伯爵と妖精
プロポーズはお手やわらかに
著者 谷瑞恵/イラスト 高星麻子
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(例)水棲馬《ケルピー》
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目次
妖精女王の花婿《はなむこ》
舞踏《ぶとう》会のひと騒動
朱《あか》い月、白い月
義賊団《ぎぞくだん》のスパイ
射手《いて》の矢に放たれて
青騎士|伯爵《はくしゃく》の血
うそつきと約束
あとがき
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妖精女王の花婿《はなむこ》
「あーあ、ロンドンはまだ先かよ」
走り疲れ、川縁《かわべり》の草むらに寝転んでいた彼は、ため息とともにひとりごちた。スコットランドを出てから三日、自慢の俊足《しゅんそく》でもロンドンはかなり遠い。
「リディアの奴、俺に黙って行っちまうってどういうことだ?」
それも、ロンドンでフェアリードクターとして雇われたとか、当分帰ってこられないとか、冗談じゃないと彼は思う。
リディアを引き止めているのは、人間のくせに妖精界に領地を持っているという青騎士|伯爵《はくしゃく》だという。その名は、彼も聞いたことはある。
しかし、妖精を従える力を持つ伯爵なら、フェアリードクターを雇う必要なんかないじゃないか。
ともかくリディアを連れ戻すのだと意気込んで、彼はスコットランドを飛び出してきた。一族の誰も、行ったことなどないというイングランドまで、わざわざやってきたのだ。
「ぜったいに見つけだしてやる」
そのとき、空の方から歌声が聞こえてきた。
「白い月、女王さまの白い月、花婿《はなむこ》さまに贈る月……」
月だって?
興味をおぼえ、彼は体を起こすと美しい青年に姿を変えた。
枝から枝へとひらひらと飛んでいく、小さな妖精に声をかける。
「よう、お嬢《じょう》さん、ご機嫌だね」
「こんにちは、黒髪さん」
「ロンドンへ行きたいんだけどさ、こっちでいいのかな」
「ええ、もうすぐですわ。わたしもロンドンへ行くんです。女王さまの花婿を迎えに」
「そいつはめでたいな。で、今歌ってた白い月ってどんな月なんだ?」
「本物の月ですわ」
「まさか。本物の月が手に入るわけないだろ」
「それが入ったんですのよ。ちゃんと満ち欠けするんですの」
「へえ、めずらしい。ちょっと見せてくれよ」
「少しだけですわよ」
小さな妖精は、上機嫌だからか警戒《けいかい》もせず、彼の目の前に乳白色《にゅうはくしょく》に輝く月≠ェくっついた指輪を取りだして見せた。
「本当に満ち欠けするのか?」
「もちろんですわ」
「そっか。いいもの見せてもらったよ。ありがとうな」
指輪を返しながら、彼は微笑《ほほえ》んだ。
「どういたしまして。それじゃあわたし、先を急ぎますので」
「ああ、じゃあな」
ひらひらと飛んでいく姿が、やがて木々の向こうに見えなぐなると、彼はぺろりと舌を出した。
「間抜けな小妖精だ」
開いた手の中には、月≠フ指輪が握られていた。
* * *
借り物の一張羅《いっちょうら》に身を包み、足を踏み入れた場所は、ポール・ファーマンにとってはじめての、社交界のサロンだった。
上流階級が集まる高級クラブ、そこで開かれた展覧会には、名だたる人物が集まっている。
広いホールに展示された絵画の数々は、ほとんどが、このところロイヤルアカデミーに次々と入選している流行の画風だ。ロマンティックな物語を主題にした、初期ルネサンスの様式は、優美ではかなげで、この英国の、うるわしき女王|陛下《へいか》の治世《ちせい》にふさわしいともてはやされている。
しかしまったく無名の、若い画家の絵もある。こういった場所で紳士淑女《しんししゅくじょ》の目にとまれば、画壇《がだん》に出ていくチャンスになる。
そんなわけで、まだ駆け出しのポールの絵も、画商《がしょう》が手配した立派な額に収められ、豪華なシャンデリアの下に並べられることになったのだった。
しかし今のところ、彼の絵の前で足を止める紳士はいない。
少々地味だとよく言われる。貴族が好む絵の傾向はわかっているつもりでも、自分の絵はなかなか変えられない。だから今回の出品には、さほど期待しているわけではない。
それよりも、ポールはサロンの中ほどが、さっきから気になっていた。
にぎやかな談笑の輪、その中心にいるのは目立つ金髪の青年だ。
絵画の美男美女もかすむほどに絵画的な美貌《びぼう》。彼が動くと、その場の空気も動く。光が彼についていくかのごとく、影が動く。
だが、ポールが気になっているのはそれではない。
よく似ている。まるであの少年が成長したかのようだ。
死んだはずの、彼が。
「ポール、何をぼんやりしているんだ。チャンスだぞ」
はっと我に返った画家は、じっと目で追っていた青年が、自分の絵の前に立っているのにようやく気がついた。
画商は、急いで彼を引っぱっていく。青年のそばまでやって来ると、商売人らしく慇懃《いんぎん》に声をかけた。
「いかがです、伯爵《はくしゃく》。いい絵でございましょう?」
社交界で噂《うわさ》の的《まと》になっている、その若き伯爵の名は、エドガー・アシェンバート。この春に、外国から帰国したばかりだという。
「そうだね。これは、ティタニア?」
「はい。『真夏の夜《よ》の夢』の妖精女王がモチーフでございます」
プリムローズの花影で、うたた寝をする月の妖精。絵に見入る伯爵の視線は、まるで彼女に恋をしているかのようだった。
絵の力ではない。伯爵が見つめるだけで、絵が輝きだして見えてくるのだと、ポールは驚かされる。
それは伯爵の、やわらかく馴染《なじ》んだ山羊皮《キッド》の手袋や、ネクタイの結び目や、イブニングコートの上品な光沢《こうたく》さえ、芸術的に見えるのと同じように。
あまい花の香りが、絵の中から漂ってくるかのような錯覚《さっかく》さえ起こす。
その香りはこちらへ近づいてきた貴婦人のものだったけれど、そうと気づくのに時間がかかったほどだった。
「伯爵にはうってつけの主題じゃありませんこと?」
青いドレスの貴婦人が言う。
画商は、そこですかさず売り込んだ。
「そうですとも、この社交界で、伯爵は誰よりも妖精をよくご存じのはずですから。わたくしとしても数ある妖精画の中から、これはと思うものをお持ちしたのですよ」
そして画商は、ポールの方に振り返る。この絵の作者だと、性急《せいきゅう》に紹介した。妖精の国に領地を持つという伯爵は、ポールを見てやわらかく微笑んだ。
まだ二十歳《はたち》そこそこだと聞いている。ポールより年下だというのに、新人画家に注ぐ眼差《まなざ》しは、鷹揚《おうよう》な後援人のものだ。
この伯爵に気に入られようなんて、無謀《むぼう》な試みではないのか。気後《きおく》れしながらも、画商に肘《ひじ》でつつかれ、ポールはどうにかあいさつをした。
「お目にかかれて光栄です。アシェンバート伯爵」
「きみは、よく妖精画を?」
「あ、はい。ドレイトンやスペンサーのような妖精文学が好きで」
「見たことは?」
「は?」
妖精を見たことがあるのかと訊《たず》ねているのだ。しかしその質問が、冗談なのか本気なのかわからずに、ポールは戸惑《とまど》った。
妖精国伯爵《アール・オブ・イブラゼル》、という彼の名は、人の興味をかき立てるほどにロマンティックだが、ただの名ではないのだろうか。実在しない領地名を爵位《しゃくい》に持つ貴族はほかにもいる。
「伯爵、純粋な芸術家をからかうものじゃありませんわ」
「おや、レディ。妖精の存在を信じてはおられないので?」
「あなたが見えるとおっしゃるなら、信じてもよろしくてよ」
「ええ、見えますよ。この世の女性《ひと》ならぬ美しさで、誰もをとりこにする妖精が。あなたとお話ししている僕は、夢でも見ているのでしょうか?」
「お上手ね」
ふたりの間に話がはずめば、そのままポールと画商の存在は忘れられてしまいそうだった。
画商がうしろから、もっとしっかり売り込めとせっつくが、もともとポールは口べたなたちだ。
言葉をはさめなくて困っていると、またふと思い出したように伯爵がこちらに顔を向けた。
「ほかの絵も見てみたいな、ファーマン君」
「え……」
「気に入っていただけましたか」
思いがけない言葉に硬直していたポールを押しのけて、画商が身を乗り出す。
「そう……、このティタニアが、僕の好きな女性を思わせる」
「あら、聞き捨てならないわ。恋人ですの?」
「いいえ、片想いなんですよ」
「まさか、信じられませんわ」
「どうにも女性の気持ちがわからなくて、すぐ怒らせてしまうんです」
「あなたに女心がわからないはずはございませんでしょう?」
「本当ですよ、レディ。ご教示《きょうじ》いただきたいぐらいだ」
「わたくしでよろしければ、おやすいご用ですわよ」
本当に絵を気に入ってもらえたのか、それとも貴婦人を口説《くど》くダシにされたのかわからないまま、ポールはふたりの背中を見送りながら突っ立っていた。
あの少年によく似ていると思った。でも、話をすれば印象がまるで違う。
当然だ、彼であるはずがないのだから。
*
|接ぎ木リンゴ《インプトゥリー》の下で眠ると、妖精に連れ去られる。
美しい若者や娘なら、木の下を通りかかるときは要注意だ。妖精の魔力が眠りを誘う。少し休もうと木の根元に座り込んだら、きっともう、目覚めることはないだろう。
そうしていなくなった者は、妖精の花嫁《はなよめ》や花婿《はなむこ》になるのだという。
「その昔、青騎士伯爵のご先祖にも、うっかり接ぎ木リンゴの下で眠ってしまった方がいらっしゃいましてね」
トムキンスがそう言った。
伯爵家|執事《しつじ》の彼は、邸宅内の一室で、デスクに積まれた招待状の束を片端から封印していく。
青騎士伯爵というのは、この屋敷の主人、アシェンバート伯爵のことを妖精たちが呼ぶ名だ。先祖の、青騎士|卿《きょう》と呼ばれた人物にちなんでいる。
現在の英国人にとってその名は、十六世紀に書かれた幻想小説の主人公にすぎないが、この伯爵家の先祖をモデルにしていることは、知る人は知っている。
「それでどうなったんですか?」
リディアも手紙の封を手伝いながら、トムキンスと妖精話に興《きょう》じていた。
「美しい妖精女王のもとへ連れていかれたそうです」
その昔は妖精国の領主として、不思議な力を持っていたという青騎士卿の血筋はすでに絶えた。しかしそんな、青騎士伯爵に代々|仕《つか》えてきたトムキンスの家には、妖精にまつわる伯爵のエピソードが語り継がれているらしい。
「伯爵は妖精女王と結婚を?」
「もう少しで結婚しなければならなくなるところだったそうですよ。でも、伯爵は魔法の呪文《じゅもん》を知っていたんです。それでどうにか解放されて、人間界へ戻ってこられたとか」
「その魔法の呪文、知ってるわ」
「おや、本当ですか? さすがはフェアリードクターでいらっしゃる」
リディアは、妖精博士《フェアリードクター》としてこの伯爵家に雇われている少女だ。
フェアリードクターというのは妖精の専門家で、妖精の姿が見えるし話もできる。十九世紀ともなった今では忘れ去られつつある、伝統的な妖精とのつきあい方も知っている。
もともと妖精博士の仕事は、人と妖精が共存していくために知恵を貸し、妖精との取り引きや駆け引きを請《う》け負《お》うことだった。
亡き母のあとを継いで、この仕事を始めたばかりのリディアは、まだまだ半人前だが、やる気と誇りは一人前のつもりだ。
「それでリディアさん、いったいどんな呪文なんですか?」
「あら、トムキンスさんは知らないの?」
「ええ、その部分は伝わっていないんですよ。それで私、ずっと気になっていたんですがね」
「僕も気になるな。教えてよ、リディア」
割り込んだ声は、現在の青騎士伯爵、エドガーだった。颯爽《さっそう》と部屋へ入ってくると、紙切れをテーブルに置く。
「トムキンス、招待客の追加リストだ、頼むよ」
「これでぜんぶですか?」
「おそらくね。料理の手配は間に合うかな」
「どうにかいたしましょう」
エドガーの無茶な注文を、トムキンスはまるで売られたケンカのように買う。いや、引き受ける。主人に「できません」と言うことは、執事として負けだと思っているふしがある。
|社交界の季節《ザ・シーズン》が始まって、ロンドンでは毎日のように、どこかで晩餐《ばんさん》会だの舞踏《ぶとう》会だのが開かれている。エドガーが夜会《やかい》を主催すると言い出したのは当然のことだが、決めた日取りがあまりにも性急だった。
それ以上に、トムキンスの手配は素早かったのだから、リディアは感心するだけだ。
「ああそれから、リディア、きみも招待客のひとりだからね。父上のところに招待状が届くはずだからそのつもりで」
え、とリディアは、招待状を封印する作業の手を止めた。
「舞踏会なんて、あたしには無理よ!」
「心配しないで、来るのは貴族ばかりじゃないから」
そうはいっても、中流階級《ミドルクラス》出身で社交界に出ているとしたら、それなりの資産家たちだ。
「それに、そんな格式張った作法《さほう》は必要ないよ。宮廷舞《きゅうてい》踏会じゃないんだから。ああそう、メースフィールド公爵夫《こうしゃく》人、オペラハウスで会っただろう? 彼《か》の貴婦人がまたきみの妖精話を聞きたいと言っていた。そういえば夫の公爵は、きみの父上の恩師とは従兄《いとこ》どうしだって、知ってた?」
知らなかった。そして気がつけば外堀をうめられ、断れないようになっている。
学者としての変人ぶりを認められている父はともかく、その娘が父に縁のある貴族に失礼なことをするわけにはいかないではないか。
エドガーのいつもの手だ。
「でも、ダンスなんてできないもの」
「トムキンス、ダンスの教師はいつ来るって?」
は?
「今日の午後です」
「ということだからリディア、問題はないよ」
大ありじゃないの!
と叫びたかったが、にっこり微笑《ほほえ》むエドガーを目の前に、リディアは口を開けたまま声を発する気力を失っていた。
「とりあえず、形になっていればいいよ。きみと踊るのは僕だけだから。そう、僕以外とは踊らないこと。いいね」
「……どうしてよ」
「妬《や》けるから」
目を見つめながらきっぱりと言うが、リディアにはからかわれているとしか思えない。
エドガーは、いつでも万事《ばんじ》この調子だ。
ちょっとしたいきさつがあって、妖精国伯爵の名を得たエドガーには、当然妖精に関する知識がない。だからとリディアが伯爵家顧問フェアリードクターにさせられたのも強引だった。
スコットランドの片田舎《かたいなか》にいた十七歳の少女には、女王|陛下《へいか》のお墨付きまで出されては断るすべもなく、貴族の大邸宅に仕事部屋を持つことも、大都会ロンドンでの暮らしも、三カ月たってようやく慣れてきたところだ。
でも、この伯爵の考えていることは、相変わらずまったくわからない。
女性相手には片っ端からあまい言葉をささやく。恵まれた美貌《びぼう》と計算高さで、いくらでも自分を魅力的に見せることができる人だ。
リディアは、彼のこういうせりふを鵜呑《うの》みにしてはいけないと知っている。
エドガーにとって、他人を心地よくする言葉は、思い通りに動かすための手段にすぎないのも知っている。
けれどわからないのは、リディアみたいな田舎娘をパーティに引っぱり出して何が楽しいのかということだ。
単に、フェアリードクターというめずらしい少女を、異国の鸚鵡《おうむ》か何かみたいに連れ歩いてみたいだけなら、そろそろ飽きてもよさそうなものなのに。
「あなたにも、お月さまの呪文が効けばいいのに」
ため息まじりにリディアはつぶやく。
「お月さまの呪文?」
「そうよ、しつこい妖精を追い払う呪文」
「リディアさん、それが昔、青騎士伯爵が使ったという魔法の呪文でございますか?」
「ええ。妖精の求婚を断るには、『満ち欠けをくり返す、あの月を贈ってくださるなら』と言えばいいの。ぜったいに無理だから、妖精たちはしかたなく立ち去るのよ」
「なるほど、妖精は約束には忠実だといいますからね。我らが伯爵も、それでとらわれの身から解放されたわけですか」
感慨《かんがい》深げに頷《うなず》くトムキンスを横目に、エドガーはリディアのすぐそばへやって来て、デスクに寄りかかる。こちらを見おろしながら、意味深《いみしん》ににんまり笑う。
「僕はしつこいから、簡単にはあきらめないね。どうにかして、月をきみに贈ってみせるよ」
リディアがしつこい≠ニ言ったことが少々気に障《さわ》っているようだ。
「……そんなこと言うのは、本命だけにしなさいってこと」
「本命だよ」
いつでも目の前にいる女性が、でしょ。
「だから気になるんだけど、きみはその、お月さまの呪文をとなえたことがあるわけだよね」
「え……」
鋭い指摘に、どきりとさせられた。
「僕にも効けばいいと言っただろ。誰を追い払ったんだ?」
「よ、妖精よ」
「妖精に求婚《プロポーズ》されたんだ」
「プロポーズ……ていうか」
「先をこされた気分だ。そこまできみに恋した男が僕のほかにもいるだなんて」
「ち、違うの! そんなのじゃなくて、ちょっと変わり者の妖精で、ほら、妖精だから恋とかじゃなくて、人間を手に入れてみたいってなものよ」
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「じゃあほかにはいるの?」
「は?」
「きみを好きになった男」
「いるわけないでしょ! 妖精とばかり親しくしてるって気味悪がられてたのよ。あたしが男の子から告白めいた手紙をもらったのは一度きりよ。それもその子にとっては仲間|内《うち》の罰《ばつ》ゲームよ!」
言ってしまってから我に返れば、何を正直に告白しているのだろうと恥ずかしくなった。
そんなことまでこいつに話す必要なんかなかったじゃない。
「男の子ってのは不器用なんだよ。悪ふざけの延長でしか好きな子に近づけなかったりする」
そういう場合もあるのかもしれないけれど、自分には当てはまらないと思う。ただリディアは、エドガーに笑われなかったのを不思議に感じていた。
人に話したことはなかったけれど、笑われるようなできごとだと思っていた。彼らにとっては軽いいたずらだ。
でも、笑われなくてほっとしている自分は何なのだろう。
こちらをまっすぐに見るエドガーの、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳は、やさしげでいながら扇情的《せんじょうてき》だ。
目が合えばどうしていいかわからなくなってうろたえる。それでも冷静な部分で、こいつはこの手で誰でもだますのよと言い聞かせている。
たぶんリディアが冷静でいられるのは、彼がそもそも、もと強盗の悪党だと知っているからだ。
彼も、どれだけ口でうまく言ってもリディアはなびかないと、本当はわかっているのではないだろうか。
だから今は、微妙に友情のようなものが成り立っている、と感じられることもある。
が、それはリディアだけの錯覚《さっかく》だろうか?
いつのまにか執事《しつじ》が部屋からいなくなっていることに気づくと、よける隙《すき》もないくらいさりげなく、デスクの上で手を重ねられていた。
「でもね、きみの周囲に不器用な男しかいなかったことを、僕は感謝したいくらいだ」
引っ込めようとしたけれど、しっかりと握られる。けれどむりやりというほど強くもなく、やさしく包み込むように。
だからかどうか、リディアも力が入らなくなってしまう。
「エドガーさま、スレイド氏から荷物が届いておりますが」
そこへ割り込んだのはレイヴンの声だった。
伯爵《はくしゃく》家の召使いとして働いている、褐色《かっしょく》の肌の少年は、エドガーがもっとも信頼している従者だ。アメリカの裏社会にいた頃から、主人を守るためなら何でもしてきたというくらいに忠実な。
しかたなくというふうにリディアから手を離したエドガーは、レイヴンの方に振り返った。
「レイヴン、気をきかせるということを最初に教えなかったか?」
それって、最初に教育するべきことだろうか?
「はい。ですが先日、リディアさんが困っていたら助けるようにとおっしゃいました」
なるほど、とエドガーは深刻に眉根《まゆね》を寄せた。なにしろレイヴンは、冗談を言っているわけではない。エドガーに出会う前は、感情を持たないように教育され、道具のように扱われていたというから、気をきかせるなどかなり難しいことのようだ。
「どちらを優先するべきなのですか?」
「それはね、時と場合によるんだよ。臨機応変《りんきおうへん》に……、まあいいよ。リディアが困っていると今のおまえは判断したんだろうから」
いつでもほとんど無表情なレイヴンだが、小さくまばたきしたのはエドガーにとがめられなくて安心したかのように見えた。
「で、スレイドって……、ああ、あの画商《がしょう》か。荷《に》を解いてくれ。ちょうどよかった。リディアに見せたいと思っていたところなんだ」
レイヴンがテーブルに置いたものは、一フィート四方ほどの、淡い色彩で描かれた妖精画だった。
思わずリディアは覗《のぞ》き込む。
「まあ、きれい」
「若手の画家なんだけどね、気に入ったんだ」
「女の人なの?」
「あのね、画家じゃなくて絵を。この妖精女王がきみに見えるから、どうしても手元に置いておきたくなった」
彼はまた、リディアに熱い視線を向ける。
「どこもあたしに似てないわよ」
「似てるよ。かわいらしくて神秘的で、この閉じた目を開いたら、きみと同じ金緑の瞳に違いないと思ったんだ。うるわしきティタニア、僕にとってきみのイメージそのものだ」
また始まった。
リディアは助けを求めるようにレイヴンを見た。しかし彼は、今度は「気をきかせる」方を選んだらしい。さっと目をそらす。
「そうだ、きみをモデルに妖精画を描いてもらおうか。この屋敷を飾るにふさわしいじゃないか」
「無理よ、モデルなんて」
「楽な姿勢で座っていればいいだけだよ。いい考えだ。絵の中のきみなら、キスしても怒らないだろう?」
眠れるティタニアに、エドガーは唇《くちびる》を近づける。似ているとは思えなくても、リディアはあせる。
「や、やめて!」
つい叫んでしまう。
「どうして?」
「似てるとか言って、そういうことやめてちょうだい。変な気がするじゃないの。それにあたしの絵をあなたが好き勝手にいじるなんていやよ!」
「べつにそんな、いやらしいことするつもりはないけど」
「は……、そ、そんなこと言ってないでしょ!」
「キス以上のこと想像した?」
真っ赤になるリディアを、楽しそうに見つめる彼は、本当にどうしようもない軽薄《けいはく》男だ。
「もう、あたしはあなたのおもちゃじゃないのよ。ダンスをおぼえろとかモデルになれとか、お月さまをくれないなら何もかもは無理よ!」
お月さまの呪文《じゅもん》が効くなら、こいつの戯《ざ》れ言《ごと》を封印したい。そしたらどれだけ平安に過ごせることか。
しかしエドガーに効くはずもなく、彼はどこまでも上機嫌に微笑《ほほえ》んでいる。
「じゃあとりあえず、ダンスに専念してもらおう。レイヴン、相手役を務めるように」
「えっ、彼と練習するの?」
「急だったから、先生は助手を連れてこられないそうだ。だからレイヴン、足を踏まれたくらいで怒らないようにね」
「はい」
と神妙《しんみょう》に答えるレイヴンを、リディアはこわごわうかがった。
うそでしょ。
エドガーには完璧《かんぺき》なほど忠実なレイヴンだが、敵には容赦《ようしゃ》がない。殺人鬼として教育を受けていたという彼と、ダンスの練習をするなんてリディアにはそら恐ろしい。
彼自身のことはきらいじゃないけれど、彼が自分でもコントロールするのが難しいという殺戮《さつりく》の衝動《しょうどう》に結びつくようなことは避けたいではないか。
「ねえリディア、人間相手の場合は、しつこい男を追い払うより、あきらめた方が幸せだってそのうちにわかるよ」
お月さまの呪文は、エドガーには逆効果だったようだ。
いつもよりちょっと意地悪だわ、とリディアはため息をついた。
カドリール、ワルツにギャロップ。はじめてのステップに大混乱しながら、リディアは悪戦苦闘する。
レイヴンはまるで機械仕掛けの人形のように、正確なステップを踏むからなおさら、ひとつ間違えただけでバランスを崩すし転びそうになるし、当然何度も彼を踏んだり蹴《け》ったりした。
「ご、ごめんなさい……」
「……大丈夫です」
痛いなんてひとことも言わないし、表情にも出さないけれど、今の一呼吸の間《ま》に、怒ってるわとリディアは思う。
それにしてもレイヴンは、ダンスなんていつ誰に習ったのだろう。
などと余計《よけい》なことを考えたせいで、また間違えた。
「ああお嬢《じょう》さま、そうじゃありません。左足を先に、そしてターンですよ」
ヴァイオリンを弾きつつ指導するダンス教師は、痩《や》せた男性だ。やたら甲高《かんだか》い声で話す。
「少し休憩《きゅうけい》しましょうか。初日から張り切って、怪我《けが》をされるといけませんからね」
先生の言葉にほっとしたのは、リディアよりもレイヴンだったかもしれない。
飲み物を用意した隣室《りんしつ》へ先生を案内するために、レイヴンも出ていってしまうと、リディアはひとりになって窓辺の椅子《いす》に腰をおろす。と、そこに灰色の猫が姿を現した。
「おいおいリディア、何やってんだよ」
リディアの相棒の妖精猫だ。紳士《しんし》を気取ってネクタイをしているし、二本足で窓縁《まどべり》に立って、腰に手をあてたりなんかしているが、姿形《すがたかたち》はまったくの猫だ。
「見てたならわかるでしょ、ダンスよ」
「ふうん、おれはまた、あの大鴉《レイヴン》氏を痛めつけてるのかと思ったぜ」
ニコの憎まれ口に腹を立てるよりも、その通りだわと落ちこまされた。
「ねえニコ、そんなにあたし、ひどかった?」
「ダンスというより凶器だな」
「……レイヴン、怒ってるかしら」
「気にすんなよ。伯爵《はくしゃく》さまに頼まれた仕事なら、奴は拷問《ごうもん》だろうと黙って受けるさ」
拷問って、あんまりじゃない。リディアは憮然《ぶぜん》と口をつぐむ。
「あのう……、すみません」
鈴の音《ね》のような声が、聞こえたような気がした。あたりを見回すが、誰もいない。
「あ、忘れてた。リディア、伯爵はいるのか?」
「いると思うけど、何?」
「このお嬢さんが、伯爵に用があるんだとさ」
ふさふさしたしっぽをニコが持ちあげると、そこにごく小さな妖精がいた。
黄金《こがね》色の花びらに身を包んだ妖精は、ニコの灰色の毛をかきわけつつ進み出ると、リディアに小さくお辞儀《じぎ》をした。
「はじめまして、フェアリードクターさん」
「あなた、野原の妖精?」
「はい、マリーゴールドとお呼びください」
なるほど、マリーゴールドの精らしい。
「伯爵に用って、どんな?」
「青騎士伯爵へ、主人からお届け物をことづかってまいりました。どうかお取り次ぎくださいませ」
礼儀正しい態度と、善良な種族だという安心感で、リディアはあまり深く考えずに頷《うなず》く。
「玄関で執事《しつじ》を呼んだ方がいいわよ。でもあなた、エドガーには見えないと思うの。人の姿になれる?」
「あまり得意ではないのですが」
そう言いながらも、マリーゴールドはふっと姿を消した。代わりにそこには、花びら色のドレスを着た小さな女の子が立っていた。
「残念ながら、大人の人間にはなれないのです」
五歳くらいの外見で、丁重《ていちょう》なしゃべり方は奇妙な気もするが、妖精だからしかたがない。
「まあいいんじゃない。あ、あたしまだダンスの練習があるから、ニコ、ちゃんと案内してあげてね」
先生とレイヴンが部屋へ戻ってきたのだ。
一瞬のうちに小さな姿に戻った妖精は、ニコのしっぽにつかまる。
「さあお嬢さま、続きを練習しましょうか」
先生に促《うなが》され、リディアはまたレイヴンの前に立った。
「まずはワルツのステップから」
先生が手拍子を取る。そのリズムに紛《まぎ》れて、ニコといっしょに出ていく妖精の声が、ふと耳に届いた。
「ああやっと、青騎士伯爵をお迎えできるわ。女王さまの花婿《はなむこ》に」
え?
昔、青騎士伯爵と結婚しようとした妖精女王がいた。
まさかその、女王の使い?
まさか、あり得ないけど、約束どおりに月を持ってきたとか?
もしそうなら、エドガーがそれを受け取ってしまったら、妖精と結婚しなければならなくなる。
そこまで考えて、あせったリディアの足元がもつれた。
「リディアさん、あぶない」
彼女をささえようと、レイヴンは強く腕をつかんだのだけれど、考え事に夢中だったリディアは、とっさに混乱する。
突き放そうとし、スカートのすそを踏んでつんのめる。
「きゃあっ!」
レイヴンにぶつかって倒れ込み、おもいきり、彼を下敷きにしてしまった。
なにしろ東洋系の彼は、一般的な英国人男性より小柄で華奢《きゃしゃ》だ。見事にいっしょに転んでしまう。
「痛《い》った……、あっ、ごご、ごめんなさいレイヴン。あたしったら……」
彼の上からどこうとしたが、クリノリンをつけたスカートで身を起こすのはなかなか大変なのだ。
「ああ、おふたりとも、お怪我はありませんか?」
ようやく家庭教師が近づいてきたが、気がきかないらしく、手を貸してくれようとしない。
もたつくリディアの目の前で、そのとき無表情なレイヴンがかすかに眉《まゆ》をあげた。
鋭い殺気を間近に感じ、一瞬にして鳥肌が立つ。
さすがにキレた?
と思った瞬間、リディアはぐいと肩を押さえつけられた。
懐《ふところ》に手を入れたレイヴンが、ナイフを取り出すのがちらりと見える。と、家庭教師の罵倒《ばとう》が聞こえた。
「覚悟しろ、プリンスの犬め……!」
え? どうしてダンスの先生が、プリンスのことを?
しかし問う間もなく、レイヴンはリディアをむりやり押しのける。先生につかみかかり、ナイフを素早く動かす。
「ぎゃあっ!」
聞こえたのは、先生の悲鳴だ。
そのあとに続く激しい物音よりも、目の前に落ちたものを見てリディアがあげた声の方が大きかったかもしれない。
間もなく執事とエドガーが駆《か》け込んできたが、家庭教師はいなくなっていた。
レイヴンに切られた指をそのままに、先生は窓から逃げ出したようだった。
もういや、とリディアはつぶやく。
エドガーとかかわってから、身の危険を感じることがしょっちゅうだ。
妖精がらみの危険なら、心構えもあるが、血が流れるような危険はごめんだ。
もともとエドガーは、プリンスと呼ばれる人物を頂点にした、謎めいた組織から逃亡してきた身だし、彼らと戦争を始めようとたくらんでいるふしがある。
伯爵《はくしゃく》家に雇われている以上、こういうことは何度でも起こるのだろうか。
辞めようかしら。という考えが頭をよぎるが、ここにはフェアリードクターとしてのまともな仕事がある。
エドガーが本物のアシェンバート家の人間ではなくても、この伯爵家が受け継ぐ土地は、いまだ人と妖精が共存していて、リディアのような未熟者|妖精博士《フェアリードクター》でもいちおうは役に立っている。
スコットランドに帰っても、これまでのように変人扱いされながら、あるかないかわからない仕事の依頼を待つだけだ。
「レイヴン、先生はおまえをねらったんだな」
「はい。プリンスの犬、と私に言いました」
考えながら、エドガーはリディアの前を往復する。
「いったいどういうことなのよ」
「たぶん、プリンスに敵対する連中だろう。レイヴンがプリンスのもとにいたことを知っていて、英国に来たのも奴の差《さ》し金《がね》だと思っている」
「なら、あなたたちもプリンスと敵対してるってことわかってもらったら?」
「突然|襲《おそ》いかかってくるような奴に、説明する機会が? しかしまあ、プリンスに野放《のばな》しにされているくらいだから、たいした連中じゃないんだろう」
「でもエドガーさま、私のことを知っているなら、エドガーさまのことも知っているのではないでしょうか」
立ち止まり、彼は考え込む。
「そうだな。用心しておこう」
エドガーからすべてを奪い、とらえて奴隷《どれい》にしていたというプリンスとその組織は、アメリカにある。なんといっても大西洋の向こうだ。エドガーの居場所をつかむにも時間がかかるはずだし、その間に彼は、伯爵の位《くらい》を手に入れ、英国の社交界に確固《かっこ》とした位置を築き、誰にも手出しができないようにしようとしている。
それだけでなく自分たちを苦しめた人物への復讐《ふくしゅう》をたくらんでいるふしもあるが、今のところは、勝ち取った自由な生活を謳歌《おうか》している。
このまま彼らが、つらい過去も復讐も忘れてくれればいいとリディアは思っていたが、それは難しいことなのだろうか。
まさか、敵の敵にまでねらわれるだなんて理不尽《りふじん》だ。
流血|沙汰《ざた》に巻き込まれても、リディアがここを去れない理由のひとつは、彼らの今後が気がかりなのもあるかもしれない。
フェアリードクターの仕事以外に何ができるわけでもないけれど、エドガーを伯爵にすることにかかわった以上、彼には伯爵家を盛り立てていってほしいと思う。
それが領地に棲《ひそ》む妖精たちのためでもあるから、力になりたいのだ。
考えながらリディアは、レイヴンが手に包帯を巻いているのに気がついた。
「レイヴン、怪我《けが》をしたの?」
「かすっただけです」
「あの、ごめんなさい。あたしがのしかかったりしたせいね」
ふだんのレイヴンなら、ひとりを相手に怪我などするはずがないからだ。
エドガーがちらりとこちらを見た。
「のしかかった? それはまた……。明日からは僕が練習相手をしようかな」
エドガーにのしかかったら、と想像したリディアは、なんだかとんでもないことになりそうな気がしてあせった。
「あ、あなたじゃ気が散って練習にならないわよ」
「意識してくれてるってこと?」
「は……? そんなわけないでしょ! あなたのそういう下心がいやなの!」
「けどね、レイヴンにだって下心くらいあると思うよ。なあ?」
返事を求められたレイヴンは、少し考え、「たぶん」ときまじめに答えた。
「で、どんな気分だった?」
「あーっ、もう! 何|訊《き》いてるのよ、やめてちょうだい!」
リディアは赤くなって抗議する。エドガーはくすくす笑い、レイヴンは相変わらず無表情だ。
「リディアが恥ずかしがるから、あとでこっそり教えてくれ」
「はい」
「はいじゃないでしょ!」
たった今誰かにねらわれてるとわかって、深刻な状況のはずなのに、どうしてこの人はこうも能天気《のうてんき》なの?
信じられない思いでいっぱいになる。
リディアはまた、どうしてこんな奴に雇われているのかと疑問を感じ始める。
そこへ執事《しつじ》が、伝言を携《たずさ》えて現れた。
「旦那《だんな》さま、本物のダンス教師は、出かけ際《ぎわ》に玄関前の階段から突き落とされて足をくじいたそうで、当分ダンスは難しいとか。たった今使いの方がいらっしゃいました」
ああ、とエドガーはため息に似た声を出す。
「計画的だったわけだ。トムキンス、新しいダンス教師をさっそく慎重《しんちょう》に選んでくれ」
「かしこまりました。それから、小さなお嬢《じょう》さんが伯爵さまはまだかとおっしゃっておりますが」
「そうだ、忘れていた」
はっとリディアも顔をあげた。フェアリードクターとしての責任を思い出せば、エドガーに対する理不尽な気持ちはすっかり消し飛ぶ。
「マリーゴールド! あたしも忘れてたわ。エドガー、もう彼女に会ったの?」
「おや、きみの知り合い? まだ会っていないよ。トムキンスが取り次ぎに来たとたん、きみの悲鳴が聞こえたんだ」
「よかった! 会う前でよかったわ。エドガー、彼女は妖精なの。面倒なことになりそうだから、あたしもいっしょに話を聞くわ。それから、あなたは彼女が持ってきたものを、なんであろうと受け取っちゃだめよ」
怪訝《けげん》そうな顔をしながらも、彼は頷《うなず》く。ソファに腰をおろすと執事に言った。
「お嬢さんをここへ呼んでくれ」
ミス・マリーゴールドは、ついさっきの意気揚々《いきようよう》とした元気をすっかりなくし、やけに落ちこんだ様子で現れた。
「本当に妖精?」
とエドガーはリディアにささやく。
「これ以上大人の姿にはなれないそうよ」
「残念だ。もう十年成長してくれないと、いくら僕でも口説《くど》くのをためらう」
どうかしら。赤ん坊にだっていい顔しそうだわ。
思った通り、けなげなあいさつをする小さな女の子をエドガーは淑女《しゅくじょ》扱いし、手を取って椅子《いす》にかけさせた。
「伯爵さま、お約束の品を、主人からことづかってまいりました。以前に主人が、あなたさまに結婚を申し込んだ際、所望《しょもう》されたものです」
「……結婚?」
のみこめないらしいエドガーに、リディアが説明する。
「だから、あなたじゃなくて青騎士伯爵のご先祖が妖精に結婚を申し込まれたのよ」
「ああ、さっきのトムキンスの話か。……本当のことだったんだ。てことは、ミス・マリーゴールド、きみのご主人は妖精女王?」
「はい。月野原の女王でございます」
「美人?」
「それはもう……」
乗り気になってどうするのよ。
いやもちろん、エドガーが乗り気なら、リディアがこの結婚話を阻止《そし》する理由はないのだが。
「でも女王もその姿? ちょっと欲情できないかなあ」
「ご心配なく。その必要はございませんので」
「えっ、きみたちそういうのはナシ? それじゃあ何の楽しみも……」
「そういう問題じゃないの!」
ほうっておいたらどんどん論点がずれそうだ。リディアは彼の腕をつねりながら、さっと割って入った。
「マリーゴールド、女王との約束をしたとき、伯爵は月≠所望したはずよ。あなた、月を持ってきたって言うの?」
「はい。……でもそれが……、盗まれてしまったんです!」
わっと彼女は泣き出した。
「盗まれたって? ひどい奴がいるものだな。お嬢さん、いきさつを聞かせてくれないか。力になれるかも……」
「エドガー、あなたは黙ってて」
ぴしゃりと言って、リディアは少女に向き直る。
「女王のもとへお帰りなさい。盗まれたものは、月であるはずがないわ。夜空に月はちゃんとかかっているもの。だから伯爵は、女王と結婚はしないのよ」
「いいえ、本当に月を見つけたんです。空の月の方がにせ物でないと言いきれますか? だって女王さまが見つけた月は、ちゃんと満ち欠けするのですもの」
「それはめずらしい。見てみたいな」
リディアが必死に追い返そうとしているのに、エドガーはまた能天気に口を出した。
「ええぜひお見せしたいですわ。きっと気に入って、主人との結婚を承諾《しょうだく》してくださると信じていました。なのに……、いつのまにかこんなものにすり替えられてしまっていて……。たった今、伯爵さまとの面会を待ちながら確かめようと取りだしてみたら」
マリーゴールドが取りだしたのは、そのへんの小石に見えた。
「きっとあいつが盗んだんです。あのひどい妖精が……」
「妖精に盗まれたの? だったら、あたしたち人間が取り戻すのは無理ね」
落胆《らくたん》しつつも、少女は頷く。妖精の事情に詳しいフェアリードクターといえど、人間と接点のないトラブルには介入《かいにゅう》の余地がない。
「道すがら声をかけられて、ああ、あのとき、月≠見せたのがいけなかったんです」
同情は感じるが、どうしようもない。
「ねえマリーゴールド、このまま帰るわけにいかないの?」
「女王さまにしかられます」
「でも盗まれたのならしかたがないわ。許してくださるわよ」
「その月≠、またつくり出すとかできないのか?」
「つくり出す? あれは自然が奇跡の力で生み出す、とてもめずらしいもの……」
と言いかけ、彼女ははっとしたように首を横に振る。
「いえ、月は月、この世に月はひとつだけです」
「ふうん、妖精女王って、ダイアナとかティタニアとか月の女神の名で語られるじゃないか。月の妖精なら、小さな月を自由につくり出すこともできるのかと」
「女王は月の妖精じゃなくて、月光の妖精って言った方が近いかしら。彼女たちみたいな小さな妖精の集団はね、周囲の草花や昆虫や小動物の化身《けしん》であってその場の風景を体現《たいげん》してるの。中でも高貴な妖精が、月を象徴する女王なのよ」
「そうなんだ。すばらしいね。きみは可憐《かれん》なマリーゴールド、シャムロックやデイジーもいるのかな? コオロギやキリギリスも?」
ご機嫌な様子で、エドガーは続けた。
「すぐには帰りにくいだろうから、しばらくここにいたらどうだい? ねえリディア、妖精の客人《きゃくじん》なんてすてきじゃないか。女王には、月≠取り返そうと手を尽くしたと言いわけもできるし」
マリーゴールドは、少しばかりほっとしたように泣いていた顔をあげた。善良な野原の妖精だ。それくらいなら問題ないだろうとリディアも思う。
エドガーの、妖精に対する危機感のあまさは少々気がかりだが、月≠受け取りさえしなければ、妖精界に連れていかれることはない。
[#挿絵(img/moonstone_045.jpg)入る]
その月≠ェないのだというし。
いつのまにか灰色の猫が、そばのテーブルに腰かけていた。ヒゲをひくひくと動かしながら、ニコは鼻をこする。
「いやな感じがするぞ」
そう言って、テーブルの上に置かれた小石を一瞥《いちべつ》した。
「何なの? マリーゴールドをだました妖精のこと?」
「わかんねえけどさ、なんかいやな感じなんだ。それにこの石、苔《こけ》が生えてるぜ」
苔、水の中にあった石。
リディアも少々、いやな予感をおぼえた。
まさかね、と自分に言い聞かせる。
「旦那《だんな》さま、さっきの先生の忘れ物はどういたしましょう」
そこへ現れた執事《しつじ》の言葉に、ますます気分が滅入《めい》る。
忘れ物、指が四本ばかり。リディアの目に焼き付いているそれが、ぱっと思い浮かぶのだからたまらない。
「きっと取りには来ないだろうからね。野良犬の餌《えさ》にでもするかい?」
ほんの一瞬、エドガーの残酷《ざんこく》な方の一面がかいま見えると、ふとすべてが、悪い方へ向かって連鎖《れんさ》していくように感じ、リディアはその感覚を追い払うように頭を振った。
[#改ページ]
舞踏《ぶとう》会のひと騒動
リディアの自宅、カールトン家は、伯爵《はくしゃく》家の舞踏《ぶとう》会に招待されると決まったその日から、急にあわただしくなっていた。
妖精女王の月≠フ行方《ゆくえ》も、プリンスを敵視する組織のことも、忘れるくらい忙しかった。
その後何事もなく、じっさいリディアは、あのときのいやな予感さえ忘れかけていた。
急いでドレスを仕立てねばならなくなり、靴や手袋や髪飾りをそろえ、ダンスと作法《さほう》をおぼえなければならなかったのだ。
そもそもリディアは、正式な場に出られるようなドレスを持っていなかった。
エドガーに連れまわされて出かけたオペラハウスや貴人宅には、伯爵家が用意してくれたドレスを着ていった。伯爵家付きのフェアリードクターを世間に認めてもらうため、仕事の一部だと言いくるめられて出かけたものだったからだ。
今度の舞踏会もそのようなものだと思っていたが、正式に招待されるのに仕事の延長のつもりではいけないと、めずらしくきっぱりと言った父は、ひとり娘の支度《したく》のために奔走《ほんそう》してくれた。
リディアの父は大学教授で、それなりに上流階級とのつきあいもあるが、にぎやかな場は苦手なので、よほど断れない相手からの招待をのぞいて社交界には出ていかない。
けれども今回は、リディアに恥ずかしい思いをさせないためにもと、いっしょに行ってくれることになった。
だからよけいに、慣れないことをしようとしているカールトン家は、大変なことになっているのだ。
そうこうしているうちに、舞踏会の当日はやって来た。
午後から床屋へ行って、いつもの適当なボサボサ頭をさっぱり整えてきたリディアの父は、仕立屋《したてや》の到着が遅いと、落ち着きなく何度も眼鏡《めがね》をはずしては拭《ふ》いていた。
時間がなかったので、リディアのドレスの仕上がりは当日になってしまったのだ。
結局、届いたのは夕方だったが、カールトン家の家政婦《ハウスキーパー》は手際《てぎわ》よく、リディアの身支度を整えるにはどうにか間にあった。
白モスリンのドレスにはクリームイエローのリボンがかわいらしくあしらわれている。襟《えり》とスカートを飾るのは繊細《せんさい》な手編みのレースだ。
いつもはおろしっぱなしの赤茶の髪を、きちんとカールして少女らしく結いあげる。フリージアをあしらった髪飾りをつけ、ひじまである手袋をつければ、ようやくできあがりだった。
階下で父に呼ばれ、家政婦が出ていくと、リディアはできあがった姿を鏡で確かめながら、そこにいたニコに感想を求めた。
「ねえニコ、どう思う?」
「おれにわかるわけねえだろ」
あくびをしながら、ニコは立ちあがった。
人間たちの忙しさを、どうでもよさそうに眺めていたニコだが、新しいシルクのホワイトタイをしている。
彼も舞踏会に行く気らしい。
「最初の舞踏会なら白がいいって仕立屋さんが言ったのよ。でもちょっと、明るすぎて落ち着かないかしら」
「いいんじゃねーの、若いんだから」
「白だったら染め直しもできるし、リボンやレースをつけ変えれば、何度でも新しいデザインに直せますって」
「何度も舞踏会に行くつもりかよ」
「夜会《やかい》の正装って、思ったより肩が出るのね」
「聞いてねーな?」
鏡の前で体をずらし、リディアは後ろを確認する。
「ねえ、背中も開きすぎじゃない?」
「なんか結局、楽しそうだし」
はっとリディアは我に返る。
「な、何言ってるのよ。これは義務よ、義務」
「べつに楽しめばいいじゃないか。田舎《いなか》の舞踏会とはくらべものにならないんだろ? 町の連中に自慢できるぞ」
それはそう、舞踏会といえば女の子のあこがれだ。リディアだって例外ではない。
故郷の田舎町でも、舞踏会は行われていた。中流階級《ミドルクラス》が主流の、本当にささやかなパーティだったけれど、町から出たこともない少女たちにとってはあこがれの対象だった。
しかしリディアは、舞踏会に出かけたことはない。変わり者扱いされていたから、狭い町で顔見知りばかりの舞踏会に出かけても、楽しめないと思ったからだ。
でもこれから行くのは、本物の舞踏会だ。おとぎ話のような夢のような、貴族の舞踏会。
自分のダンスの腕前は、夢のようとはほど遠いけれど、エドガーに出会わなければあり得ない機会だった。華やかな雰囲気をせいぜい楽しんでこようと思う。
「そうね、どうせ行くなら楽しまなきゃ損ね」
「けどホント、知らない奴と踊らない方がいいぞ。そいつに恥《はじ》をかかせることになる」
ずっとリディアの練習を見ていたニコがそう言うのだから、自分で思っているよりひどいのかもしれない。
先生は、まあ大丈夫でしょう、と言ってくれたけれど、顔が引きつっていたような。
「じゃあ、エドガーにも遠慮してもらった方がいいかも」
いっそその方がリディアは気楽だ。
「いいじゃないか。伯爵さまには日ごろのうっぷんをぶつけてやれよ」
とニコは二本足で立ったまま、前足で猫パンチをしてみせた。
どういう意味よ。
階下から、今度はリディアを呼ぶ声がした。どうやら父が、まだネクタイを決められないらしい。
今行くわと返事をしながら、リディアはすそを少し持ちあげる。
スカートをふくらませるクリノリンを押さえつつ、戸口をくぐらなければならない。フォーマルなドレスで身動きするには、この家のドアも階段も狭すぎるということだ。
「おいおい、家の中でつっかえて身動きできなくなりそうだな」
ニコがあきれた声でつぶやいた。
箱馬車で伯爵邸へ着く頃には、邸宅《パレス》の玄関前にはすでに何台もの、紋章《もんしょう》つきの馬車が停まっていた。
馬車から降りてくるのは、夜会服の着こなしも身についた紳士《しんし》淑女《しゅくじょ》ばかりだ。流れるように伯爵《はくしゃく》邸の玄関へすいこまれていく。
リディアと父も馬車を降り、召使いに案内されて奥へと進む。
いつも出入りしているはずのホールなのに、新しい絨毯《じゅうたん》と無数のランプと、花やクロスで飾られていれば、リディアは別世界へ迷い込んだような気がして、はしたなくもキョロキョロと見まわしてしまった。
玄関ホールから続く弧《こ》を描いた大階段。そこをあがれば広間が目の前に開ける。広間につながるいくつもの部屋はすべて扉が開け放されていて、すでに着飾った人々の談笑でざわめいている。
父に肩をたたかれ、ようやく視線をもどせば、目の前にエドガーがいた。
「伯爵、このたびはお招きにあずかりまして、恐れ入ります」
「ようこそ、カールトン教授、それからリディアお嬢《じょう》さん」
そんなふうに呼びかけられると、今夜は、フェアリードクターではなくカールトン家の娘としてここへ来たのだと意識する。それだけの意識の違いかどうか、彼のことは見慣れているのに、微笑《ほほえ》みを向けられてどきりとした。
「こんばんは。……ロード・エドガー」
いつものような軽口ではいけないと意識すると、急に距離を感じるのだから奇妙なものだ。
「ゆっくりと楽しんでいってくださいね」
そう言っただけで、彼の視線はリディアと父から離れる。
次から次へやって来る招待客を迎えなければならず、リディアだけにかまっている場合ではないのだ。彼からそれ以上言葉をかけてもらうのは無理だと気づき、もう少し何か言ってもらえると期待をしていたらしい自分に驚かされた。
立ち去ろうとしたとき、軽く腕をつかまれた。エドガーは密会の手紙でも渡すように、そっとリディアの手に、コーラルピンクの薔薇《ばら》を落とす。
「ドレスの襟元《えりもと》に飾って」
耳元でささやかれ、ふと父に対して秘密を持ったような、そんな気持ちにさせられたリディアは、振り返った父の視線から薔薇の花を隠していた。
「リディア?」
「な、なんでもないわ、父さま。……ちょっと飲み物をもらってきてもいいかしら」
「ああ、私はメースフィールド公爵《こうしゃく》にあいさつしてくるよ」
父と離れ、人込みに紛《まぎ》れ込んだリディアは、ほっと息をついた。
「動揺してどうするのよ」
エドガーの思わせぶりな言動はいつものことだ。
だいたい、薔薇を襟に飾れだなんて、ドレスに飾り気が足りないってことなのかしら。
あらためてあたりを見回すと、女性たちはみんな艶《あで》やかだ。自宅では豪華に見えたドレスも、大輪の花が咲き乱れるここでは、たしかに地味なくらいだった。
窓ガラスを鏡代わりに、きれいにとげを抜かれた薔薇を襟元に挿《さ》してみる。
豪華な宝石などないだけに、そっけなかった襟元が少しは華やかに見えるかもしれない。
襟のフリルを整えながらリディアは、ふと視線を感じるような気がして顔をあげた。何人かの女性が、さりげなく視線をそらした、ように思えたのは気のせいだろうか。
あたし、何かおかしいのかしら。
父の姿を探そうとし、給仕《きゅうじ》をつとめているレイヴンに気づく。リディアの方へやって来ると、彼はグラスを差し出す。
「お飲物は?」
「あ、ありがと……。ねえレイヴン、あたしのドレス、変?」
「わかりません」
と彼は即答した。
訊《き》く相手を間違ったようだ。
「すみません、間違えました。とてもおきれいです」
「……そう言えってエドガーに?」
「はい」
はいって、どうなのよ。
このずれたやりとりに、すぐそばでクスクス笑う声があった。
「少しも変じゃありませんよ」
そう言ったのは、たまたま近くにいたらしい青年だ。
「なんてぼくが言うのもなんですけど。こういう舞踏《ぶとう》会ははじめてなもので」
やさしそうな瞳だった。
「アシェンバート伯爵が、気さくに誘ってくださったので来てみたんですけど、やっぱり場違いだったかなと心配しているくらいで」
自分の、少しくたびれたイブニングコートをつまんでみせる。
レイヴンは忙しいらしく、さっさといなくなってしまったが、リディアは、舞踏会がはじめてだという青年に親近感をおぼえ、自然に笑顔を向けることができた。
「あたしもはじめてなんです」
見るからに人のよさそうな、まじめそうな印象だった。薄茶のくせ毛は無造作《むぞうさ》にのびたままだが、リディアには気取ったところがない人に見える。
上流階級《アッパークラス》ではなさそうだし、エドガーが直接声をかけたなら、個人的に気に入っている人なのだろう。
「でもお嬢さん、あなたとても注目されてますよ。伯爵とダンスを約束しているでしょう?」
「え?」
ドレスの襟に飾った薔薇を、彼は指さした。
「今夜の、アシェンバート伯爵とおそろいだ」
そういえば、エドガーのボタンホールもこの薔薇だったような。
「その花、うら若き令嬢《れいじょう》たちのあこがれの目を集めてますよ。紳士諸君も気にしてるかな。誘いたくても気が引けるでしょうね。あなたが伯爵だけに夢中だとすれば」
そういう意味なの?
だったら誰にも誘ってもらえないじゃない。
ちょっとくらいは、そういうできごとも期待していなかったこともない。
目と目があって、引き寄せられるように言葉をかわす、なんて夢みたいなことも、ひょっとしたらと考えた。
この薔薇捨ててやろうかしらと思う。でも誘われてむやみに踊ったりしたら、相手に恥をかかせてしまうかもしれない。そういう意味でもエドガーの計算が働いているのだろうか。
主催する舞踏会を、めちゃくちゃにされたくはないだろうし。
やっぱり現実はきびしいのねと、リディアはため息をつく。
ともかく、人に見られているような気がしたのはこの花のせいだったようだ。
「あの、あたし、伯爵とは知り合いだけど、そういうんじゃないんです。ダンスが下手《へた》だから、踊らなくてすむようにってことだと思います」
「ダンスが苦手? ぼくもですよ。踊れないもんだから、誘わなくても失礼に当たらないだろうあなたに、話しかけていられるわけです」
くす、とリディアが笑うと、彼も微笑んだ。
「ああ、申し遅れました。ぼくはポール・ファーマンといいます。駆け出しの画家なんです」
「もしかして、あのティタニアを描いた方?」
「ご覧になったんですか? それは名乗らない方がよかったかな……。絵のイメージと違うって女性にはよく言われるんです。繊細《せんさい》で神経質なタイプだと思われるみたいで」
「そんなこと。あたしは会ってみたいと思ってました。あ、あたし、リディア・カールトンです」
「ミス・カールトン、妖精はお好きなんですか?」
好きというより、見えるし声が聞こえるし、日々妖精と接している。
なんて言ったら、妖精画家でも変な娘だと思うかしら。
「ええ、まあ」
退《ひ》かれたくないから、よけいなことは言わないでおく。
「妖精も神話の神々も、ぼくにとってはイマジネーションの源《みなもと》です。誰も見たことがないからこそ、自由に想像力を羽ばたかせられる」
「でも、見たことのある人がいるから、妖精という存在が人に知られているんじゃないのかしら」
「ああそうですね。人には心の目があるから、目には映らないものも見える」
「心の目、本当にそれだと思います。妖精を見るのに必要なのは」
それだけの言葉だが、リディアは自分のことをわかってもらえたような気がしてうれしかった。
好んで妖精の絵を描く人だから、もしかしたら、妖精が見えると話しても受け入れてくれるかもしれないと思うほど。
いつのまにか静かに、オーケストラの前奏が始まっていた。
ホールの人込みが動き始める。中央に、ダンスをするカップルが集まっていく。
「伯爵《はくしゃく》だ。やっぱり目立つな」
リディアにもすぐに目についた。誰よりも光に映《は》える金髪は、シャンデリアの下でいっそう人目を集めている。
もちろん彼は、賓客《ひんきゃく》の高貴な令嬢たちを次々に誘わなければならないのだから、本当のところリディアと踊るようなひまはないのではないか。
なければないでいいのだけれど。
眺めていると間もなく、カドリールのリズムに乗ってダンスが始まった。
列になって踊りながら、パートナーが入れかわるものだから、エドガーがエスコートしていた少女は、ほんの少し彼から離れて隣の男性と手を取り合う間も、じっと彼の方ばかり見ていた。
少し、うらやましくなった。
「楽しそうだわ」
「踊ってみますか?」
「え、でも……」
「このダンスなら簡単な方だし、間違ってもあんまり目立たないじゃないですか」
そう。だから楽しそうに見えた。リディアが最後まで手こずっていたのは、ワルツとメヌエットだ。
「伯爵としか踊らないと決めているわけでないなら」
楽しまなきゃ損。そう思いながらリディアは頷《うなず》く。
「じゃあ、ファーマンさん、どうぞよろしく」
「ポールでけっこうですよ」
*
中庭へと続く石段の手すりに腰かけ、スコッチのグラスを片手に、妖精猫のニコは鼻歌を歌っていた。
オーケストラが奏《かな》でる音楽は、ここまでよく聞こえてくる。それでいて人込みのざわめきは遠く、静かだ。夜空には三日月《みかづき》、うまい酒にキャビアやスモークサーモンをつまみながら、彼はすっかり上機嫌だった。
本当いうと、魚の卵やペラペラの切り身より、取れたての新鮮な魚をまるごとフライにした方が好きだが、まあこれもそう悪くはない。
音楽を聞きつけて集まってきた小妖精たちが、噴水のまわりや木の根元で思い思いに踊っている。
カールトン家の|家付き妖精《ホブゴブリン》たちもいる。
「ニコさん、青騎士伯爵の舞踏《ぶとう》会は、本当にすばらしいですわね」
黄金《こがね》色の羽をせわしなく動かしながら、マリーゴールドはニコの上をひらひらと飛んだ。
「伯爵ご本人も、とてもすてきな方。女王さまのもとへきてくださったら、わたしたちの国もいっそう幸福になれることでしょうに」
「おいおい、まだあきらめてないのかよ。伯爵を連れていくのは無理だぞ」
「あの月≠ウえあれば、承知してくださるはずでしたのに」
「しかしな、あんたの女王さまが惚《ほ》れた男はあいつじゃないわけだろ。同じ伯爵家を継いでるだけだがそんなのでいいのか?」
「あら、名前が同じならそう変わりはないのでしょう? 人の寿命は短いから、代わりに血と名をつないでいくと聞いたことがあります」
奴は血すらつながってないわけだが。と思いながらも口にはしないでおく。
遠い昔、妖精たちにとってもっとも親しき友人だった人間、青騎士|卿《きょう》。その子孫としての青騎士伯爵という名は、今でも妖精たちにとってとくべつなものがあるのだろうから、女王が執着《しゅうちゃく》するのも無理はないのだろう。
本当いうとニコは、マリーゴールドがあの悪党を妖精女王の国へ連れ去ってくれたら、リディアは解放されるのにと思わないでもない。
このまま伯爵家のフェアリードクターでいることは、エドガーの背後《はいご》にあるわけのわからない争いに、リディアが巻き込まれてしまう可能性もある。
しかしリディアは、いくぶんエドガーに同情的だ。何度もだまされて利用されて、思い通りにさせられていても、悲しい過去を持つ彼に結局同情してしまう。
とはいえそれがリディアの性格なのだからしかたがない。エドガーが妖精に連れ去られるようなことになったら、それが彼の本意でない限り、どうにかして助けようとするだろう。
フェアリードクターとしての責任感で、どんな無茶もするだろう。
「ちっ、やっぱり当分、ロンドン暮らしかねえ」
つぶやいたとき、中庭の小妖精たちが急にざわめきだした。
噴水が勢いよく吹き出す。ブロンズの人魚像を囲む水面が、黒い山のように盛り上がる。
と同時にまがまがしい気配《けはい》が辺《あた》りに漂う。
マリーゴールドはニコのしっぽに身を隠し、ニコはあわてて茂みに飛び込んだ。
噴水の池から突如《とつじょ》現れたのは、堂々として美しい漆黒《しっこく》の馬だった。
「ケ、水棲馬《ケルピー》……」
思わず声が漏《も》れ、ニコは口元を前足で押さえる。
腰を抜かして逃げ遅れた小妖精を蹄《ひづめ》で蹴散《けち》らし、水滴《すいてき》をふくんできらきらと輝くたてがみを震《ふる》わせたケルピーは、首をあげて建物を見あげた。
「あ……あいつです、ニコさん。女王さまの月≠盗んだのは」
「えっ、ほんとかよ」
「人の姿をしてましたけど、あの黒|真珠《しんじゅ》の瞳に間違いありません」
まずい。非常にまずい。
ニコは緊張しながら、ピンと張ったヒゲを意識する。
苔《こけ》の生えた石ころを見たときから、いやな予感はしていたのだ。水棲馬が故郷の水を離れ、ロンドンまでやって来るとはとうてい思えなかったから、まさかと否定していた。
しかし奴は、水棲馬の中でも変わり者だ。ふつう連中は、人間を餌《えさ》としか思っていないが、リディアに興味を持ってつきまとっていたくらい変わり者だ。
人間の嫁をもらったさらに変わり者の弟ケルピーに感化されたらしく、執拗《しつよう》にリディアに、花嫁にならないかと誘った奴だ。
ニコが戸惑《とまど》っているうちに、ケルピーはさっと人に姿を変え、にぎやかな舞踏会が行われている広間へと続く階段をのぼり始めていた。
「……早くリディアにしらせないと」
ようやくニコは体を動かす。そばの木によじ登り、二階の窓に飛び移ると、ケルピーより先にと、煌々《こうこう》とガスランプの輝く広間へ駆け込んでいった。
ダンスの音楽は次々と変わる。しっとりと流れるように歌うヴァイオリンから、軽快なクラリネット、落ち着いた旋律《せんりつ》はチェロのソロ。
ダンスの輪を離れ、演奏を聴きながらの立ち話も、リディアにとって意外と楽しいものだった。
父にファーマン氏を紹介し、妖精物語が好きだという公爵《こうしゃく》夫人との話もはずんでいたとき、人の足元をくぐるようにして、二本足でちょこまかと駆け回っている灰色の猫が目についた。
ニコってば、人込みでは猫らしく四つんばいにならなきゃおかしいでしょうに。
幸い誰も足元など見ていないし、気づいていない様子だったが、リディアは急いでニコのそばへ駆け寄った。
「リディア! 探したぞ! 大変なんだ、あのケ……」
なにやらあわてているらしく、そのまま勢いでしゃべり出そうとするニコを、リディアはさっと持ちあげる。
「おいっ、何すんだよリディア」
「こんな人込みでしゃべらないで」
猫が二本足で歩いてしゃべるだなんて、大騒ぎになってしまう。
そのままニコをバルコニーの方へぶら下げていくと、カーテンの陰に隠れるようにしながら手すりの上に彼をおろした。
「無茶すんなよな……」
不満げにつぶやきながら、ニコは乱れた毛並みを直す。何より身だしなみを気にする妖精猫だ。ついでにネクタイも直す。
「それよりいったい何なのよ」
「そうだ、現れたんだよ、奴が」
「奴?」
「ほら、あれだよ、マリーゴールドの月≠奪った奴」
「犯人がわかったの?」
「じゃなくて、それが奴だったって……」
「リディア! そこにいたのか」
ニコが言い終わらないうちに、別の声がした。
隣のバルコニーから、男が身を乗り出している。
ランプの明かりに照らし出された、黒い巻き毛。精悍《せいかん》で神秘的な、人ではあり得ないほど美しい容貌《ようぼう》。背が高く均整の取れた体つき。
もちろんすべて、見覚えがある。
「ケ、ケルピー!」
スコットランドの自宅へ、しばしば遊びに来ていた妖精だった。
もともとは高地地方《ハイランド》に棲《す》む水棲馬だ。しかしリディアのいたエジンバラ近くの町までやってきて、川に棲み着いた変わり者だ。
本来は人と意思の疎通《そつう》を図ることなどない。その魔性《ましょう》の美しさで人を惑わし、水の中へ引きずり込んで食べてしまうという|悪い妖精《アンシーリーコート》。
しかしこのケルピーは、リディアの家へやって来ては気まぐれに過ごしていくだけで、少々ずうずうしい友人のようなものといえなくもなかった。
魔性の水棲馬でも、川から離れればそれほど危険はないし、彼に限っては人を喰《く》らう本性よりも、フェアリードクターへの好奇心の方が勝《まさ》っているように見えた。
しかしリディアが訪問を許しているうち、しばしば陸へ上がるのが面倒だからか、リディアに水の中へ来いとまで言い出した。いっしょに暮らそうなどと、人間の常識などまるでないケルピーは気軽に言うものだから、『月をくれるなら』とおまじないをとなえてやったところ、しばらく姿を見せなくなった。
そのままロンドンへでてきたリディアは、あわただしく過ごしていたからケルピーのことなど思い出す余裕もなかったのだが。
それにしたって、こんなときに現れなくたって。
「迎えに来たぞ。スコットランドへ帰ろうぜ」
ケルピーは、こちらのバルコニーへ軽々と飛び移ってきた。
「ど、どうしてここがわかったのよ」
リディアは身構える。
「おまえの家のホブゴブリンが言ってた。ロンドンの青騎士|伯爵《はくしゃく》に雇われたから、当分帰ってこないって。だからわざわざ俺さまが来てやったんじゃないか」
留守宅の管理を頼む手紙を、父が知人宛に出したと聞いた。変わり者のリディアが、これまた変わった名称を持つ伯爵に雇われたと、すでに町中で噂《うわさ》になっているに違いない。
ホブゴブリンは人間にも増して噂好きだ。好ましくないケルピーを追い払うためにも、嬉々《きき》としてリディアがロンドンにいると話したのだろう。
「あたしには仕事があるの。だからひとりで帰ってちょうだい」
しかしケルピーは聞いていない。じろじろと不躾《ぶしつけ》にリディアを見る。
「何でそんな変なかっこうしてるんだ?」
正装なんですけど。
場違いに見えるのはケルピーの方だ。妖精なのだからしかたがないが、チュニックふうのシャツとズボンだけの、野山の羊飼いみたいなかっこうでは、あきらかに不審《ふしん》者だ。
とにかく今は、こいつを人目から隠さなければならないとリディアはあせる。が、ケルピーは能天気《のうてんき》にも、彼女のスカートをひらりとめくった。
「何すんのよっ!」
反射的に、平手をお見舞いする。ケルピーはいちおう手を離したが、たぶんさほどのダメージはないのだ。
「相変わらず凶暴《きょうぼう》だなあ」
「獰猛《どうもう》なケルピーに言われたくないわよ」
「中に何が入ってんのかと思っただけじゃないか」
「これはこういうドレスなの!」
「リディアさん、どうかしたんですか?」
声をかけながらバルコニーへ入ってきたのはポール・ファーマンだった。
きっと今のやりとりを見ていて、不審な侵入者《しんにゅう》が悪さを働いているとでも思ったのだろう。ケルピーとリディアの間に割って入る。
「あなたは? 招待客じゃなさそうですが、勝手に入ってきたのなら、すみやかに出ていった方がいい。でないと警備の者を呼びますよ」
ケルピーは苛立《いらだ》ったように、りりしい眉《まゆ》をひそめた。
「こいつが青騎士伯爵か? リディア、おまえこんな貧弱な男にこき使われてるのか?」
「違うわ、この人は伯爵じゃ……。ていうか、失礼なこと言わないの!」
ポールは意外そうに、リディアの方に振り返った。
「リディアさん、知り合いなんですか?」
「え……と、まあ……」
「なんだ、伯爵じゃないのか。ならじゃますんな」
ケルピーはポールを押しのけ、リディアの腕を引く。
「それよりリディア、月をみつけたんだ。これでおまえは俺のものだな」
[#挿絵(img/moonstone_069.jpg)入る]
は? と口を開けたリディアは、ニコが背後《はいご》でスカートを引っぱるのに気がついた。
そうだ。マリーゴールドの月≠奪ったのがこいつだと言っていた。
何があっても受け取ってはだめだと、リディアは彼の手を払いのける。
「バカ言わないで。お月さまは空にかかってるわよ」
「まあ見てみろよ。本当にちゃんと満ち欠けする月なんだって」
彼が開いた手のひらには、乳白色《にゅうはくしょく》の石のついた指輪があったが、リディアは目をそらす。
「けっこうよ。本物のはずないもの」
「いいから受け取れ」
「いやよ!」
ケルピーはむりやり、リディアの手にそれをはめようとした。
「いらないって言ってるでしょ!」
「やめなさい、きみ……」
リディアをかばおうとしたポールと、ケルピーはもみ合う。
「じゃまだって言ってんだよ、この」
「彼女はいやがってるじゃないか」
「うるせえっ! ……あっ」
と言って急にケルピーは動きを止めた。
え? とポールが怪訝《けげん》そうに持ちあげた手に、指輪がすっぽりはまっている。
「おい、なにしゃがんだ、おまえなんかに俺は興味ないぞ! 返せよ!」
「……抜けないんですけど」
「はあ? ならその指|噛《か》みちぎってやる」
「ええっ!」
「もう、やめて!」
リディアは必死でケルピーを押しとどめる。
しかしもうすでに、収拾《しゅうしゅう》がつかなくなっていた。騒ぎに気づいた客たちが、バルコニーを取り巻くように集まってきていたからだ。
「いったい、何事だい?」
エドガーだった。リディアのそばまでやって来ると、ポールの胸ぐらをつかんでいるケルピーを見た。
「僕の大切な客を離してくれないか」
伯爵、と怯《おび》えた声を出すポールを放り出し、ケルピーはエドガーに向き直った。
「おまえが青騎士伯爵か」
「リディア、こちらは?」
わざわざリディアに訊《たず》ねるのは、紹介者がいない人物とはまともに話すつもりはないという、貴族らしく相手を見下《みくだ》した態度だ。
でもたぶん、ケルピーには通じていない。
「俺さまはな、悪魔も怖《おそ》れるケ……」
リディアはケルピーの脇腹《わきばら》に、おもいきり肘《ひじ》を入れていた。彼が声を詰まらせた隙《すき》に口をはさむ。
「ケ……、ケ、ケインよ!」
水棲馬《ケルピー》だなんて、この衆人環視《しゅうじんかんし》の場で言われたら大混乱になりそうではないか。
「で、ケイン君、僕にご用件でも?」
「用? ああ、こいつをスコットランドへ連れ帰るために来たんだ。イングランドのゴミだめにとどめるなんて、ひでーことするぜ」
「そうだねえ、ここには捨てるほど物があまってるけど、きみの故郷じゃ捨てたゴミもすぐ誰かが拾って使うのだろうね」
これはケルピーも、バカにされたと気づいたらしい。
「なんだと、この……!」
頑丈《がんじょう》そうな腕が、エドガーの首をわしづかみにしようとのばされる。
しかしエドガーは平然として、よけようとしないままだ。寸前《すんぜん》で、ケルピーの腕を止めたのはレイヴンだった。
小柄で童顔な東洋の少年、けれど猛禽類《もうきんるい》を思わせる鋭い瞳でケルピーをにらむ。獰猛《どうもう》な水棲馬の力を、力で押し戻す。
「は、さすがは青騎士|伯爵《はくしゃく》だ。とんでもないものを従者にしてるな」
レイヴンの中にいるという殺戮《さつりく》の精霊が、ケルピーには見えるのだろうか。
黒|真珠《しんじゅ》の目を細め、彼はあとずさった。
「陸地じゃ分が悪い。リディア、またな」
そのままケルピーは、しなやかに体をくねらせ、バルコニーから下方へ飛んだ。
人々が驚きの声をあげる中、噴水の池へまっすぐ飛び込む。
ごく浅いはずの池の中へすっかり沈んでいったと思うと、漆黒《しっこく》の馬の姿になって再び浮かびあがり、雨のように激しく水滴《すいてき》をまき散らしながら嘶《いなな》いて、そして消えた。
舞踏《ぶとう》会の客たちは、あまりのことにしんと静まりかえっていた。
どうすんのよ、とリディアはバルコニーの手すりから下方を見おろしたまま、怖くて顔があげられない。
硬直したまま彼女は、すぐ近くでエドガーが深呼吸する気配《けはい》を感じていた。
「あの、エドガー……」
「いいから、きみは微笑《ほほえ》んでいて」
そして彼は、みんなの方に振り返った。
「紳士《しんし》淑女《しゅくじょ》のみなさん、お騒がせしました。当家の舞踏会には、妖精たちも紛《まぎ》れ込んでいるようです。あなたのダンスのお相手に、角や羽を見つけましたなら、彼らの国へ連れ去られぬようどうぞお気をつけて」
にっこりと彼が微笑めば、どよめきとともに拍手が起こる。
なんてすてきな演出、とリディアの耳に客たちの言葉が届く。
いったいどういう仕掛《しかけ》なんでしょうな?
あの黒髪の男性はサーカスの方?
それとも手品師では?
でも、伯爵は妖精国の領主ですもの、あんがい本物の妖精だったのかもしれませんわよ。
口々に、そんなふうに話しながら、音楽の響きわたる広間へ再び人々が戻っていくと、何事もなかったかのように舞踏会の時間は動き出していた。
「ポール、怪我《けが》は?」
エドガーに声をかけられ、彼はようやく我に返り、姿勢を正した。ケルピーにつかまれたせいで乱れたネクタイを直しながら、首を横に振る。
「いえ、大丈夫です……」
「すまなかったね、不愉快《ふゆかい》な思いをさせて」
そして彼は、リディアの方を見た。
「踊ろう」
すでにエドガーも、何事もなかったかのように、彼女の方に手を差し出す。
「約束してただろ」
「え、ええ……」
まだ事態がのみこめないらしくもの言いたげなポールの前を通り抜け、「がんばれよ」とニコに見送られながら、リディアは広間へと進み入った。
ちょうどポルカの一曲が終わったところで、エドガーに連れられてリディアがフロアへ入っていくと、同じ薔薇《ばら》の花をつけた少女に視線が集まるのは、見回すまでもなく感じていた。
「次はワルツだよ」
いきなりワルツ、難関だ。
「エドガー、やっぱりやめたほうが……」
「ポールとは踊っても、僕はだめなのか?」
ちゃんと気づいていたようだ。
「そんなんじゃないわよ。あなたに恥《はじ》をかかせちゃうかもしれないから。せっかくさっきはうまく切り抜けたのに、またあたしのせいで……」
覗《のぞ》き込むように、アッシュモーヴの瞳がリディアを見つめた。何を言うのかと少し怒っているかのようだった。
「きみが僕の恥になるはずないじゃないか」
手を重ね、腰に腕をまわすのはワルツの最初の音を待つため。けれどほかのカップルにくらべて、近づきすぎてないかしらとリディアは気にする。
少し下がろうとしても、彼は腕の力をゆるめてくれない。
「……あんまり近いと、足を踏むわよ」
「いいよ」
「ぶつかって無様《ぶざま》に倒れるかも」
「ちゃんと受けとめるから大丈夫だ」
「あたしのダンス、凶器か拷問《ごうもん》みたいだって、レイヴンに聞いてないの?」
「やわらかくていい香りがしたって」
「は」
「僕にも体当たりでぶつかってきてほしいくらいだ」
「……レイヴンがそんなこと言うはずないじゃない」
「うん、僕の想像。今夜のきみは、フリージアの香り」
赤くなるリディアに、いつもならからかうように笑う彼だが、いまはやけに艶《つや》っぽい眼差《まなざ》しを向ける。
つながれた手も寄せ合った体も、ダンスのためではなく、リディアにはまだ想像するのもむずかしいあまい時を、ふたりで過ごすための前触れのよう。
一瞬、しんと静まったホールに、ヴァイオリンのワンフレーズが響く。
合図のように、エドガーがリディアの体を引き寄せると、最初のステップはすんなりと踏み出せる。
続くヴィオラの音色《ねいろ》に寄りかかるように、自然に体が動いていくのを、リディアは自分でも驚いていた。
エドガーが、巧《たく》みにリディアを連れていくからだ。
呼吸が合うという感覚。音楽と彼と、自分自身がぴったり重なって、ひとつになったかのようだった。
「上手じゃないか」
「……そんなはずないのよ。あなたが上手だからだわ」
深く背中をかかえ込まれながらくるりと回る。それはそれは華やかに、ドレスのすそをゆらしながら、なめらかに舞ったことだろうと自分でも不思議なほどだった。
「リディア、僕たちはこんなふうに、いつでもとてもうまく補い合える。そう思わないか?」
耳に唇《くちびる》が触れそうな距離で、彼がささやく。
さらさらした金色の髪を、リディアは目の前に感じ、不本意にも鼓動《こどう》が高鳴る。
でもこれは、彼女の練習の成果ではなく、エドガーの技術だ。パートナーが誰だろうと、うっとりするほど美しく見せることができる。
周囲も、目の前の女の子も、そうして彼から目が離せなくなると知っている。
「今度は何をたくらんでるの?」
だって彼があまい言葉をささやくのは、半分はうまくリディアを扱うためだ。それはさすがに学習した。
あとの半分は、単なる彼の性分《しょうぶん》。
そうであるはずなのに、彼は不本意そうに黙り込んだ。
ぐいと体を引かれる。大きなターンをくり返すから、リディアは目がまわりそうだ。
さっきまでのリードとは違う、ずいぶん強引なダンス。ついていくのがやっと、足がもつれそうだと思ったとき、エドガーは唐突《とうとつ》に踊るのをやめた。
広間から続く温室の奥へ、いつのまにか入り込んでいた。
音楽は聞こえてくるが、ホールの熱気も騒がしさも、茂る植物にさえぎられてか、ここは静かに感じられる。心なしか空気もさわやかだ。
通路にぽつぽつと置かれたランプと、ガラス天井から透《す》けて見える月明かりは、煌々《こうこう》とシャンデリアにてらされていた室内とはちがって、落ち着いた気分にさせてくれた。
「少し休もうか」
かけっこでもしたみたいに、息が上がっていた。南国の香りがする空気を吸い込み、リディアは呼吸を整える。
彼女をベンチに座らせたエドガーは、立ったままじっと見おろしている。着慣れないドレスの胸元が気になってしまう。
「ドレス、よく似合ってるよ。シフォンケーキのようだね」
「それって、ほめてるの?」
「うん、とてもおいしそうだ」
いつものふざけたせりふに、どう突っ込んでやろうかしらと考えている間に、エドガーだけはキャラメル色と表現するリディアの赤茶の髪を、彼はすくい取って口づけた。
「月が見てるから、キャラメルだけでがまんしよう」
灰紫《アッシュモーヴ》の瞳の色が、情熱の赤を秘めて見えるのは、ネクタイをとめる大きなルビーのせいかもしれない。
なのにふと、彼の心の色を映しているように思えて、くらくらする。
「きれいだよ、リディア」
平静を保とうと、リディアは深呼吸した。
「……今夜だけで何人にそう言ったの」
「二十人くらいかな」
やっぱりね。
「でもきみがいちばんきれいだ。これは誰にも言ってないよ」
そんなわけないでしょう。
信じてないという口調で、「はいはい」とあしらっておくと、エドガーは少し肩をすくめ、大きな木にもたれかかった。
「さっきの黒髪巻き毛、本物の妖精?」
「そうよ」
「きみを連れ戻しに来たと言っていたね」
リディアは気まずく感じ、口をつぐむ。
勘《かん》のいいエドガーだから、きっと気づいたのだろう。
「きみにプロポーズした奴か」
まさかケルピーがここへ来るとは思わなかったけれど、あんな話するんじゃなかった。
ケルピーとのいざこざに、エドガーがからんできたら、とんでもなくやっかいなことになりそうだ。
「だからプロポーズじゃなくて、自分の近くに置いておきたいってだけの感覚なのよ」
「きみに恋してるわけじゃないってこと?」
「ええ、そう」
「でも僕としては、心|穏《おだ》やかじゃない」
「あなただって、あたしに恋してるわけじゃないわ」
「どうしてそう思うんだ?」
「だって、そう思うもの」
エドガーはいつになく、深刻そうに考え込んだ。
「ミスター・ケイン、だったっけ? ギリシャ彫刻みたいに容姿《ようし》端麗《たんれい》だ。まあ僕と互角《ごかく》としよう」
自分の容貌《ようぼう》を謙遜《けんそん》する気はないらしい。
「腕力は負けるかもね。でも彼には、知性も品も財産も地位もない。たいていの女性なら、賢明に僕を選ぶだろう。でもきみは、そういう種類の女の子じゃない」
「……バカバカしいわ」
「そう、バカバカしいことだ。だけどしようもないことを引き合いに比較して、勝ち負けを考えてしまうのは、恋じゃないのかな」
どきりとさせられながらも、リディアは否定しようと言葉を探した。
「違うわ、いつでもあなたは、いちばん注目されていたいの」
「気がかりはそれだけじゃない。ポールはいかにもきみが好みそうなタイプだ。平凡な容姿、平凡な印象、平凡な存在感。人のよさそうなところだけが取《と》り柄《え》。世渡りがへたで女の子にもいまいちモテない、どこか間が抜けてても正直に生きていて、そのうえ画家としての夢を追い求めている。夢を追う男、ああどういうわけか、女の子はそういうのに弱いんだ。貧乏で苦労しても支え合って慎《つつ》ましく暮らして、彼の夢をかなえてあげたい、とかいうのがきみの理想だろ?」
「勝手に決めないで。ていうか、人のことめちゃくちゃに言い過ぎよ」
「でもね、リディア、芸術家ってのは純粋に見えて偏屈《へんくつ》が多いんだよ。苦労させられるよ」
「彼とは会ったばかりよ、そんなんじゃないの。それにエドガー、恋におちるかどうかは条件じゃないと思うわ」
「知ってる、恋は理屈でするものじゃない。だから今、僕はとても不安だ。今夜はずっと、きみがポールと楽しそうにしてるのを見たときから胸騒ぎがして落ち着かない。妖精が現れて、さらに動揺してる。この不安な気持ちは、恋じゃないのかな」
リディアが口ごもれば、エドガーはさらにたたみかける。
「僕の言葉を信用してくれないのは、しかたがないよね。もと強盗の犯罪者に気を許すつもりはないってことなんだろうけど、恋は理屈じゃないからこそ、希望も持ってる。ずうずうしいと思われようが、思いを告げる権利はあるだろう?」
よどみなく、すらすらと出てくる言葉のどこを信じればいいというのか。
やっぱりリディアには、エドガーはゲームを楽しんでいるように見える。
たぶん、悪意のないゲーム。
お互い本気になるはずもない既婚者《きこんしゃ》と恋の駆け引きを楽しむのは貴族の流儀《りゅうぎ》だという。
必ず退《ひ》くとわかっているリディアを口説《くど》くのは、それに似ている。
好意を持たれていると感じるのは、心地のいいものだし、お互いとても親しくなったように感じていればトラブルもない。
リディアは独身だけれど、エドガーの過去を少しばかり知っているから、本気で彼にのめり込んだりしないと思っているはずだ。
それはそれでいい。ときどきおだててくれれば、リディアだって悪い気はしないし、気持ちよく伯爵《はくしゃく》家のために仕事ができる。エドガーに親しみを感じることもできる。
でも、行きすぎた口説き言葉は困る。
貴族の奥方ではないリディアには、刺激が強すぎる。混乱させられるだけだ。
「もうやめましょう。あたし、あなたと恋愛ゲームをするつもりはないから」
「ゲーム?」
心外だとでも言いたげに眉《まゆ》をひそめたが、それも決まりきった駆け引きの手ではないのだろうか。
「とにかく、やめてほしいの! うわべだけの言葉は」
うつむいて、思いがけず強く言ってしまった自分に驚いた。
ムキになってバカみたい。そう思う一方で、これ以上恋だの何だのとささやかれることが、本当に怖くなっていた。
リディアのことを好きだと、はじめて告白めいた手紙をもらった昔のことを思い出す。バースデイパーティに来てほしいと書いてあった。
近所だったし、親どうしが親しくてお茶会に招かれたこともある家だった。その子とは、ふたりのときはふつうに楽しく遊んだ。ちょっとした悩みをうち明けられることもあったが、ほかに友達がいると彼は、リディアに話しかけようとはしなかった。たぶん、変わり者の少女と仲良くしていると、友達にからかわれたくなかったのだろう。
そんな微妙なつきあいだったから、手紙の内容は不審《ふしん》に思った。迷って、結局パーティには出かけていった。けれど、たくさん友達が来ている場所で、彼はリディアに一度も声をかけなかった。
いつもならふつうのこと、なのにそのときは、どうしてこちらを見ないのかと、リディアは少し腹が立った。
だから近づいていって、話しかけると、彼は困ったような怒ったような顔になった。
『あれ、うそだから』
友達とのゲームに負けて、うその手紙を書かされたのだと開き、やっぱりおかしいと思った、とだけ感じた彼女は、それほどすごく傷ついたという記憶はない。
ただ、おかしいと思ったのだから、声をかけずに帰るべきだったと後悔した。
たぶん、パーティに招かれただけならそうしただろう。いたずらの告白めいた手紙のせいで、それもあまり信じていなかったのに、いつもの距離を誤った自分にあきれた。
でも今、そんなことを思い出して、ふと怖くなっているのはどういうことなのだろう。
「気を悪くしたならあやまるよ。でも」
エドガーの声に、現実に引き戻されながら、うつむいたままのリディアは、ひざの上に置いた手を、ぽつりと濡《ぬ》らすしずくに気がついた。
あれ? なに泣いて……。
「リディア、どうかした?」
わけがわからなくなり、リディアはあわてて立ちあがる。
「なんでもないの! あ、あたし、のどが渇いたから飲み物もらってくるわ!」
気づかれたかしら。どうか気づいてませんように。
祈りながらリディアは、父のいる談話室へ駆け込んだ。
[#改ページ]
朱《あか》い月、白い月
『伯爵《はくしゃく》を騙《かた》るニセ者、きさまに青騎士伯爵を名乗る資格がないことは知っている。すみやかに宝剣を放棄《ほうき》しろ。さもなくば、きさまの命も宝剣とともにいただく』
そう書かれた手紙には、もちろん署名はなく、封筒《ふうとう》には赤いインクで、三日月《みかづき》を描いたマークだけがあった。
「ふざけた手紙だ」
エドガーはそれをかたわらに投げ出し、ティーカップに手をのばした。
起き抜けに不愉快《ふゆかい》な気分にさせられた。
ゆうべの舞踏《ぶとう》会は夜中まで続き、眠ったのは明け方、そして目覚めた時間はすでに昼前だが、夜会《やかい》に明け暮れる貴族の生活習慣といえばこんなものだ。
そんな主人が起き出すのを、辛抱《しんぼう》強く待っていたらしい執事《しつじ》が、青くなって持ち込んだ手紙は、ゆうべのうちに裏口から投げ込まれたものだという。誰もが忙しくしていたので、気づいたのが今朝《けさ》だったというわけだ。
「旦那《だんな》さま、どういたしましょう。警察に相談いたしますか?」
宝剣は、この伯爵家の当主であることを証明するもの。
エドガーをニセ伯爵と断言し、宝剣をよこせという差出人は、どう考えても先日、レイヴンをねらって『プリンスの犬』と言い放った男と関係があるのだろう。
「そうだなあ、この間の、指を忘れていった先生のことも、警察は何ひとつつかめないままなんだろう? どのみち今のところ、警備を厳重にするしかできることはなさそうだ」
「それは問題ございませんが」
「ならあとは、こっちでどうにかする」
「わかりました」と答える執事は、得体の知れない連中に対し、何をどうするのかとは訊《き》かない。エドガーの過去におだやかでない組織とのかかわりを感じていても、けっして問わない。
妖精の領民を持っていた青騎士伯爵家は、その昔、メロウの血を引くという不思議な人々を教会の厳しい弾圧から守ってきたという。
トムキンスもその一族だ。伯爵家にゆるぎない忠誠心を見せる。
代々の青騎士伯爵は、よほど彼らにとって信頼された主人だったのだろうと思うと、エドガーは少しもうしわけないような気分になった。
伯爵の地位を手に入れたのは、もちろん利用価値があるからだ。けれどこの名を穢《けが》すつもりなどない。
ニセ者だろうと、本物以上になるしかないし、この家を守るべき責任があるのだと意識もしている。
こんな脅《おど》しに、いちいちひるんでなどいられない。
「ですが旦那さま、宝剣よりもご自身を危険にさらされませんように……」
「心配してくれるのか?」
「まだお世継《よつ》ぎがいらっしゃいません」
何百年もの当主の不在は、後継者《こうけいしゃ》の存在が不明のままだったから、伯爵家は廃《はい》されずに残されてきた。しかしエドガーに何かあると、血が絶えたと判断されるかもしれない。
「そうか。そういう仕事もあったな。トムキンス、おまえを早く安心させてやりたいけど、未来の奥さま候補には嫌われたかもしれない」
「大丈夫ですよ旦那さま、奥さまに嫌われているご主人はいくらでもおります」
「……なるほど、勇気づけられるよ」
苦笑するエドガーの前に、ていねいにしわを伸ばした新聞を置き、執事は立ち去る。入れかわりにレイヴンが姿を見せた。
「レイヴン、|朱い月《スカーレットムーン》≠ニかいう結社が、調べていた裏組織の中にあったような気がするが」
「はい。はっきりとそう名乗っているわけではありませんが、義賊団《ぎぞくだん》です。下町では有名らしく、セントジャイルズやサザックに金貨がばらまかれた事件は彼らの仕業《しわざ》だという噂《うわさ》ですし、イーストエンドの家々に、やはり貨幣《かへい》が投げ込まれたりしています。一部の硬貨に、赤いインクで月が描かれていたとか」
「義賊団、てことは、金貨はどこかから盗まれたんだな?」
「盗むときは、朱い月を名乗るわけでもないようなので、はっきりとはしていません。でもばらまかれた金貨が自分のところから盗まれたものだと主張している資産家はいます」
メモを見ながら、レイヴンはそういった資産家や会社の名前をいくつか挙げた。
エドガーにおぼえのある名もあった。
「プリンスの資金源だ」
「はい」
裾野《すその》で金貨を少しばかりくすねられたところで、富を積み上げたピラミッドの頂点にいるプリンスにダメージがあるかというと疑問だが、彼らがプリンスを標的に、地味な活動をしている可能性はある。
それが今回の、エドガーへの攻撃につながっているのだろうか。
「これまでに彼らが、人を殺したことは?」
「記事になるような事件としてはありません」
「義賊というからには、殺人はイメージダウンになるからね」
なのに、先日の奇襲《きしゅう》といいこの脅迫状《きょうはくじょう》といい、殺す気満々だ。それも、伯爵家の宝剣をよこせという。
あれは金に替えられる代物《しろもの》ではなく、盗んだって処分に困るだけだろう。むしろこの青騎士伯爵という名前に執着《しゅうちゃく》があるかのようだ。
ニセ者で、しかもプリンスの手先だと彼らが考えているエドガーに、これ以上伯爵を名乗らせておきたくないとでもいうような。
「なぜ、朱い月≠ネんだろうな……」
月。
お月さまをくれるなら、という呪文《じゅもん》。
青騎士伯爵が妖精女王と交わした約束。
なんだか月に呪われているかのようだ。
そういえばゆうべ、月の指輪がどうこうと、マリーゴールドが騒いでいなかったか。
その件はリディアに話してくれと、エドガーは言ったような気がする。
マリーゴールド、ゆうべのあの少女は、小さくて半透明の羽根がはえていたような……。
ニコの頭の上にのって。
ニコ、そう、あの猫ときたら、えらそうに腰に手をあてて説教めいたことを言うのだ。
リディアになにしやがったと。
何もしていないじゃないか。
それより、飲み過ぎていたようだ。猫がしゃべるはずはない。
いや、あいつはときどき、人の言葉がわかっているようじゃないか?
「レイヴン、リディアは来てるのか?」
「まだですが」
「……来るかな」
「いつものようにニコさんが、仕事部屋でお茶を飲んでいらっしゃいましたから、そろそろ来られるのでは」
ああお茶を。紅茶好きの猫だ。しかし執事もレイヴンも、あたりまえのように奴にお茶を出す。
「そういえばレイヴン、不思議に思ってたんだが、どうして猫に|さん《ミスター》を付けるんだ?」
「彼は、猫なんですか?」
悩んだように聞き返す。
「猫じゃないのか?」
「エドガーさまがときどき話しかけていらっしゃいますので、違うのかと思ってました」
あらためて考えると、エドガーも悩む。
「なんとなく、会話が成立してるような気がすることもあるんだけど。だいたい、カップを持ちあげて紅茶を飲むなんて器用なことをするからな……」
まあいいか。
リディアと知り合ってから、彼女の不思議な現実が、エドガーの方にも侵食《しんしょく》してきている。
ゆうべだって、漆黒《しっこく》の馬が噴水《ふんすい》の池に消えた。
そうだあの馬が、リディアにプロポーズした妖精なのだ。
馬に負けたくはないなと思う。
「それからエドガーさま、ポール・ファーマン氏がいらっしゃっています」
「ポール? 約束していないけど」
「何時間でも待つとおっしゃってます。すでに二時間待っていらっしゃいますが」
ため息をつきつつ、エドガーは身支度《みじたく》をするために立ちあがった。
「ならもうしばらく待てるだろう」
*
メイフェアの伯爵邸《パレス》へ、ようやく出勤してきたリディアは、執事とあわただしいあいさつだけして仕事部屋に駆け込んだ。
エドガーと、どんな顔をして会えばいいのかわからないから、今日はここにこもっていようと思う。
じつのところリディアは、舞踏《ぶとう》会でのあれからのことをよくおぼえていない。
やけになってパンチ酒を二、三杯飲んだら、なんだかどうでもよくなった。
父によると、やけに陽気にしゃべったり踊ったりしていたらしいが、舞踏会も深夜になるほど、みんな酔っぱらってくるだけに、礼儀や作法《さほう》や堅苦《かたくる》しいところが抜けていってバカ騒ぎになってくる。
だからリディアが酔っぱらっていても、目立つほどでもなかったようだが、粗相《そそう》がないうちにと父が連れ帰ってくれたらしかった。
気持ちを切りかえ、仕事をしようと、フェアリードクター宛に届いたばかりの手紙を手に取る。
しかし仕事に没頭《ぼっとう》できる状況ではなかった。少女の姿のマリーゴールドが、部屋へ飛び込んできたのだ。
「リディアさん、ああお待ちしてましたわ。早くご相談したくて……。伯爵《はくしゃく》は、妖精のことはすべてリディアさんに任せてるとおっしゃいますし、でもゆうべは、リディアさんしらふじゃなかったものですから、明日まで待ってとニコさんに言われて」
「……いったいどうしたの?」
「女王さまの月≠ェ、あの方の指からはずれないんです。あれは伯爵に、女王さまの夫となる方に贈るためのものですのに」
そういえば忘れていた。ケルピーがマリーゴールドから盗み、リディアに渡そうとしたが、あやまってポールが受け取ってしまったのだった。
ということは、月≠フ指輪をはめているポールは、妖精女王との月の約束に縛《しば》られていることになる。
もし妖精女王が、伯爵の代わりとして彼をほしがったら、指輪を彼が持っている限り、妖精の国へ連れ去られてしまうのを止めるのは難しいだろう。
「このままじゃあの方に、女王さまと結婚していただくしかなくなってしまいます」
「まあ待って、マリーゴールド。指輪をはずせばいいんでしょう?」
言いながらもリディアは、そうなったら今度はエドガーに、月≠受け取れというマリーゴールドの攻撃が始まるだろうことを考えていた。
受け取らなければいい。彼女にはケルピーみたいな力業《ちからわざ》はできないだろう。
でも、女性にあまいエドガーが、何かの間違いで受け取ってしまうかもしれない。
どうすればいいのかと考え込んでいたので、ノックの音がしたとき、つい「どうぞ」と言ってしまっていた。
「おはよう、リディア」
エドガーの顔を見たとたん、リディアは顔が熱くなるのを感じ、あわててうつむく。開いた手紙を読んでいるふりで顔を隠す。
「……何かしら? 今ちょっと忙しいんだけど」
「手紙、逆さまだよ」
うろたえるリディアの手から、さっと手紙を抜き取って、真上から彼女を見おろす。
「ポールが来てる。どうやら彼を助けるのはきみの仕事のようだ」
くどいほどのおだて言葉もご機嫌取りもなしに、本題を告げるなんてめずらしい。
リディアは拍子抜けしながらも、ほっとして、ようやく顔をあげることができた。
昨日のことを話題にされたら、自分がどんな反応をしてしまうかわからないと不安に思っていたところだ。
この様子なら、エドガーはリディアの気持ちの乱れになど気づいていないのかもしれない。
「あ、そ、そう。今マリーゴールドとも彼のことを話してたの」
「指輪を返せと、下宿《げしゅく》に押しかけられたそうだよ」
「え、誰に?」
「たぶん、ケイン君に」
あ、あのケルピー、しつこいったら!
「馬の姿で襲《おそ》いかかられそうになって、枕元《まくらもと》の聖書を投げつけたら消えた、という夢を見たそうだ」
「夢じゃないわよ、たぶん」
「ともかく馬は、返すまで何度でも来ると言ったので、ファーマン君は、指輪のせいで悪夢を見続けてはたまらないと思っている。きっとこの指輪は呪われていると。それでまあ、昨日のケイン君はきみや僕を訪ねてきたようだったからと、ここへ相談に来たんだ。呼んでもいいかな?」
「ええもちろん。あの方を巻き込んでしまったのは、あたしの責任だわ」
ややあって、レイヴンが案内してきたポール・ファーマンは、憔悴《しょうすい》した様子だった。
立ちあがって、リディアは彼を迎える。
「ごめんなさい、ポールさん。昨日はあたしを助けてくださったのに、面倒なことになってしまったみたいで」
「いえ、あなたに何事もなくてよかった。……でも、ぼくには何がなんだわかりません。妖精の仕業《しわざ》だとか、伯爵はおっしゃいますし」
妖精画家でもやはり、本物の妖精と接したなどとは、にわかには信じがたいようだった。
エドガーに促《うなが》され、彼は椅子《いす》に腰をおろす。
リディアも座り、まずは指輪を見せてもらうことにした。
彼の右手の中指に、きっちりおさまっている。絵の具が染《し》みついた、筆を握るためのたこがある、意外にしっかりした画家の手だ。
「ムーンストーンだね」
エドガーが言うように、大粒の月長石だった。光沢《こうたく》のある乳白色の宝石。半透明のその内側に浮かびあがる光が、まるで三日月《みかづき》のように見える。
「マリーゴールド、このムーンストーンが本物の月みたいに満ち欠けするっていうの?」
「はい。内側の光の幅が変わります。満月の夜には大きく広がり、新月の夜はかすかに細く」
そう言ってから、彼女は黄金《こがね》色の羽根を震《ふる》わせ、訂正した。
「いえ、それが本物の月なのですから」
少女の姿になっているのに、羽根を隠し忘れている。
しかしエドガーもポールも、気づかないのかそれどころではないのか指摘することもないまま、指輪に注目していた。
「それは毎日眺めていても飽きないだろうね。ポール、考えようによっては、きみは幸運だ」
まるきり他人《ひと》ごとな発言だ。
「そんなわけないじゃないですか」
「で、どうしてはずれないんだ?」
「ケルピーがむりやりはめたせいね。リングの部分がゆがんで、指にくい込んでるの」
リディアが答えた。
「ケルピー?」
「えっと、ケインは水棲馬《ケルピー》なの」
ふうん、と言うエドガーは、水棲馬をよく知らないらしい。
「ケ、ケルピーなんですか! 人を喰《く》うっていう、あの……?」
さすがに妖精画家は悲鳴に近い声をあげた。が、エドガーは淡々《たんたん》と受けとめる。
「人喰い馬なのか」
「家畜なんかも食べるけど、肝臓《かんぞう》だけは必ず岸辺に残していくのよ」
「損な嗜好《しこう》だな。フォアグラなんか絶品なのに」
「それよりぼくは、どうしたら……」
それてしまいそうな話を、ポールは必死にもとへもどす。
「とにかく指輪をはずしましょう」
「色々やってみたけど無理なんです。石鹸《せっけん》や油を使っても」
「リングを切るしかないんじゃないか? 慎重《しんちょう》にやれば、きみの大切な手を傷つけずにすむだろう」
「それはだめです! 女王さまの指輪に傷をつけたりしたら、わたし、もう帰れません」
マリーゴールドが泣き出した。
「それはかわいそうだ。もっと別の方法を考えよう」
[#挿絵(img/moonstone_099.jpg)入る]
エドガーはあっさり彼女のかたを持った。
「別の方法って、あるの?」
「指が細くなれば抜けるだろう? ポールに痩《や》せてもらえばいい」
痩せるといったって、彼はべつに太ってもいない。
「一週間くらい食べなければ抜けるんじゃないか?」
「い……一週間もですか?」
「それでも抜けなかったらもう一週間」
「死んでしまいます……」
ポールはもう泣きそうだった。
「大丈夫、骨と皮になってもかなり生きているものだよ」
冗談ぼくではなく、歴然とした事実のようにエドガーは言うのだから、ポールはまるで刑の執行《しっこう》を言い渡された囚人《しゅうじん》のように肩を落とした。
「ケルピーの方は、あたしが言い聞かせます。聖書や十字架も、万全《ばんぜん》じゃないけど身につけておくといいと思うわ」
「ありがとう、リディアさん……」
とりあえず落ち着いたと思ったそのとき、窓辺にニコが姿を見せた。
「おいリディア、また客だぞ」
ニコの背後《はいご》に、ちらりと薄い羽根が見えたと思うと、窓辺に小さな女の子が降り立つ。
「スイートピーさま!」
とマリーゴールドが駆《か》け寄った。
「マリーゴールド、なかなか帰ってこないと思ったら、何をしているの? 女王さまのお使いもまともにできないなんて」
「す、すみません。それがその……」
スイートピーと呼ばれた妖精は、なるほど、淡いピンクのドレス姿だった。マリーゴールドより位《くらい》が高い様子だが、どちらも同じ年頃の童女に見えるので、ふたりのやりとりは人の目には奇妙に映る。
「なんですって? 女王さまの指輪が、伯爵《はくしゃく》ではない別の男の手に?」
くらりと倒れそうになるスイートピーを、マリーゴールドはあわててささえた。
リディアはひそかにニコをにらむ。
「どうして面倒な妖精を連れてくるのよ」
「んなこと言ったって、道を聞かれたんだよ」
「どうしてしょっちゅう道を聞かれるの?」
「さあ、屋根の上で昼寝してただけなんだけどな」
どうせ片ひじを枕《まくら》に足なんか組んだりして、およそ猫らしくない気取ったかっこうで寝そべっていたのだ。空を飛ぶ者からすれば、目立つことこの上ない。ひとめで妖精族だと気づくだろう。
「しかたがないわ。女王さまにはこの方と結婚していただきましょう」
スイートピーが、気を取り直して決意するのは早かった。さっとポールの上着をつかむ。
リディアが怖《おそ》れていたのはこれだ。
「ちょっと待って、女王の夫が誰でもいいっていうの?」
「わたくしたち、女王さまの結婚を待ちくたびれているんです。どうしても伯爵をとおっしゃって、月≠手に入れるためにどれほど苦労したか。もうこれ以上待てません。わたくしたち一族の繁栄のために、できるだけ早く結婚していただかないと。ですからこの方を、伯爵ということにして連れ帰りたいと思います」
そんな乱暴な。
しかしスイートピーは本気らしかった。
部屋を見まわした彼女は、エドガーの方に進み出た。
「伯爵、突然おじゃましてもうしわけありません。わたくしは女王の侍女《じじょ》、スイートピーともうします」
「ああ。よろしく」
なんだかよくわからない、といった様子ながら、エドガーは少女に極上《ごくじょう》の微笑《ほほえ》みを向ける。
「本当ならあなたさまを、わたくしたちの国へご案内するはずだったのですが、主人は指輪を身につけた人物と結婚すると決めてしまいましたゆえ、今回はご容赦《ようしゃ》くださいませ」
「それは気にしてないけどね」
「またの機会に、あらためてお迎えにあがります」
「またの機会?」
「ええ、人の命は短《みじこ》うございますから、主人もまた結婚をする必要がでてくるでしょう」
「ああそう。そのころ伯爵はもう僕じゃないだろうけど。それより今の問題は、彼は僕が目をかけている画家なんだ。いなくなっては困るんだが」
いちおうエドガーは、ポールを見放すつもりはないようだった。
リディアは少し意外に思った。エドガーはお人好しではない。彼に絵の才能を見たとしても、これで妖精を追い払えるなら見捨ててしまうくらいどうってことはない人だと思っていた。
まだ知り合って間《ま》がないはずだし、女性じゃないし、画家という才能がエドガーにとってものすごく利用価値があるとも思えない。
よほど人柄が気に入ってるのかしら。
「では何かと取り換えましょう」
「だめよ、取り引きはなし!」
妖精との取り引きはまずいと、リディアはあわてて口をはさんだ。
「でしたら、わたくしたちを止める権利はありません。連れていきます」
マリーゴールドと違って、頑固《がんこ》なスイートピーだった。
「バカを言うな、その月≠ヘ俺のもんだ。俺がリディアに贈るつもりなんだから勝手なことするな」
もう、なんでまた現れるのよ。
うんざりしながら振り返ると、黒髪巻き毛の青年が窓から入ってくるところだった。
「おい、チビ妖精ども、消え失せろ。でないと喰《く》ってやるからな!」
きゃあ、と悲鳴をあげたスイートピーとマリーゴールドは、両側からポールにしがみつく。
「あなた、今すぐわたくしたちと行くと言ってください。でないとこの、あくどい妖精の餌食《えじき》にされてしまいますわ!」
ケルピーに怯《おび》えながらも、ポールを誘おうとする。
「てめーら、気高《けだか》き水棲馬をバカにすんなよ!」
収拾《しゅうしゅう》がつかなくなっていた。リディアは頭にきて声をあげる。
「いいかげんにしてちょうだい! この人に近づいたら、フェアリードクターのあたしが許しませんから! いい? ケルピーもマリーゴールドもスイートピーも、あたしと勝負してからになさい!」
肩で息をしながら言いきると、ようやく誰もが静まりかえった。
*
半人前のフェアリードクターでも、妖精たちにその啖呵《たんか》は、効き目があったのだろうか。
ふたりの少女は、おとなしく、指輪がはずれるのを待つと約束した。
ケルピーはというと、リディアのことなどみじんも怖れていないが、野原の妖精が手出しをしないなら、これも指輪がはずれるまで待ってやってもいいということになった。
野原の小妖精は善良だからいいとして、ケルピーの方は、待つとしてもポールにいやがらせをしないとも限らない。
リディアはエドガーに、指輪が取れるまでポールを伯爵邸に泊めてやれないかと相談した。
人魚《メロウ》の宝剣がある伯爵邸は、いわばメロウの縄張《なわば》り。水棲馬の好き勝手にはしにくい場所だ。
快諾《かいだく》したエドガーは、ついでだからとポールに、屋敷を飾る絵を一枚描いてみないかと依頼したのだった。
「ポールさん、そっちはだめです。あまり川に近づかない方がいいわ」
スケッチブックをかかえて、林の道をそれようとしていた彼は、あわてて戻ってきた。
「じゃあ、あの丘にします」
川のそばでは、ケルピーの魔力が強くなる。いちおうは警戒《けいかい》しておいた方がいい。丘なら大丈夫だろうと、リディアは彼についていく。
ロンドンの郊外《こうがい》へ、ポールがスケッチに来たのは、そういうわけでエドガーに注文された絵を描くためだった。
指輪をはずすために食事を制限しながらも、依頼された仕事に、彼はさっそく取りかかっている。
そしてこの、スケッチのための遠出にリディアがつきそってきたのは、街なかと違い、野山は妖精の領域に近いからだった。
妖精の力が強い場所だからと心配したリディアに、だったらついていけばいいとエドガーは言った。
『きみに守ってもらえるなんてうらやましい』
といつもの軽口をたたいたけれど、やけにあっさりしていた。
舞踏《ぶとう》会の夜には、ポールと親しくしていたことにけちをつけまくった彼が、ついていけなどと言ったことは、リディアにはびっくりするほど意外だった。
そういえば、舞踏会の夜以来、あまりしつこく口説《くど》かれていない。
まさか、泣いたのに気づかれたから?
思い出すだけでリディアはうろたえてもだえそうになるが、どうにか気持ちを静める。
気づいていたら、ネタにしてからかわないわけがない。
きっとようやく飽きてきたんだわ。
相変わらず、あちこちのパーティを行き来しているエドガーだ、貴婦人たちを相手に思う存分口説けるなら、リディアにかまっている余裕はないだろう。
むしろこのまま落ち着いてくれたほうが、伯爵《はくしゃく》家のフェアリードクターとしてうまくやっていけそうだ。
丘の上で場所を決めると、ポールはすぐスケッチに集中する。リディアは、辺《あた》りを少し散策したり、彼のスケッチを眺めたりして過ごす。
つきそいのメイドがひとり、リディアの話し相手にもなってくれたが、久しぶりの自然に囲まれた場所で、|縁なし帽《ボネット》のフリルをゆらす風を感じながら、何もせずに時を過ごすのも心地よかった。
「退屈じゃありませんか?」
一段落ついたらしいポールが、そばで眺めていたリディアに声をかけた。
「ちっとも。少し前まであたし、田舎《いなか》に住んでたから、一日中木の下で雲が流れるのを見てるなんてこともしょっちゅうだったんです」
「すてきな一日ですね」
そんなふうに言われ、リディアはほのぼのした気持ちになって微笑《ほほえ》んだ。
「ぼくはずっと、ごみごみした街中で暮らしてきたから、いつか空気のきれいなところに家を買って、野の花を描きながら暮らすのが夢なんです」
彼は少し恥ずかしそうに首を傾《かし》げた。
「とはいっても、世間に認められないと、そんな贅沢《ぜいたく》な暮らしはできませんけど」
「きっと認められます。エドガーもあなたの力になってくれるはずだし」
「だといいんですけど」
少し悩み、彼はまた言った。
「伯爵がよくしてくれるのは、あなたがいるからじゃないかな。ぼくの妖精画に目をとめてくれたのも、フェアリードクターのあなたをよろこぼせるためだという気がするんです。ご本人は、もともと妖精画が好みというわけでもなさそうですし」
「まさか、エドガーはべつにあたしをとくべつに見てるわけじゃないもの」
「そうなんですか? あなたが本命なのでは?」
「やだ、彼がどれほど女たらしか、五分も観察すればわかるでしょう?」
苦笑いしながら、ポールは頭をかく。
「ええまあ……、でもなんとなく、あなたは違うのかと思ってました」
どのへんが? と訊《き》いてみたくなったが、バカげていると思い直す。ポールにどう見えたって、エドガーがとことんタラシなのは間違いない。
「ポールさん、彼はあなたの才能をちゃんと見てるはずです。エドガーの目は厳しいもの。とくに男性には」
そう。女性は選ばないけれど、男性は確実に、接し方を区別している。社交界でただ遊んでいるわけではなく、政界、財界の有力者を選んで親しくなっている。
どんなに高位の貴族でも、名前だけの相手には目もかけないが、作法《さほう》を知らないと陰口をたたかれている成り上がりの人物には、堂々と近づく。
伯爵家に出入りする著名人が、日に日に増えている。
エドガーにとっては、好かれようと思う相手に信頼を得るくらいたやすいことだ。
それに、人付き合いを増やして自分も有名になることは、身を守る手段でもある。彼に何かあって、英国中が騒ぎになるとすれば、敵は手を出しにくくなるのだから。
でも、周囲を固めたエドガーが、それらを利用して復讐《ふくしゅう》をたくらむ可能性を考えると、リディアは、彼の『力ある友人』が増えることに憂慮《ゆうりょ》を感じる。
「なんというか、誰にでも好かれる方ですよね」
そうね。本当の彼を知らない相手になら。
「実は、話せば話すほどよくわからなくなる方なのに、だから知りたいと興味を感じてしまうのかな。本当は、伯爵はどんな方なんですか? リディアさん、あなたは誰よりも伯爵をよくご存じのようだ」
悪党よ、とはさすがに言えない。
だがリディアも、そこのところは詳しいわけじゃない。
知っているのは、エドガーは悪党だけど、とても哀しい人だということ。自分の運命と戦い続けているということ。
「彼を見ていると、昔のことを思い出します。画家だった父に連れられて、はじめて貴族のお屋敷を訪ねたときのこと。大きなお城で、ぼくにはおとぎ話の世界に思えました。そこに住んでいた高貴な方々を、バラッドに詩《うた》われるような英雄の末裔《まつえい》と信じたいくらいでした。とくに若君が、こうごうしい金髪にすみれ色の瞳で、十二、三歳だったかと思いますが、アドニスを想像させるような美しい少年で」
その話に、リディアは強く気を引かれた。
「似ているんですか?……エドガーに」
「ええ、最初お目にかかったときは、当人ではないかとさえ思いました。でも、その家はアシェンバート伯爵家ではなかったですから」
訊いていいものかどうか、少し迷った。けれども、リディアは結局|訊《たず》ねていた。
「どういう家だったんですか?」
「ああ、公爵家《こうしゃく》ですよ。シルヴァンフォード公爵の若君でした」
公爵家? 大貴族じゃないの。
「あの年頃なら、パブリックスクールに入っているのがふつうなんでしょうけど、体が弱かったらしくて、マナーハウスにいながら家庭教師が何人もついていたんですよ」
でも、体が弱いって。やっぱり別人じゃないかと思う。
「父は公爵に雇われて、城や庭園やご家族の肖像を描いていたんです。十六だったぼくは、そのころ画家になる気はなくて、でもむりやり父に助手として連れ出されて、絵の具を調合したりカンバスを張ったり……、それを若君は、ときどき見に来ていました」
「それで仲良くなったんですね?」
「ええ、数ヶ月の間でしたけど、遊び相手の少ない若君には、格好の相手だったんでしょうね。絵描きなんてと思っていたぼくのつたない習作を見て、才能があると言ってくれたんです。彼が公爵家を継いだら、面倒を見てやるとまで。子供でも、高尚《こうしょう》な芸術にたくさん接していたでしょうからね、ちょっとその気にさせられましたよ。ぼくも若かったし、だったら画家になると安易に約束したものの、才能なんてとんでもなくて、その後も苦労を続けていますが。でもおかげで、父にけなされてばかりで遠ざけていた絵を描くことが、じつは好きでたまらなかったんだと気づきました。ほんとうに彼は、フェアで思いやりがあって、育ちがいいというのはこういうことかと思うような少年でした」
その部分についても、リディアは首を傾げたくなった。
「ですから、彼も公爵家の方々も、みんな亡くなったと聞いたときはショックでした」
けれど、別人かもという思いは、あっさりうち消された。
エドガーは、自分のことを死んだはずの人間だと言っていた。両親も家も名前も、すべて奪われたと。
「……亡くなったって、どうしてまた」
「火事だったとか。人も、あの美しいお城も、庭園も、すべて消えてしまったなんて。いつか一人前の画家になれたら、誰よりも若君に、絵を見ていただきたいと思っていたのに」
気がつけばリディアは、震《ふる》える指を握り込んでいた。
「ああ、すみません。変な話になってしまいました」
「いえ、そんなこと」
「あ、でも、伯爵と彼が似てるのは、髪と瞳の色だけでしたよ」
つまりエドガーと接してみれば、公爵家の若君とはかけ離れた性格だったということか。
昔から裏表が激しかったのかしら。
「……あの、その少年がもし生きていたら、あなたをおぼえていると思います?」
怪訝《けげん》そうに、彼はリディアを見た。死んだと言ってるのに、変な質問だ。
それでも彼は、思いをめぐらせ答えてくれた。
「おぼえていてくれればうれしいですね」
エドガーは、きっとおぼえている。
だからポールに、世に出る機会を与えようとしている。
ポールが公爵家の少年になつかしい思い出を重ねているように、エドガーもきっとなつかしさを感じている。
ポールを妖精たちからかばったし、リディアが伯爵家の仕事を保留にしてポールにつきそうのも許している。
残酷《ざんこく》だったり非情だったりするエドガーの一面を、リディアは身をもって体験しているが、本当はとても情《じょう》のあつい人だとも思う。
彼が非情になるのは、最悪の状況をともに切り抜け支え合ってきた仲間のためだけだ。
ポールとの昔の友情を、大切に感じているとしても不思議はない。
「リディア、僕を見つめてくれるのはうれしいけど、せめて眉間《みけん》にしわはよせないでくれ」
気がつけばリディアは、テーブルをはさんで向かい側にいるエドガーを、じっとにらみつけるように見ていたらしい。
「えっ、あ、ちょっと考え事を……」
「僕のことなら、考えなくても教えてあげるよ。きみが知りたいなら何でも」
めずらしく、昼食どきに自宅にいたエドガーと、リディアはランチを取っていた。
光の射し込むテラスにふたりだけだ。ポールは痩《や》せるための努力を続けているし、うまいぐあいに、絵に集中しているときはもともと、食事を忘れがちになるらしい。
少し食べるかと声をかけても、はいと言いつつ来なかった。
だから今は、エドガーとふたりだけだ。そういえば、ふたりだけで話をするのは、舞踏《ぶとう》会以来だと気づき、リディアは急に落ち着かなくなった。
「体、弱かったの?」
しゃべってごまかそうとしたものだから、考えていたことがそのまま口にでてしまった。
「うん」
エドガーはさらりと答えた。
「喘息《ぜんそく》持ちで家にこもりきりだった。十歳ぐらいで治ってたんだけど、母が心配性でね。マナーハウスを訪ねてくる客とも、ほとんど顔を会わせることはなかったよ」
「だから、社交界に昔のあなたを知ってる人がいないのね」
「たぶん、ひとりをのぞいてね」
そのひとりが、ポールだ。唐突《とうとつ》にリディアが、こんなことを言いだしたわけも、ポールが何か話したのだと彼は気づいているようだった。
「でも、使用人がたくさんいたでしょう? 家庭教師とかも」
「そのころの家庭教師も、上級召使いも、家族の身近にいただけにみんな死んでるよ。生き残った使用人は、僕の顔なんか知らないだろう」
何百人という召使いをかかえている屋敷では、上級といわれる執事《しつじ》や|メイド頭《ハウスキーパー》、侍女《じじょ》、そして給仕《きゅうじ》係や御者《ぎょしゃ》といった一部の使用人をのぞけば、主人やその家族と顔を会わせないものだという。
「仮にあの少年をおぼえている人がいるとしても、僕がそうだとは思わないよ。彼にはちゃんと墓もある。中には死体も入っている。どこの誰だか知らない。まあ僕が棺《ひつぎ》を開けて確かめたわけじゃないけど、個体判別不可能な黒こげの、子供の死体がね」
エドガーはわざと彼女を当惑させるように言って、平然とローストチキンを口に運んだ。
一気に食欲がなくなって、ナイフとフォークを置きながら、リディアは負けるもんかと意味もなく思う。
「あなたがその少年と別人に見えるのは、性格が違いすぎるからだそうよ。少なくとも、攻撃的なところも威圧的《いあつてき》なところも、悪趣味なからかい方もする人じゃなかったんじゃない?」
グラスを持ちあげた彼は、そこに映る自分の姿を確かめるように眺めた。
「そうだね。自分でも思うよ。いろんなことがありすぎた。僕は本当に、昔の自分と同じ人物なんだろうかと考えると、わからなくなるくらいだ」
突然、家族を殺され、外国へ連れ去られた。プリンスという人物が、何のためにエドガーを手に入れ、どう扱っていたのかリディアは知らないけれど、そこでの彼は自由も意志も奪われた奴隷《どれい》だった。
同じようにそこにとらわれていたというレイヴンや、心を通わせた仲間たちと逃亡するまでに、敵をあざむき本音を隠す二面性や、冷静な判断力や、危険を切り抜けるための非情さを身につけなければならなかっただろう。
逃げ出せても、最下層に身をひそめながら追っ手をかわし、足場を固めるための闘争、策略、……死がすぐそばにある戦場だったはずだ。
天真爛漫《てんしんらんまん》な貴公子でいられるはずがない。
誰も助けてくれなかったから、自分を変えて生き残り、レイヴンを守っている。
「でもあたし、昔のあなたは知らないけど、いまのあなたもきらいじゃないわ」
「……きみはほんとうに……」
何か言いかけ、ふと口をつぐむ。
そして彼は、やわらかく微笑《ほほえ》んだ。
エドガーの本心なんて少しもわからないけれど、幸福そうな微笑みを向けられ、リディアは安堵《あんど》する。
変わったかもしれないけれど、変わっていない部分もあるのだろう。
心安らぐ幸福感を知らない人だったら、どんなにうまく演じようとしても、きっとこんなふうには微笑めない。
だからエドガーを、リディアはただの悪人だと思えなかったし、平穏《へいおん》な暮らしを取り戻すのに協力したいと思っている。
このままアシェンバート伯爵として、プリンスへの恨《うら》みを断ち切ってほしい。
「どうして人間は、肉を焼いちまうんだか」
突然の声は、ケルピーだった。いつのまにか、ポールのための椅子《いす》に腰かけ、手づかみでローストチキンにかぶりついていた。
「生の方がぜったいうまいってのに」
「な、何しに来たのよ!」
「おまえに会いに。どうだ? 奴の指輪はまだ抜けないのか?」
「指輪が取れても、きみにリディアは渡さないよ」
言ったエドガーの方を、ケルピーは一瞥《いちべつ》する。
「でかい口たたくんじゃないぞ。青騎士伯爵ったって、今じゃろくに妖精も見えないんだろ。だからってリディアを働かせるなんて冗談じゃない」
「そんなに彼女のそばにいたいのなら、きみも雇ってやろう。馬車を引くくらいはできるだろう?」
馬扱いされて、頭にきたらしいケルピーは、チキンの骨を放り投げた。
「俺は馬じゃねえ。気高《けだか》き水棲馬だ!」
身を乗り出し、エドガーを威圧《いあつ》するように見る。ケルピーの視線をまともに見返すエドガーは、命知らずだわとリディアは思う。
ケルピーの恐ろしさを知らないのだろうけれど、魔性《ましょう》の妖精の視線は、人の心をかき乱す。恐怖のあまりに失神する人だって多いのだ。
「どうした伯爵《はくしゃく》、怖いならあの従者を呼んだ方がいいんじゃねえのか?」
短気なケルピーが、すぐにエドガーに襲いかかろうとしないのは、どうやらレイヴンの存在を気にしているらしい。
「レイヴンなら、今はいないよ」
なのにエドガーはあっさり言ってしまう。
「ふうん、俺があんたの首をへし折る気になったら、誰にも止められないってわけだ」
「あたしが止めるわよ!」
リディアは魔よけを、ケルピーの目の前に突きだした。聖書のページを破ってまるめたものだ。
彼は臭いものを鼻先に突き出されたかのように顔をゆがめた。神聖なものをケルピーが嫌うといっても、その程度の反応だ。
それでも今はまだ、本気でやる気ではないからか、彼は体を引いた。
「女に助けてもらって、恥ずかしくないのかよ」
「リディアが僕のために、言い寄る男を追い払おうとしてるなんてゾクゾクするじゃないか」
そうだけど、なんだか違うような。
「リディア、この口の減らない軟弱《なんじゃく》男のどこがいいんだ? どう考えても俺の方がいい男だ」
「馬より人間の方がいいに決まってるだろ」
「馬じゃないと言ってるだろ! おいリディア、はっきりしろ。俺かこいつか、どっちを選ぶんだ」
選ぶって、人喰《ひとく》い妖精と元強盗の口説《くど》き魔だなんて、あんまりな選択肢じゃないの。
「もう、どっちもそんなのじゃないの!」
「リディアのお気に入りは、妖精画家だからね」
エドガーがぽつりと言った。
「な、何言ってるのよ」
「モデルになること承知したんだって? いやだと言ってたのに」
「それは、なりゆきで」
スケッチについていったとき、描かせてくれと言われたから、草の上に座っていただけだ。
簡単なことだったから、また今度もと頼まれれば、断る理由もなかった。
リディアの絵を描くわけではなく、そのデッサンをもとに妖精画を構成するのだというから、そんなに身構えることでもない。
「ケイン君、だからきみのライバルは僕じゃない」
「そうなのか? あの、月≠横取りしやがった奴か?」
横取りって、あなたが間違ってはめたんでしょうに。
「エドガー、いいかげんなこと言わないで」
「きみが彼を好きになるなら、潔《いさぎよ》く身を引くよ。せめて嫌われたくないからね」
そんなふうに言われてしまうと、リディアは反論できなくなった。
違うと強く言えば、エドガーに対し誤解を解こうと必死になっているみたいではないか。
彼が誤解していようと、おもしろ半分の口説き攻勢をやめてくれるなら願ったりのはずだ。
そうよ。ポールはとてもいい人だし、本当に好きにならないとも限らない。
けれどなぜか、妬《や》いてくれないんだ、とリディアは落胆《らくたん》を感じている。
エドガーの口説き攻撃がないのは物足りないような……。
てか、そんなはずないじゃない。ちょっと拍子抜けしただけで。
あせって自分に言いわけしながら、リディアは急に気がついた。
エドガーは、リディアにではなく、ポールに嫌われたくないのではないのか。ケルピーとリディアを取り合う嫌味の応酬《おうしゅう》も、彼にとっては言葉のやりとりを楽しむ遊び。でもポールとは、そんなゲームをするつもりはないということ。
本気でリディアを取り合うつもりなんかないのに、ポールを不愉快《ふゆかい》にする必要はない。
力が抜けて、リディアは椅子《いす》の背に寄りかかった。
ま、そんなものよね。
エドガーの口説き文句が本気じゃないのは、最初からわかっていたことだ。
「なんだ、あんたべつに、リディアが好きだってわけじゃないのか」
能天気《のうてんき》にもケルピーは、リディアの脱力感に追い討ちをかける。だから彼女は、エドガーが静かに不機嫌を蓄積していることには気づかなかった。
ケルピーがパンをわしづかみにするのを眺めながら、エドガーは料理の一皿を彼の方へ押し出した。
「ケイン君、よかったらこれも」
まずいと言いながらも、食い意地の張っているケルピーは、繊細《せんさい》に盛りつけられた料理をひとくちで飲み込んだ。
と、急に顔色を変えて立ちあがる。
「な、何だこれは……。何喰わせやがった!」
「レバーのパテだよ」
レバー。……肝臓《かんぞう》。ケルピーがけっして食べないもの。
リディアの血の気が引いたのは言うまでもない。
ケルピーを本気で怒らせたらどうなるのか。いくらここが魔力を発揮しにくい伯爵邸だとしても、獰猛《どうもう》な水棲馬が暴れたら……。
リディアには止められない。
怒りに全身を震《ふる》わせるケルピーの背に、たてがみがのび、しっぽがはえる。馬の姿がにじみ出している。
しかしエドガーは、平然と言う。
「きみね、信用できない相手に勧められたものをむやみに口にするのは危険なんだよ」
「きさま……、今度会ったら八《や》つ裂《ざ》きにしてやるからな!」
ケルピーは、風のようにテラスから飛び出していった。
肝臓を食べてしまったことは、怒るどころではないくらいケルピーを動揺させたらしい。リディアは心底ほっとし、と同時に頭をかかえた。
「なんてことするのよ! 怖いもの知らずにもほどがあるわ!」
「向こうが僕をあまくみてるんだよ」
浮かべた薄い笑みは、ふだんはうかがい知れない彼の闇をのぞかせる。
怖いもの知らずなんじゃなくて、怖くないのだ。
少なくとも彼にとっては、自分の命を奪う存在など脅威《きょうい》でも何でもなく、生かしたまま何もかも奪おうとする宿敵の存在だけが恐ろしいに違いない。
「失礼します、伯爵」
テラスへ現れたポールに、顔を向けたエドガーは、すでにおだやかで鷹揚《おうよう》な伯爵の微笑みになっていた。
「ポール、きみの昼食をケイン君が食べてしまったよ。すぐに新しいものを用意させよう」
「いえ、いいんです。それより伯爵、お願いがあるんですが」
「なんだい?」
少しためらい、けれど思い切ったように彼はまた口を開いた。
「青騎士|卿《きょう》の宝剣を、見せていただけないでしょうか」
宝剣、それは言い伝えによると、伯爵家の先祖である青騎士卿が、英国王エドワード一世から爵位《しゃくい》とともに賜《たまわ》ったという剣だ。それを所有していることが、伯爵家の継承者《けいしょうしゃ》としての身分を証明するという貴重なもの。
アシェンバート家と無関係なエドガーが、イブラゼル伯爵と認められたのは、宝剣を手に入れたからだ。
家宝ともいえるそれを、ポールは見たいと言う。
「ご依頼の絵ですが、青騎士卿の物語をもとにした妖精画にしたいのです。それならやはり、伝説の宝剣を描かないことにはと思いまして」
無謀《むぼう》な願いだと思っているのか、ポールは落ちつきなく言葉を続ける。
「いえあの、さわったり汚したりするようなことはありません。見せていただくだけでいいんです。イメージさえ頭に焼きつければ。ただの妖精画になってしまっては、この屋敷を飾る意味がないと、ずっと考えていて、ようやくひらめいたんです」
ポールを見るエドガーの視線が、ふと鋭くなったように見えたのは、リディアの気のせいだろうか。
しかし彼は、なんのことはなさそうに即答した。
「いいよ。それできみの絵が、さらにすばらしいものになるというなら」
緊張が解けたように口元をゆるめ、ポールは頭を下げたが、エドガーはどういうわけか、にこりともしなかった。
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義賊団《ぎぞくだん》のスパイ
「それでエドガーさま、宝剣をお見せになったんですか?」
「見せたよ。しきりに感心してたけど、それだけだった」
直立不動のまま、レイヴンは考え込む。エドガーは、ソファのひじ掛《か》けに寄りかかり、頬杖《ほおづえ》をついた。
「単なる偶然か」
「ですが、この屋敷に本物があるということも、それがどんな形をしているのかも、貴重な情報になります」
伯爵《はくしゃく》家の宝剣をよこせという、|朱い月《スカーレットムーン》≠ゥらの脅迫状《きょうはくじょう》と、ポールが宝剣を見たがったのは関係あるのかどうか、エドガーは頭を悩ませていた。
「そのとおりだ。でもポールは、スパイができるような性格に思えないんだ。宝剣を見た反応も、まるきり天然に見えた」
昔の彼も、単純で人の言うことは鵜呑《うの》みにするし、考えていることがすぐ顔に出る男だった。他人をだませるほどの芝居ができるとも思えない。
それは今でも変わっていないと信じていたが、違うのだろうか。
「いや……、わかってるよ、レイヴン。芸術家が秘密めいた結社に属するのは、流行といってもいいくらいだ。おまえの言うように慎重《しんちょう》に判断するべきだろうね」
大きなものではフリーメイソンや薔薇《ばら》十字団。貴族や学識者《がくしきしゃ》が多数|籍《せき》を置いている。部外者にはそれらは、非常に謎めいて不気味に見えるし、闇でとてつもないことを画策《かくさく》しているようにささやかれることもあるが、じっさいには、反社会的な目的意識は薄い。
その一方で、本当に危険な結社は、人の噂《うわさ》にものぼらないまま、裏社会を動かしているものなのだ。
朱い月《スカーレットムーン》≠ヘ、義賊団だとしたら下層階級では英雄だ。しかも、彼らがねらうのはプリンスが関与している汚い金ばかり。となれば、結社に属する人間にとっては、犯罪に荷担《かたん》しているというより、理想のために戦っているといった感覚だろう。
ポールのような純粋な人間が、魅力を感じたとしても不思議はない。
「彼についてわかっていることは、カナダ生まれ、幼い頃に両親は離婚し、母と暮らしていたものの、母が他界したおりにイギリスへ帰国、画家で父のアンドリュー・ファーマンに引き取られる。アートスクール在学中に父親は画家を引退し、現在はドーバー在住。以後ポールはロンドンで一人暮らし。品行方正《ひんこうほうせい》、母校でも近所でも悪い噂はなく、熱心に絵に打ち込んでいるとのことです」
聞きながら、エドガーは深く眉根《まゆね》をよせていた。それに気づいてレイヴンは、黙ったまま主人の質問を待った。
「アンドリュー・ファーマン? オニールではないのか?……つまり、ポールの父が画家として別の名前を持っていたのではないかということだけど」
「調査報告にはありませんね。ファーマンのサイン入りで描かれた絵なら、何点もあるようですが、オニールというのはなさそうです」
ポールが現れたとき、エドガーは、彼の姓が記憶とは違うのを、さほど気にしていなかった。母方の姓を名乗ったり、また芸術家や役者など、好き勝手に名前を変えていることは多い。
しかし父親は、エドガーの記憶では、オニールの名で知られた画家だったはずだ。
「ならレイヴン、オニールという画家を調べてくれ」
もしオニールという画家が存在し、彼こそがかつてエドガーの父が依頼した画家なら、オニールの息子であるはずのポールは、今現在、出自《しゅつじ》を偽《いつわ》っていることになる。
もしかするとそこから、ポールが朱い月≠ニつながってくる可能性がある。
「わかりました」
「で、義賊団の方は?」
「エドガーさまがおっしゃったように、古物商《こぶつしょう》をあたってみましたところ、ヴァイオリンを売りに来たそれらしい人物がいました」
指をなくした男が来なかったか、ロンドン中の医者をあたったが該当者がいないと警察は言った。しかしどうせ、傷の手当ては闇医者か組織の仲間が請《う》け負《お》っているのだ。
しかし指が四本もなくなっては、もはやヴァイオリンを弾くことはできないだろうとエドガーは考えていた。
「ヴァイオリンは確認した?」
「はい。もみ合ったときに私がつけた傷がありました。ただ、売りに来た人物は太った黒髭《くろひげ》の男だということですので、頼まれて売りに来たとか、そんなところでしょう」
「その男の身元はわからないんだね」
「ええ。身なりがよかったことと、赤っぽい石のついた指輪をしていたこと。店主がおぼえているのはそれくらいです」
「……赤い石の、指輪」
「古物商ですので、宝石にはある程度詳しいのでしょうが、赤いムーンストーンだと気になったそうです」
ムーンストーン、朱《あか》い月≠セ。
「エドガーさま、ムーンストーンに赤い色もあるのですか?」
「あるよ。赤も、白も、青も……」
言いながらエドガーは、赤いムーンストーンを、最近どこかで見たことがあるような気がしていた。
でも、どこだったか思い出せない。社交界を飛び回る毎日で、会った人は数え切れない。目立つ宝石を身につけていたとしても不思議はない人たちばかりだ。
恰幅《かっぷく》のいい黒髭も、何人もいるだろう。
考えていると、ノックの音がした。だがドアではなく、窓の方だ。
レイヴンが窓を開けると、灰色の猫が部屋の中へすべり込んだ。
ノックができる猫というのはどうなのだろう。
「やあニコ、何か用かい?」
「いいかげんにリディアを解放してくれないか? とっくに帰る時間だってのに、あの絵描きさん、すっかり熱中してるんだよ」
ソファの上に飛び乗った猫は、鳴きながらえらそうにふんぞり返る。これだからどうも、猫らしくない。
しかしまだニコがここにいるということは、とエドガーは思い当たる。
「レイヴン、リディアはまだポールのモデルをやってるのか?」
「そういえばそうですね」
「ずいぶん遅いじゃないか。そろそろ彼女を帰すように言ってきてくれ」
レイヴンが出ていくと、ニコはエドガーを呼ぶかのようにひとつ鳴いた。そして彼の方を、責めるかのごとくじっと見る。
「聞こえたんだけどさ、絵描きさんはスパイかもしれないのか? それもこの間の、ダンスの先生の事件と関係がある?」
「ひょっとして、立ち聞きしたのか? ニコ」
「そんな奴にリディアを近づけておいていいのかよ」
「ああ、リディアのことを心配してるんだね。まだ彼がスパイだと決まったわけじゃないし、屋敷の中は召使いたちの目があるから、ふたりきりになることもないよ」
やれやれとでも言うように、ニコは首を動かした。
エドガーは、ふと疑問に思い顔をあげる。
「ニコ、もしかしてきみ、人の言葉をしゃべってる?」
「ニャア」
猫らしい鳴き声が、かえってわざとらしく聞こえた。
ソファの上のニコに歩み寄る。
「なあ、リディアはポールのこと、僕より信頼していると思うか?」
「あんたとくらべりゃ、誰でも信頼できる部類にはいるんじゃねーの?」
[#挿絵(img/moonstone_131.jpg)入る]
「僕より好きかな」
「んなことおれに訊《き》くなよ」
「……もし彼が、スパイだったら傷つくかな」
それにはニコも、悩んだように黙り込んだ。
「だからニコ、きみからもリディアに、僕を好きになるようすすめてくれ。それでもって、ポールの悪口を吹き込むんだ。いい考えだろう?」
「うーん、仮に画家がどっかのスパイでも、あんたよりましなんじゃないかって気がしないでも……」
言いかけたニコを、エドガーはむんずとつかんで持ちあげる。
「僕に逆らわない方がいいよ」
ポールが絵を描いている部屋へレイヴンが来て、もう遅いからと促《うなが》すと、彼はあわてて筆を置いた。
集中すると、時間を忘れてしまうようだ。
とはいえリディアも、考え事をしていたから時間を忘れていた。月≠フ指輪がはずれたら、妖精たちとの問題をどうやって収拾《しゅうしゅう》するかと考え続けていたのだ。
ケルピーも野原の妖精たちも退《しりぞ》けるいい方法はないものだろうか。
結局何も思いつかないまま、帰宅するためにリディアは、エドガーのいる書斎《しょさい》のドアをたたく。ニコがそこにいると、レイヴンに聞いたからだ。
しかし返事よりも、激しい物音が聞こえた。驚いてリディアがドアを開けると、ふさふさした灰色のかたまりがリディアに飛びついてきた。
「ニコ、どうしたの?」
「くっそーっ、ひどい奴だぜこいつは! おれのプライドを踏みにじりやがって!」
ニコが暴れて倒したのだろう、椅子《いす》やランプ台の向こうで、エドガーがにんまり笑った。
「ちょっとエドガー、ニコに何したのよ」
「遊んでやっただけじゃないか」
服についた灰色の毛を払いながら、彼はソファから立ちあがる。
「おれは猫じゃねえって言ってんのに、猫扱いしやがったんだ!」
「けっこうよろこんでたけど」
「しかたねえだろ! 猫の体が勝手に反応して……」
「なんか、いかがわしいね」
「バカ言うな、このクソ! いいか、二度とおれをさわるな、撫《な》でるな、ゴロゴロ言わすんじゃねえ!」
リディアの腕から飛びおりると、ニコはすごい勢いで駆《か》け出していった。
それにしても、猫扱いがきらいなニコをあんなに怒らせるなんて、よほど。
「猫の扱いがうまいのね」
「女の子の扱いも自信あるよ」
あれ? また始まりそう?
このところおさまっていたはずの、口説《くど》きの猛攻撃。が、リディアが危機感をおぼえたときにはすでに、エドガーは目の前にいて、さっさと帰りたかったリディアの動きを封じていた。
真上からリディアを覗《のぞ》き込むように見おろす。完全に攻める気の姿勢だ。
どうしてよ。もう飽きたんじゃなかったの?
「遅くまでポールにつきあう義務はないんだよ。帰りが遅いと、カールトン教授が心配する」
「ええ、今日はちょっと、あたしも時間を忘れてたから」
「そんなに楽しかった?」
「……そうね。あたしが退屈しないように、いろんな話をしてくれるもの」
「たとえば、どんな」
えらく質問責めだ。
「ほとんど絵のことよ。べつに何話したっていいでしょ?」
「それは?」
リディアが手にしていたカードに、エドガーは気づいたようだった。隠すのも変なので、持ちあげて見せた。
「ポールさんがくれたの。モデルのお礼にって」
アイリスの花が、淡彩《たんさい》で描かれている。ポールの迷いのない線は、生き生きした花の生命力を大胆に写し取って、カードといえど、うっとりするような絵になっていた。
「アイリスか。花言葉は恋のメッセージ。きみへのラブレターだね」
「まさか。たまたまそばにあった花でしょう」
「違ったらどうするの?」
どうするって、つまり返事を?
てか、ふつーにうれしいわって受け取っちゃったじゃない。
「彼になら、口説かれても泣かないんだ」
え? どういう意味……?
悟《さと》るよりも先に、リディアは顔が熱くなるのを感じていた。
気づいてたんだ。舞踏《ぶとう》会の時のこと。
「どうして泣かれたのか、考え続けてるけどわからない。傷つけるようなことを言った? でもなぜ? どのへんが?」
そんなの、リディアにだってわからない。どうしてだか急に苦しくなって、つらくなってしまったのだ。
エドガーの気まぐれに、心を乱されるのはいやだ。そしてむかつくから、リディアはつい攻撃的になってしまう。
「あたしが、誰を好きでもいいじゃない。あなた身を引いてくれるんでしょ」
「あれはうそだ」
「はあ?」
「気どったこと言ってみたけど、本心じゃない」
「そんな簡単にうそつくから、信用できないんじゃないの」
「そうだね、僕がどれほどきみにうそをついてきたか」
「もういいわ、そこどいてよ」
しかしかまわず、通せんぼするように彼は立ちはだかったままだ。
「でもきみは、いつでも僕を許してくれる。最初からそうだった。僕が強盗だったと知ったときも、きみをだまそうとしたことも許してくれた。そんなきみだから、そばにいてほしいんだ。犯した罪は消えないけど、きみが僕を見捨てずにいてくれるなら、伯爵《はくしゃく》を名乗って生きていくことも許されるような気がしている」
いつになくきまじめな口調に、リディアの心臓がどきりと鳴った。
「きみは僕の、ろくでなしなところを知っている。でもそうなるしかなかった事情もわかってくれているだろう? きらいじゃないと言ってくれた、これがありのままの僕だ。きっとこれからも、誰にも打ち明けることはない秘密をかかえていくしかないけれど、同じ境遇にいた仲間以外にはわかるはずもないと思っていた僕の気持ちを、きみだけが受けとめてくれた。それだけでは、きみをとくべつに想う理由にはならないのか? これも軽い気持ちだと、うそだと思う?」
でも彼は、これくらいのこと、心にもなくてもすらすら言える人だ。
「うそじゃなくても、軽い気持ちよ」
「……傷つくな」
「あなたには、本気の恋なんて頭にない。あなたの心を占めているのは、女の子じゃなくて宿敵のこと。少しはあたしが、あなたの心をなぐさめるのに役立ってるとしても、恋じゃない。役に立つっていうだけよ」
図星だったはずだ。
リディアだって、少しは学習した。彼は自分にとって必要なものを得るために、巧《たく》みに言葉を使うのだ。
必要だという気持ちがうそではなくても、恋じゃない。
「これが友情ではいけないの? あたしが役に立つならそれでいいわ。あたしだってあなたのおかげで、フェアリードクターとしての仕事ができる。友達として思いやりをもてるならそれ以上必要ないじゃない。あなたがあたしのこと、単なる道具として利用してるんじゃないってことは、信じてもいいと思ってる」
しかし彼は、不本意そうにじっとリディアを見つめた。
「それは僕の主義に反する。女性に友達だと言われたらおしまいだ」
は?
これだから、ますます口説き文句なんか信用できないじゃないの。
もういや、とむりやりそばをすり抜けようとすれば、むしろ彼は苛立《いらだ》ったように、壁に両手をついてリディアを押しとどめた。
急に不機嫌になったというか、怒っているような気さえした。
「怖いの?」
けれど、声を落としてささやきかけた言葉は、あまい口調だった。
作戦を変えられたことに気づけるほど、リディアは百戦錬磨《ひゃくせんれんま》じゃないから、乗せられて動揺する。
「な、なにが……?」
「恋をするのを怖がっているみたいだ」
不意にまた、泣きたいような気分になった。
「舞踏会の夜も、本当いうとそんなふうに思えた。あんまり追いかけると、ますます怖がって逃げてしまいそうだからがまんしてたのに、このままきみがポールに惹《ひ》かれていくのを見ているのはつらい」
「……だから、ポールさんとはそんなんじゃ」
なんだかもう、エドガーのここ数日おとなしかったぶんが、一気に降りかかってきたかのようだった。
こんなことならため込まないでほしい。油断していただけに逃げる隙《すき》もない。
恥ずかしいし頭に血がのぼるし、リディアはだんだん、わけがわからなくなってくる。
「心を開いてくれないのは、子供のころに、ゲームの延長で告白されたから?」
ああもう、どうしよう。
「……べつにあたし、恋をするのが怖いわけじゃないわ。恋をしたことくらいあるもの、片想いだったけど。でも、あなたとは恋なんてありえない。だってあなた、もしあたしが好きになったら困るはずよ。考えてもみて。本気になってとことんのめり込んだりして、つきまとったら困るでしょう? 貴族の令嬢《れいじょう》との縁談が持ち上がったらもっとじゃまになるわ。どう考えても釣り合わない女の子に本気になんかなられたって、受け入れられるわけないんだから。だからって冷たくしたら、はらいせに秘密をタブロイド紙に売られちゃうかもしれないのよ、それこそあなたにとっていいことなんてひとつもないわ」
やけになって、リディアはまくし立てた。彼は少し、困ったような顔をした。ほらね、と思う。
「わかった」
「わかったならどいてちょうだい」
「やっぱりきみは怖がってる。頭から、うまくいくはずないと思いたがっている。その方が、あとで失望しなくてすむから」
失望、なんかじゃない。
子供のころ、あのときだって最初から、告白めいた手紙をもらうような対象ではないとわかっていた。何かのいたずらじゃないかと感じていた。
あの子にとってリディアは、人間ではなく妖精の友達みたいなものだったから。
|取り換え子《チェンジリング》と噂《うわさ》されるような少女と仲良くするのは、ひそかに妖精と語らうようなもの。
夢の中の友達は、現実じゃないから、彼にとって小さな悩みをうち明けやすい存在だった。
幻《まぼろし》が日常にしゃしゃり出てきたら、いい気分でいられるはずがない。彼の弱みを知っているリディアに、人前で声などかけてほしくなかったのだ。
なのに間違えて、彼を困らせた。
自分の役割はわかっていたはずなのに。もう少し、現実の友達に近づいてもいいのではないかと思ってしまった。
怖がっているとしたら、うその言葉に惑わされること。
間違ってはいけない距離を間違ってしまったら、エドガーだって不愉快《ふゆかい》になるに違いない。
「あたしは、失望したくないんじゃなくて、あるべき距離を間違えたくないだけ……」
「なにそれ、距離? そんなもの、いくらでも変わるし、変えていけるはずだろう?」
気がつけば、エドガーはさらにリディアに接近していた。
「たとえばこの距離を、僕たちのあたりまえにすることだって」
ささやくように言いながら、彼女の肩をつかむ。背中に壁を感じたまま、リディアは動けない。
「や、離して……」
押しのけようとした腕をつかまれ、すぐ目の前で手首に唇《くちびる》を押しつけられた。
思いがけず素肌に触れられて、リディアは震《ふる》える。
「あの、伯爵」
そのとき遠慮がちに割り込んだ声は、開いたままの戸口に立っていたポールのものだった。
リディアがほっとしたのもつかの間、エドガーは彼女を見つめたまま、髪をもてあそぶように撫《な》でながら淡々《たんたん》と返す。
「今とりこんでるから、ドアを閉めて出ていってくれ」
え、ええっ?
「でも、あの……」
「リディアとはちょっと込み入った話をしているだけだ」
これって、話なの?
待ってとポールに言いたいのに、灰紫《アッシュモーヴ》の瞳がすぐ目の前にあるものだから、口を開くのがためらわれる。
それにエドガーに出ていけと言われて、逆らう必要がポールにあるだろうか。どうしよう、とあせるほど、リディアは声が出せなくなった。
「でもリディアさん、震《ふる》えています」
思い切ったようにポールは言った。
エドガーは、深く眉根《まゆね》をよせた。その様子は頭にきたというより、やけに淋《さび》しげで、そして苦しげに見えた。
億劫《おっくう》そうにリディアを離す。
「立派なナイトだ。きみを助けに来たらしい」
「伯爵《はくしゃく》、そういうことでは……」
「もう帰っていいよ。話は終わりだ」
追い出すように片手を振って、彼は奥の部屋へこもってしまった。
ぼんやりとしたまま自宅へ帰ってきたリディアは、寝室へ駆《か》け込むと、ランプの明かりもつけずにベッドに座り込んだ。
怖かった。まだ体が震えている。
手首に、肩に髪に、エドガーのぬくもりがまとわりついているようだった。
「何考えてんのよ、あいつは!」
声を出してみても、振り払えない。
いつもよりちょっとだけ、調子に乗りすぎた悪ふざけ? と考えてみるが、ふだんはもっと軽い感じで、こんなに逃げ出す隙がなかったことはない。
どういうわけか、機嫌も悪そうだった。
ポールにアイリスのカードをもらったことが原因なら、なんて身勝手な独占欲だろうとリディアはため息をおぼえる。
エドガーはただ、自分の身近にいる女の子が別の男性と親しくなるのが気にくわないだけ。そうとしか思えない。
しかしポールは、エドガーが腹を立てるような感情を、リディアにいだいてはいない。
さっき、伯爵に逆らってまでリディアを助けてくれたのだって、どちらかというとエドガーのためだった。
玄関先の馬車まで、震えているリディアを連れていってくれたポールは、義憤《ぎふん》を隠さずに言った。
エドガーが女性を口説《くど》きまくるのに、口をはさむような立場にないと前置きしながら、
『本気じゃないなら、あなたのようなお嬢《じょう》さんにいたずらがすぎると思います。身分の高い人に、庶民《しょみん》は逆らいにくいってことを知っているはずだから』
もちろんリディアは、身分の違いや雇われているという上下関係を持ち出され逃げ出せなかったわけではない。そもそも最初からうさんくさかったエドガーを、伯爵として見ていなかったし、対等な口のきき方を続けている。
しかしそんなふうに感じたポールは、リディアを助けたというよりも、エドガーに高潔な紳士《しんし》であってほしいと思っているように見えた。
間違っても身分下のうぶな少女に、強引に手を出すような人ではあってほしくないと。
エドガーが、公爵家《こうしゃく》の若君とは別人だと思っていても、どこかで重ねているのだろうか。
とすると、彼がリディアにやさしいのも、エドガーが特別扱いしているように見える少女だからではないのだろうか?
「ま、そんなものよね」
ため息とともに、またつぶやく。
「おーいリディア、晩飯食わないのか?」
戸口からニコがこちらを覗《のぞ》き込んだ。帰ってきてから鏡の前で、必死に毛並みを直していたが、食事の用意ができたらもう機嫌を直しているらしい。
しかしリディアの機嫌は直らない。ベッドの上でひざをかかえたまま、「いらない」と答える。
「あ、そ」
薄情な妖精猫は、あっさりそう言った。
帰りの馬車の中で、黙り込んでいたリディアに、『あんたも伯爵になでまわされたのか?』と言って彼女の神経を逆なでしたから、しっぽの毛に結び目をつくってやったのだ。だから警戒《けいかい》して近づいてこないのだろう。
ふさふさしたしっぽを左右に揺らしながら、二本足でとことこと階段を降りていった。
なぐさめようって気はないの? リディアは何もかもにむかつく。
手首を押さえた自分の手に、血の脈を感じれば、彼の唇にも伝わったのだろうかと考えてしまって苛立《いらだ》つ。
「よう、晩飯いらないって、変なもの食って腹でもこわしたか?」
今度はケルピーが、二階の窓から現れた。そういえば、エドガーにレバーを食べさせられたのだったが、問題はなかったのだろうか。
いっそあのまま食あたりでも起こして、故郷へ帰ってくれればよかったのにと、うんざりしながらリディアは返す。
「それはそっちでしょ」
「ったく、毒気を抜くのに時間がかかったぜ。高地《ハイランド》の水ならすぐ回復するってのに、ここの水はよどんでるからな」
やっぱり肝臓《かんぞう》は、ケルピーの体によくないらしい。
人の姿をしていても、背丈《せたけ》も体格も大きめな彼だが、狭い窓から器用に身をすべり込ませる。窓枠に腰かけて、蠱惑的《こわくてき》な瞳をリディアに向けた。
そういう妖力を持つ瞳なのであって、彼の意図とは無関係だと知っていれば、エドガーの視線ほどには居心地の悪さを感じない。
「テムズ河にもぐってたの?」
「バカ言うな。あんなくさった河に俺さまが棲《す》めるかよ。そっちの公園の池だ」
指さす方角からすると、ハイドパークだろう。広い池があったはずだ。
「どうでもいいけど、あたし今機嫌が悪いの。聖書を投げつけられないうちに帰ってちょうだい」
「何で機嫌悪いんだ? ああ、あれか。人間の女が月に一度機嫌が悪くなるという……」
そこにあったクッションを投げつけてやったが、さっと彼は受けとめた。
「そうカリカリすんなよ。いいものやるからさ」
ケルピーのいいものなんて。新鮮なブタの頭とか羊の心臓とか、死んでもほしくないわ。
眉根《まゆね》をよせるリディアの目の前に差しだした手を、彼はそっと開く。
黄色い毛糸玉のようなものが、もぞもぞと動くと、パチリと黒い目がふたつ開いてリディアを見た。
「え、ひよこ? かわいい……」
思わずリディアは頬《ほお》をゆるめる。
「拾ったんだ」
「どこで?」
「郊外《こうがい》の家畜小屋」
もしやそれは、拾ったとはいわないのでは。
「……食べたわね」
「ニワトリをつまみ食いしただけだろ。おまえがいやがるから、人間は襲《おそ》わないようにしてるんだからな」
ケルピーだって、食べないわけにはいかない。それでもリディアと知り合ってから、人を食べないようにしているという彼は、ある意味誠実なのかもしれなかった。
「この子は食べなかったの」
「小さすぎるだろ。肝臓取るのがめんどくさいんだよな」
リディアの手のひらに乗せる。落ちないようにそっと包み込むと、ふわふわした手触りに気持ちがなごんだ。
「どんな感じがするんだ?」
隣に座って、彼はリディアがひよこをそっとなでる様子を、不思議そうに覗き込んだ。
たぶん彼には、生き物を慈《いつく》しむ感覚がわかりにくいのだ。
「あたたかくてやわらかくて、やさしい気持ちになれるわ」
「喰《く》ってみたくならないのか」
「守ってあげたくなるの。心を通わせたくて、いっしょに過ごしたくて、いなくなったら淋《さび》しくて悲しいだろうなって思うの」
「ふうん、じゃこういう感じだ」
ケルピーはリディアの頭をくしゃくしゃと撫でた。
ひよこみたいなものなの、あたしは?
でも水棲馬にしてみれば、寿命は短く腕力も魔力もない人間なんて、その程度のものかもしれない。
そしてそんなちっぽけな生き物を、そばに置きたいと思うらしいこのケルピーは、水棲馬とは思えないくらい変わっている。
「なんでかおまえは喰ってみたくならないんだよな。それに、会えないと退屈だ」
「退屈って、水棲馬はふつう、あなたみたいにべらべらしゃべらないんじゃ?」
「そりゃ、俺だって水の中じゃ黙ってるさ。しゃべる相手がいないんだからな。でもおまえが俺といっしょに来れば、いつでもしゃべっていられるぜ」
気安くリディアの肩に腕をまわす。
けれども、払いのけようと思うほど不愉快《ふゆかい》ではなかった。
エドガーだったら、とてもこんなにおとなしくしていられないだろう。
昔から人よりも妖精と接する方が多かったリディアには、水棲馬でも妖精であるだけ、抵抗を感じにくいのかもしれない。
人の本心は、リディアにはわかりにくいけれど、妖精の心はまだわかる。少なくともケルピーが、リディアを食べるためにだまそうとするなら、言葉より態度より、魔力を使うだろうということは。
「なあ、あの伯爵に嫌味でも言われたか?」
この、リディアを元気づけようとしてくれている気持ちに裏はないとわかるから、安心していられる。
「だからさ、あいつのとこで働くのなんかやめて、俺と結婚しろっての」
ほんとに、軽々しく言ってくれるわね。
妖精と恋におちた人間は、そんな生活を選んで人界を去ることもあるけれど、リディアはまだこちらがわに執着《しゅうちゃく》がある。
父がいる。フェアリードクターとして母のあとを継ぎたいという夢もある。人の世にも、まだまだステキなことはあるはずだと思っている。
「しつこいってか? まあそれはともかく、スコットランドへ帰らないか? こんな人間だらけの街で着飾ってるより、妖精がいっぱいいるあっちで草原《くさはら》を飛び回ってる方が、おまえには合ってるよ」
それは自分でもそう思う。
「でもあたし、一人前のフェアリードクターになりたい。妖精とばかりつきあってるわけにはいかないわ」
「人間とつきあうと、疲れるだろ。フェアリードクターはたいていそうさ。人であっても妖精に近いんだ。それに人間ってのは妖精の姿が見えないから、問題さえ起こらなきゃすぐに妖精のことも、フェアリードクターのありがたみも忘れるからな。昔から、人の世を去って妖精界で暮らすフェアリードクターは多いって聞くぜ」
言い伝えでは、フェアリードクターになる能力のある人は、妖精の血を濃く引いていたり、|取り換え子《チェンジリング》だったりするという。自分はどうなのだろう。
妖精との縁が深いぶん、人の世界にいても、馴染《なじ》めないまま過ごさなければならないのだろうか。
母は、どうだったのだろう。
でも母には父がいた。だから人の世で生をまっとうした。
リディアにはまだ、自分の未来がどこを向いているのかわからない。
いつかは人の世界に見切りをつけ、妖精の国へ行くことになるのだろうか。
「おまえらはさ、死ぬまであっという間なんだから、こんなキタナイ街で無駄《むだ》な時間を過ごしてる場合じゃないぞ」
妖精にとっては数十年なんてあっという間だろうけれど、人にとってはそれなりに長いのだ。
それでもリディアは、あっけらかんとしたケルピーの言葉になぐさめられた。
水の精霊に触れられていると、少しひんやりとしているけれど清浄《せいじょう》な気配《けはい》に包まれる。身体にたまっていた濁《にご》りが、浄化されていくようだ。
恐ろしい性質を持つ水棲馬だが、きれいな水にしか生息しない彼らは、水を浄化する力があるという。だから彼らが棲む川や湖は、いつでも澄んだ水がたっぷりとたたえられ、人も動物も、その恩恵《おんけい》にあずかっているのだ。
妖精と接していると、人の世の仕組みも考え方も、一方的な見方なのだと思えてくる。ケルピーを悪い妖精に分類するのも、一方的な人の都合だ。
だったら人の世で、いやなことがあったり、悩んだり失敗したり、それくらい何よと思う。疲れ果てたら妖精の国が、やさしく迎えてくれるだろう。
「あなたって、意外といい奴よね」
魔性《ましょう》なのにまっすぐなケルピーと、人間なのに、いや人間だからうそだらけのエドガー。
個として見れば、エドガーの方が悪人じゃないだろうか。
けれど、人間だから善悪の間をゆれ動く。エドガーがわかりにくいのは、ゆれる幅が広すぎるから。それを本人が自覚していて、ときどきとてもつらそうで、そういうときリディアは、傲慢《ごうまん》な彼をこの手の中のひよこのように感じてしまうのだ。
包み込んであたためてあげることが、もしも自分にできるならと。
でも彼は、友情なんかいらないと言った。リディアが必要だと言いながら、本当のところ、からかって遊ぶ気晴らし程度にしか考えていないのかもしれない。
階段をあがってくる足音が聞こえていた。いつのまにかケルピーは姿を消していた。
部屋のドアをたたいたのは、帰宅したらしい父だ。
「リディア、誰かいるのか? 話し声が……」
「いいえ父さま、妖精よ。もう行っちゃったわ」
「食事をしたくないと聞いたんだが」
「うん……、あんまりおなかすいてなかったの。でも、少し食べようかな。父さまといっしょに」
立ちあがりながら、|家付き妖精《ホブゴブリン》のためのミルクとビスケットを置いたテーブルに、ひよこをそっと放す。
働き者のホブゴブリンがすぐに集まってきて、小さな生き物を取り巻いた。
「この子の面倒を見てあげてね」
*
リディアが震《ふる》えていると言って、あのときポールは引き下がらなかった。
伯爵家に入り込んで、探るのが目的なら、エドガーの機嫌をそこねるようなことは避けるだろう。
だとすると、ポールはやはり|朱い月《スカーレットムーン》≠ニは無関係なのか?
それとも、自分の目的よりも、正義感が勝ったか。
考えながらエドガーは、軽い自己|嫌悪《けんお》に陥《おちい》り、ため息をついた。
「どうかなさいましたか」
馬車の中、ドアのそばに座っているレイヴンがこちらを見た。
窓の外を、オックスフォードストリートの雑踏《ざっとう》が流れていく。
ポールが義賊団《ぎぞくだん》と関係があるのかどうか、そのことについて頭の中を整理したいのに、考え始めるとどうしても、リディアの顔が目に浮かぶ。
「ちょっとね」
震えているリディアに罪悪感をおぼえながら、けれどあのときポールの存在に気づいたエドガーは、彼の出方を見るために、わざとリディアを離さなかった。
その一方で、自分を拒絶し続ける彼女に苛立《いらだ》っていて、止められなければまずいことになっていたかもしれないと思う。
冷静にリディアの価値をはかっている自分と、感情的にほしがっている自分がいる。
リディアが離れていくと困るのだから、彼女の言うように友情を築けばいいのかもしれないが、そう申し出られると腹が立つのだからどうしようもない。
「レイヴン、リディアを利用しているのはたしかなのに、そう思われたくないってのはどうなのかな」
「どう思われればいいのですか?」
「彼女に恋いこがれているからぜったいに離したくないと思ってる、とか」
「いまさら無理なのでは」
だから困るんだ、とエドガーは腕を組む。いくらそう言っても、リディアは信用してくれない。
「あの、それは本気なのですか?」
「うん、ぜったいに手放したくない」
「いえ……そこではなく」
「恋いこがれているかってこと? 問題は、そこのところが本気ですべてうまくいくというなら、いくらでも本気になれるってことだ」
わからないというふうに、レイヴンは首を傾《かし》げた。
「でもリディアは、そういう本気を認めないだろうね」
いつまでたっても片想いだ。とエドガーは吐き出すように言った。
「そんな本気があるかよ」
動く馬車の中に、いるはずのない声がした。
「あきれるね。やっぱりあんたなんかに、リディアをあずけておけねえよ」
向かいの席に、ゆるりと姿を現したのは、黒髪巻き毛の青年だ。
とっさに動こうとしたレイヴンを、エドガーは視線で止める。
「ケイン君、僕に用があるなら執事《しつじ》を通してくれないと困るな」
「人間のルールなんか、俺には関係ない。それにリディアは、フェアリードクターになりたいってだけで、あんたのことなんかどうでもいいんだ。勘違《かんちが》いするなよ」
「きみ、彼女に求婚を断られたはずじゃ? 少なくとも僕はまだ、はっきりと拒絶されていない」
「断られたなんて俺は思ってないね。人間なんてすぐ歳をとるわ無能だわ、憎しみ合うし殺し合うしだまし合う。フェアリードクターなら、いずれそんな連中よりも、妖精と暮らしたいと思うはずだからな」
「水棲馬《ケルピー》とかいうのだっけ。きみは人を喰《く》うんだろ? うっかり食べられてしまうんじゃないかと、リディアだって警戒《けいかい》してると思うよ」
「喰うわけないだろ。ケルピーの意志は強いんだ」
「もったいない。僕はリディアを食べてみたいけどね」
ケルピーはあからさまに顔をしかめた。
「あんた……、人間のくせに。ヘンタイか?」
くす、と笑いながら、エドガーは視線をあげた。
「きみは、どうしてリディアが好きなんだ? 人を好きになるなんて、水棲馬の性《さが》に反しているんじゃないのか?」
「俺のことを怖がらないからだ。そりゃ水棲馬だから危険視してるさ。でも種族じゃなくて、俺自身を見てる。近寄っても話しかけても逃げたりしない。そんな人間ははじめてだった」
「じゃあ、リディアに会うまで孤独だったんだね」
「孤独? 水棲馬ってのはそういうもんだ。同族とも離れて暮らす」
「でも彼女に会って、他人に受け入れられる心地よさを知った。それで、彼女を独占したくなった」
ケルピーは、心の内を探ろうとするようにじっとこちらを見た。美しい、黒|真珠《しんじゅ》の瞳だ。人ではない魔性《ましょう》の輝きは、リディアの金緑の瞳にも通じるものがある。
何もかも見透《みす》かされそうで、それなら何も偽《いつわ》る必要はないと、安心させられるような。
「よくわかるな」
「僕も同じだ。彼女は僕のやってきたことを怖がらなかった。世間が僕のような人間に貼るレッテルよりも、僕自身の言葉を聞いてくれて、同情してくれた。力を貸してくれた。人として失ってはいけない部分を、僕に思い出させてくれた。リディアがいればこの先も、まだ少しはまともでいられるかもしれないと思っている」
「はあん、あんた地獄へ堕《お》ちるたぐいの人間か」
にやりと、ケルピーが笑う。くらくらするのは、妖精の魔力のせいだろうか。男も女も見境《みさかい》なく喰うのだったか。だとしたらこの妖《あや》しい美しさに惑わされるのは、男でも同じなのか。
最高級の美術品みたいだ。手に入れようとして罠《わな》にはまるのも無理はない。
「エドガーさま!」
レイヴンが声をあげ、エドガーの肩に触れた。一方で、ケルピーの眉間《みけん》にナイフを突きつける。
「そうカッカすんなよ、ぼうや。……いや、そいつは蛇《へび》か? それとも鳥か?」
ケルピーが体を引けば、呪縛《じゅばく》から解放されたかのように、急に体が軽くなった。
「大丈夫だよ、レイヴン」
彼にナイフを退《ひ》かせながら、エドガーはつぶやく。
「まあね。地獄を信じていないけど。……だからケイン君、僕は彼女を手放すつもりはない。これだけは本気だからね」
ふん、と彼は鼻で笑った。
「受けてたってやる」
ケルピーが消えると、ほどなくして馬車は止まった。
エドガーがやってきたのは、ロンドン大学ユニバーシティカレッジだ。
馬車を降りて、リディアの父、カールトンが勤めるその建物へ、彼はひとりで入っていく。
少し訊《たず》ねたいことがあって、個人指導の合間に時間をあけてもらったのだ。
カレッジの職員に案内され、研究室を訪ねると、教授というよりは雑務係かと思うような、ボサボサ頭に丸|眼鏡《めがね》のカールトンが迎えてくれた。
「ようこそ、伯爵《はくしゃく》。ちょっと今散らかってましてすみません」
と言いながら積み上げられた書物とデスクの間をすり抜けようとしたカールトンは、上着のすそを椅子《いす》に引っかけ、派手に書物の山を崩した。
「ああっ、まったくこんなところに本を積み上げるものですから……。いえ、伯爵、お気になさらずに。どうぞおかけください」
来客用のソファに、書類が散乱していることに気づいたらしく、あわてて片づける。
隣室《りんしつ》にいたらしい弟子のラングレーが、さっと手を貸さなければ、集めようとした書類の束をまたぶちまけてしまいそうな手際《てぎわ》の悪さだった。
「あの、それでお話というのは、リディアが何かご迷惑を?」
どうやら彼が落ち着きない様子だったのは、エドガーが娘のことで文句を言いに来たのかと心配していたせいらしい。
「いいえ、リディアさんはとてもよくやってくれてます。そうではなくて教授、宝石のことで教えていただきたいことがあるのです」
宝石と聞いて、カールトンは相好《そうごう》を崩した。
鉱物学は彼の専門分野だ。学問バカ、とリディアが言うだけあって、とたんに神妙《しんみょう》な学者の表情に変わる。
「ムーンストーンなんですが、本物の月のように、満ち欠けするものがあると聞きました」
ムーンストーンについて知りたいと思ったのは、その宝石が青騎士伯爵という名にまとわりつくように感じたからだった。
昔、妖精女王に『月をくれたら』と結婚の約束をしたという。そして女王が見つけてきたのは、月のように満ち欠けするという白いムーンストーン。
エドガーがふと思ったのは、昔の青騎士伯爵のその言葉は、本当に結婚を断るための常套句《じょうとうく》だったのだろうかということだ。
そしてもう一方の月=Aスカーレットムーンという義賊団《ぎぞくだん》。その名が赤いムーンストーンから来ているとすると、なぜムーンストーンなのだろうという疑問が浮かぶ。
青騎士伯爵のニセ者が許せないらしい彼らは、月≠ノどんな意味を持たせているのだろう。
ひょっとするとムーンストーンは、青騎士伯爵と深い関係があるのではないか。
しかしエドガーは、伯爵家について、領地の妖精国がどこにあるのか、本当にあるのか、当主がどんなふうに妖精たちとかかわってきたのか、何一つ知らないのだ。
「ムーンストーンの内側の光は、違う種類の鉱物が層状に薄く重なることで生み出される反射光です。非常に繊細《せんさい》な構造ですので、たとえば満月の光と、暗い三日月《みかづき》の光とでは、その反射光も違ったように見える、かもしれませんね」
「ではあくまで印象の問題であって、本当に光り方が変わるというものはないと」
「どうでしょう。などと言うと、鉱物の構造と組成《そせい》を突き詰める立場からすれば、ある種のダイヤモンドが呪われているというくらい信じがたい話です。ですが昔から、月のように満ち欠けするムーンストーンが存在しているという話は、人々に信じられています」
たとえば、とカールトンは思いをめぐらせる。
「有名なところでは、中世のローマ教皇、レオ十世が、そんな不思議なムーンストーンを持っていたとか」
「そのような逸話《いつわ》はほかにも?」
「じつのところ、いくらでもあると言っても過言ではありません。ムーンストーンはその名のとおり、月の変化とともにある、あるいは月のかけらだと考えられてきた宝石なのですから。人の心の目は、程度の差はあれど光が満ち欠けする石として、ムーンストーンを眺めてきたわけです」
とすると、昔の青騎士伯爵が求め、妖精女王がみつけてきたものは、ムーンストーンの中でも高度に繊細な反射光を持つものにすぎなくて、何か不思議な力を持つものではないということだろうか。
ポールの指にはまっているものを、毎日確認してはいるが、まだ満月には間《ま》がある。輝きの幅は、広くなったようにも見えるが気のせいかもしれないと思う程度だ。
少し思案し、エドガーは言葉を続けた。
「教授、あなたは古今《ここん》東西の伝説的な宝石についてもお詳しい。アラビアンナイトに登場する魔人が隠し持つ石でさえ、鉱物学的見地から種類を推定されますよね」
「あれは趣味みたいなもので」
「いいえ、ほかにそういうことを誰もやっていないのですから価値がありますよ」
そして本題を切り出すことにした。
「じつは、伯爵家の先祖のひとりが、そのような満ち欠けするムーンストーンを探していたのではないかと思われるのです。何のためかはわかりません」
「結婚相手を探すためでは?」
カールトンは、少々照れたように笑いながらそう言った。
「ムーンストーンは愛の絆《きずな》を保つ石だと言いますので」
「それは知りませんでした。鉱物学はそんなロマンティックな内容も研究なさるんですか?」
「いえいえ、これはたまたま聞き知っただけで。昔、妻がそう言って、結婚指輪にムーンストーンを……。あっ、私事《わたくしごと》で話がそれてしまいましたね。ええと、お知りになりたいのは……」
「いえ教授、すてきなことをうかがいました。僕もいつか、愛する女性にはムーンストーンを贈りたい」
にっこり笑ってそう言うと、カールトンは急に不安げな表情になった。
「伯爵、まだお若いですから、急ぐことはありませんよ。女性は選《よ》り取《ど》りみどりでしょうし、あまり早まっては後悔する場合も……」
「年齢よりも、お互いの気持ちしだいでは?」
うろたえる様子がおもしろい、などと不謹慎《ふきんしん》ながらエドガーは思う。
「そ、そんなご令嬢《れいじょう》がいらっしゃるので?」
「一般論ですよ」
ほっとしたように、彼は額《ひたい》の汗をぬぐった。
「でも教授、かわいらしいお嬢さんを持つと心配ですね。いずれロマンティックな宝石ひとつで、彼女の心を手に入れる男が現れるかもしれない」
カールトンはそのまましばし硬直した。
そしてふと我に返ると、かなり強引に話をもどした。
「ああっそういえば伯爵、結婚相手で思い出しました。あなたのご先祖、青騎士|卿《きょう》の物語に登場するお妃《きさき》が、そのままムーンストーンを象徴しているのではなかったですかな」
それは思いがけない話だった。
青騎士卿の物語は、もちろんエドガーは何度も読んでいる。しかし、ムーンストーンが出てきた記憶はない。
「卿の妃、というと、彼の守護妖精でもあったという弓の名手でしたか」
弓の使い手である守護妖精はふたりいた。そのうちひとりが妃だったはずだ。
頷《うなず》きながら、カールトンは棚から取りだした本をぱらぱらとめくる。
青騎士卿を主人公としたその本は、読み物としてはよく知られたもので、書かれたのはエリザベス朝。当時|流行《はや》った妖精趣味が散りばめられた物語になっているので、実在した人物について書かれているとはいっても、絵空ごとだと一般的には受けとめられている。
アシェンバート伯爵家の始祖《しそ》、青騎士卿が英国王の騎士として活躍し、伯爵に叙《じょ》せられたのは事実でも、妖精が現れ魔法が飛び交うといったくだりは、鵜呑《うの》みにするのが難しい。
もっともリディアは、妖精を知っているだけに、ありえない話ではないと言っていたが。
「弓の使い手、それが月を象徴的に言い表しているというのはおわかりいただけますか?」
なるほど。月の女神ダイアナは、狩りの女神でもあった。三日月の形が、弓を連想するからだろうか。月と弓は、文学的にも絵画的にも、古来からしばしば同じ意味に使われる。
「それに月は、妖精族にとって高い位《くらい》を表すもの。守護者の妖精の名も、月をイメージしてつけられたものだと思われます」
「名、……妃の妖精がグウェンドレン、もうひとりがフランドレン」
「ゲール語で、白い弓、朱《あか》い弓です」
「つまり、白い月と朱い月……」
「どちらも、ムーンストーンの色です。フランドレンについては、青騎士卿の子だという説もありますし、彼女らが宝石を身につけていたという描写からするに、満ち欠けするというムーンストーン以上にふさわしい宝石があるでしょうか」
ああそれだ。
昔、野原の妖精女王との結婚に、『月をくれるなら』と条件を出した伯爵《はくしゃく》には、先祖の守護者だった妖精たちのことが頭にあったはずだろう。
本当に結婚相手をさがしていたのか、それとも守護妖精の縁者を見つける必要があったのだろうか。
だがそれはもう、遠い昔のこと。
ポールの手にあるムーンストーンの指輪が、グウェンドレンのものだったかどうかはわからないし、そうだったとしても、その名の妖精はすでにいないからこそ指輪だけを女王が見つけてきたのだろう。
今のエドガーに関係あるのは、朱い月≠フほうだ。
脅迫状《きょうはくじょう》をよこした義賊団が、この物語をもとにして、朱い月≠名乗っているのだとすると、彼らは青騎士伯爵の守護者のつもりでいるということになる。
だからニセ者が許せない。宝剣を取り戻さなければならないと考えている。
しかし、プリンスとのつながりは?
プリンスに敵対する連中が、青騎士伯爵の射手《いて》を名乗る意味は?
それを調べるのは、エドガー自身の仕事だ。
エドガーは立ちあがった。
「ありがとうございました、教授。勉強になりました」
「お役に立てましたか」
握手を交わしながら、彼はまたふと、リディアの父に訊《き》いてみたいことが思い浮かんだ。
「教授、もうひとつだけ質問してもよろしいですか?」
「ええもちろん」
「奥さまはフェアリードクターだったと聞きました。見えないはずのものが見える、そういう女性を好きになるのは、勇気がいりませんか?」
どんなに表面を取り繕《つくろ》っても、本音も弱みも、すべて見透《みす》かされそうで。
「私は、身勝手に妻を故郷の島から、親しい妖精たちから奪い去ってきました。そこで彼女に用意されていた運命から引き離して。多くを奪い、けれど代わりに与えることができたのは、わずかだったように思えてなりません。……ああまた話がそれてしまいましたが、人を好きになるのに勇気なんか必要でしょうか? どうしようもなく、惹《ひ》かれ合うんじゃないでしょうか」
おだやかに、彼は微笑《ほほえ》みを浮かべた。
駆け落ち同然だったのかと、エドガーは意外に思った。そんなふうに情熱的なタイプには、カールトンはとても見えない。
「きっと誰にでも、突然そのときはやって来る。勇気なんかなくても、当然のように困難な道に踏み出してしまう。そのとき私は、ひとつ覚悟しました。私が妻をその家族から奪ったように、リディアもいつか私よりも大切なものを見つけるでしょう。でもそれはリディアにとって、悩む必要もないくらい当然の選択でなければならないと考えています」
やられたかな、とエドガーは思う。
カールトンは、素でどこか抜けててお人好しなのに、鋭くて頭のいい人だ。そしてやんわりと、エドガーに釘をさした。
[#挿絵(img/moonstone_167.jpg)入る]
いいかげんな気持ちでリディアに近づいても無意味だと。
そう言われれば、エドガーはどちらかというと闘志をかき立てられる方だ。ケルピーとにらみ合ったときはそうだった。
けれど今は、不思議と落ちこまされた。
リディアを引き止めておく手ならいくらでもある。本気でなければだめだというなら、本気にくらいなってやろうと、傲慢《ごうまん》にも考えていた。
そういう意気込みもたくらみも、あっさり蹴散《けち》らされてしまったかのようで、不思議とエドガーは、単純なほどリディアに会いたいと感じていた。
今日も伯爵家に出勤してきていた彼女だが、仕事部屋にこもったきり、エドガーのためにドアを開けてもくれなかった。
自業自得だとはいえ、当分まともに口をきいてくれそうにない。
そのくらいどうってことはない。リディアにとってフェアリードクターの仕事は重要で、おいそれと休んでなんかいられないというのが理由だとしても、完全に拒絶されてはいないと思う。
昨日のことなどうやむやにする自信はある。
しかしそうできたからといって、リディアが自分から彼のそばにいてくれるようになるわけではないのだと気づかされた。
リディアのことは、わりと、けっこう好きなんじゃないかと思っているのに、決定的に足りないものがあると、はねつけられたようだった。
[#改ページ]
射手《いて》の矢は放たれて
公園に横たわる広い池の底で、漆黒《しっこく》の水棲馬は目を覚ました。
まだうっすらと朝霞《あさもや》のたちこめる時刻だ。公園内に人の気配《けはい》はほとんどない。
馬の姿のまま水面に浮上し、優美なたてがみを硫《す》くように、ゆるやかな波を立てて泳ぐ。
気配に気づいた水鳥たちが、いっせいに空へ飛び立った。
「腹減ったな」
と彼はつぶやく。
そのへんをちょろちょろしているリスなんて喰《く》う気にならない。しかしロンドンにいる大きめの動物といえば、人か馬くらいだ。
馬なら食べてもいいだろうかと思うものの、たいてい人が乗っているから、襲《おそ》いかかるのが難しい。
「港でブタをさらってくるか……」
岸へ上がったそのとき、人の話し声が聞こえてきた。
ずいぶん早朝の散歩だと思いながら、ケルピーは、辺《あた》りの木々や草のように気配を消す。
彼の姿が見えない人間は、警戒心《けいかいしん》もなく近づいてきて、公園の小道が奥まったその場所で足を止めた。
狩りには絶好のチャンスだが、喰うわけにいかないのだから、さっさとその場を離れようとした。それを思いとどまったのは、ふたりの人影のうちひとりに見覚えがあったからだった。
リディアに月≠フ指輪を贈るはずだったのに、じゃまをしたあの画家だ。右手には、まだあの指輪がはまったままだ。
「伯爵《はくしゃく》を、殺す?」
画家がそう言ったのが聞こえた。
おやおや、人間どうしはこれだから。と思うケルピーには人殺しなどどうでもよかったが、伯爵というのがあのクソ生意気な若造《わかぞう》だとすると気にしないわけにはいかなかった。
もうひとりの男は、静かにと言うように人差し指を立てた。
「何を言うんです。あの方は青騎士伯爵ですよ。我らが結社|朱い月《スカーレットムーン》≠フ頂点に君臨《くんりん》すべき方ではないのですか? 伯爵にこの結社の存在をあかし、認めていただくために、伯爵家に接近するのがぼくの役目ではなかったんですか?」
「あの男はニセ者だ。我らが待っていた青騎士伯爵ではない」
「でも、宝剣がありました。ちゃんと確認しましたけど、本物です。我らが結社に保管されている三百年前の絵、当時の青騎士伯爵と宝剣を描いたという、現存する唯一のもの。間違いなく宝剣は、絵の中のそれとそっくり同じでした」
「わかっている。今現在、青騎士伯爵の宝剣が本物かどうか判断できるのは、王家と紋章院《もんしょういん》と我々くらいしかいないだろう。だからこそ、きみのその報告を聞いて、ミスターは結論を出した。奴はニセ者である上に宝剣を盗んだ許せない人物だとな」
「どうしてニセ者だと断言できるんですか。三百年も不在だった青騎士伯爵の後継者《こうけいしゃ》を、誰も見たことなどないはずでしょう?」
「だがポール、伯爵家にいる東洋人の少年を知っているだろう。あの少年は、プリンスの奴隷《どれい》として殺人の訓練を受けていた。おぼろげながらも見覚えのある者が仲間にいた。ひとりじゃない、プリンスのもとを逃れ我らが保護した何人かが、あの東洋人を知っていたんだ」
「プリンスの……?」
「ああ、はっきりと確認するために、マイクがダンス教師に扮《ふん》して潜入《せんにゅう》した。よけいなことをしでかしてあのざまだがな、ただの召使いじゃないことははっきりしたさ。それに、プリンスが特別扱いしていた白人奴隷は金髪の美しい少年だったというし、どう考えてもあのふたりは、アメリカから送り込まれ青騎士伯爵の宝剣を盗むよう命令されたプリンスの犬だ」
よくわからないが、エドガーは青騎士伯爵の血筋じゃないらしいとケルピーは話を聞きながら、だからといってニセ者だと考える理屈に首を傾《かし》げた。
妖精の魔法を秘めた宝剣を持っているんだから、本物でいいじゃないかと思う。
どうせ人間なんて、妖精にかかわれる者とそうでない者と、二種類しかいないのだから。
しかし画家は、伯爵がニセ者だということより、別のことに驚愕《きょうがく》したようだった。
「そんな、あの伯爵がプリンスの仲間なんですか? どうして今まで教えてくれなかったんですか!」
「きみはすぐ顔に出るじゃないか。今回の役目だって、本物の青騎士伯爵だと思い込んでいたからこそ、向こうにあやしまれずにうまくやれたんだろうが。きみの伯爵に対する邪気《じゃき》のなさで、かえって信用させられると踏んだからこそ、脅迫状《きょうはくじょう》を出して奴らを混乱させるようにも仕向けた」
「プリンスという人物は、父を殺した組織のリーダーだと……」
「だからこそきみに、我ら|朱い月《スカーレットムーン》≠フ一員として、もう一仕事してもらわなきゃならない」
「ぼくに、人を殺せというんですか」
「あれは悪魔の手先だ。人だと思うな。知っているだろう、プリンスという奴は、自分の目的のためには手段を選ばない。裏社会の帝王でも目指しているのか、それとももっととんでもない野望があるのか知らない。だが我々が、それを阻止《そし》せねばならない」
男は熱く語り続ける。
「いいかポール、これがすめば、ほとぼりが冷めるまできみは海外で暮らす。イタリアで学んでみたいと言ってただろう。それだけの金は用意してある」
画家は混乱しきった様子で、曖昧《あいまい》に頷《うなず》く。
「きみはこれまで、あのニセ者を伯爵と信じ崇拝《すうはい》していた。宝剣を見たいと言ったきみのことを、奴らはそれなりに警戒《けいかい》しただろうが、きみの態度に不審《ふしん》なところは見あたらなかったはずだ」
「でも、もし彼らが、ぼくの出自《しゅつじ》を調べて、不審な点に気づいたら……」
「気づくわけがない。我らの結社の力で、きみの過去を隠し、ファーマン氏の息子に仕立てあげた。きみのことをいくら調べても、プリンスに殺された父親とつながるものは何もない。昔のきみを知っているのでない限りな」
心配そうなポールの肩を、その男はなだめるようにたたいた。
「プリンスはじゃまな人間を片っ端から殺している。その中のひとり、八年も前に死んだオニールのことなんて、あの若い手下が知るわけないだろ」
「でも……」
「まだ何かあるのか?」
「伯爵を怒らせてしまったような。いえあの、あれからお話しする機会がないのでどう感じていらっしゃるかわからないんですが。ええまあ、たいていの場合|寛大《かんだい》な方だと思うんですけど、なにしろ伯爵が少々強引に、身分違いの少女に言い寄っていたものでつい」
「ポール、……奴はすでにロンドンの社交界じゃ有名な女たらしだぞ。たいていのことに寛大なのは、女にしか関心がないからだ。横取りしてどうする! 禁止されて久しいというのに、いまだに決闘なんてことをやっている連中の、いちばんの原因は女だぞ」
「いえあの、横取りしたわけでは……。それに決闘なんてぼくには無理ですよ」
「アホか! 貴族が庶民《しょみん》と決闘するか! その場で撃ち殺すだけだ」
とりあえずその場では殺されなかったなどとつぶやく画家にあきれたらしく、もうひとりの男は頭をかかえ込んだ。しかし何か思いついたのか、ふと顔をあげた。
「そうだ、それならますます、きみがスパイだとは思われにくいだろう。よし、さっさとあやまって関係を修復しろ。奴はきみに油断する。ふたりきりのときをねらえ」
男は上着の中から小さな薬|瓶《びん》を取りだした。まだ迷っている画家の手に、それを押しつけると、足早に立ち去った。
残された画家は、自分の手の中にあるものを、しばらくじっと見つめていた。ようやくのろのろと、ポケットに入れようと手を動かしたが、震《ふる》えていたせいか、薬瓶を落としてしまう。
「あ」
と彼が目で追っているうち、転がったそれは池の中へぽちゃんと落ちた。
急に画家はきびすを返し、その場から逃げ出そうとする。自分で薬瓶を捨てる度胸はないが、この幸運にすがって自分の役目から逃れようというのか。
おい、伯爵《はくしゃく》を殺すんじゃなかったのかよ。
せっかくおもしろくなってきてたのにと、ケルピーはさっと水底の薬瓶を拾いあげ、画家の前に姿を現した。
「落としものだ」
怯《おび》えたようにこちらを見るのは、水棲馬が目の前に現れたからか、それとも薬瓶とともに、再び自分の仕事を突きつけられたからか。
「しっかりやれよ」
魔力を持つ視線を彼に注げば、画家の中で、エドガーが親の仇《かたき》だという憎しみがふくらんだことだろう。
ケルピーから、おそるおそる瓶を受け取った画家は、重い足取りで立ち去りながら、しかし二度と瓶を落とさないようしっかり握り込んでいた。
さてと、とケルピーが考え込んだのは、画家が伯爵を殺すのはいいとして、ふたりの近くにいるだろうリディアへの影響だった。
何かの間違いで、リディアが巻き込まれそうになっては困る。
彼女のことだ、伯爵と画家がいさかいを起こしたら、しゃしゃり出ていくに違いない。
「チッ、食事に出かける場合じゃないな。まったく、人間どもは困ったもんだよ」
画家をけしかけるのに自分も荷担《かたん》したことは棚上げにし、ケルピーはつぶやいた。
*
オニールという画家についての調査報告書を手に、エドガーはきつくまぶたを閉じた。
今朝《けさ》早く、調査を依頼した探偵から届けられたものだった。
それによると、風光明媚《ふうこうめいび》な場所にある貴族の荘園邸宅《マナーハウス》を描くことを専門職にしていたパトリック・オニールという画家はたしかに存在した。彼が手がけた絵は、むろん依頼人のマナーハウスに飾られるので、一般に売り出されることはまずない。だがこの|社交界の季節《ザ・シーズン》のおり、ロンドンに集《つど》っている地方貴族には知っている者も多い。
彼には息子がひとりいた。名はたしかにポール、年齢も合う。ただし、オニールの死後、どこでどうしているのかはまるで不明だということだった。
天涯《てんがい》孤独の身になった十六、七歳の少年が、大都市へ紛《まぎ》れ込めば、所在はおろか、生死すらわからないのはありふれた話だ。
オニールの死因は、当時住んでいたバースの自宅でのガス中毒によるものだとある。事故死となってはいるが、殺されたと、幸い中毒が軽く助かった息子は言い張っていたらしい。
「殺された……?」
ともかくポールは、父親の死後、ファーマンという別の画家の息子として暮らしていたことになる。
それもずいぶん巧妙《こうみょう》だ。ポールが自ら仕組んだこととは考えにくく、組織的な後ろ盾があるように思える。
その組織とは、朱い月≠セろうか。
オニールは、エドガーの家を描いた。家族も、エドガー自身も。
絵は屋敷とともに燃えてしまったはずだが、もしかしたら彼は、スケッチや習作のひとつやふたつ保管していたかもしれない。
プリンスは、エドガーを見て公爵家《こうしゃく》を思い出す人物がひとりでもいれば困るはず。あるいはオニールが、公爵家にいる間に、プリンスにとって不都合なことを知ってしまったから追ってまで殺したのかもしれない。
そしてその後、偶然助かったポールを朱い月≠ェ隠したのだとすると……。
もはやポールを、昔のままだとは言っていられない。
しかしエドガーは、報告書を隠すかのように書物の間にはさんだ。ちょうど書斎《しょさい》へ、レイヴンが入ってきたところだった。
「レイヴン、僕はプリンスに似ていないだろうか」
紅茶を淹《い》れる彼を眺めながら、問いかけていた。
「何をおっしゃいます」
「外見のことじゃないよ。奴は自分のような人間に僕をつくり変えようとした。あそこで受けた矯正《きょうせい》教育、知識も教養も動作や言葉の選び方や、考え方や感じ方でさえたたき込まれた。今の僕は、昔の自分よりもプリンスに近いんじゃないだろうかってさ……。人を支配し利用する方法を知っている。いくらでも残酷《ざんこく》になれる。心も痛まない。気がつけば僕は、唯我独尊《ゆいがどくそん》の厚顔無恥《こうがんむち》、何もかも思い通りにならないと気がすまないし、たてつく奴はめちゃくちゃにしてやりたくなる。そのうえ女たらしだ」
「違います。あの男はただの女好きで、たらしこめるような才能はありませんでした」
レイヴンはまじめな顔でそう言った。
「そこだけ訂正してくれるのか。ありがとう」
悩みながら、レイヴンはまた口を開く。
「ちっとも似てません。似ていたら、誰があなたを信頼しともに戦うためについてきたでしょうか」
その言葉を素直にうれしく思いながら、けれどエドガーは、やっぱり似ているのだと思う。
これからも、生きている限り似ていくだろう。あの男を意識しながら、戦っていこうとするなら、もとの自分を切り捨てていくことになる。
たとえば、幸福な頃の自分を知るポールを、この手で葬《ほうむ》らねばならないように。
「エドガーさま、だから、私は心配です。わずかでもわかり合えたと感じた相手には、あなたは、とてもやさしい」
ポールのことだろうか。彼が義賊団《ぎぞくだん》のスパイでも、エドガーには手を下《くだ》すことができないかもしれないと心配しているのか。
「レイヴン、成長したね」
人を殺す機械のように扱われてきた少年を、守ってやるつもりでここまできた。けれど本当のところ、彼にどれほど救われているだろうとエドガーは思う。
守るべき人がいるうちは、まだプリンスのようにはならないかもしれない。
わかり合えるはずの人を、傷つけることになったとしても……。
*
「いったい何なのよ!」
リディアはとうとう頭にきて、声をあげた。
というのも朝、目が覚めたときからケルピーが部屋に居座っていた。
女の子が寝てるのに! と追い出し、身支度《みじたく》を整えて朝食を取ろうと居間へおりていったら、まだそこにいた。
図体《ずうたい》も態度もでかい青年が、妖精だとはニコにでも聞いたのだろうが、父が困惑を浮かべながら、生卵を殻《から》ごと口に放り込むケルピーと向き合っていた。
もちろんニコは、野蛮《やばん》なケルピーが苦手だから、いっしょに食事をする気になどなれなかったのだろう。リディアと入れ違うように、不機嫌に鼻を鳴らしながら出ていった。
それからずっと、ケルピーはリディアの見える範囲にいる。
伯爵邸へ馬車で出勤する間も隣にいる。この調子だと、リディアが帰る時間まで、仕事部屋に居座るつもりではないだろうか。
べつに用事があるふうでもなく、ただそこにいるのだから、リディアもいいかげん気分が悪い。
「まあ気にすんな」
ケルピーはそう言うだけだ。
伯爵邸へ到着し、御者《ぎょしゃ》がドアを開けると、降りようとしたリディアを押し戻すようにして、エドガーが乗り込んできた。
「おはよう、リディア」
彼のことはあれ以来、三日ほど避けていたから、突然のことで戸惑《とまど》った。
「お、おは……、ていうか、何?」
あからさまにリディアは引き気味になっていたが、エドガーは意に介さなかった。
「ちょっと話をしよう。ケイン君、この馬車はふたり乗りだ。どこか行っててくれないか」
「なんで俺がどかなきゃいけないんだ」
「うちの馬車だ。御者も馬も」
ふん、とケルピーは鼻を鳴らす。
「まあいいだろ。あんたもあわれな奴だからな」
どういう意味? 訊《たず》ねようとしたが、ケルピーはさっさと消えてしまった。
でも、この狭い空間にエドガーとふたりきり?
気づいたとたん、リディアはまた怖くなった。
「ちょっと待って、あたし降りる!」
「リディア、きみには触れないと誓うから、ここにいてくれ」
いつになく切実な言い方だったからか、どのみち降ろしてくれそうにないなら刺激しまいと思ったのか、とにかくリディアはしかたなく、座席に腰を落ち着けた。
御者にはそのへんを走らせるように伝え、彼はようやくほっとしたかのように、「いい天気だね」とのんびりしたことを言った。
「曇り空よ」
「ロンドンではいい方だ」
「まあそうね」
「この間のこと、まだ怒ってる?」
怒っているのかどうか、リディアにもよくわからない。よくよく考えれば、怒るほどのことはなかったような気もする。
手首にキスされたといったって、エドガーはそこら中の淑女《しゅくじょ》の手を取っては口づけているはずだ。
貴婦人に対するあいさつみたいなもの。それを悪ふざけでリディアにしただけではないのだろうか。
ふつうは手の甲だけど、そんなに違わないじゃない。
とは思っても、あのときの、扇情的《せんじょうてき》な空気というか、彼の態度というか視線というか、何もかもが、リディアにとって未知の感覚で、逃げ出せなくてただ怖かった。
でもそれも、人付き合いが少ない、とくに男の人をよく知らない自分の、子供っぽさゆえの不安で、エドガーが悪いわけじゃないのかもしれない。
そう思っても、許してやってまた彼の思い通りなんてしゃくだ。
「べつにあたしが怒っていようと関係ないでしょ。どうせあなたにとっては、ちょっとだけふざけてみたってくらいだもの」
「どうすれば許してくれる?」
「ほうっておけばそのうち忘れるんじゃない?」
「そのうちっていつ? きみと気まずいままだというのは、心残りだ」
「心残り?」
「間違えた。気がかり」
変な間違え方、と思ったものの、さほど気にはとめなかった。
「忘れるんじゃなくて、許してほしいんだ。僕は忘れたくない。いやな思いをさせたかもしれないけど、あんなにきみに近づけたと感じたことはないから」
今のエドガーは、約束どおり少しも触れようとしなかったけれど、リディアはまた、さらりと撫《な》でられたような気分になった。
でも、そんなふうだから、ますます許すとは言いにくい。
あのときのことだけでなく、これからもエドガーが接近することを許してしまうみたいではないか。
戸惑い、うつむくしかないリディアから、許すという言葉を引き出すのはあきらめたのか、彼は話を変えた。
「ポールに口説《くど》かれた?」
が、ますます微妙な話題だった。
「騎士然ときみを助けていったんだから、当然気を引くようなことを言っただろう」
それが当然なのはあなただけでしょ。
「誤解してるわ。ポールさんはあたしじゃなくて、あなたを助けたのよ。あなたに、尊敬すべき人であってほしいのよ」
「彼がそう言ったのか?」
「まあね」
「……ものすごい天然バカだな。せっかくきみが、彼の勇気ある行動に胸を打たれたというのに、冷水をあびせるようなものじゃないか」
ほんの少し、がっかりしたのはたしかだけれど、そんな大げさなことじゃない。
「きみが恋に臆病《おくびょう》なのは、そういう天然|優男《やさおとこ》が、気のあるそぶりを見せておいて無邪気《むじゃき》に否定するからかもしれないね」
「好きになる前に、そんな気はないんだってわかるだけ親切よ。人の気持ちをもてあそぶあなたより、ずっと……」
かすかにエドガーが眉《まゆ》をひそめたのが、傷ついたかのように見えたから、リディアは口をつぐむ。でも、どうせそういう芝居だわとも思っている。
「そうだね。ポールは人をだますような男じゃない。でも彼は、隠し事をしているかもしれない。僕にとって重要なことを」
深刻な様子は、エドガーが彼にいだいている友情にかかわることだからだろうか。
「彼に聞いたい。話し合ってお互い、和解できるものなら。でも、ケンカになるだろうな。リディア、もし彼と僕が殴《なぐ》り合いのケンカをしたらどちらを味方する?」
「殴り合い? どう考えても、あなたが一方的に殴りつける場面しか思い浮かばないわ」
「なるほど。そういう場合きみは、ポールをかばいたくなるんだろう。でもその理屈で言うと、もし僕が負けそうだったら、味方になってくれるのかな。なら、ぶちのめされるのも悪くないかもしれない」
何が言いたいのか、わけがわからない。
でも、おだやかじゃないのはわかる。
「……ねえ、ケンカなんてしないで。彼、昔のあなたとの約束を貴重なものだと思ってるわ。画家になれたのはあなたのおかげだって、一人前の画家になれたら、誰よりもあなたに絵を見てもらいたかったって。ポールさんは、公爵家《こうしゃく》の若君は死んだと信じてるけど、あなたに姿を重ねてる。いくらケンカをふっかけても、殴るなんてできないと思うの」
少しうつむく彼の、金の髪が鼻先にさらりと落ちる。整った横顔からは、何を胸に秘めているのか少しも想像できない。
本当にポールとケンカをするつもりなのだろうか。いったい、どういう理由で?
再び顔をあげた彼は、御者《ぎょしゃ》に声をかけて馬車を止めさせた。
「リディア、時間をくれてありがとう」
「どこか行くの?」
「ちょっとね」
なんとなくリディアは、もっと言うべきことがあるような、もっとちゃんと彼の話を受けとめるべきだったのではないかと思えていた。
「あの、エドガー、あたしが味方しようとしまいと、あなたは負けないわ。うまく運を、自分の方に向けられる。ポールさんとだって、望めば和解できるはずよ」
馬車を降りた彼は、振り返ってにっこり笑う。
「やさしいね。だから期待してしまう。本当はきみは、僕が好きなんじゃないかって」
返答に困ったリディアが赤くなっているうちに、ドアは閉められ、馬車は走り出していた。
帽子《トップハット》をかぶったエドガーの姿は、すぐに人込みに紛《まぎ》れてしまった。
*
フリートストリートの下宿《げしゅく》へ久しぶりに戻っていたポールは、結社の同志に手渡された薬|瓶《びん》を握りしめながら、深い深いため息をついた。
エドガーに対する結社のたくらみを、これまで少しも知らず、彼を本物の青騎士|伯爵《はくしゃく》だと信じていた。
エドガーはポールの絵を気に入ってくれたし、貴族らしい高慢なところと気さくなところと、どちらも魅力的に持ち合わせていた。
ポールはあの若い伯爵のために、満足してもらえるような絵を描きたいと思い、そうすることで、亡くなった公爵家の若君との約束が果たせるような気がしていた。
でも、エドガー・アシェンバートを名乗る彼が、父を殺したという組織のリーダーに近《ちか》しい人物だとすると、自分の役目は重大だ。
感傷的な気分にひたってなどいられない。
「ファーマンさん、お客さまですよ」
声をかけてきたのは、下宿屋を取り仕切っている中年の家政婦だった。
彼女が開けたドアから入ってきた人物に、ポールは硬直し、思わず薬瓶を落としそうになった。
「は、伯爵……」
「どうしたんだ? この世の終わりみたいな悲愴《ひそう》な顔をしてるよ」
「い、いえ、なんでもないんです。それよりあの、こんなむさ苦しいところへわざわざ……」
「画家のアトリエに興味があったんだ」
座ったままでは失礼だと、あわてて立ちあがる。
「ただの部屋です。あちこち絵の具で汚れてますが」
椅子《いす》を勧めるべきだと考えながら、どれもこれも油や絵の具の染《し》みがあって、伯爵の高級なフロックコートを汚してしまいはしないかと心配になった。
彼もきたない椅子に座る気はないのか、窓辺に近づいて立ち止まった。
「引っ越しでもするのか?」
「えっ」
伯爵が目をとめたのは、部屋の片隅に積まれたトランクだ。海外へ逃亡する準備をしているなど、言えるわけがない。
「いえあの、あれは知人に、しばらく置かせてくれと頼まれたもので」
開いて荷物を放り込みかけたトランクもあるというのに、苦しい言いわけをする。
「そう。ここへ来たのはね、きみに聞きたいこともあったからなんだ」
薄い笑みと鋭い視線を向けられ、ポールはまた硬直した。手の中の薬瓶が、汗ですべってしまいそうだ。
「……なんでしょうか」
「ムーンストーンの指輪、どうしてはずれないままだとうそをついているんだ?」
はっと右手に視線を落とすが、指輪はそこにはなかった。絵筆を持つのにじゃまだから、ときどき左手にはめ変えていた。気づかれないよう気をつけていたつもりだが、ここは自宅だからと気を抜いて、すっかり忘れていたのだ。
「もっと以前からはずれてたよね。はずれたと言えば屋敷に泊まる理由はなくなる。リディアと親しくする機会を失いたくないから、黙っているのかと思っていた。でもきみは、僕から彼女を助けておきながら、あのあとあっさり彼女を帰した。おかしな話だ。あんな完璧《かんぺき》なチャンスにつけ込まない男はいない。よほどの朴念仁《ぼくねんじん》か、指輪をつけたままでいる目的が別にあるかだ」
あのときの状況につけ込むことがふつうなのかどうかはともかく、エドガーの言うとおりではあった。まったくポールは、朴念仁のうえに目的が別にあるのだから。
「屋敷に、まだしばらく居座る必要があった?」
どこまで気づかれている?
「……リディアさんが、伯爵邸に泊まった方が安全だと提案してくれたから、あなたが絵の仕事をくれました。指輪が意外にもすぐはずれて、屋敷にいる理由がなくなれば、絵の依頼も取り下げられるのではと心配になって」
それは本当だ。ポールはエドガーについて仲間に報告する役目を負っていたが、彼が本物の青騎士伯爵だと信じていたから、絵の依頼が何より貴重に思えていた。
「意外と、言いわけがうまいね。もっとうそのつけない男かと思っていた」
「うそじゃありません」
「きみの名は、ファーマンではなくオニールだ。これもうそじゃないと?」
なぜ、とポールは狼狽《ろうばい》した。ファーマンを調べても、オニールにつながらないと仲間は言っていたのに。
昔のきみを知っているのでない限り
家政婦がドアをたたいた。お茶を淹《い》れてきたようだ。ポールはとっさに戸口へ進み出、自分がやるからとトレーを引き取る。
「オニールも画家だった。八年前に殺された。少なくともきみは、殺されたと思っているし、そう思うからにはそのころ身の危険を感じていたんだろう」
まるで追いつめるかのように、エドガーは続けた。
ポールの決意は、ゆっくりと冷えるように固まっていった。
この美しい青年も、父を殺した結社の一味だ。やるしかない。
「何の話ですか? ぼくはずっとファーマンです。父は画家を引退しましたが健在です」
声が震《ふる》えないよう気をつけながら、ずっと握り込んでいた薬瓶のふたを取る。
中の白っぽい粉末が、紅茶のカップにこぼれ落ちる。視線の片隅で、エドガーがこちらを見ていないのを確認する。
冷静に考えれば、不信感をいだいている男の部屋で出された飲み物を、彼が口にするはずはない。しかしポールは気が高ぶっていて、細かいことまで考えられなかった。
「いったいどこから、オニールなんて名前が出てきたんです?」
エドガーのそばに、ティーカップを置く。
「彼のことは知っていた。いい画家だったね。湖のそばに建つマナーハウスは、白百合《しらゆり》館と呼ばれていたんだ。どのへんが百合なのかと、僕はずっと疑問に思っていたけれど、彼の絵を見てわかった。湖のほとりに咲く、可憐《かれん》な百合そのものだった」
ポールの目にも、鮮やかにその風景が、父が描いた絵が浮かんだ。それは、シルヴァンフォード公爵家《こうしゃく》のマナーハウスだ。
豊かな田園と神秘的な森に囲まれた、夢のような城だった。そこに住む高貴な人々は、やさしく美しくて……。
くらくらした。プリンスの手下だという彼が、どうしてそんなことを話すのか。
昔のポールを知っているとしたら……。
まさか、でもそんな。
「きみの絵は、オニールの繊細《せんさい》な感性を受け継いでいる。やっぱりきみは、画家になるべきだったんだね」
印象的なアッシュモーヴの瞳、陽光をたっぷりはらんだかのような金髪、すっと通った鼻筋もやわらかく笑みをたたえた唇《くちびる》も、誰もを一瞬で魅了する恵まれた容貌《ようぼう》の持ち主が、そうそういるだろうか。
エドガーがティーカップを手に取った。まるで無邪気《むじゃき》に見えた。ポールに疑いの気持ちを突きつけるために来たのではなく、大切なことをうち明けるために来たのではないかとさえ思えた。
そしてふと、試されていると感じる。
ポールがエドガーの周辺を調べ、害するために伯爵《はくしゃく》家へ入り込んだと気づきながら、かつての友情がまだあると、確かめようとしているのではないのか。
だから、警戒《けいかい》すべきはずの紅茶を、そのまま飲もうとしている。
かつての友情?
そう、もしもこの人が、彼なら。
「……そうすすめてくれる方がいなかったら、この道に進んでいたかどうかわかりません」
「詩人を目指していたから?」
ああやはり。かつての自分が、詩作へのあこがれをうちあけたのはひとりだけだ。
もはや疑いようもなく、ポールはとっさに、エドガーの手からティーカップをはねのけていた。
カップが割れ、紅茶があたりにぶちまけられる。
熱いお茶がポールの手にも、たぶんエドガーにもかかっただろうけれど、ふたりとも意に介していなかった。
物音に驚いた家政婦が部屋に入ってきたのも、一見して貴族とわかる客が火傷《やけど》をしなかったかと心配そうに近づいてくるのもどうでもよかった。
ポールは突っ立ったまま、かろうじて胸に手をあてた。
「ポール、きみはやっぱり変わっていない」
「……お許しください、伯爵《ロード》。……いえ」
公爵《デューク》と言いかけたそのとき、家政婦が不自然なほどエドガーに接近した。
彼女の手にナイフが見える。気づいたエドガーが身をよじるが、細い切っ先が彼の脚に突き刺さる。
さっと彼女が離れると同時に、エドガーがうずくまるようにその場に倒れた。
ナイフに毒が。すぐに気づくが、駆《か》け寄ろうとしたポールの腕を家政婦がつかんだ。
「早く、ここを出るんだよ。仲間に知らせて、この男の死体を片づけてもらうんだ」
まだ死体じゃない。でも。
「あなたは……、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ?」
「そう、あたしも結社の一員さ。この男がここへ来てくれて好都合だったよ。あんたね、自分から毒を盛ったことを明かしてどうするんだよ。殺さなかったら殺されるだけだよ」
それは違う。エドガーにはポールを殺すつもりなどなかった。
「解毒剤《げどくざい》をくれ、この人はプリンスの手先なんかじゃない!」
「何を言い出すんだよ。あんた、裏切る気かい?」
警戒するような目をポールに向けると、家政婦はきびすを返す。とにかくさっさと仲間を呼んでくるつもりなのだ。
[#挿絵(img/moonstone_195.jpg)入る]
思わずポールは、彼女の肩をつかんでいた。
結社でおぼえた基本的な護身術、とはいえある意味暴力を、女性に対して使ったのは、ポールにとってはじめてで恥《は》ずべきことだったが、ほかに方法がない。
気絶させた女の持ち物を探ったが、解毒剤らしきものはなかった。
医者を呼ぶ? そんなことをしたら、結社の存亡にかかわる。父もその一員だった朱い月≠ヘ、これまでポールを守ってくれたし、父の仇《かたき》と戦うために、同志となると誓ったのだ。
どうしていいかわからずに、彼はその場に座り込んだ。
*
いつのまに、仕事部屋の人口密度、いや妖精密度が高くなってしまったのだろうと思いながら、リディアは頭痛を感じていた。
そもそもケルピー、図体《ずうたい》のでかいこいつが、圧迫感のいちばんの原因であることは間違いない。それにニコ、なぜかさっきから、うろうろと部屋の中を歩き回る。ふさふさした胸の毛をしきりに気にしている。
そしてマリーゴールドとスイートピーも、小さい羽でひらひら飛び回っているし、どうやら部屋のすみにはうじゃうじゃと、屋敷中のホブゴブリンが集まってきているようだ。
さすがにおかしい、とリディアは書き物の手を止めた。
「ねえニコ、どうかしたの?」
「なんかこう、体がむずかゆいんだよな」
「空気がゆれているみたいなんですの」
「魔力が波のようにうねるんですわ」
マリーゴールドとスイートピーも不安げに言った。
「この屋敷にメロウの宝剣があるんだろ。そいつがうなってるんだ」
ケルピーが口をはさむ。
「宝剣が? どうして?」
「そんなもん知るかよ」
「で、どうしてみんなこの部屋にいるの?」
「フェアリードクターのそばは、いくらかマシだからだろ」
そういうものなのか。
しかし宝剣がうなるなんて知らなかった。考えながらリディアは、執事《しつじ》に知らせた方がいいのではないかと立ちあがった。
そこへちょうど、レイヴンが現れた。
「リディアさん、エドガーさまがどこへ行かれたか、聞いていませんか?」
淡々《たんたん》としていたけれど、いつもより余裕のない口調だった。
「馬車の中で少し話をしたけど、ひとりで降りて歩いていったわ。行き先はわからない」
レイヴンのあせった様子は、宝剣のうなりと関係があるのだろうか。手紙らしいものを、くしゃりと握りしめている。
「……ファーマンは……?」
つぶやいてきびすを返そうとした彼が、ポールの名にミスターをつけなかったことが異様に感じられた。
「ファーマンさんは今日はいらっしゃらないよ」
そう言ったのは執事のトムキンスだ。
「自宅に戻ると言っていた。風を入れないと、保管している絵にかびが生えるからとか。レイヴン、どうかしたのかね。何か問題でも?」
「なんだ、今日は奴は来ないのか。じゃあ俺が見張ってる必要ないじゃないか」
そう言ったケルピーの方を、リディアは見た。
「どういう意味よ」
「おまえが巻き添えを食うと困るから」
「巻き添え? 何の?」
「まあいいじゃないか。そっか、いないのか。じゃあこのうるさい屋敷にいる意味もねーし、帰るかな」
「ちょっとケルピー、ちゃんと話して!」
リディアは、彼の前に立ちはだかった。
「言わないと絶交よ!」
「絶交? そんなことで俺を追い払えるかよ」
「つきまといたいなら好きにすれば、でもあなたとは、二度と口をきかない。話しかけようがまとわりつこうが、返事しないから」
悩んだように、彼は黙った。そしてうるさそうに前髪をかきあげる。
「聞いたんだよ。あの画家が、仲間に伯爵《はくしゃく》を殺せと言われてたのをさ」
「な……なんですって! どうしてポールさんが、エドガーを殺さなきゃならないの?」
「ニセ伯爵だからってさ」
「ファーマンは、私を襲《おそ》ったダンス教師と同じ組織に属している可能性があったんです。疑って調べていましたが、やはり……」
レイヴンが、くやしそうにつぶやいた。
「トムキンスさん、ファーマンの下宿《げしゅく》へ行ってみます」
急いでレイヴンは駆け出していった。こうしてはいられないと、執事も出ていく。
「ケルピー、どうして黙ってるのよ! エドガーが殺されるかもしれないなんて重大なことを……」
「俺には関係ない。それに奴がいなけりゃ、おまえはスコットランドに帰れるわけだろ。なのに画家の奴、人殺しなんて怖くてできそうにないって感じでさ、だからちょっと、強気になれるよう術《じゅつ》をかけてやった」
それを聞いて、リディアはぶちきれた。
「あ、あなたとは絶交よ! さっさと帰って!」
「おい、リディア」
言いわけなんか聞かないと、リディアも部屋を飛び出す。
と、玄関ホールの方がにわかに騒がしいのに気がついた。
エドガーの名を呼ぶレイヴンの声が聞こえる。召使いたちがざわざわと騒ぎ、トムキンスの指示に駆《か》け出す。
階段の踊り場でリディアは、トムキンスがかかえて運ぼうとしているエドガーの、かたく閉じられたまぶたを見て、足がすくむ思いで立ち止まった。
辻《つじ》馬車の御者《ぎょしゃ》は、若い男に、急病人だからメイフェアのアシェンバート伯爵邸へ運んでくれと頼まれたという。
若い男の人相は、ポールの特徴と一致した。
いったいポールは、殺そうとしたはずのエドガーを、どうしてまた家へ帰してよこしたのだろう。
エドガーの部屋には、長いこと医者が詰めていた。けれどその医者も、夕方になって帰ってしまうと、館《やかた》の中は妙に静かになった。
メロウの宝剣は、当主の危機を嘆《なげ》くようにうなり続けていたようだったが、人間には聞こえない。
そのころになって、ようやくリディアは、レイヴンからエドガーの様子を聞くことができたが、意識はほとんどないということだった。
「麻痺《まひ》が進んでいますので、神経毒が使われたのではないかと思います」
「神経……?」
「蛇《へび》の猛毒に似たものです」
医者でもないのにやけに詳しいのは、殺人鬼として育てられた彼には毒薬の知識もあるのだろうか。
「解毒剤《げどくざい》はないの?」
「ありません。おそらく複合的に調合されたものですし」
そんな、という声を、リディアは飲み込んだ。
いつもと変わりないくらい、冷静に見えるレイヴンだが、エドガーの身内ともいえるくらい近い彼が、いちばんつらいのではないだろうか。
リディアもトムキンスも、伯爵家に仕《つか》える誰もが、まだほんの三カ月くらいしかエドガーと接していない。
だからレイヴンを元気づけたいと思っても、言葉が見つからない。
そして何よりも、リディア自身、信じたくない思いでいっぱいだ。
「心配していたんです」
ぽつりと彼は言った。
「エドガーさまは、ファーマンが|朱い月《スカーレットムーン》≠フスパイだとはっきりしても、彼に危害を加えることを私に許さないだろうと」
「朱い月=H」
「プリンスを敵視する結社の名前です。おもに義賊《ぎぞく》的な活動をしているようですが、エドガーさまがプリンスの手先で青騎士伯爵のニセ者だと言って、宝剣をよこさなければ命をねらうと脅迫《きょうはく》してきていたんです」
リディアは何も知らなかった。
妖精に関すること意外は、彼らがリディアに話す必要を感じないのはしかたがない。彼女はフェアリードクターとして雇われているだけで、ともに戦う仲間ではない。
けれども、疎外感《そがいかん》をおぼえる。
雇われているという立場よりも、もう少しだけ近くにいるように感じていたから。
エドガーの言葉はうそばかりだと思っていても、彼が親しみを示してくれればうれしい部分もあった。
フェアリードクターの仕事を求められているだけでなく、純粋に仲間ではないからこそ、戦いの外にいて、彼の淋《さび》しい心のささえになれるかもしれないと思った。
なによりもただ、話してほしかった。
リディアにだってできることがあったかもしれないのに。
あのとき馬車の中で、ポールにばかり同情するようなことは言わなかっただろうし、エドガーの気持ちももっと考えられただろう。
「私にも黙って、エドガーさまがファーマンに会いに行ったのは、すでにこうなることを覚悟していたのかもしれません」
「彼があなたを見捨てるつもりだったって言うの? そんなはずないわ」
「ファーマンは、昔のエドガーさまを知る唯一の人間です」
だから、手を出せなかったのだろうか。ポールがいなくなれば、エドガーは自分がどこの誰だったのかわからなくなりそうに感じたのだろうか。
変わってしまった自分を、彼は嘆《なげ》いていた。
だから昔の、変わる前の彼を知るポールに執着《しゅうちゃく》があったのかもしれない。
「レイヴン、……あたしもいけなかったの。ポールさんと望めば和解できるはずだって、エドガーに言ったわ。今考えれば、エドガーは彼を敵だと切り捨てるべきかどうか迷ってたのかもしれない……。なんだか様子が変だったもの。だから、あたしがよけいなこと言わなければ、彼に会いに行っても油断しなかったかも……」
リディアは両手で顔を覆《おお》った。
「あなたのせいではありません。エドガーさまは必ず自分で決めます」
そう、リディアと仲直りを申し出た彼は、「心残りだ」と言った。すでに心は決まっていたのだろう。
でも、迷わない人がいるだろうか。決意をしながらも心はゆれ動くもの。
リディアの平和すぎる感覚は、エドガーの戦い続けている緊張感をやわらげる。彼はそれを求めてリディアをかまうのかもしれないが、危険を感じ取る嗅覚《きゅうかく》までも、鈍らせてしまったかもしれないではないか。
「リディアさん、エドガーさまに会われますか?」
「……看病のじゃまにならない?」
「きっと、会いたがっておられると思います」
それはまるで、別れの言葉をかける機会をリディアに与えてくれるかのように。
部屋に通され、枕元《まくらもと》へ歩み寄ると、付き添っていたハウスキーパーが気を遣《つか》うように出ていった。
エドガーの顔色は青白く、よほど近づかないと息をしていないのではないかと思うほどだ。
リディアはそっと、彼の手を取る。それもとても冷たくて、いつもはこんなふうじゃないのにと思い出すと泣きたくなった。
せめてあたためようと、両手で包み込む。
このまま二度と、話ができなくなるなんていやだ。まだちゃんと、仲直りができていない。
リディアが許すと言わなかったから。
そんなにひどく怒ってるわけじゃなかった。エドガーがめずらしく反省しているふうだったから、もう少しおとなしくしておいてもらおうなんて、強気に出てみただけ。
振り回されてばかりだから、たまにはいいじゃないと思った。
彼がどのくらい本気で、このくだらないリディアとのすれ違いを「心残り」だと思っていたのか知らないけれど、このままではリディアにとって、たえがたい心残りになってしまう。
それに、ケルピー。彼がよけいなことをしなければ、ポールはエドガーを殺すなんてことを、思いとどまったかもしれないのだ。
それはリディアにとって、フェアリードクターとしての責任を感じる部分でもあった。
「しっかりしてよ。こんなことでくたばるようなあなたじゃないでしょ」
ふだんなら、からかいまじりの口説《くど》き文句が返ってくるのに。
なんとかしなきゃ。
強い思いに駆られ、リディアは立ちあがる。
助ける方法を考え続けていた。ひとつだけ、可能性がある。
意外なほど、迷いはなかった。それしかないと心を決めると、彼女は急いで部屋をあとにした。
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青騎士|伯爵《はくしゃ》の血
ひとり伯爵邸《はくしゃくてい》を出たリディアは、小走りに道を急いだ。
ようやくハイドパークまでやって来ると、中ほどにある池へ向かう。
日没の遅いこの季節、夜とはいってもまだうっすらと明るい中、散歩を楽しむ男女が遊歩道にちらほらと見える。
人目を避けて、リディアは植え込みの方へ入っていくと、池に向かって呼びかけた。
「ケルピー、いるんでしょ。お願いがあるの」
水面は静まりかえったままだ。
どうしよう……。
「ケルピー、まさかもうここにはいないの? スコットランドへ帰っちゃった?」
エドガーのことで、怒鳴《どな》ったりしたから。
「おまえを連れ戻しにきたのに、ひとりで帰れるかよ」
振り向けば、木のそばに彼は、人の姿で立っていた。
「もう口きかないんじゃなかったのか」
それどころではなくなった、なんて身勝手な話だけれど、リディアにはほかにできることがなかった。
水辺のケルピーはもっとも危険だ。ふだん接している陸地では、水棲馬もたいした魔力を発揮《はっき》できないからとふつうにつきあってきたけれど、これまでもリディアは、なるべくケルピーと水辺に近づかないよう気をつけてきたつもりだ。
けれども今は、あえて接近する。
彼がちょっとでも気まぐれをおこせば、リディアなんて簡単に水底へ引きこんでしまえるくらい近くに歩み寄って、魔性《ましょう》の美しい瞳を見あげた。
「エドガーを助けてほしいの。お願い」
「てことは、まだくたばってないのか」
「…………」
「俺はな、あいつがいなくなりゃいいと思ってるんだぜ。おまえさっきそれで、頭にきたばかりじゃないか。わかんねーな、なのにどうして、そんなこと頼みに来るんだ?」
「あなたしか、水棲馬を知らない」
泣きそうに顔をゆがめたせいか、ケルピーは大きくため息をつき、折れたように言った。
「水棲馬なら奴を助けられると?」
「毒薬が使われたの。ケルピー、あなたには水を浄化する力があるわ。彼の体から、毒を消す方法を知ってるでしょ?」
「人にそれを教えるとろくなことにならないんだ。ちょっと前にも、完璧《かんぺき》な解毒薬《げどくやく》を手に入れようと水棲馬を狩ろうとした人間どもがいたからな」
やはり、できることはできるのだ。リディアはさらに、ケルピーに詰め寄った。
「教えて、誰にも言わないから」
「おまえはフェアリードクターだ。その点は信用してもいい。だがタダではやれない」
それはもちろんわかっている。
そしてこのケルピーが、ひきかえに出すだろう条件も、想像がついていた。
リディアは黙ったまま頷《うなず》く。
「絶交だって言ったくせに……。俺が画家をけしかけたこと、許せないんだろ。なのに俺の言うとおりにできるってのか?」
取り引きなんてしなくても、今すぐリディアを連れ去れるのに、そんなふうに彼女の心情を考えている、変わり者のケルピーだ。
「あなた、あたしが口をきかなくなったらいやだと思ってる。きっと、あたしを怖がらせたり苦しめたりしないでしょう?」
「そんなつもりはない。おまえと結婚してみたいだけだ」
結婚してみたいって、漠然《ばくぜん》とよさそうなものだと考えているらしいケルピーがおかしくて、かわいくも思えた。
もともと人よりも、妖精とのつきあいが深かった自分だ。人の世で、フェアリードクターとしてできることは多くはなく、いつかは妖精の国へ引きこもることになるかもしれないなら、それが少しばかり早まるというだけのこと。
「結婚は……、月をくれるなら≠チて以前にかわした約束がまだあるわ。とりあえずはあなたといっしょに、妖精の国で暮らすことはできる……。それではだめ?」
「悪くはない」
しかしケルピーは、まだ納得できない様子でリディアを見ていた。
「助けたいあいつと、おまえはもう会えなくなるんだぞ」
水棲馬のくせに情《じょう》にあつい妖精だなんて。
「仲直りがしたいの。彼が助かって、あたしがもう怒ってなんかないってこと、伝えられればいいの。……エドガーはどう思ってるか知らないけど、妖精しか友達がいなかったあたしにとって、めずらしく、友達らしくなれそうな気がした人だから」
ようやく、ケルピーは「わかった」と言う。
リディアの目の前で、自分の指に牙を立てると、赤い血がゆっくりと傷口から流れ出した。
ケルピーの血も赤いのかと、ぼんやりリディアは眺めていたが、たぶんそれは、彼女が血から連想する色にすぎないのだろう。
もう片方の手で、彼はリディアのあごをやさしくつかんだ。
口づけを受けとめるかのように、リディアは目を閉じる。
唇《くちびる》に触れるのは、ケルピーの指先だ。さらさらとした彼の血は冷たく、雪解けの岩間に染《し》み出すわき水のような、新鮮な味がした。
眠りから目覚めたばかりの、穢《けが》れなきまっさらな水だ。
「さあ、早く行ってこい」
ケルピーの手が離れ、リディアは彼を見あげた。
「この血を、どうすればいいの?」
「奴に飲ませてやれ」
「……えっ、まさか、口移しでってこと? そんなことできな……、ああもう、あなたが直接エドガーに血を飲ませてくれればいいじゃないの」
「俺はあいつの口に指を突っ込みたくはない」
じゃああたしは、どうなってもいいっていうの?
自分の花嫁《はなよめ》にしようって娘が、ほかの男に口づけても……?
その点ケルピーは、人とは感覚が違うのだろうか。
「じゃあま、どこでもいいんじゃないか? なるべく血の流れに近いところを舐《な》めとけ。ケルピーの血は空気に触れると効力がなくなる。おまえを媒介《ばいかい》にするしか奴に届けられないんだからしかたないだろ」
どこでもいいと言われても戸惑《とまど》うが、これ以上だだをこねている場合ではなかった。
頷《うなず》き、リディアは急いで公園を離れた。
静まりかえっていた伯爵《はくしゃく》家の玄関ホールには、ニコが突っ立っていた。
リディアがどこへ行っていたか、気づいている様子で不機嫌そうにヒゲをひくつかせる。
「ケルピーくさい」
そう言って彼は、リディアの前に立ちはだかった。
「やめろよ、リディア。ケルピーと取り引きするなんてバカげてるぞ」
「あのケルピーは大丈夫よ。あたしを傷つけたりしないって言ってくれた」
「そういう問題じゃねーよ。だいたい、エドガーの奴が死んだって、べつにおれたちは困らないじゃないか。スコットランドへ帰って、これまでどおりの生活をするだけだ」
「助ける方法があるのに、何もしなかったらきっと悔やみ続けるわ」
「奴は人間の中でもクズだぞ。あんたにいい顔するのも、利用価値があると思ってるだけだ。そんな奴のために、フェアリードクターになる夢を捨てるのか? 人がよすぎるよ」
「クズなところもあるけど、そうじゃないところも知ってる。だから……。ニコ、ここで何もせずにいて、人のために役立つフェアリードクターになんてなれると思う?」
リディアは身を屈《かが》め、ニコの前に手を差しだした。
彼は立派な紳士《しんし》だから、めったなことでリディアは抱きあげたり撫《な》でたりなんてしない。
昔から対等な友達だった。
「ニコ、いままでありがとう。そばにいてくれて」
ふてくされたまま黙っているニコの手を取る。小さくてふさふさした、まるで猫の前足、けれど人間以上に上品にティーカップを持ちあげ、ナイフとフォークを操ることのできる不思議な手を握りしめ、そして離した。
「教授はどうするんだよ」
「あとで手紙を書くわ。ニコ、あたしがいなくなっても、できれば少しの間だけ、父さまのお酒の相手をしてあげて」
ニコはやはり不服そうなままで、返事はなかった。
リディアは立ち上がり、エドガーの部屋へと急いだ。
廊下《ろうか》の飾り台の上で、マリーゴールドとスイートピーが花瓶《かびん》に腰かけ、不安そうにこちらを見る。
声をかけてやる余裕もなく、リディアは彼女たちの目の前を通り過ぎる。
部屋のドアを開けてくれたレイヴンに、もういちどふたりだけにしてくれと駆《か》け込んだ勢いのまま言う。
彼はただ頷《うなず》き、望みどおりにしてくれた。
すぐさまリディアは、ベッドのわきにひざまずく。深呼吸して、気持ちを落ち着ける。
ええと、どうしよう。
どこでもいいといったって、自分から男の人に唇で触れるなんて、リディアのこれまでの人生にはありえないことだ。
それだけで緊張する。せめてもの救いは、相手の意識がないことか。
血の流れに近いところ?
心臓? なんてぜったい無理。服を脱がさなきゃいけないじゃない。
考えてしまったことすら恥ずかしくて、リディアは逃げ出したくなった。自分の動悸《どうき》を意識しながら、どうせ血は体中を流れているのだからと思い直す。
そうだ、手……。
リディアは決意し、彼の手を取る。
そして手首の、かすかに血の脈を感じるところに唇を押しつけた。
ケルピーの血が、エドガーの体に変化を起こしたのかどうか、リディアにはよくわからないまま時間が過ぎた。
[#挿絵(img/moonstone_215.jpg)入る]
血が足りなかったのか、いやがらずに口移しででも飲ませるべきだったのかと心配しはじめたとき、かすかに彼が身じろぎした。
ゆっくりと、まぶたを開く。灰紫《アッシュモーヴ》の瞳が宙をさまよい、やがてリディアをとらえる。
「エドガー……」
安心したあまり、彼の手を強く握ったままなのは忘れていた。
「リディア、どうしてきみが……」
何がどうなったのか、把握しきれていないのだろう彼は、しばし考えるように眉根《まゆね》をよせた。
「もう大丈夫よ。あなたは助かったの」
「きみの、夢を見ていた」
眠っていたはずの彼に、何もかも見られていたかのような気がしてリディアは戸惑う。
「僕は年老いて、死の床についていた。まわりには人が集まっていて、そして僕は、きみの姿を探した。でも見つからなくてあせった。どうして? きみがいないはずはないと、そのとき僕は、何十年もきみといっしょにいたかのように思い込んでいた」
話を聞きながら、ようやくリディアは、彼の手を握りしめていることを思い出した。
急に離すのもわざとらしい。それに彼はまだ、自分の手がどうなっているかとか、意識していないに違いない。彼が気づかないうちにそっと離せないものかと思案し、少しずつ力をゆるめる。
しかし突然、リディアの手はエドガーに握り返された。
ゆっくりと力なく吐き出される言葉とはうらはらに、しっかりと強く握られた。
「それで、いつどこできみを失ったのかと、必死に思い出そうとした。……やがて思い出した。強引に言い寄って、嫌われたんだったって」
「嫌ってなんかないわ。いつもあなたが、あたしをからかうから、怒ってるふりしてただけなの。……もう、怒ってなんかいないって、それが言いたくて」
手を引っ込めることをあきらめると、彼も安心したように力をゆるめる。まあいいか、とリディアはそのままにしておくことにする。
「夢の中で、きみが言ったのはそれだったのかな。もう会えないのかと落胆《らくたん》した僕の前に、きみが現れたんだ。今のままの姿で。そして何か言ったようだったけれど聞こえなくて……」
やさしく握られている手に、あたたかさが戻ってきていた。徐々にケルピーの血は、彼の体の毒を浄化しているようだ。
「それでもただ、安心した。きみはそこにいるだけで、僕をおだやかな気持ちにしてくれる。そのときも、たぶん最低な人間として死を迎えようとしていた僕を、許すかのように、手を取って口づけてくれた」
手首にしておいてよかった、と思う。
「……ただの夢よ」
エドガーは、目を細めて微笑《ほほえ》んだ。リディアがはじめて見るくらい、含みも裏もない無邪気《むじゃき》な微笑みで、それは自然と、ポールが話していた幸福な頃の少年と重なった。
「リディア、僕は困らない」
「え?」
「本気になられてもとことんのめり込まれても、つきまとわれても困らない。……距離を間違えたくないときみは言うけど、どんどん間違えて、手の届くところまで、いきなり胸に飛び込んできてくれたって、……僕は、困らないよ」
リディアのような変わり者の少女に、想いを寄せられれば困る人ばかりに違いない。ずっとそう思い込んできた。
エドガーはなおさら、拒絶するリディアを追いかけるというゲームを楽しんでいるだけで、だから本気で好きになんかなられたら困るはずだと思った。
なのに、困らないと言う。
「だから、好きになってみないか、僕のことを」
心の奥をやさしく撫《な》でられたようで、リディアは動揺した。
でも、とどうにか気持ちのゆれを押さえ込む。
ほんと、元気が出てきたらこれだから。
口説《くど》くのは、ほとんど本能じゃないかと思うほど。いちいち反応してたらバカみたい。
けれどそう自分に言い聞かせたのは、もしも心動かされても、もう無意味だとわかっていたからだった。
「……考えとくわ」
「はなから『|いや《ノー》』と言わないんだね。めずらしく、好感触だ」
「あなた命が助かったばかりだもの」
「病人だから手加減してくれるのか」
「ゆっくり休んで。……また、明日」
素直に頷いて、安心したように彼は目を閉じた。
エドガーをだましたことになるのだろうかと、少しだけ胸が痛む。
けれどもリディアは、自分がエドガーにとって、それほど特別だとは思わない。彼なら、リディアがいなくなったって、すぐに気持ちを切りかえて進んでいけるだろう。
もっと困難な事態を、切り抜けてきた人だ。
おやすみなさい。そうささやいて、リディアは立ちあがった。
*
朝日を感じながら、まるでふだんの朝と変わらない気分で、エドガーは目覚めた。
脚の傷に気づかなければ、昨日のことが事実かどうかさえ曖昧《あいまい》に思えたことだろう。
ガウンを羽織《はお》り、寝室を出てドレッシングルームの大きなソファに腰をおろすと、そばにはいつもどおり、きちんと磨かれた靴が置いてあった。
あまりにも日常的な朝の風景の中にいて、本当に生きているのかと、不思議な気持ちになる。
どうして助かったのだろう。
対決する相手は、ポールひとりのつもりでいた。彼となら、本音で話せばお互い敵対する相手ではないと理解し合えるかもしれないと考え、賭《か》けた。
ポールはエドガーと、腹を割って話してくれる気になった。紅茶に毒を入れたことを明かすことになっても、エドガーの手からカップを払った瞬間、彼は結社に聞かされていたことよりも、目の前のエドガーを信じてくれたはずだった。
エドガーにとっては、緊張が解けた瞬間をねらわれたのだ。
あの家政婦、ポールも朱い月≠フ同志だとは知らなかったようだった。
刺されてすぐに、しびれが走った。毒が仕込まれていると気づき、ナイフを抜こうとしたけれど、体の自由がきかなくなった。
たくさんの、人の死を目《ま》の当たりにしてきたから、直感的に自分の身に起こったことも、死に直結していると思った。
なのに今は、すっかり毒が抜けてしまったかのようだ。
「旦那《だんな》さま、もう起き出されて大丈夫なのでございますか?」
執事《しつじ》が姿を見せた。
「ああ、おはよう、トムキンス」
「念のために医者に診《み》ていただきますか?」
「いや、とても気分がいい。何の問題もないよ。熱い紅茶をもらえるかな」
「すぐにお持ちします」
彼の落ち着いた様子は、エドガーが回復すると知っていたかのようだった。
「トムキンス、僕を助けてくれた名医は誰だ? あの禿頭《はげあたま》のドクターじゃないだろう」
「フェアリードクターでございます」
やはり、夢ではなかったのだ。
手首にそっと触れながら、リディアのことを思い浮かべる。不思議な力を使う彼女は、自分にとって幸運の妖精だ。
きっと、何にも代え難《がた》い。
「おはようございます、エドガーさま」
執事が出ていって間もなく、レイヴンが紅茶を運んできた。
何事もなかったかのような、いつもの朝のあいさつを淡々《たんたん》と告げた彼に、エドガーは物足りなくて苦笑いした。
「レイヴン、心配をかけたね」
いえ、と小さくつぶやいて、彼は黙々とテーブルにカップを置く。
「おまえに黙って行ったのは、僕自身、迷っていたからなんだ」
「わかっております。私がその場にいれば、ファーマン氏を殺していたでしょう。あなたをここへ送りとどけてくれた彼に、殺意がなかったとしても、刃物を向けた女ともども、間違いなく殺していました」
ポールに助け起こされ、辻《つじ》馬車に乗せられたあたりまでは、エドガーも意識はあった。だがその先は何もわからない。ポールの下宿で起こったことを、レイヴンに話したわけもない。
「女、どうしてわかるんだ?」
レイヴンは、布に包んだものをテーブルに置いた。中身はエドガーを苦しめたナイフだ。血と、変色した毒薬の成分が、不快にこびりついていた。
細身の折りたたみナイフ、メイドが仕事のために持ち歩いている種類のものだ。
「ファーマン氏はこれも、あなたの衣服に入れておいてくれました。毒薬の成分を調べられないかとの配慮《はいりょ》でしょう」
「調べたのか?」
「いえ、一見して、無駄《むだ》だとわかりましたので」
一瞬、厳しい表情を見せたレイヴンは、そのときどれほど絶望しただろう。
けっして苦言《くげん》を口にしないだけに、エドガーは、彼の忠誠心にあまえている部分もあった。
腕をつかむと、彼は少し驚いたようにこちらを見た。
「すまなかった。ポールのことはどうしても、自分で決着をつけたかった。でもそれは、おまえが心配したとおり、判断のあまさにつながった」
レイヴンは、めずらしくあわてたのか、ぎこちない動作でひざまずいた。
「エドガーさま、私などに詫《わ》びないでください。私はいつでも、あなたの選択を受け入れる覚悟でおります。あなたは必ずしも自分を守ることに徹しないけれど、だからこそ、プリンスとは違う、私の主人なのです」
レイヴンの中の、殺戮《さつりく》の精霊が従う主人。
プリンスはそうなろうとしてレイヴンを手に入れたが、精霊は彼を主人と認めないまま、ただ殺戮の衝動《しょうどう》をむき出しにし、レイヴンの心は感情を閉じ込めた人形のようで、笑いもしゃべりもしなかった。
彼の故郷の国では、王の戦士となるべき精霊の子が、つまりはレイヴンのような子が、ときどき産まれるのだという。
土着の信仰と、戦闘能力に秀《ひい》でた血筋が結びついた伝統文化。いったい、精霊の存在が伝統を生んだのか、伝統が精霊を生み出したのか。しかしそこにはたぶん、人の知覚を超えた何かがあるのだ。
リディアが見える妖精も、そういうものなのだろうと、このごろエドガーは感じている。
そしてふと思う。
魔術の研究さえしていた、プリンスの悪魔的な秘密結社は、何を目指しているのかと。
およそ現実的ではなさそうだが、不可能を可能にするための不思議な力を、本気でプリンスは欲していたようだった。
とすると、プリンスを敵とする朱い月≠ェ、青騎士|卿《きょう》の伝説から守護妖精を名乗るのは、対抗するために彼らも不思議な力を欲しているということだろうか。
本物の、青騎士|伯爵《はくしゃく》をほしがっている?
だとしたら、どう手を打つか。
「レイヴン、まだ僕のために働いてくれるか?」
「はい、何なりと」
エドガーが考え込んだそこへ、再び執事が現れた。
カールトン教授が面会を望んでいるという。
ふつうに考えれば、約束もなく時間的にも非常識な来訪だったが、リディアの父に対してエドガーは、不思議と親しみを感じていたから気にならなかった。
レイヴンに着替えの用意を頼み、濃いミルクティに口をつける。
そのときはまだ、早朝にカールトンが訪ねてきた意味を深く考えてはいなかった。
「仕事を辞める? リディアがですか?」
「はい。勝手を言いましてもうしわけないのですが、リディアはもう、ここには来られません。解雇《かいこ》ということにしていただきたく存じます」
事務的に告げるカールトンは、ひどく落ちこんでいるように見えた。
「どういう理由で? あまりにも急な話じゃありませんか」
「……理由は私にもいまひとつ……。はっきりしているのは、リディアは向こうがわを選んだということだけです」
向こうがわ? と首をひねるエドガーに、カールトンは淋《さび》しげに唇《くちびる》をゆがめた。
「伯爵、先日私は、リディアの自然な選択を受け入れるとお話ししましたね。そのときが、思いがけず昨日だったようです」
「意味がわかりません」
椅子《いす》を勧めてもかけようとしなかったカールトンに、エドガーは詰め寄った。
「リディアも、その母親もそうでしたが、人の世に馴染《なじ》みにくく、だからこの世界に、さほど執着《しゅうちゃく》を持っていませんでした。妖精の世界と人の世界、境界を行き来する者は、ある意味、この世に根がないからこそそれが可能なのでしょう。けれど人の世は執着がないと、それなりに欲望がないと生きにくいのです。おわかりでしょうけれど、こちらがわには勝つ者と負ける者がいる。リディアのようにのん気で人を疑うことを知らない娘にとって、向こうがわの、変化のない退屈な世界の方がいかにやさしいか……」
「彼女が妖精の世界で暮らすことを選んだというのですか? こちらがわに嫌気がさして?」
死にかけたエドガー。そして親しみを感じていたはずのポールのたくらみを知って、リディアは傷ついたのだろうか。
争いごとばかりの人の世に、見切りをつけた?
「でも、カールトン教授、あなたは奥さまをこちらがわに引き止めたわけでしょう? リディアを人の世にとどめておくことだってできたはずです」
「それができるのは、私ではありません。伯爵、あなたでもなかった。人ではなく妖精が、リディアの決意を促《うなが》したのでしょう」
リディアをほしがっていた妖精、まさかあの黒馬か?
「連れ戻すことは……、会って話をすることもできないんでしょうか」
「私たちにはどうにもできません。ただ、受け入れていただくしか」
カールトンはきっぱりそう言って、足早に帰っていった。
彼自身も受け入れきれず、落ち着かない気持ちから、人前で感情を露呈《ろてい》してしまうことを怖《おそ》れて切り上げたかのようだった。
崩れるように椅子に座り込み、エドガーは金色の髪に指をうずめた。
リディアを人の世に引き止めることは、身内の愛情だけでは難しいというのか。彼女の母がそうだったように、血よりも強い絆《きずな》が持てる誰かを彼女が人の世に見つけるのでない限り、とどめることはできないと。
カールトンに、「あなたでもなかった」と言われたことが、エドガーの胸に突き刺さる。
でも、腑《ふ》に落ちない。リディアが人の世に絶望したなら、どうしてエドガーを助けていったのか。
それにわざわざ、わだかまっていた関係を修復していった。もう怒っていないと、それが言いたかったと彼女は言っていた。
考えながら、はっとエドガーは視線をあげる。ニコの灰色のしっぽが、ちらりと窓際《まどぎわ》を通ったように見えたからだった。
「ニコ!」
急いで窓を開け放つ。バルコニーの手すりから手すりへ飛び移ろうとしていたらしい猫は振り返った。
「教えてくれ、ニコ。きみはリディアがいなくなった本当の理由を知っているんだろう?」
「もうここに用はねえんだけどさ、トムキンス氏の淹《い》れる紅茶をもう一杯だけ飲みたくてさ」
「すぐに淹《い》れさせよう。こっちへおいでよ。チョコレートもある」
「まるいチョコレートか?」
「そうだよ、リキュール入りの」
そろそろと、彼は部屋の中へ入ってきた。
二本足で歩きながら、テーブルのそばの椅子に腰かける。
もはやエドガーは、ニコが向こうがわの存在であることを疑っていなかった。
熱いミルクティとチョコレートで、ニコから話を聞き出す。それはエドガーを驚かせ、どうしようもなくやるせない気持ちにさせた。
「それじゃあリディアは、僕を助けるためにケルピーとの結婚を承諾《しょうだく》したっていうのか?」
「あんたを助けるためっていうより、フェアリードクターの責任感とリディアの性分《しょうぶん》だとおれは思うけどな」
「僕を想いながら、あの野蛮《やばん》な妖精のもとへ行ってしまっただなんて」
「違うって」
「しかし好きでもない男のために、ふつうそこまでしないだろう?」
「リディアはふつうじゃないからな。それにケルピーに対しても、あんがい好意的だった。いやいやってほどじゃないんじゃねえか?」
冗談じゃない、とエドガーは思う。
たぶんニコの言うように、リディアはありえないくらいお人好しだ。ケルピーと取り引きしてまでエドガーを助けたのも、本当にただの性分なのだろう。
エドガーのそばにいるよりも、ケルピーの方が心|穏《おだ》やかに暮らせると思ったとしたら、彼女にとってついでの人助けだったのかもしれない。
でも、冗談じゃない。
エドガーは結局、ポールに殺されかけたのではなかったのだ。ケルピーがポールに干渉し、人に毒を盛る決意を促したのだとしても、リディアが責任を感じる必要はなかった。
それに、馬にリディアを奪われるなんて、がまんできるだろうか。
「ニコ、きみだってリディアがいなくなるのは淋しいだろう? それもあの水棲馬は、僕たちのような紳士《しんし》じゃない」
紳士と言われ、ニコはまんざらでもなさそうにヒゲを撫《な》でる。
エドガーは、ニコをこちらがわに引きずり込もうと考えた。なにしろケルピーは妖精だ。こちらにも妖精の協力がいる。
「教えてくれ、リディアを連れ戻す方法はないのか?」
「なあ伯爵、リディアは自分で決めて行ってしまったんだ。あんたやおれになんの権利があって連れ戻すなんて言うんだ?」
「彼女の本意だとは思えない。リディアがお人好しの性分で選んだことなら、僕だって自分の性分を通す」
「口説《くど》き魔の性分か?」
「そうだよ。落とせないままあきらめてたまるか」
わかんねーよ、とニコは肩をすくめる。エドガーは負けじと身を乗り出す。
「きみは妖精の領域とこちらがわを行き来できるんだろう? 何もしたくないならそれでもいい、僕に道を教えてくれ」
「おれはリディア以外の人間を、妖精界に導くことはできないんだ。妖精にも、いろいろとしがらみがあってな」
「帽子《トップハット》とブーツでどうだ?」
むう、とニコは腕を組んで考え込む。しかし誘惑を退《しりぞ》けるように、ぷるぷると頭を振る。
「無理なものは無理なんだよ。ほかのことならまあ、リディアに無理|強《じ》いしないってなら協力してもいいけどさ」
エドガーは考え込んだ。
「それにしたって、妖精界でリディアを見つけたところで、ケルピーとの約束を取り消す方法があるってのかよ」
それも問題だ。だがリディアを見つければどうにかなるのではないか? などと楽天的に考える。こういうことは勢いだ。考えすぎると、何もできなくなってしまう。
そしてはたと思いつき、彼は立ちあがった。
「あのふたり、マリーゴールドとスイートピーはまだいるのか?」
ニコは窓の方に首を動かした。
「おい、伯爵がお呼びだぞ」
窓から現れるのかと眺めていたが、唐突《とうとつ》に足元で声がした。
「ご用でしょうか」
幼い少女の姿で、野原の妖精ふたりがひざまずく。
「きみたちの女王のところへ案内してもらいたいんだ」
「ええっ、何言ってんだよあんた、妖精との結婚を受けるつもりか?」
ともかく、妖精界へ入らなければどうにもならない。それだけのために女王との結婚を受けるふりをするという、あまりにも無謀《むぼう》な考えに、ニコは苛立《いらだ》った様子で肩に飛び乗ってきた。
そうしてエドガーに耳打ちする。
「あんたがよくできた詐欺《さぎ》師だろうと、人間どうしのやり方は妖精には通用しないぞ。リディアを連れ戻すどころか、妖精女王にとらわれるだけだ」
「ちょっとニコさん、じゃましないでくださいな。せっかく伯爵が、女王さまと結婚する気になってくださったんですよ」
マリーゴールドがニコのしっぽをつかんで引きずりおろそうとした。
「おいっ、こいつはそんな気なんてない……」
暴露《ばくろ》しようとしたニコをつかまえ、口を押さえ込む。
「で、お嬢《じょう》さん方、すぐに出発できるのかい?」
「ああでも伯爵、月の指輪が必要ですわ。以前の青騎士伯爵は、婚約の誓いは月≠ニ取り交わさなければならないのだとおっしゃいました。ですから、女王さまが贈りましたあの月≠身につけ、あなたさまの誓いのあかしとしていただかなければなりません」
ニコをかかえたまま、エドガーはまた考え込んだ。
月と誓いを取り交わす。それはつまり、青騎士卿とその妃《きさき》、グウェンドレンとの結婚をイメージしているのではないか? 伯爵家当主の結婚には、ムーンストーンを誓いのあかしとするような決まり事があったのかもしれない。
ともかく、問題の指輪はポールが持っている。
彼はおそらく、|朱い月《スカーレットムーン》≠ノ保護されていることだろう。
好都合だ。こちらからしかけてやる、とエドガーはにやりと口の端をあげる。
「わかった。指輪を取り戻そう。お嬢さん方、ニコ、力を貸してくれるね」
「もちろんですわ、伯爵」
「つか、何たくらんでんだよ!」
リディアを連れ戻すことさ、とニコに耳打ちし、そしてレイヴンを呼んだ。
「出かける用意を。それから、宝剣を持ってきてくれ」
*
夜通し居座っていた客をようやく吐き出した朝のクラブハウスは、再び喧燥《けんそう》の夜がやってくるまでと、扉を固く閉ざしていた。
レイヴンとふたり、エドガーはその前に立つ。
「エドガーさま、ここが朱い月≠フ根城《ねじろ》なんですか?」
「おそらく。間違いないと思うよ」
エドガーがポールとはじめて会った、あの展覧会が開かれたクラブだった。
クラブのオーナーは、画商《がしょう》でもあるスレイドという男。ここは絵画に興味のある金持ちと、彼らに才能を売りたい画家たちが主な会員だという。
ポールの父オニールも、もうひとりの父ファーマンも、貴族を相手に注文を受ける画家だったからには、ここの会員だった可能性は高い。そもそもポールをエドガーに引き合わせ、気に入られるようにと仕向けたのもここのオーナーだ。
それらの関連からしても、このクラブの舞台裏に、朱い月《スカーレットムーン》≠ェひそんでいると思われた。
「さあ、チェックメイトだ」
ステッキ代わりに長剣を手にしたまま、エドガーはクラブハウスのドアをたたいた。
やや待って、顔を出したのは小間使いらしい男だ。
「まだ開いてませんので、夕方おこしくださいますか、サー」
「ミスター・スレイドに用がある」
「はあ、どういったご用件で」
「彼の女に殺されかけた。公《おおやけ》にする前に、話し合ってやってもいいと伝えてくれ」
小間使いは不思議そうにエドガーを眺めた。何かの合い言葉とでも思ったのか。
「失礼ですがお名前は」
「アシェンバート伯爵」
と告げたとたん、彼は目を見開いた。あきらかに震《ふる》えながら、逃げるように奥へすっ飛んでいく。
幽霊《ゆうれい》でも見たみたいだなと、不愉快《ふゆかい》になりながら、エドガーは勝手に中へと踏み込んだ。
玄関ホールから続く階段をあがっていく。レイヴンもついてくる。
あがりきったところで、豪華な絨毯《じゅうたん》を敷きつめた廊下《ろうか》を、こちらへ向かって走ってくる人物が目についた。
スレイドだ。黒髭《くろひげ》の太った男。こいつだったのだと思い出しながら、エドガーは彼の右手に朱《あか》いムーンストーンを確認していた。
「伯爵、ここは会員制クラブですので、勝手な入室は困ります。しばし控え室でお待ちいただけませんか」
歩き回られては困るということか。
「なら入会しよう。その資格はあるはずだ」
「ええ、ですがその……」
いぶかしげに、帽子のつばが影を落とすエドガーの顔を確認しようとするスレイドは、本物かと疑っているのだろうか。
「死人に入会資格はないと?」
帽子を取ってにやりと笑ってやる。彼は動揺したように数歩|退《しりぞ》き、しかしどうにか踏みとどまった。
「し、死人には見えませんが」
「そう、やり損ねたんだよ、きみたちは」
「……何のことでしょう」
「ポールはどこだ?」
「彼の自宅を訪ねてください」
「下宿《げしゅく》にはいない。家政婦も急に姿を消して、困っていると大家《おおや》は言っていた」
「それは私の知ったことでは……」
「レイヴン、ミスター・スレイドは徹夜明けで血のめぐりが悪いらしい。目を覚まさせてあげるといい」
進み出たレイヴンは、スレイドの胸ぐらをつかみ、眉間《みけん》にナイフを突きつけた。
そのナイフが、毒を仕込んだ家政婦のものだと一目でわかったらしい彼の額《ひたい》に、冷や汗がふきだす。
身動きすらできなくなった彼を、エドガーは意地悪く覗《のぞ》き込んだ。
「目が覚めた?」
「…………」
「返事が聞こえない。もっと刺激が必要かな」
「いえっ、さ、覚めました」
「結構」
クラブの使用人たちが、遠巻きに集まってきていた。ざわめいたその様子から、どうやらみんながみんな朱い月≠フ団員ではないようだ。
義賊《ぎぞく》の団員らしい人物は、確認できる限り多くはない。使用人たちを仕事場にもどそうとせっついている。
「は、伯爵《はくしゃく》。どうか奥で話しましょう」
スレイドも声を張り上げ、この場でエドガーによけいなことを言ってほしくないと示した。
声を落とし、スレイドに耳打ちしてやる。
「話したいのはきみとじゃない。きみたちスカーレットムーンなど、本当はたたきつぶしてやりたいところだが、ポールがいるなら交渉の余地はある。まさかと思うが、彼に伯爵殺しの罪をかぶせてテムズ河に放り込もうなどと考えているんじゃないだろうね」
「……私どもは、仲間がしくじったからといって簡単に殺したりしません」
ようやく認めながらも、プリンスの組織を引き合いに、彼は嫌味を言った。
もっともエドガーには痛くもかゆくもない。彼らがプリンスとは違うというなら、なおさら悪くはない。
スレイドは、力をゆるめたレイヴンのそばからそろりと動いた。
エドガーたちを奥へ案内しながら、通路を複雑に進む。そのあたりは、おそらく一般の使用人たちが入ってはこない場所なのだろう。いつのまにか人の気配《けはい》がすっかり消えていた。
と思ったそのとき、視界のすみで人影が動いた。エドガーが振り返るよりも早く、レイヴンが肩を押す。
次の瞬間聞こえた銃《じゅう》声は、そばにあったランプシェードが割れる音と重なった。
スレイドが逃げ出す。
「こいつらをつかまえろ!」
その声に、ひそんでいた朱い月≠フ連中が、次々と隠されたドアから飛び出してきた。
「レイヴン、こっちだ!」
ふたりして走り出す。
人の目につかないように保護されているはずのポールも、この建物の奥にいるはずなのだ。
だとしたらこのあたりのはずだと、部屋をあちこち確かめながら駆《か》け回る。
だがどの部屋も、使われている様子がない。
やがて突き当たった両開きの大きなドア、その中に駆け込み、鍵を閉める。レイヴンが、壁際にあった装飾用の槍《やり》をつっかえ棒にすると、少しは時間|稼《かせ》ぎができそうだった。
そこは、秘密結社の集会場か、広めの、ホールのような部屋だった。
高い天井から、ゴシックふうのシャンデリアがひとつぶら下がっている。その真下の床に描かれたモザイク画は、朱い三日月《みかづき》だ。
よく見れば、モザイクは朱いムーンストーンでできていて、ひとつひとつの石に血のような赤茶けた文字でアルファベットが刻まれていた。
団員の結束を固めるために、入会の儀式にでも使われたものか。
おそらくは団員の頭文字を刻んだムーンストーン、それらを見おろすかのように、正面の祭壇状になった場所には、いかにもな玉座《ぎょくざ》があった。
玉座の背後の壁に、ひとつだけ絵が掛かっている。近づいていって、エドガーは絵を見あげる。
「青騎士伯爵……?」
栗色の髪、青い瞳の男性が、スターサファイアの入った宝剣を手にしている肖像画だった。
服装からするに、エリザベス一世の宮廷に現れたというジュリアス・アシェンバートではないだろうか。
アシェンバート家の人物画は、エドガーが知る限りどこにもなかった。伯爵家の所有物を把握しているはずのトムキンスも、肖像画のたぐいはないと言っていた。
妖精族とつながりが強いだけに、肖像という自分の似姿を、魔術に悪用される危険を避けたのではないかということだった。
エドガーはあまり詳しくはないが、ある種の魔術では、肖像に術《じゅつ》をかけるだけで本人を害することができるとか。
それならなぜこの伯爵は、肖像を描かせたのか。そうしてそれが、どうしてこんなところにあるのだろうか。
いずれにしろこの朱い月≠ェ、青騎士伯爵を崇拝《すうはい》し、|朱い弓《フランドレン》の名を持つ守護妖精に自らをなぞらえていることは、予想したとおりのようだった。
ドアは激しくたたかれていた。鍵はどうせ開けられてしまうだろうし、つっかえ棒もそろそろ折れそうだ。
「エドガーさま、天窓から出ますか?」
「いや、ここで決着をつけよう」
そう言うのとほぼ同時に、ドアが破られた。
男たちがなだれ込んだ。その背後《はいご》に、スレイドの姿が見える。
エドガーの隣で、レイヴンがピストルをかまえる。
銃口が、何の迷いもなくスレイドの眉間《みけん》をねらっていることに気づき、彼ははっと立ち止まった。
わざと耳元をかすめるように、レイヴンは撃つ。
スレイドが悲鳴をあげ、みんな硬直するように動きを止める。
「そう、動かないほうがいい 動いた奴から先に死んでもらうことになるからね」
言いながらエドガーは、できるだけゆっくりと彼らを見まわした。
「さて諸君、きみたちはみんな、朱い月≠フ団員か? 青騎士伯爵に血の誓いをたてたその同志だというなら、きみたちは僕のしもべだということだ」
わざとらしく、壁の肖像画を一瞥《いちべつ》する。
「……ニセ者のくせに」
スレイドのつぶやきを聞きとめ、彼に歩み寄った。
「きみたちだってニセ者だよ。まがいものの|朱い弓《フランドレン》」
腕をつかみ、ムーンストーンの指輪を乱暴に抜き取る。
「朱《あか》いムーンストーンだが、ありふれた品だね。|輝き《シーン》はぼやけているし、妖精の持ち物だったとは思えない」
ぞんざいに放り投げて返す。
「だがきみたちは、青騎士|卿《きょう》の守護妖精を名乗り、この肖像画の伯爵に忠誠を誓っているんだろう? まあね、どこもかしこも秘密結社ってやつは、パラケルススだのローゼンクロイツだの伝説的な人物を始祖《しそ》に据えたがる。儀式を特殊化し、部外者に謎めいた印象を持たせ、仲間内の結束を高尚《こうしょう》なものと思い込むための、一種の遊び、そういうことか?」
「我々は、遊びでこんなことを始めたのではない。身を守るため、そして戦うためだ」
「なら本気で、青騎士伯爵の片腕となるつもりかい? むろん僕は、きみたちが使い物になるかどうか確かめたいけどね」
片隅で、誰かが動いた。
レイヴンが撃つ。相手の銃だけをはね飛ばす。
しかし張りつめていた緊張の均衡《きんこう》が崩れ、別のひとりがエドガーにつかみかかろうとした。
身をかわし、さっと距離を取ったエドガーは、大胆にも祭壇上に飛び乗った。
手にしていた宝剣を、すらりと鞘《さや》から抜く。
祭壇の背後にある肖像画、そこに描かれたものとまったく同じ、銀色に輝く剣をまっすぐにかかげる。
「僕が青騎士|伯爵《はくしゃく》だ。この宝剣の主人だ。気に入らないというなら、かかってくるがいい。この剣に武器を向ける度胸があるならね」
さすがに誰もがたじろいだ。
敵に囲まれようと堂々とひるまないふりくらい、どうってことはない。恵まれた美貌《びぼう》も、エドガーは自分が他人にどう見えるか、熟知しているから利用する。
「おいみんな、何をしている。ニセ者から宝剣を奪い取れ!」
スレイドが沈黙を割った。
頑固《がんこ》な男だ。いっそ黙らせるかと悩んだそのとき、見知った若者が駆け込んできた。
「待ってください!」
エドガーのいる祭壇の下へ駆けつけたポールは、皆の方に向き直る。
「もうやめましょう。この人はプリンスの手先なんかじゃありません。ぼくたちとおなじように、被害者なんです」
「ポール、おまえの話が本当だとしても、こいつもその東洋人も、プリンスのもとにいたのは間違いない。洗脳されているかもしれないし、よほど下《した》っ端《ぱ》ならともかく、奴の身近にいた人間が逃げ出して自由にしているなど考えられない。逃亡者は徹底的に追われて殺される」
[#挿絵(img/moonstone_243.jpg)入る]
その通りだ。エドガーが殺されなかったのは、プリンスにとって生きたままとらえなければならない存在だったからだ。
なぜ殺さないのか理由は知らない。エドガーを追いつめるために仲間を殺し、様々な手をしかけてきたけれど、彼を殺すわけにはいかなかったその一点を抜け道として、ここまで逃れることができたのだ。
「でも、プリンスが手下に、青騎士伯爵の名を得ることを許すでしょうか。この方は、ぼくたちが認めようと認めまいと、女王|陛下《へいか》によって正式に認められているんです。そういう存在は、プリンスにとって好ましくないのではないですか?」
反論の余地を探してか、スレイドは首をひねりながら黙り込んだ。
「そのへんを、僕も知りたい。プリンスと青騎士伯爵に、何か因縁《いんねん》でもあるのか?」
少し振り返ったポールは、結社の団員ではないエドガーに、話していいものかどうか迷ったようだった。
スレイドはこちらをにらみつけるようにしながら黙っているだけだ。
「お話ししましょう」
そう言ったのは、また別の声だった。
戸口から、初老の男が入ってくる。団員たちがさっと道をあけたことから、結社のリーダー格だろう。
背筋をピンと伸ばしているが、目が不自由らしく、彼はゆっくり杖をつきながら進み出た。
「ファーマン……」
とスレイドが心配そうに声をかける。ということは、ポールを息子にした男か。ドーバーにいるのではなかったようだ。
「スレイド、ここは私にまかせてくれ」
どうやらふたりは、画家と画商《がしょう》としてよりも親しい間柄らしかった。
「すいぶんと失礼をいたしました、伯爵。いえ、公爵《こうしゃく》とお呼びするべきですか?」
「その名はもう、僕のものじゃない」
「では伯爵、プリンスと青騎士伯爵の間に何があるのか、私たちもじつはよくわかっておりません。ただ、奴が青騎士伯爵の存在を怖《おそ》れているかのように、血筋を徹底的に抹殺《まっさつ》したことを知るのみです」
「血筋を? しかしアシェンバート家の爵位《しゃくい》継承者《けいしょうしゃ》は、三百年前からひとりも英国に現れていない」
「そうなのですが、爵位を相続する権利はなくとも、血を引く者はおりました」
そして彼は、肖像画を見あげた。
「青騎士伯爵家の人物を描いた、唯一のものではないかと思われます。これを描いたのは、伯爵の恋人で彼の子を産んだ女性……」
「なるほど、恋人と子のために、自分の絵を描くことを許したのか。ロマンチックな話だ。で、その女流画家の家に、伯爵家の血と絵が受け継がれてきたと」
「ええ。私とこのスレイドが弟子入りしていた、師の家系でした」
画商ももとは、画家を目指していたのか。芽が出なかった代わりに、遺産でも手に入れて成り上がったのだろうかと想像する。
「で、きみたちの師匠《ししょう》はプリンスに殺されたわけか?」
沈痛な面《おも》もちで、死者を悼《いた》むように彼は頭《こうべ》を垂れる。
「私たちのほとんどは、殺された師の一族と親しくしていた者。画家仲間だけではなく、もっと古くからの職人的な、壁画や彫刻など装飾美術を手がけてきた者たちです。その昔は、領主や城についての秘密を知るような仕事もあり、身を守る必要もあって発達した組織で、師の一族はそのネットワークの中心的位置にいました」
「それが、朱い月≠ニいう結社なのか?」
「朱い月≠ニ名乗ることにしたのは私たちです。師の一族は、青騎士伯爵の子に与えられた名、フランドレンをミドルネームに受け継いできたといういきさつもあってそう決めました。彼らが皆殺され、職人たちの組織もバラバラになりましたが、どうにか寄り集まった者たちです」
「結局、なぜねらわれるかわからないのか?」
「私たちにはわかりません。師は知っていたかもしれませんが、他言《たごん》する前に殺されました。残された私たちは、プリンスへの恨《うら》みで結束を固め、青騎士伯爵が英国に戻ってこられるのをひたすら待ち望んでいたのです。プリンスがその血を嫌うなら、彼が現れることでしか、対抗することはできないと……」
「なのにニセ者で、失望したわけかい?」
ファーマンは、皮肉めいて口元をゆがめた。
「数年前にオニールが殺されたとき、私たちは彼が滞在していた公爵家について不審《ふしん》に思い調べました。しかし火事があったことしかわからず、まさかその若君が、プリンスの元で生きていたとは考えもしませんでした。伯爵、あなたの家族を描いた彼が殺され、あなたの家もプリンスにつぶされたのなら、その理由を私は知りたい。オニールは、公爵家にいて何か知ってしまったのかもしれません」
エドガーの家がなぜねらわれたのか。それは彼自身考え続けてきたことだ。
しかしいまだ、明確な答えはつかめない。ただ、公爵家がねらわれたというより、エドガー自身を手に入れるためだったのではないかという気がしている。
「僕にもよくわからない。しかし、青騎士伯爵の血は関係ないと思う。家系図は子供のころから頭にたたき込まれるが、百年に一度現れるか現れないかの伯爵家とつながりはなかったはずだ」
ファーマンは深く息をついた。
わからないことばかりだ。
魔術的な研究に傾倒していたプリンスの組織にとって、青騎士|伯爵《はくしゃく》の不思議な力が脅威《きょうい》であったのだろうか。
その可能性はある。しかしアシェンバート家の不思議な力は、エドガーにはない。
だが今は、エドガーが青騎士伯爵だ。名を背負った以上、古い家系のすべてを背負っている自覚はある。
どのみち自分は、プリンスと対決する道から逃れられないのだ。
「伯爵、これ以上お話しすることはありません。あなたには今後ご迷惑をかけないと約束します。どうか私たちの結社については胸にしまっていただき、おひきとり願えないでしょうか」
「プリンスに対抗できるはずの、血も神秘的な力も持たない伯爵は、いらないって?」
しかしこのまま帰る気など、エドガーにはない。この朱い月≠ヘ使えるはずだ。
だからほしい。
「おそらく僕は、プリンスの組織の中で、誰よりも奴のことを知っている。奴のやり方、考え方、陰湿な攻め方も知っている。だからこそ裏をかくこともできるはずだ。頭脳《ブレイン》がほしくはないか? 察するところきみたちの活動は、プリンスに無視されるほどこれといった成果を上げていない。だからこそ生き残ってこられたのだろうけど、それでいいのか?」
スレイドがむっと顔をしかめたのは、自分でも歯がゆく思っているからだろう。ファーマンは表情を変えずに淡々《たんたん》と言った。
「あなたを仲間にするということですか?」
「違うよ、|朱い月《スカーレットムーン》≠フ諸君。僕のものにならないかと言ってるんだ」
エドガーは鷹揚《おうよう》に微笑《ほほえ》みながら、祭壇の上を大股《おおまた》で歩き、結社の象徴である青騎士伯爵のための玉座《ぎょくざ》に腰をおろした。
一瞬ざわめいたが、誰も抗議の声をあげなかった。
「戦うために、僕は|朱い弓《フランドレン》と|白い弓《グウェンドレン》を手に入れたい。ニセの伯爵にニセの朱い弓。まったく、きみたちは妖精の射手《いて》を勝手に名乗っているだけなのだから、それでじゅうぶんじゃないか。勝てそうな気がしてきただろ?」
返事はない。だが手応《てごた》えはある。
もう一押しか。
ニセの、名前と意気込みだけの朱い弓だからこそ、彼らは本物の青騎士伯爵を欲した。
しかしそんなことをしても意味はない。本物の青騎士伯爵にしてみれば、この朱い月≠ヘどこまでもまがいものではないか。
本物の輝きをまねたって、同じものにはなれない。ニセ者が本物に成り代われるとしたら、本物以上に輝くことだ。
エドガーは、ポールの方に視線を向けた。
「ところでポール、きみに用があったのは、その白いムーンストーンを返してもらいたかったからだ」
あ、とあわてたように、ポールは指輪をはずした。レイヴンがそれを受け取り、玉座のエドガーに手渡す。
彼は宝剣をレイヴンにあずけ、指輪を手に立ちあがった。
「レイヴン、あとは頼んだよ」
「はい」
「さて諸君、僕は|白い弓《グウェンドレン》をさがしに行ってくるから、ゆっくり返事を考えておいてくれ」
戸惑《とまど》う彼らを見まわし、そしてエドガーはマリーゴールドたちを呼んだ。
どこからともなく現れたふたりの少女に、朱い月≠フ団員たちは驚きを隠せない様子だったが、そうでなくてはこの大げさな芝居をする意味がない。
「では伯爵、まいりましょう」
幼い少女の姿をしたふたりの妖精が、エドガーの手を取った。
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うそつきと約束
夏至《げし》の夜を思わせる薄藍《うすあい》色の空に、白っぽい月がかかっている。川面《かわも》を渡る風が、森の木の葉をゆらしながら、ゆっくりと流れている。
妖精界は、暑くも寒くもなく、そして静かだ。
月を見あげながらリディアは、今ごろ父さまはどうしているだろうと考えた。エドガーは、リディアがもう伯爵《はくしゃく》家のために働くことはできないと聞かされただろうか。
妖精界と人間界とは時間の流れが違うから、リディアにしてみればまだ夜も明けていないのだが、きっと向こうではもっと時間が経っているのだろう。
空腹を感じ、リディアはひざの上の果実に目を落とした。
妖精界の果実は、よく熟《う》れていてあまい香りを漂わせている。もしもひとくちかじってみれば、これまでに味わったことがないほど美味なのだろう。
でも、妖精の食べ物を口にしたら、二度と人界へ戻れなくなる。
そもそもケルピーと暮らすことにしたからには、人の世界と縁を切らねばならないのだけれど、なにぶん急だったのでまだ心の準備ができないのだ。
目をつぶってリディアは、ケルピーが採ってきてくれた果実を遠くへ投げ捨てる。と、その彼が、川の方から戻ってくるのが見えた。
背負ってきた草の束を地面におろす。やわらかな、いい匂いのする草を敷きつめた上にリディアを座らせ、満足げに微笑《ほほえ》んだ。
「今日のところはここで休めよ。スコットランドに帰ったら、人間にも住み心地がいいようにいろいろ整えてやるからさ」
「うん、ありがと」
意外とやさしいというか、世話を焼いてくれる。
「なあリディア、もう月の約束を取り消してくれてもいいだろ?」
月をくれたら結婚する、と以前に言ったあれのことだ。
ケルピーとは、毒消しの血を受け取る代わりに彼のそばにいるという約束をした。それがそのまま結婚の約束ではなかったけれど、このままずっとそばにいるのに、結婚を拒む意味はない、だから、月の約束を取り消してほしいと彼は言う。
「……スコットランドへ着いてからにしましょう。今は疲れてるの」
「そうか。ま、おまえにとっては、人間界と決別するには気持ちの整理も簡単じゃないだろうからな」
けっして、うわべを取り繕《つくろ》った言葉ではない。ケルピーにはそんな裏も小細工もない。これがそのままの彼の性格なのだから、リディアは、彼との生活を割り切ってしまえば平穏《へいおん》に暮らせるだろう。
ふと顔をあげると、ケルピーがじっとこちらを見ている。
悪いやつではない、とはいえアンシーリーコートだ。人を喰《く》う妖精だ。エドガーに見られているような艶《つや》っぽいものではなく、ちょっとかじってみたいと思われているような妙な感覚に包まれる。
と、いきなり肩をつかまれ、リディアは草の上に押し倒された。
「ちょ、ちょっと何すんのよ……!」
「交尾」
「はあっ?」
ああこいつ、獣《けもの》の属性入ってるから、とっても即物的《そくぶつてき》なんだわ。
静かにむかつきながらリディアは、おもいきりげんこつでケルピーの鼻面《はなづら》を殴《なぐ》りつけた。
「痛って……、なんだよ、人間は水棲馬の雌《めす》みたいに暴れないって聞いたぞ」
「まだ結婚してないでしょ!」
やっぱ無理か、と舌打ちしつつ、彼はリディアから離れる。
そのとき川の水面に、不自然な波が立った。
ケルピーが気にしたらしく立ちあがる。少なくとも今は、この岸辺と川の一帯は、ケルピーのなわばりだ。水棲馬は、とくに水中のなわばりの侵入者を嫌う。
「ちょっと様子を見てくる」
彼が水の中に消えると、リディアは大きくため息をついた。
やっていけるのかしら、と少々不安になってくる。
「リディア」
エドガーの声が聞こえたような気がすれば、きっと疲れすぎているのだと思う。一眠りして、夜が明ければ、もう少し前向きな気持ちになれるかもしれない。
「リディア、早く、今のうちに逃げよう」
え?
すぐそばで草を踏む気配《けはい》に、ようやくリディアが顔をあげると、エドガーがにっこり微笑《ほほえ》んだ。
「ど、どうしてあなたが、ここに?」
「きみを連れ戻しにきた」
「でも……」
「勝手に行ってしまうなんてあんまりだよ」
「おい、早くしろよ! 奴が戻ってくるぞ!」
草の陰からニコが手招きしている。
エドガーに腕を引かれ、リディアはどうしていいかわからないまま、彼といっしょに駆《か》け出していた。
「ちょっと、あたしは逃げるわけにいかないのよ。ケルピーとは約束を……」
「でも、貞操《ていそう》の危機を立派に戦ったじゃないか」
「み、見てたのーっ!」
「思わず飛び出しかけたよ。ニコがカエルを川に投げ込んでくれたから、ケルピーの注意をそらせたけど」
とりあえずはケルピーのなわばりから離れようというのか、エドガーは森の中を小走りに急ぐ。力をゆるめずにリディアの腕をつかんだままなのは、彼女がケルピーのもとへ戻ると言い出さないかと怖《おそ》れているようでもあった。
「リディア、あの女心がみじんもわからないような妖精と、本当に結婚したいわけじゃないだろう?」
そんなことは、すでに問題ではないのだ。
約束が成立しているのに、エドガーのやろうとしていることは無茶な上に無意味なことだ。
「……ここは妖精界よ。あなたのうそやはったりが通用する世界じゃない。約束をたがえることはできないの」
「きみに命を助けられたと知って、そうだったのか、と感動しただけですむと思った? だとしたら、きみの大きな見込み違いだ」
少し怒ったように、彼は言う。
「それにきみは、僕を好きになってくれると言ったのに、それこそ約束違反だよ」
「言ってないわよ、考えとくって言っただけじゃないの」
「なら考えもせずにいなくならないでほしい」
それはでも、考えたってもうケルピーと約束していたから。
それにしてもこの人、どうやって妖精界へ入ってこられたのだろうと横顔を眺める。
ニコにはそんなことはできないはずだ。
入ってきただけでなく、彼の知恵も経験も及ばない世界だとわかっているのかいないのか、いつもの確信に満ちた顔つきで先へ進んでいく。
「おい、あのふたりだ。隠れろ!」
急にニコが声をあげた。エドガーはリディアをかかえ込むようにして、木の後ろに身を隠した。
ふわふわと、ふたつの淡い光が森の中を飛んでいく。
エドガーの名を呼んでいる。
「あなたまさか、マリーゴールドたちに連れてきてもらったの?」
静かに、とエドガーは人差し指をたてる。
「……てことは、まさか妖精女王との結婚を受けたりしたんじゃ」
「まあそんなふうに、彼女たちは勘違《かんちが》いしているかもね」
「か、勘違いじゃないわよ! 勘違いなんて曖昧《あいまい》な約束はありえないのよ! あなた、ポールさんからムーンストーンの指輪を受け取ったんでしょ?」
「うん、これ」
上着のチーフポケットから取りだして見せたその指輪に、リディアはめまいさえ感じた。
指輪を受け取って、妖精界へ案内させておきながら、あのふたりの妖精のそばから逃げ出し、ニコを道案内にリディアをさがそうとしたのか。
とんでもないことをしてくれる。
これでは、ケルピーをなだめてエドガーを人界へ送り返せばまるくおさまるというものではない。
「……せっかく、命が助かったのに……。あなたは妖精界で幸せになれるような人間じゃないでしょ? 人の世で自分の力を試すことに生きがいを感じてるでしょ? そういう魂《たましい》を持つ人にとってこちらがわは、死の世界も同じなのよ!」
「おいリディア、見つかるってば」
ニコがあせって髪を引っぱったが、リディアは言葉を止められなかった。
「バカじゃない、それを受け取ったら、女王と結婚するしかないじゃない。あたしにだってどうにもできないわ」
ふたりの妖精は、リディアの声に気づいたのだろう、宙に浮かんだまま明滅《めいめつ》した。
「誰か、そこにいるんですか?」
ようやく、見つかればまずいとリディアも気づく。声をひそめてつぶやく。
「どうしよう……、ねえニコ、何か方法はないの?」
「だからさ、おれも無理だって伯爵《はくしゃく》に言ったんだけどさ」
「いいやリディア、きみには僕を助けてくれることができるよ」
エドガーはやけに自信たっぷりに言った。
「僕と結婚してくれ」
「は?」
「生死の境をさまよいながら、君をさがす夢を見た。いずれまた、死が訪れるそのときに、僕はきみの姿をさがそうとするに違いない。だからずっと、そばにいてほしい」
リディアの両手を握りしめ、真剣な顔つきで言うけれど、こいつのこれが真剣なはずはない。
でも、百にひとつくらい本気が入っていたりするから、惑わされる。
ケルピーのせまり方だったら、げんこつひとつで退《しりぞ》けられるのに、エドガーの場合はどうしてうまくかわせないのだろう。
「身分が違うわ」
思わず口をついてでたのは、この場ではどうでもいいようなことだった。
「妖精と結婚することにくらべたら、たいした障害じゃないと思うけど」
「とにかく、バカなこと言わないで」
「バカなことか。月をくれるなら結婚してもいいってくらい?」
「そうね、本物の月をくれるなら」
「ニコ、聞いたね」
「え、ああ……」
「リディア、これが月だ。本物の」
問題のムーンストーンを、彼は差し出す。
「ちょっと待ってよ、これは月じゃないわ」
「月だよ。きみさえ認めれば」
「……どういうこと?」
「昔の青騎士伯爵は、『月をくれるなら』じゃなく、『月と誓いを取り交わせば』婚約が成立すると言ったそうだ。だから、受け取るだけじゃなく身につけて誓いのあかしとしなければならないんだ。でも、いいかいリディア、僕はまだ、これを一度も指にはめていない」
つまり、エドガーと女王との婚約が、まだ完全には成立していないことになるのだろうか。
もしもリディアが、エドガーの求婚を承諾《しょうだく》しムーンストーンを指にはめれば、伯爵から月≠受け取ったかわりに結婚の誓いを捧げたことになる?
月≠ニ誓い≠取り交わした、正式な婚約者はリディアになるとしたら。
同時に、まだ月≠フ約束が残っているケルピーもリディアとは結婚できなくなる。
月野原の女王もケルピーも、このムーンストーンを月≠セという前提で、エドガーやリディアにせまった。そのことが、逆に彼らを封じる力になるのだ。
「伯爵、そこにいらっしゃったんですね!」
見つかったらしい。
野原の妖精たちがふわふわと近づいてくる。
「リディア、お願いだから承諾してくれ」
エドガーは返事を急がせる。
そういうことね。
ようやくリディアは、エドガーが急に結婚などと言い出した意味がわかってきた。
彼にとってこの求婚は、フェアリードクターを取り戻しこの場を切り抜けるための手段なのだ。
だったらなおさら、承諾なんてできるわけないじゃない。
自分の役に立つ少女を、そばに置いておくためなら、結婚するくらいどうってことはないと思っているのだろうか。
エドガーならあり得るわ。でも、そんな結婚できやしない。
「……あなたじゃない。あなたはあたしに、恋なんかしてないもの」
「僕の言葉はそんなに信じられない?」
何をかたくなになっているのだろう、とも思う。魔性《ましょう》と呼ばれている水棲馬との結婚を覚悟したのに、恋をしていようがしていまいが人であるエドガーの方が、ふつうに考えればずっと、リディアにとってましな結婚相手のはずだ。
なのに、あきれつつもリディアは首をたてにふる気にはなれなかった。
ケルピーだって、人のように愛や恋の感情を持っているわけではなかった。でも彼なら、いつまでも変わらない気持ちで接してくれるだろうと思えた。
一方で、エドガーの心の中は、どうしてもよくわからない。
彼にふさわしい女の子はいくらでもいて、そのうえ彼は口ばっかりで、うそつきだ。
「信じられないわ」
思案するように、彼は黙り込んだ。
リディアの拒絶に、少しも傷ついている様子はないのだから、やっぱりこれは彼にとって戦略でしかないのだろう。
「……わかった。僕との結婚が今のところ気乗りしないっていうなら、とりあえずのこの場しのぎだと思ってくれていい」
「この場しのぎ? 結局それが本音なのね」
「違う。でも今きみに、僕の本気を説得する時間がないならと言ってるんだよ」
「伯爵、早くまいりましょう。女王さまのところへ」
ふたりの妖精がエドガーにまとわりつくが、彼はリディアを離さない。
「おいおまえら、いったいどういうことだよ!」
その声に、マリーゴールドたちが散るようにエドガーから離れた。
「きゃあっ、野蛮《やばん》な水棲馬が!」
ケルピーにまで見つかってしまった。
おそるおそるリディアが振り返ると、彼は堂々とした馬の姿で、魔性の力を持つ瞳を鋭くエドガーに向けていた。
「伯爵さま、早くこちらへ!」
マリーゴールドたちは騒ぎながらも、ケルピーがいるからエドガーには近づけない。
エドガーはケルピーににらまれながらも、リディアをさらに引き寄せた。
「青騎士伯爵、しつこい男だな。そいつは俺の花嫁《はなよめ》だ」
「違うよ、リディアは僕と結婚するつもりだ」
「いい度胸だ。そんなに喰《く》われたいのか」
リディアをかかえてあとずさりながら、エドガーはささやく。
「リディア、お願いだからとりあえず帰ろう。人間どうしの約束はいくらでもなかったことにできる」
それもどうかと思うわ。
けれどうそでも、エドガーとの結婚を承諾するふりさえすれば、リディアは人の世に帰れるのだ。
彼が野原の女王の国へ連れ去られるのもふせげる。
それに、人の世に残る気がかりはもうひとつ。
「カールトン教授が、きみがいなくなってどれほど落ちこんでいたか」
エドガーは、リディアがなるべく考えないようにしていた切り札まで持ち出した。
きっとこれも計算済みね。
それでも父のことを思い浮かべてしまえば、リディアの心は大きく傾いた。
結婚なんてまだまだ先のことだと思っていたリディアにとって、もう少し父の娘でいたいというのは正直な思いだ。
ずるい。けどもう、父につながるエドガーの手を、リディアが離せないだろうと知っている彼は、不敵に微笑《ほほえ》む。
「わかったわ、エドガー。あたしに月≠ください……」
「ありがとう。一生きみを大切にする」
この場だけの約束。わかっていても、エドガーがやけにまじめにそう言うから、奇妙にドキドキした。
リディアの左手を、急いで彼は取りあげる。ムーンストーンの指輪が薬指におさまるのを眺めているのは、不思議とくすぐったいような気持ちだった。
「おい、リディア!」
月≠フ指輪に気づき、叫んだケルピーの方に彼女は振り返った。
「ごめんなさい、ケルピー。あたし、まだ人の世に未練があるの」
怒るというよりは、彼は淋《さび》しげに眉《まゆ》をひそめた。
少なくとも、エドガーに襲《おそ》いかかるとか力ずくでどうにかしようという様子もなかった。
マリーゴールドたちも、困惑しつつ遠巻きにしている。
「ごめんね、妖精たち。僕のことはあきらめてくれ」
「伯爵《はくしゃく》、でしたら早く息子さんをつくってください」
「だってさ、リディア」
「調子に乗らないで」
「帰り道を開くぞ」
[#挿絵(img/moonstone_265.jpg)入る]
と言ってニコがリディアの肩に飛び乗る。風景がゆがむように感じるのは、妖精界と人間界のわずかな隙間《すきま》を通り抜ける一瞬のこと。
そのかすかな狭間《はざま》で、リディアはケルピーの声を聞いていた。
「未練がなくなるまで、待ってやる。どうせあっという間だろ」
そうね。妖精にしてみれば、数年、二十年や三十年だってあっという間だから。
* * *
そしてアシェンバート伯爵|邸《てい》に、平穏《へいおん》な日常が戻った。
はずだったが。
「ちょっとエドガー、どういうことなの?」
当主のジェントルマンズルームへ駆け込んだリディアは、めずらしく領地の事務処理などという仕事らしいことをしていたエドガーに詰め寄った。
「やあリディア、会いたかったよ」
「あなた、自分の命をねらった義賊団《ぎぞくだん》結社に入るつもりですって? ニコに聞いたわ。彼らが、青騎士伯爵の不思議な力に救いを求めているからって、マリーゴールドたちの魔力を利用して、伯爵として認めさせようとしたんですって?」
「今夜は時間があきそうなんだ。きみをディナーに誘おうと思ってた」
「はぐらかさないで。どうしてなの? プリンスへの復讐《ふくしゅう》のために手を組むの? また犯罪に足を突っ込むようなことするの?」
少し肩をすくめ、彼はペンを置いて、深刻に問うリディアの方をまっすぐに見た。
「結社に入るつもりはないよ」
「……そう、ならいいけど」
「僕がリーダーになった」
「ええっ?」
り、リーダー? 義賊団の?
「だって彼らは、もともと青騎士伯爵という指導者がほしかったんだ。それに彼らも僕も、プリンスから身を守らねばならない立場だし。だから協力することにしたってことだよ」
身を守る? エドガーがリーダーになって組織を動かすつもりなら、身を守るなんておとなしいことですむはずがない。
しかしエドガーは、リディアにやわらかく笑ってみせる。
「きみのおかげで、ポールを失わずにすんだ。彼は、こんなに変わってしまった僕でも、昔と同じ目で見てくれた。……ポールがそんなに、僕との約束を大切におぼえていてくれたなんて、きみが教えてくれなければ、話し合う方に賭《か》けられたかどうかわからない」
「それは、あなたが彼の絵の才能を見出したんだもの。そのときからあなたたちには絆《きずな》があったってことよ。あたしの力じゃないわ」
「才能を見出したなんて、そんなたいそうなものじゃないんだけどね」
「でも、ポールさんに画家になることをすすめたんでしょ?」
「まあね。あのころ彼は詩人になりたかったらしくて、けど見せてもらった詩があまりにもひどかったから。絵もひどかったけど、買い取って屋敷に飾るぶんには、来客を困惑させる楽しみもあるだろう? しかし詩は、世間が認めないと金にはならないからね」
「…………」
「正直、成長ぶりに驚いた」
こいつ、じつは昔からちっとも性格が変わっていないのでは?
しかしいちおう、へたくそでも彼の絵なら買ってやろうと考えていたのなら、それなりに思いやりがあるともいえるのだろうか。
やっぱり、エドガーってよくわからない。
結局、秘密結社のリーダーになることも、プリンスに復讐することも、リディアがどう思おうと、彼の中では確定している。
そうなったらもう、エドガーは思い通りにしないと気がすまない。
彼について、はっきりしているのはそれくらいのもの。
「で、ディナーの誘いは受けてくれるだろ?」
「悪いけど、今夜は父が早く帰ってくるの」
「なら教授もいっしょに」
あきらかに、リディアが気にしたからついでに誘われたとわかる状態で、父が来るわけがない。
わかっていてそう言うエドガーは、リディアが何と言おうと、必ずディナーの席に着かせるだろう。
弱っている彼を見たせいか、そういう人だってことを忘れていた。
これでよかったのかしら。また彼のもとにいる自分を、ふと不安に思う。
「指輪、してくれてないのか」
思い出したように、リディアの手元に注目し、彼は言った。
「……サイズが合わないし」
それに、ずっと身につけてたら変じゃないの。
「直せばいい」
「いいの、とにかくあたしが持っていれば、妖精の干渉はふせげるわけでしょ」
なんとなく不服そうに、エドガーは頬杖《ほおづえ》をついてリディアを見る。
急に居心地の悪さをおぼえる。秘密結社の仲間になるだなんてと、思わずここへ駆《か》け込んだリディアだが、問いただす意味もなかった。
何しに来たのかわからない。
「じゃ、あたしはこれで」
しかし、出ていこうとすると呼び止められた。
「週末あたり、きみの家へ行こうと思うんだけど、教授はいらっしゃるかな」
「え、……なんで?」
「結婚の許可を、きちんともらっておくのが礼儀だろ」
はあ?
「な、何言ってんの? あ……あれはその場しのぎの約束でしょ」
わざとらしくも、エドガーは首を傾《かし》げてみせた。
「きみはたしかに、僕のプロポーズを承諾《しょうだく》して、婚約指輪を受け取ってくれたじゃないか」
「だからそれはっ、あなたがここだけの約束だって言ったからでしょ! 人間どうしの約束は、いつでもなかったことにできるって」
「そんなこと言ったおぼえはないよ」
「そ、そっちをなかったことにする気ーっ!」
頭にきすぎて、リディアはめまいさえおぼえた。
「で、週末だけどね」
平然と彼は、話を進める。
「や、だめよ! 家へは来ないで」
「そういうわけにはいかない」
「お願い、父さまには言わないで!」
リディアはあせった。結婚だなんてエドガーの口から聞かされたら、父は寝込むんじゃないかと思う。
妖精界へ行ってしまったはずの娘が帰ってきて、我を忘れるほどよろこんでくれた。
そのときかなり酔っていた父は、お酒で気分を紛《まぎ》らせていたところだったのだろう。
いい歳して、しかも大学教授のくせに泣きながら、もう一生|嫁《よめ》に行くななどと言った。どこへも行かないと、リディアも答えたばかりだ。
「隠れて交際するのはよくないよ」
「交際、じゃないでしょ!」
「あのね、リディア。親密な関係ってのは、わかる人にはわかってしまうからね。とくに身分違いは妙な憶測《おくそく》を呼びやすい。人の噂《うわさ》になる前に、きちんとしたつきあいだってことを公《おおやけ》にしておかないと、僕がきみのことをもてあそんでいるかのように思われるんだよ」
「親密にならなきゃいいじゃないの!」
「何を噂《うわさ》されても僕に実害はないけど、きみにとっては名誉の問題になる」
まったく、リディアの反論は聞き入れられていない。
それはたしかに、本当に交際するなら、隠してリディアに利点になることはひとつもない。
まともな家庭の娘にとって、結婚を前提にしない交際なんてありえない。
でも公にされたら、それこそもう、こいつと結婚するしかなくなるじゃないの。
「ていうか、そもそも最初が間違ってるわ。わかってるでしょ。あたし、あなたと結婚するつもりなんか……」
急に立ちあがった彼に、手で口をふさがれた。
「それを言うとまずいんじゃない?」
エドガーが視線を動かした窓の外をちらりと見ると、中庭の噴水《ふんすい》のそばに黒い馬が寝そべっていた。
どうして、ケルピーがここに?
「彼ね、きみの気が変わるまでロンドンで待つつもりらしいよ」
てことは、大声で婚約|破棄《はき》を主張できないまま、エドガーの思うつぼ?
「あ、あなただって本気で結婚なんて考えてるはずないわ」
リディアのあごを指先であげながら、エドガーはにやりと笑う。
「まだそう言う? ならきみが僕の本気をわかってくれるよう、これまで以上に努力しよう」
口説《くど》きの宣戦布告《せんせんふこく》?
朱い月≠手に入れようとしたエドガーは、彼らに青騎士伯爵としての自分を納得させるために、妖精とのつながりを見せつけたらしい。
そして彼がこれからも、妖精とつながりを持つ青騎士伯爵であり続けるためには、リディアはなくてはならない存在だ。
やっぱり、とことん悪党だ。
リディアをそばにとどめておくためなら、どんな手でも使う気だ。
「あたし、まだ仕事が……」
その場を逃げ出すのが精いっぱいだったリディアは、もちろんその夜、ディナーの誘いを断る方法があるはずもなく、たっぷりとあまいせりふを聞かされることになった。
[#改ページ]
あとがき
この物語は、英国ヴィクトリア朝を舞台にした、あやしげな伯爵《はくしゃく》と純朴《じゅんぼく》なフェアリードクターと、謎の秘密結社や妖精たちが繰り広げる恋と波乱のファンタジーです(たぶん?)。
というわけで、伯爵の口説《くど》き魔ぶりは暴走気味ですが、いかがでしたでしょうか。
彼のせりふは、作者からして本音かハッタリかわからなくなってしまいそうです(笑)。
ふと我に返るとこっぱずかしいようなやりとりも、こいつら英語でしゃべってるんだし、と思うと平気になってしまうこの不思議!
あれですね、映画の吹き替えなら、画面が外国人なのでどんなに気取ってても気にならないというやつです。
とはいえ、ときどき自分で書いててつっこみを入れたくなります。
「いったいいつどこで、花言葉なんかおぼえたんですか?」とか。
女の子の好きそうなものなら、というか気を引けそうな口説きのネタになりそうなことならとりあえず知ってそうな彼です。
でも花言葉の本を見ていると、神話や伝説がもとになってたりするのですね。とすると、西洋でなら教養として知っている人は少なくないのかもしれません。
ちなみにアイリスは、ギリシャ神話の女神ヘラの、つつましい侍女《じじょ》の名だそうです。
ヘラによって虹《にじ》の女神となったアイリス、そのときの魔法でアイリスの花も生まれたのだとか。
ギリシャ神話には、花にまつわるエピソードがほかにもありますが、そういった物語から花言葉の意味につながっていたりするようです。
有名なところでは、ナルシストという言葉のもとになっている、美少年ナルキッソスの話があります。彼は水仙《すいせん》の花になってしまうのですが、そんなわけで水仙の花言葉は、「自己愛」となっております。
今回、ロンドンは|社交界の季節《ザ・シーズン》です。
なので、少々うわついた恋の駆《か》け引きもありでしょう。なとど勝手に想像してみたりして、プロポーズの話になりました。
イギリスのザ・シーズンは、だいたい五月から八月ごろの気候のいい時期だそうです。
このころになると、自分の領地の城(マナーハウスとかカントリーハウスと呼ばれる広大なお屋敷)からロンドンへ上流階級の人々が集まってきます。
あちこちで夜会《やかい》が繰り広げられ、出かけまわる生活は多忙《たぼう》そのもの。よほど体力と根性がないとやっていけないんじゃないかというほどで、ふつうに働いているより疲れそう、と私などは思ってしまうのです。
エドガーにしてみれば、水を得た魚。すいすい泳ぎ回っているといったところでしょうが、遊んでいられるのも今のうち……、なんでしょうかね。どうなりますことか。
しかしリディアの苦労は、今後もますます増えそうです。
ところで、つい最近私は、『24』というテレビドラマにひたっておりました。
話題になったのはもう少し前なので、いまさら……なところではありますが、いやもう、見始めたら止まらないってのは誇大《こだい》広告ではなかったです。
試しに一回目だけ(一時間だけ)見てみよー、と思ったら、その後数日つぶれました。
ぶっ通しで見たわけじゃないので、(原稿もやらなきゃいけないし……)小分けにしつつ見ていたのですが、それでも一日のうち何時間か、あっという間に消えてしまう……。
一日二十四時間のできごとを、リアルタイムで追っていくという構成なので、ひととおり事件が解決するまで見るのに二十四時間かかります。
今のところDVDは三シーズンまで出ているようですが、まだ一シーズンしか見ていないので気になっているのですよ。
でもDVD買ったら高いし、見始めたら四十八時間つぶれるかもしれないと思うと、手が出せません!
二シーズンのテレビ放送は見逃したけど、そのうち再放送されないかなと、しばらく待ってみることに……。
テレビなら時間が決まってるので、支障はないかと思うのですが。
さて、話は戻りますが、この『伯爵と妖精』、もう少し続くかと思いますので、また読んでみたいと思っていただければ幸いです。
最後になりましたが、イラストを描いてくださった高星麻子さま、お忙しい中ありがとうございました。
そして読者のみなさま、ここまでおつきあいくださいましてありがとうございました。
またいつか、この場でお目にかかれることを願っております。
二〇〇五年 一月
[#地から1字上げ]谷 瑞恵
[#改ページ]
底本:「伯爵と妖精 プロポーズはお手やわらかに」コバルト文庫、集英社
2005(平成17)年3月10日第1刷発行
2007(平成19)年2月5日第6刷発行
入力:でつぞう
校正:でつぞう
2008年3月22日作成