドガーは、どんどん公園の中へ入っていった。
「こっちはひと気が少ないわ」
「近道なんだよ」
振り返ってにっこり笑う。その笑顔がくせものだ。
「心配しなくても、襲わないから」
それが信用できないんじゃないの。
なにしろ歩いていくうちに、歩道から少し奥まった植え込みの陰に、親密そうな男女の姿がちらつくようになってきていた。
でも、まさかね。と自分に言い聞かせる。
エドガーは、かなりきわどいことを言うけれど、どこまでも無理|強《じ》いするようなことはないのではないかと、このごろリディアは感じている。というのも、むやみにキスをせまらなくなったからだ。
あまりにリディアが堅いせいで、面倒くさくなったのかもしれない。
でも、公爵夫人のお墨付《すみつ》きを得て、遊びでないと証明してくれる人がいるなら、今度こそ何をしてもいいと考えているなんてことはないだろうか。
手を出さない、というのは建前だと言いきったし。
ふくらむ妄想《もうそう》をかき消そうとリディアは必死になる。早くここを抜け出したくて足早になれば、突然エドガーに腕をつかまれた。
外灯の明かりが届かない、木の後ろに引きずり込まれる。
「な、なにす……」
「静かに。見つかってしまう」
え?
エドガーが視線を向けた方向に、人影がふたつある。そのうちひとりに見覚えがあった。
ユリシス……。
淡い金髪の少年は、エドガーを殺そうとねらっていた人物だ。リディアと同じように妖精と接する能力を持つ。
エドガーの家族を殺し、彼を奴隷《どれい》にしていたプリンスという男が、逃げ出したエドガーに制裁を加えるために、アメリカから送り込んできた刺客《しかく》だった。
ユリシスと対立を深めているエドガーは、おそらくずっと、敵の動きを調べていただろう。馬車が壊れたのは偶然だとしても、リディアをハイドパークへ誘ったのは、ここへユリシスが現れると知っていたからではないだろうか。
「もっと近づいて。恋人どうしのふりをしていれば怪しまれない」
そんなこと言ったって。
ためらうリディアをかまわず引き寄せる。
「いったいどういうことなんだ」
声をあげたのは、ユリシスと話しているもうひとりの男だった。
若くはない、中年の男。きちんとした身なりの紳士《しんし》だ。
思いがけずその声があたりに響いたので、ユリシスが周囲を気にするように見回した。
あわててリディアはうつむき、エドガーの胸に顔をうずめるふうになってしまう。
本当に恋人を慈《いつく》しむように、彼はリディアの肩を抱いた。
「あなたに連絡が遅れたのはたしかですが、すべて殿下《ヒズ・ハイネス》のお考えがあってのことです。おれに口出ししないでいただきたい」
殿下《ヒズ・ハイネス》、とは、王子に用いられる敬称だ。プリンスのことだろうか。とするとあの男もプリンスの手先だということだ。
緊張するが、リディアもエドガーも今のところ、声が聞こえるほど近くにいながら気づかれていないようだった。
そのあたりにいる恋人たちはみんな、ふたりの世界にひたっているから、誰も話を聞いていないと思っているのだろう。
「しかし、あの宝石をよこせとは無礼じゃないか? 殿下が英国へいらっしゃれば、私が直接お渡しすることになっている」
「おれがあずかっておくようにとのことです」
息をつめてふたりのやりとりを聞きながら、リディアは、エドガーの指が無意味に髪をくすぐるのを感じていた。
「それやめて」
声を落として抗議する。
「だから恋人どうしのふりしないと」
「今はこっち見てないじゃないの!」
声を出しかけると、唇《くちびる》に人差し指が触れた。
ユリシスがまた言った。
「用心のためですよ。青騎士|伯爵《はくしゃく》が英国に現れたのはご存じでしょう?」
それはイブラゼル伯爵の別名、つまりはエドガーのことだ。
「青騎士伯爵……、しかし、社交界に現れたあの青年は本当に青騎士伯爵なのか? 伯爵の血筋は絶えたと、二度と英国に現れるはずはないと聞いていた」
重要な会話が交わされている様子なのに、エドガーは聞いていないのではないかと思うほど、熱い瞳でリディアを見つめる。
指先で唇に触れたまま、やわらかくなぞられれば、リディアは困惑《こんわく》するよりも不安な気持ちになった。
ちゃんと、地面に立ってる? そう思うほど足元が不確かだ。寄りかかっている彼の腕に、全身あずけてしまっているようで頼りない。
「ねえ、やめてってば……」
吐息《といき》のような声しか出ない。
「きみは気づいてないかもしれないけど、やめてと言うとき切《せつ》なげに僕を見る。それがまたそそられるんだ」
「い、いまはそんな場合じゃ……」
盗み聞きが目的なんじゃないの?
そのとき、そばの茂《しげ》みが動いた。足元をさっと通っていったのは、黒っぽい生き物だった。
また黒猫? と思うと背後《はいご》からリディアは肩をつかまれた。
「おい、やめろって言ってるだろ」
声の主は、エドガーから引き離すようにリディアをぐいと引っぱった。
「ケ、ケルピー……」
突然割り込んできた、黒髪の、精悍《せいかん》な顔立ちの青年は、人の姿になった水棲馬《ケルピー》だ。
考えてみれば、この公園にあるサーペンタイン池に彼は棲《す》んでいるのだった。
本来はスコットランドの高地地方に棲むはずの妖精、獰猛《どうもう》な人喰《ひとく》い馬だが、リディアを気に入っていて、ロンドンにとどまっている。
リディアの気配《けはい》に気づいて、池からあがってきたのだろうか。
「じゃまだよ、ケルピー。彼女は僕の婚約者だ。きみの指図《さしず》は受けない」
「婚約者だろうとこいつがいやだって言ってんだからやめろっての」
「ちょっと、静かにして!」
と言ってももう遅い。リディアたちがいる茂みの方を、ユリシスが注目していた。
「逃げよう」
エドガーが腕を引く。
「おい、あんただけ失せればいいんだよ、青騎士伯爵!」
などとケルピーが大声を出してしまったものだから、ユリシスの表情が変わった。
彼がピストルを取り出そうとするのが見え、銃声《じゅうせい》が響いた。
「なんだ?」
「ケルピー、あなたのせいよ!」
銃弾を避けるように暗がりを駆《か》けながら、リディアは叫んだ。
と、あたりから悲鳴が聞こえた。銃声のせいかと思ったが、そうではなかった。
「気球が……」
「え?」
のぼり始めたまるい月に照らされて、白い気球が空に浮かんでいる。広場で開かれているというショーの気球だ。
それが、こちらへ向かって落下してくるように見えた。
あたりにひそんでいた男女が逃げ出す。
「リディア、こっちだ!」
リディアも、エドガーも走る。幸か不幸か、ユリシスになどかまっている場合ではなく、向こうもそれどころではなくなったらしく銃声は途絶《とだ》えていた。
怖いもの見たさに振り返りかけたリディアの視界で、気球に火がついた。
一気に、空を覆《おお》うかのように炎が広がる。
黒猫の前兆《ぜんちょう》は、これだったの?
今夜二度目の事故に巻き込まれながら、馬の姿に変じたケルピーが、背後にせまる炎をさえぎるように飛ぶのをリディアは見ていた。
メイフェアにある伯爵家のタウンハウスへ、エドガーとともにリディアが戻ったのは、いろんなことが重なって動揺し、そのまま自宅へ帰る気にはなれなかったからだった。
ハイドパークからは伯爵|邸《てい》の方が近いし、お茶でも飲んで落ち着こうと思ったところが、屋敷内は騒然としていた。
「トムキンス、何かあったのか?」
「たいしたことではありません」
伯爵家の執事《しつじ》は、ずんぐりした体をきびきびと動かしながら、主人の帽子とステッキを受け取る。
「黒猫があちこちに出没しますので、しばらく北側の部屋をお使いいただけますか」
ホールの花瓶《かびん》が倒れているし、階段の彫刻も、廊下《ろうか》を飾る絵も床に落ちている。
尋常《じんじょう》じゃないのに、トムキンスはあわてているようにも見えず、エドガーも少し肩をすくめただけだった。
「北は無事なのか?」
「そのようです」
「ならライブラリーへお茶を持ってきてくれ」
「黒猫って、さっきの事故も……。おかしいじゃない。いったいどうなってるの?」
「黒猫が悪いわけじゃねーよ」
階段の手すりに、黒ではなく灰色の猫が座っていた。ネクタイをしたしゃべる猫は、リディアの相棒の妖精ニコだ。
「なあ伯爵、あんた妙なもの持ち込んだだろ。不吉《ふきつ》なそいつのせいで、よくないことが起こるんだよ。黒猫の幻《まぼろし》は前兆さ」
ぴょんと手すりから飛びおりて、二本足で立ったまま歩く。後ろに手を組んだりして、ちょっとえらそうな態度だ。
「ああ、あれね」
「さっさとどっかやってくれよ」
「そういうわけにもいかないんだ。ちょっとのあいだがまんしてくれ」
「エドガー、何を持ち込んだの?」
「呪《のろ》いのダイヤモンド」
平然と彼はそう答え、先に行っててくれとリディアに告げた。
呪いのダイヤなんて、いったいどういうことよ。また変なことたくらんでる?
悩みながらリディアはひとり、ライブラリーのドアを開けた。
壁一面に書物が収められ、紙とインク独特の匂《にお》いが染《し》みついたその部屋は、たしかに無傷だった。
片隅の椅子《いす》に腰かけたまま、こちらに顔を向けたのは、妖精画家のポールだ。
「ああリディアさん、こんばんは」
「ポールさん、いらっしゃってたんですね」
「ええあの、絵の構図が決まったので伯爵《はくしゃく》に見ていただこうかと。でも玄関が水浸《みずびた》しで転んでしまって、紙がぐちゃぐちゃに……」
気のいい青年は、とんだ災難に落ち込んだ顔をしながらもリディアに微笑《ほほえ》んでみせた。
そんなポールのそばに、十歳くらいの少年がいた。
「そうだ、リディアさんとははじめてでしたね。|朱い月《スカーレットムーン》≠ナは最年少のジミーです」
お菓子をほおばっていた、やせぎすの少年は、あまり興味がなさそうにリディアの方をちらりと見ただけだった。
「絵を勉強したいらしくて。ぼくはまだ教えるような立場じゃありませんけど、見学するくらいはいいかと思って」
「なあポール、エドガー伯爵はまだ?」
「もう戻られるんじゃないかな」
「すぐ来るわよ。いっしょに帰ってきたもの」
リディアがそう言うと、少年は怪訝《けげん》そうな目を向けた。
「伯爵は恋人をむかえに行ったんじゃなかったの?」
「彼女がそうだよ」
エドガーは、ポールにまでそんなことを言っているらしいと、リディアはあきれた。しかし少年は、あからさまに不満げだった。
「ええっ、この人じゃないよ。伯爵の恋人は、前に見かけたきれいなおねえさんだろ?」
「えーっと、あの男装の麗人《れいじん》は伯爵の召使いだと」
どうやら少年は、アーミンのことを気に入っているようだ。エドガーの従者だが、それは色っぽい美女だから、わからなくもない。
「うそだろ」
うそってなによ。リディアは少々|不愉快《ふゆかい》になった。そりゃ、アーミンと比べられれば、誰が見たって彼女の方が美女だけど。
「だってポール、伯爵の恋人は美人だって言ったじゃないか」
「え? いやそれは……」
「そっか、社交辞令かあ」
「ち、違うよジミー、あのリディアさん、ぼくはそんなつもりは」
ポールはあわてふためき、だんだん頭にきたリディアは、なだめられても社交辞令にしか聞こえなかった。
「ちょっと、えらく生意気ね、あなた」
「あ、怒った。貴婦人ってふつう怒らないよな」
何なのこのガキ。
「あたしはね、失礼なこと言われたら怒るの。あまく見るんじゃないわよ」
「こわいおねーさんだな。金緑の目なんて魔女みたいだ。それとも取り換え子?」
相手は子供よ。手を出すなんてはしたないわとこらえる。
しかし、子供のころからそんなふうに陰口を言われてきたリディアにとって、いちばん傷つく言葉だった。
「あの、リディアさん。すみません、ちょっと口が悪くて」
「ぜったいあのおねえさんの方がいいよ。あんた、伯爵をだまそうって魂胆《こんたん》じゃないのか」
憤《いきどお》るよりもう、脱力感をおぼえた。
「あたしが? 何をだますって言うのよ」
「色仕掛《いろじか》けで近づいて、毒を盛ったりするんだよな魔女は。あ、でも色仕掛けなんて無理……」
少年の悪態《あくたい》が途切れたのは、エドガーが彼の口をふさいだからだった。
「ジミー、僕の大切な人を侮辱《ぶじょく》するのは許さないよ」
しかしクソ生意気な少年は、それくらいでひるまなかった。
「でも伯爵、ユリシスって奴がスパイを送り込んできてたらどうするのさ。おれ、こいつがあやしいと……」
今度はポールが口をふさいだ。
「すみません伯爵、今日のところは失礼します」
「僕に用があったんじゃ?」
「どうせだめになったので、出直します」
少年を引きずりつつポールが去って、リディアは正直ほっとした。
落ちこんだ気分は、そう簡単に浮上しそうになかったけれど、ため息でごまかす。
なんだか今夜は、あたしの方がダイヤモンドに呪われてるんじゃないかしら。
「リディア、気を悪くした?」
「いいのよべつに。あたしがあなたにはふさわしくないって話でしょ」
「子供の言うことだ」
「それよりエドガー、呪いのダイヤのことなんだけど」
自分の外見の話なんてしたくないから、リディアは話題を変える。
ちょうどレイヴンがライブラリーへ入ってきたところだった。
紅茶を運んできたエキゾチックな容貌《ようぼう》の少年は、エドガーの従者だ。ふだんは伯爵家の召使いとして、主人の身の回りの世話をしているが、本来はとんでもなく腕の立つ、異国の戦士なのだった。
「そういうものをあまく見てると、取り返しのつかないことになるわ。さっきの気球の事故だって、怪我《けが》してたかもしれないのよ」
「でも現実には、なんともない」
ケルピーがかばってくれたからだ。水の精霊の力が、爆発の炎をしりぞけた。
もっとも彼は、リディアを守ろうとしただけで、エドガーまで助けてしまったことは不本意に思っているだろう。
「呪いのダイヤを見せてくれない? 妖精の仕業《しわざ》だってこともあるから」
へえ、と言いつつリディアの隣に腰をおろしたエドガーは、レイヴンを手招きした。
「レイヴン、例のダイヤを持ってきてくれないか」
はい、と言って彼は、ライブラリーの片隅へ歩いていくと、マントルピースの上に置かれていた黒いケースを手に取った。
「ここにあったのか」
「人魚《メロウ》の宝剣に近いと、おとなしくなることにトムキンスさんがついさっき気づいたので」
「なるほど、もっと早く気づけばよかったな」
伯爵邸の、奥の小部屋に大切にしまわれている宝剣には、メロウの魔力が宿っている。それがダイヤモンドの呪いの力を抑え込んでいるのだろう。
「これ、ダイヤモンド?」
レイヴンが開いた箱の中にあったものは、リディアが目にしたことのあるダイヤモンドにくらべあまりにも大きかった。
「百カラットのブラックダイヤ。通称|夢魔《ナイトメア》だ」
よく見かける無色|透明《とうめい》のものとは違い、内側に薄暗がりを閉じ込めたような、黒というよりはダークグレー。それでいて七色のきらめきを放つ不思議な宝石だった。
「ほ、本物?」
「まあね」
「……どうするのこれ?」
「うーん、ほしかったというか」
不吉《ふきつ》な噂《うわさ》のあるものを、わざわざほしがらなくてもいいじゃない。
こういうところが悪趣味なんだからと思いながら、リディアはダイヤをケースごと手に取った。
金細工のチェーンにぶらさがる、大粒のダイヤをのぞきこむと、天井のシャンデリアが映り込んで、磨かれた表面に、無数の炎の花が咲いた。
魂《たましい》をすいとられそうなほどの、魅力とエネルギーを感じる。磨《みが》かれた美しさと途方もない価値が生み出す幻影《げんえい》なのか、それとも地中深くに眠っていた鉱物が、本来持っている力なのかわからない。
ただリディアには、妖精の痕跡《こんせき》があるかどうかわかるだけだ。
妖精と宝石はもともと縁が深い。妖精族が、地下の国から来た神々の末裔《まつえい》だという伝説によるなら、彼らと宝石は、血を分けた親戚《しんせき》なのかもしれない。そんな話を、フェアリードクターだった亡き母から聞いたことはある。
妖精は謎めいた存在だ。人間であるフェアリードクターに見えるのは妖精の姿だけ、彼らのような存在の、向こう側にある、世界の神秘に触れることはできないのだ。
「妖精のせいじゃなさそうね」
そうとだけリディアは答えた。
「もともとナイトメア≠ネんて不吉な名前だ。そのうえまともな扱いを受けてないから、宝石の核に悪いもんばっか集まっちまったんだろ」
口をはさんだのはニコだ。いつからそこにいたのか、天鵞絨《びろうど》の長椅子《ながいす》を占領しつつ、片ひじをついて寝転んでいた。
「それだけの宝石じゃ、持ち主に降りかかる呪《のろ》いの力も尋常《じんじょう》じゃないぞ」
「まともな扱いをすればいいのか? 呪いの力を消すためにはどうすれば?」
「人間の手になんかおえねえよ」
リディアもそう思う。
「ねえエドガー、なるべく早く手放した方がいいわ。メロウの剣が力を鎮《しず》めてくれてたって、持ち主への影響は残るわよ」
けれど、ふざけてはぐらかすかのように、エドガーはダイヤモンドに口づけた。
「呪われてるだなんてかわいそうに。こんなに、美しいのにね」
ブラックダイヤの暗い輝きを映した瞳が、ふとリディアには淋《さび》しそうにも見えた。
その夜、伯爵家《はくしゃくけ》が出してくれた送りの馬車に、リディアと同乗したのはアーミンだった。
いつもならリディアがひとりだけ乗せてもらって帰るのだが、このロンドンでユリシスの姿を見かけたから、エドガーは慎重《しんちょう》になっているのだろう。
「ねえアーミン、あなたからもエドガーに、あのダイヤを手放すよう言ってみてくれない?」
さっき少年に、アーミンとくらべられたことを思い出さないようにしながら、リディアは言った。
「わたしが口出しすることではありませんから」
きりりとした眼差《まなざ》しを向け、彼女はきっぱり言った。
馬車の中、リディアの隣に座っている彼女は、短く切りそろえたブラウンの髪に、男物の衣服をまとっている。レイヴンと同様エドガーの従者だったため、動きやすい男装を好んでいるようだ。
護身術に長《た》けた彼女がそばにいてくれるのは安心だが、アーミンが戻ってきて以来リディアは、なんとなく後ろめたい感じがしているのだった。
エドガーを好きだったアーミン。しかしエドガーは、リディアのことを婚約者だと告げているらしいし、アーミンもそう扱う。
けれどそれでいいのかと思ってしまうから、ジミー少年に彼女とくらべられたことが気になっているのだろう。
「あのダイヤをどうするつもりなのかしら。彼のコレクションだとは思えないんだけど」
ネックレスになっていたダイヤは、今どき男性が身につけるとは考えにくい。だからリディアがちらりと思ったのは、誰か女性に贈るのではということだ。
「さあ、どうでしょう」
と言うアーミンは、リディアの疑問の答えを知っているかのように思えた。
「……エドガーがハーレムを持ってるって噂を聞いたわ」
ちょっと探りを入れてみる。
「女性を複数、世間から隠して住まわせる場所があるんですって」
エドガーを慕って異国から家出してきたお姫さまを、隠している?
家と婚約者を捨ててきた異国の姫を、ハーレムの恋人にしてるなんて大スキャンダルだ。
でもそんな、高貴な女性になら、大粒のダイヤモンドを贈るとしても納得がいく。
単なる噂だと思いたいが、少し気になる。
「リディアさん、エドガーさまを信じてくださいませ」
アーミンは淡々《たんたん》と言った。
「でも、なんていうか、ひどい女たらしなのはアーミンも知ってるでしょう? あなただったら、信じられるの?」
あなただったら、なんて、意地悪なことを言ってしまったような気がした。どうしよう、と恥じ入るが、アーミンは何の気もなさそうに答えた。
「信じられません」
「そ、……そうよね」
「でも、そう言ってあなたをそそのかすようにとエドガーさまに命令されていますので」
リディアはおかしくなってふきだした。
アーミンも笑う。ふたりで笑いながら、できるなら、彼女とはわだかまりを残しておきたくないとリディアは思う。でも、アーミンの方はどう思っているのだろう。
「あの、アーミン。あなたは事情を知ってると思うから言うけど、あたしのこと、エドガーの婚約者として扱う必要はないのよ」
リディアの自宅の前で、馬車は止まった。
ドアを開けたアーミンは、たった今のリディアの言葉を聞き流したかのように、黙って彼女が降りるのを待った。
そして唐突《とうとつ》に言った。
「リディアさん、わたしは、エドガーさまと関係を持ったことはございません。これからもあり得ません。それは信じていただけますか?」
「えっ? ええあの、そういうんじゃないの。やきもちとかそんなんじゃ」
直接的な言葉に、リディアは赤面しつつあわてた。
「はい。でもきちんとしたけじめは必要です。それにもう、気持ちの整理もできております。わたしの、過去のご無礼をお許しいただけるなら、どうか何もかもお忘れください。エドガーさまにお仕《つか》えするのと同じ気持ちで、この先あなたにもお仕えするつもりでいます」
神妙《しんみょう》に言う、背の高いアーミンを見あげ、リディアは胸の痛みを感じながら、彼女の手を取った。
「わかったわ、忘れます。でも、それとエドガーと結婚するかどうかは別よ」
どうしてエドガーが、アーミンの気持ちに気づいていながら受け入れなかったのかリディアは知らない。
でも彼は、女たらしだけど分別がないわけじゃないのだ。大切だから一線を越えられないこともあるのだろう。
そういう意味ではアーミンは、誰よりもエドガーにとって、とくべつな女性なのかもしれなかった。
[#改ページ]
白昼夢《デイドリーム》とナイトメア
エドガーと結婚するつもりなんてない。
もうしばらくリディアは、父のそばにいたいと思い、人間界でフェアリードクターの仕事をしたいと思ったから、リディアを花嫁《はなよめ》に望むケルピーとの約束を保留にするために、エドガーから婚約指輪を受け取った。
ケルピーを遠ざけることさえできれば、婚約指輪なんて突っ返してやるのにと考えるが、いい方法が浮かばない。
私室の引き出しにしまってある小箱から、ムーンストーンの指輪を取りだし、眺《なが》める。
内側の輝《シーン》きが、月と同様に満ち欠けするという不思議なムーンストーンだ。
今宵《こよい》満月の明るい月光をあびて、乳白色《にゅうはくしょく》の石は、全身で輝いているように見えた。
「きれい……」
意外なことにリディアは、このムーンストーンに惹《ひ》かれている。眺めているとあきないし、不思議と気持ちがおだやかになる。
これのせいでエドガーの思い通りにされているとはいえ、宝石に罪はない。
宝石を所有したいというよりは、仲良くなりたい、そんな感覚なのだった。
「なかなか響きが合うようですな」
どこからともなく聞こえた声に、リディアは驚きあたりを見回した。
「輝きも曇っておりません。安心しましたよ」
妖精の声? しかしその姿も見えない。よほど小さい妖精なのかと、リディアはテーブルやベッドの下を覗《のぞ》き込んだ。
「あー、すいません。今出ていきます」
と言うと、床の小さな節穴《ふしあな》から、手がにょきりと出てきた。次に帽子、たぶん頭と丸っこい胴体と、そしてようやく床の上に立った妖精は、節穴に比べてかなり大きく、野ウサギくらいの大きさになった。
鉱夫《こうふ》のような格好をした、赤ら顔にだんごっ鼻、もじゃもじゃヒゲの妖精は、鉱山に棲《す》む種族だと思われる。
「あなた、コブラナイ?」
「そうです。長いこと宝石の管理人をやっております。わしの相棒がそのムーンストーンでして、見失っちまったものでさがしてたわけです」
コブラナイは鉱物に詳しく、人に鉱脈を教えてくれたりする善良な妖精だ。彼らは、掘り出された鉱物、つまり宝石類とも親しい。そこまではリディアも知っていたが。
「あなたたちは個々の宝石の管理までしてるの?」
「特殊なものだけですな。気難しい石ってのがありまして、頼まれれば面倒を見ますよ」
妖精は、身を屈《かが》めたリディアのひざによじ登ると、ムーンストーンを覗き込んだ。
「元気だったか、ボウ。よかったな、お妃《きさき》さまが見つかって」
「え、お妃?」
「このムーンストーンは、青騎士|伯爵《はくしゃく》からお妃に贈られるもの。こいつが満足そうにしてるってことは、あなたがお妃でいらっしゃるわけでございましょ?」
「……ちょっと待って、これはそういう石なの?」
「最初の青騎士|卿《きょう》の妃、グウェンドレンさまのムーンストーンですからな」
知らなかった。
そんな由緒《ゆいしょ》のある石だったとは。
たしか、アシェンバート家の始祖《しそ》だという青騎士卿の物語によれば、彼には妖精の妃がいた。彼女の指輪がこれだとすると。
ますますリディアは、エドガーから逃《のが》れられなくなりそうな気がしてめまいをおぼえた。
このままだと、伯爵家の領地に棲む妖精たちにお妃#F定されてしまうのではないか。
「あのね、今はなんていうか、あたしがこの指輪をあずかってるだけなの。だからべつに深い意味なんかなくて……」
[#挿絵(img/diamond_053.jpg)入る]
案の定《じょう》、リディアの否定などコブラナイは聞いていなかった。
「わしのご先祖は、グウェンドレンさまからじきじきにムーンストーンの管理を頼まれましたからな。こいつのことは、ボウと呼んでますが、自分の一部のようにわかるんですよ。安心しておまかせください」
リディアの手のひらにあった指輪を、彼は両手で持ちあげると、いろんな角度から確かめていた。と思うとそれをリディアの指に通す。
「ああ、これでぴったりになりました」
えっ、と手を持ちあげれば、大きすぎだったはずの指輪のサイズがちょうどよくなっている。それどころか。
「抜けないじゃない!」
「落とすといけませんからね」
「じゃなくて、はずしてちょうだい」
「はずせるのは伯爵だけですよ。ほかの男性の前ではずす必要なんかありませんからねえ」
って、冗談じゃないわよ!
どうにか指輪を抜こうと悪戦苦闘するリディアだが、テーブルに腰かけた妖精は、満足そうにパイプをくわえ、一服はじめるのだから始末に負えない。
「ところでお妃さま、青騎士伯爵にごあいさつしたいのですがどちらに?」
「ここにはいないわよ!」
「おや、お妃さまをこんな狭い館《やかた》に住まわせて、別居されてるんですか?」
「狭くて悪かったわね。じゃなくて、結婚してないから一緒に住んでないの! だからお妃って言わないで!」
いいかげん、リディアは頭にきていた。
「ああ、まだご婚約中なわけですね。どうりでこちらは伯爵のお城とは思えないと。にしたって扱いが悪いようですな。婚約なさったならそれなりに、ふさわしい衣装や宝石も必要でしょうに。そうだ、わしがご進言《しんげん》しましょう」
「いらないってば!」
エドガーが調子に乗るじゃないの。
「もう、勝手なことはしないで。でないと、あなたがムーンストーンの管理人でもなんでも、追い出すわよ! あたしはフェアリードクターなんだから!」
サンザシの実をぶつけてやろうとしたら、コブラナイはばっと消えた。
婚約指輪を身につけたまま、人前になんて出られない。父に見つかるのも困る。
朝からリディアは、左手を隠しつつ食事をしようとしたが、フォークが握れずどう考えても不可能だったので、紅茶だけでがまんした。
「リディア、ぐあいでも悪いのか?」
早々にナプキンを置くと、父が心配そうに口を開いた。
「そ、そんなことないわ。今日は早く出かけたくて」
「そんなに仕事がたまっているのかね」
「まあ、ちょっとね」
指輪に気づかれないうちに出かけようと、立ちあがったリディアを引き止めるように父は言った。
「アシェンバート伯爵のことなんだが」
「え、何?」
「いや、その、ちょっとした噂《うわさ》を耳にしてね。おまえが伯爵と交際……」
「ええもう、あいつは噂だらけよ。ちょっとでも知り合った女性はみんなつきあってることになっちゃうんだから、噂なんていいかげんよね」
あわててリディアはまくし立てた。
「……そうだな。そんなことあるわけないな」
「あるわけないわ」
「まあなんだ、伯爵にはふさわしい女性がいくらでもいるだろうし、結婚に結びつかない交際は女にとって不名誉なだけだからね。おまえはしっかりしているから、だまされたりしないと思ってるが」
ため息をついて、まるい眼鏡《めがね》を押し上げつつ、リディアの父はまた言った。
「でももし、困ったことがあったなら、相談してほしい。放任主義の上に頼りにならない父親だが、親だからね」
ああ、やっぱり心配をかけている。でも、婚約なんて言うわけにいかない。しかも本当に結婚したいわけじゃないのに、なおさら遊ばれてるんじゃないかと心配をかけるだけだろう。
「父さま、あたしが選ぶのは、父さまみたいなまじめな人よ」
もちろんリディアは、真剣にそう思っている。
だからエドガーは、きらいじゃないけれど、結婚相手じゃない。
早く指輪をはずしてもらわなきゃ。
リディアは足早にダイニングルームを出た。
がしかし、あのエドガーが素直に婚約指輪をはずしてくれるわけがないのだった。
「リディア、やっと指輪をつけていてくれる気になったんだね」
早めに伯爵家に出勤したリディアは、モーニングルームでくつろいでいたエドガーに一生懸命説明して頼み込んだがこの返事だ。
「あたしの話を聞いてた?」
冷静にならなきゃこいつの思うつぼ、とわかっていても眉間《みけん》にしわが寄る。
「うん、コブラナイって妖精がはめたんだろ? で、僕にしかはずせないと言ったと」
「だから」
「正しい妖精だ。ほかの男の前で婚約指輪をはずすなんて、不貞《ふてい》行為を誘うようなものだからね」
ふ、不貞? いかがわしい言葉に、憤《いきどお》りを通り越してめまいがした。
それでもリディアは、まだ冷静な部分で部屋を見まわし、あのケルピーがいないことを確かめつつエドガーのそばで声を落とした。
「あ、あたしたちの婚約は無効なのよ! それをあなたが認めないのがいけないのに、どうしてあたしがこんな目にあわなきゃいけないの?」
「きみが婚約を認めれば、すべて問題は解決するよ」
「勝手なこと言わないで」
「お妃《きさき》さまは、伯爵《はくしゃく》に何かご不満があるのですかな?」
また来た。
リディアは脱力感をおぼえながら振り返った。
赤ら顔のコブラナイは、とことこと歩きながら、エドガーがくつろいでいる椅子《いす》のそばに歩み寄った。
「妃じゃないってば」
「あーそうでしたね、お嬢《じょう》さま」
それでいいのよと思ってしまい、問題はそこではなかったと気づくが、妖精はさっさとエドガーの足元でお辞儀《じぎ》をしていた。
「お初にお目にかかります、青騎士伯爵」
「ええと、きみがグウェンドレンの指輪の管理人? 声は聞こえるけど姿は見えないんだ」
妖精の姿が見えにくいのは、ほとんどの人間がそうだからだ。しかし、青騎士伯爵を名乗っていながら見えないなんてありえない。
ところがコブラナイは、気にした様子もなく、テーブルにのぼるとコスモスを一本|花瓶《かびん》から抜き取った。
「これでいかがです?」
宙に浮いた花を見つめ、エドガーは頷《うなず》く。
「それでですねえ、伯爵。ごあいさつついでに申しあげますと、わしが思うに、お嬢さまへの待遇《たいぐう》がよくありませんね。かつて青騎士|卿《きょう》が、妖精の姫君を扱ったようになさるべきです」
「やめてってば、コブラナイ」
「なるほど、どうすればいいんだ?」
しかしエドガーは、リディアを無視して妖精の方に身を乗り出す。
「何より、お嬢さまが質素《しっそ》すぎます」
「たしかにね。それは僕もたびたび努力をしてるんだけれど、仕事に来てるからと頑固《がんこ》にこれなんだ」
「努力が足りませんな。これでもかというくらい、とくべつに扱わなければなりません」
試してみよう、とエドガーは立ち上がり、逃げかけていたリディアの前に進み出た。
「ねえリディア、何を着てたってきみは魅力的だけど、僕はきみを、世界一美しく見せることができると思うよ。たとえばダイヤモンドは、光を集めるカットを身にまとってこそ輝く。きみもその輝きにふさわしい自分を見出《みいだ》すべきだ」
足りないどころか、こいつのとくべつ扱いは過剰《かじょう》なんだから。
「僕は誰よりも、きみの魅力を理解しているつもりだから、まかせてくれれば誰もがうらやむお姫さまにしてみせる。そうだ、ちょうどいい機会だから、婚約発表のパーティのためにアクセサリーをそろえようか」
「こ、婚約発表?」
「いずれは正式に発表しなきゃならないだろう? そのときは僕からの贈り物を身につけてほしいし、ちゃんとしたものを用意したいから、早めに注文しておかないとね」
悪のりなのか本気なのか。
しかしエドガーは、悪のりだろうと本当に注文してしまいかねないのだ。
コブラナイは満足そうに頷いているし、どうしようもない。
「宝石は何がいいかな。きみの好きなものにしよう」
そのときリディアは、ふと昨日のダイヤモンドを思い出していた。
ハーレムの姫君のためなのかどうか、確かめたくなる。
どうでもいいことだけれど、エドガーを困らせてやりたくなったのだ。
「じゃ、じゃあね、昨日のブラックダイヤ、あたしにくれる?」
くれるなんてことになったら、すぐさま婚約発表されてしまいかねなかった。しかしそんな危険にまで、リディアは考えがおよんでいなかった。
「呪《のろ》いのダイヤだよ。きみを不幸にするわけには」
エドガーが退《ひ》いたことで、リディアはますます意地悪な気分になった。
やっぱり、誰か女性に贈るつもりなんじゃないだろうか。人のことを口説《くど》きながら、何人も恋人がいるかもしれない軽薄《けいはく》男。ちょっと困ればいいんだわ。
「コブラナイなら呪いの力を抑えられるかもしれないわ」
言いながら、そういえばそうだと気づく。宝石の管理能力がある妖精だ。呪いのダイヤは、ちゃんとした扱いを受けていなかったせいだとニコが言っていたし。だったらコブラナイならもとの状態に戻せるかもしれないではないか。
「そうなのかい?」
エドガーが振り返った。コスモスを傘のように頭上にかかげて、コブラナイは首を傾《かし》げた。
「ダイヤモンドはわしの専門じゃないですなあ。いちばん気難しい宝石ですんで、仲間に相談してみないとねえ。お嬢さまへの贈り物なら、どうにかせねばなりませんが」
あ、もしかしてまずいかも。
ようやくリディアは、くれることになったら引っ込みがつかないと気づき、冷や汗が出かけたが、エドガーは小さくため息をついた。
「でもね、リディア、あれはだめだ」
「……そ、そうよね。高価すぎるわよね。だいたいあたしには似合わないし」
ほっとし、同時に卑屈《ひくつ》な気持ちになった。
やっぱりこいつ、口先だけね。
「そうじゃない。ダイヤがいいなら好きなだけ、大粒のをさがして取り寄せるよ。でもあれば、もうここにはないんだ」
「え、どうして?」
「ゆずった。呪いの影響を受けない人にね」
それは、異教徒の姫君?
呪いのダイヤをほしがったくらいなら、呪いをしりぞけられるのかもしれない。
「そうだ、今からボンド街の宝石店へ行ってみないか?」
取り繕《つくろ》うようににっこり笑うけれど、そんなつもりのなかったリディアは、急に落ちこんでいた。
あわてて首を横に振る。
「うそよ、ダイヤモンドがほしいなんてうそ。あなたがあたしをからかってばかりだから、困らせてみたかっただけ。だってほら、あんなすごいダイヤ、簡単にあげられるものじゃないでしょ。困るはずだと思ったの」
「リディア、きみのためなら惜しいものなんて何もない」
そう言ったエドガーは、たしかに困っているように見えた。
「どうでもいいのよ。だいたいあたし、結婚する気はないんだから」
きびすを返し、部屋から駆《か》け出す。
結局、エドガーを困らせることにはなったのかもしれない。けれどとても、後味の悪い気分だった。
仕事部屋へ駆け込むと、ニコが優雅にお茶を飲んでいた。
伯爵《はくしゃく》家の高級紅茶が気に入っている妖精猫は、このごろリディアの家で出されるお茶には見向きもしなくなった。
妖精っていうのは本当に、自由で気ままで、好き勝手にしてればいいのだから楽なものね。
そう思いながらリディアは、ニコのわきを通り抜け、デスクの前に腰をおろす。
指輪は、結局はずしてもらえないままだ。
「ほう、これはこれはめずらしい宝石ですな」
頬杖《ほおづえ》をつくリディアの耳に、またコブラナイの声がした。
「それはキャンディーだよ。なんだおまえ」
ニコは、テーブルの上に現れたもじゃもじゃヒゲの妖精をいぶかしげに眺《なが》めた。
「ムーンストーンの管理人ですって」
ということは、リディアがこれを手放せないかぎり、つきまとわれるのだろう。
「だからニコ、仲良くしてね」
ニコは面倒くさそうに目を細めたが、先輩風を吹かして、ガラスポットのふたを開け、キャンディーを差し出した。
「やるよ。宝石じゃなくて食いもんだぞ」
「これはありがたい。ときにおたくは、お嬢さまのお友達で?」
琥珀《こはく》色のキャンディーを、コブラナイは両手でかかえられるだけつかみだし、大事そうに腰の袋にしまう。その、ティースプーンほどのポケットに、どういうわけかキャンディーがいくつもおさまってしまう。
彼らのポケットがどうなっているのか知らないが、妖精たちは、自分の体にくらべてかなり大きなものを自在に持ち運ぶのだ。
「友達っつーよりまあ、保護者みたいなもんだ」
どこがよ。
「それにしてもお嬢さま、何がご不満なんです? 伯爵はダイヤでも何でも好きなものを贈ってくださるとおっしゃったのに。とても気前のいい方でいらっしゃる」
贈り物で結婚を決められるわけないでしょ。
「なんだリディア、ダイヤなんかほしいのか?」
あーもう、また来た。
声とともに窓から入ってきたのは黒い巻き毛のケルピーだった。
いつでも能天気《のうてんき》に現れるが、考えてみれば、リディアの苦悩の原因はこいつではないか。
「ダイヤなんておまえに似合わねーよ。スコットランドじゃ草まみれになってたくせに、こっちじゃ妙に気取ってないか?」
「しかたないでしょ。こっちは草まみれになれるような場所がないんだから」
年頃の娘が、公園で寝転がるわけにいかないではないか。もちろん田舎《いなか》の町でも、そこらへんに寝転んでいたりしたら眉《まゆ》をひそめられるだろうが、広い野原の先、リディアが妖精たちと戯《たわむ》れていた円形土砦《ラース》やシャムロックの原では、人に見られるようなことはほとんどなかった。
「なあ、伯爵との結婚なんて考え直せよ。おまえがもう少し人間界にいたいってなら、スコットランドで暮らせばいい。それなら俺と帰る気になるか?」
ケルピーにしてはずいぶんな譲歩《じょうほ》だ。そしてそれは、リディアにとって悪くはないものだった。
エドガーに振り回されることも、彼の周囲にある危険に巻き込まれることもなく、心|穏《おだ》やかに暮らせるだろう。
でも、少し気がかりなのは、エドガーを殺そうとしているユリシスの存在だ。
フェアリードクターの能力を持つユリシスに、エドガーひとりではどうにもできないこともあるだろう。
半人前のリディアでは、いてもいなくても同じようなものかもしれないが、ユリシスが妖精の魔力を悪用する人物なら、妖精たちのためにも、フェアリードクターとしてリディアは、ここにとどまらなければならないような気がしている。
なんだか言いわけめいているような。
ううん、あたしは母さまみたいなフェアリードクターになりたいんだもの。
自分に言い聞かせながら、リディアは無意識に、薬指のムーンストーンを撫《な》でた。
「そんな約束していいの? スコットランドに帰ったって、あたしに好きな人ができるかもしれないわよ」
「どうせすぐ失恋する」
「はあ? なによそれ」
デスクに腰かけ、ケルピーはリディアを見おろすように覗《のぞ》き込む。
「フェアリードクターが人間とうまくいくわけないだろ。ふつうの人間にとっちゃ、頭がおかしいようにしか見えないのがフェアリードクターだからな。そういうもんなんだから、人間の男なんてあてにするな」
ケルピーの、人を惹《ひ》きつける魔力を秘めた瞳は、黒真珠《くろしんじゅ》の鈍い輝きでリディアを悩ませる。
「あたしの母さまは、父さまと恋におちて結婚したわ」
「石ころに執着《しゅうちゃく》してるようなおまえの父親は、ふつうじゃねえからだろ」
鉱物学者なの。と言ってもケルピーにはわからないだろう。
ため息をつきつつ、でも、とリディアは考える。エドガーは、リディアに恋はしていないと思うけれど、フェアリードクターの能力は理解してくれているような気がする。
たまたま彼が、青騎士伯爵の名を得たから、フェアリードクターが必要だから、理解するしかなかっただけだろうか。
それとも彼は、リディアのような境界を生きている人間にとって、稀少《きしょう》な理解者なのだろうか。
自分の利益のためだとしても、フェアリードクターと結婚する気になるくらい変わり者で、ささえようとしてくれる人とは、二度と出会えないくらいめずらしいのだとしたら。
今みたいに、男の人に口説《くど》かれたりやさしくされたりすることは、エドガーと離れたらもうありえないのかしら。
そんなふうに思い、彼があけっぴろげに向ける好意を、いやがってはいない自分に気づきあきれた。
そりゃあ、本音じゃなくてもほめられれば心地いいもの。
……それだけのことだけれど。
「だいたい人間の男は浮気性だっていうじゃないか。あの伯爵だって、ダイヤモンドを女にやったとか話してたし、おまえそんな奴と結婚するつもりか?」
女? とリディアは顔をあげた。
「どうしてケルピー、そんなこと知ってるのよ」
「中庭の噴水《ふんすい》で水浴びしてたら、奴と妖精画家が話してた。ハーレムの女だってよ。ハーレムって何だ?」
え、まさか、本当にハーレムに姫君を囲ってるの?
単なる噂《うわさ》じゃないの?
「ケルピーはそんなことも知らないのか?」
ニコがえらそうにヒゲを撫でながら言った。
「おまえは知ってんのかよ」
「あたりまえだろ。ニコさまは情報|通《つう》だからな。新しい食いもんだよ」
「ははあ、ロンドンには聞いたこともない食いもんが多いですからな」
と言ったのはコブラナイ。
「そういやこのまずそうなチビ、誰だ?」
また悶々《もんもん》と悩みだしたリディアのそばで、食べ物にしか興味がないらしい妖精たちのお気楽なおしゃべりが続いた。
*
その店の名は、マダムイヴ・パレスという。貴族が愛人を囲う、ハーレムパレスだと噂されてはいるが、本当のことは客しか知らない。
紹介者なしには入れないその店の顧客《こきゃく》に、名を連ねているエドガーは、門の前で馬車を降りただけで、転がるように出てきた使用人に中へと案内された。
昼間でもカーテンをおろした室内だが、シャンデリアがまぶしいほどだ。
真紅《しんく》の絨毯《じゅうたん》が敷きつめられた廊下《ろうか》を奥へと進めば、等間隔に並ぶ大理石の女人《にょにん》像に見おろされる。
うっすらと漂《ただよ》う煙は頭の芯《しん》をしびれさせ、幻覚《げんかく》と恍惚《こうこつ》をもたらすもの。そのあまい香りに取り憑《つ》かれた誰かが、静かな扉の向こう、自分だけの後宮《ハーレム》で、白昼夢《はくちゅうむ》にひたっていることだろう。
彼を案内するのは、いつのまにか、用心棒をかねた使用人ではなく、薄布をまとった女になっていた。
やがて突き当たった、黄金の取っ手がついた両開きの扉を開け、彼女はうやうやしく頭を下げた。
中へと、エドガーは進み入る。
金銀の装飾品で飾られた室内は、まぶしすぎないよう淡いランプだけが灯されていた。
ペルシャ絨毯の色鮮やかな模様《もよう》が足元を彩《いろど》り、黒檀《こくたん》の椅子《いす》やテーブルが、落ち着いた品のよさをそえる。
そんな部屋の奥が、更紗《さらさ》のカーテンで仕切られている。薄い布の向こうに、細長いソファがあるのが透《す》けて見える。
そこに腰かけている人影もわかる。
長い髪の、ほっそりした輪郭《りんかく》を持つ人影に、エドガーは近づいていった。
「ご機嫌《きげん》いかがですか、ジーンメアリー」
少しカーテンを持ちあげ、身を屈《かが》めたエドガーは、彼女の手に口づけた。
「ダイヤモンドは気に入っていただけましたね? あなたに、よくお似合いです」
アラビアンナイトの姫君のような、異国の衣装を身にまとい、かすかに微笑《ほほえ》みをたたえた彼女は、やさしくエドガーを見つめていた。
「エドガーさま、じきに彼らが来ます」
戸口に現れたのはレイヴンだ。エドガーは頷《うなず》き、目の前の淑女《しゅくじょ》に目礼《もくれい》してカーテンを閉めた。
「ジーン、必ずあなたの仇《かたき》をとってさしあげますから、僕におまかせください」
そうしてレイヴンとともに、大きな鏡の後ろにある小部屋へ身をひそめた。
「レイヴン、ポールの様子はどうだった? バークストン侯爵《こうしゃく》をまるめこんだか?」
「だいたいうまくやっておりました」
「かなり練習したからね。僕では侯爵に顔を知られているから、やってもらうしかなかったし」
マジックミラーで仕切られた小部屋からは、向こうが透けて見えるようになっている。
エドガーが鏡のそばに身を寄せると同時に、入り口の扉が開いて、男がふたり入ってくるのが見えた。
「あ、こちらです。バークストン侯爵」
侯爵と呼ばれたのは、立派な口ひげをたくわえた中年の紳士《しんし》だった。
もうひとりは、妖精画家のポールだがこの場では貴族の放蕩《ほうとう》息子を装っている、はずだ。
しかしいまひとつ板についていない。
「本当に、あの失われたダイヤモンド、ナイトメア≠ェあるのですかな?」
「ええあの、ぜひその目でお確かめください」
どことなく腰の低い印象になっているが、薬と酒に酔っている相手には疑問を感じる余地はないだろう。
「もしそうだったとしたら、驚きの発見ですよ。その昔王家から持ち出され、行方《ゆくえ》がわからなくなっていたダイヤモンドですからな。どこから手に入れたので?」
「じつは、私のものではないのです。もともと、こちらのレディが身につけておられたというわけで」
「こちらが……?」
閉ざされたカーテンの向こうに、ポールは目礼し、話を続けた。
「こういったことは、なかなか人に話せることじゃないんです。もちろん侯爵、あなたにならおわかりいただけると信じたからこそ、ご案内したわけですが。ええそう、はじめて彼女と出会ったのは、夢の中でした。彼女はこの、ブラックダイヤを身につけたために、夢魔《ナイトメア》にとらわれ、現実の世界へ戻れなくなったのだとおっしゃいました。そこで私は、夢の中で彼女に教えられたとおりの場所をさがし、ブラックダイヤを見つけだし、そして彼女を夢の中から救い出すことに成功したのです。信じられませんか?」
「わかりますよ。ここでは、ありえないことなどひとつもないのですから」
侯爵がくゆらすパイプは、すでに彼の理性を夢の中へ誘っている。
夢を売る店、マダムイヴ・パレス。ここでは誰もが、外の現実を忘れ、妄想《もうそう》の世界へひたるのだから。
「ええ、そのとおりです。そして彼女は、ナイトメアと対《つい》になるもうひとつのダイヤモンドのことも、私に話してくれました」
「それは、同時期に消えたというホワイトダイヤ、デイドリーム≠フことですな」
「白と黒、ふたつのダイヤの持ち主は、世界を動かす王になれるという言い伝えをご存じですか?」
「ああ、だから英国王室は、失われたダイヤモンドをさがし続けてきたはず。ナポレオンの手に渡ったとも言われていたが、だとしてもダイヤは彼を見放したようですからな」
「これからの英国の発展のためにも、王家はダイヤを取り戻したいところでしょう。でもこちらのレディは、デイドリーム≠ヘすでに王の手にあるとおっしゃっています」
「……女王|陛下《へいか》でなく?」
「そうです。レディは、ご自分とナイトメア≠フ運命をささげるべき相手として、デイドリーム≠フ持ち主にお目にかかりたいと望んでおられます。その人物なら、私のような者にも大きなチャンスをくださるだろうというわけで、できる限りの協力をお約束しました。そしてバークストン侯爵、あなたならデイドリーム≠フ持ち主をご存じのはずだと、彼女のたっての希望で、この話をさせていただいたわけです」
「私が、かね?」
「心当たりはありませんか?」
侯爵は、おそらくまわらない頭で考え込んだようだった。
「ナイトメア≠、見せていただけないか。そうすれば何か思い出されるかもしれない」
エドガーは、バークストン侯爵の表情を注視した。
肝心《かんじん》なのはここからだ。
カーテンの方に向き直ったポールは、ソファに腰かけた淑女の足元にひざまずいた。が、ぎこちなさすぎて少々よろけた。
「侯爵にお目通りいただけますか。レディ・ジーンメアリー」
棒読みだったが問題はなかった。
エドガーの思惑《おもわく》どおり、侯爵の表情がこわばったから。
そしてその唇《くちびる》が、ジーンメアリーという名をつぶやいたように見えた。
ポールが、薄いカーテンを開く。
バークストン侯爵が目を見開く。硬直《こうちょく》した手からパイプが落ちても拾おうとしない。
ペルシャ絨毯が焦《こ》げるのをおそれてか、ポールがあわてて拾ったのは、少々|庶民《しょみん》的な態度だったが、侯爵にも、エドガーにももはやどうでもいいことだ。
かかったな、とエドガーはつぶやく。
「どうか侯爵、彼女の力になってください」
ああ……、とぼんやりしつつ返事をする。
かつて恋いこがれた女性が、再び目の前に現れたのだ。侯爵は彼女の願いをしりぞけられはしないだろう。
この夢のマダムイヴ・パレスで、彼はかつての夢に、そしてブラックダイヤの輝きにとらわれたはずだ。
それはエドガーにとって、もうひとつの幻《まぼろし》のダイヤモンド、デイドリーム≠手に入れるための計画だった。
このバークストン侯爵が、デイドリーム≠隠し持っているのは確実だ。
だが彼は、どういう因縁《いんねん》でプリンスとつながっているのか。
エドガーにはまだ、プリンスの意図や目的や、自分が巻き込まれた意味すらわからない。
そこにたどり着くための、手がかりのひとつが、一対《いっつい》の、王家のダイヤモンドなのだ。
不当に人手をわたるうち、呪《のろ》いの力を得てしまったらしいブラックダイヤ。しかし宝石そのものよりも、そこにまとわりつく人の思惑が、もっとも呪わしいのではないだろうか。
侯爵を見つめるジーンメアリーは、何を思っているのだろう。
どことなくうつろで、憎んだはずの彼のことを、忘れてしまっているようにも見えた。
そうかもしれない。もはやこれは、ジーンのためではなく、エドガー自身のための復讐《ふくしゅう》なのだ。もしも彼女が、今何かを感じることが可能だとしても、エドガーのたくらみを憂《うれ》うだけなのではないだろうか。
それでも、エドガーは自分を止めることはできない。
「レイヴン、バークストン侯爵はこれで、ユリシスを裏切らずにはいられないだろう。デイドリーム≠彼女に届けるために、隠し場所から持ち出そうとするはずだ。監視を徹底するよう、|朱い月《スカーレットムーン》≠ノも伝えてくれ」
「わかりました」
エドガーは、小部屋にレイヴンをひとり残し、奥のドアから廊下《ろうか》へ出た。
個人的《プライベート》な至福《しふく》の場、愉楽《ゆらく》の時を約束するマダムイヴ・パレス。重厚《じゅうこう》な扉に閉ざされた向こうは、自分のためだけに存在する幻《まぼろし》の世界なのだ。
|異教徒の王《スルタン》のための後宮《ハーレム》みたいに、自分が王になれる場所。主人の訪れをただ待っているのは、けっしてノーと言わない、やさしくて忠実な女たち。
ハーレムとささやかれていても、ここには自分の意志を持つ、生身の女はいないのだ。ただ男の夢と理想を具現化するために存在する、そんな女たちのための宮殿だから。
ジーンメアリーも、彼女の思いとは無関係に、エドガーの望みのためにここにいる。
それでも彼女にとって、あの男のなぐさめにされ続けるよりはましなのではないかと思いたい。
あの男、バークストン侯爵の、偏愛に満ちた部屋へ忍び込んだエドガーは、壁面を埋《う》め尽《つ》くす肖像画に、暗い感情をかき立てられた。
侯爵の秘密の部屋。ここのことはユリシスも知らない。
アメリカから来たばかり、しかも少年にしか見えない彼が、閉鎖的な貴族社会に入り込んで情報を得るのは簡単ではない。だからエドガーは、ここを計画の舞台に選んだのだ。
花と宝石で飾られた夢のような部屋の中、彼のハーレムに女はひとりだけ。幾多《いくた》の額縁《がくぶち》の中で微笑《ほほえ》むのは、すべて同じ女だった。
もちろんそれは、ジーンメアリー。
「侯爵、そんなに夢が見たいなら、悪夢をたっぷり見せてやろう」
*
午後から出かけていたエドガーが、伯爵邸《はくしゃくてい》へ帰ってきたのは夕方だった。
帰宅する前に、どうしても指輪をはずしてもらわねばと、リディアは再び彼のいるサロンに押しかけた。
「エドガー! ……あの」
勢いをそがれたのは、窓辺にたたずんでいた彼の、ガラスに映った表情が、とてもけわしく見えたからだった。
残酷《ざんこく》で非情な、リディアには理解しがたい方のエドガーだ。
「あの、忙しいならまたあとで……」
「リディア、きみを追い返すほど忙しいことなんてあるわけないじゃないか」
振り返ってそう言ったのは、不遜《ふそん》な笑みを浮かべたいつもの彼だった。
「帰る前に婚約者《フィアンセ》の顔を見に来てくれたのかい?」
「違うって、何度言ったらわかるの? それよりこの指輪……」
「抱きしめてもいい?」
「はあ?」
すでにエドガーは、リディアの目の前に接近していて、茶化《ちゃか》しているふうでもなく、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳で切《せつ》なげに見おろしていた。
「い、いやよ」
[#挿絵(img/diamond_079.jpg)入る]
リディアがそう言ってしまうのは、ほとんど条件反射だ。
「一分だけ」
「長いじゃない」
「じゃあ三十秒」
不思議といやらしい感じはなくて、子供のようにあまえたがっている、そんなふうに思うと、リディアは自分でも意外な返事をしてしまっていた。
「……十数える間なら」
返事をひるがえす間《ま》もなく抱きよせられた。
何かつらいことでもあったのかしら。
そんなふうに感じると、力になれたらと思うのに、結局リディアは緊張を解くことができずに固まったままだったから、彼のなぐさめにはならなかったのではないだろうか。
十秒経ったのかどうかわからないまま、エドガーは離そうとしなかったけれど、リディアの方から力を入れて離れたのは、東洋の香《こう》のような匂《にお》いをかすかに感じたからだった。
「どこへ行ってたの?」
「ポールのアトリエ」
うそだわ。
彼を拒絶《きょぜつ》してばかりで、なぐさめにもなれない自分が、恋人みたいに行き先をとがめる資格はない。なのになぜか落胆《らくたん》しながら、自分でも気づかずため息をついていた。
「エドガーさま、お怪我《けが》をなさったそうですが」
サロンへ、薬箱をかかえたアーミンが入ってきた。
「え、怪我? 本当なのエドガー」
よく見れば、上着の肩口が切れて血がにじんでいた。
「ああ、ちょっとね。通りがかりにいきなり斬《き》りつけられて。でもたいしたことはないよ。どこの誰だか知らないけど、向こうの方が大怪我を負った」
レイヴンがやったのだろう。
主人を守るためなら、過剰《かじょう》なほどの攻撃本能をむき出しにするのだから。
「ねえ、それまだダイヤの呪いが残ってるんじゃないの?」
「そういえば、黒猫を見たような」
「エドガー、ダイヤをゆずったって人とあなたが、……その、よく会ってたりするんじゃないの?」
「そうだと呪いが残るのか?」
会ってるって認めるわけ?
関係ないのにむっとしてしまう。
「このままじゃ、ほんとに危ないわよ」
「きみが気にかけてくれるなら、呪われているのも悪くない」
すぐ茶化すんだから。
「エドガーさま、傷口を消毒しますので服を脱いでください」
エドガーを椅子《いす》に座らせ、アーミンはきびきびと言った。
「ねえリディア、手伝ってくれないか」
「えっ」
「ボタンをはずしてくれると助かるんだけどな。痛くて腕が動かせない」
「たった今おもいきり動かしてたでしょ!」
どうして花も恥じらう乙女が、こいつの服を脱がせてやらなきゃいけないのよ。
憤慨《ふんがい》しながらきびすを返す。
「ふざけていると、消毒液をたっぷりすり込みますよ」
アーミンにしかられ、はいはいと言うとおりにするエドガーをちらりと横目に、リディアはそのまま部屋を出た。
アーミンは、そういうの平気なのかしら。
怪我の手当なんて慣れているみたいだし、たぶん、目の前でエドガーが脱いだって気にならないのだろう。
エドガーに仕《つか》えているとはいっても、言いたいことが言える様子のアーミンは、もっとくだけた親しさがかいま見える。彼らとはじめて会ったときからそれは感じていた。
プリンスから逃《のが》れるため、リーダーとして戦ってきたエドガーは、孤独だったと以前にレイヴンは言っていた。けれど、少しでも弱みを見せることができる仲間がいたとしたら、それはアーミンだったのではないだろうか。
いちばん苦しいときに、エドガーをささえてきたのはたぶんアーミンだ。
そんなことを思うとリディアは、なんとなく気持ちが落ちこんだ。
抱きしめていいかと問われたリディアは、あまりにもぞんざいな態度だった気がする。
アーミンだったらきっと、自分から、彼を抱きしめてやれるのだろうに。
たった今、リディアが抜け出してきたあの部屋で、ふたりが寄りそっている様子を想像してしまったリディアは、駆《か》け足で仕事部屋に逃げ込んだ。
ああまた、指輪をはずしてもらうタイミングを逃しちゃったわとため息をつきながら。
*
「エドガーさま、じつは、悪い知らせがございます」
肩から腕へと包帯を巻きながら、アーミンは言った。
「ジミーがいなくなりました」
一気にいやな想像がエドガーの頭をめぐった。
「どういうことだ?」
「大人たちの話を盗み聞きしていたようなのです。バークストン侯爵《こうしゃく》の屋敷に使用人として入り込んで、彼の動きを探る計画を立てていたのですが、ジミーは黙ってひとりで」
「それで、つかまったのか?」
「そのようです。おそらくはユリシスから、ジミーの爪《つめ》らしきものが送りつけられました。本人のものかどうか、確かめようはありませんが」
わずかな間に、エドガーは様々なことに考えをめぐらせていた。そしてまず、確認する。
「ジミーが立ち聞きしたのはそれだけ?」
スレイドが知れば、薄情だと思うだろうと考えながら。
「重要なことを知る人物は、ジミーが立ち聞きした場にはいなかったそうですので、今回の計画については知らないはずです」
それでも、ナイトメア≠エドガーが持っていることは知っていたかもしれない。
「となると問題は、ユリシスがこれからジミーをどう使ってくるかだ」
それは、エドガーと|朱い月《スカーレットムーン》≠フ団員との、不和を起こしかねない事態だった。
勇み足になるほど、エドガーに心酔《しんすい》していた少年がいて、一方でそれを憂慮《ゆうりょ》していた年輩者たちがいる。
スレイドが言っていたように、結社内の反発が表面化するかもしれない。
あるいはそれも、ユリシスのねらいかもしれず、朱い月≠ニエドガーの溝《みぞ》を深めるためにジミーを惨殺《ざんさつ》する可能性も残っていた。
「アーミン、どうにか救出したい」
「どこに監禁《かんきん》されているのか、情報を集めましょう」
しかし心の片隅では、ユリシスの手に落ちたなら生存は絶望的なのではないかとも思っている。
なのに、取り乱しもしない自分を、エドガーは嫌悪《けんお》したくなった。
ジーンのときも、誰のときも、アーミンのときでさえ、取り乱さなかった自分は、どうかしているのだろうか。
手早く包帯を巻き終え、アーミンは新しいシャツを広げる。受け取りながら、リディアに抱きしめてもいい? と言ったことを、脈絡《みゃくらく》もなく思い出していた。
あまりにも物足りなかった。彼女はなかなか心を許してくれない。
もともとは、彼女の気持ちなどおかまいなしに、そばに置いておくことしか考えていなかった。リディアがいれば、エドガーは青騎士|伯爵《はくしゃく》としてうまくやっていけるだろう。
しかしリディアは、彼の本気≠恋ではないと言う。
自分では、じゅうぶん恋だと思っているからよくわからない。
それでも、強引にせまることがリディアにとって不誠実に映るのなら、たかがキスだって無理|強《じ》いしないでおこうと思った。
リディアに関しては、ちょっと自信がなくなりつつあるのは事実だが、あきらめるつもりはない。あせるつもりもない。
ただ、物足りないのがくやしくて、心が乱れると、すべてがうまくいかないように思えて落ちこまされた。
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王家の伝説
月が空高くのぼるころ、月光をあびた水面の、水晶《すいしょう》のような輝きが、水中までも明るく照らしていた。
湖底にいるケルピーには、無数の光のかけらが、水中を漂《ただよ》っているように見える。
月夜ばかりは、ロンドンでもそう悪くはない。木立《こだち》が落とす影をゆらし、水面に顔を出したケルピーは、静かに月を眺《なが》めやった。
(おい、そっちか?)
(いや、あっちだ)
(ああ、どっちだ?)
岸辺の草むらで声がした。
がさがさと茂《しげ》みが動く。
ちっ、うるせえ連中がいるぜ。とケルピーは舌打ちする。臭くて醜《みにく》い悪鬼《ゴブリン》どもはどこにでもいるが、このあたりで見かけたのははじめてだった。
悪意の小妖精は、茶色くてつぶれたような顔をしている。ボロ布をまとっている者も、裸の者もいるが、連中が群れるとろくなことはない。
|悪い妖精《アンシーリーコート》と呼ばれるのはケルピーも同類だが、高貴な馬の姿をした彼にとって、ゴブリンはウジ虫みたいなものだった。
似たような風体《ふうてい》でも、|ホブ《よい》ゴブリンやブラウニーなら目障《めざわ》りにもならないというのに、こいつらは存在するだけでうっとうしい。
自分の縄張《なわば》りに近づいてきたら握りつぶしてやると思いながら、ケルピーは様子を見守った。
(早く見つけろ。ご主人さまにしかられる)
何をさがしてやがるんだ?
と思ったそのとき、大きな水音がした。
何かが池に落ちたようだ。水面でもがいている、人間の子供だった。
(いたぞ)
(池だ)
きたないゴブリンどもに池に入ってこられたくない。ケルピーは水を波立て、溺《おぼ》れているらしい少年を岸に押しやる。
いやがる少年を殴《なぐ》ったり蹴《け》ったりしながら、ゴブリンが池から引きあげるのを眺めつつ、あんな連中につかまるくらいなら、自分が喰《く》ってしまったほうがあの子供にとってもよかったかもなと考えた。
しかしいまさら、ゴブリンの手垢《ておか》がついた肉などごめんだ。
「たすけて……」
泣き叫ぶ少年の衣服から小さな包みが落ちる。ほどけてきらりと光るものがこぼれると、水の中を沈んでいった。
追いかけ、ケルピーは拾い上げる。
「ダイヤモンドじゃねーか?」
また水面に浮上すると、岸辺で命乞《いのちご》いを続ける少年のそばに、男がひとり近づいていくのが見えた。
こちらの男も、少年といっていい年齢に見えたが、やけに残酷《ざんこく》そうな笑みを浮かべている。
ゴブリンどものご主人さまか。と様子をうかがう。
「ぼうや、誰にたのまれたか言ってごらん?」
やさしい口調《くちょう》で訊《たず》ねているようでいて、声に凄味《すごみ》がある。
「な……なんのこと……」
「しらばっくれるとお仕置きするよ。おまえに包みをわたし、どこかへ届けるように命じたのは、この男だろう?」
言って彼は、何かを少年の方に投げ出した。
どうやら、人の首らしい。悲鳴もあげられずに、少年は硬直《こうちょく》した。
「バークストン侯爵《こうしゃく》の友人だ。てことは、おれの目を盗んでダイヤを隠そうとしたのは侯爵か?」
「ダ、ダイヤ……? 中身はガラス玉だって……」
あきれたように、男はため息をつく。
「かわいそうにな、侯爵家の小間使いなんてやってたばかりに利用されてさ。ガキならダイヤをガラス玉だと言われて信じるだろうし、持ち逃げされる危険もない。そのうえおれにあやしまれずにダイヤを運び出せると考えたわけだ」
そして彼はゴブリンに、持ち物をさがせと命じた。
(何も持ってません、ご主人さま)
「ダイヤモンドをどこへ隠した? それとももう、誰かに渡したのか? 死にたくなけりゃ、何でもいいから話してみろ」
ゴブリンの主人は、力任せに少年を蹴った。
咳《せき》込みながら、少年は何か言った。
「ふうん、チャリングクロス駅へ行けと? 誰か現れると思うか?」
金髪の若い男は、少し肩をすくめつつ振り返った。
「もう誰も、警戒《けいかい》して現れないでしょう」
言ったのは、男のそばに現れた、黒い毛むくじゃらの獣《けもの》だった。
黒妖犬《こくようけん》、とケルピーはつぶやく。しかもそれはすぐに、やせた子供の姿になった。
犬の姿になる妖精は少なくない。妖犬とひとくくりにしても性質は様々だが、邪悪《じゃあく》なものも多く、たいてい人間たちには怖《おそ》れられている。
あの男、ゴブリンだけでなく黒妖犬も従えてやがるのか。
「その周辺に、侯爵が身をひそめている可能性はあるな。ゴブリンどもにさがさせるか」
「おれは、どうしましょうか?」
「そうだな。伯爵《はくしゃく》の方をもっと引っかき回すのがおもしろそうだが」
伯爵? とちょっと引っかかったが、伯爵なんて何人もいるなとケルピーは聞き流す。
「この小間使い、おまえの人の姿と年頃や背恰好も似ている。なあジミー、顔を焼いておまえの死体ってことにして、奴らに送りつけてやるのはどうかな?」
「悪くないんですけど、それじゃあもうおれの出番がないじゃないですか」
「あんまり出しゃばると、あの小娘に正体を気づかれるかもしれないぞ。今ならまだ、奴らはおまえを仲間の少年だと信じてるはずだけど」
子供の姿をした黒妖犬は、死人のような青白い顔でにやりと笑った。
「大丈夫ですよ。そりゃ、はち合わせたときはまずいと思いましたが、ちょっと怒らせてやったら注意力|散漫《さんまん》になるような、ただの小娘でしたよ」
「ならこのままもう少し、おまえはジミーとして人間のふりを続けるといい。伯爵の手下に助けを求めてみろ。奴は警戒するだろうが、そうなれば仲間割れの危機だ。バークストン侯爵のことは奴もさがそうとしているだろうし、いっそ迷路を広げてみんな誘い込めれば、まとめて始末できるからな」
「わかりました。その|小間使い《ガキ》を使わせてください」
男が頷くと、黒妖犬はゴブリンたちに言いつけ、少年を運んでいかせた。
それから男は、何気なく池の方に視線を向けた。水際《みずぎわ》へと歩み寄ったのは、さがしているらしいダイヤモンドがそこに落ちた可能性に思い至ったからだろう。
「おい、水の中をさがせ」
残ったゴブリンに命じる。うっとうしい、とケルピーは、黒馬の姿で浮かびあがると、水面にすっくと立った。
「俺の縄張りに一歩でも入ってみろ、ゴブリンどもを踏みつぶしておまえは頭からかじってやるからな」
水棲馬《ケルピー》……、と若い男は驚きのつぶやきをもらす。ゴブリンたちがいっせいに、悲鳴をあげながら走り去る。
「なぜ、ケルピーがこんなところに」
「どこにいようと俺の勝手だ。とっとと失せろ」
黒真珠《くろしんじゅ》の瞳でにらみつけると、男は警戒しているようだったが、簡単にはひるまなかった。
「さっきの子供が、石を落とさなかったか?」
「気分よく月を眺めてたってのにじゃましやがって」
「ケルピーには何の価値もない石だ。だがもし見つけてくれたなら、うまそうな若い女を毎日差し入れてやる」
ちょっと惹《ひ》かれる。だがリディアにばれたら、絶交されそうだと思いとどまる。
「うるせえ、二度と俺の縄張りに近づくな」
大きく水しぶきを立てて、ケルピーは水中へ姿を消した。
たしかに、ダイヤモンドなんてケルピーには水底の小石と同じだ。しかしほとんどの人間は、こいつがとびきり好きらしい。
水中の泡にきらきらとまとわりつく月光を引き寄せて、透明《とうめい》なダイヤモンドは複雑な光を帯びた。
あのブラックダイヤと同じくらいの大きさはある。これだったら、リディアが気に入るんじゃないだろうか。
なんか、ダイヤがほしいとか何とか話してたし。
そう思うとケルピーにも、このダイヤモンドが、水底の小石よりずっと価値のあるものに見えてくるのだった。
*
リディアがそっと忍び込んだのは、トムキンスの執務室《しつむしつ》だった。
伯爵家の財産や領地の収支《しゅうし》を管理しているのが執事《しつじ》だ。エドガーがどこの誰に呪《のろ》いのダイヤを売ったのか譲ったのか、記録があるのではないかと思ったのだ。
もしも彼がハーレムだという店に出入りしているのなら、その店の場所を知る手がかりもあるはずだろう。
トムキンスは出かけているからと、部屋の中を見回したリディアは、しかし全く整理されている様子のない、書類の山に埋《う》もれたものがデスクだと気づき、途方に暮れた。
「どうかしましたか? リディアさん」
声に、あわててリディアは振り向いた。レイヴンがそこに突っ立っていた。
「トムキンスさんは午後には戻りますが、お急ぎのご用でも?」
「え、いえあの……、そうそう、頼んでおいた書類があるの。領地からの嘆願書《たんがんしょ》があって、妖精の道を造るために領主の許可が必要だってことで……」
あせりながら、リディアはどうにか自分の仕事を持ち出してごまかした。
「頼んだのはいつですか?」
「三日前、だったかしら」
デスクに歩み寄ると、レイヴンはそこから一枚の紙を引っぱり出した。
「どうぞ」
今日の日付で、すでにエドガーのサインが入っていた。
「……ありがと。あの、こんなに散らかっててよくわかるわね」
「散らかってはいません。これはトムキンスさんにとって完璧《かんぺき》な状態です」
「そ、そうなの。でも本人はともかく、あなたにもわかるなんて驚きだわ」
「執事の仕事を教わっているので」
「えっ、執事になるの?」
「エドガーさまの役に立つことなら、何でもおぼえたいのです」
考えてみればレイヴンは、もともと手当たりしだいに人を殺すことしか教えられていなかった。リディアは、エドガーの従者としての所作《しょさ》を心得ているレイヴンしか知らないが、それらはすべて、エドガーと出会ってから彼が学んだことなのだろう。
伯爵となったエドガーのために、さらに学びたいと思っているのは、いずれプリンスとの決着がついて、自分の戦闘能力が無意味になる日が来ると考えているのだろうか。
それを心から喜ぶために、自分から新しいことを学ぼうとしているなら、彼はエドガーより一足先に、プリンスから解放されているのかもしれないとリディアは思った。
「そう、がんばってね」
相変わらず表情はほとんど変わらないレイヴンだが、ちょっとだけ微笑《ほほえ》んだようにも思えた。
「ほかに何かございますか?」
ドアを開けたレイヴンは、当然リディアのためにそうしたわけだが、彼女が出ていこうとしないのでそう言ったようだった。
これ以上トムキンスの部屋にとどまるのは変だ。しかしリディアには知りたいことがある。どうしよう、と迷う。
「あの、レイヴン、ハーレムってどこ?」
戸惑《とまど》いつつも、口にしてみた。
レイヴンは悩んだ。表情は変わらなくても、悩んでるとリディアが思ったのは、黙り込んでしまったからだ。
そういえば彼は、リディアをエドガーの婚約者だと信じ込んでいる。主人の次に重要だと思っている。ということは、リディアの質問を無下《むげ》にはできない?
卑怯《ひきょう》かも、と思ったが、リディアはさらに問いかけた。
「エドガーがよく行く店があるんでしょ?」
主人の婚約者に、質問の意図や目的を問い返すのは失礼に当たると感じ、悩んでいる?
「チャリングクロスのマダムイヴ・パレスです」
それ以上は訊《たず》ねるなというのか、答えると、彼は逃げるように姿を消した。
そして一時間後、リディアは、マダムイヴ・パレスの前に立っていた。
立派な門のある、一見貴族の邸宅《ていたく》にも見える建物だった。
昼間のせいか、出入りする人影はない。
塀《へい》に沿って回り込み、リディアは裏口へ向かった。
「お嬢《じょう》さま、玄関から入らないのですか?」
連れてきていたコブラナイが言った。
呪いのダイヤをこのままにはしておけない。エドガーにはまるで危機感がないが、ほうっておけば必ず取り返しのつかないことになると思い、リディアはダイヤモンドの呪いをコブラナイに鎮《しず》めてもらおうとやって来たのだ。
けっして、ハーレムの姫君に会ってどうこうしようなどとは思っていない。
彼女だって危険なわけだし、話せばわかってくれるはず。
でも、すごい美人だったりするのかしら。
などと考えてしまうと、やる気が萎《な》えるのはどうしてだろう。
「こういうとこはな、いきなり訪ねたっていれてもらえないんだ」
ニコが先輩風を吹かして言った。
だがニコの言うとおりだ。だからリディアは、伯爵家のメイドに服を借りてきていた。
メイドのお仕着せはどこでも似たようなものだ。ハーレムだか何だか知らないけれど、大勢下働きを雇っているはずで、メイドのふりをすればもぐり込めると考えた。
「ですが、伯爵《はくしゃく》の奥方になろうというお嬢さまが、使用人のように裏口から入るなど納得できません」
「つーかさ、どうしてリディアがわざわざこんなところへ来なきゃならないんだよ」
「ちょっと黙っててちょうだい。それから、コブラナイ、ハーレムの女性にあたしが伯爵の婚約者だなんて言っちゃだめよ」
「どうしてなんですか?」
「どうしてもなの」
とにかく、コブラナイならダイヤをもとの、無害な状態にできるかもしれないのだ。そんな妖精がせっかく現れたのだから、リディアはフェアリードクターとして、どうにかしなければならないと思っている。
建物の陰から裏口の様子をうかがい、手早くエプロンと白いキャップを身につける。
ちょうど裏口から、メイドがひとり出てきて、通りの方へ角を曲がるのを見届けると、リディアは素早く裏口へ近づき、建物の中へ入り込んだ。
中は静かだった。ときおりメイドとすれ違ったが、忙しく早足で通り過ぎていくだけで、誰もリディアを気にとめない。
「お嬢さま、宝石のエネルギーを感じますよ。こっちですね」
コブラナイが先へと歩き出した。
鉱物の埋まっている場所をさがしだすのに長《た》けた妖精だけある。
つきあたりの扉をひとつくぐると、急に世界が変わった。
大きなシャンデリアがまぶしいほどきらめき、大理石の彫刻が並ぶホールは、吹き抜けになっていて、螺旋《らせん》階段が周囲を取り巻く。
床に敷きつめられた色鮮やかなモザイクタイルがホールのシンメトリーな空間に不規則なリズムを加え、急に夢の世界へ放り込まれたような感覚になる。
豪華なだけでなく、きわめて人工的で、五感を狂わせるような装飾だ。
「悪趣味だ」
建物に入ったときから姿を見えなくしていたニコは、急に現れるとひとこと言った。
そしてひくひくと鼻を動かし、二本足でふらりと歩き出す。
「ちょっとニコ、どこ行くのよ」
「あっちでいい匂《にお》いがする」
「もう……、勝手なんだから」
「お嬢さま、こちらです」
リディアはニコをほうっておいて、コブラナイと奥へ進んだ。
無数の部屋の前を行きすぎ、やがてある扉の前で、コブラナイは立ち止まった。
「ここなの?」
リディアはそっと、扉を開ける。
金と銀で飾られたまぶしい部屋だった。
人の気配《けはい》がなかったので、中へと進み入る。
しかし、奥の薄いカーテンに映る人影を見つけ、リディアはあせって逃げ出しかけた。
ところが向こうは、リディアが入ってきたことをとがめる様子もない。高貴な人は使用人の出入りなどいちいち意識していないと聞いたことがある、と様子をうかがう。
薄く透《す》けた布越しに見えるその女性は、ソファのひじ置きに寄りかかり、そばにある鳥籠《とりかご》の中の、金細工の小鳥を眺《なが》めているようだった。
金髪……?
とまずリディアは疑問に思った。異教徒の姫君だというから、なんとなく黒髪だと思っていた。顔つきまではよくわからない。
銀の獅子《しし》像を磨くふりをしながら、リディアは少し近づこうと試みる。
と、コブラナイが勝手にカーテンに駆《か》け寄った。
止める間もなかった。ふつうの人には見えないはずだが、それにしたって大胆に、小さな妖精はカーテンの中へもぐり込んだ。
そのうえ、女性の肩へよじ登ると、大きな声で叫んだ。
「お嬢さま、呪いのダイヤです。ここにありましたよ!」
彼女の首飾りを引っぱっているのがわかると、リディアはあわてて駆け寄っていた。
「やめなさい、コブラナイ。失礼でしょ!」
「何が失礼なもんですか。未来の奥さまを差し置いて、このように貴婦人ぶっている愛人などガツンと……」
コブラナイをつかまえ、口をふさぐ。
「ご、ごめんなさい……。ちょっといたずらな妖精が……。あの、あたしはあやしいものではなく……」
そこまで言って、リディアはようやく、目の前の女性が身動きひとつしないのに気がついた。
「え、人形……?」
まばたきすらしないということを確かめるまで、人と見分けがつかないくらい精巧《せいこう》に作られた蝋《ろう》人形だった。
「人形がハーレムの女? ……どういう趣味なの?」
美しい人形だった。金の髪に青い瞳、しかし身につけている衣服はアラビアンナイトの挿《さ》し絵で見るような異国ふうで、重ねた薄布には金や宝石の粒が縫《ぬ》い込まれ、ランプの明かりに輝いていた。
「ドレスといい部屋といい、愛人の待遇《たいぐう》がこれではお嬢《じょう》さまの立つ瀬がありませんな。伯爵にはけじめをつけていただかないと」
コブラナイのひとりごとよりも、リディアは考え込んでいた。
たしかにダイヤの呪《のろ》いも、持ち主が人形では威力《いりょく》を発揮できないだろう。しかしまだエドガーに呪いの力がまとわりついているのは、人形の持ち主がエドガーだからだ。
いずれにしろ、ダイヤの呪いを遠ざけるためにこの人形を用意したとは考えにくい。
もしかして、これが理想の女性像だとか?
リディアはまじまじと人形に見入った。
大粒のダイヤモンドが放つ、大胆不敵な輝きさえ、彼女の気品に臆《おく》しているかのよう。ダイヤモンドを見たときは、こんなの似合う人がいるのだろうかと思ったリディアだが、最初から彼女のものだったかのように違和感《いわかん》がない。
ダイヤモンドだって、心なしか満足そうだ。
やっぱりエドガーがあたしをかまうのって、気まぐれなんだわ。
そう思ってしまうほど美しく、無欲で人を傷つけたりしない存在が、エドガーの孤独を救うのだろうかと考えてもみた。
抱きしめても、リディアみたいに逃げ出したりしないから。
「しかしお嬢さま、このダイヤモンドはナイトメア≠ナすな」
「知ってるの?」
「じいさんに聞いたことがありますよ。昔、青騎士伯爵に、王さまのダイヤモンドの手入れを頼まれたと。こういったものは、手入れを欠かしますとよくないものを引き寄せて、呪いの力をため込みやすいのです。たしかもうひとつ、デイドリーム≠ニいう大粒のホワイトダイヤもあったはずですが」
とすると、これは王家のダイヤモンドだったというのだろうか。
「とにかくあなた、このダイヤの手入れをできる?」
「仲間を大勢呼んでこなけりゃなりませんな。じいさんのときも、一族総出でお城へ出向いたって話ですから」
コブラナイたちが棲《す》むのは、ウェールズ地方だ。仲間を呼び寄せるとなると、時間のかかる話だった。しかし呪いのダイヤをほうっておくわけにもいかない。
「仲間に知らせてくれる?」
「とりあえずはお嬢さま、ボウなら呪いの力をふせげますよ。なるべく伯爵のそばにいるのがよろしいかと」
「え、このムーンストーンが?」
でも、エドガーのそばにって、四六時中《しろくじちゅう》いられるわけないじゃない。
そのとき、話し声が近づいてくるのにリディアは気がついた。
扉のノブが音を立てる。誰か入ってくる。
隠れなきゃとあわてたリディアは、前掛けを彫刻に引っかけ、壁にかかっていた大きな鏡に手をつく。
と、鏡が動いた。
そのまま鏡の後ろにあった小部屋に倒れ込むと同時に、入り口の扉が開いた。
鏡になっていた戸は自然に閉まる。すると鏡だったはずのガラスは、透明《とうめい》な窓でしかなく、向こうの様子がはっきり見えた。
どうやらここは隠し部屋だ。密談でも盗聴《とうちょう》するためにつくられているとしか思えない。
息をつめてガラスの向こうをうかがうと、入ってきたのは、エドガーとレイヴンだった。
「侯爵《こうしゃく》が行方《ゆくえ》不明だって?」
「はい。ユリシスがさがしまわってるらしい様子がうかがえるんですが」
「失敗したか……」
「そうですね。デイドリーム≠持ち出すのに失敗して、ユリシスから身を隠さなきゃならなくなったんでしょう」
このブラックダイヤとともに王家にあったという、もうひとつのダイヤモンドの話をしているらしかった。
それにユリシス? 彼もこのダイヤをねらっているのだろうか。
「じゃあ、デイドリームは、ユリシスの手に渡ったのかな」
「わかりません」
まぶたを閉じ、エドガーは考え込んだようだった。
「こちらにはまだ、ブラックダイヤがある」
いったい、エドガーは何をたくらんでいるの?
「侯爵の身柄《みがら》を、ユリシスより先に手に入れたい。ここにある侯爵のハーレムは、ユリシスも知らないはずだ。侯爵がひとりの女に執心《しゅうしん》なのもね」
「いずれ侯爵はここへ現れるはずだということですね」
「ここへ来て、ジーンに救ってほしいと願うだろう。注意して見張ってくれ」
エドガーは、更紗《さらさ》のカーテンの向こうに視線をやった。
あの蝋人形にはそんな名前があるらしい。
一礼してレイヴンが立ち去ると、エドガーは、黒檀《こくたん》の椅子《いす》にひとり座り込んで、頬杖《ほおづえ》をついたままじっと何やら考え込んでいた。
「お嬢《じょう》さま、ちゃんと怒った方がいいんじゃないですか。愛人との密会の現場を押さえたんですから」
そういう問題じゃなさそうなんだけど。
「結婚前に関係を清算していただかないと、のちのち大きなトラブルになります」
「静かにしてよ、見つかるじゃない」
エドガーが、気配《けはい》に気づいたようにこちらを見た。
どうしよ……、と思う間もなく鏡のドアが開けられる。小部屋の奥に逃げようとしたが、素早く腕をつかまれた。
「何をしてる」
メイドの格好までして、こんなところへ忍び込んだなんて、ハーレムの姫君にやきもちを妬《や》いたかと思われそうだ。リディアは顔を隠したまま逃げようとした。
しかし、抵抗すれば離してくれるなんて大間違いだった。
いつもはリディアへの悪ふざけ、しかし今は、エドガーは敵のスパイかもしれない女をつかまえたところだ。
腕を振り払おうとしたとたん、折れそうなほどひねられた。後ろからかかえ込まれ、片手であごをつかまれる。
このときほどリディアは、自分の体がもろいものに感じられたことはなかった。
あと少し彼が力を入れれば、首も腕もへし折られるんじゃないかと思った。
あまりの痛さに悲鳴をあげた。
「いやーっ、離して! 痛いってば!」
声に気づいたのか、彼は驚いたように手を離すと、リディアはその場に座り込んでいた。
「リディア? どうしてここに……」
痛いのと情けないのとで涙が出た。
「ごめん、まさかきみだとは思わなかった。……大丈夫かい?」
「大丈夫じゃないわよ、女の子に暴力ふるうなんて最低!」
女だろうと敵なら関係ないのだと身をもって知って、リディアは急に怖くなっていた。
だいたい、このハーレムだという店や人形や、王家のダイヤモンドや、わけのわからないことばかりで混乱している。
そのうえエドガーに痛い目にあわされ、彼への不信感でいっぱいだ。
今は、リディアのことを婚約者扱いなんかして、やさしく接しているエドガーだが、もともとは利用するために近づいてきたのだったと思い出す。
冷酷《れいこく》なところも含めて、そうなるしか生き残れなかったエドガーの境遇《きょうぐう》にリディアは同情を感じたし、本質的には悪い人じゃないと知っているから、フェアリードクターとして彼を助けていこうと思った。
でも、エドガーの本当のことは、いつまでたってもわからない。
「立てる?」
手を差し出してくれたけれど、リディアは自力で立ちあがった。
「だいたい、何なのよこの人形。あなた、ハーレムをつくって異教徒の姫君を囲ってるって噂《うわさ》になってるの知ってるの? この人形が恋人なの?」
「違うよ、リディア」
「美人だし、文句ひとつ言わないし、ダイヤモンドだってよく似合うし、完璧《かんぺき》よね。ええ、いいんじゃない? 世間から見れば変な趣味だけど、人形なら何人恋人がいても怒らないし、誰も傷つかないし、あなたみたいなタラシにはぴったりだわ」
腕の痛みはひいてきているのに、どういうわけか涙が止まらない。リディアはごまかすように目をこする。
「何が婚約者よ。あたしはお人形じゃないから! こんなことされたら傷つく……」
あれ?
なんで傷つくんだろう。
人形を美しい部屋に住まわせて、恋人のように扱って……。
地味なメイド服で、着飾った人形といっしょに彼の目の前にいるのが、ますますみじめな気分になる。
そのうえこいつときたら、あたしに乱暴しようとしたのよ。
だから。
あたしは、傷ついてるの?
「……じゃなくて、あ、あたしは、あなたの恋人を確かめに来たわけじゃないのよ。そうよ、あの呪《のろ》いのダイヤをどうにかしたいと思っただけなの!」
「リディア、落ち着いて話そう」
「落ち着いてるわよ、あたしは。だいたいあなた、あたしを何だと思ってるの? ユリシスが動いてるっていうのに、何もあたしには話してくれないのね。フェアリードクターの協力はいらないって言うの? あたしが半人前だから? だったら、あたしを強引にそばにおこうとするのもやめてほしいわ!」
くるりと背を向け駆《か》け出す。
エドガーは止めなかったから、それもますますむかついた。
呪いのダイヤからエドガーを守るためには、そばにいるか指輪をあずけるかするべきだったのに、頭にきたからそれももうどうでもよくなっていた。
「おいリディア、この館《やかた》変わってんな。人形ばっかりだぞ」
早足でホールへ出たリディアのそばに、ニコが現れて言った。
「ロンドンじゃ、男がお人形遊びするのかよ。向こうの部屋じゃ、いい大人が人形を口説《くど》こうとしてたし、食べられるわけないのにお茶やお菓子を出してた奴もいたぜ。姿消したまま、おれが平らげてきてやったけどな」
その人形の主人は、びっくりしていることだろう。
「てことは、あの伯爵《はくしゃく》もここで人形遊びをしてるのか? 気色《きしょく》悪いな」
ようやく少し冷静になって、レイヴンとの会話を思い起こせば、もっと別の目的があるようだったと思う。
人形の名は、ジーン? でもエドガーは、侯爵と呼ばれていた誰かを誘い出すために、人形を用意したかのようだった。
ジーンって、誰?
実在の人物を模《も》した人形なのだろうか。
「それにここ、地下でゴブリンたちが穴を掘ってるかけ声が聞こえるんだよな。連中の通り道かな。悪い場所にある建物だぜ。おいリディア、泣いてるのか?」
人形にそっくりな、エドガーの本当の恋人がどこかにいる……とか?
ますます、どうしてリディアを口説こうとするのかと苛立《いらだ》つ。
あんなやつ、呪いのダイヤで痛い目にあえばいいわ。
「な、泣いてないわよ。ちょっと思いきり転んで痛かっただけ!」
[#挿絵(img/diamond_111.jpg)入る]
エプロンとキャップをはずしながら早口に言い、彼女は急いで裏口から建物を抜け出した。
「伯爵、浮気がばれたときはへたに言いわけしない方がいいですよ」
姿の見えない妖精が、人形のベールから羽根飾りをひとつ取って、エドガーの前で存在を主張するようにふっていた。
「……ええときみは」
「コブラナイです」
「ああそう」
まさかリディアが、メイドに化けてまでここへ忍び込もうとするとは思わなかったから、軽いショックを受け、エドガーは戸口に立ちつくしていた。
「ひたすらあやまるのがいちばんです」
「昔の青騎士伯爵にも、そんなアドバイスをしたことがあるのか?」
「ありますねー。奥さまにばれたらどれほどたいへんなことになるかご存じでいて、浮気をなさるというのは、これまたわしらには理解できませんがね」
伯爵家は代々|恐妻家《きょうさいか》か。
「ひとつ聞きたいんだけど、リディアは呪いのダイヤを気にしてここへ? それとも、僕の浮気の噂を確かめるためか?」
後者なら、脈があるのではと少し思った。
「呪いのダイヤです。でも婚約者の不実が気にならないはずはございません。まあそういうさめた婚約も、世間にはございますが」
そこが問題だ。
リディアがエドガーに向ける好意は、同情やお節介や、お人好しな彼女の性格によるもので、いまだにそこから発展していないのだろうか。
そうでもないような気がすることもあるのに。
けれど結局、エドガーは、リディアを泣かせてしまうし傷つけてしまうようだ。
婚約を成立させるのなんて簡単だと思っていた。ふだん接していて、嫌われてはいない実感はあったから、どうにかなると考えていた。
人形のことだって、ちゃんと説明すればすむ。なのに逃げられてしまったのは、エドガーも動揺していたのだ。
リディアの細い腕の、骨がきしむ感触がまだ残っていて、自己|嫌悪《けんお》におちいっていたから。
*
「リディアさん、それ、どうなさったの?」
左手の薬指に、太く巻きつけられた包帯に気づき、メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人は心配そうに眉《まゆ》をひそめた。
「ええちょっと、不注意で。たいしたことはないんです」
指輪がはずれないので、苦肉の策《さく》で隠したのだ。これでとりあえずは、他人に怪しまれずにすむだろう。
「まあたいへん。骨は折れてないの? 薬指だし、指が太くなってしまうと結婚指輪が入らなくなるわ」
「だ、大丈夫です。それに結婚する予定はありませんから」
リディアはあわててそう言った。
公爵夫人の邸宅《ていたく》に、今日は父とともに招かれていたのだ。
公爵の従弟《いとこ》である父の恩師が、ケンブリッジからロンドンへ来ているということで、ちょっとしたティーパーティとなったのだが、リディアは伯爵邸から直接こちらを訪ねたので、父はすでに到着しているようだった。
「リディアさんにも来ていただけてよかった。学者ばかりじゃ、すぐに話が専門的になるでしょう? わたくしは退屈ですもの」
そのせいか、リディアが最初に案内されたのは、公爵夫人の応接間で、彼女はリディアを待っていた様子で読みかけの本を閉じた。
リディアを連れて、公爵夫人はサロンへ向かう。歩きながら、彼女は思いだしたように軽やかに微笑《ほほえ》んだ。
「まだ結婚する気にはならないのね。ふふ、あのアシェンバート伯爵が手こずってるのを、わたくしだけしか知らないっていうのはもったいないわ」
「あの、公爵夫人……」
「心配なさらなくても、誰にも言わないわ。でも、ひとつだけ質問してもよろしいかしら」
どのへんが気に入らないの? と彼女は内緒話でも楽しむようにささやいた。
「あたしは、まじめにひとりだけを愛せるような人がいいかなって」
「そうねえ、それは伯爵にとっては難題ね」
「あの、公爵夫人から見ても、エドガーがあたしにプロポーズしたなんて、何かの悪ふざけだと思いませんでしたか?」
「悪ふざけでわたくしに頼み事はしないでしょう」
それもそうだけれど。
「でもあたしは、どうすれば彼が、結婚をあきらめてくれるのか知りたいくらいです」
「それならそう難しくはないと思うわ。あなたが誰かに、本気で恋をすればあきらめるのではなくて」
そんなことで? とリディアは思う。
「あたしが誰かを好きになったりしたら、むしろその人に迷惑がかかるような気がします。きっと裏工作やいやがらせで遠ざけようとするわ」
まさか、と彼女は笑う。
あいつの本性を知らないからだわ。
貴族の生まれでも、純粋なおぼっちゃまじゃない。必要なら、どんな卑劣《ひれつ》なことでもやってのける。
けれどそういう危《あや》うさがあるから、全面的にはねつけられないのだとは、リディアは気づいていながら目をそらす。
ときどき、同情を感じるし、それほど人柄に問題があるわけじゃないけれど。
やっぱり問題あるかしら。それはともかく、好きになるわけにはいかない気がするのだ。
サロンでは、男性が三人、テーブルを囲んですでに話がはずんでいた。
リディアは、メースフィールド公爵と、その隣に座っていた父の恩師にあいさつをした。
「カールトン君のお嬢さん? いやあ、大きくなったね」
「ご無沙汰《ぶさた》しています。ブラウニング教授」
「年頃のお嬢《じょう》さんに、大きくなったはないだろう。きれいになったと言うべきだよ」
大柄な公爵が口を出すと、まる顔の教授は鷹揚《おうよう》に笑った。
「たしかに。カールトン君に似なくてよかったね」
「私もそう思いますよ」
などと父は言う。両親の、どちらにもあまり似ていないから取り換え子だと言われてきたリディアは、よく似た親子がうらやましいというのに。
「でも似てらっしゃるわよ、カールトン教授とリディアさん」
「そうですか? 公爵夫人」
「なんていうか、醸《かも》し出す雰囲気《ふんいき》が」
おっとりと、夫人は微笑む。
「それはお嬢さんにとってうれしいのかねえ。うちの娘は私に似たのをいやがったものだよ」
「いえ、うれしいです」
リディアがきっぱり言うと、なぜかみんなどっと笑った。
「ところでみなさん、何のお話をなさってたの?」
「もちろん石についてですよ、公爵夫人」
「堅いお話ね」
「では女性にもご興味がありそうな、宝石の話はいかがです?」
「どんな宝石の?」
「鉱物学者が二人もいるのだから、何だって答えてくれるはずだよ」
どんな宝石が好きかと、公爵夫人に訊《き》かれたリディアは、とっさに思いついたことを口にしていた。
「あの、ダイヤモンドのことを」
王家のダイヤモンドについて知るチャンスではないか?
「やっぱり女性の興味はダイヤモンドに尽《つ》きるのかねえ」
「恋人に贈られたダイヤモンドが、本物かどうか確かめたいなら私が鑑定するよ。父親には頼みにくいでしょうからね」
ブラウニング教授がふざけると、父が不安そうにリディアを見るのであせった。
「いえ、違うんです。王家のダイヤモンドだという、ナイトメア≠ニデイドリーム≠フことを知りたくて」
みんなが顔を見合わせた。
「リディア、どこからそんな話を聞いたんだい?」
「ええと、ちょっと妖精がらみで」
「伝説の、|しずく形《ペア・シェイプ》の大粒ダイヤだね。ブラックダイヤとホワイトダイヤ、ふたつを所有する者は、偉大な王になれるとかなんとか言い伝えがあったような……」
公爵が口を切った。カールトンが頷《うなず》く。
「いったいいつから王家にあるのかはっきりしませんが、そもそもまったく別々に、諸侯《しょこう》の手にあったものが王家にわたったようです。スチュアート家のジェイムズ六世が、イングランド王ジェイムズ一世として即位《そくい》したとき、ふたつのダイヤモンドを同じ形にカットしたのだとか。ふたつの国に即位した記念みたいなつもりだったのでしょうが」
「じゃあ父さま、そのダイヤにまつわる伝説は、そのときに王さまがつくったの?」
「ダイヤモンドは、存在するだけで伝説を引き寄せるんだよ、お嬢さん。宝石の女王、その中でも高価で稀少《きしょう》な大粒ダイヤとなれば、時代の覇者《はしゃ》が手に入れる。持ち主の成功も失敗も、ダイヤモンドの魔力によるかのように語られて、そのまま伝説になる」
「でも、ふたつのダイヤは、今は王家にないんですよね」
ひとつは、エドガーがハーレムの人形につけているし、もうひとつは、ユリシスが持っているのかとレイヴンに確かめていた。
「革命時代のどさくさに失われたとしか」
「ジェイムズ二世がフランスへ亡命《ぼうめい》したさい持ち去ったというのが有力な説だが」
「でも何年か前に、片方だけ見つかったって新聞記事になりましたね。ローマでつかまった窃盗団《せっとうだん》の隠れ家から出てきたとか」
「ホワイトダイヤのデイドリームの方だね。それなのにまた、盗まれてしまった」
「え、そうなんですか?」
「女王|陛下《へいか》の威信《いしん》が傷ついたとか、そもそも本物だったのかとか、いろいろ取りざたされましたっけ」
「そうねえ、たかだかダイヤモンドのせいで、とある公爵家のかたが疑われたわ」
ふたりの学者もそれは初耳だったようで、公爵夫人の方を見た。
「疑われたと言いますと」
「亡命した王が、いずれ英国へ戻ることも考えて、王権のあかしとして持ちだしたかもしれない宝石だという噂がありましたから」
「つまりふたつのダイヤモンドを持つ人物が、亡命王の子孫を主張すると、現在の王家と対立しかねないわけですね」
「しかし、ジェイムズ二世の直系の子孫はもういないはずだが」
「だからあくまで噂《うわさ》ですわ」
「その、公爵家のかたが、反逆の陰謀《いんぼう》に加担《かたん》して盗んだと思われたってことですか?」
公爵家と聞いて、リディアは胸騒ぎがした。
「ダイヤモンドを持ち帰ってくる役目を、ちょうどローマを訪問してらっしゃったシルヴァンフォード公爵が引き受けられたのですよ」
やっぱり、とリディアは息をのんだ。
プリンスの陰謀で家族を殺され、自身も死んだことになって、家も名も失ったエドガーの素性《すじょう》が、シルヴァンフォード公爵家の長子だったと知ったことは、リディアにとって記憶に新しい。
「でも、帰国の途中に盗まれてしまって、責任を問われたわけですの」
「しかし、盗まれた責任と、盗んだという疑惑とは別物では」
「ええもちろん。ただ、あまりにもきれいに消えてしまったので、内部の犯行が疑われたのでしょう。じっさいには、罪を問われたわけでもありませんし、無責任な噂だったわけですけれど。……その後しばらくして、公爵家のマナーハウスが全焼して、公爵もご家族も亡くなって。単なる事故だとしても、貴族の間では反逆だの陰謀だの取りざたされましたし、結局、痛ましい結末になってしまいましたわ」
ひざの上に置いた手を握りしめ、リディアは小さく息をついた。
エドガーは、そのとき消えたホワイトダイヤをさがしているのだ。おそらくそれも、プリンスの仕業《しわざ》だから。
デイドリーム≠欲《ほっ》したなら、ナイトメア≠烽ルしがっているだろうプリンスに、挑戦状をたたきつけているのか。
エドガーの父を罠《わな》にはめた人物をとらえ、ホワイトダイヤを取り戻すために。
だとすると、あの美女の人形は何のために?
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すれちがう想い
その夜、公爵邸《こうしゃくてい》を辞《じ》したリディアは、伯爵《はくしゃく》邸に忘れ物をしたと父に言って、ひとり辻《つじ》馬車に乗った。
しかし向かったのはアシェンバート伯爵邸ではなく、画家のアトリエだった。
最近引っ越したという、ポールの新しい下宿《げしゅく》に到着すると、年取った家政婦が二階の角《かど》部屋だと教えてくれたので勝手にあがる。
ノックをするが、反応がない。家政婦は部屋にいると言っていたから、きっと絵を描くのに集中しているのだろうと思いながらも、リディアはしつこく戸をたたいた。
「……リディアさん? どうしたんですか」
ようやく出てきた彼は、手についた絵の具をズボンでぬぐいつつ、驚いたようにリディアを見た。
「ちょっと話があるんです。中に入れてもらえませんか?」
「えっ? あのー、ぼくはひとり暮らしですし、あなたのようなお嬢《じょう》さんが男とふたりきりになるのは……」
「ふたりきりになると何か起こるんですか?」
「えっ、いや、まさか」
あせったように笑いながら、ポールは頭をかく。
悪いと思うけれど、どうしても訊《たず》ねたいことがあるし、ふたりきりで話すしかない。それにリディアは、どう考えてもポールとふたりになってまずいことが起こるとは思えなかった。
「失礼しますね」
強引に部屋へ上がり込んだ。
「教えてください。エドガーは何をたくらんでるんですか? ご存じなんでしょう?」
ドアを開けたままにしておくべきか悩んでいたポールは、リディアの質問が人に聞かれてはまずいことだと判断したのかそっとドアを閉めた。
「伯爵に直接|訊《き》いた方がいいと思います」
「はぐらかされるわ。それにあたし、エドガーと口をききたくない気分ですから」
「どうしてまた」
「ユリシスが動いてるんでしょう? 彼は妖精の魔力を利用する人よ。あたしは、フェアリードクターとして雇われているのに、必要ないんですか?」
「今はまだ、ユリシスが何か仕掛《しか》けてきているわけではありませんから。あなたに頼る段階になったら、伯爵からちゃんと説明があるんじゃないかと思いますよ。それに伯爵は、なるべくあなたを危険から遠ざけておきたいんじゃないでしょうか」
誰も彼もエドガーの味方ね。
それでも、主人に忠実なレイヴンやアーミンよりは、ポールの方がリディアの心情をくんでくれそうだと思ってここを訪ねたのだ。
そうよ、あたしのためだとか言われても、納得なんてできない。
「あたし、ハーレムへ行ったんです」
ポールは動揺を顔に浮かべた。
「ブラックダイヤを身につけた、蝋《ろう》人形を見つけたわ。……ううん、そんなことはどうでもいいの。とにかく、プリンスはあのブラックダイヤと、もうひとつそろいのホワイトダイヤをほしがっているんですよね」
さらに彼はうろたえた。
「数年前に、ホワイトダイヤだけがローマで見つかって、英国へ戻されることになったのに盗まれて、エドガーのお父さまが疑われたと聞きました。そのときダイヤを盗んだ、プリンスの息がかかった人物を、エドガーは罠《わな》にはめようとしているんでしょう? その真犯人、侯爵《こうしゃく》と呼ばれる人物が、あのハーレムの常連客なんですね」
そこまで気づいているなら、とあきらめたようにポールは息をついた。
「ええそうです。バークストン侯爵は、ホワイトダイヤが盗まれた当時、シルヴァンフォード公爵の部下として、ローマ訪問の使節団《しせつだん》に加わっていました。伯爵は、バークストン侯爵に対《つい》になるブラックダイヤをちらつかせて、彼がプリンスのために保管しているはずのホワイトダイヤを持ち出させようと。侯爵に、プリンスを出し抜いてふたつのダイヤモンドを入手できるチャンスだと思わせたんです」
「でもユリシスが妨害《ぼうがい》したのね」
「じつはユリシスは、ジミーを人質にしているようなんです」
「えっ、あの少年を?」
「だから伯爵も思いきったことができないし、敵の動きを見守りながら、慎重《しんちょう》に次の手を考えているところなんです」
だからリディアに、むやみに首を突っ込むなと言いたいのだろうか。
「もうひとつ、教えてください。ジーンって、エドガーにとってどういう女性なの?」
「ジーン? ああ、昔の仲間で、ブラックダイヤを守るために命を張ったという」
「死んだの?……恋人だった?」
たぶんリディアは、深刻な表情で見あげていたのだろう。気づいたポールは、あせったように両手を振った。
「いやまさか、そういうことはないでしょう。黒人の少女で、まだ幼かったようですから」
え、黒人? ちょっとまって、どういうことなの?
だったら、あの蝋人形ではないことになる。
「そのジーンじゃ、ないと思うわ」
「……ああそっか、もうひとりあのかたもジーンでしたね」
「ふたりも、大切なジーンがいるの?」
「ええと、彼女はジーンメアリーです。黒人の少女は、とくべつな女性の名で呼んでほしいと伯爵にねだったそうで、それで同じ名前に」
「とくべつな女性? やっぱりジーンメアリーは、エドガーの恋人?」
「でもリディアさん、あなたが気にすることは……」
「どうして」
リディアはもうすっかり、頭が混乱していた。
エドガーのことを知らなさすぎる、自分がいやになった。大切なジーンがふたりもいる?
そしてつい、ポールに感情をぶつけていた。
「どうしてエドガーは、あたしに何も話してくれないの?」
「だからそれは、あなたのことを心配して」
「違うわ。都合のいいときだけ利用すればいいと思ってるんでしょ。面倒くさいときは口出しするなってことでしょう?」
「そんなことは」
「だって、あたしがいくら忠告しても聞かないわ。呪《のろ》いのダイヤを、あのまま持ち続けるのは危険なんです。いくら復讐《ふくしゅう》のためでも……。あたしの意見を聞く気がないなら、フェアリードクターなんて必要ないじゃない」
「ダイヤのことは、しかたがないんです。もうすこしの間だけです」
「その間に何かあったら?」
あいつに何かあっても自業自得《じごうじとく》。けれどリディアは、自分が怯《おび》えていることに気がついた。
いつでもエドガーは、自分が死ぬことなんて怖れていない。
リディアに恋してもいないし、だから心配してやっても平気で危ないことができるのだ。
そしてリディアは腹が立つから、エドガーの力になりたいと思いながらも、結局自分勝手なことをしている。
すぐ感情的になってしまうし、コブラナイの忠告を忘れて、エドガーをひとりにしてきてしまった。
ムーンストーンの指輪なら、呪いから彼を守れるのに。
どうしよう、と急に不安になった。
こんなことしてる間に、エドガーに何かあったら?
立ちあがろうとしたリディアは、散らかった絵の具箱につまずいて、転びそうになった。
ポールがさしだした腕につかまる。
「大丈夫ですか?」
ふわりとテレビン油の匂《にお》いがし、エドガーとは違うのねと思った。
香水を振りまいた貴婦人に囲まれている彼とは違う。父だったら、石を砕いた粉塵《ふんじん》のほこりっぽさと薬品の匂い。
こういうところが男の人の本質なら、エドガーは最低最悪だ。
でも、洗い立てのシャツの匂いしかしない彼も知っている、なんて気づいてしまうくらいしょっちゅう接近されているってどういうこと?
「あたし、かわいくないでしょう?」
そういうときリディアは、ほぼ彼をにらみつけているはずだから。
「は? そ……そんなことは」
「無理しないでください。ジミーにもさんざんバカにされたわ」
「あの、ジミーに言ったことは、ぼくは本当に社交辞令のつもりはなくて」
「かわいくないはずです。カタいしキッイもの。美人じゃなくても、黙って微笑《ほほえ》んでいられたらかわいげあるってわかってるわ。でもあたしは、そんなふうにできないから、できることをしようと思ってきたの。なのにあたしが心配したり、よかれと思って行動することは、エドガーにとってよけいなことなの? フェアリードクターがいらないなら、どうして結婚にこだわるの? 本気じゃないくせに婚約者だとか言って、あたしを振り回しておもしろがってるだけなんてひどいじゃない。こんなんじゃ、安心して好きになんてなれない……!」
困り切ったポールによりかかったまま、リディアはまくしたてた。
「ポール、鍵《かぎ》をかけないと物騒《ぶっそう》だよ」
戸口で声がした。
「は、伯爵《はくしゃく》……。い、いえあの、これはその……」
ポールはあわててリディアを離そうとし、リディアも急いでしりぞくと、また絵の具箱に足をぶつけた。
今の、聞かれてた?
痛いのと恥ずかしいのとで、真っ赤になりながらリディアは顔を背《そむ》ける。
「違うんです、伯爵。ぼくはそんなつもりはなくて、リディアさんがよろけただけで……」
誤解されたくないにしたって、そんなに一生懸命否定しなくてもいいじゃない。とリディアは情けなくなった。
「そうだろうね」
エドガーは、リディアに近づいてくると顔を覗《のぞ》き込もうとするから、彼女はさらに暗がりの方へ後ずさる。
「リディアは、かわいいよ。とびきりに」
「ど、どうでもいいのよそんなことは」
「安心して好きになってくれていいから」
「それは言葉のあやなの!」
部屋のすみまで追いつめられ、しかたがなくうつむいている。
「ねえリディア、ちゃんと話し合おう」
「もう、いちいち構わないで。役に立たないあたしをそばに置いておく意味ないじゃない。大事な恋人にプロポーズすれば?」
「僕の恋人はきみだけだ」
信じられるわけがない。
「ジーンメアリーでしょ!」
エドガーはなぜか、あきれたようなため息をついた。それが彼女を、ますます苛立《いらだ》たせた。
「あのねリディア、たしかにあの店は、ハーレムって噂《うわさ》のある場所だから、きみに話しにくかったのはある。だってきみは、僕のことを女たらしだと思ってるし、そんなふうに変な誤解をされたらいやだと」
「べつにどうでもいいけどっ」
「どうでもよくない。隠し事をしてたのは、たしかに僕が悪かった。だからぜんぶ話す……」
「いいわよ、無理に話してくれなくても! そんなことより、指輪をはずしてちょうだい」
リディアは包帯をほどいて、握りこぶしを彼の前に突き出した。
「この指輪が身近にあれば、ブラックダイヤの呪いから身を守れるってコブラナイが言ってたわ。だからケルピーにはないしょであなたが持ってて」
聞く耳を持たないリディアの態度に、エドガーは腹を立てたのだろうか?
腕を組んでリディアを見おろし、「いやだ」と言った。
「きみごとそばにいてくれればいい」
「それこそいやよ!」
「むりやりでも持って帰るよ」
挑戦的に言ったかと思うと、リディアが突き出していた握りこぶしにキスしてみせた。
どうしてこいつって、こうなの?
リディアの神経を逆《さか》なでするようなことばかり、平気でする。
彼女のほうも意固地《いこじ》になっているからいけないのだが、自分のことは棚に上げ、どうしてこんなに苛立つのかわからないまま、リディアは手を振り払った。
「……もうぜったい、二度とあなたのことなんて心配してあげない!」
持ち帰られそうになる前に、ポールの部屋から逃げ出した。
*
コブラナイは、ハーレムへ連れていってから姿が見えない。たぶん、ブラックダイヤを手入れするために、仲間を呼びに帰っているのだろう。
ニコもいない。どこで何をしているのかリディアは知らないが、どこかで楽しみを見つけるとしばらく戻ってこないのはよくあることなので気にしていない。
リディアは、小雨が降りはじめた中庭で、魔よけに使うサンザシの実を集めていた。
「リディアさん、濡《ぬ》れますよ」
レイヴンが、ショールを彼女に差し出した。
「それ、エドガーが?」
黙ったのは、図星だからか。
朝からリディアがあからさまにエドガーを避けているために、レイヴンを仲裁《ちゅうさい》に使おうとしているらしい。
そんなことで機嫌《きげん》は直らないのよ、とリディアは思う。
「受け取ってください」
「いらないって言ってやって。それよりレイヴン、あなた、エドガーに怒られなかった? あたしに、マダムイヴ・パレスのことをしゃべったから」
エドガーに隠し事などできない彼のことだから、訊《たず》ねられれば正直に告白しただろう。
「これをあなたが受け取ってくれたら、許してくださるそうです」
な、なんて卑怯《ひきょう》者なの。
しかし、何があっても受け取らせると心に決めている様子の、レイヴンの思いつめた視線に負けた。
「……ごめんなさい、あたしのせいでいやな思いをさせちゃったわ」
「いやな思いはしていません。ときどきエドガーさまが理不尽《りふじん》なのは、教えられたことしか実行できない私に、考えるよう注意を促《うなが》してくださっているのですから」
いいように解釈できるものね。
単にあいつの、ねじ曲がった性格が理不尽なだけじゃない。
しかしリディアは、忠実にエドガーを信頼しているレイヴンの思いに、水を差すつもりはなかった。
ひょっとするとあの、理不尽でいいかげんで軽薄《けいはく》なところが、レイヴンの精神を解放しているようにも思えるから。
だからあきらめてショールを羽織《はお》る。
「今日は少し寒いわね」
「急に寒くなる時期ですから。暖炉《だんろ》に火を入れておきますので」
用が済めばさっさと立ち去る。
またリディアに何かを訊ねられては困ると思っているのかもしれない。
そろそろ戻ろうかと、リディアは中庭を横切って、木戸をくぐる。
そのとき、開け放したテラスからエドガーとアーミンの話し声が聞こえてきた。
「侯爵《こうしゃく》家の小間使《こまづか》いが?」
リディアは、なんとなく身を隠した。
「スレイド氏のクラブの通用口で倒れていたそうなのです。バークストン侯爵家を調べていた朱い月《スカーレットムーン》≠フひとりが、小間使いの少年に見おぼえがあったらしくて身元がわかったのですが、少年が握っていた手紙は、ジミーが助けを求めるものでした」
「ジミーの監禁《かんきん》場所はわかるのか?」
「ホワイトチャペル近辺のようです」
「それで、小間使いの少年は?」
「ひどい暴行を受けたようで、今のところ話が聞ける状況では」
「ジミーも同じ目にあってるかもしれないんだな」
自分が傷を受けたかのように、心底苦しそうに見えた。なのに彼の次の言葉は、意外なほど冷静だった。
「その紙切れが、ユリシスの罠《わな》の可能性もある。小間使いが殺されそうになってまでジミーを助けようとする理由があるかい? いわばジミーは、侯爵|邸《てい》に侵入《しんにゅう》してつかまったコソ泥《どろ》なわけだろう?」
すぐにでも助け出したいはずだと思うけれど、エドガーは感情だけでは動かない。だからときどき冷たいうそつきに見える。その本心は、リディアにはよくわからない。
「スレイド氏は、それでも救出に行くと朱い月≠フ部下を動かしました」
「スレイドか。彼は、僕のやり方がいまいち気に入ってない一派の長《ちょう》だからね」
エドガーは困惑《こんわく》しながら考え込んだ。
「そういえば、ジミーは下町の孤児《こじ》で、泥棒ばかりしていたそうだね。義賊団《ぎぞくだん》でもあった朱い月≠ノあこがれて、盗みの腕前を売り込んできたからスレイドが面倒を見ていたと」
「そう聞いています」
エドガーはまた考え込んだ。
「何か気になることでもございますか?」
「いや、なんとなくすっきりしないだけだ。アーミン、罠かもしれないし危険だけれど、朱い月≠ニ行動をともにしてくれるか?」
頷《うなず》き、立ち去りかけたアーミンは、何か思いたったように立ち止まった。
「リディアさんにご相談しますか?」
なぜ、とエドガーは言った。
「ユリシスの罠だった場合、妖精を使っているかもしれません。わたしたちにとっては想定外のことが起こる可能性があります」
「アーミン、おまえは? 人には見えない妖精も、今は見えるんだろう?」
彼女は困ったように、少し首を傾《かし》げた。
「見えますが、わたしには妖精に関する知識がありません」
「……そうだね」
結局エドガーは、リディアに相談するなど問題外だと思っているように見えた。
いつのまにかリディアは、伯爵邸を出て通りを歩いていた。
薄暗い雲間《くもま》から降り続く小雨は、雨というほど気にならないのに、知らぬ間にじっとりと髪や衣服を濡らしている。
ショールを落としてきたまま、公園までやって来ると、リディアはベンチに座った。
「なにやってんのかしら、あたし」
昨日、エドガーがみんな話すと言ったのに、聞かなかったのはリディアだ。
なのにまた、彼に疎外《そがい》されたかのような気分になっていた。
きっとエドガーは、リディアに相談しようとはしない。妖精族であるアーミンが、リディアの能力をおぎなってくれればいいと考えたほどだから。
視線を落とせば目につく指輪がじゃまに思え、はずれないかと無駄《むだ》な努力をしてみる。
力を入れて引っぱっても、どうにもならない。
このところ、やることなすこと空回《からまわ》りしているような気がするが、だからエドガーに何を求めているのか、自分がどうしたいのかもわからなくなってきている。
「何やってんだ?」
真上から見おろす背の高い影。はっと顔をあげつつリディアは身構えた。
「ケルピー……」
「えらくふくれっ面《つら》してるな」
と言って彼は、リディアの頬《ほお》を両手でつまむと、むりやり口の端を持ちあげるようにして微笑《ほほえ》みの形をつくらせた。
「な……にすんのよ!」
「笑わせてやろうと思ってさ」
「ほっといてちょうだい」
「リディア、いいもの見せてやるよ」
ケルピーはリディアの両手を引いて立たせた。
なんだか知らないけど、楽しそうだ。
「おまえ、こういうのほしいんだろ?」
得意げに、ケルピーがリディアの目の前にぶら下げたのは、宝石のネックレスだった。
「ダイヤモンドだ。本物だぞ」
え、とリディアは、ケルピーの手をつかんでそれに見入った。
大粒の|しずく形《ペア・シェイプ》、濁《にご》りのない透明《とうめい》なダイヤモンドは、きらきらと虹《にじ》の光を振りまいている。
「こ、これ……」
あのブラックダイヤ、ナイトメア≠ニ大きさもカットも同じ、ネックレスの部分のデザインもそっくり。
まさかこれ、もうひとつのデイドリーム≠ナは?
「どうしたの? どこで手に入れたのよ!」
リディアの勢いに、ケルピーは怪訝《けげん》そうな顔をした。
「拾った」
「ふつう落ちてるものじゃないでしょ!」
「ゴブリンどもがいてさ、で、落としていった」
邪悪《じゃあく》な性質を持つ小妖精だ。人を困らせるのが大好きで、危険な目にあわせたりもするが、このダイヤモンドを落としていったとすると、ただのゴブリンではない。
ユリシスが使っているのではないだろうか。
「ねえ、ゴブリンには主人がいなかった?」
「いた。若いわりには、俺さまを見てもひるまず堂々としてやがった」
[#挿絵(img/diamond_139.jpg)入る]
間違いなくユリシスだ。
「おいリディア、持ち主に返せなんて野暮《やぼ》なこと言うなよ。ゴブリンの主人だって、ちゃんとした持ち主だとは思えねえからな。どうせどっかから盗んできたんだろ」
その通りだけれど。
リディアは考えながら、ケルピーとダイヤモンドを交互に見た。
ケルピーは、リディアがダイヤモンドをほしがっていると思っている。たまたま拾ったから、これでリディアをよろこばせたいと考えたようだ。
リディアがダイヤをほしいと言ったのは、エドガーをためすためだけで、本当にほしかったわけではない。それに自分には分不相応《ぶんふそうおう》なダイヤモンドだ。
でも、これさえあれば、エドガーは父親の潔白《けっぱく》を世に知らしめることができる。
ブラックダイヤとともに王室に返還すれば、ユリシスもプリンスも、もう手に入れることはできない。
これを、くれる気があるのだろうか?
様子をうかがいつつ見あげると、ケルピーは、ネックレスをリディアの首にかけた。
そうして、眺《なが》めつつ首を傾げた。
「おまえ、シロツメクサでもぶら下げといた方が似合うんじゃねえの?」
そんなにダイヤは似合わないってこと?
「まあいいか。気に入ったならやるよ」
「く、くれるの?」
「そのかわり、奴と婚約解消してスコットランドへ帰る、ってのはどうだ?」
ケルピーは上機嫌《じょうきげん》ににやりと笑った。
ま、ただでくれるわけはない。
どうしよう、とリディアは悩んだ。
エドガーにとって、どうしても手に入れたいダイヤモンドだ。婚約解消に応じる気になるかもしれない。
ケルピーは、このくらいの条件ならリディアにも受け入れられるだろうと思っている。
たしかに、今すぐ人間界を去って結婚しろと言われれば、首を縦には振れないけれど、スコットランドへ帰るだけなら、リディアにとって以前の生活に戻るだけだ。
ケルピーも以前のように、田舎《いなか》でのんびりと、リディアをかまっていられればいいというのだろう。
「おまえさ、そんなに奴と結婚したいわけでもないだろ。フェアリードクターとして働きたいし人間界にいたいってのもわかってる。だからって、俺と暮らす約束を無効にするためだけに奴と婚約したなら、ぜんぶ白紙に戻そうぜ。不自然だよ、こんな状態」
たぶん、ケルピーの言うとおりだ。
何もかも元どおりにして、それからリディアは、将来のことを考えるべきなのだろう。
エドガーの本音がわからなくて、やきもきしたり振り回されたりして、自分の気持ちも乱れるばかりで、わけがわからなくなっているこんな状態も不自然だ。
「話してみるわ、エドガーに」
「よし、負けるなよ」
何が勝ち負けなのかよくわからないが、ケルピーは励ますようにリディアの頭をくしゃくしゃと撫《な》でた。
乱暴だし、子供扱いというかペット扱いされているような気もするが、裏表がないから気にならない。
「雨、ひどくなってきたな。人間は濡《ぬ》れると体によくないんだろ。帰った方がいいぞ」
「ええ」
空を見あげ、彼はうっとうしそうに目を細めた。
「ロンドンの雨はきたねえし」
手のひらでぐいぐいとリディアの顔をふき、にやりと笑ってケルピーは消えた。
リディアの首にかかっていたダイヤモンドは、彼とともに消えていた。
「リディア、ずぶ濡れじゃないか。どこへ行ってたんだ?」
帰ってきたリディアは、その足でエドガーのいる部屋へ駆《か》け込んだのだった。
「ああでも、きみのほうから顔を見せてくれてうれしいよ。また当分口をきいてくれないんじゃないかと心配してたんだ」
立ちあがってこちらに歩み寄る。レイヴンと何やら話し込んでいたようだが、深刻な気配《けはい》をごまかすような、エドガーの微笑《ほほえ》みがわざとらしく見えた。
「エドガー、ちょっと話があるの」
なんとなく怒ったような口調《くちょう》になってしまうと、なれなれしくリディアに触れようとした手を、困惑《こんわく》気味に彼は引っ込めた。
「悪い話? ならまた今度にしよう」
と言いつつレイヴンのほうに振り向く。
「リディアにふくものを。それより着替えたほうがいいかな」
「あたしなら大丈夫。それに悪い話じゃないわ」
「でもきみは、部屋へ入ってきたときから眉間《みけん》にしわを寄せて僕をにらみつけてる」
リディアはあわてて眉間を撫で、どうにか笑顔をつくった。
「ぜったい、あなたにとっていい話だから」
「結婚の日取りの相談?」
「…………」
「そんなに引きつらなくていいじゃないか」
「いいから聞いてちょうだい!」
とにかく、一気に話してしまいたかった。婚約解消を認めさせて、指輪をはずしてもらえばリディアにとっては一安心だ。
ダイヤモンドとひきかえに、あっさり彼がリディアを手放すなら、本当に自分は役に立たなかったしお払い箱なんだと気づく前に話してしまおうと、無意識に彼女は急いでいた。
「応接間の暖炉《だんろ》には火が入っていますが」
乾いたリネンをリディアに手渡し、レイヴンは言った。
「じゃあそちらで話を聞くよ」
観念《かんねん》したようにエドガーは言いながらも、さりげなくリディアの背中に手をまわし、エスコートするように廊下《ろうか》へ連れ出した。
淑女《しゅくじょ》みたいに扱われることも、田舎に帰ったら二度とないだろうけれど。
いい経験にはなったかも。そんなことを思いながら、リディアは小さくくしゃみをする。
「やっぱり、寒いんじゃないか? こんなに手を冷たくして」
油断すれば、手を握られる。
あたたかくて心地いいと思ったけれど、リディアはどうにか振りほどいた。
応接間の、暖炉にほど近いソファにリディアを座らせると、彼も隣に腰をおろす。
「あの、そんなに近づかなくても話はできるから」
「そばで聞く」
言い争うだけ無駄《むだ》だろうと、髪をふくふりをしつつリネンのタオルを頭からかぶったリディアは、そうすることでエドガーの視線をさえぎることができてほっとした。
「あなたが手に入れたがってる、デイドリーム≠見つけたわ。ね、いい話でしょ」
笑顔をつくり、言う。
リディアにとって、スコットランドへ帰ることはたいした問題ではないし、これは深刻な取り引きではないのだ。
明るく話さなきゃと思うこと自体、リディアにとって深刻な状態だったのかもしれないが、ともかく彼女はこれで婚約が解消できると、よろこぶべきことだと考えようとしていた。
驚いているのか信じられないのか、彼は「へえ」といいかげんな返事をした。
「バークストン侯爵《こうしゃく》、だったかしら? 彼に持ち出させようとしたんでしょ? でもユリシスにじゃまされたって、昨日ポールさんに聞いたわ。ユリシスが手に入れたかもしれないってあなた言ってたけど、彼はゴブリンを使ってさがさせてたみたい」
「ゴブリン? 妖精の?」
「そうよ。彼はゴブリンを従えてるわ。邪悪《じゃあく》な妖精だし、数が多いと思うから気をつけて」
頷《うなず》きつつ、エドガーは先を促《うなが》す。
「で、ダイヤモンドは?」
「ゴブリンより先に拾ったの」
「きみが?」
「ケルピーよ」
「なるほど、やっかいな奴が拾ったね」
「ううん、そんなにやっかいじゃないわ。簡単なことよ。エドガー、婚約を解消してくれればいいの」
できるだけあっけらかんと、リディアは言ったつもりだった。
エドガーは黙った。思いがけず長い間黙っていたので、リディアは面食《めんく》らった。
「……だってもともと、この婚約は、あたしがケルピーと妖精界へ行かなくてすむようにってことだったでしょ。でももう、ケルピーはその約束をなかったことにするって言うの。あたしとスコットランドへ帰れれば、とりあえずはいいって」
すぐそばで身じろぎもしないエドガーに、無言で威圧《いあつ》されているようだった。居心地が悪くて、リディアは逃げ出したくなってきた。
「ダイヤモンドとひきかえに?」
ようやく彼はそう言った。
「そうよ」
「それで、悪くないときみは思ったわけだ」
「あなたにだって悪くはないわ。フェアリードクターが必要なときは、手紙でやりとりすればいいのよ。とにかくあのホワイトダイヤがあれば、あなたはお父さまの疑いを晴らせる。プリンスのたくらみもぶちこわせるわけでしょう?」
ふわりとタオルをめくり取られたリディアは、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳に覗《のぞ》き込まれ、うろたえた。
エドガーは、これまでになく不機嫌《ふきげん》そうだった。
「ひどいことを言ってるって、自覚ある?」
「え……」
「僕が、よろこんで応じると思った? だとしたら、こんな侮辱《ぶじょく》はないよ」
リディアのほうに身を乗り出す。
「何度も言ってる。きみが好きだ。結婚してくれと。きみはなかなかその気になってくれないけれど、つまらないすれ違いはあったって、少しずつ心を近づけていけてるような気がしていた。なのに、僕がダイヤモンドを選ぶと思っていたんだ」
「だ、だって……、あたしなんかよりダイヤが……」
「そんなに僕の言うことは信用できない?」
背もたれと肘掛けにはさまれるように体をずらしても、それ以上動けずに、詰め寄られてリディアは困り果てた。
「取り引きで望みがかなうというなら、教えてくれ。何とひきかえなら、きみは僕のものになるんだ?」
湿った髪に触れる、彼の指を感じた。冷えた地肌に伝わるぬくもりを意識したとき、同じあたたかさを唇《くちびる》にも感じた。
ほんの一瞬のできごとだった。なのにはっきりと唇に残る感触に、呆然《ぼうぜん》としながらリディアは目の前のエドガーを見た。
無反応なリディアを、しばし不思議そうに眺《なが》めていたエドガーは、少し首を傾け、再び唇を近づけようとした。
ようやくリディアは我に返り、あわてて彼を押しのけた。
「な、なにするのよ!」
「まだなにもしてない」
「キ、キスしたじゃない!」
「あんなのキスのうちに入らない。もっとこんなふうに……」
今度はひっかいてやった。
「あたしを、誰かの代わりにしないで!」
「誰か? 何のこと?」
[#挿絵(img/diamond_149.jpg)入る]
「自分の胸に聞けば?」
急いでリディアは立ち上がり、戸口へ駆《か》け寄る。
「どうしても、僕じゃだめなのか? きみを奪われるくらいなら、ダイヤモンドなんかくそくらえだ。ケルピーにくれてやる!」
彼の声を背後《はいご》に聞きながら、けれどただ、どうしていいかわからなくて逃げ出していた。
リディアに逃げられたその場から、一歩も動けないまま、エドガーはソファに座り込んでいた。
しばらくすると、レイヴンがやって来て、リディアは早退したと告げた。
「いい話ではなかったんですか」
「最悪だ」
憮然《ぶぜん》として、エドガーは頬杖《ほおづえ》をついた。
「ホワイトダイヤのデイドリーム≠、ケルピーが拾ったらしい。ひきかえに、リディアとの婚約を解消しろと言ってきた」
「解消なさったので」
「レイヴン、僕が彼女よりダイヤモンドを選ぶなんて、おまえまでそんなふうに思うのか?」
「……すみません」
思うのか。
だったらリディアのあの態度も無理はないが、これまでかなり、彼女に好意を示してきたつもりのエドガーにとっては落ちこむ事実だった。
「ああ、いったい僕の何がいけないんだろう」
「でもエドガーさま、ダイヤモンドよりリディアさんを選ぶつもりがおありですか?」
「おまえもきびしいね」
そもそもエドガーには、どちらかを選ぶなどという発想はなかった。
リディアは必要だ。けれどダイヤモンドも重要だ。ユリシスには渡せない。
そういうときエドガーは、どうするべきか知っているつもりだった。
「どちらも手に入れる方法は、なさそうでもあるんだよ」
「ではどうして、リディアさんに逃げられたのですか?」
まったくだ。
うまくやれば、リディアをつなぎとめつつケルピーからホワイトダイヤを手に入れることもできるはずだと考えながら、彼女があまりにもあっけらかんとしていて、エドガーがダイヤモンドを選ぶと疑っていなかったことにむかついた。
そして感情的に、憤《いきどお》りをぶつけてしまったけれど、どちらも手に入れたかったのならバカなことをしたとしか言いようがない。
ほしいもの、必要なものはすべて手に入れるつもりでいるから、リディアを手放すつもりはない。考えるまでもなくそう心に決めているのに、ダイヤをケルピーにくれてやるとまで言い放った自分が意外で、驚きあきれていた。
うそは得意だ。でも、利益のないうそをつく意味はない。あんな捨てぜりふに意味があるはずもないのに、口をついて出たのは本音なのだろうか。
混乱しながら、エドガーは立ちあがった。
「レイヴン、まだ逃げられたわけじゃないよ」
「でも、引っかかれていますよ」
レイヴンは、ハンカチをさしだした。
まったく、これも予想外のできごとだった。
むやみにせまらないようにしていたから、リディアはこのところ、エドガーが接近してもあきらめまじりで、以前ほど警戒《けいかい》しなくなっていた。
しかしどうせキスするなら、もっと最適な状況がこれまでにもあったはずだ。そこをこらえてきたのに、よりにもよって。
「がまんできなかったんだよ」
むしゃくしゃしながら、頬ににじむ血を手のひらでこする。
「ああ、やっぱりブラックダイヤの呪《のろ》いかな」
そのとき、急にレイヴンは、緊張した様子で窓の方に首を向けた。
と思うと、さっとエドガーのかたわらに進み出る。
「相変わらず、従者殿は敏感だな」
エドガーが振り返ったときには、ずっとそこにいたかのように、黒い巻き毛の青年が窓枠《まどわく》に腰かけていた。
「よう、青騎士|伯爵《はくしゃく》」
「何の用かな、ケルピー」
水棲馬は、薄く笑みを浮かべながらエドガーをにらむように見ていた。
こいつが、エドガーが手に入れたくてしかたがないホワイトダイヤを持っている。そのうえリディアに取り引きを持ちかけた。
エドガーが今、落ちこんだ気分にさせられている元凶《げんきょう》だ。
「あんたな、リディアに何しやがった」
「きみには関係ない」
「あるだろう。俺のダイヤが原因らしいからな。あーあ、リディアにやるつもりで拾ったってのに、あんたがさがしてたダイヤだとは。気になって様子を見に来たら、リディアは顔を真っ赤にして出ていったし、あんたはリディアもダイヤもほしいなんてふざけたこと言ってるし」
ケルピーは、黒真珠《くろしんじゅ》の瞳を意味深《いみしん》に細めた。
魔性《ましょう》の、完璧《かんぺき》な美貌《びぼう》。これだからエドガーは、ケルピーがきらいだ。
エドガーにとって、自分の武器は外見だけだ。中身が卑怯《ひきょう》で狭量《きょうりょう》で嫉妬《しっと》深いし自己中心的なのは承知している。女性を口説《くど》くのも人を味方にするのも、口先と外見でだましてきたようなものだ。
だから、自分より顔のいい男はきらいだ。
それでも人間なら大きな欠点があるはずだし、鼻持ちならない奴は恥《はじ》をかかせてやって自己満足もできるが、妖精ではどうにもならない。
リディアにとって、エドガーとの婚約は、人間界にいたいからというだけの理由だったなら、彼女の気持ちとしては、エドガーよりもケルピーの方に好意を感じていたかもしれず、それも彼にとってはむかつくことだった。
「リディアは僕の婚約者だ。ダイヤモンドとひきかえにできるはずがないだろう」
「あいつは解消したがってる。だからあっさり、あんたに条件を話したはずだ」
そう。だからエドガーは、ますます腹を立てている。
「だから?」
「俺から取り引きだ。あいつを解放しろ。できないなら、もうひとりの、こいつをほしがってる奴に渡す。淡い金髪の、まだガキみたいだが妖精どもを使う奴だよ」
ユリシスか。
エドガーは、まっすぐにケルピーの視線を受けとめながら考えた。
ダイヤモンドも、リディアもほしい。
婚約を解消すると言えば、ケルピーが持っているホワイトダイヤが手に入る。リディアのことは、この婚約を白紙にしたとしても、まだ口説くチャンスはあるだろう。
しかし、本当にそうか? と疑問にも思う。
リディアに婚約解消を持ち出されて頭にきて、彼女を泣かせておいて、なのにケルピーと取り引きしたと知ったら。
いくらリディアがお人好しでも、二度とエドガーのことを信用してくれないのではないか。
どうせもともと信用されていない。彼女の気持ちがどうだろうと、結婚を承諾《しょうだく》させる方法なんていくらでもある。
「どうするんだ?」
こちらを惑《まど》わせて楽しんでいるように、ケルピーはにやりと笑った。
決めかねながら、けれど感情的に、エドガーは吐《は》き出すようにつぶやいていた。
「失せろ」
「ふーん、それがあんたの返事か?」
「取り引きなんかしない。リディアは僕の婚約者だ!」
舌打ちして、ケルピーは消えた。
同時にエドガーは、強い脱力感をおぼえた。ケルピーのいた窓辺に両手をつく。
「レイヴン、何をやっているんだろう僕は」
冷静に判断できなくなっている。みすみす目の前のダイヤモンドをのがしてしまった。
「問題はありません、エドガーさま。誰の手に渡ろうと、ホワイトダイヤは私が手に入れます。でもリディアさんは、私ではどうにもできませんから」
そうかもしれない。けれどエドガーは、ケルピーとの取り引きを蹴《け》ったことがよかったのかどうかよりも、自分自身でも思い通りにならない気持ちの乱れに戸惑っていた。
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うるわしきハーレムの姫
ベルガモットの香りを湯気《ゆげ》とともに吸い込んで、ニコはくつろぎつつヒゲを撫《な》でた。
卵の殻《から》みたいに薄く繊細《せんさい》なティーカップを、そっとテーブルに戻す。アーモンドケーキに手をのばす。
これはぱさぱさしてて、あんまり好みじゃないなと思いながらも、ぺろりと平らげ、人形だらけの室内を見まわした。
色ガラスの瞳を見開いた人形に囲まれて、見知らぬ男が恍惚《こうこつ》と煙をくゆらしている。
この人形屋敷にやって来る人間は、どいつもこいつもまともじゃない。
しかしまあ、他人に害があるわけではないし、ニコが堂々とお茶を飲んでいても気にした様子もないので、紅茶を目当てに彼は通っているのだった。
「病《や》んでるよな」
何をするでもなく、人形たちを眺めて過ごす男をちらりと横目に、ニコはつぶやく。
「私のことか?」
めずらしく、彼が返事をした。
「私はまともだよ。隣の男はもっと病んでいるぞ。肖像画《しょうぞうが》の女に話しかけているからな」
「ふうん、あんたは話しかけないんだ」
「人形に話しかけたって、返事をするわけないだろう」
そりゃそうだ。
「彼女たちは、見つめたって気づかない、私のことなど見えていない。だから私は、彼女たちがこっそり身繕《みづくろい》いしたり、ガラスが触れあうような声でささやき合っているのを眺められる」
こいつの方がやばいよ。
「なのにそいつは、肖像画の女が自分に惚《ほ》れてると思い込んでるんだ。ふたつのダイヤモンドがそろえば、彼女が戻ってくるとか、すべてが手にはいるとか、夢みたいなこと言っていたし」
「ダイヤモンド?」
「栄光のダイヤモンドだとさ。白と黒があるんだそうだ」
「ふーん」
エドガーがこの人形屋敷に置いてるってやつじゃないだろうか。
あの伯爵《はくしゃく》はまた、きな臭いことをはじめようとしているらしいし、リディアはダイヤモンドを気にしていたし、やっかいなことにならなきゃいいがとニコは思う。
だからここに人《い》り浸《びた》っているのも、ニコにとって紅茶が目当てなだけではない。
いちおう、エドガーとダイヤモンドを監視するつもりでうろついているのだが、今のところ彼は、あの人形とダイヤモンドを置いている部屋を訪ねてきた様子はなかった。
しかし、別の部屋の男がダイヤモンドの存在を知っていて、手に入れたがっている?
「隣の奴って、毎日来るのか?」
「このところ見てないな。ああそれにしてもうるさいな。どこで工事なんかしてるんだ?」
ニコはぴくりと耳を動かした。こいつにも、ゴブリンの穴掘り音が聞こえるのか。
変な薬をやっているせいかもなあと思いながら、ニコもずっと、うるさい穴掘りの音は気になっていたのだ。
それも、今日はかなり近づいてきている。
と思っていると、いきなり床に穴があいた。
ゴブリンが穴から顔を出す。きょろきょろと部屋の中を見まわしながら、ここじゃないとつぶやく。
「おい、おまえら何やってんだ?」
ニコが声をかけると、振り返ったゴブリンは醜《みにく》い顔をゆがめ、ふん、と鼻で笑った。
(なんだ、猫か。おまえにゃ関係ねえよ)
バカにしやがったな、とニコはちょっと頭にきた。
彼は猫ではないし、ゴブリンみたいに間抜けな妖精族ではない。つもりだ。
穴の中にゴブリンが消えようとするのを見計《みはか》らって、ニコはさっと姿を見えなくすると、穴の中へ飛び込んだ。
*
雨に濡《ぬ》れたせいか、頭痛と寒気がした。
その夜、早めに寝床へ入ったリディアは、うとうとしながら、スコットランドの自宅にいる夢を見ていた。
町はずれにある古い家は、広い庭に囲まれていた。妖精たちの好きな草木でいっぱいだった庭は、妖精のたまり場や通り道になっていて、いつもにぎやかだった。
二階の窓からは、ヒースの野原の向こうにまるく盛り上がった円形土砦《ラース》が見えていた。
妖精たちはたいてい、そこからやってきて、お気に入りの場所でひとしきり過ごしたあと、またそこへ帰っていく。
リディアは窓辺で丘を眺めながら、帰ってきたんだわとぼんやりつぶやいていた。
もうロンドンへ行くこともないのだろうと思いながら、夢のような数ヵ月だったと、滑稽《こっけい》にも夢の中で考えている。
ほとんど男性と接したことのなかった自分が、口説《くど》かれたりプロポーズされたりした。
あのままロンドンにいたら、どうなったのだろう。
結婚……したのかしら。
あのエドガーと? バカバカしい。遅かれ早かれこうなったのよ。
大丈夫、とリディアは自分に言い聞かせる。べつに失恋したわけじゃない。好きになる前でよかったじゃない。
好きに、なる可能性なんてそもそもなかったわよ。誰彼かまわず口説くような男だもの。
なんとなく指先で唇《くちびる》に触れながら、リディアは、一生の不覚だったと思った。
どうしてわかってくれないのかと彼は言った。ダイヤなんかケルピーにくれてやるとまで。
そんなの、うそに決まってる。得意の口先だけのうそ。
なのになぜ、あたしが罪悪感《ざいあくかん》を持たなきゃいけないの?
「お嬢《じょう》さま、泣いていらっしゃるので?」
コブラナイの声だった。姿は見えなかった。
「は? 泣いてるわけないでしょ」
「ボウがそう言っております。お嬢さまが胸を痛めて悲しんでおられると」
はっと手を持ちあげ、リディアはムーンストーンの指輪をしたままなのに気がついた。
はずしてもらうの忘れたまま帰ってきちゃったのかしら。
もうエドガーとはなんの関係もないのに。
「ねえコブラナイ。これをはずして。もう彼は婚約解消を認めたのよ」
「いいえまだですな、お嬢さま。あなたは夢の中に逃げ込んでいるだけです」
「でも、あたしはこんなのいらない。結婚なんてするつもりもないのに」
「ええ、お気持ちはわかりますよ。伯爵は少々不誠実でいらっしゃいますな。しかしお嬢さま、ほかの女になど負けてはなりません。正式な婚約者はあなたなのですから」
もういいわよ、ほうっておいて。
エドガーを傷つけたかもしれない。でもリディアだって傷ついている。
フェアリードクターをそばに置いておくための結婚、なのにリディアを誰かの代わりにして、なぐさめてほしいと思っているとしたらあんまりだ。
本気でリディアを想っているかのような、そんなうそはもうたくさん。
傷ついてなんかいないくせに、傷ついたふりしないで。
「泣かないでください、お嬢さま。わしらがなんとかしますよ。ええ、伯爵がお嬢さまだけを大事になさるように。おまかせください」
頭痛がひどい。
夢は消え、なかば目覚めながら、リディアはコブラナイの声を聞いていた。
けれどもまた眠りに落ちる。
そして目覚めたとき、なんだかきらきらとあたりがまぶしいのに気がついた。
ああ、シャンデリアのせいね。
水晶《すいしょう》をたっぷりつないだそれは、ガスの炎を幾重《いくえ》にも映し反射して輝いている。
シャンデリア? そんなもの、あたしの部屋にあるはずが……。
そこまで考え、リディアははね起きた。
彼女が横たわっていたのは、細長いソファの上だった。
薄いカーテンが視界をさえぎっているが、うっすらと透《す》けて見える向こうがわは、豪華な調度品に囲まれた広い部屋だ。
見覚えがあるような気がしながら、立ちあがろうとしたリディアは、体にまとわりつく布がじゃまで思うように動けなかった。
「な、なにこれ……」
腕をあげると、しゃらしゃらと涼しげな金属音がした。そでやベールに縫《ぬ》いつけられた金の飾りがこすれ合うのだ。
アラビアンナイトの姫君みたいな服。それにこの部屋。
エドガーのハーレムだ。
それもどういうわけか、あの金髪の人形ではなくリディアがここにいて、彼女が着ていたはずのエキゾチックな衣服を身にまとっている。
ビーズや刺繍《ししゅう》で飾られた、シルクのドレス。腕にも足にも、髪にも金と宝石が重いほどつけられているのに、衣服は薄くて軽い。
カーテンを開け、そばにあった大きな鏡に写る自分を、見慣れない生き物のような気がしながら眺《なが》めたリディアは、ブラックダイヤのネックレスもつけているのに気がついた。
「え、ど、どういうことなのよ!」
「お目覚めですか、お嬢さま」
ヒゲの妖精が、飾り台に腰かけ、のんきにパイプをくゆらしていた。
「コブラナイ! あなた、何したの!」
「愛人の人形は追い出してやりましたから。この部屋にふさわしいのは、ご婚約者のお嬢さまですし、ダイヤモンドもほしいとおっしゃってましたでしょう?」
それは、ちょっと言ってみただけで。
しかし妖精の前で、言ってみただけは通用しないのだった。だからケルピーも、リディアにダイヤモンドを贈ろうとした。
自分の失言に苛立《いらだ》ち、ベールをもぎ取ろうとしたが、ティアラと髪留めで固定されていた。
「伯爵《はくしゃく》も、これでお嬢さまに惚《ほ》れ直しますって。まあそのためには、お嬢さまも伯爵のご趣味を理解するべきですな。こういう格好がお好みなようですから」
二の句がつげない。
「そうそう、着替えを手伝ったのはわしら一族の女ですからご心配なく。ウェールズまで帰るのは時間がかかるので、ロンドンにいる身内をかき集めました。こっちには稀少《きしょう》な宝石が多いもので、出稼《でかせ》ぎに来ている身内も多いのですよ」
「はあ……そう」
「で、そのブラックダイヤですが、呪《のろ》いの力が出てこないよう、みんなで応急処置はしておきました。元どおりにするには少しずつ時間をかけないと難しいので、とりあえずってとこですね。なのでお嬢さま、手荒《てあら》に扱われませんように。ボウの護《まも》りの力にも限界がありますからな」
では、と立ちあがるコブラナイを、リディアはあわてて引き止めようとした。
「ちょっと、あたしをここへ置いていくつもり?」
「もうすぐ伯爵が来られますよ。おふたりで語らうのに、邪魔者《じゃまもの》は消えるべきでしょう」
「ええっ」
しかし彼はさっさと消えてしまった。
エドガーが来る? ど、どうすんのよ。
逃げなきゃ、と思ったが、こんな格好じゃ外へ出られない。
とくにおへそのあたり、すけすけな布一枚しかない、やたら風通しのいい異国の衣装に戸惑《とまど》うばかりだ。だからといってここには着替えもなく、どうやって帰ろうか悩む。
そのとき、正面の扉がそろりと開いた。
えっ、もう来たの?
どうしようもなくリディアは、とっさに薄いカーテンをおろし、ソファの上で息を殺した。
人形のふりをしようと思ったわけではなかったが、結果的にそうなってしまった。
しかし、部屋へ入ってきたのはエドガーではなかった。薄いカーテン越しだが、背格好《せかっこう》や輪郭《りんかく》がエドガーではない。
だったら誰なのかわからないが、人に見つかると面倒だとリディアは思った。
妖精に連れてこられたといっても信じてもらえないだろうし、忍び込んで後宮《こうきゅう》の姫君になろうとした変な女だなどと思われたくない。
そして何より、人形に嫉妬《しっと》したらしい女がいたとエドガーに告げ口でもされたら困る。
早く出ていってほしいと願ったが、人目を忍ぶようにそっと入ってきた人物は、おそるおそるといった足取りで、慎重《しんちょう》にリディアの方へ近づいてきた。
「ジーンメアリー……」
その人物は、人形の名をつぶやいた。
「やっと会えた。……遅すぎたと言わないでくれ。私はあなたのことを、一日たりとも忘れたことはなかった」
顔ははっきりとは見えない。口ひげを整えた、中年の紳士《しんし》らしいとわかるだけだ。
しかし彼は、どうやら人形の女性を知っているようだった。
「ひとめ見たときから、あなたに恋していた。親が決めた許婚《いいなずけ》とはいえ、花嫁《はなよめ》としてあなたがやって来る日を心待ちにしていた。なのにあなたを見そめたなどというあの男が、すべてをぶちこわしにしたんだ」
やっぱりジーンメアリーは実在する人物のようだと思いながら、リディアは息を殺して聞いていた。
でも、あの男って誰? エドガー? いったいいつの話?
「あの男が権力にものをいわせて、あなたを奪っていったからいけないんだ。私はただ、あなたに気づいてほしかった。私たちこそが神に引き合わされた運命の伴侶《はんりょ》だと。……私たちの結婚は、生まれる前から決められていたものだ。あなたは知らなかったかもしれないが、何より重要なことだった。私と結婚していれば、あんな悲劇は起こらなかった」
悲劇って、何だろう。
「怒っているのか? ジーンメアリー。あなたの夫を、シルヴァンフォード公爵《こうしゃく》の名誉を傷つけたことを」
え? それってエドガーの家……。
「ああそうだ。あなたは気づいていたのだろう。公爵が責任を問われた、王家のホワイトダイヤが盗まれた事件……、ダイヤを隠したのは、公爵の部下として同行していた私だと」
え? ええっ?
「あのダイヤモンドは、ハノーヴァ王家のものじゃない。我らがプリンスこそが手にすべきもので……。ああこの話はやめよう。私は正直、あなたまで犠牲《ぎせい》にしたプリンスに従い続けることを、疑問に思い始めている」
ちょっと待ってよ。リディアは必死になって、頭の中を整理した。
シルヴァンフォード公爵と結婚した、ジーンメアリーは、つまり、エドガーのお母さん?
それに、公爵家が疑われたというホワイトダイヤの盗難事件の犯人がこの人で、だとするとエドガーが言っていたバークストン侯爵《こうしゃく》?
ということは、エドガーはこの人を罠《わな》にはめようと、ブラックダイヤのナイトメア≠、母親にそっくりな人形に託《たく》したのだ。
「シルヴァンフォード公爵が死ねば、あなたは私のもとに戻ってくる。そう信じていた。あなたまで死んでしまうなんて考えもせずに、公爵家を追いつめることに荷担《かたん》した」
バカみたい。大切な女性って、恋人じゃないじゃない。
リディアは脱力感と苛立《いらだ》ちを感じた。
あたし、何を気にしてたんだろう。
「許してくれ、ジーンメアリー。あなたが望むなら、あのときのホワイトダイヤをあなたに捧《ささ》げようと思った。……プリンスでなくても、ダイヤモンドを所有する資格はあるはずだ。私も、あなたも。ふたりで、伝説のダイヤが持つ力を得られるなら……」
急に彼は、カーテンに手をかけ、リディアの方へ踏み込んできた。驚いたリディアは、逃げ場もなくソファの上で硬直《こうちょく》した。
「だ、誰だ……?」
さすがに男も、人形ではないと気がついた。
この人、ユリシスといっしょにハイドパークにいた人だ。
「おまえ、なぜここに、ジーンメアリーは」
言いながら彼は、ブラックダイヤのネックレスに目をとめた。
「そのダイヤは、私たちのものだ」
侯爵はリディアの方に手をのばす。逃げようとしたが、肩をつかまれ、ソファに押しつけられた。
のどに手がかかる。
「ジーンメアリーが、それを手に入れ私をここへ呼んだのだ。ともにダイヤモンドの主人になるために」
それが、エドガーの罠。
バークストン侯爵の心の隙《すき》に忍び込み、愛《いと》しい女性の夢を見せた。人形だとわかっていても、この人形だらけのハーレムで、夢にひたるための奇妙な空間で、侯爵はジーンメアリーの意志や声を感じ、プリンスのために隠していたデイドリーム≠届けようとした。
抵抗しながらリディアは、さらにのどを締めつけられて気が遠くなりかけた。
エドガーは、言葉|巧《たく》みに人をあやつる。弱みに付け入り、自滅《じめつ》へ誘い込む。
そういうことができてしまう人。だからリディアも、簡単に思い通りにされているような気がしてしまう。
彼の言葉も行動も、計算されつくしたものに見えてしまう。
それでいて、計算ではありえないような一瞬を感じてしまうリディアは、エドガーのその落差にとらわれる。
きみを奪われるくらいなら、ダイヤモンドなんてくれてやると言ったのは、いつものうそ?
家の名誉を守るために、どうしても手に入れなければならないダイヤモンドだ。バークストン侯爵を罠にはめる計画を、着実に進めてきたのだ。リディアなんかよりずっと重要なはずだ。
そんなわかりやすいうそをつくなんて、どうかしてるわよエドガー。
「助け……」
でも、それが彼の、計算外の動揺だったならと、リディアはバカみたいにずっと考えていたのだった。
「助けて、エドガー……!」
そうねバカみたい。あいつの仕組んだ罠のせいで、あたし殺されかけてるのに……。
急に身体《からだ》が自由になった。リディアは必死に空気を吸い込む。
ようやく目を開けると、エドガーが侯爵の首に腕をまわし、締めあげているところだった。
気を失う手前で乱暴に放り出す。侯爵はカーテンを巻き込んで床に倒れる。
さらに踏みつけ、エドガーは冷淡《れいたん》に口を開いた。
「ジーンメアリーは、あなたにデイドリーム≠持ってくるようにと言ったはずですよ。失敗したあなたに、用はないそうです」
「……きみは、アシェンバート伯爵《はくしゃく》……。なぜここに」
「ここは僕の部屋です。あの蝋人形も、ブラックダイヤも僕のもの」
驚いたように、侯爵は目を見開いた。
「侯爵、僕もあのデイドリーム≠ェ必要でしてね。あなたは僕の思惑《おもわく》通り、プリンスもユリシスも裏切ってくれた。しかし、失敗するとは使えませんね」
襟《えり》をつかむと、エドガーはにらむように彼を覗《のぞ》き込んだ。
「そのせいで、ユリシスに追われているのでしょう? 見つかって消されるのは時間の問題ですか」
「きみだって、プリンスに目をつけられている。青騎士伯爵……、その名を引き継いでいても何の力もないくせに、プリンスと戦うつもりらしいとユリシスが笑っていたぞ」
「僕の勝利を、もうすぐ死ぬしかないあなたにお見せできなくて残念です」
残酷《ざんこく》な笑みを浮かべながら、バークストン侯爵を放り出したエドガーは、リディアの方に振り返った。
ようやくまともに呼吸できるようになったリディアは、震《ふる》えながら座り込んでいた。
エドガーと目が合い、恥ずかしくてうろたえる。助かった安心感よりも、このありえない服装にうろたえていた。
「こ、これは違うの、コブラナイが勝手にやったの。あ……あなたの趣味に合わせなきゃとか、愛人に負けるなとか……。とにかく、あたしもわけがわかんないのよ。目がさめたらこうなってたんだもの!」
「このあいだはメイドで、今日はアラビアの姫君か。意外性があっていいかもね」
いいわけないでしょ。
「きみがシェーラザードなら、夜ごと妖精の物語を聞かせてくれるんだろうか。僕なら、千の夜を待たなくても、たった一夜できみに夢中になるよ」
ひざまずいてリディアを覗き込む。ほんとに、どういう場面でも口説《くど》こうとするってどうなのよ。
「ああでも、無事でよかった。昼間のことですっかり信用をなくしたかと不安だったけど、助けを求めて僕を呼んでくれたね。まだ、きらわれてないと思っていいんだよね」
「え、よ……呼んだ?」
「うん、ついさっき。ここへ踏み込む直前」
うそっ。エドガーのことを考えてたかもしれないけれど。
ますます赤くなるしかないリディアを、彼は微笑《ほほえ》みながら見つめた。
目をそらしたリディアは、倒れていた侯爵が、体を起こそうとするのに気がついた。
上着の中からピストルを取り出そうとする。
「エドガー!」
リディアが叫ぶと同時に、銃声《じゅうせい》が鳴った。
しかし、侯爵のピストルは床に転がる。と同時に彼自身も強い力ではね飛ばされ、一本足のテーブルを倒しながら転がった。
落ちたピストルを拾ったのは、褐色《かっしょく》の肌の少年だった。
「レイヴン、まだ殺しちゃだめだよ」
はい、と言いながら、彼は侯爵のネクタイをつかんで引き起こした。
「侯爵、あなたにはまだ聞きたいことがある」
エドガーは、なだめるようにリディアの髪を撫《な》で、侯爵に向き直った。
「プリンスがシルヴァンフォード公爵家《こうしゃくけ》を標的にしたのは、デイドリーム≠手に入れるためだけではないだろう?」
痛みに顔をゆがめながら、バークストン侯爵は鼻で笑った。
「そんなことも知らないくせに、プリンスに刃向《はむ》かう気か?」
「知っているならしゃべってもらおう」
ピストルを取りだし、エドガーはそれを侯爵の額《ひたい》に突きつけた。
「私はどうせ、ユリシスに殺される。脅《おど》したって無駄《むだ》だ」
「そうかな。人間、いずれ死ぬとわかっていても、今すぐ死にたくはないものだよ」
淡々《たんたん》と引き金に力を入れるエドガーと、悲愴《ひそう》な顔をした侯爵《こうしゃく》は目を合わせた。
かちりと撃鉄《げきてつ》が持ちあがる。あせっているのか侯爵の視線が泳ぐ。しかし彼はまだ唇《くちびる》を結んだままだ。
本当に引き金を引くとは思っていないのかもしれない。それはリディアも同じで、だから息をつめたままふたりの様子を見つめていた彼女は、顔色ひとつ変えずにエドガーが引き金を引く瞬間を見てしまった。
リディアは息をのんだが、弾は出なかった。
硬直《こうちょく》する侯爵の前で、エドガーは舌打ちした。
「まったく、弾を入れ忘れてた」
言って彼は、ポケットから取りだした銃弾をひとつだけ装填《そうてん》すると、試し撃ちをするように無造作《むぞうさ》に、二回、侯爵に向けて引き金を引いた。
それも空撃《からう》ちだったけれど、声にならない悲鳴をあげ、彼は這《は》うように後ずさる。レイヴンが非情にも押し戻す。
「さて侯爵、今度こそ弾が出るかな?」
「ま、待ってくれ。……公爵家があんなことになったのは、私のせいじゃない。何もかも、あの家に生まれた息子のせいだ」
エドガーが小さく息をのんだのがわかった。
「息子が何をしたって?」
「公爵とジーンメアリーの息子は、理想に近いとプリンスが気づいたのだ。私が彼女と結婚していれば生まれていただろう子供よりも、ずっと理想的だと……」
「どういう意味だ」
「ジーンメアリーは、ボニー・プリンス・チャーリーの血を引く」
「ボニー……、昔の、スチュアート家の王子?」
「そして私にも、スチュアート家の血は流れている。薄まっていくばかりの高貴な血を、再び濃くするために、私たちの結婚は決められていた。だからこれは計画だ。プリンスのために、周到《しゅうとう》に準備されてきた」
リディアにはさっぱり意味がわからない。エドガーは、考え込んだように黙ったが、今までになく苦しげに見えた。
「シルヴァンフォード公爵が、何もかも失うことになったのは息子のせいだ。私からジーンメアリーを奪ったせいだ。あの男が別の女を妻に迎えていれば、あんなことにはならなかった。ジーンメアリーが息子を産まなければよかった。息子が無事成長しさえしなければ」
目の前にいるのが、その息子だなどと知るはずもないまま、侯爵は言葉を続けた。
「アシェンバート伯爵、プリンスを破滅《はめつ》させたいなら、あの息子を殺せ。それがいちばんの早道かもしれないぞ」
「いいかげんにしてよ、悪いのはプリンスじゃない! あなたは許婚《いいなずけ》にふられただけでしょ! 子供に罪があるわけないわ!」
たまらずに、リディアは声をあげていた。大丈夫だと言うように、エドガーはちらりとリディアに視線を向けた。
「侯爵、ジーンメアリーは許婚だったあなたのことなど忘れていた。親が決めたあなたとの婚約に疑問を感じなかったのと同様に、公爵家に嫁《とつ》げと言われれば、二つ返事で受け入れた。むしろ彼女は、公爵夫人《ハー・グレイス》と呼ばれることによろこびを感じていた。彼女は無邪気《むじゃき》で無知で、お姫さまのように扱われていれば満足している、典型的な貴族の女だった」
バークストン侯爵は、自分が侮辱《ぶじょく》されたかのように眉根《まゆね》を寄せた。
「知ったようなことを言うな」
「あなたのことを彼女が思い出したのは、ダイヤモンドの件でシルヴァンフォード公爵が疑われてから。あなたが、彼女をなぐさめる手紙をよこしたときだ。でもね、女の直感ってやつかな、下心と作為《さくい》を感じ取ったようだよ」
「な……、なぜそれを……」
「彼女が知人に相談しているのを、ちょっと耳にしたのさ」
はっとしたように、侯爵はエドガーを見あげた。
「まさか……」
「侯爵、僕はプリンスに荷担《かたん》する者を許さない。ユリシスもあなたも、公爵家の息子も、奴を破滅させるためなら殺してやる」
侯爵を撃ち殺してしまうかと思った。
「やめて!」
リディアは思わず駆《か》け寄った。
家族をおとしいれた仇《かたき》に向ける銃口《じゅうこう》、しかし敵を撃ち殺したら、エドガーは今度は自分自身にピストルを向けるのではないかと、怖くなったのだ。
止めようと彼の腕にしがみついたときだった。
轟音《ごうおん》とともに建物がゆれた。
「え、なに……?」
エドガーにかかえられ、床に伏せた瞬間、すぐそばをかすめて銀の像が倒れた。
その隙《すき》に侯爵が逃げ出す。レイヴンが追う。
壁にあいた大きな穴から、土煙《つちけむり》にまぎれ、醜《みにく》い小妖精が顔を出す。
「ゴブリンだわ」
(逃げたぞ)
(あいつだ)
(追いかけろ)
わらわらと出てきた彼らは、バークストン侯爵を追うために別の壁を掘りはじめ、その向こうへ消えていった。
「ゴブリン? ユリシスが使っている妖精たち?」
リディアを助け起こし、エドガーは壁の穴を見つめた。
「今の衝撃《しょうげき》もゴブリンのせい?」
「エドガー、近づいちゃだめ。穴の向こうはゴブリンの縄張《なわば》りよ。人間界じゃないの」
「たしかに、この壁の向こうは廊下《ろうか》のはずなのに、まるで洞窟《どうくつ》みたいなのが続いてるね」
「きっと、ユリシスに命じられて侯爵を追ってるのよ。彼がこの店に隠れてるってことがばれたのね」
「とすると、ユリシスがここに来るかもしれないってことか」
リディアに背を向けたまま考え込んだ彼は、さっきのやりとりに疲れているように見えた。
自分のことさえ、プリンスを破滅させるためなら殺すと言った。
ユリシスは、もはや使い物にならないエドガーを殺すように命じられていると言っていたけれど、ひょっとするとまだ、可能なら生きたままエドガーをとらえたいと思っているのではないだろうか。
ジーンメアリーの息子が鍵《かぎ》なら、彼女がもういない以上、血を継ぐ者はエドガーだけだ。
だとしたら、エドガーは自分の死も、復讐《ふくしゅう》のための選択肢として考えているに違いない。
「エドガー、お願い。自分を責めないで。あなたは、少しも悪くなんかないのよ」
「ありがとう、リディア。本当に二度と僕のことを心配してくれないんじゃないかと気にしていたからうれしいよ」
そう言いながらも彼は、振り返ろうとしなかった。
「侯爵の言葉に、ショックを受けてるわけじゃないんだ。僕が原因だということは、うすうすわかっていたことだから」
「ねらわれただけよ、原因じゃないわ」
「僕は生まれてくるべきではなかったと、逆上《ぎゃくじょう》した父が言った。猟銃《りょうじゅう》を持ち出そうとした。母がかばおうとした。その先はよくおぼえていない。気がついたら父も母も、血を流して倒れていた。屋敷中火が回っていて……」
「思い出さなくていいの」
リディアは、彼の背に寄りそうように触れていた。
「あなたは巻き込まれただけ」
「……抱きしめていい?」
イエスと言いたいけれどちょっと怖い。そのまま、歯止めがきかなくなってしまいそうで。
悩んでいると、エドガーはまた言った。
「じゃあ、抱きしめてくれ」
おそるおそる、リディアは腕をまわす。背中から抱きつくようにしながらも、彼の上着をつかんでいるのがやっとだったから、物足りなかったのではないだろうか。
彼女の手に手を重ね、「ありがとう」と言ってくれたことに少しほっとし、リディアは頭を軽く背中に押しあてた。
「リディア、熱っぽくないか?」
「え、そう?」
そういえば風邪《かぜ》気味だった。
休もうと寝床に入ったはずなのに、目覚めたらこの事態だ、あまりのことに体調のことなど忘れていたが、気づいたら急に頭がくらくらした。
振り返ったエドガーは、彼女の額《ひたい》に手のひらを押しつけ、かすかに眉根《まゆね》を寄せた。
[#挿絵(img/diamond_181.jpg)入る]
「帰ろう。送っていく」
上着を脱いでリディアの肩に掛ける。
「難しいと思うわ」
「どういうこと?」
不思議そうに首を傾《かし》げながら、彼は正面の扉を開けたが、むき出しの岩でふさがっていた。
「ゴブリンが穴を掘って道を造ったでしょ? ここが通り道になって、妖精界と現実の空間が入り乱れてしまってるの」
困惑《こんわく》したらしく、彼は壁に片手をついて額の髪に指をうずめた。
「どうしたら出られる?」
「ゴブリンがまた現れるのを待つしかないわ。妖精の道は妖精にしか見えない。彼らは道がわかってるから、どうにか取り引きしてみる」
「それまで、僕らはここにふたりきりか」
ふたりきり、と言われ、ちょっとばかりリディアは警戒《けいかい》してあとずさった。
「何もしやしないよ。と言っても信じられないかもしれないけど、いちおう言っておこう。だから安心して、ソファで横になってた方がいい」
言いながらエドガーは、部屋の中を見まわし、キャビネットの中を物色する。
「ロンドンの真ん中で遭難《そうなん》するとは思わなかった。この部屋にはまともな食べ物もないし」
人形屋敷なのだからしかたがない。
リディアは言われたとおり横になりながら、寒気を感じて借りた上着の前をかき合わせた。
「寒い? その衣装は薄着すぎるな。見てるぶんにはありがたいんだけど」
あわてておへその方も上着で隠す。
「きみが着てくれるとわかっていたら、もっとデザインに口を出したのに」
「……それにしたって、なんでお母さまそっくりな人形にこんな服着せるの?」
よく考えれば、神経を疑う。
「ありえない衣装にしないと、ますます母親に似てて気持ち悪かったんだよね」
そういうものなのかしら。
飾りとして置いてあったお酒の瓶《びん》をいくつかと、これも飾りだろう果物《くだもの》を手に、彼はソファの上のリディアに歩み寄った。
絨毯《じゅうたん》に座り込み、ブランデーのボトルを開けてグラスに注ぐ。
「少しはあたたまるよ」
「ありがと……」
グラスを受け取りながらも、手が触れ合うのも避けようとしたから、エドガーは少し苦笑いした。
「抱きしめてくれたけれど、僕の方から触れるのは許してくれないんだね」
「だって……」
「勝手にキスしたから?」
一気に熱が上がるような気がして、リディアは体をまるめた。
「バークストン侯爵《こうしゃく》は、ゴブリンにつかまったらユリシスに殺されちゃうかも。まだ本当のことをぜんぶ聞きだしていないのに」
わざと話を変えたのは、ふたりきりでキスの話は避けたかったからだ。
「だいたいのことはわかったよ。奴がプリンスと呼ばれている理由も」
さっきの話だけでは、リディアにはよくわからなかった。けれどエドガーが、プリンスについて核心に触れることをリディアに話す気はないかもしれないと思うと、問いかけることもできなかった。
「僕にかかわることを、これ以上聞きたくない?」
「あたしなんかが聞いてもいいの?」
「婚約者に隠し事をすると、ろくなことにならないと学んだから」
こういうことになるからか。とリディアは自分の格好を見おろした。
「婚約者じゃないってば」
念のために主張しておく。エドガーはかまわず続けた。
「一六八八年、ジェイムズ二世が英国を追われフランスへ亡命《ぼうめい》した。その後、二度にわたってその子孫が、王位|継承権《けいしょうけん》を主張して英国に攻め入ろうとしたのは知ってるよね」
「ええ」
答えながらリディアは、その国王の名をつい先目も耳にしたことを思い出していた。
問題のふたつのダイヤモンドについて、父が話していた。王家のダイヤモンドだったが、革命とジェイムズ二世の亡命のどさくさに行方《ゆくえ》不明になったということだった。
「ボニー・プリンス・チャーリーは、ジェイムズ二世の孫、王位を奪還《だっかん》すべくイングランドに攻め込んだけれど敗走した」
その人物の血を、ジーンメアリーが引いていると言っていた。
「たぶんプリンスも、その子孫か……、とにかくジーンメアリーと近い血縁関係にあるんじゃないかな。王家のダイヤモンドをほしがっているのは、宝石の伝説なんかよりむしろ、持ち主として、ボニー・プリンスの後継者《こうけいしゃ》として、プリンス・オブ・ウェールズを主張しようとしているからだと思う」
「皇太子《プリンス・オブ・ウェールズ》……」
「スチュアート王家の直系男子は絶えたはずだけど、女系の血筋をたどっていくと、ヨーロッパのいくつかの王族や貴族とつながっている。そちらが正統なイングランドとスコットランドの王だと主張する集団もあると聞く。でもプリンスは、自分が王子を名乗ってるんだから、それとは別の組織なんだろう」
「英国へ戻ってくるつもりなのかしら」
「そうだとしても、昔の王子《ボニー・プリンス》みたいなやり方じゃなさそうだ」
バークストン侯爵とジーンメアリーが結婚すれば、王家の血が再び交わることになった。それがプリンスのための計画だったという。
意に反して、ジーンメアリーはシルヴァンフォード公爵《こうしゃく》と結婚したけれど、そこで計画は終わらなかった。
「あなたの家系には、もともと王家の血が流れているのね」
「そうだよ。それも複数」
たぶんそこが、プリンスにとってより理想的だったのだ。ジーンメアリーと公爵の子は、王家の血をより濃く受け継ぐはずだから。
「だから、あなたがねらわれたの? でも、どうするつもりでさらったの?」
「次のプリンスをつくり出すためじゃないかな」
つくり出す、なんて変な言い方だと思った。
「自分の子を後継者にしないの? 男の子がいないとしても、さらわれてきてプリンスを憎んでるあなたを後継者にするのは無理があると思わなかったのかしら」
「たぶん、ふつうの意味での跡継《あとつ》ぎにするわけじゃないんだ。奴らは人の心を自由にできると信じているから。ずっとあの組織にいれば、僕は自我を失って、プリンスと同じ考え方や感じ方をする人間につくり替えられたんだろうと思う」
リディアは絶句する。エドガーはそこで、何を見てきたのだろう。
公爵家で起こった悲劇の、何倍もつらいことを、プリンスの組織で体験したに違いない。
でも、そう思っても想像もできないのだ。
あたしなんかが抱きしめても、本当のところ、エドガーには慰《なぐさ》めにもならないんじゃないだろうか。
「もともとあの組織は、なんていうか奇妙な、魔術的なものを信奉《しんぽう》してるところがあった。たとえ今、亡命王の子孫が皇太子を主張しても、英国の王位継承権はありえない。なのにプリンスは、王家の血を再び集め、自分の傀儡《かいらい》にしようとしている。もしかすると、皇太子《プリンス》という存在を、むりやりつくり出そうとしているんじゃないかと思うほど奇妙な方法だ」
理解の域を超えている。リディアはだんだん混乱してきていた。熱のある頭で考えるには、突拍子《とっぴょうし》もなさすぎる。
ひとくちお酒をのどに流し込み、ぼんやりとエドガーを眺《なが》める。
梨《なし》を手に取った彼は、ナイフで器用に皮をむく。
「ひとつ気になってるのは、ユリシスのことなんだ。あいつとは、プリンスのもとで直接会ったことはなかったけれど、周囲の会話からするに年長の印象だった。何十年か組織にいるかのような……。あれでも四十歳だっていうなら話は別だけど」
十代、万が一よほどの童顔だとしても二十代、そんなふうに見えるユリシスが、エドガーが連れ去られた八年前から組織の重要な地位にいたというのは、たしかに不思議だ。
「今のユリシスが、二代目だとしたら納得がいく」
「え、二代目? 最初のユリシスの息子?」
「そうかもしれないし、フェアリードクターの能力のある少年の人格を作りかえたのかもしれない。だとしたら彼も、僕のような犠牲者《ぎせいしゃ》かもしれないわけだけれど」
人格を破壊され、ふたりめのユリシスとなった少年? 妖精と接する能力があったために、犠牲になったかもしれない?
わけがわからない。けれどエドガーは、自分もそんなふうにして、プリンスそのものになっていたかもしれないと考えているのだろう。
そして彼は、そういうわけのわからない敵と戦おうとしている。
切り取った梨をひとかけ、ナイフに突き刺したままリディアに差し出す。
受け取ってかじると、さわやかなあまさが、むりやりアルコールを流し込んだのどの不快感を消し去ってくれた。
「リディア、君は以前、愛のない結婚はしたくないと言ったよね」
唐突《とうとつ》な言葉に、リディアはまたちょっと緊張する。けれど彼は、艶《つや》っぽい話をするつもりではなさそうだった。
「それはきっと正しい。貴族にとって、結婚は家系をつなぐためだというのが常識で、子供さえつくれば、夫婦ともども恋人と好き勝手にするのがふつう。父が母を見そめて侯爵から奪ったとしても、ほしいと思ったものを手に入れただけで、たぶんふたりとも、よくある貴族の夫婦だった。だけど、もしも父と母がお互いに心の絆《きずな》を持っていれば、その結婚が思いがけない不幸を招いたとしても、自分たちの子が不吉《ふきつ》な運命を背負っていたとしても、絶望することはなかったんじゃないだろうか」
床に座り込んだまま、リディアが横になっているソファを背もたれに寄りかかっているエドガーは、ずっとうつむきがちだ。
「きみと結婚する男は、幸せになれるんだろうな」
「…………」
「心から愛されて、家族みんなで幸せになれるんだろう。その幸せは、僕のものにはなり得ないのかな」
わからない。リディアはむしろ、エドガーがそんな平凡なものをほしがっているのかと疑問に思う。
プリンスへの復讐《ふくしゅう》の先に、彼は将来への希望を持っているのだろうか。すべて終わらせるために自分さえ葬《ほうむ》ってしまいそうな危《あや》うさがあるから、リディアにかまうのは、ありえない未来をつかの間に夢見ているだけのようにも思える。
でも、ありえない夢を見ているだけだとしても、それが彼の夢なら、とても平凡なものを心から望んでいるのだ。
「ああ、やっぱりきみと結婚したい」
ちょっと油断した隙《すき》に、髪の毛をからめ取られた。
体の熱とお酒が回ってきたけだるさで、リディアはじっとしたまま、ゆるゆると髪の毛が彼の指の隙間を流れるのを眺めていた。
「アメリカで、このブラックダイヤを守るために死んだ幼い少女がいた。ジミーが先走ったことも、僕自身に、他人の心を支配してしまう何かがあるんだろうってスレイドに言われた。たしかにアメリカでの僕は、支配者でルールだった。そうであることを求められていると感じていた。でもきみは、僕がろくでなしで口先だけだと知っている。最初から、矛盾《むじゅん》だらけのただの若造《わかぞう》だと見抜いて、それでも同情して、協力してくれた。このまま、いつでも対等でいてほしい。僕に共感してくれなくてもいい。そばにいてしかってくれるとね、プリンスみたいにならずにすむと思えるんだ」
口を開くと口説《くど》かずにいられないってだけ? それとも。
「でもきみにとって、あんまり欠点だらけな男だと、きらわれる気がしていいかっこうもしたくなる。……だから、バークストン侯爵《こうしゃく》を罠《わな》にはめることは隠してた」
それとも本当に、結婚を受ければ、あなたを救えるの?
*
ゴブリンが穴を掘る音が、うるさく地面に響いていた。ケルピーの敏感なたてがみは、地面から水に伝わるわずかな振動もとらえる。
「なにしてやがるんだ? 奴らは」
ロンドン中の地下を、穴だらけにしようとしているのではないだろうか。
彼らの掘る穴は、人間界の地下ではなく、妖精界に近い境界ではあるが、むやみに掘ると人間たちの地上にも影響が出る。
ひょっとするとそれがねらいかもしれないと思いながら、ケルピーは、水底でさえ淡く輝くホワイトダイヤを眺めた。
「こいつをどうするか」
ゴブリンの主人がさがしているダイヤモンドは、青騎士|伯爵《はくしゃく》もほしがっているものだった。しかし伯爵は、ケルピーが持ちかけた取り引きを蹴《け》った。
「あいつ、リディアのことがこれより大事なのか?」
意外だった。なにしろ、女の噂《うわさ》がたえない伯爵だ。リディアも取り巻きのひとりとして、そばに置いておきたいだけだと思っていた。
人間界にいたいというリディアと、利害が一致しただけの婚約のはずなのだ。
しずくの形にカットされた、透明《とうめい》なダイヤモンドは、水と混ざり合ってしまいそうでいながら、微《かす》かな光の輪郭《りんかく》を保っている。
魔性《ましょう》の妖精であるケルピーでさえ、宝石が放《はな》つ魔力を感じると、めまいに似た感覚をおぼえるのだった。
じっと宝石に見入っているうち、呼びかけられたような気がして、彼は顔をあげた。
リディアの声だと思った。
水面に浮上し、人の姿になって岸辺へあがる。耳を澄《す》ます。
やっぱりリディアの声だと、木立《こだち》の方へ歩いていくと、木の陰にたたずんでいる人影が目についた。
くすんだ赤茶の髪が風になびく。
「リディア、どうしたんだ?」
「ケルピー」
彼を見つけると、リディアは駆《か》け寄ってきていきなり抱きついた。
「なんだ? あの伯爵にいじめられたか?」
彼女が震《ふる》えているのを感じ、ケルピーは慎重《しんちょう》に肩を抱いた。餌《えさ》以外の人間を扱うのには慣れていないから、リディアには少々気を遣《つか》う。
「あたし、もういや。スコットランドへ帰りたいわ」
けれどこの、かよわい感触が、これまでケルピーが感じたことのなかった慈《いつく》しみの気持ちを、体の芯《しん》にもたらすのだ。
人を喰《く》らって得る満腹感はわずかな間しかもたないが、リディアと触れあって得る心地よさはいつまでも消えない。
「ああ、だったら帰ろうぜ」
「でも、エドガーは婚約を解消してくれない。あたしをむりやり花嫁《はなよめ》にしようとするの」
「ひでえ奴だな」
ケルピーは、自分もリディアをむりやり花嫁にしようとしたことは忘れて言った。
「あたしやっぱり、エドガーは信用できないの。人よりも妖精の方が、あなたの方があたしをわかってくれるって気づいたわ」
カモミールの香りがする髪に顔を近づける。彼女の金緑の瞳には、妖精族の血を感じる。妖精の魔力を分け与えられた人間、だから彼女はフェアリードクターなのだ。
リディアの瞳にも、魔力があるのかもしれない。思いがけずぞくぞくした。
「リディア、おまえがそう言うなら、俺が伯爵に話をつけてやる。奴が婚約解消を承諾《しょうだく》しないなら、頭から喰って……、いやとにかく、おまえに近づけないよう守ってやるから安心しろ」
「本当?」
頼られるのも悪くない。いつになくかわいげがあるなと思えば、リディアらしくないほど彼に寄りかかってくることなど気にしなかった。
「ねえ、あのダイヤモンドまだ持ってるの?」
「え、ああ。ほしいのか?」
彼女は小さく頷《うなず》いた。
「捨てようと思ってたところだ」
ネックレスを彼女の首にかける。やっぱり似合わねえなと思ったけれど、リディアがこれまでにないほどうれしそうに微笑《ほほえ》んだのを見て、彼も満ち足りた気持ちになった。
しかし、そのとき急に視界がゆらいだ。
リディアの姿がかき消える。
「な……」
一瞬、まぶしすぎる光に瞳を焼かれたかのように、すべてが真っ白に映った。
少しずつ視界が戻ってくると、公園の風景の中、少し離れた木のそばに、少年がひとりたたずんでいた。
あいつだ。ゴブリンの主人。
「おまえ、何しやがった」
にやりと笑い、彼はダイヤモンドのネックレスをかかげた。
「このダイヤモンドの名を教えてやるよ。白日夢《デイドリーム》っていうんだ。宝石も妖精も、名はその本質をあらわす。こいつの持つ力を引き出してやっただけさ」
「俺に幻《まぼろし》を見せたのか」
「おまえが勝手に見た幻影《げんえい》だよ。夢? 願望? どうしてロンドンに水棲馬《ケルピー》がいるのかと不思議だったけど、なるほどね、あのフェアリードクターが目当てなわけだ」
ケルピーは、あの伯爵よりもさらに華奢《きゃしゃ》な、ひとひねりで殺せそうだと思える少年をにらみつけた。
ただの人間なら今すぐ飛びかかってかじってやるところだが、妖精の魔力に通じた男だ。不用意なことはできない。
「おまえ、青騎士伯爵と敵対してるんだな」
その名を耳にしたとたん、少年の表情が残酷《ざんこく》そうにゆがんだ。
「ああ、伯爵を殺すのがおれの使命だからね」
「へえ、殺すのか。どうやって?」
「少しずつ苦しめて殺してやるさ」
反対する理由もない。しかしケルピーは、伯爵のそばにはリディアがいることを案じた。
それにこの男、あのクソ生意気な伯爵以上にいけすかない。と感じるのは、妖精と接する能力で、妖精を思い通りにしようとしている姿勢が見えるからだ。
「それは止めやしないがな、リディアに何かあったらただじゃおかねえぞ」
「伯爵に味方する者は、おれの主人の敵だ。あの小娘も例外じゃないな。しかし水棲馬《ケルピー》、あの娘が伯爵のそばを離れるというなら見|逃《のが》してやってもいい。こっちとしても、おまえとやり合うのは時間の無駄《むだ》だと思うからね」
そう言うと、ゴブリンの主人は急に姿を消した。
ケルピーが木のそばへ駆け寄ると、茂《しげ》みの下に穴があいていた。
ゴブリンが掘った道だ。
伯爵を殺しに行ったのだろうか。
こうなったら、リディアをむりやりでもロンドンから連れ出すしかない。
漆黒《しっこく》の馬の姿に変じ、ケルピーは駆け出した。
[#改ページ]
ゴブリンの迷宮
「おい、親父《おやじ》」
講演の草稿《そうこう》をまとめるために、カレッジの研究室に泊まり込んでいたカールトン教授のところへ、黒髪巻き毛の青年が現れたのはいきなりだった。
窓から飛び込んできて、デスクの上に座った、態度も図体《ずうたい》も大きい彼が、リディアと知り合いの妖精だというのは知っていたが、これまで話しかけられたことがなかったので少々驚く。
それに、いきなり親父呼ばわりだ。きみの父親ではないと言いたい気持ちになったのは、こいつがリディアを花嫁《はなよめ》にしようとした妖精だと、漠然《ばくぜん》と感じていたからだった。
「リディアはどこだよ、親父」
まるい眼鏡《めがね》を押しあげつつ、カールトンは散らばった書類をかき集める。
「夜中だよ。家で寝ている時間だろう」
「いないんだよ。どこうろついてんだ?」
「お嬢《じょう》さまなら伯爵《はくしゃく》といっしょだよ」
まったく別の声がした。青年が戸棚《とだな》に歩み寄るのを眺《なが》めていたカールトンは、そこに置いてあったトルマリンの結晶《けっしょう》がころころと不思議に動くのを見た。
「おまえ、ここで何してるんだ?」
青年が、何かをひょいとつまみあげると、トルマリンのかけらも宙に浮かんだ。
「お嬢さまのお父上は、いい石をたくさんお持ちですねえ。ここはわしのような鉱山の妖精には落ち着けますよ」
見えない妖精がいるらしいと、カールトンは声だけを聞きながら頬杖《ほおづえ》をついた。
「いい石だと思うかね?」
「この花崗岩《かこうがん》のきめ細やかなこと」
「そうなんだ。きみとは話が合いそうだなあ。このごろは学生でも、分析に傾倒《けいとう》するあまり石の美しさに対する愛情が薄いというか」
「おや、それはいけませんね。石とはつまり大地の神秘。すばらしいのは宝石ばかりではありません」
カールトンは大きく頷《うなず》く。
「そんなことより、リディアが伯爵といっしょって、どこにいるんだよ」
青年は、つまみあげたままの妖精を乱暴にゆさぶった。
「ああやめてくださいってば、ハーレムってとこですよ」
「ハ、ハーレム?」
カールトンはようやく非常事態だと気づき立ちあがった。
「そ、それはどういうことだね?」
「伯爵がお嬢さまのために、すばらしい部屋をご用意なさったんですよ。おふたりで過ごされれば、愛が深まること請《う》け合《あ》いです」
「ちょっと待ってくれ、伯爵がリディアと過ごすための部屋を?」
それに、今は夜中だ。そもそもこんな時間に家にいないとか、伯爵といっしょだというのがありえない話だった。
「そういや、ハーレムって何かわかったぞ。男が自分の女を閉じ込めておく場所なんだってな。ほかの男に取られないように」
「ほう、ならお嬢さまがあそこにいるかぎり、お二人の仲を裂《さ》くことは誰にもできないってことですな。結構なことで」
「おい、どこにあるんだよ。そのハーレムは」
「マダムイヴ・パレスって店です。ええと、場所は……」
「とっとと案内しろ!」
風が吹き抜けたかのように部屋中の書類を巻き上げ、青年は消えた。おそらく、声だけの小さな妖精もいなくなったようだ。
カールトンはひとり呆然《ぼうぜん》とする。
しばらくして我に返ると、廊下《ろうか》へ飛び出し、資料室にいる弟子のもとへ駆《か》け寄った。
「ラングレー君、マダムイヴ・パレスってどこだ?」
「教授、調べものなら優先順位をつけてください。まだ昨日のぶんも終わっていませんよ」
「最優先なんだ」
ようやく、ラングレーは顔をあげた。
「マダムイヴ・パレス、ですか?」
「その、ハーレムなんだそうだが、ハーレムといえば一夫多妻の国の後宮《こうきゅう》のことじゃないか。そっちの国では、王侯《おうこう》貴族は気に入った娘を手あたりしだいに後宮へ連れ込んで妻にするとか」
「ああ、それですか。実体不明でハーレムパレスと揶揄《やゆ》されている、上流階級|御用達《ごようたし》の店」
デスクに両手をついて身を乗り出すカールトンに、押され気味になりながらラングレーは言った。
「知っているのか」
「チャリングクロスにある豪華な建物でしょう? でもあそこは、高級|娼婦《しょうふ》といった女性が出入りしている様子がないそうで、そのくせ女物のドレスや装飾品や、とにかく女性が必要とするような品々が運び込まれるので、どこかの姫君だとかいわくのある女性が監禁《かんきん》されているのじゃないかと聞いたことがありますね。マダムイヴ・パレスの客は、王様《スルタン》にでもなったようなつもりで、自分専用のハーレムに世間から隠した第二夫人やら第三夫人やらを置いているってわけでしょう。あくまで噂《うわさ》ですけど」
ふらふらと、カールトンはデスクを離れる。
「それがどうかしたんですか?」
「……いや、べつに」
リディアがそこで、伯爵と密会? 女性が監禁されているところ?
まさか、と思いながらも、あの伯爵がまともな人間かどうか、いまひとつカールトンは信用していない。
しかしリディアにとって、フェアリードクターの力を必要としてくれる彼は重要で、そもそもただの伯爵じゃないからこそリディアが必要とされているのだということは理解している。
娘がまだ父のそばに、人間界にいるのは、あの伯爵のおかげらしいというのも感じている。
それでも、大切な娘を妾《めかけ》扱いされては一大事だ。もてあそばれた傷物の娘なんて世間にしれたら、リディアにとってどれほどつらいことになるだろうか。
カールトン家は上流階級ではないが、地元では昔から名士の家系だし、今どき貴族に対して卑下《ひげ》する感覚はない。
きちんと育てた娘の将来を台無しにされて黙っているわけにはいかないのだ。
けれど、リディアはどう思っているのだろう。そう考えると、伯爵《はくしゃく》に対する憤《いきどお》りに、急に靄《もや》がかかったようになる。
リディアのことは、自由|奔放《ほんぽう》に育てすぎたかもしれないが、根はやさしい娘だ。
女は無知で従順《じゅうじゅん》な方がいいという、今の風潮《ふうちょう》からすれば少々|奇抜《きばつ》に見えるかもしれないが、彼女の母親もそういう女性だった。
それだけに、年頃になっても男の子に敬遠されているというのは知っていたが、リディアのよさがわからないような男など相手にしなくていいとカールトンは思っていた。
その一方で、もし彼女が本気で恋をすれば、誰かに相談することもなく自分で決断するだろうとも思っていた。
つまりはカールトンが心配しているのは、リディアが自ら伯爵の恋人になろうとした場合だ。
いろいろと思い起こせば、自分はリディアと伯爵との噂話に不快感を示したし、彼女の恋愛や結婚も快く思っていないような態度を取ってしまっている。それはもちろん父親として淋《さび》しいという身勝手な感情からだが、反対されると思えば、本当のことを話しにくかったかもしれないではないか。
しかし、とカールトンは強く首を横に振った。リディアはまだ未成年だ。未熟《みじゅく》な部分はたくさんあるし、しっかりしているといっても、世間知らずだし、あの女たらしの伯爵にとって、だますことはたやすいだろう。
リディアの気持ちがどうであれ、伯爵は、まともではないかもしれないがバカではない。気まぐれですまされないとわかっているはず。
どう考えてもこれは、許してはおけない事態だ。
あらためて思い直すと、研究室に戻って上着をひっつかんだカールトンは駆けだしていた。
*
夢魔《ナイトメア》がうごめく。
ゆるゆると眠りに落ちたリディアは、知らぬ間に悪夢に引きずり込まれていた。
ゴブリンの迷宮から抜け出せない悪夢だ。暗い穴の中を、リディアはさまよう。
はっと気づくと、すぐ後ろにユリシスがいた。リディアののどにナイフを突きつけ、ブラックダイヤをよこせと言った。
ダイヤは渡せないと、いつのまにかそこにいたエドガーが言った。
ならこいつが死んでもいいわけだ。
その瞬間リディアは、自分が切り裂《さ》かれたかのように感じ、めまいがした。
殺されたのだと思ったけれど、夢の中のできごとだから、死んでもそんなことを考えている。
ごめんね、リディア。
なによそれ。あなたは、ごめんねであたしを犠牲《ぎせい》にするの?
でも、そういうこともあるかもしれないと、リディアは日ごろから不安に思っている。
エドガーにとっていちばん大切なことが、プリンスへの復讐《ふくしゅう》で、殺された仲間たちの恨《うら》みを晴らすことなら、彼はそのためにリディアを見捨てることだってあるだろう。
そばにいればいつか、こんなことが……。
好きだとか結婚しようだとか、うそぽっかり。
ああいやだ、こんな夢。
助けてとつぶやいたリディアは、ムーンストーンの指輪が悪夢を押しのけようと輝くのを感じていた。
場面が戻る。エドガーはユリシスの前で、別の選択をする。ダイヤなんかいらない、リディアを助けてくれと。
その代わり、死んでもらうよとユリシスは言った。エドガーは命じられるままに、自分の頭に銃口を向けた。
ごめんね、リディア。
いや……。
守護妖精のムーンストーン、ナイトメアを追い払ってくれたんじゃないの?
これは悪夢じゃないっていうの?
こんなのいや。
どちらもいやなら離れた方がいい。
「リディア」
そうね、そうかもしれない。
リディアには、どうしてもエドガーのそばにいなければならない理由もない。
なんとなく巻き込まれて、婚約者に仕立てあげられて、きらいじゃないと思ったり、ちょっと力になりたいとも思ったけれど、同情だけでこの先、いっしょにいるのは無理があるのではないだろうか。
彼がリディアをときどき疎外《そがい》するのは、彼女にはエドガーのすることすべてを肯定《こうてい》できないと知っているからだ。
それなのに、リディアの中にある、平凡な正義感のままで、いやなところはしかってくれていいからとエドガーは言った。そういう感覚が必要だからそばにいてほしいと。
でも、そんなこと無理。
エドガーを理解しきれないまま、そばにいれば、不信感をつのらせるだけ。いつか彼の犠牲になる。
それとも彼自身が、破綻《はたん》するか。
悪夢が現実になるだけなら、きっと離れた方がお互いのためだ。
「リディア、苦しいのか?」
頬《ほお》に触れる手を感じ、リディアは目を開けていた。ようやく夢から抜け出せたのだとわかるけれど、目の前のエドガーのことが、すぐには現実だと思えなかった。
だから無意識に腕をのばす。抱きつくようにして存在感を確かめる。
「大丈夫だよ。夢を見ただけだね」
髪を撫《な》でる指を感じていれば落ち着ける。
そしてはっと我に返る。
「あ、あたし……、ごめんなさいっ、ちょっと頭がぼーっとしてて」
離れようとしたけれど、思うように力が入らなかった。
「もうしばらくぼーっとしてていいよ」
離れた方がいい。
夢の中で感じていた言葉を思い出す。
リディアは、エドガーの犠牲になりたくないし、彼を犠牲にもしたくない。
でも、なんとなく、ときどきふと、離れたくない気がするの。
「おいこら、リディアにくっつくな」
ふたりだけしかいないはずなのに、声がした。顔をあげると、そばにあった鏡の中から突然黒馬が飛び出した。
「ケ、ケルピー……?」
「ひでえなここは、ゴブリンの穴に埋まってやがるぜ。とにかくリディア、とっととここから出るぞ」
さっと人に姿を変えたケルピーは、エドガーを押しのけてリディアの腕を引いた。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ。出るならエドガーも……」
「そいつは無理だ。俺の力じゃひとりしか連れ出せないし、伯爵から遠ざければ、フェアリードクターには手出しをしないと奴は言ってた。おまえだけ連れ出す」
「奴? ユリシスか?」
エドガーは億劫《おっくう》そうに立ちあがるが、リディアがケルピーにかつぎあげられるのを止めようとはしなかった。
「名前なんか知るか。ゴブリンをあやつってる奴だ。そいつにあのホワイトダイヤは奪われたからな」
「やめてケルピー、おろしてちょうだい!」
「バカ言うな」
「エドガー、なんとか言って!」
「おい伯爵、いちおう忠告しといてやる。ユリシスって奴は、あんたを殺すと言って、ゴブリンの穴に入っていったぞ。遭遇《そうぐう》しないように気をつけるんだな」
ケルピーは強引にリディアをかついだまま、鏡の中へ飛び込んだ。
エドガーが止める間もなく、視界が暗転した。
それとも、止める気なんかなかったの?
風邪《かぜ》をひいてふらふらしてるあたしなんて、足手まといだと思った?
ケルピーは暗闇の中を駆け続ける。
風だけを感じながら、いつのまにか馬の姿になったケルピーの背に乗って、リディアは首にしがみついている。やわらかなたてがみを頬に感じる。
エドガーの上着を借りてきたまま、ブラックダイヤも身につけたままだ。
閉じられた、人間界と妖精界の狭間《はざま》。ゴブリンの迷宮を、ケルピーは突き破りながら進む。
ゴブリンに囲まれ、ユリシスの意図が働くこの場所で、ケルピーの背中ほど安全な場所はないかもしれないと思いながら、リディアはふと、エドガーもそう考えたのではないかと思いついた。
エドガーから離れたフェアリードクターに危害を加えないと、ユリシスが言ったのなら、それはケルピーの魔力を警戒《けいかい》してのことだ。
ユリシスは水棲馬が危険な妖精だと知っているから、簡単に手出しはできない。
リディアが身につけたままのブラックダイヤのネックレスも守られる。
だったら、エドガーが守りたいのはブラックダイヤ?
それとも、ダイヤより大切だと言った、昨日の言葉は本当なの?
不本意なキスも、うそだとしたら悲しすぎる。
こんなの卑怯《ひきょう》よ、エドガー。
あたしは、いるの? いらないの?
答えなんかわからない。でも、このまま、離れちゃだめ。
リディアは強くそう思った。
暗闇の中、かすかにムーンストーンが輝いた。
グウェンドレンの指輪が光を帯びる。
新しい伯爵の、新しい守護妖精はあなたでしょうと語りかける。
違うわ。あたしはエドガーと結婚なんて。
でも、彼のフェアリードクターだ。それさえもういらないってことなら、ちゃんとそう言ってもらわなきゃ困るわ。
リディアはケルピーから手を離していた。
「おいっ、リディア?」
落ちる。
深い暗闇の中を、どこまでも落下しながらも、ムーンストーンの淡い光に守られていた。
*
ひとり残されたエドガーは、ゴブリンが開けたという壁の穴に歩み寄った。
じっとしていてもしかたがない。蝋燭《ろうそく》を手に、穴の中へと入ってみることにした。
狭いのかと思ったら、立って歩けるくらいの余裕があった。むしろ、入ってきたものの大きさによって変化するかのようだった。
岩に囲まれた洞穴《どうくつ》が、どこまでも続いているように見える。そしてふと振り返ると、背後《はいご》にあったはずのマダムイヴ・パレスの部屋は跡形《あとかた》もなく消え失せて、岩壁がエドガーの視界をふさいでいた。
なるほど、一歩出ると簡単にはもとの場所に戻れないということかと納得する。
とすると、前に進むしかなさそうだ。
エドガーは奥へ向かって歩き出した。
いつまでたっても一本道だった。途中、右手の壁にナイフで傷をつけてみた。しばらく行くと、その傷が左手の壁に現れた。
「メビウスの輪か? ここは」
リディアを行かせたのは失敗だったかな、と思わないでもなかったが、いまさらどうしようもない。
どうするか、と考え込んだとき、前方に明かりがちらついた。
誰かいる。ユリシスか?
「エドガーさま!」
聞き慣れた声に、エドガーは警戒を解いた。
「レイヴン、無事だったか」
すぐさま駆《か》け寄ってきたレイヴンは、エドガーの前にひざまずいた。
「もうしわけありません。むやみにおそばを離れたばかりに、戻れなくなってしまいました」
「ああまったく、おまえがいなくてたいへんだったよ」
「何かあったのですか」
深刻な顔で、あわてて問い返したレイヴンは、エドガーが怪我《けが》でもしているのではないかと視線を動かした。
「リディアとふたりきりだろ。おまけに彼女はあんな薄着だし、風邪気味で弱ってるし、いろいろがまんするのがたいへんだったんだ」
「……はあ」
「しかしなんというか、熱がある女の子はふだんの三割り増しで色っぽいね。頬《ほお》が淡く染まって、うるんだ瞳で見つめられると、誘われてるとしか思えない。昨日ひっかかれたことを思い出せたおかげで踏みとどまれたけどね」
屈《かが》み込んでエドガーは、困惑《こんわく》しているらしく無表情が固まったままのレイヴンと視線を合わせた。
「見た?」
「……何をですか」
「リディアのおへそ」
「…………」
目をそらしたところからするに、しっかり見ていたようだ。
「忘れるんだよ」
薄く微笑《ほほえ》みつつも、命令の意図をにじませておく。
「はい」
レイヴンはうなだれた。
「まーったく、何を深刻そうに話してるのかと思えばよー」
レイヴンの後ろに、ネクタイをした猫が二本足で立っていた。
「深刻な話じゃないか。ニコ、レイヴンだったらまあ許すけど、ほかの男だったら目玉をくりぬいてやるところだ」
「それより、リディアはどうしたんだよ」
「ケルピーがここから連れていった。このゴブリンの迷宮にユリシスが入ってきているらしい。ゴブリンはバークストン侯爵《こうしゃく》を追いかけていったから、マダムイヴ・パレスを巻き込んだ迷宮をゴブリンにつくらせたのは、ユリシスが侯爵をつかまえるためだろう。僕らがここに入り込んでいるとはまだ知らないかもしれないけど」
「侯爵なら、肖像画《しょうぞうが》だらけの彼の部屋まで追いつめて、縛《しば》りつけておきましたが、あの部屋も迷宮の一部になってしまったようで、一歩外へ出たら戻れなくなってしまったんです」
さまよっていたレイヴンを、ニコが見つけて道案内したということだった。
なぜニコがここにいたのか、エドガーは知らないが、妖精だから道はわかるらしい。
「それでニコ、出口はどっちだ?」
「どうにも出口はなさそうだな。おれはケルピーみたいに穴をぶち破る馬鹿力はないし」
「どうしてもユリシスと遭遇するしかないか」
言いながら、エドガーは立ち上がった。
「ホワイトダイヤはユリシスの手に渡ったらしい。とするとこれからどうするかだな。……とりあえず、侯爵と話をつけておきたい」
「彼を利用するのですか?」
「そうだな……。レイヴン、何があっても僕を信用してくれるか?」
不思議そうに視線をあげながらも、彼は迷いもなく「はい」と答えた。
「侯爵のところへ急ごう。ニコ、案内してくれるね」
「えー、おれはあのユリシスって奴に会いたくないんだけどな。侯爵のところへ来る可能性があるんだろ?」
「だけどきみだって、ユリシスが出口を開かない限りはここから出られないんだろう?」
不満そうに、ニコは腰に手をあて目を細めたが、くるりと回れ右をすると、しっぽをゆらしながら歩き出した。
*
リディアが落ちてきたのは、ゴブリンたちが輪になって宴会《えんかい》を開いている場所だった。
薄汚れた小部屋は、あのマダムイヴ・パレスの部屋ではなさそうだ。とするとゴブリンは、穴を別の場所にもつないでいるのだろうか。
彼らの身長ほどもあるお酒の瓶《びん》を持ちあげ、あびるように飲んでいるかと思えば、カエルが鳴くような声で大騒ぎしている。
すっかりできあがっている彼らが、上から降ってきたリディアに気づいたのは、彼女が立ち上がりそっと隠れようとしたときだった。
急に静まりかえったかと思うと、いびつな顔がいくつもリディアの方に向けられた。
(だれだおまえ?)
(どうやってここへ入ってきた)
「あ……あたしはフェアリードクターよ。ゴブリンたち、あたしに近づくんじゃないわよ」
いつも衣服にしのばせている妖精よけのサンザシも、着替えさせられたため手元にない。
それでも悪意の小妖精たちは、フェアリードクターという言葉に警戒《けいかい》したのか、リディアからさっと離れた。
(黒い宝石だ)
しかし誰かがささやいた。
はっとリディアは、ネックレスを手で隠した。
(ご主人さまがほしがってたやつじゃ?)
(そうなのか?)
(おい、どうする?)
リディアは、暖炉《だんろ》の陰へ身を寄せるようにしながら、ネックレスをはずし、上着のポケットに入れて隠す。
でも、隠しただけではごまかせない。どうやってゴブリンたちをあざむけばいい?
「……助けて……」
そのとき、部屋の片隅でかすかな声がした。
視線を動かし、薄暗い場所に目をこらすと、ゴブリンに囲まれて、男の子が怯《おび》えたようにうずくまっていた。
やせぎすの、青白い顔をした少年には見覚えがあった。
伯爵邸《はくしゃくてい》のライブラリーで会った、あの口の悪い少年だ。
懇願《こんがん》するようにリディアを見あげ、彼はそこから這《は》い出そうとしたが、急に力が抜けて倒れ込んだ。
リディアは、ゴブリンたちを押しのけ、彼に駆け寄っていた。
「ちょっとあなた、ええと、ジミー? しっかりして」
ユリシスにつかまったと、エドガーが話していた。助けなきゃとリディアは、かかえ起こそうとしたが、ゴブリンたちが騒ぎ出した。
(おい、やめろ)
(勝手なことをするな)
「痛っ、何するのよ!」
ひとりが小さなスコップで、リディアの足をつついたのだった。
「……その宝石……」
少年がつぶやいた。
「こいつら、おれをダイヤモンドとひきかえにするための人質《ひとじち》だっていうんだ……」
(そうだ)
(ご主人さまがそう言ってた)
(宝石をよこせばそいつをやる)
どうしよう、とリディアは悩んだ。
エドガーにあずかったようなものだ。勝手に敵の手に渡してしまうわけにはいかない。
でもジミーを助けないと。
……そうだわ。
思いついたリディアは、ゴブリンたちを見おろしながら立ちあがった。
「じゃあ、これをあげれば彼をくれるのね」
手のひらを開き、黒光りする石をゴブリンに見せた。
それだっ、と声があがった。
「いいわね」
彼らが頷《うなず》くのを確認し、リディアは石を放り投げた。
ゴブリンたちはわっと石に駆け寄った。
その隙《すき》にリディアは、少年を助け起こす。
「さあ、早く。今のうちに逃げるのよ」
どうにか立たせ、手を引いてドアをくぐる。ゴブリンが追ってくる様子はないが、リディアはともかくその場から遠く離れようとしていた。
「ダイヤを……、伯爵のダイヤを奴らに渡すなんてどうかしてる」
ジミーは、よろよろと歩きながら、怒ったようにつぶやいた。
自分でダイヤのための人質だと言ったくせに。いまだにリディアにつっかかってくる様子なのには閉口《へいこう》した。
「あれは石炭よ。ゴブリンはしばらく気づかないわ」
「……石炭?」
ジミーが倒れたそばに、石炭バケツがあったのだ。ダイヤと大きさの似た石炭のかけらを、こっそり拾ったリディアは、それをゴブリンたちに示して見せたのだった。
彼らは、リディアが見せた石とジミーをひきかえにすることを承諾《しょうだく》した。
「だましたのかよ」
「だましたって……、あなたを助けるためじゃない」
いつのまにか、薄暗い路地へと出ていた。
両側に建物がせまっている。古びて崩れかけた煉瓦《れんが》、散らばったガラス、鎧戸《よろいど》も窓枠《まどわく》も壊れた窓が不規則に並ぶ、貧しい路地だ。
けれどここも、ゴブリンの穴にとらわれた路地で、迷宮から抜け出せたわけではなさそうだった。
方向に迷い、リディアが立ち止まると、彼女が引いていた手を、ジミーは振り払うようにして離した。
「伯爵は?……おれを助けに来てくれるはずだよな」
「ええ、来てるわ。あなたのことは、みんなで手分けしてさがしてたの」
けれど彼は、不審《ふしん》げにリディアを見ていた。
「伯爵のブラックダイヤを、おまえが盗んだのか?」
「は? 何言ってんの?」
いきなり目の前に突き出されたのは、先のとがったガラス片だった。
「おまえ、伯爵に取り入って、あれを盗み出したんだな?」
「な、何言うの?」
「最初からおれ、おまえがスパイだと思ってた。妖精が見えるなんてあいつと同じだ。おれをつかまえて閉じ込めてた奴と」
「ちょっと待って、ユリシスとは……」
「本物のダイヤをよこせよ。おれを助けるふりして、利用しようったって無駄《むだ》だからな」
「違うわ。信じて、あたしは……」
「人間のふりしてるけど妖精なんだろ。あいつのしもべだろ?」
「ちが……」
「だまされないからな!」
ガラス片を手に、向かってくる。リディアはどうしていいかわからなかった。
そのとき、ジミーの動きが急に止まった。
少年の腕をとらえ、リディアから引き離したのはアーミンだった。
「やめなさい。彼女は本当にエドガーさまの味方よ」
ジミーはアーミンに気づき、驚いて力を抜いた。しかし、容易にはリディアを信用する気になれなかったのだろう。
「うそだ、あんたもだまされてるよ!」
混乱したように首を横に振ると、急に駆《か》けだしていった。
アーミンが追いかけようとしたが、路地の曲がり角に彼の姿が消えると、きびすを返して戻ってきた。
ジミーを追うと、リディアと離ればなれになってしまうと判断したのだろう。
「リディアさん、お怪我《けが》はありませんでしたか?」
「ええ。でもアーミン、どうやってここへ入ってきたの?」
「よくわかりません。ジミーが監禁《かんきん》されているという地区に入り込んだのですが、急にあたりがゆがんだというか、路地も建物も空間ごとねじれてしまったようで」
「ゴブリンが穴を掘ったせいね。あなたのいた場所も、迷宮に取り込まれたんだわ。エドガーもレイヴンもどこかにいると思うけど、バークストン侯爵《こうしゃく》も、ユリシスもいるはずなの」
[#挿絵(img/diamond_221.jpg)入る]
アーミンは神妙《しんみょう》に頷《うなず》いた。
「スカーレットムーンの何人かも、いっしょにジミーをさがしていたので、ここに迷い込んでいると思います」
「あの子、その人たちと会えればいいんだけど」
「とりあえず、移動しましょう。エドガーさまにはあなたが必要でしょうし」
そうかしら。
ジミーに罵倒《ばとう》されると、ことごとく自信がなくなる。金緑の瞳や、妖精が見えるということは、そんなに不気味な印象を与えるのかしらと。
ううん、そんなことよりも、フェアリードクターとしてここに残ったのだから。
リディアは自分にそう言い聞かせ、アーミンと路地を進む。
歩きながら、衣服の飾りがしゃらしゃらと音を立てれば気になり出す。リディアが人形の衣装を着ていることを、アーミンはどう思っているのだろうと。
エドガーの浮気を調べに来たとでも思っているかしら。
おまけに、彼の上着を着ているし。
「あの、アーミン、この服は、あたしの意志でこうなったわけじゃないの」
「ええ、トラブルがあったとしか考えられませんから。でもエドガーさまがよく、上着を貸してくださいましたね」
「え? どうして?」
「せっかくだからせいぜい観賞《かんしょう》しようと思うはずです」
アーミンはけっこう、恥ずかしいことを平気で言うなと思った。
「……観賞に値《あたい》しなかったんじゃない?」
「観賞ですむ自信がなかったんでしょう」
うわ、もう。
話を変えようとリディアは思った。
複雑な路地を歩き続けるうちに、行き止まりの道が増えてきていた。
「ねえ、ゴブリンの迷宮が小さくなってきている気がするわ」
「それは、どういうことなんでしょうか」
「中心に向かって、人を集めようとしているみたい」
ここに入り込んだ者がみな、中心に集まってくるとしたら、ユリシスはそこで何をするつもりなのだろう。
考えていたリディアの足元に、突然穴があいた。
はっと気づき、アーミンが手をつかんだが、彼女の足元も崩《くず》れ、ふたりで落下する。
落ちた距離はわずかだった。現実ほどの衝撃《しょうげき》もなく、ふわりと地面に両手をついただけだったが、立ちあがろうとしたリディアは頬《ほお》に冷たい刃物を感じ、硬直《こうちょく》した。
「ようこそ、お嬢《じょう》さんたち」
淡い金髪の少年が、目の前でにやりと笑った。
「ユリシス……!」
アーミンが身構えようとしたが、ユリシスはリディアに腕をまわして引っ立て、アーミンの動きを封じた。
「動くんじゃないよ。伯爵《はくしゃく》の女を死体にしたくはないだろう? ああそれとも、こいつが死んでくれた方がうれしいかい?」
ゴブリンたちがまわりを取り巻く。騒ぎながらリディアの足を踏んだり蹴《け》ったりする。
おまえのダイヤはニセ物じゃねーかと怒っている。
それでもまだ幸運なことに、ユリシスはリディアが本物のブラックダイヤも持っていたとは知らないようだった。
「人質《ひとじち》がほしいなら、わたしを。彼女は離してください」
「きれいごとなんか言うなよ。本当に殺してやってもいいよ。おれがこいつを殺して、おまえは助けようとしたけど無理だったって泣き崩れれば伯爵は許してくれるさ」
「バカげたことを」
アーミンがあっさり吐《は》き捨てると、ユリシスはにやにや笑いながら舌打ちした。
「そうか。恋人が何人死んだって、奴がプリンスの女だったおまえに手を出すわけないよな」
そんなふうに言われても、彼女は顔色ひとつ変えなかった。
みんな奴隷《どれい》だったと聞いていた。けれど、エドガーやレイヴンとはちがう、アーミンは別の苦痛をかかえているのだと、リディアは苦しい気持ちになった。
「先を歩け。伯爵に会いたいんだろう。フェアリードクター、あんたが奴の上着を着てここをうろついてるってことは、奴もここに入り込んでるわけだ? 連れていってやるさ」
ユリシスは、リディアにナイフを突きつけたままアーミンに命じた。
心配そうにリディアを見つめながら、アーミンは迷っているようだった。このままユリシスの言うとおりにすると、リディアが怖い思いをするのではないかと。
「アーミン、あたしは大丈夫よ」
あまえてなんかいられない。ユリシスがいることくらい承知していた。
彼らの苦しみをリディアは理解できないけれど、足手まといになるつもりでここに残ったわけじゃない。
リディアが毅然《きぜん》と言うと、アーミンは頷き、ユリシスの示す方向へ歩き出した。
[#改ページ]
ダイヤモンドより強く
「ジーンメアリー、私はもうだめだ」
椅子《いす》に縛《しば》りつけられたまま、バークストン侯爵《こうしゃく》は肖像画《しょうぞうが》を見あげた。
「プリンスを裏切った。ユリシスに見つかれば殺されるだろう。ふたつのダイヤを手に入れれば……、幻のブラックダイヤを身につけ現れたきみが、そう望んでくれていると信じたのに、敵の罠《わな》にはまっただけだった」
彼を囲み、四方から視線を投げかけている絵姿の貴婦人は、うっすらと笑みを浮かべているだけだ。
「ジーンメアリー、公爵《こうしゃく》との結婚は、きみにとって不本意ではなかったのか? 私のことを忘れずにいてくれると思っていたのに、きみを公爵の手から救い出すかのようなつもりでいた私は、きみにとって悪魔のように見えたのだろうか」
何もかも、もはや彼女にとっては無意味なのだろう。
親が決めた許婚《いいなずけ》、それ以上でも以下でもなかった彼に、今となっては憎しみさえ向ける価値はないと無視されているようで、絶望感だけがつのっていた。
少し前まではこの部屋で、ジーンメアリーは、彼の愛情に応《こた》えてくれていた。けれど夢からさめたように、すべて幻《まぼろし》だったと気づいてしまうと、絵の中の女性はもう何も語りかけてはくれない。
「もう、侯爵家もおしまいだ。いずれプリンスは英国へ来る。新たな革命が起こる。プリンスに仕《つか》えてきた我が一族が待ち望んでいたはずの日に、破滅《はめつ》の宣告《せんこく》を受けるだろう」
背後《はいご》で人の気配《けはい》がした。
「プリンスが英国に君臨《くんりん》すれば、あなたの家を重臣《じゅうしん》として取り立ててくれるはずだったというわけか? だがもうありえないどころか、破滅はそこにせまっているよ。バークストン侯爵家のたくらみを国家が知ったらどうなる?」
声の方に振り返ったバークストン侯爵は、あの金髪の伯爵《はくしゃく》がそこに立っているのを見た。
「……私が憎いなら、殺せばいい」
この場所で死ねるなら、それもいいと彼は思った。
プリンスに敵意を持っている、青騎士伯爵家の生き残り。だからエドガー・アシェンバートには気をつけろとだけユリシスには聞かされていた。
しかしアシュンバート伯爵の素性《すじょう》は、もっと複雑だったようだ。ユリシスは知っていながら教えなかったのだろう。
「あなたにはまだ、やってもらいたいことがある」
「言うとおりにする筋合《すじあ》いはない」
「チャンスをやろうと言っているんだよ。僕に忠誠を誓え。かつてあなたが、それとも先祖が、皇太子《プリンス・オブ・ウェールズ》を名乗る亡命《ぼうめい》王子にそうしたように」
この青年は、ジーンメアリーの息子だ。プリンスがほしがった、王家の血を濃く引く後継者《こうけいしゃ》だ。
だが、プリンスは彼を自分の手中にすることに失敗している。
「アメリカの男はどうせ死ぬ。僕が殺す。だからあなたの王子は、この僕だ」
見あげながら侯爵は、昔、王位は神が与えたものだと信じられていたことを思い出した。
だからこそいまだに、その血筋に神聖さを求める人々がいる。
こうごうしい金髪、慈悲《じひ》深い笑み、聡明《そうめい》な光が宿る灰紫《アッシュモーヴ》の瞳。公爵家に生まれたからこそ備わったのなら、自分のレプリカをつくろうとしたプリンスは、知らずと自分を超える存在を生み出してしまったのではないだろうか?
口をあけたままこちらを見あげるバークストン侯爵は、すでに逆《さか》らう気力をなくしているとエドガーは受けとめた。
レイヴンに、侯爵を縛っていた縄《なわ》をほどかせる。立ちあがろうとする彼を押さえつけ、レイヴンはひざをつかせた。
「私に、何をしろと」
「ユリシスからデイドリーム≠取り返してもらう。あれがプリンスのものだというなら、僕のものだ」
さらに冷淡《れいたん》に、エドガーはささやく。
「終えたらジーンメアリーのところへ行ってもらってかまわない。彼女があなたをおぼえているかどうかは知らないけどね」
うつむいたままの侯爵の肩が、憤《いきどお》りか恐れか、かすかに震《ふる》えた。
「私に死ねと言うのか」
「あなたの命を、忠誠のあかしにしよう。安い代償《だいしょう》だろう? たったそれだけで、あなたの一族が救える。よく考えてごらん、あなたは女王|陛下《へいか》をあざむいてデイドリーム≠隠した。大罪《たいざい》だよ。プリンスが王権を乗っ取れば英雄になれたかもしれないけど、奴のことも裏切った。もう僕にすがるしかないじゃないか。女王陛下もプリンスも、あなたが死んだくらいでは許さないだろうけど、僕は許してやろうと言ってるんだ」
「……無理だ。ユリシスからダイヤを取り戻すなんて私には」
「そう。できなければ、侯爵家がひとつ消えるだけだけれどね」
徹底的にやるよ、とエドガーはつけ加えた。
勇気を奮《ふる》い起こして悪魔の顔を確かめてやろうというふうに、侯爵は慎重《しんちょう》に視線をあげた。
「きみは、プリンスにそっくりだ。きみが憎んでいるはずのあの男と、同じ種類の人間だ」
「なら、選択の余地などないことくらいわかるだろう?」
人を言いなりにする方法、畏《おそ》れをいだかせ、追いつめて支配する。プリンスのやり方を、エドガーはよく知っている。
戦うためにその手を使いながら、エドガーはいつも、自分がプリンスに近づいていくような気がしている。
いや、これは単なる知識だ。熟知している方法を使うだけのこと。自分の本質が変わるわけじゃない。そう思おうとしても、疑問はつきまとう。
だんだん、毒におかされていくような感覚だ。
しかしエドガーは、侯爵をあやつるためにとどめをさす。
「いいかい? ここを出て、デイドリーム≠僕の宮殿に届けるのがあなたの仕事だ」
「……どこだって?」
「バッキンガム宮殿だ。あそこなら、確実に保管してくれるはずだろう? そうして、シルヴァンフォード公爵家の名誉を回復できればあなたを許す。いずれきみの家をとりたててやるから、君主が誰か、一族にしっかり伝えておくんだね」
プリンスを殺し、自らが皇太子《プリンス》に成り代わるとのエドガーの宣言を、侯爵が本気にしたかどうかはわからない。だがもはや、ボニー・プリンス・チャーリーの後継者として、目の前のエドガーを認めるしか道はないと理解したはずだ。
侯爵にとって、ジーンメアリーを得ることと同時に夢だったはずなのは、一族とかかわり深いもうひとつの英国王家の再興だ。
それがかなう幻を、エドガーに重ねようとしたのか、一瞬夢見るように目を細め、そして頭《こうべ》を垂れた。
床にひざをついたまま、ぎこちなく片手を胸にあてる。
「皇太子殿下《ユア・ロイヤル・ハイネス・プリンス・オブ・ウェールズ》……、仰《おお》せの通りに」
「行け」
立ち上がり、ふらふらと出ていくバークストン侯爵を見送って、エドガーは嫌悪《けんお》感に脱力しながらソファに座り込んだ。
「エドガーさま、ご気分でも?」
心配そうにうかがうレイヴンは、今のエドガーと侯爵とのやりとりに、少し不安になっていたかもしれない。
「いや、大丈夫だよ」
エドガー自身不安になった。すでに自分の中に、あの憎い男の人格が侵入《しんにゅう》をはじめているのではないかと思うほどだった。
皇太子殿下? バッキンガム宮殿? バカげている。
ボニー・プリンスの血統だとしても、シルヴァンフォード公爵《こうしゃく》家に大昔の王子や王女の血が流れているのと変わらないではないか。
ただエドガーは、諸悪の根元、悪の帝王にさえ思えたプリンス自身も、王家の因縁《いんねん》という大きな力に支配されているのかもしれないと思うと、自分が逃《のが》れきれるのかどうか不安になるのだった。
しかし、エドガーの望みはプリンスに対する復讐《ふくしゅう》のみだ。いまさら貴族の身分も、なおさら王族の血もどうでもいい。
イブラゼル伯爵《はくしゃく》、それでじゅうぶんじゃないか。
そしてリディアを想う。
彼女がそばにいてくれるなら、大丈夫だと。
「バークストン侯爵《こうしゃく》に、ユリシスからダイヤを奪うことができるでしょうか」
「さあね。あれでも由緒《ゆいしょ》ある侯爵家の家長なんだから、死にものぐるいでどうにかするんじゃないか? ダイヤを手に入れるのが無理でも、どうすれば僕が満足するかはわかっただろうから」
シルヴァンフォード公爵が王家のダイヤを盗んだという疑惑は、証拠はなく処罰もなかったとはいえ、いつまでもつきまとっている。反逆の疑惑を晴らしても、エドガーが公爵家の長子だと身をあかすすべはなく、家名を取り戻すことはできないとわかっているが、せめて死んだ父の名誉は守りたかった。
視線を感じ、エドガーは首を動かす。肘掛《ひじか》け椅子《いす》に腰かけた灰色の猫が、不審《ふしん》げにこちらを見ていた。
「ニコ、さっきのは芝居だよ、ぜんぶ」
「本当に王子のつもりになって、戦争おっぱじめるつもりなんじゃないかと思えたぞ」
「戦争? 僕には軍隊なんかないのに」
あったらするのかよ、と彼はつぶやいた。
「やっぱりあんた、うさんくせえよ」
まったくだ。自分でもそう思うくらいだから。
「リディアとの結婚に反対する気かい?」
「おれはさ、あんたのそれ、もともと本気じゃないと思ってるからな」
「本気だよ」
「実現しないと思ってるだろ。ちょっとばかり平和で楽しそうな夢を見たいだけだ」
「夢で終わらせたくない」
「実現する努力を、これっぽっちもしてないくせに? リディアを口説《くど》き落としたって、実現しやしねえよ。リディアの気持ちや将来を、ほとんど考えてもないのに結婚を口にするだけだろ。このままじゃ、リディアがかわいそうだ」
静かな口調《くちょう》でエドガーを責める。
けれど、実現する努力って? リディアがその気にさえなれば、実現すると思っていた。
「復讐をやめろと言いたいのか?」
「いまさらあんたに、まともな人間になれと言っても無駄《むだ》なんだろう」
猫にまで、まともじゃないように見えるのか。
落ちこんで猛省《もうせい》すべきところなんだろうと思いながらも、エドガーは、しかたがないとあきらめていた。
まともな神経で、戦ってはいけない。
けれどリディアが、それでもエドガーに、同情ではなく愛情を向けてくれるのかと問えば、難しいのだろうと思いながら。
「さて、ちょっと行ってくるか。さっきからあれが騒いでやがる」
ニコは椅子から飛びおりた。
「あれって?」
「ケルピーだよ。馬はこういう、曲がりくねった道は苦手なんだろうな」
「待ってくれ、ケルピーがまだここにいるなら、リディアはどうなってるんだ」
「それが気になるから見に行くんだよ。ケルピーだけがさまよってたって、おれには関係ないけどさ」
リディアの身に、何かあったのか。
壁の奥で、穴を掘る音がする。さっきより部屋がゆがんで見える。
人間界と妖精界の狭間《はざま》にあるとリディアが言っていたこの場所に、異変が起こっているのだろうか。
ユリシスが来る、エドガーはそう思った。
*
マダムイヴ・パレスの門番と、もう三十分もカールトンは押し問答《もんどう》を繰り返していた。
会員しか入れないうえ、アシェンバート伯爵が会員かどうかも、彼が中にいるのかさえ教えてくれない。
噂《うわさ》どおりのハーレムなのか、女が監禁《かんきん》されていたりするのか、だとすれば犯罪だと訴《うった》えても、「お引き取りください」と丁重《ていちょう》に退《しりぞ》けられるだけだった。
完璧《かんぺき》な秘密厳守だ。
「私の娘がいたらどうしてくれる」
「いるはずがございません」
「だったら確かめさせてくれ」
「ご入会なさいますか? 会員さまのご紹介と、入会金が必要ですが」
屈強《くっきょう》な体つきの門番は二人もいて、用心棒もかねているのだろうか。口調は丁寧《ていねい》だが立ちはだかってカールトンを威圧《いあつ》する。
突破《とっぱ》しようとしても、やせぎすのカールトンなど簡単につまみ出されそうだった。
そのとき門番が、止まった馬車に目をとめた。ひとりがさっと駆《か》け寄り、馬車のドアを開けて迎える。降りてきたのは、太った黒髭《くろひげ》の男だった。
「いらっしゃいませ、ミスター・スレイド」
その名に、カールトンは聞き覚えがあった。
急いで男の方に駆け寄る。門番に押しのけられる前に声をかけた。
「スレイドさん? もしかして画商《がしょう》の?」
そうですが、と男は怪訝《けげん》そうに振り向いた。
「あのう、画家のポール・ファーマンさんと娘が知り合いでして、ファーマンさんからあなたのことをうかがったことが。あ、私はカールトンともうします。娘がアシェンバート伯爵の……」
「えっ、フェアリードクターの、お父上?」
意外と話は早かった。
「じつは、娘が帰ってこないのです。ここにいるかもしれないとちらりと耳にしまして」
「リディアさんがですか? いや、ここにはいないでしょう」
なんとなく、彼はうろたえながら否定したように見えた。
「でも、できれば今すぐ確かめたくて。伯爵といっしょじゃないんでしょうか」
「あー、では私が見てきましょうか」
この男、伯爵の関係者としてここに出入りしているのかもしれない。とすると、本当のことを言うだろうか。とカールトンは心配した。
「私も入っていってはいけませんか」
「いやあの、それはですねー」
「伯爵は中にいらっしゃるんでしょう? 直接話をうかがいたい。リディアがここにいようといまいと、未婚の少女がハーレムに連れ込まれたかもしれないなんて、単なる噂でもほうってはおけません」
意気込んでそう言ったときだった。
建物の内部で、爆発音のようなはげしい音が響いた。
門番たちもあわてて振り返り、建物の中へ駆け込んでいく。
チャンスとばかりに、カールトンも戸口に踏み込むが、広い玄関ホールも、金の手すりが続く階段にも、異変は見られなかった。
しかしシャンデリアだけが大きくゆれている。
何が起こったのかと、ひとりで入っていくのが不安に思ったのだろうか、スレイドがカールトンを手招きした。
「伯爵《はくしゃく》はこちらのはずです」
絨毯《じゅうたん》が敷きつめられた廊下《ろうか》は、壁も天井も隙《すき》なく装飾で埋《う》め尽《つ》くされている。瞳に宝石を使った黄金像を横目に、スレイドは大きな扉の前で立ち止まった。
ノックをするが、返事はない。
誰もいないのではないかと、待つのももどかしく、カールトンはノブに手をかけた。
「開かない。鍵《かぎ》がかかっているのか?」
「ここには鍵なんて」
しかしスレイドが試してもドアは開かなかった。
今度は体当たりでドアを破ろうとしてみた。
スレイドとふたりがかりでドアを破る。
と、勢いあまって転がり込んだ部屋の中は、テーブルや椅子《いす》がひっくり返り、壁には穴があいて隣室《りんしつ》の漆喰《しっくい》まで届くほどだ。天井もはがれ落ちてめちゃくちゃに荒れていた。
だが誰もいない。
「どうなってるんだ?」
そのときまた、大きな音が響き、建物がゆれた。
使用人たちがあわてた様子で駆け回っている。
音のした方へ、カールトンも駆けだしていた。
*
ゴブリンたちに囲まれながら、リディアは歩いた。
ユリシスのナイフを背中に感じながら、少し先を行くアーミンについていく。ゴブリンが道を示す。
暗い穴の中を、ゴブリンが手にしているランプが照らしていた。
やがて道は行き止まり、三人は岩に行く手をはばまれる。背後《はいご》の道は、闇に包まれてよく見えないが、明かりが届かないところをみると、すでに道としての空間が存在していないのではないかと思われた。
ゴブリンの迷宮は、少しずつ縮んでいるのだ。
ユリシスがあごで指図《さしず》し、突き当たりの岩を、ゴブリンがつるはしでたたく。
岩が崩《くず》れ落ち、現れたのは扉だった。
ユリシスはそこをアーミンに開けさせた。
肖像画《しょうぞうが》に埋め尽くされた部屋だった。それもすべての絵が、ジーンメアリーだ。
天井の高いきらびやかな部屋は、マダムイヴ・パレスの一室に違いない。
とするとこれが、バークストン侯爵《こうしゃく》のハーレムだろうとリディアは思いながら、ユリシスに引きずられて部屋へ進み入った。
「お待たせしましたね、アシェンバート伯爵」
「遅いから帰ろうかと思ったよ」
部屋の主みたいに、足を組んで中央のソファに座っていたエドガーは、アーミンとリディアと、そしてユリシスとを確認するように眺《なが》めたが、表情ひとつ変えず、何を思ったのかはわからなかった。
エドガーのそばにはレイヴンがいた。
「せっかくですからそうおっしゃらずに」
「リディアは先に帰したはずなんだが」
「道に迷っていたのでお連れしたんですよ」
「……あの、落馬したの」
納得しつつも困惑《こんわく》したように、エドガーはため息をついた。
迷惑だっていうの? リディアはなんだか落胆《らくたん》した。
リディアのことをケルピーと行かせたけれど、本当は必要とされているはずだと思いたかったのに。
「さてロード、あなたはナイトメア≠お持ちのはずだ。以前あなたに横取りされて以来、行方《ゆくえ》がわからなくなっていたあのブラックダイヤを餌《えさ》に、バークストン侯爵をそそのかしたのだろうことはわかっていますよ」
リディアは緊張した。
やっぱり、戻ってくるべきではなかったかもしれない。
エドガーは、ブラックダイヤをユリシスから遠ざけるためにリディアを行かせたのに、ダイヤを持ったまま戻ってきてしまった。
ユリシスと戦うには、フェアリードクターが必要なはずだ。でも、それ以前の問題かも。
なにしろリディアは、ユリシスにつかまっていて身動きもできない。
「わかった。ブラックダイヤを渡す」
アーミンとレイヴンが目で合図するのに気づく。エドガーは、ユリシスがダイヤに気を取られた隙《すき》をつき、彼を取り押さえるつもりだろう。
現実の空間でなら可能かもしれない。でもここでは無理だ。ユリシスはこの空間の主人だ。ゴブリンたちを従えている。
ダイヤモンドを手に入れたら、一気にここを押しつぶして脱出するのではないだろうか。
「だめよ、エドガー、ダイヤは渡さないで!」
必死になってリディアは言った。
「ごめんなさい、あたし、勝手に戻ってきたりして。なんだか、やることなすこと裏目に出てるみたいね。呪《のろ》いのせいかしら……。でもぜったいダイヤは渡さないで」
「うるさい女だな」
ユリシスが苛立《いらだ》った様子で、リディアをナイフの方に引きつけた。
注意がそれた隙をついて、アーミンがユリシスに接近した。ブーツに隠していたナイフを引き抜き、ユリシスに切り込む。
リディアを背後に押し、割り込もうとするが、リディアはまだ、腕をユリシスにつかまれたまま動けない。
が、次の瞬間、リディアの視界にレイヴンが飛び込んできた。ユリシスが反応するよりも早く、ナイフが心臓をねらった。
血が飛び散ったかのように見えた。
しかし、ユリシスと自分を取り巻く空間が一瞬ゆがむのをリディアは感じた。
はっとレイヴンが体を引く。
瞬間移動でもしたように、リディアはユリシスにかかえ込まれたまま、アーミンとレイヴンから引き離されていた。
血がにじんでいるのはアーミンの腕だ。
ユリシスは笑う。
エドガーは、驚きの表情を隠せずにいた。
「わかりましたか、ロード。ここじゃあなたたちは戦えませんよ。仲間どうし斬《き》りつけ合いたいなら止めませんが」
そうして、もうどうでもよくなったかのようにリディアを放り出した。
ユリシスは冷淡《れいたん》に口を開く。
「ダイヤモンドは? さっさと出さないと、みんなここに埋まって死にますよ」
「出したって死ぬんだろう?」
「素直に出せば、ロード、あなただけは助けてさしあげます」
「助かりたいなどと思うとでも?」
「殿下《でんか》のもとへ戻れば、おれに感謝したくなりますよ」
裏切り者で憎むべき敵と思っているはずのエドガーのことを、ユリシスはほとんど敬称で呼ぶ。それはエドガーが現在伯爵であるせいでも、公爵《こうしゃく》家の長子であるせいでもなく、プリンスとつながる王家の血筋だからだ。
やっぱりユリシスは、積極的にエドガーを殺さねばならないわけでもないのではないか。
でも、ダイヤを渡さずに、みんなが助かる方法があるのか、リディアには思いつけない。
エドガーは、リディアを立たせながら、さりげなく彼女の上着のポケットに触れた。
そこにブラックダイヤがある。
リディアが首にかけていたはずのブラックダイヤがないから、ポケットに入れたのではないかと確かめたのだろう。
そしてエドガーは、ユリシスに向き直った。
「リディアが助かるなら、望みどおりにしてやる」
「え、……何言ってるのよエドガー」
「僕を殺そうとプリンスに渡そうと、好きにすればいい。でもリディアだけは、もともと無関係だ」
レイヴンとアーミンは、自分たちに助かる余地がないとしても、異論もなさそうにじっとしている。
いつのまにここへたどり着いたのか、戸口にポールと、スカーレットムーンの団員だろう数人がいた。
縮んでいるゴブリンの迷宮は、中にいる人間をみんなここへ集めるのだろう。そうしてユリシスは、みんなまとめて殺してしまおうとしている。
なのに、リディアだけ助けろとエドガーは言う。
「リディアをここから出してくれれば、ダイヤの隠し場所を教える」
それはつまり、リディアをダイヤモンドごと逃がそうということだった。
[#挿絵(img/diamond_245.jpg)入る]
「それを信用しろと?」
「信用できないなら勝手にすればいい。永遠に、ブラックダイヤはプリンスのもとには届かない。以前にも、僕が隠したあれを、きみたちは見つけられなかったじゃないか」
貴重なブラックダイヤを手にしたまま、もし外に出られたら、リディアは何をすべきか漠然《ばくぜん》と理解した。
それでもって再びユリシスと駆け引きするしかない。みんなが助かるように。
でも、そんなことがリディアに可能だろうか。その前にみんな殺されてしまったら。
あまりにも危険な賭《かけ》だ。
そもそも、ユリシスはこの取り引きに応じる気になるのだろうか。リディアは、エドガーの言うとおりにするべきなのだろうか。
どうしていいかわからないまま、息をつめてユリシスの様子を見守った。
「だまされちゃだめだ!」
不意に割り込んだ声は、ポールのそばから進み出たジミーだった。
彼らといっしょに戻ってきたらしい少年は、必死の様子で声高《こわだか》に叫んだ。
「伯爵《はくしゃく》、この魔女にだまされてる! そいつは敵の仲間なんだから、ブラックダイヤを持ったまま逃がしたりしちゃだめなんだから!」
リディアがブラックダイヤを持っていると、ジミーは知っている。そして彼の叫びは、そのことをユリシスに教えてしまっていた。
はっと身構え、エドガーはリディアを背後に押し出したが、ユリシスではなくジミーが、こちらに向かって突っ込んできた。
「伯爵のダイヤを返せよ!」
リディアにつかみかかった彼は、子供とは思えない力があった。
「やめろ、ジミー!」
エドガーが叫ぶ。
突き放してどうにか逃《のが》れたが、ジミーは部屋にあった果物《くだもの》ナイフを拾い上げると、かまえながらリディアをにらみつけた。
ユリシスが声を立てて笑う。
「なるほど、そういうことか。ジミー、おまえは正しいよ。伯爵のためにこいつを殺してやるがいい」
「リディア!」
エドガーの声に振り向けば、すぐそばにユリシスがいた。リディアをつかまえ、羽交《はが》い締めにしてジミーの方に向き直る。
ナイフの的《まと》にしろといわんばかりだった。
そのときリディアは、ジミーがユリシスと目を合わせ、にやりと笑うのを見た。
この子……、おかしい。スカーレットムーンの団員なんかじゃない?
そう思ったとき、ジミーの瞳の色が、にわかに赤く変化したのに気がついた。
まさか、人間じゃない?
妖犬の赤い瞳だ。
「おまえは……、黒妖犬《こくようけん》なの?」
リディアは叫んだ。
正体を見抜かれた少年は、舌打ちしながら犬の姿に変化した。
「ユリシスの、手先なのね!」
毛むくじゃらの大きな犬は、燃えるように赤い不気味な目をこちらに向けた。
恐ろしい力で人を八《や》つ裂《ざ》きにするという妖精。遠ざける方法は?
しかしリディアが思い出す間《ま》もなく、ユリシスが黒妖犬に命じた。
「やれ」
床を蹴《け》って、妖犬が大きく飛び上がる。
逃げ場もない。
そのときリディアの目の前に、別の黒い影が飛び込んできた。
妖犬よりもさらに巨大な、黒い馬が、犬とぶつかり合う。
「ケルピー!」
魔力がぶつかる衝撃《しょうげき》に、リディアはそばにいたユリシスに倒れかかる。そのとき、彼のフロックコートのポケットに、ちらりとネックレスのチェーンが見えた。
ホワイトダイヤのネックレスだ。
リディアは手をのばす。起きあがりざまにネックレスを奪い取る。
気づいたユリシスが取り返そうとしたが、リディアは無我夢中でそれを放り投げた。
ネックレスが飛んだ方向には誰もいなかった。
スカーレットムーンの何人かが、拾おうと動いたが、横取りするようにかすめ取った人物がいた。
この迷宮に入り込んでいたはずのもうひとり、バークストン侯爵《こうしゃく》だった。
ええっ、だめじゃないの。
侯爵はドアの外へ逃げ出した。
しかしどうせ、ゴブリンの迷宮からは出られない。だからかどうか誰も追わない。
ケルピーと黒妖犬が再びにらみ合う。緊張の均衡《きんこう》を破って両側から飛びかかる。
その隙《すき》にリディアは、エドガーに腕を引かれ、どうにかユリシスから解放されるが、暴れる水棲馬《ケルピー》のしっぽが巻き起こす風圧に、エドガーとともに壁まではね飛ばされていた。
と思うと、リディアの目の前に灰色の生き物が転げ落ちてきた。
「ニコ!」
「お、おれをおろしてからにしてくれよ……」
ふらふらと立ちあがる妖精猫は、ケルピーのたてがみにしがみついていたようだが、振り落とされたのだろう。
手ぐしで毛並みとネクタイを整えながら、彼はリディアの方を見た。
「はーっ、間に合ったか?」
「ニコ、あなたどこ行ってたの?」
「ああ? 説明してやってくれよ、伯爵」
「それよりケルピーが」
体勢を立て直した黒妖犬は、ケルピーに向けて低いうなり声を発した。
再び飛びかかってくる。
ケルピーは黒妖犬の牙をかわし、その前足に食らいつく。振り回し、投げ飛ばす。
「犬ごときが、俺さまにかなうと思うなよ」
肉を噛《か》み切られたらしく、多量の血をまき散らしながら壁にたたきつけられ、一瞬少年の姿に戻ったジミーは、気絶したらしく姿を消した。
しかし、リディアがほっとするのもつかの間、部屋が大きくゆれだした。
天井や壁がたわみ、みしみしと鳴る。今にも崩れそうだ。
「悪いけど、伯爵《ロード》、あなたの負けには変わりありませんよ」
そう言いながらも、黒妖犬をやられて不機嫌《ふきげん》そうに、ユリシスが立ちあがった。
「みんなこの空間ごと埋《う》めてやるよ。ふたつのダイヤは、あとから掘り出すしかなさそうだがしかたがない」
そう言って彼が姿を消すと同時に、大きな圧力がかかったのを感じると、窓ガラスが砕け散った。
とっさにリディアは頭からかかえ込まれたが、破片でエドガーが負った小さな傷を見ただけで気が動転した。
「ど、どうしよう……」
「これは、ゴブリンの穴が消えかけてるってこと?」
「そうだな。おい、リディアをよこせよ。ひとりだけなら連れ出せる」
いつのまにか人の姿に変じていたケルピーは、当然のようにそう言った。
「この中でひとりだけだ。だが俺は、リディア以外を助ける気はないからな」
誰も異を唱えなかった。やりきれないな、とニコだけがつぶやいた。
「いや!」
リディアはまともに考えられない状態で、ただがむしゃらにエドガーにしがみついた。
「あたしだけなんていや。ケルピー、あたしじゃなくてみんなを助けて!」
「無茶言うな」
「エドガー、あたしを離さないで。まだあきらめないで。いつもはあたしがいやがったって離してくれないくせに、あとで後悔するわよ!」
自分でも何を言っているのかわからない。
エドガーは困惑《こんわく》していた。けれど小さくため息をついた彼に、やさしく肩を抱かれた。
すると急に気持ちが落ち着いてきた。
そう、まだ方法があるはずだと考える。
「くそっ、出口を開くには俺だけの力じゃ足りないんだよ」
言いつつケルピーは見まわす。
「おい、アザラシに鳥、魔力は使えないのか?」
アーミンとレイヴンに目をとめたが、ふたりとも戸惑《とまど》うだけだ。|アザラシ妖精《セルキー》に生まれ変わったばかりのアーミンは、妖精としての自覚がほとんどない。レイヴンは、精霊を宿していても人間だ。
「ちっ、無理か。ほかの妖精は……役立たずな猫だけときた」
「おれは役に立ったぞ。力仕事は向かないだけだ」
ニコは反論しながらケルピーの足を蹴ったが、逆に軽く蹴り返されて宙に飛んだ。猫だけあって無事着地したが、二本足で立ちあがると不機嫌に鼻を鳴らす。
リディアはそのとき、ムーンストーンの指輪が淡く光るのに気がついた。
青騎士|卿《きょう》の、守護妖精のムーンストーンだ。
「そうだわ、宝石にも魔力が宿ってるはずよね。使えるかもしれないわ」
リディアがつきだした左手の指輪を眺め、ケルピーは少し考えた。
「たぶん粉々になるぞ」
「助からなきゃ意味がないもの。ねえエドガー、これをはずして」
エドガーにしかはずせないから、リディアはそう言った。
けれど、難しい顔をした彼は、首を横に振った。
「婚約を解消する気はない」
「そ、そういう問題じゃないでしょ、今は!」
「今もいつでも、この指輪が僕たちの愛のあかしだ。粉々にされてたまるか」
愛って……、もうわけがわからない。
「宝石なら、こっちを使えばいい。魔力ぐらいじゅうぶんあるだろう」
そう言ってエドガーは、リディアの上着からブラックダイヤを取りだした。
「何言ってるの、それこそあなたにとって重要な……」
「リディア、きみを奪われるくらいなら、ダイヤモンドなんかケルピーにくれてやると言ったはずだよ」
エドガーが放り投げたブラックダイヤは、受け取ったケルピーの手の中で、一瞬うごめいたように見えた。
「いいんだな、伯爵《はくしゃく》」
「早くしてくれ。時間がない」
「おい、夢魔《ナイトメア》に引きずられるなよ」
次の瞬間、ダイヤモンドが砕け散って、夢魔が飛び出すのをリディアは見ていた。
巨大な黒豹《くろひょう》のようにも見えた。
それは馬に変じたケルピーとともに宙を駆《か》けた。
しなやかなその背に、一瞬、黒い肌の小さな女の子を見たような気がすると、夢魔は人を引きずり込むこともなく上へ向かう。
もしかして、あれは、ジーン?
エドガーのために、ブラックダイヤを守った黒人の少女?
天井を突き破り、ケルピーとナイトメアは夜空へ飛び出した。
そこにあったのはたしかに夜空だった。
かすかに星が瞬く。薄曇りの、ロンドンの夜だ。
冷たい夜風が吹き込んでくると同時に、部屋を押しつぶしそうだった圧迫感も、壁のきしみも、そしてゆさぶられるような振動も消え失せていた。
「出口が開いたわ。人間界へ戻ってきたのよ」
リディアはつぶやきながら、風に寒気を感じると、急に身体《からだ》がふらついた。
立っていられなくて、その場に倒れる。
夜空が見える。
呪《のろ》いのダイヤを所有していても、エドガーが意外と無事だったのは、そこにジーンの想いが宿っていたからだろうか。そんなことを考えながら、夢魔の背からひとつの小さな想いが離れ、昇天《しょうてん》するのを眺めていた。
そしてエドガーが呼ぶ自分の名前や、抱き起こそうとする腕や、額《ひたい》に触れる手や、あわてるみんなの声を感じながら、リディアは意識を手放した。
[#改ページ]
静かな予感
風邪《かぜ》をこじらせ、高熱で倒れたリディアは、現実の空間に部屋ごと戻ってきたあのマダムイヴ・パレスへ、父が駆《か》け込んできたことなど知るよしもなかった。
ふだんは、温厚《おんこう》を通り越してのんびりしすぎているくらいに他人と衝突《しょうとつ》することなどない父が、有無《うむ》をいわせずエドガーからリディアを奪い返し、その場から連れ出したことも記憶になかった。
あのアラビアふうの衣装に、父がどれだけ悩んだかも、ポールが見舞いに来てマダムイヴ・パレスはハーレムではないと、リディアはフェアリードクターとしてあの場にいただけだと説明をしても、なかなか納得しなかったことも知らないでいた。
三日目にようやく熱が下がり、スープくらいならのどを通るようになったが、面倒なことはまだすべて思考の外にあって、あれから何がどうなったか、考えもしなかった。
薬指にあったはずのムーンストーンは、ベッドサイドのテーブルに置いてあった。
パレスに父が駆け込んできたとき、エドガーがとっさにはずしてニコが持ち帰ってきたことも、リディアは知らないまま、はずれてよかったとだけ思っていた。
窓の方を眺《なが》めていたら、木の葉とともに風が吹き込んできた。
と思うと、そこにケルピーが現れた。
「おいリディア、起きられるようになったか?」
身を屈《かが》めて窓をくぐり、部屋へ入ってくる。
「風邪くらいで寝込むってどういうことだよ。ロンドンの気候が悪いんじゃないか?」
「もう、大丈夫よ」
体を起こしたリディアの方へ近づいてくると、彼は頭を抱きよせ、自分の胸に押しつけた。
「熱は下がったな」
ずいぶん乱暴だけれど、水棲馬《ケルピー》に触れていると、スコットランドの高地から流れてくるせせらぎに洗われるようだとリディアは思った。
ひんやりしていても、安らぎを感じる。
それに相手が妖精だと、リディアにとって異性だという感覚は薄くなる。だからケルピーを突き放す必要は感じず、あまり力が出なかったせいかもしれないが、そのままじっとしていた。
「そうだわ、あなたのおかげで助かったのよね。ありがとう、ケルピー」
「ああ? まあ宝石があったからな。つか、今日はえらく素直だな」
「そう?」
「いつもはもっと高飛車《たかびしゃ》っていうか、とりあえずありがとう、みたいな言い方しかしないぞ」
それはケルピーみたいな|魔性の妖精《アンシーリーコート》を相手に、隙《すき》を見せてはいけないと知っているからだ。
でもこのケルピーにかぎっては大丈夫だと思っているし、まだ頭がぼうっとしているから、複雑なことは考えられない。
リディアはまるで無防備な状態だった。
「素直になっちゃいけないの?」
いいんだけどさ。と言いながら、ケルピーは、めずらしく照れくさそうに黒い巻き毛をかきあげた。
「あたしのわがまま、きいてくれてありがとう。みんなを助けてくれて、本当に感謝してる」
「みんな、ね」
リディアだけなら助けられるとケルピーが主張したとき、拒絶《きょぜつ》した彼女は、エドガーに抱きついて離れなかった。そのことを思い浮かべたケルピーが、皮肉めかしてそう言ったなどとは、リディアは気づかない。
みんなが無事でよかったと、心からそう思っているリディアは、ケルピーに無邪気《むじゃき》な微笑《ほほえ》みを向けた。
「……同じ笑いかたするんだな」
「え?」
ケルピーがデイドリーム≠ノ見せられた幻《まぼろし》のリディア、そのときの笑顔と同じだったなんてことも、リディアにわかるはずもない。
「あのうっとうしい伯爵《はくしゃく》を助けたくらいで、ダイヤをやろうって言ったときよりずっとうれしそうな顔されるってのもなあ」
「そ、そういうわけじゃないのよ。だってダイヤはべつに……」
「まあいいか。この笑顔が見たかったような気がするからな」
無遠慮《ぶえんりょ》な手つきでリディアの頭を撫《な》で、ケルピーはにやりと笑った。
そしてそのまま姿を消した。
同時にノックの音が響いたから、人とはち合わせしたくなくて去ったのだろう。
ドアを開けた家政婦が、めずらしく形式張った礼をした。
「お嬢《じょう》さま、メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人がお見舞いにいらっしゃってます」
公爵夫人が、わざわざ?
あわててリディアはガウンにそでを通しながら、ベッドから出るべきかどうか悩んだ。
「あらリディアさん、そのまま楽になさってて。ご無理をさせてしまったら、お見舞いに来た意味がないわ」
「いえあの、もうたいしたことは……。ただの風邪ですし」
結局ベッドの上で半身を起こしたまま、リディアは頭を下げた。
「ご心配いただきまして恐れ入ります」
家政婦が引いた椅子《いす》に、公爵夫人は優雅に腰をおろす。
「風邪の方は、そんなに心配はいらないとうかがっていましたわ。でも、ちょっと気になることがあったものだから」
顔をあげたリディアは、またエドガーが夫人に何かたのんだのだろうかと思った。
「マダムイヴ・パレスに連れ込まれたんですって? ハーレム女の衣装を着せられて」
「えっ、連れ込まれたわけでは……。ちょっとした手違いというか」
「でもね、そんな噂《うわさ》が流れたの。あの建物の一部がガス管の爆発事故で壊れたでしょう?」
ガス管の、そういうことになっているのかとリディアは頷《うなず》いた。
「そのとき連れ出されるあなたの姿を見かけた人がいるのでしょう。俗にハーレムパレスと呼ばれている場所に監禁《かんきん》されていたらしい少女が誰なのかって、世間は詮索《せんさく》したがってるわ。幸い夜だったし、どこの誰だかわからないまま。噂に尾ひれがついて、いまさらあなたと結びつくことはないと思うけれど、重大なことよ、わかる?」
さすがにリディアも冷や汗を感じた。
あの店は、ふつうの意味でのハーレムではなかったけれど、世間は知らない。あそこにいたとなったら、娼婦《しょうふ》と同然に見られても不思議ではない。
まさに、もうお嫁《よめ》に行けないということだ。
「お節介かと思ったけれど、言わせてね。アシュンバート伯爵があのお店に出入りしているっていう噂は以前からあったし、事故のあとすぐ、カールトン教授が伯爵とあなたのことで相談に来られたから、マダムイヴ・パレスの噂とあなたのことが重なったわ」
「父が、ですか?」
「それで、伯爵に話をうかがったら、フェアリードクターとしての仕事で、あなたとパレスにいたということだったわ。その場には画家のファーマンさんや伯爵家の召使いもいたということだったけれど、結婚を望んでいるお嬢さんをああいう場所に連れていくのは、不注意がすぎると思うのよ」
「あの、父は何をご相談に……」
公爵夫人は、困ったように小首を傾《かし》げた。
「でもね、こういうことはあなたの気持ちもあることだから……」
そのときリディアは、階下から聞こえた声に注意を奪われた。
父の声と、エドガーの声だったような気がしたからだ。
玄関先で言い争っている様子なのが、階段の上まで聞こえてくる。
公爵夫人の話が途中だというにもかかわらず、リディアは戸口へ歩み寄っていた。
どうやら父は、エドガーを追い返そうとしているようだった。
「伯爵は、毎日訪ねていらっしゃってるらしいわよ。でもまだカールトン教授は受けつけてくれないって言っていたわ」
公爵夫人も、内緒話を立ち聞きする少女みたいに、ドアに寄りかかって階段の方を覗《のぞ》き込んだ。
そのままふたりして耳をそばだてる。
「いえ伯爵、もうしわけないのですが、まだ私は冷静にお話しできる状態ではありません。とんでもないご無礼をするかもしれませんので、このままお引き取りください」
父がこれほど頑固《がんこ》なのはめずらしく、それだけに、ハーレムの噂がどれほどリディアにとって重大な醜聞《しゅうぶん》になりかねなかったかを思い知らされた。
「リディアさんの様子だけでも、聞かせていただけませんか」
「ようやく熱は下がりました。もうご心配には及びませんので」
「もうしわけありませんでした」
二階からふたりの姿は見えず、ぼんやりした人影が壁のあたりで動くだけだが、エドガーが父に頭を下げたのがわかり、リディアは不思議な思いに駆《か》られていた。
「あやまっていただく筋合《すじあ》いはありません。リディアは自分の責任で仕事をしただけですから」
「いいえ、僕にも責任があります」
「ああそうですね、風邪《かぜ》のことはともかく、ああいういかがわしい場所にリディアを連れていくなんて、伯爵、いくらなんでも無責任です」
「ええ、それについてもお詫《わ》びしたいと」
「あの子の将来にかかわることですよ。あなたがふだん、どういう女性とおつきあいしているのか知りません。相手が既婚だろうが未婚だろうが、うまく処理する方法をご存じなんでしょう。貴族は醜聞を隠すのもお上手ですからね。もてあそんだ女性を適当な男に嫁《とつ》がせてまるく収めるなんて話も聞きますが、リディアのこともそんなふうにお考えですか?」
「教授、彼女にはいっさい、不謹慎《ふきんしん》なことはしていません」
微妙だわよ、とリディアは少し思った。
「そうでしょう。ただの妄想《もうそう》です。いえ、こんなのは侮辱《ぶじょく》に値《あたい》しますね。ですからご無礼をするかもしれないと……。ああもうやめましょう。話を続けても不毛なだけです」
「いえ教授、当然のご心配です。でも僕は……」
「私はリディアを信用して、あなたのあまい言葉につられることはないだろうと、そう思ってこれまで口出しせずにいました。でもこういうことがあると、リディアもまだ子供で認識があまいし、あなたも、他人の立場を考えるにはお若いのだと考えずにはいられません」
いつのまにかリディアは、全身に力を入れていた。
違うわ、エドガーは悪くない。
マダムイヴ・パレスという場所に、リディアをかかわらせまいとしていたのだ。
父の言うように、リディアだけが子供で考えがあまかった。
「僕にはリディアが必要だし、素直に好意を示しているのはたしかですが、あまい言葉で釣《つ》るというのは、ちょっと心外です。もしも彼女さえその気になってくれれば……」
「言わないでください。聞きたくないし、考えたくない。あなたを信用するのは難しい」
エドガーは黙った。
この場でそういう話は、するだけ逆効果だろう。
しばらく沈黙が続き、父が疲れ切ったように吐《は》き出した。
「リディアは、しばらく休ませてください」
「それは、どういうことですか?」
「スコットランドへ帰らせます。伯爵《はくしゃく》、リディアが直面しているのは、フェアリードクターとしての危険だけですか?」
返事に戸惑《とまど》ったエドガーが、父の言い分を承諾《しょうだく》してしまうのではないかと思うと、リディアはいても立ってもいられなくなった。
思わず階段を駆《か》け下りていた。
「父さま、違うの。エドガーのせいじゃないの、あたしが勝手に、パレスへ行ったの!」
足元がふらつき、落ちかけたリディアを、父があわてて抱きとめた。
「ごめんなさい。悪いのはあたしなの。あの変な衣装も、妖精に着せられちゃっただけでエドガーは関係ないの。エドガーはあたしを帰そうとしたけど、悪い妖精がいるってわかったから、あたしの仕事だと思って勝手にあそこに残ったのよ」
必死になってリディアは、父に訴《うった》えた。
「エドガーは悪くないわ。だから彼を責めないで、お願い……」
「ああ、わかったよリディア。だけどおまえだって、自分が未熟だってわかっただろう? フェアリードクターの仕事をするにも、人に心配や迷惑をかけるようではまだまだ子供だ」
そしてエドガーの方を見る。
「伯爵、そう思われますでしょう? リディアにはもう少し大人になってから働いてもらいたいと」
悩んだ様子のエドガーは、切《せつ》なげにリディアを見たが、父の言葉に異を唱えるのは難しそうに見えた。
リディアはエドガーに歩み寄った。頭が混乱していた。ほとんど情緒《じょうちょ》不安定で、何を泣いているのか自分でもよくわからなかった。
ただエドガーに、必要ないと言われるのが怖かった。
「ねえエドガー、あたしはもういらないの? 帰れって言うつもりなの? そりゃあたしは未熟よ。迷惑もかけたわ。ケルピーがいなきゃどうにもできなかったし、宝石も壊れちゃったわ。でもせいいっぱいやったのよ。……いらないなんて言わないで」
「リディア……」
指先が頬《ほお》に触れて、リディアの涙をぬぐう。そうされることに、何の違和感《いわかん》もなかった。
「教授、わたくしはリディアさんがそんなに子供だとは思わないわ」
しずしずと階段をおりてきた公爵《こうしゃく》夫人が口をはさんだ。
「仕事に熱心なあまり、ほかのことに気がまわらなくなる大人は大勢いますわ」
まったくその通りな父は、困惑《こんわく》しながらぼさぼさ頭をかいた。
公爵夫人は、やさしくリディアとエドガーに微笑《ほほえ》みかけた。
「伯爵、どうなさるの?」
不安げに見あげているリディアを眺《なが》め、安堵《あんど》したように少し頬をゆるめた彼は、彼女の手を取った。
「きみがいないと、僕はきっとだめになる」
ほっとしたせいか、リディアは力が抜ける。エドガーの腕に寄りかかりながら、もしかしてなんか、とんでもないことを言ったんじゃないだろうかと思い始めていた。
頭痛のせい、そう、今はあたし、ふつうの状態じゃないの。
「リディアさんの風邪がぶり返したらたいへんだわ。伯爵、彼女を休ませてあげてくださる?」
[#挿絵(img/diamond_267.jpg)入る]
「ええ。失礼します、教授」
父はどこか上の空に頷《うなず》き、エドガーはリディアに腕を貸しながら階段をあがりはじめた。
「リディアさんにスコットランドへ帰るよう、伯爵に言わせようとなさったの? 教授にしては意地悪でしたね」
公爵夫人はおかしそうに言った。
カールトンは、情けなくなりながらうつむいた。
「意地悪にもなりますよ。あんなふうに娘に泣かれて、私が悪役ですか」
「恋におちた男女にとって、父親が悪役なのは真理ですよ。身にしみてご存じでしょう」
「それは……耳が痛い」
妻と駆《か》け落ち結婚をした身で、リディアの選んだ相手をとやかく言うことはできないと覚悟していたつもりだったが、意外と往生際《おうじょうぎわ》が悪いことに気がついた。
しかし、恋におちた? リディアと伯爵が? そこは納得できないとカールトンは思う。
「伯爵は、リディアみたいな毛色のかわった娘がめずらしいだけですよ」
「そうかもしれませんわね。今はまだ」
今はまだ、か。
「伯爵家のお仕事を、穏便《おんびん》にやめさせるにはどうしたらいいか……というご相談を受けたのに、台無しにしてしまってごめんなさい」
「いえ、私も引っ込みがつかなくなっていましたから、かえってリディアを傷つけてしまうところだったかもしれません」
言いながらカールトンは、階段を降りてきた伯爵の方を見た。
リディアの部屋に長居することなく、すぐに降りてきたところは、いちおう気を遣《つか》っているのだろうと思われた。
階級で平均身長が違うこの国だ。だいたい貴族というのは、すらりとしていて見ばえがいいときているが、彼はさらに別格だった。
ふつうの少女なら、言い寄られてうっとりしないはずはないし、リディアだってそのへんの感覚はふつうの少女だろう。
父さまみたいな男性がいい?
そんな言葉を鵜呑《うの》みにするわけではないが、あくまでそれは幻想《げんそう》だなとカールトンは思った。
* * *
すっかり元気になったリディアが、伯爵《はくしゃく》邸の仕事部屋へ戻ってきたのはそれから三日後だった。
じつのところリディアは、あれから体調がよくなるにつれて、エドガーにものすごくあまえたことを言ってしまったという後悔の念に駆《か》られていた。
いらないなんて言わないで、なんて、思い出しただけで身がよじれそうになる。
エドガーはおぼえているだろうか。病《や》みあがりのたわごとだと聞き流してくれていればいいけれど。
とにかく、そのことがあって出勤するのが億劫《おっくう》だったが、仕事がたまっているはずだし、あんなにエドガーをかばった手前、父に行きたくないそぶりも見せられず、元気よく家を出てきたのだった。
しかし、仕事部屋にこもったリディアは、深いため息をつく。
「お嬢《じょう》さま、もうあんな薄着はなさらない方がいいですよ」
コブラナイがのんきなことを言った。
「伯爵も、衣装のご趣味をお嬢さまに押しつける気はないとおっしゃってくださいましたし」
すべての元凶《げんきょう》はこいつだというのに。
「おいリディア、これ見ろよ」
ニコが新聞を差し出した。
いつもどおり、先に伯爵邸へ来ていたニコは、トムキンスが淹《い》れたお茶を楽しんでいる。
知らないうちに、コブラナイも茶飲み友達になっているようだ。
「なによ、またくだらないゴシップ紙?」
「高級紙《タイムズ》だよ」
ニコに歩み寄り、受け取った新聞の一面には、デイドリーム≠ニいう文字が大きく印刷されていた。
リディアは思わず見入った。
八年前、ローマから英国に運ばれる途中盗難にあった、王家の宝物である百カラットのダイヤモンド、デイドリーム≠ェバッキンガム宮殿に届けられたという。
そえられた匿名《とくめい》の手紙は、当時宝石を盗んだ犯人からの告白文で、ダイヤモンドを持ち帰る役目を負っていたシルヴァンフォード公爵に個人的な恨《うら》みがあったと書かれていたようだ。
記事では、その犯人が誰かは謎《なぞ》に包まれたままだとなっていたが、リディアは新聞の片隅に、まったく別の件として、バークストン侯爵《こうしゃく》の事故死の記事を見つけていた。
猟銃《りょうじゅう》の手入れをしていて暴発? そんなはずはない。
侯爵がホワイトダイヤを手にしたとき、レイヴンもアーミンも追わなかった。
エドガーはすでに、侯爵と取り引きをしていたのではないだろうか。
取り引きなどという生やさしいものではなかったかもしれない。エドガーは、人より上位に立って弱みを握り、支配し、言いなりにする方法を知っている。
人を動かすとき、彼はたぶん、王のように、神のようになる。
侯爵が、ダイヤモンドを返しただけでなく、自ら命を絶《た》ったなら、そうまでさせたエドガーは、本当にリディアの知らない人なのかもしれない。
ここにとどまってよかったのかしら。
けれどリディアは、心の片隅で、それが本当のエドガーではないとも思っている。
「おはよう、リディア」
げっ、来た!
ニコがこんな記事なんか見せるから、朝から準備してきたはずの平静な表情がとっさにできず、リディアはあきらかにうろたえた顔で振り返ってしまっていた。
「もうすっかりよくなったの?」
「え、ええ……」
大胆に歩み寄られ、ふだんにもまして気軽に手を取られた。
「長いこと会えなくてつらかったよ」
三日前に会ったじゃない。
「顔をよく見せてくれ」
髪の毛をさらりとよけて、頬《ほお》に手のひらが触れる。
ちょっと、今日は遠慮がなさすぎじゃない?
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳を細め、やさしく微笑《ほほえ》みかけられると、しかしリディアはどうしていいかわからなくなった。
「僕のリディア、戻ってきてくれてありがとう」
「ど、どういたしまして」
気恥ずかしすぎて目をそらす。
「きみがね、僕のそばにいたいと言ってくれたとき、どんなにうれしかったかわかるかい?」
やっぱりおぼえてる。というか、こいつが聞き流すわけないじゃない。
握っていたリディアの手をぐいと引き寄せ、抱きしめようとするものだから、リディアは硬直《こうちょく》しながらますますうろたえた。
腰に腕をまわし、間近でリディアを覗《のぞ》き込む。どうしていいかわからず、彼の体に触れないように、モーニングコートだけをつかんでいた。
「そばにいたいなんて言ってないわ」
洗い立てのシャツの匂《にお》いがする。
それに気づくときリディアは、自分が使っているカモミールのポプリの香りが、彼に移ってしまうなんてことは知らない。
「そういう意味だっただろう?」
「ちが……」
違わないけど、違う。
「やっと相思相愛《そうしそうあい》になれたね。早いとこ婚約を正式なものにして、結婚の準備を進めよう」
まずい。こいつをその気にさせたら、あっという間に周囲を固められてしまう。あせったリディアは、どうにか力を入れて彼を突き放した。
「違うわよ、あたしにはフェアリードクターの仕事が残ってたから、まだスコットランドへ帰るわけにはいかないと思っただけ! そ、それにあのときはどうかしてたの。熱が引いたばかりで、頭がボーっとしてて、情緒《じょうちょ》不安定で、自分が何を言ったかもよくおぼえてなくて……」
「おぼえてないのか? 僕と結婚したいって、許してくれないなら駆《か》け落ちするって教授に。もう唇《くちびる》を許してしまったからほかのところにはお嫁《よめ》に行けない……」
「言うわけないでしょそんなこと!」
「おぼえてるじゃないか」
ああ、もういや。
「……唇を許してなんかないわよ。あんなのキスじゃないってあなたが言ったの」
「そう。じゃあ今度|隙《すき》を見つけたら、遠慮しないよ」
また熱がぶり返しそうだ。
真っ赤になるリディアにくすりと笑って、エドガーは彼女を椅子《いす》にかけさせた。
「ごめんね、怒らないでくれ。からかってるわけじゃない」
今度は下手《したて》に出る攻撃?
「あのとき、僕は悪くないときみがかばってくれたとき、もしかしたらわずかでも、僕の気持ちだけの一方通行じゃなくなっているんじゃないかと信じたくなったんだ」
ちょっと淋《さび》しそうに見せて、リディアの気を引こうというのだ。
「まったくの思い込み? そうでないなら、髪にキスするくらいは許してくれ」
そんな手にひっかからないんだから……。
と思いながらもリディアは、覗き込むようにこちらを見おろしているエドガーが、髪の毛をすくいあげてもじっとしていた。
唇が、毛先ではなくこめかみの生《は》え際《ぎわ》に触れたとき、してやられた気分になったけれど、にっこり笑った彼が、やっぱりどこか淋しそうに見えたから、もういいわと思った。
計画通りの目的は達したはずだけれど、戦えば戦うほど、エドガーは傷ついていくようにリディアには見える。
「あたし、ジーンを見たわ」
唐突なリディアの言葉に、エドガーは少し首を傾げた。
「ブラックダイヤの中に、あなたへの想いの断片が……。彼女、本当にあなたのこと好きだったのね。それは、あなたが彼女の心を支配してたからでも、死を強要してしまったわけでもなくて、幼くても、好きな人を守りたかっただけなのよ」
哀しげに、けれどもおだやかに、彼は微笑んだ。どきりと胸が鳴ったリディアは、それを気取られまいと言葉を続けた。
「それからジミーのこと、フェアリードクターのくせに気づけなくてごめんなさい」
「僕の方こそ気づくべきだった。でも本当のところ、無力な子供がユリシスにつかまっていたのでなくてよかったと思ってる」
それにしても、彼があれほどリディアにつっかかってきた理由が、ユリシスの手先だったからだというのは、正直ほっとしていた。
でも、気にしていることをつつかれたくらいで、冷静な判断ができなくなるなんて、フェアリードクターとして未熟すぎると反省すべきところだろう。
「スレイドや|朱い月《スカーレットムーン》≠フみんなも、妖精の術《じゅつ》に引っかかって、昔から仲間だったかのように思い込んでいたっていうから、気をつけなきゃいけないな。ともかくつけ込まれたのは、僕たちの結束があまかったせいだけど、おかげでというか、これからは歩み寄れるだろう」
「でもエドガー、少し気になってるのは、ブラックダイヤはなくなったけど、夢魔は生きているんじゃないかってことなの。力を蓄えた宝石から生み出されたものが、精霊として生き続けることはあるわ」
「ユリシスもそれを知っている?」
「ええ、きっと」
「もしかしたらプリンスのねらいは、宝石そのものよりも、中で育った夢魔の方かもしれないってことか」
ホワイトダイヤのデイドリーム≠ヘ、王室の宝物殿《ほうもつでん》におさめられたことだろう。しかしブラックダイヤの魔物は、ユリシスが手に入れたかもしれない。
「でも僕には、幸運の妖精がいる」
また彼は、リディアの髪の毛をもてあそぶ。
どうしてまだ、この人のそばにいるのかしら。
考えてみれば、今度の事件は、エドガーから逃げ出すには絶好のチャンスだったはずだ。
少し前まで、スコットランドへ帰りたいと思うこともしばしばだった。
なのにリディアは、自分でそのチャンスをふいにした。
仕事が云々《うんぬん》というのは、理由のひとつではあってもすべてではないと気づいている。
どうして……。
体を引いて髪の毛を取り返しながら、けれどもリディアの胸に落ちた毛先は、彼の手を名残惜《なごりお》しく思っているように見えた。
ユリシスを英国に送り込んできたプリンスは、どうやら魔術的な部分での足固めをはじめようとしているらしい。
エドガーを生かすのか殺すのか、それはユリシスにとって今のところ、最も重要な任務ではないのだろう。
だとすれば、妖精を使うユリシスを相手に、この先リディアの力がますます不可欠になる。しかしそのことに、エドガーは懸念《けねん》を感じていた。
なにしろ自分には、妖精や魔術に対処するすべがない。
異空間だのゴブリンの迷宮だの、そんなところへ引きこまれて、リディアを助けることができたのは実際ケルピーだけだった。
フェアリードクターは、妖精たちとも信頼関係を築くことで、彼らの協力を得つつ、様々なトラブルを解決する。半人前だとリディアは言うけれど、ケルピーの信頼を得ている彼女は、優秀なフェアリードクターだといえるのではないだろうか?
エドガーとしては、助かったのはケルピーのおかげではなく、やはりリディアの、フェアリードクターとしての知恵と勇気のおかげだと思っている。
けれどこのまま、リディアに頼っていくことに、迷いを感じ始めているのも事実だった。
「レイヴン、僕にリディアを守ることができるのだろうか」
書斎《しょさい》でひとり考え事をしていたエドガーのところへ、手紙の束を届けに来たレイヴンに、そのまま問いかけている。
「リディアを犠牲《ぎせい》にはしたくない。でもそばにいてほしい。フェアリードクターとしての力が必要だし、それ以上に、彼女がそばにいると安らげる。今までになく、僕は、リディアのそばでおだやかに呼吸ができるような気がしてるんだ。だからどうにかしてものにしようとし続けてきた」
直立不動で聞いているレイヴンは、エドガー自身ですら整理できない感情の矛盾《むじゅん》をぶつけられて、おそらく途方《とほう》に暮れている。
「リディアは僕に必要なものを与えてくれる。でも僕は何を与えてやれる? そばに置いておけば危険なだけじゃないか。幸せにする自信なんてないのに、そもそも僕に、まともな未来があるのかどうかもわからないのに、結婚を望んでいるなんてあまりにも自分勝手だよな。そう思っても手放す勇気もない。どうすればいいかわからない」
レイヴンがわかっていようがいまいがかまわず、エドガーは吐《は》き出していた。
メースフィールド公爵《こうしゃく》夫人が、カールトン家を出たとき言っていた。本当はエドガーに、リディアを手放すよう説得するつもりだったとか。けれどリディアが、まだ伯爵《はくしゃく》家で働きたいと言い張ったから、教授をなだめてくれたのだ。
「リディアが、もしかしたら少しでも僕に気持ちを向けはじめてくれているのかもしれないと思ったら、うれしかったけれど怖くもなった。これまでリディアに対して、男としての責任をほとんど考えていなかったと気づいてしまったんだ」
「エドガーさま、私が全力を尽《つ》くします。リディアさんのことも守ってみせますから、どうかご自分の望みを犠牲にしないでください」
思いがけず返ってきたレイヴンの言葉に、エドガーは驚きながら視線をあげた。
「僕に、望みを犠牲にしたことがあったか?」
「あったかもしれないと今思いました。誰かを本気で好きになることを、戦うためにあきらめませんでしたか? もしもリディアさんをあきらめたら、そういうことになります」
「けっこう、好きになった子はたくさんいた気がするけど」
「みんな長続きしませんでした」
「それは、浮気がばれたりいろいろ……」
と言いながら、そういうことを繰り返していたのは、恋人が去っていくことで、ほっとしている自分がいたからかもしれない。
これ以上自分のそばにいたら、取り返しのつかないことになると。
ああ、とエドガーは深いため息をつく。
「おまえの言うとおりかもしれない」
まったく、いつまでも成長できないのはエドガーだけなのではないだろうか。
窓の下、中庭に出てきたリディアが、ハーブを摘《つ》み取っているのを見おろしながら、今ごろになってエドガーは、彼女を巻き込むことを恐れはじめていると気がついた。
[#改ページ]
あとがき
とっくにお気づきかもしれませんが、この物語、毎回宝石が出てきます。
というわけで今回は、宝石の女王、ダイヤモンドです。
と言っても呪いのダイヤなので、永遠の愛≠ネんてどこかのキャッチコピーのような展開は期待されなかったかと思いますが。
え? サブタイトルの『愛をこめて』はどうなったのかって?
こもってたはずですが……(笑ってごまかす)
さてさて、この話は伯爵《はくしゃく》エドガーを筆頭に、いろいろと貴族が出てきたりするのですが、この貴族というもの、意外と知ってるようで知らないものなのかもしれません。
現在日本にはない制度だというのに、物語の中にはあふれているので、知っているような気がしてしまうのでしょうか。
そんなわけで、伯爵という言葉を聞いたことがない、という読者はたぶんいないだろうと、いきなりタイトルから『伯爵と妖精』です。
しかし考えてみれば、伯爵のふりがなにアール≠セのロード≠セのあって、どっちやねん! と思われるかもしれませんので、あとがきで恐縮ですがちょっとばかり解説を。
そんなこととっくに知ってるという方は読み飛ばしてくださいませ。
英国貴族の位《くらい》は、上から、公爵《こうしゃく》(デューク)、侯爵《こうしゃく》(マーキス)、伯爵(アール)、子爵《ししゃく》(ヴァイカウント)、男爵(バロン)、の順です。その下に、准男爵《じゅんだんしゃく》(バロネット)、騎士(ナイト)、という称号がありますが、厳密にはこちらは貴族ではないそうです。
さて、このような位を持つ人に呼びかけたり、話題にしたりする場合、敬称をつけなければなりません。
英語の場合、庶民《しょみん》ならミスター≠ネどとつくわけですが、貴族にそのように呼びかけてはいけません。
映画などで耳にする機会が多いのはサー≠ナしょう。これは、准男爵、騎士、の身分に相当する敬称です。
次に、ロード≠ニつくのが、侯爵、伯爵、子爵、男爵です。女性の場合はここまですべてレディ≠ニお呼びすれば失礼には当たらないはず。
公爵になりますと、ヒズ・グレイス=B
ついでに、殿下《でんか》に相当する王家の子弟はヒズ・ロイヤル・ハイネス=A女王陛下はハー・ロイヤル・マジェスティ=B
というわけで、『伯爵』という地位はアール=A「伯爵」と呼びかけるときはロード≠ニなるというのはわかっていただけたでしょうか。
とはいえ、時と場合によっては右記以外の言い方をする場合もあります。
ロードにしても、氏名のどこにつくのか、それとも爵位《しゃくい》名か、定冠詞《ていかんし》はどうするのか、によって微妙に意味が違ってくるようなのですが、専門家じゃないのでこのへんで勘弁してください、と思う作者なのでした。
なお、作中でのエドガーの呼ばれ方は様々です。正式にはロード・イブラゼルと呼ばれるべきなのですが、ちょっと特殊な爵位名ですので、家名のアシェンバートを習慣的に使っているように思われます。
爵位を複数持っている貴族は少なくないようですので、たぶん、家名にも伯爵位がついているのでしょう。
などと推測《すいそく》したりすると、本編とは関係のないところでも楽しめるかも(笑)。
ほかにもまあ、英語ではそんな使い方はしないという場合もありますが、日本語のニュアンスで、場面やキャラクターどうしの関係を表現しているということを、ご理解くださいませ。
ちなみにエドガーは、生まれつきロード≠ナ呼ばれる資格がありました。父親が公爵なので、ひとつ下位の敬称か、父親の持つ爵位のうち二番目の位が儀礼的に適用されます。
どちらにしろ、ロード≠ナす。
というわけで、爵位についてはこのへんで。
雰囲気を感じていただくのに役立てばいいなと思います。
今回も、ステキなイラストをつけていただきました高星《たかぼし》麻子《あさこ》さま、たいへんお世話になりました。おかげさまでいつも、本ができあがるのが楽しみです。
そして読者のみなさま、あとがきまでおつきあいくださいましてありがとうございました。
本編は楽しんでいただけましたでしょうか。
それではまたいつか、この場でお目にかかれますことを願っております。
二〇〇五年 七月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 呪いのダイヤに愛を込めて」コバルト文庫、集英社
2005(平成17)年9月10日第1刷発行
2005(平成17)年12月10日第2刷発行
入力:
校正:
2008年3月29日作成