伯爵と妖精
恋人は幽霊
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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(例)幽霊《ゆうれい》
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(例)|アザラシ妖精《セルキー》
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目次
伯爵《はくしゃく》のいけない噂《うわさ》
よみがえりの秘術
古戦場に集うもの
海とアザラシ
恋におちるにはまだすこし
神秘の砦《とりで》
アクアマリンの見る夢は
あとがき
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伯爵《はくしゃく》のいけない噂《うわさ》
真夜中のシティ、静まりかえったその一画《いっかく》の、大通りから少しはずれた建物へ、人目を忍ぶように紳士《しんし》たちがひとり、またひとりと入っていく。
その様子を横目に、彼女は裏口から同じ建物へと入っていった。
そこは、ロンドン市《シティ》心霊《しんれい》協会の集会所だ。今夜、降霊会《こうれいかい》が開かれることになっている。
死者の霊を呼び寄せ、不思議な現象を起こしたり、直接霊と対話したりする降霊会は、心霊現象に興味を持つ人々の間で、最近はやりつつある。そんな心霊を研究する同好会のひとつに、今宵《こよい》招かれた霊媒師《れいばいし》が彼女なのだった。
アメリカでは名の知れた霊媒師、という触れ込みになっている。しかし、そんな能力などないのは彼女がいちばんよくわかっているし、これまで霊媒師のまねごとすらしたことがない。
それでも、すっかり準備は整えられている。それらしく演じるしかない。
同行してきた老婆《ろうば》とふたり、控《ひか》え室へ案内されると、彼女は緊張感に大きく息をついた。ガスランプの明るさが、かえって落ち着かない。
「心配しないで。あなたならうまくやれますよ、セラフィータ」
老婆が、はげましの言葉をかけながら、ランプの明かりをしぼってくれた。
隣室《りんしつ》には、招待された貴族たちがそろいつつあるようだ。ドアの向こうから、声をひそめたざわめきだけがかすかに聞こえる。
降霊会を行う隣室、その薄暗い部屋の中を、紳士たちが所在《しょざい》なくうろつきまわっていることだろう。亡霊《ぼうれい》を呼ぶという儀式に、不安と後ろめたさと、好奇心を感じながら。
その中に、彼女の知る男がいるかもしれない。いるはずだ。
思い切って、彼女はドアに歩み寄り、のぞき窓を少し開いた。
十数人ばかりの男たちの中に、彼の姿はすぐ目についた。彼女の心臓が大きく鳴った。
どこにいたって目立つのだ。
窓という窓にぶ厚《あつ》いカーテンをおろし、蝋燭《ろうそく》が一本しかともっていない暗い部屋の中でさえ、彼の金色の髪は、ある限りの明かりをまとって輝く。
無造作《むぞうさ》にたたずんでいるだけで高貴な血筋を感じさせる、整った横顔と優雅な印象。この場で浮かないようにと考えてか、古びたイブニングコートを着ていても、集まった貧乏貴族とは格が違うとわかってしまう。
昔からそうだった。スラム街の廃屋《はいおく》で、浮浪《ふろう》少年たちと寝食《しんしょく》を共にしていても、誰からともなくサーと呼ばれた。芯《しん》から身についている上品な英語と上流階級の作法《さほう》、貴族に生まれた誇り高い精神で、裏社会の要人《ようじん》と渡り合った。
彼を追いつめようとする人物さえいなければ、少年たちのグループをまとめるリーダーとして、のし上がっていったのではないだろうか。
部屋の中を何気《なにげ》なく見まわす彼の、一見さりげない視線はわずかな異変も見|逃《のが》さないだろう。あの視線にさらされたら、こちらの正体など一瞬で見破られるのではないかと彼女は思う。
もしも気づいたら、彼は何を思うのだろう。
「エドガーさま……」
セラフィータのつぶやきを、老婆が聞きとめ、何か言いたげに顔をあげたが、結局口をつぐんだ。
エドガー・アシェンバート伯爵《はくしゃく》。それが彼の、今の名だ。
ロンドンの社交界ではすでに有名人になっているという彼は、この降霊会へ、おそらく罠《わな》だと知っていながら現れた。
だが、どこまでこちらの情報を握っているのかはわからない。
じっと眺《なが》めていたセラフィータは、彼がふと視線をとめた中年女性に目をやった。
部屋のすみで、うつむきがちに座っている、この会場にひとりだけの女性は、ミセス・コリンズという。今夜の降霊会は、彼女のために行われるのだ。
マンチェスターに紡績《ぼうせき》工場をいくつも持っている富豪《ふごう》の妻。ロンドンへ来た目的は娘の結婚相手をさがすため。
娘に多額の持参金《じさんきん》をつけて、貴族の称号を持つ夫をさがしてやろうとする成金《なりきん》は、このところ少なくない。コリンズ夫人もそのひとりだ。
一方で、貴族らしい生活を続けていくのが困難になった爵位《しゃくい》貴族も、金《かね》儲《もう》けに成功した庶民《しょみん》の娘を求めている。
しかしコリンズ夫人の場合、その娘がすでに亡くなっているというところが問題だった。
つまりこの降霊会は、娘の霊を呼び寄せ、幽霊《ゆうれい》と結婚してでもお金が必要な貧乏貴族の中から花婿《はなむこ》を選ぼうという、奇妙な集まりなのだった。
だがもちろん、あの若き伯爵は、生活に窮《きゅう》してもいないし、幽霊と結婚するつもりもないだろう。
あるいは、女性であれば片《かた》っ端《ぱし》から口説《くど》く人だ。幽霊娘に興味くらいはあるかもしれない。
のぞき窓を閉じ、彼女がドアから離れたとき、心霊協会の役員が、いつでもはじめてくださいと控え室に声をかけた。
そろそろ午前|零時《れいじ》、降霊会を行うにふさわしい時間だ。
彼女は黒い紗《しゃ》のベールをかぶり、顔を隠す。
「セラフィータ、行きましょう」
老婆が先に立って、控え室から皆が集まっている降霊会場へ続くドアを開けた。
とたんに、人の視線が集中する。
ゆっくりと、部屋へ進み入りながら、彼女はベールの内側で視線を動かした。
降霊術を成功させるために、誰がどの席に着いているか、確認しなければならないのだ。
しかし彼が視界に入った瞬間、彼女はその鋭い視線にとらわれた。
気をつけていたつもりだったのに、しばらく目を離せなかった。こちらの顔は見えないはずだ。なのに動悸《どうき》がし、指が震《ふる》えた。
こうして対面するまでは、自分に気づいてほしいような気がしていた。けれど急に、気づかれるのが怖くなる。
軽蔑《けいべつ》の目を向けられるに違いないのに、わずかでも会いたいなどと望んだ自分が忌《い》まわしい。
どうにか目をそらしたが、それから先、彼の方を見ることができなかった。
* * *
ヴィクトリア駅のホームは、乗客と見送りの人々でごったがえしていた。
大きな荷物をかかえた行商人《ぎょうしょうにん》、長い別れを惜しむ家族、優雅な小旅行に出かける貴婦人と紳士。様々な目的で汽車に乗り込もうとしている人々のあいだで、リディアは、もう何度同じことを言っているかわからない父の言葉に頷《うなず》いていた。
「リディア、留守中は気をつけるんだよ」
「ええ、父さま」
リディアの父、博物学者のカールトンは、パリで開かれる学会に出席することになった。ほんの二、三週間ロンドンを離れるだけだというのに、時間を気にしながらリディアのそばで去りがたそうにしている。
「そんなに心配しなくても、これまでずっとあたし、スコットランドで独り暮らしをしてたじゃない」
「向こうは町中《まちじゅう》知り合いで、のどかな土地だっただろう? でもロンドンは物騒《ぶっそう》だからね」
「家政婦さんがいるんだし、昼間はずっと伯爵邸《はくしゃくてい》で仕事だし、危ないことなんて何もないわ」
「伯爵……、ああ伯爵ね。頼りにはなるだろうけど……」
いちばん物騒なんだが。とつぶやいたような気がした。
リディアは妖精博士《フェアリードクター》だ。妖精が見えるし話もできる。そんな彼女を顧問《こもん》として雇っている伯爵、エドガー・アシェンバートは、妖精国《イブラゼル》伯爵の称号を持つ。
名前どおり、代々の伯爵は妖精界に領地を持ち、妖精たちと親しくしつつも一目置かれる存在だったという。
今でも、先祖にちなんだ青騎士伯爵という呼び名は、人間の名としては妖精たちにもっとも知られているだろう。
しかし、伯爵家の血筋が途絶《とだ》えて久しい現在、いろいろあって称号のみを受け継いだエドガーは、妖精とかかわる不思議な力は持っていないため、リディアが補っているというわけだ。
それはともかく、カールトンが心配しているのは、伯爵の性格だ。
女たらしの口説き魔、との噂《うわさ》は、紛《まぎ》れもない事実。年頃の一人娘を置いていくのは不安に違いない。
「大丈夫よ、父さま。あたしはそんなふしだらな娘じゃないもの」
「もちろんわかっているよ。ああそうだ、出発する前にこれをおまえに渡しておきたかったんだ」
そう言ってカールトンは、上着の中から取りだした小箱をリディアに手渡した。
「母さんが亡くなる前にあずかっていたんだ。おまえが大きくなって、結婚を考える歳になったら渡してくれって」
結婚、などと父の口から唐突《とうとつ》に聞かされ、リディアはあせった。
まさか、ばれてないわよね。
「そ、そんな予定なんかないわよ」
「十六、七になったら渡しておけば、と母さんは言っていたよ。まだ早いと思いたかったんだが、フェアリードクターとして働いているわけだし、いつまでも子供扱いするわけにいかないからね」
妖精に結婚を求められ、リディアが人間界を去ろうとしたのはほんのひと月ほど前のことだ。すぐに戻ってくることになったけれど、妖精とかかわる能力を持つリディアは、ふつうの娘とは違う。人間の常識が通用しない妖精を相手にしている以上、花嫁《はなよめ》にと望まれれば、父親として祝福する間《ま》も与えられない。そう知ったカールトンは、妻からあずかったものをそろそろ渡しておかなくてはと思いながら、今日まで迷っていたのだろう。
複雑な思いで、リディアは箱を開けた。
うっすらと青みがかった、透明《とうめい》な宝石のペンダントだった。
「アクアマリンという石だ」
「海の水……、そんな色だわ」
「母さんもおまえくらいの歳に、母親からもらったそうだ。その母親も、母親から……、まあそういうものだよ」
父と駆《か》け落ち同然に家を出てきたという母の故郷を、リディアは知らない。けれどそんな話を聞くと、見たこともない遠い北の島になつかしさを感じるから不思議だった。
「ありがとう、父さま。大切にするわ」
「それじゃあ、行ってくるよ」
「行ってらっしゃい」
頬《ほお》にキスし、列車に乗り込む父を見届ける。
汽車は予定どおりの時刻に、英仏《えいふつ》海峡《かいきょう》へ向かってロンドンを発った。
ペンダントの入った箱の中には、母からの手紙も入っていた。
『わたしのリディア、これを読むころ、あなたはどうしているのかしら。母さまみたいなフェアリードクターになりたいっていつも言っていたけれど、そうなっているのかしら。フェアリードクターは特殊《とくしゅ》な仕事だから、誰にも力を貸してもらえない。そのことであなたがつらい思いをしていなければいいと案じているけれど、フェアリードクターである前に、ひとりの女の子だということを忘れないで。そばにいて、ささえてくれる人は宝物よ』
短い手紙だけれど、母の愛情を感じてうれしかった。
母が父と出会ったように、リディアも誰かに恋をしていると、想定しているのだろうか。
あるいは、もはや人々が妖精の存在を信じられなくなってきている時代だから、フェアリードクターにこだわらず、ふつうの娘としての幸せを望んでほしいと思っていたのかもしれない。
「もしかしたら母さま、あたしがフェアリードクターに向いてないと思ってたかも……」
その点は、まだまだ未熟なリディアが常に感じていることだ。でも、はじめたからには一人前になりたいのだ。
妖精の専門家である妖精博士《フェアリードクター》は、妖精のいたずらや魔力にわずらわされている人々に助言し、トラブルを解決するというのが主な仕事だ。
逆に、人間に被害をこうむっている妖精を助けることもある。そうやって、妖精族の信頼を得ることで、人の利益を守るために妖精との取り引きもできるようになる。
「だからあたしは、結婚どころじゃないのよ」
誰に言うともなく吐《は》き出し、公園のベンチに座っていたリディアは空を見あげた。
太陽は明るく高く、英国の短い夏をまぶしく彩《いろど》る。木陰のベンチは日射しに囲まれた開放感に包まれ、それでいて涼しく、大都会ロンドンにいることを忘れさせてくれる。
父を見送るために、伯爵邸への出勤は午後からにしてもらってあった。もう少しゆっくりしていこうと深呼吸する。
伯爵邸の、リディアの仕事部屋はもちろん、文句もつけようがないほど快適だが、リディアはやはり、木々の匂《にお》いや風のざわめきが好きだった。
「おい、リディア。奴のことまた新聞に出てるぞ。二紙もだ。えらくもててるな」
声の方を見あげると、木の枝に灰色の猫が腰かけていた。リディアの相棒の妖精だ。姿形《すがたかたち》はまるきり長毛の猫だが、二本足で歩くし言葉を話す。今も、人間みたいに背筋《せすじ》を伸ばして、枝にちょこんと座っている。
ニコは、自分の体ほどもあるタブロイド紙を、器用に折りたたんでリディアの方に投げてよこした。
また? と思いながら紙面に目を落とす。
リディアの雇い主、エドガー・アシェンバートは、このところ、タブロイド紙のゴシップネタになっているのだ。
若き美貌《びぼう》の伯爵《はくしゃく》。口がうまくて女たらしの彼と噂になった女性は数えきれず。社交界では知らない人がいないくらいの有名人だ。
妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》というめずらしい爵位名《しゃくいめい》もあいまって、庶民《しょみん》の間でまで興味を持つ人が増えれば、伯爵とは一面識《いちめんしき》もない記者たちが、ちまたで拾ってきた、信憑性《しんぴょうせい》もあやしい色恋沙汰《いろこいざた》を書き立てる。
しかしリディアには、どれもこれもエドガーならありそうだと思える。
今度の記事は、伯爵が美しい未亡人をめぐってとある貴族と決闘を行い、相手に大|怪我《けが》を負わせたというもの。もうひとつは、ロンドン市心霊協会が招いた霊媒師《れいばいし》を口説いたなどという、どちらも庶民が飛びつきそうな話だった。
「そんなの大うそだよ」
すぐそばで別の声がした。
ベンチの後ろからリディアを見おろし、エドガーがにっこり微笑《ほほえ》んだ。
と思うと、さっさと彼はリディアの隣に腰をおろし、寄りそう恋人どうしかというくらいに接近する。
「な、何か用?」
「きみに会いたかっただけ。きっとここだと思った」
まぶしい金髪と、つかみどころのない灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が、リディアの目の前にある。
整った容貌《ようぼう》を自分自身で知り尽《つ》くしている、そんな完璧《かんぺき》な笑顔に、ぼんやりと見とれてしまいそうになり、彼女はあわてて頭を振った。
「たまには外で語らうってのもいいね。屋敷の中じゃ、きみは仕事に夢中でかまってくれないし、せっかく婚約したのに恋人らしい雰囲気になれなかった」
リディアは、ひざに置いたこぶしに力を入れ、なるべく冷静に声を落とした。
「あたしは、婚約したつもりはないから」
エドガーと婚約だなんて、だまし討《う》ちにあったようなものだ。とはいえその約束で、妖精界から戻ってくることができたため、うかつに声を大にして主張もできない。
それをいいことに、あれ以来エドガーは、リディアを洗脳《せんのう》するかのように婚約者扱いし、口説き文句を浴びせ続けている。
「リディア、海へ行かないか? 英国の夏は短いんだし、しばらく仕事は休みにして、海辺でゆっくりすごそう。カールトン教授は当分パリなんだろ?」
父さまの留守中に、こいつと旅行? 誤解を招きかねないではないか。
「けっこうよ」
「冷たいきみも好きだけど、このさい、日常を離れて愛をはぐくみたいと思うんだ」
なにが『愛』よ、この女たらし!
リディアは彼をにらみつけつつ、深呼吸する。
彼がリディアとの婚約にこだわるのは、愛でも恋でもない。利用価値があるから、確実にそばに置いておこうとしているだけだ。
どんなにあまい言葉をささやかれても、本気だとは思えない。
「あなたね、自分に何人恋人がいるか知ってる?」
「低級紙《ゴシップペーパー》に書かれたことなんて、信用しちゃいけないよ。なあニコ、きみもそう思うだろ?」
同意を求め、エドガーは木の枝を見あげた。
「ああ、低級紙がうそだらけなのは、あんたと似たようなもんだろ」
あきれたようにニコは言って、姿を消した。
エドガーは肩をすくめ、リディアはため息をつく。
しかし、ふたりきりになってしまった。
ああそうか、エドガーはニコを追い払うために、あきれるような話をふったんだわと気づくが、すでに彼の手はリディアの肩にあった。
「ちょっと……エドガー……」
また口説き文句の猛《もう》攻撃が始まるのかと身構えたとき。
「失礼、アシェンバート伯爵」
声をかけてきたのは、太った男性だった。
「どなたでしたっけ?」
じゃまするなと言いたげに、彼はあきらかに不機嫌《ふきげん》に返す。
「お宅の執事《しつじ》にこちらだとうかがいましたので」
エドガーを見知っているらしい彼は、ロンドン市警《しけい》の警部だと名乗った。リディアは不安な気持ちになったが、エドガーは不遜《ふそん》な態度を変えなかった。
「マギー・モーリスという、お針子《はりこ》の女性をご存じでしょうか?」
また女のことだ。でも警察だなんておだやかじゃない。
「知りませんね。その女性がなにか?」
「先日、テムズ河に遺体が浮かびました。彼女の仕事仲間の話では、アシェンバート伯爵に……、つまりあなたに会うのだと出かけていったきり戻ってこなかったとか」
「それは僕じゃありませんね。どういうわけかこのごろ、僕の名を騙《かた》って女性に声をかける不届き者がいるらしい」
低級紙に書き立てられる女性関係の数々も、そういう連中の仕業《しわざ》だと言いたいのか、エドガーはリディアに聞かせるように彼女の方を見た。
「なるほど。美貌の伯爵、社交界の宝石、妖精国から来た謎《なぞ》めいた貴公子、などなどあまったるい噂《うわさ》が我々の耳にまで届くくらいですから、女性をだますにはもってこいのお名前ですな」
「では、僕が無関係だとご理解いただけたので?」
「マギーはそのー、金持ちの男と結婚するのが夢だったようで、お嬢《じょう》さんふうの口調《くちょう》や振る舞いを身につけていましてね。名士の家に生まれたが父親が死んで云々《うんぬん》などとうそばかり言っていたようですよ。両親は健在な上、父親は飲んだくれですがね。まあなかなかの美人で、薄幸《はっこう》の令嬢《れいじょう》と信じかけた男も多いようですが、そのうちばれて捨てられるなんてことを繰り返してたようで。ところが今度は貴族と親しくなれそうだということで、望まれれば家族も捨てるなんて勢いで、浮かれて周囲にあなたの名を語っていたわけです。金髪だということと、かなり若い伯爵だということもあなたと一致するんですが、伯爵、そういう女性にも心当たりはないでしょうか」
「知りません」
「夢見がちな若い娘ってのは、うるさい親の忠告なんか聞かずに悪い男についていってしまう。よくあることなんですが、親御《おやご》さんが気の毒になりますよ」
「まったくですね」
よく言うわ。とリディアは心の中でつぶやく。親のいない間《ま》に連れ出そうとする悪い男は自分じゃないの。
「念のためにうかがいますが、金曜日の夜はどちらに?」
少し考え、エドガーは答えた。
「郊外《こうがい》へピクニックに」
「夜にですか?」
「いけませんか?」
「どなたとごいっしょで?」
彼は数人の名前をあげたが、どういうわけか男性ばかりだった。
そんなむさくるしいピクニック、ありえないじゃないと考えながら、リディアはふとベンチに置いたままのタブロイド紙に目を落とした。
決闘の記事、そこに書かれている大|怪我《けが》を負ったとかいう相手の男性の名が、エドガーのあげた中に含まれていたのだ。
まさか、男ばかりのピクニックは決闘の現場?
「ちょっと、何が大うそよ! あなたやっぱり、未亡人とつきあって……」
リディアは口をふさがれた。
「未亡人?」
「いいえ、こちらの話です。それより、彼らに確かめてもらえれば、僕がいっしょにいたことは間違いないとわかりますよ」
夜のピクニックが決闘の集まりなら、怪我をした相手も介添人《かいぞえにん》も立会人《たちあいにん》も、エドガーがその場にいたことを証明し、なおかつ違法な決闘についてはかたく口をつぐんだまま『ピクニック』だったと言いきるだろう。
それにしても決闘だなんて、危険すぎる。
「どうして、そんな危ないことするの? 死んだらどうするのよ。命を懸《か》けるようなことなの!」
むりやり彼の手を押しのけ、リディアは言った。
「勝てると思ったから」
「バカじゃないの! ひょっとしたらあなたが大怪我してたかもしれないのよ!」
「心配してくれるんだ」
し、心配なんて。
「ごめんね、もう二度と、きみを悲しませるようなことはしないと誓うよ」
やさしくあまく、ささやく。一瞬ぼんやりとし、はっと我に返ったリディアは声を張り上げた。
「誓わなくていいわよ!」
「そんなに危険なピクニックだったので?」
まずい、とようやく気づき、口をつぐむ。
「ええ、悪魔が現れるかもしれませんでしたからね」
「あー、悪魔ね。オカルト好きの集まりですか」
上流階級の奇妙な趣味に、これ以上かまってはいられないと思ったのか、警部は話を切り上げた。
「わかりました。ご協力に感謝します」
「僕の名を騙ったのが犯人なら、必ずつかまえてくださいよ。ゴシップ紙に書き立てられて、婚約者《フィアンセ》に誤解されたくありませんから」
「おや、婚約者がいらっしゃるんですか?」
「彼女ですよ」
いとおしそうにリディアの方を見るものだから、反論する言葉がすぐには出てこない。
「あーそうですか。お幸せに」
そのままさっさと行ってしまった警部は、婚約者だなんてまるで信じていないようだった。
どう見てもつりあわないってこと?
それもそうよね。
くすんだ鉄錆色《てつさびいろ》の髪はおろしっぱなしだし、とびきりの美女でもないし、流行のドレスに身を包んだ令嬢でもないし。
「……わかったでしょ。誰が見たってあたし、あなたの恋人に見えないのよ。ゴシップ紙の記者がここにいたって記事にならないわ」
「艶《つや》っぽい雰囲気が足りないからだよ。だってきみは、口づけさえまだ許してくれない」
やばい、と感じたリディアは、あわてて立ちあがろうとした。しかしエドガーに腕をつかまれる。
「待って。ちゃんと説明させてくれ」
「な、何を?」
「未亡人のこと」
あらためてそう言われると、なんだか腹が立った。
どんなに思わせぶりなことを言っても、やっぱりただの軽薄《けいはく》男だ。わかっているはずなのに腹が立つ。
「彼女とはただの友達だよ。あの男が別れてくれないって相談されてて、僕が間に入ったんだけど、こじれてああなっただけなんだ」
「女性とは友達にならない主義なんでしょ」
「最初はともかく、いずれ友達になる場合はあるじゃないか」
てことは、どのみちつきあってたんじゃないの!
「とにかく、あなたの大勢の女友達だか恋人だかに、あたしを含めないでちょうだい」
「みんなきちんと別れた」
「は?」
「婚約した以上、そうするべきだから」
だから婚約してないってば。
「誰だって、昔の恋のひとつやふたつあるじゃないか。終わったことまで気になるの?」
昔って、英国へ来て半年もたっていないというのに、ひとりやふたりどころか何人恋人がいたというのか。終わったかどうかもあやしすぎる。
リディアはもう、どこを突っ込めばいいのかわからなくなった。
「僕にはもうきみだけだ」
なわけないでしょ。
「霊媒師《れいばいし》は? ソーホーの踊り子は? 銀行家の令嬢は?」
「ゴシップ紙のでっちあげ」
「わかったもんじゃないわ。あなたうそつきだもの。きちんと別れたなんて言って、ばれなきゃいいと思ってるんでしょ」
リディアが詰問《きつもん》しているというのに、エドガーはにこやかに微笑《ほほえ》んでいる。
「……何がおかしいのよ」
「いや、痴話喧嘩《ちわげんか》がいい感じだなあと思って」
「ち、痴話喧嘩?」
「浮気を問いつめられるってのが、恋人らしい雰囲気でいいよね」
はっとリディアは我に返る。
そうだ。こいつが何人とつきあっていようが、今も交際を続けていようが、どうでもいいはずではないか。
「と、問いつめてるんじゃないの。だから、そうよ、あたしには関係ないわ。あなたがいちいちからむから……、ああもう、だからあなたの言うことなんか信じないってことよ!」
不自然にあせってしまう自分に、ますます混乱させられる。
「怒っていてもかわいいね」
……父さまが帰ってくるまで、あたし無事でいられるかしら。
脱力感とともに、リディアはひどく不安になった。
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*
紳士《しんし》たちの社交場、会員制高級クラブは、夜を徹《てつ》して遊ぶ暇人《ひまじん》たちで、今夜もにぎわっていた。
酒も煙草《たばこ》も、阿片《あへん》もある。居心地のいい豪華な部屋で、ゲームもギャンブルも、好きなだけ友人たちと議論を楽しむこともできる。この世の享楽《きょうらく》のうち、ないのは女くらいのものか。
こういったクラブハウスには、通常女性は入れない。男ばかりで集《つど》うのがなぜか英国人は好きらしいが、エドガーには理解しがたい。
しかし今夜は必要あって、このクラブへやって来た。中の個室へ通されると、クラブのオーナーであるスレイドと、画家のポールとが彼を待っていた。
「それで伯爵《はくしゃく》、昨夜の降霊会《こうれいかい》はいかがでしたか?」
「霊媒師について、何かわかりましたか」
あいさつもそこそこに、性急《せいきゅう》に彼らは訊《たず》ねた。エドガーに霊媒師の情報を持ってきたのがこのふたり、つまりは彼らが属する秘密結社|朱い月《スカーレットムーン》≠セ。
ふたりがあまりに深刻そうなので、ふざけてやりたくなった。
「うん、あれはかなりの美人だね。顔をベールで隠してたけど、確信した。スタイルも完璧《かんぺき》だったよ」
「はあ……。そうではなくて伯爵、あなたどこを見てるんですか。その女がプリンスの手先かもしれないと……」
苛立《いらだ》つスレイドを、まあまあとポールがなだめた。短気な彼を怒らせたところでとりあえず満足し、エドガーは言った。
「プリンスがかんでいるのは間違いない。向こうにとっては、僕をおびき寄せる計画の、第一段階はクリアしたというところだろう」
プリンスというのは、アメリカにいるエドガーの宿敵だ。家族を皆殺しにし、子供だった彼を拉致《らち》し奴隷《どれい》にしていた男。
そのプリンスから逃亡を果たしたエドガーだが、このままですむとは思っていない。
そろそろ、向こうから何か仕掛《しか》けてきてもおかしくないころだった。
受けてたってやるつもりだし、いずれは奴をあの組織ごとたたきつぶしてやりたい、と考えている。
そのために、同じようにプリンスを憎んでいる結社、|朱い月《スカーレットムーン》≠ニ協力して調査を進めていたのだ。
そうして浮かびあがってきたのが、プリンスがアメリカから送り込んできた人物が、ロンドンで動きはじめているという確信だった。
問題の人物は、ユリシスと名乗っている。その男が、プリンスと取り引きのある金貸しから、多額の金を受け取っている。何をやらかすつもりにせよ、今回の計画の資金だろう。
ユリシスという名は、エドガーがプリンスにとらわれていたときにも聞いたことがあった。顔を見たことはないが、側近《そっきん》中の側近だと思われる。
しかしユリシス本人は、所在《しょざい》がつかめず姿も見せない。どんな人物なのか何の情報もない。
ようやくつかんだのは、ユリシスがパトロンとなっている霊媒師の存在だ。
プリンスの手先が、霊媒師を使って何をはじめるつもりなのかはまだよくわからない。
しかし霊媒師《れいばいし》は、アシェンバート伯爵の知人だと吹聴《ふいちょう》して、オカルト好きの上流階級に接近していたというから、エドガーを誘い出す意図はあったようだ。
そこへエドガーは、わざと現れてやった。罠《わな》だとしても、こちらがプリンスを怖《おそ》れて逃げ回っているわけではないと、誇示《こじ》してやりたかった。
敵の思い通りにならず、勝てる方法があるとしたら、奴らを怖れないことだと思っている。
「幽霊《ゆうれい》娘の花婿《はなむこ》選びだということでしたが」
「そう、選ばれたよ」
「えっ、幽霊に会えたんですか?」
「会ったというか……、微妙だね。とりあえず、候補として選ばれたのは僕を含めて四人だ。またの機会に呼び出されるらしい。その中に、僕の名を騙《かた》るアシェンバート伯爵という人物がいた」
「そいつがユリシスですか?」
「まだわからない」
言いながら、エドガーは降霊会の様子を思い出していた。
朱い月≠ェ入手したロンドン市《シティ》心霊協会会員の紹介状を手に、偽名《ぎめい》を使って降霊会に出向いていったエドガーは、そこではミドルワース子爵《ししゃく》と名乗った。
案内された部屋は、窓という窓にぶ厚いカーテンがおろされていて、中央に丸いテーブルが置かれていた。床に敷かれた絨毯《じゅうたん》は、靴音を完全に消し去り、人が集まっているというのに部屋の中はやけに静かだった。
火のともった蝋燭《ろうそく》が一本だけしかない、薄暗い部屋の中では、集まった紳士《しんし》たちの顔もよくわからなかったが、事前に調べたところでは、エドガーと社交界で面識のある人物はいないはずだった。
社交界は金のかかる場所だ。そんな余裕などない貴族ばかりがあつまっているのだ。
しばらくすると、奥のドアが開いて、小柄な老婆《ろうば》が部屋へと進み入った。
『みなさん、お待たせいたしました。はじめますのでどうぞ席にお着きください』
粛々《しゅくしゅく》と従い、まるいテーブルを囲んで皆が席に着くと、老婆が入ってきたドアから、ベールをかぶった女が姿を見せた。
霊媒師は、黒いドレスに黒いベール。顔を覆《おお》っているので、容姿《ようし》も年齢もわからない。かすかにわかる頬《ほお》の輪郭《りんかく》は、ほっそりしていて、若そうだとだけエドガーは思った。
ひとつだけあいていた席に腰をおろすと、ベール越しにゆっくりと、彼女は集まった顔触れを見まわした。
その視線がわずかに、エドガーのところで戸惑《とまど》ったように思えたのは錯覚《さっかく》だったろうか。
霊媒師は、エドガーの刺《さ》すような視線にたえかねたのか、それから二度とこちらを見ようとしなかった。
『よろしいですか、みなさん。今夜呼び寄せるのは、こちらにいるコリンズ夫人のお嬢さん、ミス・テリーサの霊です』
しゃべっていたのは、霊媒師の後ろに立ったままの老婆だ。
『コリンズ夫人は、有能な霊媒師を求めてロンドンまで来られました。まさにこの機会に、我らがセラフィータがこの英国を訪れたのも、霊界からの貴重な働きかけがあったのでしょう』
セラフィータ、美しい天使の名だ。思わせぶりにそう名乗りながら、顔も見せず、声さえ聞かせないつもりだろうか。
『どうか疑いの気持ちを捨てて、心からテリーサ嬢が現れることを望んでください』
セラフィータが両手をテーブルの上に置き、左右に座っている男の手を取る。円テーブルを囲んで、みなが両手をつなぐ形になった。
老婆が部屋から出ていくと、テーブルの上にあった一本だけの蝋燭は、風もないのに勝手に消えた。
同時に、部屋の中は完全な闇に包まれた。
しばし静寂《せいじゃく》に支配される。永遠に続きそうなその静寂に、誰もが不安を感じはじめただろうころ、耳鳴りともつかないほどかすかな声が聞こえてきた。
低く抑揚《よくよう》のない声で、呪文《じゅもん》のようにつぶやかれるのは霊媒師の声だった。
声に紛《まぎ》れ、どこか片隅で、きしむような音が鳴った。と思うと、強く壁をたたく音が部屋に響く。それは室内を移動しながら、自分の位置を知らせるかのように、ときおり壁を鳴らす。
両隣の男が、不安を感じているのかかすかに身じろぎする。
闇は人に平常心を失わせる。たったこれだけの現象を、亡霊《ぼうれい》の仕業《しわざ》だと信じてしまうのも無理からぬことなのだろう。
エドガーは、不安や恐怖の感情を抑制するのに慣れている。暗闇など、危機的状況のうちに入らない。だから、あの老婆がそっと部屋へ入ってきている可能性もあるのではないかと、冷静に考えていた。
やがてそれも静かになると、すぐそばを誰かが歩くような、衣擦《きぬず》れの気配《けはい》を感じた。
霊媒師のささやき声はやんでいた。そのとき部屋の中にあったのは、輪になって座っている彼らの背後《はいご》を、ゆっくり歩いていくような気配だけだった。
もしも死人の魂《たましい》が、こんなふうに存在感や息づかいを持って、何度もこの世に現れることが可能だというなら、死別を悲しむことに何の意味があるのだろうか。
そう思いながらエドガーは、失った人たちのことを考えた。
父や母や、ともにプリンスのもとを逃《のが》れ来た仲間たち。
自由を目前《もくぜん》にしながら、エドガーへの裏切りを告白し、海へ身を投げたアーミン。
彼女のことはいまだに、救えたかもしれないのにと、思い出すたびに後悔する。
エドガーよりもずっと、プリンスにひどい仕打ちを受けていた。そのせいで、最後まで魂を支配されていたのに、気づいてやれなかった。
まやかしではなく、本当の彼女がこんなふうに、現実的な存在感を持って死者の国から戻ってくることができるというなら……。
そのときエドガーは、はっと注意を引き戻した。
テーブルの周囲を移動していた何かの気配が、彼の背後で立ち止まったからだった。
アーミン……。
なぜだか彼はそう思った。テリーサ嬢の亡霊だとも、仕込まれた生身《なまみ》の人間だとも、そのときは考えないまま、そっと頬に触れる手を感じていた。
アーミン、僕を許してくれるのか?
再び蝋燭に火がともったとき、周囲をうろつく人影などもちろんなく、誰も手を離した形跡もなく、ジャスミンに似た香りが、亡霊が現れた証拠《しょうこ》だとでもいうように漂《ただよ》っていた。
コリンズ夫人が、すすり泣いていた。さっきの気配を、娘だと信じ切っているのだろう。
奥のドアが開いて、再び現れた老婆が終了を告げた。
『テリーサ嬢のサインを感じ取った方はいらっしゃいますか? その方のみ、後日彼女と対面していただきます』
対面? 今度は亡霊の姿を見ることができるとでもいうのだろうか。
『サインというのは?』
誰かが訊《き》いた。
『彼女に触れられたとか、声を聞いたとか、それが選ばれたしるしです』
『なら僕には会う資格があるらしい』
エドガーは手をあげた。
『お名前は?』
『ミドルワース子爵』
老婆が頷《うなず》くと、別の席からも手が上がった。その中のひとりが、アシェンバート伯爵《はくしゃく》と名乗るのを耳にし、エドガーはそろりと首を動かした。
二十代半ばくらいの、男前といえなくもない青年だった。金髪ではあったが、エドガーと共通点があるとすればそれくらいだ。
紳士《しんし》たちがざわめいたのは、アシェンバート伯爵の名くらいは知っていたからだろう。
金に困っているわけでもない伯爵家の当主が、どうしてここに、と聞こえた。
女に見境《みさかい》がないという噂《うわさ》だが……、とはあきれつつも納得しているかのような。
幽霊《ゆうれい》に手を出すほど不自由していない、とエドガーは思う。
『ではのちほど、四人の方々にはご連絡させていただきます』
老婆が言って、霊媒師はみなに向かって一礼した。コリンズ夫人の手を取り、奥の部屋へ下がろうとしたとき、ドアからもれるガスランプの光が霊媒師《れいばいし》のベールを透《す》かし、その横顔をにわかに照らし出した。
はっとエドガーは目を奪われた。
アーミンにそっくりだったからだ。
思わず駆《か》け寄り、霊媒師の手をつかんでいた。
『おやめください、子爵《ロード》』
老婆が割って入ろうとするが、かまわずエドガーは霊媒師に接近した。
『ミス・セラフィータ、さっき僕に触れたのは、本当にテリーサ嬢の亡霊だったのですか? あなたのこの、細い指では?』
彼女の手を自分の頬へ導きながら、そうだ、この感触だと確認した。
ベール越しに目をあわせ、一瞬|硬直《こうちょく》した霊媒師は、あわてて手を振り払うと黙ったまま立ち去った。
アーミン、それとも彼女にそっくりな女。
そんな女を使ったということは、プリンスがエドガーに自分の力を誇示《こじ》し、あざ笑っているのに違いなかった。
だが、感情的になってはいけない。
エドガーは気持ちを落ち着けるために、給仕が運んできたジンをのどへ流し込む。
「降霊会《こうれいかい》に参加した貴族の名簿は、心霊協会から手にはいるだろう? 選ばれたほかの三人と、コリンズ家について調べてほしい」
「それで伯爵、どうするんです? 呼び出されたらまた行くんですか?」
「行くよ」
「でしたら、護衛や連絡役をつけた方が」
「レイヴンで間に合うだろう。へたに連れていって、安全に気を配るのは面倒だ」
スレイドがむっとしたのは、自分たち朱い月≠フ精鋭《せいえい》が足手まといだと言われたせいだ。いちおう武器を扱える者も、危険を冒《おか》して働ける者もいる。そもそも昔は、装飾芸術家として要人《ようじん》の城へ入り込み、密偵《みってい》のようなこともしていた組織だ。
しかしエドガーは今のところ、この結社には情報収集能力を期待しているだけだ。
それにできれば、朱い月≠ゥら死人を出したくはない。
レイヴンなら、エドガーのもっとも信頼する従者だ。自分の身は自分で守れる。そのうえで、ボディガードを数人連れているだけの価値はあるのだから、人を増やして動きにくくなる必要もない。
「わかりました。おっしゃるとおりにいたしましょう」
*
『アシェンバート伯爵、今度の恋人は幽霊娘』
眉《まゆ》をひそめたくなるような文字が、またタブロイド紙の紙面を飾っていた。
伯爵|邸《てい》へ出勤したら、仕事部屋のテーブルに広げてあったのだ。リディアはそれを、まるめてゴミ箱に投げ捨てた。
「ニコ、いちいちあたしにゴシップペーパーなんか見せないでよ」
「気になるだろうと思ってさ」
紅茶好きのニコは、いつでもリディアより一足先に伯爵邸へやってくると、セイロン産の高級茶を淹《い》れてもらって、満足そうにティータイムを楽しんでいる。
「あたしには関係ないって言ってるでしょ」
「ならいちいち怒るなよ。おれはただ、あの伯爵が危険なことをたくらんだりしてないか、見張ってるだけだからさ」
見張ってるって、単なるゴシップ好きでしょうに。エドガーが何かたくらんだとしても、簡単に食べ物やお酒で買収《ばいしゅう》されるニコだ。リディアの相棒だが、頼りないったらない。
しかしふとリディアは考え直し、優雅にティーカップを持ちあげ香りを堪能《たんのう》しているニコのそばに歩み寄った。
ひとつ咳払《せきばら》いして、問う。
「読んだ?」
「あ? まあさっとな」
「何て書いてあったの?」
「気になるなら読めよ」
「……べつに、気になるわけじゃないわ。ただほら、あたしはエドガーといっしょにいる機会が多いじゃない。いつどんなことで変な誤解をされるかわからないし、ゴシップネタになりやすい状況は避けるようにしなきゃって思うわけよ」
「だいじょーぶじゃねえの? これまで一度もネタにされてないんだから」
どうせ恋人どうしには見えないと、ニコにまで宣告《せんこく》されたような気がしてリディアは少しむっとした。
いやべつに、見えなくていいのだけれど。
自分にそんなに色気がないとすると、ふつうに恋もできないのではないかと不安になるだけで。
そう、それだけだが、いちおう今後のために。
リディアはそおっと、捨てたタブロイド紙を拾い上げた。
しわを伸ばしつつ文字を拾い読む。死んだ娘のために結婚相手を見つけてやろうとしている富豪《ふごう》の夫人が、降霊会を開いたとのこと。そこにアシェンバート伯爵が、花婿《はなむこ》候補として参加していたと書かれていた。
美しい幽霊に執心《しゅうしん》の様子だとかなんとか。
「……信じられない」
思わずつぶやく。
女に見境がないとは知っていたけれど、ここまでとは。
「ちょうどいいじゃないか。奴が幽霊と結婚する気なら、あんたは解放してもらえるぞ」
「そ、そうよね。あんな口約束の婚約なんて、さっさと解消して……」
言いかけ、リディアはあわてて口をつぐむと、慎重《しんちょう》に窓の方を注視《ちゅうし》した。
婚約解消という言葉を、聞かれるとまずい妖精が近くにいるかもしれないからだ。
「あの水棲馬《ケルピー》なら、今はロンドンにいないぞ」
「え、スコットランドへ帰ったの?」
「さあ、どっか郊外《こうがい》じゃないか。ロンドンは暑くてくさってるとぼやいてたからな」
エドガーとの、あくまでその場しのぎのはずだった婚約は、リディアにとって、ケルピーとの婚約を無効にするためのものでもあった。
だからケルピーが近くにいるかぎり、エドガーとの婚約はうそだと、声高《こわだか》に主張することはできなかった。
しかしケルピーがいない。ということは、今こそエドガーにはっきりと、婚約は無効だと認めさせるチャンスではないか。
「おいリディア、どこへ行くんだ? 伯爵は出かけてるぞ」
「あいつが帰ってくるまでに、どうやって婚約解消を言いくるめるか策《さく》を練るの」
「あの口達者《くちだっしゃ》を言いくるめられるかね」
だから策を練るんじゃないの。リディアは伯爵邸を出ると近くの公園に向かった。
考え事をするなら、外の方が気分がいいし落ち着ける。
じきに公園の木々が、灰色の建物の向こうに見えてくるが、リディアはふと足を止めた。
助けて、と誰かが言ったような気がしたのだ。
耳を澄《す》ます。雑踏《ざっとう》に紛《まぎ》れて、またかすかに聞こえる。
風の音? いやもっとざわざわとした、海鳴りのような、波のような……。
そんなふうに聞こえるのは、人間というより、妖精の声ではないだろうか。
声が聞こえたと思える方、脇道《わきみち》へと入り、リディアは気配《けはい》を追う。そして足を止めたのは、街灯の陰に、うずくまるように座り込んでいる女性を見つけたからだった。
上品な身なりの、ふっくらした中年女性だった。
この人が妖精の声と関係があるのだろうか? もはや何の声も聞こえない。
「あの、大丈夫ですか?」
女性は、青白い顔をどうにかあげ、頷《うなず》いた。
「ちょっと、貧血かしら。気分が悪くなっただけなの」
とは言うが、このままほうって行くわけにもいかない。
「家はどちらですか? よければお送りしますわ」
すると彼女は、リディアを見て、泣きそうに顔をゆがめた。
「……やさしいお嬢《じょう》さんね。わたしの、死んだ娘が、生きていればあなたぐらいの年頃だわ……。」
娘を思うように、彼女はリディアの手を握った。
ミセス・コリンズというその女性は、ハイドパークに面した高級ホテルに滞在していた。
辻《つじ》馬車を拾って、夫人をホテルに連れ帰ったリディアは、彼女が泊まっている広いフロアの一室に通された。
かなりお金持ちの夫人だったらしい。ホテルの一室とはいえ、豪華な応接間だった。
彼女の世話係だという若いメイドが、リディアを丁重《ていちょう》に迎え入れてくれたが、早々に帰ろうとすると、お茶だのお菓子だのをすすめられ、引き止められる。
「いえ、あたしはこれで失礼しますから」
「でもあの、お礼をさせていただきたくて」
「そんなの、気にしないでください」
リディアは立ちあがったが、とどめるようにドアの前に立って、メイドは急に泣きそうな顔になり、お仕着せの前掛けを握りしめた。
「ミス・カールトン、お願いがあるんです。奥さまを説得していただけませんか。たまたまご親切にしてくださっただけのあなたに、こんなことを言うのは筋違《すじちが》いなんですが、あたし、もうどうしていいかわからなくて……」
なんだか、切羽《せっぱ》詰《つ》まっている様子だった。
「どういう事情なんですか?」
頼られればほうっておけないのがリディアだ。ついそう返せば、話を聞かねばならなくなっていた。
「奥さまは、十年以上前に幼いお嬢さまを亡くしておられます。そのお嬢さまのことが忘れられずにいらっしゃったのですが、このところ様子がおかしくて、お嬢さまを思うあまり心を病《や》んでしまわれたようなのです。お嬢さまが戻ってくると信じ込んで、ドレスや花嫁《はなよめ》道具をそろえはじめたり、そろそろ結婚相手をさがさなくてはと本気で思ってらっしゃるようで」
そういえばリディアのことを、娘と同じ年頃だとか言っていた。
「あの霊媒師《れいばいし》が現れてからです」
「霊媒師?」
「はい、お嬢さまを生き返らせることができると、霊媒師が言うのです。でも、そんな恐ろしいこと……、神の摂理《せつり》に反することではありませんか」
「ええ、その通りだわ」
「このままでは、ますます奥さまが病んでしまわれそうで不安なんです。奥さまは今、ご親切なあなたをお嬢さまと重ねています。ですから、もしかしたら、あなたの言葉なら理解してくださるのではないかと」
そばかすだらけの少女は、心から夫人を慕《した》い、心配している様子だった。
「夫人のつきそいはあなただけなの? ご家族の方は?」
他人が口出ししていいものだろうかとも思う。
「旦那《だんな》さまは仕事で忙しくて、このご旅行についてきてくださったのは甥御《おいご》さんなんですが、まだ十六歳で、自分が遊び回っているばかりで……」
主人の親族に対して文句を言うべきではないと思ったのか、彼女はそこで甥の話をやめた。
「あたし、子供のころに親を亡くしてから、ずっと奥さまのお世話になっているんです。下働きのあたしをそばに置いてくださって、メイドの仕事をしながら、読み書きや裁縫《さいほう》や、ちゃんとしたところにお嫁に行けるようにって教えてくださって……」
「夫人に、元気になってほしいのね」
目をこすりながら、頷く。
「話してみるのはかまわないわ。でもそれで、夫人を説得できるわけじゃないと思うけど」
たぶんメイドの少女は、味方になってくれる人がほしかったのだろう。どうしていいかわからない、だから年頃も近いリディアに、事情をうち明けた。
夫人のためというよりは、メイドのためにリディアはそう言った。
「あ、ありがとうございます。じゃあ、奥さまの様子を見てまいります」
心からほっとしたように一礼すると、彼女は急ぎ足で部屋を出ていった。
ソファに座り直し、リディアは、衣服の中につけている母のペンダントを指でなぞった。
娘を亡くしたコリンズ夫人、母を亡くしたリディア。力になれるなら、これも何かの縁かもしれない。
それとも、妖精の導き?
あの声は何だったのかしら。
ふと思い出したとき、ノックもなく部屋に誰かが入ってきた。リディアが首を動かすと、さっきの少女とは別のメイドだった。
「助けてください」
外を気にした様子で、彼女は唐突《とうとつ》に言った。
「わたしたちを助けてください、フェアリードクター」
どうして、リディアをフェアリードクターだと知っているのか。それに彼女の声は、さっきリディアが感じた不思議な声によく似ていた。
「あなた、妖精?」
「|アザラシ妖精《セルキー》です」
セルキーは、アザラシの毛皮を脱ぐと人の姿になるという。毛皮を隠されてしまうと海に帰れず、それを持つ人に隷属《れいぞく》するしかなくなるとも聞いたことがある。
しかしリディアにとって、セルキーを見るのははじめてだったから、にわかには信じられなかった。
まるきり人と見分けがつかない。たいていの妖精は、人の姿をしていてもどこか違うものなのに、海で死んだ人間の化身《けしん》だとも伝えられている妖精だから、よほど人に近いのか。
「あの、さっきの女の子も?」
「彼女は違います。わたしたちは、悪い人間に毛皮を奪われました。どうかフェアリードクター、わたしたちを解放してください」
毛皮を取り返してほしいというのだ。
いったい、霊媒師だとかアザラシ妖精だとか、コリンズ夫人の周囲で何が起こっているのだろう。
悩んだリディアの目の前で、急に彼女の全身から白い炎が立った。
「ああ……、わたしの毛皮が焼かれています」
炎の幻《まぼろし》。リディアにとっては、見えるだけで熱くはない幻影《げんえい》だが、彼女の毛皮が焼かれているとしたら、妖精の魂《たましい》が焼き殺されようとしているということだ。
「どこなの、あなたの毛皮は」
リディアは立ちあがった。さがしだして火を消さなければならないと思った。
「わたしはもう……。あなたと接触したのが知られたようです。早く、ここから出てください。彼が来ます」
「え、で、でも……」
「まだ、とらわれのセルキーが何人もいます。みんな、使用人として別荘で働いています。毛皮も、彼がそこに隠していると……。お願いです……」
彼女の姿が急に薄れ、白い炎にのみ込まれるように消えた。
どうしよう、とあせりながら部屋の外へ出たリディアは、背後《はいご》に何かの気配を感じた。しかし振り返ろうとする間もなく、後ろからかかえ込まれる。
「ちょっと、なにす……」
薬品の匂《にお》いをかがされ、意識が遠退《とおの》く。
「バカなセルキーだ。捨て身でフェアリードクターに助けを求めるとは。しかしこんな小娘に何ができる?」
遠くの方から、声だけが聞こえていた。
「アシェンバート伯爵家《はくしゃくけ》の、フェアリードクター? どうせ名前だけの、無能なお嬢さんなんか眼中《がんちゅう》になかったんだがなあ。どうするか」
無能って何よ。
あたしは、ちゃんとしたフェアリードクターなんだから……。
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よみがえりの秘術
霊媒師《れいばいし》は、アーミンによく似ていた。ベール越しだったけれど、そっくりだったとエドガーは思う。
潮《しお》の流れも急な人魚《メロウ》の海にのまれた彼女は、遺体すらあがっていない。
それゆえに、どこかで生きているかもしれないという淡い希望も、ないわけではなかった。
しかし、助かったならどうしてエドガーのところへ戻ってこないのか。
プリンスとのつながりを断ち切れないままだからか。
あの霊媒師がアーミンなら、今もプリンスの手先に使われているということになる。
「エドガーさま、やはり私には、姉が生きているとは思えません」
エドガーが考え込んでいる書斎《しょさい》へ、紅茶を運んできたレイヴンも、それについてずっと考えていたのか開口《かいこう》一番にそう言った。
「実際に会えば、本人だと信じたくなるほどだよ」
「たとえ顔や声がそっくりだったとしても、姉ではないような気がするんです」
アーミンは、レイヴンの異父姉だ。褐色《かっしょく》の肌をした、あきらかに異国人のレイヴンとは違い、アーミンは白人に見えるがたしかに姉だ。
デスクの上で指を組んで、エドガーはレイヴンを見あげた。
「どうして?」
「助かったとしても、またプリンスのために働くでしょうか。もはや姉には、そうする理由がありませんし、とらわれの身になったところで、いちど捨てた命を惜しむとは思えません」
彼女がエドガーを裏切りプリンスの言いなりになっていたのは、ただエドガーのそばにいたいという、それだけのためだった。
逃亡を続けている間は、信頼できる味方はお互いだけ、周囲はみな敵かもしれないという親密な関係を保っていられても、エドガーが爵位《しゃくい》を手に入れれば、自分は特別ではなくなると彼女は感じていた。
だから、逃亡を長引かせるためにプリンスに情報を流していた。
逃げても逃げても、エドガーはプリンスの手の内だった。
けれどそんな状態は、リディアに出会って一変《いっぺん》した。伯爵《はくしゃく》の地位を得ることが、リディアの力で不可能ではなくなったからだ。
そうしてアーミンは、プリンスがエドガーを支配し続けることを、自らの死で終わらせた。
そんな彼女が、エドガーのもとに戻ることはできないとわかっていながら、生きてプリンスのために働く意味があるかとレイヴンは考えるのだ。
「アーミンかどうかは、確かめる方法はある」
エドガーはそう言って、届けられたばかりの手紙を、黒髪の少年の方に押しやった。
「コリンズ夫人からの招待状だ。霊媒師をいかさま扱いしたのに、除外されなかったようだ」
もちろん、ミドルワース子爵《ししゃく》に宛《あ》てた手紙は、別の住所に届いたものだ。
「ヘイスティングズの近くにある彼女の別荘へ行けば、テリーサ嬢に会えるらしい。霊媒師もそこに滞在しているはずだ」
「行かれますか?」
「もちろん」
「わかりました」
淡々《たんたん》と答えながら、レイヴンはこれもまた無表情に、くしゃくしゃにまるめられた新聞を差し出した。
「リディアさんの部屋に落ちていました」
タブロイド紙だ。そこには、アシェンバート伯爵が幽霊にぞっこんだなどというくだらないゴシップが載《の》っていた。まったく、あの場で伯爵を名乗っていたのはエドガーではないというのに困ったものだ。
しかし、リディアが読んだらしいのも、くしゃくしゃにするくらいに好ましくない感想を持ったらしいのもたしかだった。
「……まずいかな」
「まずいでしょう」
脱力しながら、エドガーは額《ひたい》の髪に指をうずめた。
「いったいどうして、リディアがタブロイド紙なんか手にする機会があるんだ?」
そもそも労働者階級の読み物で、彼女のような中流上《アッパーミドル》の家庭で読まれるようなものじゃない。だからいろいろと書かれているのは知っていたが、彼女の目に入る機会はないだろうと思っていたのに、やたら詳しかった。
「ニコさんが毎日読んでいるからだと思います」
あの猫。
「紳士《しんし》気取りのくせに、低級紙の愛読者か」
「人間のくだらないゴシップが好きな妖精は、わりといるそうですよ」
「……とにかく、リディアをなだめてこよう」
エドガーが立ちあがったとき、問題のゴシップ好き猫が、二本足で書斎へ駆《か》け込んできた。
「おい伯爵、リディアが出かけたきり戻ってこないんだ」
ふと、いやな予感がした。プリンスの手先が動いているこの時期だ。
「いつ出かけたんだ?」
「朝。策《さく》を練ると言って公園へ向かったはずなんだが、公園にいる小妖精はリディアは来なかったと言ってる。おれもそのへんをさがしてみたんだけどいないしさ、心配だからあんたもさがしてみてくれよ」
「策を練る? 何の?」
「あー、ちょっとな」
頭をかきつつごまかすニコに、エドガーは近づいた。油断していたニコを、さっとつかみあげる。
「わっ、何すんだよ、離せってばこら!」
「何の策?」
やさしく、のどのあたりを撫《な》でてやると、ニコは目を細めながら暴れた。
「やめろっ、わ、わかったってば、お、教えるからやめてくれ!」
離してやると、ふらりと壁によりかかった彼は、必死になって毛並みを直している。
「気持ちいいくせにいやがるなんて、きみは損な性分《しょうぶん》だな」
うらめしそうにエドガーをにらむ。
「おれを猫扱いするなって言ってるだろ!」
「で、リディアは何を考えてるんだ」
「あんたとの婚約を解消する方法だよ!」
それはまずい、とエドガーは腕を組んだ。
「そんなことより、リディアをさがしてくれってば!」
「ああもちろんだ。レイヴン、執事《しつじ》を呼んでくれ」
*
目覚めたとき、彼女は蝋燭《ろうそく》が一本しかない暗い部屋の中にいた。
椅子《いす》に腰かけた彼女の背後《はいご》には、女がひとり立っていて、彼女の肩に両手を置いていた。
後ろを見ずに女だとわかったのは、その手のほっそりした感触からだ。
「テリーサさん、ご気分はいかがですか?」
誰かが言った。
テリーサ、それが自分の名前なのだろうかと、彼女は少し戸惑《とまど》った。
しかしすぐに、そうだったかもしれないと思えてきた。
「あなたは今、生まれ変わったのです。もういちどこの世に、なつかしい家族のもとに帰ってきたのですよ」
少し振り返れば、ようやく背後の女の顔が見えた。透《す》けるように肌の白い、美しい人だった。
しかしこちらに語りかけたのは、そばにいた老婆《ろうば》の方だ。美しい女性はただ、老婆の言葉に頷《うなず》いた。
生まれ変わった?
そういえば、ついさっきまでここではない場所にいたような気がする。こんなに暗くはなくて、明るくあたたかい場所だった。
生まれ変わるというのも、そう気分のいいものじゃないなと彼女は思う。
右手を持ちあげてみる。華奢《きゃしゃ》な若い娘の手は、蝋燭明かりをなめらかにまとっている。
働く必要のない手だ。ぼんやりとそんなことを考えた。
「ああ、テリーサ!」
陰になっていた部屋のすみから声があがると、ふくよかな女性が、待ちきれずといった様子で彼女の方へ駆け寄ってきた。
「やっと、わたしのところへ戻ってきてくれたのね。お母さんよ、わかる?」
座り込んで、彼女の手を強く握った。
お母さん? そうなのだろうか。
自分を見て涙を流す女性を見おろしながら、どうしていいのか困惑《こんわく》する。
「……あの、あたし……」
その声も、自分が発したのだと気づくのに時間がかかったほど、彼女は自分について、まるでわからなくなっていた。
「ミセス・コリンズ、霊にとって生前のことを思い出すのは難しいのです。少しずつ、ゆっくり教えてあげてください」
老婆がまた、そう言った。
母親だという女性は、神妙《しんみょう》に頷く。大きな宝石がついたネックレスがゆれる。
「あたしの、お母さん……?」
「ええそうよ、テリーサ。ほしいものがあれば何でも言ってね」
どうやら自分は、お金持ちの令嬢《れいじょう》だったらしい。
「何でも?……きれいなドレスや、宝石でも?」
「クローゼットから好きなのを選べばいいわ。気に入らないなら新しいのを買いましょう。アクセサリーもたくさん、あなたのためにそろえてあるのよ」
なんてやさしいお母さん。この世に戻ってきてよかった。
素直にそう思いながら、母親に抱きしめられる。そのとき彼女は、暗がりにもうひとりの人影を見つけていた。
男のようだったが、その人は明かりのそばへ近寄ろうとはぜず、ひとこともしゃべらないままだった。
顔の輪郭《りんかく》はもちろん、表情もまるでわからなかったけれど、彼女はじっと見られているような気がすると、母親との再会に水を差されたかのようで、急に不安をおぼえたのだった。
「お嬢さま、お目覚めですか? お湯の用意ができておりますわ」
聞き慣れたベテラン家政婦の声とはあきらかに違う、はずんだ若い声に、リディアは眠りから引き戻された。
明るい朝日がたっぷりと射し込んでいる部屋は、ロンドンの、西向きの通りに面したリディアの部屋ではないと一見してわかる。
ベッドの上で跳《は》ね起きた彼女は、大きなガラス窓の向こうに、きらきら輝く海を見つけ、まだ夢を見ているのかといぶかった。
どう考えても、ロンドンじゃない。
「……そうだわ、あたし、誰かに薬をかがされて……」
とすると、誘拐《ゆうかい》されたということだろうか。
それにしては、待遇《たいぐう》がいい。
広々として上品な寝室に、ふかふかのベッド、まっさらなシーツ。やわらかな肌触りの、リネンの寝間着《ねまき》を着せられている。
いったい、どういうこと?
|アザラシ妖精《セルキー》が現れ、助けてくれと言った。リディアに助けを求めたために、彼女は毛皮を焼かれた。つまりは、リディアの目の前で殺されたのだ。
そしてリディアは、セルキーを殺した何者かにとらわれた。
そこまではわかる。でも、ここはどこ? どうしてこんな部屋にいるのか。
悩みながら立ちあがる。
「お嬢さま、着替えをお持ちしますから」
衣服を手に部屋へ入ってきたメイドに、リディアは目を見開いた。
コリンズ夫人を説得してくれと泣きついてきた、あのメイドだったからだ。ますますわけがわからなくなる。
この少女も、犯人の仲間なのだろうか。
「ちょっとあなた、こんなことしていいと思ってるの? 誰が首謀者《しゅぼうしゃ》か知らないけど、誘拐なんて犯罪よ!」
目の前にリディアが立ちはだかると、そばかすだらけのメイドの手から、部屋着が床に落ちた。
「ひどいわ。あたしをだまそうとして、夫人やあなたの身の上話をしたの? こんなところに連れてきて、どうするつもりなのよ」
「……あの、まさか、ミス・カールトン?」
狼狽《ろうばい》しつつ、彼女は問う。
「ここはどこなの? あたし、ロンドンに帰るわ」
「テリーサお嬢さまじゃないんですか?」
「何言ってるの?」
わけがわからないわ、とリディアは彼女のそばをすり抜け、ドアから外へ出ようとした。
と、あわててメイドは立ちふさがり、ドアを閉めると、リディアの足元に突《つ》っ伏《ぷ》した。
「すみません、どうかお許しください。……恐ろしいことだとわかっていても、あたしにはどうすることもできず……。でも、お願いです、しばらくここにいてください。今出ていったりしたら、殺されてしまいます」
殺される? それはずいぶん、おだやかではない。
そしてメイドの必死な様子に、彼女が悪いわけではなさそうだと感じると、リディアは少し冷静になった。
「ねえ、だったら、ちゃんと話を聞かせてくださる? あなたを責めてるわけじゃないの」
身を屈《かが》め、手を取ってなだめる。
「あなた、お名前は?」
「スージーです……」
彼女の説明によると、あのあと応接間に戻るとリディアが倒れていた。あわてて人を呼ぼうとしたら、霊媒師《れいばいし》が現れ、すぐにホテルを出ると告げた。
意識のないリディアを車椅子《くるまいす》に乗せ、列車に乗せるのをスージーは罪悪《ざいあく》感に駆《か》られながら手伝ったという。
コリンズ夫人の娘、生きていれば十七歳になっていただろうテリーサをよみがえらせるためには、同じ年頃の少女の体を入れ物にしなければならないと霊媒師は説明した。
いけないことだとしても、病的なまでに娘に執心《しゅうしん》している夫人は、霊媒師の言葉を受け入れるだけだ。テリーサの入れ物に使えないなら、リディアのことは殺すしかないと言われ、スージーも逆《さか》らえなかった。
そうして、ヘイスティングズという町にほど近い、コリンズ夫人の別荘へ連れてこられたリディアは、降霊術《こうれいじゅつ》によって、テリーサの亡霊《ぼうれい》が取《と》り憑《つ》いた状態なのだという。
少なくともゆうべは、よみがえったばかりのテリーサ嬢らしくふるまっていたというが、リディアにはまるで記憶がない。
もっともテリーサ嬢は、自分がどこの誰かもよくわかっていず、言われるままに、一度死んだ自分が生まれ変わったという話を受け入れているらしい。
「ですからしばらく、テリーサお嬢さまのふりを通していただけませんか? 霊媒師のミス・セラフィータがここを去れば、危険はなくなります。どうかそれまで……。あの人たちは、人を殺すなんて簡単に……、恐ろしい人たちです」
その霊媒師が、セルキーをとらえているのだろうか。でも、ミス? リディアのことを無能だと言ったのは男だったような。
いずれにしろ、フェアリードクターの能力を持つ人物が、身近にいる。
いったいなぜ、セルキーを?
ともかくリディアは、しばらくここにいるしかないらしかった。だとしたら、スージーの提案は悪くはなさそうだ。
テリーサ嬢のふりをしておけば、自由に動き回れる。霊媒師のこともセルキーのことも調べられるではないか。セルキーが言っていた、別荘とは、おそらくここのことだろう。
そう考えてリディアは、どうにかやる気を奮《ふる》い起《お》こした。
妖精から助けを求められた。未熟な自分が一人前のフェアリードクターになるためには、ひとりでもやるしかない。
妖精からも頼られてこそ、本物のフェアリードクターなのだから。
「わかったわ、スージー。だったらあなただけは、あたしの味方になってくれる?」
「ええ、もちろんです。奥さまから、お嬢さまの世話係になるよう言いつかってますし、霊媒師に不審《ふしん》がられないようご協力できると思います」
「ありがとう」
「それからリディアさん、この屋敷にいるほかの召使いは信用しないで。霊媒師とこそこそ話している人もいたんです。ここの管理は、奥さまはまったく人任せにしてきたから、誰が入り込んでいるかわかりません」
別荘の使用人として、セルキーの仲間がとらわれていると言っていた。しかし中には霊媒師の仲間の人間がいるのかもしれないし、見分けられない以上|慎重《しんちょう》にした方がいいだろうと、リディアは頷《うなず》いた。
テリーサの亡霊は何もおぼえていないというから、リディアがコリンズ家のことを知らなくても問題はなかった。
そんなリディアの目の前で、コリンズ夫人は満面の笑みを浮かべていた。
「テリーサ、あなたの好きなカスタードパイよ。たくさんお食べなさい」
精神的に不安定な彼女は、薬のせいか眠っていたりぼんやりしている時間が多い。その日リディアが夫人と対面したのは、午後のお茶の時間になってからだった。
「ええ、ありがとうお母さん」
そして夫人は涙ぐむ。
「こうして、大きくなったあなたとお茶が飲めるだなんて……。ずっと夢に見てたのよ」
実在することを確かめるように、リディアの手を握る。
「本当は死んでなんかないって、信じてたわ。どこかで誰かに大切に育てられてて、いつか運命に導かれて、本物の親子として対面を果たせるんじゃないかって」
ほんの少し、だましているような気がして、リディアは胸が痛んだ。
「髪の毛、おばあさんに似たのかしら。子供のころはもっと淡いブラウンだったのに、赤茶っぽくなったわね。瞳の色も、こんなに黄みがかった緑だったかしら?」
彼女はもう、降霊術を行ったことなど忘れているようだ。それでもリディアは、不思議といやな気分にはならなかった。
彼女がどれほど娘を思って生きてきたか、偽《いつわ》りのない気持ちだと感じていたから。
幼くして母を亡くしたリディアにとって、母親ってこんなふうなのだろうかと考えさせられる部分もあった。
北方の血も濃いプラチナブロンドに白い肌、はっとするほどの美女だったというリディアの母を知る人は、リディアがまるで似ていないとよく言ったものだ。
ふくよかで親しみやすい印象のコリンズ夫人は、かすかにおぼえている母とは、雰囲気がまるで違う。でもどこか似た空気をリディアは感じていた。
やさしくておだやかな空気。そばにいるだけでほっとさせてくれる。
「テリーサ、とても、美しい娘になったわ」
抱きしめられれば、あまえてもいいのだと心がゆるむ。もう子供じゃないのに、自分にも母親を恋しく思う気持ちがあったのだろうか。
もしも母さまが、成長したリディアを目の前にしたら、きれいになったと抱きしめてくれるだろうか。
娘を亡くしたコリンズ夫人が、大人になった娘に会いたいと切実に願ったように、幼いリディアを残していかなければならなかった母も、切実な悲しみをかかえていたのかもしれない。
「もう、淋《さび》しい思いはさせないわ。あなたを世界一幸せな娘にしてあげるから」
「母さま……」
子供のように頭を撫《な》でられながら、リディアは母を思った。
「ああ、わたしが泣いてちゃだめね。そうだわテリーサ、あなたにつけてほしいカメオのブローチがあるの。あなたが結婚を考える歳になったら、渡そうと思っていたのよ。ちょっと待っててね」
結婚する年齢になったら。そうやって母や祖母から受け継ぐものは、お嫁《よめ》にいっても失われない母子の絆《きずな》だ。
リディアは、アクアマリンのペンダントを思ったが、気がついたときにはそれがなかったことに胸を痛めた。
落としたのか、盗まれたのかわからない。
母をもういちど失ったかのようで悲しかった。
[#挿絵(img/aquamarine_067.jpg)入る]
「きみがテリーサ?」
泣きそうになるのをこらえ、顔をあげると、戸口に十五、六歳くらいの少年が立っていた。
「あなたは?」
「オスカー、きみの従弟《いとこ》。学校は秋からだし、仕事でマンチェスターを離れられない伯父《おじ》さんのかわりに、伯母《おば》さんの旅行についてきたわけ」
襟元《えりもと》で切りそろえた淡いブロンドが動作にあわせてゆれる。テーブルのそばに座ると、彼はいたずらっ子のようににんまり笑った。
「でも、まさか本当にテリーサに会えるとはなあ。幽霊《ゆうれい》がよみがえるなんて、信じられないんだけどね」
背丈《せたけ》は大人くらいあるのに、顔立ちはまだ少年ぽい。人なつっこそうでいて、突き放したような話し方をする少年だった。
「あたしが、テリーサじゃないと思うの?」
「きみはどう思ってんのさ」
「……何もおぼえてないもの」
「遺産目当てで芝居してるって可能性もある。何もおぼえてないってわりに、お茶の作法を知ってるようだし」
どきりとした。ふだん通りにしすぎただろうか。
幽霊を信じていないという彼は、霊媒師《れいばいし》のことも信じていないのかもしれないが、こちらを試しているような態度がひっかかる。さらわれてきたことを話しても、味方になってくれるかどうかはわからない。
むしろ、テリーサじゃないと知ったら、単なる詐欺師《さぎし》だと思われそうだ。
警戒心《けいかいしん》が勝って黙っていると、オスカーはまあいいかと立ちあがった。
「きみさ、恋人はいる?」
「え?」
「ここの娘になるのはいいけど、そうすると、別の男と結婚する羽目《はめ》になるぜ」
にやりと笑って、彼は立ち去る。
富豪《ふごう》の夫人が娘の亡霊を呼びだし、その結婚相手をさがしているという記事を、リディアは思い出していた。それがこの、コリンズ夫人のことだったのだろうか。だとしたら。
エドガー……。
もしあの記事が本当なら、彼が候補としてここへ来る可能性があるのだろうか。
そしたら助かるかしらと考え、エドガーが幽霊娘に興味があるなら、むしろ霊媒師に協力するんじゃないかと不安にもなった。
いったい自分は、どこまでエドガーのことを信用しているのだろう。
口説《くど》き文句は信用できないとしても、リディアの危機を見捨てたりしないというくらいには、信じてもいいと思ったりもした。
でもそれも、リディアのフェアリードクターとしての能力に利用価値があるからだ。
彼にとって、リディアというただの少女は、助ける価値がある存在なのだろうか。
しかし、エドガーに期待する気持ちは、早くも破れることになった。
夕刻に別荘へ現れた、アシェンバート伯爵《はくしゃく》を名乗る人物が、エドガーではなかったからだ。
テリーサの部屋の窓辺から、玄関のポーチを見おろしていたリディアは、馬車から降りてきた見知らぬ青年に落胆《らくたん》した。
やっぱり、タブロイド紙なんてうそばっかりなんだわ。
有名になったアシェンバート伯爵の名は、彼と面識がない中流の金持ちには通りがいいということなのだろう。
エドガーが現れたら素直に助けを求めても大丈夫かどうか、真剣に悩んだだけバカみたいだと思いながら、リディアはベッドに寝ころんだ。
西に傾いた陽《ひ》の、薄い光を覆《おお》い隠すように雲が広がってきていた。
灰色の空気が、空と海とこの別荘を包み始めると、彼女は急に眠気を感じていた。
*
イングランドの南岸にある町、ヘイスティングズは、海辺のリゾート地として知られている。
健康にいいという理由ではやりだした海水浴も、すでに英国人の娯楽《ごらく》として定着し、白い海岸線を持つ南岸の町は夏の時期、どこも観光客があふれていた。
そんな海沿いを、町から数マイル離れた静かな場所に、コリンズ家の別荘はあった。
海に向かって張り出した細長い道、その先にある出島のような場所に、別荘は建っているという。道一本で陸続きになっているが、満潮時《まんちょうじ》には海に沈んでしまう道だそうで、ほとんど離れ島といってもいい。
閉鎖的《へいさてき》な別荘を舞台に、プリンスの手先が何かをたくらんでいるとしたら、入っていくのはどんな危険が待ちかまえているかわからない。けれどエドガーは、レイヴンだけを連れて、別荘を目指していた。
リディアがそこにいるはずだからだ。
コリンズ夫妻が別荘を建てたのは、娘が生まれて間もなくだったという。しかし夫妻は、娘を亡くして以降訪れてはいない。
わずか五歳の娘が、別荘の海で死んでしまったからだ。
波打ち際《ぎわ》で見つかったのは、娘の小さな靴だけ。まだその海のどこか底の方に、彼女が横たわっているかもしれないから、夫妻は別荘を売ることもためらったままだった。
それが、朱い月≠ェ調べてきたコリンズ夫人の情報だ。
ヘイスティングズの駅から小一時間ほど、馬車にゆられながらエドガーは、今あるだけの情報を整理しつつ考え込んでいた。
リディアがいなくなったとニコに聞かされ、伯爵家の使用人を総動員してさがしたところ、道ばたでうずくまっていた女性とリディアを馬車に乗せたという御者《ぎょしゃ》が見つかった。
行き先のホテルで、リディアが介抱《かいほう》したらしい女性はコリンズ夫人だとわかった。
ホテルはすでに引き払われていて、夫人は霊媒師たちとヘイスティングズへ発《た》ったと判明すると、エドガーは敵にしてやられたような敗北感をおぼえていた。
リディアが連れ去られたのは間違いないのだ。
だが、このまま負けるわけにはいかない。
決意を秘めて彼は、翌朝一番の汽車に飛び乗った。
馬車から外に目を向けると、陽光をはね返す青い海は、英国らしくないほどまぶしく輝いていた。
海の向こうはフランスだ。この海峡《かいきょう》を越えて、昔から、人も物も戦争も英国へ入ってきた。
じっさい、ヘイスティングズは古戦場《こせんじょう》として有名な土地だった。
そんな海沿いに続いている道の前方に、丘状《きゅうじょう》の島がぽつりと見えている。満《み》ち潮《しお》になると沈んでしまう長い道が、おだやかな海から細く顔を出している。
唐突に現れた奇妙な島の風景、その東側に建つ煉瓦色《れんがいろ》の建物が、淋《さび》しげな全体像をあらわにしたころには、晴れ渡っていた空がにわかにくもり、ひと雨来そうな様子だった。
「遠いところをわざわざ、招きに応じていただきまして感謝します。ミドルワース子爵《ししゃく》」
エドガーを出迎えたコリンズ夫人は、降霊会《こうれいかい》で見かけた様子とはうって変わって、幸福そうな笑顔を見せた。
「急いで来てしまいました。ご迷惑でなければよいのですが」
「とんでもない。それに子爵、もうひと方、さきほど到着されましたのよ」
「おや、僕より気が早いのはどなたです?」
「アシェンバート伯爵ですわ」
「ああ、女たらしだと評判ですからね」
すぐ後ろにいるレイヴンが、おかしいのをこらえているのかうつむいた。
あくまで噂《うわさ》ですから、とコリンズ夫人はやんわり擁護《ようご》する。ニセ伯爵は気に入られているようだ、とエドガーは感じる。
まあそうだろう。娘に貴族の箔《はく》をつけてやりたいと思うなら、名ばかりの貧乏人より社交界でも名を知られた貴族の方がいいに決まっている。
「あの、夕食まで時間があります。お部屋に案内させていただきましょうか? それとも……」
言葉を濁《にご》したのは、先客への気遣《きづか》いを、エドガーに求めているからだ。
「できれば伯爵にごあいさつしたいのですが」
そう言うと、夫人は、ほっとしたような顔をした。
「そうですか。サロンにいらっしゃいますので、こちらです」
よほど彼に気分を害されたくはないようだった。
もちろんエドガーは、ニセ者を気遣うつもりなどない。自分の名を騙《かた》る男が、プリンスの手先かどうか探りを入れるつもりだ。
奴らの思惑《おもわく》も、リディアの状況も、確かめなければならない。
リディア、彼女はこの屋敷のどこかにいるのだろうか。どうやって見つけだし、安全に連れ出すか。
考えているまに、サロンに案内された。
窓の外は薄暗く、夕刻の雨が降り始めていたが、降霊会の会場よりは明るいその場所で、エドガーは自分のニセ者と対面した。
「はじめまして。いや、先日の降霊会でもお目にかかりましたが、あのときはごあいさつする機会もなく」
にっこり笑って差し出したエドガーの手を、鷹揚《おうよう》に握る彼は、貴族らしく振る舞うことはできるようだ。上流階級とつきあいはあるのだろう。
「ああいう場では、むしろ言葉をかわさないのが礼儀ですからね」
「ところで伯爵、僕たちは同じ女性をめぐるライバルなわけですが、本当にテリーサ嬢と結婚するつもりがおありで?」
「本人にお目にかかってからですね。しかし子爵、あとの候補ふたりは、テリーサ嬢から見ればかなり年上ですよ。実質的には、あなたと私の一騎打《いっきう》ちになりそうで」
エドガーは無邪気《むじゃき》な笑みで返す。
「どうぞお手やわらかに。それにしてもアシェンバート伯爵、数いる女性を放り出して結婚話など、いいのですか?」
ふ、と彼は哀愁《あいしゅう》をふくんだ微笑《ほほえ》みを浮かべる。なんとなく芝居がかっている。
「女なんてどれでも同じだ。何人つきあってもそう思うばかりですよ。だったら幽霊《ゆうれい》と近づきになってみたい。新鮮なんじゃないかと考えましてね」
引っかかる。軽薄《けいはく》な女好きと噂されているエドガーだが、そんな感想など持ったこともない。
「同じ? 意外ですね。それぞれに魅力的だから、いろんな女性に惹《ひ》かれてしまうのかと思っていました。楽しくもないのに、口説《くど》く気になれるんですか?」
返事に窮《きゅう》する彼は、本当にプリンスの手先なのだろうか? 目の前に本物がいると知っていて挑発《ちょうはつ》していると考えるには、力不足に思えた。
ただの、財産目当ての詐欺師《さぎし》か。それともこれも作戦なのか。
「子爵《ロード》、すみません」
そのとき、そっとサロンに入ってきたレイヴンが、エドガーを呼んだ。
ずいぶん早いが、もう何か情報をつかんだのだろうか。エドガーは、ニセ伯爵に会釈《えしゃく》し、レイヴンと部屋を出た。
感情が顔に出にくいレイヴンにしては、硬い表情をしているように思え、よくない報《しら》せかと緊張させられる。
「リディアさんが見つかりました」
「無事か?」
レイヴンは少し考え、「わかりません」と答える。
「どういう意味だ?」
「判断できかねます。ですからエドガーさまに確かめていただこうと」
中庭へつながる広い部屋は、ギャラリーになっていた。東方から買いつけた美術品が並ぶエキゾチックな空間では、ガラス戸の外に降りはじめたかすかな雨音さえ、南国のスコールかと思わせる。
大きな葉を広げた観葉植物のそばに、褐色《かっしょく》の肌のレイヴンがたたずむのを目にすれば、そのまま神秘的な東南の国に迷い込んだかのようだった。
レイヴンが注視《ちゅうし》しているのは、ランプの明かりに照らし出される、裸身《らしん》の女神像だ。その背後《はいご》に人影がある。
隠れているつもりらしいが、ドレスのすそが見えている。レイヴンが耳打ちする。
「見つけてつかまえれば勝ちだそうです」
「かくれんぼかい?」
エドガーがそちらに近づいていくと、彼から逃《のが》れるように、ドレスの人影は身をひるがえした。
「そう簡単につかまらないわよ、クロウさん」
くすくす笑いながら駆《か》け出そうとした彼女の前に、レイヴンがいた。
おもいきり彼にぶつかった少女は、驚いたように見あげる。
「まあ、クロウさんがこっちに?」
そしてエドガーの方をちらりと見る。
「ずるいわ、お友達といっしょになってだましたのね」
「お嬢さん、彼は|カラス《クロウ》ではなく大鴉《レイヴン》ですよ」
「あら、そうだったわ。それであなたは?」
振り返った顔が、ランプの明かりに照らし出される。
キャラメル色のなめらかな髪、金緑の神秘的な瞳、溌剌《はつらつ》とした笑顔。
リディアだった。姿形《すがたかたち》は間違いなくリディアだ。怪我《けが》もなく、いたって元気に見えるが、たしかに問題がありそうだった。
「ミドルワース子爵《ししゃく》です」
とりあえずエドガーはそう名乗る。
「母が言ってた、大切なお客さまね」
「……とすると、あなたはコリンズ夫人のお嬢《じょう》さん?」
「ええ、テリーサですわ。どうぞよろしく」
リディアの姿をした少女は、スカートをつまんでぎこちないお辞儀《じぎ》をし、本人は完璧《かんぺき》だと信じているかのようににっこり笑った。
テリーサ。降霊術《こうれいじゅつ》で現れた、死んだはずの娘だ。
失礼に当たるくらいまじまじと見てしまうが、彼女は男の視線など気にした様子もない。エドガーに近づいてきて、興味を持ったようにじっと見つめ返す。
「子爵さま、あたし、生き返ったんですのよ」
そんな自覚まであるとは。
「そのようですね。先日お会いしたときは、幽霊でいらっしゃった」
「あら、以前にもお会いしたの? ごめんなさい。幽霊だったときのことも、死ぬ前のこともおぼえていなくて」
幽霊に取《と》り憑《つ》かれてしまったんですか、とレイヴンがこっそり言った。
そう信じるしかなさそうだと、エドガーは頷《うなず》く。
「ミス・テリーサ、生き返るのはどんな気分ですか?」
「ステキだわ。あたしがこんな、お金持ちの娘だなんて。ドレスも宝石もたくさんあるの。それにあたし、貴族の奥さまになれるんですって!」
「ドレスや宝石や貴族が好きなんですね」
「ええ、大好き」
わかりやすい女の子だ。幽霊だからなのか、それとも、もともとこういう性格なのか。
ともかく、リディアと話をする方法はないのだろうか。考えていると、テリーサを呼ぶ声が聞こえてきた。
「あたしのことさがしてるわ。行かなきゃ」
エドガーは、引き止めるように彼女の行く手をさえぎった。
「もう少し話がしたいな」
「でもあたし、じつを言うと、まだお客さまとは会っちゃいけないって母に言われてたの。しかられるわ」
「なら、かくれんぼの続きをしよう」
強引に腕を引いて、レリーフの裏に座り込んで身を寄せ合う。
テリーサは、意外とおもしろがっているのかクスクス笑った。
「静かに、来るよ」
足音とともに近づいてくるのは、そばかす顔の若いメイドだった。必死にテリーサを呼んでいるが、当人は笑いをかみ殺しながらやり過ごす。
レイヴンがメイドに近づいていって、こちらには誰もいないとごまかしながら、ギャラリーを出ていった。
「強引なんですね」
「強引になれるものなら、このままさらっていきたいくらいだ」
「あら、それはまだだめよ。あなたのほかにも、お客さまはいらっしゃるもの。母が、あたしの結婚相手にと選んでくれた男性は四人、選ぶのはひとりだけですわ」
たしかに、そのためにエドガーもニセ伯爵もここへ招待されたのだ。ということは、四人の男がリディアに言い寄ることになる。
それは困る。
リディアは自分の婚約者だ。彼女にまったくその気がなくても、フィアンセだと言い続けることに快感をおぼえているエドガーにとって、別の男が近づくなんてがまんできるわけがない。
この金緑の瞳に映るのは自分だけでいい。あとの三人、もしも出しゃばるならひどい目にあわせてやると心に決める。
リディアだって、テリーサに取り憑かれたまま知らない男と親しくなるなど不本意なはずだ。
彼女の魂《たましい》は、助けを求めているはずだ。
エドガーは、少女の手を引き寄せた。
恥《は》じらいながらも媚《こ》びるようにこちらを見あげる。こういう女の子はきらいじゃない。もしもつきあえば、きっと積極的で情熱的な恋人になるだろう。
けれどもエドガーは、あきらかにリディアではない人格の存在に、胸が痛んだ。
彼がせまれば、怒ったり困ったり、しまいには泣き出しそうになるリディアがいない。
エドガーのことをろくでもない男だと知っていて、警戒《けいかい》しているくせに本気で心配もするリディアがいない。
未亡人のために決闘と聞いても、軽蔑《けいべつ》するよりも心配する、とことんお人好しの彼女に会いたい。
「わかるかい? きみを助けに来たんだ」
ささやくと、彼女は不審《ふしん》げに首を傾《かし》げた。
「僕の妖精、必ず僕が守るから、もう心配はいらないよ」
一瞬、彼女の金緑の瞳が、意味を理解して見開かれたように思えた。
稲光《いなびかり》が、ギャラリーのガラス窓を横切り、彼女の瞳を明るく照らしたせいかもしれない。
それでも、リディアを見つけたと思えたエドガーは、握りしめた彼女の手に口づけた。
先日の降霊会で選ばれた四人が、明日の夜にはそろう。
そのときにテリーサ嬢をみなに紹介すると、夕食の席でコリンズ夫人は言った。
だがそれまでおとなしく待っている必要などない。
夫人がニセ伯爵《はくしゃく》を気に入っているなら要注意だ。
「今のところ、この別荘にいるのはコリンズ夫人とその甥《おい》、テリーサ嬢だというリディアさん、ニセ伯爵、霊媒師《れいばいし》とその助手らしい老婆《ろうば》です。夫人付きの若いメイドだけは、マンチェスターから連れてきた親しい人物のようですが、ほかの使用人たちは夫人がここに滞在するためにだけ雇われているそうで、誰の息がかかっているかはわかりません」
夕食を終えて、客室に戻ってきたエドガーは、レイヴンの報告に耳を傾ける。
「明日到着するのは、スタンレー卿《きょう》とクラーク卿、どちらも爵位《しゃくい》は准男爵《バロネット》です」
「黒幕のユリシスがここにいるとすると、男のはずだ。アシェンバート伯爵を名乗るあいつもあやしいが、明日来るというふたりのうちか、使用人に紛《まぎ》れ込んでいる可能性もあるな」
向こうはとっくに、エドガーを巣穴に誘い込んだのだ。敵の罠《わな》と承知で乗り込んできたエドガーが、おとなしく思い通りになるはずもないとは警戒《けいかい》しているとしても、次の計画に移るだろう。
「ユリシスは、これからどう動くつもりなんでしょうか」
「……プリンスは、オーケストラの指揮者《しきしゃ》のように組織を動かすからね。完成されたフィナーレに向かって、すべての楽器すべての音が狂いもなく組み立てられなければならないんだ。だからユリシスも、決められたとおりに動くだろう。問題は、その完璧な楽譜《スコア》に、僕のパートがどう決められているかだ」
「私には想像できません」
「おそらくね、僕が思いつく限りの行動パターンに対する対処法があるよ」
「……それでは降霊会《こうれいかい》へ乗り込んでいったことも、向こうの想定範囲だったと」
「あのとき僕は、先に動いて揺さぶりをかけるつもりだったけれど、そんな効果はまるでなかったと今は思う」
「リディアさんをテリーサ嬢に仕立てたのも、奴らの予定どおりなのですか」
「それなんだ。それだけは偶然だとすると……」
これまでの敵の動きを把握《はあく》している限りでは、とくにリディアをねらっていた様子はなかった。彼女がコリンズ夫人を助けることになったのも、偶然だったと思われる。
テリーサ嬢の魂を呼び戻すために若い娘が必要だったとしても、リディアである必要はなかったはずだ。
エドガーをこの別荘まで乗り込んでこさせるための餌《えさ》は、ニセ伯爵とアーミンにそっくりな霊媒師、それだけでじゅうぶんだからだ。
いずれにせよ、敵にとってリディアが飛び込んできたのが思いがけないできごとだったなら、計画に変更を強《し》いられているだろう。
それはエドガーにとって、まだ負けたわけではないという希望だった。
「リディアだ。彼女だけは、敵の想定外なんだ。だから僕は、彼女の力で青騎士伯爵の宝剣を手に入れることができた。伯爵の地位を得た」
そう、彼女はエドガーでさえ思いがけない方向に、物事を引っぱっていく。
思いがけないのは、とんでもなくお人好しで、フェアリードクターとしての誇りと責任感だけで、ふつうなら考えつかない行動にでるからだ。
「僕の、幸運の妖精だ。彼女を取り戻せば、何もかもうまくいきそうな気がしないか? よし、まずはそれだけを考えよう」
「少なくとも、敵が想定しそうにない作戦ですね」
「レイヴン、それは嫌味?」
「もうしわけありません、どのへんが嫌味に聞こえましたでしょうか」
本気ですまなさそうに問うから、エドガーはおかしくなって笑う。
笑い飛ばすと、少し気が楽になる。敵の巣穴に入り込んでおいて、敵の攻撃から目をそらすのはバカげているかもしれない。
しかし今回のことは、降霊術からはじまっている。プリンスが送り込んできたのは、何やら不思議な力を使う人物なのだ。だったら、現実的な知恵や力以上の何か、リディアのような存在が鍵《かぎ》になる可能性はある。
「そういえば、ニコは? 窓を開けておいてくれとか言っていたけど、この雨じゃそういうわけにもね」
「もういいよ。いつまでも待たされちゃ、ずぶ濡《ぬ》れになるっての」
声の方に振り向くと、クッションをたっぷり集めたソファの上に、灰色の猫がいた。
「入ってこられたのか」
「どこの屋敷にも、猫好きの召使いくらいいるさ。かわいく鳴いてすり寄ってみりゃ、中へ入れてくれる。皿に入れたミルクは、こっそり捨てておいたがな」
そう言って彼は、どこから調達してきたのかウィスキーをグラスに注ぐ。
「リディアの様子、見てきたけどさ、おれには当分近づけねえ。追いまわして撫《な》でまわそうとしやがった。おれみたいな紳士《しんし》を猫扱いしないでほしいってのに」
どう見ても猫なのだからしかたがない。
「彼女のことは僕にまかせてくれ」
「どうするんだ?」
「とりあえず、今からご機嫌《きげん》うかがいに」
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古戦場に集うもの
遠く海の方で、カモメの声に混じってもの悲しい鳴き声が聞こえていた。
アザラシだとリディアは思う。
こんな南の海岸まで下ってくることがあるのだろうか。それとも、本物のアザラシではなく妖精なのか。
|アザラシ妖精《セルキー》のことは、母がよく話してくれた。だからリディアにとっては、まだ見たことがなくてもなつかしい感じがする存在だった。
母の故郷は、スコットランドの北、遠い島々のひとつだ。流氷|漂《ただよ》う荒涼《こうりょう》とした海に囲まれた霧《きり》と山の島、そんな場所に生まれ育った母にとって、セルキーは、身近な海にいる親しい妖精だったようだ。
やさしくて思いやりがあって、人に近い感情を持つ妖精だという。
アザラシの皮を脱ぎ人の姿になってしまえば、気だてのいい娘や親切な若者となって、人の世界にすんなり馴染《なじ》む。
それでもセルキーは海の妖精なのよ、と母は言っていた。
彼らはいずれ、アザラシの毛皮を着て海へ帰っていくものなのだと。
人は、親しくなったセルキーが去ってしまうのを怖《おそ》れる。ずっとそばにいてほしいと願い、毛皮を隠す。あるいは従順《じゅうじゅん》な彼らを利用しようとする者もいる。
セルキーは何も言わず、人に従うだろうけれど、海に属する彼らには、本当は悲しいことなのだ。
だからリディアは、とらわれの身になっているというセルキーのために、できるだけのことをしたいと切実に思う。
この別荘の、どこかに隠されているらしい毛皮を、早く見つけて返してやりたい。
朝からリディアは、屋敷の中を調べてみようと、こっそり部屋を出た。
どうやらリディアは、夜明けから夕刻まではもとの自分でいられるらしい。
昨日の夕方ごろからまた記憶が飛んでいるし、スージーが言うには、夜はテリーサの霊が乗り移っていたそうだ。
だったら、テリーサのことをどうにかしないと、ここを逃げ出せても家へ帰れない。リディアをこんなふうにしたのもアザラシ妖精のことも、問題の霊媒師《れいばいし》がかかわっているなら、彼女に会ってみるべきだろうか。
屋敷の中を歩き回るうち、広い庭園に出た。石畳《いしだたみ》に沿っていくと、藤棚《ふじだな》でつくられた四阿《あずまや》に、人の姿があるのがわかった。
女の声がしたようだったので、コリンズ夫人だろうかと近づきかけ、リディアは思わず足を止めた。
そのまま、木の陰に身をひそめる。
ア……アーミン?
黒いドレスの美女だった。いつも男装をしていた彼女とは、ドレスのせいか雰囲気が違うが、どう見てもアーミンにうりふたつだ。
短く切りそろえた濃いブラウンの髪。きりりとした横顔も、不思議と赤い唇《くちびる》も、リディアがおぼえているかぎりのアーミンだ。
人魚《メロウ》の海で死んだと思っていたのに、助かったのだろうか。でもどうして、ここに。
悩んでいると、そばにいた老婆が彼女に「セラフィータ」と呼びかけた。
それは霊媒師の名ではなかったか。
アーミンが霊媒師?
「セラフィータ、私を恨《うら》んでいますか?」
霊媒師は悲しげに老婆を見あげた。
「死にたいと思っているのですね。でも、そんなふうに考えないで。自ら悪い結末を望んではいけません」
「ばあや、望もうと望むまいと、わたしは、きっと死ぬでしょう」
「いいえ、私たちの望みまで、あの男に支配することはできないのです」
わけがわからなくなりながら、声をかけようか迷っていると、誰かがリディアの腕をつかんだ。
「今出ていかない方がいい。こっちへ」
導くように引く手があまりにも自然だったので、素直に従う。相手を確かめようと顔をあげて、リディアはさらに驚いた。
エドガー?
でも、昨日やって来たアシェンバート伯爵は、彼ではなかった。
ますますリディアは、何かにまやかされているような気分になる。
四阿を離れ、ハリエニシダの黄色い花に囲まれた小道へ、身を隠すように入り込んだ彼は、ようやく立ち止まりリディアの方に振り返った。
明るい金の髪、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳でにっこり微笑《ほほえ》むのは、間違いなくエドガーだ。しかし彼は、リディアに向かって「テリーサ」と呼びかけた。
「明るい陽《ひ》の下できみに会いたかった。コリンズ夫人に紹介してもらえるのは今夜だってことだけど、ゆうべきみとすごした時間を思い出せば待ちきれなくてね」
まさかこいつ、テリーサを口説《くど》いてるの?
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「陽の光も、生まれ変わったきみを祝福しているようだ。今日もきれいだね、テリーサ」
リディアにいつも言っているようなことを、本当に平気で別の女の子に言うんだと実感すれば、リディアは一気に頭にきた。
「この、軽薄《けいはく》男」
彼の手を思いきり振り払ってやっても、エドガーは困りもせず慣れた様子で返す。
「僕のこと? どうして?」
女の子に責められるくらい慣れているのか。まるめこむ自信があるに違いない。だからますます腹が立つ。
「本気で幽霊《ゆうれい》を口説くつもりだなんて、信じられない! あきれた節操《せっそう》なしね。……何が婚約よ、そんないいかげんな男に婚約者呼ばわりされたくないわ。あなたなんかと結婚するくらいなら、妖精の国で暮らした方がよっぽどまし!」
ケルピーがいないうちに、婚約解消をと考えていたところだった。それどころじゃなくて忘れかけていたが、エドガーがここにいるならちょうどいいと、リディアは声高《こわだか》に言い放った。
「いいこと、エドガー。ケルピーに聞かれる心配がないんだから、はっきり言わせてもらうわ。さっさとあの婚約はなかったって認めてちょうだい!」
「ええと、……リディア?」
さすがに彼は戸惑《とまど》っていた。
勝ち誇って、リディアは腰に手をあて彼を見あげた。
「テリーサ嬢《じょう》が取《と》り憑《つ》いていられるのは、夜だけのようよ。だからいくら口説いたって無駄《むだ》。朝になったらあたし、あなたが最低最悪だって、テリーサのふりしてコリンズ夫人に吹き込むから。わかった?」
こちらはケンカをふっかけているつもりだというのに、エドガーは安心したかのように表情をゆるめた。
切なげな気配《けはい》に勢いをそがれたリディアは、急にふわりと抱きしめられる。
「よかった……。もう会えないんじゃないかと、どうしようと思ってた」
本当に口だけはうまいのね。そう思いながらも、泣きたくなるような気持ちにリディアは戸惑った。
ロンドンから連れ去られ、リディアがここにいることなんて、誰も気づいてくれないと思っていた。
現れたアシェンバート伯爵がエドガーではなくて、どれほどがっかりしていたか気づいてしまった。
肩越しに見あげた夏の陽が、あまりにもまぶしいと感じると、雷光のようにぱっとリディアの記憶に浮かんだのは、彼のやさしい声だった。
『必ず僕が守るから、もう心配はいらない』
昨日も、そんなふうに彼は。
テリーサの意識しかなかったリディアの瞳を覗《のぞ》き込んで、言葉を届けようとしていたのではなかったか。
でも、ああそれも、こいつのいつもの手かもしれない。
リディアに乗り移ったテリーサを口説いたのは事実だ。ここに現れたのも、幽霊娘が目当てで、たまたまリディアを見つけただけではないのだろうか。
どうにかエドガーを突き放し、きびすを返す。
「待ってよリディア、ゆうべ部屋へ訪ねていったとき、きみはとても情熱的だったのに、急に冷たくすることないじゃないか」
は? とリディアは立ち止まった。
それはあたしじゃない。でも……。
「どんなふうだったか、知りたくない?」
「な、なな何をしたのーっ!」
再び詰め寄ると、彼は意味深《いみしん》ににやりと笑う。
「僕たちは婚約してるんだし、ゆうべの責任はちゃんと取るから心配ないよ」
「責任取るようなことっ?」
真っ赤になって倒れそうになるリディアに、エドガーは冗談だよと笑ったが、もう、こいつの言葉なんかひとことも信用できないと思う。
「ずっとメイドが目を光らせてたのに、手を出せるわけないじゃないか。楽しく会話しただけ」
「スージーが?」
「まじめで主人思いのいい娘《こ》だ。コリンズ夫人のためとはいえ、きみに申し訳ないことをしたと思ってて、守らなきゃならないと必死な様子が伝わってきた」
どうにか気持ちを落ち着け、リディアは頷《うなず》く。
「彼女だけは、あたしが無事帰れるように協力してくれるって言ったの。でも、霊媒師は恐ろしいから慎重《しんちょう》に、しばらくテリーサのふりをしてた方がいいって。そうだわ、霊媒師をはじめて見たけど、アーミンにそっくり」
「ああ、僕も驚いてる。明るい場所で見たのははじめてだけど、ますます本人だとしか思えない」
彼の声が、いつになく緊張した。
エドガーにとってアーミンは、レイヴンと同様家族のような存在だった。裏切られたとはいっても、生きていてほしいと願っていたはずだ。
「じゃあ、彼女は生きてて……」
「まだ判断はできないよ。彼女だという証拠《しょうこ》が確認できれば……。とにかく、あの霊媒師を使っている男がいるんだ。プリンスの手先で、ユリシスと呼ばれている人物だ。コリンズ夫人の娘をよみがえらせることと、そこに僕を巻き込むことはユリシスの計画だったようだ」
男。ユリシスというそいつが、リディアをさらった張本人に違いなかった。そして、アーミンを言いなりにしているかもしれない人物だともいう。あの霊媒師が本物のアーミンだったとしても、エドガーは手放しではよろこべない状況なのだ。
「……そうだったの」
降霊会《こうれいかい》に出向いていった彼がゴシップ紙に書き立てられたのも、幽霊娘が目当てなどという、うわついた目的ではなかったようだ。
「あれ? でも、アシェンバート伯爵《はくしゃく》って名乗ってる別人がここに来てたわ」
「僕を挑発《ちょうはつ》して呼び寄せる手かもしれないけど、その男が黒幕のユリシスかどうかはまだわからない。いずれにしろ、ここまで来た以上、プリンスの手先と対決するしかなさそうだ。だからきみはここを出て、安全な場所にしばらく身をひそめた方がいいだろう」
リディアが考えていたよりも、ずっと大変な状況だ。
「うまく抜け出せるよう考える。テリーサのことはあとで何とかしよう」
幽霊に取《と》り憑《つ》かれてはいても、ここを出られれば身の危険はなくなる。エドガーならきっと安全にリディアを逃がしてくれるだろう。
でも……。
「でもあたし、逃げるわけにいかないわ。とらわれの身の|アザラシ妖精《セルキー》たちがいるらしいの。たぶんその、ユリシスって男が自由を奪っているんだわ。セルキーのひとりがロンドンで、伯爵家のフェアリードクターの存在を知ったのかしら。助けを求めるためにコリンズ夫人にあたしを引き合わせて、ホテルへ呼んだのよ。でもそのセルキーが殺されて……。プリンスの手先は、あたしがセルキーを解放してしまわないように幽霊娘を乗り移らせたんだと思うけど、とにかく彼らを助けたいの」
エドガーは少し悩んだように眉根《まゆね》をよせた。
「危険だから……と言いたいけど、きみはフェアリードクターだし、自分の仕事に誇りを持っているから、止めても無駄だろうね」
それから少し考え、彼はまた言った。
「だったらリディア、僕たちは息を合わせてうまく立ち回らなきゃならない」
リディアは緊張しながら頷く。
「そのためにはまず、恋人らしくなることが大切だ」
え? そうなの?
論理の飛躍《ひやく》に首を傾《かし》げかけたが、エドガーはたたみかけた。
「テリーサは無邪気《むじゃき》に生き返ったことを楽しんでいる。夫人の勧める今回の縁談で、四人の招待客のうちひとりを選んで結婚する気になっているんだ。ねえリディア、きみの思い通りにならない夜のうちに、恥知《はじし》らずな男が忍び込んでこないとも限らないし、強引に言い寄ろうとしたら問題だろ?」
「でも、ふつうの男の人は紳士的《しんしてき》なんじゃないの? あなたとは違って」
素直にリディアはそう思う。
「そんなわけないじゃないか。それにテリーサ嬢は口説《くど》かれるのが好きらしくて、男を拒絶《きょぜつ》する気がほとんどない。どんなに僕が接近してもいやがらなかった。ずっと手を握ってても、肩を抱きよせても、メイドが口を出さない限りはなすがまま」
「な、な、なすがままってどういうことよ!」
「僕以外の男にそんなことされてもいいの?」
憤《いきどお》りかけ、そのひとことにあせると、もうすっかり彼女はうろたえた。
いやだ、と思い、エドガーならまだましと心の片隅で感じている自分に疑問をおぼえる余裕もなく、ただ強く首を横に振る。
「誰にも手出しさせない。テリーサの目を僕だけに向けさせる。だから昼間はきみも、僕だけを見てなきゃいけないよ。いいね」
よく考えれば、それがプリンスの手先と戦うことに関係があるのかどうかわからなかったが、そのときはエドガーの勢いに、とても重要なことのように思えてリディアは頷いてしまった。
婚約解消を認めさせるという意気込みも、またすっかり意識から飛んでいた。
*
その夜は、リディアにとって昨日とは違っていた。
日が傾くとともに眠気が増し、テリーサが目覚めるのだという感覚は昨日と同じだったが、眠ってたまるかと努力した結果、眠り込まずに起きていられたのだ。
しかし起きているとはいっても、テリーサに乗っ取られている状態は変わらず、リディアは彼女のすることしゃべることを、はらはらしながら見守っているしかない状態だった。
コリンズ夫人が集めた客人とのディナーの席では、眠っていた方が気楽でよかったと後悔したくらいだ。
テリーサが選んだ衣装は派手なローズレッドで、自分に似合うとはリディアは思えなかったし、香水も好きではなく、ディナーの席にそぐわない気がして落ち着かなかった。
一方、テリーサとコリンズ夫人は上機嫌《じょうきげん》だった。
生き返った幽霊《ゆうれい》だという少女と、本気で結婚しようなんて冷やかしじゃないのかしらと思っていたリディアだが、ここにいる男性たちはどうにも真剣らしい。
誰もが熱心に、テリーサ嬢の気を引こうとしているのが滑稽《こっけい》なほどだ。しかしそうやっておだてられるほど、テリーサもコリンズ夫人も満足そうだ。
資産家の娘についてくる莫大《ばくだい》な持参金《じさんきん》は、傾きかけた家を建て直すためにどうしても必要なのだろうけれど、だったら、さしあたりお金に困っていないはずのアシェンバート伯爵の存在は煙《けむ》たがられていることだろう。
伯爵と名乗っている、金髪の青年の方にリディアは注意を向けた。少しお酒が入って陽気になっている、やや軽薄《けいはく》そうな彼は、女たらしと評判の伯爵を演じてそうなっているのかどうか知らないが、頭が弱そうに見えるわとリディアは思う。
それでも、コリンズ夫人の笑顔は、おもにニセ伯爵に向けられている。
しかしテリーサはというと、ここでは子爵《ししゃく》と呼ばれているエドガーを気にしている。
なのにエドガーときたら、ちっともこちらを見ようとしない。
ちょっと、隣のオスカー少年に話しかけてどうするのよ。ふだんは男なんて見向きもしないじゃないの。
そのうえ、テリーサがわざわざ話しかけても、いいかげんな返事しかしない。いつもの過剰《かじょう》なほどのおだて言葉はどこへ行ったのとリディアは首を傾げる。
そもそもリディアは、テリーサが別の男性と親しくなってしまったら困るのだ。エドガーもそうはさせないと言っていたくせに。
なのに、エドガーのそんな態度に苛立《いらだ》ったらしいテリーサは、あからさまにほかの三人に媚《こ》びはじめた。
ああもう、明日の船遊びの約束をしちゃったじゃない。てことはあたし、このニセ伯爵と出かけなきゃならないの?
どうしてくれるのよ、エドガー。いつだって、言ってることとやることが違うんだから。やっぱりあなたなんか信じられない!
そんなこんなでリディアは、ディナーが終わったころにはぐったり疲れていた。
もっとも、リディアの疲れとは関係なく、テリーサの元気は有り余っていた。
「子爵ったらどういうつもりなの? 昨日は部屋まで押しかけてきて、あたしに気のあるそぶりをしてたのに、今夜はまるで無視よ? ねえスージー、どう思う?」
「さあ……、男のかたの気持ちは、あたしにはあまり……」
自室に戻ったテリーサは、憤りながら部屋の中を行き来する。
メイドのスージーは、着替えを手伝おうと待ちかまえながら、困ったように答えていた。
「お母さんの言うとおり、アシェンバート伯爵とおつきあいしようかしら」
冗談でしょ、とリディアはつぶやく。
「でもお嬢さま、ミドルワース子爵は、本当にうっとりするような方ですわね。物腰も、誰よりも貴族的というかなんというか」
「まさかあなた、彼のことが?」
「えっ? いえあたしは……。でも、セラフィータさまに、あの方のこといろいろ聞かれました。あれだけの美女でも、美しい男性は気になるのかしらと思いまして」
エドガーを気にしているなら、やっぱり彼女はアーミンなのだろうか。
「セラフィータさんが……?」
急に立ち止まったテリーサは、少々あせったようだった。
霊媒師《れいばいし》だし、若い女性だという認識がなかったのだろう。しかしよくよく思い浮かべれば、かなり美人で色っぽいということに気づいたのか。
「スージー、子爵の部屋はどこ?」
「は?」
「あたしのこと無視して、別の女を口説こうとするような男、追い出してやるわ」
スージーは、エドガーが霊媒師を口説いたなどとは、ひとことも言っていないのに。
エドガーが追い出されてしまったら、どうしたらいいの?
リディアは困るが、そんなことなど知るはずもないテリーサは、急ぎ足で部屋を出ようとした。
しかし、ドアを開けたところで急に足を止めた。
ドアの外にエドガーが立っていたからだ。
「テリーサ、どこへ行くんだい?」
「あ、ちょうど子爵のお部屋に……」
と言いかけたスージーの足を踏み、テリーサはつんとすまして答える。
「あたしの勝手ですわ。何か用ですの?」
「今夜も、僕のために時間をあけてくれると思っていたんだけど」
少々|傲慢《ごうまん》に言いながら、テリーサを外へ出すまいと、彼は戸口に立ちふさがった。
「あなた、あたしに興味がなくなったんじゃなくて? だってさっきは、ちっともこちらを見なかったじゃない」
「そんなふうに思ってたの?」
まるきり心外だと、驚いてみせる。それでいて、悩んだようにうつむく。
「そうだね、まともにきみの顔が見られなかった。コリンズ夫人が伯爵を気に入ってることは明らかだったし、きみも彼と楽しそうに話してたから、卑屈《ひくつ》な気持ちになってたんだ」
エドガーが卑屈になるわけないじゃない。
「でももしかしたら、そうやってきみは、僕の本気をためしているんじゃないかと思いたかった。今夜も待っていてくれると信じてここへ……」
「男のかたが本気かどうかなんて、ためしたってわからないわ」
まだちょっと不機嫌なテリーサは、そう言って顔を背《そむ》けつつも、ドキドキしているのがリディアにはわかった。
「このまま部屋へ帰れと言うのかい? こんな落ち着かない気持ちのままでは、きみの代わりに誰かを求めてしまうかもしれない」
テリーサがうろたえた。あせりを感じているらしいのは、霊媒師のセラフィータを思い浮かべたせいだろう。
「誰かって誰? あたしでなくてもかまわないのね」
本音の嫉妬《しっと》を向けた、その瞬間、エドガーの仕掛《しか》けた罠《わな》にはまってしまったなどとテリーサは気づくはずもなかった。もちろんリディアも気づいていなかった。
エドガーは、素早く部屋に踏み入り、後ろ手にドアを閉めた。スージーが外に取り残され、テリーサは彼とふたりきりになってしまう。
ドアが開かないよう背中で押さえたまま、エドガーはテリーサを引き寄せる。
有無《うむ》を言わせない強引さに、あわてたリディアは、必死になって体を動かそうとした。
と、かろうじて左手だけが動いた。それでどうにか、体が密着するのを防ごうとする。
かまわずエドガーは、テリーサを、いやリディアの体を力強くかかえ込む。身動きできなくなって、リディアはさらにあせった。
まずい。と思うがどうにもならない。
エドガーの口説き文句の数々は、まだ軽いぶん、拒絶《きょぜつ》されてもかまわないと思っているらしい逃げ場がある。でも、強引な態度に出るとき、彼は獲物《えもの》を定めたようなもの。逃がすつもりなんかないのだ。
エドガーにとって口説き落とすということがどういうことなのか、リディアはまだ知らないけれど、この状態が一歩手前だということは漠然《ばくぜん》と感じていた。
「……やめてください子爵……」
そうは言っても、テリーサは逃げようとしていない。
「どうして、僕にはきみしか見えていないのに」
あまいささやきに、テリーサの鼓動《こどう》が高鳴る。それともリディアの? だんだんわけがわからなくなる。
リディアはまだ、かろうじて左手だけで、抵抗するように力を入れていたが、テリーサはもうほとんど無力だった。
「こちらを見て」
片腕で彼女を抱きよせたまま、もう片方の手で顔をあげさせる。
熱い目で見つめられ、くらくらする。
ああ、どうしてよりにもよって、胸のあいたドレスなんか着てるのよと文句を言いたい。
「わかるだろう? ひとめ見たときから、きみの神秘的な瞳のとりこになってしまったんだ」
それはリディアの瞳のこと。ふと、自分に向けられた言葉のように感じると、リディアまで力が抜けそうになった。
髪の毛からつま先まで、今エドガーの目に映っているのはリディアの姿なのだ。いったい、彼は誰を相手にしているつもりでいるのだろう。
バカみたい。
リディアにしろテリーサにしろ、エドガーにはたいして違いはないのかもしれないのに。
そう考え、かろうじて力を保っている。
なのに彼の指は、遠慮もなく頬《ほお》を撫《な》でた。ぞくりとする。
反応を楽しんでいるように、あごからのどを、首筋をたどる。ベルギーレースのチョーカーをはずされただけで、全身素肌をさらしているような羞恥心《しゅうちしん》をおぼえるのに、テリーサは動かない。
さらに指先は、肩をなぞり、鎖骨《さこつ》のくぼみをさまよう。
な、なにすんのよ。ちょっとこの、スケベ! それ以上のことしたら許さないから!
リディアだけがひたすらあせる。あせっているくせに、動かせるはずの左手も、指を握り込んだままじっとしていることに、リディアは気づけないままだった。
「このまま、僕のものにしてしまいたい」
やめてってば。
「……あなたは、あたしなんかでいいの?」
もう最悪。エドガーのバカ、あたしをどうするつもりなのよ!
とリディアが心の内で叫んでもどうにもならず、テリーサはすでにうっとりと、エドガーの視線にとらわれている。
すっかりエドガーの術中《じゅっちゅう》にはまってしまったらしい。
ああ、やっぱりこいつってばとんでもない男。
ディナーの席ではわざと無視して彼女を苛立《いらだ》たせ、自分のことで頭をいっぱいにさせた。そこへ押しかけてきて態度をひるがえしたうえ、彼女の嫉妬心をあおり立てると逆手《さかて》にとって攻め込んだ。そしてあっさり落としてしまったのだから。
きっともうテリーサは、エドガーしか目に入らないだろう。
「きみがほしいんだ」
触れそうで触れない唇《くちびる》が、耳たぶをかすめた。
リディアは硬直《こうちょく》したまま、父さまごめんなさいとつぶやく。
テリーサが拒否しないなら、エドガーの思いのままだ。心臓がはげしく鳴って泣き出しそうな気持ちになった。
もう、気を失ってしまいたい。
しかし彼は、ふと腕の力をゆるめた。
「ああでも、わかってるよ。きみを大切に思うなら、情熱に身をまかせるわけにはいかないってことは」
リディアは一気に力が抜けるが、テリーサは物足りなさそうに身じろぎした。
「ええ……、あなたは紳士《しんし》ですもの」
エドガーがふさいでいたドアを、やっと少し開けることができたスージーが、不安そうに覗《のぞ》き込んだ。
「あの、お嬢《じょう》さま」
「心配いらないわ、スージー」
まだ夢を見ているように、彼に寄りかかったままそう言う。
「テリーサ、明日は僕と過ごしてくれる?」
「ええ、もちろんよ」
「約束だよ」
ようやく顔をあげ、頬を染めながらにっこり笑ったテリーサは、シルクのハンカチを取りだした。
「約束のしるしよ」
「かわいい刺繍《ししゅう》だね」
「あたしが刺したの。なんだか、真っ白なハンカチがそっけない気がして」
四つ葉のクローバーとてんとう虫のワンポイントは、そういえばディナーの前に彼女が刺していたものだ。わずかな時間で、ずいぶんきれいに仕上がっている。
「器用なんだ」
ほめられて、彼女はうれしそうに笑った。
なんて素直なんだろうとリディアは思う。エドガーの言葉を信じきって、幸せな恋人の気分でいる。
かすかに、うらやましく思う。
もしもエドガーのことを心から信用して、好きになれれば、リディアも幸せな気持ちになれるのだろうか。
などと考えてしまったリディアが油断している隙《すき》に、テリーサがまたエドガーの胸に頬をよせた。
さっきの刺激が強すぎて、すぐには恥ずかしさに気づけなかったリディアがぼんやりとぬくもりを感じていたそのとき、はげしい物音とともに悲鳴が聞こえてきた。
リディアとテリーサは驚いて硬直し、エドガーは物音に注意を向ける。
「な、何?」
「……様子を見てこよう」
エドガーが廊下《ろうか》に出たとき、暗がりから男が飛び出してきた。
と、もうひとつの人影がさっと動いた。レイヴンだ。
素早く彼が、男をつかまえる。乱暴にねじ伏せ、押さえつける。
「うわっ……、や、やめてくれ……」
レイヴンに歩み寄ったエドガーは、うめく男を見おろし、肩をすくめた。
「おや、アシェンバート伯爵《はくしゃく》、暴漢でも突入してきたかと思いましたよ」
それなりに男前といえなくもない金髪の青年は、たしかにニセ者の伯爵だった。
「違う……、子爵《ししゃく》、それどころじゃ……、あなたをさがしてたんだ」
「何の用です?」
「で、出たんだよ、幽霊《ゆうれい》が……」
「幽霊?」
「……おい、いいかげん離してくれ」
「レイヴン、もういいよ」
エドガーがそう言って、ようやく彼はニセ伯爵を解放した。
「テリーサ嬢に求婚に来た方が、いまさら幽霊に驚くとは」
「そ、それとこれとは……、人を襲う幽霊だぞ!」
乱れたネクタイも気にせず、彼はエドガーの方に身を乗り出した。
「襲われたので? 美女でしたか?」
「こ、殺されたんだ!」
「ということは、あなたも幽霊に」
「違う! 私じゃなくてスタンレー卿《きょう》だ! 彼の部屋が血だらけになって」
「血……?」
とテリーサが怯《おび》えたように、エドガーに寄りすがった。
どうしてそう、いちいちくっつくのよ。
ニセ伯爵は、はじめてテリーサがいることに気づいたらしく、ちらりと見て難しい顔をしたが、それよりも重大だと思い直したのか、遭遇《そうぐう》したことについて早口に言った。
「私の隣の部屋なんだが、ひどい物音がして、うるさいと文句を言おうと訪ねていったら、部屋中血だらけだったんだ」
「なるほど」
「なるほどじゃないでしょう。殺人事件だ」
「仮に言うとおりだったとして、あなたが犯人だった場合、いっしょに卿の部屋へ駆《か》けつけた僕が、ふたりめの犠牲者《ぎせいしゃ》になるかもしれないわけだけど」
「はあっ? なんで私が!」
「もちろん、テリーサ嬢を独占するために。ほかの求婚者はじゃまでしょう?」
「そんなことするわけないだろう!」
エドガーは、プリンスの手先かもしれない男を慎重《しんちょう》に観察していた。
「じゃあ、どうしてわざわざ僕をさがすんです?」
「……なんとなく。頼りになりそうな気がして」
自分でも不思議に思っているかのように頭をかく。このとぼけたふりが作戦なら、頭がいいのか悪いのかさっぱりわからない。
「とにかく、卿の部屋で幽霊を見たんだ。白っぽい影がふわりと消えて……。ここは幽霊屋敷に違いないんだ」
「影だけでは。夜だし暗いし、見間違えということも」
「人間の人殺しが、あんなに部屋中血だらけにするのか? ふつうじゃないだろ」
「ふつうでない人間もいるけどね」
そしてエドガーはしばし考えていたが、「まあとりあえず、見に行きましょうか」と言った。
テリーサは、どういう好奇心かついていくと言った。リディアは血の海なんか見たくはなかったが、拒否できる立場にない。
レイヴンももちろんいっしょに、結局スージーもいっしょに、ニセ伯爵のあとをついていく。
人里離れた別荘にはガスランプの設備がなく、レイヴンが手にした蝋燭《ろうそく》明かりだけが廊下の先を照らしている。ロンドンの生活に慣れた目には暗く感じる。
聞こえてくる波と風の音もあいまって、不気味な印象だ。
長い廊下の先に、やがてドアが開いたままの部屋が見えた。ニセ伯爵が驚いて開け放してきたままなのだろう。そこがスタンレー卿の部屋らしく、手前でニセ伯爵は立ち止まった。
「私が先に」
レイヴンは、さっとエドガーの前に出て、部屋へ入っていく。続いてエドガーも入っていくと、テリーサは戸口からそっと中を覗き込んだ。
レイヴンが持ち込んだ燭台《しょくだい》の明かりしかない室内だが、テーブルや椅子《いす》がめちゃくちゃに倒れているのはすぐにわかった。そしてクロスやカーテンに、壁にも窓にも、薄暗くてもわかるくらいべっとりと血がついている。
リディアは気分が悪くなり、テリーサとスージーも戸口からあとずさった。
レイヴンは、クローゼットや寝室のベッドの下まで確認していたが、「死体はありません」とだけ淡々《たんたん》と報告した。
「なあ子爵、どう思う?」
演技でないならば、ようやくニセ伯爵も落ち着いてきたようだ。
「さあ、この血が卿のものだとも判断できないし。なにより僕らは、単なる客だ。家の者に報告するべきだと思う」
「しかし、ここの主人はコリンズ夫人だ。言ってはなんだが、対処できそうなご婦人じゃない」
エドガーも頷《うなず》く。
「もうひとり、コリンズ家の者がいたね」
「甥《おい》っ子か。まだ子供だぞ」
「子供というほど幼くもないでしょう。いちおう男だし」
エドガーの視線に頷き、レイヴンが出ていったのは、コリンズ夫人の甥を呼びに行ったのだろう。
ニセ伯爵が、そろりと部屋の中ほどへ入り、エドガーに近づくと、リディアは大丈夫かしらと不安になった。
彼がプリンスの手先かもしれないのに、レイヴンが戻ってくるまでに何かあったら……。
しかし彼は、エドガーの肩越しに、こわごわ血溜《ちだ》まりを覗き込んだだけだった。
ニセ伯爵よりも、エドガーは窓の外に注意を向けていた。そこに見える、月明かりを反射した黒い海が、不自然に波立っているような気がして、リディアも不審《ふしん》に思ったが、すぐにレイヴンが戻ってきたので注意はそがれた。
「これは……、ひどいな」
コリンズ夫人の甥、オスカーは、入りかけた戸口から、数歩身を引きながらつぶやいた。
「オスカー君、この屋敷に不審者が侵入《しんにゅう》しなかったか調べた方がいい。念のために、スタンレー卿の行方も、生死にかかわらずさがしておくべきだろう」
「そうですね、調べさせます。でも」
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と彼は疑問に思ったように首を傾《かし》げた。
「子爵、あなたを信用していいんですか? こんなことをしたのが、あなたがた客人《きゃくじん》でないという証拠《しょうこ》もない」
「それを言うなら、僕としてもきみやコリンズ夫人や、顔も見せない霊媒師《れいばいし》殿《どの》を疑いたくもなるわけだが」
ふう、と少年はため息をつく。
「もともとおれは、テリーサを生き返らせるとか結婚させるとか、バカげているとしか思えませんでしたよ。金目当てのろくでもない連中がたかってくるだろうってね。明日町へ使いをやって、警察を呼びます。まずいと思う方はさっさと出ていってくださいね。そうでない方は各人で、戸締まりをして身を守ってください。これ以上何か起こっても、責任は持てませんから」
「案外、冷静だね」
エドガーの方を、オスカーはにらむように見た。
「そっくりお返ししますよ、子爵。いちおうおれは、コリンズ家の家長代理のつもりでここにいますから」
「……やっぱり、霊の仕業《しわざ》だ……」
つぶやいたのは、ニセ伯爵だ。
「ほら、このあたりは昔戦場だったって有名な場所だろ。いまだに死んだ兵士の恨《うら》みが……」
「戦場? ああ、ヘイスティングズの戦いですね。ノルマン人に侵略《しんりゃく》されたイングランドが、最初に血を流した土地ってやつですか」
「えらく昔の話だが、幽霊かどうかなら、霊媒師に助言を請《こ》うた方がいいかもしれないな」
「とっくに休んでいます。いつも夜は早いようですよ。彼女のあやつる霊が犯人なら、ドアに鍵《かぎ》をかけても無駄《むだ》かもしれませんけどね」
オスカーがきびすを返し、出ていこうとしたとき、テリーサが急に震《ふる》えだした。
彼らのやりとりをぼんやり聞いていたようだったのに、唐突《とうとつ》だった。
いやな気分にリディアも包まれる。わけもわからず、恐怖感に支配され、血の気が引いて倒れそうになる。しゃがみ込む。
「まあ、お嬢《じょう》さま、どうかなさったんですか?」
スージーが声をあげ、気づいたエドガーが、歩み寄って肩を抱いた。
「テリーサ、大丈夫かい?」
「ええ……、ちょっと気分が……」
「あまり女性の見るようなものじゃないからね。部屋へ戻った方がいい」
ささえるエドガーに、彼女は素直に寄りかかる。
だからもう、くっつかないでってば。
リディアはまた左手で隙間《すきま》をつくりながら、肩にエドガーの手を感じれば、さっきのきわどい状況が思い出されて体が熱くなった。
気分の悪さとあいまって、めまいがする。
これじゃあ、明日どんな顔でエドガーと接すればいいのかわからなくなりそうだ。
「テリーサをとっとと持ってかれちゃいましたよ。いいんですか?」
ニセ伯爵に向けられたオスカーの声が、背後《はいご》で聞こえた。
*
テリーサを部屋へ送りとどけ、自室に戻ったエドガーは、彼女がくれたハンカチにじっと見入っていた。
「どうかしましたか、エドガーさま」
屋敷内を見回って戻ってきたレイヴンが、考え込むエドガーに歩み寄った。
「ふつうさ、ハンカチに入れる刺繍《ししゅう》って自分の名前だよね」
「はあ、そうですね」
「クローバーのわきにある装飾文字なんだけど、TではなくてMにしか見えないんだ」
「彼女は自分について記憶がないとか。頭文字のつもりではないのでは」
「まあね。でも、生前のことをおぼえていないとしても、彼女がテリーサの霊だというなら、他の誰でもない彼女らしい部分は残っているってことだろう? 性格とか好みとかさ。白いハンカチに刺繍をしたくなった、それがこの模様だった、これは彼女の本質じゃないのだろうか」
リディアの中の霊は、テリーサじゃないかもしれない。五歳で死んだテリーサが、刺繍するなんてことを思いついて、そのうえ完璧《かんぺき》に仕上げられるものだろうか。
もし、頭文字がMだとすると。
重要なことが隠されているような気がしながら、思い出せなかった。
あきらめ、エドガーはレイヴンの方を見た。
「ポールからの手紙は来てた?」
はい、とレイヴンは内ポケットから手紙を取りだした。
日暮れ前に、彼が町の郵便局へ受け取りに行ってきたものだ。
頼んであった調査についての報告だが、アシェンバート伯爵を名乗る男については、その正体はまだ調査中。手がかりがないらしかった。ふたりの准男爵《バロネット》も、偽名《ぎめい》を使っているようだ。ユリシスの可能性があるのか、財産目当ての詐欺師《さぎし》なのかはわからない。
さらに気になる報《しら》せもあった。
プリンスの手先だというユリシスなる人物は、例の金貸しの動きから、一月前にロンドンに到着したヴィーナス号に乗船していたと思われる。そして、同じ船の乗客名簿に、オスカー・コリンズの名があったというのだ。
コリンズ氏の弟がアメリカで事業を広げている。その息子がオスカー。渡英の目的はこの秋からの留学。
「レイヴン、偶然だと思う?」
「オスカーとユリシスは、すでに船内で知り合っている可能性があるわけですね。そこでユリシスは、オスカーを利用することにしたと」
「むしろオスカーを目当てに、同じ船に乗り込んだような気がするな。おそらく、コリンズ家に接近するために」
「コリンズ家を巻き込むことは、プリンスの計画だということですか」
「そうだろう。ずいぶん手の込んだことをしているし、奴らの目的は、僕を追いつめることだけじゃなさそうだ」
そしてエドガーは、手紙のすみに走り書きされた追伸《ついしん》に目をやった。
「それについての情報もあるようだ。手紙に書ききれないらしいから、レイヴン、明日もういちど町まで行ってくれるか? 朱い月≠フ誰かが来るようだ」
はい、と彼は頷いた。
オスカー・コリンズ。まだ十六歳の少年だ。ユリシスの目的など知らずに利用されているだけだろうか。テリーサをよみがえらせた霊媒師を、信じていないと言っていたが、そう言わせているのはユリシスなのか。
オスカーが、伯母《おば》であるコリンズ夫人をだますことに荷担《かたん》する理由などないと思いたいが、奴の思い通りに動かされている可能性があるなら要注意だ。
しかし、だったら誰がユリシスなのか。
これだけの情報では、特定するのがまだ難しい。
エドガーは悩みながら、手紙をランプの火にかざし、燃やし尽《つ》くした。
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海とアザラシ
リディアは、ほとんど眠れないまま夜明けを待っていた。
テリーサが眠ってしまっても、陽《ひ》が昇るまでこの体はリディアのものにならないらしい。
低くのしかかるように曇った空は、なかなか夜明けを感じさせてくれなかったが、薄暗い中、ようやくテリーサから解き放たれたと感じると、リディアはベッドから起きだし、手早く着替えをすませた。
そしてぼんやりと思う。
エドガーって、本当に、正真正銘《しょうしんしょうめい》の女たらしなんだわ。
知っていたつもりだったけれど、テリーサを口説き落とした手練手管《てれんてくだ》を目《ま》の当たりにしたことを思い出すと、なんだか気分が落ちこんだ。と同時に、腹が立ってくる。
あんな男と、ぜったい結婚なんてできない。あらためて思い直す。
しかしもうひとつはっきりしたのは、エドガーはまだ、リディアに対して手加減しているということだった。
どうしてもリディアを手に入れようとするなら、本当のところ彼は、簡単にできると思っているのではないだろうか。
婚約を確実なものにすることも、そのまま結婚に持っていくことだって、いつだってできると思っているから、今のところふざけ半分に口説きながらおもしろがっている。
負けるもんか。と顔をあげたリディアの耳に、海から吹きつける風がいちだんと強く、うなるように聞こえていた。
くらべて屋敷の中は、やけに静かだ。
ゆうべあんな事件があったというのに、使用人たちも騒ぎ立てる気配《けはい》がない。
「警察の人はまだ来ていないのかしら」
「来られないようだぞ」
そう言ったのは、ドレッシングルームから現れたニコだった。
「ニコ! 来てくれたの?」
「来てたんだけどさ、あんたに取《と》り憑《つ》いてる幽霊《ゆうれい》娘に追っかけられたくないから避けてた」
しゃがみ込み、二本足で立つニコと目の高さを近づけたリディアは、親しい友人の顔を見てほっとしていた。
「なんだか、大変なことになっちゃった」
「ま、どうにかなるさ」
ニコは、幼い子供にするように、小さな前足でリディアの頭を撫《な》でた。
母の相棒でもあったニコは、たぶんリディアよりもずっとずっと年上だ。彼にしてみれば、リディアはいまだに幼い子供のようなものなのだろう。
気まぐれだし自分勝手だし、危険だといなくなるし、頼りにならない妖精猫だと日ごろ悪態《あくたい》をついていても、いちばんの親友だし、頼りにしている。
ふつうの猫とは違ってあんまりさわらせてくれないけれど、リディアはニコのふさふさぽよぽよした感触が好きだ。
「でも、警察が来られないってどういうこと?」
「海が荒れてるから、引《ひ》き潮《しお》になって道がつながっても、波が押し寄せてて危険なんだってさ。もちろん船《ボート》も使えないし、こっちから使いが出せないってこと」
窓際《まどぎわ》に近寄って海の方を眺《なが》めれば、白い波しぶきが立ちあがり、はげしくうねっている様子が見てとれた。
そんな波間に、生き物の黒い頭がちらついたように思え、リディアは目を凝《こ》らす。
「アザラシ……? セルキーかしら」
「ああ、プリンスの手先が、セルキーを捕らえて使ってるかもしれないんだろ。いろいろ伯爵《エドガー》に聞いたけどさ、だとするとこの波、セルキーたちが海を荒らしてるせいかもな。あまりにも都合よすぎる」
「都合って?」
「波がおさまらないことには、誰もここから出られないんだぜ。ゆうべの犯人ともども閉じ込められてるようなもんだ」
たしかに、外部と連絡が取れないのは、犯人にとって都合のいい状況だ。ユリシスがセルキーをあやつって、やらせているのかもしれない。
「でも不思議なんだけど、セルキーを殺したりひどいことをしたら、セルキー族の仕返しに合うっていうわ。彼らの団結力は強いもの。なのにユリシスって人は平気なのかしら」
二本足で立ったまま、考えるようにニコは腕を組んだ。
「何か手を打ってあるんだろうな。妖精を利用しようって奴は、よほど妖精を知ってるんだよ」
「仕返しを免《まぬが》れる方法を知ってるってこと?」
「過去に、セルキー族に恩を売ってあるとかだ。セルキーは長い寿命を終えるとき、心を許した人間に心臓をゆだねることがあるっていうだろ。永遠の友情の約束さ。それを持っている人間に、奴らは手出しをしない」
セルキーは人に近い妖精だ。人との交流が彼らの糧《かて》で、よりよい関係を保てるほど幸福でいられるのだという。とくに、セルキーの心臓を持つ人が与える親愛の情は、セルキー族に平安と繁栄をもたらし、だからセルキーたちも、海と暮らす人々の安全を守ってくれる。
とはいえ、セルキーが心臓をゆだねるなんてめったにないことで、ちょっとやそっとの恩でくれるものではないはずだ。
心臓を得た人は、セルキー族の運命を握ることにもなるのだから、代々にわたって子孫まで信頼できる場合にかぎる。
「そんなものをもらえる人が、セルキーを利用しようとするわけないわ」
「ま、当人がもらったわけじゃないって場合もあるか」
「……どこかで手に入れたってこと?」
正統な持ち主ではないのだろうか。悪意のある人物が心臓を持っているとすると、それだけでセルキー族の魂《たましい》は傷つけられ、癒《いや》されない不安に毒されていくことになる。
どうにかしたいが、心臓≠持っているかもしれないユリシスが誰かわからない。
「とにかく、心臓よりもまず毛皮ね。いちどにたくさん持ち運びはできないでしょうし、屋敷のどこかに毛皮が隠されていると思うんだけど。ニコ、あなたならどの部屋でもあやしまれずに入れるでしょ」
「えー、おれにさがせっての?」
「もちろんあたしもさがすけど、昼間はテリーサのふりしてなきゃいけないし、夜は完全に自由がないし」
ニコは舌打ちしたが、ノックの音にあわてて四つんばいになった。
部屋へ入ってきたのは、メイドのスージーだった。
「おはようございます、リディアさん」
頭を下げ、そしてニコに気づく。
「あら、猫が。すみません、誰かが勝手に入れたのかしら」
「あ、いいのよ。あたし猫好きだから」
つまみ出されまいと、ニコは猫らしくリディアの足元にすり寄ってみせたりした。
「そうですか。あの、じつはゆうべ、大変なことがあって……」
「ええ、知ってるわ。テリーサに取《と》り憑《つ》かれてたけど、意識はあったの」
「まあ、じゃあリディアさんもあれをごらんになったんですね」
頷《うなず》くと、彼女は胸元で十字を切った。
「でもあの、奥さまには言わないようにお願いします。オスカーさまが使用人たちにも口止めしてますので」
「わかったわ」
たしかに、精神的に不安定なコリンズ夫人には刺激が強すぎるだろう。
「それからあの、これをミドルワース子爵《ししゃく》からあずかってきました。リディアさんが起きたらすぐ渡してくれと」
スージーが差し出したのは手紙だった。
開いてみると、『親愛なるきみへ』で始まるあまい内容の、運命的な出会いだとか二度とこんな恋はありえないとか、ふざけたラブレターだった。もちろん、テリーサに宛《あ》てて不自然ではないように装《よそお》ったものだが、読むのはリディアだと知っているはずだ。
どうやら彼が伝えたかったのは最後の方の数行だけのようだった。
『できれば早いうちに、僕たちのことをコリンズ夫人に認めてもらいたいと思う。朝食が終わるころにモーニングルームを訪ねる。きみとの交際を正式に申し込むつもりだ』
ゆうべのことがあったから、エドガーは、信用できる人物と疑わしい者とを急いで分離しようとしているらしい。
テリーサとしてリディアが、エドガーをさっさと選んでしまう。それをコリンズ夫人が認めれば、ほかの求婚者を遠ざけられる。
リディアを常に目の届くところに置いておくことができる。
天候のせいで、この屋敷に犯人と閉じ込められることになった以上、こちらもじっとしているわけにはいかないということだろう。
しかし、エドガーの意図はわかっても、ぜったい誰にも見られたくないと思うくらい気恥ずかしい言葉だらけの手紙だ。
覗《のぞ》き込もうとするニコから、さっと隠す。
それよりもリディアの心の中には、この大うそつき! と言いたい気持ちが渦巻《うずま》いている。
何が正式に交際よ。誰でも簡単に、自分に夢中になると思ったら大間違いなんだから。
支離滅裂《しりめつれつ》にもそう思う。
エドガーはただ、この場の安全を確保するためにテリーサを口説き落とし、さらにリディアに目が届くようにしておこうとしているだけだ。
つまりこれは作戦で、夢中になるとかならないとかいう問題ではない。
わかっているのに、ゆうべあんなふうにテリーサを口説いておいて、今朝はリディアにあまい言葉を連《つら》ねる彼の神経を疑う。
「子爵は、リディアさんとはお親しい方だったんですね」
「え? ええと、……まあ」
リディアはどうにか、スージーに引きつった笑顔を向けた。
「とても大切な人だから、よろしく頼むっておっしゃってました。あのかた、来た早々テリーサお嬢さまに言い寄ったりして、ちょっと強引で軽薄《けいはく》な人だなんて思ってしまったんですけど、リディアさんが心配でしかたがなかったんですね。あなたを助けるためにしかたなく、お嬢さまの結婚相手に名乗りをあげられて」
それ、違うから。どう考えても、テリーサを口説くことを楽しんでいた。
「こんなことになってしまったのに、奥さまを責める気はないとおっしゃってくださって、あなたを無事連れ帰るために、霊媒師と対決するつもりだと。ああ本当に、愛する女性のために危険を顧《かえり》みず……。勇気ある紳士《しんし》ですわ」
だから違うってば。
強引で軽薄なのが本当だ。
フェアリードクターのリディアは、彼が妖精国《イブラゼル》伯爵《はくしゃく》であるために必要なだけ。
それでも、必要な人間ならとことん守ろうとする。気持ちよく働いてもらうために見返りは惜しまない。
味方として信頼関係を築くためなら、エドガーは、危険などかえりみずに応《こた》えるだろう。
リディアを特別扱いするのも、婚約者にしようということさえ、彼女の協力を将来にわたって得るためだ。
そしてそれが見せかけだけでなく、本気なのだから始末に負えない。
本気の恋なんかでなくても、本気でリディアを一生そばに置いておこうとしている。そのためには結婚が、もっとも確実な手段だと思っている。
でもそれは、リディアには理解しがたい感覚だった。あまりにも自分勝手で強引だ。
自分との結婚をいやがるような女はいないとエドガーは思っているのかもしれないが、リディアは自分の気持ちを無視されていると感じるだけだ。
結婚するなら、父と母のように、心から愛し合える人がいいと思っているから。
「あんなステキな方に想われるなんて、うらやましいです」
スージーは本気でそう思っているらしい。
女の子に好感をいだかせるのは得意技ね。
リディアはますます、エドガーにむかついた。
反対に、コリンズ夫人は上機嫌だった。
ゆうべの事件をオスカーが口止めした結果、使用人たちは忠実に口をつぐんでいるようだ。
なんの心配事もなさそうに、楽しそうに微笑《ほほえ》んでいる。
「ねえテリーサ、お客さまはみんないい方ばかりだったでしょう?」
「ええ、そうね。お母さん」
ふたりで朝食をとりながら、リディアは、これからエドガーと相思相愛《そうしそうあい》のふりをしなければならないのかと思うと憂鬱《ゆううつ》だった。
婚約解消を認めさせるつもりでいた。なのにそれどころか、仲のいいふりをしなければならなくなっているのだ。
それでも、エドガーに対して感情的にはむかついているけれど、理屈では、この場で優先すべきことはわかっているつもりだった。
「昨日のディナー、アシェンバート伯爵と話がはずんでいたようだけど? 今日は船遊びは無理だけど、このあと海辺にでも出かける?」
ニセ伯爵と出かけてやったら、エドガーは妬《や》くかしら。などと一瞬でも考えてしまったことにリディアはうろたえた。
べつに妬いてもらったってうれしくない。そう、うれしくない。
それに今重要なのは、敵に隙《すき》をつくらないことだ。バカなこと考えている場合じゃない。
「あの、お母さん、あたし、ミドルワース子爵《ししゃく》とおつきあいしたいの」
意を決して、リディアは言った。
「あら、子爵と? たしかにいちばんハンサムだけれど、もう少し時間をかけて、みなさんの人柄を知ってから決めればいいんじゃない?」
急いで首を横に振る。勢いにまかせないと、ゆうべからエドガーに感じている不信感がしゃしゃり出てきそうだ。
「あ……あたしたち、お互いひとめで恋におちたみたい。ディナーのあとでお話しして、運命的な出会いだって子爵がおっしゃって、あたしもそうだと思ったの。二度と、こんな恋はないわ」
心にもないことを自分でしゃべりながら気づいたのは、今朝《けさ》のエドガーの手紙にあった内容そのままだということだ。
そこまで考えて、あの手紙を書いてよこしたのだとしたら、やっぱりとんでもない男だわ。
「まあ……、そんなに彼が好きなの?」
「彼、お母さんにきちんとあいさつしたいって言ってたわ。食事が終わる頃にここへいらっしゃるって」
コリンズ夫人の表情をうかがう。戸惑《とまど》っているように見えて、リディアは緊張する。
反対されたらどうしよう。
などと、本当に彼とつきあうわけでもないのにうろたえている。たぶんリディアは、こういうとき親がどういうふうに思うのか、どんな反応をするのか想像もできないからだ。
「じゃあ、そろそろいらっしゃるのね」
ちらりと置時計に目をやったコリンズ夫人がそう言う。タイミングぴったりに、スージーがモーニングルームへ入ってきて、子爵を案内してもいいかと問いかけた。
ややあって姿を見せたエドガーは、飾らず気取らず地味めないでたちながら、誠実そうに見せかけることに髪の毛一本まで気を抜いていないのは明らかだった。
コリンズ夫人が椅子《いす》を勧めるが、まずは聞いてほしいとエドガーはさりげなくリディアの隣に立った。
「お嬢《じょう》さんとの交際を許していただきたいのです。もちろん、結婚を前提に」
「ええあの、子爵、娘と結婚してくださる方がいればとご招待したんです。そう言っていただけるなら……」
言葉を濁《にご》したのは、ニセ伯爵の方がいいと思っているからだろうか。
リディアは不安になったが、コリンズ夫人は思いがけない言葉を続けた。
「いまさらこんなことを言うのもお恥ずかしいのですが、この娘《こ》を、本当に望んでくださっているのでしょうか」
持参金《じさんきん》で貴族の称号を買うような、そういう縁談を持ち出したのは夫人だ。でも何より、娘が愛されるかどうかを気にしている。
金銭的な取り引きの道具だと思っていないかどうか、確かめようとするコリンズ夫人の視線は、ふだんのふわふわと宙をさまようものではなく、しっかりとエドガーを見つめていた。
「たしかに僕の家は裕福《ゆうふく》ではありません。だから降霊術《こうれいじゅつ》に参加したのも事実ですが、今は、彼女が身ひとつでも迷わず花嫁にむかえるでしょう」
エドガーの得意なうそだらけの芝居、相思相愛のふりをするリディアもうそをついているだけ。なのになぜか、緊張してドキドキしながらこの場に立っている。
コリンズ夫人に母親の影を重ね、もしも母が生きていたならと想像してしまうからか。
リディアの母なら、エドガーを目の前にしてどう思うだろうかと。
コリンズ夫人のように、ただひとつ、彼が娘に愛情を持っているかどうかを見定めようとするのが、母親の目なのだろうか。
「信じてもよろしいの?」
「あなたに反対されたら、さらって逃げます」
冗談めかしてエドガーが言うと、コリンズ夫人も頬《ほお》をゆるめた。
そして彼女は、リディアをやわらかく抱きしめた。
「よかったわね、おめでとう」
そのときリディアは、本当に母に抱きしめられたような、母がエドガーを認めたかのような、奇妙な気分におちいっていた。
リディアが信じられないエドガーのことを、母が、信じてもいいんじゃないと言ってくれたかのような。
彼がどんなにうそをついてきたかも、これからもうそをつき続ける人だということも、知っていたとしても母なら、プロポーズまでうそだと決めつけることはないんじゃない? なんて言いそうな。
そうかしら。
でも、あたしにはわからない。
信じてみたいと、思ってるんでしょう?
リディアがエドガーと出ていってしまうと、コリンズ夫人は満足げに、椅子に腰をおろした。
「奥さま、よかったですわね」
「ええ、スージー。肩の荷《に》がおりたわ。あの子が幸せなら、わたしはもう、何も心配することはないもの」
微笑《ほほえ》みながら、もの思うようにまぶたを閉じる。娘を亡くした苦しみから解き放たれた、そんなふうに見える彼女に、スージーも心から安堵《あんど》していた。
「そうだわ、スージー、まだわたしの仕事は残っていたわ。あなたをお嫁にやらなきゃ」
「え、あたしですか? いいえあたしは、ずっと奥さまにお仕《つか》えするつもりで」
「あなただって、娘のようなものよ。いつでもそばにいてくれて感謝してるわ。両親がいないからって、肩身の狭い結婚をしなくていいように、わたしが親代わりになって支度《したく》を整えるつもりだから安心して」
両手をやさしく握られ、スージーは泣きそうになるのをこらえた。
大好きな奥さま。だから、娘のテリーサを生き返らせるなんてとんでもないことだと思いながらも、スージーには止められなかった。
でも、結局テリーサが生き返ったわけではないのだ。テリーサの霊が乗り移っていても、彼女はリディアで、だから子爵も彼女を守るためにテリーサの気持ちを引きつけようとしたのだと、スージーは知っている。
本当ならスージーは、コリンズ夫人のために、降霊術などやめるよう説得するべきだったのだろう。
「どうしたの、スージー、泣かないで」
「すみません、……奥さまの気持ちがうれしくて」
それも正直な気持ちだ。けれど今は、どうしていいかわからなくて、彼女は足早に部屋を出た。
*
別荘の広い前庭は、そのまま雑木林につながり、海辺へと続いていた。
リディアを散歩に誘ったエドガーは、糸杉《いとすぎ》の並ぶ小道をゆっくり歩いていく。
雲は濃いが雨が降りそうな気配はまだない。湿った海風がときおり木の葉をゆさぶり、不自然にはげしい波の音と重なるのが、嵐の前触れのようだった。
「不思議。母親って、娘の結婚が本当にうれしいのね」
リディアは、さっきのお芝居の余韻《よいん》を引きずったまま、ぽつりと言った。
「そりゃそうだよ」
「でも父さまは、考えたくないみたいだわ」
「父親はね。だけど、ちゃんと説得するよ。そろそろ話してもいいんじゃない?」
「い・や」
何度もきっぱり言っているのに、エドガーはにんまり笑って聞き流すだけだ。
「さっきみたいに、お互い離れがたく惹《ひ》かれあってるってことをわかってもらえば大丈夫だよ」
「あれはお芝居でしょ!」
そう言ってしまうと、リディアの胸に罪悪感《ざいあくかん》が浮かびあがった。
「……あたしたち、コリンズ夫人をだましてるのね。彼女はテリーサがあなたと結婚して幸せになれると信じてるのに」
「あの霊はテリーサじゃない。だからどのみち、夫人の望みがかなうわけじゃないんだ」
「えっ、どういうこと?」
驚いて、リディアは彼の横顔を見あげた。
「彼女がハンカチにした刺繍《ししゅう》は、頭文字がMだ。それに、五歳で死んだ娘が、思いつきで刺繍なんかするだろうか。リディア、きみは刺繍が得意?」
「えと……、いちおう祖母に習ったわ」
「たぶん呼び出された霊は、テリーサではなくて別の、刺繍が得意な女の子だったんだよ」
苦手だとは言ってないじゃない。
「幽霊《ゆうれい》には生前《せいぜん》の記憶がない。死後の世界では死んだ年齢に関係なく自分の好きな歳でいられるとかいうのは、その方面に詳しい人の話だけど、だとしたら、霊媒師が呼び出す霊は誰でもいいことにならないか?」
ひときわ背の高い糸杉の下で立ち止まったエドガーは、リディアの方に向き直った。
「僕らにできるとしたら、プリンスの思惑《おもわく》を阻止《そし》して、元どおりにすることだ。死者は死者の国へ、きみは僕のもとへ。気に病《や》む必要はないんだよ」
言い含めるように、やさしく微笑む。
リディアが一歩|身体《からだ》を引いたのは、またちくりと不機嫌な気持ちになったからだ。
ゆうべ、彼がテリーサに向けた微笑みを思い出したから。同時に、エドガーにむかついていた気持ちがリディアの中によみがえってきていた。
「あたしはあなたのものじゃないわ」
「婚約者《フィアンセ》だ」
「いちいち言わないで」
「ずっと言い続けるよ。慣れてきたらきみも、そうだったかなって思うようになる」
わけないでしょ!
信じてみたい? そんなはずはない。
混乱させられながら、リディアはまた一歩下がった。
「あたし、愛のない結婚なんてしたくない」
恋もよく知らないくせに、子供がどこかでおぼえてきたようなせりふだ。
自分でも苛立《いらだ》つくらいだから、エドガーには夢見がちなたわごとに思えるだろう。
「なによ、おかしいの?」
「そんなことないよ」
「笑ったでしょ、心の中で」
「被害|妄想《もうそう》だって」
「でもあなたは、愛なんかなくても平気だわ」
「それはきみの方に愛がないってこと? 大丈夫、すぐに愛せるようになるよ」
どこからその自信がわいてくるのだか。
「あなたにだってないでしょ。昨日、テリーサを口説《くど》くお手並み拝見《はいけん》したわよ。ほんと、女の子を思い通りにするのなんて簡単なのね。心にもないことばかり言って、強引なやり方で……」
ほんの少し、戸惑《とまど》ったような間《ま》があった。
「まさか、テリーサに取《と》り憑《つ》かれてるとき、きみも意識があるの?」
「ええ、がんばれば起きていられるみたいよ。昨日はそうだったもの」
うーん、と彼は額《ひたい》に手をやった。困っているわけではなく、たぶんそういうポーズだけ。
「あのねリディア、それはきみのことを思って」
「わかってるわ。あたしの身の安全のため」
「だったら怒らないでくれ」
「べつに怒ってないわよ」
ふいと顔を背《そむ》け、リディアは歩き出す。
「怒ってる気がするけど」
「怒ってるとしたら、あなたが勝手にあたしの髪や顔や肩や背中やさわったからよ!」
「きみもいっぱい抱きついてきて……」
「やめて! それはあたしじゃないの!」
「じゃあ僕がさわったのもきみじゃない」
ああそう、誰でも恋人みたいに扱えるのね。
さらにむかっとしながらリディアは早足になる。
「いや、どっちかっていうと、きみだと思ってたな。逃げ出さずに見つめてくれるのがうれしくて、離したくない気分だった」
「あ……あたしだったら殴《なぐ》ってるわよ」
恥ずかしくて真っ赤になっているのが自分でもわかったが、エドガーに背を向けろつむいたまま歩き続けた。
「だろうね。殴られないうちに、もっといろいろためしてみたかったけど」
な、何を?
「自制しておいてよかった」
「…………」
「それとも、がまんしない方がよかった? ああそうだ、いくとこまでいってしまえば、僕と結婚するしかないってきみも納得したかもしれないし」
「納得するわけないでしょ!」
「でも、僕たちの関係を親密にするチャンスだったかな。テリーサだったらきっと逃げ出さない。でもきみにはきみの意識があるわけだろ。あまい時間を過ごせばきみも、頭じゃなく体で僕の想いを理解してくれるようになるかもしれない」
かか、体?
頭に血がのぼったリディアは、思わず立ち止まって硬直《こうちょく》する。
「恋とか愛とか、こういうものだときみは頭で思い込んでいる。僕が本気だと言っても、きみの想像通りじゃないから信じてくれないんだろうけど、僕にとっては本当にきみが特別なんだ」
「やめてよ冗談じゃないわ! 勝手にヘンなことしたら許さないから!」
向き直って真剣に抗議するリディアに、彼は不遜《ふそん》な笑みを向けたままだ。
「じゃあ今ためしてみよう」
「え?」
「恋人どうしの気持ちに、少しは近づけると思うよ」
海からの風が、リディアの背中に吹きつけた。おろしっぱなしの髪が流され、一瞬視界を失ったリディアは、両手で髪を押さえようとする。
と、頬《ほお》に触れる手を感じた。顔をあげると、すぐ目の前にエドガーの灰紫《アッシュモーヴ》の瞳がある。
少し切なげな微笑《ほほえ》みを向けられ、壊れ物を扱うようにそっと触れられている自分は、本当に特別なのかもしれないと思い、でもふと思い出せばそんなわけはないとわかる。
ゆうべも彼はこんなふうにリディアを、ではなくテリーサを見ていた。
逃げなきゃと思ったのに少しも動けなくて、もしかしたら望んでいるのかもしれないと感じたとき、リディアは自己|嫌悪《けんお》におちいった。
あたしって、もしかしてふしだら?
「目を閉じて」
呪文《じゅもん》のようなやさしい声に逆らえなかった。
「きみが好きだよ。本当に」
本気にしてしまいそう。信じてみれば、何かが変わるかもしれない。そう思ってみても、リディアの心の奥から、否定の言葉が浮かびあがる。
「うそよ」
「信じて、言葉よりも口づけを」
「……だけどあなたは、たった今も、あたしの気持ちをわかろうとしないわ」
ああそう。いつでも自分勝手に、思い通りにしようとする。
だからどうしても、踏みとどまってしまうのだ。
リディアはそっとまぶたを開いていた。目を細めたエドガーが、ほんの少し淋《さび》しげに見えた。
彼の手が、そろりと離れる。しかしそれは、リディアの言葉のせいではなく、木立《こだち》の奥に人の気配を感じたからだった。
エドガーは木の陰を見つめ、「誰だ?」と問う。
人影は、急に身をひるがえし駆《か》け出した。
一瞬ちらりとこちらを向いた白い顔は、アーミンだったのではないだろうか。
見慣れた男装の、アーミンだったような気がする。
「リディア、屋敷へ戻ってて」
それだけ言うとエドガーは、人影を追って駆け出した。
男物の黒い上着を着た、けれどあきらかに女性的な人影は、一気に丘を駆けあがった。エドガーは追いかけながら、おびき出されているのだと感じていた。
しかし、引きこもっていた霊媒師《れいばいし》が向こうから近づいてきたのだ。本当にアーミンかどうか、どうしても確かめたかった。
やがて、海に面した斜面を背に、男装の女は足を止め振り返った。
挑発《ちょうはつ》するようにこちらを見る、黒に近いブラウンの瞳。短く切りそろえた同じ色の髪が風になびけば、耳元まで輪郭《りんかく》があらわになる。
エドガーのよく知る女だった。
男装がよく似合うりりしい顔立ちだ。けれど美女という言葉しか思い浮かばないほど女っぽい艶《つや》がある。男の衣服に身を包んでも、女だとひとめでわかる彼女の方に、エドガーはゆっくりと近づいていった。
「エドガーさま」
赤い唇《くちびる》からは、耳に馴染《なじ》んだ声がつむぎ出される。
「お久しぶりでございます」
「アーミン、無事でいたなら、どうして僕のところへ戻ってこなかった」
「今のわたしは、ユリシスのしもべです。彼に逆《さか》らうことはできないのです」
「そいつに助けられたからか?」
わずかに、彼女は目を伏せた。エドガーの問いには答えなかった。
「リディアさんとは、あれからずっといっしょなのですね。わたしが言うのもおかしな話ですが、彼女が無事でいて、あなたの力になってくださっていると知り、安堵《あんど》しております」
「リディアも、おまえのことを気にかけていたよ」
「彼女にも、ひどいことをしました。なのに許してくださっているのでしょうか」
「彼女をだましていた僕を、許してくれたくらいだからね」
かすかに口元をゆるめた、一瞬の表情も、アーミンそのものだ。
「エドガーさま、あなたがリディアさんを傷つけずに連れてきたときから、何かが変わるような気がしていました。正直でひたむきで、あきれるほど人がよくて。あなたを救えるとしたら、彼女のような女性かもしれないと」
目の前の女は、アーミンしか知らないはずのことを知っている。
本当にアーミンなのだろうか。半信半疑ながらも、そうであればいいと望んでいた。
「アーミン、ユリシスとやらに従っている必要はない。戻ってきてくれ」
「裏切り者を、信用できるのですか?」
「おまえの本心が、僕を裏切ったことなどないのは知っている」
彼女がエドガーを思う気持ちにつけ込んで、あやつったのはプリンスだ。
「本心など、問題ではないのです。わたしは、あなたを殺すよう命じられています」
「殺す、か」
彼女からは、少しも殺気が感じられなかった。
俊敏《しゅんびん》な運動神経と身軽な体、武器の扱いにも慣れた彼女がその気になれば、エドガーを殺すことも可能だろう。
しかし彼は、さらに女に歩み寄った。
「プリンスは、あなたに見切りをつけました。もはやあなたは英国|伯爵《はくしゃく》として有名になりすぎた。使いものにならないなら、さんざん苦しめて殺すようにと……」
彼女が持ちあげた手には、ピストルが握られていた。
かまわずエドガーは、アーミンに触れようと手をのばした。
耳元に手が届いたとき、一瞬彼女がひるんだ。その隙《すき》を逃《のが》さず、腕を押さえる。銃口《じゅうこう》が逸《そ》れ、弾は地面の草を散らす。
やはり彼女に、やる気が感じられなかった。
ピストルをもぎ取り、草の上に押し倒した彼女を見おろしながら、エドガーはシャツに手をかけた。
「ちょっとだけ、ごめん」
はっと体に力を入れる彼女に起きあがる隙を与えず、シャツの胸元を開く。
白い肌に痛々しく刻まれた奴隷《どれい》の焼き印、それがなかった。
アーミンにはあるはずのものが。
「おまえは、誰なんだ?」
返事の代わりに、エドガーののど元にナイフが突きつけられた。
「どうして、アーミンのことを何もかも知っているかのように話す」
悲しげに眉《まゆ》をひそめ、腕に力を入れた。ナイフを避けて、エドガーは彼女を離す。
身体《からだ》を起こした彼女は、素早く体勢を立て直し襲いかかってきた。
今度は本気だった。哀しみに彩《いろど》られた殺気だ。
たった今エドガーに知られた秘密は、彼女をひどく苦しめるものだったのだろうか。
エドガーの瞳に焼きついた、焼き印のない自分もろとも、彼を葬《ほうむ》ってしまおうとするように攻め込んでくる。
ニセ者であることを憂《うれ》えているとしたら、いったいどういうことなのか。
応戦しようにも、武器を扱う動き方すらあまりにもアーミンだった。エドガーにとって、二度と見捨てたくない仲間だ。
そのとき、エドガーの目の前に黒い影が割り込んだ。
自分の姉にそっくりな女を相手にしながら、レイヴンは躊躇《ちゅうちょ》なくナイフをかまえた。
「待て……レイヴン」
止めようとしたが、女が先に斬《き》りかかった。
[#挿絵(img/aquamarine_149.jpg)入る]
レイヴンに向かっていくなど自殺行為だ。アーミンを知っている女なら、一対一でレイヴンにかなう者などいないことくらいわかっているはずだ。
しかしもう、レイヴンの中で殺気が目覚めていた。主人を守るためなら残忍《ざんにん》な悪魔と化す精霊が、彼を支配している。
特異な戦闘能力を持つレイヴンが、ただ敵を殺すために動く。
こともなく女の刃物を避け、振りおろしたナイフは、彼女の肩に深々と突き刺さった。
ふらりと女は後ずさる。どうにか距離を取ろうとする。
海に突き出た急斜面の、ぎりぎりまであとずさった女は、岩に足を取られて地面にひざをついた。苦痛に顔をゆがめながら、ナイフを抜こうとする。
レイヴンは顔色ひとつ変えず、近づいていくと腕をのばした。
小柄な少年の腕だが、一瞬で首をへし折るに違いない。
「やめろ!」
エドガーは、彼女を助け起こそうと駆《か》け寄っていた。
「もういい、殺さなくていい」
しかしすでに、エドガーの命令もレイヴンの耳には届かない。
レイヴンは何の感情も見せず、それでいて慎重《しんちょう》にエドガーを避けて彼女に手をのばす。
そのときふと、レイヴンの動きが止まった。
「お願い、やめて……」
リディアだった。彼女が後ろから、レイヴンに抱きつき引き止めようとしたのだ。
まずい、とエドガーは思った。レイヴンを止めるのはエドガーにだって難しい。リディアにできるわけがない。
そして戦闘態勢のレイヴンは、主人以外、敵味方の区別さえつかないことが多いのだ。
リディアを守ろうとしたけれど、すでに遅かった。
レイヴンが、手加減もなく腕を振り払うと、はね飛ばされたリディアは斜面に倒れる。
転げ落ちかけた彼女に手をのばしたのは、アーミンにそっくりな女だった。
ささえきれずに、いっしょになって斜面を転がる。しかし女は、ところどころに突き出た岩からリディアを守るようにかかえ込んでいた。
斜面の中ほどでようやく止まると、女はふらふらと立ちあがった。
倒れたままのリディアに、エドガーは駆け寄ろうとする。女は逃れるように斜面を下り、海岸から雑木林へと姿を消した。
軽い脳しんとうを起こしただけだったリディアは、屋敷へ運び込まれる途中、エドガーに抱きかかえられた状態で気がついたが、恥ずかしいので寝たふりをしていた。
ベッドに寝かされ、心配そうに覗《のぞ》き込む彼がそばを離れる気配《けはい》がないので、さりげなく目を開けてみた。
「リディア、大丈夫かい? 僕がわかる?」
「……ええ」
「ああ、急に動かない方がいい。頭を打ったんだから」
「もう、なんともないわ」
横になっているのも落ち着かないので、ゆっくり体を起こす。彼が手を貸してくれようとしたが、思わず身を固くしたのに気づいたらしく、意外とあっさり引き下がった。
さっき、キスされそうになったことを思い出したせいだ。しかしエドガーへの警戒心《けいかいしん》ではなく、リディアは受け入れてしまいそうになった自分が信じられなくなっていた。
この軽薄《けいはく》男に口づけを許すなんてありえない、はずなのに。
またあんな気分になったらどうしよう。などと考えると動悸《どうき》がして、リディアは深呼吸した。
「すみませんでした。リディアさん」
エドガーの後ろに突っ立っていたレイヴンが、うつむきがちに言った。感情が表に出ない彼にしては、落ちこんでいるように見えた。
「気にしないで。あたしが勝手にしゃしゃり出ていったせいだから」
「私の致命的《ちめいてき》な失態です」
「そんな大げさな……」
「どんな罰《ばつ》でも受けるつもりです」
レイヴンは真剣らしい。
「あなたの仕事はエドガーを守ることなんだし、あたしのことで思いつめなくても」
「いいえ、主人の奥方となられるあなたに怪我《けが》をさせるなど、許されることではありません」
奥方? リディアは眉間《みけん》にしわを寄せながらエドガーの方を見た。
「ちょっとエドガー、レイヴンにそんなこと言ったの?」
「そりゃ、僕のもっとも信頼する従者には言っておかないと」
「本気にしてるじゃないの!」
「本気だから当然だよ」
どこまでも本気と言い続ける。
そのせいでレイヴンが気に病《や》んでいるというのに。
「……とにかく、もういいってあなたからも言ってよ」
「納得してくれないんだよね。だから、そう、いっぱつ殴《なぐ》ってやってくれないか。それで彼も気がすむと思う」
「な、殴れるわけないじゃない!」
「僕はよく殴られそうになるけど」
「あなたは、ふざけたことするからでしょ!」
「レイヴン、ちょっとふざけたことをしてみればいい。そしたら望みどおり、リディアは殴ってくれるそうだ」
は、はあ?
「ふざけたこと、ですか?」
「キスとか」
きまじめなレイヴンが、エドガーの悪ふざけをどう受け取ったのか、こわごわリディアが視線を動かすと、まっすぐこちらを見る彼と目があった。
リディアは身構えるが、しばしの沈黙のあと、レイヴンは困り果てたようにうなだれた。
「できません、エドガーさま。どうかお許しください」
「いいだろう。そのかわり、おまえも罰をあきらめろ」
ため息とともに、「わかりました」と答える。なんでそうなるのよと言いたいが、ともかくエドガーは、頑固《がんこ》なレイヴンをうまく引き下がらせたようだった。
「それでリディア、どこか怪我は? 痛いところはないかい?」
首を横に振りながら、リディアは、髪の毛にきらきら光る砂粒のようなものがくっついているのに気がついた。
転んだからかしら。しかしそれは、細かいガラスビーズのようで、砂というには薄青く透明だった。
「擦《す》り傷ひとつないみたい。アーミンが助けてくれたからだわ。彼女の方がひどい怪我をしてたのに」
「あれは姉ではありません。エドガーさまを殺そうとしていました」
レイヴンはきっぱり言った。
エドガーへの想いゆえに裏切りに走ったアーミンだからこそ、エドガーを手にかけることはできないというのだろう。
ベッドわきの椅子《いす》に腰をおろし、エドガーは考え込んだ。
「彼女自身は、ユリシスに逆《さか》らえないと言っていた。奴は、僕を苦しめて殺すようにとプリンスに指図《さしず》されているらしい。アーミンにそっくりな彼女は、僕を殺すというよりむしろ、殺されることを命じられて現れたような気がする」
「あなたに襲いかかって、逆に殺されるつもりだったってこと?」
きっと死ぬと、そんなことを庭園の四阿《あずまや》で、彼女は老婆《ろうば》に言っていた。
「レイヴンが駆けつけることくらい予想できたはずだ」
アーミンをまた死なせてしまうようなことになったら。エドガーは自分を責めずにはいられないだろう。
ユリシスに逆らえず、彼女はエドガーに襲いかかり殺されるよう命令されていた。本物のアーミンであってもなくても、大切な人が目の前で、敵に利用されて死んでしまうのを、二度も目にしたくはないはずだ。
たくさんの仲間を犠牲《ぎせい》にして生き残ってきた、そんな悲しみをかかえている彼を苦しめるためだとしたら、本当に残酷《ざんこく》な方法だ。
「どういう意図で襲いかかったのであれ、姉ではありません。エドガーさま、同情すれば敵の思うつぼです」
「そうだな……、アーミンにあるはずの、奴隷《どれい》の焼き印がなかった」
え? とリディアは顔をあげる。エドガーが必死にレイヴンを止めようとしていたから、本物だと確信したのかと思っていた。
「ではどうして、私を止めようとされたのですか。あのとき、とどめをさしておくべきでした」
「どうしてかなあ」
エドガーは他人事《たにんごと》みたいに気の抜けた返事をしたかと思うと、深刻に眉根《まゆね》をよせた。
「どうしても、アーミンに思えたんだ。彼女しか知らないようなことを知っていたし、表情とかしゃべり方の癖《くせ》とか、焼き印以外は何もかもアーミンだった」
「でも、あの焼き印は消せるものでは」
「僕のは消えたよ」
そうだった。エドガーの体につけられた奴隷の焼き印は、人魚《メロウ》が取り去った。
そして彼はリディアに問う。
「僕の場合はとくべつな条件でそうなっただけだ。アーミンにもそんなことが起こる可能性があるのかな。それに、彼女が生きていたというのは、焼き印が消えるくらい不思議なことに思えるんだ」
メロウの海へ落ちたアーミン。遺体は見つからなかったけれど、それすら不思議ではないというくらい、潮《しお》の流れが複雑な海だった。
考えながらリディアは、ガラス屑《くず》のようなきらきらしたものに注目していた。
そういえばリディアは、怪我をしたアーミンにかかえ込まれていたのに、少しも血がついていない。
血ではなく、透明《とうめい》な結晶《けっしょう》が髪や服からこぼれ落ちる。
まさか、これが血?
彼女は、人間ではないのだろうか?
そして急に思いついた。
セルキーは海の死者の化身《けしん》。そしてアーミンは……。
「アーミンはセルキーなのかもしれない」
突拍子《とっぴょうし》もないことに聞こえただろう。エドガーとレイヴンは顔を見合わせた。
「海で死んだ人は、セルキーになるというわ。必ずそうなるわけじゃないと思うけど、ユリシスって人はフェアリードクターの知識があるみたいだから、わざわざ彼女をセルキーとしてよみがえらせたんじゃないかしら」
「そんなことが……。きみにもできるのか?」
「あたしには、セルキーをあやつるような力はないけど。でもユリシスが力を持つフェアリードクターなら、セルキーたちにアーミンの亡骸《なきがら》をさがさせて、仲間に引き入れることはできるんじゃないかと思う」
リディアの言うことを自分の中で整理するように、エドガーはこめかみを押さえた。
「アザラシ妖精は、人だったときと同じ姿になれる? 記憶もあるのか?」
「そういう例はあったと思うわ。海で死んだ漁師《りょうし》が家へ現れて、でも彼はもうセルキーだから、家族と別れてまた海へ帰っていくの。妖精界の住人となった人は、人の世界のことを忘れていくというけど、アーミンはまだ」
「セルキーになったばかりだから、人の記憶があるってことか」
難しい顔で、彼はつぶやいた。
「リディア、もしきみの想像通りだったとして、どうして彼女や、ほかのセルキーたちも、ユリシスに従わなければならないんだ?」
「アザラシの毛皮を隠されたからよ。セルキーは毛皮を脱いで人の姿になるの。でも毛皮がないと海へ帰れなくて、それを隠し持つ人の言いなりになるしかないわ。毛皮が彼らの魂《たましい》みたいなものだから」
「なら、奴が隠した毛皮さえ見つければ、アーミンが利用されることはなくなるのか」
「それは……」
リディアが言いよどんだのは、彼女にまだ人だった頃の記憶があるなら、プリンスの影響を引きずるのではないかと気になったからだった。
もちろんエドガーも、レイヴンにも、そのことは頭にあるだろう。
「妖精としてむりやり呼び戻されたのなら、姉はやはり死んだのです。ここにいるのはユリシスの手先、たとえその支配を解くことができたとしても、プリンスの道具としてよみがえっただけの存在です」
レイヴンの言葉に、エドガーは深く息をついた。
「たぶん、そのとおりなんだろう。でもレイヴン、おまえの姉だよ」
そう言われても、不思議そうにレイヴンは首を傾《かし》げた。
身内だと言葉ではわかっていても、どんな感情をいだいていいかわからないのだ。
もちろんレイヴンは、姉としてアーミンを慕《した》っていた。しかし彼女がエドガーを裏切り、これからも危険をもたらすかもしれない存在となった以上、姉であるよりも敵だということだ。
けれどエドガーは、裏切りよりもアーミンの心情を考えている。まだプリンスの呪縛《じゅばく》にとらわれているなら、救い出したいと思っている。
「姉ではありません」
「人ではないから? 失った人に、夢でも会いたいと思ったことはないか? 幽霊《ゆうれい》でもなんでも、もういちど言葉を交わせるものならばと願ったことは?」
たぶん、レイヴンにはないのだろう。
特殊な戦闘能力を持っていたために、人殺しの道具として育てられ、人間らしい感情をはぐくむことができなかった彼は、エドガーにだけようやく心を開くことができるようになった。
エドガーの周囲の人間のことも、思いやったり考えたりするようになってきているとはいえ、死んでしまった人への想い、執着《しゅうちゃく》の気持ちを、レイヴンが理解するのはまだ難しいのだ。
それでもエドガーは、言い含めるように続けた。
「僕は、アーミンに会いたかった。どんな形でも、僕を恨《うら》んでいたとしても、会いたかったんだよ」
コリンズ夫人が娘の霊を呼び出そうとしたのも同じ気持ち。リディアが母を思うのも同じ。
もしも会えるものならば。そう願わずにいられない気持ちがわかるから、リディアはコリンズ夫人を憎めなかった。
「アーミンは、あたしを助けてくれたわ。命じられたわけもないのに、彼女の判断で助けてくれた。彼女の本心は今でも、あなたたちの仲間だと思うの」
レイヴンは悩んだように黙り込んだ。エドガーも黙る。
急に静かになったそのとき、ドアの外でかすかな物音がした。部屋の中にいた三人が一様に注意を向ける。
誰かが立ち聞きを?
そう考えたとたん、リディアは背筋《せすじ》に寒気を感じ、うずくまるように両腕をかかえた。
「どうした、リディア」
「なんだか、気分が……」
息苦しくて冷や汗がでる。
レイヴンが音も立てずドア際《ぎわ》へ歩み寄ったのを目の端で眺《なが》めながら、ゆうべと同じだとリディアは思った。
テリーサが、もがき苦しんでいる。わかるのはそれだけだ。
「いや……、助けて……」
自分で自分にしがみつくしかないリディアの手を、エドガーが握りしめた。
「大丈夫、僕がついてる」
「テリーサなの、……彼女が、死んだときのこと思い出してる……」
勢いよくレイヴンがドアを開けた。けれどそのまま立ち止まる。
「誰かいたのか」
「いいえ。でも、話を聞かれたかもしれません」
その言葉を耳にしながら、リディアは気を失った。
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恋におちるにはまだすこし
夜の干潮《かんちょう》を待って、レイヴンは町へ出発した。
海は相変わらず荒れていて、道にはたえず足元をさらうような波が押し寄せている。夜の暗がりとなればさらに、狭い道を渡るのは危険だったが、朱い月≠フ団員が貴重な情報をたずさえて町まで来るというのだ。どうしても行くと、レイヴンはためらわなかった。
「明朝《みょうちょう》戻ります。エドガーさま、どうかお気をつけて」
「僕を苦しめたいなら、敵はもっとじわじわやるだろうから大丈夫だよ」
そう言ってレイヴンを送りだしたが、もちろん今夜も警戒《けいかい》すべきことはたくさんあった。
何よりも、リディアが常にテリーサに憑依《ひょうい》されてはいないと、敵に気づかれた可能性があることだ。
「おい伯爵《はくしゃく》、リディアがぜんぜん起きねーぞ。どうなってるんだよ」
部屋に現れたニコが言った。
「今はもう、テリーサの時間だね。原因がテリーサの恐怖感なら、そろそろ目覚めるかもしれないけど」
「テリーサの恐怖って?」
「彼女が死んだときのことを思い出すのが、リディアの神経を消耗《しょうもう》させるみたいなんだ」
悩んだようにニコは、二本足で突っ立ったまま腕を組んだ。
「おいおい、どうにかしてくれよ。そんな恐怖をリディアが追体験《ついたいけん》させられるなんてひどいじゃないか」
まったくだ。
しかし、とエドガーは考えていた。テリーサが死んだときのことを思い出したとしたら、きっかけは昨夜の事件だった。いや、事件そのものではなく、そのあとだ。いったい彼女は何を見つけ、何を感じたのだろう。
もしかしたら彼女は、ユリシスに殺されたのではないか。そうしてテリーサの霊に仕立てあげられたのなら、ユリシスの気配を、昨日の事件のどこかに感じたのだ。
「ニコ、テリーサを殺した人物が、すべての黒幕の可能性がある。彼女が思いだしてくれれば、先手を打てる」
立ちあがったエドガーは、部屋を出ようとした。
待てよ、とニコが足元に立ちはだかる。
「まさか、思い出させるっていうのか? テリーサが乗り移ってても、リディアも目覚めてるかもしれないんだろ」
殺される苦痛を、リディアに体験させることになるのかもしれない。
「でも、このままではリディアも危険にさらされる。守りきれる保証はないんだ」
じゃまをするニコを持ちあげてどける。
「わあっ、おい、よせっ! あんたホントにリディアのこと考えてないだろ! 命を助けりゃいいってもんじゃないぞ!」
リディアのことはちゃんと考えているつもりだ。なのにニコは、そしてリディアも、『あたしの気持ちをわかろうとしない』と言った。
そうだろうか? 命を守ることが第一ではないのか? 守れなければ、気持ちもなにもあったものではないというのに。
意を決し、エドガーはテリーサの部屋へ向かった。
*
苦しい。息ができない。
まっ暗な闇の中、もがけばもがくほど、鼻や口から泥水《どろみず》が流れ込んでくる。
助けて。でも声も出ない。
わずかに肺に残った空気を、吐《は》き出してしまうだけだ。代わりに多量の泥水を飲み込んで、体はさらに沈んでいく。
流れ込む水でいっぱいになって、体が破裂《はれつ》しそうにさえ思えたそのとき、リディアはベッドの上で跳ね起きた。
「お嬢《じょう》さま、大丈夫ですか? テリーサお嬢さま」
スージーが駆《か》け寄ってきて、せき込むリディアの背中をさする。
まだ悪夢から抜け出せきれず、「助けて……」とつぶやくのは、リディアではなくテリーサだ。
もうすっかり夜になっているらしく、目覚めたもののリディアは、じっとしているしかない状態だった。
「悪い夢を見たんですね。でも、お目覚めになられてよかったです。昼間気分が悪くなられてからずっと眠りっぱなしで、子爵《ししゃく》も心配されてたんですよ」
ようやく顔をあげたテリーサの視界に、エドガーの姿があった。
「心配したよ、テリーサ」
「子爵……」
うれしいわ、と屈託《くったく》なく両手をのばす。
ああもう、あたし寝間着《ねまき》姿なのに! とリディアはやさしく抱きよせられるのを感じながら緊張した。
「あたし、どうなってしまったのかしら。不安でしかたがないんです。わけもわからず怖くて震《ふる》えて……。どうかそばにいて」
ええっ、ちょっと。
「ああ、そばにいる」
いなくていいってば。
「こんな夜半《やはん》に、女性の部屋に居座《いすわ》るのは非常識だとわかってるけど、心配だからってスージーに頼み込んだんだ。ゆうべの事件も解決しないままだしね」
少し下がって頷《うなず》くスージーも、すっかりエドガーを信用しきっている。リディアと恋人どうしだと教えられ、そのうえエドガーを誠実な紳士《しんし》だと思い込んでいるからか。
そうじゃないのに! と抗議したくてもリディアにはできない。
「ではあの、あたしは下がりますので、何かありましたらお呼びください」
えっ、ふたりきりにするの?
リディアはあわてたが、頭を下げたスージーは、さっさとメイドの小部屋に下がってしまった。
お付きのメイド専用の、ドアを隔《へだ》てたすぐ隣だ。とはいえこの寝室にはふたりきりで、ベッドの端に腰かけたエドガーに、テリーサはすっかり体をあずけている。
何かしたら殴《なぐ》ってやるから、と思っても、多少動かせる左手も、テリーサが彼の背にまわしていてはどうにもならない。
ふとリディアは、昼間彼が言っていたことを思い出す。
まさかこいつ本気で、婚約|破棄《はき》できなくなるように既成《きせい》事実でかためるつもりじゃ……。
けれどエドガーは、リディアの心配事からはかけ離れた言葉を口にした。
「何の夢を見たんだ?」
「水の中に、沈んでいく夢よ」
「どうしてそんな夢を?」
「たぶん、あたしは水で溺《おぼ》れて死んだんじゃないかしら」
思い出すだけで、リディアはまた息苦しくなった。
「ほかに、何かおぼえてない?」
不思議そうに、テリーサは顔をあげた。
「どうしてそんなことを訊《き》くの?」
「きみのこと、何もかも知りたいんだ。一度は死んだきみと、こうして出会えた奇跡《きせき》を実感するためにも」
テリーサは素直に受けとめたようだったが、リディアはもちろん勘《かん》ぐった。
どうやらエドガーは、テリーサが死んだときのことを知りたがっている。彼女はコリンズ夫人の娘ではないと言っていた。とすると、どうして別人の魂《たましい》をテリーサに仕立てあげたのかという疑問が浮かぶ。
本物のテリーサの霊を呼び出すことが不可能で、たとえば死んだばかりの魂を手に入れなければならなかったとか。
「ほかに……? そうだわ、誰かが、沈んでいくあたしを見てた……」
もしもそうなら、夫人をだますためだけに、彼女は殺されたというのだろうか。
背筋《せすじ》が震えた。冷や汗がふきだす。なのにテリーサは言葉を続ける。
「男の人だと思う。でも、片方の耳の、後ろがわに光るものが……、小さな、宝石?」
「テリーサ、つらいのかい?」
「いえ、大丈夫よ」
「でも苦しそうだ」
そうよ、苦しいんだからやめて……。
「ええ、苦しいけど、体は苦しいけど、あたしはそれほどでも」
えっ、……て、どういうこと?
「生き返って間《ま》がないからかしら。生身《なまみ》の体に馴染《なじ》みきってないみたいな感じなの。だから、気分が悪くて動けないのも、ぼんやりとそう感じてるだけ」
ちょっと待って、苦しいのはあたしだけ?
考えてみればこれはリディアの体だ。
原因がテリーサの記憶でも、体調の悪化を受けとめるのは、まるきりリディアだということなのだろうか。
「じゃあ、もう少し思い出してみる?」
冗談じゃないわ。こんなに苦しんでるじゃないの! と心の中で叫んだが、気づいてたってエドガーのことだ、テリーサから役に立つ記憶を引き出すのはやめないだろう。
テリーサがあの泥水《どろみず》を思い浮かべる。それだけでリディアは、また苦い水がのどに肺に流れ込んでくるような感覚にとらわれ、せき込む。
「あせらなくていいんだ。ゆっくり思い出して」
もういや、こんな苦痛が長引くのなんて。
「……そうだわ、あたしは橋の上にいたの。河面《かわも》を眺めてた。そしたら急に後ろから、誰かに突き落とされて……。落ちていくとき、その人が言ったわ。……殿下《でんか》のための、贄《にえ》……だとか……」
どうしてあたしだけ、こんなつらい目にあわなきゃならないの?
リディアはぎゅっと左手に力を入れた。
その手はエドガーの腕にそえられていたが、リディアは気づかないまま、苦しさにあらがおうと力いっぱい爪を立てる。
痛みを感じたのか、エドガーはかすかに眉《まゆ》をひそめた。
しかしテリーサは、気づいていないし気にしていない。体は震えているのに、彼女の声には苦痛の色もなかった。
「彼は、笑ってた。……とても怖くて……」
そのとき、はっとしたようにエドガーが、リディアの左手に手を重ねた。
「テリーサ、ちょっと休もう」
どうして、というふうに彼女は見あげる。
「まだ平気」
もう限界よ。
「いや、もういい」
「あたしのこと、知ってほしいの」
「だめだ。きみが感じているよりも、体の負担が大きいようだから」
納得したのか、テリーサが思い出そうとするのをやめて、リディアはようやく苦痛から解き放たれた。
ぐったりした気分で荒い呼吸を意識していると、エドガーが彼女の左手を握りしめ、自分の頬《ほお》にあてた。
「ごめん……」
リディアに言っているのだとわかる。
左手が、リディアの意識につながっていると気づいたのか。心から心配しているようにも見えたが、疲れ切っていた彼女は、なにがごめんよとだけ思う。
だいたいエドガーは、軽い「ごめん」のひとことで、人をさんざん利用するのだ。
もうさわらないで、と言いたいリディアだが、かかえ込まれればどうにもできない。
テリーサは、安心しきったようにエドガーに体をあずけていた。
「やさしいのね。……あたし、こんなに気遣《きづか》ってもらえたことなかったような気がする」
「そんなはずはないよ」
「ううん、なんとなくわかるの。あたし、バカだと思われてる。近づいてくる人はけっこういたけど、誰も本気で相手になんてしやしないの。わかってたけど、あたしはもてるんだと思いたくて……」
「それは、おぼえてること?」
「そうね、死ぬ前のことなのかしら。……ねえ子爵《ししゃく》、あなたはやさしいから、お金が目当てでも、あたしに恋したふりをしてるだけでもいいわ。あたしがあなたを好きでいられるように、やさしいふりを続けてくれればそれでいいの。本当の心は覗《のぞ》かないから」
ぼんやりした頭で聞きながらも、リディアはどきりとさせられていた。
彼女もうっすらと、エドガーのうそに気づいていたのだろうか。本気じゃないということに、気づいていた?
でも、自分とは正反対だとリディアは思う。
テリーサは、自分の気持ちに正直だ。リディアは、自分がエドガーをどう思っているかよりも、彼が本気ではないからと距離を取っている。
エドガーが本気なら、好きになれるのだろうか。本気でないならぜったいに好きにならないといえるのだろうか。
わからないのに、エドガーのことばかり責めている。
「どうして、恋したふりだと思うんだ?」
「キスしようとしないから」
「簡単にキスしようとする男なんて信用しない方がいい」
昼間の自分のことじゃないの。
「そうね。そのとおりだわ」
「どっちにしろ、信じないんだね」
「だったら、簡単じゃないキスをして」
え、ちょっと……。
間近に目を見つめながら、テリーサはどうにか体に力を入れて、彼の首に腕をまわした。
いやだ、とリディアはつぶやく。
勝手にあたしにキスしないで。
あたしの目の前でテリーサにキスしないで。
どちらがいやなのかよくわからない。
でもいやだ。どちらもいや。
耳元から、頬を包み込む両手を感じた。
「僕の妖精」
それはエドガーがリディアに呼びかけた言葉だ。あまったるくて気恥ずかしくてどうにかしてといつも思うのに、テリーサに気づかれないよう、けれどはっきりと自分に呼びかけられたと気づいたリディアは、ぐったりと疲れているのに奇妙に胸が高鳴った。
「想いを込めても、今の僕では、信じてもらうのは難しいのだろうね」
テリーサは黙っていた。自分に向けられた言葉ではないと気づくはずもないけれど、距離を感じ取ったのかもしれない。
ほっとしながらも、リディアは少し意外に思う。エドガーは、信じてもらえなくたってリディアを手元に置いておければいいのではないのだろうか。だから彼女の気持ちよりも、婚約だとかキスだとか、事実ばかりを積み上げようとした。
なのに今は、わざわざリディアに呼びかけて、テリーサの誘いを断った。
リディアにキスしたことにならないなら、しないという宣言。
でもだからって、本気を信じる気になんて。
勝手に人を利用しようとする男なんて。
「……だるいわ。もう、力が入らないみたい」
「横になる?」
「ええ……」
テリーサが腕の力を抜く。横たえようとしたエドガーは、けれど急に、かかえ直すように抱きしめた。
「もう少し、こうしていたい」
彼はそう言ったけれど、本当はリディアの手が、左手だけが、彼のそでをつかんだまま離そうとしなかったからだ。
どうしてだかリディアにもわからなかった。もはやそんな力もない気がしているのに、離したくなかった。
ごめん、とまた彼はつぶやく。
言葉も気持ちも、うまく通じ合えない。退《ひ》いてしまうばかりのリディアは、心の片隅ではもう少し踏み込んでみたいと思っても実行に移せない。
でも今は、自由になるのは片手だけ。そこにだけ気持ちが集中したから、抑制がきかなくなっている。
ふと、この手でなら彼の心に触れられそうな気がした。
本当の気持ちを知りたいと、切実に思った。
そうして、いつもより少し戸惑《とまど》い気味に、落ち着きなくリディアをかかえている腕に、うそは見つからないような気がしていた。
夜が明けるまで、エドガーはうたた寝すらできずにいた。
ソファに深く身を沈め、目を閉じていたけれど、明かりを落とした暗闇の中、リディアの息づかいが気になっていた。
うなされることもなく、おだやかに眠り続けてくれたのは救いだった。
耳の後ろに宝石をつけた男。テリーサを殺したのは、間違いなくユリシスだ。プリンスを、仰々《ぎょうぎょう》しく殿下《でんか》などと呼ぶのは、側近《そっきん》にかぎられている。
貴重な情報だったけれど、リディアを苦しませてしまったことで、意外なほど気分が滅入《めい》っていた。
明るくなりはじめた部屋の中、彼はシャツのそでを少しめくって確かめる。
リディアが強く握ったときの、指のあとが薄赤くなって残っていた。
思いがけないほどの力だった。それほどの苦痛を、彼女にがまんさせようとしたのだ。
苦しみを感じるだろうことはわかっていて、テリーサから記憶を引きだそうとしたのだから。
いくら大切だと口にしても、これでは信じてもらえないのも無理はない。好きな女の子にこんな仕打ちをする男がいるだろうか。
気持ちをわかろうとしてくれないと、リディアは言ったけれど、その意味がぼんやりとわかりかけていた。
しかしエドガーは、リディアにうそをついているつもりはないのだった。フェアリードクターとしての価値は別にしても、かわいいと思うし、独占したいしそばに置いておきたいし、ふつうに考えれば恋愛感情ではないか。
ただ彼には、そんなふうに思う女性が少なくはない。わりと気軽に好きになることも自覚している。それでもリディアにプロポーズしたのは、気まぐれではないつもりだ。
思いつきではあったけれど、好意はあるし、お互い利益になるはずだし、悪くないと思っている。
考えながら目を閉じたまま、彼は、リディアが起き出す衣擦《きぬず》れの音を聞いていた。
そっとこちらに近づいてくる様子は、眠っているオオカミにでも近づこうというふうだ。
ああそうか。彼女が警戒《けいかい》するから、ふざけてみたくなるのだ。ますます警戒されるけれど、警戒心だろうとこちらに関心を向けてほしいから。
眠っているかどうか確かめるように、こちらを覗き込んだリディアは、さらりと落ちた髪の毛の先が、彼の首筋をくすぐったことなど気づいていないのだろう。
リディアが目をとめたのは、腕にある赤い指のあとだ。
うわ、どうしよ……、などとつぶやきながら、身を屈《かが》める。
悪いのはエドガーなのに、心底もうしわけないと思ってしまうのがリディアだ。
そっとそこに触れるから、たまらなくいとおしくなる。
さっさと自分のものにしてしまいたい。
唇《くちびる》を奪うくらい簡単なことだ。
テリーサにキスするのは、リディアにとって感情的に受け入れられないだろうと思ったから、ゆうべはがまんした。
でも今はリディアだ。手の届くところにいる。まったく油断している。
なのにかすかに迷う。あまりにも自分は、彼女に対していいかげんかもしれない。
だから苦しめてしまったし、強引にキスしてもこの距離は縮まらないのではないかと、いつになく弱気な気持ちになった。
起きているそぶりを少しでも見せたら、きっとすごい勢いで逃げ出すだろう。
近くにいるのに、遠くに感じる。
リディアにとって、自分は何なのだろう。
得体の知れない悪党か、フェアリードクターとしての雇い主か。友人くらいには親しみを感じてくれているのか。
愛のない結婚はしたくないとも彼女は言った。
愛ね。
なくもないと思っていたけれど……。
腕に残るあとを意識しながら、はじめてエドガーは、そんなことを考えた。
「リディアさん、起きていらっしゃいますか」
スージーの声がした。と同時にリディアは、エドガーのそばからさっと離れてしまう。
「ええ、なあに、スージー?」
じゃまをされたような気がしながら、エドガーは、たった今メイドの声に目を覚ましたようなそぶりで頭を動かす。
「すみません、子爵《ししゃく》。こんな早朝に」
ドアを開けた彼女は、エドガーの方を見た。
「いや、……何かあったのか?」
「あの、伯爵《はくしゃく》が血相《けっそう》を変えてあなたをさがしておいでです」
ニセ伯爵は、自分の部屋にいなかったエドガーの居場所を、大声で探し回っていたらしい。
エドガーだけでなく、リディアにとっても迷惑な話だ。
彼がリディアの部屋にいるということは、いちおうスージーだけしか知らない。だから彼女は、ニセ伯爵をサロンに押し込め、子爵を呼んでくるからと言い含めたようだった。
同じように彼が騒いだゆうべの事件のことを思い出せば、リディアはいやな予感がした。離れない方がいいだろうと、エドガーといっしょに行くことにする。
急いで身支度《みじたく》を整え、ふたりでサロンを訪ねると、ほとんど抱きつかんばかりの勢いで、彼はエドガーに駆け寄った。
「子爵! よかった、あなたは無事だったんだ。ああテリーサ、きみも」
動揺している様子は、演技には見えなかったがどうなのだろう。
「無事だった、とは?」
「お願いだ、私を助けてくれ!」
「落ち着いて話を聞かせてくれないと」
「今度はクラーク卿《きょう》がやられた。このあいだと同じ、部屋はめちゃくちゃで本人は姿が見あたらない」
エドガーは、リディアを椅子《いす》に座らせつつ、慎重《しんちょう》に問う。
「またあなたが発見者?」
「それは、部屋が近くて物音が……」
「部屋はスタンレー卿の隣では?」
「気味が悪いから変えてもらったんだ」
「すると、なぜかあなたの隣ばかりがねらわれるわけだ」
「そ、そんなこと言われても、私にだってわからない。でも次は、私か、あなたかもしれないんだ。いっしょにいてくれ。あなたにはほら、腕の立つ召使いがいるわけだし」
エドガーは、男につきまとわれたくなどないと顔に出ていた。
けれど、ユリシスがまた動いたのはたしかだ。この屋敷から逃げ出せない状況で、徐々にエドガーを追いつめようとしているのだろうか。
そのユリシスが、このニセ伯爵である可能性はまだ残っている。
エドガーはもちろん、そのことを考えていたのだろう。ついとニセ者に近づいていく。
「失礼」
と言って、本当に失礼にも彼の頭をわしづかみにした。そうしてモノのように左右に動かし、何やら確認したらしく手を離した。
そういえばゆうベテリーサが、死ぬ直前に男がそばにいたと言っていた。その男は、片方の耳のうしろに宝石のようなものをつけていたと。
わけがわからない様子のニセ伯爵を、エドガーはまた一瞥《いちべつ》する。
「僕が犯人かもしれないとは思わないのか?」
「犯人? 幽霊《ゆうれい》の仕業《しわざ》だろう?」
「なら聖書でも懐《ふところ》に入れて、自分の身は自分で守ってくれ」
エドガーが背を向けると、彼はあわてて回り込む。祈るように両手を組んで懇願《こんがん》する。
「見捨てないでくれ、子爵。私は頼まれてここへ来ただけなのに、こんな話は聞いていないんだ」
「頼まれて?」
「そうなんだ。霊媒師《れいばいし》のセラフィータに頼まれて、コリンズ夫人の心の病を癒《いや》すためだと、娘の幽霊と婚約する役目だった。いくら金持ちの娘でも、求婚者が集まるとは思ってなかったんだろ。娘の幽霊はどうせ一週間しかこの世にとどまっていられないから、口説《くど》いて婚約して、夫人を安心させれば報酬《ほうしゅう》をくれる……」
そこまで言って、彼ははっと口をつぐみ、リディアの方を見た。
テリーサの霊は一週間しかとどまっていられない。それを聞いてしまったのはリディアだが、彼はあわてたようだ。
リディアはきょとんと、聞いていなかったふりをした。
「それで? そんな仕事を引き受けたきみの、本当の名前は?」
「パーマー……。その、ちょっと金に困ってたんだ。世話になってた貴婦人が外国へ行っちまって」
「つまりきみのご職業は、ヒモか」
「いちおう、顔には自信あるし、女の扱いも心得てるし、楽な仕事だと」
「ヒモをニセ伯爵に仕立てようなんて、なかなか神経を逆《さか》なでしてくれる」
エドガーは憤慨《ふんがい》するが、当たり役じゃないのとリディアは思う。
まったく、あきれて緊張がゆるむ。それに、幽霊に取《と》り憑《つ》かれているのは一週間だけらしいということに、彼女は安堵《あんど》していた。
でも、テリーサのことは気になった。
彼女はユリシスに殺された。それだけでなく、魂《たましい》までも利用されている。たった一週間この世に呼び戻されて、うその婚約をして、また死の世界へ追いやられるのだ。
けれど、彼女をだましているという意味では、リディアも同罪ではないだろうか。
エドガーを好きになった彼女が、死後の世界へ帰ってくれることを願っている。
「そうだ、霊媒師だ。あの女が幽霊を使ってこんなことをやってるんだ!」
ヒモ男のパーマーが、思いつきで声をあげた。
「なあ子爵、みんなであの女をつかまえて問いつめよう」
「セラフィータなら、姿を消しましたよ」
サロンの戸口に、オスカーが立っていた。
「こっちも彼女に訊《たず》ねたいと思ってさがしてるんですが、昨日から姿が見えないんです」
昨日、というと、レイヴンが彼女に怪我《けが》を負わせてからだろうか。
「この屋敷から逃げ出したということかい?」
「高波で道が通れないんじゃないのか?」
「危険を冒《おか》せば、通り抜けるのが不可能というわけではありませんけどね」
セルキーならまったく問題はないだろうとリディアは考える。でも、アーミンが逃げ出す理由がわからない。そもそもユリシスという人物に支配されているなら、姿を消したのは彼の命令だということになる。
「霊媒師にくっついていた老婆は?」
「いません」
「セラフィータはともかく、いくらなんでも年寄りが危険な道を通るだろうか」
パーマーが首を傾《かし》げる。
「見つからないようにひそんでいるかもしれませんし、それともふたりとも卿方《きょうがた》のように消されたのかもしれませんが」
オスカーの言葉を聞きながら、エドガーはふと飾り棚に寄りかかった。ひじで額を落としたのは、おそらくわざとだ。
「ああ、すまない」
そう言いながら自分で拾おうとしないのは、貴族らしいといえばそうだが不遜《ふそん》な態度だ。
少々|屈辱的《くつじょくてき》な印象を持っただろうが、オスカーは、拾おうと身を屈《かが》めた。
エドガーが真上から彼を覗《のぞ》き込むのを眺《なが》めていたリディアは、何のためにそうしたか気づく。
オスカーの耳の後ろを確認するためだ。
うつむいた彼の淡い金髪が頬《ほお》に落ちて、耳があらわになる。リディアが座っている位置からはよく見えなかったが、エドガーはさりげなくオスカーから離れ、リディアのそばへ歩み寄った。
「とにかく僕らは、どこの誰だかわからない犯人から逃げ隠れができない状況だ。オスカー君、正直僕は誰も信用できないんだが」
肩に置かれたエドガーの手が、気をつけろという合図のように感じると、リディアは、彼≠セと直感した。
オスカーの耳に、テリーサが見た宝石があったのだ。
まさかこの少年が、プリンスが送り込んできたユリシス? 急には信じられないのは、成人した男を想像していたからだ。
「もう個々人《ここじん》で身を守るしかないですかね」
「そうしよう。テリーサは僕があずかる」
手を差し出し、エドガーはリディアを立たせた。
「それは困りますね」
しかし、出口をふさぐようにオスカーが立ちはだかった。
「テリーサの身内はおれです」
不審《ふしん》に思われている?
「僕は彼女の婚約者だ。コリンズ夫人も認めている」
「いくら婚約していても、結婚前からあずけるわけにはいきませんよ」
リディアはあせった。プリンスの手先とふたりになりたくない。
「でもあたし、彼しか信用できないわ!」
「わがままを言わないで、リディア」
にやりと、オスカーが笑った。
リディア。テリーサじゃないとばれている。
そしてもうオスカー自身も、エドガーに勘《かん》づかれていると察したのだ。今のひとことは、自分がユリシスだと宣言したようなものだった。
エドガーがリディアを、とっさに背後《はいご》にかばおうとした。しかし素早く腕を上げたユリシスのピストルが、リディアの後頭部に押しつけられた。
「さあ、武器を捨ててもらおうか」
上着の中に手を入れたところだったエドガーは、わずかな間、逡巡《しゅんじゅん》した。
「いやだと言ったら?」
ええっ?
リディアは一瞬耳を疑った。人質を取られたら、ふつう言うとおりにするものじゃないの?
「この女を殺す」
ほらーっ、そう来るじゃないの。
「やってみれば。次の瞬間きみも死ぬよ」
な、なにそれ。
武器を捨てれば、さらに事態が悪化する。ユリシスは、エドガーに苦痛を与えるためだけに、目の前でリディアを殺すかもしれない。とエドガーが考えていることなど、リディアには理解する余裕もない。
耳の後ろで、引き金がかすかに動く音を聞けば、リディアは息を止める。
テリーサを殺した男だ。リディアを殺すくらい、何とも思っていないだろう。なのに『やってみれば』ってどういうこと?
ユリシスもエドガーも身動きしない緊張状態がしばらく続いた。リディアが息苦しくなってきたころ、ふっとユリシスが気を抜くように笑った。
「なかなかおりこうだね、テッド」
テッド。わざとらしくエドガーを愛称《あいしょう》で呼ぶ。しかしエドガー自身はたまらなくいやがっているふうで、それはプリンスの口まねなのではないかとリディアは思った。
「目当ては僕だろう。まわりくどいことはやめろ」
「いいなあ、その感じ。あなたがいやがるほど、おれはわくわくしますよ。最終章はこれからです。せいぜい悪あがきをしていただくためにも、彼女はあずかっておきます」
腕を引かれる。
この人、怖い。そう思ったとたん、テリーサの死の記憶がよみがえってきた。悪寒《おかん》に震《ふる》え、リディアはパニックになった。
「いや……、さわらないで! この人殺し!」
けれど、ユリシスにかかえ込まれ、ピストルで脅《おど》される。黙って見ているだけのエドガーに、ますます腹が立つ。
もしもエドガーが動いたら、ユリシスはリディアを撃って牽制《けんせい》するだろう。死なないように、まずは手足から。
でもそんなことはリディアにはわからない。人殺し、とまたリディアは声を張り上げた。
「エドガー、あなたもよ! あたしのことなんて、本当はどうでもいいんじゃない! 殺せばいいってどういうことよ!」
「そうじゃない。リディア、必ず助けるから無茶はしないでくれ」
[#挿絵(img/aquamarine_189.jpg)入る]
口をふさがれたリディアは、それ以上エドガーを罵倒《ばとう》することはできなかったが、この恐ろしい男に黙って連れ去られろというの? とさらに不信感をつのらせた。
「安易な約束はしない方がいいですよ。まあね、あなたが彼女を気に入っているなら、せめていっしょに殺してあげましょう。助けに来てみればいかがです?」
にやりと笑ったユリシスに、部屋から引きずられるように連れ出されたリディアは、ピストルを突きつけられたまま、しかたなく歩き出した。
*
そのころ、ひとり町へ出ていたレイヴンは、用事を済ませ、別荘への道を急いでいた。
馬を走らせ、どうにか早朝の干潮《かんちょう》時刻までには対岸にやって来たが、町ではおだやかだった波が、このあたりでだけ、昨日と変わらず荒れている。
海面が下がって現れた細い道は、たえず波の侵食《しんしょく》を受け、うねりと格闘するように見え隠れしていた。
それでもあたりが明るい分、夜中に出かけたときよりましだ。
敵には見つかりやすいだろうが、エドガーのもとへ急がねばならない。
朱い月≠フ使者にあずかった包みは、体に縛りつけてある。それを確認し、レイヴンは馬を進めた。
道の先にせり出した丘、そこにぽつんと建つ別荘を目指して、海面を分かつ道へ足を踏み出す。波間に黒い影を見たのは、道を中ほどまで進んだときだった。
一瞬人の頭のように見えたが、すぐに違うとわかる。
アザラシだ。見まわせば、たくさんのアザラシに取り囲まれている。いや、ふつうのアザラシではない。
妖精か?
|アザラシ妖精《セルキー》のことはリディアに聞かされたのがはじめてだが、レイヴンは、自分の内で精霊の気が逆立《さかだ》つのを感じれば、人ではない存在にねらわれているのだと理解した。
海の精霊なら、陸まで追ってはこられない。
鐙《あぶみ》を蹴《け》って馬を急がせる。
そのとき、アザラシ妖精たちがいっせいに海へもぐった。と思うと次の瞬間、巨大な波が彼に向かって押し寄せてきた。
逃《のが》れるすべもなく飲み込まれる。海の深いところへと引きずり込まれる。
浮かびあがろうにも、アザラシたちが取り囲むと、噛《か》みつきまとわりついて沈めようとする。
彼は短剣を抜いた。
腕を振ると、手ごたえとともに水中にぱっと赤い血が広がった。アザラシたちは一瞬ひるんだように遠ざかった。
しかし血の色はすぐに灰色の海に同化する。
再びレイヴンをねらって、泳ぎながら半径を狭《せば》めようとする。
数が多すぎる。水中では思うようには動けない。
息も続かない。
そのとき、やめてと声が聞こえたような気がした。
その人は違うの。
後ろから腕をささえられ、浮上する。彼を取り巻いていた波のうねりも消えてなくなり、あっさり海面へ解放されたレイヴンは、空気を求めてあえぎながらも、自分を助けた手がそっと離れようとするよりも早く、手首をつかまえていた。
「……姉さん」
「あの丘の海岸へ。波がまた荒れ始める前にあがった方がいいわ」
レイヴンから逃れるのはあきらめたように、彼女は言った。
斜面のくぼみに身を寄せれば、いくらか波風が避けられた。ここなら別荘からも死角になっていて見えないとアーミンは、それとも彼女にそっくりなセルキーは、砂の上に座り込んだ。
「何が違う?」
海水を吸って重くなった上着を脱ぎ捨てながら、レイヴンは訊《たず》ねた。
疲れ切った様子のアーミンは、問われている意味がわからなかったのか顔をあげて首を傾《かし》げた。
「アザラシたちに、私のことを違うと言った」
「ええ……、彼らは気が立っているの。仲間をとらえひどく扱っている人間が、ここにいるから」
「ユリシス」
「そうよ。でも彼には近づけないから、仲間の人間かと襲いかかった」
「海にいるアザラシは、ユリシスの意のままになっているわけではないのか」
「意のままなのは、屋敷にいる使用人たち。人の姿になったアザラシたちよ。でも、海のアザラシも利用されているわ。わざと彼らを怒らせているのはユリシスで、彼の思い通りに、アザラシたちは海を荒らしているもの」
岩にもたれかかるアーミンの肩には、レイヴンのナイフが刺さったままだった。
いまだに血が止まらないらしく、赤いしずくが腕を伝《つた》う。しかしそれは、ゆっくり流れながら透明な液体になり、さらさらしたガラス粉のように地面に落ちる。
彼女はもう人ではないのだと、思い知らされる。だったら姉でもない。ただの敵だ。
彼女の体を流れる血は、もはやレイヴンとは何のつながりもないのだから。
「……このとおり、わたしは以前のわたしじゃないの」
じっと傷を見ているレイヴンに気づいたようだ。
「セルキーだと、リディアさんが言っていた」
「フェアリードクターですものね」
「私を助けたのはユリシスの差《さ》し金《がね》か?」
アーミンは、億劫《おっくう》そうに首を横に振る。
「怪我《けが》を負ってしまったから、しばらく身を隠しているようにと言われているわ。今はそれ以外、何も命じられていない。……でも彼は、エドガーさまを追いつめて、まだまだわたしを利用するつもりでしょう」
エドガーはけっして情《じょう》に流されやすいわけではない。けれど、守るべき者を守るためなら身の危険をいとわない。アーミンは、彼にとって守るべき仲間だった。裏切られても、そうなることをふせげなかった自分に責任を感じているほど、エドガーが信頼する仲間だった。
そんなアーミンだからこそ、敵はエドガーの弱点になると考えている。
レイヴンは、かすかに苛立《いらだ》ちをおぼえながらアーミンのそばへ歩み寄った。
「どうして、死んだはずのあなたが戻ってきた。人でないものになってまで」
「望んだわけじゃない……。いえ、それとも心の底では望んだのかしら。もしも許されるものならば、もういちど、エドガーさまにお仕《つか》えしたいと」
「エドガーさまには、もう婚約者がいる」
「レイヴン、そうじゃないのよ。純粋に、仕えたいだけ。それが最初からのわたしの望みだった」
「でもあなたは、エドガーさまを独占したくて、こちらの情報をプリンスに流していた」
エドガーが伯爵《はくしゃく》となり、英国貴族として立場を固めれば、彼女の想いはますますかなわないものになってしまうから。戦友としていちばん身近なところに居続けたかったのだ。
「ええそう、あのときわたしは、最初の気持ちを忘れていた。わたしの中にエドガーさまへの忠誠心以上の想いがあったのはたしかで、そこをプリンスに利用された……」
肩の傷から、じわじわと血が流れ続けている。妖精の血も、多量に流れれば命にかかわるのだろうか。そもそも妖精は死ぬのか。なぜ、ナイフを抜かずに放置しているのだろう。
「レイヴン、わたしを殺して。やっぱり、そうするしかないのよ。二度とこの世によみがえってこないように、確実に死なせて。わたしはもう、エドガーさまを苦しめるために利用されたくない」
「今のあなたは死者なのに。これ以上死ねるのか」
「人の姿をしている以上、人のように死ぬそうよ。セルキー族は、精霊というよりもっと生き物に近いの」
殺すことが、おそらくエドガーを守るために必要な方法で、それはアーミンにとっても最善なのではないかとレイヴンは思った。
人と同じだというなら、苦しまずに死なせてやれる。
無防備な白い首に手をのばそうとした。
「許してやってください」
声は突然割り込んだ。振り返ると、小さな老婆《ろうば》が立っていた。
「たったひとりの、弟さんでしょう。人ではなくなっても、彼女はあなたを気にかけていましたよ」
「あなたも、セルキー……?」
「はい。毛皮を奪われ、人の姿でユリシスに使役《しえき》されてずいぶんになります。もう、アザラシの性《しょう》を忘れそうですがセルキーです」
老婆は、他人事《ひとごと》のように淡々《たんたん》と語る。ユリシスのしもべだというが、望んで従っていないのは明らかだった。
セルキーは、毛皮を手に入れた者に逆《さか》らえないとリディアも言っていた。
囚《とら》われの奴隷《どれい》。かつてはレイヴンも、エドガーもそうだったから、老婆に敵意は感じないまま、言葉に耳を傾けた。
「ユリシスに命じられ、海をさまよう死者だったあなたのお姉さんに、セルキーの生命を与えました。セルキーとしての彼女はまだ赤子のようなもの。わたしが母親代わりです」
「だから、殺すなと?」
「少しだけ、彼女の身になってやってください。彼女が、自分より主人より、いちばん守りたかったのは、あなたですよ」
レイヴンには、すぐには意味がわからなかった。
彼にとって、何より大切なのは主人のエドガーだ。次はと問われれば、エドガーにとって大切なもの、必要不可欠なものとしか言いようがない。
エドガーが守ろうとする仲間だから、レイヴンは皆を守ることに力を注いだし、アーミンもその中のひとりという認識だった。
誰もがそうだと思っていた。エドガーを信じ、付き従っていた仲間たち。レイヴンに好意的な者もそうでない者もいたけれど、協力し助け合ったのは、エドガーがまとめたチームだったからだ。
なのにこの老婆は、アーミンにとって、主人よりもレイヴンが大切だったという。
「ばあや、……その話はやめましょう」
「でも、姉弟なのに」
姉弟、って何だ? 母親が同じだというだけだ。
けれど、『おまえの姉だ』とエドガーは言った。姉だと強調した。
そういえば、と疑問に思っていたことを、レイヴンは思い出した。
アーミンは、いったいいつ、どうして、プリンスと接触することになったのか。あの男に弱みをさぐられ心をあやつられ、ひそかにこちら側の情報を流すまでになるとしたら、直接プリンスに会う機会があったはずだ。
しかし、逃亡を続けていたあいだに、彼女がエドガーのそばを離れていた期間があっただろうか。
思いめぐらせばいちどだけあった。
それは、レイヴンが敵の手にとらわれたときだった。
あのときエドガーは別の組織との抗争をかかえていて、経験上レイヴンは自力《じりき》で対処すべきだとわかっていた。
それが可能だとエドガーは考えるだろうし、彼が気を配らねばならないのはレイヴンだけではなく大勢の仲間たちだと知っていた。
けれど、思いのほか手こずった。そのとき助けに来たのがアーミンだった。
あとで、彼女の単独行動だったと知ったけれど、万事《ばんじ》うまくいったのに問題になるはずもなかった。
どうしてアーミンが、エドガーの許可も得ずに勝手なことをしたのか、あらためてレイヴンは考える。
レイヴンが手こずっていると感じたなら、いずれエドガーは仲間に救出を命じただろう。それでも間に合ったのではないのか。
だが彼女にとっては、主人に従うよりも、レイヴンの救出が優先すべきことだった。
もしも、あのとき彼女がプリンスに洗脳されたのだとしたら……。
レイヴンは、今までになく混乱した。理屈で考えながら、でも感情はついていかない。ぼんやりと、『姉』なのかと思う。
おそらくエドガーも、あのときがきっかけだったと考えている。だからアーミンの裏切りを責めるレイヴンに、『姉だ』と言った。
彼女が勝手に動いたのは、レイヴンがただの仲間ではなく弟だったからだと言いたいのだ。
主人を裏切ることにつながっていったけれど、その危険があったとしても、『姉』だから行かずにはいられなかった。
「レイヴン、アザラシが騒いでいる。……何かあったのかもしれない。早くエドガーさまのもとへ……」
言いかけたアーミンの腕を、彼は強くつかんでいた。
そうして、押さえつけると肩のナイフを一気に引き抜く。
痛みに声をあげ、そして脱力する彼女を背負いながら、レイヴンは老婆の方を見た。
「セルキーの怪我《けが》は、どうすれば治る?」
「傷を負わせたナイフの持ち主が、抜いてくれれば治ります。もう心配はいりません」
だから、自分で抜くことはできなかったのか。
「姉さん、あなたの処遇《しょぐう》は、エドガーさまに判断してもらう」
人に見られないよう気をつけながら、屋敷へ入り込んだレイヴンは、まっすぐにエドガーのもとへ急いだ。
背負っているアーミンは、ナイフを抜いて間もなく血は止まったように見えたが、いまだぐったりしていた。
元気を取り戻すには時間がかかるのかもしれない。
部屋に駆《か》け込むが、人の気配《けはい》がなかった。ソファにアーミンをおろし、エドガーをさがしに行こうときびすを返したとき、ドアが開いた。
エドガーが戻ってきたところだった。
「レイヴン、無事だったか!」
こちらに気づき、安堵《あんど》の笑みを向けてくれる。
レイヴンは人間として扱われるということを、彼のそばでようやく実感した。危険な使命も、この人が引き受けてくれたものにくらべればたいしたことはないと思っている。
レイヴンの中の凶暴《きょうぼう》な魔物、殺戮《さつりく》の精霊が唯一《ゆいいつ》従う主人だ。彼の望みがレイヴンの望みで、それだけでじゅうぶんだった。
けれど今は、ひとつだけ、自分自身の望みがある。
親愛の情《じょう》を示してくれる、広げた両腕に歩み寄り、レイヴンはひざまずいた。
「エドガーさま、どうか姉を許してください。彼女に対するプリンスの洗脳は解けていないかもしれないし、あなたの害になるかもしれない。でもそれは、私が責任を持ちます。きちんと監督《かんとく》します。場合によっては彼女の生を絶つことも覚悟しています。だからどうか、助けてやってください……」
エドガーは、ソファの上のアーミンに気づいたようだった。
近づいていくと、アーミンはどうにかして体を起こそうとした。
深く頭《こうべ》を垂れる彼女を、エドガーはすっぽりかかえるように抱きしめた。
「おかえり、アーミン」
そうして、もういちどレイヴンの方に振り返り、同じように彼の肩も抱いた。
「おかえり」
以前にアーミンとふたりで戻ったとき、やはりエドガーがそうやって迎えてくれたことを、レイヴンは思い出した。
と同時に、今は手放しでふたりの帰還をよろこんではいられない状況らしいのも、いつになく硬いエドガーの表情から感じ取っていた。
「何かあったのですか?」
「ああ、……リディアが、ユリシスにとらわれた」
[#改ページ]
神秘の砦《とりで》
オスカーがユリシスだった。ということは、本物のオスカー・コリンズは、当然死んでいることになる。
アメリカから伯父《おじ》を訪ね、留学するはずだったオスカーをねらって、近づいただろうユリシス。彼はオスカーの持ち物も命も奪い、なりすまして英国に入国したのだ。
かわりに、ユリシスが使った偽名《ぎめい》の人物が死亡したことになっているだろうが、何週間もの船旅の間に死ぬ者は少なくないし、船から落ちて行方《ゆくえ》不明ということもめずらしくはない。
ユリシスは、オスカーとは初対面のコリンズ夫妻の家に、そうやって難なく入り込んだのだ。
そしてプリンスがコリンズ家をターゲットにした理由、そのヒントは、レイヴンが|朱い月《スカーレットムーン》≠ゥらあずかってきたものにありそうだった。
それは、手のひらくらいの大きさの銅板だった。帆船《はんせん》や天使といったモチーフが美しく、絵画《かいが》として見られなくもなかったが、重要なのは絵にひそむ模様だという。
それらは、円を重ねた渦巻《うずま》き模様だが、どことなく魔術めいた意味を感じさせた。
「魔よけの護符《ごふ》だそうです」
頷《うなず》くエドガーをちらりと見て、レイヴンは続けた。
「この銅板は最近複製されたものです。オリジナルの年代ははっきりしませんが、青騎士|伯爵《はくしゃく》の依頼でつくられたものらしいのです」
青騎士伯爵、つまりエドガーが引き継いだ妖精国伯爵の別名だ。
伯爵の名をエドガーが得る以前、記録上、最後に英国に現れた伯爵は三百年前の人物で、女流画家の愛人がいた。そのつながりで、装飾芸術家たちの結社、朱い月≠ヘ、エドガーよりも伯爵家の先祖について詳しいのだ。
そこでエドガーは、プリンスが敵視している青騎士伯爵家とコリンズ家に、関連がないかどうかも調べさせていたのだった。
「誰かを魔から守る必要があったのか?」
「個人というよりはもっと大きなものを……。これの持ち主は、先祖から、本体は建造物だと聞かされていたようです。その先祖が建築にかかわり、図面を銅板にして残したのだとか」
「では本体は?」
「ここをご覧ください」
レイヴンが絵の一部を指さした。荒波をわたる帆船の、帆に描かれた紋章《もんしょう》だ。
「ふたつ獅子《しし》……、ウィリアム征服王?」
ウィリアム一世は、この土地、ヘイスティングズに上陸したノルマン人の王だ。戦いに勝利してイングランド王となり、現在までつながる王家の祖となった。
「ということは、本体の建造物がヘイスティングズに?」
「そうだろうと」
すると、コリンズ家ではなく、たまたまコリンズ家が別荘を建てたこの土地に、プリンスのねらいがあるようだ。
「しかし、青騎士伯爵がなぜ、征服王の上陸した土地に魔よけを?」
「この地が重要なのは、征服王が成《な》し遂《と》げたように、イングランドを制する要《かなめ》となっているからだそうです。なのでその昔、青騎士伯爵が悪《あ》しきものの侵入《しんにゅう》を防ぐために、この土地に魔よけを築いたというのが朱い月≠フ見解です」
プリンスが、青騎士伯爵の血を引く者を根絶《ねだ》やしにしたことは、ごく最近知ったばかりだ。
妖精たちと親しく、不思議な力を自由にあやつれたという伯爵が現れるのを、プリンスは怖《おそ》れていたと思われる。
手下をここに送り込んできたのは、やはりそのことと関係があった。
「悪しきものの侵入ね。何をさしているんだ?」
レイヴンも困ったように首を傾《かし》げた。
「よくわかりませんが、ただ、ヘイスティングズは、ほぼロンドンとパリを結ぶ直線上にあります。フランスの影響を封じるというか、ロンドンを、そして英国を外敵から守る砦《とりで》として有効なまじないだったのではないかということです」
「ふたりめの征服王が現れないように、魔よけでフランス軍を撃退しようってことか?」
にわかには信じがたい。
しかし昔から、フランスとの戦争は繰り返されてきたし、実際の戦略とは別にまじないに頼ることはあったかもしれない。
魔術は教会が禁じていたが、王侯《おうこう》貴族の中にはひそかに魔術を擁護《ようご》し、研究していた者もいた。
いつのことかはわからないが、不思議な力を持つ青騎士伯爵が、国王のために、魔術を施《ほどこ》したとしてもありえない話ではない。
「ではプリンスは、青騎士伯爵のまじないをどうしたいんだ?」
「わかりません。朱い月≠フ情報はここまでです」
「……壊したいのです」
ソファーでじっと横たわっていたアーミンが口を開いた。
「ユリシスは、壊すと言っていました」
「で、奴はフランス軍を連れて乗り込んでくるつもりなのか?」
バカげた冗談だ。
「いくらなんでも……」
アーミンもつぶやく。
「しかし、アメリカの裏社会で成功しているプリンスが、ロンドンを制したいと思っている可能性はあるな。いずれにしろ、イギリスへ来るつもりなら、この海峡《かいきょう》を通らなければならないし、征服王に自分をなぞらえているのかもしれない」
レイヴンは頷いた。
「ユリシスとプリンスの思惑《おもわく》を阻止《そし》するなら、青騎士伯爵の術を守らなきゃならないけど、いったいあんなものを、どうやって壊すというのだろうね」
「どこにこれと同じものがあるかご存じなのですか?」
レイヴンの疑問に、エドガーは窓の外を指さした。海岸にせり出した丘が見えている。
「このあたりの海岸にはない岩が、あそこの地面にはところどころむき出しになっているんだ。リディアが斜面を落ちかけたとき、岩に頭をぶつけやしないかとはらはらしたから、妙な丘だと思っていた」
「ではあの丘そのものが……」
「人が運んできた岩が埋《う》められているんだ。たぶんそうなんじゃないかな」
リディアのことを思い浮かべれば、エドガーの中で、また彼女への気がかりが大きくなっていた。
今回のことでは、ずいぶんつらい目にあわせてしまっている。
プリンスとのいざこざに、リディアを巻き込むのはよくないと思っているが、一方でエドガーは、リディアを戦力のように考えてしまっている。
青騎士伯爵の力をプリンスが嫌うなら、リディアの妖精と接する能力が、貴重な力になるはずだからだ。
戦うために目的をひとつにする、レイヴンやアーミンのような仲間だとすれば、危険や痛みは覚悟の上だ。エドガーは彼らの命にできる限りの注意を払うが、危険を冒《おか》すことも要求してきた。だから深く考えずに、リディアにもがまんを強いてしまった。
しかし彼女は、たまたまエドガーに雇われることになっただけだ。そうしてたまたま、彼のことを助けてくれただけだった。
卑怯《ひきょう》な婚約、そんな手を使ってでも本気でそばにとどめておきたいと願うなら、彼女は戦力ではない。エドガーが全面的に守らなければならない少女なのだ。
ああそうだ。婚約≠ヘただそばに置いておくための契約ではないのだ。
唐突《とうとつ》に彼は気づき、自分でもあきれ果てた。
テリーサの婚約者にコリンズ夫人が求めたのは、親と同じように、それ以上に娘を思いやれる人物かどうかだった。
大切に育ててきた娘の、将来をまるごとあずけねばならないのが、嫁《よめ》にやるということだ。親にそれだけの覚悟がいるなら、婚約者の責任も重い。結婚するということは、親からすべてを引き受け引き継ぐ立場なのだ。
リディアの明るさやおおらかさや、どうかしていると思うほどのお人好しも、ちょっときついところも、守らなければならなかった。何があっても彼が、危険から遠ざけるべきだったのに、怖い思いをさせている。
婚約者だと言いながら、当然与えるべきものを与えられなくて、リディアが信用できるはずもなく、今ごろ彼女は深く失望しているのだろう。
「……目の前でリディアを連れ去られるなんて、男として失格だな」
あきらかに、恋人を人質に取られた男の態度ではなかったと自覚している。
最善の策《さく》だったはずだ。けれどリディアに冷たく映ったのはたしかで、それはそもそも信頼されていないからだ。
窓の外を見つめたまま、エドガーはため息をつく。
「こうなるとやっぱり、愛想《あいそ》を尽《つ》かされると思うか?」
「そうですね」
簡単に肯定《こうてい》するレイヴンは、純粋にそう思っているだけで、エドガーを落ちこませようとしているわけではない。
しかし彼にあっさり言われると、挽回《ばんかい》してやると気持ちが切り替わるから不思議だ。
「逃げられないように、手を打っておいた方がいいかもね」
「エドガーさま、まずはリディアさんを無事助け出す方法を考えた方が」
「レイヴン、女性に関しては先の先を考えておかないと、行き詰まるよ」
「お変わりないようで、安心いたしました」
まだ起きあがる力はないが、少しおかしそうに言うアーミンのふだんの口調に、エドガーは気持ちをなぐさめられた。
「さて、あとは彼が殺されていなければ、動きやすくなるんだが」
そのとき、ひかえめなノックの音がした。
「子爵《ししゃく》……」と泣きそうな声で呼ぶ。
レイヴンが慎重《しんちょう》にドアを開けると、ニセ伯爵のパーマーが転がり込んできた。
「ちょうどよかった、首尾《しゅび》は?」
エドガーは問う。
「ええ……、あなたの言うとおりに、オスカーの奴に何でもするから助けてくれと言いましたよ。そしたら、テリーサを見張っておくように言われました。地下倉庫です。鍵《かぎ》は奴が持っています」
命乞《いのちご》いをしてきたパーマーを、とりあえず使ったということは、ユリシスは、今回の使命を単独で担《にな》っているようだと、エドガーは判断した。
使っているのはセルキーばかりだということだ。しかしリディアはフェアリードクターだ。使役《しえき》しているセルキーたちは、ひそかにリディアに助けを求めている。近づけたくないなら、ほかに人手がない以上、とりあえずパーマーを使うはずだった。
でなければ、命乞いに来た者などじゃまなだけだ。さっさと殺しただろう。
パーマーが殺されるかもしれないとわかっていて、ユリシスとリディアの状況をつかむために利用したエドガーは、こういうところがリディアには受け入れられないほど冷酷《れいこく》に映るのだろうと自覚しながら、今は戦いの最中だと頭を切りかえている。
「上々だ。案内してくれ」
「あの、でも……、本当に私を助けてくれるんですか? こんなことをして、私はもう、オスカーに見つかったら殺されてしまいます」
パーマーに歩み寄り、エドガーはできるだけやさしぐ微笑《ほほえ》んだ。
「どのみち次は、きみが殺される番だったんだよ。オスカーは僕を最後にしたいようだったからね。それに奴が、きみを本気で仲間にする利点もない」
「……わかっています。だからあなたの言うように……」
「そう。きみが助かるためには、僕の勝利に貢献《こうけん》するしかないんだ。もちろん、きみが生きて帰れるよう努力はする」
わずかだが、パーマーは頬をゆるめた。
「保証はできないけどね。レイヴン、行こう」
また急に悲愴《ひそう》な表情になりつつも、肩を押され、パーマーは歩き出した。
*
「スージー、やけに静かだわ」
コリンズ夫人は、ベッドに座ったまま窓の外を眺《なが》めていた。
海は相変わらず荒れている。風の音も絶え間なく聞こえる。なのに静かだと感じる。
屋敷の中で、皆が声をひそめている事件のことを感じ取っているのだろうか。
「そうですね、奥さま」
夫人の心を少しでも休めるための薬を、ベッドサイドに置き、スージーはガウンを夫人の肩に掛けた。
「今朝《けさ》はお顔色もよろしいようですわ」
「いつになく気分もすっきりしているの」
「お嬢《じょう》さまのお相手がお決まりになったからでしょうか」
「そうね、きっと」
微笑みながら、手のひらを開いた夫人は、カメオのブローチをじっと眺めた。
テリーサ嬢にゆずったはずのものだ。母から、嫁《とつ》いでいく娘への贈り物。最初のディナーの夜に、テリーサが胸元につけていた。
娘の部屋から持ち出してきたのだろうかと、スージーはいぶかしく思った。
「あの子が、本当に生きていたら……。やさしい人に愛されて、幸せになれたのに」
はっとスージーは目を見開いた。
「奥さま、わかっておいでなのですか?」
「何を?」
「あの、彼女がテリーサお嬢さまではないと」
「テリーサよ、違うの?」
「え、いえ……」
そう言いながらもスージーは、夫人は本当はわかっているのではないかと思った。淡いピンクのカメオを、娘を思うようにやさしく撫《な》でている。
屈《かが》み込んで、スージーは夫人の手に手を重ねた。
「奥さまがお嬢さまを思う気持ち、よくわかります。大切な人を失うなんて信じたくないこと……。でも奥さま、リディアさんにもご家族や恋人がいます。彼女を大切に思う人たちです」
「リディア……さん?」
夫人は首を傾《かし》げるが、かまわずスージーは続けた。
「リディアさんはじゅうぶん、奥さまのために尽《つ》くしてくださいました。もう、彼女を解放してあげてください。手遅れにならないうちに」
不安げにスージーを覗《のぞ》き込んだコリンズ夫人は、おっとりと彼女の頬《ほお》を撫でた。
「スージー、ごめんなさい。あなたには、心配をかけてばかりだわ」
「いいえ、奥さま」
「そうだわ、温かいミルクをもらえるかしら」
「はい、すぐお持ちします」
ほんの少し部屋を離れ、スージーがミルクを手に戻ったときには、コリンズ夫人の姿が寝室から消えていた。
*
くやしい。リディアは力任せにドアをたたいた。
たたいても蹴《け》っても、どうにもならなかった。
気がつくと、指の皮膚《ひふ》がすりむけて痛んだ。
脱力して座り込むと、泣きそうになった。
細い蝋燭《ろうそく》が一本しかない。じきに燃え尽きて、地下室はまっ暗になってしまうだろう。
「エドガーのバカ! 本当に撃たれてたらどうしてくれるのよ」」
手が痛いのも、暗くて怖いのも、ぜんぶエドガーのせいに思える。
冷静に考えれば、悪いのはユリシスなのだが、今のリディアが冷静になれるわけもなかった。
ここへ放り込まれるとき、ユリシスが言った。
『あいつにとって、こんな事態はよくあることさ』
プリンスに追われながら、アメリカの裏社会で戦っていたエドガーにとってはそうだろう。
『だからって、必ず救出できるわけじゃない』
たくさんの仲間を失ったと言っていた。
『どうしても無理だとなったら、あきらめる判断もできるからさ。当然だな、かしこくなきゃ、誰もついてこない』
あきらめる? それはリディアを見捨てるということだ。
どれだけ口説《くど》かれても、エドガーの態度に恋愛感情を信じられないリディアは、フェアリードクターの能力を期待されているだけだと思っている。
心配してくれたり助けようとしてくれるとしても、感情的な部分で大切にされているというのではない。
そしてリディアは、絶望的な気持ちになっていた。
エドガーにあきらめられたら、ユリシスは利用価値のないリディアを殺すだろう。
背後《はいご》で物音がして、リディアははっと体を固くした。
誰もいない地下室のはずだ。物置になっているここには、様々なものが積み上げられているが、奥の方は暗くてよく見えない。
再び何かがゴトリと動き、かすかに声も聞こえた。
猫の鳴き声みたいだった。
まさか。
音のする方へ近づいていくと、動いているのはブリキの菓子箱だった。
ふたを開けると、灰色のふさふさした毛のかたまりがうずくまっていた。
「ニコ!」
急いで箱から出してやる。
「リディア……? おれはもうだめだ」
「どうしたの、ニコ! しっかりして」
ぐったりしているニコを抱く。あせって背中を撫でてみるが、さわられるのがきらいな彼がじっとしている。
「腹へった」
[#挿絵(img/aquamarine_217.jpg)入る]
え?
「つかまってから、何も食ってない……」
にわかにむかつきながら、リディアはニコを床におろす。ふらりと座り込んだ彼は、うらめしそうにしっぽを持ちあげて撫でた。
「ああ、毛に艶《つや》がなくなっちまったよ」
「妖精なんだから、ちょっとくらい食べなくても平気でしょ」
「このいぶし銀の毛並みを維持《いじ》するには、食事が欠かせないってのに……。そういやリディア、なんでここにいるんだ?」
「あたしもつかまったの!」
情けなくなりながら声を張り上げると、不安や苛立《いらだ》ちに支配されていたのがうそみたいに、急に気楽になった。
現実的には、このお気楽な妖精猫がいてもリディアが助かるわけではないけれど。
「つかまったのか……。じゃ、食べ物持ってないよな」
落胆《らくたん》したニコは、またぐったりとうなだれた。
「それよりニコ、セルキーの毛皮は見つかったの?」
「あやしい部屋を見つけたんだ。妖精が入れないようになってた。てことはこの屋敷の中にいるセルキーを入れないようにした部屋だってことだろ。で、うろうろしてたら奴に見つかって、このざまだ」
「奴って」
「そうだ、リディア! 黒幕はコリンズ夫人の甥《おい》だ。オスカーだぞ! おれが妖精だって見抜きやがって、ブリキの箱に閉じ込めやがったんだ」
ニコは勝ち誇ったように腕を振りあげた。
「もうわかってるわよ」
「……そっか。だな」
落胆し、またぐったりとうなだれる。
「でも、その部屋にセルキーの毛皮がある可能性は高いわね」
言いながらリディアの中に、フェアリードクターとしての自覚が頭をもたげはじめていた。
テリーサに乗り移られて、事件に巻き込まれてごたごたしていたけれど、リディアはセルキーを助けたくてここにとどまったのだ。
エドガーに腹を立てて落ちこんでいる場合じゃない。
「あきらめられるのを怖《おそ》れていてどうするの。あたしがあきらめちゃいけないのよ」
リディアは立ちあがった。
「ニコ、ここを脱出するわよ」
「どうやって? おれもう、動けねーよ」
それが問題だわ。と腕を組んであたりを見回したときだった。
「フェアリードクター、そこにいらっしゃいますね」
ドアの外から声がした。
「……誰?」
「壁際《かべぎわ》へよけてください」
ざあっと水音のようなものが近づいてきた。
え、と思った瞬間、大きな力がドアにぶつかり、ぶち破る。そのまま流れ込んできた巨大な波に、リディアは驚いて壁際にうずくまった。
静かになって顔をあげれば、積み上げてあった荷《に》がめちゃくちゃになって背後の壁際に押しやられている。そこに大破《たいは》したドアがはりついていたが、水らしいものはどこにもなく、リディアは濡《ぬ》れてもいなかった。
「乱暴だなあ」
リディアと壁の隙間《すきま》から、ニコが顔を出した。
何がもう動けないのよ。
「失礼しました。ほかに方法がないもので」
姿を見せたのは、アーミンといっしょにいた老婆《ろうば》だった。
「セルキーなの?」
「はい。助けを求めておきながら、何もできずにもうしわけありませんでした」
「いいのだけど、あなたたちはみんな、毛皮を隠されていてユリシスに逆《さか》らえないんでしょう?」
「彼の目を盗んで、ここへ来たしだいです。あなたに死者の魂《たましい》を乗り移らせることも、彼の命令でしかたなく実行しました。せめて昼間は自由にしていられるようにと、それくらいしか命令をかわすことができなかったのですが」
それでもユリシスに知られたら、よけいなことをしたと誰か見せしめに殺されることになっただろう。
彼らは命がけで、どうにかリディアに希望をつないでいたのだ。
毛皮を見つけ、解放してほしいと。
「こんなに派手にドアを壊したら、セルキーがやったってすぐにばれるわ」
「はい。でも急がねばならないのです。ユリシスはどのみち、私たちを皆殺しにするつもりです。その前に、あなたと青騎士|伯爵《はくしゃく》を葬《ほうむ》ろうとするでしょう。ですからもう、今しか」
そして老婆は、手の中のものをリディアに差し出した。
なくしたと思っていた、母のアクアマリンだった。
「ユリシスに取りあげられないよう、私がはずしておきました」
ユリシスは宝石好きなのかしら。
考えていると、老婆はまた言った。
「ユリシスは、耳に宝石をつけています」
リディアは直接見ていないから、どんな宝石か知らないのだが、なんとなく唐突《とうとつ》に思える老婆の言葉にただ頷《うなず》く。
「どうかご注意ください。あれはセルキーの心臓です」
「えっ」
セルキー族の信頼と忠誠のあかし。
セルキーを虐待《ぎゃくたい》しても身を守る方法を持っているとしたら、セルキーの心臓があるのではないかと、ニコと話していたのだった。
それが、ユリシスの耳についている宝石なのか。
心臓≠持っているから、ユリシスはセルキーを油断させて捕らえることができた。そうしてセルキーを集め、毛皮を奪って使役《しえき》しているが、セルキー族の怒りは、貴重な石を持つ彼には向けられないままだ。
「それで、あなた方を働かせるだけでなく皆殺しにしようなんて、ユリシスは何をしようとしているの?」
「そこまでは、わたしたちにもわかりません。さあ、早くここを出てください。見つからないうちに」
頷きながら、リディアはニコの方に振り返った。
「例の部屋はどこなの?」
「だからおれは動けないってばー」
「たった今、機敏《きびん》に動いたでしょ!」
「まずなんか食わせてくれよー」
「もういいわ」
「こちらです、フェアリードクター」
老婆が案内してくれるらしかった。
役立たずのニコを置いて、リディアは地下室を出る。
使用人として働いているらしいセルキーたちが、物陰から心配そうにこちらを見ているのがわかった。
老婆に無言の合図を送るのは、ユリシスがこちらにはいない、大丈夫だという意味か。老婆はさっと階段へと足をすすめる。
リディアを導くのに協力している彼らが、ドアを破るために力を合わせてくれただろうことはすぐにわかった。
母のアクアマリンを身につけ、その感触を指で確かめながら、セルキーたちを守ることが自分にできるのだろうかと緊張する。
悪意を持って、セルキーの心臓を利用しているような人だ。それでいて、たぶんリディアよりもずっと、フェアリードクターとしての知識や経験を持っている相手なのだ。
でも、逃げるわけにはいかない。
「ここです」
二階の、これといって厳重そうでもないドアの前で、老婆は立ち止まった。
妖精には触れることさえできないらしいドアノブを、リディアは握った。
思いがけないことに、そのドアには鍵《かぎ》がかかっていなかった。
そっと押し開けてみるが、人の気配《けはい》はない。
リディアはひとり、中へ入っていく。
毛皮が隠されているというには、あまりにも不似合いな部屋だった。
淡いピンクの壁紙、フリルたっぷりのカーテンやクロス、木馬や抱き人形、絵本の数々は、どう見ても子供部屋だ。
「どういうことなの?」
クローゼットを開けてみたが、ここも子供のドレスばかりだった。
セルキーの毛皮が、おそらく十数人分はあるはずの毛皮が、山積みにされているのを想像していたリディアは、そんなものを隠す場所がどこにあるのか悩んだ。
しかしよく考えてみれば、毛皮とはいっても妖精の毛皮だ。心臓≠セというのが小さな宝石だというのだから、思いがけない形をしているのかもしれない。
「テリーサ、どうしたの?」
声に驚いて振り返る。コリンズ夫人が、花を生けた花瓶《かびん》を手に入ってきたところだった。
「ミセス……、じゃない、……お母さん」
あわてて言い直したリディアを気にするふうもなく、彼女は窓を開け放った。
「この部屋、なつかしいでしょう? あなたが子供のころに使ってた部屋よ。毎年夏になるとここへ来てすごしたの。おぼえてる?」
ひとりごとのように言いながら、夫人はテリーサの人形を抱きあげた。
「ずっと、ここを開けるのが怖かったの。誰もいない部屋を見たら、あなたが死んだってことを認めるしかない気がして」
波にさらわれ、いなくなったというテリーサ。この部屋はその日のまま封印《ふういん》されてきたのだろうか。
鍵が開いていたのは、夫人が開け放したまま花を飾ろうと出ていったせいだと思われる。しかし彼女も、十数年ぶりに開けたらしい。
コリンズ夫人でさえ入らないと思い込んで、この開かずの間《ま》だった部屋に、ユリシスが毛皮を隠した可能性は高い。
でも、どこにあるのだろう。
「ああ、ほこりだらけだわ。しかたがないわね、もう十二年も経ったんですもの」
ほこり? リディアはふと、棚の上の小箱に目をとめた。それだけはほこりが払われて、ぴかぴかしたエナメルの装飾が目立っていたからだ。
化粧箱《けしょうばこ》のようだった。ふたを開いてみると、クルミくらいの大きさのガラス玉のようなものがいくつも入っていた。
ひとつ手に取れば、しっとりとして弾力がある。うっすらと青い海の色をした玉は、生き物みたいなあたたかさもある。
まさか、これがセルキーの毛皮?
「あら、そのお化粧箱」
どきりとしながら、リディアは化粧箱を手にしたまま夫人の方に振り返った。
どうにかして持ち出したいが、夫人はいやがるだろうか。
「あの、とてもきれいなお化粧箱だわ」
「そうでしょう? まだ小さいのに、おもちゃよりこんなものをほしがって……。どこへ行くにもかかえていくのよ。だからこの別荘にも持ってきていて……」
微笑《ほほえ》みながら、彼女は少し目を伏せた。
「よかったら、もらってくださらないかしら」
「え……」
「あなたの年頃なら、ちょうどいいもの」
ふっくらした手で、珊瑚《さんご》の飾りを撫《な》でる。
「不思議ね。この部屋を見たら死にたくなるに違いないと思っていたのに、とてもすっきりした気分だわ。あの子がいなくなって、長いこと暗闇の中を歩いてきた気がするけど、微《かす》かに光を感じるの」
そう言ったコリンズ夫人は、何もかもわかっているように見えた。
テリーサの幽霊《ゆうれい》さえ、本当のテリーサではないと知っているかのようだった。
「あの……」
「お嫁《よめ》入りの支度《したく》には、もっといい化粧箱をと思って注文してたのだけど、あなたはどうしてもそれがお気に入りなのね」
けれどまた、夢の世界へ戻ってしまう。
セルキーの毛皮が入った化粧箱。夫人にとっては大切な娘の形見。リディアはそれを、しっかり腕にかかえ込んだ。
「奥さま、ここにいらしたんですか」
スージーだった。夫人の居所《いどころ》がわからなくて心配していたのか、ほっとしたようにこちらを見た。
「よかった、お嬢《じょう》さまもいっしょだったんですね」
リディアはスージーと目を合わせて微笑みをかわす。
「お母さん、ここはほこりっぽいわ。お庭へ行きましょう」
夫人を連れて部屋を出ようと、声をかけたそのときだった。
「フェアリードクター、ユリシスが!」
セルキーの、切羽《せっぱ》詰《つ》まった声が耳に届いた。
同時にドアが閉まると、外から鍵をかけられたのがわかった。
「ちょっと、ここを開けてよ!」
リディアは戸をたたくが、返事はない。セルキーの気配もない。
「お嬢さま、いったい……」
スージーがリディアに歩み寄った。コリンズ夫人は、不安そうに首を傾《かし》げているものの、まだ危機感はなさそうだ。しかし、ここに閉じ込められたまま何か起こったら、彼女の精神状態にいいわけがない。
「ええスージー、事件の犯人の仕業《しわざ》よ。あいつ、ここにいる誰も彼も皆殺しにするつもりよ」
「犯人がわかったんですか?」
「オスカーよ、でもたぶん、コリンズ夫人の本当の甥《おい》じゃないわ」
スージーは驚いて息をのんだ。
「そ、そういえばオスカーさまは、先月アメリカから来られたばかりで、一家の誰もお会いするのははじめてで……」
急に焦《こ》げ臭い匂《にお》いが鼻をついた。
ドアの隙間《すきま》から煙がしのびこんでくる。木製のドアに耳を押しつければ、木が燃えはじめる音とともに、熱が伝わってきた。
「火事だわ!」
リディアは急いで窓辺へ駆《か》け寄ろうとした。
しかし窓から、何かが投げ込まれた。
窓縁に当たって破裂した瓶から液体が飛び散ると同時に、炎が一気に広がった。
反射的にうずくまりながら、リディアの目に、炎に包まれたカーテンが覆《おお》い被《かぶ》さってくるさまが奇妙にゆっくりと映っていた。
どうにか逃《のが》れようとした。
足で何かを引っかけた。倒れかかってきたのは、バードゲージだ。
頭を打って、気が遠くなる。
「スージー!」
コリンズ夫人の悲鳴が聞こえた。リディアはどうにか意識を保とうとする。目を開ける。
倒れているスージーに夫人が駆け寄って、スカートの火を消し止めると、抱きかかえてまだ火が回っていない壁際《かべぎわ》へ引きずっていく。
「スージー、死んじゃだめよ、わたしが助けるわ!」
花瓶《かびん》の水を、自分のガウンにぶちまける。それをスージーの頭からかぶせ、必死に立たせようとする。
それは娘を守ろうとする、しっかりした母親の態度だった。
コリンズ夫人は、リディアの、そしてテリーサのことなど忘れているようだった。
彼女にとってテリーサは死んだ娘。でもスージーは、すでに亡くした娘以上に大切な、今そばにいる存在だ。
これでいいのね。
とリディアは思う。コリンズ夫人は、テリーサに執着《しゅうちゃく》するのをやめるだろう。血はつながらなくても、自分を慕《した》いささえてくれた娘≠ェいると気づいたはずだから。
少し、淋《さび》しいけれど。
ああそうだ、あたしは自分でどうにかしなきゃ。
誰も、助けてくれない。
気がつけば、アクアマリンのペンダントを握りしめていた。
母さま、わかってるわ。あたしはフェアリードクターだから、誰かの力になるのが仕事。ひとりでも、自分を信じてやるしかないのね。
ようやくリディアは体を起こす。
カーテンごと火に包まれるのは免《まぬが》れたが、窓辺は炎が燃え広がっていて近づけそうにない。
それに、倒れたはずみで化粧箱を投げ出してしまっていた。
ふたが開いて、中身がこぼれている。リディアは急いで箱を拾い上げると、半透明の玉をかき集める。
「足りないわ……」
あたりを見回す。炎の向こうがわに、ひとつ、またひとつと転がっている。
大変だ。毛皮が燃え尽《つ》きてしまったら、セルキーは死ぬ。
セルキーを皆殺しにすると言っていたユリシスは、館《やかた》ごと人も毛皮も燃やし尽くすつもりなのか。
炎をくぐろうと試みた。が、窓から吹き込んできた風に、急に炎が渦巻《うずま》いた。
目を閉じるしかなかったリディアは、熱風から守るようにかかえ込まれるのを感じていた。
そのまま引きずられる。
何かが崩れるような、大きな音を聞きながら、どこか暗がりにリディアは倒れ込んだ。
「リディア、間に合ってよかった」
暗くてよく見えない。
「……エドガー……?」
「立てるかい? ここもすぐ火が回る。早く外へ」
腕を引かれて歩き出す。やがて目が慣れてくると、薄暗いが使用人専用の通路だとわかる。
テリーサの部屋は、窓にも戸口にも近づけなかったが、もうひとつ抜け道があったのだ。
「スージーとコリンズ夫人が……」
「レイヴンが助け出したはずだ」
「それに、セルキーの毛皮も」
化粧箱はかかえていた。手にもひとつだけ握りしめている。けれどまだ、あの部屋に毛皮をいくつも落としてきたままだ。
立ち止まったリディアは、通路を引き返そうとしたが、エドガーが止めた。
「もう無理だよ」
「いやよ、あきらめたくないの!」
「無茶を言わないでくれ」
「でも、……そうだわ、アーミンの、セルキーの毛皮があの中かもしれない。この毛皮、これが燃えたらセルキーは死んじゃうのよ!」
「……しかたがない」
ほんの少し、悩んだような間《ま》があっただけで、彼はきっぱりそう言った。
エドガーは、あきらめる判断もできる、とユリシスの言葉が浮かんだ。
「しかたがないってどういうこと? よくあることだから? そうやって、誰の命もあきらめるのね」
きれい事や理想を言っても、どうにもならない状況を彼は身をもって知っている。苦渋《くじゅう》の選択を強《し》いられ、そうして仲間たちを失った彼が、どれほど苦しんでいるか、リディアも知っているつもりだった。
なのにひどい言いがかりだ。でも止められない。
エドガーに見捨てられたように感じたこと、たった今炎にまかれそうになりながら感じていた孤独が、かたくなな気持ちにさせていた。
「あたしのことも、さっさとあきらめてよ。助けてくれなくていいわ。あたしは、あなたのものじゃない。自分で納得できるようにするだけなの!」
ぐいと肩を引かれた。さすがに頭にきたかと思った。しかし彼はおだやかに言った。
「なら僕が行く」
「は?」
エドガーはきびすを返す。先に外へ出ててとだけリディアに言って、狭い通路を駆けだした。
うそ……。
わけがわからないまま、リディアは突っ立っていた。
あわててエドガーのあとを追おうとする。
しかし数歩も進むと、煙が流れ込んできているのを感じてせき込んだ。
通路に火が回ってきている。奥の方でちらちらと炎が見える。と思うと、火の勢いは急に増し、あたりをぱっと明るく照らした。
「エドガー……、やだ、どうしよう」
座り込みかけたとき、腕をつかまれた。
「外へ出てと言っただろ」
少し怒ったような口調《くちょう》に急《せ》き立てられ、リディアはもう素直に従った。
ふたりが抜け出た場所は館の裏庭で、振り返ると、広い館があちこちから出火している様子が見てとれた。
ユリシスは、建物中に火をつけてまわったようだ。
煙を避けて風上《かざかみ》へ移動しながら、火の粉《こ》が舞う館のそばを離れる。海岸へ降りる石段まで来ると、ようやく煙の匂いから解放され、リディアは力が抜けて座り込んでいた。
立ち止まったエドガーが、彼女を見おろす。
「ひとつしか見つけられなかった」
ひらいた手のひらに、セルキーの毛皮がひとつ。
受け取ったリディアは、箱の中を確かめながらうなだれた。
「いくつ足りないの」
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「半分くらい……」
「半分も助けたんだ。なんて、簡単に言うなと思うかな」
口で言うのは簡単。だから彼を責めるのも簡単。でもエドガーは、本当に炎の中を戻っていったのだ。
口だけなのはリディアの方だ。
「どうして、助けに来たの」
「必ず助けると言っただろ」
「期待してなかったわ。あたしは、あなたの言葉なんてこれっぽっちも信じない。……なのにどうして、あぶないのに火の中へ……」
「信じてくれなくても、きみのためならどこでも行くよ」
「簡単に言うのね」
リディアのために無茶をしたわけじゃない。まだ少しなら時間があると踏んだからこそ戻っていったのだ。
リディアが戻るのは無理でも、自分ならまだどうにかなると判断しただけ。
「あなたには、簡単なことなのね。でなきゃあきらめるわけだもの」
それでも、そこまで冷静に判断して行動するには、どれほどの勇気と度胸《どきょう》が必要だろうか。
リディアのためなどと、彼はさも簡単そうに言うけれど、簡単であるはずがない。
びっくりして、そして心を動かされたけれど、素直にありがとうと言えない自分がいやだ。
「怒っていいのよ」
「どうして怒ると思うんだ?」
「あたし、ひどいこと言ってるもの」
彼のため息の間が、やたら長く感じられた。
「きみはいつも、近づいたかと思うとまたあとずさる」
そう言って、少し淋《さび》しそうに笑った。
「ときどき、僕のことを本気で心配してくれるのに、心を許してくれそうなきみを、また遠ざけてしまうのは僕のせいだ。無神経なことをしたり、つらい思いをさせたりして……。何を言っても信じてもらえないのは、僕のせいだとわかってる」
いつになく、まじめな口調だった。
「親しくなった女性に、よく言われるんだ。昨日のテリーサみたいに、本気でなくても、いっしょにいるときだけ恋人どうしになれればいいんだって。僕が軽いつきあいを望んでいると思うんだろうね。そういうふうに言わせてしまうのは、僕のいいかげんな部分なんだろうけど、お互い楽しければそれでいいと思ってきた。だから実を言うと、本気でないなら近寄らないでと言ったのは、きみがはじめてだ。そういうきみが、もしも僕を好きになってくれれば、僕も変われるんじゃないかと思ってる」
彼が隣に座る気配を感じながら、リディアはまだうつむいていた。
「きみの本気と僕の本気は違っているかもしれない。でもきみが本気を求めてくれるなら、近づいていけると思うんだ」
「無理よ。あたしたち、違いすぎる」
「わかってる。でもあきらめない」
どうして、そんなふうに。
「無理だってば。あたし、役立たずだもの」
意味がわからないというふうに、彼は首を傾《かし》げた。
「テリーサにもなれなかった。コリンズ夫人は、あたしも幽霊《ゆうれい》の子も、違うってことわかってたのよ。死んだ娘は戻ってこないって。……あたしも、母はもういないんだってよくわかった。母から何も教われないまま、勝手にフェアリードクターを名乗ってるだけ。ひとりでがんばっても、役立たずよ」
エドガーが助けに来てくれなければ、火の中でリディアはどうにもできなかっただろう。
セルキーたちを、ひとりも助けられなかったに違いない。
あのときリディアは、どうにか自分を奮《ふる》い立たせようとしながら、ほとんど絶望していた。
コリンズ夫人が助けようとしたのはスージーで、リディアはひとりきりだった。
自分にはフェアリードクターの誇りだけしかなくて、知識も経験も足りないし、母のようにささえてくれる人もいない。
無能すぎて情けなくて、そんなだから、エドガーにも見捨てられるんだわと思った。
なのに彼は来てくれた。
うれしかったけれど、今は、彼の期待にそえるような力は自分にはない気がしている。
「だから無理なの。あたしは臆病《おくびょう》で、ひとりじゃどうにもできないことばかり。強がりを言ってるだけで、本当は怖くてしかたがないの。セルキーを助けなきゃと思っても、ユリシスに立ち向かうなんて無理。逃げ出したくてしかたがないのよ!」
言ってしまってから気がついた。得体の知れない誰かにここへ連れてこられて、死んだ娘の霊に取《と》り憑《つ》かれて、それでもセルキーを助けたいとここに残る決意をしたのは、エドガーがいたからだ。
彼といっしょに敵に立ち向かうなら、どうにかなりそうな気がした。
ひとりじゃないから勇気が持てた。
エドガーを知らずと頼りにしていたから、彼にあきらめられたと思ったら、急に怖くなって絶望した。
「ごめん」
「……なんであやまるのよ」
「もう、そんな思いはさせない。僕がそばにいる」
「そ、そういう意味じゃないわ」
そういう意味だけれど、急に恥ずかしくなっていた。
「きみと出会ってから、僕には自由への道が開けた。これからもそばにいてくれればうれしいし、だったらきみにも、僕を頼りにしてほしい。妖精のことはわからないけど、ささえることはできると。……頼ってもらえるようになりたいと思うんだ」
海の方を見つめて、彼は決意を秘めたように言った。
ちらりと彼を盗み見る。
さらさらのまぶしい金髪がまぶたにたれかかる、端整《たんせい》な横顔を眺《なが》め、毛先が焦《こ》げていることに気づく。
無意識に、リディアは手をのばす。焦げた髪を指で払うと、彼がこちらを見た。
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳は曖昧《あいまい》な色で、善人なのか悪人なのか、冷たいのか熱いのか、うそなのか本当なのかわからない、リディアが彼にいだく印象そのものだ。
気がつくと、リディアの手はエドガーにしっかりと握られていた。
見とれるような美貌《びぼう》が間近にある。なのにさらに引き寄せられる。
「ちょ、ちょっと……!」
思わず片手で突っ張るようにして、彼の顔を押しのけていた。
「……うーん、いまのはどう考えてもオーケーの雰囲気だったじゃないか」
まったく不満そうに言う。
本当にこいつってば。たった今までまじめそうに話してたじゃないの。
「そんなことしか考えてないの?」
「まあ、だいたい」
それどころじゃないでしょうに。
林の向こうに建つ別荘は、ますます炎をあげて燃えさかっているのだ。
でも、リディアの落ちこんだ気分を、さっと切りかえてくれた。けっして不真面目《ふまじめ》なわけではなく、この軽さがエドガーの武器なのだろう。
救われるし、もう怖くない。
「無能なあたしでも……」
結婚しようと思う?
ああ、まだそんなことを口にする度胸はないわ。
「何?」
「……なんでもないの」
疲れたせいか、まだ夕暮れには早いのに意識が沈む。
「眠いわ。……テリーサが、目覚めそう」
なんとなくそうしたくて、エドガーの肩にもたれかかる。
テリーサがあまりにも無邪気《むじゃき》に、彼にくっついていたから、そうしてもいいような気分になったのだろうか。
すでにリディアではなく、テリーサの意識が働いてるのかもしれない、なんて責任|転嫁《てんか》しながら、彼女がどれほどエドガーにすり寄っていっても、不快じゃなかったと気づいていた。
ドキドキしながらリディアは、彼がどんなふうに女の子を扱うのか、あまく愛《いと》おしむように接するのを知った。
テリーサに対する抱擁《ほうよう》だと思えばむかつくような気がしながら、でもそうでなければリディアは逃げ出していただろうし、そのくせ彼の目に映っているのは自分の姿だと思えば、すべてが自分への抱擁かもしれないとうぬぼれた。
エドガーの背中は、父さまより少し広い。細身だけど、父さまより背が高いぶんかしら。
「テリーサ?」
少し身じろぎしたのに気づき、エドガーが問う。
「……波の音が……、外なの?」
目覚めたばかりのテリーサが、まだけだるそうにつぶやく。リディアの、わずかばかりの遠慮がなくなって、しっかりもたれかかるから、ついさっきまではリディアだったとばれてしまったのではないだろうか。
あまりにも簡単に、彼のひざに手を置くテリーサに戸惑《とまど》い、リディアはその左手をそっと浮かせる。
おかしそうに小さく笑い、エドガーは引き止めるように手を重ねた。
手は、父さまよりずっと繊細《せんさい》。 、
「ねえ、どうしてあたしたち、こんなところにいるの? それに、ドレスが汚れてるわ」
「屋敷が火事なんだよ」
「えっ、まあ大変!」
振り返ったテリーサは、館《やかた》を包む炎を目にしてますます驚く。
ふとエドガーは、きびしい顔で空を見あげた。
「風向きが変わった。風上《かざかみ》へ移動しよう」
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アクアマリンの見る夢は
全体を炎に包まれて、屋敷は燃えさかっている。火の粉《こ》と灰を避け、せまい出島《でじま》を移動すれば、リディアとエドガーは、自然と丘へ向かっていた。
正確には、テリーサとエドガーだ。
化粧箱は、エドガーが持ち運んでくれている。
リディアは体の内側で、けだるい感覚に包まれながら、それでもどうにか起きていた。
海はますます荒れているようで、リディアの目には、さらにセルキーの数が増えてきているように思えた。
あんなにセルキーたちを怒らせて。でもユリシスは、心臓≠持っているから平気でいられるのだ。
ユリシスの計画は、屋敷を燃やすことではないはずだ。まだ何か仕掛《しか》けてくると思えば、緊張は続いている。
自由になる左手で、リディアはアクアマリンのペンダントをさぐった。
怖くてたまらない。ユリシスがフェアリードクターの知識を悪用する人物なら、立ち向かわなければならないのは、たぶん、エドガーではなくリディアなのだから。
でも、ひとりじゃない。そう信じても、いいのよね?
「ねえ子爵《ししゃく》、怖いわ。どうしてこんなことになったの?」
テリーサは、エドガーの腕にしがみつくようにして歩いていた。
「大丈夫だよ。僕がついている」
「どうしてあたしには、記憶のない時間があるの?」
不安げな彼女は、火事が怖いだけでなく、自分の不自然な状況に気づきはじめているようだった。
「あたし、ちゃんと生き返ったのよね。また死の世界へ戻されるなんてことないわよね」
リディアが気がかりだったことだ。
もともと彼女の魂《たましい》は、一週間しかリディアの中にとどまっていられないという。彼女にとって信じたくない事実だろう。本物のテリーサではなくても、テリーサとしての生活を受け入れて、エドガーに恋しているのに、またすべて失うと知ったらどう思うのか。
「……ねえ、リディアって誰?」
左手だけで、リディアは硬直《こうちょく》した。どうして、あたしのことを。
「何のこと?」
とぼけてみせるエドガーの態度は、とても自然で、別の女のことを問いただされるのなどいかにも慣れているふうだ。
これだから、こいつの口説《くど》き文句だけは信用できな……。
「昨日、眠ってるあたしにそう呼びかけたわ」
え?
「夢でも見たんだよ」
「夢……、そうかしら。あなたはとても苦しそうで、許してほしいとひとこと言って、長いこと左手を握っていたわ。なんだか、あたしが声をかけてはいけないような気がしたの」
本当に? だとしたら、何も知らないリディアは眠り込んでいたらしい。
立ち止まり、テリーサは自分の体を見おろした。
「ときどき、ふとした違和感《いわかん》はあったの。これがあたしなのかって。つま先までの距離とか、手や爪もこんなにきれいだったかしらとか」
風が巻き上げる、くすんだ錆《さび》色の髪をつまみ、首を傾《かし》げる。
「髪の色も、鏡をのぞいたときも、どうしてもしっくりこなくて。なるべく考えないことにしてたけど、リディアって名前を聞いてしまったら、どんどん疑問がふくらんで……」
エドガーは悩んだようにテリーサを見つめながら、何も答えなかった。
「この女の子はあたしじゃないのね。あたしは、いちど死んで体を失った……、そうでしょう? あなたがやさしくしてくれるのは、この子のことが大切だから?」
どうするのよ、エドガー。
リディアははらはらしながら聞いていた。
「そばにいてくれるなら、恋人のふりでもいいと思ったわ。でも、いっしょにいるときでさえ、あなたの言葉も抱擁《ほうよう》も、あたしのものじゃないのね」
「テリーサ」
「本当のことを教えて」
あきらめたように、エドガーは目を伏せた。
「……リディアは、僕の婚約者だ。さらわれて、ロンドンから姿を消した。連れ戻すためにここへ来たら、彼女の中にきみがいたんだ」
テリーサは驚き、そして沈痛《ちんつう》なため息を吐《つ》いた。
「どうして、最初に教えてくれなかったの? あなたのこと、本気で好きになる前に、おしえてほしかったわ……!」
「テリーサ、そいつはおまえをだまして、おとなしくさせようとしたのさ。おまえが逃げ出したり、やけになってその体を傷つけたりしないよう」
割り込んだ声に、エドガーが振り返る。
まばらに生えた木々の向こうから、若い男が姿を見せた。
淡い金髪の彼は、まだ少年ぽさが残る線の細い印象には不釣《ふつ》り合いなほど、残酷《ざんこく》そうな微笑《ほほえ》みを浮かべている。
「ユリシス……」
「そいつは正直、おまえがさっさと昇天《しょうてん》してくれればいいと思ってるよ」
動揺したように、彼女はゆるりとエドガーから離れた。
「そうね、子爵、あなたにとってあたしは、得体の知れない幽霊」
「こっちへ来いよ、テリーサ。おれならおまえを人間にしてやれる。その体を、完全におまえのものにしてやるよ」
「できるものか。できるなら最初からそうしてるはずだ。ユリシス、おまえは、コリンズ夫人をだましてこの屋敷を乗っ取るためだけに、彼女を殺してテリーサの幽霊に仕立てあげたんだ」
「そんなことが、今の彼女に関係あるかな。ねえテリーサ、もういちど生きてみたいだろ? まだ若いし、これから楽しいことだっていっぱいあるはずだもんな。おれの言うとおりにすればこの世にとどめてやるよ。それとも、誰にもかえりみられないまま消えたい?」
「行くな、だまされるだけだ」
エドガーがそう言っても、テリーサはふらふらとユリシスの方へ歩き出していた。
「本当に、死ななくてすむの?」
「そいつはきみを殺した男だよ!」
「伯爵《ロード》、あなただって彼女の死を望んだ。おれと同じじゃないの?」
だめよ、テリーサ。ユリシスは約束なんて守らない。目的を達したら、誰も彼も生かしてはおかないに違いない。
リディアは心の中で必死になって呼びかけるが、彼女には通じない。
「これを拾って」
ユリシスは、テリーサの足元にナイフを放り投げた。
「その男から化粧箱を受け取って、こちらへ持ってきてもらおうか」
テリーサはナイフを拾ったものの、少し戸惑《とまど》ったようだった。なぜあんな古びた化粧箱を、と思ったのだろう。
でもあれをユリシスに奪われるわけにはいかない。せっかく助けたセルキーたちだ。
フェアリードクターを信じて、リディアに命をゆだねているセルキーたちのために、どうしても守らなければならないものだった。
けれどリディアは、わずかに左手を動かせるだけでどうにもできない。
エドガー、お願い。渡さないで。
「これは渡せない」
「じゃあね、テリーサ、ナイフでちょっとばかり腕でもつついてみてよ」
ええっ?
「おまえはたいして痛みを感じないよ。その体がだめになっても、別のを用意してあげるからさ」
冗談じゃないわ!
さすがにテリーサは迷いながら、しかしナイフを腕に押しあてたのは、本当に痛くないのかという好奇心からのようだった。
「やめてくれ!」
エドガーが叫んで、テリーサは手を止めた。
ユリシスは楽しそうに笑う。
「なあんだ、もうお手上げ?」
そしてテリーサに言う。
「ゆっくり、彼の方へ。ああ、近づきすぎちゃだめだよ。ナイフを首のところにあてておくんだ。大丈夫、手がすべったっておまえは死なない。いちど死んでいるんだからね」
テリーサは迷いながらも、あやつり人形のように言われたままにしていた。
どうしていいのかわからないのだ。
エドガーが好きでも、裏切られた思いを持っている。リディアに嫉妬《しっと》心もある。生きたいという気持ちと同時に、そもそも自分を殺した男を信じていいのかという戸惑いもある。
動かないままテリーサの行動を見守っているエドガーも、彼女の心のゆれを感じ取っている。どうにかして、ユリシスの誘惑《ゆうわく》を退《しりぞ》けられないかと考えているだろう。
でも、彼がテリーサを想っていると口にしても、うそにしかならない。
「ロード、箱をおいて、下がってもらえませんかね。それとも少し、血が見たいですか?」
見たくないわよ。そう思う一方で、少しくらいがまんするわとリディアは念じている。
ちょっとエドガー、あたしが苦しくてもがまんさせようとしたくせに、いまさらあっさり箱を渡してしまわないでよ。
しかし箱を足元に置いたエドガーは、リディアに苦痛を与えたくないと切実に思っているように見えた。
眠っているリディアに呼びかけ、許してほしいと言ったのが彼の本心なら……。
あたしは、意外と想われている……?
てか、今はそれどころじゃ。
「マギー」
エドガーは、箱のそばから下がろうとしないまま、唐突《とうとつ》にそう言った。
不思議そうに、彼女はエドガーを見つめた。
「きみはテリーサじゃない。マギーだ。自分を忘れたまま、真実を失ったままでいいの?」
「……マギー……」
「そうだよ。お針子《はりこ》のマギーだ」
胸のポケットからハンカチを取りだしたエドガーは、それを広げて見せた。
「きみの刺繍《ししゅう》、とても手慣れてる。イニシャルのMに、四つ葉のクローバーとてんとう虫の図案は、幸福のシンボルだね。自分の持ち物に、きっときみはこの刺繍を入れておかないと落ち着かないんだ。腕のいいお針子だったと思うよ」
そうか、あの女の子なんだとリディアも思い出していた。アシェンバート伯爵《はくしゃく》を名乗る男に会うと言い残し、翌朝テムズ河で見つかった。お針子で、マギー・モーリスと警部さんが言っていた。
あの、かわいそうな女の子。
「マギー、きみにもかけがえのない人がいた。思い出せるだろう? この刺繍は誰に教わったんだ?」
呆然《ぼうぜん》としながら、エドガーの言葉を聞いていたマギーの目から、たぶん自分でも意識していないまま涙がこぼれた。
「……それ、母さんが、幸福の……おまもりだからって、母が教えてくれて……」
「きみの本当の、家族や友人たちが、魂《たましい》の平安と幸福を祈っているはずなんだ。みんな忘れて、絆《きずな》を断ちきってしまいたい? 別人の人生に乗り換えたいと本当に思う?」
エドガーは、彼女の方へ一歩踏み出す。
「きみを思う人たちは、きっといつまでもきみのことを忘れられない。悲しみは癒《い》えないけれど、きみも忘れないでいてくれると、どこかで見守ってくれているとささえにして、生きていくだろう」
「テリーサ、そいつの言うことを聞くな、テリーサでいれば望みがかなうんだぞ! 金のために働かなくていい。貴族と結婚だってできる!」
ユリシスが声を荒げる。しかしもう、テリーサという名前は彼女の耳には届いていない。
「お願いだマギー、きみを傷つけたことはもうしわけないと思う。でも僕にもかけがえのない人がいる。身も心も守りたい。……リディアを、返してくれ」
マギーが泣いているから、リディアは自分も泣いているような気がして混乱した。
本気みたいに聞こえるわよ、エドガー……。
「……思い出したわ。あたし……」
力を失ったマギーの手から、ナイフが落ちた。
「あたしはずっと、お金持ちにあこがれてたの。お金持ちと結婚さえできれば幸せになれると思って、名家の娘だってうそをついたりしてた」
エドガーを見あげ、彼女は泣きながら笑った。
「テリーサになって、みんなにちやほやされて、夢みたいでうれしかった。違和感があっても、気づかないふりをしていたかった。でも、この体があたしのものじゃないって、子爵、あなたがあたしに恋してなんかいないって、はっきりしてよかったわ。だって、平凡なお針子でも、あたしにはあたしの、かけがえのないものがあったって思い出せたから」
「バカを言うな、自分の境遇《きょうぐう》も家族も嫌ってただろうが。だからおれが伯爵と名乗っただけでまいあがってたくせに!」
ユリシスはしつこく叫ぶ。でも、とリディアは思う。
反発したりケンカしたりしても、本当の家族を想わない人がいるだろうか。
「家へ帰りたい。口うるさい母も、怠《なま》け者の父も、生意気な弟たちも、あたしだけの家族……。ねえ、飛んでいけるかしら」
「ああ、きっと」
答えるエドガーに、彼女は力いっぱい抱きついた。
え、何? なんで?
「彼女《リデイア》が転ばないように」
「そうだね、ささえておくよ」
「もっとしっかり抱いていて。あたしが離れたら、彼女はあなたを突き飛ばすわよ」
うわ、なんか気づかれてる。
いつも左手を引き寄せて、体が密着しないようにしていたから?
けれど今は、マギーが両腕でエドガーに抱きついているから、リディアは息苦しくて心臓がはげしく鳴って、倒れそうだと思った。
「ありがとう、本当のあたしを見つけてくれて」
体の中を、ふわっと風が通り抜けるような感覚があった。と同時に全身の力が抜ける。
彼がしっかりささえていてくれたから転ばなかったが、体が自分に戻ってきたからといって、エドガーを突き飛ばすような力もなかった。
「リディア、戻ってきてくれたんだね。もう離さないよ」
……何言ってんのよ。
マギーを説得した彼のことを、ちょっとかっこいいかもと思ったのに、すぐにふざけるのだから。
「エドガー、それどころじゃ……」
リディアは、そっとユリシスの方をうかがった。舌打ちした彼は、ピストルを取り出そうとしていた。
「どいつもこいつも、使えやしない」
なのにエドガーは、大丈夫だと言ったまま、リディアを抱きしめている。
ザッと茂《しげ》みが鳴った。
あわてて身をひるがえしたユリシスに、レイヴンが襲いかかる。
蹴《け》りの一撃でピストルをはね飛ばし、無表情なままナイフを握った腕を振る。
一気にのどを切り裂《さ》くかと思われた。しかし一瞬早く、ユリシスは木の後ろに回り込んだ。
幹をえぐるナイフは、あれが首だったらひとたまりもないだろうと、見ているだけのリディアを怯《おび》えさせる。
さすがにユリシスも、まともにやり合う相手ではないとわかっているようだ。
レイヴンがナイフを構え直す隙《すき》に、さらに距離を取った。
「歩く武器か。おまえとは遭遇《そうぐう》したくなくてさ、避けてたんだけどね」
合図のように彼が手をあげると、奥の木々から男がふたり進み出た。
「やれ」と命じたユリシスは、わざとらしく水色の玉をポケットから取りだし、もてあそんで見せた。
セルキーの毛皮だ。箱の中にあったのがぜんぶではなく、彼がまだ持っていたようだ。
とすると、あのふたりは。
「レイヴン、セルキーよ!」
リディアが叫ぶと同時に、渦巻《うずま》く水が目の前に押し寄せてきた。
巻き込まれ流される恐怖に目を閉じ、はげしい波の音を聞きながら、足元が浮くのを感じる。
エドガーと引き離される。覆《おお》い被《かぶ》さる水に息ができなくなる。
気が遠くなりかけたとき、急に水の気配《けはい》が引いた。と同時に、リディアは固い場所に投げ出された。
「痛った……」
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目を開けるが、まっ暗だった。わずかなあいだ波に巻かれただけで、いったいどこへ流されてきたのだろう。
足元は冷たく平らな石の床のようで、すぐそばに垂直な柱があった。
ということは、建物の中なのだろうか。
「リディア、いるのか?」
どこかで、エドガーの声がした。這《は》うようにしながらあたりを探る。しかし、声がしたと思えた方は壁でふさがっていた。
「エドガー、どこなの?」
「よく見えない。怪我《けが》はないかい?」
声があちこち反響するので、方向がつかめない。
「ないわ。でもどうして、あたしたちこんなところに……」
「さっきのセルキーたちのせいじゃないか?」
「じゃ、ユリシスにとらわれたってこと?」
「違うような気がする。むりやり従わされてる彼らが、ひそかにきみを連れてきたかったんじゃないかな。はげしい水のうねりがあたりの木をいっしょに押し流したけど、僕らは水に守られていて怪我をすることもなかった」
毛皮をユリシスに握られていたセルキーの、ひそかな抵抗なのだろうか。
老婆《ろうば》のセルキーも、リディアが昼間だけでも自由になれるよう、マギーの霊に取《と》り憑《つ》かれている状況に勝手に手を加えたらしかった。
「それにしても、流されたのにちっとも濡《ぬ》れてないってのは不思議だな」
「本物の水じゃなくて、セルキーの魔力が生み出したものだからだわ」
とらわれたセルキーたちは、ユリシスから解放されたいと、まだリディアに希望をつないでいるのだ。
「リディア、お互い動き回ると、なかなか出会えない気がする。ちょっとじっとしててくれないか」
「ええ……、でも」
「大丈夫、きっと見つけるから。話を続けよう。声を頼りにする」
わかったわと答えながら、あたりに目をこらすが、闇に慣れた目でも何も見えなかった。
「ねえエドガー、セルキーたちはどうしてあたしをこんなところに運んだのだと思う? ここはいったい何なのかしら」
「たぶん、丘の地下じゃないかな。昔の青騎士|伯爵《はくしゃく》が築いたという魔よけだと思う」
「魔よけ?」
「ロンドンを外敵の侵入《しんにゅう》から守るための、魔術的な砦だそうだ。ユリシスは、プリンスの命令でそれを壊すためにここへ現れたようだ」
「壊すの? これを? どうやって?」
見えないが、声が反響するさまからかなり広い空間だと感じる。少し身体《からだ》を動かしただけでも、石の壁や柱が手に触れるのは、迷路状に区切られているのではないかと想像できたが、なおさらひとりの手で壊せるものではない。
「そこが僕もわからないところなんだ」
そのときリディアは気がついた。
さっき、マギーに体をゆずりながら海岸を歩いていたとき、海がますますひどく荒れているのを見た。それと同時に、波間におびただしい数のセルキーが集まってきているのも眺《なが》めていた。
火事の中、助けられなかったセルキーの毛皮が焼かれたはずだ。一族の結びつきの強いセルキーだから、その悲しみと怒りに、仲間たちが集まってきているのだ。
しかし、手に入れたセルキーたちを皆殺しにしようと火を放ったのはユリシスだ。とすると、彼はわざと、あの大勢の、怒りに満ちたセルキー族を集めているのではないだろうか。
「たいへん! ユリシスは、セルキーたちを使うつもりだわ!」
「どういうこと?」
「仲間がひどい目にあうと、彼らは集団で復讐《ふくしゅう》することがあるの。ユリシスがやったことで、復讐のために島のまわりにセルキーがたくさん集まってきてる。もし彼らが一気に襲いかかってきたら、この小さな出島《でじま》なんて粉々になって流されてしまうわ……」
エドガーは、深刻に受けとめたらしくしばし黙り込んだ。
「でもまだ、襲いかかってきてないのは?」
「たぶん、ユリシスが制してる。彼はセルキーの心臓を持っているの。耳につけていた宝石よ。本当は、セルキー族が信頼と友情のあかしに人に与えるものなんだけど、手に入れたユリシスが悪用しているの」
「それがあると、セルキーは奴を襲えないし言うことをきくってわけか」
「毛皮を所有しているみたいに言いなりにはできないけど、心臓≠持っている人を、セルキー族は尊重しなければならないんだと思うわ」
ユリシスは、セルキー族に憎まれても、心臓≠フ所有を誇示《こじ》して彼らと渡り合っている。それだけの実力がある。
そんな人を相手に、リディアに何ができるというのだろう。
自分でも情けなくなった。フェアリードクターのつもりでいながら、肝心《かんじん》の場面で未熟さが浮《う》き彫《ほ》りになる。
けれど、ユリシスが本当にセルキーを使うつもりなら、リディアがどうにかするしか助かる道はないことになる。エドガーにはセルキーを止めることはできない。
そしてもし手を打てなかったら、ここにいる人はみんな助からない。エドガーもレイヴンも、コリンズ夫人にスージーも、島ごと流されてしまうだろう。
あまりの重圧に、リディアは気分が悪くなった。
よろけた際、つま先で何かに触れた。手をのばして確かめれば、箱状のものだとわかる。
化粧箱だ。全体に施《ほどこ》されたエナメル細工や、あめ玉みたいな珊瑚《さんご》の手触りに、そう確信する。
「よかった……、いっしょに流されてきたのね」
しかし、ほっとしている場合ではない。
生き残ったセルキーたちにこれを届けないと、彼らも人の姿のまま海に帰れなくなってしまう。
そしてさらなる心配事を、リディアは思いついてしまった。
さっきのふたりのセルキーが、リディアに助けを求めてここまで連れてきたということは。
「そうだわエドガー、ユリシスがここを壊したがってるなら、彼も今近くにいるかもしれないんじゃ……」
自分の声があちこちに反響するが、エドガーの返事がなかった。
なんで? と思えばいろいろと最悪の事態が頭に浮かび、リディアはあわてた。
ユリシスが来てつかまったとか、どこかに落とし穴があったとか。それとも、さっきからリディアがしゃべっていたのが、エドガーでなかったとしたら。
「エドガー、ねえ、エドガーどこ?」
急に不安になって、リディアは声をあげた。箱をかかえ、壁づたいに歩こうとする。
はっと足を止めたのは、近くで小石を踏む気配《けはい》がしたからだった。
息をつめるリディアの前で、気配は立ち止まった。
「見つけたよ、リディア」
「ほ、本当にエドガー?」
「合い言葉を言おうか?」
そんなの決めてないじゃない。
「愛してるよ、僕の妖精」
本人だわ。
ふざけてる、と苛立《いらだ》ちながらも、彼がここにいると理解したとたん、リディアは泣き出しそうになった。
「どうしたの? 驚かせた?」
「どうして、返事してくれないのよ」
「きみの声をたどるのに集中したかったから。僕がしゃべると、せっかくつかみかけた方向がわからなくなるんだ」
ほっとしているのに泣きたい。声だけじゃ物足りない。そばにいてくれるという彼の言葉が、本当かどうか全身で確かめたい。
そんな衝動《しょうどう》を退《しりぞ》けて、リディアはあとずさると、力が抜けて座り込んだ。
「リディア?」
「……お願い、今は近づかないで」
「今は、って?」
「心細かったの」
何言ってるんだろうと思うほど、リディアの頭の中は支離滅裂《しりめつれつ》になった。
「うん」
「だから今は、あたしおかしいと思うの。もうマギーはいないのに、はしたないことしそうで」
「ああ、そういうことなら抱きついてくれてもいいよ」
「いやっ」
「力いっぱい拒絶《きょぜつ》しなくても」
なんてひねくれているんだろうと自分でも思う。
女の子としてはかわいくないわね。
マギーみたいに、あまえたいときにあまえられる少女なら、誰だってかわいいと思うだろう。
そんなふうに触れあっているうちに、恋する気持ちが高まるものなのかもしれない。
だったら、拒絶ばかりしているリディアに、エドガーが恋をしないのも当然だ。
マギーみたいに自分から、エドガーを好きになろうともせずに、彼にだけ本気を望むなんておかしなはなしだ。
こんなふうで、恋人どうしになれるはずがない。だけど、いきなりマギーみたいにもなれない。
「いやなの、あたしにはそういうの似合わないってわかってるから」
彼の手が肩に触れた。そっと腕をたどり、手を握る。
「似合うとか関係ないよ」
「じゃないわよ、離して」
「これだけだ。そんなにいやじゃないだろ?」
そう言われれば、いやというほどのことではなかった。エドガーはただ、リディアの指を手のひらで包み込んでいるだけだ。
結局、リディアは黙った。
彼は手を握ったまま唐突《とうとつ》に言った。
「悪くないな。何も見えないのに、きみがここにいると強く感じられる」
いやだと言いながら、思いきり隙《すき》を見せてしまっている。拒絶しきれないだろうと、付け入られたのをぼんやりと感じながらも、戸惑《とまど》うしかできなかった。
確実に、彼は隙を見つけてしのびこんでくる人だ。マギーを口説く彼を見ていて、そう知ったのだったけれど、自分の身に降りかかるとどうしていいかわからない。
「目が見えないぶん、ほかの感覚が鋭くなっている気がしないか?」
「……そ、そう?」
「きみがどんな表情をしているのかわかる。指先の緊張感や、声や、息遣《いきづか》いや」
見えない気配、それだけで彼がどのくらい近くにいるのか、リディアにもわかるような気がした。
けっこう、まずい距離。ふだんなら逃げ出しているかもしれない。けれど見えないことを言いわけに、彼女はその場にとどまっていた。
きっと手の先だけしか触れあっていないから、危機感がないのだ。
そう思い込もうとしながら、違うのだと気づいてもいた。
不安に冷たくなっていた指先をあたためようとするように、やわらかく手のひらで包み込まれる。変に硬直《こうちょく》していた指がとろけていく。
緊張が解け、力がゆるんだ隙間に、繊細《せんさい》だけれどしっかりした彼の指がしのびこむ。
組み合わせるようにして強く握り込まれれば、また泣きたくなった。
「近づかないでって言ってるじゃない」
自分も彼の手を離そうとしないまま、そんなこと言っても説得力はない。
「婚約者に頼ったって、はしたなくなんてない」
「婚約者じゃないもの」
「きみさえ口づけを許してくれるなら、すぐに婚約者だと思えるようになれるよ」
「そんなに単純なものなら、あなた婚約者だらけよ」
「僕のこと、きらいじゃないだろう? こうして手を重ねて、心地よさを感じてくれるなら、もっと心地よくなりたいと望めばいいだけだ」
「そ、そういうこと言うから、あたし、自分がふしだらなんじゃないかって思えて」
心の中にとどめておくべき言葉が、口をついてしまう。
「それはきみも、キスしたいと思って……」
「違うのっ! 今のはうそよ!」
「僕にだけふしだらなら大歓迎」
リディアはもう、どう言っていいのかわからなくなった。
べつにそんな、身構えることじゃないのかもしれない。
故郷の町でも、同じ年頃の女の子たちは、恋人とのひとときを語り合っていた。小耳にはさんでもリディアは、ふしだらだなんて感じたことはないし、心ひそかにあこがれもした。
でもそれは、心から愛せる人がいてこそだ。遊び半分の話だったら、共感しなかっただろう。
だから今、自分自身でいけないことのように感じるのは、心がともなっていないからではないだろうか。
自分も、たぶんエドガーの気持ちも、重なり合うにはまだ遠い。
「だめなの。今はいやじゃなくても、あたし、後悔すると思う。……きっとあとで後悔するわ」
「後悔なんて……」
言いかけ、彼は迷ったように口をつぐんだ。
考え込むような沈黙のあと、まいったな、とつぶやきがもれる。空気の動く気配は、戸惑いがちなあきらめの気配だった。
エドガーがゆるりと立ちあがったのがわかる。つながれた手はそのままに、リディアの腕を引く。
「行こうか」
「どこへ?」
「さっき僕がいた場所からは、奥にかすかな明かりが見えていた。ともかく、今の状況を把握《はあく》しないとね」
光を目指し、手探りで進む。
やがてその先に、明かりのともる空間があるのだとわかる。ざわざわと影が動く。
誰かいるらしいのはたしかだった。
そっと近づいていったエドガーとリディアは、大きな石柱の後ろから覗《のぞ》き込む。そこは無数の蝋燭《ろうそく》に囲まれていて、地下墓所《カタコンベ》を思わせる空間だった。
中央に集められているのは、ユリシスに毛皮を奪われたセルキーたちだ。
リディアを助けてくれた老婆が、むち打たれたのかボロボロの姿で倒れているのを見つけると、リディアは思わず駆《か》け出していた。
ユリシスが近くにいるかもしれないのにと、制する間もなかったエドガーがあわてたことにはまるで気づいていなかった。
「おばあさん、どうしてこんな。ああ……、あたしのせいね。あたしを逃がしたって、ユリシスにばれたからなのね」
「……フェアリードクター、ご無事で……」
「みんな、早くここから逃げなきゃ……」
言いながら見まわすと、セルキーたちを囲んで、円を描くように床に置かれたロープがあった。
宿《やど》り木《ぎ》を編んだロープは、妖精を閉じ込めるための結界《けっかい》だ。
火事から逃げ出したセルキーたちを、ユリシスがここに集めて監禁《かんきん》したようだ。さっきのふたりのセルキーは、これをリディアに教えたかったのだろう。
「待ってて、すぐに結界を解くから」
ロープの結び目を、リディアはほどこうと試みた。しかし固く結ばれていて難しい。
「切ったらだめなのか?」
「でも、ハサミなんてここには」
リディアが答えている間に、エドガーがナイフでロープを切った。
「あ……、ありがと」
「どういたしまして」
ちょっと抜けたフェアリードクターだと思われたかしら。
気を取り直し、リディアは、おそるおそるロープの内から出てくるセルキーたちに向き直った。
「毛皮はここにあるわ。自分のを取って」
よろこびにざわめく彼らの前で、化粧箱のふたを開ける。
セルキーたちは先を争うこともなく、ひとりずつ、薄青い玉を手に取っていった。仲間にささえられながら、老婆も、大事そうに手のひらに包み込んだ。
箱の中が空になったとき、リディアはふと気がついた。
「アーミンがいないわ」
残った毛皮もない。ということは、まさか焼けてしまったんじゃ……。
「彼女の毛皮は、ユリシスが自分で持っていました」
老婆が言った。
「え、じゃあ生きてるのね。よかった……」
ほっとしながらエドガーを見るが、彼は複雑な表情だった。生きてはいるけれど、まだユリシスの手の内だということだ。
そのまま不自然に、彼はリディアの背後《はいご》に立つ。そして唐突に言った。
「リディア、振り返らない方がいい」
え? と思わず振り返ってしまう。
同時に、血まみれの何かが縛《しば》りつけられた柱が目に入った。
腰が抜けそうになる彼女をささえながら、エドガーが視界から柱を隠してくれたが、見てしまったものは目に焼き付いていた。
「な……なに?」
「たぶん、スタンレー卿《きょう》とクラーク卿」
「し、死んでる?」
「これ以上ないくらいに」
「どうせみんな、死んでもらいますけどね」
突然、冷淡《れいたん》な声があたりに反響した。
あわてて見まわすと、奥にあった石段から、ゆっくりとおりてくるユリシスが目に映った。
「そのふたりは生贄《いけにえ》ですよ。この場所を、とことん穢《けが》してやりたくて」
連れているのは、さっきのふたりのセルキーと、アーミンだ。そして彼は、アーミンの背中にピストルをつきつけていた。
「まったく、誰がこいつらをここへ案内しろと言った?」
ふたりのセルキーを交互ににらむ。そしてエドガーの方を見る。
「ロード、この女が怪我《けが》をしてなきゃ、もういちどあなたと戦わせてみたかったけど無理みたいだ」
たしかに彼女は、立っているのがやっとの様子だった。
「だったら彼女を離せ。僕と直接勝負すればいいだろう」
「個人的には、そうしたい気もしますが。肝心《かんじん》の使命を果たさなければなりませんのでね、私的感情に走ってはいられないのですよ」
意味深《いみしん》に言いながら、ユリシスはアーミンをさらに引き寄せた。
「もう、あなたの目の前で殺すくらいしか使い道がない」
階段の中ほどで立ち止まると、ユリシスはピストルをアーミンの手に握らせた。
「さあ、自分を撃つくらいはできるだろう?」
アーミンは黙々と従い、銃口《じゅうこう》を自分に向けようとした。
「何するのよ、卑怯者《ひきょうもの》!」
リディアは叫んだが、ユリシスには痛くもかゆくもないだろう。
そのとき、アーミンは急に身体《からだ》の向きを変えた。彼女らしい俊敏《しゅんびん》さはなかったが、すぐそばのユリシスに抱きつくにはじゅうぶんで、彼の背中に腕をまわしたアーミンは、銃口をうなじに押しつけた。
「おまえ、逆《さか》らえるはずは……」
そのはずだ。なのにどうして?
「ご命令どおり、この引き金を引きましょう。あなたののどを突き抜け、わたしにも……」
言い終わらないうちに、ユリシスののどに口づけるかのように顔をよせ、彼女は引き金を引こうとした。
「レイヴン、とめろ!」
その瞬間、上から影が飛んだ。
銃声が地下に反響し、耳が痛いほどうなる。
ふらりと、階段に座り込むようにしてアーミンが倒れる。しかしユリシスは立っていて、サーベルでレイヴンのナイフを受けとめたところだった。
ユリシスが無事なら、アーミンにも弾は当たっていないはずだ。だとしても、ほっと息をつく間もない。
ユリシスを守らねばならないセルキーが、レイヴンに背後から襲いかかる。
レイヴンが離れた隙《すき》に、ユリシスは逃げようとする。
エドガーは階段に駆け寄りながら、また声をあげた。
「耳の、宝石を奪うんだ!」
セルキーを蹴《け》り倒し、レイヴンはユリシスの方に振り向くと、ナイフを投げた。
それはユリシスの耳を切り裂《さ》く。きらりと光る宝石が落下する。
うっすらと青い海の色。あれは、アクアマリン?
リディアはふと、胸元のペンダントを意識した。母が祖母から、そのまた母から、何代にもわたって受け継いだアクアマリンだ。母の一族は、昔からフェアリードクターになる者が多かったという。
リディアの手元にあるこれも、もしかしたら……。
階段の下に落ちたユリシスの宝石を、拾わなければとリディアが気づくのは少し遅かった。
耳がくっついてなければ、躊躇《ちゅうちょ》しなかったのにと思うが、駆け寄ったリディアより一瞬早く、階段を飛びおりたユリシスが拾い上げた。
すぐそばの彼にはっと身構えるが、にやりと笑ったユリシスはリディアの腕をつかまえる。
「リディア!」
エドガーが追ってくるのはわかったが、ユリシスはリディアの腕を引いて地下の奥へと逃げ込んだ。
慣れた様子で、ユリシスは迷路のようなそこを抜けた。
階段をあがれば丘の上だ。
曇り空の下、はげしい波の音が続いている。セルキーたちの憤《いきどお》りはさらに激しさを増して、波しぶきがこんな丘の上にまで流されてくると、霧雨《きりさめ》のように感じられるほどだ。
そんな丘の頂上に薪《まき》が組まれ、火が焚《た》かれていた。
「見てよ」
ユリシスは、焚き火のそば、海が見渡せる場所までリディアを引きずってくると言った。そぎ落とされた耳から、頬《ほお》を伝《つた》う血を気にした様子もない。
「フェアリードクターのつもりならわかるだろう? もう止められないよ」
「つもりじゃないわ。あたしはフェアリードクターよ」
リディアは彼をにらみつけた。
「おれの意志ひとつで、この島は海にのみ込まれるんだ。ふふ、楽しみだよね」
「それが、プリンスの命令だから? あなたこそ、フェアリードクターの誇《ほこ》りはないの? ううん、あなたなんてフェアリードクターじゃない。フェアリードクターは妖精の友人なのよ。だから人なのに彼らの魔力に通じる力を与えられてる。……あたし、許さないから。あなたの思い通りになんてさせない!」
「威勢《いせい》がいいなあ。でもあんたに何ができるっての? 妖精が見える目を持ってるってだけじゃ、何の役にも立たないんだよ」
彼はポケットから、半透明の玉を三つ取りだした。
「これでおしまい。あいつとかかわったことを嘆《なげ》くといいさ」
ユリシスはセルキーの毛皮を火に投げ込もうとした。
そんな彼に、後ろからつかみかかったのはエドガーだった。
もみ合いながら、セルキーの毛皮を奪おうとする。ユリシスの手から玉がこぼれる。ひとつだけ火の中に落ちてしまう。
ユリシスを殴《なぐ》り倒し、呆然《ぼうぜん》としているしかできないリディアの目の前で、エドガーは燃える薪を蹴散らした。
まだ熱いはずの灰の中から、毛皮を拾い上げる。
「おやおや、いまさら妖精を助けたってどうにもならないのに、無駄《むだ》なことに力を注ぐなんてらしくありませんよ」
起きあがったユリシスは、切れた唇《くちびる》の血をぬぐいつつ、あくまで強気な口調《くちょう》だった。
「僕は妖精国の伯爵《はくしゃく》なんだよ。フェアリードクターが守ろうとするものを守るのは当然じゃないか」
「笑わせますね。もはやこの英国に、青騎士伯爵は存在しない。そしてまともなフェアリードクターもいない。どう名乗ろうと、セルキーを止める力はないんです」
言って、アクアマリンを海の方にかかげた。
「さあ、来るがいい。セルキーども」
はっとリディアが海の方に振り向けば、セルキーの群《むれ》が動き始めていた。
大きく海面が盛り上がる。最初の波が押し寄せてくる。
どうにかしなければならない。
母がついていてくれると、リディアは自分に言い聞かせた。そして彼女をフェアリードクターだと認めてくれるエドガーが、そばにいる。
まともなフェアリードクターはいない。そうかもしれないけれど、このアクアマリンがセルキーの心臓なら、リディアは今、ユリシスと同等の力を持っているはずなのだ。
ただのアクアマリンなら? 情けないけどおしまいだわ。
それでも気持ちを奮《ふる》い立たせ、リディアは母のペンダントを握りしめ、それを海の方にかかげた。
「聞いて、セルキーたち! あたしは青騎士伯爵のフェアリードクターよ! お願い、伯爵の砦《とりで》を壊さないで。この心臓≠ノかけて、あなたたちの悲しみはあたしが受けとめるわ!」
「心臓……、どうしておまえがそれを……?」
ユリシスのつぶやきが聞こえた。
しかし波の勢いはそがれないまま、丘を一気に駆け上がる。
泡立つ水が目の前にせまる。
「リディア!」
木につかまったエドガーが手をのばす。その手を取ろうと必死になったが、ユリシスに髪の毛をつかまれる。そのまままともに波をかぶる。
押し流され、水の中に引きこまれ、息苦しさにもがくしかできないリディアの、ペンダントを取ろうとユリシスは手をのばした。
いや。死んでも渡さない。
リディアは抵抗する。
でも、もう……。だめだと思ったそのとき、何かが近づいてきてユリシスに体当《たいあ》たりした。
セルキー……?
[#挿絵(img/aquamarine_279.jpg)入る]
そして気づく。水の中なのに息ができる。妖精界にすべり込んだのだ。
そこは、現実の海と重なり合った別世界だった。
ユリシスを遠ざけるようにして、水中を漂《ただよ》うリディアの周囲を、アザラシたちがゆっくりと泳いでいる。
リディアが毛皮を守ったセルキーたちだった。
水の中は光にあふれ、空気の泡をふくんだアザラシの毛は、海と同じ薄青い色に見えた。
「おれに逆《さか》らうのか、セルキー」
「もはやあなたに従う理由はない」
ひときわ体の大きなセルキーは、あの老婆《ろうば》だとひとめでわかった。
人の姿は小柄だったけれど、妖精としては長く生きているだけに、堂々とした存在感だった。
「おれにはこの心臓≠ェある。おまえたち一族に、永遠の苦しみを与えることだってできる」
「彼女も心臓≠持っている。新しい青騎士伯爵もいる。わたしたちの友として、痛みを分かち合ってくれるだろう」
毛皮を得た彼女は、人の姿で負った傷などすっかり癒《い》えてしまったのか、優雅に泳ぐ。
「あの青騎士伯爵は本物じゃないぞ」
あざ笑うように、ユリシスは言った。
「いいえ本物よ。人魚《メロウ》が認めた伯爵よ」
リディアも負けてはいられない。
(いなくなったと思っていた。青騎士伯爵も、昔はあちこちにいたフェアリードクターたちも、我らの信頼する人間はいなくなったと)
遠巻きに集まってきていた、群の中から声がした。
「この小娘には、昔のフェアリードクターみたいな力などない。心臓を持ってたって、おまえたち一族を救えるわけがないんだ。笑わせるな」
いちいち小娘って、自分だって少年にしか見えないじゃない。
「おれに逆らえば、おまえたちに希望はないぞ!」
ユリシスの強い口調に、セルキーたちは不安そうにしながらも、結局誰も動かなかった。
(新しい青騎士伯爵の、フェアリードクター)
(新しい青騎士伯爵は、信用できるのか)
どうかしらね、と思わないでもないが。
「少しでも期待してくれるなら、あの島にある伯爵の魔よけを壊さないでほしいの。伯爵もあたしも、あなたたちの味方よ。昔みたいな力はなくても、それは約束するわ」
(フェアリードクター、セルキー族には人間の友がなくてはならぬ。仲間のために力を尽くしてくれたそなたを、希望にしよう)
と同時に、波のうねりが消えた。
ユリシスが舌打ちする。
「愚かな妖精ども、後悔するがいい」
言い残して、姿を消した。
自在に妖精界を行き来する能力さえあるのだろうか。そんな彼を怒らせても、セルキーたちは未熟なリディアを希望だと、友だと言ってくれた。
(フェアリードクター、伯爵の砦はすでに穢《けが》れを受けた。力が残っているかはわからぬぞ)
(去るがいい。案内|猫《にん》が来た)
そう言うと、水の泡をかき立てて、セルキーの群《むれ》がリディアの周囲から離れていった。
水中でも二本足で歩くことにこだわっているのか、ニコがてくてくとリディアの方へ近づいてくるのが見えた。
来てくれたのかと安心するが、飄々《ひょうひょう》としたその様子を見れば、腹も立った。
「ニコ! よくもあたしをひとりにしたわね!」
「悪かったよ。だから迎えに来たじゃないか」
妖精界の道は複雑で、入り込んでしまった人間がひたすらさまようなんてことはめずらしくない。
ひとりで帰れるわ、と強がりたいところだが、たぶん無理だろうと思ったので、リディアはひとこと「まあいいわ」とつぶやいた。
「怒るなよ。ほんとに腹がへって死にそうだったんだから」
「あたしのほうが死にそうだったわよ!」
「だから、まああれだ、帰ったらおなかの毛をさわらせてやってもいいぞ」
はあ? べつにありがたくもないわよ。
しかし、照れくさそうにネクタイをいじりながら言うニコにとっては、最大級にリディアをなだめようとしているつもりらしい。
そういえば、小さいころはニコのおなかの毛に頬《ほお》ずりするのが好きだった気がする。
母が亡くなって、淋《さび》しくて泣くリディアに、しょうがねえといったふうにニコはおなかを貸してくれたものだった。
もう子供じゃないのに。
おかしくなりながらも、やっぱり子供かもしれないと思う。
ひとりじゃ何もできない。でも、ささえてくれる妖精が、人がいてくれるなら、もう少しがんばれる。
ニコに手を引かれるようにして上昇しながら、ひとりだけセルキーが戻ってくるのに気がついた。
さっきの老婆だ。そして彼女は、水と同じ色をした玉をリディアに手渡した。
「これ、もしかしてアーミンの?」
「あの子はまだ、セルキーの自覚を持てないでしょう。でもいつか、毛皮を得て海へ帰りたいと思うときが来るかもしれません。それまで、どうかよろしくお願いします」
神妙《しんみょう》にリディアが頷《うなず》くと、老婆のセルキーは安心したように去っていった。
足元の、海の深いところをセルキーたちが群となって泳いでいく。
ちらりとリディアは、あの化粧箱《けしょうばこ》を見たような気がした。
小さなセルキーが、戯《たわむ》れながら運んでいった。
テリーサ、あなたなの?
人だったころの記憶はなくなったとしても、大切な思いは、いつまでも消えることはないのだとしたら。
それは、魂の深いところに刻まれるのだろう。
* * *
白い海岸が続くヘイスティングズの町は、ほんの数日のあいだに夏の盛りを過ぎ、人影もまばらになってきていた。
イギリスの夏は短く、あっという間に過ぎ去る。日射しはまだきついとはいえ、夕暮れがわずかにも早くなったと感じれば、オレンジ色の光に秋の気配《けはい》がただよう。
リディアはひとり、海を眺《なが》めながら海岸沿いを歩いていた。
一連のできごとは、コリンズ夫人の別荘の火事により、三人が行方《ゆくえ》不明として終わった。
ユリシスは生きているだろうが、あのまま姿を消したようだ。
セルキーの波は丘の一部を崩し、建造物の中にはもう誰も入れなくなったという。力が残っているかどうかわからないとセルキーは言っていたが、それはリディアにも、エドガーにもわからないことで、青騎士|伯爵《はくしゃく》の魔よけが守られたのかどうかは不明だった。
しかしユリシスにとっては失敗だったはずで、それだけでも価値があるとエドガーは思っているようだ。
コリンズ夫人とスージーは、マンチェスターに帰っていった。
夫人はまだ、なかば夢の中にいる様子だったが、リディアのことは、娘代わりになって過ごしてくれた親切なお嬢さんという認識でいるようだった。テリーサの名を口にすることもなく、スージーに保護者らしい気遣《きづか》いを見せていたから、少しずつ現実を取り戻すのではないだろうか。
結局島も、そこにいた人も、流されずにすんだ。
もちろんリディアは、自分だけの力ではなかったと知っている。
たくさん助けられ、ささえられたからこそチャンスを生かせた。
そしてそれがわかっただけでも、フェアリードクターとして、少しは成長できたような気がしていた。
「リディア、ここにいたのか」
にっこり笑いながら、こちらに近づいてくるエドガーに気づき、リディアは反射的に身構えた。
エドガーの機嫌がいいときは要注意だ。そうでないときも要注意だが、笑顔につい気を抜いてしまうぶん、リディアにとっては非常に要注意だ。
「散歩に行くなら声かけてくれればいいのに」
「とりこんでたじゃない」
冷たく言ってやる。ホテルを出るとき、どこぞの貴婦人を口説《くど》いているのを見かけたのだ。
「きみの誘いを断るほどの用事なんて僕にはないよ」
エドガーは笑顔を崩さないまましらばっくれた。
よく言うわ。リディアはあきれながら足を速める。
「そんなに冷たくしないでくれ。きみが姿を消したままの三日間、どれだけ心配したかわかるかい? 昼も夜も浜辺を歩き回ってたんだよ」
それはまあ、レイヴンも言っていたからうそではないらしい。リディアがセルキーの妖精界から戻ってくるまでの、彼女の主観ではわずかなあいだに、地上では三日経ったのだという。
「でも、ニコがあたしのこと連れ戻してくるから大丈夫って言ってたんでしょ」
「それでもきみの姿を見るまでは安心できなかった」
それはいちおう、もうしわけなく思うから、リディアは歩く速度を落としていた。
隣に並んだエドガーは、さりげなくリディアの手から日傘《パラソル》を取る。女物の日傘を手にした男性と並んで歩くなんて、どう考えても周囲に恋人どうしだと主張しているかのようだ。
けれどそう気づいたときにはすでに遅く、もうぜったい傘を返してくれないと思ったのであきらめた。
「アーミンの、ちゃんと持ってる?」
「持ってるよ。彼女があれを手にしてしまうと、人だったころの記憶を失って、完全なセルキーになってしまうかもしれないんだろ」
老婆にあずかったそれは、エドガーにゆだねることにした。アーミンのことは、エドガーが誰よりもわかっているだろうから。
「このままがいいのか、わからないけど」
「ゆっくり考えよう」
それより、とエドガーはにっこり笑う。
「せっかく静かな海辺がいい雰囲気なんだから、腕を組まないか」
「いや。そうしたいならさっきの女性と散歩すれば」
「あのね、あれは僕のいとこ」
「なわけないじゃない」
「にするような軽いキス」
「キス? したの?」
「え、……だから怒ってるんじゃないのか?」
「最低!」
言い放って、リディアはまた早足になる。
墓穴《ぼけつ》を掘って、一瞬空を仰《あお》いだものの、すぐ気を取り直したように彼はついてくる。
「リディア、きみはいやがるからさ。僕にずっと、キスしないでいろっていうのか?」
「しなくても死なないでしょ!」
「死ぬかも」
こいつならね。と思わないでもない。だからって、ありえない。
「勝手にすれば」
そうよ、あたしが怒るようなことじゃない。でも、むかつく。
「自信なくなってきたんだ」
ぽつりと彼は、落ちこんだように言った。
「きみの心をつかめなくて、どうしていいかわからなくなって」
ああ、この手の淋《さび》しげなふりにだまされちゃだめ。そう思いながらもリディアは少し振り返っていた。
「だから確かめたかったんだ」
「な、何を」
「いざというとき、ちゃんとキスできるかどうか」
「は? いざ……?」
「きみが許してくれたとき」
やっぱり、ふざけてる。
「ねえリディア、ゆっくり歩こうよ。波の音も、風も穏《おだ》やかで心地いいのにさ」
「あたしはひとりで散歩を楽しんでるの」
つんと顔を背《そむ》ける。
「おや、パーマー君だ」
向こうから歩いてくる人影に、リディアも気がついた。ニセ伯爵は、どういうわけか親しげにエドガーに手を振った。
「やあどうも、伯爵《はくしゃく》」
とエドガーは嫌味《いやみ》を言う。
「やめてくださいよ。あなたも人が悪いな。本物のアシェンバート伯爵だったなんて」
そしてふと、くだけた態度をあらためる。
「伯爵、ロンドンの新聞社から返事が来たんですけど、おかげさまでちょっとしたお金になりそうです。向こうへ戻ったら、まともな仕事を探しますよ」
「それがいいね」
それから彼は、リディアににっこり笑いかけた。
「テリーサ、じゃなかった。ミス・リディア、これでもう、伯爵がいいかげんな噂《うわさ》をゴシップ紙に書き立てられることはありませんよ。ちゃんと本命がいるって知れ渡れば、彼の名を騙《かた》って女性にちょっかいを出すような不届き者もいなくなるでしょうし」
リディアはいやな予感がした。
「……ちょっとエドガー、どういうことなの?」
「パーマー君、よけいなことは言わない」
「あー、すみません。では私はこれで」
パーマーはそそくさといなくなった。
「本命が知れ渡る?」
「だからね、彼がお金に困ってたから、僕たちのことを新聞社に話してもいいよと」
つまり、ゴシップ紙にネタを売った?
「あたしのことを話したっていうの?」
「妖精国《イブラゼル》伯爵と妖精博士《フェアリードクター》のロマンス。とっても詩的じゃないか? 僕らが噂にならないのは、似合わないからだってきみは言ったけど、これでちゃんと噂になるよ」
エドガーはすっかり開き直る。
「カールトン教授がパリから帰ってくるのは来週じゃないか。ロンドンの人間なんて飽きっぽいから、そのころには僕の噂なんて忘れてる。きみの家のハウスキーパーには、もともと仕事で遠出ってことにしてあるし、だからこっちで、もうしばらくふたりの時間を過ごそう。噂の渦中《かちゅう》にロンドンへ帰るのはやめた方がいいと思わないか?」
リディアはもう、憤《いきどお》りを通り越して、肩を落とすしかなかった。
婚約解消を言い渡すはずだったのに、ますます外堀を埋《う》められている気がする。
けれどリディアの中で、以前ほどかたくなに否定しようという気持ちは薄れていた。
結婚なんて実感できない。もちろんエドガーを婚約者として見られるわけでもない。でも彼は、リディアにはないものを持っていて、与えてくれる。もう少し、本当の彼のことを知りたいと思いはじめている。
もしかしたらそれも、彼の計算どおりなのかもしれないけれど。
「あたし、海が好きだわ。母さまを思い出すの」
返事の代わりにそう言って、波打ち際《ぎわ》ヘリディアは歩み寄った。淡いセピアに染まった波頭《なみがしら》は、なんとなく淋しげに、彼女の影にまとわりつく。
「リディア、きっと後悔するからいやだと、きみは言ったね……」
少し離れたところで、つぶやくようにエドガーが言った言葉は、よく聞こえなかった。
「え、何か言った?」
エドガーはやわらかく微笑《ほほえ》む。
「あのとき僕は、急に自信がなくなったんだ。後悔させないと、言うことができなかった。きみが僕を受け入れてくれるとしたら、言葉ではなく、口づけなんかでもなく、……何が必要なんだろう」
声は波の音に紛《まぎ》れる。けれどこちらを見つめる瞳は、やけに切なげで、リディアは不本意にもドキドキした。
「ねえ、何なの?」
小花柄《こばながら》の透《す》かしレースが入った日傘をくるくる回しながらリディアに近づいてくると、彼は淡いピンクの貝殻《かいがら》を見せた。
「きれい。いつのまに見つけたの?」
手渡し、そうして、まるではじめて触れあうかのようにぎこちなく彼女の手を取った。
「ああ、これが精いっぱいだとはね」
「なんのこと?」
「なんでもないよ」
手を引いて歩き出す。
少し緊張しながら、リディアは、こうしていることに心地よさを感じてしまう自分を、もう否定できなかった。
エドガーの手はきらいじゃない。
そう思うことに、まだ少し罪悪感《ざいあくかん》をおぼえながら。
父さまの留守中にこんなことしてていいのかしら。
ごめんなさい。でも母さまは微笑んでくれているような気がするの。
胸元のアクアマリンは、リディアの頬《ほお》を染める夕日を受けて、淡いオレンジに輝いて見えた。
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あとがき
これまでスローペースで、半年おきに出してまいりました『伯爵と妖精』、今回は三ヵ月ぶりの新刊となりました。どうにか忘れる前に続きが出る、という感じになったのではないかと期待しております。
とはいえ、いちおう読み切り形式になっておりますので、はじめての方でも楽しんでいただけるつもりです。
さてさて、めでたく婚約=H? したふたりのその後は……。
なかなかどうして、簡単には進まないようですなー(笑)
これを執筆《しっぴつ》中に、映画の『オペラ座の怪人』を見に行きました私は、あのメロディのとりこになってしまいました。
ドラマティックな音楽が映像とぴったり合ってて、もう鳥肌ものでしたね。
そんなわけで、さっそくサントラを買って、CDかけっぱなしにしていたら、聴き飽きたと家族から苦情が。
ファントムはいませんが、幽霊《ゆうれい》ならありの今回、雰囲気《ふんいき》合ってる(はず)だしちょうどいいのになー。
映画の時代設定も十九世紀、厳密に言うと年代はずれますが近いところではあるし、パリとロンドンの違いはあるけどヨーロッパだし(すごい大ざっぱ)、などと思いながら音楽をかけ通したのでした。
ところで、イギリスは意外と幽霊が好きなお国柄《くにがら》のようです。
西洋のホラーというと、どうにもオーメンみたいな悪魔系とドラキュラからエイリアンまでの怪物系ばかりが目立ちます。
たぶん宗教的に、人が超自然的な力を持つわけにはいかず、死者がそのへんをさまよっているというのもまずいのでしょう。
でもイギリスの妖精の中には、死んで妖精になったとか、幽霊なのか妖精なのか曖昧《あいまい》な存在というものがわりといるようですね。
このへんは、魂《たましい》が輪廻《りんね》するケルト的な考えから出てきているのではないかと思ったりするのですがどうでしょう。
ともかくイギリス人の幽霊への情熱(?)は、十九世紀に加熱し、心霊研究の大ブームが起こりました。
降霊術《こうれいじゅつ》が盛んに行われ、幽霊たちが死後の世界について語った内容が、記録として残っているようですが、なにしろネッシーを生んだ国。長いこと世界中の人をだまし続けてきた『ネッシーの写真』を撮った人が、作り物だと暴露《ばくろ》したのは記憶に新しいことですので、幽霊も話半分に。
そういえばイギリスには、有名な『妖精写真』というのもありました。羽の生えた小さな妖精と、少女がいっしょに写っているモノクロ写真を何かの本で見たことがありますが、なかなかよくできたものでした。
当時の著名人《ちょめいじん》がたくさんだまされて、本物の妖精だと信じたそうです。
それも何十年も経って、本人たちが作り物だと告白したわけですが、とにかく彼の国の新聞やニュースが、エイプリルフールに張り切ってうそのニュースを載せたがることからして、人をだますことには熱心になるお国柄なのかもしれません。
話を戻して、本編は楽しんでいただけましたでしょうか。
そういえば、読者のみなさまにお手紙などをいただきますと、意外とレイヴンが人気なのですが、意外だと思うのは彼に失礼なんでしょうか。
お嬢《じょう》さんたちに「かわいい」とか言われていると知ったらどんな反応をするのか、想像できません……。
反応なしか? でも内心でうろたえそうです。
「かわいい」という声をニコと二分するとは予想外ですが、この点ニコはちょっと不満だったりしないかなとか思ったりして。
それともニコは、「かわいい」より「かっこいい」と言われたいかな?
そしてレイヴン、表紙にも登場してくれました(笑)
たぶん本当は、なるべく目立ちたくないとか思っていそうですが、出ていただくことになりました。
高星《たかぼし》麻子《あさこ》さま、ありがとうございました。
というわけで、最後までおつきあいくださいましたみなさまに、ご満足いただけたなら幸いです。
ではまたいつか、この場でお目にかかれますように。
二〇〇五年 四月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
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底本:「伯爵と妖精 恋人は幽霊」コバルト文庫、集英社
2005(平成17)年6月10日第1刷発行
2006(平成18)年12月15日第4刷発行
入力:
校正:
2008年3月29日作成